TITLE : 三国志(五)
講談社電子文庫
三国志(五)
吉川 英治 著
目 次
赤壁(せきへき)の巻(つづき)
亡流(ぼうりゆう)
母子草(ははこぐさ)
宝(ほう) 剣(けん)
長坂橋(ちようはんきよう)
一帆(ぱん)呉(ご)へ下(くだ)る
舌(ぜつ) 戦(せん)
火中(かちゆう)の栗(くり)
酔計(すいけい)二花(か)
大号令(だいごうれい)
殺地(さつち)の客(きやく)
狂(きよう) 瀾(らん)
群英(ぐんえい)の会(かい)
陣中(じんちゆう)戯言(ぎげん)なし
覆面(ふくめん)の船団(せんだん)
風(かぜ)を呼(よ)ぶ杖(つえ)
一竿翁(いつかんおう)
裏(うら)の裏(うら)
鳳雛(ほうすう)・巣(す)を出(い)ず
竹冠(ちつかん)の友(とも)
月烏賦(つきよがらすのうた)
鉄鎖(てつさ)の陣(じん)
孔明(こうめい)・風(かぜ)を祈(いの)る
南風(なんぷう)北春(ほくしゆん)
望蜀(ぼうしよく)の巻
降参船(こうさんぶね)
赤壁(せきへき)の大襲撃(だいしゆうげき)
山谷(さんこく)笑(わら)う
功(こう)なき関羽(かんう)
一掴(かく)三城(じよう)
白羽扇(びやくうせん)
黄忠(こうちゆう)の矢(や)
針(はり) 鼠(ねずみ)
柳眉(りゆうび)剣簪(けんさん)
鴛鴦陣(えんおうじん)
朝(あさ)の月(つき)
凜々(りんりん)細腰(さいよう)の剣(けん)
周瑜(しゆうゆ)・気死(きし)す
文武(ぶんぶ)競春(きようしゆん)
荊州往来(けいしゆうおうらい)
鳳雛(ほうすう)去(さ)る
三国志(五)
赤壁(せきへき)の巻(つづき)
亡流(ぼうりゆう)
一
渦まく水、山のような怒濤(どとう)、そして岸うつ飛沫(しぶき)。この夜、白河(はくが)の底に、溺れ死んだ人馬の数はどれ程か、その大量なこと、はかり知るべくもない。
堰(せき)を切り、流した水なので、水勢は一時的ではあった。しかしなお、余勢の激流は滔々(とうとう)と岸を洗っている。
僥倖(ぎようこう)にも、曹仁(そうじん)、曹洪(そうこう)の二大将は、この大難から辛くもまぬかれて、博陵(はくりよう)の渡口(わたし)まで逃げてきたが、たちまち一彪(ぴよう)の軍馬が道を遮断して呼ばわった。
「曹軍の残兵ども、どこへ落ちてゆくつもりだ。燕人(えんじん)張飛(ちようひ)がこれに待ち受けているのも知らずに」
ここでもまた、潰滅をうけて、屍山血河を作った。曹仁の身もすでに危うかったが、許〓(きよちよ)が取って返し、張飛と槍を合わし、万死のうちから彼を救った。
張飛は、大魚を逸したが、
「ああ愉快、久しぶりで胸がすいたぞ。これくらい叩きのめせば、まずよかろう」
と、兵を収めて江岸をのぼり、かねてしめし合わせてある玄徳(げんとく)や孔明(こうめい)と一手になった。
そこには劉封(りゆうほう)、糜芳(びほう)などが、船をそろえて待っていた。
玄徳以下の全軍が対岸へ渡り終ったころ、夜は白みかけていた。
孔明は、命を下して、
「船をみな焼き捨てろ」と、いった。
そして、無事、樊城(はんじよう)へ入った。
この大敗北は、やがて宛城(えんじよう)にいる曹操(そうそう)の耳に達した。曹操は、すべてが孔明の指揮にあったという敗因を聞いて、
「諸葛匹夫(しよかつひつぷ)、何者ぞ」と、怒髪(どはつ)をたてて罵った。
すでに彼の大軍は彼の命を奉じて、新野(しんや)、白河、樊城など、一挙に屠(ほふ)るべく大行動に移ろうとした時である。帷幕(いばく)にあった劉曄(りゆうよう)が切にいさめた。
「丞相(じようしよう)の威名と、仁慈は、河北においてこそ、あまねく知られておりますが、――この地方の民心はただ恐れることだけを知って、その仁愛も、丞相を戴(いただ)く福利も知りません。――故に玄徳は、百姓を手なずけて、北軍を鬼の如く恐れさせ、老幼男女ことごとく民のすべてを引き連れて樊城へ移ってしまいました。――この際、お味方の大軍が、新野、樊城などを踏み荒し、その武威を示せば示すほど、民心はいよいよ丞相を恐れ、北軍を敬遠し、その徳になつくことはありません。――民なければ、いかに領土を奪っても、枯野に花を求めるようなものでしょう。……如(し)かず、ここはぜひご堪忍あって、玄徳に使いをやり、彼の降伏を促(うなが)すべきではありますまいか。玄徳が降伏せねば、民心のうらみは玄徳にかかりましょう。そして荊州(けいしゆう)のお手に入るのは目に見えている。すでに荊州の経略が成れば、呉の攻略も易々(いい)たるもの。天下統一のご覇業は、ここに完(まつた)きを見られまする。――何をか、一玄徳の小(こ)悪戯(いたずら)に関(かか)わって、可惜(あたら)、貴重な兵馬を損じ、民の離反を求める必要がございましょうか」
劉曄の献言は大局的で、一時いきり立った曹操にも、大いにうなずかせるところがあった。しかし曹操は、
「それなら一体誰を、玄徳のところへ使いにやるか」
ということになお考えを残しているふうだった。
劉曄は一言のもとに、
「それは、徐庶(じよしよ)が適任です」と、いった。
ばかをいえ――といわぬばかりに曹操は劉曄の顔をしり目に見て、
「あれを玄徳のもとへやったら、再び帰ってくるものか」
と、唇をむすんで、大きく鼻から息をした。
「いやいや、玄徳と徐庶との交情は、天下周知のことですが、それ故に、もし徐庶がご信頼を裏切って、この使いから帰らなかったりなどしたら、天下の物笑いになります。彼以外に、この使いの適任者はありません」
「なるほど、それも一理だな」
彼はすぐ幕下の群将のうちから、徐庶を呼びだして、おごそかに、軍の大命をさずけた。
二
徐庶(じよしよ)は、命を奉じて、やがて樊城(はんじよう)へ使いした。
「なに、曹操の使いとして、徐庶が見えたと」
玄徳は、旧情を呼び起した。孔明と共に、堂へ迎え、
「かかる日に、ご辺と再会しようとは」と嘆じた。
語りあえば、久闊(きゆうかつ)の情は尽きない。けれど今は敵味方である。徐庶はあらためていった。
「今日、それがしを向けて、あなたに和睦(わぼく)を乞わしめようとする曹操の本志は、和議にあらず、ただ民心の怨嗟(えんさ)を転嫁(てんか)せんための奸計(かんけい)です。これに乗って、一時の安全をはかろうとすれば、おそらく悔いを百世に残しましょう。不幸、自分はあなたの敵たる陣営に飼われる身となり、今は老母も死してこの世にはありませんが、もしこの使いから帰らなければ、世人はそれがしの節操を疑い、かつ嘲(あざけ)り笑うでしょう。――ぜひもない宿命、ただ今の一言を、呈したのみで立ち帰りまする」
と、すぐ暇(いとま)を告げ、なお帰りがけにもくり返していった。
「逆境また逆境、さだめし今のお立場はご不安でしょう。しかし以前と事ちがい、唯今では、君側の人に、諸葛(しよかつ)先生が居られます。かならずあなたの抱く王覇(おうは)の大業を扶(たす)け、やがて今を昔に語る日があることを信じております。それがしは老母も死し、何一つ世のために計ることもできない境遇に置かれていますが、ただひとつ、あなたのご大成を陰ながら念じ、またそれを楽しみにしていましょう。……では、くれぐれもご健勝に」
徐庶が帰って、曹操に返辞をするまでのあいだに、玄徳は、ふたたび、城を捨て、ほかに安らかな地を求めなければならなかった。
せっかく誘降(ゆうこう)の使いをやったのにそれを拒絶したという報告を聞けば、曹操はたちまち、
(民を戦禍に投じたものは玄徳である)
と、罪を相手になすって百万の軍にぞんぶんな蹂躙(じゆうりん)を命じ、颱風の如く攻めて来ることはもう決定的と見られたからである。
「襄陽(じようよう)に避けましょう。この城よりは、まだ襄陽のほうが、防ぐに足ります」
孔明のすすめに、もちろん、玄徳は異議もなかったが、
「自分を慕って、自分と共に、ここへ避難している無数の百姓たちをどうしよう」
と、領民の処置を案じて、決しきれない容子だった。
「君をお慕い申し上げて、君の落ち行く先なら、何処までとついて来る可憐な百姓どもです。たとえ足手まといになろうと、引き具してお移りあるべきでございましょう」
孔明のことばに、玄徳も、
「さらば――」と、関羽(かんう)に渡江の準備を命じた。
関羽は、江頭に舟をそろえ、さて数万の百姓をあつめて、
「われらと共に、ゆかんとする者は江を渡れ。あとに残ろうと思う者は、去って旧地の田を耕すがいい」と、云い渡した。
すると、百姓老幼、みな声をそろえて、共に哭(な)いて、
「これから先、たとえ山を拓(ひら)いて喰い、石を鑿(うが)って水を汲むとも、劉皇叔(りゆうこうしゆく)さまに従って参りとうございます。ついに生命を失っても使君(しくん)(玄徳のこと)をお恨みはいたしません」と、いった。
そこで関羽は、糜竺(びじく)、簡雍(かんよう)などと協力して、この膨大(ぼうだい)なる大家族を、次々に舟へ盛り上げては対岸へ渡した。
玄徳も、舟に移って、渡江しにかかったが、折もあれ、この方面へ襲(よ)せてきた曹軍の一手――約五万の兵が、馬けむりをあげて樊城城外から追いかけてきた。
「すわや、敵が」と聞くなり岸に群れ惑う者、舟の中に哭(な)きさけぶ者、あやまって河中に墜ちいる者など、男女老幼の悲鳴は、水に谺(こだま)して、思わず耳をおおうばかりだった。
「あわれや、無辜(むこ)の民ぐさ達、我あらばこそ、このような禍いをかける。――我さえなければ」
と、玄徳はそれを眺めて、身悶えしていたが、突然、舷(ふなべり)に立って、河中に身を投げようとした。
三
左右の人々はおどろいて玄徳を抱きとめた。
「死は易(やす)く、生は難(かた)し。もともと、生きつらぬく道は艱苦(かんく)の闘いです。多くの民を見すてて、あなた様のみ先へ遁(のが)れようと遊ばしますか」
と、人々に嘆き諫(いさ)められて、玄徳もようやく死を思い止まった。
関羽は、逃げおくれた百姓の群れを扶(たす)け、老幼を守って後から渡ってきた。かくてようやく皆、北の岸へ渡りつくや、休むまもなく、玄徳は襄陽(じようよう)へ急いだ。
襄陽の城には、先頃から幼国主劉〓(りゆうそう)、その母蔡(さい)夫人以下が、荊州(けいしゆう)から移住している。玄徳は、城門の下に馬を立て、
「賢姪(けんてつ)劉〓、ここを開けたまえ、多くの百姓どもの生命(いのち)を救われよ」と、大音をあげた。
すると、答えはなくて、たちまち多くの射手が矢倉の上に現われて矢を酬いた。
玄徳につき従う数万の百姓群の上に、その矢は雨の如く落ちてくる。悲鳴、慟哭(どうこく)、狂走、混乱、地獄のような悲しみに、地も空も晦(くら)くなるばかりだった。
ところが、これを城中から見てあまりにもその無情なる処置に義憤を発した大将があった。姓は魏延(ぎえん)、字(あざな)は文長(ぶんちよう)、突如味方のなかから激声をあげて、
「劉玄徳(りゆうげんとく)は、仁人(じんじん)である。故主の墳墓の土も乾かぬうちに、曹操へ降を乞い、国を売るの賊、汝らこそ怪(け)しからん。――いで、魏延が城門をあけて、玄徳を通し申さん」と云い出した。
蔡瑁(さいぼう)は仰天して、張允(ちよういん)に、
「裏切り者を討て」と命じた。
時すでに、魏延は部下をひきいて、城門のほうへ殺到し、番兵を蹴ちらして、あわや吊橋(つりばし)をおろし、
「劉皇叔(りゆうこうしゆく)! 劉皇叔! はやここより入り給え」
と、叫んでいる様子に、張允、文聘(ぶんぺい)などが、争ってそれを妨(さまた)げていた。
城外にいた張飛、関羽たちは、すぐさま馬を打って駆け入ろうとしたが、城中の空気、鼎(かなえ)の沸く如く、ただ事とも思われないので、
「待て、しばし」と急に押し止め、
「孔明、孔明。ここの進退は、どうしたらいいか」と、訊ねた。
孔明は、うしろから即答した。
「凶血が煙っています。おそらく同士打ちを起しているのでしょう。しかし、入るべからずです。道をかえて江陵(こうりよう)(湖北省・沙市(さし)、揚子江(ようすこう)岸)へ行きましょう」
「えっ、江陵へ?」
「江陵の城は、荊州第一の要害、銭糧(せんろう)の蓄(たくわ)えも多い土地です。ちと遠くではありますが……」
「おお、急ごう」
玄徳が引っ返して行くのを見ると、日頃、玄徳を慕っていた城中の将士は、争って、蔡瑁の麾下(きか)から脱走した。折ふし城門の混乱に乗じて、彼のあとを追って行く者、引きも切らないほどだった。
そうした玄徳同情者のうちでも最も堂々たる名乗りをあげた魏延は、張允、文聘などに取囲まれて、部下の兵はほとんど討たれてしまい、ただ一騎となって、巳(み)の刻(こく)から未(ひつじ)の刻の頃まで、なお戦っていた。
そして遂に、一方の血路を斬りひらき、満身血となって、城外へ逸走してきたが、すでに玄徳は遠く去ってしまったので、やむなくひとり長沙(ちようさ)へ落ちて、後、長沙の太守韓玄(かんげん)に身を寄せた。
さて、玄徳はまた、数万の百姓をつれて、江陵へ向って行ったが何分にも、病人はいるし、足弱な女も多く、幼を負い、老を扶け、おまけに家財をたずさえて、車駕担輿(しやがたんよ)など雑然と続いて行く始末なので道はようやく一日に十里(支那里)も進めば関の山という状態であった。
これには、孔明も困りはてて、遂に対策もないかのように、
「身をかくす一物もないこの平野で、もし敵につつまれたら、ほとんど一人として生きることはできますまい。もうご決断を仰がなければなりません」
と、眉に悲壮なものをたたえて玄徳にこう迫った。
四
落ちて行く敗残の境遇である。軍自体の運命すら危ういのに、数万人の窮民をつれ歩いていたのでは、所詮、行動の取りようもない。
「背に腹はかえられません」
孔明は諭(さと)すのであった。玄徳の仁愛な心はよく分っているが、そのため、敵の殲滅(せんめつ)に会っては、なんの意味もないことになる。
「ここは一時、涙をのんでも、百姓、老幼の足手まといを振り捨て、一刻もはやく江陵へ行き着いて、処置をお急ぎなさらなければ、ついに曹軍の好餌となるしかありますまい」
というのであった。
が――玄徳は依然として、
「自分を慕うこと、あたかも子が親を慕うようなあの領民を、なんで捨てて行かれようぞ。国は人をもって本(もと)とすという。いま玄徳は国を亡(うしな)ったが、その本はなお我にありといえる。――民と共に死ぬなら死ぬばかりである」と云ってきかなかった。
このことばを孔明から伝え聞いて、将士も涙を流し、領民もみな哭(な)いた。
さらばと、――孔明もついに心をきめて、領民たちに相互の扶助と協力の精神を徹底させ、一方、関羽と孫乾(そんけん)に、兵五百を分けて、
「江夏(こうか)におられる嫡子劉〓君(りゆうきくん)のところへ急いで、つぶさに戦況を告げ、江陵の城へお出会いあるべしと、この書簡をとどけられよ」と、玄徳のてがみを授けて、援軍の急派をうながした。
さてまた。
曹操はその中軍を進めて、宛城(えんじよう)から樊城(はんじよう)へ移っていた。
入城を終るとすぐ、書を襄陽(じようよう)へ送って、
「劉〓(りゆうそう)に対面しよう」と、申し入れた。
幼年の劉〓は怖ろしがって、「行くのはいやだ」と、云ってきかない。そこで名代として、蔡瑁(さいぼう)、張允(ちよういん)、文聘(ぶんぺい)の三人が赴くことになったが、その際、劉〓へむかって、そっと、すすめたものがある。
「いま曹軍を不意に衝けば、きっと曹操の首を挙げることができます。すでに荊州は降参せりと、心に驕(おご)りきって油断しておりますから。――そこで、天下は荊州になびきましょう。こんな絶好な機会などというものは、二度とあるものではありません」
これが蔡瑁の耳に入ったので、調べてみると、王威(おうい)の進言だと分った。
蔡瑁は怒って、
「無用な舌を弄(ろう)して、幼少の君を惑わすもの」
と、斬罪にしようとしたが〓越(かいえつ)のいさめによって、ようやく事なく済んだ。
こんな内輪もめがあったのも、過日来、玄徳同情者の裏切りや脱走が続いて以来その後も、藩論区々(まちまち)にわかれ、武官文官の抗争があり、それに閨閥(けいばつ)や党派の対立もからまって、荊州は今や未曾有な動揺をその内部に蔵していたからである。
しかし蔡瑁は強引に、この内部混乱を、曹操との講和によって、率いて行こうと考えていた。――で、彼が曹操にまみえて、降服の礼を執ることや、実に低頭百拝、辞色(じしよく)諂佞(てんねい)をきわめたものだった。
曹操は、高きに陣座して蔡瑁以下のものを、鷹揚(おうよう)に見おろしながら、
「荊州の軍馬、銭糧(せんろう)、兵船の量は、およそどのくらいあるのか」と、たずねた。
蔡瑁は、答えて、
「騎兵八万、歩卒二十万、水軍十万。また兵船は七千余艘もあり、金銀兵糧の大半は、江陵城に蓄え、そのほか各地の城にも、約一年余ずつの軍需は常備してあります」
と、つつむ所もなかった。
曹操は満足して、
「劉表(りゆうひよう)は存命中、荊州王になりたがっていたが、ついに成らずに死んだ。自分から天子に奏請して、子の劉〓は、いつかかならず王位に封じてやるぞ」と、約束した。
五
この日、曹操はよほど大満悦だったとみえ、さらに、蔡瑁(さいぼう)を封じて、平南侯(へいなんこう)水軍大都督とし、また張允(ちよういん)を助順侯(じよじゆんこう)水軍副都督に任命した。
ふたりは深く恩を謝して、自国の降服を、さながら自己の幸運のごとく欣然(きんぜん)として帰って行った。
「丞相はあまりに人を識(し)らなすぎる。あんな諂佞(てんねい)の小人に、高官を授けて、水軍をまかせるおつもりだろうか」
彼らの帰ったあとで、慨然と、はばからずこう放言していた者は、荀攸(じゆんゆう)であった。
曹操は、それを遠くで聞くと、ニヤと唇を歪めながら、荀攸のほうを見て、
「われ豈(あに)人を識らざらんや!」と、耳あらば聞けといわぬばかりに云い返した。
「わが手の兵(つわもの)は、すべて北国そだちの野兵山兵ではないか。水利水軍の法、兵舷の構造改修などくわしく知るものはほとんどない。いまかりに彼らを水軍の大都督副都督とするも、用がすめばいつでも首にしてしまえばいい。――さりとは、荀攸も、人の肚の見えないやつだ」
面と向っていわれたのとちがって、これはかえって耳に痛い。荀攸は閉口して、顔を赤らめながら姿をかくしてしまった。
一方、蔡瑁と張允は、襄陽へ帰るやいな、蔡(さい)夫人と劉〓(りゆうそう)のまえに出て、
「上々の首尾でした。やがてはかならず、朝廷に奏請して、あなた様を王位に封じようなどと――曹丞相は上機嫌で申されました」などと細々(こまごま)話した。
翌日、曹操は、襄陽へ入城すると布令(ふれ)て来た。蔡夫人は劉〓をつれて、江(こう)の渡口(わたし)まで出迎え拝礼して、城内へみちびいた。
この日、襄陽の百姓は、道に香華(こうげ)をそなえて、車を拝し、荊州の文武百官もことごとく城門から式殿の階下まで整列して、曹操のすがたを拝した。
曹操は、中央の式殿に、悠揚と陣座をとって、腹心の大将や武士に、十重二十重(とえはたえ)、護られていた。
蔡夫人は、子の劉〓に代って、故劉表の印綬と兵符(へいふ)とを、錦の布につつんで、曹操の手へあずけた。
「神妙である。いずれ、劉〓には、命じるところがあろう」
曹操は、それを納め、諸員、万歳を唱えて、入城の儀式はまず終った。式がすむと彼は、まず荊州の旧臣中から〓越(かいえつ)をよび出して、
「予は、荊州を得たことを、さして喜ばんが、いま足下を得たことを衷心からよろこぶ」
といって――江陵の太守樊城侯(はんじようこう)に封じた。
以下、旧重臣の五人を列侯に封じ、また王粲(おうさん)や傅巽(ふそん)を関内侯に封じた。
それから、ようやく、劉〓にむかって、
「あなたは、青州(せいしゆう)へ行くがよい。青州の刺史(しし)にしてあげる」と至極、簡単に命じた。
劉〓は、眉を悲しませて、
「わたくしは、官爵に望みはありません。ただいつまでも亡父(ち ち)の墳墓のあるこの国にいたい」
と、哀訴した。
曹操は、にべもなく、かぶりを振って、
「いやいや、青州は都に近い良い土地がら、ご成人ののちは、朝廷へすすめて、官人にしてあげる用意じゃ。黙ってゆかれるがいい」と、突っ放した。
ぜひなく、劉〓は母の蔡夫人と共に、数日の後、泣く泣くも生れ故郷の国土をはなれた。そして青州への旅へ立ったが、変りやすい人ごころというものか、つき従う供の者とて幾人もなく、ただ王威(おうい)という老将が少しばかり郎党を連れて、車馬を守って行ったきりだった。
そのあとである。曹操はひそかに于禁(うきん)をよんで、なにか秘密な命令をさずけた。于禁は屈強なものばかり五百余騎をひッさげて、直ちにあとを追いかけた。
ここ何川か、何とよぶ曠野か、名知らぬ草を、朱(あけ)にそめて、凄愴な殺戮(さつりく)は、彼らの手によって決行された。――蔡夫人や劉〓の車駕(しやが)へ、五百騎の兵が狼群のごとく噛みついたと思うと、たちまち、昼間の月も血に黒ずんで、悲鳴絶叫が、水に谺(こだま)し、野を馳けまわった。
老将王威もまた、大勢に囲まれて、敢(あえ)なく討死し、そのほか随身すべて、ひとりとして、生き残った者もなかった。
母子草(ははこぐさ)
一
于禁(うきん)は四日目に帰ってきた。
そのあいだ曹操(そうそう)は落着かない容子に見えた。しきりに結果を待ちわびていたらしい。
「ただいま立ち帰りました。遠く追いついて、蔡(さい)夫人、劉〓(りゆうそう)ともに、かくの如く、首にして参りました」
于禁の報告に接して、初めてほっとした態(てい)である。劉表(りゆうひよう)の血族は、これでほぼ絶えたに近い。運の末こそ哀れである。――曹操は一言、
「よし」と、云ったきりであった。
また彼は、多くの武士を隆中(りゆうちゆう)に派して、孔明(こうめい)の妻や弟などの身寄りを詮議(せんぎ)させていた。
曹操が孔明を憎むことはひと通りでなかった。
「草の根を分けても、彼の三族を捕えてこい」
という厳命を発している。命をうけた部将たちは、手下を督励して、かの臥龍岡(がりゆうこう)の旧宅をはじめ近村あまねく捜し求めたが、どうしても知れなかった。すでに孔明はこのことあるを知って、家族を三江の彼方へくらまし、里人も皆、彼の徳になついているので、曹操の捕手にたいして、何の手がかりも与えなかった。
こんなことに暇どっている一方、曹操は毎日、荊州の治安やら旧臣の処置やら、また賞罰の事、新令発布の事など、限りもない政務に忙殺されていた。
「丞相(じようしよう)。――お茶など献じましょうか」と、或る折、侍側の荀攸(じゆんゆう)は、わざと彼の繁忙を妨げて云った。
「茶か。そうだな、一ぷく喫しようか」
「忙裏(ぼうり)の小閑は命よりも尊し――とか。こういう時、一喫(いつきつ)の茶は、生命をうるおします」
「ときに税務の処理は、片づいたか」
「税務よりは、もっと急がねばならないことがおありでしょう」
「何じゃ、そんなに急を要することとは」
「玄徳(げんとく)以下の者が、ここを逃げ去ってから、もう十日余りとなります。彼らがもし江陵の要害に籠り、そこの金銀兵糧などを手に入れたら如何なさいますか」
「あっ、そうだ!」
曹操は、突然、卓を打って突っ立ちながら、
「忙(ぼう)におわれ、些末(さまつ)に拘泥(こうでい)しておって、つい大局を見失っていた。荀攸! なぜ其方は、もっと早く予に注意しなかったのだ」
「――でも、当の敵を、お忘れある筈はないと思っていましたから」
「ばかをいえ。こういそがしくては、誰しも、つい忘れることだってある。早く軍馬の用意を命じ玄徳を追撃させい」
「ご命令さえ出れば、決してまだ手おくれではありません。玄徳は数万の窮民を連れているので、一日の行程わずか十里という歩み方です。鉄騎数千、疾風のごとく追わせれば、おそらく二日のうちに捕捉することができましょう」
荀攸はすぐ諸大将を城の内庭に集めた。令を下すべく曹操が立って見わたすところ、荊州の旧臣中では、ひとり文聘(ぶんぺい)の姿だけが見えなかった。
「なぜ文聘はこれへ来ないか」
と、呼びにやると、ようやく文聘はあとから来て、列将の端に立った。
「何ゆえの遅参か。申しひらきあらばいえ」
曹操から譴責(けんせき)されて、文聘は、愁然とそれに答えた。
「理由はありません。ただ恥かしいのです。故劉表に託されて、自分は常に漢川(かんせん)の境を守り、もし、外敵の侵攻あるとも、一歩も敵に主君の地は踏ませじ――と誓っていたのに、事志とたがい、遂に、今日の現実に直面するに至りました。――その愧(はじ)を思えば、なんで人より先に立って人なかへ出られましょう」
さしうつ向いて、文聘は涙をたれた。曹操は感動して、
「いまの言葉は、真に国へ報じる忠臣の声である」
といって、即座に彼の官職をひきあげて、江夏の太守関内侯(かんないこう)とした。
そして、まず、玄徳追撃の道案内として、文聘にそれを命じ、以下の大将に鉄騎五千をさずけて、「すぐ行け!」とばかり急きたてた。
二
数万の窮民を連れ歩きながら、手勢はわずかに二千騎に足らなかった。
千里の野を、蟻(あり)の列が行くような旅だった。道の捗(はかど)らないことはおびただしい。
「江陵の城はまだか」
「まだまだ道は半ばにすぎません」
襄陽(じようよう)を去ってから、日はもう十幾日ぞ。――こんな状態でいったらいつ江陵へ着くだろうと、玄徳も心ぼそく思った。
「さきに江夏へ援軍をたのみにやった関羽(かんう)もあれきり沙汰がない。――軍師、ひとつ御身が行ってくれないか」
玄徳のことばに、孔明は、
「行ってみましょう。どんな事情があるかわかりませんが、この際は、それしか恃(たの)む兵力はありませんから」と、承知した。
「ご辺が参って、援軍を乞えば、劉〓君(りゆうきくん)も決して嫌とは申されまい。――ご辺の計らいで、継母蔡夫人の難からのがれたことも覚えておられるだろうから……」
「では、ここでお別れしましょう」
孔明は兵五百をつれ、途中から道をかえて、江夏へいそいだ。
孔明と別れてから二日目の昼である。ふと、一陣の狂風に野をふりかえると、塵埃(じんあい)天日をおおい、異様な声が、地殻の底に鳴るような気がされた。
「はて、にわかに馬のいななき躁(さわ)ぐのは――そも、何の兆(しるし)だろう」
玄徳がいぶかると、駒をならべていた糜芳(びほう)、糜竺(びじく)、簡雍(かんよう)らは、
「これは大凶の兆(しら)せです。馬の啼き声も常とはちがう」と呟いて、みな怖れふるえた。
そして、人々みな、
「はやく、百姓どもの群を捨て先へお急ぎなさらねば、御身の危急」
と、口を揃えてすすめたが、玄徳は耳にも入れず、
「――前の山は?」と、左右に訊いた。
「前なるは、当陽県(とうようけん)の水、うしろなる山は景山(けいざん)といいます」
ひとりが答えると、さらばそこまでいそげと、婦女老幼の群れには趙雲(ちよううん)を守りにつけ、殿軍(しんがり)には張飛(ちようひ)をそなえて、さらに落ちのびて行った。
秋の末――野は撩乱(りようらん)の花と丈長き草におおわれていた。日もすでに暮れかけると、大陸の冷気は星を研(みが)き人の骨に沁みてくる。啾々(しゆうしゆう)として、夜は肌の毛穴を凍らすばかりの寒さと変る。
真夜中のころである。
ふいに、人の哭(な)きさけぶ声が、曠野の闇をあまねく揺るがした。――と思うまに、闇の一角から、喊声(かんせい)枯葉を捲き、殺陣は地を駆って、
「玄徳を逃がすな」
と、耳を打ってきた。
あなや! とばかり玄徳は刎(は)ね起きて、左右の兵を一手にまとめ、生命(いのち)をすてて敵の包囲を突き破った。
「わが君、わが君。――はやく東へ」
と、教えながら、防ぎ戦っている者がある。見れば、後陣の張飛。
「たのむぞ」
あとを任せて、玄徳は逃げのびたが、やがて南のほう――長坂坡(ちようはんは)の畔(ほと)りにいたると、ここに一陣の伏兵あって、
「劉(りゆう)予州、待ちたまえ、すでにご運のつきどころ、いさぎよくお首をわたされよ」
と、道を阻(はば)めて、名乗り立った一将がある。
見れば、荊州の旧臣、文聘(ぶんぺい)であった。彼は、義を知る大将と、かねて知っていた玄徳は、
「おう足下は、荊州武人の師表といわれる文聘ではないか。国難に当るや直ちに国を売り、兵難に及ぶやたちまち矛(ほこ)を逆しまにして敵将に媚(こ)び、その走狗(い ぬ)となって、きのうの友に咬(か)みかかるとは何事ぞ。その武者振りの浅ましさよ。それでも足下は、荊州の文聘なるか」と、罵(ののし)った。
――と、文聘は答えもやらず、面を赤らめながら遠く駆け去ってしまった。次に、曹操の直臣許〓(きよちよ)が玄徳へ迫って来たが、その時はすでに張飛があとから追いついていたので、辛くも許〓を追って、一方の血路を切りひらき、無二無三、玄徳を先へ逃がして、なお彼はあとに残って、奮戦していた。
三
しかし、張飛の力も、無限ではない。結局、一方の敵軍を、喰い止めているに過ぎない。
その間に、なおも、玄徳を目がけて、
「遁(のが)さじ」
「やらじ」
と、駆け追い、駆け争って来る敵は、際限もなかった。逃げ落ちて行く先々を、伏兵には待たれ、矢風は氷雨(ひさめ)と道を横ぎり、玄徳はまったく昏迷に疲れた。睫毛(まつげ)も汗に濡れて、陽も晦(くら)い心地がした。
「ああ。――もう息もつけぬ」
われを忘れて、彼は敢て馬からすべり降りた。五体は綿のごとく知覚もない。
「……おお」
見まわせば、つき従う者どもも、百余騎しかいなかった。彼の妻子、老少を始め、糜竺(びじく)、糜芳(びほう)、趙雲(ちよううん)、簡雍(かんよう)そのほかの将士はみな何処で別れてしまったか、ことごとく散々(ちりぢり)になっていたのである。
「百姓たちはどうしたか。妻子従者の輩(ともがら)も、一人も見えぬは如何にせしぞ。たとい木石の木偶(で く)なりと、これが悲しまずにおられようか」
玄徳はそういって、涙を流し、果ては声をはなって泣いた。
――ところへ……糜芳が満身朱(あけ)にまみれて、追いついてきた。身に立っている矢も抜かず、玄徳の前に膝まずいて、
「無念です。趙雲子龍(しりゆう)までが心がわりして、曹操の軍門に降りました」
と、悲涙をたたえて訴えた。
「なに、趙雲が変心したと?」玄徳は、鸚鵡(おうむ)返しに叫んだが、すぐ語気をかえて、糜芳を叱った。
「ばかなことを! 趙雲とわしとは、艱難(かんなん)を共にして来た仲である。彼の志操は清きこと雪の如く、その血は鉄血のような武人だ。わしは信じる。なんで彼が富貴に眼をくらまされて、その志操と名を捨てよう!」
「いえいえ、事実、彼が味方の群れを抜けて、まっしぐらに、曹軍のほうへ行くのを、この眼で見届けました。確かに見ました」
すると、横合いから、
「さてこそ。ほかにもそれを、見たという声が多い」
と、呶鳴って、糜芳のことばを、支持したものがある。
殿軍を果たして、今ここへ、追いついてきた張飛だった。
気の立ッている張飛は、眦(まなじり)を裂いていう。
「よしっ。もう一度引っ返して、事実とあれば、趙雲を一鎗(ひとやり)に刺し殺してくれねばならん。君にはどこぞへ身をかくして、しばしお体をやすめていて下さい」
「否々(いないな)。それには及ばぬ、趙雲は決してこの玄徳を捨てるような者ではない。やよ張飛、はやまったこと致すまいぞ」
「何の! 知れたものではない」
張飛はついにきかなかった。
二十騎ばかりの部下をひきつれ、再びあとへ駆けだして行く。すると一河の水に、頑丈(がんじよう)な木橋が架かっていた。
長坂橋(ちようはんきよう)――とある。
橋東の岸に密林があった。張飛は部下に何かささやいて、二十騎を林にかくした。部下は彼の策に従って、おのおの馬の尾に木の枝を結(ゆ)いつけ、がさがさと林の中をのべつ往来していた。
「どうだ、この計りごとは。まさか二十騎とは思うまい。四、五百騎にも見えようが」
ほくそ笑みして、彼はただ一人、長坂橋の上に馬を立てた。そして大矛(おおほこ)を小脇に横たえ、西のほうを望んでいた。
――ところで、噂の趙雲は、どうしたかというに。
彼は襄陽(じようよう)を立つときから、主君の眷属(けんぞく)二十余人とその従者や――わけても甘(かん)夫人だの、糜(び)夫人だの、また幼主阿斗(あと)などの守護をいいつけられていたので、その責任の重大を深く感じていた。
ところが、前夜の合戦と、それからの潰走中に、幼主阿斗、二夫人を始め、足弱な老幼は、あらかた闇に見失ってしまったのである。
趙雲たるもの、何で、そのまま先を急がれよう、彼は、血眼(ちまなこ)となって、
「君にお合せする顔はない」
と、夜来、敵味方の中を、差別なく駈けまわって、その方々の行方をさがしていたのだった。
四
面目(めんぼく)――面目――何の面目あってこのまま主君にまみえん?
「生命(いのち)のある限りは」
と、趙雲(ちよううん)は、わずか三十余騎に討ちへらされた部下と共に、幾たびか敵の中へ取って返し、
「二夫人は何処? 幼君はいずれにおわすぞ」
と、狂気のごとく、尋ねまわっていた。
そうして、四方八面、敵味方の境もなく、馳けめぐっている野にはまた、数万の百姓が、右往左往、或いは矢にあたり、石に打たれ、または馬に蹴られ、窪(くぼ)に転び落ちなど、さながら地獄図のような光景を描いていた。親は子を求め、子は親を呼び、女は悲鳴をあげて夫(つま)を追い、夫は狂奔して一家をさがし廻るなどと、その声は野に満ち、天をおおうばかりである。
「――やっ? 誰か」
草の根に血は溝をなして流れている。趙雲はふと見たものに、はっとして駒を下りた。
うっ伏している武者がある。近づいて抱き起してみると、味方の大将、簡雍(かんよう)であった。
「傷は浅いぞ、おうッいッ、簡雍っ――」
簡雍は、その声に、意識づいて、急にあたりを見廻した。
「あっ、趙雲か」
「どうした? しっかりせい」
「二夫人は? ……。幼主、阿斗(あと)の君は、どう遊ばされたか?」
「それは、俺から聞きたいところだ。簡雍、おぬしはここまでお供してきたのか」
「むむ、これまで来ると、一彪(ぴよう)の敵軍につつまれ、俺は敵の一将を討ち取って、お車の側へすぐ引っ返してきたが、時すでに遅しで」
「や。生擒(いけど)りとなられたか」
「いや二夫人には、阿斗の君を抱き参らせて、お車を捨て、乱軍の中を、逃げ走って行かれたと――部下のことばに、すわご危急と、おあとを追って行こうとした刹那(せつな)、流れ矢にあたったものか、後ろから斬りつけられたのか……その後は何もわからない、思うに、気を失っていたとみえる」
「こうしてはおられぬ。――簡雍、おぬしは君のおあとを慕って急げ」
と、趙雲は彼を扶(たす)けて、駒の背に掻い上げ、部下を付けて先へ送らせた。
そして、彼自身は、
「たとえ、天を翔け、地に入るとも、ご眷族の方々を探し当てぬうちは、やわか再び、君のご馬前にひざまずこうぞ」と、いよいよ、鉄の如き一心をかためて、長坂坡(ちようはんは)のほうへ馬を飛ばしていた。
一隊の兵がうろうろしていた。手をあげて、
「趙将軍。趙将軍」と、彼を見かけて呼ぶ。
それは、車をおす役目の歩卒たちである。趙雲は、振り向きざま、
「夫人のお行方を知らぬか」と、たずねた。
車兵(しやへい)はみな指を南へさして、
「二夫人には、お髪をふりさばき、跣足(すあし)のままで、百姓どもの群れにまじり、南へ南へ、人浪にもまれながら逃れておいでになりました」と、悲しげに訴えた。
「さては」と趙雲は、なおも馬を飛ばすこと宙を行くが如く、百姓の群れを見るごとに、
「二夫人はおわさぬか。幼君はおいでないか」と、声を嗄(か)らしながら馳けて行った。
するとまた、数百人の百姓老幼の一群に会った。趙雲が馬上から同じことばを声かぎりくり返すとわっと泣き放ちながら、馬蹄の前に転(まろ)び伏した人がある。
甘夫人であった。
趙雲は、あなやと驚いて、鎗(やり)を脇に挟んで鞍から飛びおりざま、夫人を扶け起して詫びた。
「かかる難儀な目にお遭わせ申しましたのも、まったく臣の不つつかが致したこと、何とぞお怺(こら)えくださいまし。してしてまた、糜(び)夫人と阿斗の君のお二方には、何処においで遊ばしますか」
「若君や糜夫人とも、初めはひとつに逃げのびていたが、やがて一手の敵兵に駈け散らされ、いつかはぐれてしもうたまま……」
涙ながら甘夫人が告げているまに、辺りの百姓たちはまた、騒然と群れを崩して、蜘蛛(く も)の子のように逃げ出した。
宝(ほう) 剣(けん)
一
曹仁(そうじん)の旗下(きか)で、淳于導(じゆんうどう)という猛将があった。
この日、玄徳(げんとく)を追撃する途中、行く手に立ちふさがった糜竺(びじく)と戦い、遂に糜竺を手捕りにして、自身の鞍わきに縛りつけると、
「きょう第一の殊勲は、玄徳をからめ捕ることにあるぞ。玄徳との距離はもう一息」
と、淳于導はなおも勢いに乗って、千余の部下を励ましながら、驟雨(しゆうう)の如くこれへ殺到してきたものだった。
逃げまどう百姓の群れには眼もくれず、淳于導は、趙雲(ちよううん)のそばへ駆け寄ってきた。玄徳の一将と見たからである。
「やあ、生捕られたは、味方の糜竺ではないか」
趙雲は、その敵と鎗をまじえながら、驚いて叫んだ。
猛将淳于導も、こんどの相手は見損っていた。かなわじと、あわてて馬の首をめぐらしかけた刹那、趙雲のするどい鎗は、すでに彼の体を突き上げて、一旋(いつせん)! 血を撒(ま)きこぼして、大地へたたきつけていた。
残る雑兵輩(ばら)を追いちらして、趙雲は糜竺を扶(たす)けおろした。そして敵の馬を奪って、彼を掻き乗せ、また甘(かん)夫人も別な駒に乗せて、長坂橋のほうへ急いだ。
――と。
そこの橋の上に、張飛(ちようひ)が馬を立てていた。さながら天然の大石像でも据えてあるような構えである。ただ一騎、鞍上に大矛を横たえ、眼は鏡の如く、唇は大きくむすんで、その虎髯(とらひげ)に戦々と微風は横に吹いていた。
「やあっ。それへ来たのは、人間か獣か」
いきなり張飛が罵ったので、趙雲もむッとして、
「退(さ)がれっ。甘夫人の御前を――」と、叱りとばした。
張飛は、彼のうしろにある夫人の姿に、初めて気がついて、
「おお、趙雲。貴様は曹操(そうそう)の軍門に降伏したわけじゃなかったのか」
「何をばかな」
「いや、その噂があったので、もしこれへ来たら、一颯(いつさつ)のもとに、大矛の餌食(えじき)にしてやろうと、待ちかまえていたところだ」
「若君と二夫人のお行方をたずね、明け方から血眼に駆けまわり、ようやく甘夫人だけをお探し申して、これまでお送りしてきたのだ。して、わが君には?」
「この先の木陰にしばしご休息なされておる。君にも、幼君や夫人方の安否をしきりとお案じなされておるが」
「さもあろう。では張飛。ご辺は甘夫人と糜竺を守って、君の御座所まで送りとどけてくれ。それがしは、またすぐここから取って返して、なお糜夫人と阿斗(あと)の君をおたずね申してくる」
云い残すや否や、趙雲は、ふたたび馬を躍らせて、単騎、敵の中へ駆けて行った。
すると彼方から十人ほどの部下を従えた若い武者が、ゆったりと駒をすすめて来た。背に長剣を負い、手に華麗な鎗をかかえている容子、然るべき一方の大将とは、遠くからすぐ分った。
趙雲はただ一騎なので、近づくまで、先では、敵とも気がつかなかったらしい。不意に名乗りかけられて若武者はひどく驚愕した。従者もいちどに趙雲をつつんだが、もとより馬蹄の塵にひとしい。たちまち逃げ散ってしまい、その主人たる若武者は、あえなく趙雲に討たれてしまった。
その際、趙雲は、
「や。いい剣を持っている」と、眼をつけたので、すぐ死骸の背から剣を奪(と)りあげてあらためてみた。
剣の柄には、金を沈めて、青〓(せいこう)の二字が象嵌(ぞうがん)されている。――それを見て、初めて知った。
「あ。この者が、曹操の寵臣(ちようしん)、夏侯恩(かこうおん)であったか」――と。
伝え聞く、侯恩は、かの猛将夏侯惇(かこうじゆん)の弟であり、曹操の側臣中でも、もっとも曹操に愛されていた一名といえる。――その証拠には曹操が秘蔵の剣「青〓(せいこう)・倚天(いてん)」の二振りのうち、倚天の剣は、曹操みずから腰に帯していたが、青〓の剣は、侯恩に佩かせて、
「この剣に位負(くらいま)けせぬほどな功を立てよ」
と、励ましていたほどである。
二
青〓(せいこう)の剣。青〓の剣。
趙雲は狂喜した。
かかる有名な宝剣が、はからずも身に授かろうとは。
「これは、天授の剣だ」
背へ斜めにそれを負うやいな、趙雲はふたたび馬へ跳びのって、野に満つる敵の中へ馳駆して行った。
そのとき曹操の軍兵はすでに視野のかぎり殺到していた。逃げおくれた百姓の老幼や、離散した玄徳の兵を、殺戮して余すところがない。趙雲は義憤に燃ゆる眦(まなじり)をあげて、
「鬼畜め」
むらがる敵を馬蹄の下に蹂躙(じゆうりん)しながら、なおも、声をからして、
「お二方あっ。お二方はいずこに」
と、糜(び)夫人と幼主阿斗(あと)の行方を尋ねまわっていた。
すでに八面とも雲霞の如き敵影だったが、彼は還ることを忘れていた。すると、傷を負って、地に仆れていた百姓の一人が、むくと首を上げて、彼へ叫んだ。
「将軍将軍。その糜夫人かも知れませんよ。左の股(もも)を敵に突かれ、彼方の農家の破墻(やれがき)の陰へ、幼児を抱いて、仆れている貴夫人があります。すぐ行ってごらんなさい。つい今し方のことですから」
指さして教え終ると、そのまま百姓は息が絶えた。
趙雲は、飛ぶが如く、彼方へ駆けて行った。なかば兵火に焼かれたあばら家が、裏の墻と納屋とを残して焦げていた。馬をおりて、そこかしこを見まわしていると、破墻の陰で、幼児の泣き声がした。
「おうっ、和子(わこ)様っ」
彼の声に、枯草をかぶって潜んでいた貴夫人は、児を抱いたまま逃げ走ろうとした。しかし身に深傷(ふかで)を負っているとみえて、すぐばたりと仆(たお)れた。
「糜夫人ではありませんか。家臣の趙雲です。お迎えに来ました。もうご心配はありません」
「……おお、趙雲でしたか。……うれしい。どうか、和子のお身をわが良人(つ ま)のもとへ、つつがなく届けて下さい」
「もとよりのこと。いざ、あなた様にも」
「いいえ! ……」
彼女は、強くかぶりを振った。そして阿斗の体を、趙雲の手へあずけると、急に、張りつめていた気もゆるんだか、がくとうつぶして、
「この痛手、この痛手。……たとえふたたび良人(つ ま)のもとへ還っても、もう妾(わらわ)の生命はおぼつかない。もし妾のために、将軍の馬を取ったら、将軍は和子を抱いて、敵の中を、徒歩で行かねばならないでしょう。……もうわが身などにかまわず、少しも早く和子のお身をこの重囲の外へ扶け出して下さい。それが頼みです。臨終(いまわ)の際(きわ)のおねがいです」
「ええ! お気の弱い! たとえ馬はなくとも、趙雲がお護りして行くからには」
「オオ……喊(とき)の声がする。敵が近づいて来るらしい。趙雲、何でそなたは、大事な若君を預りながら、なお迷っているか。早くここを去ってたも。……妾などは見捨てて」
「どうして、あなた様おひとりを、ここに残して立去れましょう。さ、その馬の背へ」
駒の口輪を取って引き寄せると、糜夫人は突如身をひるがえして、傍らの古井戸の縁(ふち)へ臨みながら、
「やよ趙雲。その子の運命は将軍の手にあるものを。妾に心をかけて、手のうちの珠(たま)を砕いてたもるな」
云うやいな、みずから井戸の底へ、身を投げてしまった。
趙雲は、声をあげて哭(な)いた。草や墻(かき)の板を投げ入れて、井戸をおおい、やがて甲(よろい)の紐をといて、胸当の下に、しっかと、幼君阿斗のからだを抱きこんだ。
阿斗は、時に、まだ三歳の稚(おさ)なさであった。
三
阿斗(あと)を甲の下に抱いて、趙雲(ちよううん)が馬にまたがると、墻(かき)の外、附近の草むらなどには早、無数の歩兵が這い寄って、
「この内に、敵方の大将らしいのがいる」
と、農家のまわりをひしひしと取巻いていた。
――が、趙雲は、ほとんど、それを無視しているように、馬の尻に一鞭加え、墻の破れ目から外へ突き出した。
曹洪(そうこう)の配下で晏明(あんめい)という部将がこれへきた先頭であった。晏明はよく三尖(せん)両刃(りようじん)の怪剣を使うといわれている。今や趙雲のすがたを目前に見るやいな、それを揮(ふる)って、
「待てっ」と、挑みかかったが、
「おれをさえぎるものはすべて生命を失うぞ」
と、趙雲の大叱咤(だいしつた)に、思わず気もすくんだらしく、あっとたじろぐ刹那、鎗は一閃に晏明を突き殺して、飛電のごとく駆け去っていた。
しかし行く先々、彼のすがたは煙の如く起っては散る兵団に囲まれた。馬蹄のあとには、無数の死骸が捨てられ、悍馬(かんば)絶叫(ぜつきよう)、血は河をなした。
時に、一人の敵将が、背に張〓(ちようこう)と書いた旗を差し、敢然、彼の道をふさいで、長い鎖の両端に、二箇の鉄球をつけた奇異な武器をたずさえて吠えかかってきた。それは驚くべき腕力と錬磨の技をもって、二つの鉄丸をこもごも抛(な)げつけ、まず相手の得物をからめ取ろうとする戦法だった。
「しまった」と、さしもの趙雲も、この怪武器には鎗を奪(と)られ、さらに応接の遑(いとま)もないばかり唸り飛んでくる二箇の鉄丸にたじたじと後ずさった。
(――今は強敵と戦って、功を誇っている場合ではない。若君のお身をつつがなく主君へお渡し奉るこそ大事中の大事)
そう気づいたので趙雲は、急に馬を返して、張〓の猛撃を避けながら馳け出した。
と、見て、張〓は、
「口ほどもない奴、それでも音に聞ゆる趙雲子龍(しりゆう)か。返せっ」
と、悪罵を浴びせながらいよいよ烈しく追ってきた。
趙雲の武運がつきたか、ふところにある阿斗の薄命か。――あッと、趙雲の声が、突然、埃(ほこり)につつまれたと思うと、彼の体は、馬もろとも、野の窪坑(くぼあな)におち転んでいた。
「得たりや」と、張〓はすぐ馬上から前かがみに、一端の鉄丸を抛(ほう)りこんだ。ところが、鉄丸は趙雲の肩をそれて坑口(あなぐち)の土壁にぶすッと埋まった。
次の瞬間に、張〓の口から出た声は、ひどく狼狽した叫びだった。粘土質の土壁に深く入ってしまった鉄丸は、いかに彼の腕力をもって鎖を引っ張っても、容易に抜けないからであった。
その隙に、趙雲は躍り立って、
「天この若君を捨てたまわず、われに青〓(せいこう)の剣を貸す!」
と、歓喜の声をあげながら、背に負う長剣を引き抜くやいな、張〓の肩先から馬体まで、一刀に斬り下げて、すさまじい血をかぶった。
後に、語り草として、世の人はみなこういった。
(――その折り、坑(あな)のうちから紅(くれない)の光が発し、張〓の眼がくらんだ刹那に趙雲は彼を仆した。これみな趙雲のふところに幼主阿斗の抱かれていたためである。やがて後に蜀(しよく)の天子となるべき洪福と天性の瑞兆であったことは、趙雲の翔(か)ける馬の脚下(あしもと)から紫の霧が流れたということを見てもわかる)
しかし、事実は、紫の霧も、紅の光も、青〓の剣があげた噴血であったにちがいない。けれどまた、彼の超人的な武勇と精神力のすばらしさは、それに蹴ちらされた諸兵の眼から見ると、やはり人間業とは思えなかったのも事実であろう。紅の光! ――それは忠烈の光輝だといってもいい。紫の霧! ――それは武神の剣が修羅の中にひいて見せた愛の虹(にじ)だと考えてもいい。
ともあれ、青〓の剣のよく斬れることには、趙雲も驚いた。この天佑(てんゆう)と、この名剣に、阿斗はよく護られて、ふたたび千軍万馬の中を、星の飛ぶように、父玄徳のいるほうへ、またたくうちに翔け去った。
長坂橋(ちようはんきよう)
一
この日、曹操(そうそう)は景山(けいざん)の上から、軍(いくさ)の情勢をながめていたが、ふいに指さして、
「曹洪(そうこう)、曹洪。あれは誰だ。まるで無人の境を行くように、わが陣地を駆け破って通る不敵者は?」
と、早口に訊ねた。
曹洪を始め、そのほか群将もみな手を眉にかざして、誰か彼かと、口々に云い囃(はや)していたが、曹操は焦(じ)れッたがって、
「早く見届けてこい」と、ふたたび云った。
曹洪は馬をとばして、山を降(くだ)ると、道の先へ駆けまわって、彼の近づくのを見るや、
「やあ。敵方の戦将。ねがわくば、尊名を聞かせ給え」と、呼ばわった。
声に応じて、
「それがしは、常山の趙子龍(ちようしりゆう)。――見事、わが行く道を、立ちふさがんとせられるか」
と、青〓(せいこう)の剣を持ち直しながら趙雲(ちよううん)は答えた。
曹洪は、急いで後へ引っ返した。そして曹操へその由を復命すると、曹操は膝を打って、
「さては、かねて聞く趙子龍であったか。敵ながら目ざましい者だ。まさに一世の虎将といえる。もし彼を獲(え)て予の陣に置くことができたら、たとえ天下を掌に握らないでも、愁(うれ)いとするには足らん。――早々、馬をとばして、陣々に触れ、趙雲が通るとも、矢を放つな、石弩(せきど)を射るな、ただ一騎の敵、狩猟(か り)するように追い包み、生け擒(ど)ってこれへ連れてこいと伝えろ!」
鶴の一声である。諸大将は、はっと答えて、部下を呼び立てた。――たちまち見る、十数騎の伝令は、山の中腹から逆落しに駆けくだると、すぐ八方の野へ散って馬けむりをあげて行く。
真の勇士、真の良将を見れば、敵たることも忘れて、それを幕下に加えようとするのは、由来、曹操の病といっていいほどな持ち前である。
彼の場合は、士を愛するというよりも、士に恋するのであった。その情熱は非常な自己主義でもあり、盲目的でもあった。さきに関羽(かんう)へ傾倒して、あとではかなり深刻に後悔の臍(ほぞ)を噛んでいるはずなのに、この日また常山の子龍と聞いて、たちまち持ち前の人材蒐集慾(しゆうしゆうよく)をむらむらと起したものであった。
趙雲にとって、また無心の阿斗(あと)にとって、これもまた天佑(てんゆう)にかさなる天佑だったといえよう。
行く先々の敵の囲みは、まだ分厚いものだったが、趙雲は甲(よろい)の胸当の下に、三歳の子をかかえながら、悪戦苦闘、次々の線を駆け破って――敵陣の大旆(おおはた)を切り仆すこと二本、敵の大矛(おおほこ)を奪うこと三条(みすじ)、名ある大将を斬り捨てることその数も知れず、しかも身に一矢一石をうけもせず、遂に、さしもの曠野をよぎり抜けて、まずはほっと、山間(やまあい)の小道までたどりついた。
するとここにも、鍾縉(しようしん)、鍾紳(しようしん)と名乗る兄弟が、ふた手に分かれて陣を布(し)いていた。
兄の縉(しん)は、大斧をよくつかい、弟の紳(しん)は方天戟(ほうてんげき)の妙手として名がある。兄弟しめし合わせて、彼を挟み討ちに、
「のがれぬ所だ。はやく降(くだ)れ」と喚(おめ)きかかった。
さらに、張遼(ちようりよう)の大兵、許〓(きよちよ)の猛部隊も、彼を生け擒りにせんものと、大雨のごとく野を掃いて追ってきた。
「――あれに追いつかれては」
と、趙雲も今は、死か生かを、賭するしかなかった。
おそらく彼にしても、この二将を斃(たお)したのが最後の頑張りであったろう。前後して縉と紳の二名を斬りすてたものの、気息は奄々とあらく、満顔全身、血と汗にまみれ、彼の馬もまたよろよろに成り果てて、からくも死地を脱することができた。
そしてようやく長坂坡(ちようはんは)まで来ると、彼方の橋上に、今なおただ一騎で、大矛を横たえている張飛(ちようひ)の姿が小さく見えた。
「おおーいっ。張飛っ」
思わず声を振りしぼって彼が手をあげた時である。執念ぶかい敵の一群は、もう戦う力もない趙雲へふたたび後ろから襲いかかった。
二
「救えっ、救えっ張飛。おれを助けろっ――」
さすがの趙雲も、声あげて、橋のほうへ絶叫した。
馬は弱り果てているし、身は綿のように疲れている。しかも今、その図に乗って、強襲してきたのは、曹軍の驍将(ぎようしよう)文聘(ぶんぺい)と麾下(きか)の猛兵だった。
長坂橋の上から、小手をかざして見ていた張飛は、月にうそぶいていた猛虎が餌を見て岩頭から跳びおりて来るように、
「ようしっ! 心得た」
そこに姿が消えたかと思うと、はや莫々(ばくばく)たる砂塵一陣、駆けつけてくるや否、
「趙雲趙雲。あとは引受けた。貴様はすこしも早く、あの橋を渡れっ」と、吠えた。
たちまち修羅と変るそこの血けむりを後にして、趙雲は、
「たのむ」
と一声、疲れた馬を励まし励まし、長坂橋を渡りこえて、玄徳のやすんでいる森陰までやっと駆けてきた。
「おうっ、これに――」
と、趙雲は、味方の人々を見ると、馬の背からどたっとすべり落ちて、その惨澹たる血みどろな姿を大地にべたと伏せたまま、まるで暴風のような大息を肩でついているばかりだった。
「オッ、趙雲ではないか。――して、そのふところに抱えているのは何か」
「阿斗公子(あとこうし)です……」
「なに、わが子か」
「おゆるし下さい。……面目次第もありません」
「何を詫びるぞ。さては、阿斗は途中で息が絶えたか」
「いや……。公子のお身はおつつがありません。初めのほどは火のつくように泣き叫んでおられましたが、もう泣くお力もなくなったものとみえまする。……ただ残念なのは糜(び)夫人のご最期です。身に深傷(ふかで)を負うて、お歩きもできないので、それがしの馬をおすすめ申しましたが、否とよ、和子を護ってたもれと、ひと声、仰せられながら、古井戸に身を投げてお果て遊ばしました」
「ああ、阿斗に代って、糜は死んだか」
「井には、枯れ草や墻(かき)を投げ入れて、ご死骸を隠して参りました。その母の御霊(みたま)が公子を護って下されたのでしょう、それがしただ一騎、公子をふところに抱き参らせ、敵の重囲を駆け破って帰りましたが、これこのとおりに……」
と、甲(よろい)の胸当を解いて示すと、阿斗は無心に寝入っていて、趙雲の手から父玄徳の両手へ渡されたのも知らずにいた。
玄徳は思わず頬ずりした。あわれよくもこの珠の如きものに矢瘡(やきず)ひとつ受けずにと……われを忘れて見入りかけたが、何思ったか、
「ええ、誰なと拾え」
と云いながら、阿斗の体を、〓(まり)のように草むらへほうり投げた。
「あっ、何故に?」
と、趙雲も諸大将も、玄徳のこころをはかりかねて、泣きさけぶ公子を、大地からあわてて抱き取った。
「うるさい、あっちへ連れて行け」
玄徳は云った。
さらにまた云った。
「思うに、趙雲のごとき股肱(ここう)の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児のために、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい。……それにここは戦場である。凡児の泣き声はなおさら凡父の気を弱めていかん。故にほうり捨てたまでのことだ。諸将よ、わしの心を怪しんでくれるな」
「…………」
趙雲は、地に額(ひたい)をすりつけた。越えてきた百難の苦も忘れて、この君のためには死んでもいいと胸に誓い直した。原書三国志の辞句を借りれば、この勇将が涙をながして、
(肝脳(かんのう)地にまみるとも、このご恩は報じ難し)
と、再拝して諸人の中へ退(さ)がったと誌(しる)してある。
三
曹操は景山を降りた。
旗や馬幟(うまじるし)の激流は、雲が谿間(たにま)を出るように、銅鑼金鼓(どらきんこ)に脚を早め、たちまち野へ展(ひろ)がった。
そのほか。
曹仁(そうじん)、李典(りてん)、夏侯惇(かこうじゆん)、楽進(がくしん)、張遼(ちようりよう)、許〓(きよちよ)、――などの陣々騎歩もすべてその方向を一にして、長坂坡(ちようはんは)へ迫って来た。
「趙雲の逃げて行った方角こそ、すなわち玄徳のいる所にちがいない」と、それに向って、最後の殲滅を加え、存分な戦果を捕捉すべく、ここに全軍の力点が集中されたものらしい。
すると彼方から文聘(ぶんぺい)とその手勢が、さんざんな態(てい)になって逃げ乱れてきた。仔細を問うと、
「長坂橋の畔(ほとり)まで、趙雲を追いかけて行ったところ、敵の張飛という者が、ただ一騎で加勢に駆けつけ、丈八の蛇矛(じやぼこ)をもって、八面(めん)六臂(ぴ)にふせぎ立て、ついに趙雲をとり逃がしたばかりか、味方の勢もかくの如き有様――」
と、いう文聘の話に、許〓、楽進などみな歯がみをして、
「さりとは腑(ふ)がいなき味方の弱腰。いかに張飛に天魔鬼神の勇があろうと、この大軍と丞相の威光を負いながら、追い崩されて帰るとは何事だ。いで、われこそ彼奴(きやつ)を――」
と、諸将は争って、橋のこなたまで殺到した。
そこの一橋こそ、河をへだてた敗敵にとっては、恃(たの)みの一線である。いかにここを防がんかと、さだめしひしめき合っているであろうと予想してきてみると――こは抑(そも)いかに、楊柳は風もなく垂れ、水は淙々と奏(かな)で、陽ざしもいとうららかな長橋の上に、ただ一騎の人影が、ぽつねんと、そこを守っているきりだった。
「……はてな?」
疑いながら、諸将は駒脚をなだめて、徐々(じよじよ)と橋口へ近づいて行った。――見れば、丈八の矛(ほこ)を横たえ、〓(かぶと)を脱いで鞍にかけ、馬足をしっかと踏み揃えた大武者が、物もいわず、動きもせず、くわっと、睨みつけていた。
「あっ、張飛だ」
「張飛」
思わず口々をもれる声に――馬は怖れをなしたか、たじたじと、蹄(つめ)を立てて後ろへ退がった。
「…………」
張飛はなお一語も発しない。双(そう)の眼(まなこ)は百錬の鏡というもおろかである。怒れる鬼髯(きぜん)は左右にわかれ、歯は大きな唇を噛み、眉、眦(まなじり)、髪のさき、すべて逆しまに立って、天も衝かん形相である。
「あれか、燕人張飛とは」
「知れたもの。いかに張飛であろうと」
「敵は一騎だ」
「それっ」
と、諸将は互いに励ましあって、あわやどっと、その馬蹄を踏み揃えて橋板へかかろうとしたとき、
「待てっ」と、うしろで止めた者がある。一人の声ではない。李典、曹仁、夏侯惇など、ことごとく軍勢の中にもまれて、その中に雄姿を見せていた。
「丞相のご命令だ。待てっ。はやまるなっ――」
続いて後ろのほうに聞える。諸将はさっと橋畔の左右へ道を開いた。どうどうと押し流れてくる軍馬も旗もみな橋口をあまして河の岸を埋めた。
やがて、中央の一軍団は林のような旄旗(ぼうき)と五彩幡(さいばん)をすすめてきた。中にも白旄黄鉞(はくぼうこうえつ)の燦々(さんさん)たる親衛兵にかこまれている白馬金鞍の大将こそ、すなわち曹操その人であろう、青羅(せいら)の傘蓋(さんがい)は珠玉の冠(かんむり)のうえに高々と揺らいで、威風天地の色を奪うばかりだった。
「うかと、孔明の計にのるな、橋上の匹夫は敵の囮(おとり)だ。対岸の林には兵がかくしてあるぞ」
と、曹操はまず、はやりたつ諸将を制してから、くわっと、張飛をねめつけた。
四
張飛は動じる態もなかった。
かえって、全身に焔々(えんえん)の闘志を燃やし、炬(きよ)の如き眼を爛(らん)と射向けて、
「それへ来たものは、敵の総帥たる曹操ではないか。われこそは、劉皇叔(りゆうこうしゆく)の義弟(おとうと)、燕人張飛である。すみやかに寄って、いさぎよく勝負を決しろ」
と、呼ばわった。
声は長坂(ちようはん)の水に谺(こだま)し、殺気は落ちかかる雷(いかずち)のようであった。そのすさまじさに、曹操の周囲を守っていた者どもは、思わず傘蓋(さんがい)を取り落したり、白旄黄鉞(はくぼうこうえつ)などの儀容を崩して、あッとふるえおののいた。
いや、その雷圧は、曹軍数万の上にも見られた。濤(なみ)のような恐怖のうねりが動いたあと全軍ことごとく色を失ったかのようであった。
さわぎ立つ諸将をかえりみながら曹操は云った。
「今思い出した。そのむかし関羽がわれにいった言葉を。――自分の義弟(おとうと)に張飛というものがある。張飛にくらべれば自分の如きはいうにたらん。彼がひとたび怒って百万の軍中に駆け入るときは、大将の首を取ることも嚢(ふくろ)の中の物をさぐって取り出すようなものだ――予にそういったことがある。さだめし汝らも張飛の名は聞いていたろう。いや怖ろしい猛者(も さ)ではある!」
そういって、驚嘆している傍らから、突然、夏侯覇(かこうは)という一大将が、
「何をばさように恐れ給うか。曹軍の麾下(きか)にも張飛以上の者あることを、今ぞ確(しか)とご覧あれ」
と喚(おめ)きながら、馬の蹄をあげて、だだだだっと、橋板を踏み鳴らして、張飛のそばへ迫りかけた。張飛はくわっと口をあいて、
「孺子(じゆし)っ。来たかっ」
蛇矛(じやぼこ)横にふるって一颯の雷光を宙にえがいた。
夏侯覇は、とたんに胆魂(きもだましい)を消しとばして、馬上からころげ落ちた。その有様を見ると、数十万の兵はなお動揺した。曹操も士気の乱れを察し、にわかに諸軍へ、
「退(ひ)けっ」
と、令して引っ返した。
退け――と聞くや軍兵はみな山の崩れるように先を争い合った。ふしぎな心理がいやが上にも味方同士を混乱に突きおとしてゆく。誰の背後にも張飛の形相が追い駆けてくるような気がしていた。鉾(ほこ)を捨て、鎗(やり)を投げ、或いは馬に踏みつぶされ、阿鼻叫喚(あびきようかん)が阿鼻叫喚を作ってゆく。
そうなると、実際、収拾はつかないものとみえる。曹操自身すら、その渦中に巻きこまれ、馬は狂いに狂うし、冠の釵(かんざし)は飛ばすし、髪はみだれ、旗下(はたもと)どもは後先になり、いやもうさんざんな態であった。
ようやく、追いついてきた張遼が、彼の馬の口輪をつかみ止めて、
「これは一体、どうしたということです。たかがただ一人の敵にこれほどまで、狼狽なさる必要はありますまいに」と、歯がみをしながらいった。
曹操は初めて、夢のさめたような顔して、全軍の立て直しを命じた。そしてやや間が悪そうに、
「予が怖れたのは決して一人の張飛ではない。橋の彼方の林中に敵の埋兵(まいへい)がたえず騒(ざわ)めいていたので、また何か孔明が策を設けているのではないかと、きょうは大事を取って退却を命じたまでだ」
と、いった。
その時、彼のてれ隠しを救うにちょうどよい煙が揚った。敵は長坂橋を焼き払って退(ひ)いたというのである。そう聞くと曹操は、
「橋を焼いて逃げるようでは、やはり大した兵力は残っていないに相違ない。しまった、すぐ三ヵ所に橋を架け、玄徳を追いつめろ」と、号令をあらためた。
玄徳主従とその残兵は、初め江陵(こうりよう)へさして落ちてきたのであるが、こんな事情でその方角へはとうてい出られなくなったので、にわかに道を変更して、〓陽(べんよう)から漢津(かんしん)へ出ようと、夜も昼も逃げつづけていた。
一帆(ぱん)呉(ご)へ下(くだ)る
一
玄徳(げんとく)の生涯のうちでも、この時の敗戦行は、大難中の大難であったといえるであろう。
曹操(そうそう)も初めのうちは、部下の大将に追撃させておいたが、
「今をおいて玄徳を討つ時はなく、ここで玄徳を逸したら野に虎を放つようなものでしょう」
と荀〓(じゆんいく)らにも励まされてか、俄然数万騎を増派して、みずから下知に当り、
「どこまでも」と、その急追をゆるめないのであった。
ために玄徳は、長坂橋(ちようはんきよう)(湖北省・当陽、宜昌の東十里)附近でもさんざんに痛めつけられ、漢江の渡口(わたし)まで追いつめられてきた頃は、進退まったくきわまって、
「わが運命もこれまで――」と、観念するしかないような状態に陥っていた。
ところが、ここに一陣の援軍があらわれた。さきに命をうけて江夏(こうか)へ行っていた関羽(かんう)が、劉〓(りゆうき)から一万の兵を借りることに成功して夜を日についで馳けつけ、漢江の近くでようやく玄徳に追いついてきたものであった。
「ああまだ天は玄徳を見捨て給わぬか」
こうなると人間はただ運命にまかせているしかない。一喜一憂、九死一生、まるで怒濤と暴風の荒海を、行くても知れずただよっているような心地だった。
「ともあれ、一刻も早く」と、関羽の調えてくれた船に乗って、玄徳たちは危うい岸を離れた。――その船の中で、関羽は糜(び)夫人の死を聞いて、大いに嘆きながら、
「むかし許田(きよでん)の御狩(みかり)に会し、それがしが曹操を刺し殺そうとしたのを、あの時、あなた様が強(た)ってお止めにならなければ、今日、こんな難儀にはお会いなさるまいものを」
と、彼らしくもない愚痴をこぼすのを、玄徳はなだめて、
「いや、あの時は、天下のために、乱を醸(かも)すまいと思い、また曹操の人物を惜しんで止めたのだが――もし天が正しきを助けるものなら、いつか一度は自分の志もつらぬく時節がくるだろう」
と、いった。
するとその時、江上一面に、喊(とき)の声や鼓(こ)の音が起って、河波をあげながらそれは徐々に近づいてくる様子だった。
「さては、敵の水軍」と玄徳も色を失い、関羽もあわてて、船のみよしに立って見た。
見れば彼方から蟻(あり)のような船列が順風に帆を張って来る。先頭の一艘はわけても巨大である。程なく近々と白波をわけて進んでくるのを見ると、その船上には、白い戦袍(ひたたれ)へ銀の甲鎧(よろい)を扮装(いでた)ったすがすがしい若武者が立っていて、しきりと此方(こなた)へ向って手を打ち振っている。
「叔父(しゆくふ)、叔父。ご無事ですか。さきにお別れしたきり小姪(しようてつ)の疎遠(そえん)、その罪まことに軽くありません。ただ今、お目にかかってお詫び申すつもりです」
彼の声もやがて聞えてきた。すなわち江夏城から来た劉〓なのである。
玄徳、関羽のよろこびはいうまでもない。舷々(げんげん)相ふれると、玄徳は〓の手をとって迎え入れ、
「よくこそ、私の危急に、馳けつけて下すった」と、涙にくれた。
また、数里江上を行くと、一簇(むれ)の兵船が飛ぶが如く漕ぎよせてきた。――一艘の舳(みよし)には、綸巾鶴〓(りんきんかくしよう)の高士か武将かと疑われるような風采の人物が立っていた。すなわち諸葛亮孔明(しよかつりようこうめい)だった。
ほかの船には、孫乾(そんけん)も乗っていた。――一体どうしてここへは? 人々が怪しんで問うと、孔明は微笑して、
「およそこの辺にいたら、各々と落合えるであろうかと、夏口の兵を少し募って、お待ちしていただけです」と、あまり多くを語らなかった。
二
危急に迫って、援軍をたのんでも、援軍の間に合う場合は少ないものであるが、それの間に合ったのは、やはり孔明自身行って、関羽や劉〓(りゆうき)をよく動かしたからであろう。
しかし、それをつぶさに語るとなると、自分の口から自分の功を誇るようなものになるので、孔明は、
「さし当って、次の策こそ肝腎(かんじん)です。夏口(漢口附近)の地は要害で水利の便もありますから、ひとまず彼処(かしこ)の城にお入りあって、曹操の大軍に対し、堅守して時節を待たれ、また劉〓君にも江夏の城へお帰りあって、わが君と首尾相助けながら、共に武具兵船の再軍備にお励みあるが万全の計でしょう」と、まず将来の方針を示した。
劉〓は、同意したが、
「それよりも、もっと安全なのは、ひとまず玄徳どのを、私の江夏城へおつれして、充分に装備をしてから、夏口へお渡りあっては如何ですか。――いきなり夏口へ入られるよりもそのほうが危険がないと思われますが」と、一応自分の考えも述べた。
玄徳も孔明も、
「それこそ、然るべし」と、意見は一致し、関羽に手勢五千をつけて、先に江夏の城へやった。そして何らの異変もないと確かめて後、玄徳や孔明、劉〓などは前後して入城した。
こうして、すでに長蛇(ちようだ)を逸し去った曹操は、ぜひなく途中に軍の行動を停止して、各地に散開した追撃軍を漢水の畔(ほとり)に糾合(きゆうごう)したが、
「他日、玄徳が江陵に入っては一大事である」
と、さらに湖南へ下ってそこを奪い、一部の兵を留めて、すぐ荊州へ引っ返してきた。
荊州には、〓義(とうぎ)とか劉先(りゆうせん)などという旧臣が守っていたが、もう幼主劉〓(りゆうそう)は殺され、襄陽(じようよう)はおち、軍民すべて曹操の下に服してしまっているので、
「もはや誰のために戦おう」と、城門をひらいてことごとく曹操に降服してしまった。
曹操は荊州に居すわって、いよいよ対呉政策に乗り出した。
――呉を如何にするか。
これは多年の懸案である。しかもこの対策に成功しなければ、絶対に統一の覇業は完成しないのである。
「檄文(げきぶん)を作れ」
荀攸(じゆんゆう)に命じて、檄を書かせた。もちろんそれは呉へ送るものである。
いま、玄徳、孔明の輩(ともがら)は、その余命をわずかに江夏、夏口に拠(よ)せて、なお不逞な乱を企(くわだ)ておる。予、三軍をひきいて、疾(と)くこれに游漁す。君も呉軍をひきいて、この快游(かいゆう)を共にし給わずや。漁網の魚は、これを採って一盞(さん)の卓にのぼせ、地は割譲(わ け)て、ながく好誼(よしみ)をむすぶ引出物としようではないか。
という意味のものだった。
ただし曹操としても、こんな一片の文書だけで、呉が降参してこようなどとは決して期待していない。いかなる外交もその外交辞令の手もとに、
(これがお嫌なら、またべつなご挨拶を以て)といえる「実力」が要(い)る。彼は呉へ檄(げき)を送ると同時に、その実力を水陸から南方へ展開した。
総勢八十三万の兵を、号して百万ととなえ、西は荊陝(けいせん)から東は〓黄(きこう)にわたる三百里のあいだ、烟火(えんか)連々と陣線をひいて、呉の境を威圧した。
この時、呉主孫権(そんけん)も、隣境の変に万一あるをおそれて、柴桑城(さいそうじよう)(廬山、〓陽湖(はようこ)の東南方)まで来ていたが、事態いよいよただならぬ形勢となったので、
「今こそ、呉の態度を迫られる時が来た。曹操についたが得策か、玄徳と結んだがよいか。ここの大方針は呉の興亡を決するものだ。乞う、そちの信じるところを忌憚(きたん)なく聞かしてくれい」
呉の大賢といわるる魯粛(ろしゆく)は、孫権から直々にこう問われた。
三
魯粛(ろしゆく)は慎重に、孫権の諮問(しもん)にこたえた。
「劉表(りゆうひよう)の喪(も)を弔(とむら)うという名目をもって、私が荊州へお使いに立ちましょう」
「……そして?」
「帰途ひそかに江夏へおもむき、玄徳と対面して、よく利害を説き、彼に援助を与える密約をむすんで来ます」
「玄徳を援助したら、曹操は怒って、いよいよ鋭鋒を呉へ向けてくるだろう」
「いや、ちがいます。玄徳の勢いが衰退したので、曹操はたちまち呉へ大軍を転じて来たものです。故に、玄徳が強力となれば、背後の憂いがありますから、曹操は決して、思い切った侵攻を呉へ試みることはできません」
魯粛は、なお説いて、
「私がお使いに立てば、それらの大策の決定は後日に譲るまでも、とにかく荊州から江夏にわたる曹操、玄徳、両方の実状をしかとこの眼で見てくるつもりです。それも重要な前提ですから」
と、いった。
呉の国のうごきは今、呉自身の浮沈を決する時であると共に、曹操の大軍にも、江夏の玄徳の運命にも、こうして重大な鍵(かぎ)をもっていた。
江夏の城中にあっても、その事について、度々、評議するところがあったが、孔明はいつも、
「呉は遠く、曹は近く、結局われわれの抱く天下三分の理想――すなわち三国鼎立(ていりつ)の実現を期するには、あくまで遠い呉をして近い曹操と争わせなければなりません。両大国を相搏(あいう)たせて、その力を相殺させ、わが内容を拡充する。真の大策を行うのはそれからでしょう」
と、至極、穏当な論を述べていた。
「だが、そううまく、こちらの望みどおりにゆけばよいが?」
と、これは、玄徳だけの懐疑ではない。誰しも一応はそう考える。
これに対して、孔明は、
「ごらんなさい。今にきっと呉から使者が来るにちがいありません。然るときは、わたくし自身、一帆(ぱん)の風にまかせて、呉国へ下り、三寸不爛(ふらん)の舌をふるって、孫権と曹操を戦わせ、しかも江夏の味方は、そのいずれにも拠(よ)らず、一方のやぶれるのを見てから、遠大にしてなお万全な大計の道をおとりになるようにして見せます。――戦わば必ず勝つ戦いを戦うこと、三歳の児童も知る兵法の初学です」
――こう聞いても、人々はなお釈然となれなかった。むしろ不安にさえなった。
「孔明は何か非常な奇蹟でもあらわれるのをそらだのみにして、あんな言を吐いているのではないか」
そう思われる節(ふし)がないでもないからである。
ところが、その奇蹟は、数日の後、ほんとうに江夏を訪れて来た。
「呉主孫権の名代として、故劉表の喪(も)を弔(とむら)うと称し、重臣魯粛と申される方の船が、いま江頭に着きました」と、いう知らせが、江岸の守備兵から城中へ通達されてきたのである。
「どうして軍師には、この事あるを、ああはやくからお分りになっておられたのか?」
ざわめく人々の問いに、孔明は、
「いかに強大な呉国でも、常勝軍と誇る曹兵百万が、南下するに会っては、戦慄せざるを得ないにきまっている。加うるに呉は富強ではあるが実戦の体験が少ない。境外の兵備の進歩やその実力をはかり知っておらぬ。――で、ひとまずは、使者を派して、君玄徳を説きつけ、あくまで曹操の背後を衝かせておくの策を考えるものと私は観た」と語り――また劉〓(りゆうき)をかえりみて、呉の孫策(そんさく)が死んだ時、荊州から弔問の使者が会葬に行ったか否かをたずねて、〓がその事なしと答えると、
「それごらんなさい。呉と荊州とは、累代(るいだい)の仇(あだ)。今それをも捨てて使者をよこしたのは、喪を弔うの使いではなく、実は虚実をさぐるための公然たる密命大使であることが、その一事でも明らかでしょう」と、笑って説明した。
四
やがて魯粛(ろしゆく)は賓閣(ひんかく)へ迎えられた。彼は、劉〓(りゆうき)に弔慰を述べ、玄徳には礼物を贈って、
「呉主孫権からも、くれぐれよろしく申されました」
と、まずは型の如き使節ぶりを見せた。
後、後堂で酒宴となり、こんどは玄徳から遠来の労をねぎらった。
魯粛は、酔い大いに発すると、玄徳へ向ってずけずけ訊(たず)ね出した。
「あなたは年来、曹操から眼の仇(かたき)にされて、彼と戦いをくり返しておいでだから、よくご存じであろうが――いったい曹操という者は、天下統一の大野心を抱いているのでしょうか、それとも慾心はただ自己の繁栄に止まっている程度でありましょうか」
「さあ? ……どうであろう」
「彼の帷幕(いばく)ではいま、誰と誰とが、もっとも曹操に用いられておりましょうな」
「よく知らぬが」
「では――」と、魯粛はたたみかけて、
「曹操の持つ総兵力というものは、実際のところ、どのくらいでしょう」
「その辺も、よくわきまえぬ」
何を問われても、玄徳は空とぼけていた。これは孔明の忠告によるものだった。
魯粛は少し色をなして、
「新野(しんや)、当陽そのほか諸所において、曹操と戦ってきたあなたが、敵について、何の知識もないわけはないでしょう」と、詰問(な じ)ると、玄徳はなお茫漠(ぼうばく)たる面をして、
「いや、いつの戦いでも、こちらは、曹操来ると聞けば、逃げ走ってばかりいたので、くわしいことはまったく不明です。ただ孔明なら少しは心得ているであろうが」
「諸葛亮(しよかつりよう)はどこにおられますか」
「いま呼んでおひきあわせ致そうと考えていたところだ。誰か、孔明を召し連れてこい」
玄徳の命にひとりが立ち去って行くと、やがて孔明もここへ姿をあらわして、物やわらかに席に着いた。
「亮(りよう)先生。――自分は先生の実兄(このかみ)とは、年来の親友ですが」と魯粛は、個人的な親しさを示しながら、彼に話しかけた。
「……ほ。兄の瑾(きん)をよくご存じですか」と、孔明もなつかしげに瞳を細めた。
「されば、このたびの門出にも、お会いしてきました。何やらお言伝でも承って参りたいと存じたが、公(おおやけ)のお使い、わざと差し控えてきましたが」
「いや、余事はおいて、時に、わが主玄徳におかれては、かねてより呉の君臣に交友を求め、相たずさえて曹操を討たんと欲しられていますが、貴下のお考えでは如何であろうか」
「さあ、重大ですな」
「自惚(うぬぼ)れではありませんが、呉もまたわれわれと結ばなければ、存立にかかわりましょう。もしわが主玄徳が、一朝に意気地を捨てて、曹操につけば、これ自己の保身としては、最善でしょうが、呉にとっては脅威でしょう。南下の圧力は倍加するわけですから」
ことばは鄭重だがその言外に大国の使臣を強迫しているのである。魯粛は恐れざるを得なかった。孔明のいうような場合が実現しない限りもないからである。
「自分は呉の臣ですが――劉皇叔(りゆうこうしゆく)のために――個人としてここだけのことをいえば、貴国の交渉如何によっては、わが主孫権も決して動かないことはなかろうと信じられます。ただ、その使節は大任ですが」
「では、脈があるというわけですな」
「まあ、そうです。幸い、亮先生の兄上は、呉の参謀であり、主君のご信頼もふかいお方ですから、ひとつ先生自身、呉へ使いされたらどうかと思いますが」
そばで聞いていた玄徳は顔のいろを失った。呉の計略ではないかと考えたからである。魯粛がすすめれば勧めるほど、彼は許す気色もなかった。
孔明は、なだめて、
「事すでに急を要します。信念をもって行ってきます。どうかお命じください」
と、再三、許しを仰いだ。そして数日の後には、ついに魯粛と共に、下江の船に乗ることを得た。
舌(ぜつ) 戦(せん)
一
長江千里、夜が明けても日が暮れても、江岸の風景は何の変化もない。水は黄色く、ただ滔々淙々(とうとうそうそう)と舷(ふなべり)を洗う音のみ耳につく。
船は夜昼なく、呉の北端、柴桑郡(さいそうぐん)をさして下っている。――その途中、魯粛(ろしゆく)はひそかにこう考えた。
「痩せても枯れても、玄徳(げんとく)は一方の勢力にちがいない。その軍師たり宰相(さいしよう)たる重職にある孔明(こうめい)が、身に一兵も伴わず、まったくの単身で、呉へ行くという意気はけだし容易な覚悟ではない。――察するに孔明は一死を胸にちかい、得意の弁舌をもって、呉を説かんとする秘策をもっているものであろう」
同船して、幾日かの旅を共にしているうち、彼は悲壮なる孔明の心事に同情をよせていた。けれどまた、
「もし、孔明に説かれて、主君孫権(そんけん)が玄徳のために曹操(そうそう)と戦うような場合に立ち到るときは――勝てばよいが、負けたらその罪は?」
と、責任が自分に帰してくることをも、多分におそれずにいられなかった。
で、魯粛は、船窓の閑談中に、それとなく孔明に入れ智慧を試みたりした。
「先生。――先生が孫権とお会いになったら、かならずいろいろな質問が出ましょうが、曹軍の内容については、何事も知らぬ態をしておられたほうが得策かも知れませんな」
「どうして?」
孔明は、魯粛の肚を読みぬいているように、にやにや笑っていた。
「いや、どうといって、べつに深い理由はありませんが、あまり詳しいことを述べると、そう敵の内容をつまびらかに知っているわけはないから、曹操と同腹して、呉を探りに来たのではないか――などと疑われるおそれもありますからな」
「ははは。そんなお人ですか、孫将軍は」
魯粛はかえって赤面した。とうてい他人の入れ智慧などにうごかされる人物ではないとみて、魯粛もその後は口をつつしんだ。
やがて船は潯陽江(じんようこう)(九江)の入江に入り、そこから陸路、西南に〓陽湖(はようこ)を望みながら騎旅をすすめた。
そして柴桑(さいそう)城街につくと、魯粛は孔明の身をひとまず客館へ案内して、自身はただちに城へ登った。
府堂のうちでは折しも文武の百官が集まって、大会議中のところだった。魯粛帰れり! とそこへ聞えたので孫権は、
「すぐ、これへ」と、呼び入れて、彼にも当然、一つの席が与えられた。
孫権は、さっそく訊ねた。
「荊州の形勢はどうだった?」
「よく分りません」
「なに、分らぬ。――はるばる、江をさかのぼって、その地を通過しながら、何も見てこなかったのか」
「いささか、所感がないでもありませんが、それがしの視察は別にご報告申しあげます」
「むむ……そうか」
と、孫権も敢て追及しなかった。そして手もとにあった檄文の一通を、
「これ見よ」といって、魯粛へ渡した。
曹操からの「最後通牒(つうちよう)」である。われに降(くだ)って共に江夏の玄徳を討つや。それとも、わが百万の大軍と相まみえて、呉国を強(し)いて滅亡へ導くつもりなりや否や、即刻、回報あるべし――という強硬なる半面威嚇(いかく)、半面懐柔(かいじゆう)の檄文だった。
「このためのご評議中でございましたか」
「そうだ。……早朝から今にいたるまで」
「して、諸員のご意見は」
「いまなお、決しないが……満座の大半以上は、戦わぬがいいということに傾いておる」
そういって、孫権がふたたび沈吟(ちんぎん)すると、張昭(ちようしよう)そのほかの重臣は皆、口を揃えて、
「もし、呉の六郡と、呉の繁栄とを安穏(あんのん)に保ち、いよいよ富強安民を計らんとするなれば、ここは曹操に降って、彼の百万の鋭鋒を避け、他日を期すしかありません」
と、不戦論を唱えた。
二
百万の陸兵だけならまだ怖れるに足らぬとしても、曹操の手には今、数千艘の水軍も調(ととの)っている。水陸一手となって、下江南進して来た場合、それを防ぐには、呉の兵馬軍船も大半以上損傷されるものと覚悟しなければならない。
不戦論を主張する人々は、こぞってその非を鳴らした。
「たとえ勝ったところで、その消耗からくる国の疲弊は、三年や四年では取り返しつきますまい、降伏に如(し)くなしです」
評議は長くなるばかりだ。孫権の肚はなお決まらないのである。彼はやや疲れを見せて、
「衣服をかえてまた聴こう」
と席を立って殿裡へ隠れた。衣をかえるとは、休息の意味である。
魯粛(ろしゆく)はひとり彼について奥へ行った。孫権は意中を察して、
「魯粛。そちは最前(さいぜん)、別に意見があるといったが、ここでならいえるであろう。そちの考えではどうか」と、親しく訊ねた。
魯粛は、重臣間に行われている濃厚な不戦論に接して、反感をそそられていた。その気持は、孔明に抱いていた同情とむすびついて、勃然(ぼつぜん)と、主戦的な気を吐くに至った。
「宿将や、重臣の大部分が、云い合わせたように、わが君へ降参をおすすめする理由(わ け)は、みな自己の保身と安穏をさきに考えて、君のお立場も国恥(こくち)も大事と考えていないからです。――彼らとしては、主君をかえて、曹操に降参しても、すくなくも位階は従事官を下らず、牛車に乗り、吏卒をしたがえ、悠々、士林に交遊して、無事に累進を得れば、州郡の太守となる栄達も約束されているわけです。それに反して、わが君の場合は、よく行っても、車一乗、馬数匹、従者の二十人も許されれば、降将の待遇としては関の山でしょう。もとより南面して天下の覇業を行わんなどという望みは、もう死ぬまで持つことはできません」
当然、若い孫権は動かされた。彼はなお多分に若い。消極論には迷いを抱くが、積極性のある説には、本能的にも、血が高鳴った。
「なお詳しいことは、臣が江夏からつれてきた一客を召して、親しくそれにお訊ね遊ばしてごらんなさい」
「一客とは誰か」
「諸葛瑾(しよかつきん)の弟、孔明です」
「お。臥龍(がりゆう)先生か」
孫権も彼の名は久しく聞いている。しかも自分の臣諸葛瑾の弟でもある。さっそく会いたいと思ったが、しかし、その日のこともあるので評議は一応取止め、明日また改めて参集すべし――と諸員へ云いわたした。
次の日の早朝、魯粛は、孔明をその客館へ誘いに行った。前の夜から報らせがあったので、孔明は斎戒沐浴(さいかいもくよく)して、はや身支度をととのえていた。
「きょう呉君にお会いになって、曹操の兵力を問われても、あまり実際のところをお云いにならないほうがよいと思います。何ぶん、文武の宿老には、事なかれ主義の人物が大半以上ですから」
魯粛は、親切にささやいたが、孔明には、別に確たる自信があるものの如く、ただうなずいて見せるだけだった。
柴桑城(さいそうじよう)の一閣には、その日、かくと聞いて、彼を待ちかまえていた呉の智嚢(ちのう)と英武とが二十余名、峩冠(がかん)をいただき、衣服を正し、白髯(はくぜん)黒髯(こくぜん)、細眼(さいがん)巨眼、痩躯(そうく)肥大、おのおの異色のある威儀と沈黙を守って、
(さて。どんな人物?)と、いわぬばかりに居並んでいた。
孔明は、すがすがしい顔をして、魯粛に導かれて入ってきた。そして居並ぶ人々へ、いちいち名を問い、いちいち礼をほどこしてから、
「いただきます」
と、静かに客位の席へついた。
その挙止は縹渺(ひようびよう)、その眸は晃々(こうこう)、雲をしのぐ山とも見え、山にかくされた月とも思われる。
(さてはこの人、呉を説いて、呉を曹操に当らせんため――単身これへ来たものだな)
さすが呉国第一の名将といわれる張昭(ちようしよう)は、じろと瞬間に、そう観やぶっていた。
三
一同こもごもの挨拶がすむと、やがて張昭(ちようしよう)は、孔明に向って云った。
「劉予州(りゆうよしゆう)が、先生の草廬(そうろ)を三度まで訪ねて、ついに先生の出廬(しゆつろ)をうながし、魚の水を得たるが如し――と歓ばれたという噂は、近頃の話題として、世上にも伝えられていますが、その後、荊州も奪(と)らず、新野も追われ、惨めな敗亡をとげられたのは一体どういうわけですか。われわれの期待は破られ、人みな不審がっておりますが」
皮肉な質問である。
孔明はじっと眸をその人に向け直した。
張昭は、呉の偉材だ。この人を説服し得ないようでは、呉の藩論をうごかすことは至難だろう。――そう胸には大事を期しながら、孔明はにこやかに、
「されば。――もしわが君劉予州が荊州を奪ろうとなされば、それは掌(てのひら)を反(かえ)すよりたやすいことであったでしょう。けれど君と故劉表(りゆうひよう)とは同宗の親(しん)、その国の不幸に乗って、領地を横奪するがごとき不信は、余人は知らず、わが仁君玄徳にはよくなさりません」
「これは異なことを承る。それでは先生の言行に相違があるというものだ」
「なぜですか」
「先生はみずから常に自分を春秋の管仲(かんちゆう)、楽毅(がつき)に比していたそうですが、古の英雄が志は、天下万民の害を除くにあり、そのためには、小義私情を捨てて大義公徳により、良く覇業統一を成しとげたものと存ずるが――いま劉予州をたすけて、今日の管仲たり楽毅たらんと任ずるあなたが、出廬たちまち前後の事情や私心にとらわれ、曹操の軍に遭うては、甲(よろい)を投げ矛(ほこ)をすてて、僻地へ敗走してしまうなど、どう贔屓目(ひいきめ)に見てもあまり立派な図とは思われぬが」
「はははは」
孔明は昂然と笑って、
「いや、あなた方のお眼に、そう映るのは無理もありません。大鵬(たいほう)という鳥がある。よく万里を翔破(しようは)します。しかし大鵬の志は燕雀の知る限りではない。古人もいっている――善人が邦(くに)を治めるには百年を期して良く残(ざん)に克(か)ち殺(さつ)を去って為(な)す――と。たとえば重い病人を治すには、まず粥(かゆ)を与え、やわらかな薬餌(やくじ)から始める。そして臓腑(ぞうふ)血気の調(ととの)うのを待って、徐々、強食をすすめ、精薬を以てその病根をきる。――これを逆にして、気脈もととのわぬ重態に、いきなり肉食猛薬を与えたら、病人の生命はどうなりましょう。いま天下の大乱は、重病者の気脈のごとく、万民の窮状は、瀕死の者の気息にも似ている。これを医し癒(いや)さんに、なんで短兵急にまいろうか。――しかも天下の医たるわが劉予州の君には、汝南(じよなん)の戦にやぶれ、新野の僻地に屈(かが)み、城郭堅(かた)からず、甲兵完(まつた)からず、粮草(ろうそう)なおとぼしき間に、曹操が百万の強襲をうけ給う。これに当るはみずから死を求めるのみ。これを避けるは兵家の常道であり、また百年の大志を後に期し給うからである。――とはいえ、白河(はくが)の激水に、夏侯惇(かこうじゆん)、曹仁(そうじん)の輩(ともがら)を奔流の計にもてあそび、博望の谿間(たにま)にその先鋒を焼き爛(ただら)し、わが軍としては、退(ひ)くも堂々、決して醜い潰走はしていません。――ただ当陽の野においては、みじめなる離散を一時体験しましたが、これとて、新野の百姓老幼数万のものが、君の徳を慕いまいらせ、陸続ついて来たために――一日の行程わずか十里、ついに江陵(こうりよう)に入ることができなかった結果です。それもまた主君玄徳の仁愛を証するもので、恥なき敗戦とは意義が違う。むかし楚(そ)の項羽(こうう)は戦うごとに勝ちながら、垓下(がいか)の一敗に仆(たお)るるや、高祖に亡ぼされているでしょう。韓信(かんしん)は高祖に仕え、戦えど戦えど、ほとんど、勝ったためしのない大将であるが、最後の勝利は、ついに高祖のものとしたではありませんか。これ、大計というもので、いたずらに晴の場所で雄弁を誇り、局部的な勝敗をとって功を論じ、社稷(しやしよく)百年の計を、坐議立談するが如き軽輩な人では、よく解することはできますまい」
ことばこそ爽(さわや)かなれ、面(おもて)こそ静かなれ、彼の態度は、微塵(みじん)の卑下(ひげ)も卑屈もなかった。
四
張昭(ちようしよう)は沈黙した。さしもの彼も心を取りひしがれたような面持に見えた。
一座やや白けたかと見えた時である。突として立った者がある。会稽郡(かいけいぐん)余姚(よよう)の人、虞翻(ぐほん)、字(あざな)は仲翔(ちゆうしよう)であった。
「率直にお訊ねするの不遜をおゆるしありたい。いま曹操の軍勢百万雄将千員、天下を一呑みにせんが如き猛威をふるっておるが、先生には何の対策かある。乞う、吾々のために聴かせ給え」
「百万とは号すが、実数は七、八十万というところでしょう。それも袁紹(えんしよう)を攻めては、その北兵を編入し、荊州をあわせては、劉表の旧臣を寄せたもの、いわゆる烏合(うごう)の勢です。何怖れるほどなものがありましょう」
「あははは。いわれたりな孔明先生。あなたは新野を自燼(じじん)し、当陽に惨敗し、危うく虎口をのがれたばかりではないか。その口で、曹操如きは怖るるに足らんというのは、ちとおかしい。耳をおおうて鈴を盗むの類(たぐい)だ」
「いや、わが劉予州の君に従う者は、少数ながら、ことごとく仁義の兵です。何ぞ、曹操が残暴きわまる大敵に当って、自ら珠を砕くの愚をしましょう。――これを呉に較べてみれば、呉は富強にして山川沃地広く、兵馬は逞しく、長江の守りは嶮。然るにです、その国政にたずさわる諸卿らは、一身の安きを思うて国恥を念とせず、ご主君をして、曹賊の軍門に膝を屈せしめようとしておられるではないか。――その懦弱(だじやく)、卑劣、これをわが劉予州の麾下の行動と較べたら、同日の談ではありますまい」
孔明の面は淡紅(たんこう)を潮(さ)している。言語は徐々、痛烈になってきた。
虞翻が口を閉じると、すぐまた、一人立った。淮陰(わいいん)の歩隲(ほしつ)、字(あざな)は子山(しざん)である。
「孔明――」こう傲然(ごうぜん)呼びかけて、
「敢て訊くが、其許は蘇秦(そしん)、張儀(ちようぎ)の詭弁(きべん)を学んで、三寸不爛(ふらん)の舌をふるい、この国へ遊説しにやってきたのか。それが目的であるか」
孔明は、にことかえりみて、
「ご辺は蘇秦、張儀を、ただ弁舌の人とのみ心得ておられるか。蘇秦は六国の印をおび、張儀は二度まで秦の宰相たりし人、みな社稷(しやしよく)を扶け、天下の経営に当った人物です。さるを、曹操の宣伝や威嚇に乗ぜられて、たちまち主君に降服をすすめるような自己の小才をもって推しはかり、蘇秦、張儀の類などと軽々しく口にするはまことに小人の雑言(ぞうごん)で、真面目にお答えする価値もない」
一蹴に云い退けられて、歩隲が顔を赤らめてしまうと、
「曹操とは、何者か?」と、唐突に問う者があった。
孔明は、間髪をいれず、
「漢室の賊臣」と、答えた。
すると、質問した沛郡(はいぐん)の薛綜(せつそう)は、その解釈が根本的に誤謬(ごびゆう)であると指摘して、
「古人の言にも――天下は一人の天下に非ず、すなわち天下の天下である――といっておる。故に、堯(ぎよう)も天下を舜(しゆん)に譲り、舜は天下を禹(う)に譲っている。いま漢室の政命尽き、曹操の実力は天下の三分の二を占むるにいたり、民心も彼に帰せんとしておる。賊といわば、舜も賊、禹も賊、武王、秦王、高祖ことごとく賊ではないか」
「お黙りなさい!」
孔明は、叱っていう。
「ご辺の言は、父母もなく君もない人間でなければいえないことだ。人と生れながら、忠孝の本(もと)をわきまえぬはずはあるまい。曹操は相国(しようこく)曹参(そうさん)の後胤(こういん)で、累世(るいせい)四百年も漢室に仕えてその禄を食(は)みながら、いま漢室の衰えるを見るや、その恩を報ぜんとはせず、かえって、乱世の奸雄たる本質をあらわして簒虐(さんぎやく)をたくらむ。――思うにご辺は天数循環の歴史を、現実の一人間の野望に附加して、強(し)いて理由づけようとしておられるらしい。そういうお考え方もまた逆心といえる。借問(しやもん)す、貴下は、貴下の主家が衰えたら、曹操のように、たちまち主君の孫権をないがしろになされるか」
五
呉郡の陸績(りくせき)、字(あざな)は公紀(こうき)。
すぐ続いて、孔明へ論じかけた。
「いかにも、先生のいわるる通り、曹操は相国曹参の後胤、漢朝累代の臣たること、まちがいない。――しかし劉予州は如何に。これは自称して、中山靖王(ちゆうざんせいおう)の末裔(まつえい)とはいい給えど、聞説(きくならく)、その生い立ちは、蓆(むしろ)を織り履(くつ)を商(あきの)うていた賤夫という。――これを較ぶるに、いずれを珠とし、いずれを瓦とするや。おのずから明白ではあるまいか」
孔明は、呵々(かか)大笑して、
「オオ君はその以前袁術(えんじゆつ)の席上において、橘をふところに入れたという陸郎であるな。まず安坐してわが論を聞け。むかし周の文王は、天下の三分の二を領しながらも、なお殷(いん)に仕えていたので、孔子も周の徳を至徳だとたたえられた。これあくまで君を冒さず、臣は臣たるの道である。――後、殷の紂王(ちゆうおう)、悪虐のかぎりを尽し、ついに武王立って、これを伐つも、なお伯夷(はくい)、叔斉(しゆくせい)は馬をひかえて諫めておる。見ずや、曹操のごときは、累代の君家に、何の勲(いさお)だになく、しかも常に帝を害し奉らん機会ばかりうかがっていることを。家門高ければ高きほど、その罪は深大ではないか。見ずやなおわが君家劉予州を。大漢四百年、その間の治乱には、必然、多くの門葉ご支族も、僻地に流寓し、あえなく農田に血液をかくし給うこと、何の歴史の恥であろう。時来って草莽(そうもう)のうちより現われ、泥土去って珠金の質を世に挙げられ給うこと、また当然の帰趨(きすう)のみ。――さるを履を綯(な)えばとて賤しみ、蓆を織りたればとて蔑(さげす)むなど、そんな眼をもって、世を観、人生を観、よくも一国の政事(まつりごと)に参じられたものではある。民にとって天変地異よりも怖ろしいものは、盲目な為政者だという。けだし尊公などもその組ではないか」
陸績は胸ふさがって、二の句もつげなかった。
昂然(こうぜん)、また代って立ったのは、彭城(ほうじよう)の厳〓(げんしゆん)、字(あざな)は曼才(まんさい)。
「さすがは孔明、よく論破された。わが国の英雄、みな君の弁舌におおわれて顔色もない。そも、君はいかなる経典に依ってそんな博識になったか。ひとつその蘊蓄(うんちく)ある学問を聴こうではないか」
と、揶揄(やゆ)的にいった。
孔明は、気を揮(ふる)って、それへ一喝した。
「末梢を論じ、枝葉をあげつらい、章句に拘泥(こうでい)して日を暮すは、世の腐れ儒者の所為(しわざ)。何で国を興し、民を安んずる大策を知ろう。漢の天子を創始した張良(ちようりよう)、陳平(ちんぺい)の輩(ともがら)といえども、かつて経典にくわしかったということは聞かぬ。不肖孔明もまた、区々たる筆硯のあいだに、白を論じ黒を評し、無用の翰墨(かんぼく)と貴重の日を費やすようなことは、その任でない」
「こは、聞き捨てにならぬことだ。では、文は天下を治むるに、無用のものといわれるか」
駁(ばく)してきたのは、汝南の程秉(ていへい)であった。孔明は面(おもて)を横に振りながら、
「早のみ込みをし給うな。学文にも小人の弄文(ろうぶん)と、君子の文業とがある。小儒はおのれあって邦(くに)なく、春秋の賦(ふ)を至上とし、世の翰墨を費やして、世の子女を安きに惑溺(わくでき)させ、世の思潮をいたずらににごすを能とし、辞々句々万言あるも、胸中一物の正理もない。大儒の業は、まず志を一国の本(もと)におき、人倫の道を肉づけ、文化の健全に華をそえ、味なき政治に楽譜を奏(かな)で、苦しき生活にうるおいをもたらし、暗黒の底に希望をもたらす。無用有用はおのずからこれを導く政治の善悪にあって、腐文盛んなるは悪政の反映であり、文事健調なる――その国の政道明らかなことを示すものである。――最前から各々の声音を通して、この国の学問を察するに、その低調、愍然(びんぜん)たるものをおぼゆる。この観察はご不平であるや、如何に」
すでに満座声もなく、鳴りをひそめてしまったので、ここに至って、こう孔明のほうから一問した。
けれど、それに対して、もう起って答える者のなかった時、沓音高く、ここへ入ってきた一人物があった。
火中(かちゆう)の栗(くり)
一
――一同、その沓音にふりかえって、誰かと見ると、零陵泉陵(れいりようせんりよう)の産、黄蓋(こうがい)、字(あざな)は公覆(こうふく)といって、いま呉の糧財奉行、すなわち大蔵大臣格の人物だった。
ぎょろりと、大堂を見わたしながら、天井をゆするような声で、
「諸公はいったい何しとるんかっ。孔明(こうめい)先生は当世第一の英雄じゃ。この賓客にたいし、愚問難題をならべ、無用な口を開いていたずらに腸(はらわた)を客に見するなど、呉の恥ではないか。主君のお顔よごしでもある。慎(つつし)まれいっ」
そして孔明に向っては、きわめて慇懃(いんぎん)に、
「最前からの衆臣の無礼、かならずお気にかけて給わるな。主君孫権(そんけん)には、はやくより清堂を浄めて、お待ちしておりまする。せっかくな金言玉論、どうかわが主君にお聴かせ下さい」
と、先に立って、奥へ案内して行った。
ばかな目を見たのは、むきになって討論に当った諸大将であった。もとよりこれは黄蓋が叱ったわけではない。誰か孫権へ告げた者があって、孫権の考えから、賓客のてまえ、こう一同にいわざるを得なくなり、黄蓋が旨をふくんできたものにちがいない。何にせよ、それからの鄭重なことは国賓を迎えるようであった。黄蓋と共に、魯粛(ろしゆく)も案内に立ち、粛々(しゆくしゆく)、中門まで通ってくると、開かれたる燦碧金爛(さんぺききんらん)の門扉のかたわらに、黙然、出迎えている一名の重臣があった。
「おお……」
「おお……」
孔明は、はたと足をとめた。
その人も、凝然(ぎようぜん)と、彼を見まもった。
これなん、呉の参謀、孫権が重臣、そして孔明にとって実の兄たる諸葛瑾(しよかつきん)であった。
久しいかな、兄弟相距(あいへだ)ち、また相会うこと。
幼い者が手をつなぎあって、老いたる従者や継母(は は)などと一緒に、遠く山東の空から南へ流れ流れて来た頃の、あの時代のお互いのすがたや、惨風悲雨の中にあった家庭のさまが、瞬間、ふたりの胸にはこみあげるように思い出されていたにちがいない。
「亮(りよう)。この国へ見えられたか」
「主命をおびてまかり越しました」
「見ちがえる程になった」
「家兄(このかみ)にも……」
「呉へ来たなら、なぜ早く、わしの邸へ訪ねてくれなかったか。旅舎からちょっと沙汰でもしてくれればよかったのに」
「このたびの下江は、劉(りゆう)予州のお使いとして来ましたので、わたくしの事は、すべて後にと控えていました。ご賢察くださいまし」
「それも道理。――いやいずれ後でゆるりと会おう。呉君にもお待ちかねであらせられる」
諸葛瑾は、呉の臣に返って、うやうやしく賓客を通し、飄(ひよう)として、立ち去った。
豪壮華麗な大堂がやがて孔明の目前にあった。珠欄玉階、彼の裳(もすそ)は、一歩一歩のぼってゆく。
やおら身を掻い起して、それへ立ち迎えに出てきたのは、呉主孫権であるこというまでもない。
孔明は、ひざまずいて再拝した。
孫権は鷹揚(おうよう)に、半礼を返し、
「まず……」
と、座へ請(しよう)じた。
その上座をかたく辞して、孔明は横の席へ着いた。
そして玄徳(げんとく)からの礼辞を述べた。声音すずやかで言葉にもむだがない。対する者をして何かしら快い感じを抱かせるような風が汲みとられる。
「遠路、おつかれであろう」
孫権はねぎらう。
文武の大将は遠く排列して、ただひそやかに一箇の賓客を見まもっている。
孔明の静かなひとみは、時折、孫権の面にそそがれた。
孫権の人相をうかがうに碧瞳紫髯(へきどうしぜん)――いわゆる眼は碧にちかく髯(ひげ)は紫をおびている。漢人本来の容貌や形態でない。
また腰かけていると、その上躯は実に堂々と見えるが、起つと腰から下がはなはだ短い。これも彼の特徴であった。
孔明は、こう観ていた。
(これはたしかに一代の巨人にはちがいない。しかし感情昂(たか)く、内は強情で、精猛なかわりに短所も発し易い。この人を説くには、わざとその激情を励ますのがよいかも知れぬ)
二
香の高い茶が饗された。
孫権は、孔明にすすめながら、共に茶をすすって、
「新野の戦はどうでした。あれは先生が劉予州を扶(たす)けて戦った最初のものでしょう」
「敗れました。兵は数千に足らず、将は五指に足りません。また新野は守るに不適当な城地ですから」
「いったい曹操(そうそう)の兵力は――実数はです――どのくらいのところが本当でしょう」
「百万はあります」
「そう号しているのですな」
「いや、確実なところです。北の青州、〓州(えんしゆう)を亡ぼした時、すでに四、五十万はありました。さらに、袁紹(えんしよう)を討って四、五十万を加え、中国に養う直属の精鋭は少なくも二、三十万を下るまいと思われます。私が百万と申しあげたのは、この国の方々が、曹操の実力百五、六十万もありといったら驚かれて気も萎(な)えてしまうであろうと、わざと少なく評価してお答えいたしたのです」
「それにのぞむ帷幕(いばく)の大将は」
「良将二、三千人。そのうち稀代の智謀、万夫不当の勇など、選りすぐっても四、五十人は数えられましょう」
「先生の如き人は?」
「私ごときものは、車に積み、桝(ます)で量(はか)るほどいます」
「いま、曹操の陣容は、どこを攻めるつもりであろうか」
「水陸の両軍は、江(こう)に添って徐々南進の態勢にあります。呉を図らんとする以外、どこへあの大量な軍勢の向け場がありましょうや」
「呉は、戦うべきか、戦わないがよいか」
「は、は、ははは」
ここで孔明は軽く笑った。
ぽいと、かわされたかたちである。孫権は気がついたもののごとく、急に慇懃(いんぎん)の辞をかさねて、
「――実は、魯粛(ろしゆく)が先生の徳操をたたえること非常なもので、予もまた、久しくご高名を慕うていたところなので、ぜひ今日は、金玉の名論に接したいと考えていたのです。願わくば、この大事に当ってとるべき呉の大方向をご垂示にあずかりたい」
「愚存を申しあげてもよいと思いますが、しかしおそらく将軍のお心にはかないますまい。お用いなき他説をお聴きになっても、かえって迷う因ではありませんか」
「ともあれ拝聴しましょう」
「では忌憚(きたん)なく申しあげる。――四海大いに乱るるの時、家祖、東呉を興したまい、いまや孫家の隆昌は、曠世(こうせい)の偉観といっても過言ではありません。一方、わが劉予州の君におかれても、草莽(そうもう)より身を起し、義を唱え、民を救い、上江遠からず曹操の大軍と天下をあらそっています。これまた史上未曾有の壮挙にあらずして何でしょう。然るに、恨むらくは、兵少なく、地利あらず、いま一陣にやぶれて、臣孔明に万恨(ばんこん)を託され、江水の縁を頼って、呉に合流せんことを衷心(ちゆうしん)ねがっているわけであります。――もし閣下が、偉大なる父兄の創業をうけて、その煌々(こうこう)たるお志をもつがんと欲するなれば、よろしくわが劉予州と合して、呉越の兵をおこし、天下分け目のこの秋(とき)にのぞんで、即時、曹操との国交をお断ちなさい。……またもしそのお志なく、到底、曹操とは天下を争うほどな資格はないと、ご自身、諦めておいでになるなら、なおほかに一計がなきにしもあらずです。それは簡単です」
「戦わずに、しかも国中安穏(あんのん)にすむ、良い計策があるといわるるか」
「そうです」
「それは」
「降服するのです」
「降服」
「そのお膝をかがめて、曹操の眼の下に、憐(あわれ)みを乞えば、これは呉の諸大将が閣下へすすめている通りになる。甲(よろい)を脱ぎ、城を捨て、国土を提供して、彼の処分にまかせる以上、曹操とても、そう涙のないことはしないでしょう」
「…………」
孫権は、黙然と首を垂れていた。父母の墳(はか)にぬかずく以外には、まだ他人へ膝をかがめたことを知らない孫権である。――孔明はじっとその態を見つめていた。
三
「閣下。おそらくあなたのお心には」――孔明はなおいった。孫権のうつ向いている上へ、云いかぶせるようにいった。
「大きな誇りをお持ちでしょう。またひそかには、男児と生れて、天下の大事を争うてみたいという壮気も疼(うず)いておられましょう。……ところが呉の宿将元老ことごとく不賛成です。まず安穏第一とおすすめ申しあげておる。閣下の胸中も拝察できます。――けれど事態は急にしてかつ重大です。もし遅疑逡巡(ちぎしゆんじゆん)、いたずらに日をすごし、決断の大機を失い給うようなことに至っては、禍いの襲いくること、もう遠い時期ではありませんぞ」
「…………」
孫権はいよいよ黙りこむ一方であった。孔明はしばらく間をおいてまた、
「何よりも、国中の百姓が、塗炭(とたん)の苦しみをなめます。閣下のお胸ひとつのために。――戦うなら戦う、これもよし。降参するならする、これもまたよしです。いずれとも、早く決することです。同じ降参するなら、初めから恥を捨てたほうが、なお幾分、あなたに残されるものが残されるでしょう」
「……先生っ」と、孫権は面をあげた。内に抑えつけていた憤懣(ふんまん)が眼に出ている、唇(くち)に出ている、色に出ている。
「先生の言を聞いておると、他人(ひ と)の立場はどうにでもいえる――という俗言が思い出される。いわるる如くならば、なぜ先生の主、劉予州にも降服をすすめられぬか。予以上、戦っても勝ち目のない玄徳へ、その言そのままを、献言されないか」
「いみじくも申された。むかし斉(せい)の田横(でんおう)は、一処士の身にありながら、漢の高祖にも降らず、ついに節操を守って自害しました。いわんやわが劉予州は、王室の宗親。しかもその英才は世を蓋(おお)い、諸民の慕うこと、水に添うて魚の遊ぶが如きものがある。勝敗は兵家のつね、事成らぬも天命です。いずくんぞ下輩曹操ごときに降りましょうや。――もし私が、閣下へ申しあげたような言をそのままわが主君へ進言したら、たちどころに斬首されるか、醜(きたな)き奴と、生涯さげすまれるにきまっております」
云い終らないうちである。
孫権は急に顔色を変えて、ぷいと席を起ち、大股に後閣へ立ち去ってしまった。
小気味よしと思ったのであろう。屏立(へいりつ)していた諸大将はぶしつけな眼や失笑を孔明に投げながらぞろぞろと堂後へ隠れた。
ひとり魯粛(ろしゆく)はあとに残って、
「先生。何たることです」
「何がですか」
「あれほど私が忠告しておいたのに、私があなたに寄せた同情はだいなしです。あんな不遜(ふそん)な言を吐かれたら孫将軍でなくても怒るにきまっています」
「あははは。何が不遜。自分はよほど慎(つつし)んで云ったつもりなのに。――いやはや、大気な人間を容れる雅量のないおひとだ」
「では別に何か先生には、妙計大策がおありなのですか」
「もちろん。――なければ、孔明のことばは、空論になる」
「真に大計がおありならば、もう一応、主君にすすめてみますが」
「気量のものを容れる寛度をもって、もし請い問わるるならば、申してもよい。――曹操が百万の勢も孔明からいわしめれば、群がれる蟻のようなものです。わが一指をさせば、こなごなに分裂し、わが片手を動かさば、大江の水も逆巻いて、立ちどころに彼が百船も呑み去るであろう」
炯々(けいけい)たる眸は天の一角を射ていた。魯粛は、その眸を、じっと見て、狂人ではないことを信念した。
孫権のあとを追って、彼は後閣の一房へ入った。主君は衣冠をかえていた。魯粛はひざまずいて、再度すすめた。
「ご短慮です。まだ孔明は真に腹蔵を吐露してはおりません。曹操を討つ大策は、軽々しくいわぬといっています。そしてまた、何ぞ気量の狭いご主君ぞと、大笑していました。……もう一度、彼の胸を叩いてごらん遊ばしませ」
「なに、予のことを、気量の狭い主君だといっていたか」
孫権は、王帯(お び)を佩(は)きながら、ふと面(おもて)の怒気をひそめていた。
四
重大時期だ。国土の興亡のわかれめだ。孫権は、努めて思い直した。
「魯粛(ろしゆく)。もう一度、孔明にその大策を質(ただ)してみよう」
「ああ、さすがは。――よくぞご堪忍がつきました」
「どこにおる」
「賓殿(ひんでん)にあのままでいます」
「誰も来るな」
随員をみな払って、孫権はふたたび孔明の前へ出た。
「先生、ゆるし給え。弱冠の無礼を」
「いや自分こそ、国主の威厳を犯し、多罪、死に値します」
「ふかく思うに、曹操が積年の敵と見ているものは、わが東呉の国と、劉予州であった」
「お気づきになりましたか」
「しかし、わが東呉十余万の兵は、久しく平和に馴れて、曹操の強馬精兵には当り難い。もし敢然、彼に当るものありとすれば、劉予州しかない」
「安んじたまえ。劉予州の君、ひとたび当陽に敗れたりとはいえ、後、徳を慕うて、離散の兵はことごとくかえっております。関羽(かんう)がひき連れてきた兵も一万に近く、また劉〓君(りゆうきくん)が江夏の勢も一万を下りません。ただし、閣下のご決意はどうなったのですか。乾坤一擲(けんこんいつてき)のこの分れ目は、区々たる兵数の問題でなく、敗れを取るも勝利をつかむも、一にあなたのお胸にあります」
「予の心はすでに決まった。われも東呉の孫権である。いかで曹操の下風(かふう)につこうか」
「さもあらば大事を成すの機今日にあり! です。彼が百万の大軍もみな遠征の疲れ武者、ことには、当陽の合戦に、あせり立つこと甚だしく、一日三百里を疾駆したと聞く。これまさに強弩(きようど)の末勢(まつせい)。――加うるにその水軍は、北国そだちの水上不熟練の勢が大部分です。ひとたび、その機鋒を拉(ひし)がんか、もともと、荊州の軍民は、心ならずも彼の暴威に伏している者ばかりですから、たちまち内争紛乱を醸(かも)し、北方へ崩れ立つこと、眼に見えるようなものです。この賊を追わば、荊州へ一挙に兵を入れ給うて、劉予州と鼎足(ていそく)のかたちをとり、呉の外郭(がいかく)をかため、民を安んじ、長久の治策を計ること、それはまず後日に譲ってもよいでしょう」
「そうだ。予はふたたび迷わん。――魯粛魯粛」
「はっ」
「即時、兵馬の準備だ。曹操を撃砕するのだ。諸員に出動を触れ知らせい」
魯粛は、駈け走った。
孔明に向っては、ひとまず客舎へもどって、休息し給えと云いのこして、孫権は力づよい跫音(あしおと)を踏みしめながら東郭(とうかく)の奥へ入った。
おどろいたのは、各所に屯(たむろ)していた文武の諸大将や宿老である。
「開戦だっ。出動。出動の用意」という触れを聞いても、
「嘘だろう?」と、疑ったほどであった。
それもその筈で、つい今し方、賓殿の上で、孔明の不遜に憤った主君は、彼を避けて、奥へかくれてしまったと、愉快そうに評判するのを聞いていたばかりのところである。
「間違いだろう、何かの」
がやがやいっている所へ、魯粛は意気ごみぬいて、触れて廻ってきた。やはり開戦だという。人々は急にひしめきあった。色をなして、開戦反対の同志をあつめた。
「孔明に出しぬかれた! いざ来い、打ち揃って、直ぐさま君をご諫止(かんし)せねばならん」
張昭(ちようしよう)を先に立て、一同気色(けしき)ばんで、孫権の前へ出た。――孫権も、来たな、という顔を示した。
「臣張昭、不遜至極ながら、直言お諫(いさ)めしたい儀をもって、これへ伺いました」
「なんだ」
「おそれながら、君ご自身と、河北に亡んだ袁紹(えんしよう)とを、ご比較遊ばしてみて下さい」
「…………」
「あの袁紹においてすら、あの河北の強大をもってすら、曹操には破られたではございませぬか。しかもその頃の曹操はまだ、今日のごとき大をなしていなかった時代です」
張昭の眼には涙が光っていた。
五
「伏して、ご賢慮を仰ぎまする。――ゆめ、孔明ごとき才物の弁に、大事を計られ、国家を誤り給わぬように」
張昭(ちようしよう)のあとについて、顧雍(こよう)も諫めた。ほかの諸大将も極言した。
「玄徳はいま、手も足も出ない状態に落ちている。孔明を使いとしてわが国を抱きこみ、併せて、曹操に復讐し、時至らば自己の地盤を拡大せんとするものでしかない」
「そんな輩(やから)に語らわれて、曹操の大軍へ当るなど、薪(たきぎ)を負うて猛火の中へ飛びこむようなものです」
「君! 火中の栗をひろい給うなかれ!」
この時、魯粛(ろしゆく)は堂外にいたが、様子を見て、
「これはいかん」と苦慮していた。
孫権はやがて、諸員のごうごうたる諫言に、責めたてられて、耐えられじと思ったか、
「考えておく。なお考える」といって、奥なる私室へ急ぎ足にかくれた。
その途中を、廊に待って、魯粛はまた、自分の主張を切言した。
「彼らの多くは文弱な吏と、老後の安養を祈る老将ばかりです。君に降服をおすすめするも、ただただ、家の妻子と富貴の日を偸(ぬす)みたい気もち以外に何もありはしません。決して、左様な惰弱な徒の言に過(あやま)られ給わぬように、しかと、ゆるがぬ覚悟をすえて下さい。家祖孫堅(そんけん)の君には、いかなるご苦労をなされたか。また御兄君孫策(そんさく)様のご勇略はいかに。おふた方の血は正しくあなた様の五体にも脈々ながれているはずではございませぬか……」
「離せ」
ふいに、孫権は袂(たもと)を払って、室の中へ身をひるがえしてしまった。後堂前閣の園をここかしこに、
「戦うべしだ」
「いや、戦うべからず」
と喧々囂々(けんけんごうごう)、議論のかたまりを持って流れ歩いてくる一組が、すぐ近くの樹陰にも見えたからであった。
何せよ、議論紛々だった。一部の武将と全部の文官は、開戦に反対であり、一部の少壮武人には、主戦論が支持されていた。それを数の上から見れば、ちょうど七対三ぐらいにわかれている。
私房にかくれた孫権は、病人のように手を額に当てていた。寝食も忘れて懊悩(おうのう)悶々(もんもん)と案じ煩(わずら)っていた。東呉の国、興ってここに三代、初めての国難であり、また人間的には、彼という幸福に馴れた世継ぎが、生れて初めてここに与えられた大きな試煉でもあった。
「……どうしたのです?」
食事もとらないというので、呉夫人が心配して様子を見に来た。
孫権は、ありのまま、つぶさに話した。当面の大問題。そして藩内の紛乱が、不戦主戦、二つに割れていることも告げた。
「まだまだ、そなたは坊っちゃまですね、そんなことでご飯もたべなかったのですか、何でもないではありませんか」
「この解決案がありますか」
「ありますとも」
「ど、どうするんですか」
「忘れましたか。そなたの兄孫策が、死にのぞんで遺言されたおことばを」
「……?」
「――内事決せずんばこれを張昭に問え。外事紛乱するに至らばこれを周瑜(しゆうゆ)に計るべし――と仰っしゃったではなかったか」
「ああ……そうでした。思い出せば、今でも兄上のお声がする」
「それごらんなさい。日頃も父や兄を忘れているからこんな苦しみにいたずらな煩悶をするのです。―― 内務はともかく、外患外交など、総じて外へ当ることは、周瑜の才でなくてはなりますまい」
「そうでした! そうでした!」
孫権は夢でもさめたように、そう叫んで、急にからりと面を見せた。
「早速、周瑜を召して、意見を問いましょう。なぜ今日までそれに気がつかなかったのだろう」
たちまち彼は一書を認めた。心ききたる一名の大将にそれを持たせ、柴桑(さいそう)からほど遠からぬ〓陽湖(はようこ)へ急がせた。水軍都督周瑜はいまそこにあって、日々水夫軍船の調練にあたっていた。
酔計(すいけい)二花(か)
一
周瑜(しゆうゆ)は、呉の先主、孫策(そんさく)と同じ年であった。
また彼の妻は、策の妃(ひ)の妹であるから、現在の呉主孫権(そんけん)と周瑜とのあいだは、義兄弟に当るわけである。
彼は、盧江(ろこう)の生れで、字(あざな)を公瑾(こうきん)といい、孫策に知られてその将となるや、わずか二十四歳で中郎将となったほどな英俊だった。
だから当時、呉の人はこの年少紅顔の将軍を、軍中の美周郎(びしゆうろう)と呼んだり、周郎周郎と持てはやしたりしたものだった。
彼が、江夏の太守であったとき、喬公(きようこう)という名家の二女を手に入れた。姉妹(ふたり)とも絶世の美人で、
――喬公の二名花
と、いえば呉で知らない者はなかった。
孫策は、姉を入れて妃とし、周瑜はその妹を迎えて妻とした。――が間もなく策は世を去ったので、姉は未亡人となっていたが、妹は今も、瑜(ゆ)のまたなき愛妻として、国もとの家を守っていた。
当時、呉の人々は、
(喬公の二名花は、流離して、つぶさに戦禍を舐(な)めたが、天下第一の聟(むこ)ふたりを得たのは、また天下第一の幸福というものだ)といって祝福した。
わけて、青年将軍の周瑜は、音楽に精(くわ)しく、多感多情の風流子でもあった。だから宴楽の時などでも、楽人の奏(かな)でる調節(ふ し)や譜に間違いがあると、どんなに酔っているときでも、きっと奏手の楽人をふりかえって、
(おや。いまのところは、ちょっとおかしいね)
と、注意するような眼をするのが常だった。
だから当時、時人のうたう中にも、
曲ニ誤リアリ
周郎、顧(カエリ)ミル
という歌詞すらあるほどだった。
こういう周瑜も、今は孫策亡きあとの呉の水軍提督たる重任を負って、〓陽湖(はようこ)へ来てからは、家にのこしてある愛妻を見る日もなく、好きな音楽に耳を洗ういとまもなく、ひたすら呉の大水軍建設に当っていた。
しかもその水軍がものいう時機は迫っていた。魏(ぎ)の水陸軍百万乃至八十万というものが南下を取って、
我ニ質子(チシ)ヲ送リ、
我軍門ニ降ルカ
我ニ兵ヲ送リ、
我粉砕ヲ受ケルカ
と、すこぶる高圧的に不遜な最後通牒を呉へ突きつけてきているという。
もとより周瑜がそれを知らないはずはない。しかし、彼の任は政治になく、水軍の建設とその猛練習にある。――今日も彼は、舟手の訓練を閲(えつ)して、湖畔の官邸へひきあげて来ると、そこへ孫権からの早馬が来て、
「すぐさま柴桑城(さいそうじよう)までお出向きください。国君のお召しです」
と、権の直書を手渡して帰って行った。
「いずれは……」と、かねて期していたことである。周瑜は、ひと休みすると、すぐ出立の用意をしていた。ところへ、日頃、親密な魯粛(ろしゆく)がたずねて来て、
「いま、お召しの使いがあったでしょう。実は、その儀について、あらかじめ提督にお告げしておきたいことがあって参ったのです」と、孔明(こうめい)の来ている事情から、国臣の意見が二つに分れている実情などをつぶさに話し、――それに加えて、ここで呉が曹操(そうそう)に降伏したら、すでに地上に呉はないも同様であると、自分の主張をも痛論した。
「よろしい。ともかく、孔明と会ってみよう。――柴桑城へ伺うのは、孔明の肚を訊ねてみてからでも決して遅くはあるまいからともかく彼をつれて来給え。それまで登城をのばして待っているから」
周瑜のことばに、魯粛は力を得て、欣然、馬をかえして行った。――すると、同日の午(ひる)過ぎ、またもや、張昭(ちようしよう)、顧雍(こよう)、張紘(ちようこう)、歩隲(ほしつ)などの非戦派が、打ち揃ってここへ訪れ、
「魯粛が来たのでしょう。実に怪しからん漢(おとこ)だ。何の故か、彼は孔明のために踊らされて、国を売り、民を塗炭の苦しみに投げこもうと、ひとりで策動しておる。――この危機と岐路に立って、提督はいったいどういうご意見を抱いておられますか」
と、周瑜を囲んで、論じ立てるのであった。
二
四名の客を見くらべながら周瑜(しゆうゆ)はいった。
「各々のご意見はみな、不戦論に一致しているわけかな?」
「もちろん吾々の議決はそこに一致しています」
顧雍(こよう)の答を聞いて、周瑜は大きくうなずきながら、
「同感だな。実は自分も疾くから、ここは戦うべきに非ず、曹操に降って和を乞うのが呉のためだと考えていたところだ。明日は柴桑城(さいそうじよう)にのぼって、呉君にも申しのべよう。きょうはひとまずお帰りあるがいい」と、いった。
四名は喜んで立ち帰った。しばらくするとまた、一群れの訪客が押しかけてきた。黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)、程普(ていふ)などという錚々(そうそう)たる武将連である。
客間に通されるやいな、程普、黄蓋などこもごもに口をひらきだした。
「われわれは先君破虜(はりよ)将軍にしたがって呉の国を興して以来、ひとえに一命はこの国に捧げ、万代鎮護(ちんご)の白骨となれば、願いは足る者どもです。然るにいま、呉君におかれては、碌々(ろくろく)一身の安穏のみを計る文官たちの弱音にひかれて、遂に、曹操へ降伏せんかの御気色(みけしき)にうかがわれる。実に残念とも何ともいいようがありません」
「たとえ吾々の身が、ずたずたにされようとも、この屈辱には忍び得ない。誓って、曹操の前に、この膝は屈せぬつもりです。――提督はそも、この事態にたいし、いかなるご決心を抱いておらるるか。きょうはそれを伺いに来たわけですが」と、周瑜を囲んでつめ寄った。
周瑜は、反問して、
「では、この座にある方々は、すべて一戦の覚悟を固めておるのか」
黄蓋は主の言下に自分の首すじへ丁(ちよう)と手を当てて見せながら、
「この首が落ちるまでも、断じて、曹操に屈伏せぬ心底です」と、いった。
ほかの武将も、異口同音に、誓いを訴え、即時開戦の急を、激越な口調で論じた。
「よしよし、この周瑜も、もとより曹操如きに降る気はない。しかし、きょうの所はひとまず静かに引揚げたがいい。事は明日決するから」と、なだめて帰した。
夕方に迫って、また客が来た。刺(し)を通じて、
「――これは〓沢(かんたく)、呂範(りよはん)、朱治(しゆち)、諸葛瑾(しよかつきん)などの輩(ともがら)ですが、折入って、提督にお目にかかりたい」
なお附け加えて、
「国家の一大事について」と申し入れた。
この人々は、いわゆる中立派であった。主戦、非戦、いずれとも考えがつかないために来たのである。
周瑜は、その中にある諸葛瑾を見て、まず問うた。
「あなたはどう考えているのですか。あなたの弟諸葛亮(しよかつりよう)は、玄徳(げんとく)のむねをうけて、呉との軍事同盟をはかり、共に曹操に当らんという使命をもって来ておる由だが」
「それ故に、てまえの立場は、非常に困っております。私は孔明の兄だとみられておりますから。――で、実は、わざと商議にも関(かか)わらず、心ならずも局外に立って、この紛論をながめているわけです」
「それは、どうかと思うな」と周瑜は唇(くち)もとをゆがめて、
「ご辺の立場は分るが、兄であるとか弟であるとか、そんなことは私事だ。家庭の問題とはちがう。孔明はすでに他国の臣。ご辺は呉の重臣。おのずから事理明白ではないか。呉臣として、貴公の信ずるところは、戦いにあるのか降伏にあるのか」
瑾は、沈黙していたが、
「降参は安く、戦は危うし。呉の安全を考えるときは、戦わぬに限ると思います」
と、やがて答えた。
周瑜はゆがめていた唇もとから一笑を放って、
「では、弟の孔明とは、反対なお考えだな。なるほどご苦衷(くちゆう)だろう。――ともあれ大事一決の議は、明日、それがしが君前に伺った後にする。今日は帰り給え」
かくてまた、夜に入ると、呂蒙(りよもう)だの、甘寧(かんねい)だのという名だたる将軍や文官たちが、入れ代り立ちかわり、ここの門へ入ってはたちまち出て行った。それは実におびただしい往来だった。
三
夜が更けても、客の来訪はやまない。そして、
「即時開戦せよ」
という者があるし、
「いや、和を乞うに如(し)かず」
と、唱えるものがあるし、何十組となく客の顔が変っても、依然、いっていることは、その二つのことをくり返しているに過ぎなかった。
ところへ、取次ぎの者が、そっと主の周瑜(しゆうゆ)に耳打ちした。
「魯粛(ろしゆく)どのが、仰せに従って、ただ今、孔明をつれて戻って見えられましたが」
周瑜も小声でいいつけた。
「そうか。では、ほかの客にはそっと、べつな部屋へ通しておけ、奥の水亭の一室がよかろう」
それから周瑜は、大勢の雑客に向って、
「もう議論は無用にしてくれ。すべては明日君前で一決する。各々は立ち帰って明日のために熟睡しておくべきだろう。そのほうがどんなに意義があるかしれん」と、燭(しよく)を剪(き)って、
「わしも今宵はもう眠るから」と、追い返すように告げて別れた。
詮方(せんかた)なく一同が帰ってゆくと、周瑜は衣をかえて、魯粛と、孔明とを待たせてある水閣の一欄へ歩を運んできた。――どんな人物であろう?
これは主客双方で想像していたことであろう。周瑜のすがたを見ると、孔明は起って礼をほどこし、周瑜は、辞を低うして、初対面のあいさつを交わした。
〓陽湖(はようこ)の水面は夜を抱いて眠っていた。ひそかな波音が欄下をうつ。雲をかすめて渡る鳥の羽音すら燭にゆれるかのようである。恍惚(こうこつ)――寂寞(せきばく)のなかに主客はややしばし唇(くち)をつぐみ合っていた。
楚々(そそ)――いとも楚々として嫋(なよ)やかな佳嬪(かひん)が列をなしてきた。おのおの、酒瓶(しゆへい)肉盤をささげている。酒宴となった。哄笑、談笑、放笑、微笑。孔明と周瑜とはさながら十年の知己のように和やかな会話をやりとりした。
そのあいだに、
孔明は周瑜をどう観たか。
周瑜は孔明の腹をどう察したか。
傍人には知る限りでない。
やがて、座をめぐる佳人もみな退いて、主客三人だけとなったのを見すまして、魯粛は単刀直入に彼の胸をたたいてみた。
「提督のお肚はもう決まっておりましょうな。最後の断が」
「決まっておる」
「戦いますか。いよいよ」
「……いや」
「では、和を乞うおつもりなので?」
と、魯粛は眼をかがやかして、周瑜の面を見まもった。
「やむを得まい! どう考えてみたところで」
「えっ、然らば、提督までが、すでに曹操へ降参するお覚悟でおられるのですか」
「そういえば、はなはだ屈辱のようだが、国を保つためには、最善な策じゃないかな」
「こは、思いがけないことを、あなたのお口から承るものだ。そもそも、呉の国業は、破虜将軍以来、ここに三代の基をかため、いまや完(まつた)き強大を成しておる。この富強は、われわれ臣下の子孫をして、懦弱安穏(だじやくあんのん)をぬすむために、築かれてきたものではありますまい。一世堅(けん)君のご創業の苦心、二世策君の血みどろなご生涯。それによって建国されたこの呉の土を、むざむざ敵将操の手にまかしていいものでしょうか。汲々(きゆうきゆう)、一身の安全ばかり考えていていいでしょうか。それがしは思うだに髪の毛が逆立ちます」
「――が、百姓のため、また、呉のためであるなら仕方がないではないか。そうした三世にわたるわれわれの主家孫一門のご安泰を計ればどうしても」
「いやいやそれは、懦弱な輩のすぐ口にする口実です。長江の嶮に拠って、ひとたび恥を知り恩を知る呉の精猛が、一体となって、必死の防ぎに当れば、曹軍何者ぞや、寸土も呉の土を踏ませることではありません」
さっきから黙って傍らに聞いていた孔明は、ふたりが激越に云い争うのを見て、手を袖に入れ、何がおかしいのか、しきりと笑いこけていた。
四
周瑜(しゆうゆ)は、孔明の無礼を咎めるような眼をして、敢てこう詰問(な じ)った。
「先生。あなたは何がおかしくて先刻(さつき)からそうお笑いなさるのか」
「いや何も提督に対して笑ったわけではありません。余りといえば、魯粛(ろしゆく)どのが時務にうといので、つい笑いを忍び得なかったのです」
傍らの魯粛は、眼をみはって、
「や、何をもって、この魯粛が時務にくらいと仰っしゃるか。近頃、意を得ないおことばだ」
と、色をなして、共に、孔明の唇(くち)をみまもった。
孔明はいった。
「でも、考えてもご覧なさい。曹操が兵を用いる巧みさは、古(いにしえ)の孫子呉子にも勝(まさ)りましょう。誰が何といったところで、当今、彼に匹敵するものはありません。――ただ独りわが主君劉(りゆう)予州は、大義あって、私意なく、その強敵と雌雄を争い、いま流亡して江夏(こうか)に籠っておりますが、将来のことはまだ未知数です。――然るに、ひるがえって、この国の諸大将を見るに、どれもこれも一身一家の安穏にのみとらわれていて、名を恥じず、大義を知らず、国の滅亡も、ほとんど成り行きにまかせているとしか観られない。……そういう呉将の中にあって、粛兄ただ一名のみ、呶々(どど)、烈々、主義を主張してやまず、今も提督にむかって、無駄口をくり返しておらるるから、ついおかしくなったまでのことです」
周瑜はいよいよ苦りきるし、魯粛もまた甚だしく不快な顔をして見せた。孔明のいっていることは、まるで反戦的だからである。折角、周瑜へ紹介の労をとっているのに、まるでその目的も自分の好意も裏切っているような口吻(こうふん)に、憤りを覚えずにいられなかった。
「では、先生には、呉の君臣をして、逆賊操(そう)に膝を屈せしめ、万代に笑いをのこせと、敢ていわないばかりにおすすめあるわけですか」
「いやいや決して、自分は何も呉の不幸を祈っているわけではない。むしろ呉の名誉も存立も、事なく並び立つように、いささか一策をえがいて、その成功を念じておるものです」
「戦にもならず、呉の名誉も立派に立ち、国土も難なく保てるようになんて――そんな妙計があるものだろうか」
魯粛が、案外な顔をして、孔明の心をはかりかねていると、周瑜もともに、その言に釣りこまれて、膝をすすめた。
「もし、そんな妙計があるなら、これは呉の驚異です。願わくは、初対面のそれがしのために、その内容を、得心(とくしん)の参るよう、つぶさにお聴かせ下さらんか」
「いと易いことです。――それはただ一艘の小舟と、ふたりの人間の贈物をすれば足ることですから」
「はて? ……先生のいうことは何だか戯(たわむ)れのように聞えるが」
「いや、実行してご覧あれば、その効果の覿面(てきめん)なのに、かならず驚かれましょう」
「二人の人間とは? ……いったい誰と誰を贈物にせよといわれるのか」
「女性です」
「女性?」
「星の数ほどある呉国の女のうちから、わずか二名をそれに用いることは、たとえば大樹の茂みから二葉の葉を落すよりやさしく、百千の倉廩(そうりん)から二粒の米を減らすより些少な犠牲でしょう。しかもそれによって、曹軍の鋭鋒を一転北方へかえすことができれば、こんな快事はないでしょう」
「ふたりの女性とは、そも、何処の何ものをさすのか、はやくそれを云ってみたまえ」
「まだ自分が隆中に閑居していた頃のことですが――当時、曹軍の北伐(ほくばつ)にあたって、戦乱の地から移ってきた知人のはなしに、曹操は河北の平定後、〓河(しようが)のほとりに楼台を築いて、これを銅雀台(どうじやくだい)と名づけ、造営落工までの費え千余日、まことに前代未聞の壮観であるといっておりましたが……」
孔明は容易に話の中心に触れなかったが、しかも何か聴き人(て)の心をつかんでいた。
五
「曹操ほどな英傑も、やはり人間は遂に人間的な弱点におち入りやすいものとみえます。銅雀台――。銅雀台のごとき大土木をおのれ一個の奢りのために起したということこそ、はや彼の増長慢のあらわれと哀れむべきではありませんか」
「先生。それよりは、何が故に、ここにふたりの女性さえ彼に送れば、魏の曹軍百万が、呉を侵(おか)すことなく、たちまち北方へかえるなどという予断が下せるのか。その本題について、はやくお話を触れていただきたいものだが」
周瑜(しゆうゆ)は二度も催促した。魯粛(ろしゆく)の聞きたいところもそこの要点だけだ。何を今さら、銅雀台の奢りぶりなどを、ここで審(つぶ)さに聞く必要があろうか――といわんばかりな顔つきである。
「いや、北国の知人の話は、もっと詳しいものでしたが、では大略して、要をかいつまんで申しましょう。――その曹操は、銅雀台の贅(ぜい)に飽かず、なおもう一つ大きな痴夢を抱いているというのです。それは呉の国外にまで聞えている喬家(きようけ)の二女を銅雀台において、花の晨(あした)、月の夕べ、そばにおいて眺めたいという野心です。聞説(きくならく)、喬家の二名花とは、姉を大喬(たいきよう)といい、妹を小喬(しようきよう)と呼ぶそうで、その傾国の美は、夙(つと)にわれわれも耳にしているものです。――思うに、古来英雄の半面には、こうした痴気凡情の例も、ままあるのが慣いですから、この際早速、提督には、人を派して、喬家の門へ黄金を積み、二女を求めて、曹操へお送りあれば、立ちどころに彼の攻撃は緩和され、衂(ちぬ)らずして国土の難を救うことができましょう。――これすなわち范蠡(はんれい)が美姫西施(せいし)を送って強猛な夫差(ふさ)を亡ぼしたのと同じ計になるではありませんか」
周瑜は顔色を変じて、孔明のことばが終るや否、
「それは巷(ちまた)の俗説だろう。先生には、何か確たる根拠でもあって、そんな巷説を真にうけておられるのか」
「もとより確証なきことはいわん」
「ではその証拠をお見せなさい」
「曹操の第二子に、曹子建(そうしけん)というものがある。父の操に似てよく詩文を作るので文人間に知られています。この子建に向って、父の操が、銅雀台の賦(ふ)を作らせていますが、その賦を見るに、われ帝王とならばかならず二喬を迎えて楼台の花とせんという操の野望を暗に歌っています。それがあたかも英雄の情操として美しい理想なるかの如く――」
「先生にはその賦を覚えておられるか」
「文章の流麗なるを愛して、いつとなく暗誦(そらん)じていますが」
「ねがわくはそれを一吟し給え。静聴しよう」
「ちょうど微酔の気はあり、夜は更けて静か。そぞろ私も何か低吟をそそられています。――どうかご両所とも盞(さかずき)をかさねながら、座興としてお聴きください」
孔明は、睫毛(まつげ)をとじた。
細い眸を燈(ひ)にひらく。そして、静かに吟じ出した。抑揚はゆるく声は澄んで、朗々、聴く者をして飽かしめないものがある。
明后ニ従ッテ嬉遊(キユウ)シ層台(ソウダイ)ニ登ッテ情ヲタノシム
中天ニ華観(カカン)ヲ立テ飛閣ヲ西城(セイジヨウ)ニ連(ツラ)ヌ
〓水(シヨウスイ)ノ長流ニ臨ンデ園果(エンカ)ノ滋栄(ジエイ)ヲ望ミ
双台(ソウダイ)ヲ左右ニ列シテ玉龍ト金鳳(キンホウ)トアリ
二喬(キヨウ)ヲ東南ニ挟(ハサ)ンデ長空ノ〓〓(テイトウ)ノ如ク
皇都ノ宏麗ニ俯(フ)シ
雲霞ノ浮動ヲ瞰(ミ)ル
群材ノ来リアツマルヲ欣(ヨロコ)ンデ
飛熊(ヒユウ)ノ吉夢ニカナイ
春風ノ和穆(ワボク)ヲ仰ギテ百鳥ノ悲鳴ヲ聴ク……。
――ふいに、卓の下で、がちゃんと、何か砕ける音がした。周瑜(しゆうゆ)が手の酒盞(さかずき)を落したのである。そればかりか彼の髪の毛はそそり立ち、面は石のごとく硬ばっていた。
六
「あ。お酒盞(さかずき)が砕けました」
孔明が、吟をやめて、注意すると、周瑜(しゆうゆ)は憤然、酔面に怒気を燃やして、
「一箇の杯もまた天地の前兆と見ることができる。これはやがて魏の曹軍が地に捨て去る残骸のすがただ。先生、べつな酒盞をとって、それがしに酌(さ)し給え」
「何か提督には、お気にさわったことでもあるのですか」
「操父子の作った銅雀台の賦(ふ)なるものは、先生の吟によって今夜初めて耳にしたが、辞句の驕慢(きようまん)はともかく、詩中にほのめかしてある喬家の二女に対する彼の野望は見のがし難い辱めだ。断じて、曹賊のあくなき野望を懲(こ)らしめねばならん」
一盞(いつさん)また一盞、みずから酒をそそいで、彼の激色は火のような忿懣(ふんまん)を加えるばかりである。孔明はわざと冷静に、そしてさもいぶかしげな眉をして問い返した。
「むかし匈奴(きようど)の勢いがさかんな頃、しばしば中国を侵略して、時の漢朝も悩まされていた時代があります。当時天子は御涙をのんで、愛(いと)しき御女(おんむすめ)の君をもって、胡族(えびす)の主に娶(めあ)わせたまい、一時の和親を保って臥薪嘗胆(がしんしようたん)、その間に弓馬をみがいたという例もあります。また元帝が王昭君(おうしようくん)を胡地(こち)へ送ったはなしも有名なものではありませんか。――なんで提督には、今この国家の危殆(きたい)にのぞみながら、民間の二女を送るぐらいなことを、そう惜しんだり怒ったりされるのですか」
「先生はまだ知らぬのか」
「まだ知らぬかとは……?」
「喬家の二女は、養われて民間にあったことは事実だが、姉の大喬(たいきよう)は疾(と)くより先君策(さく)の室にむかえられ、妹の小喬(しようきよう)は、かくいう周瑜の妻となっておる。いまのわが妻はその小喬なのだ」
「えっ、ではすでに、喬家の門を出ていたので。これは知らなんだ。惶恐(こうきよう)、惶恐。知らぬこととは申せ、先ほどからの失礼、どうかおゆるし下さい。誤って、みだりに無用な舌の根をうごかし、罪、死にあたいします」
と、孔明は打ち慄えて見せながら平あやまりに詫び入った。周瑜は、かさねて、
「いや、先生に罪はない。先生のいう巷(ちまた)の風説だけならまだ信じないかも知れぬが、銅雀台の賦にまで歌っている以上、曹操もそれを公然と揚言しているのであろう。いかで彼の野望に先君の後室や、わが妻を贄(にえ)に供されよう。破邪の旗、膺懲(ようちよう)の剣、われに百千の水軍あり、強兵肥馬あり、誓って、彼を撃砕せずにはおかん」
「――が、提督、古人もいっております。事を行うには三度よく思えと」
「いやいや、三度はおろか、きょうは終日、戦わんか、忍ばんか、幾十度、沈思黙考をかさねていたかしれないのだ。――自分の決意はもううごかない。思うに、身不肖ながら、先君の遺言と大託をうけ、今日、呉の水軍総都督たり。今日までの修練研磨も何のためか。断じて、曹操ごときに、身を屈めて降伏することはできない」
「しかし、ここから柴桑(さいそう)へ帰った諸官の者は、口を揃えて、周提督は、すでに和平の肚ぐみなりと、諸人のあいだに唱えていますが」
「彼ら、懦弱(だじやく)な輩に、何で本心を打明けよう。仔細は輿論(よろん)のうごきを察しるためにほかならない。或る者へは開戦といい、或る者へは降伏といい、味方の士気と異論の者の顔ぶれをながめていたのである」
「ああさすがは」
と、孔明は、胸をそらして、称揚するような姿態をした。周瑜はなお云いつづけて、
「いま、〓陽湖(はようこ)の軍船を、いちどに大江へ吐き出せば、江水の濤(なみ)もたちまち逆しまに躍り、未熟な曹軍の船列を粉砕することもまたたく間である。ただ陸戦においては、やや彼に遜色を感じるものがないでもない。ねがわくは先生にも一臂(いつぴ)の力をそえられい」
「そのご決意さえ固ければ、もとより犬馬の労も惜しむものではありません。けれど呉君を始め、重臣たちのご意志のほども」
「いやいや、明日、府中へ参ったら、呉君には自分からおすすめする。諸臣の異論など問題とするにはあたらない。号令一下。開戦の大号令一下あるのみだ」
大号令(だいごうれい)
一
柴桑城(さいそうじよう)の大堂には、暁天、早くも文武の諸将が整列して、呉主孫権(そうけん)の出座を迎えていた。
夜来、幾度か早馬があって、〓陽湖(はようこ)の周瑜(しゆうゆ)は、未明に自邸を立ち、早朝登城して、今日の大評議に臨むであろうと、前触れがきているからである。
やがて、真っ赤な朝陽(あさひ)が、城頭の東に雲を破って、人々の面にも照り映えて見えた頃、
「周提督のお着きです」と、堂前はるかな一門から高らかに報らせる声がした。
孫権は威儀を正して、彼の登階を待ちかまえていた。それに侍立する文武官の顔ぶれを見れば、左の列には張昭(ちようしよう)、顧雍(こよう)、張紘(ちようこう)、歩隲(ほしつ)、諸葛瑾(しよかつきん)、虞翻(ぐほん)、陳武(ちんぶ)、丁奉(ていほう)などの文官。――また右列には、程普(ていふ)、黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)、周泰(しゆうたい)、蒋欽(しようきん)、呂蒙(りよもう)、潘璋(はんしよう)、陸遜(りくそん)などを始めとして、すべての武官、三十六将、各々、衣冠剣佩をととのえて、
「周都督が肚にすえてきた最後の断こそ、呉の運命を決するもの」
と、みな異常な緊張をもって、彼のすがたを待っていた。
周瑜は、ゆうべ孔明(こうめい)が帰ると、直ちに、〓陽湖を立ってきたので、ほとんど一睡もしていなかった。
しかしさすがに呉の傑物、いささかの疲れも見せず、まず孫権の座を拝し、諸員の礼をうけて、悠然と席についた姿は、この人あって初めてきょうの閣議も重きをなすかと思われた。
孫権は、口を開くなり直問した。
「急転直下、事態は険悪を極め、一刻の遷延(せんえん)もゆるさないところまで来てしまった。都督、卿の思うところは如何に。――忌憚(きたん)なく腹中を述べてもらいたいが」
「お答えする前にあたって、一応伺いますが、すでにご評定も何十回となくお開きと聞いています。諸大将の意見はどうなのですか」
「それがだ。和戦両説に分れ、会議のたび紛々を重ねるばかりで一決しない。ゆえに卿の大論を聞かんと欲するわけだ」
「君に降参をおすすめした者は誰と誰ですか」
「張昭以下、その列の人々だが」
「ははあ……」と、眸を移して、
「張昭がご意見には、この際、戦うべからず、降参に如(し)くなしとのご方針か」
「しかり!」
と張昭は敢然答えた。すこし小癪(こしやく)にさわったような語気もまじっていた。なぜならば、昨日、周瑜の官邸で面談したときの態度と、きょうの彼の容子とは、まるで違って見えたからである。
「なぜ曹操(そうそう)に降参せねばならんのだろうか。呉は破虜将軍よりすでに三世を経た強国。曹操のごとき時流に投じた風雲児の出来星(できぼし)とはわけがちがう。――ご意見、周瑜にはいささか解(げ)しかねるが」
「あいや。提督のおことばではあるが、時流の赴(おもむ)くところ、風雲の依って興るところ、決してばかにはなりますまい」
「もちろん。――しかし、東呉六郡をつかね、基業三代にわたるわが呉の伝統と文化は、決してまだ老いてはいない。いや隆々として若い盛りにあるのだ。呉にこそ、風雲もあれ、時流もあれ、豈(あに)、一曹操のみが、天下を左右するものであろうぞ」
「彼の強味は、何よりも、天子の勅命と号していることです。いかにわれわれが歯がみしてもこれに対しては」
「あははは」と、一笑して「――僭称(せんしよう)の賊、欺瞞(ぎまん)の悪兵。故にこそ、大いに逆賊操を討つべきではないか。彼が騙(いつわ)りの名分を立てるなら、われらはもって朝命を汚す暴賊を討つべしとなし、膺懲(ようちよう)の大義を世にふるい唱えねばならん」
「さはいえ、水陸の大軍百万に近しと申す。名分はいずれにせよ、彼の強馬精兵に対するわれの寡兵と軍備不足。この実力の差をどうお考えあるか」
「優数常に勝たず。大船常に小船に優(まさ)らず。要は士気だ。士気をもって彼の隙を破るのは、用兵の妙機にある。――さすがに、御身は文官の長。兵事にはお晦(くら)いな」
と、苦笑を送った。
二
容貌(ようぼう)の端麗(たんれい)に似あわず、周瑜(しゆうゆ)には底意地のわるい所がある。君前、また衆臣環視のなかで、張昭(ちようしよう)を躍起にさせておいて、その主張をことごとく弁駁(べんばく)し、嘲笑(ちようしよう)し去って和平派の文官達の口を、まったく封じてしまったのである。
その上で。
彼は、やおら孫権に向って、自己の主張を述べ出した。
何のことはない。今まで張昭を論争の相手にしていたのは、ここでいおうとする自己硬論を引っ立てるワキ役に引きだしていたようなものだった。
「曹軍の強勇なことは確かだが、それも陸兵だけのことだ。北国育ちの野将山兵に、何で江上の水軍があやつれよう。馬上でこそ口をきけ、いかに曹操たりとも、わが水軍に対しては、一籌(いつちゆう)を輸(ゆ)するものがあろう」
まず和平派の一論拠を、こう駁砕(ばくさい)してから、
「また、より以上、重要視すべきは、国そのものの態勢と四隣の位置でなければならん。わが呉は、南方は環海の安らかに、大江の嶮(けん)は東方をめぐり、西隣また何の患(わずら)いもない。――それに反して魏は、北国の平定もつい昨日のこと、その残軍離亡の旧敵などたえず曹操の破れをうかがっていることはいうまでもない。後ろにはそうした馬超(ばちよう)、韓遂(かんすい)の輩があり、前には玄徳(げんとく)、劉〓(りゆうき)の一脅威をひかえ、しかも許都(きよと)の中府を遠く出て、江上山野に転戦していることは――われら兵家の者が心して見れば、その危うさは累卵(るいらん)にひとしいものがある。……いわばこの際は彼みずから呉境へ首を埋める墳(つか)を探しにきたようなものだ。この千載一遇の機会を逸すばかりか、ひざまずいて、彼の陣前に国土をささげ恥を百世にのこすも是非なしと断じるなどは、まことに言語道断な臆病沙汰というほかはない。君公、願わくはまずそれがしに数万の兵と船とを授け給え。まずもって、彼の大軍を撃砕し、口頭の論よりは事実を示して、和平を唱える諸員の臆病風を呉国から一掃してごらんに入れます」
和平派は色を失った。
驚動を抑えながら、固く唇(くち)をとじ合ったまま今はただ一縷(いちる)の望(のぞ)みを、呉主孫権の面につないでいた。
「おう周都督。いみじくもいわれたり。曹賊の経歴を見れば、朝廷にあっては常に野心勃々(ぼつぼつ)。諸州に対しては始終、制覇統一の目標に向って、夜叉羅刹(やしやらせつ)の如き暴威をふるっている。袁紹(えんしよう)、呂布(りよふ)、劉表(りゆうひよう)、およそ羅刹(らせつ)の軍に呪(のろ)われたもので完き者は一名もない。ただ今日まで、ひとりこの孫権が残されていたのみだ。豈(あに)、坐して曹賊の制覇にまかせ、袁紹、劉表などの惨めな前例にならおうぞ」
「では、君にも、開戦と、お心を決しられましたか」
「卿は、全軍を督し、魯粛(ろしゆく)は陸兵をひきい、誓って、曹賊を討て」
「もとより、呉のために、一命はかえりみぬ覚悟ですが、ただなおご主君が、微かでも、ご決心をにぶらすことはなきやと、臣のおそれるのはただそれだけです」
「そうか」
孫権はいきなり立って、佩(は)いている剣を抜き払い、
「曹操の首を断つ前に、まずわが迷妄から、かくのごとく斬るっ!」
と、前の几案(つくえ)を、一揮(いつき)に、両断して見せた。
そしてその剣を、高々と片手にふりあげ、
「今日以後、ふたたびこの問題で評議はすまい。汝ら、文武の諸大将、また吏卒にいたるまで、かさねて曹操に降伏せんなどと口にする者あらば、見よ、この几案と同じものになることを!」
大堂の宣言は、階下にとどろき、階下のどよめきは中門、外門につたわって、たちまち全城の諸声となり、わあっ――と旋風のごとく天地に震った。
「周瑜。わしの剣を佩いて征(ゆ)け」
孫権は、その剣を、周瑜にさずけて、その場で、彼を呉軍大都督とし、程普(ていふ)を副都督に任じ、また魯粛を賛軍校尉として、
「下知にそむく者あらば斬れ」と、命じた。
三
「断」は下った。開戦は宣せられたのである。張昭(ちようしよう)以下和平派は、ただ唖然たるのみだった。
周瑜(しゆうゆ)は、剣を拝受して、
「不肖、呉君の命をうけて、今より打破曹操の大任をうく。それ、戦いにあたるや、第一に軍律を重しとなす。七禁令、五十四斬(ざん)、違背あるものは、必ず罰せん。明暁天までに、総勢ことごとく出陣の具をととのえ、江の畔(ほとり)まで集まれ。所属、手配はその場において下知するであろう」
と、諸員へ告げた。
文武の諸大将は、黙々と退出した。周瑜は家に帰るとすぐ孔明を呼びにやり、きょうの模様と、大議一決の由を語って、
「さて。先生の良計を示し給え」
と、ひそかにたずねた。
孔明は、心のうちで「わが事成れり」と思ったが、色には見せず、
「いやいや、呉君のお胸には、なおまだ一抹の不安を残しおられているに違いありません。寡(か)は衆に敵せず――このことは、ご自身にも、深く憂いて、恟々(きようきよう)と自信なく、如何にかはせんと、惑っている所でしょう。都督閣下には、労を惜しまず、暁天の出陣までに、もう一度登城して、つぶさに敵味方の軍数を説き示し、呉君に確たる自信をお与えしておく必要があるかと思われるが」
と、すすめた。
いやしくも呉の一進一退は、いまや玄徳の運命にも直接重大な関係を生じてきたとみるや、孔明が主家のために、大事に大事をとることは、実に、石橋を叩いて渡るように細心だった。
「――実(げ)にも」
と同意して、周瑜はふたたび城へ登った。もう夜半だったが、あすの暁天こそ、呉にとっては興亡のわかれを賭した大戦にのぞむ前夜なので、孫権もまだ寝もやらぬ様子だった。
すぐ周瑜を引いて、
「夜中、何事か」と、会った。
周瑜は、いった。
「いよいよ明朝は発向しますが、君のご決心にも、もうご変化はありますまいな」
「この期(ご)に至って、念にも及ばぬことではないか。……ただ、いまも眠りにつきかねていたのは、如何せん、魏に対して、呉の兵数の少ないことだけだが」
「そうでしょう。実は、その儀について、退出の後、ふと君にもお疑いあらんかと思い出したので、急に、夜中をおしてお目通りに出たわけですが。……そもそも、曹操が大兵百万と号している数には、だいぶ懸値(かけね)があるものと自分は観ております」
「もちろん多少の誇大はあろうが、それにしても、呉との差はだいぶあろう。実数はどのくらいか」
「測るに……中国の曹直属の軍は十五、六万に過ぎますまい。それへ旧袁昭(えんしよう)軍の北兵の勢約七、八万は加えておりますが、もともと被征服者の特有(つ ね)として、意気なく、忠勇なく、ただ麾下(きか)についているだけのもの。ほとんど怖るるに足りません」
「なお、劉表の配下であった荊州の将士も、多分に加わっているわけだが」
「それとて、まだ日は浅く、曹自身、その兵団や将には、疑心をもって、よく、重要な戦区に用いることはできないにきまっています。こう大観してくると、多く見ても、三十万か四十万、その質に至っては、わが呉の一体一色とは、較べものになりますまい」
「でも、それに対して、呉の兵力は」
「明朝、江岸に集まる兵は、約五万あります。君には、あと三万を召集して、兵糧武具、船備など充分にご用意あって、おあとからお進み下さい。周瑜五万の先陣は、大江をさかのぼり、陸路(くがじ)を駈け、水陸一手となって、曹軍を突き破って参りますから」と、勇気づけた。
そう聞いて孫権は初めて確信を抱いたものの如く、なお大策を語りあって、未明にわかれた。
四
まだ天地は晦(くら)かった。夜明けにはだいぶ間がある。周瑜(しゆうゆ)は、家に帰る道すがら、
「さてさて孔明という人間は、怖ろしい人物である。常に呉君に接して間近に仕えているわれわれ以上、呉君の胸中を観ぬいて少しも過っていない。人心を読むこと鏡にかけてみる如しとは、彼の如きをいうのだろう。どう考えても、その慧眼(けいがん)と智慮は、この周瑜などより一段上と思わなければならん」
嘆服するの余り、ひそかに後日の恐怖さえ覚えてきた。――如(し)かず、いまのうちに孔明を殺しておかないと、後には、呉の禍いになろうも知れぬ。
「……そうだ」
自邸の館門をはいる時、彼はひとりうなずいていた。すぐ使いをやって、魯粛(ろしゆく)をよび、
「呉の大方針は確定した。これからはただ足下とわが輩とが、よく一致して、君侯と呉軍のあいだに立ち、敵を破砕するあるのみだから、――孔明のような介在は、あっても無益、かえって後日の癌(がん)にならないとも限らない――どうだろう? いっそ今のうちに、彼を刺し殺しては」
と、ひそかに計ってみた。
魯粛は、眼をみはって、
「えっ、孔明を?」
と、二の句もつげない顔をした。
「そうだ、孔明をだ」と、周瑜はたたみかけて――「いま殺しておかなければ、やがて玄徳を扶け、魏と呉との死闘に乗じて、将来、あの智謀でどんなことを企むかはかり知れない気がしてならん」
「無用です、絶対にいけません」
「不賛成か、足下は」
「もとよりでしょう。まだ曹操の一兵も破らぬうちに、すくなくもこの開戦の議にあずかって、たとえ真底からの味方ではないにしても、決して敵ではない孔明を刺してしまうなどは、どう考えても、大丈夫たる者のすることではありません。世上に洩れたら万人の物笑いとなりましょう」
「……そうかなあ?」
さすがに、決しかねて、周瑜も考えこんでいる容子に、魯粛は、その懐疑を解くべく、べつに一策をささやいた。
それは、孔明の兄諸葛瑾(しよかつきん)をさしむけて、この際、玄徳と縁を断ち、呉の正臣となるように、彼を説き伏せることが、最も可能性もあり、また呉のためでもあろう――という正論であった。
「なるほど、それはいい。ひとつ折をみて、諸葛瑾にむねを含ませて、孔明を説かせてみよう」
周瑜もそれには異存はなかった。――が、かかるうちに早、窓外の暁天は白みかけていた。周瑜も魯粛も、
「では、後刻」
と別れて、たちまち、出陣の金甲鉄蓋(きんこうてつがい)を身にまとい、馬上颯爽と、江畔へ駆けつけた。
大江の水は白々と波打ち、朝の光耀(こうよう)は三軍に映えている。勢揃いの場所たる江の岸には、はや旌旗(せいき)林立のあいだに、五万の将士ことごとく集まって、部署、配陣の令を待ちかまえていた。
大都督周瑜は、陣鼓のとどろきに迎えられて、やおら駒をおり、中軍幡(ちゆうぐんばん)や司令旗などに囲まれている将台の一段高い所に立って、
「令!」
と、全軍へ向って伝えた。
「――王法に親(しん)なし、諸将はただよく職分に尽せ。いま魏の曹操は、朝権を奪って、その罪のはなはだしさ、かの董卓(とうたく)にもこえるものがある。内には、天子を許昌の府に籠め奉り、外には暴兵を派して、わが呉をも侵さんとしておる。この賊を討つは、人臣の務めたり、また正義の擁護である。それ戦いにあたるや、功あるは賞し、罪あるは罰す。正明(せいめい)依怙(えこ)なく、軍に親疎(しんそ)なし、奮戦ただ呉を負って、魏を破れ。――行軍には、まず韓当(かんとう)、黄蓋(こうがい)を先鋒とし、大小の兵船五百余艘、三江の岸へさして進み陣地を構築せよ。蒋欽(しようきん)、周泰(しゆうたい)は第二陣につづけ。凌統(りようとう)、潘璋(はんしよう)は第三たるべし。第四陣、太史慈(たいしじ)、呂蒙(りよもう)、第五陣、陸遜(りくそん)、董襲(とうしゆう)。――また呂範(りよはん)、朱治(しゆち)の二隊には督軍目付の任を命ず。以上しかと違背あるな」
五
その朝、諸葛瑾(しよかつきん)はひとり駒に乗って、街中にある弟孔明の客館を訪ねていた。
急に周瑜(しゆうゆ)から密命をうけて、孔明を呉の臣下に加えるべく説きつけに行ったのである。
「おう、よくお越し下された。いつぞや城中では、心ならず、情を抑えておりましたが、さてもその後は、お恙(つつが)もなく」
と孔明は、兄の手をとって、室へ迎え入れると、懐かしさ、うれしさ、また幼時の思い出などに、ただ涙が先立ってしまった。
諸葛瑾も共に瞼(まぶた)をうるませて、骨肉相擁(あいよう)したまま、しばしは言葉もなかったが、やがて心をとり直して云った。
「弟。おまえは、古人(いにしえ)の伯夷叔斉(はくいしゆくせい)をどう思うね」
「え。伯夷と叔斉ですか」
孔明は、兄の唐突な質問をあやしむと同時に、さてはと、心にうなずいていた。
瑾は、熱情をこめて、弟に訓(おし)えた。
「伯夷と叔斉の兄弟(ふたり)は、たがいに位を譲って国をのがれ、後、周の武王を諫めて用いられないと、首陽山にかくれて、生涯周の粟(ぞく)を喰わなかった。そして餓死してしまったが、名はいまに至るまでのこっている。思うに、おまえと私とは、骨肉の兄弟でありながら、幼少早くも郷土とわかれ、生(お)い長じてはべつべつな主君に仕え、年久しく会いもせず、たまたま、相見たと思えば、公(おおやけ)の使節たり、また一方の臣下たる立場から、親しく語ることもできないなんて……伯夷叔斉の美しい兄弟仲を思うにつけ、人の子として恥かしいことではあるまいか」
「いえ、兄上。それはいささか愚弟の考えとはちがいます。家兄の仰っしゃることは、人道の義でありましょう。また情でございましょう。けれど、義と情とが人倫の全部ではありません、忠、孝、このふたつは、より重いかと存ぜられます」
「もとより、忠、孝、義のひとつを欠いても、完(まつた)き人臣の道とはいえないが、兄弟一体となって和すは、そもそも、孝であり、また忠節の本ではないか」
「否とよ、兄上。あなたも私もみなこれ漢朝の人たる父母の子ではありませんか。私の仕えている劉(りゆう)予州の君は、正しく、中山靖王(ちゆうざんせいおう)の後、漢の景帝の玄孫にあたらせられるお方です。もしあなたが志をひるがえして、わが劉皇叔(りゆうこうしゆく)に仕官されるなら、父母は地下において、どんなにご本望に思われるか知れますまい。しかも、そのことはまた、忠の根本とも合致するでしょう。どうか、末節の小義にとらわれず、忠孝の大本にかえって下さい。われわれ兄弟の父母の墳(つか)は、みな江北にあって江南にはありません。他日、朝廷の逆臣を排し、劉玄徳の君をして、真に漢朝を守り立てしめ、そして兄弟打揃うて故郷の父母の墳を清掃することができたら、人生の至楽はいかばかりでしょう。――よもや世人も、その時は、諸葛の兄弟は伯夷叔斉に対して恥じるものだともいいますまい」
瑾は、一言もなかった。自分から云おうとしたことを、逆にみな弟から云いだされて、かえって、自分が説破されそうなかたちになった。
その時、江(こう)の畔のほうで、遠く出陣の金鼓や螺声(らせい)が鳴りとどろいていた。孔明は、黙然とさしうつ向いてしまった兄の心を察して、
「あれはもう呉の大軍が出舷する合図ではありませんか。家兄も呉の一将、大事な勢揃いに遅れてはなりますまい。また折もあれば悠々話しましょう。いざ、わたくしにおかまいなく、ご出陣遊ばしてください」と、促した。
「では、また会おう」
ついに、胸中のことは、一言も云いださずに、諸葛瑾は外へ出てしまった。そして心のうちに、
「ああ、偉い弟」と、よろこばしくも思い、また苦しくも思った。
周瑜は、諸葛瑾の口からその事の不成立を聞くと、にがにがしげに、瑾へ向って、
「では、足下も、やがて孔明と共に、江北へ帰る気ではないか」と、露骨にたずねた。
瑾は、あわてて、
「何で呉君の厚恩を裏切りましょう。そんなお疑いをこうむるとは心外です」と、いった。
周瑜は冗談だよ、と笑い消した。しかし孔明に対する害意は次第に強固になっていた。
殺地(さつち)の客(きやく)
一
孔明(こうめい)の使命はまず成功したといってよい。呉の出師(すいし)は思いどおり実現された。孔明はあらためて孫権(そんけん)に暇(いとま)を告げ、その日、すこし遅れて一艘の軍船に身を託していた。
同舟の人々は、みな前線におもむく将士である。中に、程普(ていふ)、魯粛(ろしゆく)の二将もいた。
程普は由来、大都督周瑜(しゆうゆ)と、余りそりのあわない仲だったし、こんどの出師にも、反対側に立っていたが、いまは口を極めて、周瑜の人物を賞揚していた。
「何といっても、まだ若いし、どうかと実は危ぶんでおったが、今朝、江岸の勢揃いに、将台に立って三軍の令を云い渡した態度と威厳は、実に堂々たるものだったそうな――伜(せがれ)の程咨(ていじ)もそう云いおりました。稀代な英傑が呉に生れたものだと」
魯粛(ろしゆく)もそれへ相槌(あいづち)を打って、
「いやあのお方は、青年時代、ひどく風流子のようにいわれ過ぎていたが、どうしてどうして外柔内剛です。これから戦場に臨んでみたら、いよいよその本質が発揮されるでしょう」と、いった。
程普(ていふ)は、いかにもと、打ちうなずいて、
「自分なども今までは、周都督の人物にたいし、認識を欠いていた一人であったが、今日以後はいかに此方らが年長であろうと実戦の体験にくわしかろうと、問うところではない。ひたすら周都督の命令によって忠節をつくそうと思う。――実は慚愧(ざんき)にたえないので、出舷(でぶね)の前に、都督に会って、そう偽りのない気もちを語り、旧来の罪を謝して来たわけだ」と、しきりに懺悔していた。
孔明もそこにいたが、二人のその話には、何もふれて行かなかった。独り船窓に倚って、恍然(こうぜん)と、外の水や空を見ていた。
三江をさかのぼること七、八十里、大小の兵船は蝟集(いしゆう)していた。江岸いたるところに水寨(すいさい)を構え、周瑜(しゆうゆ)はその中央の地点に位する西山をうしろにとって水陸の総司令部となし、五十里余にわたって陣屋、柵門を構築し、天日の光もさえぎるばかり、翻々颯々、旗幡大旆(きはんたいはい)を植えならべた。
「孔明もあとから来ているそうだが……」
と彼はその本陣で、魯粛に会うとすぐいった。
「誰か、迎えにやってくれないか」
「これへお召しになるのですか」
「そうだ」
「では、誰彼というよりも、自分で言って参りましょう」
魯粛は、すぐ江岸の陣屋へ行って、そこに休息していた孔明を伴ってきた。
周瑜は、雑談のすえ、
「ところで、先生にお教を乞いたいことがありますが」
「何ですか」
「白馬、官渡(かんと)の戦いについて」
「あれは袁紹(えんしよう)と曹操(そうそう)の合戦でしょう。私に何が分りましょう」
「いや、先生の蘊蓄(うんちく)ある兵法に照して、あの戦いに寡兵(かへい)を以てよく大軍を打破った曹操の大捷利(だいしようり)は、何に起因するものなるかを――それがしのために説き明かしていただきたいので」
「士気、用兵の敏捷(びんしよう)、もとより操と紹(しよう)との違いもありましょうが、要するに、曹軍の奇兵が、袁紹側の烏巣(うそう)の兵糧を焼き払ったことが、まずあの大捷を決定的なものにしたといっても過言ではありますまい」
「ああ、愉快」と、周瑜は膝を打って、
「先生のお考えもそうでしたか、自分もあの戦いの分れ目はその一挙にあったと観ておった。――思うに今、曹操の兵力は八十三万、わが軍の実数はわずか三万、当年の曹操はまさにその位置を顛倒して絶対優勢な側にある。これを破るには、われもまた、彼の兵糧運送の道を断つが上策と考えるが、先生以て如何となすか?」
「彼の糧地はどこか突きとめてありますか」
「百方、物見を派して探り得ておる。曹操の兵糧はことごとく聚鉄山(じゆてつざん)にあるという。先生は少年の頃から荊州に住み馴れ、あの辺の地理には定めしおくわしいであろう。彼を破るは、共に主君の御為、ひとつ決死の兵千余騎を貸しますから、夜陰、敵地に深く入って、彼の糧倉を焼き払って下さらんか。――あなたをおいては、この壮挙を見事成し遂げる人はいない」
二
孔明はすぐさとった。これは周瑜(しゆうゆ)が、敵の手をかりて、自分を害そうとする考えであるに違いない――と。
が彼は、欣然、
「承知しました」と、ことばをつがえて帰って行った。
そばにいた魯粛(ろしゆく)は、周瑜のためにも孔明のためにも惜しんで、後からそっと孔明の仮屋をうかがってみた。
帰るとすぐ、孔明は鉄甲を着け、剣を佩(は)き、早くも武装して夜に入るのを待ちかまえている様子である。魯粛はこらえかねて、姿を見せ、気の毒そうにたずねた。
「先生、あなたは今宵のご発向に、必勝を期して行かれるのですか。それとも、やむなき破目と、観念されたのですか」
孔明は、笑いを含んで、
「広言のようですが、この孔明は、水上の船戦(ふないくさ)、馬上の騎兵戦、輸車戦車の合戦、歩卒銃手の平野戦、いずれにおいても、その妙を極めぬものはありません。――何で、敗北と諦めながら出向きましょう」
「しかし、曹操ほどな者が、全軍の生命とする糧倉の地に、油断のあるはずはない。寡兵をもって、それへ近づくなど、死地に入るも同様でしょう」
「それは、貴公の場合とか、また周都督ならそうでしょう。そう二者が一つになっても、ようやくこの孔明の一能にしかなりませんからな」
「二者にして一能にしかならんとは、どういうわけですか」
「陸戦にかけては魯粛、水軍にかけては周瑜ありとは、よく呉の人から自慢に聞くことばです。けれど失礼ながら、陸の覇者たるあなたも、船戦にはまったく晦(くら)く、江上の名提督たる周閣下も、陸戦においては、河童(かつぱ)も同様で、なんの芸能もありません。――思うに、完(まつた)き名将といわるるには、智勇兼備、水陸両軍に精しく、いずれを不得手、いずれを得手とするが如き、片輪車(かたわぐるま)ではなりますまい」
「ほう。先生にも似あわしからぬ大言。この魯粛はともあれ、周都督を半能の人と仰せらるるは、近頃ちとおことばが過ぎはしませんか」
「いや、試みに、眼前の事実をごらんあれば分ろう。この孔明に兵千騎を託して、それで聚鉄山(じゆてつざん)の糧倉が焼き払えるものと考えているなどは、まったく陸戦に晦い証拠ではありませんか。――われもし今宵討死せば、周都督の愚将たる名は一時に天下にとどろくでしょう」
魯粛は驚いて、倉皇(そうこう)と立ち去ったが、すぐそのことを、周瑜の耳に入れていた。
由来、周瑜も感情家である。時々、その激血が理性を蹴る。いまも魯粛から、孔明の大言したことを聞くと、
「なに、この周瑜を、陸地の戦いには、まったく暗い愚将だといったか。半能の大将に過ぎないといったのだな。……よしっ、すぐもう一度、孔明のところへ行って、孔明の出陣を止めてきてくれ。こよいの夜襲には、われ自ら進んで、かならず敵の糧倉を焼払ってみせる」
孔明に侮られたのを心外とするのあまり、意を決して、自身の手並のほどを見せ示そうとする気らしい。直ちに幕下へ発向(はつこう)の触れをまわして、兵数も増して五千余騎となし、夜と共に出で立つ準備にとりかかった。
かくと魯粛から聞いて、孔明はいよいよ笑った。
「五千騎行けば五千、八千騎行けば八千、ことごとく曹操の好餌となって、大将も生け捕られるであろう。周都督は呉の至宝、そうさせてはなるまい。足下は親友、よく理を説いて、思い止まらせてあげたがよい」
そしてなお、魯粛に言を託して、
「いま、呉とわが劉(りゆう)予州の君とが、真に一体となって曹操に当れば、大事はきっと成るであろう。相剋(そうこく)し、内争し、相疑えば、かならず曹操に乗ぜられん。――またこのたびの出師(すいし)にその戦端を陸地(くがち)から選ぶは不利。よろしく江上の船戦をもって、第一戦の雌雄を決し、敵の鋭気をくじいて後、徐々陸戦の機をはかるべきであろう」と、云ってやった。
三
すでに一帯の陣地は黄昏(たそが)れかけている。周瑜(しゆうゆ)は馬を呼んでいた。五千の兵は、薄暮の中に勢揃いして、粛然、出立の令を待っているところであった。
そこへ魯粛(ろしゆく)が駆けてきて、孔明のことばを周瑜に伝えた。周瑜は聞くと、耳をそばだてて、
「ああ。おれの才は、ついに孔明に及ばないか」と、痛嘆した。
急に彼は、出立を取消した。聚鉄(じゆてつ)奇襲の計画をあきらめてしまったのである。彼も決して暗愚なる大将ではない。孔明にいわれないでも、そのことの危険は充分に知っていたからだった。
しかし、その夜の挙は見合わせたにしても、孔明に対する害意に変更は来さなかった。むしろ孔明の叡智を恐れるのあまり、その殺意は、いよいよ深刻となり陰性となって、周瑜の胸の奥に、
(後日、またの機会に)
と、独りひそかに誓われていたにちがいなかった。
――こうした南方の情勢一変と、孔明の身辺に一抹の凶雲がまつわって来つつある間に、一方、江夏(こうか)の玄徳(げんとく)は、そこを劉〓(りゆうき)の手勢に守らせて、自身とその直属軍とは、夏口(かこう)(漢口)の城へ移っていた。
彼は、毎日のように、樊口(はんこう)の丘へ登って、
「孔明は如何にせしか」と、長江の水に思慕を託し、また仰いでは、
「呉の向背や如何に?」と、江南の雲に安からぬ眸を凝(こ)らしていた。
ところへ、近頃、遠く物見に下江(く だ)って行った一艘が帰帆してきて、玄徳に告げることには、
「呉はいよいよ魏軍へ向って開戦しました。数千の兵船が、舳艫(じくろ)をならべて遡航(そこう)しつつあるとのこと。また、三江の江岸一帯、前代未聞の水寨(すいさい)を構築しています。さらに、北岸の形勢をうかがうに、魏の曹操は、百万に近い大軍をもって、江陵、荊州地方から続々と行動を起し、水陸にかけて真黒な大軍団が、夜も昼も、南へ南へと移動しつつあります」と、あった。
玄徳はその報告の半ばまで聞かないうちに、もう脈々たる血のいろを面にあらわし、
「さては、わが策成れり」
と歓び勇んだ。
元来、玄徳は、よほどなことがあっても、そう欣舞雀躍(きんぶじやくやく)はしない性である。時によると、うれしいのかうれしくないのか、侍側の者でも、張合いを失うほどすこぶるぼうとしていることなどある。
だが、この時は、よほど内心うれしかったようである。すぐ夏口の城楼に、臣下をあつめて、
「すでに、呉は起ったのに、今もって、孔明からは何の消息もない。誰か、江を下って、呉軍の陣見舞いにおもむき、孔明の安否を探ってくる者はないか」と、いった。
糜竺(びじく)がすすんで望んだ。
「不才ながら、てまえが行って来ましょう」
「そちが行ってくれるか」
玄徳は、適任だと思った。
糜竺はもともと外交の才があり臨機の智に富んでいる。彼は山東の一都市に生れ、家は〓城(たんじよう)きっての豪商であった。――いまは遠い以前となったが、玄徳が旗挙げ早々、広陵(こうりよう)(江蘇省・揚州市)のあたりで兵員も軍用金も乏しく困窮していた頃――商家の息子たる糜竺は、玄徳の将来を見こんで、その財力を提供し、兵費を賄(まかな)い、すすんで自分の妹を、玄徳の室に入れ、以来、今日にいたるまで、もっぱら玄徳軍の財務経理を担当して来たという帷幕(いばく)の中でも一種特異な人材であった。
「そちが行ってくれれば申分はない。頼むぞ」
安心して、玄徳は彼をやった。糜竺はかしこまって、直ちに、一帆の用船に、薫酒(くんしゆ)、羊肉、茶、そのほか沢山な礼物を積んで、江を下った。
呉陣の岸について、番の隊将に旨をつたえ、すぐ本営に行って周瑜と会った。
「これは、ねんごろな陣見舞いを」
と、周瑜は快く品々をうけ、また使い糜竺をもてなしはしたが、
「どうか、ご主君劉(りゆう)予公へ、よろしくお伝え賜りたい」
と、どこかよそよそしく、孔明のうわさなどには、一切ふれてこなかった。
四
翌日、また次の日と、会談は両三回に及んだが、周瑜(しゆうゆ)はいつも、話題の孔明に及ぶことを避けていた。
糜竺(びじく)は三日目の朝、暇を告げに行った。すると、周瑜は初めて、
「孔明もいまわが陣中にあるが、共に曹操を討つには、ぜひ一度、劉予公も加えて、緊密なる大策を議さねばなるまいかと考えておる。――幸いに、玄徳どのが、これまで来会してくれれば、これに越したことはないが」と、いった。
糜竺は、畏まって、
「何と仰せあるか分りませんが、ご意向の趣は、主君劉予州にお伝えしましょう」
と約して帰った。
魯粛(ろしゆく)はそのあとで、
「何のために、玄徳を、この陣中へお招きになるのですか」
と、周瑜の意中をいぶかって訊ねた。すると、周瑜は、
「もちろん殺すためだ」と、平然と答えた。
孔明を除き、玄徳を亡き者にしてしまうことが、呉の将来のためであると、周瑜はかたく信じているらしいのである。その点、魯粛の考えとは非常に背馳(はいち)しているけれど、まだ曹操との一戦も開始しないうちに、味方の首脳部で内紛論争を起すのもおもしろくないことだし、先は、大都督の権を以てすることなので、魯粛も、
「さあ、どういうものですかな」
と、口をにごす程度で、あえて、強い反対もしなかった。
一方、夏口にある玄徳は、帰ってきた糜竺の口から委細を聞いて、
「では自身、さっそく呉の陣を訪ねて行こう」
と、船の準備をいいつけた。
関羽(かんう)をはじめ諸臣はその軽挙を危ぶんで、
「糜竺が行っても孔明に会わせない点から考えても、周瑜の本心というものは、多分に疑われます。態(てい)よく、返書でもおやりになっておいて、もう少し彼の旗色を見ていてはいかがですか」
と、諫めたが、玄徳は、
「それでは、せっかく孔明が使いして実現した同盟の意義と信義にこちらから反(そむ)くことになろう。虚心坦懐(きよしんたんかい)、ただ信をもって彼の信を信じて行くのみ」といってきかない。
趙雲(ちよううん)、張飛(ちようひ)は、留守を命ぜられ、関羽だけが供をして行った。
一船の随員わずか二十余名、ほどなく呉の中軍地域に着いた。
江岸の部隊からすぐこの由が本陣の周瑜に通達された。――来たか! というような顔色で、周瑜は番兵にたずねた。
「玄徳は、どれほどな兵を連れてやって来たか」
「従者は二十人ぐらいです」
「なに二十人」
周瑜は笑って、
(わが事すでに成れり!)
と、胸中でつぶやいていた。
ほどなく、玄徳の一行は、江岸の兵に案内されて、中軍の営門を通ってきた。周瑜は出て、賓礼(ひんれい)を執り、帳中に請(しよう)じては玄徳に上座を譲った。
「初めてお目にかかる。わたくしは劉備(りゆうび)玄徳。将軍の名はひとり南方のみではなく、かねがね北地にあっても雷のごとく聞いていましたが、はからずも今日、拝姿を得て、こんな愉快なことはありません」
玄徳が、まずいうと、
「いやいや、まことに、区々たる不才。劉皇叔の御名こそ、かねてお慕いしていたところです。陣中、何のご歓待もできませんが」
と、型のごとく、酒宴にうつり、重礼厚遇、至らざるなしであった。
その日まで、孔明は何も知らなかったが、ふと、江岸の兵から、今日のお客は、夏口の劉皇叔であると聞いて、
「さては?」
と、愕(おどろ)きをなして、急に、周瑜の本陣へ急いで行った。――そして帳外にたたずみ、ひそかに主客の席をうかがっていた。
狂(きよう) 瀾(らん)
一
本来、この席へ招かれていいわけであるが、孔明(こうめい)には、玄徳(げんとく)が来たことすら、聞かされていないのである。
以て、周瑜(しゆうゆ)の心に、何がひそんでいるか、察することができる。
「……?」
帳(とばり)の外から宴席の模様をうかがっていた孔明の気持は、まさにわが最愛の親か子が、猛獣の檻(おり)に入っているのをのぞいているような不安さであった。
――が、玄徳は、いかにも心やすげに、周瑜と話しているふうだった。
――ただ、その背後(うしろ)には、剣を把って、守護神の如く突っ立っている関羽(かんう)が見える。――孔明はそれを見て、
「関羽があれに侍立しているからは……」
と、少し安心して、そっと屋外へ出ると、飄然(ひようぜん)、江岸にある自分の仮屋のほうへ立ち去った。
よもや、孔明がついこの席の外にたたずんでいるとも知らない玄徳は、周瑜との雑談の末、軍事に及び、ようやく話も打ち解けてきたので、そばにいた魯粛(ろしゆく)をかえりみて、
「時に、臣下の孔明が、久しくご陣中に留っておるそうですが、ちょうどよい折、これへ呼んでいただけますまいか」と、いってみた。
すると、周瑜がすぐ返事を奪(と)って、
「それは造作もないことだが、どうせ一戦は目前に迫っておること。曹操(そうそう)を破って後、めでたく祝賀の一会という時に、お会いになったらいいではないか」
と、すぐ話をわきへそらし、ふたたび、曹軍を討つ軍略や手配などを、しきりに重ねて云い出した。
関羽は、主君の袂(たもと)をひいて、うしろからそっと眼くばせした。――そのことに触れないほうがご賢明ですよ、と注意するのであった。玄徳もすぐさとって、
「そうですな。では今日の御杯も、これくらいでお預けしておきましょう。いずれ、曹操を討ち破った上、あらためて祝賀のお慶びに出直すとして――」
と、うまく席を立つ機をつかんで別れた。
余りにあざやかに立たれてしまったので、周瑜もいささかまごついた形だった。実は、玄徳を酔わせ、関羽にも追々酒をすすめて、この堂中を出ぬまに、刺殺(しさつ)してしまおうと、四方に数十人の剣士力者を忍ばせておいたのであった。
それを、つい、うまく座をはずされてしまったので、合図するいとますらなく、周瑜も倉皇と、轅門(えんもん)の外まで見送りに出て、空しく客礼ばかりほどこしてしまった。
駒に乗って、本陣を去ると、玄徳は、関羽以下二十余人の従者を具して、飛ぶが如く、江岸まで急いできた。
――と、水辺の楊柳の蔭から手をあげて、
「ご主君、おつつがもなく、お帰りでしたか」と、呼ぶ人がある。
見れば、懐かしや、孔明ではないか。玄徳は駒の背から飛び降りて、
「おお、孔明か」と、駈け寄り、相抱いて、互いの無事をよろこんだ。
孔明は、その歓びを止めて、
「私の身はいま、その象(かたち)においては、虎口の危うき中にいますが、しかし安きこと泰山の如しです。決してご心配くださいますな。――むしろこの先とも、お大事を期していただきたいのは、わが君の行動です。来る十一月の二十日は、まさしく甲子(きのえね)にあたります。お忘れなく、その日は、ご麾下趙雲(ちよううん)に命じて、軽舸(はやぶね)を出し、江の南岸にあって、私を待つようにお備えください。いまは帰らずとも、孔明は必ず東南の風の吹き起る日には帰ります」
「先生、どうして今から、東南の風の吹く日が分りますか」
「十年、隆中の岡に住んでいた間は、毎年のように、春去り、夏を迎え、秋を送り、冬を待ち、長江の水と空ゆく雲をながめ、朝夕の風を測って暮していたようなものですから、それくらいな観測は、ほぼはずれない程度の予見はつきます。――おお、人目にふれないうちに、君には、お急ぎあって」
と、孔明は、主君を船へせきたてると、自分も忽然(こつねん)と、呉の陣営のうちに、姿をかくしてしまった。
二
孔明に別れて、船へ移ると、玄徳はすぐ満帆を張らせて、江をさかのぼって行った。
進むこと五十里ほど、彼方に一群の船団が江上に陣をなしている。近づいて見れば、自分の安否を気づかって迎えにきた張飛(ちようひ)と船手の者どもだった。
「おおよくぞ、おつつがなく」
一同は、無事を祝しながら、主君の船を囲んで、夏口へ引揚げた。
玄徳の立ち帰った後――呉の陣中では、周瑜(しゆうゆ)が、掌中の珠を落したような顔をしていた。
魯粛(ろしゆく)は、意地わるく、わざと彼にこういった。
「どうして都督には、今日の機会を、みすみす逸して、玄徳を生かして帰してしまわれたのですか」
周瑜は自分の不機嫌を、どうしようもない――といったように、
「始終、関羽が玄徳のうしろに立って、此方が杯へやる手にも、眼を離さず睨んでおる。下手をすれば、玄徳を殺さないうちに、こっちが関羽に殺されるだろう。何にしても、あんな猛犬が番についていたんでは、手が出せんさ」
噛んで吐き出すような返事であった。魯粛はむしろ呉のために、彼の計画の失敗したことを歓んでいた。
この事あってからまだ幾日も経たないうちのことである。
「魏の曹操から書簡をたずさえて、江岸まで使者の船が来ましたが?」とのしらせに、
「通せ。――しかし曹操の直書か否か、その書簡から先に示せといえ」
と、周瑜は、帷幕にあって、それを待っていた。
やがて、取次ぎの大将の手から、うやうやしく彼の前へ一書が捧げられた。書簡は皮革をもって封じられ、まぎれもない曹操の親書ではあった。
――けれど周瑜は、一読するや否、面に激色をあらわして、
「使者を逃がすな」と、まず武士に云いつけ、書簡を引き裂いて、立ち上がった。
魯粛が、驚いて、
「都督、なんとされたのです」
と、訊くと、周瑜は、足もとへ破り捨てた書簡の断片を、足でさしながら罵った。
「それを見るがいい。曹賊め、自分のことを、漢大丞相(かんのだいじようしよう)と署名し、周都督に付するなどと、まるで此方を臣下あつかいに認(したた)めておる」
「すでに充分、敵性を明らかにしている曹操が、どう無礼をなそうと、怒るには足らないでしょう」
「だから此方も、使者の首を刎ねて、それに答えてやろうというのだ」
「しかし、国と国とが争っても、相互の使いは斬らないというのが、古来の法ではありませんか」
「なんの、戦争に入るに、法があろうか。敵使の首を刎ねて、味方の士気をふるい、敵に威を示すは、むしろ戦陣の慣いだ」
云いすてて帳外へ闊歩して行った。周瑜は、そこへ使者を引き出させて、何か大声で罵っていたが、たちまち剣鳴(けんめい)一戞(いつかつ)、首を打ち落して、
「従者。使いの従者。この首はくれてやるから、立ち帰って、曹操に見せろ」と、供の者を追い返した。
そして、直ちに、
「戦備にかかれ」と、水、陸軍へわたって号令した。
甘寧(かんねい)を先手に、蒋欽(しようきん)、韓当(かんとう)を左右の両翼に、夜の四更に兵糧をつかい、五更に船陣を押しすすめ、弩弓(どきゆう)、石砲を懸連(かけつら)ねて、「いざ、来れ」と、待ちかまえていた。
果たせるかな曹操は、使者の首を持って逃げ帰ってきた随員の口々から、云々(しかじか)と周瑜の態度を聞きとって、「今は」と、最後の臍(ほぞ)をかため、水軍大都督の蔡瑁(さいぼう)、張允(ちよういん)を召し出して、
「まず、周瑜の陣を破れ、しかる後に、呉の全土を席巻せん」と、いいつけた。
江上は風もなく、四更の波も静かだった。時、建安十三年十一月。荊州(けいしゆう)降参の大将を船手の先鋒として、魏の大船団は、三江をさして、徐々南下を開始していた。
三
夜は白みかけたが、濃霧のために水路の視野もさえぎられて、魏の艨艟(もうどう)も、呉の大船陣も、互いに、すぐ目前に迫りあうまで、その接近を知り得なかった。
「おうっ、敵の船だっ」
「かかれっ」
突如として、魏の兵船は、押太鼓を打ち鳴らしながら、白波をあげて、呉船の陣列を割ってきた。
時に、呉の旗艦らしい一艘の舳(みよし)に立って、海龍の〓(かぶと)をいただいた一名の大将が、大音をあげて魏船(ぎせん)の操縦のまずさを嘲った。
「荊州の蛙、北国の鼬(いたち)どもが、人真似して軍船に乗りたる図こそ笑止なれ。水上の戦とは、こうするものだぞ。冥土の土産にわが働きを見て行くがいい」
と、まず船楼に懸け並べた弩弓(どきゆう)の弦(つる)を一斉に切って放った。
曹軍の都督蔡瑁(さいぼう)は、人もなげな敵の豪語に、烈火のごとく怒って自ら舳に行こうとすると、すでに弟の蔡薫(さいくん)が、そこに立って、敵へ云い返していた。
「龍頭の漁夫、名はないのか。われは大都督の舎弟蔡薫だ。遠吠えをやめて、船を寄せてこい。一太刀に斬り落して、魚腹へ葬ってくれるから」
すると、遠くで、
「甘寧(かんねい)を知らないのは、いよいよ水軍の潜(もぐ)りたる証拠だ。腰抜けな荊州蛙の一匹だろう。大江の水は、井の中とはちがうぞ」
罵るやいな、甘寧は自身、石弩(せきど)の弦(つる)を引きしぼって、ぶんと放った。
数箇の石弾は、うなりを立てて飛んで行ったが、その一弾が、蔡薫の面(おもて)をつぶした。あっと、両手で顔をおおったとき、また一本の矢が、蔡薫の首すじに突っ立ち、姿は真逆さまに、舳を噛む狂瀾の中に呑まれていた。
まだ舷々(げんげん)相摩(あいま)しもせぬ戦の真先に、弟を討たれて、蔡瑁は心頭に怒気を燃やし、一気に呉の船列を粉砕せよと声をからして、将楼から号令した。
靄はようやくはれて、両軍数千の船は、陣々入り乱れながらも、一艘もあまさず見ることができる。真赤に昇り出ずる陽と反対に、大江の水は逆巻き、咬みあう黒波白浪、さけびあう疾風飛沫、物すさまじい狂濤(きようとう)石矢(せきし)の大血戦はここに展開された。
蔡瑁を乗せている旗艦を中心として、一隊の縦隊船列は、深く呉軍の中へ進んで行ったが、これは水戦にくらい魏軍の主力を、巧みに呉の甘寧が、味方の包囲形のうちに誘い入れたものであった。
頃を計ると――
たちまち、左岸から韓当(かんとう)の一船隊、右岸から蒋欽(しようきん)の一船群、ふた手に、白い水脈をひきながら、敵の主力を捕捉し、ほとんど、前後左右から、鉄箭(てつせん)石弾(せきだん)の烈風を見舞った。
蕭々(しようしよう)、帆は破れ、船は傾き、魏の船団は一つ一つ崩れだした。船上いっぱい、朱(あけ)となって、船が人力を離れて、波のまにまに漂いだすのを見ると、
「それっ、あれへ」
と、呉の船は、その鋭角を、敵の横腹へぶつけて、たちまち木(こ)ッ端(ぱ)微塵(みじん)とするか、或いは飛び移って、皆殺しとなし、それを焼き払った。
こうして、主力が叩かれたため、後陣の船は、まったく個々にわかれて、岸へ乗りあげてしまうもあるし、拿捕(だほ)されて旗を降ろすもあるし、そのほかは、帆を逆しまに逃げ出して、さんざんな敗戦に終ってしまった。
甘寧は、鐘鼓(しようこ)を鳴らして、船歌高く引きあげたが、戦がやんでも、黄濁な大江の水には、破船の旗やら、焼けた舵(かじ)やら、無数の死屍(しし)などが、洪水のあとのように流れていた。
そのたくさんな戦死者は、ほとんど魏の将士であった――かくとその日の戦況を耳にした曹操の顔色には、すこぶる穏やかならぬものがあった。
「蔡瑁を呼べ。副都督の張允(ちよういん)も呼んでこい」
大喝(だいかつ)、何が降るかと、召し呼ばれた二人のみか、侍側の諸将もはらはらしていた。
群英(ぐんえい)の会(かい)
一
敗戦の責任を問われるものと察して、蔡瑁(さいぼう)、張允(ちよういん)の二人は、はや顔色もなかった。
恟々(きようきよう)として、曹操(そうそう)の前へすすみ、かつ百拝して、このたびの不覚を陳謝した。
曹操は、厳として云った。
「過ぎ去った愚痴を聞いたり、また過去の不覚を咎(とが)めようとて、其方たちを呼んだのではない。――要は、将来にある。かさねて敗北の恥辱を招いたら、その時こそ、きっと、軍法に正してゆるさんが、この度だけはしばらく免じておく」
意外にも、寛大な云い渡しに、蔡瑁は感泣してこういった。
「もとより、味方敗軍の責めは、われらの指揮の至らないためにもありますが、もっとも大きな欠陥は、荊州の船手の勢が総じて調練の不足なのに比して、呉の船手は、久しく〓陽湖(はようこ)を中心に、充分、錬成の実をあげていたところにあります。――加うるにお味方の北国兵は、水上の進退に馴れず、呉兵はことごとく幼少から水に馴れた者どもばかりですから、江上の戦においても、さながら平地と異ならず、ここにも多分な弱点が見出されます」
それは曹操も感じていることだった。しかし、この問題は、兵の素質と、長日月の訓練にあることなので、急場には如何ともすることができないのである。
「では、どうするか」との問いに、蔡瑁は次のような献策をもって答えた。
「攻撃を止めて、守備の態(たい)をとることです。渡口を固め、要害を擁し、水中には遠くにわたって水寨を構え、一大要塞としておもむろに、敵を誘い、敵の虚を突き、そして彼の疲れを待って、一挙に、下江を図(はか)られては如何(いかが)でしょう」
「ムム、よかろう。其方両名には、すでに水軍の大都督を命じてあるのだ。よしと信じることならいちいち計るには及ばん、迅速にとり行え」
こういうことばの裏には、曹操自身にも、水上戦には深い自信のないことがうかがえるのである。両都督の責めを問わず、罪をゆるして励ましたのも、一面、それに代るべき水軍の智嚢(ちのう)がなかったからであるといえないこともない。
いずれにせよ蔡瑁、張允のふたりは、ほっとして、軍の再整備にかかった。まず北岸の要地に、あらゆる要塞設備を施し、水上には四十二座の水門と、蜿蜒(えんえん)たる寨柵(さいさく)を結いまわし、小船はすべて内において交通、連絡の便りとし、大船は寨外に船列を布かせて、一大船陣を常備に張った。
その規模の大なることは、さすがに魏の現勢力を遺憾なく誇示するものだったが、夜に入ればなおさら壮観であった。約三百余里にわたる要塞の水陸には篝(かがり)、煙火、幾万幾千燈が燃えかがやいて、一天の星斗(せいと)を焦(こ)がし、ここに兵糧軍需を運送する車馬の響きも絡繹(らくえき)と絶えなかった。
「近頃、上流にあたる北方の天が、夜な夜な真赤に見えるが、あれは抑(そも)、何のせいか」
南岸の陣にある呉の周瑜(しゆうゆ)は、怪しんで或る時、魯粛(ろしゆく)にたずねた。
「あれは、曹操が急に構築させた北岸の要塞で、毎夜、旺(さかん)に焚いている篝や燈火(ともしび)が雲に映じているのでしょう」
魯粛が、さらに、くわしく説明すると、周瑜はこのところ甘寧(かんねい)の大捷(たいしよう)に甘んじて、曹軍怖るるに足らずと、大いに驕(おご)っていたところであったが、急に不安を抱いて、いちど要塞の規模を自身探ってみようと云いだした。
「敵を知るは、戦に勝つ第一要諦だ」
と称して、一夜、周瑜はひそかに一船に乗りこみ、魯粛、黄蓋(こうがい)など八名の大将をつれて、曹軍の本拠を偵察に行った。
もちろん危険な敵地へ入るわけなので、船楼には、二十張(ちよう)の弩弓(どきゆう)を張って、それぞれ弩弓手を配しておき、姿は、幔幕(まんまく)をめぐらしておおい隠し、周瑜や魯粛などの大将たちは、わざと鼓楽を奏して、敵の眼をくらましながら、徐々、北岸の水寨へ近づいて行った。
二
星は暗く、夜は更けている。
船は、石の碇(いかり)をおろし、ひそかに魏の要塞を、偵察していた。
水軍の法にくわしい周瑜(しゆうゆ)も、四十二座の水門から寨柵、大小の船列、くまなく見わたして、
「いったい、こんな構想と布陣は、誰が考察したのか」
と、舌を巻いて驚いた。
魯粛(ろしゆく)は、その迂遠を嘲(わら)って、
「もちろん荊州降参の大将、蔡瑁(さいぼう)、張允(ちよういん)の二人です。彼らの智嚢は、決して見くびったものではありません」と、いった。
周瑜は、舌打ちして、
「不覚不覚。今日まで、曹操のほうには、水軍の妙に通じた者はないと思っていたが、これはおれの誤認だった。蔡瑁、張允を殺してしまわないうちは、水上の戦いだからといって、滅多に安心はできないぞ」
語りながら、なお船楼の幕(とばり)のうちで、酒を酌み、また碇(いかり)を移し、彼方(あなた)此方(こなた)、夜明けまではと、探っていた。
――と、早くも、魏の監視船から、このことは、曹操の耳に急達されていた。何の猶予やあらんである。それ捕擒(とりこ)にせよとばかり、水寨の内から一陣の船手が追いかけてきた。
けれど、周瑜(しゆうゆ)の船は、いち早く逃げてしまった。水流にまかせて下るので船脚はいちじるしく早い。遂に、取逃がしたと聞いて、翌朝、曹操はひどく鋭気を削(そ)がれていた。
「敵に、陣中を見すかされては、またこの構想を一変せねばならん。こんな虚があるようなことで、いつの日か、呉を破ることができるものぞ」
すると、侍列の中から、
「丞相、嗟嘆(さたん)には及びません。てまえが周瑜を説いて、お味方に加えてみせます」
と、いった者がある。
人々は、その大言に驚いて、誰かとみると、帳下の幕賓(ばくひん)、蒋幹(しようかん)、字(あざな)は子翼(しよく)というものだった。
「おう、幹公か。足下は周瑜と親交でもあるのか」
「それがしは九江(きゆうこう)の生れなので、周瑜とは郷里も近く、少年時代から学窓の友でした」
「それはよい手がかりだな。もし呉から周瑜をはずせば、呉軍は骨抜きになる。大いに足下の労に嘱(しよく)すが、行くとすれば、何を携えてゆくか」
「何もいりません。ただ一童子と一舟を賜わらば充分です」
「説客の意気、そうなくてはならん、では、早速に」
と、彼のため一夕、旺(さかん)なる壮行会を設けて、江に送った。
蒋幹は、わざと、綸巾(りんきん)をいただき、道服をまとい、一壺(こ)の酒と、一人の童子をのせただけで、扁舟(へんしゆう)飄々(ひようひよう)、波と風にまかせて、呉の陣へ下って行った。
「われは周都督の旧友である。なつかしさのあまり訪れて来た。――と称する高士風のお人が今、岸へ上がってきましたが?」
と、聞いて、周瑜は、からからと笑った。
「ははあ、やって来たな、曹操の幕賓になっているとか聞いていた蒋幹だろう。よしよしこれへ通せ」
彼は、その間に、諸大将へ計りごとをささやいて、
「さて、どんな顔をして来るか」と、蒋幹を待っていた。
やがて蒋幹は、それへ案内されてきて、眼をみはった。いや面喰らったといったほうが実際に近い。華やかな錦衣をまとい、花帽(かぼう)をいただいた四、五百人の軍隊が、まずうやうやしく轅門(えんもん)に彼を出迎え、さて営中に入ると、同じように綺羅(きら)な粧いをした大将が、周瑜の座を中心に、星の如く居流れている。
「やあ、幹公か。めずらしいご対面、おつつがないか」
「周都督にもご機嫌よう、慶祝にたえません」
蒋幹は、拝を終ると、特に、親しみを示そうとした。
周瑜も、意識的にくだけた調子で、
「途中、よく矢にも弾にも狙われず来られたな。こんな戦時下、はるばる、江を渡って、何しに来られたのだ。……曹操から頼まれてお越しになったのじゃないかな。あはははは、いや冗談冗談」
と、相手の顔色が変ったのを見ながら、すぐ自分で自分のことばを打消した。
三
蒋幹(しようかん)は内心、どきとしたが、さあらぬ態で、
「これはどうも、迷惑なお疑いですな。近頃、閣下のご高名が呉に振うにつけても、よそながら慶祝にたえず、竹馬の友たりし頃の昔語りでもせんものと、お訪ねしてきたのに。――曹操の説客ならんとは、心外千万じゃ」
と、わざと面(つら)ふくらせて見せると、周瑜(しゆうゆ)は笑って、その肩を撫で、かつなだめて、
「まあ、そう怒りたもうな。へだてなき旧友なればこそ、つい冗談も出るというもの。……何しろ、よく来てくれた。陣中、歓待(もてな)しもできないが、今夜は大いに久闊をのべて楽しもう」
と、共に臂(ひじ)を組んで、酒宴の席へ誘った。
堂上堂下に集まった諸将はみな錦繍の袖をかさね、卓上には金銀の器(うつわ)、瑠璃(るり)の杯、漢銅の花器など、陣中とも思われない豪華な設けであった。
主客、席につくと、喨々(りようりよう)、得勝楽(とくしようがく)という軍楽が奏された。周瑜は起って、幕下の人々へむかい、
「この蒋幹は、自分とは同窓の友で、今日、江北から訪ねてくれたが、決して、曹操の説客ではないから、心おきのないように」
と、客を紹介したはいいが、変な云いまわしをして、いよいよ蒋幹の心を寒からしめた。
のみならず、諸大将の中から、太史慈(たいしじ)を呼び出して、自分の剣を渡し、
「こよいは懐かしい旧友と共に、夜を徹して、楽しもうと思うが、もし遠来の客に非礼があってはならぬ。お客が第一の迷惑とされることは、曹操の説客ならずやと、白眼視されることである。だからもしこの席上で、曹操とわが国との合戦のことなど、かりそめにも口にする者があったら、即座に、この剣をもって斬って捨てい」と、命じた。
太史慈は、剣をうけて、席の一方に立っていた。蒋幹はまるで針の莚(むしろ)に坐っているような心地だった。
周瑜は、杯をとって、
「出陣以来、酒をつつしんで、陣中では一滴も飲まなかったが、今夜は、旧友幹兄(けい)のために、心ゆくまで飲むつもりだ。諸将も客にすすめて、共に鬱気(うつき)をはらすがいい」
と、快飲し始めた。
満座、酒に沸いて、興もようやくたけなわであった。佳肴杯盤(かこうはいばん)はめぐり、人々はこもごも立って舞い謡い、また囃(はや)した。
「長夜の歓(かん)はまだ宵のうち、すこし外気に酔をさまして、また飲み直そう」
周瑜は、蒋幹と臂(ひじ)を組んで、帳外へ拉(らつ)して行った。そして陣中を逍遥しながら、武器兵糧の豊富にある所を見せたり、営中の士気の旺(さかん)なる有様をそれとなく見せて歩いた。
そして、以前の席へ、戻って来たが、その途々(みちみち)にも、
「貴公とおれとは、同窓に書を読み、幼時から共に将来のことを語ったこともあるが、今日、呉の三軍をひきい、身は大都督の高きに在り、呉君は自分を重用して、自分の言なら用いてくれないことはない。こんなにまで、立身しようとは、あの頃も思わなかったよ。ゆえに今、古の蘇秦(そしん)、張儀(ちようぎ)のような者が来て、いかに懸河(けんが)の弁をふるってこの周瑜を説かんとしても、この心は金鉄のようなものさ。いわんやひと腐れ儒者などが、常套的な理論をもって、周瑜の心を変えようなんて考えてくる者があるとすれば、これほど滑稽なことはない」と、大笑した。
蒋幹の体はあきらかにふるえていた。酔もさめて顔は土気いろになっている。周瑜はまた、宴の帳内へ彼を拉(らつ)して、
「やあ幹兄。すっかり酒気が醒めたようじゃないか。さあ、大杯でほし給え」
と、杯を強い、さらに諸大将にも促して、後から後からと杯をすすめさせた。
杯攻めに会っている蒋幹の困り顔をながめながら、周瑜はまた、
「今夜、ここにいるのは、みな呉の英傑ばかりで、群英の会とわれわれは称している。この会の吉例として、それがしの舞いを一曲ご覧に入れよう。――方々、歌えや」
そういうと、彼は剣を抜いて、珠と散る燭の光を、一閃また一閃、打ち振りながら舞い出した。
四
大丈夫処世兮(よにしよして)立功名(こうみようをたつ)
功名既(すでに)立兮(たつて)王業(おうぎよう)成(なる)
王業成兮(なつて)四海(しかい)清輝(せいきす)
四海清兮(きよくして)天下泰平
天下泰平兮吾将酔(にしてわれまさによわんとす)
吾将酔兮(まさによわんとして)舞霜鉾(そうぼうをまわす)
周瑜(しゆうゆ)は剣を振ってかつ歌いかつ舞い、諸将は唱和して、また拍手歓呼し、夜は更けるとも、興の尽くるを知らなかった。
「ああ、愉快だった。幹公、今夜はご辺と同じ床に寝て、語り明かそう」
蹌踉(そうろう)として、周瑜は蒋幹の首にかじりつき、ともに寝所へ転(まろ)びこんだ。
――と同時に、周瑜は、衣も脱がず帯も解かず、泥酔狼藉、牀(しよう)をよそに、床の上へ仆れて寝てしまった。
「都督、都督。……そんなところへ寝てしまわれてはいけません。お体の毒です。風邪(か ぜ)でもひいては」と、蒋幹は幾度かゆり起してみたが、覚めればこそ、いびきを増すばかりで、房中もたちまち酒蔵のような匂いに蒸れた。
ただただ胆(きも)を奪われて、宵のうちから酔えもせず、ただ恟々(きようきよう)としていた蒋幹は、もちろんここへ入っても容易に眠りつくことができなかった。
夜はすでに四更に近い。陣中を巡邏(じゆんら)する警板の響きがする。……周瑜はとみればなお前後不覚の態(てい)たらくだ。残燈の光淡く、浅ましい寝すがたに明滅している。
「……おや?」
蒋幹はむくと身を起した。卓上に多くの書類や書簡が取り散らかっている。下にこぼれ落ちている五、六通を拾ってそっと見ると、みな陣中往来の機密文書である。
「……?」
怪しく手がふるえた。――蒋幹の眼は細かに動いて、幾たびも、周瑜(しゆうゆ)の寝顔にそそがれ、また、書簡の幾通かを、次々に、迅い眼で読んで行った。
愕然、彼の顔色を変えさせた一片の文字がある。見おぼえのあるような手蹟と思って、ひらいてみると、果たして、それは曹操の幕下で日常顔を見ている張允(ちよういん)の手簡ではないか。
蔡瑁(さいぼう)、張允(ちよういん)啓白(けいはく)。
それがしら、一旦、曹に降るは、仕禄を図るに非ず、みな時の勢いに迫らるるのみ。今すでに北軍を賺(なだ)めて寨中に籠めしむ。みな生らが復仇の意謀にもとづいてかく牽制(けんせい)するところの現われなり。
今し、南風に託し、一便の牒状(ちようじよう)をもたらしたまわば、即ち、内に乱を発し、曹操の首を火中に挙げて呉陣に献ぜん。是れ、故国亡主の怨をすすぐ所にして、また天下の為なり。早晩人到り、回報疾風のごとくあらんことを。敬覆(けいふく)、深く照察(しようさつ)を乞い仰ぐ。
「う、う。……うーむ」
ふいに周瑜が寝返りを打った。蒋幹はあわてて燈火(ともしび)をふき消した。そしてしばらく様子を見ていたが、また大いびきをかいて寝入ったらしいので、自分もそっと、衾(ふすま)を打ちかついで牀(しよう)のうえに横たわっていた。
――すると、帳外の扉(と)を、誰かコツコツと叩く者がある。蒋幹は息をころしていた。やがて佩剣(はいけん)の音が入ってきた。周瑜の腹心の大将らしい。しきりにゆり起して、何かささやいている声がする。
周瑜は、やっと起き上がった。そして蒋幹のほうを見て、
「この寝所へ、自分と共に寝こんだやつは、一体どこの何者だ」
などと訊ねている。
腹心の大将が、それは閣下のご友人とかいう蒋幹です、と答えると、非常に愕いた様子で、
「なに、蒋幹だと。それはいかん。……なぜもっと静かにものをいわんか」
と、急に、相手の声をたしなめながら、帳の外へ出て行った。
二人は、かなり長い間、何か立ち話をしているようであったが、時々、張允とか、蔡瑁とかいう名が、会話のうちに聞えてきた。
五
そのうちにまた、べつな声で、北国訛(なま)りの男が何かしゃべりだした。呉の陣中に北兵がいるのはいぶかしいと蒋幹(しようかん)はいよいよ聞き耳をそばだてていた。
男はこの陣中の者ではない。江北から来た密使と見える。蔡大人(さいたいじん)とか、張都督とか、蔡瑁(さいぼう)、張允(ちよういん)のことを尊称していることばつきから見ても、彼の部下か、或いはそれに頼まれてきた人間ということは想像がつく。
「……さては何か諜(しめ)し合わせに」と、先刻、拾った書簡を思いあわせて、蒋幹は身の毛をよだてた。さても、油断のならぬことよ、心もおどおどして、もう空寝入りしているのも気が気ではない。
やがてのこと――密使の男と、ひとりの大将は、用談がすんだとみえて、跫音ひそかに立ち去った。周瑜(しゆうゆ)もすぐ寝室へもどってきた。そして今度は、帳(とばり)を引いて、寝床の中へ深々ともぐりこんだ。――夜明けの待ち遠しさ。蒋幹は薄目をあいて窓外ばかり気にしていた。いい按配に、周瑜は再び大きな寝息をかき始めている。そして、窓の辺りが、ほのかに明るくなりかけた。
「……うーむ。ああ、よく眠った」
蒋幹はわざと大きく伸びをしながらそう呟いてみた。周瑜は眼を覚まさない。しめたと、厠へ立つふりをして、内房から飛び出した。外はまだ暁闇、わずかに東天(しののめ)の空が紅い。
陣屋の轅門(えんもん)まで来ると、
「誰だっ?」
番兵に見咎められて、一喝を浴びた。蒋幹はぎょっとしたが、強いて横柄に構えながら、
「周都督の客にむかって、誰だとは何事だ。わしは都督の友人蒋幹じゃが」
と、肩を高くして振向いた。
番兵らはあわてて敬礼した。蒋幹は悠々と背を向けたが、番兵たちの眼から離れると、風の如く駈け出して、江岸の小舟へ飛び乗った。
曹操は彼の帰りを待ちかねていた。周瑜の降伏を深く期待していたのである。だが、立ち帰ってきた蒋幹は、
「どうもその事はうまく行きませんでした」と、まず復命した。
あきらかに、曹操の面は失望の色におおわれた。しかし――と、蒋幹は唇を舐めてそれに云い足し、
「より以上な大事を、呉の陣中から拾ってきました。これをもって、いささかお慰めください」
と、周瑜の寝室から奪ってきた書簡の一つを差し出した。
味方の水軍都督蔡瑁、張允のふたりが、敵へ通謀して、しかも曹操の首を打つことは、逆意でも裏切りでもなく、故主劉表(りゆうひよう)の復讐であると、それには揚言しているではないか。
「すぐ、二人を呼べ」
彼の忿怒(ふんぬ)は、尋常でなかった。武士の群れはたちまち走って、二人を捕えて来た。――犬畜生でも見るように、曹操は、はッたと両名を睨(ね)めつけて、
「出しぬけに、先手を喰って貴様たちは、さぞ度胆(どぎも)をつぶしたろう。身のほどわきまえぬ悪計を企むと、運命というやつは、たいがい逆に転んでくるものだ。――誰でもよしっ、この剣をもって、そいつらの細首を打ち落せ」と、佩剣(はいけん)を武士に授けた。
蔡瑁、張允は仰天して、
「何をご立腹なのか、それがしどもには考えもつきません。理由を仰せ聞かせ下さい」
と、蒼白になっていった。
曹操は耳をかさず、
「ふてぶてしい下司(げす)ども、これを見ろ。これは誰の書簡だ」
と、例の一通を、二人の眼の前に投げつけた。張允は見るやいなや、
「あっ、偽書だ。こんな、敵の謀略にのって」
と、跳び上がったが、その叫びも終らないうちに、後ろにまわっていた武士の手から、戛然(かつぜん)、大剣は鳴って、その首すじへ振り落された。つづいて、逃げようとした蔡瑁の首も、一刀両断のもとに転がっていた。
陣中(じんちゆう)戯言(ぎげん)なし
一
その後すぐ呉の諜報機関は、蔡瑁(さいぼう)、張允(ちよういん)の二将が曹操(そうそう)に殺されて、敵の水軍司令部は、すっかり首脳部を入れ替えたという事実を知った。
周瑜(しゆうゆ)は、それを聞いて、
「どうだ、おれの計略は、名人が弓を引いて、翊(か)ける鳥を射的(いあ)てたようにあたったろうが」
と、魯粛(ろしゆく)へ誇った。
よほど得意だったとみえて、なお問わず語りに、
「あの蔡瑁、張允のふたりが、水軍を統率している間は油断がならぬと、先夜のこと以来、憂えていたが、これでもう魏の船手も怖るるに足らん。早晩、曹操の運命は、この掌(たなごころ)のうちにあろう」
と、いって、またふと、
「――だが、この深謀を、わが計と知るものは、今のところ、味方にもないが、或いは孔明(こうめい)だけはどう考えているかわからん。ひとつ、ご辺がさあらぬ顔して、孔明を訪れ、彼がこのことを、なんと批判するか探ってみぬか。それも後々の備えに心得ておく必要があるからな」と、つけ加えた。
翌日、魯粛は、孔明の船住居を訪れた。一艘の船を江岸につないで、孔明は船窓の簾(れん)を垂れていた。
「この頃は、軍務に忙しく、ついご無沙汰していましたが、お変りありませんか」
「見らるる如く、至って無聊(ぶりよう)ですが……実は、今日にも一度出向いて、親しく周都督へ賀をのべたいと思っていたところです」
「賀を? ……ほほう、一体、何のお慶びがあって?」
「あなたがご存じないわけがないが」
「いや、忙務におわれていたせいか、まだ何も聞いてません。賀とは、何事をさして、仰っしゃるのか」
「つまり周都督が、あなたをここにつかわして、私の胸をさぐらせようとなすった――そのことです」
「えっ……?」
魯粛は、色を失って、茫然、孔明の顔をしばらく眺めていたが、
「先生。……どうしてそれをご承知なのですか」
「おたずねは愚です。蒋幹(しようかん)をすら首尾よくあざむき得た周都督の叡智(えいち)ではありませんか。今に自然おさとりになるにちがいない」
「いや、どうも、先生の明察には愕きました。そう申されては、一言もありません」
「ともあれ、蒋幹を逆に用いて、蔡瑁、張允を除いたことは、周都督として、まことに大成功でした。仄聞(そくぶん)するに、曹操は二人の亡きあとへ、毛〓(もうかい)、于禁(うきん)を登用して、水軍の都督に任じ、もっぱら士気の刷新と調練に旦暮(たんぼ)も怠らず――とかいわれていますが、元来、毛〓も于禁も船軍の大将という器ではありません。やがて自ら破滅を求め、収拾にも窮せんこと火をみるより明らかです」
何から何まで先をいわれて、魯粛は口をひらくこともせず、ただ呆れ顔していた。そして非常に間のわるい気もするので、無用な世間ばなしなどを持ち出し、辛くも座談をつくろってほうほうの態に立ち帰った。
彼の帰りかけるとき、孔明は、船の外まで送って来て、こう彼の口を誡(いまし)めた。
「本陣へお戻りになっても、すでに孔明がこのたびの計を知っていたということは、周都督へも、どうかいわないでおいて下さい。――もし、それと聞けば、都督はまた必ずこの孔明を害そうとなさるにちがいない。人間の心理というものはふしぎなものに作用されがちですからな」
魯粛は、うなずいて彼と別れて来たが、周瑜の顔を見ると、隠していられなかった。――ありのままを復命して、
「孔明の炯眼(けいがん)には、まったく胆(きも)をつぶされました。あながち、きょうばかりではありませんが」
と、つい周瑜に向って、すべてを仔細に語ってしまった。
二
魯粛(ろしゆく)の復命を聞いて、周瑜(しゆうゆ)はいよいよ孔明(こうめい)を怖れた。炯眼(けいがん)明察、彼のごとき者を、呉の陣中に養っておくことは、呉の内情や軍の機密を、思いのまま探ってくれと、こちらから頼んで、保護してやっているようなものである――と思った。
と、いって、今さら。
孔明を夏口へ帰さんか、これまた後日の患(わずら)いたるや必定である。たとい玄徳(げんとく)を呉の翼下(よくか)にいれても、彼の如き大才が玄徳についていては、決して、いつまでそれに甘んじているはずはない。
その時に到れば、孔明が今日、呉の内情を見ていることが、ことごとく呉の不利となって返って来るだろう。――如(し)かず、いかなる手段と犠牲を覚悟しても、いまのうちに孔明の息の根をとめてしまうに限る!
「……そうだ、それに限る!」
周瑜が独りして大きく呟いたので、魯粛はあやしみながら、
「都督。それに限るとは、何のことですか」と、たずねた。
周瑜は、笑って、
「訊くまでもあるまい。孔明を殺すことだ。断じて彼を生かしておけんという信念をおれは改めてここに固めた」
「理由なく彼を殺せば、一世の非難をうけましょう。呉は信義のない国であると謳(うた)われては、呉のために、どうでしょうか」
「いや、私怨をもって殺すのはいけないだろう。しかし公道を以て、公然殺す方法がなくもあるまい」
数日の後、軍議がひらかれた。呉の諸大将はもちろん、孔明も席に列していた。かねて企むところのある周瑜は、評議の末に、ふと話題をとらえて、
「先生、水上の戦いに用うる武器としては、何をいちばん多量に備えておくべきでしょうか」
と、孔明をかえりみて質問した。
「将来は、船軍(ふないくさ)にも、特殊な武器が発明されるかもしれませんが、やはり現状では、弩弓(いしゆみ)に優るものはありますまい」
孔明の答えを、思うつぼと、うなずいて見せながら、周瑜はなお言葉を重ねた。
「むかし周の太公望(たいこうぼう)は、自ら陣中で工匠(たくみ)を督して、多くの武器をつくらせたと聞きますが、先生もひとつ呉のために、十万の矢をつくっていただけまいか。もとより鍛冶、矢柄師(やがらし)、塗師(ぬりし)などの工匠はいくらでもお使いになって」
「ご陣中には今、そんなに矢がご不足ですか」
「されば、江上の大戦となれば、いま貯蔵の矢数ぐらいは、またたく間に費(つか)い果たして、不足を来すであろうと考えられる」
「よろしい。つくりましょう」
「十日のうちにできますか」
「十日?」
「無理は無理であろうが」
「いや、あすの変も知れぬ戦いの中。十日などと長い期間をおいては、その間に、どんなことが突発しようも知れますまい。十万の矢は、三日の間に、必ずつくり上げましょう」
「えっ、三日のうちに」
「そうです」
「陣中に戯言なし。よもお戯(たわむ)れではあるまいな」
「何でかかることに、戯れをいいましょう」
三
散会した後の人なき所で、魯粛(ろしゆく)はそっと周瑜(しゆうゆ)へいった。
「どうもおかしい。孔明のきょうの言葉は、肚にもない詐(いつわ)りではないでしょうか」
「諸人の前で、好んで不信の言を吐くはずはあるまい」
「でも、三日の間に、十万の矢がつくれるわけはありません」
「あまりに自分の才覚を誇り過ぎて、ついあんな大言を吐いてしまったのだろう。自ら生命(いのち)を呉へ送るものだ」
「思うに、夏口へ逃げ帰るつもりではないでしょうか」
「いかに生命が惜しくても、孔明たる者が、笑いをのこして、醜い逃げ隠れもなるまいが……しかし念のためだ、孔明の船へ行って、またそれとなく彼の気色をうかがって見給え」
夜に入ったので、魯粛は、あくる朝、早目に起き出(いで)て、孔明の船を訪ねた。
孔明は、外にいて、大江の水で顔を洗っていた――やあ、お早ようと、晴々いいながら近づき、楊柳の下の一石に腰かけて、
「きのうは、ひどい目にあいましたよ。粛兄(けい)としたことが、どうもお人が悪い」
と、平常の容子よりも、しごくのどかな顔つきに見える。
魯粛も、強いて明るく、
「なぜですか。それがしが人が悪いとは」
「でも、大兄は、孔明があれほど固くお口止めしたのに、すぐありのまま、周都督へ私の意中をみなしゃべってしまったでしょう。ゆえに私は、周都督から油断のならぬ男と睨まれ、三日のうちに十万の矢をつくるべし――と難題を命じられてしまいました。もしできなかったら、軍法に照らされ、必ず斬罪に処せられましょう。何とかよい思案を授けて、私を助けてください」
「これは迷惑な仰せを承るもの。都督が初め十日以内にといわれたのを、先生自ら三日のうちにして見せんと、好んで禍いを求められたのではありませんか。今さら、それがしにも、どうすることもできはしませぬ」
「いや、都督へ向って、約を解いて欲しいなどと、取りなしをおねがいする次第ではない。ご辺の支配下にある士卒五、六百人ばかりと、船二十余艘とを、しばらく孔明のためにお貸しねがいたいのだが」
「それをどうするので?」
「船ごとに、士卒三十人を乗せて、船体はすべて、青い布と、束(つか)ねた藁(わら)でおおい、この岸に揃えて下されば、三日目までに、必ず十万の矢をつくりあげ、周都督の本陣まで運ばせます。――ただしまた、このことも、決して周都督にはご内密にねがいたい。或いは、都督がお許しなきやも知れませんから」
魯粛は立ち帰って、またもその通りに周瑜へ告げた。――余りにも孔明の云いぶんが奇怪でたまらないので、いったいどういう肚だろうかを、周瑜の意見に訊ねてみたい気もあったからである。
「……分らんなあ?」
周瑜も首を傾けて考えこんだきりであった。こうなると、ふたりとも、孔明が何を考えて、そんな不可思議な準備を頼むのか、やらせてみたい気がしないでもない。
「どうしましょう」
「まあ、やるだけのことを、やらせて、見ていたらどうだ。――充分、警戒は要するが」
「では、ともかく、船二十艘に望みの兵を貸してみましょうか」
「むむ。……しかし、油断するな」
「心得ています」
第二日目の日も過ぎて、三日目の夜となった。それまでに、二十艘の兵船は、孔明のさしず通り、藁と布(ぬの)ですっかり偽装を終り、各船に兵三十人ずつ乗りこんで、むなしくなす事もなく、江岸につながれていた。
「先生、いよいよ日限は、こよい限りですな」
魯粛が、様子を見に来ると、孔明は待っていたように、
「そうです、こよい一夜となりました。ついては、大儀ながら粛兄にも、一緒に来ていただけますまいか」
「どこへですか」
「江北の岸へ」
「何をしに?」
「矢狩りに参るのです。矢狩りに……」
孔明は、笑いながら、怪訝(けげん)がる魯粛の手をとって、船の内へ誘い入れた。
覆面(ふくめん)の船団(せんだん)
一
夜靄(よもや)は深くたれこめていた。二十余艘の兵船は、おのおの、纜(ともづな)から纜を一聯に長くつなぎ合い、徐々と北方へ向って、遡航(そこう)していた。
「とんと、分りません」
「何がです」
「この船団の目的と、先生の心持が」
「は、は、は。今に自然お分りになりますよ」
先頭の一船のうちには、孔明(こうめい)と魯粛(ろしゆく)が、細い燈火の下に、酒を酌み交わしていた。
微かな火光も洩らすまいと、船窓にも入口にも帳(とばり)を垂れているが、時折どうと船体をうつ波音に灯も揺れ、杯の酒も揺れる。
「まるでこれは、覆面の船ですな、二十余艘すべて、藁と布で、くまなく船体を覆いかくしたところは」
「覆面の船。なるほど、覆面の船とは、おもしろい仰せではある」
「どうお用いになる気ですか、一体、これを」
魯粛はしきりに知りたがって訊ねたが、孔明はただ、
「この深い夜靄がはれたら分りましょう。まあ、ご心配なく」
と、ばかりで、杯を舐(な)めては、独り楽しんでいるかのようであった。
しかし、魯粛としては、気が気ではなかった。舳艫(じくろ)を連ねて北進して行く船は、行けども行けどもさかのぼっている。
「もしやこのまま、二十余艘の軍船と兵と、この魯粛の身を土産に、夏口(かこう)まで行ってしまうつもりではあるまいか?」
などと孔明の肚を疑って、魯粛はまったく安き思いもしなかった。
その夜の靄は南岸の三江地方だけでなく、江北一帯もまったく深い晦冥(かいめい)につつまれて、陣々の篝火(かがりび)すらおぼろなほどだったから、
「かかる夜こそは、油断がならぬ。諸陣とも、一倍怠るなよ」
と、曹操(そうそう)は宵のうちから、特に江岸の警備に対して、厳令を出していた。
彼のあたまには始終、(呉兵は水上の戦によく馴れている。それに比して、わが魏の北兵は、演習が足りていない)という戒心があった。
敵の数十倍もある大軍を擁しながらも、なお驕(おご)らず、深く戒(いまし)めているところは、さすがに曹操であり、驕慢が身を亡ぼした沢山な先輩や前人の例を見ているので、その轍(てつ)を踏むまいと、常に反省していることもよくうかがわれる。
――で、その夜のごときも、部下を督励したばかりでなく、彼自身も深更まで寝ていなかった。
すると、案の定、夜も四更に近い頃、江上遠く、水寨のあたりで、喊(とき)の声がする。
「すわ!」
と、彼と共に、不寝(ね ず)の番をしていた徐晃(じよこう)、張遼(ちようりよう)の二将が、すぐ本陣から様子を見に駆けだしてみると、呉の船団が、突忽(とつこつ)と、夜靄を破って現れ、今し水寨へ迫ってきた――とのことに、張遼、徐晃は驚いて、
「呉軍の夜襲です」
と、あわただしく曹操へ知らせた。
「あわてるに及ばぬ」
かねて期したることと、曹操は自身出馬して、江岸の陣地へ臨み、張遼、徐晃をして、すぐさま各射手三千人の弩弓隊(どきゆうたい)を、三団に作らせ、水上の防寨や望楼に拠らせて一斉に射させた。
二
吠える波と、矢たけびに夜は明けて、濃霧の一方から紅々(あかあか)と旭日の光がさしてきた頃、江上にあった怪船団の影はもう曹操の陣営から見えなくなっていた。
「曹丞相(じようしよう)よ、夜来のご好意を感謝する。贈り物の矢はもう充分である。――おさらば!」
孔明は、江を下ってゆく船上から、魏の水寨を振向いていった。
彼を乗せた一艘を先頭として、二十余艘の船は、満身に矢を負って、その矢のごとく下江していた。
厚い藁と布をもって包まれた船腹船楼には、ほとんど、船体が見えないほど、敵の射た矢が立っていた。
「計られたり!」
と、あとでは曹操も気がついたのであろう、無数の軽舸(けいか)をもって追撃させたが、孔明はさっそくゆうべから無数に獲た矢をもって射返した。しかも水は急なり、順風は帆を扶けて、たちまち、相距(あいへだ)つこと二十余里、空しく魏船は、それを見送ってしまった。
「どうです粛兄(けい)。このたくさんな矢が、数えきれますか」
孔明は、魯粛に話しかけた。――魯粛はゆうべから孔明の智謀をさとって、今はまったく、その神算鬼謀(しんさんきぼう)に、ただただ舌を巻いて心服するのみだった。
「とうてい、数えきれるものではありません。先生が三日のうちに、十万の矢をつくらんと約されたのは、つまりこのことでしたか」
「そうです。工匠を集めて、これだけのものをつくろうとすれば、十日でもむずかしいでしょう。なぜならば、周都督が工人どもの精励をわざと妨(さまた)げるからです。――都督の目的は、矢を獲るよりは、孔明の生命(いのち)を得んとなされているのですからな」
「あ、あ。それまでご存じでしたか」
「鳥獣(とりけもの)すら殺手(ころして)をのばせば、未然に感得して逃げるではありませんか。まして万物の霊長たるものが、至上の生命に対して、なんで無感覚におられましょうや」
「真に敬服しました。それにしても、夜来の大霧を、どうして前日からお知りになっておられたろうか。それとも偶然、ゆうべのような絶好な夜靄にめぐりあったのですか」
「およそ、将たる人は、天文に通じ、地理に精(くわ)しく、陣団の奇門を知らずしては、いわゆる将器とはいわれますまい。雲霧の蒸発などは、大地の気温と、雲行風速を案じ合すれば、漁夫のごとき無智な者にすら、予測のつくことです。三日のうちと周都督へ約したのも、そうした気象の予感が自分にあったからなので、もう意地悪く周都督が、わざとこのことを、七日先や十日先に仰せだされたら、孔明もちと困ったにちがいありません」
淡々として孔明は他人(ひ と)事(ごと)みたいに語るのである。すこしも智を慢じるふうは見えない。
ただ今朝の雲霧を破って、洋々と中天にのぼる旭光を満顔にうけて独り甚だ心は楽しむかのように見えただけである。
やがて、全船無事に、呉の北岸に帰り着いた。兵を督して、満船の矢を抜かせてみると、一船に約六、七千の矢が立っていた。総計十数万という量である。
それを一本一本あらためて、鏃(やじり)の鈍角となったのは除き、矢柄の折れたのも取捨て、すぐ使用できる物ばかりを、一把(ひとたば)一把に束ねて、十万の矢は、きれいに山となって積みあげられた。
三
魯粛の語る始終を周瑜(しゆうゆ)はさっきから頭を垂れて黙然と聞いていたが、やがて面をあげて、
「ああ……」
と、長大息すると、ありありと慚愧(ざんき)の色をあらわして、慨然(がいぜん)とこういった。
「誤てり、誤てり。ふと小我にとらわれて、ひたすら孔明の智を憎み、孔明を害さんとばかり考えていたが、彼の神機明察、とうていわれらの及ぶところではない」
さすがに周瑜も一方の人傑である。省(かえり)みて深く自分を羞(は)じ、魯粛を走らせて、すぐ孔明を迎えにやった。
やがて、孔明が見えたと聞くと彼は自ら歩を運んで、轅門(えんもん)の傍らに出迎え、慇懃(いんぎん)、師の礼をとって上座へ請じたので、孔明はあやしんで、
「都督、今日の過分は何がゆえのご優遇ですか」と、問うた。
周瑜は偽らず、
「正直にいう。それがしは遂にあなたの前に〓(かぶと)を脱ぎました。どうか今日までの非礼はおゆるしください。また、魯粛から承れば、敵地に入って敵の矢をあつめ、その十万本を見事、運んでこられた由。天来の妙計、ただただ驚嘆のほかはありません」
「はははは。そんな程度の詐術(さじゆつ)小計。なんで奇妙とするに足りましょうや。むしろ大器の者の恥ずるところです。いや、汗顔汗顔」
「お世辞ではありません。古の孫子呉子もおそらく三舎を避けましょう。きょうはお詫びのため、先生を正客にして一盞さしあげたい。魯粛とそれがしのために、願わくは、なお忌憚(きたん)ないご腹中を聞かせ給わらぬか」
席をあらためて、酒宴に移ったが、その酒中でも、周瑜はかさねて云った。
「実はきのうも呉君孫権(そんけん)からお使いがあって、一日も早く曹操をやぶるべきに、空しく大兵大船をとどめて何をしているぞとのお叱りです。とはいえまだ不肖の胸には必勝の策も得られず、確たる戦法も立っておりません。お恥かしいが、曹操の堅陣に対し、その厖大(ぼうだい)な兵力を眼のあたりにしては、まったく手も脚も出ないというのが事実ですから仕方がない。どうか我々のために先生の雄策を以て、かの大敵を打ち破る手段もあればお教えください。かくの通り、頭を垂れておねがいします」
「なんのなんの、足下は江東の豪傑、碌々(ろくろく)たる鈍才孔明ごときが、お教えするなどとは思いもよらぬ。僭越です。良策など、あろう筈もない」
「由来、先生はご謙遜にすぎる。どうかそういわないで胸襟(きようきん)をおひらき下さい。――先頃、この魯粛を伴うて、暗夜、ひそかに江をさかのぼり、北岸の敵陣をうかがいみるに、水陸の聯鎖(れんさ)も完(まつた)く、兵船の配列、水寨(すいさい)の構築など、実に法度(はつと)によく叶(かな)っている。あれでは容易に近づき難い――と、以来、破陣の工夫に他念なき次第ですが、まだ確信を得ることができないのです」
「……しばらく、語るをやめ給え」と、制して孔明もややしばし黙考していたが、やがて、
「ここに、ただひとつ、行えば成るかと思う計がある。……が、都督の胸中も、まったく無為無策ではありますまい」
「それは、自分にも、最後の一計がないわけでもないが……」
「二人しておのおの掌(て)のうちに書いて、あなたの考えと私の考えが、違っているか、同じであるか開き合ってみようではありませんか」
「それは一興ですな」
直ちに硯をとりよせると、互いに筆を頒(わか)ち、掌に何やら書いて、
「では」
と、拳(こぶし)と拳を出し合った。
「いざご一緒に」
孔明はそういいながら掌をひらいた。周瑜も共に掌をひらいた。
見ると――
孔明の掌にも、火の一字が書いてあったし、周瑜の掌にも、火の字が書かれてあった。
「おお、割符(わりふ)を合わせたようだ」
二人は高笑してやまなかった。魯粛も盃を挙げて、両雄の一致を祝した。ゆめ、人には洩らすなかれと、互に秘密を誓い合って、その夜は別れた。
風(かぜ)を呼(よ)ぶ杖(つえ)
一
このところ魏軍江北の陣地は、士気すこぶる昂(あが)らなかった。
うまうまと孔明(こうめい)の計(はかりごと)に乗って、十数万のむだ矢を射、大いに敵をして快哉(かいさい)を叫ばせているという甚だ不愉快な事実が、後になって知れ渡って来たからである。
「呉には今、孔明があり、周瑜(しゆうゆ)もかくれなき名将。ことに大江をへだてて、彼の内情を知る便りもありません。ひとつお味方のうちから人を選んで、呉軍の中へ、埋伏(まいふく)の毒を嚥(の)ませてはいかがでしょう」
謀将の荀攸(じゆんゆう)は、苦念の末、こういう一策を、曹操へすすめた。
埋伏の毒を嚥ます――という意味は、要するに、甘いものに包んだ劇毒を嚥み下させて、敵の体内から敵を亡ぼそうという案である。
「さあ。それは最上の計だが、しかし兵法では最も難しい謀略といわれておるもの。――まず第一にその人選だが、誰か、よい適任者がおるだろうか」
曹操のことばに、荀攸は、考えを打ち明けた。
「先頃、丞相がご成敗になった蔡瑁(さいぼう)の甥(おい)に、蔡和(さいか)、蔡仲(さいちゆう)という者がいます。叔父蔡瑁がお手討ちになったため、いま謹慎中の身でありますが」
「おお。さだめし予を恨んでおるだろうな」
「そこです。当然誰もがひとしく、そう考えるであろうところこそ、この策謀の狙いどころであり、また重要な役割を果たしましょう」
「では、蔡和、蔡仲のふたりを用いて、呉へ入れるというのか」
「さればで。――まず丞相が二人を召されて、よく彼らの心をなだめ、また利と栄達をもって励まし、江南へ放って、呉軍へ騙(いつわ)って降伏させます。――敵はかならず信じます。なぜなら、丞相に殺された蔡瑁の甥ですから」
「しかし、かえって、それをよい機(しお)に、ほんとに呉へ降って、味方の不利を計りはしまいか。予を、叔父の讐(かたき)と恨んで」
「大丈夫です。荊州には、蔡和、蔡仲の妻子が残っています。なんで、丞相に弓が引けましょう」
「あ。なるほど」
曹操はうなずいて、荀攸の心にまかせた。翌る日、荀攸は、謹慎中の二人を訪うて、まず赦免(しやめん)の命を伝えて恩を売り、やがて伴って曹操の前へ出た。
曹操は二人に酒をすすめ、将来を励まして、
「どうだ、叔父の汚名をそそぐ気で、ひとつ大功を立ててみぬか」と、計画を話してみた。
「やりましょう」
「進んで御命を拝します」
二人とも非常な意気込みを示した。曹操は満足して、このことが成功したあかつきには、恩賞はもちろん末長く功臣として重用するであろうと約した。
「お心を安んじて下さい。かならず周瑜、孔明の首を土産に帰ってきます」
大言をのこして、蔡兄弟は、次の日出発した。もちろん脱陣の偽装をつくってゆく必要がある。船数艘に、部下の兵五百ばかり乗せ、取る物も取りあえず、命がけで脱走してきたという風を様々な形でそれに満載した。
帆は風をはらみ、水はこの数艘を送って、呉の北岸へ送った。――折ふし呉の大都督周瑜は、軍中を巡察中だったが、いま敵の陣から、二人の将が、兵五百をつれて、投降してきたと聞くと、明らかに喜色をあらわして、
「すぐ召しつれて来い」と、営中に待ちかまえていた。
やがて蔡和、蔡仲はきびしく護衛されながら引かれて来た。周瑜はまず二人へたずねた。
「足下たちは、なぜ、曹操のもとを脱して、わが呉へ降って来たか。武門の人間にも似合わん不徳な行為ではないか」
二
悄然と、二人は頭を垂れて、落涙をよそおいながら答えた。
「われわれ両名は、曹操のために殺された魏の水軍司令、蔡瑁(さいぼう)の甥にございます。――叔父の瑁は、罪もなく討たれたものの、故主の成敗を、悪しざまにいい呪(のろ)えば、これも反覆常なしと、人は眉をひそめましょう。家父(かふ)とも頼む叔父に死なれ、主と仰ぐ人には忌(い)まれ疑われ、寄るに陣地なく、遂に江北を脱してこれへ参りましたもの。――願わくはそれがし両名の寸命を用いて、良き死場所をお与えください」
周瑜(しゆうゆ)は、即座に、
「よろしい。誓って、呉のために尽す気ならば、今日以後、わが陣中に留まるがいい」
と、これを甘寧(かんねい)の配下に附属させた。
ふたりは、心中に、
(仕済(しす)ましたり)
と、舌を吐きながらも、表面はいと悄々(しおしお)と、恩を謝して退出した。
魯粛(ろしゆく)は、そのあとで、
「都督、大丈夫ですか」と、疑わしげに、彼の心事を確かめた。
周瑜は、得々として、
「さしも忠臣といわれた蔡瑁なのに、罪もなく殺されては、彼の親身たるもの、恨むまいとしても、恨まずにはおられまい。曹操を離れて、われに来たのは、けだし、南風が吹けば南岸へ水禽(みずどり)が寄ってくるのと同じ理である。何を疑う余地があろう」と笑うのみで、省(かえり)みる風もなかった。
魯粛は、その日、例の船中で孔明に会ったので、周瑜の軽忽(けいこつ)な処置を、嘆息して語った。
すると、孔明もまた、にやにや笑ってばかりいる。何故、笑い給うかと、魯粛がなじると、
「余りに要らぬご心配をしておられるゆえ、つい笑いがこぼれたのです」
と、孔明は初めて、周瑜の心に、計(はかりごと)のあることに違いないと、自分の考えを解いて聞かせた。
「蔡和(さいか)、蔡仲(さいちゆう)の降参は、あきらかに詐術(いつわり)です。なんとなれば、妻子は江北に残しておる。周都督も、それはすぐ観破されたに相違ないが、互いに江(こう)をへだてて、両軍とも戦いによき手がかりもないところ――これは絶好の囮(おとり)と、わざと、彼の計に乗った顔して、実はこちらの計略に用いようと深く企んでおられるものと考えられる」
「ああ、なるほど!」
「どうです、ご自身でも笑いたくなりはしませんか」
「いや笑えません。どうしてそれがしは、こう人の心を見るに鈍(どん)なのでしょう。むしろ己れの不敏に哀れを催します」と、深く悟って帰った。
その夜、呉陣第一の老将黄蓋(こうがい)が、先手の陣からそっと本営を訪ねて来て、周瑜と密談していた。
黄蓋は孫堅(そんけん)以来、三代呉に仕えてきた功臣である。白雪の眉、炯々(けいけい)たる眸、なお壮者をしのぐものがあった。
「深夜、お訪ねしたのは、余の儀でもないが、かく対陣の長びくうちに、曹操はいよいよ北岸の要寨をかため、その船手の勢は、日々調練を積んで、いよいよ彼の精鋭は強化されるばかりとなろう。しかのみならず、彼は大軍、味方は寡兵(かへい)、これを以て、彼を討つには火計のほかに兵術はないと思う。……周都督、火攻めはどうじゃ、火術の計は」
「しっッ」と周瑜は、老将の激(げき)しこむ声音(こわね)を制して、
「おしずかに、ご老台。あなたは一体、誰からそんなことを教えられましたか」
「誰から? ……馬鹿をいわっしゃい。わしの本心から出た信念じゃ」
「ああ、ではやはり、ご老台の工夫とも一致したか。――ではお打明けするが、実は、降人(こうじん)の蔡仲、蔡和の両名は、詐(いつわ)って呉へ投じてきたが、それを承知で、味方のうちに留めてあります。敵の謀略の裏をかいて、こちらの謀略を行わんためにです」
「ふむ。それは妙だ。してその降人を、都督には、どう用いて、曹操の裏をかくおつもりか? ……」
三
「その奇策を行うには、呉からも曹操の陣へ、詐(いつわ)りの降人を送りこむ必要がある。……が、恨むらくは、その人がありません。適当な人がない」
周瑜(しゆうゆ)が嘆息をもらすと、
「なぜ、ないといわるるか」
黄蓋(こうがい)は、せき込むように、身をすすめて、詰問(な じ)った。
「呉国、建って以来、ここ三代。それしきのお役に立つ人もないとは、周都督のお眼がほそい。――ここに、不肖ながら、黄蓋もおるつもりでござるに」
「えっ。……ではご老台が、進んでその難におもむいて下さるとか」
「国祖孫堅将軍以来、重恩をこうむって、いま三代の君に仕え奉るこの老骨。国の為とあれば、たとい肝脳(かんのう)地に塗(まみ)るとも、恨みはない。いや本望至極でござる」
「あなたにそのご勇気があれば、わが国の大幸というものです。……では」
周瑜は、あたりを見まわした。陣中寂(せき)として、ここの一穂(いつすい)の燈火(ともしび)のほか揺らぐ人影もなかった。
何事か、二人はしめし合わせて、暁に立ち別れた。周瑜は、一睡してさめると、直ちに、中軍に立ち出で、鼓手(こしゆ)に命じて、諸人を集めた。
孔明も来て、陣座のかたわらに床几(しようぎ)をおく。周瑜は、命を下して、
「近く、敵に向って、わが呉はいよいよ大行動に移るであろう。諸部隊、諸将は、よろしくその心得あって、各兵船に、約三ヵ月間の兵糧を積みこんでおけ」と命じた。
すると、先手の部隊から、大将黄蓋がすすみ出ていった。
「無用なご命令。いま、幾月の兵糧を用意せよと仰せられたか」
「三月分と申したのだが、それがどうした」
「三月はおろか、たとえ三十ヵ月の兵糧を積んだところで無駄な業(わざ)、いかでか、曹操の大軍を破り得よう」
周瑜は、勃然(ぼつぜん)と怒って、
「やあ、まだ一戦も交じえぬに、味方の行動に先だって不吉なことばを! 武士ども、その老いぼれを引っくくれ」
黄蓋も眦(まなじり)を裂いて、
「だまれ周瑜。汝、日頃より君寵をかさに着て、しかも今日まで、碌々(ろくろく)と無策にありながら、われら三代の宿将にも議を諮(はか)らず、必勝の的(あて)もなき命をにわかに発したとて、何で唯々諾々(いいだくだく)と服従できようか。――いたずらに兵を損ずるのみだわ」
「ええ、いわしておけば、みだりに舌をうごかして、兵の心を惑(まど)わす痴(し)れ者め。誓って、その首を刎ね落さずんば、何を以て、軍律を正し得ようか。――これっ、なぜその老いぼれに物をいわしておくか」
「ひかえろ、周瑜、汝ごときは、せいぜい、先代以来の臣ではないか。国祖以来三代の功臣たる此方に、縄を打てるものなら打ってみよ」
「斬れっ。――彼奴(きやつ)を!」
面に朱をそそいで、周瑜の指は、閻王(えんおう)が亡者(もうじや)を指さすように、左右へ叱咤した。
「あっ、お待ち下さい」
一方の大将甘寧(かんねい)が、それへ転(まろ)び出て、黄蓋に代って罪を詫びた。
しかし黄蓋も黙らないし、周瑜の怒りもしずまらなかった。果ては、甘寧まで、その間から刎ね飛ばされてしまう。
「すわ、一大事」と諸大将も、今はみな色を失って、こもごもに仲裁に立った。いやともかく大都督周瑜に対して抗弁はよろしくないと、諸人地に額(ひたい)をすりつけて、
「国の功臣、それに年も年、なにとぞ憐みを垂れたまえ」と、哀願した。
周瑜はなお肩で大息をついていたが、
「人々がそれほどまでに申すなれば、一時、命はあずけておく。しかし軍の大法は正さずにはおけん。百杖(じよう)の刑を加えて、陣中に謹慎を申しつける」と、云い放った。
即ち、獄卒に命じて杖(じよう)百打(だ)を加えることになった。黄蓋はたちまち衣裳甲冑(かつちゆう)をはぎとられ、仮借(かしやく)もなく、棍棒を振りあげてのぞむ獄卒の眼の下に、無残、老い細った肉体を、しかも衆人環視の中に曝(さら)された。
四
「打て、打てっ、仮借いたすなっ。ためらう奴は同罪に処すぞ!」
怒りにふるえ、猛(たけ)りに猛って、周瑜(しゆうゆ)の耳は、詫び入る諸将のことばなど、まるで受けつけなかった。
「一打! 二打 三打!」
杖を持った獄卒は、黄蓋(こうがい)の左右から、打ちすえた。黄蓋は地にうッ伏して、五つ六つまでは、歯をくいしばっていたが、たちまち、悲鳴をあげて跳び上がった。
そこをまた、
「十っ……。十一っ……」
杖は唸って、この老将を打ちつづけた。血はながれて白髯に染み、肉はやぶれて骨髄(こつずい)も挫(くだ)けたろうと思われた。
「九十っ。九十一っ……」
百近くなった時は、打ちすえる獄卒のほうも、へとへとに疲れていた。もちろん黄蓋ははや虫の息となって、昏絶してしまった。周瑜もさすがに、顔面蒼白になって、睨(ね)めつけていたが、唾(つば)するように指して、
「思い知ったか!」
云い捨てると、そのまま、営中へ休息に入ってしまった。
諸将はその後で、黄蓋を抱きかかえ、彼の陣中へ運んで行ったが、その間にも、血は流れてやまず、蘇生してはまたすぐ絶え入ること幾度か知れないほどだったので、日頃、彼と親しい者や、また呉の建国以来、治乱のあいだに苦楽を共にしてきた老大将たちは、みな涙をながして傷(いた)ましがった。
この騒ぎを後に、孔明はやがて黙々と、自分の船へ帰って行った。そして独り船の艫(とも)にいて、船欄(せんらん)から下をのぞみ、何事か沈吟にふけりながら、流るる水を見入っていた。
魯粛(ろしゆく)は、彼のあとを追ってきたらしく、孔明がそこに腰かけていると、すぐ前に現れて話しかけた。
「どうも、きょうのことばかりは、胸が傷みました。周都督は、軍の総司令だし、黄蓋は年来の先輩。諫(いさ)めようにも、あのお怒りでは、かえって、火に油をそそぐようなものですし……ただはらはらするのみでした。――けれど、先生は他国の賓客であり、先頃から周都督も、心から尊敬を払っておられるのですから、もし先生が、黄蓋のために取りなして下さればとは、ひとり魯粛ばかりでなく、みなそう思っていたらしく見えました。……然るに、先生は終始黙々、手を袖にして、ついに一言のお口添えもなさらず、ただ見物しておられた。……それには何か深いお考えでもあったのですか」
「はははは、それよりもお訊きしたいのは、貴公こそ、何故、この孔明を欺(あざむ)こうとはなさるるか」
「や? これは異(い)な仰(おお)せ。あなたを呉へお伴れして参ってから以来、それがしはまだあなたを欺いたことなど一度もないつもりですが」
「――ならば、貴公はまだ、兵法に秘裏変表(ひりへんぴよう)の不測あることをご存じないとみえる。周瑜が今日、朱面怒髪(しゆめんどはつ)して、黄蓋に百打の笞(しもと)を刑し、憤然、陣中の内争を外に発してみせたのは、みな曹操をあざむく計である。何でそれを孔明が諫めよう」
「えっ、ではあれも計略ですか」
「明白な企(たくら)み事です。――が、粛兄(しゆくけい)。孔明がそういったということは、周都督へは、必ず黙っていて下さいよ。問われても」
「……ははあ! さては」
魯粛は、気の寒うなるのを覚えた。けれどなお半信半疑なここちで、その夜、ひそかに帳中で、周瑜と語ったとき、周瑜から先にこう云い出したのを幸いに、糺(ただ)してみた。
「魯粛、きょうのことを、陣中の味方は皆、どう沙汰しているね」
「滅多に見ないお怒りようと、みな恟々(きようきよう)としておりますよ」
「孔明は? ……何といっておるかね」
「都督も、情けないお仕打ちをするといって、哀んでおりました」
「そうか! 孔明もそういっていたか」と手を打って、
「初めて孔明をあざむくことができた。孔明がそう信じるほどなら、このたびのわが計は、かならず成就しよう。いや、もう図にあたれりといってもいい」
周瑜は会心の笑みをもらして、初めて魯粛に心中の秘を打ち明けた。
一竿翁(いつかんおう)
一
ここ四、五日というもの黄蓋(こうがい)は陣中の臥床(ふしど)に横たわったまま粥をすすって、日夜呻(うめ)いていた。
「まったくお気の毒な目にあわれたものだ」
と、入れ代り立ちかわり諸将は彼の枕頭を見舞いに来た。
或る者は共に悲しみ、或る者は共に傷(いた)み、また或る者はひそかに周瑜(しゆうゆ)の無情に対して共に恨みをもらした。
日ごろ親しい参謀官の〓沢(かんたく)も見舞いに来たが、彼のすがたを見ると、暗涙をたたえた。黄蓋は、枕頭の人々を退けて、
「よく来てくれた。誰が来てくれたよりうれしい」と、無理に身を起して云った。
〓沢は、傷ましげに、
「将軍はかつて、何か、周都督から怨まれていることでもあったのか」と、訊ねた。
黄蓋は顔を振って、
「何もない……。旧怨などは何もない」
「それにしては、余りに今度のことは理に合わないご折檻(せつかん)ではありませんか。傍目(はため)にも疑われるほど……実に苛烈すぎる」
「いや、ご辺のほかには、真実を語るものはない。それ故に、見えられるのを心待ちにしていたのだ」
「将軍。察するところ、過日、衆人の中であの責苦(せめく)をうけられたのは、何か苦肉(くにく)の計ではないのですか」
「しッ。……静かにされよ。……して、それをば、如何にして察しられたか」
「周都督の形相といい、あの苛烈きわまる責め方といい、あまりに度を過ぎたりと思うにつけ……日頃のあなたと都督の交わりをも想い合わせて、実は九分までは察していました」
「ああ、さすがは〓沢。よく観られた。まさにその通りにちがいない。不肖、呉に仕えて、三代のご恩をうけ、いまこの老骨を捧げても、少しも惜しむところはない。……故に、自らすすんで一計を立て、まず味方を欺かんがためにわざと百打(だ)の笞(しもと)をうけたものじゃ。この苦痛も呉国のためと思えば何でもない」
「さてはやはりそうでしたか。……が、それまで思いこまれた秘策をひとりこの〓沢にのみお打ち明け下すったのは、この〓沢をして将軍の懐刀(ふところがたな)とし、それがしに曹操(そうそう)へ使いする大役を仰せつけたいお心ではありませんか」
「そうだ。まことに、ご辺の察する通り、ご辺をおいて、誰にこの大事を打ち明け、さらに、大事の使いを頼めようか」
「よくこそ、お打ち明け下さいました。私を知って下さるものです」
「では、行ってくれるか?」
「大丈夫、ひとたび、信をうけて、なんで己れを知る人に反(そむ)けましょうぞ。世に出て君に仕え、剣を佩(は)いて風雲に臨みながら、一功も立てずに朽ちるくらいなら、生きていても生きがいはありません。まして老将軍すら、一命を投げ出して、計りごとにかかっておられるのに、どうして小生らが、微生(びせい)を惜しみましょう」
「ありがたい」
黄蓋は彼の掌(て)をとって、じぶんの額(ひたい)にあてながら、涙をながした。
「事、延引しては、機を誤るおそれがある。将軍、そうきまったら、直ちに、曹操へ宛てて一書をおかきなさい。それがしが、如何にもしてそれをたずさえて参りますれば」
「おお、その書簡はすでに人知れず認めて、これに隠してある」
枕の下から厚く封じた一通を手渡した。〓沢はそれを受取ると、さりげなく暇を告げ、夜に入ると、いつか呉の陣中からすがたを消していた。
それから幾夜の後とも知れず、魏の曹操が水寨(すいさい)のほとりで独り釣糸を垂れている漁翁があった。
悠々千里の流れに漁(すなど)りして、江岸に住んでいる漁夫や住民は、もう連年の戦争にも馴れていて、戦いのない日には、閑々として網を打ち、鈎(はり)を垂れているなど、決してめずらしい姿ではなかった。
――だがこのところ、ひどく神経の鋭くなっている曹軍の見張りは、あまりに漁翁が水寨に近づいて釣しているので、
「怪しい老ぼれ?」
と見たか、たちまち走舸(はやぶね)を飛ばしてきて、有無をいわさず搦め捕り、そのまま陸へ引ッ立てて行った。
二
軍庁の一閣に、侍臣は燭をとぼし、曹操は寝房(しんぼう)を出て、この深夜というに、ものものしく待ちかまえていた。
(呉の参謀官〓沢(かんたく)が、一漁翁に身をやつし、何ごとか曹丞相(じようしよう)に謁して、直言申しあげたいとのこと――)と、耳おどろかす報らせが、たった今、曹操の夢を醒ましたのであった。
これに依ってみると、水寨の番兵に捕まった漁翁は、魏の陣中へ引かれてくるとすぐ、
(自分こそは、呉の参謀〓沢である)と、自ら名乗ったものとみえる。
――程なく。
曹操の面前には、みすぼらしい一竿翁(いつかんおう)が、部将たちに取り囲まれて引かれてきた。――が、さすがに一かどの者、端然と、階下に座をとり、すこしも周囲の威圧に動じるふうも見えなかった。
曹操も厳(おごそ)かにいう。
「汝は、敵国の参謀官とか聞いたが、何を血迷うて、予の陣営へ来たか」
「…………」
黙然と、見つめていたが、やがて〓沢は、ふふふふと、唇を抑えて失笑した。
「見ると聞くとは大きな違い。曹丞相は、賢(けん)を愛し、人材を求むること、旱(ひでり)に雲霓(うんげい)を望むごとしと、世評には聞いていたが……。いやはや……これでは覚束(おぼつか)ない。――ああ黄蓋(こうがい)も人を知らずじゃ! こんな似非(え せ)英雄に渇仰(かつごう)して、とんでもないことをしてしまったものだ」
独り嘆じるが如く、うそぶいた。
曹操は、眉をひそめた。――変なことをいう漢(おとこ)かなといぶかったのであろう。急に怒る色もなく、
「敵国の参謀たるものが、単身、しかも漁翁に身を変えて、これへ来る以上、その真意を糺(ただ)すは、当然であろう。なぜ、それについて、しかと答えぬか」
「さればよ! 丞相。これに来る以上、それがしとても、命がけでなくては能(かな)わぬ。然るに、血迷うて何しにきたかなどと、決死の者に対して、揶揄(やゆ)するような言を弄(ろう)さるるゆえ、思いつめてきた張合いも抜け、思わず思うまま嘆息したのじゃ」
「呉を滅ぼさんは、わが畢生(ひつせい)の希(ねが)いである。その目的に添うことならば、あらためて非礼を謝し、謹んで汝の言を聞こう」
「丞相にとっては天来の好事である。敬(うやも)うて聞かれよ。――呉の黄蓋、字(あざな)は公覆(こうふく)、すなわち三江の陣にあって、先鋒の大将をかね呉軍の軍粮総司(ぐんろうそうし)たり。この人、三代があいだ呉に仕え、忠節の功臣たること、世みな知る。――然るを、つい数日前、寸言、周都督に逆らえりとて、諸大将のまっただ中にていたく面罵せられたるのみか、すでに老齢の身に、百打(だ)の刑杖を加えられ、皮肉裂け、血にまみれ、気は喪(うしな)うにいたる。諸人、面をそむけ、ひそかに都督の酷薄(こくはく)をうらまぬはない。それがしは、黄蓋と古くより親交あり、日頃、兄弟の交わりをなせるものから、蓋老(がいろう)、病床に苦吟しつつ、ひそかに一書を認め、それがしに託して、丞相に気脈を寄せらる。――もとより骨髄(こつずい)に徹する恨みを、はらさんがためでござる。幸いにも、黄蓋は武具兵粮(ひようろう)を司(つかさ)どる役目にあれば、丞相だに、諾(だく)! とご一言あれば、不日、呉陣を脱して、呉の兵糧武具など、及ぶかぎり舷に積載してお味方へ投じるでござろう」
眼をみひらき、耳を欹(た)てて、曹操は始終を聞き入っていたが、
「ふーむ。……して、黄蓋の書面なるものを、それへ持参したか」
「肌に秘して、持ち参りました」
「ともあれ、一見しよう」
「……いざ」
と、〓沢は、侍臣の手を通して、書面を曹操の卓へ提出した。
曹操は、几(つくえ)の上にひらいて、十遍あまり読み返していたが、どんと拳(こぶし)で案(つくえ)を叩きながら、
「浅慮(あさはか)浅慮。これしきの苦肉の計に、いかでこの曹操が詐(いつわ)られようか。明白なる謀略だ。――それっ、部将輩(ぶしようばら)、その船虫みたいなむさい老爺(おやじ)を、営外へ曳きだして斬ってしまえ」
云いすてるや否、黄蓋の書状は、その手に引き裂かれていた。
三
〓沢(かんたく)は、自若として、少しもさわがないばかりか、かえって、声を放って笑った。
「あははは。小心なる丞相かな。この首を所望なら、いつでも献上しようものを、さりとは、仰山(ぎようさん)至極。音に聞く魏の曹操とは、かかる小人物とは思わなかった」
「だまれ。かような児戯にひとしい謀計をたずさえて、予をたばからんとなすゆえ、汝のそッ首を刎ねて、わが軍威を振い示さんは、総帥の任だというのに、汝こそ、何がおかしいか」
「いや、それを嗤(わら)うのではない。余りといえば黄蓋(こうがい)が、曹操などという人物を買いかぶっているのを愍笑(びんしよう)したまでだ」
「無駄だ。巧言を止めろ。われも幼少から兵書を読み、孫子呉子の神髄(しんずい)を書に捜(さぐ)っている。別人ならば知らぬこと、この曹操がいかで汝や黄蓋ごとき者の企てに乗ろうぞ」
「いよいよおかしい。いや笑止千万だ。それほど、蛍雪(けいせつ)の苦を学びの窓に積み、弱冠より兵書に親しんできたという者が、何故、この〓沢のたずさえて来た書簡に対し、一見、真か嘘か、その実相すらつかみ得ないのか。世の中にこれほどばかばかしい自慢はあるまい」
「では、冥途(めいど)のみやげに、黄蓋の書簡をもって、予が詐術(さじゆつ)なりと観破した理由をいって聞かせてやろう。しかと耳の垢(あか)を払って聞くがいい――書中、黄蓋がいっているように、我への降参が、本心からのものならば、かならず味方に来る時の日限を明約していなければならん。然るに書中にはその日時には何も触れておらぬ。これ、本心にない虚構の言たる証拠であろう」
「これは、異な説を聞くものだ。みだりに兵書を読めばとて、書に読まれて、書の活用を知らぬものは、むしろ無学より始末がわるい。そんな凡眼で、この大軍をうごかし、呉の周瑜(しゆうゆ)に当るときは、たちまち、敵の好餌――撃砕されるにきまっている」
「何、敗れるにきまっていると」
「然り、小学の兵書に慢じ、新しき兵理を究(きわ)めず、わずか、一書簡の虚実も、一使の言の信不信も、これを観る眼すらない大将が、何で、呉の新鋭に勝てようか」
「…………」
ふと、曹操は唇(くち)をむすんで、何か考えこむような眼で、じっと、〓沢を見直していた。
〓沢は、自身の頸を叩いて、
「いざ、斬るなら、早く斬れ」と、迫った。
曹操は、顔を横に振って、
「いや、しばしその生命は預けておこう。この曹操がかならず敗戦するだろうということについて、もう少し論じてみたい。もし理に当るところがあれば、予も論じてみる」
「折角だが、あなたは賢人を遇する礼儀も知らない。何をいったところで無益であろう」
「では、前言をしばらく詫びる。まず高論を示されい」
「古言にもある。主ニ反(ソム)イテ盗ミヲナス安(イズク)ンゾ期スベケンヤ――と。黄蓋いま、深恨断腸(しんこんだんちよう)、三代の呉をそむいて麾下(きか)に降らんとするにあたり――もし日限を約して急に支障を来し、来会の日をたがえたなら、丞相の心はたちまち疑心暗鬼(ぎしんあんき)にとらわれ、遂に、一心合体の成らぬのみか、黄蓋は拠るに陣なく、帰るに国なく、自滅の外なきに至ります。故にわざと日時を明示せず、好機を計って参らんというこそ、事の本心を証するもの、またよく兵の機謀にかなうもの、これをかえって疑いの種となす丞相の不明を、愍(あわ)れまずにいられません」
「むむ、その言はいい」
曹操は、大きくうなずいた。
「まことに、一時の不明、先ほどからの無礼は許せ」
彼はにわかに、こう謝して、賓客の礼を与え、座に請(しよう)じて、あらためて〓沢の使いをねぎらい、酒宴をもうけて、さらに意見を求めた。
ところへ、侍臣の一名が、外から来て、そっと曹操の袂(たもと)の下へ、何やら書状らしいものを渡して退がった。
「ははあ……。さては呉へまぎれ込んでいる蔡和(さいか)、蔡仲(さいちゆう)から、何かさっそく密謀が来たな」
と感づいたが、〓沢(かんたく)は何げない態をつくろって、しきりと杯をあげ、かつ弁じていた。
裏(うら)の裏(うら)
一
酒のあいだに曹操は、蔡和(さいか)、蔡仲(さいちゆう)からの諜報を、ちらと卓の陰で読んでいたが、すぐに袂(たもと)に秘めて、さり気なくいった。
「さて〓沢(かんたく)とやら。――今はご辺に対して予は一点の疑いも抱いておらん。この上は、ふたたび呉へかえって、予が承諾した旨を黄蓋(こうがい)へ伝え、充分、諜しあわせて、わが陣地へ来てくれい。抜かりはあるまいが、くれぐれも周瑜にさとられぬように」
すると、〓沢は、首を振って断った。
「いや、その使いには、ほかにしかるべき人物をやって下さい、てまえはこれに留まりましょう」
「なぜか」
「二度と、呉へ帰らんなどとは、期してもおりません」
「だが、ご辺ならば、往来の勝手も知る、もしほかの者をやったら、黄蓋も惑うだろう」
再三、曹操に乞われて、〓沢は初めて承知した。――なお曹操が自分の肚をさぐるためにそういったのではないかということを〓沢は警戒していたのである。
――が、今は曹操も、充分、彼の言を信じて来たもののようだった。〓沢は仕すましたりと思ったが、色にも見せず、他日、再会を約して、ふたたび帰る小舟に乗った。その折も曹操から莫大な金銀を贈られたが、
「大丈夫、黄金のために、こんな冒険はできませんよ」
と、手も触れず、一笑して、小舟を漕ぎ去った。
呉の陣所へもどると、彼はさっそく黄蓋と密談していた。黄蓋は事の成りそうな形勢に、いたく歓んだが、なお熟慮して、
「初めに疑っていた曹操が、後にどうして急に深く信じたのだろう?」と、糺(ただ)した。
〓沢は、それに答えて、
「おそらく、てまえの弁舌だけでは、なお曹操を信じ切らせるには至らなかったでしょうが、折も折、蔡和、蔡仲の諜報が、そっと彼の手に渡されたのです。――てまえの言を信じない彼も腹心の者の密報には、すぐ信を抱いたものと見えます。しかもその密諜による呉軍内の情報と、てまえの語ったところとが、符節を合わせた如く一致していましたろうから、疑う余地もないとされたに違いありません」
「むむ……なるほど。ではご苦労だが足ついでに、甘寧(かんねい)の部隊へ行って、甘寧のもとにおる蔡和、蔡仲の様子をひとつ見ておいてくれんか」
〓沢は、心得て、甘寧の部隊を訪ねて行った。
唐突な訪れに、甘寧は、彼のすがたをじろじろ見て、
「なにしに見えたか」と、訊ねた。
〓沢が、いま本陣で、気にくわぬことがあったから、無聊(ぶりよう)をなぐさめに来たというと、甘寧は信じないような顔して、
「ふーム……?」と、薄ら笑いをもらした。
そこへ偶然、蔡和、蔡仲のふたりが入ってきた。甘寧が、〓沢へ眼くばせしたので、〓沢も甘寧のこころを覚った。
――で、わざと不興げに、
「近ごろは、事ごとに、愉快な日は一日もない。周都督の才智は、われわれだって充分に尊敬しているが、それに驕(おご)って、人をみな塵(ちり)か芥(あくた)のように見るのは実によくない」
と、独り鬱憤をつぶやきだすと、甘寧もうまく相槌を打って、
「また何かあったのか、どうも軍の中枢(ちゆうすう)で、そう毎日紛争があっちゃ困るな」
「ただ議論の争いならいいが、周都督ときては、口汚なく、衆人稠坐(ちゆうざ)の中で、人を辱めるから怪しからん。……不愉快だ。実に、我慢がならぬ」
と、唇を噛んで憤(いきどお)りをもらしかけたが、ふと一方にたたずんでいる蔡和、蔡仲のふたりを、じろと眼の隅から見て、急に口をつぐみ、
「……甘寧。ちょっと、顔をかしてくれないか」
と、彼の耳へささやき、わざと隣室へ伴って行った。
蔡和と蔡仲は、黙って、眼と眼を見合わせていた。
二
その後も、〓沢(かんたく)と甘寧(かんねい)は、たびたび人のない所で密会していた。
或る夕、囲いの中で、また二人がひそひそささやいていた。かねて注目していた蔡和(さいか)と蔡仲(さいちゆう)は、陣幕(とばり)の外に耳を寄せて、じっと、聞きすましていたが、さっと、夕風に陣幕の一端が払われたので、蔡和の半身がちらと、中の二人に見つけられたようだった。
「あっ、誰かいる」
「しまった」と、いう声が聞えた。
――と思うと、甘寧と〓沢は、大股に、しかも血相変えて、蔡和、蔡仲のそばへ寄ってきた。
「聞いたろう! われわれの密談を」
〓沢がつめ寄ると、甘寧はまた一方で、剣を地に投げて、
「われわれの大事は未然に破れた。すでに人の耳に立ち聞きされたからには、もう一刻もここには留まり難い」と、足ずりしながら慨嘆した。蔡和、蔡仲の兄弟は、何か、うなずき合っていたが、急にあたりを見廻して、
「ご両所、決して決して絶望なさる必要はありませぬ。何を隠そう、われわれ兄弟こそ、実は、曹丞相の密命をうけ、詐(いつわ)って呉に降伏して来た者。――今こそ実を打ち明けるが、本心からの降人ではない」と、いった。
甘寧と〓沢は穴のあく程、兄弟の顔を見つめて、
「えっ、それは……真実(ほんと)なのか」
「何でかような大事を嘘いつわりにいえましょう」
「ああ! ……それを聞いて安堵(あんど)いたした。貴公らの投降が、曹丞相の深遠な謀計の一役をもつものとは、夢にも知らなかった。思えばそれもこれも、ひとつの機運。魏いよいよ興り、呉ここに亡ぶ自然のめぐり合わせだろう」
もちろん、先頃から、甘寧と〓沢が、人なき所でたびたび密談していたことは――周都督に対する反感に堪忍の緒を切って――いかにしたら呉の陣を脱走できるか、どうしたら周都督に仕返しできるか、またいッそのこと、不平の徒を狩り集めて、暴動を起さんかなどという不穏な相談ばかりしていたのであった。わざと、蔡兄弟に、怪しませるようにである。
蔡和、蔡仲の兄弟は、それが巧妙な謀計とは、露ほども気づかなかった。自分たちがすでに謀計中の主役的使命をおび、この敵地の中に活躍しているがために、かえって相手の謀計に乗せられているとは思いもつかなかった。
裏をもって謀(はか)れば、またその裏をもって謀る。兵法の幻妙はこの極まりない変通のうちにある。神変妙通のはたらきも眼光もないものが、下手に術をほどこすと、かえって、敵に絶好な謀計の機会を提供してしまう結果となる。
その晩、四人は同座して、深更まで酒を酌んでいた。一方は一方を謀りおわせたと思いこんでいる。
が、共に打ち解け、胸襟をひらきあい、共に、これで曹丞相という名主のもとに大功を成すことができると歓びあって――。
「では、早速、丞相へ宛てて、一書を送っておこう」
と、蔡仲、蔡和は、その場で、このことを報告する文を認め、〓沢もまた、べつに書簡をととのえてひそかに部下の一名に持たせ、江北の魏軍へひそかに送り届けた。
〓沢の書簡には、
――わが党の士、甘寧もまた夙(つと)に丞相をしたい、周都督にふくむの意あり、黄蓋(こうがい)を謀主とし、近く兵糧軍需の資を、船に移して、江を渡って貴軍に投ぜんとす。――不日、青龍の牙旗をひるがえした船を見たまわば、即ち、われら降参の船なりとご覧ぜられ、水寨(すいさい)の弩(いしゆみ)を乱射するを止めたまわんことを。
と、いう内容が秘められてあった。
しかし、やがてそれを受取った日、さすがに曹操は、鵜呑(うの)みにそれを信じなかった。むしろ疑惑の眼をもって、一字一句をくり返しくり返しながめていた。
鳳雛(ほうすう)・巣(す)を出(い)ず
一
いまの世の孫子呉子は我をおいてはなし――とひそかに自負している曹操(そうそう)である。一片の書簡を見るにも実に緻密(ちみつ)冷静だった。蔡和(さいか)、蔡仲(さいちゆう)はもとより自分の腹心の者だし、自分の息をかけて呉へ密偵に入れておいたものであるが、疑いないその二人から来た書面に対してすら慎重な検討を怠らず、群臣をあつめて、内容の是非を評議にかけた。
「……蔡兄弟からも、さきに呉へ帰った〓沢(かんたく)からも、かように申し越してきたが、ちと、はなしが巧過(うます)ぎるきらいもある。さて、これへの対策は、どうしたものか」
彼の諮問(しもん)に答えて、諸大将からもそれぞれ意見が出たが、その中で、例の蒋幹(しようかん)がすすんで云った。
「面(おもて)を冒(おか)して、もう一度おねがい申します。不肖、さきに御命をうけて、呉へ使いし、周瑜(しゆうゆ)を説いて降さんと、種々肝胆(かんたん)をくだきましたが、ことごとく、失敗に終り、なんの功もなく立ち帰り、内心、甚だ羞じておる次第でありますが――いまふたたび一命をなげうつ気で、呉へ渡り、蔡兄弟や〓沢の申し越しが、真実か否かを、たしかめて参るならば、いささか前の罪を償うことができるように存じられます。もしまた、今度も何の功も立てずに戻ったら、軍法のお示しを受けるとも決してお恨みには思いません」
曹操はいずれにせよ、にわかに決定できない大事と、深く要心していたので、
「それも一策だ」と、蒋幹の乞いを容れた。
蒋幹は、小舟に乗って、以前のごとく、飄々(ひようひよう)たる一道士を装い、呉へ上陸(あ が)った。
そのとき呉の中軍には、彼より先に、ひとりの賓客が来て、都督周瑜と話しこんでいた。
襄陽(じようよう)の名士〓徳公(ほうとくこう)の甥で、〓統(ほうとう)という人物である。
〓徳公といえば荊州で知らないものはない名望家であり、かの水鏡先生司馬徽(しばき)ですら、その門には師礼をとっていた。
また、その司馬徽が、常に自分の門人や友人たちに、臥龍(がりゆう)・鳳雛(ほうすう)ということをよくいっていたが、その臥龍とは、孔明(こうめい)をさし、鳳雛とは、〓徳公の甥の――〓統をさすものであることは、知る人ぞ知る、一部人士のあいだでは隠れもないことだった。
それほどに、司馬徽が人物を見こんでいた者であるのに、
(臥龍は世に出たが、鳳雛はまだ出ないのは何故か?)
と、一部では、疑問に思われていた。
きょう、呉の中軍に、ぶらりと来ていた客は、その〓統だった。〓統は、孔明より二つ年上に過ぎないから、その高名にくらべては、年も存外若かった。
「先生には近頃、つい、この近くの山にお住いだそうですな」
「荊州、襄陽の滅びて後、しばし山林に一庵をむすんでいます」
「呉にお力をかし賜わらんか、幕賓として、粗略にはしませんが」
「もとより曹軍は荊州の故国を蹂躙(じゆうりん)した敵。あなたからお頼みなくとも呉を助けずにおられません」
「百万のお味方と感謝します。――が、いかにせん味方は寡兵、どうしたら彼の大軍を撃破できましょうか」
「火計一策です」
「えっ、火攻め。先生もそうお考えになられますか」
「ただし渺々(びようびよう)たる大江の上、一艘の船に火がかからば、残余の船はたちまち四方に散開する。――ゆえに、火攻めの計を用うるには、まずその前に方術(てだて)をめぐらし、曹軍の兵船をのこらず一つ所にあつめて、鎖(くさり)をもってこれを封縛(ふうばく)せしめる必要がある」
「ははあ、そんな方術がありましょうか」
「連環(れんかん)の計といいます」
「曹操とても、兵学に通じておるもの。いかでさような計略におちいろう。お考えは至妙なりといえど、おそらく鳥網精緻(ちようもうせいち)にして一鳥(ちよう)かからず、獲物のほうでその策には乗りますまい」
――こう話しているところへ、江北の蒋幹が、また訪ねてきたと、部下の者が取次いできたのだった。
二
それを機(しお)に、〓統(ほうとう)は暇(いとま)をつげて帰った。
周瑜(しゆうゆ)は、それを送って、ふたたび営中にもどると、天地を拝礼して、喜びながら、
「われにわが大事を成さしむるものは、いまわれを訪う者である」と、いった。
やがて、蒋幹(しようかん)は、案内されて、ここへ通ってきた。――この前のときと違って、出迎えもしてくれず、周瑜は、上座についたまま、傲然(ごうぜん)と自分を睥睨(へいげい)している様子に、内心、気味わるく思いながらも、
「やあ、いつぞやは……」と、さりげなく、親友ぶりを寄せて行った。
すると周瑜は、きっと、眼にかど立てて、
「蒋幹。また貴公は、おれを騙(だま)そうと思ってきたな」
「えっ……騙そうとして? ……あははは、冗談じゃない。旧交の深い君に対してなんで僕がそんな悪辣(あくらつ)なことをやるもんか。……それどころではない。吾輩は、実は先日の好誼にむくいるため、ふたたび来て、君のために一大事を教えたいと思っておるのに」
「やめたがいい」
周瑜は噛んで吐き出すように、
「――汝の肚の底は、見えすいている。この周瑜に、降参をすすめる気だろう」
「どうして君としたことが、今日はそんなに怒りッぽいのだ。激気大事を誤る。――まあ、昔がたりでもしながら、親しくまた一献酌み交わそう。そのうえでとっくり話したいこともある」
「厚顔(こうがん)なる哉。これほどいっておるのにまだ分らんか。汝、――いかほど、弁をふるい、智をもてあそぶとも、なんでこの周瑜を変心させることができよう。海に潮(うしお)が枯れ、山に石が爛(ただ)れきる日が来(きた)ろうとも断じて、曹操如きに降るこの方ではない。――先頃はつい、旧交の情にほだされ、思わず酒宴に心を寛(ゆる)うして、同じ寝床で夢を共にしたりなどしたが、不覚や、あとになって見れば、予の寝房から軍の機密が失われている。大事な書簡をぬすんで貴様は逃げ出したであろうが」
「なに、軍機の書簡を……冗談じゃない、戯れもほどほどにしてくれ。何でそんなものを吾輩が」
「やかましいっ」
と、大喝をかぶせて、
「――そのため、折角、呉に内通していた張允(ちよういん)、蔡瑁(さいぼう)のふたりを、まだ内応の計を起さぬうちに、曹操の手で成敗されてしまった。明らかに、それは汝が曹操へ密報した結果にちがいない。――それさえあるに、又候(またぞろ)、のめのめとこれへ来たのは、近頃、魏を脱陣して、この周瑜の麾下(きか)へ投降してきておる蔡和(さいか)、蔡仲(さいちゆう)に対して、何か策を打とうという肚ぐみであろう。その手は喰わん」
「どうしてそう……一体このわしを頭から疑われるのか」
「まだいうか。蔡和、蔡仲は、まったく呉に降(くだ)って、かたく予に忠節を誓いおるもの。豈(あに)、汝らの妨(さまた)げに遭って、ふたたび魏の軍へかえろうか」
「そ、そんな」
「だまれ、だまれっ。本来は一刀両断に斬って捨てるところだが、旧交の誼(よし)みに、生命だけは助けてくれる。わが呉の軍勢が、曹操を撃破するのも、ここわずか両三日のあいだだ。そのあいだ、この辺につないでおくのも足手まとい。誰かある! こやつを西山(せいざん)の山小舎へでもほうりこんでおけ。曹操を破って後、鞭の百打を喰らわせて、江北へ追っ放してくれるから」
と、蒋幹を睨みつけ、左右の武将に向って、虎のごとく云いつけた。
武士たちは、言下に、
「おうっ」
と、ばかり蒋幹を取り囲んで、有無をいわさず営外へ引っ立てて行った。そして、一頭の裸馬の背に掻き乗せ、厳しく前後を警固して西山の奥へ追い上げた。
山中に一軒の小舎があった。おそらく物見小舎であろう。蒋幹をそこへほうり込むと、番の兵は、昼夜、四方に立って見張っていた。
三
蒋幹(しようかん)は、日々煩悶(はんもん)して、寝食もよくとれなかったが、或る夜、番兵に隙があったので、ふらふらと小舎から脱け出した。
「逃げたいものだが?」
山中の闇をさまよいながら、しきりと苦慮してみたが、麓へ降りれば、すべて呉の陣に満ちているし、仰げば峨々たる西山(せいざん)の嶮峰(けんぽう)のみである。折角、小舎は出てきたものの、
「どうしたものぞ」と、悄然、行き暮れていた。
すると彼方の林の中にチラと燈火(ともしび)が見えた。近づいてみると、家があるらしい。林間の細道をなお進んでゆくと、朗々読書の声がする。
「はて? ……こんな山中に」
柴の戸を排して、庵(いおり)の中をうかがってみるに、まだ三十前後の一処士、ただひとり浄几(じようき)の前に、燈火をかかげ、剣をかたわらにかけて、兵書に眼をさらしている様子である。
「……あ。襄陽(じようよう)の鳳雛(ほうすう)、〓統(ほうとう)らしいが」
思わず呟いていると、気配に耳をすましながら庵の中から、
「誰だ」と、その人物が咎(とが)めた。
蒋幹は、駈け寄るなり、廂下(しようか)に拝をして、
「先日、群英(ぐんえい)の会で、よそながらお姿を拝していました。大人(たいじん)は鳳雛先生ではありませんか」
「や。そういわるるなら、貴公はあの折の蒋幹か」
「そうです」
「あれ以来、まだ、呉の陣中に、滞留しておられたか」
「いやいやそれどころではありません。一度帰ってまた来たために、周都督からとんだ嫌疑をかけられて」
と、山小舎に監禁された始末を物語ると、〓統は笑って、
「その程度でおすみなら万々僥倖(ぎようこう)ではないか。拙者が周瑜(しゆうゆ)なら、決して、生かしてはおかない」
「えっ……」
「ははは。冗談だ。まあお上がりなさい」
――と、〓統は席を頒(わ)けて燭(ひ)を剪(き)った。
だんだん話しこんでみると、〓統はなかなか大志を抱いている。その人物はかねて世上に定評のあるものだし、今、この境遇を見れば、呉から扶持されている様子もないので、蒋幹はそっと捜りを入れてみた。
「あなた程の才略をもちながら、どうしてこんな山中に身を屈しているんですか。ここは呉の勢力下ですのに、呉に仕えているご様子もなし……。おそらく、魏の曹丞相のような、士を愛する名君が知ったら、決して捨ててはおかないでしょうに」
「曹操が士を愛する大将であるということは、夙(つと)に聞いておるが……」
「なぜ、それでは、呉を去って、曹操のところへ行かないので?」
「でも、何分、危険だからな。――かりそめにも、呉にいた者とあれば、いかに士を愛する曹操でも、無条件には用いまい」
「そんなことはありません」
「どうして」
「かくいう蒋幹が、ご案内申してゆけば」
「何。貴公が」
「されば、私は、曹操の命をうけて、周瑜に降伏をすすめに来たものです」
「ではやはり魏の廻し者か」
「廻し者ではありません。説客として参ったものです」
「同じことだ。……が偶然、わしが先にいった冗談はあたっていたな」
「ですから、ぎょっとしました」
「いや、それがしは何も、呉から禄も恩爵もうけている者ではない。安心なさるがいい」
「どうですか、ここを去って、魏へ奔(はし)りませんか」
「勃々(ぼつぼつ)と、志は燃えるが」
「曹丞相へのおとりなしは、かならず蒋幹が保証します。曹操にも活眼(かつがん)ありです、何で先生を疑いましょう」
「では、行くか」
「ご決意がつけば、こよいにも」
「もとより早いがいい」
二人は、完全に、一致した。その夜のうち、庵(いおり)を捨て、〓統(ほうとう)は彼と共に、呉を脱した。
道は、蒋幹よりも、ここに住んでいる〓統のほうが詳しい。谷間づたいに、樵夫(そ ま)道(みち)をさがして、やがて大江の岸辺へ出た。
四
舟を拾って、二人は江北へ急いだ。やがて魏軍の要塞に着いてからは、一切、蒋幹(しようかん)の斡旋に依った。
有名なる襄陽(じようよう)の鳳雛(ほうすう)――〓統(ほうとう)来れり、と聞いて、曹操のよろこび方は一通りではなかった。
まず、賓主の座をわけて、
「珍客には、どうして急に、予の陣をお訪ね下されたか」
と、曹操は下へも置かなかった。〓統も、この対面を衷心から歓んで見せながら、
「私をして、ここに到らしめたものは、私の意志というよりは、丞相が私を引きつけ給うたものです。よく士を敬い、賢言を用い、稀代の名将と、多年ご高名を慕うのみでしたが、今日、幹兄(けい)のお導きによって、拝顔の栄を得たことは、生涯忘れ得ない歓びです」
曹操は、すっかり打ち解けて、蒋幹のてがらを賞し、酒宴に明けた翌る日、共に馬をひかせて、一丘へ登って行った。
けだし曹操の心は、〓統の口から自己の布陣について、忌憚(きたん)なき批評を聞こうというところにあったらしい。
だが、〓統は、
「――沿岸百里の陣、山にそい、林に拠り、大江をひかえてよく水利を生かし、陣々、相顧み相固め、出入自ら門あり、進退曲折の妙、古(いにしえ)の孫子呉子が出てきても、これ以上の布陣はできますまい」と、激賞してばかりいるので、曹操はかえって物足らなく思い、
「どうか先生の含蓄(がんちく)をもって、不備な点は、遠慮なく指摘してもらいたい」
と、いったが、〓統は、かぶりを振って、
「決して、美辞甘言を呈し、詐(いつわ)って褒(ほ)めるわけではありません。いかなる兵家の蘊奥(うんのう)を傾けても、この江岸一帯の陣容から欠点を捜し出すことはできないでしょう」
曹操はことごとくよろこんで、さらに、彼を誘って、丘を降り、今度は諸所の水寨港門や大小の舟行など見せて歩いた。
そして、江上に浮かぶ艨艟(もうどう)の戦艦二十四座の船陣を、誇らしげに指さして、
「どうですか、わが水上の城郭は」と、意見を求めた。
ああ――と〓統は感極まったもののごとく、思わず掌(て)を打って、
「丞相がよく兵を用いられるということは、夙(つと)に隠れないことですが、水軍の配備にかけても、かくまでとは、夢想もしていませんでした。――憐(あわれ)むべし、周瑜(しゆうゆ)は、江上の戦いこそ、われ以外に人なしと慢心していますから、ついに滅亡する日までは、あの驕慢な妄想は醒(さ)めますまい」
やがて立ち帰ると、曹操は営中の善美を凝(こ)らして、ふたたび歓待の宴に彼をとらえた。そして夜もすがら孫呉の兵略を談じ、また古今の史に照らして諸家の陣法を評したりなど、興つきず夜の更(ふ)くるも知らなかった。
「……ちょっと失礼します」
〓統はその間に、ちょいちょい中座して室外に出ては、また帰って席につき、話しつづけていた。
「……ちと、お顔色がわるいようだが? どうかなされたか」
「何。大したことはありません」
「でも、どこやら勝(すぐ)れぬように見うけらるるが」
「舟旅の疲れです。それがしなど生来水に弱いので四、五日も江上をゆられてくると、いつも後で甚だしく疲労します。……いまも実はちと嘔吐(おうと)を催してきましたので」
「それはいかん、医者を呼ぶから診(み)せたがいい」
「ご陣中には、名医がたくさんおられるでしょう。おねがいします」
「医者が多くいるだろうとは、どうしてお察しになったか」
「丞相の将兵は、大半以上、北国の産。大江の水土や船上の生活に馴れないものばかりでしょう。それをあのようになすっておいては、この〓統同様、奇病にかかって、身心ともにつかれ果て、いざ合戦の際にも、その全能力をふるい出すことができますまい」
五
〓統(ほうとう)の言は、たしかに曹操の胸中の秘を射たものであった。
病人の続出は、いま曹操の悩みであった。その対策、原因について軍中やかましい問題となっている。
「どうしたらよいでしょう。また、何かよい方法はありませんか。願わくはご教示ありたいが」
曹操は初め、驚きもし、狼狽気味でもあったが、ついに打ち割ってこういった。
〓統は、さもあらんと、うなずき顔に、
「布陣兵法の妙は、水も洩らさぬご配備ですが、惜しいかな、ただ一つ欠けていることがある。原因はそれです」
「布陣と病人の続出とに、何か関聯がありますか」
「あります。大いにあります。その一短を除きさえすればおそらく一兵たりとも病人はなくなるでしょう」
「謹んでお教えに従おう。多くの医者も、薬は投じてもその原因に至っては、ただ風土の異なるためというのみで、とんと分らない」
「北兵中国の兵は、みな水に馴れず、いま大江に船を浮かべ、久しく土を踏まず、風浪雨荒(ふうろううこう)のたびごとに、気を労(わずら)い身を疲らす。ために食すすまず、血環(ちめぐ)ること遅(ち)、凝(こ)って病となる。――これを治すには、兵をことごとく上げて土になずますに如(し)くはありませんが、軍船一日も人を欠くべからずです。ゆえに、一策をほどこし、布陣をあらためるの要ありというものです。まず大小の船をのこらず風浪少なき湾口のうちに集結させ、船体の巨(おお)きさに準じて、これを縦横に組み、大艦三十列、中船五十列、小船はその便に応じ、船と船との首尾には、鉄の鎖(くさり)をもって、固くこれをつなぎ、環をもって連ね、また太綱(ふとづな)をもって扶けなどして、交互に渡り橋を架けわたし、その上を自由に往来なせば、諸船の人々、馬をすら、平地を行くが如く意のままに歩けましょう。しかも大風搏浪(はくろう)の荒日(こうじつ)でも、諸船の動揺は至って少なく、また軍務は平易に運び、兵気は軽快に働けますから、自然、病に臥すものはなくなりましょう」
「なるほど、先生の大説、思いあたることすくなくありません」
と、曹操は、席を下って謝した。〓統は、さり気なく、
「いや、それも私だけの浅見かもしれません。よく原因を探究し、さらに賢考なされたがよい。お味方に病者の多いなどは、まず以て、呉のほうではさとらぬこと。少しも早く適当なご処置をとりおかれたら、かならず他日呉を打ち敗ることができましょう」
「そうだ、このことが敵へもれては……」と、曹操も、急を要すと思ったか、たちまち彼の言を容れて、次の日、自身中軍から埠頭(ふとう)へ出ると、諸将を呼んで、多くの鍛冶(かじ)をあつめ、連環(れんかん)の鎖(くさり)、大釘など、夜を日についで無数につくらせた。
〓統は、悠々客となりながら、その様子をうかがって、内心ほくそ笑んでいたが、一日、曹操と打ち解けて、また軍事を談じたとき、あらためてこういった。
「多年の宿志を達して、いまこそ私は名君にめぐり会ったここちがしています。粉骨砕身(ふんこつさいしん)、この上にも不才を傾けて忠節を誓っております。ひそかに思うに、呉の諸将は、みな周瑜(しゆうゆ)に心から服しているのは少ないかに考えられます。周都督をうらんで、機もあればと、反(かえ)り忠をもくろむもの、主なる大将だけでも、五指に余ります。それがしが参って三寸不爛(ふらん)の舌をふるい、彼らを説かば、たちまち、旗を反して、丞相の下へ降って来ましょう。しかる後、周瑜を生け捕り、次いで玄徳(げんとく)を平げることが急務です。――呉も呉ですが、玄徳こそは侮(あなど)れない敵とお考えにはなりませんか」
そのことばは、大いに曹操の肯綮(こうけい)にあたったらしい。彼は、〓統がそう云い出したのを幸いに、
「いちど呉へかえって、同志を語らい、ひそかに計をほどこして給わらぬか。もし成功なせば、貴下を三公に封(ほう)ずるであろう」と、いった。
竹冠(ちつかん)の友(とも)
一
ここが大事だ! と〓統(ほうとう)はひそかに警戒した。まんまと詐(いつわ)りおおせたと心をゆるしていると、案外、曹操(そうそう)はなお――間ぎわにいたるまで、こっちの肚を探ろうとしているかも知れない――と気づいたからである。
で、彼は、曹操が、
(成功の上は、貴下を三公に封ずべし)というのを、言下に、顔を横に振って見せながら、
「思し召はありがとうございますが、私はかかる務めを、目前の利益や未来の栄達のためにするのではありません。ただ民の苦患(くげん)をすくわんがためです。どうか丞相(じようしよう)が呉軍を破って、呉へ攻め入り給うとも、無辜(むこ)の民だけは殺さないようにお計らい下さい。そればかりが望みです」
と、ことばに力をこめて云った。
曹操も、その清廉(せいれん)を信じて、彼の憂いをなぐさめ顔にいった。
「呉の権力は討っても、呉の民は、すぐ翌日(あした)から曹操にとっても愛すべき民となるものだ。なんでみだりに殺戮(さつりく)するものか。そのことは安心するがいい」
「天に代って道をしき、四民を安んじ給うを常に旨とされている丞相のこと。丞相のお心は疑いませんが、何といっても、大軍が目ざす敵国へなだれ入るときは、騎虎の勢い、おびただしい庶民が災害に会っています。いま仰せをうけて江南に帰るに際し、なにか丞相のお墨付(すみつき)でも拝領できれば、小家の一族も安心しておられますが」
「先生の一族はいま何処(いずこ)に居住しているのか」
「荊州(けいしゆう)を追われ、ぜひなく呉の僻地におります。もし丞相から一礼を下し置かれれば、兵の狼藉をまぬかれ得ましょう」
「いと易いこと」と、曹操はすぐ筆をとって、当手の軍勢ども、呉へ入るとも、〓統一家には、乱暴すべからず、違背(いはい)の者は斬(ざん)に処す――と誌(しる)し、大きな丞相印を捺(お)して与えた。
〓統は心のうちで、彼がこれまでのことをする以上は、彼もまったく自分の言にすっかり乗ったものと思ってもいいなと思った。しかしそのほくそ笑みをかくして、あくまでさあらぬ態(てい)をまもり、
「では行ってきます」と、恩を謝して別れた。
「周瑜(しゆうゆ)に気どられるなよ」と、幾たびも念を押しながら、曹操は自身で営門まで見送ってきた。〓統は別れを惜しむかの如く、幾たびも振り返りながら、やがて外陣の柵門をすぎ、江岸へ出て、そこにある小舟へ乗ろうとした。
するとさっきから岸の辺に待ちうけていたらしい男が、この時、つと楊柳の陰から走り出して、
「曲者(くせもの)、待て」と、うしろから抱きついた。
〓統は、ぎょっとして、両の脚を踏んばりながら振り向いた。
その者は、身に道服を着、頭に竹の冠(かんむり)をいただいている。そして怖ろしい剛力だった。いかに身をもがいてみても、組みついた腕は、びくともしないのであった。
「曹丞相の客として、これに迎えられ、いま帰らんとするこの方にたいして、曲者(くせもの)とは何事だ、狂人か、汝は!」
叱りつけると、男は、満身から声をふりしぼって、
「白々(しらじら)しい勿体顔(もつたいがお)。その顔、その弁で、丞相はあざむき得たかも知れんが、拙者の眼はだまされぬぞ。――呉の黄蓋(こうがい)と周瑜がたくみに仕組んだ計画のもとに、先には苦肉の計(はかりごと)をなして、〓沢(かんたく)を漁夫に窶(やつ)して送り、また蔡仲(さいちゆう)、蔡和(さいか)などに書面を送らせ、いままた、汝、呉のために来て、大胆不敵にも丞相にまみえ、連環の計をささやいたるは、後日の戦いに、わが北軍の兵船をことごとく焼き払わんという肚に相違ない。――何でこのまま、江南に放してよいものか。さあもう一度中軍へ戻れ」
ああ、百年目。
大事はここに破れたかと、〓統はたましいを天外に飛ばしてしまった。
二
彼は観念の眼を閉じた。
万事休す――いたずらにもがく愚をやめて、〓統(ほうとう)は相手の男へいった。
「いったい何者だ、おぬしは? 曹操の部下か」
「もとよりのこと」と男は、彼のからだを後ろから羽交(はが)い締めにしたまま、
「――この声を忘れたか。この俺を見わすれたか」と重ねて云った。
「何? 忘れたかとは」
「徐庶(じよしよ)だよ、俺は」
「えっ、徐庶だと」
「水鏡先生の門人徐元直(じよげんちよく)。貴公とは、司馬徽(しばき)が門で、石韜(せきとう)、崔州平(さいしゆうへい)、諸葛亮(しよかつりよう)などの輩(ともがら)と、むかし度々お目にかかっている筈――」
「やあ、あの徐君か」と、〓統はいよいよ驚いて、彼の両手から、その体を解かれても、なお茫然立ちすくんで、相手のすがたを見まもりながら、
「徐庶徐庶。君ならば、この〓統の意中は知っているはずだ。わが計を憐れめ。もし貴公がここでものをいえば、この〓統の一命はともかく、呉の国八十一州の百姓庶民が、魏軍の馬蹄に蹂躙(じゆうりん)される憂き目におちるのだ――億兆の呉民のために、見のがしてくれ」と、哀願した。
すると、徐庶は、
「それはそっちの云うことでしょう。魏軍の側に立っていえば、呉の民は救われるか知らぬが、あなたをここで見のがせば、味方八十三万の人馬はことごとく焼き殺される。殲滅的な憂き目に遭う。――豈(あに)、これも憐れと見ずにはおられまいが」
「ううむ。……ここで君に見つかったのは天運だ。いずれともするがいい。もともと、自分がこれへ来たのは、一命すらない覚悟のうえだ。いざ、心のままに、殺すとも、曹操の前へひいて行くともいたせ」
「ああさすがは〓統先生」と徐庶は、その顔色も全身の構えも、平常の磊落(らいらく)な彼にかえって、
「もう、ご心配は無用」と、微笑した。そして、「実を申せば、以前、それがしは新野において、劉皇叔(りゆうこうしゆく)と主従のちぎりを結び、その折うけたご厚恩は今もって忘れ難く、身は曹操の陣へおいても、朝暮、胸に銘記いたしておる。――ただこれ一人の老母を曹操にとらわれたため、やむなくその麾下(きか)に留まっていたものの、今はその老母も相果ててこの世にはおりません。……が皇叔とお別れの折、たとえ曹操のもとへ去るとも、一生のあいだ、他人の為には、決して計を謀(はか)らずと、かたくお約束いたしてきた。故に、それがしこの陣にあって、先頃から曹操の許へ、ひそかに往来ある呉人の様子をうかがって、ははあ、さてはと、独り心のうちでうなずいてはいたが、誰にも、その裏に裏のあることは語らずにいたのです」
と、初めて本心を打ち明け、〓統の驚きをなだめたが、さて困ったように、その後で相談した。
「……ですから、拙者は、何も知らない顔をしているが、やがて貴兄が呉へかえって、連環の計、火攻めの計など、一挙にその功を挙ぐるにいたれば、当然、かくいう徐庶が、魏の陣中にあって、焼き殺されてしまう。何とか、これを未然に遁(のが)れる工夫はないものでしょうか」
「それはいと易(やす)いことだ」と、〓統は、耳に口をよせて、何事かささやいた。
「なるほど、名案!」
徐庶は、手をうった。それを機(しお)に、〓統は舟へとび乗る。――かくて二人は、人知れず、水と陸とに、別れ去った。
程なく、曹操の陣中に、誰からともなく、こういう風説が立ち始めた。それは、
「西涼(せいりよう)の馬超(ばちよう)が、韓遂(かんすい)と共に、大軍を催して、叛旗をひるがえした。都の留守をうかがって、今や刻々、許都(きよと)をさして進撃している……」
というまことしやかな噂で、遠征久しき人心に多大な衝動を与えた。
月烏賦(つきよがらすのうた)
一
都門をさること幾千里。曹操(そうそう)の胸には、たえず留守の都を憶(おも)う不安があった。
西涼(せいりよう)の馬超(ばちよう)、韓遂(かんすい)の徒(と)が、虚をついて、蜂起したと聞いたせつな、彼は一も二もなく、
「たれか予に代って、許都へ帰り、都府を守る者はないか。風聞はまだ風聞に過ぎず、事の実否は定かではないが、馳せ遅れては間にあわん。――誰ぞ、すぐにでも打ち立てる面々は名乗って出よ」と、群臣を前にしていった。
「拙者が赴(おもむ)きましょう」
すすんでその役目を買って出たのは徐庶(じよしよ)であった。他の諸将は、この呉を前にしてのこの大戦に臨みながら、都へ帰るのはいさぎよしとしないような面持で誰も黙っていたところである。曹操は快然とうなずいて、
「徐庶か。よしっ、行け」と迅速に直命した。
「かしこまりました。身不肖ながら、叛軍(はんぐん)いかに気負うとも、散開(さんかい)に斬りふさぎ、要害に守り支え、もし急変があればふたたび速報申しあげます」
と、頼もしげに云い放ち、即刻三千余騎の精兵をひきいて都へ馳せ上った。
「まず、彼が行けば」
と曹操は、一応安心して、さらに、呉を打破ることへ思いを急にした。
時。建安十三年の冬十一月であった。
風しずかに、波ゆるやかな夜なればとて、曹操は陸の陣地を一巡した後旗艦へ臨んだ。その大船の艫(ろ)には、「帥(すい)」の字を大きく書いた旗を立て、弩(いしゆみ)千張と黄鉞銀鎗(こうえつぎんそう)を舷側にたてならべ、彼は将台に坐し、水陸の諸大将すべて一船に集まって、旺(さかん)なる江上の宴を催した。
大江の水は、素絹(そけん)を引いたように、月光にかすんでいた。――南は遠く呉の柴桑山(さいそうざん)から樊山(はんざん)をのぞみ、北に烏林(うりん)の峰、西の夏口(かこう)の入江までが、杯の中にあるような心地だった。
「ああ楽しいかな、男児の業。眸(ひとみ)は四遠の地景をほしいままにし、胸には天空の月影を汲む。俯して杯をとれば、滾々(こんこん)湧(わ)くところの吟醸(ぎんじよう)あり、起って剣を放てば、すなわち呉の死命を制す……じゃ。呉は江南富饒(ふじよう)の土地である。これをわが手に享(う)けるときは、かならず今日予とともに力を尽す諸将にも長くその富貴をわけ与えるであろう。諸員それ善戦せよ。この期をはずして悔いをのこすな」
曹操は、大杯をかさねながら、こう諸大将を激励し、意気虹の如くであった。
諸将もみな心地よげに、
「われわれが長き鍛錬を経、また、君のご恩沢に甘んじてきたのも一に今日に会して恥なからんためであります。何で、おくれをとりましょうや」
と、武者ぶるいしながら、各々杯の満をひいた。
酔いが発すると、曹操は、久しく眠っていた彼らしい情感と熱とを、ありありと眸に燃やしながら、
「みな、彼方を見ないか」
と、呉の国の水天を指さした。
「――あわれむべし、周瑜(しゆうゆ)も魯粛(ろしゆく)も、天の時を知らず、運の尽きるを知らぬ。彼らの陣中からひそかに予に気脈を通じて来おる者すらある。そうしてすでに呉軍の内輪に心腹の病を呈しておるのだ。いかでわが水陸軍の一撃に完膚(かんぷ)あらんや」
曹操は、なおいった。
「これ、天の我を扶(たす)くるものである」
と、もちろん彼は士気を鼓舞激励するつもりでいったのである。
が、そばにいた荀攸(じゆんゆう)は、酔をさまして、
「丞相丞相。めったに、さようなことは、お口にはしないものです」
と、そっと袖をひいて諫めた。
曹操は、呵々(かか)と肩をゆすぶって、
「この一船中にあるものは、みな予の股肱(ここう)の臣たらざるはない。舷外(げんがい)は滔々(とうとう)の水、どこに異端の耳があろうぞ」と、気にとめる風もなかった。
二
興は尽きない。曹操の多感多情はうごいて止まないらしい。彼はまた、上流夏口(かこう)のほうを望みながら云った。
「呉を討った後には、まだもう一方に片づけなければならんちんぴらがおる。玄徳(げんとく)、孔明(こうめい)の鼠輩(そはい)だ。いや、この大陸大江に拠って生ける者としては、彼らの存在など鼠輩というもおろか、目高(めだか)のようなものでしかあるまい。いわんやこの曹操の相手としては」
酒に咽(むせ)んで、彼は手の杯を下におき、そのまましばし口をつぐんだ。
皎々(こうこう)の月も更け、夜気はきわだって冷々(ひえびえ)としてきた。いかに意気のみはなお青年であっても、身にこたえる寒気や、咳(しわぶき)には、彼も自己の人間たることをかえりみずにはおられなかったのであろう。ふと声を落して、しみじみと語った。
「予もことしは五十四歳になる。連年戦陣、連年制覇。わが魏(ぎ)もいつか尨大(ぼうだい)になったが、この身もいつか五十四齢(れい)。髪にも時々霜を見る年になったよ。だが諸君、笑ってくれるな。呉に討入るときには、予にも一つの楽しみがある。それはそのむかし予と交わりのあった喬公(きようこう)の二娘(じよう)を見ることだ」
こんな述懐を他人(ひ と)にもらしたことは珍しい。こよいの彼はよほどどうかしていたものと思われる。すっかり興(きよう)にひたって心もくつろぎ、また彼自身の感傷を彼自身の詩情で霧のような酔心につつんで思わず出たことばでもあろう。
喬家の二女といえば、呉で有名な美人。時来らば江北に迎えんと、曹操はかねて二娘の父なる人にいったことがある。その後、呉の孫策(そんさく)、周瑜(しゆうゆ)が二女を室に迎えたとも聞えているが、彼はまだ未練を捨てきれなかった。もし呉を平げたあかつきには、かの〓水(しようすい)の殿楼(うてな)――銅雀台(どうじやくだい)に二女を迎えて、共に花鳥風月をたのしみながら自分の英雄的生涯の終りを安らかにしたいものだと、今なお心に夢みているのだった。
諸将は、彼の述懐をきくと、われらの丞相はなお多分に青年なりと、口々に云ってしばしは笑いもやまず、
「加盞(かさん)加盞」
と彼の寿(じゆ)と健康を祝した。
時に帆檣(はんしよう)のうえを、一羽の鴉(からす)が、月をかすめて飛んだ。曹操は左右に向って、
「いま鴉の声が、南へ飛んで行きながら啼くのを聞いたが、この夜中に、何で啼くのか」
と、たずねた。
侍臣のひとりが、
「されば、月のあきらかなるまま、夜が暁(あ)けたかと思って啼いたのでしょう」と、早速に答えた。
「そうか」
と曹操は、もう忘れている。そしてやおら身を起すと、船の舳(へさき)に立って、江の水に三杯の酒をそそぎ、水神を祭って、剣を撫(ぶ)しながら、諸大将へさらに感慨をもらした。
「予や、この一剣をもって、若年、黄巾(こうきん)の賊をやぶり、呂布(りよふ)をころし、袁術(えんじゆつ)を亡ぼし、さらに袁紹(えんしよう)を平げて、深く朔北(さくほく)に軍馬をすすめ、ひるがえって遼東を定む。いま天下に縦横し、ここ江南に臨んで強大の呉を一挙に粉砕せんとし、感慨尽きないものがある。ああ大丈夫の志、満腔(まんこう)、歓喜の涙に濡る。こよいこの絶景に対して回顧の情、望呉(ぼうご)の感、抑えがたいものがある。いま予自ら一詩を賦さん。汝らみな、これに和せよ」
彼は、即興の賦を、吟じ出した。諸将もそれに和して歌った。
その詩のうちに、
月は明らかに星稀(まれ)なり
烏鵲(うじやく)南へ飛ぶ
樹(じゆ)を遶(めぐ)ること三匝(そう)
枝の依るべきなし
という詞があった。
歌い終った後、揚州の刺史劉馥(りゆうふく)が、その詩句を不吉だといった。曹操は興をさまされて赫怒(かくど)し、立ちどころに剣を抜いて劉馥を手討ちにしてしまった。酔いがさめてからそれと知った彼はいたく沈痛な顔をしたが、その後悔も及ばず、子の劉煕(りゆうき)に死骸を与えて厚く故郷へ葬らせた。
鉄鎖(てつさ)の陣(じん)
一
数日の後。
水軍の総大将毛〓(もうかい)、于禁(うきん)のふたりが、曹操(そうそう)の前へ来て、謹んで告げた。
「江湾の兵船は、すべて五十艘六十艘とことごとく鎖をもって連ね、ご命令どおり連環(れんかん)の排列を成し終りましたれば、いつご戦端をおひらきあるとも、万端の手筈に狂いはございません」
「よし」
すなわち曹操は、旗艦に上がって水軍を閲兵(えつぺい)し、手分けを定めた。
中央の船隊はすべて黄旗(こうき)をひるがえし、毛〓、于禁のいる中軍の目印とする。
前列の船団は、すべて紅旗を檣頭(しようとう)に掲げ、この一手の大将には、徐晃(じよこう)が選ばれる。
黒旗(こつき)の船列は、呂虔(りよけん)の陣。
左備えには、翩々(へんぺん)と青旗が並んで見える。これは楽進(がくしん)のひきいる一船隊である。
反対の右側へは、すべて白旗(びやつき)を植え並べていた。その手の大将は夏侯淵(かこうえん)。
また。
水陸の救応軍には、夏侯惇(かこうじゆん)、曹洪(そうこう)の二陣がひかえ、交通守護軍、監戦使には、許〓(きよちよ)、張遼(ちようりよう)などの宗徒(むねと)の輩(ともがら)が、さながら岸々(がんがん)の岩を重ねて大山をなすがごとく、水上から高地へかけて、固めに固めていた。
曹操は小手をかざして、
「今日まで、自分もずいぶん大戦に臨んだが、まだその規模の大、軍備の充溢(じゆういつ)、これほどまで入念にかかった例(ため)しはない」
われながら旺(さかん)なる哉(かな)と思い、意中すでに呉を呑んでいた。
「時は来た」と、彼は、三軍に令した。
即日、この大艦隊は、呉へ向って迫ることになった。
三通(つう)の鼓(つづみ)を合図に、水寨(すいさい)の門は三面にひらかれ、船列は一糸みだれず大江の中流へ出た。
この日、風浪天にしぶき、三江の船路は暴れ気味だったが、連環の船と船とは、鎖のために、動揺の度が少なかったので、士気は甚だふるい、曹操も、
「〓統(ほうとう)の献言はさすがであった」と、歓びをもらしていた。
だが、風浪がやまないので、全艦艇は江を下ることわずか数十里の烏林(うりん)の湾口(わんこう)に碇泊した。この辺までも陸地は要塞たることもちろんである。そしてここまで来ると、呉の本営である南の岸は、すでに晴天の日なら指さし得るほどな彼方にあった。
「丞相(じようしよう)。また不吉なりと、お気にさわるやも知れませんが、ふと、この烈風を見て、心にかかりだしたことがありますが」
程〓(ていいく)がこう彼に云い出したのである。
「何が不安か」
と、曹操が聞くと、
「なるほど、鎖をもって、船の首尾を相(あい)繋(つな)げばこういう日にも、船の揺れは少なく、士卒の間に船暈(ふなよい)も出ず、至極名案のようですが、万一敵に火攻めの計を謀られたら、これは一大事を惹起(じやつき)するのではありますまいか」
「はははは。案ずるをやめよ。時いま十一月。西北(いぬい)の風はふく季節だが、東南(たつみ)の風は吹くことはない。わが陣は、北岸にあり、呉は南にある。敵がもし火攻めなど行えば自ら火をかぶるようなものではないか。――呉に人なしといえ、まさかそれほど気象や兵理にくらいものばかりでもあるまい」
「あ。なるほど」
諸将は、曹操の智慮にみな感服した。何といっても、彼に従う麾下(きか)の将士は、その大部分が、青州、冀州(きしゆう)、徐州(じよしゆう)、燕州(えんしゆう)などの生れで、水軍に不馴れな者ばかりだったから、この連環の計に不賛成をとなえるものは少なかった。
かくて、風浪のやや鎮まるのを待つうちに、もと袁紹(えんしよう)の大将で、いまは曹操に仕えている燕の人、焦触(しようしよく)、張南(ちようなん)のふたりが、
「不肖、幼少から水には馴れている者どもです。ねがわくはわれわれに二十艘の船をかし給え、序戦の先陣を仰せつけ下されたい」と、自身から名乗って出た。
二
「そちたちは皆、北国の生れではないか。船二十艘を持って、何をやるというのだ。児戯に類した真似をして、敵味方に笑われるな」
と、叱っただけで、曹操は二人の乞いをゆるさなかった。
焦触(しようしよく)、張南(ちようなん)は大いに叫んで、
「これは心外な仰せです。われらは長江のほとりに育ち、舟を操ること、水を潜(くぐ)ること、平地も異なりません。万一、打ち負けて帰ったら軍法に糺(ただ)して下さい」
「意気は賞(ほ)めてつかわすが、何もそう逸(はや)って生命を軽んじないでもいい。――それに大船、闘艦はすべて鎖をもってつなぎ、走舸(そうか)、蒙衝(もうしよう)のほかは自由に行動できぬ」
「もとより大船や闘艦を拝借しようとは申しません。蒙衝五、六隻、走舸十数艘、あわせて二十もあればよいのです」
「それで何とする気か」
「張南と二手にわかれて、敵の岸辺へ突入し、呉の気勢をくじいて、このたびの大戦の真先に立ちたいのです」
焦触は熱望してやまない。それほどにいうならばと、ついに曹操も彼の乞いを容れた。
「しかし、二十艘では危ない」
と、大事をとって、別に文聘(ぶんぺい)に三十艘の兵船をさずけ、兵五百をそれに附した。
ここで一応、当時の船艦の種別や装備をあらまし知っておくのも無駄であるまい。大略、説明を加えておく。
闘艦=これは最も巨(おお)きくまた堅固にできている。艦の首尾には石砲(せきほう)を備えつけ、舷側には鉄柵(てつさく)が結いまわしてある。また楼には弩弓(どきゆう)を懸連(かけつら)ね、螺手(らしゆ)鼓手が立って全員に指揮合図を下す。ちょうど今日の戦闘艦にあたるものである。
大船=と呼ぶふつう兵船型のものは、現今の巡洋艦のような役割をもつ。兵力軍需の江上運輸から戦闘の場合には闘艦の補助的な戦力も発揮する。
蒙衝=船腹を総体に強靱(きようじん)な牛の皮で外装した快速の中型船。もっぱら敵の大船隊の中を駆逐し、また奇襲戦に用いる。兵六、七十人は乗る。
走舸=これは小型の闘艦というようなもの、積載力二十人あまり、江上一面にうんかの如く散らかって、大船闘艦へ肉薄、投火、挺身、あらゆる方法で敵を苦しませる。
――このほかにもなお、雑多な船型や、大小の種類もあるが、総じて船首の飾りや船楼は濃厚な色彩で塗りたて、それに旌旗(せいき)や刀槍のきらめきが満載されているので、その壮大華麗は水天に映じ、言語を絶するばかりである。
さて――。
呉の陣営のほうでも、決戦の用意おさおさ怠りなかった。駈けちがい駈けちがい軽舸(けいか)のもたらしてくる情報はひきもきらない。
また、附近の山のうえには、昼夜、物見の兵が江上に眼を光らし、芥(あくた)の流れるのも見のがすまいとしていた。
今。――そこに監視していた部将と兵の一団が、突然、
「来たっ」
「おうっ、敵の船が」
と、大きく叫んだかと思うと、だだっと駈け降りて来て、周都督の本陣のうちで呶鳴っていた。
「二列、二手にわかれた敵の蒙衝と走舸が、波をついて、こなたへ襲(よ)せてきます。敵です! 敵です!」
それと共に、山の上からは、物見のあげた狼煙(のろし)のひびきが、全軍へわたって、急を報らせていた。
「すわ」
周瑜(しゆうゆ)もすぐ轅門(えんもん)に姿をあらわしたが、ひしめく諸将に向って、
「立ちさわぐには及ばん。たかの知れた小船隊だ。たれか進んで、江上に打砕き、序戦の祝いに手柄を立ててみる者はないか」といった。
韓当(かんとう)、周泰(しゆうたい)のふたりが、
「仰せ、承りました」
と、すぐ江岸から十数艘の牛革船(ぎゆうかくせん)を解き放ち、左右から鼓(こ)を鳴らして敵船へ迫って行った。
三
周瑜(しゆうゆ)は陣後の山へ駈けのぼって行った。望戦台から手をかざして見る。江上の接戦はもう飛沫(しぶき)の中に開かれている。
快速の舟艇ばかり三、四十が入り乱れて矢を射交わしている様子。魏の焦触(しようしよく)、張南(ちようなん)のふたりは、遮二無二(しやにむに)、岸へ向って突進をこころみ、
「第一に陸地を踏んだ者には、曹丞相に申しあげて、軍功帳の筆頭に推すぞ。怯(ひる)むな面々」
と、声をからして奮戦を励ました。
呉の大将韓当(かんとう)は、それを防ぎ防ぎ自身、長槍を持って一艇の舳(みよし)に立ち現れ、
「御座んなれ、みな好餌だ」と、横ざまに艇をぶつけて行った。
焦触は、何をとばかり、矛(ほこ)をふるって両々譲らず十数合ほど戦ったが、風浪が激しいため、舟と舟は揉みに揉みあい、勝負はいつ果てるとも見えない。
ところへ、呉の周泰(しゆうたい)がまた、船を漕ぎよせて、
「韓当韓当。いつまでそんな敵に手間どるのだ」
と、励ましながら、手の一槍を風に乗って、ぶうんと投げた。
敵の焦触は、見事、投げ槍に串刺しにされて、水中へ落ちた。彼の副将張南は、それと見るや、
「おのれっ」と、弩(いしゆみ)を張って、周泰の舟へ近づきながら、雨あられと矢を向けてきた。
周泰は舷(ふなべり)の陰にひたと身を伏せたまま、矢面(やおもて)をくぐって敵艇へ寄せて行ったが、どんと、船腹と船腹のあいだに勢いよく水煙があがったせつなに、おうっと一吼(いつく)して、相手の船中へ躍りこみ、張南をただ一刀に斬りすてたのみか、その艇を分捕ってしまった。
かくて水上の序戦は、魏の完敗に終り、首将ふたりまで打たれてしまったので、魏の船はみだれみだれて風波の中を逃げちらかった。
「――おう、おうっ、味方の大捷(たいしよう)だ。江上戦は有利に展開したぞ」
望戦台の丘に立ってこれを見ていた周瑜の喜色はたいへんなものである。――が、戦況の変はたちまち一喜一憂だ。やがて彼のその顔も暗澹(あんたん)として、毛穴もそそけ立つばかり不安な色を呈して来た。というのは、敗報をうけた曹操が、小癪(こしやく)なる呉の舟艇、一気に江底の藻屑(もくず)にせん、と怒り立って、そのおびただしい闘艦、大船の艨艟(もうどう)をまっ黒に押し展(ひら)き、天も晦(くろ)うし、水の面(も)もかくれんばかり、呉岸へ向って動き出してくる様子なのである。
「ああ、さすがは魏。偉なるかな、その大船陣。われ水軍を督すること十年なれど、まだこんな偉容を水上に見たことはない。いかにしてこれを破るべきか」
眼に見ただけで、周瑜はすでに気をのまれたかたちだった。懊悩(おうのう)戦慄(せんりつ)、ほどこすべき術(すべ)も知らなかった。
すると突然、江上の波は怒り、狂風吹き捲いて、ここかしこ数丈の水煙が立った。そして曹操の乗っている旗艦の「帥(すい)」字の旗竿が折れた。
「――あれよ」と、立ち騒ぐ江上の狼狽ぶりが眼に見えるようだった。臨戦第一日のことだ。これは誰しも忌(い)む大不吉にちがいない。間もなく連環の艨艟はことごとく帆をめぐらし舵(かじ)を曲げて、烏林(うりん)の湾口ふかく引っ返してしまった。
「天の佑(たす)けだ。天冥の加護わが軍にあり」
と、周瑜は手をたたいて狂喜した。しかるに、江水を吹き捲いた龍巻は、たちまち一天をかき曇らせ、南岸一帯からこの山へも、大粒の雨を先駆として、もの凄まじく暴れまわって来た。
「あッ」
と、周瑜が絶叫したので、まわりにいた諸大将が仰天して駈けよってみると、周瑜のかたわらに立ててあった大きな司令旗の旗竿が狂風のため二つに折れて、彼の体はその下に圧しつぶされていたのだった。
「おおっ、血を吐かれた」
諸人は驚いて、彼の体をかかえ上げ、山の下へ運んで行ったが、周瑜は気を失ってしまったものらしく途中も声すら出さなかった。
孔明(こうめい)・風(かぜ)を祈(いの)る
一
よほど打ち所が悪かったとみえる。周瑜(しゆうゆ)は営中の一房に安臥(あんが)しても、昏々(こんこん)とうめき苦しんでいる。
軍医、典薬が駈けつけて、極力、看護にあたる一方、急使は、呉の主孫権(そんけん)の方へこの旨を報らせに飛ぶ。
「奇禍に遭って、都督の病は重態におちいった」
と聞え、全軍の士気は、落莫(らくばく)と沮喪(そそう)してしまった。
魯粛(ろしゆく)はひどく心配した。呉(ご)魏(ぎ)決戦の火ぶたはすでに開かれている折も折だ。早速、孔明(こうめい)の住んでいる船へ出かけ、
「はや、お聞き及びでしょうが、どうしたものでしょうか」と、善後策を相談した。
孔明は、さして苦にする容子もなく、かえって彼に反問した。
「貴兄はこの出来事についてどう考えておられるか」
「どうもこうもありません。この椿事(ちんじ)は、曹操(そうそう)には福音(ふくいん)であり、呉にとっては致命的な禍いといえるでしょう」
「致命的? ……そう悲観するには当りません。周都督の病たりとも、即時に癒えればよいのでしょう」
「もとよりそんなふうに早くご全快あれば、国家の大幸というものですが」
「いざ、来給え。――これから二人してお見舞してみよう」
孔明は先に立った。
船を下り、驢(ろ)に乗って、二人は周瑜の陣営奥ふかく訪ねた。病室へ入って見ると、周瑜はなお衣衾(いきん)にふかくつつまれて横臥(おうが)呻吟(しんぎん)している。――孔明は、彼の枕辺へ寄って、小声に見舞った。
「いかがですか、ご気分は」
すると周瑜は、瞼(まぶた)をひらいて、渇いた口からようやく答えた。
「オオ、亮(りよう)先生か……」
「都督。しっかりして下さい」
「いかんせん、身をうごかすと、頭は昏乱し、薬を摂(と)れば、嘔気(はきけ)がつきあげてくるし……」
「何がご不安なのです。わたくしの見るところでは、貴体に何の異状も見られませんが」
「不安。……不安などは、何もない」
「然らば、即時に、起(た)てるわけです。起ってごらんなさい」
「いや、枕から頭を上げても、すぐ眼まいがする」
「それが心病というものです。ただ心理です。ごらんなさい天体を。日々曇り日々晴れ、朝夕不測(ふそく)の風雲をくりかえしているではありませんか。しかも風(かぜ)暴(あ)るるといえ、天体そのものが病み煩(わずら)っているわけではない。現象です、気晴るるときはたちまち真を現すでしょう」
「……ウムム」
病人は呻(うめ)きながら襟(えり)を噛み、眼をふさいでいた。孔明はわざと打ち笑って、
「こころ平らに、気順なるときは、一呼(こ)一吸(きゆう)のうちに、病雲は貴体を去ってゆきましょう。それ、さらに病の根を抜こうとするには、やや涼剤(りようざい)を用いる必要もありますが」
「良き涼剤がありますか」
「あります。一ぷく用いれば、ただちに気を順にし、たちまち快適を得ましょう」
「――先生」
病人は、起ち直った。
「ねがわくは、周瑜のため、いや、国家のために、良方を投じたまわれ」
「む、承知しました。……しかしこの秘方は人に漏れては効きません。左右のお人を払って下さい」
すなわち、侍臣をみな退け、魯粛をのぞくほか、房中無人となると、孔明は紙筆をとって、それへ、
欲破曹公(そうこうをやぶらんとほつすれば)宜用火攻(よろしくひぜめをもちうべし)
万(ばん)事(じ)倶(ともに)備(そなう)只(ただ)欠東風(とうふうのかくを)
こう十六字を書いて、周瑜に示した。
「都督。――これがあなたの病の根源でありましょう」
周瑜は愕然としたように、孔明の顔を見ていたが、やがてにっこと笑って、
「おそれ入った。神通のご眼力。……ああ、先生には何事も隠し立てはできない」
と、いった。
二
季節はいま北東の風ばかり吹く時である。北岸の魏軍へ対して、火攻めの計を行なおうとすれば、かえって味方の南岸に飛火し、船も陣地も自ら火をかぶるおそれがある。
孔明は、周瑜(しゆうゆ)の胸の憂悶が、そこにあるものと、図ぼしをさしたのである。周瑜としては、その秘策はまだ孔明に打ち明けないことなので、一時は驚倒せんばかり愕(おどろ)いたが、こういう達眼の士に隠しだてしても無益だとさとって、
「事は急なり、天象はままならず、一体、如何すべきでしょうか」
と、かえって、彼の垂教(すいきよう)を仰いだのであった。
孔明は、それに対して、こういうことをいっている。
「むかし、若年の頃、異人に会うて、八門遁甲(はちもんとんこう)の天書(てんしよ)で伝授されました。それには風伯雨師(ふうはくうし)を祈る秘法が書いてある。もしいま都督が東南の風をおのぞみならば、わたくしが畢生(ひつせい)の心血をそそいで、その天書に依って風を祈ってみますが――」と。
だが、これは孔明の心中に、べつな自信のあることだった。毎年冬十一月ともなれば、潮流と南国の気温の関係から、季節はずれな南風が吹いて、一日二日のあいだ冬を忘れることがある。その変調を後世の天文学語で貿易風(ぼうえきふう)という。
ところが、今年に限って、まだその貿易風がやってこない。孔明は長らく隆中(りゆうちゆう)に住んでいたので年々つぶさに気象に細心な注意を払っていた。一年といえどもまだそれのなかった年はなかった。――で、どうしても今年もやがて間近にその現象があるものと確信していたのである。
「十一月二十日は甲子(きのえね)にあたる。この日にかけて祭すれば、三日三夜のうちに東風(たつみ)が吹き起りましょう。南屏山(なんぴようざん)の上に七星壇(せいだん)を築かせて下さい。孔明の一心をもって、かならず天より風を借らん」
と、彼は云った。
周瑜は、病を忘れ、たちまち陣中を出て、その指図をした。魯粛、孔明も馬を早めて南屏山にいたり、地形を見さだめて、工事の督励にかかる。
士卒五百人は壇を築き、祭官百二十人は古式にのっとって準備をすすめる。東南(たつみ)の方(かた)には赤土を盛って方円二十四丈とし、高さ三尺、三重の壇をめぐらし、下の一重には二十八宿の青旗を立て、また二重目には六十四面の黄色の旗に、六十四卦(け)の印を書き、なお三重目には、束髪の冠をいただいて、身に羅衣(うすもの)をまとい、鳳衣博帯(ほうえはくたい)、朱履方裙(しゆりほうくん)した者を四人立て、左のひとりは長い竿に鶏の羽を挟んだのを持って風を招き、右のひとりは七星の竿を掲げ、後のふたりは宝剣と香炉とを捧げて立つ。
こうした祭壇の下にはまた、旌旗(せいき)、宝蓋(ほうがい)、大戟(たいげき)、長槍、白旄(はくぼう)、黄鉞(こうえつ)、朱旛(しゆはん)などを持った兵士二十四人が、魔を寄せつけじと護衛に立つなど――何にしてもこれは途方もない大形(おおぎよう)な行事であった。
時、十一月二十日。
孔明は前日から斎戒沐浴(さいかいもくよく)して身を浄(きよ)め、身には白の道服を着、素足のまま壇へのぼって、いよいよ三日三夜の祈りにかかるべく立った。
――が、その一瞬のまえに、
「魯粛(ろしゆく)は、あるや」と、呼ばわった。
壇の下からただちに、
「これにあり」と、いう声がした。
孔明はさしまねいて、
「近く寄りたまえ」と、いい、そして厳(おごそ)かに、
「いまより、それがしは、祈りにかかるが、幸いに、天が孔明の心をあわれみ給うて、三日のうちに風を吹き起すことあらば、時を移さず、かねての計をもって、敵へ攻め襲(よ)せられるように――ご辺はこの由を周都督に報じ、お手ぬかりのないように万端待機せられよ」と、念を押した。
「心得て候う」とばかり、魯粛はたちまち駒をとばして、南屏山から駈けおりて行った。
三
魯粛(ろしゆく)の去ったあとで、孔明はまた壇下の将士に戒めて云いわたした。
「われ、風を祈るあいだ、各々も方位を離れ、或いは私語など、一切これを禁ず。また、いかなる怪しき事ありとも、愕(おどろ)き騒ぐべからず。行(ぎよう)をみだし、法に反(そむ)く者は立ちどころに斬って捨てん」
彼は――そう云い終ると、踵(きびす)をめぐらし、緩歩(かんぽ)して、南面した。
香を焚き、水を注ぎ、天を祭ることやや二刻(とき)。
口のうちで、祝文(しゆくもん)を唱え、詛(じゆ)を切ること三度(みたび)。なお黙祷やや久しゅうして、神気ようやくあたりにたちこめ、壇上壇下人声なく、天地万象また寂たるものであった。
夕星(ゆうずつ)の光が白く空にけむる。いつか夜は更けかけていた。孔明はひとたび壇を降りて、油幕(ゆまく)のうちに休息し、そのあいだに、祭官、護衛の士卒などにも、
「かわるがわる飯を喫し、しばし休め」と、ゆるした。
初更からふたたび壇にのぼり、夜を徹して孔明は「行(ぎよう)」にかかった。けれど深夜の空は冷々(ひえびえ)と死せるが如く、何の兆(しるし)もあらわれて来ない。
一方、魯粛は周瑜(しゆうゆ)に報じて、万端の手筈をうながし、呉主孫権にも、事の次第を早馬で告げ、もし今にも、孔明の祈りの験(しる)しがあらわれて、望むところの東南(たつみ)の風が吹いてきたら、直ちに、総攻撃へ移ろうと待機していた。
また、そうした表面的なうごきの陰には、例の黄蓋(こうがい)が、かねての計画どおり、二十余艘の兵船快舟を用意して、内に乾し草枯れ柴(しば)を満載し、硫黄(いおう)、焔硝(えんしよう)を下にかくし、それを青布の幕ですっかり蔽(おお)って、水上の進退に馴れた精兵三百余を各船にわかち載せ、
「大都督の命令一下に」
と、ひそやかに待ち構えていた。
もちろんこの一船隊は、初めから秘密に計(はかりごと)を抱いているので、そこでは黄蓋と同心の甘寧(かんねい)、〓沢(かんたく)などが、敵の諜者たる蔡和(さいか)、蔡仲(さいちゆう)を巧みにとらえて、わざと酒を酌み、遊惰(ゆうだ)の風を見せ、そしていかにもまことしやかに、
(どうしたら首尾よく味方を脱して、曹操の陣へ無事に渡り得るか)
と、降伏行(こう)の相談ばかりしていたのである。
次の日もはや暮れて、日没の冬雲は赤く長江を染めていた。
ところへ、呉主孫権のほうからも、伝令があって、
「呉侯の御旗下、その余の本軍は、すでに舳艫(じくろ)をそろえて溯江(そこう)の途中にあり、ここ前線をへだつこと、すでに八十里ほどです」と、告げてきた。
その本陣も、ここ最前線の先鋒も中軍も、いまはただ周瑜大都督の下知を待つばかりであった。
自然、陣々の諸大将もその兵も、固唾(かたず)をのみ、拳をにぎり、何とはなく、身の毛をよだてて、
「今か。今か」の心地だった。
夜は深まるほど穏やかである。星は澄み、雲もうごかない。三江の水は眠れるごとく、魚鱗のような小波(さざなみ)をたてている。
周瑜は、あやしんで、
「どうしたということだ? ……いっこう祈りの験(しるし)は見えてこないじゃないか。――思うにこれは、孔明の詐(いつわ)り事だろう。さもなければ、つい広言のてまえ、自信もなくやり出したことで、今頃は、南屏山(なんぴようざん)の七星壇に、立ち往生のかたちで、後悔しているのではないかな」
呟くと、魯粛は、側にあって、
「いやいや、孔明のことですから、そんな軽々しいことをして、自ら禍いを求めるはずはありません。もうしばらく見ていてご覧なさい」
「……けれど、魯粛。この冬の末にも近くなって、東南(たつみ)の風が吹くわけはないじゃないか」
ああ、その言葉を、彼が口に洩らしてから、実に、二刻(ふたとき)とて経たないうちであった。一天の星色次第にあらたまり、水颯々、雲(くも)々(しゆうしゆう)、ようやく風が立ち始めてきた。しかもそれは東南に特有な生暖かい風であった。
四
「やっ? 風もようだが」
「吹いて来た」
周瑜(しゆうゆ)も魯粛(ろしゆく)も、思わず叫んで、轅門(えんもん)の外に出た。
見まわせば、立て並べてある諸陣の千旗万旗は、ことごとく西北(いぬい)の方へ向ってひるがえっている。
「オオ、東南(たつみ)風(かぜ)だ」
「――東南風」
待ちもうけていたことながら二人は唖然としてしまった。
突然、周瑜は身ぶるいして、
「孔明とは、そも、人か魔か。天地造化の変を奪い、鬼神不測(きしんふそく)の不思議をなす。かかる者を生かしておけば、かならず国に害をなし、人民のうちに禍乱を起さん。かの黄巾の乱や諸地方の邪教の害に照らし見るもあきらかである。如(し)かず、いまのうちに!」
と、叫んで、急に丁奉(ていほう)、徐盛(じよせい)の二将をよび、これに水陸の兵五百をさずけて、南屏山へ急がせた。
魯粛は、いぶかって、
「都督、今のは何です?」
「あとで話す」
「まさか孔明を殺しにやったのではありますまいね。この大戦機を前にして」
「…………」
周瑜は答えもなく、口をつぐんだ。その面を魯粛は「度(ど)し難(がた)き大将」と蔑(さげす)むように睨みつけていた。その爛(らん)たる白眼(はくがん)にも刻々と生暖かい風はつよく吹きつのってくる。
陸路、水路、ふた手に分れて南屏山へ迫った五百の討手のうち、丁奉の兵三百が、真っ先に山へ登って行った。
七星壇を仰ぐと、祭具、旗など捧げたものは、方位の位置に、木像の如く立ちならんでいたが、孔明のすがたはない。
「孔明はいずこにありや」と、丁奉は高声にたずねた。
ひとりが答えた。
「油幕のうちにお休み中です」と、いう。
ところへ、徐盛の船手勢も来て、ともに油幕を払ってみたが、
「――おらんぞ」
「はてな?」
雲をつかむように、捜しまわった。
不意に討手の一人が、
「逃げたのだ!」と、絶叫した。
徐盛は足ずりして、
「しまった。まだ、よも遠くへは落ちのびまい。者ども、追いついて、孔明の首をぶち落とせ」
と、喚(わめ)いた。
丁奉も、おくれじと、鞭打って馬を早めた。麓まで来て、一水の岸辺にかかると、ひとりの男に会った。かくかくの者は通らなかったかと質(ただ)すと、男のいうには、
「髪をさばき、白き行衣(ぎようえ)を着た人なら、この一水から小舟を拾って本流へ出、そこに待っていた一艘の親船に乗って、霞のごとく、北のほうへ消えました」
徐盛、丁奉はいよいよあわてて、
「それだ。逃がすな」
と、相励ましながら、さらに、長江の岸まで駈けた。
満々と帆を張った数艘が、白波を蹴って上流へ追った。
そしてたちまち先へ行く怪しい一艘を認めることができた。
「待ち給え、待ち給え。それへ急がるる舟中の人は、諸葛(しよかつ)先生ではないか。――周都督より一大事のお言づけあって、お後を追って参った者。使いの旨を聞きたまえ」
と、手をあげて呶鳴(どな)った。
すると果たして、孔明の白衣のすがたが、先にゆく帆の船尾に立った。そして呵々(かか)と笑いながら此方へ答えた。
「よう参られたり、お使い、ご苦労である。周都督のお旨は承らずとも分っておる。それよりもすぐ立ち帰って、東南(たつみ)の風もかく吹けり、はや敵へ攻めかからずやと、お伝えあれ。――それがしはしばらく夏口に帰る。他日、好縁もあらばまたお目にかからん」
声――終るや否、白衣の影は船底にかくれ、飛沫(しぶき)は船も帆もつつんで、見る見るうちに遠くなってしまった。
南風(なんぷう)北春(ほくしゆん)
一
「逃がしては!」と、徐盛(じよせい)は、水夫(か こ)や帆綱の番を励まして、
「追いつけ。孔明(こうめい)の舟をやるな」と、舷(ふなべり)を叩いて励ました。
先へ舟を早めていた孔明は、ふたたび後から追いついて来る呉の船を見た。孔明は、笑っていたが、彼と船中に対坐していた一人の大将が、やおら起って、
「執念ぶかい奴かな。いで、一睨みに」
と、身を現して、舷端(ふなばた)に突っ立ち、徐盛の舟へ向って呼ばわった。
「眼あらば見よ、耳あらば聞け。われは常山(じようざん)の子龍趙雲(しりゆうちよううん)である。劉皇叔(りゆうこうしゆく)のおいいつけをうけて、今日、江辺に舟をつないで待ち、わが軍の軍師をお迎えして夏口に帰るに、汝ら、呉の武将が、何の理由あって阻(はば)むか。みだりに追い来って、わが軍師に、何を働かんといたすか」
すると、徐盛も舳(みよし)に立ち上がって、
「いやいや、何も諸葛亮(しよかつりよう)を害さんためではない。周都督のお旨をうけ、いささか亮先生に告ぐる儀あり。しばらく待ち給えというに、なぜ待たぬか」
「笑止笑止。その物々しい武者どもを乗せて、害意なしなどとは子どもだましの虚言である。汝らこれが見えぬか」と、趙子龍は、手にたずさえている強弓に矢をつがえて示しながら、
「この一矢を以て、汝を射殺すはいとやすいが、わが夏口の勢と呉とは、決して、対曹操(そうそう)のごときものではない。故に、両国の好誼(よしみ)を傷つけんことをおそれて、敢て、最前から放たずにいるのだ。この上、要らざる舌の根をうごかし、みだりに追いかけて来ぬがよいぞ」
と、大音を収めたかと思うと、とたんに、弓をぎりぎりとひきしぼって、徐盛のほうへ、びゅっと放った。
「――あっ」と、徐盛も首をすくめたが、もともとその首を狙って放った矢ではない。矢は、彼のうえを通り越して、うしろに張ってある帆の親綱をぷつんと射(い)きった。
帆は大きく、横になって、水中に浸(ひた)った。そのため、船はぐると江上に廻り、立ち騒ぐ兵をのせたまま危うく顛覆(てんぷく)しそうに見えた。
趙雲は、からからと笑って、弓を捨て、何事もなかったような顔して、ふたたび孔明とむかい合って話していた。
水びたしの帆を張って、徐盛がふたたび追いかけようとした時は、もう遠い煙波の彼方に、孔明の舟は、一鳥(ちよう)のように霞んでいた。
「徐盛。むだだ。やめろやめろ」
江岸から大声して、彼をなだめる者があった。
見れば、味方の丁奉(ていほう)である。
丁奉は、馬にのって、陸地を江岸づたいに急ぎ、やはり孔明の舟を追って来たのであるが、いまの様子を陸(おか)から見ていたものと見え、
「とうてい、孔明の神機は、おれ達の及ぶところでない。おまけに、あの迎えの舟には、趙雲が乗っているではないか。常山の趙子龍といえば、万夫不当の勇将だ。長坂坡(ちようはんは)以来、彼の勇名は音に聞えている。この少ない追手の人数をもって、追いついたところで、犬死するだけのこと。いかに都督の命令でも、犬死しては何もならん。帰ろう、帰ろう、引っ返そう」
手合図して、駒をめぐらし、とことこと岸をあとへ帰って行く。
徐盛もぜひなく、舟をかえした。そして事の仔細を、周瑜(しゆうゆ)へ報告すると、
「また孔明に出し抜かれたか」と、彼は急に、臍(ほぞ)をかむように罵(ののし)った。
「これだから自分は、彼に油断をしなかったのだ。彼は決して、呉のために呉の陣地へ来ていたのではない。――ああ、やはり何としてでも殺しておけばよかった。彼の生きているうちは、夜も安らかに寝られん」
一度は、深く孔明に心服した彼も、その心服の度がこえると、たちまち、将来の恐怖に変った。いっその事、玄徳(げんとく)を先に討ち、孔明を殺してから、曹操と戦わんか。――などと云い出したが、
「小事にとらわれて、大事を棄つる理がありましょうか。しかも眼前に、あらゆる計画はもうできているのに」と、魯粛(ろしゆく)に諫(いさ)められて、迂愚ではない彼なので、たちまち、
「それは大きにそうだ!」
と、曹操との大決戦に臨むべく、即刻、手分けを急ぎだした。
望蜀(ぼうしよく)の巻
降参船(こうさんぶね)
一
「この大機会を逸してどうしましょうぞ」
という魯粛(ろしゆく)の諫(いさ)めに励まされて、周瑜(しゆうゆ)もにわかにふるい起ち、
「まず、甘寧(かんねい)を呼べ」と令し、営中の参謀部は、俄然、活気を呈した。
「甘寧にござりますが」
「おお、来たか」
「いよいよ敵へお蒐(かか)りになりますか」
「然り。――汝に命ずる」
周瑜は厳かに、軍令をさずけた。
「かねての計画に従って、まず、味方の内へまぎれこんでいる蔡仲(さいちゆう)、蔡和(さいか)のふたりを囮(おとり)とし、これを逆用して、敵の大勢をくつがえすこと。……その辺はぬかりなく心得ておろうな」
「心得ておりまする」
「汝はまず、その一名の蔡仲を案内者として、曹操(そうそう)に降参すと称(とな)え、船を敵の北岸へ寄せて、烏林(うりん)へ上陸(あ が)れ。そして蔡仲の旗をかざし、曹操が兵糧を貯えおく粮倉(ろうそう)へ迫って、縦横無尽に火をつけろ。火の手の旺(さかん)なるを見たら、同時に敵営へ迫って、側面から彼の陣地を攪乱(こうらん)せよ」
「承知しました。して残る一名の蔡和はいかがいたしますか」
「蔡和は、べつに使いみちがあるから残して行くがよい」
甘寧が退がって行くと、周瑜はつづいて、太史慈(たいしじ)を呼び、
「貴下は、三千余騎をひっさげて、黄州の堺に進出し、合〓(がつぴ)にある曹軍の勢に一撃を加え、まっしぐらに敵の本陣へかかり、火を放って焼き討ちせよ。――そして紅(くれない)の旗を見るときは、わが主呉侯の旗下勢(きかぜい)と知れかし」
第三番目に、呂蒙(りよもう)を呼んだ。
呂蒙に向っては、
「兵三千をひいて、烏林へ渡り、甘寧と一手になって、力戦を扶(たす)けろ」
と命じ、第四の凌統(りようとう)へは、
「夷陵(いりよう)の境にあって、烏林に火のかかるのを見たら、すぐ喚(おめ)きかかれ」
と、それへも兵三千をあずけ、さらに、董襲(とうしゆう)へは、漢陽から漢川(かんせん)方面に行動させ、また潘璋(はんしよう)へも同様三千人を与えて、漢川方面への突撃を命じた。
こうして、先鋒六隊は、白旗を目じるしとして、早くも打ち立った。――水軍の船手も、それぞれ活溌なうごきを見せていたが、かねてこの一挙に反間の計をほどこさんものと手に唾(つば)して待っていた黄蓋(こうがい)は、早速、曹操の方へ、人を派して、
「いよいよ時節到来。今夜の二更に、呉の兵糧軍需品を能(あた)うかぎり奪(と)り出して、兵船に満載し、いつぞやお約束のごとく、貴軍へ降参に参ります。依って、船檣(せんしよう)に青龍の牙旗(がき)をひるがえした船を見給わば、これ呉を脱走して、お味方の内へすべり込む降参船なりと知りたまえ」
と、云い送った。
ひそやかに、誠しやかに、こう曹操の方へは、諸事、しめし合わせを運びながら、黄蓋は着々とその夜の準備をすすめていた。まず、二十艘の火船を先頭にたて、そのあとに、四隻の兵船を繋(つ)けた。つづいて、第一船隊には、領兵軍官韓当(かんとう)がひかえ、第二船隊には同じく周泰(しゆうたい)、第三の備えに蒋欽(しようきん)、第四には陳武(ちんぶ)と――約三百余艘の大小船が、舳(みよし)をならべて、夜を待ちかまえた。
すでに宵闇は迫り、江上の風波はしきりと暴(あ)れていた。今暁からの東南(たつみ)風(かぜ)は、昼をとおして、なおもさかんに吹いている。
何となく生温かい。そして気だるいほど、陽気はずれな晩だった。
そのためか、江上一帯には、水蒸気が立ちこめていた。幸先(さいさき)よしと、黄蓋は、纜(ともづな)を解いて、一斉に発動を命令した。
三百余艘の艨艟(もうどう)は、淙々と、白波を切って、北岸へすすんで行った。――そのあとについて、周瑜、程普(ていふ)の乗りこんだ旗艦の大躯も、颯々、満帆をはためかせながら動いてゆく。
後陣として続いてゆく一船列は、右備え丁奉(ていほう)、左備え徐盛(じよせい)の隊らしかった。
魯粛と〓統(ほうとう)は、この夜、あとに残って、留守の本陣を守っていた。
二
その夕。
呉主孫権(そんけん)の本軍は、旗下の勢とともに、すでに黄州の境をこえて、前進していた。
兵符(へいふ)をうけて、その発向を知った周瑜(しゆうゆ)は、すぐ一軍を派して、南屏山(なんぴようざん)のいただきに大旗をさしあげ、まず先手の大将陸遜(りくそん)を迎え、続いて孫権の許へも、
「いまはただ夜を待つばかりにて候う」と、報じた。
かくて、刻々と、暮色は濃くなり、長江の波音もただならず、暖風しきりに北へ吹いて、飛雲団々、天地は不気味な形相を呈していた。
× × ×
ここに夏口の玄徳(げんとく)は、以来、孔明(こうめい)の帰るのを、一日千秋の思いで待ちわびていたところ、きのうから季節はずれな東南(たつみ)風(かぜ)が吹き出したので、かねて孔明が云いのこして行ったことばを思い出し、にわかに、趙雲(ちよううん)子龍(しりゆう)をやって、
「孔明を迎えて来い」
と、ゆうべその船を立たせ、今朝も望楼にあがって、今か今かと江を眺めていた。
すると、一艘の小舟が、〓魚(けつぎよ)のごとくさかのぼって来た。
近づいて見ると、孔明にはあらで、江夏(こうか)の劉〓(りゆうき)である。
楼上に迎えて、
「何の触れもなく、どうして急に参られたか」と、問うと、劉〓は、
「昨夜来、物見の者どもが、下流から続々帰って来て告げることには、呉の兵船、陸兵など、東南(たつみ)の風が吹くとともに、物々しく色めき立ち、この風のやまぬうちに、必ず一会戦あらんということでござります。皇叔のお手もとにはまだ何らの情報も集まってまいりませんか」
「いや、夜来頻々(ひんぴん)、急を告げる報(ほう)はきているが、いかんせん、呉へ参っている軍師諸葛亮(しよかつりよう)の帰らぬうちは……」と、語り合っている折へ、番将の一人が、馳け上がってきて、
「ただ今、樊口(はんこう)のほうから、一艘の小舟が、帆を張ってこれへ参る様子。舳(へさき)にひるがえるは、趙子龍(ちようしりゆう)の小旗らしく見えまする」と、大声で告げた。
「さては、帰りつるか」
と、玄徳は劉〓と共に、急いで楼を降り、埠桟(ふさん)にたたずんで待ちかまえていた。
果たして、孔明を乗せた趙雲の舟であった。
玄徳のよろこび方はいうまでもない。互いに無事を祝し、袂(たもと)をつらねて、夏口城の一閣に登った。
そして、呉魏両軍の模様を質(ただ)すと、孔明は、
「事すでに急です。一別以来のおはなしも、いまはつまびらかに申しあげているいとまもありません。君には、味方の者の用意万端、抜かりなく調えておいでになられますか」
「もとより、出動とあらば、いつでも打ち立てるように、水陸の諸軍勢を揃えて、軍師の帰りを待つこと久しいのじゃ」
「然らば、直ちに、部署をさだめ、要地へ向け、指令を下さねばなりません。君にご異議がなければ、孔明はそれから先に済ましたいと思います」
「指揮すべて、軍師の権と謀(はかり)を以て、即刻にするがいい」
「僭越(せんえつ)、おゆるし下さい」と、孔明は、壇に起って、まず趙雲を呼び、
「御身(おんみ)は、手勢二千をひきつれ、江を渡って、烏林の小路に深くかくれ、こよい四更の頃、曹操が逃げ走ってきたなら、前駆の人数はやりすごし、その半ばを中断して、存分に討ち取れ。――さは云え、残らず討ちとめんとしてはならん。また、逃げるは追うな。頃あいを計って、火を放ち、あくまで敵の中核に粉砕を下せ」
と、命じた。
趙雲は、畏まって、退がりかけたが、また踵(くびす)をかえして、こう質問した。
「烏林には、二すじの道があります。一条は南郡(なんぐん)に通じ、一条は荊州へ岐(わか)れている。曹操は、そのいずれへ走るでしょうか」
「かならず、荊州へ向い、転じて許都へ帰ろうとするだろう。そのつもりでおれば間違いはない」
孔明はまるで掌(て)の上をさすように云った。そして、次には張飛(ちようひ)を呼んだ。
三
張飛に向っては、
「ご辺は、三千騎をひきつれ、江を渡って、夷陵(いりよう)の道を切りふさがれよ」と、孔明は命じた。
そして、なお、
「そこの葫蘆谷(ころこく)に、兵を伏せて相待たば、曹操はかならず南夷陵(なんいりよう)の道を避けて、北夷陵をさして逃げくるであろう。明日、雨晴れて後、曹操の敗軍、この辺りにて、腰兵糧を炊(かし)ぎ用いん。その炊煙をのぞんで一度に喚(おめ)きかかり給え」と、つぶさに教えた。
張飛は、孔明のあまりな予言を怪しみながらも、
「畏まった」と、心得て、直ちにその方面へ馳せ向う。
次に、糜竺(びじく)、糜芳(びほう)、劉封(りゆうほう)の三名を呼び、
「ご辺三人は、船をあつめて、江岸をめぐって、魏軍営、潰乱(かいらん)に陥ちたと見たら、軍需兵糧の品々を、悉皆(しつかい)、船に移して奪いきたれ。また諸所の道にかかる落人(おちゆうど)どもの馬具、物具なども余すなく鹵獲(ろかく)せよ」と、いいつける。
また、劉〓(りゆうき)に向っては、
「武昌(ぶしよう)は、緊要の地、君かならず守りを離れたもうなかれ。ただ江辺を固め、逃げくる敵あらば、捕虜として味方に加えられい」
最後に、玄徳を誘って、
「いで、君と臣とは、樊口(はんこう)の高地へのぼって、こよい周瑜が指揮なすところの大江上戦を見物申さん。――はや、お支度遊ばされよ」と促すと、
「かくまでに、戦機は迫っていたか。儂(み)もこうしてはおられまい」
と、玄徳も取急いで、甲冑(かつちゆう)をまとい、孔明と共に、樊口の望台へ移ろうとした。
すると、それまで、なお何事も命ぜられずに、悄然と、一方に佇立(ちよりつ)したひとりの大将がある。
「あいや、軍師」と、初めて、この時、ことばを発した。
見れば、そこにただ一人取残されていたのは、関羽(かんう)であった。
知ってか、知らずか、孔明は、
「おう、羽将軍、何事か」と、振返って、しかも平然たる顔であった。
関羽は、やや不満のいろを、眉宇(びう)にあらわして、
「先程から、いまに重命もあらんかと、これに控えていたが、なおそれがしに対して、一片のご示命もなきは、いかなるわけでござるか。不肖、家兄(このかみ)に従うて、数十度の軍(いくさ)に会し、いまだ先駈けを欠いたためしもないのに、この大戦に限って、関羽ひとりをお用いなきは、何か、おふくみのあることか」と、眦(まなじり)に涙をたたえて詰め寄った。
孔明は、冷(ひや)やかに、
「さなり。御身を用いたいにも、何分ひとつの障(さわ)りがある。それが案じらるるまま、わざと御身には留守をたのんだ」
「何。障りあると。――明らかに理由を仰せられい。関羽の節義に曇りがあるといわるるか」
「否。ご辺の忠魂は、いささか疑う者はない。けれど、思い出し給え。その以前、御身は曹操に篤う遇(ぐう)せられて、都を去る折、彼の情誼にほだされて、他日かならずこの重恩に報ぜんと、誓ったことがおありであろうが――今、曹操は烏林に敗れ、その退路を華容道(かようどう)にとって、かならず奔亡(ほんぼう)して来るであろう。ゆえに、ご辺をもって、道に待たしめ、曹操の首を挙げることは、まことに嚢(ふくろ)の物を取るようなものだが、ただ孔明の危ぶむところは、今いうた一点にある。ご辺の性情として、かならず、旧恩に動かされ、彼の窮地に同情して、放し免(ゆる)すにちがいない」
「何の! それは軍師の余りな思い過ぎである。以前の恩は恩として、すでに曹操には報じてある。かつて彼の陣を借り、顔良(がんりよう)、文醜(ぶんしゆう)などを斬り白馬の重囲を蹴ちらして彼の頽勢(たいせい)を盛り返したなど――その報恩としてやったものでござる。なんで、今日ふたたび彼を見のがすべきや、ぜひ、関羽をお向け下さい。万一、私心に動かされたりなどしたらいさぎよく軍法に服しましょう」
四
関羽の切なることばを傍らで聞いていた玄徳は、彼の立場を気の毒に思ったか、孔明に向って、
「いや、軍師の案じられるのも理由なきことではないが、この大戦に当って、関羽ともある者が、留守を命じられていたと聞えては、世上へも部内へも面目が立つまい。どうか、一手の軍勢をさずけ、関羽にも一戦場を与えられたい」と、取りなした。
孔明は、是非ない顔して、
「然らば、万一にも、軍命を怠ることあらば、いかなる罪にも伏すべしという誓紙を差出されい」と、いった。
関羽は、即座に、誓文を認(したた)めて軍師の手許へさし出したが、なお心外にたえない面持を眉に残して、
「仰せのまま、それがしはかく認めましたが、もし軍師のおことばと違い、曹操が華容道へ逃げてこなかったら、その場合、軍師ご自身は、何と召されるか」と、言質(げんち)を求めた。
孔明は、微笑して、
「曹操がもし華容道へ落ちずに、べつな道へ遁(のが)れたときは、自分も必ず罪をこうむるであろう」
と、約した。
そして、なお、
「足下は、華容山(かようざん)の裡にひそみ、峠のほうには、火をつけ、柴を焼かせ、わざと煙をあげて、曹操の退路に伏せておられよ。曹操が死命を制し得んこと必定であろう」と、命じた。
「おことばですが」と、関羽は、その言をさえぎって、
「峠に火煙(かえん)をあげなば、せっかく、落ちのびて来た曹操も、道に敵あることを覚り、ほかへ方角を変えて逃げ失せはいたすまいか」
「否々」
孔明は、わらって、
「兵法に、表裏と虚実あり、曹操は元来、虚実の論にくわしき者。彼、行くての山道に煙のあがるを見なば、これ、敵が人あるごとき態を見せかくるの偽計なりと観破し、あえて、冒(おか)し来るに相違ない。敵を謀るにはよろしく敵の智能の度を測るをもって先とす――とはこのこと。あやしむなかれ。羽将軍、疾くゆき給え」
「なるほど」
関羽は、嘆服して、退くと、養子の関平(かんぺい)、腹心の周倉(しゆうそう)などを伴って、手勢五百余騎をひきい、まっしぐらに華容道へ馳せ向った。
そのあとで玄徳は、かえって、孔明よりも、心配顔していた。
「いったい、関羽という人間は、情けに篤く義に富むこと、人一倍な性質であるからは、ああはいって差向けたものの、その期に臨んで、曹操を助けるような処置に出ないとは限らない。……ああ、やはり軍師のお考え通り、留守を命じておいたほうが無事だったかもしれない」
孔明は、その言を否定して、
「あながち、それが良策ともいえません。むしろ関羽を差向けたほうが、自然にかなっておりましょう」と、いった。
玄徳が、不審顔をすると、理を説いて、こうつけ加えた。
「なぜならば――です。私が天文を観じ人命を相するに、この度の大戦に、曹操の隆運とその軍力の滅散するは必定でありますが、なおまだ、曹操個人の命数はここで絶息するとは思われません。彼にはなお天寿がある。――ゆえに、関羽の心根に、むかし受けた曹操の恩に対して、今もまだ報じたい情があるなら、その人情を尽くさせてやるもよいではありませんか」
「先生。……いや軍師。あなたはそこまで洞察して、関羽をつかわしたのですか」
「およそ、それくらいなことが分らなければ、兵を用いて、その要所に適材を配することはできません」
云い終ると、孔明は、やがて下流のほうに、火焔(かえん)が天を焦(こ)がすのも間近であろうと、玄徳を促して、樊口の山頂へ登って行った。
五
東南風(た つ み)は吹く。東南風は吹く。
生温い異様な風だ。
きのうからの現象である。――さてこの前後、曹操の起居は如何に。魏の陣営は、どう動いていたろうか。
「これは不吉な天変だ。味方にとって歓ぶべきことではない」
こういっていたのは、程〓(ていいく)であった。曹操に向ってである。
「丞相よろしく賢察し給え」と、あえて智を誇らなかった。
すると曹操はいった。
「何でこの風が味方に不吉なものか。思え。時はいま冬至(とうじ)である。万物枯れて陰(いん)極(きわ)まり、一陽(いちよう)生じて来復(らいふく)の時ではないか。この時、東南の風競(きそ)う。何の怪しむことがあろうぞ」
こんな所へ、江南の方から一舟が翔(か)けて来た。波も風もすべて、南からこの北岸へと猛烈に吹きつけているので、その小舟の寄って来ることも飛ぶが如くであった。
「黄蓋(こうがい)の使いです」と、小舟は一封の密書をとどけて去った。
「なに、黄蓋から?」
待ちかねていたらしい。曹操は手ずから封を切った。読み下すひとみも何か忙(せわ)しない。
書中の文にいう。
かねての一儀、周瑜(しゆうゆ)が軍令きびしきため、軽率にうごき難く、ひたすら好機を相待つうち、時節到来、先頃より〓陽湖(はようこ)に貯蔵の粮米(ろうまい)そのほかおびただしき軍需の物を、江岸の前線に廻送のことあり、すなわち某(それがし)を以てその奉行となす。天なる哉(かな)、この冥護(めいご)、絶好の機逸すべからず。万計すでに備われり。かねがねご諜報いたしおきたる通り、今夜二更の頃、それがし、江南の武将の首をとり、あわせて、数々の軍需の品、粮米を満載して、貴陣へ投降すべし。降参船にはことごとく檣頭(しようとう)に青龍の牙旗を立つ。ねがわくは丞相の配下をして、誤認なからしめ給わんことを。
建安十三年冬十一月二十一日
「いかがいたしたかと案じていたが、さすが老巧な黄蓋である。よい機会をつかんだ。折ふしこの風向き、呉陣を脱して来るのも易かろう。各々、抜かりあるな」
と、曹操は大いに歓んで、各部の大将に旨を伝え、自身もまた多くの旗下と共に水寨(すいさい)へ臨んで、その中にある旗艦に坐乗していた。
この日、落日は鉛色の雲にさえぎられ、暮るるに及んで、風はいよいよ烈しく、江上一帯は波高く、千億の黄龍が躍るかとあやしまれた。
× × ×
さるほどに、宵は迫り、呉の陣営にも、ただならないものがあった。
すでに、黄蓋(こうがい)や甘寧も、陣地を立ち、あとの留守には、蔡和(さいか)がひとり残っていた。
突然、一隊の兵が来て、
「周都督のお召しである。すぐ来い」
有無をいわせず、彼を囲んで、捕縛してしまった。
蔡和は、仰天して、
「それがしに何の罪やある!」と叫んだが、
「仔細は知らん。云い開きは、都督の前でいたせ」と、兵は仮借(かしやく)なく引っ立てた。
周瑜(しゆうゆ)は、待っていた。
彼を見るやいな、
「汝は、曹操の間諜であろう。出陣の血まつりに、軍神(いくさがみ)へ供えるには、ちょうどよい首と、今日まで汝の胴に持たせておいたが、もう好かろう。いざ祭らん」と、剣を抜き払った。
蔡和は、哀号(あいごう)して、甘寧や〓沢(かんたく)も自分と同腹なのに、自分だけを斬るのはひどいと喚いたが、周瑜は笑って、
「それはみな、自分がさせた謀略(はかりごと)である」
と、耳もかさず、一閃の下に屠(ほふ)った。
赤壁(せきへき)の大襲撃(だいしゆうげき)
一
時すでに初更に近かった。
蔡和(さいか)の首を供えて水神火神に祷(いの)り、血をそそいで軍旗を祭った後、周瑜(しゆうゆ)は、
「それ、征(ゆ)け」と、最後の水軍に出航を下知した。
このときもう先発の第一船隊、第二船隊、第三船隊などは、舳艫(じくろ)をそろえて、江上へすすんでいた。
黄蓋(こうがい)の乗った旗艦には、特に「黄(こう)」の字を印した大旗をひるがえし、その余の大船小艇にも、すべて青龍の牙旗(がき)を立てさせていた。
宵深まるにつれて、烈風は小凪(こなぎ)になったが、東南(たつみ)の風向きに変化はない。そして依然、大波天にみなぎり、乱雲のあいだからほのかな月光さえさして、一瞬は晃々と冴え、一瞬は青白い晦冥(かいめい)となり、悽愴の気、刻々とみちていた。
三江の水天、夜いよいよ深く
万条の銀蛇(ぎんだ)、躍るが如し
戦鼓(せんこ)鳴(めい)を止(や)めて、舷々(げんげん)歌う
幾万の夢魂、水寨(すいさい)にむすぶ
魏の北岸の陣中で、誰か吟詠(ぎんえい)している者があった。旗艦に坐乗していた曹操(そうそう)はふと耳にとめて、
「誰だ、歌っているのは」とかたわらの程〓(ていいく)にたずねた。
「艦尾に番している哨兵です。丞相が詩人でいらっしゃるので、おのずから部下の端にいたるまで、詩情を抱くものとみえます」
「ははは。詩はまずいが、その心根はやさしい。その哨兵をこれへ呼んでこい。一杯の酒を褒美にくれてやろう」
旗下の一人が、すぐ席を起って、艦尾へ走りかけたが、それとほとんど同時に、
「――やっ? 船が見える。たくさんな船隊が、南のほうからのぼって来る!」
と、檣楼(しようろう)の上からどなった。
「なに、船隊が見える?」と、諸大将、旗本たちは、総立ちとなって、船櫓(ふなやぐら)へ登るもあり、舳(みよし)へ向って駈け出して行くものもあった。
――見れば、荒天の下、怒濤の中を続々と連なって来る船の帆が望まれる。月光はそれを照らして、鮮やかにするかと思えば、またたちまち、雲は月をおおうと、黒白(あやめ)もつかぬ闇としてしまう。
「旗は見えんか。――青龍の牙旗(がき)を立ててはいないか」
下からいう曹操の声だった。
船楼の上から、諸大将が、口をそろえて答えた。
「見えます、龍舌旗(りゆうぜつき)が」
「すべての船の帆檣(ほばしら)に!」
「青旗のようですっ。――青龍の牙旗。まちがいはありません」
曹操は、喜色満面に、
「そうかっ。よしっ」
と、うなずいて、自身、舳(みよし)のほうへ向って、希望的な大歩を移しかけた。
するとまた、そこにいた番の大将が、
「遠く、後方から来る一船団のうちの大船には、『黄(こう)』の字を印した大旗が翩翻(へんぽん)と立ててあるように見えまする」と、告げた。
曹操は、膝を打って、
「それそれ。それこそ、黄蓋(こうがい)の乗っている親船だ。彼、果たして約束をたがえず、今これへ味方に来るは、まさしく、わが魏軍を天が助けるしるしである」と、いい、さらに自分の周囲へむらがって来た幕僚の諸将に向って、
「よろこべ一同。すでに呉は敗れたり。わが掌(て)は、もはや呉を握り奪(と)ったも同様であるぞ」と、語った。
東南(たつみ)風(かぜ)をうけて来るので、彼方の機船隊が近づいて来る速度は驚くほど迅(はや)かった。すでに団々たる艨艟(もうどう)は眼のまえにあった。――と、ふいに異様な声を出したのは程〓(ていいく)で、
「や、や? ……いぶかしいぞ。油断はならん」と、味方の人々を戒(いまし)めた。
曹操は、聞き咎めて、むしろ不快そうに、
「程〓。何がいぶかしいというのか?」と、その姿を振向いた。
二
程〓(ていいく)は、曹操の問に対して、言下にこう答えた。
「兵糧武具を満載した船ならば、かならず船脚(ふなあし)が深く沈んでいなければならないのに、いま眼の前に来る船はすべて水深(すいしん)軽く、さして重量を積んでいるとは見えません。――これ詐(いつわ)りの証拠ではありませんか」
聞くと、さすがは、曹操であった。一言を聞いて万事を覚ったものとみえる。
「ううむ! いかにも」と、大きく唸って、その眼を、風の中に、爛々(らんらん)と研(と)いでいたが、くわっと口を開くやいな、「しまった! この大風、この急場、もし敵に火計のあるならば、防ぐ手だてはない。誰か行って、あの船隊を、水寨(すいさい)の内へ入れぬよう防いでおれ」
後の策は、後の事として、取りあえずそう命令した。
「おうっ」と答えて、
「それがしが防ぎとめている間に、早々、大策をめぐらし給え」
と、旗艦から小艇へと、乗り移って行ったのは、文聘(ぶんぺい)であった。
文聘は、近くの兵船七、八隻、快速の小艇十余艘をひきつれて、波間を驀進(ばくしん)し、たちまち彼方なる大船団の進路へ漕ぎよせ、
「待ち給え。待たれよ」
と、舳(みよし)に立って大音に呼ばわった――
「曹丞相(じようしよう)の命令である。来るところの諸船は、のこらず水寨の外に碇(いかり)をおろし、舵(かじ)を止め、帆綱をゆるめられい!」
すると、答えもないばかりか、依然、波がしらを噛んで疾走して来た先頭の一船から、びゅんと、一本の矢が飛んできて文聘の左の臂(ひじ)にあたった。
わっと、文聘は船底へころがった。同時に、
「すわや。降参とは詐(いつわ)りだぞ」
と、船列と船列とのあいだには、まるで驟雨(しゆうう)のような矢と矢が射交わされた。
このとき、呉の奇襲艦隊の真中にあった黄蓋(こうがい)の船は、颯々(さつさつ)と、水煙の中を進んで来て、はや水寨の内へ突入していた。
黄蓋は、船楼にのぼって、指揮に声をからしていたが、腰なる刀を抜いて、味方の一船列をさしまねき、
「今ぞっ、今ぞっ、今ぞっ。曹操が自慢の巨艦大船は眼のまえに展列して、こよいの襲撃を待っている。あれ見よ、敵は混乱狼狽、なすことも知らぬ有様。――それっ、突込め! 突込んで、縦横無尽に暴れちらせ!」と、激励した。
かねて、巧みに偽装して、先頭に立てて来た一団の爆火船隊――煙硝(えんしよう)、油、柴などの危険物を腹いっぱい積んで油幕(ゆまく)をもっておおい隠してきた快速艇や兵船は――いちどに巨大な火焔を盛って、どっと、魏の大艦巨船へぶつかって行った。
ぐわうっと、焔(ほのお)の音とも、濤(なみ)の音とも、風の声ともつかないものが、瞬間、三江の水陸をつつんだ。
火の鳥の如く水を翔(か)けて、敵船の巨体へ喰いついた小艇は、どうしても、離れなかった。後で分ったことであるが、それらの小艇の舳(へさき)には、槍のような釘が植えならべてあり、敵船の横腹へ深く突きこんだと見ると、呉兵はすぐ木の葉のような小舟を降ろして逃げ散ったのであった。
なんで堪(たま)ろう。いかに巨きくとても木造船や皮革船である。見るまに、山のような、紅蓮(ぐれん)と化して、大波の底に沈没した。
もっと困難を極めたのは、例の連環(れんかん)の計によって、大船と大船、大艦と大艦は、ほとんどみな連鎖交縛(れんさこうばく)していたことである。そのために、一艦炎上すればまた一艦、一船燃え沈めばまた一船、ほとんど、交戦態勢を作るいとまもなく、焼けては没し、燃えては沈み、烏林湾(うりんわん)の水面はさながら発狂したように、炎々と真赤に逆巻く渦、渦、渦をえがいていた。
三
なにが炸裂(さくれつ)するのか、爆煙の噴きあがるたび、花火のような焔が宙天へ走った。次々と傾きかけた巨船は、まるで火焔の車輪のようにグルグル廻って、やがて数丈の水煙をかぶっては江底に影を没して行く。
しかも、この猛炎の津波と火の粉の暴風(あらし)は、江上一面にとどまらず、陸の陣地へも燃え移っていた。
烏林(うりん)、赤壁(せきへき)の両岸とも、岩も焼け、林も焼け、陣所陣所の建物から、糧倉、柵門、馬小屋にいたるまで、眼に映るかぎりは焔々たる火の輪をつないでいた。
「火攻めの計は首尾よく成ったぞ。この機をはずさず、北軍を撃滅せよ」
呉の水軍都督(ととく)周瑜(しゆうゆ)は、この夜、放火艇の突入する後から、堂々と、大船列を作って、烏林、赤壁のあいだへ進んできたが、味方の有利と見るや、さらに、陸地へ迫って、水陸の両軍を励ましていた。
優勢なる彼の位置に反して、ここに無残な混乱の中にあったのは、曹操の坐乗していた北軍の旗艦とその前後に集結していた中軍船隊である。
「小舟を降ろせ。右舷へ小舟をっ――」
と、黒煙の中で叫んでいたのは程〓(ていいく)か、張遼(ちようりよう)か徐晃(じよこう)か。
曹操を囲んで、炎の中から逃げようとする幕将にはちがいないが、その何人なるやさえも定かでなかった。
「迅くッ。迅く!」と、舷へ寄せた一小艇は、焔の下から絶叫する。揺々(ようよう)たる大波は沸(に)え立ち、真っ赤な熱風はその舟も人も、またたく間に焼こうとする。
「おうっ」
「おうっ。いざ丞相も」
ばらばらと、幕将連はそれへ跳びおりた。曹操も躍り込んだ。各々、身ひとつを移したのがやっとであった。
けれど、それを見つけた呉の走舸(はやぶね)や兵船は、
「生捕れっ、曹操を!」
「のがすな、敵の大将を」
と、四方から波がしらと共に追ってくる。
波の上には焦(こ)げた人馬の死体や、焼打ちされた船艇の木材や、さまざまな物が漂っていた。曹操の一艇は、その中を、波にかくれ、飛沫(しぶき)につつまれ、無二無三、逃げまわっていた。
すると一艘の蒙衝(もうしよう)(皮革艇)に乗って、こよいの奇襲船隊の闘将、呉の黄蓋(こうがい)が、曹操を討ちとる時は今なり、是が非でも、彼の首を挙げんものと、自身、快速なそれへ乗り移って、曹操を追いかけてきた。
「逃ぐるは醜(きたな)し、魏の大丞相曹操たるものの名折れではないかっ。曹操、待てっ」
と、熊手を抱えて、舳(みよし)に立ち、味方の数隻と共に、漕ぎよせて来た。
「推参な!」
と、曹操の側から、張遼が突っ立って、手にせる鉄弓からぶんと一矢(し)を放った。矢は、黄蓋の肩に立ち、あッという声と共に、黄蓋は波間へ落ちた。
あわてた呉兵が、黄蓋の姿を水中に求めているまに、からくも曹操は、烏林の岸へ逃げあがった。しかし、そことて、一面の火焔、どこを見ても、面も向けられない熱風であった。
一時は、小歇(こや)みかと思われた風速も、この広い地域にわたる猛火にふたたび凄まじい威力をふるい出し、石も飛び、水も裂けるばかりだった。
「――夢じゃないか?」
顧みて曹操は、茫然とつぶやいた。さもあろう。一瞬の前の天地とは、あまりな相違である。
対岸の赤壁、北岸の烏林、西方の夏水(かすい)ことごとく火の魔か敵の影ばかりである。そして、彼の擁していた大艦巨船小艇――はすべて影を没し、或いは今なお、猛烈に焼けただれている。
「夢ではない! ああっ……」
曹操は、一嘆、大きく空へさけんで、落ち行く馬の背へ飛び乗った。
青史(せいし)にのこる赤壁(せきへき)の会戦、長く世に謳(うた)われた三江(こう)の大殲滅(だいせんめつ)とは、この夜、曹操が味わった大苦杯そのものをいう。そしてその戦場は、現今の揚子江流域の湖北省嘉魚県(かぎよけん)の南岸北岸にわたる水陸入り組んでいる複雑な地域である。
山谷(さんこく)笑(わら)う
一
八十余万と称えていた曹操(そうそう)の軍勢は、この一敗戦で、一夜に、三分の一以下になったという。
溺死した者、焼け死んだ者、矢にあたって斃(たお)れた者、また陸上でも、馬に踏まれ、槍に追われ、何しろ、山をなすばかりな死傷をおいて三江の要塞から潰乱(かいらん)した。
けれど、犠牲者は当然呉のほうにも多かった。
「救えっ。救うてくれっ」と、まだ乱戦中、波間に声がするので、呉将の韓当(かんとう)が、熊手で引上げてみると、こよいの大殊勲者、黄蓋(こうがい)だった。
肩に矢をうけている。
韓当は、鏃(やじり)を掘り出し、旗を裂いて瘡口(きずぐち)をつつみ、早速、後方に送った。
甘寧(かんねい)、呂蒙(りよもう)、太史慈(たいしじ)などは、疾(と)くに、要塞の中心部へ突入して、十数ヵ所に火を放っていた。
このほか、呉の凌統(りようとう)、董襲(とうしゆう)、潘璋(はんしよう)なども、縦横無尽に威力をふるい廻った。
誰か、その中の一人は、蔡仲(さいちゆう)を斬りころし、その首を槍のさきに刺して駈けあるいていた。
こんな有様なので、魏軍はその一隊として、戦いらしい戦いを示さなかった。逃げる兵の上を踏みつけて逃げまろんだ。敵に追いつかれて樹の上まで逃げあがっている兵もある。それが見るみるうちに、バリバリと、樹林もろともに焼き払われてしまう。
「丞相(じようしよう)、丞相。戦袍(せんぽう)のお袖に火がついていますぞ」
後から駈けてくる張遼(ちようりよう)が馬の上から注意した。先へ鞭打って落ちて行く曹操は、あわてて自分の袖をはたいた。
駈けても駈けても焔(ほのお)の林だ。山も焼け水も煮え立っている。それに絶えず灰が雨の如く降ってくるので、悍馬(かんば)はなおさら暴れ狂う。
「おうーいっ。張遼ではないか。おおういッ」
後から追いついて来た十騎ばかりの将士がある。味方の毛〓(もうかい)だった。さきに深傷(ふかで)を負った文聘(ぶんぺい)がその中に扶けられて来る。
「ここはどの辺だ」
息をあえぎながら曹操は振向く。
張遼がそれに答えた。
「この辺もまだ烏林(うりん)です」
「まだ烏林か」
「林のつづく限り平地です。さしずめ敵勢も迅速に追いついて来ましょう。休んでいる間はありません」
総勢わずか二十数騎、曹操はかえりみて、暗澹(あんたん)とならずにいられなかった。
たのむは、馬の健脚だった。さらに鞭打って、後も見ずに飛ぶ。
すると、林道の一方から、火光の中に旗を打振り、
「曹賊っ。逃げるなかれ」
と呼ばわる者がある。呉の呂蒙が兵とこそ見えた。
「あとは、それがしが殿軍(しんがり)します。ただ急いで落ち給え」と、張遼が踏みとどまる。
しかしまた、一里も行くと、一簇(ひとむれ)の軍勢が奔突(ほんとつ)して、
「呉の凌統これにあり。曹賊、馬を下りて降参せよ」と、いう声がした。
曹操は、胆(きも)を冷やして、横ざまに林の中へ駈けこんだ。
ところが、そこにも、一手の兵馬が潜んでいたので、彼は、しまったと叫びながら、あわてて馬をかえそうとすると、
「丞相丞相。もう恐れ給うことはありません。ご麾下(きか)の徐晃(じよこう)です。徐晃これにお待ちしていました」と、さけぶ。
「おうっ、徐晃か」
曹操は、大息をついて、ほっとした顔をしたが、
「張遼が苦戦であろう。扶けて来い」と、いった。
徐晃は、一隊をひいて、駈け戻って行ったが、間もなく、敵の呂蒙、凌統の兵を蹴ちらして、重囲の中から張遼を助け出して帰ってきた。
二
そこで曹操主従はまた一団になって、東北へ東北へとさして落ちのびた。
すると、一彪(ぴよう)の軍馬が、山に拠って控えていた。
「敵か」と、徐晃(じよこう)、張遼(ちようりよう)などが、ふたたび苦戦を覚悟して物見させると、それはもと、袁紹(えんしよう)の部下で、後、曹操に降り、久しく北国の一地方に屈踞(くつきよ)していた馬延(ばえん)と張〓(ちようぎ)のふたりだった。
ふたりは、早速、曹操に会いにきた。そしていうには、
「実は、われわれ両名にて、北国の兵千余を集め、烏林のご陣へお手伝いに参らんものと、これまで来たところ、昨夜来の猛風と満天の火光に、行軍を止め、これに差し控えて万一に備えていたわけです」
曹操は大いに力を得て、馬延、張〓に道を開かせ、そのうち五百騎を後陣として、ここからは少し安らかな思いで逃げ落ちた。
そして十里ほど行くと、味方の倍もある一軍が、真っ黒に立ちふさがり、ひとりの大将が、駒を乗り出して何かいっている。――馬延は、自分に較べて、それも多分味方ではないかと思い、
「何者か」と、先へ近づいて訊いた。
すると、彼方(あなた)の者は、大音をあげて、
「われこそは呉に彼ありともいわれた甘寧(かんねい)である。こころよく我が刃(やいば)をうけよ」
云いも終らぬうち、馬躍らせて近寄りざま、馬延を一刀のもとに斬り落した。
後ろにいた張〓は、驚いて、
「さては呉の大将か」と、槍をひねって、突きかかったが、それも甘寧の敵ではなかった。
眼の前で、張〓、馬延の討死を見た曹操は、甘寧の勇にふるえあがって、さしかかって来た南夷陵(なんいりよう)の道を避け、急に、西へ曲がって逃げ走った。
幸いに、彼を探している残軍に出会ったので、
「あとから来る敵を防げ」と、馬も止めずに命じながら、鞭も折れよと、駈けつづけた。
夜はすでに、五更の頃おいであった。振りかえると、赤壁(せきへき)の火光もようやく遠く薄れている。曹操はややほっとした面持で、駈け遅れて来る部下を待ちながら、
「ここは、何処か」と、左右へたずねた。
もと荊州(けいしゆう)の士(さむらい)だった一将が答えていう。
「――烏林の西。宜都(ぎと)の北のほうです」
「宜都の北とな。ああそんな方角へ来ていたか」
と曹操は、馬上から、しきりに附近の山容や地形を見まわしていた。山川峨々(さんせんがが)として樹林深く、道はひどくけわしかった。
「あはははは。あははは」
――突然、曹操が声を放って笑い出したので、前後の大将たちは奇異な顔を見合わせて彼にたずねた。
「丞相。何をお笑いになるのですか」――と。
曹操は、答えていう。
「いや、べつだんな事でもない。今このあたりの地相を見て、ひとえに周瑜(しゆうゆ)の浅才(せんさい)や、孔明(こうめい)の未熟が分ったから、ついおかしくなったのだ。もしこの曹操が周瑜か孔明だったら、まずこの地形に伏兵をおいて、落ち行く敵に殲滅(せんめつ)を加えるところだ。――思うに赤壁の一戦は、彼らの怪我勝ちというもので、こんな地の利を遊ばせておくようでは、まだまだ周瑜も孔明も成っておらぬ」
敗軍の将は兵を語らずというが――曹操は馬上から四林四山を指さして、なお、幕将連に兵法の実際講義を一席弁じていた。
ところが、その講義の終るか終らないうちに、たちまち左右の森林から一隊の軍馬が突出して来た。そして前後の道を囲むかと見えるうちに、
「常山の子龍(しりゆう)趙雲(ちよううん)これに待てりっ。曹操っ、待て」
という声が聞えたので、曹操は驚きのあまり、危うく馬から転げ落ちそうになった。
三
敗走、また敗走、ここでも曹操の残軍は、さんざんに痛めつけられ、ただ張遼(ちようりよう)、徐晃(じよこう)などの善戦によって、彼はからくも、虎口をまぬがれた。
「おう! 降ってきた」
無情な天ではある。雨までが、敗軍の将士を苛(さいな)んで降りかかる。それも、車軸を流すばかりな大雨だった。
雨は、甲(よろい)や具足をとおして、肌にしみ入る。時しも十一月の寒さではあるし、道はぬかり、夜はまだ明けず、曹操を始め幕下の者の疲労困憊(ひろうこんぱい)は、その極に達した。
「――部落があるぞ」
ようやく、夜が白みかけた頃、一同は貧しげな山村にたどりついていた。
浅ましや、丞相曹操からして、ここへ来るとすぐいった。
「火はないか。何ぞ、食物(しよくもつ)はないか」
彼の部下は、そこらの農家へ争って入りこんで行った。おそらく掠奪を始めたのだろう。やがて漬物甕(つけものがめ)や、飯櫃(めしびつ)や、鶏や、干菜(ほしな)や漿塩壺(しようえんつぼ)など思い思いに抱えてきた。
けれど、火を焚(た)いて、それらの食物を胃ぶくろへ入れる間もなかった。なぜなら部落のうしろの山から火の手があがり、
「すわ。敵だっ」と、またまた、逃げるに急となったからである。
「敵ではないっ。敵ではないっ」と、その敵はやがて追いかけて来た。何ぞ知らん、味方の大将の李典(りてん)、許〓(きよちよ)そのほか将士百人ばかり、山越えで逃げてきたものだった。
「やあ、許〓も無事か。李典もおったか」
焼け跡から焼けのこった宝玉を拾うように、曹操は歓ぶのだった。やがて共々、馬を揃えて、道をいそぐ。――陽は高くなって、夜来の大雨もはれ、皮肉にも東南風(た つ み)すらだんだんに凪(な)いでいた。ふと、駒をとめて、曹操は、眼の前にかかった二つの岐(わか)れ道を、後ろへたずねた。
「さればです」と、幕将のひとりがいう。
「――一方は、南夷陵(なんいりよう)の大道。一方は北夷陵(ほくいりよう)の山路です」
「いずれへ出たほうが、許都へ向うに近いのか」
「南夷陵です。途中、葫蘆谷(ころこく)をこえてゆくと、非常に距離がみじかくなります」
「さらば、南夷陵へ」と、すぐその道をとって急いだ。
午(ひる)すぎた頃、すでに同勢は葫蘆谷へかかった。肉体を酷使していた。馬も兵も飢えつかれて如何とも動けなくなってきた。――曹操自身も心身混沌(こんとん)たるものを覚える。
「やすめっ。――休もう」
下知をくだすや否、彼は馬を降りた。そして、先に部落から掠奪して来た食糧を一ヵ所に集め、柴を積んで焚火(たきび)とし、士卒たちは、〓(かぶと)の鉢や銅鑼(どら)を鍋に利用して穀類を炊(かし)いだり鶏を焼いたりし始めた。
「ああ、やっとこれで、すこし人心地がついた」と、将士はゆうべからの濡れ鼠な肌着や戦袍(ひたたれ)を火に乾している。曹操もまた暖を取って後、林の下へ行って坐っていた。
憮然(ぶぜん)たる面持で、彼は、天を凝視していたが、何を感じたか、
「ははは。あははは」
と、独りで笑いだした。
諸将は、何か、ぎょッとしたように、彼へ向って云った。
「さきにも丞相は、大いにお笑いになって、まさか、そのためでもありますまいが、趙雲子龍(ちよううんしりゆう)の追手を引き出しました。今また、何をそうお笑いになるのですか」
曹操は、なお、笑っていう。
「孔明、周瑜(しゆうゆ)、共に大将の才はあるが、まだ智謀の足らぬのを予は嘲うのだ。もし曹操が敵ならば、ここに一手の勢を伏せ――逸ヲ以テ労ヲ待ツ――の計をほどこすであろうに、さてさて抜かったり」
そのことばが、まだ終らぬうちに、たちまち、金鼓喊声(きんこかんせい)、四山にこだまし、あたりの樹林みな兵馬と化したかの如く、四方八面に敵のすがたが見えてきた。
中に、声あって、
「曹操、よくぞ来た。燕人(えんじん)張飛(ちようひ)これに待ったり。そこを去るな」
あなやと思うまに、丈八の蛇矛(じやぼこ)、黒鹿毛の逸足、燦々(さんさん)たる甲〓(こうがい)が、流星のごとく此方へ飛んできた。
四
「張飛だっ」
名を聞いただけでも、諸将は胆(きも)を冷やした。士卒たちは皆、甲(よろい)や下着を火に乾していたところなので、周章狼狽、赤裸のままで散乱するもある。
許〓(きよちよ)のごときも、
「丞相の危機。近づけては」と、あわてて、鞍もない馬へ飛び乗り、猛然、駈け寄ってきた張飛の前に立って戦い、ややしばし、喰い止めていた。
その間に、
「すわこそ」と、張遼(ちようりよう)、徐晃(じよこう)など、からくも鎧を取って身にかぶり、曹操を先へ逃がしておいてから、馬を並べて、張飛へかかって行った。
とはいえ、張飛のふりまわす一丈八尺の蛇矛には、当るべくもない。その敵を討つというよりは、彼の猛烈な突進を、少しの間でも防ぎ支えているのがやっとであった。
曹操は、耳をふさぎ、眼をつぶって、数里の間は生ける心地もなくただ逃げ走った。やがてちりぢりに味方の将士も彼のあとを慕って追いついて来たが、どれを見ても、傷を負っていない者はない有様だった。
「また岐(わか)れ路へ出た。この二条の道は、どっちへ向ったがよいか」
曹操の質問に、
「いずれも南郡(なんぐん)へ通じていますが、道幅の広い大道のほうは五十里以上も遠道になります」
と、地理にくわしい者が答えた。
曹操は聞くと、うなずいて、山の上へ部下を走らせた。部下は立ち帰ってきてから復命した。
「山路のほうをうかがってみますと、彼方の峠や谷間の諸所から、ほのかに、人煙がたち昇っております。必定、敵の伏兵がおるに違いございません」
「そうか」と、曹操は、眉根をきっと落着けて、
「しからば、山路を経て行こう。者ども、山越えしてすすめ」と、先手の兵へ下知した。
諸大将は驚きかつ怪しんで、
「山路の嶮(けん)を擁(よう)して、みすみす伏兵が待つを知りながら、この疲れた兵と御身をひっさげて、山越えなさんとは、如何なるご意志によるものですか」と、駒を抑えて質した。
曹操は、苦笑を示して、
「我れ聞く。この華容道(かようどう)とは、近辺に隠れなき難所だということを。――それ故に、わざと、山越えを選ぶのだ」
「敵の火の手をご覧ありながら、しかもその嶮へ向われようとは、あまりな物好きではありませんか」
「そうでない。汝らも覚えておけ。兵書にいう。――虚ナル則(トキ)ハ実トシ、実ナル則ハ虚トス、と。孔明は至って計の深いものであるから、思うに、峠や谷間へ、少しの兵をおいて煙をあげ、わざと物々しげな兵気を見せかけ、この曹操の選ぶ道を、大路の条(すじ)へ誘いこみ、かえって、そこに伏兵をおいて我を討止めんとするものに相違ない。――見よ、あの煙の下には、真の殺気はみなぎっていない。かれが詐謀(さぼう)たること明瞭だ。それを避けて、人気なしなどと考えて大路を歩まば、たちまち、以前にもまさる四面の敵につつまれ、一人も生きるを得ぬことは必定である。あやうい哉(かな)あやうい哉、いざ疾(と)く、山道へかかれ」と、いって駒をすすめたので、諸人みな、
「さすがは丞相のご深慮」と、感服しないものはなかった。
こうしている間にも、後から後から、残兵は追いつき、今は敗軍の主従一団となったので、
「はやく荊州へ行き着きたいものだ。荊州までたどり着けば、何とかなろう」
と、あえぎあえぎ華容山麓から峰越えの道へ入った。
けれど気はいくらあせっても、馬は疲れぬいているし、負傷者も捨てては行けず、一里登っては休み、二里登っては憩い、十里の山道をあえぐうち、もう先陣の歩みは、まったく遅々として停ってしまった。――折から山中の雲気は霏々(ひひ)として白い雪をさえまじえて来た。
功(こう)なき関羽(かんう)
一
難路へかかったため、全軍、まったく進退を失い、雪は吹き積もるばかりなので、曹操(そうそう)は焦(いら)だって、馬上から叱った。
「どうしたのだ、先鋒の隊は」
前隊の将士は、泣かんばかりな顔を揃えて、雪風(せつぷう)の中から答えた。
「ゆうべの大雨に、諸所、崖はくずれ、道は消え失せ、それに至るところ渓川(たにがわ)が生じてしまったものですから、馬も渡すことができません」
曹操は、癇癪(かんしやく)を起して、
「山に会うては道を拓(ひら)き、水に遭うては橋を架(か)す。それも戦(いくさ)の一つである。それに対(むか)って、戦い難いなどと、泣き面をする士卒があるかっ」
そして、彼自身、下知にかかった。傷兵老兵はみな後陣へ引かせ、屈強な壮士ばかりを前に出して、附近の山林を伐(き)って橋を架け、柴や草を刈って、道を拓(ひら)き、また泥濘(でいねい)を埋めて行った。
「寒気に怯(ひる)むな。寒かったら汗の出るまで働け。生命が惜しくば怠るな。怠ける者は、斬るぞ」
剣を抜いて、彼は、土工を督した。泥と戦い、渓流と格闘し、木材と組み合いながら、まるで田圃(たんぼ)の水牛みたいになって働く軍卒の中には、このとき飢餓(きが)と烈寒のため、斃(たお)れ死んだ者がどれほどあったか知れない程であった。
「あわれ、矢石(しせき)の中で、死ぬものならば、まだ死にがいがあるものを」と、天を恨み、また曹操の苛烈な命令に喚(わめ)く声が、全軍に聞えたが、曹操は耳にもかけず、かえって怒り猛って、
「死生自ら命ありだ。なんの怨むことやある。ふたたび哭(な)く者は立ちどころに斬るぞ」と、いった。
こうして、凄まじい努力とそれを励ます叱咤で、からくもようやく第一の難所は越えたが、残った士卒をかぞえてみるとわずか三百騎足らずとなり終っていた。
ことに、その武器と得物(えもの)なども今は、携えている者すらなく、まるで土中から発掘された泥人形の武者や木偶(で く)の馬みたいになっていた。
「もうわずかだ。目的の荊州までは、難所もない」
曹操は、鞭を指して、将士のつかれた心を彼方(あなた)へ向けさせ、
「あとは、ただ一息だ。はやく荊州へ行き着いて、大いに身を休めよう。頑張れ、もう一息」
と、励ました。
そして、峠を越え、約五、六里ばかり急いで来ると、曹操はまた、鞍を叩いて独り哄笑していた。
諸将は、曹操に向って、
「丞相(じようしよう)。何をお笑いなさいますか」と、訊ねた。
曹操は、天を仰いで、なお、大笑しながら、
「周瑜(しゆうゆ)の愚(ぐ)、孔明(こうめい)の鈍(どん)、いまこの所へ来てさとった。彼、偶然にも、赤壁の一戦に、我を破(やぶ)って、勢い大いにふるうといえども、要するに弓(ゆみ)下手(べ た)にもまぐれあたりのあるのと同じだ。――もしこの曹操をして、赤壁より一気に、敗走の将を追撃せしめるならば、この辺りには必ず埋兵潜陣(まいへいせんじん)の計を設けて、一挙に敵のことごとくを生捕るであろう。――さはなくて、無益な煙を諸所にあげ、われをして平坦な大道のほうに誘い、この山越えを避けしめんなど、まるで児(こ)ども騙(だま)しの浅い計といっていい」と、気焔を吐き、さらに、
「これがおかしくなくてどうするか。あははは、わははは」と、肩を揺すぶりぬいた。
ところが、その笑い声のやまないうちに、一発の鉄砲が彼方の林にとどろいた。たちまちに見る前面、後方、ふた手に分れて来る雪か人馬かと見紛(みまご)うばかりな鉄甲陣。そのまっ先に進んでくるのはまぎれもなし、青龍の偃月刀(えんげつとう)をひっさげ、駿足赤兎馬(せきとば)に踏みまたがって来る美髯(びぜん)将軍――関羽であった。
二
「最期だっ。もういかん!」
一言、絶叫すると、曹操はもう観念してしまったように、茫然戦意も失っていた。
彼ですらそうだから、従う将士もみな、
「関羽だ。関羽が襲(よ)せて来る――」とばかりおののき震えて、今は殲滅されるばかりと、生きた空もない顔を揃えていたのは無理もない。――が、ひとり程〓(ていいく)は、
「いや何も、そう死を急ぐにはあたりません。どんな絶望の底にあろうと、最後の一瞬でも、一縷(いちる)の望みをつないで、必死を賭(と)してみるべきでしょう。――それがし、関羽が許都にありし頃、朝夕に、彼の心を見て、およそその人がらを知っている。彼は、仁侠の気に富み、傲(おご)る者には強く、弱き下の人々にはよく憐れむ。義のために身を捨て、ふかく恩を忘れず、その節義の士たることすでに天下に定評がある。――かつて玄徳(げんとく)の二夫人に侍して、久しく許都にとどまっていた当時、丞相には、敵人ながら深く関羽の為人(ひととなり)を愛(め)で給い、終始恩寵(おんちよう)をおかけ遊ばされたことは、人もみな知り、関羽自身も忘れてはおりますまい」
「…………」
曹操は、ふと瞑目(めいもく)した。追憶はよみがえってくる。そうだ! ……と思い当ったように、その眸をくわっと見ひらいた時――すでに雪中の喊声(かんせい)は四囲に迫り、真先に躍って来る関羽の姿が大きくその眼に映った。
「おうっ……羽将軍か」
ふいに、曹操は、自身のほうからこう大きく呼びかけた。
そして、われから馬をすすめ、関羽の前へ寄るや否、
「やれ、久しや、懐かしや。将軍、別れて以来、つつがなきか」と、いった。
それまでの関羽は、さながら天魔の眷族(けんぞく)を率いる阿修羅王(あしゆらおう)のようだったが、はッと、偃月刀(えんげつとう)を後ろに引いて、駒の手綱を締めると、
「おう、丞相か」と、馬上に慇懃(いんぎん)、礼をして、
「――まことに、思いがけない所で会うものかな。本来、久闊(きゆうかつ)の情も叙(の)ぶべきなれど、主君玄徳の命をうけて、今日、これにて丞相を待ちうけたる関羽は、私の関羽にあらず。――聞く、英雄の死は天地も哭(な)くと。――いざ、いざ、いさぎよくそれがしにお首を授けたまえ」と、改めていった。
曹操は、歯を噛み合わせて、複雑な微笑をたたえながら云った。
「やよ、関羽。――英雄も時に悲敗を喫すれば惨たる姿じゃ。いま、われ戦いに敗れて、この山嶮、この雪中に、わずかな負傷(ておい)のみを率いて、まったく進退ここにきわまる。一死は惜しまねど、英雄の業、なおこれに思い止るは無念至極。――もしご辺にして記憶あらば、むかしの一言を思い起し、予の危難を見のがしてくれよ」
「あいや、おことば、ご卑怯に存ずる。いかにも、むかし許都に在りし日、丞相のご恩を厚くこうむりはしたものの、従って、白馬の戦いに、いささか献身の報恩をなし、丞相の危急を救うてそれに酬(むく)う。今日はさる私情にとらわれて、私に赦(ゆる)すことは相成らぬ」
「いや、いや。過去の事のみ語るようだが、将軍がその主玄徳の行方をなお知らず、主君の二夫人に仕えて、敵中にそれを守護されていたことは、私の勤めではあるまい。奉公というものであろう。曹操が乏しき仁義をかけたのは、ご辺の奉公心に感動したからだった。誰かそれを私情といおうや。――将軍は春秋の書にも明るしと聞く。かの〓公(ゆこう)が子濯(したく)を追った故事もご存じであろう。大丈夫は信義をもって重しとなす。この人生にもし信なく義もなく美というものもなかったら、実に人間とは浅ましいものではあるまいか」
諄々(じゆんじゆん)と説かれるうちに、関羽はいつか頭(こうべ)を垂れて、眼の前の曹操を斬らんか、助けんか、悶々、情念と知性とに、迷いぬいている姿だった。
三
――ふと見れば、曹操のうしろには、敗残の姿も傷(いた)ましい彼の部下が、みな馬を降り、大地にひざまずき、涙を流して関羽のほうを伏し拝んでいた。
「あわれや、主従の情。……どうしてこの者どもを討つに忍びよう」
ついに、関羽は情に負けた。
無言のまま、駒を取って返し、わざと味方の中へまじって、何か声高に命令していた。
曹操は、はっと我にかえって、
「さては、この間に逃げよとのことか」
と、士卒と共に、あわただしくここの峠から駈け降って行った。
すでに曹操らの主従が、麓のほうへ逃げ去った頃になって関羽は、
「それ、道を塞(ふさ)ぎ取れ」と、ことさら遠い谷間から廻り道して追って行った。
すると、途中、一軍のみじめなる軍隊に行き会った。
見れば、曹操のあとを慕って行く張遼(ちようりよう)の一隊である。武器も持たず馬も少なく、負傷していない兵はまれだった。
「ああ惨たるかな」と、関羽は、敵のために涙を催し、長嘆一声(ちようたんいつせい)、すべてを見遁(みのが)して通した。
張遼と関羽とは、旧(ふる)くからの朋友である。実に、情の人関羽は、この悲境の友人を、捕捉(ほそく)して殺すには忍びなかったのである。――おそらく張遼もそれを知って、心のなかで関羽を伏し拝みながらこの死線を駈け抜けて行ったろうと思われる。
こうして虎口の難をのがれた張遼は、やがて曹操に追いついて合体したが、両軍合わせても五百に足らず、しかも一条(ひとすじ)の軍旗すら持たなかったので、
「ああ。かくも、悲惨な敗北を見ようとは……」と、相顧みて、しばし惆然(ちゆうぜん)としてしまった。
この日、夕暮に至って、また行く手の方に、猛気旺(さかん)な一軍の来るのとぶつかったが、これは死地を設けていた伏勢ではなく、南郡(なんぐん)(湖北省(こほくしよう)・江陵(こうりよう))の城に留守していた曹一族の曹仁(そうじん)が、迎えに来たものであった。
曹仁は、曹操の無事な姿を見ると、うれし泣きに泣いて、
「赤壁の敗戦を聞き、すぐにも駈けつけんかと思いましたが、南郡の城を空けては、後の守りも不安なので、ただご安泰のみを祈っていました」と、曹操が生きて帰ってくれたことだけでも、無上の歓喜として、今はかえって怨むことも知らなかった。
曹操もまた、「今度ばかりは、二度とこの世でそちに会うこともないかと思った」と、語りながら、共に南郡の城へ入って、赤壁以来、三日三夜の疲れをいやし、ようやく、生ける身心地をとり戻した。
戦塵の垢(あか)を洗い、暖かい食物をとり、大睡(たいすい)一快をむさぼると曹操は忽然(こつぜん)、天を仰いで、
「……ああ。ああ」と、嗚咽(おえつ)せんばかり、涙を垂れて哭いた。
付添う人々は、怪しんで、彼に問うた。
「丞相、どうして、そんなにお哭(な)きになるんです。たとえ赤壁に大敗なされても、この南郡に入るからには、人馬も武器も備わっているし、いつか再挙の日もありましょうに」
すると曹操は、かぶりを振りながら、
「夢に故人を見たのだ。――遼東(りようとう)の遠征に陣没した郭嘉(かくか)が、もし今日生きていたらと思い出したのだ。予も愚痴をいう年齢(と し)になったかと思うと、それも悲しい。諸将よ、笑ってくれ」
と、胸を打って、
「哀しいかな郭嘉(かくか)。痛ましい哉、奉考(ほうこう)……ああ去って再びかえらず」
それから、曹仁を近く呼んで、
「予に生命(いのち)のある限り、赤壁の恨みは必ず、敵国に報いずにはおかん、今は、しばらく都へ帰って、他日の再軍備にかかるしかない。汝はよく南郡を守っていてくれよ。やがて敵の襲撃に会ってもかならず守るを旨とし、城を出て戦ってはならんぞ」と、諭した。
四
この荊州の南郡から襄陽(じようよう)、合〓(がつぴ)の二城をつらねた地方は、曹操にとって、今は、重要なる国防の外郭線とはなった。
で、曹操は、都に帰るに際して、ふたたび曹仁へこう云い残した。
「この一巻のうちに、こまごまと、計策(はかりごと)を書いておいたから、もしこの城の守りがいよいよ危急に迫った時は、これを開いて、わが言となし、すべて巻中の策に従って籠城いたすがよい」
また、襄陽城の守備としては、夏侯惇(かこうじゆん)をあとに留め、合〓地方は、ことに、重要な地とあって、それへは、張遼を守りに入れた。さらに楽進(がくしん)、李典(りてん)の二名を副将としてそれに添えた。
こう万全な手配りをすまして、曹操はやがてここを去ったが、左右の大将も士卒もあらかた後の防ぎに残して行ったので、その時、曹操に従って都へかえった数は、わずか七百騎ほどに過ぎなかったという。
その頃――
夏口城の城楼には、戦捷(せんしよう)の凱歌(がいか)が沸いていた。
張飛(ちようひ)、趙雲(ちよううん)、そのほかの士卒は、みな戦場から立帰って、敵の首級や鹵獲品(ろかくひん)を展じて、軍功帳に登録され、その勲功(いさおし)を競っていた。
閣の庁上では、玄徳を中心に、孔明も立って、戦勝の賀をうけていたが、折ふしここへ、関羽もその手勢と共に戻って来て、悄然(しようぜん)と拝礼した。
「おお、羽将軍か。君にも待ちかねておわしたぞ。曹操の首を引っさげて来たものはおそらくあなたであろう」
「…………」
「将軍。どうして、そのように不興気な顔をしてうつ向いておらるるか。いざ、功を述べて、勲功帳に記録を仰ぎたまえ」
「いや、……べつに何も……」
関羽は益々、うな垂れているのみで、そのことばさえ、女のように低かった。
孔明は、眉をひそめながら、
「どうなされたのか。べつに何も……とは?」
「実は。……それがしのこれに来たのは、功を述べるためではなく、罪を請うためでござる。よろしく軍法に照らして罰せられたい」
「はて。……では、曹操はついに華容(かよう)の道へは逃げ落ちて来なかったといわるるか」
「軍師のご先見にたがわず、華容道へかかっては来ましたが、それがしの無能なるため、討ち洩らしてござる」
「なに、討ち損じたと……あの赤壁から潰走した敗残困憊(こんぱい)の兵でありながら、なお羽将軍の強馬精兵をも近づけぬほど、曹操はよく戦ったと申さるるか」
「……でも、ござらぬが。……つい、取り逃がしました」
「然らば、曹操は討たずとも、その手下の大将や士卒は、どれほど討ち取られたか」
「ひとりも生捕りません」
「挙げたる首級は」
「一箇もなし――でござる」
「ウーム。……そうか」
孔明は、口をつぐんで、あとはただその澄んだ眸をもって、彼をながめているだけだった。
「関羽どの」
「はい」
「さてはご辺には、むかし曹操よりうけた恩を思うて、故意に、曹操の危難を見のがされたな」
「今さら、何のことばもござりませぬ。ただご推量を仰ぐのほかは……」
「だまれっ」
孔明は、その白皙(はくせき)な面に紅(くれない)を呈して、一喝(いつかつ)、叱るやいな、座後(ざご)の武士を顧みて、命じた。
「王法は、国家の典形(てんけい)。私情をもって、軍令を無視した関羽の罪はゆるされん。諸君っ! 斬り捨ていッ、この柔弱漢(にゆうじやくかん)を!」
五
孔明がこれほど心から怒ったらしい容子を見たのは、玄徳も初めてであった。
めったに怒らない優しい人が怒ったのは、ふつうの者の間でも恐ろしい気がするものである。いわんや軍師の座にあって、謹厳おのれを持(じ)していやしくもせず、日頃はあまり大きな声すら出さない孔明が、断乎、斬れ! と命じたのであるから、人々みな慄然(りつぜん)とすくみ立って、どうなることかと思っていた。
「軍師――」と、急に彼のまえに迫って、膝を曲げないばかりに愍(あわ)れみを仰いだのは、当の関羽ではなくて、玄徳であった。
「わしと、関羽とは、むかし桃園に義を結んで、生死を倶にせんと誓ってある。いわば関羽の死はわしの死を意味する。きょうの罪は赦(ゆる)しがたいものに違いないが、わしに免じて――いやわしにその罪科(と が)をしばし預けてくれい。後日、かならずこの罪を償うほどの大功を挙げさせるから。……軍師、大法を歪曲(わいきよく)するのではなく、仮にしばらくその法断を待って欲しいのじゃ。たのむ」
身、主君たる位置にありながら、玄徳は、臣下の一命のために、臣下に対して、ひれ伏さないばかりであった。
何でそれまでを、孔明とて一蹴(いつしゆう)できよう。彼はわずかに面をそむけて、
「赦(ゆる)すことはできません。軍紀はあくまで厳然たる軍紀ですが、思し召のまま暫時、処断は猶予しましょう。関羽の罪は、おあずけしておきます」
と遂にいった。
× × ×
数万人の捕虜は、赤壁から呉へ運ばれて行った。
呉軍は、そのすべてを包有して、一躍大軍となり、また整備を増強して、江北へ押し渡って来た。
「玄徳から賀使(がし)が見えました。家臣の孫乾(そんけん)という者が、贈り物を献じ、戦勝のお祝いを述べるためにと――玄徳の使いで」
中軍にある周瑜(しゆうゆ)のところへ、或る日、こういう取次があった。赤壁の大戦捷に、周瑜ばかりでなく、呉軍全体は、破竹の勢いを示し、士卒の端にいたるまで、無敵呉軍の誇りに燃えて、当るべからざるものがある。――この図に乗せてと、周瑜は、南郡へ攻略をすすめ、五ヵ所の寨(とりで)を粉砕して、いまやそこの南郡城に肉迫して陣を取った日であった。
「ほう、玄徳からとな? ……そうか、すぐ通せ」
周瑜のことばに、使者孫乾は、直ちに案内されて来た。
四方山(よもやま)の話のすえに、周瑜は孫乾にこうたずねた。
「ご主君の玄徳や孔明は、目下どこにおられるか」
「されば、油江口(ゆこうこう)におられます」
「えっ、油江口に?」
何か、驚いたらしい顔である。それからは、話もはずまなかったが、宴の終る頃、
「いずれ、それがし自身、ご返礼に出向くであろう。よろしく申し伝えてくれ」
と、追い帰すように、孫乾を帰した。
あくる日。――魯粛(ろしゆく)が、
「都督、きのうは、何であんな意外なお顔をなすったのですか」
「ムム。玄徳が油江口におることでか。それは聞き捨てならんではないか」
「なぜです」
「彼が油江口へ陣を移したとすれば、それは明らかに、南郡を攻め取ろうという野心があるからだ。われわれ呉軍が、莫大な軍馬銭粮(せんろう)を消費して、赤壁に勝っても、まだその戦果はつかんでおらぬ。――それを玄徳に先んじられては何のために戦ったか、意味をなさぬことになる」
「その儀は、疾(と)くから私も、油断がならんと思っていました」
「さっそく、玄徳の陣を訪問したうえ、一本釘を打っておこう。――供の兵馬や贈り物の準備をしてくれい」
「承知しました。私も共に参りましょう」
一掴(かく)三城(じよう)
一
一方、孫乾(そんけん)は油江口(ゆこうこう)にある味方の陣に帰ると、すぐ玄徳(げんとく)に、帰りを告げて、
「いずれ周瑜(しゆうゆ)が自身で答礼に参るといっておりました」と、話した。
玄徳は、孔明(こうめい)と顔見合わせて、
「これほどな儀礼に、周瑜が自身で答礼に来るというのはおかしい。何のために来るのであろう」
「もちろん、南郡の城が気にかかるので、こちらの動静を見に来るのでしょう」
「もし兵を率(ひき)いて来たらどうしようか」
「ご心配はありません。まずこんどは探りだけのことでしょう。ご対談のときには、かようにお答え遊ばされい」
孔明は、何事かささやいた。
先触れのあった日、油江口の岸には、兵船をならべ、軍馬兵旗を整々(せいせい)と立てて、周瑜の着くのを待っていた。
周瑜は、随員と守護の兵三千騎を連れて、船から上陸した。――見るに、陸上にも江辺にも、兵馬や大船が整然と旗幟(きし)をそろえているので、
「案外、馬鹿にはならぬ兵力を持っておるな」
といわんばかりな流し目をくばりながら、趙雲(ちよううん)の一隊に迎えられて、陣の轅門(えんもん)へ入って行った。
もちろん、玄徳、孔明、そのほかの部将は、篤く出迎え、大賓の礼をとって、会宴の上座へすすめた。
酒、数巡。
玄徳は杯をあげて、しきりに、赤壁の大勝を激賞しながら、
「ときに、引続いて、江北へご進撃と承り、いささか戦いのお手助けを申さんと、急遽、この油江口まで陣を進めて来ましたが、もし周都督のほうで、南郡をお取りになるご意志がなければ、玄徳の手をもって、攻め取りますが」と、軽くいった。
すると、周瑜も、気軽に笑って、戯れた。
「どう致しまして――。とんでもない。呉が荊州(けいしゆう)を併呑(へいどん)せんと望んでいたことは実に久しいものです。いま、南郡はすでに、呉の掌(たなごころ)にあるものを、決して、ご心配下さるに及ばん」
「けれど、世の諺(ことわざ)にも、掌中ノモノ必ズシモ掌中ノ物ナラズ――ということもあります。曹操(そうそう)が残して行った曹仁(そうじん)は北国の万夫不当(ばんぷふとう)。おそらく周都督のお手にはやすやすと落ちないのではないかと案じられますが」
周瑜は、眉のあいだに、憤然と憤炎(ふんえん)をあらわしたが、すぐ皮肉な嘲笑にそれを代えて、
「もし、それがしの手に奪(と)れなかったら、あなたの手で奪ったらよかろう」
「ほ。そうですか。それはかたじけない。――ここには、魯粛(ろしゆく)、孔明という生き証人もいること、都督の今のおことばをよく聞いておいてもらいたい」
「大丈夫の一言、何の、証人などが要ろう」
「あとでご後悔はありますまいな」
「ばかな」
周瑜は、一杯を干して、また一笑した。
そのそばから孔明はこういって、旺(さかん)に、周瑜の言を賞めあげた。
「さすがに、周都督の一言は、呉の大国たる貫禄を示すに余りある公論というものです。荊州の地は、当然まず呉軍からお攻めあるのがほんとです。そして万が一にも、呉の手にあまったときは、劉皇叔(りゆうこうしゆく)が試みにそれを攻め取ってみられるがよいでしょう」
周瑜らが帰った後である。
玄徳は、嘆かわしい顔して、孔明を責めた。
「――周瑜と対談の時は、ああ云え、こう答えよと、先生がこの玄徳に教えたので、予はその通りに応対していた。それなのに、先生自身、周瑜に向って、南郡を取れといわんばかり励まして帰したのは一体どういうつもりか」
「その以前、私が荊州をお取りなさいと、あんなにおすすめ申したのに、君にはさらに耳へお入れがなかった」
「わが一族、わが味方、拠(よ)るに地もなく、ほとんど今は孤窮の境界。むかしを問うてくれるな。事情も変っている」
「ご心配には及びません。べつに孔明に一計があります。近いうちに必ず君を南郡城に入れてご覧にいれまする」
二
周瑜(しゆうゆ)は、自軍の陣へ帰ると、すぐに南郡城へ向って、猛烈な行動を起すべく、指令を出していた。
魯粛(ろしゆく)がその間に云った。
「玄徳とお会いなされた折、なぜ彼に対してもし呉軍の手にあまるときは、そっちで南郡を攻め取るも随意だ――などといわれたのですか」
「それは君、ことばの上だけのものさ。人情の余韻(よいん)を残すというものだ。すでに赤壁においてすらあの大捷(たいしよう)を博した我軍のまえに、南郡の城のごときは鎧袖(がいしゆう)一触(いつしよく)、あんなものを取るのは手を反(かえ)すよりやさしいことじゃないか」
先手五千の兵には、蒋欽(しようきん)が大将として進み、副将丁奉(ていほう)、徐盛(じよせい)それにつづき、周瑜の中軍も前進して、堂々城へ迫った。
このときまで、城中の曹仁(そうじん)は、曹操の残して行った誡(いまし)めを鉄則として、
「出るな。守れ」
の一方でただ要害をきびしくするに汲々としていたが、部下の牛金(ぎゆうきん)はしきりに勧めた。
「要害の守りというものは或る期間だけのものです。古来、陥ちない城というものはない。いますでに呉軍が城下に迫っているのに、城を出てこれを撃つという変もなければ、城中の士気は、消極的になるばかりで、所詮、長く持てるものではありません」
「それも一理ある」
曹仁は、牛金の乞いを容れて、兵五百をさずけ、機を計って奇襲を命じた。
牛金は、城門から突出して、敵の先鋒、丁奉の軍を蹴散らした。丁奉は、牛金を目がけて、一騎打ちを挑んだが、たちまち後ろを見せて逃げ出した。
牛金の五百騎は、逃げる丁奉を追いまくって、つい深入りした。にわかに、さっとかえした丁奉軍は、鼓(こ)を鳴らして、味方を糾合(きゆうごう)し、追い疲れた牛金軍五百を袋の中の鼠としてしまった。
「戦況いかに?」と、城中の櫓(やぐら)から眺めていた曹仁は、牛金の危急を見て、自身手勢を率いて、救いに出ようとした。
すると、長史(ちようし)陳矯(ちんきよう)が、
「丞相がこの城を託して都へ帰らるる時、何と宣(のたま)われましたか」
と、口を極めて、軽率な戦いを諫(いさ)めた。
だが、曹仁は、
「牛金は大事な大将だし、部下五百は、城中で重きをなす精鋭ばかりだ。それを見殺しにするは、この城の自殺にひとしい」とばかり、耳もかさず、馬に打乗り、屈強な兵千余を率いて、城外へ渦まき出たので、陳矯もやむなく櫓へ駈けのぼり、太鼓を打って勢いを添えた。
かくて、曹仁は、呉軍の真只中へ馳け入って、まず徐盛の一角を蹴破り、牛金と合流して、首尾よく彼を救い出した。
けれどまだ、あと五、六十騎の者が、重囲の中に残されているのを知ると、
「よしっ、もう一度行って来る」
と、ふたたび馳け入り、あとの者をも一人もあまさず救出して帰ってきた。
すると、呉の先鋒の大将蒋欽が、道をさえぎって、曹仁を討ち止めようと試みた。けれど曹仁の勇は、それらの阻害を物ともせず、四角八面に奮戦し、また牛金もそれを助け、城中からも曹仁の弟の曹純(そうじゆん)が加勢に出て、むらがる敵へ当ったので、ついに、その日は首尾よく、目的を達して、
「曹仁ここにあり」
の重きを敵へ知らしめた。
で、城中では、その夜、
「まず、合戦の幸先はいいぞ」
と、大いに勝ち戦(いくさ)を賀して、杯をあげていたが、それに反して、序戦に敗れた呉軍の営内では、
「敵に数倍する勢を擁しながら、しかも城中から出てきた兵に不意を衝かれるとは何たる醜態(ぶざま)だ」
と、蒋欽、徐盛のともがらは、都督周瑜の面前で、その責めを問われ、さんざん痛罵(つうば)されていた。
三
「この上は、自身、南郡の城を一もみに踏みつぶしてみせる」
周瑜(しゆうゆ)は、怒った後で、こう豪語した。
ここ連戦連勝の勢いに誇っていたところなので、蒋欽(しようきん)の些細な一敗も、彼にはひどくケチがついたような気がしたものとみえる。
「ご自身、軽々しい戦いはまずなさらぬほうがよいでしょう」
諫めたのは、甘寧(かんねい)である。
甘寧は、説いた。
「南郡と掎角(きかく)の形勢を作って、一方、夷陵(いりよう)の城も戦備をかためています。そしてそこには、曹仁(そうじん)と呼応して、曹洪(そうこう)がたて籠っていますから、うかつに南郡だけを目がけていると、いつ如何なる変を起して、側面を衝いてくるかもしれません」
「――では、どうしたがいいか」
「それがしが三千騎を拝借して、夷陵の城を攻め破りましょう」
「よし。そのまに、南郡の城は、わが手に片づける」
手配はなった。
甘寧は、江を渡って、夷陵城へ攻めかかった。
南郡の城の櫓から、それを眺めた曹仁は驚いた。
「これはいかん。寄手の一部が夷陵へ迫った。夷陵の曹洪は困るだろう。何しろまだ防備が完全でないから」
と、陳矯(ちんきよう)に、急場の処置を諮(はか)ったところ、
「ご舎弟の曹純(そうじゆん)どのに、牛金(ぎゆうきん)を副将とし、直ちに急援をおつかわしになったらよいでしょう。夷陵の城が陥ちたら、この南郡城も瀕死になります」と、彼もあわてだした。
そこで曹純と牛金は、にわかに夷陵の救いに馳せつけた。曹純は外部から城内の曹洪と聯絡をとって、
「力によらず、謀略を主として、敵を欺(あざむ)こうではないか」と、一計を約束した。
甘寧は、それとも知らず、前進また前進をつづけ、敗走する城兵を追い込んで、
「意外にもろいぞ」
と、一挙、占領にかかった。
曹洪も出て奮戦したが、実は、策なので、たちまち支え難しと見せかけて、城を捨てて逃げた。
日暮れに迫って、甘寧の軍勢は、残らず城内へなだれ入り、凱歌をあげて、誇っていたが、なんぞ測(はか)らん、曹純、牛金の後詰(ごづめ)が、諸門を包囲し、また曹洪も引っ返してきて、勝手を知った間道から糧道まで、すべて外部から遮断してしまったので、寄手の甘寧と曹純はまったく位置をかえて、孤城の中に封じこまれてしまった。
この報らせが、呉軍に聞えたので、周瑜は重ね重ね眉をしかめ、
「程普(ていふ)。何か策はないか」と、評議に集まった面々を見まわした。
程普はいう。
「甘寧は、呉の忠臣、見殺しはできません。然りといえど、今、兵力を分けて、夷陵へかかれば、敵は南郡の城を出て、わが軍を挟撃して来ましょう」
呂蒙(りよもう)がそれにつづいて、こう意見を吐いた。
「ここの抑えは、凌統(りようとう)に命じて行けば、充分に頑張りましょう。やはり甘寧を救うのが焦眉の急です。てまえに先鋒をお命じあって、都督がお続きくださるなら、必ず十日以内に、目的は達せられるかと思われるが……」
周瑜はうなずいて、さらに、
「凌統。大丈夫か」と、念を押した。
凌統は、ひきうけたが、
「――ただし、十日間がせいぜいです。十日は必ず頑張ってご覧に入れますが、それ以上日数がかかると、それがしはここで討死のほかなきに至るかもしれません」と、いった。
「そんなに日のかかるほどな敵でもあるまい」
と、周瑜は、兵一万に凌統をあとに残して、そのほかの主力をことごとく夷陵方面へうごかした。
四
途中で、呂蒙(りよもう)が献策した。
「これから攻めに参る夷陵(いりよう)の南には、狭くけわしい道があります。附近の谷へ五百ほどの兵を伏せ、柴薪(しばたきぎ)を積んで道をさえぎり置けば、きっと後でものをいうと思いますが」
周瑜(しゆうゆ)は、容れて、
「その計もよからん」と、手筈をいいつけ、さらに、前進して夷陵へ近づいた。
夷陵の城は桶(おけ)の如く敵勢に囲まれている。誰かその鉄桶(てつとう)の中へ入って、城中の甘寧(かんねい)と聯絡をとる勇士はないか――と周瑜がいうと、
「それがしが参らん」と、周泰(しゆうたい)がすすんでこの難役を買って出た。
彼は、陣中第一の駿足を選んでそれにまたがり、一鞭を加えて、敵の包囲圏(けん)へ駈けこんで行った。
ただ一騎、弾丸のように駈けてきた人間を、曹洪(そうこう)、曹純(そうじゆん)の部下はまさか敵とも思えなかった。ただ近づくや否、
「何者だっ」
「待てっ待てっ」と、さえぎった。
周泰は、刀を抜いて剣舞するようにこれを馬上でまわしながら、
「遠く都から来た急使だ。曹丞相(じようしよう)の命を帯ぶる早馬なり、貴様たちの知ったことじゃないっ。近づいて蹴殺されるな」と、喚(わめ)き喚き、疾走して行った。
その勢いで、二段三段と敵陣を駈け抜けてしまい、遂に、夷陵の城下へ来て、
「甘寧、城門を開けてくれ」と、どなった。
櫓からそれを見た甘寧は、どうして来たかと、驚いて迎え入れた。周泰は云った。
「もう大丈夫。安心しろ。周都督がご自身で救いに来られた。そして作戦はこう……」
と、一切をしめし合い、ここに完全な聯絡をとった。
きのう、おかしな男が、ただ一騎、城中へ入ったというし、それから俄然城兵の士気があがっているのを眺めて、寄手の曹洪、曹純は、
「これはいかん」と、顔見あわせた。
「周瑜の援軍が近づいた証拠だ。ぐずぐずしておれば挟撃を喰う。どうしよう?」
「どうしようといっても急には城も陥(お)ちまい。甘寧をわざと城へ誘いこんで袋叩きにするという策は、名案に似て、実は下(げ)の下策(げさく)だったな、こうなってみると」
「今さらそんな繰言(くりごと)をいってみても仕方はない。南郡へも使いが出してあるから、兄の曹仁から加勢に来るのを待つとするか」
「ともかくも一両日、頑張ってみよう」
何ぞ無策なると心ある者なら歯がゆく思ったにちがいない。すぐ次の日にはもう周瑜の大軍がここへ殺到した。曹洪、曹純、牛金などあわてふためいて戦ったものの、もとより敵ではなかった。陣を崩してたちまち敗走の醜態を見せてしまう。
のみならず、周瑜の急追をよけて、山越えに出たはいいが、途中のけわしい細道までかかると、道に積んである柴や薪に足をとられ、馬から谷へ落ちる者や、自ら馬をすてて逃げ出すところを討たれるやらで、さんざんな態になってしまった。
呉の軍勢は、勝ちに乗って、途中、敵の馬を鹵獲(ろかく)すること三百余頭、さらに進撃をつづけて、遂に南郡城外十里まで迫って来た。
南郡の城に入った曹洪、曹純などは、兄の曹仁(そうじん)を囲んで、暗澹たる顔つきを揃えていた。今にして、この一族が悔いおうていることは、
「やはり丞相のおことばを守って、絶対に城を出ずに、最初からただ城門を閉じて守備第一にしておればよかった」という及ばぬ愚痴だった。
「そうだ! 忘れていた」
曹仁は、その愚痴からふと思い出したように、膝を打った。それは曹操が都へ帰る時、いよいよの危急となったら封を開いてみよ、といってのこして行った一巻の中である。その中にどんな秘策がしたためてあるかの希望であった。
五
ここ、周瑜(しゆうゆ)の得意は思うべしであった。まさに常勝将軍の概がある。夷陵(いりよう)を占領し、無事に甘寧(かんねい)を救い出し、さらに、勢いを数倍して、南郡の城を取り囲んだ。
「……はてな? 敵の兵はみな逃げ支度だぞ。腰に兵糧をつけておる」
城外に高い井楼(せいろう)を組ませて、その上から城内の敵の防禦ぶりを望見していた周瑜は、こうつぶやきながらなお、眉に手をかざしていた。
見るに、城中の敵兵は大体三手にわかれている。そしてことごとく外矢倉(そとやぐら)や外門に出て、その本丸や主要の墻(かき)の陰には、すこぶる士気のない紙旗や幟(のぼり)ばかり沢山に立っていて、実は人もいない気配であった。
「さては、敵将の曹仁(そうじん)も、ここを守り難しとさとって、外に頑強に防戦を示し、心には早くも逃げ支度をしておると見える。――よし。さもあらばただ一撃に」と、周瑜は、みずから先手の兵を率い、後陣を程普(ていふ)に命じて、城中へ突撃した。
すると一騎、むらがる城兵の中から躍り出て、
「来れるは周瑜か。湖北の驍勇(ぎようゆう)曹洪(そうこう)とは我なり。いざ、出で会え」と、名乗りかけて来た。
周瑜は、一笑を与えたのみで、
「夷陵を落ちのびた逃げ上手の曹洪よな。さる恥知らずの敗将と矛(ほこ)を交えるが如き周瑜ではない。誰か、あの野良犬を撲殺(ぼくさつ)せい」と、鞭をもって部下をさしまねいた。
「心得て候う」と、陣線を越えて、彼方へ馬を向けて行ったのは呉の韓当(かんとう)であった。
人交(ひとま)ぜもせず、二人は戦った。交戟(こうげき)三十余合、曹洪はかなわじとばかり引きしりぞく。
するとすぐ、それに代って、曹仁が馬を駈け出し、大音をあげて、
「気怯(きおく)れたか周瑜、こころよく出て、一戦を交えよ」と、呼ばわった。
呉の周泰(しゆうたい)がそれに向って、またまた曹仁を追い退けてしまった。ここに至って、城兵は全面的に崩れ立ち、呉軍は勢いに乗って、滔々(とうとう)と殺到した。
喊鼓(かんこ)、天をつつみ、奔煙、地を捲いて、
「今なるぞ。この期をはずすな」
と、周瑜の猛声は、味方の潮を率いてまっ先に突き進んでゆく。
息もつかせぬ呉兵の急追に、度を失ったか曹仁、曹洪をはじめ、城門へも逃げ込み損ねた守兵は、みな城外の西北へ向って雪崩(な だ)れ打って行った。
すでに周瑜は城門の下まで来ていた。見まわすところ、ここのみか城の四門はまるで開け放しだ。――いかに敵が狼狽して内を虚にしていたかを物語るように。
「それっ、城頭へ駈け上って、呉の旗を立てろ」と、もう占領したものと思いこんでいた周瑜は、うしろにいる旗手を叱咤しながら、自身も城門の中へ駈けこんだ。
すると、門楼の上からその様子をうかがっていた長史(ちようし)陳矯(ちんきよう)が、
「ああ、まさにわが計略は図にあたった。――曹丞相が書きのこされた巻中の秘計は神に通ずるものであった!」と、感嘆の声を放ちながら、かたわらの狼煙(のろし)筒(づつ)へ火を落すと、轟音(ごうおん)一声、門楼の宙天に黄いろい煙の傘がひらいた。
とたんに、あたりの墻壁(しようへき)の上から弩弓(いしゆみ)、石鉄砲の雨がいちどに周瑜を目がけて降りそそいで来た。周瑜は仰天して、駒を引っ返そうとしたが、あとから盲目的に突入してきた味方にもまれ、うろうろしているうちに、足下の大地が一丈も陥没(かんぼつ)した。
陥(おと)し穽(あな)であったのだ。上を下へとうごめく将士は、坑(あな)から這い上がるところを、殲滅的に打ち殺される。周瑜は、からくも馬を拾って、飛び乗るや否、門外へ逃げ出したが、一閃(いつせん)の矢うなりが、彼を追うかと見るまに、グサと左の肩に立った。
どうっと馬から転げ落ちる。そこを敵中の一将牛金(ぎゆうきん)が、首を掻こうと駈けてくるのを、呉の丁奉(ていほう)、徐盛(じよせい)らが、馬の諸膝(もろひざ)を薙(な)ぎ払って牛金を防ぎ落し、周瑜の体をひっかついで呉の陣中へ逃げ帰った。
六
壕におちいって死ぬ者、矢にあたって斃れる者など、城の四門で同様な混乱におとされた呉軍の損害は、実におびただしい数にのぼった。
「退鉦(ひきがね)っ。退鉦をっ」と、程普(ていふ)はあわてて、総退却を命じていた。
そして、南郡の城から、思いきって遠く後退すると、早速、
「何よりは、都督のお生命(いのち)こそ……」
と、軍医を呼んで、中軍の帳の内に横たえてある周瑜(しゆうゆ)の矢瘡(やきず)を手当させた。
「ああ、これはご苦痛でしょう。鏃(やじり)は左の肩の骨を割って中に喰いこんでいます」
医者はむずかしそうな顔をしかめて、患部をながめていたが、傍らの弟子に向って、
「鑿(のみ)と木槌(きづち)をよこせ」と、いった。
程普が驚いて、
「こらこら、何をするのだ」と、怪しんで訊くと、医者は、患者の瘡口(きずぐち)を指さして、
「ごらんなさい。素人(しろうと)が下手な矢の抜き方をしたものだから、矢の根本から折れてしまって、鏃が骨の中に残っているではありませんか。こんなのが一番われわれ外科の苦手(にがて)で、荒療治をいたすよりほか方法はありません」と、いった。
「ううむ、そうか」
と、ぜひなく唾(つば)をのんで見ていると、医者は鑿(のみ)と槌(つち)をもって、かんかんと骨を鑿(ほ)りはじめた。
「痛い痛いっ。たまらん。やめてくれ」
周瑜は、泣かんばかり、悲鳴を発した。医者は、弟子の男と、程普に向って、
「こう、暴れられては、手術ができません。手脚を抑えていてくれ」
と、その間も、こんこん木槌を振っていた。
荒療治の結果はよかった。苦熱は数日のうちに癒(い)え、周瑜はたちまち病床から出たがった。
「まだまだ、そう軽々しく思ってはいけません。何しろ鏃には毒が塗ってありますからな。なにかに怒って、気を激すと、かならず骨傷と肉のあいだから再び病熱が発しますよ」
医者の注意を守って、程普はかたく周瑜を止めて中軍から出さなかった。また諸軍に下知して、「いかに敵が挑んできても、固く陣門を閉ざして、相手に出るな」と、厳戒した。
城兵は以来ふたたび城中に戻って、いよいよ勢いを示し、中でも曹仁(そうじん)の部下牛金は、たびたびここへ襲(よ)せて来ては、
「どうした呉の輩(やから)。この陣中に人はないのか。中軍は空家(あきや)か。いかに敗北したからとて、いつまで、ベソをかいているのだ。いさぎよく降伏するなり、然らずんば、旗を捲いて退散しろ」と、さんざんに悪口を吐きちらした。
けれど、呉陣は、まるでお通夜のようにひッそりしていた。牛金はまた日をあらためてやって来た。そして、前にもまさる悪口雑言を浴びせたが、
「静かに。静かに……」と、程普は、ただ周瑜の病気の再発することばかり怖れていた。
牛金の来訪は依然やまない。来ては辱(はずかし)めること七回に及んだ。程普はひとまず兵を収めて、呉の国元へ帰り、周瑜の瘡(きず)が完全に癒ってから出直そうという意見を出したが、諸将の衆評はまだそれに一致を見なかった。
かかる間に、城兵は、いよいよ足もとを見すかして、やがては曹仁自身が大軍をひきいて襲せてくるようになった。当然、いくら秘しても周瑜の耳に聞えてくる。周瑜もさすがに武人、がばと病床に身を起き直して、
「あの喊(とき)の声はなんだ」と、訊ねた。
程普が、答えて、
「味方の調練です」というと、なお耳をすましていた周瑜は、俄然、起ち上がって、
「鎧(よろい)を出せ。剣をよこせ」と、罵(ののし)った。そして、「大丈夫たる者が、国を出てきたからには屍(かばね)を馬の革(かわ)につつんで本国に帰るこそ本望なのだ。これしきの負傷に、無用な気づかいはしてくれるな」
と、云い放ち、遂に帳外へ躍り出してしまった。
七
まだ癒(い)えきらない後(うし)ろ傷(きず)の身に鎧甲(がいこう)を着けて、周瑜(しゆうゆ)は剛気にも馬にとびのり、自身、数百騎をひきいて陣外へ出て行った。
それを見た曹仁(そうじん)の兵は、
「やッ周瑜はまだ生きていたぞ」と、大いに怖れて動揺した。
曹仁も、手をかざして、戦場を眺めていたが、
「なるほど、たしかに周瑜にちがいないが、まだ金瘡(きんそう)は癒っておるまい。およそ金瘡の病は、気を激するときは破傷して再発するという。一同して彼を罵り辱めよ」と、軍卒どもへ命令した。
そこで、曹仁自身も先に立ち、
「周瑜孺子(じゆし)。さき頃の矢に閉口したか。気分は如何。矛(ほこ)は持てるや」
などと嘲弄(ちようろう)した。
彼の将士も、その尾について、さんざん悪口を吐きちらすと、たちまち、怒面を朱泥(しゆでい)のようにして、周瑜は、
「誰かある、曹仁匹夫の首を引き抜け」
と叫び、自身も馬首を奮い立てて進まんとした。
「潘璋(はんしよう)これにあり。いでそれがしが」
と、周瑜のうしろに控えていた一将が、駈け出そうとする途端に、周瑜は、くわっと口を開き、血でも吐いたか、矛を捨てて、両手で口をふさぎながら、どうと、馬の背から転げ落ちた。
それと見て、敵の曹仁は、
「ざまを見よ。彼奴(きやつ)、血を吐いて死したり」と、一斉に斬り入ってきた。
呉軍は色を失って、総くずれとなり、周瑜の身を拾って、陣門へ逃げこんだ。この日の敗北もまた惨たるものであった。
憂色深き中に周瑜は取巻かれていた。だが、彼は案外、元気な容子で、医者のすすめる薬湯など飲みながら、味方の諸将へ話しかけて、
「きょう馬から落ちたのは、わざとしたので、金瘡(きんそう)が破れたのではない。曹仁が漫罵(まんば)の計を逆用して、急に血を吐いた真似をして見せたのだ。さっそく陣々に喪旗(もき)を立て、弔歌(ちようか)を奏(かな)でて、周瑜死せりと噂するがいい」と、いった。
次の日の夕方ごろ、曹仁の部下が城外で、呉兵の一将隊を捕虜にして来た。訊問してみると彼らは、
「昨夜ついに、呉の大都督周瑜は、金瘡の再発から大熱を起して陣歿されました。で、呉軍は急に本国へ引揚げることに内々きまったようですから、所詮、呉に勝ち目はありません。勝ち目のない軍について帰っても、雑兵は、いつまで雑兵で終るしかありませんから、一同談合して降参に来たわけです。もしわれわれをお用い下さるなら、今夜、呉陣へ案内いたします。喪に服して意気銷沈(しようちん)している所へ押襲(おしよ)せれば、残る呉軍を殲滅し得ることは疑いもありませぬ」
曹仁、曹洪(そうこう)、曹純(そうじゆん)、陳嬉(ちんき)、牛金(ぎゆうきん)などは、鳩首して密議にかかった。その結果、深更に及んで、呉の陣へ、大襲を決行した。
ところが、陣中は、旗ばかり立っていて、人影もなかった。寥々として、捨(す)て篝(かがり)が所々に燃え残っている。
「さては早、ここを払って、引揚げたか?」
と疑っていると、たちまち、東門から韓当(かんとう)、蒋欽(しようきん)、西門から周泰(しゆうたい)、潘璋(はんしよう)。南の門からは徐盛(じよせい)、丁奉(ていほう)。北の柵門からも陳武(ちんぶ)、呂蒙(りよもう)などという呉将の名だたる手勢手勢が、喊(とき)を作り、銅鑼(どら)をたたき、一度に取籠(とりこ)めて猛撃して来たため、空陣の袋に入っていた曹仁以下の兵は、度を失い、さわぎ立って、蜂の巣のごとく叩かれたあげく、士卒の大半を討たれて、八方へ潰乱した。
曹仁、曹純、曹洪など、みな自分らの南郡へ向って逃げたが、途中、呉の甘寧(かんねい)が道をさえぎっていたので、城内へ入ることもできず、遂に、襄陽(じようよう)方面へ遁走(とんそう)するのほかなかった。
死せる周瑜は生きていた。この夜、周瑜は十分に勝ちぬいて、意気すこぶる旺(さかん)に、程普(ていふ)をつれて、乱軍の中を縦横し、いでこの上は南郡の城に、呉の征旗を高々と掲げんものと、壕の辺まで進んでくると、こは抑(そも)いかに、城壁の上には、見馴れない旗や幟が、夜明けの空に、翩翻(へんぽん)と立ちならんでいる。
そしてそこの高櫓(たかやぐら)の上には、ひとりの武将が突っ立って、厳に城下を見下していた。
八
怪しんで、周瑜(しゆうゆ)が、
「城頭に立つは、何者か」と、壕ぎわから大音にいうと、先も大音に、
「常山の趙雲(ちよううん)子龍(しりゆう)、孔明の下知をうけて、すでにこの城を占領せり。――遅かりし周瑜都督、お気の毒ではあるが、引っ返し給え」と、城の上から答えた。
周瑜は仰天して、空しく駒を返したが、すぐ甘寧(かんねい)をよんで荊州(けいしゆう)の城へ馳せ向け、また凌統(りようとう)をよんで、
「即刻、襄陽を奪い取れ」と、命じた。
――われ、孔明に出しぬかれたり!
周瑜の心中は、すこぶる穏やかでなかったのである。この上は、時を移さず、荊州、襄陽の二城を取って、その後に南郡の城を取り返そうと肚をきめたものだった。
ところが、たちまち、早馬が来て、
「荊州の城にもすでに張飛(ちようひ)の手勢が入っている」と、告げた。
「げッ、何として?」と疑っているところへ、またまた、襄陽からも早馬が飛んで来て、
「時すでに遅しです。襄陽城中には、関羽(かんう)の軍がいっぱいに入って、城頭高く、玄徳の旗をひるがえしている」と、報らせてきた。
周瑜が、その仔細を聞くと、こうであった。孔明は南郡の城を取るや否や、すぐ曹仁(そうじん)の兵符(わりふ)(印章)を持たせて人を荊州に派し、(南郡あやうし、すぐ救え)と云い送った。
荊州城の守将は、兵符を信じて、すぐ救援に駈け出した。留守を測っていた孔明は、すぐ張飛を向けてそこを占領し、同時にまた、同様な手段で、襄陽へも人をやった。
(われ今あやうし。呉の兵を外より破れ)と、いう檄である。
襄陽を守っていた夏侯惇(かこうじゆん)も、曹仁の兵符を見ては、疑っているいとまもなく、直ちに城を出で、荊州へ走った。
かねて孔明の命をうけていた関羽は、すぐ後を乗っ取ってしまった。かくて南郡、襄陽、荊州の三城は、血もみずに、孔明の一握(いちあく)に帰してしまったものである。
周瑜の驚きかたは、ひと通りや二通りではない。失神せんばかり面色を変えて、
「いったい、どうして、曹仁の兵符が、孔明の手になんかあったのか」と、叫んだ。
程普(ていふ)が、首を垂れていった。
「孔明、すでに荊州を取る。荊州の城にいた魏の長史陳矯(ちんきよう)は、城に旗の揚がるよりも先に、孔明に生擒(いけど)られてしまったにちがいありません。兵符は常に、陳矯が帯びていたものです」
聞くや否、周瑜は、
「――あっ」と床に仆れた。
怒気を発したため、金瘡(きんそう)の口が破れたのだった。こんどは計(はかりごと)ではない。ほんとに再発したものである。
だが、人々の看護によって、ようやく蘇生の色をとりもどすと、周瑜はなお牙(きば)を噛んで、
「だから、だからおれは疾くから、孔明を危険視していたのだ。もし孔明を殺さずんば、いつの日かこの心は安んずべき。見よ、今に!」と、罵った。
そしてひたすら南郡の奪回を策していると、一日、魯粛(ろしゆく)が来て、
「いかがです。ご気分は」と、見舞った。
周瑜はもう寝てなどいなかった。意気軒昂を示して、
「近々のうち、玄徳、孔明と一戦を決し、かの南郡を手に入れた上はいちど呉へ帰って少し養生しようと思う」と、語った。すると、魯粛は、
「無用です、無用無用」と、首を振った。
九
魯粛(ろしゆく)はいう。
「いま、曹操と戦って赤壁(せきへき)に大捷(たいしよう)を得たといっても、まだ曹操そのものは仆しておりません。成敗の分れ目はこれからです。一面に、呉君(ごくん)孫権(そんけん)には、先頃からまた、合〓(がつぴ)方面を攻めておらるる由。――そんな態勢をもって、ここでまたも、玄徳と戦端を開いたら、これは曹操にとって、もっとも乗ずべき機会となりましょう」
周瑜(しゆうゆ)にも、その不利は、当然分っていたが、彼のやみ難い感情が、頑として、いうのであった。
「わが大軍が、赤壁に魏を打破るためには、いかに莫大なる兵力と軍費の犠牲を払ったか知れない。然るに、その戦果たる荊州地方を何もせぬ玄徳に横奪りされて黙止しておられるか」
「ごもっともです。それがしが玄徳に対面して、篤(とく)と、道理を説いてみましょう」
魯粛はすぐ南郡城へ使いした。その姿を見るや、城頭のいただきから、守将趙雲(ちよううん)が声をかけた。
「呉の粛公(しゆくこう)。何しに見えられたか」
「備公(びこう)にお目にかからんがために」
「劉皇叔(りゆうこうしゆく)には、荊州の城においで遊ばされる。荊州へ行き給え」
ぜひなく、彼はその足で、荊州へ急いだ。
荊州の城を訪うてみると、旌旗(せいき)も軍隊も街の声も、今はすべて玄徳色にいろどられている。――ああと、魯粛は嘆ぜざるを得なかった。
「やあ、お久しゅうございました」
迎えたのは、孔明である。礼儀はきわめて篤い。賓主の座をわかつやすぐ、魯粛は彼を責めた。
「曹軍百万の南征で、第一に擒人(とりこ)となるものは、おそらくあなたのご主君備公であったろうと思う。それをわが呉の国が莫大な銭粮(せんろう)を費やし、兵馬大船を動員して、必死に当ったればこそ、彼を撃破し、お互いに難なきを得ました。その戦果として、荊州は当然、呉に属していいものと考えられるが、ご辺はどう思われるか」
孔明は、笑って、
「これは異なおことば。荊州は荊州の主権のもので、曹操のものでもなし、呉に属さねばならぬ理由もない国です」
「とは、なぜか」
「荊州の主、劉表(りゆうひよう)は死なれた。しかし遺孤(いこ)の劉〓(りゆうき)――すなわちその嫡子はなおわが劉皇叔のもとに養われている。皇叔と劉〓とは、もとこれ同宗の家系、叔父(お じ)甥(おい)のあいだがら、それを扶けて、この国を復興するに、何の不道理がありましょうや」
魯粛は、ぎくとした。
ここまでの深謀が孔明にあったとは、さすがの彼も気づかなかったからである。
「いや。……その劉〓は、たしか江夏(こうか)の城にいると聞いておる。よも、この荊州の主(あるじ)としてはおられまい」
孔明は、左右の従者に向って、
「――賓客には、お疑いとみえる。〓君(きくん)をこれへ」と、小声で命じた。
やがて後ろの屏風が開くと、弱々しい貴公子が、左右の手を侍臣に取られて、数歩前に歩いて客に立礼した。見ると、まぎれなき劉〓である。
「ご病中なれば、失礼遊ばされよ」
孔明のことばに、〓君は、すぐ屏をふさいで奥へかくれた。魯粛は、黙然と首をたれてしまう。孔明はなおいった。
「〓君、一日あれば、一日荊州の主です。あのご病弱ゆえ、もし夭折(ようせつ)されるようなご不幸があれば、また別ですが」
「では、もし劉〓が世を辞し給う日となったら、この荊州は、呉へ還し給え」
「公論、明論。それなら誰も異論を立てるものはありますまい」
それから大いに馳走を出して歓待したが、魯粛は心もそぞろに、帰りを急ぎ、すぐ周瑜に会って仔細を話した。
「――長いことはありません。劉〓の血色をみるに、近々、危篤におちいりましょう。ここしばらく」
と、なだめているところへ、折も折、呉主孫権から早馬が来て、総軍みな荊州を捨てて柴桑(さいそう)まで引揚げろ、という軍令であった。
白羽扇(びやくうせん)
一
荊州(けいしゆう)、襄陽(じようよう)、南郡三ヵ所の城を一挙に収めて、一躍、持たぬ国から持てる国へと、その面目を一新しかけてきた機運を迎えて、玄徳(げんとく)は、
「ここでよい気になってはならぬ――」と、大いに自分を慎(つつし)んだ。
「亮(りよう)先生」
「何ですか」
「労せずして取った物は、また去ることも易(やす)しとか。三ヵ所の城は、先生の計一つで、余りにやすやすとわが手に落ちたが、それだけに長久の策を思わねばならんと考えるが」
「ごもっとものお言葉には似ておりますが、決して然らずです。三ヵ所の城が一挙にお手に入ったのも、実にわが君が多年の辛苦から生れたもので、やすやすと転げこんで来たのではありません」
「でも、一戦も交えず、一兵も損せずに、この中央にわが所を得たのは、余りに好運すぎる」
「ご謙遜です。みな君の御徳(おんとく)と、積年の労苦がここに結集したものです。はやい話が、君にその積徳とご努力が過去になかったら、この孔明(こうめい)ひとりでも、今日、お味方の内にはいなかったでしょう」
「では先生、どうかさらに、玄徳が労苦をかさね、徳を積んでゆく長久の計をさずけて欲しい」
「人です。すべては人にあります。領地を拡大されるごとに、さらにそれを要としましょう」
「荊、襄の地に、なお遺賢(いけん)がいるだろうか」
「襄陽宜城(ぎじよう)の人で、馬良(ばりよう)、字(あざな)を季常(きじよう)という、この者の兄弟五人は、みな才名高く、馬氏の五常と世間からいわれていますが、中で馬良はもっとも逸材で、その弟の馬謖(ばしよく)も軍書を明らかに究め、万夫不当の武人です」
「召したら来るだろうか」
「幕賓の伊籍(いせき)は親しいと聞いております。伊籍から迎えさせては如何です」
「そうしよう」
早速、玄徳は、伊籍に諮(はか)って、迎えの使いをやった。
馬良はやがて城へ来た。雪を置いたように眉の白い人であった。馬氏の五常、白眉(はくび)を良しと、世間に評があった。
玄徳は、彼にたずねた。
「御身はこの地方の国情には詳しかろう。わしは近頃、三城を占めて、ここに君臨したものだが、この先の計は、どうしたが最も良いか」
「やはり劉〓君(りゆうきくん)をお立てになることでしょう。ご病体ですからこの荊州の城に置かれて、旧臣をよび迎え、また都へ表を上せて、〓君を荊州の刺史(しし)に封じておあげなさい。人心はみな、あなたのご仁徳と公明なご処置に随喜して懐(なつ)きます。――それを強味に、それを根本に持って、あなたは南の四郡を伐り取ったがよろしいかと思われます」
「その四郡の現状は」
「――武陵(ぶりよう)には太守金旋(きんせん)があり、長沙(ちようさ)には韓玄(かんげん)、桂陽には趙範(ちようはん)、零陵(れいりよう)(湖南省(こなんしよう)・零陵)には劉度(りゆうど)などが、おのおの地盤を占めております。この地方は総じて、魚米の運輸よろしく、地も中原に似て、肥沃(ひよく)です。もって長久を計るに足りましょう」
「それへ攻め入るには」
「湘江(しようこう)の西、零陵から手をつけるのが順序でしょう。次に桂陽、武陵と取って、長沙へ進攻するのが自然かと思います。要するに、兵の進路は流れる水です。水の行くところ、自然の兵路といえるでしょう」
賢者の言は、みな一つだった。玄徳は自信を得た。味方の誰にも異論はなかった。
建安十三年の冬、彼の部下一万五千は、南四郡の征途に上った。
趙雲(ちよううん)は後陣につく。
もちろん玄徳、孔明はその中軍にあった。
この時も、関羽(かんう)は留守をいいつかり、あとに残って、荊州の守りを命ぜられた。
玄徳の軍来る! ――の報は、たちまち零陵を震駭(しんがい)せしめた。戦革(せんかく)の世紀にあっては、どこの一郡一国であろうと、この世紀の外に安眠をむさぼっていることはできなかったのである。
二
零陵の太守劉度(りゆうど)は、嫡子(ちやくし)の劉延(りゆうえん)をよんで、
「いかに玄徳を防ぐか」を、相談した。
父の顔色には怯(おび)えが見えている。劉延は切歯して、
「関羽、張飛(ちようひ)などの名がものものしく鳴り響いていますが、わが家中にも、〓道栄(けいどうえい)があるではありませんか」と、励ました。
「〓道栄ならそれに当り得るだろうか」
「彼ならば、関羽、張飛の首を取るのも、さしたる難事ではありますまい。つねに重さ六十斤の大鉞(おおまさかり)を自由に使うという無双な豪傑ですし、胸中の武芸もまた、いにしえの廉頗(れんぱ)、李牧(りぼく)に優るとも劣るものではありません。日頃から豪勇の士を何のために養っておかれるのですか」
劉延は、そういって父に一万騎を乞い、その〓道栄を先陣に立てて、城外三十里に陣取った。
玄軍一万五千は、すでにこの辺まで殺到した。漠々(ばくばく)の戦塵はここに揚り、刻一刻、その領域は侵(おか)された。
「反国の賊、流離の暴軍、なにゆえ、わが境を侵すか」
乱軍の中へ馬を出し、〓道栄は大音に云って迫った。有名なる彼の大鉞は、すでに鮮血に塗られていた。
すると、彼の前に、一輛の四輪車が、埃(ほこり)をあげて押し出されて来た。見ればその上に、年まだ二十八、九としか思われぬ端麗な人物が、頭に綸巾(りんきん)をいただき、身には鶴〓(かくしよう)を着、手に白羽扇(びやくうせん)を持って、悠然と乗っている。――何かしらぎょッとしたものを受けたらしく、〓道栄が悍馬(かんば)の脚を不意に止めると、車上の人は、手の白羽扇をあげてさしまねきながら、
「それへ来たのは、鉞をよく振るとかいう零陵の小人か。われはこれ南陽の諸葛亮(しよかつりよう)孔明である。聞きも及ばずや、さきに曹操(そうそう)が百万の軍勢も、この孔明が少しばかりの計を用うるや、たちまち生きて帰る者はひとりもない有様であった。汝ら、湖南の草民づれが、何するものぞ。すみやかに降参して、民の難を少なくし、身の生命(いのち)をひろえ」
「わははは。聞き及ぶ孔明とかいう小利巧者は貴様だったか。青二才の分際で、戦場に四輪車を用うるなどという容態振りからして嘔吐(へ ど)が出る。赤壁で曹操を破ったものは、呉の周瑜(しゆうゆ)の智とその兵力だ。小賢(こざか)しいわれこそ顔、片腹いたい」
喚(わめ)き返すやいな、大鉞を頭上にふりかぶり、悍馬の足を、ぱっと躍らせてきた。
孔明の四輪車は、たちまち、ぐわらぐわらッと一廻転した。後ろを見せて、逃げだしたのである。進むにも退くにも、それは大勢の力者(りきしや)が押し、そして無数の刀槍でまわりを守り固めて行く。
「待てッ」
〓道栄は、追いかけた。
車は渦巻く味方をかき分けて深く逃げこみ、やがて柵門の中へ駈け入ってしまった。
「孔明孔明。首をおいて行け」
〓道栄はあきらめない。大波を割るように、鉞の下に、敵兵を睥睨(へいげい)し、いつか柵門もこえて、なお彼方此方、四輪車の行方をさがしていた。すると、山の腰に黄旗を群れ立てて、じっとしていた一部隊が、むくむくと此方へうごいてきた。その真先に馬を躍らしてきた一人の大将は、偉大な矛(ほこ)を横たえて、
「劉皇叔のもとに、人ありと知られたる、燕人張飛とは、すなわちわが事。おのれは果報者だぞ、おれの手にかかるとは」
と、雷のようにかかって来た。
「何をっ。――この鉞が目に見えぬか」
〓道栄は、自信満々、大きな表情をしてそれを迎えたが、一丈八尺の大矛と、六十斤の鉞では得物において互角だったが、力量にかけて〓道栄は張飛に及ばぬこと遠かった。
「かなわん」と、見きりをつけて、大鉞は逃げ出した。ところが、その先へ迫って、また一名の強敵が、彼の道へ立ちふさがった。
「常山の趙雲(ちよううん)子龍(しりゆう)とはそれがしなり。道栄っ、無用の鉞を地に捨てよ」
三
〓道栄(けいどうえい)は、馬を下りた。馬を下りることは、降参を意味する。
趙雲(ちよううん)はすぐ彼を縛りあげて、本陣へ引っ立てた。
玄徳は、ひと目見て、
「斬れ」と、いったが、孔明はそれを止めて、〓道栄にこう告げた。
「どうだ、汝の手で、劉延(りゆうえん)を生捕ってくれば、助命はもちろん、重く用いてつかわすが」
「いと易いこと。この縄目を解いて、それがしを放ち帰して下さるならば――」
「しかし、どういう方法で、劉延を生捕るか」
「夜を待って、こよい劉延の陣へ攻め入り給え。それがし内より内応して、かならず劉延を擒人(とりこ)としてみせます。劉延が捕われれば、その父なる太守劉度(りゆうど)も、ご陣門に降ってくるにきまっておる」
傍らで玄徳は聞いていたが、彼の口うらの軽々しいのを察して、
「詐言(さげん)はおのずから色にあらわれる。軍師、こんな者を用いるのは無用である。早く首を刎(は)ねられよ」と、重ねていった。
孔明はなお、そのことばに反(そむ)いて、顔を横に振りながら、
「いやいや、私が観るに、〓道栄の言に嘘はないようです。人物にも観どころがある。有能はこれを惜しみ、努めてこれを生かすことが、真の大将たるものの任です。よろしく彼の計にしたがい、今夜のことを決行しましょう」
即座に、その縄を解いて、彼は〓道栄を放してやった。
命びろいをして、〓道栄は味方の陣へ逃げ帰り、すぐ劉延の前へ出て、
「今夜が決戦の分れ目に相成ろう」と、仔細を告げた。
「すわ、油断ならじ」と、劉延は防ぎにかかった。しかし昼間の合戦で、玄徳軍の当るべからざる手並を見ているので、正防法によらず、奇防策を採った。
陣中の柵内には、旗ばかり立てて、兵はみなほかに埋伏(まいふく)していた。そして夜も二更の頃になると果たして、一団の軍勢が、手に手に炬火(たいまつ)をもち、喊声(かんせい)をあげ、近づくやいな陣屋陣屋などへ火をかけた。
「来たぞ。引っ包め」
劉延、〓道栄の兵は、あらぬ方角から二手に分れて殺到し、押し包んでこれを殲滅にかかった。
寄手の兵は、隊を崩して、どっと逃げ退く。
勝ちに乗って、劉延、〓道栄は、それを追い捲(まく)り、追い捲りて、十里の余も駈けた。
――だが、案外、逃げた兵数は薄いのに気がついた。いくら追っても、それだけの兵で、後続も側面もなく、いわゆる軍の厚みがない。
「深入りすな」
劉延は、〓道栄を呼びとめた。そして、
「陣屋の火も消さねばならん。これだけ勝てば、まず充分。この辺で引揚げよう」
と、取って返した。その帰り途である。
「道栄道栄。どこをまごついているのだ。張飛ならこれにおるぞ」
と、道の傍(かたわ)らから殺出(さつしゆつ)してきた人影がある。それへつづく一隊は、逃げた敵とは全然士気を異にして、破竹のごとく、劉延、〓道栄の軍を中断して、不意をついた。
「や、や。さては敵にも、何か計があったか」
あわてふためいて、彼らは自陣へ逃げこもうとした。すると、その火はもうあらかた消されていたが、その余燼(よじん)の内から、
「趙雲子龍。これにて、汝らの帰るを待てり」
と、思わぬ一軍が、自分たちの陣中から現れたのみか、狼狽して逃げ戻ろうとした〓道栄は、ついにここで趙雲子龍の槍にかけられ、無残な死をとげてしまった。劉延も、生捕られた。
夜の白々明けには、孔明の四輪車の前に、劉延の父劉度もまた、降伏を誓いに出ていた。
四
玄徳、孔明は轡(くつわ)をならべて、零陵(れいりよう)へ入城した。
前の太守劉度(りゆうど)は、そのまま郡守としてここに置き、子の延(えん)は軍に加えて、さらに、桂陽(湖南省・〓県)へ進んだ。
桂陽へ攻め寄せる日。
「たれがまず先陣するか」と、玄徳が諸将を見わたした。
「それがしが!」と、一人が手を挙げたとたんにすぐ、張飛もおどり出て、
「願わくは此方を!」と、希望した。
先に手を挙げたのは趙子龍であった。孔明は、
「趙雲の答えが少し早かった。早いほうに命ぜられては」
孔明が、迷っている玄徳へそういった。ところが、張飛は肯(き)かない。
「返事の早いか遅いかで決めるなど、前例がありません。何故、てまえをお用いなされぬか」
「争うな」
孔明は、仕方なく前のことばを撤回した。そして、
「さらば、鬮(くじ)をひけ」と責任をのがれた。
趙雲が「先」という字の鬮に当った。張飛の引いたのは「後」である。
「冥加、冥加」
と趙雲はよろこび勇んだが、張飛は甚だよろこばない。なおまだぐずぐず云っていたが、
「未練というものだぞ」と、玄徳に叱られて、ようやく陣列へすがたを退いた。
趙雲は、手勢三千を申し受けた。孔明から、
「それで足りるか」
と念を押されて、
「もし敗戦したら軍罰をこうむりましょう」と、豪語した。
このことばを誓紙として、趙雲子龍は、一挙に桂陽城奪取に馳せ向った。
桂陽城には、世に聞えた二人の勇将がいた。ひとりは鮑龍(ほうりゆう)といい、よく虎を手擒(てどり)にするといわれ、もう一名は陳応(ちんおう)と称して、いわゆる力(ちから)山(やま)を抜くの猛者(も さ)だった。
「いま、玄徳の軍を見てからでは、もう防塁を築くことも、強馬精兵を作る日のいとまもない。しかず、早く降参して、せめて旧領の安泰を縋(すが)ろうではないか」
太守の趙範(ちようはん)は、すこぶる弱気だった。それを叱咤して、
「かいなきことを宣(のたも)うな。藩中に人なきものならいざ知らず――」
と、強硬に突っ張っていたのは前に掲げた鮑龍、陳応の二将であった。
「敵の劉玄徳は、天子の皇叔なりなどと僭称していますが、事実は辺土の小民、その生い立ちは履(くつ)売りの子に過ぎません。――関羽、張飛、また不逞の暴勇のみ、何を恐れて、桂城の誇りを、自ら彼らの足もとへ放擲(ほうてき)なさろうとしますか」
「でも、これへ向って来ると聞く趙雲子龍は、かつて当陽の長坂坡(ちようはんは)で、曹軍百万の中を駈け破った勇者ではないか」
「その趙雲と、この陳応と、いずれが真の勇者であるか、とくと見届けてから降参しても遅くはありますまい」
非常な自信である。
太守趙範も、やむなく抗戦ときめた。陳応は四千騎をひっさげて、城外に陣を展(ひら)き、
「破れるものなら破ってみよ」と、強烈な抗戦意志を示した。
寄手は近づいた。
両軍接戦となるや、趙雲子龍は馬おどらせて、敵将陳応に呼びかけ、
「劉皇叔。さきに世を去り給いし劉表の公子〓君(きくん)をたすけて、ここに安民の兵馬をすすめ給う。矛(ほこ)を投げ、城門をひらいて迎えよ」といった。
陳応はあざ笑って、
「われわれが主と仰ぐは、曹丞相よりほかはない。汝らはなぜ許都(きよと)へ行って、丞相のお履(くつ)でも揃えないか」と、からかった。
五
この陳応(ちんおう)という者は、飛叉(ひしや)と称する武器を良く使う。二股(また)の大鎌槍とでもいうような凄い打ち物である。
だが、趙雲(ちよううん)に向っては、その大道具も児戯(じぎ)に見えた。
馬と馬を駈け合わせて戦うこと十数合。もう陳応は逃げ出していた。
「口ほどでもないやつ」と、追いかけると、陳応は、何をっと喚(おめ)いて、飛叉を投げつけた。趙雲は、それを片手に受けて、
「返すぞ」と、とっさに投げ返した。
陳応の馬が、竿(さお)立ちになった。趙雲は猿臂(えんぴ)をのばして、その襟がみを引っつかみ、陣中へ持ち帰って訓戒を与えた。
「およそ喧嘩をするにも、相手を見てするがいい。汝らのたのむ兵力と、劉皇叔の精鋭とは、ちょうど今日のおれと貴様との闘いみたいなものだ。今日のところは、放してやるから、城中へ戻って、よく太守趙範(ちようはん)にも告げるがいい。何も求めて滅亡するにはあたるまい」
と陳応は野鼠(やそ)のように城へ逃げ帰った。
太守の趙範は、
「それ見たことか」と、初めに強がった陳応をかえって憎み、城外へ追い出してしまった後、あらためて趙雲子龍へ、降参を申し入れた。
趙雲は満足して、この従順な降将へ、上賓(じようひん)の礼を与え、さらに酒など出してもてなした。
趙範は、途方もなく喜悦して、
「将軍とてまえとは、同じ趙氏ですな。同姓であるからには、先祖はきっと一家の者だったにちがいない。どうか長く一族の好誼(よしみ)をむすんで下さい」
と、兄弟の盃を乞い、なお生れ年をたずねたりした。
生れた年月を繰ってみると、趙雲のほうが四ヵ月ほど早く生れている。趙範は額をたたいて、
「じゃあ、貴方が兄だ」
と、もう独りぎめに決めて、嬉しいずくめに包まれたような顔して帰った。
次の日、書簡が来た。
実に美辞麗句で埋っている。
そんな物をよこさなくても、趙雲は堂々入城する予定であったから、部下五十余騎を引率して、城内へ向った。
許都、襄陽、呉市(ごし)などから較べれば、比較にならないほど規模の小さい地方の一城市だが、それでもこの日は、郡中の百姓みな香をたいて辻に出迎え、商戸や邸門はすべて道を掃いていた。城に入ると、趙雲はすぐ、
「四門に札を揚(あ)げい」と命じた。
四民に対して、政令を示すことだった。これは、一城市を占領すると、例外なく行われることである。
終ると、趙範は、自ら迎えて、彼を招宴の席に導いた。
そこで降参の城将が、この後の従順を誓う。
趙子龍は大いに酔った。
「席をかえましょう。興もあらたまりますから」
後堂へ請じて、また佳肴芳盞(かこうほうさん)をならべた。後堂の客は、家庭の客である。下へもおかないもてなしとはこの事だった。
だいぶ酩酊して、
「もう帰る」と、趙子龍が云い出した頃である。まあまあと引き止めているところへ、ぷーんと異薫(いくん)が流れて来た。
「おや?」と、趙子龍が振り向いてみると、雪のような素絹(そけん)をまとった美人が楚々と入ってきて、
「お呼び遊ばしましたか」と、趙範へいった。
趙範はうなずいて、
「ああ。こちらは、子龍将軍でいらっしゃる。しかもわが家と同じ趙姓だ。おちかづきをねがって、何かとおもてなしするがいい」と、席へ倚(よ)らせた。
趙子龍は改まって、
「こちらはどなたですか」
と、その美貌に、眼を醒ましたように、趙範をかえりみて訊ねた。
六
「私の嫂(あによめ)です」
と、趙範(ちようはん)はにやにや紹介した。
すると、趙子龍(ちようしりゆう)は、容(かたち)をあらためて、ことばも丁寧に、
「それは知らなかった。召使いと思うて、つい」と、失礼を詫びた。
趙範は、傍らからその美人へ向って、お酌をせいとか、そこの隣りへ坐れとか、しきりに世話を焼きだしたが、趙子龍が、「無用、無用」と、疫病神(やくびようがみ)でも払うように手を振ってばかりいるので、せっかくの美人もつまらなそうに、立ち去ってしまった。
趙雲は、その後で、趙範に咎(とが)めた。
「何だって嫂ともあるお方を、侍婢かなんぞのように、軽々しく、客席へ出されるのか」
「いや、――実はこうです。そのわけというのは、彼女はまだ若いのですが、てまえの兄にあたる良人に死別(わ か)れ、寡(やもめ)となってから三年になります。もうしかるべき聟(むこ)をとったらどうだと、それがしはすすめていますが、嫂には、三つの希望があるのです。一つは、世に高名を取り、二つには先夫と氏姓の同じな者、三つには文武の才ある人という贅沢なのぞみなので」
「うーむ」
趙雲は、失笑をもらした。
けれど趙範は熱心に、
「いかがでしょう。将軍」
「なにがだ」
「嫂の日頃の希望は、さながら将軍の世にあるを予知して、これへ見えられる日を待っていたように、将軍のご人格とぴったり合っています。ねがわくは妻として将軍の室に入れて下さらんか」
聞くと、趙雲は、眼をいからして、いきなり拳をふりあげ、
「不埒者(ふらちもの)っ」
ぐわんと、趙範の横顔を、なぐりつけた。
趙範は、顔をかかえて、わっと、転がりながら、
「何をするのだ。無態な」と、喚(わめ)いた。
趙雲は起ち上がって、
「無態もくそもあるか。汝のような者を蛆虫(うじむし)というのだ」
と、もう一つ蹴とばした。
「蛆虫とな。け、けしからんことを。――慇懃(いんぎん)に、かくの如く、礼を厚うしているそれがしに、蛆虫とは」
「人倫の道を知らぬやつは蛆虫にちがいなかろう。嫂をもって、客席へ侍(はべ)らすさえ、言語道断だ。それをなお、此方の妻にすすめるとは女衒(ぜげん)にも劣る畜生根性。――貴様の背骨はよほど曲がっているな」と、さらに、趙範をぎゅうぎゅう踏みつけて、ぷいと、そこを出てしまった。
趙範は起き上がって、うろうろしていたが、やがて陳応(ちんおう)、鮑龍(ほうりゆう)を呼んで、
「いまいましい趙子龍めが、何処へ行ったか」と、肩で息してみせた。
二人は口を揃えて、
「ここを出るや、馬に飛び乗って城外へ馳けて行きました」と、告げた。そしてまた、「こうなったら徹底的に勝敗で事を決めるしかありますまい。われわれ両名は、詐(いつわ)って、これから子龍の陣へ行き、彼をなだめておりますから、太守には夜陰を待って、急に襲撃して下さい。さすれば、われわれ両名が、陣の中から呼応して彼奴の首を掻き取ってみせます」
しめし合わせて、二人は城外へ出て行った。
一隊の兵に、美酒財宝を持たせ、やがて趙子龍の陣所へ訪れた。そして地上に拝伏して、
「どうか、主人の無礼は、幾重にもおゆるし下さい。まったく悪気で申しあげたわけではないと云っておりますから」と、額を叩いて詫び入った。
趙子龍は、彼らの詐術(さじゆつ)であることを看破していたが、わざと面をやわらげ、土産の酒壺を開かせて、「きょうは、せっかくの所を、酔い損ねてしまった。大いに酔い直そう」といって、使いの二人にも、大杯をすすめた。
七
陳応(ちんおう)、鮑龍(ほうりゆう)のふたりは、「わが事成る」と、すっかり油断してしまったらしい。趙雲(ちよううん)のもてなしに乗って泥のように酔ってしまった。
趙雲は、頃をはかって、至極簡単に二人の首を斬り落した。そして彼の部下らにも酒を振舞い、引出物を与えなどしておいて、
「此方の手勢について働けばよし、さもなくば、陳応、鮑龍のようにするがどうだ」
と、首を示して説いた。
五百の部下は、降伏して、たちまち趙雲の手勢に加わることを約した。趙雲はその夜のうちに、この五百名を先頭に立たせ、後から千余騎の本軍をひきいて、桂陽の城へ押し襲(よ)せた。
城主趙範(ちようはん)は、使いにやった鮑龍、陳応が帰って来たものとばかり信じていた。門を開けて、
「首尾はどうだった?」と、味方の五百人へ訊ねた。
すると、その後から、趙子龍以下、千余の軍勢がなだれこんで来たので、仰天したが、もう間に合わなかった。
趙子龍は何の苦もなく、趙範を生捕りとし、城旗を蹴落して、新たに玄徳の旗をひるがえし、
「桂陽の占領はなり終んぬ」と、事の次第を、遥かなる玄徳、孔明のところへ早馬した。
日を経て、玄徳は入城した。孔明は直ちに、虜将(りよしよう)趙範を趙雲にひかせて、階下に引きすえ、一応、その口述を聞いた。
趙範は、哀訴して、
「もともとてまえは本心から降参してご麾下(きか)に加わることを光栄としていたのです。ところが、てまえの嫂(あによめ)を子龍将軍に献じようと申したのが、なぜか将軍の怒りにふれて、再度城を攻撃され、それがしまで、このような縄目にかけられた次第でして、何ゆえの罪科をもってこんな目に遭うのか諒解に苦しみます」
孔明はまた趙子龍に向って、
「美人といえば、愛さぬ人はないのに、御身はなぜ怒ったのか」と、訊いてみた。
趙子龍はそれに答えた。
「そうです。私も美人は嫌いではありません。けれど、趙範の兄とは、遠い以前、故郷で一面識があるものです。今、それがしがその人の妻をもって妻としたら、世の人に唾(つば)されましょう。また、その婦人がふたたび嫁ぐときは、その婦人は貞節の美徳を失います。次にはそれを拙者にすすめた趙範の意中もただ真偽のほどは知れず、さらに考えさせられたことは、わが君が、この荊州を領せられても、まだ日は浅いということでした。新占領治下の民心は決してまだ安らかではありません。しかるにその翼臣(よくしん)たるそれがし輩(はい)が、いち早く驕(おご)りを示し人民の範たることを打ち忘れ、政治(まつりごと)を怠りなどしていたら、せっかく、わが君の大業もここに挫折するやも知れません。すくなくも、ここに民望をつなぎ得ることはできません。――以上の諸点を考えては、いくら好きな美人であろうとそれがしの意(こころ)をとらえるには足りません」
温顔に笑みを含んで聞いていた玄徳は、そのとき側から口を開いてまた、子龍にいった。
「――しかし、今はもうこの城も、わが旗の下に、確乎と占領されたのだから、その美人を娶(めと)って、溺れない程度に、そちの妻としても誰も非難するものはないだろう。玄徳が媒人(なこうど)してとらせようか」
「いや、お断りします。天下の美人、豈(あに)、一人に限りましょうや。それがしは、唯それがしの武名が、髪の毛ほどでも、天下に名分が立たないようなことがあってはならん――と、それのみを怕(おそ)れとします。何で妻子がないからといって、武人たるものが、憂愁を抱きましょう」
玄徳も孔明も、黙然とふかくうなずいたまま、後は多くもいわなかった。趙子龍こそ真に典型的な武人であると、後には人にも語ったことであったが、その時はわざと一片の恩賞をもって賞したに止まった。
黄忠(こうちゆう)の矢(や)
一
このところ髀肉(ひにく)の嘆(たん)にたえないのは張飛(ちようひ)であった。常に錦甲(きんこう)を身に飾って、玄徳(げんとく)や孔明(こうめい)のそばに立ち、お行儀のよい並び大名としているには適しない彼であった。
「趙雲すら桂陽城を奪って、すでに一功を立てたのに、先輩たるそれがしに、欠伸(あくび)をさせておく法はありますまい」
と、変に孔明へからんで、次の武陵城攻略には、ぜひ自分を――と暗に望んだ。
「しかし、もしご辺に、不覚があった場合は」
孔明が、わざと危ぶむが如く、念を押すと、
「軍法にかけて、この首を、今後の見せしめに献じよう」
張飛は、憤然、誓紙を書いて示した。
「さらば行け」と、玄徳は彼に兵三千をさずけた。張飛は勇躍して、武陵へ馳せ向った。
「大漢の皇叔玄徳の名と仁義は、もうこの辺まで聞えています。また張飛は、天下の虎将。――その軍に向って抗戦は無意味でしょう」
こういって、太守金旋(きんせん)をいさめたのは、城将のひとり鞏志(きようし)という者だった。
「裏切者。さては敵に内通の心を抱いているな」
金旋は怒って、鞏志の首を斬ろうとした。
人々が止めるので、その一命だけは助けてやったが、彼自身は即座に戦備をととのえて、城外二十里の外に防禦の陣を布(し)いた。
張飛の戦法はほとんど暴力一方の驀進(ばくしん)だった。しかも無策な金旋はそれに蹴ちらされて、さんざんに敗走した。
そして城中へ逃げてきたところ、楼門の上から鞏志が弓に矢をつがえて、
「城内の民衆は、みな自分の説に同和して、すでに玄徳へ降参のことにきまった」
と、呶鳴(どな)りながら、びゅうんと弦(つる)を反(そ)らした。
矢は、金旋の面にあたった。鞏志は、首を奪って、城門をひらき、張飛を迎え入れて、元来、玄徳を景慕していた由を訴えた。
張飛は、軍令を掲げて、諸民を安んじ、また鞏志に書簡を持たせて、桂陽にいる玄徳のもとへ、その報告にやった。
玄徳は、鞏志を、武陵の太守に任じ、ここに三郡一括(いつかつ)の軍事もひとまず完遂したので、荊州に留守をしている関羽(かんう)のところへもその由を報らせて、歓びをわけてやった。
すると、関羽からすぐ、返書がきて、
(張飛も趙雲も、おのおの一かどの働きをして実にうらやましく思います。せめて関羽にも、長沙(ちようさ)を攻略せよとの恩命があらば、どんなに武人として本望か知れませんが……)
などと、独り留守城にいる無聊(ぶりよう)を綿々と訴えてきた。
玄徳はすぐ、張飛を荊州へ返して、関羽と交代させた。そしてわずか五百騎の兵を貸して、
「これで長沙へ行け」と、関羽の希望にこたえた。
関羽は、もとより人数の多寡(たか)など問うていなかった。即日、長沙へ向うべく準備していると、孔明が、
「羽将軍には注意するまでもないと思うが、戦うにはまず敵の実質を知ることが肝要です。長沙の太守韓玄(かんげん)は取るにも足らん人物だが、久しく彼を扶(たす)け、よく長沙を今日まで経営して来た良将がひとりおる。その人はもう年六十に近く、髪も髯(ひげ)も真っ白になっているだろう。しかし、戦場に立てば、よく大刀を使い、鉄弓を引き、万夫不当の勇がある。すなわち湖南の領袖(りようしゆう)、黄忠(こうちゆう)という――。ゆえに決して軽々しくは戦えない。もしご辺がそれに向うなれば、さらに、三千騎をわが君に仰いで、大兵を以て当らなければ無理であろう」と告げた。
しかし、何と思ったか、関羽は孔明の忠告も、耳に聞いただけで、加勢も仰がず、たった五百騎を連れてその夜のうちに立ってしまった。
孔明は、その後で、玄徳へ対して、こう注意した。
「関羽の心裡には、まだ赤壁以来の感傷が残っています。悪くすると黄忠のために討死するやも知れません。それに小勢すぎます。わが君自ら後詰(ごづめ)して、ひそかに力を添えてやる必要がありましょう」
二
げにもと、玄徳はうなずいて、すぐ関羽のあとから一軍を率いて、長沙へ急いだ。
彼が、目的地に着いた頃、すでに長沙の城市には、煙が揚っていた。
関羽の手勢は、短兵急に外門を破り、すでに城内で市街戦を起していた。
楊齢(ようれい)というのは、長沙の太守韓玄(かんげん)の股肱(ここう)の臣で、防戦の指揮官を自分から買って出た大将だったが、この日、関羽がその楊齢を一撃に屠ってしまったので、長沙の兵は潰乱(かいらん)してたちまち城地の第二門へ逃げこんでしまった。
すると、城中からひとりの老将が、奔馬にまたがり、大刀をひっさげて出現して来た。
関羽は、ひと目見るとすぐ、
(さては、孔明が自分にいった黄忠(こうちゆう)というのは、この老将だな)と感じたので、さっと、彼の前をさえぎって、呼びかけた。
「来る者は、黄忠ではないか」
「そうじゃ。汝は、関羽よな」
「然り。――その白髪首(しらがくび)を所望に参った」
「猪口才(ちよこざい)であろう。まだ汝らのような駈出しの小僧に首を持って行かれるほど、長沙の黄忠は老いぼれてはおらぬ」
なるほど――と関羽も戦いに入ってから舌を巻いた。
彼の偃月(えんげつ)の青龍刀も、黄忠の大刀に逆らわれては、如何とも敵の体へ触れることができなかった。
この決戦は、実に堂々たる一騎打ちの演出であったとみえ、両軍とも、あまりの見事さに、固唾(かたず)をのんで見とれてしまったといわれている。しかも、なお勝負のつく色も見えなかったが、城の上からそれを眺めていた太守韓玄は秘蔵の一臣を、ここで討たれては味方の大事と心配し出して、
「退(ひ)き鉦(がね)を打て、黄忠を退(ひ)かせろ」と、高矢倉から叫び出した。
たちまち耳を打つ退き鉦の音に黄忠は、ぱっと馬をかえした。そして急速度に城中へ駈けこむ兵にまじって、彼の馬もその影を没しかけた。
「好敵、待ち給え」
関羽は、追撃して、執拗(しつよう)に敵へ喰い下がった。ぜひなく、黄忠もまた馬をめぐらして二、三十合斬りむすんだが、隙を見て、濠(ほり)の橋を渡り越えた。
「卑怯なり。名ある武将のする業か」と辱(はずかし)めながら、関羽の馬蹄は、なお橋を踏み鳴らして、しかも今度は、前よりも近く、黄忠の姿を、偃月刀の下に見おろしたのであった。
けれど、関羽は、折角、振りかぶった大青龍刀を、なぜか、敵の頭に下さなかった。
そして、
「あら無残。早々、馬を乗り代えて、快(こころよ)く勝負を決せられよ」といった。
黄忠は、馬と一緒に、地上に転んでいたのである。何かにつまずいて彼の乗馬が前脚を挫(くじ)き折ってしまったためだった。
しかし、乗り代える馬もないので黄忠は味方の歩兵にまじって、危うくも、城壁の内へ駈けこんだ。この間にも、追えば追いつけるものを、関羽は彼方へ引っ返してしまった。
太守韓玄は、冷や汗をながしていたらしく、黄忠を見ると、すぐいった。
「きょうの不覚は、馬の不覚。汝の弓は、百度放って、百度あたる。明日は、関羽を橋のあたりまでおびき寄せ、手練の矢をもって、彼奴(きやつ)を射止めて見せてくれ」
と励まし、自分の乗馬の蘆毛(あしげ)を与えた。
夜が明けると、関羽はまた、手勢わずか五百ばかりだが、勇敢に城下へ迫って来た。
黄忠は、きょうも陣頭に姿をあらわし、関羽と激闘を交えたが、やがて昨日のように逃げ出した。そして橋の辺まで来ると、振りかえって弓の弦(つる)をぶんと鳴らした。関羽は身をすぼめたが、矢はこなかった。
橋を越えると、黄忠はまた、弓を引きしぼった。しかし今度も、弦は空鳴りしただけだった。
ところが、三度目には、ひょうッと矢うなりがして、まさしく一本の矢が飛んできた。そしてその矢は、関羽の〓(かぶと)の纓(お)を、ぷつんと、見事に射止めていた。
三
関羽も胆(きも)を寒うした。黄忠(こうちゆう)の弓術は、いにしえの養由(ようゆう)が、百歩をへだてて柳の葉を射たという――それにも勝るものだと思った。
「さては、きのうのわが情けを、今日の矢で返したものか」
そうさとったので、関羽は、なおさら舌をふるって、その日は兵を退(さ)げてしまった。
一方の黄忠は、城中へもどるとすぐ、太守韓玄(かんげん)の前へ理不尽に引っ立てられていた。
韓玄はもってのほかの立腹だ。声を励まして、黄忠を罵り辱めた。
「城主たるわしに眼がないと思っているのか。三日の間、わしは高櫓(たかやぐら)から合戦を見ていたのだぞ。然るに、きょうの戦は何事だ。射れば関羽を射止め得たのに、汝は、弓の弦(つる)ばかり鳴らして、射たと見せかけ、故意に助けたのではないか。言語道断。察するところ、敵と内通しているにちがいない。恩知らずめ。その弓は、やがて主へ向って引こうとするのだろう」
「ああ、ご主君!」
黄忠は、涙をたれながら、なにか絶叫した――。早口に、その理由を、云い開こうとしたのである。
だが、耳をかす韓玄ではなかった。即刻、刑場へ曳き出して斬れとどなる。諸将が見かねて、哀訴嘆願をこころみたが、
「うるさいっ。やかましい。諫(いさ)めるものは同罪だぞ」と、いう始末。
長沙の名将黄将軍も、今は刑場の鬼と化すかと、刑にあたる武士や吏員までがかなしんでいたが、たちまち、その執行直前に、周囲の柵を蹴破って、躍りこんで来た壮士がある。
この人、面は丹(に)で塗った棗(なつめ)の如く、目は朗らかにして巨きな星に似ていた。生れは義陽。魏延(ぎえん)、字(あざな)は文長(ぶんちよう)という。
もと荊州の劉表(りゆうひよう)に仕え、一方の旗頭(はたがしら)に推されていたが、荊州没落の後、長沙に身を寄せていたものである。
しかし、日頃から韓玄は、彼の偉材を、かえって忌み嫌い、むしろ他国へ逐(お)いやってしまいたいような扱いをしていたので、魏延はひそかに、今日の機会を、待っていたものと思われる。
「あれよ」と、人々のさわぐまに、彼は、黄忠の身を攫(さら)って、刑場から脱してしまった。それからわずか半刻の後には、自分の部下を引き具して、城中の奥へ駈け入り、太守韓玄の首を斬って、関羽の陣門へ降っていた。
「さらば、疾(と)く」
と、関羽は一挙に長沙の城へ入って、城頭に勝旗をかかげ、城下一円に軍政の令を布(し)いた。
「黄忠は、どうしているか」
その後ですぐ訊ねると、魏延は、
「それがしが韓玄を斬るべく奥へ向った時、眼をふさぎ耳を抑えて、自分の邸へ駈けこんで行きました」
「戦は熄(や)んだ。では、迎えをやろう」
と、再三、関羽から使いを出したが、黄忠は病に托して出てこない。
かかるうちに玄徳は、関羽の早馬をうけて、
「さすがは」と、彼の功を賞しながら、孔明と馬をならべて、長沙の市門へ急いでいた。
その途中、先頭に立てていた青い軍旗の上に、一羽の鴉(からす)が舞い下がって啼くこと三度、北から南の空へ飛び去った。
「先生。何か凶兆ではないでしょうか」と、孔明に訊くと、
「いや、吉兆です」と、孔明は、衣の下で何か指をくりながら、卜(うらない)をたてて答えた。
「これは、長沙の陥落と共に、良将を獲たことを祝福して、鴉が天告(てんこく)をもたらして来たものです。かならず何かいい事がありましょう」
果たせるかな、玄徳は、黄忠、魏延のことを、間もなく、出迎えの関羽から聞いた。
「――病に托して門を出ないのは、黄忠の旧主にたいする忠誠にほかならない。自分が行って迎えてこよう」
と、玄徳は、直ちに駕を命じて、黄忠の閉ざせる門を訪れた。その礼に感じて、ついに黄忠も、私邸の門をひらいて降参し、同時に、旧主韓玄の屍(かばね)を乞うて、城の東へ手あつく葬った。
四
玄徳は、即日、法三章を掲げて、広く新領土の民へ布告した。
一、不忠不孝の者斬る
一、盗む者斬る
一、姦(かん)する者斬る
また、功ある者を賞し、罪ある者を罰して、政(まつりごと)を明らかにした。
関羽がひとりの壮士を携えて出頭したのは、そうした繁忙の中であった。
「だれだ、その者は」
玄徳がたずねると、関羽は、自分の傍らに拝跪礼(はいきれい)をとっている男へ向って、
「劉皇叔(りゆうこうしゆく)でいらせられる。ご挨拶を申し上げなさい」と、いった。
男は、叉手(さしゆ)の礼をしたまま、黙然と面をあげた。朱面黒眉(こくび)唇(くち)大きく鼻(はな)秀(ひい)で、容貌見るべきものがある。
「これはかねて、お耳に入れておいた魏延(ぎえん)です。善政の初めに、魏延の功にも、ご一言なりと下し給わらば有難うぞんじまする」
関羽のことばに、玄徳は、おおと膝を打って、
「黄忠(こうちゆう)を救い、真っ先に長沙の城門を開いた勇士魏延か。さすがに名ある武者の骨柄も見ゆる。賞せずにおこうや」と、まず敬(うやま)って、階(きざはし)の上に請じようとすると、突如、
「不義士っ。階(かい)を汚すなかれ!」
勃然と叱った者がある。
あっと驚いて、その人を見ると、孔明だった。孔明はまた玄徳へ向って直言した。
「魏延に賞を賜うなど以てのほかです。彼、もとより韓玄(げんかん)とは、何の仇あるに非ず。かえって、一日でもその禄(ろく)を食(は)み、かりそめにも、主君とたのみ、仰いでいた人です。それを、一朝の変に際し、たちまち殺してご麾下(きか)に馳せ参ず。――これ味方にとっては大幸といえますが、天下の法を道に照らしては、免(ゆる)し難き不忠不義です。君いまこの不仁の徒を見給い、これを斬って諸人に示すほどなご公明がなければ、新領土の民も服しますまい」
孔明は、武士を呼んで、即座に魏延を斬れと命じた。
玄徳は、明らかに、その決断を欠いた。いやかえって、孔明の命をさえぎって、
「待て、待て」
と、武士たちを制し、孔明をなだめて、魏延のために、命乞いをすらしたのである。
「味方に功を寄せ、また降順をちかい、折角、わが麾下へひざまずいて来た者を、たちまち、罪をかぞえて斬りなどしたら、以後、玄徳の陣門に降を乞う者はなくなるだろう。魏延はもと荊州の士、荊州の征旗を見て帰参したのは、決して不義ではない。韓玄に一日の禄をたのんだといえ、韓玄も実心をもって彼を召抱えたわけでもなく、魏延もそれに臣節を以て仕えたわけではなかろう。彼の心はもとから荊州へ復帰したい念願であったにちがいない。いかなる人間でも落度をかぞえれば罪の名を附すことができる。どうか一命は助けてとらすように」
玄徳の弁護は、まるで骨肉をかばうようだった。孔明は、沈黙してしまったが、なおそれを免(ゆる)すにしても、こう彼自身の信念を注意しておくことを忘れなかった。
「露骨にいいますと、今、私が魏延の相を観るに、後脳部に叛骨が隆起しています。これ謀叛人(むほんにん)によくある相であります。ですから、いま小功を挙げて、これを味方にするも、後々、かならず叛くに違いありません。むしろ今、誅(ちゆう)を加えて、禍いの根を断ったほうがよろしいかと存じたのでありますが、わが君がそれほどまで、ご不愍(ふびん)をおかけ遊ばすものを、孔明とて、如何とも致し方はありません」
「……魏延、聞いたか。かならず今日のことを忘れずに、異心を慎めよ」
玄徳にやさしく諭(さと)されて、魏延はただ感泣に咽(む)せていた。
玄徳はまた、劉表(りゆうひよう)の甥の劉磐(りゆうはん)という者が、荊州滅亡の後、野に隠れていることを黄忠から耳にして、わざわざこれを捜し求め、すなわち長沙の太守として、少しも惜しむところがなかった。
針(はり) 鼠(ねずみ)
一
ほどなく玄徳(げんとく)は、荊州(けいしゆう)へ引揚げた。
中漢九郡のうち、すでに四郡は彼の手に収められた。ここに玄徳の地盤はまだ狭小ながら初めて一礎石を据えたものといっていい。
魏(ぎ)の夏侯惇(かこうじゆん)は、襄陽から追い落されて、樊城(はんじよう)へ引籠った。
彼についてそこへ行かずに、身を転じて、玄徳の勢力に附属して来る者も多かった。
玄徳はまた北岸の要地油江口を公安と改めて、一城を築き、ここに軍需品や金銀を貯えて、北面魏をうかがい、南面呉にそなえた。風(ふう)を慕って、たちまち、商賈(しようこ)や漁夫の家が市をなし、また四方から賢士剣客の集まって来るもの日をおうて殖(ふ)えていた。
一方。
呉の主力は、呉侯孫権(そんけん)の直属として、赤壁の大勝後は、その余勢をもって、合〓(がつぴ)の城(安徽省(あんきしよう)・肥)を攻めていた。
ここの守りには魏の張遼(ちようりよう)がたてこもっていた。さきに曹操(そうそう)が都へ帰るに当って、特に、張遼へ託して行った重要地の一つである。
赤壁に大捷(たいしよう)した呉軍も、合〓を攻めにかかってからは、いっこう振わなかった。
それもそのはず張遼の副将にはなお李典(りてん)、楽進(がくしん)という魏でも有名な猛将が城兵を督していたのである。寄手は連攻連襲をこころみたが、不落の合〓に当り疲れて城外五十里を遠巻きにし、
「そのうちに食糧がなくなるだろう」と空だのみに恃(たの)んでいた。
ところへ、魯粛(ろしゆく)が来た。
孫権が、馬を下りて、陣門に出迎えたので、
「粛公は大へんな敬いをうけたものだ」と、諸兵みな驚いた。
営中に入ると、孫権は、魯粛に向って、意識的にいった。
「きょうは特に馬を下りて出迎えの礼をとった。この好遇は、いささか足下のなした赤壁の大功を顕(あらわ)すに足りたろうか」
魯粛は、首を振った。
「いうに足りません。その程度の表彰では」
孫権は、眼をみはって、
「では、どれ程に優遇したら、そちの功を顕すに足りるというのか」
「さればです」と、魯粛がいった。
「わが君が、一日も早く、九州のことごとくを統(す)べ治めて、呉の帝業を万代(ばんだい)にし給い、そのとき安車蒲輪(あんしやほりん)をもって、それがしをお迎え下されたら、魯粛の本望も初めて成れりというものでしょう」
「そうか。いかにも!」
二人は手を打って、快笑した。
けれど魯粛はその後で、せっかく上機嫌な呉侯に、ちといやな報告もしなければならなかった。
それは、周瑜(しゆうゆ)が金創(きんそう)の重態で仆れたことと、荊州、襄陽、南郡の三要地を、玄徳に取られたことの二つだった。
「ふふむ……周瑜の容態は、再起もおぼつかない程か」
「いや、豪気な都督のことですから、間もなく、以前のお元気で恢復されることとは思いますが……」
話しているところへ、今、合〓の城中から一書が来ましたと、一人の大将が、うやうやしく、呉侯の前に書簡をおいて行った。ひらいてみると、張遼からの決戦状であった。
呉の大軍は蠅(はえ)か蛾(が)か。いったいこの城を取巻いて、何を求めているのであるか。
文辞は無礼を極め、甚だしく呉侯を辱(はずかし)めたものだった。孫権は、赫怒して、
「よしっ、その分ならば、わが真面目(しんめんぼく)を見せてくれよう」
と、翌早朝に陣門をひらいて、甲鎧燦爛(こうがいさんらん)と、自身先に立って旭(あさひ)の下を打って出た。
城からも、張遼をまん中に、李典、楽進など主なる武者は、総出となって押しよせて来た。
「呉侯、見参っ」
と、張遼は一本槍に、その巨物(おおもの)を目がけて行った。すると、馬蹄に土を飛ばして、
「下司(げす)っ、ひかえろ」
と、一大喝(だいかつ)しながら立ちふさがった者がある。呉の大将太史慈(たいしじ)であった。
二
呉の太史慈(たいしじ)といえばその名はかくれないものだった。呉祖孫堅(そんけん)以来仕えてきた譜代の大将であり、しかも武勇はまだ少しも老いを見せていない。
魏の張遼(ちようりよう)とはけだし好敵手といってよかろう。双方、長鎗を交えて烈戦八十余合に及んだが、勝負は容易につかなかった。
この間隙に、楽進(がくしん)、李典(りてん)のふたりは、大音をあげて、
「あれあれ、あれに黄金の〓(かぶと)をいただいたる者こそ、呉侯孫権(そんけん)にまぎれもない。もしあの首一つ取れば、赤壁で討たれた味方八十三万人の仇を報ずるにも足るぞ。励めや、者ども」
と下知して、自分たちもまっしぐらに喚(おめ)きかかった。
孫権の身は、今や危うかった。電光一撃、李典の鎗が迫った時である。
「さはさせじ!」と、敢然横合いからぶつかって行った者がある。これなん呉の宋謙(そうけん)。
それと見て、楽進が、
「邪魔なっ」
と、間近から、鉄弓を射た。矢は宋謙の胸板を射抜く。どうっと、宋謙が落ちる。とたんに、砂煙を後に、孫権は逃げ走っていた。
張遼と太史慈とは、まだ火をちらして戦っていたが、この中軍の崩れから、敵味方の怒濤に押され、ついにそのまま、引き分れてしまった。
孫権は逃げる途中、なお幾度か危機にさらされたが、程普(ていふ)に救われて、ようやく無事なるを得た。
しかし、この日の敗戦が彼の心に大きな痛手を与えたことは争えない。帰陣の後、涙をながして、
「宋謙を失ったか」と、痛哀(つうあい)してやまなかった。
長史張紘(ちようこう)は、よい時と考えて、
「こういう失敗は、良き教訓です。君はいま御年も壮(さかん)なために、ともすれば血気強暴にはやり給い、呉の諸君は、為にみな、しばしば、心を寒うしています。どうか匹夫(ひつぷ)の勇は抑えて、王覇(おうは)の大計にお心を用いて下さい」
と、諫めた。
孫権も、理に服して、
「以後は慎む」と、打ちしおれていたが、翌日、太史慈が来てこういうことを耳に入れた。
「それがしの部下に、戈定(かてい)という者がいます。これが張遼の馬飼(うまかい)と兄弟なのです。依って、密かに款(かん)を通じ、城中から火の手をあげて、張遼の首を取ってみせんといっております。で、それがしに今宵五千騎をおかし下さい。宋謙が仇を取ってみせましょう」
孫権は、たちまち心をうごかして、
「その戈定(かてい)はどこにいるのか」と、たずねた。
太史慈は答えて、
「もう城中にいるのです。昨日の合戦に、敵勢の中にまぎれて、難なく城中に入りこんでいるわけで」
「では首尾はよいな」
「大丈夫です。こんどこそは」
太史慈は自信にみちていった。
孫権がこれを以て、昨日の敗辱をそそぐには好機おくべからざるものと乗り気になったことはいうまでもない。
馬飼というのは、いわゆる馬廻り役の小者であろう。張遼の馬飼と、太史慈の部下戈定とは、その晩、城中の人なき暗がりでささやき合っていた。
「ぬかるな。……丑(うし)の刻(こく)だぞ」
「心得た。おれが、馬糧(まぐさ)小屋(ごや)をはじめ諸所へ火をつけて廻るから、おめえは、謀叛人(むほんにん)だ、裏切者だ、と呶鳴ってまわれ」
「よしよし。おれも一緒になって火をつけながら、呶鳴りちらす」
「火の手と共に、城外から太史慈様が攻めこむことになっている。どさくさまぎれに、西門を内から開くことも忘れるなよ」
「合点合点。忘れるものか。一代の出世の鍵は今夜にありだ」
「……しっ。誰か来た」
ふたりは人の跫音(あしおと)に、あわてて左右にわかれてしまった。
三
守将の張遼(ちようりよう)は、きのうの城外戦で、大きな戦果をあげたにもかかわらず、まだ部下に恩賞も頒(わか)たず、自分も甲(よろい)の緒すら解いていなかった。
多少、不平の気を帯びた副将や部将たちは、暗に、彼の小心を嗤(わら)った。
「敵はきのうの大敗で、すでに遠く陣地を退(さ)げてしまったのに、遼将軍にはなぜいつまで、甲も解かず、兵に休息もさせないのですか」
張遼は、答えた。
「勝ったのは、昨日のことで、今日はまだ勝っていない。明日のこともまだ勝っていない。いわんや全面的な勝敗はまだまだ先が知れん。およそ将たるものは、一勝一敗にいちいち喜憂したりするものではない。こよいはことに夜廻りをきびしくし、すべて、物具(もののぐ)を解かず、昼夜四交代の制をそのまま、かりそめにも防備の気をゆるませぬように励まれよ」
すると果たしてその夜の深更に至って、妙に城中がざわめき出したと思うと、
「謀叛人があるぞっ」
「裏切者だ、裏切者だ」と、いう声が聞え出した。
張遼には、狼狽はなかった。すぐ寝所から出て城中を見廻った。もうもうと何か煙っている。諸所にぼうと赤い火光も見える。
「おう、将軍ですか」
楽進(がくしん)がそこへ駈けつけて来た。眼色を変えて、次にいった。
「城中に謀叛人が起ったようです。軽々しく外へお出にならんほうがよろしい」
「楽進か。何をあわてているのだ大丈夫、あわてるな」
「でも、あの喊声(かんせい)、あの火の手、由々しき騒動です」
「いやいや、わしは最初から眼を醒(さ)ましていたからよく聞いていた。裏切者と呶鳴る声も、出火だ、謀叛人だと告げ廻っている声も、ふた色ぐらいな声でしかない。おそらく、一両人の者が城中を攪乱(こうらん)するためにやった仕事だろう。それに乗せられて混乱する味方自身のほうがはるかに危険だ。――足下はすぐ城兵を取鎮めに行け。みだりに騒ぐ者は斬るぞと触れまわれ」
楽進が去ると間もなく、李典(りてん)が二人の男を縛って連れてきた。城中攪乱を目論(もくろ)んでたちまち看破されてしまった張本人の戈定(かてい)と馬飼の小者だった。
「こやつか。斬れっ」
二つの首は、無造作に斬って捨てられた。――とも知らず、かねてその二人としめし合わせのあった寄手の一軍と、その首将太史慈(たいしじ)は、
「しめた。火の手は上がった!」とばかり、城門へ殺到した。
とっさに、この事あるをさとった張遼は、城兵を用いて、わざと、
「謀叛人があるぞ」
「裏切者だぞ」と、諸方で連呼させながら、西の一門を、故意に内から開かせた。
「――すわや」と、太史慈はよろこび勇んで、手勢の先頭に立って壕橋(ほりばし)を駈け渡り、西門の中へどっと喚(おめ)き込んだ。とたんに、一発の鉄砲が、轟然と四壁や石垣をゆるがしたと思うと、城の矢倉の陰や剣塀(つるぎべい)の上から、まるで滝のように矢が降りそそいで来た。
「あっ! しまった」
太史慈は、急に引返したが、一瞬のまに射立てられた矢は全身に刺さってまるで針鼠のようになっていた。
李典、楽進の輩(ともがら)は、この図にのって城中から大反撃に出た。ために、呉軍は大損害をこうむり、逆に、攻囲の陣を払って、南徐(なんじよ)の潤州(じゆんしゆう)(江蘇省・鎮江市)あたりまで敗退するのやむなきに至ってしまった。
しかもまた、譜代の大将太史慈をも遂にこの陣で失ってしまった。死に臨んで太史慈はこう叫んで逝(い)ったという。
「大丈夫たるもの、三尺の剣を帯びて、この中道に仆る。残念、いうばかりもない。しかし四十一年の生涯、呉祖以来三代の君に会うて、また会心なことがないでもなかった。ああ、しかしなかなか心残りは多い」
柳眉(りゆうび)剣簪(けんさん)
一
その後、玄徳(げんとく)の身辺に、一つの異変が生じた。それは、劉〓君(りゆうきくん)の死であった。
故(こ)劉表(りゆうひよう)の嫡子(ちやくし)として、玄徳はあくまで〓君を立ててきたが、生来多病の劉〓は、ついに襄陽(じようよう)城中でまだ若いのに長逝した。
孔明(こうめい)はその葬儀委員長の任を済まして、荊州(けいしゆう)へ帰ってくると、すぐ玄徳へ求めた。
「〓君の代りに、誰か、直ちに彼処の守りにおつかわし下さい」
「誰がよいか」
「やはり関羽(かんう)でしょうな」
孔明も心では、何といっても、関羽の人物を認めていた。
劉〓の死後、玄徳の胸には、一つの不安が醸(かも)されていた。呉の孫権(そんけん)が待っていたとばかりに、荊州を返せといってくるにちがいないことである。
「それはやがて必ずいってくることでしょうな。〓君が死んだら荊州を返すと先に約束したことですから……が、ご心配には及びません。そのときは孔明がよろしきように応対します」
孔明がそう慰めていると、それから二十日ばかり後、果たして、
「〓君の喪(も)を弔(とむら)うため、呉侯孫権のご名代に――」と称して、魯粛(ろしゆく)が使いに来た。
魯粛は、城中の祭堂に、呉侯からの礼物を供え、悔みを述べた後、玄徳が設けの酒宴に迎えられて、四方山(よもやま)のはなしに時を移していたが、やがてこう切り出した。
「赤壁(せきへき)の大戦の後、わが呉侯から荊州の地を接収に参ったとき、劉皇叔には、〓君の世にあるかぎりは荊州は故劉表の遺子のものであると仰せられた。いまはその〓君も世を去ったことゆえ、もうこの荊州は、呉へお返しあるべきでしょう。――実は、弔慰(ちようい)をかねて、そのことも取りきめて参れと、主君から申しつけられて来たわけですが」
「いや、そのことは、いずれまたあらためて、談合しましょう」
「またとは、いつですか」
「まあ、ここは宴席ですから、国事は」
「後でもおよろしいが、かならず前約を違(たが)え給わぬように」
そう魯粛がしつこく念を押していると、突如、孔明がかたわらから言葉に気概をこめて云った。
「粛公、あなただけは、呉の群臣の中でも、物の分ったお人かと思っていたら、今の仰せでは、あまりにも世の本義と事理に没常識すぎるではないか。主君玄徳は、貴方を弔問(ちようもん)の賓客として、懇(ねんご)ろにもてなそうとしているのに、露(あらわ)にいうを避けておいで遊ばすゆえ、私が代って一応の道理を申しのべよう。心をしずめてよく聞き給え」
面色をあらためて孔明がそう云い出したので、魯粛は、気をのまれたのか、茫然、その顔を見まもっていた。
「天下は一人の天下にあらず、すなわち天下の人の天下である。高祖、三尺の剣をひっさげて、義を宇内(うだい)に唱え、仁を布き、四百余年の基(もとい)を建てられしも、末世現代にいたり、中央は逆臣の府、地方は乱賊の巣と化し、紊(みだ)れに紊れ、百姓の塗炭は連年歇(や)まざる状態にある。時に、わが君劉玄徳には、その血液に漢室の正脈をつたえ、その義においては、救世の実を天地に誓う。すなわち中山靖王(ちゆうざんせいおう)の後裔(こうえい)におわし、現皇帝の皇叔にあたられる。いわんや、荊州の故主劉表とは、血縁の間柄にて、わが君の義兄(このかみ)たり、いまその血統絶え、荊州に主なきにあたって、義弟(おとと)とし義兄(このかみ)の業を承け継ぐに、何の不義、何の不可とする理由があろう。――ひるがえって、呉侯孫権の素姓をたずぬれば、もとこれ銭塘(せんとう)の小吏の子たるに過ぎず、なんら朝廷に功もなく、ただ呉祖の暴勇に依って、江東六郡八十一州を横奪し得たるにとどまる――。今、孫権その遺産をうけて、何の能もなきに、さらに、慾心を驕(おご)り、荊州をも呑まんとするは、身のほど知らずも甚だしい。思え、君臣の統を論ずるなら、わが君の姓は劉、汝の主人の姓は孫、大漢は劉氏(りゆうし)の天下たるを知らないか。よろしく百歩の田地をわが君に乞うて、身を農夫と卑下(へりくだ)るのが孫権の安全な途というものである。――さらに、赤壁の大捷(たいしよう)が誰の功によるか、という問題になれば、なお大いに議論があるが、それはいわぬことにする。敢て、ここではいわぬことにしておく」
二
弁は水の流るる如く、理は炎の烈々たるに似ている。
その真理と雄弁のまえには、魯粛(ろしゆく)もさしうつ向いてしまうしかなかった。
――が、彼は恨むがごとく、孔明に答えた。
「公論明白、そう仰っしゃられては、何の抗弁もありません。しかし、それでは先生も、あまりに利己主義だといわれても仕方がありますまい」
「なぜ、私が、利己主義か」
「思い給え」と、こんどは魯粛が攻勢になって――「その以前、劉皇叔が曹操(そうそう)のため大敗をこうむって、当陽にやぶれ果てた後、先生を一帆(いつぱん)に乗せて呉の国へともない、切に、わが主孫権を説き、周瑜(しゆうゆ)をうごかして、当時まだ保守的であった呉をして遂に全面的な出兵を見るに至らしめたのはいったい誰でしたろうか」
「それは云うまでもなくあなただ」
「その魯粛は、今日、ここに至って、主君には面目を失い、軍部には不信を問われ、おめおめ国へ帰ることもできぬ窮地におちています。先生には、私の立場には、何の同情もお持ちにならないとみえる」
「…………」
魯粛の温厚なる抗議には、孔明もやや気の毒を覚えたらしい。しばらく考えこんでいたが、やがて新たにこう提議した。
「では、あなたの面目をたてて、荊州はしばらくわが劉皇叔がお預りしているということにしよう。後日、どこか適当な領地を攻略したら、その時、荊州は呉へ開け渡すということにして、証書を入れたら、あなたも主君にお顔が立つであろう」
「どこの国を取って荊州をお返し下さるというのですか」
「中国はすでに、どこへ向っても、魏か呉かに接触する。ひそかに図るに、長江千里の流れ起るところ、西北の奥域(おくいき)、蜀(しよく)の天地は、まだ時代の外におかれているといっていい」
「では、蜀の国を取らんとお望みになっておられるので」
「然り。蜀を得たあかつきには、荊州をお返しするであろう」
孔明は、紙筆を取寄せて、玄徳にそれを進め促した。玄徳は黙々、呉侯への国際証書をしたためて、印章を加え、
「これでよいのか」と、孔明へ内示した。
孔明もまた筆をとって、保証人として連署した。だが、君臣一家の連帯では、公約にならないから、あなたもこれに名字をのせたがいいと求められて、魯粛も遂に妥協するほかなかった。
魯粛は、この一札(さつ)を持って、呉へ帰った。途中、柴桑(さいそう)へ寄って、周瑜(しゆうゆ)の病状を見舞いがてら、逐一(ちくいち)物語ると、
「ああ、また貴公は、孔明に出し抜かれたのか、何たるお人好しだ。孔明は狡猾の徒、玄徳は奸雄。こんな証文が何になろう。おそらくそのまま呉侯に復命されたら、たちどころに、貴公の首はあるまい。いや、罪九族にも及ぶだろう」と、痛嘆した。
そういわれてみると、呉侯孫権の怒り方が眼に見えてくる。魯粛もその点は甚だ心許(こころもと)なかったのである。――が、今となっては、どうしようもない。途方に暮れるばかりだった。
周瑜も、腹を立てたが、心では魯粛のお人好しに、充分、同情を抱いた。それに彼は、むかし困窮していた頃、魯粛の田舎の家から糧米三千石を借りて助けられたことがある。――それを思い出したので、共に、腕をこまぬいて、
(どうしたらいいか?)と、懸命に思案した。
ふと、周瑜のあたまに浮んだのは、主君孫権の妹にあたる弓腰姫(きゆうようき)であった。――佳人(かじん)年はまだ十六、七。
弓腰姫というのは、臣下がつけた綽名(あだな)である。深窓の姫君でありながら、この呉妹(ごまい)は、生れつき剛毅(ごうき)で、武芸をこのみ、脂粉(しふん)霓裳(げいしよう)の粧いも凜々(りんりん)として、剣の簪(かんざし)をむすび、腰にはつねに小弓を佩(は)き、その腰元たちもみな薙刀(なぎなた)を持って室に侍(じ)しているというまことに一風変った女性であった。
三
急に、周瑜(しゆうゆ)は声を落して、魯粛(ろしゆく)に教えた。
「貴公は、呉侯のお妹君に、謁(えつ)したことがありはしないか」
「一、二度、お目通りしましたが」
「あの姫を、玄徳へ、嫁がすように、ひとつここで貴公は、その婚縁の媒人(なかだち)に、骨を折ってみられるがよい。――これは貴公の失敗を償(つぐな)い、また荊州を取りかえすに、絶好な妙策であり、今がそのまたなき機会だ」
「えっ。……呉侯の御妹君を玄徳へですって?」
鸚鵡(おうむ)がえしに呟きながら、魯粛は、唖然たる顔つきを示した。
周瑜は、笑って、
「いや、わしの云い方が唐突だから、貴公はびっくりしたかも知れんが、何もこれは決して、突飛な思いつきではない。きわめて合理的に相談(はなし)は運んで行けると思う」
「どうしてですか。玄徳には正室の甘(かん)夫人があるのに、まさか呉侯のお妹君を、彼の側室へなどと……第一そんな縁談を呉侯のお耳へ入れることだってはばかられるではありませんか」
「いやいやそうではない。貴公はまだ知らんのだ。玄徳の正室甘夫人は、病に斃れてなくなっている。赤壁の戦やらその後の転戦で、葬儀も延ばしていたが、間者の報らせでは、荊州城には白い弔旗(ちようき)を掲げていたということだ」
「それは、劉〓(りゆうき)の死を悼(いた)んでいたのではありませんか」
「ちょうど、劉〓の死とつづいたので、そう思っている者もあるらしいが、わしが聞いたのは、その以前だ。まだ劉〓も死なぬうちに、荊州の城外に新しい墳墓を築いていたというから、よもや劉〓の葬儀ではないだろう」
「それは少しも知りませんでした。では今、玄徳に正室はないわけですか、それにしてもすでに彼は五十歳です。一方、妙齢の呉妹君(ごまいくん)はお十六かお十七でしょう。……どんなものでしょうな、この花嫁花婿の縁むすびは」
「どうも貴公は、何事もすぐそのまま、真正直に考えるので融通(ゆうずう)がきかん。もとよりこの婚儀は初めから謀略にきまっている。さきに玄徳は孔明を用いて呉を謀(はか)ったから、こんどは此方から計を酬(むく)うてくれるのだ。すなわち、そういう斡旋に物馴れた人物をもって、この際、呉国との友好を、より以上親密にせんという理由を表面に立てて、同時に呉妹君との縁談を運ばせるにある」
「さあ? どうでしょうか」
「何を不安な顔して喞(かこ)たるるか」
「誰よりも、呉侯がご承知にならないでしょう。非常に可愛がっているお妹ですからな」
「だから何も、婚儀は取りむすんでも、輿入(こしい)れまでなさるには及ばんさ。式典は呉で挙げればいい。婚儀の挙式がすんだら荊州へおつれなさいというわけだ。玄徳に否やはあるまい。要するに、彼を呉へ招いて、花嫁の顔を見せただけで済む。いずれ挙式の前後に、機を計って、刺し殺してしまうのだから」
「ははあ。するとつまり彼を殺害するために、婚儀を行うわけですな」
「もちろん、その目的もなく、何でこんな縁談が云い出せるものか」
「それにしても、それがしから呉侯へおすすめ申すのは、どうも少しまずいと思いますが」
「よろしい。貴公はただ側面から、それとなく主君の御意(ぎよい)をうごかし給え。仔細のことや此方の謀略は、べつに詳しくしたためて、この周瑜から呉侯へ手紙を書くから」
「いや、そう願えれば、非常に助かります」
魯粛は、彼の書簡を預かって、それを力に呉都へ帰った。そして早速、呉侯孫権にまみえ、ありのままを復命し、また帰路、周瑜から預かって来た手紙も共に差出した。
四
はじめに、玄徳の証文を見たときは、案のじょう、孫権(そんけん)は苦(にが)りきって、たちまち、魯粛(ろしゆく)の上へ大鉄槌でも下しそうだったが――次に周瑜(しゆうゆ)からの書簡をひらいて一読し終ると、
「ウーム、なるほど、周瑜の考えは至極妙だ。これこそ天来の鬼謀というものだろう」
と、しばらく、熟慮にふけり、やがて魯粛には、最初の気色とは打って変って、
「ご苦労だった。長途の旅、疲れたろう。きょうはまず休息せい」と、ねぎらった。
数日の後、また召された。こんどは重臣呂範(りよはん)も同席だった。孫権を中心に、周瑜の献策が密々協議されたことはいうまでもない。
その結果、呂範が、荊州へ使いに行くことにきまった。もちろん表面は呉の修交使節としてであるが、目的は例の呉妹君(ごまいくん)の婚縁にある。
荊州に着いて、玄徳に会うと、呂範はまず両国友好の緊密を力説してから、おもむろに縁談をもちかけた。
「実は、皇叔(こうしゆく)の夫人甘氏には、疾(と)く逝去(みまか)られて、今ではお独りとのご事情をうけたまわり、ちと差出がましいが、媒人(なかだち)の労をとらしていただきたいと思うてこれへ来たわけです。どうです、子孫のため、ふたつの国家のため、若いご正室をおむかえになられては」
「ご親切は感謝します。仰せのとおり妻を亡(うしの)うて、玄徳はいま家庭的には孤独ですが、さりとて、妻とわかれてから、肉まだ冷やかというほどの月日も経っていないうちに、どうして後添えなど持つ気になれましょう。正直、まだ望んでもおりません」
「それはそうでしょうが、家庭に妻のないのは、家屋に梁(うつばり)がないようなものです。皇叔のご前途はなお洋々たるものですのに、何故、一家の事を中道に塞(とざ)して、人倫を廃さるるのです。――私がおすすめ申したいのは、わが主呉侯のお妹君で、媒人(なこうど)口(ぐち)ではありません、必ず徳操才色ふたつながら兼備した佳人とはあのお方と存じます。もし皇叔にして、娶(めと)ってもいいというお心ならば、すみやかに呉の国へお出で下さい。孫権は歓んでお迎えしましょうし、われわれ侍側の者も、挙(こぞ)って、両国の平和のため、この実現に対して、どんな労でも取りますから」
「…………」
玄徳はしばらく黙考していたが、やがてこう訊ねた。
「そのことは、あなた一箇のお考えですか。それとも周瑜あたりから云い出されたことですか。もしくはまた、呉侯のご内意でもあるか……」
「内々、呉侯の御命がなくて、どうして私一箇の思案などから、かような大事をおすすめできましょう。ただ素気(すげ)ないお断りでもうけると、呉妹君のお名にもさわることですから、それで実はそっと、ご意向をうかがってみるわけですが」
「……いや、そうでしたか。希(ねご)うてもない良縁ではありますが、玄徳も大丈夫を以て任じてはいるものの、年すでに五十、ご覧のごとく、鬢髪(びんぱつ)にはやや白いものを呈しておる。聞説(きくならく)、呉侯のお妹は、なお妙齢佳春の人という。私とは余りにふさわしくない配偶ではありませんか」
「いや、いや」
呂範は大きく手を振った。
「年の近いとか少ないとか、そんな数合わせみたいな問題ではありませんよ。これは結婚です。しかも二つの国の平和に関わる問題です。呉侯も実に大事をとっておられ、母公のお案じも、呉妹君のお望みも、一通りなものでないことは、くどくど申すまでもありません。……まげてもひとつ、皇叔のご来遊を願って、この祝い事を成功させたい所以(ゆえん)は、誰よりも呉妹君に実はご希望があるわけなのです。……というのは、あのお妹君は、女性におわしながら、志は男子より高く、日頃より、天下の英雄にあらずんばわが夫(つま)とはせじ――と仰っしゃっている程ですから、以てお察しがつきましょう。いま、皇叔をもって、あの女性(によしよう)と配せば、それこそいわゆる――淑女ヲ以テ君子ニ配ス――という古語のとおりになると思うのです。ともあれ、ぜひいちど、呉の都へお遊びにお出まし下さいませんか」
呂範はさすがこの使いに選ばれただけの才弁であった。
この日、孔明は、そこに顔を見せず、次室の屏風の陰にいて、じっと、主客のはなしを聞いていた。彼の几(つくえ)の上には、いまたてた易占(うらない)の算木(さんぎ)が、吉か凶か、卦面(けめん)の変爻(へんこう)を示していた。
五
呂範(りよはん)はひとまず客館へ退がり、玄徳の返辞を待つこととした。
その夜。玄徳は、孔明以下腹心の諸将をあつめて、呉妹を娶(めと)ることの可否、また呉へ行くことの善悪などについて忌憚(きたん)なき意見を求めた。
「それはぜひご承諾をお与えなさい。そして呉へお出でなさい」
率直にこう勧めたのは孔明であった。玄徳が呂範と対面中に、易(えき)をたてて占ってみたところ、大吉の卦(け)が出たというのである。
「――のみならず、ここは彼の策に乗って、かえって我が策を成すところでしょう。すみやかにご許容あって、呉の国に臨み、ご婚儀の典を挙げられるがよいかと思います」
そういう孔明の説に対して、
「いや、これは周瑜(しゆうゆ)の遠謀にちがいない」
とか、
「求めて虎口に入るようなものだ」
とか、それを危険なりとする議論ももとより百出したが、より以上、玄徳にも重視された問題は、折角いま克(か)ち獲たところのこの荊州地方の地盤を、次の躍進に入る段階まで無事に持ちこらえるには、どうしても呉との衝突を避けなければならないと考えられることだった。
「万事は、私の胸に、おまかせ下さい。決して、諸将が憂えるような破滅に君を立ち到らせるような愚はしません」
孔明のことばに信頼して、諸臣も、
「では、異議なし」と、一致した。
玄徳はなお危ぶんでいたが、孔明はそれを力づけて、まず答礼の使いをやってみることにした。呂範と共に、その意味で、呉に下って行った者は家中の孫乾(そんけん)であった。
月日を経て、その孫乾は、呉から帰ってきた。そしていうには、
「呉侯は、それがしを見ると、落胆しました。理由は、呂範と共に、わが君が、すぐにでも呉へお出でになるものと、独り決めに、予期していたらしいのです。それほどに、呉侯自身は、この縁談の成立を熱望しています。もし、この縁が結べれば、両国の平和のため、大慶この上もないことだ。ぜひ、一日も早く参られるよう劉皇叔(りゆうこうしゆく)にすすめて貰いたいと、ねんごろなご希望でした」
とある。
けれどなお、玄徳には、迷っているふうがあった。しかし、孔明は、着々と準備を運び、随員の大将をも、趙雲子龍(ちよううんしりゆう)に任命した。
そして趙雲に、手ずから三つの錦嚢(ふくろ)を授けた。呉へ行って事きわまる時は、この嚢(ふくろ)を開けて見るがいい。あらかじめ、自分が肝胆を砕いた三ヵ条の計(はかりごと)は、この錦の嚢に秘めておいた。これを以て、孔明も共にわが君に随員しておるものと思い、惧(おそ)るることなくお供して参るがよいとくれぐれも諭(さと)した。
建安十四年の冬の初め、華麗なる十艘の帆船は、玄徳、趙雲以下、随行の兵五百人を乗せて、荊州を離れ、長江の大河に入り、悠々千里を南下して呉へ向った。
呉の都門へ入るに先だって、趙雲は孔明から渡された錦の嚢を思い出し、その第一の嚢を開けてみた。すると中の一文には、
(まず、喬国老(きようこくろう)を訪え)と、書いてあった。
喬家の老主といえば、隠れもない呉の名家である。かつては、曹操までが想いを寄せていたといわれる姉妹の二美人――二喬の父であるばかりでなく、その姉は、呉侯の先代孫策(そんさく)の室に入り、妹は現に、周瑜の夫人となっているので、今ではおのずからこの国の元老と目され、しかもそれに驕(おご)らず、彼自身の人がらは昔どおり至って正直律義なところから、なおさら上下の信望は篤く、
喬国老、喬国老。
と、国宝的に一般から崇敬されている人だった。
――まずこの人を訪え。
という孔明が嚢中(のうちゆう)の言にしたがって、玄徳と趙雲は、相諮(あいはか)って、船中の佳宝や物産を掲げ、また兵士をして、羊をひかせ、酒を担(にな)わせ、都街の人目をそばだたせながら、まず喬国老の家へいきなり行った。
鴛鴦陣(えんおうじん)
一
喬国老(きようこくろう)の邸では、この大賓(たいひん)をふいに迎えて、驚きと混雑に、ごった返した。
「えっ。皇叔(こうしゆく)と呉妹君(ごまいくん)との結婚の談(はなし)があったのですって?」
初耳とみえて、喬国老は、桃のような血色を見せながら、眼をまろくした。
「しかし、それは何にしても、大慶のいたりだ。この女性(によしよう)なら皇叔の正室となされても、決して悔いはあるまい。……ところで、呉城の宮中へは、今日ご着船の由を、お届け召されたかの」
玄徳(げんとく)が、上陸早々、ご訪問申したので、まだ呉城へは告げないというと、
「それは、いかん、早速にも」と、すぐ家臣を走らせ、また家族たちに命じては、玄徳の一行を心から歓待させて、「ともあれ、わしも一応、宮中へ伺ってくる」と白馬に乗って登城した。
殿中でも大奥でも、国老は出入自在である。呉侯の老母、呉夫人に会って、すぐ慶びをのべた。
すると呉夫人は、けげんな顔をして、
「なんじゃと、あの玄徳が、権(けん)の妹を娶(もら)いにきたのですって。……まああつかましい」
と、舌を鳴らした。
喬国老は、あわてて手を振りながら、
「ちがう、ちがう。呉侯のほうから呂範(りよはん)を婚姻の使いにやって、切に望んだので、はるばる、玄徳も呉へやって来たわけじゃ」
「嘘(うそ)、嘘。国老はわらわをかついで笑おうと召さるの」
「ほんとです。嘘と思し召すならば、街へ人をやってごらんなさい」
呉夫人は、まだ信じない顔で、家士の一名に、城下の見聞(けんもん)をいいつけた。
その者は、街を見て帰ると、すぐ呉夫人の前へ来て語った。
「なるほど、大変に賑やかです。河口には十艘の美船が着き、玄徳の随員だの、五百の兵士は、物珍しげに、市中を見物して歩きながら、豚(いのこ)、酒、土産物の種々(くさぐさ)など、しきりに買物しながら、わが主劉皇叔には、この度、呉侯のお妹姫と婚礼を挙げるのじゃと、彼方此方で自慢半分にしゃべったものですから、ご城下ではもう慶祝気分で寄るとさわるとそのお噂ですよ」
呉夫人は、哭(な)き出した。
たちまち彼女は、わが子の呉侯孫権(そんけん)のいる閣へと、顔を袖でおおったまま走って行った。
「母公、どうなさいましたか」
「おお権か。いかに老いても、わらわは御身の母ですぞ」
「何を仰っしゃいます、今さら」
「それ程、親を親と思うなら、なぜわらわに無断で、女子(おなご)の大事な生涯を決めました」
「わけが分りません。なんのことですか、いったい」
「それその通り、わらわを偽(あざむ)こうとするではないか。汝の妹にせよ、彼女はわらわの子。玄徳へ嫁がすことなどいつ許しましたか」
「あっ。誰が、そんなことをお耳へ入れましたので」
「国老に訊いてご覧なさい」
と、母公は眼できめつけた。
呉夫人のうしろへ来て立っていた喬国老は、
「そう御母子(ごぼし)のお仲で争うことはないでしょう。もう国中の人民も知っていることですから。わしもそのため、お慶びを申しあげに来たわけじゃ」
と、うららかに胸を伸ばして万歳の意を表した。
孫権は、難渋(なんじゆう)した顔いろで、
「いや、そのことなら、実はすべて周瑜(しゆうゆ)の謀略なのだ。いま荊州を取らんには、またぞろおびただしい軍費と兵力を消費せねばならん。偽(いつわ)って婚礼と号し、玄徳をわが国へ呼び入れて、これを殺せば、荊州は難なく呉のものとなる。それゆえに、呂範をやって……」
云いかける口をおさえて、
「聞く耳は持ちません!」
と、呉夫人は前にも増して怒り出した。そして口を極めてその計を誹(そし)った。
「憎(にく)や、周瑜ともある者が、匹夫にも劣る考え。おのれ、呉の大都督として、八十一州の兵を閲(み)、君の大禄をいただきながら、荊州を攻め取るぐらいなこともできず、わらわの最愛な息女(むすめ)を囮(おとり)にして玄徳を誘(いざな)い、騙(だま)し討ちに殺して事を成そうとは……ええ、なんたる無能ぞ。わらわの生きている間は、決して彼女をそんな謀略の囮(おとり)に用いることは許しません」
二
母公にとっては、孫権よりも、その妹のほうが、可愛くて可愛くて、たまらないものらしいのである。
また、なんといっても、このわがままな老女性には、敵国を謀(はか)るなどという問題には興味もなかった。それよりは、ひとり息女(むすめ)の盲愛のほうが、遥かに遥かに大きかった。
だから、かりそめにも、その息女を生贄(いけにえ)として遂げようとする謀略と聞いては、それが呉国の為であるとかないとかなどは問題でなく、頭から老いの感傷と怒りをふるわせて、
「なりません、なりません。誰がなんといおうと、むすめの一生を誤まらすようなことは、わらわの眼の黒いうちは断じてなりません。そんなことをもし周瑜(しゆうゆ)がすすめたのなら、周瑜は自分の功のために、主家のむすめを売る憎い人間じゃ。わらわが命じる。すぐ周瑜を斬っておしまい!」
という権まくであった。
(手がつけられない――)
と、痛嘆を嚥(の)んでいるものの如く、孫権はただ老母の血相に黙然としていた。
しかも喬(きよう)国老までが母公と同意見で、
「いやしくも呉侯呉妹のご兄妹が、婚礼に事よせて、玄徳を殺したなどと聞えては、たとい天下を取ろうと、民心は服しまい。呉の国史に泥を塗るだけじゃ」と、周瑜の計に反対し、それよりも、この際やはり玄徳を婿と定めて、彼の帝系たる家筋とその徳望を味方に加え、常に呉の外郭にその力を用いたほうが賢明ではあるまいかと、思うところを述べた。
ところが、母公としては、それも気のすすまない顔で、
「聞けば、劉玄徳とやらは、年も五十路(いそじ)というではないか。なんでまだ世の憂き風も知らぬあのむすめを、他国のそんな所へ、しかも後添えになどやれましょうぞ」
と、いってみたが、喬国老が、しきりに、
「いやいや、よく考えてごらんあれ。年齢(と し)の少ない者にも老人があるし、年はとっても壮者をしのぐ若さの人もある。劉皇叔は、当代の英雄、その気宇はまだ青春です。凡人なみに、年の数で彼を律することは当りません」と、説いたので、やや心をうごかし、それでは明日、その玄徳を一目見て、もし自分の心にかなったら、むすめの婿としてもいいが――と云い出した。
孫権はもとより孝心の篤い人なので、心のうちでは煩悶したが、老母の意志には少しも逆らうことができない。その間に、母公と喬国老とは、明日の対面の場所や時刻まできめてしまった。
場所は城西(じようせい)の名刹(めいさつ)甘露寺。――喬国老はいそいそ邸へ帰ると、すぐ使いを出して、玄徳の客館へ旨を伝えにやった。
事、志とちがってきたので、孫権は一夜煩悶したが、ひそかにこれを呂範(りよはん)へ相談すると、呂範は事もなげに片づけて云った。
「なにも、それならそれで、よろしいではありませんか。そっと、大将賈華(かか)へお命じなさい。甘露寺の回廊の陰に、屈強な力者(りきしや)や剣客の輩を選りすぐって、三百人も隠しておけば大丈夫です。――そしてよい機(しお)に」
「む、む。絶好な場所だ。そうしよう。……だが呂範、もし母上と玄徳と対面中に、母上が、彼の人物を見て心にそまぬようだったら、すぐ殺(や)ってくれ」
「もし、母公のお心にかなったようなご容子のときは」
「そんなことはないと思うが……もしそう見えたら……そうだな、時をおいて、母上のお気持が彼に対して変るまで待とう」
次の日――早朝。
呂範は、媒人(なこうど)役(やく)として、当然、玄徳の客館へ、その日の迎えに出向いた。
玄徳は、細やかな鎧の上に、錦(にしき)の袍(ひたたれ)を着、馬も鞍も華やかに飾って、甘露寺へおもむいた。
趙雲(ちよううん)は、五百の兵をつれて、それに随行した。甘露寺では、国主の花聟(はなむこ)として、一山の僧衆が数十人の大将と迎えに立ち、呉侯孫権をはじめ、母公、喬国老など、本堂から方丈に満ち満ちて待ちうけていた。
三
玄徳の態度は実に堂々としていた。温和にして諂(へつら)わず、威にして猛からず、儀表(ぎひよう)俗(ぞく)を出て、清風の流るるごとく、甘露寺の方丈へ通った。
「さすがは」と、一見して、呉侯孫権も、畏敬の念を、禁じ得なかった。
争えないものは、人間と人間との接触による相互の感情である。ひと目見て、孫権以上、彼に傾倒したのは母公であった。
その喜悦のいろをうかがうと、喬(きよう)国老は、母公へささやいた。
「どうです。人物でしょう。こんなよい婿が求めたってありましょうか」
母公はただもうほくほく慶(よろこ)びぬいている。孫権はわれとわが心を圧(お)しつぶして、玄徳に対して起る尊敬や畏れを強(し)いて戒めていた。
「さあ、くつろぎましょう。婿君よ、威儀いかめしいものの、内輪ばかりじゃ、心おきなく杯をあげられい。喬老、そなたも、佳賓におすすめ申しあげて賜(た)も」
母公のご機嫌は一通りでない。きのうの彼女とは人がちがうようだった。やがて大宴となる。呉海呉山の珍味は玉碗銀盤に盛られ、南国の芳醇(ほうじゆん)は紅酒、青酒、瑪瑙酒(めのうしゆ)など七つの杯に七種(なないろ)つがれた。
喨々(りようりよう)たる奏楽は満堂の酔をしてさらに色に誘った。母公はふと、玄徳のうしろに屹立(きつりつ)している武将に眼をそそいで、
「誰か」と、たずねた。
玄徳が、これはわが家臣、常山の趙子龍(ちようしりゆう)と答えると、母公はまた、
「では、当陽の戦いに、長坂(ちようはん)で和子(わこ)の阿斗(あと)を救ったというあの名誉の武将か」と、いった。
「そうです」とうなずくと、母公は、彼に酒を賜えとすすめた。趙雲は拝謝して杯をいただきながら、玄徳の耳へ、そっとささやいた。
「ご油断はなりませんぞ。廻廊の陰に、大勢の伏兵が隠れている気配です」
「…………」
玄徳はしばし素知らぬ顔をしていたが、母公の機嫌のいよいよ麗わしい頃を見て、急に杯をおいて、憂い沈んだ。
母公は怪しんで、理(わけ)を訊くと、玄徳は鳳眼(ほうがん)にかなしみをたたえて、
「もし私の生命をちぢめんと思し召すなら、どうか明(あか)らさまに剣をお与え下さい。廻廊の外や、縁の下には、ひしひしと、殺気をもった兵(つわもの)が隠れているようで、恐ろしくて杯も手に触れられません」と、小声で訴えた。
母公は、愕然(がくぜん)として、
「呉侯。あなたですか。そんな企(たくら)みをいいつけたのは」
と、孫権を顧みて、たちまちけんもほろろに叱った。
孫権は、狼狽して、
「いや、知りません。呂範(りよはん)でしょう」
「呂範をこれへお呼び」
「はい」
しかし、呂範も、強情を張って知らないで通した。そして、
「賈華(かか)かもしれません」と、云いのがれた。
賈華は、母公の前に立たせられた。彼は、知らないといわなかったが、また、自分の所為であるともいわなかった。ただ黙然と首を垂れていた。母公の怒りは極度にたかぶった。
「喬老。武士たちに命じて、賈華を斬りすてておしまいなさい。わが佳婿(む こ)がねの見ていらっしゃる前で」と、罵った。
玄徳はあわてて命乞いをした。ここに血を見ては慶事の不吉と止めた。孫権は直ちに賈華を追い出した。喬国老は廻廊の外や縁の下の者どもを叱りとばした。鼠のように頭をかかえてそこから大勢の兵が逃げ散って行った。
かくて酒宴は夜に及び、玄徳は大酔して外へ出た。ふと庭前を見ると、そこに巨(おお)きな岩がある。玄徳はじっと見ていたが、何思ったか、天に祈念(きねん)をこらし、剣を抜いて振りかぶった。
「……?」
孫権は木蔭から見ていた。
四
終日(ひねもす)、歓宴の中に酔っても、玄徳の胸には、前途の茫々たる悩みがあった。彼はふと、人なき庭園へ出て、酔(よい)を醒まさんとしながら、発作的に、天を仰いでから祈念したのであった。
「わが覇業成らぬものなら、この岩は斬れじ、わが生涯の大望、成るものならば、この岩斬れよ!」
発矢(はつし)、振り下ろした剣は、火華をとばし、見事、その巨岩(おおいわ)を両断していた。
物蔭から人が歩いてきた。
「皇叔。何をされたのです?」
「おお、呉侯でおわすか。……実は、こうです。貴家の一門となって、共に曹操(そうそう)を亡ぼし得るなら、この岩斬れよ。然らずんば、この剣折れん――と天に念じて斬ったところ、この通り斬れました」
「ほ。……なるほど。では予も試みてみよう」
孫権も、剣を抜いた。同じように天へ祈念をこらして、大喝一声すると、剣石ともに響いた。
「やっ……斬れた」
「オオ。斬れましたな」
この奇蹟は、後世の伝説となって、甘露寺の十字紋石(じゆうじもんせき)とよばれ、寺中の一名物になったという。
「どうです。皇叔、方丈へもどって、さらに杯を重ねようじゃありませんか。長夜の宴です」
「いや、座にたえません。あまり大酔したものですから」
「では、ひと醒まししてからまた」
袖を連ねて、門外へ逍遥(しようよう)に出た。
月小さく、山大きく、加うるに長江の眺め絶佳なので、玄徳は思わず、
「ああ、天下第一の江山(こうざん)」と嘆賞した。
後世、甘露寺の門に「天下第一江山」の額が掛けられたのは、彼の感嘆から出たものと云い伝えられている。
玄徳はまた、月下の江上を上下してゆく快舸(はやぶね)を見て、
「なるほど、北人はよく馬に騎(の)り南人はよく舟を走らすと世俗の諺(ことわざ)にもありましたが、実に、呉人は水上を行くこと平地のようですね」と、いった。
孫権は、どう勘ちがいしたか、
「なに、呉の国にも、良い馬もあり、上手な騎手もいます。ひと鞍(くら)当てましょうか」
たちまち、二頭の駿馬をひき、ふたり轡(くつわ)をならべて、江岸の坡(つつみ)まで駈けた。玄徳もよく走り、孫権もさすが鮮やかだった。そして、相かえりみて、快笑した。
呉の土民がここを後に「駐馬坡(ちゆうばは)」と称んだわけは、この由緒(いわれ)に依るものだとか。
こんな事もあったりして、玄徳はつい逗留十数日を過した。その間、試されたり、脅(おびや)かされたり、しかも日々夜々歓宴、儀礼、見物、招待ずくめで、心身も疲れるばかりだった。
趙雲子龍も心配顔だし、喬国老も案じてくれた。国老はそのためしばしば呉の宮中に通って母公をうごかし、孫権をなだめ、遂に吉日を卜(ぼく)して、劉玄徳と呉妹君との婚礼を挙げるところまで漕ぎつけてしまった。
華燭の典の当日まで、趙子龍は主君の側を離れず喬国老に頼んで五百の随員――実は手勢の兵も呉城に入れることの許可を得、間断なく玄徳の身を護っていたが、婚礼の夜いよいよ後堂の大奥へ花婿たる玄徳が入ることになると、さすがにそこから先の禁門には入れもしなかったし、入れてくれとも頼めなかった。
女宮(によきゆう)の深殿に導かれた玄徳は、気も魂もおののいた。
なぜなら閨室(けいしつ)の廊欄(ろうらん)には燈火をつらね、そこに立ちならぶ侍女(こしもと)から局々の女たちまで、みな槍(やり)薙刀(なぎなた)をたずさえて、閃々(せんせん)眼もくらむばかりだったからである。
「ホ、ホ、ホ、ホ。貴人。何もそのように怖れ給うことはありません。呉妹君はお幼(いとけな)き頃から、剣技をお好み遊ばし、騎馬弓矢の道がお好きなのです。決して貴人に危害を加えるためではありません」
房の内外を司る管家婆(かんかば)という役目の老女が、こういって、玄徳の小心を笑った。
玄徳はほっとして、老女侍女など千余人の召使いに、莫大な金帛(きんぱく)を施した。
朝(あさ)の月(つき)
一
七日にわたる婚儀の盛典やら祝賀の催しに、呉宮の内外から国中まで、
「めでたい。めでたい」
と、千載万歳を謳歌している中で、独りひそかに、
「何たることだ」と、予想の逆転と、計(はかりごと)の齟齬(そご)に、鬱憤(うつぷん)のやりばもなく、仮病をとなえて、一室のなかに耳をふさぎ眼を閉じていたのは呉侯孫権(そんけん)だった。
すると、柴桑(さいそう)の周瑜(しゆうゆ)から、たちまち早馬をもって、一書を送ってきた。
うわさを聞いて、周瑜も仰天したらしい。
金瘡の病患がまだ癒えぬため、参るにも参られず、ただ歯がみをしておるばかりですが、かくてやはあると、自ら心を励まし病中筆をとって書中に一策を献ず。ねがわくは賢慮を垂れ給え――
という書き出しに始まって、縷々(るる)と今後の方策がしたためてあった。
「周瑜からこういう謀を施せといってきたが、この計はどうだろう。また失敗に終ったら何もならぬが」
張昭(ちようしよう)に相談すると、張昭は、書簡の内容を検討してから、
「さすがに都督の遠謀、感心しました。――元来、劉玄徳(りゆうげんとく)は、少年早くより貧賤(ひんせん)にそだち、その青年期には、各地を流浪し、まだ人間の富貴栄耀(えいよう)の味は知りません。……ですから周瑜都督が示された計の如く、彼に、ほしいままなる贅沢を与え、大厦(たいか)玉楼に無数の美女をあつめ、錦繍(きんしゆう)の美衣、山海の滋味と佳酒、甘やかな音楽、みだらな香料など、あらゆる悪魔の歓びそうな物をもって、彼の英気を弱めにぶらせ、荊州へ帰ることを忘れさせれば、彼の国もとにある孔明(こうめい)、関羽(かんう)、張飛(ちようひ)らも、あいそをつかし、怨みをふくんで、自然、離反四散してしまうにちがいありません」
と、案(つくえ)を打って賛同した。
孫権はよろこんで、
「では、玄徳の骨も腐るまで、贅沢の蜜漬(みつづけ)にしてくれよう」
と、ひそかにその方針へかかり始めた。
すなわち呉の東府に一楽園を造築した。楼宮(ろうきゆう)の結構は言語に絶し、園には花木を植え、池畔には宴遊船をつなぎ、廊廂(ろうしよう)には数百の玻璃燈(はりとう)をかけつらね、朱欄(しゆらん)には金銀をちりばめ、歩廊はことごとく大理石や孔雀(くじやく)石をもって張った。
「兄君もやはり心では妹が可愛いんですね。わたくしたち二人のために、こんなにまでして下さるなんて」
呉妹――今では玄徳の妻たる新夫人は、そういって感謝した。
この若い新妻を擁して、玄徳はここに住んだ。金珠珍宝、無いものはない。綺羅錦繍(きらきんしゆう)、乏しいものはない。
食えば飽満の美味、飲めば強烈な薫酒(くんしゆ)、酔えば耳に猥歌甘楽(わいかかんがく)、醒(さ)むれば花鳥また嬋娟(せんけん)の美女、――玄徳はかくて過ぎてゆく月日をわすれた。――いや世の中の貧乏とか、艱苦(かんく)とか、精進とか、希望とかいうものまでをいつか心身から喪失(そうしつ)していた。
「……ああ、困ったものだ」
それを見て、毎日、溜息ばかりついていたのは、彼の臣、趙雲(ちよううん)子龍(しりゆう)だった。
「そうだ……一難一難、思案にあまったら嚢(ふくろ)をひらけと軍師にはいわれた。あの錦の嚢の第二は今開くときだろう」
孔明から餞別(はなむけ)に送られたその内の一つを、趙雲は急に開けてみた。すると果たして孔明の秘策が今の心配によく当てはまっていた。彼はさっそく侍女を通じて、玄徳に目通りを求めた。
「たいへんです。こうしてはおられません」
いきなり告げたので、玄徳も驚かされた。
「何事が起ったのか?」
「赤壁(せきへき)の怨みをそそぐなりと号して、曹操(そうそう)みずから五十万騎を率い、荊州へ攻めこんで来たとあります」
「えっ、荊州へ……。た、たれが報らせてきた、そのようなことを」
「孔明が早舟を飛ばして、自身、呉の境まで注進に来たのです。荊州の危機、今に迫る。国もとへ君を迎えて、一刻もはやく対策を講ぜねば、荊州の滅亡は避け難し――とあって」
「それは、一大事」
「さ。すぐお帰り下さい」
二
「ううむ。そうか……」とのみで、しばらく沈思していたが、やがて玄徳は、肚を決めたもののように面をあげ、趙雲(ちよううん)へいった。
「よし。帰ろう」
「では、直ちに?」
「いや少し待て。妻にもこのことを諮(はか)るから」
「それはいけません。ご夫人に相談遊ばせば、お引きとめあるは必定です」
「そんなことはない。予にも考えがある」
玄徳は、奥へかくれた。
そして妻の室を訪うと、夫人は良人を迎えながらすぐ云った。
「どうしても今度は荊州へお帰りにならねばなりませんか?」
「えっ……。誰にそれを聞きましたか」
「ホホホ。あなたの妻ですのに、そのくらいなことが分らないでどうしましょう」
「はや承知なれば、多くもいわぬ。玄徳はすぐ帰国せねばならん。荊州は滅亡の危うきに瀕(ひん)している。そなたの愛に溺れて、国を失うたとあっては、世の物笑い、末代までの廃(すた)れ者になろう」
「もとよりです。武門の御身として、この期に、未練がましいことあっては、生涯人中に面は出せません」
「よくいうてくれた。戦場に臨むからにはいつ討死を遂げるやもしれん。そなたともまた再会は期し難い。長春数旬の和楽、それも短い一夢(いちむ)になった」
「なぜそのような不吉を仰せ出されますか、夫婦の契(ちぎ)りはそのように儚(はかな)いものではありますまい。また短いものとも思いません。生ける限りは――いえいえ九泉の下までも」
「さは云え、別れねばならぬ身をどうしよう」
「わたしも共に参りまする」
「えっ、荊州へ」
「当然ではございませんか」
「呉侯が許すまい。母公も決して許されまいが」
「兄に知れたら大変でしょう。けれど母には別に説く途があります。必ずお心を苦しめ給うには及びません」
「どうしてこの呉城の門を出るか」
「もう今年も暮れます。元日の晨(あした)までお待ち遊ばせ。わたくしはその前に老母の許へ行って告げましょう。元日の朝(あした)、朝賀のため、江のほとりに出て、先祖をお祀(まつ)りして参りますと――。母は信心家ですからそういうことをするのは大変歓びます」
「なるほど、それは名案だが、そなたはなお、それから先の途上の艱苦や、戦乱の他国へ行っても、後に呉を離れたことを悔いたり悲しんだりしないでいられるだろうか」
「お別れして、ひとり呉に残っていたとて、なんの楽しみがありましょう。良人の側にさえいるなら、炎の裡(うち)、水の中、どこにでも生き甲斐があると信じます」
玄徳は嬉しさに涙を催した。彼はまたひそかに趙雲を人なき所へよんで、妻の真情を語り、また策をささやいて、
「元日の朝、人目に立たぬよう、長江の岸へ出て待っておれ」と、打合わせた。
趙雲は、念を押して、
「昔日の事をお忘れなく。必ずとも、孔明の計と齟齬(そご)遊ばさぬように」といって去った。
明くれば、建安十五年となる。その元旦は、まだ暁闇深く、朝の月を残していたが、東天の雲には早、旭日の光がさし昇りかけていた。
吉例通り、呉宮の正殿には、除夜の万燈がともされたまま、堂には文武の百官がいならび、呉侯孫権に拝賀をなし、万歳を唱え、それから日の出とともに、酒を賜わることになっている。
折もよし、人目は少ない。
玄徳は夫人呉氏(ごし)とともに、母公の宮房をそっと訪うて、
「では、これから江の畔(ほとり)へ行って、先祖の祀(まつ)りをして参ります」と告げた。
玄徳の父母祖先の墳墓(つ か)は、すべて〓郡(たくぐん)にあるので、母公は、婿の孝心を嘉(よみ)し、それに従うのはまた、妻の道であると、機嫌よく夫婦(ふたり)を出してやった。
三
宮門を出るには、女房車の備えがある。夫人はそれに乗った。玄徳は美しい鞍をおいた駒にまたがる。
中門を出る。城楼門を出る。
誰も怪しまない。
番卒たちは、
「ほ、婿(むこ)様と呉夫人が、おそろいで、どこへお出ましか」
と、羨望の眼を送るだけであった。
元旦の朝まだきである。人はみな酔っていた。まだ明けきらぬ暁闇の空には、白い朝の月があった。
外城門まで出ると、玄徳は、車を押す者や、供の武士たちをかえりみ、
「あの森の中に新泉がある。そち達はみな垢(あか)を浄(きよ)めて来い。きょうは江の畔(ほとり)、先祖の祀(まつ)りに行く。不浄は忌(い)む」
と、いってそこへ追い払った。
かねてしめし合わせていたことなので、彼女はすでに車の中で身支度していた。平常でも腰に小剣を離さない夫人である。小さい弓を軽装に吊るし、頭から半身は被衣(かつぎ)のような布で隠していた。
車を降りると、彼女は、従者の置いて行った一頭の駒へ、ひらと蝶のようにすがりついた。玄徳もすぐ鞭を当てる。
「うまく行きましたね」
「いや、これからだよ、運のわかれ目は」
しかし玄徳はニコと笑った。
呉夫人も微笑んだ。朝の月を避けた被衣の陰でもその顔は梨の花より白かった。
またたく間に、長江の埠頭(ふとう)まで来た。この頃、日はすでに登って揚子江の水はまばゆいばかり元朝の紅波を打っていた。
「あっ、わが君、オオ、ご夫人にも」
「趙雲か。とうとう来た。ここまでは上首尾だったが、すぐ追手が来ようぞ、急ごう」
「もとより覚悟のこと、趙雲がお供仕るからにはご心配には及びません」
かねて五百の手勢は、趙雲と共にここに待ち受けていたので、玄徳と夫人を警固し、まっしぐらに陸路をとって国外へ急いだ。
幸いにも、このことが、呉侯の耳に入るまでには、それから半日以上もひまがかかった。原因は、外城門まで、夫人の車を押して出た士卒や供の武士が、
「どこまでお出でになったのか」と、かかる出来事とも知らず、江辺を捜し廻ったり、後難をおそれていたずらに上訴の時を移していたためである。
いよいよそれと真相が判明したのはすでに夕方に迫っていた。終日の宴に呉侯は大酔して眠っていたところであったが、聞くや否、冲天(ちゆうてん)の怒気をなして、
「おのれ履売(くつう)りめ、恩を仇で返すばかりか、わが妹を奪って逃げるとは」
と、傍らの几(つくえ)にあった玉硯(ぎよつけん)をつかんで床に砕いたという。
それからのあわただしい評議。間もなく宵の城門を、五百余りの精兵が、元日の夜というのに、剣槍(けんそう)閃々(せんせん)と駈けだしてゆく。
呉侯孫権の怒りはしずまらず、彼の罵る声が、夜になっても呉城の灯をおののかせていた。急を聞いて登城した程普(ていふ)が、おそるおそる彼にたずねた。
「追手の将には、誰と誰をおつかわしになりましたか」
「陳武(ちんぶ)と潘璋(はんしよう)をやった」
「ご人数は」
「五百」
「ああ、それではだめです」
「なぜだ」
「すでに呉妹君(ごまいくん)には、一たん良人と契(ちぎ)られた玄徳に深く同意あそばして、このご脱出とぞんじます。さすれば、女性(によしよう)ながら、日頃より尚武のご気質、あの男まさりな御剛気は、呉の将士とはいえ、みな深く怖れているところです。いわんや陳武、潘璋のごときでは」
孫権はそう聞くと、いよいよ憤って、たちまち、蒋欽(しようきん)、周泰(しゆうたい)の二将をよび立て、
「汝ら、この剣を持って、玄徳を追いかけ、必ず彼奴(きやつ)を両断し、また予の代りに、妹の首をも打って持ってこい。もし命に違うときは、きっと、其方どもを罪に問うぞ」
と、身に佩(は)いたる剣を取りはずし、手ずから二将に授けて、早く行けと急(せ)きたてた。
凜々(りんりん)細腰(さいよう)の剣(けん)
一
夜も日も馬に鞭打ちつづけた。さる程にようやく柴桑(さいそう)の地へ近づいて来る。玄徳(げんとく)はややほっとしたが、夫人呉(ご)氏は何といっても女性(によしよう)の身、騎馬の疲れは思いやられた。
だが幸い、途中の一豪家で車を求めることができ、夫人は車のうちに移した。そしてなお道を急いで落ち延びた。
「やよ待て、玄徳の一行、呉侯のご命令なるぞ。縄をうけろ」
山の一方から大声がした。約五百の兵がふた手になって追ってきたのだ。
趙雲(ちよううん)は騒ぐことなく、
「あとは、それがしが支(ささ)えます。君には、遮二無二お先へ」
と、玄徳と夫人を、なお奔(はし)らせた。
この日の難は、一応のがれたかに見えたが、次の日、また次の日と、玄徳の道は、先へ行くほど、塞(ふさ)がれていた。
すなわち柴桑の周瑜(しゆうゆ)と、呉の孫権の廻符(かいふ)はもう八方に行きわたっていた。水路も陸路も、往来には木戸の検(あらた)めが厳重を極め、要所には徐盛(じよせい)、丁奉(ていほう)の部下三千が遮断していた。
「ああ、いけない。この先には呉兵が陣している。今は進退きわまったか」
玄徳が痛嘆すると、
「いや、孔明(こうめい)軍師は、あらかじめかかる場合にも、嚢(ふくろ)の中(うち)から訓えられています。こう遊ばせ」
趙雲がそれを彼の耳へささやいた。玄徳はいくらか希望を取り戻して、やがて夫人の車へ近づき、涙声(るいせい)をふるわせて彼女へ告げた。
「妻よ、わが妻よ。ここまでは共に来たが、玄徳はついにここで自害せねばならぬ。御身はない縁とあきらめて、ここより呉へもどられよ。九泉の下で後の再会を待つであろう」
夫人は、簾をあげて、おどろきと涙の面をあらわした。
「再び呉へ帰るくらいなら、ここまでも参りません。どうして急にそんなことを仰っしゃるのですか」
「でも、呉侯の追手は前後に迫ってくるし、周瑜もそれを励まして、百方路をふさいでいる。所詮(しよせん)、捕われて曳かれるものなら、生き辱(はじ)をかかないうちに、いさぎよく自害して果てたがましと思うからだ」
ところへ早くも、徐盛と丁奉は、部下を率いてここへ殺到した。夫人はあわてて玄徳を車のうしろに隠し、簾を払って地上へ跳び降りた。
「それへ来たのは何者です。主君の妹に指でもさしてご覧、おまえたちの首は、わたくしの母君が、半日だってそのままにしておきはしませんから」
と、鈴音(れいおん)を振り鳴らすように声を張っていった。
「おお、呉妹君におわすか」
と、徐盛と丁奉とは、思わず地へひざまずいた。主筋ではあるし、この女性の凡(ただ)の女性でないことは、呉の臣下はみな知っていた。いや知っているだけでなく、その男まさりな凜々(りんりん)たる気性や、母公だの兄孫権だのを動かす勢力にはある懼(おそ)れすら抱いていたのだった。
「丁奉に徐盛ではないか」
「はっ。さようでございます」
「弓箭(きゆうせん)を帯し、兇兵を連れて、主人の車に迫るなど、謀叛人(むほんにん)のすることです。お退(さ)がりっ」
「でも、呉侯の御命。また周都督のおさしずでもあります」
「周瑜が何ですか。周瑜のいいつけならおまえ方は謀叛もするというのですか。兄の孫権とわたしのことならば、兄妹(きようだい)の仲です。家臣の差出るところではない」
「いや、あなた様に危害を加えるのではありませぬ。ただ玄徳を」
「おだまりっ。玄徳さまは大漢の皇叔、そして今はわが夫です。ふたりは母公のおゆるしを賜い、天下の前で婚礼したのです。おまえ方匹夫(ひつぷ)づれが、指でもさしたら承知しませぬぞ」
柳眉(りゆうび)を立て、紅(くれない)の眦(まなじり)をあげて、夫人はその細腰に帯している小剣の柄(つか)に手をかけた。徐盛、丁奉はふるえ上がって、
「しばらく。……しばらくお怒りをおしずめ下さい」
と、あわてて手を振った。
二
夫人は耳もかさない。また怒りの色も収めなかった。いよいよ叱っていうのである。
「おまえ方は、ひとえに周瑜(しゆうゆ)ばかり怖れているのであろう。早く立ち帰って、いま私がいった通りに、周瑜に伝えるがよい。もし周瑜がおまえ方を命に従わぬ者として斬ったなら周瑜のごとき匹夫、立ちどころに私がこの剣で成敗してみせる」
徐盛(じよせい)も丁奉(ていほう)も、夫人の烈しいことばの下に、まったく慴伏(しようふく)してしまった。夫人はそれと見るや、車のうちへひらりと身を移して、
「それ、駈けよ。車を早めよ」と、たちまち道を急がせた。
玄徳も馬の背に伏して駈け通った。五百の兵もどかどかと足を早めた。丁奉、徐盛はみすみす眼の前にそれを見たが、趙雲子龍(しりゆう)がすさまじい眼をかがやかせて、道ばたに殿軍(しんがり)していたため、空(むな)しく一行をやり過し、やがて二、三里ばかりすごすごと戻ってきた。
「やあ、どうした?」
彼方から来た馬上の二将軍は、ふたりを見かけて声をかけた。呉侯の命で後から大兵を率いてきた陳武(ちんぶ)と潘璋(はんしよう)であった。
「実は、これこれです。如何せん先は主君の御妹、こちらは臣下。頭から叱りつけられては、どうすることもできないので……」
「何、何。取逃がしたとか。さりとは気弱な。さあ続いてこい。妹君(まいくん)の叱咤など何か怖れん。こちらは呉侯の直命をうけて来たのだ。否やをいわばお首にしても!」
と、馬煙を立てて追いかけた。
先にゆく夫人の車と玄徳の一行は、長江の岸に沿って急いでいたが、またまた、呼び止める者があるので、騒然一団になって立ち淀んでしまった。
夫人はふたたび車から降りて追手の大将どもを待つ。その姿を目がけ、陳武以下の四将は馬に鞭を加えてこれへ駈けこんで来た。
「何ですっ、その無礼な態(ざま)は。馬を降りなさい!」
凜々(りんりん)たる夫人の一声を浴びて、四人は思わず馬から飛び降りた。そして叉手(さしゆ)の礼をとって起立していると、夫人は真白な指をきっと四人の胸にさして、
「おまえ方は、緑林の徒か、江上の舟賊か。呉侯の臣ならばそんな不作法な真似をするわけがない。主君の妹に対してする礼儀を知らないのか。お坐りっ。ひざまずいて拝礼をするものです!」
四人の大将は、彼女の威と、絶倫な美と、その理に打たれて、不承不承、大地に膝をつき叉手を頭の上にあげて最大な敬礼をした。
ようやく、すこし面を和(やわ)らげて、それから夫人が訊ねた。
「いったい、何しに、またこれへ来たんですか」
潘璋がいった。
「お迎えのためにです」
と、夫人は首を振った。
「呉へは帰りません」
「でも、呉侯の御命ですぞ」
「わたし達は、母のゆるしによって城を出たのです。孝行な兄孫権が、母の意(こころ)に逆らうわけはない。おまえ方は何か聞きちがえて来たのでしょう」
「いやいや。呉侯の仰せには、首にしてもとの厳命でした」
「わたくしを、首に?」
「…………」
「首にしてもですって?」
「……いや、その、失言しました。玄徳のほうをです」
「おだまりなさい!」
「はっ」
「この身に刃(やいば)を擬(ぎ)すも、わが夫(つま)に刃を擬すも、夫婦であるからには主筋に害意をさし挟む不敵は同じことですぞ。かりそめにも、そんな真似をしてごらんなさい。たとえ夫婦はここに死すとも、ここに居る趙雲がおまえ方をゆるしては帰しません。また無事に逃げ帰ったところで、呉にいますわが母が、何でおまえ方をただおきましょう」
「…………」
「さ。お起ち。それが覚悟なら矛(ほこ)なり槍なり持って、わたくしの前に起ってご覧」
四人の大将は、ひとりも起ち得なかった。それにいつのまにか、玄徳は辺りに見えず、例の趙雲だけが、眼をいからして、夫人の傍らから離れずにいた。
三
追手の大将四人は、空しく夫人の車を見送ってしまった。この時も趙雲(ちよううん)は、一手の軍兵を持って、最後まで四人の前に殿軍(しんがり)していたため、手出しはおろか、私語する隙間もなかったのである。
「残念だな」
「だが、あの女丈夫には、なんともかなわん」
是非なく、四人は道をかえした。そして十数里も来た頃である。一彪(ぴよう)の軍馬と、颯爽たる大将が、彼方からきて呼びかけた。
「玄徳の行方は如何に」
「夫人はどこにおらるるか」
見れば、呉の蒋欽(しようきん)。またもう一人は周泰(しゆうたい)である。
面目なげに、陳武(ちんぶ)が云った。
「だめです……どうも」
「何がだめだ?」
「追いついて捕えんとしましたが、夫人がいうには、母公のおゆるしをうけて城を出たのだから、母公のおいいつけでなければ帰らぬと仰せられます」
「何の。口巧者な。な、なぜいわん。こちらは呉侯の厳命であるぞ」
「呉侯はわが兄。兄妹(はらから)の間のことを、臣下の分際で、何を差出がましくいうぞとのみ、お耳にかけるふうもありません」
「えい、そんなことで、どうして追手の任が果せるか。かくなる上は、玄徳も、また主君の御妹たりとも、首にしてしまうまでのこと。見よ。この通り、仮借すなとて、主君孫権には、お手ずから我らに剣をおあずけになった!」
「やっ。御剣ですか」
「知れたこと。――思うに玄徳の一行は大半が徒歩(か ち)武者(むしや)、馬を飛ばせば、ふたたびまたたく間に追いつこう。徐盛(じよせい)、丁奉(ていほう)のふたりは、早々先へはせ廻って周瑜(しゆうゆ)都督にこの由を告げ、水上より早舟を下して江岸江上をふさがれい。われら四人は、陸路を追い詰め、かならず柴桑(さいそう)の附近において彼奴(きやつ)らをことごとく網中の魚とするであろう」
刻々と迫るこういう危険な情勢の中を、玄徳と夫人の車は、なお逃げ落ちられる所まではと、ただ一念一道をひた奔(はし)りに急いでいた。
いつか、柴桑の城市を横に見、その郊外を遠く迂回して、また道は江に沿ってきた。そして劉郎浦(りゆうろうほ)とよぶ一漁村までたどりついた。
「舟はないか」
「舟は? 舟は?」
玄徳も趙雲も、ここへ来てはたと、それに当惑した。
漁村らしいのに、どうしたのか船は一つも見当らない。のみならず、一方は渺々(びようびよう)たる江水(こうすい)天(てん)に漲(みなぎ)り、前は自然の湾口をなして、深く彼方の遠い山裾まで続き、いずれへ渡るにも、舟便に依らなければ、もうどっちへも進めない地形だった。
「趙雲。趙雲」
「はい。ご主君……」
「遂に虎口に落ちた。最後へ来たな」
「いや、まだご失望は早過ぎます。今、例の錦の嚢(ふくろ)の最後の一つを開いてみました。すると。――劉郎浦頭蘆荻(リユウロウホトウロテキ)答エン、博浪激波シバシ追ウモ漂(タダヨ)イ晦(クラ)ムナカレ、破車汗馬ココニ業ヲ終エテ一舟ニ会セン……そんな文があらわれました。察するところ軍師孔明には、必ず何かよろしき遠謀があるにちがいありません。まずまず、あまりお案じなさいますな」
趙雲はなぐさめた。しかし玄徳は黙然と灰色の空や水を見まわして、車のうちの夫人にものもいえず、暗然とたたずんでいるだけだった。するとたちまち、山ぎわのあたりの夕雲が、むくむくと動き、鼓(つづみ)の声や銅鑼(どら)が水に響いた。いうまでもなく、ここに包囲を計った追手の大軍だった。
「おお如何にせん」
玄徳は、身を揉んだ。
夫人も今はと覚悟して、簾のうちから飛び降りる。
「すわ!」と、近づく喊(とき)の声、はや矢ばしりの響き。玄徳の少ない手勢は、すでに色を失って、四方へ逃げかけた。
すると、たちまち、郎浦湾(ろうほわん)の汀(なぎさ)、数里にわたる蘆荻(ろてき)が、いちどにザザザザと戦(そよ)ぎ立った。見れば、葭(よし)や蘆(あし)のあいだから帆を立て、櫓(ろ)を押出した二十余艘の快足(は や)舟(ぶね)がある。こなたの岸へ漕ぎ寄せるや否、
「乗り給え。早く早く」
「皇叔。いざ疾(と)く」
と、手を打振って口々に呼ぶ。その中に、いま舟底から這い出して、共々呼んでいた道服の一人物があった。一目に知れる頭(かしら)の綸巾(りんきん)、すなわち諸葛孔明(しよかつこうめい)だった。
周瑜(しゆうゆ)・気死(きし)す
一
孔明(こうめい)の従えてきた荊州(けいしゆう)の舟手の兵は、みな商人(あきゆうど)に姿を変えていた。玄徳(げんとく)と夫人、また随員五百を各々の舟に収容すると、たちまち、櫓櫂(ろかい)をあやつり、帆を揚げて、入江の湾口を離れた。
「やあ、その舟返せ」
呉の追手は、遅ればせに来て、あとの岸にひしめき合っていた。
孔明は一舟の上からそれを指さして、
「すでにわが荊州は一国たり。一国が一国を謀(はか)るもよし攻めるもよいが、美人をもって人を釣るような下策は余りにも拙劣極まる。汝ら、呉へ帰ったら周瑜(しゆうゆ)へ告げよ。ふたたびかかる錯誤はするなと」
と、岸へ向って云った。
多くの舟から、どっと嘲笑があがった。
それに答えて岸からは、雨のように矢が飛んできたが、みな江波に落ちて藁(わら)のように流されてしまった。
しかし、江上を数里進んで、ふと下流を望むと、追風に満帆を張った兵船が百艘ばかり見えた。中央に「帥(すい)」の字の旗をたてて、明らかにそれには大都督周瑜が坐乗しているらしい。そして左には黄蓋(こうがい)の旗じるしが見え、右には韓当(かんとう)の船が並び、その陣形は、あたかも鳳翼(ほうよく)を開くように迫ってきた。
「おおっ、呉の大船隊が」
と、玄徳をはじめ人々がみな色を失うと、孔明は、舟手の者にすぐ進路を指揮し、
「かねて予測されていたこと。お愕(おどろ)きには及びません」
と、速やかに岸へ寄せ、そこからは陸地を取って逃げ奔った。
当然、呉の水軍も、船をすてて陸地へ駈け上がってきた。黄蓋、韓当、徐盛(じよせい)など、皆飛ぶが如く馬を早めて来る。
周瑜もその中にあって、
「ここはどの辺だ?」と、諸将にたずねていた。
「黄州の境にあたります」
徐盛が答えた時である。忽然(こつぜん)、鼓の声が、四沢(したく)の静寂(しじま)を破った。
一彪(ぴよう)の軍馬が、それと共に、山の陰から奔進してくる。見れば玄徳の義弟(おとうと)関羽(かんう)である。たちまち、八十二斤の青龍刀は周瑜の身に迫ってきた。
「すわ。敵に何か、備えがあるらしいぞ」
急に、退きかけると、
「われこそ、黄忠(こうちゆう)」
「魏延(ぎえん)を知らずや」
左の沢からも、右手(めて)なる峰からも、待ちかまえていた猛兵が、乱れ立った彼の虚を衝いていよいよ駈け散らした。
呉の将士は、存分な戦いもせずに、続々、討死を遂げた。周瑜は、上陸したもとの所まで、馬に鞭打って逃げのび、あわてて船へ身を移すと、その時、もう遠い先へ行っているはずの孔明が、忽然と、一隊の兵を率いて、江岸に姿を現わし、大音にいった。
周郎ノ妙計ハ天下ニ高シ
夫人ヲ添エ了(オワ)ッテ
マタ、兵ヲ折(クジ)ク
それを二度もくり返して、一斉にどっと笑い囃(はや)したので、周瑜は、勃然(ぼつぜん)と怒って、
「おのれ。その儀なれば、陸(くが)へ戻って、もう一戦せん。諸葛亮(しよかつりよう)、そこをうごくな」
と、地だんだ踏みながら、船を岸へ寄せろと呶鳴ったが、黄蓋、韓当などは、味方はあらまし討たれ、残る士卒も戦意をうしなっているのを見て、
「ここが我慢のしどころです」と、もがく周瑜を抱き止めながら、船手の者に、
「帆を張りあげろ。早く船を中流へ出せ」と、命じた。
周瑜はなお、眦(まなじり)に血涙をたたえて、
「無念。実に無念。かかる恥をうけ、かかる結末をもって、なんで、大都督周瑜たるものが、再び呉国へ帰れよう。おめおめと呉侯にお目にかかれよう。――おれは恥を知っている!」
と、叫びながら、歯をギリギリ咬み鳴らしたと思うと、その口からかっと真っ赤な血を吐いて、朽木仆(くちきだお)れに船底へ仆れてしまった。
二
「都督っ。周都督」
「お気をたしかに持って下さい」
呉の諸将は、周瑜(しゆうゆ)の体を抱き起し、左右から悲痛な声をふり絞った。
しばらくして、周瑜はようやく、うす目をひらいた。
「……船を。船を呉へ向けてくれ」
かすかな声でいった。
蒋欽(しようきん)と周泰(しゆうたい)は、病都督の身を守って、柴桑(さいそう)まで帰った。
周瑜は恨みをのみながら、ふたたび病牀に親しむのほかなかった。
けれど、やがてこの始末を知った呉侯孫権(そんけん)の鬱憤はやりばもなく、日夜、
「どうしてこの報復を」と、玄徳を憎んでいた。
ところへまた、病中の周瑜から、長文な書簡がきた。
――君。一日も早く、兵馬を強大にし、荊州を討ち懲(こ)らし給え。と、ある。
さらぬだに若い孫権、そう励まされなくても、鬱心勃々(うつしんぼつぼつ)であった孫権。忽ち、その気になって、軍議を会そうとした。
「急に、何のご軍議ですか」
重臣張昭(ちようしよう)は、それと聞くや、すぐ彼の前に出て諫(いさ)めた。
彼は、最初からの平和論者――というよりも自重主義の文治派であった。
「いま、赤壁の恥をそそがんと、曹操(そうそう)が日夜再軍備にかかっていることをお忘れですか。曹操がすぐにも大兵の再編成をして来ないのは、力がないからではありません。また、呉を怖れているからでもありません。呉と玄徳との聯合を怖れているのです。それを今もし呉が玄徳を攻め、両者の間に完全な戦争を生じれば、曹操は時機到来と、魏の全軍をあげて襲来しましょう」
「では、どうしたらいいか」
「それを如何にするかという問題より前に、しておかなければならない懸案があります」
「それは?」
「玄徳が曹操と和を結ばないように、処置を講じておくことです」
孫権はちょっと色を変えた。
「玄徳が――曹操と結ぶだろうか?」
「当然、ありうることでしょう。ありえないこととこちらが多寡(たか)を括(くく)っていればなおさら、その可能性は濃くなります」
「それは未然に警戒を要する」
「ですから――何よりもそれが当面の急です。てまえが思うには、この呉にも、曹操の隠密がかなり入りこんでいますから、すでにわが君が玄徳と面白からぬ感情にあることは、はや許都の曹操にも知れておりましょう。曹操は機を知ること誰よりも敏ですから、或いはもう使いを出して玄徳へ水を向けているかもしれません。早くなければなりません――この対策は」
「むむ。一朝、玄徳が魏と同盟するとなると、これは呉にとって、重大な脅威になる。――それをどう防ぐかだが、なんぞ、良策があるか」
「すぐにも都へ使いを上(のぼ)せ、朝廷へ表をささげて、玄徳を荊州の太守に封じるのが何よりと思いますが」
「…………」
孫権はおもしろくない顔をした。
張昭はたたみかけて、若い主君を喩(さと)した。
「すべて外交の計は苦節です隠忍(いんにん)です。玄徳に出世を与える。勿論、お嫌でたまらないでしょうが、その効果は大きい。何となればそれによって曹操は、呉と玄徳との間に破綻を見出すことができません。玄徳もまたそれに感じて呉を恨む念を忘れましょう。……かかる状態に一応現状を訂正しておいてから、呉としては、間諜を用いて徐々に曹操と玄徳との抗争をさそい、玄徳のそれに疲弊(ひへい)してきた頃を計って荊州を奪り上げてしまえばよいのです」
「敵地へ行って、そういう遠謀を巧みに植えつけるような間諜が、さし当って、おるだろうか」
「おります。平原の人で華欽(かきん)、字(あざな)を子魚(しぎよ)という者。もと曹操に愛せられた男ですが、これを用いれば適役でしょう」
「呼べ。早速」
孫権は、その気になった。
文武(ぶんぶ)競春(きようしゆん)
一
冀北(きほく)の強国、袁紹(えんしよう)が亡びてから今年九年目、人文(じんぶん)すべて革(あらた)まったが、秋去れば冬、冬去れば春、四季の風物だけは変らなかった。
そして今し、建安十五年の春。
〓城(ぎようじよう)(河北省)の銅雀台(どうじやくだい)は、足かけ八年にわたる大工事の落成を告げていた。
「祝おう。大いに」
曹操は、許都を発した。
同時に――造営の事も終りぬれば――とあって、諸州の大将、文武の百官も、祝賀の大宴に招かれて、〓城の春は車駕金鞍(しやがきんあん)に埋められた。
そもそも、この〓河(しようが)のながれに臨む楼台を「銅雀台」と名づけたのは、九年前、曹操が北征してここを占領した時、青銅の雀を地下から掘り出したことに由来する。
城から望んで左の閣を玉龍台といい、右の高楼を金鳳台という。
いずれも地上から十余丈の大厦(たいか)である。そしてその空中には虹のような反(そ)り橋を架(か)け、玉龍金鳳を一郭とし、それをめぐる千門万戸も、それぞれ後漢文化の精髄(せいずい)と芸術の粋(すい)をこらし、金壁銀砂は目もくらむばかりであり、直欄横檻(ちよくらんおうかん)の珠玉は日に映じて、
「ここは、この世か。人の住む建築か」と、たたずむ者をして恍惚と疑わしめるほどだった。
「いささか予の心に適(かな)うものだ」
由来、英雄は土木の工を好むという。
この日、曹操は、七宝の金冠をいただき、緑錦(りよつきん)の袍(ひたたれ)を着、黄金(こがね)の太刀を玉帯に佩いて、足には、一歩一歩燦爛(さんらん)と光を放つ珠履(しゆり)をはいていた。
「規模の壮大、輪奐(りんかん)の華麗、結構とも見事とも、言語に絶して、申し上げようもありません」
文武の大将は彼の台下に侍立した。そして万歳を唱し、全員杯を挙げて祝賀した。
「何かな、この佳(よ)い日、興じ遊ぶことはないか」
曹操は考えているふうであったが、やがて左右に命じて、秘蔵の赤地錦(あかじにしき)の戦袍(ひたたれ)を取寄せ、それを広苑(ひろにわ)の彼方なる高い柳の枝にかけさせた。そして武臣の列に向い、
「各々の弓を試みん。柳を距(へだ)つこと百歩。あの戦袍(ひたたれ)の赤い心当(むねあて)を射たものには、すなわちあの戦袍を褒美にとらすであろう。われと思わん者は出て射よ」と、いった。
「心得て候う」とばかり、自ら選手を希望して出た人々は、二行に列を作って、柳に対した。曹氏の一族はみな紅袍を着し、外様(とざま)の諸将はすべて緑袍(りよくほう)を着ていた。
選手はみな馬に乗り、手に彫弓(ちようきゆう)をたずさえて、合図を待つ。
曹操はふたたび告げた。
「もし、射損じたものは、罰として、〓河(しようが)の水を腹いっぱい呑ますぞ。自信のないものは、今のうちに列から退がれ。そしてこれへ来て罰盃(ばつぱい)を飲め」
誰も、退かなかった。
馬は勇み、人々の意気は躍る。
「よし!」
と曹操の言下に、合図の鉦鼓(かねつづみ)が鳴り渡った。とたんに一人、馬を出し、馬上に弓矢をつがえた。
諸人これを見れば、すなわち曹操の甥で、曹休(そうきゆう)字(あざな)は文烈(ぶんれつ)という若武者。一鞭(むち)して広苑(ひろにわ)の芝生を奔(はし)らすこと三遭(そう)、柳を百歩へだたって駒足をひたと停め、心ゆくばかり弦をひきしぼってちょうッと放った。
見事。矢は的(まと)を射た。
「ああ! 射たり、射たり」
と、感嘆の声は堂上堂下に湧いてしばし拍手は鳴りやまない。
その間に、近侍のひとりは、柳の側へ走って、かけてある紅(くれない)の袍(ひたたれ)をおろし、それを曹休に与えようとすると、
「待ち給え。丞相(じようしよう)の賞は、丞相のご一族で取るなかれ。それがしにこそ与え給え」
と呼ばわりながら、はや馬をすすめて、馬馴らしに芝生を駈け廻っている一将がある。
誰かと見れば、すなわち荊州の人文聘(ぶんぺい)、字(あざな)は仲業(ちゆうぎよう)であった。
二
文聘(ぶんぺい)は鐙に立った。弓手は眉を横に引きしぼる。
矢はひょうッと飛んだ。
とたんに、鉦鼓(かねつづみ)は鳴り轟き、諸人の感称もわっとあがった。
「あたった、あたった。柳にかけたる紅(くれない)の袍(ひたたれ)は、快くそれがしに渡し給え」
大音あげて、文聘がいうと、
「何者ぞや、花盗人(はなぬすびと)は。袍はすでに、先に小将軍が射られたり。わが手並を見てから広言を払え」
と、また一騎、駈け出た。
曹操の従弟(いとこ)、曹洪(そうこう)であった。
握り太な彫弓(ちようきゆう)の満(まん)を引いて、びゅッと弦(つる)を切って放つ。その矢も見事、彼方の袍の心当(むねあて)を射抜いた。
陣々の銅鑼、陣々の鼓、打ち囃(はや)し、賞(ほ)め囃(はや)し、観る者も、射る者も、今や熱狂した。
すると、また一人、
「笑うべし、文聘の児戯」と、馬おどらせて、あたりに威風を払って見せた大将がある。諸人これを見れば夏侯淵(かこうえん)であった。馬を走らすこと雷光の如く、首を回(かえ)して、後ろ矢を射た。しかもその矢は三人が射立てた矢の真ん中をぴったり射あてた。
夏侯淵は矢を追いかけて、柳の下へ駈け出した。そして、
「この袍は有難く、それがしが拝領つかまつる」
と、馬上から袍へ、手を伸ばそうとすると、遠くから、
「待った! 曲者(くせもの)」と、大声に叱って、彼方から一矢(し)、羽うなり強く、射てきた者がある。
これなん徐晃(じよこう)の放った矢であった。
「――あっ」
と、諸人は胆をつぶした。彼の矢は、あまりにも見事に、柳の枝を射切っていたからである。柳葉繽紛(ひんぷん)と散りしだき、紅錦の袍は、ひらひらと地に落ちてきた。
同時に、徐晃は駈け寄りざま、馬袍(うまひたたれ)をすくい取って、自分の背なかに打ちかけ、馬をとばして直ぐ馳せ戻り、楼の台上を仰いで、
「丞相の賜物(たまもの)、謹んで拝謝し奉る」
と、呶鳴った。
「ひどいやつだ」と、諸人みな、呆(あき)れ顔して騒然と囃していると、台下に立っていた群将の中から駈け出した許〓(きよちよ)が、物もいわず徐晃の弓を握って、いきなり馬の上から彼を引きずり下ろした。
「やっ。狼藉な」
「何の。まだ丞相のおゆるしはなし。その袍(ひたたれ)の受領者は、いずれに行くか、腕のうちにありだ」
「無法無法」
「渡せ。いで渡せ」
とうとう、二人は引っ組んで、四つになり、諸仆(もろだお)れになり、さんざん肉闘して、肝腎(かんじん)な錦の袍もために、ズタズタに引裂いてしまった。
「分けろ、引分けろ」
曹操は台上から苦笑して命じた。
物々しく、退鉦(ひきがね)打たせて、曹操はその二人をはじめ、弓に鍛えをあらわした諸将を一列に招き呼んで、
「いや、いずれ劣らぬ紅や緑。日頃のたしなみ、武芸の励み、見とどけたぞ。――なんで汝らの精励に対して、一裲の衣を惜しもうか」
と、大機嫌で、一人一人の者へ蜀江(しよつこう)の錦一匹(ぴき)ずつ頒(わ)け与え、
「さあ、位階に従って席に着け。さらに杯(さかずき)の満(まん)を引こう」と、促した。
三
その時、楽部(がくぶ)の伶人(れいじん)たちは、一斉に音楽を奏し、天には雲を闢(ひら)き、地には〓河(しようが)の水も答えるかと思われた。
水陸の珍味は、列座のあいだに配され、酒はあふれて、台上台下の千杯万杯に、尽きることなき春を盛った。
「武府の諸将は、みな弓を競って、日頃の能をあらわした。江湖の博学、文部の多識も、何か、佳章を賦(ふ)して、きょうの盛会を記念せずばなるまい」
酒たけなわの頃、曹操がいった。
万雷のような拍手が轟く。王朗(おうろう)、字(あざな)は景興(けいこう)、文官の一席から起って、
「鈞命(きんめい)に従って、銅雀台(どうじやくだい)の一詩を賦(ふ)しました。つつしんで賀唱いたします――」
銅雀台高ウシテ帝畿(テイキ)壮(サカン)ナリ
水明ラカニ山秀イデ光輝ヲ競ウ
三千ノ剣佩黄道(ケンパイコウドウ)ヲ趨(ハシ)リ
百万ノ貔貅(ヒキユウ)ハ紫微(シビ)ニ現ズ
と朗々吟じた。
曹操は、大いに興じて、特に秘愛の杯に酒をつぎ、
「杯ぐるみ飲め」
と、王朗に与えた。
王朗は、酒を乾して、杯は袂(たもと)に入れて退がった。文官と武官と湧くごとく歓呼した。
すると、また一人、雲箋(うんせん)に詩を記して立った者がある。東武亭侯侍中尚書(じちゆうしようしよ)、鍾〓(しようよう)、字(あざな)は元常(げんじよう)であった。
この人は、当代に於て、隷書(れいしよ)を書かせては、第一の名人という評がある。すなわち七言八絶を賦(うた)って――
銅雀台ハ高ウシテ上天(ジヨウテン)ニ接ス
眸(メ)ヲ凝(コラ)セバ遍(アマネク)ス旧山川(キユウサンセン)
欄干(ランカン)ハ屈曲シテ明月ヲ留メ
窓戸(ソウコ)ハ玲瓏(レイロウ)トシテ紫烟(シエン)ヲ圧ス
漢祖ノ歌風ハ空シク筑(チク)ヲ撃チ
定王ノ戯馬(ギバ)謾(ミダリ)ニ鞭ヲ加ウ
主人ノ盛徳ヤ堯舜(ギヨウシユン)ニ斉(ヒト)シ
願ワクハ昇平万々年ヲ楽シマン
と、高吟した。
「佳作、佳作」
曹操は激賞しておかなかった。そして彼には、一面の硯(すずり)を賞として与えた。拍手、奏楽、礼讃の声、台上台下にみちあふれた。
「ああ、人臣の富貴、いま極まる」
曹操は左右の者に述懐した。彼はこういう中でも反省した。
「――とはいえ、もしこの曹操が出なかったら、国々の反乱はなお熄(や)まず、かの袁術(えんじゆつ)の如く、帝王を僭称(せんしよう)するものが幾人も輩出したろう。幸いに、自分は袁紹(えんしよう)、劉表(りゆうひよう)を討平(とうへい)し、身は宰相の重きにあるといえ、或いは疑いを抱いて、曹操も天下を簒奪(さんだつ)する野心があるのでないかなどという者があるかもしれぬが、われ少年の日、楽毅之伝(がつきのでん)を読むに――趙王が兵を起して燕国(えんこく)を討とうとしたとき、楽毅は地に拝伏し、その昔日(か み)、臣は燕王に仕えり、燕を去るも燕王を思うこと、なお今日、あなたに仕える真心と少しも変りはない。むしろ死すとも、不義の戦はすまじと哭(な)いて云ったという。――楽毅伝のあの一章は少年の日、頭にふかくしみこんで今日になっても、この曹操はそれを忘れることができない。自分が四隣の乱をしずめ、府にあっては宰相の権をにぎり、出ては兵馬を司るのも、こうしなければ、四方の暴賊はみな私権を張り、人民はいつまで戦禍の苦しみから救われず、秩序は乱れるばかりで、遂には無政府状態におち入り、当然、漢朝の天下も亡びるに至ることを憂えたからにほかならない。――わが文武の諸将は、みなよく曹操の旨を諒せよ」
彼は、侍坐の重臣に、そう語り終ると、また数杯をかたむけて、面色大いに薫酔(くんすい)を発した。
「筆と硯をこれへ」
彼もまた、雲箋(うんせん)を展べて、即興の詩句を書いた。そしてそれへ、
吾レ高台ニ独歩シテ兮
俯シテ万里ノ山河ヲ観ル
という二句まで書きかけたところへ、たちまち、一騎の早打ちが、何事かこれへ報らせに飛んできた。
四
大宴満酔の折も折、席も席であったが、
「時務は怠れない」と、曹操は、早打ちの者を、すぐ階下によびよせて、
「何事やある?」と、許都からの報らせを訊いた。
「まず、相府の書を」と、使いは、官庁からのそれを曹操へ捧じてから、あとを口上で告げた。
「湖北へお出ましの後、江南の情報が、しきりと変を伝えてきました。それによると、呉の孫権(そんけん)は華欽(かきん)というものを使者に立て、玄徳(げんとく)を荊州の太守に推薦し、一方、天子に表をたてまつって、おゆるしを仰いでいます。それも、事後承諾のかたちです。――のみならずまた彼孫権は、どうしたのか旧怨を捨て、自分の妹を玄徳の夫人として嫁がせ、その婚姻の引出物に、荊州九郡の大半も、玄徳に属すものと成り終ったということです。要するに玄、孫、二者の結合は、当然、わが魏へ向って、何事か大きな影響を及ぼさずにはいないものと――許都の府においても、みな心痛のまま、かくは早打ちをもって、お耳にまで達しに参りました」
「なに。呉侯の妹が、玄徳へ嫁いだ……?」
曹操は思わず、手に持っていた筆を取落した。
その愕(おどろ)きが、いかに大きく、彼の心をうったかは、とたんに手脚を張って、茫然と、空の雲へ向けていた放心的な眼にも明らかであった。
程〓(ていいく)が、筆を拾って、
「丞相、どう遊ばしました。敵軍の重囲におち給うて、矢にあたり石に打たれても、なお顛倒されたことのない丞相が……?」
「程〓、これが驚かずにいられるか。玄徳は人中の龍だ。彼、平生に水を得ず、伸びんとして遂に伸び得ず、深く淵(ふち)にいたものが、いま荊州を獲たとあっては、これ龍が水に会うて大海へ出たようなもの……豈(あに)、驚かずにいられよう」
「まことに、晴天一朶(だ)の雲です。けれど、彼の計を、さらに計るの策はありませぬか」
「水と龍と、相結んだものを、断り離つのは難しいだろう」
「程〓はさほどまでには思いません。なぜならば、元来、孫権と玄徳とは、水龍二つの如く、性の合ったものではありません。むしろ孫権としては、玄徳を憎むこと強く、これを謀ろう謀ろうとしている気振りが見える。およそこんどの婚儀も、何か底に底ある事情からでしょう。――ゆえに、水龍相搏(う)たせ、二者をして、争い闘わせる手段が、絶無とはいえません」
「聞こう。――その計は」
「愚存を申しますれば、なんといっても孫権がたのみとしているのは、周瑜(しゆうゆ)です。また、重臣の雄なるは程普(ていふ)でしょう。……ですから丞相には早速許都へお帰りあって、まず呉の使いの華欽にお会い遊ばし、華欽を当分、呉へ帰さないことです」
「そして」
「別に勅を仰いで、周瑜を南郡(なんぐん)の太守に封じます。また程普を江夏の太守とします。――江夏、南郡ともに今なお玄徳の領有している所ですから、これを呉使華欽に伝えてもおそらくお受けしますまい。ですから華欽にはさらに官職を与えてしばし朝廷にとどめおき、別に勅使を下して、これを呉の周瑜、程普に伝えます。かならず拝受感激いたすに違いありません」
「……むむ。そうか」
曹操は、程〓が考えたところのものを、もう結果まで読みとっていた。
その夕、彼は、銅雀台の遊楽も半ばに、〓河(しようが)の春にも心を残しながら、にわかに車駕をととのえて許昌の都へ帰って行った。
そして、呉使華欽に、大理寺少卿(だいりじしようけい)という官爵を与え、彼を都へとどめておく一方、勅命を乞うて、程〓の献策どおり、勅使を呉の国へ馳せ下した。
荊州往来(けいしゆうおうらい)
一
周瑜(しゆうゆ)は、その後も柴桑(さいそう)にいて瘡養生(きずようじよう)をしていたが、勅使に接して、思いがけぬ叙封の沙汰を拝すると、たちまち病も忘れて、呉侯孫権(そんけん)へ、次のような書簡をしたためて送った。
天子、詔(みことのり)を降して、いま不肖周瑜に、南郡の太守に封ずとの恩命がありましたが、南郡にはすでに玄徳(げんとく)あり、臣の得る地は一寸もありません。しかもその玄徳は今、主家のお妹君の婿たり。臣、朝命に忠ならんとすれば、主家の親族にそむく科(とが)を得べく、主家に忠ならんとすれば、朝命にもとることと相成ります。
ねがわくは、周瑜の心事を憐み給い、君公のご賢察を仰ぎ奉る――
孫権は近頃、呉の南徐(なんじよ)(南京附近)に都していたが、すぐ魯粛(ろしゆく)を呼んでいった。
「困ったことになった。周瑜からはこう云ってくるし、玄徳はわが妹婿となったのを名として、いよいよ荊州を呉へかえす肚などあるまい」
「いえ、蜀(しよく)の国を取ったら、荊州はおかえし申すと、孔明(こうめい)も連判して、固い証約を取ってありますから」
「黙れ、黙れ。そんな反故(ほご)を信用して、彼が蜀の国を取るまで待つくらいなら、なにも心配はせん。もし玄徳が一生のうちに蜀へ入ることができなかったらどうするか」
「おそれ入ります。そこまでは」
「それみい。其方とて、必ずそういう時期があるとは保証できまい。ましてや彼には孔明という者がついている以上、素直に荊州を渡すわけはない」
「私の責任です。願わくはもう一度、荊州へ私をおつかわし下さい」
「きっと話をつけて来るか」
「あくまで、談じて参ります」
ここ、各地の合戦は、すこし歇(や)んでいるようだが、四囲の情勢は依然わるい。とうてい、このまま天下が平和に入るような兆候は、何を観ても考えられない。
荊州を中心に、今や玄徳は、孔明を師とし、関羽(かんう)、張飛(ちようひ)、趙雲(ちよううん)などを翼尾として、日夜、軍馬を調練していた。軍事そのものばかりでなく、政策、経済、交通、あらゆる部門に、次の必然なるものの到来に備えていた。
「亮(りよう)軍師。また、魯粛が呉から使いに来たそうだが、会ったらどういおう」
玄徳は、孔明に諮(はか)った。
孔明はこう教えた。
「もし魯粛が、例の問題を持出して、荊州のことを云い出したら、君には、声を放って、お哭(なげ)きになられたがよいでしょう」
「そして?」
「あとは私が、よいように、そこの所を計らいますから」
やがて魯粛はこれへ着いて、堂上に迎えられ、かつ上席に請ぜられた。
「恐縮です。魯粛如きに、上座をお譲り遊ばすとは」
「なぜ、ご遠慮あるか」
「以前はともあれ、今はわが主君の婿君たるあなた様をおいて、臣下の私が上に坐るいわれはありません」
「いや、旧交を思うてのこと、左様に謙譲にせずともよい」
「でも、礼儀だけは」と、物堅い魯粛は、あくまで辞退して、横に席を取った。
だが、答礼も終って、いよいよ用件の段階に入ると、さすがにその謙虚も払って、
「呉侯のご命をうけて、再度、それがしがこれへ参った仔細は、疾くご推察であろうが、もっぱら荊州譲渡の事を議せんためであります。すでに呉家と劉家とは、ご婚姻によって、まったく一和同族の誼(よし)みすらある今日、なお久しく借り給うてお還しなきは、世上の聞えにも、将来の御為(おんため)にも、おもしろからぬことかと存ぜられる。この度はぜひそれがしの顔もたてて、お快くご返却ねがいたいと思います」
魯粛が、厳重な語気を裡(うち)につつんで、そう切り出すと、劉玄徳は、彼のことばの半ばから面をおおって、よよと、声を洩らして哭(な)き出した。
魯粛は愕(おどろ)いて、
「……これは?」と、ばかり玄徳の哭く様子を見まもっていた。
二
孔明は、その機(しお)に、衝立(ついたて)の後ろから歩いてきて、魯粛(ろしゆく)へいった。
「粛公。あなたは、皇叔がなんで嘆き悲しむか、仔細をご存じか」
「わかりません」
「蜀の劉璋(りゆうしよう)は、漢朝の骨肉、いわば皇叔とは、血において、兄弟も同じです。もし故なく兵を起して、蜀へ攻め入れば、世人は唾して不徳を罵(ののし)るであろう。――さりとて、もし荊州を呉侯へ返せば、身を置く国もありますまい」
「わかりました」
魯粛は、座を起って、なお哭(な)き悶(もだ)えている玄徳の肩へ顔をよせて慰めた。
「皇叔、皇叔……。さのみ嘆き給いそ。私と孔明とで、何か良い思案をめぐらしますから」
魯粛が、情にうごいた容子を見て、孔明はここぞと、共に情をこめて玄徳へいった。
「わが君、そのようにご悲嘆ありましては、遂には、心身をそこねましょう。万事は魯粛どのの仁侠と義心にお頼みあそばして、心をひろくお持ち下さい。――また粛公には、呉侯に対して皇叔がこのように苦衷(くちゆう)しておられる仔細を、何とぞよろしきように、お伝え給われ。よも、呉侯とて、お怒りはなさるまい」
魯粛は、急に我にかえって、大げさに手を振りながら、
「待って下さい。またしても、むなしく、そんなご返事をもたらして帰ったら、今度こそ呉侯も、どうおっしゃるか分りません」
「いやいや、すでにご自分の妹君を娶合(めあわ)せられた呉侯が、その婿たるお方のかくばかりな苦境をば、何とて他に見ましょうぞ。臣下に対して、表向き、きびしく約束の履行をおっしゃるでしょうが、本心からご立腹なさるわけはありません」
温厚寛仁な魯粛は、そういわれると、とかくの議論にも及ばず、ただ玄徳の立場に同情し、ひいては主君の意思の裏にも、一片の情けはある筈だと思いこんでしまった。
ついに今度も、空手(からて)で帰国の途につくしかなかったが、途中、柴桑(さいそう)に船をよせて一泊したついでに、周瑜(しゆうゆ)を訪ねて、この次第を話すと、周瑜は、またしても卿は孔明に一杯喰わされたのだと云い、魯粛のあまりにも善意的な見解をなじって、
「君の性質は、全然、外交官としては零(ゼロ)だ。ただ篤実な長者でしかない」
馬鹿といわないばかりに、腹を立てて云った。
「考えても見給え。劉表(りゆうひよう)に身を寄せていた頃から、常に劉表の後釜(あとがま)をうかがっていた玄徳じゃないか。いわんや、蜀の劉璋などに、なんの斟酌(しんしやく)を持っているものか。すべて彼と孔明の遷延策(せんえんさく)にほかならぬものだ。そして何とかかんとかいって荊州を呉へかえさない算段をめぐらしているにきまっておるさ!」
魯粛は、青くなった。
呉侯に取次ぐ言葉がないからである。
「もう一度、荊州へ行って来給え。そんな回答をたずさえて、呉侯の前でおめおめと当り前みたいな顔して申し上げたら、おそらく卿の首はその場でなくなるにきまっている」
周瑜は一大秘策を授けた。
(君は篤実な長者とはいえるが、外交官としてはゼロだよ)と、彼にいわれた魯粛は、それを不名誉とも思わず、あくまで自己の性格の命ずるまま、周瑜の秘策を持ってそこから再び荊州へ引っ返した。
そして玄徳に会うと、こう告げた。
「立ち帰って、あなたのご苦衷と、おなげきの態を、主君孫権へ、ありのまま、お伝えいたした所、主君も大いに同情の色を現し、群臣と共に、ご評議の結果、こういう一案をお立てになりました。おそらく、これには皇叔とても、よも異存はあるまいとの衆議からで……」と、ここに周瑜の智謀から出た退(の)っぴきさせぬ一要求を持ち出した。それは、玄徳の名で蜀へ攻め入るのがまずいならば、呉の大軍をもって、呉が直接、蜀を取る。――だが、その節には、荊州を通過することと、多少の軍需兵糧を補給するという確約をむすんでもらいたいという条件であった。
三
玄徳は、異議なく、協力を誓った。
その前に、孔明からいわれていたので、むしろ歓びを現して、
「呉の兵力をもって、蜀を攻めていただければ、これに越したことはない。ご軍勢の領内通過は、当然なことで、許すも許さないもありません。こう好都合に談(はなし)がまとまったのも、みな足下のお骨折りと申さねばなるまい」と、魯粛(ろしゆく)に恩を謝した。
(このたびこそ上首尾に)
魯粛も心ひそかに喜悦して、早速、柴桑(さいそう)へ帰って行った。玄徳はそのあとで孔明に訊ねていた。
「呉の軍勢をもって、蜀を攻め、それを取って、この玄徳に与えようとは、いったいどういう呉侯の肚(はら)だろうか」
「いや、呉侯の肚ではありますまい。またしても周瑜(しゆうゆ)の策です。愍(あわれ)むべし、自分の策のために、周瑜の死にぎわはいよいよ近づいてきたようです」
「なぜ、そういえるか」
「魯粛はまだ呉の南徐まで帰ったのではありません。途中柴桑に寄って、周瑜に会い、彼の策をそのまま持って、再びこれへ来たものです」
「なるほど。往来の日数から数えても、ちと早過ぎるとは思ったが」
「蜀を攻めるを名として、荊州の通過を申し入れてきたのは、明らかに周瑜の考えそうな謀略で、実は荊州を取るつもりです」
「それを知りつつ、なぜ軍師には彼の要求を容れよと、予にすすめたのか」
「時節到来です。お案じ遊ばすな」
趙雲をその場に呼び、何事か策をさずけて走らす一方、孔明自身も、やがて来るべきものに対し、万端の備えをしていた。
一方。
魯粛の返辞を聞いて、柴桑の周瑜は、手を打ってよろこんだ。そして快然と、こういった。
「今度こそ、してやったり、初めて孔明をあざむき得たぞ!」
魯粛は、船をいそがせて、南徐に下り、呉侯に会って云々(しかじか)と報告した。
「さすがは周瑜、これほどな智謀の持ち主は、呉はおろか、当代何処にもおるまい。玄徳、孔明の運命も、ここに極まったり」と、呉侯の共鳴もすばらしいものである。直ちに、早打ちをやって、周瑜を励まし、また程普(ていふ)を大将として、彼を助けしめた。
このとき周瑜は、瘡(きず)もあらかた平癒して、膿水(のうすい)も止まり、歩行には不自由ない程度になっていたので、彼は勇躍身を鎧(よろ)って、みずから戦陣に臨むべく決心した。
甘寧(かんねい)を先手に、徐盛(じよせい)、丁奉(ていほう)を中軍に、凌統(りようとう)、呂蒙(りよもう)を後陣として、総勢五万、水陸軍に編制し、彼自身は、二万五千をひきいて柴桑を船で出た。
時の記録には、彼の心事を描いて、
心ノウチ仕済(シスマ)シタリト打チヨロコビ
笑イ楽シンデ、溯江(ソコウ)数百里、夏口(カコウ)マデ来リケル。
と、ある。
おそらく彼の心境はそうだったろうと思われる。夏口へ着くと、彼は土地の役人に訊ねた。
「たれか荊州から迎えは来ていないか」
役人は叩頭(こうとう)して答えた。
「劉皇叔の命をおび、糜竺(びじく)と仰せられる大官が来ていらっしゃいます」
間もなく、江頭から小舟が漕いできた。糜竺であった。
「ご遠征、まことにご苦労にぞんじます。主人もすでに、御軍需の用に供える金銀兵糧の用意を済まし、また、諸軍のご慰労などもどうしたがよいかと、心をくだいておられます」
船上に登って、糜竺が、こう拝伏して告げると、周瑜は尊大に構えて、
「劉皇叔には、今どこにおらるるか」
と、質し、すでに荊州の城を出て、貴軍の到着を待っていると聞くと、周瑜は、
「こんどの出陣は、蜀を取って、皇叔に進上せんためであって、まったく貴国の為に働くのであるから遠路を来たわが将士には、充分なもてなしと礼をもって迎えられよ」と、特にいった。
四
唯々諾々(いいだくだく)である。糜竺(びじく)は命ぜられるまま、倉皇として帰って行った。
そのあとから周瑜(しゆうゆ)もすぐ上陸した。江上一帯に、兵船の備えを残して、陸路、荊州へおもむいた。
ところが、公安まで来ても、劉玄徳の出迎えはおろか、小役人の迎えにも会わない。
「荊州までどのくらいあるか。あとの道のりは?」
心に怪しみながら周瑜がたずねると、
「もうわずか十里しかありませぬ」と、彼の幕下たちも眉をひそめ合っている。
「はて。いぶかしい?」と、休息しているところへ、先手の斥候が馬をとばして来て、
「何か、様子が変です。はるか見渡すかぎり、人の影も見えず、荊州の城を望めば、まるで葬式のように、二旒(ふたながれ)の白旗がしょんぼりなびいているだけなんです」
周瑜は、聞くや否、
「甘寧(かんねい)、丁奉(ていほう)と来い」と、精兵千騎だけをつれて、まっしぐらに荊州城下まで駈け通した。
「孔明も、馬鹿ではない。或いは、こっちの肚を察して、いち早く、城を明けて逃げ出したのかも知れない」
周瑜が八、九分まで信じていたものは、そういう見解だった。ところが城門へ来て、門を開けよと呼ばわると、中から、
「何者だっ」と、案外、気の強い声がした。
「呉の大都督周瑜である。なぜ劉皇叔には、出迎えに出ないかっ」
大音に叱り返すと、とたんに城頭の白旗がばたんと仆れた。そしてたちまち、それに代って炎のような紅(くれない)の旗が高々と揚げられ、
「周都督、何しに来たか」
と、いう者がある。
仰いで天を見ると、櫓(やぐら)の上に、一人の大将の姿が小さく見えた。
「オオ趙雲(ちよううん)ではないか。玄徳はいかがしたか」
「知らず!」と、噛んで吐き出すように、趙雲は下をのぞいていった。
「わが軍師孔明には、すでに足下が――道ヲ借リテ草ヲ枯ラス――の計を推量し、それがしをここの番につけ置かれた。他所(よ そ)をさがし給え。それとも、城中の趙雲に御用があるか」
と、槍を頭上にかざして、今にも投げ落そうとする姿勢を示した。
周瑜(しゆうゆ)は愕(おどろ)いて、馬を引っ返した。城下の町角から「令」の一字を書いた旗を背にした一騎が近寄って来て、
「いよいよ、怪しいことばかりです。いま諸方の巡警からしらせて来たところによると、関羽は江陵より攻め来り、張飛は〓帰(しき)より攻め来り、また、黄忠(こうちゆう)は公安の山陰から現れ、魏延(ぎえん)は孱陵(せんりよう)の横道から殺到しつつあるということです。兵数そのほか、事態はまだよく分りませんが、なにしろ喊の声は、遠近にひびき、さながら四方五十余里まるで敵に埋ったかのような空気で――そこらの部落や下民どもまで、口々に玄徳、孔明の叫びを真似て――呉客周瑜を生捕りにしろ、周瑜をころせ――と喚(おめ)き伝えているそうです」
「ううむっ……」
がばと、周瑜は、馬のたてがみに、うっ伏してしまった。
せっかく癒りかけていた金瘡(きんそう)ことごとくやぶれて、ぱっと、血を吐いたかと思うと、そのままくたっと、馬の背から落ちてしまった。
諸将は、仰天して、周瑜の身をかかえ、辛くも救命薬を与えて蘇生させた。ところへまた、物見が来て、
「孔明と玄徳は、ついこの先の山上に、莚(むしろ)をのべ、幕(とばり)をめぐらし、酒を飲んで、さながら遊山でもしているように、楽しみ興じている態です」
と、告げたので、周瑜はいよいよ歯がみをして、無念の拳をにぎりしめた。
五
周瑜(しゆうゆ)の侍医や近侍たちは、こもごもになだめて、安臥をすすめた。
「怒気をお抱き遊ばすほど、破傷のご苦痛は増すばかりです。なにとぞお心をしずめて、静かに、しばしご養生を」
大軍を率いて遠く溯江(そこう)し、上陸第一日にこの凶事だったから、諸人の気落ちと狼狽は無理もなかった。
ところへ、呉侯孫権の弟孫瑜(そんゆ)が援軍を引いて到着したと報じて来た。周瑜が、
「会いたい」
というので、早速、馬をとばして迎えにやると、孫瑜はすぐ駈けつけて、こう慰めた。
「都督、余りじりじりせぬがよい。予がこれへ来たからには、万事、呉侯に代って指揮いたすゆえ、御身はしばらく船中へ退いて、何よりも身の養生に努めるがいい」
しかし、周瑜はなお、身の苦痛など口にも出さない。火の如き憤念を吐いて、
「誓って、荊州を取り、玄徳、孔明の首を見なければ、なんの顔(かんばせ)をもって呉侯にまみえよう」
血涙をたたえて云った。
孫瑜は、その激越を気づかってわざと相手にならない。そして直ちに病輿(びようよ)を命じて彼を乗せ、ひとまず夏口の船場まで退くことにした。
その途中である。巴丘(はきゆう)という所まで来ると、彼方に荊州の一軍が江頭の道を切りふさいだという。物見を放ってうかがわせると、関羽の養子関平(かんぺい)と劉封(りゆうほう)の二将が、
「周瑜来らば――」と、虎を狩るように、厳しく陣をめぐらしているとある。
周瑜は聞くと、輿(こし)の中で、身をもがいて叫んだ。
「降ろせっ。輿の中よりわしを出せ。猪口才(ちよこざい)な孔明の手先、蹴ちらして通る」
けれど病輿はどんどん道をかえてほかの方向へ走っていた。孫瑜の命令で、夏口にある船の一艘をべつな江岸へ呼び、そこから辛うじて周瑜の身を船へ移した。
するとそこへ、荊州の軍使と称する者がきて、一書を、周瑜へ渡して去った。――見れば孔明の手蹟である。
その文にいう。
漢ノ軍師中郎将諸葛亮(シヨカツリヨウ)、書ヲ大都督公瑾(コウキン)(周瑜)先生ノ麾下(キカ)ニ致ス。
亮、柴桑(サイソウ)ノ一別ヨリ、今ニ至ッテ恋々ト忘レズ。聞ク、足下(ソツカ)、西川(セイセン)(蜀)ヲ取ラント欲スト。
亮思エラク、不可ナリ。益州(蜀)民ハ強クシテ地ハ険。
劉璋(リユウシヨウ)ノ暗弱ヲ以テシテモ守ルニ足レリ。今、師(イクサ)ヲ挙ゲテ遠征シ転運万里、全功ヲ収メント欲シ、呉起(タ)ツトイエドモソノ規(キ)ヲ定ムルコト能(アタ)ワザラン。
抑(ソモ)、天下如何ナル愚人ゾ。曹操(ソウソウ)ガ赤壁ノ大敗ヲ見テ、亦(マタ)、ソノ愚轍(グテツ)ヲアエテ趁(オ)ワントスルトハ。今、天下三分シ、操ハソノ二分ヲ占メ、ナオ、馬ヲ蒼海ニ水飼イ呉会ニ兵ヲ観ンコトヲ望ム。時呉兵ヲシテ遠伐(エンバツ)ニ赴カシメ、自ラ守ルヲ虚シュウスルハ長計ニ非ザル也。操ガ兵一度至ラバ、江南粉滅サレ尽サン。
坐シテ視ルニ忍ビズ、ココニ告グ。幸イニ照覧ヲ垂レヨ。
読み下してゆくうちに、周瑜は恨気(こんき)胸にふさがり、手はわななき、顔色も壁土のようになってしまった。
「ううむっ……」と、太く、苦しげに、長嘆一声すると、急に、
「筆、筆、筆。……紙を。硯(すずり)を」
と、さけび、引ったくるように持つと、必死の形相をしながら、なにか懸命に書き出した。文字はみだれ、墨は散り、文は綿々と長かったが、遂に書き終るや否、筆を投げて、
「ああ、無念っ……無情や人生。皮肉なることよ宿命……。天すでに、この周瑜を地上に生ませ給いながら、何故また、孔明を地に生じ給えるや!」
云い終ると、昏絶して、一たん眼を閉じたが、ふたたびくわっと見ひらいて、
「諸君。不忠、周瑜はここに終ったが、呉侯を頼む。忠節を尽して……」
忽然、うす黒い瞼を落し、まだ三十六歳の若い寿(とし)に終りを告げた。時、建安十五年の冬十二月三日であったという。
鳳雛(ほうすう)去(さ)る
一
喪旗(もき)を垂れ、柩(ひつぎ)をのせた船は、哀々(あいあい)たる弔笛(ちようてき)を流しながら、夜航して巴丘(はきゆう)を出て、呉へ下って行った。
「なに、周瑜(しゆうゆ)が死んだと?」
孫権(そんけん)は、彼の遺書を手にするまで、信じなかった。いや信じたくなかった。
周瑜の遺書には、
瑜(ユ)死ニ臨ミ、泣血頓首(キユウケツトンシユ)シテ、書ヲ主君明公ノ麾下ニ致ス
と書き始めて、縷々(るる)といま斃(たお)れる無念をのべ、呉の将来を憂い、その国策を誌し、そして終りには、
(自分の亡い後は、魯粛(ろしゆく)を大都督として職をお任せあれば、彼は篤実忠良な仁者ですから、外に過(あやま)たず、内に人心を獲ましょう)
とも云いのこしてあった。
孫権の悲嘆はいうまでもない。暗澹と、彼の将来を思って、
「周瑜のような王佐の才を亡くして、この後何を力とたのもう」
と慟哭(どうこく)した。
けれどいつまで嘆いている所ではないと、張昭(ちようしよう)そのほかの重臣たちに励まされて、周瑜の遺言を守り、魯粛を大都督に任命した。以後、呉の軍事はすべて、彼の手に委(ゆだ)ねられた。
もちろん、国葬を以て、遺骸は篤く葬られた。国中、喪に服して、哀号の色もまだ拭われないうちに一船、江を下ってきて、
「元勲、瑜公の死を聞き、謹んで遠くよりおくやみに来ました」と告げた者がある。
そう関門へ告げに来た者は、すなわち趙雲子龍(ちよううんしりゆう)であったが、正使は諸葛孔明(しよかつこうめい)その人であり、玄徳(げんとく)の名代として従者五百余をつれて上陸した。
喪(も)を弔(とむら)う――と称してきた者を拒(こば)むわけにもゆかなかった。魯粛が迎えて対面した。しかし故人周瑜の部下や、呉の諸将も口々に、
「斬ってしまえ」
「これへ来たこそ幸いなれ、彼の首を、霊前に供え、故人の怨恨を今ぞ晴らさん」
と、ひしめきあった。
けれど、孔明のそばには、たえず趙雲が油断なく眼をくばっているので、容易に手が下せなかった。
しかも孔明は塵ほどな不安も、姿にとめていなかった。
殺気満ち盈(み)つ中を、歩々、水の如くすすんで、周瑜(しゆうゆ)の祭壇に到るや、その前にぬかずいて、やや久しく黙拝していたが、やがて携えてきた酒、その他の種々(くさぐさ)を供え、霊前に向ってうやうやしく自筆の弔文(ちようもん)を読んだ。
惟(コレ)、大漢ノ建安十五年。南陽、諸葛亮(シヨカツリヨウ)、謹ンデ祭(サイ)ヲ大都督公瑾周府君(コウキンシユウフクン)ノ霊前ニ致シテ曰(イ)ウ。
嗚呼(アア)公瑾不幸ニシテ夭亡(ヨウボウ)ス、天人倶(トモ)ニ傷(イタ)マザルハ非ズ……
孔明の声は、一語一句、呉将の肺腑(はいふ)にしみた。弔文は長い辞句と切々たる名文によってつづられ、聞く者、哭くまいとしても哭かずにいられなかった。
――亮(リヨウ)ヤ不才、計ヲ問イ、謀(ハカリゴト)ヲ求ム、皆君ガ神算ニ出(イ)ヅ。呉ヲ扶(タス)ケ、曹(ソウ)ヲ討チ、劉(リユウ)ヲ安ンジ、首尾掎角(キカク)、為ニ完(マツタ)シ、嗚呼公瑾今ヤ永ク別ル。何ヲ慮(オモンパカ)リ何ヲカ望マン。冥々(メイメイ)滅々、霊アラバ我心ヲ鑑(ミ)ラレヨ。此ヨリ天下再ビ知音(チイン)無カラン。嗚呼痛(イタ)マシイ哉。
読み終ると、孔明は、ふたたび地に伏して大いに哭(な)き、哀慟(あいどう)の真情、見るも傷ましいばかりだったので、並びいる呉の将士もことごとく貰い泣きして、心ひそかに、皆こう思った。
(周瑜と孔明とは、たがいに仲が悪く、周瑜はつねに孔明を亡き者にしようとし、孔明もまた周瑜に害意をふくんでいると聞いていたが、……この容子ではまるで骨肉の者と別れたような嘆き方だ。察するところ、周瑜の死は、まったく孔明のためではなく、むしろ周瑜自身の狭量が、みずから求めて死を取ったものだろう。どうもそれでは致し方もない……)
初めの殺意は、かえって、後の尊敬となって、魯粛以下、みな引き留めたが、孔明は長居は無用と、惜しまれる袂(たもと)をふり切って、その日のうちにすぐ船へ帰って行った。
ところが、ここにただ一人、城門の陰から見え隠れに、孔明のあとをつけて行った破衣竹冠(ちつかん)のみすぼらしい浪人者があった。
二
魯粛(ろしゆく)は、江の岸まで孔明を送ってきた。
別れて孔明が、船へ乗ろうとした時である。竹冠の浪人は、
「待てっ」
いきなり馳け寄りざま、臂(ひじ)を伸ばして、孔明の肩を引っつかんだ。そして、大声に、
「すでに周都督を、気をもて殺しながら、口を拭いて、自らその喪(も)を弔(とむら)うと称し、呉へ来るなどは、呉人を盲にした不敵な曲者(しれもの)、呉にも眼あきはいるぞ」
と、片手に剣を抜いて、あわや孔明を刺そうとした。
別れて十歩ほど、そこを去りかけた魯粛も、この声に仰天して、
「何をするかっ、無礼者」と、馳けもどるなり浪人の腕をつかんで振り飛ばした。
すると浪人は、自身ひょいと飛びのいて、
「あははは、冗談です」
と、もう剣を鞘(さや)に収めていた。
見れば、背の低い、そして鼻の平たい、容貌といい風采といい、まことに人品のいやしげな男だった。
孔明は、にこと笑って、
「やあ、誰かと思うたら、〓統(ほうとう)ではないか」
と、親しげに寄って、その肩を打ち叩いた。
「なんだ、貴君か」
と、魯粛も気抜けしたり、ほっと胸をなでたりして、
「悪いお戯れをなさる。部下の血気者でも狼藉に及んだかと思って、ぎょッとしましたよ」
一笑して、彼はそのまま、城内へ帰って行った。
〓統、字(あざな)は士元(しげん)、襄陽(じようよう)名士のひとりで、孔明がまだ襄陽郊外の隆中に居住していた頃から、はやくも知識人たちの間には、
〓統ハ、鳳凰(ホウオウ)ノ雛(ヒナ)。
孔明ハ、臥(フ)セル龍ニ似ル。
――と、その将来を嘱目(しよくもく)されていたのだった。
荊州滅亡の後、その〓統は、呉の国に漂泊しているとは、かねて孔明も人のうわさに聞いていたが、ここで相見たのは、まことに意外であった。
で、孔明は、船が纜(ともづな)を解くまでの寸間に、一書をしたためて、彼にこう告げて手渡した。
「おそらく、御身の大才は、呉の国では用いられまい。君も一生そう浪人しているつもりでもあるまいから、もし志を得んと思うなら、この書をたずさえて、いつでも荊州へやって来給え。わが主玄徳は寛仁大度、かならず君が補佐して、君の志も、共に達することができよう」
孔明の船は、江をさかのぼって、遠く見えなくなった。
船影が見えなくなるまで、〓統は岸にたたずんでいたが、やがて飄乎(ひようこ)として、何処へか立ち去った。
その後、呉では、周瑜(しゆうゆ)の柩(ひつぎ)をさらに蕪湖(ぶこ)(安徽省・蕪湖)へ送った。蕪湖は周瑜の故郷(ふるさと)であり、そこの地には故人の嫡子や女(むすめ)などもいるし、多くの郷党もみな嘆き悲しんでいるので、名残りを篤うさせたのであった。
けれどいくら死後の祭を盛大にしてやっても、なお恋々と故人の才を惜しんでは日夜痛嘆していたのは孫権自身であった。すでに乗り出してしまった大業に向って、まだ赤壁の一戦に大捷(たいしよう)を克(か)ち獲たきりである所へ、たのむ股肱を失ったのであるから、その精神的な傷手の容易に癒(い)えないのも無理はなかった。
それに代る柱石として、魯粛を大都督に任じたものの、魯粛の温厚篤実では、この時代をよく乗り切って呉の国威を完(まつと)うし得るかどうかすこぶる疑わしい。――それは誰よりも魯粛自身がよく知っていた。
「私は元来、取るに足らない凡庸(ぼんよう)です。周都督のご遺言といい、君命もだし難く、一応おうけ致したものの、決して天下人なきわけではありません。ぜひ、孔明にも勝るところの人物を挙げてその職にあたらせていただきとう存じます」
彼の正直なことばを孫権もそのまま容れて、しかし一体、そのような人物がいるだろうかと反問した。もしおるならば推薦せよといわぬばかりに。
三
「おります。ただ一人」と、魯粛(ろしゆく)は、主君の言下に、こう推薦した。
「世々襄陽(じようよう)の名望家で、〓統(ほうとう)、字(あざな)は士元(しげん)、道号を鳳雛(ほうすう)先生ともいう者ですが」
「おお、鳳雛先生か。かねて名だけは聞いておる。周瑜(しゆうゆ)と人物をくらべたら?」
「故人の評はいえません。しかし、孔明も彼の智には深く伏しています。また襄陽人士のあいだでも、二人を目して、兄(けい)たり難(がた)く弟(てい)たり難しといっています」
「そんな偉才か」
「上天文に通じ、下地理を暁(さと)り、謀略は管仲(かんちゆう)、楽毅(がつき)に劣らず、枢機(すうき)の才は孫子、呉子にも並ぶ者といっても過言ではないでしょう」
孫権は渇望の念を急にした。すぐ召し連れよとある。魯粛が数日のあいだ〓統を市中に探している間も、
「まだか。まだか」
幾度も催促したほどだった。
けれどやがて魯粛がたずね当てて呉の宮中へつれて来たのを一見すると、孫権はひどくがっかりした顔をした。
何分にも、風采があがらない。面は黒疱瘡(くろぼうそう)のあとでボツボツだらけだし、鼻はひしげているし、髯(ひげ)は髯というよりも、短い不精髯(ぶしようひげ)でいっぱいだ。
(こんなまずい男様(おとこざま)も少ない)と孫権は、古怪(こかい)を感じながら、それでも二、三の問いを試みた。
「足下。何の芸があるか」
〓統は答えた。
「飯を喰い、やがて死ぬでしょう」
「才は?」と、訊くと、
「ただ機に臨んで、変に応じるのみ」と、ぶっきら棒である。
孫権はいよいよ蔑(さげす)みながら、
「足下と、周瑜とをくらべたら」
「まず、珠(たま)と瓦でしょうな」
「どっちが?」
「ご判断にまかせます」
明らかに、この黒あばたが、自ら珠を以て任じている顔つきなので、孫権は、ぷっと怒りを含んで奥へかくれてしまった。そして、魯粛を呼び、
「あんな者はすぐ追い返せ」といった。
魯粛は、彼の感情に曇った鑑識を極力、訂正につとめた。
「一見、狂人に似、風采もあがらない男ですが、その大才たる証拠には、かの赤壁の戦前に、周瑜に教えて、連環(れんかん)の計をすすめ、一夜にあの大功を挙げ得た陰には、実に〓統の智略があったのです。――故人の偉勲を傷つけるわけではありませんが」
「いやいや、予は虫が好かんのだ」
「御意にかないませぬか」
「天下人なきに非ずと、そちもいったではないか。何を好んで……」
「ぜひもございません」
夜に入っていた。
魯粛は、気の毒にたえないので、自ら城門の外まで彼を送ってきた。そして、人なき所まで来ると、声をひそめて慰めた。
「きょうの不首尾、まったく要らざる推挙をした私の罪です。先生もさぞ不快だったでしょう」
〓統はただ笑っている。
魯粛はことばをかさねて、
「先生はこれを機に、呉を去るお意(こころ)でしょう」
「去るかもしれない」
「国外へ出て、もし主君をお選びになるとしたら、誰に仕えますか」
「もちろん魏の曹操(そうそう)さ」
もし曹操のもとへ彼に奔(はし)って行かれてはたまらないと魯粛は思っていた。で、一書を袂(たもと)から取り出して、
「荊州の玄徳にお仕えなさい。かならず貴君を重用しましょう」
と極力、玄徳の徳をたたえて、紹介状を渡した。
「あははは。曹操につくといったのは戯れだよ。ちょっと君の心を量(はか)ってみたまでさ」
「それで安心しました。先生が玄徳を扶(たす)けて、曹操を討つ日が早く来れば、呉にとっても大慶ですから。――では、ご機嫌よう」
「おさらば」
ふたりは、相別れたが、なお幾度も振向き合った。
三国志 第五巻 了
本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫37『三国志(五)』(一九八九年四月刊)を底本としました。
*
作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、文学作品でもあり、かつ著者が故人でもありますので、そのままとしました。ご了承ください。
*
吉川英治記念館ホームページのアドレスは、http://www.kodansha.co.jp/yoshikawa/です。 三国志(さんごくし)(五)
電子文庫パブリ版
吉川(よしかわ)英治(えいじ) 著
(C) Fumiko Yoshikawa 1940-1946
二〇〇一年一一月九日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社
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