[#表紙(表紙.jpg)]
乾 くるみ
イニシエーション・ラブ
contents
sideA
1 揺れるまなざし
2 君は1000%
3 YES−NO
4 Lucky Chanceをもう一度
5 愛のメモリー
6 君だけに
sideB
1 木綿のハンカチーフ
2 DANCE
3 夏をあきらめて
4 心の色
5 ルビーの指環
6 SHOW ME
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sideA
1 揺れるまなざし[#「1 揺れるまなざし」はゴシック体]
望月《もちづき》がその晩、四人目として誰を呼ぶ予定だったのか知らないが、僕はそいつに一生分の感謝を捧げなければならないだろう。
そいつがドタキャンしてくれたおかげで、僕は彼女と出会えたのだから。
電話が掛かってきたのは午後五時過ぎで、望月は挨拶《あいさつ》もそこそこに用件に入った。
「実はな、急な話で悪いんだけど、今夜これから飲み会があるんだけどさあ、急に一人来れなくなっちゃったんだけど。おまえ今日これから……大丈夫? 予定とかは?」
「いや。特にはないけど」と答えつつも、いきなりのお誘いに僕は少々面食らっていた。望月とは履修するゼミ講が違っていたので、四年になってからは、たまに学食で顔を合わす程度の仲になってしまっていた。それが突然のこの誘いである。
「飲み会って、メンツは?」
「えーと、オレとがっちゃんと北原《きたはら》と……あと女の子が四人来るんだけど。だから人数合わせで、どうしてもあと一人、男が欲しいんだけど。……なあ、おい、こんなこと滅多にないんだぜ。男のほうが足りないなんて」
つまり彼の言う「飲み会」とは、世間的には「合コン」などと言われているアレなのだ。そうとわかって、僕はあまり気乗りがしなくなった。
「知らない女の子と飲んで、楽しいか? 盛り上がらないんじゃないの?」
「大丈夫だって。鈴木《すずき》もたまにはそういうのに出てみねえと。そうやって部屋にいるだけだと、いつまで経《た》ってもカノジョとか出来ねえんじゃねえのか。カノジョ、いないんだろう?」
別にカノジョなんて欲しいとも思わない。いや、正直に言おう。カノジョが欲しくないというのは嘘だが、合コンで出会った相手などと簡単に付き合えてしまえるような、そんな性格の軽い女とは、僕のほうが付き合いたくないのだ。簡単に付き合い始めて、飽きたら別れる。その繰り返しをしている男女が、世間に大勢いることは知っている。ただし僕はそういう男じゃないし、だから付き合うにしても、そういう女じゃない、もっとちゃんとした相手と付き合いたいと思っている。
ただ世間で行われている「合コン」の出席者がみんな、カレシやカノジョを見つけたいという目的で臨んでいるというわけでもないだろう。僕は、その場にいるだけで責任を果たせるのならば、という程度の軽いノリで、出席することを承知した。
それから時間と場所を確認する。スタートが六時半で、店は市の中心部にあるという。時間的にはまだ余裕があり、それは大丈夫だったが、場所のほうが問題だった。たぶん「合コン」というのは、そういうところで行われるのが似つかわしいものなのだろうが、ここからだと──飲みに行くのだから原付で行くわけにもいかないし──バスに乗って行かなくてはならず、面倒だという思いが先に立った。やっぱり断ればよかった──と思っているうちに、
「あ、そうそう。今日来る女の子で、マツモトユウコっていうのが、オレの連れだから、彼女はダメだから。もし選ぶんだったら、他の三人の中からいいのを選んでくれ。じゃあ頼んだぞ」と望月は一方的に喋《しやべ》って電話を切ってしまった。
マツモトユウコはダメね。はいはい。言われたままを、僕は頭の中にメモする。
いきなり呼び出された人間なのに、店には一番乗りで到着してしまった。午後六時十五分。入店して望月の名前を出したら、予約席に案内された。掘《ほ》り炬燵《ごたつ》ふうのテーブルがある小座敷で、八人分の小皿と箸《はし》がすでに用意されていた。立地は別として、とりあえず内装やメニューなどを見る限りにおいては、大学周辺の居酒屋とさして変わりがなかった。これで変にグレードの高い店だったりしたら、僕はさらに後悔していただろう。
いちばん奥の席につき、汗を拭きながら待っていると、十分ほどして入口の戸が開き、隙間《すきま》から望月が顔を覗《のぞ》かせているのが見えた。僕と目が合うと、「あ、なんだ、来てる来てる」といった感じに背後に言葉を掛けて、そのまま店に入ってくる。いらっしゃいませー、と店員たちの声が掛かる。
店の表で待ち合わせていたようで、望月を先頭に、男女七人がぞろぞろとこちらに向かって歩いてくる。通路が鉤《かぎ》の手になっているところがあって、そこでは行列を横から見る形になり、ちょうど女性陣を一人ずつ品定めするような感じになった。
四人の女性が並んでいる──その二番目の女性に、僕の目は瞬間的に吸い寄せられた。
髪型に特徴があり、男の子みたいに思い切ったショートカットにしていた。そのせいで色白の顔が額の生え際まで見えている。その顔にも特徴があった。いつもニコニコしていたら、それが普段の表情として定着してしまいました、というような顔立ちで、世間的にはファニーフェイスという分類になるのだろうか。美人ではないが、とにかく愛嬌《あいきよう》のある顔立ちだった。外に比べたらはるかに薄暗い店内の一角で、彼女のその顔の部分だけが、パッと輝いているようだった。
スタイルは小柄でほっそりとしていて、女性というよりは女の子といった感じに見えた。涼しげな白のブラウスに、紺色で膝丈のスカートを穿《は》いていて、原色や黒を基調とした他の三人のファッションと比べると、印象はいたって地味なのだが、自然体な感じがして、僕には好感が持てた。
彼女がマツモトユウコではありませんように──と瞬間的に願った。ということは、つまり僕はその瞬間にはもう、恋に落ちていたのだろう。自分でそのことに気づくのは、もう少し後になってからのことだったが。
僕のいた側に男性陣が座り、向かい側に女性陣が座る。集団見合いのような配席になった。なるほど「合コン」とはこういうものなのか、と僕は思う。望月が、正面に座った派手な顔立ちの女性と小声で何やら話をしていたので、ああ、彼女がマツモトユウコなのだな、と察する。その隣が短髪の彼女で、さらにその隣は、服装は派手だが顔立ちは地味といった女性、そして僕の前には、肥満気味で動作がせわしない女性が座っていた。
まずは飲み物を注文し、全員に行き渡ったところで、望月が乾杯の音頭をとる。女性陣も全員が中ジョッキを手にしていた。当節では女の子も平気でお酒を飲むものだと聞いてはいたものの、四人もいれば中には一人くらい「わたし飲めない」という人間がいてもいいのではないか、などと思ったものの、僕はそこで自分の役割を思い出し、周囲に壁を作って自分の中に閉じこもることにした。先に来て待たされていたぶん、いつも以上に喉《のど》を通るビールの冷たさが身に沁《し》みた。
ひと息ついたところで、自己紹介が始まる。まずは男性陣からで、望月、大石《おおいし》、北原ときて、最後に僕という順番になった。僕はなんとなく緊張し始める。
まずは望月がいつもの快活な口調で場を盛り上げ、次の大石も「ガツガツ食べるもんでがっちゃんと言われています」と渾名《あだな》の由来を説明して女性陣を笑わせた。北原は「手品が特技です」と言って、箸が掌《てのひら》にくっつくという例のやつを見せ、望月が「おいおい、それならオレだってできるぞ」とツッコミを入れてフォローした。実は北原は本当に手品を得意としていて、だからたぶん、あとでもっとちゃんとしたやつを見せるつもりでいるのだろう。みんなちゃんと計算して、女性陣を楽しませることに成功している。そんなふうに意識したぶん、僕は自分の番が来たときには余計に緊張していた。
「あー、えー、鈴木と言います」と言ってまずは一礼し、その間にも必死で考えている。何を言おう。特技……僕の特技って何だろう? 趣味は? 「えー、趣味は読書で──」しかしその後が続かない。頭の中が真っ白になっていて、しかし言葉を途切れさせるわけにはいかない。「えーと今日は、実はさっき……一時間ちょっと前ぐらいに、もっち──あ、望月くんから電話がありまして、急にここに来いって呼ばれまして、で、来てみたら、綺麗な方々がいらしてて──」
「鈴木くんは合コンが、今日が初めてで、いまちょっと上がってるんです」と望月がフォローしてくれた。「そうだよな?」
「そうです。よろしくお願いします」ペコリと頭を下げる。
「うっそー。ウブいー」と正面のデブ女が手をパチパチ叩いて大はしゃぎし、その隣の派手服女が「合コン初体験があたしたちみたいなのでごめんねー」と遣《や》り手婆《てばばあ》のような口調で言った。
とりあえず場を白けさせずに済んだようだったので、僕が内心でホッと息を吐いていると、
「鈴木さん、鈴木──何ていうの? 下の名前は」と短髪の彼女が聞いてきた。
「あ、鈴木、夕樹《ゆうき》って言います。夕方の夕に樹木の樹、です」
というのが、彼女と交わした初めての会話だった。特に意義のある質問でも答えでもなかったように思う。それでも僕の答えを聞いて、彼女はにっこりと微笑み、少しだけ会釈をしてくれた。
続いて松本優子《まつもとゆうこ》の自己紹介の番になった。僕はこっそりとメガネを外し顔の汗を拭く。喉が渇いていたのでビールで潤した。それでまた汗が滲《にじ》んだのを再びハンカチで拭く。そうこうしているうちに松本優子の自己紹介は終わった。文学部の二年生で、今日連れてきた他の三人は、彼女が高校のときの同級生だという話は、いちおうちゃんと聞いていた。大学二年だから二十歳か。僕らの二つ下。年齢的にはちょうどいい組み合わせかもしれないな、などと思ったりもした。
続いて短髪の彼女の番となった。
「ナルオカマユコです」と言ってぺこんとひとつ頭を下げる。やたらと緊張していた僕とは違い、彼女は余裕たっぷりに、今のこの状況を楽しんでいるかのように見えた。
「一番町にある秋山歯科クリニックっていう歯医者さんで、歯科衛生士をしています」
「歯科衛生士って……歯医者さんにいるあの看護婦さんみたいなの?」と大石がすかさず質問を飛ばす。「そうです」という彼女の答えを受けてさらに、「じゃあ、あの、職場では白衣を着ているの?」とわけのわからない質問をする。
「そうです。でも色は白じゃなくてピンクですけど」という答えに、大石と望月は「おお!」という控えめな歓声を上げ、小さく拍手をした。僕もいちおう拍手のふりをしてみんなに合わせる。
そうか。全員大学生ってわけでもないのか。彼女はもう社会に出て働いているんだ。あの笑顔で患者さんに接しているんだ。
彼女の自己紹介はそこで終わった。名前を漢字でどう書くのか、その説明がなかったが、ナルオカはたぶん「成岡《なるおか》」と書くのだろう。マユコのほうは、いろいろと可能性があって特定できない。誰か質問するかと思ったが、特に誰もしなかったので、もし後で機会があったら自分で質問してみようかなと思った。
それから女性陣の残り二人も自己紹介を終え(派手服女が青島《あおしま》ナツコで、小太り女が渡辺和美《わたなべかずみ》という名前だった)、料理が運ばれてきたところで、あとはそれぞれが好き勝手な話題で盛り上がる展開となった。最初は望月と青島ナツコが主に喋る形で、八人全員が同じ話題に参加していたのだが、やがてそれが二つに分かれて、向こうは向こうで望月が中心となり、こっちはこっちで女性二人が会話の中心となって、僕と北原をリードするような形になった。
「鈴木さんって何か、NHKのアナウンサーみたいな感じですよね」
「あー。何かこう、生真面目っていう感じが」
青島ナツコと渡辺和美がそんなふうに言って、北原が僕の横でぷっと吹き出す。
「ねえ、やってやって。アナウンサーの真似」と請願されたので、僕は無理をして「えー、さてー、ただいま入った情報によりますと──」とやってみたが、途端にいたたまれない気持ちになった。
「あ、顔が赤くなった。今すごい無理したでしょ」という渡辺和美の脇を肘でつついて、青島ナツコが「ダメだよカズミ、そんなふうにいじっちゃ。鈴木さんは純情な男の子なんだから」と言いながらクスクスと笑う。場が白けるよりはマシなので、僕はそんなふうにいじられつつもニコニコしていたが、こんなふうに「笑われる」よりは、望月や大石のように自分のトークで「笑わせる」ほうが愉快だろうな、とも思い、女性を相手にしても怖《お》じずに喋ることのできる彼らのことを、少しだけ羨《うらや》ましく感じた。男だけで集まったときには、僕だってもっとよく喋るのに。
「ねえねえ、さっきちょっとメガネ外してたじゃないですか」と渡辺和美がまた喋りかけてくる。見られていたか。「見てましたよちゃんと。それがね、意外とハンサムなのよ、素顔が」と後半は青島ナツコに向かって喋る。それを受けて、
「うそ。ちょっと見せて見せて」と青島ナツコがはしゃぐので、僕は言われたままにメガネを外した。もちろん、しぶしぶと、である。女性から自分の顔について何か言われたのは初めてである。ましてや「ハンサム」などという単語は、自分とは無縁のものと思っていた。だから当然、また笑われるものと覚悟していたのだが──さすがにそれは失礼だと思ったのだろう。青島ナツコは「なるほどね。うん、まあ、ハンサム──?」と言って、小首を傾《かしげ》げはしたものの、「っていうか、たしかにそのメガネは、外したほうがいいと思いますよ。それか、掛けるにしても、もっとオシャレな感じのやつにするとか」とけっこう真面目に進言してくれたので、それはありがたく感じた。
しかしそれに続けて言った「あたしは、ハンサムって言うんだったら、北原さんのほうが、顔立ち的には好みかな」という台詞《せりふ》のほうが、やはり本音ではあっただろう。僕自身が、自分と北原を比べたら、断然北原のほうがハンサムだと思っている。
だからこそ思うのだ。男は顔じゃない。もちろん男だけじゃなく、女だって──だから人間は顔じゃない。心なのだと。性格なのだと。そう思いつつも、しかしじゃあ、目の前の渡辺和美と、あっちにいる成岡マユコとを比べたら、それは断然成岡さんのほうがいいよなあ、と思ってしまう自分はいるわけで。性格も知らないくせに。
いや、彼女の場合は──成岡さんの場合には違う、と僕は思った。彼女の場合には、性格のよさが顔に出ているのだ。僕が成岡さんのほうがいいなと思うのは、それを判断基準にしているわけで、つまり彼女の性格もわかった上で比べていることになるのだ。
ただ僕は、今日この場に四人の女性がいる、その中では成岡さんが一番いいな、とは思っていたものの、さらにその先のことは──できれば彼女と付き合いたいとか、そんなことはぜんぜん考えもしなかった。
それでも彼女にカレシがいるかどうかは気になっていたので、「マユちゃんは……カレシがいるんですか?」という大石の質問が聞こえたときには、あっちではすでに彼女のことを「マユちゃん」呼ばわりしているのか、とか、なんて直截《ちよくせつ》的な質問なんだ、などといった感想は後回しにして、とりあえず全身を耳にしてその答えを聞き逃すまいと思った。
「え? いないですよ」というのが成岡さんの答えだった。しかし大石はさらに質問を重ねる。
「ホントですか? じゃあその指輪は……?」
その問答は僕だけでなく、他のみんなの関心も惹《ひ》きつけたようで、青島ナツコは喋りかけていた自分の話を中断して、渡辺和美とともに、成岡さんのほうに顔を向けていた。
「これは自分で買ったんです。今年の春に就職してから三ヵ月間、ずーっと仕事で頑張ってきた、自分へのご褒美《ほうび》ってことで。先週の木曜日が──七月の二日が、私の誕生日だったんですよ。それで買って、で、せっかく買ったんだから、やっぱり誰かに見せたいじゃないですか。でも職場にはつけていけないし。だから今日は、今日こそは指輪してくるぞって決めてて」
「あたしね、お店の前でマユと会ったときに、すぐに気づいてたんだけど」と青島ナツコが言う。「ただみんなの前ではそれ、聞きづらくて──だってもしカレシに贈られたとかだったらアレじゃない。それでずっとムズムズしてたんだけど。……それ、ルビー?」
「そう」と答えた成岡さんの表情がパッと明るくなる。種類を言い当てられたのが嬉しかったようだ。「七月の誕生石」と付け加える。
「そうだよね。合コンに来るのに、わざわざ薬指に指輪|嵌《は》めてくる子なんて、普通はいないとは思ったんだけど。ただマユの場合は、ほら、普通とか常識とかって言葉が通用しないから」
「そんなことないよー。少なくともなっちゃんよりは常識人だと思います」ツンとした表情をしてみせる。本当にくるくると表情が変わる子だなあと僕は思う。マンガのような顔をしているとも言えるか。似顔絵を描いたらそのままマンガになりそうな。特にその目が、ひらがなの「の」の字みたいで。
「先週が誕生日だったって?」と、そこで北原が会話に加わった。「二十歳?」
「そうです」と再びニッコリとしてみせる成岡さん。
北原はすかさずジョッキの握りに手を掛けると、
「じゃあ、一週間遅れだけど、ナリオカさんの二十歳の誕生日をお祝いして──」
「ナルオカ」と大石が小声で注意する。
「や、失礼しました。……成岡さんの二十歳の誕生日をお祝いして、乾杯!」
と音頭を取り、みんなで今日二度目となる乾杯をした。ジョッキを下ろしたみんなが拍手をするのに応えて、成岡さんは胸の前で両手を揃《そろ》えて「ありがとう」と言い、それで場のムードはさらに和やかになった。
北原に関しては、男四人の中で誰よりも早く「お祝い」を思いついたのはよかったが、そこで名前を間違えたのが大きなマイナスで、だから成岡さんの中での彼の評価は、まあ良くてトントンといったところかな──などと、僕は手前勝手な計算をしていた。そして、もし自分が真っ先に「お祝い」の言葉を口にできていたら、僕は名前を間違えるようなことはしないので、彼よりももっとプラスの印象を与えられたのに、チャンスを逃したなあ、などと思ったりもした。一方で、自分のことを客観視する部分というのが僕の中にはあって、それによれば、もし自分が男性陣の中で真っ先に「お祝い」のことを思いついていたとしても、それを僕の場合は口に出すことができずに、結局は同じような結果に終わっていただろうなとも思う。
「じゃあ、成岡さんの誕生日をお祝いする出し物として、ここでちょっとしたマジックを披露したいと思います」と言って、そこで北原がテーブルマジックを始めたのは、先ほどの名前を間違えたミスを挽回《ばんかい》しようということではなく、ただ単にそれを見せたかっただけのようにも思えた。百円玉を四枚使った、いつものやつである。
と思っていたら、青島さんが途中で余計な手出しをした──のだが、北原はまったく慌てたそぶりも見せずに、左腕を押さえ込まれた状況のまま、見事にコインを移動してみせたので、僕はビックリしてしまった。たぶんそういう邪魔が入ったときでも、うまく見せられるように、手順の中に何らかの工夫が施されていたのだろう。あるいは北原が今までの青島さんの言動を参考にして、彼女がたぶん途中で邪魔をしてくるだろうということまでも予測していて、そうされても大丈夫なように(あるいはそうされることに賭けて)、手順をいつものやつと変えていたのかもしれない。噂《うわさ》によると彼のマジックは玄人《くろうと》はだしで、それは手先の器用さだけでなく、当意即妙の受け答えなどといった点も加味した上での評価なのだという。どんな事態にも冷静に対処できる器用さが──少なくともマジックを演じているときの彼には──備わっているのだろう。
そのマジックに見入っている、望月にしても大石にしても、女性との会話を途切れさせないという点では、一種の「当意即妙」性が備わっていると言えるだろう。
だけど僕は。
気の利いた冗談ひとつ言うこともできず、ただニコニコしているしか能がない。今回は青島さんと渡辺さんが僕をおもちゃにしてくれたので、それに合わせてアナウンサーの真似をしたりメガネを外したりして、何とか場を白けさせることなく、この場に居続けることができたが、もし相手が彼女たちではなく、もっとおとなしい性格の女性が揃っていたとしたら、僕はもっと居心地の悪い状況に陥っていたことだろう。あるいはもし、自分が女性と二人きりになるようなことがあったとしたら。誰の助けも得ることができない状況で、僕ははたしてその人を楽しませることができるだろうか……。
十分ほどで北原のマジックは終わり、僕たちは惜しみない拍手を贈った(途中で料理を運んできた店員さんが一人、そのままマジックに見入ってしまって、終わりの拍手とともに我に返り、慌ててカウンターのほうに戻っていったのが笑えた)。そして再び歓談モードに入る。
マジックの興奮そのままに、青島さんと渡辺さんの興味は、北原ひとりに向いてしまったようで、僕はそれからしばらくの間は、いじられることもなく、かといって自分から何か話をするでもなく、ただ三人の会話を聞いているしかない状態が続くこととなった。手持ち無沙汰でどうしようもなくなり、それまでずっと「女性の前では手控えよう」と思っていたタバコに、結局は頼ることになった。久しぶりに発した言葉が「タバコを吸ってもいいですか?」だったというのも我ながら情けないが、いちおうそれが会話のネタにはなった。
「えー、鈴木さん、タバコを吸うの? ちょっとイメージになかったなあ」
「NHKのアナウンサーなのにね」
「別にNHKのアナウンサーはタバコを吸っちゃいけないってこともないと思うけど」
などという会話が女性二人の間で交わされたが、それも長くは続かない。一本を吸い終わったところで、僕は中座してトイレに向かった。まだそんなに溜まってはいなかったのだが、とりあえず場を外して仕切り直したいという気持ちが大きかったのだ。
小用の便器に向かっているときに、望月がトイレに入ってきた。どうやら僕が困っているふうなのを見てとって、心配して来てくれたもののようだった。僕と入れ替わりに、いちおうは便器に向かいながら、声を掛けてきた。
「大丈夫か鈴木。無理して来てもらったけど。やっぱり来なければ良かった?」
「ううん。充分楽しんでいるよ」と僕が言ったのは、あながち強がりばかりでもなかった。ここに来る前に予想していたのは、もっと周囲から孤立した自分の姿であり、それよりはまだ楽しめているという自覚があった。
自分一人では女性を楽しませることができない。だから女性は苦手だと今まで思っていた。しかし今回のようにグループで接するのであれば──望月たちが一緒ならば、そして女性を楽しませる役を彼らに任せてしまえるのならば──そうした義務感さえ伴わなければ、やはり女性と一緒にいるというのは基本的に楽しいことなのだと実感できた。
特にあの、成岡さんのような、表情を見ているだけでこちらがウキウキしてくるような、そんな女性がメンツの中にいる場合には。
などと考えながらトイレを出たら、すぐそこの暖簾《のれん》のところで本人と鉢合わせしてしまった。僕は必要以上に慌ててしまい、会釈だけしてやり過ごそうと思っていたら、彼女のほうから声を掛けてきた。
「あの、鈴木さん?」
「はい」不思議な表情を見せるあの目に間近から見据えられる形になって、僕は少しだけうろたえる。
「あの、ここを出た後で、みんなでカラオケに行こうって話が出てたんですけど……鈴木さんも一緒に行ってくれますよね?」
「あ。はい」と反射的に答えていた。その後で、そうか次もあるのか、と思った。もし店を出たところでそういう話になったのであれば、たぶん僕は、一次会だけで義務は果たしたからといって、その手の誘いは断っていたのではないかと思う。
「よかった」と言って成岡さんはほっこりとした笑顔を見せた。彼女との距離がたったの数十センチしかないことを不意に意識する。僕は彼女の表情に見とれていた。それが不躾《ぶしつけ》な行為だったと自省するのは、彼女が小さく会釈をしてからその場を離れ、女子トイレのドアの向こうに消えた後のこと。
座敷に戻ったときには、渡辺さんから「何かいいことでもあったの?」と聞かれてしまった。どうやら表情が弛《ゆる》んでいたらしい。しかし正直に言うわけにもいかず「そりゃあもう。溜めに溜め込んでいたものが全部出て、もうスッキリ」と誤魔化したら、「NHKの鈴木さんが壊れちゃったよー」と大いにウケたので、却《かえ》って僕のほうがビックリしてしまった。自分では意識しないまま、当意即妙の受け答えというやつをしてしまったようだ。
それで何となくリラックスできた。テキトーなことを言っていればいいのだ。
僕は一次会でのその後を、大いに飲み、大いに喋って過ごした。喋りながら、自分が望月や大石のように喋れていることに自分で感心していた。そして二次会で行ったカラオケボックスでは、まず最初に「これが人生で初のカラオケです」と正直に告白して、またそれがウケて、ただし歌はもとから好きだったので、マイクを握ったときには「本当に初めてなの?」と疑われたほど上手に歌えて、そのカラオケ店でも大いに飲んで……。
飲み過ぎたのだろう。実はカラオケ店での記憶がほとんどない。誰とどんな会話を交わしたのか憶えていないし、成岡さんがそこでどんな歌を歌ったのかも憶えていない。ただ楽しかったという印象だけが残っている。
店を出て夜風にあたったところで、少し酔いも醒《さ》めたのだろう。男四人でタクシーに乗ったのは憶えている。僕が曲金《まがりかね》で降りて、他の三人は小鹿《おしか》近辺まで行くので、そこで別れ──そういえば料金はどうしたのだろう? ──アパートの部屋に入って布団の上に倒れ込んだときには、天井がぐるぐると回って見えていたので、そこで初めて、ああ、僕はひどく酔っているなあと自覚した。それから気持ちが悪くなり、トイレに駆け込んだ。
便器を抱えてうずくまった姿勢のまま、やがて冷静さを取り戻したときには、さっきまでの出来事がまるで夢のように感じられていた。
まあ実際、それは夢のようなものではあった。今夜の集まりは最初から、この一夜限りのものとして計画されたものであり、もしその中で気に入った相手がいた場合には、また別途、望月や松本優子さんを通じて個別に連絡を取り合うことも可能なのだろうが、僕はもちろんそんなことはしないだろうし、また女性陣から僕に対してその手のアプローチがあるとも思えない。
つまり今日のようなことは、もう二度とないのだ。
ジーパンだけを脱ぎ、あとはそのままの格好で布団に横たわり、僕は夢の記憶を反芻《はんすう》していた。まだ酔いが抜けきれていないようで、身体がふわふわしているような感覚があり、それもまた夢の中にいるような錯覚を助長していた。
そのうちに本当に夢の中に入っていた。その夢の中では、短髪の彼女が間近にいて、あの魔法使いのような不思議な目で僕の顔を覗き込んだまま、静かに微笑んでいた。
2 君は1000%[#「2 君は1000%」はゴシック体]
合コンから一週間経った週末に、また望月から電話が掛かってきた。
「この間、どうだった?」と聞くので、
「あ、楽しかったよ。行って良かったと思ってる」と正直に感想を述べた。すると、
「そうか。おまえあの日、けっこう酔ってたじゃん。だからあの場に居づらくて、酒に逃げててそうなったんじゃないかって思って、心配してたんだけど。うん。なら良かった。……で、どう? あの中にお気に入りの子とか、いた?」
そう直截に問われても困る。僕が正直に答えようかどうしようか、しばらく迷っていると、望月のほうが先にその沈黙に耐え切れなくなったようで、「まいいや」と自分から質問を流してしまった。
「でさー、こっからが本題なんだけど……、おまえ来月の二日って、何か予定とか入ってる? バイトとか帰省とか」
来月の二日というと、まだ二週間も先のことか。
「いや、まだ何も決めてないけど」
「だったらさー、海行かねえ? 何かこの間のメンツで静波《しずなみ》に行こうって話が出てんだけど」
この間のメンツで……? それならば。
「いいよ」
「おっと、即答かと。あはは。じゃあそういうことで、向こうにも話を通しておくから」
当日は望月が朝八時に車で迎えに来てくれるという話だった。
「じゃあ、また何かあったら連絡するから。あ、それから当日の朝も、いちおうウチを出る前に電話するから」
「わかった」
受話器を置いた後、僕は二度、三度と深呼吸をした。自分でもそれと気づかないうちに興奮していたのである。
また彼女に会える。
……かもしれない。失望時のダメージに弱い僕は、前もって最悪のことを考えておく癖がある。もしかしたら彼女は来ないかもしれない。でもあのグループと繋《つな》がりが持てるなら、それはそれで意義のあることだと思う。前回のようなノリで楽しめるのなら、それで充分。とりあえずはそう思う。
さらにそこに彼女の顔があれば……。
この一週間、折にふれて彼女のことを考えていた。彼女の笑顔を思い浮かべていた。
勤め先はこの間の自己紹介のときに言っていたのを憶えていた。一番町の秋山歯科クリニック。その電話番号も実はすでに調べていた。だからそこにダイヤルすれば、彼女と連絡が取れるはず──とわかっていても結局、電話は掛けられなかった。
いつもそこ止まりなのだ。僕の場合は。学校の名簿を見て、好きな同級生の家の電話番号を調べる。そこまではする。たとえば、高校のときに好きだった菊地《きくち》さんの家の番号なら、卒業から三年半経った今でも正確に諳《そら》んじられる。
でも結局、自分から電話をしたことは、いまだかつてなかった。そしてこれからもないだろう。だからもう二度と彼女──成岡さんと、会うチャンスはないものと思っていた。それが……。
僕は知らず「海か……」とひとりごちている自分に気づいた。
悶々《もんもん》と過ごす二週間が過ぎた。いちばん心配されたのが空模様だったが、週間予報で前後数日間にわたって晴れマークが出ていた時点で、もうこれは大丈夫だと確信した。
当日、早朝に目覚めた僕は、珍しく朝からシャワーを浴びた。それでも持て余した朝の時間は、孤独なファッションショーに費やした。脛毛《すねげ》が嫌だと言われるかもしれないので短パンではなくジーパンを穿き、唯一持っていたアロハを、Tシャツの上に重ねてみる。サングラスを掛けて杉山清貴《すぎやまきよたか》を気取ってみようかとも思ったのだが、僕が持っているのは度が入っていないやつだったので、見た目を取るか実用性を取るかという選択になって、結局はいつものメガネのほうを掛けてゆくことにした。
身支度が済んだのが朝の七時半。それから三十分ほどの間にタバコを三本灰にした。予定よりも遅く、八時五分ごろになってようやく電話が入り、実際に車が来たのはさらに十分ほどしてからのこと。排気音でそれとわかったので、僕は荷物を肩に掛け、ビーチサンダルをつっかけて表に出た。ちょうど望月が車から降り立ったところだった。ボンネットが陽光を眩《まぶ》しく照り返していた。
「悪い悪い。これでも急いで来たんだけど」
助手席の窓が開き、松本さんが「おはようございます」と言って頭を下げる。カーステレオからサザンの曲が流れているのが聞こえた。後部座席に誰もいないのを見て、僕は少しだけガッカリする。
「よし。じゃあ行くか」
僕を乗せた車はカネボウ通りを西進し、取り付け道路を下って一五〇号線に入った。他のメンツはどうしたのか聞いてみると、大石は北原の車に乗り、また青島さんが車を出すというので、松本さん以外の女性三人はその車で集合場所に向かっているとのこと。
道路はそんなに混んではおらず、三十分ほどで焼津《やいづ》にある酒店に着いた。静波海水浴場までの道程のちょうど中間地点のあたりで、そこが望月の定めた集合場所だった。北原たちはすでに来ていたが、女性陣の姿は見当たらなかった。僕たちも車を降りた。外は目が眩《くら》むほど暑く、海に行くには絶好の日和だと僕は思った。
先に買物を済ませておこうという話になり、男性陣が入店して買物を済ませ、駐車場でドリンク類をクーラーボックスに詰めているところに、ようやく青島さんたちの車が到着した。
「ごめんなさい。場所がわかんなくて、一回大井川まで行っちゃってから引き返してきたんです」と言いながら青島さんが運転席から出てきて、男性陣に向かって「どうも。お久しぶりです」と再会の挨拶をする。後の二人も車から降りて、僕たちに挨拶をした。
まだちゃんと目を向けていないうちから、僕はすでに息が詰まりそうになっていた。眩しすぎて彼女のほうを直視できない。女性陣が話に夢中になっているのを視野の端で確認してからようやく、盗み見るようにしてその姿を目にした。
成岡さんは麦藁帽子を被《かぶ》っていた。肌を露出した肩のあたりに、網目模様の影が落ちている。赤茶色のタンクトップに、その下にはすでに水着を着ているのだろう、白い肩紐が首の後ろで結ばれているのが見えた。白地に模様の入ったロングスカートが微風になびいていて、足元は白のサンダルを履き、毛糸を編みこんだような造りの手提げを左肘にかけて立っている姿は、そのまま写真にして飾っておきたいほど魅力的に見えた。場所は駐車場ではなく海がいい。右手は麦藁帽子を押さえ、空を眺めるように顔をあお向けて、他には誰もいない砂浜を歩いているところを、左側からカシャッと撮る……。
想念が暴走しかけるのを、目を閉じ、息を大きく吐くことで何とか鎮める。
彼女に再会できたという、ただそれだけのことが、これほどまでに僕の胸を熱くするなんて。
車三台を連ねてさらに三十分ほど西へ進み、目指す海水浴場に着いたのが午前九時半。海の家が十数軒ずらりと並んで建てられている、その裏の駐車スペースには、すでにたくさんの車が停められていた。水着のままあたりをうろついている人々に向かって、真っ黒に日焼けした従業員が白い歯を見せている。車を降りると波音と潮の香りが加わって、いよいよ海に来たという実感が増した。
手分けして荷物を持ち、手近な海の家に料金を払って、まずは二階の座敷に上がった。何十畳ぶんにも相当する広さの日陰に入ると、わずかながら涼しさを感じた。隅のほうに空いているテーブルを見つけ、そこを自分たちのポイントと定めて荷物を置く。
自然と口をついて出た「お疲れさま」という言葉は、主に運転手たちに向けて発せられたものだった。この後もやらなければならないことはたくさんあった。腰を落ち着けている場合ではない。僕は火をつけたばかりのタバコをすぐに灰皿に潰《つぶ》した。
男四人でビーチに拠点を作ることになった。砂浜に出ると、一歩踏み出すごとにサンダルが砂に埋まり、足の皮膚が灼《や》けた砂に触れて、やたらと熱かった。荷物はパラソルが二本にレジャーシートが四枚。他に折り畳み式の肘掛つきのチェアーが二つと、同じく折り畳み式のデッキチェアーが二つ。すでに砂浜にはあちこちにパラソルが立てられ、シートが敷かれていたが、それでもまだ余裕があり、とりあえず僕たちはシートを広げて、自分たちのスペースを確保することができた。
ところで、浜辺のどこを見渡しても、男はみんな海水パンツか、もしくは望月たちのような短パン姿であり、ビーチで長ズボンを穿いているのは僕くらいのものだった。僕は作業の途中で急に恥ずかしくなり、とりあえず着替えてくるからと三人に言い置いて、一人で海の家に戻った。
女性陣はすでに着替えを終えていた。松本さんと渡辺さんは水着の上にTシャツを着ていた。青島さんはビキニの水着姿をそのまま晒《さら》している。どちらかといえば上にTシャツを着た二人のほうが、上半身が日常と変わらないだけに、下半身の露出がいっそうなまめかしく見えてしまう。
一人で戻ってきた僕に、「どうしたの」と青島さんが声を掛けてきたので、「先に着替えちゃうことにしました」とだけ言い置いて、そそくさと更衣室に向かう。
個室のドアを閉じてから、僕は今見た情景を記憶の中で反芻した。
成岡さんはワンピースの水着を着ていた。白地にカラフルな花模様があしらわれたデザインで、彼女にとても似合っていた。背中の部分が大きく露出しているが、ショートカットにしているせいなのか、あるいは身体つきがあまり豊満ではないせいなのか、スポーツ選手が競技用のウェアに着替えたかのような印象があって──要するに、客観的に見て、あまりセクシーな感じはしなかったということだ。
でもそこがいいと僕は思った。青島さんのように、女性性を過剰に意識させるような身体つきだと、僕の場合は、その相手に対して、妙な圧迫感を覚えてしまうのだ。猛獣の爪や牙のように、その身体の丸みは一種の武器になりうる。僕の中の男性部分が、本能的にそれを警戒するのだ。
個室といってもただ単にベニヤ板を貼り合せただけの造作で、ドアの錠も金属製のフックをちょいと掛けるだけのちゃちなものでしかない。外から誰かがドアを強く引けば、簡単にドアが外れてしまうか、そうでなくとも板がたわんで隙間から中を覗かれてしまいそうな気がした。使用中であることをアピールするために外にサンダルを脱いできているので、そんなことはまず起こらないだろうとは思うのだが、下着を脱いでから海水パンツを穿くまでの数秒間はとても落ち着かない気分だった。彼女たちは本当にここで着替えたのだろうか。成岡さんは水着を着てきた様子だったので、ここで裸にはならなかっただろうが、それでも帰りにはここで水着を脱いでいかなければならないはず。大丈夫だろうか……。そんな余計なことまで考えてしまう。
上半身には裸にアロハシャツを羽織ることにした。タバコやメガネを仕舞《しま》うためのポケットが必要だったのである。
着替えを終えて出ると、女性陣から「早いねー」と感心されてしまった。僕は照れ臭さもあり、応対もそこそこに荷物を片付けて浜辺に戻ろうとしたのだが、そこで「あ、鈴木さん、財布とかの貴重品は、この袋に入れてください」と声を掛けられてしまった。この声は──成岡さんだ。振り向くと彼女が膝立ちの姿勢で、巾着袋《きんちやくぶくろ》のようなものの口を両手で拡げて、僕のほうを見上げていた。
「あ、はい」
僕は慌てて、手に提げていたジーパンのポケットから財布を取り出すと、それを袋の中に落とした。今日一番の接近だと意識する。目が合うと彼女はにっこりと微笑んだ。僕の身体の中で、肺腑《はいふ》が雑巾《ぞうきん》のように搾られている感じがした。
「じゃあ、私たちも行きましょう」と松本さんが言って、僕は彼女たちと一緒にビーチに戻った。すでにパラソルは二本とも立てられていて、僕たちの陣地はほぼ完成していた。設営に尽力しなかった僕は、足踏み式の空気入れで、妙な形をした浮き物を膨らませる役を仰せつかった。汗だくになりながらそれをようやく膨《ふく》らませ終えたところに、よく冷えた缶ビールが手渡される。プルトップを開き、「じゃあ、僕たちの再会を祝して。乾杯!」という望月の音頭とともにみんなと缶をぶつけ合ってから、喉を潤す。
夏のビーチで飲むビールは最高に美味《おい》しかった。空は青く晴れわたり、太陽がぎらぎらと照りつけている。潮騒と人々の嬌声《きようせい》が入り交じって耳に届くのが、まるで幻聴のように聞こえている。
僕たちは交代で海に入り、デッキチェアーに寝そべり、あるいはシートに寝そべって肌を焼いた。その間にビールの空き缶が数を増してゆく。
望月と女性四人が海に入り、僕と北原と大石が浜に残ったときがあり、大石が「渡辺さんってすごい物を持ってるよなあ」と北原に話し掛けたのがきっかけとなって、二人による女性評がそこで始められた。僕はシートに寝そべったまま、デッキチェアーの二人の会話に耳を傾ける。
渡辺さんに関して「いや、いくら胸が大きくても、腰のくびれがないと」というのが北原の意見で、大石は「あれなら僕はギリギリオッケーだけど」と言う。
青島さんに関しては、プロポーションは二人とも絶賛していたが、その先で意見が分かれた。「でもなあ、顔が、僕の好みからは大きく外れてるんだよな」というのが大石で、北原は「俺はできるぜ。バックですりゃあ、顔とかは関係ねえし」などと言っている。要するに二人は、彼女たちがセックスの対象になり得るかどうかを話しているのだった。
「じゃあ成岡さんは?」と北原が切り出したときには、僕はとても冷静に聞いてはいられなかった。この二人が彼女のことをどう思っているのか……。北原は続けて、「俺はあの三人の中ではいちばんいいと思ってるんだけど」と言った。やっぱりそうか。
「僕は……パスかな」と大石は少し迷いつつ言った。「いや、性格はいいと思うし、見た目も可愛いとは思うんだけど。でも胸もぺったんこだし、あれじゃあちょっと、まだ子供っていうか。きんちゃんはあれでもオッケー? ロリコン入ってるんじゃないの?」
「いや、あれでロリコンって言われたら、俺の立つ瀬がねえよ。あのくらいは俺からすれば余裕で範囲内だけどな」
「うわー、範囲が広いー。でも渡辺さんはダメなんだ?」
「お前と俺と、範囲がだいぶズレてるみたいだな」と言って北原は笑う。「それにしても、こういう状況って楽しいな。向こうもたぶん、俺たちの中で誰がいいかとか、話してるんだぜ、きっと」
「まるでフィーリングカップル五対五みたいな状況だよね」
「っていうか、それなら『男女7人夏物語』だろうが。言うとしたら」
「ああ、なるほど。僕らは男女八人だけど」
そう大石が言ったところで少し間が空き、チェアーの金具が軋《きし》む音がした。北原が首を伸ばして僕の様子を確認したようだった。僕は先ほどから狸寝入りを続けている。
「鈴木がいないとちょうどいいんじゃねえか? 望月がさんまでさー、お前が鶴太郎で、俺が奥田瑛二《おくだえいじ》」
「なんだよそれ。自分ばっか──じゃあ賀来千香子《かくちかこ》はあの中で言うと?」
「おい、最初に賀来千香子かよ。うーん……青島さん? 違うか」
そこで二人でゲラゲラと笑う。
「あのドラマ、良かったよなあ」
そこから二人のやり取りはテレビの話題に移ってしまった。僕は緊張の糸を解く。そしてどうやらそのまま少し微睡《まどろ》んでしまったようだ。
胸元にいきなり冷水を浴びせられて、僕は飛び起きた。反射的に辺りを見回すと、渡辺さんが後退《あとずさ》りながらケラケラと笑っていた。海から上がってきた彼女が悪戯《いたずら》心を起こしてやったものらしい。濡《ぬ》れた髪がいい具合に乱れていて、全身の肌にも水滴の玉が無数に貼り付いている。やや太めだが、微妙に猫背で内股という無防備な姿勢も、瞬間的に可愛く見えてしまった。ビキニで無防備というのは反則に近い。
「もうー」と僕は不機嫌そうな声を出したが、それが本気でないことは表情で伝える。
「いきなり焼くと火傷《やけど》しちゃいますよ」と言ってまたクスクスと笑う。
海に着いてからずっと嬌声を上げていた彼女からすれば、僕があまりこの場を楽しんでいないように見えたのかもしれない。それもあってちょっかいを出してくれたのではないかと、僕は好意的に解釈していた。
「ビール飲みます?」と言って、渡辺さんはクーラーボックスの中を覗き込む。お尻をこちらに向けた姿勢で──これはもしかして、無防備を装った挑発なのでは、と僕は思った。もしそうだとしたら、彼女は僕のことを……? いや、それはないだろうと考え直す。変に意識して馬鹿みたいだ。「レーベンブロイがあったらそれをください」と注文をして、差し出された缶のプルトップを開けたところで、再び辺りを見回す。
「あれ? がっちゃんと北原は?」
「さっき海に出ていきましたよ。……隣に座っていいですか?」
僕はお尻を少しずらして、彼女のためにスペースを空けた。間近で見るその身体はやはりボリューム満点で、胸の谷間はたしかに魅力的だったが、お腹に段ができているのは、女性としてみればやはり減点の対象になるだろう。「あれなら僕はギリギリオッケー」という先ほどの大石の言葉が不意に耳によみがえり、目のやり場に困った僕は、とりあえず遠く海のほうを眺めた。水平線の上を幻のように、大型のタンカーのような船が動いている。
「鈴木さんって、基本的には物静かなんですよね。この前のカラオケでははっちゃけていましたけど。もう一回あれが見たいな、なんちゃって。飲んでくださいよ」
いくら僕でも、話し掛けられればそっちのほうに目を向ける。そうして渡辺さんの横顔を見ると、意外なことに、彼女が少し緊張しているようだったので、それで僕のほうも妙な心持ちになった。
どうやら思い違いでもなさそうだ。渡辺さんは僕に好意を持ってくれている。
どうして成岡さんじゃないんだ……。そんな理不尽なことを思った。女性から好意を寄せられているだけでも、ありがたいと思わなければならない人間のくせに。
僕と渡辺さんはそのまましばらく会話を続けた。といっても、喋っているのはほとんど彼女ひとりで、僕はときおり相槌《あいづち》を打つだけという状態のそれを、はたして会話と称して良いものかどうか。
僕はその間、妙に冷静な気持ちでいられた。醒めた気持ちといってもいいかもしれない。彼女の持ち出す話題は芸能界に関するものが多く、知的な話題は皆無だった。性格的には明るいし、愛されるに値する女性だとは思ったが、彼女を愛するのは、少なくとも僕の役ではない。
そう判断を下した時点で、渡辺さんと二人でいる今の姿を成岡さんに見られたくないと思った僕は、話の区切りがつくのを見計らって、「ごめん、ちょっとトイレ」と断って、パラソルの骨に掛けておいたアロハを羽織り、海の家へと向かった。途中で一度振り返り、渡辺さんにゴメンネのポーズをして見せたのは、彼女への僕なりの配慮だった。
小用はすぐに済み、といってそのままビーチに戻っては元《もと》の木阿弥《もくあみ》になってしまうので、僕は駐車場側の階段を昇って、海の家の座敷に腰を落ち着けることにした。今日二本目となるタバコを一服しながら、腕時計で時刻を確認してみると、ちょうど午後一時になるところだった。ビールの当てにさんざんおでんやら焼きそばやらを食べていたので、空腹は感じなかった。
日陰に入るとやはりそれなりに涼しさを感じる。下に敷かれた茣蓙《ござ》の感触が心地よい。僕はタバコを吸い終わると、座敷にゴロリと横になった。目を閉じて、単調な海のうねりを耳にしていると、いつまでもこうしていたい、このまま時間が止まってくれればいいのに、という気持ちになる。
結局、そのまままた微睡んでしまっていたようだった。
「鈴木さん?」という声で、僕は目を覚ました。この声は──成岡さんだ!
「ああ」涎《よだれ》は出てなかっただろうな。「ちょっと寝てしまいました」と言いながら慌てて上体を起こす。すぐそばに彼女が立っていて、僕のほうを覗き込んでいる。
「私たちが海に行っていた間も、ずーっと飲んでましたもんね。起こしちゃってごめんなさい」
「いえいえ、とんでもない」と言いながら、僕は辺りの状況を確認する。「せっかくみんなで来たのに寝てばかりいて、僕のほうこそ」他には誰もいない。僕のそばにいるのは成岡さん一人だけだった。寝起きの精神状態から一転して、僕はにわかに緊張し始める。
成岡さんは海から上がってまだ時間が経っていないようで、髪も水着もまだ濡れていた。上体を起こした僕の右横にしゃがみ込んで、彼女は悪戯っ子のような表情を見せ、囁《ささや》くように言った。
「あの……タバコ、一本いただけません?」
思わず「え?」と言ってしまった。「タバコ、吸うんですか?」
「仕事場とかでは吸わないんですけど、家で夜寝る前とかにはいつも。意外ですか?」
「意外です。……あ、どうぞどうぞ」僕は箱を相手に手渡した。
「じゃあ、いただきます」と可愛らしく微笑んで、一本を取り出して火をつけた。ちゃんと煙を胸の中に吸い込んでいる。本当に喫煙の習慣があるらしい。「友達の前とかでも吸わないし、だから今日も吸わないつもりで、自分のは置いてきちゃったんですけど、急に吸いたくなっちゃって」と説明してからまた煙を吸って、ふーっと吐き出す。水着姿の成岡さんが僕のすぐ隣で体育座りをして、そして僕のタバコを吸っている。こんな状況は想像もしていなかった。
「鈴木さんは、タバコを吸う女性は嫌いですか?」と聞かれて、僕は慌てて答えを探した。一般論として言えば、女性がタバコを吸うことに関しては、あまり好ましいとは思っていなかった。でも成岡さんには好意を抱いている。その成岡さんがタバコを吸っている……。
「正直に言えば、そういう気持ちもありましたけど、でも偏見ですよね、それって」
結局はそんなふうに答えたが、成岡さんの歓心を買うことはできなかったようで、彼女はまったく違う話をし始めた。
「やっぱりこれ、ちょっとキツイかな。私がいつも吸っているのは、カプリっていうんですけど、この半分ぐらいの細さしかないんです。だからいつもの倍の煙を吸ってることになるでしょ?」
「いや、細さっていうのが、もし直径のことを言っているんだったら、断面積は四分の一になるから、いつもの四倍の煙を吸っているってことになるんじゃないですか?」と僕は思ったままを口にした。成岡さんは、感心したのか呆れたのか、
「鈴木さんたちって、数学科って言ってましたよね? いっつもそんなふうに物事を計算して考えてるんですか?」などと言われてしまった。
「そんなふうにって──」
「じゃあ、数字を憶えるのとかも得意?」
そう言って、彼女は不意に六桁の数字を口にした。僕は言われるまま、数字を一度頭の中で復誦した。
「ええ、大丈夫です。憶えました」
「じゃあ言ってみて」僕は暗誦してみせた。「もう一回」僕は繰り返す。
「じゃあそれ、忘れないようにしておいてください。それ、ウチの電話番号だから」
顔を寄せて、そんなふうに彼女が囁いた、次の瞬間にはもうすでにその身体は離れていて、腰を上げながら「タバコ吸ってるの、みんなに見つからないようにしないと。だからごめんね」と言って、まだ半分も吸っていないタバコを灰皿に潰すと、また僕のほうに顔を寄せてきて「私が先に行くから。時間をずらして来てね」とだけ囁いて、すたすたと階段のほうに向かって歩いてゆく。
彼女が現れてから、たった数分間の出来事だった。僕は翻弄《ほんろう》されるばかりだった。今も彼女の小柄な後姿が座敷から消えてゆくのをただ目で追うしか能がなかった。何が起こったのかを理解するまでには、さらに時間が必要だった。
そうだ、あの数字は──番号は──大丈夫だ。憶えている。とにかくこれだけは、忘れないようにしておかないと。
僕は入念に、時間をかけて、その六つの数字の並びを、しっかりと脳に記銘した。
そして考える。……彼女はタバコを吸いたくなったが、自分のタバコを持って来ていなかったので、他にタバコを吸う人間として僕に目をつけた。僕がここにいると見当をつけて上がってきて、タバコを吸った。喫煙している姿をみんなに見られたくないので、急いで吸い終わり、そそくさと帰っていった……。
でも──みんなに見られるのが嫌なのに、僕に見られるのは平気というのが、よくわからない。いや、わからなくはない。同じ喫煙仲間として、心を許しあえる間柄だと、あるいはそういう間柄になれると、僕のことを見ていたのだろう。そして僕は、すでに彼女の喫煙を心の中で認めてしまっている。
しかし、それでもわからないのは、僕に電話番号を教えてくれた、あの一件である。彼女はどういうつもりで、僕に番号を教えたりしたのだろう。まさか彼女のほうでも、僕に好意を持ってくれていたとか……?
合コンのとき、トイレの前で立ち話をしたときの彼女の顔が、脳裏に浮かぶ。今までに彼女と二人きりになったときといえば、あのわずかな時間だけしかない。
まさかそんな、自分にとって都合の好い展開になるはずがないだろう、と僕はその可能性をなるべく否定するような考えを巡らせる。英会話の教材を買わされたりとか、そういうことになるんじゃないか、というのが、その時点ではもっとも有り得ることのように思えた。
海ではその後、成岡さんとも渡辺さんとも、二人きりになる機会はなく、また僕の側でもそれらの問題は一時的に棚上げ状態にしてしまって、ともかく残りの時間を大過なく過ごすことにだけ尽力した。そと見には普段どおりの僕でいられたと思う。午後四時を前にして撤収を開始し、一五〇号線の途中でココスに寄って食事をした。車三台を連ねて、一度渋滞に嵌《はま》りはしたものの、陽が落ちる前には無事に安倍川のこちら側に戻ってきた。アパートの自室に辿《たど》り着いたのが午後七時過ぎ。
室内着に着替え、気分が落ち着いたところで、僕は改めて彼女たちのことを考えた。彼女たちといっても、ほとんどは成岡さんのことばかり考えていた。結論は出ず、溜息ばかりが出た。
一週間が経った。
海で焼けた皮膚が、ボロボロと剥《は》がれ始めている。それだけ時間が経ってしまっているということだ。
それなのに僕はまだ成岡さんへの電話が掛けられないでいた。
思いがけない形で向こうから訪れてくれたチャンスを、みすみす逃すようなことはしたくなかった。何より、もう一度彼女に会いたいという気持ちが強かった。海の家でのあの数分間のような濃密な時が、もう一度過ごせるのならば、そのためには何をしてもいいとさえ思っていた。
しかし電話をして、彼女に何を言えばいいのだろう。
出身高校からすれば、彼女の実家は市内にあるはずで、そして今の職場も市内にあるのだから、彼女は今も実家に住んでいる可能性が大きい。もしそうだとしたら、電話をしても、彼女以外の人間が出る可能性がある。彼女本人が出てさえ何を言っていいのかわからない状態なのに、もしそんなことになったら……。
そんなためらいと熱望の狭間《はざま》にいて、気がつけばすでに一週間が過ぎてしまっていたのである。もうこれ以上は延ばせない。今は日曜日の午後九時過ぎ。この時刻ならば家にいるだろう。……少なくとも誰かは。
本人以外の誰かが出た場合にはそのときだ。そんなふうに決意を固めると、僕は受話器を取り上げ、記憶の岩盤にしっかりと刻み込まれた、あの六|桁《けた》の数字をプッシュした。
出てくれ。いや、出るな……。
一度目のコール音が鳴った途端に、僕は受話器を置いてしまっていた。そんな自分が情けなくなる。
今までの僕だったら、そこで挫《くじ》けていただろう。しかし僕はひとつ大きく息を吐いて、再び受話器を取り上げると、リダイヤルのボタンを押した。コール音の間隔が、あの時に聞こえていた潮騒の間隔と重なった。彼女が僕に顔を寄せて囁いた、あの時の記憶がよみがえる。
五度目のコールで受話器が外れる音がした。
「はい。もしもし。成岡です」若い女性の声だった。本人だと思ったが、いちおう確認してみる。
「あの、マユコさんをお願いします」
「私です。……もしかして、鈴木さん?」
「そうです」声でわかってくれたのだろうか。僕はそれで勇気を得た気分になる。「こんばんは」
「こんばんは。……ずっと待ってたんですよ。それなのに掛かってこないから、もう電話はないと思って諦《あきら》めていました」
「ごめんなさい」と謝りながら、僕は今、成岡さんと話をしているんだ、と改めて思う。しかし電話だと声のやり取りだけで、あの魅力的な表情が見られないので、どうも彼女と話しているという実感が湧《わ》かない。
「何を話したらいいのかとか、あと家の人が出たらどうしようとか考えてて……」
「あ、言わなかったっけ? 私、独り暮らししてるんだけど」
「あ、そうなの?」
それでだいぶ緊張が和らいだ。とりあえず、彼女が家族と同居しているのではないかと思った過程を説明する。それで話題をひとつ稼げたと思った。それからようやく気が回って、
「あ、そういえば今、電話、大丈夫ですか?」と聞くと「大丈夫」とのこと。変に気を遣ったぶん、話題がそこで一段落ついてしまった形になり、会話が途切れそうになった。僕は慌てて話の接ぎ穂を探し、そして気がつけば、「でも、あれからずっと考えてたんですよ。どうして僕なんかに電話番号を教えてくれたのかって」などと言ってしまっていた。……それをいかに間接的に聞き出すかが問題だったのに。
「もちろん」と彼女が言ってから、しばらく間が空いた。そして続いた言葉は──「こうして個別に連絡を取りたいって思ったから。……鈴木さんにとっては、迷惑だった?」
「ううん」と僕は思わず強い口調で否定した。僕だって。「僕も成岡さんと、連絡を取りたいって、思っていました」
「連絡を取るだけじゃなくて、デートにも誘ってほしいなって思ってたんだけど」
「デ……」頭がショートしてしまった。慌てて言葉を探す。「じゃあ、誘ったら、来てもらえるんですか?」
「デートっていうか……一緒に食事したり、お酒を飲みに行ったりしてくれる人がほしいなって思っていて、もし鈴木さんが嫌じゃなかったら、ときどきそうやって、私に付き合ってくれたらって思ったんです。私って、仕事が五時半に終わったあと、いつも一人で家に帰ってきて、一人でご飯食べたりしているんですけど、考えてみたらそれってかなり淋しいことだと思いません? うーん、だから誰かに──心の隙間っていうの? それを埋めてほしいって思ってたんですよ。あ、でも、だからって、じゃあ別に誰でもよかったんだってわけでもないんですよ。この人とならって思える人じゃないと。そういう人に出会えたらいいなって思って、あの合コンに出てみたら、鈴木さんがいて……」
「それで僕のことを?」にわかには信じられない。「だって僕は、今までに女の人と付き合ったこともないし、喋るのも下手だし……」
「だからこそ、ですよ。誠実だと思うんです、鈴木さんは。私はそれが一番大事なことだと思っています。だって、女の人を器用に扱える人って──それはもちろん、そういう人と付き合うほうが、女の側からすればすごい楽だとは思うんですけど、でも考えてみれば、その人がそうなるまでに、じゃあ今までにいったい何人、女の人を泣かせてきたかって考えると、そんな人は信用できないって思って。だったらもっと真面目で、でもそのぶん不器用だったりするけど、絶対に嘘なんてつけないような人がいいなって、それはずっと前から思ってて」
「不器用なのは得意です。自信があります」僕がそう言うと、成岡さんは楽しそうに笑った。笑顔が見えるようだった。「じゃあ、平日の夕方がいいわけですね?」
「あ、はい。私のほうは。でも鈴木さん──大学の四年生って、ゼミとかがあって、あとアルバイトとかもあるんでしょ?」
「ある日もあります。週に三日ぐらいは、ゼミとかバイトとかが入っています」
「金曜日は大丈夫なんですか? 前に合コンやったのが金曜日だったはずですけど」
「あ、はい。金曜日は基本的に、特に予定の入ってない曜日です」
「私も、ほら──他の曜日ならまだ平気なんだけど、金曜日って、ほら、みんな誰かとどこかに行ってるような気がしません? そういう中で、私一人だけが真っ直ぐ家に帰っているような気がして、だから金曜の夜っていちばん気が滅入《めい》るんですよ。だからその日に、鈴木さんが都合がよくて、食事に付き合ってくれるっていうんでしたら……」
「大丈夫です。特に八月は僕ら、ずっと夏休みですし、家庭教師も昼間にやることが多いですから、夜はだいたい大丈夫です」と請け合ったところで、僕はひとつ深呼吸して、「じゃあ成岡さん」
「はい」
「今度の金曜日、十四日の夜、僕と食事していただけます?」
「えーと、十四日は……っと、ごめんなさい。その日は都合が悪いの」
「え?」あ、そうか。八月十四日といえばお盆休みの真っ最中だ。彼女だって実家へ帰ったりする用事があるのだろう。「じゃあ他の日は? えーと──」僕が慌ててそう言うと、電話の向こうでクスクスと笑う声が聞こえた。
「ごめんなさい。嘘ですよ。そんな、金曜日がいいって言っていた端から、いきなり都合が悪いとかって、あるわけないじゃないですか」
「なんだ……良かった」また翻弄されてしまったようだ。しかし悪い気はしなかった。こんなふうに罪のない嘘でじゃれ合うのも、それが許されるのはごく内輪の──あるいはたった一人の相手でしかないのだとすれば。
その後、僕らは待ち合わせの場所を決め、僕のほうの電話番号も彼女に教えて、通話を終えた。
電話機がこれほど役に立つ道具だと知ったのは、この時が初めてだった。
3 YES−NO[#「3 YES−NO」はゴシック体]
金曜日までの五日間が待ち遠しかった。
未来に楽しみなイベントが待っているという状態そのものが、楽しく感じられる。次があるということの幸せ。さらにその次も、あの口ぶりからすれば期待できそうな感じだったが、もしそれが無かったらダメージが大きいので、その先のことはなるべく考えないようにして、とにかく次の金曜日のことだけを思って過ごすようにした。
月曜日に家庭教師のバイトをこなし、火曜日の夜には電話のベルの音にびくつき(まず最初に思ったのが、成岡さんからのキャンセルの電話ではないかということで、しかし実際には実家の母からだった)、水曜日は大学の図書館に行って暇を潰し、木曜日にはまたバイトをこなして、そして金曜日の当日になり、日中は読書で時間を潰そうと思ったが、少し読んでは本を閉じ、意味もなく部屋の中を歩き回っては、また座って続きを少し読み、といったことを繰り返すばかりで、本の内容はなかなか頭に入ってこず、落ち着かない気分のまま、長い午後を過ごすことになった。
時刻が午後五時になったのを確認したときには、ついに辛抱できなくなり、まだ早いとは思いつつも出掛けることにした。バスでセンターまで行き、さらにそこから徒歩で青葉公園へと向かう。待ち合わせ場所に着いたのが五時半で、約束の六時までにはまだ三十分もの間があった。
いや、今までの長い五日間に比べたら、あとたったの三十分と言うこともできる。あとたったそれだけの時間が過ぎれば、僕は成岡さんと会っているはずなのだ。そしてそれからしばらくの間は、彼女と二人だけで過ごすはずなのだ……。そうやって考えると、逆に残り時間が少なく感じられてきた。あとたった三十分しかない。その間に、今日これからどこへ行って何をするか、彼女をどうやって楽しませられるか、自分なりの案を練っておかなければならないと改めて思う。
ベンチに座ってゆっくりと左右を見渡す。看板にはすでに照明が灯《とも》っているが、空はまだ輝きに満ちている、中途半端な時刻。大勢の人が駅の方向に歩いている。自転車に乗った女子中学生の集団が元気良く走り抜けてゆく。僕は静岡市に住んで三年半になるが、市の中心部のこのあたりの飲食店については、ほとんど何も知らない。詳しいと自信を持って言えるのは、大学周辺と自分のアパートの近所と、今までに受け持った数軒の家庭教師先までの道筋と、あとはJRの駅近辺についてならば多少は、といった程度でしかない。戸田書店の棚にどんな本があるかとか、あるいはプラザよしだ弁当のメニューについてとかならば、相当に詳しいと自信を持って言えるのだが、そんな知識が役に立つとも思えない。
二本目のタバコを灰皿に捨てたとき、ひとつ先の交差点を渡っている成岡さんの姿を見つけた。短髪の彼女は遠くからも目立っていた。最初の合コンのときに着ていたような、清楚《せいそ》なイメージのブラウスとスカート姿で、黒っぽいバッグを腕に提《さ》げて、子供のように姿勢良くトコトコと歩いている。僕はベンチから立ち上がり、彼女のほうに向かってゆっくりと歩き出した。
しかし悲しいことに、彼女のほうは僕がすぐそばに行くまで気づいてくれなかった。目の前に立った僕の視線にようやく気がついて、パッと目が合った瞬間、彼女はその場に棒立ちになった。一瞬の驚き顔が、僕を認めた途端にパッと輝く。僕は照れ隠しに頭を掻きながら、「早く来すぎちゃったもんで」と言って微笑んだ。
「ごめんなさい。そんな格好で来るとは思ってなかったもんで」彼女はそう言って、僕のスーツ姿を上から下まで何度も見直していた。
「おかしいですか?」僕は不安になって聞いてみた。自分ではそんなにおかしな格好をしているつもりはなかったのだが。彼女が勤め帰りだということだったので、僕もそれに合わせてきたつもりだった。今年の春に就職活動のために買った、いわゆるリクルートスーツというやつである。さすがに上着は暑かったので脱いだまま、今は腕に掛けている。
「ううん。でも暑そうだなと思って。私はいつもこんなラフな感じですから、鈴木さんもジーパンとかTシャツとかでぜんぜん構わないですよ」という彼女の言葉は、次回以降を想定してのものだったので、僕は内心でガッツポーズを作った。しかし、
「じゃあ、どこへ行きましょう?」と聞かれて、僕は途端に狼狽《ろうばい》する。
「どうしましょう?」
「鈴木さんは……そういえば、お金のほうは大丈夫ですか?」
「今日は、とりあえず三万円ぐらいなら大丈夫です」と僕は言っていた。大丈夫というのは、手持ちの現金がそれだけあるということで、全部使っていいかどうかは別問題だったのだが、そこまで説明するだけの言語能力が僕には不足していた。しかし成岡さんは微笑んで、
「あ、ちなみにお勘定はワリカンにしましょうね。今日も、その先も。で、私のほうがそんなに払えないから、もっと気楽に食べれるところにしましょう。私は別にマックとかでもいいし」
「あ、じゃあマックにしましょう」
助け舟を出された形になったものの、僕はその後は彼女をリードして角のマクドナルドに入店した。その前に、本当にワリカンでいいのか、確かめておくべきだったと思ったが、すでに機会は逸していた。いちおう僕のほうが誘ったことになっているわけだし、それでなくても男のほうが勘定を持つのが当然だと僕は思っていて、そのことを彼女に言っておきたかったのに、言葉が出てこなかったのだ。
注文を済ませ、トレイを持って二階に上がる。店内は七分ほど席が埋まった状態で、僕たちは喫煙可のコーナーに二人掛けの空席を見つけて腰を下ろした。テーブルが小さくて食事には不向きな感じがしたが、向かい合ったときの距離がより近く感じられるのは良いことだと思った。
落ち着いたところで、「じゃあ、とりあえず、お疲れさま」と僕が言って、ストローを挿したドリンクのカップで乾杯の真似事をした。
成岡さんはアイスコーヒーをひと口飲んだところで、「あー、今更になっちゃったけど、ビアガーデンって手もありましたね」と言って微笑んだ。そうか。仕事あがりの一杯目にはやはりビールがふさわしかっただろうし、僕は街中には詳しくないとか言いながら、新静岡センターの屋上にビアガーデンがあるのは知っていた。どうしてそれを思いつかなかったんだろうと、自分の考えのなさを反省する。しかし成岡さんは続けて、「ここってそんなに長くいられないじゃないですか。だからこの後で、どこかビールの飲めるところに行きません? 時間とか大丈夫ですか?」と言ってくれた。僕の反省点がすべて結果オーライな方向に変わってゆく。
僕もコーラで喉を潤した。渇ききった喉に炭酸の刺激が心地よい。彼女と同じタイミングでストローに口をつけると、よりいっそう成岡さんの顔が間近に見えて、目が合うと彼女は愉快そうな、まるで悪戯っ子のような表情を見せる。……これは本当に現実なのだろうか、僕の願望が生み出した妄想なのではないかと、疑ってしまいそうになる。
ともかく何か喋らないと、と焦っていたら、「あ、皮、すごい剥《む》けてますよね」と突然言われたので、何の話かと思ったら日焼けのことだった。僕の腕の皮膚の状態に見入っている。「あれからまた海に行ったりしたんですか?」
「いえ、僕はずっと家にいました。これはあの日の日焼けだけでこんなふうになったんです。……成岡さんは大丈夫なんですか?」
「私は色がついただけです。日焼け止めも塗ってたから、皮が剥けたりはしないみたい」
そこで会話が途切れてしまう。何か話題を考えないと、と焦っていると、また成岡さんが発言した。
「鈴木さんって、今四年生なんですよね? 就職活動とかは大丈夫なんですか?」
「あ、僕はもう、今年の春には内定を貰《もら》ってます」
「どこに行くんですか?」
「あの……富士通です。コンピューターの会社の。FM−7とかオアシスとかの」
「それは……東京ですか?」
「そうです。もちろん就職した後でどこに配属されるかまでは知りませんが、とりあえず東京の本社で試験を受けて、そこで内定を貰ってますから」
そう言うと、成岡さんは「そうなんだ」とぼそりと呟《つぶや》いた。反応としてはあまり芳しいものではなかった。僕はその原因を考える。もしかして、このまま二人が付き合うことになった場合まで想定して、彼女は遠距離恋愛の心配をしているのかもしれない。その想像は嬉しかったが、どうフォローすればよいのかがわからずに、僕は言葉に詰まる。
とりあえず、会話が途切れたら、僕も質問をすればいいのだと気づいた。成岡さんに聞きたいことはたくさんある。まずは──
「ええと、今更のような質問になっちゃうんですが、成岡さんの名前って、マユコって、どういう字を書くんですか?」
「あ、えーと、カイコのマユっていう字を書きます。それに子供の子」
咄嗟《とつさ》に「繭」という字が思い浮かばなかった。それが表情に出たのだろう。彼女はトレイの上に指で字を書いてくれた。
「へえ。それで繭子《まゆこ》……さんですか」うまく言葉が続いてくれない。綺麗な名前ですねとか何とか言えばいいのに、と自分を歯痒《はがゆ》く思っていると、
「本当のことを言うと、私はあんまり自分の名前──マユコって音はいいけど、漢字で書くのは、本当はそんなに好きじゃないんですよ」と彼女は付け足した。「自分の名前の中に、虫っていう字が入ってるのが──今はそんなに気にならなくなったけど、子供の頃はずっと嫌だなって思ってたんです。だから自己紹介のときとかも、いまだに漢字でどう書くかは説明しないで済ませちゃうことが多いんです。……今も鈴木さんに変に褒められたらどうしようかと思ってました。でも何も言わないでくれたんで、ちょっとホッとしています」とのことで、またしても怪我の功名と言うべきか。
「あ、とりあえず温かいうちに食べましょう」と彼女が言ったので、僕はバーガーとポテトに口をつけ始めた。食べながらも会話は続けられる。会話というか、一方が質問をしてもう一方が答える、ということの応酬が行われて、それでもかなり時間が持ったし、成岡さんに関する知識も増えた。
実際に話してみて一番の収穫だと思ったのは、彼女も読書を趣味にしているということだった。実は合コンのときにもまずそれで最初に僕に注目したのだという。ただし僕の趣味が推理小説オンリーなのに対して、彼女は古典文学を愛好していて、共通する部分がほとんどなかった。二人がともに読んでいる作家を見つけようとして、お互いに名前を挙げていったら、ようやく連城三紀彦《れんじようみきひこ》が見つかったという感じで、僕はその結果を残念に思ったのだが、彼女のほうは「でも、お互いに自分の好きな本を相手に教え合えば、今まで関心のなかった作家に目を向けられるし、趣味が広がっていいと思いません?」と前向きな考え方を示し、さらに「じゃあ今度会うときには、お互いにお奨《すす》めの本を一冊ずつ持ってきて、交換しましょう」とまで言ってくれた。
さらに僕は勇気を振り絞って、彼女がなぜ独り暮らしをしているのか、その理由を聞いてみた。答えは単純で、彼女の実家は市内には市内だが、川向こうの丸子《まりこ》にあり、そこからだと通勤の便が悪いので、職場に近い場所に部屋を借りて、この春から独り暮らしを始めたのだという。住んでいるのは住吉《すみよし》町というところで、本通りと安西通りの間あたりにあるという話だった。住所まで聞くのはどうかと思って、僕が遠慮していたら、彼女が自ら話してくれたのである。
去年一年間は、実家から電車とバスを乗り継いで、清水にある歯科衛生士養成の専門学校に通っていたという話も出た。僕はそれを聞くまで、一年制の専門学校があるということさえ知らなかった。高卒なら去年から働いていたはずだし、どうも計算が合わないなあと、実はそれも疑問に思っていたのだった。話をしているうちに、芋蔓《いもづる》式に彼女に関する知識が増えてゆく。さらに彼女は、
「高校は女子高だったし、専門のときもほとんど女の子ばかりだったから……中学のとき以来かもしれないです。男の人とこれだけ話をしたのって」とも言っていた。それはつまり、今までに男性と付き合ったことがないということを意味しているのではないか。だから僕も「ウチも今、同じような状況ですよ。数学科ってところは女子がほとんどいなくて、だからほとんど男子校のノリです」と言ってみたが、それでは自分が女性と付き合ったことがないということのアピールにはなっていないと、すぐに気づいた。しかしまあ、いいか。
バーガーとポテトを片付けたところで、僕は成岡さんの了解を得てからタバコに火をつけた。最初の灰を灰皿に落としたところで、「成岡さんは今日は?」と聞いてみると、
「実は持ってきてるんですけど、今はやめときます」と言って、悪戯が見つかったときに子供が見せるような表情をしてみせた。
マクドナルドを出たのが午後七時前で、僕たちはとりあえず駅のほうに向かって歩き出した。もうすでに日は落ちていて、空が暮色に染まっている。谷島屋書店がシャッターを半分下ろしていた。次の角を右に折れ、ゆっくりと歩きながら、僕たちは二軒目をどこにしようか話し合っていた。
「どこか隠れ家的な雰囲気の店があるといいですね」という成岡さんのリクエストにはぜひとも応えたかったが、僕は全くと言っていいほどこのあたりの店を知らなかったし、先月二十歳になったばかりの成岡さんにしてもそれは同様だった。青葉公園の南側一帯は飲み屋街になっていて、赤ちょうちんを表に吊った店から、怪しげな色の看板を出している店まで、種類も数も実にたくさんあるのだが、外見だけではそこがどういった店なのか、なかなか判断がつかない。かといって、合コンをやったあの店に行こうという案は、二人とも出さなかった。店自体は悪くない雰囲気だったのだが、何しろ望月と松本さんが予約を入れた店なわけで、だからどこからどう情報が洩《も》れて、僕たちがこうして個別に会っているということが彼らに知れてしまうかわからない。僕はそう考えていたし、成岡さんもたぶん同じように考えているのだろうと僕は思っていた。
やがて成岡さんが立ち止まって「ここにしよっか」と言ったのは、道路から少し階段を下ったところにある、ちょっとオシャレな構えの店だった。入口の外に大きなビア樽が置いてあって、古木の看板が鎖で吊られていたりする。半地下にある店なのに、ガラス越しに見える店内は煌々《こうこう》と照らされていて非常に明るい。雰囲気は悪くなさそうだった。
「いらっしゃいませー」
店員の声がかかり、僕たちはカウンター席に案内された。向かい合わせで座るほうが良いのに、と内心では思っていたのだが、実際に隣同士で座ってみると、これはこれで悪くないと思ったりする。成岡さんが僕の上着をハンガーに掛けてくれた。僕は生ビールの中ジョッキを注文したが、彼女は生レモンサワーというのを頼んでいた。半分に切ったレモンが絞り皿とともに出て来て、僕がそれを絞る役を仰せつかった。まずは乾杯を済ませ、それから料理を注文する。同じ側からメニューを覗き込んで、
「この金ギョーザっていうの、ちょっと食べてみたくない?」
「え、どれどれ?」
などと言葉を交わしていると、それだけで親密の度がさらに増したように思える。隣同士で話をするのに最適な声の大きさというのがあって、それだと意外と他の客に聞かれる心配がないということもわかった。
そこでの会話もマクドナルドのときと同様、お互いの質疑応答が主であった。
「鈴木さんって、免許は持ってないんですか?」という質問をされる。僕は持ってなかったのでそう答えると、彼女は、僕が東京で就職すると知ったときと同様の反応を見せた。つまり彼女にとっては、車の免許を持っていて静岡に就職する男性が理想だということになる。就職先は別として、車の免許ぐらいはどうにかできなくもない。というかどうにかしたい。
「免許、取ろうかな」と僕が言うと、彼女はパッと顔を輝かせて、
「そうですよ。絶対、車の免許ってあったほうがいいと思います」と弾んだ声を出した。「アメリカの男の子って、特に田舎のほうだと、十六歳になるとみんな免許を取って、どんなにオンボロでもいいから、とにかく自分の車を買うんですって。そうしないと女の子に相手にされないんだそうです。ほら、向こうの田舎って、住宅街なら住宅街、繁華街なら繁華街っていうふうに、すごく離れてたりするじゃないですか。だから車がないと、女の子も付き合っていて楽しくない、みたいな感じになるんだって、何かで読んだことがあります。……そういうこともあるし、あと普通に、免許がないってことで将来、仕事の上で困ったりすることもあるかもしれないじゃないですか」という最後の部分は、慌てて付け足したという感じだった。本音は前半の部分にあったのだろう。すなわち、カレシになる人には車を持っていてもらいたいと。よし、免許ぐらい取ってやろうじゃないの、車ぐらい買ってみせようじゃないの、と改めて決心する。
成岡さんはさらに注文をつけた。
「あと鈴木さんって、もうちょっとオシャレに気を遣ったほうがいいと思うんです。あ、ううん。別に今のままでもいいとは思うんですけど、あとちょっとだけ、オシャレにもう少し気を遣ったら、絶対にもっとカッコよくなるのにって思ってて……。何か、それがすごいもったいないような気がしてて」
ああ、ついに来たと思った。そこを突かれると弱いのだった。
僕は今まで、あまりオシャレには気を遣うことがないまま生きてきた。そういう自覚は少なくともあった。別にオシャレのセンスがないとは思っていないのだが──つまり普通に、この色とこの色は合わないだとか、そういった感覚的な部分では、いちおう人並みのセンスは持っていると自分では思っているのだが、そういうことではなく、実際にどこの店のどういうブランド品が良いだとか、どういったデザインがいま流行っているかなどといった、情報面に関しては、まわりの友達と比べても、自分はかなり劣っているという自覚があった。
外見を飾るのはたやすいが、内面を磨くのはそれほどたやすくはない。そして僕は内面を磨くことを重視して今まで生きてきた。だから僕の場合は、そこを見てほしいという気持ちが強くあって、それゆえに自分の外見を飾ることに対しては努めて無関心であろうとしてきたのだと思う。人を外見で判断する人には、認められなくていい。というかむしろ認められないほうがいい。そこで僕の側でも相手を選別できるから。外見を飾っていない僕を見て、それでも関心を寄せてくれる人こそが、相手の内面を重視する──つまりは僕の同類なのである。
成岡さんは僕と同類のはずだった。読書を趣味とし、男女交際に関してもわりと守旧的な考え方を持っている。そこまでは間違っていないと思う。
問題は、相手を選んだ後のことである。内面で相手を選んだにしても、やはりその相手と並んで歩くときには、みすぼらしい格好をしているよりは、オシャレな格好をしているほうが気分がいいはずである。その道理はわかる。つまり僕もこれからは、外見を飾ることに多少は気を遣っていかなければならないのだろう。成岡さんのために。
そんなことを考えている間に、彼女の指摘は、より具体的な部分に移っていた。
「──たとえばそのメガネも、もうちょっとオシャレな感じのものに変えるだけで、だいぶ印象って変わると思うし……コンタクトってしたことは? タック──」と言ったところで言葉を詰まらせたので、どうしたのかと思ったら、「タックってわかります?」と真顔で聞かれたので、やや憤慨気味に「僕だってタックぐらいはわかりますよ。こう、布を折り返して、ズボンとかに入ってる」と答えると、彼女は「そうですよね、ごめんなさい」と言ってクスクスと笑った。
「──で、そう、たとえばそのズボンのタックとかも、一本入ってるか入ってないかっていうそれだけで、だいぶ印象が変わるのに──それで同じ値段でスーツを買うなら、どうせならオシャレに見えるほうを買ったほうがいいじゃないですか」
「そうだよね」と僕は素直に同意した。まったく彼女の言うとおりだと思った。
「でもそうやって、いろいろと買うとなると、お金もかかりますしね」と彼女が言葉のトーンを変えて心配してくれたので、「大丈夫です。今までに家庭教師のバイトとかしてきて、けっこう僕、お金は持ってるんです」などと偉そうに言ってしまった。その後で彼女が社会人であることに思い至る。でもたぶん僕のほうが預金額は多いだろうと思う。
「じゃあもっとオシャレに気を遣いましょうよ」
「そうします」
という感じで、とりあえずその話は終わった。
三杯目か四杯目のおかわりをしたころには──やはりアルコールの効用というのはあるのだろうか、最初のころに比べると、僕たちの口調もぐっと砕けたものに変わっていた。
「鈴木くんは、映画はよく見るほう?」と、成岡さんは途中から僕のことを「くん」づけで呼ぶようになっていた。
「えーっとね、今までは家族で行ったことがあるとか、そんな感じだったんだけど……一昨年かな? ヒッチコックの映画で版権の切れたやつをロードショー公開したことがあって、そのときには一人で見に行きましたよ。あと、けんみん映画祭とかも」
「ヒッチコックねえ。やっぱりサスペンスとかそっち方面なんだ。あ、でも『レベッカ』って、ヒッチコック監督の映画じゃない?」
「あ、そうです。でも僕は見てないんですけど」
「私も見てないけど、デュ・モーリアの小説は読んだことがあって、それはけっこう良かった。……女の人がお金持ちの男の人と結婚して、その人の屋敷にお輿入《こしい》れするんだけど、その人は再婚で、前の奥さんは死んじゃったんですけど、で、その家の人たちが、あの、家政婦のお局《つぼね》様みたいな人とかがいるんですけど、とにかくみんながその、前の奥さんのことをすごい褒めるんです。で、その奥さんがレベッカって名前なんですけど、家の人たちが事あるごとに、前の奥さんは美人だった、レベッカはいい人だった、みたいなことを言って──」
「あ、それって」と僕は思いついたことがあって口を挟む。「あの、推理作家に泡坂妻夫って人がいるんですよ。その人の『花嫁のさけび』っていう小説が、ちょうどそれと同じような話で……そういえばヒッチコックの映画をモチーフにしているとか、書いてあったような気がするな」
「ホントに? じゃあ私、それ読んでみる。……面白い?」
「いや。えーっとね、面白くなくはないんだけど、その人のだったら、もっと面白いと思うのがあって……成岡さんが──マユちゃんが面白いと思うだろうと、僕が思うってことね」少しドキドキしながら、呼び方を変えてみると、彼女はパッと顔を輝かせた。
「やっと呼び方を変えてくれた。……ホントのこと言うと、いつまで成岡さんって呼んでるんだろうって、さっきからずーっと思ってたんだけど」
「じゃあ、マユちゃんでいい?」と聞くと、「もちろん」という答え。
「じゃあ、マユちゃん。……えーっと、何だっけ? あ、そうそう。その泡坂妻夫っていう人の本だったら、『乱れからくり』っていうのが僕はいちばん好きで、あと『11枚のとらんぷ』っていうのも読みやすいかな? あと個人的には、『迷蝶の島』っていう──迷う蝶々って書いて迷蝶、なんだけど、それもけっこう好きかも」
「じゃあ鈴木くんは次回、今言った本を持ってきて」
「全部?」
「うん。全部。私、読むの早いから。それ全部読んでみる、で、私はじゃあ、デュ・モーリアの『レベッカ』を持ってくるね」
「わかった」
というふうに話は進み、僕は本を借りられることよりも、次回の約束ができたことのほうを喜んでいた。──次回は来週の金曜日。もし都合が悪くなったら、前の日までに電話をすること。
そうして約束もできたところで、時刻を確認したら午後九時を過ぎていて、そろそろ上がろうという話になった。チェックをしてもらって、レジに向かって二人で歩きながらも、
「ここ、けっこう良かったね。料理も美味《おい》しかったし」
「金ギョーザとかね。また次回も来ようか」
「それでもいいけど、ここはアジトにして、他もいろいろと試してみようとかって思わない?」
などと小声で話し合っていた。彼女の顔は僕のほんのすぐそばにあって、頬がほんのりと赤く染まっているのが可愛らしかった。好きな人とこれだけの距離で話していて、それでも緊張していない今の僕は、今日一日で精神的にかなり成長したなと思う。
店を出ると、夜気が少しだけ涼しく感じられた。
道路に上がったところで、成岡さんは、「今日はありがとう。本当に。私のワガママに付き合ってもらっちゃって」と言い、ペコリと頭を下げた。
「そんなこと言わないでくださいよ。僕のほうも同じワガママを思っていて、ただ僕のほうはそれがうまく言えなくて、……マユちゃんのほうから言ってくれなかったら、どうにもならなかったんですから」と僕は慌てて言い返した。そして「今日は本当に楽しかったです」と言って、軽く頭を下げた。別れの挨拶のつもりである。
「じゃあ……私はこっちだから」と言って、彼女は背後を振り返る。
「駅はこっち?」と僕は逆方向を示し、彼女が頷《うなず》くのを見て、「じゃあ、ここで」と言って、楽しかった時間に自分で区切りをつけた。
「じゃあ、おやすみなさい。……来週は本を忘れないように」
「あ、はい。じゃあ」
そう言って、お互いに逆方向に歩き出した。歩き始めてすぐ──だから今の店のちょうど目の前のあたりに、シティホテルの入口があることに僕は気づいた。宿泊施設……ベッド……。そんな連想が働いたが、すぐに断ち切る。
今日はここまで。でも次回も、そしてたぶんその次もある。これからは週に一回、こういう時間があるのだ……。そう考えると、彼女と別れた直後なのに、淋しさは感じられなかった。
途中で足を止め、背後を振り返ると、ネオンの滲《にじ》む夜の街の中に、彼女の後ろ姿はすでに見えなくなっていた。
4 Lucky Chanceをもう一度[#「4 Lucky Chanceをもう一度」はゴシック体]
次のデートまでの間にしておきたいことが三つあった。コンタクト・レンズを試してみること、服を新調すること、そして自動車学校に入学することの三つである。
最初の二つはさっそく土曜日に実行に移した。ジョグで流通通りまで出て、まずはメガネスーパーでソフトタイプのコンタクトを購入。さらに同じ通り沿いのトシ・ゴトーに寄って、カジュアル服数点とソフトスーツというのを一着購入した。スーツは裾直しの必要があり、水曜日に取りに行くことになった。さらに柚木《ゆのき》の自動車学校にも寄って、受付でパンフレットを貰ってから帰宅した。僕にしては珍しいほど精力的に動き回ったなあという実感があった。それも全ては女性に好かれたいがためという、その心理面での変化こそが、実は僕にとって必要なものだったのかもしれない。
メガネからコンタクトに変えたことについて、家庭教師先の生徒たちからは「先生、ようやく彼女ができたんですか?」とか「先生も色気づいてきたんだ、いやらしい」とか、さんざんな言われようだったが、僕はクールに「これは就職活動のため」と説明しておいた。
さらに水曜日にはスーツを受け取りに出たついでに、柚木の自動車学校に行って入学の手続きも済ませた。そのまま一回目の教習も受けられるという話だったので、積極的に申し込むと、初日からいきなり教習車の運転席に座らされたのにはかなり驚いた。発進の練習ということだったが、車はエンストするばかりでなかなか上手《うま》くいかず、そのまま時間が終わってしまったので、結局はほとんど実になっていない感はあったが、とりあえず教習を始めたということに関しては自分なりに満足していた。
そして金曜日の夕方。Tシャツからジーパンから靴まで(さらには下着まで)買ったばかりの新品を身に着け、泡坂妻夫の本四冊を入れた鞄《かばん》を持って、僕は成岡さんとの待ち合わせ場所に立っていた。
十五分ほど待ったところで彼女が現れる。今回も僕は、彼女が気づくより先に、彼女の姿を見つけていた。中町の交差点のほうからトコトコと歩いてくる姿は、やはり可愛かった。あの子が今から僕とデートするんだよと、その辺を歩いているみんなに自慢したいような気持ちになった。
「あ、鈴木くん……メガネは? コンタクトにしたの?」というのが彼女の第一声だった。
「ええ、さっそく。どうです?」と聞いてみると、彼女は一メートルほど後ろに下がって僕のほうをまじまじと眺め、
「うん。やっぱ思ってたとおり、メガネはないほうがカッコいいね。……違和感とかはなかった?」
「いや、最初はありましたけど、もう平気になりました」
と言うと、成岡さんは僕のそばに戻って来て、とても満足そうな表情を浮かべた。その笑顔が見られただけで、コンタクトの代金の元は取れたと僕は思った。
今回は最初から金ギョーザのあるあの店(ジョルダンという店名だった)に行った。僕は生ビールで彼女は生レモンサワーと、ドリンクは前回と同じものを注文する。乾杯をし、料理を注文したところで、さっそく本を交換しようという話になり、僕が鞄から本を取り出すと、「あ、単行本なんだ」と彼女は驚いたような表情を見せた。どうやら個人所有の本はイコール文庫本というイメージが彼女にはあったらしい。
「いっぺんに四冊はやっぱり多かった?」と聞くと、
「ううん。そんなことない。これは意地でも持ってくから」と言って笑顔を見せた。
それから僕は自動車学校に入ったということを報告した。「え、ホントに?」と期待どおりの笑顔が返ってくる。しかしコンタクトや服とは違って、車の場合は教習所に入学しただけではまだ彼女の期待に応えられてはいない。これから何ヵ月かかけて運転技術を身に着け、そして無事に免許が取れたあかつきには、さらに車も買わなくてはならない。彼女を本当に喜ばせることができるのは、まだまだ先の話になるだろう。
しかし一回教習を受けただけでも話のネタにはなる。受講初日からハンドルを握らされて、自動車の運転というのが(特にクラッチ操作が)どれだけ難しいか実感したという話をすると、
「じゃあ免許、取れないかもしれない?」と心配そうに成岡さんが聞いてきたので、僕は笑って首を横に振った。
「いやいやいや。そんなことはさすがにないと思うよ。だってそのへんのオバサンとかだって普通に運転してるんだから。そういうのを見てると、絶対に誰でも取れるんだって思ってはいるんだけど。……だからマユちゃんだって、取ろうと思えば取れるんだよ」
僕はまだ成岡さんを「マユちゃん」と呼ぶことに照れを感じてしまう。
「そうかなあ」と成岡さんは首を傾げた。「私はみんなからドンくさいっていつも言われてるし。今日だって──職場に私と同じ歯科衛生士で、イヨちゃんって先輩がいるのね」
「イヨちゃん?」
「うん。渾名《あだな》なんだけど。松本伊代にちょっと似てて──で、その先輩が私に今日、石膏を練っておいてって、頼まれたんだけど、私が──歯磨き粉みたいにチューブから搾り出して使うものなんだけど、そのままじゃなくて、一回皿の上で練って、それを患者さんに使うんだけどね、ウチでは──で、私がそれをやってたら、手際が悪いもんで、お皿の上で固まっちゃったのね。それでイヨちゃんが、もう、あんただけはホントに使いものにならないねって──」
成岡さんは、僕の知らない人であっても構わずに自分の話の中に登場させる。その登場人物の呼称も、今回の「イヨちゃん」もそうだったし、あとは今までに聞いたことのある「ジョイ」にしても「ゴラ」にしても渾名(愛称?)であり、本名すらわからない人がほとんどなのに、聞いているうちに、僕のほうでもだんだん各人の違いというか、個性がわかってくる(ような気がする)のが、彼女の話を聞いていて楽しいところだった。
ところで僕はいつまで「鈴木くん」呼ばわりされているのだろう、僕もできれば渾名で呼んでもらいたいな、などと思っていたところで、ちょうどそういう話になった。
「鈴木くんは友達からどういうふうに呼ばれてる?」
「うーん。普通に鈴木、とか、あとは名前でユウキ、とか」
「じゃあ私もユウキくんって呼ぼうかな。でも……ユウキって高校のときの同級生でいたんだけど、私あんましその子、好きじゃなかったんだよね。だからちょっと抵抗があったりして。でもいつまでも鈴木くんって呼んでるのも他人行儀だし。鈴木くんはどう呼ばれたい?」
「うーん」と僕は悩んでしまった。「ユウキくん」がダメとなると、他にいいのが何も思い浮かばない。それで僕がしばらく黙っていると、
「ユウキってたしか、夕方の夕に樹木の樹って書くんだよね?」と成岡さんが聞いてくる。あ、ちゃんと憶えていてくれたんだ、と嬉しく思いながら僕が頷くと、
「じゃあさ、夕方の夕って、カタカナのタと同じに見えるじゃない? だからタキで──たっくんっていうのはどう?」
「たっくん」と僕は口に出して言ってみた。今までの人生でそんなふうに呼ばれたことがなかったので、最初はピンと来ない気がしたが、しかし逆に考えれば、成岡さんだけが僕をそう呼ぶというのは、それはそれでいいことのように思えてくる。
「それ、うん、いいと思う。じゃあ今日から僕はたっくんね」
「はい、たっくん」
「どういたしまして、マユちゃん」
そんなふうに呼び合ったところで、僕は照れ臭くなって笑ってしまった。彼女も同じように笑っている……。
その後も僕たちはいろいろな話をした。小説や映画の話題も出たし、彼女が「大学で数学を勉強するのって、具体的に何をやっているの?」と聞くので、その説明もした。僕が今まで女性と付き合えなかったのは、こういう感じの(ちょっと知的な?)話のできる相手がいなかったからなのだと、僕はそんなふうに思っていた。
楽しい時間は瞬く間に過ぎ、僕たちはまた来週の金曜日に会う約束をして別れた。
しかし予定は未定で決定ではない。人生とは不測の事態のタペストリーである。
翌週の水曜日に彼女からの電話があって、金曜日の予定はキャンセルにしてほしいと言われてしまったのだ。
「それはいいけど……。どうしたの」と僕は聞き返した。相手の声にいつもの元気がなかったからである。すると、
「ちょっと体調を崩しちゃって。ごめんなさい」と言う。夏風邪でも引いたのだろうかと思いつつ、「大丈夫?」と聞くと、
「うん。たぶん来週には元に戻ると思うから。……あ、九月になると学校が始まる?」
「ううん、大丈夫。えーと、僕らの場合、学校が始まるのは十月からだから」
正確には九月にも講義(あるいは前期試験)の行われる科目はあるのだが、僕が四年生になって唯一受けているゼミ講は、十月から再開の予定になっていたし、それ以前にそもそも金曜日には講義が入っていない。
「じゃあ次回はまた来週の金曜日ってことで。時間も場所もいつもどおりで。で、もし来週も都合が悪くなったら、また連絡するから」
「わかった」
「じゃあね、たっくん」
「じゃあ、お大事に、マユちゃん」
というわけで、楽しみにしていたその週のデートは延期となってしまったのだが、僕はそのことを残念に思うよりも、彼女の身体を心配する気持ちのほうが強かった。お見舞いに行ったほうがいいのではないかという考えがチラリと脳裏をよぎったが、病気にかこつけて実はただ単に彼女の部屋に行きたいだけなんじゃないかという気がしたので、その案は即座に却下した。
その後も僕は(移動時間も込みで)週に二十時間ほどを家庭教師のバイトに取られたり、それ以外でも空いた時間には積極的に自動車教習の予約を入れて、また家では交通問題集にも精力的に取り組み、さらに彼女から借りたデュ・モーリアの『レベッカ』を読んだりと、忙しく過ごしているうちに、気がつけば暦は九月になっていた。基本的には八月中と何ら変わりのない生活が待っているはずだったが、中高生は九月から新学期が始まったということで、その影響が僕の生活にも及んだ部分があった。
夏休み中には昼間に時間をシフトして行っていた家庭教師が、また夜間に行われるようになった、というのが影響のひとつで、おかげで僕は昼間の時間を自動車教習にたっぷりとかけられるようになっていた。さらに教習所の生徒のうち一割程度を占めていた高校生たちが、日中の教習から姿を消したため、そのぶん教習の予約も八月中よりは思い通りに取れるようになっていた。
そうして時間をたっぷりとかけられるようになったおかげなのか、運転技術も次第に身に着いてきたと実感するようになっていた。
最初は手こずっていたクラッチ操作も、二週目にはほぼ完璧にこなせるようになっていたし、その後はハンドル操作のコツも早々に覚え、三週目にはシフトチェンジも無難にこなせるようになっていた。S字もクランクも最初からスムーズに通ることができた。そうなると車を運転するということがだんだん自分にとって楽しみになってくる。昼間は楽しい自動車教習に時間を割き、夜間は家庭教師と読書というふうに、充実した毎日を送っているうちに、やがて金曜日の夕方を迎えることとなった。九月四日の金曜日。もちろんその夜だけは僕も予定を空けている。
二週間ぶりに会った彼女は、病み上がりだという事前情報を得ていたからか、僕の目には少しやつれたように見えた。だから開口一番、
「身体の調子はどう?」と聞くと、
「うん。もうぜんぜん大丈夫」と彼女は明るく微笑んだ。「ごめんね、心配かけちゃって」
その表情を見て、どうやら完全に元気を取り戻したようだと実感できたところで、僕はようやくホッとする。
とりあえずその場でお互いに借りていた本を返し(僕が貸していたハードカバーを含む四冊が、彼女には重荷になっていたようだ)、さらに今回の貸し出し本も交換したところで、
「でね、今日は一軒目は、ちょっと冒険してみようかと思ってるんだけど──」
と彼女が提案してきたので、それに従うことにして、僕たちは今日は、いつものジョルダンではなく、青葉通り沿いのDADAというイタリア料理の店に入ることにした。
薄焼きのピザを二枚とパスタを一皿頼み、まずはビールで乾杯をした。一気にグラス半分ほどの量を飲み干した彼女は、「んー美味《おい》しい」と目を閉じ、幸せそうな顔をして、鼻の下についた泡を舌先でペロリと舐めた。昨日から気温が少し下がり、秋の気配を感じるようになっていたが、彼女は本当に美味しそうにビールを飲む。そう指摘すると、
「うーん。解放感っていうのかな」と彼女は笑顔のまま解説を始めた。「今日一日の仕事が終わったー、っていうのと、あと今週もこれで終わりだー、っていう解放感と、あとは身体の調子が戻って、よーし、っていう感じがあって」
「よーし、飲むぞー?」と聞くと、
「ううん。よーし、飲んで食うぞー」と微笑んで、またグラスに口をつける。結局彼女はそのままのペースで、五分と経たないうちに一杯目のビールを飲み干してしまった。僕も慌ててグラスを空け、おかわりを注文する。
二杯目が来るまでの間に、僕はタバコを出して火をつけた。ここで少しペースを落としておこうという気持ちの表れだった。僕の動作につられたのか、彼女も自分の鞄からタバコを取り出す。
「あ、それが前言ってた?」
「うん。カプリ。ね、細いでしょ?」と言って、僕のライターで火をつける。
そういえば、彼女が自分のタバコを吸うところを見るのは、これが初めてだった。喫煙行為は基本的に彼女には似合わないと、僕は今でも思っているのだが、白くて細っこいそのタバコならばまだ許せるような気がした。前屈《まえかが》みの姿勢で吸っているのも、ちょっと可愛らしく思える。これが後ろにふんぞり返ってプハーなどとやられた日には、お前は今までどういう人生を送ってきたんだよと言いたくなるところだが、彼女の場合にはそういったふてぶてしさが感じられないので、まだ許せるのである。
タバコを灰皿に潰し、二杯目のビールに口をつけたところで、彼女は何かを告白するような口調で話し始めた。
「そうそう。先週、体調が悪かったって言ってたじゃん──」と言ったところで間を置き、はにかんだような表情を見せると、小声で後を続けた。「あれ、実は便秘だったの」
「便秘?」と僕は思わず聞き返してしまった。そんなことだったのか、という拍子抜けの気持ちが声に表れていたのだろう、彼女は少し不満気な顔つきで言葉を継いだ。
「便秘って──たっくん、たかが便秘とかって思ってるでしょ? でもね、女の子に多いんだけど、たかが便秘って言っても、悪化させるとそれはそれでけっこう大変な場合もあるんだよ。お腹がずっと張ってて苦しいし、あと入院とかしなきゃならない場合もあるし。私も先週の土日に一泊で入院してきて、それでようやくスッキリしたんだもん」
彼女が諭すようにそう言ったので、僕のほうでも便秘というものに対する認識を改めざるを得なかった。しかしその一方で、便秘が治ってスッキリしたというのは、やはり病院で浣腸とかしたのだろうかと、ついそんなことを想像してしまい、さらにそういう方面のビデオを前に見たときのことまで思い出してしまったが、さすがにその話題を深く追求するわけにもいかなかったので、その話はそこで終わりとなった。
その後は、お互いに借りた本の感想などを言い合ったりしているうちに、やがて料理が来て食べ始めていたのだが、その最中に、
「あ、そうそう、聞いた? テニスの話」と彼女が言い出したので、何の話だろうと思って聞くと、また海のときと同じメンバーで、今度はテニスをやろうという話が出ているのだという。
「九月十五日だから……敬老の日? だっけっか? とにかく休日だか祝日だかなんだけど──で、なんか、ゆっちゃんちが試験が終わるとかで。秋休み──っていうの?」
「ああ、はいはい」
九月の前半に前期日程が終わり(その際に試験が行われる講義も多い)、十月からは後期日程が始まる──その間に二週間ほどの休みがあり、静大ではそれを俗に「秋休み」と呼んでいる。松本優子と青島ナツコの二人は静大の教養部の学生だと言っていたので、ちょうど前期試験も終わって解放感に浸れる時期でもあり、そのついでにまた遊びの予定を入れようということなのだろう。渡辺和美は薬大生だったような記憶があるが、社会人である成岡さんも含めて、休日であればそういった予定も立てやすいと考えたのではないだろうか。
「国吉田のほうにシャンソン化粧品のコートがあるの、知ってる?」
「あ、わかる……と思う。アピアの角を入ってったあたりの、あの線路沿いの」
「そうそう。あそこのコートが二面取れたって、ゆっちゃんが言ってて。……昨日かな? 男性陣には望月さんから連絡が回るって聞いてたんだけど」
「へえ。まだ連絡は来てないけど」と言葉を返したあとに「テニスかー」と、僕は思わず渋い声を出してしまった。別に自信がないというわけではない。僕はテニスは高校のときに体育の授業で習ったことがあり、ある程度は(たとえばがっちゃんなどよりは)上手にできるだろうという自信はあった。しかしそれ以前に、こうして彼女と二人きりで会えるようになった以上は、今更みんなで遊ぶことに、たいして意味はないよなあと、そんなふうに思えてしまったのである。なので、
「マユちゃんは……どうする?」と聞いてみると、
「え? 私は別に、断る理由もないし、行くつもりだけど。たっくんは?」
「うん。じゃあ僕も行く……と思う」と答えた後で、僕は急に不安に駆られた。
世の中には、たとえば望月と松本さんのように、二人が付き合っている事実をオープンにしているカップルも多くいるが、僕の場合には、男女の付き合いは秘密にしておくのが当然というような感覚があって、だから僕たち自身のことも、今まで特に誰にも言ってこなかったのだが、一方で彼女の側はどうなのか。僕は(あの海のときの態度などから)彼女のほうでも同様の価値観を持っているものと、勝手に決め付けていたのだが、ここで改めて確かめておくに如《し》くはないと思い、
「ねえ……マユちゃんは、僕らのことを──あの、僕たちが……こうして個別に会ってるってこととか、松本さんとかに言ってる?」と改まった口調で尋ねてみると、彼女が即座に首を横に振り、否定したので、僕は内心でホッと溜息を吐いた。
「じゃあその……テニスのときも──?」
「うん。会うのは海のとき以来、っていうふうにしないとね」
「演技するわけだ。うーん、俺はそういうの、ちょっと苦手かも」
別に意識して言ったわけではなかったのだが、そのときは自然と一人称に「俺」を使っていた。彼女からそう指摘されて初めてそのことに気づいた僕は、慌てて、
「ごめん。なんか威張ってるみたいだよね」と謝ったのだが、
「あ、ううん。いいの。別にそれが嫌だとかじゃなくて。なんか、たっくんって、私の前ですごい──うーん、良く言えば紳士的ってことなんだろうけど、なんかこう、まだ距離があるっていうのかな? そんな感じがして──ほら、たっくんのほうが私よりも二つ上なわけじゃない。だから『僕』っていわれるよりも、今みたいに『俺』って言われたほうが、何となく頼もしいっていうのかな? 男らしいって感じがして──」
「でも、却ってそう言われるとなあ……。さっきのは自然と出ちゃったんだけど」
「あ、だから、それでいいと思います。無理して言わなくても。自然と『俺』って出るようになればいいなって」
つまりは、もっと精神的に男らしくなってほしいということなのだろうと、僕はそんなふうに彼女の要望を理解していた。二人の関係で言えば、僕のほうが常に彼女をリードするような形で、これからは過ごしていってほしいというような感じで。
これからは僕がリードしてゆく……。
言うは易く行うは難しで、意外と難題かもしれないぞと、僕は思っていた。
望月からの連絡は翌日の土曜日にあった。もちろん用件はテニスの誘いであり、僕はその話を初めて聞くふりをしなければならなかった。当然、返事は諾《だく》である。
しかしテニスの前にもう一度、金曜日があって、僕たちはその日の夕方に四度目のデートをした。僕は出たばかりの新刊が面白かったので、それを交換本として持って行った。代わりにアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』を借り受けてくる。デートも順調に回を重ねているという感触があり、週に一度のお楽しみとして僕の中ではすでに定着していた。これが恒久的に続けばいいと、僕はいつもそう願っている。免許を取ったらドライブに行こうという話も出た。教習は坂道発進に入り、仮免の試験がもうじき予定されている。
そうして迎えた九月十五日。空は秋晴れで、迎えに来た望月の車には松本さんと並んで成岡さんも乗っていたのだが、僕は車内では事前に打ち合わせていたとおり、成岡さんとは海で会ったとき以来のふりをずっと通していた。
シャンソンの工場の駐車場で他の四人と待ち合わせ、ロッカーで着替えてコートに出るときに、渡辺和美さんの後姿が海のときよりも痩《や》せているように見えたので、そう言って声を掛けると、
「あ、わかります? ダイエットしてるんですよ」と、彼女が満面の笑みを浮かべたまでは良かったが、さらに「そういえば鈴木さんはメガネはどうしたんですか? コンタクトにしたんですか?」と言葉を返されて、そのまま会話が始まってしまったのは計算外であった。
僕としては、以前よりも積極的にみんなと話していって、最終的には成岡さんと話をしていても周囲から不自然に思われないような流れを作りたいと思って、まずは前回二人きりで話をした実績のある渡辺さんにそうして声を掛けたのだが──。
「鈴木さんはテニスって、やったことあります?」
「いや、高校のときに授業でちょっとだけ」
「あ、そうなんですか。私たちはときどきこうしてコートを借りてやってるんですよ。でもなかなか上手くならなくて。どこが悪いと思います?」
などと質問を続けられて、なかなか会話を切り上げることができない。結局そのときの印象がみんなにも残っていたのだろう、ラリーの練習後にダブルスの試合をやろうという話になったときには、僕はなんとなく渡辺さんとペアを組むことに決められてしまった。一方の成岡さんは、練習のときから事あるごとに彼女に話し掛けていた北原とペアを組むことになり、それも僕には面白くなかったのだが、その気持ちを素直に表情に出してしまうわけにもいかず、心中の苦々しい気持ちは高まるばかりだった。
コートでは北原・成岡ペア対大石・青島ペアの試合が始まっていた。審判台には望月が上っている。僕は渡辺さんと松本さんの二人とともにベンチに座り、試合を観戦していた。
成岡さんは、免許の話が出たときに自分でも言っていたが、やはり運動神経が鈍いタイプのようで、いちおうトコトコと必死に走っては、ラケットを振り回すのだが、なかなかボールには当たってくれない。それを後衛に回った北原がきっちりとフォローしている。
ベンチでは勝手な評言が飛び交っていた。
「北原くんって上手いよね」と渡辺さんが言い、
「大ちゃんよりも上手いかも。運動神経いいって感じするし」と松本さんも同意する。大ちゃんというのは望月|大輔《だいすけ》のことである。
「マユちゃん、小学生みたいね。可愛いー」
「もっと大きなラケット持たせればいいんじゃない?」
「こーんなの?」と松本優子が両腕を広げて、二人でクスクスと笑っている。成岡さんが可愛いというのには同意するが、二人の話し方には暗に彼女の不器用さを嘲笑《あざわら》うような調子が含まれているような気がして、僕は横で聞きながら不愉快な気分を隠すのに苦労した。また「北原くんって、きっと何やらせてもそつなくこなしちゃうタイプだよね」という意見には、僕としても同意せざるを得なかったが、実はそれもまた不愉快さの原因のひとつになっていた。友人の器用さを素直に賞賛する気持ちこそあれ、妬《ねた》ましく思ったことなど、僕は今まで一度もなかったはずなのだが。
一方の青島さんとがっちゃんのペアは、デコボココンビというか、夫婦《めおと》漫才というか、ボールを打ち合っている間もひっきりなしに、「ほらそっち!」「邪魔だって!」「大きい大きい」などと二人で声を出し合っていて、打ち合いが途切れるとさらに、「今のはそっちのミスだからね」「なんでやねん」などと、うるさいことこの上ない。見ていて自然と笑みがこぼれてしまうような楽しさがあり、特に青島さんがライン際で打ち返したボールががっちゃんの後頭部を直撃したときには、その場にいる全員で大笑いをしてしまった。
結局、試合は北原・成岡ペアの大勝という結果に終わったのだが、勝敗が決したときに北原が成岡さんと握手するのを目撃してしまい、それでまた僕は不愉快な気分に襲われることとなった。その後に対戦相手の二人とも握手をしていて、彼女ががっちゃんと握手をするのは、見ていても別に平気だったのだが。
そういえば僕はまだ、成岡さんと手を繋《つな》いだこともなかったな──とふと思い、その気分を引きずったままコートに立つことになった。なので試合をしながら、ここで勝てば北原・成岡ペアとの決勝戦がある──その試合後に握手をするのが彼女との初めてのスキンシップになるのかな──ならば北原をボコボコにやっつけた後に勝利者として彼女と握手をしたい──などと勝手に想像を膨らませつつ、それを勝負の糧にして頑張ろうとしたのだが、結局は望月・松本ペアに敗れてしまった。
決勝戦が始まるときには、僕は審判役に志願した。ベンチで気を遣いながら女性陣のお喋りに付き合うのは、もうこりごりだったからだ。僕を抜かしたベンチ要員の顔ぶれは、渡辺さん、青島さん、がっちゃんの三人で、三人がともにやたらとよく喋り、ひっきりなしに笑っているのを見ていると、審判に志願したのは正解だったと思えてくる。コートではやはり成岡さんが一人格下の存在で、僕は北原を応援する気はさらさらなかったものの、彼女には勝ってほしいと思って、応援しながら審判をしていたのだが、やはり望月・松本ペアのほうが総合的に力は上で、北原・成岡ペアは大差で敗れてしまった。そうして敗戦したのにも拘《かか》わらず、北原と成岡さんが爽やかな笑顔を見せ合い、再び握手をしているのを見て、僕はまた内心で暗い炎を燃やすこととなった。
テニスが終了したのは五時前で、まだ時間的には少し早いような気がしたが、夕食にしようということで話がまとまり、車三台でシシリアという店に行くことになった。望月の車に乗り込んで移動する間、松本さんと成岡さんは後部座席で楽しそうに喋り合い、望月も適度にその会話に加わっていたのだが、僕は一人で浮かない顔をしていた。それを望月が変に解釈したようで、
「青島さんちの車に乗ったほうが良かったか?」などと言われたのが、さらに追い討ちを掛ける形となった。もっとみんなのように明るく振舞わなければと思えば思うほど、気持ちが空回りしてゆく。
シシリアでは四人掛けのテーブルを二つ繋ぎ合わせる形で席が用意され、望月と松本さんが並んで着席したのがきっかけで、男女がペアになって隣同士に座るような配席に自然となった。同じ車で来たということで期待していたのに、成岡さんは、望月たちの向かい側に北原とともに並んで座ってしまい、僕は仕方なく渡辺さんとペアを組んで、青島・大石ペアとともに別なテーブルに着くしかなかった。心情的には彼女のほうに恨みの目を向けたいところだったが、それでも意識して彼女のほうを向かないように心掛ける。
食事の皿が下げられ、ドリンクだけになったところで、北原がまたマジックを披露することになった。一メートル弱の紐をバッグから取り出すと、テーブルの上に伸ばして置き、そこで隣の成岡さんに、「今日は、あの指輪はしてこなかった?」などと声を掛ける。彼が言っているのは、あの合コンのときに話題になった指輪のことだろう。手品の段取りもあるのだろうが、いちいち成岡さんに話し掛けるなよと、僕は内心で苛だたしく思う。
「あ、はい。今日は持ってきてないです」と彼女が答えたところで、
「あ、指輪ならあたし、持ってますけど」と青島さんが横から割って入り、自分のバッグを漁《あさ》ろうとするのを、北原は手振りで抑えて、
「あ、別に指輪じゃなくてもいいんですけど。……じゃあ家の鍵とかは?」
と、あくまでも成岡さんに要求して、彼女に鞄の中を探させる。やがて探し出した鍵を受け取ると、膝の上に掛けていた布ナプキンをテーブルの上に広げて、下に両手を入れて何やらゴソゴソと動かし始める。
「あまり横から覗かないでくださいね」と、両隣の成岡さんと大石の視線を牽制《けんせい》した後、「もしこれで鍵に紐が通っていたら、ちょっと驚かない?」などと言う。紐の両端は最初からナプキンの外に出ているので、その状態で北原の言ったとおりになるのだとしたら、考えられるのは、布の下で一度紐を切り、鍵の穴に通してから、瞬間接着剤などで再び紐を貼り合わせるくらいであろう。そう思って見ていると、布の陰で右手がズボンのポケットに入ったように見えた瞬間があった。ハサミか接着剤かは知らないが、道具を出し入れしたのだろうと僕は思った。
「じゃあ、よく見てください」
北原はそう宣言して、両手をナプキンの外に出し、紐の両端を摘んで手前に引いた。すると鍵はたしかにその紐の真ん中にぶら下がっていた。その状態のまま、紐は成岡さんに手渡された。
「よく見て確認してください。ご自分の鍵ですよね?」
「あ、はい。そうだと思います」
家屋のドアの鍵は、通常は銀色をしていると思うのだが、成岡さんのものは真鍮《しんちゆう》っぽい色をしていたので、遠くからでもひと目でそれとわかった。北原が前もってそういう色の偽物を用意していたとも思えない。そもそも最初は指輪でやろうとしていたくらいだから、仕掛けのある偽物とすり替える等の手段は使われていないはずだった。
「そのまま回してください」と北原が言って、望月から松本さんへと手渡された紐と鍵は、次に僕の手元にも回ってきた。僕はそれを一度テーブルの上に置いて、手で触って確かめてみたりもしたのだが、紐を一度切って繋げたような痕跡はどこにもなかった。鍵に空いた、束ねる際に使う穴の部分も、金属製でしっかりとしていて、もちろん切れ目などはどこにも入っていない。
それが一巡して北原の手元に戻ってきたときには、みんなで拍手をした。僕もネタを見抜けなかったのは事実だし、不本意な気持ちはあるものの、とりあえずみんなと同じように手を叩くしかなかった。北原は成岡さんに向かって、「ご協力に感謝します」と、大げさな身振りで頭を下げてから、借りていた鍵を返却する。
それが今日一日のイベントのフィナーレとなった。レジで精算を済ませて、それぞれの車に乗り込んだところで解散が宣言され、望月の車に乗り込んだ中では、一番近い場所に住んでいる僕がまず最初に下ろされて、同乗していた三人ともアパートの前で別れの挨拶を交わす。
「じゃあ、おやすみなさい」
「お疲れさまー」
最後の最後に、マユちゃんと視線を交わしたかったのだが、彼女は僕の視線に気づかない様子で、そのまま後部座席に乗り込んでしまった。僕は歩道に立ったまま、車が発進するのを未練がましく見送っていた。後部座席で女性二人が話している姿が見えていたが、最後まで彼女は僕のほうを振り返らなかった。
部屋に戻って十五分ほどしたところで、電話が鳴った。彼女からだった。時間からして、部屋に帰り着いてすぐに掛けて来てくれたものとわかったので、塞《ふさ》いでいた僕の気分もそれで少しは和らぐこととなった。
「ごめんね。たっくん、今日ちょっと不機嫌だったでしょう?」というのが彼女の第一声だった。
「そんなことはないけど」と僕は心にもないことを言う。「でも疲れたよ。マユちゃんのほうをなるべく見ないようにしたり、今日は一日中ずーっと気を遣ってたからね」
「見たいんだったら見てれば良かったのに。そうすれば、わっちゃんだって勘違いしなくて済んだのに」
「わっちゃん?」
「渡辺の和美ちゃん。……彼女、たっくんに気があるみたいだったけど」
それは海のときから感じていたことだったので、僕は特に慌てたりはしなかった。客観的に見てもそうなのか、だったらそうなんだろうな、などと思っていると、
「……たっくんはどうなの?」と、不意に声を細めて彼女が聞いてきた。
「どうって?」
「わっちゃんのこと。私、彼女が勘違いしてるとかって、さっき偉そうなこと言っちゃったけど……」
そこで初めて何を聞かれているかが理解できた。
「うーん。申し訳ないけど──別に彼女の、どこが悪いってことでもないんだけど、まあ言ってしまえば、僕のタイプじゃないっていうのかな──」
としゃべっている最中に、彼女が「あー」と大きな声を出したので、何かと思えば、
「ビックリした。……マユちゃんには申し訳ないけど、って意味だと思った」と言うので、
「あ、違う違う。……そんなこと言うわけないじゃん」と慌てて付け足した僕は、「だったら僕も言うけど──」と、結局は思ったままを口にすることにした。「北原は……どうなの? 今日はずっと、一緒にいたじゃん」
するとしばらく返答の間《ま》が空いてしまった。ということは──答えにくい質問だったということで──つまり彼女は北原に──と嫌な想像を巡らしていると、受話器越しに彼女が「ぷふっ」と吹き出すのが聞こえた。
「ってことは、私もたっくんも、今日はお互いに──意味のない嫉妬心を燃やしてたってこと?」
嫉妬心──そう言われて、僕が今日、北原に向けていた不愉快な感情の源泉は、まさにそれだったのかと思い至った。
たぶん僕が即答しなかったからだろう。彼女は「嫉妬心っていうか──」と言葉を選び直そうとしていたが、僕はそれを遮るようにして言った。
「あ、うん。そうだと思う。マユちゃんの言うとおり、嫉妬してたんだと思う。……少なくとも僕のほうはね」
すると彼女も間を置かずに、「私も今日はずっと、わっちゃんに嫉妬してたと思う」と言って、クスクスと笑い始めた。僕も照れ臭くて、自然と笑顔になってしまう。
相手に嫉妬するということは、それだけ相手に執着しているということであり、独占欲の表れだと言ってもいい。そう。僕は今、マユちゃんのことを、自分にただ一人の相手として扱いたいと、それは確実にそう思っている。そして彼女のほうでも、渡辺さんに嫉妬したということは、つまりは彼女も僕に対して同様の気持ちを抱いているということに他ならない。
意味のない嫉妬心──本当は嫉妬なんかしなくてもいいんだよ、という気持ちが、その言葉に表れている。たとえその場では、表面的には他の人と親しくしているように見えていたとしても、内心ではちゃんとお互いのことを思っている。僕たちはそういう関係にあるのだ。
「──でも、本当にたっくんの言うとおりで、そうやって気を遣ってるのって、やっぱ疲れるよね。あと、お互いにそんなに親しくないよってフリとかしてるのも」
そのとおりだと思う。たしかに今日は疲れた。
「でさー、もし今度、また今日と同じような誘いがあったときには、私かたっくんか、どっちかが行かないってことにしない? そうすれば、今日みたいに疲れることもないだろうし」
「そうだね。……でも、行かなかったほうが、家でヤキモキしていたりして」
もし僕が行かないほうだったら──今ごろは彼女が北原と親しげに話してるんじゃないか──などと想像しては、身を焼かれるような嫉妬心に苛《さいな》まれるのではないかと思う。
「じゃあ結局、その場にいてもいなくても変わらないってことなんだ。でも大丈夫だよね。嫉妬するってことは、相手をそれだけ愛してるってことの表れだし」
彼女はそうして「愛してる」という言葉をサラリと口にしてのけた。聞き流してしまいかねないほどさり気なく──しかしその言葉は確実に、僕に向けて発せられたものだった!
胸がカーッと熱くなる。自分の全身から彼女に対する愛情が溢れ出しそうな気がした。頭の中が飽和状態で、とにかく何か言わないと、という気持ちの中で、「マユちゃん」と言葉が自然と出ていた。
「え?」
「──僕はあなたのことが好きです。……愛しています」
気持ちはずっと前から抱いていたが、ちゃんと言葉にしたのはこれが初めてだった。
こめかみで血流がドクドクと脈打っているのが感じられた。
「ありがとう、たっくん。……私もたっくんのこと好きです」
それが彼女の答えだった。それを聞いた途端、
「会いたい」と僕は考えもなしに口にしていた。一瞬、しまったと思ったが、訂正はしなかった。さらに「今すぐ」と言葉を継ぐ。考えすぎて言葉が出てこないよりは、思ったままを口にして、相手にわかってもらったほうがいい。怒られてもいい。気持ち悪がられてもいい。俺は今、マユに会いたいと思っている、それが正直な気持ちなのだから。
すると「……来て」という言葉が耳に響いた。幻聴ではないかと思ったが、それは確かに彼女の発した言葉だった。「──部屋に来て」と繰り返したのは、聞き間違いでも何でもない。
「行く。すぐに行くから」と僕が言うと、彼女は住所を説明し始めた。時計を見ると、午後七時になろうかという時刻だった。
本当にいいのだろうか──と頭の片隅で思いつつ、僕は彼女の説明する内容を必死でメモしていた。腹を括《くく》るのは向こうに行ってからでもいいかとは思ったものの、それでもあと数時間のうちには、僕は人生最大の決断を迫られることになるのだ。心臓がドキドキしている。
受話器を置いた途端、僕は夢から現実に舞い戻ったような気がして、思わず室内を見回してしまった。しかし夢は続いている。いや、夢のような現実が続いている。
早く行かなきゃ。夢のような現実が途切れてしまう前に。
僕は手早く身支度を整えると、ジョグの鍵を引っ掴むようにして部屋を飛び出した。
5 愛のメモリー[#「5 愛のメモリー」はゴシック体]
西空の雲が灰色とオレンジ色のまだら模様に染まっている。まだ明るさを残す上空とは対照的に、闇色に染まりつつある地上の街並みが、左右に次々と現れては流れ去ってゆく。日中の暑気がまだ澱《おり》のように残る路上を、原付で風を切って走るのが心地よく感じられた。
運転は冷静に。しかし「愛してる」と言ったときの情熱の火は絶やさないように。
本通りを越え土地鑑のない街区に入ったところで速度を落とし、彼女から聞いた説明と電柱の住所表示とを突き合せながらジョグを走らせる。住吉町に入ると、探し回るまでもなく、説明にあったとおりの白い四階建てのハイツが見えてきた。スクーターを路上に停め、ハイツの名称を確認してから中に入った。階段を上り、二〇五号室のドアの前に立ったところで一度深呼吸をする。表札に名前がないのは、女性の独り暮らしということで、プライバシーを気にしてのことなのか。
意を決して呼鈴を押すと、ドアの向こうから「はーい」という可愛らしい声が聞こえ、すぐにドアが開かれた。数十分ほど前に別れたばかりの彼女の顔が現れる。目が合うと彼女は照れたようにニッと微笑み、「どうぞ」とひと言だけ言って身を引いた。ドアのすぐ内側には暖簾のようなものが下がっていて、それをくぐるようにして僕は玄関の中に身体を入れた。鉄製のドアが背後で自然と閉まる。鍵を掛けなくていいのか迷ったが、とりあえずそのままにしておいた。
玄関を上がってすぐそこは真っ直ぐに伸びる通路のようになっていて、右手にはキッチンがあり、左手にはバスルームのものらしきドアがひとつあった。その通路の奥に部屋があるらしい。「そんなに綺麗じゃないかもしれないけど、どうぞ」と言う彼女は、着衣はパーカーシャツに膝丈のパンツと、日中に外出した時のままで、ただし靴下を脱いで裸足になっているのが唯一、帰宅後に自宅で寛《くつろ》いでいた様子を窺《うかが》わせていた。
キッチンスペースには多くの物が置かれていたが、乱雑さは全くと言っていいほど感じられなかった。通路の奥はけっこう広い縦長なワンルームになっていて、ざっと見た感じでは、綺麗に片付けられている印象があった。
フローリングの床は十帖ほどの広さがあるだろうか。手前側の半分をリビングスペースとして使っているようで、中央に敷かれたカーペットの上には炬燵テーブルがあり、僕が金曜日に貸した『十角館の殺人』が栞《しおり》を挟んだ状態で置かれている。キッチンとの境の壁の手前にテレビやコンポなどのAV機器が、そして続く右手の壁沿いには本が詰まったカラーボックスが置かれている。左手の壁にはクローゼットのものらしき両開きの扉があり、その向こうには鏡台が置かれていた。奥のスペースにはどっしりとしたベッドが置かれ、その向こう側に窓がある。窓の外はベランダになっているようで、磨りガラスの向こうに白く見えているのは洗濯機だろう。建物の外観からすれば築年数はそれなりに経ている様子だったが、内装を見る限りでは小綺麗な部屋という印象があった。
戸口のところで突っ立っていた僕は、彼女に勧められてテーブルに着いた。エアコンは作動しているようだったが、設定温度が高めなのか、身体が室温にすぐに慣れてしまったのか、涼しいと感じたのは部屋に入った瞬間だけだった。
女性の部屋に入ること自体が初めてだった僕は、ついつい部屋の中を何度も見回してしまう。密閉空間に彼女と二人きりでいるという意識が、緊張を誘うというよりは、僕の気持ちを萎縮《いしゆく》させていた。かしこまった気分のまま、
「へえ。すごい綺麗にしてるんだ」と素直な感想を述べると、
「そんなことないけど」と彼女ははにかんだような表情を見せ、クッションを抱き締める。
「また、ご謙遜を。でもけっこう広いよね。ここって家賃いくら?」といささか不躾な質問をすると、
「えーとね、これで五万二千円」と答えた後に、「でも、たっくんって面白いよね」と付け足す。
「え、何が?」と聞くと、
「今どき『ご謙遜を』なんて言う人、滅多にいないよ」
「そうかな」
などと会話を交わしつつも、僕は落ち着かない気分で、相変わらず部屋の中を見渡していた。本はカラーボックスひとつに納まる程度で、だから百数十冊といったところか。思っていたより量は少なかったが、そこに並ぶ作家は、森鴎外や芥川龍之介、夏目漱石といった文豪から、宮尾登美子や檀一雄など、僕にとって名前は目にしたことはあるが読もうと思ったことは今まで一度もないような作家たち、そして星新一や村上春樹などといったメジャーどころまで、バラエティに富んでいた。
その中に一冊、講談社ブルーバックスの本が混じっているのが目を惹いた。明らかに彼女の嗜好とは異なっているはずの、その本のタイトルは──『アインシュタインの世界』。
「何かそうして自分の部屋を見られてると──」
彼女が話し掛けてきたので、僕は視線をすぐに戻す。
「──自分の全てをさらけ出しているような気がして、ちょっと恥ずかしいかも。……ご感想は?」
「うん。すごく──うーん、居心地がいい感じ?」と言葉を選んで答えた後で、僕は「寝っ転がってもいい?」と聞いてみた。いきなり女性の部屋に来て横になるというのも不躾な気がしたが、僕はそうして寛いだ姿勢を取ることによって、萎縮した気持ちを何とか元に戻したいと思っていたのだ。
彼女が「どうぞ」と言ってクッションを手渡してくれたので、それを枕にして、僕は床の上に仰向けになった。そうして楽な体勢を取ったところで、これからどうしようかと、僕はそんなことを考え始めていた。
僕は今、彼女の部屋にいる。しかも彼女と二人きりで。そのシチュエーションだけで、僕は何となく満足したような気持ちになっていた。今日はここまでで充分だ──その先はまたいつか──結婚してからでもいいかもしれない──じゃあとりあえず今日はこの後どうしようか──どういうタイミングで帰ればいいのだろうか──などと考えていたのだから、臆病者と言われても仕方ないが、いちおう僕には僕なりの考えがあったのだ。
僕の信念からすれば、それは決して、その場の勢いなどで軽はずみに行ってはならない行為なのだった。彼女の身体に二度と消せない烙印《らくいん》を押し付けることになり、結果として、僕の側には彼女の一生を請け負うだけの、また彼女の側でも僕に一生を預けるという、それだけの覚悟が事前に必要な行為なのである。それを、付き合い始めてまだ一ヵ月しか経っていない段階で──しかも僕のほうはまだ学生の分際なのに──それだけの責任を自分が負えるとどうして言い切れようか。いや、僕の側はいいとしても、それだけの覚悟を、どうして彼女に求められよう。
しかし彼女は、まるで僕が怖気《おじけ》づいたのを見透かしたように、僕を誘い始めるのだった。
「ねえ。せっかくこうして直に顔を合わせたんだから、さっきの続きを──」
「さっきの続き?」
「起きて。ねえ、起きてちゃんと私の顔を見て」
だから僕は信念を持って──という心中の声を無視して、僕は素直に上体を起こした。
「目を見て言って」
「何て?」
「だから……さっき電話で言ってたこと」
彼女はそう言うと、体育座りをした膝に、顔を埋めるような仕草をして見せた。僕は急に喉の渇きを覚えた。咳払いをしていると、早くして、と彼女の目が訴えているのがわかった。そこで意を決して、
「僕は」と言ったところで、急に全身が熱くなった。本人を目の前にしてそのセリフを言うのは、電話のときよりもさらに抵抗があった。しかし、だからこそ今、ここで言わなければならないと思った。「──マユちゃんのことが好きです」
「私も」と彼女の唇が動く。「たっくんのことが好き」
そこから先は、考えるよりも身体のほうが自然と動いていた。目の前に彼女の顔が迫る。彼女の鼻息を顎《あご》のあたりに感じた。彼女が目を閉じ、僕も目を閉じた。
彼女の唇は予想以上に柔らかかった。五秒が経ち、十秒が経った。僕はいつまでもそうしていたかったが、息が続かなくなって一度唇を離した。鼻で息をしたらそれが相手の顔にかかると思って、僕はその間中、息を詰めていたのだ。
目を開けると、彼女と視線が重なり、そこに暗黙の了解を得て、僕はもう一度唇を重ねに行った。今度は自然と舌を絡ませていた。彼女の歯並びを確認し、舌の動きを追っているうちに、もう何がなんだかわからなくなってくる。ただ気持ち良いという感覚だけが今の僕だった。
彼女の腕が僕の首の後ろに回っている。僕も彼女の腰に手を回している。そのまま僕たちはきつく抱き締め合った。お互いの胸を押し付け合う形となり、彼女の身体の柔らかさが服越しに伝わってきた。
二度目のキスは永遠に続くかと思われたが、僕がバランスを崩しそうになって床に左手を着いてしまったため、二人の顔が離れた。彼女は僕の首にぶら下がるような体勢で、下から僕の顔を見上げている。その頬が赤く染まっているのが見て取れた。僕の顔もおそらく紅潮しているのだろう。顔面が熱かった。身体中の血流量が増しているのがわかる。
その血流の一部は確実に僕の下腹部へと流れ込んでいた。窮屈なジーパンの中で、僕のものは変な形に勃起していた。位置を直さないと折れてしまうのではないかと思った。その不自然な膨らみを彼女に悟られたくないと思う一方で、しかし彼女の身体を今離すことには強い抵抗があった。
キスだけならまだ大丈夫だ──欧米では挨拶がわりにしていることだし──ここまでで止めておくべきだ──という考えが、頭のどこかで空回りをしている。
彼女のほうが先に動いた。僕の首に手を回したまま、背後に倒れ込んで、だから僕が彼女の身体に覆《おお》い被《かぶ》さる形になった。右腕は下敷きになる寸前に抜いていた。彼女の体の左右に手を着いて、お互いの右の脇腹のあたりが重なっている。
その状態から、彼女が腕に力を籠《こ》めて上体を起こし、僕の首に抱きついてキスをした。今度は短いキスで、唇を離した後はお互いの頬をすり寄せるような体勢になる。僕は両腕の力を緩めて彼女の身体に体重をかけ、上半身を密着させた。彼女の胸の膨らみが僕の身体の下に感じられている。腕が自由になったところで、彼女に覚《さと》られないように素早くジーパンに手をやって、中のものの位置を直した。しなっていた竹が元に戻るときのような動きがあった。仕事を終えた左手をまた元の形に戻し、
「愛してる」と数センチ先にある彼女の耳元に囁《ささや》いた。「ずっとこうしていたい」
「私も」という囁きが返ってくる。「……でも、ちょっと重いかも」
そう言われて初めて、下になった側が感じるであろう重みに気が回った。
「じゃあ……マユちゃんが上になればいい」
僕はそう言うと、彼女と抱き合ったまま、身体を半回転させた。彼女は積極的に僕の身体の上に乗ってきた。その際に炬燵の足を蹴ったらしく、ガン、という音がした。彼女の左脚が僕の両脚の間に入ってきて、上半身だけではなく腰の部分も重なり合う。僕はもっとお互いの身体を密着させたいと思った。相手の肩甲骨のあたりに回した左腕と、腰のあたりを抱いた右腕の、その両方に自然と力が入る。二人の身体の間には、空気の分子すら入れたくない気持ちだった。
「暑いよ」という彼女の囁きが聞こえた。たしかにこの部屋は暑い。抱き合っていればなおさらだ。僕はしばらく考えた末に、
「だったら涼しくしよう。……暑いのを涼しくするには、どうしたらいいと思う?」
「エアコンを──」と言いながら、彼女が身体を離そうとしたので、僕は腕に力を籠めてそれを阻止し、そしてさらに身体をもう半回転させた。足が家具に当たったが、そんなことはもう気にしていられない。彼女が下になり、僕は上半身を起こして、ちょうど馬乗りの姿勢になった。すでにカーペットの敷かれている部分からははみ出してしまっている。
「暑いときは服を脱げばいいんだよ。ほら、こうして」と言いながら、僕はTシャツを脱いで、それをどこかに放り投げた。下からの彼女の視線が、僕の露《あら》わになった裸の胸のあたりに注がれているのがわかった。少し恥ずかしそうな表情はしているものの、嫌悪しているふうには見られなかった。その反応に勇気を得て、僕は「まだ暑い?」と聞いた。彼女は一瞬戸惑ったような表情を見せた後、ゆっくりと頷いた。
「じゃあマユちゃんも脱がないと」と言って、僕がパーカーシャツの裾のあたりに両手を伸ばすと、彼女は一瞬身体をピクンとさせ、両腕を動かそうとしたが、次の瞬間には全身の力を抜いた。
僕はシャツの裾を掴んで、それを捲り上げてゆく。まずは腹部が露わになり、ついで薄いピンク色の布地がチラッと見えた。その間中、彼女は嫌がるどころか、むしろ身体を少し浮かせるようにして、僕が服を脱がせてゆくのに協力していた。
ブラジャーのカップが完全に露出する。シャツを脇のところまで捲り上げると、両腕をバンザイの形にさせて、服を脱がせにかかった。顎に襟の部分が引っかかったが、そのまま力ずくでどうにか脱がせた。彼女は袖から抜けて自由になった両腕を素早く胸の前で交差させた。しかし僕が両手で掴んで左右に拡げると、抵抗もせず、僕のなすがままにした。
ブラジャー以外に何もつけていない彼女の上半身が僕の目の前にあった。僕とは比較にならないほど色の白いその皮膚は、肌理《きめ》が細かく、染みも傷も、黒子《ほくろ》ひとつもなく、奇蹟のように綺麗だった。その身体に僕は自分の上体を重ねた。体重を掛けて肌と肌を密着させる。彼女の体温が皮膚に直接伝わってくる。その官能に、唇の官能を重ね合わせる。彼女の腕は自然と僕の首に回されている。
キスの合間に──本当に綺麗だ──僕はいくつもの言葉を──愛してる──彼女の耳元に囁いていた。
そうして、さらに次の段階に進もうと思った僕は、上半身は密着させたまま、両膝を立ててお尻を浮かせ、片手だけでジーパンを脱ごうとした。ベルトを外し、ジッパーを下ろすまでは片手でもできたが、しかしその先がうまくいかず、キスに集中できなくなった。
そこで作戦を変えた。いったん彼女の身体から離れ、素早く立ち上がるとジーパンを一気に引き下ろす。裾が足首に絡んだが、そのまま靴下も脱ぎ捨てて、パンツ一丁の姿になる。そこまでに数秒がかかった。トランクスの前は性器の形がそれとわかるほどに盛り上がっていたが、もう恥ずかしがってはいられない。そうして体勢を整えたところで見下ろすと、彼女は両腕で胸のあたりを覆っていた。視線は僕の股間の膨らみに注がれている。
その表情に困惑と怯《おび》えの色が混じっているのを見て、僕は、このまま突き進んで行ってしまっていいものかどうか、そこで初めて躊躇《ためら》う気持ちが生じた。
呼吸を整え、おもむろに屈《かが》み込《こ》むと、彼女の耳元で「……いい?」と聞いてみたところ、彼女は僕と視線を数秒間合わせてから、何かを覚悟したような表情になり、ゆっくりと頷いた。そして両腕を伸ばしてきたので、僕はその腕を取って彼女を立ち上がらせた。そのまま二人で数歩進んで、彼女をベッドの上に腰掛けさせる。
焦る必要はなかった。ハーフパンツを脱がすのに僕が手間取っていると、彼女自身が脱ぐのに協力してくれた。そうしてブラジャーと同じ生地のパンツが露わになる。薄いピンク色の布地の下に、翳《かげ》りのようなものが薄っすらと透けて見えており、僕はそれだけで頭がくらくらする心地だった。
下着だけの姿となった彼女は、自らベッドの上に寝そべった。僕がその横に入ろうとすると、
「待って。照明を落として」と彼女は懇願した。「そこの紐を二回引いて」
彼女の美しい(であろう)裸身は、明るい照明の下で見たいというのが、僕の正直な気持ちだったが、恥ずかしがる彼女の気持ちも理解できたので、僕は素直にその要望に従うことにした。しかし部屋には照明灯が二基あって、ベッドの真上のものを消しても、炬燵の上あたりにあるもうひとつの照明はまだ煌々と輝いていて、彼女の肌の白さも充分に見て取れるだけの明るさを提供していた。
「これでいい?」と聞くと、うんと頷いたので、僕は内心で「ラッキー」と呟く。
ベッドに上がり、キスを交わしたところで、僕はいよいよ最後の二枚を脱がせにかかった。ここまでは──たとえば夏の浜辺にでも行けば同程度に肌を露出した女性の姿は普通に見ることができるわけで──要するに、ここから先こそが、恋人にだけ許される私的な領域なのだった。特別な相手にしか見せないはずの部分が、今から僕の手で露わにされる。
まずはブラジャーから外しに掛かる。彼女に上体を起こさせ、両脇の下に腕を通して抱くような姿勢を取ると、背中のホックの部分を指先でまさぐった。仕組みはよくわからなかったが、どうにかして外すことができた。両肩の紐を外すと、一瞬露わになった胸を、彼女はさっと両腕で覆った。しかし僕はその腕も外させる。
写真やビデオでは見たことがあるが、本物のおっぱいを見るのはそれが初めてだった。彼女のそれは、そんなに大きくはなかったものの、僕が想像していたよりはちゃんとした膨らみがあって、形も綺麗だった。白い肌には血管が青く透けて見えている。乳首のところの皮膚は、鳥肌が立ったようにぶつぶつとしている。僕はその膨らみにそっと両手をあててみた。そして、
「女の人の胸に触るの、初めてだよ」と、僕は彼女に告げた。
「本当に?」と、彼女は目を閉じたまま、うわ言のように呟く。「だって男の人の場合、そういう店とかあるから──」
「行ったことないよ」と言いながら、僕はまた彼女にキスをする。「だから正真正銘、初めて」
「私も男の人にこんなふうに触られるの、初めて」という彼女の声は震えている。
「すごい柔らかくて気持ちいいよ。ずっとこうしていたい」
実際それは考えられないほどに柔らかくて気持ちが良かった。やがて僕は右手を外し、今度は唇をそこに寄せた。乳首を吸うと、彼女の口から声にならない吐息のようなものが漏れた。
右手を背中に回して右の胸を揉み、左の胸は口で愛撫しながら、僕は余らせた左手を彼女の股間へとそっと伸ばした。上から撫でると、布の下に毛の感触が確かに感じられた。その状態をしばらく楽しんでから、僕は思い切って左手を布地の下へと滑り込ませた。
実は先ほどからずっと、僕はこの体験が現実のものではないような気がしていた。女性の身体というものに興味を抱き始めてから約十年間、ずっと夢想してきたことが、今現実のものとなろうとしているということが、どうしても信じられない。夢の中にいるような感覚というのはこういうことなのか、などと思っていた。そして彼女の恥毛に直接触れたときには、その感覚が最大になった。
手首を持ち上げるようにして隙間を作り、そこから布地の下に生えている毛を覗き見た。指先を毛の密集地帯からさらにその奥へと伸ばしてみると、また彼女が声にならない吐息を漏らした。そこにある器官がどういう形状をしているのか、僕は実はあまりよく知らなかった。いちおう裏ビデオは何本か見たことがあったが、それでも何だかよくわからない形をしているという程度の認識しかなかったのだ。その部分を僕の指先がなぞっている。襞《ひだ》としか言いようのないものがあった。中指をその襞の間に入れてみると、ぬるっとした感触があった。彼女が「あっ」と小さく声を漏らし、全身をビクンと痙攣《けいれん》させる。まるで傷口に触れたときのような反応だったので、
「痛い?」と思わず聞くと、彼女は目を閉じたまま首を左右に振った。頬が真っ赤に染まっている。今まで誰にも触れられたことがなかった部分に触れられたのが、痛いというよりも、恥ずかしかったのだろうと、僕はそんなふうに納得した。
指先での探索はそこまでにして、いよいよ最後の一枚を脱がすことにした。彼女は僕の動きを察し、お尻を浮かせて協力してくれた。もう覚悟を決めたという感じで、露わになった下腹部を手で覆い隠すこともしなかった。
彼女を全裸にしたところで、僕も素早く自分のパンツを脱ぎ捨てる。そして僕は彼女の身体の上にゆっくりと覆い被さった。何も身に着けていない状態で、二人の身体が重なっている。僕は右手で彼女の短い髪をそっと撫で、そしてまた唇を重ねた。それまで身体を固くしていた彼女も、僕がキスをすると唇を開けて応じ始め、やがて腕を僕の首へと回してきた。
身体を重ね合わせたことによって、棒のように固くなった自分のものが、彼女の身体との間に挟まれた形になっていた。その状態で腰を動かし、敏感な先端部分を刺激すると、快感が肛門のあたりから頭部までを貫く一本の筋となった。「あっ」と思わず声が出てしまう。そのままでは昇り詰めてしまう気がしたので、僕は身体の位置を少し下にずらした。今度はおっぱいを口と手で責める形になる。彼女はいつの間にか両脚を左右に大きく開いていて、僕の腰を左右の太股で挟むような体勢になっていた。僕はさらに身体をずらして行き、ベッドの端の板に阻まれてもうそれ以上後退できないというところまで来ると、正座するような体勢を取って、そうして彼女の秘部を間近に観察しようとした。しかし彼女もそれにはさすがに抵抗があったようで、太股をきゅっと閉じ合わせてしまった。
その時点でもう我慢ができない状態になっていた僕は、彼女の耳元ににじり寄り、口を寄せて「いい?」と聞いてみた。ここまで来てしまった以上は、彼女のほうでも当然もう覚悟はできているものと思っていた。しかし彼女はきつく閉じていた目を開けると、逡巡《しゆんじゆん》するような表情を見せた。
僕は彼女と視線を合わせると、「マユ、愛してる」と言った。言葉よりも目の色で、自分の真剣さが彼女に伝わると思った。すると彼女はそこでようやく口を開き、
「たっくん……アレは?」と聞いてきた。懇願するような口調だった。
「アレ……って?」と、僕は聞き返した。すると彼女は、
「あの……被せるもの」という言葉とともに、手振りでも示してみせた。
「あ──」と僕は言葉を失う。やっぱり必要なのか、というのがそのときの思いだった。
僕は何となく、それはなくてもいいような気がしていたのである。もちろん望まぬ妊娠をしてしまった女性の実例も、今までにいくつか耳にしてはいたが、しかし世間で行われているであろう性行為の頻度に比べれば、それらはごく少数のように感じられて、だから特に何も手を打たずにそれを行ったとしても、妊娠する率はかなり低いだろうというのが、僕の予測としてあったのである。
「ごめん。持ってない」と僕は正直に事実を告げた。もちろん彼女がそういう事態を予測して前もって用意してくれている、などということがあるはずもない。だからなしのままでやるしかないと、僕は自分の中ですでにそう結論づけていた。「──でも大丈夫。ちゃんと外で出すから」とも付け加える。僕にとってはセックス自体が初めての経験だったが、それでも今までに自分でやってきた経験から、そこは請け合える部分だと勝手に思っていた。
「だから……いい?」と重ねて聞くと、彼女はしばらく困ったような顔をしていたが、やがてそれが覚悟を決めた表情となって、そして彼女は小さく首を縦に動かした。
そのやり取りの間中、一時的に夢から醒めたような気分を味わっていた僕は、彼女の了解を得た途端に、再び夢心地へと戻っていった。ついにその瞬間を迎えるのだ。その一事によって、僕は童貞を捨てるし、彼女も処女を捨てることになる。二人の人生において最大の儀式が、今から行われようとしている。
僕は彼女の足元に陣取り、彼女に股を開かせて、その中心部分に自分のものの先端をあてがうと、その体勢のままゆっくりと力を掛け始めた。彼女の表情を確認すると、苦痛に歪んでいたので、僕は上体を重ね合わせて、耳元で「痛い?」と聞いてみた。彼女は無言のまま大きく頷く。それはそうだろうと思う。こんなに太い棒のようなものを身体の中に入れようというのだから。しかし可哀想だからといってそれを先送りにしていては、いつまで経っても僕たちは童貞と処女のままになってしまう。いつかはそれを突き破らなければならないのだから。
僕はいったん力を緩め、上体を起こして、あてがっている位置を微調整すると、もう一度そこに力を掛けていった。しかし今度も侵入は果たせず、彼女が痛がるばかりだったので、また身体を離して、今度はちゃんと位置を確認することにした。
左右の手でその部分を拡げてみると、彼女は恥ずかしがって顔を両手で覆った。肌色の表皮を押し広げると、襞の内部はピンク色の粘膜に覆われていた。右手の人差し指で挿入する部分を探すと、にゅるんと奥に入る部分があった。その位置をしっかりと確認してから、僕はじりじりと腰を寄せていって、先端部分をそこにあてがった。上体を起こしたままだと、性器がつるんと滑って下腹部に張り付いてしまうので、あてがった状態のまま身体を伏せて、彼女と重なる体勢になってから、お尻の筋肉を絞るようにして、先端を埋め込むように力を掛けてゆく。すると──敏感な先端部分が狭い入口を通り抜けたという感覚があって、同時に彼女の口から悲鳴を押し殺したような声が漏れた。
「痛い?」と聞くと、彼女は大きく頷いた。聞くまでもない質問だった。僕の背中に食い込んだ指先が、如実にそれを物語っていた。
「わかった。ゆっくり──本当にゆっくり──痛くないようにするから」
入口を突破したところで急ぎたくなるのは、動物的本能だろうか。僕はそれを必死に抑えて、なるべくゆっくりと侵入させるべく心掛けた。またそれがうまくいかない場合には、いったん逆方向に戻すようにしてみる。狭くて小さな穴の中で、僕の怒張したものが圧し潰されようとしている。逆に僕の怒張したものが彼女の狭い穴を押し広げようとしている。最初に先端を入れたまま、微妙に前後しているうちに、棒と壁との間に体液が纏《まと》わりついてきたような感じがあって、それがだんだんと潤滑油の役割を果たすようになってきているのがわかった。最初の侵入時に感じられていた摩擦が軽減して、力を掛けるとそのぶん奥まで入って行くのがわかる。
「痛い?」と聞くと、彼女はやはり頷いたが、最初のときほど苦痛は感じていないようにも見えた。
「あとちょっとだから我慢して」
その時点ですでに半分以上は中に入っていた。そのままゆっくりと侵入して行くと、僕のほうはまだ三分の一ほどの長さを余していたが、彼女のほうがたぶんここで終点だろうというところに達した。そこに至るまでに、五分ほどの時間がかかっただろうか。
「入ったよ」と報告すると、彼女は辛そうな表情のまま、うんうんと何度も頷く。
潤滑油に覆われているので、前後に動かすことも可能だと判断して、僕はゆっくりと動き始めた。柔らかい肉襞に全体が覆われていて、しかもそれを圧し潰そうとするような圧力が掛かっているので、ゆっくりと動かしただけで、自分の手で行うときとは比べ物にならないほどの快感が襲ってくる。
付け根のあたりに予感が走って──僕は大慌てで引き抜いた。思わず声が出てしまった。
ぬるっという感触とともに抜け出した途端、それは僕の下腹部に直立して──慌てて左手で押し下げようとしたが、その前にすでに一発目の噴出はなされていた。方向が定まらないままに発射されたので慌てたが、それはどうやら自分の胸のあたりに掛かったらしかった。
体液でぬめるそれをとにかく手で押さえ込んで、続く二発目からは(他に出すべきところもなかったので)彼女の身体の上に放出させた。噴出は間欠的に続いたが、五度目でようやく勢いを失い、間を置いてから襲ってきた六度目の快感時には、それは先端から垂れ落ちるだけとなった。そうして落ち着いたところで見れば、彼女の下腹部から胸のあたりまでが、僕の放出した白濁液で汚れてしまっている。
身体に液を掛けられたことに、彼女は当然気づいていただろうが、しかし胸が大きく上下している他は、死んだようにピクリとも動かなかった。おそらく虚脱状態に陥っているのだろうと僕は推察した。僕のほうは逆に興奮冷めやらぬ状態で、放出を終えたのにもかかわらず、その部分はまだコチコチの状態を保っている。
ベッドの頭側の棚にティッシュボックスを見つけて、僕は後始末をし始めた。まずは彼女の身体に掛けてしまった大量の粘液を丁寧に拭き取り、次いで自分のものに粘りついているぬめりを拭《ぬぐ》う。すると彼女が起き上がる気配があったので、横目で見ていると、ティッシュを何枚か手に取って、それで自分の股間を拭い始める姿が目に入った。男性にはちょっと正視できないような絵面で、僕はその場面から視線を逸らした。
「たっくん」と声が掛かって、僕が振り向いたときには、彼女はその始末をすでに終えていたので、僕は内心でホッとする。
「──抱いて」と言って、彼女は両腕を広げた。僕は彼女の横に並ぶように座り、その身体をきつく抱き締めた。彼女も僕の首をぎゅっと抱き締める。そうして再びベッドに倒れ込んだ。
「ごめんね、マユ」と僕は囁き声で謝った。「痛かったでしょ?」と聞くと、泣きそうな顔で大きく頷いた。それでも彼女は僕を受け入れてくれたのだ──。僕は「愛してるよ」と付け加えた。
「私も」と言って、彼女は泣き笑いの表情を見せた。「たっくんが相手だったから──たっくんをそれだけ愛してたから──ひとつになりたいと思ったから──」
僕たちは裸のままだった。そして僕のものは相変わらず大きいままだった。しかし先ほどのようにしたいとは今は思っていなかった。二人でこうして抱き合っているだけでいい。セックスは人間の中に残る動物の部分が欲する行為だ。今の僕は人間として、マユのことを愛している。そう思って、しばらく抱き合っていると、
「ねえ、ちょっと触ってみてもいい?」と彼女が聞いてきた。目的語が抜けていたが、もぞもぞと手が動くので意味がわかった。僕が何も答えないうちに、彼女の左手はそこに到達していた。
「これ……大きいよ。男の人って、みんなこんなに大きいものなの?」
「だと思うけど……。そんなの比べたことないじゃん」
「だって、お風呂とか、一緒に入ったりしない?」
「いや、それはあるけど、でも風呂場ではみんな小さいままだから。男湯でみんながこんなふうに勃起してたらおかしいでしょ?」
「あ、そうか」
「あっ、そこは……」
女性の側にも好奇心があって当然だろうと思う。彼女は僕のものを手探りで調べていた。その手が僕のもっとも敏感な部分に触れたので、僕は思わず身をよじって俯伏《うつぶ》せの姿勢を取った。そして「仕返し」と言って左手を彼女の股間に伸ばすと、彼女も「きゃっ」と言って、同じように俯伏せの姿勢になった。そうして二人で顔を見合わせて、クスクスと笑った。彼女の右手が僕の左手を探り、指と指を組み合わせるようにして僕たちは手を握り合った。そこで彼女は真面目な表情になって、
「でもね、たっくん。次からは、アレは絶対に着けてね」と言った。
「わかった。約束する」
「今日も、こうなることを予測して、来るときに途中で買ってきてくれてれば、私ももっと安心してできたのに」
「ごめん」と僕は素直に謝る。それは完全に僕の失点だった。しかし彼女は優しく微笑んで僕を許してくれた。そして遠い目をして言う。
「私、今日のことは一生忘れないと思う。……初めての相手がたっくんで、本当に良かったと思う」
「初めての相手……だけ?」と聞くと、彼女は微笑んで顔を左右に振った。
「ううん。二度目の相手もたっくん。三度目の相手もたっくん。これからずっと、死ぬまで相手はたっくん一人」
「よろしい」と僕は言って、彼女のほうに半身を向けると、「じゃあ二度目はいつ?」と聞いてみた。
「二度目は……」と彼女も僕のほうに半身を向ける。僕は「今から」と言ってほしかったのだが、──僕のものは相変わらず怒張したままだった──彼女は首を左右に振った。どういう意味かと思っていると、
「あそこが痛いから……。とりあえずそれが治るまでは無理」と言われてしまった。それもそうかと僕は納得する。
僕はその日はそのまま彼女の部屋に泊まっていった。二人とも裸のままで過ごし、そして裸のままで眠った。部屋にいる間中、二人の身体は常にどこかが触れ合っていた。電気を消してからは、よりいっそう相手の肌の感触が濃密に感じられた。彼女のほうが先に眠りに落ち、その寝息を聞きながら、僕もゆっくりと眠りの世界に入っていった。
夢は見なかった。見なくて正解だった。この現実以上に楽しい夢など、有り得ないのだから。
6 君だけに[#「6 君だけに」はゴシック体]
一度身体の関係を持ってしまえば、次からはそれがデートのたびごとに繰り返されるものだと僕は思っていた。二人の間で、そこまではオッケーになったはず、という感覚があったのだ。しかし金曜日のデートのとき、店を出たところで、一緒に彼女の部屋に行こうと提案すると、彼女は首を横に振った。
「いちおう女の子の独り暮らしだから、やっぱり近所の目、みたいなものが気になるじゃない。あの子の部屋、男の人がよく出入りしてるみたいよ──とかって言われたくないし」
「だったら──」と僕は背後を振り返った。そこにシティホテルがある。しかし彼女は首を横に振った。
「じゃあウチに来る?」と誘っても、「ううん」と首を振り、
「もっとロマンチックなところじゃないと嫌。……女の子は最後に痛い思いをするんだから、そのぶん気分で酔わせてくれないと」
「やっぱり……痛い?」と聞くと、
「うん」と答えた後に小声で、「……でも、入れられる前までは気持ちいい」とはにかんだ表情で付け加える。
目の前にマユがいる。今日は細身のジーンズにトレーナーという格好で、そのトレーナーの下には小ぶりな乳房があり、ジーンズの中には毛の生えたあそこがある。彼女はそれを火曜日にすでに僕に見せていたし、僕に触らせもしていた。それなのに今は、見るのも触るのもダメだという。
「じゃあ次はいつ」──できるのか、と聞いたつもりだったが、彼女は次のデートのことを聞かれたと勘違いしたようで、
「次回も金曜日でいい?」と言った。そこで何かを思い出した様子で、「あ、そういえば十月からまた『男女7人』のドラマが始まるよね」
「ああ」僕もテレビ雑誌などでその情報は得ていた。「今度は『秋物語』だってね」
「うん。……でね、何かそれが──前のときと同じで、金曜の夜にやるみたいなんだけど、私──『夏物語』のときも毎週欠かさずに見てたんだけど、今回もそうしたいなって。だから十月からは──」
一瞬ひやりとした。十月からはデートもやめよう──と言われるのではないかと思ったのだ。僕は振られるのか──やはりあのセックスが原因か──などという思いが瞬間的に脳裏を過《よ》ぎったが、マユは「──木曜日にしない?」と言っていた。
「木曜?」
「うん。木曜の夜。……都合悪い?」
木曜日の夜には家庭教師が二件入っていたが、調整すれば何とかなるだろうと思った。「大丈夫。じゃあ十月からは木曜の夜を空けとく」
僕がそう言うと、マユは子供のような無邪気な笑顔を見せて、「ありがとう」と言った。
十月に入ると週二回のゼミ講が再開した。教習所では僕は仮免許の試験に合格し、路上教習の教程に入っていた。
そして十月十日の体育の日。朝昼兼用の食事を済ませ、洗濯機を回しているところに、マユから電話が掛かってきた。彼女からの電話が週末に掛かってくることは珍しく、何だろうと思っていると、
「ねえねえ、昨日の『男女7人』見た?」と言う。
僕は「うん」と答えた。彼女があれだけ好きだと言っているのだから、僕も見ようと思っていたのだ。
「なんか私、あれ見て興奮しちゃって。……たっくんって今日暇? 今何してる?」
という口ぶりから、これからデートという展開もあるかもしれないと思った僕は、
「今日は特に予定はないよ。今は洗濯してる」と答えると、彼女は、
「今から行ってもいいかな?」と言う。
「え、ここに?」と僕は少し驚いた。「場所、知ってたっけ? ……ああ」そういえば、テニスの後でもっちに送ってもらったときには、彼女もその車に同乗していたのだった。
「南循環のバスに乗ればいいんだよね? うん。大丈夫だと思う。……じゃあ後で」と言って電話は切れた。
今日は予定がないと彼女には言ってしまったものの、実際には午後三時から路上教習の予約を入れていたので、僕は慌ててキャンセルの電話を入れる。それから部屋の片付けに取り掛かった。最優先でやらなければならなかったのはトイレの掃除で、便器の汚れを落とし、次いでキッチンの油汚れを可能な範囲で拭き取り、畳に掃除機をかけているところにチャイムが鳴った。
ドアを開け、通廊に彼女の姿を認めた僕は、「ささ、入って」と彼女を中に促した。男性の僕でさえ、恋人が部屋に来ているところを近所の人に見られたくないと思ったのだから、なるほど、彼女が僕を部屋に呼ぶのを躊躇《ためら》う気持ちも、そうして考えてみれば充分に理解できた。
部屋に入って来るなり、彼女は「すごい本の量。図書館みたい」と声を上げた。六畳間の壁一面を埋め尽くす蔵書は、この四年間に僕が買い溜めてきたもので、一千冊近くはあるだろう。
「これ、全部読んだの?」
「ほとんどはね。まあ中には、買ったきり読んでないってのもあるけど」
「すごーい。殺人とか、そういうタイトルの本ばっかり」と言いながら本棚を見回し、「あ、ツルゲーネフとかもあるじゃん。やっぱりこういうのも読んでるんだ」
「まあ、いちおうはね」などと誤魔化す。彼女は本の汚れ具合などから、僕が昔から所蔵していたものだと勘違いしたようだったが、実際にはその一画に収蔵した本は最近になってから──彼女と出会ってから、買ったり読んだりした本だった。読書傾向を合わせることで、より彼女と親密になりたいと思って、僕はそれらの本を古本屋の均一棚で買ったのである。
そのとき僕は唐突に、彼女の部屋にあった『アインシュタインの世界』という本のことを思い出していた。彼女の読書傾向からして、あまりにも似つかわしくないその本は、あるいは彼女が僕のことを理解したいと思って買ったものだったのかもしれない。理系の人間について理解したい──アインシュタインについて勉強してみよう──というその着想の安易さも含めて、それはいかにもあり得ることのように思えたし、もしそうだとしたら──僕はマユのその気持ちを嬉しく思う。
「あ、ファミコンとかするんだ。私、やったことないんだよね」
ゲーム機を発見した彼女は、それで遊んでみたいと言う。僕は説明が簡単な『スーパーマリオブラザーズ』をセットした。最初は彼女一人にコントローラーを持たせて、その脇で僕が解説をする。
「──あ、そこで止まって。もうちょい左。うん。そこで、ジャーンプ。ほら、キノコが出てきた」
「ホントだー」
「じゃなくてあれ捕まえて。ワンナップするから。右右右……あっ、止ま──」
「……落ちちゃった」
十分ほど自由に遊ばせてから、僕が交替して見本演技を見せると、彼女はいたく感心した様子だった。そこで再びコントローラーを渡す。
彼女はなかなか上達しなかった。やはり運動神経が鈍いようで、すぐにマリオを墜落させてしまう。それでも失敗するたびにケラケラと楽しそうに笑うので、僕も横で見ていて苛ついたりはせずに、楽しく時間を過ごすことができた。そうして三十分ほどゲームをしたところで、
「あ、なんか目がおかしい」と彼女が言い出した。「乾燥したみたいな感じ」
「ゲームに熱中しすぎて瞬きを忘れてたんだろう」
「ねえ、ホントにおかしくなってない? 見て」と言って僕のほうを向いてきた。僕は言われたとおりに彼女の瞳を覗き込む。すると彼女は目を閉じ、唇を寄せてきた。
そして僕たちは二度目のセックスをした。今回は僕もちゃんと避妊具を用意していた。ゴムを着けると感度が落ちるという話を聞いていたが、僕の場合にはそれでちょうど好い具合になるようだった。前回とは違って、今回は違う体位を試すだけの余裕があった。後背位と騎乗位を試すと、彼女は嫌そうなそぶりを見せたが、僕は興奮した。
全体的に一度目よりも満足のいくセックスだった。ただし行為の最中に、外の道から竿竹売りのアナウンスが聞こえてきたのには参った。
果てた後、二人で布団に寝転がっているときに、僕がそう言うと、
「竿竹なら間に合ってますよって、よっぽど言おうかと思った、私」とマユが言う。最初は意味がわからずに聞き流してしまったが、しばらく経ってから、不意にそのジョークの意味に気づいて、僕はゲラゲラと大笑いをしてしまった。
彼女はそれから月に一、二回のペースで、僕の部屋を訪ねて来るようになった。
自動車免許の最終試験は十一月六日に行われ、僕は一発で合格した。一週間後に免許証が交付される。その間に僕は駐車場を確保し、中古車を購入した。そして交付直後の週末には試乗を兼ねてマユを車に乗せ、初のドライブに出た。といっても市内の道をぐるぐる回り、最後に大浜海岸まで出て海を見ただけで──そして帰りには、二人で初めてラブホテルに入った。
豪奢《ごうしや》な内装も、微妙な色加減のライトも、天井の鏡も、僕たちにとっては全てが物珍しく──マユは特にはしゃいでいた。雰囲気がそうさせるのか、彼女はその日、今までになく積極的な姿勢を見せた。
誰にも気兼ねすることなく──そして竿竹売りの声に気を削《そ》がれることもなく──僕たちはそこで心ゆくまでお互いを愛し合った。
余韻を楽しんでいるときに、マユからクリスマスの話が出た。イブの夜には夜景の見えるレストランで食事をして、そのままホテルに泊まって過ごせたらいいねと、僕たちは聖夜の理想像を語り合った。
現実には、夜景が綺麗だとか、あるいは料理が美味しいとか、それなりに有名なホテルやレストランでは、すでにこの時期、クリスマスの予約は埋まっているだろうと思われた。しかしダメで元々だと開き直って、僕は帰宅後すぐに電話を掛けてみた。最初に掛けたのはターミナルホテルだった。すると、ちょうどキャンセルが出たばかりで、スカイレストランでのディナー二人席と、ダブルルームが一室空いているという。僕はすぐに予約を申し込んだ。非常にラッキーだった。
マユにも電話をしてその件を報告すると、彼女は開口一番、
「あー、じゃあ、どこかで今日、失恋したカップルがいたってことね」
と言った。なるほどと思う。どこの誰かは知らないが、僕たちはそのカップルに感謝しなければならないと思う。
「じゃあ、イブの夜は、いちおうちゃんとした格好で、ドレスアップして行かないとね」と彼女は弾んだ口調で言うと、その後に「本当にたっくんって凄《すご》い」と付け足して、電話を切った。
クリスマスといえばプレゼントが付き物である。出費の額からすれば、ホテルのディナーと部屋を用意しただけでもうすでに充分という気もしていたが、赤と緑のリボンのかかった小箱がそこにあるのとないのとでは、雰囲気に天と地ほどの差が出る。
しかしその小箱の中身をどうするか……。
女性にプレゼントを贈るのは初めての経験だった。どんな物が喜ばれるのか──選ぶのに充分な時間があったため、余計に僕は頭を悩ませることになった。
そしてクリスマスイブ当日。ホテルのロビーで待ち合わせていた僕の前に、マユは宣言どおりにドレスアップした姿で現れた。毛皮のハーフコートを羽織り、黒のワンピースドレスを着て、同色のハイヒールを履いている。短い髪もそれなりにセットされているふうだったし、顔にも珍しく化粧が施されている。手にしているハンドバッグも、いつも使っているものとは違っていた。
「お待たせ」という言い方も、立ち居振舞いも、どこか上品ぶっている。
僕のほうは丸井で買ったブランド製のスーツ姿で、マユほど気合が入っているとは言えないだろうが、まあ初デートのときよりはマシな格好をしていると言えるだろう。我ながら、あれはひどかったと思う。それでもよくマユが付き合ってくれたと思う。
マユの上流階級ごっこに僕も乗って、「では参りましょうか」と左肘をひょいと横に出すと、マユの右腕がそこに絡んで、僕たちは腕を組んでエレベーターに向かった。フロントでの受付は僕が一人ですでに済ませていた。
まずは部屋に入り、コートやバッグなどを置いて身軽になってから、最上階のレストランに向かうことにした。部屋を出る前に、僕がキスをしようと唇を寄せると、
「だーめ。口紅が取れちゃう」と言って断られてしまった。
レストランの予約席は、残念ながら窓際ではなかったが、それでも窓の向こうに夜景を見晴るかすことはできた。僕たちは店内に入ってからも、服装に見合った上品さを「ごっこ遊び」のように演じ続けていた。
席に着いてから料理が運ばれてくるまでに、しばらく間があった。普段の僕たちであれば、さっそく雑談に興じていたことだろう。しかし今は二人ともお上品なふりをしているので、なかなか会話が弾まない。
タバコで間を繋ごうと思い、火をつけたときには、小声で注意されてしまった。
「あ……吸ってもよろしかったでしょうか?」と僕が言うと、
「……そうじゃなくて」と彼女は急に小声になり、「ライターがそれだと雰囲気が台無しになっちゃう」と指摘してきた。なるほど、百円ライターではいかにも場の雰囲気にそぐわない。僕は火をつけたタバコはそのまま灰皿に置き、ライターとタバコの箱をそそくさと胸ポケットに仕舞った。
「たっくん、服とかはいちおうそれで合格だけど、それだけじゃなくて、小道具とかも、ちゃんとそれっぽいものを揃《そろ》えておいてくれないと」
「ごめんごめん」
二人で二万円近いコースの料金は、料理に対してではなく、この場の雰囲気に対して支払われているのだということを、僕もようやく理解していた。日常空間から切り離され、僕たちがドラマの主役になれるのは、特定の場所に限られている。そこがここなのだ。いや、男性である僕はしょせんは脇役でしかない。クリスマスイブという特別な夜に、主役になれるのは、女性であるマユだけなのだ。
時にはこうして非日常の世界に遊び、そして普段は地に足の着いた生活をして──そうしてこの先いつまでも、マユと時間を過ごしていけたら最高だと、僕はそう思っていた。
食事を終えて部屋に戻ってからも、僕は非日常的な、紳士ふうの態度を取り続けていた。本当は「あー疲れた」と言って、すぐにでもベッドに横になりたかったのだが、高い宿泊料金と幸運でせっかく手に入れた今夜のこのシチュエーションは、なるべくマユのために活かしたいと思ったのである。
ルームサービスでシャンパンを頼み、二人きりの部屋で乾杯をする。そのときにふと気づいたことがあった。
「あ、マユ……そういえば指輪は?」
「え?」
「ほら、あの、前に──僕たちが最初に会ったときにして来てたやつ。あれは今日はして来なかったの?」
今日の彼女の格好からすれば、それを持っているのにして来ないということが、かなり不自然なように思えたのだ。すると、
「あ、うん。あれね。……本当はして来ようと思ってたんだけど、探したら無くて──なんか、失くしちゃったみたい」
「え、ホントに? けっこう高かったんじゃなかったっけ?」
「うん。別にどこかにして行ったとかって記憶もないし、だからずっと家に仕舞っといたはずなんだけど……」
「泥棒でも入ったんじゃないの?」と僕が言うと、
「まさか……」と言いながら、彼女は不安そうに首を傾げた。
もし彼女が本当に指輪を失くしたのなら──いや、そうでなくても──プレゼントは指輪にすればよかった──と僕は渡す直前になって後悔の念を抱いた。
「じゃあ来年は僕が指輪をプレゼントする」と思ったままを口にしながら、僕はコートのポケットに仕舞っておいた包みを取り出した。「はい。プレゼント」
「あ、ホントに? ありがとう。……開けていい?」
「どうぞ」
僕がプレゼントに選んだのは、金のチェーンネックレスだった。悩みに悩んだ末、結局は無難なものを選んだのである。ただしそのぶん、相手に与えるインパクトは弱いだろうと予測していたが、箱を開けたマユは無邪気に喜んだ。
「わー。ありがとう。さっそく着けてみるね。……着けてくれる?」
僕は彼女の後ろに回り、ネックレスを首に掛けた。
「これって外に出すんじゃなくて、中に──っていうか、肌に着ける感じだよね?」と言いながら、襟の中に仕舞い込む。「ありがとう。これからはずっと──肌身離さず着けっ放しにしておく。……じゃあ私も──」と言いながらバッグの中を漁って、
「はい。たっくんにプレゼント」
あ、ちゃんと僕にも用意してくれていたんだ──と思いながら受け取る。
さっそく包装を解き、Poloのロゴの入った箱を開けると、中から現れたのは──革製の財布とパスケースのセットだった。思わず「おう」という言葉が出てしまった。なかなかカッコいい。センスがある。しかし何よりも、マユがくれたプレゼントだということに価値があった。
「ありがとう。これ、大事に使うから」と僕は気持ちを込めて言ったが、それでも今自分が抱いている感謝の念を伝えきれていない気がした。
どれだけ言葉を重ねても伝えられないほどのこの気持ちを、どうやって彼女に伝えればいいのだろう……。
僕は立ち上がり、彼女の顔に唇を寄せた。今度は彼女も拒否しなかった。
聖夜のキスは甘いシャンパンの香りがした。
今夜は、世界中の恋人たちがそれぞれに幸せな時を過ごしていることだろうが、それでも今の僕たち──僕とマユの二人には、誰もかなわないだろうと思った。
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1 木綿のハンカチーフ[#「1 木綿のハンカチーフ」はゴシック体]
「海藤《かいどう》くん。そして鈴木くん」
テーブルの向こう側に総務部長が座り、僕たち二人に話し掛けている。僕が部長とこうして直に接するのは、これが四回目となる。試験の面接のときが初回で、入社式のときが二回目、そして三回目は工場研修のときだった。
六月十九日の夕方。今日一日の研修も終わり、レポート作成の時間になったときに、事務員が僕と海藤の二人だけを呼びにきたのだった。その時点で、ある程度の覚悟はしていたのだが……。
「──君たち二人には、この七月から、少なくとも二年間、長い場合だと三年間になるかもしれませんが、東京に行ってもらいたいと思っています」総務部長は、まるでそれが朗報だとでもいうように、にこやかにそう告げた。
やはりその話だったか。東京へ派遣。しかも二年間も。内定を貰っていた大企業を蹴ってまで、わざわざ静岡の会社を選んで入ったというのに……。僕はこっそりと溜息を吐く。
前月あたりから噂だけは耳にしていた。……新入社員のうちから数名が東京に派遣になるらしい……その数名は幹部候補生という扱いで同期の中でも出世頭になるらしい……たぶん海藤と鈴木は決まりだろう……あとは沖《おき》と三枝《さえぐさ》が選ばれるかどうかだが……。
海藤は名古屋大学を卒業しており、出身校のランクで言えば、四十二人いる新入社員の中ではズバ抜けていた。学力だけではなく統率力なども備わっていて、彼の場合には、幹部候補生にふさわしい人材だと僕も思っている。一方の僕のほうはどうなのか。まず、入社時の学科試験と適性検査の両方で、抜群の成績を示していたらしい……という話は、総務のほうから漏れ聞いていた。それ以外でも、考えてみれば、研修期間中には何かと目立つ機会が多かったように思う。他のみんなが新入社員らしくビジネススーツ姿で会社に来ているのに対して、僕は入社式のときからブランドもののソフトスーツを着て来ていたし、工場研修の飲み会のときには、僕自身は憶えていないのだが、どうやら酒に酔って暴れてしまったらしい。スーツに関しては誰も何も言わなかったが、飲み会の一件は、後でかなり怒られてしまった。ただ、そんなふうに悪目立ちする一方で、僕は授業の成績に関しては、常にトップレベルを維持してきた。まわりの人間が(それが静岡育ちの奥ゆかしさというやつなのだろうか)思っていることをあまり口にしないタイプなのに対して、僕は思ったことをその場で言うようにしてきたので、積極的な性格をしていると思われていたのかもしれない。実際にはむしろ消極的な性格だと、自分では思っているのだが。
「今はまだ口頭による内示の段階ですが、正式な辞令は七月一日の朝にここで手渡します。君たちはだから、一日の午前中には一度ここに来て、それから東京の本社の方へと移動します。私が君たちを連れて行きます。午後には向こうに移動して、派遣先の部署の人たちへの紹介などがあって、それで一日の予定は終わりになります。……あ、言い忘れていましたが、二人には一日から、向こうの墨田区にある寮に入ってもらうことになります。二日と三日は派遣休暇で休みになります。さらに土日を挟んで──だから移動日の後、四日間の休みがあるので、その間に引越の片付けとかもしておいてもらって、で、週明けの六日からいよいよ、向こうで配属先の部署に出てもらうことになります」
「その引越は、自腹でってことはないですよね? 会社のほうで手配していただけると考えてよいのですよね?」と海藤が確認する。
「そうです。会社から引越の業者さんのほうに頼む形になります。荷物は一日の朝に取りに来るはずです。だから君たちは、それまでの間に荷造りを済ませておいてもらって、一日の朝には荷物の搬出を見届けてから、こちらに出社してきてもらう形になります。……その荷造りのためのダンボールを、事前に君たちの家に届けるんですが、その数を知りたいということで、この用紙を預かってきています」部長は僕らに紙を手渡した。鉛筆も渡される。用紙は家具調度品の一覧表で、所持数を記入するようになっていた。
「この話は──」住所と氏名を用紙に書き込んだところで、僕はいちおう聞いてみることにした。
「断るということは……できませんよね?」
総務部長にとってそれは、予想外の質問だったらしい。目を丸くして、
「鈴木くんは──東京へは行きたくないんですか? 新入社員はみんな、東京に行きたいと思っていると思っていたんですが」
「みんながみんなというわけじゃないと思います。僕の場合は、実家がこっちではないんで……」と喋りながら、良い言い訳を考える。まさか彼女がいるから静岡を離れたくないのだと、正直に打ち明けるわけにもいかない。
部長は当然、不審に思ったようで、
「それはもちろんわかっています。だからこそ、君の場合は、静岡に残ることにこだわりはないと思っていたんですが」
「すいません。いきなり引越の話をされて、ちょっと心構えができてなかったもんで……」と言ってみたものの、フォローになっていないような気がした。「別に東京に行きたくないとかってことではなくて、その、選ばれたことに関しては、もちろん光栄なことだとは思っているのですが、あの……僕の場合、引越をするとなると、今住んでいるアパートも解約とかしなくちゃいけないだとか、その、独り暮らしをしているぶん、ちょっと面倒なことが多いかなと思っちゃって、それでつい……。あ、あと、車はどうなんです? その寮に車って置けるんですか?」
「あ、車は……。それは聞いてなかった。ちょっと待っててください。今聞いてみます。……その間に、書いておいてください」
部長が電話をしている間に、僕は機械的に項目をチェックしていった。頭の中が考えることを拒否しているような感じで、とりあえず目先の単純作業に集中するしかない感じだった。
「車はダメです」やがて電話を終えた部長がテーブルに戻ってきて言った。「寮の駐車場には置けないそうです。もし車をどうしても持って行きたいというんだったら、寮の近くに自分で駐車場を借りるとかしてもらうことになります」
「わかりました。どうもすいませんでした」
そこでようやく頭の中が、物事を考えられる状態になってきた。記入を終えた用紙を眺めながら、僕はいま自分が置かれている状況について確認してみた。
今回の東京行きの話は辞令──つまり会社の命令であり、逆らえるものではない。そこはもう、覚悟を決めるしかなさそうだった。
その上で、今のうちに部長に言っておくべきこと、聞いておくべきことはないか……。
荷造りも──それ用のダンボールがいつ届くかにもよるが、二十七、二十八の土日の前に届いていれば、まあ何とかなるだろう。
あとはアパートと駐車場の解約手続きか。その二つは早めに済ませておかないと。といっても、解約は一ヵ月前までに通達しなければならない決まりだったはずだから、今すぐに手続きをしても六月末には到底間に合わない。つまり七月末までのぶんの料金は取られてしまうことになるのだが、逆に言えば、それまでは賃貸の契約が生きていることになる。七月の間はだから、その東京の寮というところと、今のアパートと、僕はその二ヵ所に自分の居場所を持つことになる。だからたとえば、七月一日までに荷造りが間に合わなかった物があった場合でも、それはとりあえず今のアパートに置きっ放しにしておいて、七月中に別途、自分で運べばいいということになる。車もだからとりあえずは、今の駐車場に置きっ放しにしておいて、七月中に、東京に持って行くか売ってしまうかを決めればいいということになる。両方ともだから、火急の問題ではないということになる。
となると問題は──あとは結局、マユに関することだけか。とりあえずは。
そうだ。彼女を東京に連れてはいけないだろうか……?
「あの……その寮ではなくて、僕が自分でアパートを借りるってことは、できますか?」
僕が聞くと、部長はまた目を丸くした。
「それは……もちろん寮に入るっていうのは強制ではないので、鈴木くんが自分で部屋を借りて住みたいというのであれば、それはそれでこちらとしては別に構わない話です。たとえば親戚か誰かがあっちに住んでいて、そこに住まわせてもらえる、というようなケースなら、こちらもあるかもしれないとは思っていました。でもそういうわけでもないんですよね? だったら──」と言って、部長はその寮を下見してきたときに仕入れてきた情報を披露してくれた。
名前は墨東寮で、所在地は墨田区東向島。通勤は地下鉄で一本。通勤時間はたったの四十分。寮費はいちおう徴収しているが、ほとんど無いに等しい。……これだけでも、個人で部屋を借りる場合とは雲泥の差が出るはずだと、部長は言った。個人でアパート等を借りた場合、家賃は月額でおそらく七万円ほどはかかるだろうし、また通勤時間にしてもおそらく片道で三十分、往復で一時間は違いが出るだろうと言う。
「その往復一時間を時給に換算すれば千五百円、月あたりだと三万円になります。だから家賃とあわせれば、毎月十万円は違いが出るという計算になりますね」と説明された段階で、僕は自分でアパートを借りるという案がいかに無謀なものであったかを自覚した。
部長の説明はさらに続いた。各室の間取りや屋内の設備についてなど。電話機はプリペイド方式のものが各室に付いていると聞いて、僕は、だったらマユから掛かってきても大丈夫だなと思った。その他の点についても、特に文句をつけたいと思うようなところはなかった。
「あと寮に入ると──これが最大の利点なんですが、同じ寮内で顔見知りができて、遊び仲間の人脈ができるはずです。墨東寮に入れるのは、商事の社員で入社三年目までの希望者と、あとはウチと同じ地方ギフトから派遣された──だから各会社で将来の幹部候補生と見込まれた優秀な社員に限られています。言い方を変えれば、慶徳グループの若手のエリートが集う場所だという言い方もできると思います。そこで作られた人脈は、だから将来的には、君たちの役に立つことになるはずです」
隣では海藤が、何度も頷きながら、部長の話に聞き入っていた。
慶徳ギフト静岡の本社から、教室のある会館に戻る道すがら、海藤が「スーさんは東京、行きたくないのか?」と聞いてきた。
「海藤は行きたいのか?」逆に聞き返すと「そりゃそうさ」という答えが返ってくる。
「静岡にはないものが、あっちにはあるからなあ。優秀な人材だって集まるし、文化だってそうだよ。東京でしか見られない映画とか、舞台とかもあるし。それに女だって、静岡とはやっぱレベルが違うだろう。こっちでいくらトップクラスだといっても、あっちだと、まあそこそこ、みたいなレベルだったりするわけだし。逆にじゃあ、静岡にはあるけど東京にはないものって何かあるか?」
マユは──彼女は静岡にしかいない、と即座に思ったが、もちろん口には出さなかった。
会館に着いたときにはもう午後六時を回っていたが、同期の一部はまだ残っていた。海藤がさっそく東京行きの内示を受けた件をみんなに報告する。
結局その晩は、会館に居残っていた同期六人と僕と海藤の合計八人で飲むことになった。海藤は飲み会の間ずっと、静岡がいかに田舎であるか、そして東京がいかに誘惑に満ちた土地であるかという話を、僕に向かって懇々と説いていた。高層ビルから見える夜景とシャンパングラスの泡、そして傍らに寝そべるのは極上の女。散会の後、東京に関するそんな俗っぽいイメージだけが、僕の頭に残されていた。
実は僕も、海藤に説かれるまでもなく、東京に憧れる部分は元からあったのである。静岡にマユという存在がなければ、部長の言うとおりで、他県出身者の僕にとっては、勤務先が静岡であることに格別のこだわりはなかった。そして東京行きが会社から篤《あつ》く思われている証《あかし》というのならば、海藤のようにそれを喜ぶのがむしろ当然だと思う。
そして僕がどう思っていようが、東京に派遣されることはすでに決定しているのである。ならば僕も海藤のように、最初から東京生活を楽しむつもりで行くのが得策ではないか。みんなで飲んでいる間に、僕はすでにそんなふうに腹を決めていたのだった。
帰宅後すぐに僕はマユに電話をした。
「俺だけど」
「あ、たっくん? どうしたの?」いつもの屈託のない声が返ってくる。そこで、
「俺さあ、東京に行くことになったみたいでさあ」と意を決して切り出してみると、
「あ、ホントに? いつ?」と彼女が軽く受け止めたので、僕は少し拍子抜けした。しかし「うん。来月から」と答えたところで、急に彼女の対応が変わった。
「え? 来月……から? からって、どういうこと?」
「うん。……とりあえず、詳しい話は明日するから」
電話で話すよりは、直接会って話したほうがいい話題だと、今更ながらに思った僕は、そんなふうに誤魔化した。
「たっくん、……酔ってる?」
「うん。とにかく、詳しい話は明日でいい?」
「うん……わかった。じゃあ明日」
僕が受話器を置く前に、彼女は電話を切っていた。掛けた側が先に切るのがマナーだと前に教えたはずなのに。やはり動揺していたのだろうか。
俺だって動揺しているのに、と思って僕は深く溜息を吐いた。その酒臭さに自分で辟易《へきえき》する。……マユはとても可愛い。彼女とは当然、これからも、今までと同じように付き合っていきたいと思っている。それがこんな形で離ればなれになるのはとても不安だ……。
彼女は静岡にいるし、僕は東京に行かなければならない。だから今後(最低でも)二年間はお互いに離れて暮らすしかない。それはもう決定事項のはずだった。ならば僕は週末ごとに静岡へ帰ってきて彼女と会う。そうするしかない。あとは今以上に電話をする。急に会いたいと言われたときにはさすがに対応できないが、それ以外であれば今までと変わらない関係でいられる。そんな気がした。
僕さえ努力すれば。
毎日電話する。毎週帰ってくる。彼女にはそう言おう。
僕が説明している間、そして説明を終えた後もしばらくの間は、マユは何も言おうとはしなかった。横顔が滅多に見られないような表情をしていて、僕は罪悪感に駆られる。
「……要するに、会社から認められたってことだよね」ようやく口を開いたときも、彼女は僕と目を合わそうとはしなかった。伏し目がちに、ダッシュボードのあたりをじっと見つめている。「四十二人いる中で二人だけ、選ばれたんだもんね。たっくんにとってはとても良いことなのに。私が喜ばないと思った?」そこでようやく僕のほうを向く。表情はいつもの笑顔とほぼ同じものになっていた。
でも実際に喜んでないじゃないか──という呟きは胸の裡《うち》だけにしておいた。どんなに表情を繕って見せても、その心の中は手に取るようにわかった。しかし彼女は、僕の東京行きが避けられないものだとわかった上で、僕を快く送り出そうとしてくれているのだ。
右手には海が見えていた。話をする場所として、僕は久能街道を選んでいた。冬になればイチゴ娘たちが立ち並ぶ一角──今はただの汚い小屋が並んでいるだけの場所に、車を停めている。外は快晴で、夏を先取りしたような強い陽射しが降りそそいでいたが、車の中だけは梅雨空に厚く覆われていた。
「この車は向こうに持って行く」僕は思ったままを口にしていた。たった今決めたことだった。「真夜中でも、マユから電話ですぐに来てって言われたら、この車でできるだけ早く駆けつける」
「そんなワガママ言わない」と言ったときには、マユはいつもの表情に戻っていた。この笑顔を見るためならば、僕は何だってできると思う。
「却《かえ》って今までよりも頻繁に会うようになったりしてね」僕もそう言って笑った。ようやく冗談を飛ばせるだけの心の余裕ができていた。
七月以降、二人の間に百数十キロという距離が開いてしまうのは、厳然たる事実であった。しかしその障害が、何も悪いほうに働きかけるとばかり決め付けてしまうことはない。障害があるからこそ二人の絆《きずな》がより強くなるということだって考えられる。
そして今こそがそうだと僕は感じていた。今、僕とマユの心の距離はゼロになっている。問題に対して、一緒になって立ち向かおうとしている。
考えてみれば最近、お互いに惰性で会話をしたりセックスをしたりしているときがあったように思う。そうでなくとも、付き合い始めたときのような、相手のちょっとした言葉や仕草に敏感に反応するようなことはなくなっていた。僕はそれを、いい意味で二人が馴《な》れ合《あ》いの関係になったと好意的に解釈していたが、それをあえて悪く言えば、二人が倦怠期に入っていたというふうにも考えられただろう。
今回の東京行きが、そんな二人の関係を良い方向に進めてくれるきっかけになれば。
僕は車をスタートさせた。すぐ先の交差点を左に折れて、今までに何度か利用したことのあるラブホテルに車を乗り入れる。二人とも無言のままで、しかし了解は取れていた。
そして僕たちはセックスをした。今日は彼女が口を使わなくても、僕のものは充分に用意できていた。彼女はいつも以上に強く僕の背中を抱き締めた。惰性のような感じはどこにもなかった。僕は激しく身体を動かしながら、お互いがまだ経験不足で気持ちと身体がバラバラに動いていた、付き合い始めの頃のことを久しぶりに思い出していた。
同時に達したのも久しぶりだった。このまま死んでもいいとさえ思った。
東京なんてクソ食らえだ。
その後の十日間は慌しさの中に過ぎていった。火曜日にはダンボールが届いたが、僕はまだあと一週間は、この部屋で暮らさなければならないのである。荷造りできる物は、たとえば冬物の衣類などといった、当面の生活に必要のない物に限られていた。大きな荷物に関しては、週末に意を決して箱詰め作業を行ったが、結果、部屋の中がダンボールの箱だらけになり、精神的に落ち着かない状況になった。マユも一度手伝いに顔を見せたが、あまりの部屋の汚さにげんなりして、すぐに帰っていった。
三十日の夜には、最後まで使っていたテレビなども梱包し、一日の朝には早起きして、さらに布団や洗面具などを片付けた。朝八時過ぎには業者のトラックが来たが、僕の場合には東京に持っていく物とアパートに残していく物とがあるため、その指示に気を遣うこととなった。搬出が終わったのが午前九時過ぎで、それからようやく出社する。会社に着いてからは逆に、辞令を受ける以外に用事がなく、海藤と二人で時間を潰すのに苦労した。
午後になってようやく総務部長が来て、三人で出発することとなった。新幹線を使って一時間半で着いた東京の街は、予想以上に汚くてごみごみとしており、そして暑かった。僕と海藤は違う部署に配属されることになっていたので、三人でそれぞれの部署を回り、いろいろな人たちに紹介されて、職場廻りからやっと解放されたのは、夕方も五時を過ぎてからのことだった。その時点ですでに僕はへとへとになっていた。今朝はあまり寝ていられなかったため、睡眠不足気味でもあった。
そんな状態でさらに部長に案内されて墨東寮へと向かう。地下鉄都営浅草線に乗り、それが地上に出たところにある京成|曳舟《ひきふね》という駅で降りて、徒歩で五分ほど行ったところに寮はあった。寮長というオジサンがいて、その人に僕たちを引き渡したところで、部長の仕事は終わったようで、「じゃあ、海藤くんも鈴木くんも、頑張ってください」というひと言を残して帰って行った。
寮には僕たち以外にも、今日が入寮日という人間が大勢いる様子で、みんな勝手がわからずに館内を右往左往していた。ほとんどが僕たちと同じ地方ギフトからの派遣社員らしく、廊下に積まれた荷物の中には、仙台や福岡が発送元のものもあった。
部屋の割り当ては、僕が三〇五号室で、海藤がその隣の三〇六号室だった。寮長から鍵を貰ってそれぞれの部屋に行くと、朝搬出した荷物はすでに届いていて、一部は部屋に、一部は廊下にといった感じに、雑然と積まれていた。僕は何よりもまず、スーツを室内着に着替え、布団を荷解《にほど》きしてその上に横になった。あっという間に眠りに就いた。しかし夜九時に館内放送があってすぐに起こされた。寮長から、寮費の振り込み方法や電話の使い方、風呂や契約食堂の利用方法などについて、ひと通りの説明があった。使用済みのダンボールは明日の朝にまとめてゴミに出すので、荷解きは今日中に行う必要があるという。
部屋に戻ると、僕はとりあえず全てのダンボールを開けて中の物を出し、使用済みのダンボールを廊下に出した。ひと通りの荷解きを終えた段階で、すでに午後十一時を回っていた。
そこで、マユに電話をしておかなければ、と思い出した。部屋の電話機がまだ使えない状態だったので、その番号だけは調べて暗記した上で、僕は外に出て公衆電話を探した。少し行ったところにある公園にようやく電話ボックスを見つけ、僕はマユの番号をプッシュする。
「はい。成岡です」と電話に出た声は不機嫌そうで、どうやらすでに布団に入っていたらしかった。
「俺だけど」
「あ、たっくん?」と声が弾んだので、僕はホッとする。「──今東京?」
「そう」カードの度数がどんどん減っていく。僕は自分の部屋専用の電話番号を告げ、メモを取らせた上で、「あ、でもまだ使えないみたいなんだよ。使えるようになったら、また電話するから」と付け加えた。すると彼女は、
「じゃあ今はどこから掛けてるの?」などと聞いてくる。公衆電話からに決まっているじゃないか。そんな会話をしている場合じゃない。度数はすでに十いくつも減っている。
「でさー、明日、マユの誕生日じゃん? 俺、夕方には静岡に帰るから。俺の部屋はもう布団ないからさー、マユんとこに泊めてもらえる?」
「え、来てくれるの?」と声が弾んだ。彼女の顔が見て取れるようだった。
「もちろん」と僕は明るい声を出した。「行かないと思った?」
「だって東京行っちゃうって言ってたし」
「東京っていっても、ひかり号なら一時間だぜ」と答えながらも、僕はカードの残り度数の減り具合を気にしていた。「うん。じゃあ、とにかく明日の晩は、メシを食わずに、俺が行くのを待ってて」
「わかった。……ありがとう、たっくん」
「うん。じゃあ明日」と話を切り上げて、受話器をフックに置く直前に、またひとつ度数が減ったので、僕は舌打ちをしながらカードを引き抜いた。
部屋に戻ってすぐ、僕は眠りに就いた。
翌朝はドアをノックする音で起きた。時計を見たらすでに十時を過ぎていたので一瞬目を疑った。そんなに疲れていたのか僕は。寝ぼけ眼でドアを開けると海藤が立っていた。彼は僕をひと目見るなり、心配そうな表情をしてみせた。
「スーさん大丈夫か? すげー疲れた顔してるけど」
「大丈夫。っていうか、僕からすれば、海藤のほうが、なぜそんなに元気なのかが不思議でならないんだけど」彼だって昨日は僕と同じだけ、身体と精神を酷使したはずなのに。
「やっぱり東京に来たんだっていう、その、ワクワク感みたいなのがあって、それで気が張ってるんだろうな。……でさあ、とりあえずメシ食いに出ない? それでその後、俺はこの近所に何があるか、一日かけてあちこち見て回るつもりなんだけど……スーさんも一緒に来ない?」
「そんな元気ないよ」と反射的に答えたが、実は僕は今日、もっと元気でなければできないような計画を立てていた。「でもとりあえず、朝メシは一緒に食えるかも。ちょっと待っててくれれば」
というわけで朝昼兼用の食事を海藤と一緒に摂《と》ったのだが、その時点で午前十一時を回っていた。あまりゆっくりしていると、プレゼントを買うための時間がなくなる。一度部屋に戻ると、着替えを詰めたバッグを抱えて速攻で寮を出た。銀行でとりあえず十万円ほど現金を下ろし、地下鉄の乗り換えで迷ったりしながらも、午後一時には何とか銀座の地を踏むことができた。高級そうな店構えに気圧《けお》されそうになりながら、目に付いた宝石店に入ってみる。その店では相場を調べるだけにしておいて、次に行ったデパートの宝飾品売り場で目的の品物を買った。その時点で午後二時。思ったよりも余裕があった。
そして午後四時前に静岡のアパートへ帰り着いたときには、もう少しプレゼント選びに時間をかけてもよかったなと反省していた。しかしもう遅い。
電話がまだ生きていたので、以前にマユと一緒に行こうと話していたレストランの番号を電話帳で調べて、予約の電話を入れる。それでもう僕にはすることがなくなってしまった。テレビも何もない部屋では、時間を潰すことすら容易ではない。結局、僕は車でパチンコ屋に向かうことにした。フィーバー台ではなく一般台に付き、ちびちびと玉を打ちながら、時間が過ぎるのを待つ。恋人の誕生日を祝う直前にパチンコ遊びをしている自分のことが、何だか妙におかしく思えてきてしまった。
そんなふうに、ただの時間潰しのつもりで始めたパチンコだったが、思わぬ大当たりが連続して来て、気がつくとすでに時間的にはちょうどいい頃合《ころあい》になっていた。全部お菓子に交換して、それもプレゼントだといって渡したら、分量的には豪気に見えるかもしれないぞ、などというアイデアも思いついたが、さすがにパチンコの景品では気が退《ひ》けるので却下し、普通に換金してもらうことにした。
店を出て公衆電話を探し、電話を掛けてみると、彼女はすでに帰宅していた。十分後には行くといって電話を切り、予告どおりに家の前に着く。西空が見事なくらいの夕焼け色に染まっていた。呼び鈴を押すと、マユがドアを開けた。
「たっくん……。本当に来てくれたんだ」
顔を見るのは四日ぶりだった。別に久しぶりというわけでもない。それなのに今日の再会には特別な感慨があった。百八十キロという距離の遠さを、そんなところに感じたりもした。
助手席に乗り込むときに、マユは後部座席の包みに目を留めた。僕は「あれは食事の後のお楽しみにしとこう」と言って機先を制し、彼女には何も言う暇を与えなかった。
予約したレストランには時間どおりに着いた。車で来ているのでアルコール類を注文できないのが残念だったが、食事は期待どおりの美味《おい》しさで、今日という特別な日にふさわしかった。二人の会話も弾んだ。一昨日までの荷造り作業のことや、昨日から住むことになった墨東寮についてのあれこれ、さらに今日さっそく地下鉄で迷ったことなど、僕のほうでも話題にしたいネタが山ほどあった。
駐車場に戻り、二人で車に乗り込んだところで、僕は後部座席に手を伸ばし、第一のプレゼントを彼女に手渡した。マユはそれを一度胸にかき抱いてから、「開けていい」と目を輝かせて聞いてきた。「いいよ。開けてみて」と僕が言うと、リボンを外し、包装紙を剥がして、箱の蓋《ふた》を開ける。そして中に入っていたブーツ型のジョッキ二つを見て歓声を上げた。
「あっ、凄い。これってアレでしょ?」
「そうそう」
「『男女7人』でみんなが飲んでいた、あのゴボッてなるやつ。こんなの売ってるんだ」
「うん。ちなみに──って、これは言わないほうがいいのかな。……それはウチで扱っている商品です」
「あ、そうか。たっくんは今、プレゼントは選びたい放題だもんね。でもこれ、たぶんいろいろある中でも、私《わたし》的には一番だと思う。たっくんの選択眼、サイコー。……本当にありがとう。嬉しい」と言って、マユは僕の左頬にキスをした。
「落として割らないように」と照れ隠しに言って、僕は車をスタートさせた。
マユは今ので充分喜んでいたが、本番はまだこの先にあるのだ。あのブーツジョッキは六月半ばにはすでに社販で買ってあった物だ。もちろんマユの誕生日プレゼントとして買ったのだが、しかしそのときと今とでは状況が違っている。僕にはもうひとつ渡したいものがあるのだ。
彼女の部屋に行き、ベッドに並んで腰を下ろして、抱擁とキスを繰り返したあと、僕は頃合だと思って、ついにそれを渡すことにした。
「ちょっと待って。マユ。プレゼントがもうひとつあるんだ」
そう言って僕がポケットから取り出した箱の大きさを見て、彼女はある程度その中身について予想を立てたに違いない。息を詰めてリボンを解き、包装紙を外す。中からは青のベルベットで外装されたケースが出てくる。
蓋を開けて、彼女は大きく息を呑んだ。ついで僕の目を見る。ここで何か言って、と彼女の目が催促している。
「今月から僕ら、東京とこっちで離れて暮らすことになっちゃったけど、これ、僕はマユのことをいつも思ってるよって気持ちを込めて」
「たっくん……。あの話、憶えててくれたんだ」マユの視線は僕と指輪の間を何度も行き来している。
「当然」と僕は答える。
「これ、ルビーでしょ? 私知ってるけど、高かったでしょ?」と泣き笑いの表情になる。
「うん。マユが他の月に生まれててくれれば、ね。もっと大粒のを買えたかも」
「もっと安いのを、じゃなくて。……私、たっくんのそういうトコが好き。もう大好き」
僕だって、という言葉は彼女の唇に塞がれてしまった。彼女の頬にあった涙の粒が、いつの間にか僕の頬に移動していた。
「こんなに嬉しい誕生日なんて……もう二度とないかもしれない……本当に嬉しい」
「どうしてマユは……悲観的なんだろうね……来年は僕がもっと……もっと……素敵な誕生日にするよ……」
息継ぎをする間がなかったので、キスをいったん中断しなくてはならなかった。二人ではあはあと息を切らしながら、震える身体をお互いにきつく抱き締めていた。
そのときの僕たちは最高に幸せだった。
2 DANCE[#「2 DANCE」はゴシック体]
東京で暮らすようになって、まず最初に感じたのが、水道水の不味《まず》さだった。カルキ臭がとにかく強いのだ。もちろん飲んだりはしないのだが、歯を磨いたあとで口をゆすぐために口中に含んだだけでも、それを感じる。あとはトイレで水を流したとき。水流からむっとするようなカルキ臭が漂い上るのだ。
比喩ではなく言葉そのままの意味で、僕には東京の水は合わないと思った。
僕は七月の三日には疲れ切った身体で東京に戻り、四日と五日は、本来なら駐車場を探すつもりだったのを、休養にあてたりもしたのだが、それでも体調はベストの状態には戻らなかった。
人間の身体の三分の二は水分が占めているという。だから僕の体内にはまだ静岡の綺麗な水が成分として残っていて、それが外の世界に満ちている東京のカルキ臭い水を拒絶しているのだと──それでこんなに体調が悪いのだと、僕は思っていた。
しかしいくら体調が悪かろうが、六日の朝には新しい職場に出なければならなかった。
新人研修は大学の延長のようなものであったから、今日こそが実質的な初出勤なのだと、僕は疲れた身体に鞭打って何とか起き出した。朝七時過ぎには海藤と一緒に寮を出て、八時前には本社ビルに着く。警備員には慶徳ギフト静岡の社員証を提示して中に入り、エレベーターで海藤と別れる。
その途端に僕は本当に心細くなった。派遣先の部課長にはすでに挨拶をしていたが、それ以外の人たちとは全く面識のない部署に、これから一人で乗り込んで行かなければならないのだ。
しかし朝早く来すぎたようで、商品開発部第二開発課にはまだ誰の姿も見あたらなかった。僕は自分用に与えられたデスクに荷物を置いて、椅子にぐったりと座り込んだ。本当にここで良かったかと急に不安になり、壁の行先掲示板を見て部課長の名前を確認したりもした。
五分ほどそうしていただろうか。ようやく女性が一人出勤してきたので、僕は椅子から立ち上がり、その女性に向かって「おはようございます」と挨拶をした。
「あ、おはようございます」と綺麗な声で挨拶を返したその人は、僕と向かい合わせのデスクの前まで来て、その椅子に腰を下ろした。そこで「えーと、鈴木さんですよね?」と聞かれたので、
「あ、はい。ギフト静岡から来ました。鈴木です」と答えながら僕も自席に座り直すと、
「石丸《いしまる》です」とその女性は名乗った。「私も新入社員なんです。一日から配属になったばかりです。同じ新人同士ですから、これからよろしくお願いします」と言って、再び頭を下げる。肩口までの長さの黒髪が、さらさらっと流れる。
声も透き通るような美声だったが、見た目もそれに劣らず綺麗な女性だった。芸能人以外にもこんな人が普通に世の中にいるんだ──いていいんだ、などと思ったほどである。整った中にも知性がほの見える顔立ちで、身体のラインも魅力的であり、ファッションは新人らしく清楚《せいそ》でありながらも、しかし野暮《やぼ》ったくはないというセンでまとめている。文句のつけどころがなかった。新天地での出社一日目で、いきなりこんな人と出会うとは。さすがは東京、参りました、といった感じだった。
彼女はさらに、その部署の人が出社してくるたびに、僕を紹介してくれた。さらに「私もまだちゃんとは憶えてないんですけど」などと言いつつ、自分の所持品である課内の座席表を僕に貸してくれたりもした。性格も申し分ない。
やがて八時半のチャイムが鳴り、朝礼が行われた。僕は課長に呼ばれてみんなの前に立ち、自己紹介をした。四十人ほどを前に喋ることになったのだが、その前に個別に挨拶をしていたおかげで、そんなに緊張はしなかった。
朝礼が終わって、僕がどうしたらいいのかと思っていると、長瀬《ながせ》さんという先輩社員が来て、僕と石丸さんをミーティングルームに連れて行った。僕たちの教育係を任されているのだという。
「石丸さんには先週、資料を渡して先に読んでおいてもらったので、あなたの場合には復習になると思いますが、とりあえず今日の午前中は僕のほうから、あなたがた二人に、開発二課の業務内容と実際の作業の流れを説明します。それで午後には、週に一回、月曜日に行われる開発会議っていうのがあるんですが、それにお二人にも出てもらいます。……大丈夫ですよ。退屈はしないと思います」と説明した後、小声で「桑島《くわじま》課長と大橋《おおはし》さんのやり取りっていうのが、ウチの会議の名物になっていてね……あ、いや、午後になれば実際に見てもらえるでしょうけど」などと付け足したりする。その後も長瀬さんは、職場の先輩後輩という感じではなく、本当に気さくな感じで、僕たちに接してくれた。教え方も上手で、説明がすんなりと耳に入ってくる。
三時間があっという間に過ぎ、正午を迎えた。石丸さんは同期の女の子とどこかに行ってしまい、一人で勝手がわからないまま残された僕は、あまり食欲もなかったので、昼を抜こうかとも思ったが、長瀬さんが声を掛けてくれたので、最上階の社員食堂に一緒について行った。社食のシステムは、だいたい大学生協の食堂と同じようなものだった。味もまあそんな感じで、ただありがたいことに、水は普通に美味しかった。しかし行列の長さには辟易《へきえき》させられた。食事に費やした時間よりも、その前に行列に並んでいた時間のほうがはるかに長かったのだ。食堂脇の売店でもパンなどを売っており、そちらのほうが行列が短かったので、どうせ食欲もないことだし、明日からはパンにしようかな、などと思った。
フロアに戻って自席でぼんやりしていると、海藤が顔を見せた。
「あ、いたいた。……どんな調子?」と聞かれる。
「まあ、ぼちぼちと」
「ここ、いいかな」と言いながら、海藤は石丸さんの席に座ってしまった。「スーさんはメシどうした? 十五階の食堂? ああ、俺もあそこで食ってきたんだけどさ、会わなかったっけな。いやー、あの行列、スーさんは平気? 俺はちょっと勘弁してよって感じ。……でさ、スーさんさあ、明日からなんだけど、俺と一緒に外に食いに行かない?」
「あ、うん。いいけど」それもひとつの手だと思う。「……でも、一時までに戻って来れるかなあ?」
「たぶん大丈夫ら。あとさ、ウチのところって、俺のほかにもう一人、広島ギフトの奴がいるんだけどさ、そいつも墨東寮だっていうから、じゃあ一緒に帰ろうっていう話になったんだけど。……帰るっていうか、あの、東銀座って駅があったじゃん? あそこで一回降りてみてさ、ついでにメシでも食ってこうっていう話になったんだけど。スーさんも一緒に来る?」
「あ、じゃあ、僕も」と答えた。海藤は何事に対しても積極的で羨ましいと思う。僕は逆に慎重派というか、左右がわからないうちは下手に動かないほうがいいと思ってしまうタイプで、それで損をしてきた面もある。だから今回は海藤に付き従って、積極的に動き回ってもいいかなと思っていた。寮内に知人ができるのも好ましい。僕はいまだに寮では海藤とだけしか話をしたことがなかった。
「その広島の奴、けっこう面白い奴だぜ。ボンって苗字なんだけど」
「ボン?」
「梵字の梵っていう字を書くんだって。仏像とかの。──梵字でボンって書くんじゃないぞ。梵っていう字は漢字で──」
「わかってるわかってる。……へえ。梵……さんか。珍しいな」
「梵ちゃんだな。でさあ、その梵ちゃんが、今朝の自己紹介のときに言ってたんだけど──」と、そこからは雑談になった。そのまま十分ほど話し込んで、ふと顔を上げると、石丸さんがこちらに戻ってくる姿が目に入った。
「あ、おい。そこの席の人が帰ってきたから」と注意すると、海藤は慌てて立ち上がり、僕の視線の先を追って振り返ったところで、その背中が凝固した。
石丸さんが僕たち二人を見て、歩きながら会釈をし、すぐに海藤のそばまで来る。
「すいません」と海藤が謝った。声のトーンが上がっている。「お席をお借りしていました」と言いながら通路に出て、エスコートするような手つきで椅子を指し示す。
「あ、いいですよ。……鈴木さんと同じ静岡の方ですか?」
「あ、そうです。海藤と言います。海に藤って書いて海藤です。よろしくお願いします」と言って彼女に向かって深々と頭を下げ、後ろ向きに歩きながら、「じゃあスーさん、終わったらまたこっちに来るから」と僕に言い残して、そそくさとその場を立ち去った。いつもに増して慌ただしいなと僕は思った。
「すいません。勝手に座らせちゃって」と僕も謝っておいたが、彼女は別に気にしていないふうで、椅子に座りながら「鈴木さんはお昼は? 食堂で?」と聞いてきた。
「あ、はい」
「すごい混んでたでしょう?」
「そうですね」
などと話しているうちに、やがてチャイムが鳴って、昼休みの終わりを告げた。彼女はそこで軽く会釈をして、雑談を切り上げたので、僕はけじめのしっかりした人だなと思い、それを好ましく感じた。
午後の会議も無事に終了し、終業のチャイムが鳴るとともに、石丸さんは「お先に失礼します」とみんなに声を掛けて先に帰って行った。僕は海藤を待つ必要があったので、自席に残ったが、特にすることもなかったので、忙しく立ち働いている先輩方の目を気にしつつ、とりあえず今日渡されたプリント類を読み返したりしていた。そうしたら長瀬さんから、「鈴木くん、初日からそんなに根を詰めなくていいよ」と声を掛けられてしまったので、「あ、はい」などと曖昧な応対で誤魔化す。
それからさらに十分ほど待ったところで、ようやく海藤が姿を見せた。一緒にいるのが梵くんなのだろう。広島出身ということで、僕は何となく男っぽい風貌の人物を想像していたのだが、そこにいたのは全く逆で、童顔で小柄な人物だった。ぱっと見高校生ぐらいにしか見えない。
「どうも。梵です。はじめまして」と挨拶する声も、男性にしてはやや高い。「あ、そのスーツ、ドモンじゃないですか? ……やっぱりそうだ。オシャレですね。すごい似合ってます。いいな。僕のこれは、いちおうコムサなんですけど、僕って見てのとおりの体格ですんで、何を着ても似合わないんですよね」
梵くんは人見知りをしない性格のようだった。初対面の人間である僕にも、いろいろと話し掛けてきてくれる。
海藤はフロアをきょろきょろ見渡した後、僕の耳に口元を寄せて「今日の昼ここにいた彼女は?」と聞いてきた。僕が「もう帰ったよ」と答えると、そうか……と呟いて落胆した様子を見せた。
三人でエレベーターに乗り一階に下りる。同じエレベーターに乗っていたのは、見るからに新入社員といった感じの若者か、でなければ書記さんと思《おぼ》しき女性がほとんどで、どうやらそれ以外の社員はたいてい、退社時刻を過ぎてからも当然のように働いている様子だった。それがサラリーマンの常識というやつなのだろう。静岡時代には、会社とは離れた場所にある会館を借りて新人研修を行っていたので、先輩社員たちの働いている姿をあまり目にする機会がなかったが、たぶん慶徳ギフト静岡でも同様に、たいていの社員は終業後も当たり前のように働いているのだろう。
地下鉄の電車は朝と同様、吊革につかまって立っている人同士が身体を触れ合わずにいられる程度の混み具合だった。海藤を真ん中にして三人で喋っていると、すぐに東銀座駅に着く。
僕たちはそのまま銀座の街を見物して歩いた。先週、マユのプレゼントを買うために、この街には一度来たことがあったのだが、そのときには見物などして歩いている余裕はなかったので、目に映る全てが新鮮である。銀座の顔としてテレビや写真などでよく目にする、あの時計塔のある古いビルの実物を見たときには、自分が今日本の中心にいるんだということを実感した。その交差点の反対側には、円筒形で外壁がガラス張りの近代的なビルもあって、それもどこかで見たことがあるような気がした。マリオンというビルにからくり時計があるというので、それも見に行ったのだが、着いた時刻が中途半端だったので、残念ながら仕掛けが動いているところは見られなかった。
首都高の高架下にレストランが入っていたので、僕たちはそこで食事を取った。僕自身は疲れのせいか、あまり食欲が湧かず、出されたプレートの半分ほどを残してしまった。
「なんか食欲がなくて」と僕が言い訳をして、東京の水を不味く感じるという話をすると、
「鈴木さんはたぶん、僕らよりも神経が細かいんですよ」と梵ちゃんが言った。「あと環境の変化にも、なかなかうまく対応できないタイプなんでしょうね。でも慣れちゃえばきっと大丈夫ですよ」と慰めてくれた。僕も早くそうなってくれることを願っているのだが。
店を出ると、時間が遅くなったせいか、銀座の街はさらに人出が多くなっていた。地下鉄の電車内では僕はほとんど喋らず、海藤と梵ちゃんが話しているのをただボンヤリと聞いていた。
午後八時には寮に帰り着いた。僕はすぐに風呂に入り、夜九時には布団に入った。しかし眠れない。土日もそうだった。身体はくたくたに疲れ切っているというのに、思考力だけがいつまで経っても明晰《めいせき》なままなのだ。今日はぐっすりと寝て疲れを取りたいと思う。明日も仕事がある。そのためにも今日は寝ておかなければと思う。その思いが言葉となっているうちは眠れないと思う。頭の中を無にしなければと思う。それをまた言葉で考えてしまっている。廊下を誰かが歩いている音がする。常識的にはまだ布団に入る時間ではない。寮内のあちこちで人の起きている音がしている。
結局は眠れずに起き出して電気をつけ、今度はテレビをつけてみた。目が疲れたら眠れるだろうという考えだった。深夜番組を一本見終えたところで再び布団に入る。今度は先ほどとは違って、寮内はしんと静まり返っていた。もうみんな明日のために眠りに就いているのだ。僕も寝ておかなければ。そう思うと気持ちが焦り始める。焦ってはだめだ。もっとゆったりとした心持ちでいないと、眠りは訪れてくれない……。
結局、その夜も四時間ほどしか眠れなかった。
どんなに寝不足であっても、不思議と仕事中に眠くなるようなことはなく、終業後も普段どおりに動き回ることができた。
火曜日には会社帰りに京成曳舟駅のそばの不動産屋に寄り、空いている駐車場を探したのだが、その相場に驚いてしまった。車一台ぶんのスペースを借りるのに、静岡の田舎のほう(丸子や瀬名あたり)なら普通に1DKの部屋が借りられるほどの値段がかかるのである。僕はしばらく悩んだ末に、寮から百メートルほどの場所にある月極駐車場を、月三万円で借りることに決めた。部屋の電話が使えるようになっていたので、それとあわせて静岡のマユに報告する。
「そんなにするの」とマユも驚いていた。
「土曜日には車を取りにそっちに行くから。また泊まってっていい?」
「待ってる」
そんなやり取りだけが、僕を慰めてくれる唯一のものだった。しかし声を聞くだけでは、むしろせつなさが募るばかりで、夜には余計に眠れなくなった。マユのことを思うと胸が焦がれて、布団の中で幾度も寝返りを打った。
金曜日の終業後には、開発二課の飲み会があった。歓送迎会という名目で、僕と石丸さんが歓迎される人間であり、もう一人、僕たちと入れ替わりに他の部署に異動になった、宮本《みやもと》さんという人の送別会も兼ねているという。
六時スタートという話だったが、定刻には半分も人が集まっていなかった。十五分ほど遅れて部課長が連れ立って来たのを機に、いちおう会は始められたのだが、それでも幾人かは欠けていた。
主賓扱いということで、僕たち三人は、座敷の奥のほうにまとめて座らされていたが、まわりが部課長クラスの人たちで固められていて、僕は酒席の間中、ずっと居心地の悪さを感じていた。隣の石丸さんが、年長者たちのグラスが空くとすかさずお酌をしていて、僕のグラスにも同様に注いでくれていたので、その気遣いには感謝していたが、なぜ歓迎される側の石丸さんが、こんなふうに気を遣わされたりしなければならないのかと、それがまた不機嫌の理由になってしまう。
桑島課長がときおり、思いついたようにビール瓶を手に取り、しきりに僕と石丸さんに飲ませようとする。そういうときに限って、グラスにはまだビールが満ちているのだ。
「それだとちょっと注げないなあ。ああ、重い重い」と言って、瓶を取り落としそうなふりまでして見せる。僕は内心の不満が顔に出そうになるのをぐっと我慢して、ビールを一気に飲み干し、「いただきます」と言って空いたグラスを差し出す。すると課長は、
「鈴木くんはけっこういけるねえ」と嬉しそうな顔をする。「じゃあ、石丸さんも」
「あ、じゃあ、いただきます」と言って、彼女もグラスを空けさせられる。
これが社会人というものなのだ。座敷のあちこちで話が盛り上がり、お互いによその話し声に負けないようにと大声を出し合っているので、それらが混ざり合い騒音となって聞こえている。楽しそうな笑い声もときおりそれに混ざる。みんなの顔が笑っている。隣の石丸さんも笑っている。社内にいるときとはみんなの雰囲気がまったく違っている。理性を失って動物に近い素顔を見せているような感じがした。卑しい動物になり下がっている。そして僕もそうならなければ、この場にとけ込むことはできないのだろう。しかし僕にはなれない。喧騒《けんそう》からひとり取り残されてしまっている。僕が楽しめていないことにも、彼らは気づいていない。
明日には静岡へ帰ってマユと会えるのだ。辛かった一週間も、今日のこの場さえ乗り切れれば終わる。そう思って我慢するしかなかった。
「あ、鈴木くん」と課長がビール瓶を手に取る。「まだちょっと残ってるねえ。それじゃあ注げないなあ」
僕は残ったビールを飲み、「いただきます」と言って空けたグラスを差し出した。まだ自制心は残っている。ただそれが、飲み会の終了時まで保《も》つかどうかは、自分でもわからなかった。
「鈴木さん」課長がトイレに立ったときに、石丸さんが小声で話し掛けてきた。「……大丈夫ですか?」
僕は平気なふうを装い、反対に「石丸さんは?」と聞き返した。すると、
「私は平気です。実はお酒はかなり強いんです。……でもこういう雰囲気は、本当は好きじゃないんですけど。もっと静かな雰囲気で、少人数で飲むのが好きなんですけどね。でも会社に就職した以上は、仕方ないことですもん」
「石丸さんは……偉いね。僕はちょっと──」
「わかります。でも我慢です。ね」と言って彼女は微笑んだ。
課長が帰ってきたので、僕たちの会話はそこでおしまいになった。その後も僕はビールを飲まされ続けたが、不機嫌のメーターは不思議と、それ以上は上がらずに済んだ。飲み会が終わる頃には、身体はかなり酔っていたが、意識は最後まで明晰であり続けた。それも僕にしては珍しいことだった。
僕はそうして、何とか社会人生活の一週間目を乗り切ることができた。しかし体重は、静岡にいたときと比べて二キロも減っていた。
「あれ? ちょっと痩せた?」というのが、一週間ぶりに会ったマユの第一声だった。
「うん」と僕は素直に認めた。そして「俺はどうも東京暮らしには向いてないみたいだ。……早く静岡に帰ってきたい。帰ってきて、マユと一緒に暮らしたい」と、気がつけば今の心情を正直に吐露していた。弱音を吐いてしまったが、まあいいだろうと思う。マユを相手に虚勢を張るつもりはなかった。
「たっくん……」マユは泣き笑いの表情になる。僕は彼女のその表情も好きだった。
そして僕たちは一週間ぶんのキスをした。そうしながら僕は彼女の後頭部を撫でる。その短い髪の感触も、僕は好きだった。
ひと息ついたところで部屋に上がり、ベッドに並んで腰を下ろした。外は雨で、ベランダに置かれたエアコンの室外機が雨粒に打たれている音がうるさく聞こえた。
「……そんなに東京で神経使ってるんだ。じゃあ今日は思い切りリラックスして。ここは静岡なんだから」とマユが言う。
「うん。ちょっと横になっていいかな?」と言って僕はベッドに仰臥《ぎようが》した。僕が今本当に身体を休められる場所は、墨東寮の三〇五号室でも、前のアパートでもなく、ここなのだと思った。多くても週に一度しか来られない場所。だからこそ僕は毎週、ここに来るしかないのだ。
「ねえ」と言って、マユが僕の身体の上に覆い被さってきた。僕はその身体を抱き止めてから、自分の横に下ろして「ちょっと待って」と言った。Tシャツを通して、彼女の肌の感触が伝わってくる。「しばらくこうしていたい」と言うと、「わかった。本当に疲れてるんだね。そのまま寝ちゃってもいいよ」と優しい声が返ってきた。僕は、何でわからないんだろうと、少しだけ苛立つ。このまま勢いでセックスをしてしまったら、もったいないじゃないか。もっとゆっくりと、時間をかけて──できればこのまま夜までかけて、愛し合いたいと僕は思っているのに。
マユはしばらくの間は、僕のなすがままにされていたが、だんだん焦《じ》れてきたような感じが伝わってきたので、僕は背中に回していた手を解き、彼女を自由にした。マユのほうではそれを、僕が眠くなったものと解釈したらしい。「いいよ。寝ちゃって」と耳元で囁いて、ベッドから下りてしまった。
布団には彼女の匂いが染み付いている。今はそれだけでもいいと思った。
外の雨音が静かに僕の耳に流れ込んでくる。
結局そのまま僕は寝てしまったらしい。ハッとして目が覚めたときには、窓の外がすでに薄暗くなっていた。マユはキッチンにいて、何か料理を作っている最中らしい。床の上に、来たときにはなかった文庫本が置いてあったので、僕が寝ている間、彼女はたぶんそれを読んで時間を潰していたのだろうと察した。申し訳ないことをしたなと思う。
「ごめん」と声を掛けながらキッチンを覗くと、「あ、起きた? 疲れてるんだから、まだ寝てていいよ」といつもの表情を振り向かせる。
「俺、どれくらい寝てた?」
「えーと、もうすぐ七時になるところだから……四、五時間ってとこ?」
胸が痛んだ。そんなに長い間、一人にさせてたなんて。……と思うのと同時に、久しぶりに気持ちよく寝ることができたのは身体のためには良かったなと、自分勝手なことも思っていた。
「で、何作ってる?」
「それは成岡家直伝のロールキャベツで、これはサラダ。ご飯はもう炊けてるから、お腹空いたんなら、すぐに食べれるようにするけど」
食欲は……どうなんだろう? いちおうお腹は空いていると思う。今朝はヨーグルトをひとつ食べたきりで、あとは考えてみれば今まで何も食べていないのだ。
「じゃあ、そろそろいただこうかな」と言って食膳を用意してもらった。「ビールは?」と聞くとあるというので一本だけ付けてもらう。テレビを点けるとNHKで阪神対広島という地味な野球放送をやっていた。
サラダとロールキャベツの他に、作り置きの煮物の皿なども出る。ご飯から湯気が上がっていることにまず感動した。ロールキャベツも美味しかったが、何より炊きたてのご飯がうまかった。そして横にはマユがいる。幸せな気分に包まれたまま、一膳目を食べた。しかしすぐにお腹一杯になった。
「おかわりは?」
「うん。……いいや」
ロールキャベツがあと半分残っていて、これだけは食べておきたいと思うのだが、手を出そうとすると胸が苦しくなり、知らず溜息が出てしまう。諦めて箸を置き、代わりに缶ビールを取り上げた。これ以上はもう何も喉を通らないと思っていても、ビールなら喉を通るのはなぜだろう。
僕が箸を置いてしまったので、マユが「ごちそうさま?」と聞いてきた。
「うん……。ごめん。残しちゃった」
「いいよ。無理して食べてくれなくても」
「美味しかったんだけどね。何かすぐにお腹一杯になっちゃって」
マユもじきに食べ終えて、炬燵テーブルの上を片付け始めた。テレビのチャンネルを変えるとクイズダービーがやっていたので見始める。
マユが洗い物を終えて戻ってきたので、同じクッションに頭を乗せて横になり、テレビを見ながら僕たちはいろんな話をした。サラリーマンの職場の話など、聞く側にとっては面白くないだろうなとは思ったが、マユはちゃんと気を入れて聞いてくれていた。
「──新人がさ、俺ともう一人、石丸っていうのがいるんだけど、そいつが優等生タイプっていうのかな、やることなすことの全てが、ソツがないって感じで、一緒に仕事してると比べられちゃうんだよね。……同じ新人っていっても、俺は言ってみりゃ静岡の子会社で採用した人間なんだけど、向こうは慶徳の本社で採用した新人で、だからもちろん俺らとはレベルが違うんだろうとは思ってたけど、聞いてみたら慶應大学の出身っていうもんで、あーそうですかって感じで」
話の都合上、石丸|美弥子《みやこ》さんの名前も出すことになったが、彼女が女性であることはあえて伏せて喋った。僕自身が彼女に対して何も思っていないのに、マユに変なふうに勘繰られたり嫉妬されたりするのも馬鹿らしい。
マユのほうでもこの一週間、友達と遊んだりしていたようで、話題は尽きなかったが、それよりも途中から手の動きのほうに二人とも真剣になってしまい、結局僕たちはベッドに移動した。
前戯にたっぷりと時間をかけて、僕たちはお互いを愛し合った。
「たっくん……肋骨が浮いてる。ダメだよ。痩せすぎだよ」
「そういうマユは、ちょっと太ったんじゃない? ほら」
「あん、もう。……わかる? でもおっぱいも大きくなったよ」
「わかる。……うん。いいね、この弾力」
「あっ」
行為が終わったあとも、僕たちは裸のままで過ごした。マユのベッドは二人で寝るには狭く、そのぶんくっついていなければならなかったが、お互いの体温を直に感じながら、僕たちはその夜を過ごした。
翌日は朝イチで帰るつもりだったが、そのままずるずると午前中を過ごしてしまった。昼にはマユと一緒に車で出て、緑ヶ丘の「あさくま」で食事を取った。ステーキ肉は目には美味しそうに映るのに、喉をなかなか通ろうとはしてくれない。結局そこでも僕は食事を半分以上残してしまった。マユはそれを見て、何か言いたそうな顔を見せたが、結局は何も言わなかった。
マユをハイツに送り届けたところで、いよいよお別れとなった。
「じゃあ、また来週」
「うん。待ってる。あと電話もしてね」
「わかった」
窓から手を振って、僕は車をスタートさせた。当初は下の道を行くつもりだったが、出発時刻が遅くなってしまったため、高速道路を使うことに決めていた。今までにも三回ほど、静岡から東京まで高速を飛ばしたことはある。しかし過去の三回は常に同乗者がいたが、今は一人きりである。運転する僕の無聊《ぶりよう》を慰めてくれるのはラジカセの音楽だけという状況だった。用賀に着くまでに、六十分のカセットを二回チェンジした。
首都高の都心環状線を運転するのは初めてだったが、そんなに戸惑うことはなかった。江戸橋から六号線に入り、箱崎、両国と抜けて、向島のランプで一般道に下りる。明治通りに出るのに少し迷ったが、あとは一キロも行かないうちに駐車場に着く。借りてから五日目に、ようやく自分の駐車場に車を留めることができた。
車を降りたときにはすでに午後五時を回っていた。途中でパーキングエリアに寄ることもせず、マユの家からここまで、ずっと運転を続けてきた。思ったよりも時間がかかったのは、途中で事故渋滞があったせいだ。あれさえなければ、片道だいたい二時間半といったところで帰って来られただろう。
しかしそれは高速を使った場合の話である。高速を使うと、ガソリン代と併せて、片道で七千円近くの出費になる。月に四回、東京と静岡の間を往復したら、それだけで五万数千円が吹き飛ぶ。それに加えてこの駐車場代が月三万円かかっている。さらに車検や任意保険のぶんまで入れたら、月あたりで十万円ほどの出費になる計算で、それではたぶん僕はやっていけないだろう。
だから高速道路は使わないことにする。これからは一般道だけを使って静岡まで往復する。たぶん片道で五時間ほどかかるだろう。でもそうしなければやっていけないのだ。
昨日から今朝にかけて、マユとともに過ごした一日。僕にはあれが必要なのだ。そのための努力ならば、払うのを惜しむつもりはない。
何ものにも代え難い、マユの身体の細部を思い返しながら、僕は気合を入れ直し、重い荷物を担いで、寮までの道のりを歩き始めた。
3 夏をあきらめて[#「3 夏をあきらめて」はゴシック体]
東京に配属されて二週目には初の残業をすることになった。月曜日の開発会議の後、僕と石丸さんの二人でOHP作りをするよう、長瀬さんから頼まれたのである。
「明日の午前中にプレゼンをする予定だから、今日中に作っておいてほしいんだけど。ランデスクの使い方は習ったよね?」
「あ、はい。わかります」と即座に答えたのは石丸さんだった。僕もいちおう静岡の研修で使い方は習っていたので「できます」と答えた。
「じゃあ僕の脇机の5200を使っていいから。二人で交代しながらやってみて」
長瀬さんは課長と打ち合わせがあると言って、ミーティングルームに行ってしまった。僕たちはコンピューターの端末(N5200)の前に陣取って、まずは文章の入力のためにランワードを立ち上げた。
僕は大学のときにゼミでコンピューターを使っていたので、ブラインドタッチ(手元を見ずにキーを打つ)での入力ができる。石丸さんがそれを見て「すごいですね」と感心した様子だったので、僕は内心では鼻高々だったのだが、口では「こんなのはちょっと練習すればできるようになりますよ」と謙遜気味に答えておいた。それで結局、僕が文章の入力を主に担当し、数値データの入力とページ全体のデザインは石丸さんという分担で作業を進めることになった。
終業のチャイムが鳴ってじきに、海藤と梵ちゃんが姿を見せた。僕がまだ帰れない旨を告げると、海藤は「いいな、石丸さんと二人で残業なんて」などと耳元で囁いてから、石丸さんに対しては元気良く「残業頑張ってください」と挨拶をする。
「あ、はい。ありがとうございます。お疲れさまー」と石丸さんも愛想良く応じてから、「梵ちゃんもねー」と付け足した。僕の言い方を真似て、彼女も梵ちゃんのことをそう呼ぶようになっていた。梵ちゃんも「あ、お先に失礼します」とペコリとお辞儀をしてから退出する。
さらに一時間ほど作業をしたところでまたチャイムが鳴った。六時半から七時まで三十分間の休憩があるのだ。残業中の社員の半数近くが夕食を食べに出て行った。
「どうします?」と石丸さんが聞いてきたので、
「いいですよ。食べてきてください。僕は……食欲がないんで、このまま作業を続けています」と答えると、
「じゃあ私もいいです。今休憩して、そのぶん遅くまで会社に居残っているよりは、とっとと終わらせて、そのぶん早く帰っちゃいたいし」
というわけで、夕食休憩の間も仕事をしたのだが、作業は思うようには捗《はかど》らなかった。途中で一回、石丸さんが保存をせずにランワードを終了させてしまったりして、三十分ぐらいロスしたのも痛かった。
そうこうするうちに、午後八時過ぎには長瀬さんがミーティングを終えて戻ってきた。彼はディスプレイ上で進捗《しんちよく》具合を確認した後、「うん。デザインはこれでいいと思う。データ入力もあとちょっとだよね。でも……どうしよう? じゃあ……後は僕がやっておこうか」と言ってくれたのだが、僕たちがそれでは納得しなかった。
「ここまできたらもう、最後まで私たちだけでやり遂げたいと思うんですけど。……ねえ、鈴木くん?」
たしかにあとちょっとだけデータを入力すれば完成するところまできていた。
「そうですね。僕も最後まで自分たちでやりたいです」
「じゃあ後は任せちゃっていい? もし二人でやってくれるって言うんだったら、僕はもう帰っちゃうけど」
「どうぞ。私たちもすぐに帰るつもりですから」
と石丸さんは自信満々に長瀬さんを帰したのだが、実際にはそれからさらに一時間ほど居残ることになってしまった。データ入力はじきに終わったのだが、OHP用紙へ印字するという最後の段階で、予想外に手間取ってしまったのだ。十枚以上の反故《ほご》を出し、それでもやり方がわからなくて、まだあまり馴染みのない先輩に勇気を出して声を掛けてみたりもしたのだが、その人もやり方を知らず、いろいろと聞き回った挙句、隣の開発一課にいた女性社員にやり方を聞いて、ようやくプリンタ装置から綺麗に印字されたOHP用紙が出てきたときには、二人で声を揃えて「できたー」と歓声を上げてしまった。
時計を見るとすでに午後九時を過ぎていた。その時刻になるとさすがに居残っている人の数も少ない。
向かい合わせのデスクで帰り支度をしているときに、石丸さんが小声で「ねえ鈴木くん、帰りに一緒に何か食べてかない?」と誘ってきた。「私、お腹空いちゃったし、あといろいろ迷惑も掛けちゃったから、ご飯|奢《おご》って許してもらおうかな、なんて」と言って笑顔を見せる。仕事が無事に終わり、晴れ晴れとした気持ちになっていたところに、その誘いは魅力的だと思ったものの、「迷惑なんて掛かってないですよ」と僕は首を左右に振っていた。「食欲もそんなにないし」というのも事実だった。さらにもうひとつ、静岡のマユに対する義理立てという意味もあったのだが、もちろんそれは口には出さない。
石丸さんは少し考えてから、「じゃあご飯じゃなくてビールとかは?」と誘い方を変えてきた。
「ビールか……」そこまで言われたら断ることもないよなあと思って、僕は承知した。
一緒に社屋を出て、駅北の飲み屋街をごちゃごちゃ行ったところにある居酒屋に案内された。彼女が学生時代に仲間とよく飲みに来ていた店だという。僕が「あ、そうか。慶應だっけね」と思い出して言ったのがきっかけとなって、乾杯後はまず、彼女の大学時代の話題でひとしきり話が弾んだ。彼女は学生時代には演劇系のサークルに所属していたという。
「へえ。慶應にそんなサークルって、あるんだ」
「けっこう他の大学でもありますよ」
「いや、ウチにはなかった……? ああ、あったかもしれない。ただ僕が知らないだけで。……ごめん。それで? 舞台とかに立ったりしたの?」
「ええ。いちおう主演女優みたいな感じで」
なるほど。石丸さんなら舞台栄えしただろうなと思う。
「ファンとかが付いたりして?」と聞いてみると、「さあ」と誤魔化すように笑顔を傾けた。
気がつくと僕はジョッキのおかわりを頼んでいた。料理にもけっこう箸をつけている。ビールが一緒だと喉を通るのか、あるいは場の雰囲気が影響しているのか。
僕はけっこう笑っている。今のこの場を楽しんでいる。
マユと付き合い始めたころ──外でデートを重ねていたあのころのことを、ふと思い出したりもした。
最初に注文した料理がひと通り片付いたところで、追加をどうしようかという話になった。僕が腕時計を一瞥《いちべつ》して、「今日はもう遅いから、これで上がろうか」と言うと、
「そうですね」と石丸さんは素直に頷き、「じゃあ今度は、もっと早い時間に上がったときに、また来ましょう。そのときにはワリカンで」と言って、僕が気づいたときにはすでにテーブル上の伝票を取り上げていた。
「あ、いいよいいよ。今日もワリカンで」
「いいですって。これは次にまた鈴木くんに一緒に来てもらうための出費だから」と言って、一人でとっととレジに向かってしまった。僕は鞄と上着をまとめて胸に抱え上げ、慌ててその後について行く。女性に奢られるなんてとんでもないと思って、レジでもうひと悶着した末に、結局、今日のところは僕が奢られる代わりに、次回には今度は僕の方が奢るということで、ようやく話がついた。
うまく次回の約束を取り付けられたような形になってしまったと思ったが、もちろん僕の側に不満などはなかった。石丸さんと二人きりで飲みに行くことを嫌がる男性が、この世の中にいるだろうか。見た目は飛び切りの美人だし、明るい性格で会話も上手く、一緒にいて気疲れしない程度の上品さも備わっている。
駅の方向に並んで歩きながら、「石丸さんは地下鉄?」と聞くと、
「あ、国電です」と言ってからすぐに舌を出し、「──じゃなくてJR。田町駅です」と訂正した。国鉄が民営化されて数ヵ月が経つが、JRという社名には僕もまだ馴染んでいなかったので、別に訂正しなくてもいいのにと思った。
三田駅に降りる入口のところで挨拶をする。
「じゃあお疲れさま。……ごちそうさまでした」
「お疲れさまでした。……ごめんなさい。遅くまで付き合わせちゃって」
「大丈夫です。じゃあ、また明日」
地下鉄に乗り、窓に映った自分の顔を見ながら、今日のことをマユに報告したら彼女は嫉妬するだろうかと、ふとそんなことを思ったりもした。
寮に着いたときに、ちょうど風呂から上がってきた海藤と顔を合わせた。
「おう。遅かっ……あれ? 飲んできた? スーさん。まさかあの、石丸さんと?」
「うん。まあ……。だってメシも食わないで九時まで残業してたんだぜ。だから帰りに、じゃあ一緒にメシでもって話になって」と説明すると、
「ずりー」と海藤が顔を顰《しか》めさせた。「なんでスーさんだけそういう、いい思いをしてくるんだよ。俺だって彼女のことを……。わかってんだろ、スーさんだって」
洗面器を胸に抱えたまま、海藤は僕の前に立ちふさがった。こいつは何を熱くなっているんだろうと、僕は一歩身を退く。
「わかった。うん。じゃあもし次があったら、そん時には海藤も誘うから。それでいいだろ?」
僕がそう言うと、海藤はぱっと顔を明るくさせた。
「そん時にはじゃあ、スーさんは、俺のことをサポートしてくれる?」
「うん。じゃあその時には、僕は海藤の邪魔はもちろんしないし、お前が彼女に気に入られるように、いろいろ考えて喋ったりするから」
「オッケー。じゃあそれ、いつにする? やっぱ週末がいいかな? 金曜日は? ……今週の。いちおう定時間日じゃんね、金曜って」
性急な話だとは思ったが、僕はだんだん面倒臭くなってきていたので、「わかった。じゃあとりあえず明日、彼女にその話をしてみるから」と応じて部屋に向かった。
翌日の始業前に、海藤の一件を話してみると、石丸さんは「うーん」と考え込んだ。彼女の性格からして、わりと簡単に応じてもらえるものと思っていた僕は、その反応に少し戸惑う。石丸さんはしばらく考え込んだ挙句に、「それって鈴木さん。昨日みたいに私と二人だけじゃ、やっぱり嫌だってことですか?」などとピントのずれたことを言うので、
「違いますって。だから僕のことはおいといて。海藤が……あいつが、だから自分も石丸さんと一緒に飲みたいって言ってて」
「じゃあこうしません? 私だけじゃなくて、私の大学のときの知り合いの女の子とかも連れて来て、五、六人で飲むっていうのは?」
「あ、だったらそうしましょう」と僕は賛同した。選択肢が増える分には、海藤にしても問題はないだろうと思う。むしろ喜んでくれるのではないか。
「じゃあ私、あと二人連れて行くから、鈴木くんたちのほうも、梵ちゃんを入れて三人にしない?」
というふうに話が進んで、結局、金曜日には六人で飲むことになった。男性陣の顔ぶれは当初の予定どおり、僕と海藤と梵ちゃんで、女性陣は石丸さんの他に、松島《まつしま》ジュンコさんと日比《ひび》まどかさんという二人が来てくれた。二人とも石丸さんの出身劇団の後輩であり、慶應大学に在籍中の学生だという。日比さんはすらっとした体型の美人タイプで、一方の松島さんには妹的な可愛さがあった。そこに石丸さんが加わっているのだから、合コンの相手としては滅多にないほど高レベルの女性陣が揃っている。
ひと通りの自己紹介が済んだ後、女性陣の間では劇団の近況のような話が始まった。
「美弥子さんが抜けたのは、ウチの劇団にとってはホント、大ダメージだったんです。戻って来てくださいよ」と松島さんが言う。「北斗七星」というその劇団内では、石丸さんは下の名前で呼ばれていたらしい。
「やっぱり会社やりながらってのは無理ですか?」と日比さんも言う。
「それは絶対無理。稽古とかする時間なんて絶対取れないもん。今週なんて、家に帰るのが九時とか十時とか、毎晩そんな感じだし。……ねえ鈴木くん?」
いきなり同意を求められて、僕はウムとひとつ頷いてから、「社会人はそんなに甘くないものだって、最近ようやくわかってきたところです」と言葉を継いだ。実際、僕にしても、配属二週目からいきなりこれほど残業をさせられるものだとは思っていなかった。
「ちょっとオバサンくさい意見かもしれないけど、こうやって社会人になってから、学生の頃のことを振り返ると、あの頃は本当に自分の好きなことをしていられる時間がたくさんあったんだなって思う。だからジュンちゃんもまどかちゃんも、今のうちに悔いのないように、やりたいことをちゃんとやっといたほうがいいわよって、これはお姉さんからの忠告」
「わーん。美弥子さんがババくさいこと言ってる」と松島さんが泣き真似をする。
「これ。ババくさいはないでしょ」
「ババくさいって、関西だと違う意味になるんじゃないですか」と梵ちゃんが変なふうにまぜっかえすと、「ちょっと、もうー」と言って日比さんがケラケラと笑い出す。
「でですねー、みなさん」と松島さんが突然、真面目な顔をして僕たちのほうを見渡した。「実は来月の一日、二日と、ウチの劇団の公演があるんですよ。それでもし良かったら、チケットを買っていただけないかと──」
「ジュンちゃん、そうじゃなくて」と日比さんが小声で叱責した後、「もし良かったら見に来てください。ウチらの芝居。……あ、たまたま今日、チケットを持って来てるんで、もしよろしかったら──」
「結局同じじゃん」と海藤がツッコミを入れる。
「じゃあ私、とりあえず一枚いただきます」と石丸さんが言って、財布を取り出す。
「あ、美弥子さんはいいですよ、別にお金は」と松島さんはいったん断ったものの、石丸さんがお金を引っ込めないのを見て、「じゃあありがたく。えへへへへ」と言ってお札を拝むようにして受け取った。これで海藤も行くと言い出すだろうな、というところまでは予想できたが、
「あ、じゃあ俺たちのぶんも」と海藤が言ったのには少し驚いた。
「ちょい待った。俺たちって、僕のぶんも入ってるってこと?」と聞くと「当然」という答え。
「え、でも、来月の一日、二日って──?」
「あ、土日です」と日比さんが素早く答える。「じゃあ三枚でいいんですか?」
「行きましょうよ、鈴木さん」と梵ちゃんも乗り気だ。「で、どんな芝居なんですか?」
「『アインシュタインかく語りき』っていう、ウチのオリジナルのホンなんですけど。面白いですよ。自分たちで言うのも何なんですけど。……ちなみに去年まではここにいらっしゃる美弥子さんがアインシュタインの妻の役をやってたんですけど、今回は私がその役をやらせていただくことになってまして」
「ちなみに私は去年に引き続いてコーシの役をやります」と松島さん。
「コーシー? 数学者の?」と梵ちゃんが聞くと、
「誰ですかそれ? そんなんじゃなくて──ちなみに中国の、『子曰く』のあの孔子でもなくて、光の粒の光子なんですけど」
「そんな役が」と海藤がひとしきり笑った後、「じゃあ行きますよ俺ら」と言って財布を開きながら「……いいよな、スーさん?」と僕に聞いてきた。
土日は──本当はダメなのだ。マユに会いに行かなくてはならない。でも──今のこの場の空気からすれば、そんなに無下《むげ》には断りづらい。それに芝居の内容にも少し興味を惹かれていた。アインシュタインの妻と光子が出てくる話で、タイトルはニーチェのもじり。どういう劇なのか想像もつかない。結局、「うん。まあ……」とつい承知してしまった。
そのチケット購入が効いたのかどうか、初対面の二人とも打ち解けることができて、僕たち男性陣三人は結局その夜、終電ギリギリの時間まで盛り上がっていた。
翌土曜日には初めて東名を使わずに車で静岡まで行ってみたが、やはり着くまでには五時間近くかかってしまった。昼から降り出した小雨のせいもあったかもしれない。午後二時過ぎにようやくマユの部屋に入る。
とりあえず僕は、二週間後の週末に観劇の予定が入ってしまったことをマユに告げた。
「──だから海藤が、どうしても俺に一緒に付いて行ってほしいって言うもんで。そいつと俺だけなんだよ、静岡から東京に行ったのは。だからそいつの頼みってことになると、ちょっと断りづらくてね。……ごめん」
「いいよ、そんなに気にしなくても」とマユが微笑む。「たっくんもそんなに無理して毎週来てくれなくてもいいから。……ううん。そうじゃなくて。もし来てくれるなら来てほしいって思ってるのはそうなんだけど、でもそのせいでたっくんがずっと無理をしてて、それで最終的にもうダメだ、ってなるのが怖いの、私は。そんなふうになるくらいなら、会う回数がもっと減っても、私は大丈夫だから」
「マユが大丈夫でも、俺のほうが我慢できない。……だからできるだけ毎週来るから」
僕がそう言うと、マユはにっと微笑んでから、やはり心配そうな顔に戻って、
「本当に、無理しないでね」
「うん。大丈夫。……ところで今日はどうする? どっか行く?」
「あ、だったら私、買物行きたい。今日もし一人だったら伊勢丹に行くつもりだったんだけど」
「え、雨なのに……」
と僕は眉を顰めたが、それは必ずしも天候のせいばかりでもなかった。
伊勢丹デパートならばここから歩いても十五分程度。車で行くと駐車場探しに苦労する街中にあるので、行くのならば当然歩きである。せっかく苦労して車で来てるんだから、車でしか行けないところに行こうよ、という気持ちが半分、しかしさっきまで五時間も運転して来たのでもう運転はいいやという気持ちも半分あり、結局僕は徒歩での買物に付き合うことにした。
土曜日の午後なので呉服町通りは途中から歩行者天国になっていたが、雨天なので人の出はあまり多くない。歩行者天国区域の開始を示す車止めの柵を越えてすぐの右手に、一区画を占領する形で伊勢丹デパートがある。館内に入ると冷房が効いていて、薄っすらとかいていた汗が瞬時に冷える感覚が気持ち良かった。
マユは二時間かけてあちこちを回り、水着コーナーでは試着までしてみたのだが、結局購入したのはTシャツ一枚と一二〇分のビデオテープ三本だけだった。
「こんだけあちこち歩き回って、結局それだけかよ」と僕が言うと、
「女の子は今日買わないものでもひと通り見て回りたいものなの」と言われてしまった。
ようやくデパートを出て、外の蒸し暑さにうんざりしながらも、とりあえずこれで帰れると僕が内心でホッとしていたら、マユが「あ、ついでに本屋さんもちょっと見ていきたいな」と言い出して、結局傘を開くことなく隣の吉見書店にも寄る羽目になった。彼女は三十分ほどかけて文庫本を二冊買った。僕はその間、一階の雑誌コーナーで立ち読みをして時間を潰していた。
ようやく帰宅したときには午後五時を過ぎていた。服が湿気を吸って嫌な感じに肌に絡んでいる。僕は部屋に入るなり、「あー疲れた」と言ってベッドに横になった。
「ごめんね、付き合わせちゃって。……たっくんは何も買わなかったね」と言いながら、マユがベッドの横に腰を下ろす。
「うん。特に欲しいものとかなかったし」
「衝動買いとかしない?」
「うん。あまりしないかな」
僕はそこでガバッと上体を起こし、横からマユに抱きついた。いきなりだったので、彼女も驚いたのだろう。「ちょっ……たっくん」と反射的に嫌がるようなそぶりを見せたが、僕がそれでも構わず自分の下に組み敷くと、マユもすぐに受け入れる体勢になった。
「衝動買いはしないけど、衝動に駆られることはあるよ」と言いながら、首筋に舌を這わせると、彼女は「あっ」と声を上げた。
東京暮らしも半月を過ぎると、水道のカルキ臭がだんだん気にならなくなってきた。食欲もようやく戻ってきた。しかし寝付きの悪さは相変わらずで、毎晩二時頃まで寝られない生活が続いていた。
「ねえ、新しい水着買っちゃった」というマユからの電話が入ったのは七月二十一日、火曜日の夜だった。「今度の週末には海に行こうよ」
海か……。東京に住んでいると海水浴に行こうという発想がなかなか出てこない。静岡にいるときには毎年必ず夏になると海に行っていたというのに。
「おお。行こう」と僕はすぐに乗り気になる。静岡の海だ。静波だ。脳裏にぱっとビーチのイメージが浮かび上がる。車が必要になるというところも重要なポイントだった。一昨日もその前の週も、結局はどこへも行かず、土日をマユの部屋でずっと過ごしていたのだが、それではわざわざ車で行った意味がない。
「えーっと、土曜日だとそっちに着くのが早くても昼になっちゃうから──それからだと遅いから、行くのは次の日曜日だな」と言いながら頭の中で素早く計算を立ててみる。午後三時に静波を後にしたとして、マユの部屋に戻るのが午後四時半。それから東京に向けて出発しても──遅くとも夜の十時には戻って来られるはず。もし途中で予定外のことが起こったときには、東名を使って帰ってもいいことにしよう。どのみちそんなに無理はしなくても大丈夫なはず……。
そうして計画を立てていたのにもかかわらず、僕は結局その週末は、静岡へ行くことができなかった。金曜日の朝に突然、耳が遠くなったのである。
最初は何が起こったのかわからなくなった。布団から起き出したときに身体がふらついて、寝ぼけているような感覚はあったが、その時点ではまだ異変をハッキリとは自覚していなかった。
今朝はやけに寮内が静かだなあと思いながら洗面所に行くと、いつもと同じように数人の寮生が歯を磨いている。水を出しっ放しにしている奴がいる。その水音がやけに遠く聞こえることに気づいたのが最初だった。まるでテレビのボリュームを絞っているような感じに聞こえるのだ。
うがいを始めた奴がいる。ゴロゴロゴロゴロ……という音もはやり遠く聞こえる。頭を左右にして確認してみると、右耳はまだマシだったが、左耳がかなりおかしい。耳の中に何かが詰まっているのかと思って、指先を耳の穴に突っ込んでみたりもしたのだが、もちろん何も詰まってなどいない。
自分の声は聞こえるのだろうかと思って「あー」と声を出してみた。聞こえることは聞こえるが、やはりいつもと聞こえ方が違う。僕の声に驚いたように二、三人がこちらを振り返ったが、バツの悪さを意識するだけの心の余裕もなかった。声を誘導するように口に掌を当て、まずは右耳で「あー」という自分の声を聞いてみる。いちおう聞こえることは聞こえる。今度は左耳。するとほとんど聞こえない。
僕はどうしていいのかわからなくなって、とりあえず海藤の部屋に向かった。廊下を歩いているときにくらくらと眩暈《めまい》がした。どうにか三〇六号室の前まで辿《たど》り着《つ》き、ドアをノックすると、寝癖のついた髪を掻きながら海藤が出てきたので、僕は自分の症状を説明した。話をしているうちに海藤の顔が次第に真顔になってゆく。僕は話を終えると右耳を彼のほうに向けた。そうしないと相手の言葉が聞き取りづらい。
「それ、突発性難聴って奴じゃないのかな?」と海藤は言った。その病名には聞き覚えがあった。まさに今の僕の症状そのままである。「とりあえず早く病院に行ったほうがいいと思う。ちょっと待って。まずは寮長さんのところに行こう。行って、近所に耳鼻科があるかないか──」後は聞き取れなかったが、彼の言わんとしていることはわかった。
僕はとりあえず自室に戻り、ジーパンとTシャツに着替えると、バッグに保険証が入っていることを確認して部屋を出た。海藤が付き添ってくれて、二人で一階に下りる。彼が事情を話すと、寮長はその場で電話を何本か掛けていたが、じきに通話を終え、朝九時になったら向島済生会病院へ自分が送って行くからと僕に言ってくれた。それで心理的にだいぶ落ち着いた僕は、海藤に心配はいらないと言い、彼に職場への伝言を頼んで、その出社を見送った。
病院に着くとすぐに僕は診察室に案内され、聴覚の検査をされた。薬を飲まされ、安静にしているようにと言ってベッドに寝かされる。結局僕はそのまま入院することになった。耳が聞こえ難いだけで、他には特にどこが悪いという自覚症状はないのだが、治療のために点滴を受けなければならないので、入院する必要があるのだという。
その晩、僕は病棟の公衆電話を使ってマユに電話を掛けた。
「いい。驚かないで聞いてね。……俺、今入院してるんだ。お医者さんからは突発性難聴って言われたんだけど──今朝起きたら急に耳が聞こえなくなってたんだけど、それ以外はいたって健康だから。この今の症状も、薬でじきに良くなるだろうって、お医者さんは言ってた。だから心配しなくていいから。……え、なに?」受話器は当然、聞こえるほうの右耳に当てているのだが、それでも電話を通したマユの声は聞き取り難かった。「──待って。よく聞こえないから俺が一方的に喋るね。えーと……だからごめん、今週は帰れないって、とりあえずそれだけは言っとかないとって思って。うん。また良くなったら電話するから」カードの度数もそんなに残っていなかったので、僕はそれだけを言ってすぐに電話を切った。
結局、入院生活は五日間にも及んだ。その間、海藤と梵ちゃんはほぼ毎日顔を見せに来てくれていたし、入院三日目の日曜日には炎天の下、開発二課から石丸さんと長瀬さん、そして桑島課長も、僕の見舞いに訪れてくれた。入院当初は、もしこのまま聴覚が戻らなかったら、などと想像しては暗い気持ちに浸っていたが、三日目あたりから徐々に左耳の聴力が回復してきたという自覚があって、以降は見舞い客を笑顔で迎えるだけの心の余裕も生じていた。
日曜の夜には再びマユに電話を掛けた。今度は彼女の声もしっかりと聞き取れた。
「本当に良くなってる……んだよね」
「大丈夫。ちゃんと元に戻るって、先生も言ってくれてるし」
「すごい心配したんだよ……」
そう言って、彼女は電話線の向こうで泣き出した。気持ちはありがたいが、泣いてる場合じゃないのに、と僕は思った。カードの残り度数がすでにひと桁になっていた。海藤にテレカを差し入れてもらっておけばよかったと思ったがすでに遅い。
「マユ。ごめん。カードの残りが少ないから。泣いてたらそれだけで電話が切れちゃう」
「うん」と言いつつ、ひっく、ひっくと息をしゃくり上げる音が続く。「お見舞いに行きたくても場所がわかんなかったし……」
「だからそれはいいから、ね。心配かけてごめん。じゃあ今週の──」と言いかけたところで、今週末は観劇の予定が入っていたことを思い出す。「あ、そうか。じゃあ来週だ。来週には一緒に海に行こう。ね。マユの新しい水着姿も見ないと」つとめて明るい声を出す。
そして僕は火曜日の午後には晴れて無事退院とあいなった。いったいあれは何だったんだろうと、数日前の自分の病状が他人事《ひとごと》のように思えてしまうほど、左耳の聴力はその時点で完璧に戻っていた。
そんなわけで、復帰初日の水曜日から、僕はいつもどおりに仕事をし、残業までこなしていた。昨日まで入院していたということで、職場のみんなは心配してくれたが、実際にはどこも悪くないのに、いつまでも病人のふりをしているわけにもいかない。
そして日曜日には予定どおり観劇にも出かけた。どうせ素人芝居だからとたかをくくっていたのだが、『アインシュタインかく語りき』というその舞台劇は思いのほか面白かった。さらに言えば、舞台に立つ日比まどかさんは、先日の飲み会のときとは別人のように見えた。……石丸さんが去年舞台に立っていたときにも、やはり同じように華々しく立ち振舞っていたのだろうか。
元劇団員の石丸さんがいるから、ということもあり、僕たちは打ち上げの飲み会にも参加させていただくことになった。内輪の飲み会だから辞退すべきかなとも思ったのだが、実際には日比さんや松島さんも僕たちの相手をしてくれたので、部外者が混ざっているという気まずさはそれほど味わわずに済んだ。
飲み会の場になってから参加してくる元劇団員という人も数人いて、その中に一人、天童《てんどう》さんという、黒尽くめのスーツを着た殺し屋スタイルの男がいた。一九〇センチはあろうかという長身で、顔立ちにもインパクトがあり、この人が舞台に立ったらさぞかし存在感があるだろうなと思わされた。舞台栄えのするオーラのようなものを生来のものとして持っているような感じだった。石丸さんによると、その天童さんこそが、今日の『アインシュタインかく語りき』の脚本を書いた人だという。
「物理学科出身ですか?」と僕はその人に声を掛けてみた。すると、
「どうしてそう思う?」とぶっきらぼうな口調で言われたので、僕は相手の気分を害してしまったとヒヤリとしたのだが、
「あ、気にしなくていいですよ、鈴木くん。彼は喋るときはいつもこんな調子だから」と石丸さんがすかさず口を挟み、「──アインシュタインが出てきてたからでしょ?」と僕の発言の根拠を忖度《そんたく》する。
「え? ……ああ、そうですそうです。あと松島さんの演じていた光子の振舞いとか、ボーアの理論の説明とか、ちゃんと物理学をわかっている人の書いた──」という説明の途中で、
「──いや、そんな程度のことだったら、別に専門の学生じゃなくったって書けるだろう」と天童に言われてしまった。はいはい、そうですか、慶應大学出身者は言うことが違いますね、としょぼくれていると、石丸さんがまた割って入る。
「なにトーカイしてるの、天童くん。鈴木くんの言ってること、図星じゃないの。……彼は物理学科卒なの」と石丸さんが僕に言うのを、天童はふんと鼻で嗤《わら》った。
「答えが合ってても途中のプロセスが間違ってたら、それはただのまぐれ当たりで、正解とは言えねえだろ」
「なにムキになってるの?」
「ムキになんかなってねえだろうが」
むしろ石丸さんのほうがムキになっているみたいだ、珍しいな、と思って僕が二人のやり取りを黙って見ていると、「あの二人」と不意に右隣の松島さんが僕の耳元で囁いてきた。「──昔付き合ってたんですよ」と言う。
「へえ」と僕は純粋に驚いた。……石丸さんならいくらでも好きなだけ付き合う相手を選べただろうに、よりによってあんなに人相の悪い男と付き合っていたとは。まあ背が高いのは認めるけど、
そこでふと、松島さんの右隣にいる海藤が、その天童のほうをじっと見詰めているのが目に入る。海藤のその目付きは、異様なほどに険しく、僕はそのとき将来のトラブルの予感のようなものを感じていた。
翌週の土曜日、僕はいつものように昼前には車を出したのだが、途中で大渋滞に巻き込まれてしまった。
その週末から九連休に入るという企業は多く、つまり僕は帰省ラッシュに巻き込まれてしまったのである。まだ走り出して間もない浅草橋の交差点の段階で、もう車列が詰まって動かないのだから、どうしようもない。ちょうど真正面に太陽が昇っていて、フロントガラスを透過した光線が肌を焼いているのがわかる。エアコンの設定を最強にしても、汗が背中を伝い落ちる。
途中で高速を使おうかとも思ったのだが、結局は一般道を走り通した。たぶん高速を使っても到着時刻にさほど差は出なかっただろうと思う。小田原ではコンビニに寄り、今日は遅くなる旨を電話でマユに伝えた。箱根越えの最中にライトを点す。マユの部屋に着いたときには午後九時を過ぎていて、つまり僕は十時間も車を運転していたことになる。
ドアのチャイムを鳴らすと、マユは泣き笑いの表情で出迎えてくれた。
「ほんっとに心配したんだから」と言って、僕の胸に顔を埋めてくる。先々週は入院で潰れ、先週は観劇の予定が入っていたので、考えてみれば彼女と会うのは三週間ぶりだった。
「バーカ。だから大丈夫だって、電話で何回も言っただろ」と、僕はややうんざり気味に言葉を返したが、しかしそれではあまりにも彼女が可哀想だと思い直して、「……ごめんな、心配かけて」とすぐに態度を改め、彼女の後頭部をぽんぽんと軽く叩いた。
「よし。じゃあ明日は海だ」と意識的に元気が出るような声を出してみた。しかしそこで僕はあることに気づいた。「ちょい待った。お前……焼けてないか?」
「……ごめんね」と言って、マユはぱっと身体を引いた。「先週、友達と海に行ってきたの。だってたっくん、先週は静岡に帰って来れないって言ってたじゃん。だから予定入れちゃってたの。……でも今年買った新しい水着は、たっくんのために取っておいたから。たっくんと行くときに初めて着ようって思って買ったんだから」
彼女はそう言って、新しい水着というのをタンスから出して見せてくれた。ハイレグのワンピースタイプの水着だったが、その配色にはどこか見覚えがあった。少し考えて思い出す。二人で伊勢丹に買物に行った日。あのときに、彼女が水着コーナーでいくつか試着した中のひとつが、たしかこれだった。
そしてその新しい水着を彼女がまだ着ていないことも、じきにわかった。
そうそう。思い出した。去年の水着は背中が大きく開いていて、肩紐を首の裏側で結ぶタイプのやつだった。そうそう。この形。
「あん」とマユが反応する。
色は白で──この肌と同じ白の生地に、そう、カラフルな花模様が入ったやつだった。
「あっ」とマユが声を上げる。僕の舌先は花びらのある箇所を求めていた。
やはり長時間の運転がこたえたのか、僕は翌朝、寝過ごしてしまった。マユが言うには、彼女自身は朝の七時には起きていて、僕のことも起こそうとしたのだが、そうしたら僕がまだ大丈夫などと言って寝直してしまったのだという。結局僕が目を覚ましたのは午前十時過ぎで、カーテンを開けると空は皮肉なほど晴れわたっていた。大きく伸びをしながら、僕はどうしようかと考える。この時刻に静岡を出るとなると、向こうに着くのは昼ごろで、駐車場はすでにどこも満杯、車の置き場所に困ることが予想される。
それでも約束は果たしたい、マユに新しい水着を着させたい、その一心で僕は「じゃあ行くか」とマユに声を掛け、いざ車を出してはみたものの、やはり盆休みの影響か、道路が予想以上に混んでいて、丸子で渋滞にはまったときには「どうする?」と隣のマユに聞いてしまった。彼女はガラガラの対向車線を見ながら、
「海はいいよ。また今度にしよう」と、うんざりした口調で告げた。
途中で買物をして部屋に戻り、二人でベッドに腰を落ち着けたところで、僕は彼女の身体に手を回したが、そのときの反応で彼女の側にはその気がないことがわかった。見れば表情も浮かない感じで、僕がどうしたのと聞くと、しばらく躊躇した後で、
「ねえ、たっくん。ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど──」と僕のほうに向いた顔は真剣そのものだった。そして呟き声でぽつんと言った。
「あのね、ここしばらくなんだけど……アレが来てないの」
「アレって……もしかして、アレのこと?」と、咄嗟《とつさ》には馬鹿みたいな言葉しか出て来なかった。「ここしばらくって。え、最後にあったのは?」
「……六月」と答えたマユは、まるで叱られるのを覚悟した子供のように萎《しお》れて見えた。
今日が八月の九日で……と僕は頭の中で必死に計算してみる。
「え? ……ってことは、七月が……来なかったってこと? 一回だけ?」
「うん。だからそんなに心配することもないのかなって思ってて、ずっと言わないでいたんだけど。でもいくら待ってても来ないから、だんだん不安になってきて」
六月に──そういえば工場研修から帰って来たとき、彼女がソレでセックスが出来ずに口でしてもらったことがあった。あれがたしか六月の前半で──十日とかそのへんだったはず。……それ以来ということか。
「大丈夫」と僕は何の根拠もなしに断言した。
「でももし今月も来なかったら……」とマユは依然として不安を解消できていない様子。
もし本当にそうだったら……。僕はどうすべきか。考えるまでもなく、答えは一瞬で出ていた。
「なあ、もしそれが本当だった場合……結婚しよう」
僕がそう言うと、彼女はほんの一瞬、嬉しそうな表情を見せたが、その表情はすぐに凍りついて、やがてイヤイヤをするように首を振り始めた。
「そんなのはイヤ……」
「何がイヤなんだよ。俺と結婚するのが、ってこと?」と聞くと、
「じゃなくて。そういう──だってみんなに、どうしたってバレちゃうんだよ。結婚前にそんな──妊娠するようなことしてたって」などと言い出した。
「そんなこと言ったって──だって現にしてたんだから……。じゃあ他に──」と言いかけたところで、その先の言葉は飲み込んだ。彼女の言いたいことがようやくわかったが、そんなことは考えたくもなかった。「……うん。だから大丈夫だって」
「……うん」と答えたマユは、しばらくは俯いたままだったが、やがて気持ちを切り替えたのか、ひとつ大きく深呼吸をした後は、いつものあの笑顔を取り戻していた。「そうだよね。うん。……本当は私、さっきの話を切り出すのに、すごい勇気が要ったんだけど、でも思い切ってこうやって話してみたら、ちょっとホッとしたし、なんか大丈夫そうな気がしてきた。もうちょっと待ってたら来そうな気がする。そうしたら笑い話になるよね、今日のこと」
そうなればいい──いや、なってくれなければ困る、と僕は思っていた。
窓の外は相変わらずの晴天で、それがひどく現実離れした光景のように、僕には感じられていた。
4 心の色[#「4 心の色」はゴシック体]
開発部の主な仕事は新商品の企画立案であるが、それには全国各地の慶徳デパートおよび慶徳ギフトから上がってくるカスタマーズアンケートが重要な資料となる。御中元や御歳暮のシーズンには、上がってくるアンケートの量が格段に増えるので、僕たちの仕事量もそれに連れておのずと増えることになる。開発部にとってお盆(と正月)は繁忙期にあたるのだ。慶徳商事では基本的に、八月十五日を含む週の平日五日間に有給休暇を使い、前後の土日も含めて九日間の夏期休暇を取るのが決まりとなっていたが、開発部員の場合はその例になく、夏期休暇は九月以降の閑散期に頃合を見て取ることが、部内の不文律となっていた。
世間と同じタイミングで夏休みが取れれば、まだ僕にはマユと二人で海に行くチャンスも残されていたに違いない。しかし同じ部署の先輩たちが働いているときに、新入社員の僕だけが世間並みに休暇を取るというわけにもいかなかった。ただでさえ入院騒ぎで迷惑を掛けたばかりだというのに、そんなワガママが通るはずもない。
というわけで僕は日曜日の午後、後ろ髪を引かれながら、東京までホンダシティを運転して帰って来た。寮内はひっそりと静まり返っていた。ほとんどの寮生が普通に夏休みを取って帰省している様子で、海藤と梵ちゃんも不在だった。
翌月曜日、僕はガラ空きの浅草線で出勤した。本社ビル内も閑散としていたが、開発部のフロアだけはいつもどおりの活気に満ちていた。
午後の会議のための資料を作っているうちに、すぐに昼休みになる。チャイムの音で顔を上げ、凝った首筋を鳴らしていると、
「鈴木くんは、今日は一人?」と石丸さんが聞いてきた。「私も、いつも一緒にご飯を食べる同期の子たちが休みだもんで、今週は私一人なんですよ。だから……一緒に食べに行きません?」
「そうしようか」
という話になり、二人でまずは十五階の社員食堂に向かったのだが、今日は定食が一種類しかないというので、方針を変えて、外に出ることにした。本社ビルを出るとムッとするほどの暑気が僕たちに襲いかかった。車も人も少なく嘘のようにひっそりとした日比谷通りには、陽炎《かげろう》が立ち上っていた。僕は海藤たちといつも行く定食屋に石丸さんを案内した。三田には詳しいはずの彼女も、このあたりはテリトリー外にしていたようで、入るのは初めてという話だった。
冷房の効いた店内に入りお冷で喉を潤したところで、ようやくひと心地つく。
「ここのクリームコロッケが絶品なんだよ」
「じゃあそれにしようかな」
「でも中身がすんごい熱いから、気をつけて食べないと口の中を火傷《やけど》するよ。上顎のこのあたりがベラベラになって」
そんなふうに喋りながら料理を注文し、その後もしばらくは雑談をしていたのだが、話が途切れたときに石丸さんが不意に真面目な顔つきになって、
「鈴木くん……海藤くんに私の家の電話番号、教えた?」
と聞いてきたので、心当たりのなかった僕は少々面食らった。
「ううん。……え、何で?」と反射的に聞き返したが、すぐに自分で思いつく。「もしかして、電話が掛かってきた?」
「うん。そうなんだけど……」と石丸さんは困ったように眉根を寄せる。
僕の部屋には開発二課の名簿があり、それを見れば石丸さんの電話番号もわかるはずだったが、僕自身は海藤にそれを見せた覚えはない。彼が勝手に(僕が不在の間に)それを見たのでなければ──あとひとつ考えられるのは、彼が松島さんか日比さんから聞き出したという可能性である。僕がそれを話すと、
「あの子たちじゃないと思う。だって──」と石丸さんはそこで少し言いよどんだが、結局は後を続けた。「最初のあの飲み会のときに、あの二人には前もって言ってあったの。今日来るメンバーの中に海藤くんっていうのがいるんだけど、どうも私に気があるみたいで、でも私のほうはぜんぜんその気はないから、もし私が困っているみたいだったら、救いの手を差し伸べてちょうだいって」
そんな内情を打ち明けられても、僕としては困るばかりだった。溜息をひとつ吐き、僕は心の裡で呟く。……海藤、どうやらお前は失恋したらしいぞ。
石丸さんの話はさらに続いていた。
「あとね、こうも言ったの。……私の狙いは鈴木くんっていう人だから、彼にはちょっかい出さないでね、って」
彼女はそれを、恥じらうこともなく、僕の目を真っ正面から見据えたまま言った。自信たっぷりな態度で、口元には微かに笑みが浮かんでいる。逆に僕のほうがドギマギしてしまった。
「でも、なんで僕なんかを……? こんな……地方ギフトの出身だし、出てる大学だって、慶應とは比べ物にならないし……」
「なんでって言われても……。恋愛は理屈でするもんじゃないでしょ?」
そこで注文していた料理が出来上がってきて、会話が一時中断する。その間に僕は態勢を立て直した。
「とりあえず食べましょう。……あ、それはまだ、たぶん熱くて食べられないと思うよ」
「どれぐらい熱いのか、ちょっとだけ」
「あ、でも、だから、ちょっとでも齧《かじ》ると中身が出てきて──」
という僕の忠告を聞かずに、クリームコロッケをひと齧りした石丸さんは、「あっ、あふ、あはぁ」と悶絶し、慌ててコップの水を口にした。「あー、熱かった」
「だから言ったのに」と僕は苦笑する。
上顎の裏を火傷したのだろう。顔を仰向かせ、口を大きく開けて、舌でそのあたりを舐《な》めているのが丸見えになった。石丸さんのような美人が、そういう間の抜けた顔をひとに見せてはいけないと思う。やがて僕の視線に気づいたようで、彼女は口を閉じ、自分で自分が情けないというような表情をして見せた。
「さっき私、鈴木くんに、かなり思い切ったこと言っちゃったじゃない。けっこう平気そうな顔してたと思うんだけど、でも内心ではかなりドキドキしてたんだよ。あれでも。だからこんなふうに慌てて……なんかバカみたいじゃない、私?」
「大丈夫。可愛らしいところもあるなって思って」と、僕が苦笑交じりに言うと、
「でしょう?」と満面の笑みを浮かべて、首を小さく傾けた。どこまでが演技なのかわかりづらい。さすがは元女優と言うべきか。
それからしばらくの間は、二人とも無言のままで食事に集中していた。しかし僕がほぼ食べ終わったとき(彼女はまだクリームコロッケの熱さに難儀しており、半分も食べていなかったが)、石丸さんは再び話をし始めた。
「あ、ねえねえ、そういえばこの間、ウチの劇団の打ち上げのときに、天童っていう人が来てたじゃない? あの大きな人。憶えてる? ……あれが、私の前の恋人だった人」
「あ、うん」と僕は曖昧に頷いた。初めて聞いたふりをしようかなと思ったのだが、結局は素で応じることにした。「それ、実は聞いてた」
「あ、ホントに? ジュンちゃんたちから? じゃあわざわざ自分から言うこともなかったんだ」と彼女は微笑んで、一度視線を逸らしたが、再び僕の目を真っ直ぐに見て言った。「でも、鈴木くんがそれを知らないまま、付き合ってほしいとかって言うのが、すごいフェアじゃないような気がしたから」
そう言われて、僕は言葉に詰まった。彼女が物事にキッチリとけじめをつける真面目な性格だということは以前からわかっていた。そういう姿勢で臨んできている以上、僕もそれ相応の態度で応じなければならないだろう。だから僕は正直に告げた。
「ごめんなさい、石丸さん。僕は……今のところ、あなたと、特に付き合いたいとは思っていないです」
そう言うと、彼女はやわらかく微笑んでみせ、ついで首を左右に振った。
「あ、いいのいいの。さっきのアレは、あんまり気にしないで。……私も早く食べちゃわないと。お昼休みが終わっちゃう。……これ、ホントに美味しいね」
そう言って、てきぱきと食事の残りを片付けた。
「ごちそうさま。……ねえ鈴木くん、この後、会社に戻ってからも、普段どおりで接してね。さっきのことは、あまり気にしないで。……さあ、午後は会議だ」と、最後の部分は声を大きめにして、ひとつ伸びをして見せた。「じゃあ行こうか」
石丸さんは何でもなかったような顔で席を立った。だから僕もそうしなければと思うのだが、普段どおりの表情を見せるのはなかなか難しかった。量はそんなに食べていないはずなのに、食べ過ぎたときのように胃がもたれている。
石丸さんが自分に好意を持ってくれているというのは、以前から薄々は感じていたことだった。しかし僕はそれをあえてそのままにしてきた。自分には付き合っている相手がいるということを彼女に話さずにいた。二人きりで飲みに行ったりもした。今日は食事を一緒に取った。
自分の恋人はそれはそれでキープしておきながら、ほかの女性からも好かれるように振舞うこと。結果的に相手から好意を寄せられて、いやあ僕ってモテるんだなあ、と優越感に浸ること。それは男女間で普通に行われている、ゲームのようなものだった。そして僕は特に嘘などはついていない。世間的な常識からいっても、今までの駆け引きの段階では、僕は自分に付き合っている彼女がいるということは、特に宣言しなくてもいいはずだった。
そしてゲームの結果、石丸さんは僕に好意を寄せるようになった。だから僕が「いやあ僕ってモテるんだなあ」と優越感に浸るのなら、今がそのタイミングのはずだった。しかし僕は現実には罪の意識のようなものに苛まれている。……なぜだろう?
僕は隣を歩く石丸さんを横目で眺めた。均整のとれたプロポーション。身体の動きにつれて規則的に揺れ動く艶《あで》やかなストレートの黒髪。テレビタレントであってもおかしくないほど美しく整った横顔。表情の豊かさ。華やかさ。真面目さ。そしてちょっと抜けたところも……。およそ男性が女性に望むであろうすべてのものが彼女には備わっている。
逃した魚が大きすぎるから、僕はこんなふうに苦々しい気分になっているのだろうか……。
いや、そもそも現段階で「逃した」と自分で決め付けてしまうこともないのではないか……。
空を見上げると、林立するビルのガラス窓に反射したいくつもの陽光が、僕の目を眩《くら》ませようとしていた。
マユに電話するのが、だんだん億劫《おつくう》になってきていた。しかし自分で決めたことだからと思い、僕は帰宅後すぐに番号をプッシュした。
「はいもしもし」
「あ、俺だけど。何か変わったことは?」
言外に「生理は来たかどうか」も含めて聞いているつもりだった。
「あ、……ううん。別に何も」
僕は思わず溜息を吐いてしまう。しかしこれだけで終わってしまってはいけない。慌てて話題を探す。
「こっちは人が少ないのがちょっと珍しい感じだよ。地下鉄なんて余裕で座れるし」
「あ、そうか。みんな夏休み取ってるんだ。でもたっくんは──あ、お仕事頑張ってね」
「マユもな。うん。じゃあ……次は来週になるけど」
「うん。待ってる」
それだけの通話で度数三──つまり三十円が費やされていた。同じ市内に住んでいるときだったら、三十円あれば十分近くは喋れていたのに。最近ではマユのほうでもそれを承知していて、どうでもいい話──たとえばコオロギ爺さんの入れ歯の話とかは、電話ではなく、週末に直で会ったときに話すようになっていた。
今の通話で残り度数が一桁になっていたので、入浴道具のほかに千円札を一枚持って、僕は一階に下りる。ロビーの販売機で専用のカードを買い、それを隣の機械に通して部屋番号をプッシュする(わざわざ機械を二つ用意する意味が僕にはわからない。プリペイドカードは買った次の瞬間には使い終わっているのである)。ともあれこれで度数はまた三桁に戻ったはずである。
寮生の在/不在を示す札は九割近くが「不在」の表示になっていた。風呂場に行くと先客は一人だけで、その一人も僕と入れ違うように上がってしまったので、僕は広い湯船に一人きりでゆったりと浸かることができた。
みんなが休んでいるときに働いている人間に対しての、これがご褒美ということか。
火曜日以降も昼食は石丸さんと二人きりで取ることになったが、別に普段どおりに雑談をするだけで、あの恋愛話が再燃することはなかった。
そして週末は、僕もマユも実家に帰ることに決めていた。マユは帰省先が同じ市内だから簡単に帰れただろうが、僕のほうはそうはいかなかった。列車での移動に長時間をかけて、日没後にようやく帰り着いた実家でひと晩寝て、翌日には午前中早くに家を出て、また長時間かけて東京に戻って来るという、ただそれだけ。結局、墓参をする時間もないままの慌ただしい帰省だった。学生時代からの決め事とはいえ、まったく無駄なことをしていると、その道中で僕はずっと考えていた。同じ週末を潰すなら、マユと二人で過ごしたほうがずっと楽しい。それは最初からわかりきったことだった。無駄とわかっていながら、その無駄なことをしなければならないのが、大人の世界の仕来りというやつなのだ。
帰り着いた東京の街には、すでに常態の人込みが戻っていた。寮に着くと、海藤と梵ちゃんは二人とも日焼けしていて、それぞれ夏休みを充分に満喫してきた様子が窺われた。
三人で夕食に出たときに、僕は石丸さんの話を思い出して海藤に尋ねてみた。
「おい海藤、お前、石丸さんのところに電話したんだって?」
すると彼は答えを言いよどみ、
「あ……それ、彼女から?」
「うん。聞いた。だけどお前、電話番号はどこで知った? もしかして俺の部屋で勝手に名簿とか見た?」
「だって……」と口ごもる。やはり僕の不在時に、勝手に部屋の中をあさって、開発二課の名簿を盗み見たものらしい。
「まあまあ、鈴木さんもそんな怖い顔しないで」と、そこで梵ちゃんが割って入った。「海藤さんがもし鈴木さんに黙ってそういうことをしたんだとしても、気持ちはわからないでもないじゃないですか。……それよりも僕、田舎から地酒を持ってきましたから、後で部屋で宴会しましょうよ」と話を逸らそうとした梵ちゃんの気持ちを汲《く》んで、とりあえずその場では気持ちを抑えたのだが。
梵ちゃんの部屋で飲み始めて、しばらく経ったところで、また夕食時の憤懣《ふんまん》がぶり返してきた。
「──だってそうだろ。じゃあ俺が今からお前の部屋に行って家捜ししてもいいのか。何を見られてもいいのか」
「だから鈴木さん──」と梵ちゃんが困ったような顔を見せる。僕は首を振り、
「梵ちゃんはどうなの。秘密とかはないの? 手帳とか勝手に見てもいいの?」
「あ、僕は別にいいですけど……」
「だからスーさん、悪かったって──」と海藤がようやく口を開く。
「後から悪かったって言えばいいのか」と言いながら僕は立ち上がった。「じゃあ鍵を寄越せ。今からお前の部屋に行って家捜しするから。で、全部見終わってから俺も言うよ、悪かったって。……それでいいだろ?」
僕としては理屈は通しているつもりだった。しかし海藤は困ったような顔をして僕を見上げたまま、いつまで経っても動こうとはしなかった。それで堪忍袋の緒が切れた。
「おい海藤」
「ちょっ──鈴木さん」
僕が海藤に掴みかかり、梵ちゃんがそれを止めようとする。足元が不如意になり、何かつるんとしたものを踏んづけた。コップのようだった。三人で揉み合いになったとき、僕は思わず海藤に言っていた。
「石丸さんはお前のこと嫌ってたぞ」
言いながら、これは言わないつもりだったのに、という思いが頭の片隅で点滅していたがもう遅い。自制心が働かなくなっていた。
「迷惑だってさ。だからお前、もうウチのフロアに来るな。彼女は俺が面倒見てやるから」
「なんだと」そこでようやく海藤も本気になって歯向かってきた。僕の胸倉を掴もうとする。僕は海藤の胸倉を掴む手に力を込める。
「俺に怒ったってしょんねーだろ。俺はただ彼女の気持ちを代弁しただけだ。ウンチプリプリしただけだ。怒るんなら俺じゃなくて彼女に怒れよ」
「嘘つくなよ」と海藤も立ち上がる。お互いに胸倉を掴んで押し合っているので、視界がぐらぐらする。
「ちょっと、やめましょうよ二人とも。ああっ」
梵ちゃんの叫びが聞こえたときには、僕はすでに平衡感覚を失っていた。重力の方向がおかしいと感じる間もなく、畳の上に仰向けに倒れ込んでいた。その上から海藤がのしかかってくる。
「だから二人とももうやめてください。あっ、血が。海藤さん。ガラスが。コップが割れて。危ない──」
「うるせえ」
「こいつはダメなんだよ。言っても無駄。梵ちゃんも手伝って。酒が入ってこうなったらもうダメなんだこいつ」
「海藤さん、右足、すごい血が出てます」
二人掛かりで押さえ込まれた状態のまま、僕は首だけを起こして海藤の足元を見た。梵ちゃんの言うとおり、畳の上にはけっこうな量の血が流れていた。その血の色を見た途端、僕は急激に身体中の力が抜けてゆくのを感じた……。
それからどうなったのだろう。気がついたときには自室の布団で寝ていた。左腕に時計をしたままなのに気づき、バックライトを点して時刻を確認すると、長短の針は二時半を示していた。月曜日の午前二時半ということなのだろう。
記憶は残っていた。またやってしまったという思いが胃に重く感じられた。
海藤はどうなっただろう。血が出ていたが、大丈夫だっただろうか。……謝りに行くべきか。しかしこの時刻だと、あいつも寝ていることだろう。
どうするか。僕は上体を起こしたまま考えた。
たしかに僕も悪かった。酔った勢いで状況を悪化させた責任は僕にある。言わなくてもいいこともつい言ってしまった。それは認める。……しかし元はといえば、海藤が勝手に僕の部屋に入り、名簿を見たことが原因だったはずだ。僕のほうから謝る必要はないだろう。あいつとの関係がこれで切れてしまったとしても、それはそれで仕方ない。
そう結論づけて、僕は再び布団の上に横になった。眠りはすぐに訪れた。
ドアをノックする音で目が覚めた。頭の奥がしびれたような感じで、返事をするのも辛かった。
「入りますよ」という声とともにドアが開く。なぜ鍵が開いているのかと思い、それで昨夜のことを思い出した。薄目を開けてドアのほうを見る。逆光になっていたが、梵ちゃんに続いて海藤が入ってくるのが見えた。僕は「うーん」と不機嫌そうな声を出して寝返りを打ち、二人に背を向けた。身体の陰で腕時計を見る。午前六時四十五分。そろそろ起きなければならない時刻だった。
「鈴木さん、大丈夫ですか?」と梵ちゃんが聞いてくる。海藤だけならば無視してもよいが、梵ちゃんに聞かれると答えないわけにもいかない。僕は背を向けたまま「うーん」と低く唸《うな》った。いちおう大丈夫だというニュアンスを込めている。
「昨日のこと、憶えてますか?」
僕はまた「うーん」と答える。
「スーさん」と今度は海藤の声。僕は無視を決め込んだ。すると彼は、
「スーさん。……スーさん?」と繰り返した後に「山本スーさん久美子?」などと言うので、僕は思わずぷっと吹き出してしまった。
「ほら、聞こえてんなら返事しろよ。また難聴になったかと心配すんだろうが」
「ごめん」と僕は背を向けたまま謝った。昨日はごめん、というのも一緒に言ったつもりだった。考えてみれば二人には入院時にも迷惑をかけたのである。僕は顔を彼のほうに向けて、「そうだ、海藤……足は? 血が出てたような記憶があるんだけど」と聞いた。
「ああ、あれは大丈夫。かすり傷みたいなもんだった」
屈み込んだ姿勢のまま海藤が言う。その後ろに立っていた梵ちゃんは、僕が海藤と目を合わせたのを確認して、「じゃああとは二人で」と言って部屋を出て行ってしまった。仲直りがうまく行かなかった場合には、僕たちの間を取り持つつもりで、彼は来ていたのだろう。それを認めて、僕は軽い自己嫌悪状態に陥った。
「昨日はごめん」と僕は海藤にもう一度、今度はちゃんと謝った。
「大丈夫。スーさんは酒が入ると凶暴になるって、俺らはみんな知ってるから。梵ちゃんはビックリしてたけど、俺が工場研修のときの話をしたら納得してたよ。……で、どうする? 今日は休む?」
「ううん。大丈夫。行かなきゃいけないし」と答えて、僕は上体を起こし、布団の上に胡坐《あぐら》をかいた格好になった。自然と首が項垂《うなだ》れる。その格好も格好だし、ついでだと思ってもう一度僕は謝った。「ごめん」
「いいって。……それよりも」と海藤はそこで声のトーンを落とした。「昨日言ってたことでさ、ちょっと気になったことがあったんだけど」
その先はだいたい予想がついた。僕はひとつ溜息を吐く。さてどうしたものか。
「石丸さんが俺のことを嫌いだって言ってたって、昨日スーさん、言ってたんだけど。それって──」
「うん。……いや、嫌いは言い過ぎだったけど、まあ、好きではないってことだな」
「それを彼女自身の口から聞いたと?」
「うん」
「でも、本当はそれだけじゃなかったんでしょ? スーさん、彼女から……?」
「うん」と僕は頷いた。「好きだって言われた」
開け放ったドアを背にしているので、海藤の表情は逆光でもともと見えづらかったが、僕はあえて視線を逸らせる仕草をした。それでしばらく間が空いた。
「で? スーさんはどうするつもり? 彼女と付き合うつもり?」
「いや。それはまだ……」
「ひとつスーさんに聞いておきたいことがあるんだけど──」という海藤の声はやけに固かった。僕は彼の顔を見る。「スーさん、静岡に彼女がいるんでしょ?」
僕は何も言えなかった。しかし何も答えないことが答えになってしまっている。
「それは石丸さんには?」と海藤に聞かれた。
「……言ってない」と無理やり言わされたことで、また昨夜と同種の憤懣が募りかけたが、僕は横を向いて何とかそれを鎮めた。努めて冷静であろうとした。
「だったらどうするの? その静岡の彼女と別れるの? それならいいけど、静岡の彼女はそれはそれでキープしといて、その上で石丸さんとも付き合うとかっていうんだったら、俺はそれは許せない。もしスーさんがそうするつもりだったら──」
「ちょっと待った」僕は顔を上げ、そこで再び海藤と目を合わせた。「なんでお前が許すとか許さないとか言えるんだ? 何の権利があってそんなことが言える? 話はだからもう──俺と石丸さんの二人だけの間の話になっていて、お前はそれにはもう関係ないんじゃないのか?」
海藤は肩を上下させて大きく息を吐き、それからゆっくりと喋り始めた。
「俺は彼女のことが好きなんだよ。わかるかスーさん。もし俺が彼女と付き合うことができたら、俺は彼女のことを百パーセントの力で愛したいと思っている。俺にとってはそういう相手なんだよ、石丸さんっていうのは。その彼女を、たとえばお前が、ちょっと浮気してみようかな、とかって軽く考えているんだとしたら──俺の百パーセントが、それだと否定されたような形になるじゃん。……だったら逆に、もしスーさんが百パーセント尊敬する誰かがいたとして、で、そのひとのことを俺が貶《けな》したとしたら、スーさんはそれをすごい不愉快に感じるだろ?」
僕は海藤の真剣さに気圧されて、言葉を返すことができなかった。
「──自分の大事にしていた宝物を、横から奪うだけならまだしも、奪っておいて、やっぱりいらねえやって言って、ポイって捨てられたら、誰だって怒るだろう?」
「わかった」と僕は答えた。その論旨に納得はしていなかったが──石丸さんは誰の持ち物でもない、彼女は自分の意思で僕に好意を持ったのだ。それをまるで、海藤は自分の持ち物を僕が横から奪ったかのように言っている、それは心外だったが──しかし今はとにかく彼の言葉を止めたかった。酔い潰れた翌朝の午前七時前から聞かされて楽しい話ではない。
「もし彼女と付き合うとしたら、その前にちゃんとけじめはつける」と僕は言った。
「うん。俺が言いたかったのはそれだけだ。……じゃあ、そろそろ支度しないと」と海藤はいつもの口調で言い、その後に呟くような感じで「まあどっちにしろ、俺は振られたってことだ……」と付け足すと、部屋を出て行った。
その週も特に変わったことはなく日々が過ぎていった。大過なく──というと良いことばかりのように聞こえるが、マユの生理も来ないままである。そして週末、二週間ぶりに彼女と会ったときにも、その問題は僕たちの上に重くのしかかっていた。
「やっぱり、検査してもらおうと思ってるんだけど」とマユが憂鬱そうに言う。
「吐き気とかは?」と聞いてみると、彼女は首を左右に振る。なので「じゃあ大丈夫なんじゃない?」と僕は言った。
まるで他人事のような言い草だが、そもそも僕にはその件について思い当たるフシがなかったのである。生《なま》でしたことはあったが、それでも中で射精したことはない。だから僕の場合は、妊娠の心配というよりは、彼女の身体の不調(生理不順)が心配だ、というスタンスで構えていたのである。
なので彼女がやはり検査に行くと言い張ったときにも、そのこと自体には特に反対はしなかった。近所では嫌だというので、電話帳で調べて古庄《ふるしよう》の産婦人科医院に予約を入れ、日曜日の午前中には車を出して彼女をそこまで送って行った。ただ僕自身はそんな場所に入るのが嫌だったので──かといって産院の駐車場に止めた車の中で待っているのもなんだったので──すぐ近くにあったパチンコ屋で時間を潰すことにした。
最初の三十分で一万円近くを摺《す》ってしまい、一般台に移ってちびちびと玉を打っているところに、マユが現れた。
「どうだった?」と聞くと、彼女は首を左右に振った。それを僕は最初、やっぱり妊娠ではなかった、という意味に取って内心でホッとしかけたのだが、それにしては彼女の顔色がやけに冴えないということにすぐに気づいて、途端に何も考えられなくなった。自分がどこか違う世界に放り込まれたような感じがしていた。
台にはまだ百円分ほどの玉が残っていたが、そんなものはもうどうでもよかった。僕は彼女の肩を抱くようにして店を出た。
「三ヵ月だって」とマユは小声で言った。「……どうしよう」
「それは本当に──」俺の子か? と何の考えもなしに口に出しかけて、危うく後半部分は飲み込んだ。もちろん彼女の浮気などは想定の外にあり、ただ、中に出したことがないという事実が僕の側にあったために、ついそんなことを口走ってしまいかけたのだった。しかし妊娠した彼女に対しての第一声がそんなものであっていいはずがない。幸いにもマユはそのことには気づかなかったようだ。僕は内心でホッと息を吐きかけたが、すぐにそんな場合じゃないということに思い至る。
「とりあえず、家に戻ろう」と僕は言い、車の冷房を最大にして、さらに左右のドアをしばらく開放しておいた。早く車に乗り込みたかった。部屋に帰りたかった。パチンコ屋の冷房に馴れた身体に、外の炎暑は耐えがたいものだったが、もちろんそれだけが理由ではなかった。
照りつける太陽を見上げて、こんな日はできれば海で過ごしたいな、そういえばマユの新しい水着姿もまだ見てなかった、でもこの時期になるとクラゲが出ているからもう海には入れないか、などと脈絡のない考えが頭に浮かぶ。
住吉町のマユの部屋に戻ってから、僕たちは時間をかけてそのことについて話し合った。しかし実際のところ、結論は最初から出ているようなものだった。マユは自分の親や親戚たちに婚前交渉の事実を伝えることができないと、これはもう最初から言っていたことだったし、一方の僕にしても、本音を言えば、この歳で父親になるよりは、もうしばらくは自由でいたいという気持ちのほうが強かった。
ただ堕胎という言葉──胎児を堕ろすというその言葉には、簡単には頷《うなず》きかねる背徳の響きがあり、それだけが僕たちの決断を鈍らせていた。それは自然の摂理に反する行為であり、さらに言えば、胎児の命を奪う──つまりは殺人行為ですらあったのだから。
僕がひと言いえば決まる。それはわかっていた。しかし僕にはなかなかそれが言えなかった。代わりに僕は、カラーボックスの上に積まれていたハードカバーの本の山に目をつけると、「何だよこれは」と手で床に払い落とした。
「俺がお前と会うためにどんだけ出費を切り詰めているのかわかってんのか。高速も使わずに下の道を走ってきて、そのぶん五時間も六時間もかけて運転してきてるのに、それなのにお前は、こんな高い本を平気で買えるような金銭感覚でいるのかよ」と、喋っているうちに声がどんどん荒っぽくなっていくのが自分でもわかった。
それに対してマユは、「もう買わないから。本はじゃあこれからは全部図書館で借りて読むから。……今はそんなことで怒らないで」と、か細い声で言い、床に散らばった本を一冊ずつ拾い集めようとする。
その姿を見ているうちに、僕は急に自分の愚劣さに気づいた。先ほどまでの怒りが、胸の中で急速に萎《しぼ》んでゆく。
「ごめん」と僕は素直に謝った。「俺は今、問題をすり替えようとしていた。そんな本のことはどうでもいいんだ。車でこっちに来ることも、高速を使わないことも、俺が自分で決めてやり始めたことなんだから。ごめんね、マユ。……いま僕らが考えなくちゃならないのは、その……お腹の中の子供のことだ。……どうしたらいいと思う?」
そんなことの繰り返しで、結局、ちゃんとした結論は出ないままに、僕は「もう帰る時間だから」と言って、マユの部屋を後にしてしまった。
カーステレオの歌が耳を素通りしてゆく。いつもならカセットを何度も取り替えているはずなのに、一度も取り替えないまま、気がつけば車は相模川を渡ろうとしていた。茅ヶ崎駅前の交差点では無意識のうちに信号無視をしてしまい、対向車線の右折車にクラクションを鳴らされて初めてそのことに気づいたりした。危うく事故を起こすところだった。
街路灯がともるころになって、車はようやく東向島の駐車場に着いた。寮に着いてまず僕がしたのは、電話のプリペイドを三千円分追加することだった。それから部屋に戻り、マユに電話を掛ける。
「はいもしもし」
電話に出た彼女に向かって、僕はようやくそのひと言を口にした。
「マユ? 逃げてごめん。もう逃げないから。決めた。……堕ろそう」
そう言った途端、電話の向こうでマユがわっと泣き崩れるのが聞こえた。僕はその泣き声を電話越しにいつまでも聞いていた。それが今の僕にできる唯一の償いだと思っていた。
僕とマユはその日から、同じ罪を背負うことになった。
5 ルビーの指環[#「5 ルビーの指環」はゴシック体]
八月最後の週末。僕は静岡へ行き、彼女を古庄の産婦人科まで連れて行った。処置後に彼女は安静が必要な状態となり、そのまま入院することになった。僕は彼女のいない彼女の部屋でひと晩を過ごした。翌日には体調が回復したとの連絡が入り、僕は車で迎えに行った。僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。ただし彼女はずっと僕に腕を絡ませていた。運転中はハンドル操作の邪魔になったが、だからといってそれを邪険に振り払うわけにもいかず、僕はゆっくりと車を走らせて事故を起こさないように気をつけた。
現行法上、堕胎は犯罪ではない。僕たちは法を遵守し、法に則《のつと》った範囲内で処置をしただけである。しかしその週末のことは、できれば早く忘れ去りたかった。東京に戻って仕事をしている間は余計なことを考えずに済んだので、僕はよりいっそう仕事に情熱を傾けるようになった。
ちょうど仕事も忙しくなる時期だった。僕と石丸さんの二人で夏場に立てた新商品の企画は、全十四点中二点が特許部の審査を通って返ってきた。特許部の審査基準は厳しく、先輩社員でも全敗するのが当たり前のようになっていた中で、その結果は客観的に見ても上出来の部類だった。課内会議では褒められたし、課長からは二点とも特許請願と試作品作成依頼まで進めておくようにとの指示を受けた。
長瀬さんにも手伝ってもらって、申請書類を書き上げるのに丸々一週間かかった。僕と石丸さんは連日の残業続きで、金曜日にようやく課長印を貰ったときには、僕は今までにない解放感を味わっていた。だから彼女から、
「今日飲みに行かない?」と誘われたときには、僕も素直に頷いていた。
行ったのは前回と同じ居酒屋で、ただし今日はまだ七時前ということで、飲む時間は前回よりもたっぷりとあった。最初はテレビ番組などを話題にして、当たり障《さわ》りのない話をしていたのが、お酒が入るに従って、石丸さんは次第に饒舌になり、やがて社内の人間を噂話の俎上《そじよう》に載せるようになっていた。
「第一(開発課)に橋本《はしもと》さんって、いるじゃない。あの人、あの歳で独身なんだって」
「へえ」と僕は気のない相槌を打つ。メガネを掛けて頭髪の薄い、ちょっと人の好いオジサンといった風貌は思い浮かんだものの、僕にとってはただそれだけの存在で、その人が独身だと言われても、さもありなんと思うだけで、殊更に興味を惹かれることもなかった。しかし僕の反応の薄さにも構わず、彼女は話を続けている。
「──なんか、人生が見えちゃってるって感じじゃない。過去も未来も。子供のころから塾とかに通ってて、勉強だけは出来たんだけど、外で友達と遊んだりしたこととかはなくて、で、そのまま大学生になって社会人になって、恋愛とかもマトモにしたことがなくて、でも遊ばないからお金だけはどんどん貯まってるのね。それを見込んで親戚のオバサンとかが見合い話を持ち込んで来たりするんだけど、そういう人って、変にプライドだけは高かったりするから──理想ばかり高くて妥協するってことを知らないもんだから、なかなか話がまとまらない。あと両親と同居とかって言うもんで、相手からも断られたりして」
「別に、そこまで決め付けなくても」
「ううん。今のは私の想像とかじゃなくて──そりゃまあ、ちょっと想像で付け加えた部分とかもあるけど、基本的には確かな情報筋から仕入れた話だから」
「ふうん」そんな情報、どこから仕入れてきたというのだろう、女子社員同士の情報のネットワークは怖いなと、そんなことを思いながら箸を動かす。すると不意に話題が変わって、
「あ、そういえば鈴木くん、海藤くんに言ってくれたみたいね。ありがとう」と言われたので、僕は少々面食らいながらも、「あ、はいはい」と頷いた。海藤はあの日以来、僕たちのいる七階には滅多に姿を見せなくなっていた。昼食の約束があって連絡を寄越すときにも、彼はもっぱら内線電話を使うようにしている。
「あれから電話とか来なくなった?」と念のために聞くと、彼女はひとつ頷いてから、
「でもそうやって、海藤くんとか──私からしたら、ちょっとゴメンナサイってタイプの人からは、そうやってお誘いがあったりするのに、肝心の人からは、一度も電話とか掛かって来ないんだから──人生って、うまく行かないように出来てるのかしらね」
などと言い始めたので、僕は黙り込むしかなかった。そのまま話題が変わってくれるのを待つつもりだったのだが、彼女のほうでは話題を変えるつもりもないようで、そこで口を閉ざしたままじっと僕のほうを見詰めてくる。
どうして石丸さんはこんなふうに積極的になれるのだろう、と思いながら、僕は仕方なく口を開く。
「でも石丸さんの場合、男なら誰でも──」言葉遣いに気をつけろ、という警告灯が頭の中で回っていた。「僕が言うのも何なんだけど、石丸さんって、女性としては完璧だと思うんですよ。見た目も綺麗だし、頭もいいし、性格も素直だし──」
「ありがとう」と、すかさず笑顔を見せる彼女。「買い被りのような気がするけど、そうやって褒められれば嬉しいもん。で?」
「あ、だから」どうも調子が出ないなあと思いながら、僕は続ける。「そばにいる男性なら誰でも石丸さんに惹かれる部分はあると思うんだけど──だから石丸さんの場合は、誰でも好きな相手を選べる──誰でもじゃないかもしれないけど、選択の幅はかなり大きいと思うんですよ。黙っててもいろいろ誘いが来たり──」
「ううん。そんなことない」と彼女は即座に首を左右に振った。「誘われたって──会社に入ってから誘われたのって、実際のところ、今言った二つぐらいだし」
「二つ?」と僕はいぶかしく思う。「海藤と──?」
「あ、だからさっきの──第一の橋本さん」
「え」と僕は仰天する。「あの人からも?」と言いながら、ああ、そういう流れの話だったのか、と思う。
石丸さんはひとつ頷くと、
「だから帰りに駅まで一緒になったことがあって、そこで何となく、お隣の課の人で、いちおう名前とかは知ってる人だからって思って、世間話みたいなことをしてたら、急にさっき言ったような話をしてきて、で、あなたこそ僕の理想の人だ、週末にデートしてくれませんかって言い出して」
「それで?」と、先ほどとはまるで違って、僕はその話に興味津々だった。
「だって、いきなりそんなこと言ってくる時点で、おかしいと思うじゃないですか。だからお断りしますって、いちおうハッキリ言ったんだけど。でも向こうはまだ納得してないみたいで、会社にいてもときどき視線を感じて──もしかしたら私の自意識過剰なのかもしれないけど」と最後に付け足したのは、話に客観性を持たせるための方便であり、石丸さん自身はそんなことは露ほども思っていないのは、その言い方からして明白だった。
「まあね」と、僕はあまり意味のない言葉を前置きしてから、「だからそうやって、実際にアプローチして来たのは、今のところ二人だけだったかもしれないけど、それ以外でも、石丸さんの場合には、よりどりみどりだと思うのね。だったら誰を選ぶかっていう話になって──」
「だからそれは──この前、私、鈴木くんに直接言ったよね?」
「それが僕からすれば、どうも納得できないって言うか──他にもいろいろ選べるのに、何でそこで僕なんだろうって。だって──じゃあたとえば、身近な例として、長瀬さんを挙げてもいいと思うんだけど、あの人と僕を比べても、比較にならないくらい、長瀬さんのほうが頭は良いし──あの人、京大の院卒でしょ? あと性格もすごい穏やかだし。だからどこを比べても、僕の──」
「でもね、鈴木くん」最後まで聞くに値しないといった感じで、彼女は僕の話に割って入った。
「──だいたい頭が良いっていうけど、それって単に学校の成績が良かったっていうだけのことでしょ。今の詰め込み式の教育についていけてたってことは、それだけ──素直って言えば聞こえはいいけど、そうじゃなくて、それだけ親の言うこととか、先生の言うこととかに素直に従ってたってことで、それって逆に言えば、本人の自立心とかがそれだけ育たなかったってことにならない? 本当の頭の良さって、どこの大学に行ってたとか、そういうこととはぜんぜん無関係だと私は思ってるし。あと性格だって──穏やかってことは、言い換えればそれって、野性味に欠けるってことじゃない? 鈴木くんが長瀬さんに比べて、穏やかさに関して負けてるなら、それは同時に、鈴木くんが長瀬さんに、野性味においては勝ってるってことになる。……そうでしょ? で、私の好みは、だから野性味っていうか──うーん、ワイルドな感じって言うのかな? そういうのがあってほしいって思ってるの。男の人には。……っていうような説明で、納得した?」
ワイルドな感じか──と僕は心の中で復唱する。たしかに酔って自制心をなくしたときの俺は、ワイルドと形容されてもおかしくないかもしれない。今日はまだそんなに酔ってない──はずだが。
そういえば、彼女が以前に付き合っていたという、あの男──天童とかいうあの男も、外見からして、ワイルドな雰囲気は大いに感じられていた。そういう意味では、彼女はちゃんと自分の好みを把握しているのかもしれない。
「じゃあ今度は鈴木くんに説明してもらおうかな。説明っていうか──さっき鈴木くんは、男なら誰でも私に、大なり小なり惹かれる部分があるとかって言ってくれたけど──それは客観的に見てってことでしょ? じゃあ鈴木くん自身は、主観的に見て、私のことをどう思ってるの? 鈴木くんは私に魅力を感じてないってこと?」
頭の中の警告灯が再び回転を始めた。これ以上この話題に深入りすると危険だと告げている。しかし僕は気がつけば喋り始めていた。
「そうじゃなくて。さっき女性として完璧だ、とかって言ったのは、むしろ僕の主観だって言ったほうが正しくて──僕はだから、そう思ってはいるんだけど、でも──じゃあどうしてって言われると──」と僕がそこで躊躇《ためら》っていると、
「カノジョがいるから?」と石丸さんはズバリと聞いてきた。
僕はすぐに頷いた。もはや隠し立てをしていられない状況だと判断したからだ。その際には、できるだけ軽い感じに見えるように、眉を持ち上げて見せたりもした。
「いつから付き合ってるの? 大学時代から? 今は彼女はどこに? 静岡?」
全ての質問に、僕は無言のまま頷きを返す。石丸さんは天を仰いで、ひとつ大きく息を吐き出すと、また僕と目を合わせて、
「やっぱり、って感じ。──あ、でも、自分と付き合ってくれないから、カノジョがいるに違いないって、そんなふうに思ってたわけじゃないからね。それだと私、すごい自惚《うぬぼ》れの強い女みたいだし。そうじゃなくて──先週の日曜日に、私、北斗の稽古を見に行ったんだけど、そうしたらたまたま梵ちゃんが来てて」
「あ、ホントに?」
「うん。何だかあの子、ウチの劇団に──っていうか演劇に、かな? 興味を持ち始めたらしくて、それで来てたみたいなんだけど、そのときに鈴木くんの話になって──それで、こっちに車を持って来てるとか、あと週末になるとそれでどこかに行って一泊して、日曜日に戻って来るとかって聞いて、そこまでして通うってことは、もしかして、って思ってたんだけど。やっぱりそうだったか、って」
石丸さんも、これで僕のことを諦めてしまうのだな、と思うと、急に彼女のことが愛しく思えてきた。先ほどまで僕が手を伸ばせばすぐそこにいたはずの女性が──しかも飛び切りの美人が──急に手の届かない存在になってしまったという喪失感。ありていに言えば、もったいないことをしたという感じが、今の僕にはあった。といって、では僕に何ができたかと言えば──たとえばマユのことを隠して石丸さんと付き合うとか、そういうことが自分にできたかと問えば、それはさすがにできなかったわけで、だから自分の行動に悔やむべきところなどはなく、ただ単に出会うのが遅かったという、その順番の後先を恨むしかなかったのだが……。
「ねえ、その相手って、どんな子?」と石丸さんが聞いてくる。彼女は言ってみれば失恋した直後なわけで、それでも懸命に話を継ごうとしている──僕との間で居心地の悪い雰囲気を作らないように努力している──そんな感じが伝わってきたので、僕も素直に答えることにした。
「うーん。見た感じは子供っぽいかも。美人ではないけど、可愛いって感じかな。髪の毛がすごく短くて。性格は……おっとりしてるっていうのが、いちばんそれらしいかな」
「名前は?」
「繭子。僕はいつもマユって呼んでるけど」
「そっか。マユちゃんか……」
こういうとき、女性は何を考えているのだろう──と思いながら、石丸さんがそのまま沈み込んでいきそうな雰囲気だったので、僕は考えながら言葉を継いだ。
「えーと、比べるのはどっちに対しても失礼だと思うけど──特に僕がそれを言うのはどうかとも思うけど──でもあえてそれを言うと、マユよりも石丸さんのほうが美人だし、頭もいいし、会話もはずむし、一緒にいて楽しいと思う」
相手を持ち上げるつもりで言ったのに、彼女はあまり嬉しそうな顔はしなかった。
「歯医者への情けってこと?」
と言われて、意味がわからず、マユが歯科衛生士だと何でわかったのだろう、などと余計なことまで考えた挙句に、「歯医者」が「敗者」だと気づく。
「あ、そんなんじゃない。マユよりも石丸さんのほうがいい女だっていうのは、僕の本当の本心だってば。──なんだけど、でも、だからって簡単に乗り換えられないのは、石丸さんもわかるでしょ? もし僕が、じゃあ石丸さんと付き合うって言い出したとしても、そんなふうに簡単に女を捨てられる相手だってことで、じゃあ今度は自分がいつ捨てられるかって思うだけで、ずっと心配しながら付き合っていかなきゃならない」
「うん。鈴木くんがそんなイイカゲンな性格じゃないってこと、わかってる」と言って頷いた後、「その子のこと、それだけ大切にしてるんだ」と羨ましそうに付け加えた。
しかし正直なところ、僕は今週になってからまだ一度も自分からはマユに電話を掛けていなかった。彼女のほうからは二度ほど電話があったのだが、会話は続かず、そして通話を終えた後にも苦々しい気持ちが残るばかりだった。この週末も、僕は静岡へ行こうかどうしようか迷っていて、どちらかといえば行かないほうに気持ちが傾きつつある。
もしかしたらこのまま、マユとは別れることになるかも……。この一週間、そんな思いがふと頭をよぎる瞬間があり、そのたびに僕はその考えを否定し続けていた。
そんな僕の弱い気持ちが顔に出ていたのだろうか。石丸さんが恐る恐るといった口調で言葉を継いだ。
「でも……もし鈴木くんが、そういうイイカゲンな性格が自分で許せないっていう、その気持ちだけで、そのマユちゃんって子と今も付き合ってるんだったら、それはどうかって思うところもあるんだけど。……そんなことない?」
そんなふうに聞かれて、僕は咄嗟には言葉を返すことができなかった。ややあってから「どうして……?」と、ようやく言葉を搾り出す。なぜそれがいけないのか、という気持ちを込めたつもりだった。
僕は常に自分の言葉には責任を持ちたいと思っている。それと同様に、女性と付き合うときには、その相手を終生変わらず愛し続けられるという自信があって初めて、付き合うべきだと思っている。そういう想いもなしに異性と付き合うのは、無責任であり、僕はそんなことはしたくない。
そして僕は去年、マユと出会い、彼女を一生愛し続けられるという自信を持った上で、彼女と付き合い始めたのだ。子供を堕ろしたことで、今はお互いに顔を合わせても辛い状況になってしまっているが、だからこそその壁を二人で乗り越えて行かなくてはならないと思う。辛いから別れよう、などと考えるのは安直であり、そんなふうに過去の自分を簡単に否定するようなことは、可能性としても考えたくない。
しかし石丸さんは、僕のその考えを否定するような話をし始めた。
「考えを変えるってことがすべて悪いことだ、っていうのは言えないと思う、私は。だって、もし最初に考えていたことが間違ってた場合には、それを貫き通すのって、まわりの人にとっても迷惑になるだけじゃない。もし途中で間違ってたって気づいた場合には、考えを変えることのほうが結果的に正しいことだってある。現に私だって──」
そこで、一瞬、逡巡のようなものが窺われたが、しかし彼女はその先を続けた。
「前にも言ったけど、私、天童さんっていう、あの人と付き合ってたのね、大学時代。私にとってはそれが初めての恋愛で、そのときには私も、この人のことを一生好きでいられるって思ってた。でもあの人のほうは、私のことをそこまで思ってくれてはいなかった。……っていうか、あの人の場合、本気になって誰かを愛したことがないんじゃないかなって思うんだけど。それがわかったのは付き合い始めてからで、でも私は、だったら私がそれを彼に教えてあげるとかって思ってたのね。それぐらい好きだったし──だから別れた後も、きっと彼以上に好きになる相手なんて、この先一生現れないって思ってた。でもそれは幼かった私の無知なる思い込みでしかなかったっていうのが、今になってみればすごいわかって。あのまま彼と付き合い続けなくて良かったとも思う。もし今でも彼と付き合っていたら、私はたぶん彼を殺していたかもしれない。そんな人生を歩まなくて良かったって、今だからそう思えるけど、当時はそんなふうには思わなかったもん。彼と別れるなんて、考えられないことだった。……鈴木くんの言うように、コロコロと自分の意見を変えるのは良くないって私も思う。だけど人間って成長するものだし、そのときに過去の自分を否定することだってあると思うし、それは許されることだとも思う。……自分の言葉に責任を持てるようになるのって、本当は何歳なんだろう? わからないけど、でも私や鈴木くんの年齢で、それができるって思うのは、思い上がりだと私は思う。私たちはまだまだ成長する。なのに自分の言葉に責任を持って、考えを変えないようにするのって、それを無理やり止めようとすることと同じだと思う。この先、好きな食べ物だって変わるかもしれない。今はビールが一番好きだと思っていても、もしかしたらワインが一番好きになるかもしれない。それと同じように、一番好きな相手も変わるかもしれないし、今はまだ、私たち、変わってもいい年齢だと思う」
「でも──」と僕は、反論しようとするが、続く言葉が見つからない。
「彼からは──天童さんからは、お前にとって俺はイニシエーションだったんだって言われた。……イニシエーションって、言葉の意味、わかる?」
「イニシエーション……通過儀礼ってこと?」
「そう。子供から大人になるための儀式。私たちの恋愛なんてそんなもんだよって、彼は別れ際に私にそう言ったの。初めて恋愛を経験したときには誰でも、この愛は絶対だって思い込む。絶対って言葉を使っちゃう。でも人間には──この世の中には、絶対なんてことはないんだよって、いつかわかるときがくる。それがわかるようになって初めて大人になるっていうのかな。それをわからせてくれる恋愛のことを、彼はイニシエーションって言葉で表現してたの。それを私ふうにアレンジすると──文法的には間違ってるかもしれないけど、カッコ良く言えば──イニシエーション・ラブって感じかな」
「イニシエーション・ラブ……」
「もし鈴木くんとマユちゃんの関係が、そのイニシエーション・ラブなら、私にもまだチャンスはあるかなって」
石丸さんはそう言って、悪戯っ子のように微笑んだ。その表情は、マユがよく僕にしてみせてくれるものに似ていたが、整った顔立ちの彼女がみせると、よりいっそう効果的な感じになるなと、僕はそんなことをぼんやりと考えていた。
その週も次の週も、僕は結局静岡へは行かなかった。その連絡のための電話はした。仕事が忙しいからと、理由に関してはテキトーな嘘をついていた。実際には、試作レポートが上がってくるまでは、珍しく仕事は暇で、課長からは夏休みの振替休暇を取ってもいいとまで言われていた。
やはり石丸さんに言われた言葉がこたえていた。
絶対なんて言葉はないんだよ……。それがわかって初めて大人になる……。
石丸さんの笑顔。マユの笑顔。どっちにより価値があるか……。
以前の僕ならば、そんな比較はすること自体を禁じていただろうと思う。比べないことによって、自分の中でのマユの価値を守ろうとしていた。あるいはそうして守ろうとしていたのは、マユの価値ではなく、自分の価値だったのかもしれない。もしくは絶対という言葉の価値か。
わからなくなっていた。それがわからないままマユと会うのが不安だった。
彼女とセックスができるかという点についても不安だった。他の女性とならば問題なくできると思う。しかしマユを相手にしたときには──僕との間に出来た子供をそこから掻き出した場所を見たときに、それでも自分がちゃんとできるかどうかについては、自信がなかった。彼女に対してだけ性欲が湧かないのでは、この先どうしていっていいのかわからなくなる。
しかし愛情はあった。想い出の多さがそのまま彼女に対する愛情の篤さに繋がっている。石丸さんと比べても、少なくともそこはマユの圧勝だと断言できる。
難しく考えることなどない。自分が愛情をいちばん多く注いでいる相手に会うのに、何を躊躇うことがあるのか。
そして九月十九日。僕は静岡へ行くことを自分に課した。ドライブの間はFMを聞いて何も考えないようにしていた。ラジオではBOφWYのニューアルバムの収録曲が紹介されていて、僕はそのビートに酔いながら高速を飛ばしていた。
あの日──処置をした翌日には、マユは終始辛そうな表情を見せていたが、三週間ぶりに再会した彼女は、元来の笑顔を取り戻していた。部屋に入るといきなり抱きついてきて、
「たっくん。もう来てくれないかと思ってた」と言って僕の胸に顔を埋める。
「バカだな。そんなことあるわけないだろ」と言って、僕は彼女の体を抱き締める。この感触こそがマユだと思う。この細さ。この髪。そして真っ直ぐに僕だけを見詰めている、この気持ち。
一人であのまま考えていたら、誤った結論を出してしまっていたかもしれない。しかしこうしてマユに会えば、結論は明白だった。
僕にはマユを捨てることなどできない。
その日はせっかく車で来ているんだからと、マユを誘い出して、二人で三保の海岸までドライブに出た。あいにくの曇り空だったが、そのせいで気温はそれほど上がらず、過ごしやすい陽気だと言うこともできた。堤防の上に二人で並んで座り、清水港に出入りするいろいろな船を見ながら、そこで一時間ほどボーッとして過ごした。
帰りは清水駅前を通って北街道のほうに回り、鳥坂のラブホテルに入った。ウインカーを出すときにマユの表情を確認してみたが、彼女ははなからそれを期待していたようだった。自室でするときにはどうしても声を抑えなくてはならない、だからお金がかかってもいいからホテルでやりたい、というのが彼女の変わらぬ希望だったが、僕が東京に行ってしまってからは、それは二人の間では贅沢の部類に入っていたのだ。
そして実際に行為に及んでみれば、あの心配も杞憂に過ぎなかったことがわかった。僕はマユを相手にしても、以前と変わりなくその行為を果たした。ただしゴムを着けるときにはかなり神経を使ったし、果てるときにはさらに念を入れて外に抜いたりもした。
裸のままベッドに並んで、ゆったりとした時間に浸りながら、僕はマユに言った。
「あのね、マユ。俺、やっぱ毎週だと、けっこう辛いんだよ。っていうか、実際に毎週来れてないし。それで……最初に自分で言ったことを翻すようだけど、二週間に一回のペースになってもいいかな?」
すると彼女は笑顔を見せて答えた。
「だから私、前にも言ったじゃん。無理しなくていいよって。……たっくんって、けっこう意地んなって無理することってあるじゃん? その無理が重なって、いつかポキッて折れちゃいそうな気がして──だから私、もうそうなるぐらいなら、最初っから無理なんてしなくていいよって、いつもそう思ってたから」
そうだ。マユだってわかっていたのだ。前言を撤回したくないばかりに無理を重ねる傾向が僕にあることは。そして彼女は同時に、前言を撤回してもいいんだよと、それも以前から言ってくれていたのだ。
石丸さんの説とは逆の考え方になるが──融通を利かすことが、長続きの秘訣になるということだってある。それを僕は、今までは、どうもその逆ばかりを心掛けていたようだった。その挙句──マユの言い方を借りれば──ポキッと折れそうになっていたのが、この数週間の僕の苦悩だったというわけだ。
何か、ひとつ賢くなったような気がしていた。こんなふうにして、マユと時間を過ごしていければいいなと思う。二年なんてあっという間だ。
早く時間が過ぎてくれればいいのに──と、僕は切実にそう願った。
翌週は水曜日が祝日だった。その前日、会社の給湯室で、お湯をポットに入れているところに、石丸さんが不意に現れて、「鈴木くん、明日って暇?」と聞いてきた。
「──もし予定がないなら、ドライブに誘ってくれない? 行きたいところがあるんだけど、私、車持ってる知り合いがいないから」
彼女はすでに、僕に付き合っている相手がいるということを承知している。だからといって諦めたわけでもなさそうなところが微妙な感じだったが、とりあえずそれを承知した上で言っているのだから、そんな面倒なことにはならないだろうと判断して、
「あ、いいですよ別に」と僕は軽い気持ちで請け合ってしまった。
以前の僕だったら、マユがどう思うかをまず一番に気にして、その誘いもおそらく断っていたのではないかと思う。しかし今の僕は、融通を利かすことの利点をすでに学んでいた。石丸さんとの関係も、いきなり拒絶するのではなく、そうした流れの中でだんだんと解消していけるのなら、そうしたほうがいいに決まっている。
そして秋分の日。待ち合わせは戸越台中学前に午前十時という約束で、午前九時に寮を出れば充分に間に合うだろうと思っていたら二十分も早く着いてしまい──それでも石丸さんがすでに来ていたのには驚かされた。
「おはようございまーす」と言って助手席に乗り込んでくると、さすがはアイドルも顔負けという美人だけあって、車内が華やいだ雰囲気になる。そういえば、マユ以外の女性がここに座るのは初めてかもしれないと、そのときになって僕は少し後悔の念を抱いた。
彼女の指示で僕たちが最初に向かったのは、新横浜駅にほど近い通り沿いにある、ガーディアンという名前のショッピングセンターで、街道に面して大きな駐車場があり、また建物が平屋で倉庫のようにだだっ広いスペースを擁しているのは、アメリカによくある大型のスーパーマーケットを思わせた。商品も衣料品から生活雑貨の類から大型の家具に至るまで、かなり幅広い種類が取り揃えられている。中をぶらぶらと見て歩いているだけで、けっこうな時間が潰せた。石丸さんは輸入家具のコーナーで、上がチェスの盤面になったアンティークふうの小さなテーブルに見入っている。何気なく値札を見た僕は、その額に驚いてしまった。
「まさか……買う気?」と恐る恐る聞いてみると、
「あの車に載る……よね?」と、僕とは違う点を心配していた。どうやら彼女は僕などとは経済的な観念が違っているらしい。支払いをカードでしていた点でもそれは認識された。チラッと見えたそのカードは金色で、僕はよく知らないが、たぶんある程度の経済力がないと持てないものだろう。
シティの後部座席を倒して、そのテーブルをどうにか詰め込んだときには、すでに正午を回っていた。彼女がそこで、昼食は中華街で取りたいと言ったので、僕は車を関内まで走らせた。移動時間はさほどでもなかったが、駐車場に入るまでにかなり待たされた。その間に僕のお腹が鳴り、彼女はクスクスと笑った。そして、
「今日は私が無理を言って来てもらったんだから、ご飯は私が奢るね」と言う。
中華街で彼女が選んだのは、慶華楼という、いかにも高級そうな店だった。料理は飛び切り美味しかった。たぶん料金もそれなりに高かったのだろうと思う。そこでも彼女はカードで支払いを済ませていた。
食後には二人で山下公園から外人墓地へと続く観光地を歩いて回った。並んで歩いていると、すれ違うカップルの男のほうが、石丸さんのほうをチラッと盗み見るのがわかる。そのたびに、僕はなんとなく誇らしい気分になった。
港の見える丘公園は、さすがにそういう名前が付いているだけあって、ロマンチックな気分が味わえる場所だった。恋人と来るのにこそふさわしい場所に、石丸さんと二人で来ている事実は、しかし僕を後ろめたい気分にさせなかった。この場所には石丸さんこそが隣にいるのにふさわしいとさえ思っていたのだから、その時点で僕の中では何かが麻痺してしまっていたのかもしれない。
車に戻ったところで、時刻は午後三時を過ぎていた。彼女は今日の予定はすでに消化したという。
「でもせっかくだから、晩御飯までは一緒に食べたいと思うんだけど」
という彼女の言葉に、僕は自然と頷いていた。それまでにはまだ間があり、どこで時間を潰そうかという話になったが、その場では答えが出ず、僕はとりあえず一五号線を都内に向かって走らせることにした。
鶴見の交差点を過ぎたところで、石丸さんが「あ、今のところを左に入って」と急に言い出したので、僕は車をUターンさせて、彼女の言う道に折れた。そのまま彼女の指示に従って車を進めて行くと、目の前にラブホテルの入口があった。さすがにそこでは僕もブレーキを踏んだ。
「休憩していくと、ちょうどいい時間になると思わない?」
石丸さんが助手席で悪戯っ子のように微笑む。
「石丸さん、僕には恋人がいるって──」
「もちろん。知ってて誘ってるんだから、私がそれで傷つくことはない。だから──鈴木くんも、私に恥をかかせないで」
耳元でそう囁かれて、僕は──ギアをローに入れた。その手に彼女が手を重ねてくる。
自分で心音が聞こえるほど、僕の胸は高鳴っていた。呼吸が荒くなっているのが自分でもわかる。下腹部はその時点で勝手に準備を終えていた。
ここまで来て断るには、石丸さんはあまりにも魅力的すぎた。そしてマユのいる静岡はあまりにも遠く感じられた。
僕はクラッチを繋ぎ、ビラビラの下がった入口に向かって車を発進させた。
最初はそんなつもりで提案したわけでもなかったのに、静岡に帰るペースを二週に一回に減らしたせいで、僕には東京で過ごす週末が隔週で与えられており、いつしかそれは石丸さんとのデートに費やされるのが当たり前になっていた。
三度目に彼女と寝た日、僕は財布をどこかに置き忘れるという大失態を演じてしまった。ラブホテルに忘れてきたような気がしたが、電話をしてみると、応対に出た従業員は知らないと言った。
失くした場所が場所だっただけに、警察に届けを出す際には恥ずかしい思いをした。その他にも、銀行のキャッシュカードを停止する必要があったりして、けっこう面倒臭い思いを味わうことになった。中に入っていた現金は早々に諦めたし、カードも再発行してもらえば平気だったが、できれば財布だけは無事に帰ってきて欲しかった。何しろマユから誕生日のプレゼントとして貰ったものである。大切にすると誓った以上、失くしましたでは済まされない。しかも失くした場所が、他の女性と行ったラブホテルだったというのが、なおさら後ろめたい気持ちにさせた。僕は同型の財布を求めて、財布を失くしたという事実そのものをマユに知られないように画策した。
その事実からもわかるように、二人の女性と交互に寝るようになっても、僕はあくまでもマユが本命というつもりでいた。石丸さんも「私のことは遊びのつもりでいいから」と言ってくれていた(それが彼女との回数を重ねさせる原因にもなっていたのだが)。
しかし週末ごとに二人の女性を交互に抱いているうちに、いつしか僕の中ではメインとサブの関係が逆転していた。週末だけを見ていれば、その勝負は互角であり、先に知り合ったぶん、マユのほうが優位であり続けたに違いないと思う。しかし石丸さんとは平日も、会社で数時間を──ときには十時間を越えて──ともに過ごしているのだ。
静岡に行ったときには、僕もすぐにその気分になれる。マユとは今までに過ごしてきた時間の積み重ねがあり、会えばすぐに元どおりの関係になれる。しかし電話で話すのが、次第に辛くなってきた。
そんな綱渡りの日々を重ねていた十月も、ついに末日を迎えるというその日に──不意に破局が訪れた。
マユの部屋で、いつものようにベッドに寝っ転がってテレビを見ながら、僕はマユに何かを言おうとしていた。そして気がついたときには、「なあ、おい、美弥子」と言ってしまっていたのだ。
その瞬間、室内の空気が凍りついた。炬燵に足を突っ込んでテレビを見ていたマユは、僕のほうを振り向こうとした姿勢のまま、固まっていた。僕もすっと目の前が暗くなるのを感じていた。どうして名前を間違えてしまったのだろう──どう誤魔化せばいいのだろう──なるべく早く言い繕ったほうがいいと思いつつ、僕の頭の中は空転するばかりで、何も言葉が出てこない。
「たっくん、それ、誰?」というマユの声は震えていて、すでに答えを知っているかのように、僕には聞こえた。
「違う。……マユ。だからそれは違うんだって」と、とりあえず口には出したものの、自分でも何を言いたいかが理解できない。
「ねえ……ミヤコって誰のこと?」と言いながら、そこでようやくマユが振り向いた。僕と目が合う。その目が「信じられない」と言っている。
僕は、まだどうにかすれば誤魔化せるという一心で、とりあえず「バカ」と言った。その途端、それまで引いていた血液が一気に逆流するのがわかった。
また泣くのか──被害者面するのか。俺が悪いのか。わざわざ二週に一回来てやってんじゃねえか──お前のほうからは一度も来てねえだろうが。ただ待ってりゃいいんだからそりゃ楽だよな。こっちは時間かけてガソリン代も使って来てやってたんだ。
そんな目で俺を見るな。
僕はベッドから下りた。手を伸ばせば届く距離に、マユがむこう向きに座り、首だけをこちらに捻《ひね》っている。僕は彼女から目を逸らせ、足元にあった鏡台を力任せに蹴飛ばした。その音にマユがビクンと身体を縮ませるのがわかる。化粧水だか何だか細々とした瓶類が床に落ち、派手な音を立てた。抽斗《ひきだし》が半分ほど飛び出している。
「乱暴はしないで! 殴らないで。……お願い」
彼女は身体を丸めて泣いていた。
「本当は、二ヵ月前のあの日に終わってたんだよ。俺たち」
僕は怒りの発作を抑えつつ、ようやくそれだけを口にした。
これ以上ここにいたら、またいつかのようにマユを殴ってしまうと思った僕は、足元の瓶類をもう一度蹴飛ばしてから、彼女の存在を無視して、玄関へと向かった。靴に足を突っ込みながら、もう二度とこの部屋に来ることはないのだなと思った。背後を振り返ると、通路の先には奥の洋間が細長く見えているだけで、そこにマユの姿はなかった。先ほどの位置からまだ動けないままでいるのだろう。
「じゃあな」とだけ声を掛けて、僕は玄関を出た。
一年半も続いた恋愛の、あまりにもあっけないその終わり方には、別れたという実感が伴っていなかった。
東京に戻ると、マユと別れたばかりだという実感はさらに薄くなっていた。土曜日の夜遅くに東京に戻った僕は、日曜日の午後にはもう、彼女と付き合っていたのが遠い過去の日々だったようにも思えていた。
月曜日には普通に仕事に出て、課内会議では、過去の企画案件のデータベース化の委員というのに立候補していた。翌日は文化の日で、僕は予定どおりに美弥子とデートをした。ラブホテルのベッドの上で、僕は彼女に、マユとついに別れたという報告をした。
「やっぱりそうなったんだ」と美弥子は他人事のように言う。
「よく言うよ。お前がそうさせたくせに」
「……で、ご感想は?」
「結局、美弥子の言うとおりだったと思う。俺とあいつの関係は、結局はその──イニシエーション・ラブってやつだったんだろうなって。あいつと別れたことでようやく俺も、美弥子と同じ地点に立つことができたような気がする」
美弥子の身体は、誰かさんとは違って、明らかに大人の女性のそれだった。Dカップの胸は揉んだときの弾力が違っていたし、肉厚な臀部は、バックで行うときにその真価を発揮した。
マユと行う場合には、少女とやっているような感じがしていた。それはそれで、希少さという価値はあったのかもしれないが……。
脱ロリコンって意味でも、あいつと別れることが大人になることと繋がっていたんだな──と、そんなことを思いながら、僕は美弥子の身体に覆い被さる。
水曜日に仕事から帰ると、寮に僕宛の小包が届いていた。ルービックキューブほどの大きさで、差出人を確認すると「成岡繭子」とあり、僕は瞬間的に、まさか爆弾でも送って来たんじゃないだろうなと、そんな非現実的な心配をしたりもした。
部屋に戻って包みを開けてみると、青いベルベットの小箱が出てきた。蓋を開けると、中身もちゃんと入っている。
いちおう十万円近くはしたものだし──まあ、金銭的価値は別としても、別に記念として取っておいてもよさそうなものなのに──それでも手元に置いておきたくないほど自分は傷ついた、という意思表示のためなのだろうか──と、僕は、彼女がそれを送り返してきた真意についていろいろと考えてみたが、結論は出ず、結局はそれを棚の隅に放り込んで、すべてを終わりにした。
6 SHOW ME[#「6 SHOW ME」はゴシック体]
僕と美弥子が付き合っているという噂が部内で流れていたらしい。
会議室に移動するときに、エレベーターホールで長瀬さんが僕にそう耳打ちし、
「──で、本当のところはどうなの?」と小声で聞いてきたので、
「同じ仕事してるから、帰りが一緒になって、じゃあ一緒にメシでも食って行こうか……みたいなことはありましたけど」
と堂々と答えておいた。長瀬さんはなおも何か言いたそうにしていたが、結局は何も言わずにその場を立ち去った。といっても彼の態度は、僕にとって嫌な感じではなく、どちらかといえば僕のことを心配してくれている様子だった。他の社員たちから嫉《そね》まれているから気をつけたほうがいいよ、と忠告してくれるつもりだったのかもしれない。
噂を真に受けて(というかその噂は真実ではあったのだが)、女と遊んでいるから仕事ができないんだ──などと思われたくなかったので、僕は秋以降も振替休暇を取らず、仕事に邁進した。企画書も誰よりも多く提出していた。しかし僕の企画はなぜか、課内会議の段階で落とされることが多くなっていた。
面白いことに、僕の企画に難癖をつけるメンバーはたいてい決まっていて、それは自分ではつまらない企画しか立てられない能無しの社員ばかりだった。僕のことを正等に評価してくれているのは、松尾谷《まつおだに》さんと太田《おおた》さん、そして長瀬さんと美弥子の四人だけだった。美弥子は別としても、残りの三人は、商品開発部第二開発課の中では少数派の、まともに仕事をしている人たちである(自分の味方をしてくれるから持ち上げているのではない。採用商品の売上実績値という客観的なデータでも彼らは上位を占めている)。そして本来なら僕もそこに加わっていたはずだった。能無し社員たちの嫌がらせさえなければ。
配属されて四ヵ月も経てば、組織内の構図も見えてくる。この課では、少数のできる社員によって、多数のできない社員が養われている。
美弥子の言うとおりだった。出身大学や、採用が本社か地方かなど、個人の能力とはいっさい関係がない。東大や京大卒の正社員が、地方大学出身で地方ギフト採用の僕によって、養われているのだから。
いや、単に養われているというだけならば、まだマシだったろう。彼らはそれ以下だ。養われている上に、養っている僕を嫉み、その足を引っ張ろうとさえしている……。
つまらない理由で却下された商品の中でも、特に秀抜だと自信を持って出した企画三点について、僕は会社を通さず個人で特許を請願しておくことにした。
社内の出来事で言えば──コピーを取りに行ったときに、開発第一の橋本が先に使っていたことがあった。間近で見ると、ズボンのポケットの端はほつれていたし、後頭部は地肌が見えている。この冴えない中年男が美弥子に交際を申し込んだのか──と思うと、その身の程知らずな行為が改めて許せないこととして思えてきた。
ガンを垂れてその後姿を睨んでいると、視線を感じたようで、橋本は僕のほうを振り返った。目が合う。そのときの表情で、彼が僕たちの噂を聞き及んでいることがわかった。
「なにか……?」と、恐る恐るといった感じで聞いてくるので、
「すみません。急いでいるんですけど」と、僕は頭を下げ、表面上はあくまでも慇懃《いんぎん》に見えるように心掛けながら答えた。微笑んでいるような表情を作ってみせる。端から見れば非の打ちどころがなく──しかし相対した本人にだけは圧迫感を与える──という僕の試みは成功したようで、橋本は「ああ」とか何とか意味不明な言葉を呟くと、まだコピーを取っていないはずの文書も慌てて取りまとめ、そそくさとその場を去って行った。
ざまあみやがれ。
十一月七日。美弥子は夏休みの振替休暇を取り、その日から七泊八日の海外旅行に家族とともに旅立っていた。──というわけで、珍しく予定がないからと、僕が朝寝を決め込んでいると、海藤が部屋を訪ねてきた。
「梵ちゃんの退職、正式に決まったってさ。今月末」
「あ、ホントに?」
「年末だと忙しいだろうからって総務にゴリ押しして、前倒しにしてもらったって」
「そうか……」
夏に北斗七星の舞台を見て以来、梵ちゃんは演劇の世界にのめり込んで行ってしまった。会社を辞めてその道に進むという本人の強い意志は、まわりがどれだけ反対しても変節しなかった。僕は今では彼の英断を応援したい気持ちになっている。
「それでさあ、ウチの部内でも──あと広島ギフトでも、送別会はやるみたいなんだけど、それらとは別に、送別会、俺らでもやんないかって相談なんだけど」
「俺らって?」
「だから、俺とスーさんと……あと石丸さんとか──」
「……海藤?」
「あ、俺はもう、石丸さんには変な気持ちは抱いてないからね」と言って両手を広げてみせた後に、「ちなみにスーさん、彼女とは──?」
「うん。実は……付き合い始めた」と僕は正直に答えた。マユとの関係が続いていた間は、誰にも言わないつもりだったが、彼女との関係が切れて美弥子一本に絞れた今は、海藤には言っても問題はないだろうと思っていた。「だけど……内緒だぞ。まあ、おまえと梵ちゃんにはいずれ話そうと思ってたんだけど、他の──特に本社のやつらとかには」
「わかった。スーさん、その……静岡の相手は?」
「もうとっくに別れた。石丸さんと付き合い始めたのはその後だ」
そう言うと、海藤はホッとしたような表情を見せた。
「そうかー。じゃあ今度会うときには、そういうつもりでいなきゃならないんだ」
「変に意識すんなって。今までどおりでいいと思うぞ」と言いながら、海藤もいい奴だなと思う。梵ちゃんがいなくなるなら、なおさら彼を大切にしないと──と思ったところで、ひとつ忠告しておくべきことを思いついた。「……あ、そうだ」
「なに?」
「海藤さ、もしモテたいんなら、もうちょっと服装とかに気を遣ったほうがいいぞ。もし何だったら、一緒に買物に行くか?」
「今から?」
「うん。原宿まで。……行くか?」
海藤も見た目はそんなに悪くない。ファッションにもう少し磨きをかければ、望みどおりに都会の女とも付き合えるだろう。
十一月も半ばになってから、僕はクリスマスイブに静岡ターミナルホテルの予約を取っていたことを思い出した。スカイレストランでのディナーと、ダブルルームで一泊という予約である。その二つを合わせて、キャンセル料は三千円ほどかかった。
もしマユと続いていたとしても、今年のイブは木曜日で──どのみちキャンセルするしかなかったかもしれない。予約をしたのは五月だった。
そういえば美弥子はクリスマスをどうするつもりなのだろう……。
十一月十五日に、彼女から無事帰国したという電話があり、その際に尋ねてみると、
「二十五日が金曜日だから、その日にウチの家族と食事するっていうのはどう?」という案が出された。「──姉夫婦も来るけど」
「あ、じゃあ蓬莱美由紀《ほうらいみゆき》とも会えるってこと?」と、僕はつい弾んだ声を出してしまった。すると、
「……会いたい?」という冷たい声が返ってきた。
「あ、いや、別に……」
美弥子の姉が蓬莱美由紀だということを知ったのは、つい最近である。蓬莱美由紀もけっこうな美人だが、美弥子とはタイプが違っていたし、歳も離れていたので(僕が十歳とかそのくらいのときに、ドラマで高校生役をやっていたのを憶えている)、最初にそのことを知らされたときには、まさかと思った。
ただし美弥子は、七歳年上の姉とはあまりうまくいっていないという。
「あー……別にお姉さんとは、会えても会えなくてもどっちでもいいんだけど、美弥子のご両親とは、もし会えるなら会っておきたい気がする」と言い直すと、彼女も機嫌を直したようで、
「……じゃあ、予定に入れとくね」と甘えた声を出した。
十一月三十日付けで、梵ちゃんは慶徳商事への派遣の任を解かれ、同時に慶徳ギフト広島を退社した。派遣中の依願退職ということで、手続きが煩雑そうだったが、海藤によれば、梵ちゃんはその雑事を黙々とこなしていたという話だった。退寮日には僕も仕事を定時で切り上げ、海藤と二人で彼の引越の手伝いをした。といっても梵ちゃんの荷物はそれほど多くなく、シティで二往復しただけで引越は全て完了していた。新しい住まいは根岸のおんぼろアパートで、ここから梵ちゃんの第二の人生が始まるのかと思うと、少し侘《わび》しい気持ちになった。
荷物の搬入を終えたところで、三人でささやかな祝宴でも上げたい気分だったが、梵ちゃんはすぐに広島に帰り、地元で事務処理をしなければならないという。
内輪の送別会はその週の土曜日──十二月五日に行われた。会場は渋谷のジョン万次郎で、参加者は梵ちゃんと僕と海藤と、美弥子と、北斗の日比まどかさんと、あとは梵ちゃんがこれから世話になる狂月同盟という劇団から、ハヤトという人が一人来ていた。
僕は最初、梵ちゃんが会社を辞めて劇団員になると聞いたときには、当然、北斗七星の一員になるものと思っていたのだが、美弥子によると、北斗には慶應の現役生でなければ入れないという規則があるのだそうで(ちなみに一度入団してしまえば、その後に卒業しようが中退しようが、本人が辞めたいと言い出すまでは団員でいられるらしい)、それで北斗と親交のあった狂月同盟のほうに入団することになったらしい。
飲み会の最中に、ハヤト氏が天童(美弥子が前に付き合っていた男)と親友だという話が出て、それを聞いた途端に、僕は急に酒が不味くなるのを感じた。グラスの冷酒を舐めながら、美弥子をこの場に呼ばなければよかったと思っていた。
海藤は今までの経験から、僕の不機嫌を察したのだろう、
「スーさん、今日は梵ちゃんの門出を祝う会だから」と途中で耳打ちをした。それがなかったら、僕はまたいつものように暴れ出していたかもしれない。
海藤と二人で寮に戻り、自室に戻った僕は、すぐに美弥子に電話を掛けた──つもりだったのだが、かなり酔っていたのだろう──手に馴染んでいたもうひとつの番号を押してしまっていたらしい。二度のコール音の後、受話器が外れる音がして、
「──はい。成岡です」
というマユの声を聞いたときには、僕はいっぺんで酔いが醒めていた。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。
「──もしもし? ……たっくん?」
という声を聞いたところで、僕は慌てて受話器を置いた。
怖かった。
「たっくん?」と言ったときのマユの口調が、あまりにも普通だったからだ。
まさか……たっくんから? ──という感じで言うのならばわかる。あるいは──たっくんからであってほしい──と祈るような感じで言ったのであれば。
しかし今の口調は、僕が毎日のように電話を掛けていた、あのころのようで──電話が鳴ったから、たぶんたっくんからだろうと思って出る──しかし相手が黙ったままだ──たっくん……でしょ? ──といった感覚の中で自然に出てきた言葉のように思えたのだ。
彼女の中で、僕と別れたことが──そしてこの一ヵ月余りの間、一度も連絡をしていないことが──正しく認識されていないのだとしたら……。
その想像は、あまりにも不気味だった。そして同時に、もしそれが本当だとしたら、マユがあまりにも哀れだと思った。
脇の下を汗が流れているのがわかった。と同時に眩暈を感じて、僕はその場に蹲《うずくま》った。
美弥子の家を訪れるのは二度目だった。彼女と初めてセックスをした日の晩に、チェステーブルを運び入れるために上がったのが一度目で、その際には彼女の母親と挨拶なども交わしていたのだが、言ってみればそのときには運送屋などと同じ扱いで、正式に招待されたという意味ではこれが初めてだ──という、いささか緊張した心構えで、僕はその邸宅を訪れることとなった。
両親と姉夫婦と──美弥子を入れて家族五人が揃っているところに通された僕は、さらに緊張する。
「会社の仕事仲間で、鈴木くん」と美弥子が紹介し、僕は、
「鈴木です」と言って一礼する。「美弥子さんとは同じプロジェクトで、いつもお世話になっています」
「本当は、私のほうがお世話になってるんだけどね」
「よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ」と母親が言い、
「美弥子もボーイフレンドを連れてくる年頃になったんだね」と父親が言う。
まるで下手な台本に従って「和やかな家庭」を演じている家族のようだった。……ボーイフレンド? と思って美弥子のほうを見ると、彼女は一瞬、困ったような顔をして見せた。
食事の間は、まるで針の筵《むしろ》に座らされているような心地だった。
「──じゃあ静岡の、その、慶徳商事の支社から、派遣で来ているということですか」
「そうですね。支社というか、まあ、子会社のひとつなんですけど」
「でも鈴木くんは、仕事の実績で言えば、すでに本社の先輩たちを抜いてるんだよね」
「じゃあ出身も静岡で?」
「あ、いえ、出身は福井なんです。大学のときに静岡に来て、そのままそこで就職して」
「大学では何を専攻されていたんですか?」
「物理です。流体力学のほうを」
「何だか難しそう。きっと優秀な学生さんだったんでしょうね」
「いや、それほどでも──」
会話を交わしているのは僕と美弥子と彼女の両親の四人だけで、蓬莱美由紀(というのは芸名で、本名は石丸美由紀──結婚後は鷲尾美由紀)と、その夫の鷲尾さんは、ほとんど会話には加わらず、ただ目の前に出された料理を片付けているという感じだった。
見た目に豪華な料理も味はいまひとつで、僕はたびたびワインに口をつけ、口内の食べ物を喉に流し込まなければならなかった。
食事を終えて二階の美弥子の部屋に上がり、ベッドの端にどっかりと腰を下ろしたときには、思わず溜息が出た。ラジカセのスイッチを入れた彼女が「疲れたでしょ」と聞いてくる。
「あのパパさん、風呂上りにはガウンとか羽織ったりする?」と僕は聞いてみた。
「また、そういう意地悪を言う」と言いながら、美弥子は僕の隣に座り、唇を寄せてきた。下に彼女の家族がいるという状況で交わすキスは背徳的で、僕はより刺激を求めるように彼女の胸をまさぐった。彼女は嫌がるそぶりもみせず、むしろ積極的に股間に手を伸ばしてきた。
そして僕たちは、服を着たままでできる範囲のことをした。裸になってするよりも、それは刺激的だった。
ぎりぎりのところで欲望を抑え、プレイの手を止めて、僕がベッドに仰向けに寝そべると、彼女は僕の胸に顔を乗せて、「この胸板が好き」と呟いた。
僕はその髪を撫でながら考えていた。二人のこの関係はいつまで続くのだろう……と。
今は確かに美弥子も僕のことが本当に好きなのだろうし、僕ももちろん彼女のことが好きでこうしているのは事実だった。しかしその気持ちがいつまで続くかは当人たちにもわかっていない。もし僕よりももっと自分好みの男性が現れれば、彼女は僕をあっさりと捨ててその男のほうを選ぶのではないか……。そういう事態が到来する日を心のどこかで惧《おそ》れていたからこそ、僕は今日ここに来て、彼女の家族と会うことにしたのかもしれない。家族公認の仲となり、そう簡単には別れられない関係を二人の間に作るために。
一方で僕のほうも──もちろん彼女より好条件の女性など滅多にいないだろうとは思うものの、それでも──自分の抱いている愛情が永続するとまではさすがに言い切れない。「絶対」という言葉を捨てた僕たちに、いったい何が断言できようか。「将来の約束」に縛られない生き方を選択した僕たちに許されている「確かなもの」は、本当に「今」だけだった。
「あ……ねえ、このドラマ見てた?」と不意に彼女が聞いてきたので、僕は意識を現実へと戻す。ラジカセからは森川由加里のヒット曲が流れていて、彼女の言う「このドラマ」が具体的に何を指すかはすぐにわかった。
「『男女7人秋物語』? ほとんど見てなかったんだよね」
評判になっているということは知っていたが、この半年間、僕にはテレビドラマを見ているだけの余裕もなかった。
「ホントに? すごい面白かったのに。先週が最終回だったんだけど、ラストのさんまと大竹しのぶの言い合いとか、本当に見てて、ああいうの、いいなあって思って……」
「『──夏物語』はけっこう見てたんだけどね」
去年の夏は特に、マユが大好きなドラマだと言っていたので、僕も努めてそれを見るようにしていたのだ。そう。今年の誕生日には、彼女が喜ぶだろうと思って、ドラマに出てきたブーツ型のジョッキをプレゼントしたりもした……。
マユはきっと今回の『──秋物語』も見ていたんだろうな──少なくとも十月までは。十一月からは……どうしていたことか……。
美弥子の部屋で、彼女と二人でいるというのに、なぜか別れたはずのマユの想い出が胸に溢れてきた。──合コンで初めて出会った日のこと──専門学校までよく車で迎えに行ったこと──三保の海岸で二人でよくボーッと海を眺めていたこと──彼女がニュートンとアインシュタインの区別もつかないのを馬鹿にしたら泣いてしまったこと──二人で海に行った帰りに初めてホテルに誘って、ペッティングまでは順調だったのに、いざ挿入という段階で彼女が怖がったため、その先が日延べになったこと──初体験のときに「痛い痛い」と泣き続けていたこと──今年の春、彼女が実家を出ると言い出して、部屋探しに何度も付き合わされたこと──大学の追いコンの後、酔った勢いでマユをホテルに呼び出したら喧嘩になって、つい彼女を叩いてしまったこと……。
彼女は今、どうしているのだろう……。
胸苦しさを感じた僕は、大きく息を吐いた。その動きに不審なものを感じたのだろう、美弥子が訝《いぶか》しそうな声で聞いてきた。
「……何考えてるの、辰也《たつや》?」
「何でもない」と僕は答え、追想を振り払って、美弥子の背中をぎゅっと抱き締めた。
単行本 二〇〇四年四月 原書房刊
〈底 本〉文春文庫 平成十九年四月十日刊