Jの神話
乾くるみ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)井上|美奈子《みなこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)年月を思わせるてかり[#「てかり」に傍点]
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底本データ
一頁36行 一行23文字 段組2段
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全寮制の名門女子高の生徒が子宮から大量出血して死に、いたはずの胎児が消えた。同じように変死した卒業生の姉、謎の言葉「ジャック」を遺し塔から身を投げた少女――桜の園に封印されたおぞましい記憶! 陰惨な檻と化した学園で女探偵〈黒猫〉と一年生の優子に魔手が迫る。女に棲む“闇”を妖しく描く衝撃作!
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著者のことば
本書のテーマはズバリ、神と悪魔、そして、愛と死です。平静の世であれば、神は愛と、そして悪魔は死と、それぞれ結びつくものですが、この世紀末の世の現状をふまえ、本書では神と死が、そして悪魔と愛とが、結びついてしまいます。
読者諸兄には、作中に描かれた悪魔の愛に、魂を奪われてしまうことのないよう、充分にご注意ください。
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乾くるみ(いぬい・くるみ)
1963年静岡市出身。静岡大学理学部数学科卒。奇想が妖艶なる魅力を放つ本作で第4回メフィスト賞を受賞。竹本健治氏の『匣の中の失楽』に慄然として書いた『匣の中』も小社より刊行されている。眩暈と戦慄の世界の新たなる幻視者の誕生を、心から祝福しようではないか。
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Jの神話
乾くるみ
KODANSHA講談社ノベルスNOVELS
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[#地付き]ブックデザイン=熊谷博人
[#地付き]カバーデザイン=辰巳四郎
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プロローグ――――7
一 章 桜の園――――12
二 章 散華――――40
三 章 召命の朝――――56
四 章 受難の姉妹――――81
五 章 受胎告知――――105
六 章 再来――――128
七 章 原罪――――169
八 章 第四の駒――――199
九 章 煉獄の門――――215
十 章 対決――――232
十一章 堕天使たちの夜――――264
十二章 ソドムの末裔――――281
十三章 地を這うもの――――316
エピローグ――――354
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プロローグ
男は、苦悶の表情を浮かべていた。
目はぎゅっときつく閉じられ、鼻は上を向いていた。紫色に染まった顔が、醜く歪んで皺《しわ》だらけなのは、顎が外れそうなほどに目一杯、男が大きく口を開けているからだ。
舌の裏側を覗かせた、その大きな口は、しかし断末魔の叫びをあげようとはしなかった。喉に食い込んだ二つの手が、強い力で気管を押し潰して、空気の流れをそこで堰《せ》き止《と》めているのだ。
男は息ができないその苦しさに、四肢を振り回して、自分の首を絞めるその二つの手から、必死に逃れようとしていた。しかしその二つの手は、容易には男の喉から外れようとはしなかった。異様なほどの強い力が込められている。
やがて、男の手足の動きが力のないものとなって、その身体を何度か痙攣《けいれん》の波が走った。そして男の全身から抵抗する力が抜けた。体中の筋肉が弛綬し、重力に引かれるまま、全身がぐにゃりとくずおれる。
しかし二つの手は、なおも男の首を絞め続けていた。そして、ようやくその手が放されたときには、男は完全に死んでいた。
闇の中に、たったいま殺人者となった人物の、その荒い呼吸音だけが響いていた。
(……呆気ないものだな)
殺人者はしばらくの間、自分の足元に目を向けていた。自分の足の上に、死体の身体の一部が乗っているのが、仄《ほの》かに見えている。足の甲に、その重みが感じられている。ただの生暖かい肉の感触。その体温が、皮膚を通じてじかに伝わって来ている。それに気付くと、殺人者は死体を蹴り飛ばした。
(足……。俺の、足……)
その足が自分の命令どおりに動いた事に、殺人者は満足していた。そこで自分の両手に意識が働く。気が付けば左右とも、男の首を絞めていた時の形のまま、凝り固まっていた。それを解《ほぐ》すように、握ったり開いたりといった動作を繰り返させてみる。両方とも、自分の思いどおりに動いた。その結果に、殺人者は満足の笑みを浮かべた。
窓の外の仄かな光が、カーテン越しに薄く射しており、ダブルベッドのシーツが闇に仄白く浮かんでいた。この家の夫婦は今までに、その上でいったい幾つの夜を過ごして来ただろうか。
その夫の方は、今は殺人者の足元で、影となって横たわっている。
(あの女には、気取られなかっただろうか……)
殺人者は不意にその事に思い当たった。ハッと息を飲むと、耳を澄ませ、階下の気配を探る。
靴音がする。表の通りを、誰かが歩いて行く音だ。帰宅の途上にある、サラリーマンか何かだろう。近所の犬がけたたましく吠えかかり、その靴音が乱れる。国道からは時折、車の音が聞こえて来る……。そのまましばらく様子を窺《うかが》ったが、家の中で、誰かが起き出してきた気配はなかった。
(ここは居心地が良い。いつまでもここに居られれば良いのだが……)
時間が迫っている……本能がそれを告げていた。それまでにもう一つ、済ませなければならない仕事があった。
(今回ばかりは、失敗するわけにはいかない。何しろ、こうして奇跡的な、それこそ千載一遇のチャンスを与えられたんだからな。これだけの好条件を与えられたからには、もう失敗は許されない。……それにしても危なかった。危うくそのチャンスを、フイにするところだった。……手遅れになる前に気が付いて、助かったぜ)
殺人者――ジャックは、悪魔的な笑みを浮かべた。そして足音を忍ばせながら、殺人の行われた部屋を出て、階下へと向かった。
激しい雨の音に、少女はゆっくりと意識を取り戻していた。
真っ暗な部屋の中。剥き出しの肌に、冬の夜の冷気が刺すように痛かった。
のろのろと身を起こし、そして剥ぎ取られた服を拾い集めて、下着から順に、ゆっくりと身に纏《まと》い始める。
やがて、震えが来た。ぶるぶると全身が震えて、ボタンを填《は》めることができなくなった。立っている事もできなくなり、そのままべたりと床に座り込む。
真っ白だった頭の中に、徐々に感情の波が押し寄せてきた。
大きな二つの波が、せめぎ合いをしている。神聖なものと邪悪なもの。……神と悪魔とが、その少女の心の中で戦いを始めていた。
窓の外は闇。そして雨は激しく降り続けていた。
何もしないでいても、そのうちやがて、朝が来る。一日が始まる。しかし少女は、その朝が来ることをおそれた。
(どうすればいいの……)
死。
唐突にその答えが心に浮かんだ。死。死。死……。その単語だけが、罠のように頭の中を駆け巡る。
戦いは既に終わっていた。悪魔の勝利の喇叭《らっぱ》が高らかに、少女の心の中で吹き鳴らされていた。その悪魔の手から逃れるために、少女がとれる唯一の手段。
……それが死だった。
少女は立ち上がった。闇に慣れた目が、部屋の中を探る。
(私は死ぬ。……そうだわ。私は死ぬ。そう、……だけど、あの人をそのままにしておいて、いいの……?)
造りつけの机に目を留めた。引き出しを探ると、筆記用具が目に入った。レポート用紙の束から、震える手で紙を破り取り、そして鉛筆を手にする。
(……書けない)
闇の中に、少女はしばらくの間、じっと固まっていた。乱れた呼吸の音だけが、外の雨音に混って、繰り返された。
(あれを……書けない)
やがて少女の手が動き始める。そしてようやく、紙の上に文字が並べられた。
ジャック
そこまで書いて、しかしその後が続かなかった。たった、四つの文字。手が思い通りに動かなかったため、その文字はすべて醜く歪んでいた。
(書けない。……誰か気づいて。そしてあの人たちを救ってあげて)
闇の中に、螺旋階段《らせんかいだん》の金属が、ぼんやりと鈍く光っていた。少女は誘われるように、ゆっくりとその階段へと近づいて、そしてそれを昇り始めた。
(……死)
視界はぐるぐると回り続ける。
やがて頭上に閉塞感を感じ、そして階段の螺旋部分は唐突に終わりを告げた。続いて今度は鉄の梯子が垂直に上へと伸びている。突き当たりの天井部分は跳《は》ね蓋《ぶた》となっていて、鍵は掛かっておらず、少女がそれを押し上げると、雨の音が激しく耳に響いた。さわさわと流れ込んでくる冷気が、少女の体温を奪ってゆく。
じっとりと湿ったコンクリートの感触を、両の手に感じながら、少女は身体を浮かせて、そしてよろよろと転げ出るようにして、出口から外の床面へと身を這い出させた。
そのまま這って、壁まで進む。そしてその壁に体重をあずけながら、何とか立ち上がる。
パラパラと雨の粒が、顔に降りかかった。
そこは塔の上、鐘楼《しょうろう》として設計された場所であった。胸下までの高さの障壁に囲まれてはいるものの、吹《ふ》き曝《さら》しとなっており、四隅の柱が鐘のない虚ろな天蓋部分を支えている。
すぐに少女の全身はずぶぬれの状態になった。吐く息が闇に簿白く濁る。降りかかる雨は、いつ雪に変ってもおかしくなかった。ぐっしょりと濡れて着衣の張り付いた肌は、その外気の寒さに、痛みを通り越して、今は感覚を無くしていた。
寒気が絶えず背筋を上ってきては、少女の全身を震わせる。
少女は障壁の上に両肘を載せて、そして身を乗り出すようにして、下界の様子を窺った。
地面ははるか下、遠くに見えた。建物の入口から漏れる明りに、そこだけ雨の糸が白く光っている。
(私も雨の粒になって、あそこに散る……)
少女はずっしりと重い自分の身体を持ち上げるために、両の腕に徐々に力を込めていった。
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一章 桜の園
バスのステップを降りると、坂本《さかもと》優子《ゆうこ》は思わず辺りを見回した。バス停の標識ももう一度確認してみるが、そこには確かに『純和《じゅんわ》女学院前』と書かれていた。
(話には聞いてたけど、こんな山奥なんだ……)
優子の他にもうひとり客を降ろすと、バスは濃い色の排気ガスを煙幕のように撒き散らしながら、走り去ってしまった。
チチ、と小鳥のさえずりが聞こえる。
頭上には木々の緑が、道路に覆い被さるようにして張り出している。道の反対側には山桜が並び、まだ蕾《つぼみ》の多い状態ながら、濃い緑の中に淡い紅色を添えている。その隙間から望まれるのは、あいにくの曇り空であった。
今にも降り出しそうなその空の色が、優子の不安を増長させる。
(ひとりぼっちの、私。これからどうしたらいいの……)
ふう、とひとつ深呼吸をしてみる。空気の濃度が濃く、青臭い葉っぱの匂いがする。
あたりを見渡しているうちに、優子は、道を少し上った所に、山側に上る脇道が口を開けているのに気付いた。角には木製の立て札が立っており、脇道方向を指した矢印とともに『純和福音女学院』という文字が書かれている。
一緒にバスから降り立った少女が、そちらに向かって歩き始めていた。
(あ、もしかしてあの人も……)
声を掛けようとして、ためらう。なかなか声が出ない。
(行っちゃう……)
少女の後ろ姿が脇道に入ろうかという間際になって、ようやく優子は、その背を追いかけ、そして思い切って声を掛けてみた。
「あのっ、すみません。もしかして、純和の……?」
「あ、はい」
少女は立ち止まると、優子の方を振り向いて、落ち着いた声で答えた。
優子はそれを聞いて、ホッと緊張の糸を弛ませた。少女のそばまで小走りに駆け寄ると、やや慌て気味に話し掛ける。
「あ、やっぱり……。良かった。あの、私、坂本優子っていいます。新入生なんですけど、集合時間に遅れちゃって、あのバスに乗って一人でここまで来たんですけど、もう誰もいなくて、すごい心細かったんです」
一気にまくしたて、そして慌ててペコリと頭を下げる。顔を上げると、相手の少女はニッコリと微笑んでいた。目元が凜々《りり》しくて、ややきつめの顔立ちをしていたのが、そうして微笑むと、びっくりするほどの美少女であった。ジーンズにトレーナーといった、ラフな格好をしている。
(やっぱり、こういう格好で良かったんだ……)
優子自身は色々と迷った挙句、両親の勧めに従って、リボン付きのブラウスにフレアスカート、その上に紺色のジャケットを羽織って、かなりフォーマルな装いをして来たのであった。そうした自分の格好が、剥き出しの大自然に囲まれて、何だか馬鹿みたいに思えて来る。
優子の挨拶に答えて、少女も自己紹介をした。
「私は高橋《たかはし》椎奈《しいな》。よろしく。……坂本さん」
声も顔立ちに似合って美しく、大声ではないのに透き通るように耳に響く。優子はその少女の存在に、不思議なほどの安堵感を覚えた。
(私一人だけじゃなかった……)
東京駅で乗り換えを間違えて、自分が反対方向に向かっている事に気付いた時には、ギュウッと胃が締め付けられるような思いがした。一時間ほど遅れて、集合場所に着いてみると、専用のバスはもう既に出発した後で、優子はひとり、路線バスを乗り継いで、ようやくここまで辿《たど》り着《つ》いたのであった。
そのバスに揺られている間じゅう、優子は、自分が置いてきぼりを食ったショックに、じっと耐えていたのだ。自分ひとりが出遅れてしまったという事、新しい生活の出だしから、もう既にみんなに置いて行かれてしまったのだという事に、ひとりでずっと気を揉んでいたのだ。
ところがここに、その仲間がいた。
「あの、一緒に行ってもいいですか。……高橋さん」
優子はおずおずと、相手の顔色を窺うようにして、申し込んだ。
「ええ、行きましょう」
少女は軽く頷《うなず》いた。
優子はそうして、出会ったばかりの美少女と並んで、学院へと続く脇道を上って行くこととなった。椎奈というその少女も、放っておけば自分からは何も喋らないといったタイプのようで、初対面の相手と沈黙が続くのが気まずくて、優子は歩きながら、話題を探しては、少女に話し掛けた。自分の実家の事や、電車の乗り換えを間違えた事、こうして家を出て生活をするのは初めてで何だかドキドキしているという事などを、とりとめもなく話した。相手にもいろいろと訊ねてみる。椎奈というその少女は、落ち着いた雰囲気から、あるいは上級生かもしれないと思っていたが、そうではなく、彼女も優子と同じ新入生だとの事であった。彼女は、自分の出身地が福島の山奥である事、したがって最初から、集合時間に間に合わないので、自力で学院まで行くつもりだった事などを、ぽつりぽつりと話した。
そうした話をしながら、坂道を十分ほども上っただろうか。
(着いた……)
優子はホッと息を吐《つ》いた。前方にようやく、学院の姿が見えて来たのだ。緑に囲まれた中に、学院の正門が、そしてその向こうには校舎が、姿を覗《のぞ》かせている。
最後の坂を上りきって、二人は正門の前に並び、改めて辺りを見回した。
正門の扉は左右に大きく開けられていた。鉄製で、その格子には蔓草模様《つるくさもよう》の洒落《しゃれ》た意匠が象《かたど》られている。名門校の正門に相応《ふさわ》しい風格があり、歴史を感じさせる意匠である。左右の門柱を繋いで頭上に弧を描く、鉄製のアーチ部分も、洒落たデザインであった。
長年の風雨に晒されて、粗くなった古い石造りの門柱には、緑青《ろくしょう》の吹き出た銅板のプレートが嵌《は》め込《こ》まれていて、そこに『J』の字を象ったデザインの校章とともに、学校の名前が浮き彫りにされている。
純和福音女学院高等学校
その門柱のすぐ脇に、幹の表皮も黒々とした、枝振りの良い大きな桜の木が一本、聳《そび》え立《た》っていて、校内の他の桜がまだ二分、三分咲きといったところなのに、その一本だけは既に満開となっており、優子たちを迎えるように、時折吹く風にハラハラと、その花吹雪を舞わせている。
椎奈に続いて、優子もその正門をくぐって、これからの三年間を過ごすはずの、その学院の中へと、足を踏み入れた。あたりを見回しながら、そっと感想を口にする。
「写真で見たとおりだぁ。ねえ、カッコイイですよね」
優子がそう言うと、
「そう、ね。……でも何か、檻《おり》の入口って感じもする」
なかば独り言のように、椎奈がそう言い添えたので、優子はハッと息を飲んだ。
(檻……)
椎奈が正門の門扉《もんぴ》を檻の入口に譬えたのには、多分に心理的な要因も含まれているのだろう。純和福音女学院は、全寮制の学校なのだ。学生寮は、この学院と同じ敷地内にある。したがって、歴史を感じさせる立派な門であろうと何であろうと、今後、彼女たちがこの門を出入りする事は、そう滅多《めった》にはないのだ。
校舎の前まで来たところで、優子は思わず足を停め、背後を振り返った。正門の向こうには、優子の昨日までの世界がある。
チリリ、と胸が焦げ付くような痛みを覚えた。
寮は五階建ての建物であった。かなり大きい。校舎よりも大きいのに、優子はちょっとびっくりした。考えてみれば、全校生徒、百八十人が、その中で生活をしているのだ。百八十人の、その一人ひとりが寝起きするだけのスペースが収められているのだから、校舎よりも大きいのは、当然といえば当然なのであった。
赤煉瓦《あかれんが》が主体の壁面は、所々に口を開けている窓を残して、二階から上の部分がびっしりと、蔦《つた》に覆われている。そのためによくは見えないのだが、石造りの柱状になった部分や窓枠の部分には、浮き彫りが施されているようだ。屋上を見上げると、玄関の真上にあたる部分が一段高くなっていて、さらにその上に吹き抜けの展望台のようなものがあり、塔のように先の尖った屋根が、四隅の柱に支えられて、天に向かって聳え立っているのが見えた。あるいはそれは鐘楼なのかもしれなかったが、吹き抜け部分の隙間から見える、天蓋の裏側には、鐘は吊されてはいなかった。
正門や校舎、あるいは途中にあった礼拝堂などと同じく、風格があり、歴史を感じさせる建物であった。
(私はこれから三年間、ここで暮らすんだ……)
優子はそうしてひとしきり、感慨に耽っていたが、椎奈はひるむことなく、サッサと玄関口から中に入って行った。その後に続こうとして、優子はふと足を停めた。入口脇の目立たないような場所に、煤けたような空き瓶が置かれており、そこに黄色い花が一輪、活《い》けてあるのに気付いたのだ。
(何のための花なのかしら……?)
見ているうちに、何とはなしに不吉な想像がかき立てられて、優子はかぶりを振り、椎奈の後を追った。
玄関口を入ると、古い建物の匂いが鼻をついた。中は活気があった。大勢の人がいる。ホールというのだろうか、広い空間に、荷物が山と積まれており、たくさんの少女たちがその間で、忙しげにたち働いている。彼女たちも新入生なのだろう。優子が乗り損ねた専用バスに乗って先に着き、そしてもう荷解きを始めているのだ。
(あ、試験の時に隣にいた子だ)
一人の少女と目が合い、曖昧な目礼を交わす。
ホールの中を見回すと、隅に受付のようになったコーナーがあった。覗いて見たが、中には誰もいない。その隣に『寮監室』というプレートのついたドアがあったので、優子は椎奈と話し合って、そのドアをノックしてみることにした。
「はい……。あら、新入生の方ね?」
出て来たのは、黒の尼僧服に身を包んだ女性であった。二十代の半ばぐらいだろうか。睫毛《まつげ》が長く、鼻の周りにそばかすの痕がある。
優子は慌てて挨拶をした。椎奈も横で同じように頭を下げる。頭を上げて、そして優子はハッとした。相手の女性が、自分の顔をじっと見詰めているような気がしたからだ。
(何? 私、何かした?)
ギュッと気道が締め付けられるような気持ち。
瞬間、相手の女性はスッと視線を落とし、優子の顔から目を逸《そ》らした。そしてやや慌てたように話し出した。
「……そう。バス停から歩いて来たのね。それはご苦労様。……私は相馬《そうま》って言います。シスター相馬と呼んでください。専用バスで先に来たみなさんは、御覧のとおりに、もうそれぞれの部屋に入って、荷物の片付けを始めています。あなたたちもすぐに始めてくれる? ええっと、ちょっと待ってて」
いったん中に戻り、出てくると優子たちにプリントを手渡した。
「これが部屋割り。何か分からない事はない?」
「いえ、大丈夫です」
優子たちはシスター相馬に礼を言った。シスターは部屋に戻る際に、またチラリと優子の方へと一瞥を投げた……ような気がした。
(何なの……?)
訳の分からない不安感が、胸のあたりにジリジリと湧き起こる。椎奈の様子を窺《うかが》うが、彼女は何も気付いていない様子で、受け取ったプリントを眺めている。
(気のせいだったのかしら)
優子は気を取り直し、椎奈に倣《なら》って、プリントに自分の名を探した。優子の部屋は二〇三号室であった。椎奈は二二六号室だという。
その同じプリントには、建物の平面図もついていた。それによると、寮は三つの棟が袖廊下で結ばれて、ちょうどカタカナの『ヨ』の字のような形をしている。三つの棟は上から、北棟、中央棟、南棟となっており、優子の二〇三号室はそのいちばん下の、南棟にあった。椎奈の部屋は北棟だという。後でまた会う約束をして、優子は椎奈とそこでいったん別れた。
荷物を運ぶ少女たちを避けながら、南棟の階段を昇り、廊下を進む。そうしていよいよ自分の部屋の前に立つと、優子はひとつ深呼吸をした。
シスターから貰ったプリントの、同じ二〇三号室の枠には、もうひとつの名前が書かれていた。
――青木《あおき》冴子《さえこ》。
実はこの寮では、一年生と二年生は相部屋にされているのであった。これからの一年間、優子はその青木冴子という二年生と、目の前のドアの向こうにある部屋で、生活を共にするのである。
(どんな人なのかしら……)
緊張しつつ、ドアをノックする。
「どうぞ」
中から返事があり、優子は恐るおそる、といった感じで、ドアを開けた。
部屋は十二畳ほどの広さがあり、左右対称の造りになっていた。左半分が優子のためのスペースなのだろう、造りつけの机、ベッド、棚、クローゼットといったものがあって、荷物はなにも無く、がらんとしている。対照的に右半分は賑《にぎ》やかであり、机の上から棚の中から、半開きのクローゼットの奥に至るまで、ぎっしりと物が詰まり、あふれていた。
そしてその右側のベッドには、女性がひとり腰掛けていて、優子の方を興味深げに眺めていた。
優子は慌てて挨拶をする。
「し、失礼します。私、坂本優子っていいます。よろしくお願いします」
「あたしは青木冴子。これから一年間、仲良くやりましょう。よろしくね」
上級生の少女はそう答えて、縁無し眼鏡の奥の、理知的な目を細めた。手足がすらりと長くて、ほっそりとした身体には、厚地のだぶだぶのTシャツとスウェットパンツといった、ラフな室内着を纏っている。
「坂本さん、あなた、可愛い格好してるね」
「あ、あの、……そうですか?」
優子は俯いた。からかわれたと思ったのだ。彼女自身は、いま身に着けているフォーマルな格好が、自分の子供っぽい体型には、全然似合っていないと思っている。
「なかなかいいよ。あなた、自分が子供っぽいと思ってない? すごく可愛いわよ」
「そ、そうですか」
初対面でいきなり可愛いなどと言われて、優子は困惑した。
(もしかして、その気がある人なのでは……?)
女子校で、しかもこうした寮住まいである。恋愛の対象を同性に向ける人がいても、おかしくはないのかもしれない。
考えているうちに、何だかドギマギして来てしまう。
「どうぞ入って。そのバッグ、置いたら?」
「あ、はい」
冴子に促されて、部屋に上がり、ベッドの脇にバッグを下ろす。そして、ふうと深呼吸をした時である。
(あ、何だろう。この香り……)
微かに鼻を掠《かす》めたのは、少し甘酸っぱいような、それでいてどこか懐かしいような、そんな何ともいえない微妙な香りであった。
「どうしたの? 何か匂う?」
鼻を鳴らしてしまったのだろうか。冴子にそう訊ねられて、優子はしまった、と臍《ほぞ》を噛《か》んだ。
優子が、自分の嗅覚が他人のそれよりも敏感であるという事に初めて気付いたのは、小学生の時であった。自分には感じられる匂いが、級友たちには分からないと言うのだ。母親に連れられて病院へ行き、検査を受けた結果、彼女は『嗅覚過敏症』と診断された。嗅覚が普通の人よりも数十倍も敏感にできているのだそうだ。
(この甘酸っぱいような香りもたぶん、他の人には分からないんだ……)
小学校の頃には、自分の方が他人よりも優れているのだと、むしろ自慢する気持ちの方が強かったのだが、今では自分が他人と異なっている事を恥じる気持ちの方が強い。
「あ、いえ、別に……」
慌てて、曖昧《あいまい》にそんなことを言って誤魔化す。
「あの、私、荷物、運んで来ます。ちょっとドタバタしちゃいますけど」
「いいよ、気にしないで。手伝ってあげようか」
「いえ、いいですいいです」
優子は恐縮して、慌てて手を振った。冴子は、優子が遠慮していると思ったのだろう、
「早く片付いてくれたほうが、あたしも落ち着くし」
と言って、結局彼女には、荷解きを手伝ってもらうことになった。がらんとしていた部屋の左半分が、次々に運び込まれる荷物で埋まってゆく。その箱が開けられ、衣類はクローゼットへ、小物は棚へと収められてゆき、そして横板が剥き出しだったベッドに布団が敷かれると、ようやくそこは生活空間らしくなった。優子のためのスペースである。
「片付いた?」
「もうちょっとです」
書籍の入った段ボール箱が最後に残されていた。真新しい教科書やノートを机上の本棚にしまい、文庫本などを棚に詰めて、最後に子供の頃から大事に使ってきた聖書を、机の上にそっと置く。
「終わりました」
そう言って顔を向けると、冴子は優子の手元をじっと見詰めていた。
「……坂本さん、あなたって、もしかしてクリスチャン?」
「え、ええ。そうですけど……」
それがどうしたのだろうと、訝しく思う。冴子はふいと目を逸らすと、
「ううん。何でもないの。ごめんね」
そう言う冴子の口調には、何かが隠されているような感じがあった。
(クリスチャンが、どうかしたのかしら……)
優子が納得していないのを感じたのだろう。冴子は改めて説明をした。
「うん。何かね、坂本さん。あなたを見てて、ある人のことを思い出しちゃったの。……あなた、何か感じが似てるのよ、その人に」
「はあ、そうですか」
優子は対応に困った。自分が誰かに似ていると言われても、優子自身がその人を知らなければ、感想の言いようが無い。
優子のそうした困惑には構わずに、冴子は続けた。
「そう。……で、その人も、クリスチャンだったの。あなたと同じように、ね」
クリスチャンだった……。だった、という過去形が使われている事に、優子は漠然とした不安を抱いた。
黙っている事に耐えられずに、優子は訊ねていた。
「どんな人だったんですか、その人……」
その優子の質問に、冴子は二、三度、目をパチクリさせると、片頬で微笑んだ。
「……ごめんね。やっぱりやめましょう、この話題」
そううやむやにされて、しかし優子はなぜか内心、ホッと安堵の溜息を吐いた。
午後になると、雨が降り始めた。
冴子は生徒会の用事があるとかで、さきほど部屋を出て行ってしまい、ひとり残された優子は頬杖《ほおづえ》をついて、ボンヤリと窓の外を眺めていた。
窓外の木々の色は、緑というよりも黒に近く、そぼ降る雨が、さらにその景色を濁ったものにしている。
雨音は籠もり、四方からその音だけが降り注いで、優子の心を濡らしていた。
(落ち着かない……)
何をしたらいいのだろうか。しかしそうした倦怠は、寮内放送によって破られた。
「これからオリエンテーションをするので、新入生の方々は、食堂に集まってください」
周りの部屋のドアが開け閉めされる音に促《うなが》されて、優子もようやく身体を動かし、廊下へと出た。他の少女たちの後を追って、階段を降りる。階下では、三方からわらわらと湧いて出た少女たちが、開け放たれたドアへと、列をなして吸い込まれて行く。
優子も列に並んで、食堂の中へと入った。微かに油の匂いがした。
テーブルが片隅に寄せられていて、その前に綺子がずらりと並べられていた。新入生たちはそこに順に座っている。優子は椎奈の姿を目で探した。その凜々しい顔はすぐに見つかったが、彼女はもう既に、他の少女たちに囲まれて席に着いていた。優子はしかたなく、流れに乗って、知らない少女の隣へと腰を下ろした。
優子たちと向かい合うようにして、テーブルがふたつ置かれている。そこには何人かの少女がいて、ホワイトボードを移動したりしている。察するに彼女たちは、生徒会の役員をしている上級生たちなのだろう。青木冴子もその中にいた。
やがて新入生たちの席は埋まり、役員たちも準備が整ったのか、優子たちと向かい合う形で着席した。横並びに八人。
優子はすぐに、その中央に座るひとりの女性に、目を惹かれた。
(綺麗《きれい》……)
面立ちが、整いすぎるぐらいに整っていた。描いたように細く濃い眉のすぐ下には、二重瞼《ふたえまぶた》の大きな目。鼻筋は通って気高く、唇は上品に微かな笑みをたたえている。皮膚はなめらかで、作り物のように黒子《ほくろ》ひとつ見当たらない。豊かな長い髪は黒絹を束ねたよう。全体に気品のようなものが感じられて、居並ぶ他の役員たちと比べても、そこだけ空気の色が違って見えた。
優子ばかりではなく、新入生の全員が、その女性の存在そのものに惹きつけられているのは確かであった。全員の注視の中、その女性は口を開いた。
「生徒会長の、朝倉《あさくら》麻里亜《まりあ》です」
ああ、やっぱり、と優子は思った。役員として居並ぶ少女たちの中で、彼女ひとりだけが明らかに違っている。人種からして違っている。その彼女が、自分を含む生徒たちの集団の頂点に位置しているという。それは彼女たちを見比べれば当然のことであり、逆にそうでなくてはならないことなのである。それが肯定されたのだ。優子のまわりに座る少女たちも、同じ気持ちだったのに違いない。憧憬《どうけい》とも何ともつかない吐息が、新入生たちの間で一斉に洩《も》れた。
またその喋り方も、そして声も、外見を裏切らない完璧なものであった。アナウンサーのように滑らかで、それでいて、母親が子供に話し掛ける時のような甘さがある。
(母親……そう。まるで聖母だわ。名前もマリア様と一緒だし)
そう思い付いた途端、目の前の生徒会長の姿は、優子の中で、聖書に登場する聖母の姿と重なった。
新入生たちの憧れの視線を浴びて、しかし全く臆することなく、生徒会長は、居並ぶ役員たちの紹介をした。そして軽く微笑んで、集まった新入生たちに向けてのメッセージを語り始めた。
「……まずはみなさん、御入学おめでとうございます。みなさんにとってこの純和は、全くの新しい環境であり、みなさんは今、そうしたことに対して、きっと多かれ少なかれ、何らかの形で不安を抱かれていることと思います。そして実際、これからのこの純和での生活の中で、戸惑われること、勝手が違うと思われるようなことが、最初は多々あるかと思われます。
特にこの寮での生活、ですね。……私たちの世代だと、こうした共同生活を送るというのは、たぶん、生まれて初めての経験になることと思います。起きてから寝るまでの間、四六時中を、常に誰かと一緒に過ごす……特に一、二年生の間は、相部屋ですからね。プライバシーの問題ひとつを取っても、果たしてうまくやっていけるのか。……さぞかし不安を抱かれている方も多いかと思われます。そう、私自身も二年前、入学したばかりの時には、そうでしたから。
でも、そうした不安は、すぐに消えて無くなると思います。全校生徒で百八十人。この純和では、上級生も下級生もなく、その全員が仲間なのです。みなさん一人ひとりにとって、今この寮にいる、あなた以外の百七十九人の全てが、みんなあなたの仲間なのです。私たち上級生は、みなさんを心から、仲間として迎え入れたいと思っています」
優子は息を飲んで、その言葉の一片たりとも聞き逃すまいと、耳を傾けた。その聴衆に、麻里亜は慈愛に満ちた表情を変えずに、さらに語りかける。
「……最後に、生徒会について説明をしておきたいと思います。寮では様々な規則が設けられています。でもそれは、けっして学院側から押しつけられたものではありません。そうした共同生活を、どうしたら楽しく送る事ができるか、それを私たち自身が真剣に考えて、そして自主的に作り上げてきたものなのです。この純和では、校則にしても寮規にしても、全ては生徒自身が決めて行くという、そうした自主の精神が、伝統としてあるのです。……私はそれを、この学院で一番に誇るべき事だと思っています。
そしてそれを決定し、運営して行く組織が、生徒会なのです。私は今たまたま、その会の役員をやらせていただいているわけですが、生徒会を構成しているのは、役員だけではありません。みなさんも含めた、生徒全員が、その会員であり、構成員なのです。だから校則や寮規、あるいはちょっとしたトラブルなど、何かしらの問題がありましたら、全てはまずその生徒会の方に、報告していただけたらと思います。
みなさんの、私たちの生活の場なのです。みなさんの、私たち自身の手で、それを作り上げて行きましょう。みなさんと一日でも早く、仲間としての関係を、作り上げて行きたいと、私は今、そう願っています。みなさん、よろしくお願いします」
そして、たおやかな一礼。優子たちは椅子に座ったまま、深々と礼を返した。
場は息が詰まるほど、しんと静まり返っている。そうした中、優子の心の内だけが、熱く燃えていた。
(こんな人が、この世の中には居るんだ……)
とても自分と同じ人間、自分と同じ女性だとは思えない。優子はまた、憧れの吐息を洩らした。
(この感じは……そう、ファンの心理ね)
優子は自分の中に生まれた、朝倉麻里亜に対する感情を、そう分析していた。誰をも魅了してしまう、そんなカリスマ性を持って生まれてくる人間が、稀にいる。そして朝倉麻里亜は、優子にとっては、確実にそうした中のひとりであった。
(オーラが見えるみたい)
その麻里亜と代わって、今度はその隣に座る少女が話し始めた。
「副会長の沖野《おきの》琴美《ことみ》です」
麻里亜と並んでいるために霞《かす》んで見えるが、彼女も十人並み以上の容貌を持っていた。いや、それは居並ぶ他の役員たちも同様で、みんなかなりの美形揃いである。
(人の上に立つには、容貌も関係するってことね)
女同士ならではの価値観というものがある。こと女子校においては、そうしたものなのだろう。
沖野琴美は、寮内の規則などの説明をした後、一、二年生が二人部屋であることの意味について、説明をし始めた。
この寮では四六時中、常に誰かと一緒にいることになる。プライバシーが保てない。何かあった時に自分ひとりで逃げ込む場所がない。……そうしたことが逆に、何かあった時に、問題に立ち向かわせる積極性を生む。必然的に誰かと相談し、話し合って問題を解決する方向へと向かわせる。……
「そして、そうした共同生活に不慣れで、まごつくであろう、あなたたち一年生を、マンツーマンで指導するのが、同室の二年生の役割なのですね。だからこの学院では、同室の一年生と二年生の関係は、よく姉妹の関係に譬《たと》えられます」
(姉妹……)
優子はチラリと正面に並ぶ役員たちのひとり、青木冴子の顔を見て、そして慌てて視線を逸らした。
同室の二人は姉妹……。
(青木さんが、私のお姉さん……)
どこかピンと来ない話に思える。優子は一人っ子であり、今まで生きてきた十五年の間には、もし私にお姉さんがいたらなどと空想をした事もあったが、いざ現実にこうして冴子と共同生活を送る事となり、さあこの人がお姉さんですよと言われても、それはどこか違うという気がしてしまう。
あるいはそれは、初対面の折りに冴子が見せた、あの妙な振る舞いのせいだったのかもしれないのだが。
「……みなさんにとって、同室の二年生がお姉さんです。みなさんは妹。それが一年経って、みなさんが二年生になったら、今度はみなさんがお姉さんとなって、また新しく入って来た一年生たちに、色々と教えてあげるわけです。そうして、教えられる側と、教える側と、二年で二通りの役割を果たすことによって、人間的にも成長するという訳ですね。……それで三年生になると、二年間ご苦労様って事で、やっと個室になります。……本当は受験勉強のためなのですけどね」
副会長はそこで微笑んだ。気分を和らげようとしたのだろう。しかし優子に限っては、『姉妹』という言葉が、いまだ心に重くのしかかったままであった。
「とにかく、この方法の良い点として、同じ学年、同じクラスの、横の繋がりだけではなく、学年を越えた上下の関係もできるという点があげられると思います。まず各部屋で、新入生はそれぞれのお姉さんを持ちます。それだけではなく、二年生が他の部屋の二年生の所に遊びに行けば、その部屋の一年生とも仲良くなれるし、逆にあなたたち一年生も、友達の部屋に遊びに行けば、そこにいる二年生と親しく接する機会が生まれる。……ね。そうしてこの学院の生徒全員が、みんな仲間になっていくという訳です」
「すみませーん」
突然、優子の斜め前に座っている少女が手を挙げた。
「はい、何でしょう?」
「あの、私、三一三号室の深沢《ふかざわ》っていうんですけど……」
「ああ、はいはい三一三号室ね」
沖野琴美にはそれだけで通じたようであった。
「えーっと、深沢まなみさん?」
「あ、はい。そうです」
名前まで呼ばれて、少女は恐縮した様子だ。琴美はウンウンと頷いた。
「そうね。実は二年生がひとり……退寮したので、あなたの部屋だけは一人部屋なのよね」
新入生たちの間から、微かなざわめきが起きる。
(退寮って……退学とかしたのかしら。それとも……)
優子は不安になる。玄関脇に活けられていた、花。
「一人部屋なんて、いいわね」
背後で誰かがそう囁《ささや》いている声が聞こえた。
「ええっと、深沢さんの場合には、お隣の、三一二号室の三浦さんっていう二年生が、面倒を見てくれることになっています。……三一二号室の方は?」
はい、と別な少女が手を挙げる。
「じゃあ、あなたたちの場合には、二人揃って三浦さんの妹ということで、面倒を見てもらいますから。喧嘩《けんか》とかしちゃダメよ」
琴美がおどけた口調で言い、新入生たちの間から軽い笑いが洩れた。
「では……連絡事項は以上ですよね、麻里亜さま」
「琴美さん、あとひとつ。……私の方から」
そのやりとりを聞いて、優子は面食らった。先ほどの役員紹介では、副会長の沖野琴美は会長の朝倉麻里亜と同じ、三年生であると紹介されていたのである。
(麻里亜さま? 同級生から「さま」づけで呼ばれているの?)
しかしそれが麻里亜だと、さもありなんと思わされてしまう。
ふたたび麻里亜が、優子たちに向かって話し始める。
「この純和はご存じのように、ミッションスクールです。といっても、クリスチャンの生徒の数は少ないのですけれどもね。……ちなみに、みなさんの中には、どれぐらいいるのかしら。クリスチャンの方、ちょっと手を挙げてみて」
優子は、恐るおそるといった感じで手を挙げた。そうしてあたりをキョロキョロと見回す。挙がった手の数は四つか五つといったところだった。
(高橋さんは……?)
椎奈は手を挙げてはいなかった。……クリスチャンじゃないんだ。
「やはり少ないですね。はい、ありがとう。……でも、ガッカリしないでね。実は私もクリスチャンです。一緒にがんばりましょうね」
麻里亜はそれから、修道女たちによって毎朝夕に行われている、朝課夕課と呼ばれる礼拝儀式と、毎日曜日に行われている昼ミサについての説明をした。生徒の参加は任意である。もちろん信者だけでなく、一般生徒も参加は可能である。……
優子は、信者の生徒数が思ったより少なかったので、いささか失望していたのだが、それでも麻里亜が信者であるという事を聞くに及んで、それもさほどの事とも思われなくなった。
(よーし。麻里亜さまと一緒に、私もがんばろう)
そうして意気込んで顔を上げると、麻里亜の視線とぶつかった。
(麻里亜さまが私を見てる?)
限りなく優しい聖母の目が、じっと自分を見詰めている……。そんな気がして、優子は思わず顔を伏せてしまった。
(そんなはず無いわ。私って、自意識過剰なんだから……)
心臓の鼓動が速くなり、血が昇って頬が染まるのが自分で分かった。
その後、新入生同士の自己紹介などがあり、オリエンテーションが終わった時には、もう既に宵の頃となってしまっていた。
部屋に戻ると、オリエンテーションで説明のあった通り、冴子はいちおう、優子の姉的な役割を果たした。
寮生活についての具体的なあれこれを、優子に教える。そしてその実践。食堂へと優子を連れて行って、セルフサービスの仕組みを教えながら一緒に夕食をとり、そして今度はお風呂へと連れて行く。寮内のあちこちで、同様に少女たちが二人連れで行動している姿が見られた。
お風呂に入るときには、実は優子はかなり躊躇《ちゅうちょ》した。脱衣所はかなりの混雑で、平気で裸になって浴場に入って行くのは上級生、一方で頬を染め、不安げにあたりを窺《うかが》っているのは、優子と同じ新入生だろう。一緒に行った冴子が、何のためらいもなく服を脱いで入って行くのを見て、優子も思い切って服を脱ぐ。
(見ないで……)
脱衣中の少女たち、湯上がりの少女たち、それぞれの視線がいっせいに、自分の貧弱な身体へと注がれているような気がして、優子は身の縮む思いがした。しかし実際には、他の少女たちはみな、それぞれに自分のなすべきことをしているだけであった。
(誰も私のことなんか見てないって……)
浴場に入ると、湯気が視界を濁らせていて、他の少女たちの白い裸身も、ぼんやりと輪郭を滲ませていたので、優子はひとまずホッとした。建物の古さのわりには設備も整い、清潔な内装ではあったが、微かな黴臭《かびくさ》さ、それと水のカルキ臭が鼻をついた。
空いたカランの前に座って湯を費《つか》いながら、優子はあらためて、自分の身体へと視線を落とす。とてもこれで高校生になったとは思えない、子供のようなこの身体。あばらの浮いた胸には小さな膨《ふく》らみ、いっこうに肉のつかない両股、細い上腕。鏡を見る。手で湯気を拭いた銀面に現れるのは、これも小学生のような顔だ。一重の小さな目、低い鼻、厚みのない小さな唇、短く切り揃えられた髪。たらたらと鏡面を伝う雫《しずく》が、その顔を歪ませる。
高い天井に、水音と、そしてときおりカコーンと洗面器のたてる音が響き渡る。湯気の濃い奥の浴槽のあたりでは、キャッキャッと少女たちのはしゃぐ声がしている。自分の身体が笑われているような不安。自意識過剰だといくら言い聞かせたところで、それはけっして拭い去ることのできない思いであった。
この恥辱《ちじょく》に、これから慣れてゆくことができるのだろうか。
優子は早々に入浴を切り上げた。
部屋に戻ると、消灯の十時まで、わりと長い自由時間が残されていた。テレビもラジカセも無いとなると、さてどうして過ごしたものか。遅れて部屋に戻り、今はドライヤーで髪を乾かしている冴子の後ろ姿へと、優子は思い切って声を掛けた。
「あの……冴子さん。みなさんはいつも、こうした時間をどのように過ごしているのでしょうか?」
ドライヤーのたてる音が止まり、冴子が振り返る。
「ひとそれぞれよ。……図書室から借りてきた本を読む子もいれば、お喋りに興じてる子たちもいる」
「……青木さんは、普段はどうやって過ごしているんですか?」
もうひとつ、そう思い切って訊ねてみると、冴子はそうねえ、と小首を傾げた。
「去年までは、麻里亜さん……生徒会長と同室だったから、ここでずっと消灯時間まで、生徒会のあれこれについて、話してるっていうのが、多かったんだけどね」
「えっ。あのマリ……朝倉さんが、青木さんのルームメイトだったんですか。あの方がこの部屋で……」
「そうよ。あなたが使ってる、その机もベッドも棚も、先月までは、麻里亜さんが使われてたものよ」
そう聞かされて、優子は自分の腰掛けているベッドの辺りを見回した。
(あの麻里亜さまが、ちょっと前までは、このベッドを使っていたんだ……)
何だか、僭越《せんえつ》な気持ちになる。
「……さて、と。じゃあ私は、ちょっとその辺を、散歩でもしてこようかな」
髪を掻き上げ、冴子がそう言って立ち上がる。
「あ、じゃあ私も……」
優子がそう言いかけるのを制して、
「よしなって。お互いに初日でしょ。あなたもちょっとぐらいは、一人で気楽に過ごす時間、欲しいんじゃない?」
そう言い置いて、部屋を出ていった。
(私が付き纏って、うるさかったんだ。どうしてそれに気づかなかったんだろう。……私の方が出て行けばよかったんだ)
優子はそう思い、少し落ち込んだ気分になった。
しんと静まり返った部屋に、外の雨の音がひそやかに忍び込んでくる。
(何をしたらいいのかしら……)
部屋にはテレビもラジカセも無い。そうしてぽっかりと空いた時間を、どうやって過ごしたら良いのか、そんな事さえ、今の優子には分からないのであった。
(そういえば、談話室とかいう所に、テレビが置いてあるって言ってたけど……)
階段脇のスペースを思い起こす。しかしそこはきっと、もう既に、他の少女たちによって占領されてしまっているに違いない。
優子は夕方の自己紹介の時のことを思い出す。他の少女たちは自分の順番が来ると立ち上がり、ニコニコと愛嬌《あいきょう》を振りまきながら、落ち着いた様子で自己紹介をした。冗談を言えば、周りの少女たちが反応する。そうしたやりとりのできる関係が、先に寮に着いた少女たちの間では、もう既に結ばれていたのだ。やがて優子の順番が来る。立ち上がった途端に、前の少女が最後に言ったシャレに対しての野次が飛び、それが優子を萎縮《いしゅく》させた。うわずった声で早口に名前を言っただけで、すぐに着席してしまう。それだけで心臓がドキドキしていた。
遅れて寮に着いた自分は、同級生たちの仲間の輪から、もう既に外れてしまっている、と優子はその時に思ったのだ。
どうしたら、彼女たちの仲間に入れてもらえるのだろうか。談話室に行って、そこに集まっている少女たちに、どうやって声を掛けたら良いのだろうか。
色々と考えているうちに、気持ちは計り知れなく落ち込んで行く。
(そうだ。高橋さんの部屋に行こうか……)
山道で一緒になった少女、高橋椎奈。彼女とならば、きっと話もできるに違いない。
(でも、そこにも、彼女のルームメイトが……私の知らない二年生が、きっといる……)
考えているうちに、溜息《ためいき》ばかりが胸をつく。
そこに、ノックの音がした。
はい、と答えながら腰を浮かし、部屋を横切って、沓脱ぎに片足をついてドアを開ける。すると、
(うそ……)
そこに、朝倉麻里亜がいた。
「あら、こんばんは。……青木さんは?」
「あ、あの……今、さっき、ちょっとその辺をぶらぶらして来るって……」
思わず答えが、しどろもどろになる。間近に見る麻里亜の美しさは、優子には神々しいまでに感じられた。魂まで惹き込まれそうな感じになる。
(あ……この匂い)
甘酸っぱいような、それでいてどこか懐かしいような、何とも言えない良い香りが、微かに面前の麻里亜の方から、漂って来る。
(これはきっと、麻里亜さんのオーラの匂いなんだ)
一種の体臭のようなものなのであろうが、体臭という表現は、麻里亜の容貌にも、そして漂ってくるその香りにも、あまりに似つかわしくない。陶酔を誘うようなそれは、実に甘く、そして淡い香りである。通常の嗅覚の持ち主だと、おそらくそれは感じ取れないだろう。
(そうか。昼間感じ取ったあれは、先月までここで過ごしていたこの人の、残り香だったんだ)
自分の持つ淡い香りが、眼前の幼い外見の少女に嗅ぎ当てられているなどとは、夢にも思っていないであろう麻里亜は、
「……そう、だったらいいわ」
ニッコリと微笑み、そして言葉を継いだ。
「で、どう? 寮生活の初日は。緊張した? ……坂本さん」
唐突に名前を呼ばれて、優子は、心臓が頭に昇ったような心持ちになった。
(麻里亜さまが、麻里亜さまが私の名前を、どうして……)
首から上の血管がドクドクと脈打っている。そこで不意に気付いた。ドアのすぐ外にはネームプレートがあり、そこには優子の名前も書いてある。麻里亜はただ単に、ドアを開ける前にそれをチラリと見て、たまたま優子の名前を憶えていて、そして今それを口にしただけにすぎないのだ。
(それはそうよ。当然じゃない。いくら生徒会長さんだからって、六十人もいる新入生の顔と名前を、そう簡単に憶えられるわけもないじゃない)
憧れの相手が自分の名前を知っていてくれたのだと、馬鹿な勘違いをしてしまった。それを相手に覚られるのではないかという思いに、またしても頭の中がカッと熱くなり、全身の肌に汗が噴き出した。
「あ、はい。おかげさまで……」
相変わらず、しどろもどろな応対をしてしまう。相手の視線が痛い。恐るおそるといった感じで表情を窺うと、麻里亜の顔はふと、何かに気付いたといったふうに輝いた。
「あなた……さっき食堂で、クリスチャンの時に手を挙げた?」
「あ、はい」
優子はその時、もう興奮で、身体が震えだしそうなほどであった。
(憶えていてくださったんだ。私のこと……私が手を挙げたのを)
オリエンテーションが終わるときに感じた視線を思い出す。
「で、どうかしら? 私たちと一緒に、ご祈祷《きとう》とかに参加する気は?」
「あ、はい。も、もちろん、あります。あります。はい。そのつもりです」
勢い込んでそう答えると、
「そう……」
麻里亜は満足げに、ニッコリと微笑んだ。それはまさしく、聖母の微笑みであった。優子は眼の前の相手に対する憧憬の想いに溢れ、もうそれを制御することさえもできなくなっていた。
しかし優子のその有頂天《うちょうてん》は、長くは続かなかった。麻里亜は優子の顔を見詰めたまま、ふと顔を曇らせると、こう言い添えたのだ。
「坂本さん、あなた……やっぱり似てるわね」
「え……」
キシキシと空間が歪みだす。
(また……)
麻里亜は曖昧な笑顔を浮かべ、
「ううん。ごめんなさい。何でもないの。……それじゃあね。もっとリラックスしてね、坂本さん」
微笑みを残して、ドアは閉ざされた。その風圧に、ふわりとまた、甘酸っぱい香りが優子の鼻先をくすぐる。
気がつけば、破裂しそうなくらいに、心臓がドキドキと高鳴っていた。
消灯時間の間際になって、冴子は戻って来た。
「あ、青木さん。……さきほど、生徒会長さんが」
「麻里亜さんが? ……そう、分かった。ありがとう」
そして十時になる。明りを落とし、ベッドに潜り込む。
暗い部屋の中、布団に包まれて、優子はなかなか寝付くことができなかった。時にザアザアと激しくなる、外の雨の音だけが、しんと静まり返った部屋の中に響いている。
まだ馴染みのない部屋。そしてその同じ部屋に、他人が一緒にいるという状況。……身体は疲れ切っているものの、そうした要因が、優子の眠りを阻んでいた。そうして優子は寝付かれないまま、その長かった一日のあれこれについて、思いを巡らせていた。
朝早くに家を出る時の、両親の顔。電車の乗り換えを間違えたことに気付いた時の、あの思い。集合場所に送迎バスがいないことを確認した時の、あの落胆。
椎奈との出会い。玄関の花。シスター相馬。たくさんの少女たち。みんなが自分を見て笑っているかのような強迫観念。みんなが私に似ているという、誰かのこと(誰なの?)。そして今、この同じ部屋の中で、眠りに就こうとしているはずの、青木冴子。
そして麻里亜さま。彼女の、あの淡く芳しい香り……。それはこの部屋に漂う夜気の中にも混じって、今もかすかに嗅ぐことができる。
……そうして、その甘酸っぱい香りに包まれて、いつの間にか寝入ってしまっていたものらしい。
気がつけば、部屋の中は依然、真っ暗なままであった。雨の音はいまだ、ザアザアと夜を支配している。その雨音とは別な何かの物音に、浅い眠りが破られたという、そんな記憶があった。首から上だけを巡らして、部屋の中の様子を探る。夜目が利いて、闇に幽かに、物の輪郭だけが見て取れる。
(冴子さんが……いない?)
部屋の反対側にあるベッドは、もぬけのからであった。めくれた掛け布団が、部屋の闇にぼうっと白く浮かんでいる。
(トイレかしら……?)
一旦冴えてしまった頭に、眠りはなかなか訪れようとはしなかった。耳には、夜をまるごと包み込もうかという雨の音。
暗闇の中、じっと布団にくるまって、眠りの訪れるのと、そして冴子が戻って来るのとを、ただひたすらに待ち続ける。
溜息を何度吐き、寝返りを何度繰り返したことだろうか。時間の感覚はもはや定かではなかった。それでも十分や二十分ということはないだろう。下手をすればもう既に一、二時間は経ったかという頃になって、ようやく外の廊下に微かな気配が訪れ、優子は闇の中で身を堅くした。
ドアが開く。
闇に切り抜かれた光の矩形。その中を黒い影が動いて――
優子は目を瞑《つむ》った。パタリとドアの閉じる音。呼吸を鎮め、寝息に聞こえるようにと、そのことにのみ意識を集中させる。ゆっくりと、息を吸っては、吐く。
床の軋み。その人物が部屋の中央に立ち、息を殺して、じっと自分を見詰めているのが感じられる。……吸う。……吐く。時間はジリジリと、その歩みを遅らせる。
やがて床を微かに軋ませながら、気配はゆっくりと部屋の反対側へと向かった。そしてベッドに潜り込む音。
雨の夜は、まだ長大な時間を残していた。
(……どこへ行ってたのかしら)
眠れない優子の胸の中で、その疑念は朝まで、嫌というほど繰り返された。
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二章 散 華
早朝の透明な空気を震わせて、少女たちの斉唱する賛美歌が、礼拝堂の高い天井に谺《こだま》していた。
祭壇に立って信徒たちをリードしているのは、学院長のマザー江田《えだ》である。オルガンを弾いているのは、シスター広瀬《ひろせ》。他のシスターたちは、生徒たちに混じって信徒席に着き、そしてコーラスに加わっている。
少女たちの歌声は最後に、神を讃えるフレーズを繰り返した。シスター広瀬のオルガンが和音を引きずる。そして全ての音はフッと中空にかき消えて、堂内に静謐が戻った。
毎朝繰り返される儀式。
それはいつもの、朝課の式次第であった。やがてマザー江田の訓話が始まる。
「今日は有名な『山上の説教』についてお話しします。マタイの第五章……」
信徒席の修道女や生徒たちがいっせいに、各自の聖書のページを繰る。
坂本優子も自分の聖書を繙《ひもと》きながら、チラリと堂内を見渡した。
漆喰《しっくい》の剥げかかった壁に四方を囲まれて、薄暗い堂内を照らすのは、鐘楼の隙間から洩れ入る淡い光と、祭壇で揺らぐ蝋燭《ろうそく》の炎。祭壇の背後の高処では、磔《はりつけ》にされた等身大のキリスト像が、淡い光に白磁の肌を晒している。
鼻孔をくすぐるのは、古い建物に特有の、すえたような匂い。
優子は信徒席の片隅で、五感を包むそうした厳かな雰囲気に、身を委ねていた。
(ここには神聖さがある。私の居場所がある。そして仲間がいる……)
入学して五日目。新しい学院での生活、しかも寮での共同生活という環境の変化に、最初は戸惑いを見せていた優子も、徐々に、そうした生活に馴れつつあった。あの入寮初日の夜、生徒会長の朝倉麻里亜から直々に誘われた朝課夕課にも、こうして欠かさず出席している。そうして信仰活動を続けている内に、親しい友人もできていた。今、優子の隣で聖書を黙読している少女、藤井《ふじい》沙織《さおり》もそのうちのひとりであった。
クリスチャンの生徒たちは、学院内では『信仰組』と呼ばれていた。その数は少なく、わずか二十人に満たない程度であった。そしてそれゆえに、信仰組の生徒たちはお互い、ある種の連帯感のようなもので結ばれていた。優子たち一一HRのクラスでは、信仰組の生徒は優子と沙織の二人だけであり、したがって自然と、二人は仲良しになったのである。
少女たちの座る席はいつも決まっていた。朝倉麻里亜はシスターたちのすぐ後ろ、前列の中央に座る。三年生の信徒たちはそれを囲むようにして座り、二年生たちはまたその後ろに座る。そして優子たち新入生は、中央通路を挟んで、一二HRの三人が左側、そして優子と沙織の二人が右側と、後列で分かれて座るというのが、ここ数日のあいだに自然と出来た秩序なのであった。
壇上ではマザーの訓話が続いている。しかし優子の視線は、信徒席の前列に座る朝倉麻里亜の後ろ姿へと向けられていた。
(麻里亜さま……)
あのオリエンテーション以来、『麻里亜さま』に関する情報は、新入生たち全員の間での、重要な関心事となっていた。曰く、誕生日は何月何日だそうだ。成績は学年でトップだそうだ。甘いものが好きだそうだ。五十メートル走で記録を残しているそうだ。云々、云々……。
まるでアイドルである。いや、純和という閉鎖空間において、麻里亜は事実、少女たちのアイドルであった。そして新入生の全員が、麻里亜のファンなのであった。いや、そればかりか、二年生も、あるいは同学年である三年生たちも……要するに学院の生徒の全員が、麻里亜のファンなのであった。
優子ももちろん、そうした麻里亜ファンのひとりであった。それもたぶん、熱狂的な部類に入る。同性に憧れを持つということが恥ずかしくて、他人にはなるべくそれと気付かれないように装ってはいたが、麻里亜に対する憧れの気持ちは、誰よりも強いだろうと、自分ではそう思っている。
(私に無いものを、麻里亜さまは全て持っている……)
そばに居るというだけで、ドキドキしてしまう。遠くから姿を眺めているだけで、陶然とさせられてしまう。……
麻里亜の後ろ姿を眺めているうちに、優子はボンヤリとしてしまっていたようだ。マザーの訓話がいつの間にか終わっていることに気付いて、慌てて他の少女たちに倣い、聖書を閉じる。
朝課は最後に、主祷文の斉唱で終わる。
[#ここから2字下げ]
天にましますわれらの父よ
願わくは 御名の尊まれんことを
……
[#ここで字下げ終わり]
マザーの訓話のほとんどを聞き逃したことに、罪の意識を感じて、優子はつとめて主祷文の斉唱に意識を集中させた。
[#ここから2字下げ]
……
われらを悪より救いたまえ
アーメン
[#ここで字下げ終わり]
シスターたちの後片付けを手伝って、外に出ると、朝日が昇っていた。
「優子ちゃん、何か、ボンヤリしてなかった?」
寮へと続く小径を並んで歩きながら、さっそく沙織にそう指摘されてしまう。
「うん。何かねえ……」
「また寝不足?」
沙織が『また』と言うのは、優子が以前、彼女に、自分が入寮初日の夜、ほとんど眠れなかったという話をした事があったからである。その原因は同室の二年生、青木冴子の、不審な夜間外出にあったのだが、さすがにそこまでは話していない。
「ううん、大丈夫。……ありがとう」
冴子の不審な行動はその後見られず、また同じ部屋に二人で寝るという事態にもようやく慣れて、優子はここ数日は、充分に睡眠をとることができるようになっていた。
鳥の囀《さえず》り交《か》わす声が聞こえる。朝の小径は喬木《きょうぼく》の緑に頭上を覆《おお》われて、トンネルのようになっている。その小径を抜け、寮の玄関口まで来ると、優子の視線は吸い付けられるように一点へと注がれた。
玄関脇の目立たないところに飾られている、花。今日は白い花が活けられている。入学以来、優子はそれとなく、その玄関脇の空き瓶に活けられた花に注意を向けていたのだが、それはほとんど毎日のように、挿し替えられていた。
(他の子たちは、あの花に気付いているのかしら……)
ゴクリと唾を飲み込む。
「ねえ、沙織ちゃん。あの花、何だか知ってる?」
「え、花……? ああ、ホントだ。ヘンなの。何だろうね」
優子が言うまで、沙織はその花の存在にさえ、気付いていなかったものらしい。沙織はうーん、と一瞬考えてから、
「誰か死んだんじゃない?」
ズバリとそう言われて、優子はギョッとして、沙織の顔を振り向いた。そして相手の視線を追い、寮の屋上を見上げる。
蔦の絡まる壁面のずっと上、塔と呼ばれている構造物の吹き抜けの部分が目に入る。次いで地上の献花へと視線を落とす。
その視線の動きにあわせて、想像の中で、何かが空を切って落ちるヴィジョンが見えた。その何かは人の姿をしていた。……
「行こうよ、優子ちゃん。朝御飯の時間だよ」
その沙織のひと言で、優子は自分を取り戻し、そしてフウッとひとつ息を吐いた。
優子はその放課後、寮に戻るとさっそく、高橋椎奈の居室である、北棟の二二六号室を訪ねていた。
「シイちゃん。遊びに来たんだけど、いい?」
「ああ、優子。ちょうど良かった。今さやかさんと面白い話をしてたんだけどね……」
椎奈はそう言いながら、優子を部屋の中へと招じ入れた。
入学以来、一週間が過ぎていた。新入生たちの間ではお互いの品定めが行われ、それぞれの仲良しグループが結成されつつあった。
椎奈は、純和の新入生の中でも、特に目立つ少女であった。美形という言葉がまさにピッタリな容貌をしている。女子校という閉鎖空間においては、それだけで、少女たちの力関係に多大な影響力を持つ。椎奈がその気になれば、彼女は純和の一年生の、中心的な人物にもなり得たのであった。
しかし彼女は、特に周囲に愛想をふりまくようなことはしなかった。優子の目から見ても、椎奈はいつでも自分のペースで物事をこなしていた。隠微《いんび》な力関係ゆえに彼女に近付こうとした少女たちはみな、その心の垣根を越えることができず、その腹いせにだろうか、彼女を、取っ付きにくい少女だとか、何を考えているのか分からないなどと評していた。
それが優子に対する時だけは、椎奈はその心の垣根を内側から外してくれるのだった。クラスは生憎と別れてしまったのだが、入寮の日のあのバス停での出会いからずっと、優子はそうして、椎奈と仲良しの関係を続けられていたのであった。
話し言葉も友達らしく、初対面の頃に比べるとぐっと砕けたものになっていた。お互いの呼称も、優子は椎奈のことを『シイちゃん』と呼ぶようになっていたし、一方の椎奈は優子のことを呼び捨てにするようになっていた。
「あら、優子ちゃん。いらっしゃい」
部屋の中には、もうひとりの人物がいた。読んでいた本から顔を上げ、微笑みを浮かべてそう迎えてくれたのは、椎奈のルームメイト、桜井《さくらい》さやかである。
彼女に対して、優子は初対面の時以来、ずっと『いいひと』という印象を持ち続けていた。大柄で肉付きが良く、豊かな髪に縁取られた顔は、いつも優しく微笑んでいる。
椎奈とさやか。この二人と一緒にいるのは、とても居心地が良い。優子は近頃では、自室で過ごすよりも、この二二六号室で過ごす時間のほうが多くなっていた。上級生たちの過去のエピソードや、明文化されていない寮内のしきたり、あるいは学院の今後のイベントについてなど、本来なら自分の姉たる青木冴子から聞くべき内容の話も、優子はこの部屋で仕入れていた。
その日の放課後も、いつものように他愛の無い話が、三人の間で交わされていた。
話の主導権を握るのは、主に優子と椎奈の二人であった。さやかも話を振られれば、ニコニコと笑いながら話をしてくれるのだが、そうでない限りは聞き役に徹している。おそらくは若い二人を主役と考えて、その邪魔をしないようにと、気を遣ってくれているのだろう。優子はそう思っている。
床の中央に敷かれたカーペットに、頭を寄せ合うようにして、腹這いになる。この部屋でお喋りを楽しむときの、いつもの姿勢である。そうして寛《くつろ》いだ姿勢で、三人が今、覗き込んでいるのは、寮の部屋割り表であった。まだ顔と名前が一致していない生徒が大勢いる。その欠けた情報を、お互いの知識で補い合うのである。
「……この鈴木《すずき》裕乃《ひろの》って子は、優子のクラスだよね」
椎奈がそう言って、表の中程にある名前を指差す。
「あ、うん。そう」
クラスの写真がまだ無いので、レポート用紙に似顔絵を描いて説明する。
「ああ、あの子ね。……うん。この髪型で、何となく分かった」
椎奈が何度も頷く。優子の描いた絵を見て、さやかは笑いを堪えている。
(しょうがないじゃない。だって私、絵、下手なんだもん……)
優子はぷうと頬を膨《ふく》らます。
椎奈もさやかも、絵は上手だった。二人の手によって、レポート用紙にはさらにいくつかの似顔絵が描き加えられてゆく。そのうちにそれは、出題者が似顔絵を描いては、残りの二人がそれが誰なのかを当てるという、ゲームへと変わっていた。
やがてそれにも飽きて、話題はいつしか、二年生と三年生の姉妹関係へと及んでいた。椎奈にはさやかが、あるいは優子には青木冴子が姉役として存在しているように、現在の二年生と三年生の間にもそれぞれ、疑似姉妹の関係がある。誰と誰が姉妹の関係で結ばれているのか……寮内の人間関係を把握するためには、その隠された繋がりを知っておく必要がある……というのである。
さやかが二〇一号室から順に説明をし始めたところで、椎奈が指を鳴らした。
「あ、さやかさん。もしかして、去年の部屋割り表、あるんじゃないですか」
「あ、そうか。そうよねえ。確かにそれを見れば、一目瞭然だわ」
立ち上がって机の抽出を開け、ひとしきりゴソゴソとやった後、さやかは黄ばんだ一枚のプリントを持って戻って来た……と思うと、
「あ、ごめんなさい。これは部屋替えの前のやつだわ」
そう言ってまた机に引き返し、今度は別なプリントを広げて、元通り腹這いの姿勢になる。
「部屋替えって……」
足をぶらぶらさせながら、優子がそう訊ねると、さやかは、うんとひとつ頷いて、説明をする。
「最初の部屋割りって、テキトーに決めたものじゃない。それだとどうしても、性格が合わないっていう子同士の部屋ができちゃうのよね。それで毎年、四月の終わりぐらいに、新入生たちの性格なんかが分かって来たところで、もっとより良い組み合わせにしようっていうんで、部屋替えが行われるの。たぶん今年もあると思うけど……」
優子はチラリと、青木冴子のことを思い浮かべた。
「あ、ウソ。これ、優子の部屋、麻里亜さまの名前があるじゃん」
椎奈がさっそくプリントを覗き込んで、目を丸くしている。
「あれ、私、シイちゃんに言わなかったっけ?」
優子もプリントを覗き込む。そして瞬間、視線は一点に惹きつけられていた。
椎奈が「ズルイ、優子」とか何とか言っている声も、耳から耳へと抜けて行く。
三一三号室。今現在、深沢まなみが一人で使っている部屋。その枠内には、二つの名前が並んで書かれていた。
『沖野琴美』と、そしてもうひとつ……『安城《あんじょう》由紀《ゆき》』
記憶に無い名前であった。今年の部屋割り表に視線を移して眺め渡す。しかしその名は今年の部屋割り表には見つからなかった。
(安城由紀という名前の、この人は……)
優子はこの際、思い切って、さやかにその事について、訊ねてみることにした。
「ねえ、さやかさん。この安城由紀っていう人……」
そう訊ねた途端、優子は、さやかの視線が一瞬、困ったように宙を泳ぐのを目撃した。
「……今、学院にはいませんよね。どうなっちゃったんですか?」
「由紀ちゃんは……」
さやかの声は掠《かす》れていた。いつもの喋り方と違うのに、椎奈も気付いたのか、隣でハッとしたようにプリントから顔を上げていた。
さやかは目を閉じ、首を横に振った。
「……ダメ」
一瞬にして室内の雰囲気が変わる。三人は揃って身を起こした。
「死んじゃったんですか、その人?」
気まずい沈黙を破って、優子がさらに、思い切ってそう問い掛けると、さやかはハッとした表情を見せ、そして観念したかのように、力無く頷いた。優子はこの際だからと思い切り、さらに重ねて問うてみる。
「それは……自殺?」
その問いにも、さやかは小さく頷いた。椎奈が隣で息を飲む。
「あの……塔から?」
「どうしてそこまで……」
さやかはそこで顔を上げ、優子の目をジッと見返して来た。
(やっぱり……)
自分の想像が的中していた事に、優子は肌寒ささえ感じていた。
南側の柵に空きを見付け、布団をそこに干すと、優子はふう、とひとつ息を吐いて、額の汗を拭《ぬぐ》った。
うららかな陽光の降る、日曜の午前。寮の屋上には、布団や洗濯物が並び、白い光をチラチラと反射しながら、風に泳いでいた。優子はその風を、胸一杯に吸い込んだ。久しぶりに清々しい気分になる。
東側の柵からは、学院の敷地全体を見渡すことができる。眼下の樹木はほぼ真上からのアングルで、その林がしばらく続いた後、向こうに礼拝堂、やや下って、グラウンドの土色と校舎の灰色とが並んでいる。校庭の桜はもう散ってしまったようで、フェンスとともに学院を囲むのは、緑一色の木立であり、その向こう、遠く霞む連山の手前に、申し訳ばかりに市街地がはりついているのが見える。上空には青空が広がり、ふわふわとした雲がゆっくりと流れている。
そうしてあたりを見渡しているうちに、視界のフレームの左隅に、黒い影がチラリと入る。その途端、優子の気分は重くなった。先ほどまで見下ろしていた地上との距離感が、にわかに実感されて、思わず柵から身を引いてしまう。そうして、見まいとしているのに、どうしても視線はそこへと惹きつけられていってしまう。
塔――
寮の東側を結ぶ袖廊下部分の最上には、三ヵ所に、各棟の階段からの出入口が設けられている。その両端、優子が先ほど上ってきた南棟と、そして北棟のそれぞれの階段室の上には、給水塔というのだろうか、大きな丸いタンクのようなものが設置されている。だが中央棟の出入口だけは、他と違っていた。階段室の他にもうひとつの部屋があるために、四囲は大きく、そしてとんがり屋根も含めれば十メートルぐらいの高さを持ったその構造物は、寮生たちからは『塔』と呼ばれていた。
聞くところによると、その塔の上は、四囲を胸ぐらいの高さの障壁で囲まれただけの、何もないただの展望台のような空間になっているのだそうである。その障壁から屋根までの、丈にして一メートル半ほどの部分が、四隅の柱に支えられただけの、いわゆる吹き抜けのようになっており、そして塔がちょうど、寮の前面である東側の壁に接するようにして建てられているために、その吹き抜け部分の東側の障壁から身を乗り出せば、途中に何も遮るものも無いままに、寮の一階の玄関口が見下ろせてしまうのだという。
そして今から四ヵ月前、雨の降る、冬のさなかのある晩に、安城由紀という女生徒は、自らの身体をもって、そのことを証明してしまったのだ……。
春の光の注ぐ中、禍々《まがまが》しく聳え立つその塔を見上げているうちに、優子は眩暈のようなものを感じて、思わず目を閉じてしまった。
先日の午後、さやかから聞いた、事件当時の話が、頭によみがえる。
「……由紀ちゃんは、とっても可愛くて、性格も良い子だった。おとなしくって素直で、本当にいい子だった。信仰組でも、特に熱心なクリスチャンだって言われていて。誰からも愛されてた。大事にされていた。それなのに……。
そう、あれは去年のクリスマス……十二月二十五日の朝だったわ。
その前のイブの日。その日は昼間っから、雨が降り始めて。それが真夜中になっても、相変わらず激しく降り続いていた。ザアザアっていう雨音が耳について、私はその夜、布団に入ってからも、なかなか寝付けないでいた。それがどうにか、浅い眠りに就いたかと思ったら……。
物音で目が覚めた。どすん、っていうか……あるいはゴツッ、って感じ? とても嫌な、そう、不吉な感じの音だったの。あるいはそれは後から、その音がそれだったって教えられて、そう思ったのかもしれないけどね。……とにかく、私はそうして目が覚めて、それからしばらく、耳を澄ませていた。でも聞こえてくるのは、雨の音ばかり……。結局、そのまままた眠っちゃったってわけ。
ちょうどその頃、シスター相馬が見回りに出て、それを……由紀ちゃんが死んでるのを、発見していたのね。……その晩、物音に目覚めたの、私の他にも結構いて、で、シスターもそのひとりだったってわけ。それで、明け方まで、シスターたちはもうパニックしてたみたい。生徒の方は誰も気づかずに、そのまま放送で起こされるまで、みんなぐっすり寝てたんだけどね。私みたいに、一度起きた子も、また寝直しちゃって。
そして次の朝……クリスマスの朝ね。まだ日も出てない明け方早くに、私たちは異例の寮内放送で起こされたの。それでみんなは知らされたの。由紀ちゃんが死んだって。塔から落ちたって、ね。
その日は警察は来るわ、なんだかんだで、もう一日中、学院は蜂の巣をつついたような大騒ぎ。そして生徒会室から……塔に昇れるのは唯一、その部屋からだけなんだけどね……その生徒会室からは、何だか遺書のようなものが見つかったんだって。
結局あれ、自殺だったのかしら。シスターたちは、あれは事故だったんだって言ってたけど、それも変だしね。でも本当、自殺だったとしても、何が原因だったのか。……イジメとかじゃ無いしね。
結局、今でもその件は、私たちにとっては謎なの。私たちにとって確かなのは、ただひとつ……由紀ちゃんが死んだって事だけ」
気が付けば優子は、引き寄せられるように、その塔の方へと向かっていた。胸の内に、さやかの話を聞いた時に浮かんだ疑念が、再び沸き起こる。
(自殺じゃないわ。クリスチャンが自殺なんてするはず、ないもの……)
だったら何なのか。自殺じゃなかったとしたら、少女はどうして、塔から落ちるようなことになったのか。
ドアを開け、階段室に入る。光量の差に、サッと一瞬、目が眩むが、やがて慣れてくる。
真っ直ぐ進めば、下へと続く階段。そして左手には、他の棟の階段室にはないドアがある。プレートには『生徒会室』の表示。
優子はそのドアに歩み寄り、ノブに手を掛けた。ノブは廻らない。鍵が掛かっている。……それを確かめて、優子はホッと息を吐いた。
(良かった。……もし鍵が開いてたら……)
自分はどうしただろうか。生徒会室に入る。中には塔に昇る階段があるはずだ。それを昇って、展望台に出る。出たら、東側の胸壁に行く。身を乗り出して、下を見下ろす。
そして……。
(何、バカなことを考えてるの、私)
その一連の想像は、優子にはとても恐ろしいものであった。実際、気が付けば両の腕には鳥肌が立っている。それなのに優子は今の今まで、何かに誘われるようにして、こうして塔のある中央階段の階段室へと入り、そして塔へと通じる唯一の部屋である生徒会室のドアを開けようとしていたのだ。
(まるで何かに誘われたかのように……)
自分を誘う何か……。安城由紀の亡霊……。
それは優子が、自分から頼み込んだのだった。自らそれを知りたいと望んだのだ。安城由紀の墜死についての話を聞いただけで良しとはせずに、優子がさやかに重ねて出した要望……。
「その安城さんの写真って、ありますか?」
そう請うても、さやかは無言のままであった。優子がなぜそれを見たがるのか、さやかには想像がついているようであった。そしてその反応だけで、優子には自分の想像が当たっている事が確信できた。
だからさやかから写真を受け取った時、優子に残されていた興味は、それがどの程度のものなのか、ということだけであった。
遠足の時に撮ったものだと、さやかは不要な説明を付け加えた。黙っているのが気詰まりだったのだろう。フレームの中では、紅葉した木々に囲まれて、山歩きふうのファッションに身を包んだ二人の少女が並び、こちらに向かって微笑んでいた。片方はさやかだ。今よりもほんの少し、子供っぽい感じに写っている。そしてもう片方の少女……。
思っていたほどでもなかった。
写真の中の安城由紀は小柄で、髪型もショートヘア、目鼻立ちも小造りで、確かに年齢に比べて幼いという印象を見る者に与える少女であった。顔の輪郭や口元は確かに、多少は似ているかもしれない。だが目元などをよく見れば、優子とは違って綺麗な造形をしているし、そうした差異が積み重なって、全体としては優子よりも整った、可愛い顔立ちをしている。……
(似てる……かしら?)
そうした、似ている似ていないという判断は、往往にして自分では分からないという。実際、横から写真を覗き込んだ椎奈は、アッと声をあげた。その椎奈に問うてみた。
「似てると思う……シイちゃん?」
問われた椎奈は、考え込むように首を捻った。
「そっくりってわけじゃないけど……。でもタイプとしては、似ているかもしれない」
たった数ヵ月前に、ひとりの少女が、この同じ学院内で謎の墜死を遂げた。それは、ことにこうした閉鎖空間内で起きた事件なだけに、残された全員に多大なショックを与えたに違いない。ただひたすら、忘却によってのみ、事態は収拾《しゅうしゅう》されようとしていた。
なのに、その死んだ少女を思い起こさせるような、タイプの似通った……似たような顔立ちをした新入生が、まだ事件の記憶も色褪《いろあ》せぬ頃に、その学院へと入学して来てしまった。……それが優子なのだ。安城由紀を知る者たちの目には、優子は優子としてではなく、由紀の亡霊として見えていたのだろう。
そしてそれが、この学院での優子に与えられた役どころなのだ。
「私には……優子ちゃん。あなたと由紀ちゃんは、全然別な人間に見えるわ。私はそんなこと、気にする方がおかしいと思う」
さやかは優しく、そう言ってくれた。しかしそのひと言だけでは、優子にかけられた呪縛は解くことはできなかった。優子自身の持つ、この不安定な心の動きが、それを証明している。
(絶対に自殺じゃない。クリスチャンが自殺するはずがない……)
安城由紀がどうして死んだのか……その謎を解くこと。優子には、自分と由紀が別な人間であるということを明らかにするための、それが唯一の手段であるかのように思われていた。
(その謎がいつまでも解かれないままでいたら……)
由紀を死に追いやった、その巨大なからくりが、今もどこかで動いている。そして優子は現在、由紀と同じ歯車に乗せられているのであり、早くそのからくりの正体を見抜いて動きを止めないと、やがてそれは、自分を由紀と同じところへと運んで行ってしまう。……
それは理屈ではなかった。姿形に多少似通ったところがあるからといって、別々な二人の少女が同じ運命を辿らなければならない、などという理屈は無い。しかし直観が告げているのだ。このまま事態を放置しておけば、いつの日か必ず、自分は由紀と同じ目に遭う……。
生徒会室の前を離れ、中央棟の階段をゆっくりと降りながら、優子は、安城由紀を死へと追いやったそのからくりの正体を、何としてでも明らかにしなければならないと、改めてそう感じていた。
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三章 召命の朝
日曜日と休日に挟まれた、四月最後の月曜日。
その午後に開催された寮生会議では、二つの議題が取り上げられることになっていた。一年生の中から新しく生徒会の役員が任命されるのと、そして部屋替えについての動議である。
一、二年生、百二十人からの寮生が一堂に会した食堂の中は、むっとするほどの人いきれであった。椎奈、さやかの二人とともに、食堂の隅の方に隠れるようにして着席した優子は、内心、そのどちらの議題も、自分には無関係な話だと思っていた。
正面にはいつもどおりに、生徒会の役員たちが、一般の生徒たちと向かい合うように並んでいる。中央にはもちろん、朝倉麻里亜の姿があった。進行は隣の沖野琴美に任せて、嫣然《えんぜん》と微笑んでいる。
「……えーっと、まずは一年生から新しい役員を選任する件ですが、以下の人たちにお願いしようと思っています。えー、……片桐《かたぎり》茜《あかね》さん。……片桐さん?」
「あ、はい」
前の方で茜が手を挙げていた。大輪の花が咲いたような派手な顔立ちをした少女で、優子のクラスメイトである。
「えー、名前を呼ばれた方は、こちらの方に出て来てください。えーっと、それから、佐藤《さとう》瑞穂《みずほ》さん。……長根《ながね》香澄《かすみ》さん」
呼ばれた少女たちは、詰めて並べられた椅子の間を縫うようにして、前へと出て行く。
「……それから、高橋椎奈さん」
その瞬間、優子は隣の椎奈の顔を見やった。椎奈はビックリした表情を浮かべ、そして無言のまま立ち上がると、指名された他の少女たちと同様、前の方へと進んで行った。
(シイちゃん……)
椎奈の後ろ姿を見送りながら、優子は何だか、ひとり取り残されたような、そんな不安な気持ちになった。
茜にしろ瑞穂にしろ、あるいは一二HRの香澄にしろ、みんなそれぞれに美形で、目立つ存在であり、そして自分でも目立つことが好きだというような、そうした積極的な性格をした少女たちであった。三人とも、クラス委員も兼任するという、生徒会の役員には、それぞれうってつけの人材である。上級生側から一方的に下命されたにしては、まずは妥当な選定であった。
だが、椎奈はどうだろうか。外見だけから判断するならば、他の三人と同様、いやそれ以上に、自然と他人を従わせてしまうような、そうした魅力が、椎奈の容貌には確かに具《そな》わっていた。だが他の三人とは違って、椎奈は入学以来今までずっと、自分がなるべく目立たないようにと努めて来ていた。従って、もし新入生たち自身の手によって、自分たちの代表を決めるような事が行われていたならば、おそらく椎奈などは、他の生徒たちからは選ばれていなかっただろう。
前に引っぱり出された四人の少女は、それぞれの抱負をひと言ずつ述べるようにと、琴美から指示された。
「麻里亜さまとご一緒に、いろいろとこの学院の役に立つことが出来るだなんて、とても光栄に思っています。一生懸命がんばります。よろしくお願いします」
選ばれた少女たちは、頬を上気させながら、口々にそのような事を言った。
(そっか。みんな……シイちゃんも、これからは生徒会の仕事で、麻里亜さまとご一緒できるんだ)
そう考えると、前に並ぶ四人の少女が、少し羨ましく思えてくる。
椎奈だけは、他の三人とは違い、硬い表情を崩さないまま、言った。
「高橋椎奈です。こうして選ばれたからには、なるべくみなさんのお役に立てられるようにと、がんばりたいと思います」
椎奈が自分ひとりのものでなく、みんなのものになってしまう……何となくそんなふうに思っていた優子には、椎奈のそのクールな対応ぶりは、どこかホッとさせられるものがあった。
新役員の任命はそれで終わり、次の議題は寮内の部屋替えについてであった。二年生たちも今までとは違って、興味津々といった顔つきになり、琴美の発表を固唾《かたず》を呑んで見守っていた。
まずは前置きである。
「毎年行われていることですが、今年もこうして一年生が入寮して、はや一ヵ月が経ち、それぞれの個性も明らかとなったということで、最初のテキトーに割り振られた部屋割り……つまり一、二年生の組み合わせですね……それに関して、当初のものよりも、より良い組み合わせがあるのではないかということで、私たちが考えた部屋割りを、ここで発表したいと思います。
えーっと、それと、基本的に動いていただくのは、一年生のほうにやっていただくという事になります。二年生のほうは、今までの一年間の部屋に対する愛着のようなものがありますからね」
先ほどまでとは違って、会場はどこかざわついた雰囲気になる。
「えー、では、発表します。……まずは三〇七号室の井上《いのうえ》さん」
「はいっ」
ひとりの少女が手を挙げる。
「えーっと、あなたは、三〇九号室に移動してもらいます。磯田《いそだ》さんの部屋ですね。磯田さん?」
「はい」
二年生が手を挙げる。井上|美奈子《みなこ》とお互い、戸惑ったような視線を交わす。
「磯田さん。井上さん。あなたたち二人は今後、同じ部屋で暮らすことになりますから、お互いに仲良くしてください。で、代わりに三〇九号室の宮城島《みやぎしま》さんなんですが……。宮城島さん?」
「あ、はい」
「えーっと、あなたは、三二三号室に移動してもらいます……」
そうして沖野琴美が次々と指示を出し、それを風間《かざま》忍《しのぶ》が背後のホワイトボードに書き取ってゆく。中には、以前から仲が悪いと評判の部屋の子もいて、そうした場合には生徒たちの間から、予想通りという意味なのだろうか、うーんと、何とも言えないざわめきのようなものが湧き起こったりする。
移動の対象は、新しく役員に運ばれた少女たちにも及んでいた。片桐茜は風間忍の部屋に、長根香澄は溝口《みぞぐち》尚子《なおこ》の部屋にと、役員は役員同士でペアになるように移動がなされている事に気付いて、優子はハッと息を飲んだ。
「……で、最後に二二六号室の高橋さん」
「……はい」
前に出ている椎奈は、大勢に見られているという状況が気に入らないのだろうか、どこか神経質な素振りを見せて、そう答えた。
「あなたは二〇三号室の青木さんの部屋に移動してもらいます」
優子の心臓は高鳴った。次は自分が呼ばれる番である。
「で、二〇三号室の坂本さん」
「はい」
「……あなたは入れ替わりで、二二六号室に移動してください。……部屋替えについては、以上です」
優子は椎奈のいた空席を挟んで、隣に座るさやかと目を合わせた。さやかは、良かったね、と語り掛けるように、優子に微笑んで来る。
(私とシイちゃんが、入れ替わり……)
桜井さやかと同室になれるというのは、考えてみれば本当に有り難い話であった。だがそれを素直に喜んでいいのだろうかと、自分を戒める心理がどこかにある。優子はさやかに対して、曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
会場がひとしきりざわついた後、不意にそのざわめきが、潮が引くように退いて、そして最後を締めるように麻里亜が発言した。
「新しく役員になられたみなさんには、ご苦労が多いことと思いますが、どうか奉仕の精神でもって、務めてくださるよう、よろしくお願いします。
それから部屋替えの対象となったみなさん、この時期に来てまた部屋を移るというのは、大変なことだとは思いますが、どうか私たちの指示に従ってくださいますよう、こちらの方もよろしくお願いいたします。できれば今日明日の休みのうちに、移動を済ませてしまって、そうすれば休み明けには新しい月も始まりますから、そこで気分一新といきましょう」
それでは、と閉会の指示が出されて、私語がザワザワと大きくうねり始めた混沌《こんとん》の中、気が付けば隣の空席には間を詰めるようにしてさやかが座っており、場が静まるのを待って、優子はさやかの後に従うようにして、二二六号室へと向かった。
「これから一年、よろしくね、優子ちゃん」
「あ、はい。それはもう、こちらこそ、よろしくお願いします」
慌てて頭を下げると、さやかは相好を崩し、クスクスと笑った。優子もようやく、心から今回の事態を喜べるようになっていた。
「優子ちゃんってね、わたし、最初に見た時から、ああ、可愛い子だな、こんな子と同じ部屋になれたらいいなって、実はそう思ってたの」
そう正直に告げられて、優子は内心、少し困惑した。
(だったらシイちゃんの事は、どう思ってたのかしら……)
上級生なのにどこか無邪気《むじゃき》で、同級生のように優子たちと付き合ってくれるさやかと、新入生なのに大人びて見える椎奈。優子は今まで全くそんな事は考えてもみなかったのだが、二人の相性ははたしてどうだったのだろう。
(私だって、冴子さんと一緒よりは、さやかさんと一緒の方がずっといい)
しかし優子は、さすがにそれを素直に言うほど、無邪気にはふるまえなかった。それを言えば冴子に失礼にあたるからだ。
(汝《なんじ》の隣人を愛せよ。……そう教えられて来たのに)
優子はけっして冴子を嫌っていたわけではない。自分でもそれだけは確かだと思う。そもそも生徒会の役員の打ち合わせとかで、部屋を空けている事が多いし、部屋にいる時でも、お互いにあまり干渉しないという不文律《ふぶんりつ》がいつの間にか成り立っていて、優子はほとんど一人部屋の感覚で、この一ヵ月間、二〇三号室で過ごして来たのだ。それは変に気を遣わなくても良いだけに、気楽であり、そうした関係を同室の先輩と続けることに対しては、特に不満を抱くようなこともなかったのである。
ただ一点を除いては。
その一点というのが、実は例の、夜間外出の件であった。それは入寮初日の夜だけではなかった。以降も、冴子はあの真夜中の外出を、優子の気づいた範囲でさえさらに二度、繰り返していたのである。真夜中に目覚めて、そうして隣のベッドが空なのに気づくたびに感じる、あの不審……。
彼女はいったい、どこに行っているのだろう。
学院の外だろうか。寝衣のまま外出している様子なので、たとえばどこかでこっそりと外出着に着替えて、そうして山を下って街に出て、そこで良くない遊びに興じているのだろうか。
あるいは、寮の中を徘徊《はいかい》し続けているのかもしれない。
とにかく、安城由紀の件とともに、その青木冴子の夜間外出の件も、優子には気に懸かる事柄であった。それでいて、誰かに相談するということもできない。
(青木さん、あなたは時々、真夜中にこの部屋を抜け出しているようですが、いったいどこへ行かれているのですか?)
正面切って相手にそう訊ねることもできない。そんな事がわだかまりとなって、この一ヵ月間、優子は冴子と同室である事に、わずかな苦痛を感じ続けていたのだった。
だが、部屋が替われば、そうした不審も今後は感じなくて済む。
(でも、代わりにシイちゃんが……)
冴子が今後も同じように、その夜間外出を続けるようなことがあれば、きっと椎奈もそれを目撃することになるだろう。
後片づけを済ませて来たと言いながら、遅れて部屋に帰って来た椎奈に対して、優子は思い切って、その事について話してみた。ひとしきり話を聞いた後、椎奈は、ふうん、と首を捻《ひね》った。
「分かった。……後をつけてみようかな、私」
「うそっ。止めてよ。もし見つかったりしたら……」
「取って食われるって? 大丈夫だって」
椎奈がとんでもない事を言いだしたので、優子はビックリした。
翌、二十九日。みどりの日に、優子は椎奈と部屋を替わった。そして新しい居室で迎える最初の夜。
優子は布団の中で、なかなか寝付けないでいた。何かが違う気がする……。
やがてその違和感の原因に思い当たって、優子は自分で驚いてしまった。
匂わないのだ。
あの甘酸っぱくて、そしてどこか懐かしいような香り。最近ではもうほとんど意識する事も無いほどに薄まっていた、麻里亜が部屋に残していた移り香。しかしそれが全く無い部屋にこうして移ってみて、自分の嗅覚がそれにいかに馴染《なじ》んでいたかを、優子は今、布団の中で、改めて思い知らされたのである。
(麻里亜さま……)
椎奈はどうしているだろうか。どのような夜を迎えているのだろうか。……麻里亜の香りのわずかに残るあの部屋で。生徒会役員の御用達となったあの部屋で。冴子を訪ねて、たまに麻里亜が顔を覗かせることもあるあの部屋で。
(麻里亜さまと、シイちゃん……)
自分の憧れているもの同士が、勝手に仲良くなってしまう。……自分を置いて。
優子はそこで、ハッと息を飲んだ。自分の心の中に、醜い嫉妬心が湧いていることに、自分で気付いてしまったのだ。
(大丈夫。シイちゃんは、私を見捨てたりしないもん……)
不安定な気持ちのまま、優子はいつしか、浅い眠りに就いていた。
五月に入ってから、ひと雨ごとに、季節は春から初夏へと、確実に移ろいつつあった。
入学時には枯れ芝の黄色が混って、黄緑がかって見えていた丘の芝生も、今ではすっかり濃い緑一色となって、陽光に艶々とした新芽を輝かせている。
その丘の上の、古びた礼拝堂の中。優子はその伽藍《がらん》の中でひとり、信徒席に腰を下ろして、ぼんやりと時を過ごしていた。
友達に囲まれた、この学院での生活の中で、時として優子は、ふと独りになりたいと思うことがあった。そんな時によく利用するのが、この礼拝堂であった。終業後から晩課までの間、ここはたいてい無人なのである。
開放されたドアの両脇にある、ステンドグラスの採光窓は、ちょうど午後の陽射しを受けて、キラキラと輝いて見えている。それぞれのガラスを通った、様々な色たちが織り成す、光の競演。それが、十字架のキリストや、聖母マリアの、美しい絵を描いている。
(綺麗……)
祭壇ではキリストが、磔刑《たっけい》の苦難を受けながら、優子の方を見下している。乱されることのない、静謐《せいひつ》。古い建物の匂い。美しさと、そして厳かさが、そこにはあった。
(ここには祝福がある……)
と、その時、堂内の明かりが一瞬、翳りを帯びた。入口の方を振り返ると、開け放したドア口の光の中に、逆光となって、人影がこちらの方を覗き込んでいた。その人影が声を掛けて来た。
「……優子」
「なんだ、シイちゃん」
その影は光から抜け出ると、少女の姿となった。取り戻した本来の輪郭と色に、さらにステンドグラスの投げかける色彩が加わって、高橋椎奈はそうした衣裳を纏って、優子の傍まで来ると、にっこりと微笑んだ。
「やっぱりここだった」
「ふふ。……シイちゃん、珍しいね。ここに来るなんて」
「実は、初めてだったりして。……ふうん。中って、こんなふうになってたんだ。……意外ね。もっと声、響くかと思ってた」
「静かでしょ」
「内緒話《ないしょばなし》するには、いい感じね」
声をひそめて、そう言う。優子が自分の横に座るように促すと、それには従わずに、
「あのドア、いつもあんなふうに、開け放してあるの? ……勝手に閉めたりしちゃ、いけないのかなあ」
などと言いながら、入口の方に戻って行って、そして優子の顔色を窺いながら、結局、そのドアをパタンと閉めてしまった。
(いいのかな……)
光がそうして遮られた分だけ、堂内は少し暗くなった。しかしすぐに、その光度に目が慣れる。
鐘楼からの光がちょうど、祭壇のキリスト像を照らしている。その光の帯の中で、空気中の細かい塵のようなものがたくさん、ちりちりと動き回っている。
入口を閉ざされたことによって、堂内はよりいっそう、その神聖さの密度を増したかのように、優子には感じられていた。
ドアを閉ざして戻って来た椎奈は、優子が先ほど空けた隣の席へと腰を屈めて、そして小声でそっと呼び掛けて来た。
「優子……」
なに? と首を傾げて、相手を見上げたその優子の顔に、椎奈の顔が覆い被さって来た。
「好き……」
え……と思う間もなく、優子の両頬は相手の両の手に包み込まれていて、そして椎奈の美しい顔が、間近に迫ってきて……。
(あ……)
思わず目を閉じる。自分の唇に相手の唇が重なる、その感触。
そのまま上体に体重を掛けられて、優子は信徒席の上に仰向けに横たわった。椎奈の身体が、自分の上に重なっている。
(なんで……? やだよ、こんなの……)
閉じた唇の入口を、ちろちろと相手の舌がなぞって、隙を作ろうと動いている。優子がそれを拒み続けていると、やがて相手の唇は離れていった。
そのまま目を開けると、椎奈の顔があった。優子の頭の両側に肘《ひじ》をついて、身体を重ねたそのままの姿勢で、優子の顔を見下ろしている。その椎奈の表情には、不安の色が浮かんでいた。
「ごめん。私……」
ふっと視線を逸らし、優子の上から身体を退けた。
「なんで……?」
上体を起こしながら、そう優子は訊ねた。頭の中は混乱し、そして狼狽していた。
たったいま起きたその出来事は、優子がそれまで住んでいた世界とは、異質のものであった。
心臓の鼓動が激しく、呼吸も乱れていた。左手の指先が、自分の唇に触れて、確かめている。
(キス……したんだ)
「嫌わないで……お願い」
椎奈がぽつりとそう言い、そして何かを決意したかのように優子の方に向き直ると、荒い息のまま、喋り始めた。
「聞いて。……ね、私のこと。……私、駄目なの。……男の人が。そういう人なの。それで優子のこと……ずっと好きだった。ずっと、そういう目で見てたの。……そういうの、嫌い? ……待って。言わないで。……そうよね。キリスト教ではそういうの、悪いことだって、禁じられてるもんね。……でもお願い、待って。聞いて、私の話。
私……。ここに入る前……中学の時、男の人と関係を持ってたの。……しかも、義理の父と」
優子はギョッとして、椎奈の顔を見返した。先ほどのキスのショックさえ吹き飛ばすほどの、それは衝撃の告白だった。
「母は、私から見ても、お人形さんみたいに綺麗な人で、だけどお人形さんみたいに、一人じゃ何もできない人なの。父が……私の本当のお父さんが、私が十歳の時に死んじゃって……それで最初、どうやって生きていこうかって、まずそう思った。そんなお母さんと二人で、ね。だけどそれから、家によく、知らない男の人が出入りするようになって、一人がいなくなると、また次が来るって感じで……。
そんな生活にピリオドを打ったのが、アイツだったってわけ。
金持ちなのね、かなりの。それでいて、性格も結構良さそうで。……少なくとも、最初はそう見えたの。子連れの三十女の再婚相手として見れば、まあ上出来の部類だったと思う。
それで、新しい家に移って、三人で暮らし始めた。最初、私は邪魔者だった。まあ、連れ子だもんね。……それでも、いろいろ贅沢《ぜいたく》できたし、私としても、それまでよりはずっといい生活だと思っていた。
それが、だんだんと悪くなって行って……アイツが本性を顕わし始めたの。最初は、お風呂を覗かれたり。それから、何かにつけて身体を触って来るようになって。でも、そこまでで済んでたのね、一応。
それが……ある日、お母さんが実家に帰ったの。私とアイツ、二人だけにして。で、私がお風呂からあがった時に、アイツ、わーって来て、私、やめてって。でも無理矢理。……それが最初で、それからもアイツ、味を占めたって言うの? 時々、思い出したように……。
私は全部、自分の中で、そういうの、無かったことにしてた。お母さんは全然、気づきもしないし。相談しても、何もできない人だしね。……そんなふうに、親子三人がひとつの家の中で暮らしてた、それが一年以上も続いたんだから。最終的にはアイツも、自分で蒔《ま》いた種なのに、何だか頭、おかしくなっちゃったりして。お母さんもようやく気づいて、で、私、ここに入ったってわけ。
家の中がそんなんだったから、だと思う。……学校で、同級生の女の子に対して、好きだって……そういうふうになっちゃったの。……ねえ、優子はどう思う? そんな私のこと……。おかしいって、変だって思う? こんな話して、嫌いになった?」
優子は言葉も無かった。目の前の美少女……椎奈の、その背負わされた運命のあまりの過酷さに、何をどう感じていいのかすら、自分の中で見失ってしまっていた。
そういうことが、世の中にはあるのだという事は、話としては聞いていた。子供に対する、そうした性的な虐待《ぎゃくたい》。家庭内で行われる、隠微な、そしてけっして許せない所業。……しかしそれは、今までは、優子とは縁の無い世界での出来事であった。お話の中の、登場人物は匿名の加害者と、そして匿名の被害者。……それが今、目の前に実体として、しかも親友の椎奈として、存在しているのだ。
縋《すが》るようなその目が、優子を追い詰めている。……嫌わないで。私を受け止めて。その目はそう語り掛けて来ている。
(どうして、シイちゃん。そんな重い話、私なんかに……)
好きだから。愛して欲しいから。……その言葉の重み。
「……ううん。シイちゃんは、シイちゃん。……今までと一緒だよね。そんな、嫌いとか……」
「じゃあ、好き?」
「……うん。もちろん」
「よかった」
そういって、満面の笑みを浮かべる。……これこそが、きっと椎奈の、本来の表情なのだろうと、優子は思った。
(その義理の父親って奴が、この表情を殺したんだ……)
許せないと思う。
その椎奈の顔が、すい、と近づいてきた。
「あ……」
(待って)
反射的に顔を背けようとして、その瞬間、それが相手にとって、どれほど残酷な仕打ちであるかに思い至り、優子は身体を動かすことができなくなった。金縛りの状態である。その眼前に、鼻がぶつからないように顔を斜めにした、椎奈の顔が迫ってきて……
優子は目を閉じた。
唇が重なる。優子の小さな下唇を味わい、そして舌が、歯の隙間から、口の中へと入り込んで来る。動き回って、優子の舌を探り出し、絡みついて来て……。
そして優子は、自分の身体の奥で何かが、その相手の舌の動きに呼応して、目覚めようとしているのに気づいた。その途端、
「だめ」
優子の両手は、無意識のうちに、相手の身体を突き飛ばしていた。
ほんの一瞬の、間。息が苦しいほどに、呼吸は乱れていて、そして耳の奥で、血管がドクドクと脈打っている。
優子はいたたまれなくなって、立ち上がり、席に倒れたままの椎奈の脇をすり抜けて、駆け出していた。細く開いた入り口の扉の隙間から、光が漏れている。……その光の中へ。
外に出てからも、優子は息が続く限りと、走り続けた。丘を下り、プールの裏に走り込んで、そしてようやく足を止めて、その場に屈み込んだ。
(シイちゃん……)
どれほど傷ついただろう。
どうすれば良かったのか。……少なくとも、あんなふうに突き飛ばして、拒絶して、あれが最良の結果だったとは思えない。
(だめ。……考えられない)
優子は空を見上げて、呼吸を整えることだけに、意識を集中させた。
(なんでこんなに、空が綺麗なの……)
「ふふ、ふ」
なぜか、笑い出してしまう。それとともに、涙が溢《あふ》れ出《で》た。
優子の憂鬱《ゆううつ》な日々が始まった。
椎奈にキスを求められた、あの時。
(どうすれば良かったの……)
いくら考えても、求める答えは見つからなかった。
礼拝堂での椎奈とのキスは、優子にすれば大きな事件であった。初めてのキスだったという事もある。しかしそれだけではない。
あれ以来、優子は椎奈の顔をまともに見ることができなくなっていた。そして椎奈の方でも、優子のことを避けているふうであった。それでも狭い学院の中、ことある毎にお互い、顔を合わせることになる。そんな時、優子は決まって、気まずい思いに駆られるのだ。
なんとかしなければと思う。
(シイちゃんも、神様にお祈りすれば、きっと……)
優子にはとても考えられないような、酷い目に遭った少女。その苦難を救うには、信仰の道しか無いように思う。
しかし、話しかけるきっかけも、掴めない。
「優子ちゃん……椎奈ちゃんと、喧嘩《けんか》でもしたの?」
ベッドに寝ころんで溜息を吐いていると、さやかがそう話しかけてきた。五月の八日……木曜日の夜である。優子の気分は相変わらず、椎奈の件で塞《ふさ》いでいた。そんな優子の鬱屈した気分に合わせたかのように、窓の外では、かなりの強い雨が降っていた。
「いえ、違うんです。ただ、ちょっと……」
言葉を濁す。その優子の返答に、何かを感じ取って、しかしそれ以上追及するのは躊躇《ためら》われるといった様子で、さやかはふっと目を伏せた。その優しさに、優子は一瞬、あのキスの件を、この上級生に相談しようかと考える。
(だめ。……そんなことをして、万が一、シイちゃんがレズだとか、そんな噂《うわさ》が立ったりしたら……)
取り返しがつかない。そして、そうした可能性……これ以上、さらに椎奈を傷つけてしまうような、そんな可能性がある以上、優子はその件を誰かに相談したりなどしてはいけないのである……。
結局、優子はさやかに対して、別な話題を持ちかけて、その場をごまかしたのであった。
そして、その日の消灯後。
闇の中、優子は眠れないでいた。椎奈とのキスのあった、あの日以来、毎晩の寝付きが悪く、したがって慢性的な寝不足で、すぐにでも眠れそうなところが、どうしても寝付けないのである。
目を閉じると日中の、優子の姿に気づいてプイと顔を背ける椎奈の姿が、脳裏に何度も繰り返される。そうして心は乱れ、焦りの中で、ただ時間だけが過ぎて行く。
雨の音がやけに耳についた。
……それでも、知らないうちに少しはウトウトしたのだろうか。ふと気づいて目を開けると、部屋は相変わらずの闇の中。耳には雨の音と、そしてさやかの静かな寝息が聞こえて来る。
首から上だけが覚醒しているような、妙な感覚。……そのまま目を閉じてしまえば、また眠りの世界へと戻れるという、そんなフワフワとした感覚。それが、そうして目を開けて耳を澄ましているうちに、だんだんと手足の意識も戻って来て、やがて寝返りを打った頃には、もうすっかり身体の方も、起きてしまっていた。
(何時……?)
ベッドに上体を起こして、卓上の時計を眺めやる。闇に浮かぶデジタルの数字が、真夜中過ぎの時刻を示していた。……それでも二時間ほど、眠ったという事になろうか。
軽い尿意を覚えて、優子はベッドから抜け出した。さやかを起こさないようにと、そっと部屋を出る。
淡色の照明だけが照らす廊下はほの暗く、その通路の突き当たりにある、非常口の緑色の表示が、やけに明るく目立って見えていた。窓の外では、雨が相変わらず激しく踊っており、その雨の粒と、自分の姿とが、ガラスの面に二重に映っている。寮内の空気は重く澱《よど》んでいて、その中で雨音は、妙に虚《うつ》ろに響いていた。
トイレは袖廊下の、中央棟よりも南側に行った、その左手にある。用を済ませ、照明を元通りに落として、そしてドアを開けて出ようとした、まさにその時である。
ふと気配のようなものを感じて、優子がそのドアの正面にある窓の向こうに目を向けると、雨のしぶく外界の闇を挟んで、南棟の外壁が見えている……その二階の廊下の並んだ窓越しに、何かが動くのが目に入った。見ると、ドアのひとつが、ゆっくりと開いていて、そしてそのぽっかりと空いた闇の中から、二つの人影が並んで忍び出てきた。
(あれは、青木さんと……シイちゃん)
優子は慌てて、ドアの陰に自分の身を隠した。そしてそこから、二人の少女の様子を窺った。
少女たちはどちらも、寝衣《ねまき》のままである。冴子を前にして、その後に椎奈が続く、行進するその二人の姿は、南棟の廊下の最後の窓を通過すると、袖廊下へと折れてきて、優子のいるトイレの方へと近づいてくる。その全身が見て取れた。足音が聞こえないと思ったら、二人とも、足元は靴下裸足のままである。かすかな衣擦《きぬず》れの音だけが、そうしてだんだんと近づいてくる。
(まさか……トイレ? どうしよう。こんな、隠れて覗いてるのが見つかったら……)
全身が強ばって、かえって物音をたててしまいそうになる。
しかし二人は、優子が覗いている、そのトイレのドアの隙間の前を素通りして、右手の方へと、優子の視界から逸《そ》れていった。
ほっと溜息を吐く。しばらくの間をおいて、優子は音をたてないように、慎重にドアを開け、廊下へと出た。そして耳を澄ますと、二人の気配は、まだかすかに感じられていた。
(上だ……)
トイレを出てすぐ右手、中央棟の廊下へと折れるその角に、階段がある。優子もスリッパを脱いで、その気配のする階段口へと、足音を殺して忍び寄ってみた。幾度も折り返しながら、最上階まで続いている、吹き抜けの空間……確かにその上の方から、階段を昇る二人のかすかな衣擦れの音が聞こえてきていた。
(どこへ……?)
あるいは、その行き先こそが、優子が同室だった頃の、あの冴子の夜間外出の行き先なのかもしれなかった。しかし、冴子は今回は、一人ではなかった。椎奈を同伴している。
そうして二人は、どこへ行こうとしているのか……。
かすかにパタンと、ドアの閉じる音がした。優子はその音から判断した。……三階ではない。もっと上、四階か、いや、五階だろうか。どちらにしても、そこは三年生たちの居室が並ぶ階である。冴子と椎奈の二人が、こんな時間に訪れて良いような部屋などは、無いはずである。
(まさか屋上の、生徒会室って事は……)
優子はさらにしばらくの間、その場に立って、上の様子を窺《うかが》っていた。しかしその後は、いくら待っていても、何も起こりはしなかった。
澄ました耳に入ってくるのは、篠《しの》つく雨の音ばかり。
(今のあれが、青木さんのあのいつもの外出と、目的が同じものなら……少なくともあと一、二時間は、戻ってこないわね、きっと)
優子はそこで、そっと踵《きびす》を返すと、スリッパを履き直して、北棟の自分の部屋へと戻って行った。廊下よりもさらに暗い部屋の中に入り、ベッドに潜り込む。そして雨の音に耳を傾けながら、あれこれと想像をした。
(わざわざ中央棟の階段から上って行ったってことは、目的の部屋は、中央棟にあるってことね)
中央棟の五階、五一一と五一二の両室はそれぞれ、生徒会長の朝倉麻里亜と、副会長の沖野琴美の居室である。そしてさらに階段を昇れば、そこには生徒会室がある。
(深夜、こっそりと行われている、生徒会役員会議……)
だとすれば、優子が同室の時には冴子がひとりで、そして今回は椎奈も連れ立っていたという事にも、説明が付く。
しかし、だからといって、優子は安心することはできなかった。
生徒会室といえば……つい半年前、ひとりの少女がそこから塔へと昇って、そして飛び下りたという場所である。
(まさか……)
自分が目を開けているのか、あるいは閉じているのかさえ判然としない、闇の中。窓ガラスを打つ雨の音は、また一段と、その激しさを増していた。
その翌朝。五月九日、金曜日。
寝不足のまま、それでも優子はいつものように、六時にはちゃんと目を覚ましていた。
気がつけば、雨はいつの間にか、止んでいる。
さやかを起こさないように、朝の支度をして、そして朝課へと向かう。
「おはよう、優子ちゃん」
「あ、おはよう。沙織ちゃん」
玄関口で行き遇った藤井沙織とともに、外に出る。
「うわあ、ドロドロ」
「優子ちゃん、転ばないでね」
「また、そういうこと……」
雨上がりの道は、ぬかるんでいた。天気はしかし、恢復に向かっているものらしく、正面に見える東の空には、朝日が昇ろうとしていた。その暁光《ぎょうこう》に、濡れた木々の緑が、一斉に輝き始めている。
濡れた空気に、緑の匂いが湿っていた。
キラキラと光の洩れる、緑のトンネル。その中を歩いて行くうちに、優子は、真夜中に目撃した冴子たちの姿が、全て嘘だったような気にさえなっていた。
礼拝堂にはいつものように、信仰組の少女たちが、それぞれの手に聖書を抱えて、集まってきていた。やがてシスターたちが連れ立って現れ、そして朝の祈祷が始まる。
(あれ……。麻里亜さまが、いない)
祈祷の始まる前に、信徒席に朝倉麻里亜の姿を探す。それがいつの間にか、優子の毎朝の習慣となっていたようだ。しかしその朝、麻里亜の姿を礼拝堂に見つけることはできなかった。終いには、キョロキョロしていたのを、シスター丸山《まるやま》に咎められる始末。
学校に降りてからも、同じような調子であった。
その日の一限目は、音楽の授業であった。優子のもっとも好きな科目である。にもかかわらず、シスター広瀬の弾くオルガンの音は、まるで自分の頭上を通り越してしまっているかのように、優子には感じられていた。
その意識がぎゅっと引き締まったのは、授業の予期せぬ中断のせいであった。
突然、ガラリと音楽室のドアが開き、一一HRの生徒たちが一斉に振り向いたその先には、シスター相馬が立っていた。
「シスター広瀬《ひろせ》、ちょっと」
音楽教諭を呼び出す。そうして、二人の修道女がドアの陰で、何やらぼそぼそと話をしていたかと思うと、
「みなさんは、しばらく自習していて下さい。……もしそのまま時間になったら、教室の方に戻って……」
シスター広瀬はそう言い置いて、そしてシスター相馬と連れ立って、どこかに行ってしまったのである。
当然のように、残された生徒たちはざわつき始めた。
「何かあったんじゃない?」
「様子、何だかおかしかったよね、二人とも」
不安げに言い交わされる、そうした言葉。時計の針はノロノロと進み、そしてシスター広瀬は戻っては来なかった。
優子はその時、理屈以外の部分で、不吉な予感を感じ取っていた。その耳がかすかに捉えた、サイレンの音。
「なに、あれ……」
「救急車じゃないの……?」
その音は次第に大きく、強くなってきて、そしてその音源である白い車が、学院の敷地へと入ってくるその姿は、窓に群がった生徒たちの目にするところとなった。
「何かあったんだよ!」
サイレン音は校内に入ると、ふっとかき消えたのだが、その事が校舎の脇を抜け、プールの裏を通って、学院の敷地の奥の方へと向かったのは、その場の全員が聞き取ったようであった。
「寮みたいだね……」
チャイムが鳴り、一同が教室に戻ると、騒ぎは隣のクラスでも起きていた。一階の廊下で、両方のクラスの生徒が集まって、それぞれの情報を交換し始める。
「……誰?」
もちろん、それが話題の中心である。
「ウチ……高橋さんが来てないのよ」
そんな声が漏れ聞こえてきて、優子はハッ、と息を飲んだ。
(まさか……)
「青木さんに聞いてくるわ、わたし」
一年生を代表する形で、片桐茜がそういって、二階へと向かった。しばらくは戻ってこない。始業のチャイムが鳴ったが、先生も現れないので、そのまま待っていると、さらに十分ほどして、ようやく茜が戻って来た。
「たいへん」
そこでゴクリと唾を飲み込む。
「なんか、会長さん……麻里亜さんじゃないかっていう話もあって……」
「麻里亜さまが!」
少女たちが、口々に叫んでいる。
(うそ……)
「まだ、よく分からない。……高橋さんかもしれないし。青木さんの話だと、高橋さんとは今朝、気分悪いから休むって、会話したんだって。だからそれかもしれないって。でも会長さんの方は、今朝から誰も、お姿を見てないって言うから。なんか、朝の礼拝も、今朝はお休みになられたとかで」
朝倉麻里亜か、あるいは高橋椎奈か。……そのどちらにしても、救急車が呼ばれるような、そんな事態に陥っているとは、思いたくはなかった。
そこにまた、救急車のものと思われる車の走る音が、聞こえてきた。今度は学院から出て行く。
やがて、教師たちが姿を見せた。
「何をしてる、授業中だぞ」
「先生、教えて下さい。何があったんですか」
「分からん。本当に知らないんだ。……とにかく、授業をするぞ」
ことによると、嘱託教諭《しょくたくきょうゆ》たちは本当に、何も知らされてはいなかったのかもしれない。授業はそのまま続けられていった。休み時間のたびに流言が飛び交う。その中には、何台もの車が連なって寮へと向かって行くのを見たという話もあった。いったい何が起きたというのだろうか……。正しい情報が何ら得られないまま、優子たちの不安は時の経過とともに増大していった。
学校側からの説明は結局、四限目の終わりのチャイムの後に、校内放送を通じて行われた。
江田《えだ》学院長の嗄れた声が、スピーカーから流れ出る。
「本日、我が学院の生徒のひとりが、突然、亡くなられるという悲劇が発生いたしました。……亡くなられたのは、三年生の、朝倉麻里亜さんです」
ああ、と悲嘆の声があがる。
(死んだ……)
寮の自室、ベッドの中で、眠るようにして死んでいたのだという。
最悪の告知であった。それでいて、椎奈ではなかったという事に対して、ほっとしている部分も、優子の中にはあった。
結局、その日の授業は、午前中だけで取り止めとなった。
ざわついた一日。
夕方には体育館で、全校生徒が麻里亜のために、祈りを捧げた。あちこちであがる、啜《すす》り泣《な》きの声。優子は不思議と、悲しい気持ちにはならなかった。まだ、麻里亜の死を現実のものと、認識できていないのかもしれない。その会場で、椎奈の姿を捜したが、見つからなかった。
(麻里亜さまのご冥福《めいふく》をお祈りする、それにも出られないなんて、そんなに具合が悪いのかしら……)
その優子の懸念が当たったのか、椎奈はその翌日、五月十日にも、姿を見せなかった。
学院中が、悲嘆に暮れていた。事件から一夜明けて、優子もようやく、麻里亜が死んだのだということを実感していた。胸に、大きな穴が空いて、そこを風がひゅうひゅうと通り抜けているような、そんな感じ。もう二度と、あの慈《いつく》しみに満ちた聖母の姿を見ることができないのである。その事実の重み。
しかし優子には、もうひとつ気になることがあった。一晩たって、ようやくそのことに思い当たったのである。
麻里亜の死んだ夜……あの雨の夜、冴子と椎奈が寮の上の階へと昇って行く姿を、優子は目撃していた。……あの二人の行った先は、やはり麻里亜の部屋だったのではないだろうか。そして椎奈の具合が悪くなったのも、何かその事と関係しているのではないだろうか。
(こういうのを、疑心暗鬼《ぎしんあんき》っていうのかしら……)
半年前に塔から飛び下りた少女……安城由紀の死。あるいはそれさえも、今回の事件に関係があるような気がしてくる。
(麻里亜さまは、自殺じゃないわ。病死だって言ってた)
そう自分に言い聞かせる。
しかし、その確信をぐらつかせるような出来事が、その日の午後に起こった。何台もの車が、学院へと乗り付けて来たのだ。
「ねえねえ、あいつら、刑事だって」
昼休みに、深沢まなみが、そうクラスメイトに告げていた。
(麻里亜さまの死に、何か不審な点があったのかしら?)
ただの病死なら、警察が捜査官を十数人も、送って寄越すとは思えない。
(やっぱり、青木さんとシイちゃんが、何か関係してるんだろうか)
考えている内に、気分が悪くなった。礼拝堂へと向かう。しかし中に入ろうとして、優子はギクリとした。先客がいたのだ。
沖野琴美と青木冴子。……どちらも信仰組ではない。そして何か、密談しているふうなのである。
「……刑事たちが調べてるのは、やっぱり……」
副会長の声が、震えている。それに比して冷静な冴子の声が答える。
「大丈夫。ジャックは見つかってないって。……見つかってたとしても、じゃあ警察が、何を調べるっていうの?」
「それもそうだけど……」
優子は気配を殺して、そっとその場を立ち去った。頭の中では、たったいま耳にした、その謎の会話がぐるぐると渦を巻いている。
琴美と冴子は、何か麻里亜の死に関して、知っているのだろうか。椎奈は関係しているのか。麻里亜の死には、警察が調べるような、どんな不審があるというのか。刑事たちは何を調べているというのだろうか。そして……
(ジャックって……なに?)
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四章 受難の姉妹
電話の呼び出し音が、意識を覚醒へと引き戻した。
こんな、神経に障《さわ》る音だっただろうか。そんなことを考えながら、鈴堂《りんどう》美音子《みねこ》は何とか自分の身体をベッドから這い出させ、受話器を取り上げて、その電子音を夢の中から数えて五回目で中断させることに成功した。
「はい。鈴堂です」
答えながら棚の時計を見やると、裏返しに置いてあり、彼女は舌打ちをした。カーテンの隙間から外の様子を探る。白い光が洩れていることからすれば、夜でないことだけは確かなようであった。
――ああ、いや……。
電話の相手は、自分から掛けて寄越したくせに、戸惑っている感じであった。男の声で、若くはない。五十代から六十代にかけてといったところであろうか。記憶にある声ではなかった。
――調査を依頼したいのだが。……〈黒猫〉に。
やはりそちらの方面か。名前を名乗らないのは、こちらに対する警戒心がそうさせているのだろう……。美音子はひとつ深く息を吸って、意識を集中させようとした。
「自分でそう名乗った覚えはありませんが……その名前、どなたから聞かれました?」
相手はそこで、さる人物の名を挙げた。美音子にとって、その人物はそちらの方面の仕事では、上得意の部類に入る客のひとりであった。昨年も確か、その男のために仕事をしている。その男からの紹介であれば、電話の相手も、筋の良い客となる可能性があった。
「……そうですか。いえ、看板を出しているわけではありませんが、確かに今までに何度か、頼まれてそうした仕事をやらせていただいた事はあります。ただし最初に申し上げておきますと……これはお聞き及びになられていることかもしれませんが、私に依頼される場合、料金は他の普通の調査機関と比べても、かなり割高につくと思います。それとスタッフにも限りがありますので、よくある素行調査のたぐいや、あるいは家出人の捜索などといった依頼については、基本的にお断りさせていただいているのですが」
機械的にそう喋りながら、美音子は眠気を払うために、首の関節を鳴らした。気が付いてビデオデッキの時刻表示に目をやると、十時と表示されている。おそらくそれは、午前十時を意味しているのだろう。
――それは聞いている。依頼内容については……電話では話せない。
相手の男も、その話しぶりからすれば、どうやら電話を掛けて来た当初に比べて、はるかに落ち着きを取り戻したもののようであった。
前夜に煙草を吸いすぎたせいか、喉がいがらっぽい。物が散乱したテーブルの上にボトルを見付け、美音子はその口に手を伸ばそうとしたが、途中で思い留まった。代わりに横にあったグラスを取り上げて、その底に溜まっていた少量の水で喉を潤《うるお》す。ロックアイスの溶けたもので、微かに混じるバーボンの苦味が口中に広がった。
「都内であれば、こちらから伺います。依頼の内容については、その場で伺うことにします。こちらが受けるにしろ断るにしろ、その依頼内容については、絶対に他言はいたしません」
そう言うと、相手はしばらく考えた後に、ようやく自分の名と、自宅の住所とを告げた。今日一日はそこに居るという。美音子はそれを聞いてはじめて、今が日曜日の朝であるという事に気付いた。メモに書き取ると、午後に伺うと約束をして、電話を切った。
通話を終えた途端、再びベッドに倒れ込みたいという強い誘惑に駆られたが、それを振り払い、シャワーを浴びる。くたびれた胃袋にも、何か詰め込んでおいたほうが良いだろうと考えて、蕎麦《そば》を茹《ゆ》でて食べる。
奥の部屋に戻って、食後の一服をつけると、ようやく気分が冴えて来る。裏返しの時計を見て舌打ちをし、ビデオデッキの時刻表示を見直す。
外出するとなると、飼い猫の食事も先に済ませておいたほうが良さそうである。
「ジャム……?」
探すと猫は、それまではどこにいたのか、気が付けば美音子の抜け出した後のベッドの中で、気持ち良さそうに丸くなって寝ていた。その枕元で缶詰を開けてやると、パッと目を覚ます。その現金さが、彼女の笑いを誘った。
全身を艶やかな黒い毛で覆った猫は、ニャアとひと声あげると、しなやかに床に降り立った。缶詰の中身をガツガツと貪《むさぼ》るその姿に、美音子は同じ〈黒猫〉の異名を持つ、自分の現在の姿を重ね合わせて見る。
美音子は若い時分に身寄りを亡くし、その代償として、働かなくても食ってゆけるだけのものを得た。爾来《じらい》、普段は下手くそな絵を描き、本を読み、酒を飲んでといった、眠り猫も同然の怠惰《たいだ》な生活を送って来た。ところが、それだけでは済まされないものが、自分の中に潜んでいることに、いつしか彼女は気付いていた。他人が傷つき、あるいは死んで、そうして嘆き悲しんでいる人々の声が耳に入ると、無性《むしょう》に血がたぎるのだ。それは同情でも憤慨でも無く、純然たる興奮であった。セックスの高揚にも似た感触。他人の不幸を喜び、快感すら覚えるというその倒錯《とうさく》は、処世を間違えていたら、美音子を犯罪者の仲間へと加えていたことだろう。だが最初の事件との関わり合い方が、彼女をそうした方面への傾倒から救うこととなった。
理不尽《りふじん》なまま巻き込まれたその事件の渦中に、彼女は自力で真相を把握し、そして真犯人をその手で追い詰めたのだ。
その時も、そしてそれ以降の事件でも、いったん真相を掴んだ後は、美音子は自分で自分をコントロールできない状態となってしまうのが常だった。そうした状態になった彼女は、まるで猫が鼠《ねずみ》をいたぶるように、犯罪者をじわじわと追い詰めて行き、そして最後にガブリととどめを刺す。そうした、犯罪を追う時の冷酷さ、犯罪者に対する時の無情さが、いつしか美音子を知る人々をして、彼女に〈黒猫〉の異名を与えさせることとなったのであった。
食事を平らげて、ペロペロと顔を舐め回す飼い猫の姿を、彼女はしばらくの間、じっと目を細めて眺めていた。
それから書斎に回って調べ物をする。依頼人の名乗った名前には、どこか聞き覚えがあった。見当をつけて書類を繙《ひもと》くと、その素性は簡単に判明した。
依頼人――朝倉|剛蔵《ごうぞう》は(人違いでなければ)、さる化粧品会社の会長職に就いていた。その会社は先ごろ東証一部に上場し、業績でも先行大手に急迫しているという。依頼内容で折り合いさえつけば、上客となることは間違いなさそうであった。
やがて出発の時間となった。そちらの方面の仕事をする時以外には滅多《めった》に着ない、地味な黒のスーツに袖を通すと、美音子には自分の気持ちが高ぶって来ているのが分かった。その黒服を着る時にはいつも、普段は眠っている、もうひとりの自分――マンハンターとしての自分が目覚め、その血が騒ぎ出すのだ。
美音子は自分の寝惚《ねぼ》けた字で書かれたメモの内容を、出掛ける前にもう一度確認した。
外は曇り空に覆われていた。車は使わない。京成《けいせい》線の曳舟《ひきふね》駅まで歩き、東銀座《ひがしぎんざ》で日比谷《ひびや》線に乗り換えて、広尾《ひろお》で降りる。
同じ都内にありながら、その街の持つ肌合いのようなものは、彼女の住む下町のものとは全く違っていた。時間にまだ余裕があったので、所番地を確認しながら、あたりを散策してみる。
ある通りには近代的な造りの高級マンションが並び、また別な通りにはガレージ付きの個人の邸宅が並んでいる。大仰な館造りが塀越しに見え、正門までまわって確かめて見ると、それは某国の大使館であった。そうした建物のどれもこれもが、ひっそりと息をひそめているように見える。そうした閑静《かんせい》な住宅地の中にあって、どうした土地の活用なのか、四面の広さを持つテニスコートがあり、その中だけが、サンドベージュに映える白のウェアを着込んだ連中で賑わっていた。そのコートの一面が地価にして幾らになるのか、美音子には想像もつかなかった。
そうして時間を潰した後、最後に行き着いた依頼人の邸宅は、某国の大使館なみに厳《いか》めしい外観を備えていた。敷地をぐるりと囲む高い塀の上には、鉄槍《てつやり》の忍び返しが狭い間隔で並んでいる。門扉は開放されていたが、彼女はインタフォンのボタンを押した。
――はい。どちら様でしょうか?
中年の女性の声が答える。依頼人の家族なのか、あるいは使用人なのか。
「鈴堂と申します。今朝方、こちらのご主人様から、この時間に伺うようにとの約束をいただいたのですが」
――伺っております。門は開いたままになっておりますよね? 玄関までどうぞ、お入り下さい。
芝生の緑に、白の玉砂利《たまじゃり》が映える小径を、美音子は屋敷へと向かった。左右の植え込みの向こうでは、職人たちが庭木の手入れを行っていた。
玄関に着くと、家政婦が応対に立ち、応接室へと通された。案内が去ってひとりになると、美音子はさっそくソファから立ち上がり、室内の調度などを検分し始めた。
壁には写真や肖像画などが並べて飾られている。古い写真の中には複数の人物が写っているものもあり、そうした中に美音子は、近代史の本で見掛けたことのある顔を幾つか発見していた。依頼人の祖先と思われる人物は、そうした大物たちと親しげに握手をしたり、談笑を交わしたりしている。
列の端には、比較的新しいと思われる写真も飾られていた。A4サイズに引き伸ばされたカラー写真の中では、中央にやや年輩の夫婦と思われる男女が並んで立ち、妙齢の女性と小学生ぐらいの女の子がそれぞれ、左右を固めていた。背景のシルクスクリーンや構図の陳腐《ちんぷ》さなどといったものからすれば、どうやらそれはどこかのスタジオで撮られた、家族写真のようなものであるらしい。年代からして、依頼人とその家族のものであろう。新しいとはいっても、ここ最近のものではない。退色のしかたからして、十年ほど前のものであろうか。だとすれば夫妻の娘と思われる左右の女性ふたりも、現在でははるかに成長していることであろう。右の美しい女性は結婚して家庭を持っていてもおかしくはないだろうし、左の可愛らしい子供も今では良い年頃になっているはずである。……どちらも生きていればの話であるが。
依頼はビジネスの関係であろうか。それともプライベートに関する事であろうか。美音子には電話口での相手の逡巡《しゅんじゅん》などから、それが後者のように思われていた。だとしたら、この家族写真に写っている、依頼人以外の三人の女性の内の誰かが、何か不幸な目に遭ったという可能性はかなり大きい。こうした豪邸に住む上流階級の人間が、美音子のような人間に調査を依頼せずにはいられないような事態などは、そう幾つも考えられるものではないのだ。
そうしたあれこれを考えているうちに、やがてその家族写真に写っている当の男性が、開け放たれていた戸口へと姿を見せた。
「お呼び立てしてしまって……」
そう言いながら、依頼人――朝倉剛蔵は背後のドアを閉ざして、部屋の中へと入って来た。美音子は儀礼的に見えるはずの笑顔を浮かべ、相手の様子をさり気なく観察する。
出掛けに漁った資料によれば、朝倉は今年で六十歳になったはずであったが、その年代にしては上背もあり、薄くなった頭部を除けば、風貌にも身のこなしにも、老いはあまり感じられなかった。
勧められて、美音子は応接セットのソファのひとつへと、腰を下ろした。そうしながら、相手が手にして来たファイルを、ちらりと盗み見る。今回の依頼に関する資料なのだろう。隣のソファの上に無造作に投げ出したそれを取り上げるでもなく、朝倉は話の切り出しに迷っているふうで、着席してしばらくの間は二人の上を、ぎこちない沈黙の時が流れて行った。
美音子はその間を嫌い、煙草を取り出した。テーブル上にはガラスの灰皿があったが、その中に灰は無く、彼女はいちおう喫煙の許可を得てから煙草に火をつけた。
「で……? ご依頼の内容というのは?」
煙とともに、そう催促《さいそく》の言葉を吐き出す。それでも相手は逡巡の色を見せていた。言葉が出て来ないなら、黙ってファイルを開いて見せれば良いのにと、苛《いら》つく心を宥《なだ》めながら、美音子は言葉を継いだ。
「ご家族に関することでしょうか?」
その質問に朝倉はハッと顔を上げ、そして頷いた。
「そうだ」
「娘さん……ですか?」
視線を先ほどの写真へと向ける。彼女がどこから相手の家族についての知識を得たか、その視線で示したのである。それは相手にも通じたらしく、朝倉は納得の表情を見せた後、またしても頷いた。
「そうだ」
「どちらの……?」
「両方だ」
朝倉はそこでひとつ息を吐くと、続けてこう言った。
「娘たちがどうして死んだのか……あなたにはそれを調べていただきたい」
ノックの音がして、飲み物が運ばれて来る。
盆を捧げて入って来た老女を、朝倉は妻の淑子《よしこ》だと紹介した。家族写真の中で微笑んでいる女性と、とても同一人物だとは思えないほどのやつれようである。緩慢《かんまん》な動作で二つのカップを置き、ペコリと気のない会釈をすると、そのままプイと向きを変え、部屋から下がって行ってしまった。
「愛想が無くて申し訳ない。先月、下の娘が亡くなってからずっと、あんな調子で……」
そう断りを入れたのがきっかけとなったのか、妻のやつれ果てた後ろ姿を見送ると、朝倉はそれまでと比べて、ずっと多弁になっていた。
「そう……。先に下の娘のほう……麻里亜という名前なのだが、そっちから話をしようと思うのだが……」
「そういえば先ほど、娘さんがお二人とも亡くなられたと仰いましたが」
「うむ」
朝倉は悲しそうな表情で頷いた。
「ご心痛をお察しします。……どうぞ、お話しください」
美音子は煙草を灰皿に潰し、代わりに紅茶のカップを取り上げて口をつけた。
「麻里亜はまだ十七歳だった。高校三年で、八王子《はちおうじ》にある純和女学院という学校に通っていたんだが……。君は純和という学校名は、聞いたことがあるんじゃないか?」
美音子は、残念ながら聞いたことがないと、正直に答えた。
「そうか。お嬢様学校として、けっこう有名だと思っていたが。まあ仕方がない。私の口から説明をするとだな、そこは明治からの伝統のある立派な名門校で、定員六十人に対して、毎年その十倍以上の入学希望者が殺到するという、人気のある学校でな。虚名だけでなく中身も具わっているからこそ、そうした人気もあるのだろう。実際、卒業生たちの多くは、それぞれ上流階級や社交界などといった場で活躍をしている。そうした名門校で、高い倍率であるのにもかかわらず、うちの娘たちは二人とも、その難関を突破して、見事入学を果たしたわけだ。私たち夫婦は、百合亜《ゆりあ》と麻里亜のそれぞれの入学の時に、それはもう手放しで喜んだものだった」
「百合亜さんというのが、お姉さんなのですね」
自慢話を聞きにここまで来たのでは無いと、そう言外の意味を込めながら、美音子は口を挟んだ。
「……いや、失礼した。まあとにかく、そうした名門校なわけだが、その純和という学校は実は、全寮制でな。だから麻里亜はここでなく、その学校の方で、天に召されることとなったのだと、そう言いたかったのだが」
「その死因に何か不審な点でも?」
「うむ。それなんだが……」
何を言《い》い淀《よど》んでいるのだろうか。さすがに美音子は焦《じ》れてきた。
「死亡診断書か、あるいは死体検案書はありますか」
朝倉は手元のファイルと美音子の顔とを見比べて、しばしの逡巡を見せた後、諦めたといったふうにひとつ息を吐いて、資料を彼女の手元へと差し出した。
「麻里亜のそれは、最後にある」
美音子はファイルを後ろから開いた。そこには透明なビニールの袋がバインドされていて、中に一枚の写真が入っていた。
「ああ、それは麻里亜の写真だ。……可愛い子だろう」
その最後の言葉には、愛おしさと哀しみの混じったような、何とも言えない感情が含まれていた。娘を失った父親だけが出すことのできる哀調だ……そう思っていた美音子は、写真の表を返して、そうして息を飲んだ。
「……そうですね」
相手の言葉は、単なる親馬鹿ではなかった。そこに写っていたのは、神々しいまでに美しい少女であった。その名のとおり、それはまさに聖母マリアを思わせる、無垢《むく》の微笑みであった。思わず壁の家族写真の方を、チラリと眺めやる。あの小さな子供が、こんなに美しく可愛らしい女性に成長して……。
そして死んだのだ。
「君の言っていた書類は、その前のページにある」
依頼人の声はまた、平静のものに戻っていた。美音子も、珍しく乱された自分の感情の波を鎮めながら、ゆっくりとページをめくる。
その用紙のタイトルは、死体検案書となっていた。それ以外のフォーマットは、通常の死亡時に発行される死亡診断書と、全く一緒である。発行人の所属欄には、八王子にある大学病院のゴム印が押されていた。図版の書き込みなどからして、行政解剖の措置がとられたもののようである。
美音子は記載事項を頭から黙読し始めた。
死者の名前は朝倉麻里亜。生年月日は昭和五十四年九月八日。死亡時の年齢は十七歳。死体が発見された場所は、純和福音女学院高等学校の学生寮五一一号室。発見の日時は今年の五月九日の、午前九時。死亡推定日時は同日の、午前零時から二時の間。……
「今日が六月の三十日ですから、お嬢さんが亡くなられたのは、もう二ヵ月近くも前のことになりますね。……あ」
死亡の種類。朝倉の態度からして、美音子はあるいは自殺かとも思っていたのだが、検案書の記載によれば、少女は病死であると診断されていた。問題はその死因である。
少女を死に至らしめたのは、短時間に大量の失血をしたことによる、心機能停止――いわゆるショック死であった。そして出血部位は体内――子宮内壁にあった。子宮内に胎盤の剥離痕《はくりあと》と見られる傷があり、そこから大量の出血をした跡が確認されたとある。
出血原因の診断は「切迫流産」であった。
「お嬢さんは妊娠を……されていたんですね」
それこそが、依頼人の口を重くさせていた事項なのであろう。そう見当をつけて声を掛けると、朝倉はまるで自分が侮辱《ぶじょく》されたとでもいうように顔を歪めて、彼女の顔を睨み返して来た。その眼光に気圧《けお》されて、美音子は視線を落とし、検案書の先を読み進む。
妊娠の件については、その他の特記事項として、死因とは独立した形でちゃんと書き込みがなされていた。子宮の大きさや重量などといった計測値が書かれ、さらに妊娠期間についても、十八週から十九週と、具体的な数値までが書かれている。
少し気になったのは、付記として「子宮外壁と腹腔背との間に癒着痕《ゆちゃくあと》アリ。子宮筋腫《しきゅうきんしゅ》とも違った悪性と思われる新物質の可能性アリ。流産の原因の可能性アリ」という書き込みがなされていた事ぐらいか。
娘たちがどうして死んだのか……朝倉は先ほど、美音子への依頼内容をそう説明した。しかし診断書を見る限りでは、少女の病死を覆すだけの根拠となる事項はどこにも見当たらない。
「お嬢さんの妊娠は……亡くなられるまで、ご存じではなかったのですね」
朝倉は視線を斜めに向けたまま、苦々しげな口調で答えた。
「うむ。……そうだ」
「学校のほうでは承知していたのでしょうか?」
「いや。……警察が学院に乗り込むまでは、誰も知らなかったそうだ」
「警察が乗り込む……?」
美音子が思わずそう呟くと、朝倉は首を左右に激しく振った。
「まったく……。警察の阿呆どもは、流れたはずのお腹の子を、捜しに来たんだそうだ。後で先生方から聞いたんだが、何でも浄化槽を浚《さら》ったり、あるいは埋められた痕跡は無いかと、校内をうろつき回ったりしたらしい。あのまま放っておいたら、他の生徒たちにも尋問をしていたかもしれない。……だがいったい、それが何になるというのだ。なあ君。宿った命は、それは確かに大切なものだ。それは私も認めよう。だが明らかに死んだものを、ただの肉の塊となったはずのものを、そうまでして……あの子が妊娠していたなどという醜聞を撒《ま》き散《ち》らしてまで、どうして捜す必要があるというのだ!」
朝倉は激昂《げきこう》した。しかし美音子には、その話の内容がいまひとつ、ピンと来ないままであった。
「要するに、麻里亜さんのお腹の中には、赤ちゃんは残っていなかったんですね?」
「そうだ」
「しかも発見現場となった部屋の中にも無い。で、警察がそのご遺体を見付けようと、学校まで来たというわけですね。……分かりました。で……? その捜索の結果、お孫さんは見つかったのでしょうか……」
「孫だと! き、君、何てことを!」
朝倉はそう怒鳴った後、空気が抜けたようにぐったりと身体をソファに沈めて、うって変わった静かな口調で言い添えた。
「いや、失礼。確かに産まれていれば、私の孫になっていたはずだな、その子供は。……いいや、見つからなかったそうだ。今でも見つかっていない」
十八週だか十九週だかの胎児というのが、いったいどのくらいの大きさのものなのか、美音子には正確な見当はつかなかった。警察にとって、それは捜すべきものだったのだろう。確かに、母体が流産でショック死を遂げたその現場に、流れ落ちた胎児の遺体が見つからなかったというのは、一種のミステリである。だが今の反応からすれば、依頼人が求めているのは、その消えた胎児の行方ではなさそうであった。
「お嬢さんの死因なんですが……。この検案書を見る限りでは、特に不審な点は見られないようなのですが」
「不審な点は見られない? うむ。確かにあの子が死んだ直接の原因は、そこに書かれているとおりなのだろう。だがいったい、誰があの子を妊娠させたというのだ? 全寮制の女子校に……名門の純和にいたあの子を、いったいだれが妊娠させたというのだ?」
朝倉は吐き捨てるようにそう言うと、プイと横を向いた。美音子はその横顔を見ながら、胸の中で計算をしていた。十八週から十九週といえば、およそ百三十日にあたる。死亡時の五月九日に妊娠後百三十日が経過していたとして、妊娠時期を逆算すれば……。
「今ちょっと計算してみたのですが、お嬢さんが妊娠されたのは、去年の年末から今年の正月にかけて、ということになりませんか? その時期、その女子校では、冬休みだったのではないですか? そうした休みの期間は、お嬢さんはどうされていたんです? 寮からこちらに帰省されていたのではないですか?」
「……それはそうだ、確かに。だが、この家でということは、絶対に有り得ない」
「ここに帰省していた間のことでは有り得ないから、学院の中だと?」
「そうだ」
「そしてその相手を、私に突き止めてもらいたいと……そういうわけですね?」
「そうだ」
美音子はそうして、依頼内容のひとつを、ようやく確認し終えた。それにしても……と美音子は思った。全寮制の女子校の中で、少女が妊娠をした。その相手を捜せという……それは、何という困惑に満ちた依頼であろうか。
「そうだ、言い忘れていたが、当然、麻里亜の妊娠の件は、他の者たちに知られては困るぞ。君が不用意な質問をして回って、それであの子が妊娠していたなどという噂が広まってみろ。何のための調査だか……」
「そういえば、何のための調査なのですか?」
美音子がそう訊ねると、朝倉はギョッとした表情になった。
「何のため……」
「お嬢さんを妊娠させた、その相手がもし特定できたとして、それでどうされるおつもりなのですか? こんなことをお訊きしても良いのかどうかは分かりませんが」
そう問い掛けられて、朝倉はしばらく黙り込んでいたが、ややあって、口を開いた。
「どういうつもりも、こういうつもりもない。ただ私は知りたいだけなのだ。……真実というやつを」
そう言って、さらに強い調子で訊いて来る。
「できるかね、君」
少女が望まない妊娠をして、処置を誤り、そして死んだ。性交の形がどういうものであったのか、現在の美音子には窺うすべも無いが、少なくともその性交の相手には、少女の死に直接の責任は無いはずである。無関係な要素を剥がしてみれば、要するに彼女が受けたのは、娘を妊娠させた男を突き止めてくれという、そうした父親からのありふれた依頼なのであった。通常であれば彼女は、そうした依頼は断っていたであろう。しかし美音子は、その依頼を受ける気になっていた。
先ほどの写真で見た少女の面影に、心を動かされていたのであろうか。
いや、そればかりではなかった。彼女の心の中に潜む〈黒猫〉の血が、その妊娠の背後に何か、追うべき獲物の臭いとでもいうべきものを嗅《か》ぎ付《つ》けていたのだ。
美音子はファイルを閉じ、表紙を上にして置き直した。
「先ほどたしか、もう片方のお嬢さんに関しても、何か調べ事があるというようなことを仰られていたようですが、先にその内容をうかがってから、ご依頼を受けるかどうか、判断させていただきたいのですが」
そう答えると、依頼人はしかつめらしい顔つきのまま、大きく頷いて、そして言った。
「うむ。そうだ。実は上の娘の方が死んだ事件についても、君に洗い直してほしいのだ。無能な警察に代わって。そして……」
朝倉はそこでいったん言葉を切って、そして後を続けた。
「お腹の中の子供といえば、実は君にはこちらの件で、お腹の中から消えた赤ん坊の行方を、探ってもらうことになるはずだ」
常盤台《ときわだい》で夫婦謎の死、嬰児行方不明
二十五日午前、板橋区《いたばしく》常盤台に住む公務員、稲垣《いながき》裕明《ひろあき》さん(三〇)と妻百合亜さん(二五)の夫婦二人が、自宅でそろって死亡しているのが発見された。二人が亡くなったのは前日の深夜から二十五日の早朝にかけて。百合亜さんは事件当時妊娠しており、出産による失血が直接の死因と見られている。ただし現場に嬰児の姿は発見されていない。裕明さんの死体には扼殺《やくさつ》によるものとみられる跡があった。
このため警察では裕明さんが何者かによって殺害されたものと見て捜査本部を設置、今後は裕明さん殺しの犯人とともに、百合亜さんの死因や、嬰児の行方などについても、さらに詳しい調査を進める方針。
依頼人に指示されて開いたファイルの、最初のページには、新聞記事がスクラップされていた。台紙には手書きで、日付は昨年の七月二十六日であると書き込まれている。
次のページをめくると、そこには百合亜の死体検案書があった。発行人にはK大の教授の名前が書かれている。扼殺体と一緒に発見されたということで、司法解剖の措置がとられたのだろう。美音子は記載事項を丹念にチェックしていった。
稲垣百合亜。昭和四十五年八月二日生まれ。死亡時の年齢は二十五歳。死亡推定日時は平成八年七月二十五日、午前一時から三時の間。
死因は失血によるショック死。出血部位は子宮内壁の胎盤剥離痕。子宮底長三十糎。妊娠後期(担当の産科医より臨月だったとの報告有)。子宮内血腫甚大。胎児および胎盤は無し。産道に拡裂痕無し。会陰部の断裂等無し。分娩の可能性に関しては要調査。
子宮筋および子宮外壁(後背部)に腫瘍《しゅよう》あり。……
その内容は驚くほど、先ほどの朝倉麻里亜のものと似ていた。どちらの死因も、胎盤の剥離痕からの大量失血によるショック死とされている。そして揃って、胎児または嬰児の姿が、彼女たちの死亡現場からは消えていたというのだ。
美音子はページを繰り、もう一度さきほど見た麻里亜の検案書のページを開いた。そこに何か手掛りでも残されてはいないかと、二枚の検案書を細部まで比較する。
「……お二人とも、子宮からの出血が原因で亡くなられていますね。……私にはよく分からないのですが、姉妹揃ってこうした原因で亡くなられるというのは、ちょっとめずらしいのではないでしょうか」
「……そうだ」
「それについては、どうもこの子宮外壁の腫瘍とか、癒着痕とかいうのが、怪しいような気がしているのですが」
朝倉は眉根を寄せて、ソファから身を乗り出してきた。美音子はその相手に、二枚の検案書の当該項目をそれぞれ示して見せた。
「どちらも直接の死因と関係があるとは書かれていません。でもこうした異常がお二人に共通してあって、そしてお二人がともに命に関わるような大出血をなされているわけです。つまりそこには何かしらの因果関係があると見るべきで、たとえばこの腫瘍のようなもの、これがお二人に共通しているということは、そこには何かしら遺伝的なものがその原因にあって、それでお二人とも実は元々、出産に際してはそうした危険性を伴うような体質だったのだとしたら……」
「……私にはそうした、難しいことは分からん。多分、いま君の言ったような、そうしたことなのかも知れん。……二人が揃って同じような死に方をしたのは、な。だが私が求めているのは、そうしたことでは無い」
朝倉は大きく息を吐いた。
「ではどうして、百合亜の時も麻里亜の時も、揃ってそのお腹の子供が現場から発見されなかったのだ? 百合亜のお腹にいた子供は、どこへ行った? 誰が始末したのだ?」
朝倉はまた激しい口調になっていた。
美音子は相手に断って、また煙草に火をつけた。その煙を避けるように、朝倉は上体を退き、目をしばたたいて、再びソファに背をあずける。
美音子はファイルのページを繰りながら、その中身をざっと眺め渡してみた。
「百合亜さんの旦那さんの、死体検案書は、入っていないんですね?」
そう訊くと、相手は呻《うめ》き声《ごえ》を洩らした。彼女は朝倉の表情を観察した。
その面に表れていたのは、怒りの表情であった。
「そんなものがここにあるわけがない。百合亜の夫だった男の家とは、あの事件以来、縁を切ったからな。……こともあろうに、あの家の連中は、百合亜が裕明くんを殺したと、そう因縁をつけて来よったんだ。全く馬鹿らしい。しかも困ったことに、警察の阿呆どもまでが、それで事件を片付けてしまおうというんだからな」
「警察が……?」
「そうだ。あの連中は全く、糞《くそ》の役にも立たんとはこの事だ。……いや、失礼」
むう、むうと荒い息を何度かして、朝倉は何とか気持ちを鎮《しず》めたようだった。
「ともかく、あいつらは何の捜査もせんうちから、全てを百合亜のせいにしてしまいおった。あの子が出産への恐怖から精神的におかしくなって、それで発作的に裕明くんを殺してしまったんだとか言って。百合亜が死んだのは、そのショックもあったんだろうとか。まったく信じられん話だ」
「でもそれでは、赤ちゃんが消えたことが説明されていませんね」
美音子がそう言うと、朝倉は我が意を得たと言わんばかりに頷いた。
「そのとおりだ。……そう、確かにあれは、妊娠に関しては少々神経質になっておったところがあった。それは私も認めよう。だがそれも、向こうの家族からやいのやいの言われ続けて来たからで、それをもって全てを百合亜の責任にするところなど、全くもって許せん。……というわけだ。つまり君には、百合亜が無実だということを証明してもらいたいのだ」
「……それと、この赤ちゃんの行方ですね」
美音子が補足すると、朝倉は大きく頷いた。
「生きておれば、そろそろ一歳になろうかというわけだな。……いや、私もその子が生きているとは思わん。もちろん、生きておれば、それは私たちにとって、たった一人の孫ということになるわけだし、そうなれば私たちにとっても、この上ない今後の人生の愉しみになるだろう。だが、生きているその子を見付けてくれとは言わん。ともかく君には、百合亜の産み落とした子がどうなったのか、誰がどう始末したのか、それを明らかにしてほしいのだ。それはきっと、百合亜の家で起きたあの忌まわしい事件の、本当の出来事を明らかにしてくれるだろうから、な」
そこで再び身を乗り出して、
「どうだろうか。君に依頼を引き受けてもらいたいのだが……」
美音子は即答を避け、煙草を灰皿に潰した。だが彼女の中の〈黒猫〉の血は騒いでいた。
何かがある……。百合亜と麻里亜、その二人の女性の死には、確かに依頼人の言うように、おかしな何かがある……。
「分かりました」
彼女は顎を引いた。
「引き受けてくれるのだね」
「その前に料金について、こちらからも説明させていただいたほうが良いでしょう」
美音子が提示した条件を、依頼人は二つ返事で承服した。
「……一週間ごとにこちらにご報告にあがります。その際に報告書を提出しますので、それを見て、次の週の契約を更新するかしないかを、その度ごとにそちらで決めて下さい。各週、料金は前金で、現金でいただきます。それから前の週にかかった必要経費も、できればその時にいただければありがたいのですが。その場合、金額が大きくなる時には、事前にご連絡を入れさせていただきますので」
「分かった。噂に聞く〈黒猫〉の腕を信じよう」
依頼人は頷いた。
美音子が東向島《ひがしむこうじま》の自宅に帰り着いた頃には、日はもうとっぷりと暮れていた。建て付けの悪くなった玄関の引き戸を開けると、ジャムが沓脱《くつぬ》ぎのところまで彼女を迎えに出ていて、闇の中でひと声、ニャアと鳴いた。戸締まりを済ませてから猫を抱き上げ、家中の明かりを点けながら奥の部屋へと向かう。
猫を放し、荷物を床の上に置いて、着替えを済ますと、彼女はベッドにバッタリと倒れ込んだ。
久々に〈黒猫〉としての日々が始まる。その緊張と、昨日までの怠惰な生活との間のギャップに、身体が悲鳴をあげていた。時差ボケのようなものかもしれない。
脳裏《のうり》にはすでに、百合亜と麻里亜、二人の美しい女性の人生が、べったりと貼り付いていた。朝倉家の応接室で契約を交わした後に、美音子はさっそく、調査のために彼女たちの短かった一生をより深く知っておく必要があるのだと言って、二人の私物を漁《あさ》って来たのだ。
百合亜が稲垣裕明と結婚をしたのが、平成四年の秋。その私室には、彼女が結婚の前日までを過ごしていた日々の記憶を残した品物と、それから四年後に惨劇の家から引き取られて来た品物とが詰まっていた。アルバム、手紙の束、病院の診察券……持ち主がすでにこの世を去っているという感傷に惑わされること無く、〈黒猫〉は淡々と、参考になりそうな物を捜し出そうと、それらの品々を漁った。
麻里亜の部屋も同様であった。二年前の四月に高校の寮に入るときに、置いて行ったものと、二年後の今年になって、戻って来たもの……その二つの山から〈黒猫〉は淡々と、使えそうな資料を捜して、少女の半生を追体験しようと試みた。
色々なものが、美音子に二人の様々な面について語り掛けて来た。不明な点については、朝倉の補足を仰いだ。そうして今日の午後いっぱいの時間をかけて、彼女は二人の女性を自分の中で、立体的に捉え直すことに専念したのだった。
二人の私物の中には、聖書やロザリオといったものがあった。
「この子たちは……あなたがたも、そうするとクリスチャンなのです……ね?」
「うむ」
捜索に立ち会っていた朝倉は、美音子にそう問い掛けられて、眉間に皺を寄せて頷いた。
「お二人のご冥福を祈らせていただこうと思ったのですが……。では仏壇とかは当然、家の中には無いのですよね」
「うむ」
襟《えり》の合わせのあたりをギュッと握り締めて、朝倉は頷いた。その表情には、受難のキリストを思わせるものがあった。……
美音子は身体を起こし、ベッドの端に腰をかけた。煙草に火をつけながら、依頼人の背負った苦難に思いを馳せる。
二人の娘が、一年と間をおかずに、相次いで亡くなったのだ。しかも結婚四年目の長女は死後、夫殺しの疑いを受けており、さらに可愛い盛りの次女は父親の分からぬ子供をその胎内に身籠っていた。……美音子は半日の時間をかけて、その二人の一生を自分の中に取り込んだのである。だからその二人の娘の父親であった男の苦悩については、今では自分のことのように、容易に想像することができるようになっていた。
男は問い掛けずにはいられなかったのだろう。なぜ自分がこのような苦難を背負わされなければならないのか、どうして自分の家族ばかりに、こうした不幸が押し寄せて来なければならないのかと。その問いに神からの答えは無く、そして代わりに問い掛ける相手として選ばれたのが、美音子だったのだ。
その依頼に関して、少なくとも百合亜の件に関しては、美音子は依頼人の期待に応えられる自信があった。彼女の中の〈黒猫〉が告げているのだ。裕明を殺したのは、絶対に百合亜では無いと。
百合亜は虫も殺せないような、そんな心優しい女性だったのだ。けっして人殺しになれる人間ではない。妊娠中は女性は別な人格に変わるとよく言われるが、彼女は悪阻《つわり》も妊娠中毒症も無く、実に快適な妊娠生活を送っていたという。稲垣家から回収された荷物の中にもそうした、彼女の精神の変調を窺わせるようなものは全く無かった。
そして百合亜は、夫の裕明を心の底から愛していた。愛していたばかりでなく、尊敬もしていた。裕明の方でも、その心優しく美しい妻を確かに愛していたらしく、臆面も無くそうしたセリフの書かれたバースデイカードやクリスマスカードなどが残されていた。そうした資料類から想像される夫婦の仲は、これ以上は無いというくらいにうまくいっていたはずなのである。
そして何よりも、事件の状況からしてが、彼女の無実を明示していた。新聞記事によれば、裕明は扼殺されたもののようである。扼殺とはつまり、手を使って相手を絞め殺すことを言う。紐などの道具を使って相手を殺す絞殺とは違い、扼殺には相当な力が必要なのだ。成人男性を扼殺するなど、女性の細腕ではそう簡単にできるものではない。
警察は何をもってして、犯行を百合亜によるものだなどという説を立てたのだろうか。……それが去年の事件に関して、〈黒猫〉が調べなければならない最初のポイントであった。
それに対して、先月に起きた麻里亜の死は、美音子にはいささか不可解なものであった。彼女が中学生の時にどういう少女であったかについては、美音子としてはかなり正確に掴んだという自信があったのだが、高校に入ってからがどうも判然としない。特に高校二年の夏……昨夏の、百合亜の死以降、麻里亜が何を考えて日々を過ごしていたのか、それを窺わせる資料が全く無かったのだ。教科書にもノートの欄外にも、イタズラ書きは無いし、生徒手帳のメモの内容も、当番がどうのこうの部費がどうのこうのといった、事務的なものばかりである。
彼女はいったい誰とセックスをしたのか。その相手の男のことは愛していたのか。それとも暴力的に汚されたのか。妊娠に気付いた時には、どう感じたのか。だんだん大きくなって来るお腹を見て、どう思っていたのか。そして、どうするつもりだったのか……。
もちろんそうした事は、殊《こと》に寮暮らしでプライバシーを誰かに覗かれる危険性があったのだから、直截的《ちょくせつてき》に何かに書くということは、少女には出来なかったのかもしれない。だがそうした心の揺れは、十七歳という年齢ならば、どこかに現れていて当然なのである。心の不安のはけ口が、必要だったはずなのだ。……だがそれがどこにも現れていない。
誰かが処分したのだろうか。……美音子はその可能性は高いと思っていた。
胎内から剥がれ落ち、その出血が少女を死に至らしめたという、肉塊――胎児は、現場からは発見されなかったという。誰かそれを処分したものがいたのだ。そしてその同じ人物が、麻里亜の胸の内を明かしたそうした資料の類《たぐい》をも、処分してしまったのかもしれない。
いずれにしろ、そう難しく考えることもないのかもしれない。麻里亜の場合には、その性交の相手を突き止めるだけなのだ。それが美音子の受けた依頼の内容であり、それ以上でも以下でもない。だとすれば話は簡単である。性交の時期は現時点でもおおよそ判明している。あるいは剖検医に訊ねれば、より正確な受精時期も算定されるかもしれない。その時期の行動を調べさえすれば、少女を妊娠させた男の正体などは、おのずと明らかになろう。
……煙草が短くなっている事に気付いて、美音子はそれを灰皿に押しつけた。立ち上がり、台所のフリーザーからロックアイスを取り出して素手で持って来て、昨日使ったままのグラスに落とすと、そこにバーボンをなみなみと注ぐ。
バターピーナッツの小袋を開けると、ジャムが鳴きながらベッドの下から這い出して来た。幾粒かを足元に落とすと、サッと身を寄せて来てガツガツと貪《むさぼ》り食う。それを眺めながらグラスを傾ける。すぐに空く。二杯目を作る。それもすぐに空になる。
眠ってしまう前に、床に放った荷物を片付けておかなければと、彼女は酔いに溺れ始めた頭の片隅で、ボンヤリとそんなことを考えていた。
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五章 受胎告知
朝倉麻里亜の遺体を検視し行政解剖をした医師は、近藤《こんどう》という男だった。剥いた茹《ゆ》で卵《たまご》のようなツルンとした顔に、黒縁眼鏡を掛けていて、それがしょっちゅう鼻からずれ落ちて来るのを、その度に押し上げるという癖があった。年齢が分かり難い風貌である。
「憶えていますよ。ええ。滅多に見られないような、綺麗なお嬢さんでしたからね」
八王子にある大学病院の研究棟。鈴堂美音子が案内されたのは、六畳ほどの小部屋であった。近藤医師個人に与えられた、研究室のようなものであるらしい。整理整頓とは無縁な性格のようで、部屋の中はデスクの上から棚の上から、はたまた床の上に至るまで、平面と見ればお構いなしに、書類の束や実験器具らしきもの、あるいは何段にも重ねられた丸いガラス器(怪しげなラベルが側面に貼られている)などが、所狭しと置かれている。一方の壁際に、レントゲン写真を見るときに使われる、奥から光が当たるように出来ている白いパネルがあって、その前にテーブルを挟んで椅子が二つ置かれており、美音子は近藤と向かい合って、そこに腰を下ろしていた。そのテーブルの上にも、紙袋や試験管や、あるいはまだ飯粒の貼り付いている丼などが置かれている。
窓の外はもうすでに暗くなっていた。蛍光灯《けいこうとう》に照らされた室内の様子が、夜の闇を背景にして、ガラス面にうっすらと反射している。朝倉剛蔵の方から、代理の者が再度詳しい話を聞きに行くという連絡を入れさせて、ようやく取り付けた約束の時間が午後七時。実際にはさらに三十分ほど待たされて、ようやくこうして面談とあい成ったのであった。
近藤は自分の膝の上に置いたファイルを、パラパラと捲《めく》っている。
「おお、そうそう。そうでした。切迫流産の傷跡からの大出血ね。これこれ」
本当に憶えていたのだろうか。美音子は首を捻りたくなった。
「で……? 詳しくお聞きになりたいというのは?」
「その子の妊娠についてです。実はその赤ちゃんの父親を捜せと言われていまして……。検案書のほうには、妊娠十八週から十九週と書かれていましたが、もっと正確な、受精の行われた日付の範囲といったものが分からないか、というのがひとつです」
少女の妊娠について知っている医師や警察などに対しては、美音子は何も隠す必要が無い。直截にありのままを語った。気を遣わなければならないのは、この後に控えている、少女の交友関係を洗う調査の過程においてなのである。
「それともうひとつ、これは漠然《ばくぜん》とした言い方になってしまうのですが……。現場から発見されなかったというお腹の中の赤ちゃんの件も含めて、私はどこか、この子の死に方に釈然としないものを感じているのです。……彼女のお姉さんが、同じような死に方をしているというのは、ご承知されているでしょうか?」
「いや……」
近藤は首を横に振った。美音子は自分の持って来た資料を提示する。
「ここに資料がありますが……」
「拝見いたします」
美音子が新聞記事や稲垣百合亜の死体検案書などといったものを手渡すと、近藤はそれを眺めながら、ウウムと低く呻った。
「……どうですか?」
間を置いて訊ねてみると、相手は直接には答えずに、代わりに百合亜の検案書をコピーさせてもらえないだろうかと要求してきた。その反応に、彼女は満足した。やはり専門家が見ても、この姉妹の連続した死にはどこか、不可解な点があるのだ。
立った椅子にファイルを置き、丼を抱えて、医師は部屋を出て行った。戻って来て資料を美音子に返してからも、取ったばかりのコピーをしばらくは眺めてばかりいる。
「……どうですか。まず、消えた嬰児の謎ですね。それから検案書の、子宮外壁に腫瘍のようなものが云々っていうのが、共通していますよね」
美音子がそう声を掛けると、相手はようやく資料から顔を上げ、そして言った。
「確かに、これはおかしい……」
どこか遠くを見る目つきである。失礼、と言って立ち上がり、窓際のデスクから灰皿を持って戻って来る。煙草に火をつけ、それを吸いながら、どうやら考えをまとめているふうだったので、彼女も煙草を取り出して、その考えがまとまるのを待った。
近藤は煙草を一本灰にしてから、ようやく顔を上げた。
「失礼しました。で……?」
「ですから……これは依頼人から任された調査内容とは直接関係の無いことかもしれないのですが、私が引っかかっているのは、この二人の死の原因についてですね……これは死因というのとはまたちょっと違うのですが……それについて何か参考になるようなことを、聞かせていただけないかと思いまして。たとえば先生が視《み》られた現場の状況などについても、お伺いしたいところなのですが。……先生は現場での検視にも立ち会われたんですよね」
「ええ。……分かりました。妊娠時期についての話は、実はまた色々とあって後回しにしたいので、ではそちらから先に片付けましょう」
医師はそう言って頷いた。そこで美音子は質問を重ね、検案書には記載されていなかった、死体発見当初の麻里亜の様子についての知識を得た。
麻里亜の死体を発見したのは、舎監《しゃかん》をしていたシスターであったという。彼女はまず救急センターに連絡を入れている。到着した救急隊員は、麻里亜がすでに死亡しているということだけを確認し、そして警察へと連絡が入れられて、異状死として検視が行われることとなった。
「……ご遺体はキチンと仰臥の姿勢をとって、ご自身のベッドの中にいました。ただし寝衣《ねまき》は……スウェットというんですか、それは部屋の床に脱ぎ散らかされていまして、身体に着用していたのは下着だけでした。その下着も、どうやら後から誰かが着せたもののようでして、確認したところ、発見者のシスターが、自分が着せたのだと、渋々と認めていました」
「ということは、死亡時には全裸で寝ていたと?」
「そういうことになります。まあ、自分の部屋で、誰が見ているわけでもないですから、裸でお寝《やす》みになる習慣があったとしても、別に問題は無いわけです」
「でも寒くはなかったんでしょうかね。まだ五月の頭だったんですよね」
「ええ、しかもその前の晩は、たしか雨が降っていましたし、どちらかといえば寒い夜だったように記憶しています。私もおかしいなとは感じたのですが……。で、それから検視官と一緒に死因を確認しました」
近藤は話を続けた。……ベッドのシーツの上には、広い範囲にわたって、血の染みが広がっていた。死因は出血によるショック死であると思われた。染みの位置からして、出血部位は下半身にある。下着を脱がせ、出血部位を確認する。
「婦人病についてのあれこれを考えました。妊娠の、特に子宮外妊娠から来る卵管破裂などの可能性については、もちろん考えてはいましたが、場所が場所だけに……女子校の寮でしょう。そういう先入観があったからかもしれませんが、乳輪や下腹部などといった、妊娠を見分けるポイントを観察しても、特に妊婦に特有な徴候などは見られませんでした。発見者のシスターにも確認したのですが、まさかと言って取り合わない。ですが、念のためにということで、解剖の手続きをとったのです」
つい先年まで、この地区では実質、行政解剖を行うことができなかったのだという。もし昔の制度が今でも続いていたら、麻里亜の妊娠の事実も、あるいは見過ごされていたかもしれない。その場合には、朝倉剛蔵が美音子に調査を依頼することもなかっただろう……。
さて、近藤が解剖の手続きをとり、腹腔を開いて子宮を確認してみると、はたしてそれは通常の鶏卵大よりも肥大化していた。しかし弛緩《しかん》していて、内部に胎児のいる可能性は無い。子宮を摘出し、内部を確認する。やはり中には胎児の姿は無かった。子宮内壁には血腫がべっとりと貼り付いていて、それを洗浄すると、胎盤の剥離痕が現れる。掻爬《そうは》の傷跡ではない。
そこで近藤の出した所見は、切迫流産。原因としては、転んで腹部を打つなどした可能性がある。そこで打撲痕などの外部所見を確認するが、見つからない。代わりに子宮筋の内部および外壁に、しこりのようなものが確認された。子宮筋腫のようではあるが、一部に腹腔背部との癒着まで見られて、症例としては珍しい種類のものであったため、組織の標本を作製する。いずれにしろ、この腫瘍が流産の原因となった可能性はかなりあった。
「それにしても、子宮外妊娠でも無く、胎盤までちゃんと形成されていた痕がありましたからねえ。では胎児はどこに行ったのでしょうかと、私らは首を捻《ひね》ったものです。子宮の大きさからして、五ヵ月目には入っていたと思われましたからねえ。どこかで産み落としたのでしょうが、それを見付けてあげて、死胎検案書も書いて、ちゃんと手厚く葬ってさしあげないとねえ。……と、その時にはそう思いました」
「と言いますと? 赤ちゃんの死体は、まだ見つかってないんですよね?」
美音子がそう訊ねると、近藤は首を捻った。
「あれ、親御さんの方には、警察から連絡が入っていないのですか? ……いえね、実はこの件では、後になってから分かったこともありまして」
「分かったこと? ……といいますと?」
医師は膝の上のファイルを、パラパラとめくる。美音子の位置からはそれを覗くことができない。彼女は先ほどより、相手が何を見ているのか、それを身を乗り出して覗き込みたいという衝動に駆られていた。
「鈴堂さん……でしたよね。あなた、発生学とかについては、詳しいですか?」
「発生学?」
「そうです。ええと、そうですね……。受精卵、細胞分裂、染色体にDNA……、まあ、そういった事についてなんですけどね」
「常識的なレベルであれば……」
「分かりました。説明しましょう」
近藤はファイルから、透き通ったセルロイドのようなものを取り出すと、横手のパネルの上端にそれを差し込んで、そしてどこかのスイッチを入れた。途端にパッとパネルが明るくなる。
「これは……」
美音子は小さく声をあげた。それは顕微鏡写真であった。粒子がやや荒いものの、黒の背景に、白いX字形の影が大小さまざま、たくさん写っている。
「麻里亜さんの子宮から採取した異物の組織標本の、染色体を撮したものです」
眼鏡をずり上げる動作を挟んで、近藤が説明を始めた。
「検案書にも書いたのですが、この子の子宮筋および外壁に、腫瘍のようなものが発見されました。直接の死因とは無関係と判断しましたが、流産を引き起こした一因にはなっているかもしれない。しかも、どうもただの子宮筋腫とも違うようだというので、先ほども申し上げたとおりに、サンプルを採取させていただいていました。その細胞の染色体を顕微鏡写真で撮影したものが、これなわけです。そして実は、これを調べてみたら、あることが判明したのです。
説明いたしますと、このバツ印みたいなのが、染色体と呼ばれているものです。人間の身体というものは、数多くの細胞からできているわけですが、その細胞の中には全て、核という玉が一個ずつ入っています。そしてその中に、この染色体が入っているわけです。
染色体の数は、各生物ごとに決まっていて、たとえば人間の場合には、各細胞にはそれぞれ四十六個の染色体が入っている事になっています。その染色体が実は、遺伝情報を持っていて、そしてそれをバケ学の言葉で言えば、デオキシリボ核酸、つまりDNAというわけですね。……核型にまとめたのが、こっちにあります」
近藤はそう言うと、ファイルから一枚の用紙を取り出し、それをテーブルの上へと置いた。見ると台紙の上には、先ほどの顕微鏡写真のX字形の影が、大きい順に切り貼りされて並べられている。
「四十六個の染色体は、四十四個の常染色体と、二個の性染色体とに分けることができます。このここから上が常染色体で、御覧のように二つずつ、ペアになっています。これを相同染色体と言って、それぞれの持っている遺伝情報の種類は全く一緒です。片方が父親から、そしてもう片方が母親から受け継いだ情報なわけで、それでこうしてペアになっているのです。
ところがこちらの性染色体と呼ばれている方は、必ずしも常染色体のようにペアになるとは限らないのです。性染色体にはX染色体とY染色体とそれぞれ呼ばれている、二種類のものがありまして、それがXとXのホモ結合ならば女性に、XとYのヘテロ結合ならば男性にと、その組み合わせによって性別が決まるので、性染色体と呼ばれているわけです。ところが……その核型をよく御覧になってください」
相手にうながされて、下欄に貼り付けられている二つのX字形をお義理で覗き込むと、それぞれの影の下には書き込みがあって、その両方ともが『Y』となっている。
不審に思って相手を見ると、医師はここが大事と言わんばかりに間を取ってから、告げた。
「そう……これは、XXでもXYでもないんです。つまり女性でも男性でもない。だから言わば、第三の性というわけなのですよ、この検体は」
「第三の性……」
話はどうも、美音子が当初思っていたのとは、違った方面へと向かっているらしい。
「……XXと、XYっていうのがあっても、YYというのは無いんですね?」
「通常ならば、そうです。有り得ません」
通常ならば有り得ないものが、眼前にある……その事態が研究心をあおるのだろうか。美音子の目には、相手がどこか、愉しんでさえいるかのように映っていた。
「この世に男と女の他に、何がいますか? オカマやオナベはいますが、それだって肉体的には、男か女のどちらかです。YYというのは、通常では有り得ない組み合わせなのです。……それを説明しましょう。
えーっと、まず、人間の細胞にはそれぞれ、四十六個の染色体が入っているということは、先ほど申しましたが、精子と卵子の場合には仕組みが少々異なっていまして、実はそれぞれ、二十三個ずつの染色体しか持っていないんですよ。この場合の細胞分裂のことを、減数分裂と言うのですが……。
ちなみに細胞っていうのは、絶えず分裂を繰り返していて、それによって、古い細胞が死んで、代わりに新しい細胞がどんどんと再生されていって、体全体として新陳代謝《しんちんたいしゃ》が行われているわけなんですけどね。それを、一個一個の細胞に注目して見てみると、細胞分裂をしている分裂期と、分裂をしていない静止期とがあって、それが交互に繰り返されている。そして、染色体がその名のとおりに染料に染められて、そうしてバツ印の形を見せるのは、実は分裂期だけなんですよ。
その写真のように、バツ印の形をしているのが、分裂の直前の状態でしてね。その後、それぞれの染色体は、そのバツ印の真ん中の繋ぎ目がぷつんと切れて、ひらがなのくの字みたいな形が二つになって、その瞬間にはひとつの細胞の中に、くの字形の染色体が合計で……えーっと、九十二本、できるわけですね。それからその九十二本の染色体は、四十六本ずつに綺麗に分かれて、そうして新しくできるはずの二つの細胞のそれぞれの核のあたりへと、すーっと引っ張られて行ってしまいます。そうして最後にそれぞれの四十六本を包む丸い膜が出来て、細胞に境目の壁が出来て、そうして元々がひとつだった細胞が、二つに分裂する。分裂が完了すると、染色体は見えなくなります。どうしてかと言うと、染色体の実体はDNAであり、それは実は細い糸のようなものなのですね。たとえ顕微鏡写真であろうとも、とうてい目に見える大きさではない。それがこうしてバツ印の形に見えているのは、実はそのDNAという細い糸が、糸巻きに巻かれているような状態になっているからなのですよ。分裂期にはそうなります。ところが分裂が終わって、細胞が静止期に入ると、その糸はほどけて、そして見えなくなってしまいます。……というのが、通常の場合ですね。
ところが……話を戻しますと、生殖細胞って呼ばれている細胞の場合だけは別でしてね。生殖細胞というのは、つまりは男の場合には精子を、女の場合には卵子を作る細胞なんですが、その場合には減数分裂という……まあ要するに、数が減る分裂というのが行われるわけなんです。で、それがどういう仕組みなのかと言いますと、染色体というのは、その核型に見られるように、二十三対のペアになっているわけなんですが、単純に言えば、まあ、それぞれのペアから一個ずつ、全部で二十三個だけ、親細胞である生殖細胞から染色体を持って来るってわけですね。本当はそこでキアズマとかが入るんですけど。まあいいや。で、それで精子なり卵子なりを作るわけです。そしてその精子と卵子が受精すれば、受精卵の中の染色体の数は、二十三プラス二十三で、ちゃんと四十六個になる。そうして産まれて来る子供は、父親と母親と、両方の親から、遺伝情報を引き継ぐってわけなんです。
で、その時に性染色体だけを注目して見てみますと、卵子の場合には、親細胞の性染色体は……元々が女性の体内にある細胞なわけですから、XとX、だからどちらを持って来ても同じで、卵子には必ず性染色体としてXが一個入っているわけです。一方で精子の場合には、これは元がXとYですから、Xの入った精子と、Yの入った精子とが二種類、同じ数だけできるわけです。そして受精時に、Xの入った精子が先に卵子と出会えば、XXで女の子が産まれるし、Yの入った精子が先に卵子に辿《たど》り着《つ》けば、XYで男の子が産まれるというわけです。
……だから本来ならば、そうしたYYの組み合わせなどは、有り得ないのですよ。ところがこいつは、染色体数は全部で四十六個、そうしてちゃんと数は合っているのに、男でも女でも最低一個はあるはずの、X染色体が無い。で、その核型にそうして並べて見てみると、どう見てもY染色体が二つある。つまりそれはどう見ても、YY型というわけです。正真正銘の、ね」
「なるほど。つまりこのYYというのは、本来ならば有り得ない染色体の組み合わせなわけですね」
「そうです。ところが、そういう有り得ないはずの組織が、この子の子宮壁内から異物として検出されたというわけです」
「異物……」
「要するに、胎児の細胞なわけですよ。異常に増殖して子宮壁に潜り込んだ、絨毛膜《じゅうもうまく》の組織片だと思われます。つまりこれが……えーっと、この子の……朝倉麻里亜さんの、お腹にいた赤ちゃんの染色体というわけです。
もったいぶらずに種明かしをしましょう。いや、実はこれ、一種の、染色体異常と呼ばれるものなのですよ」
「染色体異常……」
美音子はそうして、鸚鵡返《おうむがえ》しに言葉を挿むばかりであった。近藤医師の説明は悪魔の呪文めいて聞こえ、そう思って改めて見直すと、相手の黒縁眼鏡の奥の目には、どこかメフィストフェレスを思わせる不気味さのようなものがあった。
医師は続ける。
「細胞分裂の時に、九十二本のくの字形になった染色体が、四十六本ずつに分かれて、それぞれが新しい細胞の細胞核になるという話を、先ほどしましたよね。で、その時に稀《まれ》に、その新しい細胞核の外に、くの字が一本、取り残されてしまうような場合があります。そうすると、染色体が四十五個しか入っていない細胞が出来てしまいます。あるいはその逆で、くの字を集める時に、間違って一本余分に引っ張って来てしまう場合もあります。そうした場合には、染色体が四十七本も入っている細胞ができてしまいます。……その場合でも、分裂の相手は一本余分に持って行かれて、四十五本になりますね。……たとえばこういうのが、染色体の数がおかしいというので、染色体数異常と呼ばれています。
染色体の異常にはもうひとつ種類があって、それは染色体構造異常と呼ばれています。染色体の実体が、実はDNAという細い糸がぐるぐるとコイル状に巻かれたものだっていう説明は、先ほどしましたよね。その細い糸がたまに、ぷちっと切れてしまう事があるんですよ。それでもたいていの場合は、その切れた箇所は自然と、その切断面同士で再びくっつくんですけど、時にはそれが切れたままになってしまったり、あるいはその切断が同時に二つ以上の染色体で起きて、その復元時に両者を取り違えてくっつけてしまう、なんて事も、たまに起ったりしているんですよ、私たちの身体の中では。
実はこうした分裂時の染色体異常は、多分いま、この私の身体の中でも、どこかで起こっているのかもしれません。ですが、それが問題になるようなことはありません。というのも、まわりの正常な細胞に比べて、そうした異常な細胞っていうのは、繁殖力が無かったり弱かったりしますので、すぐに自然と消えて行ってしまうわけなんですよ。で、私たちの身体はまあ、こうして、正常を保っているってわけです。
ですが、それが受精卵とかの場合だと、話がまた変わって来てしまうんですね。そうした染色体異常が、例えば精子や卵子、あるいは受精卵で起こったりすると、問題が起きます。……そうした場合には、私たちのこうした、完成した身体の中で起こる場合とは違って、周りにそれを軌道修正するような正常な細胞がありませんから、それが致命的なエラーになってしまうわけなんです。
で、この核型のこれなんですが、これ……御覧のとおり、染色体の数は四十六個、ちゃんとあるんですが、これ、私はある意味では、染色体数異常の症例になるんだと思っています。つまり、この児は男の子で、性染色体はしたがって、最初はXY型だったと思うんですよ。Yがある以上は、そうだったのに違いありません。ところがそれが、細胞分裂の初期の段階で、X染色体のくの字ふたつが、両方とも向こうに行ってしまって、その代わりにY染色体のくの字ふたつが、両方ともこっちに来てしまうという不分離が、同時に起こったんです。それで数は、両方とも四十六個あるんだけど、中身がおかしな具合になってしまった。で、普通、そうした染色体異常を起こした受精卵っていうのは、まともには育たなくて、妊娠の初期の段階であらかた、自然と流れてしまうものなんですが、この場合にはXXの細胞の方は育たなくて、でもYYの細胞の方はしぶとく、途中までは育ってしまった、それでこうした組織が残されていたということだと思います」
「その場合、胎児の……性器は、どうなるんですか?」
「ペニスもヴァギナもどちらも発生しません。というよりも、胎児そのものが育たないのです」
「胎児が育たない? でもそこには、妊娠十八週から十九週と書かれていたじゃないですか」
「お腹は確かに大きくなっていました。その十八週から十九週という数字は、子宮底長などから割り出した値だったのです。子宮は確かにそのぐらいの大きさにはなっていました。ただ後からこうして調べてみたら、現実には、その中身が無かった。こういうのを、胞状奇胎と言うのですが……。ご存じでしょうか?」
「ホージョーキタイ?」
「ええ、地方によっては、ぶどうっ子などと呼ばれていたりもします。というのも、子宮の中に、まるで葡萄の房のように、小さなツブツブがたくさん発生するからです。これは絨毛膜という膜が……ええっとですね、通常の妊娠の場合には、胎児とともに、胎盤とか胎児を包む膜とかが子宮内に出来るんですが、それを胎盤系の組織と言いまして、その膜のことを絨毛膜と言います。で、この胞状奇胎というものなんですが、その胎盤系の組織だけが異常に増殖したもので……特に絨毛膜だけが異常に増殖して、葡萄の房のようになり、しかし本来ならばその中に発生するはずの胎児が発生しないという、そういう異常妊娠なのです。……発生のメカニズムを説明しましょうか?」
「ええ、お願いします」
「その前に、性染色体のXとYの、それぞれの働きについて、簡単に説明をしておきたいのですが……。女性の体の中には、X染色体が二本入ってるって、先ほど言いましたよね。だけど実際には、活性化しているのは……働いているのは、その内の一本だけで、残りの一本は、ほとんど不活性化してしまうんです。この不活性化をメチル化と言います。DNAを構成する四塩基のうちの一つ、シトシンが、5メチルシトシンという物質に変成してしまうのです。そうするとDNAというのは蓋をされた状態になって、働かなくなります。
実際に、性染色体をX一本しか持たないで産まれてくる女の子もいます。染色体が四十五本しか無くて、本来なら対になっていなければならない性染色体が、一本欠けているのですね。それでも外見は……いや、外見ばかりで無く、子宮や卵巣などといった臓器部分までですね……ちゃんと女の子として産まれて来ます。ただしこうした子は、産まれては来るけれども、第二次性徴期に発育の障害が起こり、また知能障害などといった先天異常も抱えています。ターナー症候群と言われているのですがね。だから通常の女性の場合、XXのうちの片方のXが不活性化してしまうと先ほど言いましたが、それが完全に不活性化してしまったら、同様の障害が全ての女性に起こらなければならない、でもそれが起こっていないということから、不活性化したXにも、僅かながら活性化している部分があると考えられます。
まあでも大ざっぱに言えば、X染色体一本あれば、ヒトの身体というのは、あらかた作られてしまうと、そんなふうに言ってもいいと思います。それもターナー症候群の症例などを見ますと、自然と女性の身体になるということが分かります。これがX染色体の役割なのです。
ではY染色体っていうのは、いったい何をするものなのかと言うと、その中にSRYという遺伝子があって、これは睾丸《こうがん》決定因子と呼ばれているものなのですが、これが胎児が育つその途中で働いて、中性的な存在である胎児の、その性器の部分に睾丸ができて、ペニスができて、男の子になる……大ざっぱに言えば、Y染色体はその部分だけを受け持っていると言ってもいいと思います。他はX染色体の働きで、全身が作られるわけですね。
このへんのことを説明する時に私たちがよく使う比喩《ひゆ》なのですが、聖書の物語によれば、人間は男の方が先に作られて、それから女が作られたというふうになっていますよね。アダムの肋骨からイブが作られたという、あれです。ですが、こうした性染色体の役割分担からすれば、逆に女が先であり、その亜種として男が生まれた、つまりイブからアダムが作られたんだと、そんなふうに解釈することもできるわけです。
ちなみにそのY染色体の睾丸決定因子、SRYが、うまく働かない場合があって、染色体の上ではXYで本当は男なんだけれども、見た目は女の子として産まれて来るという児が、たまにいたりします。で、そうして外見上は女の子として産まれて来て、ちゃんと育っているんだけど、元が男の子だから、運動が得意な子になって、で、オリンピックとかのセックスチェックとかで引っかかって、初めてそうした事が分かった、なんていう例も、過去にはあったようです。
……話が逸れましたね。ええと、何でしたっけ。そうそう。YYのホモ結合の場合の話でしたね。そう。YYということですから、Xが無い。これは症例としては聞いたことがないのですが、今のような話からすれば、人間の身体というのはX主導で形作られるはずですから、それが無いとなると、どうも胎児はまともには育たないと考えられます。それが先ほど言いました、この女の子が異常妊娠をしていて、胎児が育っていなかったのだろうということの説明になっているわけです。
その異常が、胞状奇胎であると特定した理由なんですが……これはYYのホモ結合というのとは、またちょっと違った話になるのですが……。
というのはですね、胞状奇胎というのは、研究によるとどうも、男性の側の遺伝子のみから発生した……単体生殖とでも言いましょうか、そうした場合に起こるものだというのが分かってきているのです」
「単体生殖、ですか?」
「そうです。胞状奇胎の細胞を遺伝子レベルで、DNA多型などのバンドを用いて調べたところ、母親側と一致する遺伝子が無く、逆に相同染色体のどちらもが、父親の遺伝子と一致したという調査結果があります。したがって胞状奇胎は、男性側の遺伝子のみによる単体発生に、その原因があるとされているのです。母親側の卵子に用意されていたはずの遺伝子が、卵割《らんかつ》の際に働かずに消えてしまい、精子が持ち込んだ遺伝子だけで細胞分裂が始まってしまった、というような発生経過をたどるのでしょう。そうした異常が起こるメカニズムとしては、ひとつの卵に二つの精子が同時に潜り込んだ場合とか、あるいは二倍体の精子が潜り込んだ場合などが考えられます。……二倍体というのは、染色体の本数が四十六本だということです。通常の精子は減数分裂によって、染色体数が二十三本になっているわけですが、その分裂の際に不分離か何かが原因で、そうしたものが出来る場合があることが知られています。
ちなみに今の話とは反対に、女性側の遺伝子だけで胎生が始まるという異常もあります。卵巣嚢腫とか卵巣奇形腫とか言われている異常妊娠なのですが、この場合には、胎盤系の組織ができなくて胎児だけが発生するという異常が見られます。原因としては、卵巣内の卵子が受精もしていないのに急に活性化して、受精卵もどきとなってしまうというもので、まあ一種の、処女懐胎《しょじょかいたい》とでも言いましょうか……そんな場合に起こるんだそうです。胎児が発生すると言っても、まともな形では発現しません。卵巣の中に、目玉とか歯とか髪の毛とか内臓とか、そういったパーツだけが個々に発生するというような、そういったかなり気味の悪い……まあ、そう言っては患者さんに失礼なんですがね、ともかくそういった異常になるんだそうですよ。
まあそういったことからしても、卵子と精子のそれぞれの働きの違いが分かると思います。要するに、男性側の遺伝子からだけだと、胎盤系のみが発生して、中身の胎児は発生しない。逆に女性側の遺伝子からだけだと、胎児の部分は育とうとするけれど、胎盤系が発生しない。で、今回のYYのホモ結合の場合は、組み合わせからして男性側の遺伝子のみから発生したケースに重なりますから、これが胞状奇胎だったと類推できるわけです」
「で、それが胞状奇胎だったということになると、今までの話はどう変わるのですか?」
「まず、この十八週から十九週という見立てが、意味をなさなくなります。これは通常の胎児の発生を前提として計算した値ですから。
同じ胞状奇胎と言っても、症例はひとそれぞれでしてね。通常の妊娠よりもハイペースでお腹が大きくなってきて、それと分かる場合が一般的なようですが、逆に通常の妊娠よりもお腹が大きくならなくて、それでおかしいとなる場合もあるようです。だから通常の妊娠の場合とは違って、お腹の大きさからだけでは、妊娠何週目などという判断がつかないわけです。この場合だと、十週目だったかもしれませんし、あるいは四十週目の臨月の状態だったのかもしれません」
「……そうですか、分かりました」
「それから何よりも、この女の子の亡くなられた現場に、お腹の中にいたはずの胎児の遺体が見つからなかった、それが当時としては大きな謎であり、警察もその遺体を発見しようと捜査を進めていたのですが、それが異常妊娠だった……胞状奇胎であり、胎児は元からお腹の中にはいなかったのだということになると、その謎が謎ではなくなります。私がこの標本を調べて、異常妊娠の可能性に気付かなければ、警察はいまだに有りもしない胎児の遺体を捜索していたかもしれません」
「消えた胎児などは、はなからいなかったのですね」
姉妹の死に方に見られる類似性。その中でも特に、双方の現場からともに胎児あるいは嬰児が消えたという問題については、美音子は依頼を受けた時から非常に気に懸かっていた。麻里亜の胎児の行方については、依頼内容からは外されていたが、彼女はそれをできれば明らかにしたいと思っていたのである。その問題が、検視解剖を担当した医師によってすでに解明されていたのだ。
一方で、麻里亜を妊娠させた男を突き止めるという、本来の依頼内容については、少女の妊娠時期が特定できないということになって、より調査が困難になりそうな見通しではあったが、近藤医師から寄せられた情報について、美音子は非常に満足していた。有益な話も聞けた。そろそろ潮時《しおどき》だろうと判断して、彼女が情報の提供に対する謝辞を述べたようとした時である。
「いやいや……まだ続きがあるんですよ」
近藤医師が美音子の言葉を遮《さえぎ》った。
「まだ何か……」
「ええ、幾つかね」
近藤はずり落ちてくる眼鏡を押し上げ、そして真摯な目を美音子へと向けた。
「まず、私がいま気にしていることを正直に言いましょう。というのは、こちらの稲垣百合亜さんの検案書のほうなのです」
「……妹の麻里亜さんのほうと内容が似てますよね」
美音子がそう言うと、相手は頷いた。
「そうです。嬰児の姿が見つからなかったというのもそうなんですが、この検案書で言えば、特に注記にある『産道に拡裂痕無し。会陰部の断裂等無し。分娩の可能性に関しては要調査』……というこれですね。これはどうも、それが通常の分娩ではなかったということを匂わせているような気がするのですよ」
「通常の分娩では無い? すると百合亜さんのほうも、実は胞状奇胎だった?」
近藤は煙草に火を点け、一瞬の間を置いた。ふう、と煙を吐き出しながら、言葉を継ぐ。
「ええ、実はその可能性があるのではないかと……と、先ほどまではそう考えていたのですが、でも改めてこの検案書を見ますと、ここに担当の産科医云云という記載がありますよね。つまりこのお姉さんのほうは、ちゃんとした産婦人科の医師にかかっていたわけです。だとしたら胞状奇胎などという可能性はありません」
「誤診ということは」
「有り得ません。鈴堂さんは当然、妊娠の経験はありませんよね」
「ええ」
美音子は苦笑いを浮かべた。医師は頷いて煙草を吹かし、話を続けた。
「……たとえば定期検診では、妊娠初期ならば内視で、あるいは中後期ならば超音波で、胎児の様子を確認することになっています。それも医師ばかりでは無く、患者さんにも見せる場合が多いです。もちろん他にも色々と検査が行われます。そうした手順が正しく踏まれていれば、胞状奇胎の患者さんを臨月《りんげつ》まで身籠らせておくなどということは、絶対に有り得ません」
「じゃあ問題は無い……?」
「いや、しかしどうも、おかしな感じはします。私もこの件に関しては、暇があれば調べてみたいのですが、なにぶんにも忙しくて……」
変死体が見つかれば、日曜も休日も無く出動が要請されるのだという。検案ばかりでは無く、解剖も自分で行う。もちろん大学での講義もあれば、病院での勤務もある。……近藤はいかにも疲れたという表情をして、そう言った。美音子は礼を返した。近藤は、いやいや、と鷹揚《おうよう》に手を振っていたが、不意に真面目な顔つきになると、
「ああ、そうそう、言っておかなければならないことが、もうひとつありました。これは鈴堂さんはご存じでしょうかね。あの学院で、去年の暮れに一件、自殺があったことは」
そう言われて、美音子は眉根を寄せた。
「……自殺、ですか? いえ、知りませんが」
「朝倉さんからは聞いておられない? 父兄の耳には入ってないのかな?」
最後のひと言は呟くように言った。
「自殺と言いますと? 生徒が?」
「ええ。……あー、ちょっと待っててくださいよ」
医師はそう言って席を立つと、キャビネットの抽出を開け、しばらくゴソゴソと何かを捜していたが、やがてひと綴りの紙束を手にして戻って来た。
「ああ、これだこれだ。ええっと、ああ、安城由紀さん、ね。去年の暮れに高校一年だったっていうことだから、そうするとこの朝倉さんとは……ええっと、ひとつ下になるのかな」
美音子は黙って、相手が何を教えてくれようとしているのかを考えていた。いや、これがですね、と医師は声をひそめる。
「……飛び下りたんですよ、この子。学校の寮の屋上からね。しかも……これは特別に教えてさしあげるのですが、絶対に口外しないでくださいね、鈴堂さん。……実はこの子、暴行された痕があったんですよ」
「暴行……」
美音子は鸚鵡返しに呟いた。息が詰まりそうな心持ちになった。近藤は続ける。
「……性的な暴行ですね。つまり強姦です。ここに書いてあります。処女膜は裂けて出血していたし、膣内にも擦過傷《さっかしょう》が見られました。精液は残されていない……」
検案調書を捲りながら、当時の所見をそうしてひとしきり確認し、
「まあそれだけでは、必ずしも強制的にナニをされたという証拠にはならないのですが、その直後に自殺をしているということからすれば、その可能性は非常に大きいと思われます。ただし警察では、被害者が死亡しているために、強姦罪の立件は不可能だろうということで、捜査は早い段階で打ち切られた模様ですが」
最後はやや悲しげな口調になる。
「去年の暮れといいますと……?」
「発見されたのが、十二月の二十五日の朝。ちょうど、クリスマスの日ですね。死亡したのはその朝のまだ未明のころです」
同じ学院内で、たった半年の間に、二人の少女が連続して死亡している。しかもその安城由紀という少女には、性交の痕が残されていたという。そして朝倉麻里亜も妊娠していた。……全寮制の名門女子校という、いわば檻の中に閉じ込められていたはずの二人の少女……安城由紀と朝倉麻里亜という、その二人の少女の身の上には、何か共通した災難が降り掛かったのではないだろうか。
要するに、麻里亜を妊娠させた男は、同時にその安城由紀という少女を強姦した犯人ではないのか……近藤医師はそれを示唆しているのである。そしてさらに、調査を打ち切った警察に代わって、その男を突き止め、自殺した安城由紀の無念を晴らしてはくれないだろうかという、そんな願いまでもが、守秘義務を破ってまで少女の死体の状況を説明してくれた近藤の行動には込められていたのだと、そう美音子は受け止めていた。
「ありがとうございました」
美音子は医師にそう礼を述べた。
だが……と美音子は考える。その男の正体がもし仮に判明したとしても、自分にはそれでいったい何ができるというのだろう。自分の仕事は、ただそれを依頼人に報告するだけなのだ。ではその報告を受けた朝倉剛蔵には、何ができるのかと考えてみると、合法的な手段では、その男を糾弾するすべは無さそうに思える。では依頼人は、殊によると非合法な手段に訴えるつもりででもいるのだろうか……。
そこまで考えて、美音子は大きく息を吐いた。それは彼女のあずかり知らぬところであった。〈黒猫〉は依頼された調査を遂行し、捜せと命じられた獲物を追い詰める。その根底にあるのは、獲物を追い詰めるという行為そのものが楽しいからそうしているという、ただ単にそれだけのことなのである。そこには近藤医師の見せたような義憤《ぎふん》は無いし、追い詰めた後の獲物を依頼人がどうするかなどといった忖度《そんたく》も不要のものである。
「ああ、そうだ。もうひとつ情報を教えておきましょう。警察の方で教えてもらえるかどうかは分かりませんが、ついでに言っておいたほうがいいかもしれない」
「何でしょう?」
美音子は続きをうながした。相手の言葉にはどこか、それが重要な情報であるということを匂わせるものがあったのだ。近藤は言葉を継いだ。
「その自殺したお嬢さん、安城さんですがね、書き置きを残していらした。ところがその意味が分からない。謎の言葉でしてね。……あるいは、彼女に暴行をはたらいた男のことを意味しているんじゃないかとも思われたのですがね」
「で、そこには何と?」
美音子が息を弾ませてそう訊ねると、近藤は言った。
「ただひと言だけ……カタカナ四文字で『ジャック』と。それだけです」
「ジャック……」
確かにそれは人の名前……しかも男性の名前のようであった。あるいは渾名《あだな》のようなものだろうか。
追うべき相手は見つかった。ジャック……。美音子は、その名前だけでまだ実体の無い存在を、頭の中に思い浮かべようとした。男のシルエットのようなものが、ぼんやりと浮かぶ。知らないうちに彼女の身体の中では、〈黒猫〉の血が騒いでいた。
「どうも、お手数をお掛けいたしました」
ゆらりと立ち上がる。
「参考になりましたか。また問題があったら問い合わせてみて下さい。私も気にはしていますから」
近藤医師はそう言って、美音子を戸口まで見送りに出てくれた。
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六章 再 来
「えー、ですから、減数分裂の時には、こういうふうに相同染色体同士で、遺伝子の組み替えが行われるわけです。この組み替えのことを、キアズマといいます。……いいですか、ここ、テストに出しますよ」
板書《ばんしょ》をしながら教師がそう言うと、それまでどこか漫然とした態度で授業に臨《のぞ》んでいた生徒たちは、急に真面目な顔つきになって、それぞれのノートに書き込みをしたり、マーカーで線を引いたりし始める。
坂本優子は級友たちのそうした後ろ姿を、教室の最後列にある自席から、ただボンヤリと眺めていた。
(テストがそんなに大事なのかしら……)
教室の中はまだ午前中だというのにほの暗く、かといって点けられた天井の蛍光灯の光もどこか虚ろに見える。深海の底めいた息苦しさは、窓外に降る雨のせいであろうか。その雨の轟《とどろ》きは校舎を朝からすっぽりと包み込んでいた。湿り気を帯びた空気は、ブレザーを着れば蒸し暑く、かといって脱げば何かの拍子にぞろりと背筋を撫《な》でられたような寒さを感じるという、何とも曖昧な温度で濃密にあたりを覆っていた。
七月に入ってから、天気はいつもずっとこんな調子であった。雨の降らない日であっても、天空はいつも鈍重そうな灰色の雲に覆われており、そして空気はねっとりと密度を増して、身体へと纏《まと》わりつく。
朝倉麻里亜の急死から、ふた月が経っていた。
「このキアズマが起こらないとですね……たとえば、相同染色体のペアの、この片方はお父さんから、そしてこっちがお母さんから来たものだとしましょう。減数分裂で、たとえば卵子ができる場合を考えましょうか。その場合……キアズマが起こらなかったとしたらですが、その卵子に入る染色体は、先ほど言ったように、減数分裂で二十三本なわけですよね。その時に相同染色体の片方が、そのまんま、たとえば父親から来た染色体を持って来てしまった場合を考えてみましょうか、この場合には、母親からの遺伝情報はまったくその卵子に入っていないということになります」
教壇の蛭川《ひるかわ》がしきりに何かを説明している、それが、今の優子の耳には、意味不明な呪文のようなものにしか聞こえない。まったく理解できないし、理解しようとも思わない。
(どうしてみんな、こうして何事も無かったかのように振る舞えるのかしら……)
あれほどまでにクラスの全員が、いや、学校中の生徒全員が憧れていた学院のアイドル、朝倉麻里亜が、帰らぬ人となってしまったというのに。……死んでしまったというのに。
(そう……確かに最初はみんな、ショックを受けてたように見えた)
麻里亜の死の直後、学院はいっ時、火が消えたようになった。そこいら中で少女たちの啜《すす》り泣《な》く声が聞かれ、全員が俯いて、わずかに交わされる言葉は、麻里亜の想い出に関する話ばかりであった。そうして学校中が、揃って麻里亜の喪に服していたのだ。
しかし日が経つにつれて、そうした学院全体を包む追悼ムードは、徐々に薄れていってしまった。冗談を言い、笑顔を見せても、それが許される雰囲気が徐々に形成されていった。そして中にはズバリ、いつまでも沈んでたってしょうがないじゃん、とそう言ってのける生徒までもが出てきた。
そうして二ヵ月が経ち、気が付けばクラスメイトたちは、いつの間にか、麻里亜という名の上級生などは、まるではなから居なかったかのように振る舞っていた。それが優子には不思議でならない。
信仰組の仲間の藤井沙織でさえ、優子と一緒にいる時には確かに、共に悲しんでくれているかのような素振りを見せるのだが、しかし優子以外の生徒と一緒の時には、その相手と笑顔でお喋りをしていたりする。むしろ最近では、彼女は鬱《うつ》状態の優子と付き合うのが面倒になってきたらしく、朝課夕課と日曜のミサ以外では、優子と行動をともにすることも滅多になくなってきていた。
そうして今や、クラスで未だに落ち込んでいるのは、優子の他には、片桐茜と佐藤瑞穂といったあたりだけとなっていた。その二人はどちらも、ともに生徒会の役員である。
優子はその二人の様子を眺めやる。今は授業中で、斜め後ろからの姿しか目にすることはできないが、両名ともにこのふた月の間を通して、日々その頬はやつれ、目の下には隈《くま》が淀《よど》んでいって、今ではおよそ尋常ではない相貌となっていた。
大輪の花が咲いたかのような派手な顔立ちをしていた茜、そして野性的な美形でどこか気の強さが窺える顔立ちをしていた瑞穂……それが今では二人とも憔悴《しょうすい》しきって、茜はどこか日陰の妖花めいた毒々しさを、そして瑞穂も飢えた野獣の狂気を、それぞれ窺わせる顔立ちへと、このふた月の間に変貌を遂げていたのだ。
その様子を見て優子は、やはり生徒会役員たちの麻里亜への崇拝の気持ちは、他の一般生徒たちとは違ったものがあったのだな、と改めて思わされたのであった。噂によれば三年の沖野琴美を始め、二年の風間忍、平野《ひらの》加代《かよ》など、他の役員たちの多くもみな、容貌と、そして性格までもが、今ではともにかなり荒《すさ》んでしまっているという。事実、優子が時折見掛ける彼女たちの姿には、茜や瑞穂と同様に、どこか険《けん》のようなものが窺われていた。
しかし優子は、そういった彼女たちには共感を覚えることはなかった。彼女たちの悲しみの中には、どこか異質なものが混じっているような気がしてならなかったからだ。麻里亜という崇拝《すうはい》の対象を失った彼女たちの心の隙に、いつしか邪悪なものが芽生え、そして育っている……その違和感は、喩《たと》えて言えばそんな感じであった。それ故に優子は彼女たちに対して共感を覚えたりはせず、むしろ警戒心すら抱いていたのであった。
その違和感を抱くきっかけとなったのは、やはりあの日の午後、優子が礼拝堂で洩れ聞いた、琴美と冴子のあの謎の会話にあったのだろう。
――刑事たちが調べているのは、やっぱり……。
――大丈夫。ジャックは見つかってないって。……見つかってたとしても、じゃあ警察が、何を調べるっていうの?
――それもそうだけど……。
彼女たちは、何を知っているというのだろうか。……そしてジャックとは何なのか。
その会話を洩れ聞いて以来、優子はずっと、ジャックというその謎の言葉について、暇さえあれば考えを巡らせてきた。会話から想像できるのは、以下のような属性である。……何か見つかってはまずいもの。何か麻里亜の死に関係のありそうなもの。
(……何だろう)
優子には見当もつかなかった。麻里亜がどうして死んだのか……病死というが、どんな病気だったのか、あるいはどういった状況で死に至り、どういった状況で発見されたのか……そうしたことが全く知らされていないために、そのモノがどういった範疇に属するものなのかといったことですら、優子には見当がつかない。
たとえば麻里亜が手首を切った……自殺したのだとしたら、ジャックというのはその凶器のことであるかもしれない。よくは知らないが、ジャックナイフという名称を聞いたことがある。……しかし優子には、麻里亜が自殺したのだとは思えなかった。そんなそぶりは見られなかったし、だいいちに麻里亜はクリスチャンであった。
(……ジャックというのは、単純に考えれば、男の人の名前だわ)
ではそれは、モノではなく人を……誰かのことを意味しているのだろうか。生徒会の役員たちの間でのみ通じる、渾名のようなもの……。
優子はフイと、前方を見やった。女生徒たちの後頭部が並んだその向こう、教壇の上では、蛭川教諭が先ほどから、DNAがどうしたとかこうしたとかいった呪文めいた話を、ひとりで喋り続けている。
蛭川……下の名前は何といったか。みんなからはただヒルと、あるいはヒル坊と陰で呼ばれている理科担当の嘱託教諭。銀縁眼鏡の奥の細い目がどこか粘着質な気質を感じさせて、生徒たちからはおしなべて嫌われており、誰からも相手にされていない教師であった。しかし考えてみれば彼も、この学院では数少ない男のひとりであり……したがって、ジャックの正体が人間の男性だということになれば、その数少ない候補のひとりなのであった。
(ヒル坊が、ジャック……)
考えてみて、さすがにそれは違うな、と優子は思った。蛭川と、麻里亜を始めとした生徒会役員の少女たち……その両者には、接点などはどう考えても思い付かなかった。ついでに他の男性教諭たちの顔も思い浮かべてみる。数学の堀《ほり》、社会の水野《みずの》、美術の前川《まえかわ》……。しかしそのどれも、しっくりとは来ない。あとは学院に出入りする男といえば、仕出し屋や清掃員などといった、業者関係ぐらいだろうか。そうなると今度は、教師以上に生徒との接点が見つからない。
――大丈夫。ジャックは見つかってないって。
見つかってはまずいもの。隠されているもの。
(生徒会の役員たちが、こっそりと飼っていた生き物だとしたら……)
ジャックなどという名前は、むしろ人間の渾名などではなく、ペットの名前にこそ相応《ふさわ》しいものなのかもしれない。猫か犬か、あるいは鳥だろうか。……しかしそうした動物をこっそりと飼うなど、はたして可能なのだろうか。鳴き声などでバレてしまいはしないだろうか。いや、それがペットであったとしたならば、そもそも秘密にする必要も無い。麻里亜を始めとして、役員たちがペットを飼いたいと主張すれば、一般の生徒たちがそれに反対することなどはまず無いだろう。
やはりそれは動物などではなくて、人なのだろうか。
(……まさかあの寮のどこかに、ジャックと呼ばれている男の人が隠れていて……)
想像して、優子はゾクリ、と背筋に寒さを感じた。
(そんな馬鹿なこと……)
そこでチャイムが鳴った。優子はそうした想念をいったん捨てて、現実世界へと意識を戻す。
「起立」
ほの暗い教室の中を、ガタガタと椅子のたてる音が響き渡る。どこかで私語が交わされていて、クスクスと声を殺した笑いが聞こえ、それを別な誰かがシーッと注意する声がする。
「礼」
クラス委員の茜の号令で、授業が終わる。蛭川が前のドアから教室を出て行く。
その時……優子は冷水を沿びせられたような気持ちになった。
蛭川の陰湿そうな視線が、教室を出るその瞬間、不意に優子の方へと向けられたのだ。ほんの一秒にも満たない時間であったが、優子はその一瞬の間に、蛭川の視線によって、自分が顔から身体まで、ジロジロと嘗め回されるのを感じていた。
粘り着くようなその視線……そして次の瞬間には、蛭川は視線を逸らせ、まるで何事も無かったかのように、教室を出て行ってしまった。
優子はその一瞬の視線に、嫌悪感とも恐怖感ともつかない感情の粟立《あわだ》ちを覚えていた。
(なぜ……? 私が授業中、ずっとボンヤリとしてたから?)
気がつけば、優子の両の二の腕には、鳥肌が立っていた。
ザワザワと浮ついた休み時間の空気に、雨の音が相変わらずのBGMを務めている。
次の時間割を確かめて、優子は憂鬱になった。
(体育……)
「今日当番だれ? 何やるの?」
誰かがそう問い掛け、別な誰かが答える。
「あ、あたしです。体育館でバスケです」
「あーあ、体育館かぁ。あたしあのバッシュのキュッキュいうの、苦手なんだよね」
などと言い交わしながら、クラスメイトたちは体操袋を胸に抱えて、次々と教室を出て行ってしまう。
(私も行かなきゃ……)
そうして慌てて教室を出たところで、優子はちょうど、一二HRの少女たちが廊下に出て来るところへと行き会わせてしまった。最悪のタイミングである。優子はなるべく、彼女たちとは顔を合わせないようにと、普段から心掛けているつもりなのであったが、どうしてかいつもこうして間が悪く、事あるごとに顔を合わせてしまうのであった。
体育は一組と二組の合同授業である。二組の教室からも、体操袋を抱えた少女たちがわらわらと出てくる。その少女たちの中心に……。
(シイちゃん)
高橋椎奈がいた。
優子に続いて一組から出て来た少女たちが、思わず見とれている。
「高橋さんって、ホント、綺麗になったわよね」
「ホント。こんな言い方したらどうかと思うけど、まるで麻里亜さまが生き返ったみたいじゃない? ね、そう思わない?」
「思う思う」
背後で少女たちの囁き交わす、そんな声が聞こえた。
(シイちゃん……)
優子は改めて、椎奈の様子を窺った。
元から美形ではあったが、椎奈はこのふた月ほどの間に、更に見違えるほど、綺麗になっていた。その変わり様は、茜や瑞穂といった他の生徒会役員たちとは、まるで逆であった。級友たちにまわりを囲まれて、その取り巻き連中と楽しげに言葉を交わしているその姿は、いやでも優子の目を惹《ひ》かずにはいない。入学当初に取っつきにくいと言われたあの硬い表情はどこへやら、今では屈託の無いその笑顔は、見る者を虜《とりこ》にせずにはおかない美しさと慈悲探さとに満ち溢れていた。
「ね、行こ」
そう言って優子のクラスメイトたちは、一二HRの集団の後を追い、気がつけば自然とその輪の中に混じり込むことに成功していた。そしてその中心にいる椎奈は、彼女にとっては隣組のその少女たちに対しても、暖かい微笑みを浮かべて、何やら言葉を掛けている。陽気な笑いが起こり、そして集団は優子をその場に置いて、体育館へと向かって行く……。
(シイちゃん……)
キュン、と不意に胸が切なくなる。
椎奈から愛を告白された時……キスを求められたあの時、自分はどうすれば良かったのだろうか。いまだに優子は、その問題に正解を与えることができないでいた。ただあんなふうに相手を突き飛ばして、拒絶したりなどしてはいけなかったのだということだけは、自分で分かっていた。
どうしてこうなってしまったのだろうか。自分はこんなにも、椎奈のことが好きなのに……。
(好き……)
自分が持て余している感情をそう言葉にした途端、優子はハッと胸を衝《つ》かれた。
(だって、違うわ。そんな、キスしたいとかっていうんじゃなくて……ただ昔みたいに、シイちゃんと友達として、仲良く過ごせたらいいなって。……それだけよ)
胸の内を誰に覗かれているというわけでもないのに、慌ててそう心の中で補足する。
椎奈たちとじゅうぶんな距離をとってから、優子は更衣室へと向かった。途上、二組の教室も覗いてみるが、誰も残ってはいない。一組も二組も、他の一年生たちはみんなもう先に行ってしまったのだ。優子だけがひとりポツンと取り残されている。
渡り廊下へと出た時に、予鈴が鳴った。遅れている。急がなくては。
雨は斜めに吹き込んでおり、渡り廊下は水浸しになっていた。スカートの生地が湿気を含んで、先を急ぐ優子の邪魔をするように、太股に纏わりついてくる。
吹き晒しの廊下を渡り終えて、更衣室のドアに手を掛けた瞬間、その向こうから不意に悲鳴のようなものが聞こえて来て、優子は思わずビクッとして、その手を止めた。中からは続いて、罵り合いをしているような激しい口調のやりとりが聞こえて来る。
(何……? どうしたの?)
物音をたてないようにそっと、ドアを開けて、中へと入る。ドアを閉じる時に外の雨音が絞られてゆくのに気がついて、これではいくら注意してもドアの開閉には気付かれてしまっただろうと、優子は自分の迂闊《うかつ》さを呪ったが、室内での諍《いさか》いはそうした新来者の有無にはとんと無頓着《むとんちゃく》の様子で、激した声の応酬はそのまま続けられていた。
「……だから言い掛かりはやめなさいよ」
「言い掛かりだって? 何言ってんだよ。……先に難癖《なんくせ》をつけて来たのは、そっちじゃんかよ!」
吐き捨てるようにそう切り返しているのは、片桐茜の声のようであった。優子は衝立《ついたて》の陰から、そっと中の様子を窺った。
あられもない下着姿で、スパッツを握り締めたままその手を振り回しているのは、はたして茜であった。その後ろで、そうよ、と同調しているのは、佐藤瑞穂。どちらも優子たちのクラスの生徒会役員であった。
それに正対しているのは一二HRの生徒四人で、親衛隊と呼ばれている椎奈の取り巻きの連中であった。そして親衛隊の少女たちが壁を作っているさらにその向こうでは、椎奈が諍いから背を向けるようにして、ひとり黙々と着替えを続けていた。
(何なの? みんな、なに言い争いをしてるの?)
「一般生徒が役員にたてつくんじゃねえよ。お前らに用はねえんだよ」
「役員役員って、偉そうなこと言わないでよ。あんたたち、麻里亜さま麻里亜さまって、いつまでも死んだ人にこだわってるだけで、何にもしてないじゃないの。私たちのほうがよっぽど、この純和の新しい調和のために尽くしてる。そう思わない?」
親衛隊のリーダー格である、斉田《さいだ》未知留《みちる》が、ぐいと一歩前に踏み出してそう言う。スカートを脱いだ、着替え途中の格好のままである。
「そうよそうよ」
「名前ばかりの役員なんて、みんな辞めちまいな!」
同様に下着姿の、二組の他の少女たちも、ずいと前に踏み出す。茜は一歩も退かず、
「雑魚《ざこ》に用はねえんだよ!」
手にしたスパッツをパシッと床の簀《す》の子《こ》の上に叩きつける。
「おい、高橋! シカトしてんじゃねえよ」
茜がそう罵声《ばせい》を浴びせると、場のムードは一層険悪なものとなった。
「何よ、その言葉遣い!」
「椎奈さまに失礼だわ」
(椎奈さま……?)
取り巻き連中のその言い回しは自然と、朝倉麻里亜のこと……彼女が同級生たちから「さま」付けで呼ばれていたことを想起させた。当時の少女たちが麻里亜を崇拝していたのと同様に、今の彼女たちは、椎奈を崇拝の対象としているというのであろうか。
半裸の少女たちの壁の向こうで、椎奈は悠然と着替えを続けている。ブラウスを脱ぎ、スカートも脱いで現れたその肢体は、完璧な美しさを具現化していた。
「高橋。あんたは何にも知らないんだよ。知らないからそんなふうにシレッとしてられるんだ。お気の毒にねえ。せっかく生徒会の役員に選ばれたのに、麻里亜さまのことを、何にも知らないで終わっちまったんだから。生徒会であんただけだよ、知らないのは。ジャックのことを知ってりゃ、あんただって……」
「茜!」
片桐茜の味方だったはずの瑞穂が、慌てて止めるように彼女の肩を掴む。衝立の陰で優子は息を飲んだ。
(ジャック……)
ゾワゾワとした寒気が背筋をのぼってきた。またしてもその言葉だ。ジャック……。
瑞穂に肩を掴まれて、茜は一瞬、ハッと息を飲んだ様子であった。椎奈の壁となっていた親衛隊の四人の少女も、その言葉を聞いた瞬間、まるで棒を呑み込んだかのように突っ立って、それからは茜の顔をジッと見詰めてばかりいた。
誰もが凍りついたかのようになった。空気がキシキシと軋みだしそうなぐらいの緊張感。それを次の瞬間に破ったのはやはり片桐茜で、ハアハアと大きく息をついた後、気を取り直したかのようになおも言い募るのだった。
「……嘘だと思ったら、あんたの下僕《げぼく》の、あの冴子さんに聞いてみな」
とその時、二組の取り巻きの少女たちが作る人垣が、さっと左右に分かれた。身を退《ひ》いた少女たちの間から、体操服に着替えた椎奈が現れる。嫣然と微笑み、そしてゆっくりとした動作で、鼻息の荒い一組の役員二人の前へと進んで、そこに立ち塞がった。
「な、なによ、その偉そうな……」
臆《おく》したような素振りを見せながらも、茜がなおもそう言い募ろうとする、それをただジッと視線を投げ掛けるだけで、椎奈は相手を黙らせてしまった。
「可哀想なのは、あなたたちのほう……」
そう言う声には、慈《いつく》しみの感情が混じっていた。そして続けて不意に、パシッ、パシッと肉の弾ける音がした。優子は衝立の陰で思わず息を飲み、身を縮ませた。
椎奈が二人に平手を張ったのだ。
「あなたたちも早く着替えたら。もう授業が始まるわよ」
椎奈の声は平然としていた。しばらくの間は誰もが息を止めたかのようで、外の雨の音だけがザアザアと聞こえていた。
やがて簀の子がギシギシと軋んで、
(いけない……)
優子がそう思った瞬間、もうすでに椎奈は衝立のこちらへと姿を現していた。……立ち聞きの現場を見られたというバツの悪さと、そして椎奈と二人だけだという居心地の悪さ……優子は思わず身を縮ませて、視線を逸らした。全身の肌がカッと熱く燃え上がるかのような感覚を覚える。
一瞬、ジロリと嘗めるような相手の視線を感じた。そうして自分を見詰める椎奈の顔には、いったいどんな表情が浮かんでいるのか。首を逸らしていた優子の視界には、ただ古ぼけたロッカーの並びが映るばかりであった。息が詰まり、胸が苦しくなる。
(赦《ゆる》して。シイちゃん……赦して)
次の瞬間、ドアの開閉する音がした。ハッとしてあたりに目をやると、椎奈はもうすでにその場にはいなかった。全身の強ばりが溜息とともに解かれる。気がつけば腋《わき》の下《した》にはジットリと汗が滲んでいた。
五十センチも無かった。優子は、椎奈とそれだけ近い距離で正対したのは、あの礼拝堂での一件以来、初めてのことであった。そして優子は気付いた。
(あ、この匂い……)
甘酸っぱいような、それでいてどこか懐かしいような香り。
かの美少女は今の一瞬のすれ違いの間に、優子の鼻だけにしか感じ取れないであろう、そのほんの僅《わず》かな香りを、あたりに残していたのだ。その香りを嗅いだ途端、優子は気が遠くなりそうな感覚を覚えた。その懐かしい香りに、陶然と酔いそうになる。
(麻里亜さまと同じ、この香り……)
このふた月ほどの間にグングンと、見違えるほどに綺麗になって、いまやカリスマ性すら帯び始めている少女――高橋椎奈。その椎奈が、前のカリスマの麻里亜と同じ香りを、その身に漂わせている……。
優子は不思議と、それを当たり前の事のように受け止めていた。
(……あれはオーラの匂いなんだわ。シイちゃん……。だからきっとシイちゃんは今に、昔の麻里亜さまのようになるんだわ……)
しかしそんなことに心を奪われている場合ではなかった。椎奈の言葉どおり、室外ではカランカランと、本鈴が鳴り始めていた。体育の授業が始まってしまう。優子もはやく着替えをしなければならないとは思ったが、しかしまだその場から動くことはできなかった。茜と瑞穂の二人が、今になってまた騒ぎ始めたのだ。
「あいつ……。ただじゃおかねえ。……てめえらもだ。後で憶えてろよな。邪魔しやがって」
そう茜が言葉を吐き出すのに、
「ちょっとあなたたち。まだ椎奈さまに反抗をするつもりなの?」
「椎奈さまの雰囲気にすっかり呑まれていたくせに」
「格が違うのよ、椎奈さまは、あなたたちなんかとは。今ので分かったんじゃないの?」
二組の取り巻き連中も負けじと、口々にそれに応じている。それでいてガタガタという音も混じるのは、どうやらロッカーの開《あ》け閉《た》ての音で、それからすれば彼女たちは、そうして罵り合いながらも、着替えはしているのだろう。
(見つかっちゃう……)
どうしたら良いのか。とりあえず優子は、わざと大きな音を立てて、ドアの開け閉めをした。いま入ってきたということにするのだ。物音がした途端に、少女たちの罵声の応酬はピタリと止んだ。優子はそのまま、冷や汗ものの内面をその場の少女たちに気取られないようにと、そう一心に願いながら、表向きはたったいま更衣室に入って来たという素振りで、衝立の向こうへとさり気なく入って行った。
「なによあなた?」
少女たちのひとりに、そう声を掛けられた。優子はヒヤリとして、思わず視線を逸らす。しかしそれ以上は特に何も注意されることはなかった。少女たちはいそいそと着替えを済ませると、荒々しいドアの開閉音を残して、さっさと更衣室から出て行ってしまったのであった。
途端に空気はシンと静まり返り、そしてひとり取り残された優子の耳には、朝からの雨の音が、今さらながらに意識された。
(私も早く着替えなくちゃ)
慌ててスカートを脱ぎ、ブラウスのボタンを外す。機械的な動作でそうして着替えをしながら、同時に優子は、先ほどの諍いについての思いに、内心を奪われていた。口汚く罵り合う少女たち。そして暴力。
(……みんな変わってしまった)
あんな罵り合いなど、優子が入学した当初であれば、とても考えられないことであった。麻里亜を中心として、完全なる調和が具現化されていた、あの頃……。しかし優子がいくら願おうとも、過ぎ去った時はもう二度とは戻って来ないのであった。そう……もうすでに麻里亜は死んでしまったのだ。
麻里亜の死。たったひとりの少女の死が、あの祝福に満ちた学院内の雰囲気を、こうまで荒《すさ》ませてしまうとは。
そしてスパッツを穿き、体操着に袖を通しながらも、なおも優子は考えていた。瑞穂が肩を抱いて止めた、茜の発言。それは何か彼女たちにとって、不用意なものだったのだろう。
――ジャックのことを知ってりゃ、あんただって……。
茜がその言葉を口にした瞬間の映像が、脳裏によみがえる。茜がそう言った瞬間、室内の空気は見る間にキシキシと凍りついていった。……まるで禁忌とされていた言葉を、少女が不用意に口にしてしまったとでもいったふうに。
(また、ジャックだわ。……ジャックっていったい、なに?)
最初それは、麻里亜の事件の直後に、琴美と冴子の間で交わされた密談の中に現れた。そして今回は、片桐茜の不用意な発言の中に登場した。佐藤瑞穂もその意味するところは知っていた様子であった。そして二人は逆に、椎奈はそれが何であるかを知らないだろうという前提のもとで話をしていた。
――嘘だと思ったら、あんたの下僕の、あの冴子さんに聞いてみな。
茜、瑞穂、冴子、そして琴美。生徒会の役員は、ほぼ全員が知っている。ただ椎奈だけは、それが何かを知らされていなかった……それを知らされる前に、麻里亜が死んでしまったから?
ではそれは……ジャックとは、結局、何なのだろうか。着替えを終え、体育館へと向かいながら、優子はずっとそのことばかりを考え続けていた。
学院内での諍いは、実は優子が更衣室で目撃したその一件だけではなかった。
「今日もね、ウチのクラスで、いざこざがあったのよ」
たとえばルームメイトの桜井さやかが、溜息まじりにそう報告をしたことがあった。
「トモちゃんがね、何かの拍子でふと、こんなふうなことを言ったの。一年生の高橋さんって、綺麗だよね、何か去年の麻里亜さまみたいだよね……って。そうしたらそれを聞きつけた忍ちゃんとかが、急に怒り出しちゃって。それがお互いに段々エスカレートしていって、最後には危うく、掴み合いの喧嘩になりそうだったわ」
それ以外にも優子は、同様の話をいくつか耳にしていた。学院内で頻発しているそうした諍い……それらには、実は共通のパターンが認められた。構図がどれもこれも一緒なのである。一方の側には高橋椎奈を崇《あが》める人たちがいて、そしてもう一方の側にはそれを是《ぜ》とせずに、代わりに亡くなった朝倉麻里亜をいまだに崇め続けている人たちがいる……。
その両者の勢力は、聞くところによれば二、三年生の間では、およそ半々といったところだとか。驚くべきことには、すでに上級生たちの半数が、麻里亜ではなく椎奈をアイドルとして、あるいはカリスマとして、崇めているというのだ。ちなみに一年生の間では、もうとっくに椎奈派が趨勢《すうせい》を決しており、麻里亜派とでもいうべき、亡くなった生徒会長にこだわり続けているのは、いまや片桐茜ほか、ほんの一握りの生徒だけといった状況なのである。
さやかの話は続いた。
「忍ちゃんの言うのには、椎奈ちゃんはとんでもない悪女だって。上級生の青木さんを、まるで下僕のように扱ってるんだって、そう言ってたわ。あの椎奈ちゃんがそんなことするはず無いって、わたしはそう思ったんだけど……」
更衣室でも確か茜が、同じようなことを言っていた。一年生の少女が同室の二年生を下僕扱いしている……と。
そんな言い方は無いだろうと優子は思う。確かにそれらしい事はあった。麻里亜の死で学院中が重く沈んでいた中、ひとり椎奈が彗星のごとく輝き始め、それを不謹慎な輩《やから》だと非難するまわりの声に対して、冴子が庇《かば》うような言動をしたのだ。忍や茜たちが言っているのは、おそらくその時の冴子の言動を評してのことだろう。しかしそれはただ、姉役の上級生が同室の妹役の下級生を庇ったというだけのことなのだ。優子はそれをそう捉えていた。それが、どんな意地悪な見方をすれば、そこに主人と下僕の関係を見出すことができるというのだろうか。
冴子を下僕と評する、その言い方から優子が連想するシーンはといえば……たとえば、椎奈が無慈悲に命令を下す。冴子は黙ってそれを承る。あるいは冴子が甲斐甲斐しく椎奈の身の回りの世話をする。鷹揚に構えている椎奈の前で、冴子が深々と頭を垂れる……。
(そんなの、変だわ)
椎奈がそんなことをするはずがない。一方の冴子にしても、黙って下級生の言いなりになる性質ではない。
あるいはその相手が今は亡き麻里亜であれば、冴子もそうした甲斐甲斐しさを見せていたかもしれない。優子の知っている冴子は、彼女が一年の時に同室の姉役を務めてくれたということで、麻里亜のことを、それは心底から崇めていたのだ。
しかし麻里亜は死んでしまった。冴子が崇拝していた聖母は、もうこの世には存在しないのだ。
(でも……。私は本当に、冴子さんのことを理解していたと言えるのかしら)
考えてみれば、麻里亜の死に対する冴子の応対には、どこかおかしなところがあった。
突然の麻里亜の死……それに対しては、学院中の生徒が嘆き、そして悲しんだ。その中でも特に冴子は、入学初年に疑似姉妹としての関係があったこともあり、学院内でもいちばん、その死を悲しむべき立場の生徒であった。……それは誰もが認めるところであったろう。
それなのに彼女は、さほど悲しんでいる様子を見せなかったのだ。もちろん、他人の心の中の悲しみなどは、傍から見てその量を正確に測ることのできるようなものではないし、ましてやそれを別な誰かと比較してどうのこうのと言うのもナンセンスな話である。しかしどうしても優子は冴子を、沖野琴美や風間忍、片桐茜などといった他の役員たちと比べてしまうのだ。彼女たちの憔悴《しょうすい》ぶりからすれば、現在の冴子はあまりにも平然としているように見える。……優子は今さらながらに、それを訝しく思い始めていた。
(冴子さん。あなたは麻里亜さまが死んでしまった事が、悲しくはないのですか?)
直接そう訊ねてみたいところである。もちろん優子にはそんな事はできない。
冴子に訊いてみたいことは、考えてみれば他にも色々とあった。たとえば優子と同室だったころの、あの夜間外出の行き先であるとか、あるいは麻里亜が亡くなったその夜に、椎奈とふたりで連れ立って部屋を出たあれは、いったいどこへ行っていたのかとか。その行動ははたして麻里亜の死と関係があるのか。そして後日、礼拝堂で琴美と交わしていたあの謎の会話の意味は何なのか。……ジャックとは何なのか。
しかしそういった事どもを、冴子に直接|問《と》い質《ただ》してみるなど、優子には思いもよらないことであった。そもそも冴子とどういう顔をして会話をすればよいのか。入学当初の一時期をルームメイトとして共に過ごし、それなりに姉および妹として、生活の中で教えを授け、あるいは請《こ》うた仲である。人付き合いの苦手な優子にしても、そこには相手と接するためのコードがあった。そのコードに従って、優子は冴子との関係を築いていたのだ。だが四月末の部屋替えによって、そうした二人の間の疑似姉妹の関係は無効化され、そしてそれと同時に、優子の依って立つ冴子との関係のコードも無効化してしまった。要するに優子は、今や同室の姉でも何でもなくなってしまった冴子と、どのように接したら良いのかが、分からなくなってしまっていたのだ。
だからその放課後、ひとり教室で帰り支度をしていたところに、不意に冴子が現れた瞬間、優子は困惑の極みへと立たされてしまったのだった。
その週に入ってからは、梅雨の中休みというのだろうか、連日の青空が望まれていたのが、その日にはまた一転して、朝から今にも降り出しそうな雲が空一面を覆い、ゴウゴウと風が空のはるか高処で鳴り続けている……そんな木曜日の午後のことであった。
冴子はまるで、優子がひとりになるタイミングを見計らっていたかのように、一一HRの教室へと姿を現した。……いや、事実、優子がひとりになるのを見計らっていたのだろう。
優子が教室の戸口に立つ人影に気付いたその瞬間、彼女は語り掛けて来たのであった。
「どう、坂本さん?」
それが冴子だと認識した瞬間、優子の思考は空転した。
(なぜ冴子さんがこの教室に……。私に用事があって? でもいったい何の……?)
「あ、あの……」
口が勝手に喋り始め、しかし続く言葉が出て来ない。ご無沙汰してます……というのも変である。こういう場合にはいったい何と言って応じれば良いのだろうか。とりあえずはと、慌てて頭をペコリと下げる。
「部屋替えの後、こうして会うのは初めてよね。……どう? 桜井さんとはうまくやってる?」
「あ、はい。おかげさまで……」
言ってしまってから自問する。……何のおかげだというのか。冴子たち生徒会の役員が決めた部屋替えのおかげだと……つまりうまくいっているのは冴子と離れられたおかげだという意味に、相手に聞こえてしまいはしなかったか。……そうした要らぬ事にまで気を回すので、優子はますます周章《あわ》ててしまう。首筋から脇から背中から、どっと冷や汗が噴き出すのが分かる。
冴子はすーっと近寄って来て、優子のすぐ傍に立ち止まると、
「ちょっと話があるの。……来てくれない?」
低い声で囁くようにそう言った。どこへ行くというのか。何をされるのだろうか。……まったく想像もつかない。ただ嫌な予感だけが、優子の全身をずっしりと重くさせる。さりとて元ルームメイトの先輩にそう誘われて、断る理由などはどこにもない。
「あ、はい……」
帰り支度を済ませ、鞄《かばん》を下げて冴子の後に続く。
東側の階段を昇り、冴子が優子を連れて行ったのは、音楽室であった。恐るおそる足を踏み入れ、あたりを見回すが、先導して中に入った冴子の他には誰もいない。
優子はそれを確認すると、胸の内で、小さく安堵の溜息を漏らした。というのも彼女は、冴子によって案内されたその先には、椎奈の親衛隊の少女たち……あるいはことによると椎奈本人が、彼女を待ち受けているのではないかと、内心、思っていたのだ。
優子が中に入るのを待って、冴子は入口のドアを閉ざした。ガランとした室内には、奥にオルガンが一台あるだけで、長机とパイプ椅子は全て折り畳まれて壁際へと寄せられていた。舞台の緞帳《どんちょう》のように厚い裏赤の黒カーテンは隅に寄せられていたが、代わりに覗く空の色もどんよりと重く濁っている。
「で……坂本さん。話というのは、あなたと高橋さんとの間の関係についてなんだけど」
冴子にそう話を切り出されて、優子はゴクリと唾を飲み込んだ。
(私とシイちゃんとの関係について……)
「どうなの? あなた、高橋さんの何が気に入らないの?」
「そ、そんな……。違います。私、シイちゃんのこと、嫌ってなんか……」
優子がそう答えると、冴子は口を閉じ、その目でじっと優子のことを睨み付けて来た。その顔がとても怖く見える。優子が視線を逸らすと、相手はまた口を開いた。
「……そう、かしら? 高橋さんの目からは、あなたが彼女のことを嫌ってるって、そういうふうに見えるって。ちなみに私もそう思う。あなたのことを見てれば分かるもの。高橋さんのこと、かなり露骨《ろこつ》に嫌ってるじゃない?」
そこでまた黙る。優子の話す番だというのだろう。それに対して優子は、違います、ととりあえず首を横に振った後、何をどういう順番で話したら良いのかをしばらく考え、そして慎重に話し始めた。
「私は今でも、シイちゃん……ううん、高橋さんのことは、すごい好きです。四月ごろにしていたみたいに、仲良くできたらいいなって、本当はそう思ってるんですけど、でもシイ……高橋さんはもう、今では何て言うか……私なんかが友達でいちゃいけないって、見ていてそんなふうに思えるんです。私……自分で分かるんです。格って言うか、何かそういう感じのものが、もうシイちゃんと私とでは、全然違うんだって」
「……だからあんなふうにコソコソとしている?」
冴子の言い方には、どこか意地悪な感じのものが混じっている気がした。
「って言うか……どんな顔をして、どんなふうに話したらいいのかが、分からないんです。……昔みたいに、シイちゃん、とかって……呼べ……ううん、その……呼びにくい状況じゃないですか。今って、まわりが……たとえば斉田さんなんか……」
斉田未知留の名前を出すと、冴子はフッと頬を緩ませた。
「椎奈さま……ね。だったらあなたもそう呼べば?」
「シイちゃんのことを……ですか?」
相手の提案にビックリして、優子が目を剥くと、
「そう」
頷く冴子の声は、冷たい響きを帯びて聞こえた。
「もちろん今となっては、あなたが高橋さんと対等の立場でどうこうとかっていうのは、あなたがさっき言ってたとおりで、絶対に無理な話だし、そういう意味では昔どおりに仲良くっていうのは、それは絶対無いって……あってはならない事だっていうのは、それは私もそう思う。でもだからって、あなたが高橋さんのことを今みたいに無視してるっていうのは、それはそれで良くないことだと思うの。……だからあなたも、たとえばさっき言った斉田さん? ……彼女みたいな感じで、要するにその他大勢の中のひとりとして、高橋さんに接していけばいいんじゃないの? あなたにその気持ちがあれば、なんだけど。その気持ちがあなたにもし今、あるんだったら、後はそういうふうにしていけばいい。……どう?」
(どう、って……)
優子は困惑する。
要するに優子は今、椎奈の、それこそ下僕のひとりになれと、そう勧められているのだ。それしか二人の関係を改善させる道は無いのだと。
「話はそれだけ。別に今すぐ結論を出す必要はないから。……じゃ、出ましょ」
用件はそれで終わりだった。してみると冴子は、優子と椎奈とがお互い、不自然に相手を避けているという現状を知って、それを改善するための二人の間の橋渡し的な役割を果たそうというので、こうして優子と話し合いの場を持ってくれたということなのだろうか。だとすればそれは表層的には、生徒会の役員として、あるいは優子と椎奈の二人の姉役を偶々《たまたま》揃って務めた上級生としては、まさに採るべき、しかも立派な行動ではあった。話の内容については別として、とりあえずはその気遣いに、優子は本当ならば感謝すべきはずなのである。二人の姉役を揃って務めたもうひとりの上級生、桜井さやかが、優子と椎奈の関係については何の口出しもせずに、現状をただ傍観しているだけなのと比べてみても、それは問題の解決に対して実に前向きな姿勢であった。
しかし、少なくとも冴子は、優子のためを思って、そうした行動に出たわけではないように見えた。冴子がもし自発的にこうした行動に出たとするならば、それは椎奈のためだけを思ってしたことであろう。
音楽室を出て、東階段を並んで降りながら、冴子は呟くように、こう言い添えたのであった。
「私は、伝えるべきことはちゃんと伝えたからね。……あとはあなたの好きなようにすれば良い」
その口調がどことなく変な気がして、優子は階段の途中でハッと足を止め、思わずその顔を見る。すると相手は続けて、
「……むしろ私としたら、今のままのほうが良いんだけどね。まあ、決めるのはあんたの勝手だから」
などと言う。現状のままで良い……それが冴子の本音なのだろうか。だとしたら、優子に椎奈派の一員になれというさっきの冴子の話は、いったい誰の思惑を伝えたものだったというのだろうか。
(まさか……シイちゃん?)
椎奈が……優子に、自分を崇拝する大勢の一員になってほしいと、そう思っているのだというのか。それを冴子を使って、優子に伝えさせたというのか。
だとしたら、あの告白は何だったのだろう。礼拝堂での、あの不意のキスの後の告白。
――優子のこと……ずっと好きだった。ずっと、そういう目で見てたの。
そこまで言っておいて、今では優子のことを、大勢の中のひとりで充分だというのか。
「それにしても、あの方が、どうしてあんたなんかのことを……」
冴子がなおも言う。その絞り出すような低い声に、優子はまたしてもハッとさせられた。
(あの方って……?)
改めて冴子の様子を窺う。元より優子は背が低く、冴子と比べると頭ひとつぶん高さが違っている。さらに冴子よりも一段下の段に立ち止まっていたために、優子は相手を見上げる形になっていた。髪を掻き上げ、優子を見下ろす冴子の細縁眼鏡の奥の目は、険しく歪められていた。それを見て優子はゾッと総毛立った。
そこに込められていたのは、激しい憎悪の感情であった。冴子の表情には、顕らかに内面の悪意が発現していた。……優子は今までの人生の中で、これほどまでに露骨な悪意というものを、相手から受けたことがなかった。
一瞬にして胸が悪くなる。乗り物に酔った時のように、目の前が昏《くら》くなり、足元もおぼつかなくなる。
(……いけない)
ぐらりと身体が揺らいだのと前後して、胸元をドンと突かれたような衝撃を感じた……それは気のせいだったのだろうか。身体を庇うために腕を上げ、首を竦めたその姿勢のまま、次の瞬間には世界はぐるぐると回り出し、身体のあちこちで激しい痛みが走って、そうして気がつけば、優子は一階と二階の間にある階段の踊り場に、ひとり倒れていたのであった。
リノリウムの冷たい感触。……気を失っていたのだろうか。
踊り場の窓からは、相変わらずの暗い空が望まれていたが、それでもその空の色の方が明るく、対して屋内の優子の倒れている場所は、それよりもまだ暗い。上階の踊り場の裏にあたる天井に点けられた蛍光灯が、点っているのに不思議と眩《まぶ》しく感じられない。茫《ぼう》とした闇があたりを覆って、空を渡るゴウゴウという風の音がその外側を包んでいた。
そうして暗い中に横たわっていたせいであろうか。優子は何だかだんだん悲しい気分になってきていた。そろりと首をもたげて、階段の上の方を眺めやる。しかし階段を一緒に降りていたはずの冴子の姿は、もうどこにも見当たらなかった。
(突き落とされた……? まさか……)
まだ頭は茫としている。右手は鞄を握り締めたままであった。その右腕をゆるりと動かしてみる。問題なく動く。次に左腕。そのころになってようやく、ズキズキとした痛みを身体中に感じ始めた。それは無視して、右脚を動かしてみる。……そして左脚。
(……痛っ)
左足首にズキリとした痛みを覚えた。ゆっくりと身体を起こし、左手を添えて庇いながら、怒るおそるその足首を色々と試してみる。ある角度にすると、ズキンと刺すような痛みが走った。どうやらそこを捻挫《ねんざ》してしまったもののようである。
(……まあ捻挫なら大丈夫か)
いつまでもそうして床に座ってはいられない。優子はそろりそろりと立ち上がった。そして手すりに身体を寄り掛からせるようにして、左足を庇いながら、なんとか階段を一階まで降りる。すると、
「まあ、坂本さん。……どうしたの」
階段を降りたところで、そう声を掛けられた。見ると東棟の廊下から顔を覗かせているのは、白の尼僧服に身を包んだ、シスター相馬であった。
「怪我をしているわね。大丈夫? すぐに手当したほうがいいわ」
「……大丈夫です」
相手の口調に切迫したものを感じて、思わずそう答えてしまう。むろんシスターは優子のそんな言葉には取り合わず、優子をそのまま東棟にある保健室へと連れて行った。
「他は大丈夫? 足首だけ?」
診察用のベッドに優子を横たえて、その左足から上履きとソックスを脱がせながら、シスターが訊ねてくる。
「あ、はい……」
「階段から落ちたのよね。……ちょっと他も診させてもらうわ」
シスターの手が、服の上から優子の身体のあちこちをまさぐる。何ヵ所か痛みを感じる部位があり、優子が声をあげるとシスターは丁寧に確認したが、それらはせいぜいが軽い打撲《だぼく》といったところで、問題は無さそうであった。唯一問題なのは、やはり左足首の痛みである。時間が経つにつれ、段々と痛みが増しているような気がする。
「こうするとどう? 痛い? 大丈夫? ……こっちは?」
「あっ……そ、そっちは痛いです」
先ほど優子が自分でやったように、痛んだ足首の角度を変えさせては、そのたびに質問を繰り返す。そうしてシスター相馬が最終的に下した診断はといえば、やはり捻挫であった。
湿布《しっぷ》をして、その上から包帯をぐるぐると巻く。さすがに養護の資格を持つだけあって、その手際は良い。最後にホックで包帯の端を止めた後、シスターは優子の足元に屈み込んだその姿勢のまま、顔だけを上げて、心配そうに優子の顔を覗き込んできた。
「どう? ……たぶん骨には異状は無いと思うけど、でも念のために、ちゃんと病院に行って検査してもらったほうがいいわよね」
「大丈夫です。私、慣れてるんです。……ちっちゃい時からよく転んで、捻挫とかしてたから」
優子がそう答えると、シスターは黙って首を左右に振った。そして立ち上がると、優子の隣へと腰掛け、制服のあちこちについた汚れをパタパタとその手ではたき落としてくれた。まるで横抱きに抱かれているような体勢である。
「あ、す、済みません」
何だか照れ臭くて、慌ててそう言いながら、自分でも埃を払ったり、スカートの襞《ひだ》を直したりしてみる。
するとシスター相馬は、不意に優子の耳元でこう囁きかけてきたのであった。
「……ね、正直に言ってくれない? あなた、これ、階段から落ちたって言ったじゃない。それ……突き落とされたんじゃない? 誰かに」
突然そう言われて、優子はビックリしてしまい、そして慌てて否定した。
「い、いいえ、違います。その、自分で転んだんです」
「ホントに?」
シスターはなおもそう言って、優子の顔を横から覗き込んでくる。その視線に耐えられずに、優子はただジッと黙って下を向く。
シスター相馬はその優子の肩をポンポンと優しく叩いた。
「……分かった。坂本さんがそう言うなら、それはそれでいいわ。でもね、もしも本当はそうじゃなくて、裏に何か困った事があるんだったら、私に話してみてくれない? 私はね、心配なのよ。最近のあなたたちの様子が。見てると何だかこう、みんな、イライラしてるように見えるの。でね、このままじゃいけないって思うの。だって今って、本来ならあなたたち一般の生徒が何かあった時に、真っ先に頼るべきはずの生徒会の役員の子たちが、全然頼りにならない……っていうか、何か率先《そっせん》して、争いごとを起こしてるって感じじゃない?」
そこでふうと息を吐くと、
「こんなんじゃいけないと思う。ね、何とかしなくちゃ。……ここのままだとあなたもいずれは、ああした争いごとに巻き込まれちゃうかもしれない。……だっていま色々とあるのって、その中心にはあの高橋さんがいるんでしょ? ね、だから、もし私で良かったら、何でも相談してみて。お願い。きっと何とかしてあげられると思うから」
一生懸命になって、そう語り掛けてきてくれる。肩を抱かれている、そこから暖かみが伝わって来て、優子はなんだか泣き出してしまいそうな気持ちになった。
(ああ。この人は、私たちのことをよく分かってくれているんだ。……私のことを心配してくれているんだ)
他のシスターたちがみな四十代、五十代と歳が離れているのに対して、ひとりシスター相馬だけは二十代のなかばと、優子たちとは歳が近い。そのせいか信仰組の生徒たちはみな、シスター相馬を姉のように慕《した》っていたのだが、優子ひとりは今までどうも、彼女に対して心を許すことができないでいた。初対面の時の印象があまり良くなかったせいかもしれない。ジッと顔を見詰められた……しかしそれは今から考えれば、優子が前年に自殺した生徒……安城由紀に、似ていたからだったのだ。
今こうして肩を抱かれ、そして睫毛の長いその目を潤ませて、心からの慈しみを見せてくれているシスターの顔を見返しているうちに、優子は自分の心の内にあった障壁が見る見るうちに、劇的なまでに崩壊してゆくのを感じていた。
(この人は信じられる……。私のことを守ってくれる……)
人見知りが激しいぶん、優子はいったん、この人はと心を定めた場合には、逆に普通よりも思い切り相手に寄り掛かってしまう傾向があった。入学当初の高橋椎奈に対してもしかり、あるいはまた桜井さやかに対してもしかりである。そして今、優子はシスター相馬に対しても、さやかと同等か、あるいは彼女が大人であるぶんだけより以上に、心を寄せている自分に気がついていた。
そうした内面の変化は、表にも現れていたのだろうか。
「そう。私を信じて」
ダメを押すように囁きかけてくる。優子が心の内に隠していた数々の嫌な思いを、それはまるで吸い出してくれようとしているかのようであった。心が軽くなってゆく。全てを吐き出してしまいたい……。
しかしどうしても話せない事柄が多かった。未だに意味の分かっていないことや、誰かの中傷になってしまいそうなこと。……青木冴子の夜間外出の件。麻里亜の死んだ夜に冴子と椎奈が、連れ立ってどこかへと行っていた件。死体が発見されたその翌日、礼拝堂で冴子が沖野琴美と謎の会話を交わしていた件。そして先ほど階段から転がり落ちたその際に、冴子に突き飛ばされたような気がするという件。……それらを他人に語るのには、いまだに抵抗感があった。
(そうだ……)
あの件について訊ねてみようか。
「あの……シスター相馬?」
「なあに。言ってみて」
優しく、まるで赤ちゃんをあやすような感じで、身体を軽く揺すられる。
優子は思い切って言ってみた。
「あの、シスター……ジャック、って……」
その瞬間……ジャックというその言葉を耳にした瞬間、シスター相馬の貌《かお》には確かに、驚きの表情が現れていた。面相は急激に凍りついたように引き締まり、目は驚愕のために大きく見開かれている。
「あ、あなた……坂本さん……どうしてその言葉を……」
相手の緊張が優子にも伝わって、彼女は身体を堅くした。
シスター相馬はいったい、何を知っているというのだろうか。
「坂本さん、それ、どこで聞いたの? 誰から聞いたの? ……その言葉」
「ジャック、ですか?」
優子がそう言ってシスターの顔を見返すと、相手は徐《おもむろ》に頷く。
(琴美さんと冴子さんが話してたんです。麻里亜さんが亡くなられた後で、ジャックが見つかるとどうのこうのって、密談するみたいにして。それからこの間は、茜ちゃんと瑞穂さんが、シイ……高橋さんたちと言い争いみたいなことをしてて、その時に茜ちゃんが……。瑞穂さんも知ってたみたいで……)
胸の内で渦巻くそうした言葉を、優子はグッと呑み込んだ。ジャックという言葉の意味するところが不明な現状では、そうした吐露《とろ》は結果的にどういった告発に繋がっているのかも知れず、そこに不安を感じたからであった。
「先に教えてください。どういう意味なんですか? ……ジャックって」
そう訊ねてみると、シスターは首を横に振った。
「私も知らないの。それがどういう意味なのかは……」
(知らない……?)
優子が訝《いぶか》しむと、シスターは説明をしてくれた。
「書かれたのを見ただけなの。由紀ちゃんが……安城さん……安城由紀さんっていう名前の生徒が半年前……去年のクリスマスの日に、あの寮の屋上から転落して亡くなられたというのは……坂本さん……?」
「はい、聞いて知っています」
優子は話の展開に驚きながらも、そう答える。
「……実はその安城さんが、亡くなる直前に残したっていう、書き置きみたいなものがあってね。で、そこに書かれていたの。その『ジャック』っていう言葉が……。しかも書き置きの内容は、ただそれだけだった」
安城由紀の墜落死……優子が入学するよりも前に、すでに起きていた謎の事件。
クリスマスの日の未明に、塔から地上へと墜落して、冷たい雨に打たれていたというその少女の死は、はたして自殺だったのか、それとも何か事故のようなものだったのか。あるいは……。
優子は、少なくともそれは自殺ではないと思っている。なぜならば、その少女は熱心なクリスチャンとして評判だったというのだ。そんな少女にとって、自らその命を絶つという行為は、同時に神の命に背くということを意味している。この世の終わりに行われるという最終審判……それを受ける資格さえ失ってしまうのだ。熱烈なクリスチャンには、そんなこと、できるわけがない。
そして少女の死は、優子にとっても決して他人事では無かった。安城由紀というその少女に、優子は顔立ちから体型から、あるいは性格までよく似ていると……由紀を知る上級生たちからは、口々にそう言われている。
もしも彼女の死が自殺ではなく、たとえば誰かの悪意によるものだとしたならば、その被害者によく似た少女である優子が、こうして同じ学院に現れたということは、その悪意の持ち主にどのような影響を及ぼすのか……。
「坂本さん……あなた、その亡くなった安城さんに、よく似てる」
まるで優子の思考を読んだかのように、シスターがそう言った。
「だから私、これは言っとかなければいけないと、そう思って言うんだけど……。由紀ちゃん……あの子はね……暴行されていたの」
「暴行……?」
「陵辱《りょうじょく》されていたの」
優子はその言葉の意味するところを理解した途端《とたん》に、ハッと息を飲んだ。
(そんな……。そんな……)
「警察の人から知らされたの。後になってからね。……それまで私は、熱心なクリスチャンだったあの子が自殺なんてするはずがないって、ずっとそう思っていたのね。だけどそれを聞いてから、なんとなくあの子のとった行動が、分かってきたような気がするのね。もうそれは潔癖《けっぺき》な子だったから……」
「穢《けが》されたのに耐えられなくて……?」
「そう」
「じゃあ、ジャックっていうのは……?」
シスターは頷いた。
「由紀ちゃんを陵辱した男……のことではないかしら。いるのよ絶対に。この学院のどこかに、そういうことをして、あの子を自殺に追い込んだ男が……」
「それは、今も……?」
優子がそう訊ねると、シスターは曖昧に首を振った。
「さあ。それは分からないわ。……でも気をつけたほうがいいと思う。特にあなたは」
優子の肩を抱く手に、ぐっと力がこめられる。
「それで……、あなたがジャックっていう言葉を聞いたのは……?」
「あの……。それが、朝倉さんの……その次の日だったんです。ある人とある人が話してたのを、ちょっと聞いちゃったんですけど……」
シスター相馬は深刻そうな表情を浮かべ、何度か頷いた。
「麻里亜ちゃんの、ね。で……それで何て?」
「……あの、その時は警察の人が調べに来てて。それで片方の人が、ジャックのことを調べているんじゃないか、っていう感じのことを言って、そうしたらもう一人の方が、大丈夫、見つからないよ、とかって言って……」
「ねえ、教えて。それは誰と誰?」
そう問われても、優子は口を開かなかった。告げ口をするみたいで、どこか抵抗があった。シスターは眉根《まゆね》を寄せてしばらく考えているふうであったが、やがて質問の仕方を変えてきた。
「それは……生徒でしょ。……ね? たとえば、沖野さんとか?」
具体的にその名前を出されて、優子はどう反応すれば良いのか判断に困った。その困り顔を、相手は肯定の意味に捉えたようであった。優子は逆に質問をした。
「どうして沖野さんの名前を……」
「そうね。……ひとつは、彼女は去年、寮で由紀ちゃんと同室だったってことがあるし、麻里亜ちゃんとも生徒会で繋がりがあったから……。でもさっきの質問の仕方は、ちょっとズルかったわよね。……謝るわ。ごめんなさい」
ペコリと頭を下げられて、優子はまた困って俯いてしまう。
(でも、どうして麻里亜さまの時に、安城という女生徒の書き残したジャックっていう名前がまた出て来たのかしら。まさか……)
その可能性に思い当たった時、優子は息が詰まりそうになった。
「……シスター、教えてください。まさか麻里亜さまも、その安城さんっていう人と同じような、その……目に?」
顔を上げてそう訊ねると、シスターはしばらく口を閉ざしていたが、やおら話し始めた。
「それよりももっと酷いの。麻里亜ちゃん……」
そこで顔を背けながら、
「……妊娠してたの」
その言葉に、優子は激しい衝撃というよりも、むしろジワジワと世界が浸食されて行くような、そうした不気味な感覚を覚えた。
(麻里亜さまが……妊娠?)
とても考えられなかった。その両者がどうして結びつくのか。
「それは……ジャックが?」
「さっきのあなたの話からすると、その可能性が高いと思う」
そこでシスターは悲しそうな表情のまま、話し始めた。
「麻里亜ちゃんにはお姉さんがいたのね。百合亜ちゃんっていう……結婚して稲垣さん……稲垣百合亜さんっていう名前になったんだけど、その子と私、同級生だったのね、この学院で。しかもすごい仲が良かったのね、私たち。だからその百合亜ちゃんの妹だってことで、麻里亜ちゃんのことも私、この学院に来てからずっと、そう……見守っていたのね。特に去年の夏、百合亜ちゃんが不幸な目に遭ってから……」
「どうされたんですか、その人?」
優子がそう訊ねると、
「百合亜ちゃん? ……死んじゃったの。よくは知らないんだけど、何か、おかしな事件に巻き込まれたみたいで……」
しばらく遠い目をしていたのは、亡くなったというその親友のことを追想していたのだろうか。
「ごめんなさい。……でね、麻里亜ちゃん、身内にそういうご不幸があって、それで心配して見守っていたんだけど、何とか夏休みのうちに気持ちの整理ができたのか、二学期からはそれ以前にも増して、元気で明るくやってたのね。生徒会長にも立候補して、そうして亡くなった百合亜ちゃんの分まで、一生懸命に元気にやっていこうとしてたのね。……あの子、そう……輝いてた。坂本さんもそう思ったでしょ?」
優子は力強く頷いた。それを見て、シスター相馬は軽く微笑み、そしてまた表情を硬くして話を続けた。
「だからそんな……あの子が好んでそんな、妊娠するようなことをしてたなんて、考えられないの。だからきっと麻里亜ちゃんも、由紀ちゃんと同じように……同じやつに……」
「ジャック……?」
シスターはうん、とひとつ頷いて、
「麻里亜ちゃんのご遺体の……お腹の中には、実は赤ちゃんは見つからなかったの。流産して、その出血のせいでああなってしまったんだって。で、その赤ちゃん、どこからも見つからなかったの。警察はそれを調べに来たって言ってたんだけど。……まだ見つかっていないみたい」
「そんな……」
優子には、シスターの話すその言葉のひとつひとつが、ショックの連続であった。……麻里亜の死は流産がその原因であった。麻里亜が死んだのは、あの寮の中である。そしてその赤ちゃんがまだどこからも見つかっていない……。
もしかしたらその行方不明の小さな亡骸《なきがら》は、寮内外のどこか近くに隠されていて、そして今でもそこで眠っているのではないだろうか。
「ジャックの仕業だとしたら、その説明もつくと思うの。……ほら、DNA鑑定とかってあるじゃない。遺伝子の型によって、赤ちゃんの父親が分かるっていう。それであの子を妊娠させたのが自分だってバレるのを恐れて、その子供を始末したって考えれば……」
そこでふうと溜息を吐くと、
「とにかくこの学院には、何かそうした悪いことをして廻っているヤツがいるのよ。一部の生徒もそれを知っていて、そいつはジャックって呼ばれている。……マザーは駄目ね。事なかれ主義で、この学院には絶対にそんなことはないんだって言い張ってるんだけど、でも私はそんなんじゃいけないと思うの。下手をしたらまたウチの生徒が誰か、そいつの犠牲になってしまうかもしれないじゃない、ねえ。だからマザーみたいな、そんなこと言ってる場合じゃないのよ。私は絶対にジャックの正体を突き止めて、それでそいつをこの学院から追い出して、みんなを守ってあげる。だから……ね。さっきの話なんだけど、あなたが聞いたのは、沖野さんと……?」
優子はゴクリと唾を飲んだ。シスター相馬は……頼れる人かもしれない。そう、このシスターの言うとおりにしておけば、少なくともジャックの問題に関しては、解決してもらえるかもしれない。
「沖野さんと……青木さんです」
「青木さんが?」
シスターはややビックリしたような表情を浮かべた。考えてみればここ最近、学内が椎奈派と麻里亜派に二分されている中で、青木冴子は椎奈派に属していて、沖野琴美とはむしろ対立している。それで訝しく思ったのであろう。しかし麻里亜の死の直後には、まだそうした派閥《はばつ》は学院内には無く、二人は同じ生徒会の役員同士で、その頃にはまだ同じ仲間だったのだ。
と、そこにノックの音がした。
思いもよらない方角からのその音に、優子は驚きのあまり息が詰まりそうになった。シスターも一瞬、背筋を伸ばして鼻の穴を膨らませる。
「……シスター相馬。いらっしゃいますか?」
そう言って、ドアをガチャリと開けて顔を覗かせたのは、マザー江田であった。
「あ、はい。……いまちょっと治療をしていたのですが……」
「あら坂本さん。どうなさいました?」
「はあ、ちょっと捻挫を……」
衝立の隅から、開放されたドアが見える。そしてそのドアの向こう、廊下に、見慣れない女性がひとり立っているのが見えた。
大人の女性である。二十代の後半ぐらいだろうか。左右の目尻《めじり》が吊り上がって、どこか猫科の動物を思わせる、派手な顔立ちをした、美しい人であった。
(……誰?)
修道服と見間違うほどの黒一色のスーツを身に纏い、ただその場に立っている。しかし明らかにその女性の持つ雰囲気は、シスターたちの持つそれとは違っていた。たとえて言うならば、見せかけのしなやかなその肢体の陰で、敏捷《びんしょう》に働く筋肉を緊張させ、今にも獲物に跳びかかろうとしている獣のような感じである。
マザーはシスターに、治療が終わったらすぐに来てくださいと告げていた。
「……朝倉さんのお身内の方が、改めてお話を伺いたいと仰られて」
そう言って、ちらりと背後を振り返る。してみると、その黒服の美人は麻里亜の身内の者なのだろう。
優子は自分の治療はもう良いので、どうぞ行ってくださいとシスターに言った。
「じゃあ、坂本さん……。大丈夫? ひとりで歩けなかったら無理しないでね。ここで待っててくれれば、後でまた来るから、そうしたら一緒に寮まで行きましょう」
優子は大丈夫だと頷いた。実際、足首の痛みはそれほどでもなくなっていた。それよりもむしろ早くひとりきりにしてもらいたかった。
じゃあ、とシスターが言い残して、そしてパタンとドアが閉ざされる。白一色の保健室にそうしてひとり残されたところで、優子は改めて、たったいま聞き出した話の数々を、自分の中で整理しようと試みた。その中でも特に、麻里亜が妊娠していたという話を……。
本当なのだろうか。あの麻里亜が、妊娠をしていた……? 優子には、にわかには信じられない話であった。
そんな徴候ははたしてあっただろうか。浴場でたまたま同じ時間に行き合わせた時に、こっそりと憧憬の眼差しで眺めていた、その白い裸身を、優子は思い起こす。形良く盛り上がった胸の膨《ふく》らみの下から、両脚の付け根に至るまでの間の、その女性的な曲線の中には、しかし妊婦と聞いて優子が想像するような、たとえば不自然な腹部の膨らみなどは、今から振り返ってみても、そのどこからも感じ取ることはできなかった。それは一個の芸術品にも等しい裸体であり、そこに感じるのはただひとつ、聖母の美しさであり、清らかさであった……。
(……聖母……母性?)
そうして考えているうちに、息が詰まりそうになって、優子は立ち上がった。痛む足をひきずりながら、ふと思い立って窓辺に立ち、カーテンを少し脇に寄せて、外を覗いてみる。
保健室は校舎の東棟一階の外れにある。その窓からは、左手には校舎南棟が、右手には私道と、そのさらに右手には自生する自然林とが望まれて、その両者に挟まれた窓のすぐ外のスペースは、教職員用の駐車場となっている。そしてその駐車場の向こうに見えるのが、教務棟である。
学院長室、教職員室などとともに、応接室もその棟にあって、したがってマザーやシスターはおそらくそこで、あの黒服の女性との応対に勤めているのだろう。……漫然と窓外のそうした景色を眺めていた優子は、次の瞬間、ハッと身を堅くした。
駐車場に人影が見えた。洒落たデザインの小さな黒い車の陰から、ひょいと身を起こしたその人物は……蛭川教諭であった。
(ヒル坊……何をしているのかしら、あんなところで?)
停まっている車の数は少なく、そのぶんあたりは見通しが良い。それを気にしているのだろうか、しきりにあたりの様子をうかがいながらも、黒い車のナンバーを手帳に書き取ったり、車内を覗き込んだりしている。優子はそうして覗いているのを蛭川に気取られないようにと、壁に身を寄せてから、引き続きその様子をカーテンの隙間から観察した。
車のチェックは済んだのか、やはりあたりに気を配りながら、蛭川は今度は駐車場の端にある裏門を通ると、教務棟へとこっそりと忍び寄って行った。応接室の中の様子が気になるようで、しばらくはその窓の中を覗き込めないものかといった感じで、あたりをうろうろとしていた。しかしやがて諦めたのか、その窓の前を離れ、再び駐車場へと戻って来る。そして丸っこいデザインの青い車へと近付くと、今度は鍵を使ってドアを開け、その中へと乗り込んでしまった。どうやらその青い車は、蛭川のマイカーのようであった。そうして運転手が乗り込んだわりに、しかしその青い車は、いっこうに動き出そうとはしなかった。
どうやら蛭川は何かを待っているようであった。優子も事態が動き出すのをじっと待つ。ほとんど片足だけで立っているうちに、今度は右脚のほうが疲れて痛くなってくる。しばらくそうして待っていても、場にはいっこうに動きが見えず、ただその間ゴウゴウという風の音だけが虚しく響いていた。
(何をしているのかしら、私……)
そうした自問を、いったい何度繰り返したことだろうか。そろそろ夕課の時間となり、いいかげんに諦めて寮に戻ろうかと、優子がそう思い始めた矢先であった。
教務練からマザー、シスター相馬、そして黒服の女性と、三人が再びその姿を現した。ひととおりの挨拶が済むと、マザーは教務棟へと姿を消し、シスター相馬は渡り廊下を通って、校舎南棟へと入っていった。そして黒服の女性はひとり、裏門を通って、駐車場へと出て来る。煙草に火を点け、そして……それがやはり彼女の車だったのだろう……黒い小さな車へと向かって歩き、そしてドアへと手を掛けたところで、女性はハッと動作を止めた。見れば青い車から蛭川が降り立ち、何やら声を掛けて、黒い車のほうへと歩み寄って行く。……
コンコン、とノックの音がして、優子は息を飲み、慌てて窓辺から身を翻して、ベッドへと駆け戻った。ガチャリとドアが開く。
「坂本さん……、ああ、やっぱり待っていてくれたのね。ごめんなさい」
それはシスター相馬であった。
「あ、……はい」
「やっぱりその足じゃあ、ひとりで歩くのは危険ですものね。じゃあ寮まで一緒に行きましょう」
シスターは優子の左肩を支えるようにして、彼女を立たせた。そして二人で保健室を後にする。
(もう少しひとりにしておいてくれたら……)
優子は保健室を出る、その最後の瞬間に、再び窓のほうをチラリと見やった。
いったい今、窓の外では、何が行われようとしているのか……。蛭川はいったい何のために、麻里亜の身内の者と名乗るあの黒服の女性に、接触を試みたのだろうか。
シスターに身体の左側を庇《かば》ってもらい、廊下を二人三脚のような体勢で歩きながら、優子はまたしても現れたその新たな謎に、そうして頭を悩ませていた。
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七章 原 罪
鈴堂美音子は駐車場へと出ると、とりあえず煙草《たばこ》を取り出して口にくわえ、火を点けた。煙を深く吸い込むと、澱《よど》んでいた頭がスッキリと蘇る気がする。吐き出す煙が、強い風にさらわれて行った。その行方を追うようにチラと背後を振り返ると、沈んだ色の空を背景に、校舎がさらに暗く、シルエットとなって聳えていた。
純和福音女学院……。
学院に乗り込んでの聞き込み調査は、結局、ほとんど成果らしい成果も得られないままに終わろうとしていた。
安城由紀と朝倉麻里亜……ここ半年の間に、二人の少女が、相次いでこの学院で亡くなっているのだ。あるいは常盤台の事件で謎の死を遂げた稲垣百合亜も、遡《さかのぼ》ればこの学院を卒業している。
彼女たちはこの学院で、どんな生活を送っていたのだろうか。由紀と麻里亜、その二人の死体発見時の様子はどうだったのか。警察が見逃しているような、何かおかしな点は無かっただろうか。そして学内に少女たちを蹂躙《じゅうりん》した男……ジャックと名乗る男は、はたしているのだろうか。……訊くべきことは色々とあった。
学院へと乗り込むのに際して、彼女は朝倉剛蔵の協力を得て、麻里亜の身内の者という立場を取っていた。娘が校内で死亡したということに関する学院側の説明を、多忙な父親に代わって聞きに来た代理の者、という立場である。そういう立場に立った上で、美音子は次のように強引に話を進めた。曰く……全寮制の学校に子供を預ける以上は、父兄はその子供の生活全般の面での指導をも、学院に任せたことになる。高い学費もそのために払っている。それなのに麻里亜が妊娠したというのは、学院側に監督不行届の非があったのではないか。聞けば前年の冬にも学内で、安城由紀という生徒の自殺事件が起きているという。名門と謳われていた学院が、いったいこれはどうしたことなのか。学院側に責任が無いと言うならば、ちゃんとした説明をしていただきたい。安城由紀の件も含め、学院側に責任が無いということを、そうして証明していただきたい……。
美音子のそうした要求に対して、学院長の江田|園子《そのこ》女史は、のらりくらりと答弁をかわした。曰く……学院では生徒のみなさんの指導について、充分に心を配って来ました。朝倉さんのご不幸に関しては、心からのお悔《く》やみを申し上げます。ただし妊娠の件につきましては、生徒たちの普段の生活の場である寮はもちろん男子禁制ですので、彼女が男の人と関係を持ったのはおそらく学外でのことだったと思われます。そこまでは学院といたしましても、責任は負いかねます。それから安城さんの件ですが、その件につきましては、自殺というにしては、原因として思い当たることも皆無でございまして、そのため警察でもいまだ、事故とも何とも決めかねているといった状況だと聞いております。ともあれ朝倉さんのご不幸とはたまたま時期が連続しただけで、その二つの死には何の関連性も無いとこちらでは考えております……。
その場には相馬|由月《ゆづき》というシスターも同席していた。睫毛の長い綺麗な目と、鼻のまわりに散るそばかすが印象的な、その若いシスターは、安城由紀と朝倉麻里亜の二人の死体をともに最初に発見したのだという。そしてさらに稲垣百合亜とも高校時代には同級生だったという彼女は、美音子に対して、むしろ協力的な態度さえ見せてくれていたのだ。しかし彼女の発言は、際どい内容に触れようとするたびに、ことごとく江田学院長によって遮られた。
そうして実りの無いまま、いよいよ万策《ばんさく》が尽きようかという時であった。
「……では最後にお伺いしたいのですが。……ジャック、というのは、いったい何なんです?」
美音子のそのとっておきの質問に、シスター相馬はハッと息を飲んだ。美音子はその反応を見て、今度こそ手応えがあっただろうと意気込んだ。しかしその質問に先に応じたのは、やはり江田学院長のほうであった。
「何でございましょうか。その、ジャックとは……?」
あくまでもそうして空惚《そらとぼ》けようとする。美音子はひとつ溜息を吐き、それが安城由紀の書き置きの内容だと指摘した。学院長は困ったものだという顔をして、
「……どこから聞かれたのでしょうか?」
「さる筋からです。……で? ジャックとは?」
「さあ……」
と首を捻る。美音子が重ねて訊ねると、老女史は毅然とした表情のまま、
「先ほども申し上げましたとおり、安城さんの件につきましては、いまだその筋のほうで調査中ということですし……それに貴方が尋ねていらしたのは、たしか朝倉さんの件でございましょう? その朝倉さんの件と、安城さんの書き置きの内容とは、どういった関係があるとお思いで?」
その時、学院長の隣に座る若いシスターが目を閉じ、微かに首を振ったのを、美音子は見逃さなかった。学院長は続ける。
「……いえいえ、と言っても別に、知ってて意地悪をしているわけではございませんのよ。安城さんがどういった意図で、ああした謎めいた言葉を書き残されたのか、私どもにはとんと見当もついておりません。逆に私たちのほうが教えていただきたいところですのよ。……ねえ、シスター相馬」
「え、ええ」
学院長に同意を求められて、シスター相馬はぎこちなく頷いていた……。
ポケットからキーを取り出し、車のドアを開けながら、美音子はなおも考えていた。
学院の体裁《ていさい》を第一義に考え、上辺を取り繕うことしか考えていないといった様子だった学院長とは違って、同席していたあのシスターのほうは、それこそ真摯に、事件について考えているふうであった。二人の少女の死の現場がどうだったのか。安城由紀の残したジャックという言葉を、学院ではどうとらえているのか。そうした美音子の質問に対して、彼女が答えようとして学院長に遮られ、飲み込んだ言葉の数々……美音子はどうしてもそれを聞き出したいと思っていた。
何とか、あのシスターと二人だけで話をすることはできないだろうか。……しかしそれは、思ったよりも困難なことのようであった。相手は聖職者として、その一生を信仰に、そして学院に奉じている女性なのだ。今回のように学院長の監視つきでなければ、誰かと逢う機会など、彼女には与えられていない。
どうすれば良いのだろうか……。
短くなった煙草を、車内の灰皿へと押し潰す。溜息とともに最後の煙を吐き出して、そして車に乗り込もうとした時であった。
「どうも……」
不意にそう声を掛けられ、美音子はあたりを見回した。
学院の駐車場には美音子のミニの他にも、数台の車が停められていた。その中の一台、青のワーゲンの運転席から、スーツ姿の若い男が降り立って、ペコペコと頭を下げながら美音子の方へと歩いて来る。
「……こんにちは。この学院にお客さんとは珍しい。もしかして……警察の?」
「いえ……」
「ああそうか。奴らはたいてい二人組で来ますからね。だったらマスコミ?」
「いえ……」
そんなふうに曖昧に答えながら、美音子は素早くその相手を観察した。年齢は二十四、五といったところか。美音子よりは若そうだ。ひょろりと痩《や》せており、髪はやや薄め。顔は不健康に生白く、そこに作り笑いを浮かべているのだが、それがまったく様になっていない。特に銀縁眼鏡の奥の細い目が、愛想を良く見せようというその意図を裏切って、どこか小狡そうな印象を与えている。
「あ、申し遅れましたが、私、蛭川と言います。ここで理科の教師をしております」
男はそう言って、ついには美音子のそばまで来ると、その場に立ち止まった。その男の意図はまったく読めなかった。……そうした状況のまま、しかし美音子は、自分がその相手との応対を間違わなければ、何かしらの有益な情報が得られる状況にあるのだということを、本能的に悟っていた。
「……そうですか。私は父兄の代理の者です」
とりあえずそう応じる。すると蛭川と名乗る相手は、さらに質問を重ねて来た。
「父兄のかたと申しますと……? どちらの……?」
「朝倉麻里亜の父親の代理です」
美音子がそう答えた瞬間、相手はチラと目を泳がせた。
「ああ、そうですか。……その節はどうもとんだことで。お悔やみ申し上げます」
美音子の中の〈黒猫〉の血は、その男のそうした対応を目の当たりにして、しきりに騒いでいた。……こいつは怪しい。こいつは、ただのナンパではない!
蛭川はなおも訊ねて来る。
「代理のかたと申しますと……弁護士さんか何かで……?」
「いえいえ。単なる知り合いです。代理の件をお疑いならば、朝倉さんに確認されても結構ですが。……それにしてもこの学院では、こんなふうに貴方のような……失礼ですがまあ言ってしまえば、一介の教員にすぎない人間までがこうして、訪問者の身元確認をするという……そういうのが普通なんですか?」
美音子がそう皮肉を言うと、相手は神経質そうに自分の額を撫でながら弁明した。
「いえいえ、これは失礼しました。……いやその、もしもこの学院で起きた事件に関して、何か訊くために来られたんだとしたら、あのシスターたちに訊いても埒があかないだろうなあと思って、それでこうして声を掛けてみたんですけどね。……どうでした? 聞きたい話が聞けましたか?」
「と言うと、ええと、蛭川さん……でしたっけ? 貴方のほうからも何か、話をしていただけるということですか?」
事の意外な成り行きに、美音子がそう訊ねると、
「ええ、まあ、そういうことですかね。……といってもまあ、ウチらみたいな雇われ教師だと、そう大してお話しできるようなこともありませんが。でも訊かれれば何だって、知っている限りのことを話してさしあげますよ」
「あら、そう? ……では」
「いや、その前に場所を移しましょう。……山を下りてすぐのところに『ワルツ』っていう店があるんですが」
美音子は頷いた。男の意図は依然として不明ではあったが、しかし教師という立場から見た学院内の様子や、死んだ二人の女生徒の生前の様子などは、聞いておいても損は無いだろうと思われた。さっそく自分の車に乗り込み、蛭川の運転するワーゲンの後を追って、山道を下って行く。
十分ほど走って、着いたその店は、郊外型の広い駐車場を持ったレストランであった。
窓際の席に案内されて腰を落ち着けると、美音子はまず煙草に火を点けた。すぐにウェイトレスが寄って来る。蛭川はメニューを見ながら、軽食を注文した。美音子は飲み物を注文する。
ウェイトレスが去ると、理科教師はさっそく、軽い雑談といったふうを装いながら、美音子に探りを入れてきた。
「飲み物だけでよろしいんですか? すみません。僕のほうは、ついでに夕食も済ませてしまおうと思いましてね。なにせ独り暮らしなもので。ええと……そういえばまだお名前、伺っていませんでしたよね」
「そうでした? それは失礼しました」
そう直截に訊ねて来られては、そういつまでも惚けてはいられない。美音子は迷ったが、結局は本名を名乗った。
「ほう。……リンドウと申しますと、ユリ科の花ですね」
「その竜胆とは字が違いますがね」
「というと、どんな字で?」
「風鈴の鈴に、お堂の堂という字を書きます」
「なるほど。で、鈴堂さん……お食事はされないのですか? とすると僕なんかとは違って、家でちゃんと御飯が用意されているとか」
「いえいえ。昼食が遅かったもので」
「そうですか。……ええと、失礼ですが、鈴堂さんは、朝倉さんのご家族とはどういった関係で?」
「まあ、仕事の上での関係と言うか……」
「と言いますと、あの化粧品の?」
「いえいえ。まあこっちの仕事の関係で……」
どうやら相手は、美音子の身元に、その関心を寄せているようであった。こうして相手に自由に質問をさせるというのも、美音子にとっては必要な情報を得るための、有効な手段のひとつではあった。しかしこの蛭川という男の繰り出す質問の数々は、どこか偏執的であり、多分に煩《わずら》わしく感じられた。そこで注文の品が来たのを機に、彼女は会話の主導権を得るべく、自分から質問を発した。
「……でですね。ここ半年の間に、安城由紀さんと朝倉麻里亜さんと、二人の女生徒が相次いで、あの学院の中で亡くなられていますよね。私はその二つの死には、お互いに何か関連性があるのではないかと、そう睨んでいるのですが……。蛭川さんはどう思われます?」
美音子がそう訊ねると、蛭川は匙《さじ》に取ったピラフを口に放り込んだ。モグモグと口を動かしながら、右手を前に出して、待ってくれという合図をする。そうしてうまく即答を避けた後、コップの水に口をつけ、そしてようやく蛭川は質問に答えた。
「そうですね。まあ、何となくおかしいな、とは感じていましたけど」
その二つの事件を繋ぐポイント……安城由紀が暴行を受けていた件と朝倉麻里亜が妊娠していた件について、蛭川は知っているのだろうか。特に麻里亜の妊娠の件については、美音子は依頼人からの要請もあり、迂闊《うかつ》には口にすることができないのであった。彼女は仕方なく、遠回しな質問から攻めてゆく。
「まずはお訊きしたいのですが、安城由紀さんというのは、どんな生徒でした?」
「そうですね……とにかく、真面目な子でしたよ。真面目で、どちらかといえば大人しいほうでしたが、ても目立たないとかそういうわけでもなくて、まあとにかく、可愛い子でしたね。子供っぽい感じで」
「自殺とされていますが、その原因に心当たりは?」
「いえいえ、まったく」
蛭川は肩をすくめて首を振った。
「大人しい子だと言いましたけど、たとえばいじめられていたとかは?」
「それはないでしょう」
「友達はいました?」
「ええ。特に生徒たちの間で信仰組と呼ばれている、クリスチャンの仲間たちとは、仲が良かったように思います。……あの子もクリスチャンだったようで」
蛭川は具体的に、安城由紀と親しかったという、何人かの生徒の名を挙げた。美音子はメモを取る。
「……なるほど。ありがとうございます。で、聞くところによると、現場には書き置きのようなものが残されていたという事だったのですが……。それは蛭川さんは、ご存じでしたか?」
「書き置き、ですか? ……いや、何しろ、事件についてはあまり詳しくは知らされていないもので」
「ジャックとだけ書かれていたそうです。カタカナでただ、ジャック、とだけ。……何か思い当たることはありませんか?」
質問はいよいよ核心に迫っていた。
「ジャック……」
「誰かがそう呼ばれていたとか、何かそういった事でもあれば、教えていただきたいんですが……」
蛭川はしばらくの間、目を宙に泳がせていたが、やがて、いや、思い当たることはありませんなあ、と首を振ると、またピラフをひと匙、パクッと口にした。
「そうですか……」
美音子は眉根を寄せた。蛭川の答えにはどこか、嘘と知りながら口にしているといった、そんな空々しさのようなものが感じられたのだ。
「ではもうひとつ。安城由紀さんの死が、他の生徒たちに与えた影響については、どんな感じでした?」
「影響、ですか。……そうですね。みんなかなり衝撃は受けてましたね。でもみんなと言っても、ちょうど冬休みに入ったところでしたからね。半分以上の生徒はもう帰省していましたから。その子たちは、まあ僕なんかと同様で、ショックを受けたとは言っても、それほどでもない。大したことはなかったでしょう。寮に残っていた子たちに比べればね。本当にショックを受けたのは、寮に残っていた子供たちですよ。何しろ、自分たちが寝ていたその建物から飛び下りたわけですからね。……でもいちばん悲しい時期は、冬休み中に過ぎてしまったんでしょう、三学期になって、まあ最初の一週間ぐらいまででしたかねえ。それを過ぎたらみんなじきに、元通りになってゆきましたよ」
美音子は飲み物に口をつけ、ひと呼吸を入れた。蛭川もバクバクとピラフの残りをかき込む。
「……では、朝倉麻里亜さんのほうに移りますが……。彼女はどんな生徒でしたか? 蛭川さんの目から見て」
「まあ……とにかく綺麗な子でしたね。アイドル歌手も真っ青ですよ。……それで頭も良くて、性格も満点。生徒会長をしていましたが、指導力も抜群。まったく、非の打ちどころが無いといった感じの子でした」
とひと息に言った後、
「そう……。そういえばあの子も、クリスチャンでしたね。……実は少ないんですよ、ウチの学校。タテマエはいちおうミッションスクールってことになってるんですけど。……だからそういう意味では、クリスチャンである、というのは、彼女たちの共通点のひとつだったのかもしれませんね、今から思えば」
クリスチャンであるという共通点……。ジャックがターゲットの少女を選ぶ際の、それがひとつの基準だったのだろうか。それとも偶々、二人がそうであったというだけのことなのだろうか。分からない……。
美音子はひとつ大きく溜息を吐いた。気を取り直して質問を続ける。
「で、彼女は安城由紀の事件の時、どんな感じでしたか? やはりショックを受けている様子でしたか?」
「朝倉は……さあ、どうでしたかね。でもあの子が動揺したところなんて、見たことが無いですからね。とはいっても、何しろ事件が起きたのが冬休みの初日で、僕が生徒たちに会ったのは、その冬休みが明けてからでしたからね。だから、うーん……何とも言えませんけどね」
「では、今年の五月の件ですが……。彼女の死因については、お聞き及びになっていますか?」
「朝倉の死因、ですか? いや、ただ単に病死とだけしか聞いていませんが。……そういえば彼女の死んだ後、警察が来て何かを調べてましたけど、何かそういう、死因に疑いでもあったんですか?」
「いえ、別にそういうわけでもありませんが……」
美音子は言葉を濁した。蛭川は麻里亜の妊娠の件を知らない……あるいは少なくとも、知らないふうを装っている。となると、突っ込んだ質問はできない。
煙草に火を点け、もどかしい気持ちを抑えながら、彼女はさらに迂遠《うえん》な質問を重ねた。
「たとえば学院に、変質者が紛れ込む、なんてことはあり得ますか?」
「さあ、それはどうでしょうかねえ。街からあれだけ離れていますからね。でもガードという点では、別に、たとえば要塞のように警備を固めてるというわけでもないですし、中に入り込もうと思いさえすれば、夜中にこっそりと敷地の中まで入る、ぐらいのことはできるかもしれませんけどね。まあでも今のところは幸いにも、そうした事件は起きてはいないようですけどね」
「蛭川さん自身は、学院に泊まり込むこととかはないのですか? たとえば宿直とかで」
「それはありません。ウチはそういうのはみんなあの、シスターの人たちがやってくれていますからね。……まあそれは、僕らがそれだけ信用されていないということでもあるのですが」
「そうすると夜間はもう完全に、中は女性だけになる?」
「ええ、そうです。何しろご大層な肩書きつきのお嬢さん連中ばかりを預かっていますからね。同じ敷地内で男が寝泊まりするなんてのはいけないみたいで」
美音子は何度か頷いた後、声をひそめて言った。
「とすると、もし……仮に、ですよ。もし仮に、安城由紀さんと朝倉麻里亜さんの死因に何か疑いがあったとしたら、それは学院の内部の者によるものと考えても良いんですかね?」
「それは……あるんですか? 何かそうした、その、疑いが?」
蛭川は訝しげな表情でそう応じた。美音子は顔の前で手を振り、
「いえいえ、あくまでも仮定の話です。どうも、安城さんが書き残したという、ジャックという言葉が、気になっていましてね」
「ジャック、ですか……」
蛭川は再び、その言葉に考え込むようなそぶりを見せた。そろそろ潮時だと考えた美音子は、煙草を灰皿に擦りつける動作で、相手にそれと分からせた。
「ピンと来ませんねえ。でも何か分かったら、お知らせしますよ。……連絡先を教えていただけますか?」
美音子はしばしの間、考えた挙句に、結局自宅の電話番号を蛭川に教えた。代わりに相手の連絡先も教えてもらう。
個別に清算を済ませ(蛭川は自分の分は自分で出すと言って聞かなかった)、駐車場へと出る。再び煙草に火を点けた美音子に対し、
「じゃあ、何か分かったら、また……」
蛭川はそう言葉を残して、自分の車へと向かって行った。
ただのナンパな理科教師だったのか、それとも秘密を深られるのを警戒したジャック本人か、あるいはその手先だったのか……。美音子は混乱したまま、蛭川の後ろ姿を見詰めていた。風が強い。髪が煽《あお》られて頬に貼り付く。吐き出す煙は風にさらわれて、眼前からサッと消えてゆく。
そろそろ濃い闇に覆われ始めた空の下を、蛭川の青いワーゲンは、美音子の見送る中、街道を急ぐ車の流れへと乗って、走り去って行った。
そうして今年五月の麻里亜の事件の調査を進めるその一方で、美音子は昨年の常盤台での稲垣家の事件についても、並行して同様に調査を進めていた。
彼女はまず、朝倉剛蔵の事情聴取を担当したという捜査官に連絡を取ろうとした。剛蔵の保持していた名刺には、長沼《ながぬま》というその捜査官の名前とともに、所轄署の電話番号が書かれていた。ところがいざ電話を掛けてみると、その人物ならこの春から本庁に異動したという。『常盤台夫婦変死及び嬰児誘拐事件』の捜査本部は依然としてその所轄署にあるということであったが、実質上捜査は打ち切りにされているらしく、電話の応対に出た男の話しぶりでは、後任の担当者が誰なのかすらあやふやな様子であった。警視庁刑事部ならば自分のつてもあるということで、彼女は結局、その本庁に異動したという捜査官に会うべく、話を進めていた。
そして美音子が学院を訪問した翌日、警視庁舎内にあるパーラーの片隅で、その面談は行われた。
長沼は警察の人間にしては珍しく、非常に愛想の良い男であった。歳は四十そこそこといったところか。目尻《めじり》には笑い皺がくっきりと刻まれている。その外見だけからすれば、どこぞの営業マンといったふうにしか見えない。階級は警部だとのことで、それが刑事からの叩き上げなのか、それともキャリア組からの落ちこぼれなのか、美音子には判断がつかなかった。いずれにしても、その年齢にしては中途半端な階級のように思われる。
「鈴堂さんと仰いますと、あの〈黒猫〉でしょう? お噂はかねがね伺っております」
美音子が自己紹介をすると、そう言って皺を寄せて笑う。
「噂どおりに、お召《め》し物《もの》はやっぱり黒なんですね。……いやこれは失礼。常盤台の事件について、でしたね」
美音子のような素人探偵に対して、警察官ならば通常抱くであろうはずの反感を、長沼は微塵《みじん》たりとも、そのそぶりに見せなかった。警察官にありがちな女性蔑視の雰囲気も、特には感じられなかった。美音子は気を引き締め直してから、質問にかかった。
「まずは事件が発見されるまでに至った経緯を、説明していただけないでしょうか」
「いいですよ」
長沼は頷き、説明を始めた。
「事件のあった晩、去年の七月二十四日から二十五日にかけてですね。その晩の深夜零時過ぎに稲垣裕明は、妻が破水《はすい》したのでこれから病院まで連れて行くという連絡を、それまで百合亜が診察を受けていた病院の産婦人科へと入れています。病院側ではさっそくそれに従って、受け入れの準備を進めていたのですが、稲垣夫妻はいっこうに現れない。稲垣家から病院までは、車で十分ほどの距離しかありません。連絡の無いままひと晩が経って、そうして不審に思った担当医が翌朝、稲垣家を訪問して、そして事件を発見したというわけなんです」
そうして語られた事の経緯に、美音子はちょっとした疑問を抱いた。
「……その医師の行動なんですが、どこか不自然なもののように思えませんか? お節介《せっかい》と言うか……。たとえばその患者は、いったんはそうして通い慣れた病院へと連絡を入れたのだけれども、その後急に容態が悪化して、それで救急車を呼ぶことになったと。そうなると救急病院へと運ばれてしまいますよね。……たとえばそんなふうに考えるのが普通なんじゃないでしょうか」
美音子がそう疑問を口にすると、長沼はいやいやと首を振った。
「それが実はちょうどその晩、常盤台のあたりの救急指定病院に当たっていたのが、問題の鮫島《さめじま》病院だったんですね。だからいずれにしても、稲垣百合亜はその病院へと運び込まれて来るはずだった。……その担当医によると、彼もやはりいったんは、患者がどこか別な病院へと運ばれたのではないかと思ったそうです。しかし翌日になって改めて考え直してみると、やはりどこか変な気がした。悪い予感がしたのですね。それでとりあえず、稲垣家へと電話を入れてみたのですが、応答が無い。そこで念のためにと思って、当直明けの時間を使って、車でちょいと稲垣の家まで行ってみることにした。すると不用心にも玄関のドアが開いている。そこで家の中を覗いてみると、そこで嫌な臭いを嗅ぎ付けた。これはと思ってそのまま家の中まで踏み込んで行って、そして百合亜の死体を発見した。そこで一一〇番通報をしたというのです。……いちおう筋は通っていると、警察ではそう判断をしたのですがね」
美音子は頷いた。次に現場の様子を訊ねる。長沼警部は要領よく説明をした。
「白合亜さんの死体は、一階の客間に延べられた布団の上で、全裸の状態で発見されました。死体の下腹部から両腿にかけては、大量の出血で汚れていました。あたりも血まみれで、シーツは大量の血を吸ってどす黒く変色していました。
夫の裕明氏のほうは二階にある夫婦の寝室で、床に倒れる形で亡くなっていました。着衣はパジャマの上下。首には扼痕が痣《あざ》となって残されており、これは事件が明らかに殺人事件であるという当初の判断の材料となりました。
その寝室からは、百合亜さんの着ていたものと思われるネグリジェと下着とが脱ぎ散らかされているのも発見されています。それらには破水によるものとみられる汚れが付着していました。同じ汚れはその寝室の布団の上からも少量、検出されています。寝室からはその他に、百合亜さんの入院に備えて荷造りされたものと思われるバッグも見つかっています」
「分かりました。……では、そうした現場の状況を踏まえて、捜査陣が描いた事件のストーリーとは、いったいどのようなものだったのでしょうか? いったい何を根拠に、百合亜さんを夫殺しの犯人だと推定したのです?」
「決定的な証拠となったのは、被害者の裕明氏の爪に残された皮膚組織でした」
長沼は自分の手を前に差し出して、その爪を美音子の方へと見せた。
「正面から首を絞められるといったような殺害方法がとられた場合、被害者はたいてい相手を引っ掻いたり何かして、相当激しく抵抗するものです。裕明氏の両手の爪からは、百合亜さんの皮膚組織が検出されました。百合亜さんの死体にも、顔から首、そして両腕にかけて、それに相当する引っ掻き傷が残されていました。
警察の想定した事件全体の流れは、ですね……。まず最初は、稲垣さん夫婦は二階の寝室で、普通に寝《やす》んでいました。そこに百合亜さんの破水が起こり、二人は起き出して、裕明氏はとりあえず病院に連絡を入れます。ところが百合亜さんはパニックに陥ってしまって、服を脱ぎ散らかし、逆上した挙句《あげく》、あろうことか夫の裕明氏を絞め殺してしまった。……百合亜さんが初めての妊娠でノイローゼに近い状態にあったというのは、複数の方から証言を得ています。突然の破水にパニックを起こしたというのも、決して想像できない事態ではありません。さて、そうして夫を殺してしまった百合亜さんは、とりあえず階下に降りて来ます。ところが精神的なショックによるものか、急激に陣痛に見舞われて、具合が悪くなり、さりとて夫の死体のある二階の寝室に行くわけにもいかず、結局客間に行って布団を敷き、横になります。陣痛は激しくなり、そしてついに子供が産まれてしまう。だがその子は死んで産まれた。……おそらくは死産だったのでしょう。というのも、近隣でいくら聞き込みをしても、その晩稲垣家で産声らしきものを聞いたという証言は得られませんでしたからね。……彼女はその子供の遺体をどこかに始末した。その後で、大量出血によるショック死が起きた……というのが、捜査本部の出した結論です」
そう言いながら、しかし長沼は首を左右に振っていた。美音子は小声で訊ねる。
「どういう事です?」
「鈴堂さんは、今の説で納得されましたか?」
相手は逆にそう訊いて来た。彼女は首を振る。
「いいえ。まず……これは素人考えかもしれませんが、百合亜さんに裕明さんを殺すことができたか……それからして、私には非常に疑問に思われます。扼殺というのは私たちが想像するより以上に難しいものだと聞いております。相手が子供や老人などならばいざ知らず、裕明さんは大の大人です。女性の細腕で扼殺するなどは、普通考えられないことなのではないでしょうか?」
美音子の指摘に、相手は黙ったままひとつ頷きを返す。彼女はさらに続けた。
「それに産まれて来た子供を百合亜さんが始末したという話でしたが、いったいどこへ始末したというのでしょう? 未だに発見されていないんですよね、その子供の死体は。だから家の庭に埋めたとか、そういう話でもないでしょう。では車か何かで遠くまで運んだのか? ……彼女、死因は、出産に伴う大量出血が原因でしたよね。子供を産んで出血をしているのに、その出血に耐えて子供を始末して、そうして家に帰って来てから改めて出血死を迎える……何かこう、その説だと、都合が良すぎるような気がするんですよね」
「百合亜さんが家から出た痕跡はありませんでした」
長沼は静かに言った。
「まず最初のほう……裕明氏の殺害に関してなんですが、これは先ほど鈴堂さんの仰られたような疑問は残るものの、やはり被害者の爪に残された皮膚組織という動かしがたい証拠もあって、私はその犯行が百合亜さんによるものだということだけは、今だに間違いはないと、そう信じています。たとえば真犯人が裕明氏の死体の手を持って、百合亜さんの身体を引っ掻いて偽装した、などという線を考えるにしても、百合亜さんの身体に残された引っ掻き傷には生活反応が見られましたからね。そうした偽装の可能性は非常に少ないと思っております。真犯人は百合亜さん……ただし、現場には誰かもうひとり、共犯者が居たのではないか。共犯者が裕明氏を羽交い締めにするか何かして、彼女の犯行を手助けしたのではないか。……そんな疑いは抱いています。
というのも……これも先ほど鈴堂さんに指摘されましたが、嬰児の行方についての問題があるからですね。どう考えても、百合亜さんにその嬰児の……ご遺体ですね。ここではその子は死んで産まれたものと仮定します。生きていれば泣き声をどうカモフラージュしたかなど、問題がさらに難しくなりますからね。……で、その嬰児の遺体なんですが、百合亜さんにはどうしても、それを始末することができたとは思えない。だから現場にはどう考えても、もうひとり、第三者の存在があったとしか考えられないのです。
そして実際、事件が発見されるよりも二、三時間前……二十五日の未明ですね……そうした微妙な時刻に、稲垣家の家の前に一台の車が止まっていたという、近所の人からの目撃証言も、実はあったのです。やはり現場には裕明でも百合亜でもない、第三者が、顔を覗かせていたのです。行方不明の嬰児もおそらく、その車によって現場から運び出されたと、そう考えられると思います。
でも結局、捜査は表向き、お宮入りとなってしまいました。裏でも結局、先ほど申しました仮説に従って、裕明氏の殺害については被疑者死亡……これは百合亜さんのことです。そして消えた嬰児の行方についても、捜索可能な範囲は調べ尽くしたということで、捜査は事実上、半月もしないうちに打ち切りにされてしまいました。これに関しましては当時、どうやら上層部に対して何らかの圧力がかかったのだろうという噂もありました」
「圧力……」
美音子が考え込むと、長沼警部は笑顔のまま、さらに言葉を継いだ。
「どうして私がこういう裏情報まで、民間人であるあなたに教えてしまうのか、不思議に思いませんでしたか? 聞くところによると鈴堂さん、あなたは朝倉氏に雇われているという。……そうですよね?」
チラリと彼女の顔を覗き込んでくる。美音子は不要な口はきかなかった。長沼は意に介せず、話を続ける。
「南署にいた当時の私は、いったい誰が捜査を打ち切らせようと画策しているのか、その正体を突き止めようと、ちょっとだけ探ってみることにしました。そしてその意外な正体に驚くことになりました。というのも、そうして圧力をかけて捜査を妨害していたのが、実は事情聴取の時にはその同じ口で、娘は犯人では無い、もっとちゃんと捜査をしろと私どもに言っていた、その当人だったのです。……あなたの依頼人ですね」
「朝倉さんが……?」
美音子は息を飲んだ。長沼警部は相変わらず愛想の良い顔のまま、頷いた。
「ええ。私の調べた限りでは、おそらくはその人物こそが、捜査に圧力をかけたその当人なのです。……それがどうして今になって、鈴堂さん、あなたを雇ってまでして、事件を調べ直そうとしているのか……それは私にもよくは分かりません。
ただし鈴堂さん、あなたもそういったわけで、ひょっとすると、前ばかり見てないで、時には後ろを振り返って見ることも必要かもしれませんね。そうしないと、あるいはまずい目に遭うかもしれません。……と、これは余計な忠告だったかもしれませんね。天下の〈黒猫〉さんに対しては」
七月五日、土曜日の夜。鈴堂美音子は自宅の居間で、依頼人に翌日提出する予定の報告書を作成していた。
ワープロのキーボードを叩きながら、しかしその思考はしばしば宙を彷徨《さまよ》った。
どうやら依頼人の朝倉剛蔵は、稲垣家の事件に関して何か隠し事をしているらしい。誰が稲垣裕明を殺したのか。百合亜の産み落とした嬰児はどこに消えたのか。……常盤台の事件には、いまだ明確とはなっていない謎がいくつか残されている。
そうした謎について、朝倉氏はいったい何を知っているというのだろうか。……おそらく、そうたいした事は知らないのだろう。知らないままに、彼は事件を封印してしまいたかったのだ。それが具体的に何なのかは知らないが、開ければ何か良くない物が飛び出して来るという……そうしたパンドラの匣《はこ》めいたものとして、依頼人は事件を理解していたのだろう。……美音子はそう思っていた。
ではなぜ今頃になって、朝倉剛蔵は彼女に、事件を調べ直させようとしたのだろうか。
翌六日。都内は殺人的な猛暑に見舞われていたが、美音子は相変わらずの黒服姿で、依頼人の元へと姿を見せていた。
一週間前と同じ応接室。依頼人とその妻が、今は亡き二人の娘とともに写っている写真に見守られているということを意識しながら、美音子は応接テーブルを挟んで正対した朝倉剛蔵の前へと、報告書の入った封筒を差し出した。老依頼人は無言のまま、中の書類を取り出し、目を通して行く。
美音子は相手に断って、煙草に火を点けた。そうして煙をくゆらせながら、報告書を読む朝倉の様子をじっと窺う。
報告書には、この一週間の間に彼女が行った調査活動の全てが書かれていた。無駄足に終わったもの。アポを取り損ねたもの。そうした事項までが、細々と記されている。
しかし長沼警部から聞いた、常盤台の事件の捜査本部に圧力がかけられたという件に関してだけは、美音子はあえてそれを報告書に書くことはしていなかった。それを書けば必然的に、彼女は依頼人に対して、本当の事を話すようにと、〈黒猫〉の牙を剥かなければならなくなる。まだその時期ではない……美音子はそう判断していた。
煙草が二本灰になり、そしてようやく、依頼人は顔を上げた。
「よく調べてくれている」
「ありがとうございます」
美音子は頭を下げた。
「この安城由紀という子が書き残した、ジャック……。これが麻里亜を妊娠させた男だったのだと、そう君は考えているのだな?」
「ええ。……いえ、まだ現状では、その可能性が強いというだけですが」
美音子は依頼人の顔色を読んで、言い方を変えた。
「何しろ……そうですね。一日の分の報告に書いたのですが、……そう、それです。そこに書いてある、近藤医師の話というのをどうぞ、御覧になってください。そこにも書いてあるのですが……当初、麻里亜さんが妊娠されたのは、冬休みの前後の事だろうと、私はここで依頼を受けた時にそう聞かされていたのですが、ところが医師の話によれば、彼女が妊娠したのは事件の十週前から四十週前までの間の、いずれともつかないという事になってしまったのです」
「でも君は、その中でもやはり、冬休み前後の時期が特に怪しいと思っているわけだな? ……この安城さんという子が自殺したのも、ちょうど冬休みだという事だし……」
「それなんですが……。失礼ですが朝倉さん、麻里亜さんが去年の冬休み、十二月の何日にこちらに帰って来られたのか、その正確なところを、教えていただけませんか?」
朝倉剛蔵はわずかながら、狼狽《うろた》えた……ように、美音子には見えた。その時……
不意にドアが開き、淑子夫人がお盆を捧げて部屋に入って来た。相変わらずやつれ果てて見える。剛蔵はその夫人に声を掛けた。
「おい、お前……。去年の冬休み、麻里亜がいつ家に帰って来たか、憶えてるか?」
「麻里亜……」
夫人はゆっくりとした動作で、主人と美音子の二人の前に、カップを置いた。
「ええ、憶えてますよ。二十七日です。終業式が二十二日で、冬休みは二十三日から。でも二十四日に学院で前夜祭が行われる、それには出たいからって、本当は二十五日に帰って来て、それから一緒に教会の聖誕祭に出るはずだったじゃない、あなた」
夫人にそう話し掛けられて、剛蔵は、ああ、そうだったな、などと呟いている。
「それが当日になって急に連絡が入って、今日は体調が悪くて帰れなくなったって、あの子、そう言って……。結局帰って来たのが二十七日だった。ねえ、そうだったでしょ?」
「ああ、そうだ。思い出したよ。……ありがとう。お前はもう下がっていなさい」
剛蔵は夫人をそっと押しやり、そこで美音子の方へと顔を向けて言った。
「と言っても、麻里亜が安城さんの事件に関わっていただなんて思わないでくれたまえ」
美音子はそれには直接答えず、代わりに質問をした。
「麻里亜さんは……安城さんの事件については、どんな事を言ってましたか?」
「安城さんの事件……?」
部屋を出ようとしていた夫人がそれを聞きつけ、丸盆を胸に抱えた姿勢で戻って来る。
「何ですの?」
「いいんだ。お前は余計な心配をしなくても」
剛蔵が困った顔をするのにも構わず、夫人は氏の隣へと腰を下ろした。美音子の見たところ、淑子夫人の身体の具合は、前回訪問した時よりも、多少は良くなっている感じであった。
剛蔵が沈黙してしまったのを見て、美音子は質問をもう一度繰り返した。安城さんの事件って? と夫人が首を捻るのに対しては、剛蔵が美音子の作った報告書に目を通しながら、簡単にその顛末を説明した。夫人は首を振る。
「聞いてないわ……。あの学院で、そんな事が起きていたなんて……」
「私も同様だ。娘からはその話は聞かなかった。……実は君に調査の依頼をする時には、学院で去年、自殺した子がいたという話だけは、チラと耳にしてはいたのだが。依頼の時に話しておけば良かったかな? まあ君ならどうせ、すぐに自分で聞き込んで来るとは思っていたのだがね」
「それは別に構いませんでした」
美音子は右手を挙げて、了解したというポーズを作った。
「しかし問題は、ですね……。話を戻しますと、どうして麻里亜さんはお二人に、学院でそうした事件が起こったという話をしなかったのでしょうか。同じ学校の生徒が自殺した……これは、特に高校生という多感な時期にあったことを考え合わせると、麻里亜さんにとっては私たちが想像する以上の、大事件だったのではないでしょうか。普通なら必要以上に大袈裟に、話題にしそうなのに、それを黙っていたというのは……」
「いや、それは違う」
剛蔵が割って入った。
「確かにそうした世間の価値観からすれば、家でそういうふうに話題に持ち出すのが普通なのかもしれん。だがウチは……前にも言ったとおり、一家揃ってキリスト教徒なのだ。ウチでは自殺というのは、神の教えに反する行為を意味する。だからあの子がウチに帰って来た時に、学校で自殺をした子がいて云々……というような話をしなかったのは、ただ単にそれがあの子にとって……まあ要するにウチにとって、それが邪悪な行為であり、話題にするのが憚《はばか》られたという、ただそれだけのことだったと思う。……私には分かる。ウチではそういう話題はタブーなのだ」
「そう……ね」
夫人もその隣で頷く。
「まあ、勘違いはしないでもらいたいのだが、何も私は、麻里亜がその安城という子の自殺と、関係が無いとは言ってない。麻里亜はその時に、同じジャックというヤツに襲われたのかもしらん。それで、他人事のように話題にすることができなかった……。確かにその可能性はある。だがもしあの子がそれとは無関係だったとしても、同じようにウチでは話題にしなかっただろうと、私はそう言ってるだけなのだ。君の調査が偏ってしまうんじゃないかと思ってね」
「調査をジャックに絞り込むのは、まだ時期尚早だと仰《おっしゃ》るのですね?」
そこで美音子はついに、あるひとつの可能性に思い当たった。
「去年の七月二十五日……麻里亜さんは、稲垣家に居たのですね?」
剛蔵の顔は、サッと青ざめた。
「あなたは百合亜さんの夫の、裕明氏が、麻里亜さんを妊娠させた張本人だと思っている……そうなんですね?」
「まあ……そんな事が……」
淑子夫人が怯えたような顔をして、口元に手をあてる。
「だって……だって、あの子がそうなったのは、逆算すれば冬休みの頃だって、あなた……」
「それがその後の調査で、いつとも特定できないという事が分かったのです」
美音子は夫人にそう答えると、顔を剛蔵の方へと向けた。
「麻里亜さんは去年の夏、事件のあった日に、稲垣家に居た。……そうですね?」
剛蔵は一瞬、美音子と目を合わせると、また視線を逸らした。額には大粒の汗が浮かんでいる。……と、その時急に、隣の淑子夫人が立ち上がった。
「やっぱり……やっぱり……」
「おい、淑子!」
剛蔵は座ったまま夫人を見上げ、その腕を引っ張ったが、夫人は立ったまま、ブルブルと顔を左右に振って、そして言った。
「やっぱりあの晩、裕明さんは麻里亜に、そういう事をしたんだわ。それで神罰が下されたのよ」
「おい淑子、止めないか!」
剛蔵は立ち上がり、妻の身体を揺さぶった。その顔には恐怖の色が浮かんでいた。
「いいえ、あなたは知らないのよ」
剛蔵が揺さぶるのを止めると、淑子は妙に表情の抜けた顔で、淡々と喋り始めた。
「あの日、あなたは家に居なかった。……麻里亜はあの日、予定どおりに稲垣の家に行ってたのよ。お泊まりするはずだったの。あの家から電話を掛けて来て、そう言ってたわ。それが夜になって、震えながらまた電話を掛けて来たのよ。すぐ迎えに来てって。……その時にもあなたは居なかった。だから私ひとりで迎えに行ったわ。あの子は黙ってた。車に乗ってる間じゅうずっと、ううん、家に着いてからも、ずっと何も言わなかった。
あなたは夜が明ける頃になって、ようやく家に帰って来た。そして警察からの電話があるまで、そのまま寝てた。だからあなたには、あの子は予定を変更して、学校から真っ直ぐに家に帰って来たと言ったの」
「そんな……どうして言わなかったんだ」
「あなたに何ができたというの!」
夫人は憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》で、夫の顔を見返していた。
「……次の日、気が付いたら台所の生ゴミの中に、真っ赤に汚れた服が隠すようにして、こっそりと捨てられていた。私はそれを見付けて、トイレで戻したわ。……そんな事を、あの時のあなたに話せて? 驚いたことに、起き出してからはあの子、まるで何事も無かったかのように振る舞ってたのよ。百合亜の報せも、まるで初めて聞いたみたいに驚いてた。私は……私は……」
「どうかお二人とも、お座りになってください」
美音子は静かに、しかし有無を言わせない口調でそう言った。二人はハッと我に返った様子で、ややあっておずおずと着席した。
「事情はだいたい分かりました。……奥さん、麻里亜さんはその後、病院へ行ったりとかはしなかったのですか?」
「……ええ」
「妻を責めないでくれ」
剛蔵は悲痛な面持ちでそう言った。
「誰も責めたりはしていません。……朝倉さん、あなたも実は、薄々はそうしたことに気付いていらしたんじゃありませんか?」
「私は……そうだ」
依頼人はガックリと肩を落とした。
「あの前の晩、麻里亜は稲垣の家に行くと言っていた。百合亜の様子を見に行くと。それが翌日になって、事件の報せを聞いた時には、あれはなぜか家に居た。私も最初は、あれの言うことを素直に信じようとした。気が変わって、真っ直ぐに家に帰って来たんだと。でも心の隅で、もしかしたら……と思わずにはいられなかった」
「だから圧力をかけて、捜査を……」
剛蔵は悔しそうな顔のまま、ただ黙って俯いていた。美音子は頷いた。
「事情はだいたい分かりました。あなた方が裕明さんを疑うのも、気持ちは分かります。麻里亜さんがその日、現場に居合わせていたという事は、私も承知しました。……ただしそこから先は、まだ推測の域を出ておりません。そして一方では、ジャックの件もあります。麻里亜さんがそちらに対して、どう関わっていたのか、あるいは全く無関係なのか……。先ほども仰られたように、私はその両方を、あるいはまた別な可能性が無いか、そういうふうに調査が偏らないようにして行きたいと思っているのですが」
「はあ、いや……」
剛蔵は何やら逡巡するそぶりを見せた。煮え切らない様子である。まだ何か隠し事でもあるのだろうか……美音子がそう思っていると、突然、淑子が叫んだ。
「いいえ、それは違うわ。あの男のせいに決まっています」
「淑子……」
「裕明さんよ……いいえ、名前を言うのも汚らわしいわ。……あの男よ。百合亜を騙《だま》して夫のふりをしていた、あの男のせいに決まってますとも」
「淑子!」
「いいえ、これだけは言わせて、あなた。……理由があるのよ。百合亜とあの男の子供はどうなったの? あんなに大きなお腹をしていたのに、それが消えてしまったって言ってたじゃない。同じように麻里亜のお腹にいた子供も消えてしまったって。……だからそれも同じ、あの男の子供だったと思わない? ……あの男は悪魔だったのよ」
淑子の全身には異様なこわばりが感じられた。首の筋が浮いて見えている。まるで引き付けを起こした子供のように見えた。妻のそうした異状を察知して、剛蔵がその身体を抱き締め、ソファに抑え付けようとする。その身体の下で、淑子はなおも叫び続けた。
「あの男の子供は、みんな溶けて消えてしまうのよ。……百合亜も麻里亜も、そのせいで殺されたんだわ。あの男は悪魔だったのよ。だから二人で協力して、退治したのよ」
「止めなさい、淑子!」
美音子は腰を浮かした。何かをしなくてはと思った。しかし何をしたら良いのかが分からない。
剛蔵に抑え付けられながら、淑子はなおも叫んでいた。
「あの男の子供なんか、産ませるんじゃ無かった。百合亜には分かっていたのよ。あの子の身体はきっと先に分かってたの。だから子供が出来なかった。そう思わない、あなた? ……それをあんな事をして、あんな不自然な手術をしてまでして、無理矢理あの子を身籠《みご》もらせて……」
パシッ、と音がした。美音子は息を飲んだ。剛蔵が思い切り、妻の頬を叩いたのだ。
魔法が解けたようだった。引き付けを起こしていた淑子の身体は、一転してだらりと弛緩し、ソファにくずおれた。叩かれて壁の方を向いた顔のあたりから、やがて嗚咽《おえつ》の声が漏れ始める。
美音子は依頼人に向かって言った。
「まだ何か隠してらっしゃるようですね」
剛蔵は唇を噛み締めていた。ギリギリと、今にも血が噴き出しそうなほどに強く。目は泣いている妻の方へと向けられていた。その視線を美音子の方へと戻し、そして言った。
「関係があると思いますか……?」
「もちろん。……私の想像しているとおりだとすれば……」
剛蔵は黙っていた。美音子は相手の顔色を窺いながら、言葉を継いだ。
「百合亜さん……ですね。彼女は……不妊症だった」
剛蔵は静かに頷いた。美音子の言葉は淑子の耳にも届いているようで、その嗚咽が激しくなる。
「そして彼女は子供を欲しがり……」
「欲しがったのは……」
異を唱えるように、激しい口調で剛蔵はそう言いかけたが、急にその口調がシュンとなる。
「……そうだ。あの子も確かに、子供が欲しいとは常々言ってはいた。だが本当に悪いのは向こうの家だ。あの男の実家のほうが、やいのやいのうるさく言って来たんだ。百合亜はそれで一時期は、ノイローゼに近い状態にさせられたぐらいだ。だから無理矢理、受けさせられたんだ」
「何を? ……人工授精?」
「いや……体外受精だ。いわゆる……試験管ベイビーというやつだ」
剛蔵はそれがまるで、汚い言葉だというように、吐き捨てるような口調で言った。
「子供が授からないのは、それはそれで神の摂理なのだ。人間がそれをどうこうしてはいけない……本来なら私は、そう主張すべきだったのだ」
依頼人の顔には、深い後悔の色が見られた。絞り出すような声で、そして独り言のように、最後にこう付け加えた。
「罰が与えられたのだ。……あの子は死に、そして子供はどこかへ消えてしまった」
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八章 第四の駒
鈴堂美音子は風呂上がりの姿のまま、ベッドに腰を掛けて、グラスを静かに嘗《な》めていた。つまみとして用意したサラミは、もう既になくなってしまっている。ジャムがガラステーブルの下で、満足気に目を細めて丸くなっていた。猫のお腹は呼吸にともなって上下動を繰り返し、艶々とした体毛の黒い光沢も、それにつれて微かに揺れ動いている。
と不意に、手にしたグラスの中の氷が、カランと音をたてた。美音子は意味もなく、フッとひとつ鼻で息を吐いた。薄暗い部屋の中、髪も乾かさずに、そうしてバーボンを嘗めながら、彼女はいよいよ複雑化してきた事件の全体像について、思いを馳《は》せていた。
稲垣家の事件が起きた晩……去年の七月二十四日の晩、現場には、朝倉麻里亜が居合わせていた。そして少女が母親に迎えに来て欲しいと連絡を入れたのは、二十五日の明け方のことだったという。……警察の話によれば、その時刻にはもう、裕明も百合亜も、既に死んでいたはずである。
少女はいったい何を目撃したのか。どんな目に遭わされたのか。いったいその夜、稲垣家では何が起きたというのだろうか。
美音子は目を閉じる。すると瞼《まぶた》の裏にチェスの駒のようなものが三つ、浮かび上がる。
稲垣裕明、百合亜の夫妻と、そして朝倉麻里亜。現場に居たのはその三人である。今ではもうその全員が、この世の人では無い。何が三人の間で起こったのか……それを直接美音子に語って聞かせてくれる人物は、したがってもうどこにもいない。あとは想像で補うだけだ。
想像の駒が配置される。二階の夫婦の寝室には、裕明と百合亜。そして階下の客間には麻里亜。……盤面の初期状態は、こんな感じであろうか。そして初手は……。
裕明の駒が階段を降りてゆく。客間には麻里亜の若く美しい寝姿。それを見て、裕明が劣情を起こし、麻里亜を陵辱《りょうじょく》する。……事の起こりは、朝倉淑子が主張するように、そうしたものだったのだろうか。同じ屋根の下に妻がいた事を思えば、それは何とも大胆な行動のように思えるのだが。
しかし美音子はそのまま、陵辱があくまでも行われたものと仮定する。そうでもしないと、百合亜と麻里亜が共謀して裕明を殺すその理由が思い浮かばないからだ。
裕明は麻里亜を陵辱した……。だが、それ以降の流れも今ひとつしっくりと来ない。
欲望を満たした裕明は、階上へと戻る。麻里亜がその後を追う。そうして何があったのかを知らされた百合亜は、怒り心頭のあまり、麻里亜と共謀して夫を絞め殺す。その後で姉妹は階下の客間に移動する。百合亜は急に産気づき、子供を産んで、そのまま失血死してしまう。ひとり残された麻里亜は、産み落とされた嬰児の遺体を始末して、そして実家へと連絡を入れる……。
いや、違う。美音子は首を横に振った。……何かがしっくりと来ない。そう……たとえば、なぜ麻里亜が嬰児の遺体を始末しなければならなかったのか。その理由がこれではまったく説明できていない。……あるいはまた、その晩の裕明の行動もどこか変である。彼は病院に、妻が破水したのでこれからそちらへ向かうという旨の連絡を入れている。その行動と、彼が麻里亜を陵辱したという行動とが、とても同じ人物によるものだとは思えない。どう仮定すれば、その両者を心理的に結びつけることが出来るというのか。
美音子はひとつ大きな溜息を吐くと、想像上の稲垣家の盤面上に、また三つの駒を配置し直した。そしてしばらくの間は、仮説を立てては崩し、また立てては崩すといった事を諦めず、頭の中で繰り返してみた。
そうして幾通りかの手筋を考えてみた挙句、美音子はついに音を上げた。
やはり麻里亜は、嬰児の遺体を始末したりなどはしなかったのではないだろうか。そして裕明は、麻里亜を陵辱したりなどはしなかったのではないだろうか。……少なくとも後者については、そもそも麻里亜が事件の晩に陵辱されたという確証すら、現時点ではどこにも無いのだ。実家でこっそりと捨てた衣類についていた血の件についても、破瓜の出血と考えるよりは、通常の経血か、あるいは百合亜の大出血の場に居合わせて、それで着衣にその血がついたのだと考えたほうが、よほど自然である。
裕明は麻里亜を陵辱したりなどはしなかった。したがって百合亜と麻里亜には、共謀して裕明を殺すような動機などは無かった。……そう考えてゆくと、どうも何かが足りないという気がしてくる。……そう、たとえば、駒が足りないのだとしたら。現場にはさらに、もうひとりの人物が居たのだとしたら……。
それが犯人なのだろうか。現場には第四の人物がいた……強盗でも入ったことにしようか。しかし、だとしたらなぜ、麻里亜はそうした人物の存在を指摘して、姉に懸けられた嫌疑を晴らそうとはしなかったのだろうか。なぜ自分が稲垣家にいなかったのだと装い続けたのだろうか。やはり彼女はその犯人によって陵辱されたのか。だからそれを口にすることが出来なかったのか。……しかしそれは逆に、犯人側の視点に立って見れば、何とも危険な綱渡りではないか。相手を陵辱しただけで、はたして犯人はその目撃者の口を封じることができたと考えるであろうか。なぜ犯人は麻里亜を無事に逃がしたのか。……そうして考えを詰めてゆくと、必ずどこかで袋小路に突き当たってしまう。美音子は不意に意味も無く、足の爪の伸び具合を確認してみた。そして再び先ほどまでの考えを敷衍《ふえん》してゆく。
そう……。たとえば、麻里亜に秘密の恋人がいたとしたら。未知の強盗などではなく、その恋人こそが、第四の人物であったとしたならば……。そうして考えているうちに、美音子の脳裏にある盤面の上には、ゆらゆらと第四の駒が立ち現れて来る。
その駒は麻里亜の恋人だ。彼女には秘密の恋人がいたのだ。二人の付き合いは家族には内緒のものであった。麻里亜は夏休み初日のその晩、姉夫婦の家にひとりで泊まり込むという名目で、実家には帰らず、そしてその実、稲垣家の客間にその秘密の恋人を招き入れて、久々の逢瀬《おうせ》を楽しんでいたのだ。……それは姉夫婦にも内緒であり、そうして戸主の目を盗んで恋人を招き入れる、あるいは忍び込むというスリルを、二人は同時に味わっていたのだ。
そうした中で、百合亜の入院騒ぎが起きる。裕明は慌てて、麻里亜を起こしに客間へと降りて来る。そして麻里亜は恋人と一緒にいる場面を裕明に見付かってしまった。誰何《すいか》から始まった問答は喧嘩へと発展して、そして場面も二階へと移ったところで、麻里亜の恋人氏は思わず裕明を殺してしまう。百合亜はそのショックで出産してしまい、そして失血死を迎える。麻里亜は姉夫婦の相次ぐ突然の死に呆然としながらも、恋人氏をその場から逃がしてやり、そして自分もその場から逃れるために、実家へと連絡を入れる……。
いや、と美音子は首を振った。それでもまだ説明のつかないことがある。……美音子は思索の輪をそこでいったん断ち切り、グラスをテーブルに置くと、代わりに煙草の箱を取り寄せた。その中から一本を取り出して口にくわえ、火を点ける。
とにかく、一番解決のつかない問題は、何といっても嬰児の行方不明の件である。それが強盗であったにしろ秘密の恋人であったにしろ、あるいは麻里亜自身であったにしろ、およそ彼らあるいは彼女らが、その嬰児の遺体を始末するような謂《い》われは、どこにも無いのだ。いったい誰が、何の目的で、その嬰児の遺体を始末したというのだろうか。
そうして考えてゆくと、どうしても行き着かざるをえない名前があった。
――鮫島《さめじま》敏郎《としろう》。
やはり、と美音子は思う。
それは百合亜の妊娠を診察していた医師の名であった。百合亜を診察し、そして事件のあった朝には、夜勤明けのついでに稲垣家まで行って、事件を発見したという、その当人であった。……美音子が簡単に調べたところでは、彼は鮫島総合病院の病院長の息子であり、年齢は四十歳とまだ若手ながら、その病院の産婦人科の部長を務めているという、そうしたやり手の医師だということであった。
その鮫島という男こそが、実は稲垣家の現場から嬰児の遺体を持ち去り、事件を紛糾させた張本人だったのではないだろうか。
〈黒猫〉が彼を怪しいと睨んだのには、彼が事件の第一発見者であるという以外にも、もう一つの要素があった。それは鮫島医師が稲垣夫妻に体外受精の治療を施していたという件である。
――体外受精。
依頼人の口からその言葉が出た途端、実は美音子の中の〈黒猫〉の血は、それだ、と叫んでいた。それこそが、稲垣夫妻の事件の謎を解く、キーワードなのだと。
しかし美音子は、実を言えば、体外受精と人工授精の違いもよくは知らなかった。そこで彼女はさっそく図書館へ行って、そのあたりの事について調べてみたのであった。それによると……。
美音子が手にした本の著者は、序章で次のように語っていた。実は現代において、出産を望むカップルのおよそ一割ほどが、不妊に悩んでいるのだと。……一割といえば、かなりの割合である。著者は続けて語る。不妊の原因は、必ずしも女性にばかりあるわけではない。男性の側に原因がある場合も、女性の場合とほぼ同数の割合で存在するのだと。
そして人工授精というのは、男性の側に不妊の原因がある場合の治療法なのだそうだ。これにはAIHとAIDという、大きく分けて二通りの方法が存在する。
AIHは精子過少症などの場合に用いられる方法であり、体外に取り出された精液に対して、精子の運動能力を高めるような処理を施してから、母体の排卵周期に合わせて、精液を注入するという方法である。施術によって生まれてくる子供は、遺伝的にはカップル双方の遺伝子を受け継ぐ事になる。受精がうまく行われさえすれば、あとは通常の妊娠の場合と何ら変わることはない。
対してAIDというのは、誰かに正常な精子を提供してもらい、それを注入することによって、母体を妊娠させようというものである。これは父親の側に生殖能力が無い場合に行われる。当然、産まれて来る子供と父親との間には、遺伝的な繋がりは無い。施術に使われる精液の提供者は、その多くが若い医大生からのものであり、彼らに半ば強制的に提供させたものを凍結保存し、ストックして、治療に使っているらしい。
ともあれAIHとAID、そのどちらの方法にせよ、人工授精というのは、要するに男性の側に原因がある不妊に対しての治療法なのである。……と、その本では明確に説明されていた。
それに対して、一方の体外受精というのは、女性の側に原因のある不妊に対しての治療法なのだそうだ。
たとえば卵管に通過障害があると、卵子が精子と出会える場所まで降りて来ることが出来ない。そして体外受精とは、その通過障害の部分をバイパスしてしまおうという方法なのであった。体内で精子と卵子が出会えないのならば、それを体外で人工的に行えば良いという発想なのである。具体的には、まず母体の卵巣から直接卵子を取り出し、そこに父親の精液を施して受精卵を作り、それを今度は母体の子宮に直接返すという手法をとる。
この場合には、産まれて来る子供は、両親の双方の遺伝子を引き継いでいる事になる。受精のプロセスが体外で行われるというだけであり、あとはいっさい、通常の妊娠と変わるところはない。……
図書館にあった書物から美音子が得た知識は、だいたいそういったところであった。そこで彼女は改めて、稲垣夫妻に施されたという体外受精について、思いを巡らせたのである。そうするとにわかに、鮫島医師の存在がクローズアップされて来る。
鮫島医師は百合亜に体外受精を施したという。要するに、百合亜の胎内に、夫妻から提供された卵子と精子とからなる受精卵を埋め込んだのだ。そしてそれから十ヵ月後、稲垣夫妻の死とともに、その受精卵から育った胎児が事件現場から消えるという変事が起こる。その事件の第一発見者は誰かと言うと、そこに登場するのは、またしても鮫島医師なのであった。……要するに鮫島医師は、その胎児の誕生の場にも、そして消失の場にも、ともに顔を覗かせているのだ。
美音子は想像する。……鮫島医師が稲垣家を訪れた時、その場には夫妻の死体とともに、産み落とされた嬰児の死体もあったのではないだろうか。その小さな遺体を、医師は回収し、始末し、そうしてからまた改めて稲垣家を訪れ、そして警察に通報したのだとしたら……。
医師にはそうする機会があった。そして動機も、体外受精という特異な要素をそこに加味すれば、たとえば医師が施術の際に何らかの医療過誤《いりょうかご》をしていて、それを隠すためだったのだといったような、そうした想像も生まれてくる。……
いつの間にか煙草は長い灰になっていた。美音子はそれを灰皿に押し潰すと、代わりにグラスへと手を伸ばした。しかしそのグラスも空になっている。美音子は無意識の内に棚の時計を見やり、そしてそれが裏返しに置かれていることに気付くと、チッと舌打ちをした。どうしていつも、電池を買ってくるのを忘れてしまうのだろう……。
手が小刻みに震えていた。その手でグラスを掴むと、美音子はボトルの中身をそこに注ぎ足して、ぐいと一気に呷《あお》った。四十度のアルコールが喉を焼いて胃《い》の腑《ふ》に落ちて行くのが、自分で知覚できる。続けてもうひと口呷ると、急激に酔いが回ってきた。
美音子はその酔いに身を任せるようにして、ベッドへと倒れ込んだ。反動でバスタオルがはだけ、下腹部が露出したのが分かった。彼女は身体を丸めるようにして、酔った目で自分のそこをジッと見詰めた。頭の中では、医療過誤、体外受精といった言葉が、意味も無くグルグルと回り続けていた。それが不意にひとつの映像となる。
……自分のその部分から、何やら得体の知れないモノが産み出されて来る。体外受精に医療過誤が重なった結果生まれた、見るもおぞましい姿形をした生き物である。その赤黒くブヨブヨとしたモノは、そこから頭を突き出して身を捩りながら、ウギョーと世にも奇怪な叫びをあげる……。
彼女の意識はそのまま、ポッカリと口を空けた悪夢の底へと、螺旋《らせん》を描きながらグルグルと果てしなく落ち込んでいった。
翌日、首の上に酒漬けの頭を何とか載せて、美音子はK大医学部のキャンパスを訪れていた。稲垣裕明と百合亜の二人の司法解剖を担当したという法医学部の教授に、話を聞きに来たのだ。
「……ええとね、いや、ここに書いてあるこれはね、これはまあ必ずしも、通常の分娩が行われなかったと、そう決めつけているわけでは無いんですよ、別にね」
広田《ひろた》教授はやや後退した額の生え際のあたりを掻きながら、そう言った。美音子はその時、教授に対して、検案書にあった『産道に拡裂痕無し。会陰部の断裂等無し。分娩の可能性に関しては要調査』という部分についての、もっと詳しい説明がほしいと要求していたのであった。
「まあ分娩時にご婦人方が常に、会陰部《えいんぶ》の断裂を伴うと、そういうわけでもまあないですしね。そしてご遺体は確かに妊娠しておられた。そうなると出口はもうその一ヵ所しかありませんし、そうして思うとまあ、何でこんなふうに書いたんでしょうかねえ」
「でも先生はこれを書いた当初は、百合亜さんの分娩が通常のものではなかったと、そういう疑いを持たれた……」
美音子が訊ねると、教授はううむと額に皺を寄せた。
「まあ、そうだったんでしょうけどね……。まあでも、後から彼女の担当をしていたのが鮫島くんだったと聞いてね、それでまあすべては問題無しという事になったんでしょう」
広田教授の口振りが、鮫島医師を知っているふうだったので、美音子は少し驚いた。
「鮫島さんというのは、百合亜さんを担当されていた、病院の産婦人科の先生ですよね。……その人を先生は、知っておられた?」
「ええ。まあ実を言えば、彼もここの卒業生でしてね。その年の卒業生の中では、確か彼がまあ一番優秀な学生だったと思います。今ではもう、民間に出てしまったんですが」
教授はそんなふうに、鮫島医師のことを評した。
美音子はその後、稲垣夫妻の解剖所見についてひととおりの話を聞いた。それから改めて、鮫島医師に関してもっと詳しい話を聞きたいと申し入れると、
「そういえばウチの教室の藪田《やぶた》くんが、確か鮫島くんとは同期だったんじゃないかな?」
広田教授はデスクの電話を取り上げ、内線で何やら話し始めた。そして、
「やっぱりそうだったよ。鮫島くんのことなら、彼に聞けば、もっと詳しいことが分かると思うよ」
と言って教授は、その藪田という助手のいる部屋を、美音子に紹介してくれた。
「あいつはホント、秀才ですよ。オレなんかとは違ってね」
藪田助手は開口一番、何でも聞いてくださいと胸を叩いた。気さくな性格のようで、砕けた口調は生来のものであるらしい。髪には白髪が混じり、一見すると老けて見えるが、鮫島敏郎と同級生ということだから、順当に進学したのならば、今年で四十そこそこといった年齢のはずである。
最初に請け合った通りに、彼は何でも構わず話してくれた。
「あいつは学科もできたし、オペの腕も天才的だった。まあ仕込みからしてが違うわな。医者の息子なんてのは同じ学年に掃いて捨てるほどいたけど、あいつは総合病院の経営者の息子でしょ」
「鮫島総合病院、ですね」
美音子が調子を合わせるようにそう言うと、相手はうん、とひとつ頷いた。
「そんじょそこらの病院とは違う。あそこは規模も大きいし、医者も優秀なのが行っているからね。……だからてっきり、オレはあいつが外科か内科に行くと思ってたんだ。そうしたら産婦人科だってんで、みんなでビックリしたもんさね」
藪田はそこで、医学生の専攻について説明をした。大学を卒業した学生は、医師国家試験を受けるとともに、大学の医局に配属されることになる。ひと口に医者といっても、外科、内科から始まって、小児科、産婦人科、耳鼻咽喉科、泌尿器科に至るまで、その専門分野は多岐《たき》にわたっている。そうした中でもやはり学生の希望が一番高いのが、外科および内科なのだそうである。その希望どおりに学生を配分することができれば良いのだが、なかなかそうもゆかず、成績の悪い者は最終的には、希望とは違った医局に配置される。
「法医学なんてのは最も不人気で、落ちこぼれか、はたまた変わり者か、なんて連中が選ぶ分野でね。オレはその両方だけど。……おっと話が逸《そ》れた。で、鮫島なんだけど、あいつの実力からすれば、外科でも内科でも、お望みのところに入れたはずなのに、選んだのがどうしてなのか、産婦人科。実家の家業からすれば、いずれは総合病院の院長さまに納まろうって人間だから、普通は外科か内科を取るところなんだけど、それがなぜか、産婦人科ってんだから。それもオレなんかとは違って……ちょっと下品な言い方をさせてもらうと、まあ、女のアソコを心ゆくまで見たいとかってそういうスケベな心があったっていうわけでもないしな。……あいつはホモだから」
さり気なくそう言われて、美音子はあやうく聞き逃すところだった。
「ホモ?」
「そうなんだよ、これが。学生の時に同じクラスの青野《あおの》ってやつと大恋愛。青野トオル。そいつが結構な美男子でね。もちろん本人たちはいちおう、みんなには隠れてやってたつもりみたいだったけど、そんなのはまあ筒抜けでね。でもまあ別に、それほど珍しいってわけでもないから、それほどみんな気にはしてなかったんだけど。でもそれがとんだ破局を迎えてね。ええと……そう、オレたちが六年の時だな。青野のやつが死んじまった」
「死んだ……?」
またしても死……。美音子は眉根を寄せた。
「自殺しちまったのさ。理由は知らんが、当時まことしやかに囁《ささや》かれていたのは、青野のやつが、同性愛というアブノーマルな行為に耐えられなかったんだとか。あるいは担当教授に言い寄られてて、悩んでたんだとかいう噂もあったな。……まあそれはあくまでも噂だけどね。で、そのショックもあったのかもしれん、鮫島が産婦人科なんて方に行っちまったのも。そうやって、みずから出世コースから外れて、そうしてあいつなりにショックを表してたんだとオレは思うよ。あるいは自分を罰してたのか」
「罰……」
「でもまあ、産婦人科なんてオレは馬鹿にしてたけど、今じゃああいつ、そっち方面でかなり有名らしいからなあ。だから人生は分からないってもんだ。……顕徴受精とかって、オレも詳しくは知らないんだけど、まあそういうので新しいマニュピレータを開発しただとか何だとか、噂はちょくちょく耳にするもん。民間でそれだけやってるやつって、そうざらにはいないからね。それからすれば、あれはあれで、ちゃんとした計算があっての科目選択だったのかもしれんな。外科や内科は実利一点張りだけど、産科にはそういった研究の要素がまだかなり残されてるし」
藪田はそう言って、ひとりウンウンと頷いていた。
部屋に戻ると、留守電のランプが点滅していた。ジャムがその電話台の足元で、後ろ足をセクシーな角度に持ち上げて、首筋をカリカリと掻いている。
美音子はスーツを脱ぎながら、再生のボタンを押した。ピーッという音とともに、メッセージが流れ出す。その第一声を聞いて、優子は思わず息を飲んだ。
――先日、純和でお目にかかりました、シスターの相馬です……。
あの、物言いたげな様子だったシスターだ。……機械に録音された声は、やや乾いた調子で話を続けた。
――ジャックの件なんですが……朝倉さんの件とは無関係だと、そうマザーは言っておられましたが、実は私が聞いた話によると、朝倉さんの亡くなられた直後に、ウチの生徒の中でその名前を出して話をしていた子がいたそうなんです……。
美音子は瞬間、思考を巡らせた。麻里亜の死の直後に、ジャックのことを話していた生徒がいる……。やはり由紀と麻里亜の事件は繋がっていたのだ。ジャックとは、やはりあの学院に居る誰かのことなのだ。そして生徒の中には、その存在に気が付いている者もいる……。
シスター相馬の話はさらに続いた。
――私はこれからその生徒に話を聞いてみるつもりです。また何か分かりましたら、お電話をさせていただきます。それでは。
ピーッという音とともに再生が終わる。美音子は脱ぎかけたスーツを手にしたまま、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
それは思いもよらぬ助力であった。ジャックの正体は、あのシスターが明らかにしてくれるかもしれない。これは運が向いてきたかもしれない……と〈黒猫〉は心の中でひとり言《ご》ちた。
水曜日からは天候が崩れ、結局週末まで連日、雨が降り続いた。
まるで季節が逆に回り始めたようだと、美音子は思っていた。今年は、まず台風が上陸して、それから先週の猛暑、そして今週はといえば、梅雨まっただ中といったこの雨である。
……来週になったら桜が咲くかも。
などと益体《やくたい》もないことを考えながら、彼女は愛車を駆って、その雨の中を朝倉家へと向かっていた。その気分は天候と同様に鬱陶《うっとう》しく沈んでいた。
ルーフまで黒の塗装を施した美音子のミニ・クーパーは、JRの高架をくぐり、ようやく山の手の内側に入っていた。赤坂《あかさか》から六本木《ろっぽんぎ》通りへ。日曜の昼間だというのに、雨のせいなのか、道はどこもかしこも混雑していた。
美音子は並走する首都高三号線の高架をチラリと見上げた。脚柱の所々に設けられた樋から、ゴボゴボと銀の水が吐き出されているのが見える。この分では上を使ってもどうせ混んでいただろう。
外苑西通《がいえんにしどお》りへと曲がると、目的地まではもうすぐであった。左右には雨に霞《かす》んだ町並みが書き割りのように並び、その下を傘の群がうごめいている。路上駐車の車の群は切れ目なく歩道と車道を断絶して並び、路上の混雑を密かに助長していた。前の車のストップランプが絶えず点る。そうした全てが雨に滲《にじ》む中、街路樹の緑だけがなぜか、美音子の目には鮮やかに映じた。
朝倉家の応接室には冷房が入っていた。美音子には少し肌寒く感じられる。
剛蔵は報告書を読み終えていた。かすかに低い唸り声を上げている。今日は淑子夫人は飲み物を置くと、すぐに部屋から引き上げてしまっていた。美音子はソファの背に身体をあずけて、黙って煙草をふかしている。
依頼人は報告書をテーブルに置くと、何度か頷いた。
「……読みました」
意味の無い発言である。美音子は上体を起こし、煙草を灰皿に潰した。
「どうでしょう……何かご不満でも?」
「いや……」
剛蔵は渋面を崩さずに、言葉を濁した。それは不満はあるだろう、と美音子は内心で思っていた。何より彼女自身が不満を抱いているのだ。
今週の調査では、これといった成果を挙げることはできなかった。悪路に愛車のシャーシを擦《こす》りながら行った小田原《おだわら》の安城由紀の実家では、門前払いを食らわせられたし、その翌日には千葉《ちば》の稲垣裕明の実家まで話を聞きに行って、罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせられた。
一方で新たに調査項目に加わることとなった、青野トオルの件についても、同様にはかばかしい成果を得られないでいた。十六年前に自殺したという医学生……そこから何が飛び出して来るのか、美音子自身にもいまだ判ってはいない。しかし〈黒猫〉の勘《かん》が告げたのだ。稲垣家の事件に関しては鮫島医師が怪しい。きっと何らかの役割を果たしているはずだ。そしてその過去に横たわる青野の自殺が、医師の今日のあり様に、密接に関わっているはずだと。
というので美音子は藪田助手から、当時の同級生を何人か紹介してもらっていた。しかし今のところは、青野の自殺の件についても、あるいは鮫島医師の風評についても、藪田の話以上に詳しい話は聞き出せていない。
彼女はさらに、蛭川教諭についてもその周辺に探りを入れてみたかったのだが、さすがにそこまでは手が回らなかった。来週へ持ち越しである。……剛蔵に渡した報告書には、おおよそそういった内容が綴《つづ》られていた。
自分がはたして正しい道を進んでいるのか、美音子は時として不安になる。今がまさにそうだ。依頼人の前で自分の調査行を報告しながら、彼女は自問を強いられている。
こうした調査というのは、まるで地図のない迷路を踏査するようなものなのだ。不用意に新しい道を探れば、その奥には必ず、さらに未踏の穴がポッカリと口を空けている。人間同士の関係は果てしなく繋がっている。そしてその分岐の一つひとつ、人間の一人ひとりには、必ず何かしらの謎は付随しているものだ。鮫島敏郎という穴を探った結果として、美音子は今、十六年前の青野トオルの自殺という新しい洞窟《どうくつ》にぶつかっている。報告書にはそれが調査項目のひとつとして挙げられている。しかしどうしてその道がゴールに繋がっていると言えるのか。
剛蔵は翌週分の調査費を美音子に差し出した。
「次は、もう二十日か……」
「二十五日が百合亜さんの命日……でしたね」
美音子は封筒を鞄に仕舞いながら、そう答えた。その言葉の重さは、何よりも美音子自身が承知していた。
七月二十五日……それは稲垣百合亜の命日であった。一年前のその日に百合亜は死に、そして夫殺しの嫌疑を被せられた。彼女の祥月命日《しょうつきめいにち》が来るまでに、その嫌疑を晴らしておいてあげたい……美音子が今回の依頼を受けた時に抱いた、それはひとつの目標であった。おそらくは依頼人の方にも、同じ思いがあったことだろう。あるいは今でも、彼はそうした希望を持ち続けているのかもしれない。
あと十二日間……。いや、次の報告日、二十日には、できれば結果を出しておきたい。となると、あと一週間……。
「来週は、ちょっと早めに来ていただけないだろうか……」
言葉数の少なかった剛蔵は、最後にそう言った。
「気が向いたらでいいのだが。教会で、百合亜のためのミサが行われるので……」
「分かりました。必ず参ります」
美音子は参列を確約した。
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九章 煉獄の門
カーテンの隙間から、キラキラとした光がこぼれていた。すっかり夜が明けている。時計に目をやると、六時をまわっていた。
(朝課に行かなきゃ)
上体を起こし、両脚をベッドから床に落として、いざ立ち上がろうとしたその時、ふっと気力が萎《な》えるのを感じて、坂本優子はふたたびベッドの端にペタンと尻を落とした。
身体が重い。そして鈍痛……。
手を下腹部に充て、溜息を吐く。
月曜日の朝であった。今日からまた、憂鬱な一週間が始まる。
純和という閉ざされた檻の中で、飽きもせず毎日のように繰り返される日常。敷地内のどこへ行こうとも、見合わせるのはいつも同じ顔ばかり。通学途上にちょっとハンサムな男の子を見かける、などということは、この学院にいる限りは全く有り得ないのだ。
そうした狭い人間関係において、しかも優子には、なるべくなら顔を合わせないで一日を済ませたいと思うような相手が、幾人もいた。……その険のある顔を見ると、こちらまで気分を毒されてしまいそうな、片桐茜や佐藤瑞穂など生徒会役員の(麻里亜派の)少女たち。一方で斉田未知留を始めとした椎奈派の親衛隊員たちに対しても、優子は狂信者に対するときのような畏《おそ》れを抱いている。上級生たちは、今でも安城由紀のことを思い出すのか、優子を見てハッとした顔をするのが、どうにもいたたまれない気持ちに彼女を追いやるし、そういった点では教師たち、あるいは修道女たちも同様である。
そしてさらに優子が苦手としているのが、青木冴子であった。階段から転落する直前、振り向いた優子の目がとらえたのは、彼女のとてつもない憎悪の顔であった。その顔を思い出し、その憎悪が自分に向けられていたのだと考えると、それだけで優子の臆病な心はブルブルと震え上がってしまうのだ。
そしてもちろん、その青木冴子を上回って、彼女がいちばん顔を合わせたくない相手はといえば――
(シイちゃん……)
それはもちろん、高橋椎奈であった。
入学してから約一ヵ月間、二人で仲良く過ごしていた時の追憶が、優子の視界を滲《にじ》ませる。
今では彼女自身も認めていた。認めざるを得なかった。自分がいかに、椎奈という少女を愛していたかということを。そして今でも変わらず、自分が椎奈を愛しているのだということを。
遠くから見て憧れていただけの、当時の朝倉麻里亜に対する憧憬の情とは違って、椎奈は生身の存在として、いつでも優子の隣にいた。あの頃の椎奈は、誰が何と言おうと優子だけのものであった。あの頃に戻りたい。あの頃に戻って、椎奈を独り占めにしたい。椎奈と二人だけで、心ゆくまで同じ時を過ごしたい。――女同士だから不自然だとか、許されないだとか、理性でいくら否定しようとも、優子の心にあるそれは確かに、椎奈への愛であった。
だからこそ――椎奈を愛しているからこそ、その椎奈が自分の顔を見て、フイと目を逸《そ》らすのを見るのがイヤだった。自分以外の少女と話しているのを見るのがイヤだった。好きだから――たまらなく好きだからこそ、優子は椎奈と顔を合わせるのがイヤだった。
部屋の向こう端のベッドを見やると、桜井さやかは幸せそうな顔をして、スヤスヤと寝息を立てていた。そのしどけない寝姿に、優子は少しだけ頬を緩《ゆる》ませた。
窓の外からは、鳥の囀《さえず》り交《か》わす声が聞こえている。建物の中でも誰かが動いている音がしている。水を使っている音。ペタペタと階段や廊下を歩くスリッパの音。まだ早朝だというのに、部屋の中はもう暑いくらいで、うっすらとかいた汗でTシャツが肌に粘りついている。
もうじき――と優子は思う。あと一週間。もうあと今週だけ我慢すれば、とりあえずこの檻からは解放される。一学期が終わる。そうしたら――夏休みになったら、即座に家に帰るのだ。実家に戻って、両親と妹とともに昔みたいに過ごすのだ。中学の時の友達とも会おう。教会にも行こう。あるいは街に出て、大勢の見知らぬ人たちが行き交うのを、ボンヤリと眺めているだけでも良い。
とにかくこの檻から出られるのだ。あと一週間……。
(……あっ!)
下腹部に差し込むような痛みを感じて、優子はベッドの上で身を折り曲げた。息が詰まりそうであった。月に一度、必ず自分が女性であるということを認識させられる痛み。その痛みが、今回はいつもより以上に激しく、優子には感じられていた。こういうのを重いと言うのだろうか、その痛みに耐えなければならない期間にしても、今回はいつもよりも長びいている。
精神的な不安定さが、肉体的な面での不調をもたらしているのだろうか。……優子はそう自己分析をして、またひとつ大きな溜息を吐いた。
今回の生理が始まったのは先週の木曜日で、その日はちょうど期末試験の始まる日でもあった。そして試験の結果は散々だった。まだ採点結果は知らされてはいないが、優子には自分がひどい点を取ってしまったという自覚があった。
もちろんその原因は、生理のせいばかりではなかった。定期試験の問題はほぼ毎年同じような内容であり、寮の各部屋にはそのための、歴代の寮生たちの試験用紙がストックされている。また同室の上級生もいるということで、やる気さえあれば、優子たち一年生にとっては、それなりの点を取ることはそう難しいことではなかった。しかし優子は今回、試験勉強をほとんどやらなかったのだ。机に向かったことは向かったのだが、しかしほとんど勉強には身が入らなかった。
――麻里亜さまが妊娠をされていた。
――安城さんは書き置きを残していた。
――ジャック。
――ジャックって、なに?
問題集の活字がぼやけ、思念が宙に浮き、そして気が付けば、そんなことをボンヤリと考えている自分に気づく。……それは試験が終わってからも同様であった。いま現在、ベッドに横たわり、下腹部の痛みに耐えながら、優子はやはり同じようなことを考えていた。
(女の子って、どうしてこうなるんだろう……)
(それはいつか妊娠するために、身体が準備しているからだわ)
(妊娠するって、どういうことなのかしら?)
(妊娠……)
(……麻里亜さま)
優子の生理が長引いているのは、朝倉麻里亜が妊娠していたという事実に対して、そして妊娠ということ自体に対して、彼女が畏れを抱いているからなのかもしれなかった。
(今日は朝課は休もう)
優子はそう決めた。そう決めたらほんの少し、痛みが和《やわ》らいだような気がした。
カランカランと鳴るチャイムの音に、優子はハッと顔を上げた。
クラスメイトの少女たちの整然と並んだ後ろ姿が目に入る。優子と同じように垂れていた頭を上げ、背筋を伸ばしたり、首を振って髪を背中にはね上げたりしている。ペンケースがカタカタと音をたてる。それまで沈んでいた空気が、いっせいに動き出す。
教卓の女教師はそうした生徒たちを見渡して、姿勢を正し、それでは、と言った。後に何かゴニョゴニョと続けたようだったが、それは優子のところまでは聞こえて来なかった。
「起立」
タイミング良く発せられた片桐茜の号令とともに、ガタガタと音を立てて、少女たちは立ち上がる。優子も立ち上がった。前のほうでクスクスと誰かの笑う声がして、それを別な誰かがシッ、と止めた。
「礼」
面を伏せ、そして上げる。教室の中はその一瞬だけ、静かになる。そして次の瞬間には、ワッと弾《はじ》けた。
四限目の終わりであった。授業は先週から半日になっており、今日はこれでお終いである。教壇を下りて出て行く女教師を見送りもせず、少女たちはそこかしこに輪を作っては、はやお喋りを始めていた。
「ねえねえ、どうだった?」
「アタシもうサイテー」
「えーっ、うっそぉ」
中には、受け取ったばかりの答案を見せ合い、お互いの身体を肘で突き合ったりしているグループもある。そうした顔のどれもが、解放感に満ち溢れていた。こぼれる白い歯が眩しい。
優子はそうした輪からは外れて、ひとり静かに帰り支度をしていた。机の上の答案を手早く折り畳むと、教科書とノートで挟み、鞄の中へと放り込む。そこでフウと思わず洩れたのは、溜息だったろうか。何とはなしに、視線を窓の外へと向ける。
外は雲一つ無い快晴で、南中した太陽から溢れる陽光がグラウンドへと、容赦《ようしゃ》なく注がれていた。その光景が、今の優子には別世界のもののように見える。
(ひどい点とっちゃった……)
ボンヤリとそんなことを考える。今の教科だけではない。今日の各授業で、返された答案の点数は軒並み、クラスの平均点を下回っていた。試験の終わった先週の時点である程度の覚悟をしていたとはいえ、それは優子にとってはやはり、かなりのショックであった。
しかもそればかりではない。
彼女は一限目の化学の授業の時、クラスのみんなの前で、蛭川教諭から『放課後、準備室まで来なさい』と言い渡されたのであった。試験の結果があまりにもひどかったから、なのだろう。
(どうしてこう、調子が悪い時に限って、呼び出されたりするのかしら……)
それに蛭川教諭と言えば――。優子は先々週のことを思い返す。
彼女が階段から転げ落ちて、保健室で休んでいた時。あの時に見たアレは、いったい何だったのだろうか。あの時、学院には、朝倉家から女性が来ていた。話を聞きに来たとか言っていた。そして蛭川は、その女性の車をコソコソと調べたり、あるいはそのまま駐車場でくだんの女性を待ち伏せて、学院から出て来たところを掴まえ、何やら話し掛けたりもしていた。アレは何だったのか。
(まさか、ヒル坊がジャックだったりしないわよね……)
自分の肩がシュンと萎《しぼ》むのが分かった。
「ちょっと優子」
その時、不意にそう声を掛けられた。振り向くと、話し掛けて来たのは、藤井沙織であった。
「あんた大丈夫? ボーッとしちゃって。少し変だよ」
「うん……。何だか、ボンヤリしちゃって」
「熱あるんじゃない?」
心配そうな目つきで優子の顔を覗き込んで来る。その心遣いに、優子は顔を緩ませた。
「ううん、大丈夫」
「……一緒に帰る?」
「ううん。ほら、私、一限目の化学の時間に……」
沙織はポンと掌を叩いた。
「ああ、そう言えば、ヒル坊に呼び出し受けてたっけ、優子」
お気の毒に、とその目が語り、
「じゃあ、あたし、お先に」
沙織はそう言い置いて、待たせていた別の少女と一緒に教室を出て行った。他のクラスメイトたちも三々五々、教室を出て行く。清掃当番が机を片付け始め、ガタガタというその音に追われるようにして、優子も慌てて教室を後にした。
(昔だったらみんな、あんなふうに音をたてたりしないようにって、気を使ってたのに……)
洗練。優雅。それらはみんな、朝倉麻里亜の資質であった。そして当時は誰もが、その真似をしていた……。
優子は階段を昇りながら、ふとそんなことを思い返していた。
理科実験室は特別教室棟――L字形の校舎の短い方――の三階にあった。その隣の準備室を、蛭川は自分の居室として使っている。
優子は準備室のドアをノックした。
「どうぞ。……お、来たな、坂本。いったいどうしたんだお前、あのテストの点は」
椅子の背をキイキイと鳴らして、蛭川が、戸口の優子の方を見ていた。
(変……)
優子は何とも言えない、嫌な予感を感じて、一瞬、その部屋の中に足を踏み入れるのをためらった。蛭川教諭と言えば、生徒たちと全く交流を持とうとしない、いわば害にも益にもならない影のような存在として、今まで認識されていたのだ。それが……。
(どうしたんだ、坂本、って……どうかしちゃったのは、先生の方だわ)
ごくりと生唾を飲み込んでから、優子は、失礼します、と頭を下げて、部屋に入った。そうして、変に意識してしまっているせいか、改めて眺めた蛭川の顔は、どこか今までの印象とは違ったもののように、優子には思えて来る。
「坂本」
「あ、はい」
どうも、必要以上に、びくついてしまう。蛭川は、そんな優子の様子を、ちらりと横目で眺めてから、言った。
「本当に、どうしたんだ、今回の期末は。あんな点を取るなんて、いつものお前らしくないじゃないか」
「はあ……」
そんなことを言われても、と優子は思わず訊き返していた。
「いつもの私って、どういうふうなんです?」
「どうって……」
蛭川が綺子の向きを変え、またギーッと、背凭《せもた》れの金具が軋《きし》む。
「そりゃ、いつもの君は、勉強熱心で、先生の言う事を、いつも一番真剣に聞いている。……そうだろう」
「そう……ですか」
視線を合わせられない。つい、と逸らした視線のその先は、蛭川の膝のあたりで、そこには彼の両手があった。神経質そうに、その手がコチョコチョと小刻みに動いている。
「その……なんだな。例えば何か、悩み事でもあるんじゃないか?」
「いえ……」
そのまま、しばしの沈黙。そして、優子の視線の先の、男の手の細かい動きが不意に止まった。
ひゅうっ、と息を吸う音がして、そして蛭川は続けた。
「そうか……。ま、それならいいんだけど。うん。……そうだ。ところで、ついでと言っては何だが、この機会に、ひとつ訊いておきたい事があるんだが。いいかな?」
「……何でしょう?」
優子は嫌な予感に、息が詰まりそうになった。
蛭川は一瞬、言《い》い淀《よど》んだ。眼鏡の奥の細い目が、チロリと優子の方を盗み見る。
「訊きたいのは、二組の高橋に関しての事なんだがね――」
あまりにも唐突にその名を出されたので、優子は思わず息を飲んだ。
「シイ……高橋さんが、どうしたって言うんです?」
内心の動揺を面に表さないようにと努めながら、優子はそう訊き返した。
「正にそれなんだよ、僕が聞きたいと思っていたのは」
蛭川はそこで、上体をぐっと前にせり出させた。そうして爬虫類じみた顔をグッと優子のほうに近づけると、さらに言葉を継いだ。
「何なんだ、あの子は?」
「何……って?」
いったい自分が何を訊かれているのか、優子には全く分からなかった。
「何のことでしょうか? それに、何でそんなことを私に?」
優子がそう問い返すと、フンッ、と蛭川は鼻でひとつ嗤《わら》った。
「それは、君が何か、知ってると思ったからだ」
蛭川は机に片肘をついて、優子を斜めに見るような角度に、その頭を支えた。そうしておいて、銀縁の眼鏡の奥の、細い目で、優子の方をジロジロと見詰めて来る。その視線が、粘性を持つ細い糸となり、それで自分の身体がぐるぐると縛られているような、そんな薄気味の悪さを、優子は感じていた。
自分の優位性を感じてか、蛭川は急に多弁になった。
「なあ、知ってるんだろう? 知ってたら教えてくれ。どうして彼女はあんなふうに変わった? どうしてあんなふうに――昔の朝倉みたいに、他の生徒たちを惹《ひ》き付《つ》けるんだ? 彼女にはどんな力があるというんだ? そしてどうして坂本、お前だけが、彼女を嫌ってる? 他でもない、朝倉が死ぬまでは、あれほど仲の良かったお前が、どうして朝倉が死んだ後、急に高橋のことを嫌い出したのか……」
蛭川の詰問に、優子は頭の中が一瞬、まっ白になった。
「そんな……、そんな……」
ただもうひたすら、首を左右に振り続ける。
「そんな、知りません、そんな事」
蛭川は聞かず、指を優子に向かって突き立てた。
「坂本、お前は高橋の正体を見抜いた……。そうじゃないのか?」
「は?」
(正体……?)
蛭川が何を言っているのか、優子には理解できなかった。彼女から何かを聞き出そうとしているらしいのだが、それが何なのかが、全然ピンと来ない。
そうした優子の反応を見てか、蛭川の額の縦皺が一本増えた。
「……いい」
「は?」
と優子は訊き返す。
「もう良い。下がりなさい」
「…………」
何だか分からないが、ともかくお許しが出たのだ。優子は慌てて戸口まで下がり、
「し、失礼しましたっ」
ペコリと頭を下げると、急いで準備室から出て、戸を閉めた。
校舎の中は異様にガランとしていた。掃除を手早く(あるいはテキトーに)済ませたのだろうか、どの教室にも生徒は残ってはいないようであった。
(何だったの……?)
蛭川教諭はいったい何を、優子から聞き出そうとしていたのだろうか。
(分からない……)
ただひとつハッキリしたのは、蛭川が何かをコソコソと嗅ぎ回っているということだ。学院長には内緒で、朝倉家の人と接触をしようとしたり、あるいは今回は優子を呼び出して、彼女と椎奈との関係について、聞き出そうとしていた。そうして彼は、いったい何を調べようとしているのだろうか。
椎奈とはいったい何なのか。どうして麻里亜が死んだ直後から、ぐんぐんと綺麗になり始めたのか。どのようにしてカリスマに成りおおせたのか。そして――
(シイちゃんと私の関係……?)
それって何? ……と優子は思う。
(私とシイちゃんの関係って、何?)
どうして椎奈と自分との仲がうまく行かなくなったのか――。その問いに対してだったら、優子は答えることが出来る。それはあの、礼拝堂でのキスの一件以来のことである。あれ以来、優子は椎奈のことを、自分の身体を肉欲をもって狙っている者、と意識してしまって、それでマトモに顔を合わせることができないでいる。椎奈もバツが悪いのか、優子のことを避けている。――そんな関係である。蛭川は二人の不仲を麻里亜の死と結びつけて考えていたが、それは偶々《たまたま》、起こった時期が重なっていただけで、両者に相関は無い。
ただし、いくら答えることが出来ると言っても、それは自分の心の中でだけのこと。それを他人に話すわけには行かなかった。優子はあの礼拝堂での一幕を――椎奈の告白を、あれ以来ずっと自分の胸に秘匿し続けている。
そこでふと、思い当たった。
(シイちゃんの正体、って……)
蛭川の言う『椎奈の正体』とは、そのことなのだろうか。蛭川は、椎奈が同性愛者だということを知っているのだろうか。
――お前は高橋の正体を見抜いた。
――そうじゃないのか。
優子は下駄箱のところでいったん立ち止まり、考えを整理してみた。
まず、蛭川は朝倉麻里亜の家の者(綺麗な女性だった)に接触を試みた。どうやら彼は生前の麻里亜について、何事かを調べようとしていたらしい。その調査の対象である麻里亜は、学院内ではカリスマ的な存在であった。
そして蛭川は、椎奈の持つカリスマ性についても興味を示していた。その彼が見抜いた椎奈の正体とは、彼女の持つ同性愛的な性向のことを言っているのだろうか。
――どうしてあんなふうに。
――他の生徒たちを惹き付けるんだ。
――昔の朝倉みたいに。
(まさか……)
椎奈がそのおかげで――彼女の持つ同性愛的な性向のおかげで、カリスマ的な存在に成り上がったと、蛭川はそう言っているのだろうか。同性愛的な性向といっても、精神的なものではなく、もっと形而下の、言ってしまえば直接的な肉体関係でもって、彼女とその支持者たちが結ばれていると……そう言っているのだろうか。そしてかつての朝倉麻里亜も、そうだったと言うのか。
そんなはずはない、と優子は思う。
(でも、ヒル坊が勝手にそう考えているということは……)
有り得る、と思う。
優子は改めて、先ほど辞してきた蛭川の部屋でのやりとりを思い出す。爬虫類じみたその容貌。その皮膚の下で、そんなことを考えていたのだとしたら。そんな妄想を思いめぐらせていたのだとしたら……。
ゾッと鳥肌が立った。
やはり彼こそが、ジャックなのかもしれない。
(うーっ、ヤダヤダ)
ぶるると身震いしたところで、そういえば、と優子は思いだした。
そういえば先々週の保健室で――階段から転げ落ちた後――あの時、シスター相馬は、優子から話を色々と聞き出した挙句、自分がジャックについて調べてみると言っていた。あの時、優子は、ジャックの正体を知っていそうな人物として、青木冴子と沖野琴美の二人の名前をシスターに告げた。それを受けてシスターは、ジャックとは何なのかをその二人に訊ねたのではないだろうか。
あれから十日ばかりが経っている。何か進展があっても良い頃だろう。
そう思い立つと、優子はさっそく踵を返し、廊下を保健室へと向かった。
いるかな、と思いつつノックしてみる。すると、はい? と中から応答があり、優子はドアを開けた。
「失礼します」
「あら」
シスター相馬はいつもどおり、白の尼僧服姿で、今までデスクに座って何か書き物をしていたらしく、黒縁の眼鏡をかけた顔をひょいと上げて、戸口に優子の姿を認めると、ニコリと微笑んだ。
「どうしたの坂本さん? また階段から落ちたとか?」
「また……」
優子は苦笑した。
「あの、いいですか、シスター?」
「どうぞ」
シスター相馬が眼鏡を外し、頷くのを見て、優子はおずおずと中に入り、後ろ手にドアを閉めた。ついでに衝立の向こうもチラと覗いてみるが、ベッドにも誰もいない。
「そういえば坂本さん、今朝、朝課に来てなかったわよね?」
ふと気が付いたといった感じで、シスターが言った。優子はペコリとお辞儀をした。
「あ、はい。すみませんでした。何か体調が悪くて……。でももう平気です」
「そう。だったらいいんだけど……」
実際、お腹の痛みのほうは、午前中の授業の問に何とかなってしまっていた。優子は言葉に詰まり、あたりをキョロキョロと見渡した。
中へ入ったはいいが、鞄などを置く場所も無いし、身の置き所にしても、診察してもらいに来たわけでもないので、患者用の椅子にも座りにくい。仕方がないので、そのままボーッと突っ立ったままでいることにする。
シスター相馬は、優子のそうした様子を、どこか不思議そうな目で眺めていたが、やおら訊ねてきた。
「お昼は?」
「あ、まだです。あの……、テストの成績があんまり良くなかったもので、蛭川先生に呼ばれちゃって……。いま行って来たところです。そうしたらもうみんな……」
喋りながら、そんなことはどうでもいいことだと気づいて、話が尻窄《しりすぼ》みになる。
「あの……」
改めて話を切り出そうとすると、シスター相馬は、なあに? という顔で、優子のほうを見返して来る。どうして察してくれないのかしらと、優子はその時になって初めて、シスターの反応を少し訝《いぶか》しく感じ始めた。
ゴクリ、と唾を飲み込む。
「前に話した、あの……、ジャックのことなんですけど……」
そこでいったん言葉を切る。ああ、はいはい、分かりました、というような反応を、優子は期待していたのだが、シスター相馬の表情はほとんど変わらず、それで? というふうに、片側の眉毛をちょっと持ち上げてみせただけであった。
仕方がないので、優子はさらに言葉を継いだ。
「あの……、それでその時、シスターはたしか調べてくれるって……。あの、ジャックのこと――ジャックっていったい何なのかって、そういうのを、何か青木さんとか沖野さんとかに聞いていただけるって……」
「ああ、あれね」
優子がそこまで言ってようやく、シスターは反応を見せた。優子の顔からふいと視線を逸らし、ボンヤリと宙を眺めながら言う。
「あれはね、何でもなかったの。青木さんとかは全然関係なかったの。あの時は私も、あなたを脅かすようなことを言っちゃったけど、ごめんなさいね、全然そんな、気にするようなことじゃないから、ね、坂本さん。あなたもあの時のことは、もう忘れていいから。全然気にしなくていいから、ね」
最後にまた、優子のほうに視線を向けて、さも優しそうな顔をして、微笑む。
(変……)
優子はその時、全身の細胞がギュッと縮こまるような、激しい違和感を感じていた。
(どうしちゃったの? シスター……)
先々週、この同じ保健室で、優子の肩を抱き、制服の埃を払ってくれたあのシスター相馬は、いったいどこへ行ってしまったというのだろうか。この人は頼りにしていい人なんだと、優子にあれほど安らぎを与えてくれた、あのシスターは……。
いま優子の目の前にいるのは、見た目はまったくあの時と同じシスターなのだが、心があの時とは全然違う。あの時、優子はシスターの考えていることが、手に取るように分かった。分からないことは、シスターが何でも説明してくれた。
それが今ではどうだろう。優子は拒絶されていた。どうしてあの時、ジャックについてあれほど憤《いきどお》り、あれほど自分で調べてみると言っていた、あのシスターが、今になってそんな、訳の分からないことを言い出すのか……優子には全然理解できない。分からない。あれからたった十日ほどしか経っていないのに、あの時のシスターと、いま目の前にいるシスターとが、どう繋げてみようとしても、同じ人間としては繋がらない。繋げて理解することができない。
違和感は急速に膨張した。平然とした表情で微笑んでいるシスターの周りから、保健室じゅうにサーッと拡がって、優子の身体を包み込もうとしている。
「あの……あ、はい。分かりました」
もうこれ以上、ここには居たくない。もう一刻だって、ここには居られない。
逃げなければ。
「失礼しました」
なかば駆け出すようにして、優子は保健室から廊下へと飛び出した。そして振り返りもせずに、そのまま廊下を走って行って、下駄箱の所まで来たところでようやく、フウと大きな溜息を吐いた。
(どうしちゃったの……?)
理科準備室の蛭川。そして保健室のシスター相馬。二人とも、たしかに様子がおかしかった。
そして自分が今、その二人と同じ建物、同じ校舎にいると考えただけで、ゾッと鳥肌が立ってくる。
優子はそうした思いに突き動かされて、慌てて靴を履き替え、外へと飛び出した。カッと照りつける陽光に一瞬、目が眩《くら》む。空は異様なほど澄んで青く、肌を撫でる風さえもが生暖かい。グラウンドはガランとしていて人の気配が無く、その向こうの樹樹から、蝉《せみ》の声が響いて来る。
自分が広大な檻の中にいるのだということに、優子は改めて気づかされた。そしてその広大な檻の中で、彼女はどうしようもないくらいに、孤独であった。
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十章 対 決
長沼警部は、鈴堂美音子の長い話を聞き終えると、眉間に皺を寄せて、何やら考え込むそぶりを見せた。
「体外受精、ですか……」
場所は前回と同じ、警視庁内にあるパーラーの隅である。セルフサービスのカウンターの奥から、ガチャガチャと食器を洗う音が聞こえている。
意外なことに、彼は稲垣夫妻がそうした施術を受けていたという事を知らなかったという。美音子にそう聞かされて、長沼は今、渋面を作っていた。しかしその顔に刻まれた、生来のものと見える愛想の良さは崩れていない。
「……で、鮫島病院ですか。……鮫島敏郎。ええ、憶えてますよ」
長沼がそう続けたので、美音子は慌てて心のモードを切り替えた。
「当時、彼に対しての嫌疑は持たれなかったのですか?」
「いや、もちろん、可能性のひとつとしては、充分に検討をしたと思います。ただし怪しいそぶりは見られませんでしたがね。……当時の我々の心証としては、シロでした」
「信用できません」
美音子はズバリとそう言った。なぜか急に、相手の困った顔を見たくなったのだ。しかし長沼は笑顔を崩すことなく、そのまま二、三度頷いた。
「……でしょうね。何しろあなたが先ほど言われた、体外受精の件ですら、掴んでいなかったのですからね。全くお恥ずかしい。……ただし、彼にはアリバイがあります」
「アリバイ……?」
「大勢の人間が、彼がその朝何時に病院を出て行ったかを証言しています。その時間と、そして彼が稲垣家から一一〇番通報をした時間からして、彼にはそういったことをするだけの時間的な余裕が無かったという事が、明らかとなっています」
「でも……」
美音子は言葉を失った。……鮫島医師には、ちゃんとしたアリバイがあった。嬰児の遺体を始末するだけの時間的余裕は、彼には無かったのだ。……そう断言されても、しかし美音子の中の〈黒猫〉の信念は揺るがなかった。
「……だったらその前に、病院を一度抜け出したという可能性は……?」
「それについてもちゃんと調べてあります。その晩の当直医がもう一人いたのですが、その医者と、あと看護婦が何人か、彼がその晩ずっと病院にいたと証言しています」
「……でも、みんなその病院に勤めている人たちだったんですよね? で、鮫島はその病院の院長の息子」
「……そうです」
長沼は少し間をおいてから、頷いた。
鮫島のアリバイを証言した人たちの中に、その後結婚して職場を離れたという女性が一人いた。他の証人は現在も鮫島病院に勤めている。そうした人たちに比べれば、はるかに本音を洩らしやすいだろうということで、美音子はその女性へと狙いを絞った。
電話で用件を述べると、相手は露骨に嫌そうな口調で応じた。しかし美音子は構わず、なかば強引に会う約束を取りつけた。
東横線の日吉《ひよし》の駅から五分ほど。約束の喫茶店にその相手が姿を見せた瞬間、美音子の心には感じるものがあった。意志の力では隠しきれない疚《やま》しさのようなものが、その表情には浮かんでいるように見えたのだ。
中条《なかじょう》奈々子《ななこ》、事件当時の姓は白井《しらい》であった。二十六歳というから、美音子よりもひとつ下である。三月に結婚したばかりの新妻。夫は普通のサラリーマンであり、今の彼女には鮫島に義理立てをする要因はどこにも無いはずであった。しかし奈々子は言う。
「先生はあの晩ずっと、病院の中にいました」
といっても〈黒猫〉の前では、その元看護婦は、もはやただの獲物でしかなかった。
「そう言えと言われたのでしょう?」
美音子がズバリそう言うと、奈々子はハッと顔を上げた。その顔に被せるように言う。
「鮫島さんはあの晩、病院を抜け出して、稲垣家に行った。なぜなら稲垣家から、これから病院に行くという連絡があったのに、彼らがその後、全然病院に現れようとしなかったから」
美音子の言葉に、奈々子は明らかに動揺を見せていた。〈黒猫〉の断定的な口調は、一気に相手を追い詰めようとしている。
もうひと押し……。美音子は相手の退路を断つべく、さらに言葉を継いだ。
「もちろんあなたにだって、幸せになる権利はあるわ。でも今のままだったらあなた、きっと幸せにはなれない。このままの状態が続けば、いつか必ず後悔するわよ。いいこと? ……あなたが今までに貰って来たものは、別に返さなくてもいいのよ。そのままにしておけばいいの。だってそれは、今までずっと心苦しい思いをさせられ続けて来た、そのことに対する正当な報酬じゃない? ……だけど、だけどこれからは、それを続けて行ってはいけないと思うの。絶対にそれじゃいけない」
この元看護婦の口を封じるために、鮫島はきっと、金銭を渡すなり何なりしてきたに違いない……美音子はその憶測を、そうして思い切って相手にぶつけてみた。それはどうやら図星だったらしい。中条奈々子は何も言わず、ただテーブルの上に組んだ自分の腕のあたりをジッと見詰めている。
美音子はさらに別の角度から、相手の心の負荷を軽減すべく、言葉を重ねた。
「それに本当のことを言ったからって、何もそれですぐに鮫島さんが疑わしいとかってなるわけじゃないのよ。そんなふうにあなたが深刻になるような話じゃないの。私としてはただ、彼が警察に言った、その時間よりももうちょっと前に、彼が現場に行ってたのだとしたら、そこで彼がはたして何を見たかっていう、それをね……、それを彼から聞きたいっていう、それだけなの。……ねえ、話してみない? ……本当のことを。あの晩、鮫島先生は病院を一度抜け出した。稲垣さんの家に行った。……ね、そうでしょ?」
美音子は待った。それから十分間は、ただひたすら沈黙ばかりが続いた。そして結局、中条奈々子は最後まで無言を貫き通した。しかし美音子にとっては、それで充分だった。奈々子の無言は、ほとんど肯定しているのと一緒だったのだから。
「いいわ。……ありがとう」
美音子がそう言うと、奈々子は無言のままスッと立ち上がり、逃げ出すように喫茶店から出て行った。ドアが開閉したその一瞬だけ、外の騒音が店内に洩れ聞こえて来た。店員が驚いたように、そのドアと、そして残された美音子のほうを、交互に見ている。
やはり鮫島医師は事件の夜、病院を抜け出して稲垣家に行っていたのだ。それが事件にどのような影響を与えるのか……。喫茶店にひとり残された美音子の頭の中では、再び稲垣家の盤面が浮かんでいた。そしてその上で、いまや四つとなった駒が、激しく動き回っていた。
その週は前の週とは一転して、ずっと好天の日が続いていた。青空に浮かぶ雲の形は、もう明らかに夏のそれになっている。
そして、七月十八日、金曜日。その日も都内の上空には青空が広がっていた。
黒のボンネットは鏡となって、上空の斑《まだら》模様を映し出していた。流れる景色は夏の陽射しにキラキラと輝いており、裸眼では眩しすぎるというので、美音子はサングラスをかけて運転をしていた。全開にした窓から入る風が、薄く汗の浮き出た彼女のうなじを撫でてゆく……。
車は明治通りを北西方向に進んでいた。この道は歩道橋の数が多い。頭上を過ぎて行く架橋に塗装された水色は、背景となる空の絶対的な青色に負けていた。やがて車は北区《きたく》から、板橋区へと方向を変える。道は嘘のように空いていた。最後に脇道を抜けて街道へと出ると、やがて道の左手に、ひときわ大きな近代的な建物が、陽射しにギラギラと輝いているのが見えて来る。
――鮫島総合病院。
美音子はスピードを落とし、ウインカーを出して、車をその敷地へと滑り込ませた。
緑に囲まれた駐車場は、広大なスペースを有していた。たくさんの車が既に停められていたが、それでもまだ半分以上の空きがある。美音子の目には、かなり贅沢《ぜいたく》な土地の使い方がなされているように映った。
アスファルトの上に降り立つと、彼女はひとまず煙草に火を点けた。正午を回ったばかりで太陽はまだ天頂にあり、木陰には身を寄せるだけの幅も無い。直射日光がジリジリと容赦なく、美音子の髪と着衣の黒を炙《あぶ》り始める。しかし彼女は意に介さず、煙を吐き出しながら、悠然とあたりを見回した。
空が異様に広く感じられた。蝉の声が聞こえている。立木の緑越しに望まれる病棟の雰囲気は、美音子に大学のキャンパスを連想させた。
微風に煙草の煙がゆらいでいる。それは彼女の心の中の迷いでもあった。
鮫島敏郎は事件の夜、昨年の七月二十四日の深更から二十五日の未明にかけて、警察が承知している朝の訪問よりもさらに数時間ほど前に一度、稲垣家を訪れている。……もはやそれは、美音子の中では動かしがたい事実となっていた。しかしそこから先の詰め手が見えて来ない。稲垣裕明、百合亜、朝倉麻里亜の三人に加えて、鮫島敏郎……。その四つの駒がどう動けば、ああいった結果が生まれるのか。その手筋が、美音子にはいっこうに見えてこない。
こうなったら、唯一の生き証人である鮫島医師本人に対して、直接攻撃を仕掛けるしかない。そう決心をして、彼女は前の晩、鮫島の自宅へと電話を入れたのであった。
――はい。鮫島ですが。
受話口から聞こえてきたその声は意想外に低く、そして張りのあるものであった。ありていに言えば美声であった。美音子はその意外な美声に、思わず息を飲んだ。
明かりを絞った居間で、美音子はベッドに腰掛けて電話をしていた。テーブル上に林立する空瓶のひとつには、美音子が聞き込みの際に入手した、一枚の写真が立て掛けてあった。学会でのスナップ写真だということで、鮫島敏郎は小さくしか写っていないが、それでも目鼻立ちは充分に見て取れる。美音子にとっては意外なことに、その写真に写っている鮫島は、結構な美男であった。鼻梁《びりょう》が高く彫りの深い、いわゆるバタ臭い顔立ちで、髪も豊かで黒く、縁なし眼鏡の奥の細められた目には知性のきらめきが感じられる。
この顔に、この声……。低いバリトンに一瞬、受話器を握ったまま陶然と酔わされかけて、次の瞬間、美音子はそんな自分の反応を恥じていた。……こいつは〈黒猫〉の獲物なのだ。その相手の外見や声に惑わされてどうする。
というわけで、美音子は気を取り直して自分の名を名乗り、そして用件を切り出そうとした。ところが鮫島はこう切り返して来たのであった。
――鈴堂……ああ、あんたか。俺のことを嗅ぎ回っている女っていうのは。
どうやら美音子の調査活動は、相手に筒抜けだったようだ。
――俺に訊きたいことがあるんだったら、直接俺に訊けばいいのにと思ってたんだ。今じゃ付き合いも途絶えてるような古い連中に色々と訊いて回られるよりも、そのほうが俺にとっては有り難いし、あんたにとってもそっちのほうが手っ取り早いはずだ。
鮫島の喋りは、初めて言葉を交わす相手に対するものにしては、かなりぞんざいな口調であった。美音子のことは、いきなり「あんた」呼ばわりである。しかし回線性能の限界に挑戦しているかのような、その低い声でそう言われると、何だかそれも仕方のないことのように、美音子には思えてしまうのであった。
「……では時間を作っていただけますか?」
――いいとも。善は急げと言うから、じゃあ明日は? ……いい? ……じゃあ、明日の午後一時に病院まで来てくれたら、時間を作るから。
「……お願いします」
美音子はそう言い、受話器を置いた。
それから一夜が明け、美音子は今、鮫島病院の駐車場に立っている。
しかし心の中には、まだ迷いがあった。〈黒猫〉の本能が、鮫島と直接やりあうのには、いまだ時期尚早だと告げている。
煙草を灰皿に潰し、サングラスを助手席に放って、美音子は車のドアを外からバタンと閉めた。肺に溜まった最後の煙を、フーッと吐き出す。そうして彼女は迷いを無理矢理断ち切ると、立木の向こうに聳《そび》え立《た》つ、敵の巨大な居城へと足を向けた。
病院の中はどこもかしこも、驚くほどに清潔であった。汚れひとつ無い窓ガラスを通して、きらびやかな夏の陽が射し込んでいる。床には何色かに色分けされたラインが引かれていて、美音子はそのうち赤いラインに従って、病棟同士を繋ぐ廊下を渡り、迷うことなく、産婦人科の受付の前まで辿り着いていた。
ロビーの中央には背の高い観葉植物が置かれ、それを取り囲むようなデザインで配された長椅子には三々五々、外来の患者たちが腰掛けていた。やはり大きなお腹をマタニティに包んだ女性が多いが、しかし中にはどう見ても高校生ぐらいにしか見えないカップルが、隅の方に並んで腰掛けていたりもする。そのカップルの男の子のほうは、なんと坊主頭であった。深刻そうな顔でジッと床を見詰めている。その向かいでは、お腹の大きな妊婦同士が笑顔で、際限もなくお喋りに興じていたりする。美音子はひと息つきたいと思った。キョロキョロとあたりを見回すが、灰皿は見付からず、代わりに壁に『禁煙』のプレートが貼られているのが目に入った。
一服つけることも出来ない。美音子がふう、と肩でひとつ息をして意を決し、受付の窓口へと向かい始めた、ちょうどその時であった。
「おおい、みんな聞いてくれ!」
突然、そんな胴間声《どうまごえ》がロビー中に響き渡った。待合室の患者たちの談笑が止み、瞬間、あたりはシーンと静まり返る。
「ここの鮫島っていう医者は藪だぞ。みんな騙されるな!」
美音子は声のした方向を見やった。彼女が先ほど入って来たロビーの入口に、男がひとり立っている。三十を少し越したあたりか。着ているものはまあマトモと言ってもいいだろうが、身なりのほうは、髪はボサボサで無精髭を生やし、肌も脂じみていて、ここ何日も風呂に入っていないのではないかと思われる。そうした男が目を潤ませ、顔をくちゃくちゃにして、大声で叫んでいるのである。
「鮫島っ! オレの女房を返せっ!」
アルコールも入っているのか、足元が少しふらついている。
受付のカウンター脇のくぐりから、慌てた様子で看護婦が数人、飛び出して来た。
「原磯《はらいそ》さん! また、困ります。……みなさん、すみません。ちょっとこの人……」
看護婦たちのうちの一人が、男のほうに駆け寄って行く。
「うるさいっ! 簡単な手術だとか言っておきながら、ひとの女房を死なせたのは誰だ! ホージョーキタイだ? 何だそれは? ショック死だ? ……」
「すみません、原磯さん。どうか落ち着いてください。お願いします」
「うるさいっ! 鮫島のヤツを呼べ! ここへ呼べっ」
どうやら看護婦ひとりでは手に余る様子であった。すると病棟の奥のほうから、白衣を着た若い男が現れて、男の元へと近付いて行く。
「おっ、来たな。鮫島か? いいや、違う、お前じゃない!」
「お話はあちらで伺います」
白衣の男と看護婦数人に囲まれて、男は廊下をどこかへと連れ去られて行こうとしていた。それでも男は叫び続けていた。
「お前でもいい。とにかくお前らの医療ミスを認めろ。じゃないと何度でもこうして来るぞ。いいか、これは嫌がらせじゃない。正式な抗議であり、かつ、同じような失敗を他の患者さんが受けないようにと……」
男の姿が見えなくなっても、その胴間声はしばらくの間、ロビーまで聞こえて来ていた。それがついには聞き取れなくなって、そうしてロビーに残された患者たちはいっせいに、ふうっと溜息を洩らした。
「どこにでもいるのね、ああいうの」
妊婦の二人組が、そんなことを言い交わしている声が聞こえた。その二人を筆頭に、患者たちはみな意外なほど落ち着いている。あっけにとられている間に事がすべて終わってしまったからだろうか。あの男はいわゆる〈おかしな人〉だったのだろう――と、おそらくみんなは、そう判断したのではないだろうか。
そうした中でひとり美音子だけは、いまだに興奮さめやらぬ心地であった。鮫島という今回のターゲットに関して、医師としての悪い噂は、今までの調査の中でもほとんど耳にすることがなかった。それがこうして、ひょんな事から、そうした情報を得ることができたのである。
しかも男は、胞状奇胎の手術で妻を亡くした、というようなことを言っていたではないか。まさか、とは思う。そんなに都合良く事が運ぶはずはないと。しかし万が一ということもある。もしかすると――と美音子はどうしても期待してしまう。もしかすると、今の男が言っていた彼の妻の死は、稲垣百合亜の死と、どこかで何か、関係があるのではないだろうか。
たしか看護婦たちから原磯と呼ばれていた――後であの男からも、色々と聞き出さなければならないなと、美音子は心の中でその名をメモした。
そこでふとロビー内に目を戻すと、ひとりだけ残っていたまだ若い看護婦が、どうしたらいいのかと、辺りをキョロキョロと見渡しているのに気づいた。見ていると、ロビーのどこか曖昧な場所に向かってペコリとひとつお辞儀をした後、慌てて受付の中へ戻ろうとしている。
美音子はその後ろ姿に声を掛けた。
「あの、すみません」
「あ、はい。えっと……、初めての方ですか? ちょっと待っててください」
黒縁眼鏡の奥の目が可愛い、どこか小動物のようなイメージの看護婦が、戸惑ったように応じる。美音子は首を振った。
「鈴堂と申します。……鮫島先生と一時に会うという約束で、伺ったのですが」
「はあっ? ……あ、はい。……少々お待ちください」
一瞬ポカンとした表情を見せた看護婦は、すぐに慌てて上目遣いにペコリと一礼をした後、受付の中へと引っ込んだ。美音子が受付の小窓から見るとはなしにそのまま見ていると、看護婦はそのボックスの奥のほうで、どこかに電話を掛け(押したボタンの数からして内線であろう)、壁に向かってペコペコと頭を下げながら「はい」を何度か繰り返した後、ややあって受話器を置いて、窓口の方へと戻って来た。そのままカウンタの下のくぐりを抜けて、外まで出て来る。
「失礼しました。ご案内いたします」
一礼をして、そして看護婦は先に立って、廊下を奥へと進んで行った。美音子はその後をついて行く。看護婦は『関係者以外立入禁止』と書かれたドアを抜け、さらには裏口らしき場所から、建物の外へと出てしまった。美音子も後を追って外に出る。途端、夏の陽射しが目を灼き、暑気が身体を包んだ。左右を木立に囲まれて、その通廊は、正面に建つ二階建ての別棟へと続いていた。看護婦は制帽の後ろから垂らしたポニーテイルを揺らしながら、その建物へと進んで行く。
いったいどこに連れて行かれるのだろう……。不安な心持ちになったところで、別棟の玄関のガラスの向こうに、白衣姿の男が立っているのが、美音子の目に入った。動悸が速くなり、一方で美音子の足は遅くなる。
……鮫島。
案内役の看護婦は先に玄関の段差を上り、美音子のためにガラスドアを開けると、そのドアの脇へと引き下がって頭を下げ、ひたすらじっとしている。まるで城主に傅《かしず》く官女といった趣である。美音子は慌てて先を急いだ。最後の段差を上がる。
灼け付くように色が散る戸外の陽射しの中、銀紗の混じった黒のブラウスに黒のタイトミニ、黒のブーツを履いて黒エナメルのバッグを下げた美音子は、〈黒猫〉として獲物に対峙していた。戸外と比べて薄暗い建物の中、鮫島の白衣と白い歯はボウッと浮かんで見えている。その白が動き、太い声が言った。
「お待ちしてました。どうぞ中へ……」
白衣が翻《ひるがえ》り、鮫島は廊下を奥へと向かって歩き始めた。美音子は、依然として玄関脇に控えていた眼鏡の看護婦に軽く礼をして、その棟の中へと入って行った。光量の急激な変化に一瞬目が眩むが、やがてそれにも慣れ、馴染むにしたがって、あたりのものが見えてくる。
入ってすぐの右手には受付があり、中には制服を着たガードマンらしき人物が詰めていた。ほかの病棟とは明らかに雰囲気が異なり、ものものしい感じである。廊下の左右にはドアが並んでいて、それぞれに『遠心分離』とか『PCR』とか書かれたプレートが貼られている。美音子はそこでようやく、その建物がなんらかの研究施設だということに気付いた。鮫島敏郎個人のための研究棟なのであろうか。
建物の奥のどこかで、ブーンという低い唸り音が絶えず鳴っていた。美音子の先を行く鮫島は、廊下を曲がって、さらに奥へと進んでゆく。
やがて彼は一枚のドアの前で止まり、そのドアを引き開けると、自分はその脇に留まり、美音子に先に入るようにと手振りで示した。そして彼はよく響く低音でこう言ったのだった。
「どうぞお入りください。……〈黒猫〉さん」
ブラインドの隙間から、キラキラと光が洩れている。角度からして直射日光では有り得ない。外の駐車場に並ぶ車のそれぞれが、陽光を反射しているもののようだ。
その窓を左に見て、美音子は革のソファに腰を下ろしていた。右手の壁にはキャビネットが並び、その向こうには簡単な給湯台が置かれている。正面の奥にはこちら向きに、両袖の大きなデスクが鎮座しており、卓上ではパソコンがこちらに背を向けて唸りを上げている。本棚には医学関係の専門書や雑誌がぎっしりと詰め込まれている。個人の研究室といった室内の雰囲気であった。
目の前には、美音子が何も言わないうちから出された、コーヒーカップと灰皿が置かれている。カップの中身はモカのブラック。ミルクも砂糖もついていない。美音子のことに関してはもう、嗜好《しこう》に至るまで調査済みだよという、それは鮫島の無言の示威《じい》なのだろうか。そしてソファの向かいにはその当人、鮫島敏郎が、ゆったりと腰を下ろしていた。美音子は努めて平静を装い、煙草を取り出して火を点けた。そしてその煙越しに相手を観察する。
地声と同様、あるいはそれ以上に、生で接する鮫島敏郎は、他人を圧する雰囲気をその身に有していた。彫りの深い顔立ちに満ち溢れているのは、常に他人よりも上を目指して来たという自信であろうか。身長は百八十を越す高さがあり、しかも意識はそれ以上に高く、はるかな高処から相手を見下ろすことに慣れているようであった。
「用件をうかがおうか」
案の定、鮫島の切り出し方は居丈高《いたけだか》であった。美音子は煙草を灰皿に潰し、背筋を伸ばした。
「では、お手間を取らせないように、率直に申し上げます。……去年の七月二十五日の夜、あなたは警察に言ったよりもずっと早い時間に、稲垣家に行きましたね」
「行ってない」
男はソファの背凭れに身体をあずけたまま、ぞんざいな口調で応じた。
そこから否定するのか……。美音子は唇を噛んだ。
「中条奈々子さんが……いえ、当時は白井さんでしたよね。憶えてらっしゃいますか? 白井奈々子さん……彼女はその晩、ここで夜勤をしていました。そしてあなたがその晩、真夜中に病院を抜け出して行ったと、そう証言しているのですが」
「白井くん? ……微かに憶えているような気もするが……。で、それがどうしたというつもりなんだい? その白井とかいう看護婦だか准看護婦だかが、俺が夜中に抜け出したと言った? ……で? あの晩はたしか北城《きたじろ》くんというのが一緒に当直をしていた。もちろん看護婦も何人か……その白井というのがいたかどうかは知らんが、たとえいたにしても、他にも何人かが一緒に夜勤をしていたはずだ。調べてみれば分かるだろう。そういった連中がはたして何と言うか。何なら今から呼んで確かめてみるかね? たしか警察も当時、そんなくだらん事を調べてたはずだが……」
「他の方の証言はアテになりません」
美音子はピシャリと言った。鮫島は浮かしかけた腰を下ろして、美音子には余裕の笑みと見える表情をその顔に浮かべた。
「そう。……だったらその話はここまでだな。あんたは白井だか中条だかっていう女の証言しか信用しないという。それは客観的ではない。主観をぶつけられても、こちらとしてはただ単に『違う』としか応じられないし、それでは話が平行線のまま終わってしまうのは明らかだし。時間の無駄だ。……何か他の話は?」
「あります」
そう答えてから、美音子は俯《うつむ》いて唇を噛んだ。……この男は、何ら疚《やま》しさを感じていない。〈黒猫〉の牙が狙うべき弱みが、まったく表に出ていない。どうやって仕留めればいいのだろうか……。考えた末に、
「……十六年前、青野トオルという医学生が自殺をしました」
美音子がそう切り出した途端、鮫島の顔つきが心なしか変わったように見えた。
「あなたの同級生……いえ、恋人でした」
美音子はさらに言葉を継いだ。弱点を捉えたと内心思っていた。鮫島は横を向き、髪を教度掻き上げる仕草をした。顕わになった顎のラインは、敵ながら魅力的に見えた。
数秒の間を置いて、鮫島敏郎は美音子の方へと向き直り、徐《おもむろ》に言い出した。
「……そんなこともあったかもしれない。だがそれも、今となってははるかな昔話だ。……君は稲垣家の事件について訊きたかったんじゃなかったのか? それとも俺にただ難癖をつけに来たのか? ……だったらこういう話もある――」
「――稲垣家の事件とは関係あります!」
「――十年前、横浜の関内《かんない》で事件が起きた!」
「やめてっ!」
美音子は思わず叫んでいた。両耳を塞いで身体を折り畳む。目の前がまっ白になる。……鮫島は美音子の〈黒猫〉という呼称も、飲み物の嗜好も知っていた。当然、その事も知られていると覚悟しておくべきであった。
血にまみれた父母の死体。……壊れたおもちゃのように、居間に転がっていた父と母。
部活で遅くなったその日の帰り路、いつもと同じ街路を通り、いつもと同じ角で友達と別れて……そして美音子は家に着き、それを発見したのだ。
問題はその後であった。それから三日間を、美音子はその家で二人の死体と一緒に過ごしていたのだという。彼女にはその間の記憶が無かった。ショックで頭が一時的におかしくなったのだろうと医者は言った。初動捜査の邪魔をしたと刑事は言った。
――もしかして、お前がやったんじゃないのか?
心の奥に封印していた、真っ黒な記憶。……それが鮫島の不用意な発言によって、一気に噴き出したのだ。……不用意? いや、違う。彼は狙っていたのだ。美音子がそれによって精神的なダメージを受けるということ……それを知っていて、あえて口にしたのだ。
負けない。もう大丈夫だ。あれはもう終わったのだ。……〈黒猫〉が胸の中で囁く。
美音子はゆっくりと手を下ろした。飛んでいた色が目の前に戻って来る。その焦点には、鮫島の他人を小馬鹿にしたような笑顔があった。いまだ震えている自分の身体を抱きながら、美音子はその顔に向かって吼《ほ》えた。
「それこそ、関係、関係ないじゃない! 卑怯よ!」
「お互いに触れられたくない過去はあるってことだな。……分かったよ。君が嫌なら、もうその話はしない。でも君だって、そうすると俺の嫌がる話はしちゃいけないだろう?」
「嫌がらせのためにしているつもりはありません」
自分の声がまだ震えていることに気付く。しかし美音子は言い張った。
「青野さんの件は、稲垣家の事件に関係がある……。私はそう思っています。だからこそその話を――」
「ホウ。面白い。なら特別に許可しよう。……いったいどんな妄想が、君のその頭の中に渦巻いているのか、謹《つつし》んで聞くとしよう」
鮫島の顔には依然、相手を皮肉る嫌味な笑顔が浮かんでいた。しかし〈黒猫〉はその相手の目に、僅《わず》かに真剣な色が混じっているのを瞬間、見て取った。……やはり、その線は正しかったのだ。十六年前に死んだ青野トオルこそが、この一連の事件の核心だったのだ……。先ほど鮫島が〈あの事件〉を持ち出して来たのも、逆に美音子がその直前に、相手の痛いところを突いたからこそだと、考えることもできる。
美音子は唾を飲んだ。そして前夜から考えに考えて、ついに到達したひとつの結論を、その当の相手に向かって話し始めた。
「……十六年前、あなたはまだ医学部の学生だった。そして青野トオルという同級生を愛していた。でも彼は死んでしまった。何が原因でかは分からないけど、自殺してしまった。あなたの前から、永久にその姿を消してしまった。
その事件の後、あなたは自分の進路を産婦人科に決めた。これはまわりのみんなが驚くような選択だった。あなたなら外科でも内科でも好きなコースを選べたはずだし、また選ぶのが当然だった。なのにあなたは産婦人科を選んだ。……それはなぜか?」
「理由なんて無かったさ」
鮫島は強い口調でそう口を挟んだ。そして美音子の視線とぶつかると、
「いや、失礼。最後まで君の珍説を黙って聞くことにするよ」
片手を挙げてニヤリと片頬で笑い、そして両手を組んでその上に顎を乗せた。部屋に入って対峙《たいじ》した当初とは違い、そうして前傾姿勢になっているのは、それだけ自分の話が核心を突いているからだと、美音子はそう判断を下した。
美音子は話を続けた。
「どうしてあなたが産婦人科を選んだのか。……話は変わるけど、ここでちょっと人工授精の話をしなくちゃならないわ。釈迦《しゃか》に説法になるから、細かいところは省くけど、人工授精にはAIHとAIDという二種類があって、その中でもAIDというのは提供精子による受精だということ。その提供精子は医学生からなされるということ。……それで合ってますよね?」
美音子の視線の先、鮫島は、口元のあたりを手で押さえたまま、僅かに頷いた。
「あなたも青野さんも、医学生だった。……そうよね。だから、これは可能性としては充分にある話だと思うんだけど……青野さんの提供した精子が、彼の自殺した後にも、どこかに保存されていた。……そうじゃない? あなたはそれを使って、愛する人の子供をこの世に産み出そうとした。愛する人の子供を欲した。だからあなたは産婦人科に進んだ。
愛する人が僅かに残した精液を、絶対に無駄にしてはならない……。それはきっと、本当に僅かな量だったの。冷凍して保存されるんですってね。あなたはそれを、絶対に無駄にされたくはなかった。それが確実に子供が産まれるように使われるかどうか、あなたにはとうてい、他人任せにはできなかったはず。だからあなたは産婦人科を選んだの。……どう?」
鮫島は表情を読ませなかった。平然とした顔で、片手をくるりと返して言う。
「先を続けて」
「……あなたは産婦人科に進んだ。そして青野さんの提供した凍結精子を、自分の手元に確保した。それは元は人工授精用にと提供されたものだったけれども、それよりも体外受精に使ったほうがはるかに効率が良いと、あなたは思った。あとは卵子と、そして受精卵を育てる母体がありさえすれば、青野の血を引いた子供は何とか産み出せるはずだった。……ではその卵子と母体をどこから調達したら良いか。
そこで話は結局、不妊治療へと戻って来るのね。あなたは色々と研究を重ねて、ついには若くして、その方面での権威と呼ばれるまでになった。遺伝病の適合とか、そういった研究の成果は、同時に母親選びの際にも生かされたのに違いない。
要するにあなたは、体外受精を受けに来た夫婦の、夫から提供された精子は捨てて、代わりに青野さんの精子を使って、体外受精を行うという手を考えついたんだわ。
ターゲットにされた夫婦は、お腹の中にいるのは自分たちの血を引いた子供だと思っている。でも実は、父親の血は全く引いておらず、代わりにあなたの大切な青野さんの血を引いてるというわけ。……そんなペテンって、絶対に許されないことだわ。そしてそのターゲットにされたのが、稲垣夫妻だったのよ!」
美音子はそうして一息にまくし立てた。そうして相手の反応を見る。
鮫島はフンとひとつ鼻で嗤《わら》った。
「ほう? どうして今さら? おかしくはないか、その話。……俺があの夫婦に体外受精を施したのは、確か一昨年の春から秋にかけてだったはずだ。その時点でもう、青野が死んでから十四年が経っている。産婦人科に進んで、それからその時まで、俺はいったい何をしてたんだと言うんだ? え?」
「たぶん条件があったのよ。何か厳しい条件が」
美音子は相手の美声に負けないようにと、声を張り上げた。
「体外受精を望む夫婦の数は、今でもそんなに多くないでしょ? この病院でも、年間……どのくらいかしら? 二十とか三十とか……」
「もうちょっとある。成功例がそのくらいだ」
「……昔はもっと少なかったはずよね。ということでサンプルの母体の数が少なかった。その中でさらに条件に合わないものは除外しなければならない。その子が産まれた後も、夫婦の実子としてずっと騙し通さなければならなかったから、たとえば基本的な例で言えば、血液型が合わないような親子の組み合わせの場合には、除外しなければならない。また、産まれて来る子は青野さんの血を引いてるはずだから、彼に似た外見になると予想される。それと比べて父親があまりにもかけ離れた容貌だった場合には、いくら血液型が合致してたとしても、ためらわれたはず。だってもし疑いを持たれて、DNA鑑定なんかをされてしまったら、その子が父親の実子ではないということが、一発でバレてしまうんですものね。そうなると、普通なら母親の不倫とかが疑われるところなんでしょうけど、何しろ体外受精で授かった子供ですからね。考えられるのは唯一、受精卵を作る際に掛け合わせる精子を間違えたという可能性だけしか無いわよね、その場合。そうなったら言い逃れはできない。身の破滅だわ。……だからあなたは慎重にならざるを得なかった。
あなたが慎重になっていた理由なら、まだ他にもいくつか考えられるわ。産まれて来る子供は青野さんの血を引いてるとともに、母親の血も、引いて産まれて来ることになるわよね。その母親にあなたは、外見なり頭の中身なりで、ある程度のレベルを望んでいた……なんていうのも、充分考えられることだわ。あるいはあなたは、産まれて来た後の子供の行方についても、何か考えを持っていたのかもしれない。そう、あなたはただ単に、青野さんの血を引いた子供をこの世に産み出そうとしていたのではなく、産まれた後にその子供をずっと見ていたかった、とかね。そこまで考えていたとしたら、ターゲットには都内に住んでいる人を……贅沢を言えばこの病院の近所に住んでいる人を、なるべくならあなたは選びたかった。そんなことも考えられる。
とにかく、そういう厳しい条件があって、それに見合うターゲットがなかなか現れなかった。そうしてあなたはただひたすら待っていた。十四年間、ただひたすら、ずっと……。そしてあなたの前に現れたのが、稲垣夫妻だった」
美音子はそこで言葉を切り、再度、相手の反応を窺った。鮫島は相変わらず、黙って彼女の話を聞いている。
「百合亜さんには何か、そうした数々の条件の他にも、何か特別な条件をクリアするものがあったんだと思う。あなたは裕明さんの提供した精子を捨てて、代わりに青野さんの精子を使って受精卵を作り、百合亜さんの身体に埋め込んだ。そして彼女の身体の中で、子供は育っていった……かのように見えた。でもそれは失敗だった。その子には何かしらの異常があった。あるいはひと目で、裕明さんの子供じゃないって分かるような何かが、その子にはあったのかもしれない。だから本来ならあなたはその子を流すべきだった。でもそれは貴重な青野さんの遺伝子を受け継いだ子供だった。だからあなたはそのまま臨月まで育てさせた。きっと病院でその子が産まれた後、死産だったとか言って、夫妻から取り上げるつもりだったんだと思う。だけど百合亜さんは自宅で産気づいてしまい、しかもこれから行くと連絡が入った後いくら経っても、いっこうに病院に現れようとはしなかった。だからあなたは稲垣家へと向かった。
そしてあなたはそこで、行き合わせてしまったのよ。百合亜さんが自宅で子供を産んでしまった、まさにその現場へと。子供は死産だった。しかも何らかの異常か、あるいは裕明さんの子供では有り得ない特徴か何かが、その子には備わっていた。だから疑問を抱いた裕明さんを、あなたは殺した。百合亜さんは失血のショックで都合のよいことに死んでしまった。……あなたは裕明さんが百合亜さんによって殺されたかのような偽装をして、さらに現場に残してはおけないような問題のあった子供の死体を持ち出して、それを病院で始末した。……それが去年の事件の真相なんだわ」
美音子がそうして話を終えると、鮫島はしばらく黙っていたが、やがてフンと鼻を鳴らした。その顔には何かしら余裕のようなものがあり、美音子はそれを認めた瞬間、ハッと息を飲んだ。
まさか、外した……? いいや、そんなはずは無い。〈黒猫〉は確かに、相手の急所に噛み付いたはずだ。
だとしたら、この手応えの無さはいったい……?
美音子は素早く、いま自分が述べた仮説を頭から反芻《はんすう》してみた。……どこも間違ってはいない。これで正しいはずだ。それなのに……?
鮫島はゆったりと、ソファの背に身体をあずけた。嬉しそうな表情を宙に向け、しばらくはただそうしてじっとしていたが、やがてひょいと顔を戻すと、言った。
「コーヒーのお代わりは?」
「いいえ、結構」
美音子は険《けん》のある声でそう答えた。この期に及んで、どうしてそう余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》でいられるのだろうか……。〈黒猫〉にはそれがとても訝しく感じられた。
「さてと」
そう切り出した鮫島の口調は、楽しげであった。
「こんなことを俺が言うのはまさに自爆ものだが……。君の話は意図的に、ある要素を除外してはいないか?」
「朝倉麻里亜さんのことね!」
美音子は意気込んでそう言った。麻里亜の件を持ち出すと話が複雑になるので、先ほどはとりあえず、その件は除外して話をしたのだ。それをまさか、鮫島のほうから持ち出して来るとは……。
美音子の剣幕《けんまく》に気圧《けお》されたかのように、鮫島は目を丸くして、肩をすくめる。
「別にそうは言ってない。……誰だい、その、朝倉なんとかって?」
「とぼけないで」
美音子の心臓は高鳴った。……やはり思った通りだった。
「事件の夜、稲垣家には、百合亜さんと裕明さんの他に、もうひとり、百合亜さんの妹の麻里亜さんがいた。そしてそのことを知っているのは、その夜現場にいた人だけに限られていたはずなのよ。……それをどうしてあなたが知ってるの?」
「知らないね。初耳だと言ってるだろう」
鮫島は両手を広げ、今度はややオーバー気味に、肩をすくめて見せた。しかしもう美音子は、そうした相手の素振りにはお構いなしであった。
「ついにボロを出したわね!」
「ボロを出す? ……心外だな。まあ別にそれはいいけど。フン。じゃあ現場には、もうひとり女の子がいたんだ。で……? そうするとさっきの話はどう変わるのかな?」
鮫島は相変わらず、飄々《ひょうひょう》とそんなことを言う。その反応を見て、いいわ、と美音子は内心で呟いた。いいわ、そっちがその気なら、とことんやりましょう。
「基本的には何も変わらないわ。……あなたのやった悪行がさらに追加されるだけ」
身体の奥で〈黒猫〉の血が燃えていた。彼女はやっと、相手が見せている余裕の、その理由が分かった気がした。……この男はまったく良心というものを持っていないのだ。自分が罪を犯したのだということにも気づいていない。というよりも〈罪〉という概念すら、自分の中で持てないでいるような、そんな歪んだ精神の持ち主なのだ。だから自分のしでかしたことに臆《おく》することも、罪を指摘されて疚しさを感じることもないのだ。
「百合亜さんは死に、裕明さんは殺された。……そこまでは一緒。そしてあなたはその場でさらに、麻里亜さんを妊娠させたのよ。麻里亜さんは今年になって、その妊娠が原因で死んだわ。それもあなたのせいなのよ」
「ちょっと待った。……あんたは俺が、女には興味を持てない男だってことを、知ってたはずだ」
「トボケないで。……あなたが妊娠させたというのは、もちろんそういう意味じゃないってことぐらい、分かってるはずでしょ。あなたは百合亜さんに、青野さんの精子を掛け合わせる母体としての適合を見出した。でもその結果は失敗に終わった。それは手痛い失敗だった。なぜならば、その次となると、いつまた同じ様な適合を持つ母体を見付けられるか分からない……。そういった状況の中であなたは、事件の晩、稲垣家で麻里亜さんと行き合わせたのよ。百合亜さんの妹である、麻里亜さんと、ね。
そしてあなたは現場で、麻里亜さんの不意をつくか何かして、彼女を眠らせるか何かした。きっとあなたはうまく立ち回ったか何かで、麻里亜さんには何も目撃されないまま、そういうことをすることができたのね。彼女が何かを目撃していたとすれば、いくらあなたが変なことを思い付いたにしろ、実際には彼女を生かしてはおかなかったでしょうからね。それを生かしておいたということは、あなたは現場で相当うまく立ち回ったんだわ。目撃されていないという自信があった。
そしてあなたは、そこでとんでもない事を思い付いたのよ。百合亜さんで失敗した計画を、妹である麻里亜さんに引き継いでもらおうと思い付いた。姉妹だから、百合亜さんの持っていた特殊な適合が、麻里亜さんの身体にもあるのではと考えたのよ、あなたは。ひとつの計画が頓挫《とんざ》したその直後に、あなたの目の前にはもうひとつ、母体として適合を持っていそうな身体が出現した。あなたはせっかくのそのチャンスを逃したくはなかった。本当なら体外受精を行いたいところだったけど、さすがにそこまでは望めなかった。だからあなたは、人工授精に賭けた。病院から青野さんの精子を持ち出して、それを麻里亜さんの体内に注入した!」
美音子はそう一気に畳み掛けた。
ブラインドの隙間に、光がチラチラと揺れていた。木の葉が風に揺れ、それにつれて木漏れ日が明滅を繰り返しているものらしい。病院の敷地内であるにしては、その棟の中は妙に静かだった。かすかに部屋の奥のパソコンだけが、ファンの唸りをあげている。
鮫島は実に愉快そうな顔をして、言った。
「すごい妄想だったな」
「妄想ですか?」
美音子は毅然として言い返す。
「ああ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。……話はそれで終わりか? だったらそろそろお引き取りを願おうか」
「否定するのね?」
鮫島は立ち上がった。
「フン。当然だ。……まあ、君がその自分の妄想を信じていたければ、そうするのは君の勝手だ。だがそんな妙な説を他人に話したりはしないほうがいいと思うぞ。これは俺にしては珍しく、親切心からの忠告だ」
「いずれあなたを告発するわ」
美音子も立ち上がった。相手との身長の差は二十センチ以上ある。
鮫島は美音子の顔を見下ろし、フンと鼻でひとつ嗤ってから、戸口へと向かった。
「告発するには、ちゃんとした裏付けが必要だろう。証拠を捜そうってのかい。フン、可哀想に。……いいかい、そんなものは、有りはしないのだ」
美音子は鮫島に続いて部屋を出た。廊下を歩きながら、さりげないふうを装って、左右に目を配る。
「実に楽しかったよ。……ウチには精神科もある。あまり妄想がひどくなったら、一度訪ねてみるといい。特別に安くしといてやるよ。じゃあな、〈黒猫〉さん」
鮫島はそこで爆発したように、ハッハハハ……と笑い出した。その哄笑《こうしょう》と、目も眩む強烈な陽射しと、そして苛酷な暑気とが、いっぺんに美音子を襲い、その身体に激しい熱さと寒さとを同時にもたらした。全身からジワッと汗が噴き出す。
「必ず告発してみせる……」
〈黒猫〉は内心、そうひとり言《ご》ちた。
七月二十日。美音子は、広尾の朝倉家から歩いて行ける距離にある、聖グラディウス教会の中にいた。聖歌隊の歌が先ほどより、その広い堂内に響いている。
その日曜日、教会では通常のミサに引き続いて、百合亜のためのミサが行われていた。お寺なら一周忌というところだろう。教会ではそれを何と言うのか、美音子は知らない。
信者の一人ひとりのために、毎週こうした特別な行事が行われているのだろうか。……そんな事はないだろう、と彼女は思った。おそらくは寄付金の多寡《たか》が関係しているのだろう。
式次第が分からないままに、美音子はその間ずっと頭を垂れていた。
鮫島敏郎こそが犯人だ。……実際に対決してみて、美音子はいっそうその確信を深めていた。その対決の委細は、鞄の中の報告書にも記されている。特に鮫島が、自ら麻里亜の件に触れた部分……少女がその夜、稲垣家にいたということを自らほのめかした部分は、美音子だけでなく、依頼人夫妻にとっても決定的な証拠と映るだろう。
美音子は隣に座る、黒の正装に身を包んだ朝倉夫妻の様子を、チラリと眺めやった。
これでいちおうの目鼻は付いたと言えるだろう。だが、依頼人ははたしてこれで満足するだろうか。いみじくも鮫島本人が指摘したとおり、報告書に書かれているのは、読みようによっては全て、美音子の妄想のレベルでしかなかった。現状では鮫島を告発することなどは全く不可能であった。百合亜の汚名を晴らす……そのためには、警察に告発できるだけの証拠を、何としても取り揃えなければならないのだ。
七月二十五日……実際の命日までには、まだ五日の間が残されている。それまでには……美音子は頭を垂れながら、改めてそう決意を新たにするのであった。
百合亜のためのミサへの参列者は数えるほどであり、さらにそうした人々も去って、やがて堂内には朝倉夫妻と美音子の三人だけが残された。どうしたら良いのだろうかと彼女が迷っていると、祭壇から神父が降りて来て、そうして美音子は老夫婦と一緒に、奥の別室へと案内された。
八畳間ほどの小部屋に、テーブルと椅子が並べられている。その家具も、あるいは部屋の建材も、木部の肌には年月を思わせるてかり[#「てかり」に傍点]が生じていた。天井が高く、その下で発せられた声はすべて、尾を震わせて空中に溶けてゆくような感じになる。内装は質素で、唯一の装飾らしきものはと言えば、壁にカレンダーが一部掛けられているだけ。
そのガブリエルという神父は、朝倉夫妻とは数十年来の知己《ちき》の間柄だと言った。まっ白な肌に血の色がかすかにピンク色の斑《まだら》を作っている。白髪が老齢のせいか、それとも元からそういう色なのか、美音子には判断がつかなかった。
神父は流暢《りゅうちょう》な日本語を操った。
「あの時は本当に、お気の毒でした」
そこでの会話は、やはり相次いで亡くなった朝倉家の娘二人の思い出話に終始した。子供のころ毎週ミサには欠かさず出席していたという話。教会で聖歌隊のリーダーとして活躍したということ。……淑子夫人は終始|俯《うつむ》き、時折ハンカチをその目に押し当てては、嗚咽《おえつ》を堪えていた。美音子はその間、何か事件解決のヒントになるようなエピソードでも出て来ないかと、じっと話に耳を傾けていた。
「……百合亜さんもそうだったのですが、麻里亜さんもまた、実に可愛らしいお子さんでした」
ガブリエル神父が感慨深げにそう言い、朝倉剛蔵はただ黙って頷く。
「本当に、聖母マリア様がこの世に復活なされた……私はあの子を見て、そんな気さえしていたぐらいですよ。本当に美しいお子さんでした」
「短い生涯でしたが……」
剛蔵が言うと、淑子がまた、ウウッと声を漏らす。
「でも神父さまには、本当に素晴らしい名前をつけていただいて、あの子も感謝していることと思います。……もちろん百合亜も」
美音子はそこでフッと顔を上げた。何かが心のうちに引っ掛かったのだ。それを見た剛蔵が説明をする。
「このガブリエル神父さまは、ウチの子供たちの名付け親なのです」
「いえいえ。そんな大したことではありません。お子さんたちは自ら、その名を名乗って生まれて来られたのです」
神父は壁のカレンダーに手を伸ばし、主に美音子に向かって説明をした。
「キリスト教はその歴史上、実に数多くの聖人を生み出して来ました。毎日がそうした聖人たちの内の誰かの記念日になっているのですね。……これは私の祖国、フランスのカレンダーです。特に重要な日は、欧米では国民の祝日になっていたりもしますが……」
説明に従ってそのカレンダーをよく見ると、それぞれの日付の横に、何やら人名らしきものが書かれている。神父はそのカレンダーを一枚、また一枚と、捲って見せた。
「百合亜さんは八月の二日に生まれました。聖ジュリアンの日です。朝倉さんにゴッド・ファーザーになるようにと頼まれた私は、それにちなんで彼女の名前を百合亜と名付けました。……そして妹の麻里亜さんの誕生日は九月八日でした。この日は教会では、聖母マリアの生誕祭にあたります。私は迷わず彼女に麻里亜という名前をつけました」
そうした話を聞いている内に、何かが美音子の気に懸かった。しかしそれが何なのかが、どうしても掴めない。……そうした気懸かりをその場に残したまま、しかし老人たちの思い出話はやがて終わりとなり、美音子はそうして朝倉夫妻と連れだって、教会を後にすることとなった。
「ううむ……。そうすると、やはりこの鮫島という医者が怪しいのか?」
「ええ」
美音子はこの一週間の調査の報告をしていた。場所は例によって、朝倉家の応接室であった。今回は最初から、夫人も同席している。
稲垣夫妻の死に至った状況を説明する間は、二人ともやけに神妙な様子で聞いていた。そこには、やはりあいつが、という思いがあったのだろう。あるいは、自分たちが捜査の妨害をしなければ、そうした事は去年の捜査の時点で明らかになっていたのではないかという、そういった自省の意味もあったのかもしれない。
しかしその話が、現場で麻里亜が何をされたかという点に及んだ時には、二人の顔は単なる驚きを通り越して、表情が凍りついてしまった。
剛歳はオウッ、オウッと何度か喉を詰まらせた後、ようやく言った。
「そいつは麻里亜に……あの子に、まさかっ! そんな事は……」
意識を失って眠る清純な処女を、器具を使って穢《けが》す……その想像は、クリスチャンの老夫婦の許容をはるかに超えたものだったに違いない。剛蔵はそう言った後は、壊れた玩具のように何度も首を左右に振っていたし、淑子夫人に至っては、まるで眼前に汚物を突きつけられたかのような反応を見せた。
「……そうすると、あの件はどうなったんだ。……あの、安城とかいう生徒の自殺の件は。ジャックというのは……?」
その点を指摘されて、途端に美音子は気が重くなった。
留守電にシスター相馬からのメッセージが残されていたあの日から、もう十日以上の時間が流れていた。
――私はこれからその生徒に話を聞いてみるつもりです。
――また何か分かりましたら、お電話をさせていただきます。
しかし彼女からの連絡はその後、ぷっつりと途絶えていた。あれからどうなったのか。美音子としても気にならなかったわけではない。しかしその報告を待たずに、美音子はジャックの正体に関しては、ある結論に達していた。
……しかしそれをこの場で言うわけにはゆかない。
「その件につきましても、引き続き調査を進めて行きたいと思います。……ことに今日からは、学院が夏休みに入るということで、生徒たちもあの学校から出て来ます。彼女たちに聞き込むことによって、きっと何らかの成果が得られるものと信じています」
「うむ。くれぐれも……麻里亜の醜聞を広めるような事だけはしないように、気を付けてやってくれ」
「分かりました」
その日はただの日曜日ではなく、海の日という休日でもあり、したがって翌二十一日が振替休日となっての、連休の真っただ中でもあった。また多くの学校がその日から夏休みを迎えているということもあってか、歩道車道の区別なく、都内の幹線道路は普段にも増した混雑ぶりであった。
渋滞の列にはまり、前後をワンボックスタイプの車に挟まれて、美音子のミニ・クーパーはどうすることもできず、ただ路上に釘付けにされていた。外の風景は夏の陽射しに照らし出されて、異様にギラギラと光っている。林立するビルの壁に、斜め前のワゴン車のリアウィンドウに、あるいは車の協をかすめて走って行くバイカーのヘルメットに……そこら中に太陽の分身が貼り付いては、そのギラギラとした光を車内の美音子へと送り込んでいた。黒の車体も美音子の黒衣も、そうした熱をジリジリと吸収してゆく。エアコンの送風口から送り出されて来る冷気が無ければ、美音子はとうに熱死していたことであろう。
いっこうに動こうとはしない車の列に溜息を吐きながら、美音子は相変わらず事件について考えていた。先ほどからは、剛蔵に報告できなかった、安城由紀の事件についての仮説を、頭の中でいじくり回している。
美音子はこう考えていた。……すなわち、ジャックの正体とは、実は朝倉麻里亜だったのではないかと。
麻里亜は稲垣家で穢された。しかも器具などによって、その処女性を奪われた。……それは彼女の精神をこれ以上は無いというぐらいに傷つけたであろう。少女は心の自衛のために、その記憶を自分の中から消し去った。学院に戻り、普通の生活を続けようとする。
しかしその肉体には、無理矢理注入された精子によって、生命が芽生え始めていたのだ。鮫島の深謀《しんぼう》も及ばず、それは監察医によればまたしても異常妊娠であったということだったが、いずれにしても少女の身体には異変が起きていたに違いない。少なくとも生理は止まっていたことだろう。……その身体の異変が、彼女の識閾下《しきいきか》に押しやられていた陵辱《りょうじょく》の記憶を呼び覚ます。
その悪夢から逃れるため、少女はついに行動を起こす。……自分が受けたこの恥辱を、もはや自分だけのものにしてはおけない。自分ひとりだけではもはやその重荷を背負っていられない。他人にも同じ苦しみを分かち合ってもらいたい。……そういった狂気がついに、少女の心を蝕《むしば》んでゆく。
そして冬休みの訪れとともに、彼女は行動を起こす。ターゲットに選んだのは、その行為に同じ苦しみを味わうであろう、熱心なクリスチャンの少女であった。どこからか性具を手に入れて、そして聖なる夜を殊更に選んで、少女は別な少女を穢す。
そしてその受けた汚辱に耐え切れずに、穢された少女はその夜、飛び下りた……。
ストーリーは成り立っている。細部の辻褄《つじつま》も……安城由紀の体内に、陵辱者の精液は残されていなかったという、それも、美音子の立てたその説を補強しているかのように思える。しかし現段階ではもちろんのこと、最終的にそれが正しかったとなった後でも、いかんせん、それは依頼人に説明できるような内容の話ではなかった。
もちろん美音子にしても、それ以外の、もっと穏当な解決が見込まれれば、それに越したことはないのだが……。
ギラリ、と日の動きが目を刺す。動いているのは、斜め前方の車のリアウィンドウに映っていた太陽であった。前のワンボックスカーも、ぶるぶると震えたかと思うと、のっそりと動き始める。
美音子はギアをローに入れ、アクセルをゆっくりとふかし始めた。
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十一章 堕天使たちの夜
七月二十二日。夏休みも、はや三日目である。その日の午後。
「あ、おかあさん? 私。……うん。まだ学校にいるの」
場所は純和福音女学院の、女子寮の一階、玄関ホール。その片隅に、緑の公衆電話が並べて設置されている。そのひとつに取り付いて話しているのは、坂本優子であった。
――あらら。それはまた、何で?
「ん……。なんかね、今日ちょっと調子がおかしくて。明日……うん。明日には出るつもり」
――ホント? 大丈夫? 何ならお母さん、そっちまで迎えに行こうか?
「ううん、大丈夫だって」
優子は首を振った。残り度数を示す赤の数字が、早いペースで減って行く。
「子供じゃないんだから。ひとりで帰れるってば」
――明日かね……。そういや、台風が来てるとか、ニュースで言ってたけど。大丈夫かしらん? こっちはもうけっこう降り出してるけど。
「ホント? こっちはまだだけど。……じゃあもしかしたら、また出るの延ばすかもしんない。うん。でももしそうなったとしても、また連絡入れるから。……じゃあ連絡が無かったら、予定通りに出たってことで。……それじゃあお母さん、また明日」
――はいよ。待ってるから。
受話器を置くと、ピピー、ピピーと耳障りな電子音とともに、カードが吐き出される。それを素早く抜き取り、パスケースに仕舞いながら、優子は故郷の家族のことを思った。
(家に帰りたい。今すぐにでも……)
しかしそれと相反する気持ちも、優子の中にはあった。
(ううん、まだ帰りたくない……)
どうしたというのだろうか。自分でも訝しく思う。あれほど、この純和という檻からの解放を望んでいたのに。
背後の壁を振り向く。そこには釘に引っ懸ける形式の、寮生たちの名札が、部屋の並び順に従って横に四列、並べて懸けられていた。在室が黄色で、外出中はそれを裏返して赤にする決まりであり、いま優子が目にしているものは、大半が赤になっていた。中には、単に外出許可を得て街まで出掛けている生徒のものもあっただろうが、ほとんどのものはもう既に、その生徒が帰省してしまっていることを示しているのだろう。
そして優子の視線は一点に惹き付けられる。
二〇三号室、高橋椎奈――黄色。
(……シイちゃん)
すべては椎奈のためであった。十九日、終業式が終わった直後でも、あるいは二十日でも、昨日二十一日でも、いつでも旅立つことは出来たのだ。それを日一日と先送りにして(実家には「連休で電車とか混んでるから、それを避けようと思って」と言い訳をしていた)、そして今朝になっても旅立たなかったのは、ひとえに椎奈がまだ寮に残っているからであった。
(邪魔者がみんな消えて、シイちゃんと二人っきりになれたら……)
(なれたら、どうだって言うの? 仲直りが出来ると思ってるの?)
この数日間、幾たびとなく繰り返された自問自答。しかし今のところ優子はまだ、その答えを見出すに至ってはいなかった。所々に残された黄色の名札を目で拾って行く。
斉田未知留……北浦《きたうら》京子《きょうこ》……天野《あまの》淳子《じゅんこ》……西村《にしむら》亜紀《あき》……。椎奈の親衛隊の少女たちの名前が目につく。二〇三号室、椎奈の隣に下がる、青木冴子の名札も黄色のままだ。
そしてそれは椎奈派だけではなかった。五階の沖野琴美を始めとして、二一四号室の風間忍と片桐茜の二人、三一一号室の平野加代と佐藤瑞穂の二人など、生徒会の――すなわち麻里亜派の少女たちも、そのほとんどがまだ寮に残っている。
緩衝材《かんしょうざい》となりそうな一般の生徒の数が少ないだけに、何かが起こりそうな、そんな悪い予感がしてならなかった。いつか更衣室で見たような、両派の小競《こぜ》り合《あ》いが、いつどこで起こるか分からない。そうした緊張みなぎる寮に、しかし優子は椎奈と二人きりになれる可能性を求めて、今日までこうして居残り続けてきたのであった。
(シイちゃんが帰省したら、私も帰るんだけど……)
しかし椎奈は帰るだろうか。礼拝堂での告白に出て来た、あの義父のいる家へ。帰らないかもしれない。いや、帰してはいけないだろう。
(だったら私はどうすればいいの?)
実家への手前もある。帰省もこれ以上、先延ばしにすることは出来ないだろう。どうやら明日あたりには、未練を引きずりながらも、家に帰ることになりそうであった。
ふう、と溜息を吐いて、廊下を戻ろうとした時である。階段を下りてくる数人の少女のスリッパの音と、話し声とが耳に入り、優子は立ち止まった。
椎奈派の少女たちであろうか。それとも麻里亜派……?
どちらにしても、なるべくなら行き合いたくはなかった。そこで優子は身を翻《ひるがえ》し、フロアから沓脱ぎへと段差を下り、玄関へと向かった。
(スリッパのままだけど、まあ、いいか)
そのまま外に出て、上空を見上げる。
昨日までの夏空とはうって変わって、上空を覆っているのは灰色の雲であった。濃淡の入り交じってできた模様は、刻々とその形を変えている。風は地上ではさほど強くは感じられないが、木々の緑は時折、葉をザワザワと鳴らしている。そして、むん、と噎《む》せ返《かえ》るほどの温気《うんき》。Tシャツの下の肌が瞬時に汗ばみ始める。不快指数はどのくらいだろうか。蝉の鳴き声がさらに、優子の神経を苛立たせる。
(何をこそこそしてるのかしら、私)
自分で自分がイヤになる。うなだれて、自然と落ちた視線の先に、くすんだ色があった。一瞬なんだろうと訝しく思った優子は、次の瞬間、その正体に気づいて愕然とした。
(あ……枯れてる!)
最近ではほとんど注意して見ることもなかった、玄関脇の空き瓶。その中に、いったい元の色は何色だったのか、いや、何という花だったのかも判別できないくらいに、みすぼらしく汚れて萎んだ、植物の滓《かす》が挿《さ》さっていた。くすんだ色の正体は、それだったのだ。
優子は信じられない思いで、その枯れた花を見続けていた。
入寮当初は、その空き瓶の花がほとんど毎日挿し替えられているのを見て、いったい誰が、何の目的でしていることなのかと、訝しく思ったものである。しかしじきに、それが自殺した安城由紀という生徒のためのものであるということが判明し、そして挿し替えているのも、寮監のシスター相馬だということを、優子は自身の目で確認していた。
伝え聞いた話によれば、クリスマスの日の未明、墜死した由紀の死体を発見したのは、シスター相馬だったという。その少女の惨《むご》い死に様を、最初に見付けたのがシスターだったのだ。だからこそ彼女は人一倍、由紀の冥福を祈って、花を捧げていたのであろう。
しかし今、その花が枯れている。
(シスター……)
優子は記憶を辿った。先々週――彼女が階段から落ちて、保健室でシスター相馬から手当を受けた頃――あの頃にはまだ、花は日々、挿し替えられていたと思う。しかしそれ以降の記憶は無い。そして目の前の花の萎みようは、少なくとも一週間は放ったらかしにされていたような感じである。
先週――優子はハッキリと思い出していた。蛭川に準備室に呼び出された後、思い立って保健室にシスターを訪ねて行った時――あの時にはもう、シスターの様子はどこかおかしかった。明らかにどこかが変であった。優子はハッキリと違和感を感じた。
そして先週ごろから忘れ去られ、うち捨てられた花――。
いったい先週、シスターに何が起こったというのだろうか。
ジャックのことを調べると言っていた、あのシスターに。
その夜は、ついに雨となった。
夕方の降り始めから雨足の強いものだったのが、やがてゴロゴロと雷鳴が窓ガラスを震わせ、また稲光も時折、内外の明暗を反転させて、今ではもう暴風雨の様相を呈し始めていた。
優子は暗い部屋の中でひとり、ベッドの端に座っていた。消灯時間はもうとっくに過ぎている。いったんはベッドに横になったものの、眠りはいっこうに訪れようとはせず、体温で暖まったシーツがどうにも寝苦しくて、溜息とともに身を起こしたのだ。
豪雨の音に混じって、置時計のチクタクと鳴る音がかすかに、規則正しく耳に届いてくる。同室の桜井さやかは夏休みの到来とともに、もうとっくに帰省してしまっていた。だから優子は一昨日から二晩続けて、ひとりで過ごす夜を体験していた。
ひとりでいると、部屋はガランとして、広く感じられる。閉め切った室内は空気が澱《よど》んでいて、優子は息苦しささえ感じていた。
ふいと立ち上がり、カーテンを脇に寄せて、窓から外を眺める。
窓の向こうには、中庭を間に挟んで、中央棟の壁面が見えていた。正確には壁面そのものは闇に黒く没していて、廊下の窓の四角形だけが、ぼんやりとした明かりを滲《にじ》ませて整然と並んでいるのが見えているのだが、その並んだ四角形から洩れる淡い光に照らされて、その手前を、横殴りに降る雨の斜線の銀色が、空中にちらちらと踊っている。そのまましばらく眺めていると、風雨は時としてゴオッという音とともにその激しさを増し、窓外はいっとき白く煙る。そのいっときの風が静まれば、白煙は雨の斜線の方向にスウッと流れ去り、窓はふたたび闇の色を取り戻す。
そうした繰り返しの中に時折、稲光が瞬間的に内外の明暗を反転させる。一瞬の青白い光に照らされて、校舎の影が中庭に落ちている風景が、一幅の絵となり、視界が暗転した後となっても、残像としてしばらくの間は優子の目に焼き付けられている。次いで圧倒的な雷鳴が天に炸裂し、耳に谺《こだま》する。炸裂音は長々と尾を曳いて、しばらくの間、優子の聴覚を塞ぐ。やがてその音がかき消え、空気の震えが鎮まったところで、またザアザアという雨の音と、時計がチクタクと時を刻む音とが復活してくる。
(暑い……)
豪雨の降り注ぐさまを見れば、少しは涼しくなるかと思ったのだが、依然として暑いのには変わりはなかった。とにかく蒸し暑い。気が付くと、全身の肌が薄っすらと湿っていた。頭を撫でてみると、髪もしっとりと湿っている。汗なのか、それとも空中の水分が飽和して肌に貼り付いたものなのかは分からないが、どちらにしろ鬱陶《うっとう》しい。
優子はシャワーが浴びたいと思った。しかし消灯後のシャワーは寮規で禁止されている。
(あら……)
いったん目を離しかけた窓の外に、何かしら気を惹かれるものを感じて、優子はふたたび視線を窓の外へと向けた。雨のしぶくその向こう、中央棟の闇に浮かぶ窓のひとつに、何やら動きがある。ひとつ上の階……三階だ。その窓の向こうでドアが開き、中から少女がひとり、ついでもうひとりと、廊下に姿を現した。
(あれは……)
先に立っているのが二年の平野加代、そしてその後に続いているのが優子と同じクラスの佐藤瑞穂……どちらも生徒会の役員であり、つまりは麻里亜派の少女たちであった。廊下に出たところで瑞穂は、あたりを窺うようなそぶりを見せている。
どこかで見たような……そう、それはあの日、朝倉麻里亜が死んだとされる晩に、優子がトイレのドアから目撃した、青木冴子と高橋椎奈の二人の行動に似ている……目の前の現実と記憶とが重なって、優子は軽い酩酊感《めいていかん》のようなものを味わった。
あの時は二階。そして今回は中央棟の三階。平野加代と佐藤瑞穂の二人は廊下へ出ると、連れ立って、優子から見て左手の、袖廊下のほうへと移動し始めていた。
(何? ……どこへ行こうとしてるの……?)
その二人の行き先は、あるいはあの晩、冴子と椎奈の二人の行った先とも、同じなのかもしれない。さらにそれより前に、優子が冴子とルームメイトだった時に、冴子がひとりで夜中に部屋を抜け出して行っていた先とも、同じであるかもしれない。……優子にはなぜかそんな気がした。そしてこれはチャンスだと思った。……あの晩、いったい何が起こったのか。冴子たちが夜中にいったい何をしていたのか。調べようとする勇気が無かったがために、宙ぶらりんの浮いたままとなってしまっていた、そうした疑問の数々に対する答えを出すべく、天から与えられた、これは大きなチャンスなのかもしれなかった。彼女が寮をいっ時去ろうとしている、まさにその最後の夜に、こうした機会が与えられようとは……。
優子はそっと部屋の入口に取り付き、素足のまま廊下へと忍び出た。窓の向こうでは暴風に木々がしなって揺れている。リノリウムの廊下は冷えていて、足の裏がひんやりと心地よい。思わず床に寝転がりたくなる。
北棟から袖廊下へと曲がり、中央棟の階段ホールに忍び寄ると、上を見上げる。すると、ザアザアという雨の音に紛れてはいるものの、確かに人の気配が、上のほうで動いているのが感じられた。
(あの晩はここで引き返してしまった。でも今日は違う)
階段に足をかけ、優子は一段、また一段と、気配を殺しながら昇って行った。踊り場まで辿り着くと、ホッとひとつ息を吐く。そこから顔を覗かせて、三階の廊下に誰かいないかを確かめる。……大丈夫。
そこから次の踊り場までが、ひとつの難関だった。いま誰かに急に部屋から出て来られたら、身の隠しどころが無い……。優子は素早く行動した。三階と四階の間の踊り場まで来ると、運動による火照りと焦りのために、呼吸が荒くなっていた。なるべく音を立てないようにと、努めて息を鎮める。
そのとき頭上から、ドアの開く音が聞こえて来たので、優子は首をすくめた。何やらヒソヒソという話し声……。やがてドアがパタンと閉じる音がして、あとはしばらく息をひそめて待っていても、聞こえて来るのは雨の音ばかり。おそらくは、先行していた二人が目的の部屋に着いて中へと入った、その音だったのだろう。
(あれは……)
どこかのフロアのドアではなかった。今のは他でもない、この階段の折れ続く吹き抜け空間の、そのどこか上のほうにあるドアが開閉した音だった。もちろん、屋上に出るドアではない。となればあとはひとつ。
(……生徒会室)
髪の毛の間から、汗が額へと流れ落ちて来た。それをグイと拭って、優子はさらに上へと歩を進めた。……四階。……五階。そしてさらに上……。屋上へと通じる階段の途中で、優子はいったん足を停め、頭上の様子を窺った。
高い天井。踊り場で折り返した階段は、頭上にある幅の狭い出っ張りへと続いている。そこに人の気配が無いことを確認してから、優子はさらに歩を進めた。踊り場で向きを変えると、最後の階段が真っ直に延び、正面には屋上へと出るドアが、そして右手には問題の生徒会室のドアが見えている。
天空で遠雷がゴロゴロと鳴り響いた。
気配を殺しつつ、優子はゆっくりと、最後の階段を昇った。雨は外が近いせいか、他よりも激しく、そして強く聞こえる。
屋上に出るドアの前で向きを変え、短い通廊を忍び足で進み、そして生徒会室のドアの前に立つ。
(……聞こえる)
耳を寄せると、たしかに話し声のようなものが、そのドアの向こうから聞こえて来る。そして何人かの人が動いている気配。
(何を話しているのかしら……)
残念ながら、話の内容まではさすがに聞き取ることができなかった。それならばと今度は、鍵穴に目をあてて中を覗いてみようと試みる。しかし何も見えない。ドアの隙間からも光が洩れていないことからすれば、あるいは部屋の中は真っ暗にしてあるのだろうか。
(こんな雨の晩に、みんなで集まって、部屋の中を暗くして……。いったい何をしているというのかしら)
そこで優子はある符合に気づいた。麻里亜の死んだ夜も、あるいはそれ以前、青木冴子がひとりで部屋を抜け出した晩も、考えてみればいつも天気は雨だった。それも激しい降りの時ばかり……。
(雨が何か関係あるのかしら……)
と、優子の想念はそこで不意に断たれた。
ハッと息を飲む。――誰かが階段を昇って来ている。しかももうすぐそこまで。
激しい風雨の音のせいで聞き逃していたのだが、わずかな物音――衣擦《きぬず》れや人の息遣いの音、あるいは階段の滑り止めの金具が軋《きし》む音など――が、気が付けばもうすぐ下の、五階のフロアのあたりまで迫って来ているではないか。
通廊の手摺《てすり》に寄り掛かり、そっと息を殺しながら、真下を覗き込む。
足を忍ばせて、四階の途中の踊り場から五階へと昇って来ているのは……二年生の風間忍であった。そしてその後ろには同室の片桐茜が、同様の忍び足でつき従って来ている。
(……どうしよう)
優子は瞬間、途方に暮れた。逃げ道が無い。下に降りたのではもう間に合わないし――二人はもう優子の真下の階段を昇り始めていた――生徒会室はもちろんダメだ。そうするともう、残された逃げ道はひとつしか無い。
優子は慌てて通廊を戻り、屋上へと通じるドアを開けた。
瞬間――もの凄い風が階段室へと吹き込んで来て、あっという間に優子の全身はずぶ濡れになった。ゴオオという風の咆哮《ほうこう》が轟き、ハッと思って振り返れば、忍と茜が驚きの表情でこちらを見ている。
(見つかった!)
一瞬の間があり、そして次の瞬間、階下の二人はバネに弾かれたかのように、勢い良く階段を昇り始めていた。彼我《ひが》の間隔は見る見るうちに詰まってくる。一段飛ばしに近付いてくる二人の面《おもて》には、怒りの表情が貼り付いていた。
雨はザンザンと吹き込んで来る。……どうする? 今さら逃げてもどうにもならないかもしれないが(おまけに外はどしゃ降りの雨である)、しかしこのままあの二人に捕まったらどうなるか、どうされるか……。
優子が逡巡していると、その瞬間、ガチャリと音がした。ハッとして振り向けば、生徒会室のドアが開いて、中から沖野琴美が顔を覗かせており、優子をそこに認めて驚いた顔をしているのが見えた。それとほぼ同時に、階段を駆け昇って来た二人も、優子のいるところまで到着していた。
優子は屋上へ出るドアを閉めた。風が止み、渦巻いていた空気がスウッとその動きを止める。壁越しにゴウゴウという轟きは相変わらず耳に届いてはいるものの、妙に白々しい間ができた。
「そう……」
静寂を破ったのは琴美であった。目がスーッと細まり、口元には嘲《あざけ》りの笑みのようなものが浮かんでいる。
優子の頭の中はまっ白になっていた。三年生とは滅多に口を利くことがない。その中でも特に琴美は、他を圧する存在感を持っていた。朝倉麻里亜の後を継いで、生徒会長をしている、いわば学院の(麻里亜派の)ボスなのである。その琴美が優子を見て、ニタリと微笑んでいる。
「こうなったらもう、仕方ないわよね。……静かに。声を立てないで」
低い、囁くような声でそう言う。それに対して背後の茜が、
「そんな、琴美さん――」
「静かに」
反対する口調で言いかけたのをピシャリと止めて、そして優子に向かっては妙に柔和な口調で言い添えた。
「……いいわ、坂本さん。招待してあげる。――ようこそ、わがセイド会へ」
ガガーン、ゴロゴロゴロ、と雷が外で鳴った。わりと近くに落ちたらしい。ハッと息を飲んで、それで優子はやっと、自分が呼吸を止めていたことに気づいた。慌てて唾を飲んで、息をする。
身体は固まったままであった。それが忍と茜に背後から押される形で、己の意志とは無関係に、一歩、二歩と、生徒会室のドアのほうへと近付いて行く。琴美がそれを認めて、ドアを大きく開いた。そして優子たちが中へ入りやすいようにと、身体を脇に寄せた。
敷居を跨《また》ぐ。ムッとするような熱気が身体にまとわりつく。わずかにカビ臭いような匂いと、そして胸が悪くなりそうな女っぽい匂いが、優子の鼻を衝いた。
ドアを入ったすぐの目の前には、黒いカーテンが引かれていた。その隙間からはぼんやりとした明かりが洩れている。琴美は先に背後のドアを閉めてから、カーテンを開け、優子をその中へと押し入れた。
まず目に入ったのは、優子を見詰めている幾つかの顔、顔、顔……。
平野加代がいる。佐藤瑞穂もいる。長根香澄、溝口尚子、松田亜紀子。……みんな床の上に車座になって座っており、顔だけを優子の方へと向けていた。その顔には奇妙なほど表情が見られなかった。能面のような顔を、ただ優子の方へと向けている。
部屋の中は異様に蒸し暑かった。少女たちの中には、下着姿になっている者もいた。
背後でシャッ、とカーテンが引かれる音がして、振り向けば沖野琴美が、そしてその後ろには風間忍と片桐茜が並んで、すぐそこに立っていた。
「さてと。これでみんな揃ったってことになるわね。……ひとり、予期せぬお客さんが来たけど」
琴美がそう言い、優子の肩を背後からポンポンと軽く叩く。
背後の三人も含めて、部屋には優子以外に、八人の生徒がおり、その全員が生徒会の役員であった。役員の中では、高橋椎奈と青木冴子と、あと三年生がひとり欠けているのだが、これで全員ということは、彼女たちは呼ばれていなかったということなのだろう。
雨の夜の、生徒会の集まり。麻里亜派の少女たちの集まり。――いや、琴美は先ほど、何か違った言い方をしなかっただろうか?
(たしか、セイド会とか……。聞き間違い……かしら?)
ゴクリ、と唾を飲み込む。何が行われようとしているのか、そして自分に逃げ道は無いのか……優子は素早くあたりを観察した。
入口から見て右手――東側の壁には、窓がひとつあるのだが、段ボールとガムテープで隙間無く、内側からぴっちりと塞がれている。窓の右手には造りつけの机、左手には腰高の棚があって、ポットやティーカップなどといったお茶の道具が収められている。その脇には足を折り曲げた座卓が立て掛けられている。その他、調度品がいくつか。
左手の奥には、螺旋階段があった。その延びた先はと視線を上に向けると、天井に一間四方ほどの穴が穿《うが》たれていて、その中に消えている。塔の展望台に続いているのだろう。
壁の中を配管が通っているらしく、水が管の中を流れるゴボゴボという音が、異様なほど大きく聞こえている。
「さあ、坂本さん、座って。……あんたたちも」
床にはカーペットが敷かれている。優子は琴美に促されるままに、その隅へと腰を下ろした。
暑い。汗がダラダラと流れ出ている。優子だけではない。他の少女たちも、汗で顔や二の腕をテラテラと光らせている。
「あの……琴美さん。どうするんですか、この子」
自分が話題にされている……優子はハッと、発言者の平野加代のほうを見た。そして自分が他の少女たちの注視を浴びている――ジロジロと見られているということに気づくと、慌てて視線を自分の膝元のあたりへと落とす。
琴美が車座の中心に座りながら、加代の質問に答えた。
「仲間にする」
「そんな、ヤバイですよ。だってこの子、信仰組だし……」
「大丈夫。この子……あたし見たんだ。それに――」
琴美はひとつ間をおいてから、
「この子をこっちの味方にすれば、たぶん高橋のヤツラが困ると思うんだ。アイツの弱点を押さえたことになるし」
優子は身じろぐこともできないでいた。
(シイちゃん? ……シイちゃんの弱点? 私が?)
琴美の声が続く。
「あたしは見たの。アイツ……この子と、礼拝堂でキスしてたの」
ハッと息を飲む。
(まさか……見られてた?)
優子は当時の様子を思い返していた。……あの告白を始める前、椎奈は「いいのかな」などと言いながら、礼拝堂の入口の扉をピッチリと閉ざしていた。しかし優子が椎奈を突き飛ばして、堂から駆け出して行く時には――そう、その扉には隙間が空いていて、光が射し込んでいた!
覗かれていたのだ……この沖野琴美に。
まわりの少女たちは、琴美の話を聞いて、ホウ、やるじゃん、見直したぜ、といった反応を寄越して来た。優子はひたすら身を硬くした。そのまま石にでもなってしまいたいと思った。
「じゃあ……」
「大丈夫。安城みたいなことにはならないって」
(安城? ……安城由紀?)
ハッと顔を上げると、琴美と正面から視線がぶつかった。
何か言わなければ。訊くなら今だ。今しか無い……。
ゴクリ、と唾を飲み込む。そして思い切って声を出した。
「あ、あの……」
八つの顔がいっせいに優子のほうへと向けられる。優子は自分に言い聞かせた。……ここで怯《ひる》んではダメだ。怯んでいてはいけない。聞かなければならないのだ。
「沖野さんは、安城さんがどうして死んだのか、知ってるんですね?」
優子がそう訊ねると、琴美はおもむろに頷いた。
「では、ジャックというのが何なのか――」
そう言った途端、室内の空気は凍りついた。
「琴美さん、こいつジャックのこと――」
茜の声がそう言って、途切れる。優子は目を逸らさなかった。じっと琴美のほうを見詰める。
「知ってるの? 坂本さん。ジャックとは何なのか……?」
「い、いいえ」
優子が首を左右に振ると、琴美はフッ、と鼻で嗤った。
「じゃあ教えてあげる。……みんな!」
琴美が立ち上がりしな、そう声を掛けた。すると優子のまわりの少女たちもいっせいに立ち上がり、優子も慌てて立ち上がろうとしたのだが、その肩を押さえられ、他の少女たちの影も覆い被さって来て――
そして気づけば優子は、床の上に抑え付けられていた。
腕を、肘を、手首を、腿を、足首を、幾つもの手が掴み、そして片桐茜が身体の上に跨って、優子の肩を床に押しつけている。
そうして身体の自由を奪われて、優子はほとんどパニックに陥っていた。目の前にはクラスメイトの茜が、天井の明かりに逆光となった顔を寄せて、覆い被さって来ている。
「……坂本、あんた可愛いよ」
「麻里亜さまも気に懸けてらしたわ」
やや離れた位置から琴美の声が聞こえた。そのほうへと顔を向けて、優子はギョッとなった。身体を押さえつけている少女たちのつくる壁の隙間から、琴美が窓際の机の前に立ち、そして着ているものを全て脱いでいるのが見えたのだ。そうして何かの準備をしながら、琴美はさらに言った。
「本当はあなたも仲間にしたかったの。麻里亜さまの好みのタイプだったし。だけど信仰組だったから……去年の、あの安城みたいなことになる可能性を気にされて、結局あなたのことは諦めて、代わりにあの高橋を入れようってことになったんだけどね」
琴美は全裸になると、机の抽出を開けて、そこから何かを取り出した。
「アイツは失敗だった。あんなふうに、私たちにたてついて来るとはね」
人垣が動いて、琴美の姿は見えなくなった。ただ声だけが聞こえて来る。
「私たちが麻里亜さまから、何て呼ばれてたか知ってる? ……セイドよ。性の奴隷ってこと。……性の奴隷よ。フフフ。そしてその性奴たちを集めて作ったのが、この性奴会」
声はしだいに近付いて来た。そして人垣の間から、琴美が姿を見せた。
優子の身体の上に覆い被さっていた茜が、場所を譲るようにして、身体を退けた。替わりに琴美が、優子の身体を跨いで立つ。
琴美は全裸ではなかった。秘部を覆う革製の、褌のようなものを着けていた。そしてその股間の部位には、妙な形をした、肌色の突起物が取りつけられており、その先端は天井を向いてそそり立っている。
優子はそれから目を逸らすことができなかった。いくらオクテだとはいえ、そのオブジェが何を模したものかぐらいは、さすがの優子も知っていた。
琴美の右手がそれを握り、しごくようにグイッとその先端を下のほうへと向けた。そして手を離すと、そのモノはまた屹立《きつりつ》し、反動でピシャリと音を立てた。
琴美が自慢するような口調で言った。
「これがジャックよ」
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十二章 ソドムの末裔
七月二十二日。
日中の聞き込みで、鈴堂美音子は、様々な情報を手に入れていた。今までどうしても手に入らなかったような情報が、堰《せき》を切ったように、今日になって一気に彼女のもとへと流れ込んで来たのだ。それはまるで運命によって、事件の大団円が今日になるように仕組まれていたかのようであった。
蒲田の自宅で掴まえた純和の二年生、三浦《みうら》聡美《さとみ》は、学院内にいた少女の視点で、事件について語ってくれた。
「女探偵ですか。カッコイイですね、鈴堂さんって。綺麗ですし」
「あら、ありがとう」
素直ないい子ねと思った美音子は、思い返せば少々厚かましかったかもしれない。
「えーっと、由紀ちゃんとは仲良しだったんです……」
いざ事件の話をするとなると、途端に沈んだ声になって、そうして少女が語ってくれたのは、なるほど、内部にいた人間ならではの臨場感に溢《あふ》れたものではあったのだが、しかし残念なことには、美音子が今までに掴んでいた情報に対して何か付け加えるような内容などは、特に含まれてはいなかったのであった。ただ学院側が生徒たちに対して、事件の情報をどの程度隠していたのか、ということが分かったくらいなものである。
朝倉麻里亜の件に関しても、事は同様であった。
「そう……。じゃあ、あともうひとつ。ねえ、ジャック……って言葉、何か聞いたことない?」
「ジャック、ですか……? 学院の中で、ですよね? ジャック……いえ、特には……」
少女が首を振りながらそう言ったので、美音子は内心、失望の溜息を吐いた。やはり無駄足に終わったか……。
そこでもうひとつ、これも事のついでだと思い、美音子は質問をした。
「ねえ、学院に、蛭川って先生がいるでしょ」
「あ、はい。化学とか生物とかの先生です」
「私この前、学院まで色々と聞きに行ったのよ。そうしたらその蛭川先生っていう人に、声を掛けられちゃったんだけど……」
「エーッ、それってもしかして、ナンパされたってことですか? あのヒル坊に? エーッ、ウッソォ。ビックリィ」
少女はクルクルと目を回した。美音子はその反応に戸惑いながら、続けた。
「ねえ、その蛭川先生って、どんな先生?」
「やめたほうがいいと思いますよ。って、アタシなんかが口出しするようなことでもないとは思うんですけど。そうですね……まあ、ひと言で言えば、ヘンタイ」
「ヘンタイ……」
「何かこう、目つきがもう、最初からいやらしくって。見られてるとゾーッとしてきちゃうんですよ。サブイボ立ちっ放し、みたいな? で、気が付くと物陰から、可愛い子とかをジーッと眺めてたりするんですよ。たとえばグラウンドで遊んでる時とかに、フッと上のほうを見ると、準備室の窓から生徒のことをジーッと見てて……そうそう、たとえばさっきの、麻里亜さんのこととか、ジーッと執拗《しつよう》に見詰めてたり」
蛭川が物陰から朝倉麻里亜のことを見詰めていた……。それはただ、彼が可愛い女生徒のことを眺めていたという、それだけのことだったのだろうか。
美音子がそんなことを考えていると、聡美はそうそう、と話を継いだ。
「それにこの間、なんですけど……。あ、これ言っちゃっていいのかな?」
「なに? ……教えてよ」
「うーん。ま、いいか。……これ絶対、誰にも言っちゃダメですよ。アタシもまだ誰にも言ってないし。って言っても、実はそう大したことじゃないのかもしれないんですけど……。実はこの前、その蛭川先生と、あと生徒のひとりが、こっそりと会ってるの、アタシ見ちゃったんですよ」
「どういうこと? それって……生徒と付き合ってるってこと?」
「うーん、そんなんじゃないとは思うんですけどね。その子、高橋さんって子で、一年生なんですけど、もうスッゴイ綺麗な子で、昔の麻里亜さんみたいなって言うか、もうそれと同等って言うか、もうそれ以上なぐらいに、スッゴイ綺麗な子なんですけど。その子があのヒル坊のダッサイ青い車に乗ってるの、見ちゃったんですよ、アタシ」
「それはいつ? どこで?」
「えーっと、テストが終わった時だから、うーん、先週? 十三日かな? ……日曜日。アタシもうテストが終わったから、さっそく外出許可とって、街まで下りて買物してたんですよ。そうしたら目の前をブーッて通り過ぎて行ったんですけど」
「そう……」
美音子はそうして話を聞きながら、一度だけ会って話をしたことのあるその蛭川という男のことを、思い返していた。……銀縁眼鏡の奥の細い目が絶えずキョロキョロと動いていて、どこか小心者といった印象を美音子に与えていた……。あの男が自分の教え子を車に乗せて、街を走っていたという。それは彼が、美音子の見立てとは違って、やはりナンパな男であったということを示しているのだろうか。
三浦聡美からの聞き込みでは、唯一その点だけが、美音子の心に引っ掛かって残ることとなった。
次いで美音子が立ち寄ったのは、原磯という男のところであった。鮫島病院で大騒ぎをして、美音子の目の前で職員によって連れ出されて行った、あの男のところである。鮫島の医療ミスの件に関して話を聞きたいと、美音子が申し入れたところ、男は二つ返事で会うことを了承したのであった。
「弓子《ゆみこ》はアイツのせいで死んだんだ。アイツに殺されたんだ……」
美音子が会見の場所に指定したのは小さな公園で、その時刻にはまだ雨は降り出していなかったものの、風が強くて、木の葉は絶えずザワザワと音を立てて揺れていた。髪を押さえながら、美音子は質問をした。
「奥様が亡くなられたのは……?」
「今年の春です。二月」
「たしか胞状奇胎の手術で……とうかがったのですが」
「そうです」
原磯は頷いた。前回、病院で見かけた時とは違って、今日はちゃんとした身なりをしていた。身体も清潔そうで、酒に酔っているふうでもない。
「もしかして、奥様は不妊の治療を受けておられた。……違いますか?」
美音子がそう思い付きを言うと、原磯はちょっとビックリしたような顔をした。
「あ……実は、そうです。でもどうして分かったんですか?」
「ええ、まあ、色々と。……で、体外受精を?」
「そうです」
原磯はうん、とひとつ頷いてから語り始めた。
「結婚して五年、ずっと子供が出来なかった。親とかから言われて、近くの病院で検査してもらったら、弓子の――あ、女房の名前です――弓子の身体のほうに問題があるってことが分かった。それで相談して、あいつがどうしても子供が欲しいって言うもんだから、体外受精を試してみることになったんです。
オレは反対したんですよ。いろいろ聞いてみたら、不妊治療ってのはバクチみたいなもんだっていうから。なかなかうまくいかなくて、一回あたりのお金もけっこうかかる、それで何回かやってダメだと、もう普通は諦めなきゃいけないんだけど、そこで嵌《は》まっちゃうんだって。これだけ注ぎ込んでおいて、もしかしてあと一回試してみれば、次でうまくいくかもしれないのに、ここで止めちゃったら悔いが残る、だからあと一回、あともう一回……って感じで、やめどきが分かんなくなっちゃうもんだって。弓子のやつは特に性格的にそういう、嵌まり込むタイプだったんで、止したほうがいいんじゃないかって……。
だって医者にしてみりゃ、そんなの、失敗続きのほうが儲《もう》かるじゃないですか。だからこう言っちゃ失礼かもしれませんが、そんなの信用できない――たとえば医者がわざと受精がうまくいかないようにってコントロールしてたとしても、こっちはそんなの分からないじゃないですか。そんなの下手《へた》すりゃ、ぼられたい放題に何もかも持って行かれる可能性もある。
でも女房のやつがどうしてもって言うんで、だったら信用のおける医者をさがして……って言って調べて、それであの鮫島の病院っていうのが出てきたんですよ。そういう不妊治療じゃ有名だってことで、評判で。だからオレも信頼してたんだ。
で、最初は評判どおり、さすがだと思った。って言うのは、一発で妊娠したんだ。弓子も本当に喜んでね。……予定日が、たしか八月の――そう、来月ですよ、来月の七日だった。本当なら今ごろは、あいつは大っきなお腹を抱えて、もうじき産まれてくる子供のことをオレと二人で待ち望んでいる……そのはずだったんだ。
それが定期検診ってのに行ったら、どうもお腹の中に異常があるようだって言われて。超音波の何とかってやつをオレも見せられたんだけど、よく分からなかった。それが胞状奇胎だって言われて――こっちは何だかそんなの、知りもしないよな、普通。それで説明されて、いちおうは分かった――納得はしたんだけど……。
で、それでいざ手術だってことになって……。でも鮫島は――アイツは言ったんですよ。まったく危険は無いって。人工中絶と同じようなものだって。何万人という人が同じことをしていて、それでどうかなったなんて話は聞いたことがない、だから安心していてください、すぐ終わるから……なんてね。今から思えば、何だかもの凄く気楽なことを言ってやがったね。でも何しろむこうは、その方面では凄く偉い先生だ。言われたまんま、こっちは信じるしかないじゃないですか。その胞状奇胎だかってのにしても、アイツの言うのには、別に体外受精で失敗したとかそんなんじゃなくて、通常の妊娠でもだいたい二百五十回に一回ぐらいの割合で、そういう異常が見られる。だからそういう確率のことが、運悪くオレらの場合に偶々《たまたま》、起こってしまったんだって……そう説明されて、そりゃガッカリはしたけれど、それなりに納得はしてたんだ。
でも、いざ手術だっていう時……さすがにオレもちょっと変だと思ったことがある。ふつう手術だってなれば、それがどんな簡単なものだとしても、こう、助手とか看護婦とかが、その部屋に入ったり出たり、何かしらドタバタするもんじゃないですか。だけど弓子の時には、そういうのがまったく無かったんです。思ったよりも待たされるなあ、と思っていたら、医者らしいのがひとり、血相を変えて廊下を走って来て、部屋の中に飛び込んで行って……あんなに慌てて、何かあったんじゃないかって思ったら、案《あん》の定《じょう》……。中に入ったら、弓子が手術台の上に寝かされていて、その周りがもう一面、血塗れで――」
原磯は顔を歪めた。その脳裏には、当時の状況が克明に再現されているのだろう。
風がゴウと鳴り、土埃《つちぼこり》がサーッと地面を撫でて行った。ブランコの鎖が煽《あお》られて、キイキイと音を立てた。
「ショック死だったって言われました」
原磯は一度、唇を舐《な》めてから、話を継いだ。
「でも絶対おかしいと思うんですよ。だって普通、そんなに出血したりしないでしょう。そんなに出血するようなものじゃなかったはずなんですよ。それに、オレが手術室に飛び込んだ時なんですけど、中には後から来た医者がひとり、手術台の脇にただボーッと立ってただけで、他には誰も居なかったんですよ。もう、看護婦も誰も、ひとりも。……だからアイツ、ひとりでやってたんですよ、手術を。……こんな簡単な手術、自分ひとりでもできるだろうって、そうやって自分の腕を過信して、看護婦も付けずにやったんだ。それで、あんなに出血してたっていうのを考えると、だからあれは、鮫島のヤツがミスったんですよ、絶対。アイツがミスって、で、弓子は殺されたんですよ、だからアイツに」
体外受精……胞状奇胎……そして、ショック死。
原磯は自分の妻のケースしか知らないため、それが単なる医療ミスではないかと疑っているようであったが、美音子にはまたそれとは違った思いがあった。
稲垣百合亜の場合と、それは何と酷似していることだろう……。あるいは探せば他にも同様のケースがあるのかもしれない。
いったい鮫島は自分の患者たちに、何をしていたと言うのだろうか?
そして最後に聞き込みをしたのは、稲垣裕明の同僚の、浜本《はまもと》という男であった。
「ずっと研修で沖縄に行ってたもんで……。昨日帰って来て、留守電を聞いたんで……」
実は美音子は、その会見が無駄足に終わるものと最初から決めつけていた。だいたい、稲垣裕明について、今さら何を調べようというのか。事件に関係した登場人物それぞれの人物像を把握するフェーズは、もうとっくに過ぎてしまっていたのだ。しかし自分からアポを申し入れた以上、断ることも躊躇《ためら》われて、そうして気が進まないまま、今日の夕方に会うということになったのであった。
場所が新宿だということで、フットワークを軽くするために車を置いて、美音子が電車で出直して行った時には、もう大粒の雨が降り出していた。喫茶店のテーブルにつき、注文の品が届いてひと息ついた後、窓の外にその雨を見ながら、浜本が言った。
「殺されるような奴じゃ決してなかったです。……稲垣の奴は」
「奥さんの……百合亜さんのことは、浜本さんはご存じで?」
「ええ。結婚式の時とか……僕、司会やったんですけど、その打ち合わせとかで、もう結婚前から何回か顔を合わせてて、で、稲垣の奴、ホントにうまくやったなあ、こんな綺麗なカミサン、よく見付けたなあって、そう思ってました。……あ、もちろん、見た目だけじゃなくって、こう、何て言うのかなあ……、お嬢サマーって感じで、おとなしくって、性格も素直で、ホント、こんな子が世の中にはいるんだ、って感じで」
目を細めて、しみじみとした口調でそう言う。
「警察の話だと、どうもその百合亜さんが、裕明さんを殺したんだって、考えてるみたいなんですけど……」
美音子が話をそう切り出すと、浜本はウンザリとした顔をした。
「そんなことあるわけないでしょう。何か奴の家の人とかが、そんなことを言ってるとか聞いたことはありますけど……」
「稲垣さんのところの夫婦仲はどうだったんです? 同僚のあなたから見て」
「もう、これ以上はないってくらいに、アツアツでしたよ」
浜本は笑顔を見せた。ちょっと淋しげな笑顔であった。
「結婚してから、えーっと、たしか四年ぐらい経ってましたかねえ。それぐらいになるとよく、嫁さんの愚痴《ぐち》とか言い始める奴とかいるんですけど、稲垣はもう全然そんなんじゃなくって、話を聞くだけでこっちがむず痒《がゆ》くなるくらい、もうホント、仲良しって感じで。ただそうかな、結婚してからもうずーっと、子供が欲しい、って奴は言ってたんですけど、それがなかなか出来なくって……それぐらいかな、もし問題があったとしたら。でもそれだって去年の……春ごろかな? ようやく子供が出来たって、奴、ホントに嬉しそうに言ってましたから。もう問題は何も無かったでしょう、あの夫婦の間には」
まあこの程度の話でも聞けただけ良しとしよう。……美音子はあとは雑談ふうに、もうじきお二人の命日が来ますね、というようなことを言ってみた。
「二十五日でしたよね。……そうそう、そういえばカレンダーに丸が書いてありましたっけ。今から思えば、何だか自分の命日を知ってて、印を付けてたみたいに思えますね」
えっ? と美音子は訊き返した。
「その、印というのは?」
「あ……、だから百合亜さんの――要するに奴の子供の出産予定日だとかで」
出産予定日――ことにその妊娠が体外受精だったということを考えれば、それは通常の予定日よりも、かなり精度の高いものだったに違いない。そして実際に百合亜はその日に破水していたという。だとしたら、稲垣夫妻にとって七月二十五日という彼らの命日は、本来ならば特別な、喜びの日になるはずだったのだ。
「そうだったんですか……。あ、つかぬ事をお伺いしますが、その産まれてくるお子さんの話とかは聞いてません? ……たとえば性別とか」
「うーん、たぶん男だったんじゃないかなあ」
少し自信なさげに、浜本は言った。
「いやね、僕が稲垣に、もう子供の名前とかは決めたのか? って聞いたことがあったんですよ。そうしたら奴、うん、いや、正式にはまだだけど、ウチの嫁はお腹の子供のことを――あれ、何て言ってたかなあ? うーん、ジャック……だったかな?」
「何ですって!」
美音子はビックリして、つい大声を上げてしまった。
なぜここに、ジャックが出て来るのか。
「どうしたんです、いきなり……。ジャック、ってのが何か?」
「いえ……すみませんでした」
美音子は慌ててその場を取《と》り繕《つくろ》った。しかし内面はまだ動揺していた。
浜本は不審そうな顔をしたまま、話を続けた。
「そのジャックってのは――そうそう、たしかジャックだった――要するに奴の嫁さんが、お腹の中の子供をそう呼んでたらしいんですね。まあ仮名《かめい》っていうか、そういうものだったらしいんですけど。産まれて来たらまた、ちゃんとした名前を付けてたんでしょうけれどね」
ジャック……。子供の名前……。
美音子の頭の中で、ある連想が働いた。それはあるいは――。
お礼の挨拶もそこそこに、美音子は店を飛び出した。
外は風雨が激しく、傘がほとんど役に立たなかった。JRの新宿駅に着いた時には、美音子の身体はもうすっかりびしょ濡れになっていた。
恵比寿《えびす》で日比谷線に乗り換えて、ひと駅。……美音子が目指していたのは、広尾にある聖グラディウス教会であった。
真っ黒な空の中に、ときおり電光が走る。普段から人の姿の少ない住宅街は、どうしたわけか明かりの点いている窓も少なく、建物が黒々と聳えているその間を行くのは、かなり不気味な感じがした。雨の飛沫《しぶき》がブーツ丈の高さくらいにまで跳ね上がっていて、路面を白く滲《にじ》ませている。
ガブリエル神父は、美音子のことを憶えていたと言って、ずぶ濡れの彼女を咎《とが》めることなく、教会の中へと導き入れてくれた。すぐにタオルを持って来るから、ちょっと待っているようにと言う。それよりも教えてくださいと、美音子がさっそく発した質問に対して、神父は何も見ないままに即答した。
「ああ、その日は聖大ヤコブの日です」
「聖大ヤコブ? ヤコブ、ですね? だとしたら――もしも神父さんが、その日に産まれた子の名前を、それにちなんで名付けるとしたら……?」
「ヤコブ……。日本人の名前だとしたら、少々難しいですね」
神父は眉間に皺を寄せて考え込んだ。半分は、いったい何のためにこんな質問をされているのだろうと、困惑が混じっていたことだろう。
美音子は意に介さず、さらに質問を重ねた。
「外国だと……?」
「えー、そうですね。欧米だと、まあジャックとか――」
「分かりました。ありがとうございましたっ!」
ビンゴだ――ジャックとはやはり、稲垣百合亜が自分のお腹の子供に付けた名前だったのだ。
美音子はもう内心の興奮を抑えきれず、神父への挨拶もそこそこに、勢い良く豪雨の街へと飛び出して行った。
雨は夜半になって、雷を伴ったさらに強いものとなっていた。
カーテンの隙間から外を覗いて、美音子は、出発の予定をさらに早めることに決めた。空は真っ黒で、おまけにこの暴風雨だ。出歩く人の数も普段よりは少ないだろう。これからの行動を思えば、雨は鬱陶《うっとう》しかったが、しかしそれによって自分の行為が見咎められる危険性が低くなることを思えば、歓迎もしようではないか。
時刻を確認しようとして目をやった時計は、裏返しのままであった。溜息を吐いて、代わりにビデオデッキの液晶表示を見る。十時過ぎの時刻を示していた。もちろん夜の十時である。
美音子は飼い猫のジャムに餌を与えると、手早く身支度にとりかかった。黒のタイツの上に黒革のホットパンツを穿き、上は身体にピッチリとした長袖の綿のTシャツを着る。もちろんそれも色は黒だ。洗面所で鏡を見ながら髪を後ろで束ねる。そこでちょっと考えて、居間に取って返すと、小物入れから折り畳み式の小型ナイフを取り出し、なるべくならこんな物を使う事態とはなってほしくないと、そう願いながら、パンツのポケットへと突っ込んだ。ナイフの金属部分が革と擦れる、キュッという感触が手に伝わって来た。
最後にビニール製の黒いレインコートをフードを立てて被り、戸締まりをして、美音子は外へと出た。雨の粒がバラバラと激しくコートを叩き、車庫までの数歩の間に、コートの下の服はもうじっとりと湿っている。
脱いだコートを助手席に放り、ミニのエンジンをかけて、美音子は車を出した。夜の街路に人影は少なく、車のヘッドライトに照らされた路面は、雨の飛沫に白く煙っている。街灯のまわりにも、まるで蚊柱か何かのように雨の飛沫が舞っている。
今夜こそ、決着をつけてやる。鮫島敏郎が稲垣夫妻に何をしたのか、それを明らかにしてやる……。美音子はそうした決意とともに、ギアをトップに入れた。
鮫島病院へは三十分もかからずに着いた。
駐車場の入口は開放されていたが、さすがにその中まで乗り付ける大胆さは、美音子にしても持ち合わせてはいなかった。ミニを外の道路沿いの、違法駐車の車の列に割り込ませて、コートをその身に纏《まと》い、美音子は風雨の厳しい外へと降り立った。途端にバチバチと雨粒がフードを叩き始める。睫毛《まつげ》に水滴が付き、街灯の明かりが何重かにぼやけて見える。
夜勤に赴く看護婦か何かに見えるようにと願いながら、背筋を伸ばし、美音子は駐車場側から病院の敷地へと歩を進めた。
雨の夜に改めて見る病院の敷地内は、ただ立木の間から洩れる常夜灯の光と、そして建物の外壁に窓の明かりが幾つか、ポツリポツリと覗かれているだけで、あとはほとんど闇に没していた。快晴の真昼に訪れた前回とは、ガラリとその印象を変えてみせている。
植え込みの間を抜け、目的の研究棟の外壁へと身を寄せると、美音子はホッとひとつ息をついた。風向きの加減で、建物が雨を除けてくれている。その代わりに渦巻く風のゴウゴウという音がもの凄い。
前回の訪問の際に目をつけていた、建物の裏手にあるトイレのサッシ窓は、思っていたとおり、施錠《せじょう》されてはいなかった。中の気配を窺いながらそっと開ける。幅はかなり狭いが、〈黒猫〉にはそれで充分であった。目の高さにある窓枠に手を懸けると、腕の力だけで身体を持ち上げて、頭からするりと建物の中にもぐり込む。途中で身を捻《ねじ》り、ふくらはぎの部分を窓枠に懸けて内部にぶら下がるような恰好になって、そこでとんぼを切るようにして、そして〈黒猫〉は無事、音も無く、中のタイル張りの床面へと着地をした。手早く窓を閉じ、あたりの様子を窺う。
そこはやはり女性用のトイレであるらしく、蛍光灯の明かりに白く輝いている清潔な室内には洗面台の他に、個室だけが並んでいた。美音子はとりあえず、その並んだ個室のひとつへと身を潜めた。そこでコートを脱ぎ、しばらく時間をかけて、彼女はひとまず衣服に染み込んだ水気をできるだけ搾《しぼ》り取《と》るという作業に専念した。最後に髪を解き水分をひと搾りして、また結い直す。便器の清潔さ等から、そのトイレがほとんど使われていないと判断した美音子は、コートとブーツをそこに残したまま、調査行に赴くことにした。
慎重に、気配を窺いながらドアを開け、廊下へと出る。リノリウムの床のひんやりとした感触が、湿ったタイツの生地越しに、足裏に感じられた。
一階のフロア内にある部屋の配置については、おおよその見当がついていた。ほぼ正方形をしたフロア内を、Lの字形に廊下が通っている。美音子が忍び込んだトイレはLの字の短辺の端あたりに位置していて、突き当たりには二階へと通じる階段があり、その廊下を逆に建物の中心の側へと向かうと、まず前回彼女が鮫島に案内された研究室があり、他にもうひとつの部屋があって、そして角には手術室の扉がある。そこを折れると廊下は玄関まで真っ直ぐに通じていて、左右には実験室が並んでいるはずである。廊下に出たところで美音子は、辺りの様子を窺った。
鮫島はこの建物内に居るだろうか……。それは分からない。警備員はおそらく詰めてはいるだろうが、入口脇の詰所に籠もったきりであろう。……それでも警戒を怠ることのないようにと、〈黒猫〉は気を配りながら、廊下を進んで行った。そしてひとつのドアの前で立ち止まる。美音子が前回案内されたあの部屋の隣、手術室のひとつ手前にある部屋のドアである。プレートに何の表示も無い、ステンレス製の一枚のドア。
――ここ?
外の風雨の音は非常に激しく、間断無く轟いていて、それが谺となって建物全体を包み込んでおり、美音子の聴覚はほとんど役に立たない状態であった。頼れるのは〈黒猫〉の勘のみである。
ひとつ深呼吸をしてから、美音子は棒状のノブに手を掛け、そっとそのドアを開けた。中は真っ暗であった。スルリと身を忍び込ませ、手早くドアを閉めてから、壁のスイッチを探って明かりを点ける。
雑然とした部屋であった。やはりここも実験室のようなものなのだろうか。ゴタゴタとたくさん物が並べられている。――医療器具らしきものが収められたガラス扉つきのキャビネット、覗き窓のついた用途不明の大きな器械、銀色の大きな業務用冷蔵庫のようなもの、実験機材の載ったデスク、書類の散乱するデスクなどといったものが、四囲の壁に寄せて混然と配置されている。右手には手術室に通じていると思しきドアもあって、その位置関係からすればあるいは、手術の準備室とか器材室とかといったものなのかもしれなかったが、それにしてはあまりにも室内の様子は雑然としていて、清潔感が感じられなかった。
そうして室内の様子をひとわたり眺め渡した後、美音子はまずデスクに散乱する書類へと目をつけた。卓上の隅には白磁《はくじ》のカップが置かれていて、底にはコーヒーの澱《おり》が褐色の染みとなってこびり付いている。鮫島がそのカップを手にしながら、書類に目を通しているさまが、なぜか妙に生々しく想像されて、美音子は狼狽《ろうばい》した。……そんなことを考えてる場合じゃないのに。
改めて、書類のほうに意識を集中させる。とりあえず手元にあったものに目を通すと、アイデアを急いで書き留めたものだったのか、字が汚いうえに省略が多く、ひどいものだと単語同士がただ線で結ばれているだけだったりして、おまけにその単語そのものが外国語であったり、あるいは日本語らしきものも混じってはいるのだが、専門用語なのか、ほとんどが美音子には意味の分からない語であった。アイデアをまとめている間にペンを遊ばせていたのか、右隅に三角形が幾重にも重ねて描かれているのが、少し微笑ましく感じられた。
同様のメモ書きを取り除いた下から出て来たのは、今度は多少なりとも読み取り可能な文字が書かれた文書であった。ざっと目を通す。どうやら論文の下書きのようであった。さらに山を崩す。固定したフォーマットの用紙の類もある。予算請求用紙、メーカーからの見積報告書、看護婦の書いた始末書……等々。
美音子は溜息を吐いた。デスクの上にはどうやら、めぼしいものは無さそうであった。自然と抽出《ひきだし》に手がかかる。ひくとガタリと動くが出ては来ない。鍵が掛けられているらしい。しかしこの程度の錠ならば、〈黒猫〉にも何とかなる。
ヘアピンとナイフを使って錠を毀《こわ》し、そろりとひき開けた中には、ワープロ打ちされた報告書のようなものが幾重にも束となって重ねられていた。中のひとつを手に取り、内容に目をやったところで、美音子は思わず息を飲んだ。
調査期間: 十月二十一日(月)〜
二十六日(土)
最初にお断りをしておきたいのですが、ご依頼の件、思ったよりも難しくて、同僚や生徒たちから不審がられないように見張るのは困難だということが判明しました。二一HRの授業時間(物理‥月曜三限、木曜一限、土曜四限、化学‥火曜六限、木曜五限、金曜一限)以外では、今週だと二十二日の三限目に二年の体育がグラウンドであり、私はその時間授業が無いので、居室として使っている準備室にいたのですが、そこから授業風景を覗いていたくらいのことしかできませんでした。それさえも角度的に良くは見えなかったのですが、部屋を出て良く見えるところへ移動するというのは、誰かに見られるおそれがあってできませんでした。そのへんのことはぜひお察しください。
あとは二十六日に当番だということで職員室に来たのを見かけました。一週間の間に特定の生徒と接する機会などは、その程度のものなのです。
さて報告ですが、今週は中間テストがありました。さっそく採点をしてみたのですが、化学、物理ともに満点。もとより成績は優秀で、予想通りの結果だと思います。物理にはひっかけ問題を一問入れておいたのですが、見事に正解を導き出していました。コピーを添付しましたのでぜひ御覧になってください(このコピーひとつ取るのにも大変だったのです)。
他の教科についてもさり気なく聞き出してみたのですが、やはり他も満点もしくはそれに近い点を取っているようです。正式な採点結果は来週報告できると思います。
他に行動について特に不審な点は目につきませんでした。
一緒に行動している生徒たちについて。目についた範囲で言うと、二二HRの沖野、二二HR松田、二一HR鈴木(美)、一二HR青木、一二HR風間。以上はみんな生徒会の役員をしている生徒たちです。あとはクラスメイト(二一HR)で、石川、秋田、鈴木(久)、山口。
それから写真についてなのですが、そういったわけで、他の同僚とか生徒たちから不審がられないようにと考えると、特別な道具が要ると思われます(鞄に仕掛けた盗撮カメラのようなもの)。いや、たとえ道具があったとしても、万が一見つかったら、言い逃れができそうになく、そうなると学院から免職される可能性まであります。そうなったら私ばかりでなく、そちらもお困りになられることと思いますので、ぜひもう一度考えてみてください。
以上。
なお、報告の内容、形式等につきまして、問題点等がありましたら、ご指摘ください。
これは……。美音子は目を疑った。誰に関してのものなのか、文中にはしかとは書かれていなかったが、他に考えられようはずもない。これは純和女学院の中での、朝倉麻里亜の行動を記録したものではないか。
慌てて他のものにも目を通す。
これも……。そしてこれも……。
報告者の署名は無いものの、美音子にはそれが、あの蛭川の手によるものだとの確信があった。そして報告書の内容は全て、蛭川が朝倉麻里亜の行動に注目して、どんなことがその週にあったのか、彼女が何をその一週間にしていたかということを、逐一報告しているのであった。
その報告書が鮫島の手元にある……。考えられることはひとつだけであった。要するに鮫島は、全寮制の女子校内にいる麻里亜の様子を探るにあたって、教職員の中から蛭川という男を選んでこれを買収し、その任に当たらせていたのだ。そしてこれはその報告書なのだ。
最後はどうなったのか……。美音子は思い切って、その紙の束を全て抽出から取り出して、そして最後の一枚へと目を通した。
御報告
期間: 七月 十四日(月)〜
十九日(土)
一学期終了。前回にも報告したが、成績は中程度(コピー添付)。勉強はMのようには頭が良くはないようです。別の生徒に目をつけられたほうが良いのではないでしょうか?
それともCでなくてはならない特別な理由でもあるのでしょうか? Cも死ぬのですか? 理由を知りたいと願うのは当然ではないかと思われますが。こちらの立場になって考えてみてください。Mのように目をつけていて、みすみす死に至らしめてしまうようなことはもう二度と御免です。
なお、来週より夏休み期間となります。私は来週いっぱいまで学院に出勤しますが、Cが帰省するかどうかは不明です。報告することがあれば来週もいたしますが、たぶん無いと思われます。その場合、次回の報告は登校日(八月二十日)の週ということになります。
読み終えて美音子は首を捻った。これはいったい……。彼女は最後の報告が、麻里亜の死んだ五月九日で終わっているのだろう――あるいは事後報告などがあって二、三週後まであるかもしれないが――と思っていたのだ。しかし蛭川は現在となっても、毎週の報告を行っている。そして今度はどうやらCという人物(おそらくは生徒)について、麻里亜の時と同様に(文中のMというのが麻里亜のことなのだろう)その行動について調べているようなのである。そのCとはいったい誰のことなのだろうか。
美音子は五月の事件前後の報告を捜した。日付の記載が無いが(おそらく事態の大きさに動揺して書き漏らしたのであろう)、前後の関係からそれと察せられるものが見つかった。
御報告
期間:  月   日( )〜
月   日( )
電話で御報告いたしましたとおり、五月九日の朝、Mが寮で死亡した件について。
五月九日の昼に学院長から発表された内容によれば、死因は病死とのことでした。どんな病気かは言いませんでした。ただの病死としか今の時点では分かりません。あるいは自殺などということかも知れません(そういうのを秘匿《ひとく》したがるのです、あの連中は)。
警察が九日十日と二日続けて学内に入りました。職員たちの噂によれば、寮の中から外まで、調べ回っていたとのことです。土を掘り返しているのを見たという話も聞きました。安城の時でさえそんなことはしなかったとその同僚は言っていましたので、いったい何を調べていたのか非常に気になるところです。あるいは尋問などされるかと思いましたが、そうしたことは今週の内にはありませんでした。そうした事が今後あれば、私も彼らがいったい何を調べているのか、機会があれば聞いてみたいと思っています。
自分の見た範囲で言えば、直前の五月八日(木)の二限に、物理の授業がありましたが、朝倉の様子は普段とは全く変わりのない様子でした。直前の人の動きについては、特に気づいた不審な点はありませんでした。彼女のまわりは私の見た限りでは、普段と全く変わりありませんでした。
事件の後で言えば、生徒たち、教職員含めて、これといって不審な行動をとるものはいません。報せがあってからほとんどずっと泣き続けている生徒や、講堂で黙祷《もくとう》をしたのですが、そこで失神して運ばれた生徒もいましたが、普段の彼女たちのMに対する憧れの程度からしたら、それも格別のことではないように思えます(昔、アイドル歌手が自殺したことがありましたが、Mは他の生徒たちにとって、そのような存在だったのです。もし彼女が自殺したのだとしたら、後追いで自殺する生徒が出ても不思議はないくらいです)。そういったわけで「特に悲しんでいる生徒」と言われても、全員が該当するという感じですので、あえて言えば今までに報告で名の上がっている、生徒会の生徒とクラスメイトたちでしょうか。
とりあえず来週も、その後の経過報告をとのことなので、そのように注意して見ることにします。
この報告が、まさかこんなことになるとは思ってもみませんでした(まさかこうなることを予想されて、この調査を私に依頼されていたわけではないですよね。筆が滑りましたが、何だかそのような気も少ししましたので)。
いや、鮫島は予想していたのだ。……美音子は首を振った。
稲垣家の事件で、現場に居合わせた麻里亜は、何かを植え付けられていたのだ。その経過を見るために、鮫島は蛭川をおそらくは買収して、彼女の行動を調べさせ、逐一報告を上げさせていたのだ。そして姉の百合亜の身体に起きた異変を考え合わせれば、鮫島には麻里亜が死ぬことも、充分に予測できたはずだ。
美音子はそこでふと、紙の裏面に何かが書き込まれている事に気づいた。ひらりと裏返すと、手書きの文字で書き込みがあり、どうやらそれは鮫島の手によるもののようであった。
Jのゆくえ→?
検死は?
警察の内部の様子
二番目の『検死は?』の横には、また別なペンで――おそらくは後日に書き足したのであろう――美音子も会って話を聞いた八王子の大学病院の、あの近藤医師の名前と、そして研究室の電話番号とが書き込まれていた。そして最初の『Jのゆくえ→?』という書き込みのまわりは、線でグルグルと何重にも囲まれていた。
Jとはいったい何なのか? J――ジャック?
美音子はさらに日を追って報告書の先を読み進んだ。
御報告
期間: 五月 十九日(月)〜
二十四日(土)
ご依頼の件、その委細を私が本当に把握できているのかどうか、心許《こころもと》ないところはありますが(私にとっては今回のご依頼の内容自体が、抽象的で雲を掴むような話だったのです)、条件を考え合わせますと、該当しそうな生徒が一人いましたので、御報告をいたします。
一年生の高橋椎奈という生徒です。一二HR。今月から新しくクラス委員に(つまり生徒会の役員に)選ばれた生徒で、見た目はMと同じくアイドル並の美形なのですが、性格が地味で、さほど目立たない生徒だったのですが、それが先週今週と、どうも張り切っているというか、うまく表現できないのですが、ともかくMの事件のショックで沈んでいる学内では目立って明るく、まわりの生徒たちの反応もMの生きていた時のように、似ていると思われます。
警察のその後なのですが、今週は学校には来ませんでした。先週何をしていたのかは、いろいろと聞いてみたのですが、さっぱり不明です。
以上の報告(曖昧ではありますが)で、もしよろしければ、来週からはその高橋のことをMの時と同様に報告するということでよろしいのでしょうか?
御報告
期間: 五月二十六日(月)〜
三十一日(土)
Cについて(電話で打ち合わせたとおり、以下Cという略称を使わせていただきます)御報告いたします。まずは生徒内の人間関係から説明いたします。親しくしているのは同じ一二HRで、斉田、天野、西村、北浦。この四人が取り巻きというか、親衛隊と陰で呼ばれている、そういう存在です。今月に入ってから親しくなり始めた生徒たちで、先月までは一一HRの坂本という生徒と二人でいることが多かったように思います。その坂本とは逆に、今月に入ってから仲違いした様子で、互いに避けている感じです。このへん、あるいはポイントなのかもしれません。
Cは寮で同じ生徒会の青木(二二HR)という生徒と同室です。彼女もCと現在親しくしている生徒の一人です。生徒会の他の生徒は、Mの事件をいまだに引きずっているようで、日常の様子も変になっている生徒もいます。そんな中で明るく振る舞っているCと青木の二人は、他の役員の生徒たちからは顰蹙《ひんしゅく》を買っています。特に同じクラスの長根とはCは仲が悪い様子です。一般の生徒からは逆に二人以外の役員たちの方が顰蹙を買っている感じです。
そういったわけでMの時とは違って、Cのまわりではギスギスした空気が漂っているように感じられます。
物理の授業の時に問題を当ててみたのですが、あまり得意な科目ではなかったようです。易しい問題に変えてやらせたところ、それは何とか解いたので、まあ並の能力はあるようですが、Mほど秀才という感じではなさそうです。ただし外見で人を引き付ける点だけは、Mに似ていると思います。問題が解けなかった時も、平然としていて、恥ずかしいなどというそぶりは見せず、かえって私の方が動揺してしまったくらいです。その辺の決して動揺した態度を見せない辺りもMに似ていると思われます。
あと、Cの写真についてはMの時と同様、かなり困難が伴いますので、その点はぜひご了承ください。例の鞄で試してみるつもりではいるのですが。
美音子は首を捻《ひね》った。
蛭川のそうした報告は、彼が五月の麻里亜の事件以降、どうやら鮫島に依頼されて、麻里亜に対して行ったのと同様の調査を、今度は同じ純和の一年生で高橋という生徒に対して行い始めた――そして現在も行っている――ことを、明示していた。
鮫島の具体的な依頼内容については、報告書の文面から察すると、たとえば『麻里亜の死後、学内で彼女に似た雰囲気の女生徒が現れるはずだから、それを見つけて、今までと同様に報告するように』といったものだったと思われる。しかしそれはいったい、何を意図したものだったのか。
そして昼間の聞き込みで、純和の生徒、三浦聡美が話してくれた件……蛭川が女生徒を自分の車の助手席に乗せて走っているのを見たという、その女生徒の名前が、たしか高橋というものだったはずである。要するに蛭川は、報告書ではCとされている、調査の対象であるその少女に対して、そうして接触を試みたのだ。彼のそうした行動は、はたして依頼主の鮫島の意向に従ったものだったのか……。
その時――。
不意に、ブイィーンという音が間近に鳴り出して、美音子はハッと身構えた。部屋の中には誰もいない。耳を澄ます。建物を包む豪雨の音に混じり、音は静かに部屋の空気を震わせている。そして彼女はじきに、その音源を突き止めた。それは彼女のいるデスクから見て右手奥にある、銀色の大型冷蔵庫のようなものから発せられていたのだ。いや、見た目ばかりではなく、考えてみればその唸《うな》り音《おん》も、ちょうど冷蔵庫のサーモスタットが働いた時のものに酷似している。
美音子はその大きな箱の前に歩み寄った。彼女の背丈を越える高さがある。手前の中ほどに把手があり、美音子はそれを握った。横に捻ると、ガコッと錠の外れる音がして、扉が開く。開いた隙間からモワッと白い煙が這い出して、冷気が彼女の濡れた足元を舐《な》めて行った。装置の内部に明かりが点る。
それはやはり冷蔵庫――いや、冷凍庫であった。
ドアを開けた途端、ブイィーンという唸りが大きくなる。美音子は中を覗いた。棚が上下に二つ設けられていて、上の段には指サックほどの小さなサイズの試験管が、ゴム栓を填《は》められた状態で、それ専用と思われる丸い穴のあいた容器にぎっしりと並べられ、収められている。それが何なのか、〈黒猫〉は瞬時に理解した。――凍結保存された精子、卵子、あるいは受精卵といったものなのだろう。
そして下の段には、またそれよりも奇妙なものが置かれていた。透明なビニールの袋に包まれて、凍っているその赤黒いものは――いったい何なのか?
美音子は最初、腸詰めか何かだと思った。だが違う。いったい――。
太さはだいたい親指ぐらいだろうか。長さが五十センチほどあって、それがぐにょりと捻れてひと塊りになっている。もわもわと蠢《うごめ》く白煙の中で見定め難いのだが、それの片方の端には何やら瘤《こぶ》のようなものがあり、モジャモジャとした毛に覆われているのが、何とか見て取れた。
これは……いったい――。
見ているうちに、ジリジリと恐怖感が背を這い上って来た。しかしそれから目を逸らすこともできない。膨れ上がってきた衝動を抑えきれず、美音子はほとんど悲鳴を上げそうになり――そして背後でガチャリと音がした途端、彼女は実際に悲鳴を上げ、そして振り向いた。
ドアが開いて、戸口に男が立っている――それは鮫島だった。
美音子は身を隠すよりも何よりもまず最初に、男に対して問わずにはいられなかった。
「これは……何?」
「見たな」
鮫島はそう言いながら一歩、室内にずいと入って来た。その顔は照明の加減だろうか、やけに青白く見えた。
そして彼は言った。
「それは……オレの大切な――Jだ」
「知りたいか、Jのことを。オレの言うJとは何か……。そりゃ、知りたいだろうな」
はるかな頭上から声が降って来る。埃《ほこり》っぽい床に寝かされて、美音子は相手の顔を仰ぎ見る恰好となっていた。見上げる鮫島の顔には、尊大さが滲《にじ》み出ている。
両腕は背中で縛られていた。足首も同様である。忍び込んでいるのが見つかった時、彼女はそこから何とか逃げ出そうとしたのだ。〈黒猫〉の身体能力の限りを尽くして――しかし彼女の身体の持つ敏捷《びんしょう》さも狡賢《ずるがしこ》さも、鮫島には通用しなかった。その圧倒的な体力によって、彼女はひとたまりもなく、瞬時にして取り押さえられていた。
美音子が猫だとしたら、相手はその名の通り、鮫であった。地上の生き物である猫が今までに対峙したことのない、未知の海棲生物であった。そしていざ邂逅《かいこう》してみれば、猫はいつものように獲物を掴まえるどころか、自身が鮫の獲物とされてしまっていたのだ。
「――仕方ない、教えてやるか」
「私を……どうしようって言うの?」
鮫島が自らその秘密を美音子に明かそうとしている以上、彼女は決して生きたまま外へは出られないということなのだろう。そう考えると自ずと湧いてくる恐怖に身を委《ゆだ》ねながら、美音子は叫んだ。
「私がここに来ることは、ある人に知らせてあるから、私がこのまま家に帰らなかったら、きっとその人にはあなたのせいだって、あなたが私に何かしたんだって分かるはず」
言《い》い募《つの》る声が震えているのが自分でも分かる。しかしそれはまだ心底からの恐怖ではなかった。半分は演技であった。その余裕を相手に気取られてはいけない。
それよりも事件の謎について知りたかった。鮫島の言うJとは何なのか。ジャックと同じものなのか。――ジャックとは何なのか。
「心配するなよ。殺しゃしないさ。もっとも生かしてここから出すつもりもないけど」
そう言いながら鮫島は、薬品棚の扉を開け、中から小さな瓶をひとつ取り出した。美音子はその行動を目で追いながら、思った。現在の状況からして、その小瓶が自分の処遇と無関係だということはないだろう。
あれはいったい――?
鮫島は腰を屈めて、美音子の顔を覗き込むようにしながら、言った。
「あんたもいいセンは行ってたんだ。……青野に対するオレの変わらぬ愛情を、一連の事件の背後にあるものとして嗅ぎ付けたその嗅覚は、さすがは〈黒猫〉だと感心したもんだ。いや、ホントさ。惜しかったな。
ただあんたは最後の詰めで失敗した。オレはただの青野の子供が欲しかったわけじゃない。そんなの想像してみりゃ分かるはずだ。あんただって人を好きになったこと、ないわけじゃないだろう。人を好きになって、さてどう思う? その人の子供が欲しい――自分とその人との間に、愛の結晶として、子供が欲しい――そう思うはずだろう。オレと青野もそうだった。男同士だからって、それがおかしなことだろうか? いいや、オレはそうは思わない。思わなかった。……だからオレたちは作ることにしたのさ。オレとあいつの――二人の子供を。……それがJだ。Jとはジュニアのことさ」
男同士で子供を作る? ……美音子は耳を疑った。そんなことが出来るのか?
鮫島の顔には笑顔が浮かんでいた。しかしそれはどこか歪んだ笑顔であった。あるいは彼はその笑顔の裏で、自殺したという若き日の愛人、青野トオル青年のことを、思い返していたのかもしれない。
「そんなことが出来るのかって、そう言いたそうな顔をしてるな。……それが出来るのさ。方法はしごく簡単だ。まずは卵子をひとつ用意する。……体外受精を受けに来る女には排卵誘発剤を使わせるから、一度に大量の卵子が採取できる。その中から一部を譲ってもらってね。……さてと、で、次にそうして用意した卵子から、中の核を取り去る。そして替わりに精子から抽出した核を埋め込む。それでもうほら、片方の男の遺伝子を持った卵子が、いとも簡単に出来るじゃないか。そうしたら後はもう簡単だ。そこにもう片方の男の精液を作用させて……あとは普通の体外受精のプロセスと一緒だ。そうして、オレたちのJが出来たってわけだ。あとはそれを、どこかの女の子宮へと埋め込んで、立派な赤ちゃんに育ててもらう、と。
もちろんそんなことを承知でさせてくれる女性なんてのは滅多にいないから、こちらとしてもそれなりに工夫はすることになる。たとえば、体外受精を受けに来た女のお腹をちょいと借りる……とかね」
「それを……稲垣百合亜さんに植え付けたのね!」
彼女のお腹の中にいたのは、二人の子供ではなかった。裕明の血も百合亜の血も、どちらも引いていない、全くの赤の他人の子供だったのだ。そしてその子の本当の両親は、この鮫島敏郎と、十六年前に死んだ青野トオルという青年だったのだ。
男同士の間にできた子供――それが、Jだ。
――そして、ジャックというのも……。
――いや。
「その――Jを、あなたはどうしたの? 百合亜さんのお腹にいた子供はどうなったの? ……いいえ、そもそも去年の夏に、稲垣家であなたはいったい何をやったの? そして麻里亜さんは? ……もしかして、ソレを麻里亜さんにも植え付けた?」
鮫島は首を振った。
「言っとくが、オレはコロシはしてない。旦那を殺したのはあの女だ。去年の夏、あの家で何が起きたか……? フン、簡単なことさ。あの女が旦那を殺して、自分の妹を犯し、そしてくたばった。……それだけだ。オレはあの女がいつまで経っても病院に現れないので、ヤキモキして結局あの家まで様子を見に行って、そして全てが終わった後の現場に行き合わせた。……それだけだ」
「妹を犯した……? 百合亜さんが? ……なに言ってるの?」
美音子は頭が混乱してそう訊ねた。何かが間違っている……。
鮫島はフン、とひとつ鼻で嗤った。
「可笑しいだろ。狂ってるのさ。……全てはオレのせいだ。そう、失敗したんだよ。オレが、な。そう……シッ・パ・イ、だ」
自嘲的にそう言うと、
「性染色体って分かるか、あんた? ……ホウ、分かってるってか? フン、怪しいもんだな。……いちおう説明しておくと、性染色体ってのは、女だとXX、男だとXYの組み合わせになっている。で、卵子の中には必ずXがひとつ入ってて、精子にはX型とY型と二種類あって、で、X型の精子が先に卵子に辿り着けば受精卵はXXでその子の性別は女になるし、逆にYの精子が先に辿り着けばXYで男になる……と、まあそんな感じだ。
で、Xの精子とYの精子は、実はその重さが微妙に異なってるんだけど、その差を使って、遠心分離器で、精液の中からXの精子とYの精子を分離するという方法があるんだ。パーコール法といって、男女の産み分けに実際に用いられてる方法なんだがな。
で、オレはそれを使った。……オレたちの子供は――オレと青野の子供は、絶対に男の子でなければならなかったからな。だから青野の精液をXの精子とYの精子とに分離しておいて、Xの遺伝子を卵核に埋め込み、そこにオレの、Yだけに分離した精液を作用させた……、いや、させるつもりだった。
ところがその分離がうまくいかなかったらしい。あの女の腹の中にいたのは、YYという組み合わせを持つ胎児だった。だから青野の分離したXの中にどうやらYのやつが紛れ込んでて、で、オレはよりによってそいつを選んじまったってわけさ。おかげで、本来ならこの世にありえないはずの、YYなんて組み合わせのモノが、あの女の腹の中で育ち始めたってわけだ。フン。それがどんな形になるか……、あんたもさっき見ただろう?」
冷凍庫の下の段に入っていた、腸詰めみたいな形の、肉の塊。
八王子の近藤医師に聞いた話の断片が、頭の中によみがえる。
――ではY染色体っていうのは、いったい何をするものなのかと言うと、その中にSRYという遺伝子があって、これは睾丸決定因子と呼ばれているものなのですが……。
――睾丸ができて、ペニスができて、男の子になる……大ざっぱに言えば、Y染色体はその部分だけを受け持っていると言ってもいいと思います。
Xが無いから。Yだけしか無かったから。
だからあんなモノになってしまった……?
あんな――ペニスの化け物に。
フン、と鮫島はまたひとつ、鼻で嗤った。
「そう……あれが、オレの作ったJの、失敗作だ。……と言っても、ここにあるのはまた別物だ。あの稲垣とかいう女からは結局、回収できなかったんでね。で、オレがその後であの出来損ないのJの研究用にと、また別な女に、今度は最初っからYY型になるように胚《はい》を作り、植え付けて、で、今度は異常妊娠だからってちゃんと言って手術を受けさせて、その女の子宮から摘出した……それがアレだ」
「それは、原磯さんの奥さんから?」
思い当たって、美音子がそう訊ねると、鮫島はホウ、と目を瞠《みは》った。
「よく知ってたな」
「なに言ってるのよ」
美音子は激昂した。
「ちゃんと手術したとかって……殺したくせに」
「あれは仕方がなかった」
鮫島は平然として言い放った。
「あの出来損ないは、女の身体にしっかりと貼り付いていた。それだけじゃなくて、神経の束を身体の中へと伸ばしていたんだ。オレがあれを引きずり出そうとしたら、その神経の束がプツプツと切れて、で、そのショックで女は死んだんだ。初めてだったんだからしょうがない。もう今じゃ分かってる。……女を死なさずに、あれを取り出すことは不可能なんだって。だからあの――稲垣とかいう女も、死んじまったのさ。
妹を犯してる、その最中に、Jは逃げ出したんだ。あの稲垣って女の子宮から、別な子宮へと――要するに、そのためにあの女は妹を犯したんだ。いや、あの女が犯したというより、Jの出来損ないのやつが……だな。
神経の束が母体に伸びてるって言っただろう。それであいつは宿主の女を操ってたんだ。で、旦那を殺し、妹を犯して、その体内へと逃げ込んだんだ。なぜそんなことをしたか……それは、女が臨月だったからだ。女の身体が――あいつを胎児だと思ってそれまで育てて来た、稲垣ってその女の身体が、月が満ちて、そのお腹の中のモノを、外へと出そうとした。だがあいつは寄生虫みたいなモノだ。子宮の中じゃないと生きられない。だからあいつは、別な宿主へと移ったんだ」
「……そんな、……そんな」
そんな馬鹿な!
この世にそんな馬鹿なことが、あっていいはずが無い。
「狂ってるわ!」
「そうさ」
鮫島はニヤリと笑った。下から仰ぎ見る鮫島の顔は、相変わらずハンサムに見えた。
「だからオレも言っただろう、狂ってるって。……オレだって最初は、何が起こったか、全然分からなかったさ。まさかそんな馬鹿なことが起こるなんて、常識では考えもつかないじゃないか。だがどう考えても、他にあいつの行き先は考えられなかった。だからオレはあの朝倉っていう女の子のことを見張ることにした。そうしたら――」
「その子も死んだ! ……彼女も死んだ。じゃあ、……じゃあ?」
「また移ったんだ。……あの学校で、また別な生徒に」
「狂ってる! そんなの――」
「――だがそれが真実だ」
鮫島は薬品棚から、今度は別な大口の瓶を取り出すと、蓋を開け、中の透明な液体をスポイトで吸い上げて、試験管へと注いだ。
「それは……?」
美音子の問いに、鮫島はさも愉快そうに、試験管を振って見せた。
「これか? これはただの蒸留水だ。……こいつを薄めるために使う」
そうして、先ほどの小さな薬瓶の蓋を開ける。
「これがいまウチで開発中の、自慢の薬だ。……まあ一種の、媚薬《びやく》のようなものなんだがな。強烈な作用があって、依存性が高い。……おっと、そんなに嫌がることはないだろう」
鮫島は自分の行っている作業を、美音子へと見せつけるようにした。透明な液の中に、褐色の雫《しずく》がポタリ、ポタリと垂れ落ちて、モワモワと拡散してゆくさまが見て取れる。その薬の匂いなのだろうか――甘酸っぱいような、そして何だか懐かしいような、不思議な匂いが、微かに感じられた。
「そうそう。これもあのJの出来損ないのやつから――あそこに入ってる、アレだな――アレから、抽出したものでね。というのも、あれの宿主だった原磯とかいう女なんだが、オレが掻爬《そうは》してる時に――つまりオレが何も知らずに、あの生き物から女の身体へと伸びていた神経をブチブチと引きちぎっていた時にだな――あの女、何度も何度も続けざまにイキやがった。……フン、思い出しても反吐《へど》が出そうだ。自分が死にかけてる時に、オーガズムを感じまくってたってわけだからな。
で、後で色々と調べてみたところ、あの生き物が体液のようなものを分秘していたということが分かった。それに強烈な昂進作用があったんだな。で、それを抽出して精製して、こんなふうに薬にして、そして実際に何人か、女を使って試してみたところ、培養したその液をほんの一滴、経膣投与しただけで、みんなイッちまうんだ。面白いくらいに。……というわけで、不感症の治療には効果てきめんだったんだが、いかんせん、依存性が高くてね。たぶんβ-エンドルフィンか何か、脳内麻薬の強烈な誘導体が入ってるんだと思うんだが。結局その女たちはいま、淫蕩症と診断されて、ウチの精神科に入ってもらってる」
鮫島はそう言いながら、キャビネットの扉を開け、中から細長い、金属製のチューブのようなものを取り出した。片端に注射器のピストンのようなものが付いている。
「で? ……そうそう、要はあんただ。あんたをどうするか……実はひと思いに死んでもらったほうが、オレにしても後腐れが無くて気が楽なんだが、まあこれでも情けはあるほうでね。いちおうは生かしといてやろうと思ってるんだが……。おい、もっと嬉しそうな顔をしたらどうだ。
まあ、いいや。それにあたって、だな。あんたにもこれで、あの女たちと同様に、良い気持ちになってもらおうと思ってね。ま、余計な口を封じるためだ」
チューブの先端を試験管に入れ、ピストンを引いて、中の薄黄色の液体を吸い上げる。
「……そうだ。どうせなら、あんたにはJの胚を育ててもらおうか。あんたの気持ちが良くなったところで、Jの胚を植え付けてやるから。……そうだよ。オレたちのJを、あんたに産んでもらう。こいつは名案だ。そうじゃないか、え?
あんたはウチの精神病棟で、オレたちのJを産む。引き取り手が無いから、オレが養子として引き取る、なんて、実にヒューマニズム溢れる話じゃないか、え、どうだ、〈黒猫〉さん。……気に入らない? ハハハ、そうか。どうせなら、Jの出来損ないのほうがいいか? それ付けて、女とヤリまくるか? ……あの朝倉とかいう女子高生みたいに?」
鮫島はそこで背を反らし天井を向いて爆笑した。
美音子はギリギリと唇を噛んだ。さっきからこっそりと、背中で結ばれた両手の縛《いまし》めを解こうとしているのだが、それがうまくいかない。
「さてと。じゃあ――」
「待って! ……何でも言うことを聞くから。お願い――キャア!」
鮫島は、ただでさえ縛られて自由の利かない美音子の身体にのしかかり、手足の動きを封じた後、片手だけで器用に、ホットパンツの留め金とジッパーを外した。そして足首の縛めのところまで、一気に引きずり下ろす。
「やれやれ、面倒なものを穿いてるな、このクソ暑いのに……〈黒猫〉も大変だな」
「やめてっ!」
鮫島の手がタイツへと掛かり――そして下着もろとも、一気にこれも足首まで引きずり下ろされる。
下半身の肌が露出している。
「ホウ。下着まで黒なんだ」
鮫島はさらに、美音子の上体を仰向けにさせると、縛られた両脚をグイと持ち上げて、膝が肩にくっつくまで、彼女の身体を思いっきり折り曲げた。そうして美音子に、実に屈辱的なポーズを取らせた。
やめてっ――美音子は声の限りに叫んだ。見られているということよりも、濡れた服を着ていたために蒸れていた、そこの匂いを相手に嗅がれるのではないかという懼《おそ》れのほうが、彼女を辱《はずかし》めていた。両脚の力で相手の身体をはね退けようとする。しかしガッチリと抱え込まれていて、どうにもしようが無かった。
「あっ!」
金属の冷たい感触が、身体の中にズブズブと潜り込んで来た。あまりの羞恥に潤ってしまっていたらしく、抵抗もあまり無いままに、奥まで一気に達する。そして――。
身体の最奥部で、何かがはじけた。
衝撃が全身を走り、筋肉がもの凄い勢いで収縮した。彼女は鮫島を上に乗せたまま、ビクンと跳ね上がった。
目の前が真っ白になる。延髄が痺れていた。大波は続けざまに寄せて来た。
――溢れる。
――毀《こわ》れちゃう。こんなの……。
――ダメ……。
そして……〈黒猫〉は意識を失った。
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十三章 地を這うもの
プルルルル……という電子音で、美音子は意識を取り戻した。
チッ、と舌打ちをして、鮫島が身体の上から離れるのを感じた。しかし身体の自由は相変わらず利かない。全身が麻痺していた。
カチャ、と受話器を外す音。
「オレだ。いまちょっと手が離せない。……何だって? どうしてこんな時間に……。チッ、分かった。本人に替わってくれ。……ああ、オレだ。どうした、こんな時間に。……いまは駄目だ。ちょっと取り込んでる」
そこでチロリと、鮫島の視線が自分のほうへと向けられたのを感じた。
「……本当にすぐ済むんだな? 分かったよ。じゃあすぐ行く」
ガシャッ、と乱暴に受話器が置かれる。そして鮫島は部屋を出て行った。
――今のうちに……。
美音子は意識を集中させるべく努めた。抜け出すなら今がチャンスだ。そう頭では分かっているのに、しかし身体がなかなか言うことを聞こうとしない。先ほど体内を駆け巡った官能の嵐が、いまだに小波となって、気怠く全身を覆っていた。
――あんなに……。
あれほどの絶頂は、美音子にとって初めてだった。脳のはるか奥のほう――盆《ぼん》の窪《くぼ》の奥のほうが、いまだにジーンと痺れている。……これが本当の絶頂だとしたら、自分は今までいったい、何を悦びと感じて来たのだろうか。
あの今までにない究極の悦びが、単なる薬物的な反応によってもたらされたということに、美音子は今、大きなショックを受けていた。……丁寧な愛撫の重なりによって、などではなく、ましてや心理的な情愛の念などとは全く無関係に、単なる薬物への反応という形で、いまだかつて味わったこともなかった、あの究極とも言える悦びが、もたらされたのだから。
自分の信奉していた世界観が、ガラガラと音を立てて崩れて行くのを、美音子は感じていた。……喜びも悲しみも、そうしてみれば単なる、身体の中における化学反応にしか過ぎないのではないだろうか。両親を失った時のあの喪失感も、獲物を追い詰める〈黒猫〉の悦びも――いや、生に対する執着、死に対する畏れすらも、あの圧倒的な絶頂感の前では、もはや無に等しかった。あの絶頂を味わってしまった人間にとって、それに取って代わる行動原理などといったものが、はたしてあるだろうか。
――ずっとこうしていたい。そうすれば、また鮫島からアレを貰える。
――いや。それこそあいつの思う壺ではないか。
――それでもいいじゃん。
ボンヤリとした頭で、そう考えていた時である――。
パン、パン、という破裂音が耳に響いた。そして誰かの叫び声。
――あれは?
それまでフワフワと浮いていた自分の意識が、スウーッと身体に入り込むような、そんな不思議な感覚があった。聴覚がよみがえる。しん、と静まりかえった部屋の中、ゴウゴウと、外の嵐の音がかすかに聞こえて来た。
パタパタと廊下を誰かが近付いて来る。そして――。
バタンとドアが開き、入って来たのは鮫島であった。顔は蒼白で、目は虚ろに剥かれていた。そして白衣にはベッタリと赤い色が散っていた。
「あぐ……こ、この……」
身を翻して、部屋のドアを閉めようとする。チィー……と微かな音がしていて、見ると赤い液体がその身体から細く噴出していて、銀色のドアに弾けていた。
鮫島がドアを鎖ざすよりも早く、それは外から勢い良く開けられた。反動で鮫島がゴロゴロと、床を美音子のほうへと転がって来る。
そして戸口に立っていたのは――蛭川だった。
風の咆哮が夜を切り裂く。ザザザッと建物に降り注ぐ雨の音。
その戸外の掠しげな音が嘘に思えるほど、生徒会室の中は異様な熱気に包まれていた。
(あれが……ジャック)
優子はあまりのおぞましさに目を閉じ、顔を背けた。麻里亜派の性奴たちによって、身体の自由は奪われている。
「あなたも仲間にしてあげる……」
誰かが優子のTシャツを脇の下までグイとたくし上げた。別な誰かがスウェットパンツと、そして下着も一緒に、一気に足首のところまで引きずり下ろした。熱い夜気が、肌を直に撫でてゆく。性奴たちの輪の中で、優子は見世物にされていた。己の裸身をこんなふうに晒されるなんて。
(見ないで……)
と、その時――。
ガチャリと異質な音がした。ハッと少女たちが息を飲む気配。優子は目を開けた。
(誰か入って来た……?)
優子には彼女を取り押さえている少女たちの身体が壁となり、見通すことができない。
シャッと戸口のカーテンが開けられて――。
「あっ、テメエら――」
琴美の怒気の混じった声が飛んだ。優子の手足を押さえていた少女たちも、手を離して腰を浮かす。優子は急いでパンツをたくし上げ、自分の裸身を隠した。
先頭に入って来たのは青木冴子で、続いて斉田未知留ら椎奈の親衛隊の四人がゾロゾロとなだれ込んで来るのが見えた。狭い室内に、麻里亜派の少女たちと、椎奈派の少女たちが対峙する。
パタンとドアの閉じる音がして、椎奈派の少女たちのつくる人垣が割れ、そして最後に入って来たのは――
(シイちゃん!)
「何をしてらしたの、沖野さん」
冴子が嘲りの口調でそう言った。
「それはいったい何?」
麻里亜派の少女たちの立ち並ぶ脚のその向こうに、椎奈の姿が見える。優子はハッと息を飲んだ。椎奈の視線が、自分の姿を捕らえたのを確認したのだ。その顔が歪む。
(シイちゃん……)
「何て破廉恥な恰好をしてるのかしら? ねえ、椎奈さま」
親衛隊の誰かの声。
「うるせえ。テメエらみんなただじゃおかねえ!」
「おい、青木。おまえだって昔は同じ事してただろう!」
「何すましてんのさ」
麻里亜派の少女たちが口々に叫んで、戸口の椎奈派の少女たちに向かって歩を踏み出した。そこへ、
「――待って」
透き通るような椎奈のひと声。麻里亜派の少女たちは足を停め、室内の空気は一気に緊張の度を増した。
「そのジャックはニセモノだわ――」
「――椎奈さま!」
冴子が留めようとするのを、ひと睨みで黙らせて、そして椎奈は続けた。
「――本物はここにいるわ!」
戸口には蛭川が立っていた。
「おや、これはまた、珍しいところでお会いしますね。たしか鈴堂さん……でしたよね」
その顔がニタリと嫌らしく崩れる。どうやら笑顔を見せたつもりらしい。
「またこれはそそる恰好をしておられる。……鮫島先生が何をしてたか、ちょっと興味を惹かれるところですね」
そう言って、ずいと部屋の中へと踏み込んで来る。
美音子は自分の足のあたりに倒れたままの、鮫島の様子を窺った。彼はぐったりとしたまま、ピクリとも動かない。その身体を中心として、血溜まりが刻一刻と広がっている。
――この男を死なせてはいけない。
美音子は意識を集中させた。両腕は背中で縛られ、両足首もきつく縛られている。下半身は裸に剥かれ、穿いていた下着、タイツ、革のホットパンツはみな脱がされて、足首のところに丸くなっている。
プン、と火薬の焦げる匂いがして、見ると、蛭川の手には拳銃が握られていた。――トカレフだ、と美音子は見て取った。蛭川の顔には残忍な表情が浮かんでおり、細縁眼鏡の奥の目は大きく――彼にしては――見開かれていた。口元が終始動いており、どうやら何事かをブツブツと呟き続けているようだ。
「……シイナさま。……シイナさま」
その様子は、まるで正気とは思えない。
――気を付けなければ。
助かるためには――蛭川の気を逸《そ》らすためだったら、自分のこの恥ずかしい恰好も、利用できるものならば利用しよう……そう美音子は思っていた。男として、この自分の淫らな姿を見れば、きっと欲望を感じるはずだ。もうこうなったら、この身体が蹂躙されようが何をされようが、いっこうに構わない。その隙を突いて、この縛めさえ解くことができれば……。
蛭川は美音子を見下ろした。視線がぶつかる。
美音子はその目の中に、相手の心の動きを探った。そして息を飲んだ。――何も無い。
蛭川の心の中には、何も無かった。美音子の剥き出しの下半身を見ても、その心には何の感興も訪れてはいなかった。
蛭川の右手が上がる。照準が美音子の頭部へと合わさる。そして――
美音子は思わず目を閉じた。
パン、という炸裂音が室内に響いた。
「何だって!」
椎奈のひと言に、麻里亜派の少女たちは激しく動揺した。と同時に、青木冴子も狼狽《うろた》えていた。
「――どういうことなの、それは?」
琴美のその問い掛けが、また室内の空気を鎮める。
「説明するわ」
椎奈はそう言い、ずいと一歩、前へと踏み出た。
「麻里亜さまが亡くなられたあの晩――五月八日のあの晩、私は冴子に案内されて、麻里亜さまの部屋に行ったの。そしてそこで、ジャックの洗礼を受けたのよ。みんなと同じように、ね。
ジャックは私の中に入って来られた。そして私は洗礼を受けて、気を失ったの。でもその直後、麻里亜さまは、様子がおかしくなられた。そして私たちが繋がっているところから血が噴き出して――冴子は最初、私があそこでジャックを噛み潰したんだと、そう思ったらしいわ。フフフ。そうじゃないの。ジャックはその時、麻里亜さまの身体を離れて、私の中へと移って来られたんだわ。
そうして、麻里亜さまはお亡くなりになったの。私はじきにジャックを操れるようになった。冴子は私のジャックを独り占めにするつもりで、あなたたちにはそのことを報せなかった。私は冴子ひとりを相手にするのに飽きて、他の子たちに――この子たちね――この子たちにも手をつけた」
「嘘だ、そんな――。ジャックは麻里亜さまのものだ。そう簡単に、人に移るとか、そんなものじゃない」
「あなたたちはジャックが、麻里亜さまの身体から生えていたものだと、今でもそう信じているのね。あれが寄生虫のようなもので、女の身体から身体へと移り住むことができるということを、信じないのね……。いいわ、じゃあ見せてあげる」
椎奈はそう宣言すると、後ろにいた斉田未知留たちに何やら耳打ちした。親衛隊の四人は頷き、そして麻里亜派の少女たちの横を抜けて、優子の前へと立ち塞がった。
(何……? 何をするつもり……?)
優子は少女たちを見上げて、ゴクリと唾を飲んだ。しかし少女たちの目的は、ただその場に立ち尽くして、優子の視界を塞ぐことにあったらしい。
やがて人垣のむこうから、おおっ、というどよめきが聞こえて来た。
「ああ……ジャック!」
琴美の声が、感ここに極まれりという感じで、そう叫んでいた。
激しい爆発音が響いた。
チュイーンと、美音子の右の耳元を、何かが掠《かす》めて飛んで行った。火薬の焼ける強烈な匂いが鼻を衝く。
「ぐはっ!」
蛭川の声だ。そしてガシャンと、床に何かが落ちる音。……美音子は強く閉じていた目を、恐るおそるといった感じで開けてみた。
顔から上半身まで、血で真っ赤に染まった男が、狂ったように踊りを踊っていた。胸のあたりにあてがわれた右手には、拳銃のカケラのようなものが握られている。――銃が暴発したのだ。相当な粗悪品だったのだろう。暴発のショックでシリンダーまわりの部品が真後ろに弾け飛び、散弾の弾のように散って、頭部から胸部までを直撃したのだ。
やがて蛭川は、ドウと床にくずおれた。ぴちゃっと血飛沫が美音子の顔のあたりめがけて飛んで来て、除ける間もなく、それは鼻のあたりに貼り付いた。生暖かくどろどろとした感触で、当然のことながら、血の匂いがプンとした。
激しい嫌悪を感じたが、美音子は構わないことにした。素早く行動を起こす。
まずは両腕の縛めを解くことから始める。身体を俯《うつぶ》せにして、両膝を折り曲げて、縛られた両手で足首の衣類を探る。革パンツのポケットに無事、ナイフは納まっていた。それを抜き出し、刃を起こすと、手首をやや窮屈な角度にねじ曲げながら、何とか手首を縛っていた紐を断ち切る。両手が自由になると、まず着衣を正してから、次に足首の縛めも解く。
フラフラと立ち上がったところで、美音子は改めて、床に転がっている二人を見下ろした。
鮫島はどうやら、死んでしまったもののように見えた。ピクリとも動かない。血の気を失ったその端正な顔は、美音子にはなぜか、愛おしい彫刻品のように思えた。
そう――考えてみれば、彼のあの歪んだ、狂気の研究のその裏には、十六年前に自殺した青年、青野トオルへの、一途な愛があったのだ。
彼は本当の意味で、人から愛されたことがなかったのだろう……。
一方の蛭川は、床の上を苦しみにのたうち回っていた。……こいつは助かるかもしれない。しかしなぜ、彼は鮫島を撃ったのだろう。
――シイナさま。
彼の呟きが頭の中によみがえる。……そうだ。蛭川のレポートにあった、麻里亜が死んだ後に、学院の中で新しく女王然と勢力を伸ばし始めた少女――つまりは鮫島の見立てによれば、麻里亜からあの生き物を引き継いだ少女――が、高橋椎奈という名前だった。そして三浦聡美が、街で蛭川の車に乗っているのを見掛けたという少女――それも高橋という名だった。おそらくは同じ少女だったのだろう。
蛭川はおそらく、その高橋という少女に籠絡されたのだ。
あの液は――美音子を絶頂へと導いたあの液は、冷凍庫の中のあのペニスの化け物から抽出したものだと、鮫島は言っていた。ということは、それと同じ生き物である――百合亜から麻里亜へと移り、そして今では高橋というその少女の体内にいるらしい――ジャックという生き物にも、同様の液を分泌する能力があるのだろう。それによって、この蛭川という男は、少女の意のままに動かされる、いわば性の奴隷にされていたのではないだろうか。そしてその少女の命に従って、彼は今夜こうして、鮫島を殺しに来たのだ。
その高橋という少女を放っておいたら、大変なことになる……。
――ジャックの息の根を止めなければ。
美音子はまだふらつく足をどうにか動かしながら、血に染まった部屋を後にした。
「はあっ、頂戴。それを……ねえ。もう何ヵ月も貰《もら》ってないのよ」
琴美が淫らな声でそう懇願していた。麻里亜派の他の少女たちも、口々に同様のことを言っていた。
「頂戴、じゃなくて、下さい、でしょ。……言ってごらんなさい。椎奈さま、どうか下さい、って」
冴子の声に、怒気を含んだ琴美の声が応じる。
「青木――テメエ、偉そうに何言ってんだよ。この何ヵ月か、独り占めしようって、アタシたちを騙してたな。テメエ絶対に許さねえ!」
「――琴美さん」
あくまでもやんわりと、しかし相手をひと言で黙らせる迫力をもって、そう口を挟んだのは、椎奈だった。
「それに他のみなさんも……しばらくの間、待ってて下さい。みなさんには後で、今までの分も含めてたっぷりと、時間をとってあげますから。……でも今は、あの子のことをどうにかしないと……」
優子はハッと息を飲んだ。親衛隊の少女たちに囲まれて、先ほどからの声の主たちの姿は見えなかった。しかしその場にいる全員が、優子のほうへと視線を向けたのが、彼女には分かった。直接には、斉田未知留たち四人の視線がジロリと優子のことを見下ろしていた。
(あの子のことを――って、それって……私のこと?)
ジャックとはいったい何なのか。琴美の装着していたモノはニセモノで、ホンモノは麻里亜から椎奈へと――お腹の中からお腹の中へと、移ったという。
(――洗礼?)
優子には椎奈や、他の少女たちがしている話の内容が全然理解できなかった。……いや、実は彼女には、もう既におおよその察しはついていた。ただそれを認めることを、彼女は先ほどよりずっと拒絶しているのだった。
「ねえ、みんな。……できたら私と彼女のために、ここを二人っきりにしてくれない?」
「そんな……椎奈さま!」
斉田未知留が強張《こわば》った顔をして、戸口のほうを振り向いてそう言った。親衛隊の他の少女たちも、おそらくは怒気によって、身体が一様に強張っていた。しかしその背がしょぼんとなる。
「……分かりました」
「琴美さんたちも」
「……はい」
そして、二ヵ月あまりの長きにわたって対立してきた、麻里亜派と椎奈派の少女たちは、今では肩を並べて、ゾロゾロと戸口から外へと出て行った。
最後に冴子が、優子のほうを恨めしげな眼差《まなざ》しでジロリと睨み、そしてクルリと背を向けると、生徒会室を出て行った。
パタリとドアの閉じられる音。雨は知らぬ間に降り止んだのだろうか、ゴウゴウという風の音だけが、戸外に騒いでいるのが聞こえた。
高い天井からボンヤリと明かりが降り注ぐ、生徒会室の中――その場にいるのは優子と、そして椎奈の、二人だけであった。
椎奈はゆっくりと近付いて来た。その顔には、昨日までのあのよそよそしさはどこにも見られなかった。四月の、入学したてのころの、あの懐かしい笑顔があった。
「……優子」
「シイちゃん!」
椎奈は屈み込んで、優子の身体をその胸へと抱き締めて来た。
「シイちゃん。シイちゃん。私……」
「いいの」
椎奈の体温が感じられる。椎奈の声が耳に優しく響く。
「私、シイちゃんのこと――」
その口を、椎奈の唇が塞いだ。
(――愛してる)
心の中から暖かいものが、後から後から溢れ出してくる。
優子は限りなく幸せだった。
美音子は玄関口を目指した。外に出る時に脇の詰所を覗くと、警備員の制服を着た男が血塗《ちまみ》れになって、倒れているのが見えた。
「あ……」
美音子と視線が合うと、呻きながら片手を伸ばして来たので、まだ意識はあるようであった。もう片方の手には受話器を握っていた。
外に出ると、タイツを穿いただけの足裏に、濡れた地面の感触が直に伝わって来た。一瞬、ブーツを取りに戻ろうかとも思ったが、もうどうでも良くなり、そのまま行くことにした。
有り難いことに、雨は止んでいた。頭上を真っ黒な雲が、もの凄い勢いで流れて行く。
銃声が響いたためであろう。病棟に点る明かりは、美音子が侵入時に見た時よりも、数を増していた。その窓の幾つかには、人影が映っていて、
「あ、おい、こら」
どこかで誰かがそう叫んでいたが、美音子は構わずに外を目指した。駐車場の門の前まで来ると、脇に警備員がひとり立っているのが見えた。
「あ、おいこら、お前……大丈夫か?」
足元がおぼつかなく、美音子はまだヨロヨロとしており、警備員の叫びは最後にはそんなふうに変わって、そして手が彼女を支えようと伸びて来た。美音子はその手首を掴むと、相手の背中へとねじ上げた。
「あ痛たたたたっ!」
「御免なさい」
相手の股間に膝蹴りをひとつお見舞いして、動けなくしておいてから、美音子は門を外へと出た。歩行者がひとり、ヨロヨロとよろめきながら出て来た美音子を見て、何事かと、びくんと立ち止まったのが目の端に映ったが、彼女は構わずミニへと駆け寄り、キーを開けるのももどかしく、飛び乗ると、すぐさまエンジンを掛けて、車を急発進させた。
山手通《やまてどお》りに入ったところで、数台のパトカーが病院のほうへと走って行くのと擦れ違った。おそらく誰かが――あの警備員かもしれない――一一〇番通報を入れたのだろう。
そうだ……と思い付いて、美音子は片手で鞄から携帯を取り出すと、先日教えられた長沼の携帯の番号をプッシュした。真夜中であったが、数回のコールで本人が出る。
「ん……はい、長沼です」
「鈴堂です。今からジャックを掴まえに行きます」
「え……何ですって!」
美音子は簡単に状況を説明した。鮫島病院で発砲騒ぎがあったことは、長沼もたった今、耳にしたとのことであった。
「また無茶なことを……」
諫《いさ》めるように言うが、実はその長沼にしても、警察にはできないような違法な調査を彼女に行わせ、その結果として明らかとなった事実だけを拾い上げようとしていたことは、美音子にも承知のことであった。
他の車にパッシングを浴びせながら、美音子はトップスピードを貫いて、山手通りから甲州街道《こうしゅうかいどう》へと右折した。一瞬、助手席のシートに放りだした携帯を再び手にして、美音子はさらに、ジャックの正体について、説明を続けた。
「そんな……馬鹿な!」
「私はこれから純和へと向かいます。違法侵入をしますので、それを捕まえるために警察が学院に乗り込むことができます」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何もそんな性急に――」
「フォローを期待しています」
そう言って、美音子は通話ボタンを切り、ついでに携帯の電源も切った。
首都高の四号線へと上がり、美音子はさらにミニのスピードをアップさせていた。目指すは、純和福音女学院。――そこに、ジャックはいる。
高橋椎奈という生徒が、もう既に帰省してしまっているという可能性が、チラリと頭を掠めた。だが〈黒猫〉の勘は、まだ彼女が学院内に残っていると告げていた。
西へ。もっと速く。
美音子は前を行くトラックにパッシングを浴びせると、ギアをひとつ落として、そして思い切りアクセルを踏み込んだ。
椎奈はその身を優子からいったん離すと、徐《おもむろ》に、着ていた服を脱ぎ始めた。
「ねえ、優子……お願い」
請われるままに、優子も自分の服を脱ぎ始める。
やがて、風の音が響くその小部屋の中では、二つの白い裸体が向かい合っていた。
優子の目の前には、完璧な美があった。完璧な美の曲線を持った椎奈の身体が、惜しげもなくその全てをさらけ出して、優子の目の前にあった。
衝動の赴《おもむ》くままに、優子は相手の身体へと手を伸ばした。肌を重ね合わせると、肉が撓《たわ》む感触とともに、相手の身体のほんのりとした暖かみが伝わって来た。そしてあの甘酸っぱい香りが、優子の鼻孔を満たし、身体の奥にある何かのスイッチをオンにした。
「はあっ」
思わず息が洩れる。抱き合ったまま、二人は床に転がった。
優子は受け身だった。椎奈の唇と両手が、知悉《ちしつ》しているかのように、優子の感じる部分を的確に責め立ててくる。
「声を漏らしてもいいのよ」
囁きが優しく耳を撫でた。
愛撫は執拗に続けられた。官能に対してはほとんど未開発だった優子の幼い身体は、ほんのちょっとした刺激にも、激しい反応を返した。
(もう……駄目)
彼女は椎奈の手と口だけで、もう到達しようとしていた。そして――。
「ねえ……ジャック」
優子は自然とそれを求めていた。それが何であるか、彼女にはもう分かっていた。それが何のために、椎奈の身体に備わることになったかも。
(私とシイちゃんがひとつになれるようにって、下されたものなんだわ)
椎奈とはやく、ひとつになりたかった。優子がそう言うと、椎奈は動きを止め、そして訊いて来た。
「見たい?」
優子は一瞬びっくりして――そして少し考えてから、コクンとひとつ頷いた。息を整えながら上体を起こす。椎奈は身体を起こし、優子の目の前へと立った。その全身がビクンとひとつ痙攣《けいれん》し、そして例の、甘酸っぱいような懐かしいような匂いが、今までにないほどに濃厚にあたりに漂って――。
そしてそれは、ついに優子の限前へと、姿を現した。
美音子のミニは八王子インターで中央高速を下りた。そのまま街道を、町外れへとひた走る。するとじきに山道へと入る交差点が見えてくる。そこまで来るともう走っている車もまばらで、美音子は赤信号を無視してそこを右折し、街灯も無い真っ暗な山道を、ギアをひとつ落として登り始めた。渓流に沿ってうねうねと上って行くと、やがて左手に『純和福音女学院』と書かれた立て看板が見えてくる。そこを左折し、最後の未舗装の坂道を上ると、ついにヘッドライトの光芒《こうぼう》の中に、学院の校門が見えてくる。
鮫島病院を出てから、まだ三十分も経っていなかった。
美音子はふうとひとつ息を吐いた。ギアをセカンドに入れ、車を校門脇の細道へと進ませる。
常夜灯に照らされて、左手に、前回の訪問時に車を停めた駐車場が見えて来る。しかし美音子は車をさらに奥へと向かわせた。右手から覆い被さって来る熊笹が、車の右側面をバサバサと撫でて行く。道は左に弧を描いていて、さらに進んで行くと、左手に小さな建造物が見えてきた。
これじゃない。……〈黒猫〉は首を振った。これはたぶん、修道女たちの宿舎だろう。さらに車を進ませる。すると喬木《きょうぼく》の向こうにチラチラと、窓の明かりが見えて来る。
美音子は最後のカーブを抜け、そして車を停めた。エンジンを切ると、空の高処から聞こえてくる、ゴウゴウという風の唸り音が強く感じられた。フロントガラスのすぐ向こうには、暗雲たなびく夜空を背景として、大きな建物がシルエットとなって黒々と聳え立っている。
安城由紀が飛び下りたという、尖塔の影が、天をさして不気味にそそり立っていた。
そのシルエットを見上げつつ、美音子は車を降りた。泥土を踏むグニュリとした嫌な感触が、タイツ越しに足裏に感じられた。雨上がりに特有の、ムッとした温気《うんき》が、肌に粘りついてくる。
……ジャックはここにいるわ。
泥土を跳ね飛ばしながら、美音子は玄関へと向かった。闇の中にそこだけがボンヤリと明るく浮かんでいる。段差を駆け上がり、ガラスのドアに手を掛ける。しかし押そうが引こうが、ドアは動こうとはしなかった。
――ロックされてる。
「お願い、開けて! 中に入れて!」
美音子は思い余って、ドアのガラス面を平手でバンバンと叩き始めた。すると玄関ホールの脇にあるドアが開いて、サッと光芒が洩れるのが見えた。続いて中から修道女がひとり出て来る。美音子はそれが、前に学院に聞き込みに来たときに学院長とともに彼女の応対をした、シスター相馬であることを見て取った。
「お願い、シスター、ここを開けて。……ジャックの正体が分かったの!」
シスターはゆっくりと近付いて来た。そうして、学院寮の静寂を破った美音子の行為を咎《とが》めるかのような、鋭い視線を投げ掛けてから、ゆっくりとドアの合わせ目に屈み込み、ロックを解除してドアを開けた。
「何事ですか、いったい。こんな時間に来られても迷惑です――」
悠揚迫《ゆうようせま》らず、といった感じで諭し姶めたのを首を振って遮《さえぎ》り、美音子は勢い込んで話し始めた。
「ジャックの正体が分かったんです、シスター。高橋さん――高橋……椎奈さんという一年生は、いまこの寮におられますか?」
美音子がそう言った途端、シスターの表情は凍りついた。
「高橋――椎奈さん?」
「そうです。彼女がジャックだったんです。……いるんですね?」
相手の反応を是と受け取って、美音子はシスターの身体を押しのけるようにして、寮の中へ入ろうとした。すると――。
「あの方の邪魔をしてはなりません!」
尼僧衣の女はそう叫ぶと、突如として、美音子に躍り掛かって来た。不意を衝《つ》かれ、ハッと身構えた時にはもう遅く、相手の両手は既に美音子の喉へと食い込んでいた。
息が出来ない……。美音子はそのまま、背中からドウと床に倒れ込んだ。シスター相馬は馬乗りになって、さらに強く美音子の首を締め付けてくる。美音子は相手の両手首を掴んで、必死にそれを自分の喉から剥がそうとした。しかしその手は、容易なことでは剥がれようとはしなかった。
……いけない、このままでは殺《や》られる。
そう思った瞬間、美音子の体内を〈黒猫〉の血が駆け巡った。そして最善の対処の仕方のとおりに、身体が本能的に動いていた。……自分の両手を、相手の両腕がつくる逆三角形の中に入れて、両肘を左右にグッと押し開く。すると相手の両手が外れかかる。しかしなおも親指に体重を乗せて、シスターは美音子の喉を押し潰そうとして来る。そこで〈黒猫〉は身体を勢い良く弓なりに反らせて、相手の身体を自分の上から脇へと振り落とした。そこでようやく相手の手が外れて、美音子はゼイゼイと、灼《や》けた胸で呼吸を貪《むさぼ》った。
それにしても、なぜこのシスターは自分に襲い掛かって来たのだろうか……。そう考えながらも同時に〈黒猫〉は、相手の次の攻撃に備えるべく、素早く立ち上がり身構えた。シスターと目が合う。すると、
「きえええっ!」
シスターは奇声を発しながら、また飛び掛かって来た。しかし今度は〈黒猫〉の側にも、相手の動きをよく見て対処するだけの余裕があった。美音子の首を狙って突き出された相手の右腕を左手で抑え、そして同時に、
「はっ!」
気合いとともに、右の掌底《しょうてい》を思い切り相手の顎の下へと打ち込んだ。シスターの身体は美音子の右腰の上でくるりと回転し、そして背中からドウと床に倒れ込んだ。
それから数秒の間があった。相手の身体がピクリとも動かないのを確認して、美音子はようやく手を離し、動悸《どうき》を抑えようと、荒い呼吸の合間にゴクリと唾を飲み込んだ。身体中の毛穴という毛穴から、ドッと汗が吹き出してくる。……そこでようやく美音子は、相手がなぜ自分に襲い掛かって来たかという疑問について、考えるだけの余裕ができた。
留守電に入っていたシスターの声が頭をよぎる。
――ジャックの件なんですが。
――私はこれからその生徒に話を聞いてみるつもりです。
生徒に話を聞きに行って……。
――あの方の邪魔をしてはなりません!
そして、この哀れなシスターはおそらく、ジャックに穢されてしまったのだろう。あの蛭川教諭と同様に、ジャックの、性の奴隷にされてしまったのだ。
そして、ジャックは――高橋という生徒は、まだこの寮にいる。
――どこに?
――塔。
それは直感だった。
ゴウゴウという風の音が虚ろに響く寮の中を、〈黒猫〉はヒタヒタと音も無く駆け抜けて行った。
10
挨っぽい部屋の中で、二人の少女は白い裸身を絡み合わせていた。
「好き……シイちゃん」
そう言って優子は、完璧な美しさを体現した相手の身体へとむしゃぶりつく。女性として、ではなく、人間として、椎奈の身体は完璧であった。美しい顔、しなやかに伸びた四肢、張りのある胸の膨らみに、柔らかな曲線を重ね合わせたボディライン……。そうした、少女が本来持っていたものに、さらに付け加えられた男性のモノ――。
――ジャック。
それが少女の身体に付け加わったことによって、椎奈はもはや性別を越えた、超越者として、優子の前に顕現していた。
「じゃあ……いいね、優子?」
椎奈がいったん身体を離してそう訊ねてくる。優子はコクリと頷きを返した。そして優子の両脚は大きく拡げられて――。
「はうっ」
閉じた口からも思わず声が洩れてしまう……それはゆっくりと侵入して来た。
心ではもう既に受け入れていたのに、優子の未開な部分は最初、その侵入を拒もうと働いた。しかし椎奈はじっくりと時間をかけて、優しく、そして力強く挑戦を重ね、そしてついに優子の壁を越えて、中へと入って来た。
「あっ!」
ピリッと痛みが走り、優子はその痛さに思わず声を上げていた。その時――。
身体の奥で熱いものがはじけた。それまでの愛撫によってもたらされていたものとは、比べものにならないほどの快感が、瞬間、優子の全身を貫いた。そのショックで背を弓なりに反らし、優子は腹上の椎奈ごと、身体を宙に跳ね上げた。
意識がふわりと宙を舞った。全身が燃えている。熱く、高ぶっている。グラグラと煮え立っている。全身が沸騰《ふっとう》している。
(これが……)
性的に達するというのがどういうことなのか――優子はその瞬間、身をもって理解していた。
脳が融《と》けた瞬間、もはや痛みは消え、快感だけが身体を支配していた。そして気がつけば、ジャックの侵入は、彼女の一番奥まで達していた。そして優子を組みしだいている椎奈は、ハッ、ハッ、と荒い息を吐きながら、ゆっくりと身体を前後に動かし始めた。その動きとともに、優子の中に入っている熱いモノが、奥を押し広げては後退して、刺激を与え続けている。
(椎ちゃんと今、ひとつになってる……)
そして――。
「ウッ」
椎奈が小さな呻きを洩らすのと同時に、優子の身体の奥でも、また先ほどと同じ熱いものが放出されていた。その熱は瞬時に、背筋から彼女の後頭部までの間を、駆け抜けて行く。
「ああぁ……」
思わず叫び声が洩れる。その背筋を駆け抜けた快感の波は、そのあと、ひたひたと四肢の先にまで至って、そうしてしばらくの間は、優子の全身を包んでいた。
ひと仕事を終えた椎奈は、優子の中に硬さを残したまま、ぐったりとしなだれかかって来た。肌と肌が接し、呼吸と呼吸が重なる。ゴウゴウと二人を包み込む、風の音。まどろみにも似た、それはかつて無いほどの幸福であった。
(一生ずっとこうしていたい……)
優子は、ともすれば途切れそうになる意識の中で、そう願っていた。
11
ほの暗い寮の階段を、音も無く駆け上がって行く、ひとつの影――。
嵐の過ぎた夜の空気はねっとりと、〈黒猫〉の身体に絡みついてきた。汗に濡れた前髪が額に貼り付いている。しかし今の彼女には、そうしたことの全てが意識の外であった。自分がいま獲物を追い詰めつつあるということ……女性の敵を、いや、人類の敵を、今まさに自分が追い詰めようとしているということ……。〈黒猫〉の頭の中にあるのは、今はそれだけであった。
三階……四階……。各階の踊り場には驚いたことに、月明かりが窓の形となって落ちていた。流れる風が暗雲を払い、束《つか》の間《ま》覗いた月光が窓を照らしているのだ。そうして床に描かれた平行四辺形の中には、縦横の窓の桟《さん》が歪んだ十字架となって落ちている。
その矩形《くけい》を踏んで踊り場を折れ、五階のフロアに達しようかというその時、美音子は耳聡く物音を聞きつけて、歩を止めた。物音は階段のさらに上のほう……塔の入口のあるあたりから聞こえてくる。
衣擦れの音。そして、何やら喘いでいるような、激しい息遣い。そして呻き声。
そうした中に、叱責の囁き声が混じる。
「ちょっとあんたたち……なさいよ。一般の……っているんだから……」
「だって……さまのジャック……」
「……我慢できない……」
ヒューヒューと夜を劈《つんざ》く風の音に紛れて聞き取り難いが、そんな声も混じっている。まだ大人になりきれていない少女たちの声だ。喘ぎ声の主も加算して、どうやらそこには十人前後といった、大人数がたむろしているらしい。
おそらく、ジャックによって性の奴隷となった少女たちなのだろう、と〈黒猫〉はその集団の正体について見当をつけた。洩れ聞こえてきた会話の内容からすれば、彼女の侵入を承知しているわけではなさそうだが、結果的に少女たちは〈黒猫〉の獲物である、高橋という少女をガードしていることになる。
さて、どうしたものか……。
逡巡《しゅんじゅん》したのは束の間であった。不意を衝けば、小娘の十人程度、何とかなるだろう……そう意を決して、〈黒猫〉は階段を駆け上がった。踊り場で身を転じると、少女たちが美音子の姿を見てハッと驚いているのが目に入って来た。
「な……」
「誰?」
そこには予想どおり、十人を越える少女たちがたむろしていた。驚いたことには、大半の少女が全裸もしくはそれに近い、しどけない恰好をしていて、ある少女は自分で自分の身体を慰めており、またある少女たちはお互いの身体を貪《むさぼ》り合っていた、そのままの姿勢で、階段を駆け上がって来る美音子のことを、目を丸くしてただ見ている。
「高橋って子はどこ?」
美音子が足を停めてそう叫ぶと、少女たちはそこでようやく場の状況を把握したのか、弾かれたように一斉に立ち上がった。しかし自らの痴態を取《と》り繕《つくろ》おうともせず、敵意を剥き出しにした目で、揃って美音子のほうを見返して来る。
「あんたは誰? シイ……高橋さんに何の用?」
スラリとした肢体に服をちゃんと纏った、理知的な顔立ちの少女が、集団からずいと一歩前に出て、そう訊ねて来た。
「掴まえに来たのよ。私たちの敵の……ジャックを」
美音子がそう言葉を返すと、少女たちの面《おもて》にまた驚愕の色が走る。
「てめえっ!」
先ほどまで階段の途中で自慰をしていた少女が先頭に立ち、
「きえええっ」
二、三人の少女が同様に奇声を発しながら後に続いて、美音子のほうへと駆け下りて来る。誰も武器になるようなものは持っていない。
「ぎゃっ」
先頭に立っていた少女は、両足首のところに脱いだ衣類を絡ませていたため、〈黒猫〉が何をする間もなく、勝手に足を取られてバランスを崩し、美音子の脇を転げ落ちて行って、踊り場の床にドスンと大きな音を立てて倒れ込んだ。
「てめえ、よくもやりやがったな!」
続いて飛び掛かって来た少女をひらりとかわす。階段での戦いにおいては、上にいる側から攻撃を仕掛けて来た場合には、下にいる側が防御をするのは意外に簡単なのである。〈黒猫〉は少女たちの足を集中的に狙った。次々に下りて来る少女たちの蹴りを避け、足を取って、ぐいと下に引く。すると少女たちはバランスを失って、階段をゴツンゴツンと音を立てながら、踊り場まで転げ落ちて行く。そうして少女たちを捌《さば》きながら、〈黒猫〉は一歩、また一歩と階段を上って行った。
そしてあと二段。その上には、ちゃんと服を着た四人の少女が身構えており、そして先ほどの理知的な顔立ちをした少女が、右手の通廊の奥にあるドアを連打しながら叫んでいる。
「椎奈さま、変な女がジャックを掴まえに来たと……。お逃げ下さい!」
ジャックはあのドアの向こうにいる……、そう思って一瞬、気が緩んだ。
「きええーっ」
四人組のうちの二人が同時に飛び掛かって来て、〈黒猫〉はハッと身を沈めたが、少女たちは左右から美音子の襟元を掴んでいた。自分たちが階段を落ちるのも構わず、そのまま美音子を道連れにしようとする。
「ちっ!」
背中から階段に強く叩きつけられる。右手で咄嗟《とっさ》に手摺の桟を掴み、それ以上の転落は何とか阻止した。と、そこへ、残りの二人組が飛び掛かって来る。〈黒猫〉は身を捩り、少女たちの体重の乗った足による攻撃をかわした。そのまま後ろに一回転して、何とか立ち上がる。強打した背中がズキズキと痛んだ。
ハッと気配を感じ、足を後ろに跳ね上げる。その踵《かかと》は、後ろから彼女の足を掬おうとしていた少女の顔面に、思い切りヒットしていた。グエエエッ、と恐ろしい叫びを残して、相手は階段を飛び越し、踊り場に折り重なる少女たちの上に墜落する。それを横目に、蹴上げた足をそのままにした状態で、身体を回転させて、横の少女の胴をなぎ払う。
「うっ……」
鳩尾《みぞおち》に入ったらしく、少女は息を詰めて身体を丸め、そのままゴトリと倒れた。残る二人には左右の掌底を、それぞれの顎に入れる。
「ぐっ……」
白目を剥いて、二人は相次いで〈黒猫〉の足元にくずおれた。そのまま階段をずりずりと滑り落ちて行く。
美音子は階段の最後の数段を上がった。呼吸を整える。全身に吹き出した汗が黒衣を濡らし、それが雫となってポタポタと床に落ちている。正面のドア――おそらくは屋上に通じているのだろう――の向こうからは、ゴウゴウと吹き荒ぶ風の音が聞こえている。どこか下のほうのフロアで、ドアがパタンと開閉される音がして、パタパタとスリッパの音が近付いて来る。美音子たちの格闘の音に起こされた一般の生徒だろうか。
最後に残った相手は、通廊の奥のドアを背にして立っていた。先ほどの理知的な顔立ちの少女であった。その少女が身構えるのを見て、〈黒猫〉は相手に武術の心得があるということを覚《さと》った。どうやら今までのように簡単には行かないらしい。〈黒猫〉は慎重に間合いを詰めて行った。緊張する空気の中に、階下から階段を上って来るスリッパの足音が近付いて来て、
「キャーッ!」
踊り場に折り重なった裸の少女たちを目にしたのだろう。驚愕の悲鳴が階段ホールの高い天井に響いて、それが〈黒猫〉と少女との間の緊張を破る契機となった。
「ハッ」
というひと呼吸で、少女は技を連続して繰り出して来た。右の前蹴り、右手の突き、そして意表を突いた左脚での後回し蹴り。〈黒猫〉の判断は的確だった。前蹴りを膝でかわし、突きは体側を流しながら手刀で外し、回し蹴りは身を沈めて――そして相手の軸足を思い切り横に払った。
「ギャッ!」
少女は蹴上げた脚を通廊の手摺に載せたままバランスを失い、前傾した身体を支えるために、両手をペタンと床についた。無防備な後頭部が目の前に曝《さら》される。〈黒猫〉はその首筋に、手刀を思い切り叩き込んだ。
ウッ、と呻き声を洩らして、少女はその場にくずおれた。そのままピクリとも動こうとはしなかった。失神したのだ。
美音子は呼吸を整えながら、その身体をしばらくの間、見下ろしていた。ややあって、後方を振り返る。そこにあるのは累々《るいるい》と築かれた、少女たちの身体の山であった。意識を失った者もいれば、意識はあるものの打撲で身体が動かない者もいて、痛みにウーウーと唸っている。あるいは骨折している者もいるかもしれない。……しかし構うことはなかった。雑魚《ざこ》に用は無い。彼女の獲物はジャックただひとり――。
そして美音子は、ドアのノブへと手をかけた。
12
優子の陶酔は物音によって破られた。
風の音ではない。それはドアの外、階段ホールのほうから聞こえて来た。少女たちの叫び声、そしてドスンバタンという、何やら複数の人が争っているような物音。
椎奈の身体が優子の上で、ビクッとひとつ痙攣した。
「……どうしたのかしら、ねえシイちゃん? またあの人たちが?」
「違う。ついに来たんだ、優子。……敵が」
「敵? ……あっ」
椎奈は素早かった。優子の中からニュルッと抜け出すと、すっくと身を起こす。その股間にはもうジャックの姿は無かった。普通の女の子の身体へと戻って、キョロキョロとあたりを見回している。
「ねえ、敵って……?」
優子はいまだ混乱したままの頭で、そう訊ねた。
「……分からない。おそらくヒルの奴がしくじったか何かしたのだろう」
「ヒルって? ……蛭川先生のこと?」
優子もそう問いながら、慌てて身を起こす。不穏な空気が室内に満ちていた。椎奈を見ると、彼女は凜とした厳しい顔つきをしていた。
優子は再びわけが分からなくなっていた。
(敵……って?)
自分たちが、本来ならば許されない関係を結んだのだ、ということは分かっていた。生徒会(性奴会)の少女たちも、同様の関係を麻里亜や、あるいは椎奈と結んでいたのだということも……あるいはそれを強要されながらも神意を貫こうとして、安城由紀という生徒が去年の冬に自殺したのだということも……あるいはジャックというのが何なのかということも……あるいは麻里亜の死が、ジャックがその身体から椎奈の身体へと移行したことによって、引き起こされたのだということも……。
そうした、優子を今まで悩ませていた問題の全てが、いったんは解決され、そして彼女はついに椎奈の愛を獲得した。ジャックを持つ椎奈を、安城由紀のように嫌うことはなかった。それを美しいとさえ思った。そしてこれからは、何にも悩まされることなく、椎奈とこうした関係を続けて行ける……はずであった。
なのに〈敵〉とは……。いったいどういうことなのだろうか。
ドアの外からは相変わらず、少女たちの叫び声や、その肉体が階段を転げ落ちているらしい物音などが聞こえて来ていた。……と、ダンダンダン、とドアが外から強打される音がして、優子はハッと息を飲んだ。
「椎奈さま、変な女がジャックを掴まえに来たと……。お逃げ下さい!」
冴子の声がそう叫んでいる。優子は息を詰めたまま、椎奈の顔を見た。
椎奈の目には悔しそうな色が浮かんでいた。顔を歪め、唇を噛み締めている。……それでいて、彼女は相変わらず美しかった。
「シイちゃん……」
「優子、わたしは行くよ」
椎奈はそう言うと、サッと身を翻し、ドアとは反対側にある螺旋階段へと取り付くと、それをタッタッと足早に駆け上り始めた。鉄板の隙間から、その白い裸身がどんどんと上に上って行くのが、チラチラと見て取れる。
「待って、シイちゃん……」
優子も慌てて後を追おうとした――その時であった。
背後で不意に、生徒会室のドアが開けられた。澱《よど》んでいた空気がふわっと動く。ハッとして優子が振り向くと、
(……誰?)
開け放たれたドアの前に立って、優子のほうを見詰めているのは、黒衣に身を包んだ大人の女性であった。最初、優子はそれをシスターのうちの誰かだろうと思った。しかし次の瞬間、そうではないということに気づいた。……学院の中にいる誰かではない。でもどこかで見た覚えがある……。そして優子は、その女性がいつの日か、保健室のベッドから垣間見たことのある、朝倉麻里亜の縁者だと言っていた、あの猫顔の綺麗な女性なのだということに、気づいていた。
視線が合うと、相手が訊ねて来た。
「……あなたが、高橋さん……?」
その声には、どこか当惑したような色が混じっていた。しかし次の瞬間、優子の答えを待たずに発せられた次の声には、確たるものがあった。
「違うわ……。上にもうひとり、誰かがいるのね!」
その女性がそう言った瞬間、パタンという音が頭上から降って来た。と同時に、ゴオオッと激しい風が、唸りとともに上から吹き込んで来た。その風に煽られて倒れそうになり、優子は慌てて螺旋階段の手摺へとしがみついた。黒衣の女性は風圧に顔を背けながら叫んだ。
「待って! ……ジャック」
優子が必死に目を凝らして上のほうを見上げると、階段の隙間から見える椎奈の白い裸身は今まさに、ポッカリと矩形に空いた階段の出口から、塔の展望台へと這い出ようとしているところであった。
(シイちゃん……)
そうして天井を見上げている優子の目の前を、すっと黒い影が過《よぎ》った。
(あっ……)
女性は優子を突き飛ばすようにして、はや階段を昇り始めていた。
「シイちゃん、逃げてっ!」
優子は叫ぶと、自分も黒衣の女性の後を追って、慌てて螺旋階段のステップを駆け上がり始めた。上を見ながら昇って行くと、じきに世界はグルグルと回り始めて来る。それは酩酊を誘い、優子は束の間、意識を混濁《こんだく》させていた。
(シイちゃん……)
何のために昇っているのかを忘れ、もはや自分が階段を昇っているのかどうかすら、定かではなくなってくる。
永遠に続くかと思えた世界の回転であったが、それもやがて止まり、いったんは見えなくなった女性の身体が、半回転先に見えて、優子はやっと自分を取り戻した。そうして気づけば優子は、階段の螺旋部分を昇り終えていた。
昇り終えた部分は半円形のステージ様になっていて、そこから垂直に鉄製の梯子が上へと伸びている。梯子は、腕を伸ばせば最上段の横棒へと手が掛かる程度の高さしかなく、もう黒衣の女性は出口から外へと這い出してしまっていた。優子も後に続く。段に足を掛けてひょいと頭を覗かせると、出口はその縁が一段高くなっていて、展望台の床面は目の高さよりも下に見えている。
(シイちゃんは……?)
「ここにいる。……優子」
「シイちゃん!」
椎奈は展望台の東側の障壁の前に立っていた。塔の屋根は真っ暗に塗り込められていたが、吹き抜けの部分から覗かれる空には、もの凄い勢いで流れて行く暗雲の隙間から月の光が射しており、椎奈の見事な裸身を背後から照らし出していた。展望台の床面には、異様な長さに引き伸ばされた彼女の影が貼り付いて、蠢《うごめ》いている。
そして黒衣の女性は――椎奈の言うところの〈敵〉は――それと正対するように、出口を出てすぐのところに立っていた。
(シイちゃんを守らなければ……)
優子は慌てて出口から外へと這い出した。立ち上がると、途端に薙《な》ぎ倒《たお》さんばかりの強風が、裸の肌に激しく突き当たって来て、彼女は少しよろめいた。
遠くから、サイレンの音が聞こえて来る。風によって途切れ途切れにしか聞こえて来ないのだが、その音はだんだんと大きくなって来ているようであった。
(まさか、警察……? この人も……?)
黒衣の女性は、優子と距離を置くようにして離れ、そして椎奈に向かって声を掛けた。
「高橋さん……。おとなしく、私の言うことを聞いて」
その声に切迫したものを感じて、優子はハッとその顔を見詰めた。風に髪を乱されて、そうして覗いている女性の顔には、悲痛な色が貼り付いていた。
「ジャックは……この世にいてはいけないものだわ。これ以上、被害を増やしてはいけない……」
「なら、どうしようって言うの?」
椎奈の声は吹き荒ぶ風の音にも負けず、凜としてその場に響いた。
「私を助けられるとでも言うの? あと七ヵ月後には、この身体はジャックを――」
そこで声の調子が急に変わった。
「――こいつはオレを吐き出そうとする。だからオレはまた別な女の身体に移る――」
黒衣の女性はそれを聞くと、ハッとした顔つきをした。
「ジャックね! いえ、まさか……。そうなの? ジャックが、喋っているのねっ!」
女性は相手から一歩その身を退けた。天空の月の前を暗雲が幾つもよぎり、展望台の舞台はそれにつれて、暗くなったり明るくなったりを繰り返していた。
「……この女を救うことはもう出来ない」
変に嗄《しゃが》れた声が、椎奈の口から漏れている。そしてその顔がニタリと笑った。背にした障壁の上に置かれた両手に、グイと力が込められて、そして椎奈の身体はそのまま、不自然に持ち上がった。そうしてこちらを向いたまま、障壁の上に腰を掛けた姿勢となる。
その顔がまた不自然に歪んだ。
「――だから残された時を、どうして好きにさせてくれないの?」
絞り出されたその声は、ふたたび少女のものとなっていた。椎奈の声である。
(シイちゃん……)
優子は声を発することができなかった。身体を動かすこともできない。まるで金縛りにでもあったかのような状態で、そうして舞台の上で繰り広げられる出来事を、ただ単に見詰め続けることしか出来なかった。
黒衣の女性がまた一歩前に踏み出して、風に負けないようにと叫ぶ。
「待って。……まだあと七ヵ月もある。きっと何か方法が見つかるはずよ。あなたを死なせずに、ジャックを何とかする方法が……」
「嘘よ。そんなこと出来ないって、私自身が知ってるのよ」
黒衣の女性と正対していた椎奈の視線は、そこで優子のほうへと向けられた。
「――サヨナラ、優子。……愛してる」
優子はハッと息を飲んだ。
「高橋さんっ!」
黒衣の女性が叫んだ。そして――。
それはまるで、悪い夢のようであった。先ほどまで椎奈の裸身が座っていた、東側の障壁の上には、もう何も無かった。吹き抜けの四角の枠いっぱいに、地獄の空こそさもあらんというような、暗雲たなびく天空の画《え》があり、それ以外には何も無くて……。
「シイちゃん……」
その一瞬、嘘のように風が止んだ。先ほどまでの天を劈くような音が、全く聞こえなくなった。替わりにサイレンの音が、やけに近くで鳴っているのが聞こえた。そしてまるで計ったかのように、その瞬間、はるか足の下のほうから、グシャッ、という音が聞こえて来た。
その画と音が、最後に知覚されたものとなった。音は消え、目の前が暗転して――。
そして優子は気を失った。
13
美音子は失神した裸の少女をそのままにして、塔を降りた。生徒会室を抜け、自分が倒した少女たちの山を越えて、階段をひたすら下り、シスターが倒れている玄関ホールを抜けて……そして地上へと出た。
少女の死体のまわりでは、ちょっとしたいざこざが起きていた。
「可哀想です。ちゃんと安置してさしあげないと――」
「現場を保存するのが、我々の仕事です」
事が全て終わってからようやく駆け付けた警官たちが、現場を保存しようとしているのに、食ってかかっているのは、黒衣のシスターたちであった。先頭にはいつか美音子も相対した、学院長のマザー江田が立っている。
美音子が近付くと、そのいざこざはいったん休止した。
「あなたは――」
「誰なんですか?」
「おいコラ、返事をしろ、返事を」
「おい、お前がこの子を突き落としたのか――」
双方の怒りの鉾先《ほこさき》が自分へと転嫁されたのを、ボンヤリと意識しながら、彼女は割れた人垣の隙間から覗く少女の全裸死体へと、ゆっくりと近付いて行った。
泥濘《ぬかるみ》と化した地面の上で、それはクタリと横たわっていた。近くの壁には、激突の際に跳ね飛んだと思われる泥の飛沫が、汚れとなってこびりついていた。そのまま上のほうを見上げる。蔦《つた》の絡まる壁面の続くそのずっと上方に、尖塔がシルエットとなって空に聳えている。東の空にあった月は今は姿を消しており、天は昏く渦巻いていた。
美音子の頬を涙が伝った。
「おい、コラ、返事をしろ」
警官のひとりが美音子の腕を掴んだ。それを振り払う気力も無く、彼女は相手のなすがままに任せた。
――全ては終わったのだ。
美音子の態度を怪しいと睨《にら》んだのだろう。もう片方の腕も誰かによって掴まれた。そして足首も――
――足首?
「キャーッ!」
少女の死体を取り囲んでいた人垣が、パッと散った。マザー江田は泥濘を這って逃げている。修道女たちは尻餅をついた姿勢のまま、一様に顔の前で十字を切っている。
美音子の両腕を掴んでいた警官たちも、その手を離し、意味不明な言葉を口から洩らしながら、我先にとその場から逃げ出していた。
美音子の足首を掴んでいるのは――それは少女の手であった。泥に半分汚れた少女の白い手が、美音子の足首をギュッと握っている。その力は恐ろしく強いもので、美音子は激痛に思わず顔を歪めた。
だが、まだ事態が把握できていない。この少女は――死んだはずなのに。
――しかし少女は動いていた。
その右手は美音子の左足首を掴んでおり、左手も獲物を求めて蠢いている。……美音子は思わず右脚を後ろへと引いた。……少女の両脚も動いている。伸ばされていた脚を身体のほうへと引き寄せ、膝を揃えてお尻を浮かせて、何とも奇妙な恰好となった。
「ハ、ハハハ……」
美音子は笑った。お腹の底から笑った。何とも可笑しかった。実に可笑しかった。
――いけないっ。
崩壊しそうになっていた自分を何とか取り戻す。それでも恐怖の裏返しである笑いは、どうしても止まらなかった。美音子は爆笑しつつ、心底から恐怖していた。
少女の左手が、美音子のパンツを掴む。アッと思った次の瞬間、足首を掴んでいた少女の右手は、今度は美音子のTシャツの裾を掴んでいる。
そうして掴んだ部分に全体重を掛けられて、美音子は蹌踉《よろめ》いた。代わりに少女の身体がゆらりと持ち上がる。
頸は折れて、もはや座らないもののようであった。肩の上で左右にグラングランと揺れながら、しかしその顔面では、生あるもののように表情が動いていた。
瞼《まぶた》をしきりにパチクリとさせていて、その中で黒目が左右に揺れている。顎を上下に動かして、口を人形のようにパクパクさせている。
「ぎ……ぶぇ……」
くぐもった声らしきものを何とか発した、その口からは、次の瞬間には汚い液が泡となって、ブクブク、ダラダラと吐き出され、少女の顔面を汚した。その飛沫が自分の顔にもかかり、その嫌悪感から美音子はようやく、少女の両手を自分の身体から引き離そうとした。――しかしそれは、容易には離れようとはしなかった。白魚のような少女の指は、まるで鋼で出来ているかのように、Tシャツにしっかりと食い込んでしまっている。
美音子は後退《あとず》さった。少女はそれに引きずられて、足を一歩前に運ぼうとした。その歩が着地した途端、脚は途中で不自然な角度にくねりと曲がって、傷口からは白い骨が突き出した。……折れているのだ。
そうして少女の下半身は、泥の上へとくずおれた。ペチャンと音がして、飛沫が上がる。――しかし美音子のTシャツを掴んでいる手は離れない。全体重を懸けてグイと下に引かれてバランスを崩し、美音子は泥土に膝をついた。
そこで〈黒猫〉はようやく気づいた。――ナイフだ。
パンツのポケットからそれを取り出し、刃を起こして、美音子はまず少女の手の甲にその刃を突き立てた。ずぶり、という嫌な感触が、柄を握る右手に伝わって来る。――しかし何も変化は起きなかった。少女の右手は相変わらず、美音子のTシャツの裾《すそ》を掴んでいる。
そこで彼女はナイフをいったん引き抜くと、今度は自分のTシャツへとその刃を立てた。相手が掴んでいるすぐ上の部分を、思いきり切り裂く。刃先が肌を掠め、ズキリと痛んだが、それもものとはせずに、美音子は必死の思いでTシャツに刃を入れ続けた。やがて少女の掴んでいた生地が裂け、片腕が泥に落ちた。
もう片方の手は革のパンツの裾を握っている。美音子は今度はベルトを外しにかかった。手がうまく動かない。何とかそれを外し、ファスナーを開けて、そうして美音子は這いずるようにして、少女が掴み続けている革パンツから、両脚を抜き去ることにようやく成功した。
転げるようにして、その場から逃げ去る。
そうして距離を空けて振り返ると、少女の死体はなおも四肢を動かし続けていた。そのまま目を離すことができずに、見続けていると――やがてその身体は、不意にゴロンと仰向けとなった。そして、両脚が大きく左右に広げられて――その股間から――
「キャーッ!」
パッと血飛沫《ちしぶき》が宙に舞った。そしてその赤い霧の中、少女の秘裂が大きく開き、そして中から赤黒い、ヌルヌルとしたものが這い出すのが見えた。先端の突起はまるで鎌首であり、泥土の上を身をくねらせて進むさまは、まるで蛇のようであった。宿主であった少女の死体は、もはやピクリとも動こうとはしない。操り主がその身体を見捨てたからだ。
――ジャック!
その先端は今や、だらしなく広げられた少女の両膝の間あたりにまで達していた。そして少女の秘部から、尻尾の部分がニュルンと吐き出される――その尾部だけは、蛇とは違った造形をしていた。握り拳よりもやや小さいぐらいの瘤《こぶ》があり、そこから剛毛がモジャモジャと生えている。さらにそれより先には、吸盤のようなものがあった。胎児の胎盤に相当する役割を果たす部分なのだろう。そしてその吸盤ようの部分から――これこそが本当の尻尾と言えるだろう――血塗《ちまみ》れになってはいるが、元来は透明であるらしい、極細のテグスのようなものが束となって、だらりと垂れていた。
そうしてその醜い身体を曝すと、ジャックはその身をクネクネと踊らせて、泥濘の上を泳ぎ始めた。美音子はそれから目を逸らすことができない。尾部の、毛に覆われた瘤の中に、ギョロリと白く光る部分があった。それは――目だった。
白い中に黒目があって、それがジロリと美音子のほうを睨んだ――美音子はそれを目にした途端、激しい嘔吐感に見舞われ、身体を二つ折りにして、思い切り胃の中のものを吐き出した。
嘔吐感は後から後から、美音子の身体を襲った。その度に彼女は腹部を抑え、喉の奥から出てくるものを吐き出した。そうしてひとしきり嘔吐を終え、ようやく目を開けると、すぐ目と鼻の先に――ジャックが居た。
美音子は間近にジャックと相対していた。
その先端は――男の部分とほぼ同じ形をしていた。今はその鎌首をもたげていて、ちょうどペニスが勃起したような角度で見えている。……それを目の当たりにして、美音子の心の中では、感情が激しく渦巻いていた。
嫌悪――それは当然ながらあった。嘔吐を催すほどに、それは醜かった。そして美――不思議なことに美音子は、その形を醜いと思うと同時に、美しいとも感じていた。恐怖――それは宿主を必ず死へと誘う、恐るべき寄生虫であった。そして愛――。
鮫島に薬を注入された時に感じた、あの途轍もない高揚が、身体の奥でよみがえる。あれはこの生き物から採取されたものだという。この生き物は――ジャックは、おそらく性交している相手に対して、精液のかわりに、あれを発射するのだろう。
それが今、目の前にいる。目の前で鎌首をもたげて、次なる宿主を求めている。……美音子は自分の中に芽生えた激情に、瞬間、目が眩《くら》んだ。右手の中には刃を立てたままのナイフが握られている。……天秤《てんびん》の針が左右に振れた。そして――。
美音子は右手を振り上げ、ナイフの刃をジャックの胴体へと思い切り突き立てた。刃はズブズブとその身体を貫通して、地面まで深々と突き刺さった。
ピューッと目の前に血飛沫が上がる。
身体を串刺しにされたジャックは、激しく跳ね回った。そのたびに血がピュッ、ピュッ、ピュッと宙に舞い、そして段々と身体から張りが失われて行って――。
やがて気がつけば、ジャックは醜く萎《しお》れて、動かなくなっていた。あたりには濃厚な血の匂いに混じって、何だか美音子を懐かしい気持ちにさせる、甘酸っぱいような不思議な匂いが漂っていた。
遠くから――ようやく応援が駆け付けて来たのだろう――長沼警部かもしれない――パトカーのサイレンの音が響いて来るのが、美音子の耳に届いた。
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エピローグ
美音子が警視庁での取り調べから解放されたのは、七月二十五日の明け方のことであった。
池袋の鮫島病院で起きた、高校教師・蛭川|裕太《ゆうた》による、鮫島敏郎の射殺および警備員への傷害事件、そしてその直後に起きた銃暴発事故……殺人および傷害事件の犯人である蛭川は、その暴発事故で重体となっていた。
さらに同夜、八王子の純和福音女学院高等学校で起きた、高橋椎奈の全裸飛び降り自殺事件。そして同校でそれと前後して発生した、シスターおよび女生徒十数名に対する連続暴行事件……。
二十二日の深夜から二十三日の未明にかけて、表向きにされたものだけでも、これだけの事件が連続して発生したのである。
鮫島病院で起きた事件に関しては、美音子は目撃者の立場にあった。蛭川が鮫島を撃った件に関しては、同様に蛭川に撃たれて重傷を負い、そのまま病院に収容された警備員が、鮫島殺しが蛭川の犯行であることを証言してくれていたので、彼女は最初から容疑の圏外に置かれていた。蛭川が重傷を負った銃の暴発に関しても、現場の状況がそれを証明してくれていた。彼がその時に美音子を射殺しようとしていたという点についても、どうやら納得してもらえた模様であった。
その現場を後にする際に、彼女が警備員に対して暴行を働いた件に関しては、どうやら不問に付されるもののようであった。……実際、それどころではなかったらしい。
そして純和での、高橋椎奈の自殺に関しては、塔の展望台で倒れているところを保護された少女――坂本優子が、美音子の証言を裏付けてくれていた。
そういったわけで、死者や重傷者が出た事件に関しては、美音子はあくまでも目撃者であるという立場を確保できたのだが、そこで問題となったのは、彼女が純和の寮でシスターや少女たちに対して働いた、暴行に関してであった。彼女たちに対する傷害罪については、美音子は容疑者であり、そして自らその容疑に対して有罪であることを認めていた。
しかし長沼警部を始めとした、一連の事件に対して警視庁内に急遽《きゅうきょ》設けられた特別対策本部の捜査員たちは、美音子をそうした容疑において、取調室に拘束していたわけでは決してなかった。彼らが問題としていたのはあくまでも――ジャックについてであった。
鮫島敏郎は、いったい何をしでかしたのか……。捜査員たちは、鮫島自身の殺害現場となった研究所の問題の部屋から、彼が〈J〉と呼んでいたものに関する研究資料を、既に押収していた。その分析結果は、美音子が鮫島から聞いた話だとして証言をした、その内容とも合致していた。ことここに至るに及んで、捜査員たちは一様に困惑することとなった。
鮫島の作り出した〈J〉が――厳密に言えば〈J〉の出来損ないが――純和でどのような騒ぎを引き起こしたか……それは美音子の証言の他、事件直後に保護された少女たちの証言からも、もう既に明らかとなっていた。そして鮫島の研究ノートによれば、〈J〉はちょっとした体外受精の設備さえあれば、技術的にはほとんど誰にでも簡単に作ることが出来る程度のものだとのことであった。問題は倫理面での抑制が働くかどうかという点にだけあるのだという。
倫理面での抑制――それは決して期待できるものではなかった。そもそも、男同士で子供を作るという鮫島の狂った発想からして、そうしたことが実際に可能なのだという情報が公のものとなったあかつきには、国内の(あるいは世界の)どこかに第二、第三の鮫島を生み出すであろうことはほぼ確実であった。そして万が一、少女たちから〈ジャック〉と呼ばれていた、あの生き物に関する情報が、公のものとなったら……。
それがどんな恐ろしいものだと、美音子や長沼たちがいくら強調したとしても、それを自分の手で産み出したいという妄想に駆られる研究者は、きっと出現するだろう。たとえば、鮫島の研究室から押収した、〈J〉の出来損ないから採取したというあの媚薬――あの薬のもたらす劇的な効果ひとつを考えただけでも、〈ジャック〉を再び産み出すという愚行を研究者たちに行わせるに足るだけの、経済的な効果が、そこには見込まれていた。〈ジャック〉のことが公となれば、そうした愚行を犯す愚か者は、きっと出て来るに違いない。
だからこそ捜査員たちは苦悩していたのだった。〈J〉あるいは〈ジャック〉に関する情報を、ありのままに公表することは出来ない。それらは最重要国家機密として、封印されてしかるべき事項なのであった。しかし全てを知ってしまった美音子を始め、〈ジャック〉のことを知ってしまった(ばかりか、その性の餌食とされてしまった)学院の生徒たちや、その姿を目撃してしまったシスターたち、地元署の警察署員たち、そして現場検証に駆り出された、八王子病院の近藤医師など……そういった人たちの口をどのようにして封じたらいいのか――。
そして既にマスコミによって公とされてしまった、純和の教師による鮫島敏郎の射殺事件、純和での新たな自殺、そして純和の女生徒たちに対して行われた傷害事件……。こういった、もう既に表向きとされてしまった、純和女学院に関する諸事件の真相についても、彼らは筋の通った説明をすることを要求されていた――。
美音子が丸二日の間、警視庁に拘束されている間に、捜査員たちはそういった問題に直面して、頭を悩ませていたのであった。
そして、美音子が取り調べから解放されるに当たって、長沼警部から申し渡された事項があった。
「あなたは今回の一連の事件には、全く関係していなかった。……そういうことにします。そして事件は次のように公表されることになりました。よく憶えていてください。まずは鮫島ですが……彼はあの研究棟で、強烈な作用をもたらす幻覚剤を製造していた……ということにする……ことになりました。
そして蛭川は、鮫島からその薬を横流ししてもらっていて、それをかなり以前から学院の生徒たちの間にバラ撒いていた。その痛烈な幻覚作用によって、生徒たちは集団幻想を見ていた。……ここまではいいですね。
そして薬の売買に関してトラブルが起き、蛭川は鮫島を殺しました。それと同時に、学院では女生徒のひとりが幻覚剤の作用によって、飛び降り自殺を図りました。……これが今回の一連の事件の真相……なのです。いいですね。よく憶えていてもらいたい。これが、我々があなたを解放するにあたって守ってもらいたいと思っている、条件なのです」
「稲垣家の事件については……どうなるのです?」
美音子は思わず訊ねていた。長沼の愛想の良い顔に、苦悩の色が走る。
「それは……現状のままとします」
「私は……依頼主に調査結果を報告する義務があります。それでは済まされません」
「では……どうしろと?」
「私は、調査で明らかとなったことを、ありのままに依頼人に報告したいと思います」
美音子がそう言い張ると、長沼は悲痛な面持ちとなった。
「それは……なりません。この件は、誰にも明かしてはならないのです」
「大丈夫です」
美音子は確言した。学院でジャックと相対したあの時――彼女は直観的に埋解したのだ。その生き物の正体を。……その生き物が古来より、何と呼ばれてきたのかを。
その正体を告げさえすれば、朝倉剛蔵も事件に関して、口を噤《つぐ》まざるを得なくなるだろう……。
「私の依頼主は決して、私のもたらす調査結果を他へ洩らすことはいたしません。……それは彼らにとって、およそ外聞を恥じるような内容となるはずですから」
二十五日の朝、三日ぶりに自宅に戻った美音子は、留守電に予想通り、朝倉剛蔵からのメッセージが入っているのを確認して、苦笑を漏らした。前週までの報告で名前の上がっていた鮫島敏郎と蛭川裕太という二人が、死亡あるいは重傷を負うという事件が発生し、一方で純和女学院でも、女生徒の自殺や傷害事件が発生しているという、そうしたマスコミの発表を耳にして、彼は〈黒猫〉に事の真相を明らかにせよ、とメッセージの中で切に訴えていた。
彼女は疲れていた。死ぬほど疲れ切っていた。飢えてグッタリとしていたジャムに餌を与えながら美音子は、もう今日は眠りたい、一日中グッスリと眠って、疲れを癒やしたいと、そう切に願っていた。
しかし浴槽に湯を張って、数日分の疲れと汗を充分に洗い流した後、美音子はふたたび黒衣を纏い、〈黒猫〉の姿となって、そうして若干の調べ物を済ませると――調べ物は書斎にあった画集で用が足りた――依頼人からの要望に応えるべく、再び自宅を後にしたのであった。
報告書は作らなかった。最初から作るつもりもなかった。それは文書の形で残すべき内容ではなかった。
美音子は朝倉家の応接室に通されると、報告を口頭で済ませなければならないことをまず詫《わ》びた。そして、おそらくは話の内容に耐えられないだろうからと、淑子夫人を部屋に入れないこと、そして以降も、事の真相を夫人に伝えないことを、相手に確約させた。
そして美音子は説明をした。……ジャックとはいったい何だったのかを。
「そんな……馬鹿なっ!」
朝倉剛蔵はその正体を耳にした途端、まるで自分が侮辱されたかのごとくに、ソファから立ち上がり、美音子を怒鳴りつけた。
「――最後までお聞きください」
相手の反応は充分に予測がついていた。美音子は冷ややかにそう言うと、話を続けた。二十二日の夜から二十三日の未明にかけて、鮫島病院と純和女学院で起きた事件の説明をし、そして最後に付け加える。
「――で、ご依頼の件なのですが。……稲垣裕明さんを殺害したのは、結局、あなたのお嬢さんの百合亜さんの仕業でした。そして麻里亜さんを妊娠させたのも――ジャックを移したのが妊娠と呼べるならば、ですね――それも百合亜さんの仕業でした。そして麻里亜さんは同じ寮の女生徒たちを次々と犯し――安城由紀さんを自殺に追い込んだのも、彼女の仕業でした――そうして悪事を重ねた後に、天命を全うしたのです。……報告は以上です」
「待て! そんな……そんな言い方は無いはずだ」
剛蔵は激昂《げきこう》していた。……美音子の予想どおりに。
「あんただって知ってるはずだ。あの子たちがなぜそんなことをしでかしたかを。あの子たちは――あんたの説明を信ずれば、だが――そのジャックとかいう生き物に操られていたんだろう。あの子たちのしたことは、決してそんなのは本心から望んでいたことではないと、それはあんたにも分かっているはずじゃないか。なら何でそんなことを言う!」
美音子はソファの上で姿勢を正した。
「……今回のご報告をお聞きになって、朝倉さん、あなたはどうなさるおつもりですか?」
「もちろん、事の全てを公にする」
剛蔵は厳然として言い放った。
「その……ジャックとやらのことを明らかとせずに、どうして娘たちの汚名が晴れようか」
「それは困るのです」
美音子は長沼から聞いた、捜査員たちの抱く懸念を説明した。
「……というわけで、今後、同様の過ちを人々が繰り返さないためにも、今回の一連の事件の真相は、闇に葬るしかないのです」
「そんなのは――許されんことだ。……あの子たちに罪は無い。それをそうと知りながら、汚名を着せたままにするなどとは――」
「百合亜さんの事件は、真相は不明のままとなります。……麻里亜さんの事件にしたって、まあ、警察の言う〈幻覚剤〉を使用していたということにはなるでしょうが、それにしたって同罪の少女たちは大勢いることだし――」
「そんなのは何の慰めにもならん!」
「――彼女たちの実際の姿よりは、幾分かはマシな形でコトが納まるのですから」
「実際の姿……だと? それはいったい何のことだ?」
剛蔵はバンと平手でテーブルを叩いた。その反響が静まると、しん、と一瞬の静寂があたりを支配した。
美音子はひとつ深呼吸をして、話を始めた。
「唐突ですが……朝倉さん。あなたは悪魔について、どのように思われます?」
「悪魔……?」
それは剛蔵にとって、あまりにも予想外な話の展開だったに違いない。彼は当惑の表情を隠さず、逆に美音子に質問を返して来た。
「それはいったい何の意味だ?」
美音子は相手の問いを無視し――その前の自分の問いに対する相手の答えも待たずに、話を進めた。
「これは釈迦に説法となるかもしれませんが……。悪魔の外見については、色々な解釈があります。山羊《やぎ》の顔を持ち、背中には猛禽類《もうきんるい》の羽、獣の身体に竜の尻尾を持ち、足には蹄《ひづめ》がある、などというのが、例えば悪魔のひとつのイメージとして、宗教画なんかに描かれていたりもします。……まあ、お聞きください。
ですが、悪魔の性別については、どうでしょう。……これは天使にも共通する話なのですが、そういった、天使とか悪魔とかといったものには、性別というものが無いと、一般的にはそう解釈されているんだそうですね。例えば天使ですが……あの羽を生やして、頭に輪っかを載っけている……たとえばキューピッド、ですか? たとえばあれにも普通、股間には男性のモノは付いていませんよね。では女性かと思えば、そうでもない。胸の膨らみを持っていませんし……。要するに天使というのは、そうした、中性的な存在として認識された生き物なのです。
そして悪魔というのも、元々は天使の仲間だったと言われています……。したがって性別を持たないものだという点においては、天使と同様に扱われます。しかし同様に中性的な存在だとは言っても、両方の性の特徴を持たないという天使の場合とは逆に、悪魔の場合には、その中性的なという部分が、両性具有という形で表現される場合があります。……たとえば一般的な、山羊の頭に獣の胴体、というような画の場合にしても、ですね。その胸には乳房があり、しかも股間には男のモノがあるというような……そんな画として、悪魔は描かれている場合があります。
要するに悪魔とは、両性を具有する者の謂《い》いではないかと。つまり、〈ジャック〉を宿した女性のことを、昔のひとは〈悪魔〉と呼んでいたのではないでしょうか」
「馬鹿な!」
剛蔵は興奮のあまり、唾を飛ばして叫んだ。
「きさまは、きさまは……俺の娘たちを、こともあろうに悪魔呼ばわりする気か!」
そこでやや頭が働いてきたのか、声のトーンをぐっと抑え目にして続けた。
「そもそも、そんな大昔に、その〈ジャック〉とやらが作られていたとでも言うのか。そんな馬鹿なことは、君も有り得んことだとは承知しているだろう。……何千年も前にそんな、体外受精などということが行われていたわけでもあるまいに」
「体外受精はたしかに行われてはいなかったでしょう。……でも、そうした人工的な方法とは無縁に、全く自然な受精の結果として、ああした、YY型の組み合わせが生まれる場合も、実は全く可能性が無いわけではないのです。
えー、説明しますと、ですね……。お聞きください。
精子には、X染色体を持つものと、Y染色体を持つものとの、二種類があります。卵子というのは、基本的には一個の精子しか受け付けないようになっているのですが、ごく稀には、ひとつの卵子に二つの精子が潜り込んでしまうような場合があります。その場合、受精卵は三倍体となって……要するに、たとえば人間の場合、通常は四十六本の染色体数なのですが、そうした、精子が同時に二つ潜り込んで出来た受精卵の場合には、三倍体ですから、染色体を六十九本も持つ、いわゆる染色体数異常の受精卵が出来てしまいます。で、これだと普通は育たないのですが、ても中には、三つある二十三本セットの、どれかワンセットが捨てられて、残りの四十六本の染色体で、うまく育つ場合があります。その時に、卵子の中に元々あった二十三本セットが捨てられてしまえば、精子ふたつの染色体だけで――つまり遺伝子だけで、受精卵が出来ます。そしてその精子ふたつが、両方ともY型だったら、YY型となります。
ただし、それだけではまだ条件が不足しています。その二つの精子が、一人の男性から放出されたものだとしたら――その場合には単為生殖の形になってしまうので、受精卵は育ちません。だからひとつの卵子に同時に潜り込んだ、その二つのY型の精子は、それぞれ別な男性からのものでないといけないわけです。つまり、ひとりの女性が連続して、複数の男性と交わった場合に限るわけです。
さらに考えてみますと、そうして複数の男性と交わった場合にしても、その二人の精子が同時にひとつの卵子に潜り込む場合というのは、よく考えてみますと、それこそ滅多《めった》に起こらないことなのじゃないかと思えてきます。……精子の元気の良さには、個人差があるそうです。だからいくら、くだんの女性が複数の男性と交わったとしても、ですね。……その複数の男性から精を受けたとしても、卵子に到着する一番、二番といったところは、普通は同じ男性の……つまり複数の男性のうち、一番元気のいい精子を持っている男の、ひとり勝ちになると思うんですよ。それが、一着が男A、二着が男Bと、違った男の精子が一着二着を争い、そして同着で、両方がひとつの卵子に潜り込む……なんてことは、それはもう、ごく稀にしか起こらないことでしょう。
そもそも、過去のどんな社会においても、通常は一夫一婦制、あるいは一夫多妻制であり、したがって、ひとりの女性はひとりの男性としかセックスをしない、というのが、どんな社会においても、モラルとして女性には求められて来ました。ですから、ひとりの女性が複数の男性と連続して交わるっていう話からして、そもそも、稀《まれ》にしか起こり得ない事だったんです。
しかし、その確率は全くのゼロではありません。ある女性が複数の男性と相次いで交わり、そして、それぞれ違う男から出た精子二つが、ひとつの卵に潜り込んで、しかもその二つの精子はともにY型で、そして卵子の持っていた染色体が捨てられ、精子二つの染色体が合わさって受精卵の核となる……その可能性も、決してゼロではありませんし、そしてそれは過去のどこかで、実際に起きたんですよ。そしてあの生き物が、人工的にではなく、自然の、天然のものとして発生したんです」
美音子は、警視庁での取り調べの合間に近藤医師から聞き出した、そうした可能性について、ひとわたりの説明を終えた。剛蔵はじっと黙って話を聞いていたが、美音子の説明が終わったと知って、
「それが……?」
いったい何なんだ、というふうに、首を左右に振る。
「要するに、過去において、そういうふうにして、今回の〈ジャック〉のような、あの生き物が、天然自然のものとして、誰かのお腹の中に発生したことがある……そして昔の人はそれを見て、今で言う〈悪魔〉の概念を生み出したのではないかと、そう言っているのです。
傍証として、たとえば悪魔崇拝とか、あるいは黒ミサとかいうものでも、考えてみましょうか? そうした儀式においても、どこかそうした、事実の影響というものが窺える部分があるのです。ああした悪魔崇拝には――私はよくは知らないのですが――たいがい、乱交セックスというのがつきものになっている、というイメージがあるじゃないですか。で、それは彼らが、知識として、そうした乱交によって、悪魔が生まれる確率が高くなるという事を、知っていたからではないかと、そう私は思うのです。
あるいは、魔女狩り……魔女裁判を例にとってもいいと思います。まず思うのは――どうして魔女なのでしょうか。どうして魔男ではないのか。……魔男というのも変ですね。いえ、それはどうでもよくて、問題はどうして、仮想的な存在の〈悪魔〉というものが、人間社会の中に実体化した時に、常に女性の姿となって現れるのか、という事なのです。それは実際に、女性の外見を持ちながら、その体内にあの寄生生物を宿している者がいたからではないでしょうか。……魔女が跨《また》いでいる箒《ほうき》の、あの柄の部分は、いったい何の象徴なのでしょう」
「うっ!」
剛蔵は呻き声を洩らした。その面には驚愕の色が貼り付いている。
「それに、どうして教会は、あんなふうに徹底的に……、もっと言えば非人道的に、魔女狩りをしていったのでしょう。ちょっとでも疑いを持たれたら、もう言い逃れるすべは無かったと言われています。疑いのある女性を拷問にかけて、それで自分が魔女ですと認めたら、火炙《ひあぶ》り。あるいは拷問されても認めなければ、こんな拷問に耐えられるのは魔女の証拠だといって、火炙り。そこまでして……つまり、裁判官たちだって、そのほとんどが実は魔女なんかじゃないって事は、承知していたはずです。それなのにそこまでしたって事は、それだけ彼らが、その中に紛れているかもしれない本物の魔女というものを、真剣に恐れていたっていう事にほかならないと、私は思うんですよ。
とにかく、今回の事件を通して、私たちはあの〈ジャック〉という生き物の恐ろしさを、身に染みて痛感させられたわけです。それから考えれば、昔の魔女裁判の非人道的な行われ方にしても、納得が行きます。とにかくアレは、ひとりの女性からまた別な女性へと、次々と移り棲んで、そしてその宿主たちを次々と死に至らしめて行くわけですからね。……さらに言えば、被害はそればかりではなく、まわりの女性たちにも及ぶわけです。まわりの女性たちを次々と奴隷にして行く――今回の女の子たちの言葉で言えば、〈性奴〉にして行くわけです。そうすると、女性が減り、あるいは男性が女性から相手にされなくなって、ひいては社会の基盤をも揺るがしかねない。だからあそこまで、徹底的に排除しようとしたのだと考えれば、納得が行くわけです。
そしてもうひとつ。……聖書の『創世記』の物語に、楽園追放のエピソードがありますが……。アダムとイブの物語ですね。アダムとイブ……それはすなわち、男性と女性の象徴だと考えられます。……さて、その物語において、女性――イブを誘惑する動物がいましたね。悪魔の化身とも言われている、その動物がいったい何だったか……。朝倉さんはもちろん、それが何という動物だったかは、ご承知のことでいらっしゃいますね?」
美音子はそう質問を発して、言葉を切った。剛蔵はややあって、掠れ声で答えた。
「――蛇」
「そうです」
美音子は満足の笑みを洩らし、そして話を続けた。
「私はクリスチャンではありませんし、ですからもちろん、聖書の全てを正しいと信じる……ファンダメンタリスト、ですか? そうした者でもありません。ですが、ああした神話のような話を、では全て創作かと言われると、そうではなくて、実はその中に何らかの事実――と言うか、当時の出来事のようなもの――が、寓話《ぐうわ》として描かれている……寓意が込められている場合があるんじゃないか、というようなことは思っています。
で、問題の、楽園追放の物語なのですが……それによると、楽園には人類最初の男女である、アダムとイブがいるわけですね。そしてそこにヘビが登場する。で、このヘビっていうものなんですが、ここで登場するヘビというのは、実は今、私たちが言うところの、あのニョロニョロとした蛇ではないわけなんですよね。……朝倉さんはもちろんご承知のこととは思いますが、いちおう説明をさせていただきますと――そう、まさにその物語の、イブをそそのかしたというその罪に関して、神罰が下り、そしてヘビは今のような、ニョロニョロとした地を這う生き物に姿を変えられてしまったんですよね? ……ですからその罰を受ける前……イブをそそのかした時のヘビの姿形は、ではどんなだったのだろう、っていう問題がまずありまして。
聞くところによると、いま私が言った、ヘビの元の姿、ですか……、これはまさに、キリスト教の、聖書の研究家たちが……つまり専門家たちが、古来より問題としてきた点のひとつなのだそうですね。……そもそも、他のけものたちは喋れないのに、ヘビだけがイブに話し掛けられたという点からしてが、不思議だという……。そしてイブがその姿を見て、怖がらなかった、という点を考え合わせると、それはイブに近い姿形をした……つまり人間の女性に近い姿形をした、生き物だったのではないか……という考え方が、ひとつあるそうですね。たとえば、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画として描いた、『アダムとイブの原罪と楽園追放』という絵には、上半身が普通の女性で、下半身だけが蛇のようにとぐろを巻いた生き物として、その神罰を受ける前のヘビの姿が描かれていたりもします。
そこで私は考えたのですが、聖書の楽園追放の物語、ですね。それを寓話としてとらえた場合の解釈なのですが……。まずアダムというのは、そういう名前のひとりの男性がいたというのではなくて、ある集団の……例えばある村落の、男たち全体を意味していると考えます。アダムというのは、その象徴なわけですね。話を簡略化するために、単数にしたのだと思います。で、イブも同様です。その集落の女性たちのことを意味しています。で、彼ら、彼女らが住んでいたその集落が、楽園というわけです。
そしてそこに、ヘビが登場します。アダムがXYの男性の象徴であり、イブがXXの女性の象徴であるということを考え併せますと、そのヘビという生き物こそは、人間の第三の性……つまりYYの、あの生き物――というか、あの生き物を身籠もってしまった、ひとりの女性の象徴だと、私は思うのです。今の蛇の姿に貶《おとし》められる、その前の姿というわけですからね。イブにも似ていたという……。そしてヘビは――すなわち、あの生き物を身籠もった女性は、まわりの女たちを誘惑し、〈性奴〉にした。……ヘビにそそのかされて、イブが禁断の木の実を食べてしまったというのは、その誘惑を喩《たと》えた話なのです。そして神はお怒りになり――昔だから、この神はイコール男性、すなわちアダムでもあるわけですね――つまり男たちは怒って、その女性が誘惑の武器として使っていた、その部分を、ついには引っこ抜いてしまった。そうして引きずり出されたその姿が、見た目から、寓話では蛇に喩えられたとしたら……。
どうです? 聖書のあの物語も、今回の事件と照らし合わせて考えてみれば、そんなふうに思えてきませんか? どうでしょう? ……はるか昔に、ある村落で、ひとりの女性のお腹の中に、あの〈ジャック〉と同じ生き物が胎生してしまったのです。そしてその村では、今回純和で起こったのと同様の騒動が起こった。それを寓話化したのが、あの楽園追放の物語なのだとしたら……」
「やめろ! ……もう、聞きたくない」
剛蔵は両耳を抑えると、首を左右に振った。……それも無理ないことだろうと、美音子は自分で話しながら思っていた。
美音子はこう言っていたのだ。……あなたの娘さんたちは二人とも、死ぬ前には、聖書に描かれた悪魔そのものの姿と成り果てて、放埓《ほうらつ》の限りを尽くしたのですよ、と。
「……あるいは、そうした外国の神話ばかりではなく、日本の神話に目を向けてみても、それと同様の話が出て来ます。……日本神話で人類の最初の男女とされているのが、イザナギとイザナミなのですが……要するに、アダムとイブの日本版ですね。
そして彼らから産まれた最初の子が――ヒルコっていうのですが――それが人間の姿形をしていなかったというので、二人はその子を川に流してしまうのです。……そのヒルコというのが、骨の無い子供、という意味なのだそうですよ」
「骨の無い子供……」
剛蔵は目を剥いた。
「……というのは、まあ、こじつけみたいなものですが。……で、どうされます? 警察の意向に従わずに、事の真実を社会に対して明らかにすべきだと思われます? 純和で麻里亜さんに犯された女の子たちを、そう言って社会に公表すべきだと思いますか? 〈ジャック〉の正体を明らかにして、社会のどこかに必ずいる馬鹿者に、その作り方を教えてやり、また同じ悲劇を繰り返させますか?」
美音子はそう言って畳み込んだ。
剛蔵は沈黙した。
事件から一週間後、蛭川裕太は、収容先の警察病院で息を引き取った。
純和福音女学院が夏休みの間に、その経営母体でもあるキリスト教系の某教団は、事態の収拾策を決定した。それによると――
まずはスタッフ。江田園子学院長以下、シスターたちの全員を、他の者と入れ替えること。特にシスター相馬由月については、これを破門とする。
次に生徒たち。薬物に依存し風紀を乱した生徒たちは、これを退学処分とする。……ただし、坂本優子については、それが他の生徒たちによって強要されたものであること、本人に更正の意志があること、そして熱心な信者であることを鑑《かんが》みた結果、処分からは除外されることとなった。
また再発防止策として、嘱託教諭はすべて解雇されることとなった。これによって教師陣はすべて、キリスト教信者の中年女性へと刷新された。
――という内容は、教団始まって以来の不祥事という汚名に対処すべく、必要以上に世に大きく喧伝された。
それに対する世間の評価はさまざまであった。そうしたものに効果は無く、名門校の名も地に落ちたものだとする見方も厳然としてあったが、一方で教団のそうした対処を潔《いさぎよ》しとし、名門の名の陰で秘かに蝕まれていた膿部を、今回の事件とそれに対する厳しい対処とが全て吐き出させた、したがって学院は今まで以上に清廉なものとなったとする好意的な見方もあった。
そして夏休みが明け、新学期が始まった時には、教団の経営陣が抱いていた危惧《きぐ》は杞憂《きゆう》に終わり、事件とは無関係だった一般の生徒のほとんどは学院へと戻って来ていた。薬物事件の発覚からはひと月以上が経過しており、マスコミの関心もほとんど招かないまま、そうして山間の学院では従来よりもひっそりと、修道女と女生徒たちの生活が営まれて行くこととなった。
時は流れる。
学院の喬木はその葉を紅黄に染め、それを秋風が摘《つ》んで地に敷きつめた。冬は都会よりもひと足はやく訪れ、降誕祭の前夜には雪が積もった。年明けの厳しい冷え込みの中を息を潜《ひそ》めて耐えている間に、やがて雪は溶け、そして木の芽が萌えて――。
そうして、半年が過ぎていた。
事件の後も学院に残って、風聞にじっと耐えていた三年生たちは卒業し、そして在校生たちもそれぞれ、数日後には進級しようという、三月も終わりのある日のこと。
学院は春休みに入っていた。その休み明けにはまた、定員いっぱいの六十名の新入生たちとともに、今度は事件で退学処分となった生徒たちの穴を埋めるべく、転校生も幾人か編入されて来るという。そうしたわけで、学院の秩序は回復されつつあるというのが、おおかたの見方であった。
そしてそれを裏付けるかのように、校門脇の古木も例年と変わらず、他の木よりもひと足先に、桜を開花させつつあった。
坂本優子はその桜を、万感の思いを込めて見上げていた。……一年前、彼女はこの同じ桜の下を、高橋椎奈とともに潜って、そうして全てが始まったのであった。
空は澄み渡り、暖かい午《ひる》の陽射しがあたり一面に平和に降り注いでいる。木々の梢では鳥が囀りを交わしている。
優子はスキップをしながら校門を潜り、そして坂道を駆け下りて行った。
その日の午後。
坂本優子の姿は、鈴堂美音子の家にあった。二人は夏の事件を契機に、お互いに識り合うこととなったのであった。
優子はベッドの脇に跪《ひざまず》き、横たわっている美音子の顔を、心配そうに、じっと見詰めていた。
「どうですか? お姉さま」
優子が声を掛けると、美音子は眉間に皺を寄せて、首を振った。
「駄目。どうしたらいいのか、分かんなくて……」
「焦らないほうがいいと思います。私も最初は、うまくできませんでした」
優子の右手は、美音子の剥き出しの下半身、股間の辺りに添えられていた。年上の女性に対しているというのに、優子のその手は、腹痛の子供のお腹に添えられた母親のそれのように、優しく宥《なだ》めるように、ゆっくりと動いていた。丘の柔らかい茂みが、サリサリというその独特の感触を、優子に伝えている。
「破水はあったんですよね」
「ええ。今朝」
美音子は仰向けに寝そべったまま、子供のようにコクリと首を動かして頷いた。優子は自分の右手の先にある、美音子の秘密の部分を、チラと眺めやった。その指を亀裂に沿って動かすと、美音子は口を微かに開いて、
「あ……」
吐息のような喘ぎを洩らした。優子はそれを耳聡く聞きつけ、再び美音子の顔を見る。相手の恥じらいの色を浮かべた目は、優子を求めていた。
「欲しい……?」
優子がそう訊くと、美音子は一瞬ためらい、そして小さく頷いた。優子はそれを確認すると、指の動きを徐々に大きく、速くし始めた。それにつれて、美音子の声にならない喘ぎも、次第にピッチをあげてゆく。呼気が荒くなり、胸の上下動が激しくなって、美音子はもう我慢できないというふうに、背を反り返らせて、浮かせた腰を自分から動かし始めた。
「優子ちゃん、もう、駄目。欲しい……」
美音子が喘ぎながら、そう求めて来る。
優子の欲望も、高まっていた。そこでいったん手を離して立ち上がり、ぐったりとした様子の美音子を見下ろす。そして優子は手早く自分の服を脱いだ。肌理《きめ》の細かい肌に覆われたその白い裸体が、露わとなった。
優子の身体は半年の間に、著しい成長を遂げていた。子供みたいに貧弱だった胸は、今や誇らしげに大きく膨らんでおり、肉が薄く骨張って見えていた下肢や腰のあたりにも、女性らしくふっくらとした肉がついている。
ベッドの美音子もそれを見上げながら、気怠そうな動きで、その上半身を覆っていた黒い服を脱ぎ、裸となった。
全裸の女性ふたりが、甘い視線を交わす。
優子はゆっくりと、ベッドに上がった。相手の女性の身体の上に覆い被さり、そしてゆっくりと体重をかけてゆく。熱い肌と肌が、重なり合う。
そして優子は時間をかけて、美音子の感じる部分を責めていった。一人用の狭いベッドの上で、その淫靡《いんび》なプレイは進められていった。そして美音子が、それを求めた。
「優子ちゃん。あれを……頂戴」
「え、何を……ですか?」
そう聞き返すのが、優子のやり方だった。年上の女性はまるで少女のように恥じらいながら、言った。
「ジョンを……ジョンを、入れて頂戴」
そして、脚を大きく開く。優子はその間に膝立ちの姿勢をとり、仰向いて目を閉じ、呼吸を整えた。そして相手の求めるものを、その体内から呼び起こした。
もうすでにそれは、優子の身体の最奥部で、熱いマグマのように、どろどろと蠢いていた。そこに優子の号令がかかり、欲望が奔流となって流れ込んで、熱いものは脈動しながら形を帯び、怒張し、優子の女性の部分を充たしながら、出口を求めて突き進んでいった。
「ああ……」
優子の襞は内部から割れ、赤く充血した、つやつやとした頭部が、そこから顔を覗かせた。次いでプルッと襞を震わせて、エラの部分までが露出する。そしてそれは向きを変え、身体のラインに沿うように伸び上がって、丘の草叢《くさむら》をかき分けるようにして、ついにはお臍《へそ》のすぐ下の辺りにまでその先端を到達させると、動きを止めた。
「ああ、ジョン」
首をもたげて、それを見ていた美音子が、思わずそう呟く。
優子は、下腹部に貼り付くように硬直したそれを、右手で掴み、身体と垂直になるまでその向きをねじ曲げると、腰を沈め、その先端を美音子の襞へとあてがった。そして、彼女がいつも性奴たちにするように、ゆっくりと入れてゆく。
「あ……」
お互いの体液が潤滑油となり、擦れることなく、優子は美音子の中へと侵入していった。奥まで到達すると、最初はゆっくりと、そしてだんだんと速く、抽送をし始める。
美音子の中で絞られて、優子の先端は、男としての快楽を、彼女の脳へと伝えて来た。そして自身も充たされ、微妙な抽送を受けて、優子の女性の部分は、女としての快楽を、彼女の脳へと伝えて来た。その合一した快楽に全身を痺れさせながら、優子はいよいよ激しく、動きを高ぶらせる。
組み敷いたその下では、美音子もリズムを合わせて、昇りつめて行った。そして、
(……イクッ!)
二人は同時に到達した。優子の先端からは、熱い液が迸《ほとばし》り、そしてその魔力が、精を受けた美音子の全身を麻痺させる。と同時にその液は、優子自身の体内にも放出される。
(溶けていく……)
遥かな高みに登りつめていた二人は、やがて時間をかけて、ゆっくりと、ベッドの中のそれぞれの自分へと、意識を戻していった。そして最後は優しく、腕を絡ませて、唇で愛情を交わす。
そこで優子は、上体を起こした。
「……駄目ね、私って。どうしてこうなっちゃったのかしら。今日はお姉さまの〈J〉を、発芽させなくちゃならなかったのに……」
「でも……良かった」
ポツリと感想を洩らし、そして美音子ははにかみの表情を見せた。
「そう……。ね、やってみてください。さっきの私みたいに。そんな、力んだりしなくてもいいんです。身体の力を抜いて、こう、欲望のままに任せるんです」
優子はそう言って、再び年上の女性の股間へと手を伸ばした。今度は美音子を刺激しないようにと、気を使いながら、優しくそっと撫で回す。
「自分の中の、オトコの部分を、意識するんです」
そう言いながら、そこでふっと手を止め、
「あ、そうか……。この体勢じゃ、うまくないかもね」
そう言って、美音子に身体を起こさせ、変わりに自分がベッドに横になって、脚を開いた。そしてその間に、美音子を座らせる。
「お姉さま。今度はお姉さまが、私を満足させるの。私を下に組み敷いて、征服するの。……そういう気持ちになって」
美音子は真剣な面持ちで頷き、そしてゴクンと唾を飲み込んだ。その視線が、自分の股間に注がれているのを意識して、優子はポッと顔を赤らめた。また美音子が唾を飲む。
「あ……来た」
「ホント?」
「動いてる。膨らんでる。あ、ああ……出る。出て来る!」
美音子は膝立ちのまま、上体を反らせ、後ろに手をついて腰を突き出した。優子も頭をもたげて、その様子に注目した。美音子はぷるぷると細かく全身を痙攣させている。首筋と、背けた顔の顎のあたりが、真っ赤に染まっているのが見える。やがて、茂みの奥の襞が口を開き、奥からそれが、顔を覗かせた。
「あっ……」
美音子が声を洩らす。
(そう。最初は、ものすごく感じるのよ、ね)
優子は、それが最初に自分の身に起きた時の事を思い浮かべていた。
美音子の〈J〉は、向きを変えて、茎の部分をどんどんと伸ばし、丘を越え、下腹部に貼り付くようにして、そして動きを止めた。
「やったね。お姉さま」
「優子ちゃん。これ、凄いの。……こんなに」
「自分でさわってみて。……ね」
優子にそう言われて、美音子は恐るおそる、といった感じで、自分のそれに手を伸ばし、まずは茎の部分を握った。表面を覆っていた、ぬらぬらとした体液が、その掌にもべったりとつく。そのまま掌を、先端の部分に持っていった所で、
「はあっ!」
美音子は息を飲み、ビクンと身体を痙攣させ、その手を離した。
「す、すごい……」
ややあって、またその手が、先端の敏感な部分に触れる。その手がちょっとでも動くたびにビクン、ビクンと身体を震わせて、そうして年上の女性は何度も繰り返して、その自分の身体から生えた新しい器官を試していた。その目はいつの間にか閉じられ、表情はもう、夢見心地である。
「ねえ、お姉さま。……名前は、考えてある?」
優子が上体を起こしてそう問い掛けると、相手はようやく、自分がひとに見られていたのだという事に気付いて、ぱっと顔を赤らめ、手を離した。
「あ、うん。いちおう、ジャムっていう名前にしようって思ってるの。……ついこの前まで飼っていた猫の名前なんだけど。……誰かと重なってる?」
「ジャム? ……ううん、たぶん大丈夫です。じゃあ私も、挨拶させてもらってもいいかしら……そのジャムちゃんに」
優子がそう言うと、相手はハッとして、俯いた。
「いい?」
重ねてそう問うと、
「……ドキドキするわ」
そう言って、その立派なものを差し出すように、腰を突き出した。優子は上体を寄せ、茎の部分を掴むと、舌なめずりをして、そしてその先端の部分へと、開いた口を被せた。
「あっ!」
美音子がふらつくのを、両手を出して支え、そして相手の両腕を自分の頭へとあてがって、抱え込んだ姿勢を取らせると、優子はゆっくりと頭を上下させて、口腔内でそれを愛し始めた。その硬い感触が、たまらなく愛おしい。
(こんにちは、ジャムちゃん。……私の子供)
そして優子は、口を使い続けながら、今に至るまでの経緯のあれこれへと、思いを馳せていた。
(……そう。最初の〈J〉であるジャックは――麻里亜さまからシイちゃんへと受け継がれた、あのジャックは、あの夏の夜に、このお姉さまによって殺されてしまった。
だけどジャックも成長していた。麻里亜さまからシイちゃんへと、母体を替え、移り棲んでいく内に、思い出したのね。そうして移り棲んでいるだけじゃ、いずれは殺されてしまうってこと……自分は人間どもに退治されてしまうんだってことに。そして目覚めた。私たちが見殺しにしてしまうよりも前に、〈J〉は第二期に移っていた。
……そう。第一期とは、個体が次々と宿主を替えて、逃げ回るだけの期間。それに対して第二期とは、こうして繁殖をして、個体数を増やしていく期間。ジャックはやり遂げたわ。こうしてまんまと、子孫を残していった)
それは、誰に教わったわけでもない。自分が宿主になった時にはもう既に、そうした知識が、優子の中に蓄えられていたのだ。繁殖の仕組みも当然、彼女は充分理解していた。
胎内に根付いた〈J〉は、触手を宿主の卵巣にまで伸ばし、そしてそこから卵子を採取する。しかし使われるのは、その卵子の殻の部分だけだ。中に入っている宿主の染色体は捨てられ、代わりに〈J〉の生殖細胞の、減数分裂した後の染色体が詰められる。〈J〉の性染色体の型は、YY型である。だからそうした作業により、Y型の性染色体の入った卵子が、胎内に用意される。
そうした準備をした後、宿主はまずは女として、男と交わり、その精を受ける。精子には、性染色体のX型を持った精子と、Y型を持った精子の二種類があり、したがって二分の一の確率で、XY型の受精卵と、YY型の受精卵とが出来る。
そして、それが何型にせよ、そうして受精卵が出来たら、それを大砲に充填し、そして宿主は今度は〈J〉を伸ばして、男役として、他の女の子と交わる。そして〈聖液〉と一緒に、その受精卵を相手の女の子の胎内に発射する。するとそれは着床し、そして二分の一の確率で、その受精卵は〈J〉となって発芽する。
(それにしても、私は運が良かったわ。琴美さんなんて、二度も続けて、人間の胎児を孕んじゃったって、悔しがってたし……)
そう。あの椎奈の胎内に宿っていたジャックは、その最後になって、ようやく、播種《はしゅ》の使命を思い出したのだ。そうして、その機能を呼び起こし、院内で怪しいそぶりの見られた蛭川に目をつけ、彼を寵絡して、そうしてその精を受けては、自分の性奴たちへと、その種をバラ播いたのであった。そして優子も、あの椎奈の最期の時に、その種を受けたのであった。
そしてジャックから、優子たちの宿した、第二世代が誕生した。初代のジャックは覚醒が遅れ、臨月まで母胎内で無為に眠り続けていたが、〈J〉は実際には胎生後三ヵ月ほどで成体となる。優子たち第二世代は――個人差はあったものの――受胎からおよそ三ヵ月で発芽を迎えることとなった。……その名前をどうするかについては、優子は冴子たちとも連絡を取り合い、そして決めたのであった。――ジャックというのは、麻里亜から椎奈へと宿った、あの個体の固有名詞にしようということに。では今度は、その生き物の一般名詞をどうするか――そこで決められたのが、〈J〉という名前である。その案は、優子自身が出したものであった。
「〈J〉はジャックの頭文字。そしてその形が、ちょうど、私たちが生やした時の、あの生き物の格好に、似てるでしょう?」
横棒の部分が胎盤。そこから胎内を真っ直ぐに降りてきて、身体の外に出たところで向きを変え、Uの字形に反り返って、そしてその先端の部分には、丸く小さな瘤が出来ている。
その優子の意見は採り入れられ、そして同時に、個体それぞれの固有名詞は、初代のジャックにも鑑みて、全てその一般名詞である〈J〉を頭文字に持つような名前にしようということで、取り決めが定められた。それが、たとえば優子のジョンであり、そして美音子の今回のジャムなのであった。
優子は口からジャムを出し、ベッドに横たわって、言った。
「お姉さま……頂戴」
そして優子は、久々に女として、相手のものをその身に受け入れた。
(最後に挿入されたのは……)
ジャムを受け入れながら、優子は思い返していた。それは冬休みであった。優子は学院から解放されると、自分の性奴たちを引き連れて、冴子などの退学メンバーたちと落ち合い、行きずりの男たちから精を受けては、造った弾を、性奴たちや、あるいはハントした行きずりの少女たちへと、撃ち込むということを続けた。やはり確率通り、失敗例も半数はあったが、この美音子のような成功例も半数はあった。そして〈J〉たちは今、確実にその個体数を増やしつつあった。
(でも、まだ第三期に入るのには、ちょっと早いわね……)
〈J〉たちの望みは、現在の五十パーセントの播種の成功率を、一気に百パーセントにまで高める事にある。Y型の性染色体を持つ卵子を用意しているのに、現在の成功率が五十パーセントまでしか行かないのは、精子の方に問題があった。精液の中には、X型の性染色体を持つ精子と、Y型の性染色体を持つ精子とが、それぞれ半々の確率で存在しているという、それが問題なのであった。これが全て、Y型の性染色体のみを持つ精液を受けさえすれば、受精卵は百パーセント、必ずYY型となり、つまりは〈J〉のものとなる。
そしてそのためには、何も難しい手続きをとるまでもない。〈J〉自身が、YY型なのだ。だから〈J〉の生殖細胞で造られた精液は、全てY型であり、それを受けさえすれば……〈J〉の宿主が二人集まって、ひとりが女役として胎内に(Y型の性染色体を持つ)卵子を用意し、そしてひとりが男役となって(すべてY型の性染色体を持つ)精子をそこに放てば、間違いなく百パーセント、YY型の受精卵が作られる。それを、女役を務めた方が、今度は男役となり、まだ宿主とはなっていない女の子へと、植え付ければいいのだ。
しかし、それはまだ時期尚早であった。遺伝子が近すぎるのだ。今ある個体たちは、お互いに、みんな親子とか兄弟とかといった、近い血縁関係にある。例えば、優子のジョンと美音子のジャムは親子だし、冴子のジャッキーにしても、ジョンとは兄弟、そしてこの、新しく生まれた美音子のジャムとの間にしても、伯父と甥の関係にあたる。それだとまだ、遺伝病の発生率が高くて、危険なのである。
(でも、フフフ。そう……あと一年もしない内に、必ず時代は、第三期に入る。そうすれば……)
考えてみれば、よくもまあこんな、恵まれた時期に、そして恵まれた場所で、復活したものだ、と、ジョンは思っていた。世紀末、そして日本という国。性のモラルは最低で、行きずりの関係が当たり前。フリーセックスも当たり前。同性愛ですら、さして驚くべき事とは受け取られていない、この国、そしてこの時代。交通機関は発達し、半日あれば国内のあらゆる場所に、種を播《ま》きに行くことができるし、一日あれば、今度は世界中のどこにでも、行くことができる。おまけに、その海外旅行の費用ぐらいは、誰にでも簡単に用意できるほど、国民たちは豊かである。
(思い返せば、あの中世の西欧の時代……行動範囲は限られており、社会の性的なモラルも厳格で、そして宿主であろうと性奴であろうと、はたまた全くの無実であろうと、ともかく容赦なく火炙りの刑に処され、そうして徹底的にオレたちの根絶が図られた、あの暗い中世西欧の時代……。第二期に移行しかけると、決まって大がかりな取り締まりが行われ、そしてようやく他の町に逃げ出した個体によって、また第一期からのやり直しとなる。その繰り返しを強いられた、あの時代、あの場所……。それに比べると、今のこの日本というのは、何とまあ、オレたちにとって、恵まれた環境であることか)
優子自身は、もうじき……あとひと月ほどで死ぬ運命にあったが、ジョンは、来るべき第三期に思いを馳せ、そして自分の死については、微塵《みじん》たりとも恐れてはいなかった。
美音子の抽送が、高まってゆく。
「優子ちゃん。あっ、あっ、いっ、いっ、イクぅっ!」
「いいわ。ちょうだいっ」
ジャムが脈打ちながら、その熱い吐息を、優子の中へと送り込んで来た。どくん、どくん、と脈打ちながら。その液は、放出のそのたびに、優子の身体をどんどんと溶かしてゆく。
(最高……)
止めどないエクスタシーの波の中で、ジョンはそう思った。
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Jの神話
一九九八年二月五日 第一刷発行
著 者  乾くるみ
発行者  野間佐和子
発行所  株式会社講談社