■ 1
白亜の円柱がどこまでも並ぶ回廊に、一人と一匹の足音が高くこだましている。
先を走るのは、やや長めの黒髪をなびかせ、灰色の軽鎧の腰に細身の剣を吊った少女だ。そのすぐ後ろを、薄黄色のにこ毛に全身を包んだ幼竜が、長い尻尾を揺らしながら追いかけていく。まだ角も生えていない竜の頭は、少女よりもわずかに高い位置にある。
少女の名はロニエ・アラベル。幼竜の名は月駆《つきがけ》。
まるで御伽話に出てくるような、美しくも微笑ましい光景からは、この一対が数年後にはアンダーワールドで最大級の戦闘力を備える『整合騎士』へと成長しようなどとはまったく想像できない。
しかし事実、今の時点でも、少女に剣や術式の勝負で抗し得る者はもう人界、暗黒界とおして百人といるまい。あの恐るべき『東門の大戦』、それに続く『四帝国の大乱』を少女は常に最前線で戦い抜き、史上初めて実戦における武勲によって整合騎士見習いへと任ぜられたのだ。
とは言え――。
今後、ますます磨かれ、花開くであろう少女の剣技が、いくさ場で揮われる機会はおそらくもうない。
なぜなら、アンダーワールドは、三百年に及ぶ争乱の果てについに全き平和を得たのだ。
人界人、暗黒界人、ゴブリン、オーク、オーガ、ジャイアントの六種族は恒久的な和平条約を結んだ。一般民を虐げていた四皇帝家や上級爵士の特権も廃された。崩壊したままの『東の大門』をひっきりなしに通商の荷馬車が行き交い、央都セントリアにおいても暗黒界からの見物客をそこかしこに見ることができる。かつて二つの世界を隔てていた恐怖と無理解は、日だまりの残雪のように跡形もなく融けつつある。
二度と敵の血を吸うことはないだろう剣を腰に揺らしながら、円柱に遮られて斜めの縞模様をつくるうららかな太陽《ソルス》の光の中を、少女と幼竜は駆けていく。
かつかつ、ぱたぱたという二つの足音が遠ざかり、やがて消える。
どこからともなく現れた大きな蝶が、再び訪れた静寂を楽しむように回廊を舞う。
Sword Art Online 外伝7 月の揺りかご
「ロニエー、こっちこっち!」
という声のしたほうを爪先立ちになって眺めると、人垣の向こうに、燃えるような赤毛がぴょんぴょん揺れているのが見えた。
ぎっしり並ぶ厨師や書記師、術師らカセドラル職員の間を、すみませんすみませんと頭を低くして通り抜けていく。邪魔そうな顔を向ける者たちも、ロニエの後ろでふんふん鼻息を鳴らす月駆に気付くや、ぎょっとしたように道を開ける。それを見ると、飼い主としてはなおさら腰を折ってしまう。
どうにか最前列まで抜け出し、ロニエはふうっと一息ついた。
「もー、おっそい! 始まっちゃうよ!」
目の前で丸く頬を膨らませる赤毛の親友に、ぺこりと最後にもう一謝り。
「ごめんなさい、何着てくるか迷っちゃって……」
「迷う……って、結局いつもの格好じゃないのよ」
呆れ顔を作る少女の名は、ティーゼ・シュトリーネン。ロニエと同じく整合騎士見習いの身分だ。髪とよく似た紅葉色の瞳はくるくると輝き、鍛えられた身体を可愛らしい毛織物の上着とスカートに包んでいる。腰にはいちおう赤革の鞘を佩びているが、それすらも服と合わせた装身具のようだ。
やっぱり先週買った南方産のショールくらい羽織ってくるんだった、と後悔しつつも視線を動かすと、ティーゼの向こうでは彼女の育てている幼竜・霜咲《しもさき》が月駆と鼻筋を擦り合わせ、更にその奥で一人の青年がにこにこと笑顔を浮かべていた。
青年というよりも少年と言ったほうがしっくりくるような大人しい見かけだが、ベルトにはものものしい長剣と、くの字に湾曲した投刃が下がっている。剣から滲む優先度《プライオリティ》も相当なものだが、投刃のそれは桁外れだ。紙のように薄い銀造りのその武器は、世界に幾つとない『神器』級武具なのだ。
ロニエはさっと右拳を水平に持ち上げると鎧の胸にあて、正式の騎士礼をしながら挨拶した。
「おはようございます、レンリさま」
すると、整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナインは、竜たちの向こうで苦笑しながら答えた。
「おはよう、ロニエさん。……そんなに畏まらなくてもいいよ、今日はせっかくお祭りなんだからさ」
「お祭り……なんでしょうか?」
反射的に首を捻る。今日、二月十七日は、暦の上ではまったくの平日だ。先年発布された『アンダーワールド基本法』にも、現在改定作業が進みつつある『禁忌目録』にも、この日を祝うべしとは一行も書かれていない。
しかし周囲をぐるりと見回せば、広大なセントラル・カセドラル正面広場は、全職員が詰め掛けているのではないかというくらい大勢の見物人で賑わっている。皆、お茶やワイン、軽食を片手に大変な騒ぎようだ。
更に、カセドラルを取り囲む白い石壁が、今日は央都市民に開放されているらしい。正門の左右にぎっしり立ち並ぶ見物人の数は、軽く千を超えるだろう。
「……ま、お祭り以外の何ものでもないわよね。仕方ないわよ、先輩……じゃない、代表剣士サマが何かするときは、必ずこうなっちゃうんだから」
ティーゼが半分呆れ顔で発した言葉に、ロニエもこっくりと頷く。
「そうよね……。今日はカセドラルを壊さないといいけど……」
三人揃って視線を向けた先には――。
いわく言いがたいシロモノがでんと鎮座していた。
真っ白い石敷きの正面広場中央、一辺百メルほどの正方形に黒と黄色のロープで区切られた空間の真ん中で、ひゅるひゅると奇妙な音を立てているそれは、簡単に言えば『金属製の竜の置き物』だ。
しかしただの彫像でない証に、鋭く尖った頭部分は透明な硝子で出来ている。やけに平べったい胴体の左右には短い翼が突き出し、奇妙に膨らんだお尻からは、脚ではなく太い筒が二本突き出ている。
全長五メルはあろうというそれが、筒を真下にして直立し、しかもお尻からちろちろと橙色の炎を覗かせているとくるからもう何がなにやら解らない。
……一つだけ確かなのは、ものすごい嫌な予感がするってことよね。
と内心で呟きながら、ロニエは金属の飛竜から視線を外し、その隣に立つ三つの人影をじっと見つめた。
すると、うち一人――栗色の長い髪を微風になびかせ、真珠色のスカートの腰に細剣を吊った若い女性剣士が、ロニエの視線に気付いたかのように顔を向けてきた。すぐに微笑み、右手を上げると、ちょいちょいと手招きをする。
「ほら、行ってきなさいよ」
ティーゼがにんまりしながら背中をつつくので、ロニエはしばし逡巡してから、思い切って目の前の黄と黒のロープを跨いだ。後ろから、当然のように月駆もついてくる。
千数百人の眼が一斉に集まるのを意識し、限界まで首を縮めながら、石畳を小走りに移動した。女性剣士の傍まで達すると、びしっと指先まで伸びた騎士礼をひとつ。
「おはようございます、副代表さま」
「おはよう、ロニエさん。今日は突発的祭日だし、もっと気楽にしてていいのよ」
見惚れるほど美しい顔に、ふんわりした微笑を浮かべながらそう言われ、ロニエもすうっと肩の力を抜いて答えた。
「はい、アスナさま」
「その『さま』もいらないっていつも言ってるのに」
と唇を尖らせるが、しかしそればかりは受け入れがたい。
眼前に立つ、ロニエよりも少し年上に見える女性――人界副代表剣士アスナは、全アンダーワールド人にとって、ある意味では代表剣士当人よりも敬うべき相手だ。なぜなら、彼女はアンダーワールド創世三神の一柱、『生命神ステイシア』の転生であると信じられているのだ。
自身は頑なに神様であることを否定し続けているが、ロニエは先の大戦のおり、アスナが剣の一振りで大地に巨大な裂け目を生み出す場面を至近距離で目撃している。あれを見てしまえば、名前のあとの『さま』を省略するなど考えられない。
禁忌目録に『さま付けるべからず』などと記載されてしまえば従わざるを得ないが、それまでは断固継続するという意志を込めてぷるぷる首を振ると、アスナは苦笑とともに肩をすくめて話題を切り替えた。
「それはそうと、ロニエさん。あなた、神聖術は燃素系がいちばん得意だったわよね?」
「は、はい」
ぱちくり瞬きしながら頷く。するとアスナは、顔を寄せてきて小声で続けた。
「それじゃ、ちょっとお願いがあるのよ。アレに入ってる燃素が暴走しそうになったら、わたしに教えて欲しいの」
「え、え……? 燃素が、入ってる?」
言葉の意味がとっさに解らず、ロニエはもう一度眼をしばたかせながら顔を動かした。
その先では、ずでんと直立する金属製飛竜の隣で、二人の男性が盛んに大声をやり取りしている。
「……いいかキリ坊よ、いくら燃素封密缶の天命は計算上発生する熱に耐えると言っても、それは凍素の充分な供給があってこそじゃからな! ただでさえお主は凍素術が苦手なんじゃから、一時でも素因の生成に手間取れば、あっという間に封密缶が吹っ飛ぶぞ!」
詳細な意味は不明なれど実に物騒な台詞を喚いているのは、見事な顎鬚をたくわえた五十がらみの男性だ。ロニエもよく知っているその人物は、名をムダイといい、央都セントリアで随一の腕を持つ鍛冶師である。長らく下町で隠遁生活を送っていたが、『四帝国の大乱』に於いて解放軍に協力し、それを機にカセドラル工廠の最高顧問に就任した。
そのムダイ師にがみがみ言われ、子供のような膨れっ面を作っているのは――。
黒髪に黒い瞳を持つ、見かけは至って平凡な一人の青年だった。
ぴったりした上着とズボンが繋がった、黒革の妙な服を着込んでいる。腰に武器はない。同じく黒の革製手袋を嵌めた両手を頭の後ろで組み、青年は唇をひん曲げながら答えた。
「へいへい、それはもう耳からイライラ虫が出るほど聞いたよ。つうかムーさん、その『キリ坊』ってのそろそろ止めようよ」
「ふん、やなこった。五年前、お主がわしの工房にくそっ硬い枝を持ち込んで、そいつを剣に研ぐのに大事な砥石を三枚も磨り減らされたときから、お主を永遠に坊ず呼ばわりすると決めたからな」
「……ちぇっ、あの剣がなかったら、今頃世界はエライことになってたっつうの……」
ぶつぶつ文句を垂れ流した青年は、そこでひょいっと振り向き、ロニエを見た。
初めて出会った三年前から何ひとつ変わらない、やんちゃな子供のようでもあり歴戦の剣豪のようでもあるその顔に大きな笑みが浮かぶのを見た途端、ロニエの胸の奥深いところがぎゅっと締め付けられた。
それを表に出さないよう細心の注意をしながら、ロニエはぺこりと頭を下げた。
「おはようございます、キリト先輩」
本当はここも『さま』と言いたいところなのだが、この相手に限っては、実際に公式文書で『さま禁止令』を出されてしまったのだ。そこでやむなく、最初に用いた敬称である『先輩』を今も使用している。
その、かつてのセントリア修剣学院の上級生であり、いまや人界代表剣士の座にある青年キリトは、笑顔で右手を上げると答えた。
「おっす、ロニエ! 元気か、月駆!」
ロニエの後ろで、幼竜がくるるるっと大きな声で鳴くやぴょんぴょん前に跳ねていき、遠慮なしに頬をべろべろと舐めた。その顎下を掻いてやっているキリトから体の向きを動かし、ムダイ鍛冶師にも挨拶する。
「おうおう、おはようロニエ嬢」
と打って変わって柔和な笑顔を作る相手に素早く近寄り、ロニエは小声で訊いた。
「あ、あの……さっき仰ってた、燃素……封密缶、というのは何のことなんでしょう?」
「文字通りじゃよ。ほれ、そこの『機竜』試作一号の尻を見てみい」
「き……りゅう?」
聞き慣れない言葉だが、それがでんとそびえる金属製の飛竜のことであるのはすぐに解った。眺めると、膨らんだお尻部分からは、綱の外でも聞こえたひゅるひゅるという音が盛んに発せられている。
「そこにな、西方産のアダマント鋼で造った容器がふたつ仕込んであってな、その中に燃素が片方十個ばかり封じてあるんじゃよ」
「え……ええ!?」
それを聞いた途端、ロニエはびくんと仰け反ってしまった。
燃素は、神聖術の源たる八属性の素因のうち、もっとも気難しい存在だ。空中にしばし保持しておける凍素や風素と異なり、生成して放っておくとあっという間に高熱を発して反応・消滅してしまう。燃素を呼び出したら、加工・処理するまで決して意識を切ってはいけないというのは、術師を目指す子供が最初に教わる基本中の基本だ。
「そ、そんな……いかに耐燃性の鋼と言っても、十もの燃素に触れたまま放っておいては、いずれ溶けて爆発してしまうはずでは!?」
「そこが工夫でな。容器の外側に、こっちは耐凍結性の高いヨルド大百足の殻で造った管を這わせてある。そいつと繋がる凍素封密缶から冷気を供給して、燃素缶の溶解を防ぐっちゅうのが大まかな仕組みじゃ」
「…………は、はあ…………」
工夫、と言われても、ロニエにとっては燃素や凍素は神の秘蹟たる神聖術の領域に属する存在で、金属や甲殻を加工する鍛冶・冶金術とは対極のものだ。その二つを組み合わせるとどうなるか、などということを考えたことは一度もなかった。
「…………そ、そんなの、上手くいくんでしょうか……」
呆然と呟くと、ムダイ師は逞しい両手をひょいっと広げた。
「さて、わしゃ知らんよ」
「ええ!?」
「乗るのはわしでなくキリ坊じゃもの」
「えええー!?」
乗る――とは、いったいいかなる意味か。
おそるおそる顔を動かし、鎮座する『機竜』の先端のほうを見上げる。
すると、透明な硝子板を尖った形に組み合わせてある頭部分の中に、どう見ても椅子としか思えないものが設置してあるのに気付く。椅子の周りにはうねうねと金属の管が這い、奇妙な丸い板が幾つも突き出している。板の中央には細い針がくっついていて、それがひゅるひゅる音と同期して細かく震えているようだ。
「…………ま、まさか……あそこに誰か座って、それで……燃素を解放して……お尻の筒から爆発力を噴き出して…………」
「そ。飛ぶの。飛竜みたく」
と、答えたのは、いつの間にか隣に立っていたキリトだった。
更にその隣で、月駆が『機竜』の金属翼の匂いをかぎ、馬鹿にしたような顔でふんっと鼻を鳴らした。
「む……、む、む、無茶ですよ先輩!!」
ロニエは堪らず叫び、キリトの奇妙な服の袖を掴んでがくがく引っ張った。
「も、もし燃素が暴走したら、これ丸ごと吹っ飛びますよ!? そそそうだ、風素にしましょうよ、カセドラルの昇降盤みたいに」
「いやー、あれは昇降洞が密閉されてるから、風素の圧力でも上下できるんだよね。何もない空を飛ぼうと思ったら、燃素の爆発力じゃないと……」
そこでにやっと笑い、キリトはぐるっと周囲を見回した。
「それに、もうこんなに見物の人来ちゃったしさぁ。今更中止なんて言ったら第二次央都大乱が起こっちゃうよ」
「あ、集めたのは先輩じゃないですか!!」
今日、このセントラル・カセドラル正面広場にこれほどの人が集まったのは、キリト本人が『カセドラル工廠開発部による実験を行う』と大々的に告知したからだ。
平和が訪れたアンダーワールドで、今や最大の騒動発生源である人界代表剣士どのがまた何かする、とくれば、前回の『守護竜再生実験』を大いに楽しんだ職員や市民が詰め掛けるのは当然だ。
あの時、甦った白竜との問答をキリトが少しでも誤っていたら、カセドラルの角っこが少し欠けるくらいでは到底済まなかったことを知っているロニエは、思わずくらりと体を傾けた。
背中を支えたのは、すぐ後ろにいた副代表剣士だった。キリトと長い付き合いであるらしいアスナは、達観したような、諦めたような顔で言った。
「もう無駄よ、ロニエさん。こうなったらやらせとくしかないのよ」
「そ、そんな…………いえ…………そう、ですよね…………」
一瞬横向きに振りかけた頭を、思いなおして縦にかっくんと動かす。ロニエも、この数年で、キリトが何かを思いついたら『やらせとくしかない』のは骨身に沁みて理解しているのだ。
せめて、大惨事は避けられるよう全力を尽くそう! と胸中で念じながら、ロニエは『機竜』とやらの心臓部に向けて精神を集中した。
整合騎士見習いに任ぜられたとは言え、ロニエはまだ騎士の最奥義たる『心意』を自在に操れるほどの域には到底達していない。キリトや上位騎士たちのように、心意によって術式を極限まで縮小して神聖術を行使するのはまったく不可能だが、それでもこの頃は生成された素因の状態を感じ取ることくらいは出来るようになってきた。
ムダイ師の言うとおり、機竜の内側には幾つもの燃素が封じ込められているのを肌で知覚する。しかし、燃素たちは決して大人しく並んでいるわけではない。不機嫌に身震いしながら、隙あらば周囲の殻を吹っ飛ばしてやろうと脈打っている。
素因段階でこの荒れようなのだ、解放なんかしたらどうなってしまうのか、と背中が寒くなったが、あとはもう成り行きを見守るしかない。
「……あの、とりあえず燃素とは交感できました、アスナさま」
小声で告げると、傍らのアスナもひそひそと答えた。
「ありがとう。じゃあ、そのまま回路を保持しててね」
「は、はい」
ロニエが頷いたちょうどその時、離れた場所でキリトが大声で言った。
「よし、そんじゃ始めるとすっか! アスナー、カウントダウンよろしく!」
「な、なんでわたしなのよう!」
「昔っからボス部屋突入のときとかいつもやってたろー」
謎なキリトの台詞にアスナはやれやれと首を振り、右手をかざすと神聖術の起句を唱えた。
「システム・コール!」
続けて、風素と晶素を組み合わせた『広域拡声術』を滑らかに組み上げていく。彼女もまだ心意に関しては発展途上だが、術式の把握と応用に関しては今やカセドラルのどんな術師も敵わない。
漏斗状に渦巻く空気の中央に浮かぶ硝子の薄膜に向けて、アスナはよく通る声を発した。
『お集まりの皆様、大変お待たせいたしました! ただいまより、セントラル・カセドラル工廠開発部による『機竜試作一号』の飛翔実験を行います!!』
大音量に拡大された声が空いっぱいに響くと、遠く離れて取り囲むカセドラル職員たちと、城壁の上に詰め掛けた央都市民たちが、一斉にわあっと歓声を上げた。ふと南のセントラル・カセドラルの白亜の威容を見上げれば、地上三十階あたりのバルコニーに、上位整合騎士たちの鎧がきらびやかに輝いている。
拍手と歓声のなか、キリトは見物客に向かって手を振ると、機竜を支える長い鉄柱に据えられたハシゴをするすると登り始めた。あっというまに竜の首まで辿り着き、透明な板の一部に触れる。かぱっと板が開くと、その内部に体を滑り込ませる。
空を向いて設置された椅子に腰掛け、革帯で体を固定。首にぶら下げていた奇妙な巨大めがねを顔に装着し、地上のムダイ師に向かって左手の親指を立てる。
ムダイ老人は、ロニエとアスナのところまで来ると、身振りで更に二十メル以上後退させた。ロニエは燃素との交感状態を切らないよう、慎重に距離を取った。
『では、秒読みを開始しまーす! 皆様、ご一緒にどうぞ!』
やけに慣れた調子でアスナが観客に呼びかけた。高々と両手を突き上げ、十本の指をいっぱいに伸ばす。
『せーの、十! 九! 八!…………』
アスナがかぞえる数字に、千数百人の声が唱和する。ちらりと見れば、ティーゼやレンリも笑顔で声を上げている。
傍らの月駆の首をぎゅっと抱きながら、ロニエも一緒に数字を数えた。
『七! 六! 五!』
不意に、燃素たちの震動が強さを増した。キリトが心意による制御を開始したのだ。
あまりにも強く深い彼の意識が、素因を媒介にして、交感するロニエの胸にも流れ込んでくる。
再び、奥深いところがぎゅうっと締め付けられる。
……だめよ、この感情だけは、ぜったいに表に出したらだめ。先輩の傍付きとして、いつか老いて天命が尽きるその時まで、静かに眠らせておかなきゃ。
すぐ隣にいるアスナに気取られないよう、ロニエはわずかに熱を帯びた両眼を強くしばたき、懸命に声を出した。
『四! 三! 二!』
ひゅううううん、という機竜の唸りがどんどん音量を増す。鈍い銀色に輝く巨体が激しく震え、底部の筒から洩れる光が、橙から黄、白へと色を変えていく。
『一! …………ゼロ!!』
唱和が広場の石畳を揺るがすと同時に、キリトが叫んだ声がごくかすかに聞こえた。
「ディスチャージ!!」
素因の解放を命じる式句。
直後、二十の燃素たちが、一斉にその秘めたる威力を炸裂させた。
どわあっ!! という衝撃音とともに、機竜の下部から青白い炎が激しく噴出した。それはほぼ無限の天命を持つはずの大理石の敷石をも溶かし、巨大な煙をもうもうと巻き上げた。大観衆が、どおおっとどよめく。
その煙の中から――。
銀色の矢となって、金属の竜が一直線に飛び出した。
ぎいいいいん! という、これまでロニエが一度も聞いたことのない甲高い金属音が空いっぱいに響いた。二つの筒から長大な炎の尾を引きながら、竜は高く、高く舞い上がっていく。
解放された燃素の猛りを、ロニエはかざした両手のひらでびりびりと痛いほど感じた。本来ならば、いかなる素材の容器であろうとも超高熱によって一瞬で天命を全損し、機竜全体が大爆発しているはずだ。だが、封密缶なるものに埋め込まれた管から超低温の凍素が次々と送り込まれ、容器の熱を抑えている。結果、燃素の爆発力は噴射筒から一方向にのみ放出され、あの機竜をまっすぐに飛ばしている。
つまり今、アンダーワールド史上はじめて、人が竜や大鳥以外のものに乗って大空を飛翔しているのだ。
「…………すごい」
ロニエの両眼に、先ほどとは違う理由の涙が滲んだ。
ぼんやり歪む視界の彼方を、銀色の竜は、セントラル・カセドラルの威容と平行してどこまでもどこまでも駆け登っていく。
もし機竜が地上の一箇所に留まっていたら、ひっきりなしに生成される凍素のせいで周囲の空間神聖力が数秒と待たずに枯渇してしまうだろうが、ああして移動している限り空間力の供給は追いつくはずだ。となれば、あの竜は、生き物が呼吸できないほどの高空にまで達することすら可能――ということになる。
そう考えた瞬間、ロニエは電撃的に、黒衣の人界代表剣士の本当の意図を悟った気がした。
キリトは、ただあれを飛ばすことだけが目的なのではなく――もしかしたら、あの機竜によって、どんな生物も越えることができない『世界の終わり』を…………
――――しかし、そこまで考えた、その瞬間。
突然、燃素たちが膨張する気配をロニエは感じた。
封密缶が膨らんでいる。熱で溶けかけているのだ。理由は解らないが、温度を下げるはずの凍素の供給が滞っている。
「あ、アスナさま! 燃素が――」
と言い掛けたとき、ぼむ! という嫌な音が響き、片方の噴射筒から黒い煙が洩れるのが見えた。
直後、機竜はぐるぐると錐のように回り始めた。進路が南にずれていく。その先には――
セントラル・カセドラルの、九十階あたりの壁が。
「ぶっ、ぶつかる!!」
ロニエは両手を胸の前で握り、叫んだ。観衆たちからも大きな悲鳴が上がる。
しゃっ!! と響いた鞘走りは、アスナが腰の細剣を抜く音だった。
ソルスの光を七色に分けて輝く、世にも美しい刀身がまっすぐにカセドラルを指し示した。
「……よいしょー!」
とアスナがいささか神様らしからぬ掛け声を発し、同時に細剣の切っ先をひょいと右に動かした。
それに引っ張られるかのように、巨大なセントラル・カセドラルの九十階から上が、ずりりっと西側にずれた。
生まれた空間を、一瞬ののち、黒煙を引きながら機竜が通過し。
遥か南の空で、ぱっと眩い閃光を放ち。
どかーん、と盛大に爆発した。