上杉謙信
吉川英治
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目 次
生《い》ける験《しるし》あり
信玄の影
斎藤下野
この人こそ
祖 恩
釘付《くぎづ》け
空文一灰
悲行熱汗
橋流水不流
和の密使
居睡り柱
この時・この秋
信 玄
つなぎ烽火《のろし》
雷 発
海津城《かいづじよう》
はつ雁
重き陣幕
死地の陣
敵府脱出
山中禅
この生命
牛の草鞋
一塊炎
一笑不敵
棒 道
布陣の一石
越路の娘
心林迷風
日 傘
登る妻女山
首捨《くびすて》帯刀《たてわき》
弥太郎・日用訓
煩悩の鴨
香 車
眼点の人
客来一味
川原の花
虚相実相
陸の島々
啄木の戦法
弾 琴
白珠一万三千露
菊一枝
重 陽
献言百諫
遠けむり
明暗刻々
奇と正
月の入り
捨て篝火
動脈・静脈
天《てん》まだ晦《くら》し
一軒家
鎧える親
機微寸前
車掛り
有りや・無しや
百足《むかで》の旗々
達 観
殺地のいのち
一手切《いつてぎり》
別 辞
流れる首
吠ゆる野面
諸角豊後の戦死
勘介入道の事
血中行《けつちゆうこう》
驟雨一電
旗本対旗本
野彦の声
戦局|更《あらた》まる
陽は暮れんとす
知らず・謙信とは
傷軍の将は母心に似る
死中生あり
乱れぬ一脈
孤 影
狼
蕎麦《そ ば》の花
立つ鳥の跡
勝《かち》 鬨《どき》
世評是々非々
わすれもの
呉越の道
秋ぐさ供養
静 夜
歌ごころ
窮 鳥
苦衷の義清
大乗小乗
昨夜風雨窓前を打つ
大義大私
山海美事
君と我とは
塩 祭
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生《い》ける験《しるし》あり
この正月を迎えて、謙信《けんしん》は、ことし三十三とはなった。
まだ弱冠《じやつかん》といっていい。それなのに、服色も装身のすべても、ひどく地味好みであった。長袖の羽織も山繭織《やままゆおり》の鶯茶《うぐいすちや》の無地ですましている。大口に似た袴《はかま》だけが何やら特殊な織物らしい。またいつも好んで頭巾《ずきん》をかぶり、新春の装い綺羅《きら》やかな群臣のなかにあって、にこにこと無口に衆を見まわしている。――どう見ても臨済《りんざい》の若僧がひとりそこに交《ま》ざっているようであった。
「どうです、他愛ないものではありませんか。これですから、わが部下というものは、可愛くてなりません」
座を隣りあわせている右側の人へ、謙信はこう話しかけた。
関東|管領《かんりよう》の上杉|憲政《のりまさ》は、
「まったく」
と、うなずいて、更にまた、その右隣にいる貴人へ向って、
「越後《えちご》衆の義勇に富むことや辛抱強さは、夙《つと》に、四隣《しりん》に聞えていますが、かように無邪気で、多芸の士が多いとは、いや初めて知りましたな」
と、微笑《びしよう》を伝えた。
貴人というのは、この中に、ただひとりの都の公卿《くげ》だった。熊野どの、熊野どのと仮称《かしよう》しているが、実は関白家の嫡《ちやく》、近衛前嗣《このえさきつぐ》なのである。――ことし永禄《えいろく》四年という天下大乱の中を、いかに正月とはいえ、こうした荒武者ばかりの席に平然と臨《のぞ》んでともに酒を酌《く》み、ともに歓を尽しているこの公卿も、いわゆる花鳥風月《かちようふうげつ》だけしか解さない堂上の人とはすこし類《るい》を異《こと》にしているようである。またそれには、こういう武人の一|群《ぐん》に対して、何らか求める大志を抱いているものということもほぼ想像がつく。
しかもここは、上州|厩橋《うまやばし》の城内である。京都からいえば、まだ多分に地方的野性のみを想像されやすい坂東平野の一角である。すくなくも当時の貴顕《きけん》がこんなところまで旅するには、よほどな覚悟と目的がなければできなかった。
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初春《はる》なれや 明けたり
おもしろの世や 今日《けふ》なれ
生れあはせつるものかな
よくこそ今に。
国々こぞり立ち 国々たゝかふ
よべの夜雲《よぐも》と 消ゆあり
暁《あけ》の出づ日と 燃ゆあり
神代を今と。
いまなれや ものゝふ
生きてこそ 人みな
またとはなき 生がひかな
草の根も喰《は》め。
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正月七日は吉例の賜酒の宴《うたげ》だ。お国訛《くになま》りを交ぜてこんな長歌を今様調で謡《うた》っていた越軍の若ざむらい達は、ついに挙《こぞ》って起ちあがり、手拍子あわせながらこの城楼第一の大広間も狭しとばかり、輪をなして踊りめぐり踊り流れ、きょうの生命を、心ゆくまで楽しませていた。
信玄の影
「連年、正月は征途で迎えるのが、このところ吉例となったようです。去年は越中の陣中でしたが、さて、来年はどこでするやら」
謙信が、ふと述懐《じゆつかい》しながら、隣へ杯《はい》を乞うと、上杉憲政は、甚だしく済まないような顔して、
「関東のしめしを統《す》べる管領たるわたくしに、その力がなく、四隣御多事のなかを、遠く御援軍を仰ぎ、恐縮《きようしゆく》にたえませぬ」
と、いった。
謙信は、彼の心事《しんじ》を察して、
「あなたからそんなお言葉を聞こうとて、申したわけではない。わるくおとり下さるな」
と、なぐさめた。
積年の宿敵、甲斐《かい》の信玄とは、三年前の永禄元年、ひとまず和議が成って、
(今後は善隣として)
と、親睦《しんぼく》の約定《やくじよう》をとりむすんである。
だから表面、越軍にとって、この方の患《うれい》はまずないように見えるものの、結果としては、かえって、干戈《かんか》を交えていたときよりも、彼の敵性は、陰性となり、謙信にとって、始末のわるいものとなっていた。
信玄の政治的手腕は、あの峡山《きようざん》の国にありながら、実によく諸国の内部へまで喰いこんでいる。わけてその外交的な遠謀と智慮にかけては、若い謙信のごとき、到底、あの百錬の功を経《へ》た緋衣《ひい》の僧将の頭脳には敵すべきもなかった。
去年、越中へ出征したのも、富山城《とやまじよう》の神保一族がうるさく国境を侵《おか》すので一揉《ひとも》みにふみ潰《つぶ》すべく出馬したものであったが、平定の後、それらの残党どもを縛《くく》りあげてみると、信州|訛《なま》りの者がたくさん兵の中にいたり、信玄の息がかかっている門徒《もんと》の僧兵が交じっていたり、また、常に往来した機密文書などが無数に発見され、結局これも、躍らされた信玄の影――なるものであったことが明らかにされた。
だが、この影なるものは、始末がわるい。一方を掃《はら》えば、またべつな一面に躍って出るのだ。世上《せじよう》でよく、
(信玄には七人の影武者がいて、誰《だれ》が信玄とも分らない仕組になっている)
と沙汰《さた》するのも、彼のこういう謀略的性格の変幻《へんげん》出没をさしていうのかもしれない。
さて去年、越中に出馬して、辺境の乱を討伐した謙信は、居城|春日《かすが》山《やま》へ帰って、鎧《よろい》を解くいとまもなく、またまた上州|厩橋《うまやばし》の管領上杉家から、
(至急、関東へ来援を乞う)
という出兵の要請《ようせい》に接した。
敵は小田原の北条|氏康《うじやす》である。北条の勢威は、しきりに近境の里見、佐竹などの小国を脅《おびや》かし、いまはその圧迫にたえない状態にあるが、管領の上杉憲政に訴えても、すでにそれを抑《おさ》える実力もないし、放置しておけば、ついに乱は上州一円にも及んで、管領家の自立すら危うく思われ出したための悲鳴であった。
然諾《ぜんだく》、ただちに謙信は、春日山を雷発して、上州へ南下して来た。それが去年の八月。ここ厩橋城を本拠として、房総《ぼうそう》の小国を糾合《きゆうごう》し、彼の小田原攻略の大策は、いまその半途にかかりつつ、明けて永禄四年の新春を、この城中に迎えたわけであった。
遠征すでに四ヵ月、戦いの前途はまだ期し難い。こう長陣となれば、士気を倦《う》まさぬことが肝要である。――で、今日のように時には大いに飲んで高吟《こうぎん》放歌に気をはなつのも意義がある。そう眺めやりながら謙信は満足そうであった。客の近衛前嗣も楽しげに見えた。ひとり上杉憲政だけは、
(こんなことでいいのか?)
と、ひそかに患《うれ》えているものらしく、いつまでも酔えない顔いろであった。
しかし、この歓宴も、紊《みだ》れるまでにはならなかった。各自、限度を心得ているのだ。まず、最も放逸《ほういつ》に踊ったり謡ったりしていた者から真っ先に、
「よいほどにしよう」
「これくらいにしておいて」
と杯《はい》を納め、そして配膳の係へ、食事をうながすと、各ゝ、大茶碗をかかえこんで、真面目に飯をたべ始めていた。
――と、そこへ、四、五名の同僚とともに、寒そうに鼻を赤らめて、外《そと》から戻って来たものがある。末座から遠く主君や客のほうへ礼をすると、その一組は、大勢の中へ割って入り、すぐ箸と茶碗を持とうとした。
謙信は、遥かに見つけて、
「下野《しもつけ》ではないか」
と、呼びかけた。
咎《とが》められたと思ったか、その中のひとり斎藤下野守は、あわてて容《かたち》を正し、
「ただ今、戻りました」
と、礼をし直した。
「すぐ飯はならぬ。まだそちは飲んでおらぬらしい。これへ来い」
と、謙信は、杯で麾《まね》いた。
斎藤下野
斎藤|下野《しもつけ》はおそるおそる主君と貴賓の前にすすんで行った。そのすがたを、近衛|前嗣《さきつぐ》は眼もはなたず見ていた。どうも驚いたという顔つきである。越後にもこんな侍がいるのかと思ったらしい。その斎藤下野とは、一口にいえば、見ッともない小男というしかないが、その上に、左の一眼はつぶれているし、足は跛行《びつこ》をひいている。
だが、謙信としては、可愛い部下に変りはないらしく、下野が貴賓に対して、極めて遠慮がちに坐りかけると、
「もっと寄れ」
と、手ずから盃《さかずき》を与え、そしていうには、貴様は大の酒好きではないか、折角《せつかく》、きょうの好機を逸して、朝からどこへ行っておった、日ごろの口ほどもない不手柄者ではある――そういって、謙信は、笑いながら叱る真似した。
下野は、いただいた盃に、拝をして、飲みほした後、
「実は、御先祖の墳《つか》へ、墓まいりに行ってまいりました。早暁に出て、御酒宴の前までには立帰って来るつもりでしたが、古《いにしえ》の蹟《あと》は草に埋もれ田と変り、なかなか見つからないものですから、つい遅く相成りました」
と、答えた。
「あ。そうか」
謙信はふと厳粛《げんしゆく》に眉をひき緊《し》めた。思い出したからである。この斎藤下野なるものの祖先は越後ではなかった。この厩橋城から数里の東にある生品郷《いくしなごう》の産《うま》れである。上毛の平野生品の郷《さと》は、建武二年、時の朝賊|足利尊氏《あしかがたかうじ》を鎌倉に討つべく新田義貞とその一族が天兵たるの忠誠を誓って旗上げしたところとして誰知らぬものはない。
わけて謙信は、この上州へ出馬してから、二度もその地へ行って義貞の霊を弔《とむら》っていた。彼は、建武の忠臣が、いかに憤って草莽《そうもう》からふるい起ったか、あだには把《と》らぬ弓矢を敢《あえ》て把《と》ったか、そしてついに国に殉じたか――を征途の夜々の眠りにも考えずにはいられなかった。そして草むす生品の辺をさまよい、幾多の英魂に心からな血涙を手向けては帰った。二度目にはその地の辺に仮ながらの宮祠《みやほこら》を建てたほどである。
この人こそ
由来、謙信は多感な質である。激しやすく感じやすい。二十歳ごろまでは、まま女のごとく泣くことすらあった。その前後には、多感なるばかりでなく、多情の面も性格に見られたが、翻然《ほんぜん》、禅に入って心鍛《しんたん》をこころざしてから一変した傾きがある。といっても多情多感な性は、もとより持って生れたもの、禅によってそれが血液から失《な》くなるはずはないが、その強烈を挙げて、将来の大志へ打ちこめて来たのである。大義には哭《な》くが、小義には哭かない。怒れば国の大事か武門の名かで、平常は至極無口になった。たいがいなことは、切れ長な瞼《まぶた》の辺で笑っている。ちと、壮年者には似あわないがそういう風格に変じて来た。
そのかわり理想とするところへは独往|邁進《まいしん》、着々と無言で進んでいる巨歩のあとが窺《うかが》える。そのもっとも偉なのは、上洛《じようらく》朝拝の臣礼を、彼のみは怠らずにいることである。
京都と越後との距離は、小田原の北条より、甲斐の信玄より、また駿府の今川家よりも、どこよりも遠かった。けれど信玄も義元も氏康も、各々自国の攻防と一身に気をとられて、まだその挙《きよ》のないうちから、謙信は、天文二十二年のまだ弱冠のころに逸《いち》はやく上京し、時の将軍義輝を介して、朝廷に拝し、天盃《てんぱい》を賜わり、種々の献上物を尊覧に入れなどして、臣謙信の把《と》る弓矢の意義を世に明らかにしていた。
つづいて、おととし永禄二年にも上洛した。度々の彼の忠誠に、朝廷におかれても、御感悦《ごかんえつ》はいうまでもなかったが、関白《かんぱく》の近衛|前嗣《さきつぐ》などは、ひそかに彼のために案じて、
(遠隔の地、こうお留守になされては、御本国の領も、さだめしお心もとないことでしょう。あとの御守備はだいじょうぶなのですか)
と、訊ねたことがある。
すると、謙信は、
(ほかならぬための上洛。領土のことなど、一向に捨て置いてもかまいません)
と、答えた。
いま割拠《かつきよ》する諸国の群雄にとって、血まなこ、血みどろな、第一の関心は、その領土である。寸土尺地にも鎬《しのぎ》を削りあって他事もない有様の折である。そのなかで謙信のこのことばを聞いた関白|前嗣《さきつぐ》は、
(この人こそ)
と、彼に真実を認めた。見込んだのだった。応仁以来の道義のみだれと、朝廷と臣子の道すら怠られている国風のすたれを嘆《なげ》いていた折なので、謙信の一言はいたく前嗣の胸をうった。かかる武将なれば何を打明けまたどんな大義を託しても――と、以来、熊野牛王の誓紙をかわして、ふたりは深く朝廷のために誓いあうまでとなった。
この正月を期して、遥々、前嗣のほうから下向して来たのも、表面の理由よりは、かねてふたりの胸にそういう心契《しんけい》もあるからだった。
「ほう……。ではお許《もと》の御先祖は、この地の新田一族のものか」
前嗣は、ふと、謙信と下野《しもつけ》とのはなしへ、傍《そば》からことばをさしはさんだ。
祖 恩
直接、声をかけられたものの、答えてよいかわるいか、下野が恐懼《きようく》している容子《ようす》に、謙信が、
「お答え申しあげよ」
と、促《うなが》した。
下野は、片眼を、ちらと、貴賓に向けて、
「おたずねを賜わって、畏れいりまする。祖先斎藤|蔵人《くらんど》は、名もなきものにござりますが、義貞公お旗上げの折より、御一族の脇屋殿《わきやどの》の手について、鎌倉攻めに参加し、後《のち》、分倍《ぶばい》河原《がわら》のたたかいに、討死をとげました。――首を埋めた墳は故郷の宅址《たくし》にありと聞き、同じ土地の出の衆五、六名を誘って、あちこち尋ねましたが、よう分りません。……茫々《ぼうぼう》、いずこも田や草原と変り果て、土地の農夫どもすら、たれも弁《わきま》えおりません」
「では、越後へ移られてからは、もう数代になるのじゃな」
「四代になりまする」
「ああ、それでは……。越後にはなお、新田一族の裔《えい》が多くおられますか」
これは、謙信に向って、直接に問うたのである。謙信は、思案までもなく、
「ここだけでも、下野を初め、五、六名もおるとあれば、春日《かすが》山城《やまじよう》には、まだ何十家も、同じ流れのものがおりましょう」
と、すぐ答えた。
前嗣《さきつぐ》は、大きくうなずいて、
「さこそ。さこそ」
と、繰返し、
「ほまれある御裔とも思いもよらず、さきほどからの率爾《そつじ》はゆるせ。盃をとらそう。下野とやら」
と、自身から進んで来ないばかりにいって、手をさしのべた。
下野はいよいよ恐懼《きようく》して身をちぢめた。四、五十名の一小隊をあずかる侍頭《さむらいがしら》に過ぎない身分を顧みて、思案に余るものらしく見えた。
「おうけせい」
主君のゆるしに、ほっと、面を上げると、下野は、こういった。
「何の功もありませぬに、身に余るお盃は、おそらく祖先の功を思召されてかと存ぜられます。てまえ一個がいただいておくには過分。お盃ぐるみ頂戴して、ほかの五、六名の衆にも頒《わ》け、帰国ののちは、春日山城にあるほかの衆にもいただかせたく存じます。……願わくばどうか、そのお盃ぐるみてまえに」
「よろしかろう」
前嗣は、自身の懐紙を取り出して、盃を包み、あらためて下野にそれを授けた。
釘付《くぎづ》け
整備はととのった。上毛、房総の兵をあわせた管領軍は、謙信の指揮のもとに、北条氏康の罪を鳴らして、
「降伏か、滅亡か」
を、小田原の城下に迫った。
その年、三月から四月にわたっての、攻防戦はつづけられた。花も散って、春は徂《ゆ》こうとしていた。
陣中の客、近衛前嗣は、
「一日も早く、宇内《うだい》に大志を展《の》べられるよう、陰ながら祈っています。四民のために」
と、ここで別れて都へ帰って行った。
合戦の際であったが、謙信は足柄境《あしがらざかい》までこれを見送って、
「いずれまた都においてお目にかかりましょう」
と、自信をもっていった。大きな将来の自信をもって。
しかし当面《とうめん》の小田原一城も、容易に陥落しなかった。理由は、逸早《いちはや》く甲州から信玄の有力な部隊や参謀が城内に入っていて、氏康に協力していたからである。
それらの甲州参謀は、
「なおなお兵力も軍需も、いくらでも甲州より後詰《ごづめ》申さんとのお館《やかた》の仰せであれば、飽くまで、この要害に拠《よ》って、守るを主とし、城門を出て戦うことはせぬが得策」
と、主張していた。
寄手《よせて》をここに釘付けにし、わけても遠征の越後勢を疲労せしめ、謙信をしてまったく施す策なからしめんとする方針だった。
五月になった。
しかも城壁の一角すらまだ奪《と》れない。城方の計は図に中《あた》ったといえよう。謙信はついに一度軍を退《ひ》いて、味方の倦怠《けんたい》を一新し、敵の変を待とうとした。
彼が、上杉憲政とともに、鎌倉八幡宮へ参詣したのは、この期間であった。憲政は、その機会に、
「以後は自分の同族ともなったつもりで、上杉の姓を名乗られよ」
と、すすめた。
それまでの謙信は、あらためていうまでもなく、管領の一|被官《ひかん》で、姓は長尾、職は越後の守護代《しゆごだい》であった。
空文一灰
そのころ、甲州の精鋭が、或いは隊伍し、或いは分散して、北へ北へと動いていたことは頻《しき》りなものであった。
大軍団の移動は、当然、四隣を刺戟するからである。ちぎれ雲のように、八ケ岳道、諏訪《すわ》道などから、善光寺方面へさしてゆく人馬は、ことごとくそれだったが、この方面に監視を怠らない越後の諜者も、
「はてな?」
ぐらいで、その目的を不覚にも観破《かんぱ》できなかった。
彼等《かれら》が気づいた時は、世間一般も同時に知っていた。それは青天《せいてん》の霹靂《へきれき》にも似て世の耳目《じもく》を愕《おどろ》かしたからである。
「すわ。また甲越のあいだに」
巻雲《まきぐも》のように揚った戦雲の突然に、その理由も汲めず、百姓はただ往年の恐怖をあらたにしていた。
場所は、野尻湖《のじりこ》の東南で、越後信州の国境にあたり、山地ではあるが、北するも、西するも、南するもここを分岐点《ぶんきてん》とする交通の要衝《ようしよう》で、割《わり》ケ|嶽《たけ》の嶮に拠《よ》って、越後勢のたてこもっている一|城《じよう》がある。
割ケ嶽の城《しろ》。
ここの圧《おさ》えは、越後にとっても絶対的なものであると等しく、甲斐の武田家にとっても、最大価値をもって見られているものだった。
もし、武田方に、一朝、ここを奪われれば、越後軍は東進南出すべて封じられる運命におかれなければならないし、越後によってそれが扼《やく》されているかぎり、甲山の猛虎信玄も、ついに野尻湖以北――裏日本への展開は将来に望み難いものになる。
で、甲越両国の本能は、いつもこの地方に摩擦していた。奪《と》りつ奪られつ、南へ生き出ようとする生命と、北方へ伸び振わんとする生命とが、峡門に激しあう奔流にも似て、数度の血戦に相搏《あいう》って来たものであった。
けれど、その宿命も、四年前の永禄元年このかたは熄《や》んでいた。将軍足利義輝のあつかいで和睦《わぼく》が成立したのである。相互、誓紙をかわし、神文《しんもん》に誓って、干戈《かんか》を収《おさ》めたのだ。――その割ケ嶽の城に揚った突然な戦火である。世間一般が、
「またか?」
と、怯《おび》えたのも無理ではない。霹靂《へきれき》をうけたように、耳目をしびれさせたのも、両国間の和睦を、永久なものと、余りに過信していたからであった。
悲行熱汗
「なに、割ケ嶽が?」
遠征の地で、第一報をうけたとき、上杉謙信は、やはり一般民間の者と同じような、寝耳に水の感をいだいた。
――さもあらん。
とは決して考えられなかったのである。信玄と取り交してある条約の上からも。また、人間の通念からも。
若くして、禅味をふくみ、才識《さいしき》のひらめき、三略《さんりやく》の学胆《がくたん》、すでに彼は、名将の器《うつわ》と、一般から見られていたが――こんな事にもびくとも愕《おどろ》かずにいられるほどな偶像的人格ではない。
憤《いきどお》った。
めずらしく、その面《おもて》には、怒気|赫々《かつかく》たる血色を示し、
「足長《あしなが》め!」
と、罵った。
信玄をさしてである。これは謙信が名づけた綽名《あだな》ではない。甲州の足長どのとは誰もいうのだ。その外交ぶり、その疾駆《しつく》ぶり、あの山峡の国にいながら、実にまめな早足や早業《はやわざ》を見せるところから起ったものらしい。
しかし、その疾風迅雷にかけては、謙信も信玄に劣らないものだった。謙信の迅さは、行動よりも、心機にある。事にぶつかって、悔いたり迷っていない果断にある。
「ひきあげよう。即刻」
六月、三国《みくに》越えを、彼のひきいる人馬は、奄々《えんえん》と、汗みどろに、北をさしていた。
「無念です」
「割ケ嶽は、ついに落城しました。お味方はのこらず、城と共に、討死をとげて」
相次ぐ悲報を、謙信は、その山道を喘《あえ》ぎ喘ぎ行く途中で聞きとった。
「そうか」
汗を払って、雲の峰を仰ぐ。烈日は、彼の悲涙を焦《や》きつけた。
「……そうか」
黙々、行軍をつづけてゆく。
彼の憤怒《ふんど》悲痛を察して、その馬前馬後を囲《かこ》んで行く――直江大和守、長尾遠江《ながおとおとうみの》守《かみ》、鮎川|摂津《せつつ》、村上義清、高梨《たかなし》政頼、柿崎|和泉《いずみの》守《かみ》などの諸将も、いまは何も激声を発しなかった。
黙々、また黙々……。ただ或るものを、後日に固くちかいながら、雲のように、山また山を越えていた。更に、詳報が入った。
「敵は、割ケ嶽を陥《おと》すと、城郭《じようかく》を焼払い、石垣も城壁も、跡かたもなく打壊《うちこわ》して、はや甲州へ退去したとの事です。城中のお味方は全滅をこうむりましたものの、敵方の死傷は数倍にのぼり、甲軍の名だたる大将、原美濃守、加藤|駿河守《するがのかみ》、浦野民部などまで傷《て》を負い、とりわけ原美濃守は、この一戦に十三創の重傷で後退したといわれ、また同じく敵方の旗本、新海又三郎、辻六郎兵衛は討死。多田|淡路守《あわじのかみ》もまた討死と聞えておりまする」
せめてもと、謙信に向って、つぶさに戦況を告げる早打ちの者に、
「そうか」
と、答えは、依然、短かった。しかし、この言葉をかさねるたびに、彼の語気は、静かに、荘重に、何かしら濁《にご》りの澄んでくるようなものがあった。
詳報がつたわると、全軍のうえに、明らかな動揺がうねった。沈湎《ちんめん》、馬上に暗涙を嚥《の》む老将もあれば、憤涙を拳《こぶし》で拭って、
「残念っ」
と、声を放って哭《な》く多感な旗本輩《はたもとばら》もある。
荷駄、小卒の端までが、口々にいうことには、
「このまま、越後へ帰るのか」
であった。
そしてまた、
「空しくは帰られぬ!」
意気を炎々と汗の頭からいきり立たせた。
そうか、そうか、とばかりで黙々たる謙信に対して、全軍の将士が物足らなさの騒音を漂《ただよ》わせたのもむりではない。見よ、この山越えの嶺から西をのぞめば、そこに割ケ嶽の煙かとも思える雲の峰が見えるではないか。一|鞭《むち》、左へ指せば、野尻は遠くない。さらに長駆して川中島を突破し、敵の一拠点、海津《かいづ》を抜き、附近を席捲《せつけん》し、少なくも信玄勢力圏の一端に報復を与えて引揚げても遅くはあるまい。
「何で、このまま」
歩み歩み彼等は地だんだ踏み足ずりして止まなかった。割ケ嶽の一城には彼らの血もつながっている。ここにいる或る者の父はそこに居た。また或る者の兄や弟や叔父や甥もそこに居た。それは凝《こ》って一つに越軍の名にむすばれ、甲軍の不信にたいする正義となって、ひたぶるに、
「ここからでも」
と、追撃を逸《はや》るのだった。
「駒を止めい」
謙信は、何思ったか、前後の諸将へ、こういって、急に自身も、馬首を横に向けた。
橋流水不流
「止まれっ。全軍、西へ向け」
つづいて、謙信からの命が、次々の部将の口から伝えられた。
ぴたと、埃《ほこり》が沈む。
蜿蜒《えんえん》たる横列は、何事かと、西方へ向いて、静粛に顔をそろえていた。
そして、主将謙信のすがたへ、近く遠く、一様に眸《ひとみ》をそそいでいた。
「…………」
謙信は、馬の鞍つぼに、手綱をはさみ、胸に両掌をそこに合せていた。西方の空へ向って――。
老将たちも旗本も、列の遠い端にある荷駄の者までが、みなそれに倣《なら》って、しばし黙祷を送っていた。
終ると、謙信は、馬から伸びあがるように、
「――|橋 流 水 不 流《はしながるるもみずながれず》――行こう、ひとまず、春日山のわが本城へ」
そういうと、左右を促《うなが》して、ふたたび北へ北へ峠を越えた。
謙信が大きい声でいった初めの一句は、どうも皆にはよく分らなかった。何か禅語のうちにあることばらしい事だけは想像されたが、意味がよくわからない。
「……橋ハ流ルルモ水ハ流レズ。そんなふうに聞いたが?」
と、自問自答するのだった。
案を会得《えとく》して、いう者もある。
「水は流れるものなのに流れずといっている。それはつまり永遠のすがたをさしていう意味ではないかな。架《か》けたかと思えば流され流されたかと思えば架ける。眼前の悲喜にとらわれるな。そうお館は仰っしゃったのではあるまいか」
ともあれかくて遠征の越軍は、ひとまず春日山の城へはいった。謙信はかたく期すところがあるらしく、帰城の後の生活は朝夕常のごとくであった。
むしろ諸将以下、越後全土の人心は、武田の不信行為にたいして、日ましに憤激を昂《たか》めていた。和睦の条文を破棄《はき》したばかりか、遠征の留守をうかがって虚《きよ》をつくとは、卑劣極まる、武門の列に加えておけない信玄入道である、百姓町人の困難も顧みてやらない地上の乱賊である。越後では武士でない領民までが、歯がみしていうのだった。
――にもかかわらず謙信には容易に起つふうも窺《うかが》われなかった。七月もすぎ八月に近い。春日山の城は蝉《せみ》しぐれにつつまれて再度出征の気《け》ぶりもないのだ。もちろん城下の鍛冶とか、兵具とか、兵糧そのほか、軍需の方面は、活溌にうごいているが、これは上杉家として何の異例な事でもない。兵事すべて平常のことだ。
「我慢がならぬ」
「どうしたというものだ」
上層の意志が酌めない下級の士《さむらい》たちほど、やりばのないものを、ともすれば口に発したがる。そして、退城して来たものをつかまえては、
「どうだ……御評議のもようは?」
と、訊く。
それを窺い知ることができる程度の側近者《そつきんしや》であると、
「さあ、知らん」
としか答えないし、
「何かきょうも、お奥では、御一族と老臣方だけで、御評議があった。しかし相かわらず、和戦|区々《まちまち》らしい」
などと、見て来たようにいう者には、何も実際は分っていないのであった。
けれど、何となく、和戦両様の空気が城将間にあることを感じると、
「和とは何だ、この期《ご》になっても、まだ和を考える余地がどこにある。腰抜けめ」
一般の激昂《げつこう》はいやが上にも燃え募《つの》った。忿懣《ふんまん》のうえに重なった忿懣である。それもこんどは誰へ向けていいやら分らない怒りだ。天へ向って哭《な》くしかないものであった。
そうした家中《かちゆう》の人々は、ふと、自分たちのまわりに、端《はし》なくも一つの不審を見つけ出した。何かというに、それは例の片目、足なえですぐ目につく斎藤下野の姿が、近頃とんと見当らないことであった。
和の密使
「下野殿には、どこへ行かれたのか?」
と、斎藤下野の家人《けにん》に訊いても、口をつぐんで一切知らないというし、日頃、親しい友人にたずねても、
「一向《いつこう》に存ぜぬが」
と、共に不審がるばかりであった。
邸《やしき》を窺《うかが》うと、病気で寝ているふうもない、召使は厳重に口止めされているらしい。こうなるとなお知りたいのが当然な心理である。
「わかった!」
ひとりが、衆へ伝えた。
もう秋ぐち、つい二、三日前から八月だった。旗本|辛崎図書之助《からさきずしよのすけ》が、同じ組の血気な中堅ばかりの寄っている城中の用部屋《ようべや》へ来て、
「――見えないはず、彼は和睦《わぼく》のお使いとして、ひそかに甲州へ赴《おもむ》いている」
と、声を大にして告げたのだった。
そう物事には愕《おどろ》かない面《つら》がまえばかり揃っていたが、これには唖然というよりは、頭上から磐石でも加えられたように、ぐっと、いちど息を呑んでから、眼を大きくして、
「えっ。ほんとか」
と、いった。
「かような重大事が、戯《たわむ》れに口に出せようか」
と、図書之助は、大小にかけていいきった。
かれのことばによれば、かれの叔父にあたる黒川|大隅守《おおすみのかみ》も先頃からいなくなっている。病中病中といっていたが不審のかどがあるので、従弟妹《いとこ》にあたる娘をおどかしてついに真相を聞き出したというのである。
「では、斎藤下野について、黒川大隅も甲州へ行ったというのか」
「さればだ。密々、下野に正使を仰せつけられ、副使には黒川大隅が添い、もう十日も前に、この春日山を出立しているという」
「……知らなかった」
「知れようわけはない。もし漏れては、家中の異論や動揺まぬがれ難しと案じて、老臣衆が相計《あいはか》って、極秘裡《ごくひり》にお使者を甲州へ遣《や》ったものらしい」
呆れはてて次のことばも吐けないでいる顔ばかりだった。――が、そのまま冷却できるような薄い血《ち》の気《け》ではない。しばらくするとその沈黙は勃然《ぼつぜん》とここ数旬にもなかった危険な形相をおびて爆発した。
居睡り柱
「なぜ、甲州へ向って、越後から使いを立てねばならぬか」
「御当家は、武門をお捨てになる覚悟か。屈辱《くつじよく》だ。恥を知れ」
「使者を送って、なお恋々《れんれん》、和を講じようなどとは。――ああ、弓矢とる身もいやになる。道義のすたりだ。いずれはこれ、なるべく現状にありたい重臣たちが、お館《やかた》の御決意をにぶらせたものだろう。ゆるし難い。断じて看過できぬ。――直江大和守どのか、柿崎和泉どのの邸か、いずれへでも押しかけて、真意のほどを糺《ただ》してみねばならん。同意の者は、みな来い」
「行かいでか!」
「行こう」
いあわせた十名以上の者がことごとく起って大廊下へ出た。ところがただ一人、なお隅の大きな柱へ背を凭《もた》せかけたまま、眼をとじて、起とうともしない者があった。
ひとりが気づいて、
「弥太郎。なぜ来ない? 早く来ぬか」
と、うながした。
眠たそうに上げた顔には、白あばたがぽつぽつあった。鬼小島弥太郎は、その顔を横に振るのも懶《ものう》そうに、
「わしは行かん」
と、いったきりで、腰を起てるふうもなかった。
この時・この秋
「なに」
一同は、色を作《な》して、戻って来た。弥太郎の凭《よ》りかかっている柱を囲んで、
「行かん、というのは、行く必要はないという意味か」
それに対して弥太郎は、
「そうだ」
と、はっきり答えて、
「無用な騒ぎ立てはせぬがよろしい。親のこころ子知らずということもある」
と、居住《いずま》いもあらためずにいった。
その態度も、また訓戒口調《くんかいくちよう》も、甚だしく一同の気にさわった。上杉家の鬼小島弥太郎といえば、四隣《しりん》にまで聞えている春日山の十虎のひとりである。十虎というのは、謙信|麾下《きか》の旗本の精鋭中からまた精鋭を選《よ》って、誰かが十人を挙げて名づけたものである。
それとて、ここにある同輩たちは、その弥太郎に絶対|比肩《ひけん》できないものとは誰ひとり考えていないのだ。折あれば各々ひとに劣らない武勲をあげて、十虎の組には入らなくても、双龍、十龍、どんな名誉でも克《か》ち獲《え》てみせるだけの自信はみな持っているものばかりである。
――白あばためが。
当然、同輩たちは、彼の不遜《ふそん》に怒りを示した。いちど上げた腰をすえ直して、左右から口々に、
「無用な騒ぎとは何だ。無用とは」
「積年の敵国甲州、不信極まる信玄に対してこの際、使者を送って、和を乞うなど、無念とは思わないか」
「この越後、わが上杉軍、すべての屈辱とは考えないか」
「これが、坐視していられるか。徒《いたず》らに騒ぐのではない。腑抜《ふぬ》けな、ただ計数的な、腰のよわい老臣衆へ、勇気と猛省を与えにゆくのだ。決断をうながしに行くのだ。なぜ、それが無用か」
と、つめ寄った。
弥太郎が、ふたたび、
「無用だ」
と、断じていって坐り直すと、
「まだいうか」
と、中には、太刀をつかみ寄せて、眉に険《けん》を示す者もあったが、弥太郎は箇々の顔を箇々には見ずに、全体へ向って、極めておっとりと説いた。
「まあ聞け、落着いて。――過日来の御評議は、われら末輩《まつぱい》には知るよしもないが、およそ興亡に関わる大事な軍議が、老臣の衆だけで決定されるはずはない。かならず君前で行われ、君前に於いて一決した御方針にちがいなかろう。――さすれば、甲州へ使者を送るも、和議を求めるも、お館のお旨ではないか。謙信公の御方寸《ごほうすん》ではないか。貴公らは、君意にたいして不平を鳴らすか」
「いやその君意を晦《くろ》うし、いたずらに無事を祈って、弱音を吐きならべたものこそ、老臣の一部にちがいない。そのために」
「ばかをいえ」
と、弥太郎は、衆口を圧し伏せて、
「さむらいが、命をさしあげて、お仕え申し上げている御主君。――そのお館の御精神が、どこにあるか、日ごろからどんな御気性《ごきしよう》か、それくらいなことも弁《わきま》えずに、おぬしらは、よう御奉公が成るな。命をさしあげられるな。――兵法とは押太鼓《おしだいこ》うち鳴らして敵へかかるときだけのものではない。親のこころ子しらずといったのはその辺の微妙にある。へたな息《いき》り立ちをして騒ぐ事は、かえって君意を煩《わずら》わし、いわゆる這般《しやはん》の妙機を邪魔するだけだ。……ここ暫く関東の遠征から戻って来たばかり、またすぐ戦陣には赴《おもむ》きたくない、というような顔して、各々、随分ぼんやりしておられたほうが忠義でござろう」
と、笑って、また、
「見たまえ。その甲州へは、選《よ》りに選って、斎藤下野という者を遣ってある。藩中人も多いのに、あの下野を遣わされるなどは、老臣方の眼鑑《めがね》では決してない。お館の御抜擢《ごばつてき》だ。――以て、畏れ多くはあるが、君公のお胸三寸下に、何があるか、分ろうではないか。察するに難くないではないか」
と、むすんだ。
もう誰も、それに息り立つものはなかった。いや、その場だけではなく、さしもごうごうと喧《やかま》しかった春日山城の内外をつつむ悲憤の声も、屈辱のさけびも、以来、急に鳴りをひそめてしまった。そして再出征の布令はもちろん軍備の気《け》ぶりも見えなかった。春日山城を中心とする諸所の支城への往来も緩慢だし、村々の秋祭は、平年よりは賑わって、戦時なら遊んでなどいないはずの鍛冶、具足師までが、この秋は、踊りの輪に交じって踊っていた。
信 玄
四方の空、いずこを見ても、山ならぬはない盆地だが、城郭は平城《ひらじろ》だった。規模の大きなことは言語に絶している。そしてここを甲館とも呼び、躑躅《つつじ》ケ崎の館ともいう。武田信玄のいる甲府の本拠である。
この時、信玄は四十二である。頸《くび》の根太く、肉《しし》むらの固肥りな体つきをしている。頬はゆたかで、色の黒い皮膚の下から少年の如き血色を照らし出している。手の甲を見ても、頬やもみ揚げの剃刀《かみそり》痕《あと》を見ても、多毛質なことがわかる。
そうした風貌から判断しても、絶倫な精力家であることや鉄のような意志の持主であることはすぐ感じるが、冷徹《れいてつ》した理性は努めてあらわすまいとしている。眼じりに皺《しわ》をえがいて、優しく見せているのがそれである。にも関わらず、いかに彼が努めて――春風人ニ接シ、秋霜《シユウソウ》己レヲ持ス――の態を心がけても、その大きな黒瞳をもった瞼《まぶた》は、涙というものに濡れた例しを知らないかのように見える。
「大炊《おおい》。使者は見えておるか」
脇息《きようそく》へふかく肘《ひじ》をのせながら、信玄はかたわらの跡部大炊《あとべおおい》へ向って、その耳へ口を寄せるほど近々と顔をさし伸べてささやいた。大炊もまた小声で、
「いえ、越後の使いが、使者の間へ通りましたときは彼方《かなた》のお小姓部屋で鈴を振って、お知らせすることになっております」
「まだ鈴は聞えんな」
「されば、まだお次へ、通って参りませんから」
「使者のすがたも見たいが」
「御覧になれましょう」
と、大炊は立って、すでに二寸ほど開いている大襖《おおぶすま》のさかいを、更にもう少し開けてもどって来た。
ここは城中の毘沙門堂《びしやもんどう》とよぶ一閣である。堂作りの建物であるが、信玄の居室、書院、評議の間、使者の間など悉《ことごと》く備わっている。先頃からこの国へ特使として来ている越後の家臣斎藤下野なる者を、きょうここへ呼んで、あらかじめその面だましいを覗き見してから対面しようというのである。他国の使臣にたいしては儀礼的な鄭重を極める半面に、ままこういう非礼もよくやるものらしい。――殊に一方は優越を自負《じふ》して役に臨む場合には。
こんどの如きも、信玄としては、かならずや謙信が赫怒《かくど》して、上州から碓氷《うすい》方面へ伐《き》り入って来るなり、或いは、手薄な信州方面にたいして、報復手段をとって来るものと予想していた。
それもなく。
悠々、彼は小田原城の攻囲を解《と》いて、上州から三国越えを経、遠く越後の春日山へひきあげてしまった。
――出直すか。
と観《み》ているに、容易に、その気はいもない。越後へ入れてあるたくさんな密偵からも、そのうごきの見えない証《しるし》ばかり報じてくる。さてはと、信玄は、
(一昨年このかた、越中への出陣、つづいて無理な上洛、また半歳以上にのぼる相州への遠征など――打続いての東奔西馳《とうほんせいち》に、さしもの謙信も、つかれ気味とみゆる)
と内心、いささか安んじたり、また謙信の用兵の拙《せつ》を、嗤《わら》っていたりしていたところである。
越後の臣、斎藤下野なる者が、副使黒川大隅以下をつれて、この甲府へ入って来た。
そして、謙信の書を呈し、
「主人謙信より篤《とく》と申し授かって参った議は、事重大にござりますれば、お館へ御直談《ごじきだん》申しあげたく、いつなりとお目通りの日までお待ちいたしておりまする」
と、宛てがわれた城外の使館にきょうまで、呼び出しを待っていたものである。
謙信の書簡は、使者の信任状にひとしいもので、目的には触れていない。ただ辞句《じく》鄭重に四年まえに結んだ和睦のことに言及して、以来、異心なきにかかわらず、自分の遠征の留守に、割ケ嶽の城を攻められたのはいかなるわけか――と、極めて、慇懃《いんぎん》に糺《ただ》しているのである。すこしも激越でなく。また、抗議的でなく。
貴下の良心に訴える。
と、いう程度にである。
こういう事理や情をつくした辞句に、顔あからめる如き信玄ではない。すでに両国が修好を締結するまえ数年に亙《わた》って、信越国境では三度も彼と激戦を交えているので、越後勢の精鋭、謙信の端倪《たんげい》すべからざるものであることは充分に心得ているが、それにもかかわらず信玄のどこやらに、彼にたいする軽視が除ききれなかった。何といっても謙信は彼より九ツ年下なのと、その領土、財力、軍備、あらゆる角度から見ても、
――謙信何する者ぞ。
と、弱小視する気もちを制しきれなかった。
で、使者が来たと聞くと、その書簡を見るまでもなく、
(和をまとめに来たな)
と、直感した。
(戦う気があるなら、使者などよこす要はない。こちらも虚《きよ》をついのだ。虚を衝《つ》いて出てくるのが必然――)
その考えの下に、謙信の書簡をひらくと、
(果たして!)
と、思うものがあった。
信玄としては、万事、予想どおりであった。ともあれ、口上を聞き、返事も与えてやらねばならぬが――その特使の男がまた少々変っていると家臣から聞かされたので、
(どんな人物か)
信玄は、好奇心も手伝って、面謁を与える前に、使者の間の次まで来て、跡部大炊と一しょにそっと覗《のぞ》き見したのであった。
つなぎ烽火《のろし》
他国の使者が着くと、その日から接伴役《せつぱんやく》、案内役が付ききりになる。もちろん目付《めつけ》だ、鄭重なる監視人である。
逗留数日、きょう信玄が会うというので、斎藤下野は、ひとりだけゆるされて、毘沙門堂内の使者の間へ通された。当日の案内接伴役は、初鹿野《はじかの》伝右衛門と曲淵《まがりぶち》庄左衛門であった。
「ただ今、主君へお告げしておきましたから、しばらくこれで」
と、控えさせて、甲州の二臣は、わざと下野へ雑談をしかけた。
下野の風采《ふうさい》というものは、何分にも、彼の国元においてさえ、あまり薫《かんば》しくないものである。まして甲州の歴々は、一見してみなあきれた顔であった。こんな見ッともない小男を――と思った。しかも片目足なえという不具者だ。いまだ曾《か》つてどこの国からもこんな使者は迎えたことがない。
「貴国の越後は、海七分の小国とわれわれは伺っておりますが、事実は、もっと大国でござろうな」
接伴の曲淵が訊ねると、斎藤下野は悪びれるふうもなく、
「されば、仰せの通り、海ばかり帯びて、至って小国です。当甲州は、強大無比と聞いていますが、たとえばどれほどな大きさでしょうか」
「国の広さは、南北八|日路《かじ》といわれています。大国の証拠には、日々、街道すじの往還、荷駄千匹ずつありと申す。以て、御推量がつくでしょう」
「はははは。それは意外」
「何をお笑いめさるか」
「でも、荷駄千匹の往来と御自慢あるが、越後においては、出入りの船、日々《にちにち》千|艘《そう》。一艘の船には、馬千疋が負うほどの荷は積みます。してみると甲州は、存外な小国とみえますな」
曲淵は赤面して黙ってしまった。初鹿野《はじかの》伝右衛門が、それを救うように、
「下野殿。つかぬことを承るが、越後では他国へのお使いに、貴殿のような小男を、わざと選んでお出しになるのかな。失礼ながら、何尺おありになりますか」
下野は、少しも動ぜずに、すぐこう答えた。
「わが越後では、使者を他国へ向ける場合、先《さき》が大国なれば大なる男を、先が小国なれば小なる男をつかわすことが例になっています。たとえば、貴国へはそれがしのような小男を遣わされたように」
二の句も出ずに、伝右衛門が口をとじていると、下野はなお、
「身長をおたずねでござったが、こう見えましても、それがしは五尺にわずか一寸ぐらいしか不足ではござらぬ。お見うけするに、御両所はいずれも五尺五寸はおありらしい。それがしより勝ることそもそも何尺。おふたりを合せても、失礼ながら生涯に、それがしほど御奉公をなし得るや否や。剣は三尺に足らずといえども物干《ものほ》し竿《ざお》より勝りましょう。お館には勿体ないものに美々《びび》しい衣裳を着せてお用いではある」
耐えきれなくなったとみえる。襖《ふすま》の内で信玄が笑ってしまったのだ。さすが卑屈でない。呵々《かか》と高笑しながら、
「大炊。襖《ふすま》をひらけ」
と、命じ、
「上杉どのの使者か。斎藤下野というか。なかなかおもしろいことをいう。むかし|淳于コン《じゆんうこん》(「コン」は“髪”の友の部分を九にしたもの)は斉王《せいおう》の命をうけて、楚国に使いし、その途中、楚王《そおう》に贈る鵞鳥《がちよう》を焼いて食べてしまいながら、空籠を奉じて楚王にまみえ、詭弁《きべん》をふるってかえって王をよろこばせ、斉王は廉直な臣をもって倖《しあわ》せであると感心させたとかいう。――その方はあの淳于コンにも似たる男よ。上杉家において、禄はいかほど貰っておるか」
と、早速、信玄も打解《うちと》けて、話しかけた。
下野は、遥かへさがって、拝礼をしながら、
「六百貫をいただいております」
と、謹んで答えた。
信玄は、聞いて、
「過分なくれようかな。上杉どのは下《しも》に厚いとみえる」
と、つぶやいた。
それから、片目はどうしてつぶれたかとか、足はどこで跛行《びつこ》になったかなどと、露骨にたずねたが、下野の答えは、機智縦横でしかも相手を不快にさせない程度に自己の見識と鋭さを持っていた。
「小兵者《こひようもの》ながら、なかなか利《き》け者。わが家へ使いにさし向けられた者ほどある。上杉どのの祖先、鎌倉の権五郎|景政《かげまさ》も、鳥海《とりみ》弥三郎の矢に片目を奪われ、しかも武名かくれもなかった。おそらくその方の如き人物であったかも知れぬな。はははは。大炊大炊」
「はい」
「使者に、酒を与えろ。大いに犒《ねぎら》ってつかわそう」
「お待ち下さい」
下野はさえぎって――
「御酒をいただく前に戴かねばならぬものがあります」
「何か」
「割ケ嶽の一城です」
「……ふうむ」
信玄の眼が、初めてらんと光った。眼じりの小皺《こじわ》は、この時利剣のように刎《は》ね上がっていた。下野は、たたみかけて、
「おそらく、お館のさしずではなく、出先にある甲州の将士が、無断の乱暴と存ぜられますが、あの一儀は、実に、わが上杉家と親睦のちかい固き武田家の御名のために、深く惜しまずにはいられません」
「いや、割ケ嶽を攻めたは、信玄のさしずじゃ。決して出先の独断ではない」
「ほ。左様なお下知を、どうしてお下しになりましたか。永禄の元年、互いに、爾後《じご》は干戈《かんか》を交えまいと、神文《しんもん》を交わし、約定を取結んである御両家のあいだがらなるに」
「その以前、割ケ嶽の城は、当武田家の所領であった」
「御理由にはなりません」
「使者!」
「はいっ」
「そちは、酒をのむか、のまんか」
「いただきます。御返辞を頂戴いたした後で」
「信玄の返辞はすんだ。ふくろに納めた弓も、取出せばいつでも出せる。酒をとるか、弓をとるか。そちは謙信どのから、何と申しつかって来たか」
「もとより、それがしをして、これへお遣わしあるからには……」
「そうだろう。ともあれ飲め。永禄元年の誓紙条文《せいしじようもん》、そのまま両家にとめ置きたくば」
「御無態です。左様なお答えのみを持って、何で使者たるものが帰られましょう」
「いやいや、そちはなかなか、君命を恥かしめてはいない。賞めつかわしておるではないか」
「ゆめ。甲州の御大将などから、お賞めにあずかりたくはありません。今日はまず御拝顔を得たこととし、明日、また明後日、十日でも半月でも、御意を待って伺い直します。改めておねがいいたします」
「ねがいとは、何を」
「明確なる御謝罪の証《しるし》を」
「ははは。むだであろう」
「むだかも知れませぬが」
「酒が出た。のむか」
「こんどは戴きます」
下野は、大盃を取った。彼の痛飲はまた敵国の君臣に眼をみはらせた。
けれど、それなどは、些細《ささい》な愕《おどろ》きに過ぎない。その夜、躑躅《つつじ》ケ崎へはいった飛報には全城みな耳を疑うような震駭《しんがい》をうけた。信越国境の方面からつなぎ烽火《のろし》で一刻の間に伝わって来たことである。つなぎ烽火というのは、一里|距《お》き二里距きに備えてあるのろし筒が、次々と轟煙《ごうえん》を移して甲府の本城へと、
――敵軍|襲来《しゆうらい》!
の急を忽ちのうちに警報して来る組織のものであった。
斎藤下野、そのほか使者の一行は、それとともに、馬をとばして、府外遠くへ、遮二無二、鞭を打って、逃げ出していた。
雷 発
信濃《しなの》入り――
と聞くだに、血は鳴り、肉はうずき、武者ぶるいを禁じ得ないのが、越後上杉衆の常であった。
相手にとって不足のない敵国。うらみかさなる敵国。かぶと、具足《ぐそく》の緒《お》を締めながらも、
「このたびこそ」
と、みな誓い、
「徳栄軒信玄の首を見ずには」
と、みな思う。
それは部将以下の平侍から足軽にいたるまでの一貫している精神だった。
天文、弘治以来、連年といってよいほどな両国間のたたかいに、親を討たれ、子を亡《な》くし、或いは兄弟を失っているなど、箇々の宿怨は小さくもあれ、国是《こくぜ》として、
(武田の阻害あるうちは、この国の成長なり難く、この国の生命もなし)
という謙信の信条が、全家中の骨髄《こつずい》に刻《きざ》みこまれていた。火の玉のような一団の信念になっていた。
いわんや、こんどの出陣。待ちに待っていたものである。
この四、五十日間を、足ずりしていただけに、いよいよ八月十四日、春日山を雷発、信濃へ、信濃へ、と合言葉のように軍令が伝わるやいな、
「わあっ……」と、越後城下にはおのずからな声《こえ》海嘯《つなみ》が捲きあがったものだった。そして電瞬のまに各々、物の具をつけ、馬を曳き、軍需の物を積み、馬揃いに群《む》れ集まって、貝が音《ね》、太鼓の音とともに進発する軍隊に対して、領下の老幼|男女《なんによ》は、いつまでもいつまでも声涙を抑えて見送っていた。その中には一万三千の軍勢に伍して行く者たちの妻もいた、老父もいた、妹もいた、母もいた、友もいた……。
海津城《かいづじよう》
ひと口にいえば一万三千といえる兵数だが、これが山を越え、谷をめぐり、峰に攀《よ》じ、里に炊《かし》ぎ、越後から信濃へ殺到するには、壮観も壮観だが、たいへんな難行であった。
しかもその難行の道は、生きてはふたたび帰るまい――とみな誓っている道だった。
行軍は、先鋒隊の前に、放ち物見《ものみ》、大物見を先に、四段に備え立て、中軍をまん中に、鉄砲隊、弓隊、槍隊、武者隊とつづき、兵糧《ひようろう》、軍需の物を積んでゆく荷駄隊は、最後方から汗をふりしぼってそれに従《つ》いて行った。
「ふた手に分れよう」
富倉峠の手前まで来ると、主将謙信はそういって、前後の幕将を見まわした。
長尾遠江守――中条越前守――柿崎和泉守――甘糟《あまかす》近江守――宇佐美駿河守――和田喜兵衛――石川|備後《びんご》――村上左衛門尉義清――毛利|上総《かずさの》介《すけ》――鬼小島弥太郎――阿部|掃部《かもん》――直江大和守――鮎川|摂津守《せつつのかみ》――高梨政頼――新発田《しばた》尾張守、同じく因幡《いなばの》守《かみ》治長《はるなが》の兄弟など、いわゆる智将、猛将は、雲集していた。
「誰と。誰と。誰は――」
と、謙信はいちいち名ざして、部将を分け、軍を二分した。そして、
「一軍は、野尻を越えて、善光寺へ出でよ。一軍は謙信みずから率いて、富倉峠をこえ、千曲《ちくま》の畔《ほとり》へ出るであろう」
と、告げた。更に、
「いずれから行くも、落会う先は、犀《さい》、千曲の流水《な が》れを遠からず、川中島のあたりと知れ。十六日の夕までには、謙信はかならずそこに着陣せん。べつの道を行く者共も、その時刻におくるるな」
と、厳令した。
こうして、二軍となって、わかれた時が、すでに十五日の午《ひる》だった。あすの夕刻までに、犀川《さいがわ》 、千曲川のあたりまで行き着くには、不眠不休の行軍をつづけなければならないだろう。
が、たれひとり「無理」とつぶやく者もなかった。行軍の苦しさは出ばなにある。最初の二、三日に苦しんでしまうと、何か、自分とはべつな、鉄の五体ができて来る気がするのだった。わけて越後衆は、合戦といえば、いつも国境を出て戦うことが定則になっていたから、かかる急行軍とて、決して、異とはしなかった。
謙信の統率する本隊は、翌る日のまだ陽の高いうちに、高井郡をよぎって、敵の海津城を牽制《けんせい》しつつ、候可峠《そろべくとうげ》から東条方面へ蜿《うね》って行った。
ここはもう完全なる敵地――信玄の勢力下であり――海津の城には、甲軍の猛将として聞えている高坂弾正昌信《こうさかだんじようまさのぶ》の精鋭がたて籠っているのである。
「追うや、いかに?」
と、謙信が、その動静を計っていると、城の望楼に、豆つぶのような武者の影が二、三、小手をかざして、こっちを眺めている様子だった。
途中から軍を二つにして、謙信自身、わざと迂回《うかい》して来たのは、自分の選ぶ基地を有利に占《し》め取るまで、この城から側面へ行動されるとうるさいし、十分な布陣を取れないおそれもあるので、その牽制《けんせい》と示威《じい》とを目的にしたものだった。
城頭のやぐらに登って、それを見ていた小さい人影の中には、かならず城将の高坂弾正もいたにちがいあるまい。
「――来たな」
と、見ているが、彼のほうも沈着だった。すでに甲府表へは、つなぎ烽火《のろし》で報らせてある。軽々とうごくべきではない――としているようだった。
「はてな……。どこまで進む気か?」
むしろ、怪しんでいるかのごとく、城方《しろかた》の者は、いつまでも手をかざして、越後軍の行くてを凝視《ぎようし》していた。
なぜならば、謙信の率《ひき》いてゆく旌旗《せいき》は、犀、千曲の二大河をこえ、城から約一里ほど東南の妻女山《さいじよさん》に拠《よ》ったからである。見れば、善光寺方面から真黒に流れて来たべつな一軍も、同じ地点に合し、いよいよそこを足場とするもののごとく、最後の荷駄隊も、馬背《ばはい》のものや牛車の物を降ろしている。そして、夕陽の赤々とうすずいて来るころには、妻女山一帯に、各隊その部署につき、旌旗はしきりに風をよび、軍馬はいななきぬいていた。
「妙なところに。……有るまじき布陣だ。あんな危地へ深入りして来るとは」
高坂弾正の兵学では、これを解釈できないものだった。敵の意をはかりかねた彼は、いよいよ城を固くして、ひたすら信玄の来るのを待つと極《き》めていた。
はつ雁
八月十六日、犀川、千曲川を抱いたひろい善光寺平の夜は、昼の残暑を一掃して、風も冷ややかな星月夜だった。夜に入っても、渺《びよう》として、仄明《ほのあか》るかった。
謙信の本陣は、中腹の陣場平《じんばだいら》に置かれている。
兵は、飯を炊《かし》ぎ、馬に飼糧《くさ》をやっている。
「ぞんぶんに、こよいは寝ておけよ」
彼は、左右の将士にいい、自分の肉体へも告げていた。
けれど、心ある幕将たちは、甚《はなは》だ心もとない顔いろをしていた。うかとは眠られぬ――というような緊張を顔から容易に解《と》かないのである。
海津の敵城は、すぐ眼のさきではないか。
しかも、この妻女山の地位たるや、余りに敵地へ深く入りすぎている。
ひとたび、高坂弾正が、信玄味方の信濃衆を糾合《きゆうごう》して、同時に、その城戸《きど》を開いて襲いかかって来るならば――事、決して容易ではない。
いわんや、長途の疲労をもつ、今の虚を衝《つ》かれたら。
誰も、そう思った。そう考えられるのが、常識だった。
その常識から推《お》して人々は、
「このたびに限って、お館の軍配には、解《げ》しかねるものがある。いつにない御浅慮。心もとない事ではある」
と、ひそかに憂《うれ》えた。
だが、謙信には、この危地も、すぐそこの海津城も、眼中にないもののようだった。兵と同じ粗末な糧食を摂《と》って、一椀の湯を篝《かがり》のそばですすり終ると、中条越前守へ、
「物見の報告は、そちが聞いておけ。兵はなるべく十分に眠らせるように、また半夜代りの者共も、夜は寒い、明々と篝を絶やさず、身を温《ぬく》めて居眠るがいい」
と、いいつけ、自分もすぐ、夜霧に絞るほど濡れている陣の幕を壁と、楯《たて》を床として、ごろりと身を横にしてしまった。こういう簡素な生活には馴れきっている寝すがたである。そして草に枕し、露にまどろむ間に、彼は時折、詩を作り、歌などもくちずさんだ。
能登《のと》遠征のときの
霜満軍営秋気清《しもはぐんえいにみちて しゅうききよし》
数行過雁月三更《すうこうのかがん つきさんこう》
は、ずっと後年の作であるが、青年ごろの作かと思われるものに、次のような一首がある。
ものゝふの
鎧の袖にかたしきし
枕にちかき
はつ雁《かり》の声
重き陣幕
小荷駄奉行の直江大和守は、ふもとの土口《どくち》に陣していたが、やはり、油断ならずと、部下は寝せても、ひとり寝もやらず、床几《しようぎ》にかかったまま、篝へ向って居眠っていた。
――と。小銃のひびきがした。
近い。
らんと、眼をあげて、余韻《よいん》を聞いている大和守のひとみに、篝の火が、煮えていた。
「どこだ。方角は」
陣幕の外にゆくと、哨兵のひとりが、
「多田越《ただご》えの方らしく思われます」
と、答えた。
ちょうど海津城とのあいだに当る。多分は――味方の物見と、敵の斥候との、さぐり撃ちだろうとは思ったが、念のため、大村附近へ出張っている味方の前衛へ、
「変りはないか」
と、問い合せに、兵を走らせ、その返辞を待っていた。
すると、同じような、危惧を抱いて降りて来たものか、妻女山に陣している柿崎和泉と新発田尾張守のふたりが、
「直江殿。それにか」
と、彼方から近づいて来た。
大和守が、うなずくと、ふたりは、憂いをおびた小声で、
「あなたも眠られないのではないか」
と、いった。
そして、なお、
「全軍の部将みな、こよいは恐らく、同じ思いで、安きここちもござるまい。こんな敵地ふかく|凸出《とつしゆつ》して、千曲、犀川の二大河を股《また》ぎ、ほとんど孤塁にひとしいこの山に拠って、いったい如何なる戦《いくさ》をなさろうと遊ばすのか、お館のお胸を推し測《はか》りかねておる。……まさにここは、兵法でいう死地というものであるまいか」
「お館には、いかが遊ばしておられるか」
「御熟睡に窺われる」
「いっそのこと、一同して、御心中を糺《ただ》してみてはどうであろう。御意をおそれて、ただ恟々《きようきよう》としているはよろしくあるまい」
連れ立って、加地安芸守を訪うと、安芸守も同意という。
長尾遠江守も、ここへ着陣したときから、しきりと地相のよくないことを主張していたひとりである。
誰や彼、いつか七、八人になった。深夜ではあったが、旗本から近習《きんじゆう》へと取次を仰いで、
「ちと、お目通りを仰ぎたく」
と、謙信へ通じてもらった。
陣幕の内が、明るくなった。篝へ薪《まき》を足したのであろう。謙信はすぐ起き上がって、
「何事か、打揃うて」
と、一同を見まわし、まだ眠らないのかと、咎めるような眼《まな》ざしであった。
長尾遠江守から、ことばを切って、一同の不安を訴えてみた。併せて、自分たちの意見として、
「やがて、近々に、甲州表の信玄が、大軍をひきいてこれに参るとせば、この拠地《きよち》は、いよいよ不利となりましょう。いまのうちに、ぜひとも、他のよき場所へ、御陣替えねがわしく、御秘策もあることとは存じますが……」
と、畏《おそ》る畏る希望を陳《の》べた。
謙信は笑って、
「その儀か」
と、いった。そして、
「こよいは、将士みな疲れている故、ゆるゆる身をやすめて、明日にでも、評議せんと思うていたが、それほどみなが不安と存ずるなれば、直ちに、謙信のこころを打明けておかねばなるまい……。まだ、これでは顔が揃わんな。ここに見えぬ村上義清、高梨政頼、中条越前守たちも、すぐ呼ぶがよい。謙信の胸を申し告げるであろう」
と、いい渡し、しばし猶予をおいて、そのあいだになお、篝に薪《まき》を加えさせていた。
死地の陣
ひしひしと、幕将の姿がつめ合った。具足の膝と膝を、大きな円《えん》につなぎ合って。
一同の揃ったのを見ると、謙信はやがてしずかに、
「各々は、この山を、死地なりと相《そう》して、謙信の布陣を案じておらるるそうだが、いかにもここは安全な場所ではない。死地ともいえよう」
と、まず口をひらいていった。
「――が、思え」
と、ここから、語気を昂《たか》めて、
「自身、死地に入らずして、いかでか敵の死を制せられよう。いわんや相手は名だたる智謀老巧の信玄である。我れこのたびの出陣には、かならず老虎信玄に近々と一会して、彼を討つか、われ討たるるか、雌雄《しゆう》を一挙に決せんものと、出陣の際、春日山の武神にたいし奉りても、ひそかに、お誓い申して来たことであった」
いつの戦にでも、その出陣には、春日山の城中で軍神を斎《いつ》き祭り、武諦《ぶたい》の式を執り行って出ることは、上杉家の慣《なら》わしである。――その時の、謙信のすがたを、部将たちは、もういちど眼にえがき直していた。
「各々も知るがごとく、信玄の戦ぶりは、つねに重厚《ちようこう》に軍をたたみ、深く内に潜《ひそ》んで、旌旗《せいき》をうごかすや敏、転ずるや速。そして容易にまた動かず、もっぱら深慮遠謀、いやしくも軽々と兵を用いぬ大将である。天文以来、すでに幾回、干戈《かんか》のあいだにまみえても、容易に、彼の中核を粉砕《ふんさい》しあたわぬも、つまりは彼の用兵の妙と、その智謀の並ならぬにある。――一挙、そういう敵に迫り寄って、無二の一戦をなさんには、到底、尋常一様な兵略をもっては難しい。かえって彼に謀られるのみである。――謙信、若年《じやくねん》なるがために、このたびのわが行動を、無謀とも案じるのであろうが、怪しむをやめよ、謙信は決して、軽躁《けいそう》、功をあせっているのではない。人の眼に、九死一生の重地とも思わるるところまで、敢て軍を入れたのは、信玄に対し、これを何と解くや? 禅の一案を、我れから彼に示したのじゃ。彼の解く禅機、われの信ずる禅機、それによる変と動き、それらの事は、口をもってはいい難い。――そのときわが軍配に見よというしかない」
と、口をむすんで、瞑目《めいもく》、ややしばらくの後、
「そもそもこのたびの戦端は、非義彼にあり、正義われに有り、ひたすら謙信が今日を待つあいだも、汝らをはじめ全軍のものは、この謙信が容易に起たぬを、憤懣していたほどではないか。ここに至って、安全を恃《たの》む陣地に拠らんとは、誰も心から思うてはおるまい。ただ必勝を期しているのみであろう。必勝を期すには、必死を期すこと当然である。――こう観じて来れば、一見、不利無謀にも似るこの陣所も、妙機変通のある山とも見えんか。……はははは。まず、こよい寝て、もういちど夜暁《よあけ》の下に大観してみい。犀川の広さ、千曲川の長さ、ここは敵地ながら、ここの眺めはいつも好きだ。わしも早く起き出《いで》よう。みな、解ったら順に陣所へもどって眠れ。……何の、海津城、こよいはおろか、明日とても、うごいて来るものか。出て来るものか」
そういい終って、謙信はもう一度、声を放って笑った。
雁《かり》の音《ね》は、しきりと、雲を縫っていた。
敵府脱出
――つなぎ烽火《のろし》の警報に、寝耳に水の愕《おどろ》きをうけて、国中、わけても、府館の中心地甲府は、上を下へと、混乱を極めていたその夜――十五日の夜半だった。
二騎、三騎、また七、八騎。
辻を曲がり、また辻を曲がり、おそろしい勢いで、龍王道《りゆうおうみち》の木戸へ向って、疾走して行った士たちがある。
平常なら、何事かと、すぐ人々の注目をうけるところだが、この宵からの騒動中である。――あれも出陣の一組か。或いは、各地の味方へ、参陣の催促に行く早打ちかと、誰あって、怪しむものはなかった。いや、怪しんでいる遑《いとま》もない空気だった。
「退《ど》け退けっ」
「木戸の扉を払え」
「木戸|側《わき》を退《の》いておれっ」
まるで、敵の中へ、斬りこんで行くような喚《わめ》きだった。いわゆる武者声というものである。夜ながら、白い砂けむりを立てて約十騎、一団になって、街道口の木戸へ、ぶつかって来たのだった。
ここは、町の関門だ。滅多に通すべきではない。だが、真っ先の一騎が、
「火急の際、無断、まかり通る」
と、いきなり馬の背から降りて、そこの閂《かんぬき》を勝手に外し、さっと押開いて、
「それ行け」
と、すぐまた鞍の上に跳びつくやいな、まるで弾丸のように駆け抜けて行った。
もちろん、番の将士は、
「待てっ」と、ささえ、
「何者だっ」
と、咎《とが》めることも怠りはしなかった。
しかし、次々と、関門を駆け抜けてゆく騎馬の士は、
「君命だっ、君命の急用だ」
と、呶鳴って行ったり、
「初鹿野伝右衛門の家来」
と、大声《たいせい》で名乗ったり、また、
「詳しくは、帰りに、お届けに及ばん」
などといって行くので、時しも今夜という非常時なので、番の将士も、無下《むげ》なこともやりかねて、
「――では何ぞ、お館の御命をおびて、初鹿野殿の御家臣が、急用にでも向うのか」
と、ついその後の闇に仄白《ほのじろ》く曳いている馬けむりを見送っていた。
ところが、またふたたび、同じような馬蹄の音が、町の方から聞えて来た、簇々《ぞくぞく》とかたまり合って駆けて来る具足のひびきも耳を搏《う》つ。忽ち、眼に見えたのは閃々《せんせん》たる長柄の刃、素太刀、槍の白い穂さき、それから弓、鉄砲なども入り交じった百人ほどの軍隊だった。
「木戸の者、木戸の者っ。たったいま敵国の使臣斎藤下野、黒川|大隅《おおすみ》、その余の者が、御城下の使館から逃亡いたした。――よもや通しはいたすまいな。これへ来たら、縛《から》め捕《と》るのだ。汝らも物の具とって、ここを固めい」
と、先頭の一部将は、そこへ来ると、急に手綱を締められて苦しげに足掻《あが》き狂う駒をなだめながら番所のうちへ呶鳴った。
山中禅
「下野どの。うまく行ったな」
黒川大隅は、すこし先へ出たので、駒足をゆるめながら、続いて来る斎藤下野と、そのほかの面々をふり向いた。
ここまで来ると、道はまっ暗だった。ただ前面に、壁のような山岳が折重なっていることと、附近に、渓流の末らしい流れのあることだけが、水音で察しられる。
「まだ、まだ、わからん」
下野の返辞である。
おたがいの顔も見えない。そのくせ、星はキラキラ仰がれるのに、星明りも透《とお》さないほど、闇が厚いのである。
「たれも、落伍はないか」
同じ声が、案じていう。
副使の黒川大隅が、
「各々《めいめい》、名をいえ。名をいえ」
と、随員にいった。
越後を出て来るときから、正使の斎藤下野を初めとして、副使以下、小者まで入れて、十名の一行だった。
「――おります。十人、一人も欠けなくおります」
やがて、誰かが、答えるのを聞くと、下野は、
「そうか」
と、安堵したようにうなずいて、しばらく沈黙していたが、やがて駒を下りた。
「――これから先は、雨乞《あまごい》、鞍掛《くらかけ》、鳳来《ほうらい》ケ|嶽《たけ》と、山また山ばかり。それを避けて、八ケ岳のふもとを、真っすぐに、一条の早道はあるが、これは信玄が、度々国境へ出馬するため、拓《き》り開いた道で――信玄の棒道《ぼうみち》――と呼んでおるもの。当然、諸所に柵《さく》や砦《とりで》があって、通ることはできない」
下野は敵国の地理を、わが家の庭のように説明した。そして、
「所詮《しよせん》、山また山を踏み越え、道なきところを、落ちられるだけ落ちてゆくしか方法はない。各々も、駒を捨て、徒歩《かち》になられい。この渓流を渡り、彼方の山地へ入ろう」
と、いった。
悲壮な気もちが、自然、一同を無口にさせた。黙々として駒を捨てた。下野は、随員の中の小者へ、十頭の馬をひとまとめにして、附近の林の中へかたく縛《くく》りつけておけと命じた。
「どうせ、敵方の馬、どうなろうと、抛《ほう》って行けばよいでしょう」
先へ気の急ぐ人々はいったが、斎藤下野は、かぶりを振って、
「農家の駄馬ですら、わが厩を知って田からひとりで帰る。まして飼い馴れたこれらの馬は、放せば忽ち元の道へ飛んで帰ろう。さすれば、追手の手引になる」
といった。
しかし、こうした彼の智慮と周到な用意も、それから後は、いかんとも施すに術《すべ》もなかった。
城外の木戸口を守る者の抜かりから、すでに斎藤下野の一行が、そこを突破したと知った初鹿野伝右衛門の手勢――曲淵《まがりぶち》庄左衛門の手勢などは――間もなくこの山地へ殺到して、山へ迫って来た。
のみならず、信玄の棒道へ、忽ち、伝騎を飛ばして、先々の砦《とりで》と連絡し、やがて夜明けのころには、完全に、斎藤下野の一行を、甘利山《あまりやま》の上に封じ込めてしまった。
その行動の迅速なことや、また連絡の手際のよさを見ても、平常から信玄の治領《ちりよう》のよく行き届いていることが分るのである。――それを熟知している斎藤下野は、たちまち、これ以上、逃げようとすることの愚を悟って、
「もう、いけない」
と、甘利山中の林のなかに、どかと坐りこんで、他の随員にも、
「むだだ。逃げのびようは無い。むしろ清々《すがすが》と、覚悟の前に、しばし夜明けの秋景色でも眺めようじゃないか」
と、いった。
「…………」
それまでは、ともあれ、血まなこを帯びて、物音に耳を欹《そばだ》てたり、逃げ口をさがしていた人々も、下野の一言に、各々、悲痛な唇もとをむすびながら、
「敵を待って、斬死《きりじに》か!」
最後の肚を極めたらしく、下野に倣《なら》って、いずれも、どかと、落葉の中に腰を下ろした。
甲山の秋はすでに濃く、うるしの木は、真っ赤だし、黄いろい葉には、霜があった。――谷の底まで、夜明けの光が映《さ》しこんでゆくにつれて、朝霧のなかには細かい虹が立ち、禽《とり》はしきりと高音《たかね》を張りあげていた。
この生命
「…………」
「…………」
みんな素直だった。追手を待って、斬死《きりじに》と極めた顔して。
鳥の音に耳を洗い、眼に満山の秋をながめ、遠く、何事かを、想いやっているらしい。
越後の故郷の秋を。
そこにある、各々の家庭を。
敵地に使いするからは、覚悟のまえだった。この期《ご》になって、もがくこともない――。
しかし。
やがて、谷間から、裏から表から、これへ犇々《ひしひし》近づいて来る敵の気はいを知ると、さすがに、膝を立て、太刀をつかんで、
「来たっ――」
「思い残すところなくやれよ」
「いうまでもない」
らんと、みな眼をかがやかし、はやくも、悽愴な気を、眉に、唇に示し合って、針鼠《はりねずみ》のように、体じゅうを硬めていた。
「――なに、斬死する。ばかな、これだけでは、いかに戦っても、甲府を攻め奪ることはできぬ。よせよせ」
斎藤下野は、まぶしげに、左の悪いほうの眼を、指の腹でこすっていた。ここ十数日の苦労に、ゆうべも寝ていないので、眼やにをつけていたのだった。
一同の眼は、その面《おもて》へ集まって、
「では。……では、潔《いさぎよ》く、切腹するお心ですか」
黒川大隅以下、つめ寄らんばかりに彼を囲んだ。
「ちがう。心得ちがい召さるな」
眼やにを除《と》って、平然たるものである。
「切腹もせず斬死もせず……しからばどうするお覚悟か」
「捕まろう。こうしていれば、捕まるだろう、曳いて行くところへ曳かれて行こう」
「そして?」
「生きのびられるだけ生きていよう。忠義は、そのほうが忠義と思う」
――意外だという顔ばかりだった。こんな卑怯なことばを下野ともある者の口から聞こうとは誰も予期していない。わけても副使の黒川大隅は、武勇な男だけに、唾《つば》するごとくいった。
「何が忠義か。――敵の捕虜となって生き恥さらすことが。下野どの、おぬしにも、似気《にげ》ないおことばだぞ。すこしどうかしたのではないか」
「いやいや。それが初めから、逃げられたら、逃げ切る。それが能《かな》わぬ時は、素直に縄目をうける。覚悟は二つに決めていたのだ。どうもせん、それが当然だ、忠義だ」
「な、なぜ」
「これが、戦場において、捕虜となったというならば、自ら、問題はべつになる。しかし、このたび斎藤下野へ仰せつけられた役目は、戦えというのではなかった。使いして来いとの御意である。――しかもできるかぎり和睦を計って、和談に努めよとの仰せをうけて来たもの。……かかる使者の一行が、斬死したとて、何の足しになろう」
「理くつだ。生きたいための理くつに過ぎん」
「生きたい、生きのびたい。それはほんとだ。よくぞ下野の肚《はら》をいい中《あ》て召された。――だが、それがしが生きたい仔細は、決して、小我《しようが》の迷慾ではない。わが君、あのまだお若いお館の御行末、また越後一国の将来、如何あらんとか、これからの百難苦闘を思うとき、それがしは、この生命《いのち》の短きをかなしむ。――甲斐一国が敵たるだけなら、それは恐るるにも足らぬ。お館の御器量として、やわか信玄晴信の征圧《せいあつ》に亡ぶようなことは絶対にない。……だが、わが上杉謙信なる君の御胸には、もっと大きな御願望があるを知らぬか」
「…………」
「黒川。おぬしの祖先も、わしが祖先も、遠くは、新田氏の一族、脇屋義助がながれ、この血のうちには、まだ脈々と、義貞公以来のものが、失せてはおらぬはず……。上杉一藩にはお館をはじめとし、その精神《みたま》をもって、武士道の本則とし、弓矢の大願となしていること、出陣のたびにする神前の誓いをもっても、確《しか》と、分っているはずではないか」
「いや、それとても、越後武士の名を辱《はずかし》めては」
「生きながらえて、碌々と、なすこともせず、死んだら笑え。さもない間の毀誉褒貶《きよほうへん》など、心にかけることもあるまい。――使者としてのお役目は果した。捕まっても、生きていても何の恥かあらん。……方々《かたがた》も、それがしに倣《なら》い給え」
すでに。
林のまわりは、甲州兵の鉄甲が囲んでいた。槍、太刀、具足の燦《きら》めきが、木の間木の間からここを窺っていた。
牛の草鞋
緋衣《ひごろも》の大僧正は、壇へ向って護摩《ごま》を焚《た》いていた。下には具足した信玄の体は肩も腰も丸く見える。
祈祷《きとう》の衆僧と、信玄幕下の諸将も、伽藍《がらん》いっぱいに立ちこめる護摩のけむりの中に、いならんでいた。――そして時折鳴る敵国|調伏《ちようぶく》の鐘の音、誦経《ずきよう》の諸声《もろごえ》は、この烈石山雲峰寺のふもとまで聞えた。
かなり長い時間である。――十七日の午過ぎた陽はすでに笛吹川の彼方へうすずきかけている。
出陣に際して、武将が、何らかのかたちで、心身を潔斎《けつさい》してゆくことは、常例であるが、上杉謙信は、神式に則《のつと》って神を祭《まつり》し、武田信玄は、その出陣となるや、かならずこの烈石山雲峰寺に祈願をこめて進発した。
夜来、信玄はすぐ甲館|躑躅《つつじ》ケ崎を立ち、ここに戦勝を祷《いの》ってかつ、続々と馳せあつまる味方の参禅を待ちあわせていた。
ひとたび、彼の召しが、その勢力下に、檄《げき》となって飛ぶとき、一体、どれほどな軍勢が寄って来るものか。
ここ烈石山からながめても、一目《いちもく》したぐらいでは、量《はか》りきれぬ数である。
境内、山内、末院の庭々はいうまでもない。はるか麓《ふもと》の道すじや民家や田園にいたるまで、旗や大旆《たいはい》や馬のいななきに煙っていた。それが秋の午過《ひるす》ぎを、揺々《ようよう》と、動くが如く、動かぬがごとく、いわゆる戦気満々に、発向《はつこう》――の一令を待っているのが、武者のみか、馬までが、もどかしげに見えるのだった。
そうした中を、斎藤下野たち十名の使者の一行が、数珠《じゆず》つなぎに、曳かれて来たのである。当然な反抗心として、
「あいつか」
「あいつだ」
「殺してしまえ」
「もとより山上で血まつりだ」
「のめのめと、舌も噛まずに、曳かれて来たかっ。腰抜け」
道も塞《ふさ》ぐばかり、前へ立って、甲州兵や下人《げにん》たちが、それを罵《ののし》り喚くのだった。この使者が、舌をふるって、味方の首脳に、和談を信じこませ、その間に、越後勢が突出して、すでに要害の地を占《し》めたと――雑兵までがうわさに洩れ聞いているのでその激昂は一層なのであった。
片目のわるい下野は、敵中のこの空気も、半分しか眼に見えないので気楽だというような顔している。その顔がまた憎くてならない甲州兵は、
「片眼め」
「びッこめ」
と、牛のわらじなど投げつけた。しかしさすがに山上の境内に入ると、そこには、謀将旗本たちが多く居て、秩序も一そう厳粛なので、さしたる野卑《やひ》も聞えなかった。そのかわりに一種、身に迫る凄気が、十名の心をしめつけた。
一塊炎
信玄は、本堂の真正面に、床几をおかせて、倚《よ》っていた。具足のうえの緋の衣も、その怒れる顔も、さながら一|塊《かい》の焔のように見える。
階《きざはし》の下に、十名はひきすえられた。九名をうしろに、斎藤下野ひとりは、前に突き出されて、坐ったのである。
刮《か》っと、炬《きよ》のような眼で、信玄はにらみ下ろしている。実に長いここちのする間であった。――下野も黙然と信玄の顔を見ているらしかった。
「使者。――いや、下郎。そこな片目の足なえ。なぜ、返辞をせぬか」
斎藤下野は、信玄の感情をなだめるような、口ぶりで、
「お館には、もうそれがしの名をお忘れですか。それがしは謙信の家臣斎藤下野ですが」
と、いった。
次に、信玄は、持ち前の雷声|一喝《いつかつ》で、いきなり呶鳴ろうとしたらしい。そうらしい血色と肩の厚い肉が瘤《こぶ》みたいに盛り上がった。だが、四十二ともなると、若い頃の武田晴信とちがって、分別というものが、こみあげる激情の瞬間にもよく間に合うものらしい。忽ち、にやにやと笑い出したのである。そして語調を一変して、こう訊ねた。
「そうそう、越後の使者斎藤下野であったか。では、あらためて訊くが、汝等は、ついきのうまで、わが主、謙信のことばなりと称し、ふたたび年来の和議をかためて欲しい。いかようとも和談をととのえたいなどと、慇懃《いんぎん》、口を酢《す》くし、頭を下げて、この信玄に油断させおったが、あれは其方どもが、出立の前に、謙信から申しつけられて参った謀略であろうな。……どうだ。汝等は、汝等の本国において、かく不意に、信玄の領地へ兵を出すものと、知って使いに来たか、それとも、知らずに来たか。ありのままを申せ。ありのままを……」
一笑不敵
信玄の質問は、言葉の表に現わされたものだけでなく、斎藤下野の答えから、何か引出そうとする意図を裏につつんでいるようにも思われた。
いま直《す》ぐにも、彼自身が取る必要にせまられている作戦構想のうえに、「敵国の決意の程度如何」は、もっとも煩《わずら》わされている課題の一つにちがいない。
その示唆《しさ》を、下野の顔つきから、読み取ろうとするのかも知れなかった。そういう突嗟《とつさ》の機謀は非常にするどい大将だとは下野もかねて聞いているところである。
下野は、それと覚ったのだろうか、また、どう考えたものか、そのとき唐突に、
「あははは。わはははは」
汚い前歯を吹き飛ばさぬばかりな声して笑った。そして笑いを収めると、徐《おもむ》ろに答えたのである。
「甲館の主《あるじ》、機山大居士《きざんだいこじ》とは、おそるべき炯眼《けいがん》の持主であると、常日頃から伺っておりましたが、今のおたずねは、子どもの持っている菓子をあやして奪うような御質問で、尠《すく》なからずあなた様の人品《じんぴん》を軽からしめます」
人も無《な》げである。信玄そのものばかりでなく、周囲にある幕将までをまるで無視している放言だった。当然、あたりに居ならぶ鉄甲|燦々《さんさん》たる諸将の感情はうごかずにいられない。ひしひしと険悪な視線や身ゆるぎが、声なきうちに、下野を強圧していた。
けれども下野にはてんで無反応であった。片目が悪いという特質は、こういう際には至極その平気を持していやすいものらしい。しきりと一つの眼をぱちぱちとしばだたいていたが、いわせておくと、まだいうのだった。
「他国は知らず、わが越後では、軍の方策も、内治の仕方も、すべて謙信公の御一存であって、諮問《しもん》を受くる者も、ごく少数の老臣と帷幕《いばく》のお方に限られております。何でこの斎藤下野のごとき末輩のよく知るところでございましょうや。……それをば、知って来たか、知らずに使者に来たかとのおたずねですが、問わでも、知らざる使者と極っておりますものを。……なぜなればです。もし謙信公の御胸中に、使いの口上とはべつな謀略があるのに使いするなりと、使者自身が知っていたら、敵中にまかり出て、敵の国主に対し、そう恬然《てんぜん》たる虚構を顔に持ちきれるものではありません。どこかに人間の正直なところが出てしまいましょう。それをまた、お見のがしあるようなあなた様でもないことは、謙信公以下、越後の者共、みな心得ぬいておるところでもあります。――たとえば、今年の春、謙信公のお留守に際し、またここ連年、越後遠征に、その疲弊せるを窺い、突然、約を破って、国境の割ケ嶽を奪取なさるなど、猫にしても、狡《ずる》い勘の長《た》けた猫でなければ為《な》し能わないことですからな」
もう一度、このあとで下野に、哄笑《こうしよう》させる遑《いとま》をおいていたら、信玄の左右の者か、或いは階下の諸将などが、彼の頭《こうべ》へ忽ち土足や唾を加えたかも知れなかった。
しかし信玄はさすがにそれを苦笑で留めていた。かえって万一の事を庇《かば》うように、下野の言が終るか終らぬうちその巨躯をぎしと床几《しようぎ》から上げて、
「この舌長奴《したながめ》を、雲峰寺の堂衆にあずけ、信玄が凱旋の後まで、慥《しか》と、穴倉へでも抛《ほう》りこんでおけと申せ。その余の輩《やから》もすべて獄に下げろ。――いずれ帰国の後《のち》にする」
いまはこんな者どもの始末をしている遑《いとま》などは持たん――という信玄の容子《ようす》はすぐ諸将の心に映《うつ》った。
信玄が、床几から身を起したことは、その一動作がすでに全軍へ向って、
「いざ――」
との発向を命じているものであった。
廻廊の東西、両隅に佇《た》っていた螺手《らしゆ》が、貝の口を唇に当てて、細く高く長く短く、貝の音を吹き鳴らした。
貝の吹き方は、国々で法がちがうという。いずれにせよ出征の武者たちは、その音色を五体で聞きわけて、忽ち、ひたぶるな血を沸《わ》かし、眼に戦場をすでに観ている。
また、あとに残る国中の人々も、その音に依って、軍の発向を知り、軍に従ってゆく知縁《ちえん》の将士を想いに描きながらその一瞬を胸の中で祈念していた。
棒 道
うねうねと長い道が北方へ向って果てなく延びている。
道の土色は新しい。近年|拓《ひら》かれたものだということが分る。
これは地上に描いた信玄の意慾図だともいえよう。信州へ出る甲軍の軍行路だった。この直道に依れば一日半も早く国境へ行き着くという。で、百姓や旅人たちは称《よ》び慣《なら》わしていた。信玄様の棒道《ぼうみち》――と。
その棒道なるものを、甲府を中心として、西へも東へも南へも、幾条《いくすじ》も持っているために、隣接の諸国、たとえば、北条、徳川、織田、斎藤などにしても、彼と外交し、彼と戦い彼と悶着《もんちやく》するなど、明けても暮れても、応接にいとまがなかった。八面六臂《はちめんろつぴ》を相手にしているここちがする。そこで四隣の国々では彼をさして信玄と呼ぶよりも、
(甲州の足長どの)
などと称《よ》んでいた。以て、彼の棒道が、いかに非常のときにものをいって、その電撃ぶりと共に、敵対国にとっては、苦手なものであるかという察しもつく。
総勢二万余という大軍が、そこを行く日は壮観にちがいなかった。八月十九日の朝すでに、八ケ岳のふもとを、大門峠のほうへ向って、士馬精鋭の激流は急ぎに急いでいたのである。
「道鬼、道鬼」
と、武田|典厩信繁《てんきゆうのぶしげ》はうしろを向いて馬上から呼んだ。
信繁は、信玄の弟だ。中軍二十一流の旗の下に、信玄の嫡子の太郎義信などの一族とともに進んでいた。
「お呼びでしたか」
答えたのは山本勘介、入道して道鬼と号している謀臣のひとりである。法師首に漆黒のかぶとを頂き、頬当《ほおあて》の間から白い眉毛を植えたように見せていた。年齢《と し》は六十を越えている。
「天気はどうだな、天気は。……そちは気象をよく見るが、この空あいは、四、五日はまだ持ちそうか」
「晴雨のおたずねですか」
勘介は、空をあおいで、入念に眼もとを顰《しか》めていたが、
「この雲の迅さ。夜に入ったら、折々、時雨《しぐれ》はありましょうが大雨とはなりますまい。日中、気の冷えぬうちは、まだ数日かような晴がつづくやも知れません」
「敵とまみえるまで、日和が持てば倖せだ。――兵馬を行軍に疲らせては分《ぶ》がわるい」
「いやいや、敵の所在は、まだ慥《しか》と承知いたしませんが、このたびもまた、彼方へ行っても、長い対陣となりましょう。兵気の倦《う》むほど、長陣にならねばよいがと思うております」
「はて。どうしたか? ……。途々《みちみち》、報らせて来る信州からの伝騎によれば、敵の謙信は、すでに犀、千曲の二川を越え、深く味方の領へ進出しているという。当然、それへ参るや否や一戦は避けられまいに」
「なんで謙信ほどな者が、いたずらに意味なき深入りをしてただ盲動をつづけておりましょうや。かならず、拠点に備えてまた、意表外な変を案じておりましょう」
「そうなれば、対陣はまぬがれんが……。しかし、斎藤下野ごとき使者を向けて、わが方に油断を与え、その虚を衝いて信州へ出おった意向から察するに、何のたいした自信はないに極っている。必勝の信念があるほどなら、あのような使者を用いて、小策を弄《ろう》することはない」
すると、駒をならべていた兄の信玄が、典厩の横顔へ、兜の眉びさしから眸《ひとみ》を向けていたが、
「信繁、信繁。つまらん臆測をみだりにいうな。斎藤下野も良い武士だ。主命を辱めざるものといえよう。それを用いた謙信の手際も敵ながら小憎いほどこんどは鮮やかであった。いずれにせよ信玄の出陣は一歩出遅れとなっている。この一歩を取りもどしてからが正味の戦端。――道鬼のいうとおり敵には備えもあり変もあろう。軽々《けいけい》に断じてはならん。そちの一言とて、将士のあいだへは微妙な影響をもつ。かりそめにも、敵を軽視するがごとき風をわが陣中に醸《かも》すべきでない」
と、誡《いまし》めた。
典厩は、素直に、
「はい」
といって、傍らの太郎義信に間《ま》が悪そうな顔をした。
すると、その太郎義信が、こんどは父へ向って質《ただ》した。
「御出陣の際、なぜ斎藤下野やそのほか不埒な使者共を、血まつりに斬っておしまいにならなかったのですか。きのうは必ずそれがあると思っていましたが」
すると、信玄の眼は、父らしいむずかしさを、太郎義信へ向け直して、
「敵の期していることは、避けたがいい。もとより彼等は、一死を捨てている。また、その一死を、弥《いや》が上にも、価値あらしめんと、わざわざ信玄の怒りを挑《いど》んでおる者共だ。斬っては、彼等の思うつぼに乗るというものである」
「どうしてですか」
「信玄の陣中に於いて、使者の一行ことごとくが、血まつりにされたりと悲壮に響き渡れば、越後勢は、聞くだに、血をいからせ、いよいよその強味を加えるにちがいない」
「でも、一と月やふた月の間に、その事実が、敵方へ伝わるわけはないでしょう」
「なんの、到着の届け出《い》でには、一行十二名とあった使者。それが昨日、陣中へ捕えられて来た数を読めば、頭数十人しかおらぬ。二名はかならず網の目をぬけて、仔細を謙信の許へ復命するものと思われる。――のみならず、越後の方にも甲州方の諜者は何十人となく捕えられておるし……旁々《かたがた》斬ったところで、益のないことだ。士気を奮わさんが為に、敵人を血祭りに斬って出るなどということは、下策であり、また心ある将のなすことではない。――元寇《げんこう》の折、時宗公が元の使いを斬り、また遠くは高麗《こま》百済《くだら》の無礼なる使者を斬ったというような異国との断絶には当然いくらもあり得ることだが……」
そのとき、前方から、漠々《ばくばく》と馬けむりが近づいて来た。
旗じるしで、すぐどこの誰の軍とわかる。敵ではない。途中に会する味方の勢の参加だった。
いま来合せたのは、善光寺近郷を領する小柴|慶俊《けいしゆん》や栗田|永寿軒《えいじゆけん》などの三百騎であった。
これを「お出迎え」と称して、行く先々で、二百騎、また五百騎というふうに、武田与党の参加は続々つづいた。為に全軍の旗は、進みゆくほどその数を増し、兵力は一里一里にも目に見えて膨脹《ぼうちよう》してゆく。
布陣の一石
野営、幾夜。
甲軍は、大門峠を越え、小県《ちいさがた》から長久保へ出た。
千曲の水を見る日頃には、味方の海津城から連絡して来る伝令の騎馬が櫛の歯をひくように敵状を知らせて来る。
「……うむ。うウむ」
とのみで、信玄は次第に無口になって、帷幕《いばく》の人々との対談でも、伝令の報告を聞くのでも、ただ頷《うなず》きを以てするようになっていた。
千曲川の左岸をとって、更級郡《さらしなぐん》の塩崎あたりまで来た頃には、甲府発向のときより目立って兵力も増加していたし、将士の面も、曠野の秋風に吹き研《と》がれて、どことなく鳥肌になっていた。
「……冷たいぞ。越後から吹いてくる風だ」
と、誰かがつぶやく。
下伊奈の下条兵部とその兵が、ここで馳せ参じた。着陣帳の到着順を見るに、日頃の味方は、一郷一村のさむらいも、殆ど余すところなく参陣したかに思われる。
――が、総体の士気はなお、どこか寒々と見えた。その原因を、士《さむらい》大将のひとり小山田弥三郎信茂《のぶしげ》は、
「ここへ来てから、いつにないお館の念入りな御思案ではある。こんどに限って、なぜ電撃な御命令が出ないのか」
と、みな怪訝《いぶか》っているという点にある――と称していた。
信茂の不審は、あながち彼だけの不審ではなかった。甲府発向はあのように一刻をも争いながら、この広大な盆地に臨んでからの信玄は、あたかもわざと道草でもするように、犀川《さいがわ》に沿い、千曲《ちくま》の急流を測り、山に拠ってみたり、丘を擁して兵馬を休めてみたり、容易に、その拠《よ》るところの全陣地が定まらないもののように見えた。
二十四日に至って、漸く信玄はその本陣を、
「ここ」
と、決意したらしい。
それは更級郡の一部、信里村《のぶさとむら》の一丘。茶臼山《ちやうすやま》と土地の者の呼んでいる高地である。
武田家の軍旗、一丈八尺の紺地に、
疾如レ風。 徐如レ林。
侵掠如レ火。不レ動如レ山。
と、金色《こんじき》の文字を二行にしるしたものと、一丈三尺の真っ赤な幟《のぼり》に、
南無諏訪南宮法性上下大明神
と一行に書かれてあるものとがそこに立てられた。
信玄は、その旌旗《せいき》の鳴りやまぬ秋風の下に、床几をすえさせて、極めて、静かな眸をしていた。充分に眠りを摂《と》ったあとのように何の濁《にご》りもない眼であった。
「解《げ》せぬことである……」
彼の唇は、幾たびも、同じ呟きをもらしていた。
犀川、千曲川の二流を抱いている広茫な地域の彼方に、謙信の拠っている妻女山は見えている。
うららかに。静かに。
実に何の剣槍の気すらなく。
けれど、地形的に観るに、その妻女山の陣は、いかに信玄が多年の経験と兵法から推理しても、解きがたい謎であった。――まるで捨身《すてみ》のかまえとしか見えない。もし位置を更《か》えて、信玄がそれに拠るとしたら、信玄は決して晏如《あんじよ》としていられない気がする。
「死地。……好んで死地を陣にとるとは?」
智者はかえって智に溺《おぼ》れる――という。信玄は、誡めてみた。しかし、智を以てせずに、彼の智を観破《かんぱ》することはできない気もする。
「あ。――ここでもない。味方の陣は、ここでもまずい」
彼は、床几から身を捻《ひね》った。
うしろといわず、陣中につめ合っている面々をながめれば――嫡子太郎義信、弟の典厩信繁、また次弟の武田逍遥軒をはじめ、長坂長閑《ながさかちようかん》、穴山伊豆、飯富《おぶ》兵部、山県《やまがた》三郎兵衛、内藤修理、原|隼人《はやと》、山本勘介入道道鬼など、誰を、眼に求めていいか、ちょっと惑《まど》うほどである。
山上山下の旗幟《はたじるし》を見ても。
甘利《あまり》左衛門|尉《じよう》――小山田備中――馬場|信春《のぶはる》――小畑《おばた》山城守――真田弾正一徳斎――小笠原若狭守――諸角豊後守《もろずみぶんごのかみ》――一条信秀――相木市兵衛――蘆田《あしだ》|下野守《しもつけのかみ》――などそれぞれの陣旗がへんぽんと風に鳴りはためいて、馬のいななきや、兵の雑音とともに、天地の秋声をここに集めているようだった。
「陣払いせい。ここを去って、雨宮の渡しまで降れ。――千曲川を前に、北の岸、雨宮の渡しをとって、各々、持場を取れ」
よほど急に思い立ったことと見えた。左右の老将や謀臣に諮《はか》ることもしなかったし、それを通じて下知《げち》する法もとらずに、彼自身、こう唐突に号令を出したのであった。
それとともに、信玄は、陣幕の中を歩き巡っていた。歩きつつもなおしきりに自己の智と闘っているふうだった。たとえば囲碁の名人が容易に下さない一石の前にも似ている。時に唇をむすんだまま足もとの地上を凝視《ぎようし》していたりした。直射する秋の日の下には、なおたくさんな蟻の穴に蟻が往来していた。
越路の娘
川中島という名は古い。もちろん永禄以前からのものである。
犀川、千曲川の二つの縦横な奔流に囲まれて、善光寺平の一部に三角形のひろい干潟《ひがた》ができた。そこを「川中島」とも「八幡原」ともいうと古事記にはあるが、土着の人はもっと広義にとって、あの辺、更級《さらしな》、埴科《はにしな》、水内《みのち》、高井にわたっての一面な河原地や平野をすべて――川中島四郡と呼び慣《なら》わしている。
「……どちらを向いても、同じような秋草の原、同じような川」
どこから来たのか。
ここにぽつねんと行き暮れたように立った旅の女は、西を見東を見、
「どう向いて行ったら?」
と、考えているふうだった。
漆《うるし》で塗りかためた市女笠《いちめがさ》を被《かぶ》っている。物売りとも見えないが背に一包みの物を負い、裾は短かにくくりあげ、草鞋《わらじ》をうがち杖を持ちなど、なかなか凜々《りり》しい恰好《かつこう》である。――いい忘れたが年ばえはまだ二十歳《はたち》に届いていまい。肌目《きめ》のよい白い肌は雪国の処女をすぐ想わせる。そうだ、その風俗といい、目鼻だちも、越後の女に特有な美があった。
――と、鎌の音がどこやらで聞えた。さくさくと草を薙《な》ぐ快い音である。彼女のまるっこい眼は急にそれへ動いた。
彼方の秋草のなかに、数頭の裸馬の背が見える。刈草を束《つか》ねて馬の背に積み終った者は、それを曳いて遠ざかって行く。――が、後にもなお一隊の草刈が、鎌をそろえて、河原の方へ刈り進んで来た。
「もし、甲州路へ出るには、どう行ったらようございましょうか」
不意に、女の声で、こう訊かれたので、草刈たちは驚いたように腰を上げた。これはみな近村の農夫らしいが、徴発《ちようはつ》をうけて、馬糧を刈ったり、道を拓《ひら》いたり、運輸の手伝いなどしているいわゆる軍夫たちであった。
「ほ。甲州路へだって。……だが、お前さんは一体、どっちから来なすったえ?」
あべこべに問われると、娘は急に眼をさまよわせて、犀、千曲、何《いず》れとも分らぬ川の流れを見まわしていたが、
「あっちから」
と、善光寺の御堂があるという遥かな丘陵を指さした。
「じゃあ、北国街道を、北のほうから来なっしったか」
「――え、え」
と、うなずく。けれどそれも至って曖昧《あいまい》な顔つきに見える。
軍夫たちは、叱るように教えた。――知ってか、知らずに来たか、この辺一帯は、二、三日前から戦場になっている。それ故、この通り昼間でも見はるかす限りの土地には、鍬取る人影もなく、旅人のすがたも見られない。稀々《たまたま》野をよぎるものがあれば、それは鳥影ぐらいなもの……。
「それを、女子《おなご》の身ひとりで、こんな所、うろうろしているということがあるものか。はやく彼《あ》っちゃい行きなされ。これから――そうよなあ――まあこの川べりに添うて、南へ南へと行かしゃれ、やがて宿場の屋根が見えよう。そしたらそこで甲州のどこへ行くとなと詳《くわ》しく道を問うたがいい。くれぐれも日の暮れないうちに急ぎなされよ」
これだけのことを、口々に告げ終ると、幾つもの鎌の手は、また草の根へ屈みこんで、予定の馬糧を刈り取ることに向って、その男たちも急ぎ初めた。
すると。――どこからとも分らないが、多分は、対岸からであろう。ド、ド、ド、ドン、と続けさまに五、六発の銃音《つつおと》がした。
軍夫たちは、一斉に、わっと喚き合って、草の中へ俯《つ》っ伏《ぷ》した。――間を措《お》いて、また十発ばかり弾が飛んで来た。最後の二、三発は、おそろしく標準が的確で、草の中にもぐっていた一人が脚を撃たれた。
「立つな。声を出すでねえぞ」
「…………」
非常な辛抱をし続けて、なお皆、じっと寝ていた。それきり銃音はしなかった。その上に白い夕靄《ゆうもや》が下りて来たので……。
それからだった。そッと首を擡《もた》げ合って、
「逃げろっ」
とばかり、傷《て》を負った仲間のひとりだけを引っ担いで駆け出したのは。――ところが、皆の起ち上がった十間ばかり先に、もう一名、弾に中《あた》って斃れているものがあった。何という不幸か、それはこの草刈たちに道をたずねて歩み出していたばかりのあの市女笠《いちめがさ》の越後娘だった。
心林迷風
赤い緒のぷつと断たれた市女笠は、きのうの所に、夜を越えて、露草の中に落ちていた。
――けれど、そこの河原から約十町ほど隔てた東南にわたる一帯の草原は、一夜のうちに、まったく景観を変えていた。
きのう昼のうちから徐々に茶臼山を降りていた武田信玄の総軍は、布施《ふせ》五明、篠井村《しののいむら》をこえて、ここ雨宮の渡しを前に、夜のうちに移行して、今朝見れば、中軍一団をまん中にして、十二軍団を五行に展《ひら》き、
(妻女山の謙信にもの申さん)
といわぬばかり、無数の旌旗《せいき》を植えならべて、陣々、鮮やかにその旗印《はたじるし》をさえ敵の目に見せつけて来たのであった。
(近々と来つるものかな!)
と、妻女山でも、今朝は、朝雲の断《き》れ間《ま》に洩る陽に、それを発見するなり、眼をみはり、小手をかざしているにちがいない。
俄然、甲軍のこの物々しい意志表示に対して、今のところまだ妻女山そのものは、朝霧の中にぼうとつつまれて、夜来の陣営はいと物静かに、殆ど眼醒めているような気《け》はいすら望見できなかった。
しかも、そこと、こちら側との、距離はといえば、実に近い。
ここら辺り川幅は広いが、千曲の一水を渡れば、すぐ向うの岸は、妻女山の裾といってもよい。
それと――
やがて陽の高くなって来る程、両軍の距離感は縮められて来る。甲軍の旌旗を煙らしていた朝霧も、妻女山の黄葉《こうよう》や緑や紅葉《もみじ》をぼかしていた白い霧も、次第に霽《は》れあがって、お互いの位置から、お互いの哨兵のうごきや繋《つな》ぎ馬の影などが、眺め合えるくらいにまで大気が澄んで来たからである。
この日も、帷幕《いばく》のうちの信玄は、殆ど、床几に懸りきったまま、敵の妻女山を前に、終日黙想していた。
「……?」
彼がきのうから抱き通している疑問はなお解決せぬ面持である。すなわち妻女山にある敵将謙信の心だ、その意志だ、またその変であり、信念である。
「彼、そも、如何なる鬼謀神算があって、かかる無謀、かかる妄挙《もうきよ》、かかる不敵を、われに示すか」
と、怪訝《いぶか》っている信玄であった。
鳥刺《とりさし》のもちに絡《から》められた鳥のように、彼の心労はなお藻掻《もが》かざるを得ない。床几にかまえて、こう泰然とはしているものの、その実、きのう以来、彼の出した幾つかの指令によって、この本陣から別れ去った分隊は、敵の東北へ迂回して、屋代《やしろ》近傍に出たり、北国街道との連絡路を遮断《しやだん》してみたり、更に、上杉方が唯一の助け城と恃《たの》んでいる長野村近傍の小柴にある旭城の味方とのあいだを、真二つに断ち切るような勢いを示して、こう布陣を押出して見せているのに――抑々《そもそも》、戦う意志は無いのか、妻女山の無表情は、依然として、きのうも今日も、無表情のままなのである。
いざと、白刃の真剣勝負を約して、起ち上がってみると、相手は何の身がまえもせず、こちらの剣の鍔下《つばした》まで、ただ歩き込んで来たともいえるような――上杉謙信の態度といえる。
それが、白痴か、戦さ下手《べ た》な男とでもいうなら、信玄の心労はなかったろう。およそ、戦場において、信玄をよく知る者は信玄の帷幕《いばく》にある者より謙信であった。同時に、謙信の面目《めんもく》を知っている者も、謙信の左右にいる者以上、信玄が詳しかった。
疾《ト》キコト風ノ如ク
徐《シズ》カナルコト林ノ如シ
自ら掲げて自己の面目としている例の一丈八尺の大軍旗の文字は、信玄の頭上にはためいて、しきりと何事か、暗示しているかのよう思われた。――けれども彼の心は決して、幽林の如く寂《しずか》ではなかった。
日 傘
また朝を迎えた。
すでに八月二十八日。
裾花川《すそばながわ》を辿《たど》って、長野、善光寺方面へ、大物見に行っていた山県三郎兵衛、原隼人《はやと》などの隊が帰って来て、
「旭城の方にも、何らのうごきは相見えません」
との復命を齎《もたら》した。
信玄は、聞くと、
「確《しか》と、旭城の小柴宮内《こしばくない》は、城を出るような気《け》ぶりでないか」
と、念を押した。原隼人も、山県も、
「ございませぬ――」と、はっきり言葉をかさね、
「妻女山の兵と、旭城の兵とが、わが軍を誘うて、挟撃《きようげき》に出んなどとは、思いもよらぬことであります。そんな憂いのないばかりか、お味方がかく双方のあいだを中断するの位置に布陣いたした為、妻女山への食糧の輸送すら敵は困難を極めているものと見られまする」
と、明言した。
信玄の面に、一瞬ではあったが、慄然《りつぜん》とした気泡が泛《う》いた。それの去ったとき、彼は、数日来の疑問を解いていた。謙信の心態《しんてい》がある程度、信玄の心に映じていたのである。
「伝右、伝右。――初鹿野伝右衛門やあるっ」
旗本たちの詰めている幕《とばり》のうちへ向って、信玄の声がしたのは、それから間もなくであった。
「――おりまするっ」
伝右衛門は、風吹く幕の裾を走りくぐって、すぐ信玄の床几の前にひざまずいた。
「伝右か、使いに行って来い」
無造作《むぞうさ》であったが――
「寄れ、近く」
と、その威光のある眼がさしまねいたので、伝右は、何か、はっとした感じをうけながら膝がしらで、だだと床几へ近づいた。
「妻女山まで」
――後は、何を命じたか、その囁きはあまり小声で聞えなかった。もっとも信玄の側にはその時、幕将も祐筆《ゆうひつ》もことごとく遠ざけられていたのである。
程なく、初鹿野伝右衛門は、敵の妻女山へ行って、謙信と会うべく、使者たる盛装を凝《こ》らしていた。
陣羽織も更《か》え、下帯《したおび》まで新たにして行った。戦場の使いであるだけに、血ぐさい身装《みなり》や血汐の痕《あと》などは、殊更に注意して避けるのだった。もちろん敵の本営中で万一という場合に備えての、死の「身ぎれい」も充分考慮されていることはいうまでもない。
部下を四、五名連れて行った。
その中には、味方の誰かが率いて来た初陣の息子でもあろうか。まだ十三、四歳にしか見えない少年武者もひとりいた。その小童は、柄の長い日傘を携えて、伝右衛門がやがて陣地を離れて、千曲川の岸まで来ると、ぱっと、日傘をひらいて、主人の頭上に翳《かざ》し懸けた。
この傘は決して無意味な行装ではない。
軍使の川渡りは、船中、傘をさすことが、国際法に約されているのである。傘を開いて渡って来る舟には決して弾や矢も放たぬことになっている。
田船を大きくしたような底の平たい川船は、いま、その日傘をさし懸けた小童とその主人と、わずかな部下を乗せて、千曲川の北岸から此方へ棹《さお》さしてきた。――迅い水流を切っては、あざやかに棹を突いて船をすすめてくる兵の上に、赤とんぼが戯《たわむ》れていた。棹の端に止まったり、離れたりして――。
登る妻女山
「おっ……敵方から?」
「軍使が見える。軍使だ」
妻女山の一端に立って、絶えず対岸を監視していた物見の小隊は、こう物珍しげに、手をかざしていた。
鬼小島弥太郎は、この辺に屯《たむろ》している兵七十人の組頭だった。ごそごそと、どこからか出てくると、その白あばたのある顔あたりへ手を翳《かざ》しながら、
「うーむ、あれは甲州の初鹿野《はじかの》伝右衛門という話せるさむらいだ。――何しにきたのか」
と、つぶやいた。
当然、ここよりも早く、それを認めていたにちがいない麓の部隊から、さっそく河原の方へ向って駆けてゆく一群が見える。約三、四十人の武者輩《むしやばら》であった。
こちらの岸へ、ガリガリと乗しあげてきた船の舳《みよし》へ向って、
「どこへ通られるか」
と、左右二列にわかれて、槍ぶすまを突きつけている。
これはむしろ軍使を待つ儀式といっていい。戦わざる意志の槍の美しさ。またその白い光の中へ下りてくる日傘の色のきれいさ。併せて、軍使の悪《わる》びれない落着きがよかった。
「これは、甲州の臣、初鹿野伝右衛門です。主君信玄公のお旨を承って、謙信公へ直々お目にかかり申したく、かくは戦場の小閑にお訪ねして参ってござる。ねがわくばお取次を」
「お待ちなさい」
包囲形をそのままにして、一人が部隊へ走る。やがて部将がくる。そして、
「まだ、君の御意をお伺い中でござるが、ここは路傍、それがしの陣地までお越しあって、御休息でも」
と、自分の持場まで導いてきて、床几など与える。程なく山上から新発田尾張守《しばたおわりのかみ》、鬼小島弥太郎などが、迎えというよりは、警固のために降りてきた。
「お目にかかろうと御意あらせられた。いざ、お越しください。御案内申す」
「大儀に存ずる」
一礼して、初鹿野伝右衛門は、ふたりの後《あと》に従った。もちろん部下も日傘も山麓に残してである。――そして単身、一歩一歩、踏み登ってゆく山道は、殆ど、上杉勢の旗と鉄刀と馬と銃と弓との中だった。
その途中、鬼小島弥太郎は、伝右衛門のそばに寄り添って、
「貴公は、それがしの顔を、覚えておいでなさるか」
と、たずねた。
伝右衛門は、微笑《びしよう》をふくみながら、
「あなたの顔は、なかなか忘れ難い。何といっても白あばたがよい目じるしになるしな――左様、あれはもう七、八年も前になりましょうかの」
と、いった。
「いや、七、八年ではききますまい。甲越の両軍が、まだここにまみえない以前ですから。十年にはなる」
「十年。はやいもの」
まるで久闊《きゆうかつ》を叙《の》べ合っている旧友のようだった。しかし二人の古い面識は、そんな温かいものでなく、思い出せばなかなか身の毛のよだつものだったのである。
その頃、小島弥太郎は、謙信の上洛に扈従《こじゆう》して、京都へのぼった途中から、ふいに姿をかくした。それは将来へ大志をいだく謙信が彼に承知で失踪《しつそう》をゆるしたものだといわれている。が、主従の黙契《もつけい》があったや否やはべつとして、弥太郎は少なくもそれから二、三年間は諸国の武備や築城などを見て廻った。後にいうところの武者修行をしていたのである。
そして、いつのころからか、甲府にいた。もちろんそんな使命をおびている者としての入国はむずかしい。城下の鉄砲|鍛冶《かじ》の火土捏《ほどこ》ねをしていたのだ。左官職にひとしい泥だらけな手をして、筒金《つつがね》を焼く火土を築《つ》いたり吹鞴《ふいご》の手伝いなどしていた。
甲館に出入りする武田家の武将が、時々、馬上や平服のままで、この家の前を通る。その中に、初鹿野伝右衛門の眼があった。或る時、彼の屋敷から注文のあった鉄砲を、白あばたの男に届けさせてくれとわざわざ指名でいってきた。
弥太郎は、それを届けた。けれど邸内の者に渡しただけで、その場から山越えで甲州を去ってしまったのである。門の内まで入れば、立ちどころに縄目をうけることを、彼もまた未然《みぜん》に覚っていたからである。
しかし、それだけでも、伝右衛門の情といえば情といえる。彼に、必縛《ひつばく》の気があるなら、鍛冶の家を直接包囲すれば遁《のが》さなかっただろうし、また後から騎馬の追手を飛ばせば、弥太郎もついに国外へ遁れきれなかったかもしれないのである。――けれど、その事もなく、彼は無事に、越後へ帰った。
――それ以来の今日であった。今日の偶然な接近だったのである。だから二人の微笑のうちには、言外な回顧の情と皮肉な懐かしさとがつつまれていたわけだった。
首捨《くびすて》帯刀《たてわき》
戦争とは、結局、人の力と力との高度なあらわれである。古今、いつの時代であろうと、その行動の基点から帰趨《きすう》まで人の力にあることに変りはない。政略、用兵、経済、器能の働きはもちろん、自然の山川原野を駆使し、月白烈日の光線を味方とし、暗夜暁闇の利を工夫し、雲の去来、風の方角、寒暑湿乾の気温気象にいたるまでのあらゆる万象を動員してそれに機動を与え、生命を吹きこみ、そして「我が陣」となす中心のものは人間である、人間の力でしかない。
だから、戦国は、人を磨く。
また、箇々のものも、他に求められるまでもなく、各々磨かなければ、時代の戦国を生きぬいては行かれない。
どしどし踏みつぶされ、落伍してゆく。
惜しまれるものの生命すら、顧みられず、また、顧みる遑《いとま》もなく、先へうごいて行く世だった。惜しまれもせぬものの生命などは、何ともしない。
わけていま、永禄四年ごろは、後の天正、慶長などの時代よりは、もっともっと人間が骨太《ほねぶと》だった。荒胆《あらぎも》だった、生命を素裸にあらわしていた。
越後衆も甲府衆も、負けず劣らず、そうであった。
対立して称《よ》ぶところの「上杉陣」「武田陣」というその「陣」なるものは、そうした人の力のかたまりであった。平常の心の修養と肉体の鍛錬をここに結集して、敵味方に不公平なき天地気象の下に立ち、
「いで!」
と、たがいの目的、信念をここに賭《と》し、ここに試そうとするものである。
従って、その集結、その「陣」を構成している箇々の素質の如何によって、陣全体の性格と強靭《きようじん》かまた脆弱《ぜいじやく》かのけじめが決まる。
いま、千曲川をへだてて、雨宮の渡しにある武田の陣と、妻女山の上にある上杉陣とを、そうした観点から見くらべたところでは、いずれが強靭、いずれが脆弱《ぜいじやく》とも思われなかった。どっちの陣営も、その旗の下にある宿将、謀将、部将、士卒まで、実に|多士済々《たしさいさい》といってよい。
名君のもとに名臣あり、ということばから推《お》せば、その偉さは、やはり主将の信玄にあり、謙信にあるのかもしれない。
越後の名臣と、世間から定評あるものは、宇佐美、柿崎、直江、甘糟《あまかす》だといわれているし、甲州の四臣として有名なものには、馬場、内藤、小畑《おばた》、高坂《こうさか》がある。
また、過ぐる年の原之町の合戦では、単騎、上杉勢の中へ奮迅して来て、二十三人の敵を槍にかけ、槍弾正という名を謳われた保科弾正《ほしなだんじよう》や、それに劣らない武功をたてて鬼弾正とならび称された真田《さなだ》弾正のような勇士も、その部下にはたくさんいた。
槍弾正も、鬼弾正も、甲州方の勇士であるが、上杉勢の下にも、武勇にかけてなら、彼に負けを取らないほどな者は、無数といっていいほどいる。
謙信が人いちばい目をかけていた山本|帯刀《たてわき》などは、阿修羅《あしゆら》とさえ称ばれた者であった。いつの戦いでも、退《ひ》け鉦《がね》が鳴って味方が退き出しても、いちばん最後でなければ敵中から帰って来なかった。そしてその帰ってくる姿はいつも兜のいただきから草鞋の緒まで朱に染まっていた。また、どんな大将首を獲っても、腰につけて持って帰ることはしなかった。それでは、軍功帳に記録されないで、
「折角の軍功も無駄になるではないか」
と、人がいうと、彼は、
「軍功に、無駄なし」
と、答えたという。
功名のために、首を荷にして持ちあるき、首の数など心がけていては、次々の働きに邪《さまた》げとなる。そういう彼の信条だった。
で――彼のことを、首捨《くびすて》帯刀《たてわき》などと、越後では綽名《あだな》したが、そのため軍功帳にのぼらず、長年のあいだ、足軽五十人持ぐらいの一部将にとどまっていた。
それとなく主君の謙信が、彼に目をかけてやっていたのは、そういう理由にもあるが、また、もう一つべつな事情にもあった。
山本帯刀の実兄は、甲州の謀将、山本勘介入道道鬼だということが、たれいうとなく知れわたっていた。
よく調べてみると、父親は異《ちが》うらしいが、幼少はひとつに育った勘介の異父弟にはちがいないことが分った。――しかし、兄が甲軍の内にあるからといって、その後、甲越両軍の数度の合戦の場合でも、帯刀の働きは、ほかの戦陣の場合と、すこしも変りはしなかった。
烈しくさえあった。
「――さりとはいえ、兄弟両陣にわかれての働きは、人の子として、辛くもあろう、味方の者に、憂《うれ》えたき思いをする日もあろう」
日ごろからそういっていた謙信は、永禄元年の和睦――甲越の一時的な和議のできた年に――とうとうこの鍾愛《しようあい》して措かない大事な家来を三河の徳川|蔵人《くらんど》元康《もとやす》へ遣ってしまった。ねんごろな自分の書面に、使者の芋川平太夫を添えて、
(他家へゆずり難い最愛の家臣であるが、云々《しかじか》の事情故、当人も不愍《ふびん》とぞんじ、離し難きを離すのであれば、どうか末長く目をかけてやってほしい)
と、使いの口上にも意中をふくませて、その将来を呉々《くれぐれ》も頼んだのであった。
弥太郎・日用訓
鬼小島弥太郎も、本姓は小島、名は弥太郎|一忠《かずただ》に過ぎないので、鬼だけは、あとから名《つ》いたものである。
越後国|上郷《かみのごう》の生れで、牛飼いの子だという。彼の十五、六歳のとき、狩猟《かり》か何かの出先から謙信が、その異形《いぎよう》を見て連れかえり、宇佐美駿河守の組へ、
「養ってみろ」
と、預けておいたものだった。
「弥太は、鬼の子か」
と、そのころからよく大人達からからかわれたものである。強力《ごうりき》だったし、赤毛だし、疱瘡《ほうそう》のあとが面《おもて》を埋めていたためでもあろうが、越後国上郷は、むかし大江山の酒顛《しゆてん》童子が海から上陸《あが》って来たところだという伝説があるので――それと彼とがむすびつけられたものらしい。
しかし、一人前になって来ると、かえって、その名がおかしくなくなって来た。おそろしい大酒家になった。雪国なので総じて、越後衆はよく飲むが、彼のは底ぬけといってよい。一夜六升、一日一斗などという記録をもっていた。しかも自慢にしている風さえある。
武を磨き、男を磨く、越後家中のあいだには、飲食についても、鉄則があった。心得として藩令に出ている箇条のひとつに。
一 大酒のむべからず、たとへ酔《ゑ》はずとも傍目より見て危ふし。
且つは五臓の患ひとなる。
一 大食は、卑劣の至りなり。小我の快楽《けらく》に過ぎず。
家来朋友と程々に楽しむを以つて最なるものとし、独味飽慾《どくみはうよく》はいやしむべし。
一 総じて、飲食の事、能々《よくよく》つゝしむべき也。
もし病《や》まば一朝の戦陣に恥あり。もし命を落さば、忠孝二道にそむく。
世々までのものわらひ、家門の名折れ、合戦の場において功なきにも劣る。
これは藩士一般への上杉家家訓の一節にすぎないが、謙信はなお、帷幕《いばく》の上将の名を連らねて、
不識庵《ふしきあん》家中日用修身巻
という一種の「武士道訓」を藩の子弟たちへ示していた。
一生の務《つとめ》、今日の事
という初めには、
一 暁起、手水《てうづ》仕るべきこと。
神祖、仏拝の礼、勿論のこと。
一 やしき一巡見廻り、男は、髪を早く結ぶが第一也。食事調菜、二種を過ぐべからず。
一 厩《うまや》は毎日、用なくとも、見まはり欠かざること。
一 わが家にあるは、みなわが子と思へ。慈悲、仁心、刀に打粉《うちこ》いたすが如くせよ。
一 夜は、わが愛子たりとも、わが側に寝かすな。
床衾《しやうきん》奉公人はあたゝかに、わが子は寒きにおけ。
――というような日常衣食住の細目から公職、交友、音信、遊楽のことまでわたっているが、とりわけ武士としての修身修養には、謙信の方針としてこう訓《おし》えている。
一 家職のほか、ひまあらば、学文心がけべきこと。
一 詩歌は、公家の職なりといへ、武人たる者、少しは心ありてよし。無きには優る。
一 君言と臣職とは、風と草木のごとし、之を守るに鉄石なるを、実忠の臣とはいふ。
一 諸民に対し、一言一句も、争ひ論ずるなかれ、わが知ることを、人の語るもおもしろきもの也。わが知らざることを、人の語るに聞くは、事を知るの道なり。
古諺《こげん》に曰《い》ふ。
杉はすぐ、松は曲りて、おもしろや。おのれおのれの、こころこころに。
一 「淋《さび》し」といふこと思ふべからず。見ぬ世の人を友とするも得。
淋しと思はゞ家職の文《ふみ》を開け。千万の多事急務、その内にあり。
箇条はなお多いが、部分的にこういう一斑《いつぱん》を見ただけでも、謙信がいかに日頃から士の養成に細心な気くばりを傾注しているか――またそれを鉄則としている全家中が黙々と有事の日に備えて自分を鍛え合っているか――想像以上なものがそこにはあった。
けれど、そういう鉄則や組織はあっても、それに血も通わないような形態だけのものを持って誇っている君臣ではなかった。以上のような鉄則にも人間の血が脈搏《みやくう》っていたし、藩という組織もまた、人間と人間、たましいとたましいを以て結ばれていた。――だからたとえ鬼小島弥太郎のような習性でも、しばらくその中に棲息をゆるされ、また一人前になるまでは、
「困り者」
の代名詞となるほどでも、朋友から上役まで、
「いつか、何かのときには、お役に立とう」
と、その短《たん》を扶《たす》け合っていてくれるという風だったのである。
しかし、鬼小島弥太郎の場合だけは、そういう周囲もすこし愛想《あいそ》を尽かし気味であった。妻を持たせても、どうしてみても、大酒がやまない。
のみならず、しばしば謙信の明示している士道の訓誡《くんかい》も踏み外してしまう。
ひどい事があった。
冬。あの越後らしい大雪の夜だった。
春日山城のお濠と、大手との道角に、この附近の二之木戸三之木戸などを守っている番士衆の溜りがあった。御番方《ごばんがた》屋敷と町の者はよんでいる。そこの雪と雪のあいだから灯《あか》りが洩れていた。
「おいっ、開けろ開けろ」
と、たれかそこを烈しく叩いている者がある。
中では、非番が十人以上、車座になって飲んでいた。一升持寄りというような事をよくやるそんな晩らしいのである。
「開けるな。鬼小島の声だ」
「あれに舞い込まれては堪るものではない。みんな飲まれてしまうだろう」
「ひどい雪風の音だ。聞えない振りしておれ。そのうちに行ってしまおう」
中では、それも一興にして、返辞もせず、炉《ろ》の火燗《ひがん》を、出したり入れたりしていたが、外の弥太郎は、帰ればこそである。
「おおウい。凍えてしまう。開けてくれい。――やいっ、開けないか。知らん振りをしていてもだめだぞ。弥太郎の鼻だ。前を通ったらぷーんと薫《にお》って来たではないか。この雪道、どうして素通りできる。……意地悪をするなよ。こらっ。こらッ」
家の中で、くすくすと、笑い声がしている。弥太郎はいよいよ烈しく叩いて、
「ばかだなあ、貴様たちは。せっかくおれが、酒のさかなにと、よい土産をさげて来たのにこれを無駄にするのか――折角のこれを」
ほんとらしくいったので、その土産のさかなに釣りこまれたのか、根まけしたのか、とうとう中の者も、そこを開けて弥太郎を車座に迎えてしまった。
弥太郎は痛飲した。手ぶらで来て、そこの五人分も飲んで、炉のそばへ、横になると、やがて高鼾《たかいびき》である。
「怪しからんやつだ」
と、彼のために、甚だしく淋れた座を見まわして、一人がぼやいた。
「癖になる」
目交ぜして、頷きあうと、無理に弥太郎をゆり起した。そして、武士が虚言を吐くとは怪しからんと責めた。
「さかなを出せ。おい、土産はどうしたか」
一同して、責め立てると、
「さかなか」
と、弥太郎は、けろりとして、
「ここには無い」
「では、嘘か。謝れ。両手をついて、虚言を謝れ。さもなくば、腹でも切れ」
「ここに無いだけのことだ。何も切腹には及ばん」
「じゃあ、持って来い、すぐに」
「持って来てもよろしい。しかし――貴様たちこそ、言語道断だ」
「なにが言語道断だ」
「おれが酔うほどの酒もここにはありはしない。おれの携えて来るさかなとは、そんな安価なものじゃない。もっと酒を調達して来い。そうしたら持って来てやる」
「調達せんでも、酒などはまだいくらもある。汝がさかなを出さぬから控えていたのだ」
「なに、まだあるのか」
「さかなを出せ、さもなければ、両手をついて一同に謝れ」
「何の……ばかなっ。いま持って来る」
起ち上がると、ふらふら、雪の中へ出て行った。そしてまもなく、
「さあ、持って来たぞ。どうだこの肴《さかな》は、天下の珍味、食ったことがあるか」
と、何やら手にぶらさげて来た物を、部屋の入口からさしあげて見せた。
「あっ……?」
そこにいた者はひと目見ると、悉《ことごと》く、酔をさましてしまった。
煩悩の鴨
弥太郎が示した物は、お濠《ほり》の鴨《かも》だった。鴨の喉首を握って顔の上にさしあげて見せている。
もちろん、鴨は死んでいる。――そういえば今し方、雪風のなかで鉄砲みたいな音がした。ここの大土間に懸けてある鉄砲を持出して、一発に仕とめて来たものかもしれない。
「たいへんな事をやりおった……」
どの顔も、どの顔も、蒼白になってしまい、それに食慾を感じるどころではない。なぜならば、お濠際《ほりぎわ》の高札《こうさつ》にも、
鴨捕ること厳禁
と、はっきり書いてあるし、日ごろから主君の謙信のことばにも、
「――濠の水禽《みずどり》も、要害の一ツ」
という事を聞いている。もちろん犯す者は死罪と、先代の主君のときから極《き》まっているものである。
弥太郎は、台所の方へ通りながら、しいんとしている連中を見下ろして、
「誰か、鍋《なべ》をかけろ。そのまに毛をむしって、おれが料理してくる」
といった。
忠実に、彼は、台所の外へ出て、毛をむしり、肉と骨をほぐして、やがて大皿に盛って来た。
けれど、もう誰も、そこには居なかった。
「……どうしたんだ、皆は」
と、呟いたが、べつだん怪しもうともせず、ひとりで鍋をかけて、ひとりで食って、そのまま寝てしまった。
その代りに、夜が明けると、役人が来て、彼を物々しく取囲み、城内へ拉《らつ》して行ってしまった。
謙信の前にひきすえられて、
「何故、禁を犯したか」
と、詰問されたとき、彼の答えはすこぶる平凡だった。
「どうも日ごろから、お城の往《ゆ》き還《かえ》りに、あんなに沢山飛んでいるのを見ると、いちど食ってみたいという慾心が出てなりませんでしたので、その煩悩《ぼんのう》をはらす為、思いきって、一羽頂戴いたしましてござりまする」
謙信は、苦笑してしまった。といっても、これだけの返答で免《ゆる》されるはずもない。いずれ弥太郎のことだから生涯の詭弁《きべん》をふるったろう。それも詭弁とは分っているが、もともと鴨一羽ぐらいで大事な臣下を殺したくないのが謙信の本心であったろうから、何とはなく、謹慎《きんしん》程度でゆるされてしまった。
弥太郎の失踪は、それから間もなく、謙信の上洛の途中に起り、三年目に帰藩してから後初めて公然と、前の罪もゆるされる形になった。のみならず、彼自身の人間も、武者修行中にすっかり変って、いわゆる智勇を兼ね備えて来たので、役付も次第に取立てられ、功も積んで、今では一方の部将として、世間の人々のあいだに、
「甲斐の初鹿野伝右衛門は――」
といわれれば、かならず、
「越後に鬼小島弥太郎がいる」
と、すぐ思わされるようにまでなっていた。
香 車
その初鹿野伝右衛門は、きょう武田方の使者として、この妻女山の陣にのぞみ、はからず旧知鬼小島弥太郎に会って、謙信本陣の小屋がある山上まで登ってゆくうち、敵味方とも思われないほど、親しげに語らいながら歩いて行ったが、弥太郎がこの人物に傾倒しているいわれは、あながち甲府に潜《ひそ》んでいた時代に、彼のために救われたという一片の私情だけによるものではなかった。
その為人《ひととなり》を、甲府にいたころ、何かと聞いていて、
「甲府の中でも、武士の中の武士」
と、ひそかに認めていたからである。
そのころ、甲府の町にまで伝わっていたはなしに、こんな噂もあった。
躑躅《つつじ》ケ崎の館《やかた》で、伝右衛門が君前から退がって来るとき、殿中のお次の間に、御坊主の刀がおいてあった。
過《あやま》って、それを伝右衛門が、踏みかどうかしたものか、御坊主が立腹した。甚だしく赫怒《かくど》した。
「此方《このほう》のたましいを、何で足にかけられた」
と、御坊主も武士|並《なみ》にいうのである。
いったい坊主はひがみッぽい。武勲というものを持たないから武勲の士に対してひがむのである。そして内政的な権力によって対抗を計る。そんな感情が日頃にある。故に、こんな時とばかり承知しない。どうしても肯《き》かないのである。
「申しわけない。かくの通り、伝右衛門、両手をついてお詫びいたせば」
彼は、平伏して、飽《あ》くまで詫びていた。それにもかかわらず相手の坊主は、
「詫びただけではすまされぬ」
といいつのり、果ては、伝右衛門が、いかにせばよろしいかというと、
「あなたは、わしの刀を足げにした。わしだって、せめてそのあなたの頭へ、一|拳《けん》与えるぐらいな返報をせねば、虫がおさまらぬ」
と、いうのだった。
伝右衛門は、平伏したまま、身をすすめて、
「然らば、どうか」
と、頭をさしのべた。
御坊主は、力まかせに撲《なぐ》った。
はなしは、これだけのことに過ぎないが、甲府の城下民は伝え聞くと、
「さすがに、お偉い」
と、みな伝右衛門の心事を解して同情した。
なぜならば、伝右衛門が、戦場に出るときは、常に兜《かぶと》の前立《まえだて》にも、その旗さし物にも、将棋の駒の「香車《きようしや》」を印としているほどな勇士であることを、誰も知っているからだった。
後には退かじ――という意気をその「香車」の前立に旗印に公約している人だった。そのお人が、ただ心なく、御坊主の勢力におそれて、その拳《こぶし》に頭を打たせたはずはないと、誰しもすぐ察しられて、一しお床《ゆか》しげに伝えたものだった。
このことは、ずっと後に、大坂城中にあった木村重成のこととされて、重成の為人《ひととなり》を知る逸事の一つとなってしまったが、伝右衛門であったというこの方が、それよりも以前に民間では語られていたらしい。
――それはともかく。
ここ妻女山の陣中を、使者初鹿野伝右衛門は、鬼小島弥太郎の案内について、やがて謙信の座所へと行った。
謙信は、報らせによって、はや床几について待っていた。
眼点の人
使者迎えは、近衆の和田喜兵衛であった。陣幕の外に佇《たたず》んで、これへ来る敵方の使者を待ちうけていた。
「……ああ、静かな」
鬼小島弥太郎やそのほかの者に導かれて、これまで来た使者の伝右衛門は、思わず足を止めて、そこらの木々の梢《こずえ》や禽《とり》の声など、振仰いだ。
そして、心ひそかに、
(血臭い身装《みなり》を改めて来てよかった)
と思った。殺伐な風采で、いきり立って来たりなどしたら、それだけ物笑いにされたろうと思った。
それほど、辺りのたたずまいは、ひそやかであった。甲冑の影や剣槍の光は見えても、決して、一人の使客を恫喝《どうかつ》しているものではなかった。虚勢らしい物々しさなども感じられない。
しかも、百坪ほどな幕囲いの周《まわ》りは、きれいに箒目さえ立っていた。まるで隠者《いんじや》の棲《す》む山中の閑居にも似ている。きれいに掃かれた土の上には松落葉がこぼれていた。
ここに謙信が陣したのは十六日頃、そしてきょうは二十八日だった。そのあいだには、雨も降り風も吹いた。従って雨露を凌《しの》ぐに足るほどな仮屋の屋根も囲いのうちには見える、杉皮、檜皮などでそれを葺《ふ》いてあった。
「お使者どの。では、われらはここで退がり申す。あとは使者迎えの御案内について参られい。すぐそれに見ゆるが、謙信公のお在《い》であるお座所でござれば」
弥太郎たちは、役継ぎを済ませると、麓のほうへ降りて行った。――当然、伝右衛門の身は、和田喜兵衛の手にうつり喜兵衛は彼を導いて、幕露地《まくろじ》のあいだを幾筋となく曲って行った。
「お控えを」
と、促《うなが》されて、使者の伝右衛門は、いよいよ眼のまえの薄い布一重の向うに謙信が居ることを知った。
与えられた楯《たて》の上に、彼はしずかに坐った。楯は陣中の敷物であり、座を取る場合は武者坐りであった。いわゆる胡坐《あぐら》を組むのである。
「…………」
正視している目の前の幕が音もなく取払われた。同時に伝右衛門は頭《かしら》を下げた。そして謙信の声を聞くとともにその面《おもて》を上げていた。
「武田家の臣、初鹿野伝右衛門であるか。先頃より対陣のまま、まだ一戦も交えぬに、折入っての使い、そも何事をこの謙信に齎《もたら》そうというのか。機山|大居士《だいこじ》が託し向けられた旨、早速に承ろう」
謙信のことばであった。
伝右衛門はそこでもう一度、はっと頭《かしら》を下げ直した。答えは何もあわてるには及ばない。そう自分へいい聞かせながら、幾つかの呼吸を腹の下に調える間に、彼は篤と目を凝《こら》して、初めて仰ぐ不識庵《ふしきあん》謙信なる人の人がらをその眼の点に烙《や》きこんだ。
客来一味
謙信は、芝生《しばふ》に床几をすえ、至極、清楚《せいそ》なすがたを、それへ倚《よ》せていた。
黒糸おどしの具足の上に、菊桐を透《す》かしとした胴肩衣《どうかたぎぬ》を羽織り、皮鞘の長太刀を横たえているに過ぎない。――ただ樹の間から映《さ》す秋の陽に、鎧《よろい》の金小貫や太刀金具が身をゆるがすたびに燦《きらめ》くため、それが甚だしく人の眼を射る。
とはいえ、謙信の眼《まな》ざしは、敢えて人を圧するものではなかった。豊かな頬に、鶯茶《うぐいすちや》の禅家頭巾の裾が垂れている。その柔らかさと、その眸とは、不調和なものではなかった。
わけても、伝右衛門が眼をひかれたのは、一隅に置かれてあった十七絃の唐琴《からこと》と小鼓であった。明珍《みようちん》作りの南蛮鉄に銀の吹返《ふきかえ》しのある兜《かぶと》は、そのわきの具足櫃《ぐそくびつ》のうえに常住の宝物のごとく据《すわ》っていた。
琴と、兜と。
そして、この人と。
伝右衛門は見くらべた。いやそれはもう二義的で、彼は慎《つつし》みながら謙信に対して、使者としての口上をありのまま伝えていた。
「――さればです、主人信玄公の御諚《ごじよう》には、このたびの御挑戦こそまことに遺憾至極。かの割ケ嶽の一条を以てのお憤りならめとは拝察いたしおられますが、それには、仔細ある事、また、その儀とあれば、いかようにも、御和談も相成るべきを、さはなくて不意の御出陣――この上は、永禄元年の御条文も、すでに破棄あそばされたものと所存いたすしかあるまじ。……と、左様に心得て、甲軍の同勢も、かくはこの地まで御挨拶に出向き申した」
「むむ、……そして」
と、謙信は笑靨《えくぼ》をつくる。
伝右衛門はやや語気に力をいれていった。
「――就いては、主人信玄公の申さるるにも、甲越の両家、ここの山川に弓矢の嵐を呼び、相互の士馬軍略を競《きそ》うこと、大戦三、四度、小競合《こぜりあ》いに至っては、幾十回というを知らず、天下の物わらい、百姓の難儀、このたびこそは快《こころよ》く一大合戦を遂げて、雌雄いずれとも勝敗を明らかにいたしとう存ずる旨くれぐれも謙信公へ申し入れよとのお伝えでござりました」
「ほう、左様か。本懐本懐。――謙信もまた同意なりと、立帰ったらよろしくいうてくれい」
「然る上は、忌憚《きたん》なくお伺い仕りますが、犀、千曲の二川を踏み跨いで、かくも深々と、御陣取の態は、さすがに御武勇、独自の胆略と信玄公にも眼をみはられて、武門に生れ、好い敵を持った倖せと申しおられますが、そも、あなた様におかれましては、これより海津の城をお攻め取あらんとする思召しですか、それともまた、このまま、信玄公と平場押しに御一戦のおこころなりや、お伺い申して参れとの、主人からの命にござりまする。――確《しか》と、御返答いただきとうござります」
「これは近ごろ御入念なことである。割ケ嶽の一条といい、またここの戦場といい、お招きも席も、主役は甲斐の機山大居士と存ずる。そちらは亭主、こちらは客。――されば、馳走の膳も、客来一味の簡粗《かんそ》たるも、山海の珍饌《ちんせん》を以てお待ちくださるも、御随意にお始めあるがよろしかろう。謙信、そのほか連れ者も、みな北国そだちの歯の根達者、構えて、献立に骨抜きの御斟酌《ごしんしやく》は要りもうさぬ。はははは……まずまず、御返辞は右の通りである。――伝右衛門とやら、今日の使い、大儀であった」
と、謙信は、さっさと自分から対談を切上げて、傍らに控えていた老将に何やらいいつけると、後方の幕を揚げて、仮屋のうちへかくれてしまった。
客迎えの和田喜兵衛、老将の旨をうけて、残された使者を、幕囲いの外へ誘《いざな》い、べつな仮屋に席を設けて、酒肴《しゆこう》をもてなした。
「主君謙信公からのお心づけです。陣中、何もありませんが、ほんのお弁当がわりに」
こういう中の使者に対して、行届いたことと感じながら、伝右衛門は杯をうけた。喜兵衛は、白木の折敷《おしき》に肴を取り分けて、
「ただ今、鬼小島どのを、これへ呼んで参りますから、悠々《ゆるゆる》おはなしを」
と、会釈《えしやく》して立去った。
川原の花
折敷の上の肴を見ると、この辺の川魚や蔬菜ではない。越後の海の物だ、また雪国の珍味だった。酒はもちろん清酒ではない。しかし甲斐や信濃のそれとは比較にならないほど香りが佳《よ》い。――こんなものまで携《たずさ》えているようでは、兵糧の荷駄にもおそらく莫大な量を積んで来ているにちがいない。
伝右衛門はすぐそんなことを考えめぐらしていた。そのうちに、鬼小島弥太郎が、ただ一人で接待に来た。
「ここでは、どうか御遠慮なく、おくつろぎ下さい」
弥太郎はまず自分から打解《うちと》けて見せた。そして、こうもいった。
「御主君には、往年、この弥太郎が、甲府の御城下にまぎれこんでいた時、あなたの為に、難なく国外へ出ることができたという――あの事を、てまえから聞いて、知っておられる。それ故、わざと御接待に出して、旧情を温めよとの、有難い思召しかと思われます。……改めてお礼をいう。あの節は、お見のがしにあずかって忝《かたじけの》うござった。お蔭に依って、以来越後に帰国、こうして御奉公しています」
「いやいや、お礼など、かえって迷惑じゃ。御辺《ごへん》はどう受け取っておられるか知らんが、伝右衛門としては、かりそめにも、敵方の間諜たる者を、見のがした覚えなどはない。――ただ貴公が、姿を変えて甲府の鍛冶の家に火土捏《ほどこ》ねをしていた姿は思い出される。けれど、そういう例は、敵味方、まま有りがちな事といえる」
「そうそう、その御一言で思い出した。あなたには、幾人の御息女がおありですか」
「むすめ共《ども》のことをお訊ねか」
唐突なのに愕《おどろ》いたのであろう。伝右衛門の眼にそんな光が見えた。この戦場の空、しかも使者として臨んでいる敵陣の中、五体のどこをさがしても全く無い憶《おも》いを、強いて求められた狼狽といえる。
「長女も次女もすでに他家へ嫁し、ほかに娘とよぶ者はおらぬが」
「いや、おられるでしょう」
弥太郎は、笑った口へ、杯の酒を含んだ。
「それがしが甲府にいたころ、そのころ、まだ十歳にもなられぬ愛くるしい御息女がたしかにおられた。町でも見、御社《みやしろ》の庭でも見、よく覚えておる。――ところがその後、年を経て同じおひとを、春日山の御城下に見た。何とそれが、上杉家の臣、黒川大隅家のやしきに召使となっておる。聞けば善光寺あたりからさる者の世話で、大隅家の一人娘の傅女《こしもと》として雇い入れたものという。……名は鶴菜《つるな》どの、左の唇のほとりに黒子《ほくろ》がある。そしてどこやらあなたの面ざしにも似かようておる」
「…………」
「伝右衛門どの、善光寺詣での折にでも、そうしたおむすめ御を道で落した覚えはありませぬか。もしお尋ねならば、いるところをお教え申したいが」
骨太い戦国武者のあらぎもが、この時もう伝右衛門の肚《はら》に甦《よみがえ》っていた。ふいに、杯の酒を手から揺りこぼして、笑い出したものだった。
「いや、そういわれて、伝右も思い出してござる。真《まこと》に数年前、善光寺辺で末娘をひとり見失い申した。それが越後に拾われて行ったのを、貴公がお見かけなされたとは、奇縁奇縁。さだめしよい年ばえになっていましょうな。さりとて、見たい気もいたさぬ。おる所にいさせて天意におまかせしておこう。元々《もともと》、迷い子にした子でござれば」
「さて、気づよい親御どのではある。そのお子が、いるところにおるなれば、それも宜《よろ》しかろうが、それがしの知るところでは、鶴菜どのはもう越後にいません。それもごく近日越後を脱して、親兄弟のいる空へ帰りかけた。だが、惜しいかなまだ甲州の地を踏まぬうちに、ここらあたりでまたはぐれたらしい。こんどは真《まこと》の親御の手に拾い上げられてほしいと念じていることであろう」
「なに、このあたりで――」と、伝右衛門は思わず杯を下に置いた。そのとたんにまた彼は人の子の父になっていた。断《た》っても断っても断ちきれないものに繋がれている自分をもがくように膝をすすめた。
「……ほんとでござるか、それは。いま仰せられたことは」
「何で、このような戯《たわむ》れを、この際に」
「ど、どうして、彼娘《あれ》がこのあたりになど」
「仔細は存ぜぬ、しかし昨夕、千曲川の向う河原に、どこからともなく彷徨《さまよ》うて来た旅の女がいました。馬糧を刈っていた武田方の軍夫に道でもたずねているふうであった。常時、この妻女山に立っている物見は、武田方とみれば容赦はしません。四、五挺の鉄砲をならべて人夫共を撃ちました。その一発が、あわれ、鶴菜どののどこかに中《あた》った。――よう似ているがと、同じこの山から、それを凝視《ぎようし》していたそれがしがしまったと、かけ下りて来て、物見の足軽どもを止めた時はもう間にあわぬ。すぐ川を越えて、救いにと思ったが、待てと、考え当ったのは、ふたたび川の此方《こなた》へ連れ戻ることが、鶴菜どのにとって幸か不幸か、それでござった。――きょう夜があけてみれば仆《たお》れているすがたもない。足軽のはなしによれば、草刈人夫の百姓が、夕闇にまぎれて、遠くどこへやら担ぎあげて逃げて行ったという。……さては怪我はしても生命はあったものであろう。そんなことを、朝から思うていたところへ、折も折、あなたという対岸の敵陣からのお使者。偶然ではありません。善光寺如来のおひきあわせかも知れぬ。……御陣務、お暇はあるまいが、もし何ぞの御寸暇でもあったら、この川中島の界隈《かいわい》、遠からぬ百姓家に手当されておるかと察しられます。尋ねておあげなされ。いや如来の御手をさし伸べてあげなさい」
弥太郎は、銚子を取って、使者へ酌《つ》ぎ、また自分へ酌ぎ、しきりと杯をかさねた。
伝右衛門は、つと席を退がった。
「御芳情にあまえた。充分にいただきました。御君側へ、よろしくお伝え下さい」
「お帰りになられますか」
「ここは免《ゆる》されざる私の草くさ。長居は惧《おそ》れがあります。……なお、また、最前からの其許《そこもと》のお志には、何と申すべきか、お礼のことばも弁えぬ。甲冑を解けばそれがしとて、世の親とかわり無き者でござるが、確《しか》と、物の具を体している身には、たとえ眼の前に、親の死、妻の涙、子の血しおを見ようとも、何の覚えはありません。自身の合戦があるのみです。――従って、今よりお断り申しておくが、今日、ここに御辺と酌み交わして、明日犀川、千曲の流れの畔《ほとり》で、御辺と兵馬のあいだにまみえようとも、初鹿野伝右衛門が槍先は決して鈍るものではござらぬぞ」
「御念には及ばぬ。その儀なれば、鬼小島弥太郎とても」
ニコと笑って、彼も起った。
「――では、麓までお送りしましょう」
虚相実相
日傘を翳《かざ》した使者舟は、ふたたび千曲の水を渡って、対岸へ帰った。
遥か、雨宮の渡し一帯にかすんでいる甲軍の陣気は、いかに使者の帰りを待ちぬいているか、その旗叢《はたむら》に鳴る風の音にも知られるほどだった。
「初鹿野どの、今、帰られました」
中軍にある信玄へ、こう早口な声がつたえられると、帷幕の空気は俄然色めいていた。伝右衛門はつかつかと通って、信玄とその一族諸大将の床几から遠く平伏した。
「……どうだった」
信玄の問いである。
率直な問いに、率直な答えをもって、伝右衛門は、観て来たところをいった。
「――敵営は非常なる落着き方です。謙信の眉宇《びう》にも必勝を期しているかの余裕がうかがわれます。また将士もみなこんどは死を誓って国を出て来たかのようです。陣中の清楚、秩序の整然、一糸の紊《みだ》れも見えません。以上、綜合して愚察しますに、妻女山の布陣は、決して彼の無謀、無策ではありません。さりとてまた、企画ある兵略とも思えません。――そこでいえることは、無策の策、無法の法ということです。素裸の陣です。捨身の斬込みを構えているものです。さもなくては、あのように、主将謙信の中軍に禅寺のような虚《きよ》が感じられるはずはありません。虚即実です。何か、そこへまいったせつな、身ぶるいのわくような虚相と実相の両面に圧し挟まれた気がしました。ゆめゆめそれへ夜討《ようち》朝駈けなどの奇兵を出すべきではありません。実相の内に囲まれても、虚相の空《くう》に囚《とら》われても、悉く生きて帰ることはできないでしょう」
と、縷々《るる》述べた。
もちろん、こちらの口上に対する、謙信の返答も、ありのまま、それはその通り口写しに話した。
信玄は、沈黙して、終始、耳をかたむけていた。毛の生えている耳の穴のわきに一すじの血管が太く膨《ふく》れていた。
日の没するまで、ここの陣中は何やら騒然としていた。それは妻女山の中軍とはまるで正反対なものであった。信玄のいる帷幕には、彼の一族と甲山の星将とが半日も鳩首《きゆうしゆ》して、その人々が入り代り立代り出はいりしていた。陣外の馬匹までが、ここでは実にやかましいほど、悍気《かんき》を立てていなないている。
墨のような秋の夜が、また虫の音と星ばかりな天地を現じた。陣々から霧のような炊事のけむりが立ち昇ってから程なく武田方の旌旗は徐々うごき出した。千曲川の上流へ向ってである。もとより妻女山の敵はこれを凝視していると見なければならない。移動中の側面へ向って、いつ何時、対岸から弾丸の飛雨と騎兵隊の猛突が水けむりをあげて猛撃して来ないと計られない。その備えは充分に構えながら――、すこぶる危険な払い陣を敵の眼の下で行っているのだった。
その蜿蜒《えんえん》たる黒い流れは、千曲川の水幅よりも広く長いかと思われた。そして夜半ごろ、先鋒の一部はすでに千曲の支流、広瀬のあたりを渡渉《としよう》していた。
「……読めた。信玄の肚は」
妻女山の上では、謙信がきっとこう呟いていたにちがいない。――甲軍が広瀬の流れを渉《わた》りにかかったことは、直ちに、その全軍が海津城へ赴こうとするものであることを察するに難くないからである。ひとまず海津の城へはいって、そこの味方、弾正の人数と合し、更にその兵力を大にして、信玄があらゆる智略と用意をもって、この妻女山へ答えようとするものであることが、謙信の胸には、北斗を数えるように歴々と分っていた。
陸の島々
戦略的な眼で、平野を海洋と見るならば、飛々《とびとび》にある丘や山は、これを大洋の島々と見て、その利用価値が考えられてくる。
妻女山に謙信が陣したのも、逸早く、前進拠点として、地の利に拠ったものであるし、信玄が、平地から陣を払って、海津の城へはいったのも、
「素裸の地に長陣《ながじん》は危ない」
と、考えたからにちがいない。
その意味で、城もまたひとつの島といえよう。天険に人工を加えた陸の要塞《ようさい》港である。
海津の城は、三方に山を負い、西の一面だけが、港の口のように、平野に向っていた。その下を、千曲川が流れて、自然の大外濠を成している。
「海津の城を見ずには城を語れない」
これはよく、築城術に熱心な当時の武辺者のあいだで、いわれていたことばだった。
甲斐の名将、馬場民部|少輔信春《しようゆうのぶはる》が、苦心の縄取によるものだともいうし、いや、山本勘介の構想だと称するものもある。
いずれにせよ、ここは越後の国土にたいして、いつでも無言にものをいっている。武田方の突角だ。
武田方としてみれば、この国境の遠くまで、事あるたびに甲府から出動して来ることは、並たいていな軍旅ではない。
故に、常備の要塞兵を置く必要があったし、また、大軍が出て来たときの拠地ともなし、なお長陣に亙《わた》れば、そこの蓄蔵食糧、馬糧、武器弾薬庫などが、極めて重要に役立つことになるのだった。
こういう条件をもつ必要は、もちろん上杉方にもある。甲府からここまでの距離を較《くら》べれば上杉方の本国からここまでのほうが、ずっと距離は短いが、道路の悪さは甚だしい、やはり、本国を離れての外地戦であることに変りはない。
だから彼にも、水内《みのち》郡《ぐん》の北に、髻山《たぶさやま》の砦《とりで》があった。けれど謙信は、そんな拠点などを遠くうしろに捨てて、この敵地深くへ、南下していたのである。
また旭山の一城は、髻山の砦よりも、この戦場の地に近い善光寺と犀川の中間にあるのだから、大いにそこは恃《たの》むべき拠点であるにもかかわらず、謙信は、それすら遥かに捨てて顧みもしなかった。
初め信玄が茶臼山から雨宮の渡しへ陣して、そこの旭山城と妻女山とのあいだを遮断するに至っても、妻女山の謙信には、好んで死地を迎え、その孤立を光栄としているものとしか見えぬ。四十余年の半生を、きょうまで殆ど戦場に過ごして来た信玄も、まだ、曾《かつ》てこういう敵を見たことがないし、こういう陣法のあることを知らない。
啄木の戦法
狭間《はざま》の外は、乳いろに煙っていた。霧とも小雨ともつかないものが降っているらしい。
「兵部は、どう存ずるか。忌憚《きたん》なくいえ」
信玄の眼がそそぐ。琥珀《こはく》の玉のような眼だ。その眼のうごきを中心に、きょうも軍《いくさ》評定だった。
海津城の中である。大仏の胎内にでも居るように薄暗くて洞然《どうぜん》たる感じがする。
昼間だが、所々に、燭が置かれ、湿々《じめじめ》とまたたいていた。
評定に列しているのは、一族、宿将、城主の高坂弾正《こうさかだんじよう》など、極く限られた範囲の有資格者だけに過ぎなかった。
飯富兵部虎昌《おぶひようぶとらまさ》は、甲山の猛虎といわれている勇将である。――名に反《そむ》かず、彼は、信玄から発言を求められると、ためらうことなくこういった。
「かかる無為の長陣も、毎日の御評定も、それがしには、無用と申しあぐるしかありません」
「無用とな」
「士気を倦《う》ましめるに役立っているばかりです。御軍勢一万八千が、甲府表を打立つときは、そのまま一|驀《ばく》に、妻女山を揉みつぶし、一挙、越後領までも、ひた押しにせんず意気込みでした。然るに、その事もなく、いたずらに御陣を更《か》え、敵をうかがい、謙信の心を測《はか》りなど、いつになきお迷いを示され、更に、当城へお籠りあって、かくの如き連日の御軍議に過ごされておいで遊ばす為――当然、兵は無聊《ぶりよう》に倦《う》みかけておりまする」
この人にして、これくらいな直言がいえたといえよう。信玄はむっつりと、厚い頤《あご》を、すこし上《うわ》向きにして聞いていた。
――それから?
と、次のことばを待つような顔をしていると、兵部は、なお語気をつよめていった。
「心なき物の影も、心ありげに観《み》れば、種々に観てとれる。敵の妻女山を繞《めぐ》って、謙信の心を測っているのは、あたかも月夜の物影は、悉く物《もの》の怪《け》の如く疑いあやぶむ愚《おろか》にも似ておろう。それがしが観るに、謙信に策無しと存ずる。彼になんの策あるに非《あら》ず、ただ味方のものの思い過ごしじゃ、われと我が影を投げて、それを解かんと苦念《くねん》する業《わざ》にも似ておりましょう」
「うむ、それも一理」
信玄は、敢て、叱りもせず、反対の言も吐かない。おもむろに、また真田幸隆《さなだゆきたか》をかえりみて、
「そちは」
と訊く。
幸隆は、ことば短く、
「兵部どののお説、ごもっともと存じます」
とのみ答えた。
「逍遥軒には、どう思うな?」
傍らの弟へ向って、信玄はまた同じようなことを訊ねた。
武田逍遥軒も大体、飯富兵部の説を支持して、
「かかるうちに、越後表から更に大部隊の援軍が来合せ、お味方のうしろを断ち、或いは、もっと意表外な作戦に出て来ないとも限りません。その上でのおうごきは、総《すべ》て、後手後手《ごてごて》と相成りましょう」
と、つけ加え、
「また、当信州は、すでにあらまし甲州の御勢力下にあるものを、その信州へ、深く拠陣を突出して来た謙信に対し、しかも遥かに、その敵方より多くの大兵数を擁しておるわが甲軍が、遅疑逡巡《ちぎしゆんじゆん》して、いつまでも手出しも、行動もできぬとありましては、いかにも謙信の器量を怖るるかに見えて、信州諸郡の民心に反映するところも如何《いかが》かと思われます。故に、御決断は一日も早いが利かとぞんじまする」
「うむ、む」
信玄は、それへも頷いた。
そして、独り言に、
「軍評定には、いつもこの信玄に向って、良い師言を吐く老人、小畑《おばた》山城入道は病んで死し、原美濃守もまた先年の割ケ嶽の取潰しに当って深傷《ふかで》に臥《ふ》し、ここ、この時に、ふたりの言を聞かれぬは、何やら淋しい。――この上は、道鬼にたずねよう。道鬼、そちの所存は」
と、山本勘介入道道鬼のほうへ面《おもて》を向けた。
勘介は、もの堅い老人だった。いつもこの老参謀の言は、信玄と相反《あいそむ》く場合が多い。なぜならば信玄は果断直行に富み、この老人は、ひどく要心ぶかいからだった。
ところが、きょうの場合は反対であった。常に積極的な信玄がなおうごく気色《けしき》を示さず、いつも消極的な献言をする山本道鬼が、口をひらくと、明快にこうすすめたのである。
「誰方《どなた》やら最前――敵は無策なり――と喝破《かつぱ》せられた御一言、それに極まるものと、わたくしめも、同感にござります。ただし、その無策は、無智の無策、無謀の無策とは、まったく違うものです。思うに、謙信のそれは、生死をこの一戦に賭し、ふたたび越山の郷土は生きて踏まじ――勝たでは踏まじ――としておる恐ろしい決死の無策と観るべきで、お味方のお覚悟も、よろしく、彼に劣らぬまで、必死を以て当らねばなるまいかと思われまする。そして、それと知るからは、何のためらいや候うべき、彼の望みにまかせて、すぐにも粉砕《ふんさい》撃滅を与えてやるが、お味方にとっても、唯一つの御方針と申すしかございません」
「では、あらましの者が、速戦即決に出よというのじゃな」
「まず……」と各々、各々の面を見交わしながら、
「それと、決まったようにござりますが」
「よし」
信玄は、厚い膝がしらを、組み直した。そして、初めて自分の決心を告げた。
「評定もきょう限り。謙信に何の策もなきこと、この信玄も今は観ていた。謙信みずから死屍《しし》をこの地へ埋《うず》めに来たとあれば、信玄もこころよく思い残りなき一戦をして見しょう。――道鬼、その戦いに、啄木《たくぼく》の戦法を試みんと思うがどうじゃ」
「啄木の戦法と仰せられますか。さすがに御明察。この際、あの敵、至極妙かとぞんじまする」
そのとき城外の濠際《ほりぎわ》で、何か喚《わめ》きあう大声が聞えた。席にいた高坂弾正が、何事かと立って、狭間から首を出して覗き下ろした。信玄以下、諸将もみな、しばらく口をつぐんで、弾正の背を見まもっていた。
「気が立っておる。……お味方の足軽共がまた喧嘩でもしたのではないか」
小山田備中守がうしろからたずねると弾正は、狭間から引っこめた首を振って、
「いやいや、おとといの晩、ひそかに出した大物見の一隊が、ただ今、ひどく射ちへらされて、残る七、八名もみな浅傷深傷《あさでふかで》を負い、城門まで立帰って来たのでした。――あの様子では、よほど深入りして、上杉勢の前哨に取囲まれ、辛《から》くも馳せ返ってきたものでしょう。委細は聞き取って、後よりまたこれへ来て御報告いたしまする」
そうつげると、弾正は、信玄のゆるしをうけて、あわただしくここから一人だけ退席した。
弾 琴
物見のやりとりは、互いに繁《はげ》しい。
死を賭して、敵の本陣へ近づくしか、敵の核心《かくしん》を知る道はなかった。
ふつうの物見は、もとより小人数で行く。一人か二人の場合もある。
ところが、海津城から出た小物見では、生きて帰ってきた者がない。
そこで高坂弾正は、おとといの晩、二十五名組の大物見を出した。これなら敵の斥候隊と出合っても、それを殲滅《せんめつ》して哨兵線を突破することもできようし、あわよくば妻女山の本陣まで接迫して、一人や二人は、何らかの情報を齎《もたら》して来るだろうと期待していたのである。
「又六。もどったか」
弾正は、楼を下りると、すぐ城郭《じようかく》の一室へ、物見頭の高井戸又六を呼び入れて、報告を迫っていた。
又六も、左の手を負傷して、肱のつがいを、接木《つぎき》のようにボロでまいていた。
「多田を越えて、大村まで参りましたれど」
「なに、大村までしか行けなかったと」
「敵の伏勢に囲まれて、さんざん討ちなやまされ、漸く、七名だけ遁《のが》れてきたような有様でして」
「あとはみな討死したのか」
「いえ、べつに、その前から、二人だけは、百姓姿にして、法泉寺の山から大《おお》迂回《まわり》に、土口《どくち》のほうへ忍ばせました。これが、生きて帰って来れば妻女山のもようも知れようかと存じますが」
弾正は、落胆した。
兵は失ったが、得るところはなかった。で、信玄の君前にまた軍議の席へ、何の披露する材料もなかったが、その翌々日の明け方、もう期待していなかった物見のひとりが帰ってきた。又六の大物見から離れて、山また山を迂回し、首尾よく妻女山の本拠を窺《うかが》ってきたという殊勲者であった。
ところが、折角、そういう虎口に入って、得難い敵の実状に触れてきながら、生憎《あいにく》と、その殊勲をあげた物見は、この近郷に生れた樵夫《きこり》あがりで、魯鈍《ろどん》と実直だけを持った男だったため、弾正の質問に対して答えるところが頗《すこぶ》るあいまいで要領を得ないものだった。
以下、その質問と、彼の答えとを、並べてみると、こんな風である。
「おまえは、妻女山まで行ったか」
「へい。参りました」
「妻女山のどの辺まで」
「山の上から、方々、歩いてきました」
「どうして敵に捕まらなかったか」
「わからねえでがす。おらにも」
「妻女山には、何があった」
「上杉方の武者衆が、たくさんいました」
「山上まで歩いたならば、謙信のいる本陣も見かけたであろう」
「へい。ちょうど、山の上に一晩夜を明かしましたで」
「本陣を窺ったか」
「夜半に、琴の音が聞えましたで、はて、変だなと思いながら、木の蔭を、ごそごそ這ってそこまで行きました」
「琴の音が? ……。琴の音とは何じゃ。夢でも見たのではないか」
「おらも、初めは、夢かと思いましたが、覗《のぞ》いてみると、大将の謙信が、小さな唐琴を、膝にのせて、弾いておりましたで、やっぱり夢でなかったと思いました」
「覗いたとは? どこを」
「篝《かがり》の燃えている本陣の内を」
「そこで、謙信がただひとり、深夜、琴を弾じていたと申すか」
「ひとりでございませぬ。陣幕《とばり》の裾のほうへ退がって、若い大将、髪の白い大将、何やら五、六人はおりましただが、みな、居眠っているのやら、泣いているのやら、首をうなだれて、じっとしておりました」
「謙信の弾く琴を聞いていたのであろう」
「そうかも知れません」
「その臣下へ向って、謙信が、何か申したか」
「琴を弾いては、雨曇りの月を仰いで、低声《こごえ》に、歌を謡っているだけでした」
「陣中のさむらい共は、みな元気にみちていたようか」
「馬ばかりよく嘶《いなな》いておりましただが」
「馬のことではない、士気はどう観えたか」
「よく分りましねえだ」
「兵糧は有るようか無いようか」
「ありません」
「ないか」
「ありません」
「士気の旺《さかん》か否かも分らぬそちに、よく兵糧の有無が分ったな」
「足軽や侍の喰っているのを見たら、玄米ではありません、粟粥《あわがゆ》や芋粥です。それから、荷駄馬の骨が捨ててありました。馬の肉も喰べています。山中どこを見たって、豆俵も米俵もありませぬし」
「どうして無事に帰って来られたか」
「雨宮からずっと下流《しも》へ戻って、八幡原の向う側を、ぶらぶら歩いて帰って来ました」
いくら根掘り葉掘りたずねてみても、結局、こんな程度であった。
だが、それを伝え聞いた信玄は、
「それも勇士だ」
と、いった。
そして、厚く褒美をやれと命じ、その覚束《おぼつか》ない敵状資料をつぶさに含味《がんみ》して、何か、彼としては充分に、得るところはあったらしい。
月はこえて、もう九月の上旬である。去月の十六日、ここに陣して、すでに二十日に余る上杉軍としては、よほどな兵糧をあの山に運び上げない限り、兵糧の欠乏しはじめていることは想像できる。
決死捨身の彼の布陣も、そのあいだに、だいぶ意気は消耗したろう。必死の気も、刹那のものだ。その気負いきった鋭角を外《はず》されるとまた、ふだんの煩悩《ぼんのう》に回《かえ》る。
今や謙信以下の者は、自ら潔《いさぎよ》しとなしていた無策の陣に、かえって、虚無を感じ、危惧《きぐ》をおぼえ、退くに退かれず、進むに進まれず、妻女山一帯を生ける屍の墓地としてしまっている。そうだ。それにちがいない。
信玄は、そう考えた。
そして、それを撃滅するには、急ぐにも当らない。むしろここ数日はなお過ごしたほうが得策であるやも知れぬとなして、ひそかに、彼が画策している啄木の戦法なるものを、手ぬかりなく配備し、また充分な効果をあげるべく、人数の割当、部将の配置、時刻、行動、地の理など、鋭意研究し、まだ準備にかかっていた。
その啄木の戦法というのは樹体《じゆたい》の洞《うつろ》にふかく隠れ、容易に外に出てこない虫の群《むれ》を、樹皮の側面から嘴でたたいて怯《おび》えた虫の群がぞろぞろ表面に出てくるところを、思いのまま餌として胃へ呑み下してしまうという、いわゆる啄木《きつつき》なる鳥の智をそのまま理念にとって、乾坤《けんこん》も震う一大|殺戮戦《さつりくせん》を果たそうとするものだった。
白珠一万三千露
長陣となると、倦《う》み易い。
敵には強い兵も、退屈と闘うことは容易ではない。
倦み――飽《あ》く。
この惰気《だき》からわく霧のような心中の敵は、ともすれば不平をささやき怯《ひる》みを誘い、仲間同士のあらを挙げては不和を醸《かも》し、また、郷愁を覚えさすなど――あらゆる煩悩の弱点を衝《つ》いて、鉄壁の士気を潰乱《かいらん》しに蒐《かか》って来る。
一日とて長い長い戦場だ。それを二十日も一月も対陣のまま、じっと息をこらしている兵は、外には戦っていないが、実は箇々の心の内面に、戦い以上の闘いをしている。
――己れに勝つ!
これへの闘いである。これはまた外の敵に打勝つよりも難しくて、より以上の烈しい気力を要するものであり、長陣となればなるほど濃くなって来る日々《にちにち》の声なき苦闘であった。
だが。
ふしぎにも、この妻女山の兵には、そんな沈澱《ちんでん》は見えなかった。
日々、爽やかな秋が送られている。雨の日とて、霧の日とて、じっと一万三千余人の心が、ひとつ塊《かたま》りになったまま、蕭条《しようじよう》たる中に、煙っていた。これを、不動の体というか、朝霧の陽に霽《は》れあがるときなどは、全軍ひとつの精神から湯気が立ちのぼっているように見られた。
理由は、何でもない。
倦怠や郷愁やまた怯気《きようき》などという果てしない迷いは、生命の安全感が比較的多いところに身を置いているときほど執拗《しつよう》に作用して来るのだった。最先鋒よりも中軍、中軍よりも後陣といったふうにである。
だが、この妻女山には、先鋒も銃後もない。敵の海津城と相|距《へだ》つこともわずか一里弱でしかなかった。晴れた日、その山から望めば、かの白壁も、かの旌旗も、あざやかに見えるのだった。今朝ある生命《いのち》も夕べは知れず、夜に結ぶ草間の夢も、あすは知れない生命の露のきらめきに似ている。――ふしぎとそれを観じるのは事なき平常の日の甘い観念にほかならない。ここまで迫るとまったく箇々の生命も研《みが》き澄ました白珠のようになっていた。あらゆる迷執もふり落されてかえって洒々落々《しやしやらくらく》たる天真な笑顔の中に生きていられるのだった。いわんや、この秋《とき》、ただ今日のため、不断に磨き競って来た越後上杉の武者輩《むしやばら》が、この期《ご》においていのち以上のいのちとする士の「道」を鈍《にぶ》らすわけもない。
菊一枝
「短気すな。権六」
「だいじょうぶで」
「どれ。おれが代ってやろうか」
「いえ。もう少しですから」
権六は、身を逆しまにして、自分で掘った坑《あな》の中に首を突っこんでいる。坑の中から主人に答えているのである。
鬼小島弥太郎も、共に屈みこんで、側から径二尺ばかりな坑を覗きこんでいた。権六の手はその足もとへ、鶏のように土を掻き出している。
――と、うしろの木《こ》の間《ま》を、かさこそと、静かに歩いて来る人があった。櫨《はぜ》の紅い葉が、その人の肩に舞った。
「弥太郎。何しておるか」
声に驚いて、ふたりは振向いた。坑《あな》から首を擡《もた》げた権六の如きは、泥になったその顔と両手を持ったまま、悪い事でもしていたように、びっくりした様子で後へ飛び退《の》くなり平伏してしまう。
「お、これは、わが君でござりましたか」と、弥太郎も多少まごつき顔に――「徒然《つれづれ》の余り自然《やまの》薯《いも》を掘っておりました。これなる若党が、薯掘りの上手なりと、自慢いたしますし、また大いに英気を養わんとぞんじまして」
謙信は苦笑した。本陣のすぐ下の崖ではあるが、近侍もつれず唯ひとりだった。歩み寄って、薯の坑をのぞきながら、
「なるほど、自然薯か。さても根気よく掘りおったな。さあ、掘れ掘れ、遠慮すな」
と、促して、
「――有難や、地下にもなお、この天禄があるか。地上の物は、ここ数旬の滞陣に、あけび、胡桃《くるみ》、榎《えのき》の実、山葡萄《やまぶどう》、食える物は零余子《ぬかご》にいたるまで喰べ尽したかに見らるるが、……弥太郎、まだまだあるなあ」
「はい。ありますとも、なお喰おうとすれば、草の根でも、土でも」
「ウむ、む……」
と、笑《え》み頷《うなず》いて、
「麓《ふもと》の者共も、みな元気か」
「されば、ひとりだに、退屈しているものはございません。……が、君には、ただおひとりで、何しにお徒歩《ひろい》でございますか」
「わしも、退屈せまい為じゃ。野菊の花を捜しに出た。しかし、この山には、寔《まこと》に菊が少ないとみゆる」
「ございませぬか」
「……見あたらぬ」
「麓の方で見かけました。採ってまいりましょう」
「そうか。一枝でよい。見当ったら持って来い」
「後刻。自然《やまの》薯《いも》といっしょにお届け仕ります」
「自然薯もくれるか」
「御献上いたしまする」
「折もよし、遠慮せずともらっておこう。野菊の一枝も、待っておるぞ」
謙信は、踵《きびす》を回《かえ》すと、またひとりで、山の上の本陣――陣場平とよぶわずかな平地へ向って、ぶらぶらと登って行った。
重 陽
朝のうちはあんなにからりとしていた秋の日が、午頃から曇り出して来た。妙高も黒姫も遠い山はみな霧にかくれた。ここ数日来、高原地方の天候は定まらないとみえて、真下の千曲川も彼方の犀川《さいがわ》も、甚だしく水かさが増したかに見える。
「もうよろしい。――みなに来いといえ」
謙信の声であった。時雨《しぐれ》もよいな雨気を帯びた風に、四囲の陣幕《とばり》がしきりにはたはたと鳴る中からの命であった。
侍臣が、答えるとすぐ、どこやらへ駆けた。
山の諸所に分れている各部隊の陣所へであるらしい。ほどなく招かれた諸将が前後してここへ入って来た。――直江大和守、柿崎和泉、甘糟近江守、長尾遠江など、いわゆる帷幕の重臣のみだった。
「ほう。これは」
入って来るなり諸将はみな眼をみはった。広やかに筵《むしろ》が敷きのべてあったからだ。しかも各々の坐るべきところには、白木の折敷《おしき》と杯とが備えてある。膳部の折敷には、ちょうど出陣か勝軍《かちいくさ》を祝《ことほ》ぐ時のように、昆布《こんぶ》と栗などが乗っていた。柿の酢《す》あえだの、干魚を煮びたした肴なども見える。ほんのわずかずつではあったが、自然《やまの》薯《いも》も磨《す》り卸《おろ》してあった。
「何事のお召かと存じましてまいりましたが……これはまたいかなるお歓《よろこ》びの祝宴にござりますか」
甘糟近江守がたずねた。
十名からの宿将たちが、のこらずそれへ着席したのを見てから、謙信はにこやかに、
「山中暦日無しというが、去月十四日、春日山の城を立ってから今日《こんにち》でちょうど二十五日目、月もこえて、九月九日。……思わず久しい長陣とはなった。各々も、昼夜、戦のほかに他念なく、疲れもしつらん。旁々《かたがた》きょうは祝うべく楽しむべき日だ。粮米《ろうまい》すらに事欠く中、何もないが一|盞酌《さんく》み交わそうぞ。さあ、くつろいで杯を挙げよ」
といった。
謙信のことばの中の情味をまず酌んで、諸将は杯へ唇を触れないうちに胸を熱くした。
直江大和守が、なお訊いた。
「きょうは、楽しむべき日だとの御意にござりましたが、何ぞ、お心祝いの御事でも? ……」
「否、否」
謙信は面《おもて》を振って、
「そちたちも忘れたか。九月九日、重陽《ちようよう》の佳節。きょうは古《いにしえ》から菊見る日とされてある」
「おう! ……」みな膝を叩いて、
「左様左様。何さま今日は、菊の節句でござりましたな」
初めて、人々の眼は、筵《むしろ》の中央にある一脚の経机にそそがれた。小さい鶴首《つるくび》の銅花瓶に、一枝の黄な野菊が挿してあった。それが単なる意味の菊でないことに漸く気がついたのである。
「九月九日、九は陽数という。重陽とは陽気重なるという旨であろう。また、菊は延寿の象徴ともいう。漢土にも伝《つた》えがある。汝南《じよなん》の恒景《こうけい》というものの家に、或る日、一仙人がのぞいて曰《い》うには、この秋、災厄あり、それを遁れんと思えば、紅絹《もみ》の嚢《ふくろ》に茱萸《ぐみ》を入れて臂《ひじ》にかけ高き山に登れと。恒景、教えられた如くすれば、果たしてその年、疫病諸村に充ち、家畜鶏犬までもみな斃《たお》れ、ひとり恒景の家のみ難なく寿を全《まつと》うしたという。――わが朝でも、平安の頃よりは、禁裡《きんり》殿上といわず、四民の家々でも、菊を見て心を楽しませ、菊酒を酌んで体を養う。またこの日、高きに登れば、幸いありといい慣《なら》わしておる。……謙信いま、求めずして、妻女山の地に在り、しかも一日の寿、なお天日に恵まれ、かくの如く健《けん》。楽しむべきではないか。祝わずしてどうしよう」
謙信はよく語った。
またよく杯を啣《ふく》んだ。
努めて、諸将の神心を、長陣の鬱気《うつき》を、散ぜんとするもののように。
菊を見ながら、諸将もみなよく杯を挙げた。歓語は沸き、鬱気は飛んだ。だが――しかもなおどこやらに、去りやらぬ一抹《いちまつ》の愁《うれ》いがともすれば沈みかけるのは、どうしようもないことだった。
「殿っ……。愚存を申しのべたく思いますが、おゆるし給わりましょうや」
ついに、怺《こら》えかねたものの如く、直江大和守が口をきった。よくぞ、いい出してくれたといいたげに、右側の長尾遠江守は、眼の隅から大和守を励ました。そして斉《ひと》しく、残らずの者の眼が、謙信の面へあつめられていた。
謙信の鳳眼《ほうがん》は、ぽっと紅をふくんでいた。一同の容子に、彼も、やおら杯を下において、
「実綱《さねつな》か。――何が述べたい?」
と、敢て耳を傾けた。
献言百諫
直江大和守実綱は、謙信の父祖以来三代に歴任して来た宿将中の宿将である。
彼の才幹と忠節は、諸人のみな認めていたところである。謙信の信愛もただならないものがあった。にもかかわらず、このたびの出陣以後には、まだ曾《かつ》て一度も、この元老の献言にも耳を仮《か》したためしがない。また、特に諮《はか》ろうともしないのであった。
大和守に対してすらそうであるから、他の諸将にはなおさらのこと何の評議も求めていない。しかも一日一日、ここの危地は陣地として最悪な条件を加えている。一日停まれば一日の危機が深まるといってもいい。一万三千の生命《いのち》が、いま飢えるか、ここに墓石を積むかにまで、現実は迫っていた。
「――抑々《そもそも》ここの御進退を、如何あそばすお心にございましょうか。日頃の御豪気、御雄胆など臣等《しんら》のいささかもお疑い申しあげる仕儀にはござりませぬが、既に、何よりは御携帯の兵糧が、いまは全く尽きておりまする今日……」
「その事か」
と、謙信は至極手軽に、
「その儀に就いてなれば、疾《と》くここに陣した初めに、呉々申し渡してある。謙信に何ら策無し、無策を以て策とする、虚白《きよはく》、無縫《むほう》の体。そんな事、何度もいう要はない。ただ一言でも悟り得いでか」
と、いつにない叱り方だった。
「はいっ……」と、恐懼《きようく》しながらも、こう主従顔のそろった絶好な機を逃《のが》すまいとするものの如く、大和守は喰いさがって、
「畏《おそ》れながら、わが殿の大腹中、いのちを一つと誓い参らす臣等として、分らいで如何いたしましょう。――さはいえ、敵の信玄は、去《い》ぬる後月《あとつき》の二十四日以後、海津の城に入って、悉皆《しつかい》戦備をととのえ、糧《かて》を満たし、万全を期してなお動かず、飽くまで、お味方を長陣に倦《う》ませ、ひとたび虚あらば、電撃一挺、必勝の勝目を見て事を果さんものと、いわゆる満を持して機を計るの自重をかたく持っておりまする。――顧みて、お味方を案ずるに、今となって、善光寺方面より兵糧の運輸を計らんにも、途中、武田勢の奇襲あるは必定。また、それらの通路も遮断されて、御本国との書状の往来すらままならぬことは先にも度々申しあげてある通りです。かくて、穀糧はいうに及ばず、士卒はもう死馬を喰い、木の皮を煮、じっと、お旗本のうごくまではと、弱音もふかず頑張っておりまするが――かかる敢なき我慢がどれほど続くものではありませぬ。――何とぞ御賢慮一変、いまのうちに、何らかの御善処を仰ぎたく、われら寄り寄りにこの数日は、その事のみ心痛にたえず、実は打揃って、おねがいに罷り出んかと私議いたしていたところでござりました」
「それ程にか。……はてさて、誰も彼も、じっとはしておられぬ性分とみゆる。――ならば訊ねてみよう。汝らの考えから先にいえ。いったいここをどうしたら勝目がつくと申すのか」
「われわれの愚存では、すでにこの妻女山の御陣は深入りに過ぎ、敵の大軍が、海津に拠り、諸道を占《し》めた今日となっては、はや変ずるに至難となりましたものの、なお、今のうちなれば、万策無きこともないかに思われまする」
「奇をとって変ずべしとか」
「さればです。ここに萎縮《いしゆく》し、乏《とぼ》しき粮米《ろうまい》を喰い細らせてあるよりは、むしろ堂々、正攻法を取って、海津の城お取詰あそばし、諸道の敵の散軍を、個々撃滅なされたほうが、遥かに、御栄誉ある戦と考えまするが」
「いやいや、海津を攻めるほどならば、信玄が甲府を出ぬうちに攻める。それすら、彼もし驟雨の如く来て、甲府の大兵いちどに後詰《ごづめ》せば、味方必敗のかたちに墜《お》ち入るべしと、さし控えていた謙信が、何を今更、そのような暴戦を敢て選ぼうぞ」
「それも不利、また無謀との御意なれば、このたびの御出陣は、足ならしの儀にとどめ、一応御帰陣あって、また来春を期し、改めて御発向《ごはつこう》あそばされては如何でござりますか」
「左様な意志はない」
「かかる儀は、やや取越し苦労にすぎるやも知れませぬが、武田方の軍勢はお味方の二倍、その一部を、海津にとどめ、あとの勢を以て、突如に越後領へ駆け入り、万が一にも御本城春日山を取巻きなどいたした場合には……」
「あははは。さもあらばあれ、おもしろき戦《いくさ》になろう。信玄越後へ攻入らば、謙信もまたたくまに甲府を席巻し、彼の甲館《こうかん》へ乗入らんこといと易い業《わざ》だ。――しかもわが春日山の留守には、なお二万の兵と、一年の矢玉は蓄えてある。何の何の、あの賢《さか》しらの信玄が、左様な目先の見えぬことをするものか」
いつか、陽は沈みかけている。陣幕《とばり》のうちははや黄昏《たそがれ》めいた。寒々と落日のこぼれてくる時雨雲の下に、諸将はみな霽《は》れない眉をして立ち上がった。謙信のことばは遂に、その日もわれに策なしに尽きていた。――そしていつか人声もなくなった陣中には、二ヵ所の篝火と揺らぐ夕闇と、時折、木の葉が雨かのように降る微《かす》かな音しかしなかった。
遠けむり
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すめろぎの 天の日嗣《ひつぎ》と
嗣ぎてくる 君の御代御代
隠さはぬ 明き心を
すべらべに 極めつくして
仕へくる いや継ぎ継ぎに
見る人の 語りつぎてて
聞く人の 鑑《かがみ》にせむを
あたらしき 清きその名ぞ
おほろかに 心思ひて
むな言も 祖《おや》の名断つな
大伴《おほとも》の氏と名に負へる ますらをの伴《とも》
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まだ九月九日、重陽の宵である。謙信の多感はなお微酔《びすい》をのこしているのか、夕餉《ゆうげ》の後、ひとり唐琴を膝に乗せて、指に七絃を弾じ、微吟《びぎん》に万葉の古歌をうたっていた。
大伴家持《やかもち》が、一族の子弟に与えるため作ったものという「族《やから》に喩《ゆ》す歌」だった。
篝火の松薪が、パチパチと、小雨にはぜる。
濡れるほどではない。木の葉交じりに、ばらばらと降りこぼれては、その雨雲のあいだから重陽の夜の月は白々《しらじら》とここの山河を照らしていた。
「雁《かり》の声だな」
ふと、眉をあげる。
謙信の顔に、月が白かった。
幕《とばり》の裾に遠くひかえていた老近侍と若ざむらいが、共に顔をあげた。主君の唇がむすばれ、琴がやんだからである。
「はて? ……。誰だ」
謙信はふと、本陣の上にある大きな樹木のうえに、人影がひとつ、鴉《からす》のように止まっているのを見つけて、凝視し出した。
が。すぐそれは味方の物見が、昼夜交代で、海津の城を不断に見張っている――その役目の者と気づいたらしく、
「あの男を呼び下ろして来い」
と、命じた。
心得て、近侍のひとりが、すぐ馳け出して、間もなく樹上の物見の男をつれて来た。謙信自身が、親しく召寄せて訊くなどということは、あいだに無いことなので、男は何か落度でも咎《とが》められることかと、畏怖《いふ》している容子であった。
「こよいのような晩でも、海津の城は望めるかの」
謙信の質問は平易なことでありその声はやさしかった。
物見はやっと安心したように答えた。
「月のある間はおぼろながら見えますが、月が隠れると殆ど何も見えません」
「それはそうだろうな」と笑って、
「間断なく、樹上におるのも大儀だの。こよいは海津の方面に、何の変ったこともないか」
「はい、何も異状はございません」
「そうか。千曲川の河原の方にも」
「先程、城の西口から河原の低いほうへかけて、いつにない煙がたちこめて見えました。初めは、夜霧かと思いましたら」
「――煙が?」
「左様でございまする」
「今もか。……今もまだ、煙が見えるか」
「まだ、薄々と、立ちのぼっておりまする。てまえ、考えまするに、夜食の炊事の煙とぞんじます。かような雨雲の晩なので、常のようにのぼらず、城壁から低く低く立ちこめますので、初めはちょっと怪しみましたが……」
「よしっ。去れ!」
それは一喝の声に近い。何ものに衝《う》たれたのか、唐琴も膝から落ちるにまかせ、謙信は、途端にぬっと身を起して、物もいわず、陣幕の外へ大股に出て行った。
明暗刻々
謙信は佇立《ちよりつ》していた。
陣場平《じんばだいら》――そこの本陣の位置から更に一だん小高いところの山鼻の端《はし》まで登って、凝然といつまでも立っていた。
近側の諸将や、旗本たちは、
「や。何事が起って?」
と、附近の幕囲《かこい》、小屋の内から、わらわらと彼のすがたを追って来て、そして遠くにうずくまり合っていた。
「…………」
ここから見る千曲、犀川の上流、約一里弱の彼方に海津の城はある。山また山の遠くから、ここ妻女山の裾まで一帯につづいている広い盆地の平野もことごとく一望のうちにあった。
「……?」
謙信のひとみは、彼方の海津城の一点にむすばれている。いつまでもその凝視をつづけていた。
けれど宵は暗い、おまけに雨雲空。
その雲間から一瞬の月が映《さ》し、また一瞬に暗雲が閉ざした。明滅定まりなく、天地は絶えず暗くなったり明るくなったりしていた。
「駿河はおるか。宇佐美はおるや」
「おりまする」
「直江、甘糟もこれへ来てみい」
謙信はうしろへ向ってさしまねいた。
宇佐美駿河守、直江大和守、甘糟近江守の三人が、つと側へ寄って、謙信の面を仰いだ。――謙信の眼はなお遠くへそそがれたまま足もとに寄った誰をも見ようとはしなかった。
「殿っ。……何か、敵の海津にこよい異変でもお認めになりましてか」
「あれ、見よ――」
白々と、そのとき、月は謙信の面から全山河を照らし出した。指さす謙信の手まで白かった。
「最前から今もなお、海津に煙が立ち昇っている。常の夕炊《ゆうかし》ぎなら時刻はもうちっと早いはずじゃ。それにいよいよ旺《さかん》にたちこめるは、日頃の炊煙にしては夥《おびただ》しすぎる。――思うに、明日明後日までの兵糧までととのえているとみゆる。必定《ひつじよう》はこよいのうちに海津の大軍、城を出てわれに戦いを仕掛くる意志と見えた。――うれしや、よろこばしや、時は来たぞ」
そういい結んで、更に一語、
「こちらも、支度だ」
ニコと、真実、よろこばしげにいった。
無策はやはり単なる無策ではなかった。この機を待ち澄ます呼息《いき》だった。鼓を打つにも「間」は計る、あらゆる芸能にも「間」は必要という。兵法の妙機も「間」にあった。
「防備は、いつなと、抜かりなくついております。敵来たらば、願うてもない倖せ、一段、二段の柵まで踏ませず、ただみなごろしを加えてくるるばかりです」
宇佐美も甘糟も、忽ち、防禦防戦とのみこんだものらしい。謙信がいった――支度を――という意味をである。
で、言下にこう答えると、謙信は、否とかぶりを振って、幾分、笑いをふくみながらいった。
「ここは仮の足場、ただ彼の変を待つための足溜りに過ぎない。彼すでに変をあらわす、謙信にも自ら取る位置がある。防禦防戦、総じて、受身はとらず。謙信が望みは春日山を発してから寸毫《すんごう》も違えていない。すなわち飽くまで攻勢に――踏み込み、踏み込み、信玄の陣中へ謙信の陣を持ち入るにある」
そして、矢立《やたて》を求め、筆を把《と》って直ちに、出動の準備と心得方とを、数箇条に書いて、
「すぐこれを各部将の手勢へ布令《ふれ》るように」
二、三将の手にゆだねた。
奇と正
軍令状は、すなわち軍法である。
いま謙信の手から発しられたそれには、こう書き流されてあった。
一 味方士卒にいたるまで、唯今より即刻、兵糧をつかい申す可《べき》こと。
一 有限《あるかぎ》りの物、腰兵糧につくべし。要は明日一日の分にて足る。
一 かねてこの事ながら甲冑|弛《ゆる》みあるべからず。草鞋の緒かたくせよ。
持道具めいめい日頃手馴れの物たるべし。奇を好み、身に過ぎたるは持つな。
不得手の獲物損あり。
一 亥《い》の下刻《げこく》(午後十一時)陣払い。
一 陣所立ち退く前に、諸所の篝火は殊更つよく焚き捨てよ。
紙旗、有る限り立て残すべし。
一 敵|先鋒《せんぽう》の散兵、間者輩、疾《と》く山へ潜り入ること備うべし。
味方、山を出るあとになお百名の屈強は残し行くべし。
敵の忍びあらば逸せず討果すこと。
一 予が中軍の馬廻り、大勢は無用、ただ十二人と定むべし。
千坂内膳 市川主膳 和田兵部 宇野左馬介 大国平馬 和田喜兵衛
芋川平太夫 永井源四郎 岩井藤四郎 竹俣《たけまた》長七 清野国生 稲葉彦六
以上は、書付触れであったが、そのほか口授《こうじゆ》伝令で、麓の諸部隊にまで告げ渡って行ったことばには、
「明日、御大将には、遽《にわか》に、御帰国のお旨、仰せ出された。故に、ただいまより匆々《そうそう》に、荷梱《にごり》を仕舞い、荷駄にくくし付けられい。火急なれば、亥の下刻前に御発向仰せ出さるるも計り難い。いつなん刻《どき》にてもすぐ腰立つようお構えあれ。もし途中、敵軍の遮《さえぎ》るあらば、切って善光寺へ出ずるものとお心得あってよかろう」
もちろんこれは寸前まで味方の士卒のあいだにも兵略の機微《きび》を漏らすまいとする万全の用意から出た揚言《ようげん》であった。
一方――
その夜、その時刻のころには、甲軍の海津の城でも、戦気殺気、みちみちていた。
二万の軍勢は、はや一人のこらず、足ごしらえまで済まして、城郭《じようかく》の中の広場に、
大奇の部
大正《たいせい》の部
の二手にわかれていた。
腹いっぱい、兵は飯も喰べ終っている。腰兵糧も十分に持った。鉄砲隊は、各々火径を二尺五寸|断《ぎ》りとし、束《たば》ねて二つ折に腰にさげ、革の弾筥《たまばこ》二つ宛《ずつ》、これも左右の腰帯にくくる。
大部分は、長柄隊である。三間柄、二間半などという長槍を林のごとく持つ甲州自慢の中堅で、いわゆる騎馬精鋭中の精鋭は、多くこの組にあって、
「この一期に」
と、迫る一戦に、腕を撫して、大功を心がけているのである。
「どうしたのだろう」
「まだかなあ」
犇《ひし》めき、犇めき、二万の兵馬は、限られた城郭の中だけに押しあい揉み合いして、ひたぶる進軍の令を待ちしびれていた。
信玄もすでに身を固めて、望楼に床几《しようぎ》をすえ、眼の下に揺れ合っている味方、遥かな妻女山の方へも、こよい一際《ひときわ》、らんらんとしている眼をくばっていた。
かかる間際にも、甲軍の物見は、どうして嗅ぎつけて来るものか、妻女山の動静をつたえて、
「敵はこの宵から荷駄|荷梱《にごり》をくくり始め、どうやら彼処《かしこ》の地をうごく気配に窺《うかが》われます」
とか、また、
「越後勢は、明日陣払いして、本国へ引揚げる様子」
とか、いう情勢を齎《もたら》して来る。
「さてこそ」
と信玄は、作戦の図に中《あた》って来たことを喜悦《きえつ》していた。
月の入り
甲軍の作戦内容は、大略、全軍を二分して、例の啄木の戦法で、敵の一面を搏《う》ち、一面を捕捉殲滅《ほそくせんめつ》するにある。
全二万のうち、一万二千人を、大正の備えとし、山の手の多田越えを経て清野《きよの》に出、いわゆる正法攻撃をもって朝懸《あさがけ》に堂々かかる。
べつの八千余名は、まったく方向を変えて、広瀬の渡しを越えて、川中島の平地に進出し、上杉軍が妻女山を降って、この方面へ崩れ立って来ることを必然と見越し、いわゆる奇法をもってこれを要撃するという兵略であった。
「時刻は、いま何刻?」
信玄は、度々たずねた。
侍臣のうちには天象、風向き、気温、晴雨など、そればかり測っている顧問がいる。それは儒者めいた老人で、いつも山本勘介入道道鬼の側にいた。
「亥の刻(午後十時)もはや下刻に近い由にございます」
答えたのは勘介入道である。信玄はうなずいて、また、
「月の入りは」
と、問う。
勘介はまた顧問に糺《ただ》してから答えた。
「こよい九月九日の月の入りは、子《ね》の刻の六分過ぎ(午前零時四十分頃)の由にござります」
「では、間もないな」
「間もございません」
「民部。馬場民部やある」
「はいっ、これに」
「子の刻になったらすぐ貝を吹かせよ。出陣の太鼓打鳴らせ」
「承知いたしました」
「城門を出るには、大正の一万二千を先に立たせい。逸《はや》り争わぬように」
各将、心得はもう十分だった。しかし信玄としては、念に念を入れていた。
こうして勢揃いまでしながら、いたずらに時刻を過ごしているのも、夜空の天候が、更《ふ》けると共に一変して来たからである。宵のうちには、乱雲|飛々《ひひ》のあいだに、月のこぼれて来る間は短く刻まれていたが、いつのまにか大空の雲は片寄って、広い星梨地《ほしなしじ》の天体が研《と》ぎ出されていた。正法、奇法の襲撃を問わず、戦いを仕掛ける方にとって、月夜を嫌うことはいうまでもない。
しかし、それも夜半までだった。
「太鼓番っ。打てっ」
馬場民部が合図の声を放つのと同時に、望楼の三面に向って立っていた三名の螺手《らしゆ》も、貝口を唇にあてると、満身の息をこめて吹き鳴らした。
長く。短く。また長く――
たちまち脚下の満城の地には、草摺《くさずり》のひびきや馬蹄の音が鏘々《しようしよう》と、戛々《かつかつ》と、眼をさました濤《なみ》のように流れ出すのが聞えてきた。
「では、お先を承りまして」
山本入道道鬼が、まず座を立った。
つづいて、
「――御免を」
と、飯富兵部、春日弾正、馬場信春、真田幸隆、小山田備中守、甘利左衛門尉、相木市兵衛、小畑山城守など、続々、信玄にあいさつして、信玄の周囲から立去った。
それらの諸将はみな、妻女山の正法攻撃隊に属し、山の手越えにまわる人々であった。
信玄自身は、先発一万二千の出城を見送ってから、約半刻ほどおいて海津を立った。奇法要撃隊の八千をみずから率《ひき》いて道をまったくべつにとり、広瀬の渡しをこえて八幡原へと志したのである。そこまでの道程とては大してないが、一万二千の兵馬、つづいて八千余人の列を作って城門から出るにはかなりな時間を要したとみえ、目的の川中島のてまえ八幡原に着陣したのは、もう払暁《ふつぎよう》に近い上刻《じようこく》(午前三時半)頃になっていた。
これへ着くやいな信玄は、
「本陣は、八幡神社の境内に」
と、すぐ指定し、
「要所要所、土を掻きあげ、土居《どい》(防塁)をつくり、壕(塹壕《ざんごう》)を掘れ」
と、命じた。
まだ真っ暗な地上に、工兵たちが、孜々《しし》として活動しはじめるうちに、はやくも信玄の本営の幕囲《かこい》は八幡神社の境内に張り繞《めぐ》らされ、かの孫子の大旆《たいはい》、諏訪明神の旗は、もう血ぶるいして鳴りはためき、帷幕の十二将、百余騎の旗本たちを初め、八千の全将士は、眉を霧に濡らし、草鞋|脛当《すねあて》を草露に埋《う》めて、ともすれば上《うわ》ずりやすい英気を確《しか》と丹田に嚥《の》み下《くだ》していた。
ゆうべは宵まで雨のこぼれたせいか、今暁の霧のひどさは格別であった。咫尺《しせき》も弁ぜずという濃霧である。ために、旗や馬印からも、兜の眉《ま》びさしからも小雨が降っているのと違わないほど、のべつぽたぽたと雫《しずく》が落ちていた。
捨て篝火
山越えの迂回をとった正法攻撃隊の進路は、かなり難行軍だった。
西条から道は登りとなり、多田越えはわけて道が狭い。
月の入りを待って立ったことなので、忍び松明《たいまつ》は充分に携帯したが、それも余りに火光で天を焦がすと、敵の偵察に嗅《か》ぎ知られる惧《おそ》れが多分にある。
山は小さいが、峰道もあり谷もありして、清野へ出るまでには兵馬は汗をしぼった。近間な距離ながら時間を要したこというまでもなく、曳々《えいえい》として人馬はすでに戦っているに等しい呼吸《いき》だった。
「ひどい霧だ……」
「天の御加護。敵は近々と寄るまで、何も気づくまい」
途中で甘利、真田の二部隊は、べつな道へ岐《わか》れた。
物見平の上から、妻女山の搦手《からめて》へ、虚を衝くためにであった。
時。――夜は白《しら》みかけてすでに今日は九月十日。
こんどの大戦初めての喊声《かんせい》は、この夜明け、この攻め口から、わあっと揚がったのである。
朝懸《あさがけ》だ。
攻め貝、鉦《かね》、押太鼓。いちどに天地をゆるがして、側面、正面から、妻女山へかけ上った。
一万二千のあげる武者声は、声だけでも天地を震う。
まるで灰のように小禽《ことり》が立った。満山の木々はおののき、落葉は雨のように降り、濃い霧は渦まいた。
「や、やっ?」
「ややっ?」
「空陣《くうじん》だ」
「紙旗だ」
ここ、彼処《かしこ》に、同じ驚愕と、同じ虚《うつ》ろな叫びが聞え出した。すさまじい勢いでぶつけて来たこの山にはすでに人影もなかったのである。霧にぬれた紙旗の腹立たしさ、まだどかどかと燃え旺《さか》っている捨《す》て篝火《かがりび》の憤《いきどお》ろしさ。
「出し抜かれた!」
武者草鞋の夥《おびただ》しい足は、全山の擬装陣地を、蹴ちらし、踏みつぶし、そしてまた、戒め合った。
「油断するな」
「どこに敵が現れるやも知れぬぞ」
「残念。すでに謙信は、味方のうごきを、先に知っていた!」
遅し、遅し、武田軍。
謙信はそう微笑んでいるであろう。彼の陣払いは、ゆうべまだ月光のあるうちに行われていた。静かに、きれいに、手際よく。
兵は枚《ばい》をふくみ、馬は唇《くち》を縛《ばく》し、月下、山をくだって、千曲川の渡渉《としよう》にかかったころ、漸く、月は没していた。長柄の刃先、太刀の鞘を暗い秋の水にひたしながら、全軍の長蛇は粛々と、狗《こま》ケ|瀬《せ》の対岸へ越えていた。
「近江、近江っ」
と、謙信はふと、早瀬の前に馬をとめた。そして、甘糟近江守を後続隊の中から呼んで、
「――寄れ。ここまで」
と、自身の鞍わきまでさしまねき、馬上から身をまげて、何か彼の耳へささやいた。
動脈・静脈
「――其方の一隊は、われらの本軍と別れて、ここより数町先の上流、十二ケ瀬を渡って、この千曲の北岸、小森附近に陣をとれ」
「はいっ」
「そして、この広い闇の野と、深い霧の河原とを、悉《ことごと》く敵の影とも思って、注意を怠るな、うろつく物見と見たら一人も討ち洩らすな」
「承知いたしました」
「甲軍の主力は、おそらく広瀬の下流を渡り、八幡原へうごき出たものと思わるる。――彼の左翼、すなわち其方の陣する所から北東の平野一面こそ、もっとも敵に接近する地域となろう。彼の動静に耳すましながら、変化あらば、その都度《つど》謙信のあとより追馳《おいぱせ》に伝令を発せい」
「はっ。お旨のうち、よく分りました」
甘糟近江守は、馬上の謙信へ礼をして去った。――お旨のうち。それは謙信の希望する布陣の展開を意味する。――それを謙信が成し終るまでの半刻《はんとき》の機微なあいだを、いわば監視隊として甲軍に備えていよとの命令なのだった。
約一千の甘糟隊《あまかすたい》は、千曲の南岸を駆けて、十二ケ瀬へ急いだ。
下流の雨宮の渡しからそれを凝視していると、忽ち小森の岸へ向って、渡河してゆく甘糟隊の影が、白い飛沫と、夜霧に煙って、人か水か、水か霧か、ただ幻《まぼろし》の動くとしか見えなかった。
「――よし!」
謙信の駒も、脚を洗《きよ》めて、川波をざぶざぶ渡っていた。
川水の涸渇《こかつ》しているときは、河原の水は大きな一筋にしかなっていないが、水源地の山岳に雨が降り嵩《かさ》むと、忽ち、ここの広い盆地は、あたかも人間の動脈と静脈のように無数の水脈を描き出す。時しも秋、四方の水声はもっとも烈しい季節だった。
まだ晦《くら》し
甘糟近江守の一隊をのぞいて、直江大和守の大荷駄隊を先頭に、全軍は渡りきった。馬も人も濡れ光っていた。
「叱《し》っ……馬を嘶《いなな》かすな」
馬の口輪でも外《はず》したか、悍気《かんき》を立てた一頭が、耳、鬣《たてがみ》を打振って、高く嘶《な》いた。あわててそれを叱りながら、組の部将は飛びついて、馬の首をふところへ抱《だ》きしめた。
――嘶《な》くな。後生だから。
馬へ頼まないばかりに宥《なだ》める。まさにこれからの前進は、一歩一歩に密《ひそ》かを要した。
チラチラと、兵の腰から赤くこぼれる光は火縄の火だった。極力、敵に覚《さと》られまい為にはそれを秘したいところだが、敵はすでにすぐ鼻先にぶつかるかも知れないのである。敵を見てから火縄を点じたのでは間にあわない。
左に北国街道らしき並木。
行手に、犀川《さいかわ》の水音、また丹波島《たんばじま》の木立らしい影。
何しろ、霧は深し、夜は明けぬ闇なので、確たる目標はつかないが、先鋒の柿崎和泉守が方向をさぐりさぐり進むのに従《つ》いて、全軍およそ一万二千余の兵と馬と車とは、あらゆる物音をひそめながら、やがて川中島を踏みしめ、北進北進して、犀川の際までそのまま行軍した。
ゆうべ、妻女山を陣払いするに当って、遽《にわか》に、
(総軍越後へ帰国)
と聞かされ、そうとばかり信じていた大部分の士卒は、ここへ来るまで、勿論、犀川をなお北へ渡って、善光寺方面へ行くものという考えを少しも疑っていなかったが――先頭の大荷駄、また先鋒柿崎和泉の隊、二陣本庄隊、三陣村上隊また新発田隊、長尾隊、つづいて中軍の謙信以下の旗本群まで――犀川の水を前に後《しり》え押《おし》に脚なみを停めてしまった。
むらがりあう馬と馬、兵と兵とのあいだから、奔々《ほんぽん》と閃《ひらめ》く川水は前方に見えるが、柿崎隊の大《おお》蕪菁《かぶら》の馬簾《ばれん》や、中軍の中之丸旗、毘沙門旗《びしやもんき》のいたずらに啾々《しゆうしゆう》と嘯《うそぶ》くばかりで、いつまで経っても馬すすまず兵渉《へいわた》らず、ただ後から後からと来る兵馬がここに万余の影を重ねて、見るまに真っ黒な大集団を霧の中に肥らせてくるばかりだった。
「――渉《わた》り出したか、先鋒は」
「まだだ。……まだらしい?」
「どうしたのか。いったい」
「わからん。何か、中軍の御主君をかこんで、諸大将が寄っている」
「立ち評定か」
後方の足軽組などのあいだに、そんな私語《ささやき》がやや騒《ざわ》めきかけたと思うと、たちまち謙信の声と、その姿とが、全軍の上へ向って、
「小荷駄、大荷駄をのぞき、先鋒隊より順次、犀川を左に見て、東――八幡原のほうへ向って徐々|迂回《うかい》前進せい」
という大号令が聞えた。
馬の草鞋はまた石ころを蹴り出した。急角度に、兵列は右へ右へと旋《まわ》り出した。そしてこんどは、それまでの縦隊一列を、歩みつつ旋《まわ》りつつ変更して、各部将の指揮の下に、三行四段という陣形にはっきり備えを正し始めた。
時に、時刻は寅(午前四時)か、卯の刻(午前六時)には間のある頃。
もちろん天はまだ暗い。
その暗いのと、霧のために、このときまだ、越後、甲州、両軍とも気づかなかったが、すぐ前方の八幡原には、すでに武田の大軍陣を布き、信玄の牙営《がえい》とさだめた八幡神社の周囲には、旺《さかん》に壕を掘り、土塁を築きなどし始めていた時分であった。
その相互の距離は、勿論、後になってから分ったことではあるが、両軍の先鋒と先鋒、わずか十町ほどしか距《へだた》っていなかったのである。
一軒家
「おや。……何であろう?」
鶴菜《つるな》は、枕から面を擡《もた》げた。
病んでから二十日余り、寝床のうちに籠りきりだったせいか、旅焦《たびや》けに小麦色していた頬も頸《くび》も抜けるほど白くなっている。
「おお、馬の嘶《いなな》き……あの人声……ただ事ではない」
耳を澄ましていたが、やがて恟《ぎよ》っとしたように、どこかしら痛むらしい体を無理に寝床の上に起して、
「神主さま。神主さま!」
と、次の部屋へ呼びたてた。
ここは八幡原の真っただ中、一叢の木立に囲まれている一軒家だった。家のそばには蒼古《そうこ》とした鳥居がある。そして日頃は、老いたる禰宜《ねぎ》と家族が住んでいた。
二十日ほど前の黄昏《たそがれ》、鶴菜は千曲川の岸で弾に中《あた》って倒れ、居あわせた馬糧刈りの人々に担《にな》われて、ここの社家まで救われ来たのであった。
それからずっと――
彼女は、親切な老禰宜の世話になって、傷口の養生をしていたが、鉛丸《なまりだま》の除《と》り方が素人療治であったせいか、左の脚の甲からくるぶしがひどく腫れあがり、今以て十歩とあるくこともできないのだった。
「神主さま! お内儀《ないぎ》さま」
返辞がない。彼女は這った。そしてなお次の間へさけんだ。
「いよいよ戦です。すぐこの近くで戦われそうです。はやく今のうちに、お子達をどこかへ移さないとお怪我をしますよ。流れ弾や、反《そ》れ矢《や》が、こちらへも飛んで来ましょう……。お内儀さま、お眼ざめですか」
脚が痛む。起とうとするが起てない。這い寄って、襖を開けた。
そしてまた、もう一間《ひとま》を、這って行った。
返辞のない筈。老禰宜もむすめも、その子どもも、どこへ行ったか、寝部屋は藻抜《もぬ》けの殻になっている。彼女はちょっと茫然《ぼうぜん》としたが、またかえって安心もした容子だった。逸早く、むすめは子を負い、むすめの良人は老禰宜を扶《たす》けて、どこかへ避難したにちがいないと察したからである。
「ここへ陣したのは、甲軍であろうか、越後勢か?」
彼女自身は、この一軒家に、ただ独り取残されたことを、さして悲しむふうもなければ、寂しむ面《おもて》も見えなかった。
外の杉木立は轟々と空に吠《ほ》え、落葉の声が、霧を捲く。風がこの家を馳けめぐる物音の中には、明らかに兵の跫音《あしおと》も交《ま》じっていた。
ここの家族たちが逃げ出す時、開け放して行ったのだろう。縁の雨戸も除かれ、台所の戸は仆《たお》れていた。――その暗い水瓶《みずがめ》のあるあたりに、ぬっと巨大な人影がうごいた。そして、がたがたと、音をさせていたかと思うと、そこから手桶《ておけ》を捜し出して、すぐ裏の井戸の側へ寄って行った者がある。
ざあと釣瓶《つるべ》をあけて、手桶へ水を汲み入れていた。その巨大に見える鎧武者の影である。
「あっ。お父上っ。お父上ではございませんかっ……」
鶴菜は、絶叫した。
釣瓶の竿を握ったまま、鉢金《はちがね》の兜《かぶと》、薄金《うすがね》の面頬《めんぼお》に、ほとんど眼と鼻だけしか現わしていない武者の顔は、屋内を振向いて、ややしばらく鶴菜の影を凝視していた。
鎧える親
武者は、唖か聾のように、何の反応もあらわさない。釣瓶を離した。その手に水桶を提げた。もう黙然と先へ歩いてゆく。
「……もしっ!」
彼女は、縁を駈け下りた。というよりも転げ落ちた。
とたんに、足の腫《はれ》も痛みも彼女になかった。水桶を提げて杉木立の小道を彼方へ行く、武者に追いすがって、
「お、お父上様ではございませんか。あなた様は甲州のお旗本、初鹿野伝右衛門様でございましょうが」
「ちがう」
「いいえ、ちがいません」
「ちがう、ちがう」
「でも、鎧の胸当《むねあて》にある御紋は、初鹿野家の抱茗荷《だきみようが》の御紋です」
「抱茗荷は他家にもある」
「無いと記憶《おぼ》えておりまする。甲府の家を離れてもまだ四、五年の年月しか経ちません。家の御紋を忘れてどうしましょう」
「何者だ、そちは」
「鶴菜でございまする。父上さま。その御眼《おまな》ざしや、お声だけでも、実の子には分ります。なぜ、鶴菜かと仰っしゃっては下さいませんか」
「知らぬ」
「むごい仰せです。まだ年も十四の頃、お父上に伴われ、善光寺に詣でた途中、にわかに厳しいおいいつけをうけ、甲州の御為《おんため》じゃ、主君への忠義じゃ、汝を捨てる、越後へ拾われて行けと、わたくしの身は、世話人の手にかかり、春日山のお旗本黒川大隅さまの家へ奉公にやられました。……そしてお別れ申すとき、お父上から懇々《こんこん》申しつけられたとおりを守って上杉家の出来事、御城下のうごき、御家中の取沙汰など、絶えず事細《ことこま》やかに、お文を以て甲府へ密報しておりました……。それなのに」
どこかで、弾音《つつおと》がした。ぐわうんと、音波は広い野を縫い、霧を揺すり、ここの木立までを貫《つらぬ》いてくる。
「離せっ。ここをどこと思う」
伝右衛門は脚をあげた。
鶴菜の背へ桶の水がかかった。わがむすめよりは、その水のほうが、遥かに大切であるかのごとく初鹿野伝右衛門は見向きもせず、杉の木の間を駈け去った。
機微寸前
鰹木《かつおぎ》の立っている檜皮葺《ひわだぶき》の一宇が見える。八幡神社の古い拝殿だった。それと背中合せに南面して、かなり広い地域にわたって諸所に陣幕が張り繞《めぐ》らされている。
信玄のいる本営は、ここら辺から方一町に及ぶ全部がそれといっていい。どこの、どの幕囲のなかに、信玄その人が床几をすえているのか、旗じるしや馬簾《ばれん》だけを的に捜したのでは分らないほど、同じような幕営がいくつもあった。
「よい水を求めて参りました」
初鹿野伝右衛門は、その一つへ身を潜《くぐ》らせた。そこには明らかに信玄の姿があった。
床几を空にして、信玄は立っていた。彼の満身には戦気が立っている。夜来の烈しい血しおのうごきが、自然、口腔《こうこう》を渇《かわ》かせて来るのであろう。彼はさっきから頻りに一杯の水を欲しがっていたのである。足軽でも奔《はし》らせるべきではあるが、主君の飲料水となると小者では心許《こころもと》ない。私が――と伝右衛門自身歩いて、漸く捜しあてて来た井戸水であった。
「ああ、うまい。満足した」
柄杓《ひしやく》の水を、約半分ほども、一息に飲んで、信玄はそれを桶へ返した。
からりっと、柄杓の柄が、桶の縁《ふち》に鳴った。それが何らかの暗示でもあったかのように、彼の毛の生えている大きな耳がびくと立った。
「……はて。伝右衛門、其方《そち》には聞えぬか」
「何がでござりますか」
「異様なものだ……何がともいえぬが」
「鉄砲の音なれば、つい唯今戻って来る途中で耳にいたしましたが」
「いや、あれは、典厩信繁《てんきゆうのぶしげ》が陣地の臆病な哨兵が、何かを粗忽《そこつ》に見ちがえて、慌てて一発放したうろたえ弾《だま》だ。――そんなものではない、もそっと夥《おびただ》しく、しかも色もなく音もないものだ。何といおうか。この深い霧のながれの真白な闇が、惻々《そくそく》とわが陣営の上にそれを告げ迫っている心地がする。……そうだ、やはり兵馬のうごきだ。豊後《ぶんご》っ、豊後」
幕口の一方に、四、五人の旗本たちと長柄を掻《か》い持って警固に立っていた諸角豊後守が、はっと五、六歩出て答えた。
「要所の壕は掘り終ったか。土塁も築き終ったか。それともまだか」
「まだ、内藤殿の陣前、小笠原殿の陣の横などで、足軽どもが急いでおりますが」
「……ではその声かの? えいえいと喘《あえ》ぐ声か」
と信玄はまた思い直して、しばらく床几に心を落着けようとしているふうであったが、また突如として、物見頭の望月甚八郎を呼びよせ、
「そちの手より放った物見共、雨宮《あまみや》の渡しや、小森方面の気配《けはい》など、まだ何も告げて来ぬか。戻ってきた者はおるか」
と、たずねた。甚八郎は、
「まだ一名だに――」と、すこし恐縮して答え、
「自身、見てまいりましょうか」
と、信玄の顔を窺った。が、その時、信玄の感能は何ものに触れたのか、その大きな眼を空へつりあげ、からだも共に、床几からぬっくと起して、
「あら、思いがけなや」
と、ひとり大声にいった。
「まだ妻女山へ襲《よ》せた味方からも、何らの伝令もなし、物見もみな帰らぬというに、これへ敵上杉の軍勢の来るいわれはないが……何としてか! ……夥《おびただ》しいあの人馬の音は?」
彼のことばに、幕中の将士もみな耳をたてた。鏘々《しようしよう》と甲冑《かつちゆう》のひびきが聞える。明らかに簇々《ぞくぞく》と兵団の近づくような地鳴りがする。すわと、にわかに信玄のまわりは色めきたった。
「あわてるな」
信玄は、途端に、悠然たるものを示した。彼の顔色とその巨きな恰腹《かつぷく》を見るとみな気が鎮《しず》まった。信玄は呼びたてていた。
「浦野民部。民部左衛門やある。すぐ物見してまいれ。辞儀無用っ。早く」
あっと、答《いら》えがするとすぐ、民部左衛門の半身が陣幕の上に高く見えた。馬の背にとび乗ったのだ。
一鞭加えたと思うと、またたくまに引返して来た。ずしと鞍からとび降りると、すぐ信玄のまえに跼《ひざまず》いて告げた。
「やはり敵軍にござりまする」
「何。やはり上杉勢か」
「長い長い縦隊をもって北へ北へ進路をとり、犀川の方へ向っております」
「その先鋒は、犀川を渡ったか、渡らずにあるか」
「その辺より、右折して、次第に大きな彎月形《わんげつけい》を作っておりますが、あの歩足振《ほそくぶ》りでは、合戦が始まるにしても、さまで急に、捗々《はかばか》しいことには及ぶまいかと存ぜられますが……」
と、語尾をにごして、浦野民部左衛門は、信玄の眼を見た。信玄は、彼の眼のうちのものを「うむ」と、大きな頷《うなず》きと共に読みとった。
物見の報告にも、仕方がある。味方の士気を挫《くじ》くようなこと、狼狽を駆り立てるようなこと、また、敵の強味などは徒《いたずら》に語らぬが法とされている。――とはいえ真を語らなければ主将たる人の判断を誤ろう。眼をもって伝えることもあり、口をもってわざと主君の周囲を偽ることもあり得る。要は、臨機の気転にあるといってよい。
車掛り
――すわこそ、謙信、山を降りたか。
この愕《おどろ》きは、たしかに、信玄の胸の中にはあった。
けれど、彼の眉は動じない。
しかも直覚していたのである。事態の重大なることとその急とを。
「…………」
浦野民部左衛門の報告を聞き取ってから、一瞬、彼はその大きな眼を、瞼《まぶた》の中でぎょろりと動かした。ふふうむと、鼻腔《びこう》から洩る息が聞える。そして、右手の軍配の柄が膝を離れたと思うと、
「室賀《むろが》入道。念のために、もういちど物見をして来い。――謙信ほどな大将が何とて、二十日に余る陣を捨て、一戦も交えず国へ引揚げるはずはない。しかも夜前より千曲を渡りいまなお、この附近に夜を明かしてあるからには、ただの退陣とは心得られぬ。――民部が見違えと思わるる。疾《と》く参って再度、謙信が備えの態を見極めて来い」
と一隅にいた者の顔を指して命じた。
「はっ。見て参ります」
室賀入道は、地侍だ。この辺の地理に詳しい。駒の背にとびつくや否、一鞭加えて馳け去った。信玄は続いてすぐ原隼人正を呼び、また山本勘介入道道鬼を呼び、床几の左右へ近々とふたりをさし招いて、何事か忙しげにささやき合っている。
――その頃、もうお互いの面には払暁《ふつぎよう》の薄明りが見られていた。たしかに夜は白みかけているのだ。しかしいよいよ深い朝霧に物の色目《あやめ》も識分《みわ》けられない。いや、こうした霧の中では、視線を塞《ふさ》がれるばかりでなく、物の音響すらよく通らないものであった。味方の内の馬の嘶《いなな》きやすぐ其処《そこ》らの物音すら極めて鈍《にぶ》くしか聞えなかった。
信玄は十分にそれを計算していた。平常の視覚と聴覚の通念から誤謬《ごびゆう》を生まないように今や細心に日頃の兵法の知識を五官に役立たせていたのである。――にもかかわらず、それでもまだ敵方との距離の推量に、遉《さすが》の彼すら過誤を抱いていたことが、それから寸刻の後に明白になった。
「見て戻りました」
室賀入道はこれへ帰って来るなり大声で呶鳴った。すでに事態は急迫以上に急迫していたので、跼《ひざまず》いて詳密《しようみつ》に告げている間もなかった。
「越後勢は悉《ことごと》く、お味方を右に見て、幾重にも幾重にも、分厚い縦隊を押迫《おしせば》め、犀川へ犀川へと、こなたを傍目《わきめ》に見捨てて赴《おもむ》く態に見えますものの、実は、旋風《つむじ》のごとく大きな渦を八幡原いっぱいに描きながら、徐々とわが軍へ距離をちぢめつつあります」
聞くやいな信玄は、羽を搏つ鷲のように、身づくろいを示しながら、
「やはりそうか。それこそ、車掛《くるまがか》りというものぞ」
と、躍り起《た》っていった。
「さらば隼人正。ただ今、勘介入道も申したごとく、敵にさまでの覚悟あって、手詰の陣掛りして来るからには、味方もこのままの備えでは支え難い。疾《と》く疾く、勘介の指図どおり諸所の部隊へ、陣立更《じんだてが》えのこと、申し触れよ」
有りや・無しや
川中島その日の緒戦は、上杉方の「車掛り」接触から始まったというもの、否、「車掛り」の陣形ではなかったというものなど、古来からこの事は、兵法家のあいだでも喧《やかま》しく論議されている問題ではある。
しかし上杉謙信が、
この一戦に!
と固く期して、自己の細心を以て、敵の中軸へ直接、激突を計っていたことは慥《たし》かな目企《もくろ》みである。
それを果すには、平常の手固い布陣と、一定の距離を要する対陣では、所詮《しよせん》、信玄の中軍へ分け入ることはできない。
で、濃霧を幸いに、全軍の方向を、犀川へ向け、帰国の引揚げをするかの如く見せて、絶え間なく兵を歩ませつつ実は巨大な輪形陣を旋回《せんかい》しながら、あたかも颱風《たいふう》が緯度を移ってゆくよう、信玄の陣前《じんまえ》へ迫って行ったということは、彼の決意から見ても、戦略からいっても、当然な策であって、決して、由謂《い わ》れなきことではない。
それを否定する論者にいわせると、
(この日、この緒戦では、謙信もまた信玄の所在を的確に知っていない。なぜならば、甲軍二万余は、海津を出るときに二分されて、その一方は山地伝いに、妻女山への奇襲攻撃に向っており、一部が広瀬を渉《わた》って、八幡原へ出て来たものである。だから信玄とその直属部隊が、山の手の要撃隊のほうにあるか、この野戦待機隊にあったかは、いかに謙信の炯眼《けいがん》でもまだ分明していないわけである。それなのに車掛りというような必殺捨身の陣形で、無碍《むげ》に敵へ挑《いど》みかかる理由はない)
これも一理あるに似ているが、なお謙信の機鋒だけを見て、謙信の心理に思い足らない所がある。妻女山を立退く前にも、それから行軍渡河のあいだにも、彼の放っている偵察は刻々と踵《きびす》を次いで何事かを告げている。その一報一報に、信玄がいずれの陣にあるかを確証して来ないまでも、謙信がそれを判断する示唆《しさ》なり材料には十分な提供となっていたことは疑いもない。
のみならず、上杉家の古老の申し伝えという一書に依ると謙信は、この平野へ出てからも、その目標を的確に突きとめるため、特に、旗本の山吉玄蕃《やまよしげんば》と須賀|但馬《たじま》のふたりにいいつけ、
「深覗《ふかのぞ》きいたして来い」
と甲軍の哨戒地帯へ入り込ませていたという事実もある。
深覗きというのはただの物見程度でなく、まったく敵の中へ入って来る「忍《しの》び」の業で、いわゆる変遁隠形《へんとんおんぎよう》の術を要する生命《いのち》がけの捜《さぐ》りである。
霧は深し、未明の天地。味方の人影や陣々の幕すら朧《おぼろ》な中では、そうした野鼠《のねずみ》にも似た味方ならぬ人間もどこにどう潜んでいたか、決して予測はつかなかった。
もっともそれに備えて、ここの中軍、信玄のいる所でも、今や例の甲軍最大な象徴《しようちよう》としている孫子の旗も法性《ほつしよう》の幟《のぼり》も、また諏訪明神の神号旗も、花菱《はなびし》の紋旗も、すべて秘してしまって、
(ここに信玄あり)
などと敵方へ一目で知れるような迂闊《うかつ》な構えはしていない。
百足《むかで》の旗々
これは余談だし、ずっと後の事でもあるが、織田信長が桶狭間《おけはざま》で義元の中軍へ突撃したときでも、その営中に斬り入るまでは義元の居どころは的確に知れなかったのである。あなたこなた姿をさがすうちに、溜塗《ためぬり》の美々しい輿《こし》があったので、初めて、ここと信念され、信長の部下たちは一層勇気づいて功を競い合ったというほどである。
そのほかにも、人いちばい要心ぶかい信玄には、八人の影武者があったなどともいい伝えがあるが、それまでにはどうあろうか。しかし、家康や信長などの陣中生活を見ても、本陣には名代《みようだい》を置いて、自分はひそかに前線の先手《さきて》に立ち交じって直接に下知をしていたというような例はいくらもあるから、信玄にしても、常備八人の影武者はどうか分らないが、名代を用いた場合などは屡々《しばしば》あったものと観て大過はなかろうと思う。
それとまた「車掛り」の陣形そのものの効果にも疑問説がある。けれど山鹿素行《やまがそこう》の兵書によると、
[#ここから2字下げ]
車ガカリハ敵方ノ備ヘ立テ三段四段ナルニ用フレバ功大ナリ。コレハ小車トハ曰フ。サレド大車ニ用ヒ、敵備ヘ十段十一段トナリテハ利アラズ。
[#ここで字下げ終わり]
とあるのを考え合せると、輪形陣の価値は十分認めているが、相手の備え如何によることを強調している。この説に反対して、車掛りを否定している論者には、同時代の荻生《おぎゆう》徂徠《そらい》などがある。徂徠は、武田方のこの時の陣形はいわゆる魚鱗十二段の重厚な構えであるから、謙信が車掛りを用いるわけはないというような点を強弁している。
けれど、陣形というものは、常に変化をふくんでいるもので、虚即実《きよそくじつ》であり、正即奇である。いつでも早速に相変化転《そうへんけてん》するのが陣形の本質で、鶴翼《かくよく》でも蛇形《だけい》でも鳥雲《ちよううん》の陣でも、そのままに固執《こしつ》したりするのでは、死陣であって活陣ではない。
――車掛り!
と、信玄が直感したせつなに、信玄が、原隼人正へ向って疾く疾くと味方の諸部隊へ伝令を急がせたのは、いうまでもなくそれに対する「変」を直ちに命じたのである。
しかもこの場合、いささか信玄の面にも慌て気味のあらわれたわけは、この瞬間まで、彼は自分が、
(越後勢の機先を衝《つ》いている)
と、信念していたものだった。妻女山へ奇襲攻撃隊を向けていることといい、ここに陣取って、それに依る敵の崩れを待ちぶせている要撃陣といい、すべて先手《せんて》を取ってさしている将棋として局面を観《み》ていたのである。
ところが。
その立場は逆転して来た。
謙信はすでに、迷いなく、ここへ邁進《まいしん》して来つつあるのに信玄は、事態の直前に、味方の布陣を更《か》えなければならないという必要に――つまり後手《ごて》に立たされてしまったのである。
若輩《じやくはい》謙信に、いやしくも用兵の神智と技術において、この一手を見事出鼻にさし込まれた信玄としては、その老練な分別や、最後の必勝を信念しても、人間的に、
「小さかしき謙信の振舞」
と、感情を怒らせずにはいられなかった。その分なら目にもの見せてくれるぞ――との覇気《はき》に満々たらざるを得なかったのである。
達 観
「御陣形変えのお布令ですっ」
「陣立更えですぞっ」
百足《むかで》の旗さし物を背にさした騎馬武者が幾人も、味方の諸部隊へ馳けわかれて、その陣地陣地へ、火のつくように告げていた。
「山県殿《やまがたどの》の御手は、先陣のまっただ中に押進み、白桔梗《しろききよう》のお旗を目じるしに立てよとの軍令です」
「武田典厩信繁どの、また穴山玄蕃どの御人数は、山県どのが白桔梗の御旗を見て、その左陣に」
「右陣には、諸角豊後《もろずみぶんご》どの。内藤修理昌豊《ないとうしゆりまさとよ》どの」
「御中央に信玄公、旗本衆」
「次いで左脇の備え。原隼人どの。武田逍遥軒様」
「右脇には、武田太郎義信様。望月甚八郎どの。――また後陣《ごじん》としては、跡部大炊介どの、今福浄閑斎どの、浅利式部少輔どの……」
忙しげに、高らかに、また急に、彼方《かなた》此方《こなた》で百足隊の伝令たちが、こう告げわたり馳け廻りしているまに、はや先陣山県三郎兵衛の隊、その他の部隊が、峡《かい》を出る雲のように動き出したが――時すでに遅かったといえる。
もう謙信のすさまじい輪形陣の流動は、すぐ目の前まで接近していたのである。
その接近法は、いわゆる突入直撃式でない。巨大な鉄鎖《てつさ》の連環《れんかん》がたえまなく旋《めぐ》り旋り近づいて来るので、戦闘力の鋭角はどこにあるかといえば、そうしているまに敵の先陣と体当りした所がすぐそのまま鋭角となるものだった。
いまやその一端と一端とが、互いにどこかで触れ合ったらしい。
まだ、武田方としては、全陣形の立直しに、確《しか》と、足場も定まらないうちにである。
当然、一部の陣地に、混乱があらわれかけた。
しまったと、信玄もここは血の逆流する思いがしたろう。それかあらぬか、彼のいる幕囲《かこい》に近いところから、突如として、大太鼓の音が、勇壮な階調をもって、つづけさまに鳴りとどろいた。
が――戦闘要意である。
なおまだ、遮二無二攻勢にかかれという押太鼓の音ではなかった。
「御使番《おつかいばん》、御使番!」
そのそばで、旗本たちが呼びたてていた。山本道鬼や原隼人なども、みな各自の持場へ急ぎ帰って、もうここには姿のなかった後である。
「ハッ。お召で」
百足《むかで》旗の者が二、三名かけこんできた。誰《たれ》の眼といい唇といい顔色といい、もう平常のものではない。
「重ねての御命だ! 先陣左右各隊とも、持場持場をかたく怺《こら》えて、徒《いたずら》にも陣地を出ず、かりそめにも退かれな。ただよく敵の猛撃をその位置において死守応戦せられよ、とある。急いで諸所の大将へ触れられい」
本陣からの再度の命令をうけると、伝令はまた思い思いに背の百足旗を翻《ひるがえ》して走り去った。
彼が太鼓を用いたので、此方はわざと鉦《かね》を用いたものだともいう。
いずれにせよ、いまや明らかに、相互の敵を相互に見た。眼に、耳に、足の先に、総毛立つ全身の毛穴に。
いつか。空には、陽がのぼっている。
陽の位置でみると、時刻はちょうど朝の卯《う》の下刻(午前七時)ごろかと思われる。霧はまだ霽《は》れきらないが乳白色に透明を帯《お》び、湯けむりのように乱流騰下《とうか》してその膜の薄いところへかかると、川中島いちめんから、犀川千曲はいうまでもなく、遠い妙高、黒姫の連山にいたるまで、明るくて朧《おぼろ》なすがたを浮き出させた。
「近いぞ。もう近いぞ」
「四、五十間」
「いや、三十間ほどしかない」
先陣のまたその最も前方に這《は》い屈《かが》んでいるのは、山県三郎兵衛麾下の一小隊の鉄砲組だった。
「……まだ。まだだぞ」
弾薬を装填《そうてん》して、わずかの窪地の蔭から、銃口を敵へ擬しながらも、距離を考えて、容易には放たなかった。
「二十間まで待て。思いきって、近寄せろ」
組頭だろう。後《あと》からいう。
狙《ねら》いすましたまま、構えている銃手にとっては、実に長い。
そうしている間も、ちょっと油断すると、秋草のしとどな露に、火縄は消してしまうし、弾薬は湿《し》めらしてしまう。
「まだで?」
「いかん」
当時の鉄砲の射程内は、およそ三十間どまりといわれているが、それも精いっぱいに届いた弾では、鎧《よろい》の草摺《くさずり》や革胴《かわどう》から撥ね返されてしまうのだ。弾もまた三匁から七匁ぐらいな鉛丸《なまりだま》を、漸く三発も撃てればよい方で、後は筒の関金《せきがね》や薬筒の焦《や》けついた部分などを掃除しないと使えない。
このように厄介な物だったが、なおかつ、これは近年の戦場にすがたを出したばかりの最新鋭武器であった。財力的に豊かな甲州勢といえど、また文化的に鋭感な謙信といえど、漸くその全軍に百挺足らずか百二、三十しか持ち得なかったものである。
従って、その一発には、
「あだには撃たぬぞ」
という気がまえと、
「同じ仆すなら大将分を」
と、的《まと》にも大物好みを抱いていた。
たしかに従来の弓よりは的確に望みが遂げられた。――で鉄砲頭は弓頭以上、緒戦の功を欠いては御主君に相済まないと考えている。わずか二、三十名の銃口を預かっているのであるが、これが全軍の戦色に影響するところはもちろん大きいからである。
――足音。足音。――敵の足音までがはや耳にひびいてきた。
むらむらうごき旋《まわ》るのは、上杉勢の人影ばかりではない。霧の濃淡も、怖ろしい勢いで渦まいている。そして陽の光が透して来るたびに、何か無数なものが、霧の裏でキラキラ光る。
上杉家で有名な長柄隊だ。大太刀に柄のついたような獲物を持った荒武者である。――と思うまに、その廻旋列《かいせんれつ》は眼の前を激流の如くよぎり去って、忽ちべつな一隊があらわれている。閃々晃々《せんせんこうこう》、夕立のように足踏み揃えて迫らんとして来る槍ぶすまの一縦隊であった。
「――撃てッ」
鉄砲頭《てつぽうがしら》の開いた口が、腹いっぱいな声を出した。
どどんっ! ばん! ずどん!
不ぞろいな音響だった。強薬《ごうやく》の加減だの湿り弾なども交じっているせいである。二十幾挺かの銃身中に、不発だったのも五、六挺はあった。
しかしこの鈍い音響も、また途端にばくとして揚がった弾煙《たまけむり》の匂いも、甲冑の武者の血を猛ぶらすには充分なものだった。敵とも味方ともつかず、およそ二十五、六間ほどな双方の間隔から、わあっという喊声《かんせい》がいちどに揚がって、天地の朝を震《ふる》わせた。
殺地のいのち
重厚な敵の前列が、徐々と――しかし狂瀾《きようらん》の相《そう》を示しながら――いわゆる武者押しというジリジリ詰めに迫って来ると、いずれからともなく一方の陣列からわあっと声いっぱい叫ぶ。彼方もそれに応じてわあっと喚《わめ》く。
わああっ……わああっ。
喚きつつ、叫びつつ、歩一歩と、相互のあいだは双方から歩みつめる。この陣寄《じんよ》せ状態は容易に次の展開を示さない。まったく、一歩出ては、わあっと叫喚し、半歩ニジリ出しては、わああっ、と叫号する。
脚で敵へ寄って行くというよりは、有らん限りな声の力で敵へ迫って行く。そういったほうが正しいくらい声を嗄《か》らし合うのである。
いや、緒戦の勇気をふるい出すには、張上げる声だけではまだ足らないので、最前列のうしろでは、このとき激しく太鼓を打鳴らすのであった。太鼓の打方にも法があって、打つ者自身、天地に祷りをこめるくらいな気魄と、撥《ばち》に死力をこめて打つのでなければ、味方の武者たちの足なみを、一歩一歩、敵へ向って押遣ることはできないといわれている。
こういうと、いかにもみな緒戦に怯《ひる》んでいるようで、当時の荒武者らしくないようであるが、どれほど場数を踏んだ豪の者でも、戦場へ臨んで、初めて敵の影を見、初めて陣寄せを押しあう刹那ばかりは、何度経験しても、
――正直《しようじき》、怖いものだ。
とは真の勇士もみないうところである。
これはもっと後年の人物であるが、東軍流の三宅軍兵衛が人に語ったという直話を誌《しる》した或る古書にも、軍兵衛の述懐《じゆつかい》として、戦陣に臨むおそろしさをこんなふうに述べている。
(――敵も槍ぶすま、味方も槍ぶすま、にじり足に詰《つめ》あひ候ふて、たがひに声ばかり数十度も交し、やがては、押太鼓も耳には聞えず、わが声も人のもわかたず、眼くらみ、槍もつ手は硬《こは》ばり、身心地も候はず、一瞬、天地も真つ暗に覚えられ候ふ時、はや敵の顔も、そこにありあり見え申しながら、なほ敵の列よりも一歩も出る者なく、味方の列も槍の穂ばかりそろへ候ふて一足も駆け出る者はなく、こゝは千仭《せんじん》の谷間か、虚空かとばかり、足もすくみ、心神くらめき候ふとき、誰ともわかず、何の某《なにがし》と名のりざま、一番にをどり出てむらがる敵の中へ、体当りに突き入る者こそあれと覚ゆる一刹那より、初めて、われも忘るゝこゝちと共に、その勇者に励まされて、敵の中へ続いて駆け入るにて候ふなり。故に、一番駆けの巧名こそ、あだおろそかには獲られぬものなり。武辺巧者のものとて、成し易からず、日ごろ勇力ありとて、その場にのぞみては、凡《およ》そはひとしきものにて、おのれなども幾たび戦場を踏みても、初手《しよて》ばかりは、身の慄へを如何ともとどめ難くおぼえ候ふ)
軍兵衛ほどな武者でもこういっているのである。後のこのはなしは、大坂夏冬の陣に、松平家の陣場借りをして、勇戦したときの体験を訊かれて人に語ったものであるが、おそらく彼といわず、大坂陣のときといわず、合戦の始めというものは、こうもあったかと思われる。
一手切《いつてぎり》
すでにわずかでも、鉄砲の影響があらわれ出した川中島の接戦では、当然、陣形の編成にも、それより前の陣組とは、備え立てがちがって来ている。
大体、鉄砲隊をまっさきに置き、次に弓隊、長柄隊、武者――という四段立てが常識となっていた。
そして、ふつうには、敵とのあいだ二、三町から、鉄砲隊が撃ちはじめる。
この距離では、弾はまだ届かないのであるが、武者声が、押太鼓と同じように、気勢を昂《あ》げる目的にまず撃つのである。
四、五十間になると、着弾が可能になる。旺《さかん》に撃ち合う。
と、いっても、弾込《たまご》めや、銃《つつ》の掃除に、暇がかかるので、鉄砲組もおよそ、三列三交代ぐらいになって、撃っては、うしろへ退き、次の列に、装填《そうてん》して待っているのが代って前へ進んでは撃つ。そしてまた退く――という方法をとっていた。
そして、半町以内にまで迫りあうと、こんどは弓隊が、雨の如く矢を送る。
さらに十間と迫り、七間、五間と詰合ったとき、初めて長柄隊か槍隊かが突撃を開始し、ここに白兵戦となるのであるが、この際、二の手の戦法といって、急貝、早太鼓を打鳴らせば、足軽も士分も、すべて無二無三、敵中へ飛込んで、太刀、槍、無手、道具や戦法によらず、勝ちを制し、敵を圧す、いわゆる乱軍の状態に入《はい》るのである。
だが、九月十日、この朝の、川中島の緒戦では、こういう戦法の常則が、甚だしくちがっていた。
なぜならば、甲軍の方では、敵が車掛りに来たと察知したので、定則以上にも厳密な堅陣をもって押したのであるが、謙信はかねがね、
(このたびこそ)
と期していたことであり、その戦法も、常識にとらわるるなく、
(一手切《いつてぎり》に戦って、勝敗を瞬時に決せん)
とは、すでに諸大将や左右の旗本たちへも、断言していた方針であった。
一手切の決戦とは、つまり二の手なしということである。四段の備えも、緒戦《しよせん》もない。緒戦からして直ちに決戦に入らんという素裸捨身の戦いを目がけたのだった。
その真っ先に立ったのが柿崎和泉守の隊だった。
大《おお》蕪菁《かぶら》の馬簾《ばれん》を揉んで急襲し、左右から本庄越前守、山吉《やまよし》孫二郎、色部修理、安田治部などが喚《おめ》きかかる形をとった。
驚くべきことは、主将謙信そのものは、柿崎隊のすぐ二の陣にあったことである。
前側の味方が敵へ当って散開すれば、すぐにも謙信のいる位置は、敵の前に露出してしまう。大胆とも何ともいいようはない。
「かくまでに」――とは、信玄も思えなかった。謀将山本勘介、原隼人などの叡智でも察しきれなかった。――で、甲軍は形のごとく、重厚堅密な布陣をもってし、まずその前列に布いた鉄砲組から、敵の旋回陣へむかって、鉄砲の射撃を開始したのであるが、上杉方から早鉦《はやがね》が鳴り、喊《とき》の声が沸くやいな、
「一手切ぞっ。――踏み返すな、うしろは、一歩も!」
大将謙信みずから、こう呼ばわりながら、その馬前に高々と、赤地に龍と書いてある――懸《かか》り乱《みだ》れの旗を、
「かかれっ。かかれっ」
と、大声疾呼の下に、竿も折れよ、旗も裂けよとばかり、打振り打振り、励ましていた。
懸り乱れの龍旗というのは、上杉家のうちで突貫の旗とも呼ばれている決死旗である。この旗の振られたときは、旗の下で、全軍は直ちに、一死のほか何ものも無しの宣誓をしたことになる。たとえいかなる敵の強圧にぶつかろうが、一歩でも怯《ひる》み、半歩でも退いたときは、ふたたび人中に士《さむらい》として面を出すことはできない――としてあるのが上杉家の家中にある廉恥《れんち》の精神――恥を恥とする士風のひとつだった。
別 辞
死へ向って駆け込む。
いや、死を捉《とら》えに飛びこむ。
そういっても、まだ足りない。どういおうといい足りるものではない。
一瞬、どっと、白刃の波が、敵の中へ、捨身に入ってゆくときの相《すがた》は。――それこそ地上にあるどんな生態の現象にも較《くら》べるものはない。荘厳、雄大、悲痛、快絶。あらわす文字もないほどである。もっと大きな意味をこめていえば、人間のはたらかし得る生命の極致を発したせつなの「美」ここに極まるというしかあるまい。
このとき、もっとも迅《はや》かったのは、上杉方の柿崎和泉守の隊で隊将以下すべて、みな徒立《かちだ》ちで猛突した。足軽といい、士といい、みな兜の前を俯伏《うつぶ》せて、弾も矢も思わず、驀《まつ》しぐらに、わあアっ、どどどどっ――と駆けた。そしてぶつかった。
この一手切《いつてぎり》の体当りをうけた甲軍の隊は、山県三郎兵衛|昌景《まさかげ》の麾下《きか》だった。
「しまった! 野添っ。弓、鉄砲組を、うしろへ退かせい。長柄隊。前へっ……前へすすめ」
白桔梗《しろききよう》の旗の下で、三郎兵衛昌景は、おどり上がっていた。
野添孫八が、その令、更に大声にして、前列へ呶鳴ったが、もう味方は、混乱に落ちていた。
緒戦に、不意をつかれたのである。まず、鉄砲をうてば、敵も一応鉄砲で来るものとばかり思っているまに、その猛敵は、もう味方の中へ入って来ている。
「上杉家の小田井喜助」
「春日山に人ありといわれた祖母屋《そもや》権之介とはわれぞ」
「古志《こし》左馬之丞だっ。越後武者の手振りを見よ」
右に聞える声も敵。左にとどろく声も敵。山県昌景《やまがたまさかげ》が、しまったと叫んだことすら遅すぎる。駸々《しんしん》、船底を破って溢れて来る清水のように、見るまに、全陣地は、上杉兵に散らされ、そこやここに、惨として、すでに屍《しかばね》となっている幾多の兵の紅に、霧の霽《は》れ間から、かっと、血よりも紅いかと思われる旭がこぼれていた。
野面の瘤のような小高いところに立って、この緒戦を見ていた若い甲軍の一将がある。信玄の弟、武田|典厩《てんきゆう》信繁であった。
彼は、八百ばかりの手勢をもって、味方山県の位置よりもはるかに左に備えていたのであるが、
「やっ? これは、上杉勢の士気、尋常ではない。かつて、緒戦からこんな凄まじい戦い振りの敵は見たこともない。おそらく、今日こそは、敗北を知らぬ武田にとっても、九死一生の難戦となろう。いざさらば、典厩信繁も、今日は死ぬ日と覚えたり」
つぶやくと、彼は、駒に一鞭あてた。敵へ駆け向ったのかと思うと、兄信玄のいる本陣の前に降り、幕をあげて、直ちに信玄の前に立った。
そして、事態の急と、いまや味方の陣が、最悪な状態に置かれたことを告げて、
「ここ篤《とく》と、利運の御思案が大事と思われまする。武田家の危機、焦眉《しようび》にありというも過言ではありませぬ」
と、兄にも決心を促した。
信玄は、かえって、
「典厩か。何しに来た」
と、落着きはらい、信繁が、眼に涙をたたえながら、
「今生《こんじよう》のお別れに――」
と、一礼というよりは、涙をかくすためにうつ向くと、信玄はくわっと睨《ね》めつけて、
「汝はまだ、ここの戦場に、肉親の者がおるなどと、胸のどこかに、覚えておるのか。信玄には大切な二万の兵あることのほか、弟など、おるともおらぬとも、考えたことはない。要らざる情、陣務の妨げ、はや立去れっ」
と、叱りつけた。
「不覚でした。おゆるし下さい」
典厩は、涙をはらって、兄の本陣を出、馬をとばしていた。すると、
「信繁公におわさずや」
と、後ろで、声をかける者がある。見まわすとここは山本勘介道鬼の陣前《じんまえ》だった。
「おお、道鬼か」
「はや乱軍とみえまする。かかる中《うち》にはからずも、おすがたを拝し得たのは、尽きせぬ今生《こんじよう》の御縁。多年、御厚恩をこうむりましたが、入道も今日は、長のおわかれを告ぐる日と存じます。御武運、お久しくおわせ」
ここの陣地も、はや前方の柵は突破され、敵とも味方ともわかぬ死屍《しかばね》は算を乱し、槍の折れ、踏みしだかれた旗さし物など、凄愴の気《き》はみちている。
「何の入道、死出の道は、追ッつけ一つであろうぞ。それにしても、はや御身の陣地までかく敵に駆けみだされたか」
典厩が、振向いて答えると、
「いや何、それがしも山本道鬼、さまで脆《もろ》くは潰《つい》えませぬ。いったんは敵の本庄越前、柿崎和泉の手勢に、多少、踏み荒されましたが、必死にそれを押返し、敵の退《ひ》き足《あし》につけ入って、わが先鋒隊山県昌景の敗勢を、極力、支えているところです」
「……オオ、彼方の潮にも似た人渦がそれか」
「支えきれば、お味方の勝利、疑いもありません。昨夜、妻女山へ奇襲した一万余の味方が、これへ駈けって参るまで、支えきれば、はやきょうの勝軍《かちいくさ》は、わが甲軍の上に」
と、いいかけた時、彼のうしろで、ひとりの伝令が、
「軍師。山県隊の右備え、内藤、諸角の二隊が、敵の新発田尾張守、その他の猛撃にあって突きくずされた。疾《と》くその方面へ、加勢の手当をなせとの上意です。お早くっ」
と、どなってまた駈け去った。
「なに、右備えも」
と、この老軍師は、もう齢《よわい》も六十をこえている身を、そう聞くと、壮者のように、槍を杖にして、ぬっと立った。
そして、五、六歩ほど、蹌《よろ》めきつつ歩き出したが、もう一度、典厩のほうを振返って、
「おさらば」
と、いった。
典厩は、痛ましげな目を凝《こ》らして見送った。道鬼入道のからだには、すでに幾つかの槍瘡《やりきず》や弾傷が認められた。しかし少しも屈する容子はなく、忽ち、しゃがれ声をふり絞って、何かを、戦塵《せんじん》の裡《うち》へ叫んでいた。
流れる首
典厩信繁、その日の装《よそお》いは、卯《う》の花おどしの鎧に、鍬形《くわがた》のかぶとを猪首《いくび》に着なし、長槍を小脇に、甲斐黒の逸足にまたがっていた。兜を後にかけて、血しおどめの鉢巻に乱髪《みだれがみ》をなであげ、健気《けなげ》にもみずから陣頭に立っていたが、何思ったか、
「源之丞、源之丞」
と、駒側の家士、春日源之丞をさしまねいて、背に纏《まと》っていた紫紺地の母衣《ほろ》を引き毟《むし》り、
「これは、父信虎様のおかたみであった。お筆蹟もある母衣、敵に奪られては、後々まで御名の汚れになる。そちにこれを預けおく程に、わが子信豊に渡してくれよ」
と、投げやった。
源之丞は、あわてて拾い取ったが、
「わたくしにこれをお預けの上、若君へ渡せとのおさしずは生きて甲府へ帰れとのおいいつけですか。憚《はばか》りながら、余人にお命じ下さい。きょうのこの場は、一歩も退けません」
と、喚くが如く、泣くが如く、馬上の主人へいい返した。
典厩は、わざと怒って、
「わしの目鑑《めがね》でいいつけたものを、余人に命じるほどならそちにはいわん。疾《と》く、甲府へもどれ」
いい捨てるが早いか、そのすがたは、乱軍の中に駈け入っていた。
越後武者の野尻弥助、関川十太夫、柏《かしわ》蔵人、熊坂大伍などの輩《ともがら》が、
「あれぞ、典厩」
「信玄の弟」
と見るや、他の相手をすてて、
「われこそ」
と、突いてかかり、
「そのお首、賜わらんには、武門のほまれ、相討して果てるも満足」
と、立ち塞《ふさ》がり、また追いかけ、飽くまでねばり強く、つき纏《まと》った。
典厩は、槍を取られた。すぐ陣刀をぬいて、熊坂大伍を斬った。
関川十太夫が、
「お見事なり。さあれ、我には」
と、斜に、槍をのばした。その槍は、典厩が思わず、顔のまえで掴んだ為、
「おうほっ」と、力まかせに引かれて、駒の首を越えて、前へもんどり落ちた。野尻、柏などが、争って、首を掻《か》こうとするとき、典厩部下十数名が、一かたまりに殺到し、乱刃乱走の下《もと》に、典厩のからだは見失われてしまった。
「逃げたっ」
見つけたとき、典厩は、千曲川のすぐそばまで、馬を打って退いていた。――届かぬと見たので、越後兵の一人が、鉄砲を放った。典厩は、川の中へ、しぶきを揚げて落ちた。
ざぶざぶと、白波を蹴って、川のなかへ、越後兵が大勢駈けて行った。典厩の首を挙げんためであった。
典厩のからだは、浮きつ沈みつ、流れてゆく。宇佐美駿河守の家臣梅津宗三というものがついに、死骸を抱きとめた。そして忽ち、川を真っ赤にした。首のみを掻き切って、小脇にかかえこみ、再びざぶざぶと川から上がって来たのである。
――が、一歩、水から岸へあがるせつなに、典厩の家の子樋口三郎兵衛、横田主水などが、
「やわか、御首を」
と、斬りつけた。
梅津宗三は、ひとりを横薙《よこな》ぎに太刀で払い、また一人をあざやかに仆して、味方の方へ、何か大声でわめきながら駈けていった。おそらくは、
「信玄公の御舎弟、左馬介典厩信繁どののおん首、宇佐美駿河守の家来梅津宗三が打ったりっ」
と呶鳴ったのであろうが、喘《あえ》ぎと、昂奮と、異様な音響の中なので、何を叫んでいるのかよく聞きとれなかった。
それを、上杉方の中までも、深く尾《つ》けて行って、うしろから不意に、梅津宗三をけさがけに斬って伏せた一兵がある。すぐ彼の手から主人典厩の首を引っ奪《た》くるやいな、顔中を涙にぬらして、武田方の陣地へと駈けこんで行った。戦後になって分ったことであるが、その兵は、典厩が日頃から目をかけてやってはいたが、至って身分のひくい山寺妙之助という小姓の下に使われている若者であった。
吠ゆる野面
甲軍の一将、諸角豊後守は、前の日から下痢《げり》を起していた。苦しさに耐えなくなると時々、楯の上へ身を横たえたまま指揮していたが、いまはその病苦もかなぐり捨て、自身、槍を取って敵をくい止めていた。
これへ当ってきた上杉勢は、甲軍の中央を突破して来た柿崎和泉の隊の鋭角だった。
「雑兵輩《ぞうひようばら》の支《ささ》えに懸けかまうな。二陣、三陣、驀《まつ》しぐらに踏みこえ、ただ八幡の森を目がけよ。彼処《かしこ》にこそ、信玄の本営はあるぞ」
叫喚《きようかん》のなかに、誰ともわからぬ敵将の声がする。
諸角豊後守は、身の毛がよだった。敵はいたずらに前衛戦で勝とうとせず、ひたぶるに、信玄の幕営のみを目がけているものと思われたからである。
「ここを突き崩されては」
見まわせば、彼の部下たちは、いたる所で死力の戦闘にかかっている。槍と槍を噛みあわせている者、忽ち、折れ槍を抛《ほう》って、陣刀をふりかぶったまま血けむりの中へ消えこむように駆けてゆく者。
真っ赤な大腸を露出した馬が、その間を狂奔してゆく。馬から落ちる者、馬に踏まれる者、馬のあぶみにしがみついて、馬上の敵を引摺り下ろそうとする者。それを鞍上から斬らんとして、かえって、下の敵から突き殺され、無残な戦死をとげる者。
或いは、獲物を投げて、取っ組み合う。草と土と血を捏《こ》ね返し、死力《しりよく》と死力とが、遂に一方を斃《たお》して、その首をあげるとまた直ちに、
「戦友の讐《かたき》」
とばかり、新手の敵があらわれる。見るまに、また一つ、また一つ、惜しみなく生命は散らされ、屍《しかばね》は山と積まれてゆく。
野面《のづら》いちめん、草の葉の露は乾いて、霽《は》れあがった霧に代って、馬煙や血けむりが立ちこめていた。
何とも名状し難い人間の叫喚と、弦鳴り、銃声、馬のいななき、それに伴う地鳴りなどの間から、その時、
「典厩信繁を討取ったり」
と、いう上杉方の凱歌と、
「信繁どの、お討死」
と、悲しむ味方の声とが、交々《こもごも》に、諸角豊後の耳に聞えた。
諸角豊後の戦死
討死を遂げた者は、何かその日のまえに、予感めいたことばを洩らしているという。
「今朝がたから頻《しき》りに、きょうの戦は典厩の死に場所ぞと、一度ならずいわれていたがさては早くも、御舎弟様には……」
今や、全面的に、武田方の敗色は濃い。
「いで、我も御供をこそ」
と諸角豊後は、死をいそいで、いよいよ傍目もふらず、次々の敵を迎え打った。
その勢いに撃退されて、柿崎和泉の隊はいちど四散したが、同じ上杉方の新発田《しばた》尾張守の隊が、諸角隊の側面を撃って来た。
柿崎隊もひっ返す。当然、挟撃をうけて、豊後守は、まったく苦戦に陥った。
「名ある侍とこそ見奉る。新発田が郎党にて、松村新右衛門と申す。お首をわたし給え」
豊後守のうしろから、一名、こう呶鳴りながら、駆けて来る者がある。
振向くと、徒立《かちだ》ちの武者だった。長い樫の柄の槍をひッさげている。
「推参っ」
と叱りながら、馬首を向け更えて、あぶみ下がりに、斬り下ろした時、新右衛門の槍は、相手の馬の平首を撲《なぐ》った。豊後は、もんどり打って鞍から落ちた。
「討ったっ。討ったっ。武田方の侍大将、諸角豊後の首を――」
狂舞しながら、掻き切った首をさしあげて、敵味方へ示しているまに、その松村新右衛門はもう、豊後守の家臣の石黒五郎兵衛、山寺藤右衛門、広瀬剛三などに取囲まれ、その槍ぶすまの中に、どうと仆《たお》れていた。
勘介入道の事
辰の刻(午前八時)頃から本格的な戦いに入った両軍は、午の刻(正十二時)になっても、まだ野面《のづら》いちめんに、濛々、乱れ合って、一瞬も、死闘の叫喚を休めていなかった。
曾《かつ》ての、どんな乱軍にも、崩れた例がないといわれている甲軍中の鉄壁、牛久保衆までが、その隊形を失って、思い思いに死闘している様を見ては、甲軍の者すべて、
「今は、これまでか」
と、味方の総敗軍を観念せずにいられなかった。
牛久保衆というのは、三州牛久保の産、山本道鬼入道を初め、大仏庄左衛門、諫早《いさはや》五郎など、すべて同郷の勇将猛卒で組織されている真っ黒な一隊だった。笠も兜も具足も旗も悉く黒ずくめで、
「ここの崩れるときは甲軍全滅のときだ」
とは、常にその牛久保者が豪語していたところである。
きょうは、遂に、その日か。
牛久保隊も支離滅裂の状態に駆け散らされ、しかも目撃した者もないが、首将山本勘介も、乱軍のなかに、討死していた。
越後方の戦後の軍功調べによれば、山本入道を討った者は、柿崎和泉守の家来、萩田与三兵衛、吉田喜四郎、河田郡兵衛、坂乃木磯八の四人掛りで仕止めたものとなっている。
そして場所は――字東福寺の沼木明神の傍らとなっており、またその首を洗った所は、八幡原の内の水沢といわれているが、そこで洗った法師首は一個だけでなく、実は三人分の首を洗い、そのうちの一つが似ているというところから、山本入道の首級と届け出されたものである為、上杉家の内でも、後には、
「果たして、勘介入道の首級であったか否か、明確でない」
と、疑問に附されてもいる。
もっとも、山本勘介という人物そのものの在否すら、むかしから問題になっていて、「武功雑記」には、上泉伊勢守とその弟子の虎伯《こはく》とが、京都の帰途、三州牛久保の牧野家で、山本勘介と出合ったことが記載してあり、「北越軍記」には、居たようにも誌し、居なかったようにも書いてある。「甲陽軍鑑」の信玄公軍法の御挨拶人としては、
――馬場美濃、軍ノ成サレ様ヲ申シ上ル也。他国ニテ陣場ヲ見定メルコト、ソノ他ノ布陣、原隼人、モツパラ御談合ヲ受ク
とあって、いわゆる帷幕《いばく》の軍師として隠れない山本勘介なるものの名は見あたらない。
とはいえその甲陽軍鑑や武功雑記などからして、どの程度まで真をおけるものかとなると、やはり限度がある。
で、ここにはやはり勘介なる人物がいたものとし、ただその最期のもようをつぶさにするよすがもない遺憾だけを記述しておくにとどめる。
血中行《けつちゆうこう》
鉄砲の火が枯れ葉に燃えついたのか、蹴ちらされた営内の火の気が野火《のび》となったものか、川中島一帯の空は、墨を流したような煙である。
その煙の中に、もう未《ひつじ》の刻《こく》(午後二時)に近いかと思われる太陽が、一粒の珊瑚《さんご》のように燻《いぶ》されていた。
甲斐の勇士初鹿野源五郎をはじめ、名ある猛者《もさ》の討死は続々聞え、信玄の弟典厩信繁のほか、諸角、山本、内藤などの侍大将も相次いで打果たされた為、甲軍の陣営はいまや全く消滅直前のすがたに見えた。
謙信はこのとき鞍つぼを打って、
「年来の望み、遂げるはいまぞ」
と、まわりの旗本を顧《かえり》みた。
もちろん今朝からの彼は、一定の場所に陣を定めていたのではない。
彼自身、怒濤を作り、彼自身も、縦横無碍《じゆうおうむげ》に、駆けまわっていたものだった。
その馬前馬後に従《つ》いて、たえず主君のすがたから離れまいとしていたのは、いうまでもなく、夜来、妻女山を下りる初めから選ばれていた十二名の旗本だった。
千坂内膳、市川主膳、大国平馬など――そのときまだ七、八名の顔は見えたが、あとの数名は傷《て》を負ったか討死したか、早くも謙信の前後に見えなかった。
「行くぞ。遅るるな」
謙信はそれへいい捨てた。
放生月毛《ほうじようつきげ》の駿馬に一鞭加えると、彼のすがたはまるで流星のように、眼のまえの武田太郎義信の隊へ奔《はし》りこんでいた。
「おうっ。御主君には」
「さてこそ。かねて期《ご》したるお望みを、いま果たさんのお覚悟とみゆる」
旗本たちも、続いて駈けた。――が、先にゆく謙信も、徒歩の彼らも、もちろん無人の野を行くのではない。前から塞《ふさ》がれる。横から襲われる。うしろから包まれる。それを蹴ちらし、突き伏せ、踏みこえ、奮迅《ふんじん》また奮迅の果てなき血中行《けつちゆうこう》であった。
当然――謙信、旗本勢に続いて、ほかの散隊も、どっと後から駆け合せ、ここに一筋、激浪中の奔流《ほんりゆう》をもりあげた。
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――敵味方、三千六、七百人、入リ乱レテ、突キツ突カレツ、伐《ウ》チツ伐タレツ、互ヒニ具足ノ|綿噛《ワタガミ》ヲ取合ヒ、組ンデ転ブモアリ、首ヲ取ツテ起チ上レバ、其首ハ我主ナリ、返セ渡セト鑓《ヤリ》ヲツケ、斫《キ》リ伏セニ躍リ行クナド、十六、七歳ノ小姓、草履取ノ末ニイタルマデ、組々トナツテ働キ、手ト手ヲ取ツテ戦ヒ、果《ハテ》ハ刺シ交ヘ、髻《モトドリ》ヲ掴ミ合ヒ、敵味方一人トシテ、空シク果テ申シタルハ無之候
[#ここで字下げ終わり]
とは「甲陽軍鑑」の記しているところであるが、激突の状もさこそと思われる。
いずれにせよ、武田太郎義信の一隊は、またたくまに突破されてしまった。いわゆる七花八裂の惨状を浴び、あれよというまに、謙信はすでに、今暁《こんぎよう》から偵知していた信玄の中軍へ向って驀《まつ》しぐらに駆け込んでいた。
驟雨一電
謙信はあたうかぎり馬上の半身をかがませて、面を鬣《たてがみ》に俯伏《うつぷ》せていた。
矢や弾をかわすためにではない。
「信玄近くにあり」
と、思ったからである。
その信玄を見るまでは、ひたすら自分を謙信と敵の目に知られたくない。また、信玄以外の敵と渡りあいたくない。
故にその扮装も、滞陣中より一際《ひときわ》質素にしていた。
黒糸縅《くろいとおど》しのうえに、萌黄《もえぎ》緞子《どんす》の胴衣を着け、白絹の頭巾で、面を行人包《ぎようにんづつ》みにしていたに過ぎず、特に、大将らしい華美はどこにも見えなかった。
しかし駒は名馬|放生《ほうじよう》、太刀は小豆《あずき》長光《ながみつ》の二尺四寸。
「信玄、何処《いずこ》に?」
と、炬《きよ》のごとき眼をくばりながら、八幡境内の近くを駆け巡《めぐ》っていた。
ここまで来ると案外敵もつきまとわなかった。血眼《ちまなこ》してすれちがう将士は幾人もあったがよもや敵の大将謙信とは思いよる者もなかった。また謙信も眼もくれない。
ただ、信玄と、有無の勝負を――とばかり、そこらの杉落葉の上に仆《たお》れている旗や楯や雑多な兵具などを踏みこえ踏みこえ尋ねまわった。
このとき武田信玄は、太郎義信の隊を粉砕した敵の一手が、八幡の森の方へ、旋風のように通過したのをながめて、
「抑々《そもそも》、敵はまた、何を計るか?」
と、怪しむように、傍らにいた三名の法師武者や数名の旗本と、一かたまりになって立騒いでいた。
何か、附近で、異様な大声がしたので、ひとしく、そこに在《あ》った顔が、うしろを振向いたとき、
「信玄っ、そこかっ」
と、巨大な猛獣に踏み跨がった巨大な人間のすがたが、ふたつの眸《ひとみ》では見きれないほど、すぐ前に大きく見えた。
――あっ。謙信。
ここにいた者は直感したにちがいない。帷幕《いばく》のうちではあり、君側《くんそく》まぢかにいた人々はみな槍とか長巻とかの武器は持っていなかった。また一時に、
「すわ」
と、狼狽《ろうばい》した味方同士のあいだでは、太刀を引抜く間隔さえお互いに保ち得なかったので、
「おのれッ」
ひとりの法師武者は、そこにあった床几を遠く投げつけた。
中《あた》ったか、中らないか、床几の行方も知れない。ただ雨の如く杉の葉がこぼれ落ちた。その巨杉《おおすぎ》の横枝へ、馬上の謙信のすがたは支えられたかと思われたが、屈身、一躍すると、もう混雑の人々の中へ放生月毛の脚は踏みこんでいた。
「くわッ」
と、響きがした。
謙信の口から発した声か、振下ろした小豆《あずき》長光《ながみつ》の音か、せつなに、一人の法師武者は、彼の切ッ先からよろよろと後ろに仆れ、陣幕の紐を断《た》って仰向《あおむ》けに転がった。
しかし、それは、信玄ではない。――信玄は、身を避けて、あたかも藪の中へ胴を潜めた猛虎のように、双の眼をひからせて、謙信のすがたを見ていた。
いや、その眸が、それを見るというまもなかったほどである。謙信は、右覗《みぎのぞ》きに、一太刀伸ばした体を左転して信玄のほうへ向けるや否、ふたたび、
「かっッ」
と、さけんだ。
正しく、こんどのものは、謙信の腹の底から出た声である。信玄は突嗟《とつさ》、右手の軍配|団扇《うちわ》を伸ばし、わずかに面《おもて》を左の肩へ沈めた。
しびれた手から軍配団扇を捨てた。そして大鳳《たいほう》が起つように身の位置を変え、太刀のつかへ手をかけたとき、謙信の二太刀目が、彼の転じたあとの空間を斬った。
その、せつなであった。
御小人頭《おこびとがしら》の原大隅は、彼方に落ちていた青貝柄《あおかいえ》の槍を拾って、
「うわうっ」
と、噛みつくような声を放って駆けて来たが、主君信玄の危機、間一髪に、その槍で、馬上の敵を突きあげた。
謙信は、見向きもせず、
「機山《きざん》、卑怯なるぞ」
と、三太刀めを振りかぶりながら、馬ぐるみ、信玄の上に躍りかかろうとしていた。
右の腕に負傷した信玄が、その肘《ひじ》を抱えたまま、身を翻《ひるがえ》して、後ろを見せかけたからである。
その後ろ肩を臨んで、小豆長光のひかりが一閃を描いたが、ほとんど同じ一瞬に、放生月毛は一声《せい》いなないて竿立ちに脚を上げてしまった。――余りに気の急《せ》いた為、一槍、むなしく突き損じた原大隅が、
「ちいッ」
と、ばかり反れ槍を持直して、謙信の馬の三頭《さんず》を力まかせに撲りつけた為であった。
旗本対旗本
「見えぬっ」
「何処へ」
「はや、お討死か」
千坂内膳、和田兵部、大国平馬、鬼小島弥太郎など、旗本八、九名は、みな徒歩《かち》立《だ》ちであったため、主君謙信のすがたを途中に見失ってしまい、
「われわれ、片時たりとお側を離れずにいたものが、お館様おひとりを敵中に見失い、万一あっては、それこそ世の物笑い、末代までの恥」
と、彼方《あちら》此方《こちら》を、殆ど、無我夢中に駆けまわり、暴風雨《あらし》に吠《ほ》ゆる樹々のように、
「わが君っ」
「お館さまあっ」
と、呼ばわり捜していた。
すると、同じ組の士、芋川平太夫と永井源四郎のふたりが何処から来たか、天飆《てんぴよう》に吹き落された小雀のように、彼方の陣幕《とばり》の蔭へ向って、驀《まつ》しぐらに飛びこんで行くのが見えた。
「やっ。平太夫が」
「さては御主君もあの辺りに」
面々は先を競《きそ》って、その幕囲《まくがこ》いへ奮迅《ふんじん》していた。いや、上杉方の十二旗本ばかりでなく、附近の敵の小屋や幕囲いの間を、右往左往していた武田方の旗本も、主君信玄の座所たる営中に何かしら異様な音響を聞きとめて、ひとしく同じところへ向って駆け蒐《あつ》まっていた。
当然。そこへ迫るときは、謙信の旗本も、信玄の旗本も、たがいに体と体のぶつかるほど、混み合っていた。
けれど、彼もこれも、殆ど、横の敵を意識しなかった。
武田方の旗本は、信玄の万一を思い、上杉勢の旗本もまた、謙信の身を案じて、双方ともにその燃ゆる眼や凄《すさま》じい姿勢の前には、ただ主君の安危如何があるだけで、それ以外の何ものもなかったのである。
このとき謙信は単騎、信玄の営中に駆け込み、信玄その人を眼に見、しかも小豆《あずき》長光の一颯《さつ》、また二刃も空しく、わずかに信玄の右腕に軽傷を与えたのみで、敵の原大隅に邪《さまた》げられ、槍の柄で乗馬の尻を打たれたため、放生月毛は、彼を乗せたまま、跳《は》ね驚《おどろ》いて、猛然、そこの陣営から横ざまに駆け出して来た。
「あッ――」
名状すべからざる混乱中でまだよかったともいえる。木の根にでも躓《つまず》いたのか、放生月毛は前へのめった。そして謙信は勢いよく落馬していた。
追い慕った原大隅、その他、幾つかの槍は、
「得たり」
と、われがちに、謙信のすがたを臨んで、おどり蒐《かか》る。
「あなや。御危急」
上杉方の旗本が、何で看過していよう。どっと、横ざまに驀走《ばくそう》。
「ござんなれ」
と、槍の穂を揃えて遮《さえぎ》った。
放生月毛はこのあいだに、空鞍《からくら》を乗せたまま長坂長閑の陣地内へ、向う見ずに狂奔《きようほん》してゆく。
そして、謙信はといえば、そこへ逸早く、鬼小島弥太郎が、拾い馬の口輪《くちわ》をつかんで曳き寄せて来たので、その背へ跳び乗るが早いか一鞭加えて、
「返せ。返せ」
と、旗本たちへ呼びかけながら、ふたたびむらがる敵の中を割って、味方の内へ迅《はし》り去った。
野彦の声
来ることも迅《はや》かったが、去ることも迅かった。
それにしても、謙信が、なぜそう引揚げを急いだかというに、彼の旗本と、敵の旗本とが、槍ぶすまを並べ合った、猛烈な死闘を現出したせつな、武田の方の原大隅が大声で、
「すわやお味方の勝機は今この時と覚えまするぞ、あれあれ、妻女山のほうより夜来の別動隊、高坂どの、馬場どの、甘利どの、小山田どのなどの諸部隊、迅雲《はやぐも》の如くこれへ駆けて来まするわ!」
と、何度も呶鳴っていたからであった。
謙信が、今朝から有無の勝敗を決せんといそいでいたのも、また心中常に気にかけていたのも、実にその別動武田軍十隊の移動にあった。
それに、敵の首将信玄に対しては、なお遺憾な一太刀を残したにせよ、彼の中軍は蹂躪《じゆうりん》し尽したといえるので、年来|鬱積《うつせき》していた宿念の一端を放つとともに、
「ここは」
と、迅くも兵機の「転」を考えて、さっと退き脚きれいに帰ってしまったものである。
謙信が引揚げたので、もちろん旗本の市川主膳、千坂内膳、和田兵部、芋川平太夫などもみな、跡を慕って味方のほうへ駆け出した。
駆け出しながら、芋川平太夫と鬼小島弥太郎が、
「武田大膳太夫晴信の御首、芋川平太夫、討ったりっ」
「信玄の御首、上杉の士、鬼小島弥太郎、芋川平太夫、力をあわせて討ち取る。武田方の輩、御首の通る道を邪魔するなっ」
声かぎりいって通った。
もちろん虚言《きよげん》である。
けれどさきに原大隅が――味方の妻女山別動隊がすぐそこまで来た――と叫んだのも突嗟《とつさ》の気転にすぎなかった。こういう言葉のやりとりも時にとっては五体で働く以上に戦闘力をあらわすのである。
槍闘、騎闘、肉闘、白刃戦、敵味方混み合って滅茶滅茶に血しおを浴び肉を掴《つか》みあう時でも、戦いは何も黙ってするものと極《きま》ってはいない。いやむしろ口々に敵も味方も何事か吠《ほ》えあい叫びあい、あらゆる雑言や喚《わめ》き声を発している。けれどそれは殆ど何を吠えているのか意味をなさないものが多い。ある武者は、念仏を唱えながら戦うのが癖になっているものもある。――念彼観音力《ねんぴかんのんりき》、刀刃断々壊《とうじんだんだんね》.――などという声は乱軍中にはまま聞こえるものであるし、わが先祖のうちで心に銘じている名を呪文《じゆもん》のように連呼する若武者もあり、そうかと思うと、薪でも割るときの懸声《かけごえ》みたいに「ワッショッ」と喚いたり「ヤアッ、ホイッ、ヤアッ、ホイッ」と大船の櫓《ろ》でも漕ぎ出すように斬りこんで来る猪《いのしし》武者もある。
何しても、意識無意識のべつなく、ありとあらゆる声を放つ。そのあいだに立ち交じって、敵の気を移らせ、味方の士気を奮い立たすような正しい言葉を――機微《きび》適切な突嗟《とつさ》に――いえるような侍ならば、それはよほど千軍万馬往来の士か、胆略《たんりやく》ふたつながら併せ持っている相当な人物だということができよう。
それはともかくこの日はまた、午過ぎから烈風が吹き出していたので、敵味方とも人馬の影は、濛々迷々《もうもうめいめい》と砂塵に煙り、夜かと思えば、日輪が空にあったと、後にそのときの思い出を人々も語っているほど、ひどい砂煙がこめていた。
軍馬の蹄《ひづめ》が、滅茶滅茶に土を掘り返し、その土をまた兵が蹶立《けた》てるからである。
で、なおさら混乱を加え、それへさまざまな流言が飛び交うので、武田方の内にも、上杉勢の方にも、この前後にだいぶ同士討すらあった。
わけても、
「信玄公討たれたもう」
という流言は、ほんの一時にせよ、魔符《まふ》のように、武田陣のあいだに広まり、みるみるうち落莫《らくばく》たる気落ちの色が全軍を蔽《おお》った。
ようやく、人心地ついて、信玄の床几を、元に直した信玄の本陣に、そのことが知れたので、一大事とばかり、内藤修理が諸方の味方へ馬を駆け廻しながら触れてあるいた。
「お館は御機嫌に御座なさるるぞ。なんのおつつがもなく御指揮に当っておられる。――敵の虚言に乗せられて、味方の戦意を攪《か》き紊《みだ》すが如き者あれば、味方といえ斬って捨てい」
全陣の不安な動揺は、この触れに依ってようやくしずまったものの、ひとたび中軍のまっただ中を、謙信の馬蹄に蹂躪《じゆうりん》された武田方の中枢部は、その愕きと陣形の紊《みだ》れとを、容易に回復することができなかった。
しかしこの隠忍自重は、やはり武田信玄でなければできない怺《こら》えであった。終始、受け身の苦戦を敢てしていた甲軍のうえに、程なく吉報があった。
「見えましたっ。十隊のお味方勢が、彼方、千曲川の下流《しも》からも、上流《かみ》からも」
八幡の森の梢に、物見に登っていた者たちは、こう大声で下に知らせ、下にいた部将はすぐ、信玄の幕営へ向って、同じ声をもって告げていた。
戦局|更《あらた》まる
遅かった。
妻女山から転じて来た友軍の来援は余りにも遅すぎる。
信玄をはじめ、苦戦にあった武田方の将士はみな、
(何しているのか)
と、今の今まで、心中に怒っていたにちがいない。
けれど、妻女山へ向って、謙信の去ったあとに臨み、空しく空虚な敵陣に立った彼らとしてみると、無理もない点もある。
朝から午まえは霧が深く、上杉勢の方向がまったく知れないこともその一因だが、何よりは、次の行動に移るに当って、上杉方にどんな詭計《きけい》があるかも知れないと大事に大事をとったこと。
それと、もう一つは、山を降って、渡河に移ると、対岸の小森河岸の丘に、上杉方の勇将としてたれも知る甘糟近江守が、十二ケ瀬一帯を扼《やく》して、
――敵河|渉《ワタ》ラバ河ノ半バニシテ打ツ
という孫子の兵法が曰《い》っている通りな姿勢をもって備えていることだった。
このため、時刻はさらに延びて、評議|区々《まちまち》のうちに、遠く川中島方面に、銃声が聞える。鬨の声があがる、霧に代わって濛々と馬けむりが立ちこめているかに望まれる。
「しまった。敵の主力は、かえって、手薄な味方の主力を強襲した。猶予はならじ」
上流と下流、ふた手から渡渉《としよう》にかかった。単騎で渉るのとちがって、備えも要る、時間もかかる。
ここの兵数は、別動隊とはいえ、さきに八幡原へ出ている信玄の主力よりも、遥かに、人数は多く、十将十隊に組まれ、総勢一万二千はあった。
さればこそ謙信は、もっともこの一団雲が妻女山から移動して来ることを警戒していたのである。その抑えに、小森の丘に、今朝から満々と陣取っていた甘糟近江守は、
「今ぞ」
とばかり、敵がまだ此方の岸を踏まないうちに、それへ向って弓鉄砲を浴びせかけた。
着弾距離内の水面には、雨のようなしぶきが立ち、水は紅《くれない》に変じて、仆《たお》れては、浮きつ沈みつ流れてゆく者が数知れなかった。
初め謙信は、その全陣の鉄砲組を、殆どここに残して行ったようであった。彼自身の軍隊は、当初から「一手切」の戦法を気構えていたので、弓、鉄砲も無用と見越していたからである。
しかし、渡河中の犠牲など元より覚悟だし、それに怯《ひる》む新手ではない。たちまち、下流からは馬場民部、甘利左衛門などの隊が駆け上がり、上流には、小山田備中、小畑山城、真田弾正などの諸部隊が上陸していた。
このとき、越後の甘糟近江守とその手の者の働きは、実にめざましいものがあって、後々まで、
――上杉家に甘糟あり。
と天下の著聞《ちよぶん》になったほどだが、いかんせん本軍と連絡のない単立の一部隊では、どう奮戦したところで、一万二千の潮《うしお》を長く防いでいることはできない。
上流から突出した敵勢は、早くも八幡原に達した。殆ど、瀕死《ひんし》の状態にまで撃攘《げきじよう》されていた山県昌景の隊とついに合流して、その当面の敵軍――越後の柿崎隊の勝ちほこっていたものを――見るまに反撃し、追い討ちし、潰乱《かいらん》せしめた。
下流から上がった甲軍の新手も、ひた押しに、上杉勢の背後を圧した。遠く、信玄のいる八幡神社方面にする本軍の――わあっ、わあっという喊声《かんせい》にこたえて、こなたの野末からも新たな力のある鬨《とき》の声をあげながら、上杉軍の側面を猛撃して行った。
ここには、越後の直江、安田、荒川の諸隊が駆け向う。
押しつ、押されつ、怒濤と、果てもなく、血はけむり立つ。
陽は暮れんとす
「弥太郎ッ、弥太郎」
「はっ」
「旗をここの辺に立てい」
「かしこまりました」
謙信は駒をすてて、野に立っていた。遥か、味方のうしろである。
鬼小島弥太郎が、毘《ひ》の字《じ》の旗と、日の旗の二旒《りゆう》を高々掲げていると、謙信はまた螺手《らしゆ》の宇野左馬介に命じて、
「貝を吹け」
と、いいつけた。
どういう合図の貝を吹けともいわない。けれど螺手左馬介にはわかっていた。なぜならばたった今、主君の左右から旗本の大国平馬や和田喜兵衛や市川主膳など五、六人が、各方面の味方に向って、
「すぐ退《ひ》きとれ」
という君命を伝令すべく八方へ駆け出している。
「戦も、これまでよ」
謙信は、まだ汗ばみの冷えない面《おもて》を、風にふかせながら、大きくつぶやいた。
「柿崎和泉どの、その他、遠く広瀬のあたりまで、深入りしたお味方が案じられます。――ただ貝知らせのみでよいでしょうか」
千坂内膳が、遠くを伸び上がり伸び上がりしながら、心配そうな眼をしていった。
「されば……」と、謙信もそれを考えているらしい。千曲を渉《わた》って、甲軍の主力と、連絡した新手の敵軍に、そこの味方は、退路を遮断されたかたちになったからである。
「いや、大丈夫だろう。和泉守のことだ、横ざまに敵の新手勢を突いて通って来るにちがいない。されば、なお小森には甘糟があり、こなたにある直江大和、安田、荒川などの隊も、ひとつにかたまって引揚げてまいろう」
果たして、彼のことばのとおり、味方は徐々に、陣を返して来た。
とはいえ。
蔽《おお》うべくもない形勢の逆転だ。ここまでは明らかに、
「我れ勝てり」
と、謙信も信じていたが、一万二千の新手が彼に加わった今となっては、味方の鉾《ほこ》を収《おさ》めるしかなく、彼は反対に、朝からの屈伏を一転して、
――思い知ったか。
とばかり存分な攻撃をとり、図に乗せて、こんどは徹底的に、猛追して来るであろう。
いや、悪くすれば、この一刻に、味方は全滅をこうむるかも知れない。ひとたび勝敗の地を更《か》えて逆転した陣容というものは、それほど危険な凶相《きようそう》を呈していた。しかし謙信の面にはなお余裕《よゆう》が見えた。彼は、自分の旗をのぞんで四方から引揚げて来る味方をながめ廻しながら、その心のうちではこんなことを考えていた。
「勝った、正しく勝った。……が、この勝利を、いかにせば勝ち獲《と》れようか、勝ちとおせようか」
彼としての戦はこれまでと観たものの、武田軍としての戦いは、これからだとしていよう。日食のような空を仰げば、陽はまさに申《さる》の刻《こく》(午後四時)頃かと思われる。
知らず・謙信とは
誰かいる。約十騎ほど。
赤い西陽《にしび》をうけて。
しかし草には夕闇がこめ始めていた。蕭々《しようしよう》、吹く風は晦《くら》い。で、誰ともわからない、そこの十騎ほどの群は、旗を立てて四方を望んでいる。白地の旗には「毘《ひ》」の一字が大きく見られた。
「敵」
「良き大将」
と、武田勢は駆け寄って来た。
謙信とは知らないのである。
また、その一団の武者を、謙信のほうでも、ごく間近になるまでは、武田方とは気づかないでいたらしい。
「新発田か、柿崎の手の者か?」
ここの旗を認めて、さっそく寄って来た味方の一部とばかり見ていたのだった。ところが、約百歩ほど近づいたとき、
「高坂だっ」
と、謙信のそばで、永井源四郎がさけんだので、初めて一同も、
「すわ」
と、無意識に主君の身を庇《かば》った。
高坂弾正の部下は二、三百もいた。謙信の旗本たちの数十倍である。けれど、高坂隊のうちの一組で、その主隊でなかったのは僥倖《ぎようこう》である。
「あの首を」
と、謙信を目がけて、襲いかかって来たが、的確な目標と、信念ある指揮者がない。たまたま、この乱軍のなかで、数の少ない敵の一かたまりを見たので、殲滅《せんめつ》を志して来ただけのものでしかない。
「雑兵《ぞうひよう》めら」
謙信を守る人々は死力である。
永井源四郎も、竹俣《たけまた》長七も、鬼小島弥太郎も、まず身を躍らせて、敵のなかへ入った。こういう寡兵《かへい》で立ち向ったとき、相手の兵数に呑まれて、身を恟《すく》め、狭地を守り、防ぐばかりを能としていたら、その孤立は完全に、敵の捕捉《ほそく》にまかすしかない。
敵は、その厚い集形に似合わず、永井、鬼小島、竹俣などの奮迅する前から、さっと、影を散らした。
二、三の影は、猛然、槍をつけ、太刀をかぶって、迫ったかに見えたが、謙信のまわりには、殆ど、越後勢のなかでも立ち優れた旗本ばかりいたのである。
ものの数ではない。その太刀やその長巻の大きな刃は、当るものを乱離《らんり》と払いながら、
「おうっいッ」
「おういっ」
と、互いに始終呼びかわしていた。
わずか十人あまりの味方である。分散しては不利だし、また、主君謙信の楯《たて》となる形を崩《くず》すまいためもあった。
謙信はもう馬上にある。
そして、宇野左馬介と、千坂内膳がその口輪を把《と》って走っていた。あとを従《つ》いて、稲葉彦六、和田兵部、岩井藤四郎などが駆けつづき、近づく敵を斬っては駆け、また踏み止《とど》まっては殿《しんがり》していた。
傷軍の将は母心に似る
犀川《さいがわ》の岸まで謙信は一気に馬を跳《と》ばして来た。
つい一刻まえには、単身、甲軍の本営を、その馬蹄に懸けちらし、信玄の頭上に、一閃光《せんこう》を下した彼が、いまは身を退くに、何の歯がみもためらいもしていない。淡々たるすがたである。
「待て待て、千坂」
内膳がすぐ彼の駒を流れに曳き入れて、河を渡ろうとするのを拒《こば》んで謙信はふたたびそこに駒を立てていた。
「おう、そこにおいでですか」
先に、諸方の味方へ、総引揚げを伝令しに行った大国平馬や市川主膳など、前後して、彼のそばへ戻って来た。
なお佇《たたず》んでいるうち、高坂隊の先手を防いで、ようやく血路をひらいた鬼小島、永井、竹俣など数名も、朱にまみれたすがたをもって、ここに寄り集まった。
十人、二十人と、ぼつぼつ他の味方も寄って来る。しかしその兵種も所属も雑多だった。それを見ても、いかに味方の主力も各隊も寸断され、各々いるところに苦戦して、全面、混乱に陥入《おちい》っているかが察しられるのだった。
水|淙々《そうそう》、風|蕭々《しようしよう》、夕闇とともにひどく冷気も迫って、謙信の胸は、なお帰らぬ麾下《きか》の将士のうえに、傷《いた》み哀《かなし》まずにはいられなかった。
「新発田尾張、新津丹後。また本庄越前、北条安芸などはいかがいたしたか。柿崎は首尾よく退口《のきぐち》を取ったであろうか。直江は……」
鬼も挫《ひし》ぐ軍神《いくさがみ》とも見えたその人が、薄暮の野を見まわして、われともなくそう呟いているすがたは、まるで帰らぬ子を門辺《かどべ》に出て待っている母のように他念なかった。
「だいじょうぶです。お案じには及びませぬ」
大国平馬が力づけていう。
「妻女山より加勢の敵は、何分大兵、それに新手《あらて》、一概には支えかねおりますが、お味方こぞって、徐々と、この犀川、丹波島の此方へさして引揚げておりまする。――すでに、お館のなおこの辺に踏み止《とどま》っておわすとは知らず、犀川を越えて、遠くうしろに退きとっている部隊もあるかと存ぜられます」
平馬のことばに従いて、人々も口をそろえて謙信にいった。
「無数をもって、ここにおいで遊ばすことは、かえって、味方の集合に、惑《まど》いを生じさせているやも知れません」
「すこしも早く、犀川をお渉《わた》りあって、無事の地へ、お退き遊ばされますように」
「ここにおわしては、いつふたたび御危険が迫らぬとも限りませぬ」
謙信は、諫《いさ》めを容《い》れた。さらばと、川を渉るべく、河原へ駒を向け直した。
ここ丹波島とよぶ洲《す》の上流には、駒の脚も立ち、人間が徒渉しても、首の根ぐらいまで水に浸《ひた》れば渉れるところもあったが、ここから下流の方は、断然深い。
千曲は流れもゆるく、瀬も浅いが、犀川はそれに較《くら》べるとはるかに奔激《ほんげき》していた。この川すじの水量が最も浅く涸《か》れるのは、真夏の七月が頂上である。九月、十月となれば、山岳地方の雨期となって、たちまち四、五尺ほどの水量は増してくるのが例年の実状であり、殊に丹波島から下流の方では、人間の徒渉できる程度の浅瀬は一ヵ所もない。
謙信の憂えていたのも、退口退口《のきぐちのきぐち》と頻りにつぶやいたのも、その点に気がかりがあったにちがいない。
もっとも、味方の諸部将とて、みなこの川すじの深浅《しんせん》は心得ている。が同時に、それくらいな常識は武田方の諸将にもある。
従って、いまや優勢な位置に立った敵側としては、極力、その鋭鋒と包囲形を、犀川の下流へと向けているものと思われる。
謙信とその旗本以下、およそ百余人は、まず、謙信をあとに残して、先に十名ほどの下士が槍を杖にしてざぶざぶ川へ入って行った。浅瀬を捜《さぐ》って主君の道を導くためである。
ところが、それらの水先案内が、突然、川の中ほどでしぶきをあげて仆《たお》れた。
鉄砲ではない。
近くで、弦《つる》なりが響いた。――と思うまに、武田太郎義信を主将とした甲軍の精鋭が、
「つつめっ」
「先を取れ」
疾風のように急襲して来た。それは前に襲撃をうけた高坂隊の一組などとは比較にならないほど血腥《ちなまぐさ》い突風を持っていた。いや狂気に近い怒りをすら帯びていた。
一部は、脛《すね》まで水に入り、謙信はなお河原にいた。当然、水けむりを立てて、川の者も取って返した。
竹俣長七は、はや一人の猛敵と、斬りむすび、斬り伏せ、すぐ次の敵と組み、もんどり打って、水際《みずぎわ》までころがってゆく。
「ちいッ」
血の中から立上がって、また直ちに、むらがる甲兵のうちへ駆けこんだ。よろいの草摺《くさずり》は片袖もがれ、兜《かぶと》も失い、髪はさっと風に立っている。
本田右近允は、謙信の眼のまえで、誰やら屈強な甲軍の将と闘っている。まるで鷲と鷲とが相搏《あいう》ッているすがたである。
和田兵部、宇野左馬介のふたり連れは、たえず二本の槍をそろえて、次々の敵を迎えている。
槍《そう》一|突《とつ》。これも、小さい戦法といえようか。
そのほか、謙信を繞《めぐ》る近侍は、ひとりとして鮮血にまみれない者はなかった。
百余名は、またたく間に、四、五十名に討ち減らされた。
敵もおびただしい死骸を積んだ。
しかも容易に、退かない、怯《ひる》まない。
それもそのはず、これは父信玄を傷つけられ、自分の隊もひとたびは潰滅《かいめつ》に瀕《ひん》した太郎義信が新手を得て再編制して来た一隊である。
「序戦《じよせん》の辱《はじ》を雪《そそ》がねば、生きて甲州の人々にまみえる面《つら》はない」
という健気《けなげ》なる意気をもつ指導者とその精兵なのだ。ただ恨むらくは、この際の太郎義信も、時すでに水面も暗い黄昏《たそがれ》であったといえ、みすみす眼前にあった謙信を、上杉謙信とも知らずに遂に逸したことである。
死中生あり
謙信はふたたび馬腹に鞭を加えて奔《はし》っていた。
こよいの霧はすべて血か。名月の面にも墨を吹いたような凄気《せいき》が漂《ただよ》っている。
「左馬介。ここはどこか」
「三牧《みまき》の畠の瀬かと思います」
「さても、遠く退《の》いたのう」
憮然《ぶぜん》として、鞍上《あんじよう》から月を仰いだ。そしてしきりと、謙信は、片目をしばたたいた。額から頬へとかけて浴びている血しおが睫毛《まつげ》に乾きかけて眼を塞いでしまうらしかった。
「そち一名か。続いて来たものは」
「左様に覚えます」
左馬介も、暗然とした。――が、謙信は何かおかしくなったように突然肩をゆすぶって笑った。
「川を渉れば、高梨山《たかなしやま》のふもと。中野筋へ出るの。さらば渉ろう。左馬介、瀬を見よ」
「はいっ」
この辺は、さして深いとも思われない。左馬介は、静々、口輪を曳いて馬を川へ導いた。
水は氷のように冷たい。
そして、白い波が、鞍を洗ってゆく。
謙信は、つぶやいた。詩を吟じるように。
「死中、生アリ。生中、生ナシ。――嗚呼《ああ》、珍重《ちんちよう》珍重。秋水冷やかなるを覚ゆ。謙信、なお死なずとみゆる」
死中、生アリ
生中、生ナシ
この語は何かにつけて謙信のいう日常語だった。これについては、彼の家臣はこういう一話を聞いている。
まだ謙信が二十四、五歳のころ、春日山の城下で、ひとりの老僧に会った。
(和尚、どこへゆく)
謙信が馬上から訊ねた。僧は林泉寺《りんせんじ》の宗謙《そうけん》であったが、振り仰いで、
(城主は、どちらへ)
と、反問した。
(されば、戦場へ打立つ門出《かどで》)
と、謙信がいうと、
(あら、心もとなや)
和尚は一拝したのみで、沿道の群集の中へ立ち去りかけた。
謙信は、急に馬を降りて、近侍の本庄清七郎を呼びたてた。
(いまの和尚を追いかけてゆき、謙信に代って驕慢《きようまん》の罪を詫《わ》びてまいれ。そして、一言《いちごん》、謙信のために教えを垂れよと申せ)
(お詫びをして来るのですか)
出陣のやさきである、清七郎は忌々《いまいま》しく思ったが、宗謙のすがたを追って、その旨を伝えた。宗謙は、
(恐縮な)
と、戻って来て、
(教えなど、何も持たぬ。野衲《やのう》に答え得ることなら、何なりと答えよう)
と、衣の袖を交手《こうしゆ》して佇《たたず》んだ。
謙信は、馬を下ったまま、慇懃《いんぎん》に師礼を執《と》ってたずねた。
(兵を進めるには、神速を規矩《きく》となす、とか申します。――法をお弘《ひろ》めになるには、何を以て規矩としますか)
(兵を進めるには、死を先とする。法を弘むにも、死を先にす。ただ今日の在るすがたみな、生を知って死を知らぬのみ。――何でもないなあ、後と先とのとりちがえだけじゃ)
(もう一問、仰ぎます)
(む、む)
(弱きを見て退き、強きに向って進む。――逆ですか。順ですか)
(死を恐れざるものは安く、生を楽しむものは危うし。強弱進退、死生の迷悟《めいご》、みなこの中の事のみ。お館《やかた》には如何に)
一転、反問を呈されて、謙信はしばらく唇をつぐんでいたが、やがてこう答えた。
(死中、生あり。生中、生なし)
すると宗謙《そうけん》和尚はからからと笑って、
(よし、よし。……では、行っておいでなさい)
拝をして、出陣を送った。
後、彼は、凱旋《がいせん》すると、微服《びふく》して、林泉寺に入り、親しく宗謙禅師に参見《さんけん》し、以来、学ぶこと深かったという。
謙信の「謙」は、師の一字を乞うて名乗ったものともいわれている。彼の祐筆が記した若年ごろの日誌を見ても、
[#ここから2字下げ]
御本丸ニ御座成サルモ、常ニ御座之間ニハ一人モ罷リ在ラズ。御次《オツギ》ニノミミナ控ヘラレタリ。禅学遊バサルルニ御障リニヤ
[#ここで字下げ終わり]
と、ある。
いかに彼が禅に心を容《い》れていたかが窺《うかが》われるし、その導師は林泉寺七世の宗謙だったのである。
とはいえ彼は、ただ禅にのみ傾倒したわけではなく、神、儒、仏のいずれへも心をふかく寄せていた。天地を畏《かしこ》み人間の凡愚を弁《わきま》えていた。仏教にしても、浄土、法華宗、天台、真宗派別なく参究して、その神髄を汲《く》んでみな自己の心の甕《かめ》にたたえていた。
乱れぬ一脈
八幡原から丹波島の曠野《こうや》にかけて、夕月は出ても、鯨波《とき》の声は、なお熄《や》まない。
あなた、こなた、鎬《しのぎ》をけずり合う太刀、槍のひかりが、吠え合う軍隊の波間に、さながら無数の魚が跳《は》ねているように燦《きらめ》くのみで、もう武者のいでたち、母衣《ほろ》の色、旗の影、敵味方すらもともすれば分らなかった。
高坂隊、甘利隊、小山田隊、山県隊、馬場隊、真田隊などの新手は、各所に小包囲形を作ってはその中の上杉勢を殲滅《せんめつ》した。上杉勢のみだれは、何といっても、妻女山から転回して来たこの新鋭な甲軍の重圧にあった。
その中にあって、なお一糸みだれない上杉勢一千五百がある。小森附近から動いて徐々に引揚げて来る甘糟近江守の麾下だった。一退一退、貝をふき鳴らして、四散している味方をあつめながら、前後に側面に、当たる敵を討って、堂々、犀川まで引いて来た。
「見事な退き振りかな」
と、敵の真田、高坂なども、見送ってしまった。そして、その二隊は何思ったか、急に踵《きびす》をめぐらして、海津城の方へ引揚げてしまった。
後に、甲軍側の内部で、真田と高坂の二隊の引揚げを、
(何故か)
と非難するものもあったが、信玄は、それに対し、
(いや、味方七分の勝利と見て、無事の間に、引揚げたのはむしろさすがに上手というもので、難ずるには当らない)
という明断《めいだん》を下している。
事実、この時刻にはすでに、信玄の本陣は八幡の社を払って、今暁渡った広瀬を越え、旗本のこらず川中島を去っていたので、主力よりも先に戦場を退いたわけではなかった。
あとに、累々《るいるい》としてなお残されていたのは、その日の傷負《てお》いと戦死者だった。夜露にまみれながらなおその辺に立ち働いている人影は、死骸や負傷者を、各々の陣の方へ運んでゆくあと始末の兵だけである。
犀川の岸に、大旗を立てて、なお集まる味方を待っている甘糟近江守は、それから一|刻《とき》あまりも、いんいんと貝の音《ね》をふきつづけていた。
その音を慕って、ここかしこから集《つど》う残兵が三千余りとなると、やがて川を北へ渡って、葛尾《くずのお》に宿営した。
この日、朝から七、八時間にわたる激戦に、両軍の戦死は、
甲州方討死 四千六百三十余人
越後方討死 三千四百七十余人
という記録もあり、またべつなものには、甲軍将卒をあわせて三千二百余。上杉方三千百十七を失う、という古記もある。
ただし、その数のいずれにしても、甲軍側は、武田信玄もその子太郎義信も負傷し、一族の典厩《てんきゆう》信繁、ほか諸角豊後守、山本道鬼、小笠原|若狭《わかさ》などの名だたる幕将たちも多く戦死し、或いは傷ついているのにひきかえて、上杉方で部将の戦死は一名もなかったのは争えない事実だった。上杉方の死傷は、敵の妻女山転向部隊が、新手として加わった一瞬からのもので、その死傷の殆どが、下士級に多かったのは、潰走《かいそう》乱軍のなかに、武田方の好餌《こうじ》となって捕捉《ほそく》されたり、もうひとつの原因は、丹波島の下流にあたる犀川の深い流域へ、向う見ずに駆けこんで、溺れ流されたり、矢に射られたりしたためであった。
孤 影
月一|痕《こん》。主従二人。
耳に聞えるものは虫の音《ね》ばかりだった。このあたりは、家も灯影《ほかげ》も見あたらないが、きょう一日の大戦も知らぬかのように、ただ露しげく草深い。
「家はないかの」
「歩むうちに見つかりましょう」
「左馬介。寒かろう」
「わたくしは、お馬の口輪を取って歩いております故、自然、寒さを忘れております。……が、殿こそ、馬上、しとどにお濡れ遊ばして、お体が冷《つめ》とうございましょう」
「火が欲しい。……秋とも思えぬ冷えをおぼゆる」
三牧《みまき》の畠で、河を渉って来た主従は、歩む道に、雫《しずく》の痕《あと》を残しながら、里の灯をさがしていた。
謙信はふと駒を止めて、
「味方の者ではないか。誰《たれ》やら後の方から呼ばわって来るようだが」
と、振向いた。
馬の口輪をつかみながら、左馬介もひとみを凝《こ》らした。白い月の下を、踊るが如く馳けて来る者がある。近づくや否、その者は息あらくいった。
「お館っ。お館でいらせられますか」
「お。和田喜兵衛か」
「あ、あ」
主君の無事を見たとたんに、喜兵衛はそれへ腰をついてしまいそうになった。彼もそこの河に浸《つか》ってこれへ渉って来たので、濡れ鼠であったが、頭部や顔面の血しおは洗われていなかった。
「余の者共はいかがいたした」
謙信に訊かれて、彼は、ふたたび気をひき緊《し》めて答えた。
「和田兵部は、おあとに踏みとどまり、敵大勢を斬って、ついに最期を遂げました」
「兵部も、討死したか」
「また、宇野余五郎どのにも……」と、いいかけて、馬の口輪と並んでいる左馬介の顔を見ながら、喜兵衛は口をにごした。
宇野余五郎はそこにいる左馬介の弟だからである。
「和田どの。余五郎も、果てましたか」
その兄の顔いろに、ぜひなく答えた。
「されば、乱軍のなかに、目ざましい働きをしておられたが、満身数ヵ所の重傷を負い、苦しげにみえました故、それがしが肩にかけて、ついそこの三牧《みまき》の河の瀬まで来ましたところ、河の中ほどまで渡って来ると、それがしの耳元でこういうのです。……所詮、お館に追いついても、この体では、かえって殿の足手まとい、御奉公のすべも尽きましたれば、お別れすると……」
「お。そして」
「呀《あ》と……思う間に、それがしの手をもぎ離し、肩を離れて、激流のなかへ自ら溺れて行きました。呼べど、叫べど、もう影もなく声もなく」
「……そうでしたか」
左馬介は、面を斜めに上げたまま、月に答えている。
謙信は黙々、手綱をすすめた。この暁には、一万三千の兵陣に囲繞《いによう》された総帥が、孤影わずか二箇の家臣とともに戦場を去ってゆくのである。そも主従の感慨はどんなであろうか。戦場は天地を一宇の堂とした大きな修行の床ともいえる。月に白い謙信の面《おもて》には、寸毫《すんごう》といえども、敗けたという色は見えなかった。むしろその唇元には、一業を仕果したあとのさっぱりした寛《くつろ》ぎと、次の戦いに対する構想に他念ないかのような含みすら窺《うかが》われる。
狼
「や、明りが見えます」
漸く、民家を見たかと、左馬介が歩みながら、馬上へ告げると、
「いや、農家の火ではあるまい」
謙信は顔を振った。
そういわれてみると、ただの燈火や、農家の炊《かし》ぎの火にしては、ちと火光が大きすぎる。
「なるほど、仰せのとおり、大焚火している者があるようです」
道を二、三町もすすんでから、宇野左馬介も怪しみ出した。和田喜兵衛が、物見して参りましょうか、というと謙信は、
「それには及ばぬ。この辺にまで武田勢の散っておる謂《いわ》れはなし、思うに、きょうの合戦を気構えて、落人《おちゆうど》の道に網を張り、稼ぎを待つ野武士共の群に相違あるまい」
「野武士とあれば、多くも二、三十人。それも多寡《たか》の知れたあぶれ者の烏合《うごう》です。喜兵衛殿と二人して、お道を払って参ります故、殿にはしばし木蔭にでもお憩《いこ》い遊ばしてお待ちください」
左馬介が早、馳け出そうとすると、謙信は、
「止《や》めよ。止めよ」
と、駒を回《めぐ》らして、
「遠くも、ほかを廻り道して行こう。喜兵衛、細道を捜せ」
と、いった。
甲軍数千の鉄壁を蹴やぶって、その旗本陣へ単身駈け入ることすら敢えてした謙信が、道を阻《はば》む野武士の焚火を見ると、馬を回《かえ》して、無事な抜け道をさがしているのだった。
その夜は、保科《ほしな》の山路をこえて、大木の蔭に、わずかな一睡をとった。
次の日は、高井野の里から山田を越え、更級《さらしな》へ下りてゆく。
その晩も、野武士に出会ったが、避けるに道なく、喜兵衛と左馬介が追いちらして通った。
しかしこの一群の野武士は、謙信の鞍装束《くらしようぞく》の値打を踏んで、どこまでも執念ぶかくあとを尾けてくる。
夕暮、安田の渡しとよぶ川筋へかかった。振顧《ふりかえ》ると、小一町ほどうしろに、がやがや声をあげながら野武士のかたまりが騒いでいる。笑止なことには、近づいては来ないのである。虚があったら咬《か》みついて来ようとしている狼の群に似た。
「よいものがあります。あれへお駒を曳いて渡りましょう」
対岸へ向って、こちらの堤《どて》から、太い綱が一本張ってある。その下に繋いであった筏《いかだ》に馬と人は乗った。
その太綱《ふとづな》を手繰《たぐ》って、筏が川の中ほどまで出たとき、うしろの堤の上にまた四、五十人の人影があらわれた。すぐ追って来た野武士たちである。
「何か吠えておりまする」
筏の上で、喜兵衛と左馬介が笑ったとき、二、三本のヘロヘロ矢が飛んで来た。鉄砲も持っているらしいが、弾が無いとみえる。ただ白い歯を剥《む》き出している顔ばかりたくさん見える。
筏は、悠々と、岸に着く。
謙信は馬の背に移りながら、
「左馬介。その渡し綱を、斬っておけ」
と、命じた。
左馬介が、太刀を抜いて、太綱を切ると、ばしゃッと、水面を打ったそれが、大きな弧を描いて、一方へ流れた。
白い歯だの、たわしのような頭だの、大きな手の影などが、対岸の堤のうえで、再び口々に何か吠えたり、罵ったり、地だんだ踏んで躁《さわ》いでいるようである。もうここは戦場でない。世間であった。
蕎麦《そ ば》の花
謙信が越後路へ落ちてゆく途中、この安田の渡しか、ほかの所であったか、黄昏《たそがれ》頃、道へかかったとき、
(行く手の彼方に、川が二筋見ゆるようだが、千曲の川筋ならば、ふたつあるわけはない。道をとりちがえたのではないか)
と、いったところ、和田喜兵衛が笑って、
(お館にもさすがお疲れとみえまする。あの一筋は川ではなく、蕎麦《そば》の花がいちめんに咲いているのでございます)
と、答えたとか。
そんな話がこの地方に残されて、後々まで語り草になったらしいが、これは何かの誤謬《ごびゆう》らしい。
陰暦九月十日過ぎには、もう蕎麦の花ざかりは遅すぎる。こんな口碑《こうひ》が伝わったのは、この戦後、春日山へ帰るとすぐ、和田喜兵衛が変死したところから起ったものと思われる。
途中の食中《しよくあた》りか何かであろう。春日山城へ辿りつくと、喜兵衛はひどく吐瀉《としや》をして死んだ。謙信が、
(不憫《ふびん》な)
と、手ずからその口へ薬を啣《ふく》ませてやったというにかかわらず、息をひきとってしまった。
それが誰とはなく、和田喜兵衛は血を吐いて死んだと伝えられ、その原因は、謙信ほどの大将が、蕎麦の花を川と見違えたというようなことをいったのは、一代の恥としてもよい。世間に聞えては天下のもの笑いにもなる。で、帰城するとすぐ喜兵衛を殺したものである。そうに違いない。――と、風評はこういうのであった。
おそらく、武田方の捏造《ねつぞう》かもしれない。いずれにせよ、理由のない誹謗《ひぼう》である。
しかし、謙信主従が、川中島から越後に入るまでの道は、想像以上な艱難《かんなん》であったらしいことは確実に想像される。寝るにはもちろん食物を得るにも困難したらしい。それに伴う郷土郷土の伝説はいくらもあるが、多くは、蕎麦の花に類したことのみかと思われる。
立つ鳥の跡
善光寺の東南、裾花川を前にして、直江大和守は、大荷駄、小荷駄を集合し、なお他の部隊の散兵も、悉《ことごと》く容《い》れていた。
大戦の翌日も、その翌日も、踏み止まって。
一方、犀川まで退いて、残兵を寄せていた甘糟近江守とも、完全に連絡をとった。そして、合流し、川中島の曠野から近村隈なく兵を派して、味方の死骸、負傷者、旗の折れまで、残りなく陣中に収容した。
もちろん主君の安否については、犀川の上流で殿軍《しんがり》したという千坂内膳、芋川平太夫、その他の旗本たちのことばに依って、無事御帰国という推定はついていた。旗本たちとしては、知れないまでも、謙信のあとを慕ってと、いい合ったことでもあるが、
「かえって、敵に、御主君の道すじを、教えるようなものになる」
と、直江大和守は、極力、それを止めた。
悠揚《ゆうよう》迫らざるもの。それこそこの退き口の大事であるばかりでなく、次の軍への備えであるといった。
戦後の、きのう今日。
この態《てい》を遥かに望んでいた甲州軍の方では、
「直江、甘糟など、なお程近い裾花川にあって、敗軍の兵をまとめております。われわれども一手ずつの兵をひきいて、疾風、そこを撃つならば、生きて越後に帰り得るものはないでしょう」
と、小畑山城守を初め、気負いきった諸将はみな、信玄の前に出て、こう進言したり、希望したりしたが、信玄は、
「いやいや、止めたがよい。あの大傷手《おおいたで》をこうむりながら、なお自若《じじやく》として、わが陣前近く、三日にわたって、芝居《しばい》(戦場)を踏まえているは、敵ながら天晴者よ。――うかと手出しして、窮鼠《きゆうそ》に噛まれなどいたしたら、其方どもよりは、信玄が世のもの笑いとなろう」
そういって許さなかった。
三日目から四日目にかけて、越後勢は、この野へきたときと何らの変化もなかったように、旗鼓《きこ》堂々、北へさして徐々に引揚げて行った。
勝《かち》 鬨《どき》
きれいに上杉勢が引払ったあとを、検察に行って、一巡馬をとばして帰って来た初鹿野伝右衛門は、
「はや、腰兵糧の殻一つだに、跡には散らかっておりません」
と、報告した。
信玄は聞いて、
「それみよ、それほどなたしなみある敵、もし撃ちかかったら、少なくも、彼と同数な味方を損じたにちがいない」
と、左右のものへいった。
しかし、諸将は口々に、
「この最後まで、八幡原の芝居(戦場)を踏みしい給うたからには、必定、このたびの御合戦、味方の御勝利なることは、疑いもございますまい。よろしく御勝鬨《おかちどき》の式を御執行あって然るべく思います」
と、述べた。
それには、信玄も異論はない。一族の弟、数名の大将、数千の部下を失い、また自分も負傷し、一子太郎義信まで、数ヵ所の傷を負っている惨状だが、
「彼はみだれ、我は結び。彼は去り、我は残った」
と、信じうる事実の上に、満々として、心は戦勝に誇っていた。
「芝居(戦場)を浄《きよ》めよ」
信玄はその用意を命じた。
海津へ立退いた高坂弾正その他の将士もすべて会した。
式は、広い地域を要する。全軍、隊伍を組んで、粛と整列し、中央の浄地には軍神を祭り、塩水を撒いて、白木の祭壇に、榊《さかき》をたて、燈明をともすのである。
そして、帷幕《いばく》の大将の重なる人々が、次のような役割をもって配され、祭壇に向って厳かに立った。
一 先祖の御旗持 高坂弾正《こうさかだんじよう》
一 孫子の御旗持 山県《やまがた》三郎兵衛
一 右方、南天弓《なんてんゆみ》 小山田備中守
一 左方、南天弓 馬場民部|少輔《しようゆう》
一 陣太鼓 跡部大炊介《あとべおおいのすけ》
一 陣貝 長坂長閑《ちようかん》
一 御打物《おんうちもの》 飯富兵部少輔
一 青貝の槍 小畑山城守
一 拍子木 甘利左衛門尉
総帥《そうすい》信玄は、やや離れた位置にあって、一族、旗本をうしろに、床几へ腰かけている。
右手を繃帯していた。その白い布がわけてここには目立つ。また、無言に甲州武士の胆心に何ごとかを訓《おし》えている。
その床几の前へ、恭《うやうや》しく、一人の将が、祝肴《いわいざかな》をのせた折敷を捧げると、信玄は、その勝栗を一つ取って、左の手で、日月の大扇《たいせん》をさっと開く。
そして立上がるなり、大空へ向って、
「えいっ、えいっ、おおうっ……」
と、いう。
その大音について、諸大将以下、総軍の兵も、声いっぱい、
「えいっ、えいっ、おおうっ……」
と、凱歌する。
三度、繰返すのであった。
天下泰平、国土安穏、万民安全、怨敵退散。
南天の弓が、ぴゅっ、ぴゅっ、と風を斬る。
ふたたび、天地もとどろくばかり、えいっおうっ――をさけぶうちに、それはただの喊呼《かんこ》となり、歓声となり体じゅうの熱気と感動を空へ放って、あとは自らわれ知らず頬に流れ下る涙となった。何故かは覚えず、ただ双頬にそれが濡れてくるのだった。
世評是々非々
春日山へ総引揚げの後も、謙信以下、上杉方の家中はみな、
「お味方の勝ち軍だ」
「敵方の信玄父子は傷ついた」
「甲州の一族大将は、枕をならべて討死したが、それに反して、お味方には一将の首級《しるし》も敵に取られていない」
と、あくまで自軍の大捷《たいしよう》を信じて疑わなかった。
ところが、同様にまた、武田軍のほうでも、
「甲軍大勝利」
を謳歌《おうか》して熄《や》まず、八幡原に踏みとどまって、堂々、勝鬨《かちどき》の式まで行って、甲府へひきあげた。
そこでこの永禄四年の川中島の大戦というものは、いったい甲越のいずれに真の勝利があったものか、武門はもちろん世上一般の論議になり、ある者は、謙信の勝ちといい、ある者は信玄の勝利といい、当時からすでに喧《やかま》しい是々非々《ぜぜひひ》が取交わされていたらしい。
太田三楽入道は、戦国の名将として、尠《すく》なくも五指か七指のうちには数えられる兵学家の一人であるが、その人の戦評として、次のようなことばが伝えられている。
「川中島の初度の槍(明方より午前中の戦況)においては、正しく十中の八まで、謙信の勝目なりといっても誇張ではない。陣形から観ても、上杉勢の先鋒はふかく武田勢の三陣四陣までを突きくずしておる。かつてその旗本まで敵の足に踏みこませた例はないと誇っていた信玄の身辺すら、単騎の謙信に踏み込まれたのを見れば、いかに武田軍が一時は危険なる潰乱《かいらん》状態に陥入《おちい》ったか想像に難《かた》くない。かつは、有力なる大将たちも、幾人となく、枕をならべて斃《たお》れ、信玄父子も傷つき、弟の典厩信繁までが討死をとげたことは、何といっても惨たる敗滅の一歩てまえまで追いつめられていたことは蔽《おお》いようもない事実といわねばならん……けれど、後度の戦(午後より夕方まで)になっては、まったく形勢逆転して、十に七ツまでも、信玄の勝利となったは疑いもない。この転機は、妻女山隊の新手が上杉軍の息づかれを側面から衝《つ》いた瞬間から一変したものであり、上杉方の総敗退を余儀なくされたのは、首将謙信自身、陣の中枢を離れて、一挙に速戦即決を迫らんとしていたのが、ついにその事の半ばに、敵甲軍の盛返すところとなったので、謙信の悲壮極まる覚悟のほどを思いやれば、彼の遺恨《いこん》に対して一掬《いつきく》の悲涙なきを得ない。――しかし、以上のように双方を大観すれば、この一戦は、勝敗なしの相引というのが公平なところであろう」
太田三楽の戦評のほかに、徳川家康が後年駿府《すんぷ》にいたとき、元、甲州の士だった横田甚右衛門とか、広瀬美濃などという老兵を集めて川中島の評判をなしたことも伝えられている。
家康がいうには、
「あの折の一戦は、甲越ともに、興亡浮沈のわかれともなるところだから、軽々しくうごかず、大事を取ったことは、双方とも当然といえるが、それにしても、信玄はちと大事を取り過ぎている。謙信が妻女山の危地に拠《よ》って、わざと捨身の陣容をとったことに対し、信玄は自分の智恵に智恵負けの形が見えた。また、九月九日の夜半から暁にかけて、謙信が妻女山を降りて川を渉る半途を討つの計を立てていたら、おそらく越軍の主力は千曲川に潰滅を遂げたにちがいない。それを八幡原に押出して、相手の軍が、平野を踏んでから後を撃つ構えに出たのは、信玄に似あわしからぬ落度である。要するに信玄は、謙信の軍を観て、首将謙信の心事を観《み》ぬくことが少し足らなかった」
なお、兵学家の一家言《いつかげん》なども、いろいろあるが、総じて、三楽と家康の批評にほぼ尽されている。
ただ、なおここで、現代から観ていいうることは、信玄はあくまで物理的な重厚さと老練な常識を以て臨《のぞ》み、謙信はどこまでも、敵の常識の上に出て、学理や常識では想到し得ない高度な精神をふるい起して、この戦いをこれほどにまで善く戦ったということである。
もし謙信が、信玄同様に大事をとり常識をまもって、川中島へ出軍したとしたら、その戦前、また周囲の情勢などから判じて、到底越後上杉の名誉はあり得なかったところだった。世評は何といおうと、謙信自身にとっては、絶対な道と二《ふたつ》なき戦法を以てしたことは快戦だったにちがいない。要するに、彼の国防も、彼の進撃も、帰するところの信念はひとつ、
――死中生アリ、生中生ナシ
の一語に尽きるものだった。
わすれもの
「伝右。伝右衛門」
信玄がふと呼び立てた。甲府へ帰還してゆく行軍の途中である。
旗本の列から、初鹿野伝右衛門が、駒を横に出して、お召しでしたかと、側へ寄りそう。
信玄はうなずいて、
「さればよ、いま思い出したぞ、戦場に忘れものして来た。さて、どうなりつらん、急に心がかりになった。急いで、そちはあとへ引っ返し、忘れものを拾うて来い」
「お忘れもの? ……。はて、何をお忘れあそばしましたか」
「いじらしいものだ。それはまだ二十歳《はたち》にも足らぬ旅すがたの女子。矢弾《やだま》のなかに迷うていたのを、兵に申しつけて、八幡原の社家のうちに庇《かぼ》うておいたぞ。はやく戻って、無事を見て来い。いや、拾うて来い」
「ありがとう存じまする。……いつの間にお目にふれましたやら、果報者、おことばにあまえて」
「そちひとりは、遅れて甲府に入るも、さしつかえない。伴《ともの》うてゆるりと、凱旋せよ」
大軍は、彼ひとりを残して、先へ甲府へ還って行く。
伝右衛門は、主恩に感泣しながら、ふたたび、きのうの戦場へもどった。
一夜の雨に、満地の血しおは、きれいに洗われ、数日の人気もない夜霧朝霧に、踏みしだかれた草の葉も花も、みな生き生きと、姿を擡《もた》げ直していた。
八幡原の森の外に、初鹿野伝右衛門は駒をつないだ。誰が掃き清めたのやら、神社の境内は、きれいに箒目《ほうきめ》すら見えていた。さしもの修羅狼藉《しゆらろうぜき》のあとも掻き消され、そこに見えるのは寂とした中の蔦《つた》紅葉《もみじ》と杉木立の青い仄暗《ほのぐら》さだけであった。
伝右衛門は社家の裏へ歩いて行った。いつぞや水を汲んだ覚えのある井戸のそばに、禰宜《ねぎ》の妻が嬰児《あかご》のむつきを洗濯していた。
「あっ?」
何気なく振向いた禰宜の妻は、伝右衛門のすがたを見ると、すぐいつぞや激戦の恐怖を衝かれたように、濡れ手のまま跳びあがった、極度に顔いろを顫《おのの》かせた。
で、伝右衛門も、物腰に気をつけながら、特にことばもやさしく訊ねた。
「こなたの家に、鶴菜《つるな》という若い女子が世話になっておろうが。わしは鶴菜の身寄りのもの。甲府の伝右衛門が迎えに来た。そういうてくれぬか」
「はい。……かしこまりました」
禰宜の妻は、手を拭きながら、後退《あとずさ》りに彼の前を去った。そして急に台所口から奥へ駈けこんだ。
家の中で、鶴菜の声がした。鶴菜はまだ弾傷が癒えないで床に横たわっていたが、父の伝右衛門が来たと聞くと、濡縁《ぬれえん》まで転び出して来てさけんだ。
「お父さまっ」
この日は伝右衛門もいつぞやのような怖《こわ》い顔の人でなかった。つかつかと歩み寄るなりその腕に、このいじらしいものを深々と抱いて、
「むすめ。むすめ……」とのみでしばし何のことばもない。
父娘《おやこ》の者が、人目もなく、そこに相擁しているすがたを奥から眺めながら、禰宜の妻は、いぶかしげに、懐《ふところ》をあけて、児に乳ぶさを与えていた。
呉越の道
次の日、ひとつ駒の背に、父娘は乗って、いわゆる「信玄の棒道」を、初鹿野伝右衛門は甲府へ向ってゆく。
身はなお具足に鎧《よろ》っていたが、主君に許されて今は鶴菜の父となりきっている彼だった。
一城を賜い、一郡を受けるよりも、彼として、これは無上な主恩と感じている。
「鶴菜」
「はい」
「母の顔はおぼえているか」
「わすれません」
「叔母御の顔は」
「覚えております」
「弟たちは」
「うっすらと……」
「無情な親共と恨んだことはないか」
「さらさらございません。ただはやく戦《いくさ》が勝てばお膝のそばに帰れようかと、そればかりを楽しみに」
「今こそ、父の膝に還《かえ》って来た」
「また、いつの日か、越後へ行かなければなりませんか」
「もうよいよい。こんど行くのは、お嫁の先だよ」
急がない旅となった。秋はいよいよ深い。鶴菜は夢のような心地だった。
すると、甲府もやがて近い頃、彼方から来る一群の旅人があった。
「あ……?」
鶴菜は、父の背に、すがりついた。駒の背はひとつである。彼女だけ逃げかくれすることが出来なかった。
「鶴菜。何を怖がるか」
伝右衛門が振向きながら、手綱をとめてたずねると、鶴菜は怯《おび》えた鶯《うぐいす》のように、そっと眸をあげていった。
「彼方から来る大勢の衆は、みな越後の士《さむらい》方です。そのなかに、黒川|大隅《おおすみ》様もいらっしゃいます。大隅様はわたくしの御主人でした。昨日までわたくしをわが子同様に育ててくれたお方。どうしたらよいでしょう」
「なるほど」
と、伝右衛門も彼方へ眼を凝《こ》らして、
「馬上の二人は、その大隅と、斎藤下野らしい。その他は、先に越後の使者として、甲府に参り、合戦と共に捕えられていた越後衆。はて、どうしてこれへ来たか?」怪しみながら佇んでいるまに、先の十人ばかりの一群は、彼の眼のまえに近づいていた。
「やあ。初鹿野どのではないか」
元気よく、まずこう先方から声をかけて来た。紛《まぎ》れもない片目の使者斎藤下野である。また副使の黒川大隅とその以下の随員たちである。
「オオ。下野どのか」
双方から馬を寄せ合って、あたかも旧友の如く、懐かしげに話し出した。
「すでにわれらの手に捕われ、以後、甲府の牢獄におられたはずの御一行が、どうしてこれへ見えられたか」
「されば、見給え、この通り、信玄公の手形もいただき、木戸も関所も、悠々と通って参ったもの。決して、破牢脱走などして来たものではない」
「元より信玄公のおゆるしなくては能わぬことだが、それにして、御帰国後、直に無条件で其許《そこもと》たちを放さるるとは、腑《ふ》に落ちぬこと。いかなる理で御帰国をゆるされたか」
「はははは」
例の調子で斎藤下野は哄笑しながら、
「このたびの合戦も、まず一応終りを告げたというもの。そこでわれら如き喰いつぶしを、いつまで、甲府の牢に留めおかれたところで、何の意味もござるまい。というて、馘《くびき》らんか、越後表にも、甲府の隠密や信玄公が一類の者、何十人か捕え置いてあれば、いつでもその者共の首を斬って、お酬い申すことができる。――そこはさすがに御賢慮に抜かりのない殿、昨日われらの縄目を解いて、一書を授け、且《か》ついわるるには。――お身らを解いて国許へ帰しつかわす故、春日山に囚《とら》えておる甲州の家人共をも、無事に解いて放されい。と、つまり敵人と味方との生命《いのち》の引換えを申し出られた。――われらもとよりさして欲しい生命でもござらぬが、折角、助けるというものを、無碍《むげ》に断って捨去るのもいかがと思い、のそのそと戦も果てた今頃を、これから越後へ帰る途中でござる」
「いや、それで様子がよく分った。まずは、無事御帰国で、目出度いと申しあげる」
「其許も、川中島に一戦を遂げ、且《か》つは、久しぶりに、おむすめ御も連れ戻られ、この上の祝着はござるまい」
「お察しのとおりでござる。むすめに代って、黒川大隅どのには、とりわけお礼を申しあげる」
互いに礼を施して、甲府へもどる者と、越後へ帰る一行とは、東西に道を交わし合った。そしてしばらくやり過してから、鶴菜が振向くと、黒川大隅もこなたを振顧《ふりかえ》っていた。個人的には深い情誼《じようぎ》や恩を感じながらも、この戦国の棒道では、こういう別離やこういう挨拶が、何の不自然もなく取交わされて戦わぬ日といえども、黙々のうちに、
「彼は越後」
「彼は甲州の士《さむらい》」
と、はっきり国土をべつにして顧みなくその国に生きその国に死ぬことを希《ねが》いとしていた。
秋ぐさ供養
桔梗《ききよう》は褪《あ》せ、芒《すすき》はのびている。
斎藤下野の一行は、川中島を斜めに通って、北国街道のほうへ馬を向けていた。
千曲川の彼方に、海津の城の白壁が見える。いまなお、甲州軍の一部はそこに充満しているらしいが、さもさも、戦はどこにあったかといわぬばかり、城のすがた、山川のたたずまい、すべて平和な光に舂《うすず》き濡れていた。
「――甲州方討死、四千六百余人。上杉方討死、三千四百七十余名。ああ……大きな犠牲」
黒川大隅は無量な感につつまれている。的確ではないが、両軍の戦況や損害は、はやくも沿道に伝わっていた。これへ来るまでに、一行はかなり審《つぶ》さにそれらのことも知った。
「ひと休み致そうか」
下野は、馬を降りた。そして秋草の中に坐りこんだ。
千曲の水の岐《わか》れが、淙々《そうそう》と近くを流れている。過ぐる日の大戦に、味方はどこで苦戦したろうか。郷党の知己、縁者、誰の兄、誰の弟と、思い出さるる幾多の面々は、どこに戦い、どこに討死《うちじに》したろうか。
思いめぐらしていると、陽の沈むのもいつか忘れてしまう。そしてひしと、
「ここに骨を埋《うず》めた三千のいのちを、犬死とさせてはならない」
斎藤下野は胸に誓わずにいられなかった。そして居るに堪えなくなったように、急に馬の背へ回《かえ》って、供の人々へ呼ばわった。
「おういっ。行こうぞ。陽が暮れかけた。……先へ参るぞ」
人々は野に散らかっていた。その影を見まわすと、或る者は、石を積んで塔を作り、或る者は鎧のちぎれや兜の鉢金《はちがね》などを寄せ、花を折って、供養《くよう》していた。――だが、不意にわれに回ると、石も捨て、花も捨て、思い思いにみな斎藤下野の馬のまわりへ駈け寄って来た。
静 夜
たれ様の御次男も、さすがによい死方《しにかた》をなされたそうな。
あの家の御主人も、比類ない働きして、見事な戦死をお遂げなされたとか。
遺《のこ》るお家族の人々も、さだめし肩身がお広かろう。日頃のおたしなみの程も窺《うかが》われる。次の戦にはあやかりたいものよ。
川中島の戦も果てたあと。
春日山の城下は一しきり人と人とが寄りあえば、そうした噂にもちきっていた。
そして毎日のように、戦死者の野辺の送りや、遺族の家の弔問に、たれも彼も、わが家も打捨てて歩いていた。
広からぬ越後一国から、一時に三千余の戦死者を出したのである。こういう戦後の現象は春日山城下だけではない。村へ行っても、山間の部落へ行っても、香煙がにおっていた。毎日のように、寺々の鐘が鳴っていた。
上杉謙信は、日を卜《ぼく》して、城下の林泉寺で、大供養を執《と》り行った。
もちろんこの日は、春日山の二十四将以下、家中|悉《ことごと》く参列し、また身分のひくい足軽の遺家族といえ、誉《ほま》れある家々の老幼はすべて法筵に列して、親しく、謙信からことばをかけられた。
夕刻、謙信は、帰城した。
晩秋の庭に対して、いつもの如く、寂として坐っていた。
燭が来る。
その燭をすえる位置まで、日常、畳の目ひとつ違っていない。
そういう風に、規律正しく、躾《しつ》けられている近習《きんじゆう》であった。
彼には、妻がない。夜食も禅僧のように質素である。済むとまたすぐ居室に帰る。居室をそのまま、宴楽の席とするようなことはない。ここに戻って坐れば、いつも本来の自分に立ち還っている。黙想か、読書か、稀に、硯《すずり》をよせて、何か書きものなどしている。
「……誰だ」
うしろを見た。
袖部屋のふすまが静かに開《あ》いたからである。
中へ入って、うしろ向きに、ふすまを元のように閉めている者がある。
謙信はすぐ思い出した。
――義清か。と。
夕方、近習が燭を運んで来たとき、今夜、村上義清が折入ってお目にかかりたいと申されていますが、と内意を訊ねていた。いつでも参るようにと、答えてあったのを、謙信はそのまま忘れていたのである。
「お邪《さまた》げになりませぬか」
義清は、遠くに平伏して、そっと燭の方を窺った。
謙信が独り居室に静坐しているときは、たいがい禅に潜心《せんしん》しているのだということを常々聞いているので、こよいもと、畏る畏る、憚《はばか》ったのであった。
――が、謙信のかたわらには、めずらしく、古今集《こきんしゆう》か何かの和歌の書が読みさして伏せてあった。
「いや、かまわぬ。おはいりなさい」
謙信は、近習をよんで、しとねをすすめた。村上義清は、久しく上杉家の帷幕に加わっているが、臣下ではない、客である。いわゆる客将《かくしよう》であった。
歌ごころ
「せっかく、御学問中を」
「いやいや、徒然《つれづれ》のまま、ほんの慰みの書を手にしたまで」
「和歌のお書物のようですが」
「近衛前嗣卿から贈られた古今《こきん》です。みずから和歌を詠《よ》もうなどとは思わぬが、兵馬《へいば》倥偬《こうそう》のあいだにも、歌心は有りたく思う」
「歌心と仰せられますと」
「さて、どういうてよいか。……大和《やまと》心《ごころ》と申さばややそれに似かよう気もする。もっと小さくいうならば、剛に対する柔、殺に対する愛、刹那に対する悠久、動に対する静」
「すこし分りかけました」
「年々の合戦、日々も戦い。自然心は一途《いちず》となる。しかしこの戦国の果てなき末を思うと、たとえば長途を行くが如く、高き山へ登るがごとく、呼吸の調べが大事と思う。吐く息、吸う息、そして長きを保ち、乱れを知らぬ呼吸。つくづく思う。その大事をな」
「きのうは、単騎、信玄の中軍へ馳せ入られ、きょうは、静夜に、そのようなお考えを抱かれますか」
「たとえば、琴《こと》の絃《いと》も、懸けたままにしておいては、音がゆるむ。弓は、射るときのほかは、弦《つる》を外《はず》しておくものぞ」
「外せば、外したまま懸けるを忘れ、懸ければ外すことをつい忘れ。なかなかその心機を転じることが、われらには難《むずか》しゅうござりまする」
「されば、凡夫《ぼんぷ》われらには、暁《あ》けては、兵馬を見、燈《とも》しては書に親しみ、血腥《ちなまぐさ》い中にあるほど、歌心も、欲しいとするのじゃ。平易に申せば、身ひとつに文武ふたつをあわせ持つこと。至極やさしい。しかし難しい。――いうことだけは謙信にもいえるが、さて、行《おこな》うとなるとだな。……ははは」
おおらかに一笑すると、短檠《たんけい》の灯までが華やいだ。折ふし近習がそれへ供えた麦菓子をひとつ摂《と》って、茶をふくみ、寛《くつろ》いだ客あしらいを見せて、やがて彼のほうから訊いた。
「ときに、折入って、こよいは何事のお越しかの。承ろう。義清どの、ちと、お顔いろもすぐれぬようだが、何とせられたか」
窮 鳥
義清はうなだれた。落涙している。
「…………」
燭は白々《しらじら》と主客の沈黙を照らし、庭のしじまをゆく泉の音《おと》がせんかんとその灯を湿らせてくる。時折、時雨かと思うばかり木の葉が大殿の廂《ひさし》を打った。
「思い極めて参りました。義清のねがい、甚だ身勝手にござりますが、お聞き届け賜わりますように」
平伏していう。
そしてなお涙しているらしい。
謙信には思い当ることもないようであった。小首を傾《かし》げて聞いていたが、一体、そのねがいとは何かと、再び義清に訊ねた。
義清は、流涕《りゆうてい》を拭って、漸く、容《かたち》を正し、謹んで今日までの恩遇に謝してから、こういった。
「どうか、九年前に、私から御当家に対して、お縋《すが》り申したお頼みの一条は、取消していただきとう存じます。――つまり今日限り、村上家に対する御任侠はおやめねがいたいのです。それがし自身も、直ちに、お暇を乞うて、高野の山奥へでも、遁世《とんせい》仕る所存にござりますれば」
非常な勇気をもって、義清は一息にいった。生来、善人で遠慮がちなこの人が、これ程のことをいうには、よほどな決意と勇気を胸に誓ってであろうと、正直にその心もちは受けとれるのである。
「ほう」
謙信はその大きな眼を殊さら大きくみはった。
「……では、何といわるる。あなたは、祖先以来の地、旧領信濃に帰って、ふたたび以前の領民にまみえる望みを断念したと仰せらるるのか」
「そうです。……折角、今日まで九ヵ年のあいだ、お館を初め越後衆全体の御援助をこうむりましたが」
ここまでいうと、義清はまた胸をくずして、べたりと、畳に両手を落し、その上に面《おもて》を伏せてしまった。
髪の毛がふるえている。その髪にもはや白い霜が見える。
いまこそ、他家の客分となって、かく謙信の前にも卑下《ひげ》しているが、この人の血液には正しく高貴のながれさえある。清和源氏の末流、信濃の名族だ。気のどくな境遇よと、謙信はその老いを見るにつけすぐ思う。そしてその一半の罪は自分にあるような責任すら覚えるのだった。
いまから十余年前までの村上氏というものは、北信濃一円を威令して、坂城《さかき》の府《ふ》、葛尾《くずのお》の城を中心に、祖先鎮守府将軍源頼義の一族が末裔《まつえい》として、誰も仰ぎ敬う位置に栄えていたものである。
それが、天文年間の半ばごろから、年々、甲斐の武田氏に蚕食《さんしよく》され、上田原の戦をさいごとして、本城は落去《らつきよ》、一族は離散、夫人は千曲川に身を投じて果てるなどという、世が静かなら有り得ない惨たる滅亡を告げてしまった。
天文二十二年の八月。
義清は、殆ど身ひとつで、敗軍の中から遁《のが》れ、この越後へ来て、
(救って下さい)
と、謙信にすがった。
時に、謙信は年まだ二十有余。この名族の果てが、膝を屈して、義に訴えるすがたを、何で、すげなく見ていられよう。そのとき彼が義清に与えた言葉は、
(よろしい。御安心なさい)
明瞭な、然諾《ぜんだく》の一語だった。小国|辺隅《へんぐう》、しかも士馬少なく、産業もふるわない北国から起って、謙信が、甲州の強大武田家と、以来、殆ど年々といってよいほど、戦雲を曳いて対峙《たいじ》することになったのは、実に、この一羽の窮鳥が、越後へ入国したのが抑々《そもそも》の端緒《たんちよ》である。機《き》ッかけである。謙信対信玄の相剋はここに起因を孕《はら》んだものである――とは、世上一般も、越後の人々も、甲州方でも、あまねく信じているところだった。
かくて、一片の義気から発した戦は、きょうまで、九年の長いあいだに及んでいる。
しかも敵国は強い。士馬精鋭に鳴る甲山の猛将勇卒だ、また宇内《うだい》幾人のうちにかぞえられる名将武田信玄だ。
義清のねがいはまだ達しられない。義清の旧領には、依然、武田の侵略が、そのまま暴威を誇っている。――この状態はついにこのまま永遠のものではないかと、近年は義清も、祖先の地へふたたび還ろうとする夢を、自ら儚《はかな》い望みにすぎないものと諦めかけていたふうであった。
そこへ、きょう。
義清の胸を、痛切に打ちなやましたことがある。林泉寺の大法要であった。
苦衷の義清
きょうの大法要に、義清も、もちろん参列していた。
眼《ま》のあたりに、彼は、川中島で討死した人々のたくさんな遺家族を見た。
老いたる父母、今からは親のない幼き者たち、乳飲《ちの》みを抱いている白き面の妻、その甥、その叔父、その姪など、無数の縁者を、きょうの法筵《ほうえん》に見た。
一山の高徳天室、宗謙、その他の衆僧が、曹洞最大な法華《ほつけ》をささげて、英魂の冥福をいのるあいだも、義清は、ひとみをあげて、それの壇を仰ぐことができなかった。また、眼をそらして、伽藍《がらん》の廊上階下に満ちている多くの遺家族たちを正視できなかった。
(これもみな帰するところ、自分が越後に遁《のが》れて来たために生じたこと)
と、ひとり問い、ひとり責め、居ても立ってもいられないような心持になっていた。
ひとたびそういう自責を抱いてからは、耳元に鳴る鐘も、戦歿三千余魂が声をあげて、自分を責めるかと思われ、義清は生きている空もない心地だった。
実のところ、彼はすでに、林泉寺にいるうちに決意していた。剃髪《ていはつ》して仏門に入ろう。そして争闘興亡の圏内《けんない》から遁れ去ろう。同時にかつての栄門に還る夢望を捨て、一切の執着《しゆうじやく》を洗い、上杉家の長い恩顧を謝して、飄乎、高野の塵外《じんがい》へかくれよう。
そうすれば、ふたたびこの大きな犠牲はなくなる。今までの償《つぐな》いには、ひたすら故人の冥福を祈って生涯する。沙門に入ってそれを詫びる。
「……かように思い決めたのでござりまする。今日まで、殆ど、この流寓《りゆうぐう》の孤客を、お身内同様に思し召され、連年、多大の軍費と将士の尊い血を以て、義清を御庇護下された大恩は死しても忘れはいたしませぬ。が、これ以上、おびただしい人命を捨てさせ、遺《のこ》る御家中の人々に嘆きをかけては、義清、いかにお詫びしてよいやら分りませぬ。また、ふたたび祖先の地へ還り得るとしても、独りの歓びとすることはできません。一切、ことばには尽せぬが、御愍察《ごびんさつ》あって、私の身勝手、どうかおゆるし賜わりますように」
縷々《るる》として、義清は、衷心《ちゆうしん》のものを吐いた。
謙信は、ややしばし、うす眼をとじて、聞いていたが、彼が、その苦衷を長々と述べ終ると、初めて、刮《くわつ》と、瞼《まぶた》をひらいた。
「だまれ。……義清どの。だまんなさい」
声はひくい。
しかし、実に、盤石をもって、そっと頭から圧するような声調であった。
大乗小乗
「はっ。……はいっ」
義清は思わずおののいた。
日常の謙信公はまるで女性のようだとたれもいう。その人から畳のうえでこれほど恐い眼を向けられたことは、九年のあいだでも初めてであった。
謙信は決して猛《たけ》らない。吠えない。けれどいかに静かな声のうちにも、怒りはふくむものである。たしかに、彼は怒っていた。
「何をいうか。何をいわるるのだ。だまって聞いておれば、あなたは戦《いくさ》というものを、さながら人間の物好きか、退屈人の気散じの如く心得ておられるらしい」
「め、滅相もない。不肖、村上義清ほど戦の艱苦を、つぶさに嘗《な》めて来たものはございませぬ。戦の惨禍は、骨髄にまで、知り尽している身なればこそ」
「やかましい」
「は……」
「よいお年をしながら、愚かないたずらに舌をうごかされな。戦とは、一個の村上義清が、わずか国を追われたぐらいで、知り尽したなどといえるほど、簡単なものでもなし、そのような意義の小さいものでもない。あなたの口吻《こうふん》から察すればあなたは戦の中をただ通って来たに過ぎないようだ。真の戦とは、何か、まだ御存知ないらしい」
「……左、左様でしょうか」
「混沌《こんとん》たるお顔色だな。かくいわれて初めて、真の戦とは何か、御不審を抱かれたであろう。嗤《わら》うべし。あなたは、この謙信が、九年にわたる信玄との血戦を、ただ其許《そこもと》に頼まれたための義心一片と思いこんでいられたか。……何で。何で」
謙信は声を放たずに肩で笑った。そしてなお荘重な語をつづけていう。
「考えてもごらんなさい。応仁以後、宇内の暗黒は、各地に割拠《かつきよ》する豪族たちから、遅々《ちち》、自覚されて、東海に徳川、織田の起《た》つあり、西海に、毛利、大内の起るあり、甲山に信玄、ここに謙信、相模に北条、そして駿遠の堺に、今川氏の一朝に瓦滅《がめつ》するなどあって、今や日本のうごきは、急潮に変り、急激に大革新を示そうとしている。かかる時代のうしおの中に、いかに信濃の名族たろうと、一個の村上義清が亡ぼうと興ろうと、死のうと生きようと、何の問題でもない。この日本のうごきにとっては、大海にただよう藁一本の存在でしかない」
特に、語尾をつよめた。
義清は真っ蒼になっている。聞き澄ますその薄い耳たぶにも血の色はなかった。
「――さるにこの謙信が、何故信玄と長年戦って来たかと申せば、元来、謙信には謙信の信条があってのことです。自分、年二十三にして、初めて、国内平定の業一まず備わり、微勲《びくん》天聴《てんちよう》に達するところとなり、畏《かしこ》くも、叙位任官の優寵を賜う。――微賤、遠くに坐《いなが》ら、またひとたびの朝覲《ちようきん》もせず、さきに優渥《ゆうあく》なる天恩に接す。勿体なきことの極みと、すなわち翌年、万難を排し、上洛して、闕下《けつか》に伏し、親しく咫尺《しせき》を拝し、また天盃《てんぱい》を降しおかる。……実に謙信が弓矢把《と》る身に生れた歓びを知ったのはこのときにであった。戦わん、戦わん、この土にうけた生命《いのち》のあらん限りはと、戦うことの尊さ、戦うことの大なる意義、それらのことどもも、同時に、肝に銘じ、心魂《しんこん》に徹し、わが生涯は御階《みはし》の一門を守りて捨てん。悔いはあらじと、深く深く心に誓うて退京いたした」
「…………」
「爾来、謙信の弓矢は、それ以外に、つがえたことはない。こえて永禄二年初夏、ふたたびの上洛にも、その前の折にも、畏くも、綸旨《りんじ》を降しおかれ、隣境の乱あらば討つべし、皇土をみだし、民を苦しめるの暴国あらば赴《おもむ》いて平定せよと、不才謙信に身にあまる御諚《ごじよう》であった。およそ臣子の分として、この叡慮《えいりよ》にお応《こた》え申し奉らざるものやあろう。遠く、この北越の辺隅にあっても、一日とて、そのありがたい優諚《ゆうじよう》をわすれたことはない。いわんや、兵をうごかすの日においては――」
夜は時雨《しぐれ》となったらしい。雨樋《あまどい》をあふれる雨だれの音が烈しく軒下を打つ。
禅家にも似た道者羽織、鶯茶の頭巾《ずきん》、室に妻もない謙信であったが、烈々、こういう問題に真情を吐き出してくると、そのひとみは実に若い。ともすれば義清とともに涙を沸《たぎ》らせてしまいそうであった。しかし義清の眼は飽くまで小乗小愛の悩みに溺れ、彼の眼は大乗の海にも似て、満々たる涙をたたえながらも、なお仰ぐ人をして、何か洋々たる未来と暖味《あたたかみ》を抱かしめる。
昨夜風雨窓前を打つ
「それまでの御心事とは、こよい初めて伺いました。志の小、身の至らなきにひき較《くら》べ、義清はただ恥じ入るのほかございませぬ。……要《い》らざる小人の煩《わずら》い事をお耳にいれ、折角の静夜をお邪《さまた》げ仕りました。どうぞおゆるし措《お》きを」
彼は心から詫びた。
また、蒙《もう》を啓《ひら》かれて、謙信のなして来た戦が、何を志し、何を意義しているものかを、初めてはっきり覚《さと》り得た。
そうとわかると、連年、甲州との合戦が、一村上義清のために起ったものと考えていたことは、義清自身、恥ずかしくなって、消えも入りたいここちだった。
謙信はことばを和《やわ》らげて、
「いやいや、わしこそ、思わず今宵はちと激語を吐いた。実申せば、このたびの川中島の大戦に、年来|手飼《てがい》の家の子郎党など、可愛ゆきもの三千余名を失うて、この謙信も人知れず、愁心|癒《い》やし難いものがある。いや、心に受くるその傷《いた》みにおいては、御許《おもと》よりも、誰よりも、謙信こそはその重責と傷心に深く自らを鞭打つものだ。ましてや今宵のごとく、戦のあと、いとど寂やかに時雨《しぐ》るる夜などは」
と短檠《たんけい》の灯にじっと、眸《ひとみ》をこらして、なおいおうとしたが、義清の惨心に思いを遣り、またあまりにいい過ぎては味もないとするように。
「……察しられい。此方の心中も」
「よくわかりました。お察しいたしまする」
「されば、たとえこの後、いよいよ戦場に屍《しかばね》を積み、この越後一国、夫なき妻と、父なき子らに満とうとも、何ぞ、それは一個御身のせいではない。身ひとりのためかのように気を小さく萎《な》められるな。それよりは、其許《そこもと》のいのち一つも、謙信がいのち一つも、息あるうち、いかに大きく捧げ奉らんかを、朝暮に都の方へ向って念ぜられよ」
その夜のはなしはそれだけであった。けれど村上義清は、わが邸にもどってからも、終夜《よもすがら》謙信のことばを想い、その心事を玩味《がんみ》してみた。そして何かしらここ十年来は忘れていたような快い安らかな眠りにひきこまれた。
この日までは、戦といえば、ただ惨たるもの、激しいもの、苦痛なもの、犠牲を出すものとのみしか考えられていなかったのが、にわかに、大きな意義に行当って、今や弊悪《へいあく》の脱殻、次への建設など、戦によらねば成しとげられない日本国全土の改耕《かいこう》こそ、戦であって、それに流す血も、それに埋める白骨も、すべてただその忠業に帰一してゆくものなることを彼も覚《さと》ったのである。
以来、義清は、眠るにも、安らかな鼾《いびき》をかき、醒《さ》めても快活になり、また戦う日には、なおさら大らかに先頭へ立ち、年五十過ぎてからいよいよ勇敢であったという。
大義大私
川中島大戦後、もうひとつ謙信の気宇《きう》をあらわしたものがある。斎藤下野、黒川大隅などの甲州に捕われていた使者の一行が、信玄の寛度《かんど》によって、無事、越後に帰って来てからである。
彼の寛度に対し、謙信ももちろん寛大な処置を早速にとった。国中に監禁している甲州方の隠密数十名を、春日山の城下に寄せ、
「おまえ達も主命をうけてこの越後に紛《まぎ》れ入り、空《むな》しく捕われて、獄中しか見て帰らなかったとあっては、主人にも不面目だろうし、身寄りや朋友にも肩身が狭かろう。越後表にはさして要害という要害もないが、そちこち見たいところを見てまいるがよい」
と、奉行から達しさせ、役人が連れて、彼らを幾組にもわかち、三日ほど諸所見物させたうえ、旅費を持たせて、国外へ送還してやった。
「いかに信玄が、わが方の使者に、寛度を示したからとて、それは正当に使者として甲州へ赴いたもの。こちらの放したのは、すべて始末のわるい敵の隠密。こんどの御処置は、あまり御寛大に過ぎたようだ」
非難というのではないが、憂いのあまりに、家中にはこういう声も多少あったが、越後領から放された甲州|乱波《らつぱ》の面々は、
「もういかん。二度と春日山の城下へは入りこめない。三日のあいだ、白昼、あのように諸所を歩かされて、城下の女子《おんなこ》どもにまで、この顔をありありと見覚えられては、どう身扮《みなり》を変えても次にはすぐ見顕《みあら》わされてしまう」
といいあいつつ、また謙信の度量にも惧《おそ》れをなして、這々《ほうほう》のていで甲州へ帰り去ったということであった。
これを見ても謙信の戦が、ただの自己の遺恨とか利己の侵略でなかったことが窺《うかが》える。彼は敵兵すら日本の一民と観ていた。もののあわれを知る兵家《へいか》だった。敵といい味方というも、この日本国の内においてながしあう血はことごとくみなこの国の大生命ひとつに帰するものでしかないことを達観していた。村上義清の気の弱さを叱ったのもそれだし、敵の乱波に宥《いた》わりをかけたのもそういう心根が肚にすわっているからであった。
けれど彼はやはり兵家である。絶対に勝たねばならぬことを誓っている。だからたとえ敵方の乱波にそんな処置をとったにもせよ、それが味方の禍いになるような愚《ぐ》は断じてしない。むしろ彼のとった処置は、後々、越後の国防をかえって強化したことになっていたようだ。
そのほか、彼の一令一言、四十九歳を以て、この世の終焉《しゆうえん》を告げる日まで、事々日常の行いすべて、戦に勝つためのものだった。
勝たねば、自分がない、自分がなくては、理想の実現は遂げられない。自己を愛すこと、日常の慎み、身の養生にいたるまで、彼ほど忠実な人は武将には稀《まれ》であろう。
かくはいえその自己は、尋常一様な自己ではない。私利私欲の自己とはちがう。謙信そのものは、すでに謙信一個人でなく、彼が生命をうけた国とひとつものになりきっている。――いわゆる公儀の人、公人の範をそこに持していたのである。
彼が年|夭《わか》くから早くもこういう大義大私に到達していたのは、何といっても、両度の上洛がその信念をかたく誓わせたものにちがいない。二十四歳、越後の辺境から遥かに都へ上って、天顔に咫尺《しせき》し、また当年の落莫《らくばく》荒涼たる御所の有様や朝儀の廃《すた》れや幕府の無力や人心の頽廃《たいはい》など――見るもの聞くものに若い心を打たれながら――実に彼の大志は泉のごとく噴き出したものだった。そのとき上杉謙信なるものの生涯はすでに決していたのである。
山海美事
戦場こそ、年々に変って行くが、戦は川中島以後も、絶えることなく続いた。
永禄五年には、信玄が上野に乱入したので、謙信も上州沼田へ出馬した。
六年には、佐野城を救うため、関東へ出征し、また翌七年には、ふたたび川中島へ陣した。
このとき、信玄が、こんどは飛騨へ軍を向け出したからである。――八年七月にも、その信玄を牽制《けんせい》するため、越軍も信濃へ入った。
「甲州の足長どの(信玄のこと)には、老来いよいよお足が伸びてゆくふうだな」
と、謙信もあるとき戯《たわむ》れていったほど、信玄の八面六臂《はちめんろつぴ》な行動は、連年予測をゆるさないものがあった。
そのうちに、この足長どのも、遂に、その長い足を敵に咬《か》まれて、生涯いちどの悲鳴をあげたことがある。
永禄十一年から元亀《げんき》元年にわたるあいだ、この長い年月、甲州には塩の無い生活が始まっていた。国中、塩攻めになったのである。
足長な信玄が、駿河へ兵馬を出したことから、敵方の苦策によって、反噬《はんぜい》をうけたのだった。今川、北条の二家が相提携して、
「信玄の勢力下へは、一合の塩も入れるな」
と、甲信二国と上州の一部にかけて、厳重な輸送停止を実行し、もし眼をかすめて一握りの塩でも敵に売った者があれば、斬罪に処すると発令した。
半年や一年は貯蔵で凌《しの》げた。また山中や河川で小量な闇取引も行われた。けれど足かけ三年にもなると、さすがの信玄も困惑した。三十年来まだかつて戦に弱音をふいたことのない彼も、
「いかにせん乎《か》」
と、日々|屈託顔《くつたくがお》に見えた。
由来、甲信上毛は、塩ばかりでなく海産物はすべて、北条、今川家の領に依存していたので、この苦痛は徹底的にこたえた。領民の皮膚は目に見えて青味を帯び、病人は急に殖《ふ》え出した。わけても、味噌、漬物が喰えないことは、百姓の生活を致命的におびやかした。従って、農産も減退するし士気はふるわず、さしもの甲府も自滅のほかなかった。
「今ではありませんか。一挙、甲府を撃砕するのは」
うわさは頓《とみ》に高い。越後表でも謙信にたいしてしきりにすすめる武将もあった。が、謙信はその期間、敢て、甲信に兵馬をうごかさなかった。
のみならず今川家から、この塩止政策の同盟を求めて来た使者に対しても、
「当家においては、疾《と》くに当家として、策も立ておれば、御喙容《ごかいよう》には及ばぬ」
と、追い返してしまった。
しかし三河の徳川家康とは、この年、対甲同盟をむすび、いよいよ信玄に対しては、間隙《かんげき》をゆるさなかった。
苦しまぎれか、信玄は依然、諸州へ兵を出した。専ら塩を獲《え》ようとしたのであろう。上州の上杉領へも突出して来た。捨ておけじと、謙信は直ちに三国山脈を越えてこれを撃退し、彼が、甲府へ退《ひ》くと、自分も越後へ帰国した。
帰るとまもなく、謙信は、粮倉《ろうそう》奉行の蔵田五郎左衛門を呼び、
「このたびの出征に、甲信地方の領民の生活を聞き及ぶに、うわさ以上の塩切れに、百姓共の苦悩は言語に絶しているらしい。――早々、わが北海の塩を、水陸より甲信地方へ転漕してつかわせ」
と、命じた。
五郎左衛門は耳を疑って、
「敵国へですか?」
と、怪しみながら念を押した。――そうだ、と謙信は大きく頷いて見せ、且《か》つ、注意を加えた。
「もとより城中の塩倉を開けるわけにはゆかぬ。城下の商賈《しようこ》に令を出して、甲信側の塩商人へどしどし塩を売ってやれ、と奨《すす》めればよいのだ。ただし先の欠乏につけこんで、暴利をむさぼる惧《おそ》れがある。価格はすべて越後値段に限ることを厳命し、平価をこえることなきように致せ」
君と我とは
国境をこえて、限りなく塩が入って来たという。
甲州の百姓は生色をとり回《かえ》した。町々はどよめいた。商賈は眼の色を変えて塩を頒《わ》け歩いた。塩を見たものはその白いものを一握り握ってみて、
「ありがたい」
と、涙した。塩を拝んだ。
郷社の神前にも、塩があげられた。煌々《あかあか》と神灯《みあかし》がついた。
――こういう状況をつぶさに聞いては、躑躅《つつじ》ケ崎の館《たち》にあった信玄も、眼を熱うせずにいられなかった。が、彼は、
「……そうか」
とのみで一言もまだそれに就いての是非、感激をも、また批判をも口から吐かないのであった。
「……?」
むしろ彼は初めのほど、苦痛に似た顔つきをあらわしていた。次に懐疑的に見えた。ちょうど、過ぐる永禄四年の大戦に、謙信が捨身の戦法に出て、その不可解なる妻女山の陣をながめたときのように、信玄は心の霧につつまれていた。
そこへ、一書が到着した。
春日山の謙信からである。なお信玄は多分な疑惑をもちながら、その書簡を披《ひら》いた。
書は簡単であった。文意には、
春秋幾星霜、君と我とは、兵馬を以て呼び、兵馬を以て応《こた》う。争う具は、弓箭にして、戦う心は、すなわち所存の相違にあり。我の理想するところ、君の理想にあらず、君の望むところ、我の望みに非ず、すなわち対峙連年、天下の野を借りて、戦陣を布く。
さりと雖《いえど》も、兵家の戦に、何ぞ米塩を用いんや。米塩ひとり君が舐《な》むるにあらず、百姓の生資たるもの、百姓は是、国の大みたから、また攻伐にかかわりなし。駿相二氏の下策、賤陋《せんろう》の心事、たれか憎まざるものやある。
昨今、わが領の商賈《しようこ》を通じ、貴国に塩を給すの意、ほかあるなし。希《ねが》う安んじてこれを取れ。なお君の麾下《きか》をして更に士馬精鋭たらしめよ。戦陣ふたたび相まみえん。
「…………」
信玄は再読三読した。眉の霧は霽《は》れている。しかし疑いもなく彼は謙信にたいして心服を抱いた。彼のうるわしい心事に照らされて信玄の心も美化されていた。何か潔《いさぎよ》い清らかな呼吸を感じるだけだった。勝敗の念も超えていた。
ていねいに書簡をたたんで、押しいただいて傍らの手筥《てばこ》へ納めたが、このときも信玄は、一言の感動も洩らさなかった。いうべきことばもなかったと思われる。
塩 祭
ここ両三年の越後と甲斐とは、依然、宿命的な敵対国として双方、国境を堅持しながらも、その活動は、各々べつな方へ向けられていた。
元亀三年から翌天正元年にかけての信玄は、東海を目標に、三方原に出て、徳川家康の軍を粉砕し、その本城浜松にまで迫っていた。
同じ年、謙信は、その八月から越中平定に出征して、天正元年の正月を陣中に迎え、三月富山附近の攻略を終り、四月、春日山の城へ帰って来ると、まもなく、
「甲斐の晴信入道信玄には、この三月中に、卒去《そつきよ》されたそうです」
という寝耳に水のような報告をうけた。
謙信はちょうど昼の食事中であったという。早打ちの知らせを、側近の臣から聞いて、
「なに。甲斐の入道は亡くなられたとか。……ああ、多年の好敵手とも、ふたたび相見える日はもうないか」
箸の手を膝に落して、潸然《さんぜん》と涙の下る瞳をとじていたが、またこう呟いて、諸臣の士気を戒めたということである。
「――敵なき国は亡ぶという。或いはかえってこのために、越後の弓矢も弛《ゆる》むかも知れぬ。とはいえ、信玄ほどな大才を敵として、それに敗られまじ、それに打克《うちか》たんと不断に己れを磨く目標はいまやこの世になくなった。惜しい。寔《まこと》にさびしい」
家中の武将のうちには、この訃《ふ》を伝え聞いて、
「絶好のときだ。甲府の一門宿将は、おそらく暗夜に燈火を失うたような滅失の底に沈んでいるにちがいない。いま大挙して征けば、彼の全領土を一朝に覆すは易々《いい》たるもの」
と各々寄って、策を謙信に説くものもあった。
謙信は笑った。
「止めよ、止めよ。天下の蔑《さげす》みを求めるだけだ。死後一朝にして覆るような甲州であったら、その柱であった信玄の死も惜しむには足らん。しかし、三年間はむしろ前にも増して甲府は金城鉄壁であろう。三年先のことは、誰にもわからぬ」
その後、謙信は、海津の城まで重臣を遣って、篤《あつ》く信玄の死を弔《とむら》わしめた。
その弔問の使者の帰って来るころ、信玄の死の実相もつぶさに知れて来た。果たせるかな、さすがに彼の死は彼らしく、死後あらゆる方策をその帷幕の者と一門にいいのこして、甲山の旗幟が為に急衰《きゆうすい》を呈すようなことはなかった。
信玄の病気は、浜松城を包囲して、いよいよ、三河にまで働きかけていた軍旅のうちに起ったものである。その死が急だったし、折も折だったので、いろいろ異説を生じ、諸国から懐疑《かいぎ》されたが、野田城の囲みを解いて、急遽、甲府へ帰って来る途中、いよいよ重態に堕ちて、躑躅ケ崎の甲館へもどったときは、もう遺骸であったというのが真相らしい。
死に臨んでは、嫡孫信勝、勝頼以下の一族諸将を枕頭に呼んで、
「わが亡きのちは、構えて、みだりに兵をうごかすな。特に隣国の謙信には、信をもって汝らの倚託《きたく》をうけて、裏切るような謙信でない」
そう遺言して、また、筆を乞うて、
大底他ノ肌骨《キコツ》ニ還ル
紅粉ヲ塗ラズ自ラ風流
と、最期の一|偈《げ》をふるえる手に書き終るとともに息をひきとったという。
病についてから死ぬまでのあいだに、料紙八百枚に自分の花押《かおう》を書いておいて、死後もなお、信玄死なずと、世に思わせておくように要意を遺しておいたという一事を見ても、いかに彼が、あとあとの備えに万端心をもちいていたかが窺われる。
英雄の心事は英雄のみが知る。謙信の想像は外れていなかった。また彼のいったとおり、信玄の死後も両三年のあいだは依然、甲斐源氏武田家は四隣に重きをなして何の破綻《はたん》もあらわさなかった。
だが、ひとたび長篠《ながしの》へ出て、織田、徳川両軍の迎撃《げいげき》に惨敗を喫してからは、衰退|頓《とみ》に甲山の旗幟に濃く、さしもの士馬精鋭もその面影を失いつつあった。
こうした情勢のあいだに、人生の不測は、謙信にもめぐって来た。信玄死後五年目、謙信もまた忽然《こつぜん》と世を去った。両雄ともに世を去ることの急だったのも一奇であり、何となく宿命的なものを想わせる。
日頃の謙信は実に強壮快健であったが、ただ酒を好んだ。彼が愛用したという馬上杯など、後々まで遺族や家臣の涙をそそった。今に上杉神社に遺《のこ》っている日常の酒盃などもおそろしく大杯である。肴などに好みはなく時としては梅干一つで、斗酒を傾けたとあるからその快飲ぶりは想像に難くない。
むかしよりさだめし
四方にたち返り
治めさかふる
千代のしら雪
これは彼の旧作だ。若年上洛した折、将軍義輝と一夜雪見を催しながら詠《よ》み出でた一首という。
雪一色の美に寄せて、そのときもう胸に抱いていた復古の精神を吐いている。また雪よりも純な国体観を洩らしている。
義輝はこのときまだ弱冠十九歳の将軍だった。果たして彼の理想を汲み得たろうか否かわからない。しかし謙信は、その義輝が非業《ひごう》の死をとげ、次代の義昭将軍となっても、なお情誼《じようぎ》を変えなかった。倒れんとする室町幕府を隠然|扶《たす》けるに大いな力をかしていた。
為に、彼は信長と対立した。信長は彼とはまったく反対な倒壊者《とうかいしや》である。当然な衝突は、外交に軍事に、熾烈《しれつ》に闘わされた。
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上杉謙信
『週刊朝日』昭和一七年一月四日号〜五月二四日号連載 挿絵・江崎孝坪
『上杉謙信』朝日新聞社 一九四二年八月刊
『上杉謙信』湊書房 一九四九年六月刊
『英治叢書28 上杉謙信』六興出版 一九五一年一二月刊
『上杉謙信』光風社 一九五七年五月刊
『上杉謙信』光風社 一九六〇年一二月刊
『吉川英治全集31 高山右近・上杉謙信』講談社 一九六九年一一月刊
『上杉謙信』六興出版 一九七二年一一月刊
『吉川英治文庫90 上杉謙信』講談社 一九七五年一一月刊
『上杉謙信』(改訂版)六興出版 一九七八年五月刊
『決定版吉川英治全集30 高山右近』講談社 一九八二年五月刊
『吉川英治歴史時代文庫43 上杉謙信』講談社 一九八九年一〇月刊
本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫43『上杉謙信』(一九八九年一〇月刊)を底本としました。
二〇〇二年八月九日発行