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宮本武蔵(三)
[#地から2字上げ]吉川 英治
目 次
火の巻(つづき)
神 泉
冬かげろう
風 車
|奔《ほん》 |馬《ば》
冬の蝶
心 猿
公開状
孤行八寒
微 笑
魚 紋
風の巻
|枯《かれ》|野《の》|見《み》
生きる達人
夜の道
二人小次郎
次男坊
ふくろ路地
火の巻(つづき)
神 泉
保元物語に見える伊勢武者の|平《たいらの》忠清は、この|古《ふる》|市《いち》の出生とあるが、今は、並木の茶汲み女が、慶長の古市を代表していた。
竹の柱を|結《ゆ》い、|筵編《むしろあ》みの|揚蔀《あげじとみ》に、|色《いろ》|褪《あ》せた|帳《とばり》など|繞《めぐ》らして、並木の松の数ほど|白粉《おしろい》の女たちが出ていて、
「寄って行かっしゃれ」
「茶など、あがりゃんせ」
「そこな若衆」
「旅の衆」
往来の旅客をつかまえて、真昼も夜もけじめ[#「けじめ」に傍点]がなかった。
内宮へ行くには、いやでも口さがない女の群れの眼を浴びたり、|袂《たもと》の用心をしながら歩かなければ行かれない。山田を出た|武蔵《む さ し》もまた|恐《こわ》い眉と唇を持って、痛む足をひきずりながら、|鈍《どん》|々《どん》と、|跛行《び っ こ》をひいてここを通った。
「あれ、武者修行さん」
「足をどうなされた」
「癒してあげよ」
「さすってあげよ」
女たちは、通せんぼして、武蔵の袂をとらえ、笠をつかまえ、腕くびをとり、
「そんな恐い顔したらよい男が、だいなしになるがな」
といった。
武蔵は顔をあからめて、物もいい得ずただうろたえた。彼は、こういう敵には何の備えもないようだった。しきりと謝ってばかりいる。その|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》ないいわけを、女たちはまた、|豹《ひょう》の子みたいで可愛らしいといって笑う。そして白い手の暴力はやまないのである。武蔵はいよいよ|狼《ろう》|狽《ばい》して、|見《み》|栄《え》もなく、|奪《と》られた笠を捨てたまま逃げ出した。
女たちの笑い声が、並木の空をどこまでも|尾《つ》いて来るような気がした。武蔵はあの白い手の群れに掻き荒された血が容易に|鎮《しず》まらないで困った。
彼も女性というものに決して無感覚ではいられない。彼は永い旅のあいだに、何処でもそういう困る目に|遭《あ》った。ある夜は、そのために、寝ぐるしくなることさえあった。|白粉《おしろい》のにおいを思って暴れる血を|縊《し》めころすように抑えて眠る努力は、剣の前に見る敵とはちがって彼も、どうすることもできないのである。この性の|心《しん》|焔《えん》が体じゅうを焼いて、寝がえりばかり打って明かす夜には、お|通《つう》のおもかげさえ|醜《みにく》い欲情の対象に、想い出してみるほどだった。
――|倖《さいわ》いにも、彼は今、片方の脚が痛かった。少し無理に駈けたので、その脚は、まるで|熔《よう》|鉄《てつ》の中へ踏みこんだように、かっかと熱を持って、|一《ひと》|歩《あし》ごとに、激痛が足の裏から眼へ突き抜けて来る。
こう痛むのは、覚悟の前で出て来たことである。風呂敷づつみのように大きく縛った片足は、持ち上げるたびに、全身の力を要した。――そのため紅い唇や、蜂蜜のように|粘《ねば》る手や、|甘《あま》|酢《ず》い髪の毛のにおいやらが、すぐ頭から去って、彼は、常の彼の身に|回《かえ》っていた。
(くそ! くそ!)
一歩一歩、火の|粘《ねん》|土《ど》を踏むようだった。汗が|額《ひたい》ににじんで来る。全身の骨が、ばらばらになるかと思う。
だが、|五《い》|十《す》|鈴《ず》|川《がわ》の流れを越え、内宮へ、一歩入ると、何か人心地がまるで変っていた。草を見ても樹を見ても、ここには神のけはい[#「けはい」に傍点]を感じるのであった。――何ごとの|在《おわ》しますかは知らねども――鳥の羽音までが人の世のものではなかった。
「ウムム……」
武蔵は遂に、苦痛に耐えかねたのであろう、|風宮《かぜのみや》の前まで来ると、大杉の根へ、|呻《うめ》きながら、仆れて、自分の脚をじっと抱えた。
死んで石と|化《な》ってしまったかのように、武蔵はいつまでも動かなかった。体の内からは|膿《う》んで|膨《ふく》れ上がった患部が火のような脈を打ち、体の外からは十二月の夜の寒気がひしひしと肌を刺した。
「…………」
武蔵はやがて知覚を失っていた。一体、どういう考えのもとに、突然、|旅籠《は た ご》の寝床を蹴って飛び出してしまったのだろうか。こういう苦しみをするのは当然わかっていたことである。
蒲団の中で自然に足の癒るのを待っていては果てしがないから――という病人の|癇癪《かんしゃく》からとすれば、無茶も甚だしい沙汰だ、あまりといえば乱暴である、苦しむだけで、その後のよけいに悪くなるのは知れきっている。
だが、精神だけは恐ろしく張りつめているらしい。そのうちに彼は、はッと首を|擡《もた》げた。鋭い眼で、虚空をにらんだ。
虚空には、神苑の杉の巨木が、ごうっと絶え間なく暗い風に鳴っていた。――が今、武蔵の耳をいたく刺戟したのは、その風の間に流れて来た――|笙《しょう》と|篳《ひち》|篥《りき》と笛とを|合奏《あわ》せた古楽の調べであった。
さらになお、耳をすますと、その|奏《かな》でのうちに、やさしい|童女《わ ら べ》たちの唱歌が聞き取れる。
[#ここから2字下げ]
シダラ ウテト
テテガノタマエバ
ウチハンベリ
ナラビハンベリ
アコメノソデ
ヤレテハンベリ
オビニヤセン
タスキニヤセン
イザセンイザセン
[#ここで字下げ終わり]
――くそっ! とまたしても武蔵は唇を噛んで、無理に立ちあがった。自分の体が、|膠《にかわ》のようにままにならないらしい。風宮の土塀へ、両手をかけ、手で|蟹《かに》のように横へ歩いてゆく。
|彼方《あ な た》の|燈《ひ》の洩れる|蔀《しとみ》から、天界の音楽は聞えるのだった。そこは、|子《こ》|等《ら》|之《の》|館《たち》といって、大神宮に仕える可憐な清女たちが住む家だった。おおかた、|天平《てんぴょう》の昔のように|笙《しょう》や|篳《ひち》|篥《りき》の楽器をならべて、その清女たちが、|神楽《か ぐ ら》の稽古をしているのであろう。
虫が歩むように、武蔵が近づいて行ったのは、その|子《こ》|等《ら》|之《の》|館《たち》の裏口らしかった。中を覗いてみたが、誰もいないのである。――で彼は、かえってそれを|気《き》|易《やす》く思ったように、帯の大小を取り外して、背の武者修行風呂敷とともに一つに|絡《から》げ、塀の内の|蓑《みの》|掛《か》けの釘へ、預けるようにかけておいた。
丸腰の空身になると、武蔵は両の手を、腰の骨に当てて、すぐ|跛行《び っ こ》をひいてどこかへ立ち去った。
ほど経てからである。
そこから五、六町ほど離れている|五《い》|十《す》|鈴《ず》|川《がわ》の岩のほとりに、一人の|裸形《らぎょう》の男が、氷を割って、ざぶざぶと水を浴びていた。
倖いに神官が気づかないからよいようなものの、もし|見《み》|咎《とが》められたら、
(|気《き》|狂《ちが》いっ)
と、叱り飛ばすに違いない。
それほどに、裸の男の|水《みず》|浴《あ》びは、|傍《はた》から見ると気狂いじみて見えた。太平記という|書《ほん》によれば、その昔、この伊勢地方には、|仁《にっ》|木《き》|義《よし》|長《なが》という弓矢の大馬鹿者がいて、神領三郡に打ち入って、ここを占領し、五十鈴川の魚を|漁《と》って食らったりし、神路山へ鷹を放って小鳥の肉を|炙《あぶ》ったりして、大いに武威を|謳《うた》っているうちに気が変になったという男の話があるが――今夜の裸男に、その|悪霊《あくりょう》が|憑《の》り移ったのではあるまいか。
やがて彼は|水《みず》|禽《どり》のように、岩の上にあがって体を拭き着物を着こんだ。――それは武蔵であった。
|鬢《びん》の毛は、そそけ立って、一すじ一すじ、針のように凍っていた。
このくらいな肉体の苦痛に勝てないで、生涯の敵に勝てるか、と武蔵は自分を叱咤するのであった。生涯はおろかなこと、やがて近い日には、吉岡清十郎とその一門という大敵に当らなければならない。
吉岡方と自分との事情は、かなり険悪でまた複雑な事情にある。今度という今度こそは、先は一門の実力と体面を挙げて自分へかかって来るにちがいない、必殺の陣を|布《し》いて、来るべき日を、
(今やおそし)
と彼らは、手ぐすね引いて、待ちかまえているに相違ないのだ。
よく強がった侍が、念仏のようにいう、必死とか、覚悟などという言葉も、武蔵の考えからすると、取るに足らないたわ[#「たわ」に傍点]|言《ごと》のように思える。
およそ人なみの侍が、こういう場合に立ち至った時、必死になることなどは、当然な動物性である。覚悟のほうは、やや高等な心がまえであるが、それとても、死ぬ覚悟ならば、そう難しいことではない。どうしても死なねばならぬ事態に迎えられてする死ぬ覚悟だとすれば、なおさら、誰もすることである。
彼がなやむのは、必死の覚悟が持てないことではなく、勝つことなのだ。絶対に勝つ信条をつかむことである。
道は遠くない――
ここから京都まで、四十里とはあるまい、すこし踵を飛ばせば、三日を|費《つい》やさずに行き着くことが出来る――だが、心の備えは、幾日かかったら出来るというものではない。
すでに名古屋から吉岡方へ、決戦状は出してあるが、その後で、武蔵は、
(肚はできているか。きっと勝ちきることができるか)
と、自分で自分に向って|糺《ただ》してみると、遺憾ながら、心の隅に一脈の|脆《もろ》い層を認めないわけに行かなかった。
それはなにかというと、やはり自身の未熟を自身知っていることだった。彼は、自分がまだ決して達人の域にも名人の境地にも到っていない、未完成の人間であることをよく知っている。
奥蔵院の日観にあい、柳生石舟斎を思い、また、沢庵坊主の出来ていることを考えても――いかに自分の価値を高く置こうとしても、
(未熟だ)
と、自分の粗質をばらばらに|解《ほぐ》して、その弱点や虚を多分に見出さずにいられない。
そういう未熟な――まだ出来あがっていない自分を押しすすめて行って、必殺の|士《し》を占めている多数の敵の中へ入ってゆくのだ。しかも勝とうというのだ。――兵法者たるものの根本的な本義として、いかによく戦っても、戦っただけではよい兵法者とはいわれない、飽くまで勝つ! 飽くまで天寿を全うするまで勝ち抜いて、この世に見事に生命の太い線を描いて見せなければ、兵法者として一人前に生きた者とはいわれないのである。
武蔵は、身ぶるいして、
「おれは勝つ!」
声を出して、神林をさけびながら歩き出した。
五十鈴川の上流へ向って――
|磊《らい》|々《らい》と重なっている岩のあいだを、彼は、原始人のように、這いすすんで行くのだった。|斧《おの》を入れた|例《ため》しのない太古の渓谷林には、音のしない滝がかかっていた。滝水も皆、|氷柱《つ ら ら》になって凍っているのである。
いったい、どこへ、何を目的にして、武蔵はそんな努力を|賭《と》して行くのか。
裸で、神泉に浴した罰があたって、ほんとに気でも狂ったのではなかろうか。
「何を。何を」
鬼のような血相なのである。岩に|攀《よ》じ、藤づるにつかまって、巨岩大石を、足の下に征服してゆく一歩一歩の努力というものは、到底、生やさしい意志でやれる仕事でない。それに大なる目的がかかっていなければ、正気の沙汰ということはできない。
五十鈴川の一之瀬から、約十五、六町の渓谷は、|鮎《あゆ》すらも|上《のぼ》れないといわれている岩石と|奔《ほん》|湍《たん》である。それから先は、猿か天狗のほかは、行けそうもない断崖だった。
「ウム、あれだな|鷲嶺《わし》は」
彼の精神状態のまえには、不可能という壁は見えないらしい。
大小や持物を、|子《こ》|等《ら》|之《の》|館《たち》に置いて来たのはこの辺の用意であったとみえる。武蔵は断崖の藤づるへ取ッついた。一尺一尺と宙へよじ登ってゆくのであった。人間の力とは見えない。何か宇宙の引力が一箇の地上の物体を徐々と引き上げているように見える。
「ようしっ」
征服した断崖の上で、武蔵は大声を張っていった。五十鈴川の白いながれの末から二見ケ浦の|渚《なぎさ》まで、もうそこからは遥かに下に見えたのだ。
きっと、彼が眼をやった前方には、夜気に煙っている疎林の中へ、|嶮峻《けんしゅん》な鷲ケ岳が|裾《すそ》をひいていた。――痛む足をかかえて寝ていた|旅籠《は た ご》の一室から、毎日のように仰いでいた、気に喰わない|鷲嶺《わし》のすがたへ、彼は今、こうして肉薄して来たのである。
(石舟斎だ、この山は)
武蔵は、そう思って、ここまで来た。――あの|腫《は》れ上がっている脚を立てて、勃然と、旅籠を飛び出し、神泉を浴びて、ここへ|攀《よ》じて来た彼の目的は、初めてそのらんらんとした眼に明らかになっている。――要するに、彼のおそろしい負けん気の底には、いまだに、柳生石舟斎という巨人が、頭へ|暈《かさ》をかぶせられているようで、気になってならないらしいのである。
ために、この山のすがたが、なんとなく石舟斎のように見え、足の|患《わずら》いに悩んでいる自分を、毎日、|嘲《あざけ》るかのように|睥《へい》|睨《げい》している山の|容《かたち》が、|忌《いま》|々《いま》しくて、
(気に喰わない山だ)
と、数日、思い積っていたので、その鬱憤をかかえて、一気に、頂へよじ登り、
(これでもか、石舟斎め)
と、土足にかけて、踏みにじってやったら、さだめし、さばさばするだろう。またそれくらいな、自信がつかめなければ、京都の土を踏んで、吉岡方との試合に、どうして勝目があるか。
踏み敷く草も木も氷も、武蔵の足にかかるもの、敵でない物はない。――勝つか負けるか! 一歩一歩が勝敗への呼吸であった。神泉の中で氷化した五体の血が、今は熱泉のように毛穴から湯気を立てていた。
行者ものぼらないという鷲ケ岳の赤肌へ、武蔵は、抱きついていた。足がかりを捜して、足が岩へかかると、崩れてゆく砂岩が、ふもとの疎林の中で轟いた。
百尺――二百尺――三百尺――武蔵の影はだんだん空へ小さくなって行く。白雲が来てつつみ、白雲が去るたびに、その影は空のものとなっていた。
|鷲嶺《わし》は巨人のように、彼のすることを冷然と|視《み》ていた。
|蟹《かに》が岩へ抱きついたように、武蔵は山の九合目にしがみついていた。
その手でも足でもが、少しでも|弛《ゆる》んだせつなには、彼の体は、崩れてゆく岩とともに、|墜《お》ちるところまで墜ちて行かなければ止まるまい。
「ふーッ……」
満身の毛穴が|呼吸《いき》をする。ここまで来ると、心臓が口の外へ出てしまうかと思うほど苦しかった。少し登っては、すぐ休む。――そして思わず|攀《よ》じのぼって来た|脚《あし》|下《もと》を見おろすのであった。
神苑の太古の森も、五十鈴川の白い帯水も、神路山、|朝熊《あ さ ま》、前山の諸峰も、鳥羽の漁村も伊勢の|大《おお》|海《うな》ばらも、すべてが自分の下にあった。
「九合目だ!」
温い汗が、内ぶところからむっと顔へにおう。武蔵はふと、母の胸に首を突っ込んでいるような陶酔をおぼえた。この荒い山の肌と自分の肌との差別がつかなくなって、そのまま眠ってしまいたくなった。
ざざざと、足の|拇指《おやゆび》をかけている岩がくずれた。彼の生命がピクと脈を打って、無意識に、次の足がかりを捜す。――もう一息というところの苦しさは言語に絶したものだった。それはちょうど、斬るか斬られるか、力の互角している剣と剣との|対《たい》|峙《じ》に似ている。
「ここだ。寸前だ」
武蔵はまた、山を引っ掻くように、手足をすすめた。
ここでへたばるような弱い意力や体力であるとすれば、兵法者として、ゆくすえ|何日《いつ》か、他の兵法者のために、敗れを取るにきまっている。
「畜生」
汗が岩を濡らすのであった。自分の汗で幾たびも滑りかける程になる。武蔵の体は、|一《いち》|朶《だ》の雲みたいに、|濛《もう》|々《もう》と汗にけむっていた。
「石舟斎め」
|呪《じゅ》|文《もん》のようにいいつづける。
「――日観め、|沢《たく》|庵《あん》|坊《ぼう》め」
一足一足、彼は日頃自分より高い人間であると思っている者の頭を踏み越すつもりで踏みのぼって行った。山と彼とはもう二つの物ではない。こういう人間にしがみつかれたことを山霊も驚いているにちがいない。――突然、大砂利や砂を飛ばして、ぴゅうっと、山がうなった。
手で口を|塞《ふさ》がれたように、武蔵は息が止まった。岩につかまっていても体をズズズと持って行かれそうな風圧をおぼえた。……しばらく目をつぶったままじっと|俯《う》ッ|伏《ぷ》していたのである。
しかし、彼の心には、|凱《がい》|歌《か》がみちていた。俯ッ伏したせつなに、十方無限の天空を見たのである。しかも、うッすらと夜の白みかけた雲の海には、|曙《あけぼの》色が|映《さ》していた。
「かッ、|克《か》った!」
頂上を踏んだと思う途端に、彼は意志の|弦《つる》もぷつんと切れたように倒れてしまったのだ。|山《さん》|顛《てん》の風はたえまもなく彼の背へ小石を浴びせた。
――そうして刻々、無我無性のさかいに俯ッ伏しているうちに、武蔵は何ともいえない快感に全身がかるくなって来るのを覚えた。汗でビショ濡れになっている体は頂上の大地へ|慥乎《し っ か》と貼りついていて、山の性と、人間の性とが、この|黎《れい》|明《めい》の大自然の間に、荘厳なる生殖をいとなんでいるかのように、彼はふしぎな恍惚に打たれていつまでも眠っていた。
はっと、頭を|擡《もた》げてみると、頭は水晶のように透明な気がする。体を、小魚のようにピチピチと動かしてみたい。
「おおうっ、おれの上にはなにものもない。おれは|鷲嶺《わし》を踏んでいる!」
鮮麗な|朝陽《ちょうよう》が、彼と山頂を染めていた。彼の原始人のような太い両腕は空へ突ッ張っていた。そしてたしかにこの山頂を踏みしめているところのわが二つの足をじっと見た。
ふと気がついたのである。見ればその足の甲から、青い|膿汁《うみ》が一升もあふれ出ているではないか。それは、またこの清澄な天界に、|異《い》な人間のにおいと、|噴《ふ》っ切れた|万《ばん》|鬱《うつ》の香気とを放っていた。
冬かげろう
|子《こ》|等《ら》|之《の》|館《たち》に起き|臥《ふ》ししている妙齢の|巫女《みこ》たちは、もちろんみな|清《せい》|女《じょ》であった。幼いのは十三、四歳から大きいのは|二《は》|十《た》|歳《ち》ごろの|処女《む す め》もいた。
白絹の小袖に|緋《ひ》の|袴《はかま》は、|神楽《か ぐ ら》をする時の正装であって、|平常《ふ だ ん》、ここの|館《たち》で勉強したり掃除をしている時は、大口に似た木綿の袴を|穿《は》き、|袂《たもと》の短い着物を着て、朝のお|奉仕《つ か え》がすむと、めいめいが一冊ずつの|書《ほん》をかかえて、|禰《ね》|宜《ぎ》の荒木田様の学問所へ、国語や和歌のお稽古にゆくことが日課であった。
「あら、なんじゃろ?」
ぞろぞろと裏門から今、それへ出かけてゆく清女たちの群れの中で、一人が見つけ出したのである。
夜のうちに、武蔵がそこの|蓑《みの》|掛《かけ》の釘へかけて行った大小と武者修行風呂敷。
「誰のやろ?」
「知らんがな」
「お侍さまの物や」
「それは分っているが、どこのお侍様やら?」
「きっと、泥棒が忘れて行ったのじゃろが」
「ま! さわらぬがよい」
まるい眼を|瞠《みは》り合って、牛の皮をかぶった盗人の昼寝でも見つけたように、取り囲んで|固《かた》|唾《ず》をのむ。
そのうちに、一人が、
「お|通《つう》様にいうて来よか」
と、奥へ走って行って、
「お師匠さまお師匠さま、たいへんですよ、来てごらんなさい」
|欄《らん》の下から呼ぶと、寮舎の端にある一室から、お通は机へ筆をおいて、
「なんですか」
窓を開けて顔を出した。
小さい|巫女《みこ》は指さして、
「あそこへ、盗人が、刀と風呂敷を置いてゆきました」
「荒木田様へお届けしておいたらよいでしょう」
「だけど、みんな触るのを、怖がっているから、持って行かれません」
「まア、たいした騒ぎようですね。じゃあ後から私がお届けしに行きますから、皆さんは、そんなことに道草をしないで、はやく学問所へお|出《い》でなさい」
程経て、お通が外へ出て来たころには、もう誰もいなかった。炊事をする老婆と、病人の|巫女《みこ》が一室にしんと留守しているだけだった。
「お婆さん、これは誰の物か、心あたりがないのですか」
お通は、そう|糺《ただ》してみた上で、武者修行風呂敷でくくりつけてある大小を下ろしてみた。
うっかり持つと、手から落ちそうに重かった。どうしてこんな重量のあるものを男は平気で腰にさして歩かれるかと疑った。
「ちょっと、荒木田様まで、行って来ますから」
留守の婆やにいって彼女は、その重い物を両手にかかえて出て行った。
お通と城太郎の二人が、この伊勢の大神宮の社家へ身を寄せたのは、もう二月ほど前のことで、伊賀路、近江路、美濃路と、あれから後、武蔵のあとを捜しに捜しぬいた揚句、冬にかかると、さすがに女の山越えや雪の中の旅には耐えかねて、鳥羽の辺りで、れいの笛の指南をして逗留しているうち、|禰《ね》|宜《ぎ》の荒木田家で伝え聞いて、子等之館の清女たちへ、笛の手ほどきをしてくれまいかという話であった。
そこで指南することより、彼女はここに伝わっている古楽を知りたかったし、また、神林の中の清女たちと幾日でも暮してみることも好ましくて、乞わるるままに身を寄せたのであった。
その際、都合のわるいのは連れの城太郎であって、少年だからといってこの清女の寮に一緒に住むことは当然許されないので、やむなく彼は、昼間は神苑の|庭《にわ》|掃《は》きを命じられ、夜になると、荒木田様の|薪《まき》小屋へ帰って眠っていた。
|蕭々《しょうしょう》と、落葉樹の冬木立は、この世とも思えない、神苑のそよ風に鳴っていた。
一すじの煙が――その煙さえ何となく神代のもののように――疎林の中からあがっている。その煙の下には、|竹箒《たけぼうき》を持っている城太郎の姿がすぐ連想された。
お通は足を止めて、
(あそこで、働いている)
と思うた。そう思うだけでも、|微笑《ほ ほ え》みが頬へのぼって来るのである。
あの腕白が。
あの、きかん坊が。
この頃はよく素直に、自分のいうことをきき、また、遊びたい盛りを、ああやって働いてくれると思う。
パーン、パーンと木を折るような音が響いて来る。お通は、重い大小を両の手にかかえていたが、つい林の小道へ入って、
「城太さアーン」
すると、
やがて遥か|彼方《あ な た》で、
「おおウいっ」
相変らず元気にみちた城太郎の返辞が聞え、間もあらずそれは駈けて来る跫音となって、
「お通さんか」
と、眼のまえに立った。
「まア、お掃除をしているのかと思ったら、その恰好は何ですか。――|白丁《はくちょう》を着ているくせに、木剣など持って」
「稽古をしていたんだよ。立木を相手に、剣術の|独稽古《ひとりげいこ》を」
「お稽古は結構ですけれど、このお|苑《にわ》を、何と心得ているんですか。清浄と平和をあらわすためのわたくしたち日本の人々のこころのお|苑《にわ》ですよ。民くさの母とおまつり申しあげてある女神さまの神域です。――ですから、また、ごらんなさい。神苑のうちの樹木折るべからず、鳥獣殺生禁断のことという禁札が立ててあるではありませんか。その中で、お掃除役を奉仕する者が、木剣で木など折ってはいけないでしょう」
「知ってらい」
城太郎はそういって、お通のお談義へ、ばかにするなというような顔つきをした。
「知っているなら、なぜそんな物で、樹を折るんですか。荒木田様に見つかると、叱られますよ」
「だって、枯れている樹を打つならいいだろう。枯れ樹でもいけないかい?」
「いけません」
「何いってやがるんだい。――じゃあおれは、お通さんに聞きたいことがあるよ」
「なあに」
「そんなに、大切な|苑《にわ》ならば、なぜもっと、今の人たちが、みなして大事にしないのだい」
「恥ですね、ちょうど、それは自分たちのこころに、雑草を生やして置くのも同じですから」
「雑草ぐらいならよいが、雷で裂けた樹は裂かれたまま朽ちているし、|暴風雨《あ ら し》でふき仆された大木は、根を出したまま方々で枯れている。|彼方《あ っ ち》|此方《こ っ ち》のお社は、鳥が来て、屋根を突ッつくものだから、雨が|漏《も》っているようだし、|廂《ひさし》の壊れているところだの、曲っている燈籠だの――どうしてこれがそんなに大切な所と見えるかい? え、お通さん、おれは聞きたいね――大坂城は|摂《せっ》|津《つ》の海から見ても|燦《さん》|爛《らん》と光っているじゃないか。徳川家康は今、伏見城を始め諸国に十幾つも|巨《おお》きな城を築かせているというじゃないか。京都、大坂、どこの大名や金持の|邸《やしき》をのぞいても、住居はぴかぴかしているし、庭は利休だの遠州だのって、|塵《ちり》一つさえ茶の味に触るなんていっているのに――ここがこんなでいいものかね。この広い神領に|箒《ほうき》を持っているのは、おれと、白丁を着たつんぼの|爺《じい》さまと、三、四人しかいないんだぜ」
お通は、くすりと白い|顎《あご》を|掬《すく》って、
「城太郎さん、それはお前、いつか荒木田様が仰っしゃった講義の時のおはなしと、そっくりじゃないの」
「あ、お通さんもあの時、聞いてた?」
「聞いていましたとも」
「じゃ駄目だ」
「そんな|請《うけ》|売《う》りは、通用しませんよ。――だけれど、荒木田様がそういって嘆くのはほんとだと思います。城太郎さんの請売りには感心しないけれど」
「まったくだ。……荒木田様にいわれてみると信長も、秀吉も、家康も、みんな偉くない気がしちまう。偉いには違いないんだろうけれどさ、天下を取っても、その天下で、自分だけが偉い頂上だと考えていることが、偉くないや」
「でも、まだまだ信長や秀吉は、ましな方なんです。世間と自分への言い訳だけにでも、京都の御所をしつらえたり、人民をよろこばしたりもしていますからね。――ところが足利氏の幕府だった|永享《えいきょう》から文明年間なんて、たいしたものでした」
「へ? どういう風に」
「その間には応仁の乱なんていう年があったでしょう」
「ウム」
「室町幕府が無能だったので、内乱ばかり起って、力のある者と力のある者とが、自分たちの権力ばかり通そうとし、人民たちは一日とて、安き日もなかったほどですから、国のことなんか、まじめに考えてみる人もありません」
「山名、細川なんかの喧嘩だろう」
「そうそう、|戦《いくさ》を、自我のためにばかりしていました、手のつけられない私闘時代。――その頃、荒木田様の遠い先は、荒木田|氏《うじ》|経《つね》といって、やはり代々、この伊勢の神主さまを勤めていたんですが、世の中の|我《が》|利《り》我利武者が、わたくしの喧嘩ばかりしているために、応仁の乱の頃からは、たれもこんな所をかえりみる者がなく、古式も御神事もすっかり|廃《すた》れてしまったのです。それを前後二十七度も、政府に嘆願して、ここの荒廃をおこそうとしたのですが、朝廷には費用がなく、幕府には誠意がなく、我利我利武者は、自分たちの地盤争いに血まなこで、捨てて省みる者もなかったということです。――氏経様は、その中を、時の権力や貧苦とたたかい、諸人を説きあるいて、やっと明応の六年ごろ、|仮《かり》|宮《みや》の御遷宮をすることができたというのです。――ずいぶん呆れるじゃありませんか。――だけど、考えてみると、私たちも、大きくなると、この体の中に、母の乳がながれて赤くなっていることは忘れてしまっていますからね」
すっかりお通に熱心に|喋舌《し ゃ べ》らせてしまってから、城太郎は手をたたいて飛び退き、
「アハハハ。あははの、あははだ。おれが黙って聞いていれば知らないと思って、お通さんのもみんな、請売りじゃないか」
「あら、知ってたの、――人が悪い!」
と打つ真似をしたが、両の手にかかえている大小の重さに、ただ一足追って、笑いながら睨んだ。
「オヤ」と、城太郎は寄って来て、
「お通さん、その刀誰のだい? ……」
「いけませんよ、手を出しても、これは|他人《ひと》の物ですから」
「|奪《と》りやしないから、見せてごらんよ。――重そうだね。大きな刀だね」
「それごらん、すぐほしそうな眼をするくせに」
ばたばたと小走りに草履の音が後ろへ来ていた。|先刻《さ っ き》、|子《こ》|等《ら》|之《の》|館《たち》から出て行った|稚《おさな》い|巫女《みこ》の一人で、
「お師匠さま、お師匠さま。あちらで、|禰《ね》|宜《ぎ》様が呼んでいらっしゃいますよ。何か、お頼みがあるんですって」
と、お通へ呼びかけ、お通が振向くとすぐにまた、元のほうへ走って行った。
城太郎は、何か、びくっとしたように、|四辺《あ た り》の樹々を見まわした。
冬の樹洩れ陽は、さざ波のように、|戦《そよ》ぐ|梢《こずえ》から大地へこぼれていた。城太郎はその光の|斑《ふ》の中に、じっと、何か幻想でも描くような眼をしていた。
「――城太さん、どうしたんです。何をきょろきょろ見まわしているの」
「……なんでもない」
さびしげに城太郎は指を噛んだ、そしてこういった。
「今、あっちへ行った|娘《こ》が、いきなりお師匠様と呼んだろう。……だから、おいらは、自分のお師匠さまかと思ってさ――。どきっとしたんだよ」
「武蔵さまのこと?」
「あ、あ」
|唖《おし》のように、城太郎が|空虚《う つ ろ》な返辞をすると、お通はさなきだに悲しくなってしまって、途端に、|嗚《お》|咽《えつ》したいようなものが、眼とも鼻ともわからない感情の線をつき上げて来るのだった。
――そんなこと、いい出してくれなければよいのに、と城太郎の無心にいったことばが辛くて恨めしくなってしまう。
一日として、武蔵をわすれ得ないことが、お通には苦しい重荷だった。なぜそんな重荷は捨ててしまわないのか――そして平和な|郷《さと》で、よい女房になりよい子を生もうとしないのか――とあの無情な沢庵はいうが、お通の耳には、恋を知らない禅坊主を憐れむ心こそ起るが、抱きしめている今のものを、心から捨てたいなどとは夢にも思われないのである。
恋は、虫歯のように、どうにもならない|傷《いた》みを持つ。ふとまぎれている間こそ、お通も何気なくしているが、思い出すと、矢もたてもなくなって、|的《あて》がないまでも、諸国諸街道を足にまかせて捜し歩き、武蔵の胸へ顔を当てて泣きたい。
「……ああ」
お通は、黙って歩きだした。――何処に、何処に、何処に? ――およそ生きとし生ける者の|数多《あ ま た》な悩みのうちでも、|焦《じ》れたくて、やるせなくて、どうにもならない|悶《もだ》えは、会えない人に会わんとする人間の焦躁であろう。
ポロリと、涙をこぼしながら、お通は自分の胸を抱きしめて、黙々と足を運んでいた。――その手とその胸との間には、汗くさい武者修行風呂敷と、|柄《つか》|糸《いと》の腐っているような重い大小がかかえられている。
だがお通は、知らなかった。
うす汚いその汗のにおいが、武蔵の体の物であるなどとどうして考えられようか。重いという感じのほか、お通は持っていることさえうっかりしていた。心のすべてを武蔵のことに占められて。
「……お通さん」
城太郎は、彼女の後から済まない顔して|従《つ》いて来た。|禰《ね》|宜《ぎ》の荒木田様の門の内へ、彼女のさびしそうな背が隠れかけると、たもとへ飛びついて、
「怒ったの? 怒ったの?」
「……いいえ、なにも」
「ごめん。――お通さん、ごめんね」
「城太郎さんのせいじゃありませんよ、またわたしの泣きたい虫が起ったんでしょう。わたしは、荒木田様の御用を伺って来ますから、おまえは、あちらへ戻って、一生懸命にお掃除をなさいね」
荒木田|氏《うじ》|富《とみ》は、自分の邸を|学之舎《まなびのや》と名づけて、学校に当てていた。そこに集まる生徒は、ここの可愛らしい|巫女《みこ》のみに限らない。神領三郡のさまざまな階級の子が四、五十人ほど通って来る。
氏富は、今の社会ではあまりはやらない学問をここで幼い者たちに教えていた。それは文化のたかいという都会地ほど軽んじられている古学であった。
ここの子女が、その学問を知ることは、この伊勢の森がある郷土としても、ゆかりがあるし、国総体の上からも、今のように、武家の盛大が、国体の盛大かのように見えて、地方のさびれかたが、国のさびれとは誰も思わないような世の中に、せめて、神領の民の中にだけでもこころの|苗《なえ》を植えておけば、いつかは生々とこの森のように、精神の文化が茂る日もあろうか――という、これは彼の悲壮な孤業なのであった。
むつかしい古事記や、中華の経書なども、氏富は、子どもの耳になじむように、愛と根気をもって毎日話した。
氏富が、そんなふうに、十数年、|倦《う》むことなく、教育しているせいか、この伊勢では、豊臣秀吉が関白として天下を掌握しようが、徳川家康が征夷大将軍となって、威をふるって見せようが、世間一般のように、英雄星を太陽とまちがえるような|錯《さく》|誤《ご》は三歳の童児も持っていない。
――今、氏富は、その|学之舎《まなびのや》のひろい|床《ゆか》から、すこし汗ばんだ顔をして出て来た。
生徒たちは、そこを出ると、蜂の子のように帰って行った。すると一人の|巫女《みこ》が、
「|禰《ね》|宜《ぎ》さま。お通さまが、あちらで待っておりますよ」
と告げた。
「そうそう」
氏富は思い出して、
「呼びにやっておきながら、すっかり、忘れていた。どこへ来ているか」
お通は、学問所の外に立って、あの大小をまだ抱えたまま、|先刻《さ っ き》から氏富が子供たちへ熱心にしている話を、そこで聞いていたのであった。
「――荒木田様、ここにおります。お通でございますが、何か、御用でございましょうか」
「お通さんか、待たせて済まなかったの。まあお上がり」
氏富は、自分の居間へ彼女を導いて行ったが、坐らぬ前に、
「なんじゃ?」
と、彼女の抱えている大小へ目をみはった。
今朝、|子《こ》|等《ら》|之《の》|館《たち》の内塀の|蓑《みの》|掛《かけ》に、持主の知れないこの大小がかけてあって、ほかの|品物《しな》とちがい、|巫女《みこ》たちが気味悪がるので、自分が届けに持って来たのですと話すと、荒木田氏富も、
「ホ? ……」
白い眉を|顰《ひそ》め、いぶかしげに眺めていたが、
「参拝人のものでもないのう」
「ただの参拝人が、あんなところへ入って来るわけはありません。それに、ゆうべは見えなかったのに、今朝がた|稚《ち》|児《ご》たちが見つけたのですから、塀の内へ入って来たのも|夜《よ》|半《なか》か夜明けらしいのです」
「ふウむ……」
嫌な顔して、氏富は、口のうちで呟いた。
「ことによるとわしへ思い当るように、神領郷士の者が、嫌がらせにした|悪戯《いたずら》かも知れぬな」
「そんな悪戯をしそうな者のお心当りがあるのですか」
「ある! ……実はお|汝《こと》に来てもろうたのもその相談じゃが」
「では何か、私に|関《かかわ》りのあることで」
「気持を悪くなさるまいぞ――こういうわけじゃ。お|汝《こと》の身を、あの子等之館へ置いておくのがよろしくないというて、わしの身を思うてくれるあまり、わしに喰ってかかる神領郷士の者がある」
「ま、私のために」
「なんの、お|汝《こと》がそう済まん顔をする|理由《わけ》はちっともない。しかし、|世《せ》|間《けん》|眼《め》というもので見ると――怒りなさるなよ……お|汝《こと》はもう男を知らぬ|清《せい》|女《じょ》ではない――清女でもない女を子等之館へ置くのは神地を|穢《けが》すものだと――まアこういうのじゃな」
氏富は淡々と話しているが、お通の眼のうちには、口惜しげな涙がいっぱいに光った。誰に向って怒りようもないそれは無念さだった。しかしまた、旅に馴れ、人に馴れ、そして|垢《あか》のように年月古い恋を心につけて世間をさまよっている女を――世間がそう見るのは当り前かも知れないとも思う。だが、それにせよ、処女が処女でないといわれることは、忍び難い恥辱をあびたように身が|顫《おのの》くのだった。
氏富は、それほどの問題とは考えていないらしい。けれど、人の口がとかくうるさいし、もう数日のうちには|初春《はる》ともなるのだから、この辺で、|巫女《みこ》たちの笛の指南は打切りにしてもらいたい――つまり子等之館を出てくれまいかという相談であった。
元より最初から長居をするつもりはないし――氏富にそういう迷惑がかかっていては猶さらのこととも考え、お通はすぐ承知して、ふた月余りの恩を謝して、今日にも先の旅へ立ちまする――と答えると、
「いや、そう急がいでもよいのじゃが」
氏富は、いい出したものの、薄々聞いていた彼女の身の上に、ひどく気の毒な心地もして、どう慰めたものかと案じるように、貧しげな手文庫を寄せて、何かつつんでいた。
お通の影のように、いつのまにか後ろの縁へ来ていた城太郎は、その時、そっと首を伸べて|囁《ささや》いた。
「お通さん、伊勢を立つの。おらも一緒に行こうね。――もうここの掃除は飽き飽きしていたところだ、ちょうどいいや、ネ……ちょうどいいよ、お通さん」
「わしの寸志じゃ……まことに薄謝だが、お通さん、路銀のたしに納めてくだされ」
手文庫の貧しい中から、氏富は、いくらかの金をつつんでそこへ出した。
お通は、滅相もないという顔つきで、手も触れない。子等之館の巫女たちへ笛を指南したといっても、自分もふた月ほどの間、多分なお世話になっている。謝礼をいただくくらいならばこちらからも宿料を置いてゆかねばなりませんと断ると、氏富は、
「いやその代りに、お通さんがこれから先、京都の方へ立ち廻られた時、ついでに頼み申したい用事もあるのじゃから、それも承知してもらったり、これも納めて置いてもらわねばならん」
「お頼みのことは、何でもいたしますが、これはお志だけでたくさんです」
|強《た》って、さし戻すと、氏富は彼女のうしろにいる城太郎を見つけて、
「オオこれ。それでは、これはお前にあげるから、道中、何ぞ買物でもするがいい」
「ありがとうございます」
城太郎はすぐ手を出して、自分の手に納めてしまって後、
「お通さん、もらって置いてもいい?」
と事後承諾を求めたので、お通もせんかたなく、
「すみませぬ」
と礼をいう。
氏富は満足して、さて、
「頼みというのは、お|汝《こと》たちが、京都へ行った折に、これを堀川の|烏丸《からすまる》光広|卿《きょう》のお手許まで届けてほしいのじゃが」
と、壁のちがい棚から、ふた巻の絵巻物を取り下ろして、
「おととしの頃、光広卿から頼まれて、ようようこのほど描きあげたわたしの|拙《つたな》い絵巻じゃが、|詞書《ことばがき》を光広卿が遊ばして、献上するお心と聞いておる。ただの使いや、飛脚の者の手に託しては、それゆえに、心もとないのじゃ。雨にもよごれぬよう、不浄なこともないように、お|汝《こと》たちが、大事にとどけてくれまいか」
これはまた、思いがけない大役と、お通はちょっと当惑顔であった。しかし、|否《いな》むわけにもゆかず承知すると、氏富は、べつに作って置いたらしい箱と油紙などを取り寄せ、それを包んで封にする前に、いささか自慢でもあり、また自分の作品を人手に渡す名残も惜しまれるらしく、
「どれ、ちょっと、お|汝《こと》たちにも、見せてやろうかの」
と、二人の膝のまえに、その絵巻を繰り|展《ひろ》げた。
「ま!」
思わずこうお通は声を放ってしまった。城太郎も大きな眼をして、絵の上へのしかかるように首をつき出した。
まだ|詞書《ことばがき》がついていないので、何の物語を絵にしたものかわからないが、そこに描かれてある平安朝の頃の風俗や生活が土佐流のこまかい筆と、華麗な絵具だの砂子に|彩《いろど》られて、次から次へと、眼も飽かさず|展《ひろ》げられて行くのであった。
絵のわからない城太郎でさえ、
「ああ、この火はいいな。この火は、ほんとに燃え上がっているようだ……」
「手でさわらずに見ておいで」
息をひそめて、二人がそれへ心を奪われているところへ、庭口から廻って来た社家の|雑掌《ざっしょう》が、何か、氏富へ向って話していた。
氏富は、雑掌のいうことを聞いて、うなずきながら、
「ム……そうか、疑わしい者ではあるまい。だが念のためじゃ、当人から一札取って渡してやるがよいぞ」
そういって、お通がさっきここへ抱えて来た大小と、汗くさい武者修行風呂敷とを、その雑掌の手へ持たせてやった。
笛の先生が急に旅立つと聞いて、|子《こ》|等《ら》|之《の》|館《たち》の清女たちは、ひとしく寂しい顔をして、
「ほんと?」
「ほんと?」
お通の旅姿を取り巻き、
「もうここへは帰らないんですか」
と、姉に別れるように悲しんでいう。そこへ城太郎が、
「お通さん、支度出来たよ」
と裏の土塀の外で呶鳴る。
見れば、|白丁《はくちょう》を脱いで、いつもの裾の短い着物に、腰には木刀を横たえ、荒木田氏富から大事にといわれて、二重三重に包んだ例の絵巻物の入っている箱を風呂敷で背中へ斜めに背負いこんでいる。
「まあ、早いんですね」
お通が窓から答えると、
「早いさ。――お通さんはまだかい、女と歩くとお支度が長いからなあ」
そこの門から内へは、男と名のつく者は一歩も入れない規則なので、城太郎はしばしの間、|陽《ひ》なた[#「なた」に傍点]ぼっこをしながら、霞む神路山の方へ|欠伸《あ く び》をしていた。
ちょっとの間でも、彼の|溌《はつ》|剌《らつ》とした神経は、すぐ退屈をおぼえるらしく、じっとしていられないらしい。
「――お通さん、まだ?」
|館《たち》の内では、
「今すぐに行きますよ」
そのお通も、すっかり支度はすんでいたのであるが、わずかふた月でも|起《おき》|臥《ふし》をともにして、しかもよい|姉《ねえ》|様《さま》のように親しんでいた人を、旅に奪われるとなると、生徒の|巫女《みこ》たちは、一抹の哀愁にとらわれて、なかなかお通を離さないのである。
「――また参りますからね、皆さんもご機嫌よう」
果たして、もういちど来る日があるだろうか、お通は、嘘をついている気がする。
|巫女《みこ》たちのうちには、すすり泣く者さえあって、一人が、五十鈴川の|神《み》|橋《はし》のたもとまで送って行こうというと、一も二もなく気が揃って、お通を囲みながら外へ出て来た。
「あれ?」
見ると、あんなに|急《せ》いていた城太郎がいないのである。小さい唇へ手をかざして、巫女たちが、
「城太さあん」
「城太さあん」
お通は、彼の習性をよく知っているので、そう心配はせず、
「きっと|焦《じ》れったがって、|神《み》|橋《はし》のほうへ、独りで先に行ってしまったんでしょう」
「意地悪ッ子ね」
そして一人が彼女の顔をのぞき上げながら、
「あの子、お師匠さまの子?」
と、訊いた。
お通は笑えなかった。思わず真面目になって、
「何ですって、あの城太さんが私の子かというんですか。私はまだ、|初春《はる》を迎えて、やっと|二《は》|十《た》|歳《ち》を一つ越すんです。そんなに年を|老《と》って見えますか」
「でも、誰かがいいましたよ」
お通は、氏富が話した世間の噂を思い出して、ふとまた腹が立った。けれど、世間のすべてがどういおうと、自分を信じてくれる者は一人でいい、あの人さえ信じてくれたらそれでいいと思う。
「ひどいや! ひどいや! お通さんは」
先へ行ったと思った城太郎が、その時、後ろのほうから駈けて来て、
「人を待たせておいて、黙って先へ行ってしまうなんて。ひどいじゃないか」
と、口を|尖《とが》らす。
「だっていないんだもの」
「いなかったら、捜してくれる親切ぐらいあってもいいだろう。おれは、鳥羽街道のほうへ、武蔵様に似た人が行ったので、オヤッと思って、見に行ったんだ」
「えっ、武蔵様に似た人?」
「ところが、人違いさ、――並木まで出て、後ろ姿を見ると、遠方からでも分るほどな|跛行《び っ こ》と来ていやがる。……がっかりしちまッた」
こう二人が旅を歩いていれば、城太郎が今|舐《な》めたような苦い|幻《げん》|滅《めつ》は、毎日経験することであって、ふと|摺《す》れちがう|袂《たもと》にも、もしや? と思い、後ろ姿が似ていると見ては前へ駈け抜けて振返り、町の二階家にチラと見た人影にも、先に出た渡舟のうちに見える似た人などにも――馬の上、|駕《かご》の中の人間、およそすこしでも武蔵の姿をどこかで想わせる者を見れば、
(おやっ?)
と、動悸を打たせて、それを確かめるまでの努力と、はかない|後《あと》の落胆に、さびしい顔を見あわせたことが、何十遍かわからない。
それゆえに、お通も今――城太郎がひどくがっかりしている程には、彼の話に執着を持たなかった。
殊に、|跛行《び っ こ》の侍と聞いたので、こともなげに笑ってしまい、
「それは、ご苦労様でしたね。旅の|首途《か ど で》から機嫌わるくすると、しまいまで不機嫌がつづくというから、仲をよくして出かけましょう」
「この|娘《こ》たちは?」
と、城太郎は、ぞろぞろ|従《つ》いて来る|巫女《みこ》たちをぶしつけ[#「ぶしつけ」に傍点]に見まわして、
「――何だって、一緒に来るんだろう」
「そんなことをいうものじゃありません、名残を惜しんで、五十鈴川の宇治橋まで、見送って下さるんです」
「それは、ご苦労でしたね」
お通の口真似をして、城太郎はみんなを笑わせる。
彼を加えてから、それまでは離愁につつまれて、しめッぽい顔して歩いていた|巫女《みこ》たちの群れも、急に華やいで、
「お通さま、お師匠さま、そっちへ曲がっては道がちがいますよ」
「いいえ」
お通は承知らしく、|玉《たま》|串《ぐし》|御《ご》|門《もん》のほうへ廻って、遥かな内宮正殿のほうへ向い、かしわ[#「かしわ」に傍点]手を鳴らして、しばらく頭を下げていた。
それを見て、城太郎は、
「ア、なるほど、神さまへお暇乞いをしてゆくのか」
と、つぶやいたが、遠くから見ているだけなので、巫女たちは、彼の背中や肩を指で突いて、
「城太さんは、なぜ拝んで来ないの」
「いやだ、おれは」
「いやだなんて勿体ない、口が曲がりますよ」
「きまりが悪いや」
「神様を拝むのがなぜきまりが悪いんですか。町中にあるあだし[#「あだし」に傍点]神や|流行《はや》り神とはちがって、自分たちの遠いお母さんも同じ神さまとおもえば何でもないではありませんか」
「分ってるよ、そんなこと」
「じゃあ、拝んでらっしゃい」
「いやだよ」
「強情ね」
「お茶ッぴい! お|杓子《しゃもじ》! 黙ってろい」
「まあ!」
それにつれて、同じお下げ髪がみんな、眼をまろくして、
「まあ――」
「まあ――」
「ずいぶん怖い子ね」
そこへ、お通が、遥拝をすまして戻って来て、
「どうしたの? 皆さん」
問われるのを待ちかまえて、
「城太さんが、私たちをお|杓子《しゃもじ》ですって。――そして、神様なんて拝むのは嫌なこッたっていうんですよ」
「いけませんね、城太さん」
「なにさ」
「いつかお前の話には、|大和《や ま と》の|般《はん》|若《にゃ》|野《の》で、武蔵様が宝蔵院衆と戦いになろうとした時は、思わず、神様と大声をあげて空へ|掌《て》を合わせたというじゃありませんか。あそこへ行って拝んでいらっしゃい」
「だって……。みんなが見てるんだもの」
「じゃ皆さん、後ろを向いていてお上げなさい、私も、後ろを向いているから――」
と一列に揃って、城太郎のほうへ背中を向けた。
「……いいでしょう、これなら」
お通がいったが、返辞をしないので、そっと|背《うしろ》の方をのぞいてみると、城太郎は駈け足で玉串御門の前まで行き、そこに立って、ぴょこんとお辞儀をしていた。
風 車
冬の海へ向って、つぼ[#「つぼ」に傍点]焼やの縁台へ腰かけ、足拵えを直しているのは武蔵であった。
「旦那、島|巡《めぐ》りの|相客《あいきゃく》があるがのう、まだ二人ほど足らんのじゃ、乗ってくださらぬか」
と、船頭がそこへ突っ立ってすすめていた。
貝を入れた籠を腕にかけて、ふたりの|海女《あま》も|先刻《さ っ き》から、
「旦那はん、お土産に、貝を持って行かしゃれ」
「貝を買うておくれなされ」
「…………」
武蔵は、|血《ち》|膿《うみ》によごれた足のボロを解いていた。あれほど悩ませた患部は、すっかり熱も|腫《は》れもひいて、平べったくなっていた。白くふやけ[#「ふやけ」に傍点]た皮に、ちりめん|皺《じわ》が寄っているだけだった。
「いらない、いらない」
手を振って、|海女《あま》や船頭を|退《しりぞ》けながら、彼は、ふやけたその足で砂を踏みしめ、|波《なみ》|打《うち》|際《ぎわ》へ行ってザブザブと潮の中へ足を|浸《ひた》した。
この日の朝から、彼は足の苦痛をほとんど忘れたばかりでなく、体についても、健康を考えないほど健康な気力に|充《み》ちていた。それに伴う心の据わり方が違って来たことももちろんであるが、彼自身は、一本の脚の苦熱が癒った事実よりも、|今朝《けさ》|抱《いだ》いている心境が、昨日よりたしかに一日育っていることのほうを、自分でも認め、また、自分へ対しての限りなき欣びとしていた。
つぼ焼やの娘に、|革《かわ》足袋を買わせにやり、新しい|草鞋《わ ら じ》をつけ、彼は足で大地を踏みしめてみた。まだ|跛行《び っ こ》をひく癖がどこか、抜けないし、多少痛む気もするが、いうに足らない程度である。
「|渡舟《わ た し》の者が、呶鳴っておりますがの。旦那は|大湊《おおみなと》へお越しになるのではございませぬか」
さざえを焼いている|老爺《お や じ》に注意されて、
「そうだ。大湊へ渡れば、あれから津へ行く便船が出るはずだな」
「はあ、四日市へでも、桑名へでも」
「おやじ、今日はいったい、|年暮《くれ》の幾日であったかなあ」
「はははは、よいご身分でござらっしゃるの、|年暮《くれ》の日をお忘れか、きょうはもう師走の二十四日でござりますわい」
「まだそんなものか」
「お若い方はうらやましいことを仰っしゃる」
高城の浜の渡船場まで、武蔵は駈けるように歩いた、もっと駈けてみたい気がするのである。
すぐ対岸の|大湊《おおみなと》へ行く船はいっぱいだった。――その頃ちょうど、|巫女《みこ》たちに見送られて、お通と城太郎とは五十鈴川の宇治橋を、手を振り笠を振り、たがいに別れを惜しみつつ越えていたかも知れない。
その五十鈴川の水は、|大湊《おおみなと》の口へながれ入っているが、武蔵を乗せてゆく渡舟の|櫓《ろ》|音《おと》は、ただ無心な|諧《かい》|音《おん》の波を漕いで行く。
大湊からすぐ便船に乗り換えるのだった。尾張まで行くその船には、旅客が大部分で、|左手《ゆ ん で》に古市や山田や松坂街道の並木を見ながら、やんわりと大きな帆が風をつつんで、伊勢の海のうちでも穏やかな海岸線を悠長にすすんでいた。
陸路をとって、同じ方角へ、街道を歩いているお通や城太郎の足どりと、どっちが早く、どっちが遅いともいえない。
松坂まで行けば、この伊勢の出身者で、近ごろの鬼才と|称《うた》われる|神《み》|子《こ》|上《がみ》典膳のいることは分っているが、武蔵は思い止まって、津で降りる。
この津の港で降りる時に、ふと前を歩いてゆく男の腰に、二尺ほどの棒が武蔵の眼についた。
|鎖《くさり》が巻きつけてあるのである。鎖の先には分銅がついている。そのほかに一本の|革《かわ》|巻《まき》の野太刀を差し、年頃四十二、三はたしかなところ。武蔵にも劣らぬ色の黒さの上にあばた[#「あばた」に傍点]があり、髪の毛は赤くてしかも|縮《ちぢ》れている。
「親方、親方」
後ろから彼をそう呼ぶ者がなければ、誰がどう見ても、野武士としか見えなかったが、船から一足おくれて追いついて来た者を見ると、十六、七歳の|鍛冶《かじ》|屋《や》の小僧で、鼻の両わきに|煤《すす》をつけ、肩に、柄の長い|鉄槌《つち》をかついでいた。
「待ッとくんなさい、親方」
「はやく来い」
「船へ、|鉄槌《つち》を忘れちまったんで」
「商売道具を忘れたのか」
「かついで来ましたよ」
「あたり前だ、もし忘れなんぞしたら、頭の鉢を割ってやる」
「親方」
「うるせえな」
「今夜は、津へ泊るんじゃねえんですか」
「まだ、たっぷり陽があるから、泊らずに歩いちまおう」
「泊りてえな、旅仕事に出た時ぐらいは、楽をしたいな」
「ふざけるなよ」
船から町へ入る旅客の通り道に、ここでも抜け目なく|宿《やど》|引《ひ》きや土産物屋が|関《せき》を作っている。
|鉄槌《つち》を|担《かつ》いでいる鍛冶屋の徒弟は、そこでまた、親方の姿を見失ってしまい、|人《ひと》|混《ごみ》の中でキョロキョロしていたが、やがて親方はそこらの店で眼についた|弄具《おもちゃ》の風車を買って来て彼の前に現われ、
「岩公」
「ヘイ」
「これを持って行け」
「風車ですね」
「手に持っていると、人にぶつかって壊されるから、|襟《えり》くびに|挿《さ》して歩け」
「おみやげですか」
「ム……」
子どもがあると見える。幾日かの旅仕事を終えてこれから帰る家に、何よりの楽しみが、その子どもの笑顔を見ることなのであろう。
岩公の襟くびで廻っている風車が心配と見え、親方は、時折それを振向いて先へ歩いて行った。
偶然にも、武蔵の行こうとする方角へ方角へと、同じ道を先へ踏んで行く。
(ははあ……)
そこで武蔵は|頷《うなず》くところがあった。――この男にちがいないと。
けれどまた、世間には、鍛冶屋も多いし、|鎖鎌《くさりがま》を帯びている者も少なくはないので、なお念のため、後になり先になりして、それとなく注意していると、道は、津の城下を横切って、鈴鹿の山街道へ次第にかかって行くし、断片的に耳に入る二人の会話でも、武蔵はもう疑いなしと思い、
「梅畑までお帰りか」
と、話しかけてみた。|膠《にべ》のない|口吻《くちぶり》で、
「あ。梅畑へ帰るが」
「ではもしや、|宍《しし》|戸《ど》|梅《ばい》|軒《けん》殿ではないか」
「ふうむ……よく知っているのう。おれは梅軒だが、おめえは?」
鈴鹿を越えて|水《みな》|口《ぐち》から江州草津へ――この道筋は、京都に上るには当然な順路であるので、武蔵はつい先頃、通ったばかりのところであるが、|年暮《くれ》いっぱいに目的地へ着き、|初春《はる》はそこで|屠《と》|蘇《そ》も|酌《く》みたし――という気持もあって、真っ直に来たのであった。
この間、尋ねて行って、留守を食った宍戸梅軒には、他日の折があればとにかく、|強《し》いて出会おうという執着も失せていたが――ここで計らずも会ってみると、これはどうしても梅軒の鎖鎌なるものを一見する宿縁の深いものといわなければならない。
「よほど、ご縁があるとみえる。実は、過日お留守に、|雲林院《う じ い》村の尊宅へうかがって御内儀とお会い申した――宮本武蔵という修行中の者ですが」
「ああそうか」
梅軒は、どういうわけか、心得顔で――
「山田の|旅籠《は た ご》に泊って、おれと試合をしたいといっていた者か」
「お聞きですか」
「荒木田様の処へ、おれが行っているかと問い合せを出したろう」
「出しました」
「おれは、荒木田様の仕事で行ったには違いないが、荒木田様の家になどいるわけはない。神社町の仲間の仕事場を借りて、おれでなければ出来ない仕事を片づけていたのだ」
「あ……それで」
「山田の|旅籠《は た ご》に泊っている武者修行が、おれをさがしているとは聞いたが、面倒くさいので|抛《ほう》っておいた――それはおめえだったのか」
「そうです。鎖鎌の達人とか、噂を聞いて」
「はははは、女房と会ったかい」
「御内儀が、ちょっと、八重垣流の仕型をお見せくだされたが」
「じゃあ、それでいいじゃないか。なにも、おれの後を追っかけて、試合してみるにも及ぶまい。おれがしてみせても、あの通りだ。――それ以上を見せてもいいが、見た途端に、おめえは|冥《めい》|途《ど》に行っていなければならねえしな」
留守をしていた女房もさる者であったが、この亭主も|傲《ごう》|慢《まん》な天狗である。兵法と傲慢とは、どこへ行ってもつき物のように鼻につくが、それ程な自尊心もなくては、|刃《は》|物《もの》と天狗の上に住んでいられない理由もある。
武蔵にしても、もうそういう梅軒を、心のすみでは呑んでいる気概が十分にある。けれど、彼には見境いのない|鵜《う》|呑《の》みは出来なかった。それは、人生への出発の第一歩に、世間には幾らも|上《うわ》|手《て》がいるぞという実例を、グワンと喰らわせてくれた|沢《たく》|庵《あん》の|訓《おし》えがあるし、また、宝蔵院や小柳生城を踏んであるいた|賜《たまもの》である。
気概と自尊心をもって、先ず相手を呑んでかかる前に武蔵は、細心な眼と、あらゆる角度から、相手の価値を計ってみる。時には臆病なほど、卑屈なほど、応対の態度には下段の構えをとっておいて、
(この人間はこのくらい)
と、見極めのついた後でなければ、滅多に、先の言葉や物腰の不遜に対して、自分の感情をみだすようなことはなかった。
「はい」
と、青年らしい下段の返辞をして、
「仰っしゃる通り、御内儀から拝見しただけで、十分、勉強にはなりましたなれど、なお、ここでお目にかかったご縁をもって、鎖鎌についてのご意見でも伺えれば、有難いとぞんじまするが」
「話か。――話だけならしてやってもいい。今夜は、関の宿へ泊るのか」
「そう思いましたが、おさしつかえなければ、ついでのことに、尊宅へ、もう一宿、お許しくださるまいか」
「旅籠じゃねえから、夜具はないぜ。そこの岩公と寝る気なら、泊ってゆくさ」
そこへ着いたのは夕刻。
|紅《あか》い夕雲の下に、鈴鹿山の山ふところの部落は、湖のように明るく沈んでいた。
岩公が先へ駈け出して告げたので、鍛冶が家の軒端には、見覚えのあるいつぞやの女房が子を抱いて出て、父のみやげの風車を子とともに差し上げ、
「ほら、ほら、ほら。|父《てて》が|彼地《あち》から帰って見えた。父が見えたろ、父が――」
傲慢の化け物みたいな|宍《しし》|戸《ど》梅軒も遠くから子を見て、|飴《あめ》のように|相《そう》|好《ごう》をくずし、
「ホイ、ホイ。――坊やか」
手をあげて、五本の指を踊らせて見せる。旅帰りだから仕方がないが、この夫婦は、やがて家の中に坐ると、その|嬰《あか》ン坊と、べつな話で持ち切って、共に着いて今夜の一泊をたのんだ武蔵などは眼中にない。
やっと、飯時になって、
「そうそうあの武者修行にも、飯をやれ」
と梅軒は思い出したように、仕事場の土間にまだ草鞋も解かず、|鞴《ふいご》の火にあたっている武蔵を見て、女房にいいつけた。
女房もまた、愛想がなく、
「あの衆は、この間も留守に来て、泊って行ったのだに」
「岩公と一緒に寝かせてやれ」
「いつぞやは、鞴のそばに、|筵《むしろ》を敷いて寝てもろたのじゃ、今夜もそうしてもろたがいい」
「おい、若いの」
梅軒の向っている炉には、酒が暖めてあった。杯を、土間へ向けて、
「酒をのむか」
「嫌いではありません」
「一杯のめ」
「はい」
武蔵は、土間と部屋のさかいに腰かけ、
「頂戴いたします」
と、杯に礼をして|唇《くち》へ入れた、|酢《す》みたいな地酒だった。
「ご返杯を」
「まあ、それは持っていねえ、おれはこっちの|杯《やつ》で飲むから――時に武者修行」
「はっ」
「|幾歳《い く つ》だい、若いようだが」
「明けて、二十二歳を迎えます」
「|故郷《くに》は」
「|美作《みまさか》です」
――というと宍戸梅軒の|外《そ》れていた眼が、武蔵の全姿をきびしく見直した。
「……さっき、なんとかいったな……名だ……名だ……おめえの名だ」
「宮本武蔵」
「武蔵とは」
「たけぞう[#「たけぞう」に傍点]と書きまする」
そこへ女房が、汁の|椀《わん》、漬物、箸と飯茶碗を持って来て、
「おあがり」
と、|筵《むしろ》の上へ|直《じ》かに置く。
「そうか……」
宍戸梅軒は、ふた息も間を|措《お》いてから、独り|語《ごと》のように頷いて、
「さ、熱くなった」
と、武蔵の杯へ|酌《つ》ぎ、唐突にこうたずねた。
「じゃあおめえは、たけぞう[#「たけぞう」に傍点]が幼名だったのか」
「そうです」
「十七歳頃にも、そう呼んでいたか」
「はい」
「十七の時に、おめえ、又八という男と、関ケ原の|戦《いくさ》へ出やしなかったか?」
武蔵は、ちょっと驚いて、
「御主人には、ようご存じでございますな」
「――知っているさ、おれも関ケ原では働いた人間だ」
そう聞いてから、武蔵も親しみを覚え、梅軒も急に態度を変え、
「どこかで見たように思っていたが、じゃあ、戦場で会っているんだ」
と、いった。
「すると、御主人には、やはり浮田家の陣所に」
「おれはその頃、江州|野《や》|洲《す》|川《がわ》にいて、野洲川郷士の一まきと、御陣借をして合戦の先手になっていたのさ」
「そうですか、じゃあ、顔ぐらいは合せていたでしょう」
「おめえの連れの又八はどうしたい?」
「その後、会いません」
「その後とは、どこからのその後? ……」
「合戦の後、しばらく伊吹のある家に|匿《かく》まわれて、傷の療治をしていましたが、その家で別れて以来のことです」
「……おい」
子を抱いて、もう寝床へ入っている女房へ、
「酒がなくなった」
「もう、おしまいでしょう」
「ほしい、もう今ほど」
「今夜にかぎって、どうしてそんなに」
「話が、だいぶおもしろくなって来たのだ」
「もうありません」
「岩公」
土間の隅へ向って呼ぶと、そこの板壁の向う側で、犬でも起きるようにガサガサ|藁《わら》の音をさせ、
「親方、なんだえ」
と、|潜《くぐ》って出られるほどな戸を押し開けて顔を出した。
「|斧《おの》|作《さく》んとこへ行って、酒一升借りて来う」
武蔵は、飯茶碗を持って、
「お先にいただきます」
すると、
「待ちねえ」
あわてて、梅軒は、箸を持っている彼の腕くびをつかんだ。
「せっかく、酒を取りにやったものを――」
「拙者のためなら、どうぞお止しください。これ以上は、飲めません」
「まあいいわさ」
と|強《し》いて、
「そうそう、|鎖鎌《くさりがま》について、おれに聞きたいといったが、おれの知る限りは、何なと話そう。それにしても、酒でも飲みながらでなくっちゃあ」
岩公はすぐ戻って来た。
壺から、|銚子《ちょうし》へ移して、炉の火にあたためながら、梅軒はもう自分の知識を傾けて、鎖鎌の戦に利のあることを力説していた。
――この鎖鎌を持って敵に当る場合、何より強味の多い点は、剣とちがって、敵に防禦の|遑《いとま》を与えないことである。また直接に敵へ当るまえに、敵の所持している武器を鎖で|絡《から》んで奪い飛ばしてしまう利もある。
「こう、左に鎌、右に分銅を持つとする――」
梅軒は、坐ったまま、型をして見せ、
「――来れば、鎌をもって受け、受けたせつなに、敵の面へ、分銅を返す。それも一手」
とまた、構えを違えて、
「こうなる場合――こう敵と自分と|間《ま》をおいて立つ時は――相手の|得《え》|物《もの》を巻き取るのがこっちの目的、太刀、槍、棒、何へ向ってもそれは出来る」
そんな話をしたりまた分銅の投げ方について、十幾通りの|口《く》|伝《でん》のあることや、それによって、鎖が蛇のからだのように自由な線を描き、鎌と鎖と、こもごもに使って、敵を完全なる|錯《さっ》|覚《かく》の光線に縛りつけ、敵の防ぎをもって、かえって敵の致命とさせてしまうところに、この武器の|玄妙《げんみょう》なところがあるなどともいった。
――武蔵は熱心に聞き入っていた。
こういう話を聞く時の彼は、全身を耳にし、全身を知識慾の袋にし、話す者のことばの中に自分を置き切っていた。
鎖と――鎌と――
双つの手。
先の話を聞きながら、彼は彼ひとりの考えをひろげて、
(剣は|隻《せき》|手《しゅ》、人間は両手)
胸の|裡《うち》でつぶやいていた。
二度めの壺の酒も、いつの間にか底を干していた。梅軒も飲むには飲んだが、武蔵へ|強《し》いたほうが多かった。武蔵は自分の酒量を思わず越えて、|例《ためし》のないほど酔った。
「女房、おれたちは、奥へ寝よう。ここの夜具を客人にあげて、奥へ|寝床《とこ》を敷いてくれ」
彼の女房は、いつもここで眠る|掟《おきて》とみえ、梅軒と武蔵が飲んでいる間に、客に|関《かま》わずすぐそばへ夜具をのべて、|嬰児《あ か ご》と共にもぐり込んでいた。
「客人も、つかれが出たらしい、早く|寝《やす》むようにして上げねえか」
|先刻《さ っ き》から梅軒は客に対して急に親切に変っていたが、なぜ、ここへ武蔵を寝せて、自分たちの寝床は奥へしけというのか、女房は良人のいいつけが解きかねたし、また、折角足の暖まったところを起きるのが嫌さに、
「お客は、岩公と一緒に、道具小屋へ寝てもらうことになっているがな」
「ばか」
寝床からいう女房を睨んで、
「それは、客にもよりけりだ。黙って、奥へ支度して来い」
「…………」
|寝衣《ね ま き》すがたで、女房は奥へぷいと入って行った。梅軒は眠っている|嬰児《あ か ご》を抱き取って、
「お客、|穢《むさ》い夜具だが、ここなら|炉《ろ》もあるし、|夜《よ》|半《なか》に|喉《のど》が|渇《かわ》けば、湯茶も沸いている。ゆっくりと、この|蒲《ふ》|団《とん》へ手足をのばしたがいい」
彼が隠れるとしばらくして後、女房が来て枕を取り換えて行った。女房もその時はふくれ顔を改めて、
「|良人《うち》のひとも、えろう酔うたし、旅づかれもあろうほどに、あしたの朝は寝坊するというておりますでの、あなたも|悠《ゆる》|々《ゆる》と眠って、朝立ちには、暖かい御飯など食べて行きなされ」
といってくれる。
「は。……どうも」
武蔵はそれしかいえなかった。|草鞋《わ ら じ》を解いて|上《うわ》|衣《ぎ》を|脱《と》る間さえもどかしいほど酔いが廻っていた。
「では、ご厄介になります」
いうや否、今までここの内儀と|嬰《あか》ン坊の添寝していた夜具の中へもぐりこんだ。夜具の中には、|母子《お や こ》の|温《ぬく》みがまだあった。武蔵の体はしかしそれよりも熱かった。奥との境に立って、その様子をじっと眺めていた女房は、
「……おやすみ」
静かにいって、|燈火《あ か り》を吹き消して行った。
しいんと頭のはち[#「はち」に傍点]を|鉄《かね》の輪でしめつけられるような|悪《わる》|酔《よい》がのぼって来る。こめかみ[#「こめかみ」に傍点]の脈がずきずきと聞えるほど高く|搏《う》つ。
はてな、どうしておれは今夜に限って、こう量を超えて飲んでしまったのか? ――武蔵は苦しいので軽い悔いを胸先へ呼びおこした。――梅軒がしきりとすすめたからではないかと思う。だが、あの人を人とも思わない梅軒が急に酒を買い足したり、あの無愛想な女房がやさしくなったり、ここの暖かい寝場所を譲ってくれたり――何で急に態度が打って変ったのか?
武蔵はふと、おかしいと思ったが、思索のまとまらないうちに、昏睡のもや[#「もや」に傍点]が頭にかかっていた。――そして|瞼《まぶた》を重くあわせると、大きな息を二つほどして、夜具の|襟《えり》を眼元までかぶった、こんどは少し、寒気がするらしく。
燃え残っている|炉《ろ》の|薪《まき》が、時折小さい焔を立てて、武蔵の|額《ひたい》に明滅した、深い寝息がその次に聞える。
「…………」
白い顔が、その頃まで、そこと奥との境に|佇《たたず》んでいた。梅軒の女房であった。びた、びた、と|筵《むしろ》へ|粘《ねば》りつく跫音が、忍びやかに良人のいる部屋へ帰って行った。
武蔵は夢をみていた。夢の切れ端みたいな同じ夢を何遍もみた。夢というほど|纏《まと》まっている夢ではないから、幼少の頃の記憶が、何かの作用で、眠っている脳細胞の上へ虫みたいにムズムズ這い出し、神経の足の|足《あし》|痕《あと》が、|燐《りん》|色《いろ》に光る文字を|脳《のう》|膜《まく》へ描いているかのような|幻《げん》|覚《かく》だった。
……とにかく、こういう子守唄を、彼は夢の中で聞いている。
[#ここから2字下げ]
ねんねしょうとて
ねる子はかわい
起きてなく子は
つらやな
つらやな
|母《かか》なかせ
[#ここで字下げ終わり]
この子守唄は、この前ここへ立ち寄った時、良人の留守をまもって|添《そえ》|乳《ぢ》していた梅軒の妻が唄っていたものであるのに、その伊勢|訛《なま》りのある節がそのまま、|美作《みまさか》の国|吉《よし》|野《の》|郷《ごう》の、武蔵の生れた|故郷《ふるさと》で聞える。
――そして。
武蔵はまだ|嬰児《あ か ご》で色の白い三十ぐらいな女の人に抱かれているのだった。――その女の人が自分の母であると|嬰児《あ か ご》の武蔵には分っていて、乳ぶさにすがりながらその人の白い顔をふところから幼い眼が見上げている――
[#ここから2字下げ]
つらやな
つらやな
|母《かか》なかせ……
[#ここで字下げ終わり]
自分を揺りながら母は唄っているのである。|面《おも》やつれしている品のよい母の顔は、梨の花みたいに|仄《ほの》|青《あお》かった。長い石垣には、|苔《こけ》の花がポチポチ見え、土塀のうえの|梢《こずえ》は|黄昏《た そ が》れかけていて、邸のうちから|燈火《あ か り》がもれている。
母の二つの眸から、ぽろぽろと涙がこぼれ、その涙を、|嬰児《あ か ご》の武蔵は不思議そうに見ているのである。
――出てゆけっ。
――|郷家《さと》へ帰れっ。
父の|無《む》|二《に》|斎《さい》のきびしい声が家のうちからひびいて来るのだったが、その姿は見あたらない。ただ母はおろおろと、邸の長い石垣を逃げまわり、果ては|英《あい》|田《だ》|川《がわ》の河原へ出て、泣き泣き河の中へざぶざぶ歩いてゆく。
|嬰児《あ か ご》の武蔵が、
(あぶない、あぶない)
と、母にその危険を教えようとして、ふところで頻りにもがくのであったが、母はだんだん深い淵へ入って行き、暴れる児を、痛いほどひし[#「ひし」に傍点]と抱きしめて、濡れている頬をぺたりと児の頬へつけて、
(――たけぞう、たけぞう、お前はお父さんの子? お母さんの子?)
すると、岸のほうで、父の無二斎の怒る声がした。母はそれを聞くと、英田川の波紋の下に影をかくしてしまった。――|嬰児《あ か ご》の武蔵は石ころの多い河原に|抛《ほう》り出されていて、月見草の中でワンワン泣いている、ありッたけな声を出して泣いている。
「……あっ?」
夢と知って、武蔵は眼をさましたが、とろりとするとまた、母か他人か、その女の人の顔が、彼の夢をのぞいて、彼をさました。
武蔵は自分を産んだ人の顔を知らなかった。母は|憶《おも》うが、母の面影は描けない、ただ他人の母を見て、自分の母もあんな人ではなかったろうかなどと思ってみるに過ぎない。
「……なぜ今夜は?」
酒もさめ、気も|醒《さ》めて、武蔵はふと天井へ眼をひらいた。|煤《すす》けた天井に、赤い光が明滅していた。――燃え残りの炉の焔がそこへ映って。
見ると、ちょうど彼の寝顔の上の辺りに、天井から吊るした風車が、宙にふわりと下がっていた。
子の|土産《み や げ》にと、梅軒が買って来たあの風車だった。そればかりでなく、ふと気づくと、武蔵が顔までかぶっていた夜具の|襟《えり》にも、|母乳《ちち》のにおいが深くしみこんでいたのである。――武蔵は気がついて、こういう周囲の物の気配に、思いもしなかった|亡母《はは》の夢を見たのであろうと思った。そして、懐かしいものと会ったように、その風車へ見入っていた。
|醒《さ》めてもいない、眠ってもいない、そうしたうつつの間に、うす眼を開いて、仰向いていると、武蔵はふと、そこに吊り下げてある風車に、不審を抱いた。
「……?」
風車が廻りだしたのである。
元々、廻るように出来ている風車が、廻り出したのだ、なんの不思議もないはずであるが、武蔵はギクとしたように、夜具の中から身を起しかけ、
「……はてな?」
耳を澄ました。
どこかで、そーと戸の|辷《すべ》る音がする、戸が閉まると、廻っていた風車は、翼をしずめて、またぴたと止まる。
この家の裏口を、|先刻《さ っ き》から頻りと人が出入りしていた。足の運びにも注意して、ミシリともせぬほど、それは|密《ひそ》かなものだったが、戸の|開《あ》け|閉《た》てに入って来るかすかな風は、|暖《の》|簾《れん》をかけてある板の間を通って、ここの風車の糸へすぐひびき、|鉋屑《かんなくず》で出来ている五色の造花が、途端に蝶の感覚のように、揺れたり、|顫《おのの》いたり、廻ったり、止まったりするのであった。
――起しかけた頭をそっと枕へもどして、武蔵は、この家のうちの空気をじっと体で知ろうとした。一枚の木の葉をかぶって、天地の気象を、|悉《ことごと》く知っている昆虫のように、澄み|徹《とお》った神経が、武蔵の体に行きわたっていた。
自分が今――どういう危険の中にあるか、武蔵はほぼ分ってきた。――しかし、分らないのは、なんのために、自分の生命を他人が――ここの|主《あるじ》の|宍《しし》|戸《ど》|梅《ばい》|軒《けん》が、奪おうとしているのか、その理由が見つからない。
「盗賊の家か?」
最初は、そう考えた。
けれど、盗賊ならば、およそ|人《にん》|態《てい》と所持品の|多《た》|寡《か》を一見して知る|明《めい》は持っているはずである。自分を害して、なんの所得があるか。
「恨みか?」
それも|中《あた》らない。
武蔵は、結局、思い当るものを得なかった。しかし自分の生命には刻々と或るものが迫って来つつあることが益々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]皮膚に感じられた。――こうしてその或るものの到来を待っているのがよいか、逆に、機先を取って起ったほうがよいか、早速、ふたつに一つの策を選ぶ必要にまで、それはすぐ側まで来ているものと|見《み》|做《な》された。
武蔵は、土間へ手を下ろした――手の先が|草鞋《わ ら じ》を探っている――その草鞋は片方ずつするすると夜具のすそへ入ってしまう。
――急に、風車が烈しく旋回し出した。明滅する炉の光をうけて、クルクルと魔法の花みたいに廻った。
明らかな跫音が、家の外にも家の奥にも聞えた。武蔵の寝床をつつんで、忍びやかにそれは一つの囲みを作っていた。――やがて、暖簾のすそから、ぬっと、二つの眼が光った。膝をついて這って来る男は|抜刀《ぬ き み》を持ち、一人は素槍を持って、そっと壁を撫でながら蒲団のすそのほうへ廻った。
「…………」
寝息を聞き澄ますように、ふたりの男は、ふくれている夜具を見ていた。するとまた、暖簾の蔭から、煙のように一人の者が出て来て突っ立っていた。|宍《しし》|戸《ど》梅軒である。左の手に|鎖鎌《くさりがま》を持ち、右の手に分銅をつかんでいた。
「…………」
「…………」
「…………」
眼と、眼と、眼と。
三人が機微な息をあわせると、まず頭のほうにいた者が、ぽんと枕を蹴とばした、すそのほうにいた男はすぐ土間へとび降りて、槍を蒲団へ向けた。
「起きろっ、武蔵」
梅軒は、分銅の鎖と|拳《こぶし》を、後ろへ引いていった。
――だが、蒲団は答えなかった。
鎖鎌でつめ寄っても、槍をしごいても、呶鳴っても、蒲団はあくまで蒲団であった。――その中に寝ているはずの武蔵はもういなかったのである。
槍で、それを|剥《め》くった男が、
「あっ……|失《う》せたっ」
狼狽の眼を、急に、あたりへ|配《くば》ると、梅軒は、顔のまえで強くカラカラ廻っている風車に、初めて気づいて、
「どこかの戸が開いているぞ」
と、土間へ飛び降りた。
しまった――という声が、すぐもう一人の男の口から走っていた。その仕事場から土間づたいに裏の台所へ通じている露地出入りの戸が一枚――三尺ほど開け放しになっている。
月夜のように、|戸外《そと》は霜が冴えていた。風車の急な旋舞は、そこから吹き込んで来る針のように身を刺す風だった。
「野郎、ここからだ」
「|戸外《そと》の者は、何していたのか――戸外の者は」
梅軒は、あわてて、
「やいっ、やいっ」
呶鳴って、家の外を見まわすと、軒下や、そこらの物蔭に、黒い影が、のろりと膝でうごいて、
「……親方……親方うまく行きやしたか」
と、声を|密《ひそ》ませる。
腹立たしげに、
「何をいッてやがるんだ、てめえ達は、なんのために、そこで眼を光らせていたんだ。野郎はもう、風を食らって、ここから外へ突っ走ッてしまった」
「えっ、逃げたって? ……いつの間に」
「人に訊く奴があるか」
「はてな」
「どじ[#「どじ」に傍点]めッ」
梅軒は、そこの戸口を、踏み出したり、中へ戻ったり、じりじりしていたが、
「鈴鹿越えか、津の街道へ戻るか、道は二筋しかねえ、まだそう遠くへも行くめえ、追ッてみろ」
「どっちへ」
「鈴鹿のほうへは、おれが行ってみる、てめえたちは、|下道《しも》へ急げ」
屋内の者と、|戸外《そと》の者とが|固《かた》まると、十人ほどの人数だった。中には、鉄砲を抱えている男もある。
風態は、一様でなかった。鉄砲を持っている男は|猟師《りょうし》らしいし、|野《の》|差刀《ざし》を横たえているのは|木樵《き こ り》と見てさしつかえない。その|他《ほか》の者もまず、大体そんな階級であるが、すべてが、宍戸梅軒の|顎《あご》でうごいているところや、どこか兇猛な|眼《まな》ざしを備えている点から見て、誰よりも、梅軒その者が第一、決して、|凡《ただ》の百姓|鍛冶《かじ》だけの男とは受け取れなかった。
ふた手になって、
「見つけたら、鉄砲をぶっ放すのだ、それを聞いたら、|一所《ひとところ》へ駈けて来い」
いきまいて追って行った。
しかし、その|迅《はや》い足で、半刻も追うと、皆気が抜けてしまったらしい。やがて、がっかりした言葉を投げ合って、ぞろぞろと戻って来た。
親方の梅軒に|罵《ののし》られはしないかと恐れていたことも取り越し苦労にすぎない。その梅軒がすでに皆より先に帰って、鍛冶小屋の土間に腰かけたまま、ぼんやり|俯向《う つ む》いていたからである。
「だめだ、親方」
「惜しいことをした」
なぐさめ顔にいうと、梅軒は、
「しかたがねえ」
|忌《いま》|々《いま》しさの|遣《や》り場を見つけるように、そこの|榾《ほた》をつかんで、膝がしらでポキポキ折り、
「女房、酒はねえか、酒でも出せ」
炉の残り火を掻き立てて、|自暴《やけ》に|薪《まき》を投げこんだ。
この|夜《よ》|半《なか》の騒々しさに、乳呑児も眼をさまして泣きぬいている。梅軒の女房がそこから寝たままで、酒はもうないと答えると、一人の男が、それなら自宅にあるのを取って来ようといって|戸外《お も て》へ出て行った。
皆、近所に住んでいるらしいのである。酒の来るのも早かった。暖める|遑《いとま》もなくそれを茶碗で|酌《く》み交わして、
「どうも、|業《ごう》|腹《はら》でならねえ」
とか、
「忌々しい若造だぞ」
とか、
「|命冥加《いのちみょうが》な野郎だ」
などと、後のまつりに過ぎない|繰《く》り|言《ごと》を|肴《さかな》にして、
「親方、腹をすえておくんなさい、|戸外《そと》を見張っていた奴がどじ[#「どじ」に傍点]だったんで」
と、彼を酔わせて、先へ寝かすことにみな努めた。
「おれも悪かった」
梅軒は、そう他を咎めようとはしない。ただ酒は舌に苦い顔つきで――
「何も、あんな青二才一匹、皆の手を借りて大げさ[#「大げさ」に傍点]な構え立てをしなくても、おれ一人でやればよかったかも知れねえのだ。……だが、今から四年前、あいつが十七歳の時に、おれの兄貴の辻風|典《てん》|馬《ま》でさえ、打ち殺された相手だと考えると――|下手《へた》に手出しは出来ねえと考えたものだから」
「だが親方、ほんとに今夜泊ったあの武者修行が、四年前に、伊吹のもぐさ[#「もぐさ」に傍点]屋のお甲の家に|匿《かく》まわれていた小僧でしょうか」
「死んだ兄貴の典馬のひき合わせだろうよ――おれも|初《しょ》|手《て》はそんな気はみじんも抱いていなかったのだ。一、二杯酒をのんでいるうちになにかの話から、野郎はまさか、おれが辻風典馬の弟で、野洲川野武士の辻風黄平だとは知らねえもんだから、関ケ原の役へ出たことから、そのころはたけぞう[#「たけぞう」に傍点]と呼んでいたが今では宮本武蔵と名乗っているなどと、問わず語りにしゃべってしまった。……年頃も、|面《つら》だましいも、兄貴を木剣で打ち殺した、あの時のたけぞう[#「たけぞう」に傍点]に相違ねえ」
「返す返す、惜しいことをしたなあ」
「この頃は、世間が穏やかになり過ぎたんで、たとえ兄貴の典馬が生きていても、おれ同様、|住居《す ま い》や飯にも困って、百姓鍛冶に化けるか山賊にでもなるよりほか|途《みち》はなかったろうが――名もねえ関ケ原くずれの足軽小僧に、木剣でたたき殺された兄貴の死にざまは、思い出すたびに、こう胸の元でむらむらとするのだ」
「あの時、たけぞう[#「たけぞう」に傍点]といった今夜の青二才のほかに、もう一人、|若《わけ》えのがいましたね」
「又八」
「そうそう、その又八ってえ方の野郎は、もぐさ屋のお甲と|朱《あけ》|実《み》を連れて、すぐあの晩、夜逃げしてしまった。……今頃、どうしていやがるか」
「兄貴の典馬は、お甲に迷わされていたので、一つは、あんな不覚の|因《もと》になったのだ。これから先も、またいつどこで今夜のようにお甲を見かける折がないともいえねえから、てめえ達も、気をつけていてくれ」
酒がまわって来たらしく、梅軒は居坐ったまま、|榾《ほた》|火《び》へ向って、眠そうに首を垂れた。
「親方、横におなんなせえ」
「親方、寝たほうがいい」
武蔵が脱け出した蒲団の後へ、一同して親切にかかえ入れ、土間に落ちていた枕をひろって当てがってやると、途端に、|宍《しし》|戸《ど》梅軒は眼をあいている間の怨念を離れて大きな|鼾《いびき》をかいている。
「帰ろうぜ」
「寝ようぜ」
元は皆戦場かせぎの野武士を|生業《なりわい》にして伊吹の辻風典馬や野洲川の辻風黄平の手下と、|公《おおぴ》らに名乗って働いていた人間たちの成れの果てなのである。時代に追われて百姓や猟師になっても、まだ人を|咬《か》む|牙《きば》は決して抜かれていない。どこか鋭い眼を備えたのが、やがて、ぞろぞろと鍛冶小屋から霜の夜更けへ散って行った。
十一
その後は何事もなかった夜のように、この家の中は、人の寝息と、野鼠の歯の音がどこかでするだけであった。
時折、まだ寝つかないらしい乳呑み子が、奥でクスクスむずかっていたが、それもいつか、寝ぐさい闇が暖まるに従って、やんでしまう。
すると。
台所と仕事場との土間つづきの隅に、|薪《たきぎ》が積んであって、そのわきには|土泥竈《どべっつい》があり、荒壁には、|蓑《みの》や笠などがかけてあったが――その壁に寄った|泥竈《へっつい》の蔭から、ごそり[#「ごそり」に傍点]と蓑がうごいた。
|蓑《みの》はひとりでに持ち上がってゆくように、元の釘へもどって壁にかけられ、その壁の中から煙のように出て来たかとも思える人影が、ぬっと立った。
武蔵なのである。
彼は、この家から外へ、|一《ひと》|足《あし》も出ていなかった。
|先刻《さ っ き》、寝床を抜け出すとすぐ、そこの雨戸を開けておいてから、|蓑《みの》をかぶって、|薪《たきぎ》と一緒に身を伏せていたのである。
「…………」
彼は土間を歩み出した。|宍《しし》|戸《ど》梅軒の寝息は天国を遊んでいた。梅軒はまた、鼻に|病《やまい》があるとみえて、その|鼾声《い び き》も|凡《ただ》ならぬものだった。――武蔵はすこしおかしくなったとみえ、闇の中で思わず苦笑をゆがめる。
「…………」
さて――と武蔵はその鼾声を聞きながら一考してみるのだった。
宍戸梅軒との試合はすでにおれが勝った。完全に勝ったと思う。
だが、先刻からの話を聞いていれば、この男の宍戸梅軒というのは後の名で、以前には野洲川の野武士で辻風黄平と|称《とな》えていた者だとある。そして、自分がかつて打ち殺した辻風典馬とは、兄弟である関係からして、自分をこよい殺して兄の|怨霊《おんりょう》をなぐさめようという、野武士ずれの男としては、|殊勝《しゅしょう》な心がけを持っている。
生かしておけば、この後もまた、折あるごとに、自分を死へ|謀《はか》るにちがいない。一身の安全からいえば、殺してしまうに限るが、殺すほどの値打があるかどうか。
「……?」
それを武蔵は考えてみるのであったが、やがて決するところが着いたのであろう、彼は梅軒が寝ている裾のほうへ廻って、その壁の|角《つの》|掛《かけ》から、一挺の鎖鎌を|外《はず》して、手に取った。
――梅軒は|醒《さ》めない。
顔をのぞいて、武蔵は、鎌の|刃《は》を、爪でひき出した。青じろい刃と|柄《え》が、|鉤《かぎ》|形《がた》になった。
武蔵はその刃へ、濡れ紙を巻いて、そして梅軒のちょうど首の輪のところへ鎌をそっと載せた。
(……よし!)
天井から下がっている風車も眠っていた。もし、鎌の刃に濡れ紙を巻かずにおいて、あしたの朝、この|父《てて》|親《おや》の首が枕から落ちていたりなどしたら、この風車は気が狂って廻るだろうと思う。
辻風典馬を殺したのは、殺す理由もあったし、こちらも|戦《いくさ》あげくの血気一途でやったのである。しかし、宍戸梅軒の|生命《い の ち》を奪っても何らの益はない。ないのみならず、この風車の因果がやがてまた、父のかたきと自分を呼んで、世に廻って来ることは怖ろしい。
さなきだに武蔵は今夜、なんだか死んだ母や父が|憶《おも》い出されてならなかった。この家族たちの寝ぐさい闇に、甘い乳の香のただよっているのも|羨《うらや》ましくて、なんだか去るに忍びない気持すらするのであった。心のうちで、武蔵は、
(お世話になりました。……では、あしたの朝まで、ごゆっくりお|寝《やす》みなさい)
そう祈りながら、静かに、雨戸を開けて、そっと閉めて、この家から先の旅へと、まだ明けぬ夜を出て行った。
|奔《ほん》 |馬《ば》
旅も初めのうちの数日は清新だった。脚のつかれなど苦にもならない。
ゆうべおそく、|関《せき》の追分で泊った二人なのに、その二人は今朝もまた、まだ|朝《あさ》|靄《もや》のふかいうちに、|筆《ふで》|捨《すて》|山《やま》から四軒茶屋の前へかかり、やっとその頃、自分たちの背中から昇りかけた日の出を振向いて、
「ああ、きれい――」
しばし日輪の荘厳に|衝《う》たれて足を止めていた。
お通の顔も、|紅《あか》く燃えて、その一瞬は晴れ晴れしていた。いや植物も生物も、一切のものが、自己の生命に充実と誇りをもって地上を飾っていた。
「まだ誰も登って来ないぜ、お通さん。今朝は、この街道では、おれたち二人が、一番先に通るんだ」
「おかしな自慢をするんですね。道なんか、先に通ったって、後から通ったって、同じことじゃありませんか」
「ちがうさ」
「じゃあ、早く通れば、十里の道が七里になる」
「そんな違いじゃないよ、歩く道でも、一番は気持がいいだろ。――馬のお尻や、雲助の後から行くよりも」
「それはそうだけれど、城太さんみたいに、威張って、自慢するのは変ですよ」
「でも、誰も通っていない街道を歩いていると、自分の領分を歩いているような気がするんだよ」
「じゃあ私が、お馬の先を、露ばらいしてあげるから、今のうちに、たくさん威張って歩くといい」
お通は、道に落ちていた竹をひろって、歌をうたうような気持で|戯《たわむ》れた。
「下にいませエー。下にいませエー」
戸が閉まっているとばかり思っていた四軒茶屋から、人が顔を出したので、
「ま! いやだ」
お通は顔を|赧《あか》くして駈け出した。
「お通さんお通さん」
追いかけて、
「殿様を置いて逃げちゃいけないよ、お手討だぞ」
「もうふざけては、嫌」
「自分がひとりでふざけているくせに」
「おまえにつり込まれてしまうんじゃありませんか。あら、四軒茶屋の人が、まだこっちを見ている。きっと|気《き》|狂《ちが》いだと思ったかもしれませんよ」
「あそこへ戻ろう」
「何しに」
「お|腹《なか》が|減《へ》ッちゃった」
「まあ、もう?」
「お昼のお|握飯《に ぎ り》を、ここで半分喰べておこう」
「いいかげんにおしなさい。まだ二里とは歩いていないんですよ。城太さんと来たら黙っていると、日に五度ぐらい喰べるんですもの」
「そのかわりおらは、お通さんみたいに、山|駕籠《かご》に乗ったり、駄ちん馬に乗ったりしないからね」
「きのうは、関へ泊ろうと思って、無理に暮れ方をいそいだからですよ。そんなこというなら、きょうはもう乗らない」
「きょうはおらが乗る番だ」
「子どものくせに、なアに」
「馬に乗ってみたいんだよ、ねえお通さんいいだろ」
「きょう|限《き》りですよ」
「四軒茶屋に、駄ちん馬がつないであったから、あれを借りて来よう」
「いけません、いけませんよ、まだ」
「嘘いったのかい」
「だって、くたびれもしないうちに馬に乗るなんて、|贅《ぜい》|沢《たく》すぎます」
「そんなこといったら、おらなんか、百日千里歩いても、くたびれることなんてないんだから、乗る時はありやしないぜ。……人がたくさん歩き出すとあぶないから、今のうちに乗せておくれよ」
これでは早立ちしても|道《みち》|程《のり》は|捗《はかど》るまい。お通がうなずきもせぬうちに、城太郎はもう通り越した四軒茶屋のほうへ、大元気で駈け戻っていた。
四軒茶屋というのは字義どおり四軒の茶屋をさす名であるが、その四軒が古着屋のように軒をならべているわけではない。|筆《ふで》|捨《すて》、|沓《くつ》|掛《かけ》などの山坂へかけて四つの休み茶屋があるところから、この辺を総称して、地名的にそう呼ぶのである。
「おじさんっ――」
そこへ立って城太郎、
「馬、出しとくれ」
と、呶鳴った。
戸を開けたばかりのことである。茶屋のおやじは、この元気者にしぶい眼を|醒《さ》まして、
「なんじゃあ、でかい声を出しくさって」
「馬だよ。はやく馬を出しておくれよ。|水《みな》|口《くち》までいくらだい。安ければ、草津まで乗ってやってもいいぞ」
「|汝《わ》れ、どこの子だ」
「人間の子だ」
「かみなりの子かと思うた」
「かみなりは、おじさんのことだろう」
「よく口をたたく子だの」
「馬出しとくれよ」
「あの馬を、駄ちん馬と見たのけ。あれは駄ちん馬ではねえだによって、おん貸し申すことはできねえ」
「おん借り申すことはできないのけ?」
「こんつら小僧め」
|饅頭《まんじゅう》を|蒸《ふ》かしていた|泥竈《へっつい》の下から、おやじが、火のついている|薪《まき》を一本|抛《ほう》りつけると、それは城太郎にはあたらないで、軒下につないであった老馬の脚にぶつかった。
馬の子と生れてからこの年になるまで、毎日、人間の|生活《た つ き》の手つだいに、関の峠を俵だの味噌だのを背負って通いながら、不平もなく、|睫《まつ》|毛《げ》に白髪を|生《は》やしかけているその年より馬は、久しぶりで驚いたようにいなないて、背で軒を打つほど暴れ出した。
「この野郎」
馬を叱るのか、城太郎を叱ったのか分らない。おやじは飛び出して来て、
「どうッ、どうッ」
手綱を解いて、家の横にある樹へ持って行こうとすると、
「おじさん、貸しとくれよ」
「いかねえってに」
「いいじゃないか」
「馬子がいねえだよ」
その時、お通も側へ来ていて、馬子がいなければ、駄ちんは先に払い、馬は|水《みな》|口《くち》からこっちへ帰る旅人か馬子に託してもよいからと頼むと、おやじはお通の物腰に信用を改めて、それなら水口の宿場まででも、草津まででもかまわないから、馬は、ついでのある土地の者に頼んでくれといって、手綱を彼女の手に渡した。
城太郎は舌うちして、
「ばかにしてやがら、お通さんが、きれいなもんだから」
「城太さん、おじいさんの悪口いうと、この馬が聞いているから、怒って、途中で振り落すかもしれませんよ」
「こんな|耄《もう》|碌《ろく》|馬《うま》に振り落されてたまるもんか」
「乗れますか」
「乗れるさ。……ただ、背がとどかねえや」
「そんなふうに、馬のお尻をかかえてもだめですよ」
「抱いて、乗せとくれよ」
「やっかい坊ね」
脇の下へ両手をさし入れて、彼女が馬の背へ乗せてやると、城太郎は、にわかに地上を|睥《へい》|睨《げい》してみたくなって、
「お通さん、歩いておくれよ」
「あぶない腰つき」
「だいじょうぶだよ」
「じゃあ、出かけますよ」
お通は手綱をとって、
「おじいさん、それでは」
と茶屋の軒へ、後ろ向きにいいながら歩み出した。
すると、百歩も行かないうちに、姿は見えないが|朝《あさ》|靄《もや》の中から、オーイッと高く呼ばわって、忽ち追い着いて来そうな|迅《はや》い跫音が聞えた。
「誰だろ」
「私たちのことかしら」
駒を止めてふり|顧《かえ》ると、煙のような白い|靄《もや》のうちから、一個の人間がだんだんその影を濃くあらわし、やがて輪廓だの色だの、年頃や|人《にん》|態《てい》まで見えるほどに、距離を縮めて来た。
夜だったら近づかぬ間に、二人は逃げ足をおどらせたかも知れない。長い野太刀をこじり[#「こじり」に傍点]|高《だか》に差し込み、|鎖鎌《くさりがま》を|前《まえ》|差《ざし》に帯びている眼の怖い男だった。
風がふいて来たようにその男の体から烈しい空気がうごいていた。いきなりお通のそばへ来て足を止めたのである。そしてお通の持っている手綱を|咄《とっ》|嗟《さ》に引ッ|奪《た》くり、
「降りろっ」
顔は、城太郎へ向けて、命令するのだった。
かつ、かつ、かつ、と年より馬がまた|脅《おび》えて|後《あと》|退《ずさ》りするので、城太郎は|鬣《たてがみ》にしがみつきながら、
「な、なにさ! 無茶なことすんないっ、……この馬、おらが借りてる馬だぞ」
「やかましい」
鎖鎌は、耳も貸さない。
「これ女」
「はい」
「おれは、関の|宿《しゅく》からちょっと引っ込んだところの|雲林院《う じ い》村にいる|宍《しし》|戸《ど》梅軒という者だが、すこしわけがあって、この街道を、今朝暗いうちに逃げていった宮本武蔵という者を追いかけて来たのだ。もう相手はとうに水口の宿場も越えているだろう、どうしても、|江州口《ごうしゅうぐち》の|野《や》|洲《す》|川《がわ》あたりで|彼奴《き ゃ つ》を捕まえなければならねえ。……その馬を、おれに譲れ」
ことばの早いのみで、|肋骨《あ ば ら》に波を打っていうのだった。|靄《もや》が樹々のこずえに|絡《から》んで氷の花になるという寒さなのに、見れば梅軒の|喉《のど》くびは、|爬虫類《はちゅうるい》の肌のように|汗《あせ》|光《びか》りがして太い血管がさらにふくれている。
――立ち|竦《すく》んだまま体の血液をみな大地へ吸いこまれてしまったように、お通の顔は見ているまに異様に白くなってしまった。もいちど、耳をよく|欹《そばだ》てて聞き直したいように紫ばんだ唇がわななきかけたが、にわかに、ものもいえない面持ちなのである。
「……む、武蔵だって」
馬の背から城太郎はこう口走った。|鬣《たてがみ》にしがみついたまま、ぶるぶる手も脚もふるわしていた。
先を急ぐことに|焦心《あせ》りきっている梅軒の眼には、|凡《ただ》ではあり得なそうな二人の刹那の驚きも眼にはとまらないらしく、
「さ、小僧っ。――降りろ、降りろ。ぐずぐずしていると、ひっぱたくぞ」
手綱の端を|鞭《むち》にして|脅《おど》すと、城太郎は、つよく首を横に振って、
「嫌だっ!」
「イヤだと」
「おれの馬だ、この馬で、先へ行った人へ追いつこうたってそうはゆかない」
「女子供と思って|理由《こと》をわけていうのに、|童《わっぱ》め、つけ上がって何をいうか」
「なあ、お通さん」
と、梅軒の頭越しに、
「この馬は、渡せないね、この馬を渡しちゃいけないね」
お通は、城太郎のそのことばを、|健《けな》|気《げ》と|賞《ほ》めてやりたかった。もとより、この馬はおろか、この人間をも、先へやってはならないと思って、
「そうです、そちらもお急ぎか知りませんが、私たちも先を急ぐ体です。もう少し経てば、峠がよいの馬も|駕籠《かご》もいくらもありましょう。人の乗っているものを奪ってお出でになろうとしても、今もそこの子がいうとおり、理不尽です、そうはなりません」
「おれも、降りない。死んだって、この馬を離すものか」
二人は、しかと、気持を結び合って、梅軒の求めを突っ|刎《ぱ》ねた。
お通と城太郎のふたりが心を|協《あわ》せて、敢然とそうした態度に出たのは、梅軒にもやや意外ではあったろうが、もとよりこの男の眼から見れば、そんな反抗は、おかしくなるくらいなものだった。
「じゃあどうしても、この馬はおれに譲らねえというのか」
「知れたことだ!」
城太郎の語気はまるで|大人《お と な》のいい草だった。
「野郎っ」と、梅軒が大人げなく|喚《わめ》いたのも、あながち無理ではない。
馬の背へとび上がって、鬣へしがみついている|蚤《のみ》みたいな城太郎を|抓《つま》んで捨てようとしたのである。いきなり馬の腹にある彼の片足を引っ張った。
こんな時こそ抜くべき物である腰の木剣を城太郎はすっかり忘れているらしい。自分以上の強敵と分っている敵に、脚くびをつかまれると、ただ逆上してしまって、
「かッ! 畜生っ」
梅軒の顔へ向って、続けさまに|唾《つば》を吐きつけた。
生涯の大変はいつ降って湧いてくるかわからない。たった今、日の出に向って、生きている歓びを思った生命が、真っ黒な戦慄に包まれているのである。お通はこんな所で、こんな男のために、|怪《け》|我《が》をするのは嫌だし、死ぬのはなお嫌だと思った。恐ろしさに口の中が|酢《す》くなって|渇《かわ》いてしまった。
――だが謝りを入れて、この男に、馬を渡す気にはどうしてもなれない。この男の凶暴な害意は、この道を先へ通って行ったという武蔵の|背後《う し ろ》へ迫るものである。何か大きな危険が、武蔵を追っていることにちがいないのである。この男を、一時ここで遅らせれば、武蔵は一時だけ先へ危険を|遁《のが》れて行くことができる。
たといその距離は、折角、一すじの道にかかっている自分と武蔵との間をまた忽ち遠くしてしまうものであるにせよ――この男に|奔《ほん》|馬《ば》の脚を与えることは断じて出来ないと、|朱《しゅ》|唇《しん》を噛んで意思するのであった。
「なにするんです!」
自分の勇気と無謀に驚きながらお通は、梅軒の胸を強く突いた。顔の|唾《つば》をこすっているところへまた、弱いと思った女のその強い手だったので梅軒もちょっとたじろいだ恰好であった。それのみでなく、女の度胸というものは、いつも男の意表外に出るもので、梅軒の|胸《むな》いたを突いたお通の手は、すぐ次の瞬間に、梅軒の帯びている野太刀のつかを握っていた。
「|阿女《あま》ッ」
吠えて、その手くびを、梅軒が抑えようとして握ると、そこはもう鯉口を走りかけていた|白《しら》|刃《は》の部分だったので、手を触れたとたんに、梅軒の右手の小指と薬指の二本が|弾《はじ》けるように斬れて血と共に地上へこぼれた。
「――ア|痛《つ》!」
思わず後の指を抑えて|飛《と》び|退《の》いたので、自ら|鞘《さや》を引いたことにもなって、お通の手には水もたまらぬような光が地を曳いてさッと後ろへかくされた。
いやしくも一道に達している|宍《しし》|戸《ど》梅軒として、これはゆうべの不覚以上な不覚であった。のッけから女子供と見て呑んでかかったことが重大な原因だったことはいうまでもない。
――しまったと自己の不覚を叱りながら、立直ろうとしたところへ、もうなにも怖くなくなっているお通の手から、野太刀が横へ撲って来たのであった。けれどそれは三尺に近いもので、いわゆる|胴《どう》|田《た》|貫《ぬき》という分厚い|刃《は》|金《がね》である。一人前の男でも、そうたやすくは振れない物なので、梅軒に身を交わされると、当然、お通の手は波を描いて、自分の振った刀で自分の体を|蹌《よろめ》かせてしまった。
――そして、ごつんと木を斬ったようなひびきを腕に感じると、赤黒い血しおが、顔へかぶって来るようにパッと見えて、彼女は眼が|眩《くら》むような心地がした。城太郎のしがみついている馬の尻へ|刃《やいば》を入れてしまったのである。
驚き癖がついている馬である。そう深く入った刃ではないが、馬の悲鳴に似たいななきは非常なものであった。|臀《しり》の傷口から血を撒いて暴れるのだった。
梅軒は、なにか意味の分らない大声をあげ、お通から自分の刀を|も[#「も」は「てへん」+「宛」Unicode="#6365"]《も》ぎ取ろうとして、彼女の|手《て》|頸《くび》をつかまえかけたが、狂った馬の後脚は、その二人を刎ね飛ばして、|竿《さお》立ちの姿勢になると、鼻をふるわしてまた高くいななき、そのまま|弦《つる》をきって放ったように、風を起して|驀《まっ》しぐらに駈け出してしまう。
「わっ、や、やいっ」
馬の揚げてゆく砂塵へ向って、梅軒は突ンのめった。|憤《ふん》|怒《ぬ》の勢いは駆りたてられたが、追いつけるはずは勿論ない。
そこで|血眼《ちまなこ》となったすごい眸を、お通のほうへ振り向けたのであるが、お通のすがたも、途端にどこにも見あたらない。
「あっ?」
こうなると、梅軒の青すじはいよいよ、こめかみに|膨《ふく》れあがった。――見ると、自分の刀は道ばたの赤松の根かたに|抛《ほう》り出してある。飛びつくように拾いあげて、そこを|覗《のぞ》くと、低い崖の下に農家の|茅《かや》の屋根が見える。
馬に、|刎《は》ねとばされた|機《はずみ》に、お通はそこへ転げ落ちたものと見える。もうその時は梅軒にも、彼女が武蔵と何らかの交渉のある人間に違いないということは考えられていた。武蔵を追う方にも気が|急《せ》かれるが、お通を見のがして行くことも|忌《いま》|々《いま》しい。
崖を駈け下りて、
「どこへ?」
うめきながら、梅軒は、そこの百姓家のまわりを大股に廻って歩いた。
「どこへ|失《う》せやがったか」
縁の下をのぞいたり、納屋の戸を開けたりしている彼の狂人みたいな|態《さま》を、せむし[#「せむし」に傍点]のような農家の老人が糸車の蔭から恐怖にすくんで見ているだけだった。
「ア! ……あんな方に」
やがて彼は見つけた。
ふかい|檜《ひのき》の沢には、まだ谷の雪が残っている。その渓谷へ向ってお通は、檜林の急な傾斜を、|雉《きじ》みたいに逃げ下りていた。
「いたなッ」
梅軒が上からこういいかぶせると、お通は思わず振りかえった。土の崩れて行くよりも早く彼の姿は、お通のうしろへ接近していた。彼の右手には拾いあげた白刃がそのまま持たれていたが、相手をそれで斬り倒す意思はなかった。武蔵の道づれでもあれば、武蔵をつかまえる|囮《おとり》にもなろうし、武蔵の行く先を訊けるかとも考えたのであろう。
「|阿女《あま》っ」
左の手をのばして、その指先は、お通の黒髪に触れた。
お通は身をすくめて、木の根にしがみついた。足をふみ|辷《すべ》らすと体は|振《ふり》|子《こ》のように崖へ伸び、烈しく左右へ振り廻された。顔のうえ胸の中へ、土や小石がざらざらと崩れてくる。梅軒の|巨《おお》きな眼と、白刃が絶えずその上にあった。
「ばか、ばか、逃げる気か。――もうそこから下は、|渓《たに》|川《がわ》の|絶壁《きったて》だぞ」
ひょいと、前をのぞくと何丈か真下に、残雪の間を裂いて走っている水が青く見えるのだった。――お通はそれに救いを感じても恐い気はしなかった。ひらりとすぐ身をその宙へまかせる|機《はずみ》を持っていた。
死を感じると、死の恐さよりもおそろしい速さで、彼女は、武蔵がどこにいるかを考えた。いや自分の記憶と想像力のおよぶかぎりの武蔵の幻像が、総毛立ッた|頭脳《あ た ま》のうちで、|暴風雨《あ ら し》の空の月みたいに描かれた。
「――親方ア、親方あ」
どこで呼ぶのか、谷間の|谺《こだま》が、その時、梅軒を、横へ|反《そ》らせた。
崖の上に人間の顔が見えた。二、三人の男どもである。
「親方あ」
と、その顔が、てんでに呼ばわるのだった。
「なにをしてるんで。――はやく先へ急いでおくんなさい、今、四軒茶屋のおやじに訊くと、夜明け前の暗いうちに、そこで弁当をこさえさせて、甲賀谷のほうへ走って行った侍があったてえことですぜ」
「甲賀谷の方へ?」
「そうです、だが、甲賀谷へ抜けようが、土山を越えて水口へ出ようが、石部の宿場まで行きゃあ道はみな一つになるから、早く野洲川で手配しておけば、野郎はきっと捕まるはずだ」
遠方からのそういう声を、耳の裏で聞きながら、梅軒の眼は、眼の光で縛りつけているように、自分の前に立ち|竦《すく》んでいるお通を睨みつづけていた。
「おウいっ、てめえ達も、ちょっとここへ降りて来い」
「降りて行くんですか」
「はやく来い」
「でも、愚図愚図しているうちに、武蔵のやつが、野洲川を通ってしまうと」
「いいから、降りて来い」
「へい」
梅軒と共にゆうべ無駄骨を折った|彼《か》の|手輩《て あ い》なのである。山歩きには馴れきっているとみえ、|猪《しし》のように真っ直に傾斜を駈け下りて来て、お通の姿に、そこで初めて気づいたらしく眼を見あわせた。
梅軒は早口にわけを話して、三人の手したにお通をあずけ、後から野洲川へ曳ッぱって来るように命じた。手下どもは合点して、お通のからだへ縄をまわしたが、縛るには痛々しい気もするらしく、頻りと、彼女のうつ向いている蒼白な横顔を、さもしい眼で|偸《ぬす》み見ている。
「いいか、てめえ達も、おくれちゃならねえぞ」
いいすてて、梅軒は|猿《ましら》のように山の腹を横に駈け、やがてどこから降りて行ったものか、甲賀谷の渓流へ降りて、遥かからこちらの崖を振り向いていた。
その小さい影が|彼方《か な た》に立ちどまって、口元へ手をかざし、
「野洲川で落ち合うのだぞ、おれは間道を追ってゆくから、てめえ達は、街道のほうを、なお入念に、見てゆけよう」
こっちの|手輩《て あ い》が、
「わかったあ」
と、|谺《こだま》を返すと、梅軒は、雪の|斑《まだら》な谷間を、雷鳥が歩くようにぴょいぴょいと岩間づたいに遠く去ってしまった。
よぼよぼな老馬といえども、死にもの狂いに狂い出すと、|下手《へた》な手綱ではもう止まらない。
いわんや乗手は城太郎。
|臀《しり》に|松火《たいまつ》をつけられているように、真っ赤な傷口を持っている例の|奔《ほん》|馬《ば》は、あれから盲滅法に駈けだして、|八百八谷《はっぴゃくやだに》という鈴鹿の山坂を、またたく間に駈け通し、|蟹《かに》|坂《さか》を突破し、土山の|立《たて》|場《ば》を突っ切り、松尾村から|布《ぬの》|引《びき》|山《やま》のすそを横にして、まるで一陣のつむじ風が通って行くかのような勢いで止まるところを知らなかった。
よく落ちないでいるのはその背の上の城太郎で、
「あぶないっ、あぶないっ、あぶないっ」
を、|呪《じゅ》|文《もん》のように叫びつづけながら、もうたてがみ[#「たてがみ」に傍点]へつかまっているのでは間に合わなくなって、馬の|平《ひら》|頸《くび》へ、眼をつぶって、抱きついていた。
当然、馬の尻がおどる時は、彼のお尻も馬の背を離れて高くおどるので、その危険極まることは、乗っている彼よりも、それを見送った村や立場の人たちの方が遥かに|胆《きも》を寒くした。
乗る|術《すべ》を知らない彼であるから降りる|術《すべ》ももとより知らないし、駒足を止めることなどは、なおさら思いもよらない。
「――あぶないよッ、あぶないよッ、あぶないッ」
かねてからお通にせがんで、いちど馬に乗ってみたい、馬に乗って思うさま飛んでみたいと、駄々をこねて宿望にしていた城太郎も、今日はすっかりたんのう[#「たんのう」に傍点]したことであろう。声はだんだん半泣きになって来て、|呪《じゅ》|文《もん》のききめも頼みなく見えて来た。
もう街道には往来の者がぼつぼつ通りはじめていたのである。誰か身を|挺《てい》して、この盲滅法に走ってゆく馬と乗手を食い止めてやればよいのに、誰もいらざることに手を出して|怪《け》|我《が》でもしてはというように、
「なんだい、あれは?」
と、見送ったり、
「阿呆ッ」
と道ばたへかわして、城太郎のうしろへ、|叱言《こ ご と》を浴びせたりするものしかなかった。
またたく間に|三《み》|雲《くも》村、|夏《なつ》|身《み》の|立《たて》|場《ば》。
|筋[#「筋」は底本では「角」+「力」Unicode=89d4]斗雲《きんとうん》に乗った孫悟空ならば、小手をかざして、そのあたりから見渡せる伊賀甲賀の峰々谷々の朝げしきを|俯《ふ》|瞰《かん》し、|布《ぬの》|引《びき》の山や、横田川の絶景を賞しながら、はるか行く手にはまた、一面の鏡か、|一《いち》|朶《だ》の紫雲かとまごう|琵《び》|琶《わ》の|湖《みずうみ》を見出していたろうに――|迅《はや》さは筋[#「筋」は底本では「角」+「力」Unicode=89d4]斗雲に劣らないまでも、そんな|他見《よ そ み》などは、城太郎にはちっとも出来ない。
「――止めてくれッ、止めてくれッ、止めてくれえッ」
あぶないあぶないが、いつのまにか止めてくれに変っていた。そのうちに|柑《こう》|子《じ》|坂《ざか》の|急勾配《きゅうこうばい》へ上からかかると、俄然、
「助けてくれえッ」
とまた変って、逆落しに駈けてゆく馬の背中で、彼の体は|鞠《まり》みたいに|弾《はず》み出し、いよいよここらで、大地へたたき捨てられてゆくのがオチであろうと思われた。
ところが、坂の七合目あたりに、崖の横から出ている|椋《むく》か|柏《かしわ》の木か、何しろ喬木の一枝が、わざと道の邪魔しているように横へ出ていた。その枝がバサッと顔へ触ると、城太郎は、この樹こそ自分の声が天に通じて手を伸ばしてくれた救いの神と思ったのか、途端に馬の背から蛙のように|梢《こずえ》へかじりついてしまった。
馬は、|空《から》|身《み》になると、なおさら勢いを加えて坂の下へ素ッ飛んで行ってしまうし、城太郎は当然、梢に両手をかけて、宙にぶらんこ[#「ぶらんこ」に傍点]をしているほかはない。
宙といっても、地面からものの一丈とはない空間であるから、すぐ手を離してしまえば、なんのこともなく地上へ帰れるのに、そこは人間が猿でない証拠である。愛すべきご愛嬌というもので、さすがの城太郎も|頭脳《あ た ま》がすこしどうかなっているにちがいない。落ちては|生命《い の ち》がないように、必死になって、足をからんだり、しびれる手を持ちかえたり、自分の体をもてあましている。
そのうちに、ぽきッと生木が裂ける響きがしたので――彼は、しまったと思ったらしいが、難なく体は大地に坐っているので、城太郎はかえって、ぽかんとしてしまった。
「アふッ……」
馬はもう見えない。見えたって二度と乗る気もあるまい。
ややしばらく、そこで腰を抜かしていたが、|抛《ほう》り上げられたように、立ち上がって、
「――お通さアん?」
と、坂の上へ向って叫ぶ。
「お通さアん――」
道をもどって、急に駈け出した彼は、容易ならない大事へ駈けつけて行くかのような血相で、こんどは木剣をにぎりしめた。
「どうしたろう? お通さんは。――お通さあんっ、お通さあん!」
出会いがしらに|柑《こう》|子《じ》|坂《ざか》の上から降りてきた編笠の人があった。|五倍子《ふ  し》|染《ぞめ》の着物を着ており、羽織はまとわず、|革袴《かわばかま》に草履という身ごしらえ――もちろん大小は横たえている。
「これ、子供子供」
|擦《すれ》|違《ちが》いに、その五倍子染の小袖を着た男が手をあげ、小粒な城太郎を丁寧に足元から見上げて、
「どうかしたのか?」
と、たずねた。
城太郎は戻って来て、
「おじさん、|彼方《あ っ ち》から来たんだろ?」
「いかにも」
「|二《は》|十《た》|歳《ち》ぐらいなきれいな女の人を見なかったかい」
「ウム見かけた」
「え、どこで」
「この先の夏身の立場で若い女を縄つきにして歩いていた野武士がある。おれも不審に思ったが、|糺《ただ》す|理由《わけ》はないから黙って見過ごして来たが、おおかた鈴鹿谷へ部落を移した辻風黄平の仲間だろうと思うが」
「そ、それだ」
「待て」
駈け出そうとする城太郎をまたよび止めて、
「あれは、おまえの連れの者か」
「お通さんという人だ」
「|下手《へた》なまねをすると、おまえの命がないぞ。それよりも、やがてあの連中がここを通るのは分りきっているのだから、おれに仔細を話してみないか。いい智恵をかしてやらないでもないぞ」
城太郎は、すぐその人間に信頼をおいた。今朝からの始末をつぶさに話して聞かせた。|五倍子《ふ  し》|染《ぞめ》の男は、編笠のうちで幾たびも|頷《うなず》いて、
「なるほど、よく分った。だが、あの|宍《しし》|戸《ど》梅軒と変名している辻風黄平の仲間をあいてにして、女子供のおまえ達が、いくら歯がみをしたところでとても無益だ。よし、おれがお通さんとやらをあの仲間からもらってやろう」
「くれる?」
「ただではくれないかも知れぬ。その時にはまた、考えがあるから、おまえは声を出さずに、そこらの|藪《やぶ》の中へ沈んでおれ」
城太郎がかくれると、その男は坂の下へすたすたと行ってしまうのだ。あんなことをいって、人を|欣《よろこ》ばせておきながら、逃げてしまうのではなかろうか。城太郎は、不安になって、藪の中から首を出した。
坂のうえから人声が聞えてきたので、彼はあわてて首をひっ込めた。――お通の声が耳へひびいて来る。両手をうしろに|縛《しば》られて、三人の野武士にかこまれながら歩いて来る彼女のすがたも、やがて眼のまえに見えたのだった。
「何をキョロキョロしているのだ、はやく歩け」
「歩かねえかっ」
一人の男が、お通の肩を突いて|罵《ののし》った。お通は坂道を斜めによろめいて、
「わたしの連れをさがしているんです。あの子は、どうしたろ。城太さアン」
「やかましい」
お通の白い素足から血が出ていた。城太郎は、ここにいると呶鳴って飛び出そうと思ったが、その時、|先刻《さ っ き》の五倍子染の侍が、こんどは編笠をどこかへ捨てて、二十六、七歳かと見える色の浅黒い|面《おも》ざしに、わき眼もふらない血相をたたえて、
「たいへんだっ――」
独り|語《ごと》をもらしながら坂の下から駈け上がって来た。耳にとめて、三名のほうは坂の途中で足をとめた。――御免といってすれちがって行く五倍子染をふりかえって、
「おいっ、渡辺の|甥《おい》じゃないか。――なにが大変なのだ? なにが? ……」
渡辺の甥と呼ばれたところから想像すると、その五倍子染の小袖を着ている男は、この附近の伊賀谷や甲賀村で尊敬されている忍者の旧家渡辺半蔵の甥なのであろう。
「知らないのか」
と、彼がいう。
「知らぬが? ……」
と三名は寄って来る。
渡辺の甥は、指さして、
「この|柑《こう》|子《じ》|坂《ざか》の下で宮本武蔵という男が今物々しい身支度をして、太刀のさやを払い、往来に突っ立って、通行の者をいちいちすごい眼で調べている」
「えっ、武蔵が」
「おれが通るとおれの前へずかずか来て、名を訊くから、おれは伊賀者の渡辺半蔵の甥で、|柘植《つげ》|三之丞《さんのじょう》という者だと答えると、急に詫びて、イヤ失礼いたした、鈴鹿谷の辻風黄平の手下でなければお通りくださいと落ちついていうのだ」
「ほ……」
「何かあるので? ――と、おれから今度は質問すると、されば、|野《や》|洲《す》|川《がわ》野武士の果てで、|宍《しし》|戸《ど》梅軒と|化名《けみょう》している辻風黄平とその手下の者が、この道すじで、自分を殺害しようと|企《たくら》んでいることを往来の風聞によって知ったゆえ、その分なれば、むざむざ彼らの|陥《かん》|穽《せい》に落ちるよりも、この附近に足場をとり最期まで闘って、斬り死にする覚悟だといい放っていた」
「ほんとか、三之丞」
「誰が嘘をいおう、さもなくて、宮本武蔵などという旅の者をおれが知ろうはずはない」
明らかに三名の顔いろが動揺しはじめた。
どうしよう?
と|謀《はか》り合うように臆した|眸《ひとみ》がお互いを見ている。
「――気をつけて行ったがいいぞ」
いいすてて、三之丞がすぐ去ろうとすると、
「渡辺の|甥《おい》」
あわてて呼んだ。
「なんだ」
「弱ったなあ、あれは途方もなく強い奴だと、親方すらいっていた」
「かなり出来ている男にはちがいない。坂の下で、こう|抜刀《ぬ き み》を|提《さ》げて、ぐっと前へ寄って来られた時は、おれですら嫌な気持がしたからな」
「なんとしたものだろう? ……実は親方のいいつけで、野洲川までこの女をしょッ曳いてゆく途中だが」
「おれの知ったことか」
「そういわないで、手を貸してくれ」
「真っ|平《ぴら》だ、お前たちの仕事に、腕を貸してやったなどと知れたら、伯父の半蔵から|大《おお》|叱言《こ ご と》が出るにちがいない。――だが、智恵だけなら貸してやらないものでもない」
「聞かせてくれ、それだけでも有難い」
「縄付にして連れているその女を、どこかこの近くの|藪《やぶ》の中に――そうだ木の根へでも一時縛りつけておいて――身軽になっておくことが先だ」
「ウム、そして」
「この坂は通れない。すこし廻りになるが、谷道をわたって、はやく野洲川へこのことを告げ、なるべく遠巻きにしておいてから手を下すのだな」
「なるほど」
「よほど、大事をとらないと、相手は死にもの狂いだ、ずいぶん死出の道づれが出来るだろう。そうしたくないものだな」
三名は、にわかに、
「そうだ、そうしよう」
お通の体を、藪へ引きずりこんで、木の根へくくりつけた上、一度去りかけたが、またもどって来て、彼女の顔へ猿ぐつわを噛ませ、
「これでよかろう」
「よしっ」
そのまま道のないところを歩いて、姿をかくしてしまった。
枯れ木や枯れ葉の保護色の中にじっと|屈《かが》みこんでいた城太郎は、もうよい時分――と藪の中からそっと首を出して見まわした。
誰もいない――往来の者も――渡辺の|甥《おい》の|三之丞《さんのじょう》ももう見えない。
「お通さん」
城太郎は、藪の中を、おどって来た。彼女の縄目を解いてやると、その手を引っぱって、坂の途中へ、ころげ出した。
「逃げよう」
「城太郎さん……どうしておまえは、そんなところに」
「どうだっていいじゃないか。今のうちだ、はやく行こう」
「ま、待って」
みだれた黒髪や、|襟《えり》もとや、|腰《こし》|紐《ひも》などを直して、|容姿《す が た》をつくろっていると、城太郎は舌うちして、
「お|洒《しゃ》|落《れ》なんかしている時じゃないぜ、髪なんか後におしよ」
「……でも、この坂の下へ行けば武蔵様がいると、今ここを通った人がいったでしょう」
「だから、お洒落をするの」
「いいえ、いいえ」
お通は、おかしいほど真面目になって、それに対して弁明する。
「武蔵様にお会いできさえすれば、もう怖いものはないからですよ。私達の難儀もすでに去ったものと、安心して来たものだから……私は落着いているんです」
「だけど、この坂の下で、武蔵様に会ったというのは、ほんとのことかしら?」
「そういって、あの三人と、ここで話していたお方は、どこへ行ってしまったのでしょう」
「いないや」
見まわして――
「変な人だなあ」
と、城太郎はつぶやいた。
しかし、とにかく二人がこうして虎の口から助かったのは、あの渡辺の甥とかいう|柘植《つげ》三之丞のおかげであったことに間違いはない。
――この上でまた、武蔵に会えたならば、なんとその人へ礼をいってよいかなどと、お通の心はもうそんなことまで考える。
「さ、行きましょう」
「お洒落はもういいの」
「そんなことをいうものではありませんよ、城太さん」
「だって、うれしそうだもの」
「自分だって」
「それは、|欣《うれ》しいさ、欣しいからおれは、お通さんみたいに隠したりなんかしないさ。――大きな声でいってみようか、おらア欣しいっ!」
そして、手足を踊らせて、
「でも、もしかして、お師匠様がいなかったらつまらねえな。先へ行って見つけてみるよ、ネ、お通さん」
と駈け出した。
|柑《こう》|子《じ》|坂《ざか》を、お通は後から降りて行った。先へ駈けて行った城太郎以上に、心は坂の下へ飛んでいたが、かえって足が急がないのである。
(――こんな姿で)
お通は血の出ている自分の足へ眼を落し、土や木の葉によごれている|袂《たもと》をながめた。
その袂にたかっていた枯れ葉を取って、指先に|弄《もてあそ》びながら歩いてゆくと、葉に巻かれていた白い綿の中から、不気味な虫が出て来て手の甲を這った。
山の中で育ったくせに、お通は虫が嫌いだった。ぎょっとして手を振り払った。
「おいでようっ、はやく。――なにをのそのそ歩いているのさあ」
坂の下から城太郎の勢いのいい声だった。あの元気のいい声の様子では、さては、武蔵が見つかったものとみえる。――お通は彼の|声占《こえうらない》からすぐ察して、
「アア、とうとう」
きょうまで自分というものを、ふと心のうちでなぐさめ、遂に届いた一心に対して、我へともなく、神へともなく、誇りたかった。歓びに胸おどらさずにいられなかった。
――だが、それは、女性の自分だけが前奏している歓びにすぎないことをお通はよく知っている。会ったにせよ、武蔵が、自分の一心を、どの程度までうけ|容《い》れてくれるだろうか。彼女は、武蔵に会うよろこびとともに、武蔵に会ってのかなしみにも、胸が|傷《いた》んで来るのであった。
十一
坂の日蔭は土まで氷っていたが、|柑《こう》|子《じ》|坂《ざか》を|降《くだ》ると、冬でも|蠅《はえ》がいるほど陽あたりのよい立場茶屋が、山ふところの|田《たん》|圃《ぼ》へ向って、牛のわらじや、駄菓子などをひさいでいる。城太郎は、そこの前に立ってお通を待っていた。
お通が、
「武蔵様は」
と、訊ねながら、立場茶屋の前にがやがや群れている人々のほうを、じっと見ると、
「いないンだよ」
と、城太郎は、気抜けしたようにいい放って、
「どうしたんだろ?」
「え……」
お通は、信じないように、
「そんなこと、ないでしょう」
「だって、どこにも、いないもの。――立場茶屋の人に聞いても、そんなお侍は見かけないというし……きっとなにかの間違いだよ」
と城太郎は、そう落胆もしない顔つきなのである。
独りぎめに、思い過ごした|歓《よろこ》びにはちがいないが、そう無造作に片づけられると、
お通は、
(何ていう子だろう)
と、城太郎の平気でいるのが、憎らしくなってくる。
「もっと|彼方《あ っ ち》へ行ってみましたか」
「見たよ」
「そこの|庚《こう》|申《しん》|塚《づか》の裏は」
「いない」
「立場茶屋の裏は」
「いないッてば」
城太郎が、うるさくなったようにそういうと、お通は、ふいと顔を横に向けてしまった。
「お通さん、泣いているね」
「……知らない」
「ずいぶん|理《わけ》のわからない人だなあ、お通さんはもっと賢い人かと思ったら、まるで|嬰《あか》ンぼみたいなところもあるぜ。最初から、嘘だかほんとだか、|的《あて》にはならないことだったんだろ。それを、独りで決めこんで、武蔵様がいないからって、ベソを掻いているなんて、どうかしてらあ」
一片の同情も持たないように、城太郎はかえってゲラゲラ笑うのだった。
お通は、そこへ坐ってしまいたくなった。急に世の中のすべてのものに光がなくなって、元のような――いや今までにない|滅《めっ》|失《しつ》に心が|囚《とら》われた。笑っている城太郎の味噌ッ歯が、憎く見えて、腹が立って、こんな子をなんで自分が連れてあるいているのか、捨てられるものなら捨てて、たった独りぼっちで、泣いて歩いていたほうが遥かにまし[#「まし」に傍点]だと思ったりする。
考えてみると、同じ武蔵という人を捜している身の上であっても、城太郎のは、ただ師匠として慕っているのだし、彼女の求めているのは、生涯の生命として、武蔵をさがしているのである。そしてまた、こんな場合に際しても、城太郎はいつでもケロリとして、すぐ快活にかえってしまうし、お通はその反対に幾日も次の力を失ってしまう、それは、城太郎少年の心のどこかに、なアに、そのうちにきっとどこかで行き会えるにきまっていることだからという定義が据わっているからであって、お通には、そう楽天的に末を見とおしていられないのである。
(もう生涯、このまま、あの人とは、会うことも話すことも、出来ない運命なのではないかしら?)
と、悪いほうへも、やはり思い過ぎをしてしまう。
恋は相思を求めていながら、恋をする者はまた、ひどく孤独を愛したがる。それでなくても、お通には、生れながらの孤児性がある。他へ対して、他人を感じることに、どうしても人よりは鋭敏だった。
すこし|拗《す》ねて、怒ったふりを見せて、黙って先へぐんぐん歩き出して行くと、
「お通さん」
と、後ろで呼ぶ者があった。
城太郎が呼んだのではない。|庚《こう》|申《しん》|塚《づか》の碑の裏から、枯れ草を踏みわけて来る人の大小の|鞘《さや》が濡れて見えた。
十二
それは|柘植《つげ》|三之丞《さんのじょう》であった。
さっき、あのまま坂の上へ登って行ったものとのみ思っていたのにふいに――また、往来でもないところから出て来たのである。お通にも城太郎にも、不思議な行動に見えた。
それに馴々しく、お通さんなどと呼びかけるのも、変な男だ。城太郎は、すぐ突っかかって、
「おじさん、嘘いったね」
「なぜ」
「武蔵様がこの坂下で、刀をさげて待っているなんていって、どこに武蔵様がいるかい、嘘じゃないか」
「ばか」
三之丞は、叱って、
「その嘘のために、おまえの連れのお通さんは、あの三名から|遁《のが》れたのではないか。理窟をこねる奴がどこにある、またおれに対しても、一|言《ごん》、礼ぐらいは申すのがほんとうではないか」
「じゃあ、あれは、おじさんがあの三人を計略に乗せるためにいったでたらめかい」
「知れたこと」
「なアんだ、だからおらもいわないことじゃないのに――」
と、お通へ向って、
「やっぱり、でたらめだとさ」
聞いてみれば城太郎へわがままに怒ったのはいいとしても、あかの他人の|柘植《つげ》三之丞へ怨み顔する理由は毛頭ないので、お通は幾重にも膝を折って、助けてもらった好意を感謝した。
三之丞は、満足のていで、
「野洲川の野武士といえば、あれでもこの頃は、ずいぶんおとなしくなった方だ。あれに狙われては、この山街道から無難に出ることは恐らくできまい。――だが、最前この小僧から話をきけば、おまえたちの案じている宮本武蔵という者、心得のある者らしいから、むざむざその網にかかるようなドジも踏むまい」
「この街道のほかに、まだ|江州路《ごうしゅうじ》へ出る道が、幾すじもありましょうか」
「あるとも」
三之丞は、真昼の空に澄んでいる冬山の嶺を仰ぎまわして、
「伊賀谷へ出れば、伊賀の上野から来る道へ。――また|安《あ》|濃《の》|谷《だに》へ行けば、桑名や四日市から来る道へ。――|杣《そま》|道《みち》や間道が、三つぐらいあるだろう。わしの考えでいえば、その宮本武蔵とかいう男は、|逸《いち》はやく、道をかえて危難を脱していると思うが」
「それならば、安心でございますが」
「むしろ、あぶないのは、おまえ達二人のほうだ。折角、山犬の群れから救ってやったのに、この街道を、ぶらぶら歩いていれば、いやでも野洲川ですぐまた捕まってしまう。――すこし道は|嶮《けわ》しいがおれについて来るがいい、誰も知らぬ抜け道を案内してやろう」
三之丞は、それから甲賀村の|上《かみ》を通して、大津の瀬戸へ出る|馬門峠《まかどとうげ》の途中まで一緒に来て、つぶさに道を教え、
「ここまで来れば、もう安心なものだ。夜は早目に泊って、気をつけて行くがいい」
と、いった。
かさねて、礼をのべて、別れようとすると、
「お通さん、別れるのだぜ」
三之丞は、意味ありげに、改めて彼女をじっと見た。そして、やや怨み顔に、
「ここまで来る間に、今に訊いてくれるか、今に訊いてくれるかと思っていたが、とうとう、訊いてくれないな」
「なにをですか」
「おれの姓名を」
「でも、|柑《こう》|子《じ》坂で聞いておりましたもの」
「おぼえているか」
「渡辺半蔵様の|甥《おい》、|柘植《つげ》三之丞さま」
「ありがたい。恩着せがましくいうのじゃないが、いつまでも、覚えていてくれるだろうな」
「ええ、ご恩は」
「そんなことじゃない、おれがまだ独り者だということをさ。……伯父の半蔵がやかまし屋でなければ、邸へ連れて行きたいところだが……まあいい、小さな|旅籠《は た ご》がある、そこの主人も、おれのことはよく知っているから、おれの名を告げて泊るといい。……じゃあ、おさらば」
十三
先の好意はわかるし、親切な人とも思いながら、その親切に少しも|欣《よろこ》べないばかりか、親切を示されれば示されるほど、かえって|厭《いと》わしくなる人間というものはよくある。
柘植三之丞に対するお通の気もちがそれだった。
(底のわからない人)
という最初の印象が|妨《さまた》げるせいか、わかれに臨んでも、狼から離れたように、ほっとはしたが、心から礼をいう気にもなれない。
かなり人みしり[#「人みしり」に傍点]をしない城太郎さえが、その三之丞とわかれて峠を隔てると、
「いやな奴だね」
と、いった。
きょうの難儀を救われたてまえにも、そういう蔭口はいえない義理であったけれど、お通もつい、
「ほんとにね」
と|頷《うなず》いてしまい、
「いったいなんの意味なんでしょう、おれはまだ独り者だということを覚えていてくれなんて……」
「きっと、お通さんを今に、お嫁にもらいに行くよという謎なんだろ」
「オオいやだ」
それからの二人の旅は至って無事だった。ただ恨みは、|近江《お う み》の湖畔へ出ても、瀬田の唐橋を渡っても、また|逢《おう》|坂《さか》の関を越えても、とうとう武蔵の消息はわからないでしまったことである。
|年暮《くれ》の京都にはもう門松が立っていた。
待つ春の|町《まち》|飾《かざ》りを見ると、お通は先に|逸《いっ》した機会をかなしむよりも、次の機会に|希望《の ぞ み》をもった。
五条橋のたもと。
一月一日の朝。
もし、その朝でなければ、二日――三日――四日と|七種《ななくさ》までの朝ごとに。
あの人は必ずそこへ来ているというのである。城太郎からお通はそれを聞いている。ただ、それは武蔵が自分を待ってくれるためでないだけがさびしいといえばさびしい。しかし、なんであろうと、武蔵に会えることだけで、自分の希望は八分も九分も遂げられるようにお通は思うのだった。
(だけど、もしやそこへ?)
ふと彼女は、また、その希望を暗くするものに襲われた。本位田又八の影である。武蔵が、元日の朝から七日のあいだ、朝な朝なそこへ来ていようというのは、本位田又八を待つためなのだ。
城太郎に訊けば、その約束は、朱実に|言伝《こ と づ》けしてあるだけで、当人の、又八の耳には、入っているかいないかわからないという。
(どうか、又八が来ないで、武蔵様だけがいてくれればよいが――)
お通は、祈らずにいられなかった。そんなことばかり考えながら、|蹴《け》|上《あげ》から三条口の目まぐるしい年の瀬の|雑《ざっ》|鬧《とう》へ入ってゆくと、ふとそこらに、又八が歩いていそうな気がする。武蔵も歩いていそうな気がする。彼女にとっては誰よりも|怖《こわ》い気のする又八の母のお杉隠居も、うしろから来はしまいかなどと思う。
なんの屈託もないのは城太郎で、久しぶりに戻って見る都会の色や騒音が、無性に彼をはしゃ[#「はしゃ」に傍点]がせてしまい、
「もう泊るの?」
「いえ、まだ」
「こんなに明るいうちから|旅宿《やど》|屋《や》へついてもつまらないから、もっと歩こうよ。あっちへ行くと、市が立っているらしいよ」
「市よりも、大事な御用が先じゃありませんか」
「御用って、何の御用」
「城太さんは、伊勢から自分の背中につけて来たものを忘れたんですか」
「あ、これか」
「とにかく、烏丸光広様のお|館《やかた》へうかがって荒木田様からおあずかりの品をお届けしてしまわないうちは、身軽にはなれません」
「じゃあ今夜は、そこの家で泊ってもいいね」
「とんでもない――」
お通は、加茂川を見やりながら、笑った。
「やんごとない大納言様のお館、どうして|虱《しらみ》たかりの城太さんなんど、泊めてくれるもんですか」
冬の蝶
預かり中の病人が、寝床を|藻《も》|抜《ぬ》けの|空《から》にして、紛失したとあっては、これは責任上、かなり驚いていい事件である。
けれど、住吉の浜の|旅籠《は た ご》では、病人が病気を作った原因をうすうす知っていたし、無断で出て行った病人も二度と、海へ駈け込む|惧《おそ》れはないものとして、ただ一片の知らせを、京都の吉岡清十郎へ飛脚で出しておいたまま、追手のなんのと、いらざる苦労はしなかった。
――さて、そこで。
|朱《あけ》|実《み》は、籠から|蒼《あお》|空《ぞら》へ出た|小禽《こ と り》のような自由を持ったが、なんといっても、いちど海で仮死の状態になった体である。そうぴちぴち飛んでも行けないし、殊には、憎い男性のために、|処女《お と め》のほこりに消えようもない|烙《やき》|印《いん》を与えられた|傷手《い た で》と――それに|伴《ともの》うて起るさまざまな精神的また生理上の動揺というものは、そう三日や四日で、|易《やす》|々《やす》と|癒《い》えるものではない。
「くやしい……」
朱実は、三十|石《こく》|船《ぶね》のうちでも、|淀《よど》|川《がわ》の水をみな自分の涙としても足らないほど嘆いた。
その口惜しいはまた、単なる口惜しいではない。――この身体のうちに、べつな男性を恋しているがために――その人との永久の|希望《の ぞ み》を、あの清十郎の暴力のために破壊されたと思うがために、――さらに複雑だった。
淀のながれには、門松の輪飾りや、|初春《はる》のものを乗せた小舟が|忙《せわ》しげに|棹《さお》さしていた。それを見ると、朱実は、
「……武蔵様に会っても?」
と、惑いの下から、ポロポロとなみだがこぼれてくる。
五条大橋のたもとに、武蔵が来て、本位田又八を待つという正月の朝を、朱実は、どんなに心待ちだったか知れないのである。
――あの人は何だか好きだ。
こう思い|初《そ》めてから、朱実は、都会のどんな男性を見ても、心をうごかしたことはない。殊にいつも、|養母《はは》のお甲と|戯《たわむ》れていた又八と思い較べていただけに、思慕の糸が、この年月まで、切れもせずに胸につながって来た。
思慕というものを、糸にたとえれば、恋はだんだんそれを胸のうちで巻いてゆく|鞠《まり》のようなものだ。何年も会わないでいても、独りで思慕の糸をつくり、遠い思い出も、近い人づての消息も、みな糸にして、鞠を巻いて大きくしてゆく。
朱実も、きのうまでは、そういう|処女《お と め》らしい情操では、伊吹山の下にいた頃から、可憐な野百合のにおいを持っていた。――だが今はもうそれも心のうちで、|微《み》|塵《じん》に砕けている気がするのだった。
誰も知るはずのないことであるのに、世間の眼がみな自分に対して変った気がしてならない。
「おい、|娘《ねえ》や、娘や」
こう誰かに呼ばれて、朱実は、たそがれかかる五条に近い寺町を冬の蝶のように、寒々と歩いている自分の影と、辺りの枯れ柳や塔を見出した。
「帯かい、|紐《ひも》かい、なんだか解けて引き|摺《ず》って歩いているじゃあねえか。結んでやろうか」
ひどく下等なことばをつかうが、身なりは痩せても枯れても、二本差している|牢《ろう》|人《にん》で、朱実は初めて見る男にちがいないが、盛り場や冬日の裏町を、何の用もなくよくぶらついている赤壁|八《や》|十《そ》|馬《ま》と名乗る人間。
すり切れたわら草履をばたつかせて、朱実のうしろへ寄って来た、そして地に曳き|摺《ず》っていた彼女の帯紐の端をひろって、
「まさか|娘《ねえ》やは、|謡曲《う た い》狂言によく出てくる狂女じゃあるめえ。……人が笑うわな。……|美《い》い顔をしているのに、髪だって、もすこしどうかして歩いたらどうだい」
うるさいと思うのであろう。|朱《あけ》|実《み》は耳がないような顔をして歩いてゆく。それを赤壁八十馬は、単に、若い女のはにかみと呑みこんで、
「|娘《ねえ》やは、都ものらしいが、家出でもしたのか? それとも、主人の家でも飛び出して来たのか」
「…………」
「気をつけなよ。おめえみたいな|容貌《きりょう》よしが、そんな……誰が見たって、|事情《わけ》のありそうな、ぼんやり顔でうろうろ歩いていてみな、今の都には、|羅生門《らしょうもん》や|大《おお》|江《え》|山《やま》はないが、そのかわり、女とみたらすぐ|喉《のど》を鳴らす野武士がいる、浮浪人がいる、|人《ひと》|買《かい》がいるぜ……」
「…………」
ふんとも、すんとも、朱実は答えないのに八十馬は独りで|喋《しゃべ》って|尾《つ》いて行きながら、
「まったく」
と、返辞まで自分でして、
「この頃、江戸の方へ盛んに京女がいい値で売られてゆくそうだ。むかし|奥州《みちのく》の平泉に藤原三代の都が開かれた頃には、やはり京女がたくさんに奥州へ売られて行ったものだが、今ではそのはけ口が江戸表になっている。徳川の二代将軍秀忠が、江戸の開府に、今一生懸命のところだからな。――だから京女がぞくぞく江戸へ売られて、|角町《すみちょう》だの、伏見町だの、境町だの、住吉町だのと、こっちの色街の出店が二百里も先にできてしまった」
「…………」
「|娘《ねえ》さんなぞは、誰にでもすぐ目につくから、そんなほうへ売り飛ばされないように、また変な野武士などに引ッかからねえようにずいぶん気をつけないと物騒だぜ」
「……|叱《し》っ!」
朱実はふいに、犬でも追うように、|袂《たもと》を肩へ振り上げて、後ろを|睨《ね》めつけた。
「――叱っ、叱っ」
げらげらと八十馬は笑って、
「おや、こいつあ、ほんとのキ|印《じるし》だな」
「うるさい」
「……そうでもねえのか」
「お馬鹿」
「なんだと」
「おまえこそ気狂いだ」
「ハハハハ、これやあいよいよ間違いなしのキ印だ。かあいそうに」
「大きなお世話だよ」
つんとして――
「石をぶっつけるよ」
「おいおい」
八十馬は離れない。
「|娘《ねえ》や、待ちな」
「知らない、犬っ、犬っ」
実は|朱《あけ》|実《み》は恐かったのである。そう|罵《ののし》ると、彼の手を払って、|驀《ま》っしぐらに走ってしまった。そのむかし|燈《とう》|籠《ろう》の|大臣《お と ど》といわれた小松殿の|館《やかた》があった跡だという|萱《かや》|原《はら》を、彼女は、泳ぐように逃げてゆく。
「おういっ、娘や」
八十馬は、猟犬のように、萱の波を躍って追う。
裂けたる鬼女の口に似ている夕月が、ちょうど鳥部ノ山の辺りに見える。折から|生《あい》|憎《にく》、陽も落ちかけて、この辺りは人も通らない。もっとも、そこから二町ほど|彼方《か な た》を、|一《ひと》|群《む》れの人間が、とぼとぼ山の方から降りて来るのはあったが、朱実の悲鳴を聞いても、こっちへ救いに駈けつけて来ようとはしなかった。――なぜならばその人々は皆、白い|裃《かみしも》を着、白い緒の編笠をかぶり、手に|数《じゅ》|珠《ず》を持って、まだ野辺の送りをすまして来た涙が|干《かわ》かないでいる人たちであったから。
背なかを、どんと、突きとばされたのだ。朱実は勢いよく、萱の中へ|仆《たお》れてしまう。
「あっ、御免御免」
ふざけた男もある。自分で突きとばしておいて、|八《や》|十《そ》|馬《ま》はこう謝りながら、朱実の体へのしかかり、
「痛かったろ」
と、抱きすくめた。
その|髯《ひげ》づらを、朱実は、くやしまぎれに平手で打った。ピシャピシャと二つも三つも打った。けれど八十馬は平気なものなのだ。かえって、この男はそれを歓ぶかのように、眼をほそめて打たれているのだから始末にこまる。
従って、彼女を抱きしめている手は離しッこない。|執《しつ》|拗《よう》に、頬をこすりつけてくる。それが無数の針のように痛くて、朱実は顔を苦しめられた。
――息ができない。
朱実は、ただ爪を立てる。
その指の爪が、争ううちに、赤壁八十馬の鼻の穴を掻きむしった。鼻は|獅子頭《ししがしら》のそれみたいに朱に染まる。けれど八十馬は手を離さない。
鳥部ノ山の|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》|堂《どう》から、夕闇の鐘は諸行無常と告げわたっている。けれど、こうすさまじく生き過ぎている人間の耳には、|色《しき》|即《そく》|是《ぜ》|空《くう》の|梵《ぼん》|音《おん》も、馬の耳に念仏というものである。|男女《ふ た り》を埋めている|枯《か》れ|萱《がや》の穂は、大きな波をゆり立てるばかりだった。
「おとなしくしな」
「…………」
「なにも、|恐《こわ》いことはないさ」
「…………」
「おれの女房にしてやろう。――いやじゃあるまい」
「……死にたいッ!」
さけんだ朱実の声の余りにも悲痛で強かったので、
「えっ?」
八十馬は、思わずいった。
「……どうして、どうして」
手と膝と胸とで、朱実は体を|山茶花《さざんか》の|蕾《つぼみ》みたいに固くむすんでいた。八十馬はどうかしてこの筋肉の抵抗をことばで|解《ほぐ》させようとするのだった。この男はまた、こういうことに幾たびか経験をもっているらしい上に、こういう時間のあいだをも楽しむことにしているらしい。凄い|面《つら》がまえにも似もやらず、捕まえた|餌《え》|物《もの》をむしろ|嬲《なぶ》るかのように気が長いのである。
「――泣くことはないじゃないか。何も、泣くことは」
そんなことを、耳へ|唇《くち》をつけていってみたり、
「|娘《ねえ》やは、男を知らないのか、嘘だろう、もうおめえぐらいな年頃で……」
朱実は、いつぞやの吉岡清十郎を思いだした。その時の苦しかった呼吸が考え出された。でも、あの時とは比較にならないほど、心のどこかに落着いたものがある。……あの時のせつなこそは、部屋のまわりの障子の|桟《さん》も見えない心地がしたほどだったが――。
「待ってくださいッてば!」
|蝸牛《かたつむり》のようになったまま、朱実はいった。なんの意もなくいったのである。病後の体が火みたいだった。その熱すら、八十馬は病気の熱とは思っていない。
「待ってくれって? ……よしよし、待ってやるとも。……だが、逃げるとこんどは手荒になるぜ」
「――ちいッ」
肩をつよく振って、八十馬の執拗な手をふり|退《の》けた。やっと少し離れた彼の顔を、|睨《ね》めつけながら起ち上がって、
「――何するんですっ」
「わかってるじゃねえか」
「女と思って、ばかにすると、わたしにだって、女のたましいというものがあるんだから……」
草の葉で切れた唇に血がにじんでいた。その唇を噛みしめると、ほろほろと涙がながれ、血といっしょに白い|頤《あご》をこぼれた。
「ほ……おつなことをいうな。こいつはまんざらキ印でもねえとみえる」
「あたりまえさ!」
ふいに相手の胸いたを突くと、朱実は、そこを|転《まろ》び出して、見えるかぎり夕月にそよぐ|萱《かや》の波へ、
「人殺しっ、人殺しイっ……」
その時の精神状態からいえば、朱実より八十馬のほうが、一時的ではあるが、完全な|狂人《きちがい》であった。
|昂《たか》ぶりきった彼は、もう、技巧をこらしてなどいられない。人間の皮をかなぐりすてて、情痴の|獣《けもの》になりきってしまう。
――たすけてえっ!
青い宵月の光を、十間とは走らないまに、朱実は獣に噛みつかれた。
白い|脛《はぎ》が、無残にも闘い仆れ、自分の黒髪を自分の顔へ巻きつけて、朱実は頬を大地へこすった。
春が近いといっても、まだ|花頂山《かちょうざん》から落ちてくる風は、|蕭々《しょうしょう》と、この野を霜にするかと思われた。悲鳴に|喘《あえ》ぎたてる真白な胸が、乳ぶさが、|露《あら》わに冬風に|曝《さら》され、八十馬の眼を、さながら炎の窓にしてしまう。
するとその耳の辺りを、何者か突然、ごつんとおそろしく堅い物で|撲《なぐ》った。
八十馬の血液は、そのため、一時五体の|循環《じゅんかん》を休止して、打撃をうけた箇所へ集まり、神経の火がそこから噴いたように、
「――ア|痛《つ》!」
とさけんだ。
さけびながらまた、後ろを向いたのもこの男の戸惑いである。その真っ向へまた、
「この馬鹿者っ」
ぴゅっ――と空気に鳴りながら、節のある尺八が、脳天を打ち下ろした。
これは痛くなかったろう、痛いと感じる間がなかったからである。八十馬は、へなへなと肩も眼じりも下げてしまい、|張《はり》|子《こ》の虎のように首を左右へぶるると振って後ろへ引っくりかえってしまった。
「他愛ないものだ」
尺八を手にぶら下げながら、|撲《なぐ》った方の虚無僧は、八十馬の顔をのぞきこんでいる。――ぽかんと口を大きく|開《あ》いて気絶しているのだ。打ったのが二度とも脳であったから、気がついてもこの男は|痴呆性《ちほうしょう》になるのではないかと考え、ひと思いに殺したよりも罪な|業《わざ》をしたものだと、つらつら眺め入っている。
「……?」
朱実はまた、その虚無僧の顔を、茫然と見ていた。|唐蜀黍《とうもろこし》の毛をすこし植えたように、鼻の下にうす|髭《ひげ》が生えている、尺八を持っているから虚無僧と人も見ようが、うす汚い着物に、|一《ひと》|腰《こし》の太刀を帯び、乞食か侍か、よく見ないと判断のつかないような五十男である。
「もういい」
青木丹左衛門は、そういって、唇の下へブラ下がっている大きな前歯でわらった。
「――もう安心おし」
朱実は初めて、
「ありがとうございました」
髪のみだれや、着物のみだれを直して、まだ|脅《おび》えている眼が、夜を見まわした。
「どこじゃの、おぬし」
「家ですか。……家はあの……家はあの……」
朱実は、にわかにすすり泣きして、両手で顔を|蔽《おお》ってしまう。
わけを訊かれても、彼女は正直にみな話せなかった。半分は嘘をいい、半分はほんとのことをいい、そしてまたすすり泣いた。
母親がちがうことだの、その母親が自分の体を金に換えようとしたことだの――住吉からここまで逃げて来た途中であるということだの――その程度は打ち明けて、
「わたしもう、死んだって家へ帰らないつもりです。……ずいぶん我慢して来たんですもの。恥をいえば、小さい時には、|戦《いくさ》の後の死骸から、|剥《はぎ》|盗《と》りまでさせられたことがあるんです」
憎い清十郎よりも、さっきの赤壁八十馬より、朱実は、|養母《はは》のお甲が憎くなった。急にその憎さが骨をふるわして来て、また、よよと両手の|裡《うち》で泣くのだった。
心 猿
ちょうど|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》ケ峰の真下にあたるところで、清水寺の鐘も近く聞え、歌ノ中山と鳥部ノ山にかこまれて、ここの小さい谷間は静かでもあり、またから[#「から」に傍点]風の当たる寒さもよほどちがう。
その小松谷まで来ると、
「――ここじゃよ、わしの|仮《かり》|住居《ず ま い》は、なんと|暢《のん》|気《き》なものだろうが」
青木丹左は、連れて来た|朱《あけ》|実《み》をふり|顧《かえ》って、うす|髭《ひげ》の生えている上唇を|剥《む》いて、にやりと笑う。
「ここですか」
失礼とは思いながら、朱実はつい問い返した。
ひどく荒れている一宇の阿弥陀堂なのである。これが|住居《す ま い》というならば、この附近には、堂塔|伽《が》|藍《らん》の空家がずいぶん少なくない。この辺から黒谷や|吉《よし》|水《みず》のあたりは、念仏門発祥の地であるので、祖師|親《しん》|鸞《らん》の遺跡が多いし、念仏行者の法然房が|讃岐《さ ぬ き》へ流されるその前夜は、たしかこの小松谷の御堂とやらにあって、随身の諸弟子や|帰《き》|依《え》の|公《く》|卿《げ》や|善《ぜん》|男《なん》|女《にょ》たちと、わかれの涙をしぼられたものである。
それは承元の昔の春だったが、今夜は、散る花もない冬の末、
「……おはいり」
丹左は先へ御堂の縁へ上がって、|格《こう》|子《し》|扉《ど》を押しあけ、そこから手招きをしたが朱実はためらって、彼の好意に従ったものか、ほかへ行って独りで寝場所をさがしたものか、迷っている様子に見える。
「この中は、思いのほか暖かいのだ。|藁《わら》ござ[#「ござ」に傍点]だが、敷物もあるしな……。それとも、このわしまで、さっきの悪者のように、恐い人間と、疑っているのか」
「…………」
朱実は顔を横に振った。
青木丹左が人のよい人間らしいことには、彼女も安心しているのである。それに年配も五十を越えているし――。だが、彼女がためらっているのは、彼の住居と称するお堂の汚なさと、彼の衣服や皮膚の|垢《あか》からにおう不潔さであった。
――だが、ほかに泊るところのあてはないし、また、赤壁八十馬にでも見つかればこんどはどんな目にあうか知れないし――それになお朱実は、身体が熱ッぽくて、|気懶《け だ る》くって、はやく横にでもなりたい気がしきりとするので、
「……いいんですか」
階段から上がりかけると、
「いいとも、幾十日住んでいようが、ここなら、誰も怒って来はせんのじゃ」
中は真っ暗である。|蝙蝠《こうもり》でも飛びだして来はしまいかしらと思われるほど暗い。
「お待ち」
丹左は隅で、火打ち石をカチカチ|磨《す》ッているのだ。どこで拾って来たか、|短《たん》|檠《けい》に|灯《あか》りがつく。
見れば、鍋、瀬戸物、木枕、|筵《むしろ》など、ひと通りのものは拾い集められてある。湯を沸かして、これから|蕎麦《そば》|掻《が》きを馳走してやろうといい、七輪の欠けたようなものへ|木炭《すみ》をつぎ、|付火木《つ け ぎ》をくべ、火だねを作ってフウフウと火を吹きはじめる。
(親切な人)
すこし落着いてくると、朱実は、不潔も気にならなくなり、彼の生活に、彼と同じ気安さが持てて来るのだった。
「そうそう熱があって、身体がだるいといっていたの、おおかた|風邪《かぜ》だろう。|蕎麦《そば》|掻《が》きのできる間、そこに寝ていさっしゃれ」
むしろだの、米俵だので、隅へ寝どこができている。朱実はそこにある木枕へ、自分の持っている紙を当てて、すぐ横になった。
上からかぶる|衾《ふすま》のかわりに、それへ備えてあるのは、これもどこかで拾って来たものらしい、破れた|紙《かみ》|衣《こ》|蚊帳《がや》。
「じゃあ、お先に」
「さあ、さあ、なにも心配しないがいいぞよ」
「……すみません」
と、手をつかえる。そして、渋紙の|蒲《ふ》|団《とん》を引き|被《かつ》ごうとすると、その下から、なにか電光のような眼をした生き物が飛びだし、自分の頭を越えたので、彼女は、きゃっといって|俯《うつ》|伏《ぷ》した。
だが、驚いたのは、|朱《あけ》|実《み》よりは、むしろ青木丹左のほうで、鍋へ|空《あ》けかけていた|蕎麦《そば》|粉《こ》の袋を取り落して、
「アッ、なんじゃっ?」
膝をまっ白にしてしまった。
朱実は打ち伏したまま、
「なにか――なんだか知れませんが、鼠より、もっと大きな|獣《けもの》が、隅から飛び出して……」
いうと、丹左は、
「|栗鼠《りす》じゃろ」
と見廻して、
「栗鼠のやつめが、よう食い物を|嗅《か》いで来おるでな。……だが、どこにも、何もいはせぬが?」
朱実は、そうっと顔をあげ、
「あれっ、そこに」
「どこに」
浮き腰を|巡《めぐ》らして丹左がふとうしろを見ると、なるほど一匹の動物が、仏具も本尊仏もない内陣の|欄《らん》のうちに、ちょこなん[#「ちょこなん」に傍点]と乗って、丹左の眼が向くと、びくとしたように尻をすくめる。
|栗鼠《りす》ではない、小猿なのだ。
「……?」
丹左が不審顔すると、小猿は、この人間くみしやすしと見てとったか、内陣の朱の|欄《らん》をするすると二、三度往復をしてからまた、元のところへ坐って、毛の生えた桃に似ている|面《つら》がまえをケロリと上げ、パチパチ|眼《ま》ばたきをしながら何か物でもいいたげな|風《ふ》|情《ぜい》。
「こいつ……どこから入って来たのじゃろう。……ははあ、だいぶ飯つぶがこぼれていると思うたら、さては」
さては、ということばが、わかるように、小猿は彼が近づく先に逃げ出して、内陣の|裡《うち》へぴょんと隠れてしまう。
「……はははは、とんだ愛嬌者じゃわ、たべ物でもくれてやれば、|悪戯《わ る さ》はすまい。|放《ほ》っとこう」
膝の白い粉をはたいて、鍋のまえに坐り直しながら、
「|朱《あけ》|実《み》、なにも怖いことはない。――おやすみ」
「だいじょうぶでしょうか」
「山猿ではない、どこかの飼猿が逃げて来たのじゃろ、なに心配があるものか。――夜具はそれで寒くはないか」
「……いいえ」
「寝たがよい、寝たがよい、|風邪《かぜ》は静かに寝ていさえすれば、なおる」
鍋へ、粉を入れ、水を入れ、そしてぐるぐる箸の先で掻きまわす。
欠け七輪に、炭火はかっかっとおこっている。鍋をかけておいて、その間に、丹左は|葱《ねぎ》を|刻《きざ》みはじめた。
まな板は、この御堂にあった古机、|庖丁《ほうちょう》は|小《こ》|柄《づか》の|錆《さ》びたものらしい。刻んだ葱は、手も洗わずに木皿へうつし、その後を拭けばそのまま、次には膳にかわるのである。
クツクツと鍋の湯の|沸《たぎ》る音が、だんだんこの中を暖めて来た。枯れ木のような膝をかかえ込み、丹左の飢えた眼が、湯の泡を見ていた。人間の至楽はこの鍋の中に尽きるといわないばかりに、その煮えるのが楽しみらしく見える。
いつもの晩のように、清水寺のほうで鐘が聞える。もう寒行はすんで初春もちかいが、師走が押しつまると、人の心の|患《わずら》いが多いとみえ、夜もすがら|鰐《わに》|口《ぐち》をふる音だの、お|籠《こも》りをする者の詠歌のあわれな声が絶えない。
(……わしは、わし自身の|科《とが》をうけ、こうして、|罪障《ざいしょう》の|償《つぐな》いをしているようなものだが、城太郎はどうしているかなあ? ……。子にはなんの|科《とが》もないはず、親の罪は親にこそ|酬《むく》え、|南《な》|無《む》かんぜおん|菩《ぼ》|薩《さつ》、城太郎のうえに大慈の|御眸《みひとみ》ありたまえ)
――蕎麦掻きを焦げつかないように、そっと箸で浮かしながら、親と名のつく者の弱い心の底から祈りをこめていると、
「――嫌あッ!」
突然、寝ている朱実が|縊《し》め殺されでもするようにさけんで、
「ち、ち、ちくしょう……」
見れば、寝息のうちに眼をふさいでいながら、木枕に顔押しつけて、さめざめと泣いているのであった。
自分のうわ|言《ごと》に、朱実は、眼をさまして、
「おじさん、わたしいま、寝ているうちに何かいいましたか」
「びっくりしたわさ」
丹左は、枕元へ寄って来て、彼女の|額《ひたい》を拭いてやりながら、
「熱のあるせいじゃろう、ひどい汗だ……」
「何を……いったでしょう」
「いろいろ」
「いろいろって?」
朱実は熱ッぽい顔をよけいに|赧《あか》らめて恥じるように、紙|蚊帳《がや》の|衾《ふすま》を、その顔へかぶった。
「……朱実、おまえは、心で|呪《のろ》っている男があるのじゃな」
「そんなこと、いいまして」
「ウム。……どうしたのだ、男に捨てられたのか」
「いいえ」
「だまされたのか」
「いいえ」
「わかった」
丹左が独り合点すると、朱実は急に身を起して、
「おじさん、わ、わたし……どうしたらいいんでしょう」
人には話すまいと思って独り悩んでいた住吉での恥かしいことを、朱実のからだ中の怒りと悲しみは、どうしても、彼女の口からそれをいわせずにおかないのである。突然、丹左の膝にすがりつくと、まだうわ[#「うわ」に傍点]言の続きのように、|嗚《お》|咽《えつ》しながらあのことを|喋《しゃべ》ってしまった。
「……ふ、ム……」
丹左は熱い息を鼻の穴から洩らした。絶えてひさしい女性のにおいというものが、彼の鼻にも眼にも沁みる。このごろは、人間の|灰汁《あく》というものが抜けきって、寒巌枯木にひとしい余生の肉体とばかり自分でも思っていた官能に、急に、熱い血でも注ぎこまれたような|膨《ふく》らみを覚え、自分の|肋骨《あ ば ら》の下にも、肺と心臓がまだ生きていることをめずらしく思いだした。
「……ふーむ、吉岡清十郎というのは、そのような|怪《け》しからぬことをする奴かの」
問い返しながら、丹左も心のうちで、清十郎という人間を憎んでもあきたらぬ人間のように憎んだ。けれど、丹左の老いたる血を、それほど興奮させているものは義憤ばかりではなかった。ふしぎな嫉妬心のはたらきが、あたかも自分の娘が|冒《おか》されでもしたかのように、彼の肩を怒らせるのだった。
朱実にはそれが、たのもしき人にみえ、この人ならもう何をいっても安心と思いこんで、
「おじさん、……わたし、死んでしまいたい、死んでしまいたい」
彼の膝へ、泣き顔を当ててもがくと、丹左は、あらぬ心地に、すこし当惑顔にさえなって、
「泣くな、泣くな、おまえが心からゆるしたわけではないから、おまえの心までは決して、けがされておりはせぬ。女性のいのちは、肉体よりは、心のものじゃろう。さすれば、貞操とは、心のことだ。体をまかせないまでも、心でほかの男を想うとすれば、その瞬間だけでも、女のみさおは|穢《けが》らわしく|汚《けが》れたものになっている」
朱実には、そんな観念的な気やすめに安心はしていられないらしく、丹左の|衣《ころも》を|透《とお》すほど熱い涙をながしぬいて、なお、
(死にたい、死にたい)
をいいつづける。
「これ、泣くな、泣くな……」
丹左は、その背なかを撫でてやっていた。だが、白い|頸《うなじ》のおののきを、同情しては見られなかった。このきめ[#「きめ」に傍点]のいい肌の香も、もう他の男性に盗まれた後のものかとつい思うのだった。
さっきの小猿が、鍋の近くへいつのまにか来て、なにか食べ物をくわえて逃げた。その物音に、丹左は、朱実の顔を膝から落して、
「こいつめ!」
と、|拳《こぶし》を振りあげた。
丹左にはやはり、食べ物の方が、女の涙よりは、重大に心を打つらしい。
夜が明けた。
朝になると、丹左は、
「町へ|托《たく》|鉢《はつ》に行って来るでの、留守をたのむぞよ。――帰りには、そちの薬、暖かい食べもの、それから、油や米なども求めて来ねばならぬでな」
|雑《ぞう》|巾《きん》のような|袈《け》|裟《さ》をかけ、尺八と笠をかかえて、|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》堂から出て行った。
笠は、|天《てん》|蓋《がい》ではない、当りまえの竹の子笠である、尻切れ草履をびたびた|摺《す》って、雨さえ降らなければ、町へ|行乞《ぎょうこつ》に出かけるのだった。|案山子《か が し》が歩いているように、鼻下の|髭《ひげ》までがみすぼらしい。
殊に、今朝の丹左は、しょぼしょぼしていた。ゆうべは一晩じゅう、よく眠れなかったのである、あんなに|悶《もだ》えたり泣き悲しんでいた朱実のほうは、暖かい|蕎麦《そば》|湯《ゆ》をすすると、一汗かいて、深々と眠りに落ちてしまったが、丹左のほうは、明け方まで、まんじりともしなかった。
その眠れない原因が、今朝もまだ――うらうらと澄んでいる陽の下へ出て来ても――まだ頭のしんに残っていて、とつこうつ、それが心にこだわって離れない。
(ちょうど、お通ぐらいな年ごろだ……)
と、思う。
(お通とは、気だてがまるでちがうが、お通よりは、愛くるしい。お通には、気品があるが、冷たい美だ。朱実のは、泣いても、笑っても、怒っても、みんなそれが|蠱《こ》|惑《わく》になる……)
その蠱惑が強力な光線のように丹左のすがれた細胞をゆうべから活溌に若やがせているのだった。しかし、なんといっても争えないのは|年齢《とし》である。寝返りを打つたびに、朱実の寝すがたを気にしながら、すぐべつな心が、
(あさましや、おれという人間はいったいどうしたものだ。池田家の譜代として、|歴乎《れ っ き》とした家禄のついていた家がらをつぶし、姫路の藩地からこのように流浪三界の|落魄《おちぶれ》の身となり終ったのも、元はといえば、女のためではないか。お通という女に、ふと、今のような煩悩を起したのが|因《もと》ではないか)
そう|誡《いまし》めて、みずから、
(まだ|性懲《しょうこ》りもつかないのか)
と叱ってみたり、また、
(ああ、尺八を持ち、|袈《け》|裟《さ》はかけているが、まだまだ、おれは|普《ふ》|化《け》の澄明な悟道には遠いものだ。露身風体のさとりにはいつなれるのやら?)
|慚《ざん》|愧《き》の眼をつぶって、むりに眠ろうとして明け方にいたったのである。そのつかれが、彼の今朝の影に、よろよろとこびりついていた。
(――そんな邪心は捨てよう。
しかし、愛くるしい娘だ。また|不《ふ》|愍《びん》な|傷手《い た で》を負っている。なぐさめてやろう。世間の男性は、そう色情の鬼ばかりでないことも知らせてやろう。
帰りには、薬と、何を求めて来てやろうか。きょう一日の|行乞《ぎょうこつ》が、朱実のよろこびになると思えば、これは張合いのあることじゃ。――それ以上の慾望はつつしもう)
やっと、心がそこへ落着いて、いくらか顔いろがよくなった時である。彼の歩いていた崖の上で、ばたッと、大きく翼を|搏《う》って、一羽の鷹の影が、陽をかすめた。
「……?」
丹左が、顔を上げると、葉の落ちている|櫟《くぬぎ》ばやしの|梢《こずえ》から、その顔の上へ、灰色の|小禽《こ と り》の毛が、綿を舞わしたように飛んで来た。
鷹は、捕えた小禽を爪にかけて、その時空へ真っすぐに揚がっていた――翼の裏を下へ見せて。
「あっ、|捕《と》ったっ」
と、どこかで、人声がひびき、つづいて、鷹の持主の口笛がながれた。
間もなく、延念寺の裏坂のほうから、ここへ降りて来る狩支度の二人づれが見える。
ひとりは、左の|拳《こぶし》に|放鷹《たか》を据え、獲物を入れる網ぶくろを、大小と反対のほうへ|提《さ》げ、うしろに、|敏《はし》こそうな茶いろの猟犬をつれていた。
四条道場の吉岡清十郎なのである。
もう一名は、清十郎よりずっと若くて、体つきはかえって剛健にできているが、派手やかな若衆小袖に、背なかへは、三尺余の大太刀を斜めに負い、髪は前髪だち――といえばもう、後は説明するまでもなくあの|岸柳《がんりゅう》佐々木小次郎のほかの|何《なん》|人《ぴと》でもない。
「そうだ、この辺だった」
小次郎は、立ちどまって、あたりを眺めまわしながらいう。
「きのうの夕方、わしの小猿めが、その|猟《かり》|犬《いぬ》と争って、尻尾を|咬《か》みつかれ、それに|懲《こ》りたか、この辺で隠れこんだまま、とうとう姿を見せなかったが……どこかそこらの木の上にでもいはせまいか」
「いるものか、猿にも脚がある」
と清十郎は、興のない顔つきで、
「いったい、|放鷹《たか》をつかうのに、猿など連れて歩くという法はない」
と、その辺の石へ腰かける。
小次郎も、木の根にかけて、
「なにも連れて歩くわけではないが、あの小猿めが|尾《つ》いて来るので仕方がない。けれど、なんとなく可愛い奴で、そばにいないと肌さびしいのです」
「猫だの|狆《ちん》だのという動物を愛撫するのは、女子か|閑《ひま》|人《じん》だけだと思うていたら、おん身のような武者修行が、小猿を愛しているところを見ると、一概にいえないものだな」
|毛馬堤《けまづつみ》で、実際に見ている小次郎の剣に対しては、十分、尊敬を払ってはいるが、ほかの趣味とか処世のほうとかにおいては、やはり乳くさい点が多分に見える小次郎だった。やはり|年齢《とし》は年齢だけのものだという半面が、あれから後、たとえ三、四日の間でも一つ|邸《やしき》に住んでみるとよくわかった。
――で、清十郎は、彼に対して、人間的な尊敬は大して払わないかわりに、|交際《つ き あ》いは、かえって仕よい気持がして、この数日ですっかり親しみを加えていた。
「はははは」
小次郎は笑って、
「それは拙者がまだ、幼稚だからですよ、今に女のほうでも覚えれば、猿などは捨てて顧みなくなるでしょう」
といった。
それから小次郎が、|暢《のん》|気《き》な雑談をはじめると、清十郎は反対に、なにか落着かない顔いろが濃くなってゆく。自分の|拳《こぶし》にすえている|放鷹《たか》の眼のように、たえず|焦《いら》|々《いら》するふうが眸の底に光るのである。
「なんだ、あの虚無僧めは。……さっきから、吾々のほうをじっと見て、立ちどまっておる」
ふいに、|咎《とが》めるように清十郎がつぶやくので、小次郎も振り|顧《かえ》って見たのである。清十郎が、うさん臭い眼をやって|睨《ね》めつけたのは、もちろん、その時まで、ぼんやりと|彼方《あ な た》に|佇《たたず》んでいた青木丹左で、丹左はそれと共に、背を向けて、とぼとぼと向うへ歩き出していた。
「岸柳どの」
そういうと、清十郎は何を思いだしたのか、突然、腰をあげていった。
「帰ろう。――どう考えても鷹狩などしている場合でない。きょうはもう|年暮《くれ》の二十九日、帰ろう、道場へ」
しかし小次郎のほうは、その|焦躁《しょうそう》を、また始まったといわないばかり冷笑して、
「折角、鷹をすえて来たのに、まだ山鳩一羽に、つぐみ二、三羽しか|獲《と》っていない。もすこし、山へ登ってみようじゃないか」
「よそう、気のすすまぬ時には、鷹も思うように飛ばぬものだ。……それよりは、道場へもどって、稽古だ、稽古だ」
独り|語《ごと》のようにいい捨てた語尾には、ふだんの清十郎とは違った熱があった。小次郎がいやなら、自分ひとりでも先へ帰りそうな様子であった。
「帰るなら一緒に帰る」
小次郎も、共に歩みだしたが、愉快ではない顔いろだった。
「清十郎どの、むりにおすすめして、悪かったな」
「なにを」
「きのうも、きょうも、鷹狩をすすめてあなたを連れ出したのは、この小次郎ですから」
「いや……ご好意は、よく分っている。……だが|年暮《くれ》ではあるし、貴公にも話した如く、宮本武蔵というものとの大事な試合も、|目睫《もくしょう》のまに近づいている場合ゆえ」
「わたくしは、それゆえに、あなたへ、鷹でも放って、悠々と、気を養うことをおすすめ申したわけだが、あなたのご気質では、それができないとみえる」
「だんだん噂をきくと、武蔵というものは、そう見くびれない敵らしいのじゃ」
「しからば、なおさらこちらは、迫らず、|慌《あわ》てず、心を練っておかねばなりますまい」
「なにも|慌《あわ》てているわけではないが、敵を|侮《あなど》るということは、兵法のもっとも|誡《いまし》めるところだ。試合までに十分、練磨をしておくのは当然じゃと拙者は思う。その上で、万一にも、敗れを取るようなことがあったとすれば、これは、最善を尽しての負けだ、実力の差だ、どうも致し方はないが……」
小次郎は、清十郎の正直さには好意を持てるが、|気《き》|宇《う》の小さなところが同時に見え|透《す》いて、これではとても、吉岡|拳《けん》|法《ぽう》の名声と、あの大きな道場とを、永くうけ継いで行ける器量ではない――と|秘《ひそ》かに気の毒に感じるのだった。
(まだ、弟の伝七郎のほうが、ずっと線が太い)
と、思う。
だが、その弟と来ては、これは手のつけられない|放縦《ほうじゅう》で、腕は兄の清十郎よりも強いそうであるが、家名もへちまもない、いわゆる責任なしの次男坊にでき上っている。
小次郎は、その弟にも紹介はされたが、てんで肌合がぴったりしないし、かえってお互いに最初から妙な反感さえ抱いてしまった。
(この人は、正直だ、だが小心だ、助けてやろう)
こう考えたから小次郎は、わざと、鷹を持ち出して、武蔵との試合などは、念頭から忘れるように、わざと側から仕向けているのに、当の清十郎の身になると、そう悠然とは、構えていられないらしいのである。
――これから帰って大いに練磨するのだという。その真面目さはいいが、いったい、武蔵と会うまでに、これから幾日その練磨ができるのかと、小次郎は、訊きたい気がする。
(しかし、性分だ……)
こういうことは、助太刀にならないことを小次郎は痛感した。――で、黙々と帰り|途《みち》につきかけると、今し方まで足もとにいた茶色の|狩《かり》|犬《いぬ》がいつのまにか見えない。
――わん、わんっ、わんっ。
遠くのほうで|猛《たけ》|々《だけ》しい啼き声がしているのだった。
「ア、なにか獲物を知らせているらしい」
小次郎は、そういって、ひとみを輝かしたが、清十郎は、いらざる犬の働きといわないばかりに、
「捨ててゆこう、捨ててゆけば、後から追いかけて来るだろうから」
「でも……」
惜しむように、小次郎は、
「ちょっと見て参るから、あなたはそこで待っていて下さい」
犬の声を目あてに、小次郎は駈けて行った。――見ると、七間四面の古びた|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》|堂《どう》の縁がわへ、|狩《かり》|犬《いぬ》は駈け上がっているのだった。そして、破れ果てた窓口の|蔀《しとみ》へ向って、吠えては飛びかかり、躍っては転げ落ちたりして、そのあたりの|丹《に》|塗《ぬり》の柱や壁ぶち[#「ぶち」に傍点]を、めちゃめちゃに爪で掻きたてているではないか。
なにを嗅ぎつけてこう吠えついているのだろうか。小次郎は、|猟犬《りょうけん》の飛びかかっている窓とはべつな入口へ立った。
|御《み》|堂《どう》の|格《こう》|子《し》|扉《ど》へ、彼は顔をよせてみた。中は|漆壺《うるしつぼ》をのぞくようでなにも見えない。ガラリッと、彼の手から扉を引く音がひびくと、犬は、尾を振って、小次郎の足もとへ|跳《おど》って来た。
「――|叱《し》っ」
蹴とばしたが、犬は、気が立っていて、|怯《ひる》みもしない。
彼が御堂の中へ入ると、さッと、|袂《たもと》をくぐって、先へ駈けこんで行った。
と――すぐに。
小次郎の耳へつんざいて来たのは、思いもうけてもいなかった女の叫びである。それも|凡《なみ》|々《なみ》ならぬ驚きかたであって、精いっぱいの金切り声が、いきり立つ犬の声と、途端に、すさまじい闘いを捲き起し、御堂の|梁《はり》もために裂けるかのように、人獣ふたいろの音響が、ぐわんぐわんと|籠《こも》って鳴る。
「やっ?」
小次郎は、駈け寄った。その一瞬に、犬の|猛《たけ》っている目標のなんであったかも分ったし、また、必死に声をもって|拒《きょ》|闘《とう》している女性のすがたも眼に映った。
|紙《かみ》|衣《こ》|蚊帳《がや》をかぶって、朱実は今も寝ていたのである。そこへ、猟犬の眼に見つけられた小猿が、窓から飛びこんで来て彼女のうしろへ隠れた。
犬は、小猿を追いつめて来て、朱実へ|咬《か》みつきそうにした。
――きゃッ。
と朱実が仰向けに転んだのと、もっと強い獣の悲鳴が、小次郎の足の先から発したのと、殆ど一緒で、間髪の差もなかった。
「――痛いッ、痛いッ」
泣くように、朱実はもがいた。犬の口は、大きく開いて、彼女の左の二の腕を|咥《くわ》えていた。
「くッ、これかッ」
小次郎が、二度目の足で、また犬の|脾《ひ》|腹《ばら》を蹴とばした。けれども、犬は彼の初めの一蹴りでもう死んでいたのであって、さらにまた蹴っても、朱実の腕をくわえている大きな口は離れなかった。
「――離してっ、離してえっ」
もがいている彼女の体の下から、小猿がぴょいと飛び出した。小次郎は、犬の|上《うわ》|顎《あご》と下顎へ両の手をかけて、
「こいつめ」
ばりっと、|膠《にかわ》を|剥《は》ぐような音がした。犬の顔は、もう少しで二つになるところでぶらついていた。それを、ぶーんと|扉《と》|口《ぐち》から外へ投げやって、
「もういい」
と、朱実のそばへ坐ったが、彼女の二の腕は、決して、もういいどころの状態ではなかった。
真っ白な腕が、|緋《ひ》|牡《ぼ》|丹《たん》みたいに血しおを噴いている。――その白さと|紅《あか》さに、小次郎はぶるると自分にまで、痛みと|慄《ふる》えを感じた。
「酒はないか、傷を洗う酒は。……いや、あるまいな、こんなところに、あるはずはない。ハテ、どうしたもの」
ぎゅっと、彼女の腕を抑えていると、熱い液体が、自分の|手《て》|頸《くび》へも、さらさらとあふれて来るのだった。
「もしかして、犬の歯の毒でも受けたら、|気《き》|狂《ちが》いになってしまう。この間うちから、気狂いじみていた犬だ」
咄嗟の処置に迷いながら、小次郎がそう|呟《つぶや》くと、朱実は、痛そうに眉をしかめ、白い|頸《うなじ》を、うつつに|反《そ》らしながら、
「えっ、気狂いに。……いっそのこともう、気狂いになりたい、気狂いに」
「ば、ばかな」
小次郎はいきなり顔をよせて、彼女の二の腕の血を口ですすった。口の中へ血がいっぱいになると吐きすてて、また、白い肌を頬張った。
たそがれになると、青木丹左は一日の|托《たく》|鉢《はつ》からとぼとぼ帰って来た。
もう薄暗くなっている阿弥陀堂の扉を開けて、
「朱実、さびしかったろう。今もどって来たぞよ」
途中で求めて来た彼女の薬だの食べ物だの、油の壺などを隅へおいて、
「お待ち、今、明りを|灯《つ》けてやるからの……」
しかし……明りが|燈《とも》ると、彼の心は暗くなった。
「おや? ……どこへ行ったのじゃ、朱実、朱実」
彼女の姿は見えないのであった。
冷たいものに拒まれた自分だけの情愛が、むっと、やりばのない|憤《いきどお》りに変って、彼は、眼のまえも世の中も暗くなった。その怒りがさめると、なんともいえない淋しさにとらわれて、丹左は、この先とも若くなりようはないし、栄誉も野心も持てないと決まっている、わが老いの身一つを見出して、泣きたいように顔をしかめた。
「ひとに助けられた上、あんなに世話になっておきながら、黙って出てゆくとは……アアやっぱり、それが世間なのかなあ……今の若い女はそうなのかなあ。……それとも、わしをまだ疑って?」
丹左は、愚痴ッぽくつぶやいて、彼女の寝ていた後を、|猜《さい》|疑《ぎ》な眼で見まわした。――見るとそこに、帯の端でも裂いたような|小《こ》|布《ぎれ》が捨ててあった。その|布《ぬの》にはすこし血がついている。丹左はよけいに邪推が働いて、ふしぎな嫉妬に駆られるのであった。
|忌《いま》|々《いま》しげに、彼は、|藁《わら》の寝床を蹴とばした。買って来た薬も外へ打ち捨ててしまう。そして一日の|行乞《ぎょうこつ》に胃は飢えぬいているのであったが、晩の食べ物を作りにかかる気力も失せたように、尺八を持って、
「あ、あ」
阿弥陀堂の縁へ出てゆく。
それからおよそ半|刻《とき》ぐらいの間というもの、取り止めもなく、彼のふく尺八は、彼の|煩《ぼん》|悩《のう》を虚空へ遊ばせていた。人間の情慾は、墓場に入ってしまうまでは、形を変えても人体のどこかに、|燐《りん》のように|元《げん》|素《そ》|的《てき》な潜在をもっていることを、丹左のふく尺八は、虚空へ自白していた。
(どうせ、|他《ほか》の男性に、勝手にされてしまうあの娘の宿命なら、なにも自分だけが、|姑《こ》|息《そく》な道徳の通念にしばられて、一晩じゅう、寝ぐるしい思いなどしている必要はなかったのだ)
後悔に似たものだの、それを自分でいやしむ気持だの、雑多な感情が、帰着するところなく、血管のなかを、いたずらに駈けまわっているのが、いわゆる煩悩なのである。――丹左のふく尺八は、ひたすら、その感情の濁りから澄もうとする必死な反省であるらしいが、よくよく|業《ごう》のふかいこの男の生れ性とみえて、彼がむきになってかかる程には、その|吹《すい》|禅《ぜん》の竹は澄んで来なかった。
「虚無僧さん、なにが面白くて、今夜は独りで尺八をふいているのだえ? 町で、もらいが多くあって、酒でも買って来たなら、わしにもすこし、酔わせておくれぬか」
御堂の床下から、首を出してこういったお|菰《こも》がある、そのいざり[#「いざり」に傍点]のお|菰《こも》は、常に床下に住んでいて、自分の上で暮している丹左の生活を、王侯のように下から見て、|羨《うらや》ましがっている人間だった。
「お……おまえは知っているじゃろう。わしがゆうべ、ここへ連れて来ておいた|女《おな》|子《ご》は、どこへ行った?」
「あんな玉を、逃すなんて法があるものか。今朝、おめえが出てゆくと、大きな刀を背に負った前髪の若衆が小猿といっしょに、女子まで肩にかけて、連れて行ったわ」
「え、あの前髪が?」
「悪くない男ぶりだもの。……おめえや、おれよりは」
床下のいざり[#「いざり」に傍点]は、なにがおかしいのか、ひとりで笑っていた。
公開状
四条道場へ帰るとすぐ、
「おい、これを|鷹《たか》|部《べ》|屋《や》の止り木へ|架《か》けておけ」
門人の手へ、鷹をわたして、清十郎は|草鞋《わ ら じ》を解いた。
はっきりと不機嫌な顔つきである。|剃刀《かみそり》のように、体から|刃《は》が立っている。
門人たちは、お笠を、|洗足水《す す ぎ》をと、その神経へ気をつかいながら、
「ご一緒に行った小次郎殿は?」
「後から帰るだろう」
「野駈けのうちに、|迷《はぐ》れておしまいになったので」
「ひとを待たせておいて、いつまでも戻って来ぬゆえ、わし一人で、先へ帰って来たまでのことだ」
衣服をかえて、清十郎は居間へ坐った。
その居間の中庭を隔てて宏大な道場はあった。|年暮《くれ》の二十五日を稽古|仕《じ》|舞《まい》として、春の道場開きまで、そこは閉っていた。
千人ぢかい門人が、年中、出入りしている道場なので、そこに木剣のひびきがきこえないと、急に空家になったような感じだった。
「まだ帰らんか」
清十郎は幾度も、居間の中から門人へたずねた。
「まだお帰りになりませぬが」
小次郎が戻って見えたら、きょうは彼を稽古台として、またやがて出会う武蔵とも|見《み》|做《な》して、みっちり鍛錬しておこう。――そう考えて、清十郎は待っていたが、夕方になっても、夜になっても、遂に小次郎は姿を見せなかった。
翌る日も帰らない。
|年暮《くれ》の日は、最後まで押しつまって来た。今年も、きょう一日しかないという|大《おお》|晦日《み そ か》の昼。
「どうしてくれるんだ」
吉岡家の表部屋へは、|掛《かけ》|取《とり》が|市《いち》をなして、押しかけていた。頭のひくい町人が、堪忍をやぶって、呶鳴っているのである。
「用人が留守だ、主人が留守だといえば、それで済むと思うてござるのか」
「何十遍、足を通わせるつもりなのだ」
「この半期の勘定だけなら、先代のごひいきもあったお屋敷ゆえ、黙っても|退《ひ》きさがろうが、この盆の勘定も、前の年の分も、この通りじゃわ」
と、帳面をたたいて突きつける男もある。
出入りの大工、左官、日用品の米屋、酒屋、呉服屋、それからあちこちと、清十郎が、遊興して歩きちらした茶屋小屋の|勘定取《かんじょうとり》。
そんなのは、まだまだ小口のほうで、弟の伝七郎が兄に計らず、勝手に現金で借りた利のたかい借財もあった。
「清十郎殿に会わせてもらいましょう。門人衆では、|埒《らち》があかん」
坐りこんで、動かないものだけでも、四、五名はある。
|平常《へいぜい》、道場の会計や、また奥向きの経済のやりくりは、|祇《ぎ》|園《おん》|藤《とう》|次《じ》が用人役として、切り盛りしていたのであるが、そのかんじんな藤次は数日前に、旅先で寄せた金を持ったまま、「よもぎの寮」のお甲と|逐《ちく》|電《てん》してしまった。
門人達にはどうしていいかわからない。
清十郎はただ、
「留守と申せ」
の一点張りで、奥にかくれたままでいるし、弟の伝七郎は、勿論、|大《おお》|晦日《み そ か》などという物騒な日に、家へ寄りつくはずもなかった。
どやどやと、そこへ六、七名の肩で風を切って歩く連中が入って来た。吉岡門の十傑と自称している植田良平やその門人達である。
|掛《かけ》|取《とり》たちを|睨《ね》めまわして、
「なんだ? おい」
良平が、そこへ突っ立って、頭からいうのである。
断りに当っていた門人が、説明するまでもない顔つきで、簡単にわけを告げると、
「なアんだ、借金取か。借金ならば、払えばよいのだろう。ご当家の都合のよろしくなる時まで待て。待てないやつは、おれが別に話の仕方があるから、道場のほうへ来い」
植田良平の乱暴ないいぐさに、掛取の町人も、むっと色をなした。
ご当家の都合よくなるまで待てとはなんだ。なおその上、待てない奴はべつに話をつけてやるから道場のほうへ来いとはなんだ。かりそめにも、室町将軍家の兵法所出仕という先代の信用があればこそ、頭を下げ、ご機嫌を取り、品物も貸し、何も貸し、あした参れといわれればヘイ、あさって来いといわれればヘイ、なんでもヘイヘイして、先はお屋敷と奉っていれば、つけ上がるにも程がある。そんな文句に恐れて、掛取が引き|退《さ》がっていた日には、町人は生きてはゆかれない、町人がなくて、侍だけでこの世の中が持ってゆけるものなら持ってみろ、という反感が、当然、掛取たちの頭を燃やした。
良平は、がやがや首をあつめている町人たちを、|木偶《で く の》|坊《ぼう》のように見て、
「さあ、帰れ帰れ、いつまでいても、無駄だぞ」
町人たちは、黙ったが、動こうとはしなかった。
すると、良平が、
「おい、つまみ出せ」
門人の一人へいったので、|怺《こら》えていた掛取も、もう我慢ができないといったふうに、
「旦那、それじゃ余りひどいじゃありませんか」
「なにがひどい」
「なにがって、そんな無茶な」
「だれが無茶をいった」
「つまみ出せとはなんぼなんでも」
「しからば、なぜ神妙に帰らんか、きょうは|大《おお》|晦日《み そ か》だぞ」
「ですから、手前どもだって、年の瀬が越えられるかどうかっていうところで、一生懸命にお願い申しているんで」
「ご当家もいそがしい」
「そんな断り方があるものか」
「貴様、不服か」
「勘定をお下げくださりさえすれば、なにも文句はありません」
「ちょっと来い」
「ど、どこで」
「|不《ふ》|埒《らち》なやつだ」
「そ、そんな馬鹿な」
「馬鹿といったな」
「旦那へいったわけじゃありません、無法だといったんで」
「だまれっ」
襟がみをつかんで良平は、その男を|側《わき》玄関の外へ|抛《ほう》り出した。そこに立っていた掛取たちは、あわてて飛び|退《の》いたが、逃げおくれて、二人ほど折り重なって仆れた。
「誰だ、ほかに苦情のいいたい奴は。些細な勘定をたてにとり、吉岡家の表へ坐りこむなどとは沙汰の限り。おれがゆるさん、若先生が払うといっても、おれは払わさん。さ一人一人、頭を出せ」
町人たちは、彼の|拳《こぶし》を見て、われがちに腰を上げた。しかし門の外へ逃げ出ると、腕に力を持たないだけに、口を極めて、|罵《ののし》った。
「今に――この門へ、|売《うり》|家《や》の札が貼られたら、手をたたいて、|嘲《わら》ってくれようぞ」
「遠くないうちだろうて」
「わしらの思いだけでも」
そんな|怨《えん》|嗟《さ》を、門の外に聞きながら、良平は屋敷の中で、腹をかかえて笑っていた。そして、他の連中と共に、奥の清十郎の居間へ入って行った。
清十郎は、|沈《ちん》|湎《めん》として、独りで火桶をかかえていた。
「若先生、ひどくお静かですな。どうかいたしたので」
良平が訊ねると、
「いや、どうもせぬ」
|股《こ》|肱《こう》とたのむ門人中の門人が、六、七名もそろって来たので、清十郎はやや顔いろを直して、
「いよいよ、日が迫ったの」
「迫りました。その儀につき、一同して参りましたが、武蔵へいい渡す試合の場所、日時、あれは、どういうことに決めますかな」
「さよう? ……」
清十郎は考え込む。
かねて、武蔵から来ている書面には、試合の場所や日どりは、そちらに一任するから、その旨を、一月の初めまでに、五条大橋のほとりへ高札しておいてもらいたいとある。
「場所だな、まず」
清十郎はつぶやくようにいって――
「洛北の|蓮《れん》|台《だい》|寺《じ》|野《の》はどうだろう」
と、一同へ計った。
「いいでしょう。して、日どりと時刻は」
「松の内か、松の内を過ぎてとするか……だが」
「はやいがよいと思います。武蔵めが、卑怯な策をめぐらさぬ間に」
「では、八日は」
「八日ですか。八日はよいでしょう。先師の御命日ですから」
「あ、父の命日になるか、それは止そう。……九日の朝――|卯《う》の|下《げ》|刻《こく》、そうきめる、そういたそう」
「では、その通りに、高札に|認《したた》め、こよい除夜のうちに、五条大橋のたもとへ打ち立てますか」
「うむ……」
「お覚悟は、よろしゅうございましょうな」
「もとよりのこと」
そういわざるを得ない清十郎の立場となった。
だが、武蔵に負けようなどとは、思いもよらない。父拳法に手を取って教えこまれた幼少からの技倆は、ここにいる高弟の誰といつ試合っても、劣った|例《ためし》はない。ましてや、まだ駆け出しの田舎兵法者である武蔵如きに――と、彼は自負しているのであった。
――にも|関《かか》わらず、なんとなく、先頃からふと|怯《ひる》みを感じたり、心の|整《ととの》いがつかないのは、自分が、兵法の研磨を怠っているためではなく、身辺の雑事に|煩《わずら》わされているためと、彼自身も解釈している。
朱実のことが、その一つの原因というよりは最も多く、あの後では、彼の気もちを不愉快にしていたし、武蔵からの挑戦状で、あわてて京都へ帰ってみれば、祇園藤次が|逐《ちく》|電《てん》してしまうやら、また家政の|癌《がん》はこの|年暮《くれ》へ来ていよいよ重体なもようとなり、日々、掛取に押しかけられるようで――清十郎の心は、心構えを持つ|遑《いとま》がない。
ひそかに、頼みにしていた佐々木小次郎も、ここへ来て、顔を見せなくなってしまった。弟の伝七郎も寄りつかないのである。彼は、もとより武蔵との試合に、自分以外の助太刀を必要とするほど敵を大きく見てはいないが、それにしても、今年の|年暮《くれ》はさびしい気がしないでいられなかった。
「ご覧ください。これでよかろうと思いますが」
植田良平たちが、別室から、新しく削った白木の板へ、高札に立てる文言を書いて来て、彼の前へ示した。――見ると、まだ水々と墨は濡れていて、
[#ここから1字下げ]
答  示
一つ、望みに依り試合申す事
場所、洛北蓮台寺野
日時、正月九日|卯《う》の下刻
右神文にかけて誓約候事
万一、相手方の者、|違《たが》えあるに於ては、世間へ向ってわらい申す|可《べく》、当方に違えある時は、即ち、神罰をうくるものなり
慶長九年除夜
[#地から2字上げ]平安 吉岡拳法二代清十郎
作州牢人宮本武蔵殿
[#ここで字下げ終わり]
「ム、よかろう」
初めて肚がすわったのであろう、清十郎は大きくうなずいた。
その高札を小脇に持って、植田良平は、二、三の者を後に連れ宵の|大《おお》|晦日《み そ か》を、五条大橋のほうへ、大股に歩いて行った。
孤行八寒
吉田山の下である。ここらの横には|小《こ》|扶《ぶ》|持《ち》を取って、生涯変哲もなく暮している|公卿侍《くげざむらい》の住居が多かった。
ちまちました屋造りや、素朴な小門などが、外から見てもすぐそれと分るほど極めて保守的な階級色を持って、ただ無事に並んでいた。
武蔵は、
(ここでもない。ここでも……)
と次から次の家の門札の名を見てゆきながら、
(もう住んでいないのかもしれぬ?)
と、捜す力を失ったように|佇《たたず》んでしまった。
父の|無《む》|二《に》|斎《さい》が死んだ時に会ったきりの叔母であるから、彼の記憶は少年の頃の遠いうろ覚えにすぎなかった。――でも、姉のお|吟《ぎん》のほかに血縁といえば、その叔母ぐらいな者しかないので、きのうこの京都へ足を入れると、ふと思い出して訪ねてみたのである。
叔母の|良人《お っ と》は、|近衛《こ の え》|家《け》に勤めていて、|禄《ろく》のひくい小侍だと覚えている。吉田山の下ですぐ知れるかと思って来たところが、来てみると、同じような家構えがたくさんあって、家の小さい割にみな木立の奥に、|蝸牛《かたつむり》のように門を閉め、門札も出ている家もあり、ない家もあるという有様なので、知れ|難《にく》いし、訊くにも訊き難い。
(もう、変っているに違いない。よそう)
武蔵は、あきらめて、町のほうへ戻りかけた。町の空には、|夕《ゆう》|靄《もや》がこめて、その靄が、年の市の灯りでうす赤く見えるのだった。
|大《おお》|晦日《み そ か》の夕ぐれである。どことなく騒音のある洛内だった、すこし人通りの多い往来へ出ると、人間の眼も、|跫《あし》どりも、違っている。
「あ……?」
武蔵は、すれ違った一人の婦人へ振り|顧《かえ》っていた。もう七年も八年も見ない叔母であるが、たしかに、母方の|播州佐用郷《ばんしゅうさよごう》から都へ|嫁《かた》づいたというその|女《ひと》にちがいない。
「似ている」
とはすぐ思ったが、でも念のため、しばらく後へ|尾《つ》いて行きながら注意していると、四十ぢかい|小《こ》がら[#「がら」に傍点]なその婦人は、年の市の買物を胸にかかえ、|先刻《さ っ き》、武蔵がさんざん家をさがして歩いた淋しい横道へ曲ってゆく。
「叔母御」
武蔵が呼ぶと、その婦人は、|怪《け》|訝《げん》な顔して、しばらく彼の顔やすがたをまじまじ[#「まじまじ」に傍点]眺めていたが、やがて非常な驚きを、常々の無事と小さな家計に|狎《な》れて年のわりに|萎《しな》びているその眼もとへ現わし、
「あっ、そなたは、無二斎の子の|武蔵《む さ し》じゃないか」
少年の頃から初めて会うこの叔母に、たけぞう[#「たけぞう」に傍点]と呼ばれないで|武蔵《む さ し》といわれたのは、案外でもあったが、それよりはなにかしらさびしい気がして、
「はい、新免家のたけぞう[#「たけぞう」に傍点]でございます」
武蔵のほうからいうと、叔母は彼のそういう姿を、ながめ廻すだけで、まあ大きくなったことだとも、見ちがえるほど変ったとも、いわなかった。
ただ冷やかに、
「そして、そなたは、なにしにここへ来やったのか」
と、むしろ|難詰《なじ》るようなことばでいう。武蔵は、はやく別れた生みの母になんの記憶もなかった。だがこの叔母と、こうして話していると、自分の母も、生きていた頃は、このくらいな|背《せ》|丈《たけ》の人であったろうか、こういう声の人であったろうか――と目もとや髪の先にまで、|亡《な》き母の面影をこころの|裡《うち》で求めていた。
「べつに、なんの用事があってという次第ではございませぬが、京都へ参りましたことゆえ、ふとおなつかしゅう存じまして」
「うちを訪ねて来やったのか」
「はい、突然ながら」
すると叔母は、
「やめたがよい、もうここで会えば、用がすんだであろ。帰りゃ、帰りゃ」
と、手を振るのだった。
これが、何年ぶりかで会った叔母の、血につながる者へのことばか。
武蔵は、他人以上の冷たさを、心へ浴びた。|亡母《はは》の次の人みたいに甘えて来た世間知らずが、はっと、悔いられるとともに、思わずいった。
「叔母御、それはまた、なぜですか。帰れとなら、帰りもしましょうが。道ばたで会った途端に、帰れとは、|解《げ》せぬ仰せ。私に何かお叱りがあるならば、打ちつけにいって下さい」
そう突っ込まれると叔母は困ったように、
「では、ちょっと上がって、叔父様に会って行きゃれ。ただ……叔父様は、あのようなおひとゆえ、久しぶりに訪ねて来たそなたがまた、|落胆《がっかり》しても折角と思うての老婆心じゃ。気を悪うしやんな」
そういわれると、武蔵はいくらか慰められ、叔母について、家へ入った。
ふすま越しに、やがて叔父の松尾|要人《か な め》の声がする。|喘《ぜん》|息《そく》|病《や》みらしい|咳声《しわぶき》と、感激のない呟きを聞くと、武蔵はまた、ここの家庭の持つ冷たい壁を感じて、隣の部屋でもじもじしていた。
「なに、無二斎の息子の武蔵が来たと? ……やれ、到頭来おッたか。……して、どうした、なんじゃ、上がっておると。なぜわしに黙って上へ通しなすったか、ふつつか者め」
武蔵は耐えかねて、叔母をよび、早々、|暇《いとま》を告げようとすると、
「そこにいるのか」
|要人《か な め》は、そこを開けて、|閾《しきい》ごしに眉をひそめた。畳の上へ牛の|草鞋《わ ら じ》でも上げたように、|穢《むさ》い田舎者と、見ている眼だった。
「おまえ、なにしに来た」
「ついでがありましたゆえ、ご機嫌をうかがいに出ました」
「うそをいいなさい」
「え?」
「うそをいっても、こちらには、分っている。おまえは、郷里を荒らし抜いて、多くの人に恨みをうけ、家名にも、泥をぬって、|逐《ちく》|電《てん》している身じゃろうが」
「…………」
「どの|面《つら》下げて、親類などへ、のめのめと」
「恐れ入りました、今に、祖先へも郷土へも、詫びをするつもりではおりますなれど」
「……なれど、今さら、|国《くに》|許《もと》へも帰れぬのであろうが、悪因悪果というもの、無二斎どのも、地下で泣いておろうわい」
「……長座いたしました。叔母御、お|暇《いとま》いたします」
「待たぬか、これ」
|要人《か な め》は、叱って、
「この辺をうろうろしていると、おまえは飛んでもない目に遭うぞ。なぜなれば、あの本位田家の隠居――お杉とやらいう|肯《き》かぬ気の|婆《ばば》どのが――半年ほど前に一度見え、また、先頃からも度々やって来て、わしら夫婦へ、武蔵の居どころを教えろの、武蔵が訪ねて来たろうのと、恐ろしい権まくで坐りこむのじゃ」
「あっ、あの婆が、ここへも参りましたか」
「わしは、あの隠居から、すべてを聞いておる。血縁の者でなければ、ひッ|縛《くく》って、婆の手へわたしてくれるのじゃが、それもなるまい。……わしら夫婦にまで、迷惑をかけぬよう、すこし足でも休めたら、こよいのうちに、立ったがよい」
心外である。この叔父叔母は、お杉の認識をそのままうけて自分を見ているのだ。武蔵は、いい知れない淋しさと、生来の口重い気質に暗くなって、ただうつ向いていた。
さすがに気の毒になったとみえ、叔母は、あちらの部屋へ行ってすこし休めという。それが最大な好意らしくあった。武蔵は黙ってそこを立ち、一間へ入ると、数日来のつかれもあるし、また、夜が明けてあしたの元日には――五条大橋の誓いもあるので、すぐごろりと横になって、刀を抱いた。――いや飽くまでこの世は自分の身ひとつと思う孤独を抱きしめている姿だった。
世辞もなく、わざと辛く、ずけずけとものをいうのも、血縁の叔母なればこそ叔父なればこそ――そう考えられぬこともない。
一時は、|憤《む》っとして、門に|唾《つばき》して去ろうとまで思ったが、武蔵は、そう解釈して、寝ころんでいた。かぞえても幾人もない親類である。努めて、その人達をば、善意に解して、他人よりも濃く血のつながっている縁者として、生涯、なんぞの時には、助けたり助けられたりして行きたいものと、彼のみは、思うのだった。
だが武蔵のそんな考え方は、実世間を知らない彼の感傷に過ぎない。若いというよりも、幼稚なほど彼はまだ、人間を|観《み》る目も、世の中を観る目も、そういう方にかけては、知ることの浅い青年に過ぎなかった。
彼のような考えは、彼が大いに名を成すか、富を得るかした後に考えるならば、少しも不当にはならないが、この寒空を、|垢《あか》じみた旅着一枚で、しかも|大《おお》|晦日《み そ か》――|辿《たど》りついた親戚の家で考えたりすることではない。
その考えの間違っていた反証はやがてすぐ現われた。
(すこし休んでゆけ)
と、叔母がいってくれたことばを力にして、彼は、空腹をかかえて待っていたが、宵から勝手元で煮物のにおいや|器物《うつわもの》の音がしていたにもかかわらず、彼の部屋にはなんの訪れもないのである。
火桶の中には、|蛍《ほたる》ほどな火の気しかなかった。だが、飢えも寒さも第二のものだった。彼は手枕のまま|二《ふた》|刻《とき》あまり、|昏《こん》|々《こん》と眠っていた。
「……あ、除夜の鐘だ」
無意識に、がばと身を起した時、数日来の疲れは洗われていて、彼の|頭脳《あ た ま》は冴え切っていた。
洛内洛外の寺院の鐘が、いんいんと、|無明《むみょう》から|有明《うみょう》のさかいへ鳴っていた。
|諸行煩悩《しょぎょうぼんのう》の百八つの鐘は、人をして一年のあらゆる諸行へ反省を呼び起させる。
――おれは正しかった。
――おれは|為《な》すことを為した。
――おれは悔いない。
そういう人間が何人あるだろうかと武蔵は思った。
一|鐘《しょう》の鳴るごとに、武蔵は、悔いのみを揺すぶられた。ひしひしと後悔されることばかりへ追憶がゆくのである。
今年ばかりではない。――去年、おととし、先おととし、いつの年自分自身で恥じない月日を一年送った|例《ためし》があるだろうか。悔いない一日があったろうか。
なにか、やるそばから、人間はすぐ悔いる者らしい。生涯の妻を持つことにおいてさえ、男の大多数は悔いて及ばない悔いを皆ひきずっている。女が悔いるのはまだ|恕《ゆる》せる、ところが、女の愚痴はあまり聞えないが、男の愚痴がしばしば聞える。勇壮活溌なことばをもって、うちの女房を|穿《は》き捨て下駄のようにいうのである。泣いていうよりも悲壮で醜い。
まだ妻はないが、武蔵にも通有性の悔いがある、煩悩がある、彼はすでに、この家を訪ねて来たことを後悔するのだった。
(おれにはまだ、縁を|恃《たの》む気持が|失《う》せない。自力だ、一人だと、常に|誡《いまし》めながら、ふと人に依りかかる。……馬鹿だ、|浅慮《あさはか》だ、おれはまだ成っていない)
|慚《ざん》|愧《き》すると、その慚愧している自分のすがたがまた、いとど|醜《みぐる》しく思われて、武蔵はよけいに自分への恥に打たれた。
「そうだ、書いておこう」
なにを思いついたか、彼は常住坐臥、肌身を離さずに持ち歩いている武者修行風呂敷を解きはじめた。
――その頃、この家の門の外に立って、ほとほとと、そこを叩いている|旅《たび》|扮装《よ そ お》いの|老婆《としより》があった。
半紙を四つ折にかさねて|綴《と》じた彼の雑記帖なのである。武蔵はそれを、旅包みの中から出して、早速、|硯箱《すずりばこ》をひきよせた。
それには、彼が漂泊のあいだに拾った感想だの、禅語だの、地理の覚えだの、|自《じ》|誡《かい》のことばだの、また、ところどころには幼稚な写生画なども書いてあった。
「…………」
筆を持って、彼は余白を見つめていた。百八つの鐘はまだ遠く近く鳴りつづけている。
[#ここから2字下げ]
われ何事にも悔いまじ
[#ここで字下げ終わり]
武蔵は、そう書いた。
自己の弱点を見出すごとに、彼は自誡のことばを一つ書いた。だが、書いただけではなんの意味もなさない。朝暮に|経文《きょうもん》のように唱えて胸へ刻みこむのでなければならない。従って、辞句も詩のように口で唱え易いことが必要であった。
そのためか、彼は、苦吟して、
[#ここから2字下げ]
われ何事にも……
[#ここで字下げ終わり]
という修辞を、
[#ここから2字下げ]
われ事において
[#ここで字下げ終わり]
と書き改めた。
「われ事において悔いまじ――」
口のうちで呟いてみたが、武蔵は、まだ自分の心にぴったりしないものか、終りの文字もまた消してしまい、こう改めて、筆を投じた。
[#ここから2字下げ]
われ事において後悔せず
[#ここで字下げ終わり]
最初のは「悔いまじ[#「まじ」に傍点]」であったが、それではまだ弱いと考えられたのである。「――せず[#「せず」に傍点]」でなければならない――われ事において後悔せず!
「よし」
武蔵は、満足した、そして胸に誓った。何事にも自分の|為《な》したことに後悔はしないというような高い境地へまで到達するには、まだまだこの身を、この心を、不断に鍛え抜かなければ及びもない望みとは思うのであったが、
(必ずそこまで行き着いてみせる)
と、彼は自分の胸の遠いところへ、理想の|杭《くい》を打って、堅く信念するのだった。
――折ふし、うしろの障子が開いて、寒げな叔母の顔がそこを|覗《のぞ》き、
「武蔵……」
と、歯の根で呟くようにふるえを帯びた声でいう。
「虫の知らせじゃ、なんとのう、そなたを止めておくのは気がかりと思うていたら、案のじょう、時も時、今、本位田家のお杉隠居が門をたたき、玄関に脱いであるそなたの|草鞋《わ ら じ》を見つけて、武蔵が訪うて来たであろう、武蔵をこれへ出しやれといい|猛《たけ》って……オオここへも聞えてくるわ、あの通りな厳談じゃ。――武蔵、なんとしやるぞ」
「……え、お杉婆が」
耳を澄ますと、なるほど、いつも変らない|切口上《きりこうじょう》と、きかない気の隠居の|皺《しわ》がれ声が、木枯らしの洩るように響いてくる。
叔母は、もう除夜の鐘もすんで、これから若水でも汲もうという元日早々、もし|忌《いま》わしい血でも見るようなことになってはと、いかにも迷惑そうな顔を、露骨に武蔵へ見せつけながら、
「逃げておくれ、武蔵、逃げるのがなにより無事。今――叔父様が応対して、左様な者は立ち寄った覚えはないと、ああして婆を|阻《はば》んでおいでなさる程に、その間に、裏口からでも――」
追い立てて、彼の荷物や笠を自分で持ち、叔父の|革《かわ》|足袋《たび》と、一そくの草鞋を裏口へ置いてくれた。
武蔵は、|急《せ》かれるままに、それを|穿《は》いたが、いい|難《にく》そうに、
「叔母御、まことにご無心ですが、茶漬を一膳食べさせてくれませんか。――実は、宵から空腹なので」
すると叔母は、
「何をいいやる、それどころの場合かいの、さ、さ、これでも持って早よう行きゃれ」
白紙にのせて持って来たのは、五つほどの切餅だった。武蔵は押しいただいて、
「ご機嫌よう……」
|凍《い》てついている氷の道を踏んで、もう元日ではあるが、まだ真っ暗な天地の中へ、毛を|むし[#「むし」は「てへん」+「劣」Unicode=6318]《むし》られた|寒《かん》|鳥《どり》のように、|悄《しお》|々《しお》と出て行った。
髪の毛も、指の爪も、みな凍ってしまうかと思われた。ただ自分の吐く息のみが白く見え、その息もまた、口のまわりの|生《う》ぶ毛にたかるとすぐ霜に|化《な》るかと疑われるほど冷たいのである。
「寒い」
彼は思わず口に出していった。八寒の地獄といえどもかほどではあるまいに、どうしてこう寒く感じるのか――今朝に限って。
(身よりも、心がさむいせいだろう)
武蔵は、自分の問に自分で答えてみる。
そしてなお思うには、
(そもそもおれは未練者だ。ともすると、人肌を恋う|嬰児《あ か ご》のような、乳くさい感傷に恋々と心を揺すられ、孤独をさびしがり、暖かそうな人の家庭の灯が|羨《うらや》ましくなる。なんたるさもしい心だろう。なぜ、自分に与えられたこの孤独と漂泊に、感謝を持ち、理想を持ち、誇りを持たないか)
痛いほど|凍《こご》えていた彼の足は、指先まで熱くなっていた。闇に吐く白い息も、湯気のような迫力で寒さを押し|退《の》けている。
(――理想のない漂泊者、感謝のない孤独、それは乞食の生涯だ。|西行《さいぎょう》法師と乞食とのちがいは、心にそれがあるかないかの違いでしかない)
みしっと、足の裏から白い光が走った。見ると、|薄氷《うすごおり》を踏んでいるのだった。いつの間にか、彼は河原に降り、|加《か》|茂《も》川の東岸を歩いていたのである。
水も空も、まだ暗澹として、夜明けの気ぶりも見えない。流れのふちだと気がつくと、急に足が出なくなった。今までは鼻を|抓《つま》まれても分らないような厚ぼったい闇を、吉田山の下からここまでなんの苦もなく歩けて来たのであったが――
「そうだ、火でも|焚《た》いて」
|堤《どて》の蔭へ寄って、武蔵は、そこらの枯れ枝や|木片《きぎ》れや、燃えそうな物をあつめた。|燧《ひ》|打《うち》|石《いし》を|磨《す》って、小さな炎とするまでには、実に克明な丹精と辛抱が|要《い》るのだった。
やっと、枯れ草に炎がついた。その上へ、積木細工のように、大事に燃える物を組んでゆく。或る火力にまで達しると、急に育ち上がった炎は、こんどは風を呼び、火を作った人間へ向って、ぐわうっと顔でも焼きそうに背伸びしてかかってくる。
ふところから餅を出して、武蔵は、それを|焚《たき》|火《び》であぶった。焦げて、ぷーと|膨《ふく》らむ餅を見ていると、またしても、彼は少年の頃の正月を思い出し、家なき子の感傷が、泡つぶみたいに、心のうえで明滅する。
「…………」
塩気もない、甘味もない、ただ餅だけの味だった。しかしこの餅の中に、彼は世間というものの味を噛みしめるのだった。
「……おれの正月だ」
焚火の炎に|面《おもて》を焼きながら、餅を頬張っている彼の顔には、何か急に独りでおかしくなったような|笑靨《え く ぼ》が二つ浮いていた。
「いい正月だな、おれのような者にも、|五《い》つ切れの餅を|授《さず》かったところを見ると、天は誰へも、正月だけはさせてくれるものとみえる。――|屠《と》|蘇《そ》は満々と流れている加茂の水、|門《かど》|松《まつ》は東山三十六峰。どれ、身を|浄《きよ》めて、初日の出を待とうか」
流れの瀬へ寄って、彼は帯を解いた。衣服も肌着も、すべて脱ぎすてて、どぼっと水の中へ体を沈め込んだのである。
|水禽《みずとり》が暴れているように|飛沫《し ぶ き》を立てて全身を洗い、やがて皮膚をぎゅっぎゅっと拭いているうちに、彼の背なかへ、雲を破った暁の光がかすかに|映《さ》して来た。
――と、その時、河原に燃え残っている焚火の明りを見て、|堤《どて》のうえに立った人影がある。これも、すがたこそ、|年齢《とし》こそ、まるでちがうが、やはり|輪《りん》|廻《ね》にうごかされる旅の人、本位田家のお杉隠居であった。
いたわ、小僧めが。
お杉婆は、胸のうちで、こう高く|喚《わめ》いた。
|欣《うれ》しさやら、恐さやら、張りつめていた心がみだれて、
「おのれっ」
と、|焦心《あせ》りたがる気持と、がくがくわななく体力とが、とたんに一致を欠いてしまって、思わず|堤《どて》の小松の蔭へ、ぺたっと坐ってしまったのである。
「欣しや、やっと|巡《めぐ》り|会《お》うたぞやい。これも、つい先のころ、住吉の浦で不慮の死を遂げなされた|権《ごん》叔父の霊のひきあわせでがなあろう」
婆は、その権叔父の骨の一片と髪の毛とを、今も、腰に|結《ゆわ》いつけてある旅包みの中へ納め、常に肌身につけて歩きながら、
(権叔父よ、たといおぬしは死のうとも、わし一人とは思わぬぞよ、武蔵とお通を成敗せぬうちは、|故郷《くに》の土は誓って踏まぬと、ともども、旅へ出た二人じゃほどにの。――おぬしは死んでも、おぬしの|魂《こん》|魄《ぱく》はこの婆の肩から離れはなさるまい。婆もまた、いつもおぬしと二人連れで歩いているものと思うて、きっと、武蔵を討たいでは|措《お》かぬから、見ていなされや、草葉の蔭から――)
婆は、朝念暮念、そのことばをいい暮して――といってもまだ――権叔父が骨になってから七日ほどにしかならないが、その一心を自分も骨になるまでは、失うことではないと|胆《きも》に|抉《え》ぐって、さて、この数日というものを、まるで|鬼《き》|子《し》|母《も》|神《じん》のような血相になり、遂に、武蔵のすがたを突き止めて来たのであった。
――ちらっと、最初に耳にした手がかりは、吉岡清十郎と武蔵との間に、近日、試合があるらしいという|巷《ちまた》のうわさ。
次にはきのうの夕方――五条大橋の|大《おお》|晦日《み そ か》の人だかりのなかで、その吉岡門の者が、三、四名して打ち建てて去った高札の表である。
あの文字を、お杉は、どんなに興奮した眼をもって何度も読んだことか。
(|大《だい》それた武蔵めがよ、身のほど知らずも、ここまで来ればよい愛嬌。吉岡に討たれることは知れているが、それでは、|国《くに》|許《もと》へ公言して出て来たこの婆が面目がないわいの。どうあろうと、吉岡に討たるる前に、武蔵は、婆が手にかけ、あの|洟《はな》たれ首の|髻《もとどり》つかんで、|故郷《くに》の衆に見せにゃならぬ)
躍起となった。
心には祖先神仏の加護をいのり、身には権叔父の白骨を|結《ゆわ》いつけて、
(やわか草木を分けても捜し出さずにおこうか)
と、またぞろ、松尾|要人《か な め》の門を叩き、そこでさんざん毒づいたり|詮《せん》|議《ぎ》|立《だ》てした結果が、却って、がっかりしたものを負わされて、今――この二条河原の|堤《つつみ》まで戻りかけて来たところであった。
ボウと河原の下が明るいので、お|菰《こも》が火でも|焚《た》いているのかと思いながら、なんの気もなく|堤《どて》に立って見たのである。すると、燃え残っている焚火から十間ほど先の水際に、素裸の男が、この寒さも知らないように、水浴びから上がった、逞しい筋肉を拭いている。
(武蔵!)
と見極めると、婆は、腰をついたきりしばらく立てなかった。相手は今、素裸でいるのだ。駈け寄って行って斬りつけるにはまたとない機会であるのに、この老婆のしなび[#「しなび」に傍点]ている心臓は、それをなし得ないで、|年齢《とし》とともに複雑になっている感情の|昂《たか》ぶりが先に立ち、もう武蔵の首でも取ったように、
「うれしや、神の御加護か、|御仏《みほとけ》のひきあわせか、ここで武蔵めに会うとは、よも|凡《ただ》|事《ごと》であろうはずはない。日頃の信心が通じて、婆の手で、神仏が仇を討たせてたもるのじゃ」
と、|掌《て》をあわせて、幾度も、空を拝しているというような、いとも悠々たる老婆らしいところも、この老婆にはあるのだった。
河原の石の一つ一つが、暁の光に濡れて浮きあがってくる。
|沐《もく》|浴《よく》した五体に、衣服を着、かたく締めた帯に、大小をたばさむと、武蔵は、膝まずいて、天地へ黙然と|頭《かしら》を下げていた。
お杉婆は、
「今っ」
と、気は|逸《はや》ったが、武蔵がその時、河原の|水《みず》|溜《たま》りを跳びこえ、急にかなたへあゆみ出したため、遠方から声をかけては逃がすおそれがあると、あわてて同じ方角に向って堤の上を歩み出した。
白々と、元日の町の屋根や橋は、初霞の底から|和《なご》やかな線をぼかしはじめたが、まだ空には星がよく見えるし、東山一帯のふところは、墨のような|暁闇《ぎょうあん》だった。
三条仮橋の下をくぐると、武蔵は河原から|堤《どて》の上へ姿を現わし、大股に歩き出している。
婆は、
(武蔵待とう)
何度か、呼ぼうとしては、相手の隙とか、距離とか、さまざまな条件を|老婆《としより》らしく|緻《ち》|密《みつ》に考え、数町の間、|引《ひ》き|摺《ず》られるように歩いてしまった。
武蔵は知っていた。
先ほどから|疾《と》くそれと知っていたので、彼はわざと振向かなかった。振向いて、眼と眼が、かち合ったら、その途端、お杉が選ぶ行動は分っているし、|老婆《としより》とはいえ、切れ物と死に物狂いで来る以上、こちらが|怪《け》|我《が》をしない程度のあしらいは|酬《むく》いなければならない。
(恐い相手だ)
と、武蔵は心から思うのだった。
村にいたころのたけぞう[#「たけぞう」に傍点]なら、すぐ|撲《は》り倒して撃退するか、血へどを吐かせて伸ばしてしまうであろう。だが今では、そういう気にはなれない。
恨みはこちらの方にこそあるので、婆が自分を|七生《しちしょう》までの|仇《かたき》かのように狙っているのは、まったく、感情と誤解のこぐらかりに|因《もと》づくので、それを解けばわかるのだ。しかし、自分の口からいったのでは、百万|遍《べん》説いたにせよ、
(そうか、そうじゃッたか)
と、あの婆が、あれほど|瘤《こぶ》にして持っている宿怨をわすれて、水にながすはずはない。
――だが、いかなお杉婆でも、息子の又八自身の口から、関ケ原へ出かけた前後の二人の事情と、すべてのいきさつを|懇《ねんご》ろに|諭《さと》されたら、それでもなお、自分を本位田家の仇とはよもいいきれまい、また息子の嫁を|横《よこ》|奪《ど》りして逃げた|曲者《しれもの》ともまさか|怨《うら》むまい。
(よい折りだ、その又八に、会わせてやろう。――五条まで行けば、今朝は、彼が先へ来て待っているかも知れない)
武蔵は、自分の|言伝《こ と づ》てした約束が、彼に通じているものと信じていた。従って、五条大橋まで行けば、この老婆とあの息子とが会って、その間に誤解されている自分の立場も、そこで初めて、|諄々《じゅんじゅん》と説いて氷解させることが出来ようと考えている。
その五条大橋のたもとは、もうすぐそこに近づいていた。小松殿の|薔薇園《しょうびえん》だの|平相国入道《へいしょうこくにゅうどう》の|館《やかた》だのが|甍《いらか》をならべていた平家繁昌の頃から、このあたりは民家も人通りも多い中心で、戦国以後もその旧態を残しているが、まだどこの家も戸は開いていなかった。
|大《おお》|晦日《み そ か》の宵のうちに、きれいに掃いた|箒目《ほうきめ》が、まだ眠っている家々の門口に、そのまま浮いて、ほのかに白んでくる元日の光を徐々に迎えている。
武蔵の大きな|足《あし》|痕《あと》を、お杉婆は後から見た。
足痕さえ憎かった。
もう橋の|袂《たもと》までは、一町か、半町。
「――武蔵っ!」
お杉はさけんだ。喉の|痰《たん》を切ったような声である。両手に拳をこしらえて、首を前へ突き出しながら駈け寄って行った。
「そこへ行く|人非人《ひとでなし》よッ、耳は持たぬのかっ」
当然、武蔵にそれが聞えていないわけはない。
老いさらぼうた|老婆《としより》とはいえ、死を覚悟した跫音もすさまじい。
背を向けたまま、武蔵は歩いていたが、
(はて、困ったもの)
どうしたものかの思案が咄嗟に出なかったのである。
その間に、
「やれ、お待ちやれ」
婆は、武蔵の前へ廻った。
前へ廻ってからお杉婆は、|尖《とが》った肩や薄い|肋骨《あ ば ら》を波のように|喘《あえ》がせて、|喘《ぜん》|息《そく》でも起った時のように、しばらく、口に|唾《つば》を|溜《た》めて息を休ませているのだった。
やむを得ない顔して、武蔵も遂にことばをかけた。
「おお、本位田のおばば殿か、めずらしいところで」
「ても、|厚顔《あ つ か》ましい。めずらしやとは、わしの方でいうことば。|清《きよ》|水《みず》の|三《さん》|年《ねん》|坂《ざか》では、まんまと、討ち洩らしたが、きょうこそ、その|素首《すこうべ》は、この婆がもろうたぞ」
|軍鶏《し ゃ も》のように細ッこい|皺《しわ》|首《くび》が、背の高い武蔵へ向って伸び上がっていうのだった。逞しい豪傑が|憤《ふん》|怒《ど》するよりも、この婆が根の|剥《む》けている前歯を吹き飛ばしそうにして叫ぶ声のほうが、武蔵は、怖い気持がした。
その恐い気持のうちには、少年時分の先入主が多分にあった。又八も|青《あお》|洟《ばな》を垂らし、武蔵もまだ八ツか九ツ頃の|悪戯《いたずら》ざかりの当時、村の桑畑や本位田家の台所などで、この|老婆《としより》に、
(|童《わっぱ》ッ)と一声呶鳴られると|臍《へそ》がもんどり打ったように、縮み上がって逃げたものである。
その |雷《かみなり》 |声《ごえ》が、武蔵の頭のしん[#「しん」に傍点]に今もどこかに|沁《し》みこんでいるらしいのである。もとより子供の頃から、好かない婆、つむじ曲りな婆、また、関ケ原から村へ帰った後にうけた|仕《し》|打《うち》の憎さは、いちいち|骨《こつ》|髄《ずい》に徹しているが、由来この婆には、勝てないものという幼い時からの癖がついているので、|時《とき》|経《た》てば、あの時の無念さも、さほどではなくなっていた。
それに反して、お杉は、幼少の時から見ている|悪戯《いたずら》小僧のたけぞう[#「たけぞう」に傍点]がどうしても頭から離れない。しらくも頭で|洟《はな》|垂《た》れの|畸《き》|形《けい》|児《じ》みたいに手脚ばかりヒョロ長かった|嬰児《あ か ご》の時から知っている武蔵である。――自分が老いて、彼が成長した事実は認めても、昔から餓鬼あつかいに見ていた観念は|毫《ごう》も取れない。
その餓鬼に、こうされると思うと、お杉は、郷土の者に対する大義名分ばかりでなく、感情だけでも、このまま土に|化《な》ることはできなかった。武蔵を墓場へ抱きこんで行こうということは、生きている今の最大な望みとなった。
「もう、改めて、何もいうことはないぞえ。尋常に、首渡すか、婆が一念の|刃《やいば》を、受けてみるか、武蔵ッ、支度しやいっ」
婆は、そういって、手に|唾《つば》するのか、左手の指を唇へちょっと当て、短い脇差の|柄《つか》へその手をかけてつめ寄った。
|龍車《りゅうしゃ》にむかう|蟷《とう》|螂《ろう》の|斧《おの》ということばがある。お杉隠居のように痩せこけているかまきり[#「かまきり」に傍点]という秋の虫が、鎌に似た細い|脛《すね》をカチャカチャ鳴らして、人間へ斬ってかかる|態《さま》を|嘲《わら》っていうことばなのである。
お杉の眼つきは、そのかまきり[#「かまきり」に傍点]の血相に似ていた。いや、皮膚の色、姿までが、そっくりだった。
ぬっと突き立って、婆のつめ寄る足もとを、児戯のように見ている武蔵の肩や胸は、さながらそれを|嘲《わら》う|鉄《くろがね》の龍車といっていい。
おかしさを感じてくるところであるが、しかし武蔵は、笑えなかった。
ふと、|愍《あわ》れになったのである。かえって、この敵に、|労《いたわ》りたいようないい知れぬ同情を持たせられて、
「おばば、おばば、まあ待ちなさい」
かろく隠居の|肱《ひじ》を抑えた。
「な、なんじゃと」
お杉は、持った刀の|柄《つか》を、唇の外へ出ている前歯とともに、わなわなさせて、
「ひ、卑怯者めが、この隠居は、おぬしなどより、四十もよけいに門松を迎えているのじゃぞ。青くさい口先で|騙《たばか》ろうとて、なんで騙られよう。むだ口は聞く要もない。討たれてしまやれ」
もう、婆の皮膚は、土気いろをして、語気に必死なものがこもっている。
武蔵は、うなずいて、
「わかる、わかる、おばばの気持はよくわかる。さすがは、|新《しん》|免《めん》|宗《むね》|貫《つら》の|家中《かちゅう》で重きをなした本位田家の|後《ご》|家《け》殿だけのものはある」
「ひかえなされ、|小伜《こせがれ》。孫のようなおぬしなどからおだてられて、|欣《よろこ》ぶ婆ではないわいの」
「そうひがむのが|老婆《としより》の|瑕《きず》、武蔵のことばもすこし聞いてほしい」
「遺言か」
「いや、いい訳じゃ」
「未練なっ」
燃えあがって、お杉は低い体をつま先で伸び出すように、
「聞かぬ聞かぬ、この|期《ご》になって、いい訳など聞く耳は持たぬ」
「では、しばしの間、その刃を、武蔵にあずけておきなさい。さすれば、やがて五条大橋の|袂《たもと》へ、又八が来合わそうほどに、すべてのことも|自《おのずか》らわかってまいろう」
「又八が? ……」
「されば、去年の春ごろから、又八へ|言伝《こ と づ》てがしてあるのです」
「何と? ――」
「今朝、ここで会おうと」
「嘘をいやいっ」
お杉は一|喝《かつ》して首を振った。又八とそんな約束があるくらいなら、当然、この間うち大坂表で彼と会った時に、自分へ話しておくはずである。又八は武蔵の言伝てなどを受けてはいない。お杉は、その一言だけで、武蔵のことばを皆嘘と決めてかかった。
「みぐるしいぞ、武蔵、おぬしも無二斎の子であろが、死ぬ時は、|潔《いさぎよ》う死ぬものと、おぬしの|父《てて》|親《おや》は子に教えてはおかなんだか。ことば遊びは、無用。婆が一念、神仏も御加護の|刃《やいば》、受けらるるものなら受けてみやい」
|肱《ひじ》をちぢめて、武蔵の手を|外《はず》すと、お杉隠居は、ふいに、
「南無っ」
と、小太刀を抜いて両手に持ち、武蔵の胸もとへ向ってまっすぐに突いてきた。
武蔵が、|空《くう》を与えて、
「おばば、落着け」
平手でかろく背を打つと、
「大慈、大悲」
お杉は、躍起となって、振向きざま、ふた声三声、
「南無、かんぜおん|菩《ぼ》|薩《さつ》、南無、かんぜおん菩薩ッ」
烈しい太刀を打ち振った。
その|手《て》|頸《くび》をつかんで、武蔵は、|外《そと》|身《み》にひき寄せ、
「おばば、後でくたびれるぞ。……サ、すぐそこじゃ、五条大橋まで、ともかく、拙者に|従《つ》いて歩いて来るがよい」
|捻《ね》じ取られた自分の腕の肩ごしに、お杉は、きっと白い眼を武蔵に向けた。――そして|唾《つば》でも吐くように口をすぼめたと思うと、
「ふッっ!」
と、頬に溜めていた息を鳴らした。
「あっ……」
武蔵は、婆の体を突き放し、片手を左の眼に当てて飛びのいた。
ひとみが何かで焼かれたように熱かった。火の|塵《ちり》でも入ったように痛むのである。
武蔵は、|瞼《まぶた》の上を押えていた手を放してみた。手には血しおもついていない。――しかし、左の眼は、開くことも出来なかった。
お杉は、相手の|身体《か ら だ》にそうした乱れを見つけると、ひどく勝ち誇って、
「南無、かんぜおん菩薩」
と、|隙《す》かさず、ふた太刀、三太刀斬りつけて行った。
いささか|慌《あわ》て気味に、武蔵は身を避けて斜めに|反《そ》った。その時、お杉の太刀が彼の袖裏を|透《とお》して、二の腕の|肱《ひじ》の辺をさっと|掠《かす》めた。|綻《ほころ》びた|袂《たもと》の白い裏地へ血しおが|朱《あか》く|滲《にじ》んで見えた。
「討ったッ」
狂喜しながら、婆は小太刀をやたらに打ち|揮《ふる》った。根の生えている大木の幹でも|伐《き》っているようなつもりで、相手が活動しないでいることは考慮に入れないのである。一念にただ清水寺の|観《かん》|世《ぜ》|音《おん》|菩《ぼ》|薩《さつ》の名を地へ呼び|下《おろ》して、
「南無、南無」
と、うるさく唱えながら、武蔵の前後を駈け廻るのであった。
武蔵は、それに応じて、ただ体を移しているだけだった。しかし、片方の眼は、眼つぶしを食ったように烈しく痛むし、左の|肱《ひじ》は、かすり傷ではあるが、そこから|滴《したた》り落ちる血しおに袂が染まるほどだった。
(不覚!)
と気のついた時が、もうその不覚を身に受けていた時だったのである。彼として、こういう先手を先に取られて、手傷まで負った|例《ためし》は今までになかったことだろう。――けれど、これは勝負というものではない、なぜならば、武蔵には全然この老婆に対して闘志がないからである。最初から、勝つことも敗けることも考えていなかったに違いない。至って体も敏捷でないこの老婆の刃向いなどは、彼の意識にも入らないのが当然でもあった。
しかし、それがそもそも不覚というものではあるまいか。兵法の大乗的な見地から観れば、これは明らかに武蔵の|敗《やぶ》れであり、武蔵の未熟さを、見事にお杉婆の信仰心と切っ先が、暴露して見せたものといって差しつかえなかろう。
自身、その不用意を、武蔵も、はっと気づいて、
(|過《あやま》った!)
同時に彼は全力を出して、なおも図に乗って来るお杉の肩を、とんと一つ、平手ではた[#「はた」に傍点]いた。
「あっ」
四ツ這いになったお杉の手を離れて、刀は遠く飛んでいた。
武蔵は、それを拾って左の手に持ち、右の手で、起きかけている婆の体を横ざまに抱きあげた。
「ええ、口惜しい」
亀のように、お杉は、武蔵の脇の下で泳ぎながらさけんだ。
「神もないか、仏もないか。みすみす|敵《かたき》へ一太刀つけながら……。ええ、どうしよう、武蔵、この上は、恥を掻かせずに、首を討て、さあ、婆の首を討て」
武蔵は、口を結んだきり、ただ黙々と大股に歩き出した。
絞り出すようなしゃがれ[#「しゃがれ」に傍点]声で、その間、お杉婆はいいつづけている。
「こうなることも、武運じゃ、天命じゃ、神のお|旨《むね》を思えば、なんの未練があろうぞ。――権叔父も旅で死に、婆も返り討ちになったと聞けば、あの又八も、|奮《ふる》い起って、きっと、仇を討とうという気になるだろう。婆の死は、決して犬死にはならぬ。かえって、あの子のためにはよい薬じゃ。武蔵っ、はよう婆の命を|奪《と》れ。……どこへ行くのじゃ? ……死に恥掻かす気か、はよう首を討てっ」
武蔵は耳もかさなかった。
婆のからだを横に抱えて、五条大橋のそばまで来ると、
(どこへ置いたものか)
と、お杉の身の処置を考えるように、辺りを眺め廻していたが、
「そうだ……」
河原へ下りて、そこの|橋《はし》|杭《ぐい》に|繋《つな》いであった河舟の底へ、お杉のからだをそっと|卸《おろ》し、
「おばば、ここで辛抱しておるがよい。――やがてそのうちに、又八がやって来るだろうから」
「な、なにするのじゃ」
隠居は、武蔵の手や、辺りの|苫《とま》を|刎《は》ね|退《の》けて、
「又八など、ここへ来るはずはない。オオ、察するところ、われはこの婆を、ただ返り討ちにしただけでは腹がいえず、五条の人通りへ|曝《さら》し物にし、わしへ生き恥掻かせてから殺す気じゃの」
「まあ、なんとでも、思うているがよい。そのうちにわかる」
「討てっ」
「ははははは」
「何がおかしいぞよ。この婆の細首一つ、ばさりと落すことが出来ぬのか」
「出来ない」
「なんじゃと」
婆は、武蔵の手へ|咬《か》みついた。やむを得ぬ手段として、武蔵が、婆の体を|船《ふな》|桁《げた》へ縛りつけようとするからだった。
武蔵は自分の腕を、存分に婆の口へ咬ませておきながら、ゆるゆると婆の体を縛ってしまった。
|抜刀《ぬ き み》のまま|提《さ》げて来た脇差は、|鞘《さや》へおさめて、婆の腰へ元のようにもどして与え、そして立ち去ろうとすると、
「――武蔵ッ、武蔵ッ、|汝《わ》れは武士の道を知らぬのかッ、知らずば、教えてやろう。まいちど、ここへ寄って来うッ」
「――後で」
一顧したまま武蔵は、|堤《どて》へ足をかけたが、まだうしろで、お杉が呶号して止まないので、戻って行って、婆の上へ何枚も|苫《とま》をかぶせた。
ちょうどその時、東山の肩に、のっ[#「のっ」に傍点]と大きな太陽が真っ赤な焔の|環《わ》の端を見せていた。ことしの第一日の日輪だった。
「…………」
五条大橋の前に立って、武蔵は恍惚と見とれていた。あかあかと、腹の底まで陽の光が|映《さ》しこむように思えた。
一年のうちの小我な狭い考えの中に湧く愚痴の虫は、この雄大な光の前に、影をひそめてただ|清《すが》|々《すが》しい。生きているという|欣《よろこ》びだけでも武蔵は胸がいっぱいになった。
「しかも、おれは若い!」
|五《い》ツ切れの餅の力は、|踵《かかと》にまで|充溢《じゅういつ》していた。彼は、踵をめぐらして、
「まだ来ていないようだな……又八は」
と、橋の上を見まわした。そしてふと、
「あ? ……」
と、|呟《つぶや》いたが、そこに自分より先へ来て待っていたものは、又八でも|他《ほか》の人間でもなかった。
植田良平以下の吉岡門下が、きのうここに建てて去った例の高札である。
――場所は蓮台寺野。
――日は九日の卯の下刻
「…………」
武蔵は顔を寄せて、生々しいその|新《あら》|板《いた》と墨のにじみを凝視した。文字を読んでいるだけで、彼のからだは針鼠のように闘志と血に|膨《ふく》らんで丸くなった。
「……あ痛、ああ痛い」
武蔵は、またしても、左の眼の激痛に堪えかねて、思わず|瞼《まぶた》へ手を当てたが、ふと|俯向《う つ む》けた|顎《あご》の下に、一本の針を見出してぎょっとした。よく見ると、針は、着物の|襟《えり》や|袂《たもと》に、霜ばしらのように刺さっていて、きらきらと光るのが、四本も五本もすぐ眼にとまった。
「あ……これだ」
その一本の針を抜いて、武蔵はつぶさに|検《あらた》めてみた。針の寸法は、ふつうの|縫《ぬい》|針《ばり》と変らないし、太さも同様な物であるが、この針には、糸をとおす針穴がない。そしてまた、針の身にも丸みがなくて、三角であった。
「おばば|奴《め》」
武蔵は、河原をのぞいて、こう|慄《りつ》|然《ぜん》とつぶやいた。
「これは、話に聞いたことのある吹針というものではないか。あのおばばに、こんな|隠《かく》し|業《わざ》があろうとは夢にも思わなかったが。……ああ、|危《あや》ういことだった」
彼は、好奇心とつよい知識慾に燃えて、その針を一つ一つ手に納め、改めて、自分の襟の中へ、抜けないように刺し込んだ。
他日の研究の資料とするつもりなのであろう。彼のまだ狭い体験の範囲で聞いているところによると、一般の兵法者のあいだでも、吹針という技術があるという説と、ないと主張する説とがわかれていた。
あるという説をとる者の弁によると、それは非常に古い伝統を持っている一種の護身術で、漢土から帰化した|織《おり》|部《べ》の|機《はた》|女《め》や|縫工《ぬい》|女《め》たちが、|戯《たわむ》れにしていた技法が進んで、武術にまで利用されるようになり、独立した武器とはならないが、攻撃法の前の奇手として、|足《あし》|利《かが》時代にまで、吹針というものは、たしかに用いられたものだと、勿体をつけていう。
ない――と反対する者は、
(ばかなことをいっては困る。武芸者が、そんな児戯に類したもののあるなしを論じるだけでも恥かしい)
と、兵法の正道論に|拠《よ》って、
(漢土から来た|織《おり》|女《め》や|縫工《ぬい》|女《め》が、そんなことを遊戯にやったかどうかは知らんが、遊戯はどこまでも遊戯で、武術ではない。第一、人間の口中には、|唾《だ》|液《えき》というものがあって、熱い、冷たい、|酢《す》い、辛い、というような刺激は程よく飽和するが、針の先を、痛くないように含んでいることはできまい)
すると、一方は、
(ところが、それができるのだ。もちろん、修練の功だが、何本も唾液につつんで口にふくみ、それを、微妙な息と舌の先で、敵のひとみへ吹くことができる)
と主張する。
それに対して、反対者は、よしんば出来たところで、針の力である、人間の五体のうち、ただ、眼だけが攻撃の焦点ではないか、その眼へ針を吹いても、|白《しろ》|眼《め》の部分ではなんの効もない。|眸《ひとみ》の真ン中を刺したら、初めて、敵を盲目にすることが出来るだろうが、それにしても、致命的なものではない。そんな婦女子のする|小《こ》|技《わざ》が、どうして発達するいわれがあろうと|反《はん》|駁《ばく》する。
それに答えて、また一方は、
(だから、一般の武技のように、発達しているとは誰もいいはしない。けれど、そういう|秘《かく》し|技《わざ》が、今も残っているのは事実だ)
という。
武蔵はかつてどこやらで、そんな論議をしているのを、そら耳に聞いたことはあったが、勿論、彼も、そんな小技は、武道と認めない一人であったし、実際にそういうことをする人間があろうとも思われなかった。
世間のどんなつまらない雑談のうちにも、聞く者の聞き方によっては、何か他日に役立つものが必ずあるものだということを武蔵は今、痛切に知った。
眼はしきりと痛むが、幸いに、ひとみを刺されたのではないらしい。眼がしらへ寄った白眼の一部がずきずき熱を持って涙をにじみ出すのだった。
武蔵は、身体をなで廻した。
涙を拭く|布《きれ》を裂こうとするのであったが、帯も裂けず、|袂《たもと》も裂けず……何を裂いたらと手が迷っていた。
すると。
うしろで誰か、ぴゅっと絹を裂く音をさせた者がある。振向くと、一人の女性が、彼の様子を見ていたらしく、自分の|紅《あか》い下着の袂を一尺ほど歯で裂いて、それを持って彼のそばへ小走りに駈けて来たのであった。
微 笑
|朱《あけ》|実《み》であった。
彼女の髪には、元日の|化粧《よ そ お》いもなかった。着物もみだれ、足も素はだしなのである。
「……あっ?」
眼をみはって、武蔵は、意味なくそう叫んだが、さて、誰なのか、覚えはあるが、急には思い出せなかった。
朱実は、そうでなかった。自分ほどではなくても、その何分の一でも、武蔵も自分を考えていてくれたことと信じている。いつの間にか、多年の間にそう自分だけで信じて来ている。
「わたしです……たけぞう[#「たけぞう」に傍点]さん……いいえ武蔵様」
下着の袖を裂いた紅い|小《こ》|布《ぎれ》を手にしながら――|怖《こわ》|々《ごわ》と寄って、
「……眼を、どうかなすったんですか。手でこすると、なお悪くするでしょう。これでお拭きなさいませ」
武蔵は黙って好意をうけた。|紅《あか》い|布《きれ》で片眼を抑えると、また、朱実の顔をしげしげ見直した。
「お忘れですの?」
「…………」
「わたしを」
「…………」
「わたしを」
|手《て》|応《ごた》えのない相手の無表情な|空《うつ》ろへ向って、彼女の押詰めて来た切実な気持は不意なよろめきを感じた。傷だらけになった魂にも、これだけは|確《しか》とつかんでいたつもりだったものも、自分だけで作っていた幻像に過ぎなかったことを、ふと|覚《さと》ると、胸先へ、血のかたまりのようなものがこみ上げて来て、
しゅくっ……
と唇や鼻から突き出る|嗚《お》|咽《えつ》を、両手でおおって、肩をふるわせた。
「オオ……」
思い出したのである。
武蔵は、彼女の今の一瞬の姿に記憶をよび起した。その姿にはまだ、|伊《い》|吹《ぶき》の|麓《ふもと》で|袂《たもと》の鈴を鳴らしていた頃の、世間に傷つかない|処女《お と め》らしさが残っていたからであろう。
いきなり、逞ましい腕が、彼女の病後のような薄い肩を抱きしめた。
「朱実さんじゃないか。――そうだ、朱実さんだ。……どうしてこんなところへ来たのか。……どうして? どうして?」
たたみかけていう武蔵の問は、よけいに彼女のかなしみを揺すぶった。
「もう、伊吹の|家《うち》にはいないのか、お|養母《かあ》さんはどうしている?」
お甲のことを訊ねると、武蔵は当然、お甲と又八の関係に思い及び、
「今も又八と一緒に住んでいるのか。――実は今朝ここへ又八が来るはずになっているのだが、おまえが代りに来たわけではあるまいな」
すべてが朱実の心を|外《そ》れてゆく言葉のみであった。
武蔵の腕の中で、朱実はただ顔を横に振って泣いていた。
「又八は来ないのか。……一体どういうわけだ。わけをいえ、ただ泣いているだけでは分らないではないか」
「……来ません。……又八さんは、あの|言伝《こ と づ》てを聞いていないから、ここへは来ません」
やっと、それだけをいって、|朱《あけ》|実《み》は濡れた顔を、武蔵の胸へ押し当てたまま|痙《けい》|攣《れん》していた。
こういおう、ああいおう、と考えていたことは皆、泡のように、熱い血のなかで明滅しているに過ぎない。――まして、|養母《はは》の手でむごい運命へ突きのめされた――あの住吉の浦から今日に至るまでのことなどは、どうしても口に出なかった。
もう橋の上には、うららかな初日影を浴びて、清水へ|初《はつ》|詣《まい》りにゆく|初春《はる》|着《ぎ》の女たちや、廻礼にあるく|素《す》|袍《おう》や|直垂衣《ひたたれ》の人影が、ちらほら通っていた。
その中から、ひょっこり、年の暮も正月もない、|河《か》っ|童《ぱ》あたまの城太郎が姿を見せた。橋の中ほどまで来て、武蔵と朱実のすがたを|彼方《か な た》に見つけ、
「あれ? ……お通さんかと思ったら、お通さんじゃないらしいぞ」
怪しい男女の行為でも見たように、城太郎は変な顔して足を止めた。
折ふし誰も見ているものがないからいいようなものの、往来の端で、胸と胸を寄せてじっと抱き合っているなんて――大人のくせに――男と女のくせに――と、城太郎はびっくりせずにいられない。
しかも、尊敬しているお師匠さまが。
女も女だと思う。
彼の童心は、わけもなく高い動悸を打ち、|嫉《ねた》ましい気もするし、悲しい気もする。――なにかこう|焦《いら》|々《いら》と腹が立って、石でも拾って|打《ぶ》つけてやろうかとさえ思った。
「なんだ、あの奴は、いつか又八っていう人へ、お師匠様の言伝てをたのんだ|朱《あけ》|実《み》じゃないか。お茶屋の娘だからませ[#「ませ」に傍点]ているんだな。いつのまにお師匠様とあんなに仲よくなったんだろ。お師匠様もお師匠様だ。……お通さんにいいつけてやろ」
そこから往来の|彼方《か な た》|此方《こ な た》を見まわす。|欄《らん》|干《かん》から橋の下を|覗《のぞ》いて見る。――だが、お通の姿は、まだここに見当らない。
「どうしたんだろ?」
先頃から泊っている烏丸家の邸内を出たのは、お通のほうが先に出かけているのである。
お通は今朝、武蔵とここであえるのを確信しているので、|年暮《くれ》のうちに、烏丸家の奥から戴いたという|初春《はる》の小袖を着、ゆうべは髪を洗ったり|結《ゆ》ったりして、今朝を楽しみに寝もやらない様子であったのだ。
そして、まだ未明のうちから、夜の白むのを待ち遠しがって、
(こうしている間に、|祇《ぎ》|園《おん》神社から清水堂へ初詣りをして、それから五条大橋へ行くとしよう)
といい出し、城太郎が、
(じゃあ、おいらも)
と、|従《つ》いて行こうとすると、ふだんはいいが、恋には邪魔物に扱われて、
(いいえ、私は武蔵様に、少し二人きりで話したいことがあるのだから、城太さんは、夜が明けてから、なるべく|悠《ゆ》っくり五条大橋に後からお出で。――だいじょうぶ、きっと、城太さんが来るまでは、武蔵様とあそこで待っていますから)
といって、一人で先へ出かけてしまったのである。
べつに|僻《ひが》んだり怒ったりはしないが、城太郎も決していい気持ではない。彼にも、明け暮れ共にいるお通の気持ぐらいは、もう解釈できない年頃ではない。男と女の持ち合う感動とはおよそどんなものかということは、彼自身も、柳生の庄の|旅籠《は た ご》|屋《や》の小茶ちゃんと、|馬糧《ま ぐ さ》|小《ご》|屋《や》の|藁《わら》の中でなんという|理《わけ》もわからずに|悶《も》|掻《が》き合った体験がある。
その体験から割り出しても、大人のお通が泣いたり沈んだりしている|平常《ふ だ ん》の様子は、彼にはただ不可解で、おかしくって、|擽《くす》ぐったくて、理解も同情も持てなかったが、今、武蔵の胸へすがって泣いている者が、そのお通でなくて、朱実という案外な女性であったことを眼で見ると、城太郎の分別は、俄然、憤りに似たものを持って、
(なんだ、あんな女)
と、お通の肩をもち、
(お師匠様もお師匠様だ)
わがことのように腹を立てて、その結果が、
(お通さんは何してるんだろ。お通さんにいいつけてやるぞ)
という焦躁を帯びて来ると、急に橋の上下をキョロキョロし始めたものだった。
ところが、そのお通が見当らないので、城太郎が独りでやきもき[#「やきもき」に傍点]していると、|彼方《あ な た》の|男女《ふ た り》は、往来の眼を|憚《はばか》るように、橋のたもとに近い欄干へ身の位置を移して、武蔵もその上に|腕《うで》|拱《ぐ》みを乗せ、朱実も並んで、河原の下へ|面《おもて》を|俯向《う つ む》けている。
反対側の欄干に沿って、城太郎が通り抜けて行ったのも、|男女《ふ た り》の背中は気づかなかった。
「愚図だな、いつまで、観音様なんか拝んでるんだろ」
城太郎は呟きながら、五条坂の方へ背伸びをして、待ち|焦《じ》れていた。
すると、彼の|佇立《た た ず》んでいるところから十歩ほどの距離である、幹の太い四、五本の枯柳があった。よくこの柳には|川《かわ》|魚《うお》を|啄《ついば》みに来る|白《しら》|鷺《さぎ》の群れを見かけるのであるが、きょうはその白鷺が一羽も影を見せていないかわりに、前髪に結った一人の若衆が、臥龍のように低く這っている老柳の幹へ|倚《よ》りかかって、じっと、何ものかを見つめていた。
朱実と並びあって橋の|欄《らん》へ|肱《ひじ》を|倚《よ》せていた武蔵は、朱実が懸命になって向ける|囁《ささや》きへ、いちいち微かに|頷《うなず》いてはいるけれど、彼女が女の|羞恥《はじ》もすてて、真実の二人になり切ろうと全能で脈搏しているほど、そのつよい|低声《こ ご え》が、武蔵の耳以上へ|滲《し》み|徹《とお》っているか否かはわからなかった。
なぜならば、よく頷いてはいるくせに、彼の眸は、あらぬ方へ行っているからである。愛しあっている者同士が、ことばを|奏《かな》であいながら眼を|反《そ》らしているといったような――ああいう情景とはまるで違ったもので、ひと口にいえば、彼の今持っている眸は、無色無熱の火であった。そこから一角の焦点へ向って、かちっと|烙《や》きついたまま、|眼《ま》じろぎもしないのである。
朱実には今、そういう相手の眼を怪しむ認識すら持てない。自分だけの感情の中で、独り問い答えながら突きつめては唇へ|咽《むせ》び出すのだった。
「……ああ、私はもう、これであなたにみんないうことをいってしまった。|秘《かく》していることはなにもない」
と欄干へのせている胸を少しずつ寄せて来て、
「――関ケ原の|戦《いくさ》から、もう五年目になるでしょう。その五年のあいだに、私という者は、今すっかり話したように、境遇も、体も変ってしまったんです」
……よよと、|啜《すす》り泣いて、
「けれど――いいえ――私はちっとも変っていない。あなたを思っているこの気持は、みじん[#「みじん」に傍点]も変って来てはおりません。そういいきれます。わかってくれる? ……武蔵様、その気持を……武蔵様」
「ムム」
「わかって下さいね。……恥もしのんで私はいいました。朱実は、あなたと初めて伊吹の下で会った時のように、もう|穢《けが》れのない野の花ではありません。人間に|涜《おか》されて|凡《ただ》の女になってしまったつまらない女です。……けれど|貞操《み さ お》というものは体のものでしょうか。心のものでしょうか。体の上だけは清女でも、心がみだらな女だったら、それはもうきれいな|処女《お と め》とはいえないのではありませんか。……私は、私はもう名は……名はいえませんが或る者のために|処女《お と め》ではなくなりました。けれど、心は|涜《おか》されてないつもりです。ちっとも|穢《けが》されない心を今も持っているんですの……」
「ウム、ウム」
「かあいそうだと思ってくれます? ……。真実をささげている人へ、|秘《かく》し事を抱いているのは辛いことです。……あなたに会ったらなんといおう。いうまいか、いおうか、同じことを幾晩も幾晩も考えぬきました。その上で、私が決心したことは、やはり貴方には、|偽《いつわ》りを持たないということでしたの。……わかって下さる。むりもないと思って下さいますか、それとも|厭《いと》わしいやつだと思いますか」
「ムム、ああ」
「ね……どっちです。考えると、わ、わたしは、く、くやしい」
欄の上へ顔を伏せて、
「ですから、もう私は、あなたに向って、愛してくださいなどということは、|厚顔《あつかま》しゅうていえませんし……また、いえた義理でもない体ですの。――だけど武蔵様、今いったような心――|処女《お と め》ごころ――白珠のような初恋の心――それだけは|失《な》くしません。この後、どんな|生活《く ら し》をしようとも、どんな男の|巷《ちまた》を歩こうとも」
髪の毛の一すじ一すじがみな泣きふるえた。欄を濡らしている涙の下は、元日の明るい陽を|燿《よう》|々《よう》と乗せて、無限の希望へかがやいて行く|若《わか》|水《みず》のせせらぎであったが。
「む……うむ……」
もののあわれは頻りと武蔵の|頷《うなず》きを誘っている。――だが、あいかわらず異様な光をおびて、あらぬ方へ吸いつけられている彼の眸なのである。
――で、その視線の先を|辿《たど》ってみると、橋の欄と川岸とのカギ形の二線へ対して、三角形を作り得る一線が真っ直に引けてゆく。
|先刻《さ っ き》から枯柳の幹に|倚《よ》りかかって、じっと岸に立っている岸柳佐々木小次郎のすがたを、そこに見出すことが出来る。
父の無二斎から子供の時に、彼はこういわれたことがある。おまえはわしに似ていない、わしの眸はかくの如く黒いが、おまえの眸は茶色勝ちである。|従祖父《おおおじ》の|平田将監《ひらたしょうげん》様の眼は、|焦《こげ》茶色をしていて凄かったといういい伝えだから、おまえはおそらくお|祖父《じい》さん似に生れたのであろう……と。
うらうらと、朝の陽を、斜面にうけているせいもあろう。それにしても武蔵の眸は、ヒビのない|琥《こ》|珀《はく》のように澄んでいて鋭かった。
(ははあ、この男だな)
かねて聞き及ぶところの宮本武蔵という人間を、佐々木小次郎は、いま見ていた。
武蔵もまた、
(はてな、あの男は)
と、注意を怠らない。
彼より射て来るものと、こっちから迫ってゆくものとが、橋の欄と、河べりの枯柳との間で、最前から無言の|裡《うち》に、お互いの人間の深さを測り合っていたのである。
兵法の場合でいえば――相手の器量を、剣と剣の先でじっと|観《み》|澄《す》ましているような――|阿《あ》|吽[#「吽」は底本では「口」+「云」Unicode=544d]《うん》の息をこらしている時にも似ている。
またさらに、武蔵のほうにも、小次郎のほうにも、べつな疑惑があった。
小次郎にすれば、
(小松谷の|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》|堂《どう》から連れて来て、自分が今、世話をしてやっている朱実と、あの武蔵と、どういう縁故があって、あんなに親しそうに|私語《ささめごと》を|交《か》わしているのか)
と思い、それに当然、
(いやな奴だ、女たらしかもしれぬ。朱実も朱実、おれに黙って、どこへ行くのかと思って後を|尾行《つけ》て来てみれば……あんな男に、泣いたりなどして)
こう不快な気もむらむらと|生《なま》|唾《つば》になって湧いて来る。
そのありありと眼に出ている反感や、武者修行同士が行きずりに持つ、自負心と自負心との反撥しあう妙な|敵《てき》|愾《がい》|心《しん》など、武蔵のひとみに|顕《けん》|然《ぜん》と読まれるので、武蔵もおのずから、
(何者か?)
と、彼の存在を疑い、
(できるな、相当に)
と、押し測り、
(はて、あの眼の害意は?)
と、警戒して、
(油断のならない人間)
として、眼で見るのではなく、心で|観《み》つめているので、ふたりの眸は、今、火花を出しているといっても過言でない。
|年齢《とし》は、武蔵が一つ二つ下か、小次郎のほうが下か、どっちにしても大差のない、お互いが、生意気ざかりで、兵法でも、社会のことでも、政治でも、すべてが分ったつもりでいる自負心の満々としている青年なのだ。
猛獣が猛獣を見ると、すぐ唸るように、小次郎も武蔵も、なんとなく、髪の毛のそそけ立つような印象を、この初対面にうけたのである。
――そのうちに、ふと、小次郎が先に眸を横へ|反《そ》らした。
(ふふん……)
そういったような白い|蔑《さげす》みを、武蔵は彼の横顔に見たが、心のうちでは、自分の眼――意力が――彼を遂に圧伏したと思って、かるく愉快だった。
「朱実さん」
欄へ|面《おもて》を当てて泣いている彼女の背へ、武蔵は手を加えて、訊ねた。
「誰だ? おまえの|知《しり》|人《びと》だろう。あれにいる若衆すがたの武者修行は。……え、誰だ、いったい?」
「…………」
小次郎の姿を、その時初めて気づいた彼女は、泣き|腫《は》らした顔に、明らかな|狼狽《う ろ た》えを走らせて、
「ア……あの人が」
「あれは誰だ」
「あの……あの……」
と朱実は|口《くち》|籠《ごも》った。
「見事な大太刀を背に負って、これ見よがしの|伊達《だて》な|装《よそお》い、よほど兵法自慢の者らしいが……一体朱実さんとあの男とは、どういう仲の知りあいなのか」
「べつに……なにも深い知りあいじゃないんですけれど」
「知っていることはいる人なのだな」
「ええ」
武蔵に誤解されることを|惧《おそ》れるように、朱実は、はっきりいった。
「いつぞや、小松谷の|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》|堂《どう》で、どこかの|猟《かり》|犬《いぬ》に腕を|咬《か》まれた時、あまり血が出て止まらないので、あの方の泊っている宿へ行って医者を呼び、それからつい三、四日、お世話になっているんですの」
「では、ひとつ家に住んでいる者だったか」
「住んでいるといっても……べつに、なんでもないんですけど」
朱実は言葉を強めていう。
武蔵はべつに、なんでもあるような意味に訊いているわけではない。それを朱実は、ひとりでべつな意味にはきちがえているのだった。
「――なるほど、では詳しいことは知るまいが、あの者の姓名ぐらいは聞いておろうが」
「ええ……岸柳とも呼び、本名は佐々木小次郎とかいいました」
「岸柳」
これは初耳ではない、有名というほどではなくても、諸国の兵法者のあいだには相当知られている名である。もちろん実際の人間を見るのは今が初めてであるが、武蔵が聞き及んでいたり、また想像していた佐々木岸柳は、もっと年配の男のように考えていたのに、その案外にも若いのには彼は思いのほかな心地がした。
(……あれが、噂の)
改めて、その小次郎へ武蔵が眼を向けた時である。朱実と武蔵とがそうして囁いている様子を白い眼で見ながら、小次郎の頬へにた[#「にた」に傍点]と|笑靨《え く ぼ》が|泛《う》いた。
――武蔵もまた微笑を送った。
だが、この無言の雄弁は、|釈尊《しゃくそん》と阿難が指に|華《はな》を|拈《ねん》じながら|微笑《ほ ほ え》んだような平和な光も謎もない。
小次郎の笑靨には、複雑な皮肉と挑戦的な|揶揄《か ら か》いがあった。
武蔵の|笑《え》みにも、それを感じて刎ね返している|毅《たけ》|々《だけ》しい争気があった。
そうした男性と男性のあいだに挟まって、朱実はなお、自分だけの気持を、訴えようとするのであったが、それをいわないうちに、武蔵がいった。
「では朱実さん、おまえはあの人と、ひとまず宿へ帰ったがよかろう。そのうちに会おう、……な、そのうちにまた」
「きっと来て下さいます?」
「あ、行くよ」
「宿を覚えていてください。六条御坊前の|数《ず》|珠《ず》|屋《や》の座敷にいますから」
「ウむ。……ウむ」
単純にうなずかれたのが、物足らなかったのだろう。朱実は欄のうえに置いている武蔵の手を奪って、いきなり自分の|袂《たもと》の蔭でぎゅっと握りしめながら眼に情熱をこめた。
「……きっと! え? ……きっと!」
突然、彼方で、腹を抱えるように哄笑した者がある。こっちへ、背を見せて歩き去って行く佐々木小次郎だった。
「あッはははは、わッはははは。アハハハ。アハハハ」
とんでもない馬鹿笑いをして行く者があるので、城太郎は、むっとしながら、橋の前の往来から小次郎を睨みつけていた。
――それにつけても彼は、お師匠様の武蔵がいまいましい。いつまで経っても来ないお通が|癪《しゃく》にさわる。
「どしたんだろ?」
地だんだ[#「だんだ」に傍点]ふむように、町のほうへ少し歩き出してゆくと、すぐそこの四ツ辻に横たわっている牛車の車の輪のあいだに、チラと、お通の白い顔が見えた。
魚 紋
「ア、いたッ」
鬼でも見つけたように城太郎はさけんで駈けだした。
牛車の蔭に、お通はしゃがみ込んでいた。
めずらしく今朝の彼女の髪や口紅には、ほのかではあるが――|下手《へた》なお化粧ではあるが――匂わしいものがただよっていたし、小袖は烏丸家から戴いたという紅梅地に、白と緑の桃山|刺繍《ぬい》が散っている|初春《はる》らしい|衣《もの》であった。
その白い襟や、紅梅色が、車の輪に|透《す》いて見えたので、城太郎は牛の鼻づらを|摺《す》ってそばへ飛びついて行った。
「なんだっ、こんな所に。お通さん、お通さん、なにしてんのさ」
胸を抱いてかがみ込んでいる彼女のうしろから、城太郎は、その髪やおしろいが台なしになるのもかまわず襟くびへ抱きついて、
「――何してんのさ、何してんのさ、おいら、ずいぶん待ってしまったぜ。はやくおいでよ」
「…………」
「はやくさ、お通さん」その肩を揺すぶって、
「――武蔵様も、あそこに来てるじゃないか。見えるだろ、ほら、ここからでも。――だけど、おいら、とても|癪《しゃく》にさわってるんだ。――おいでよ! お通さんてば! はやく来なくちゃ駄目じゃないか」
こんどは、彼女の手くびを取って、抜けるほど引っ張り出したが、ふと、その手くびの濡れていることや、お通が顔を上げて見せないので不審を起し、
「……オヤ、……オヤ、お通さん。なにしていたのかと思ったら泣いていたのかい」
「城太さん」
「なにさ」
「武蔵様のほうから見えないように、お前も、蔭にかくれていてくださいよ。……ネ、ネ」
「なぜさ」
「なぜでも……」
「ちぇッ!」
城太郎はまた、ここでも腹が立って、その|鬱《うっ》|憤《ぷん》のやり場がないように、
「だから女って奴は嫌ンなっちゃうぜ。こんなわけの分らねえことってあるだろか。――武蔵様に会いたい会いたいといってあんなに泣いたり捜したりしていたくせに、今朝になったら急に、こんな所へ隠れて、おいらにまで隠れていろって……。けッ、けッ、おかしくって、笑えもしねえや」
彼のことばを|鞭《むち》のように浴びているお通であった。紅く|腫《は》れている眼をそっと上げて、
「城太さん、城太さん……そういわないでください。……たのむから、そんなにお前までわたしを|虐《いじ》めないで」
「どこへ、おいらが、お通さんを|虐《いじ》めてるかい」
「黙っていてね……じっと私と一緒に|屈《かが》んでいてください」
「いやだい、牛の|糞《くそ》がそこにあるじゃないか。元日から泣いてなどいると、|鴉《からす》が笑わあ」
「……なんでもいいの。もう……もうわたしは」
「笑ってやろう。|先刻《さ っ き》、|彼方《む こ う》へ行った若衆のように、おいらも、初笑いに手をたたいて笑ってやるぜ。……いいかいお通さん」
「おわらい、たくさん」
「笑えねえや……」
|鼻汁《はな》をこすりながら、むしろ彼は泣きたそうな顔をした。
「アア、わかった。お通さんは、あそこで武蔵様がよその女と、先刻からあんなことして話しているんで、|嫉妬《やきもち》をやいているんだね」
「……そ、そうじゃない、そんなことじゃないけれど」
「そうだよ、そうだよ。……だからおいらも|癪《しゃく》にさわってるんじゃないか、だからよけいに、お通さんが出て行かなければ駄目じゃないか。わからずやだなあ」
いくらお通が強情に屈みこんでいようとしても、城太郎の力で無理やりに手くびを引っ張るのにはかなわなかった。
「痛い。……城太さん、後生だからそんな|酷《ひど》いことをしないでよ。……私をわからずやだとおいいだけれど、城太さんこそ、私の気持なんかわからないのです」
「わかってるよ、|嫉妬《やきもち》をやいてるんじゃないか」
「そんな……そんなことだけではありません……私の今の気持というものは」
「いいからお|出《い》でッてば」
牛車の蔭から、お通のからだはズルズル地を|摺《す》ってうごき出した。綱曳きでもするように踏んばりながら、城太郎はまた|彼方《か な た》へ伸び上がって、
「アッ、もういないよ、朱実はもう|去《い》ってしまった」
「朱実。――朱実って、誰のこと?」
「今、あそこで、武蔵様とならんでいた女さ。……あっ、武蔵様も歩き出した、早く来ないと、行ってしまう」
もう女などに|関《かま》っていられないとばかりに、城太郎が走りかけると、
「待ってよ、城太さん」
お通も、自分で立った。
そこで彼女はもういちど、五条大橋の|袂《たもと》を見直した。朱実がまだその辺にいるかいないかを確かめるもののように細心な|眼《まなこ》で見まわしているのだった。
怖ろしい敵の影が去ったように、お通は眉をひらいて、ほっとした様子をしてまた、|慌《あわ》てて牛車の蔭へ寄ると、泣き|腫《は》らした|瞼《まぶた》を袖口で拭いたり、髪を撫でつけたりして、身じまいを整えていた。
城太郎は、|急《せ》いて、
「早くしなよ、お通さん。――武蔵様は河原へ降りて行ったようだぜ、お|洒《しゃ》|落《れ》なんかしなくてもいいじゃないか」
「河原へ」
「あ、河原へ。――なにしに降りて行ったのだろう」
ふたりは、姿をそろえて、橋の袂へすぐ駈けて行った。
吉岡方で建てたそこの高札には、もう往来の者の首がたかっていた。声を出して読みあげている者がある。また、聞きつけない宮本武蔵という者を、何者であろうと、辺りの人々に|訊《たず》ねている者がある。
「ア、ごめん」
城太郎は、その人々の体をかすめて、橋の欄から河原の下をのぞいた。
お通も武蔵のすがたを、すぐその下に見られるものとばかり思っていた。
実に、わずかな間であったが、武蔵はもうその辺にいなかったのである。
では何処に?
――というと、武蔵はたった今、朱実の手を振りきって、無理に彼女を追い返すと、もう本位田又八をこの橋上に待っていたところで来るはずもないし――吉岡方から掲示した高札の|表《おもて》も読んだし――ほかに待つべき用事もないので、ヒラリと|堤《どて》を降りて、|橋《はし》|杭《ぐい》のそばの|苫《とま》|舟《ぶね》へ駈け寄っていた。
|苫《とま》の下には、お杉隠居が、|舟《ふな》|桁《げた》に身をしばられて|先刻《さ っ き》からもがいていたのである。
「おばば、残念だが、又八は来ないぞ。――わしもぜひそのうちにゆき会って、あの気の弱い男を励ましてくれるつもりだが、ばばも探し出して、親子、達者でお暮らしゃれ、――そのほうが、この武蔵の首を狙ったりすることより、どんなに、御先祖孝行かしれぬぞ」
|小《こ》|柄《づか》を持って、その手を|苫《とま》の下へさし入れた。お杉の身を縛った縄目を切ったのである。
「ええ、耳うるさい、ませた口をきく|小伜《こせがれ》わいの。|要《い》らざるおせッかいをいうよりは、婆を討つか、討たれるか、武蔵っ、はよう|埒《らち》をあけい」
顔じゅうに青すじを走らせて、お杉隠居が、苫の中から首を突き出した――その時ですらすでに、武蔵のすがたは、加茂の流れを横に突っ切って、|鶺《せき》|鴒《れい》でもとぶように|洲《す》や石のうえを拾って、対岸の堤へ駈け上がっていたのであった。
お通は見なかったが、ちらと、河向うの遠い人影を、城太郎は見たのであろう。
「アッ、お師匠様だ、お師匠さまあ――」
河原へ向って、跳び下りた。
もちろんお通も。
なぜこの際、すこし廻り道になっても、五条大橋の上を駈けて行かなかったか。お通は、城太郎の勢いにつり込まれたので仕方がないにしても、城太郎が一歩を誤った|禍《わざわ》いは、決して、この時、彼女がまたしても武蔵と行き会えなかったという遺憾ばかりには|止《とど》まらない。
城太郎の元気な足の前には、河も山もあったものではないが、春の晴着を|装《よそお》っているお通には、すぐ眼のまえに現われた|幾《いく》|条《すじ》もの加茂の水に、はた[#「はた」に傍点]と困った。
もう武蔵の影は、どこにも見えないのであったが、彼女は、跳べない流れを見ると思わず、死に別れた者が間際にさけぶように、
「武蔵さまあっ」
――すると、それへ向って、
「おうっ」
と答えた者がある。
小舟の|苫《とま》をばらばらと払い|退《の》けて、そこに突っ立ったお杉隠居であった。
お通は、なんの気なく、それへ振向くと共に、
「――きゃっ!」
顔をおおって逃げ走った。
隠居の白い髪が風に立った。
「お通|阿女《あま》っ」
次のことばは、老婆の極度に揚げた息のために、声が|挫《ひし》げて、
「用があるッ、待たっしゃれっ」
つんざくように水へ響いた。
お杉隠居の邪推からこの場合の結果を判断すれば、こういう風にはなはだしく悪くとったかも知れない。
武蔵が自分へ|苫《とま》をかぶせたのは、お通とここで逢曳きする約束があったからにちがいない。その上の|痴《ち》|話《わ》が何かにこじれて、武蔵が女を振切って去ったので、お通|阿女《あま》は泣き声をしぼって男を呼び返しているのだろう。
(そうだ)
と咄嗟に、自分の思うことをこの老婆は、すぐ自分だけで事実としてしまう。
(憎い|阿女《あま》)
武蔵以上の憎しみを、お杉はお通へ抱くのであった。
まだ約束だけで家にも入れないうちから、息子の嫁は自分の嫁のように思い、息子が嫌われたことは、自分が嫌われたことのように|憤《いきどお》ったり、怨みに思う|老婆《としより》だった。
「待たぬかっ」
ふた声目のさけびが聞えた時は、この隠居が、さながら口を耳まで裂いたかと思われる形相で、風の中を走っている時だった。
おどろいた城太郎が、
「な、なんだ、この婆」
つかみかかると、
「邪魔なっ」
と、弾力はないが、怖ろしく固い力で|刎《は》ね|退《の》ける。
いったいこのお婆さんが何者なのか――なんのためにお通があんなに驚いて逃げたのか――城太郎にはまるでわからない。
わからないが、しかし事態の|凡《ただ》|事《ごと》でないことだけは感じる。それに、宮本武蔵の一の弟子、青木城太郎ともあるものが、老婆の|細《ほそ》|肱《ひじ》に刎ねとばされて引っ込んでいられたものではあるまい。
「ばばッ、やったな」
――もう二、三間も先へ行くお杉隠居のうしろから、いきなり跳びついてかかると、婆は孫の首根ッこをつかんで仕置する時のように、左の腕の中に城太郎の|顎《あご》を引っかけ、三つ四つ、ぴしゃぴしゃ|撲叩《はた》いて、
「餓鬼のくせに、邪魔だてするとこうだぞよ、こうだぞよ」
「カ、カ、カ……」
|喉《のど》の骨を伸ばしたまま、城太郎は、木剣の|柄《つか》を握ることだけは握っていた。
かなしいにせよ、辛いにせよ、人はどう見るか知れないが、お通自身にとれば、今の心の置き方は、またその生活は、決して不幸なものでなかった。
希望もあれば、その日その日の楽しさもある若い日の花園だった。もちろん辛いとか悲しいとかのことの多い中にではあるけれど、辛いこと、悲しいことを離れて、ただ楽しいだけの楽しさなどあろうとは、彼女には信じられない。
けれど今日ばかりは、彼女のそうして持ち堪えてきた心も|亡《ほろ》んでしまいそうだった。今までの純真な心へ、ま二つの|亀裂《ひび》が走ったかと自分ですら悲しまれた。
――朱実と武蔵と。
あのふたりが五条の|欄《おばしま》で人目もなく並んでいたのを遠くから見たせつな、お通は、足がふるえてしまった。あやうく、|眩《めま》いがして倒れかけたので、牛車の蔭にかがみ込んでしまったのである。
――なぜ今朝、ここへ来たろうか。
悔いても泣いても及ばない程に思って、短い間に、すぐ死を考えてみたり、男性が嘘のかたまりに思われたり、憎しみと愛と、怒りと悲しみと、自分という人間にすら|嫌《けん》|厭《えん》がわいて、泣いたぐらいでは、心の|慟《どう》|哭《こく》がおさまらなかった。
でも。
武蔵のそばに、朱実のすがたがあるうちは、自分を主張できないお通であった。もの狂わしいほど、体じゅうの血しおが嫉妬の火と変じながら、なお理性の幾分かが、
――はしたない。
と、必死にたしなめて、
――冷たく、冷たく、冷たく。
と、自己の行為しようとする意思を、みなふだんの女の修養というものの下へじっと抑えつけてしまうのだった。
しかし、朱実が去ると、彼女はもうそういう|怺《こら》えはかなぐり捨てた。武蔵へ向って、いうつもりであった。どういうことをいおうなどと考えている|遑《いとま》はもとよりなかったが、胸のうちのものをみんないうつもりであった。
人生の道はいつも、一歩が機微である。また、なにかの場合に、ふだんの常識さえあれば、分りきっていることを、ふと、心へ間違いを映しとってしまうためにその一歩が、十年のまちがいになったりする。
武蔵の影を見失ったために、お通は、お杉隠居に出会ってしまった。元日なのに、きょうはなんという|凶《わる》い日か、彼女の花園には蛇ばかりが出た。
――夢中で彼女は三、四町ほど逃げた。ふだんでも、怖い夢を見たと思うと、その中にはきっと、お杉の顔があった。その顔が、夢でもなく、追って来るのである。
息がつづかなくなった。
お通は振向いてみた。
ほっとその途端に初めて|呼吸《いき》が休んだのである。お杉隠居は、半町ほど後ろで、城太郎の首をしめて、立ちどまっている。城太郎はまた、必死になって、打たれても、振廻されても、しがみついて離さない。
今に城太郎が、腰の木剣を抜くかもしれない――必然やるだろう。そうすれば、隠居も|刃《やいば》を抜いて応じるにちがいない。
お通は、あの|老婆《としより》の、物に|仮借《かしゃく》しない気質を、身に沁みて知っている。悪くすれば斬り捨てられる城太郎かも知れないと思う。
「アア、どうしよう」
ここはもう七条の|河《かわ》|下《しも》である。|堤《どて》のうえを仰いでも人は見えなかった。
城太郎は救いたいし、お杉隠居のそばへ寄るのは怖ろしいし、彼女はうろうろするよりほかなかった。
「くそ、くそばば」
城太郎は、木剣を抜いた。
木剣は抜いたがさて、自分の首根ッこは、隠居の|腋《わき》の下へつよく抱え込まれ、これはいくらもがいても離れないのだ。いたずらに、地を蹴ってみたり、|空《くう》を打ってみたり、暴れるほど、敵を誇らせるに過ぎないのである。
「この|童《わっぱ》が、なんの芸じゃ、蛙の|真《ま》|似《ね》|事《ごと》かよ」
隠居は、三つ|唇《くち》のように見える長い前歯に、勝ち誇った強味をみせて、なお、ぐいぐいと河原を引き|摺《ず》って前へ歩いて来たが、
(待てよ)
|彼方《か な た》に立ちどまっているお通の姿を見てから、急に、|老婆《としより》らしい|狡《こう》|智《ち》を思いついて、胸のうちでそう呟いた。
隠居が思うには、これはどうもまずい。老婆の脚で追いかけたり、力ずくで争っているから|埒《らち》があかないというものである。武蔵のような相手では、|騙《だま》しも|利《き》かないが、この相手は甘やかせば甘やかせる女子供、舌の先でくるめておいて、後でいいように料理してしまうに|如《し》くはない。
で――隠居は|遽《にわか》に、
「お通よ、お通よ」
手をあげて、|彼方《か な た》の姿を、さしまねいた。
「――のう、お通|阿女《あま》よ、なんで|汝《わ》れは、ばばの姿を見るとそのように逃げるのじゃ。以前、三日月茶屋でもそうじゃったが、今も、わしを鬼かのように、すぐ逃げなさる。――その心得が、そもそも|解《げ》せぬというもの。この婆の心底がわからぬかいの。そなたの思い違いじゃ、疑心暗鬼じゃ、ばばは決して、そなたなどに害意は持たぬ」
そう聞くと、彼方に立っているお通はまだ疑わしげな顔していたが、隠居の|腋《わき》の下から城太郎が、
「ほんとかい、ほんとかい、おばば」
「オオ、あの|娘《こ》は、この婆の心を、思い違えているらしい。……ただ|怖《こわ》い人間のように」
「じゃあ、おいらが、お通さんを呼んで来るから、この手を、離してくれ」
「おっと、そんなこというて手を離したら、この婆へ木剣をくれて、逃げる気であろうが」
「そんな卑怯なまね、するもんか。お互いに、思い違いで喧嘩しちゃ、つまらないからさ」
「では、お通|阿女《あま》のそばへ行ってこういうて来う――本位田の隠居はの、旅先で、河原の|権《ごん》叔父とも死に分れ、白骨を腰に負うて、老い先ない身をこうして旅にまかせているが、今では、むかしと違うて、気も|萎《な》えた。一時は、お通の心も恨みと思うたが、今ではさらさらそんな気もない。……武蔵には知らぬこと、お通|阿女《あま》は今も嫁のように思うているのじゃ。元の縁へ返ってくれとはいわぬが、せめては、このばばの過ぎ越し方の愚痴や、この先の相談事でも聞いておくれる気はないか。このばばを、あわれな者とは思っておくれぬかと……」
「おばば、そんなに文句が長いと、覚えきれないよ」
「それだけでよい」
「じゃ、離しておくれ」
「よう、いうのじゃぞ」
「わかった」
城太郎は、お通のそばへ、駈けて行った。そして、隠居のことばをそのまま、彼女に伝えているらしかった。
「…………」
お杉隠居は、わざと見ない振りをして、河原の岩に腰を下ろした。|汀《みぎわ》の浅瀬に、小さな魚の群れが、のどかな魚紋を描いている。
(来るか? 来ないか?)
と、お通の様子を、隠居は、その魚の影より|迅《はや》い光で、横目に注意していた。
お通は、疑いぶかく、容易に近づいて来なかったが、城太郎が、頻りといったのであろう、やがて|怖《こわ》|々《ごわ》お杉隠居のほうへ歩いて来た。
心のうちで、隠居は、
(もうこっちのもの)
と、思ったことであろう。長い前歯を唇にほころばせて、にたりと笑った。
「お通」
「……おばば様」
お通は、河原へかがみ込んで、老婆の足もとへ指をついた。
「ゆるして下さい……ゆるして下さい……もう今となっては、なにも、いい訳はいたしませぬ」
「なんのいのう」
お杉隠居のことばは、むかしのように優しく聞えた。
「元々、又八めが悪いのじゃ。いつまでもそなたの心変りを恨んでいようぞ。このばばも、一時は、憎い嫁とも思うたが、もう、心では水にながしている」
「では、かんにんして下さいますか。わたしのわがままを」
「……じゃが」
隠居は、ことばを濁して、彼女とともに、河原へしゃがみ込んだ。お通は、川砂を指でほじくっていた。冷たい砂の表面を掻き掘ると、その穴から、|浸《しん》|々《しん》と、|温《ぬる》い春の水が湧いて出た。
「そのことは、母のわしから答えてもよいがの。ともあれ、又八という者と、いったんは|許嫁《いいなずけ》であったそなた、いちど、|伜《せがれ》に会うておくれぬか。元より、伜の好きで、おぬしをほかの|女《おな》|子《ご》に|見《み》|替《か》えたことじゃ。今さら、より[#「より」に傍点]をもどせともいうまいし、いうたとて、このばばが、そのような|得《え》|手《て》|勝《かっ》|手《て》、承知することじゃないほどに」
「……え、え」
「どうじゃ、お通、会っておくれるか。そなたと、又八と並べておいて、このばばから、きっぱりと伜にいい渡そうではないか。――さすれば、意見の一つもいうて、このばばの、母としての役目もすむ。立場も立つ」
「はい……」
きれいな川砂の中から、|蟹《かに》の子が這い出して、春の日を|眩《まぶ》しげに石の蔭へかくれこんだ。
城太郎は、蟹をつまんで、お杉隠居のうしろへ廻り、隠居の小さい|髷《まげ》のうえに落した。
「……でも、ばば様、今となってはかえって、又八さんに会わないほうが」
「わしが側について会うのじゃ。会うて、きっぱりしておいた方が、そなたの|後《のち》|々《のち》のためにもよかろうが」
「……ですけれど」
「そうしやい。わしは、そなたの|後《のち》のためも思うてすすめまする」
「それにしても、又八さんは、今どこにいるのか、分らないではございませぬか。おばば様は、|居所《いどころ》をごぞんじなのでございますか」
「すぐ……わかる……わかるつもりじゃ。なぜならば、つい先頃、大坂表で会うているのじゃ。また、いつもの|気《き》ままが出て、わしを振捨てて住吉から|去《い》んでしもうたが、あの子も、後では悔いて、きっとこの京都あたりに、ばばの後を追うていると思いまする」
お通は、そう聞くと、急に、不気味な気もちに襲われた。それだけに、お杉隠居のすすめることばが、道理のように思われるし、また急に、この息子にめぐまれない|老婆《としより》に、いとしさがこみあげて来て、
「おばば様、ではわたしもご一緒に、又八さんを捜しておあげいたしましょう」
お杉は、砂をいじっている彼女の冷たい手を握りしめ、
「ほんにかいの?」
「ええ。……ええ」
「では、ともあれ、わしの|旅舎《やど》まで来ておくりゃれ。……ア、ア」
お杉隠居は、そういって起ちかけながら、襟くびへ手をやって、|蟹《かに》をつかんだ。
「ええ、なんじゃと思えば、いやらしい」
隠居が身ぶるいしながら、指先へブラ下がった小蟹を振り飛ばした様子のおかしさに、城太郎は、お通のうしろで、クスリと口を抑えた。
隠居は、気づいて、
「|汝《われ》か、|悪戯《いたずら》したのは」
と、白い眼で、城太郎をねめつける。
「おいらじゃない。おいらのせいじゃないよ」
城太郎は、|堤《どて》の上へ逃げた。
そして上から、
「お通さん――」
「なあに」
「お通さんは、おばばの|旅舎《やど》へ一緒に行くの?」
お通が返辞をしないうちに、隠居がいった。
「そうじゃ、わしの|旅舎《やど》はすぐそこの三年坂の下、いつも京都に来ればそこに|定《き》めてある。|汝《われ》には、用もないから、何処へなと、帰るなら帰るがええ」
「アア、おいらは、烏丸のおやしきへ先へ帰っているぜ。お通さんも、用がすんだらはやく帰っておいで」
先へ走りかけると、お通は、急に心細くなったものか、
「お待ち、城太さん」
河原から上がって、彼を追うと、お杉隠居も、もしお通が逃げる|心《つもり》ではないかと|狼狽《あ わ て》だしたように、すぐ後ろから駈け上がってゆく。
そのわずかな間に、二人は、話し合った。
「ネ、城太さん、こんなわけになって、私はあのおばば様と、|旅舎《やど》へ行きますけれど、暇を見て、ちょいちょい烏丸様の方へも帰りますから、お|館《やかた》の人たちにそういって、お前は当分、あそこのご厄介になって、私の用事の片づくのを待っていて下さい」
「アア、いつまでも、待っているよ」
「そして……その間に、私も心がけるけれど、武蔵様のいらっしゃる所をさがしてくれません? ……お願いだから」
「いやだぜ、さがし当てるとまた、牛車の蔭へかくれて出て来ないんじゃないか。……だから|先刻《さ っ き》、いわないこッちゃないんだ」
「わたしはお馬鹿ね」
お杉隠居は、すぐ後から来て、二人の間へ入ってしまった。隠居のことばを信じぬいているにしても、お通は、この|老婆《としより》の側では、武蔵のうわさは、おくびに出しても悪いような気がして、自然に口をつぐんでしまう。
|和《なご》やかに肩をならべて歩いても、お杉隠居の針のように細い眼は、絶えずお通へ油断のない光を配っていた。今では、|姑《しゅうとめ》 とよぶ人でないまでも、お通は、窮屈な感じに身を締められた。――しかし、それ以上の複雑な|老婆《としより》の狡智と、自分の前に横たわりかけている危ない運命を|観《み》ぬくことは出来ないらしい。
以前の五条大橋の|畔《ほとり》まで戻ってくると、ここはもう元日の織るが如き人通りとなっていて、陽もうらうらと柳や梅の上に高い。
「武蔵、はてな」
「――武蔵などという兵法者がいるかしらて」
「聞いたこともないが」
「だが、吉岡を相手に、この通り、晴がましい試合をする程だから、相当な兵法者には違いない」
高札の前は、明け方にまさる人だかりだった。
お通は、ぎくとして、立ち|竦《すく》んだ。
お杉隠居も、城太郎もそれをながめていた。魚の渦のように、群衆は武蔵武蔵という|囁《ささや》きをのこしながら、去っては来、来ては流れ去ってゆく。
風の巻
|枯《かれ》|野《の》|見《み》
丹波街道の|長《なが》|坂《さか》|口《ぐち》は、指さして|彼方《か な た》に望むことができる。並木越しに、白い|電光《いなずま》かのように眼を射るのは、その丹波境の標高で、また、京都の西北の郊外を囲っている山々の|襞《ひだ》をなしている残雪だった。
「火を|放《つ》けろ」
と誰かいう。
春先なのだ。まだ正月の九日という日である。|衣《きぬ》|笠《がさ》のふき|颪《おろし》は、|小禽《こ と り》の肌には寒すぎた。チチチチチ野に啼く声も|稚《おさな》く聞えて耳に寒い。人々は、|鞘《さや》の中の刀から腰の冷えて来る心地がした。
「よく燃えるな」
「火が飛ぶぞ、気をつけぬと、野火になる」
「案じ給うな。いくら燃え拡がっても、京都中は焼けッこない」
枯れ野の一端に|放《つ》けた火は、音を立てて、四十人以上もいる人々の顔を|焦《こが》した。焔は、朝の太陽へ、背を伸ばして、届きそうにまでなった。
「あつい、あつい」
と今度は|呟《つぶや》く。
「もうよせ」
草を投げる者へ向って、植田良平が、煙たい顔して叱った。
そんなことをしている間に|半《はん》|刻《とき》は経っていた。
「もうやがて、|卯《う》の|刻《こく》過ぎじゃないかな」
誰かいい出して、
「さよう?」
期せずしてみなの眉が、陽を仰いでみる。
「卯の下刻。――もはやその時刻だが」
「どうしたろう、若先生は」
「もう来る」
「そうさ、来る頃だ」
なにか緊迫してくるものを|各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《めいめい》が顔に|湛《たた》え出した。自然とそれが人々を無口にさせた。誰の眼も一様に、そこから|街端《まちはず》れの街道を眺めて、|生《なま》|唾《つば》を溜めて待ちしびれている様子に見える。
「どうなされたのだろう?」
のろま[#「のろま」に傍点]な声をして、どこかで牛が長く啼いた。ここは元、禁裏のお|牛《うし》|場《ば》で、|乳牛院《にゅうぎゅういん》の跡とも呼ばれていた。今でも、野放しの牛がいるとみえ、陽が高くなると、枯れ草と|糞《ふん》のにおいが蒸れて来るのである。
「――もう|武蔵《む さ し》は、|蓮《れん》|台《だい》|寺《じ》|野《の》のほうへ来ていやしないか」
「来てるかもしれん」
「誰か、ちょっと、見て来ないか。――蓮台寺野とこことは、五町ほどの距離しかあるまい」
「武蔵の様子をか」
「そうだ」
「…………」
すぐ行こうといって出る者もない。煙の蔭にみな|煤《いぶ》ったい顔をして沈黙した。
「――でも、若先生は、蓮台寺野へ出向かれる前に、ここでお支度をして行くという手筈になっているのだからな。もう少し、待ってみようじゃないか」
「それは、間違いのない手筈なのか」
「植田殿が、ゆうべ若先生から、|確《しか》といい渡されたことだ。よも間違いはあるまい」
植田良平は、そういう同門の者のことばを裏書して、
「その通りだ。――武蔵はもう約束の場所へ、先に来ているかも知れないが、敵を|焦立《い ら だ》たせようという清十郎先生のお考えで、わざと、遅刻しているのかも知れない。門下の者が、|下手《へた》に動いて、助太刀したなどと評判されては、吉岡一門の大きな名折れだ。相手は|多《た》|寡《か》の知れた|牢《ろう》|人《にん》武蔵ひとり。静かにしていよう。若先生が颯爽とここへ見えられるまで、林のように、我々は、静観していることだ」
その朝。
この乳牛院の原へ、寄るともなく集まった者たちは、勿論、数から見ても、吉岡門下のほんの一部の人々に過ぎなかったが、その顔ぶれの中には、例の植田良平がいるし、京流の十剣と自称している高弟組の半分は見えているから、まず四条道場の中堅どころは、|出《で》|張《ば》っているといってもさしつかえない。
師の清十郎は、ゆうべ、
(助太刀の事、かたく無用)
と、これは誰へも同様にいい渡したことらしかった。
また、門下のすべての者は、きょうの師の相手である武蔵という者を、決して、
(|多《た》|寡《か》の知れた相手)
とは軽視していなかったが、そうかといって、師の清十郎が、たやすく彼に敗れようなどとは、どうしても考えられないのであった。
(勝つに決まっているが)
という考えの上に、万が一にもという常識を乗せているのである。それにまた、五条大橋へ高札を掲げたりして、きょうの試合を公開した手前、吉岡一門の威容を張って、かたがた、清十郎の名を、この際、大いに晴れがましく世間へ喧伝させたいという――門下の者としては当然な|力瘤《ちからこぶ》も入れる気になって、試合場所の蓮台寺野からそう遠くないこの原にかたまり、やがてここへ立寄るはずの吉岡清十郎を待ちわびているのだった。
ところで――
その清十郎はどうしたのか、いっこう姿が見えないのである。
卯の下刻は、陽あしを見ても、もう迫っている。
「おかしいなあ?」
ここでは、三十余名の者が、そう呟きだして、植田良平の|諭《さと》す静観の態度もすこしだれ[#「だれ」に傍点]気味になっていると、この乳牛院の原の一群を見て、きょうの試合の場所を、ここと思い違えた群衆がまた、
「どうしたのだ、試合はいったい」
「吉岡清十郎は、どこに来ている?」
「まだ見えんが」
「武蔵とやらは」
「それもまだ来ていないらしい」
「あの侍衆は、何か」
「あれは、どっちかの、助太刀だろう」
「なんのこった、助太刀だけが来て、かんじんな、武蔵も清十郎も来ないとは」
人のいるところへ、人は|殖《ふ》えて来るのだった。
後から後からと、弥次馬はここへたかって来る。そして、
「まだか」
「まだか」
「どれが武蔵?」
「どれが清十郎で」
と、ざわ声を立てている。
さすがに、吉岡門下の一かたまりが見える附近へは立ち入って来ないが、乳牛院の原の|彼方《あ な た》|此方《こ な た》には、|萱《かや》のあいだや樹の枝にまで、人の頭が、無数に見えた。
――その中を、城太郎は歩いていた。
例の体より大きな木剣を横たえて、足よりも大きな|藁《わら》|草履《ぞ う り》を|履《は》いて、乾いた土のうえをボクボクと|埃《ほこり》を立てて歩きながら、
「いないな、いないな」
と、人の顔をキョロキョロ物色しながら、この広い原のまわりを|周《めぐ》って歩いてゆく。
「――どうしたんだろ? お通さんは、きょうのことを、知らないはずはないのになあ。……あれから烏丸様のお|館《やかた》へも、いちども来ないし」
彼のさがしているのは、武蔵よりも先ず、その武蔵の勝敗を案じて、きっと、今日ここへ来ていなければならないはずの、お通の姿であった。
小指に|怪《け》|我《が》をしてもすぐ蒼くなるくせに、女は、案外、残忍なことだの血を見ることに、男とは違った興味をそそられるものらしい。
きょうの試合は、とにかく、|京洛中《きょうらくじゅう》の耳と眼をそばだたせている。それを見ようとして来ている雑沓のうちには、かなり女の姿があった。数人で、手をつないで歩いて来る女たちさえあった。
けれど、その女の中に、お通のすがたは、いくら捜しても見当らなかった。
「変だなあ」
城太郎は野のまわりを、くたびれるほど歩いた。
(もしかしたら、あの日から――五条大橋でわかれた元日から――病気でもしているんじゃないかしら?)
そんな臆測を描いてみたり、なお突きすすめて、
「お杉|婆《ばば》は、あんな巧いことをいっていたけれど、お通さんを|騙《だま》くらかして、どうかしているのかも知れないぞ? ……」
彼は、そう考えると、不安で不安でたまらなくなった。
その心配さ加減は、きょうの試合の結果がどうなるかというどころの比ではない。城太郎は、きょうの勝負を、少しも心配にはしていなかった。
野を|繞《めぐ》って、それを待っている数千の見物人が、すべてといってよいほど、吉岡清十郎の勝ちを信じているように、城太郎ひとりは、
(お師匠さまが勝つ!)
と、信じて疑わないのであった。
|大和《や ま と》の|般《はん》|若《にゃ》|野《の》で、宝蔵院衆のたくさんな槍を相手にまわして闘った時の武蔵のたのもしい姿を、彼は、ここでも頭にえがいて、
(負けるものか、みんな|蒐《かか》っても――)
と、乳牛院の原に|屯《たむろ》している吉岡方の門人まで、敵の数に入れて、なおかつ、堅く武蔵の腕に信頼を持っていた。
――だから、そのほうにはなんの取り越し苦労もしていないが、お通の来ていないことは、彼を|落胆《がっかり》させた程度でなく、なにか、お通の身の上に、|凶《わる》い事が起っているような胸騒ぎを駆りたててくる。
彼女が――
五条大橋からお杉隠居に従って別れてゆく時、
(暇を見ては、わたしも、烏丸様のお|館《やかた》へ行きますからね。城太さんは、当分、お館におねがいして、あそこに泊っておいでなさいね)
そういった。
たしかに、そういった。
だのに――あれから|今朝《けさ》で九日目――そのあいだの正月の三ガ日にも、七くさにも、ついにいちども、お通は訪ねて来なかったではないか。
(どうしたんだろう?)
という城太郎の不安は、もう二、三日前から持ち越して来ているものであった。それも今朝、ここへ来るまでは、一|縷《る》の望みをつないでいたのであったが――
「…………」
ぽつねんと、城太郎は、原の真ン中をながめていた。|焚《たき》|火《び》のけむりを囲んでいる吉岡の門人は、遠方から数千人の見物の眼につつまれて、物々しげにかたまってはいるが、まだ清十郎の来ないせいか、なんとなく、気勢が|昂《あが》っていない。
「おかしいなあ、高札には蓮台寺野とあったのに。試合|場《ば》はここかしら?」
誰もみな不審がらないでいる点を、城太郎だけが、ふと不審に感じ出していた。すると、彼の左右をながれて行く人混みのあいだから、
「わっぱ。――こら、こら、それへ参る|童《わっぱ》」
と、横柄に誰か呼ぶ。
見ると、それは城太郎にも覚えのある――つい八日前の元日の朝――五条大橋のたもとで、|朱《あけ》|実《み》と|囁《ささや》いていた武蔵へ向い、人をばかにしたような大笑いを捨てて去った佐々木小次郎であった。
「なんだい、おじさん」
一度でも顔を見ているだけに、城太郎は、馴々しくいう。
小次郎は、彼のそばへ寄って来た。なにかものをいう前に、先に足もとから頭へ、じろりと眸を上げるのが、この若者のくせであった。
「いつぞや、五条で会ったことがあるな」
「おじさんも、覚えていたかい」
「おまえは、女の人と一緒だったね」
「アアお通さんと」
「お通さんというのか、あの|女《ひと》は――。武蔵と、なにか縁故のある者か」
「あるんだろ」
「|従《い》|兄《と》|妹《こ》か」
「ううん」
「妹か」
「ううん」
「じゃあ、なんだ」
「すきなんだよ」
「誰が」
「お通さんが、おいらの、お師匠様を」
「恋人か」
「……だろう?」
「すると、武蔵はおまえの先生というわけか」
「うん」
これは、明確に、誇りをもって、うなずいた。
「ははあ、それで今日も、ここへ来たのだな。――しかし、清十郎のほうも、武蔵のほうも、まだ姿が見えぬというて、見物が気をもんでいるが、おまえは知っているだろう、武蔵はもう、|旅宿《やど》から出かけたろうな」
「知らないよ、おいらも、捜しているんだもの」
後ろから二、三名、ばらばらと駈けて来る跫音がした。小次郎の鷹に似ている眼はすぐそれへ振向いた。
「や、それにおられるのは、佐々木殿ではないか」
「オ、植田良平」
「どうしたんです」
良平は、そばへ来て、捕まえるように、小次郎の手をにぎった。
「|年暮《くれ》から、ふっと、道場へお帰りがないので、若先生も、どうしたのかと口癖に申していました」
「ほかの日には帰らなくても、今日さえ、ここへ来れば、それでよいのだろうが」
「ま、とにかく、あちらまでお越しを」
と、良平や他の門下たちは、|態《てい》よく彼を取りかこんで、自分たちの|屯《たむろ》している原の中ほどへ、引込むように、|伴《つ》れて行った。
大刀を背に負っている小次郎の派手な身仕度を、遠くから見つけると、見物の眼はすぐ、
「武蔵、武蔵」
「武蔵が来た」
と、ささやき合った。
「ホ、あれか」
「あれだ――宮本武蔵は」
「ふうむ……たいそう|伊達《だて》|者《しゃ》だな、だが、弱くはなさそうだ」
取り残された顔つきの城太郎は、辺りの大人たちが真顔になってそれを受けとっているので、
「ちがうよ、ちがうよ、武蔵様はあんな人だもんか、あんな|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》の若衆みたいなかっこうをしているもんか」
むき[#「むき」に傍点]になってその|誤謬《ごびゅう》を正していた。
彼の訂正の届かない所にいる見物たちも、やがて、様子を見ていると、どうもそれらしくないことに気づいて、
「はてな?」
と、首をかしげはじめる。
原の真ン中へ出て行った小次郎は、そこに立つと、吉岡門下の四十名ばかりの者を、例の高慢な態度で見くだして、なにか|演《えん》|舌《ぜつ》しているらしいのである。
「…………」
植田良平以下、|御《み》|池《いけ》十郎左衛門だの|太田黒兵助《おおたぐろひょうすけ》だの、|南《なん》|保《ぽう》余一兵衛、小橋|蔵人《くらんど》などとよぶ十剣の人たちは、その演舌が気にくわない顔つきで、むっと黙りこくったまま小次郎のよくうごく|唇《くち》元を怖い眼をして見つめているのであった。
そこで、佐々木小次郎が、一同へ向って、演舌していうことには、
「まだここへ、武蔵も清十郎も来ないというのは、吉岡家の|天《てん》|佑《ゆう》ですぞ。諸氏はよろしく、手わけをして、清十郎どのがここへ来ぬうち、はやく途中から道場へ連れてお帰りなされ」
それだけでも、吉岡方の人たちを激昂させるに十分であるのに、その上にまた、
「わしのこの言葉は、清十郎どのへ対して、無二の助太刀でござりますぞ。この言葉以上の助太刀がどこにあろう。わしは、吉岡家にとって、天来の予言者だ。はっきりと、予言しておく。――やれば、清十郎どのは、気の毒だがきっと|敗《ま》ける。武蔵という者のために、きっと|生命《い の ち》をとられる」
かりそめにも吉岡門の人間として、これが、いい顔をして聞いていられるはずはない。植田良平の如きは、土気いろになって、小次郎をねめつけていた。
十剣の中の御池十郎左衛門は、我慢がならなくなったのであろう、小次郎がまだなにかいおうとする胸元へ、ぐっと自分の胸を寄せて行って、
「なにをいうのか、貴様は」
右手の|肱《ひじ》を、顔と顔のあいだへあげたのは、いうまでもなく、居合の身がまえで、手練の一|颯《さつ》を見せようかという意思の表示である。
ニコと、小次郎は|笑靨《え く ぼ》をこしらえてそれを眺めた。ずんと|上《うわ》|背丈《ぜい》があるので、笑靨までが高慢に人を見下げて見えるのだった。
「お気にさわったか」
「あたりまえだ」
「それは失礼」
軽くかわして――
「では、助太刀はしないことにしよう。気ままになされというほかはない」
「た、たれが、汝ごときに、助太刀を頼もうや」
「そうでもありますまい。|毛馬堤《けまづつみ》からわしを四条の道場へ迎えてゆき、あんなに、わしの機嫌をとったではないか。|其《そこ》|許《もと》たちも、清十郎どのも」
「それは、ただ客として、礼を与えたまでのこと。……思い上がったやつだ」
「ハハハハ、よそう、ここでまた、|其《そこ》|許《もと》たちと、試合の飛び火をこしらえても始まるまい。だが、わしの予言を、後になって、涙で悔いの種になすまいぞ。――わしが眼をもって見くらべたところでは、清十郎殿には九分九厘まで勝目がない。この正月の一日の朝、五条大橋の|欄《らん》に武蔵という男を見かけ、その途端にこれはいけないと思ったのだ。……あの橋のたもとへ貴公たちの手で掲げた試合の高札が吉岡家の衰亡を自分で書いている|忌中札《きちゅうふだ》のようにわたしには見えたのだ。……だが、人間の|衰凋《すいちょう》は、その人間にはわからないのが世の常かもしれん」
「だ、だまれッ、貴様は、きょうの試合に対して、吉岡家へ、ケチをつけに来たのだな」
「人の好意すら、素直に受け取れなくなるということが、そもそも、衰運の人間のもつ根性だ。なんとでも思うがよい。|明日《あ し た》とはいわない。もうやがて一刻の後には、その眼がいやでも醒めずにいまい」
「いったな!」
険悪きわまる声が、|唾《つば》とともに、小次郎へ浴びせかけられた。怒りきった四十名からの人数が、一歩ずつうごいても、その殺気は、真っ黒に野原をおおうほどなものがある。
だが、小次郎は心得たものなのである。|逸《いち》はやく飛びのいて、売る喧嘩なら買ってもよいという血気が隠されなかった。せっかく、彼が自分で説いていた好意というものも、これでは怪しみたくなるようなものである。わるく解釈すれば、ここに集まった群衆心理を利用して、武蔵と清十郎との試合の人気を、自分が|攫《さら》ってしまうつもりでやっている仕事ではないかと取られても仕方がないほどにまで、小次郎の眼は、途端に、好戦的であった。
群衆が遠くからその様子をながめて、どよめき出したところであった。
その人混みを突きぬいて、一匹の小猿が、原へ向って、まるで|鞠《まり》でも転がすように跳んで行った。
小猿の前には、若い女が、これもまた、転ばんばかりの|迅《はや》さで、|見《み》|得《え》もなく、駈けて行くのが見える。
|朱《あけ》|実《み》であった。
吉岡門下の人々と、小次郎とのあいだに、すんでのこと、血でも見るかと思われた険悪な空気は、その朱実が、ふいに後ろからさけんだ言葉で掻き消された。
「小次郎様、小次郎様ッ。……どこですか、武蔵様のいるところは。……武蔵様はいませんか」
「……あ?」
小次郎が振向く。
吉岡方の、植田良平や、他の人々も、
「ヤ、朱実じゃないか」
と、つぶやいて、一瞬ではあったが、すべての者の眼と|怪訝《い ぶ か》りとが、彼女と小猿の姿にとらわれてしまった。
小次郎は叱るように、
「朱実、なんでお前はここへ来たのか。――来てはならんといっておいたはずだ」
「わたしの体です。来ては悪いのですか」
「いけないッ」
朱実の肩をかるく突いて、
「帰れ」
小次郎のいう言葉を、彼女は息を|喘《き》りながら烈しく顔を横に振って拒んだ。
「いやです。――私は|貴方《あ な た》のお世話にはなりましたが、貴方の女ではないでしょう。……それを」
急に、朱実は、声をつまらせてしゃくり[#「しゃくり」に傍点]上げた。あわれっぽい|嗚《お》|咽《えつ》に、男たちの|荒《すさ》びていた感情が水をかけられたような気がしたと思うと、その気持を裏切って、朱実の次のことばは、男性のどんな場合のものよりも強い血相をふくんでいた。
「それを、なんですか、あなたは私を|数《ず》|珠《ず》|屋《や》の二階に縛りつけたりなどしてッ。――わたしが、武蔵様のことを心配すると、あなたは、わたしを憎いように|苛《いじ》めて来たではありませんか。……その上……その上……きょうの試合には、きっと、武蔵は討たれるだろう、わしも、吉岡清十郎には義理があるから、よしや清十郎が及ばなくても、助太刀して、武蔵を討ってしまわなければならぬ。……そういって、ゆうべから泣き明していた私を、数珠屋の二階に縛りつけて、あなたは今朝、出て行ったのではありませんか」
「……気が|狂《ちが》ったか、朱実、大勢の人中だぞ、青空の下だぞ、なにをいうのか」
「いいます。気も|狂《ちが》いましょう、武蔵様は、わたしの心の中の人です。……その人が、なぶり殺しになるかと思えば、じっとしてはいられません。数珠屋の二階から、大きな声を出して、近所の人に来てもらい、わたしの体の|縛《いまし》めを解いてもらって駈けつけて来たのです。わたしは、武蔵様に会わなければならない。……武蔵様を出してください。武蔵様はどこにいますか」
「…………」
小次郎は、舌うちをして、彼女の凄まじい|饒舌《じょうぜつ》の前に黙ってしまった。
逆上していることは確かだが、朱実の口走っていることに嘘はないらしい。それが嘘でないとすると、小次郎という男は、この女性に温かい世話をかけながら、半面にはまた、この女性の心と体とを極端に|虐待《ぎゃくたい》して楽しんでいるのではないかと疑われる。
それを、人前で――しかもこうした場所で――|忌《き》|憚《たん》なく女の口から|暴《あば》かれたのでは、小次郎も、|間《ま》の悪いことはもちろんだし、むかむかと腹も立って、女の顔をじっと|睨《ね》めすえていた。
――すると。
いつも清十郎の供について歩く奉公人で、若党の|民《たみ》|八《はち》という男が、街道の並木からここへ鹿のように走って来て、手をあげながら呶鳴った。
「た、たいへんだッ、皆さん、来て、来てくださいッ。――若先生が、武蔵のために、やられました。や、やられました」
民八の絶叫は、一同の顔から血の気を奪ってしまった。足もとの大地がふいに陥没して行くような驚きを、
「な、なにっ?」
異口同音に口走って、
「若先生が――武蔵に?」
「ど、どこで」
「いつのまに」
「ほんとか、民八」
|上《う》わずったことばがめいめいの口から不統一に吐き散らされた。――しかし、ここへ立ち寄って身支度して行くといっていた清十郎が、ここへは姿を見せもせずに、もう武蔵と勝敗を決してしまったという民八の|報《し》らせは、なんだか、まだ|真実《ほ ん と》のような気がしない。
奉公人の民八は、
「早く、早く」
と、|呂《ろ》|律《れつ》のまわらない声をつづけながら、そこで息もやすまずに、元来た道のほうへ向って、また、のめるように駈け戻って行く。
半信半疑であったが、嘘や間違いとも思われないのである。植田良平や御池十郎左衛門などの四十余名は、
「すわ……」
と、民八の後につづき、野火の|焔《ほのお》を越えてゆく|獣《けもの》のような迅さで、|草埃《くさぼこり》を揚げながら、街道の並木へ出た。
その丹波街道を北へ向って、五町ほども走ってゆくと、また、並木の右手にわたって、|渺《びょう》としたまま、静かに、春先の陽に伏している広い枯野がある。
つぐみ[#「つぐみ」に傍点]や|鵙《もず》が、なんのこともないように啼いていたが、パッと空へ立った。――民八は、|気《き》|狂《ちが》いのように草の中へ駈け込んだ。そして、なにかの古塚の跡らしく|饅頭《まんじゅう》形に土の盛られている辺りまで来ると、
「若先生っ、若先生っ」
もういちど、ありったけな声をふり絞って、大地へしがみつくように膝を折った。
「……やっ?」
「お、お」
「若先生だ」
突き当った事実のまえに、後から駈けて来る足がみな釘付けになった。見ると、|藍《あい》|花《ばな》|染《ぞめ》の小袖に革のたすき[#「たすき」に傍点]をかけ、白い布で、|額《ひたい》から|後鬢《うしろびん》へ汗止めをきりっと締めている侍が、草の中に顔を埋めて、|俯《う》つ伏しているのである。
「――若先生」
「清十郎様っ」
「しっかりして下さいっ」
「われわれです」
「門下達でござる」
抱き起された頭は首すじの骨がくだけているように、ぶらんと重く|傾《かし》いでしまう。
白い汗止めの鉢巻には、一滴の血もついていなかった。|袂《たもと》にも、|袴《はかま》にも――辺りの草にも血らしいものはこぼれていない。けれど、眉も眼も苦しげに|塞《ふさ》いだまま、清十郎の唇は|野《の》|葡《ぶ》|萄《どう》のような色をしていた。
「……息は、息は、あるのか」
「かすかに」
「おいっ、た、たれかはやく若先生のからだを」
「|担《にな》うのか」
「そうだ」
ひとりが背を向けて、清十郎の右の手を肩にかけて立ち上がろうとすると、
「痛いっ……」
清十郎が苦悶して、叫んだ。
「戸板、戸板」
と、いいながら、三、四名の者が、並木を駈け出して行ったと思うと、やがて附近の民家から、雨戸を一枚外して持って来た。
清十郎の体は、戸板の上へ仰向けに寝かされた。|呼吸《いき》をふき|甦《かえ》してからというものは、苦痛にたえかねて暴れまわるので、やむなく、門下たちは帯を解いて、彼の体を戸板にしばりつけ、四隅を持って、葬式のように暗然とあるき出した。
戸板が割れるかと思うほど、清十郎は、その上で足をばたばたさせながら、
「武蔵は……武蔵はもう立ち去ったか。……ウウム、痛い。右の肩から腕の付け根だ。骨が、砕けたものとみえる。……ウウムたまらぬ。門人衆、右の腕を、付け根から斬り落してくれ。――斬れっ、誰か、わしの腕を斬れっ」
空へ眼をすえて、清十郎は|喚《わめ》きつづけていた。
あまり|怪《け》|我《が》|人《にん》が痛がるので、戸板の四隅を持って歩いてゆく門人たちは――殊にそれが師とよぶ人であるだけに、思わず眼を|反《そ》むけてしまう。
「御池殿、植田殿」
立ち淀みながら、その者たちは後ろを振向いて、先輩に|計《はか》った。
「あのように苦しがって、腕を斬れと仰っしゃるんですから、いっそのこと、斬って上げたほうがお楽になるんじゃありませんか」
「ばかをいえ」
良平も、十郎左衛門も、一言のもとに|叱《しか》りとばした。
「いくら痛んでも痛むだけなら|生命《い の ち》に別条はないが、腕を切って出血が止まらなかったら、そのままになってしまうかも分らない。とにかく、早く道場へお連れして、武蔵の木剣が、どの程度に打ちこんでいるものか、若先生が打たれたという右の肩骨をよく調べた上、腕を斬るなら、血止めや手当の用意をよくととのえておいてからでなければ斬れん。――そうだ、誰か、先に駈けて行って、道場のほうへ、医者を呼んでおけ」
二、三名が、その支度に先へ駈け出して行った。
街道の方を見ると、並木の松の|間々《あいだあいだ》に、乳牛院の原の方から慕って来た群衆が、蛾のように並んで、こっちをながめている。
それもまた、|忌《いま》|々《いま》しいものの一つだった。植田良平は、ただ暗い顔をして黙々と戸板の後に|尾《つ》いてゆく人々へ、
「各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、先へ行って、あいつらを追っ払ってくれ。若先生のこのすがたを、弥次馬どもの見世物に|曝《さら》して歩けるか」
「よしっ」
|鬱《うっ》|憤《ぷん》のやり場をそこに見つけたように、門下達のおおかたの人数が、血相を向けて駈け出したので、敏感な群衆は、|蝗《いなご》が散るように、|埃《ほこり》を上げて逃げ出した。
「民八」
と良平はまた、|主人《あ る じ》の戸板のそばに付いて泣きながら歩いている奉公人の民八をつかまえて、
「ちょっと、こっちへ来い」
と、彼へも鬱憤を向けて、|咎《とが》めるように問い|糺《ただ》した。
「な、なんですか」
民八は、植田良平の恐い眼を見て、歯の根のあわない声を出した。
「貴様は、四条の道場を出る時から、若先生のお供をして出たのか」
「はい、さ、さようでございます」
「若先生は、どこで身支度をなさったのだ」
「この、蓮台寺野へ、来てからでございました」
「我々が乳牛院の原で、お待ちうけしていることを、若先生には、ご存じないはずはないのに、どうして、いきなりここへ|真《まっ》|直《すぐ》に来てしまったのか」
「手前には、なぜだか、一向にわかりません」
「武蔵は――先へここへ来ていたのか、若先生より、後から来たのか」
「先へ来て、あそこの、塚の前に立っていました」
「一人だな、先も」
「へい、一人でした」
「どう|試《し》|合《あ》ったのだ? 貴様は、ただ見ていたのか」
「若先生が、手前に向って、万一、武蔵に|敗《ま》けた時は、わしの骨はおまえが拾って行け。乳牛院の原には、明け方から門下たちが出張って騒いでいるが、武蔵との試合が決するまでは、あの者達へ、|報《し》らせに行ってはならんぞ――兵法者が、敗れをとるのは、時にとってぜひもないことだ。卑怯な振舞いして勝つほどの不名誉者にはなりたくない。――断じて、横から手出しはならんぞ――と、こう仰っしゃって、武蔵の前へすすんで行かれました」
「ふ……ウム、そして」
「武蔵の少し笑っている顔が、若先生の|背《せな》を越して、私の方に見えました。なにか静かに、二人は挨拶を交わしているなと思ううちに、するどい声が野に響きわたって、ハッと思う眼に、若先生の木剣が|空《くう》へ飛びあがったように見えますと、途端にもう、この広い野に突っ立っているのは、柿いろの鉢巻に、|鬢《びん》の毛をそそけ立てている武蔵の姿がひとつしか見えなかったのでございます――」
大風が掃いて行ったように、並木の道にはもう弥次馬の影も見えない。
清十郎の|呻《うめ》きを乗せた戸板の一群れは、敗旗を巻いて故山に帰るつかれた兵馬のように、|悄然《しょうぜん》と、怪我人の苦痛を気づかうような足なみで歩いて来た。
「……おや?」
ふと足を止めると、戸板を支えてゆく前の者が、自分の襟くびへ手をやった。後の者は、空を仰いだ。
戸板の上へも、ハラハラと松の枯れ葉がこぼれて来たのである。見ると、並木のこずえに、一匹の小猿が、キョトンとした眼を下へ向け、わざとのように、|尾《び》|籠《ろう》な姿態を示している。
「ア痛ッ」
仰向いた顔の一つへ、松の|実《み》が飛んで来たのである。顔を抑えて、
「ちくしょうッ」
その男が、|小《こ》|柄《づか》を投げた。小柄は、細やかな葉の隙間を光って通りぬけた。
口笛がどこかで鳴った。
小猿は、とんぼを打って、並木の樹蔭へ跳び下りた。そして、そこに|佇《たたず》んでいた佐々木小次郎の胸から肩の上へ、ヒョイと乗る。
「……オ!」
戸板をかこんでいる吉岡門下の人たちは、初めて、小次郎の姿と、もう一人の朱実をそこに見出したもののように、ギクと、眼の光を|革《あらた》めた。
「…………」
|担《たん》|架《か》のうえに横たわっている怪我人をじっと見ていたが、小次郎は決して、それへ向って嘲笑らしいものは|泛《うか》べてはいなかった。むしろ、|敬《けい》|虔《けん》な様子を示して、敗者の痛ましい|呻《うめ》きに眉をひそめたほどであったが、吉岡門下の人たちは、さっきの彼のことばをすぐ思い出して、
(|嗤《わら》いに来たな)
と、感じたらしいのである。
植田良平か誰かが、
「――猿だッ、人間でない奴の|仕《し》|業《わざ》だ、相手にするな、早くやれ」
戸板を|促《うなが》すと、
「しばらく」
駈け出して来たかと思うと、小次郎はいきなり戸板の上の清十郎へ向って、話しかけた。
「――どうしたッ、清十郎殿、――武蔵めにやられましたな。――打ちどころはどこ? なに右の肩か……アアいかん、袋に砂利を入れたように骨は|微《み》|塵《じん》だ。だが、仰向いて揺られて行ってはよくないぞ、体の内部にあふれている血が、臓器を|侵《おか》し|頭脳《あ た ま》へも|逆上《あが》ってしまうかも知れん」
|周《まわ》りの者へ向って、彼は、例の高飛車な態度でいいつけた。
「――戸板を下ろしなさい。なにを、ためらっているのか。下ろせ、いいから下ろしたまえ」
そしてまた、瀕死の|態《てい》になっている清十郎へ、
「清十郎殿、起ってはどうだ。起てぬことがあるものか。|傷手《い た で》は軽い、|多《た》|寡《か》が右手一本ではないか。左の手を振って、歩けば歩けるにちがいない。拳法先生の子清十郎ともある者が、京都の大路を、戸板で戻ったといわれては、あなたはとにかく、亡き先生の名は地に|墜《お》ちる。これ以上の不孝はありますまい」
そういう小次郎の顔を、清十郎はじいっと見つめていた。|眼《ま》ばたきをしない白い眼であった。
ふいに、がばっと、清十郎は起ち上がった。左の手に比べて、右の手は一尺も長いようにぶらんと他人の物みたいに彼の肩からぶら下がっていた。
「御池、御池」
「は……」
「斬れ」
「な、なにをですか」
「ばか、さっきからいっているではないか、わしの右手をだ」
「……でも」
「ええ、意気地のない……。植田っ、おまえやれ、はやくせい」
「ハ。……ハ」
すると、小次郎がいった。
「――私でよければ」
「オ、たのむ」
小次郎は側へ寄った。清十郎のぶらんとしている手の先をつまんでぐっと上げ、同時に、|前《まえ》|差《ざし》の短い刀を抜いていた。なにかと怪しまれるような音が、どすっと|周《まわ》りの者の耳にひびいたと思うと、|栓《せん》を抜いたような血しおとともに、腕は付け根から落ちていた。
体の重心を失いかけたように、清十郎は少しよろめいた。弟子達はそれを支えながら、傷口を|抑《おさ》え合った。
「歩く。おれは、歩いて帰るっ」
死人がものを叫んでいるような清十郎の顔つきであった。
弟子たちに囲まれたまま、彼は十歩ほどあるいた。ポトポトと、その跡には血が黒く大地に吸われていた。
「……先生」
「……若先生」
門下の人々は、桶のように清十郎の身を囲んで立ち止まった。そして気遣わしげに、
「戸板で急いだほうが、はるかに、お楽であったろうに、小次郎めが、|出《で》|洒《しゃ》|張《ば》って、いらざる真似を」
と、彼の無責任な仕方を、ことばのうちに皆、|憤《いきどお》っていた。
「あるく!」
一息つくと、清十郎はまた二十歩ほど歩いた。足が歩くのではない、意地が歩いてゆくのである。
しかし、その意力は、永くは持たなかった。およそ半町ほど行くと、ばたっと、門人達の手へ仆れてしまった。
「それ、はやく医者を」
狼狽した人々は、もう拒む力のない清十郎を、死体を扱うように|担《にな》い合ってわらわら駈け去った。
それを、見送ってしまうと、小次郎は、並木の下にじっと立っている朱実のすがたを振りかえって、
「見ていたか、朱実。――おまえにすれば、いい気味だったろうが」と、いった。
朱実は、青ざめた|面《おも》|持《も》ちをして、そういう小次郎の平気な笑い顔を、憎むかのように白い眼で見つめた。
「おまえがいつも、口ぐせのように、寝てもさめても|呪《のろ》っていた清十郎だ。さだめし、胸がすっと|透《す》いたろう。……え、朱実、おまえの奪われた|処女《お と め》のみさおは、あれで、見事に報復されたというものじゃないか」
「…………」
朱実は、小次郎という人間が、とたんに、清十郎以上、呪わしい、怖ろしい、嫌な人間に思われてきた。
清十郎は自分をこうさせた、けれど清十郎は悪人ではない、悪人という程腹の黒い人ではない。
それから比べると、小次郎は悪人だ、世間で定義されているような悪人型ではないが、人の幸福を欣ばないで、人の|禍《わざわ》いや苦しみを傍観して、自分の|快《け》|楽《らく》に供する変質人である、そういう者は、盗賊をするとか、横領するとかいう型の如き悪人よりは、もっと|質《たち》のわるい、油断のできない悪人という者ではないだろうか。
「帰ろう」
小猿を肩にのせて、小次郎はいいだした。朱実は、この男の側から逃げたいと思った。――しかし、妙に逃げきれないものを感じて、その勇気が出ないのである。
「……武蔵を捜してみたって、もう無駄だ。いつまで、この辺りにうろついているはずはない」
ひとり|語《ごと》をいいながら、小次郎は先へ歩いてゆくのである。
(なぜ、この悪党のそばを、離れられないのか、この隙に、逃げてしまわないのか)
と、朱実は自分の愚かさを怒りながら、やはりその後に|尾《つ》いて、歩かずにいられなかった。
小次郎の肩に止まっている小猿が、その肩の上から後ろ向きになって、キキと、白い歯を|剥《む》いて彼女に笑いかけてくる。
「…………」
朱実は、小猿と同じ運命の者が自分であると思った。
そして心のうちで、ふと、あんな|無《む》|慙《ざん》なすがたになった清十郎が可哀そうに思われてきた。――武蔵というものはまた、べつな者として、彼女は、清十郎にも、小次郎にも、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、違った愛憎をもって、男性というものを、この頃は、複雑に考えはじめて来た。
十一
――勝った。
武蔵は、心のうちで、自分へ凱歌をあげてみる。
(――吉岡清十郎に、おれは勝った。室町以来の京流の宗家、あの名門の子を、おれは倒した)
だが、彼の心は、すこしも歓んではこないのである。彼は、|俯向《う つ む》きがちに、野を歩いていた。
ぴゅっ――と、低く|掠《かす》めてゆく|小禽《こ と り》の影が、魚のように腹を見せてゆく。やわらかい枯草と枯葉の中に、一足一足を沈め込むようにして歩いていた。
勝った後のさびしさ――というのは、賢い人たちの世俗的な感傷である。修行中の兵法者にはない言葉だ。けれど武蔵は、たまらない淋しさにつつまれて、果てなき野を独りあるいている。
(……?)
ふと彼は振向いてみた。
清十郎と出会った蓮台寺野の丘の松が、ひょろりと彼方に見える。
(二太刀とは打たなかった。|生命《い の ち》にかかわるようなことはあるまいと思うが)
彼は、そこへ打ち捨ててきた敵の容態をふと案じた。手に引っ提げている木剣の|刃《は》を|検《あらた》めて見たが、木剣には血はついていない。
今朝――この木剣を帯びて場所へ来るまでは、敵には定めし大勢の|介《かい》|添《ぞえ》もついていようし、わるくすれば、卑怯な|計画《はかりごと》もあろうにと、死所の覚悟はもちろんのこと、死に顔のわるくないよう、歯も白く塩でみがき、髪まで洗って出向いたものだった。
そこで、当の相手の清十郎に出会ってみると武蔵は、自分の想像していた人物とは、まったく違った人間のように思われて、
(これが、拳法の子だろうか)と疑った。
武蔵の眼に映った清十郎は、京流第一の兵法者とはどうしても見えない――いわば都会的な線のほそい|公《きん》|達《だち》だった。
ひとりの奉公人を召し連れて来ているほか、介添も助太刀もいないらしいのである。お互いに名乗り合って立ち合う途端に、武蔵は、
(これは、やる試合でなかった)
と、胸のうちで悔いた。
武蔵が、求めているのは、常に自分以上のものだった。しかるに今、この敵を正視すると、一年も腕をみがいて会うほどの敵でなかったことが一目で|視《み》てとれたのである。
その上に、清十郎の眸には、まったく自信がなかった。どんな未熟な相手にも闘うとなれば、猛烈な自尊心はあるものだが、清十郎には、眼ばかりでなく、全身に生気が燃えていないのだ。
(なぜ今朝、ここへ来たのか、こんな自信がない心構えで――。むしろ、破約したがよかろうに)
そう思い|遣《や》ってみると、武蔵は、敵の清十郎があわれになった。彼は、それの出来ない名門の子である。父から受けついだ千人以上の門下の上に、師と仰がれてはいるが、それは、先代の遺産であって、彼の実力ではなかった。
――なんとか、口実を作って木剣をひいたほうが相互のためだと武蔵は考えた。しかし、その機会はなかった。
「……気の毒なことをした」
武蔵は、もいちど、ひょろ長い松の|生《は》えている塚を振向いて、清十郎のために、自分の与えた木剣の|傷手《い た で》が、はやく|癒《い》えてくれればよいがと、心のなかで祈った。
十二
いずれにしろ、今日の事は終ったのだ。勝ったにせよ、敗けたにせよ、後までこだわ[#「こだわ」に傍点]っているのは兵法者らしくないことだ、未練というものである。
――そう気づいて、武蔵が足を早めだした時であった。
この枯野に、なにを探しているのか、草むらの中にうずくまって、土を掻き分けていた|老媼《お う な》が、彼の|跫《あし》|音《おと》にふと顔をあげ、
「オ、ほ? ……」
驚いたような眼をみはった。
枯草と同じような|淡《うす》い無地の着物をその|老媼《お う な》は着ていた。綿のふっくら入っている|胴《どう》|衣《ぎ》の|紐《ひも》だけが紫色なのである。俗服を着てはいるが、円い|頭《つむり》には頭巾をかぶり、年もはや七十頃であろう、どことなく上品で小がらな|尼《あま》さんなのだった。
「……?」
武蔵も実はびっくりしたらしかった。道もない草むらだし、まるで|野《の》|面《づら》と同じような色をしているこの|年《とし》|老《と》った尼さんのからだを、もすこしうっかりしていたら、あぶなく踏みつけたかも知れないからである。
「……おばあさん、なにを|採《と》っているんですか」
人懐かしい武蔵の気持だったのである。こう、彼はやさしいことばのつもりで話しかけた。
「…………」
|老《ろう》|尼《に》は、そこへ|屈《かが》みこんだ、武蔵の顔を見てふるえていた。
|南《なん》|天《てん》の|実《み》を|聯《つら》ねたような|珊《さん》|瑚《ご》の|数《ず》|珠《ず》が袖口の手にちらと見える。そして、その手には、草の根を掻きわけて探した、まだ若い|嫁《よめ》|菜《な》だの、|蕗《ふき》のとう[#「とう」に傍点]だの、いろいろな菜根が|小《こ》|笊《ざる》の中へ|摘《つ》みこまれて持たれていた。
その指先も、その|朱《あか》い数珠も、かすかに|顫《わなな》いているので、武蔵はこの尼さんがなにをそんなに恐怖しているのかを怪しんだ。――で、彼は、尼さんが自分を|野《の》|伏《ぶせ》りの|追《おい》|剥《はぎ》とでも誤解しているのではなかろうかと思い、
「オオ、もうそんなに青い菜が出ていますか、春だからなあ、|芹《せり》も採れていますね、すず菜も、母子草も、ああ、|摘《つ》み草ですね、おばあさん」
殊さらに親しみを見せ、そばへ寄って、|小《こ》|笊《ざる》の中の青いものを覗きかけると、老尼は、|愕《がく》|然《ぜん》と小笊をそこへ捨てて、
「――|光《こう》|悦《えつ》や」
誰かを呼びながら、|彼方《あ な た》へ駈けてしまった。
「…………」
武蔵は、あっけにとられたように、老尼の小さい体の行く先を見ていた。
ただ見れば、|平《ひら》たい|野《の》|面《づら》にすぎないが、平たい野の中にもゆるい起伏がある。老尼の姿が、そのわずかに低い地の蔭になった。
人の名を呼んだところから考えると、そこには誰か、老尼の連れがいるにちがいない。そういえば、かすかな煙がその辺から|漂《ただよ》っている。
「せっかく、あの老尼が丹精して|摘《つ》んだものを……」
武蔵は、そこらへこぼれた青い|種《くさ》|々《ぐさ》のものを、|小《こ》|笊《ざる》の中へ拾いあつめた。そして、自分は飽くまでやさしい心を示すつもりで、その小笊を持って、老尼の後から歩いて行った。
老尼のすがたは、またすぐ見ることができた。一人ではない――ほかに二人の連れの者がいた。
その三人は一家族の者とみえ、北風を避けるために、ゆるい傾斜の蔭を選び、陽なたに|毛《もう》|氈《せん》を敷いて、そこへ茶の道具だの、|水《みず》|挿《さし》だのまた、釜などもかけ、青空と大地を茶室として、自然のながめを庭としながら、風流に遊んでいるのだった。
生きる達人
三人のうちの一人は下男で、もう一人はこの尼すがたの老母の息子らしかった。
息子といっても、もう四十七、八かとも見える人物で、京焼の|殿人形《とのにんぎょう》をそのまま大きくしたような色の白さと、豊かな艶のいい肉体を、頬にも、腹にも、ゆったりと持っている男だった。
さっき、この老母が、
(|光《こう》|悦《えつ》や――)
と呼んだことを思い合せてみると、この人の名は、光悦とよぶに違いない。
光悦といえば、今、京都の|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》の辻には、天下に聞えわたっている同じ名の人間が住んでいる。
加賀の|大《だい》|納《な》|言《ごん》|利《とし》|家《いえ》から二百石ぐらいの仕送りをうけているのだと人は|羨《うらや》んでよく噂にいう。町家に住んでいて、二百石の|蔭《かげ》|扶《ぶ》|持《ち》をもらっていれば、それだけでも豪勢なくらしができるであろうに、なお、その上にも徳川家康からは特別に目をかけられているし、|公《く》|卿《げ》堂上へは出入りをするし、天下の諸侯もこの一町人の家の前では、なんとなく気が|措《お》けて、馬上から店を見下ろしては通り難いというほどなのである。
本阿弥の辻に住んでいるところから、人呼んで本阿弥光悦というが、本名は次郎三郎、また本業は刀の|鑑定《め き き》と、|研《とぎ》と、|浄拭《ぬ ぐ い》。――その三事の|業《わざ》をもって、|足《あし》|利《かが》の初世から、室町の世に栄え、今川家、織田家、豊臣家と代々の執権から|寵遇《ちょうぐう》をうけて今につづいて来ている|旧《ふる》い家すじでもあった。
そのうえに、光悦は、絵もよく描くし、陶器もやれば|蒔《まき》|絵《え》もする――わけても、書においては、彼自身もいちばん自信のあるところで、まず今の名筆家をかぞえるならば、男山八幡に住む松花堂|昭乗《しょうじょう》か、烏丸光広卿か、|近衛《こ の え》|信《のぶ》|尹《ただ》|公《こう》――あの|三藐院風《さんみゃくいんふう》と世間でいうところの書風の創始者か――この光悦といわれるほどなのである。
けれど、光悦自身は、それほどな評価さえ、まだ自分を尽しているものとは受取っていなかった。
こういう話さえ|巷《こう》|間《かん》に伝わっている――
或る時。
光悦が、日ごろ親しい近衛|三藐院《さんみゃくいん》をそのお|館《やかた》に訪ねた。公は、|氏長者前関白《うじのちょうじゃさきのかんぱく》という家がらの貴公子であり、現職は左大臣というおごそかな顕官であったが、性格はそんな野暮な人でなかったらしい、なんでも朝鮮の役のあった年には、
(これは、秀吉一箇の業とはいえない、国家の興廃にかかわることだから、わしは日本のために坐視していられない)
といい、時の天子に奏上して、征韓の役に従軍したいことを願ってやまなかったという風の変ったところもある。
また、秀吉がそれを聞いて、
(天下、無益の大なるもの、是れに|如《し》くなし)
と、喝破したということであるが、そう|嗤《わら》った秀吉の朝鮮征略そのものが、後では天下最大の無益と、世の人たちから時評されたのはおかしなことであった。それはそうと――その近衛三藐院を光悦が訪問した折、いつもの書道の話から花がさいて、
(光悦、おまえ今、書において天下の名筆を三人かぞえるとしたら、たれを選ぶな)
と、訊いた。
光悦は、さればにて候という|態《てい》で、即座に、
「――まず次はあなた様、その次は、八幡の|滝《たき》|本《もと》|坊《ぼう》――あの昭乗でございましょうかな」
すこしのみ込めない顔つきをして、三藐院は、もういちど問い直した。
「まず次は……とおまえはいったが、その最初の第一番は誰なのじゃ」
すると、光悦は、にやりともせず相手の眼を見ていった。
「わたくしでございます」
――こういう|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》光悦なのである。だが今、武蔵のまえにいる下男づれの|母子《お や こ》がその本阿弥の辻の光悦かどうか、その家族にしては、供も一人しか連れていないし、衣服やあたりの茶道具なども、あまりに質素すぎる気がしないでもない。
光悦は、指に絵筆をはさんでいた。膝には一帖の|懐《かい》|紙《し》が載っている。その懐紙には、彼が|先刻《さ っ き》から丹念に写生していた枯野の流れが描きかけになっていた。そばに散らかしてある|反《ほ》|古《ご》にも皆、同じ水の線ばかりが手習いでもするように描いてあるのであった。
――ふと、振向いて、
(どうなされたのです?)
と問うように、光悦は、下男のうしろに|顫《おのの》いている母のすがたと、そこに立っている武蔵のすがたとを静かな|眼《まな》ざしで見くらべた。
その穏やかな眸に触れた時、武蔵は自分の気も|和《なご》んでくる心地がした。しかし親しみというには余りに遠いものなのだ。自分らの近くには見当らない型の人間であって、そのくせ非常に懐かしみを覚えさせる眸なのである。腹の豊かなように、底の深い光をたたえて、その眼はまたいつのまにか、武蔵に対して、旧知のような笑みをにこにこ示していた。
「御牢人さま。……なんぞ母が|過《あやま》ちでもいたしましたかな。せがれの私がもう四十八にもなりまする、この母の年もそれでお察しくださいませ。体はすこやかでございますが、ちと、眼がかすむなどとこの頃は申しまする。母の粗相は幾重にも私がおわびいたしましょう。ご勘弁くださいまし」
膝の懐紙と指の絵筆を、|毛《もう》|氈《せん》のうえに置いて、ていねいに手をつかえようとするので、武蔵は、いよいよもって、そんな理由で自分が老母の驚きを求めたわけでないことを、明白にしなければならなくなった。
「あいや……」
自分も膝を地へ落して、武蔵はあわてて、光悦の辞儀をさえぎった。
「あなたがご子息でござるか」
「はい」
「おわびは、拙者からせなければならぬ。なんで、お驚きなされたか、自分にはとんと分らぬが、此方のすがたを見ると、ご老母が、この|小《こ》|笊《ざる》を捨ててお逃げなされた。……見ればお年寄が、せっかく|摘《つ》まれた若菜や|芹《せり》などの|種《くさ》|々《ぐさ》が後に散っているではないか。この枯野からこれだけの青い物をお採りなされたご老母の丹精を思うと、自分がご老母を驚かした理由はわからぬが、済まないと存じたのです。……で、菜を小笊へ拾いあつめて、これまで持って来ただけのことです、どうかお手をあげてください」
「ああ、そうですか」
光悦は、それですっかり分ったように|暢《のび》|々《のび》と笑いながら、母のほうへ向って、
「お聞きあそばしたか、|母《はは》|者《じゃ》|人《びと》は、なんぞ思い違いをなされたのでございましょうが」
すると、彼の母は、いかにもほっとしたらしく隠れていた下男の背の蔭から少し出て来て、
「光悦や、それでは、その御牢人様は、なにもわし達に危害を加えようとするお人ではありませぬか」
「害意どころか、あなた様が小笊の若菜を捨てておいでなさったので、この枯野からそれだけの青い物をさがして|摘《つ》んだ年寄の丹精がいとしいと仰っしゃって、これへ持って来てくだされたほど、若い武人にしては心のやさしいお方でございます」
「それはまあ、済まぬことを……」
と、老母は武蔵の恐縮する前へ、|手《て》|頸《くび》の|数《ず》|珠《ず》へ顔がつくほど低い辞儀をして謝り入るのであった。
それから、心も打ち解けたように、この老母まで笑いこぼれながら、息子の光悦にこう話すのであった。
「わしは、今思うと、まことに済まんことじゃったが、この御牢人様を一目見た時、なにか、血臭いものが眼の前へ来たようで、体じゅうの毛あながぞく[#「ぞく」に傍点]とひき緊められるように恐かったのじゃ。今、こうして見れば、なんの事もないお人じゃがの」
そう聞いて、武蔵こそ、この老母の何気ないことばに、はっと胸を|衝《つ》かれた。われに返って、われという自身の|相《すがた》を、他人から見せつけられた気がしたのである。
――血臭いお人。
世辞のない光悦の|老母《はは》は彼のことをさしてそういった。
おのれの身についているにおいというものは、誰でも自分には分らないものに違いないが、武蔵はそういわれて、卒然と、自分の影にこびりついている妖気と血なまぐささに気づいた。そして、この老母の澄んだ感覚に、かつて知らない|羞恥《しゅうち》をおぼえた。
「武者修行どの」
光悦は、それを見のがさなかった。武蔵の|炯《けい》|々《けい》と光っている異様な眼ざしだの、油気のない殺伐な髪の毛だの――体のどこを触れても斬れそうな様子をしているこの青年に、彼はなにかしら、愛せるものを見出しているらしいのである。
「おいそぎでなくば、少しおやすみなさらぬか。まことに|静寂《し ず か》でござりますぞ、黙っていても、|清《すが》|々《すが》と、よい気もちで、心が空の青さに溶けてゆくような」
老母もまた、共に、
「もすこし菜を|摘《つ》んだら、やがて|草《くさ》|粥《がゆ》を|炊《た》いて、馳走しよう。お嫌いでなくば、茶も一ぷくまいらせよう程に……」
この|母子《お や こ》の間に交じわっていると武蔵は、自分のからだに生えている殺気の|棘《とげ》が|除《と》れてゆくように気が|和《なご》んでくる。他人の中とは思われない温か味なのだ。――いつとはなく|草鞋《わ ら じ》を解いて|毛《もう》|氈《せん》のうえに坐ってしまう。
うち解けて、だんだん聞いてみると、この老母は|妙秀《みょうしゅう》といって、都でもかくれのない賢婦人であるし、息子の光悦も、|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》の辻に住む有名な|芸《げい》|林《りん》の名匠で、まぎれもなくあの本阿弥光悦であることがわかってくる。
およそ刀をさす人間で、本阿弥家の名を知らない人間はない。けれど武蔵は、その光悦という人や、光悦の母の妙秀という人を、その先入主にある有名なものとは結びつけて考えられなかった。この|母子《お や こ》が、そういう|由《ゆい》|緒《しょ》のある家がらの当人であると聞いても、やはりこの広い枯野で偶然に出会った、ただの人としか思えないし、またそれがゆえに抱いていられる懐かしみや親しみを|遽《にわか》に、固くなって捨ててしまいたくなかった。
妙秀は、|茶釜《かま》の湯の|沸《たぎ》りを待ちながら、
「このお子は、|幾歳《い く つ》じゃろ」
と、息子へいう。
息子の光悦は、
「さあ、二十五、六歳でもございましょうかな」
と、武蔵を見て答える。
武蔵は首を振って、
「いえ、二十二歳です」
すると妙秀は、さも驚いたように眼をあらため、
「まだそんなにお若いのか、二十二ではちょうど、わしの孫というてもよい」
それからまた、|故郷《くに》はどこか、両親はあるのかないのか、剣は誰に習ったかなどと、妙秀はいろいろ訊ねてやまない。
やさしい|老母《としより》から孫あつかいにされると、武蔵は、童心をよび起されて、ことばづかいまでおのずと子供らしくなってしまう。
常に、厳しい鍛錬の道に起き臥して、自分を|刃鉄《は が ね》のように|鍛《きた》え固めること以外には、|生命《い の ち》を呼吸させたことのない武蔵だった。今、妙秀とそうして話していると、ありのままにそこへでも寝ころがって、甘えてみたいような心持を、久しく風雨にばかり|曝《さら》されて忘れていた肉体の中に、ふいに思い出した。
だが、武蔵には、それができない。
妙秀も、光悦も、この一枚の|毛《もう》|氈《せん》のうえに乗っている物は、茶碗一つまでが皆、空の|碧《あお》さと|溶《と》けあい、自然と一つになり、野を飛ぶ|小禽《こ と り》とも同じになって、静かに遊び楽しんでいるように見えるが――武蔵ひとりは、|継《まま》|子《こ》のようにぽつねんと在って、その姿はどうしても自然とはべつ[#「べつ」に傍点]物の存在としか見えなかった。
なにか話を交わしているうちはいいのである、その間は武蔵も、この毛氈のうえの人たちと溶け合って、自分は慰められている。
けれど、やがて妙秀が|茶釜《かま》に対して沈黙し、光悦が絵筆を持って背を向けてしまうと、武蔵は、たれと語りようもなく、また、なにを楽しむすべも知らず、憶い出されるものは、ただ退屈と、孤独のさびしさだけだった。
(なにが面白くて――この|母子《お や こ》はまだ春も浅いのに、こんな枯野へ来て、寒い思いをしているのか?)
武蔵には、この|母子《お や こ》の生活が不思議なものに見えてならない。
|摘《つ》み草が目的なら、もっと暖かくなって人出が|賑《にぎわ》う頃にもなれば|千《ち》|種《ぐさ》も萌えているし花も咲いていよう。――茶をたてて楽しむことが目的ならば、なにもわざわざ|茶釜《かま》や茶碗を持って来て、物好きな不自由をしないでも、本阿弥家ともいわれる旧家である。|住居《す ま い》にはよい茶室もあるに違いない。
(絵を描くためか?)
と、武蔵はまた考えて、光悦の広い背中を見まもった。
すこし身を横へねじって、その光悦の筆をのぞいてみると、|先刻《さ っ き》もそうであったが、今もまた懐紙へ描いているのは、水の流ればかりであった。
ここから少し離れている枯草のあいだに、うねうねと細い野川の水が這っていた。光悦は、その水の|相《すがた》を線に現そうとして他念もない様子なのである。つかもうとしても墨を通して紙のうえへ|象《かたち》として現してみると、なにもつかまれていないので、光悦は、何十遍でも、水の|相《すがた》をつかむまで、飽かずに同じ線を描いているのだった。
(……ははあ? 絵もなかなか|易《やさ》しくないものだ)
武蔵はふと、そこへ自分の退屈を預けて|見恍《みと》れる。
(――敵の|相《すがた》を剣のさきへおいて、自分が無我になった時――自分と天地がひとつの物になったような気持――いや気持などというものさえ|失《な》くなった時、剣はその敵を斬っている。――光悦どのは、まだあの水を敵として睨んでいるから描けないのだろう、自分があの水になればよいのだ)
なにを|観《み》るにも、武蔵は、剣というものを離れては考えられない。
剣から画を考えても、ぼんやりとその程度には理解できる。――けれどなお分らないのは、妙秀や光悦が、いかにも楽しげにいることだ。|母子《お や こ》として、黙って背中を向け合っているが、その姿がどっちを見ても、今日という一日を楽しんで、飽かないさまでいることが不思議でならない。
(|閑《ひま》|人《じん》だからだろう)
彼は、単純にそう片づけ、
(この|険《けわ》しい時勢の中に、絵をかいたり、茶をたてたり、こういう人もいるものかなあ。……おれには縁のない世界の人間だ、親代々の財産をだいじに|抱《かか》えて、時勢のそとに遊んでいる上等な|逸《いつ》|民《みん》という者だろう)
退屈はやがて、|気懶《け だ る》いものを誘ってくる。|惰《だ》|気《き》は禁物と|誡《いまし》めている武蔵にとって、そう気がつくと、わずかな間も、こんな所にいられない気がしてくる。
「お邪魔をしました」
武蔵は、脱いだ|草鞋《わ ら じ》をはきかけた。思わぬ暇つぶしでもしたように、その様子が|遽《にわか》に取って付けたように見えた。
「……ホ、お立ちか」
妙秀は意外そうにいった。光悦も静かにふり向いて、
「せっかく、母が今、粗末ですが茶をさしあげようと思って、心をこめて釜の湯を見ております。まあよいではありませんか。――先ほど、あなたが母へ話していたのを伺うと、あなたは今朝、蓮台寺野で吉岡家の|嫡子《ちゃくし》と試合をなされたお方でしょう。|戦《いくさ》の後の一ぷくの茶ほどよいものはない――と、これは加賀の大納言様も家康公もよく仰っしゃっていた言葉です。茶は養心です。茶ほど心を養ってくれるものはありません。動は静から生じるものと私は思う。……まあお話しなされ、わたくしもご|相伴《しょうばん》いたしましょう」
かなり距離はあるが、やはりこの野つづきである蓮台寺野で、今朝がた自分と吉岡清十郎との試合があったことを、この光悦は知っていたのか。
それを知りながら、そんなことはまるで、よそ[#「よそ」に傍点]の世界の騒ぎとして、静かにこうしていたのか。
――武蔵は、もいちど光悦|母子《お や こ》の姿を見直した。そして、坐り直した。
「では、せっかくですから、頂戴してまいりましょう」
光悦はよろこんで、
「おひきとめするほどではありませんが」
と、すずり|筥《ばこ》の|蓋《ふた》をして、絵の|反《ほ》|古《ご》がとばないように筥をのせておく。
光悦の手に持たれてそれが動いた時、厚い|黄《こ》|金《がね》や|白《しろ》|金《がね》や|螺《ら》|鈿《でん》でくるまれているような筥の|面《おもて》が、|燦《さん》|然《ぜん》と玉虫の体みたいに光って眼を射たので、武蔵は思わず身をのばしてのぞき込んだ。
下に置かれてあるのを見ると、そのすずり筥の|蒔《まき》|絵《え》は、決して、眼を射るような|絢《けん》|爛《らん》ではない。|麗《うるわ》しいことは、桃山城の豪華を小さく|纏《まと》め込んだほども麗しいが、その上に千年も経ったような匂いの高い|燻《くす》みがかかっているのである。
「…………」
飽かないように、武蔵は見いっていた。
十方の|碧《へき》|落《らく》よりも、四方の野辺の自然よりも、武蔵にはこの小さい工芸品が、いちばん美麗に見えた。見ている間だけでも、慰められた。
「わたくしの手すさびですよ、お気にいりましたかな」
光悦のことばに、
「ほ? あなたは|蒔《まき》|絵《え》もするのですか」
光悦は黙って微笑するのみであった。手芸の美が、天然の美よりも、尊く見えるらしい武蔵をながめて、光悦は心のうちに、
(この青年も田舎者)
と、すこし|嗤《わら》っているような|趣《おもむき》である。
そういう|大人《お と な》の高所から、自分が低く観られているとは知らないで武蔵は、
「見事ですな」
となおも、眼を離たずにいると、光悦はまた、
「今、わたくしの手すさびといいましたが、その構図に配してある|和歌《うた》|文《も》|字《じ》は、近衛|三藐院《さんみゃくいん》様のお作で、またお書きになったのもあのお方です。ですから、ありようは二人の合作と申さなければなりません」
「近衛三藐院というと、あの関白家の」
「そうです、龍山公のお子様の|信《のぶ》|尹《ただ》公のことです」
「私の叔母の良人にあたる者が、近衛家に長年勤めておりますが」
「なんと仰っしゃる|御《ご》|人《じん》?」
「松尾|要人《か な め》と申します」
「ほう、要人殿ならば、よう知っています。毎度近衛家にあがるので、お世話にあずかったり、また要人殿もよく、宅へ訪ねてくださるし」
「ア、そうでしたか」
「母者人」
と、光悦はまた、そのことを、母の妙秀にも話し直して、
「どこにご縁が繋がっているかわかりませぬな」
といった。
「おおそうか。ではこのお子は、要人殿の義理の|甥《おい》|御《ご》か」
妙秀はそういいながら、|風《ふ》|炉《ろ》|先《さき》のそばを離れて、武蔵と息子の前へすすみ、|優雅《しとやか》に茶式の礼儀をした。
もう七十ぢかい老母であったが、|茶《ちゃ》|事《じ》の作法が身についていて、自然な身ごなしや、細やかに動く指の先や、すべての振舞いが、いかにも女らしく、優しく、そして美しかった。
野人の武蔵は、光悦に|倣《なら》って|畏《かしこ》まっていた。その窮屈らしい膝の前に、菓子の木皿が置かれた。菓子はつまらない|淀饅頭《よどまんじゅう》であったが、この枯野には見あたらない青い木の葉を敷いていた。
剣に形、作法などがあるように、茶にも、法があると聞いている。
今も、妙秀のそれを、武蔵は、じっと見ていて、
(立派だ)
と、思った。
(隙がない)
彼の解釈は、やはり剣に|拠《よ》る。
達人が剣を|把《と》って立った姿というものは、さながらこの世の人間とも思われない。その荘厳なものを今、茶をたてている七十の老母のすがたにも彼は見た。
(道――芸の神髄――何事も達すると同じものとみえる)
うっとりと彼は考えていた。
だが。
われに返ってみると、|帛《ふく》|紗《さ》に乗せて膝のまえに置かれた茶碗を、武蔵は、どう持って、どう飲んでよいものかとためらった。茶事の席になど|連《つら》なった経験もないのである。
そこらの土を子供が|捏《こね》たように不器用に見える茶碗だった。しかし、その茶碗のいろの中にたたえられている濃い緑の泡つぶは、空よりも静かで深い色をしていた。
「…………」
光悦はと見ると、もう菓子を食べている。寒い夜に温かい物でも|抱《いだ》くように、両手で茶碗を持って、それもふた口か三口で飲んでしまう。
「――光悦どの」
武蔵はいってしまった。
「武骨者です、実は、茶などいただいたことがないので、飲むすべも、作法も知らないのですが」
すると、妙秀が、
「なんのい……」
と、孫でもたしなめるように、やさしく|睨《ね》めた。
「茶に知るの、知らぬのという、智恵がましい|賢《さかし》らごとはないものぞよ。武骨者なら武骨者らしゅう飲んだがよいに」
「そうですか」
「作法が茶事ではない、作法は心がまえ。――あなたのなさる剣もそうではありませぬか」
「そうです」
「心がまえに、肩を|凝《こ》らしては、せっかくの茶味が損じまする。剣ならば、体ばかり固うなって、心と刀の|円《えん》|通《つう》というものを失うでござりましょうが」
「はい」
武蔵は、思わず頭を下げて、次のことばに耳をすましていたが、ホ、ホ、ホ、ホ、と妙秀はその後を笑い消して、
「わたくしに、剣のことなどは、何もわかりませぬがの……」
と、いった。
「いただきます」
武蔵は、膝が痛いので、|畏《かしこ》まっていた膝をあぐらに組み直した。そして、飯茶碗から湯でも飲むようにがぶと飲んで下へ置いた。
(苦い)
と思った。
それだけのことで、|美味《うま》いなどとは世辞にもいえない気がした。
「もう一ぷく、いかがでございますか」
「たくさんです」
どこが美味いのか、なんでこんな物を深刻らしく、味の|侘《わび》の作法のというのか。
武蔵には、|解《げ》せなかった。しかし彼は、最前からこの|母子《お や こ》に持った疑問と共に、一概に軽蔑し去る気にもなれない。茶道が、自分が正直に感じただけのものならば、東山時代の長い文化を通じて、あのように発達してくるはずがない。――また、秀吉だの家康だのという人物が、その道の隆盛を支持するわけがない。
柳生石舟斎も、老後をその道にかくれていた。思い出すと、沢庵坊もよく茶のことはいっていた。
――武蔵は、|帛《ふく》|紗《さ》の上の茶碗へ、もいちど眼を落した。
石舟斎を思いだしながら、その茶碗をまえにおいて見つめていると、ふとまた武蔵は、あの時、石舟斎から贈られた一枝の|芍薬《しゃくやく》を思いだした。
――白芍薬の花をではない、あの枝の切り口を。あの時うけた強い戦慄を。
(おやっ)
と、口に出たかと思うほど、武蔵は、その茶碗から心へひびいて来るなにものかに烈しく打たれた。
手を伸べて、抱きこむように、茶碗を膝へ乗せて見る。
(……?)
今までの武蔵とはまるで人が違ったような熱をおびた眼の光が、つぶさに、茶碗のそこや|篦《へら》|目《め》に見いって、
(……石舟斎が切った芍薬の枝の切り口と、この茶碗の土を切ってある篦目のするどさと。……ウウム、どっちともいえない非凡人の芸の冴えだ)
|肋骨《あ ば ら》が|膨《ふく》らむように息がつまってくる。――何ゆえにという説明は彼にもつかないのである。巨腕を持った名匠の力量がそこに|潜《ひそ》んでいるというほかはない。肉声で現しがたい無言のことばが、|沁《しみ》|々《じみ》と心へ|浸《し》み入ってくるのである。それを受け容れる感受性を、武蔵が人いちばい持っていることも事実である。
(誰だろう、この|作《つく》り|人《て》は)
手に持つと離せない気のするような|触覚《しょっかく》なのだ。
武蔵は、訊かずにはいられなかった。
「光悦どの、私には、今もいったとおり、|陶器《やきもの》のことなど、皆目わからないのですが、この茶碗は、よほど名工の作ったものでしょうな」
「どうして?」
光悦のことばは、顔のようにやわらかい。厚ぼったい唇ではあるが、女みたいな愛嬌をこぼすことがある。少し|眼《まな》じりは下がっているが、魚のように切れ長で、威があって、たまたま、|揶《や》|揄《ゆ》するような|皺《しわ》もよせる。
「――どうしてといわれると困るのですが、ふと、そんな気がするのです」
「どこか、何かを、お感じになったのでしょう、それを仰っしゃって下さい」
と、光悦は意地がわるい。
「さあ?」
武蔵は考えて、
「――では、いい尽くせませんが、いいましょう。この|篦《へら》ですぱっと切ってある土の|痕《あと》ですが……」
「ふむ!」
芸術家の持ち前を光悦も持っていた。芸術の理解などは程度がひくいものと相手をきめてかかって、武蔵も低く見ていたのだった。ところが案外、いい加減に聞いていられないことをいい出しそうなので、急に女のような優しくて厚い唇が、難しく大きく|緊《し》まった。
「――|篦《へら》の|痕《あと》を、武蔵どのは、どう思いますか」
「するどい!」
「それだけですか」
「いや、もっと複雑だ。非常に太っ腹ですな、この作者は」
「それから」
「刀でいえば、相州物のように、斬ればどこまでも切れる。けれど|麗《うるわ》しいにおいでつつんでおくことを忘れない。また、この茶碗の全体のすがたからいえば、非常に素朴には見えるが、気位といいましょうか、どこかに王侯のような尊大な風があって、人を人とも思わないところもある」
「ウウム……なるほど」
「ですから、この作者は、人間としても、ちょっと底がわからないような人物だと私は思う。しかし、いずれ名のある名匠には違いありますまい。……ぶしつけですが、伺います、いったいなんという陶工ですか、この茶碗を焼いた人は」
すると光悦は、厚でな盃のふちみたいな唇を|綻《ほころ》ばせて、よだれを|湛《たた》えながらいった。
「わたくしですよ。……ハハハハ、わたくしがいたずらに焼いた|器《うつわ》ですよ」
光悦もひとがわるい。
武蔵に批評させるだけ批評させておいてから、さて、その茶碗の作者なら実はわたくしです、といったものである。|揶《や》|揄《ゆ》されたような|悪《あっ》|感《かん》を相手に抱かせないところなどは、なおさら罪がふかいといわなければならないが、四十八歳の光悦と、二十二歳の武蔵とでは、|年齢《とし》の差というものがやはり争えない。武蔵は、自分が試みられているなどとは少しも思わず、正直に感服して、
(この人はこんな|陶器《やきもの》まで自分で焼くのか。……この茶碗の作者がこの人だとは思えなかったが)
と、光悦の多芸多能の才に、いやその才よりも、粗朴な茶碗のような姿をしていて、実はその裡に隠している人間的な奥行の深さを――武蔵は気味わるいほどに思った。
彼が自負している剣の理から、この人物の底を計ろうとしても、持ちあわせの|尺度《ものさし》では寸法が足らないような尊敬を正直に持ってしまった。
こう感じて来たら、武蔵はもう弱い。その人間に対して、頭を下げずにいられない性分なのだ。自分の未熟さを、ここにも見出して、彼は大人の前に小さく|羞恥《は に か》んでしまう一箇の未成年者でしかなかった。
「あなたも、陶器はおすきのようだな、なかなかよく|観《み》る」
光悦がいうと、
「いや、拙者は、皆目そのほうのことはわかりませぬ、あて推量です。失礼なことを申して、おゆるし下さい」
「それはそうでしょう、いい茶碗一つ焼くにも、一生かかる道ですから。けれど|貴方《あ な た》には、芸術を理解する感受性がある、かなり鋭い――やはり剣をおつかいになるので自然に養われた眼でしょうな」
光悦も多分に、武蔵の人間を、心のうちでは認めていた。しかし大人というものは、感心しても口で|賞《ほ》めないものだった。
つい、時の経つのを武蔵は忘れていた。そのうちに、下男が、菜を|摘《つ》み足してくると、妙秀は、|粥《かゆ》を煮、|菜《さい》|根《こん》を|炊《た》いて、これを光悦の手づくりらしい小皿に盛り、|瓶《かめ》の|芳醇《ほうじゅん》を開けて、ささやかな野の食事が始まる。
その茶料理も、武蔵には、余りに淡味すぎて、|美味《うま》いとは思わなかった。彼の肉体は、もっと濃厚な味や|脂《あぶら》を欲しているから。
――けれど彼は、素直に菜や大根のうすい味を味わおうとした。光悦からも妙秀からも、習っていいものが多分にあることを知ったからである。
――が|何時《いつ》、吉岡方の者が、師の報復を|企《たく》んで、ここへ迫って来ないとも限らない。武蔵は落着かない気持に時々駆られて、野の|遠方《おち》|此方《こち》を見まわした。
「ご馳走になりました。先を急ぐ身でもありませんが、試合に及んだ相手方の門人が参ると、ご迷惑がかからぬ限りもありませぬ。――いずれまた、ご縁があれば」
妙秀は、立って行く武蔵を見送って、
「本阿弥の辻へも、おついでの折になと、立ち寄ってくだされい」
光悦もうしろからいった。
「武蔵どの、折を改めて、宅のほうへ、お越し下さい。――ゆるりとまた、話しましょう」
「参ります」
来るか来るかと思っていた吉岡方の者の影は、野のどこにも見当らない。――武蔵はもういちど振りかえって、光悦|母子《お や こ》の遊んでいる|毛《もう》|氈《せん》の世界をながめた。
自分の歩いている道は、ただ一|途《ず》で、細くて|嶮《けわ》しい道だと思う。光悦の楽しんでいる天地の明るくて広いことには及ぶべくもない。
「…………」
武蔵は黙々と、野末へ向って、前のとおり|俯向《う つ む》きがちに歩いて行った。
夜の道
「なんて|態《ざま》だ、吉岡の二代目は。――いい気味だと思っておれは飲んでいるんだ、これで、グッと胸が下がったというものさ」
場末の|牛《うし》|飼《かい》|町《まち》の中にある居酒屋だった。土間のうちは、|薪《まき》の煙や煮物のにおいでもう暗かったが、外は、夕焼け空が火事のように道まで赤くしていて、|暖《の》|簾《れん》のうごくたび、東寺の塔の|夕鴉《ゆうがらす》が黒い火の粉みたいに遠く見える。
「まあ飲めやい」
板を挟んで、|対《むか》い合いに腰かけているのは三、四人の|小商人《こあきゅうど》。また独りで黙々と飯を食べている六|部《ぶ》があるし、|銭《ぜに》|独楽《ごま》をまわして、酒を|賭《か》けている労働者の一かたまりだの、せまい土間にいっぱいだった。
「暗いぞ、おやじ、鼻へ酒を入れちまうじゃねえか」
誰かがいうと、
「はい、はい、ただ今」
片隅の|土《ど》|間《ま》|炉《ろ》から、|薪《まき》の炎が大きく立つ。外が暮れてくるほどに、この中は赤々と浮いてきた。
「思い出しても、|癪《しゃく》にさわってならねえ。おととしからの|炭《すみ》|薪《まき》や魚の代だ。あの道場で|費《つか》うのだからちッとやそっとの物じゃあない。|大《おお》|晦日《み そ か》こそ、と出かけて行ったところが、門弟どもが、勝手なごたくを並べたあげく、掛取のおれたちを、外へ|抓《つま》み出しゃあがったじゃねえか」
「まあ、そう怒んなさんな、蓮台寺野の一件で、おれたちの|鬱《うっ》|憤《ぷん》も因果はてきめん、あいつらへ返っていらあな」
「だからよ、今頃まで、怒っているわけじゃねえ、|欣《うれ》しくってたまらねえのだ」
「だが、吉岡清十郎も、話に聞けば、あんまり|脆《もろ》い負け方をしたものじゃねえか」
「清十郎が弱いのじゃない、武蔵という男が、途方もなく強いらしいんだ」
「なにしろ、たんだ一撃ちで、清十郎は左の手だか右の手だか、どっちか一本|失《な》くしちまった。それが木剣だというからすごい」
「行ってみたのか、おめえは」
「おれは見ねえが、行ってみた連中の話を聞くと、そんなことだったらしい。清十郎は戸板にのせられて帰って来たが、|生命《い の ち》だけはまあ取り止めるらしいが、生涯、片輪者ということになってしまった」
「後は、どうなるんだろう」
「門弟たちは、どうあっても武蔵をぶち殺してしまわなければ道場に吉岡流の名はあげて置かれねえというんで、頻りにいきり[#「いきり」に傍点]立っているが、清十郎さえ刃が立たない相手とすると、武蔵に|対《むか》って勝負のできそうな者は、弟の伝七郎よりほかにないというので、今 ――その伝七郎を探し廻っているといううわさだが」
「伝七郎というのは、清十郎の弟か」
「こいつは、兄よりはずんと、腕のほうは出来るらしいが、手に負えない次男坊で、小遣いのあるうちは、道場へも寄りつかないで、親父の拳法の縁故や名まえをだし[#「だし」に傍点]につかって、諸所方々、食いつめ者のように、遊び歩いているという厄介者だ」
「そろいもそろった兄弟だな。あの拳法先生みたいな偉いお人の血すじに、どうしてそんな人間ばかり出来たんだろう」
「だから、血すじだけじゃ、いい人間は出来ねえという証拠だな」
――|炉《ろ》の|薪《まき》|明《あか》りが、また暗くなりかけた。そのそばに腰かけたまま|先刻《さ っ き》から壁へ|倚《よ》りかかって居眠っている男がある。だいぶ酒も入っているので、居酒屋のおやじはそっとして置いたが、炉へ薪を加えるたび、火がハゼて男の髪や膝へかかるので、
「旦那さま、着物のすそへ、火がつきますで、もすこし後ろへ|床几《しょうぎ》をお|退《さ》げなすって」
いうと、男は、酒と火で充血した眼を、|鈍《にぶ》そうに開けたが、
「ウム、ウム。わかっているよ、分っているんだ、そっとしておいてくれ」
腕ぐみも解かなければ、腰も上げないのである。悪酔いでもしているのか、ひどく|鬱《ふさ》ぎこんでいるのだ。
その酒癖の悪そうな青すじの立っている顔をのぞいてみると、これは、本位田又八だった。
蓮台寺野の過ぐる日のことは、ここばかりでなく、行く先々でのうわさだった。
武蔵の名が有名になるだけ、本位田又八には、自分が|惨《みじ》めに見えて来てならない。――自分も何とか一人前のかっこうがつくまでは、武蔵の話も聞きたくない気がするが、耳をふさいでも、こうして少し人の寄る所というと話題に出るので、彼の|憂《ゆう》|鬱《うつ》は、酒にも|紛《まぎ》れきれない様子に見える。
「おやじ、もう一杯|酌《く》んでくれ。――なに、|冷酒《ひや》でいい、そこの大きな|桝《ます》で」
「お客様、だいじょうぶでございますか、お顔いろがすこし」
「ばかをいえ、顔の青くなるのはおれの持ちまえだ」
もうこの桝で何度飲んだろう。飲んだ当人よりも、おやじの方が忘れているくらいである。|喉《のど》を通ってゆく酒は一息だった。
飲みほすと、また黙然と、壁に倚りかかって腕ぐみしているのだ。あれだけの量を飲み、足元には炉の炎が立っているのにまだ顔には色が出ない酒だった。
(――なあに、おれだって今にやってみせる、なにも、人間成功するには、剣とは限るまい。金持になろうが、|位持《くらいもち》になろうが、やくざ[#「やくざ」に傍点]になろうが、その道での一国一城の|主《あるじ》になれやあいいんだろう。おれも武蔵もまだ二十二だ、早く世間へ名を売ったやつに、大成した人間は少ねえ。天才だとか、なんとか思い上がって、三十ごろにもなれば、もうよぼよぼしてしまう、父っちゃん小僧というところが、そういう人間の極り相場だ)
耳にも聞きたくないと思いながら、腹ではそんな反感を繰返していた。今度のうわさを、大坂表で聞くとすぐ、京都へ足を向けて来たのも、べつになんの目的があるというわけでもない、ただ武蔵が気になってならないので、その後の様子を見に来ただけのことに過ぎない。
(――だが、今にあいつも、思い上がっているうちに、小ッぴどい目に|遭《あ》うだろう。吉岡にだって人物はいる、十剣士もいれば、舎弟の伝七郎もいる……)
武蔵の名声が一敗地にまみれるような日を、彼は絶えず心のどこかで待っていた。そして、自分の上には、|僥倖《ぎょうこう》をさがしていた。
「……アア|渇《かわ》いた」
ひょろりと、火のそばから壁にすがって立ち上がった。ほかの客の顔はみな振向いて彼を見た。又八は、隅の大きな|水《みず》|瓶《がめ》へ首を突っこむようにして、|柄杓《ひしゃく》から水をのみ、その柄杓を|抛《ほう》りすてると、そのまま、門口の|暖《の》|簾《れん》をわけて、ふらふらと外へよろめいて行く――
あきれ顔に、ぽかんとしていた居酒屋のおやじは、又八のすがたが、暖簾の外にかくれると、気がついたように、
「もしっ、だんな」
と、追って出て、
「――お勘定をまだいただいてございませんが」
ほかの客も、暖簾の隙からみな首を突き出した。又八は、あぶない腰つきで立ちどまりながら、
「なに? ……」
「旦那、うっかり、お忘れなすったんでございましょう」
「わすれ物はねえが」
「|御《ご》|酒《しゅ》の……へへへへ……御酒のお払いを、まだいただいてございませんが」
「アア勘定か」
「おそれ入りますが」
「金はねえや」
「えっ」
「……困ったなあ、金はねえ。ついこの間まではあったんだが」
「じゃあ、てめえは、初手から|文《もん》なしで飲みやがったんだな」
「……だ、だまれ」
又八は、|懐中《ふところ》や腰をさぐり廻して、一箇の|印《いん》|籠《ろう》を手につかむと、それを居酒屋のおやじの顔へ向って投げつけていった。
「おれも二本差しているのだ。まだ、飲み逃げするほど落ちぶれちゃあいねえ。――酒の代にゃあ過ぎ物だが、取っておけ、|剰銭《つり》はくれてやるから」
投げた物が印籠とは見えなかったのである。それを顔へぶつけられて、居酒屋のおやじが、痛いッといいながら両手で顔をおおうと、|暖《の》|簾《れん》の内から覗いていた客の大勢が、
「ひでえ奴だ」
と、又八の行為を憎み、
「飲み逃げ|奴《め》」
|罵《ののし》ると、いっせいに、
「――たたんじまえ」
と、外へ出て来た。
いずれも多少なり酒気をおびている者ばかりだ。酒を飲む者ほどまた、酒の上の不徳漢をつよく憎むものである。
「くせになる、野郎、金を払ってゆけ」
と前後を取り囲んで、
「てめえのような奴は、おおかた年中、その手で飲み屋を飲み倒しているのだろう。――金がなければ、おれ達に、一つずつ頭を|撲《なぐ》らせろ」
こう連中がいきまいて、袋だたきの|私《し》|刑《けい》を宣言すると、又八は、刀の|柄《つか》で身を護るように立って、
「なんだ? おれを撲る? 面白い、撲ってみろ。――貴様達は、おれを誰だと思っているか」
「乞食よりも意気地がなくて、|盗《ぬす》っ|人《と》よりも|太《ふて》え|芥《ごみ》|溜《ため》牢人と思っているが、それがどうした」
「いったな」
青じろい|眉《み》|間《けん》をよせて、自分の|周《まわ》りを|睨《ね》めまわしながら又八は、
「おれの名を聞いて驚くな」
「誰が驚くものか」
「佐々木小次郎とはおれのことだぞ。伊藤一刀斎のおとうと|弟《で》|子《し》、|鐘巻流《かねまきりゅう》のつかい手、小次郎を知らねえか」
「笑わかしやあがる。きいた風な文句はいいから、金を出せ、飲んだ金を」
一人が、手を出して責めると、又八は、それに返すことばの代りに、
「印籠で足らなければ、これもくれてやるっ」
抜き打ちに、刀を払って、その男の手首を斬って落した。きゃっ――と大げさな悲鳴をあげたので、まさかと|多《た》|寡《か》をくくっていた居酒屋の相客たちは、自分の血がこぼれたような錯覚に、尻と頭をぶつけ合って、
「抜いたっ」
と、われがちに逃げだした。
又八は|白《しら》|刃《は》をふりかぶってその手の下に、颯と急に冴えたような眼を光らし、
「今、なんといった。返って来い虫けらども、佐々木小次郎の手のうちを見せてやる。――待てっ、その首を、置いて行け」
宵闇の中で、又八は、一人で白刃を振りまわしていた。おれは佐々木小次郎だと、頻りに見得を切っていたが、もう相手はひとりもいないし、暮れてきた夜空には、|鴉《からす》も啼いていなかった。
「…………」
|擽《くすぐ》られたように、又八は空へ向って、白い歯を見せて笑った。けれども泣き出しそうな淋しさが、すぐその|面《おもて》をつつみ、あぶなげな手つきで刀を鞘にもどすと、ひょろ、ひょろ……と歩き出していた。
彼が居酒屋のおやじの顔へぶっつけた印籠は、おやじが逃げこんでしまったため、道ばたに落ちたまま、星の下に光っていた。
|黒《こく》|檀《たん》の|木《き》|地《じ》に青貝の|象《ぞう》|嵌《がん》がしてあるだけで、大して高価な印籠とも見えないが、夜の道に捨てられてあると、その青貝模様の光が、|蛍《ほたる》のかたまりが落ちているように、ひどく|妖《よう》|美《び》に|燦《きら》|々《きら》と見える。
「――おや?」
すぐ後から、居酒屋を出て来た六部がそれを拾った。六部はなにか急ぎ足だったが、もう一度軒下へもどって行って、|隙《すき》|洩《も》る|燈火《あ か り》にかざしながら、仔細に印籠の模様や|緒《お》|〆《じめ》を調べていた。
「――あっ? これは旦那様の印籠だ、伏見城の工事場でむごい死に方をなされた|草《くさ》|薙《なぎ》天鬼様が持っていた品。……これこの通り、天鬼と、印籠の底に小さく彫ってある」
|見遁《み の が》してはならないと急ぐように、六部の影は、又八の影を、すぐ追って行った。
「佐々木様、佐々木様」
誰かうしろで呼ぶとは思っていたが、自分の名でない証拠である。酔っている又八の耳には、通らなかった。
九条から堀川のほうへ又八は歩いてゆく。いかにも自分の身を持て余している影だった。
六部は足を|迅《はや》めて来た。うしろから又八の刀のこじりをつかんで、
「小次郎殿、お待ちなさい」
と、いった。
又八は、エ? ――と、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]でもするように振向いて、
「おれか」
というと、
「おてまえは、佐々木小次郎殿ではないのか」
六部の眼には、|険《けわ》しい光がひそんでいた。又八は、酔いのさめかけた顔つきで、
「おれは、小次郎だが、……その小次郎だったら、なんとする?」
「訊きたいことがござります」
「な……なにをだ」
「この印籠はどこからお手に入れましたな」
「印籠?」
いよいよ彼の酒気はさめ加減になってくる。伏見城の工事場でなぶり殺しになった武者修行の顔つきが、ふと眼のそばにちらついた。
「どこからお手に入れた物か、さ、それが訊きたい。小次郎殿、この印籠は、どうしておてまえの持ち物になったのでございますか」
切り口上で六部は問いつめるのだった。年頃二十六、七の男で|年齢《とし》からいっても、ただ寺院を廻って|碌《ろく》|々《ろく》と後生を願っているような、生気に乏しい人物ではない。
「……誰だ、おぬしは一体」
やや真顔に返って、又八がこう相手を探ると、
「誰でもいいではないか。それよりも、印籠の|出所《しゅっしょ》を仰っしゃい」
「元からおれの持ち物なのだ、出所もあるものか」
「嘘をいうな!」
急に、六部は、語気をかえて、
「ほんとのことをおいいなさい。場合によっては、飛んだ間違いごとになりますぞ」
「これ以上、ほんとはない」
「じゃあどうしても、おてまえは泥を吐かないな」
「泥とは何事だ」
勢い、又八も虚勢を張ると、
「この|偽《にせ》小次郎めっ」
六部の|携《たずさ》えていた四尺二、三寸の|樫《かし》の丸杖が、言葉より|迅《はや》くびゅっと風を鳴らしていた。腰を|退《ひ》く本能はうごいたが、体そのものにまだ酒の|痺《しび》れが残っていた。
「あっ――」
二、三間も|蹌《よろ》めいたあげく、腰をついたが、起ち上がるが早いか、後ろを見せて駈け出した。その迅さはちょっと六部を狼狽させた。
泥酔している相手なので、そう機敏な行動はできまいと|軽蔑《み く び》っていた反動だった。六部は|慌《あわ》てて、
「おのれっ」
追いかけながら、樫の杖を、風へ乗せて又八の影へ投げた。
又八は、首をすくめた。杖はうなりを持って、耳のそばを通って行く――。これは堪らないと思ったらしい、又八は、いよいよ|体《たい》を|弾《はず》ませて逃げた。
|外《はず》れた杖を拾い取って、六部も宙を飛ぶのだった。そして頃合を計ると、もいちど杖を闇へ|抛《ほう》った。
だが又八は、からくもその杖の先から二度まであぶないところを|遁《のが》れた。総身の毛あなから酒の気が一瞬に消えて|失《な》くなっていた。
|焦《や》けつくように喉が|渇《かわ》く。
どこまで逃げて来ても、六部の跫音がうしろから聞える気がするのだ。はや六条か五条に近い町ならびである。又八は胸をたたいて、
「うう、ひでえ目に遭った。……もう来まい」
そこで、横町のせまい路地を覗きこんだのは、逃げ道を考えているのではなく、井戸を捜しているらしい。
その井戸が見つかったとみえ、又八は、路地の奥へはいっていった。細民街の中にある共同井戸である。
|釣《つる》|瓶《べ》を上げると、又八は、それへ、かぶりつくようにして水を飲んでいた。ついでに釣瓶を下において、ざぶざぶと顔の汗を洗う。
「……なんだろう、あの六部は」
人心地に返ってみると、気味のわるさが、また|甦《よみがえ》ってくる。
金の入っている|紫革《むらさきがわ》の巾着と中条流の目録と、そして|先刻《さ っ き》の印籠と、こう三つの品は、去年の夏伏見城の工事場で、大勢のために虐殺された|頤《あご》のない武者修行の死骸から抜き取って来たものだった。そのうち、金はきれいに|費《つか》ってしまい、|懐中《ふところ》に残っていたのは、中条流の印可目録と、あの印籠が一つ。
「六部のやつ、あの印籠は、おれの主人の持物だといっていたが、――するとあいつは、死んだ武者修行の奉公人だろうか」
世間の狭さに、又八は始終追いつめられている気持だった。肩身がひけて、日蔭を歩けば歩くほど、いろいろな偶然が、鬼の影みたいに、追ってくる。
「杖か棒か、なにしろすごい物を|打《ぶつ》つけやがった。あの|唸《うな》って飛ぶ棒の先でこーんと一つ頭でもやられたらそれ|限《き》りだ。――なにしろ油断はできねえぞ」
死人の金を|費《つか》ってしまったということが、絶えず又八の良心の中にあった。悪いことをしたと思うたびに、あの炎天の|下《もと》で虐殺された|頤《あご》のない武者修行の死顔が眼にちらついて来てならない。
――働いて|儲《もう》けたらきっとなにより先に返す。出世したら石碑の一つも建てて供養もするから、と彼は心のうちで、絶えず死者に詫びていた。
「――そうだ、こんな物も、|懐中《ふところ》に持っていると、どんな疑いをかけられるかもしれねえ。いっそ捨ててしまおうか」
中条流の印可目録を、着物のうえから触ってみながら考えた。いつも胴巻の中に突っ張っている巻物がそれだった。持って歩くにも相当厄介な品である。
――だが、又八はすぐ、惜しいとも思う。すでに金は一文もないし、身に持っている財産といえばその巻物一つだった。なんとかこれを種にして、出世の|蔓《つる》とはゆかないまでも、体の売れ口はないものかと|僥倖《ぎょうこう》をたのむ気持が、そのために、赤壁|八《や》|十《そ》|馬《ま》にうまうまと|詐《さ》|欺《ぎ》にかかった後までも、いまだに量見からなくなっていない。
その印可に書いてある佐々木小次郎の名を|詐称《かた》って歩くと、かなり都合のよい時もある。無名の小さい道場とか、剣術ずきの町人などに示すと、多大な尊敬をうけた上に、一宿一飯の礼儀は黙っていても先からとってくる。この正月の半月などは、ほとんどその巻物で食って歩いたといってもよい。
「なにも、捨ててしまうには当るまい。おれはだんだん気が小さくなるようだ。その気の小さいのが出世の|邪《さまた》げかもしれないぞ。武蔵のように、太くなろう。天下を取った奴をみろ」
そう肚は極めたものの、今夜の寝床のあてもなかった。泥と草で傾いているようなそこらの細民|窟《くつ》の家でも、そこの人間には、|廂《ひさし》と戸があると思えば、又八は羨ましくてならなかった。
二人小次郎
さもしい彼の眼は、つい、そこらの家を|覗《のぞ》いてみた。どこの家も、ひどく貧乏だった。
けれどそこには、一つ鍋に向い合っている夫婦がある。老母を囲んで|夜業《よ な べ》の手内職をしている|兄妹《はらから》がある。物質には極端にめぐまれていない代りに、秀吉や家康の家庭にはないものをお互いが持ち合っているらしい。それは、貧しいものほど濃い骨肉愛だった。そのいたわり合いがあるばかりに、この細民|窟《くつ》は、餓鬼の住み|家《か》にならなかった。やはり人間のあたたかさを持っている。
「おれにも、|老母《はは》があった。――どうしたろう、おふくろは」
急に、又八は、思い出された。
つい去年の暮、行き会って七日ほど一緒にいただけで、すぐ、つまらない|母子《お や こ》同士のわがままから、途中で捨てて別れてしまった|限《き》りになっている。
「――悪いなあ、かわいそうなおふくろだもの……。どんなに好きな女をこしらえてみても、おふくろほど、心からおれを愛してくれる女はなかった」
ここから|道《みち》|程《のり》ももうたくさんはない。又八は清水の観音堂へ行ってみようと考え出した。あそこの|廂《ひさし》の下なら寝ることもできる。また――ことによったら老母に出会うかも知れないという空だのみも抱いてみる。
|老母《はは》のお杉は、大の信心家である。神仏を問わず、そういうものの力を絶対に信じている人だ。いや信じるのみでなくなによりの頼みとしているところがある。いつか大坂で七日あまり又八と一緒になって歩いている間に、|母子《お や こ》の間にすぐ不和ができたのも、お杉が神社仏閣ばかり歩いて暇どっているのが又八に退屈を起させて、とても、このおふくろと永の旅はできないという|倦《けん》|怠《たい》を、息子に持たせたのが一因になっている。
その頃、又八は、よくお杉から聞かされていたのである。
(なにが|顕《あらた》かじゃというて、清水寺の観世音さまほど、世に顕かな|御《み》ほとけはない。あそこへ、祈願をこめて、やがて三七日に近い頃、なんと、武蔵めに、ちゃんと行き会わせて下されたではないか。しかも御堂の前で、あの奴に。――おぬしも清水の観音様だけは、よう信心したがよいぞ)
――それからまた、春にでもなったら、お礼詣りをかね、後々も、本位田家のため御加護を|祈《き》|請《せい》するのだと、幾度も、又八は聞かされていた。
だから、或はもう、そこに老母は|参《さん》|籠《ろう》しているかも知れない――と又八は考えたのである。するとあながち彼の考え方も、空だのみでないかも知れなかった。
六条坊門の通りから五条のほうへ歩いてゆくと、町ではあるが、この|界《かい》|隈《わい》の夜というものは、犬につまずきそうな暗さであった。――その野良犬がまた実に多い。
彼は、|先刻《さ っ き》から、その野良犬の声に、取り巻かれていた。石を投げたくらいで沈黙する群れではなかった。しかし、彼という人間も、吠えられることにはこの頃馴れているので、いくら犬が牙をむいて|尾《つ》いて来ても、吠えるほうで張合いのなくなるほど平気で歩きつづけていた。
――だが、五条に近い松原の辺りまで来ると、犬の群れは、突然、吠える方向をかえて、又八の前後に|尾《つ》きまとっていた犬まで、わらわらと跳躍して、ほかの群犬と一緒になり、並木のうちの一本の松の樹を取り巻きながら、|喧《けん》|々《けん》と、空へ向って|咆《ほう》|哮《こう》しだした。
暗闇の中にうようよしている犬の影は、犬というよりは狼に近い。それが数えきれない数だった。中には、爪を立てて、その松の樹の五、六尺上まで跳びかかって|牙《きば》をむいている|恐《こわ》い犬もある。
「……おや?」
又八は、樹の上を仰いで、眼をみはった。|梢《こずえ》の上には、チラと人影がある。星明りを|透《す》かしてみると、女らしい|美麗《き れ い》な|袂《たもと》と白い顔が、細やかな松の葉の中におののいているのである。
犬に追われて樹の上へ逃げ登ったのか、それとも、樹の上にかくれていたために、野良犬が怪しんでその下を取り巻いたものか、そこのところは明瞭ではないが、どっちにしても、梢に|顫《おのの》いている影は、年若い女であることに間違いない。
「――|叱《し》ッ! 畜生ッ。――叱いッ」
又八は、犬の群れへ、|拳《こぶし》を振りあげてみせた。
「こん畜生」
二つ三つ石も投げた。
四つ脚のまねをして唸れば、どんな犬も逃げるとかねがね聞いていたので、又八は、|獣《けもの》のように四つ這いになって、
「ウウー」
と唸ってみたが、ここの犬たちには、なんの|効《き》き目も|顕《あらわ》れない。
もっとも、相手は三疋や四疋ではないのだ、まるで|深《しん》|淵《えん》に群れている魚紋のような無数の影が、尾を振り、牙を|剥《む》いて、樹の皮が裸になるほど、|顫《おのの》いている空の女へ向って、吠え猛っているのである。又八のごときが、遠くから四つ脚の真似をして見せたところで、この猛犬の群れには問題にされないわけだった。
「こいつら!」
憤然と又八は起った。
かりにも、両刀をおびている青年が、四つ脚の真似をしているのを、樹の上から、若い女に見られていた恥辱を突然気づいたからである。
キャッーンと、ただならぬ一疋の悲鳴が起ると、すべての犬が、又八の方へ眼を向けた。そして彼の手にある|白《しら》|刃《は》と、その下に斬り仆された友達の死骸を見ると、犬は、どっと|一《ひと》所へかたまって痩せた脊ぼねを波のようにみな|尖《とが》らせた。
「これでもか」
刀を振りかぶって犬の中へ駈けこむと、彼の顔へぱっと砂をくれて、犬は八方の闇へちらかった。
「――女ッ、おいッ、降りて来い! 降りて来い!」
空へ向って呼ぶと、松の梢のあいだで、り、り、り、りん……と金属製の|美《い》い|音《ね》が揺れた。
「おや、|朱《あけ》|実《み》じゃないか。――おいッ」
|袂《たもと》の鈴の音に覚えがあった。鈴を帯や袂につけている|女《おな》|子《ご》は、なにも朱実だけに限ったこともないが、|仄《ほの》かに白く見える顔の輪郭も、なんだか似ている気がしたのである。
――とやはり朱実の声だった。非常に驚いた様子で、
「誰? ……誰? ……」
「又八だ、わからないか」
「えっ、又八さんですって」
「なにしているんだ、そんな所で。――犬なぞ怖がるおまえでもないくせに」
「犬が恐いのでかくれているわけじゃありません」
「降りて来たらどうだ、とにかく」
「でも……」
朱実は、樹の上から、静かな夜の|彼方《あち》|此方《こち》を見まわして、
「――又八さん、そこを|退《ど》いていて下さい。あの人が、捜しに来たようですから」
「あの人? 誰だ、そいつは」
「そんなこと、いま話してはいられません。とても恐ろしい人です。わたしは去年の暮から、その男を、親切な人だと最初は思って、世話になっているうちに、だんだん私に|酷《むご》い真似をするんです。……それで今夜、隙を見て、六条の|数《ず》|珠《ず》|屋《や》の二階から逃げ出して来たところ、すぐ感づいて、後から追って来たらしいんです」
「お甲のことじゃないのか」
「お|養母《つか》さんなどじゃありません」
「|祇《ぎ》|園《おん》藤次でもないのか」
「あんな人なら、なにも恐いことはありやしない。……あッ、来たらしい。又八さん、そこに立っていると、わたしも見つかるし、おまえも|酷《ひど》い目に遭うから隠れて下さいよ!」
「――なに、そいつが来たと?」
又八は、うろうろして、態度を決しかねていた。
女の眼は、男を指図する。女の眼を意識すると、男はがら[#「がら」に傍点]にもない金力を出したり、英雄ぶって見せたりしたがる。|先刻《さ っ き》、誰も見ていないと思って、四つ脚の真似をして恥じたあの心理の延長が、まだ又八の心を占めていた。
だから朱実が、いくら樹の上から彼に向って、
(|酷《ひど》い目に遭うといけない)
と教えても、
(はやく、隠れておしまいなさい!)
と危険を予報しても、そういわれればいわれるほど、彼は自分も男であることを|我《が》に持ってしまって、
(それは大変)
と、急にあわてふためいて、そこらの暗がりへお尻を出して|潜《くぐ》りこむような醜状を、いくら愛人でないからといって、そうたやすく彼女の眼の下に見せることは出来なかった。
「――あっ? 誰だっ」
こういったのは、もうそこへ|迅《はや》い跫音を|弾《はず》ませて来た男でもあったし、また、それに驚いて跳び|退《の》いた又八の異口同音の声でもあった。
朱実の心配していた恐い男なる者が、ついに、ここへ来てしまったのである。又八の提げていた|抜刀《ぬ き み》には、犬の血が垂れていた。それを見たので、ここへ来た男は、又八の前へ立った途端から、又八をただ者でないように睨まえて、
「――誰だっ、汝は」
と、もう一声、頭から浴びせてかかった。
「…………」
朱実の恐がり方が大げさであったので、又八も一応はどきっ[#「どきっ」に傍点]としたが、相手の影をよく見直すと、背こそ高くて逞しそうな骨格であるが、|年齢《とし》は自分と大差のない若さだし、髪は前髪に結い、着物は派手な若衆小袖を着ていて――
(なんだ、こんな青二才が)
と、一見して思わせる程度の柔弱な|扮装《いでたち》なのである。
そこで又八は、ふふんと、鼻の先で安心したものなのだ。こんな相手ならいくらでもお相手申してさしつかえない。夕方ぶつかった六部のような人間では不気味だが、もう|二《は》|十《た》|歳《ち》も超えながら、前髪や若衆小袖でぺらぺらしているような柔弱者に、よも|負《ひ》けを取ろうとは思われない。
(こいつが、朱実を苦しめているのか。生意気な青びょうたん|奴《め》が。どういう|理《わけ》かまだ聞いていないが、いずれ、朱実を追い廻して、ひどい目に遭わせているのだろう。――よし、|懲《こ》らしてやろう)
こう又八が胸のうちで、余裕のあるところを示して沈黙していると、前髪の若衆武士は|三《み》|度《たび》口をひらいて、
「何者だっ? ……汝は」
と、いった。
すがたに似あわない|猛《たけ》|々《だけ》しい声であって、三度目の一|喝《かつ》は殊さら辺りの闇を払うように颯爽としていたが、すでに相手のかっこうで頭から敵を呑んでいた又八は、
「おれか、おれは人間だ」
と、こう|揶揄《か ら か》い半分に出て、笑う必要もないこの際に、|強《し》いて、にんやりと顔を|歪《ゆが》めて見せたものである。
果たせるかな、前髪は、くわっと血を顔へのぼせたらしい。
「名もないのか。――名もない人間だと|卑《ひ》|下《げ》するのか」
激越に突っかかって来るのを、又八は、|綽々《しゃくしゃく》として、
「てめえのような、|氏素姓《うじすじょう》の知れねえ奴に問われて名乗る名はない」
と、やり返す。
「だまれっ」
若衆の背中には、中身だけでも三尺もあろうかと思われる大刀が斜めに乗っていた。
肩越しにのぞいているその|柄《つか》がしらとともに前髪はずっと前へ身をかがめて、
「そちとわしとの争いは後で決めよう。わしは、この樹の上にかくれている女を降ろし、この先の|数《ず》|珠《ず》|屋《や》の宿まで連れ戻るから、それまで待っておれ」
「ばかをいえ、そうはさせねえ」
「なんじゃと」
「この娘は、おれが以前女房にしていた女の娘。今でこそ縁はうすいが、難儀を見すてては通れない。おれをさし|措《お》いて、指でもさしてみろ、たたっ斬るぞ」
|先刻《さ っ き》の犬の群れではないが、|威《い》|嚇《かく》したらすぐ尾をたれて逃げるだろうと思いのほか――
「おもしろい」
と、相手の前髪男は、又八の予期とはちがって、ひどく好戦的な物腰となり、
「見うけるところ汝も|武士《さむらい》の|端《はし》くれらしい。久しくそういう骨っぽい人間に出会わないので、背中の|物《もの》|干《ほし》|竿《ざお》が夜泣きをしていた折でもある。この伝家の宝刀も、自分の手に渡ってからまだ血に飽かせたことがないし、すこし|錆《さび》も来ているから、汝の骨で|研《と》いでやろう。――だが、逃げるなよ、いざとなって」
|退《ひ》くに退けないようにして、相手は要心ぶかく、言葉で先に縛ってくるのだった。しかし、その手に乗せられてはなどという先見は持たない又八なのである。まだ十分、先をあまく見て、
「広言はよせ、考え直すなら今のうちだぞ、足もとの明るいうちに|失《う》せてしまえ、|生命《い の ち》だけは助けてやる」
「その言葉は、そのまま、そちへ返上しよう。――ところで、そこな人間殿、先程黙って聞いておれば、わしなどへ名乗って聞かすような名でないと、だいぶ|勿《もっ》|体《たい》ぶってござったが、そのご尊名をひとつ伺っておこうではないか。それが勝負の作法でもあるし」
「おお、聞かせてもいいが、聞いて驚くな」
「驚かないように、胆をすえておたずねしよう。――してまず、剣のお流儀は」
そんなことを|喋々《ちょうちょう》する人間にかぎって強かった|例《ためし》がない。又八は、いよいよ、こう|見《み》|縊《くび》ったり、図に乗って、
「|富《と》|田《だ》入道勢源のわかれを汲んで、|中条流《ちゅうじょうりゅう》の印可をうけている」
「え、中条流を?」
小次郎は、少し驚き始めた。
ここで、圧倒的に出なければ嘘だと思ったように、又八は押しかぶせて、
「ではこんどは、そっちの流儀を聞かせてもらおうじゃねえか。勝負の作法というもの」
口真似して、やり返したつもりでいると、小次郎は、
「あいや、わしの流儀姓名は後から申し告げる。してしてそこ|許《もと》の中条流は、いったい、誰を師として学ばれたか」
問うも愚かというように、又八の答えは言下に出て、
「|鐘《かね》|巻《まき》|自《じ》|斎《さい》先生」
「ホ? ……」
いよいよ、小次郎は驚いて、
「すると、伊藤一刀斎は、ご存じか」
「知っているとも」
又八は面白くなって来た。これはもう例の|効《き》き|目《め》が現われてきた証拠と見たのである。刃物沙汰に及ばないで、おそらくこの前髪は、なんとか妥協の|緒口《いとぐち》を見つけてくるに違いないと考えていた。
そこで、彼は、すすんでいった。
「あの伊藤弥五郎一刀斎なら、なにをかくそう、おれには兄|弟《で》|子《し》にあたる人だ。つまり、自斎先生のところで同門の間がらだが、それが、どうしたっていうんだ」
「――では、重ねて伺いたいが、そういうあなたは」
「佐々木小次郎」
「え?」
「佐々木小次郎という者だ」
ていねいにも、二度までいったものである。
ここに至っては、小次郎も、驚きを超えて、|唖《あ》|然《ぜん》としてしまうほかはなかった。
「フーム」
やがて小次郎は、そう唸りながら、|笑靨《え く ぼ》をつくった。
まじまじと無遠慮に自分を見ている眼を、又八は、ぐっと|睨《ね》めかえして、
「なんだっておれの|面《つら》をそう見るのだ。おれの名を承って恐れ入ったか」
「イヤ、恐れ入った」
「帰れ!」
|頤《あご》をすくって、又八が、刀の|柄《つか》をセリ出していうと、
「アハハ、アハハハ……」
腹をかかえて小次郎は笑い出した。いつまでも、笑いの止まらない様子で、
「世間を歩くと、ずいぶん様々な人物にも出会うが、まだかつて、こんなに恐れ入った|例《ためし》はない。――なんと佐々木小次郎どの、あなたに訊いてみるが、しからば、拙者は何者であろうか」
「なに?」
「わしは一体、何者かと、あなたに訊いてみるのだが」
「知ったことか」
「いやいやそうでない、よくご存知の筈である。|執《しつ》こいようだが念のため、もういちど承りたい。あなたのご姓名は、何といいましたかな」
「わからぬか、おれは佐々木小次郎という者だ」
「すると、わしは?」
「人間だろう」
「いかにも、それに違いない。しかし、わしという人間の名は」
「こいつが、おれを|弄《なぶ》る気か」
「なんの、大真面目。これ以上の真面目はない。――小次郎先生、わしは誰だ?」
「うるせえ、てめえの胸に訊くがいい」
「しからば、自分に問うて、おこがましいが、わしも名乗ろう」
「オオいえ」
「だが、驚くな」
「ばかな!」
「わしは、岸柳佐々木小次郎だが」
「えッ……?」
「祖先以来、岩国の|住《じゅう》、姓は佐々木といい、名は小次郎と親からもらい、また剣名を岸柳ともよぶ人間はかくいう私であるが――はて、いつのまに、佐々木小次郎が世間に二つできたのだろうか」
「……や? ……じゃあ? ……」
「世間を歩くうちには、ずいぶん様々な人物にも巡り会うが、まだかつて、佐々木小次郎という人間に出会ったのは、この佐々木小次郎、生れて初めてだ」
「…………」
「実に、ふしぎなご縁、初めてお目にかかったが、さては、貴殿が佐々木小次郎どのか」
「…………」
「どうなすった、急に、ふるえておいでなさるようだが」
「…………」
「仲良くしよう」
小次郎は、寄って来た。そして、立ち|竦《すく》んだまま青ざめている又八の肩をぽんとたたくと、又八はぶるっと体をふるわして、
「――あッ!」
と、大きな声でいった。
次の声は、小次郎の口から出たもので、まるで槍を吐くように彼の影を|衝《つ》いてくる。
「逃げると、斬るぞッ」
――一跳びに、二間もあいだが開いたように見えたが、その又八の逃げて行く影へ、例の物干竿の|長刀《ながもの》が、小次郎の肩越しから|閃《ひらめ》いて、びゅっと、銀蛇を闇に描くと、もうそれを小次郎は、ふた太刀とは使わなかった。
風に吹かれた木の葉虫のように、大地をごろごろと三つほど転がったまま、伸びてしまったのが又八だった。
背なかの|鞘《さや》へ、三尺もある|白《しら》|刃《は》が吸われて、ぴいんと、|辷《すべ》り落ちたとたんに高い|鍔《つば》|鳴《なり》がひびく。
――と、小次郎はもう、|呼吸《いき》のない又八などには、眼もくれていなかった。
「――朱実っ」
樹の下へ寄って、こう叫びながら|梢《こずえ》を見あげた。
「朱実、降りておいで。……もうあんなことはしないから降りておいで。……おまえの|養母《はは》の亭主だったという男をつい斬ってしまった。降りて来て、介抱してやってくれ」
樹の上からは、いつまで、なんの声もなかった。こんもりと松葉の闇は濃いのである。小次郎はやがて、自分も樹の上へよじ登って行った。
「……?」
朱実はいなかった。いつのまにか隙を見て樹をすべり落ちるなり逃げてしまったものと見える。
「…………」
梢に腰をかけたまま、小次郎はしばらくそこにじっとしていた。|颯《さつ》|々《さつ》とふく松かぜの中に身を置いて、逃げた小鳥の行方を|憶《おも》っているらしかった。
(どうして、あの女は、おれをああ|怖《こわ》がるのだろうか?)
小次郎には、それが分らなかった。自分で出来るだけの愛を彼女には|注《そそ》いだつもりだからである。その愛し方が、すこし、烈しすぎたことは自分でも認めている。しかし、その愛し方が、ふつうの人よりも違っていることは、彼自身では気づき得ないのであった。
女性に対しては、小次郎の愛し方が、どういうふうに人とは違っているかという点を知ろうとするならば、他人ならば、彼の剣にあらわれる性格――つまり太刀すじというものを気をつけて|観《み》ていると、やや|解《と》けて来るのである。
いったい、この小次郎という者は、鐘巻自斎の手許で、子飼いからの修行を受けている頃から、もう、鬼才だとか、|麒《き》|麟《りん》|児《じ》だとかいわれていただけに、普通の人とは、まるで剣の|質《たち》が変っていた。
それを一口にいうと「|粘《ねば》り」であった。彼の太刀は実によく「粘る」ところに先天的な特色があった。自分以上の力の者に向えば向うほど、その「|粘力《ねんりょく》」を出すのである。
もちろんこの時代の剣は、兵法として、手段は問わないのであるから、どんなふうに粘っても、それを、汚いとは誰もいわなかった。
(あいつに、かかられては、かなわん)
と怖れをなす者はあっても、小次郎の太刀を卑怯だという者はない。
たとえば、彼は少年の頃一度、日頃憎まれていた兄弟子たちから木剣で手痛く打ち伏せられて、気絶してしまったことがある。少しひどすぎたと悔いて、その兄弟子が、水をふくませて|労《いたわ》っていると、息をふっ返した小次郎は、猛然とふいに立って、その兄弟子の木剣で、兄弟子を撲り殺してしまったという履歴すらある。
また、いちど負けたら、その敵を、彼は決して忘れない。闇の晩であろうが、|雪《せっ》|隠《ちん》へはいった時であろうが、寝ている間であろうがつけ狙うのである。これも、その頃の兵法としては、
(ばか、試合は、試合の時にしろ)
というわけには行かないのであるから、小次郎を一度打ち込むと、|敵持《かたきも》ちになったのも同じだといって、そういう彼の異常な|執《しつ》|拗《よう》を、同門の者はよくいわなかった。
いつのまにか、また彼は、
(おれは天才だ)
と、自分でいっていた。
しかしそれは、彼の|不《ふ》|遜《そん》な思い上がりばかりでなく、師の自斎も一刀斎も、
(あれは天才だ)
と、ゆるしていたことは事実なのである。
郷里の岩国へ帰って、錦帯橋のたもとで、毎日、燕斬りの手練をつんで、独自な太刀を工夫してからは、なおさら、
(岩国の|麒《き》|麟《りん》|児《じ》)
と、人も|称《たた》え、彼も自負していた。
――だが、その粘りのある剣の異常な執拗さが、女性を愛す場合に、どういう形であらわれるかなどということは、誰も知る限りのことでないし、小次郎自身は、それとこれとは、まるでべつに考えているので、朱実が自分を嫌って逃げたことが、不思議でならない顔つきであった。
ふと気づくと、その時、樹の下に誰か人影がうごいていた。
小次郎が、梢の上にいることをその人間は知らないらしい。
「……や、誰か仆れているが」
と、又八のそばへ寄って、|屈《かが》み腰になりながら又八の顔を|覗《のぞ》いていたと思うと、やがて、
「あっ、こいつだ」
と、梢の上までよく聞えてくるような大声でいって、いかにも驚いたらしい|態《てい》であった。それは手に白木の杖を持っている六部であった。六部は何思ったか、あわてて背の|笈《おい》ずるを下ろし、
「……はてな、斬られているようでもないし、体はまだ|温《ぬく》いし、どうして|此《こ》|奴《やつ》め、気を失っているのか」
呟きながら、又八の体を撫でまわしていたが、やがて腰についていた|細《ほそ》|曳《びき》を解くと、又八の両手を後ろへやって、ぐるぐる巻きに縛ってしまう。
気絶していることなので又八はなんの抵抗もするわけはない。六部は、そうしておいてから、又八の背を膝がしらで抑え、|鳩尾《みぞおち》のあたりへ、気合いをかけて押していた。
ウウム――と又八が太い声を出すと、六部はそうして手当した者を、まるで|芋俵《いもだわら》でも引っ提げるような扱い方して、樹の下へ持って来た。
「起てっ、起つんだ!」
こう厳命して、足で彼を蹴飛ばした。
地獄の一丁目まで行って気がついたばかりの又八は、まだ十分われに返っていなかったであろう。半ば、夢中のように、体を|刎《は》ね|起《おこ》すと、
「そうだ、そうしていろ」
六部は満足して、彼の胴と脚の部分を、そのまま松の木の幹へ縛りつけてしまった。
「……あっ?」
又八は初めて、こう驚き声を洩らした。小次郎でなくて、六部であったことは、意外であったらしい。
「こら、|偽《にせ》小次郎、よくも逃げ足早く逃げまわって、人に世話を焼かせおったな。……だが、もう駄目だぞ」
六部はこういって、おもむろに又八を|拷《ごう》|問《もん》し始めた。
まず最初の折檻が、平手でぴしりと頬を打って来た。その手でまた、|額《ひたい》をつよく押されたので、又八の後頭部が樹の幹にぶつかってごつんと|鈍《にぶ》い音を出した。
「あの印籠は、どこから手に入れたものか、それを申せ、こら、申さぬか」
「…………」
「いわぬな」
と、六部は、又八の鼻をつよく|抓《つま》む。
抓んでおいて、又八の顔を、左右へ烈しく振り動かすので、又八は妙な悲鳴をあげて、
「……ひゅう、ひゅう」
いう、という意味らしいので六部は鼻から手を放し、
「申すか」
こんどは明瞭に、
「いう」
と、又八が眼からなみだをこぼして答える。
こんな拷問に遭わされないでも、又八はもうあの事を、秘し隠しにつつんでいる勇気はないのである。
「実は、去年の夏のことだったので――」
と、伏見城の工事場で自分が|石《いし》|曳《び》きをしているうちに遭遇した「|頤《あご》のない武者修行」の死をつぶさに話し、
「……つい出来心で、その人の死骸から金入れと、中条流の印可と、それから|先刻《さ っ き》の印籠とを持って逃げたに相違ありません。金は、|費《つか》ってしまいました、印可は|懐中《ふところ》に持っております。|生命《い の ち》をお助けくださるならば、今というわけには参りませんが、金もきっと後日までに、働いてご返済いたしまする。……はい、証文に書いてお渡しいたしておいてもようございます」
白状して、こう残らずいってしまうと、又八は、去年から絶えず心に病んでいた|膿《うみ》をいちどに切って出してしまったようで、急に気がらくになったせいか、なんだか怖いものもなくなって来た。
聞き終ると、六部は、
「それに相違ないか」
又八は、神妙に、
「相違ありません」
といって、すこし|俯向《う つ む》く。
しばらく黙っていたと思うと、六部は腰の小脇差を抜いて、彼の顔の前へすっと出した。又八は、びくりと斜めに顔を上げ、
「き、きるのか、おれを」
「ウム、|生命《い の ち》をもらう」
「おれは、一切を正直にいったじゃないか。印籠は返したし、印可の巻物も返す。それから、金も今は払えないが、後日、きっと返すといってるのに、なにもおれを、殺さなくてもいいだろう」
「おぬしの正直はよく分っている。だが、仔細をいえば、わしは上州|下《しも》|仁《に》|田《た》の者で、伏見城の工事場で大勢の者に殺された|草《くさ》|薙《なぎ》|天《てん》|鬼《き》様の奉公人なのだ。――つまりあの武者修行に出ておられた草薙家の若党で、一ノ宮源八というのだが」
そんな言葉は、又八の耳には通らなかった。死に直面しているのである。身をもがいて、自分の縄目をかなしみ、どうかして|遁《のが》れたいと思うことだけだった。
「――謝る、おれが悪かったのだ、おれはなにも、悪い量見で、あの死骸から物を盗んだわけじゃない。死人がいまわの際に、たのむ……といったので、初めはその遺言どおりに、死人の身寄りの者へ届けてやるつもりでいたのだが、金につまって、つい預かっていた金へ手をつけたのが悪かったのだ。いくらでも謝るから、勘弁してくれ、どんなようにでも謝るから――」
「いいや、謝られては困る」
六部は、強いて自己の感情を抑えつけているように、首を振って、
「その折の詳しい事情は、伏見の町で調べてあるし、おぬしが正直者だということも見ておるのだから。――だが、わしは国もとにいる天鬼様の遺族に対して、なにか、慰めるものを提げて行かなければ帰れない事情にあるのだ。そこには、いろいろな|理《わけ》があるが、主なる理由は、天鬼様を|殺《あや》めた下手人がないことだ。これにはわしも弱ってしもうた」
「おれが……おれが殺したのじゃないぞ。……おいっ、おいっ、間違えてくれては困る」
「わかってる、わかってる。――そこは十分承知しているが、遠い上州にある草薙家のご遺族たちは、天鬼様が、城ぶしんの作事場で、土工や|石《いし》|工《く》などになぶり殺しになったのだとはご存じないし、また、左様なことは、|外《がい》|聞《ぶん》がわるくて、身寄りの者や世間へも披露いたし|難《にく》い。そこで、おぬしには気の毒な頼みだが、どうかおぬしが天鬼様を殺した下手人となり、この源八に、|主《しゅ》の|敵《かたき》となって、討たれてもらいたいのだが、なんと聞き入れてはくれまいか」
これこそ、ことをわけての頼みというものであるが、又八は、そう聞くと、いよいよもがいて、
「ば、ばかなことをっ……嫌だっ、嫌だっ、おれはまだ死にたくない体だ」
「ごもっともな仰せではあるが、さっき九条の居酒屋で飲んだ払いもできぬほど、その身一つさえ生きてゆくに持てあましておられるご様子ではないか。飢えてこのせち辛い世の中にうろついて、恥をかいておられるより、いっそ、さっぱりと|頓証《とんしょう》なされてはどうでございまするな。――さてまた、お金のことならば、自分が所持のうち何分だけでも、おぬしの|香《こう》|奠《でん》として進ぜますゆえ、これをお心残りの年寄りがあるならその年寄りへ、また|回《え》|向《こう》として、先祖の寺へ納めてくれというならばそのお寺へ、必ずお届け申しておくが」
「滅相もねえ……おらお金なんぞはいらねえ、|生命《い の ち》が惜しい! ……嫌だっ、助けてくれっ」
「折角なれど、こう仔細を割っておたのみ申した上は、どうあってもおぬしに、主人の|敵《かたき》となってもらわねば仕方がない。その首をいただいて、上州へ立帰り、天鬼様のご遺族や世間に対して、事情を|繕《つくろ》う心底でござる。――又八どのとやら、これも|宿《すく》|世《せ》の約束ごととあきらめて下さい」
源八は、|刃《やいば》を持ち直した。
「待て待て! 源八」
と、誰かその時いった。
それが、又八の口から出た声であるならば、自分の無法の分っている感情を噛みころしても、目的のためには、
(何をっ)
といったような顔つきであったが――
「や……?」
眼を暗い空へ吊り上げて、耳のせいかとでも疑っているように、梢にうごく風を聴いていた。
すると、そこの宙の上からまた二度目の声がした。
「つまらない殺生をするなよ、源八っ――」
「あっ、誰だ?」
「小次郎だ」
「なに」
またしても小次郎だという人間が今度は空から降りて来そうなのだ。天狗の声にしては親しみがあり過ぎた。いったい幾人|偽《にせ》小次郎がいるのだろうか。
源八は、
(もうその手は食わない)
というように、樹の下から飛び離れると、脇差の先を、宙へ構えて、
「ただ小次郎とだけでは分らぬ。どこの何の小次郎か」
「岸柳――佐々木小次郎さ」
「ばかなっ」
笑い飛ばして、
「その偽物はもう|流行《はや》らぬぞ。今もここで一人、憂き目を見ているのが分らぬか。……ははあ、さては読めた、おのれもここにいる又八とやらの同類か」
「わしは|真物《ほんもの》だ。――源八、わしはそこへ跳び降りようと思うのだが、おまえは、降りて来たらわしを真二つに斬ろうとしているな」
「ウム、小次郎の化け物、|幾《いく》|人《たり》でも降りて来い。成敗してみせる」
「斬れたら、偽小次郎だろう、だが|真物《ほんもの》の小次郎は、斬れッこない。――降りるぞ、源八」
「…………」
「いいか、おまえの頭の上へ跳ぶぞ、見事に、斬れよ。――だが、わしを宙斬りにし損ねると、わしの背にある物干竿が、おまえの|直《すぐ》|身《み》を、竹のように割ってしまうかも知れないぞ」
「アッしばらく――。小次郎様、しばらくお待ちください。……そのお声、思い出しました。また、物干竿の銘刀をご所持のうえは、|真《まこと》の佐々木小次郎様に違いありません」
「信じたか」
「けれど――どうして左様なところへは?」
「後で話そう」
――はっと源八は首をすくめたのであった。仰向いている顔を越えて、小次郎の|袴《はかま》の風が、さっと、散り松葉と一緒に、自分のすぐうしろへ落ちて来た。
|紛《まぎ》れもない佐々木小次郎を眼の前に見直すと、源八は、かえって、不審の|靄《もや》につつまれてしまった。この人と自分の主人|草《くさ》|薙《なぎ》天鬼とは同門の間がらである。従って、小次郎がまだ上州の鐘巻自斎の|許《もと》にいた時分は、幾度も会ったことがある。
だがそのころの小次郎は、こんな美々しい若衆ではなかった。目鼻だちは幼少からきかない気性をあらわして、|凜《りん》|々《りん》としていたが、師匠の自斎が、華美は嫌う人であったから、そこの水汲み小僧であった小次郎は、元より質素で色の真っ黒な|田舎《い な か》少年でしかなかった。
(見違えるような――)
源八は見惚れていた。
木の根に腰を下ろして、
「ま、そこへかけないか」
と小次郎はいう。
それから――二人の間に交わされた話によって――師匠の|甥《おい》であり、また同門である草薙天鬼が、自分へ渡す中条流の印可の巻物を持って遊歴中に、伏見城の工事場で、大坂方の間諜とまちがえられて惨死した事情もお互いによく分ってくる。
また、その事件が、世間の中に、佐々木小次郎を二人|拵《こしら》えてしまったわけも分って来て、果ては、手をたたいて、|真物《ほんもの》の小次郎はそれを愉快がった。
そこでまた、小次郎がいうには――他人の名など|騙《かた》って歩くような、こういう生活力の弱い人間などを殺してみても、いっこう面白くもなんともない。
|懲《こ》らすならば、もっとべつな方法がある。また草薙家の遺族や、|国《くに》|許《もと》の世間ていの問題ならば、なにもむりに|敵討《かたきうち》に拵えて、事情を|繕《つくろ》わなくても、そのうち自分が上州方面へ下った折、十分死者の面目も立つように釈明して、追善の供養でも営むことにするから、それも自分にまかしておいたがいいではないか。
「――どうだな、源八」
小次郎のことばに、
「そう仰っしゃって下さるからには、私にはなにも異存はございません」
「――では、わしはこれで別れるぞ、おまえも国へ帰れ」
「え、このまま」
「されば、実はこれから、朱実という|女《おな》|子《ご》の逃げた先をさがしに行く。――ちと気が|急《せ》くから」
「ア、お待ちください。まだ、大事なものをお忘れでございましょう」
「なにを」
「先師の鐘巻自斎様から、甥の天鬼様へ託して、あなたへお譲りなされた中条流の印可の巻」
「ウム、あれか」
「死んだ天鬼様の|懐中《ふところ》から抜き取って、この偽小次郎の又八と申す者が、今も肌身につけて所持しておるといいました。――それは当然、自斎先生から、あなたへ授けられたもの。……思えばこうしてお会い申したのも、自斎先生の霊や、天鬼様のおひきあわせであったかも知れません。どうかそれをこの場において、お受取りくださいまし」
源八は、そういって、又八の|懐中《ふところ》へ手を突っ込んだ。
どうやら生命は助かりそうな様子なので、又八は、腹巻の底からそれを引出されても、惜しい気もちなどは少しもしなかった。むしろ、その後、|懐中《ふところ》も気も軽々した。
「これです」
源八が、印可の巻物を、亡き人に代って小次郎の手へ授けると、小次郎は、押しいただいて感泣するかと思いのほか、
「――|要《い》らない」
と、手も出さない。
意外な顔して、源八は、
「え? ……どうして」
「要らん」
「なぜですか」
「なぜでも、わしにはもうそんな物は、不要だと思うから」
「勿体ないことを仰っしゃる。自斎先生は、多くのお弟子のうちから、中条流の印可を授ける者は、あなたか、伊藤一刀斎か、こう二人よりないと見て、生前から心で許しておいでになったのですぞ。――やがて、いまわの際に、この一巻を、|甥《おい》の天鬼様にあずけて、あなたへ渡せと仰っしゃったのは、伊藤一刀斎は、すでに独自の一派を立てて、一刀流を称しておりますゆえ、おとうと弟子ではあるが、あなたに印可目録をお許しになったものだろうと考えられます。……師恩の有難さ、おわかりになりませんか」
「師恩は師恩、しかし、わしにはわしの抱負があるのだ」
「なんですッて」
「誤解するな、源八」
「余りといえば、師に対して、無礼でございましょう」
「そんなことはない。ありようにいえば、わしは師の自斎先生よりも、もっと秀でた|天《てん》|稟《ぴん》を持って生れていると思っている。だから、先生よりも偉くなるつもりなのだ。あんな|片《かた》|田舎《い な か》で晩年を|埋《うず》もれてしまうような剣士で終りたくないのだ」
「本性で仰っしゃるのか」
「――勿論」
と、自分の抱負をいうのになんの遠慮があろうという態度の小次郎であった。
「せっかく、先生はわしへ印可を下すったが、今日においてすら、この小次郎の腕はもう先生以上のものになっていると、わしは自ら信じているのだ。それに中条流という流名も田舎びて、将来ある若い者には、かえって|邪《さまた》げになる。兄弟子の弥五郎が、一刀流を立てたのだから、わしも一流を立てて、行く末は、巌流と|称《とな》えるつもりだ。……源八、そういうわしの抱負だから、そんな物は、この身に不要だ。|国《くに》|許《もと》へ持って帰って、お寺の過去帳とでも一緒にしまっておくがいい」
十一
謙譲などというものは、毛ほどもない言葉つきなのである。なんという思い上がった――高慢な男だろうか。
源八は、憎む眼で、小次郎のうすい唇を、じっとねめつけていた。
「――だがのう源八、|草《くさ》|薙《なぎ》|家《け》の遺族たちへは、よろしくいってください。いずれ、東国へ下った折には、お訪ねするがと」
終りのことばは、こうていねいにいって、小次郎は、にやりと笑う。
高慢な者が意識していうていねいめいた言葉ほど、嫌味で小憎いものはない。源八はむかむかして、亡師に対するその|不《ふ》|遜《そん》を|詰問《なじ》ってやろうと思ったが、
(ばかげている!)
自嘲して――さっさと|笈《おい》ずるの側へゆき、印可の巻をその笈の内へ納めると、
「おさらば」
一言捨てて、たったと|彼方《あ な た》へ立ち去ってしまった。
後見送って――
「ハハハハ、|憤《おこ》って行きおったわい。田舎者め」
それから今度は、樹の幹に|悄然《しょうぜん》としている又八へ向い、
「|偽《にせ》|者《もの》」
「…………」
「これっ偽者、返辞をせぬか」
「はい」
「おぬし、名は何という」
「本位田又八」
「牢人か」
「はあ……」
「意気地のない奴だ、師匠からくれた印可さえ返してやったわしを見習え。それくらいな気概がなくては、一流一派の祖にはなれんと思うからだ。……それをなんだ、他人の名をかたり、他人の印可を盗んで、世間を渡りあるくとは、さもしいにも程がある。虎の皮をかぶっても猫は猫でしかないぞ。あげくの果ては、こういう目に遇うのがオチだ。すこしは身にしみたか」
「以後気をつけます」
「いのちだけは助けてやる。しかし|向《こう》|後《ご》のこともあるから、その縄目は、ひとりでに解ける時までそうしておく」
いい渡すと小次郎は、何思ったか、|小《こ》|柄《づか》でそこの樹の皮を削りだした。又八の頭の上に、削られた松の皮が落ちて、|襟《えり》の中まで入った。
「ア。矢立を持たなかった」
小次郎がつぶやくと、
「矢立がお入用なら、てまえの腰にたしか差してあったと思いますが」
と、又八が媚びていう。
「そうか、おぬしが持ち合わせておるか、じゃあ借りるぞ」
筆を投げて、小次郎は読み返していた。
巌流――これはふと今、思いついた変え字である。従来は、岸の柳、岩国の錦帯橋で、燕斬りの修練をした思い出を、剣号にしていたのであるが、それを流名とすれば――巌流――このほうがいかにもふさわしい。
「そうだ、これから流儀は、巌流と|称《い》おう、一刀斎の一刀流などより、遥かにいい」
夜も更けた頃である。
紙一枚ほど削った樹の白い肌へ、小次郎は、矢立の筆を執ってこう書いた。
[#ここから1字下げ]
この者、それがしの姓をかたり、それがしの剣名を偽称し、諸国よからぬ事してあるきたれば、捕えて、面貌を衆に示すものなり
わが姓、わが流、天下に二なし
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]巌流 佐々木小次郎
「よし」
墨のような松かぜが、松林の中を、ぐわっと|潮《うしお》みたいに鳴って行った。小次郎の鋭敏な若さは頭の中ですぐ活動の目標へ変化を取る。今、そんな抱負に燃えていたかと思うと、もう暗い松かぜへ、|豹《ひょう》のような眼を光らせ、
「ヤ?」
朱実の影でも見つけたのか、突然、|驀《まっ》しぐらにどこかへ駈け去った。
次男坊
|輿《こし》とか、|あん[#「あん」は竹かんむりに「便」Unicode=7baf]《あん》|輿《だ》とか、一部の階級にはそういう乗物も古くから用いられていたが、庶民の交通に実用化されて、市中や街道に|駕《かご》とよばれる物が見えはじめて来たのは、つい昨今の風景といってよい。
竹の四ツ手がついている|笊《ざる》の中へ人間が乗って、後棒と先棒が、
「エ、ホ」
「ヤ、ホッ」
まるで荷物みたいに|担《かつ》いで来るのだ。
駕かきの脚が幅を飛ぶと、笊が浅いので、乗っている人間は、振りこぼされないように、前後の|吊《つり》|竹《だけ》へ両手でつかまって、
「エ、ホ。エ、ホ」
駕かきとともに、|呼吸《いき》を合せて絶えず体を|弾《はず》ませていなければならない。
今――この松原の中の街道を、その駕が一挺に|提燈《ちょうちん》が三つ四つ、人数が七、八名ばかり一団になって、東寺のほうから|旋風《つむじかぜ》みたいに駈けて来るのが見える。
夜半すぎると、この道すじにはよくそういった早駕や馬の|鞭《むち》が鳴って通る。京都、大坂の動脈になっている淀川の交通が止まるので、火急となると、陸路を夜どおしして来るせいであろう。
「ヤ、サ」
「エ、サ」
「あ、ふ……」
「も少し」
「六条だぞ」
この一団も、三里や四里の近くから来たとは思われない。駕かきも、駕に添って駈けて来る連中も、綿のように疲れきっていて、口から心臓を吐き出してしまいそうな|呼吸《いき》づかいなのである。
「六条か、ここは」
「六条の松原」
「もう一息」
|携《たずさ》えている|提燈《ちょうちん》には、大坂の|傾《けい》|城《せい》|町《まち》でつかう太夫紋がついている。しかし、駕の中には、駕からはみ出しそうな大男が乗っているし、それにつき従ってヘトヘトになっている|徒歩《かち》の者もみな勇壮な若者どもばかりであった。
「御舎弟、四条はもうついそこでござりますぞ」
一人が駕へいったが、駕の中の巨漢は、張子の虎のようにガクガク首を振りながら、|快《こころよ》げに居眠っているのだった。
そのうちに、
「あっ、落ちる」
と、|介《かい》|添《ぞえ》の者が駕の外から居眠りを抑えると、この男、とたんに大きな眼をあいて、
「アア|喉《のど》が|渇《かわ》いた。――酒をくれ、竹筒の酒をよこせ」
という。
ちょっとの折でもあれば、みな休みたい気持だったので、
「降ろせ、|暫《ざん》|時《じ》」
いうが早いか、
「ううう――」
|抛《ほう》り出すように駕を地へおろして、駕かきも|周《まわ》りの若者|輩《ばら》も、いっせいに手拭をつかみ、魚の肌みたいに濡れている胸毛の汗を拭く、顔をこする。
「――伝七郎様、もう沢山はありませぬが」
駕へ竹筒の酒を渡すと、受け取って、それを一息に飲みほしたあげく、
「アア、冷たい! 酒が歯にしみる」
伝七郎と呼ばれた男は、やっと眼を醒ましたように大きく呟く。
その首を、ぬっと、四ツ手の外へ突き出して、空の星を仰ぎながら、
「まだ夜が明けないのか。……おそろしく早かったな」
「お兄上の身になれば、まだかまだかと、一刻も千秋の思いで、お待ちかねでございましょう」
「おれの帰るまで、兄貴の|生命《い の ち》が|保《も》っていてくれればいいが……」
「医者は|保《も》つといっておりますが、何分ひどく|昂《たか》ぶっていらっしゃるので、時折傷口から出血するのがよくないそうで」
「……むむ、ご無念だろうな」
口を開いて、竹筒を逆さにしたが、もう酒はなかった。
「――武蔵めっ」
その竹筒を大地にたたきつけ、吉岡伝七郎は荒々しくいった。
「いそげっ!」
酒もつよいが、|癇《かん》|癖《ぺき》もなお強いらしい。もっと強いのは、この男の腕ぶしであって、吉岡の次男坊といえば世間の通り者だった。兄とは両極端な性質で、父の拳法が生きていた頃から、父をしのぐ力量のあったことはほんとで、今の門下でもみな認めている。
(兄貴はだめだよ。あれやあ、親父の跡目など継がないで、おとなしく|禄《ろく》|取《とり》にでもなればよいのさ)
これは伝七郎が面と向ってもいう|口《こう》|吻《ふん》なのである。従って兄との仲は至ってよくない。それでも拳法の在世中は兄弟してあの道場に励んでいたものだが、父の死去をきッかけに、伝七郎はほとんど兄の道場では|刀《とう》を持った|例《ためし》がない。去年のこと、友達二、三名と伊勢へ遊びに出かけ、帰りには大和の柳生石舟斎を訪ねるのだといって出たが、京都にはそれきり帰らず、消息もなかったのである。――一年も帰らないからといっても、誰も、この次男坊が飢えているとは案じなかった。わがままをいって、大酒を飲んで、兄貴の悪口をいって、自分は一切働かずに天下を|見《み》|下《くだ》し、父の名を時々振廻しておりさえすれば、それで飢えもせずに結構通ってゆく――律義者から見ればふしぎな――次男坊の生活力というものがやはり伝七郎には備わっているからである。(この頃はなんでも、|兵庫《ひょうご》の|御《み》|影《かげ》あたりで、誰やらの下屋敷にごろついているそうな)そういう噂は聞えたが、かくべつ気にもとめないでいたところへ――今度の清十郎と武蔵との蓮台寺野事件であった。
瀕死の清十郎が、
(弟に会いたい)
と、あの後でいったことも門弟達の胸を衝いたが、そうでなくとも、一門の者は、
(この不覚を|雪《そそ》ぐには、御舎弟よりほかにない)
と、善後策を思う途端に、彼の名が誰の頭にも呼び起されていたのだった。
――御影附近というだけで何も分らなかったが、即日、門下の中から五、六名の者が兵庫へ立ち、ようやく伝七郎をさがし当ててこの早駕へ乗せたのだった。
平素、不仲な兄とはいえ、吉岡の名を賭して立合った試合に、兄が瀕死の重傷と敗北の汚名をうけて、今わずかに生死の境にある口から(弟に)と、会いたいような言葉を洩らしたと聞くと、伝七郎は一も二もなく、
(よし、行ってやる)
と、駕に身をまかせ、
(早く、早く)
と叱咤するので、駕かきの肩を乗りつぶし、もうここまでの間に|三《み》|度《たび》か四度も、駕屋を雇い代えたほどだった。
それほど|急《せ》き立てるくせに、伝七郎は|立《たて》|場《ば》立場へかかると、竹筒の中へ酒を買わせた。非常に感情が|昂《たか》ぶっているらしいので、それを慰めるためかも知れないが、ふだんでも大酒なほうだ。それに寒い淀川のふちや|田《たん》|圃《ぼ》の風に|曝《さら》されて駕は飛ぶので、いくら飲んでも酔わないような気がしているのであろう。
|生《あい》|憎《にく》とまた、その酒が竹筒に切れたので、伝七郎は|焦《いら》|々《いら》したらしい。――急げっと昂ぶった声を合図に竹筒を捨てたが、駕かきの男も門人達も、何へ不審を起しているのか、松風の闇の|彼方《か な た》へ、
「――なんだろう?」
「ただの犬の声じゃないが」
耳も目も奪われている形で、伝七郎が|急《せ》いても、すぐ駕の側へ集まって来ない。
そこで伝七郎がまた、二度目の|癇《かん》|癖《ぺき》声を出して、早く駕をやれと呶鳴ると、初めてびっくりしたように、
「――御舎弟、ちょっとお待ちなさい。あれは何事でしょう?」
なにが何事なのか、いっこう|他《ほか》へ気もとめていない伝七郎へ、門人達はそう訊いた。
なにも事改まって、そう神経をつかうほどのことでもない。それは、何十匹か何百匹か知れないが、とにかく余程多いらしい犬の吠え合う声なのだ。
いくら沢山でも、犬の声は犬の声に|止《とど》まる。一犬虚を伝えれば万犬――というくらい、あの仲間の騒ぎは余り当てにはならない。まして近頃は|戦《いくさ》がなくて人肉に飢えているので、野から町へ移ったいわゆる野良犬が街道筋には|群《ぐん》をなしていることが珍しくない。
「行ってみろ!」
しかるに、伝七郎はこういい、先に立って自分もそれへ足を早めて行った。彼が起つからには、犬の声もただの犬の声でなく、何かの|理由《わけ》があったのであろう。――つづく門人たちも、遅れじという足で駈けてゆく。
「――やっ?」
「――や?」
「――や? 奇態な奴」
果たせるかな、想像以上なものを見た。
木の根に縛られている又八と、その又八を|三《み》|重《え》|四《よ》|重《え》に黒々と取り巻いて、彼の肉片でも要求しているような群犬の|旋風《つむじかぜ》である。
犬に正義をいわせれば、復讐というかも知れない。又八の刀は先刻犬の血をそこらへ|撒《ま》いた。彼の体には犬の血のにおいが沁みている。
そうでなく、犬の智能を人間の極く低い程度として見ると、こいつ意気地のない奴らしい、|弄《なぶ》ってやれと、面白がっているのかも知れぬ。また、妙なかっこうをしている奴、木を背負って坐っている、泥棒か、|躄《いざり》か、なんだろうかと不審を起して、吠えかかっているのかも分らない。
それがみな狼に似て、腹といえば薄く、脊骨は|尖《とが》り立ち、歯はヤスリに|削《か》けたようなのであるから、孤立無援の又八としては、|先刻《さ っ き》の六部や小次郎よりも、時間的に数十倍もまさる恐怖だった。
手も足もきかないので、彼の戦闘は、顔と言葉とで防ぐほかなかった。しかし、顔は武器にならないし、言葉は犬に通じない。
そこで、犬にも通じる言葉と、犬にも受け取れる顔つきの二つをもって、先刻から悪戦苦闘の防禦に必死なところであった。
「うううっ――。うわうッ。……うわうッ……」
猛獣の唸る|声《こわ》|色《いろ》なのである。
犬はタジタジとして少し|後《あと》|退《ず》さったが、この猛獣が唸りすぎて、|水《みず》|洟《ばな》を垂らしたので、甘く見たか、忽ち効果がなくなってしまう。
声が武器にならなくなると、こんどは顔つきで犬を怖れしめようと計った。
くわっと大きな口を開いて見せると、これには犬も一驚したらしい。眼玉を|剥《む》いて、|眼《ま》ばたきを|怺《こら》えて見せる。目や鼻や口を、|皺《しわ》|苦《く》|茶《ちゃ》に寄せて見せる。長いベロを伸ばして、鼻の頭まで届かせて見せる――
そのうち、彼も百面相にくたびれてしまい、犬もすこし飽きた様子で、再び険悪になりかかったので、今度は一生の智恵をここに絞って、おれも諸君の仲間であって、諸君とは同じ生き物であるという親善の意を示す考えで、
「――わん、わん、わん! きゃん、きゃん、きゃん!」
犬の啼き声を、犬たちとともに、又八もやってみせた。
ところが、これが却って犬どもの軽蔑と反感を買ったとみえ、俄然、|喧《けん》|々《けん》と争って、彼の顔のそばまで顔を持って来て吠えたり、そろそろ足の先から|舐《な》め始めて来たりしたので、又八は、ここで|弱《よわ》|音《ね》を揚げてはと思い、
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かかりしほどに
|法《ほう》|皇《おう》は
文治二年の春の頃
建礼門院の大原の閑居
|御《ご》|覧《ろう》ぜまほしゅうは
|思《おぼ》し召されけれども
|二月《きさらぎ》|弥生《や よ い》のほどは
嵐烈しゅう余寒も未だ|尽《つき》ず
峰の白雪消えかねて
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大声張りあげて、平家|琵《び》|琶《わ》の大原|御《ご》|幸《こう》を夢中で呶鳴りだした。――眼を固く閉じ、顔をしかめ、自分の声でつんぼ[#「つんぼ」に傍点]になれとばかり|喚《わめ》いていたところなのであった。
幸いにそこへ、伝七郎らが駈けつけて来たので、犬は群れを崩して八方へ逃げてしまい、又八は見得もわすれて、
「助けてくれっ、縄を解いてくれっ――」
吉岡門人のうちには、彼の顔を見知っている者が二、三あった。
「おや、こいつは、よもぎの寮で見たことがある」
「お甲の亭主だ」
「亭主。――亭主はなかったはずだが」
「それは|祇《ぎ》|園《おん》藤次の手前だけで、ほんとはこの男がお甲に養われていたのだ」
とやかく取沙汰をし始めたが、かわいそうだ、解いてやれという伝七郎のことばに縄を解いて仔細を訊くと、ここにも又八のいいところはあって、ほんとのことは良心に恥じていわない。
吉岡の者と見たので、彼は自分の宿怨をちょうどよく思い出して、武蔵の名を引きあいに出し、自分と彼とは郷里も同じ作州であるが、彼は自分の|許嫁《いいなずけ》を奪って走り、郷土の者に対して顔向けのならない泥を家名に塗られている――
母のお杉は、そのため、もう老年なのに拘らず、武蔵を討ち、不貞の許嫁を成敗せねば郷土へ帰らぬと国を立ち、自分ともどもに、武蔵を討とうと狙っているような次第でもある――
最前どなたやら、自分をお甲の亭主だなどと仰っしゃったが、飛んでもない誤解で、よもぎの寮に身を寄せていたことはあるが、お甲と関係などはない、その証拠には、祇園藤次とお甲とは、あの通り親密で、今では手に手を取って他国へ駈落ちしている事実に|徴《ちょう》しても証明できる――
であるから手前には、そんなことはどうでもよいことで、今最も気にかかるのは母のお杉と|敵《かたき》の武蔵の消息でしかない。今度大坂表にあって聞くところによれば、吉岡殿の御長男は、彼と試合して不覚をとったそうである。そう聞くと矢も|楯《たて》もなく、こうしてはいられないという気持に駆られ、ここまで来たところ十数名のよからぬ野武士に取巻かれ、所持の|金《きん》|子《す》を|悉《しっ》|皆《かい》奪われてしまったが、老母を持ち敵を持つ大事な体と――じっと彼らのなすままに任せ、観念の目をふさいでいたところ――
「有難うございました。吉岡家といい、手前といい、武蔵は|倶《とも》に天を戴かざるの仇敵、その吉岡一門の方に、縄を解いて貰ったのも、何かの御縁かもわかりませぬ。お見うけすれば清十郎様の御舎弟かのように存じますが、手前も武蔵を討とうとする者、あなたも武蔵を討とうとなさるお心に違いない。どっちが早く彼を仕とめるか、目的を達した上で、改めてまたお目にかかりましょう」
嘘というものは純粋の嘘ばかりでは成り立たないものと見える、又八がいっている中にも、多少のほんとは交じっている。
しかしさすがに、
(いずれが早く武蔵を討つか)
などとおしまいになって蛇足を加えたあたりから、自分でも気恥かしくなって来たとみえ、
「母のお杉が、清水堂に|参《さん》|籠《ろう》いたして、大望のため祈願いたしておりますれば、これからその母を訪ねて参るつもり、お礼には改めて、四条道場のほうへ近日出向きまする。お急ぎの場合、お足を止めてなんとも恐縮、では御免下さい」
ボロの出ないうちにとこういって、先へすたすた行ってしまったところなど、苦し|紛《まぎ》れとはいえ又八としては出来がよかった。
彼の語るのを、嘘かほんとか疑っているまに立ち去ってしまったのである。門下たちはあきれ顔に、伝七郎は苦笑をながして、
「なんだ……あいつは一体」
後見送って、思わぬ暇つぶしと、舌打ち鳴らしていた。
この数日があぶない――と医者がいってから四日目になる。その頃が最悪な容態だった。きのう辺りからはやや気分がよいらしく見える。
その清十郎は、今ぽやっと|眸《ひとみ》をひらいて、
(朝か? 夜か?)
と考えてみた。
枕元の|有《あり》|明《あけ》|行《あん》|燈《どん》が消えなんとしていた。人はいなかった。次の間に誰やらの|鼾声《い び き》が聞える。看護づかれの人々が、帯を解かずにごろ寝していた。
(鶏が啼いている)
まだこの世に生きている身かと改めて思う。
(生き恥!)
清十郎は、夜具の|襟《えり》で、顔をおおった。
泣いているように指の端が|痙《けい》|攣《れん》している。
(この先、どの|面《つら》下げて)
こう思うのであろう、男泣きにしゅくっと、|嗚《お》|咽《えつ》をのむ。
父の|拳《けん》|法《ぽう》の名は、余りに世間へ大き過ぎていた。|不肖《ふしょう》な子は、父の名声と遺産を|担《にな》って歩くだけで精いっぱいであったのみか、到頭、それあるがために、身をも家をも、ここへ来て|敗《やぶ》ってしまった。
(終りだ、もう吉岡の家も)
ぼーっとひとりでに枕元の有明|行《あん》|燈《どん》が消える。部屋の中に、夜明けの光がほの白く映った。朝霜の白い蓮台寺野に立った時のことがまた思い出される――
あの時の、武蔵のまなざし!
今、思っても、毛穴がよだつ。所詮は初めから自分は彼の敵ではなかったのだ。なぜ、彼の前に木剣を投げて、この家名だけでも立つ工夫を未然にしなかったか?
(思い上がっていたのだ。父の名声がそのまま自分の名声であるかのように。――考えてみれば、おれは吉岡拳法の子と生れた以外、なんの修行らしいことをして来たか。おれは、武蔵の剣に敗れる前に、一家の戸主として、人間として、すでに敗北の|兆《きざ》しを持っていた。武蔵との試合は、その壊滅の最後へ拍車をかけただけに過ぎない――遅かれ早かれ、このままでこの吉岡道場だけが、いつまで社会の激流の外に繁栄をゆるされているはずはない)
閉じている|睫《まつ》|毛《げ》の上に涙が白く|溜《たま》る。――ぽろりと、それが耳わきへ流れると彼の心も揺れて、
(なぜおれは蓮台寺野で死ななかったか。……生きたところで――)
と、右腕のない傷口の痛みに眉をふさぎ、悶々と、夜の明けるのを恐ろしく思った。
ど、ど、どっ――と門を打叩く物音がその時遠く聞えた。誰やらが次の間の人々を起しに来る。
「えっ、御舎弟が」
「今、お着きか」
あわただしく出迎えに立って行く者と、すぐ清十郎の枕元へ駈け寄って来る者とがあって、
「若先生、若先生、およろこび下さい。ただ今、伝七郎様が早駕でお着きになったそうでございます。すぐこれへ見えられましょう」
雨戸を開け、火鉢に炭をつぎ、敷物をおいて待つ間もなく――
「ここか、兄貴の部屋は」
伝七郎の声が|襖《ふすま》の外に聞える。久しぶりな!
と思いながら、清十郎は、その弟に対してすら、いまの姿を見られるのが辛い気がした。
「兄上」
入って来た弟へ、清十郎は弱いひとみを上げて、笑おうとしたが笑えなかった。
ぷーん、弟の体から酒の香がにおう。
「どうなすった兄上」
伝七郎の余りに元気な様子は、病人の神経に重圧をおぼえるらしい。
「…………」
清十郎は、眼をふさいで、しばらく何もいわなかった。
「兄上、こんな時にはやはり、|不肖《ふしょう》な弟でも、頼みになるでしょう。委細を使いの者から聞くと、取る物も取りあえず、|御《み》|影《かげ》を立って、途中大坂の|傾《けい》|城《せい》|町《まち》で旅支度や酒をととのえ、夜を|冒《おか》して、駈けつけてまいったのですぞ。――ご安心なさるがいい、伝七郎がまいったからには、もうこの吉岡道場に、誰が来ようと、一指もささせませぬ」
そして、茶を入れて来た門人へ向い、
「おいおい、茶はいい。茶はいいから、酒を支度してくれ」
「はい」
|退《さ》がるとまた、
「おいっ、誰か来て、この障子を閉めろ、病人が寒いじゃないか、馬鹿」
膝を、あぐらに崩して、火桶をかかえ込み、黙っている兄の顔を覗き込んで、
「いったい、勝負はどんな立合い方をやったんです。宮本武蔵などという者は、近頃ちょっと聞え出した男ではありませんか、兄貴としたことが、そんな駈出しの青二才に不覚をとるなんて……」
門人が、ふすまの境から、
「御舎弟さま」
「なんだ」
「お酒の支度ができました」
「持って来い」
「あちらへ用意してございますゆえ、おふろにでもお入りになって」
「湯になんか入りたくもない。酒はここでのむから、ここへ持って来い」
「え、お枕元で」
「いいさ、兄貴とは久しぶりで話すのだ。永い間、仲も悪かったが、こういう時には、やはり兄弟に|如《し》くものはないよ。ここで飲もう」
やがて、手酌で、
「うまい――」
と、二、三|献《こん》つづけ、
「丈夫だと、兄上にも、久しぶりで一杯さすのだが」
などと独り語りにいう。
清十郎は、上眼づかいに、
「弟」
「ウム」
「枕元で、酒はよしてくれ」
「なぜ」
「いろいろ嫌なことが思い出されて、おれは不愉快だから」
「嫌なこととは」
「亡き父上が、さだめし、兄弟の酒には、眉をひそめておいでになろう。――おまえも酒の上から、おれも酒の上から、一つもいいことはしていない」
「じゃあ、悪いことをして来たというのか」
「……おまえにはまだ|胆《きも》にこたえまい。しかし、わしは今、心魂に徹して、半生の苦杯をなめ味わっているのだ……この|病褥《びょうじょく》の中で」
「ハハハハハ、つまらんことをいっている。そもそも|兄《あに》|者《じゃ》|人《ひと》は線がほそくて、神経質で、いわゆる剣人らしい線の太さがない。ほんとをいえば、武蔵などとも、試合をするというのが間違っている。相手がどうあろうと、そんなことはあなたのがら[#「がら」に傍点]にないことなのだ。もうこれに|懲《こ》りて、あなたは太刀を持たないがいい、そしてただ吉岡二代目様で納まっているんだな。――どうしても試合を挑む|猛者《もさ》があって|退《の》っ引きならなくなった場合は、伝七郎が出て立合ってあげる。道場もこの先は、伝七郎におまかせなさい、きっと、おやじの時代よりは、数倍も繁昌させてみせる。――おれの道場を乗っ取る野心だなどと、あなたさえ疑わなければ、拙者は、きっとやってみせるが」
銚子の底から、もうなくなった酒のしずくを杯へ切っていう。
「……弟!」
清十郎は、ふいに身を起しかけたが、片手のないために、夜具も自由に|刎《は》ねられなかった。
「伝七郎っ……」
夜具の中から伸びた片手は、弟の腕くびをつよく握った。病人の力は、健康な者にも痛かった。
「お……と、と、と、兄貴、酒がこぼれる」
握られた手の杯を、伝七郎はあわてて持ちかえながら、
「なんです、改まって」
「――弟、おまえに望み通りこの道場を譲ろう。だが、道場を継ぐことは、同時に家名を継ぐことであるぞ」
「よろしい、ひき受けましょう」
「そう無造作にいってくれるな――おれの|轍《てつ》をふんで、ふたたび|亡父《ちち》の名を汚すようでは、今つぶした方がいい」
「馬鹿なことを仰っしゃい。伝七郎はあなたとは違う」
「心を入れかえてやってくれるか」
「待ってくれ、酒はやめませんぞ、酒だけは」
「よかろう、酒も程には。……わしが|過《あやま》ったのは、酒のせいではない」
「女でしょう。――女ずきはあなたのいけないところだ。こんど体が癒ったら、もう決まった妻をお持ちなさい」
「いや、この機会にわしはすっぱりと剣を捨てた、妻など持とうという気持もない。――ただ一人救ってやらなければならない人間がある。その者の幸福になるのを見届けたら、もう望みはない。野末に|茅《かや》の屋根を結んで果てるつもりじゃ……」
「はて? 救ってやらなければならない人間とは」
「まあいい。――おまえには後を頼むぞ。こういう廃人の兄の胸にもまだ、幾分かの意地とか面目とかいうものは、武士であるからには、未練だが、燃えいぶっている……それを忍んで、おまえにこう手をついていう。……いいか、おれの踏んだ|轍《てつ》をまた踏んでくれるなよ」
「よしっ……きっとあなたの汚名は遠からず|雪《そそ》いでみせる。だが、相手の武蔵は今、何処にいるのか、その|居処《いどころ》はおわかりですか」
「……武蔵?」
と清十郎は、眼をみはって意外なことでもいい出されたように弟の顔を見つめるのだった。
「伝七郎、おまえは、おれが|誡《いまし》めているそばから、あの武蔵と立合うつもりか」
「なにを仰っしゃるのだ、今さら、いうまでもありますまい。この伝七郎を迎えによこしたのは、そのおつもりではありませんか。また、拙者も門人も、武蔵が他国へ足をふみ出さないうちにと思えばこそ即座に、取る物も取りあえず、駈けつけて来たのではございませんか」
「思い違いも甚だしい!」
清十郎は首を振った。
先行きを見ているような眼ざしをもって、
「やめろ」
弟へ命じる兄の態度だった。
それが気に入らなかったに違いない、伝七郎は、
「なぜ?」
と突ッかかってゆく。
病人の顔は、弟のその語気から血の気を呼び出されて、うす紅くなった。
「勝てないからだ!」
激越に、こう吐くと、
「たれに」
と、伝七郎も蒼くなっていう。
「武蔵に!」
「たれが」
「知れているではないか。おまえがだ。おまえの腕ではだ――」
「ば、ばかなことを」
わざと大きく笑うように、伝七郎は肩を揺すぶった。そして、兄の手をふりほどいて杯へ自分で酒をついだ。
「――おい門人、酒がないぞ、酒をもって来んか」
声を聞いて、弟子の一人が、|厨房《く り や》から酒の代りを運んでゆくと、もうそこの病室に、伝七郎はいなかった。
「……おや」
眼をみはって、その門人は盆を下へ置くと、
「どうなさいました若先生」
夜具の中に|俯《う》つ伏している清十郎の様子に、ぎょっとしたような顔いろを動かして、枕元へ取りすがった。
「呼べ。……呼んで来い。伝七郎にもいちどいうことがある。伝七郎をここへ連れて来い」
「ハ、ハイ」
弟子は、清十郎の語気が、はっきりしているので、ほっとしたらしく、
「はっ、ただ今」
と、あわてて伝七郎を捜しに出て行った。
伝七郎はすぐ見つかった。彼は道場へ出て、久しく見なかったわが家の道場の床に坐っていた。
|周《まわ》りには、これも久しぶりで会う植田良平とか、|南《なん》|保《ぽう》余一兵衛とか、御池、太田黒などという古参門下が彼を取り囲み、
「お兄上とは、もうお会いになりましたか」
「ム。今会ってきた」
「お|欣《よろこ》びだったでしょう」
「そう|欣《うれ》しそうでもなかった。部屋へはいるまでは、俺も胸がいっぱいだったが、兄貴の顔を見ると、兄貴もむッつりしているし、俺もいいたいことをいったりして、またすぐにいつもの口喧嘩だ」
「え、口喧嘩を。……それは御舎弟がよくない。お兄上はきのう辺りから小康を得て、すこし容態を持ち直して来たばかりのお体。そういう病人をつかまえて」
「だが……待てよ、オイ」
伝七郎と古参門下とは、まるで友達づきあいの調子だった。
自分をたしなめかけた植田良平の肩をつかまえ、冗談の中にも自分の腕力を示すように揺すぶって、
「――兄貴はおれにこういうのだぞ。――おまえは、おれの敗北をすすぐために、武蔵と立合うつもりだろうが、所詮、おまえは武蔵に勝てん。おまえが|斃《たお》れたらもうこの道場までが亡ぶ、家名が絶える。恥はわし一身のことにして、わしは今度のこと限り、生涯剣を手に|把《と》らないという声明をして身を|退《ひ》くから、おまえはわしに代ってこの道場を支え、一時の汚名を、将来の精進で挽回してくれい……と、こういうのだ」
「なるほど」
「なにがなるほど!」
「…………」
捜しに来た門人が、その話のすきを|機《しお》と見て、
「御舎弟様、お兄上が、もいちど枕元へ来てくれと仰っしゃっておりますが」
後ろに手をつくと伝七郎はじろッと、その門人の顔を見て、
「――酒はどうした」
「あちらに運んでおきました」
「ここへ持って来い、皆で飲みながら話そう」
「若先生が」
「うるさい。……兄貴はすこし恐怖症にとッ|憑《つ》かれているらしい。酒をこっちへ持って来い」
植田、御池、その他が口をそろえて、
「いやいや酒どころの場合ではない、吾々なら結構ですぞ」
伝七郎は、不機嫌に、
「なんだ貴様たちは。……貴様たちまで一人の武蔵に|脅《おび》えているのか」
吉岡という存在が大きかっただけに、受けた打撃もまた大きかったのである。
武蔵から与えられた木剣の一撃は、当主の肉体をああしたばかりでなく、既成勢力の吉岡一門というものを、根底から不具にしてしまった形だった。
(よもや)
と、自尊しきっていた一門の気持がみな崩れ出して、その後始末にしても、以前のような一致は欠いている。
いちど受けた|傷手《い た で》の深刻な|苦《にが》さが、|錯《さく》|然《ぜん》と、日が経っても皆の顔にただよっていて、なにを相談するにつけても敗者の傾きたがる消極か――また極端な積極へと走りたがってまとまらない。
伝七郎を迎える前から、
(武蔵へ二度の試合を申しやって、雪辱を試みるか)
(それとも、このまま|自重策《じちょうさく》をとるか)
というこう二つの意見は、古参門下の中にも対立していて、今も伝七郎の意思に同意の顔つきを示す者、暗に、清十郎の考えに共鳴しているらしい者とふたいろあった。
――だが、
(恥は一時のこと、万一これ以上不覚をかさねることでもあっては)
というような|隠《いん》|忍《にん》主義は、清十郎なればこそいえるのであって、古参たちは、胸に思っても、口に出せないことだった。
殊に、|覇《は》|気《き》満々な伝七郎の前では、なおさらである。
「――そんな|女《め》|々《め》しい、卑怯未練な兄貴の言葉を、いくら病中とはいえ、素直に聞いていられるか」
ここへ運び移されて来た杯を取って、めいめいに酒をつがせ、伝七郎は、きょうから兄に代って自分が経営にあたるこの道場に、まず自分流の気分を|醸《かも》そうとするらしい剛毅な風を見せた。
「おれは、断言するぞ、武蔵を打つと! ……。兄がなんといおうと、おれはやる。武蔵をこのまま|抛《ほう》っておいて、家名大事に、道場の維持を考えて行けなどという兄貴のことばは、いったい武士の吐くことばか。そんな考えだから、武蔵に|敗《やぶ》れるのは当然だ。――貴様たちも、その兄貴とおれとを、一緒に|視《み》るなよ」
「それはもう……」
と、口を濁した後で、|南《なん》|保《ぽう》余一兵衛という古参がいった。
「御舎弟のお力は、我々も信じておりますが……だが」
「だが……なんだ?」
「お兄上のお考えにしてみると、相手の武蔵は一介の武者修行、こちらは室町家以来の御名家、|秤《はかり》にかけてみても、これは損な試合で、勝っても敗けてもつまらない|博奕《ば く ち》だと、こう賢明に悟られたのではございますまいか」
「――博奕だと」
伝七郎の眼がキラとむつかしく光ったので、南保余一兵衛はあわてて、
「アア、失言でした。そのことばは取り消します」
皆まで聞かずに、
「これ」
と、伝七郎は彼の襟がみをつかんで突っ立ち、
「……出て行け! 臆病者」
「失言でした、御舎弟……」
「だまれっ、貴様のような卑劣者は、おれと同席する資格がない。――去れッ」
突き飛ばしたのである。
道場の羽目板へ背をぶつけたまま、南保余一兵衛は真っ蒼になっていたが、やがて静かに坐って、
「御一同、永々お世話に相成りました」
それから正面の神壇へも礼儀をして、ついと、邸の外へ出て行った。
――目もくれないで、
「さあ、飲め」
伝七郎は、一同へ酒をすすめていう。
「飲んだうえで、今日からひとつ武蔵の宿所を捜し出してくれい。なに、まだ他国へは出ていまい。勝ち誇って、そこらを肩いからして歩いているに相違ない。――いいか、そのほうの手配と、次にはこの道場だ。こう|寂《さび》れさせて置いてはいかぬ。ふだんの通り稽古を励みあうことだな。……おれも一寝入りしてから道場へ出るよ。兄貴とちがって、おれのはちと烈しいぞ。そのつもりで、末輩にも、これからはびしびしやってもらいたい」
それから七日ほど後のこと。
「わかった!」
と外から|喚《おめ》きながら、吉岡道場へもどって来た一名の門人がある。
道場では、先頃から伝七郎自身が立って、予告しておいた通り、ひどく手荒い稽古をつけ始めた。
今も、彼のつかれを知らない精力に大勢が|辟《へき》|易《えき》|顔《がお》して、次に名ざしを受けるのを恐れるかのようにみな隅へ寄り、古参の太田黒|兵助《ひょうすけ》がまるで子どもみたいに|扱《あしら》われているのを見ていたところだった。
「待て、太田黒」
伝七郎は木剣をひいて、今、道場の端へ顔をあらわして坐った男へ眼をやり、
「わかったか」
と、そこからいった。
「わかりました」
「どこにいたか、武蔵は」
「実相院町の東の辻――俗にあの辺で|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》の辻とも呼んでおりますが、そこの本阿弥|光《こう》|悦《えつ》の家の奥に、たしかに武蔵が|逗留《とうりゅう》しておる様子なので」
「本阿弥の家に。――はてな? 武蔵のような田舎出の修行者づれと、あの光悦が、どうして知り合いなのだろうか」
「縁故のほどはよく分りませぬが、とにかく、泊っていることは|慥《たしか》です」
「よしっ、すぐ出向こう」
支度に――と奥へ大股に入ってゆくと、ついて行った太田黒兵助や、植田良平などの古参たちが押し止めて、
「ふいに出向いて行って討つなどということは、喧嘩の意趣めいて、勝っても、世間がよくいいますまい」
「稽古には礼儀作法もあろうが、いざ[#「いざ」に傍点]という実地の兵法に、作法はない、勝ったほうが勝ちだ」
「ですが、お兄上の場合がそうではなかったのですから。――やはり、前もって書状をつかわし、場所、日、時刻を約しておいて、堂々とお試合になったほうが立派かと存じますが」
「そうだ、そうしよう、お前たちのいう通りにするが、まさかその間に、また兄貴の言にうごかされて、門人までが止めだてはすまいな」
「異論を抱く者や、また吉岡道場を見限った恩知らずは、この十日ほどの間に、すべてここの門から出てゆきました」
「それでかえって、この道場は強固になった。祇園藤次のような不届き者、南保余一兵衛のような臆病者、すべて恥を知らぬ腰抜けは自分から出て行ったがよい」
「武蔵へ書面をつかわす前に、一応はお兄上の耳へも」
「そのことなら、お前たちではだめだ、おれが行って話を決める」
|兄弟《ふ た り》のあいだに、この問題は、まだ十日前のままだった。あれ以来、どっちも自分の意見を曲げないのである。古参の者達は、また|争《いさか》いにならねばよいがと案じていたが、大きな声が洩れてくる様子もないので、さっそく武蔵に宛てて指定してやる二度目の場所や日取を膝ぐみで相談していた。
――と清十郎の居間から、
「おいっ、植田、御池、太田黒、ほかの者も、ちょっと顔をかしてくれ」
清十郎の声ではない。
顔をそろえて行って見ると、伝七郎が一人きりでぼんやり立っているではないか、こんな顔つきの彼を古参の者たちも初めてみた。伝七郎の眼は泣きかけているのだった。
「見てくれ――みんな」
手にひろげていた兄の置手紙を一同へ示して、伝七郎は言葉では怒っていた。
「兄貴のやつ、おれに向ってまた、こんな長たらしい意見手紙を書き、これを残して家出してしまった。行く先も書いてないのだ……行く先も……」
ふくろ路地
ふと、針の手を止めて、
「……誰?」
お|通《つう》はいってみた。
「どなた? ……」
縁の障子を開けてみたが誰もいないのである。気のせいであったと分ると、お通はさびしさに|囚《とら》われて、もう|袖《そで》|付《つけ》と襟さえ縫えば仕立てあがる|縫《ぬい》|物《もの》にも、つい身が入らなくなってしまう。
(城太さんかと思ったら?)
心の中で|呟《つぶや》いているように、彼女はまだ人なき昼を未練そうに眺めていた。そこに誰か人でも通るような気配さえすれば、城太郎が尋ねて来たのではないかと、すぐ思ってしまうらしいのである。
ここは三年坂の下だった。
ごみごみした街中ではあるが、往来の|一《ひと》|側《かわ》裏には、|藪《やぶ》だの畑だのがいくらもあって、椿も咲いていれば、梅も|綻《ほころ》びかけている。
お通の姿が見えるそこの一軒家も、裏はよその庭らしい木立に囲まれ、前の百坪ほどは野菜畑になっていて、その畑のすぐ向うには、朝から晩までひどく忙しげな物音をさせている|旅籠《は た ご》|屋《や》の台所がある。――つまり、この一軒家も、そこの旅籠屋の|持《もち》で、|朝夕《ちょうせき》の食事も、向うの台所から運んで来ることになっている。
今は――どこへ行ったのか姿はここに見えないが、お杉隠居がなじみの旅籠で、京都に来ればここと決めてあり、ここへ来ればこの畑の中の|別《べつ》|棟《むね》があの|婆《ばば》|様《さま》のお好みであるらしい。
「お通さあ、|御《ご》|飯《はん》|時《どき》やが、もう運んでもようござりますかの」
畑の向うで、台所の女が、こっちへ呶鳴っていた。
お通は、考えごとから醒めて、
「アア御飯ですか。――御飯ならば、お婆様が帰って来てから一緒に食べますから後にして下さい」
すると、台所の女はまた、
「ご隠居さあは、きょうは帰りがおそうなるといって出やはりましたがの。おおかた晩方までのおつもりで出やはったのでございましょうが」
「じゃあ私も、あまりお|腹《なか》がすいておりませんから、おひるはやめておきましょう」
「あんた、ちっとも物を召上がらんで、ようそうしておいでなはるなあ」
どこからともなく、|松《まつ》|薪《まき》のいぶる濃い煙が流れて来て、畑の中の梅の樹も、向うの|母《おも》|屋《や》も隠してしまう。
この辺には、|陶器《やきもの》つくりの|竈《かま》が|所《しょ》|々《しょ》にあるので、そこで火入れをする日には絶えず煙が近所をいぶしている。けれど、その煙が去った後は、春先の空がよけいに|美麗《き れ い》に見られた。
馬のいななきや清水の参詣人の跫音が、往来の方に|騒《ざわ》|々《ざわ》と聞える。そういう町の騒音の中から、武蔵が吉岡を打ったという噂も聞いた。
お通は、飛び立つように思い、そして武蔵のすがたを|瞼《まぶた》に描いた。
(城太郎さんは、蓮台寺野へ行ってみたに違いない、城太郎さんが来れば詳しいことも……)
と、同時に城太郎の訪れを待つことも痛切になる。
だが、その城太郎がちっとも来ないのだ。五条大橋で別れた|限《き》りであるから――もう二十日余りにもなる。
(尋ねて来ても、ここの家が分らないのかしら? ……いいやそんなはずはない、三年坂の下と教えてあるのだもの、一軒一軒尋ねたって)
そう思ってみたり、また、
(もしや|風邪《かぜ》でもひいて寝こんでしまったのじゃないかしら?)
とも案じてみる。
けれど、あの城太郎が、風邪で寝ているなどとは信じられない。――きっと|暢《のん》|気《き》に春先の空へ|紙凧《たこ》でも揚げて遊んでいるのかも知れない。お通は、腹が立ってきた。
――けれどまた、考えようによれば、城太郎のほうでも同じように、
(なにも、遠い所じゃなし、お通さんだって一度ぐらいは、自分の方から来そうなものじゃないか。烏丸のお|館《やかた》へだって、あのままでお礼もいわないでいるのは悪い)
そんなふうに待っているかも知れないと思う。
そこへ気のつかないお通でもなかったが、お通にしてみれば、城太郎のほうで来てくれるのはいと|易《やす》かろうが、今のところ、自分のほうからお館へ行くということはむつかしい事情にある。お館へとは限らない、たとえどこへ出るにしても、お杉隠居のゆるしを得なければ出ることはできない。
今日のような留守をよい|機《しお》に出かけてしまえばよいじゃないか。――こう|事情《わけ》を知らない者は思うかも知れないが、そこにぬかりのあるあの婆ではない。入口の|旅籠《は た ご》の者に頼みこんであるから、お通の身には絶えず誰かの眼が光っている。ちょっと往来をのぞきに出ても、
(お通さんどこへ?)
と、旅籠の母屋からすぐ、さり気ない声がかかるのである。
なにしろまた、お杉婆さんといえば、この三年坂から清水の界隈でも、長い|馴《な》|染《じみ》だし、顔も通っているらしいのだ。去年、清水の辺で、武蔵をつかまえ、年よりの身で悲壮な真剣勝負を挑んでからのことである。当時、その実情を目撃していたこの土地の|籠《かご》かきだの|荷《に》|持《もち》だのの口からそれが評判になって、
(あの婆は気丈だ)
(えらい気丈者よ)
(敵討に出ているのだとよ)
そんな沙汰からいつとなく、婆の人気はひろまって、一種の尊敬にさえなっている。――だから旅籠の者などなおさらのこと、お杉の口から|一《ひと》|言《こと》、
(ちと仔細ある|女《おな》|子《ご》ゆえ、留守のまに逃げぬよう|看《み》ていてくだされ)
とでも吹き込まれれば、それを守るに忠実なのは当然であった。
いずれにしても、お通はここから今では無断で出ることは許されない。|文《ふみ》|使《づか》いをやるにしても、宿の者の手を経なければ出来ない芸だし、結局、城太郎の訪れを待つよりほかに策はなかった。
「…………」
障子の蔭へ身を|退《ひ》いて、彼女はまた針の目を運び始めていた。その縫物もお杉の旅着の仕立て直しだった。
するとまた誰か外に人影が|映《さ》して――
「オヤ? 違ったかしら」
聞き馴れない女の声がする。
往来から路地をはいって来て、ここの袋地内の畑や|離屋《は な れ》に、勝手がちがったらしくこう|呟《つぶや》いているのである。
何気なく、お通は障子の蔭から顔を出してみた。|葱畑《ねぎばたけ》と葱畑の間にある道の梅の樹の下に、その女は|佇《たたず》んでいたが、お通の顔を見て、
「あの……」
|間《ま》が悪そうに頭を下げ、
「……あの、こちらは、宿屋ではないんでしょうか。路地の入口に、はたご[#「はたご」に傍点]と書いた|掛《かけ》|行《あん》|燈《どん》が見えたので、はいって来たんですけれど」
と、引っ込みがつかないように、もじもじしていう。
お通は、それに答えるのも忘れて、女の顔から足の先までを見つめていた。その眸が異様に先へは受け取れたに違いない。袋路地と知らずに間違って入って来た女は、いよいよ、|間《ま》が悪そうに、
「どこの家でしょう」
|囲《まわ》りの屋根を見まわしたり、ふとまた側の梅の|梢《こずえ》へ、
「まあ、よく咲いている」
と、テレた顔を上げて、|見恍《みと》れるような|素《そ》|振《ぶ》りをしたりしていた。
(そうだ、五条大橋で!)
お通はすぐ思い出したが、また人違いではないかとも迷って、記憶へ念を押してみるのだった。――元日の朝であった。あの大橋の|欄《おばしま》で、武蔵の胸に顔を押しあてて泣いていたきれいな娘。――先では知らなかったであろうが、お通には忘れ難い――なにか|敵《かたき》ででもあるように、あれ以来絶えず気にかかっていたその女性ではあるまいか。
台所の女が、帳場へ告げたとみえて、表から路地を廻って来た|旅籠《は た ご》|屋《や》の手代が、
「お女中さま、お宿でございますか」
|朱《あけ》|実《み》は落ちつかない眼で、
「ええ、どこなの?」
「ついそこの入口でございますよ、ヘイ、路地の右側の|角《かど》で」
「まあ、じゃあ往来に向っているんですね」
「往来でも、お静かでございますが」
「出入りに眼がつかないような家をと、捜していると、ちょうど路地の角に掛行燈が見えたから、この奥ならと思ってはいって来たんだけれど」と、お通のいる一棟をのぞいて、――
「ここは、お宅の|離屋《は な れ》じゃないの」
「はい、手前どもの別棟でございますが」
「ここならばいいのね……。静かそうで……どこからも、見えない」
「あちらの母屋にも、よいお部屋がございますが」
「番頭さん、ちょうどここにいらっしゃるのは、女のお方のようだし……私もここに泊らせてもらえませんか」
「ところが、もうおひと方、ちと気ごころのむつかしいご隠居がいらっしゃいますのでな……」
「かまいません。私はいいけれど……」
「後ほど、お帰りになりましたらば、|合《あい》|宿《やど》をご承知くださるかどうか、伺ってみますが」
「じゃあその間、|彼方《む こ う》の部屋でやすんでいましょうか」
「どうぞ。……あちらの部屋だって、きっとお気に召すと存じますが」
手代に|従《つ》いて、朱実は旅籠の表口へまわって行った。
「…………」
お通は遂になにもいわずにしまった。なぜ|一《ひと》|言《こと》でも訊いてみなかったかと、後では悔いるのであったが、それがいつもいけない自分の性質らしい――と独りで思い沈んでしまう。
今行った女と武蔵は、いったいどういう間がらなのか。
それだけでも知りたい。
五条大橋で見かけた時には、かなりな時間を二人で話していた、いやそれもただの程度ではない、果ては彼女が泣き、武蔵がその肩を抱いていたではないか。
(よもや、武蔵様に限って……)
とお通は、自分の|妬《ねた》みが描く臆測を、みな打消してはみるが、やはりあれからの日は、そのために、ともすると今までは知らなかった複雑な|傷《いた》みを、自分の心に見出すことが多かった。
――自分より美しい女。
――自分よりあの人に近づく機会の多い女。
――自分より才気があって男性のこころを巧みにつかむ女。
今までは、武蔵と自分としか考えていなかったが、お通は急に、同性の世界をながめて、自分の無力がかなしくなった。
――美しいなんて思えない。
――才もない。
――機縁にもめぐまれない。
こういう自分を、ひろい社会の多数の女性に|見《み》|較《くら》べると、彼女は自分の希望が、余りに自分の身に過ぎていて、なにか大それた夢かのように思えてしまうのだった。――ずっと以前、七宝寺の千年杉へよじ登って行ったころの、あの|暴風雨《あ ら し》よりもつよい勇気は出ないで、五条大橋の朝、牛車の蔭に、しゃがみ込んでしまった時のような弱さばかりが、妙にこのごろの心には|棲《す》む。
(城太さんの手がほしい!)
痛切に、お通はそう思った。そしてまた、
(|暴風雨《あ ら し》の中を、あの千年杉の上へよじ登っていたころの自分には、まだ城太さんのような無邪気さが幾らかあったからだろう)
と思い、この頃のように、独り悩んでいる複雑な気持は、そうした|処女心《おとめごころ》からいつのまにか遠くなっている証拠でもあろうかと考えて来て、針を運ぶ|縫《ぬい》|物《もの》のうえに、何とはなくほろりと涙がこぼれた。
「――いるのか、いやらぬのか。――お通っ、なんでまた|灯《あか》りを|燈《とも》さぬのかやい」
いつの間にか夕闇の迫っていた軒先に、外から戻って来るなりこういうお杉隠居の声がしていた。
「お帰りなされませ。――今すぐ灯りの支度をいたしまする」
壁の後ろの小部屋へ立ってゆくお通の背へ、じろりと冷たい眼をくれながら、婆はほの暗い畳へ坐った。
灯りを置いた蔭へ手をつかえてお通が、
「お婆様、おつかれでございましょう。きょうはまたどちらまで……」
「問うまでもあるまいに」
と、お杉は、わざとのように|厳《いかめ》しい。
「せがれの又八を|尋《たず》ね、武蔵のありかを捜し歩いているのじゃ」
「すこし脚でもお|揉《も》みいたしましょうか」
「脚はさほどでもないが、陽気のせいか、この四、五日は肩が|凝《こ》る。――揉んでやろうという気があるなら揉んで|賜《た》もい」
なにかにつけて、この調子なのだった。しかし、それも又八を尋ねあてて、きれいに過去の話をつけてしまうまでの少しの間の辛抱――と、お通はそっと婆の|背《うしろ》へ寄って、
「ほんに、お肩が固うございますこと。これでは、|呼吸《いき》がお苦しゅうございましょう」
「歩いていても、ふと胸がつまるように思うことがある。やはり年じゃ、いつなん時、卒中で倒れるかも知れぬ」
「まだ、まだ、若い者も及ばないお元気で、そんなことがあってよいものではございませぬ」
「でものう、あの陽気な権叔父ですら、夢のように死んで|逝《い》った。人間はわからぬよ。……ただわしが元気になる時は、武蔵を思う時だけじゃ。おのれと、武蔵へ初一念を燃やす時は、誰にも負けぬ気が立って来る」
「お婆様……。武蔵様は、そんな悪い人では決してありませぬ。……お婆様のお考え違いでございます」
「……ふ……ふ」
肩を揉ませながら――
「そうじゃったの、そなたにとれば、又八を|見《み》かえて惚れた男じゃもの。――悪ういうて済まなかった」
「ま! ……そんな|理《わけ》では」
「――ないとおいいやるか。又八よりは、武蔵が可愛ゆうてなるまいがの。そう明らさまにいうたほうが、物事すべて、正直というものじゃぞ」
「…………」
「やがて、又八に出会うたら、この婆が仲に立って、そなたの望み通り、きっぱり話はつけてやるが、そうなればそなたと婆とは、あかの他人、そなたはすぐ武蔵のところへ走って行って、さぞかしわしら|母子《お や こ》の|悪《あっ》|口《こう》をいうことであろうわいの」
「なんでそんなことを……。お婆様、お通はそんな|女《おな》|子《ご》ではございませぬ。元の御恩は御恩として、いつまでも覚えておりまする」
「この頃の若い女子は、口がうまい。ようそのように優しくいえたものじゃ。この婆は正直者ゆえ、そのように言葉はかざれぬ。――そなたが武蔵の妻となれば、そなたも後にはわしが仇じゃ。……ホホホホホ、仇の肩を揉むのも辛かろうのう」
「…………」
「それも、武蔵と添いたいための苦労であろが。そう思えば、堪忍のならぬこともない」
「…………」
「なにを泣いておいやる?」
「泣いてはおりませぬ」
「では、わしの襟もとへ、こぼれたのはなんじゃ」
「……すみませぬ、つい」
「ええもう、むずむずと、虫が這うているようで気持がわるい、もっと力を入れておくれぬか。……めそめそと、武蔵のことばかり考えておいやらずに」
前の畑に|提燈《ちょうちん》の灯りが見えた。いつものように|旅籠《は た ご》の|小女《こおんな》が、晩の食事を運んで来たのであろうと思っていると、
「ごめん下さい。本位田様のご老母のお部屋はこちらでございますか」
と、|僧形《そうぎょう》の者が縁先へ立った。
さげている提燈には――
|音羽山清水寺《おとわさんきよみずでら》
と、書いてある。
「てまえは、子安堂の堂衆でおざるが……」
と提燈を縁において、使いの僧はふところから一通の書付をとり出し、
「何やらぞんじませぬが、|黄昏《た そ が》れ頃、寒々とした|風《ふう》|態《てい》のお若い牢人が堂の内をのぞいて――この頃は作州のお婆は参籠に見えぬかと問われますゆえ、いや折々お見えでござる――と答えますと、筆を貸せといい、婆が見えたらこれを渡してくれといって立ち去りました。――ちょうど五条まで|用《よう》|達《たし》に出かけましたので、早速、お届けにあがったような次第で」
「それは、それは、ご苦労さまな」
と婆は人ざわりよく敷物などすすめたが、使いの僧はすぐ戻って行った。
「……はてのう?」
|行《あん》|燈《どん》の下で婆は手紙を繰りひろげた。顔いろが変ったところを見ると、なにかその内容が婆の胸を烈しく揺りうごかしたものと見える。
「お通っ……」
「はい」
と、小部屋の隅の炉ばたからお通が答える。
「もう茶など|注《つ》いでも無駄なことじゃ。子安堂の堂衆は帰ってしもうたがな」
「もうお帰りになってしまいましたか。それでは、お婆様に一ぷく」
「人に出しそびれたのでわしへ振向けておくれるのか。わしの腹は茶こぼしではないぞえ、そのような茶、飲みとうもない。それよりすぐ支度しやい」
「……え、どこぞへ、お供するのでございますか」
「そちの待っている話を今夜つけてやろうほどに」
「あ……では今のお手紙は、又八様からでございますか」
「なんなとよいがな、そなたは黙ってついて来ればよいのじゃ」
「それでは|旅宿《やど》の|厨《くりや》へ、早くお膳部を持ってくるようにいうて参りましょう」
「そなた、まだか」
「お婆様のお帰りを待っておりましたので」
「よけいな気づかいばかりしていやる。わしが出たのは|午《ひる》|前《まえ》、今まで食べずにおられようか。|午《ひる》と夜食をかねて外で奈良茶のめしを済ましてきました。わが身まだなら急いで茶漬なと食べなされ」
「はい」
「音羽山の夜はまだ肌寒かろう、胴着は縫えているか」
「お小袖はもう少しでございますが……」
「小袖を訊いているのじゃない、胴着を出してたも。それから足袋も洗うてあるか、草履の緒もゆるい。|旅宿《やど》へ告げて、わら草履の新しいのをもろうて来ておくりゃれ」
返辞がしきれないほど、婆のことばが次から次へお通を追う。
なぜという理由もなく、お通はそのことばに一つも反抗はできなかった。黙って見ていられる眼にさえ、心が|竦《すく》むのである。
草履をそろえて、
「お婆様、お出ましなさいませ、お供をいたしまする」
と、先へ出ていうと、
「|提燈《ちょうちん》を持ったか」
「いえ……」
「うつけた|女《おな》|子《ご》よの、音羽山の奥まで行くのに灯りなしでこの婆を歩ます気か、|旅宿《やど》の提燈を借りて来なされ」
「気がつきませんでした――今すぐ」
と、お通は自分の身支度は何をする間もない。
音羽山の奥といったが、いったいどこへゆくのだろうか?
そんなこともふと考えたが訊いたら叱られるであろうと思い、お通は黙って灯りを提げながら三年坂を先に立って歩いて行く――
しかし、心の裡で、彼女もなんとなくいそいそしていた。|先刻《さ っ き》の手紙は、又八からであったに違いない。――とすれば、かねがね婆とかたく約束してある問題の解決を今夜こそはっきり決めてくれることであろう。どんな嫌な思いも辛い気持も、もうわずかな間の辛抱である。
(話がついたら、今夜のうちにも烏丸様のほうへ戻って城太さんの顔を見なければならない――)
三年坂は辛抱坂だった。石ころの多い|凸《でこ》|凹《ぼこ》な坂道を、お通は石を見ながら歩いた。
[#地から2字上げ]宮本武蔵 第三巻 了
本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫16『宮本武蔵(三)』(一九八九年一一月刊)を底本としました。
作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、文学作品でもあり、かつ著者が故人でもありますので、そのままとしました。ご了承ください。
|宮《みや》|本《もと》|武蔵《む さ し》(三)
電子文庫パブリ版
|吉《よし》|川《かわ》|英《えい》|治《じ》 著
(C) Fumiko Yoshikawa 2001
二〇〇一年七月一三日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
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