[#表紙(表紙.jpg)]
父吉川英治
吉川英明
目 次
昭和四十九年
1 吉野村へ
こわい父 やさしい父
2 終戦のころ
父と競馬
3 『新・平家』と末っ子の誕生
各社のサムライ達
4 私の中学入学
父の愛
5 軽井沢
避暑地の日々
6 結婚披露
父と母
7 吉野村を後に
父と酒
8 熱海時代
煙 草
9 闘 病
ヨウ[#「ヨウ」に傍点]と理想像
10 『新・平家』完結
ゴルフ
11 『私本太平記』起稿
作家としての父
12 最後の家
父と妹たち
13 昭和三十六年
14 昭和三十七年
あとがき
文庫版あとがき
忘れ得ぬこと 英明氏の著に寄せて
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[#見出し] 昭和四十九年
「早いものですねえ。もう,そんなになりますか――」
今年、父の十三回忌を迎えますというと、人は、申し合わせたようにそう言う。
そうだろう。実際に父と呼び、夫と呼んだ、かけがえのない人を失った私や母でさえ、
「早いわねえ、もう三年ね」
「早いねえ、もう七年になるんだね」
と、折にふれては言い交わしながら、あっという間に過ぎた年月である。
人が聞けば、
「もうそんなに」
と、びっくりするのは当然だと思う。
しかし、どんなに早く感じられようと、決して短くはない十二年という歳月は、我が家を変えた。
父の死の七ヵ月前に結婚し、その花嫁姿で父の涙を誘った妹の曙美《あけみ》には、小学五年生の男の子を頭に、三人の子供がいるし、私も、すでに二人の子持ちである。
当時、まだ大学生だった弟の英穂《ひでほ》も、父が晩年、膝の上にのせて可愛がっていた末の香屋子《かやこ》も、ともに、この春結婚した。
五人のお祖母ちゃんとなりながら、同居する家族の少なくなった母は、父が最後に住んだ赤坂の家から、近くのマンションに移った。
たまに、家族全員が寄った時など、父が生きていたら、孫と呼んで目尻に皺をよせたであろう子供達を見たり、今は、母も住んでいない赤坂の家の前を通ったりする時、しみじみと十二年の長さを感じる。
父の臨終の時、まだ黒かった母の髪にも、あの時の悲しみと、それからの淋しさを植え込んだように、白いものが目立ってきた。
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[#見出し] 1 吉野村へ
私は、昭和十三年、父が四十六歳の時の子である。
このころ、父はすでに、『鳴門秘帖』、『親鸞』などで、作家として世に出、「朝日新聞」に、『宮本武蔵』を執筆していた。
家は、赤坂表町にあった。
私は、この家で、五歳の春までを過ごしたのだが、家の間取りや庭の景色、一しょに遊んだ友達の姿などまで、ある部分は、かなり鮮明に覚えているのに、この家での父の姿はまったく記憶にない。この家の庭で、父と一しょに写した写真も数枚残っているが、それらの写真を見ても、赤坂の家での父の姿というものは、記憶の中に映像として浮かばない。不思議なくらい空白なのである。『宮本武蔵』を終えた後、父は、『三国志』、『新書太閤記』、『梅里先生行状記』などを同時に執筆中で、食事も机の上で済ますほどの忙しさだったから、いたずら盛りの私が、父と顔を合わせる時間は、ごく少なかったのかも知れない。
しかし、母に聞けば、仕事の合い間には、父の膝で、菓子も食べていれば、オシッコもひっかけている。机の上の原稿用紙や文鎮をいたずらして、叱られてもいるし、旅行にもついていっている。
母のそんな話を聞いていると、父のイメージとして、「暖かい、柔らかい掌」という感触が、ぼやっと甦《よみがえ》り、今も肌に残っているような気もしてくる。
しかし、私の赤坂の家の記憶の中には、どこを捜しても父は居ないのである。
そうした、ぼんやりとした記憶の流れの中に、父が忽然《こうぜん》として姿を現わすのは、私達が吉野村の家に引っ越しする日のことである。
昭和十九年の三月、私達一家は、そろそろ危なくなり始めた赤坂の家を捨て、都下西多摩郡の吉野村(現在は青梅市柚木町)に疎開する事になった。
三月にしては、暖かい日だったと思う。
五歳であった私は父と母に連れられて家の門を出た。父は、
「英明、この家ともお別れだ。さよならを言いなさい」と言った。
吉野村の家には、それまで何度か行った事もあり、吉野へ越すと聞いて喜んでいた私だったが、父にそう言われると、何故か急に悲しくなった。
それでも、父に促され、唇をかみながら、今出て来たばかりの門に向かってお辞儀をしたが、頭を下げた途端、喉の奥でふくらんでいたものが一時にこみ上げて来て、ワンワン泣き出してしまった。
父は、
「泣く奴があるか、みんなそろって吉野へ行くんじゃないか」
と、しゃくり上げている私をたしなめたが、その父の目頭にも、私のと同じものが光っていたのをはっきりと覚えている。もちろん、私はただ、遊びなれた家とお別れだと聞いて泣いたのであり、私の大粒の涙と、父の目頭に宿った光との間には、かけはなれたものがあったのだが、その目を見た時、私はハッとした。同時に父という人にすごく親しみを覚え、甘えたい気持ちになった。
自分の父親に、ことさら親しみを覚えたというのは、変な言い方だが、とにかく、その瞬間、そういう気持ちになったのである。
そして、その日以来、父は、ずっと私の記憶に生きている。
家を捨てたという事と、初めて見た父親の涙が、よほど強烈に子供心に焼きついたに違いない。
吉野村の家は、青梅線の二俣尾《ふたまたお》≠ニいう駅で降りる。
梅の名所として知られる所だが、駅からの途中、奥多摩橋≠ニいう橋を渡る。真っ白な石造りの橋で、欄干から下を覗《のぞ》くと、呼吸《いき》が止まりそうなはるか下方を、真っ青な水がゆっくりと流れている。多摩川である。
川は、大小の石ころに、ごろごろとおおわれた河原に白く縁どられて、いっそうその青さを際立たせて見える。
子供の私でさえそうだったが、吉野村を訪れる人は皆、この奥多摩橋の上に立つと、何か、自然の霊気といったようなものにうたれるらしい。
父がこの土地に腰を据えてから、訪ねて来る各社の編集者や知人達は、口をそろえて、
「いい橋ですねえ。あの上に来ると、つい立ち止まってしまいますよ」
と、橋とそこからの景色をほめた。
記者の人の中には、
「あんまり素晴しいんで、社の原稿用紙を二、三枚、細かく千切って飛ばしてみました。風にのっていつまでも落ちないんです。ああ、気持ち良かった」
という人もいたし、
ひどい人は、
「一度、あそこから、小便してみたいですね」
などと真顔で言って、
父に、
「オイオイ、あまり川を汚すなよ」
と笑われたりしていた。
戦争末期から戦後にかけての、醜く破壊された都市の残骸の中から、ガタガタの電車に乗ってたどりついた吉野の里で見るその橋のたたずまいは、当時の大人達の心を慰める事、想像以上のものがあったようだ。
吉野村へ移ってからも、父の日常は相変わらずで、一日中、原稿用紙を前に坐り切りの毎日だったが、引っ越して間もなく、風邪をこじらせたのがもとで急性肺炎にかかり、一時は重体に陥った。
私達子供は、父が病気だとは聞かされていたが、そんな危険な状態にあるとはもちろん知らなかった。
吉野村の家は、昔の庄屋か豪農が住みそうな家で、入り口から、うす暗い土間が広がり、そこから直接、大きな畳敷きの部屋が続いていた。そして、その部屋の真ん中に、これまた大きな囲炉裏がきってあった。囲炉裏の上には、真っ黒にすすけた太い孟宗竹の自在鉤《じざいかぎ》が下がっていて、それが都会から来た私の目には、何とも異様なものに見えた。
病気の父は、その真上の二階に寝ていたが、母をはじめ家中の神経が、ピン、とはりつめていて、二階から聞こえる父のしわぶき一つにも、そのはりつめた糸が敏感に反応するのがよくわかった。息苦しいような雰囲気だった。
だから私達は、朝食を済ますと、
「家の中で騒いじゃいけませんよ」
という、母や叔母達の声も待たずに表にとび出し、新しく与えられた田舎の自然を満喫するのに忙しかった。
父は、一ヵ月ほどで危機を脱したらしい。「らしい」というほど、私は幼かったのだが、それでも、久しぶりに机に坐る父を見て、何かしら、ほっとした安らぎを感じたのを覚えている。
吉野村へ越してから、ちょうど一年目の三月九日の夜だった。
何時ごろだったかは覚えていない。
「英明、起きて庭に出ろ」
と父に言われ、目をこすりながら下駄をはいた。
庭には、一画に小高くなった場所があって、そこに大人でも二抱えはありそうな古い椎の木が二本立っている。
父は、まだ仕事の最中だったのだろう。
いつものように、きちんと羽織を着ていた。
その羽織の背中を私に見せたまま、黙って椎《しい》の木の根元まで歩いて行く。
私は、こんな夜中に表に呼び出され、何を叱られるのかと、オズオズ後に従った。
父は、木の下で立ちどまると、私の肩に手をおいて家の方をふり返った。見ると、屋根を越えて、はるか遠くに黒々と連なる山の上空が真っ赤である。
それは、いつもの遊びつかれた家路で見る夕陽の、やわらかな赤と違い、濃紺の水に流した朱のような毒々しさで、闇に溶けているはずの山々の輪郭を顕《あらわ》にしていた。
「見ろ、東京が焼けている」
父は、それだけ言って黙った。私は何も言えなかった。赤坂の家も焼けているのかと聞きたかったが、父の沈黙に気圧《けお》されて言葉にならなかった。
赤い空は、時々、ぱっ、ぱっと、白みのかった閃きをくり返している。
二人とも、どのくらいの間黙っていたろうか。物音は何もしない。時折、椎の葉が風に鳴るだけである。不思議な静寂だった。
「――なんだろう」
父の呟きで静けさが破れた。
私も先刻から気がついていたが、焼けただれた空に、ひときわ赤く光っていた星のような光が、だんだん大きく近づいてくる。
私は魅せられたように、その光に見入っていた。それは、素晴しい速さで近づいてきた。
「飛行機だ。飛行機がやられたんだ」
父がそう叫んだ時、すでに爆音がしじまを揺るがしていた。今やそれは、巨大な焔のかたまりとなって、私達めがけて突っ込んで来ていた。夢のようだった。ゴーッとすさまじい音響が頭上を駆けた。椎の木の梢すれすれをかすめたように見えた。翼に星のマークを見たと思った刹那、ドカーン≠ニ強烈な音と光が私達を包んだ。
「落っこったあ」
と私は、父の着物にすがりついた。飛行機は、家から数キロはなれた山中に落ちたのだが、私には家の庭に落ちたように思えた。
恐ろしい体験だった。
そして、この時、私と父が見ていた東京の赤い空の下で、私の義理の姉の園子《そのこ》が死んだのだった。
園子が空襲で行方不明になったという知らせは、その翌日、我が家にもたらされた。
園子というのは、父が別かれた前の妻との間にもらい受けて育てた養女だが、先方にひきとられ、女子挺身隊員として東京に残っていた。
私達が赤坂にいたころは、よく家にも姿を見せ、私達も、
「お姉さんお姉さん」
とよく遊んでもらったし、その面影も覚えている。
日ごろ、はなれて暮らしている上、危険な東京に残してきたという事で、父は実の子の私達以上に、園子のことを気にかけていた。知らせを聞くと、母を連れてあわただしく東京に向かった。焼け跡を彷徨し、人々にも聞いてまわったが、何も見つからず、何の消息も得られなかった。
東京には泊まる所もないし、空襲の危険もあった。父と母は、一日中、焼けただれた街を歩きまわり、夜、空しく二時間、電車にゆられて吉野村へ帰って来る。そんな毎日をくり返した。
しまいに父は母に、
「お前は疲れたろうから、俺一人で行って来る」
と、一人で出かけるようになった。
来る日も来る日も、父は出かけた。
一日、午後から雪になった。
深夜になっても父が帰らないので、母が心配していると、雪まみれになった父が這《は》うようにして戻って来たという。雪で電車が遅れて、終電に間に合わなくなり、青梅から歩いて来たという事だった。歩けば一時間以上の道のりである。
「寒かったでしょう」
母が抱え上げるようにして家に上げると、父は、
「寒くなかった。青梅からの雪の中、歩きながら僕は園子と一しょだった。ずっと園子と話してたんだ。親らしい事は何もしてやれなかったねと僕が謝ると、園子は許してくれたよ。だから、ちっとも寒くなかった」
と泣いたという。
一週間経って、父もやっとあきらめた。
姉は十六歳だった。
「清鶯帰園童女」
父は庭のかたすみに姉のかたみを葬い、法名をそう書いた。
父が死んで納骨の時、母は父の遺骨と一しょに、残っていた園子のマフラーを多磨墓地に埋めた。
[#小見出し] こわい父 やさしい父
幼児期の私にとって、父は、恐い人≠ニいう印象の方が強かった。前にも書いたように、五歳ころまでの父の記憶はないが、吉野村へ移ってからはよく折檻《せつかん》された。
とくに、仕事中の父は恐かった。父は家族どうしの礼儀にもきびしく、朝と晩、それに、出かける時は、必ず、正坐して、「お早うございます」「いってまいります」などの挨拶をさせた。
仕事部屋にいる時などは大変である。
しんと静まりかえっている部屋の唐紙をソッと開け、正坐して手をつく。挨拶を済ませると、ソッと唐紙を閉め、次の間を過ぎるころまで足音を忍ばせて退出する。という調子である。私達にとっては、まさに薄氷を踏む思いなのである。それでも、機嫌の良い時は、父も眼鏡をはずし、「お早う」などと、大きな声で挨拶を返す。
原稿が滞って機嫌の悪い日が難関だった。
そういう時は、原稿用紙から上げた目で、眼鏡の縁ごしに闖入者を見据え、「ム」と唸るだけである。
父は、朝寝坊が嫌いだったから、寝坊をした朝など、この「ム」の後に、何かが続かないうちに、スーッと、なるべく音をさせずに素早く退出するのがコツだったが、これは私達兄弟の間でも、高等技術に属していた。
ちょっと、タイミングを誤ると、「いつまで寝てるんだ。庭の掃除でもしろ」と一喝される。
しかし、我々が、これほど気を使う挨拶も、仕事に没頭している時の父は、忘れてしまう事がしばしばあった。
挨拶を済ませてほっとして、「さて、今日は」などと、悪戯《いたずら》を考えていると、
「英明ーッ」と奥の間から呼び出しをくう。
「しまった」と唇をかみながら、また、ソーッと入ると、
「お早うしに来ないじゃないか」とくる。
今度は、こっちの反撃の番である。
「しましたよう」と大仰に口をとんがらせると、
「そうか、そうだったかな、まあよしよし」と謝ってくれる。
だから私達も、父の原稿が追い込みに入っているなと察すると、これを逆手に使ったりもした。原稿に筆がのり出すと、寝坊して挨拶をさぼり、呼び出しをくっても、「しましたよう」で済むからである。
日ごろ、なかなか、書斎から出て来ない父だったから、父も私達も、案外、こんな所で親子のゲームを楽しんでいたのかも知れない。
しかし、叱られる時は本当に恐かった。
普段でも恐いものが、怒るのだから当然である。
父が肺炎から回復し、ポツポツ仕事を始めたころだった。
父の書斎のそばの部屋で、私は弟と、風船かなにかを奪いあって大喧嘩した。
書斎の唐紙が、ガラッと鳴って、ハッとした時は遅かった。
「ウルサイッ」という大喝と共に、私達二人は、腕を父の両手につかまれていた。
「文子、ひもを持って来い」と母に持って来させたひもで、二人とも、玄関脇の大黒柱にグルグル巻きにしばられてしまった。
泣くにも泣けなかった。泣き叫べば、また、「ウルサイ」と、足に灸でもすえられかねない。母が謝りに行ったが、その母までが、
「お前が甘いから――」
と、逆に怒鳴られる始末である。
嗚咽しながら、小半日しばられていた。
兄弟喧嘩では、よく叱られたが、こんな事もあった。
あまり頻繁に喧嘩する私達に業を煮やした父は、ある日、つかみ合っている二人を庭にひきずり出した。そして、母に太い棒切れを二本持って来させると、それを一本ずつ、私と弟の前にほうり出し、
「お前たち、そんなに喧嘩が好きなら、今日は思い切りやらせてやる。素手なんかでやらずに、その棒で、どっちかがぶっ倒れるまでなぐり合え。俺が審判をやってやる」と縁側に坐った。
私達がいくら謝っても許してくれない。
その時は物陰から様子を見ていた母が出て来て、やっとその場はおさまった。
また、兄弟喧嘩ではなかったが――。
久し振りに父と共にした夕餉の席で、
「御馳走さまあ」
と置いた私の茶碗に、米粒が二、三粒ついていた。
「きれいに食べなさい」と母に言われ、
「もう、いいよ」
と私が答えた途端、それまで、冗談を言って笑っていた父の右手が、私の頬で、ビシッと鳴った。
「このお米一粒作るのに、どれだけの人が苦労しているか、貴様にはわからないか」と続いた父の言葉も聞こえないほど、泣けて泣けて仕方がなかった。
余談だが、父には妙な癖があった。
菓子でも、御飯でも、必ず、ほんの一口ずつ残すのである。
後年、父に聞くと、
「僕は、腸が悪いから、食べすぎまい、飲みすぎまいという意識がそういう癖になったのかな」
と笑っていた。
なぐられた時、その父の癖を言おうと思ったが、とても言えなかった。
その恐い父が、やさしい父に変身するのは、やはり、原稿が一段落ついた時だった。
私や弟と庭で角力をとって、大げさにひっくり返ってみせたり、私が父のひげを羨むと、
「一本、植えてやろう」
とひげをぬき、それで、私の顎をチクとさしたりする茶目っ気も発揮した。
また、夕食の後、銚子に半分ほどの酒で目もとを赤らめると、「先代萩」の仁木弾正だの松王丸の真似をして、みんなを笑わせたりした。
とりわけ、楽しかったのは、一時、我が家の毎晩の行事のようになった父のお話し≠セった。
父が毎晩、私達のために時間を割けたのだから、それは、終戦直後、まったく仕事を断わっていたころの事だと思う。
夕食後、書斎の隣の部屋に私達を呼び集め、頼朝、義経から、信長、秀吉、武蔵などの話を連続ドラマのように話してくれた。
そういう時でも、父は私達にきちんと正坐して話を聞くよう要求し、自分も二月堂机を前に正坐して、講釈師さながら、身ぶり手ぶりを交えて話を進めた。私達は話の面白さにひかれて、正坐も苦にならなかった。
お話し≠フ後で、母が出してくれたみかんや、駄菓子の味も忘れ難い。
その時には、父も私達も膝をくずし、
父は、
「今日の話のどこが面白かった」とか、
「これから、日吉丸はこうなるが、そういう時、お前だったらどうする」などと、私達一人一人に質問するのが常だった。そして、気に入った答えが出ると、
「えらいっ」
と、例の「ウルサイッ」と叱る時と同じ大声でほめるのである。
この行事は、その後、父が再び忙しくなるにつれて、だんだんなくなってしまったが、私には、それが淋しかった。
今でも、時折、父の作品を読み返していると、秀吉や武蔵の背後に、父のその時の顔と、古風な座敷にかすかに聞こえた鉄びんの湯のたぎる音とが甦ってくる。
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[#見出し] 2 終戦のころ
その年の四月、私は小学校へ入った。
昭和二十年、終戦の年である。
配られた教科書は、ちゃんと本になっていなくて、粗末な新聞紙の大きさの印刷物を、先生の指導で切りはなして綴《と》じ、教科書を作った。
吉野村でも、警戒警報や、空襲のサイレンが日増しに頻繁になってきていて、学校へ着いたかと思うと、けたたましいサイレンに追い返されるように帰宅する日が度々あった。
そして、八月十五日。蒸し暑い日だった。
この日、父は朝から恐い顔をしていたが、正午前になると、
「子供達、皆表に出ろ」
と、私達を閉め出した。
私は、天皇陛下の放送があるのだとは知っていたが、何故、皆がそう改まっているのかわからず、弟と遊びに出たまま、夕方まで帰らなかった。
夕方、家に入ると家の様子が変だった。
母はまぶたを赤くしてあまり口をきかない。父は書斎にこもってふすまを閉め切ったままである。
家全体が妙にシーンとしていた。
後に聞いた事だが、父は陛下の放送を聞くと、そのまま突っ伏して声をあげて泣き、しばらくは顔を上げなかったという。
当時父は、海軍戦史部の嘱託をしていた関係で、戦局についての情報も得ていたろうし、しばしば訪ねてこられる海軍の方にも、
「何もかも失うまで戦いを続けるのは、まったく無意味なことだ。古今の歴史に照らしてみても間違っている。絶対に避けねばならない」
と洩らしていたというから、この日ある事は、ある程度予期していたと思われる。しかし一方では、本土決戦≠ェ喧伝されていた折から、一抹の不安もあったと思う。
玉音放送に接した刹那、そんな思惑や不安が一時にふっとび、一個の人間としての感情がむき出しになって迸《ほとばし》ったのだろう。
泣いても泣いても泣きつくせない複雑さのこもった涙だったに違いない。
終戦の日から、父は筆を絶った。
「読売新聞」(当時の「読売報知」)に連載中だった『新書太閤記』も、いくら頼まれてもそれ以上書かなかった。敗戦というこの大きな日を、自らの転機ともして深く考えてみたかったのだろう。
父は、日記を書かなかったが、自筆の年譜の昭和二十二年の項に、
「ペンを持つことなし。戦後三年は、畑作りと『秋萩帖』の手習いなどに日を送らん事を病妻と誓い合えばなり。おりおり、食糧捜しの都会の友、古美術の友など会せば倦《う》むこともなし」
とある。
この言葉どおり、終戦後の三年間、まったく仕事をしなかった。
自然、日常も変わった。書斎にいても、原稿用紙に向かっている事はなくなり、ただ、じっと机に坐っていたり、仕事机と別の机で、しきりに手習いをしている事が多くなった。
[#ここから2字下げ]
いくさやみぬやぶ鶯もなきいでよ
はからずも見るや都に蕎麦の花
有山河多摩もひそかに紅葉して
[#ここで字下げ終わり]
このころの父の句である。
また、慣れない手に鍬を持ち、戦中から畑にしていた裏庭に出て、母と一しょに畑を耕したり大豆を蒔《ま》いたりもした。
芽が出ると、
「オイ、皆、見に来い。大豆の芽が出たぞ」
と私達を呼び、
「英明、成長するものを見るというのは、楽しみなものだな」
などと喜んだ。
かぶせられた畑の土を、力強く押しわけて伸びてくる大豆の芽に、父は戦後の日本を見ていたのかも知れない。
時には絵も描いた。
色とりどりの絵の具が、小さな陶器の皿に盛られてきちんとおさめられた絵の具箱も珍しかったし、色紙の端を左手に持ち、筆の一番上を指先でつまんで、ひょいひょいと走らせる父の手の動きを見るのが楽しく、私はよく、絵を描く父のそばにいた。
私がもらってきたクロ≠ニいう名の雑種の犬を連れ、朝食前に近くを散歩することが、父の日課となったのもこのころである。
父は、
「生き物は死んだ時が可哀想で、いやだから」
と、後にも先にも動物を飼わなかったが、このクロは可愛がった。
田舎のこととて、犬は放し飼いだったから、この、朝の散歩は、犬の運動ではなく、犬が父を運動に連れて行くようなものだった。父は、クロが猫や、時たま姿を見せるリスを追いかけたりするのを見るのが楽しいらしく、朝食の時には、その朝のクロの活躍ぶりを皆に報告した。
「英明、クロは強いぞ。今日は狼と喧嘩して勝ったぞ」
ある日の報告である。
「え、狼? どこに狼なんかいたんです」
まさかと一同がびっくりすると、
「愛宕神社の境内で、社の縁の下から、いきなり大きな狼が出て来やがった。そいつが毛を逆立てて唸《うな》った時は俺もギョッとしたね。クロがパッと飛び出して行って、双方、砂利を蹴上げての戦いになったよ、すごいのすごくないの。そのうちクロが相手の首すじにかみついてふりまわしたら、狼の奴、しっぽを巻いて逃げてった」
何の事はない、よく聞けば、相手は顔が狼に似ているというだけの犬である。そのあげく、
「どうだ、お前達も一度六時ごろ起きて一しょに来ないか。強いぞ、クロは」
と私達を誘いにかかる。
「クロの喧嘩は、しょっちゅう見ていますから」
兄弟そろって丁重にお断わりした。
父が仕事をしなくなってから、家族そろっての、そうした和やかな食事をする機会は、朝晩共に多くなったが、戦後の何もない時期である、母は痛々しいほど父の食膳に心を配った。買い出しに行くには自転車が便利である。自転車に乗れなかった母は、まずそれから習った。細い体にもんぺをはき、荷台に芋やトウモロコシ、そして時には米など、農家を走りまわって捜し出した重い荷物をのせて、あぶなっかしげにヒョロヒョロと帰って来る母の自転車姿は深く印象に残っている。母には、それらの食物を食膳にのせ、それに舌鼓《したつづみ》をうつ父や私達の顔を見るのが喜びなのだった。
もっとも、何もない時期といっても、吉野村はめぐまれていた。ちょっとした野菜は裏庭の畑でも少しはとれたし、ふきのとうやわらびなど、都会に住む今となってかえって口に入りにくくなったものが、野や山にふんだんにあった。
また、時季になると、たまに村の人が持って来てくれる多摩川の鮎は、父の大好物でもあり、大変な御馳走だった。多摩川では、鮎の他、はや[#「はや」に傍点]という小魚も釣れ、私達も自分で釣って来ては煮てもらって食べた。
しかし、鮎となると、なかなか私達の口には入らなかった。戦後もしばらく経つと、吉野村にも次第に客が増えてくる。母は、今日はお客様だというと、
「東京から、わざわざいらっしゃるのだから」
と朝から走りまわって食べ物を調える。鮎はそういう時、母が村の人に特別に頼んで釣って来てもらう事が多かった。
だから、私達の口にはめったに入らない。
ただ、
「鮎の骨は、育ち盛りの子供に良い」
と母が父から言われ、私達は、さがってきた鮎の骨に醤油をつけ、炭火でカラカラに焼いて食べた。コリコリと香ばしく、うまかった。
一度、私も母と客間に出ていた時、茶の間で弟が、
「鮎の骨、まだあ。早くさげて来て焼いてよ」
とどなったのが聞こえ、客の前で母が、耳もとまで赤くなったのを覚えている。
母のそんな心遣いがあったから、終戦直後、我が家を訪れた人達には、吉川家の食事は豪華なものに見えたに違いない。
ずっと後になってある人が、
「終戦直後でも、吉川さんの家に行くと、おいしい物がたくさんあった」
と書いているのを読んで、
母は、
「家には何でもあったなんて思われると涙が出るわ。私達は台所で、ふすまやコーリャンを食べていたのに」
とさみしがった。
三年間、ペンを持たなかった父は、菊池寛氏らにすすめられ、二十三年、戦後初めて、「東京」という雑誌に、短編『人間山水図巻』を寄稿した。一度書き始めると、断わり切れず次々と仕事が出来る。
続いて同じ雑誌に『いろは匂へど』を連載し、九月からは、「読売新聞」に『高山右近』の連載を始めるなど、再び作家としての多忙な生活にかえっていった。
この『高山右近』は、翌年、未完のまま連載を中止している。
連載が始まると間もなく、高山右近の研究家である上智大学の某外人教授から、
「史実の右近と違う」
と執拗な抗議があり、
「これは小説だから」
と、いくら説明してもわかってもらえなかったという事があって、そんなわずらわしさに耐え切れず筆をおいたらしい。
これに前後して、『大岡越前』、『平の将門』など、月刊誌の連載物も手がけ始めているし、二十五年から「週刊朝日」に書いた『新・平家物語』の構想も練っていたようだ。
父の仕事が増えるにつれて、家には各社の編集者が連日詰めかけるようになり、我が家の応接間は、ちょっとした記者クラブのような観を呈してきた。
父は、そんな忙しさの合い間をぬって、二十四年の春には、母と一しょに関西旅行に出かけた。さる所から講演を頼まれたためだが、講演に出向く際、
「日ごろ、酷使している妻を、ゆっくり花見にでも連れて行ってやりたい。ついては、車を一日、お貸しいただけるなら」
と条件をつけた。そして希望どおり、母を連れて吉野山へ花見に行った。
吉野山は花見客で賑っていたが、酔客の群れからはなれた所で、草の上に坐って桜を見ながらひっそりと弁当を食べている一組みの老夫婦の姿に父はみとれた。
「文子、あれが本当の平和というものの姿だろうね。僕らも、もう少し年をとったら、また、ここに来て、ああして花見をしたいものだな」
父はそう話したという。
この老夫婦の姿は、よほど強く父の印象に残ったらしく、父は『新・平家物語』の最後の章に、阿部麻鳥夫妻の姿を借りてこの老夫婦を登場させている。
[#小見出し] 父と競馬
父の楽しみの一つに競馬があった。
父の競馬歴は古く、母に聞くと、初めて競馬へ行ったのは昭和十三年だというから、ちょうど私の生まれた年である。
そのころ、菊池寛氏が大変な競馬ファンで、父も菊池氏に手ほどきを受けたのだそうだ。
菊池氏にすすめられて馬も持った。初めは菊池氏と共有の馬で、名前も、菊池と吉川を合わせたキクヨシ≠ニか、英治と寛からとってエイカン≠ネどとつけたという。
自分だけの馬で、ナツグサ≠ニつけた馬もあったが、菊池氏が、
「ナツグサやつわものどもの夢のあと、か」と父をからかったところ、その馬は本当に、新馬戦に勝った後熱を出して、それきり使えなくなってしまったという話もある。
吉野村へ越してからも、戦後競馬が再開されると早速出かけた。
吉野村から、府中や中山に通うのは大変だったが、幸い青梅に競馬ファンのグルーブがあり、その方達がバスを一台借り切って、競馬の朝は吉野村まで迎えに寄ってくれた。
もっともバスになったのは、しばらく後になってからで、最初のころは、トラックの荷台に幌をかぶせ、みかん箱に座ぶとんをのせたのに腰かけていった事もあったようだ。
母は、
「トラックで行った事はないわよ」
と言っているが、トラックの幌から父と母が顔を出し、送りに出た私達に手をふった光景をありありと覚えている。
そのころの持ち馬には、吉野村のヨシノ≠セの、多摩のタマ=Aまた、『三国志』の豪傑、呂布《りよふ》が乗っている稀代の名馬赤兎馬≠ノあやかったセキト≠ネどがいた。
どれも、あまり強くなかったが、とくにタマ≠ヘ、
「名前が猫みたいだから勝てないんですよ」
と家の中での評判はあまりよくなかった。
競馬へは必ず母が一しょだった。私や弟も、たまに連れていってもらった。
馬主席での常連は、菊池寛氏、舟橋聖一氏、吉屋信子氏、永田雅一氏らで、時々、高峰三枝子さん、霧立のぼるさんなど芸能人の顔も見えた。
父にとっては、月に何回か東京に出て来て、そうした友人達と会話を交わすのも楽しみだったようだ。
菊池氏は、英明という私の名付け親でもあり、えらい人だとも聞かされていたので、恐る恐る挨拶したが、双眼鏡を胸にかけ、煙草の灰をボトボト膝や胸にこぼしながら、絶えず上着のポケットから南京豆を出して食べているといった風で、
「これが、そんなにえらい人なのかな」
と思ったのを覚えている。
私の目に目立ったのは永田氏で、
「吉川さん、要するにやなあ、この馬はやなあ」
と、レース前、例の大きなガラガラ声で、口から泡をとばして出馬表をたたいていた姿が目に浮かぶ。
レースが始まると誰もが興奮したが、父も、自分の馬や自分が馬券を買っている馬が、ゴール前でせり合うと、
「それっ」
とか、
「タマーッ」
などと、そばで見ている私がとび上がるようなもの凄い声で応援した。
私は、日ごろ家では見られない父の一面を見て、びっくりもしたし、おかしかった。
とにかく、父にとって競馬は無上の楽しみだったが、その競馬好きの父が気の毒なほどがっかりした笑い話がある。
まだ、競走馬の数が少なかったころの話である。
抽せん馬という制度があり、抽せんに当たると比較的安く馬が買える。その権利を得る事は、当時の馬主連中の垂涎《すいぜん》の的だった。
その年の抽せん馬は三十頭で、百何十人の希望者から運よく父にもその権利が当たった。三十頭の中には、血統の良い馬も、そうでない馬もいて玉石混淆だが、あとはもう一度の抽せんで、どの馬が当たるかを決めるだけだ。馬が一頭手に入る事は間違いない。父は大喜びだった。
当日、父の弟の素亮《そすけ》がくじをひきに出かけて行った。
父は昼間から、
「どんな馬が当たるかな」
と叔父の帰りを待ちわびていて、夕方、叔父の姿を見るや否や、
「どうした。どんな馬だった」
と急き込んで聞いた。
「エヘヘヘ――。兄さん、どうもすみません」
叔父は頭をかいて謝ってばかりいる。
「すみませんじゃわからない。あまりいい馬じゃないのか」
「いえ、それならまだいいんですが、当たらなかったんです」
「当たらなかったあ? 当たらないわけはないじゃないか、三十頭の馬を三十人がひくんだ、何かは当たったろう」
「いえ、それがはずれたんです」
「? ……」
父の眉が険悪になってきた。
「実は三十頭の中に一頭、競馬に使えない馬が出ちまって、抽せんの前に、その旨御了解願いたいと説明がありました。で、私は、一番先にそんな馬が出るわけはないと思って、真っ先にとび出していって最初のくじをひいたんです。そしたら――」
「その馬が当たったってのか」
「ほんとにすいません」
「ウーム」
相手はくじである。怒るに怒れないでいる父の憮然とした表情と、叔父のま[#「ま」に傍点]の悪そうな顔とを見くらべて、母と私はころげまわって笑い、しばらくはとまらなかった。
しかしその後、父は比較的馬運[#「馬運」に傍点]にめぐまれ、十勝をあげたチグサ、五勝ながら皐月賞をとったケゴン、十三勝したチェリオなどが父を楽しませた。
中でもチェリオは、スプリング・ステークス、クイン・ステークス、中山記念に一着、オークス二着、ダービー四着という赫々たる武勲をあげ、父の愛着もひとしおだったようだ。
馬主仲間では、持ち馬が大レースに勝ったり、引退したりする時、何か記念品を配る習慣があったが、昭和三十年に、このチェリオが引退して北海道の牧場に帰るにあたって父は記念品として、自作の、
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君が駒わが駒遊ぶ春野かな
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という句を染めぬいた風呂敷を配り、それにこんな手紙をつけた。
ごあいさつ
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わたくしはチェリオでございます。
西も東もわからない二歳の秋、母のオーマツカゼに別れて都へ出て来た北海道の本桐娘でございましたが、早いもので皆様の名馬逸駿のなかに立ち交じって、レースをさせていただいてから、もう三春秋になりました。
その間に、クイン・ステークスなど十三勝を得ましたが、晴れの大レースというと、いつも惜敗ばかりくり返したものですから、万年二着などというお笑いを頂戴したりした事でございました。けれどそれは私が御丹精を給わった田中調教師や阿部騎士のせいではゆめゆめございません。生来わたくしなる牝が民主主義的な女でなくて、日本型の女だからでございましょう。女傑だなんて、おからかいになる方もありましたが、そのたびに顔を赤らめるほど内気な方でございますので、かえって、せっかく御期待をうけては、常に惜敗ということになってしまうので御座います。
でも大方の競馬ファンや関係者の方々からわたしは望外なほど可愛がっていただきました。そして長いこと御期待にそむくばかりか御損(?)もおかけしたりして、ほんとにすまないことと存じておりますが、名残り惜しくもこの六歳の春で、ふるさとの牧場へ帰ることになりました。
この私みたいな者でも、下総の御料牧場の方たちから、こちらへ嫁入りしろなどとも仰っしゃって下さいましたが、田舎娘はやはり田舎の山河やそこの水が恋しくて、生まれ故郷の本桐へ帰ることにいたしました。せっかく御馴染み深い皆様にもこの春でお別れしなければなりません。ほんとに長い間、御声援下さいまして有難うございました。
なおこのさい、お願いしておきたいのは、私のお世話になった競馬場も国営から民営と変りましたが、どうか良い方へ変って御発展くださいますように、馬の耳にも多少何やかやと世評も聞いておりますので、それだけが少し心がかりな次第でございます。どうか平和に、そしてお遊びの中にも幾ぶんかの社会的意義も持ちますように、くれぐれ、皆さまの御賢慮が栄えてゆきますように御自愛祈ってやみません。
故郷へ帰ったら、わたしものびのびと豊かな牧草を食べ、うまい水を飲み、そして、良い母馬になることに精出します。
やがてまたすぐ私の仔が皆さまへお目にかかることになるでしょう。けれど今度はわたくしみたいな古い日本型の牝でなく、モダンな仔たちが飛び出してくるかもわかりません。
そのせつも、わたくし同様にどうか御声援をおねがいいたします。
――では御機嫌よろしゅう。 左様なら
昭和三十年新春
[#地付き]吉川英治
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父の馬券哲学も一風変わっていた。
「馬券は儲けようとしちゃいけない。楽しむものだ」
というのである。そしてその楽しむ方法はこうである。
まず、その日馬券を買う予算をいくらと決めたら、それを左のポケットに入れておく。
そして、もし配当金をとったら、それは右のポケットにしまう。一日終わって右のポケットに残った分だけ儲けたと思えというのである。たとえ左のポケットに一万円入れていって、それが空になり、右のポケットには千円しか残らなかったとしても、一万円分楽しんだのだから千円儲かったんだという論法である。
馬券に対して、こんな考え方をしていたから、吉野村時代、小学生の私を連れて馬場にも行ったのだと思う。
それほど競馬好きの父だったが、昭和三十一年、持ち馬のエンメイが、ダービーのレース中に転倒し、脚を折って薬殺されたのはショックだったようで、その後、ふっつりと競馬場へは行かなくなってしまった。
そのころには、ゴルフという別の楽しみが出来たせいもあろうが、
「生き物は、死んだ時がいやだから」
と言って、家では動物を飼いたがらなかった父にとって、エンメイの死は、よほどこたえたのだろう。
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[#見出し] 3 『新・平家』と末っ子の誕生
吉野村での日々は、またたく間に過ぎた。
昭和二十五年には、私は小学六年生になっていた。
その間、一つ一つ思い出せば、さまざまな事があるのだが、今、ふり返ると、それらの出来事は、どれもこれもごく短期間に、集中的におこったように思えて、時間が一瞬のうちに流れ去ってしまったように感じられる。
時が経つにつれて、記憶の中での時間の遠近感というものが失われていくためだろうか。
二十五年の四月、父は「週刊朝日」に『新・平家物語』の連載を始めた。五十八歳になっていた。
「週刊朝日」に連載物を書くことは、すでに二年ぐらい前から、朝日新聞社との間に約束のようなものが出来ていたらしい。ただ、何を書くかという事で三つほどの案があり、その一つが『新・平家物語』だった。
父は古典の『平家物語』が好きで、何回もくり返して読んだようだ。
日ごろ、小学生の私が、家の書庫から、父の作品をあさって来ては読み耽っているのを見て、ある日、
「俺のものは、あまり読まなくても良いから、これをじっくり読んでみろ」
と分厚い本をくれた。みると古典平家で、紺の布で装丁した立派なものだった。
そして、
「それは、寝ころんでなんか読んじゃ駄目だぞ」
と、自分の書斎の続き部屋に二月堂机を据えさせ、ここで読めと言った。
ページを開いて見た。
活字も割合大きく、仮名もふってあったから読むことは読める。しかし小学生である。何が書いてあるのかさっぱりわからない。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり」
有名な序文の終わりまで読んで見限りをつけ、そっと立って茶の間から父の本を持って戻ると、膝の上で開いて読んでいた。
翌る日も「祇園精舎」、次の日も「祇園精舎」からで一向に進まない。三、四日続けて、それきりになってしまった。
父はこの時、私の根気を試そうとしたのかも知れない。あるいは、仕事の合い間をみて、一行ずつ解説しようとしたが忙しくて果たせなかったのかも知れない。その後、それについて、父も何も言わなかったし、私はもちろん、話題が古典平家に触れるのを極力避けていたから、父が何を考えて小学生の私に、あんな難しいものを与えたのか、今となっては知る由もない。
しかし、私はこの序文の「祇園精舎」から「偏に風の前の塵におなじ」までを――たった二、三行だが、私にとってはお経の文句のようなものを――暗記してしまっていた。いまだに覚えている。
そんな事があったから、父が今度は、平家物語を書くのだと聞いた時は、生意気に、
「さもあらん」
という気がした。
そして、「週刊朝日」の第一回に、父が、
「はしがきにかえて」
として、「祇園精舎の鐘の声」と引用したのを読んで、
「僕はこれを知ってるんだ」
と内心得意だった。
父は、『新・平家物語』を、はじめは壇ノ浦あたりから書き出すつもりだったようだ。
しかし、史料を調べ、構想を練っているうちに、やはり清盛という人間に強くひかれ、清盛の青年時代からという事になった。
「この小説には小説的約束の主人公はない。しいていうなら主人公は時の流れ≠ナある」
といっているが、一方では、悪逆非道の悪入道という従来の清盛像を、父なりの解釈で、まったく新しい人物に書き改める事にも情熱を傾けた。
そして、全体の構想について、起稿後まもなく、
「藤原貴族文明の没落から、源平二氏が骨肉|相喰《あいは》む紅白の二世界、壇ノ浦――やがて法然上人の新宗教の提唱などにいたるまでの、地上の諸業を天上からドラマを見るように観ようというのが、この小説の所願であります。
したがって、一回一回を、短編のつもりで書き、その一連をもって中編をなさしめ、いつかは砂粒の凝結も、ビルを成そうというほどな遠い希望の仕事です」
と抱負を述べている。
「この仕事には晩年を打ち込む」
と、母にも私達にも洩らしていたが、新年号から起稿の予定を四月に延ばして、日ごろから医師にすすめられていた盲腸の手術を済ませた事を見ても、父の『新・平家』にかける意気込みがわかる。
父の『新・平家物語』の起稿と共に、この二十五年には、我が家にもう一つの出来事があった。
六月、我が家に八年ぶりに子供が生まれたのである。
私達は、母の大きなお腹を見て、
「もうすぐ弟か妹が出来るんだ」
と、楽しみにしていたが、父は、自分がこれから長い時間をかけて生み出そうとしている『新・平家』もさる事ながら、同時に芽生えた新しい生命の誕生が気にかかって仕方がなかったらしい。
その日、私が学校から帰ると、手伝いに来ていた叔母が、洗濯物を干しながら、
「生まれたわよ、女の子よ」と言った。
私は、赤ん坊を見にとんで行きたかったが、まず父の所へ、
「ただ今」をしに行った。
その時はもう父は机に坐って難しい顔をしていたが、
「オイ、聞いたか、妹が出来たぞ、かわいいぞ、こんなにちっちゃいぞ」
私の顔を見ると、眼鏡をかなぐり捨てて大声で言った。あんなにうれしそうな顔を私は見たことがなかった。
聞けば父は、朝、母の陣痛が始まると、心配で仕事も手につかなくなり、家の裏手にある愛宕山に登って、生まれたという知らせがあるまで、愛宕神社の石段に腰かけていたそうだ。
「石段を下りる時、よく転びませんでしたね」
と私達にからかわれたが、からかわれればからかわれるほど上機嫌だった。
やよあか子汝れはいづちの旅をへて
われを父とは生まれ来ませし
父がこの日詠んだ歌である。
晩年を打ち込むつもりの大作を起稿した年に、八年ぶりの子供が生まれ出たのを見て、何か不思議な因縁を感じたのかも知れない。
お七夜の日、父はこの子に香屋子≠ニ名をつけて色紙にこう書いた。
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香屋子
昭和二十五年六月十五日朝誕生
母 文子
この朝長日の霖雨霽《りんうは》れて晴光麗か奥多摩吉野村之家四山新緑の中なり 父母叔姪二兄一姉たち呱々《ここ》の室を囲みて皆喜々たり
香屋子よ おん身も長じてよき主婦よき母となり給ひて香しき屋に長き人の子の幸を享けられよ
お七夜の祝之日に
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[#地付き]父 英治選名
週一回の『新・平家』は、この香屋子が小学校に入る年まで続くことになる。
[#小見出し] 各社のサムライ達
私の記憶にない赤坂時代もそうだったというが、戦後、父が再びペンを執り始めてからの我が家は、まるで小さな記者クラブのようだった。
私が学校から帰ると、玄関脇の応接間には、たいてい三、四人の新聞社やら雑誌社の方々がたむろしていた。
私達は、
「お客さまにも、ちゃんと挨拶なさい」
と言われていたから、
「コンニチハ」
と応接間をのぞく。
隅で将棋をさしている人もあれば、本を読んでいる人もいる。皆、原稿待ちで手持ち無沙汰だから、私達の顔を見ると、
「いらっしゃい、遊ぼう遊ぼう」
と遊んでくれた。
私達はすぐに友達になった。弟と二人で、皆にあだ名もつけた。
原稿用紙で紙飛行機を作るのがうまい人もいたし、煙草の煙を口から輪にして出すのが得意な人もいた。
また、新聞社で使うわら半紙を綴《と》じた原稿用紙が、らくがきにも飛行機にも重宝なので、私達がほしがると、次に来る時十冊も持って来てくれた「いいおじさん」もいた。
扇谷正造氏は、当時、「週刊朝日」の編集長で、『新・平家』が始まると、しばしばみえられたが、まだ鼻汁をたらしていた私の印象がなかなか抜けないらしく、いまだに私のことを、
「ボーズ」
と呼ぶ。
私は扇谷さんに、
「オイ、ボーズ、元気か」
と訊かれると、
「扇谷さんも、お年のわりに元気ですね」
とやり返すことにしている。
すでに故人となられた方もいらっしゃるが、なつかしい方《かた》達である。
そんな記者クラブ≠ノ、夕方、仕事を終えた父が出て来ると、それからがまた楽しい。
吉野村の応接間は、和洋折衷というか妙な造りで、部屋がテーブルと椅子を置いた洋間と畳の間にわかれている。
父はこういった部屋が好きだったようで、後に住んだ赤坂の家の応接間も同じ形式がとられていた。
その畳の間の方に、二月堂机をいくつかおいて夕食が始まる。
父はあまり飲める方ではなかったが、酒の雰囲気が好きで、各社の酒豪連に伍していつまでもつき合った。
吉野村のそばの沢井という所には、澤乃井≠ニいうおいしい地酒があったし、わらびや、枝豆、ふきのとうなど、山の肴《さかな》には事欠かない。皆さんが心ゆくまで飲んで騒いでくれるのが、父も母もうれしかったようだ。
記者の方々には、酒豪ばかりか多芸多才の士もそろっていた。酒が進んでくると名技珍芸の披露となる。
私達もたまに、一しょに食膳についたし、そうでない時でも、何かが始まると、
「あ、始まった」
と、弟と襖を細く開けて覗《のぞ》き見したものだ。
扇谷さんの得意とする、兵隊時代馬をひいてザクザクと行軍する体験を模した「ザック、ザック」と称する芸は、面白かったし、我が家でも有名だったが、終わった後、時々、父に何か言っては、ポロッと涙を流す扇谷さんが、私には不思議だった。
また、同じ朝日の所武雄氏の、
「三日月さまはやせている。いや。三日月さまは細い」
という文句をくり返す。歌とも詩ともつかないものだの、
「丸い卵も切りよで四角」
などという踊りは、その言葉の調子が面白く、後で私達が真似て母にたしなめられた事もあった。
酔うとどなり、多少暴れ出す人もあった。
母をつかまえて、
「オーイ、文子、なんだあ、吉川英治なんかにほれやがって。ウーイ」
などと、目を据えてどなっているだけのはまだいい方で、父でも母でも、銚子を持って出た女中でも、だれかれおかまいなしにつかまえては、顔をベロベロなめるくせの人などもいた。
私も一度、つかまってなめられたが、気持ちの良いものではなかった。
父はそんな時も、ちびちびと小さな盃をなめながら、ニコニコして、その場その場の雰囲気を楽しんでいた。
しかし、一度、ある方が酔っぱらった挙句、帰りの電車の中で、父の原稿をなくしてしまった事があった。続き物でなく、一回一回の読み切り物だった。
その人は、翌日、青い顔をして書き直してほしいと頼みに来たが、
父は、
「精魂こめて書いたものだ。二度と同じものは、書けない」
と断わった。
仕事と遊びとけじめのはっきりしない事はきらいだった。
編集者諸氏のタイプも、世につれて変わっていったようだ。
その後、父が東京に出、品川、渋谷、赤坂と移り住んでも、扇谷氏や、亡くなった文藝春秋の池島信平氏、講談社の星野哲次氏ら、古い方達は、相変わらずちょくちょく顔を見せられたが、若い担当の方達の顔ぶれは次々と変わった。新しい方々は、皆、紳士でおとなしく、
父も、
「いわゆるサムライというタイプが少なくなったな」
と、淋しいような、また、ホッとしたような表情で呟《つぶや》いていた。
そうした各社のサムライ列伝中、我が家でも、また、当時を知る編集者の方の間でも、伝説化している猛者《もさ》が、知る人ぞ知る、B社のS記者である。
旧赤坂時代のこととて、私自身はまったく記憶がない。しかし、まだ舌のまわらなかった私が、S記者の名前と発音が似ているところから、
「スイカさん、スイカさん」
と呼んでいたというから、一しょに遊んでもらったりもしたのだろう。
とにかく、彼は父の所へ原稿をとりに来ているうち、ズルズルと居候としていすわり、三年近くの間、家から社に通っていたというのである。勿論、家賃も食費もすべて無料――。
どうして、いつの間にそうなったのか、当時を知っている誰に聞いても、
「さあ、どうしてだっけな」
と、きっかけもはっきりしないのだから立派である。
赤坂の家は大きな家だったし、母も父の許へ来る前のことだ。編集者といわず、色々な人達が、梁山泊のように連日ごろごろしていたらしい。その中でもS記者は特異な存在だった。
家の中でも一番いい部屋を占領してあぐらをかき、手をうって女中を呼びつけ、
「酒がない」
だの、
「刺し身をとれ」
と顎で使っては、机で呻吟している父を尻目に、気難しい顔をして家の中を歩きまわっていたという。
出入りの魚屋が、
「今日は、若旦那のお好きなものがありますよ」
などといって、女中が面喰らったという話も残っている。
S記者は、母が父の許へ来てからも、しばらくの間我が家にいすわり、結婚する段になって、やっと家を出たという。その結婚も、父が親がわりになり、菊池寛氏に仲人役を頼んだ。編集者としては、非常に有能な方だったらしく、父もその才能を見込んでいたようだ。
講談社の星野さんも、初めて家へ来た時、ふところ手で応接間へ出て来たS記者を見て、はじめは書生さんかと思ったが、それにしては威張っている。
「吉川家に何様がいるのかと思った」
と、いまだによく話題にする。
父は、編集者の方達でも、これはと、気のあった方々とは深く友達づき合いをした。
その方が父の担当をはなれられた後でも、手紙などのやりとりをしているし、一しょに飲んだ時や旅先で、即興の歌や句を色紙に書いて贈ったりしている。
鶯やうちの亭主はどこで啼く
酒が好きな読売の河上英一氏に贈ったものである。
また、氏の御長男の初節句には、
鯉なくば鯉なくもよしわが家とて
男の子汝れを祝ふ花あやめあり
と書いて贈っている。
子にあまく女房にあまくあられ酒
朝日の大塚光幸氏へのもの。
かにかくに三とせ前なるさし柳
窓打つばかりなりにけるかな
『新・平家物語』を起稿して満三年目に、担当の小川薫氏に贈ったもの。
酒は愛しめ 酒憎め
のむな 飲むべし さまざまに
人はいふなれ 酒談義
真似ぶ君にはあらねども
世のあだ言をためさむと
別れの約もいつかひと年
ゆくりなく こよひ舞子の宿の灯は
淡路に近く ふるさとの
母もゆるすと 君の言ふ
など杯にとがあらん
約も解けたり いざ酌がん
酒愛で給へ いのちぐすりに
やはり酒の好きな朝日の春海鎮男氏は、一時体をこわして、医者から一年間の禁酒を言いわたされていたが、たまたま父と一しょに『新・平家』の取材旅行中、舞子でその年期が解けた。その折、宿で座興に書いたもの。
この色紙には、同行した杉本健吉氏が絵を描いておられる。
春海氏は、その前の取材旅行にも父と同行しているが、酔うと裸踊りする氏に、
君が臍いくたび見けむこの秋の
山から山の湯の旅の興
などという歌も贈っている。
そんな風に、父の在世中、我が家と各社の編集者諸氏とのおつき合いは深かったが、飲み、歌い、笑い、そして時には怒る、ざっくばらんな父を慕ってくださる方は多く、父が死んで十年以上たった今でも正月などひょっこり顔を出して母を見舞ってくださる。
母もこうした方達と昔話をするのが楽しいらしく、
「うれしいわねえ」
と、よく言う。
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[#見出し] 4 私の中学入学
『新・平家物語』と香屋子の誕生。
その二つだけで暮れてしまったような昭和二十五年だったが、その年を境に、我が家の空気は微妙であるがたしかな変わり方をした。
うちは、家族全部の生活が、完全に父を中心に動いていて、父の喜怒哀楽は、そのまま家全体の空気を支配していたから、これは、父が変わったというべきかも知れない。
以前がそうでなかったというのではないが、この年からの我が家は、はりつめた活気に満ち、喜びにあふれながら、全員がなにか一つの目標に向かって着実に歩んで行く。――そんな風にみえた。
あの八月十五日以来、もやもやと父の胸の中に醸《かも》されていたものが、『新・平家』というはっきりした形に具体化され、それと同時に、いたいけな生命が絶え間なく成長を続けている。
それらが父の新しい生甲斐となり、情熱と化していくのを家族全員が敏感に感じとって、そうした空気が形成されたのであろう。
我々が受ける父の印象も変わった。
仕事には、前にも増して真剣で、徹夜が続いた後など、ぼうぼうとひげをのばして、目をくぼませた父が、口の中でブツブツとなにか呟きながら原稿用紙に向かっている書斎に入ると、大げさなようだが、ふと「鬼気迫る」といった表現が頭をかすめるほどだった。
しかし、仕事が一段落つくと、以前にはなかった柔和な顔の父だった。
ひまさえあれば、生まれたばかりの孫のような香屋子を膝にのせ、あやしたり、泣かれて困ったりしている父の表情には、以前のきびしい、恐い父が次第に影をひそめ、やさしい好々爺といった風貌がにじみ出てきていた。
私達腕白兄弟も、もうある程度ものがわかってきていたし、父に叱られる事も少なくなってきてはいたが、それでも、あまりそれに馴れすぎると、時々、ワッとやられた。
二十六年、私は吉野村小学校を卒業して、吉祥寺の成蹊中学へ入学した。
吉野村にも中学校はあったが、
「やはり、中学は東京の方が」
という母の意見からだった。
父は、どこの学校へ行けだとか、勉強しろとかいう事は、私には一切言わなかったが、成蹊中学に入ると決まると、
「東京の学校へ行くのなら、お前は下宿しろ」
と、きびしい顔で言った。
青天の霹靂《へきれき》だった。東京の中学へ行く事は、私にもうれしいことだったが、家をはなれて下宿するなどとはその時まで考えてもいなかった。
吉野村から吉祥寺までは、電車で一時間半ほどである。中学生でもなんとか通える距離だ。母が成蹊を選んだのは、一つにはそういう交通事情も考えての事だとたかをくくっていた。
父は言った。
「どうも、お前達は、生まれてからずっと恵まれすぎている。中学生にもなったら、そろそろ他人の飯を食って、苦労の真似事でもしてみろ」
最近甘く見えてきた父の顔はそこになく、以前の厳父がそこにいた。
私は奥歯でなにかをかみしめながら、
「ハイ、ハイ」
と、大きな声でうなずいていたが、父の部屋を出ると物陰に行ってボロボロ泣いた。
母に泣き顔を見られるのがいやだった。
父は、前から母と、私を下宿させる事について話し合っていたらしく、下宿先も決まっていた。
それは、当時の同志社(現在の婦人生活社)の編集者で、父が同社の「日光」という雑誌に、『大岡越前』を書いていたころから、よく家にこられる木村伸氏の家だった。西荻窪にあった。
木村さんは、吉野村の応接間での遊び友達≠フ一人で角力の勝ち方などを教えてもらって良く知っていたから、私は、ややほっとした。
母も、
「土曜日になったら帰ってらっしゃい。おいしい物を作って待っているから」
と、なぐさめてくれたが、それでも私は、家をはなれるのがいやでたまらず、馴れ親しんだ吉野村の山川とも、これでお別れかも知れないなどと、子供らしい感傷に耽っていた。
入学式の一日か、二日前、用事で東京に出る父母に伴われて、私は木村さんのお宅へ移った。
ふとんや洋服ダンスは先に送ってあったし、引っ越し道具といえば、あとは身の回りの衣類と、叔父が餞別にくれた古いラジオとレコードプレーヤー、それに何冊かの本ぐらいのものだった。
木村さんの家に行く前に、母は荻窪へ寄って、小さな勉強机と用意し忘れた三角定規を買ってくれ、
「しっかりやってね」
と言った。
夕暮れの荻窪の商店街は、買い物に立ちまわる人々であわただしかった。田舎に育った十二歳の私にとって、その雑踏は、得体の知れない、とてつもなく大きな都会≠サのものだった。私の肩を突き、肘をかすめて行き過ぎる人々の流れの中に立って、私は突然まったくの他人の中にいる自分を意識し、淋しくなった。
入学式の日には、父も母も一しょに吉野村から来てくれた。
中学校では、その年新校舎が落成していて、私達は真新しい校舎の前に整列した。
ちらっと横を見ると、たくさんの父兄にまじって、洋服姿の小柄な父と母の顔がこっちを見ていた。
私は手を振りたい衝動に駆られた。
その時の父の姿が、書斎や茶の間で見る吉川英治という名の父親≠ニは違い、ほんとにオトウサン≠ニいう感じがしたからだった。
下宿生活が始まった。
下宿といっても、良く知っている人の家である。木村さん夫妻も暖かくしてくださった。
木村さんは浪花節が好きで、当時ラジオでやっていた広沢虎造の「次郎長外伝」を毎晩欠かさず聞き、新婚の奥さんに、
「趣味が低俗ねえ」
などとからかわれながら、夕食の時うなって[#「うなって」に傍点]は私を笑わせてくれた。私も虎造のファンになった。そういう温室みたいな下宿生活だったが、それでも、初めの一ヵ月ほどは辛かったし淋しかった。
成蹊には小学校もあって、下から上がってきた連中は知り合いどうしだろうが、私のように中学から入った生徒は、どうしてもすぐには皆と馴染めない。また、私には吉野村の仲間としゃべっていた、
「そんでよう」
とか、
「そうだんべえ」
という多摩言葉が身についてしまっていて、それがとび出しはしないかと、はじめのうち自然口も重くなった。
自分も着ているのだが、皆のしゃれた制服姿を見ていると、他の生徒が、皆自分より優れているような錯覚も覚えた。
木村さんの家に帰って、部屋でポツンとしていると、吉野村の友達や、父や母の顔が思い出されて、自然に涙が出てきた。だから、土曜日はうれしかった。
午前中で授業が終わると、電車にとび乗り、二俣尾で降りる。駅からの田舎道や、白い奥多摩橋が、何年ぶりかで見るもののように懐かしく、また、着ている制服や革靴が何となく誇らしく、胸をはって家へ急いだ。家では大歓迎だった。
書斎に行くと父も、「オウ、帰って来たか」と、うれしそうに迎えてくれた。
父と母を前に、私は一週間の出来事をしゃべりまくるのが楽しかった。
父も、吉野村の出来事や、仕事のことなどを、ポツリポツリと話してくれて、そうやって父と、母のいれてくれたお茶を飲みながら会話を交わすことで、私は自分が急に大人になったような気がした。
ただ、月曜の朝になって、まだ薄暗い吉野の家を父母に見送られて出て来るのは、いつまでたっても悲しかった。
そんな生活が一年続いたが、翌年になると弟の英穂も成蹊中学に入り、木村さんの家の居候は二人になった。
その翌年には、父も吉野村をはなれて品川に引っ越したために、私の下宿生活は二年で終わった。
不思議なことに、小学生時代あれほど喧嘩した私と弟は、木村さんの家で一しょに暮らした一年の間、一度も喧嘩しなかった。
この時下宿して初めて、私は父の愛というものをしみじみと感じた。
[#小見出し] 父の愛
一体、父親の愛というものは、子にとっては体の中を流れる血液のようなものだろう。
日ごろは、その存在とか重大さに気がつかないが、何かの折に、ハッとそれに触れ、その恩恵に気づく。
私は、この初めて下宿した時、後年就職して家を離れた時、父が死んだ時、それぞれの時点でその時なりにそれを感じたし、最近、自分自身の子を持つに及んで、一層強くそれを思う。
子供のころは、父の顔を見れば叱られるものだと思っていたから、よほど機嫌の良い時以外、なるべく父のそばに長くいるのを避けるような傾向が私にはあった。
だから吉野村時代は、父が留守の時など、家の中でも思う存分羽根がのばせ、せいせいした気持ちにさえなったものだ。父が他の職業と違って、年中家にいるという事もあったろうが、それほど、父は煙たかった。
しかし、中学一年の時下宿してみて、母の事はもちろんだが、それまで考えてみた事もないほど、恐いはずの父を恋しがっている自分をみつけて驚いた。
学校で、いやな事や口惜しかった事があった日など、帰ってから一人で部屋に坐っていると、――それまでそんな事は一度もした事がなかったくせに――父に色々と聞いてもらいたいなと思ったりした。
父は、私が中学へ入った年から、夏から初秋の二、三ヵ月を軽井沢で過ごすようになっていた。私達も夏休みの間は軽井沢へ行ったが、学校が始まると一足先に帰って来る。
父の留守の間は、西荻の下宿から吉野村へ帰っても、なんとなく張り合いがなかった。母もおらず、留守番の人だけの、大きなガランとした家は、帰っても、「家に帰って来た」という喜びがないのだった。
とりわけ、いつもは、「ただいま」と入っていって、
「オウ」と迎えてくれる書斎に、主のいない文机だけを見るのは空しかった。
一度、土曜日に家に帰った時、誰もいない書斎へ行って父の机に坐ってみた事があった。何か禁を犯しているようで胸が鳴った。
机の上の物は皆軽井沢へ行ってしまって何も置いてなかったが、えんじ色のビロードだけはそのままかけてあった。私は父の席に、父がいつもやるようにあぐらをかいた。
「やあ、お帰り」声に出して言ってから、急に照れくさくなり、そそくさと部屋を出た。
誰も見ていなかったかと辺りを見まわしたが誰もいなかった。広い庭で蝉だけが鳴いていた。
軽井沢にいる父母とはなれて暮らすのは、毎年一ヵ月半ほどだったが、私はその間、何回か父に手紙を書いた。父はあまり手紙をくれなかったが、軽井沢を訪れて帰って来る人に託して、
秋の灯や英明英穂何を読む
という句と赤い柿を二つ色紙に書いてくれた事があった。
(挿絵省略)
また、
喧嘩すな兄よ弟よ柿のたね
という色紙ももらった。
何十通の手紙より、父の気持ちがわかったような気がしてうれしかったのを覚えている。
私が生まれる前から父と親しかった講談社の星野さんは、
「いやあ、英明さん、あなたが生まれた時の先生の顔。あんなうれしそうな笑い顔は見た事がなかったですねえ」と、よく述懐される。
しかし、小学生時代の私には、父が私に、そんなとろけるような笑顔を向けてくれた記憶はついにない。
とすると、あのころ、私達の顔さえ見れば叱りつけていたあのきびしい表情は、父の私達に対するよそゆき≠フ顔だったのだろうか。
自分の子供を持った今、あれほどきびしい叱り方の出来ない自分をみるにつけ、ふとそんな事を思う。
よそゆき≠フ顔をつくり、私達をどなったり頬を打ったりするには、父なりに努力も必要だったろうと、親の身になってみて、父の心根を思いやったりもする。
どなられ、なぐられた時の父の顔が今は懐かしい。
日付を見ると「昭和二十四年仲春」とあるから、私が小学四年生の時だ。
『宮本武蔵』の戦後版が、六興出版から刊行されたが、その第一巻の見返しに、父は、
正しく 健康に 仲よく 母をいつくしみ
生命をたのしみ給へよ
と書いて私にくれた。
私は、初めて下宿をした時、その『武蔵』を持っていったが、それをもらった時は何とも思わなかったその字句が、一人になって見ると、何物にも換え難いほど大切なものに思えた。
「生命を楽しみ給え」
父が私によく言った言葉だが、今でもあの本の見返しを開く時、この二行にこもっている無限の愛情を私は感じる。
[#改ページ]
[#見出し] 5 軽井沢
『新・平家物語』の執筆中、父はよく旅に出た。
取材旅行である。
同行してくださるのは、たいてい、杉本健吉画伯、当時朝日の出版局長の嘉治隆一氏、春海鎮男氏らの方々だった。
一回目の旅行は、新・平家を書きはじめた年の暮れだった。伊勢から大阪、神戸を歩いて屋島、壇ノ浦まで足をのばしている。
この後、二十六年の秋に鬼怒川から北陸、二十七年の初めには伊豆方面、二十九年には京阪神など、数回にわたって平家物語の史跡めぐりをしているが、中学生だった私は、残念ながら一度も一しょに旅行していない。
西荻の下宿から吉野村へ帰った時に、父が話してくれる笑い話や、「新・平家今昔紀行」など父が書いたものから、旅行の模様をうかがい知る事しか出来ないが、この二十六年の北陸旅行中、思わぬ椿事がおこった。同行したのは、杉本画伯、嘉治氏、春海氏、「週刊朝日」の高山氏らの方々だったが、一行が新潟で一泊した際、旅館で泥棒に入られたのである。
父はこの一件がよほどおかしかったらしく、旅行の後、帰宅した私をつかまえて、身ぶり手ぶりを入れてその模様を話してくれたが、「新・平家今昔紀行」の中でも、この事件に一項を割いている。
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朝である。――タオルを下げ、階下の洗面所へゆくと、高山君が、歯をみがいている。ほかの階下組は、見えない。「まだ寝てるの」「いいえ、もう」と高山君はウガイ水を吐く。「高山君、高山君」と嘉治さんか誰かが中広間で呼んでいる。そのうちに、その高山君を初め、春海さんらしい声も交じって、ヘンテコな会話が聞こえ始めた。旅館の老女将や女中さんなど、呼ばれたり、走って行ったり、どうも妙である。
健吉さん、のっそり降りてきて、「どうしたの」と、中広間をのぞく。ぼくも入ってゆく。
みな返辞をしない。春海さん、憮然《ぶぜん》と、廊下にたたずみ、嘉治さん、腕グミして、卓の向うに坐っている。高山君は、どてらの裾を引きずりながら、「はてな。おかしいですな。アイロンをかけに持って行ったかしら。それにしては?」などと、部屋の隅を宝探しみたいな恰好で、何やらしきりに、屈み歩いている。掻き廻している。
結局。――泥棒が入ったと気がついたのは約十五分間ぐらい後である。何もそんなに、考えなくても、分るはずだが、分らないものである。よもや、と何《ど》うしても、思ってしまう。
「ははあ、やられましたなあ」春海さんの如きは、もっとも、カンが遅い。そのくせ、廊下に点々と残っていた泥棒の土足のあとを、自分で踏んづけているのである。
「踏み消してはいけませんよ。高山君、そこらも、余りいじって何か動かさない方がいいですよ」と、嘉治さん注意する。旅館の電話で、たちどころに、警察の人々が、前後して、やって来る。
部長、警部補、鑑識課、刑事諸君など、驚くべき人数が、忽ち部屋いっぱいになってしまった。物々しい現場検察と、被害者訊問が始まる。「これは、えらい事になった」とぼくも思い出した。
けれど、どういうものか、ぼくにはちっとも、切実感がわいてこない。もっとも、ぼくと健吉さんだけは階上に寝たため、持物洋服なども、そっくり二階に残っていた。してやられたのは、階下の三人全部である。
「トランク。トランクもありません」「洋服もですな」「あ。紙入れも」「ボクのボストンバッグも」「これは手際がいい。殆ど、全部です」責任感のつよい高山君は、刑事、鑑識課の諸君も措いて、今なお、眼を皿に宝探しをつづけている。悪いけれど、笑うまいと思うけれど、おかしくて仕方がない。ひと事というものは、ひどいものだ。こうも冷淡になれるものかと、ぼくは自分のクツクツ笑いを憎んでみるが、何ともこれは一場の喜劇《コメデー》であった。
泥棒は、裏口から入ったらしい。窓の竹格子が、見事に切られているという。裏庭に脱糞があったとも報ぜられた。また、ボストンバッグの中の林檎を取出し、ゆうゆうと、食って行ったらしく、りんごの皮が捨ててあった。ヤスリ、小さい釘抜き、ネジ廻しなど、三ッ道具入りのサックも置き忘れてあり、それから洋服類は、全部風呂敷包みとなし、ただ一点、春海さん所有のもっともヤツれたるズボン一着だけは、値が踏めないためか、泥棒も敬遠して、雪隠口へ捨てて行った。
「これは、どなたので」と鑑識課の手から公示され、「は。小生ので……」と春海さん答えたものの、泥棒にも敬遠された物では、手に取る気にもなれないとみえ、「なぜ、これ一つ、残して行ったんだろう」と、いかにも心外そうである。
(中略)
白浪の足あと凄し朝の月
ぬす人もいづこに秋を深むらん
借着して旅籠立ちけり秋の風
車中、何だかまだ、おかしさにたえず、時々、思いついては、こんな駄句をひねって、隣りの春海さんに示す。「ふウむ……」と大きく鼻の穴で覗《のぞ》くのみ。春海大人の風懐も、いっこう感興に乗って来ない。
[#ここで字下げ終わり]
父が夏を軽井沢で過ごしはじめたのは、この二十六年からである。
軽井沢の家は、それより大分前のある年の暮れ、駆け込んで来たある人に、
「どうしても金が要るので」と、無理矢理頼まれて買ったものだが、父は、あまり、避暑ということに気がのらなかったらしく、しばらくは、軽井沢へ行こうとは言い出さなかった。
しかし、『新・平家』を始めてから、日ごろ胃腸の弱い父は、夏、どこか涼しい所で仕事がしたいと、軽井沢を思い出し、この年、初めて、夏休みに入った私達を連れて出かけていった。
私達子供は、小学校時代、毎夏、鎌倉に住んでいた叔父の晋の家に一ヵ月間世話になって、海での夏休みを楽しんでいたから、その年、
「今年は軽井沢へ行くから、鎌倉はやめなさい」
と、母に言われると、少し不服だった。
人に頼まれて、バタバタと見もしないで買った家だから、どこにあるのか場所もわからない。まず、「週刊朝日」の小川さんと、小森幸子氏らと軽井沢の晴山ホテルで落ち合って、家探しにかかった。
初めて見る軽井沢は美しかった。
家の所番地を頼りに、西部劇のセットのような旧道の街から脇に入ると、小さな教会の前を通った。
黒っぽい木造の質素な教会で、鋭い角度で合わさった屋根のてっぺんに立った白い十字架が、木立ちに囲まれた建物全体に清楚な感じを与えていて、その全体の姿が、初めて来た軽井沢という土地柄を象徴しているように私には思えた。
生い繁った木々にトンネルのようにおおわれた細い道を往き来する自転車姿の中に、外人の多いのも珍しかったし、彼らの着ている白いテニスシャツや金髪の上を、木洩《こも》れ日がチラチラと通りすぎるのも爽やかだった。
父は、
「いいねえ。いい所だねえ」
と小声で呟きながら、東京の土と違った湿ったように黒っぽい軽井沢の土を踏みしめるようにして歩いていた。
ポク、ポク、ポク。
貸し馬が、人のよさそうな馬丁にひかれて、時々追い越して行く。
日向にいた時、うっすらとにじんだ額の汗も、木蔭に入ると微風に吸い取られるように消えてしまう。
私達は鎌倉の事も忘れ、新しい土地に目を瞠っていた。
そのうち母が、
「これじゃない?」
と叫んだ。
木の間をすかして見ると、割合に広い庭の奥に、あまりきれいとは言えない家が雨戸を閉ざしていた。
庭と道とは、立ち並んだ木で仕切られているだけで、門もなく、ただ入り口に「549」と書いた白いペンキ塗りの標識が倒れそうに立っていた。
「これよ。549よ」
「これですわ」
母と小森さんがはしゃいで庭にとび込み、私達もバタバタと後に従った。
家は、一階が八畳と三畳と四畳半に台所、二階が六畳と八畳二間という、何の変哲もない木造だった。
何年も使っていないから、畳は触れると気味が悪いほどじめじめしていてもちろん使えない。家が住めるようになるまで、しばらく、ホテル住まいということになった。
しかし、この一夏で、父は軽井沢がすっかり気に入ったようだった。
私達もそうだった。
それから毎年、父は必ず夏を軽井沢で過ごすようになり、夏の軽井沢は、母や私にとって、父を憶う時欠かせない場所となっていった。
[#小見出し] 避暑地の日々
軽井沢という土地に、私はふるさととも言える吉野村にもない、たまらない魅力を感じる。
父が晩年愛し、最後の病に倒れた土地であるとか、私が中学、高校、大学と、少年期から青春の夏を過ごした土地であるという郷愁めいた感傷も、その魅力の大きな要素だが、土地自体、一度訪れた人を惹きつける何かを持っている。
じっと見つめていると、たしかにあの先は無限なのだ、と実感させるほど深く澄んだ昼間の空と、漆地に砂金をふりまいたような夜の空。
周囲二、三メートルから先を、白く、うす暗くおおいつくして、まったく音のない不思議な世界を作り出す霧と、滝の音を思わせるような雨。
皮膚に痛いほど強い日射しと、白く息の見える夜と早朝の冷気。
そして、スポーツカーの若者や、ショートパンツの日焼けした脚とで賑う、はでやかな八月と、人気の絶えた街とテニスコートとゴルフ場がとり残されている九月――。
夏から秋へのたった一、二ヵ月の間だけでも、そうしたきわだった対照がめまぐるしくこの避暑地を変える。
秋たけてのこる浅間と画家一人
父はよく、十月半ばごろまで軽井沢に残ったが、ある年引き上げる時、あとは梅原龍三郎氏だけだと聞いてこんな句を作っている。
軽井沢へ行きはじめた最初の一、二年は、父はまだゴルフをしなかった。
私と弟、それと時には母を交えた四人で、早朝、馬に乗るのが日課だった。
乗馬といっても馬場でやる正式のものではない。貸し馬を借りて、父を先頭に四頭、ポックリポックリ、その辺を歩きまわるのである。
それでも、少し馴れてくると走ることも出来るようになり、まだ舗装されていなかった大通りを親子で競走したりした。
貸し馬でもやはり馬のくせがあり、同じ馬に乗りつけると他の馬には乗りたくなくなるもので、私達はそれぞれ、自分達の愛馬を持っていた。父のお気に入りは「松風」という、往年、高崎競馬で走っていた逸駿(?)だったが、私達が馬の方から気に入ってもらうようになるまでは相当時間がかかった。馬は利巧で、乗り手が素人《しろうと》とみるとたちまち馬鹿にする。
ある朝父は、愛馬「松風」に打ち跨り、先頭を切って、ポコポコ歩いていたが、そのうち「松風」が、「我が道を行く」といった表情で、のそのそと道端の雑木林に入り込んで行ってしまった。父は必死になって手綱をしぼったり、かかとで馬腹を蹴ったりしているが、まさに馬耳東風、馬は悠々と歩度もゆるめずに林の中を歩いて行く。
林の中は雑木の枝が重なり合っているから、馬は首をヒョイと下げれば通れるが、人間は枝にぶつかる。父は馬のたてがみに突っ伏して、手綱さばきもあらばこそ、片手をむやみにふりまわして、ぶつかってくる木の枝から顔を防いでいる。
「オーイ。オーイ文子ー」
呼んでもしようがない母などを呼んでいる。
「左の手綱を引いて――。そうそう、右の踵で腹をけって」
などと、はじめは自転車の上からコーチしていた馬丁さんも、見かねてとんで行き、父を救い出して来た。
母や私も、同じような経験はあるのだが、
「そういえば、宮本武蔵はあまり馬に乗りませんね」
などと馬丁さんにからかわれながら、髪の毛についた木の葉をはらい落としている父の姿は、今思い出してもおかしい。
そんな椿事がありながら、この日課は二夏ほど続いた。
まだ朝霧の残っている高原の道を、馬の背にゆられて過ごす一時間は、素晴しいものだったが、父がゴルフを始め、私達がテニスに夢中になり出すと、自然立ち消えになってしまった。
夏の軽井沢の我が家の行事の一つに、父の誕生日があった。
誕生日は八月の十一日だったが、家では父の誕生日をとりたてて祝う習慣はなかった。ところがある年の夏、扇谷さんが、京橋の喜か久鮨≠フ御主人を軽井沢に連れて来てくださり、父も大喜びで、扇谷さんをはじめ朝日の方々と家族だけで、喜か久さんのにぎってくれる鮨に舌鼓を打ちながら内輪の祝いをしていると、そこへひょっこり、川口松太郎氏が姿を見せられた。
「へえー。今日はお誕生日ですか」
川口さんも座に加わって、祝いの席は一層|賑《にぎわ》ったが、そのうちに話が弾んで、扇谷さんが、
「これは、毎年やりましょうや、軽井沢には文壇の方も多いことだし、皆さんに声をかけて、お鮨でも食べてもらいましょう」
と、翌年からは、軽井沢在住の文壇人もお招きして誕生日を祝うようになった。
集まると、皆さん、ゴルフ好きの方ばかりである。自然、明日はみんなでお祝いゴルフだ、ということになり、それからは毎年、十一日の晩に、家で喜か久さんの鮨を食べ、翌る十二日は、朝日、毎日、読売、講談社、文藝春秋、角川書店と六社の主催する豪華版のゴルフ大会というのが恒例となった。
小さかった家も書斎などを建て増して、多少広くはなっていたが、十一日の晩の我が家は、年年ふくれ上がるお客様で、はち切れんばかりだった。
軽井沢在住のゴルフの仲間では、川口松太郎、石坂洋次郎、丹羽文雄、石川達三、井上靖、源氏鶏太、柴田錬三郎、水上勉、生沢朗の各氏がみえられたし、十二日のゴルフを目指して、東京からも、小林秀雄、今日出海、大岡昇平、岩田専太郎らの各氏がいらっしゃる。また、ゴルフをしない方でも、川端康成氏や、杉本苑子氏、永井路子氏らも時々顔を出され、三十四、五年ごろになると新聞、出版関係の方も交えて、四、五十人のお客様が、父の書斎と隣りの部屋をぶち抜いた二十畳ほどの空間に集まるのだった。
毎年、賑やかだった。話題も豊富である。酔うほどにゴルフ談義にも花が咲き、翌日のゴルフの馬券≠発行しようということにもなった。
「優勝と七等か――。それにお誕生日が十一日だから十一等と――。それを当てる馬券を作りましょう。一枚百円、さあ買った買った」
と、皆さん夜が更けるのも忘れてはしゃぎ、大きな笑い声が台所まで響くのだった。
その上、父が、
「ついでだから、お前らの友達も呼んじまえ」
というもので、私や弟の友達や、出版社の若い方達など二、三十人が、これはベランダの床に坐ってどんちゃん騒ぎをする。
石坂洋次郎氏も後に、吉川家に七、八十人も集まっているのを見てたまげてしまった、と書いておられるが、何しろ大変な騒ぎだった。
この誕生日の準備で、母は文字どおり、四、五日前からてんてこ舞いで、
「今年は、とうもろこしを百本焼いたわ」
と、腰をさすったりしていたが、その母にとっても、毎年十一日の夜は軽井沢で最も楽しい一晩だったらしく、
「軽井沢のお誕生日は楽しかったわね」
といまだに懐かしむ。
父の誕生日の晩に限らず、軽井沢では、日ごろ東京にいると、たまのゴルフ場とか、何かのパーティーなどでしか顔を合わせない友人と、気軽に会えて話が出来るのも、父にとっては魅力だったようだ。
毎日、ゴルフ場で顔を合わせる方々以外でも、夕食後、ブラッと下駄ばきで街を散歩しているうちに思いがけない人に会ったり、
「休暇で遊びに来たんですが、たまたま、お宅の前を通りかかったので」
などと、何年ぶりの人がひょっこり訪ねて来たりする。
池島信平さんや、扇谷正造さんなど忙しいジャーナリストの方達も、我が家を吉川バー≠ニ名づけて、軽井沢へいらっしゃると必ず飲みに来られた。
一度、私が高校のころの話である。
表の入り口から、着物の裾をはしょって股引きを出し、コウモリ傘に風呂敷包みをさして肩にかついだ、あまり風采の上がらないお爺さんがノコノコ入って来て、ちょうど、テニスに出かけようとしていた私に、
「吉川さんいるかい?」と訊いた。
私が、どこの田舎親爺だろうと、自転車に乗ったまま、
「父は仕事中です。母が台所にいますから、裏口へまわってください」
とぶっきら棒に答えると、おじいさんは、にこにこして、
「ああ、仕事中悪いけど、志賀が来たと言ってください」
と言った。
(志賀? 志賀?)
私はもう一度、その麦わら帽子の下の顔を見つめてハッと気がついた。志賀直哉氏だったのである。失礼を謝るのも忘れて自転車からとび下り、奥へ駆け込んだ。とんだ失敗だった。
しかし、そんな気軽な雰囲気が、父を大いにくつろがせるらしく、八月半ばの軽井沢町のお祭りには、私達と一しょに花火を見に行ったり、盆踊りの列に入って、見よう見まねで「炭坑節」や「軽井沢音頭」を踊ったりもした。
そういう時の父を見ていると、父が本当にこの土地を楽しんでいるなあと思うのだった。
しかし、何といっても、軽井沢での父の楽しみはゴルフだった。
東京ではコースまで時間がかかり、あまり出来ないゴルフが、軽井沢では手軽に出来る。週のうち四日ぐらいは、早朝からの仕事を午後の三時ごろで切り上げ、母とワン・ラウンドするというのがきまりだった。
大概は、亡くなった文藝春秋の佐佐木茂索氏夫妻や、川口松太郎氏夫妻、石川達三氏夫妻、石坂洋次郎氏夫妻らと、
「夫婦合戦だ」
といって、チョコレートを奪《と》り合っていたようだ。文壇の会など以外は、母はいつも一しょで、「吉川さんのおしどりゴルフ」とゴルフ場では有名だった。
その夫婦ゴルフに関して、こんな話もある。
ある年の夏、石坂洋次郎氏は、身体の具合が悪く、ゴルフ場にも全然お見えにならずに家で寝ておられた。
父は心配して母に薬を届けさせたりしていたが、なかなか回復されず、かなり重病の御様子だった。石坂先生の奥様は――先年亡くなられたが――まことに天真爛漫なお人柄で、細かいことにくよくよされる性質《たち》ではなく、先生の御病気中でも、毎日一度はゴルフ場に姿を見せられた。
それを聞いた父が、石坂夫人を電話でどなりつけてしまったのである。
「亭主が病気で寝ているというのにゴルフとはなんだあっ。君はもう明日から絶対にゴルフをしてはいけないっ」
もの凄い声だった。私が子供のころ、震え上がったあの声だった。家中に響きわたり、電話からはなれた部屋にいた私達も、一瞬、何事がおこったのかと緊張して、しばらく、しーんとしてしまったほどだった。
母は、
「人の奥様をあんなにどなりつけて」
と、はらはらしていた。
石坂先生は、まもなくお元気になられたが、奥様は後で母に、
「あの時、お宅のトウチャンにおこられてよかったよ」
とおっしゃってくださり、母もほっとしたという。
私も大学に入るとゴルフを始めたが、やはりテニスコートの方に友人が多く、父に誘われても、
「今日はテニスの試合があるから」
とか、
「今日は友達とドライブに行くので」
などと、断わる時の方が多かった。軽井沢では、あまり父と一しょにゴルフをしていない。
毎年の軽井沢の夏だけをふり返ってみても、私が中学から高校、大学と進むにつれて、父と私の日常は、お互いに放射線の上を行くように次第にかけはなれていった。
父は、ゴルフという、楽しみと健康法を兼ねたレクリエーションをみつけて、軽井沢では仕事とゴルフの毎日だったし、私は高校に入るころになると、父と一しょに馬に乗るような事もなくなり、宿題もほっぽり出して、もっぱら友人とテニス、テニスに明け暮れていた。
子供の時のように、父と共通の楽しみを頒ち合う時間が少なくなってきたのである。
父と顔を合わせるのは、朝と、たまに一しょにする夕食の時だった。そのころにはもう、私も父を子供のころのように恐いとは感じなかったし、父も、
「どうだ。ちょっとなめて見るか」
と、私に晩酌の盃をまわしてくれたりして、その日のゴルフの模様を、ある時はうれしそうに、ある時は口惜しそうに話すのだった。
いつも父のまわりにいるのは末の香屋子で、夕食の時も父のとなりにちょこんと坐って、小さな茶碗をつついていた。
父は、そんな香屋子が、かわいくてたまらないらしく、香屋子が絵を描けるようになると、夕食後、母と二人を連れて街に出て、土産物の楽焼屋に立ちより、香屋子と合作のお皿や茶碗を焼いたりしていた。父が皿に描いた柿の絵を香屋子に、
「これ、トマト」といわれ、
「オイ、オイ、よせやい」
と大げさにくさって見せた時でも、やはりうれしそうだった。父は、
「九月になって人がいなくなってからが本当にいい」
といって、はじめのうちは、私達が東京に帰った後も、十月半ばごろまで母と香屋子と三人で残っていた。
しかし、香屋子が小学校に入って、九月早々に東京に帰るようになると、淋しくて軽井沢にはいられないらしく、その後は、九月の半ばというと、まだ暑い東京に引き揚げるのが常となった。それほど、香屋子の存在は、父にとって大きいのだった。
軽井沢の事ではなかったが、
若葉照り今朝は香屋子の誕生日
などと、手放しの、子供みたいな句も作っている。
晩年に出来た子で、父にとっては孫のような子だったせいもあろうが、私や弟が、成長するにつれて父の周囲からはなれ、それぞれ自分達の世界を持ちはじめたためでもあろう。
父の余暇にあまりつき合わなくなった私を見て、父は淋しくはなかったろうか。男の子は、大きくなれば、はなれて行くものと、むしろ喜んでいたのだろうか。そういう時の男親の心境はまだ私にはわからない。
ただ、もっと軽井沢で父とゴルフをしておけばよかったなとは、いつも思う。
[#改ページ]
[#見出し] 6 結婚披露
子供のころ、あれほどしょっちゅう喧嘩していた弟の英穂だったが、その弟が同じ成蹊中学に入って、西荻の下宿へ来ると聞いてからは、その日のくるのがひどく待ち遠しかった。
弟が来てからは――木村さんの家では、厄介者がまた一人増えて御迷惑だったろうと思うが――西荻の私の部屋もそれほど淋しいものではなくなった。
朝、弟を学校に連れて行くんだ、という義務感のようなものも生じたし、帰ってから、学校の様子や先生達のあだ名やくせなどを、弟に講義≠オていると、自分がえらくなったような気もした。
週末、家に帰って、父母に、「英穂も元気にやってます」
などと報告する時は、自分でも鼻の穴がふくらむのがわかるほど得意だった。
私が一人でいたころもそうだったが、父も、たまに用事で東京に出た帰りには、必ず母と一しょに寄ってくれた。
そういう時の父は、部屋に入って来ると、わざと難しい顔をつくって、まず、本棚をじろっと見渡し、机の上や部屋の隅々に目を走らせた後、おもむろに、
「元気か?」と話しかけるのが常だった。
話題は当然、学校の事が主だったが、父はとくに、私達の友達の事をよく訊《き》いた。
父は、子供のころ、祖父が事業に失敗して、小学校を中退しているから、日ごろ、
「僕は、学校で高等教育を受けなかった事は少しも後悔していない。ただ、学生時代の友人がないという事だけは残念だ」と私達に話していたし、
「友達は大事にしろよ、とくに学生時代の友達は」
と私が大学に入ってからもよく言っていたから、親許をはなれた私達が、どんな友人とつき合っているのかが気になったらしい。
自分の若いころの苦労話は、私達にはほとんど話した事はなかったが、友達は大切だという事は、事ある毎に言っていた。
そんな事を話して、十分ばかりお茶を飲んで帰るのだったが、帰りがけ、私達が通りまで出て見送ると、母が何度もふり返るのは、弟と二人になってからもかなしかった。
二十八年、父は連載中の『新・平家物語』で菊池寛賞を受賞した。
受賞祝賀会が東京会館で行なわれたが、その祝賀会を、父が母との結婚披露宴と兼ねたというので話題になった。
父の年譜によれば、
「四月、菊池寛賞の会を機に、内助の人たりし妻文子との結婚披露をこの宴に擬す。ただし友人川口松太郎、徳川夢声、扇谷正造氏らの発議にて、当日会する年来の悪友、善友らのまた相興ずるにまかせたるのみ、べつだん新郎新婦の予期してのぞみたるにはあらず」
という事である。
父はこの受賞祝賀会兼結婚披露宴で、こう挨拶している。
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まず、今度の菊池寛賞受賞の事でありますが、初めに「キミに賞を」といわれた時、私はどうしようかと思ったのであります。というのは、私達の仕事、つまり、大衆を相手とする文学は、日ごろの読者大衆の支持と反応こそが、大きな張り合いでもあり真実な批評でもあるからであります。つまり読者の応えそのものが、何よりの受賞であります。それで貰うならば、大衆の手による大衆賞を、貰いたいと、つねに思っているのであります。(拍手)
最初の約束において、すでに大衆の文学ということを標榜している以上、社会人の健康な応えが何より私達を励ますものだという考えは当然だと信じております。といって読者を意識しすぎてはいけませんし、また、それでは文学本来の使命にもとりますんで、大いに悩むところではありますが、まあ私などがそれくらいな精進をするのは、当たり前のことで、たいして賞められるほどな事ではございません。むしろこの、多数を対象とする文芸の部門では、ともすると、その仕事の性質上から、実質以上に虚名を謳《うた》われやすいということも、いつも考えさせられています。私なども、つらいようなイヤな気もするんですが、年々税金のトップにおかれているようなわけで、正直、むくいられる点では過分なほど報いられてもおるのであります(笑)。それにおなじ文学に精進している人でも、ごく目立たない地味な仕事をしていて、まことにめぐまれないでいる人々もあるのを知っております。そういう人々の前に私などがこんな賞を貰っていいかどうかも、反省させられるのであります。つまり、今日の文壇水準からいって、恵まれるところだけが、恵まれすぎる嫌いがあり、その上、ややもすれば、私なども虚名を受けすぎている方であります。そう省みられますので、実は、この二つのことから、今度の賞をいただいては、有難迷惑だ(笑)といっては、言葉が過ぎますが、有難当惑といったあんばいで、何とも申し訳ない気がしたのでありました。
けれどまた、ひそかに欲目を出して考えますと、今度の受賞は、生前、私も敬愛し、親しくしていた故菊池寛氏の賞である、菊池氏がくれるんなら貰っておこうかという気になったのであります。人間この年になりますと、いろいろと、考えまどい、――おおむねつまらぬ事でありますが――結局は狡い方へ落ち着くものでございます。(笑)
ところで先ほど、発起人の一人、夢声氏から暴露されましたが、私は実は結婚式もしていないのであります(笑)。もっとも新婚旅行はいたしてあります、この点訂正いたします(笑)。いや、それのみではありません。賞を貰ったのは、実は私は、今度が初めてであります。競走馬の賞は、一昨日(三月二十二日)貰いましたが、これは、無知なる動物をそそのかして搾取したもの(笑)でありまして、取ったのは、馬でして、これは私の克《か》ちえた賞とは言えないのであります。(笑)
およそ、私は不徳な人間で、自分のこれまでの生涯では、私自身の祝い事らしいことは、一ぺんもした事がないのでありまして、結婚披露もしていない、出版記念会もしていない(笑)。四人の子供の誕生日は欠かさずいたしますけれども、私達親の誕生日はしていないのであります。
この前、去年ですが、還暦を迎えましたんで、お祝いをやったらどうかというような話も周囲から出まして、その折、三角寛氏などは、ある日自動車一パイ何かのせまして、赤い烏帽子《えぼし》やら、赤いフトンやら、お猿のチャンチャンコみたいな祝い物をうんとこさと持ちこまれ、おめでとうといいに来てくれました。しかし、どうもその、私には、ちっとも、おめでたい気持ちになれない(「そのとおり」の声)。で、そのお祝い物は、そっくり押入れにつっこんでしまったきりついしまい忘れてしまったのであります(笑)。ところが、先日、友人の春海君らと、熱海のうなぎ屋の重箱≠ヨ食事に行って、重箱のばあさんを、からかったりしながら一パイやりました。その時、ばあさんが何かの話から「私も今年は還暦になる」とほくほく言ったんです。そこでふと、押入れのものを思い出し、三角君のお祝い品をそのままそっくり、このおばあさんにやる約束をしてしまったのであります(笑)。この席で、三角君に対し謹んで謝罪とお礼を申しておきます(笑)。まだ結婚披露もやっていない花婿に、還暦の祝いを先にされては困るからであります。(大拍手)
さて、結婚披露の方でございますが(三角寛氏は、持参のカメラで、吉川夫妻をしきりに撮影する)どうも少し、あがってしまいます。
実は、ここにいるのが、花嫁の文子と申します者で(笑)、私は、御承知のごとく前の家内とは離婚し、二度妻をもったのでありますが、それはもう今を去る十九年か二十年前のことになるのでございます。
現在、恐妻会の総裁とか、会長と申しまして天下に令名サクサクたる阿部真之助――この阿部老は、一昨日突如、東北へ講演旅行にゆくと称して本日の会には出られないからよろしく、と通知してまいりました――もし今日ここに来ていたら、私ども夫婦が一刀両断にしてしまわねばならない(笑)と思っていたのであります。
その事情と申しますのは、これも二十年も前のことですが、川原湯温泉の一夜、阿部老が奥さんとの将棋の上で、じつにハタの見る目も憐れなほど、奥さんからコテンコテンに叱られたり負けたり、何ともおなじ男性として見るにしのびないほどヤッつけられておりましたのを、帰京後、私が友人間に洩らしたというので、以後、いまだに女々しい恨みをいだいておりまして(笑)ややもすると、吉川英治もわが党の恐妻家であるなどという風説を撒《ま》きひろめ、昨年の文春でしたか、何かの誌上にも、恐妻家列伝の中に私のことを長々と書いたりいたしました。が、実はこれは阿部真之助自身の話が多分に混入しているのでございまして……(笑)
小生にとっては、現在の新郎新婦には何らかかわりのないことでございます。まことに恐るべきデマ、いや、デマ製造家でございます(笑)。しかし、じつを申すと、私もたしかに以前は、恐妻会の副会長くらいの資格があったには違いございませんが……それは前の家内とのことなんです。(笑)
けれど、世間の方達は、知りませんから、そんな阿部伝説が世間に拡がりますと、地方の女性読者の方などから「あなたは、奥様に、そんな不幸な方でしたか。何なら私でも……」(笑)というようなお手紙もまいるというわけでございました(笑)。私は憤慨いたしました。新婦に対しても困ります(笑)。けれどこれも私が結婚披露をやってない事に原因があったわけであります。阿部老のごときは、時に吉野村の私の家へもまいり、文子とも会い、その後を知っているはずであるに拘らず、さにあらずで(笑)何とも、友達ガイのない男でございます。(笑)
ところで、前の家内と離婚後の二、三年は、よく銀座裏を放浪していたものですが、ある折「ああ、こいつだ」(笑)とつかまえたのが、今、ここにいる花嫁でございます。家計のため銀座へ働きには出ていましたが、まだ西も東もわからない乙女でして、もっとも西や東が分かっていたら私の手にはおえませんが、分からない様子なので、これをと見こみをつけました。いったい、私は借家でも椅子でも、これと思ったら、きっとそれに腰かけてしまう(笑)。そういう一途な性格がございます。ただ女性に近づくことは、生来、甚だ不器用なんでありますが、少年時代にはトンボをつかまえるのは上手でございましたから、その自信を以て彼女に近づきまして、今になると新婦にはお気の毒な至りでありましたが、まんまと、手に入れました。まあ、たぶらかしてしまったのであります。(大拍手)
先ほど、徳川さんが結婚式も新婚旅行もやらなかったといわれましたが、どういたしまして、新婚旅行の方だけはやっております。(笑)
たしか、あれは、伊豆の湯ケ島でしたか……、旅館の廊下で運悪く、誰だったかな(傍らの文子の方に顔を寄せて「誰だった?」に爆笑)――そうそう中野実君でした。悪い奴、いや悪い人(笑)にみつかったと思いましたが、こちらも図太く構えて二日二夜すごしました。するとつぎの朝早く、中野君が私の部屋を訪ねて来ました。ひやかしに来たのかと思ったら、緊張した面持ちでした。
「赤紙が来た」
というわけです。当時、今からもう十数年前で、御承知の日中事変がはじまったころで、中野君は倉皇《そうこう》として発つ。私達、ういういしい新郎新婦はあとに残される。という意外なことになりました――。そのころからです、もう身辺あちこちの知人の間に応召の赤紙時代≠ェ押し寄せてまいりました。そういう中で自分達の結婚披露でもあるまいと思っているうちに、やがて太平洋戦争になってしまいました……。
もう一つ、結婚披露をためらっていたわけがあります。前の家内との頃に、さる人のすすめで一人の養女を家庭でもらいうけていまして、その娘が淑徳女学校に当時在学しておりました。私が結婚披露をすれば、何しろ、年ごろのことです。感じやすい時代でもありますので、世間にもよくありがちのように、女学生どうしのお友達から「あなたは、お母さんが二人いらっしゃるの?」などと、いわれたりしては可哀想だと思ったのでございます。……それで、とても結婚式どころではないと思い定めておりました。ところが、この子はあの三月十日の東京大空襲のさい、女学校から女子挺身隊にとられていて私のそばにもいられませんで、ついに戦災のもとに死なせてしまいました。……やがて終戦、そしてあの、今度は戦後の世態です。とても御披露どころではない――、そのうちにまた、『新・平家物語』です(笑)。そんなこんなで、まことに遅くなりましたが、ついつい十八年間、私どもには、結婚式を挙げる間がなかったのでございます。決して世間一般の結婚式を否定しているわけではございませんので、自分のまわりの弟妹でありますとか、身近な者の結婚には、どれもささやかながら式はやらせてきているのですが、自分自身の方は、不徳にして、ついやるひまもなくきてしまった次第でございます。で、今日――ここに来て私のそばにおります女房は、これはまさしく我が家の女房でございますので(笑)――多少年はちがいますが、ひとり阿部真之助老だけでなく、幸いに、ここにお集まりの方々も、とくと御覧おきを願って(笑)なお将来よろしくおねがいいたしたいのであります。
もし、菊池寛賞をいただかず、今日の機会を逃してしまえば、おそらく私共ふたりの結婚式は見ずじまいで、結婚式と吉川英治の告別式とが重なってしまったであろうと思われます。きっと花嫁は黒の喪服姿で結婚式を挙げることになったに違いありません(爆笑)。それが今日、こういうところで、新郎新婦めでたく相並び得ましたことは、ひとえに亡友菊池寛氏の名を冠したこの賞のおかげでございました。まことに有難いことと感謝しております(大拍手)。一層の精進を重ねなければ申し訳ないと思うのであります。
さて私ごとばかりに亘りますが、もう一つ、御紹介申しあげたいことがあります。
じつは、この一週間ほど前、三月十五日、私の幼少時代の小学校の先生――山内茂三郎先生にお会いできました。五十年も前に教わった先生でございます。横浜の教育界にあること六十七年、ことし八十八歳になられます。残り少ない同窓生で、先生の米寿をお祝いいたしたいとのことで、私も駆けつけまして、横浜の山ノ手の一校舎で、老先生を中心に、楽しいお祝い日を過ごしたわけでございました。
考えてみると、私は、自分の過去に、あの学校生活というものの味は、小学校の校庭しか知らないのでございます。ですから、私には、恩師となつかしめるお方は、この老先生おひとりなのでございます。その晩、私は同窓の人達五、六名と、老先生御夫婦をお連れして、よそへ食事にまいりました。そして米寿の赤いワイシャツを着た老先生と御夫人を床の間に、きれいな芸妓さんをあげて子供みたいな大騒ぎをやりました。
先生はこの年で芸者さんと遊んだのは初めてだと仰っしゃるんで、私達は先生の晩節を破ったわけです(笑)。それも愉快になって、むかし歌った「汽笛一声新橋を……」だの「箱根の山は天下の嶮……」なんていう唱歌を大声で合唱し出しますと、先生もお顔のシワに涙を溜めて、手拍子をとりながら「箱根の山は天下の嶮」を唱われました。そしてぜひ、自分も今日の記念会に来たいといわれ、わざわざ、今日ここに横浜からお出でくださったのであります。(大拍手)
まことに、何やら感慨にたえなくなりました。先生が八十八歳、生徒の私が六十二歳です。七つ、八つのころから、文字どおりイロハのイの字、ABCと教えていただいた先生を五十年後の今日、このような席に、お迎えすることが出来たというのは、長い人生としても、ことに私ごときに、望外なことでありまして、何といってよいか言葉にもつくせない……(吉川嗚咽、満座粛然)……このうれしい機会をめぐんでくださいました故菊池寛氏という有難い友人、また日ごろ、仕事のため、不義理ばかり重ねておりますのに、寛大な御参会をいただきました満堂の皆様に厚く御礼とお詫びを申しあげます。(拍手)
本当に有難うございました。(大拍手)
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[#小見出し] 父と母
母は旧姓を池戸といった。大正九年、下谷の彫刻家の二女として生まれたが、父親が病気がちのため、次第に生活が苦しくなり、十五歳のころから働きに出て、近所の家が製菓会社の下請け仕事としてやっていたチョコレートの包装を手伝ったりして家計を助けたという。
そして、十六歳の時、父に出会うのだが、父との出会いを回想して、母はこう書いている。
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父はものがたい人でしたので、娘を働きに出すことを、ずい分ためらっていた様子でしたが、この間にも家のくらしは傾く一方でした。
ちょうどその頃、銀座の千疋屋さんで店員を募集していることを知り、私は思い切って出かけてみました。それでも中へ入りかねて、裏口に立ったまま、思い迷っていたのをおぼえております。
千疋屋のかたは、その時、わたくしに、
「北千住から銀座まででは通うのは大変ですし、あなたの感じはとても日本的だから、私が住み込みの出来る、知合いのお店に紹介してあげましょう」
とおっしゃって、やはり銀座の、あるふぐ[#「ふぐ」に傍点]料理屋さんへお勤めすることにきまりました。でも、父や妹の世話をつづけたかったわたくしは、住み込みを断わり、気を張って、毎日家とお店のあいだを往復いたしました。
――主人とはじめて遇《あ》ったのは、このお店にいた時でございます。
「君の名は何ていうの?」
と、そのとき主人は訊《き》き、
「握手しよう」
と手を差し出しました。
その後も二、三回店へまいりましたが、十二月末に、わたくしはふぐ[#「ふぐ」に傍点]料理屋さんを辞《や》めました。当時、かぞえ年で十六歳だったわたくしは、おとなびていたせいか十八、九歳に見えたため、お客の中にはいろいろな事をいいかける人も多く、お勤めよりはそんな事の方の辛さに、いたたまれない思いだったのでございます。
「あなたなら、どこへ働きに行っても安心よ」
と、年上の朋輩もいろいろと励ましたり心配したりしてくれましたし、そんなこんなで、思い切って芝のほうの、ある地味な料亭へ移りました。
ところが、たまたまお越しになったお客様の会話のうちに吉川英治という名が出ましたので、
「吉川先生でしたら、何度かお目にかかったことがございます。どうぞよろしくおっしゃって下さいまし」
と、伝えていただきました。
主人が芝へたずねてまいりましたのは、それから幾日かのちでございましたでしょうか。
……以来、一ヵ月あまり、毎日のように来てくれまして、
「一度、家へ遊びに来ないか」
とも誘われ、赤坂表町のお家を訪ねたこともございました。その節、横浜へ遊びに行こうとさそわれて、はじめていっしょに、主人の生れ故郷へまいったわけでございます。
つれ立って外人墓地を歩きながら、幼いころの話をしてくれたこと……静かなお店で食事をいただき、夕方東京へ戻ったことなど……遠い思い出でございます。
村山貯水池のほとりを散歩したこともございました。折あしく雨にあってしまい、
外套をつれに着せゆく時雨かな
そんな句を手紙で貰ったことをおぼえております。
芝の店は住み込みでしたが、ほそぼそながら仕送りをつづけておりましたので、やがて父と妹は、千住から稲荷町へ、ささやかな家を借りて引越しました。月に一度か二度のお休みには欠かさず家に帰り、溜っている用を片づけたり、父や妹とつれ立って遊びに出かけたりしたこれまででしたが、主人と知り合ってからはそちらの引力がつよく、気にかかりながら、つい家を留守にすることが多くなりました。
貯水池のつぎにまいりましたのは湯河原でございます。朝七時に東京駅で待ち合わせ、小田原から十国峠を越えて、湯の町へ出ようとの計画でございましたが、途中、横浜駅で主人はホームに降り、
「うまいんだよ、ここのは」
などと言い言い、丼に入った焼き飯、それにお茶やらシューマイやらを買って来てくれました。今でも横浜を通るたびに、このときの主人の笑顔、弾んだ声音を思い出します。
芦ノ湖ホテルで食事をいたしまして、湯河原の、そのころ、主人が仕事場に使っておりました「楽山荘」という宿に休み、入浴をすすめられましたが、主人は女中さんに、
「家族風呂を二つ用意して下さい」
と頼み、わたくしの羞恥を救ってくれました。夕食をここでいただき、しばらく話を交して、私はひとり東京へ帰ったのでございます。――追いかけて、楽山荘よりとどきました葉書に、
春凪ぎの波よりはまだ静かなる
言葉なりしがなほ聞えつゝ
そう、したためられておりました。このほかにも時おり便りをくれましたが、赤坂の火事でみな焼いてしまいました。記憶に残っている歌では、
ふたりしてはなすまはなしひとまぜて
かたりもすれどかほも見合へど
また、
いつの日かゆかた着て共に語るらん
旅先きから、須賀川の牡丹園へ行った折り、
彼の人に似たるぼたんも見いでたり
また、執筆先の旅先から、
夜となれば思ひ出しげく帰らむか
帰るまじきか雲にとひ寝つ
そんな文字を、便りのハシに書いて寄こした事もございました。
主人とめぐり合いましてから、結婚までの一年半、まだ何も知らぬ娘だったわたくしを、主人はそっといたわり、見守ってくれていたといってよいつき合いだったのでございます。
滝のほとりでお通にいどんだ武蔵……。正直、そのような事もなかったわけではございません。
けれど、わたくしの抗《あらが》いを、
白玉の乙女心は珠なれば
そのつめたさもいとしがりけり
こう、そのころから書き進んでおりました「滝と武蔵」の場面をそのまま、結局は肯《うべな》ってくれた主人でございました。
赤坂の家にはそのころ、いまは亡くなった主人の妹だの、使用人や食客やその他大勢の方が同居しておりましたので、
「君を、そんなところへ、迎えるのは、痛々しいよ」
と申し、渋谷の鉢山へ新居をきめてくれました。そして初めてわたくしどもは伊豆の湯ケ島へ、新婚の旅に立ったのでございます。
昭和十二年九月四日のことでございました。
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母が鉢山に住んでいた間は短く、まもなく赤坂へ移った。
赤坂の家は借家で、後に、私が三歳の時、火事で半分焼けてしまったが、母が来た時には、部屋数が二十六もある大きな家だったそうだ。余談だが、父はこの家が半焼したあと、半焼け≠もじって、一時、半野軒≠ニいう号を用いている。
当時、父は「青年太陽」という雑誌を主宰しており、叔父の晋が編集に当たっていた。赤坂の家は、「青年太陽」の発行所も兼ねていたから、そんな大きな家が必要だったようだ。「青年太陽」は、母が来た時、経営が行き詰まって廃刊になったばかりで、父はその赤字の穴埋めに、持っていた書画骨董を売り払った。
だから母が来て、まず驚いたのは、金のない事だったという。父がまず母を渋谷に住まわせたのも頷《うなづ》けた。
借家の家賃は二百円で、それが三ヵ月か四ヵ月たまっている上、保険会社から千五百円の借金がある。美術品など金目のものは何もないし、家には「青年太陽」の編集部員や書生、前述したS記者のような食客など十数人がゴロゴロしている上、連日、編集者を中心とした七、八人の客が朝から押しかけて、応接間で原稿を待っている。冬など、一日に炭を一俵も使ったという大世帯だった。しかも、「青年太陽」の後発行していた「週刊太陽」という雑誌もあまり思わしくない。
父はそのころ、『親鸞』『天兵童子』『旗岡巡査』『宮本武蔵』『新書太閤記』など、文字どおり八面六臂に書きまくっていたが、書いても書いても、母の言葉を借りれば、「ザルに水を入れるよう」で家計は赤字だった。
そんな所へ十七歳の母が主婦の座に坐ったのである。
母は書いている。
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主人のもとへ私が参りましたのは、まだ十代の若さでございました。年も離れておりましたし、その頃は、今は亡くなりました主人の妹だの大勢の食客やら使用人たちの中にいきなり入ってしまいましたので、何もわかりません。ですが主人は、
「それは文子に聞きなさい」
「それは文子と相談して」
というように申しますので、いつの間にか周囲もそのようになり、自ずと主婦の座ができ上る、という事になりました。
(中略)
妻とはこうあるべきだとか、こうしてほしいとかいった事は、とりたてていわれたことはございませんでした。
しかし、これだけの大家族でございますから、中にはむつかしい問題もあり、悩みもございますのですが、主人はすべて承知していたのでございます。ただそれらを原稿に専念している自分の耳に私の口から入れられることは悲しい、聞かせてほしくない、とそう申したことがございます。私も主人に何一つ申したことはございません。すべて私の胸の中にたたんでおりました。
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私の目から、父と母を見た場合、母は父に対して、完全に従≠フ立ち場を守り通した。父の言葉は母にとっては絶対≠ネものだった。反面、父も母を信頼し切っていて、家計や親戚とのつき合いなどは、母にまかせきり、必要最小限の注意だけ与えて仕事に没頭していた。
つまり、我が家では、日常の中で、父の原稿≠ェ至上のものであり、母はその原稿≠フ前に立ちはだかる雑事≠次々と取り除く露払いの役、という感じだった。
だから母は、私達から見て、かなり重要と思える事でも、父の仕事に直接関係のない事なら父の代役をつとめた。たとえば、父が吉野村の家を買った時でも、実際に家を見に行き、決めてきたのは母だったというし、後に住んだ赤坂の土地も、父は買う前に一度も見ずに母の判断にまかせている。父は母から報告を受け、「こうしろ、ああしろ」と書斎から采配をふるって、自分は、仕事だけに専念しているのである。
子供のころの私達にとっては、父の恐い分だけ優しく見える母だったが、私達が成長した後も、仕事以外、自分の身のまわりには無頓着な父という子供≠フ世話をする母は大変だった。
普段出かける時でも、母は父の靴のひもまで結んだ。そして父は、ハンカチ、煙草、ライター、財布と次々に渡されるものをいちいちたしかめもせずポケットにつっ込み、
「行ってくるよ」
と出かけて行く。
下着や靴下はもちろん、洋服からワイシャツ、ネクタイに至るまで全部母が選び、父は母が選んだものは黙って身につけた。
一時は散髪まで母がやった。
庭に椅子を出し、シーツを首にまいて父が坐り、母が割烹着を着てチョキチョキやるのである。母の真剣な表情と父の真面目くさった顔つきとが、何か儀式をやっているようで散髪という行為にそぐわなく、私達は遠くから見てはクスクス笑ったものだった。
出来栄えは私達が見ても、あまり見事とは言えなかったが一応形にはなっている。そんな時父は手鏡をのぞき込みながら、
「文子、なかなかうまいよ」
とケロッとして言うのだった。
そういう調子だから、何でも母でないと駄目だった。
父は抹茶が好きで、原稿を書きながらでもよく母にたてさせて飲んだが、母の留守の時など、妹の曙美がたてたお茶を飲んで、
「やっぱり文子のお茶の方がうまいな」
などとからかっては、曙美に、
「どうせ」
とにらまれたり、
肩をもむのも、
「文子」
耳を掃除するのさえ、
「やっぱり、文子の方が」
なのである。
書斎から大声で、
「オーイ、文子ー」
というので母がとんで行くと、
「ちょっと背中がかゆいから掻いてくれ」
などという事はしょっちゅうだった。
父はそうやって身のまわりの世話を一から十まで母にやってもらい、
「やっぱり文子でなきゃあ」
と、私達の前でわざとのろけて見せて、私達にからかわれるのを楽しんでいる風だった。
年も二十歳以上離れていたこともあったからかも知れない。私達は、父と母の夫婦げんかというものをついぞ見た事がなかった。それでも筆が進まず気の立っている時などには、書斎で母を相当はげしく叱りつけるような事もあったようで、母が書斎から目を赤くして出て来るような事も何回かあった。
晩年にはしなくなったが、『新・平家』のころまでは、父はよく徹夜をし、母は必ずそれにつき合った。父が書いている間中、隣の部屋で物音もせずに起きているのである。ころ合いを見はからってのお茶や夜食のにぎり飯などが母の仕事だった。
だから、仕事が完結する毎に父が抱いたであろう喜びや感慨を、母も同じように分かち合えたのだと思う。
父がガンに倒れてから死ぬまでの一年あまりの闘病生活中、母は、私達が父より先に母が倒れやしないかと心配するほど、昼夜つきっきりで看病した。
その折、父は母に向かって、
「お前とめぐり逢ったことに、ぼくは神のめぐみを感じる」
といったという。本心からの言葉だったろう。
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[#見出し] 7 吉野村を後に
この菊池寛賞受賞の年、父は九年間住んだ吉野村を去った。十一月、品川へ移ったのである。父は吉野村を心から愛してはいたが、私や弟に続いて妹の曙美も小学校を卒業する年になり、末の香屋子の小学校も間近ということになって、まさか、女の子を小学校卒業と同時に下宿させるわけにもゆかず、腰を上げたものだった。
父にしてみれば、吉野村は去り難かったに違いない。
終戦、そして戦後の晴耕雨読の日々、『新・平家物語』、香屋子の誕生。どれをとっても、吉野村と密接に結びついた思い出ばかりであったろう。
反面、吉野村へ越したという目的の中には疎開ということの他に、
「子供達は、田舎で芋の子のように育てたい」
という父の育児方針もあってのことだったから、私や弟が中学生になるに及んで、
「この辺がしおどき」
と、東京へ出る決心がついたものと思われる。
私も、今、ふり返ってみて、幼少期を吉野村で過ごせたということは幸せだったと思う。
空襲の本当の恐ろしさも知らないし、戦後のひもじさも体験していない。多摩川で泳ぎも覚えたし、田んぼの草むらに夜露に濡れて光る蛍の美しさや、調子のいい村祭りの太鼓の音も目や耳にはっきり残っている。
とくに楽しかったのは、冬の夜の「火の用心」だった。小学生四、五人がグループを作って、夕食後、当番制で付近の家二、三十軒を拍子木を叩きながら回るのである。
夕食後、公然と表に出られるという事だけで、何か未知のものに触れるような期待に胸がときめき、細紐で結んで首から下げた重い樫の拍子木の吸いつくように冷たい感触がたまらなかった。
その拍子木を「カチーン、カチーン、カチンカチン」と調子をつけて打ちながら、
「火のヨージン」
と、四、五人、白い息をそろえて触れ回る。
堅い樫の木を打ち合わせた音が、そのまま空中で凍りつくような寒さだったが、田舎家の玄関の障子が、ポッと暖かそうに闇に浮かんでいるのを見ると、見ただけで身体が暖まったし、次の家までの畦道で、何か出そうな前方の竹藪の闇に、そっと及び腰の目を凝《こ》らすのは、わくわくするような冒険だった。
夏の蛍狩りも楽しかった。
竹箒をかついで蛍籠をぶら下げ、弟や妹とつれだってよく行った。畦道の脇の草むらや小川の岸辺で、弱々しくまたたく光を竹箒で押え込み、光をたよりに指先でつまんで露草と一しょに籠に入れる。バサッという竹箒の音に驚いて、まわりの草むらからスイーッととび立って闇に消える光も美しかった。家に帰って、電灯の下で籠に霧をふくと、光は一層弱々しく明滅をくり返した。ただ翌る朝になって、籠の底に黒く転がっている虫を見るのは淋しかった。
子供のころの吉野村の思い出は、終生消える事はないと思う。
父もまた、吉野村では庭いじりを楽しんだ。
庄屋の住んでいた家だから、庭はかなり広く、父の好きな梅林や、竹藪、池もあった。父はまず、その池の形がよくないと、池をつぶし、代わりに小川のような浅い空濠をうねうねと作った。庭がよく見えるように書斎の一部も改造した。
とにかく、家に庭師の入っていない日はほとんどなく、父は仕事につかれると、着流しの姿で煙草を吸いながら庭下駄をはいて、ブラブラとその辺を歩き回った。
仕事をしはじめると、他の何をやっても頭だけは原稿用紙からはなれない父だったが、庭の事になると別で、それだけにまた、庭いじりは気分転換に役立ったようだ。
かえって庭師と、
「ここに松をもう一本。その紅葉はあそこへ移して」
などとやり出すと、逆に庭の方に熱中してしまい、台所で母が、
「またやってるわ」
と笑い出す始末だった。
花も好きで、吉野村に多い梅の他、牡丹、りんどう、桔梗などを好んだが、書斎の前の松の木の根元に植えさせた桔梗の花が咲いた時は、
「きれいだな」と、私まで一しょに見惚れたのを覚えている。
そうやって、自分の気に入るように松や草花を配した庭で、春先など、父はよく野点《のだて》を楽しんだ。庭の小高くなった一画――義姉の園子が空襲で死んだ晩、父と二人で飛行機の落ちるのを見ていた場所あたりの芝の上に、赤い毛氈を敷き、母のたてる茶を飲むのである。私もよく一しょに坐った。母が懐紙の上にとってくれる和菓子も美味しかったが、舌先に残るほろにがいお茶の味が私は好きだった。
「静かに――。ほら、うぐいすだ」
父の一言で私達は耳を澄ます。
何か知らない他の小鳥たちの啼き声にまじって、時々、うぐいすの声が聞こえる。静かだった。遠くの製材所からかすかに聞こえてくるジーンという材木を断ち切る電気鋸の音までが眠気を催させるほどのどかだった。
こういう時の父は、原稿の事をまったく忘れて、すっかりくつろいでいるように見えた。
「あそこの松の枝をもう少し落とそうか」
私にまでそんな事を話しかける父だった。
一度、私が友達と遊んでいて父の好きな牡丹の枝を折ってしまった事があった。
「お前達、庭で遊んでもいいけど、好きな花の枝を折られると、お父さんは悲しいんだよ」
叱られると思ってオドオドしていた私に、父が見せた淋し気な表情は忘れ難い。
吉野村を去るにあたって、父は、お別れの会≠ニいうのを催した。九年間、一しょに暮らした村の人達を呼んで御馳走しようというのである。
この時には、隣の沢井という所に住んでおられた川合玉堂画伯や杉本健吉画伯、それに『新・平家物語』担当の朝日の方々も見えられた。村の人達は、五、六十人も集まったろうか。皆、朝日の方が差し入れてくださった生ビールに喉を鳴らした。
終戦から八年経ち、朝鮮動乱も終わって、世の中はやや落ちついてきたとは言え、生ビールなどはまだ貴重品だった。生ビールに地酒の澤乃井=Aそれに笹巻ずしなどの御馳走だったが、父も村の人達も皆愉快に食べ、そして酔った。
村の青年団の人達が庭で祭りの時の神楽囃子をやりはじめた。酔った勢いで、年寄り連中も、おかめ[#「おかめ」に傍点]やひょっとこ[#「ひょっとこ」に傍点]の面をかぶって踊り出して行く。父もいつになく過ごした酒に顔を染め、達者な笛や太鼓に立ち交じって、調子っぱずれな鉦《かね》をたたいた。
賑やかだった。楽しかった。父が吉野村を引き払うと聞いて、下宿から家に帰れると喜んでいた私だったが、お囃子の音《ね》の中に、ふと、吉野村を立ち去りかねている自分をみつけて戸惑った。
品川の家は御殿山にあった。八ツ山橋に近く、五反田の駅からも大崎の駅からも、歩いて十五分ほどの距離だった。
家は古い洋館風の建物で、外壁をはっているわずかな蔦と、黒っぽい板張りの応接間がやや暗い印象だった。この家もやはり父は事前に一度も見ず、母が決めて買ったものだった。
私は下宿から家に帰れてうきうきしていた。吉祥寺までかなり長い時間を電車で学校に通うという事も新しい生活を象徴しているような気がした。
父は二階の角の部屋を書斎に定め、その隣の三畳ほどの洋間――何に使った部屋なのか変てこな部屋だった――を私の部屋としてくれた。勉強机と椅子を入れるとほとんど一杯になってしまう部屋だったが、自分の部屋を持ったという事は、天にも昇る気持ちだった。
その部屋で、おそくまで試験勉強している時など、時々、隣の部屋から聞こえてくる父の咳払いが何となく頼もしかった。父につき合って起きている母も、父へと同時に私にも紅茶などをいれてくれた。そういう時でも、たいてい私の寝る方が父よりは早かった。
若いころからの習慣でもあって、徹夜仕事は平気な父だったが、やはり六十一歳という年は争えず、吉野村を去る前の年の暮れから、
「寒さがこたえる」と、熱海に家を買い、冬は熱海で仕事をするようになっていた。
『新・平家物語』を始めてから、ほとんど他の仕事をしていないが、この年の熱海の家で、「読売新聞」に、随筆『折々の記』を三十数回、連載している。
翌る年の二十九年、私は成蹊高校へ進み、妹の曙美も、吉野村から転校した御殿山小学校から日本女子大の附属中学校へ入学した。
私は高校に入って学帽に白線が二本入ったのが得意だったが、それよりも、それまでの坊主頭を伸ばしてもよいと父から許しが出たのがうれしかった。
[#小見出し] 父と酒
父は酒が好きだった。強くはなかったが好きだった。酒量は日本酒なら銚子一本が限度だったのではないかと思う。
それでも仕事を済ませた後の夕食の膳には必ず一本のっていた。家族との食事では、その一本も飲まないうちに赤くなり、酔ってしまう。母が二、三杯、私が二、三杯助けるくらいでちょうど良い。
実際、私は中学生ごろからそうやって父の晩酌につき合った。
父は、
「酒は、飲み方によって良くも悪くもなる」
と、中学生の私に酒を飲ませるのも、酒の飲み方≠教えるのだといっていた。
一しょの夕食の時には、
「どうだ一杯」
と、一、二杯ついでくれ、母もそれを心得ていて、私が高校に入るころになると、父との夕食には、私の箸の前にも盃が一つ置かれるようになった。
父の父、つまり私の祖父は酒が強い人だったらしく、一升や二升は平気で飲んだという。その上、酔うと暴れたり、祖母に難題をふっかけたりする酒乱になりやすく、父も『忘れ残りの記』の中で、
「(酒に酔った時の)暴逆な父の姿と、母の泣き顔の像とは、今でも絵に描けそうなくらい強い印象を網膜のうちにもっている」
と書いている。
また、祖父のそうした酒癖が、中流以上の生活をしていた家庭を没落させ、父が若いころ苦労しなければならなくなった遠因にもなったようで、
「酒は飲み方によっては」
という警戒心を父は人一倍強く持っていたようだ。
「酒は日本刀を液体にしたやうなもの。あの清澄冷徹なるにほひ、芳烈無比な味、まちがふと人も斬る、自分も斬る」
父は「酒に学ぶ」という随筆にそう書いている。
私などは、父の子供心にやきついた、祖父の姿を通じての酒への恐怖心が、潜在意識となって父の体質まで変え、酒は好きだがアルコールに弱い&モニなったのではないかとさえ思っている。
だから父は、私が子供のころから塩辛い酒飲みの好きそうなものを好んで食べるのをみて、気楽な客の前なぞでは、
「こいつは、隔世遺伝をうけたのか、飲み助になりそうなんでねえ」
などと言い訳しながら、私に酌をしてくれた。
「好きな奴は、飲むなといったって飲むんだから、今のうちから飲み方を教えておこう」
というのである。
私の盃を満たすと、父も自分のを手にとり、
「じゃあ――」
と挙げて、チビッとなめる。
「酒は酔っぱらうためにあるんじゃないぞ、味わい、ほどよく酔うんだ」
「酒は飲むんだ。呑まれちゃ駄目だ」
「ガブガブ飲むだけで、酒の味のわからない奴は嫌いだね」
そのころ、耳にたこ[#「たこ」に傍点]が出来るほど聞かされた言葉だが、今でも、つい飲みすぎた翌る朝など、二日酔でズキズキする頭をかかえては、思い出す言葉でもある。
父は自分の酒を舌洗い≠ニ称していた。舌を洗う程度にとどめ、酒の場の雰囲気を楽しむという飲み方なのである。
「僕自身は酒の害など考えたこともない。もし酒がなかったら、人生、どれほど味気ないことか」
と礼讃していた。
そして、家族との夕食の時には、半合ほどで手枕をしてしまう他愛なさだったが、酒の強い編集者や、気の合った友人となら、いつまでもつき合った。若いころはずいぶん飲み明かすようなこともしたらしい。
汝れもまた夜あかしぐせか冬の蠅
私はこの句を最初みた時、徹夜仕事に倦《う》んだ時の発句かと思い、以後もずっと勝手にそう決め込んでいた。ところが父の死後、『吉川英治全集』の月報に、中野実氏が書いておられる文章を読んで、あっと思った。
この句は、昭和十一年に、新橋の料亭で、中野氏と永井龍男氏と三人で飲み明かした時の句だというのである。中野氏は、そのころの前後数年間、大晦日には父と赤坂あたりで飲み明かし、中野氏が父を送って家へ帰るのはいつも元旦の朝だったと述懐しておられる。
父も四十半ばの男盛りで、前の妻とはうまくゆかず、母と知り合う前後のことだから、気のおけない友人達と盛んに飲み歩いていたようだ。
しかし、そうやって夜を徹して飲んでいても、そのころから父の酒が舌洗い≠セったことは、そのころまとめた『草思堂随筆』の中の「舌を洗う」という一章にその言葉が出てくるのを見てもわかる。
私は、せいぜい日本酒一合ほどの酒量の父が、各社の自他共に許す酒豪連に伍《ご》して、いつまでもつき合えるのを不思議に思い、一度その秘訣《ひけつ》を訊いてみた。
「僕は、何時間酒席に坐っていても、量はほとんど飲んでいないんだよ。ただなめてるんだ。すすめられた時でも、ちょっとなめてその分だけ足してもらう。それで結構酔えるし、酒の席には坐っただけで愉快になれる性質《たち》だから、座も白けない。この方法でどんな強い相手と何時間でもつき合える。酒の景色が好きなんだ」
という答えであった。
酒を愛した父だから酒に関する随筆も多い。「酒つれづれ草」という中にこう書いている。
[#ここから1字下げ]
いったい、量を飲む者を酒飲みと称したり、酒客といったりするのが間違いである。痛飲淋漓などということは、東方朔《とうぼうさく》とか李太白とか、清川八郎が飲《や》るとかすれば、似合いもするし、詩にもなろうが、凡人が飲《や》れば、小便の逆さ飲みに等しいものだ。
(中略)
そこで考えさせられるのは酒の飲み方ということになる。乳の呑み方は生れながらに知っていたくせに、酒の飲み方は、遂に、脳溢血で斃《たお》れるまで知らずにしまった友人もある。酒で心が傷むというような事は、そうした身辺の人を見た時でしかない。
茶を喫むのに茶道があり、飯を食べるにも度があるように、酒にも酒道というほどな定規を置かなくても、心構え位は各※[#二の字点、unicode303b]持つべきであると思う。茶十則という古人のことばに、共に茶を語らざる人という項目をあげて、人の誹をいう者とか、些事にも怒を含む者とか数えあげてあるが、酒はその点、甚しく寛大で、大言壮語だの、どたんばたんだの、時によっての格闘などは、むしろあいつ人間がいいよ、などといわれたりする風があるので、この次もやって見せようなどと穿き違えた酒客を養成し易い嫌いがある。
各※[#二の字点、unicode303b]の風格があってこそ、酒もいいのであるから、おせっかいな他人事は云えないが、僕だけの酒心は如何にといえば、兼好法師の云った辺りに共鳴を持つ。――下戸ならぬ程こそよけれ、と云う言葉である。
又、自分が美味《うま》く飲まんがためには、相手が美味く飲んでくれなければ、酒間の滋味というものは醸されて来ないと思う。そこで僕の酒の極意は、「相手も美味く飲む」ように飲むことである。
[#ここで字下げ終わり]
父の予想したとおり、私は大学生になると、祖父の量まではいかないが、父よりは飲める≠謔、になった。やはり、ウイスキーの方が口に合うので、父と食事の時は、父は日本酒、私は水割りでよく飲んだ。
父は食事の席に私がいると、
「オイ、英明にウイスキーを出してやれ」
と母にいい、たまに自分も、ホットウイスキーでつき合った。お湯にウイスキーの香りだけつけたようなホットウイスキーだった。それを父は、日本酒と同じようにチビチビとなめるのである。
そのころには父はもう酒の飲み方≠フ講義はしなかった。幸い私は酒乱でもなく、酔っても多少陽気になる程度だったから、私が父の前で、かなりがぶ飲みしたり、深夜友達の肩を借りて帰った事を知っても、
「まあ、この程度なら」
と容認していたのかも知れない。
親子で酔うと、父はもっぱら聞き役で、私があれこれとしゃべりまくるのを、
「ウン、ウン」
と楽し気に聞いていた。
私も父との時は、酒そのものよりも、そういう父を見ているのが楽しかった。父と飲むのは家だけで、人を交えた会食などの他、表で二人して飲んだことはない。一度飲み歩きたかったなと思う。
父が死ぬ半月ほど前の事だった。
父は、二度目の手術をうけ、病院のベッドに横たわっていた。私はNHKに就職して大阪に赴任していたが、八月、東京に転勤ということになり、東京についたその足で病院の父の所へ駆けつけた。
しばらく見ぬ間に、骨と皮ばかりにやせおとろえた父を見て、私は胸が一杯になった。
父はその時すでに言葉がしゃべれなくなっていたが、
「帰って来ました」
と挨拶した私の顔を見ると、そばの母の方にしきりに手を動かし、何か言っている。唇はかすかに動くだけである。
母が父の目をのぞき込み、
「何ですか? え? え? ――あ、葡萄酒ですね」
というと、父はうなずいて、私の顔を見てニコッと笑った。医師に少しずつ飲むように言われて開けた葡萄酒があったのである。
「オイ、英明にあの葡萄酒を出してやれ」
という声が聞こえたような気がした。
母のついでくれた赤い葡萄酒を片手に、私は顔が上げられなかった。
私の顔を見ている父の視線を感じ、顔を見られまいと横を向いてやっと一口飲んだ。小鼻の脇を伝わって落ちて来たものと葡萄酒が唇で一しょになった。酸っぱくてしょっぱかった。
父と、いや、父の前で私が飲んだ最後の酒だった。
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[#見出し] 8 熱海時代
「冬の寒さがこたえる」
といって買った熱海の家だったが、父は思いのほか気に入って、冬ばかりでなく、秋から初夏にかけてを熱海で過ごすようになった。
吉野村を引きはらって東京へ出たものの、やはり田園の風物が恋しかったらしい。
熱海の家は、来宮《きのみや》の駅から、急な坂道を山手にのぼって十分あまりの所にあった。
吉野村の家のように大きくはなく、小ぢんまりした二階家だったが、家の裏手は、元秩父宮邸だった大きな旅館で、鬱蒼《うつそう》とした森の間を渓流が流れており、父は書斎からのその借景が気に入っていた。
十月になって軽井沢から帰ると、しばらくして熱海へ行き、五月の末ごろ品川に帰って七月にはまた軽井沢へ、というのがそのころの父の一年だった。
仕事は相変わらず『新・平家』一本で、二十九年には「非茶人茶話」などの短い随筆数編しか書いていない。
品川の家は近くに工場もあり、風向きによっては、その煤煙が家の中まで吹き込んだりして、あまり環境はよくなく、父もそれほど気に入ってはいなかったようだ。
熱海へは、母と香屋子も一しょに行ったから、品川には、私と弟と妹、鎌倉を引きはらって移り住んできた叔父の晋夫妻、それに父の妹のかえが留守をするという形だった。父がいないと、訪問客もほとんどなく、家の中は火の消えたように静かだったが、私も高校生になっていたし淋しいということはなかった。
それでも、春休みや正月休みを、熱海で過ごすのは楽しかった。夜寝る時、裏の渓流の音が、ザーッと枕の下から聞こえてきて、旅先の宿に寝ているような気がした。家には、買う前から温泉が引いてあったから、いつでも風呂に入れるのも気持ち良かった。
この家の風呂は大きく、熱海へ行くと私もよく父と一しょに湯につかった。父の風呂は「カラスの行水」で、顎まで湯舟に沈めて、
「ウーム、ウーム」
と唸っていたかと思うと、パッととび出してしまう。たまに、裾を端折った母に、駄々っ子みたいに押さえつけられ、背中を流してもらっていた父をほほえましく思い出す。
「新・平家一本に全力を注ぐ。他の仕事は出来ない」
といっていた父だったが、翌る三十年、「文藝春秋」に、新年号から、『忘れ残りの記』を連載した。――四半自叙伝、と副題がついているように、父の青年期までを自伝的にまとめたものである。
父は、はじめ、自叙伝めいたものを書くのは、あまり気がすすまなかったらしいが、足しげく通ってくる文春の池島信平氏に口説き落とされ、『新・平家』と並行して書き始めたものだった。
父も、その初めの章に書いている。
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あいては文春のSさんだ。牛はくたびれていて坐ってもしまいたい程なのに、も一つ荷を乗ッけて牧童みたいに棒切れを振る。牛はばかだからつい歩き出すというわけである。業《ごう》というのか根性というのかわれながらこんなものを書く気になった気が知れない。
なぜならば、ぼくは日記すらつけ得ずに来たほど自分で自分に触れられない臆病者で自瞞にみちている男だ。とても自己を裸にして人に示すなどは出来そうもない。のみならず過去を語ることは両親を語ることになり、明治、大正の世代に小さく灯ともしていた両親の家庭とて、当然な事ながら、まったく封建そのものの一軒だった。いわばぼくなどは封建の遺子≠ナある。今日の子弟に何を語る資格がある者ではない。
[#ここで字下げ終わり]
それでも結局、『忘れ残りの記』は翌年の秋まで二十一回続いた。『新・平家』執筆中、父が他に書いた最も長いものである。
私はこれを読んではじめて、日ごろ、断片的に聞かされて、おぼろ気に描いていた祖父や祖母のイメージがはっきりしたし、あまり私達に語らなかった父の若いころの苦労話も、その全貌を知った。
「忘れ残りの記、面白いですね」
品川へ帰って来た父を迎えて私がそう言うと、照れやの父は、左手でツルッと顔をなで、
「ウム、そうか、読んでるか」
と言ったきり、それ以上を語らなかった。
高校二年になった息子に、小説でなく、自分の過去を読まれているのが何かくすぐったかったらしい。『忘れ残りの記』を青年期まで書いて筆をおいた後、父は、
「この先は、子供達みんなが、もっと大きくなってからでなくては書かない」
と言ったという。
この七年後、父は、『私本太平記』、『新・水滸伝』と、ほとんど休みなく書き続けて世を去っているから、この時、無理をしてでも四半自叙伝を残しておいてくれてよかったと私は思っている。
父に強引に筆を持たせた亡き池島さんに、母ともども感謝している。
[#小見出し] 煙 草
私が煙草を覚えたのは、その高校二年の時だった。学校の友達五、六人と湯沢へスキーに行った折、中に山岳部の連中がいて、
「合宿へ行きゃあ、みんな吸うよ」
と、生意気な手つきでパール≠ゥなにかをくゆらすのを見て吸ってみたのがはじめだった。
煙にむせて目が回り、気持ちが悪くなった。うまくも何ともなかったが、煙草を吸うと大人になったような気がし、(親父だって十六の時から吸い出したっていうんだから)と変な理窟をつけて、家へ帰ってからも、寒いのに三畳の小部屋の窓を開け放って、プカプカ練習した。
その小部屋や便所の中など、家人にみつかるまいと苦労して吸っていた煙草だったが、間もなく発覚したらしい。しかし、誰からも咎《とが》められなかった。父も母も知っていながら何も言わなかったのだと思う。
たしか私が大学へ入った時だった。
父と母と三人でゴルフに行き、一番のティーショットを打ち終わると、父はポケットから富士≠出して火をつけ、私に、
「オイ」
と、開けたままの箱をさし出した。
「エ?」
とびっくりしている私に、
「そろそろいいだろう」
と、重ねてすすめる。
母は、
「駄目ですよ、まだ未成年なんだから」
私と父をにらんでいる。
その抗議を無視して一本貰うと、父はライターで火をつけてくれた。
私は胸一杯吸い込んだ煙を、ふうーっと力一杯青空へ吹き上げ、歩きながら横目で父を見た。父も横目で私を見て、ニヤッといたずらっぽく笑った。私もニヤッと笑い返した。母はもう黙っていた。
父も、十六歳から吸っているだけあって、大変な煙草好きだった。好きというよりは、仕事をしている時など無意識に吸うらしく、日に八十本ぐらいは吸った。
ゴルフをしている時でも、ちょっと考えごとに耽ると、スコアをつける鉛筆を煙草とまちがえて口にくわえて歩き、キャディーがびっくりしたという話もあるくらいで、何かをくわえていないと淋しいというほどの煙草|喫《の》みだった。
自分でも、
「どうも吸いすぎるな」
とよく言い、何度か禁煙しようとしたこともあったようで、『新・平家』が完結した時には、「しばらく仕事を休むから、この機会に」
と禁煙を宣言した。
そして、完結記念の講演会のため、九州へ旅行した時、香屋子も一しょに連れて行き、
「香屋子と約束するから大丈夫、この旅行から絶対に煙草をやめる」
と大見得をきって出かけた。
いつもは、二箱もポケットにねじ込んでいる煙草を持たず、道中は何とか切りぬけたらしい。
しかし、ホテルに着いて地元の記者のインタビューに応じているうち、しゃべりながらテーブルの上にあった記者氏の煙草をくわえて火をつけてしまった。
「あっ、パパ、煙草!」
そばにいた香屋子に大声で指さされ、はじめて気がついたという。
「煙草は自分の意志だけではやめられないな」
そう弁解して、それ以後、禁煙しようとは言わなかった。肺ガンで入院し、医師にとめられるまで喫みつづけた。
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[#見出し] 9 闘 病
品川の家に父がいるのは一年のうち、わずかだったから、私達兄弟は、わがもの顔に家を使った。
私はレコードを聞くのが好きで、秋葉原へ行って部品を買って来ては、プレーヤーなどを組み立て、あまり訪問客のない応接間にセットして音楽を聞くのが楽しみだった。
父はあまり音楽に趣味はなかった。それでも、品川に帰って来ると夕食の後、私も父もいい気持ちに酔った時など、私が得々と講義しながらかけるレコードを、
「これはいいね」
とか、
「この曲はあまりピンとこないな」
などと言って、おとなしく聞いていた。ころ合いを見はからって静かな曲をかけると、長椅子の背に頭をのせて、とろとろとまどろみはじめる。そのうち、あーっと伸びをして、
「オーイ、担いでくれ、もう歩けないよ」
と言いだす。
母や弟や、秘書の矢野氏らと四人がかりで、軽い父を二階まで担ぎあげた事がよくあつた。そんな時父は、眠ってはいないのだが、目をつぶり手をだらんと下げて、気持ちよさそうに眠ったふりをしている。うす目をあけて、「エッサ、エッサ」とやっている私達の顔を見ていたかも知れない。狸寝入りをしている父の顔が子供みたいでおかしかった。
「いい酒をのんで、いい音楽を聞いて、そのまま寝ちまうってのは極楽だね――オイ、何かかけてくれ」
父にあっては、私の秘蔵のレコードも睡眠薬だった。
しかし、昼間、仕事中の父は、まだまだ一つ間違えると大変だった。
父が二階の書斎で仕事をしている時でも、客がいないと、私が応接間でレコードを聞いていることはよくあった。
父は思うように筆が進まないと、懐手をして、家の中を何ということなく歩きまわるのが癖で、そういう時はたいてい機嫌が悪く、父が眉を寄せて書斎からブラッと出て来ると家中が緊張したものだった。
ある時、その父が、ガタッとドアを開けて応接間へ入って来た。
冬で、私はガスストーブをつけて長椅子にひっくり返り、足をテーブルにのせてレコードを聞いていた。
父の眉間のしわが、ギュッと深くなった。
(いけねえ)
と思ったのと同時だった。
「何だっ、昼間っからガスをボンボン焚いてレコードなんか聞いている奴があるかっ。お前みたいな奴がそうやって使うためにガス会社の人は働いてるんじゃないんだぞっ」
久し振りに雷が落ちた。
(なにいってやんでえ)
腹の中でそう思いながらも、私はあわててストーブを消し、レコードをとめて家をとび出した。五反田の喫茶店に入ってコーヒーを注文し、まだ板につかない煙草をふかしながらも、むしゃくしゃしてしようがなかった。
(昼間レコードを聞いたって悪いことはないし、ガス会社だって使えば使うほどもうかるんだ。――どうも、うるさすぎるなあ)
鼻クソをほじくりながら、そんなことを考えた。
生意気盛りの私だった。
父はこのころも、平家の史料をもとめて、のべつ取材旅行に出かけたが、三十年の六月、旅先の明石で急性の大腸カタルを病み、急遽熱海へ帰った。日ごろから胃腸が弱く、慢性の下痢気味の父だったが、この時の症状はひどく、ついに血便が出るまでになった。御殿山からかかりつけの医師にも来診してもらったがなかなか快方に向かわない。
そのうち、旅行にそなえて書き溜めてあった『新・平家』も底をついてくる。とても執筆出来る状態ではなく、とうとう、旅行記を二回分口述筆記で、ということになってしまった。
口述筆記のゲラ刷りは、朝日の方が、
「こちらで手を入れますから」
といってくださったが、父は、どうしても自分で目を通したい、とゲラを熱海まで取り寄せた。
あちこち朱筆を入れてゆくうち、とうとう一日がかりで、はじめから書いた方がまし[#「まし」に傍点]なくらい真っ赤に手を入れ、母をハラハラさせたという。
この病気で父は一ヵ月寝た。
『新・平家』執筆中の七年間に、父は、この時の他、もう一度大病している。
二度目のは、翌る三十一年の三月、品川で病んだ癰(ヨウ)である。ヨウ[#「ヨウ」に傍点]というのは一種のおできで、ぶつぶつとした無数の膿が一ヵ所に集まり、全体が真っ赤に腫れ上がる。父のはそれが左の背中――ちょうど心臓の裏あたりに出来た。身体のことには、神経質すぎるくらい気をつかう父だったが、このヨウ[#「ヨウ」に傍点]の時は、頑として、医者にみせるのを拒否し、約五十日もふとんの上で唸《うな》りつづけた。この間、四回ほど『新・平家』を休載した。休載したのは七年間のうち、この時だけだった。
[#小見出し] ヨウ[#「ヨウ」に傍点]と理想像
父は小柄でやせていたが、見かけよりは丈夫だった。胃腸が弱く、慢性の下痢に悩まされていて、その自覚が、人一倍自分の身体の状態に留意する結果となり、健康を保てたともいえよう。
私が物心ついてから、病気らしい病気は、吉野村へ越したばかりの時にやった肺炎と、熱海の家での大腸カタル、それにこのヨウと三回だけである。肺炎の時や大腸カタルの時は、もちろん、医師の診察もうけ、いいつけもきいて養生した。熱海での時のようにペンを持つと病気を忘れてしまい、母をやきもきさせる父だったが、薬や、とくに食べ物などは医師のいいつけを守って臆病なくらい慎重だった。
だから、家族の者が、ちょっと風邪をひいても、すぐに枕元へ来て、
「どれ、舌を見せろ」
から始まって、額に手をあてたり、喉の両側を指で押したりして診察≠オ、
「これはいかん、すぐ先生に診てもらえ」
難しい顔をしてそう言うのだった。
当人がそれほどいかん≠ニ思っていなくても必ず医者に診させた。
その父が、このヨウの時ばかりは、誰がどう説得しようが、絶対に母以外、背中にさわらせなかったのである。
一度いい出すときかない人だったが、あれほど、人の言うことを頭から受けつけず、頑固な父を見たのはこの時だけである。
品川へ越して三年目の春、三月の末のことだった。
父は獅子文六氏と、川奈の桜を見ながらゴルフをしよう、という約束をして楽しみにしていたが、その前日だかになって急に、背中が痛いからゴルフにはいかれない、と言い出した。
(あんなに楽しみにしていたゴルフをやめるなんて)
と、母が父の背中を見ると、左の背中の上の方が、ポツン、と赤く腫れている。
虫にでも刺されたのだろうと塗り薬をぬったが、翌る日、その次の日と、次第に腫れが大きくなっていき、そのうちに、その赤い腫《は》れ物を中心に、ポツ、ポツ、と先端に白い膿をもった小さな粒が、まわりにいくつも出来はじめた。痛みもひどくなってくる。
秘書の矢野氏が、
「これは、ヨウじゃありませんか、ヨウは悪くすると命取りになりますよ。私の知り合いにもこれで死んだのがいます」と、眉をひそめて言い出した。
とすると事は大きい。
扇谷さんもすぐ駆けつけてくださり、
「病院の手配はしてありますから、すぐに入院してください」といってくださった。
ところが本人がウンと言わない。
「オデキぐらい自分の力でなおせるよ」というのである。
そうこうしているうちに、ヨウはどんどん大きくなって行く。
十円銅貨ほどの大きさから手のひら一ぱいになり、ついには、背中の四分の一までひろがった。
私も覗《のぞ》いて見たが、それは無惨な眺めだった。
父の背中の左上部四分の一は無数の白い膿の粒にびっしりとおおわれて蜂の巣のようになり、赤い腫れは背中半面に及んでいる。白い粒々の中心には、一際大きな腫瘍《しゆよう》がムチッと根をはり、紫色に光っている。
人間の皮膚と肉が、何か見えない虫に蝕まれその場でじくじくと青白い膿に姿を変えていく、――そんな連想がよぎり、その無数の膿の粒の群れがムズムズと蠢《うごめ》いているように見えて私は目をそらした。
熱も高くなってきた。背中は指先で触れただけで飛び上がるほどだから、仰向けになっても横を向いても寝られない。ふとんをたたんで重ねて大きな風呂敷包みを作り、それに腕と頭を俯伏すようにあずけて、昼も夜もうんうん唸っていた。
初期のころは痛みをこらえて原稿も書いたが、それも出来なくなった。それでも「切る」とは言わないのである。母や私達も何度入院するようすすめ、頼んだか知れないが、
「自分で治す」の一点ばりである。
朝日をはじめ、各社の方々も連日みえて、口々に、
「どんな具合です?」
「どのくらい大きいんですか」などと心配してくださる。
病室にこもり切りの母は、父の背中の様子を画用紙に写生して皆様に説明したりしていた。
ついには、
「お茶にねむり薬を入れて、病院へ運んじゃいましょう」
という方や、
「無茶ですよ、もしもの事があったらどうするんですっ」
と、私達に色をなして詰めよる方も出てきた。
母も困ったろう。すぐに入院させたいのは山々だが、父は鍾馗《しようき》のようにひげをのばし、ひげの中からギョロッと目をむいて、
「俺は自分で治す。病院へ連れて行ったら承知しないぞ」
と、梃子《てこ》でも動きそうにない。結局、
「気はしっかりしていますし、食欲もあります。言うとおりにしてあげたいと思います」
と、皆様の御心配と御好意を謝した。
そのまま、一ヵ月あまりが過ぎ、川奈で見ようといっていた桜が家の庭でも咲き、葉桜となったころのある日、母が、
「とれたわ、根が出たわ」
と、自分も病人のようにやつれた顔をほころばせて階下へおりて来た。
真ん中の大きな紫色の腫れ物が膿み切って、小指の先ほどもある根がスポッと抜け、おびただしい膿が出たというのである。
根が抜けた後には、ボコッと不気味な穴が残っていたが、熱も腫れも痛みも、その日からウソのようにひいた。
寝巻きを普段着の絣に着かえ、一ヵ月以上も伸ばしたままのひげをさっぱりと落として、久し振りに笑っている青白い顔の父を見て、私はそれまで抱いていた、無茶だとか、無鉄砲だとか、非常識だとかいう小賢しい批判をふきとばされて、強烈な意志を見せつけられた気がした。
人が聞けば、
「切ればすぐに治るのに――。馬鹿なことを」と言うかも知れない。
しかし、私は、これは父が自ら求めた試練だったのだと思う。
大作『新・平家物語』も終わりに近づき、
「この次は何を――」
と、次の仕事に熱意を燃やしていた父だったから、六十四歳という年を迎えて、自分の体力、気力を徹底的に試してみたかったのだと思っている。また、六十四年間、自分の身体の中にたまってきた毒を、この際膿と一しょに全部体外へ出してしまおう、――というような考えもあったのではないか。医学的には根拠のない事だろうが、それを成就させた時の精神的な支えは、強いものがあるだろう。そういう考え方をする人だった。
病後、
「どうして切らなかったんですか」
と訊いてみた。
「僕はやせて胸がうすいから、心臓のうしろのでき物を下手に切られて、心臓まで切られちゃたまらないからな」
と笑っていたが、その晴れ晴れした顔を見て私は、父の書いた宮本武蔵を思い出した。
吉岡清十郎との試合を間近に控えて、釘を踏みぬいた武蔵の片足が膿をもち、歩けないほど痛くなる。武蔵は「この敵にすら勝てないで吉岡一門に勝てるか」と療養していた旅籠をとび出し、「風呂敷包みのように大きく縛った足」をひきずって鷲ケ嶽に挑む。
[#ここから1字下げ]
蟹が岩へ抱きついたように、武蔵は山の九合目にしがみついていた。
その手でも足でもが、少しでも弛《ゆる》んだせつなには、彼の体は、崩れてゆく岩とともに、墜ちるところまで墜ちて行かなければ止まるまい。
「ふーッ……」
満身の毛穴が呼吸《いき》をする。ここまで来ると、心臓が口の外へ出てしまうかと思うほど苦しかった。少し登ってはすぐ休む。(中略)
――突然、大砂利や砂をとばして、ぴゅうっと、山がうなった。
手で口を塞《ふさ》がれたように、武蔵は息が止まった。岩につかまっていても体をズ丶丶と持って行かれそうな風圧をおぼえた。
……暫らく目をつぶったまま凝《じつ》と俯《う》ッ伏していたのである。
しかし、彼の心には、凱歌がみちていた。俯ッ伏したせつなに、十方無限の天空を見たのである。しかも、うっすらと夜の白みかけた雲の海には、曙色が映《さ》していた。(中略)
はっと頭を擡《もた》げて見ると、頭は水晶のように透明な気がする。体を、小魚のようにピチピチと動かしてみたい。
「おゝうっ、おれの上にはなにものもない。おれは鷲嶺《わし》を踏んでいる!」
鮮麗な朝陽《あさひ》が、彼と山頂を染めていた。彼の原始人のような太い両腕は空へ突っ張っていた。そしてたしかにこの山頂を踏みしめているところの我が二つの足をじっと見た。
ふと気がついたのである。見ればその足の甲から、青い膿汁《うみ》が一升もあふれ出ているではないか。それは、又この清澄な天界に、異な人間のにおいと、噴《ふ》っ切れた万鬱《ばんうつ》の香気とを放っていた。
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「武蔵を地で行ったな」
と、私は思った。
父の作中の武蔵を、吉川英治自身だとする解釈は、父のこういう面を指していうのだなと思った。
たしかに、戦後まもなく香屋子が生まれ、『新・平家』を書き出してからの父、――私がある程度ものが解るようになってからの父は、私達にとって「よきパパ」という印象の方が強く、書斎にこもって遮二無二仕事をしている時の姿に、武蔵のイメージを感じるだけだったが、このヨウを病んだ時、私は父の中の「武蔵」をはっきりと見た。
しかし、それ以前――赤坂以前の若いころの父を知る人達の語るところによれば、武蔵的な逸話が多い。
赤坂時代、書生として住み込んでいた田中義一氏が、ある時家の裏庭でキャッチボールをしていたところ、ガラッと二階の書斎の窓が開いて、父が顔を出し、
「田中、やるなら生命がけでやれよ」
と、真顔で怒鳴ったという。
「キャッチボールを生命がけでやれといわれたのには、ちょっと度胆をぬかれました」
と、田中氏も言っている。
また、かなり若い時、ある会合で、父があまりムキになって、自分の考えを大声で論じ立てるのを聞いて、まだ父とは面識も浅かった辰野隆氏が、
「吉川さんていう人は、少し頭がおかしいんじゃないか」
と言ったという話も残っている。
やる事には、とにかく全身を打ち込むというのが若いころの信条で、そうでないのは他人といえども許せない。――そういう烈しい気性がむき出しになっていたようで、それが見る人にややエキセントリックな印象を与え、武蔵、あるいは武蔵《たけぞう》イコール吉川英治という解釈が生まれたものと思う。父もまた、そのころの自分の一つの[#「一つの」に傍点]理想像として武蔵を書いたのであろう。
しかし、父の作品を眺め渡す時、『宮本武蔵』以後の作品には、これほどひたむきで強烈な求道者的個性は他に登場しない。むしろ晩年の父が理想像として描いたのは、『新・平家』の中で源平の栄枯盛衰の世を平凡な一庶民として強く生きぬいた阿部麻鳥であろう。
そして、面白いことに父は、『宮本武蔵』を書き始める一年前の昭和九年、この武蔵とは対照的な理想像の原型ともいうべき『松のや露八《ろはち》』を書いているのである。
露八は実在の人物で、直参の旗本と同格ともいえる一ツ橋家の近習の長男に生まれた土肥庄次郎というれっきとした武士でありながら、女と酒に身を持ちくずし、維新の動乱をよそに吉原の幇間となって世を送ったという男である。
父は、三十一年に刊行された同光社版のあとがきで、
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あなた自身好きなあなたの作品は何かとは、よく訊かれることである。いつも返辞にこまるのだが、この『松のや露八』などはその一つだと私は云つておく。これは私の『宮本武蔵』以前の試作でサンデー毎日に連載されたものだつた。試作といつた意味は、その頃自分の内に在つた文学上の岐路の悩みをこれに賭けて、或る方向へ踏み出した当時の作品だからである。そんなせゐで多少愛着のかたちで私に残つてゐるのかも知れない。
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と述べ、作中の露八にこう言わせている。
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「乞食も、三日すると忘られねえというが、御方便なものだなあ」
露八はしみじみそう思う。
三味線一挺あれば、孤身《こしん》を養うにはことも欠かないし、身を切るような夜風にふき曝されても、撥を飯の種と思って張《はり》をこめれば、寒さなどは忘れている。
それと、この自由な境涯はどうだ。大名も知らず斧四郎旦那のような金持ちでも知らないものだろう。磧《かわら》から見る木屋町の灯は、木屋町から見る磧よりは美しい。芸妓《げいこ》の酌で置炬燵も遊びの味なら、みぞれ雲に撥の冴えを響かせて、名利《めいり》や殺刃や術策や、修羅風雲の流相《るそう》をよそに、こうして磧の夜霜から、およそ人間のすること、いたされることを、その圏外から冷静に見ているという身分も、ちょっと贅沢でおつ[#「おつ」に傍点]な生きている身の味ではあるまいか。
露八は、そう理窟をつけて、第一に、こうしている分には、世間様の邪魔にもならないし、と思った。
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まさか、女に身を持ちくずすのを理想とはいわないが、露八に言わせているこうした心境に、父は人の幸せ≠ニいうものの本質をみていたようだ。
そして、ここではまだ、やや、やぶれかぶれといった感じの露八の心境が、死ぬ五年前の昭和三十二年に完結した『新・平家物語』の最後の章では、麻鳥と蓬《よもぎ》の老夫婦が吉野山で花見をしながら弁当を食べる姿に託して、さらにはっきりと、これが幸せ≠ニいった形をとって現われる。
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ひと箸、口へ運んでは、また手の箸を、しばらく忘れている。そして、蓬《よもぎ》は蓬、麻鳥は麻鳥で、
「ああ、ずいぶん、いろんなこともあったが、長いながい年月を、別れもしないで」
と、夫婦というものの小さい長い歴史を、どっちも、無言の胸に繙《ひもと》いていた。
――思えばおそろしい過去の半世紀だった。これからも、あんな地獄が、季節をおいて、地へ降りて来ないとは、神仏も約束はしていない。
自分たちの、粟《あわ》ツブみたいな世帯は、時もあろうに、あの保元、平治という大乱前夜に、門出していた。――よくもまあ、踏み殺されもせずに、ここまで来たものと思う。
そして夫婦とも、こんなにまでつい生きて来て、このような春の日に会おうとは。
絶対の座と見えた院の高位高官やら、一時の木曾殿やら、平家源氏の名だたる人びとも、みな有明《ありあけ》の小糠星《こぬかぼし》のように、消え果ててしまったのに、無力な一組の夫婦が、かえって、無事でいるなどは、何か、不思議でならない気がする。
「よくよく、わたしは倖せ者だったのだ。これまで、世に見て来たどんな栄花の中のお人よりも。……また、どんなに気高く生まれついた御《ご》容貌《きりよう》よしの女子《おなご》たちより」
蓬は、やわらかな若草のすわり心地へ、こう、心で答えずにいられない。(中略)
やっと、箸も終わって、
「おいしかったねえ。……蓬」
と、初めて、そこで声が聞かれた。
「ほんとに、夢の中で食べてるみたいに、食べてしまいました」
「ほら、鶯が鳴いてるよ、あれも迦陵頻伽《かりようびんが》と聞こえる。極楽とか天国とかいうのは、こんな日のことだろうな」
「ええ、わたくしたちの今が」
「何が人間の、幸福かといえば、つきつめたところ、まあこの辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろうよ。これなら人もゆるすし、神のとがめもあるわけはない。そして、たれにも望めることだから」
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父は、
「何でも、成長するものが好きだ」
と、よく言っていたが、その一つの典型が武蔵であり、以後の秀吉、清盛、尊氏などがこの線上に並ぶ。
そして、また、一方では、『松のや露八』のころから、一貫してもう一つの理想の像――凡人麻鳥の像――を追い続けた。――戦争という時局の中で筆にのせにくく、潜在していたものが、戦後構想を練った『新・平家物語』の中で、麻鳥という形に結晶した。――そう私は考えたいのである。
また、この『松のや露八』に一つの理相像を模索しはじめ、続いて『宮本武蔵』で一つの典型を創り上げたのと時を同じくして、父は、それまでの『鳴門秘帖』に代表される、架空の人物を主人公とする伝奇性に富んだ小説と訣別し、以後、有名、無名を問わず、実在の人物、または歴史上の出来事に主題を求め始めている。
先に引用した父の「あとがき」の中の「文学上の岐路」というのは、この辺を指している言葉だと思う。
父の句や言葉の中にも、武蔵と麻鳥とに分極されるものが散見出来る。
露しとゞ武蔵のみちの果もなく
雨に風にあふほど蘭の白さかな
などは武蔵であろう。
一方、
はたらいたおれにはあるぞ夕涼み
愉しみある所に
愉しみ
愉しみなき所にも
愉しむ
や、私にくれた例の書、
生命をたのしみ給へよ
などは麻鳥的立場であろう。
武蔵と麻鳥。――武蔵的性格を多分に持ち、武蔵的な人生を過ごして来た父は、晩年、麻鳥の境地に、真の理想を見出していたのではあるまいか。
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[#見出し] 10 『新・平家』完結
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昨夜、病後第一回の原稿を編集へ渡した。うれしかった。ふと独り眼を熱くした。▼六年前、『新・平家』第一回の原稿を生んだ日の感慨を思い出したのだ。六年余の歳月は知らず知らず自分に当初の初心をマヒさせていたかもしれない。これがこんどの病後の収穫だった。
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父は、ヨウ[#「ヨウ」に傍点]全快後の心境をそう書いて、再び、「新・平家」「新・平家」の毎日に没頭していった。
あれほど苦しんだヨウ[#「ヨウ」に傍点]だったが、根の抜けた後はすっかり元気になり、全快後まもなくの六月の初めには、講演を兼ねて、京都、奈良へ一週間の日程で取材旅行にも出かけている。それまでの旅行には、香屋子が小さかったせいもあって、母は同行していないが、この時、初めて母と香屋子を連れていった。
二人を連れて行ったのは、前の年の旅行で、大腸カタルを病んでひどい目にあっているため、一人だとつい食べすぎてしまう食事のお目付役にも、例によって、
「やっぱり、文子でないと」
と、母の同行となったものだが、もう一つ、まだ一度も旅に連れて行ったことのない香屋子を、
「来年から学校に行き出すと、あまり機会もなくなるから――」
と、是非ともこの機会に連れて行きたかったこともあったようだ。
この旅行で、父は再び吉野山を訪れた。
『新・平家』も大詰めに近づき、頼朝に追われて、義経と静が身を隠し、そして別れた吉野山をもう一度見ておきたいというのであった。
六月のこととて、もう桜はなかった。父は青葉の吉野山に立って、
「(義経と静の吉野籠りは)おそらく全山四岳、雪だったろう」
と、「新・平家今昔紀行」の中で、二人の悲恋を偲んでいるが、同時に、戦後まもないころ、母を伴って花見に来た桜の吉野山をも思い出していたに違いない。
連れて行った香屋子には、小さな画帖に、旅行中の俳句や歌などを書きとめ、「香屋子初旅帖」と題し、「後々、いかばかりか なつかしからむ」と書き与えた。
翌る年の三十二年の二月、『新・平家物語』が完結した。二十五年の四月に書き始めてから、途中一ヵ月、ヨウ[#「ヨウ」に傍点]で休載しただけで七年間、正確には六年と十ヵ月書き続けた連載が終わったのである。
七年という歳月は長い。父にしても、これほど長く書き続けた作品は後にも先にもない。来る日も来る日もこの一作に打ち込んでいた父にとっては、ある意味では短くも感じられる七年間だったろうが、その年月の本当の長さを、香屋子の成長した姿に一番強く感じた父でもあったろう。
『新・平家物語』起稿と同時に呱々《ここ》の声を上げた末娘が、完結の二ヵ月後の四月には慶応幼稚舎の一年生になるのだから――。
一枚の写真がある。――完結した『新・平家』の原稿を積み重ね、その横に並んで小学一年生の香屋子が立っている。原稿の方が五十センチほど高い。『新・平家』の原稿は、四百字詰で約一万二千枚、製本すると百十八冊にもなったが、それを積み重ねた高さに追いつくくらいに成長した香屋子の背丈は、まさに七年間≠象徴していた。
私にしてもそうだった。
『新・平家』が終わったと聞いた時、小学校時代に吉野村の父の書斎の隣で読まされた「祇園精舎」を、ついこの間のことのように思い出したが、あの時、わからなかった『平家物語』も、高校の授業を通じて、まがりなりにも鑑賞し、もう二ヵ月すると慶応大学へ入るという自分を顧みると、その年月が、いかに長かったかを思い知った。
母の感慨もひとしおだったろう。
連載を始めてから、吉野村時代は、二日に一度は徹夜という父の仕事に、べったりつき合ってきた母だ。七年間の父の苦しみと喜びを一番良く知っている、いや、文字どおり共にしてきた母である。
「文子、やっと出来たよ」
品川の家の二階の書斎で、七年間の最後の一枚の最後の行の後に、(完)という一字を書き終えると父は母を呼んだ。
「終わりましたか」
母はそう言って、机越しに父から渡された原稿を受けとって読んだが、読み進むうち、父の字が枡目の中でぼうっとにじみはじめ、最後の(完)の字まできたとたん、思わず原稿用紙の上に涙を落としてしまったという。父は、
「オイ、オイ、大事な原稿だぞ、汚しちゃ駄目じゃないか」
と、しめっぽくなっている母の気をひき立てるように、おどけていったが、母が見ると、そういう父自身も、両手でゴシゴシ目をこすっていた。
七年の反古より脱けて蝶と化す
この時の父の句である。
その五月、我が家は渋谷へ移った。
品川の家はやはり煤煙が多く、干してある洗濯物も黒くなってしまうほどで、父は、
「健康にも良くないし、どこか他に良い所があれば」
といっていた。
たまたま母が、以前住んでいた赤坂の家のすぐそばに空いている土地をみつけ、父も、
「赤坂ならば」
と懐かしさも手伝って、家が建ち次第越すことに決めていたのだが、それより先に、住んでいた品川の家に買い手がついてしまい、やむなく渋谷の松濤に、一時しのぎの家を借りたのだった。
そういう事情でこの家には、一年とちょっとしか住まなかったが、環境もよく、小さいながら落ち着ける、と父は気に入っていたようだった。
「新・平家を終えたら、一切仕事を断わって、しばらくゆっくり休もうか」
といっていた父だったが、その言葉どおりにはいかなかった。
この七月から、「朝日新聞」に、随筆「きのうきょう」の連載を始め、九月には、
「ひまが出来たら」
と、以前から約束していた東おどりの台本を書いている。
これは、「あづちわらんべ」という舞踊劇で、安土の風俗と信長の死を背景に、明智光秀の娘、珠子――後の細川ガラシャと安土の切支丹学生達とのほのかな交情を三幕九場にまとめたものである。父には、舞踊劇の台本というのはこれ一編しかないが、九月中に軽井沢で書き上げ、十一月の公演に先だっては、舞台稽古にも何度も足を運んだほど熱を入れていた。
そういった仕事も次々に出てきて、完全な休養というわけにはいかなかったが、私が直接知っている父の戦後の生活のうち、この『新・平家』を終えた後の数ヵ月は、やはり、父が最もくつろいだ時ではなかったかと思う。
次は「毎日新聞」に連載、ということは決まってはいたが、何を書くかについては、いくつかの案があり、それを頭の中で整理し、醸成していた時期だった。とにかく、書くことについて何か考えていないと、かえって落ち着かないというのが、父のもって生まれた性分だったから、労作を終えてすっきりとし、次の作品についてあれこれと想を練っていることは、終戦直後三年間筆をおいた時とは違った楽しみがあったのではないかと私には思える。
父の年譜にも、この年の項に、
「もっぱら、夏中を静養に努む」
という文字が見える。
母と一しょのゴルフも、この年が一番心おきなく出来たのではなかろうか。真っ黒に日焼けして元気そうだった。
私も慶応大学に入ると、ゴルフ部(当時はまだ正式の部ではなく、グリーンクラブといった)に入部したが、グリーンクラブには、高校から上がってきたうまい連中が多く、たまに練習場でクラブをふり回していただけの私はすぐにはとけ込んでいけなくて、一年生の間はあまり熱心な部員ではなかった。自然、ゴルフに対する興味も、まだそれほどでなく、その夏も、父とは数えるほどしかプレーしていない。
また、遊びたい盛りの私で、朝は早くからテニスコートだし、夜は夜で友達の家へ行ったり、友達を呼んだり、父とはまったく無関係な生活だった。
今から思えば、この年の夏の一、二ヵ月ほど、私さえその気になれば、父と一しょに過ごせる時間もあり、話を聞く機会もあった時は他になかったのに、父と虫の声を聞きながら酒を酌み交わした記憶も、ほんの幾晩しかない。
馬鹿なもので、身近にいるものほど、
「いつでも」
とタカ[#「タカ」に傍点]をくくって、またとないチャンスに気がつかないものである。
この夏に限らず、
「あれを聞いておけばよかった」
「あの時、一しょにいればよかった」
「こうしてあげたかった」
ということのみ多く、悔やんでも悔やみ足りない思いが残る。
仏壇はあとの祭りをするところ
父が父の母を失った時の句だという。
父が死んでからこの句を知り、時々、この句を思い出すが、これも、あとのまつり、である。
[#小見出し] ゴルフ
父は、戦前にもクラブを振ったことがあったと言っていたが、やはり、本格的に始めたのは戦後である。
健康に良いからと、色々な人がすすめてくださってはいたが、中でも、金田中≠フ岡副鉄男氏は、
「香屋子ちゃんが可愛いと思ったら、長生きのためにゴルフをしなきゃだめですよ」
と、クラブを一揃え抱えて吉野村の家まで来てくださり、それでもしぶっている父を強引に相模のゴルフ場へ連れて行ってくださった。これが最初だと思う。香屋子が生まれた翌る年だから二十六年のことだった。
初めは、ずいぶん辛かったらしい。
何しろ、毎日あぐらをかいて机に向かいっぱなしの父が、六十歳になってから突然長い棒をふり回して小さな球を打とうというのである。
「お前もやれ」
と母を連れ、あちこち練習に通ってまめ[#「まめ」に傍点]も作ったが、
「人に迷惑をかけちゃあ――」
と、なかなかコースには出なかった。
しかし、その翌年の軽井沢では、家から車で五分ほどのところにある旧軽井沢ゴルフクラブのメンバーになり、空いている時を見はからってラウンドを始めた。足の弱っている父は、最初、スリーホールぐらい行くと歩けなくなってしまったらしい。
それでも、練習場で球を打っている父と母を見て、石坂洋次郎氏夫妻がラウンドに誘ってくださったりして、ゴルフ場の仲間も出来はじめ、ハーフ・ラウンド、ワン・ラウンドと歩けるようになってくると、父は完全にゴルフのとりこ[#「とりこ」に傍点]になった。
東京でも、仕事の合い間を見つけては、霞ケ関や程ケ谷へ出かけたし、文壇のゴルフ大会などがあると、かなり前から指折り数えていて、前日までには徹夜を続けてでも原稿を仕上げてしまう。
軽井沢では、午前中は原稿、午後三時ごろからワン・ラウンドというのが日課で、雨の日以外、ほとんど毎日、一回はクラブを握るというくらいゴルフを堪能していたが、夏が過ぎるとそうもいかないのが残念そうだった。
しかし、正月には川奈へよく行った。
毎年、正月の二日か三日に、川奈で講談社主催の文壇ゴルフがあり、父はそれに出た後、一週間ほどを川奈ホテルで過ごすのが例年のこととなっていた。
原稿は暮れのうちに書き溜めておき、正月の一週間は、仕事はゲラ直しだけにとどめて、連日ゴルフを楽しむのである。
はじめたばかりのころは、3ホールぐらいしか歩けなかった父が、一、二年のうちに、山坂の多い川奈のコースを2ラウンド出来るようになったのには、家族の者みんなが驚いた。それにつれて、身体ももちろん丈夫になったが、川奈で、毎日ゴルフをしている時の父は本当に楽しそうで、私達の心まで軽くなった。
私も、川奈では、よく一しょにプレーした。母と弟と四人でやる事も多かった。
川奈は暖かい、といっても冬である。穏やかな日もあるが、海辺だから概して風も強い。冷えた朝など、暖房のきいたホテルから、ドアを押して表に出ると、海からの風が、ヒューッと耳と鼻を削いで行く。ズボンのポケットに入れた両手に力が入って思わず肩が上がる。
そんな寒さでも、父は見違えるように元気だった。たいていハンチングをかぶり、
「やあ、お早う」
キャディーにでも誰にでも、いちいち、手を上げて挨拶する。一番のティーへ行くまで、何か突っ拍子もないいたずらにでも出かける小学生みたいに生き生きしていた。
香屋子が生まれてから、父が変わったとは前に書いたが、ゴルフ場での父は、それにも増して私には目新しかった。まるで子供になってしまうのである。
一時、父はショットの前に、左の掌をグローブの上からベロッとなめるくせがあった。
母が、
「きたならしいから、おやめなさい」
と、そのくせを注意したが、
「こうすると、グリップがすべらない」
と、なかなか、やめなかった。
それでも、何度か母に言われて、やめる気になったが、無意識にやることなので、そう簡単には直らない。
思わず口へ行きかける左手に気がついて、悪いことを見つかった子供のような目で、てれくさそうに私達の顔を見る父の姿は、なんともほほえましかった。
六十を過ぎてはじめたゴルフだから、もちろんスコアは知れている。ハーフ50を切ればいいという程度である。父は、
「僕のは健康のためにやっているゴルフだから」
と、悟り切ったようなことを言っていたが、どうしてどうして、上手くなりたいという願望と負けん気は、人後に落ちないものがあったようだ。
文壇のゴルフ仲間の間では、母の方が父より上手い、という伝説があった。――伝説といったのは、父の名誉のため、私が言うのであって、母が形見としてしまってある父とのスコアカードを調べると、やはり、母のスコアの方が平均してやや良いようだ。しかし、あくまで伝説としておこう。
この伝説に誰かが触れると、父はムキになって否定した。その否定の仕方が、あまり真剣でおかしいというので、わざと父に向かって、その伝説の真偽をただす悪い人もいたようだ。
父がゴルフとなると、どんなに無邪気になってしまうか、そんな笑い話はいくつもある。断わっておくが、これは伝説ではなく実話である。
ある年の正月、川奈の講談社のゴルフで、初めて優勝した。
私達が父を囲んで、ホテルの地下のバーで飲んでいると、通りかかる知り合いの人達が、
「オメデトウございます」
と、新年の御挨拶をなさる。
父は、その方達に、
「ヤア、有難う、イヤイヤ、まぐれ当たり、まぐれ当たり」
などと、片手をあげてうれしそうに答えている。母や私達は、横で顔を見合わせた。
そのうちに父も、不審気に眉をひそめ、小声でこう言ったものである。
「何で、皆、こんなに早くおれの優勝を知ってやがんだろ」
私達は、プッとふき出した。
また、サザンクロスでのゴルフで優勝した時のこと――。
ゴルフの後、伊東市内で懇親会があったが、会場についてみると、父は寒いのに、オーバーもマフラーも帽子も、それにゴルフ靴まで、一切合財ゴルフ場に忘れてきてしまっている。
「どうしたんですか、吉川さん」
皆さんに冷やかされて初めて気がつき、しまったと思ったらしいが、その時、少しも騷がず言い放った。
「カップは持って来た――」
また、これは相模での事、
プレーが終わって生沢朗氏が風呂に入っていると、ガタガタとスパイクのまま、脱衣所に上がって来た男がある。見ると父だった。
「朗ちゃん、45が出た、45が――」
スコアカードをふり回して言っている。
「吉川さん、45は立派だけど、スパイクのまま風呂に入っちゃ困りますね」
生沢さんが、ふき出しながらたしなめると、父もびっくりしたように自分の足もとを見直したという。
自分のゴルフに、こんな父だったから、私が大学でゴルフに身を入れ出し、試合にも出られるようになると、その結果が気になって仕方がなかったようだ。
学生選手権などの大きな試合の時など、家に帰ると、父は努めて無関心を装っている。
「ただいまあ」
「ヤア、お帰り。――どうしたい」
「エ? エエ」
「なんだ、駄目だったのか」
「エエ、予選で落っこち――」
「ちっ、だらしねえなあ」
質問する前のさり気なさとはうらはらに、がっかりする。じれったそうに、
「おれが代わってやりたい」
といわんばかりの表情を見せるのである。
それでも、父のゴルフにはどこかひょうひょう[#「ひょうひょう」に傍点]としたところがあった。
スコアが悪くても、くさった[#「くさった」に傍点]のを見たことがない。
母や弟と四人でラウンドしている時など、
「こうやって、親子四人でゴルフが出来るなんて、最高の幸せだなあ」
などと、しみじみ言い出す。
また、
「向こうに見えるあの山、いい山だねえ」
などと、うっとり見惚れていることもある。そういう時は、スコアが悪くても良くても関係ない。その瞬間をじっとかみしめているような姿だった。
「僕が死んで、後に残った連中が、楽しそうにゴルフをしているかと思うと、めったには死ねないね」
そんな事を言ったくらい、ゴルフの好きな父だったが、母が今でも、
「あの時は――」
と、話すたびに涙を浮かべることがある。
肺ガンにかかって一回目の手術を済ませ、経過も良好だったころ、ベッドの上に起き上がった父が、母と、
「治ったら、また、軽井沢へでも行って、のんびりゴルフをしような」
と、話していたところ、そばにいた、インターンの人だか誰だか、とにかく病院の人が、
「先生、ゴルフはもう無理ですよ」
と、口をすべらせたという。
手術の結果もよく、父も母も、治る≠ニ信じて疑わなかったが、その言葉を聞いた時の父の顔は、
「今思い出しても――」
と、母は目を赤くする。
私は、その時の父の顔を見ないでおいてよかったと思っている。
[#改ページ]
[#見出し] 11 『私本太平記』起稿
軽井沢から帰ると、その秋から、父の身辺は俄《にわか》に忙しくなった。
「週刊朝日」の『新・平家物語』が終わるのを待ち構えていた毎日新聞との約束で、新しく新聞小説の連載にとりかかるためである。
軽井沢の夏の間でも、父の頭からは、次の小説≠ェはなれなかったろうが、新年からの連載、ということで、秋になると家中がバタバタし出したように感じられた。応接間の顔ぶれも、それまでの朝日の方々にかわって、毎日の方が多数を占めるようになり、そんな変化も、我が家に何かしら新しい事が始まるような、気忙《きぜわ》しい雰囲気を醸していた。
この連載は結局、『私本太平記』と決まったが、そう決まるまでには、二転、三転した。父は、『新・平家』を書いているころから、折々の私達との夕食の席などでも、次に何を書こうか、ということを話題にしたが、いくつかの腹案があり、それがギリギリまで決まらなかったようだ。
太平記の他、「何か幕末から維新にかけて題材をとったもの」や、さらには「明治天皇」を書きたいと言ってもいたし、「西遊記」を思い切り自由に書いてみたいとも言っていた。
だが、毎日新聞の連載には、はじめ、
「小野のお通」を書こうかということだったらしい。
小野のお通は、戦国時代の小野正秀という武将の娘で、秀吉や淀君に仕え、後には、徳川家にも仕えるという多彩な生涯を送った女性だが、文芸や音楽にすぐれた才能を示した人だという。
終戦の時に、太閤記の執筆を中断し、その後も、
「天下をとるまでの秀吉は歴史上好きな人物の一人だが、関白になってからの秀吉は、どうも書くのがいやだ」
といって書かなかった父だったから、『新書太閤記』で書いた以後の秀吉と、豊臣から徳川へという時代の変遷を、こうした女性の目を通して描いてみたかったのではないかと思う。
しかし、その後考えが変わり、今度は、戦乱の室町時代を十編のオムニバス形式にまとめた「地異十帖」という小説を書こうかといい、それがさらに変わって、結局、太平記という事に落ち着いた。
原稿用紙に向かっていない時でも、こうして、これから書く作品について、ああでもない、こうでもないと考えている時の父は、執筆している時と同じように苦しそうな表情をしていた。しかし、傍目《はため》には苦しそうに見えても、ある作品について、どの場面から書き出そうとか、どんな人物を登場させて、誰と誰とをどう絡ませて行こうか、などと考えているのは、父にとっては楽しいことらしく、機嫌の良い時には、私達にも、そうした頭の中で進行している小説を雑談の中に話してくれたりした。そういう時、私は一つの小説に、父が幾通りもの展開を用意しているのを知り、驚いたものだった。
『私本太平記』に決まる前に候補に上がった「小野のお通」にしろ、「地異十帖」にしろ、日ごろから目にとまった資料は集めて、目を通していた父だから、『新・平家』完結後の数ヵ月間、それぞれの筋立てとか構成について、幾通りかのものを頭の中でざっと書き上げ=Aその上でふるい[#「ふるい」に傍点]にかけたものと思われる。
そのふるいにかけて残した『私本太平記』の起稿にあたって、父は、元旦の「毎日新聞」に「新春太平綺語」という一文を寄せ、次のように述べている。
[#ここから1字下げ]
さきに私は『新・平家物語』を書いたが、『太平記』は、それにくらべると、おなじ古典でも、時代が下がるし、人の考え方や世の中も一変している。平家には見えたあの優雅な人々の無常感もあわれ≠ウもまた文章の詩趣も至って乏しい。総じて文学価値としては古典平家の方が太平記よりも上だと思う。けれど人間社会のけわしさとか、個々の苦闘とか、また歴史上の日本という国の未成年期山脈をふみ越えて来た祖先たちのあとを振向いてみるものにしては、平家の世頃とは、比較にならないものがある。それだけに、小説としても、生々しい人間臭をもつとおもう。
しかし、これまでの太平記や、いわゆる南北朝概念では、足利尊氏にしろ新田義貞にしろ、また正成正行父子にしろ、誰の観念の中にも、人間としてはいない。極端なまでに偶像化されたままである。(中略)
まだ小説の方は一字も書かないうちから、ここでいってしまうのも率直すぎて他愛ないが、逆賊尊氏も、忠臣楠公も、私には、えこ[#「えこ」に傍点]もひいき[#「ひいき」に傍点]も全くない。その時代の下に生きた一個の家庭の父、一個の人間、社会人として、どう描きうるかがまずさしあたっての苦吟である。人間尊氏を私はやはり人間的な気の弱さや人のよさを多分にもった人だったと思っている。正成にしても、そうである。みんな社会、みんな周囲が、彼をしてやむなくさせなければ、河内の一田舎武人として、よい妻やよい子にかこまれ、垣の梅花を楽しんだり、老後は菊の花でも作って、しごく平凡にまた平和に天寿を全うしたろうにと思われる。(中略)
高《こう》ノ師直《もろなお》のごときは変っているとしても、人みな善人だったと思う。それが、建武年間、正平以後にかけてまで、半世紀余の血みどろを地上に現じ出してしまったのは、いったい誰の所業か、何の作用か、私は人間同志の住むこの世には、何か「誰」と指摘できない摩訶不思議な素因がどこかに跳梁している気がしてならない。
小説の中では、そんなものをも、つきとめてみたい意欲がするのである。
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小説の連載は、一月の十八日からだったが、その書き出しには、いつものことながら、ずいぶん苦労していた。
当時、毎日新聞の松本昭氏が父の担当で、連日家に来て資料の整理にあたってくださったが、ある日書庫で、南北朝時代京都に酒屋がたくさん出来て大賑いだった、という記録を見つけて父に見せたところ、
「おかげで書き出しがついた」
と、一気に第一回分を書き上げたという。
若き日の足利尊氏(そのころは高氏)が、京都の居酒屋で酒に酔い痴《し》れて年を越す場面がそれである。
また、『私本太平記』の起稿と相前後して、父は、講談社から新しく出た雑誌「日本」の新年創刊号から、『新・水滸伝』の連載を始めた。
『新・平家』の執筆中、他の小説は断わってきた父だったが、その間、小説の依頼はあちこちから多く、それに対して、
「今のところ、『新・平家』一本に打ち込んでいるから――」
とか、
「この仕事が終わったら――」
というのが防波堤の役割をしていた。
しかし、その防波堤がなくなり、ことに、若いころから因縁の深い講談社の、新雑誌発刊に際してのたっての依頼には、断わるすべもなかったらしい。
もともと、『三国志』を書き、いつかは『西遊記』を書きたいといっていた父にとって、『水滸伝』も一度は筆を染めてみたい題材の一つであったろう。子供のころ、吉野村で父が毎晩話してくれた物語の中にも、『水滸伝』の一節はあり、九紋竜《くもんりゆう》の史進《ししん》とか、花和尚《かおしよう》の魯智深《ろちしん》などという豪傑の名前は、義経や秀吉などと同じくらい、私にとっては懐かしいものとなっていた。
新聞小説と月刊誌の連載――。
この二本を並行して書き進めて行くのは、父にとっても大変な作業だったようだ。とくに、以前さんざん書き慣れているとはいえ、その日その日に追われる新聞小説は、気の休まる時もなかったらしく、連載を始めてから八ヵ月目の「筆間茶話」にも、
「――新聞小説の日課を、あらためてこれはたいへんだぞと思った。前に経験した新・平家物語にくらべると、まだ週刊誌紙上での二十回分程度しか書いていない量である。――ずい分書いて来たような長途の感を覚えたが」
と書いている。
しかし、この二つの連載を始めたころ、父には一つの大きな楽しみがあった。
渋谷の仮住居に移る前から建築にかかっていた赤坂の家の工事が着々と進んでいたのである。
父は、それまでに、私が直接知っている限りでも、赤坂、吉野村、品川、渋谷と住居を移し、それ以前にも、芝、下落合など、あちこちに居を構えてはいるが、いずれも、すでに建っている家を買ったものであったり、借家であったりして、自分が建てた家というのは一軒もなかった。
だから、新しく赤坂に家を建てるというのは大変な楽しみだったらしく、設計の段階から、
「ここは、こうしてほしい。ここは、これじゃあ使いにくい」
と、細かい所まで注文をつけ、何度も図面を引き直してもらった。
赤坂の家は、ちょうどカナダ大使館の裏手にあたり、昔住んでいた家とは、目と鼻の先の閑静なところだった。父は、出来上がるのが待ち遠しくて、仕事の合い間を見ては、工事を見に行っていたが、完成間近いある日の夕方、例によって、何度も何度も家の周りをまわって塀の中を覗き込んだりしていたところ、不審を抱いた赤坂署の刑事に職務質問されたという笑い話も残っている。
その六月、赤坂へ越した。
小さいながらも庭があり、父は赤坂へ移ってから、また、好きな庭いじりを始めた。
吉野村から、好きだった松と石燈籠を持って来て庭に入れ、牡丹なども一隅に配した。吉野村を懐かしんでいるように見えた。
書斎は二階に置き、窓を大きく切って、文机をその際に据え、仕事の合い間に坐っていても庭が見下ろせるようにした。赤坂の庭には、神宮の森が近いせいか、雀や鳩などの姿も、東京にしては珍しいくらい多く、芝生の上の虫かなにかをついばんだりしていたが、筆休めに、そうした鳥の姿を眺め、声を聞くのも坐り切りの父にとっては慰めになったようで、『私本太平記』の「筆間茶話」にも、
「品川区に住んでいた頃、品川の雀は色が黒いなと思ったことがある。煤煙のせいであろう。赤坂へ越して来たら、赤坂の雀はまだ少しはきりょう[#「きりょう」に傍点]がいい。奥多摩を考えたら、奥多摩の雀はほんとの雀色をしていた」
と、書斎の窓からの随想を述べている。
自分が建てた家でもあり、この家は気に入っていた。香屋子も学校に行くようになっていたから、夏の軽井沢も、九月に入ると淋しいらしく、
「香屋子がいないと文子のやつ[#「やつ」に傍点]が淋しがってね」
などと、母のせいにしては早目に赤坂へひき上げて来たし、熱海の家も、ごく短期間逗留するだけになって、赤坂にいる時間は多くなった。吉野村とこの赤坂、この二つの家が父がもっとも愛着をもったすまいだったのではないかと思う。
楽しんで造り上げ、気に入っていた赤坂の家だったが、父はこの家には四年しか住めなかった。
父がいたころは、周囲は平家か二階屋だけの静かな住宅街だったこの界隈も、今は、マンションが立ちならび、心なしか雀の数も少なくなった。
家の前にも狭い道一つへだてて、八階建ての大きなのが建ち、父の書斎の父の席に坐って見ると、幾十とコンクリートに開けられた窓が、一つ一つ生きている眼のように見え、それがこちらをじっと凝視しているかのような幻想にとらわれる。
「生きていらしたら、逃げ出したでしょうね」
と、時々、母は言う。
生きていたら、また、吉野村か軽井沢へ引っ込んだかも知れないなと私も思う。
[#小見出し] 作家としての父
父の文筆生活は、新聞や雑誌への投稿から始まったといってよい。
父は十二歳の時、家が没落して小学校を中退しているが、当時は、小学生でも雑誌などへの投稿が盛んだったらしく、自筆の年譜の明治三十五年、十一歳の項に、
「投書熱たかまる。――時事新報の雑誌『少年』に作文が当選。以来、中学文林、ハガキ文学、秀才文壇、博文館の諸雑誌などに、やたらに投稿する」
とある。この作文が父の書いたもののうち、活字になった最初のものであろう。もちろん、現存はしていない。
また、明治三十九年、十五歳の時にも、
「高嶋米峰氏主宰の学生文壇二号に、初めて小説を投稿したその『浮寝鳥』当選」
とある。
そのころ、すでに家は貧窮の一途で、小学校を中退してから、印章店の店員、印刷所の工員、船具工など職を転々とし、二十歳の時、生まれた横浜を去って東京に出てからも、蒔絵師の徒弟に住み込むなど、苦難の時代が続く。しかし、その間も投稿熱はさめず、講談社の雑誌に雉子郎《きじろう》というペンネームで川柳や俳句の投稿を続け、雉子郎という名前も投稿家仲間ではポツポツ知られるようになった。
そのうち、川柳家で、雑誌や新聞の投稿欄の選者をしていた井上剣花坊に認められ、二十三歳のころには、雑誌「大正川柳」の幹事となって、その編集に携わるようになっている。
本格的に小説を書き出してからは、川柳はあまり作らなくなったが、後年の俳句にも、生活を織り込んだ川柳的なものが少なくない。このころが下地となっているのであろう。
父も後に書いている。
「雀百までの譬《たとえ》のように、川柳に出発している私の文章には、随所に川柳があるとは、よく人から批評されることばです。近来悪文を書いて繁忙に趁《お》われているので、作句は怠っているものの、そう云われてみれば、自分のどこかに、川柳は常に住んでいるように思う」
寄席へ来て寄席芸人の身を案じ
この先を考へてゐる豆のつる
貧しさも余りの果《はて》は笑ひ合ひ
柳原涙の痕《あと》や酒のしみ
父の川柳である。
最後の「柳原」というのは、柳原に軒を並べていた古着屋のことで、露店の軒先につるされている古着のしみ[#「しみ」に傍点]に、様々な人生を見たのであろう。どん底の生活を体験した父らしい句だと思う。
このころから、川柳とあわせて、小説の投稿もはじめている。大正三年の「講談倶楽部」の秋の増刊号に『江の島物語』という小説を、やはり吉川雉子郎のペンネームで投稿し、当選したのが小説の最初である。父の処女作といえよう。この小説で賞金十円をもらったという。
また、大正十年には、「少年倶楽部」、「面白倶楽部」、「講談倶楽部」の講談社三誌に、それぞれ、『でこぼこ花瓶』、『馬に狐を乗せ物語』、『縄帯平八』という小説を同時に応募し、『でこぼこ――』と『馬に狐を――』は、それぞれ一等、『縄帯平八』は三等に入選した。この三本の賞金はあわせて七百円余りになった。当時の七百円といえば大金だが、この年、祖母が死に、この賞金のおかげで葬式が出せたと父は私にも話したことがある。
こうした懸賞小説でない最初の小説は、この翌年に「毎夕新聞」に連載した『親鸞記』(昭和十年に書いた『親鸞』とは別のもの)である。
母親を亡くした後、父は毎夕新聞に入社し、家庭部の記者をしていたが、ある日、社長室に呼ばれ、親鸞を書くように命令されたという。今から考えると、入社したばかりの記者に、連載小説を書けというのは突飛なことのように思えるが、それまでの懸賞小説の実績を買われたのであろう。
『親鸞記』は、大正十二年に、父の初めての単行本として刊行されたが、連載中も無署名で掲載されていたこの小説は、単行本となっても本の背中の著者名の所は「?」となっている。
しかし、父が作家として立とうと決心したのはこのころの事だろう。
投稿した小説が三編同時に入選するということがあっても、それまではまだ、小説を書いて生活出来る自信はなかったらしいが、『親鸞記』が刊行された翌年の大正十三年の年譜には、
「朝山李四、その他の匿名を用い、短編数編を信州より講談社へ送る。面白倶楽部に長編『坂東侠客陣』が掲載され、以後、他誌からも依頼される。原稿生活の自信ややつく」とある。
「短編数編」という字句がみえるが、この年の「面白倶楽部」七月号を見ると、父は六人の名前を使って六編の小説を一人で書いている。八月号には、「面白倶楽部」に四本、「少年倶楽部」に一本、また十月号には「少年倶楽部」に一本、「面白倶楽部」に三本、「講談倶楽部」に一本、「婦人倶楽部」に一本という具合に、全部名前を変えて書きまくっている。筆名は吉川雉子郎をはじめ、杉田玄八、望月十三七、中谷仙太郎、朝山李四などさまざまだが、吉川英治という名前で、初めて小説を発表したのは、翌大正十四年、「キング」の新年創刊号から連載した『剣難女難』が最初である。
このころの父のメモが残っている。
十二月予定
五日までに  キング滑稽小説20
八日までに  婦倶 若葉の蔭から
十日までに  少女倶楽部へ題名を知らす
十五日までに 剣難女難
廿日までに  面白連載
卅日までに  女倶へ送稿
一月八日まで……婦倶 若葉の蔭から
一月十日まで  少倶 滑稽小説
暮れも正月もない書斎だけの生活がうかがえる。
この『剣難女難』に続いて、「少年倶楽部」の『神州天馬侠』や「少女倶楽部」の『ひよどり草紙』など、少年少女ものにも、吉川英治の筆名を用い始めている。
しかし何といっても、流行作家としての地位を固めたのは、大正十五年八月から「大阪毎日新聞」に連載した『鳴門秘帖』であろう。
社命により無署名で書いた『親鸞記』を除けば、「吉川英治」としての初めての新聞小説であったし、講談社の雑誌という枠から一歩踏み出した初めての仕事だっただけに、父も夢中で書いたようだ。
この『鳴門秘帖』の成功で、講談社ばかりでなく各社からの注文も多くなり、それこそ原稿用紙との格闘とも言える日々が、三十数年後、ガンで倒れるまで続くのである。
作品年表を見ても、このころから年々、作品の数が多くなって行く。最も多作したのは昭和九年から十年ごろだろう。
昭和九年には、雑誌連載の長・中編を十編、短編を八編書いているし、十年には、その八月から「朝日新聞」に連載を始めた『宮本武蔵』を含めて連載物八本、短編を四本書いている。
このころは、私の生まれた赤坂表町の家へ移ったころだったが、そこの応接間の光景は、後に私が知っている吉野村の「記者クラブ」どころの騒ぎではなかったらしい。連日、十人以上の編集者がたむろして、
「うちのはまだか」と待ち構えているのである。
父は、いつも新聞小説を先に書き、それから雑誌にとりかかるというのが習慣だったらしく、雑誌編集者の方の中には、〆切りに遅れたり、ギリギリに渡された原稿の枚数が予定より多いこともあったりして、他の記事を抜いて紙面を組み直すなどの御苦労をされた方もあったようだ。
父は、いったん書き出してしまうと筆は早く、そのころ、五十数枚の原稿を一日で書き上げたりしたこともあったようだが、書けないとなると、一日でも二日でも一字も書けないという日が続く。
〆切りが迫るのに、午前二時、三時になっても原稿が出来ないと、父はもちろん、頭に血がのぼっているし、待っている編集者の方々も、ヤキモキ、イライラすることだろう。
そういう時の気分ほぐしに、二階の書斎にいる父と、階下の応接間で待っている編集者との間で、手紙を使って原稿の催促や弁解をするようなこともあったらしい。
そのころの父の手紙≠、当時講談社の編集者だった萱原宏一氏が持っておられる。
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今夜までに冨士、明朝までに講談(倶楽部)を鬼となり候ても必ず突破、孤城まだ塁を喰ふほどには窮衰仕らず。唯今、一瓶を痛飲し尽して、快睡二時間、醒むればなほ心身童児の如く快に御座候。ちよつと応接まで出て御顔も見たし、談笑もしたしなれど、今宵は我慢してすぐ廿字詰行軍と出かけ申候、失礼多謝々々。
[#地付き]梁上の(籠城のシャレワカル?)人
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城下の(どうかノシャレナリ)
萱原兄
星野兄
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応接間に布陣している萱原氏と、やはり講談社の星野氏にあてたものである。
また、時折は、執筆に苦しんでいる状況を俳句にして階下へ届けることもあったようだ。
朝までの炭つぐ紙の白さかな
何をとて人は眠るに炭つぎて
ものや書くらんこの狂ひ人
などは、そんな階下への便りに作った句であろう。
また、
今朝も又一字も書けず納豆汁
木枯の夜半の中なりわが机
もの音もあらぬ書斎の寒さかな
起し番たのみて年暮の宵寝かな
など、徹夜仕事の寸感をよんだものも多い。
反対に、原稿が出来た時には、
稿成つて牡丹の鉢を買ふ夜かな
と、ひげも剃って縁日にも出かけたであろうし、
水仙に戯作の恥を思ふ朝
と、朝日が眩しそうなものもある。
執筆中の感を詠んだ句は、若いころに多いようだ。
昭和十四年に完結した『宮本武蔵』を境として父の作風が変わった――端的にいえば、伝奇小説から歴史小説に転換した、ということは前に書いたが、それと共に作品の点数が、目に見えて減っている。
昭和十四年には、『新書太閤記』、『三国志』の二大連載が始まり、その後も長編は、『源頼朝』、『梅里先生行状記』、『黒田如水』、そして戦後の『大岡越前』、『平の将門』を経て『新・平家物語』につながるが、『宮本武蔵』の完結以後、短編の数がガタッと減るのである。
とくに戦後は、二十三年の『人間山水図巻』と、二十六年に「オール読物」に書いた『袴だれ保輔』の二つしか短編を書いていない。
体力的に、若いころのように書きまくれなくなったのではないかという解釈もあろうが、晩年、『新・平家物語』や『私本太平記』と、四つに取り組んでいた父の姿を考えると、そうではないと思う。
父が描こうとしていたテーマそのものが、短編という形式には盛り切れなくなり、自然、その形式に興味を失っていったのではないか。
短編をあまり手がけなくなった時期と、伝奇小説から歴史小説へと方向転換した時期とが一致するのも、それを示しているし、母と出会って私も生まれ、落ち着いた家庭を持った時期とも一致するのも暗示的である。
父は生前、私に、
「僕は若いころ、つまらない物を書きすぎた」
といっていたし、
「僕の若いころのくだらないもの」
という言葉もよく聞いた。
『宮本武蔵』以前の『鳴門秘帖』など一連の伝奇小説や短編を、一概に「くだらない」といったのではないだろうが、『宮本武蔵』の執筆は、多作を避けて、父のいう「くだらぬ」ものを整理しようという反省のきっかけとなったことはたしかなようだ。
私が直接知っている父は、戦後の父、作品で言えば、『新・平家』以後ということになるが、その創作態度は、まさに執念の鬼ともいえる姿だった。
とにかく、原稿がすべてで、ゴルフが好きとか馬が好きとかいっても、日ごろの父の頭の中にあるのは、九九・九パーセントまでが小説で、残りの〇・一パーセントの中にそういったものがある、という感じを受けた。
ヨウを病んだ時、もうどうしようもなくなるまでは、ウンウン唸《うな》りながら執筆していた姿を見た時もそう思ったし、最後の軽井沢で、ゴルフどころか、書斎へ上がる八段の階段も四つん這いにならなければ上がれないほど体力が衰え、周囲に拉致《らつち》されるようにして東京に連れ帰られながら、入院する午前中まで原稿を書き続けたという時も、その鬼のような父の執念を感じたものだ。
また、こういう事もあった。
ガンで入院する四ヵ月前の六月だった。父はそのころから、何をしてもすぐに、
「疲れた疲れた」
と、体が弱っていたし、下痢をして二日ばかり寝た病み上がりの時だったが、前進座で『新・平家』を上演することになっていて、その脚本を座の方が持ってみえた。
父は一読して、その脚本がどうにも気に入らなかったらしく、
「すまないが、この脚本では駄目だ。上演はとりやめてほしい」
といい出したのである。
しかし、初日までは、三、四日しかなく、ホールも借りて切符も売ってしまった後だったので、前進座の方の困惑は、同席していた母が見ていられないくらいだったという。
父も見兼ねて、
「では、明日までに僕が書き直すが、それでもやれるか」
と念を押した。
座の方も、
「やります」
と、必死の面持ちである。
「よし」
と、父はその日の昼から、翌日の朝八時までぶっ通しで、とうとう三幕七場の脚本を、新しく書き上げてしまった。
二、三枚出来るたびに、母が階下へ運び、これも徹夜で待機している座の方と秘書の矢野氏が、手分けして清書するという突貫作業だったが、父は翌日の午前十一時には、読売ホールに出かけて、夜の十一時まで舞台稽古に立ち会った。
その後は、さすがにぐったりしてしまったが、休んでもいられず、再び、『私本太平記』と『新・水滸伝』の原稿にもどる父を見て、何も出来ないでいる私達は、
「大丈夫かな――」
と、ハラハラするだけだった。
「作品を映画化されたり、舞台にのせたりするのは、娘を嫁にやったようなものさ。どう料理されても仕方がないよ」
と、いってはいた父だったが、公演前に脚本を見てしまうと、ムラムラと直したくなってしまうのだろう。
私もこの前進座の公演は見たが、初日の二、三日前に手渡された新しい脚本で、見事な芝居を見せてくださった前進座の方々の熱意にも頭が下がった。
私達の目には、鬼のような執念に見えたが、父という人は、ほんとに、シンから創作という仕事が好きだったのだと思う。
ある人がある時、父に、
「もし無人島で、一人で過ごすとして、一冊の本を持って行くとしたら、何にしますか」
と訊ねると、父は、
「僕は何も持って行かない。頭の中で物語を創ってそれを読む」
と答えたという。
この言葉どおり、机に向かっていない時でも、あれこれと空想の翼をひろげているのは、父にとって、こよない楽しみだったらしい。
「僕は退屈ということを知らないよ」
ともよく言っていた。
この苦しみでもあり、楽しみでもある自分の仕事について、
「随筆新平家物語」に、こういう一文がある。
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作家の作事を業《ごう》だと言った人は、横光利一氏があるし佐々木味津三氏もまいど云っていた。生きている友人もまま自嘲的に云うことである。だが、どこかに業の魅力≠ェある事にはちがいない。ぼくのばあいも、こんな大きな仕事は確かにくるしいが、けれど、くるしい以上に、おもしろくもある。眼がさめるから起きるまで、『新・平家物語』があたまの中でタイムを刻み脈搏をうってゆく。古書や雑書の中に埋もれている時も、ラジオのニュースに耳をかしている時も、応接間の客と雑談しているあいだも、何かの繊維が、あたまの中の交織機に織りこまれ、それが一週間毎に、一幅の布地になって机から離れてゆくことは、大げさにいえば、つい寝食も忘れてしまう楽しさである。
運動不足からつねに健康を害しているが、その愉悦をつつがなく続けてゆきたい欲望にもえるので、近頃は、食味にたいしても、理性のままに、禁欲ができるようになった。ほかのいろんな事にも、この仕事を完成するためにはと思うと、禁欲が平気でできるようになったが、ただ一つ、禁煙だけは、どうにも出来ない。反対に、忘我の時間が多いせいか、徹夜などすると、夜明けになって、以前よりひどい机の灰とあたりの吸殻を発見する。
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徹夜仕事の時など、家の者が見ていると、父は、点《つ》いている便所の電気を、入る時に消して用を足し、出て来る時に点けて机にもどった、と笑ったことがあったが、原稿を書き出すと、他の事はすべて無意識となり、歩いている時も夢遊病者のようになってしまうのである。
若いころ、汽車に乗る時に切符も買わずに、改札係にぼやっと硬貨を差し出し、改札係が呆っ気にとられたという話もある。講演に行く途中で、話す内容を考えていたというのである。
私達にしても、書斎の父と約束を交わすのは禁物だった。後で決して覚えていないのである。
父のそんな頭の中を知っているから、父が書斎に籠ると、家中が緊張して、静かに静かにと心がけたが、父は家の中の物音には、それほど神経質ではなく、かえって、家人がそれにあまり気をつかうのは好きでなかったようだ。
若いころの随筆に、雑音について書いている文章がある。
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音響は、むろん、静かにこしたことはない。だが、自分の書いているのにハラハラして、家族たちが、ぬすみ足に歩いたり、笑いもしないでいるのは嫌だ。むしろ、自分が悲惨でいる時ほど、家人たちは、適度に、はしゃいでくれたほうが、気もちが助かる。
日曜日にする近所のピアノだの、レコードだの、たまたま、三味線の音だの、そんなのに、焦々としたこともない。だが、ラジオ体操と、相場放送には、いったい、どうかならないものかとペンを抛ってしまう時がある。今住んでいる芝公園の家は、仏心院という寺なので、庭隣りも寺だ。時に、ぽくぽくと木魚が聞える。銀座から帰って来た時など、落ち着け、落ち着け、と聞える。
将監橋のそばの消防詰所も近い。どうかして、何の物音もしない午前二時、三時ごろ、空想から空想へ、うっとりと、夜の明けるまでも、頬杖をしたまま、ふすまを見つめてしまうこともある。(それなら、何も徹夜をしなければいいのだが――)そんな時、ふいに近所の消防機関車が、しばしば、タンクみたいな音響と、警鈴の音をたてて、驚かす。
すると、なぜか、とたんに自分も、急に書き出しのつくことが、二、三度あった。
禅ではないから、ものを書くには、真空のような無音響でも、かえっていけないものとみえる。
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とは言っても、子供のころ、吉野村で、さんざん騒いで怒鳴られた経験のある私達は、父の書斎の近くへ来ると、自然、ぬき足、さし足となるのはどうしようもなかった。
仕事中の父の机は、文字どおり、万能机だった。
まず、朝起きると、着物に着かえて、そのまま書斎の机に坐り込む。母がお盆の上に、歯みがきをつけた歯ブラシとうがい[#「うがい」に傍点]水、それに、うがい[#「うがい」に傍点]水を受ける容器、洗面器という一揃えをのせて持って行き、洗顔一切をそこで済ませる。その後、母のたてる好きな抹茶をゆっくり飲んで、朝食も机。食べ終わると、脇に寄せた原稿用紙をひきよせて眼鏡をかける――。というのが毎日の手順だった。
もちろん、昼食もそのまま、で、手洗いに立つ時以外、用事で席を立つのは来客の時だけで、あとは、何の用もなく、書きあぐねて、ブラリと家の中を歩きまわること以外足を使わない生活だった。ゴルフを始めた時、歩けなかったのも頷《うなづ》ける。
それでも晩年は、ほとんど徹夜をしなくなったから、夕食の時には、よく茶の間へ出て来た。そういう時、少量の酒に赤くなって、ゴロッと手枕で横になるのは、一日のうちの最も快い時間だったようだ。
そういう朝から晩まで坐りっ切りの同じ環境で、二本以上の作品を執筆するのは、父にとってもかなりの難事だったらしく、頭の切り替えには苦労するらしい。
最も多作した昭和十年ごろの随筆にその辺の苦労がうかがえる。
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雑誌の連載小説を一回書いて、すぐ他の締切日が、迫っているとか、新聞小説にうつる時などは、頭の急転に、困る。まえの小説の陰影や、人物の活動が、拭こうとしても、消えないのである。もう原稿は渡したのに、まだ、頭の中に、虫みたいに、うごいていて、ものをいったり、迷ったり、後悔したりして、生命を停止しない。
そんな時は、次の、新しく起稿しようとする小説の標題を、いくら、原稿紙に、書いてみても、だめである。
麻雀を覚えたてのころは、あれを二戦《リヤンチヤン》も、ガチャガチャ掻き廻すと、たいがい、消滅したが、近頃は、上手になったので、麻雀は麻雀としてやり、余燼は余燼として、あたまの隅に、いぶっているから、効果がない。
額田六福氏は、一篇脚本を書いたら、一日釣りにゆくとか、聞いたが、それも、一方法であろう。酒のたんとのめる人は、酒でも、転換がつくかも知れない。だが、僕には、今のところ寝るよりほかに、手がない。だが、睡眠が浅いと、その夢の中へまで、執念ぶかく、創作人間が、はいって来て、おびやかす。
毎日毎日、つよい意識の習性がつくので、新聞小説をもっている間の、責任感は、ひどいものだと思う。自動車にのって、旅行地の危険な道へかかる時でも、すぐ、万一の時は、新聞がと思う。怪我をしたら、口述でも、つづけなければ、などとつまらない、空想をよぶ。
新聞小説、雑誌の連載でも、ふとい、ひとつの動脈は、むろん、最初からつかんでかかるが、一回一回の細かいテーマの綾は、僕は、必ずしも、先をこしらえては書かない。人間の運命が、明日を知らないように、又、読者が、次を、予知していないように、僕にも、わからない。
こういっては、翌月が、困ると知りつつも、自分が、作中の人物に、ひきずられて思いもうけないほうへ、走ってしまうこともある。小説も、活字となって、半年もこの世の息を吸うと創造者の自由にもならない生命だの、運命だのが、生じてくるものだ。
[#ここで字下げ終わり]
この文章で、作中人物が生命をもつと書いているが、父は、そうした作中人物を愛するというより、作中人物と共に呼吸し、共に喜び、共に泣くというようなところがあった。
だから、『新・平家物語』で建礼門院が入水する件《くだり》や、『私本太平記』の正成の最期の場面などを書いている時は、自分も憔悴《しようすい》してげっそりしてしまうのである。
父はいつも、「成り切る」ということは大切だ、といい、小説でも何でも、一度その人物に成り切ってみてはじめて、その人物の考えや行動を客観的に眺めることも出来れば、描くことも出来るのだといっていた。
随筆『折々の記』の中に、六代目菊五郎の芸について書いた一章があるが、その中でもこの事に触れている。
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新聞連載中の太閤記に、明智光秀の反旗をひるがえす前を約一ヵ月余も書いているうち、私は、何となく病気になった。光秀の複雑な心理経過を、克明にたどりたどり書いているうち、私は光秀のように、毎日、鬱々と気がはれなかったのである。だから岡部素道氏に、「これを書き終れば、自然に体もからりと快くなりましょう」と云ったところ、それを伝え聞いた菊五郎氏が、手を打ッて、
「それだ。それでなくッちゃならねえ。分るよ分るよ」と、何度も大きくうなずいて、いかにも会心な笑みをたたえたという事だった。
この事を見ても、かれの至芸は、要するに成り切る≠ニいう点にあることがわかる。これは当人と直接話していたときの事だが、
「おやじ(五代目菊五郎)がね、やっぱりそれをよく云ったもんでさ。ある時、私や弟子のいるとき、ふいに、おい、松になってみナっていうんで、みんな、へんな手つきやかっこうをして、松の木になってみせたが、おやじが笑って、それじゃ薪雑っ棒にしか見えやしねえ、松は、こうサって、ちょっと姿態をした。それだけで、何だか、広重の松みたいに見えたもんだが」
と、手真似ばなしに、松の木のまねをした。私は、五代目の松の木は見なかったが、そのとき六代目が松の木になりきった瞬間を見て、その至妙におどろいた。
[#ここで字下げ終わり]
最後の作品となった『私本太平記』は、最後の章近く、主人公の足利尊氏が、父もやったことのあるヨウ[#「ヨウ」に傍点]で苦しんで死ぬが、ちょうど、その尊氏の死を書いている時、父も胸の中に育っていたガンに体を蝕まれ、次第に弱って血痰を拭きながら、苦しい文字を連ねていたかと思うと、作中人物と父との間のなにか不思議な因縁を思う。
作中に生かした尊氏に魅入られて父も死んでいった――そんな妖し気な妄想さえ、子の私の心には、浮かぶのである。
川端康成氏が、父の死後、『私本太平記』の最後の方は、読んでいても苦しそうだなと思う、という意味のことをお書きになっていたが、『私本太平記』は、まさに気力だけで書き上げたという感じである。
しかし、苦しみながらも、好きだった著作を完成させてから死んだのだから、父にとっては本望だったかも知れないと思うのである。
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[#見出し] 12 最後の家
父の最後の家となった赤坂へ移った時、私は大学二年生になっていた。
赤坂へ移ってからは、近所に同級の友人も住んでおり、そうした仲間達と六本木あたりを飲み歩く味もそろそろ覚え始めていた。
明け方近くまで飲んで帰った翌《あく》る日など、父は知っていても何もいわなかったが、今度は母の方がおっかなかった。そのころの私には、吉野村の幼年時代など、はるか遠い過去のように思えたものだったが、父を恐い恐いと思っていた吉野村のころと、おふくろの顔がおっかなく見え出したそのころの間の、今ふり返ってみると何と短く感じられることであろう。
父もこの時、六十七歳になっていたが、髪も真っ黒で房々としていたし、たまのゴルフでうっすらと日にも焼けて、昔より元気そうになったと人にも言われ、私達もそう思っていた。
髪の毛が多く黒かったから、年よりもずいぶん若く見えた。
ゴルフでは、六十歳以上になると、「シニアー」といわれ、それ以下の年の人達とは別個の競技が催されるが、軽井沢の旧コースで、シニアー競技があった時、軽井沢の町で薬局を経営している志村さんという人が、父に誘いの電話をかけてきた。
「先生、明日のシニアー、一しょにお出になりませんか」
父なら腕前も手ごろということで、白羽の矢が立ったものらしい。
「シニアー? ――。シニアーってのは、いくつからだっけ」
「六十歳以上ですから資格はありますよ」
「冗談いうない。俺はまだシニアーじゃないぞ、来年からだよ、来年から――」
真面目くさった父の返答に志村さんはびっくりしたらしく、
「いやあー、そうでしたか、そりゃー失礼しました」
と、あわてて電話を切った。
「わっはははは――。俺もまだ若く見えるらしいな」
いたずらっぽく受話器を置いてから、父は私達に電話の会話を説明しながら大笑いしていた。
軽井沢の新コースで、母と組んで出場したミックス競技に優勝したのもこのころのことだったと思う。
ミックス競技というのは、男性と女性がペアになって一個のボールを交互に打ち、二人のハンディキャップの合計の二分の一を、スコアから引いて争う競技で、新コースの毎年の夏のお祭りのような行事になっていた。
その競技に父と母のペアが優勝したのである。
「吉川さんでも、奥さんに半分打ってもらうと優勝することがあるんですね」
クラブハウスで皆にからかわれ、
「なにおー」
などと、目をむいてみせたりしていたが、父自身も予期していなかったこの優勝には、大変な上機嫌で、優勝者にくれる銀の皿を飽かずに眺めていた。
書斎の父も、まだまだ若々しかった。
『私本太平記』を連載し始めてから、「書く以外の調べる≠アとに、こんどの仕事ほど時間を食われた経験はない」と書いているように、精力的に取材旅行にも出かけていた。
父は歴史小説を書く心構えとして、「空想は、一応の史実を忠実に漁った上の発想でないと、ほんとの空想とはいえない」としていたから、正確な史料のない部分や、人物などを書く場合、どうしても実際に史蹟をめぐって、寺や旧家に残る古文書だの、合戦の行なわれた場所の地形、はてはその土地に伝わる言い伝えまでも、自分で見聞きしてこないと、なかなか筆が進まないのだった。
しかし、そうして取材して来たものや、読者や知人から好意で送られて来たものを集めても、中には、お互いに矛盾するものだとか、まったくの空白の部分は至る所に多く、三日も四日も一字も書けないということもしばしばだった。
父は書いている。
「史料は少なくない。だが史料の中に埋まってみても、南北朝史の密林は立ち暮れるばかりなのだ。ただ頼れるものは、六百年前の人間も、近代人も、ともに人間であったという事と、人間が作る社会であったという事だけだ」
時にはこの同じ人間≠ニいう立場から、古記録に疑問を投げかけてもいる。
また、『新・平家』の時でもそうだったが、人名や地名はもちろん、ある部分がその土地に残る言い伝えと相違しても、
「これはおかしい」
とか、
「これは、こう伝えられているが」
などという抗議や疑問が、たちどころに何十通と父の許へ来るのである。新聞小説だから、その反応が実に早いらしい。
しかし、父はこうした読者からの疑問や訓《おし》えを実に喜んでいて、その方が正しいと思えるものは、躊躇《ちゆうちよ》せずに、連載中にはさむ「筆間茶話」で謝って、単行本になる時点で訂正していた。その筆間茶話に、
「何百万という読者は、それ自体|即《そく》大智識≠ナあると思う。郷土の事、建築や服飾の事、風俗、植物の事など、何かしら各※[#二の字点、unicode303b]一つは作家よりも上《う》わ手《て》な智識とか専門を持っている。新聞小説はまったく恐い」
と、読者から訓《おし》えられる事の多さを述べている。
三十四年の二月、NHKの招きで、イタリア・オペラがやって来たが、驚いたことに、父はこのオペラにすっかり凝ってしまった。
そのきっかけはまったくの偶然だった。
初め私が行くつもりで、切符を買ったのだが、運悪く学校の試験に重なって行かれなくなり、父に、行きませんかというと、
「牛にひかれて善光寺参り、だな」
と、弟と二人でしぶしぶ出かけたのが最初だった。
その日の演目は「オテロ」だったが、帰って来た父は異常に興奮していた。音楽と舞台芸術の見事な融合に、オペラとはこんなに素晴しいものかとびっくりしたと言っていた。
デル・モナコのオテロもだが、とくにイヤーゴ役のゴッビが見事だったなどと、微に入り細にわたって各幕の素晴しさを説明し、留守番していた私を羨しがらせた。
それまでにも、古くはマリアン・アンダーソンから、コルトーやギーゼキング、ハイフェッツ、カラヤンなど、著名な演奏家が来ると、招聘した新聞社などから招待を頂くものだから、度々、演奏会にも行っていた父だったが、この時ほど感動していた父は見たことがなかった。
もっとも、昔、コルトーを聴いた時も、
「ピアニストでも、大げさな身ぶりの少ない人だね、琴を弾いてるみたいだな。端正っていうんだろうな」
と、父らしい評をしていたし、カラヤンがウィーン・フィル(だったと思う)を振ったブラームスの二番を聴いた時も、
「音につつまれている間、頭の中が完全に空白になったね。さっぱり洗われたって感じだ」
と溜息をついていた。
何をしている時でも、あれこれと空想にふける父だったから、これは珍しい体験だったに違いない。
しかし、この時の「オテロ」は父に、それまでの聴くだけの音楽とは違った強烈な印象を与えたらしく、それからイタリア・オペラを全部見ると言い出して、「椿姫」と「カルメン」を見た。ことにカルメンのシミオナートが気に入り、たしか二度見たと思う。大阪公演にも行くと言ったが、これは仕事に追われて果たせなかった。
「僕も、『私本太平記』でも終わって時間が出来たら、オペラを書いてみたくなったな。誰か作曲家と組んで、演出までタッチしてオペラを上演出来たら、楽しいだろうな」
などと夢をひろげるのだった。
東京に住むようになってから、映画にも時々出かけていた。覚えているものでは「ライムライト」「ローマの休日」、それからもっと後の「ウエストサイド物語」などは絶讃していた。
ただ、頭の疲れ休めに、といって見に行く映画だったが、見ていると、どうしても職業的な目で見てしまうらしかった。
「あの場面では、あの人物を出さずに、こうもってった方がいいがなあ――。惜しいなあ」
ストーリーや演出に不満のあるものを見たあとは、家に帰って来てからも、何かスッキリしないみたいだった。
その年の四月、皇太子の御成婚だった。
明治生まれの父は、小学校一年生の時終戦を迎えた私達の年代とは、やはり一つ違った次元で皇室というものを考えていて、皇太子が民間から美智子妃を迎えたということを、ことの他喜んでいた。
父はちょうどその時、『私本太平記』で、後醍醐天皇が隠岐へ島流しとなるところを書いていたが、四月一日の「筆間茶話」にこう書いている。
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平和の真価は、戦争の悲惨を書くと滲み出て来る。今日の皇室の姿は、かつての天皇や皇子が践《ふ》まれた茨《いばら》を振りむいてみる事で、そのご幸福さも一ばい切実に思わずにいられない。
|稀※[#二の字点、unicode303b]《たまたま》、現皇太子の御盛事のさなかに、後醍醐やらまたその二皇子の悲惨な流離を書くなど、まことに皮肉には似るが、古今をながめ較べて、それが読者のむねに何かの答えを持つならば歴史は今日に生かされたことになる。
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皇室といえば、『新・平家物語』や『私本太平記』を読んで、ある時私が、
「随筆の中などならともかく、小説の中の地の文でまで、何百年も前の天皇の言動に、敬語を使ってあるのが、僕らは読んでいて、何かひっかかるんですがねえ」
と訊《き》いたことがあった。
父は難しい顔をして、
「そうかあ、そうかなあ、僕は逆にああ書かないとひっかかるんだよ。やっぱり違うんだなあ」と考え込んでいた。
翌三十五年の十一月、父は文化勲章を受章した。
授章が内定した時、発表に先だって小林秀雄氏が赤坂に訪ねて来られ、父にその旨告げた。
父は昭和三十年に、紫綬褒章の受章を辞退したことがあったので、文化勲章に際して、わざわざ小林氏が父の意向を打診しにいらしたらしい。
小林氏からそれを聞くと父は、
「まだ自分は受章に値する仕事をしていないから」
と、お断わりしたらしい。
そして、小林氏と二人の席に母を呼び、
「こういうお話だが、お前はどう思う」
と、母の考えを訊いたという。
母も、父がお断わりするつもりなら別に異存はない、という意味のことを述べ、一度はやはり、お断わりしようということになった。
しかし、小林氏に、
「吉川さん、あなたは読者の多い方だ、あなたが受章されたら読者が喜びますよ」
と、重ねてさとされ、
父も、
「読者から頂く勲章なら」と折れて、受章が決まった。
授章が発表されると、とたんに我が家は、報道陣や、お祝いの客でごった返し、父も連日百人以上の客の応接にいとまがなかった。NHKの「ここに鐘は鳴る」に出演したのもこの時だった。
その模様を父は書いている。
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過日の文化の日≠中心に、前後二十日余りほとんど机におちつくまもなかった。テレビ、ラジオ、対談、講演依頼などは、日頃、この長篇仕事の終るまではと、一切あやまっていたのである。そこへあの発表だった。一時にどっとみそかの勘定書《つけ》を持って来られたようなハメになり、ままよと自分も八方破れを取ッて、マスコミのどんな求めにでも応じてしまった。ひとつには、このたびの受賞は、読者から贈られたものとしての気持ちでも頂く、と言ったてまえ、読者へお答えする義務も感じていたからである。
NHKのここに鐘は鳴る≠フ番組へも、この春頃から、ぜひにと、すすめられてはいたが、あやまり通していたのである。自分の『忘れ残りの記』にもあるように、社会の敗北者であった両親の面影などをさらすのは不孝児がまた不孝をかさねるようなものでしかないと独り決めしていたからだった。だがこれもタレントに出る仕儀となり、十一月三日の宮中授章式の終った夕、さて、迎えの車で局へ出かけようとすると、折ふし小宅に集まって飲んでいた友人三、四十人のいる中で、永井龍男氏が例の諧謔《かいぎやく》口調で「みなさん、あとでテレビをさかなに拝見していましょう。きっと今夜の吉川さんもステージで泣きますからね」と、前ぶれを披露した。私は言下に「泣くもんか」と、笑った。自信はなかったがそう言った。すると永井氏は「いや、きっと泣く。賭けをしてもいい」と、ひどく力《りき》んで「あの番組へ出ると誰でも泣くんだ。あれは鐘は鳴る≠ナはなくッて――ここに彼は泣く――という番組なんですからね」と、いかにも、唾《つば》にくるまれた上等なコニャックが喉から落ちて胸におさまったような顔して言った。かくて彼らのオサカナになった当夜の私は、やはりステージでは「永井め、永井め」と思いながらもつい何度かは瞼《まぶた》のへんがおかしくなった。
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私もテレビを見ていたが、初めて見る紋付姿の父が、テレビの画面の中で、小さく小さく見え、何だか痛々しい感じがしたのを覚えている。
最初、小林氏からお話があった時、一度は辞退した父だったが、授章が発表されると、出かけようとする時でも、家の前を通りかかる見ず知らずの人が、玄関口の父を見つけて、
「おめでとうございます」
と、大きな声をかけてくださったり、一般の読者の方々からの千数百通にのぼる祝電の山を見るにつけ、父も母に、
「文子、やっぱりもらってよかったな」と言ったという。
中でも父を感激させたのは、ある日送られて来た二箱のピースである。
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私が煙草好きだというのを随筆か何かで知ってのことか。ピース二箱(二十個)をお祝いにと郵送してきたひともある。この一読者は中野区の某印刷所で鉛版工をしているという十八歳の少年だった。用箋二十数枚の読書感想の末に「ぼくの働いた金でぼくの気持です。どうぞ、どうぞ」と結んであった。その手紙を書くにも工員宿舎で寝る前の少時間を一週間もかかって書いたといってある。私はそのピース一本をさっそくいただいてすいながらつい涙が出てこまった。
[#ここで字下げ終わり]
そのピースの味に、父は、本当に読者から贈られた賞≠実感したのではあるまいか。
文化勲章の嵐が去った後、父の疲れ方は、私達の眉をひそめさせた。
すでに受章前から、パーティーなどで急に気分が悪くなり、途中で抜け出して帰って来ることがあったりして、やや健康のすぐれなかった父だったが、何をしても、すぐに、疲れた疲れたと言うようになったのは、このころからだった。たった一年前にはないことだった。
昭和三十五年も暮れようとしていた。
[#小見出し] 父と妹たち
文化勲章の年には、妹の曙美も大学一年生になっていた。
私が慶応、弟の英穂が成蹊、そして曙美が日本女子大と、皆大学生になり、一人、末の香屋子だけがポツンと小学生で、まだ父の膝に甘えていた。
自然、我が家では、香屋子だけは別格の存在で、自由気儘に家の中をとびまわって家中を明るくしていて、父も、私達の子供のころにしたように香屋子を大声で叱るということは、一度としてなかった。
母も、
「家中で、雷を落とされたことがないのは、香屋子だけね」
などと笑ったものだった。
父が書斎にいる時でも、応接間で客と話をしている時でも、学校から帰ると時と所を選ばず、バタバタと駆け込んでいって父に笑顔で酬われるのも香屋子だけだったし、父と用談中の池島信平氏の頭に手のり[#「手のり」に傍点]文鳥をのせて、
「あっ、やっぱりすべった。池島さんの頭じゃ蠅でもすべりそうね」
などと、このマスコミの大物を苦笑させたりする芸当も、香屋子にだけしか出来ない特技だった。
また、某社のI氏が我が家を辞して帰るのを、門の陰から覗き見ていて、
「パパ、Iさんたらね、あんなまじめくさった顔をして帰っていったのに、家を出たら、すぐそこの電信柱にオシッコしてんの」
などと、父に言いつけて、次に来た時のI氏に、
「悪い人に見られたなあ」
と、頭をかかせたりするのも香屋子で、家族ばかりでなく、家に来る編集者の方々からも、「香屋子ちゃん、香屋子ちゃん」と可愛がられていた。
編集者の方々も、二、三度家へ来ると、この香屋子という父の弱点を敏感に感じとり、二階から降りて来た父の顔つきの雲行きが怪しいとみるや、
「時に、香屋子さんはお可愛いでしょうね」
などと、香屋子の話題から入ると、父の表情が和むのを知って、こうしたダシ[#「ダシ」に傍点]にも香屋子はずいぶん使われたようだった。
「香屋子は、僕が可愛がるというより、あれ[#「あれ」に傍点]を見ていると、逆に僕の方が慰められるんだよ」
父はそう言って、香屋子にはやかましいことを言わなかったが、これが上の曙美となると、やや趣が違っていた。
曙美に対する父の教育は、私や英穂――つまり男の子に対するそれともはっきり区別していた。
私達兄弟には、子供のころこそ、平手打ちを食わせたり、縛り上げたり、厳しかった父だったが、私達が中学、高校と成長するにつれ、
「男の子は、ほっとけほっとけ」
と、細かい事には口を出さず、むしろ、母の方が、
「お父様は甘いから」
と、父の男の子に対する放任主義に、ヤキモキしている節も見えた。
しかし、私達兄弟にしてみれば、幼いころ骨身にしみた父というものは、いくつになっても意識の底に残っていて、そういう風に放ったらかされても、鎖を解かれた飼い犬が庭から外へは出られないように、父が無言で示す規矩《きく》の外へ踏み出すことはなかった。犬ではないから、父の考え方というものも、長ずるに従って私なりに理解していたつもりだし、高校や大学時代の、誰でも一度は通る、ともすれば脇道へそれがちな危険な年ごろには、かなり悪遊びもしたものだったが、もう一歩というところで、その意識の底にある父≠ニいう塀にぶつかり、ひきもどされて、父が考え、私なりに理解していた人間≠ニいう庭の枠からとび出さずに過ごして来たのだとも思う。
男の子には、こうして、
「どうかなったら、またその時のこと」
と、遠くから見守っているような態度をとっていたものの、女の子の曙美には、そうも言っていられなかったらしい。
むろん、曙美に対しては、小さい時でも、私達にしたような体罰は加えなかったが、その代わり、大きくなってからでも、曙美には厳しかった。
これは、中学生の時だったが、曙美が一時、バレエを習いたいといっていた時期があった。
「お父さまにきいてごらんなさい」
母に言われて、ウキウキと書斎へ行った。
「バカモノーッ。男にケツを持ち上げられて、どこがいいんだっ」
窓ガラスが、ビリビリ震えるような大声が父の返事だった。
曙美は、ワンワン泣いて階下へ戻って来たが、それでもバレエはよっぽどやりたかったらしく、二、三日して、機嫌がよさそうだと見たのか、また、父のところへ行った。
「何度いったらわかるんだっ」
前にも増した父の剣幕に、大きな独楽《こま》にはじきとばされた小さな独楽みたいに階段を駆け降りて来て、手放しでオイオイ泣いている妹を見て、私と弟はゲラゲラ笑ったものだった。
しかし私は、ボリショイ・バレエなども見に行って、
「なかなか、いいもんだねえ」
などと感心していた父を知っていたから、バレエを習いたいといったぐらいで、そんなに血相変えて怒る父を見て、ちょっと意外だった。
芸術としては認めていながらも、いざ自分の娘が、高々と足を上げたり、男性舞踊家に体を触れられたりするのは、考えただけでも虫酸が走る気がしたのだろう。仮に曙美が日本舞踊を習いたいと言ったのなら、父は怒りはしなかったろうと思う。
明治生まれの、古風で頑固な父がそこにいた。
古風と言えば、父は曙美を「夫にかしずき、家を守る」という、いわゆる古風な、日本風な女、いってみれば、自分の妻、つまり母のように育てたかったのだと思う。
母にしても、若いころ、かなり年の違う父に嫁いで、いわば、父に育てられた♀エじである。母を自分の理想どおりに教育した父が、その娘を母のように育てようと考えるのはわかる気がする。
あけみはいくつ十七と
母がこたへぬ 矢がすりに
西陣帯のよそほひは
母のむすめの頃もしのばる
何かの折、仕立て卸しの矢絣を着た曙美を見て、父が即興的に書いた歌である。
だから曙美に対しては、女としての行儀作法、立居振舞に至る細かいことまで、何くれとなく注意した。
髪型は、ボサボサしているのが嫌いだった。
曙美は言う。
「そんなボサボサじゃなくても、とにかく、耳を出してないといやなのね。よく叱られたわ、キリッとしてないと――。着るもんだってうるさかったわよ。カーディガンって、ほら、こう羽織るでしょ、一回、あたしが、カーディガンのボタンをはずして着ていたら、お父さまったら、カエルが腹出してるみたいだって怒るのよ、失礼しちゃうわね、お腹出してるわけじゃないのに――。これはこういうものだっていったってきかないのよ、ちゃんとボタンをかけなきゃだめだって――」
曙美は、父の姿を見かけると、あわててボタンをかけるのが反射的な動作にまでなっていたという。
スカートも短いのが嫌いで、長めに、長めに、と口癖のように言っていた。
「あたしの学校時代の写真があるでしょ、それを見ると、お友達の足は皆写っているのに、あたしだけ、スカートが写真の下まであって足が見えないのよ。はずかしかったわよねえー」
妹は今でも口をとんがらせる。
なるほど、その写真を見ると、妹だけ、セーラー服のスカートのところで写真が切れている。足が見えない。私は、香屋子が今はいている超ミニを見たら、父がどんな顔をするかと思わずふき出した。
その曙美は、父の肺ガンの手術後、死ぬ七カ月前に、当時講談社の「日本」の編集にいて父の担当をしていた賀来《かく》寿一と二十歳で結婚したが、婚約と決まると、父の妻としての教育≠煦齣w実際的なものとなった。
「最後に叱られたの? ――そうねえ、病院でだったわ」
父が手術後の入院中、母はもちろんつきっきりだったが、曙美もよく泊まり込んで看病していたし、婚約中の賀来も、社の仕事の合い間をみては、父の病室の続き部屋に泊まって父の容態を心配してくれていた。
その時のこと――。
ある朝、曙美が、前の晩の明け方までの看病に疲れて、隣の部屋から起きて来た賀来よりもおくれて父の枕頭に顔を出した。
その時父は、「すごく恐い顔」で曙美を見据え、
「お前は賀来君と結婚するんだぞ、亭主より遅く起きて来る女房がどこにあるッ」
やせ衰えた胸に寝巻きの襟を正して叱ったという。
父の目には、息子も娘も、いつまでも子供に見えたらしく、曙美が結婚してからも、心配で仕様がなかったらしい。
父が一回目の入院から退院して一時小康を得、再び悪くなる前の話だが――。
結婚してから初めて、賀来が出張することになった。
「賀来君は何時に発つんだい」
父は、その前から、それとなく娘婿の出張について、母や曙美に訊ねていたが、その朝六時ごろ、あわただしい朝食を済ませて出かける賀来を、曙美が送り出して、アパートの出口まで降りてくると、まだ人通りの少ないアパートの前の歩道に、父と母が立っていたという。
「ホントにびっくりしたわ。まだ身体もほんとじゃないのにと思って涙も出た――。あのころは、あたし、まだホヤホヤだったでしょ、起き抜けだったけど、髪もきちんとしていたし、薄くお化粧もしていたからよかった――。今見られたら、また、おこられるかナ。――」
三児の母となっている曙美は、そう冗談めかして髪に手をやる。
「でも、あたしが結婚してからは、短い間だったけど、ホントにやさしかったわねえ」
父は、その時、そこで賀来を見送り、帰りの車の中で、
「子供だと思っていたけど、曙美もよくやってるな、安心したよ」
母に向かってそう呟いたそうである。
「男は男らしく、女は女らしくなきゃいかん」
そう言っていた父だったが、香屋子については、
「咲くように咲かせてみようじゃないか、一人ぐらい、いいだろう」
と言っていた。
その香屋子も、父の死後、母の手にのびのびと育ち、もう結婚している。
[#改ページ]
[#見出し] 13 昭和三十六年
「一月、恒例の元旦をすまして三日以後の数日間を川奈ホテルに送る。これも近年の慣例となりて十年に近し。連載の『私本太平記』四年目にはいり、湊川を中心に史蹟歩きの要を痛感するも、雑忙容易に腰を上げ得ず、二月に入るや嶋中事件を聞き、中旬には友人村松梢風、下中弥三郎氏の訃に会す」
父の年譜である。
この年も例年のごとく、我が家の一年は三日の川奈行きから始まった。
三月には、私は大学を卒業することになっていて、就職もすでにNHKに決まっていた。
NHKに入れば、当然三、四年は地方勤務だから、家族揃って毎年の行事としていたこの川奈行きも、私だけは「今年が最後」と思っていたし、父も、
「英明には最後の川奈だな。まあ存分に遊んでおけ」
と、肩をたたいてくれた。
しかし、私ばかりでなく、家族全員にとっても、これが最後の川奈行きになるとは、この時、誰も思いもしなかった。
川奈には何日逗留したろうか――。
父は、以前のように、2ラウンドは出来なかったが、それでも連日、暖かいうちの1ラウンドを母と共に楽しんだ。
この年の川奈で、父と花札をやったのも思い出す。
夕食後、ホテルの部屋で、ベッドの上に「場」を作り、父と私がベッドの上にあぐらをかいて、母と弟は両脇に椅子を置いた。八八《はちはち》をやった。
毎晩、十二時近くまで花札に興じた。
無事な父を中心に家族全員が集まったのは、この時が最後だった。
私は、父より一日か、二日先に東京へ帰った。帰る朝、挨拶すると、
「誰かさんが東京で待ってるのか」
そう冗談を言って笑ったが、ちょっと淋しそうだった。
曙美に結婚の申し込みがあったのは、このころだった。賀来は、そのことを言おうとして、この時の川奈にも来たが、言いそびれ、東京へ帰ってから赤坂の家で改めて父に会っている。
「曙美さんを私にください」
率直に、そう切り込んだという。
曙美はその時、まだ大学の二年生。本人が何というか。
曙美の意向をただした上、二人の交際が始まった。
父の年譜――。
「三月十七日、特急こだまにて宿題の取材旅行に立つ。思うことありてこのたびは長女の曙美を妻とともに伴う。途中、名古屋に下車、杉本氏と狩野近雄氏を加え自ら車にて途次の史蹟を訪いつつ夜京都に着く。以後数日、丹波の山間より神戸地方を遍歴、ふたたび京都に帰り、東映にて撮影中の『宮本武蔵』の進行ぶりを見、その朝、千家にて朝粥の馳走を受け、同日帰京。帰宅後、数日間、風邪ごこちに臥床、このころより机忙おりおりに疲労を覚ゆ」
この時を回顧した曙美の手記――。
[#ここから1字下げ]
「『あけみ、お前も行くかい』
例の口調で私に話しかけたのは、私本太平記の取材旅行一週間程前のことであったろうか。父との長い旅は、小学五年生の京都旅行以来の事なので、私は飛び上る程嬉しかった。
ちょうど私に結婚の話が持ちあがっていたので、父の気持は私の心に痛い程ひびいた。
四日間の旅の間中、私は小さな子供時代にかえったように父母を独占していた。夜は十数年振りで父母に囲まれて床についた。が、昼間の取材の最中――安国寺で上杉清子の手紙を食い入るように見る時――とばされそうに風の強い会下山で地形調べをしている時――そんな時の父の眼は、書斎で見るあのギョロッとした厳しいものに戻っていた。
一つの取材を終え、母と三人車に戻ると、父は又妙に子供っぽいところを見せ、走っている車の窓から、どうしても茹で卵のカラを捨てると言い張って、母と私を困らせ、その困惑ぶりを楽しんでいるようないたずらっぽさもあった。
『二十日の朝、今日は快晴、八時風呂に入る。曙美ぐっすり春眠暁を知らずのてい、おでこを二ツ三ツぴしゃぴしゃ叩いておこす。一しょに御風呂に入る。九時、前夜の約束に依りて千家へ』――浅春京日記より――
私達は朝粥を御馳走になり、初めていただく京の口ざわりを、
『うまいものだろう……』
と父は自分の事のように自慢しながら口に運んでいた。
黒地に梅模様の、それは美しい光琳写しの永楽のお茶碗で美味しいお抹茶を頂戴し、楽しい一時を過させていただいた。
帰りがけ、先程のお茶碗を御土産に……といただき、私はすっかり有頂天になっていた。
今や小さい三人の子供達に囲まれ、もし割られると……とこれは大切に物入れの奥深くにしまいこんでしまったが、年に一度か二度、ごくたまにこれを取り出し、そっとお茶をたてる時、その香りは、父の眼、父のいたずらっぽさ、母との睦じさ、父との最後の旅になってしまったこの私本太平記の旅につながる。
『三時のコダマなれば宿へ急いで帰る。宿に香屋子におみやげの反物来ている。ついでに曙美にも一反ふんぱつする。文子のあまいのニハ閉口ナリ』――浅春京日記より――
母にまけぬ位、晩年文字通り子供にあまかった父……、はてしない思い出を私のもとに運んでくるのである」
[#ここで字下げ終わり]
父はこの後、四月に京都へ講演旅行に行った際にも曙美を連れていっている。
間もなく嫁にやる、という父親の感懐から、一時でも多く、曙美との時間を持ちたかったに違いない。
三月の末、私は慶応義塾大学法学部を卒業した。
卒業式から帰ると、まっすぐ父の書斎へ行き、卒業証書を見せた。
「まずはおめでとう――。お前もいよいよ社会へ出るか――」
卒業証書を巻き終えると父はそういって、下を向いて時間をかけて煙草に火をつけた。母も私の横へ来て坐っていた。
「文子、お茶をくれ」
母のたてる抹茶を、父と二人で黙って飲んだ。
学生服の詰め襟がきつく、カラーが喉に痛かった。
年譜――。
「四月、長男英明、初めて就職、NHKの大阪勤務と内定する。二十二日より丹羽文雄氏と同行京都へ行く。その夜、京都公会堂にて親鸞七百年忌記念講演の責を果す。翌二十三日、大阪読売の三田に近き山岳コースにて丹羽、原氏らと終日プレー。夜、芦屋の播半に泊まる。帰京後下痢、疲労はなはだし」
「NHKの大阪勤務に内定」とあるが、実際は、まだ、赴任先は決まっていなかった。
新入職員としての研修が四月一日から始まった。「火事の取材」、「交通事故の取材」、「コロシ[#「コロシ」に傍点]の取材」、そして記事の書き方――。連日、そんな事を勉強した。「タタキ[#「タタキ」に傍点]」だとか「コロシ[#「コロシ」に傍点]」だとか、それまで、小説の中か、テレビの画面で知っていたそんな言葉が、これからの自分の職場で生きた言葉として使われているのをみて興奮した。講師として来る先輩記者の、生の取材体験談も、記憶にある新聞の社会面を賑した凶悪な犯人や、大事故の悲惨な犠牲者の像に血を通わせ、これからの仕事に対する意欲をかきたてるに充分だった。
父に研修の模様を話すと、
「いい職場を選んだな、社会を広く見るにはうってつけの場所だ」
と、それだけ言った。私の就職に際しても、どういう職種を選べとか、どこの会社へ行けなどと、一切指図がましい事は言わなかった父だったが、私の話を聞くと、それだけ言った。
年譜――。
「五月、大阪仏教青年会のために十日より大阪に赴き、講演の約を果し、即日帰京。翌十二日、東宮御所のお招きにて茶話の御席に列す。川端康成、佐藤春夫、五島茂、美代子氏など同席さる。十三日、西郷、原の両家の結婚にてお媒人役をつとめる。疲労深し」
私は、NHKの新人研修の一環として、一ヵ月の予定で甲府支局へまわされた。ここでは記者としての研修ばかりでなく、集金、録音、カメラなど、NHKの業務全般にわたって見習った。同期生と二人一組みになって、山梨の農村を集金にまわるうち、二人とも若すぎて、にせものと間違えられたのには閉口した。
甲府から父に手紙を書いた。返事はなかったが、電話をした時には、電話口まで降りて来た。
「やってるらしいな」
父の声も弾んでいた。
年譜――。
「六月、前進座上演の『新・平家物語』の脚本に不備あるため、自身これを書き改め、ために七日、八日を通して徹夜し、九日深夜の舞台稽古にもまた立ち会う。二十日、保土ケ谷にて毎日新聞主催の文壇ゴルフに参加、アウト8番にて気分すぐれず落伍する。そうそう帰宅、石井医師の来診を受け、やや小康を得る」
私は、甲府から東京へ帰ったが、まだ研修期間が続いていた。
病み上がりの体で徹夜し、戯曲を書き上げる父を見て、父が自分の身体を自ら苛《さいな》んでいるように見えた。男の仕事というのはこういうものか、とも、この時ふと思った。
しかし、ゴルフを途中でやめるほど弱くなった父を見ると、父の肉体の老いをひしひしと感じ、それが気がかりだった。
「身体は大切に――」
とは、父の顔を見るたびに私も言ったが、私と話している時の父は、強いて明るい笑顔を作ってみせた。
「俺はまだまだこれからだ。お前こそ、地方へ行ったら一人だぞ、食い物に気をつけろ、野菜を食えよ」
そういう時の父は表面元気そうに見えた。
しかし、このころのそんな父の笑顔には、はり[#「はり」に傍点]のある若々しい笑い声とはうらはらな、何かが――私の胸の奥のほうにあるかたまり[#「かたまり」に傍点]をつかんではなさない何かが――、潜んでいた。その時は私はそれを、私が間もなくどこか遠い所へ赴任して、お互いにしばらくは会えなくなるという、父の、そして私自身の単なる感傷かと思っていた。
それもあったろう。しかしそればかりではなかった。
それは、私がそのころの父に感じていた痛々しい≠ニいう感情だという事が、父が死んでからわかった。
六月の末、私の赴任地が決まった。大阪だった。まだ新幹線はなかったが、
「大阪なら、たまには帰れるじゃないか」
父は、私を元気づけるつもりで言ったが、自分を元気づけているようにも聞こえた。
年譜――。
「七月、長男英明、四日、大阪NHKに勤務のため初めて赴任。書斎は例年のごとく、この月十日より軽井沢へ移す」
私が大阪へ赴任する日、父は東京駅まで送りに行くと言い出した。私は極力とめた。原稿もあるし、身体もよくないし――。
しかし、父は頑固だった。
「僕の体は僕が知っている。初めての赴任地へ向かう息子を送るんだ。これは、親の義務として行くんだ」
そう言って送って来た。
東京駅で車から降りる時も、
「もう、ここまでで――」
と、再びとどめたが、父はとうとう、東海道線のプラットホームまで母と二人で上って来た。私の学生時代の友人も多勢来ていた。
友人達が、仲間を駅で見送る時特有のはしゃぎ方で、冗談を言い合っている中で、母は少し淋しそうだったが、父は無表情だった。
――ガッタン。ゆっくりと電車が動き出した。私はドアの所に立って、汚れた窓ガラスを通してホームを見ていた。
母が手をふった。友人達も大声を上げて手を振った。父は両手を後手に組んで私の眼を見ていた。顔は依然無表情のままだったが、その眼の奥に動くものがあった。
友人達の打ちふる手の間から、背の低い父の顔が見えかくれしていた。その顔がだんだん小さく遠くなった。
大阪へ着き、翌日、同期生十人ばかり、局の玄関で集合して恐る恐る報道部へ出頭した。歓迎されるものと思っていたが、皆忙しそうで全然素っ気ない。報道部長に挨拶に行った。部長の前に全員並ばされ、まず大喝一声、怒鳴られた。
「貴様ら、何してたッ、東京の研修で何を教わってきたか」
来るのが遅いというのである。赴任の辞令を受けとったら、少なくとも二日後には任地に着任しなければ、報道人として失格だとどなられた。部長は当時、NHKでも名高い鬼部長だった。
ゾロゾロと部長の前を退りながら、みんな顔を見合わせ、舌を出し合った。正直いってびっくりした。
赴任はしたものの、まだ住む所が決まっていなかった。私は取り敢《あ》えず大学時代の長野という友人の家に転がり込んだ。この家に一ヵ月お世話になってしまった。
初めはサツ[#「サツ」に傍点]回りだと思っていたが、私と同期生二人、大阪府警本部回りということになった。交通部が担当だったが、事件や事故があると先輩記者の尻についてとび出した。はりのある毎日だった。しかし、大阪は暑かった。東京より蒸し暑かった。皆軽井沢にいるんだろうな、と時々思った。
年譜――。
「八月、例年になく、ここでも健康は依然思わしからず、夜々、烈しい咳痰に悩まされて睡眠も浅く、異状ただならぬ容体をひそかに思う。しかし、恒例の小生の誕生日ゴルフの前夜祭には、来会者五十五名、新しいゲストには川端康成、壼井栄氏らも加わり、初会以来出張のきかく寿司≠フ主人もほとんど用意の寿司米の最後の一握りまで握り尽す。下旬、東京より懇意のH医師来遊。幸いに、診察を乞い、また採血を託して、以後の診断を待つ。沙汰なし。このころより咳痰に血線を見る」
八月の初め、大阪西成区の釜ケ崎で暴動がおこった。釜ケ崎の労務者が車にはねられ、警察官の事故処理の仕方が、被害者をないがしろにしていると、労務者達が騒ぎ出したのに端を発していた。怒り狂った群衆に、車や交番が次々と焼き打ちされ、警官の中に重傷者も出た。赴任して初めての大事件だった。その少し前にも、釜ケ崎を管轄する西成警察署に、深夜、頭のおかしい十七歳の少年が、日本刀をかざして切り込んだという事件もあり、その事件を取材した私は、「釜ケ崎という所は、そのうち、何か大きな事件がおこりそうな所です」
と、父への手紙にも書いたことがあった。
釜ケ崎の暴動は、四日ばかり続いたと思う。その間、私達は西成警察署に泊まりづめだった。真夏のこととて、シャツやズボンも汗と泥にまみれて臭かった。
「オイ、気をつけろよ、労務者と間違えられて、機動隊になぐられるぞ」
サツ[#「サツ」に傍点]の次長席かなにかに、足を投げ出して身体を休めている先輩記者の、くわえ煙草の声を背中に聞いて、夜の雑感≠書きに署の玄関を出て行く駆け出し≠フ私だった。
事件の最後の晩、警官の実力行使が始まると、私もヘルメットをかぶって装甲車の横を並んで駆けた。
大小の石がゴロゴロ飛んできた。顔をおさえて倒れる警官もいたし、数日の間、石に当たって倒れる仲間を横目に見ながら、手を出せずに歯を食いしばっていた若い機動隊員の棒も、鎖を解かれた猛獣のように暗闇の群衆の頭上を襲った。西成署の床は、警官達が襟首をつかんでひきずって来た怪我人の汗と血で、みる間にまみれた。
静かになった翌る日の早朝、人気のない道路に散乱する、下駄、地下足袋、警棒の折れ端などが朝露に濡れて悲し気だった。
この事件の直後、軽井沢から父は手紙をくれた。
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[#地付き]八月七日朝 かる井沢の机にて
[#地付き]英 治
吉川英明様
昨日(六日)の日曜はさだめし久しぶりに寝てよう日≠やつているだらうと、みんなで噂していたよ。何かといへば君の噂だが、然し大いに安心はしています。ひよつとしたら昨日あたりは、もう長野君の家を辞して、新らしい方へ引つ越したかなとおもつている。
なにしろいい経験をしたなア、一昨夜も池島信平が来てぼくも出来ることなら英明君と一しよに取材に馳けずり廻つてみたかつたといつていた。けれど実際はたいへんだつたらう。ニユースなんてものはもう傍観桟敷のシヨーになつてしまつているものだが、君がぶつかつたのは生々しい現実の人間本性の一面だ。ひと事ぢやあなく、どんな紳士の内部にも、人類のうちにはまだ同様な本能が潜在してるんだね。この夏、一スウエーデン人の『私の父は人食人種』といふのを読んだが、すぐ、釜ケ崎を思ひ合せたな。ところで、大阪へ行つてから山梨ぶとりを逆にすこし瘠せて来ているんぢやないか、外食依存となつたら、食物の栄養調節をよほど気をつけないと、長い間にとりかへしのつかない変質になりやすいぞ。諸道具揃つたか? おふくろさん、おばちやん、あけみ、のべつそんなことまで心配している。
ことしのぼくの例の誕生日の会、一日早くくり上げて十日の晩にやる、十一日プレーでね。また当夜はいつも以上賑やからしいよ。文子からぼくの寸祝を送らせるから十日の晩、君も、そつちで一杯飲んでくれ、友達でも連れてね。ぼくの毎日紙上の仕事もつい/\のびているが来月頃は終えられるだらう。そしたらまず健康調節に入りながら、大いに遊ぶよ。いちど京阪へも文子をつれて行きたいとおもつている。大阪で久しぶり親子対面なんかもわるくあるまい。なにしろ元気でやつていてくれるのが何よりありがたい。少々君を見直したよ。長野さんのお宅へは蔭ながら、ぼくもたいへん感謝している。君が引つ越したらさしづめお礼状でも出しておいて、他日、ほんとのお礼には、心を尽したいとおもつている。くれ/″\それまではよろしく申上げておいてくれ。
ことしは、君が欠けているので、ベランダの朝夕もたいへんさびしい。ほう助の客としては、三公先生がいま泊つているだけだ。今日も下手なテニスヘ、意気揚々と、出かけて行つた。
香屋子が、君のことを、蔭で何かにつけて思つている姿はたいへんなものだ。可愛いゝもんだな、姉妹兄弟なんてものを、親の目でみていると、離れ合つたときに、ほんとの愛情をそく/\と醸し出している。「大阪」といふ地名が何しろ近頃では、うちの家庭にとつて、おそろしく身近なものになつて来てるよ。なにか不自由なもの、又希望のものがあつたらおふくろに言つて来いよ。さうやせがまんするにもあたらない。先頃須磨へ行つて神戸でうまいビフテキに巡り合つたよし、大祝々々。けちなサラリーマンたいぷ、すがれた記者臭、わるずれた報道人型、そんなたいぷにとつつかれるなよ。吉川英明であつてくれよ。ならうなら美い鏡を一面買つて、毎朝自分の顔の笑顔を見ることになどしては如何? イヤよけいなことだな。
[#地付き]拝具
[#ここで字下げ終わり]
父の手紙と別便で母から送られてきた父の志で、十日の晩、私は一人飲んだ。そのころ流行っていたドドンパのリズムにまじって、軽井沢の父の書斎で誕生を祝う人々のさんざめきが聞えていた。
年譜――。
「九月、『私本太平記』の完結、あといくばくもなし。一日一回の稿も、ようやく心身を削るの思いをなす。厠に立ちては中二階の階段をはうて机に戻るの有様に至る。血痰も日ごとに濃く、疲労はなはだし。頃来《さきごろ》ハーフのコースもついに回りがたくなり、食欲、体重、すべて減る」
九月に入ってまもなくのころだった。所用で大阪に来た秘書の矢野氏から、記者クラブに電話がかかり呼び出された。
矢野氏の暗い表情は、電話で呼び出しを受けてから私の内に在り続けた不安を裏づけていた。
「英明さん、先生がすごく悪いんです」
矢野氏自身も病気であるかのような青い顔をして、そう陰鬱に切り出した。
「あの軽井沢の中二階の階段も、お一人じゃ上れないくらいなんです。僕は――ガンじゃないかと――。毎日の松本さんともそう言って心配してるんです。だけど、お母さまにこんな事、僕の推量だけで軽率に申し上げていいかどうか――、H先生は診察した後、何も言ってこないし、とにかく医者に見せなきゃと松本さんとも悩んでいるんですが、先生はお仕事をやめようとしないんです」
その前に、その毎日新聞の松本昭氏にも会って、父が『私本太平記』を終わったら、心機一転、断食をするといっているということも聞いていた私は、まさかガンじゃないかとは書けなかったが、くれぐれも無理をしないで養生するよう父に手紙を書いた。
折り返し、父から二度目の手紙が来た。私がもらった最後の手紙となった。
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[#地付き]九月一日夕
[#地付き]英 治
吉川英明君
いくら大阪でももう涼しい日もあるだらう、こちらの朝夕は寒いんだよ。羽織火鉢さ。人もすつかり減つてしまつた。この間あけみの友達だといふ仏蘭西系の混血少女が英穂へ電話をかけて来たが英穂がいない。あけみが出たら、あらあけみちやんどういゝボーイフレンド出来た? あけみ「そんなもの出来やしないわよ」するとその女の子(十五歳のよし)が響きに応じるやうに言つたさうだ「さうね、ことしはいゝの来てないからネ」つて。笑つたよこれには。下馬評には、この来テナイうちには英明もふくんでいるんだといふ事だつたがどうかね。ゴルフ場でもよく英明ちやんはつて訊く娘があるよ。おやぢに訊く手はないだらう。然し、訊かれるとやつぱりぼくにしても悪くもないナ。おふくろなどはまるで自慢だよ。NHKのかけ出しである息子を自慢するやつもないもんだが。
英穂は昨日帰り、あしたは香屋子、おばちやんがひき上げる。書斎は机と老妻とコホロギだけのものになる。例年だがね。やはり淋しい。
さうさう、賀来君とあけみ、この夏はよくおたがひに青春を愉んで行楽、さゝめごと、何かと暮していたが、いよいよあけみも考え考えたすえ、賀来君に将来の誓言をさゝげたらしい。らしいぢやない、しました。君もよろこんでやつてくれ。充分小生ら夫妻もふたりの将来に信頼している。
あれで、なか/\きゝほぢつてみるとあけみは考へぶかいやつだよ、驚くべき思慮を今度は親ながら発見した。親つて分つているとうぬ惚れながら分らないんだナ。君もまた将来において、親の分らなさ加減を余りにびツくりさせてくれるなよ。少しづゝ分らせておいてくれ。いつか毎日の松本君と会つて、そしてぼくの健康上でちよつと心配させたらしいが、ここ順次に体力気分とも回復、まずまず安心してくれ給へ。断食決意がやらないうちに広まつてしまつて弱つたよ。充分に考慮善処いたします。なにしても大丈夫だよ、さうそゝつかしい事なんかするものか。ただ此頃は午後のハーフもめツたにプレーしていないので、かあいさうなのは文子だよ。コースへ出たいだらうが、ぼくが行かないと決して誘はれても出かけない。あんまり貞女でありすぎるのも良人としてふびんで、いとしくつて少々つらいものだよ。君は不貞女を選ぶかね。
仕事の方少しは馴れたかい。馴れたと思ふと又べつな苦労気づかひも生じるものだ。然しおよそ君の噂の出るばあい誰でも言つていることはじつによい人生修業になりますなあと言ふことで、これは子を持つている親ほど同感しているらしい。それでも当人がやらなければそれ迄だからな。それを君のばあいはすゝんでやつてくれていると思ふと、親心感謝にたえない。
秋ぐち腹をこはすなよ。LPをおくこと、単なる慰安だけでなく賛成だ。おふくろはぼくを甘いと言ひぼくはおふくろを甘いと言ふ。そのうちいくらか送るだらう。余つたら洗濯賃にでも廻せよ。サルマタは自分で洗たくしても、あんまりヱリのひんまがった小皺だらけなワイシヤツなんかは着ているなよ。十五の仏蘭西娘が悲しがるぞ。さよなら。今夜は香屋子とのお別れの会でみんなして栄林へ行く。
[#地付き]拝具
[#ここで字下げ終わり]
そのころ、私は長野君の家を辞して、布施市のアパートに移っていた。NHKの先輩記者が親しくしていた大阪府警の鑑識課の人が見つけてくれたものだった。木造の四畳半一間で裏は一面の田んぼ。夜になると何千匹かと思われるような蛙の声に悩まされたものだ。そこの四畳半に敷きっぱなしの万年床の上で、私はこの手紙を読んだ。
心配して出した私の手紙に対して、冗談めいた話題から書き出し、自分の健康にはさり気なくしか触れていないその手紙の文面に、私は父親[#「父親」に傍点]を感じた。遠い記憶の中に幽かに残っている父の掌の温もりが甦り、水道の水で割った生ぬるい水割りを飲みながら父の身体を思った。
年譜、九月の項続き――。
「軽井沢診療所より日々往診を乞うて当座の注射などを受けつつ稿をつづけ、からくも月末二十七日、最後の一編を毎日の村松学芸部長に手渡して、何かと連載四年間の社の好意を謝す。さらに同夕刻までに、添田知道氏の依頼による一俳人の句碑、また一読者の墓碑、そのほか、色紙額面などの依頼物の揮毫を一気に果し終わって、心の荷を下ろす。同夜、風雨の中を、東京より慶応病院の笹本博士、来診をたまわる。笹本博士の診察を受くるは初めてにあらず。しかし今回は博士の眉辺、大事の色あり。多くは余に語らず、妻を階下に呼んで、毎日の松本昭氏、講談社の賀来寿一氏らを加えてひそやかに時を移し、同夜、深更の汽車にて博士は帰京、ただちに入院の手続だけは運びおかんとのよし、いい残さる。二十九日、汽車にて帰京」
母の手記――。
「不安に、私は夜も眠れない気持でしたが、主人は『大丈夫だ、軽い気管支炎か何かだろう』
と言い切って、相かわらず自分を酷使しつづけております。まわりの人たちも心配いたしまして、一日、慶応病院の笹本浩先生に軽井沢まで御足労いただくよう、車の手配などして下さいました。折りあしく暴風雨、碓氷峠越えを案じましたが、夜に入ってから笹本先生は安着され、すぐ診察にかかられました。
『これはまわりの方々の思いすごしですよ』
と、主人の前ではおっしゃっておられましたが、階下へおりられると私を物かげへ呼んで、
『断定はできません。が、どうも私の診《み》たところでは、御主人は肺癌と思われます』
こう、先生は打ち明けられました。
肺癌! ……からだが凍るかと思うほど私は驚きましたが、一方、とっさに、川口夫人から幾日か前にうかがっていたお言葉を、思い起してもいました。ゴルフ場で川口さん御夫妻とごいっしょになったとき、偶然、癌の話が出、夫人は私に、
『早期に発見しさえすれば、肺癌は実にきれいになおるものですね。手術の有様をテレビで見て、気強く感じましたよ』
と話して下さったのです。
この奥様のお言葉にすがり(主人はなおる。きっとなおる!)と自分自身に、いく度もいく度も言いきかせました。
(もし私が弱い心になったら、家族みんながくじけてしまう。主人も心細がるだろう。しっかりしなくては……)笹夲先生を玄関へ送り出しながらも、けんめいに、そう思いつづけました。
(中略)
待ちかねて九月二十九日に帰京。慶応病院からポータブルレントゲンを運んでいただき、精密検査をいたしました。結果は翌日わかるとのことで、私は不安に耐えつつ笹本先生の御来訪をお待ちしていたのですが、応接間へ入られるとすぐ、まだ暑さの残っていたころですのに、先生は入口のドアをピタッと閉めてしまわれたのです。
(これは……?!)
と、私はとむね[#「とむね」に傍点]をつかれる思いでした。案の定、
『御主人の肺には、やはり癌の所見がみとめられました。一日も早く入院し、手術をなさることをおすすめします』
と笹本先生はおっしゃいます」
年譜――。
「十月一日、午前中、赤坂の自宅にて臥床のままレントゲンを撮る。午後、その結果をみて笹本博士、松本氏と同道、書斎の病床に通る。肺腫瘍との診断にて、入院は一日一刻も早いがよしとの事なれど、せつに、中一日の猶予を乞うて、未脱稿の『新・水滸伝』の執筆に着手、二日もなお、午前中は『水滸伝』を書いて、午後一時頃、ただちに入院する。三日以後、連日、手術に備うるための肺、心臓、その他種々のテストを受ける。『日々地獄めぐりのようだ』と笑う。手術は六日と決まる。執刀は石川七郎博士にて、石川氏より病症説明を直接聞く。五日夕、長男英明、大阪より呼び返されて枕頭に顔を見せる。同日深夜は妻とただふたりきりの病室にて、生涯の思いと昨今の感慨とを語り合うて更ける。妻、この夜初めて、余の病症のまことは『肺癌』なることを打ち明ける。あらましは自分にも察しられていたせいか、かえってすがすがしく思う。明朝までの間、あるいは、眠られぬかもしれぬと案じられたが、案外よく眠り得て覚める」
「お父さん悪いらしいな、すぐ帰れ」
デスクにそう言われ、私は五日、大阪から飛行機で東京へ向かった。
久し振りに見る父は、母や家族達に囲まれ、病室のベッドに上半身を起こしていたが、やや顔色が――と思う程度で、思ったより元気そうに見えた。
「オオ、帰って来たか」
中学生のころ、西荻の下宿から吉野村へ帰った時の口調そのままだった。
父の手を握った。柔らかい手だった。父は一瞬、私の頭からつま先まで、スッと鋭く一暼した。就職し、手もとをはなれている息子の変わり方をたしかめる父親の眼だった。
「今は、肺の手術なんて簡単ですよ、頑張ってくださいよ」
私が言うと、
「ウン、大丈夫だ。僕も心配してないよ」
父はそう言って笑ってくれた。父自身は、母から打ち明けられて知っていたのに、私は父の病がガンだとはまだ知らなかった。気がつかなかった。「肺腫瘍」だと思っていた。今は「肺腫瘍《はいしゆよう》」といわれれば、すぐにガンだなと直感するが、当時、私の周囲にガンで亡くなった方がおらず、ガンに対する知識が甘かったものか、ガンとは全く別のものだと思っていた。大阪で見た新聞の記事も、「肺腫瘍で入院」と報じていたし、家からの電話も母の配慮からか、ガンだとは告げていなかった。
父は話題を、私のことに集中するように仕向けた。仕事のこと、大阪の食い物のこと、酒のこと――。父がいろいろと訊ね、私はいろいろとしゃべった。父が明日手術する身だということも忘れた。久し振りの楽しい一時だった。
父と会ったあと、私は母に別室に呼ばれ、ガンだと打ち明けられた。執刀してくださる石川七郎博士と、主治医の米山武士博士にもお会いした。
「大丈夫です。絶対とは言い切れませんが、今切れば治ります。出来る限りの事をして治してみせます」
病状の説明の後、石川博士は、眼鏡の奥からじっと私の眼を見据え、一語一語区切るように力強くおっしゃってくださった。
「有難うございます。お願いします」
頭を下げながら、今はこの言葉にすべて頼るしかない自分の無力さを思った。
十月六日、奇しくも私の誕生日だった。朝から手術だった。
ベッドにのせられたまま、眼をつぶって麻酔室に運ばれて行く父が私の前を通りすぎ、病室の戸口から出て行こうとする時、私はとんでいってすがりつきたい衝動に駆られた。
手術後の経過は順調だった。二、三日様子を見て、私は後ろ髪をひかれながら大阪へ戻った。
年譜、十月の項続き――。
「六日、午前九時十五分手術を受け、十二時四十五分終了。もちろん、全身麻酔を受けてのこと、何も知らず。十三日、抜糸。この日、『私本太平記』の連載、紙上にて完結を告ぐ。二十六日、初めて入浴、予後よろし。
十一月十五日、初めて病院の屋上に出て日光を浴み、蘇生の感に吹かれる。病棟の各室にもこの前後、平林たい子氏、壼井栄氏、伊東深水氏、伊藤熹朔氏など入院され、また退院されて行く」
母の手記――。
「結果はたいへん良好でした。慶応病院に二十五年も勤めている婦長さんが、こんな順調な患者さんを見たことがありませんと、驚いておられたほどなのです。一日々々、薄紙をはがすように良くなって行く主人……看病する私にも、とても張り合いのある病院暮らしでした。(中略)
もうこのころは曙美の婚約もととのい、挙式は二月二十一日ときまりました。ごたごたにとりまぎれて、ろくな用意もしてやれなかった曙美のために、せめて晴着だけでも選んでやりたく、病室に何枚も持ち込んで、
『こういうものを、私たちも見る時が来たのですね』
そっとそんな微笑を交し合ったりいたしました。(中略)
こうしてこの年、暮れも押しつまった大晦日に主人はひとまず家へ帰り、大晦日生れの曙美を中に、親しい方々と食卓を囲んで、誕生日の祝いなどいたしました。松ノ内だけ家ですごし、また病院へ戻るつもりだったのでございます。けれど、いったん帰ってみると何といっても我が家は居心地よく、お医者さまがたもおゆるし下さいましたので、そのまま退院してしまい、家にいて寝たり起きたりの生活に入りました」
年譜――。
「十二月三十一日、試験的に外出、そのまま赤坂の自宅に寝て、年を越す」
父の年譜には、この後がない。
[#改ページ]
[#見出し] 14 昭和三十七年
正月の松ノ内も過ぎたころ、私はようやく正月休みをもらって東京へ帰った。
報道の仕事だから、当然一週に一度、泊まり勤務というのがある。大晦日や三ガ日の間の泊まり≠ヘ家庭を持たない独身の記者がやることになっていて、私は大晦日の晩、府警本部の記者クラブに泊まっ≠ス。大晦日の泊り≠ヘ事件もなく、静かなのが通例だった。
各社の記者連中と、電気コンロの上にへこんだ鍋をかけ、豆腐をぶち込んだ湯豆腐≠ナ、冷や酒を湯呑み茶碗であおりながら、
「あーア、しょうもない商売やなあ」
などという、ベテラン記者のぐちを聞きながら年を越した。
そんな時でも、
「お父さんの具合、どうやねえ」
と訊かれて、
「エエ、おかげさまで――」
と答えられるのが私にはうれしかった。
それにも増して、家へ帰って、書斎にいる以前と変わらない父の姿を見た時には、なお心が弾んだ。
私が帰った時、父は書斎にいた。机に坐っていた。もちろん、仕事はしていなかったが、家にいると、応接間にいても茶の間にあぐらをかいても落ち着かないらしく、机に坐るとピッタリ体がおさまるらしかった。机の前にいつでも横になれるように敷かれた蒲団が、退院後まもないことを物語っていたが、
「ヤア、お帰り」
と、にこやかに迎えてくれたのは、まぎれもない以前の父だった。
「手術の傷口は、まだちょっとひきつるように痛むがね、もう大丈夫だ、さあ、これからはまた元気になるぞ」
やつれてはいたが、父の顔は希望に満ちていた。
文化勲章受章の後あたりから、家族の心にうっすらとさしはじめ、『私本太平記』の完結と共に現実の恐怖となった我が家の翳も、この年の正月には晴れて、家中が明るさをとり戻していた。
まだ一抹の不安は残っていたものの、軽井沢で血痰を拭きながら原稿と取り組んでいた凄惨な父の姿と思い合わせれば、母の胸のうちも、この正月は、まさに「冬過ぎて春を迎える」という感じだったろう。
私も、四、五日、存分に手足を伸ばして大阪へ帰った。帰る時も、
「また来月、曙美の結婚式に帰って来ますから――」と、足どりは軽かった。
妹の結婚式は二月二十一日だった。
曙美はまだ二十歳だったし、父は晩年になるほど涙もろくなって、手術後はとくにそうだった。娘を嫁にやるということは、大きな喜びでもあったろうが淋しくもあったろう。
曙美が賀来と数ヵ月の交際のすえ、結婚します、と父に決意を告げた晩、
父が曙美に与えた詩――。
童女般若心経
心といふ字に似た花が
わたしのうちに咲きました
のぞけば神がかゞんでる
青色にかゞやいて
いゝえ顔さへ上げぬのは
露の精かもしれません
そこでそうつと
おまへはたれときいたらば
愛の蕊だといひました
曙美に与ふ 昭和三六夏 雨夜かる井沢にて
[#地付き]英治
むすめに与ふ
倖せ何とひと問はゞ
むすめはなにと答ふらん
珠になれとはいのらねど
あくたとなるな町なかの
よしや三坪の庭とても
たのしみもてば草々に
人生植えるものは多かり
昭和三十六年夏 軽井沢にて
[#地付き]或る雨の夜 英治
[#ここで字下げ終わり]
曙美の回顧――。
「雨の音しかない軽井沢のヴェランダでした。
父を中に母と三人、はじめはレコードでも聞いていたのだと思います。
『曙美とこんな話をする様になっちゃったんだネ』
話の途中で父は突然ふっと気がついた様にそう申しました。
四月から交際をはじめた寿一さんとの事を一番気にしていたのは、どうやら父だったらしいのです。
『お前は一体どうなんだい』この日そうもちかけて来た父は、私の結論もまとまりもない言葉の中に鋭く私の心を見抜いたのでしょうか、
『ちょっと色紙と筆を持っておいで』
というと、スラスラと書いてくれたのがこの二枚の色紙だったのです。
この晩の父は本当に多くの話をしてくれました。
いつの間にか母も私もベソをかき、そして父までもが眼を赤くして……夜の深い静けさの中で、心の触れ合う事の出来る両親に囲まれ、私はどんなに倖せに思ったことでしょう。
結婚式の前の晩、何となくシーンとした家族の中で食事した私には、何時もと変りない父の様にも見えました。
『オヤスミ』
と二階に上がろうとする父に、
『曙美チャン』
と、母が呼んでくれたのです。
父、母、そして私、三人が御互に向き合った途端、私達親子は御互の首にかじりついて、オイオイ声をあげて泣いてしまったのです。
父の胸、母の胸、そして私の胸にあったこの時の思いはきっと、皆同じものだったのでしょう。
『御父さんに何か言いたい事があったら、お言い……』
涙が一杯の父母の眼に、
『こんな素晴しい両親をもって、私は本当に倖せです、有難うございました……』
と申しますと、
『そうか、それだけ思ってくれれば、俺はもう、思い残すことはないヨ』
と大粒の涙をハラハラとこぼし、
『お前も将来子供を持つようになったら、そう言われるような親になりなさい、親としてこれ以上嬉しいことはないヨ、アリガトウ、アリガトウ』
――小さなアパートで、御掃除をしている時など、
私は時々、ふっとこの時の父の姿を思い出し、胸が一杯になってしまいます。(後略)」
曙美の結婚式はパレスホテルで行なわれ、文壇、出版界、私の友人達に至るまで、多勢の方々が出席して祝ってくださった。
父も正月よりもまた一段と回復したかに見え、傷跡の痛みをかばいながら、挙式から披露宴の終わるまで、ほとんどが立ち続けの六時間も、私や母、そして新郎新婦の心配気な眼差しをよそに、つねに笑みを絶やさなかった。
石川七郎博士のレポート抜粋――。
「しかし、今から考えれば、再発の徴はそのすぐ後から始まった。左肩から左肘へかけての神経痛である。開胸手術のあとには、そういうことがよくある。手術側の腕の運動が制限されるために四十肩のような症状をみる。外観的には異常所見がなく、ときどき神経痛をおこす。これらは、しかし、軽微な鎮痛剤でコントロールできたし、胸部X線写真では異常を認めなかった」
母の手記――。
「この頃は時おりはお招《よ》ばれなどにも出かけるようになりましたが、三月十八日、先ごろ読み終えた『大菩薩峠』を、新国劇で上演していると聞き、家族たちとつれ立って見にでかけました。この日は昼間、海老蔵丈の団十郎襲名披露祝賀会がもよおされ、それにも出席した主人は、疲れがつもったのでしょう。また夜の観劇で、長いあいだマス席に左ひじ[#「ひじ」に傍点]をついていたことも原因になったと思うのですが、帰宅後、朝になって左腕の激痛を訴え、起き上ることができなくなりました。
大いそぎでお医者様に来ていただき、神経炎とのお見たてなので、鍼《はり》やら電気マッサージやら治療につとめた結果、痛みはすこしずつ薄らいで、やがて散歩に出られるまでになりました。浜離宮、百花園、六義園など、いままで都内に住みながら知らなかった名園を、つれ立ってそぞろ歩く珍しさに、お供の香屋子ははしゃぎぬきました。
私が腕をささえ、家の近処を散歩したことも時おりあります。ビルの建築現場を通りかかり、掘り返されている穴を、
『深いですね』
と、のぞき込んでいましたら、そんな私達を、若い恋人同士とでも遠目に見あやまったのでしょうか。労務者のかたが冷やかしました。主人はよろこんで、
『僕たちも、まんざらでもないよ文子。まだアベックとまちがえられるのだものね』
と笑っていました。あかるい朝……けれどこの朝からかぞえて幾日にもならぬうちに、主人は第一回目の発作を起し、病院へ運ばれたきり、二度と生きてわが家へ戻らなかったのでございます」
石川博士のレポート――。
「七月十日朝、私は吉川氏から書簡を受け取った。それは九日に書かれたもので、私が差しあげた私の著書に対する礼状であったが、続いて吉川夫人から青天霹靂の電話を頂いた。吉川氏が急に意識不明になられたというのである。急いでかけつけて診ると、意識はやや恢復していたが応答が明らかでなく(失語症)、記憶喪失があるようであった。神経学的には特別の異常はないが、血圧が200〜120mmHgもあった。病状は高血圧性の脳障害か、ガンの脳転移が考えられた。
すぐに近所の山王病院へ入院して頂き、長谷和三院長の診療をえた。笹本助教授も往診して、高血圧に対する治療が行われた。そのころ、私は、初めて、吉川氏の左鎖骨上窩に、かすかではあるが硬い膨隆を認めた。やはりリンパ節転移があったのである」
父再入院の知らせに、私は大阪から馳せ戻った。
山王病院の病室のドアを開けると、まず、青白く目を窪ませた母の顔が目に入り、ベッドの上で天井を凝視しているように眼を見開いた父の姿がそこにあった。
私がそうっと近寄ると、父は顔を動かさず、眼だけ横に動かして私を見、
「ヤア、オカエリ」
とゆっくり言って、一生懸命に笑った。かけぶとんの上に出した左手の手首から先を、パタン、と動かして手を振った。私はその手を動かさないようにそっとにぎった。母も私も何も言えなかった。もつれる舌を無理に動かすような父の言葉を聞くのが辛く、父にものを言ってほしくなかった。しかしその時、一番多く話したのは父だった。
ガンは、リンパ節に転移しているということだった。それを切り取らなければならず、父の身体を山王病院から、手術後の治療にも何かと便利な国立がんセンターへ移すことになった。
七月十九日、父は担架で白い病院車に乗せられ、がんセンターへ向かった。病院の玄関で、石川博士は、私達家族を前に、
「現在の医学界の知識を結集して、出来る限りの事をいたします」
と、きっぱりおっしゃってくださった。
再手術は二十四日と決まったが、私はそれまで東京に滞在することが出来ず、手術を前に大阪へ戻らなければならなかった。
大阪へ発つ日、がんセンターの病室で、私が笑顔をつくって、
「いってまいります」
というと父は、起きる、といってきかなかった。母に背中を支えられて、ベッドの上に上半身を起こしながら、父は口の中で何か呟いた。私にはそれが、
「これが最後かも……」
と聞こえた。
「エッ?」
と訊き返すと、
「イヤイヤ何でもない。お前のことは安心してるよ」
そう言って私を見つめ、右手を差し出した。私が握り返すとニコッと笑った。弱々しい笑いだった。私はどうしても笑い返せなかった。あの時、父はたしかに、
「これが最後かも」と言った。
その呟きと、病室のドアからふり返った時、まだこっちを見ていた父の顔とが、大阪へ着いてからも私の頭から消えなかった。
その呟きが、私の聞いた父の最後の言葉≠ニなった。
石川博士のレポート――。
「第二回の発作は八月九日である。高血圧(220〜100mmHg)、頻脈、失語症が著明になった」
母の手記――。
「八月十一日――。この日は軽井沢におられる方はもとより、東京からも大ぜい知人の方が集まって、吉川さんの誕生日を祝う寿司の会≠ニ称して賑やかに会食し、翌日、ゴルフのプレーを楽しむ日でございました。
でも、三十七年は主人の入院で軽井沢どころではなく、当然、誕生祝いも取りやめのかたちになっておりましたのですが、川口松太郎さんがアメリカにおられる坊ちゃまの所へ、二十日には出発するという忙しいさなか、
『今日の誕生日を思い出しましたので……』
と、おっしゃって、扇谷さんと連れ立って来て下さいました。そして、主人の変り方に、川口さんは声をあげて泣かれ、あべこべに私のほうが、
『川口先生、御帰国になるころまでに、かならずもとどおり、元気な主人にしてみせますから……』
と、お慰めをしたほどでございました」
八月の十六日、私は東京の外信部へ転勤した。普通、こんなに早く東京へ戻れるものではなかったが、父の病を心配して、父の友人のどなたかが、NHKの上層部の方に働きかけてくださったのだと思う。母や私のあずかり知らぬ事だったが、病院の父の許へ戻れることは有難いことだった。
東京へ戻ってからは、局からの帰途、病院へ立ち寄って父の病室でしばらく過ごすのが私の日課となった。
病状は、今日良いかと思うとまた突然変化する、というくり返しだった。
一夜、私は、主治医として病院に泊まり込んで、昼夜の別なく父を診てくださる米山武士博士と深夜まで、長い時間語り合った。
「今の医学は、まだまだわからないこと、出来ない事が多いんです」
ポツリポツリと語る米山博士の眉も沈鬱だった。
「細胞なんて、一般の人には想像もつかないくらい小さいものです。手術してガンのかたまり[#「かたまり」に傍点]を取っても、完全≠ニいう確信は誰にも持てません。きれいになったように見えても、その小さなガン細胞の一個でもが血管に流れ込んだら、転移するんです」
淡々と語る博士の言葉は、やがては来るであろう日に対する私の心構えを促しているようにも思えた。
父はもう、まったくといっていいくらいしゃべれなくなっていたが、周囲の者の言う事はよく理解出来ていたようだった。時々、大きくうなずいたり、かすかに笑ったりした。
しかし、文字に生き、創作に生きてきた父が、自己を表現する言葉を失ってしまったということは、見ていて胸がしめつけられるほど痛ましかった。まわりの者に、言いたいことがなかなか通じないと、いらだたしげに動かない左の手で、仰向けになった胸の所に紙をおさえ、これも不自由になった右手に鉛筆をにぎりしめて意を通じさせようとすることもあった。そんな時の父の片仮名が、まるで小学生の書いた字のように、ふるえて、バラバラなのを見るのは一層辛かった。
一度、母の激励にこたえて、紙と鉛筆を求め、たどたどしく、
「ヨ ク ナ ル」
と書いた。父はまだ希望を捨てていなかった。
母の手記――。
「しかし、二十二日午前十一時、三度目の発作が来てしまいました。ほんのわずかな間でございましたが、その瞬間、何かおそろしいものにでも取りつかれたように、大きく目を見開きました主人の表情を、私は忘れることが出来ません。
出勤中の英明はじめ、英穂、香屋子たちに、大急ぎで連絡をとり、みな、すぐ集まってまいりましたが、その後、主人は英明の手を握りしめ、何やらわからぬ声を出して、涙を流すようになりました。英穂や曙美、香屋子にも『ナナ』と言って、ホロホロ涙をこぼしたり、賀来の手を取って、何事か語りかけようとするのでございます。
(あの強い主人が涙を流している!)
そう思うと、わたくしは不安で、じっとしておられぬ気持でしたが、一方で、
(きっときっとなおしてみせる。私の手で……私の信念で……)
こう、くり返し、自分自身に言いきかせてもいました」
このころから、私は、許しを得て休みをとり、病院につきっきりだった。入院以来、連日、病院の椅子の上で、まどろむほどにしか眠っていない母の身体も心配だった。実際、母の疲労はその極に達していた。職場では皆、
「こっちはいいから、病院にいなさい」
と暖かく気遣ってくれたが、何かの折、社会部の部屋を通って、私はそこに、世にも悲しいものを見た。
社会部の遊軍の大机の上に張ってある針金に、大きな原稿封筒がつるしてあった。
その封筒には赤いマジックインクで、
「吉川英治死亡予定稿」
と書いてあった。
マスコミの世界のきびしさをつくづくと思った。
石川博士のレポート――。
「八月三十一日未明、突然、不思議な発作があった。発熱、39℃、頻脈(130)、呼吸頻数(36)、血圧低下(92〜70mmHg)とともに虚脱状態となった。しかし、末梢血管収縮なく、チアノーゼもない。心搏は速いだけで心音は清澄である」
このころになると、もう私の眼にも、父の生命が、時間とともに、次第に、細く、か弱くなっていくのがはっきりとわかった。どの顔も沈んでいた。室内でも廊下でも、声を出してしゃべる者はなく、ひそひそ声の子音だけが重たい空気の中に鋭く響き、私の神経を苛立たせた。ひとり、やつれ切った母の眼だけが、依然、何かを信じつめているように、きつかった。
しかし、そうして、一日、一時間、一分と父が死の淵に近づいていることを悟り、覚悟していた私にさえ、それ[#「それ」に傍点]は突然だった。
石川博士のレポート――。
「九月七日午前二時、輸血が進むにつれて、血圧110 脈搏124 呼吸46 という状態に安定した。この頃、報道関係の方々と第一回の会見をして病状を伝えた。御臨終は時間の問題であろうが、現在は持ち直して落ち着かれたとのべた。この時から午前五時頃までは、全く同じ状態が続いたが、その後、徐々に、灯の消えてゆくような感じが、吉川さんの脈をはかり続けている私の肌に伝わって来た。脈搏数が、110, 100と下がり、呼吸数が35に減った。しかし、これは好転の徴ではなく、全身が疲れ、心臓が弱った証拠にほかならなかった。私と米山博士とは、もう医師として、何もすることのできない自分達を悲しみながら、ただ脈をみ続け、酸素テントのビニール膜を通して吉川さんの顔色をうかがっていた。
吉川さんは、そのとき、房々した黒い髪を少し乱し、顔を右側に向け、眼をとじて、あえぐような呼吸をしていた。咽喉部には、気管切開孔があり、その金具が呼吸とともに動いた。痩せが目立ち始めていたが、皮膚はきれいで、浮腫や出血はどこにもみられなかった。何物かが、この人の生命を、ある一点でおさえて、とどめを刺している。自分達はそれに対して、対抗するすべがなく、ただ吉川さんの死を待っている、という感じであった。
九月七日午前九時九分、吉川さんは、あえぐように、大きい呼吸を四つ五つしてから、永久に、その呼吸を止められた。同時に心臓は、永い酷使から解放されたように、その働きを止めた」
父の生命が、フッと消えた瞬間、私は真上から父の顔を見下していた。死は、それを予期し、身構えていた私でさえ、その瞬間を見逃しそうな程非情な唐突さで父を襲い、予期していなかったほどの衝撃で私を打ちのめした。
周囲から嗚咽が洩れ、次第に昂まり、何本もの手が父の胸に伸びた。
しかし、誰の手も、父をひきとめることは出来なかった。
通夜の晩、蒸し暑かった。
父が談笑していた赤坂の応接間は、半分が花に埋もれ、その奥に父の写真があった。やはり笑っていた。
夜遅くなって、川端康成氏が見えられた。
「軽井沢から帰って来ました。これ、お庭の花です」
川端氏はそういって、かえでや笹の葉を交えた草花の束を母に手渡した。
咲き匂う大輪の花に交じって、好きだった軽井沢の家の庭の楚々とした草花が供えられると、祭壇は一層その淋しさを増したように見えた。大きな川端氏の瞳の底に、深いいたわり[#「いたわり」に傍点]を読みとって私は頭を下げた。
「早いものですねえ――」
人は言う。
私にも昨日のことのように思える。
[#改ページ]
[#見出し] あとがき
文化出版局の加藤琢郎氏から、
「お父さんの事、書きませんか」
と言われたのは、四月の末だった。電話をうけて、雑誌へ四、五枚の原稿かと思っていた私は、単行本にするから三百五十枚、と言われて驚いた。しかも、九月の十三回忌までに本にするには、六月の末までに書き上げよという事である。
父の死後、母とも、毎日少しずつでも父の事を書き留めておかないと、とは話していたが、怠惰な私は、いつかはいつかはと思いながら、この十年余りを無為に過ごしてきてしまった。三百五十枚という長い原稿を書くのは初めての経験であり、二ヵ月という短い期限に不安もあったが、こういう機会でもないと、と思って書かせていただくことにした。経営している書店をこの期間すべて任せ、自宅は狭く、子供がいるので五月の初めから母の家の一室を借りて籠った。私の記憶の空白や誤りを、補い訂正してくれる母も身近にいて、そこはかっこうの仕事場だった。
日ごろ、雑然と頭の中に放置してある父の記憶を整理し、文字にしてゆくのは、それなりの努力も必要としたが、私にとっては、またとない楽しい日々だった。私の幼児期から父の死までをなんとか書き上げた今、何か再び父と別れたような感懐さえ抱くのである。
最後になったが、父のガンの治療に最大限の努力を払われ、今また拙文の中に、レポートを引用することを快くお許しくださった石川七郎博士と、多忙なお時間を割いて、カバーに懐かしい吉野村の梅を描いてくださった杉本健吉先生に、厚く御礼申し上げます。また、父の若いころの記述には、尾崎秀樹氏の『伝記吉川英治』を参考にさせていただいた。自分の父を語るにあたって、ひとの著書を参照するなど、怠惰の極みとそしりを受けようが、不勉強な私、お許しを乞いたい。
この紙面を借りて、私にこの機会を与えてくださった文化出版局の、中野完二、加藤琢郎両氏に深く感謝いたします。
昭和四十九年七月一日
[#地付き]著   者
[#改ページ]
[#見出し] 文庫版あとがき
初版のあとがきでも触れたように、これは、昭和四十九年、父の十三回忌の年に、文化出版局のすすめで書いたものである。
文化出版局版が上梓されてから三年、周囲から、さまざまな御批評、御批判を頂いた。
「父上の御精進ぶりに感動しました」
という感想もあれば、
「少し美化して書いたのではないか」
という評もあり、
「自分がいい子になりすぎている」
などという、学生時代からの友人の指摘もあった。
しかし、私は、これを書くにあたって、自分の父親像を殊更美化するとか、きれいごとに仕上げようなどという意識は毛頭持たなかった。日頃、私の記憶の中にある父の像、その時々の私の気持――それらは、長い年月と、追憶という甘酸っぱい思考作業の過程で、或いは無意識のうちに多少美化されているのかも知れないが――を、その時点で嘘偽りなくさらけ出した結果が、こうなったのである。
なぜなら、これは、吉川英治という作家の伝記でもなければ評伝でもない。臆面もなく言ってしまえば、まもなく四十歳になろうという私という男の、死んだオヤジヘの追慕の書なのである。
なお、文庫にするにあたって、文化出版局版で「歳月」となっていた最初の章の小見出しを「昭和四十九年」と改めた他、細い所、数ヵ所に筆を加えた。
最後になったが、初版出版直後から、
「これを文庫に――」
と、終始心にかけて下さった講談社の梶包喜氏に厚く御礼申し上げます。
昭和五十三年二月二十日
[#地付き]著  者
[#改ページ]
[#見出し] 忘れ得ぬこと
英明氏の著に寄せて
[#地付き]星 野 哲 次
本書の著者吉川英明氏は、日支事変が勃発して一年余り、漸く戦争も苛烈になろうとしていた、昭和十三年の出生である。私が駆け出しの編集者として、始めて吉川英治先生をお訪ねしたのは、昭和六年の春であった。従って先生を知ったのは、英明氏より七年程先輩ということになる。それから昭和三十七年先生が逝くなるまでの三十余年の間は、作家と編集者という関係だけではなく、私事に亘っても先生からはいろいろと教えをうけた。従って私にとってはかけがえのない師であったといってよい。
吉川先生の生涯については、先生自身の筆になる半自伝的回想記ともいうべき『忘れ残りの記』があるし、先生の歿後二、三の人によって文学的伝記も刊行されている。だが今回刊行された嗣子英明氏の著になる『父吉川英治』は、著者でなければ書けない、人の親としての先生の、なま[#「なま」に傍点]な側面が卒直に描かれていて、人間吉川英治を知る上には、欠かせない書といえるだろう。
私が編集者として先生に接した永い年月、私には私なりに数々の思い出がある。
大正十四年、講談社は社運をかけて月刊誌キングを創刊した。そのキング創刊号に、新人作家として抜擢された先生は、連載小説『剣難女難』を執筆した。ズブの新人が、一社の命運をかけた創刊誌の、しかもその要である連載作家に起用されたのだから、先生にとっては容易ならざることであったに違いない。この作が、吉川英治の本名(戸籍上は英次)で書いた最初の作品だったというところにも、先生の並々ならぬ意気込みが感じとれる。一方創刊誌の側にしても、思い切ってのこの新人起用は、かなり冒険である。ある意味での大きな賭けであったとも想像される。だがその半面、新人吉川英治は、この時すでに作家としての天分、将来性といったものを、かなり高く評価されていたのではないだろうか。
この一作が吉川英治誕生の契機となった。この一作によって吉川英治の創作慾は、勃然と噴出し始めたのである。昭和元年には大阪毎日新聞へ『鳴門秘帖』を、更に翌二年には報知新聞へ『江戸三国志』を、昭和四年には大阪朝日新聞へ『貝殻一平』と矢つぎ早に大作を発表して、当時の新聞、出版界に、
「えらい作家が出てきたものだ」
と驚嘆の目を瞠らせたのである。
考えてみると、私が先生に初対面した昭和六年は、先生が作家として本格的にデビューしてから、僅々六年を経過しているに過ぎない。ところがその時すでに吉川英治は、マスコミから超流行作家のレッテルをはられ、八面六臂の活躍をしていたのである。当然のことだが吾々編集者は、この流行作家を獲得せんものと、文字通り夜討ち朝駆けだった。鎬《しのぎ》を削る毎日だった。それ程吉川英治という作家は、吾々編集者には魅力的な存在だった訳である。先年逝くなった名編集者池島信平氏が、編集長の頃こんなことを云ったのを思い出す。
「不思議なもので、雑誌の目次に吉川英治の名がつらなるだけで、目次全体がピリッと締るし、その雑誌に何か重みをさえ感じる」
×    ×    ×
ところで、当時の吉川英治という作家は、吾々編集者の間では、難物中の難物作家とされていた。その理由は原稿が遅いということである。締切日が過ぎても原稿が出来ず、毎月徹夜が数次に及ぶというのが例になっていた。ところで先生の原稿執筆の速度は、決して遅くはない、むしろ他の作家に比べて早いといってよい。興がのると一時間に四百字詰原稿紙七、八枚から場合によると十枚以上書くこともある。遅くなる理由は、次から次と書きついでゆくため、前に書いた作品からの頭の切りかえにある程度の時間を要するということだ。従って書き出しに二日三日、場合によると一週間も苦しむことがある。一作一作、それがたとえ雑文に類する原稿であっても、全力を注ぐというのが先生の執筆の姿勢であった。
こんなことがあった。その頃(昭和六年)私の所属していた雑誌『冨士』には『恋ぐるま』という長篇を執筆していた。その月も決められていた締切日から、すでに三日も過ぎているのに原稿はできない。書き出しさえついていない。吉川邸へ詰めている担当の私へは、編集長から毎日何回となくまだかまだかの電話がくる。私はその都度電話の要旨をメモに書いて、書斎の先生へ届けてもらう。その日も夕刻まで待ったが原稿は出来ない、ついに編集長は私へ、最後の断をくだした。
「もう限度である、これ以上は駄目だ。発売日が遅れる、今月は休載に踏み切るから、その旨先生に伝えてほしい」
私は編集長の旨をメモにして書斎に届けてもらった。間もなく私の詰めている応接室へ、先生が駆け込んできた。いきなり、
「君、休載とはなにをいうんだ。冗談をいってもらっては困る。約束の締切日に遅れていることは重々僕が悪い。しかし君、連載小説というものは、作者の僕が何十万という読者と約束していることなんだよ。そう簡単に休む訳にはゆかないじゃないか。よし、明日の朝までには、必らず脱稿する、間違いない。それまで待つよう編集へ電話をいれておいてくれ」
顔面蒼白、鋭い語気である。昨夜から碌々眠っていないのだろう、頭髪を乱した先生の容貌には、何か鬼気迫るものが感じられて、私は震えあがってしまった。
その夜八時頃漸く書き出しがついた。こうなると後は一気呵成である。翌朝七時前に五十枚の原稿が完成した。私の待機している応接室へ原稿を持ってきた先生の顔は、憔悴し切って見えたが、昨夜とは別人のように穏かな表情だった。
×   ×   ×
その後一年、二年、私も吉川番編集者として、漸く馴れてきた。先生の執筆に対するタイミングも分ってきたし、吉川英治という作家の人となりも、おぼろげながらその輪郭をつかむことが出来てきた。膨大な量の月々の原稿は、余り変ってはいないが、その作品については、先生が当時随筆に書いた「創作的自悶」のことばの通り、かなり悩んでいたようだった。だが、その後朝日新聞に書いた『檜山兄弟』あたりから、作品の傾向が変ってきたことが、当時の吾々編集者仲間でも話題になっていた。
「これからは、量を減らして少ししっかりしたものを書くつもりだよ」
と口ぐせのように云っていた。だが、周囲は仲々そうさせてくれない。先生には頼み込まれると、断れない情の脆《もろ》さがあった。
×   ×   ×
まだ先生が作家としてスタートする以前のことである。面白倶楽部という雑誌のある号に、それぞれ筆名を変えて数篇の小説その他を執筆し、その量がその号の三分の一以上だったという挿話がある。私もこの話は直接先生から聞いたことがあるが、それによると編集長の交代で予定の原稿が集らず、後任の編集長から泣きつかれて、手当り次第に書きまくったのだという。時代小説、現代小説、講談、落語から笑話にいたるまで、書いたというのだから面白い。
またずっと後(昭和八年)のことになるが、忙しい先生が一誌に二つの連載小説を書いて、話題を撒いたことがある。新潮社の『日の出』に『燃える富士』を執筆していたが、その他に浜帆一の筆名で『あるぷす大将』を執筆したのである。まさか吉川英治がユーモア小説を、しかも、ペンネームで書いているとは、当該編集部以外は誰も知らない。編集者と作者との間で、秘密裡に企画されたものである。さて浜帆一とはどういう作家だろう、恐らく新人ではあるまい、文章も仲々達者である。ユーモア作家の間でも評判になっていたが、吾々編集者仲間でも、浜帆一が何ものであるかを究明しようと必死であった。だが皆目見当がつかない儘、日が経っていった。吉川邸の応接室に集る編集者の話題は、専ら浜帆一の実像であった。ある日先生と雑談していた時、編集者の一人が、
「先生、吾々の間では『あるぷす大将』の作者浜帆一なる作家が、何者であるかを探っているんですが、先生はあの小説読んでいますか」
「うん、時々目を通しているが、仲々うまいじゃないか、文章も達者だし……」
「先生は誰だと思いますか」
「さあ、誰かなあ。かなり大物作家と僕はにらんでいるんだがなあ――」
「大物作家といって、まさか先生じゃないでしょうねえ」
その時先生ちょっと意味ありげに笑ったが、早々と書斎へ立ち去ってしまった。それから数ヵ月過ぎた頃だった。話題を賑わした浜帆一の蔭武者が、意外にも実は吉川英治であることが判明したのである。吾々は唖然として言葉もなかった。ベールを剥ぎとったのは印刷所の植字工で、原稿の文字から見破ったということだった。よくもごまかし、また見事にごまかされたものである。それにしても、月々の原稿の量を減らすと口癖のように云っていた先生が、何故一誌に二つもの連載小説を書いたか、吾々には大きな謎であった。だが、そのことについての吾々の質問には、先生はついに答えようとしなかった。
×    ×    ×
こうして作家吉川英治は、驚異的ともいうべき原稿の量産とともに、確実に作家としての地歩を固めていった。しかし、この流行作家も、家庭的にはまことに恵まれていなかったといえよう。吾々出入りの編集者は、蔭へ廻ると、
「あれじゃ、先生が気の毒だ、可哀相だよ、何んとかならないのかなあ――」
と口々に云っていた。原因は後に離婚したやす子夫人との間の軋轢にあった。すでに数年前から家庭内のトラブルは絶えなかった。夫人は花柳界の出身と聞いていたが、仲々気っぷのいい人だった。貧乏時代の吉川英治を助け、当時はよき伴侶であったようだ。しかし文壇の寵児となってからの、吉川英治の妻としては、吾々の目から見ても、完全に失格と云ってよかった。その頃の先生の随筆に、
「門前市をなすほどの編集者におしかけられ、来る日も来る日も、原稿に追われっ放しの亭主をよそに、生活の楽になったことをいいことに、昔の芸者時代の仲間や、役者のおかみさんなどと、花札遊ぴに呆けている女房――(後略)」(草思堂随筆)と書いているし、また先生自身が書いた昭和五年の年譜には、
「徹夜仕事、飲み歩きなど、不摂生つづく。家事またかえりみず、内事複雑――(後略)」ともある。
事実その頃の数年の間は、徹夜につぐ徹夜の日課であった。絶え間ない夫人との間のごたごたから、ただ書くことによって、たとえそれが一時的であれ逃避したい。吾々傍の者には先生の多作が、そんな風にも感じられたのである。
やす子夫人は、先生の毎日の仕事には全く関知しなかったと云ってよい。徹夜徹夜で明けくれる先生を夫人は、まるで別の世界に住む人とでも考えているようにさえ見えた。典型的な有閑夫人と吾々は云っていた。憂さ晴らしに飲む少量の酒に酔うと、先生はよく口にしたものである。
「僕んとこの女房は、どうしてあんなに金をつかうんだろう、僕も随分稼いでいるつもりなんだが、それでいて足りないというんだから、嫌になっちゃうよ」
こんな愚痴は何度か聞いている。吾々出入りの編集者も、口にこそ出さないが、
「先生もおとなしくしていないで、一発がつんと喰わしたらどうなんだろう」
と歯ぎしりして口惜しがったものである。こうしてやす子夫人との間は、険悪の状態が続いていたが、間もなく破局を迎える決定的な事態が惹起してしまった。
こんな風だったから、先生も書斎に落着いてなどいられる筈がない。原稿の執筆は、自然旅先きということになる。そうなると吾々担当編集者は、当然先生に同行する訳だ。箱根方面へはよく行ったが群馬、福島、岩手あたりにもよく旅行した。私などは独り者の気楽さから、先生から「出掛けようか」と云われると、大いに喜んだものである。
ところで、今でも不思議に思うことがある。それは、吾々旅行中のすべての費用が、先生の支払いであったということである。しかも、帰りには必らず、その土地の名産を土産として、貰って帰ったのだから、いい気なものである。勿論吾々には別に会社から、規定の出張旅費は支給される、つまり出張旅費の全額は、そっくり臨時収入という訳である。吾々が先生の「出掛けようか」に喜んだ所以のものも、実はこの辺にあったようである。こうして私たち周囲の者には、楽しい旅行が続いた。それに引きかえ先生にとっては、恐らく何んとも苦々しい旅であったに相違ない。
悶々と蠅を叩いて居たりけり
数年前旅先きで詠んだこの句に接すると、当時の先生の心情が偲ばれて、私は胸の痛くなるのを覚える。
×   ×   ×
昭和十年、この年先生は朝日新聞紙上に『宮本武蔵』を書き始めた。この作品は作家としての吉川英治を、大きく変えたばかりでなく、ある意味では、その後の吉川文学を決定づける要因を作ったといってもよいだろう。またこの昭和十年に特筆すべきことは、吉川文学とは別に、その後の吉川英治の人生を大きく変えた年でもあったからだ。というのは、後に夫人となった、池戸文子という女性に巡り逢ったからである。仮りにもし、この年先生と文子さんの奇遇がなかったとしたら、先生の人生も変っていたろうし、その後に執筆した『新平家物語』『私本太平記』などの大作が、果して生れたかどうか、私はそれ程先生にとって文子夫人の影響は、大きいものであったと思っている。先生と文子さんとのそもそもの結びつきについて夫人は『私の吉川英治』にこう書いている。
「ちょうどその頃、銀座の千疋屋さんで店員を募集していることを知り、私は思い切って出かけてみました。それでも中へ入りかねて、裏口に立ったまま、思い迷っていたのをおぼえております。千疋屋の方は、その時、私に、『北千住から銀座まででは通うのは大変ですし、あなたの感じはとても日本的だから、私が住み込みのできる、知合いのお店に紹介してあげましょう』とおっしゃって、やはり銀座のある、ふぐ[#「ふぐ」に傍点]料理屋さんへお勤めすることにきまりました。(中略)主人とはじめて遇ったのは、このお店にいた時でございます。(後略)」
ここで考えられることは、仮りに文子さんが、千疋屋の募集にすんなり採用されていたとしたら、先生との出逢いは勿論なかったということである。ところが運命の糸は奇しくも二人を結びつけたのである。私は更《あらた》めて運命というものの不可思議さを泌々感じる。こうして永い間の家庭のごたごたは綺麗に清算され、先生の新しい道が明るく開けてきたのである。
文子さんを知ってからの先生は、文子さんの勤めている店へ、足しげく通った。ところが先生は、一人で行くことは余りなく、編集者を同伴することが多かった。これは先生の持ちまえの、はにかみからだったようだ。私は何度か先生に同行したことがあるが、その連絡は、何時も書生のT君からの電話であった。
「先生からですが、都合がついたら夕刻きてほしいとのことです」
最初の頃は、さては何か急用かと、慌てて駆けつけてみると、
「君これから食事に行くんだが、一緒にゆかないか」
ゆき先きの店では、先生の係として何時も、文子さんが明るく迎えてくれた。そして美しい文子さんの立居振る舞には、常に先生のやさしい目が、暖かく注がれていたことは云うまでもない。
先生と文子さんの交流は、こうして結婚まで一年半以上も続いていたろう。私はその頃赤坂の先生宅の応接室で、何度か文子さんの姿を見かけたし、また先生が自著に署名して文子さんに渡している場に出会ったこともある。
「先生は、文子さんが本当に可愛いらしいなあ」
吾々編集者仲間が、そんなことを囁き合っていたのもその頃である。こんな風だったから、吾々は先生と文子さんの間を結婚ということに結びつけて、考えていた者は、一人もいなかった。それは二人の間の年齢差ということもあったが、それよりは先生が、秘すべきは秘しながらも、表面的には殊さら隠そうとしないポーズをとったことが、ゴシップ好きの編集者族の目を眩《くらま》す結果になったのだ。
昭和十二年の秋だったと思う。その日の夕刻書生のT君から電話があった。
「今夜先生が一緒に食事をしたいから、六時頃までに家へおいで願いたいとのことです」
私はその時おやと思った。食事の呼び出しは久々であったからだ。頻繁にあった食事への呼び出しも、去年あたりからばったり途絶えている。そういえばこの頃、旅先きでの仕事も殆んどなくなり、先生はすっかり書斎に落着いてしまった。家庭のごたごたに終止符が打たれたからだと私は思っていた。
その日の夕刻吉川邸を訪ねると、すでに三、四人の先着者がいた。何れも毎月顔を合わせている、各社の吉川番の連中だ。長老格のS社のW氏が、
「今夜のご馳走は、一体どういう意味なんですかねえ」
誰にもそれは分らなかった。だが、何かありそうだとは、みんな予感しているようだった。定刻の六時を過ぎた頃、先生が書斎から降りて、吾々の前に現れた。W氏が立って代表で挨拶した。
「今夕は、大勢お招き頂いて有難うございます」
「いや、忙しいところを呼んで悪かったが、今夜は皆と食事をしながら、実はひとり紹介したいものがあってねえ――」
「それは先生どなたですか」とW氏が聞くのを先生は抑えて、
「そう急ぐんじゃないよ、後で話すから――」
それから暫くの間は、毎日新聞の特派員として先生が北支戦線へ従軍した際の視察談だった。話が一段落した時、奥から宴席の準備が完了した旨の伝言があった。すると、先生はここでちょっと更まって、
「今夜みんなに来て貰ったのは他でもないんだが、君たちも知っての通り、長い間家庭内のごたごたで君たちにも、随分迷惑をかけたと思う。おかげで、漸く家内とも正式に離婚の話し合いがついたんだよ。僕も何んとか破局を避けようと努力はしたんだが、やっぱり駄目だった」
ここでちょっと言葉を切った先生は、目を戸外へ移していたが、ふたたび言葉を続けた。
「このことについては、僕もいろいろ考えていたんだが、やはりこの際そうした方がよいと思って、実は今度結婚に踏み切ることにしたんだよ。云い方がちょっとおかしいが、君たちには分ってもらえると思うんだが……」
先生に以合わず表現がおかしい。それに語尾もしどろもどろである。だが結婚に踏み切ると確かに云った。吾々にはまさに晴天|霹靂《へきれき》であった。
「先生それは本当ですか。まさか吾々を担ぐんじゃないでしょうねえ」
一人が云った。先生は照れてしきりに頭髪を掻きあげている。
「僕も今更この年齢になって、とは考えてもみたんだが、幸い人を得たのでこんなことになったんだよ」
「ところで先生、式は何時なんですか」
「戦局もきびしい時でもあるので、式はやらないことにしたよ。……」
「すると、事実上はすでに結婚されていると理解していいんですか」
「その辺のことは、君たちの想像にまかせるよ」
「ひどいなあ先生も――。ねえみんな、天下の吉川英治ともあろうお人が、隠密裡にこの喜ぶべきことを運んできた、というのはよくないよなあ――」
「いや、別にそういうつもりはなかったんだよ。だから今夜はみんなに来て貰って、内々《うちうち》だけで披露の真似ごとをしよう、こういう訳なんだ」
「すると、今夜紹介して下さるという人は、その花嫁ご寮なんですねえ」
「その通り、これからはまた何かにつけて教えてやってくれよ」
吾々には大きなニュースである。ところが足もとに転っていたこの大特種を、迂闊にも吾々はキャッチ出来なかったのだ。これでは編集者失格の烙印を捺されても仕方がない。
廊下に副った左側にいくつかの部屋があり、右側が細長く庭になっている。高橋|箒庵《そうあん》が前に住んでいた邸宅と聞くが、いかにも茶人好みの落着いた家である。奥の二部屋の襖がとり除かれ、中央に並べられた卓に白布がかけられて、その上には山海の珍味が並んでいる。私は部屋に入ろうとしてはッとした。そこに立働いているエプロン姿の女性のなかに、今までに何度か逢っている、文子さんの姿を見掛けたからである。今夜の宴席にお手伝いとして、動員されたのだなあと私は思った。突嗟に、
「今夜はお手伝いですか」
と声をかけた。紫地に小さな花をあしらった訪問着をすらりと着こなして、ちょっと地味だが、それがまた落着いてかえって美しくみえる。
全員が席に着いた。先生の隣りの空席には、恐らくこれから紹介されるであろう、吉川新夫人が座をしめるのだろう、先生が、白羽の矢をたてた女性は、一体どんな人だろう。吾々仲間はみな一様に好奇な目をもって、先生の左隣りに注目していた。調理場の女性群の動きが一段落するのを待って、先生が声をかけた。
「どう、みんなもそろそろテーブルにつかないか」
数人の女性がそれぞれ末席の方に坐った。先刻から遠慮がちに、後方にいた文子さんへ、先生が声をかけた。
「君も早く席につきなさい」
文子さんは、軽く会釈しながら、たった一つ空いていた先生の隣りの席へ、静かに坐った。私はおやっと思った、吾と吾が目を疑った。まさしく文子さんである。その文子さんが何故先生の隣りへ坐ったのだろう。何かの間違いではないのだろうか、いや、そんな筈はない。先生が先刻紹介すると云っていた新夫人、それが文子さんなのだろうか。時間にしたら僅か数秒だったろう。私の頭の中では、驚きと疑惑とが交錯して駆け巡った。その時先生が、
「じゃ、ひとことだけ挨拶を――。いやあらたまっての挨拶なんかもういらないだろう。さっきもみんなに話したような訳で、今度家へ来てもらうことになった、隣りにいるこれが家内なんだ。時節柄でもあるし、別に披露というような大げさなものではない、みんなに知って貰うための会食とでも思って、今夜はゆっくり呑んで食べていってくれ給い――」
というと先生は、隣りの文子夫人へ、
「君もひとこと――」と促した。
先刻から俯向いた儘でいた新夫人は、この時始めて顔をあげると、微笑を湛えながら、
「どうぞよろしくお願いいたします」
と小さな声でいって頭をさげた。
酒が全員に注がれ、W氏の音頭で新夫妻への乾盃があって宴に入った。どういう訳か先生夫妻の前に坐ってしまった私は、どうしても新夫人の顔がまともに見られなかった。それは、知らぬとは云え、失礼にも「今夜はお手伝いですか」と声をかけたことが、引っかかっていた。迂闊な自分が悔いられた。はっと気がついて先生にお祝の酌をすると、先生が云った。
「君も今まで全く知らなかったのかい。君だけは何回か文子に会っているから、知っていると思っていたよ」
「いや分りませんでした。先刻先生のご紹介があっても、まだ信じられないでいたくらいですから。もっとも、今にして思えば先生の言動に思い当る節はいろいろありますがねえ」
ほんのり目の渕を染めた先生は、幸せ一杯といった表情だった。私は新夫人へ更めてお酌をしながら、思い切って、
「先程は知らぬこととは云え、大変失礼なことを……」
と詫びた。
×   ×   ×
先生が結婚した翌年つまり昭和十三年三月の下旬であったと思う。春とは云えまだ寒さが身に沁みるある夜のことだった。その日私は文藝春秋社のクラブに、某作家を訪ねての帰りがけ、クラブの玄関までくると、そこでばったり吉川先生に会った。その日は作家の何かの集りがあったらしい。
「君帰るんだったら、どうだい、久しぶりに食事へつきあわないか――」
タクシーで銀座へ出ると、裏通りの小料理屋の暖簾をくぐった。最近は先生も殆んどこないが、以前はよくこの店でご馳走になったものだ。気品のある老夫妻が「先生しばらく――」といって奥の小部屋へ通してくれた。
先生も私も酒は飲める方ではない。だから三本目のお銚子が運ばれた頃には、二人とももうかなり出来上っている感じだった。相変らず原稿の進みはよくないようだが、昨年来家庭に安住の地を得てからの先生は、すっかり落着いた毎日だった。特にその夜の先生の余りの上機嫌に、私は何かとまどいさえ感じていた。
「先生、えらいご機嫌ですが、今日は何かあったんですか」
「うん、まあなあ……」
といって、妙な含み笑いをしながら、猪口の酒を飲みほした。上半身を卓に乗り出すと、
「このことは、何れは分ることなんだが、もう暫らくは君の胸にしまっておいてほしいんだよ。というのは、他でもないが、実は僕んところに子供ができたらしいんだよ」
「本当ですか先生、それはお目出度うございます。よかったですねえ」
「医師の診断だから間違いないと思うんだが、生れるまでは心配だよ」
「処で先生、機会があったらご報告しようと思っていたんですが、実は僕のところでも今年の七月に生れる予定なんです」
「えっ、そうか、そうか、それはよかった。僕のところは十月といっているが、それにしても偶然一緒になったんだなあ。とに角乾盃だ。お目出度う」
「お目出度うございます」
その夜の先生は何時になくよく呑んだ。そしてこんなことも云っていた。
「僕も自分には子供は出来ないものとばかり思い込んでいたんだが、僕にも種があったんだよ。立派にあったことが今度証明されたんだから、愉快じゃないか。はっははは――」
呵々大笑した。その時の先生の嬉しそうな顔、いまだに忘れることが出来ない。恐らく先夫人との間に実子がなかったことから、そう思い込んでいたのだろう。
その年も押しつまった師走のある日、私は先輩のK氏とともに、吉川家の夕食の宴に招かれた。そしてこの夜、生後まだ二カ月足らずの英明坊やに初対面した。
「先生この坊や、鼻が高くて仲々美男子じゃないですか」というと、
「うん、君もそう思うか、いや僕もそう思っているんだよ」
大真面目でいう先生に、私はちょっととまどったが、しかしこの親馬鹿ぶりが何んとも楽しく、私は吉川英治の今までに見たことのない別な一面をみたような気がした。その夜の吾々は、先生が大事にしていたという五つ組みの猪口で酒を飲んだが、辞去する吾々へ先生は云った。
「この猪口は、仲々いい焼きなんだ、どう記念に君たち持っていけよ」
私はこの猪口は大事に今も持っているが、正月などには持ち出すことにしている。なみなみと酒を注いだこの猪口の底には、今でも鼻の高い英明坊やの愛くるしい顔が、くっきりと浮んでくる。
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文子夫人を伴侶に迎えてからの先生が、作家として、また家庭人として、後の人生をどんなに幸せに生きたかは、著者英明氏の文章がそのすべてを伝えている。先生にとって文子夫人は、恐らくこの世でめぐり逢った唯一最高の女性であったに違いない。病床の先生が文子夫人にもらしたという次の言葉が、それをよく物語っている。
「お前とめぐり逢ったことに、ぼくは神のめぐみを感じる。この天意を感謝する」
[#地付き](元・吉川英治記念館館長)