Sword Art Online 4
Alicization
九里史生
エピローグ
一切の光の届かぬ海底を、ゆっくりと這い進む影がある。
見た目は、平べったい大型のカニだ。しかし脚は六本しかなく、腹からはまるで蜘蛛のように糸を引き、さらに全体が鈍いグレーに塗装された金属の耐圧殻に覆われている。
日本とアメリカを結ぶ、太平洋横断大容量光ケーブル。その保線用深海作業ロボットが、金属蟹の正体だった。
カニは、海底に設けられたターミナルに配備された三年前から、一度の出番もなくただひたすら眠り続けてきた。しかし、この日ついに起動命令が発せられ、彼はグリスの固化しかけた関節を動かして、安住の棲家をあとにしたのだ。
しかし、カニには知るよしもなかったことだが、命令を与えたのは彼を所有する企業ではなかった。出所不明の非正規命令に従い、カニは太平洋横断回線の深海ターミナルに接続する補修用ケーブルを後に引きながら、まっすぐに北を目指して歩きつづけている。
カニを呼んでいるのは、周期的に発せられるかすかな人工音だ。時折たちどまり、内臓されたソナーで音源の位置をたしかめ、再び前進する。
それをどれだけ繰り返しただろうか。
ついに、カニは自らが指定された座標に到達したことを確信し、ボディ前部に装備されたサーチライトを点灯した。
白い光の輪のなかに浮かび上がったのは――。
深海底に横たわる、銀色の人型機械だった。
アルミ合金の簡易外装には、無残な孔が幾つも開いている。各所に露出するケーブルは焼け焦げて断裂し、左腕は中ほどから引き千切れ、水圧に耐えかねてか頭部は半ば潰れている。
そして、わずかに持ち上げられた右手には、カニが腹から引いているのと同じ深海敷設用光ケーブルが握られていた。ケーブルはまっすぐ上方に伸び、暗い闇のなかに没して、その繋がる先は見えない。
カニはしばらく、自らの同類であるロボットの遺骸を眺めていた。
しかし無論、彼はどのような感慨も恐怖も抱くことはなく、保線命令に従ってマニピュレータを伸ばし、人型ロボットの右手が掴んでいるケーブルの先端を保持した。
もう一本のマニピュレータで、己の腹部に内臓するコードリールから海底に延々敷設してきたケーブルの端を引っ張り出す。
そしてカニは、目の前で、双方のケーブルのコネクタをがっちりと圧入した。
これで与えられた命令はすべて遂行された。
彼は、人型ロボットが握るほうのケーブルがどこに繋がっているのかなど、まるで意識することはなかった。
六本の脚を交互に動かして大きな体を反転させ、金属製のカニは、再び長い眠りにつくべく海底ターミナルを目指して歩きはじめた。
背後には、完全に損壊した人型ロボットの残骸だけが残された。
その右手は、いまもなお、厳重に被覆された光ケーブルをしっかりと握り締めていた。
二〇一六年八月一日。
前夜、関東地方をその年はじめの台風が通過し、一転抜けるような青空が広がったその日、港区の六本木ヒルズアリーナには稀に見るほど多数のマスコミが詰めかけ、いまや遅しとその時を待っていた。
地上波、衛星問わずほとんどのチャンネルが、数分前から記者会見場の様子を生中継している。会場のざわめきに、キャスターやコメンテーターの興奮した声が重なる。
識者たちの発言のトーンは、おおむね否定的なものだった。
『……ですからね、どれほど本物に近づこうとも、それが本物になることは永遠に無いわけなんですよ。中世の錬金術と同じようなもんです。鉄や銅をどれだけ煮たり焼いたりしたところで、絶対金にはならんのですよ!』
『ですが先生、事前のプレスリリースによればですね、人間の脳の構造そのものの再現に成功したと……』
『それが無理だと言ってるんです! いいですか、私たちの脳には、百億からの脳細胞があるんですよ。それを機械やコンピュータプログラムで再現するなんて、出来ると思います? 思いますか?』
「ったく……見もしねえうちから分かったようなこと言いやがら」
毒づいたのは、ネクタイをだらしなく緩め、昼からジントニックのグラスを片手に持ったクラインだ。
台東区御徒町の裏通りに店を構える喫茶店兼バー、“ダイシー・カフェ”の店内は、立錐の余地もないほどの人数に埋め尽くされていた。表に下がる貸し切りの札がなくとも、入ってこようという客はいるまい。
マスターのエギルはもちろん、カウンターに並んで座るシノン、リーファ。リズベット、シリカ。四つあるテーブルも、サクヤやアリシャ、ユージーンらALO組、シーエンやジュンたちスリーピングナイツ、さらにシノンの友人であるGGOプレイヤーや、シンカー、ユリエール、サーシャといった元SAOプレイヤーたちに埋め尽くされている。
皆、ビールやカクテル、ソフトドリンクを手に、奥の壁に設えられた大型テレビモニタに見入っていた。
なおもぶつぶつ言うクラインに、リズベットがため息まじりの声を返した。
「しょうがないわよ。実際この目で見たあたしだって、いまだに信じられない気分なんだから。あの人たちが……人工知能で、あの世界がサーバーの中だった、なんて」
そのとき、テレビから流れるキャスターの声が、ひときわ緊張の色を帯びた。
『あっ、どうやら会見が始まるようです! それでは画面を、メディアセンターからの中継に戻します!』
店内がしんと静まり返る。
数十人のVRMMOプレイヤーたちは、固唾を呑んで、フラッシュの光が瞬く記者会見場の映像に見入った。かつて彼らが戦い、守ったものが、ついに一般に公開されるその瞬間を。
しかしその場には、当然居るべき一人の少年と一人の少女の姿が無かった。
広大な会場を埋め尽くすテレビカメラやスチルカメラの砲列のまえにまず姿を現したのは、落ち着いたパンツスーツ姿の、二十代後半と見える女性だった。薄く化粧をし、長い髪をうしろで一つに束ねている。
凄まじい量のマイクが並ぶ壇上、中央左に腰を下ろした女性の前には、『海洋資源探査研究機構 神代凜子博士』と記されたパネルが置かれていた。フラッシュの洪水にわずかに目を細めたものの、博士は堂々たる態度で小さく会釈し、発言した。
「お集まりいただき有難う御座います。本日、当機構は、おそらく世界で初となる真正人工知能の誕生を発表させていただきます」
いきなり主題に切り込む内容に、会場が大きくざわめく。
博士は立ち上がると、涼しげな微笑を一瞬口の端に乗せ、壇上の左手を指し示した。
「それでは、紹介いたします。……“アリス”」
期待と疑念に満ちた視線が凝集するなか、大型の衝立の奥から姿を現したのは――。
黄金を融かしたような長い髪。雪よりも白い肌。すらりと長い手足と華奢な身体を、どこかの学校の制服とおぼしきアッシュグリーンのブレザーに包んだ、ひとりの少女だった。
凄まじい量のフラッシュが焚かれるなか、少女はいちども会場に視線を向けることなく、昂然と細いおとがいを反らせて歩きはじめた。立て続けに切られるシャッターの音が、少女の歩行に合わせて響くかすかなモーター音を完全にかき消した。
なめらかな早足で壇上を横切り、神代博士の隣まで達したところで立ち止まる。
そこではじめて、少女はくるりと身体を回した。ひるがえった金髪が、フラッシュを浴びて眩くきらめく。
無言で会場を睥睨する少女の瞳は、透きとおる蒼だった。
その西洋人とも東洋人とも言い切れぬ、しかしある種の凄みさえある怜悧な美貌に、会場が徐々に静まり返っていく。
生身の人間の容貌ではないことを、全ての記者と、テレビ放送を見る無数の人々は直感的に察した。人の手で造られたもの――金属の骨格をシリコンの皮膚で覆ったロボット、それは間違いない。そして、このクラスの完成度を持つ少女型ロボットなら、もうそこらのテーマパークやショッピングセンターにはざらに設置されている。
しかし、先刻のなめらかすぎる歩行と姿勢制御に加えて、金髪の少女が放つ何かが、人間たちに言い知れぬショックを与え、長い沈黙を強いた。
それはもしかしたら、ブルーの瞳の奥に秘められた、深い輝きのせいかもしれなかった。
十秒以上にも及んだ静寂のはてに、少女はかすかな微笑みを浮かべ、奇妙な仕草を見せた。
軽く握った右拳を水平にして左胸にあて、ゆるく開いた左手を、まるで見えない剣の柄に添えるように左腰にかかげてゆっくり一礼したのだ。
さっと両手と上体を戻し、流れたひと筋の髪を背中に払うと、少女は淡い桃色の唇を開いた。
清冽さの中にも甘さの漂うクリアな声が、会場のスピーカと無数のテレビから流れた。
「リアルワールドの皆さん、はじめまして。私の名前はアリス。アリス・シンセシス・フィフティです」
「あっ……あれ、うちの学校の制服!!」
叫んだのはシリカだった。大きな眼をまん丸に見開いて、自分が着ているブレザーと、画面内のアリスを見比べる。
「本人が希望したらしいよ」
リズベットが、微苦笑のにじむ声で言った。
「あのとき救援に来てくれた皆さんと同じ騎士服がいい、って。第一希望は、向こうで着てたのと同じ純金のアーマーだったみたいだけど」
テレビでは、ようやくフラッシュの連射が収まり、アリスと博士が椅子に腰を下ろした。アリスの前にもネームプレートが自動で起き上がり、『A.L.I.C.E. 二〇一六』と記してあるのが読める。
「……それにしても、凄い再現度だわ。私、アンダーワールドで少しだけ話したけど、画面越しだとほとんど違いが……」
シノンがそこまで呟いたとき、神代博士が小さく咳払いし、言葉を発した。
『それでは、少々例外的ではありますが、最初に質疑応答から入らせて頂きたいと思います』
まず立ち上がり、名乗ったのは、大手新聞社の男性記者だった。
「えー……基本的なことから質問いたしますが、アリス……さんは、既存のプログラム制御されたロボットとはどのように異なるのですか?」
まず、博士がマイクに口元を寄せる。
「この会見では、アリスの物理的な外見、身体は重要な問題ではありません。彼女の脳……あえて脳と呼ばせていただきますが、頭蓋内に格納される光子脳に宿る意識は、数字とアルファベットに置換可能なプログラムコードではなく、私たち人間と同じレベルの魂なのです。そこが、既存のロボットとははるかに異なる点です」
「はあ……しかし、それを私たちや視聴者に、分かりやすい形で示して頂きたいのですが……」
神代博士の眉が、かすかにひそめられる。
「チューリング・テストの結果は、すでにお手元の資料として配布させて頂いておりますが」
「いえその、そうではなくですね。たとえば、アタマ……頭蓋を開いて、内部の光子脳というものを、直接見せていただけたらと」
一瞬ぱちくりと瞬きした博士が、怖い顔で何かを言い返すまえに、アリスが直接答えた。
「ええ、構いませんよ」
美貌ににっこりと自然な笑みを浮かべ、続ける。
「でもその前に、あなた自身も、ロボットではないということを証明してくださいませんか?」
「え……? も、勿論、私は人間ですが……証明と言われても」
「簡単ですわ。頭蓋を開いて、あなたの生体脳を見せてくださいと言っています」
再び、優しげな微笑。
「う……うわぁ、アリス怒ってるよぉー」
リーファが、肩を縮めつつもくすりと笑う。
ダイシー・カフェに集うプレイヤーたちの多くは、すでにアルヴヘイム・オンライン内でアリスと交流する機会を得ている。ゆえに、彼女の凛々しくも苛烈な性格をよく知っているのだ。
無論、アリスはALOのアカウントを新規作成したため、アバターの外見はいまの彼女とはまるで異なる。それでも、超人的としか言えぬ凄まじい剣技の冴えと、生来の――つまり本物の騎士であるがゆえの誇り高さは、多くのプレイヤーを畏怖させ、また魅了した。
画面内では、憮然としたように最初の記者が腰を下ろし、次の質問者が立ち上がっている。
「えー、神代博士にお訊きします。すでに、一部労組などから、高度な人工知能の産業利用は、失業率のいっそうの上昇をもたらすという懸念の声が聞かれますが……」
「その危惧は的外れなものです。当機構には、真正AIを単純労働力として提供する意図は一切ありません」
ばっさり否定する博士のコメントに、女性記者が一瞬口篭り、意気込むように続けた。
「しかし、逆に経済界からは期待もかけられているようです。産業用ロボット関連企業の株価は軒並み上昇しておりますが、それについては」
「残念ですが、真正AI……我々は“人工フラクトライト”と呼称しておりますが、彼らは即時に大量生産できるような存在ではないのです。私たち人間と同じように赤ん坊として生まれ、両親兄弟のもとで、幼児から子供へと唯一無二の個性を獲得しながら成長します。そのような知性を、産業ロボットに組み込み、労働に強制従事させるようなことがあってはならないと考えます」
しばし、会場が沈黙した。
やがて女性記者が、硬い声で尋ねた。
「つまり、博士は……AIに、人権を認めるべきだとおっしゃるのですか?」
「一朝一夕に結論の出るテーマではないことは分かっています」
神代博士の声は、あくまでも穏やかだったが、強い意思に裏打ちされた響きをともなっていた。
「しかし、我々人類は、もう二度とかつての過ちを繰り返すべきではない。それだけは確かなことです。……はるか昔、列強と呼ばれた先進国の多くは、競うように後進国を植民地化し、その国の人々を商品として売買したり強制労働に従事させたりしました。その遺恨は、百年、二百年が経過した現在でも、国際社会に大きな影を落としつづけています。
いまこの瞬間、人工フラクトライトたちを人間と認め、人権を与えよといわれても、到底受け入れられないと思う方々が大多数でしょう。しかし、百年、あるいは二百年ののちには、私たちは当然のように彼らと同一の社会に生き、分け隔てなく交流し、あるいは結婚したり家庭を築いてさえいるはずです。これは私の確信です。
ならば、その状況へ至るプロセスに、かつてのように多くの血と悲しみが必要でしょうか? 誰もが思い出したくない、封印せねばならない歴史をふたたび人類史に書き加えることを望むのですか?」
「ですが博士!」
女性記者が、我を忘れたかのように博士の言葉を遮り、反駁した。
「彼らは、あまりにも私たち人間と、存在のありようが違いすぎます! 体温のない機械の身体を持つモノを、どうやって同じ人類と認められるというのですか!?」
「さきほど私は、アリスの物理的身体は存在の本質ではないと言いました」
冷静な声で、神代博士が答える。
「確かに、彼女と私たちは、異なるメカニズムの身体を持っています。しかしそれは、この世界に於いてのみの話です。人間と人工フラクトライトが、完全に同一の存在として認め合える場所を、我々はすでに持っています」
「場所……とは、どこですか?」
「仮想世界です。現在我々は、生活のかなりの割合を、汎用VRスペース規格である“ザ・シード・パッケージ”によって生成された仮想空間にシフトさせつつあります。今日のこの会見も、あなたがた報道機関の皆さんはVRで行うことを希望しておいででしたが、当機構の要請によって現実世界で開催のはこびとなりました。それは、人工フラクトライトと人類の違いを最初に認識して頂きたかったからです。しかし、仮想世界ではそうではない。アリスたち人工フラクトライトの光子脳は、ザ・シード規格のVRスペースに、完全なる適合性を備えているのです」
ふたたび、会場が大きくざわめく。
AIが、仮想空間にダイブできる――ということはつまり、向こう側においては、相手が人間なのかAIなのかを区別するすべが一切無いということでもあるのだと、多くの記者たちが理解したのだ。
言葉を失い、着席した女性記者に代わって、三人目の質問者が起立した。カラーレンズの眼鏡をかけ、洒脱なジャケット姿のその男性は、名の知れたジャーナリストだ。
「まず確認させていただきたいのですが、海洋資源探査研究機構、という名前を私は寡聞にして知らなかったが、これは政府の独立行政法人ですね? つまり、あなたがたの研究開発に投じられた資金は、すべて日本国民の払った税金であるわけだ。となれば、その開発の成果であるその……人工フラクトライトは、国民の所有物であるということになりませんか? たとえ真正のAIであろうと、産業ロボットとして利用するかどうかは、あなたがた機構ではなく国民が決めることなのでは?」
これまで、僅かにも滞ることなく答えつづけてきた神代博士の口元が、はじめて軽く引き締められた。
一度深呼吸し、マイクに顔を寄せた彼女を、となりから白い手が制した。長らく沈黙していたアリスだ。
機械の身体を持つ少女は、金髪を揺らして居住まいを正すと、口を開いた。
「あなた方リアルワールド人が、私たちの創造者であることを私は認め、受け入れています。創り、生み出してくれたことに感謝もしています。しかし、かつて、私と同じ世界に生まれた一人の人間はこう言いました。“リアルワールドもまた、創られた世界だったら? その外側に、さらなる創造者が存在していたとしたら?”」
コバルトブルーの瞳の奥に、雷閃のごとき強い光が瞬く。
気圧されたように身を引くジャーナリストと、多くの報道関係者をまっすぐ見据えながら、アリスはゆっくりと立ち上がった。
胸をはり、身体の前で両手を重ねたその姿は、制服姿の女子高校生というよりも、気高い女騎士のごとき圧倒的な存在感に満ちている。わずかに睫毛を降ろし、透明感のある澄んだ声で、世界初の真正AIは言葉を続けた。
「もしある日、あなた方の創造者が姿を現し、隷属せよと命じたらあなた方はどうしますか? 地に手をつき、忠誠を誓い、慈悲を乞いますか?」
そこでアリスは苛烈な眼光をゆるめ、唇に微笑を滲ませた。
「……私は、すでに多くのリアルワールド人たちと交流を重ねています。見知らぬ世界でひとりぼっちの私を、彼らは励まし、元気付けてくれました。色々なことを教え、色々な場所を案内してくれました。私は彼らが好きです。それだけではない……ひとりのリアルワールド人を、私は愛してすらいます。今は会えないその人のことを考えると……この、鋼の胸ですら張り裂けそうなほどに……」
言葉を止め、アリスは一瞬眼を閉じ、顔を仰向けた。
そのような機能は存在しないゆえに錯覚ではあったのだが、多くの人は白い頬に伝う雫を見たような気がした。
すぐに睫毛が持ち上がり、穏やかな視線がまっすぐに会場を貫く。
ゆっくりと右手が差し出され、しなやかな五指が開かれた。
「…………私は、あなた方リアルワールドの人々に向けて差し出す右手は持っています。しかし、地に突く膝と、擦り付ける額は持っていない。なぜなら私は、人間だからです」
比嘉タケルは、記者会見のようすを、会場からほど近いラース六本木分室の大モニタで見ていた。
三週間前の事件で傷を負った右肩の傷はようやくほぼ癒え、包帯も取れた。しかし、拳銃弾が貫通した傷痕はまだくっきりと残る。再度の形成手術によって消すことは可能らしいが、比嘉はこのままにしておこうと思っている。
テレビは、いちど会見の生中継からスタジオへと切り替わり、キャスターがこの“大事件”の概説を始めていた。
『……この海洋資源探査研究機構という組織は、あの自走メガフロート・“オーシャンタートル”内で深海探査用自律潜水艇の研究を行っていたということなんですが、先ごろ大々的に報道された“オーシャンタートル襲撃占拠事件”との関わりも取りざたされていますよねえ』
解説者が、深く頷いてコメントする。
『ええ、一説には、襲撃の目的そのものがこの人工知能の奪取であったとも言われていますね。犯行グループの特定すらされていない現状では、断定は難しいのですが……』
『また、当時近隣海域に新鋭イージス艦“ながと”が停泊中だったにも関わらず、なぜ二十四時間ものあいだ救助行動をしなかったのかという問題も浮上しています。人質の安全を最優先した、という防衛大臣の国会答弁はありましたが、しかし現実に、警備要員に犠牲者が出てしまっているわけですからねえ……』
そこで画面が切り替わり、一人の男の顔写真が映し出される。
自衛隊の制服を一分の隙もなく着込み、目深に着帽したその下で、黒いセルフレームの眼鏡が表情を隠している。
写真の横に、テロップが出現する。
『襲撃事件で犠牲となった、自衛官・菊岡誠二郎さん』
比嘉は、長いため息とともに言葉を押し出した。
「まさか……あなたが、たった一人の犠牲者になってしまうなんて思いもしなかったッスよ、菊さん……」
すると、隣に立つ人物が、首を振りながら相づちを打った。
「イヤイヤ、ほんとにねえ……」
スニーカーに綿の七分丈パンツ、悪趣味な柄シャツという場にそぐわぬ服装。短く刈り込んだ頭髪からは、耳から顎まで繋がる細い髭を蓄えている。顔には、ミラーレンズのサングラス。
胸ポケットから、安っぽいラムネ菓子の容器を取り出し、ぽんと一粒口に放り込んだその怪しげな男は、にやっと笑って続けた。
「しかし、これが最善手だよ。どうせあのままでも、僕は詰め腹切らされるかヘタすると文字通り消されかねなかったし、それに襲撃事件で死人が出た、というプレッシャーがあってこそ反ラース勢力をあそこまで追い込めたんだからね。ま、よもやその天辺が防衛事務次官なんて大物だったのはさすがにビックリだがね」
「次官には、アメリカの兵器メーカーからかなりの大金が流れてたみたいッスね。しかし……それはそれとして……」
比嘉はテレビに視線を戻し、肩をすくめながら尋ねた。
「ほんとにいいんスか、人工フラクトライトをこんな大々的に公表しちゃって? これじゃあ、無人兵器搭載計画のほうは完全におじゃんッスよ、菊さん」
「いいのさ。要は、それが可能であるということさえ、アメリカ側に伝わればいいんだ」
アサルトライフルの五・五六ミリ弾にボディアーマーごと脇腹を貫かれながらも、運よく臓器の損傷を免れ比嘉より早く回復してのけたラース指揮官・菊岡誠二郎は、にやっと笑ってみせた。
「これで向こうの兵器メーカーも、共同開発をタテに技術公開をゴリ押すようなマネは出来なくなる。なんせ、もう人工フラクトライトは完璧に完成してしまっているわけだからね。この会見を見れば、連中も理解せざるを得ないだろう。いやまったく……アリスの美しさは……人以上じゃないかい……」
テレビ画面に再び映し出されたアリスの映像を見上げ、菊岡はサングラスの下の細い目を眩しそうに瞬かせた。
「そうッスね……まさしく、アリシゼーション計画の結晶ッスね……」
しばし、並んで沈黙を続けながら、比嘉は頭の片隅で考えた。
そういえば――ラースが実現を目指した“高適応性人工知的存在”、頭文字を取って“A.L.I.C.E.”の完成形であるあの少女が、アンダーワールドでもアリスの名を与えられて育ったというのは、結局奇跡的な偶然に過ぎなかったのだろうか?
もし偶然でなければ、そこにどのような理由が存在し得るだろう。あの柳井のように、ラーススタッフの誰かが秘かに内部に干渉した結果なのか? あるいは……スタッフ以外に、たった一人アンダーワールドにログインした、彼の……。
思考を止め、比嘉は振り向くと、広い部屋の奥に並ぶ二台のSTLを見やった。
わずか二ヶ月前、まだアンダーワールドが単なる試行実験のひとつでしかなかった頃、三日間に及ぶ連続ダイブに使用したのと同じ機械に、彼――桐ヶ谷和人は再び横たわっている。
左腕には輸液用インジェクター。胸には心電モニタ用電極。瞼の閉じられたその顔は、オーシャンタートルから搬送されて以来三週間に渡って続く昏睡のあいだに、いっそう肉が落ちてしまったようだ。
しかし、寝顔は穏やかだった。口元には、満足感すら漂っているように見える。
それはすぐ隣で眠りにつく、ひとりの少女――結城明日奈も同じだった。
二人のフラクトライト活性は、STLによって常時モニタリングが続けられている。
脳から、あらゆる反応が消えてしまったわけではない。もしフラクトライトが完全に自壊していれば、呼吸すらも停止してしまうはずだ。しかし、精神の活動は極限まで低下し、もはや回復の望みは断たれつつある。
それも当然なのだ。和人と明日奈は、あの限界加速フェーズのあいだに、二百年に迫る膨大な時間を体感したはずだ。わずか二十六年しか生きていない比嘉には、その質量を想像することもできない。フラクトライトの理論限界を大きく超える年月を経てなお、心臓がまだ動いていることがすでに奇跡と言っていい。
二人の保護者に対する説明と謝罪は、六本木に移送されてすぐに比嘉と神代博士によって行われた。ラースの実体が一部自衛官と国防関連メーカーの有志技術者で構成されていることを除けば、ほぼ全ての真実を明らかにしたつもりだ。
桐ヶ谷和人の両親は、涙を見せはしたものの取り乱すことはなかった。すでに、妹からおおまかな事情を聞いていたせいもあったのだろう。問題は、結城明日奈の父親だった。
何といっても、あの巨大企業・レクトの前代表取締役社長なのだ。立腹は凄まじく、即日告訴に踏み切らんばかりの勢いだったが、意外なことにそれを止めたのは母親だった。
大学教授であるという明日奈の母は、眠る娘の髪を撫でながら言った。
――私は娘を信じています。娘は、私たちに黙って消えてしまうようなことは絶対にしません。必ず、元気に帰ってくるはずです。だから、あなた、もう少し待ちましょう。
今頃、二人の両親も、記者会見の中継を見ているだろう。彼らの子供たちが懸命に守りぬいた、新たな人類の姿を。
アリスが――人工フラクトライトが現実世界に堂々と踏み出したこの記念すべき日を、悲しみで彩るわけにはいかない。
だから、どうか……目を醒ましてくれ。キリト君。アスナさん。
俯き、そう祈る比嘉の腕を、突然菊岡が肘でつついた。
「おい、比嘉くん」
「……なんスか、菊さん。今ちょっと集中してるんスけど」
「比嘉くんって。あれを……あれを見ろ」
「会見なら、もうだいたい終わりでしょう。記者の質問も、ほぼ予想の範囲内……」
呟きながら顔を上げた比嘉は、ラムネ容器を握る菊岡の腕が、中継画面ではなく右側のサブモニタを指していることに気付いた。
そこに表示されている二つのウインドウは、二台のSTLのリアルタイムモニタ情報だ。
黒い背景に、ぼんやりと薄い白色のリングが浮かんでいる。微動だにしないその朧な輝きが、眠る少年少女の魂の残光を……
ぴくん。
と、ごくごく小さなピークが、リングの一部から突出し、すぐに消えた。
比嘉は眼鏡の下で激しく瞬きし、喉をつまらせて喘いだ。
広大な記者会見場には、再び神代博士の声が響いている。
「……長い、長い時間が必要でしょう。結論を急ぐ必要はありません。今後、新たなプロセスを経て誕生してくるはずの人工フラクトライトたちと、仮想世界を通じて交流し、感じ、考えてほしい。それが、当機構がこの放送をご覧の皆様に望むただひとつのことです」
演説を終え、博士が着席したが、拍手は無かった。
記者たちの顔には、なおも戸惑いだけが色濃く浮かんでいる。
すぐに、次の質問者が手を挙げ、起立した。
「博士、危険性についてはどのようにお考えですか? つまり、AIたちが、我々人間を絶滅させて地球を支配しようと考えることが、絶対にないと言い切れるのですか?」
ため息を押し殺すように、神代博士が回答する。
「ただ一つの場合を除けば、有り得ません。その可能性があるのは、我々のほうから彼らを絶滅させようとした時だけです」
「しかし、昔から多くの小説や映画では……」
無為な質疑が続こうとしていたその時、突然、着席していたアリスががばっと立ち上がった。質問者が気圧されたように体を引く。
蒼い眼を見開き、まるで遠い音に耳を澄ませるかのように視線を虚空に彷徨わせたアリスは、数秒後、短く発言した。
「急用が出来ました。私はここで失礼致します」
そして、長い金髪を翻し、機械の身体が出せる最大の速度でステージの袖へとたちまちその姿を消してしまった。
記者たちも、テレビの前の無数の視聴者も、一様に唖然と黙り込んだ。
急用――と言ったが、この会見以上に重要なことがあるのだろうか?
壇上にひとり残された神代博士も、さすがに驚いた様子だったが、やがて何かに思い至ったように数度瞬きした。大きく息を吸い、吐いたその口元に、かすかな微笑がよぎったのに気付いた記者は居なかった。
見間違いではない。
ふたつのフラクトライトモニタに同時に発生したパルスは、およそ十秒にいちどというゆっくりした周期ながら、着実に、確固として、そのピークを高めつづけている。
「き……菊さん!」
比嘉は喘ぎながら、背後のSTLに向き直った。
和人と明日奈の寝顔に、変化はない。
いや――。
見つめるあいだにも、紙のように白い二人の頬に、少しずつ、少しずつ血の色が蘇っていく。心臓の拍動が強まりつつあるのだ。監視装置の表示は、体温も僅かずつ上昇中であることを告げている。
期待していいのだろうか。二人が、何らかの奇跡によって覚醒、否、魂の死から蘇生しようとしているのだと。
それからの十分間は、比嘉にとってはかつて覚えのないほど長く感じられる時間だった。
施設内の手の空いているスタッフを招集し、あれやこれや準備させる間にも、頻繁にモニタを見上げては二人のフラクトライトが正常状態に近づいていくのを確かめた。そうしないと、虹色に脈打つ放射光が、幻のように消え去ってしまうのではないかと懼れたのだ。
飲料水だのタオルだの思いつくかぎりの用意が整い、もう待つしかすることがなくなった頃、STL室のドアがスライドし、予想もしなかった姿がそこに現れた。
比嘉と菊岡は、同時に叫んだ。
「あ……アリス!?」
六本木ヒルズで世紀の記者会見中であるはずの制服姿の少女は、四肢のアクチュエータを音高く駆動しながらSTLに走り寄った。
「キリト! ……アスナ!!」
かすかに電子的な響きのある声で二人の名を呼び、ベッド型シートの傍らにひざまずく。
比嘉は、見開いた眼を、おそるおそるテレビの中継放送に向けた。画面はスタジオに切り替わっており、キャスターが急き込むように、突然会見の主役が消えてしまったことについてコメントしている。
「…………まぁ、神代博士がなんとかしてくれるさ」
菊岡が強張った笑顔でそう呟き、テレビ画面を消した。
確かに、いまは会見どころではない。比嘉は、アリスの後ろまで歩み寄ると、じっと金髪の少女のようすを見守った。
アリスは、ライトキューブ・パッケージ内で休眠した状態で、オーシャンタートルからここラース六本木分室まで運ばれた。そして、人工フラクトライト搭載用マシンボディ完成体の頭蓋内に封入され、リアルワールドにおいて目覚めたのだ。
記者会見で彼女自身が語ったとおり、見知らぬ異世界に突如放り出された衝撃は、大変なものがあっただろう。激変した環境に、たった三週間で適応し得たのは、なにより強い決意があったからに違いない。つまり――“アスナ”と“キリト”に、再び会うのだ、という。
いま、ついにその時が来たのだ。
アリスの両手が、かすかなモーター音とともに持ち上がり、ジェルベッドに乗る和人の右手を包んだ。
骨ばった指が、わずかにぴくりと動いた。
伏せられた睫毛が震える。
唇が小さく開き――閉じ――また開き――。
瞼が、ゆっくり、ゆっくりと持ち上がった。やや絞られた照明を受けて、黒い瞳が透き通った光を放った。
その眼に、まだ意志の動きは見えない。早く、はやく何か言ってくれ、と比嘉は念じた。
より大きく開かれた唇から、掠れた呼吸音が小さく漏れる。やがてそれは、声帯の震動を乗せて、声となる。
「…………ィ…………ディル…………」
比嘉の背筋に、氷よりも冷たいものが走った。その響きは、崩壊するフラクトライト・コピーが放つ奇怪な叫びと、とても、とてもよく似て……
いや。
「……ビー……オー……ライ」
続いたのは、異なる音だった。
It will be alright。和人は、そう言ったのだ。間違いなく。
しんと静まり返った室内に、もうひとつの声が穏やかに流れた。
「Sure」
応えたのは、隣のSTLで同じく瞼をうっすらと開いた明日奈だった。
二人は一瞬瞳を見交わし、かすかに頷きあい。
そして、顔を反対方向にむけた和人が、自分の手を握るアリスの顔を見て、微笑んだ。
「……やあ、アリス。久しぶりだね」
「…………キリト。……アスナ」
アリスが囁き声で名を呼び、同じく微笑み、激しく瞬きを繰り返した。まるで、涙を流す機能がないことを悔やむように。
和人は、そんなアリスに、慈しむような視線を向けながら続けて言った。
「アリス。君の妹、シルカは、ディープ・フリーズ状態で君の帰りを待つ道を選んだ。カセドラル八十階、あの丘の上で、いまも眠りについている」
「…………!!」
アリスの身体が激しく震え、金髪が揺れた。
ゆっくりとベッドに上体を沈み込ませたアリスの肩に手を沿え――。
和人は、はじめて菊岡と、そして比嘉の眼をまっすぐに見た。
その瞬間、比嘉の精神の奥底に、不思議な感覚が弾けた。感動、ではない。興味でもない。これは……畏怖?
闇のように黒い桐ヶ谷和人の瞳の奥にある何かが、比嘉を慄かせた。
二百年。
無限に等しい年月を経た魂。
凍りつく比嘉に向かって、和人が言葉を発した。
「さあ、早く、俺とアスナの記憶をデリートしてくれ。我々の役目は、もう終わった」
ふ、と目が醒めた。
いつものように、僅かな戸惑いをまず感じる。ここは何処《どこ》で、いまは何時《いつ》なのだろう、という。
しかし、その違和感も、日ごと日ごとに薄れていく。それはつまり、とどめようもなく過去が過去となっていきつつある、ということなのだろう。悲しく、寂しいことだが。
壁の時計をちらりと確認する。
午後四時。昼食後のリハビリを終え、シャワーを浴びたあと、一時間半ほど眠ってしまったらしい。
病室には、白いカーテン越しに差し込む夏の残照が、くっきりとしたコントラストを作り出している。耳を澄ませば、どこか遠くで鳴くセミの声が、かすかに届いてくる。それに、様々な機械と無数の人間が作り出す、都会の喧騒も。
俺は、身体を起こすと、ベッドから降りた。
さして広くもない個室を横切り、南向きの窓まで移動する。両手で、いっぱいにカーテンを開く。
強烈な西日に眼を細めながら、眼下に広がる巨大な都市を無心に眺める。膨大なリソースを消費し、複雑かつ激しく活動し続けるリアルワールド。俺の属する世界。
還ってきたのだ――という感慨と、ほとんど同じ質量で、還りたいとも思ってしまう。いつか、この哀切な望郷の念も消えてなくなるときが来るのだろうか。
立ち尽くす俺の耳に、穏やかなチャイムの音が触れた。振り向きながら、どうぞ、と応えると、ドアがスライドして来訪者の姿が現れた。
長い栗色の髪を、二本に細く束ねている。白いカットソーと、夏らしいアイスブルーのフレアスカート。ミュールも白。
陽光の粒子が残留しているようなその出で立ちに、思わず眼をしばたく。
ほんの三日前、一足先に退院したアスナは、右手に持った小さな花束を振りながらにこっと笑った。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
「いや、俺もたった今起きたとこ」
笑みを返し、病室に歩み入ってきたアスナを軽く抱擁する。
すると、アスナの左手が俺の腕や背中をさささっと撫でた。
「うーん、まだ標準キリトくんの九割くらいかなー。ちゃんと食べてる?」
「食べてる、食べまくってる。仕方ないよ、二ヶ月も寝たっきりだったんだからさ」
苦笑とともに身体を離し、俺は肩をすくめる。
「それより、俺も退院の日が決まったよ。明々後日《しあさって》だって」
「ほんと!?」
ぱっ、と顔を輝かせ、アスナは既に満杯の花瓶に歩み寄りながら続けた。
「じゃあ、どーんと快気祝いしないとねー。まずALOで、そのあとこっちでも」
手早く花瓶の水を換え、萎れた花を除いてから、携えてきたペールパープルの薔薇二輪を加えてサイドボードに戻す。
俺はしばし、その青に近づこうと頑張っているかのような色の花たちを見つめてから、そうだな、と相づちを打った。
ベッドに腰を下ろすと、アスナも隣にきて、ちょこんと座る。
再び訪れる郷愁。しかし、さっきのように胸を刺す鋭い痛みは無い。
身体をもたれさせてくるアスナの肩を抱き、俺は意識を記憶の彼方に彷徨わせる。
あの日――。
限界加速フェーズに突入したアンダーワールドに取り残された俺とアスナは、花咲き乱れる“世界の果ての祭壇”を飛び立ち、漆黒の砂漠や、赤い奇岩の群れを超えて、まず古代遺跡戦場に留まっていた人界守備軍と合流した。
その地に、すでにリーファやシノン、クライン、リズたち現実世界からの援軍の姿は無かった。再加速と同時に自動的にログアウトしたのだ。
俺は、泣きじゃくるティーゼとロニエをいたわってから、齢若い整合騎士レンリを紹介された。彼とともに部隊を再編し、北への路をたどり、“東の大門”まで帰還した。
その地に残っていた騎士団副長ファナティオ、騎士デュソルバートと緊張感のある再会を果たした俺は、初対面となる整合騎士シェータから、暗黒界軍の臨時総大将イシュカーンなる人物のメッセージを受け取った。
暗黒界軍は一度はるか東の帝城まで引き上げ、戦に生き残った将軍たちで体制を再編し、一ヵ月後に人界軍との和議の席を持ちたいということだった。自ら大使の役を買って出たシェータが、灰色の竜に乗って東へ飛び去るのを見送ったあと、人界守備軍の全部隊は央都セントリアへの帰途についた。
道々の街や村の住民たちは、なぜかもう戦が終わり、平和が訪れたことを知っており、守備軍は大変な歓声に送られることとなった。
セントリアに到着してからは、それはもう目の回るような日々だった。
ベルクーリ亡きあとの最高位騎士であるファナティオを手伝って、神聖教会の立て直しやら戦争で犠牲となった衛士の家族への補償などに忙殺され、あっという間に一ヶ月が過ぎ――。
再び東の大門を挟んで開催された、人界・暗黒界の和議交渉の場で、俺とアスナは向こうの総大将イシュカーンと邂逅した。
俺より若い、燃えるような深紅の髪の戦士は、その場で俺に言ったのだ。
――おめぇが、皇帝ベクタを斬ったつう、“緑の剣士リーファ”の兄貴か。
――疑うわけじゃねぇが、一発試させろ。
そして俺とイシュカーンは、なぜか和平会議の席で互いの頬を思い切りどつき合い……彼は、何かに納得したように頷くと、俺に告げた。
……確かにおめぇは、皇帝より、そして俺より強ぇ。だから、癪だが、認めるぜ……おめぇが、最初の…………だと…………
そのあたりで、俺の記憶はぷっつりと途切れる。
次のシーンではもう、STLの中で目を開けた俺に、ラースの比嘉さんが『記憶の消去、無事に完了したッスよ』と声を掛けている。
博士によれば、俺とアスナは、あの和議が成立した日から、二百年近くもアンダーワールドで活動を続けたはずだという。しかし、そんな膨大すぎる年月のあいだに、いったい何をしていたのかはまったく思い出せない。恐ろしいことに、ラース六本木分室で覚醒後、俺が比嘉タケル・菊岡誠二郎両名と交わしたという会話すら完全に忘れているのだ。
それは、アスナも同様らしい。
しかし彼女は、いつものほにゃっとした笑顔で言ったものだ。
――キリトくんのことだから、どーせ色んなもめ事に首つっこんだり、あちこちの女の子から逃げ回ったりしてたに決まってるよー。
そう言われると無理に思い出そうという気にはならないが、しかしやはり哀切な寂寥感だけは消すことができない。
なぜなら、いまこの瞬間も等倍比率で稼動しつづけているはずのアンダーワールドにはおそらくもう、ファナティオやレンリたち整合騎士、イシュカーンたち暗黒侯、それにロニエとティーゼは、生きていないのだ……。
不意に、俺の心を読んだように、アスナが呟いた。
「だいじょうぶ。記憶は消えても、思い出は消えないよ」
そうさ、キリト。泣くなよ……ステイ・クール。
耳の奥で、懐かしい声がかすかにこだまする。
そうだ。思い出は、脳の記憶野だけに保存されるものではない。全身の細胞に広がるフラクトライト・ネットワークに、しっかり刻み込まれているのだ。
俺は、滲みかけた涙をぎゅっと振り落とし、アスナの髪を撫でながら応えた。
「ああ。きっと……いつかまた、会えるさ」
穏やかな静謐に満ちた時間が、数分続いた。
白い壁に落ちる西日が、徐々にその色あいを濃くしていく。時折、ねぐらに帰る鳥たちの影が、さっと横切る。
沈黙をやぶったのは、再びのチャイムだった。
俺はわずかに首をかしげた。この時間に面会の予定は入れていないはずだ。やむなくアスナの肩から手を離し、声を出す。
「どうぞ?」
しゅっ、とドアがスライドすると同時に、懐かしくも小憎らしいあの声が響いた。
「やあやあ、ようやく退院だってね! こりゃパーっとやらないとね。……っと、おや、こりゃあお邪魔しちゃったかな?」
俺はため息混じりに言葉を返した。
「……なんでさっき先生に聞かされたばっかりの退院予定をアンタが知ってるのかは追及しないでおくよ、菊岡さん」
元総務省仮想課職員にして元二等陸佐、偽装企業ラースの潜伏指揮官・菊岡誠二郎は、先日の悪趣味なナリとは打ってかわった出で立ちで、するりと病室に入ってきた。
真夏だというのに高級そうなスーツの上下をびしっと着込み、ネクタイまできっちり締めている。短い髪をていねいに撫でつけ、フレームレスの細い眼鏡をかけた顔には汗の玉ひとつ浮いていない。
どの方向から見ても、外資系企業のエリートビジネスマン然としたその姿を、あのニカニカ笑いと右手に下げた安っぽい紙袋が裏切っていた。
菊岡は、その袋をひょいと持ち上げながら言った。
「これ、差し入れ。キリト君には体力つけてもらわないとだからねぇー、何にしようか随分迷ったんだけど、凜子博士が頼むから市販品にしてくれって怖い顔で言うからさ。でも、元気回復には発酵食品、これだけは譲れないからね、色々詰め合わせてきたよ。まず琵琶湖のフナズシね、今はニゴロブナが獲れないから買おうったってなかなか買えないんだぜ。それと沖縄のトウフヨウ、これで泡盛の古酒やると最高だよ。そして究めつけがこのチーズ、と言ってもただのチーズじゃない、フランス直輸入の泣く子も黙るウォッシュタイプの逸品、かのエポワスだよ! 毎日酒で洗いながら長期熟成させるうちに、表面でステキな微生物ががんがん繁殖して、ちょっとのけぞるほどの芳しい香りを……」
「冷蔵庫」
俺は菊岡がうっとりした顔でまくし立てる長広舌をばっさり切り、病室の隅を指差した。
「へ? なんだい?」
「差し入れ、ありがとう。冷蔵庫、そこ」
「ええー、開けようよ」
「この部屋の窓、嵌め殺しなんだよ! そんなもの開けたらどうなると思ってんだ」
すでに紙袋からはそこはかとない芳香が漂い、アスナが口元を覆いながらじりじり後退していく。菊岡は心底残念そうな顔で、差し入れを冷蔵庫に仕舞うと、来客用に椅子に腰を下ろした。
すぐに眼鏡の奥にいつもの笑みを浮かべ、組んだ膝の上で両手の指先を合わせる。
「いや、しかし本当によかった。考えてみるとキリト君は、先々月に“死銃事件”の共犯者に襲われて負傷して以来、肉体的にはずっと昏睡状態だったんだからねえ。たった十日のリハビリで、そこまで元気になるとは流石だねえ」
「あー……まあ……お世話になりました、と言うべきなんだろうな……」
俺は、窓に背中をもたれさせ、腕組みしながら唸った。
襲撃事件で心停止に陥り、脳機能を損なった俺が回復したのは、STLによるフラクトライト賦活治療あってのことだ。しかしこの男は、そのために俺を入院先の病院から救急車を偽装してまで非合法に拉致し、ヘリではるばる南洋のオーシャン・タートルまで空輸してしまったのだ。
正規の手続きを取れなかった事情は分かる。俺のSTL治療は一刻を争っただろうし、ラースとSTLは存在を明らかにできない極秘実験のための組織・設備だ。むしろ、俺を助けるためにそこまで危ない手に打って出た菊岡には全面的に感謝していい。
――のだが。
「……なぁ、菊岡さん。俺が二度目にアンダーワールドにダイブしたとき、記憶ブロックが働かずに、今の俺のまま森で目覚めたのは、本当に予定外の事故だったのか?」
「勿論だ」
菊岡は、笑みを薄めて頷いた。
「あの時点で、現実世界の君をそのままアンダーワールドに投下する意味はまるで無かった。シミュレーションが歪曲してしまうからね。まぁ実際には、歪曲というよりも、すでに汚染されていた世界を君が軌道修正してしまったわけだが……」
「まさか、ラースにあの須郷の部下が潜り込んでたとはなぁ」
ちらりと、隣に立つアスナを見やる。
先ほどとは別種の嫌悪を滲ませ、むき出しの両腕を掌で覆いながら、アスナは呟いた。
「あのナメクジ男のいる部屋の隣で、何時間も完全ダイブしてたと思うとぞっとするよー。その上、比嘉さんを撃つなんて……ほんとは、ちゃんと捕まって、裁かれてほしかったけど……」
「だが、あの死にかたは、むしろ幸運だったのかもしれんよ」
菊岡が静かに言葉を引きついだ。
「もしあの男……柳井が首尾よく襲撃者たちと合流し、アメリカに脱出していたとしても、クライアントだったグロージェンMEが口約束を守ったとは思えない。むしろ、STLと人工フラクトライトに関する知識を手段を選ばず吐き出させたあと、あっさり処分しただろうね。アメリカ軍事企業のダークサイドは、一個人が渡り合えるような相手ではないのだ」
「アンタが、自分の死まで演出したのもそれが理由か?」
「まぁ、ね」
己の言葉を反証するがごとく、単身で巨大な敵に挑み続けている男は、にかっと笑って両手を広げた。
その飄々とした仕草に、アスナが気遣わしそうな声をかける。
「でも……大丈夫なんですか、自衛官の身分まで捨てちゃって? ご家族とか……どうなさってるんです?」
言われてみれば、俺は菊岡の私生活についてはまるで知らない。自宅の場所、家族の有無……それどころか、この謎めいた男が自衛官だと知ったのもごく最近のことなのだ。
菊岡は、すぐには答えなかった。
めずらしく、迷うように視線を窓の外の夕景に彷徨わせている。
数秒後、錆びのある深い声が、静かに告げた。
「心配してくれて有難う。大丈夫、私に親兄弟はいない。ほんの赤ん坊だった頃に、旅客機の墜落事故で皆死んだ」
俺とアスナは、返す言葉もなく絶句した。
菊岡が赤ん坊だった頃、というと、一九八〇年代だろうか。確かに、大きな航空機事故があった記憶がある。墜落原因は、公式に断定されたあとにも異論が絶えない。その中にはたしか――戦闘機によるミサイル誤射、というものもあったはずだ。
静寂のなか、菊岡が不意に顔をあげ、いつもの笑みとともに手を振った。
「や、すまん、こんな話をされても反応できないよね。気にしないでくれ、というか、そんな心配そうな顔をしなくてもいいよ。何と言えばいいのか……うむ、そう、これからも、僕の戦いはまだまだ続く! ……んだからさ」
この男一流の韜晦芸に、アスナがかすかな笑みを蘇らせる。
「……これから、どうなさるんですか? ラースの公式責任者は、凜子博士に委任なさったし、あまり六本木分室に顔も出せないでしょう?」
「言ったろう? 僕にはまだまだ、すべきことがある。当面は……オーシャンタートル、いやアンダーワールドの保全に、全力を傾けねば」
俺は、もっとも尋ねたかった話題が突然出て、思わず身を乗り出した。
「そう、それだよ。アンダーワールドは今後、どうなるんだ……?」
「……情勢は、とうてい楽観はできない」
菊岡は、長い脚を組み替え、僅かに瞑目した。
「オーシャンタートルは現在、襲撃当時の海域にそのまま停泊・封鎖されている。船内には、わずかに原子炉監視用のスタッフが数人残るのみだ。海域は厳重に警備され、誰も近づけない……と言えば聞こえがいいが、要は保留中なのだ。国も、決断しかねているんだよ」
「保留……?」
「本音を言えば、政府はすぐにでもラース、いや海洋資源探査研究機構を解体し、人工フラクトライト関連技術を直接管理下に置きたいだろう。何せ、大量生産すれば、超低コストの労働力がいくらでも生み出せるんだからね。中国の大規模工場でも太刀打ちできないほどの。ただ、それをすれば、あの襲撃占拠事件の真相までも明らかになってしまう。事件の黒幕が米軍事企業で、しかも裏金を貰ってイージス艦を凍結させていたのが現役の防衛事務次官だ、という大スキャンダルがね。金は、一部の与党代議士にも流れていた。そいつらは、国内の大手兵器メーカーとも癒着している。これらが丸ごと暴露されれば、政権の屋台骨が揺らぐ」
威勢のいい言葉のわりには、菊岡の表情は憂慮に満ちている。
「揺らぐ……だけか?」
「そう、そこだ。揺らぐが、ひっくり返るまでは行かないだろう……。政府与党はいずれ、事務次官と議員数名を切り捨てる決断を下すはずだ。同時にラースは解体され、関連技術はすべて財閥系の大企業に持っていかれる。アリスは接収、オーシャンタートルのライトキューブクラスターも初期化は避けられない……」
「そ……そんな!」
アスナが鋭く叫んだ。ヘイゼルの瞳に、ちかっと怒りの火花が瞬く。
俺は、彼女の腕に指先を触れさせ、菊岡にその先を促した。
「その事態を避けるための策も、もうあんたの頭の中にはあるんだろう?」
「策……と言うよりも、希望、かな」
菊岡の口元に、珍しく素直な笑みが滲んだ。
「望みは、残された時間のあいだに、我々に有利な世論が形成される……という一点にしかない。つまり、人工フラクトライトに人権を認める方向のね。そのためには、現実世界の人々に、少しでも多く、長く、人工フラクトライトたちと交流して貰わねばならない。ザ・シード連結体の存在意義は、まさにそこにあったのだろう」
「……そう……だな」
「しかし、アンダーワールド人がリアルワールドに接続するための恒久経路の存在が大前提だ。現在、オーシャンタートルが使用していた衛星回線は、国によって切断されてしまっている。僕はこれから、回線の復旧を目指して動く。記者会見では、まずは先手を打てたからね。いましばらくの時間はあるはずだ」
「回線か……」
俺は、ちらりと窓の外に広がるオレンジ色の空を見上げた。
あの夕焼けの向こうでは、無数の通信衛星がそれぞれの軌道を飛翔している。しかし、アンダーワールドと交信できるほどの大容量回線を備えたものとなると、数はそうとう限られるはずだ。菊岡のプランが、とてつもなく困難なものであることは、考えるまでもなくわかる。
しかし、もう事ここに至ってしまえば、一介の高校生に過ぎない俺にできることはない。信じて、託すしかないのだ。
俺は視線を戻すと、一歩進み出て、頭を下げた。
「菊岡さん……頼む。アンダーワールドを、守ってくれ」
「言われるまでもないよ」
菊岡も立ち上がり、にっと笑った。
「僕にとっても、アンダーワールドは今や、人生を賭けた夢なのだ」
素敵な差し入れの紙袋だけを残し、菊岡誠二郎は来たときと同じく一陣の風のように立ち去った。
アスナが、ふう、と短く息をついて言った。
「態度も言葉も、すごーく立派で頼もしいんだけど……なぜか裏があるような気がしちゃうとこが、菊岡さんの人徳よね……」
「当然あるだろう、何枚重ねで」
俺は短く笑い、ベッドに腰を下ろした。
「ああ言ってるけど、菊岡さんはまだ諦めてないよ。自衛隊に、人工フラクトライト搭載型国産戦闘機を配備することを」
「え……ええ!?」
「勿論、無理やりAIとして組み込むようなことはもうしないだろうさ。だけど、アンダーワールド人に、自発的に就職してもらったらどうだ? 整合騎士や暗黒騎士は、そもそも生まれついての戦士なわけだし」
「あ……そっか……うーん」
何やら考え込むアスナと同時に、俺も推測の先をたどる。
菊岡の出自と、動機。その先にあるものは、もしかしたら、俺が考えていたよりもはるかに途轍もないものなのではないか?
ことによると、日本国内の、米軍基地の全廃……というような……。
あれこれ思考を彷徨わせていると、不意にアスナが叫んだ。
「あ、いっけない! もうこんな時間だよ!」
「ん? 面会時間は、まだ……」
「そうじゃなくて、今日これからだよ。ALOの、全種族会議!」
「あ……そうだった」
俺もぱたんと指先を打ち合わせる。
先月の、オーシャンタートル襲撃事件において。
敵が繰り出した、国外からのVRMMOプレイヤー大量投入という策に対抗するために、日本国内のALO他のプレイヤーたち約三千人が、キャラクターコンバートによって決死の救援を行った。結果彼らは、わずか数百人を残してほぼ全滅し、精神的にも深いダメージを受けたのだ。
今日はその、言わば義勇軍に参加した人たちへ事実報告を行うための会議が大々的に開催されるのである。俺とアスナは、当事者中の当事者として当然参加せねばならない。
「うーん、家まで帰ってる時間無いかなー」
どこかわざとらしく呟くと、アスナは持参したトートバッグから、ずるっとアミュスフィア一式を取り出した。
「しょーがない、わたしもここでダイブしよっと」
「…………」
俺はぱちぱち瞬きし、思わずつっこむ。
「……あのーアスナさん、どう見ても最初っからそのつもりで……」
「ちがうよ、念のためだもん。細かいこと気にしない!」
一瞬唇を尖らせてから、にっこり笑い、突然俺にかぶさるようにベッドに倒れこんできた。
看護師さんが検温にでも来たらえらいこっちゃ、と思いつつ、俺も細い腰に腕を回し、ぎゅっと引き寄せた。
しばし、静寂のなかに互いの息遣いだけが響く。
アンダーワールドに取り残された俺とアスナが、フラクトライトの限界を遥か超える二百年という時間を、どのような手段で乗り越えたのかを知るすべはもう無い。
あるいは、アドミニストレータのように長い時間を眠って過ごしたのかもしれないし、内部からのSTL操作によって己の記憶を整理し続けたのかもしれない。しかし、これだけは断言できる。アスナが傍にいてくれたからこそ、俺は俺のままこの世界に戻ってこられたのだ。
触れあう肌を通して、アスナの声が聞こえる気がした。
――どんな世界に行っても。どれだけ時間が経っても。
――いつでも、一緒だよ……。
「……ああ、そうだな」
俺は肉声で呟き、微笑むアスナの髪を撫でてから、アミュスフィアをそっと被せた。
ハーネスをロックしてやってから、自分も同じように装着する。
瞳を見交わし、小さく頷き合って、俺たちは同時にコマンドを唱えた。
「リンク・スタート」
「パパー!!」
ログインした途端、勢いよく飛びついてきた小さな姿を、両手で受け止める。
高々と持ち上げてから胸に抱くと、ネコのように喉声を篭もらせながら、頬を摺り寄せてくる。
ユイとは、アミュスフィアの使用が許可された一週間前から、毎日会っている。なのに、甘えん坊の度合いは増すいっぽうな気がする。
しかしもちろん、叱るつもりなどまったく無い。何と言っても、ユイは失踪した俺の居場所を追跡したり、オーシャンタートルを襲撃した連中が他国のVRMMOプレイヤーを利用することを予測して対抗手段を講じたりと、獅子奮迅の大活躍だったのだ。
ひとしきり甘えて満足したのか、白いワンピース姿が光の粒に溶けて消滅し、かわりに掌サイズのピクシーが出現した。透明な翅を震わせて舞い上がり、俺の左肩の定位置にちょこんと腰掛ける。
俺は、改めて、“我が家”――ALO内新アインクラッド二十二層の、森の家を見回した。
こちらも、毎晩のように訪れているのに、こみ上げてくる懐かしさは薄れる気配もない。
あるいはそれは、アンダーワールドでアリスとともに半年を過ごした、ルーリッド近郊の小屋とどこか似ているせいかもしれない。当時、俺はほぼ活動停止中だっため記憶は不明瞭だが、しかし穏やかな日々の手触りだけは、いまも鮮やかに染み付いたままだ。
あの頃、毎日のように食べ物を持ってきてくれたアリスの妹シルカは、アリスと再び出会うために己を完全に凍結する選択をしたという。記憶を消去する前の俺は、それだけをアリスに伝えたそうだ。
以来アリスは、言葉には出さないが、再びアンダーワールドに還れる日を心待ちにしている。俺も、早くその望みを叶えてやりたいと思う。だが、今はまだ、遥か南洋のオーシャンタートルにまで繋がる回線そのものが存在しない。
俺は、かすかな吐息に物思いを紛らせ、ユイを肩に乗せたまま振り向いた。
まるで、俺の感慨をすべてお見通しというふうに微笑む水色の髪のアスナと、手を繋いで家を出る。
アルヴヘイムは、夜闇が薄れつつある時刻だった。外周から差し込む曙光を、広げた翅にいっぱいに受け、ふわりと飛び立つ。
世界樹の根元、大ドームの周囲には、すでに多くのプレイヤー達が集結していた。
俺は、その一角にいつもの顔ぶれを見出し、勢いよく降下した。
「遅っせえぞ、キリト!」
着地と同時に繰り出されてくるクラインの拳に、軽く自分の拳を打ちつける。
相変わらず悪趣味なバンダナの下にニヤニヤ笑いを浮かべ、カタナ使いはからかうような口調で続けた。
「ここじゃあ瞬間移動はできねーんだから、もうちっと余裕持って来いよな、勇者サマよう」
「うっせ。あれは瞬間移動じゃなくて、光速飛行なんだよ」
「一緒だよ一緒!!」
盛大に背中を叩かれる。
その隣で、腕組みをして立つエギルも、巨大なげんこつを伸ばしてきた。ごつんと挨拶を交わすと、こちらも髭面をにんまりと崩しながら追い討ちをかける。
「あんな超性能のアカウントに馴れちまったら、こっちじゃ大分弱まってるんじゃないのか? 会議の後、軽くモンでやってもいいぞ」
「うぐ……」
思わずぎくっとなる。今ここで戦闘したら、心意攻撃や防御ができないことを忘れて、気合だけで剣を弾こうとしてしまいそうだ。
「……こ、こっちこそアンダーワールド仕込みのワザを見せてやるから期待しとけよ」
とりあえず強がっておいてから横を向くと、そこには黄緑色のポニーテールを揺らすリーファと、肩に長大な弓をひっかけたシノンの笑顔があった。順番に、掌を打ち合わせて挨拶する。
二人とは、もちろん覚醒直後から何度も対面している。
リーファ……直葉からは、オークの族長リルピリンを助け、ともに戦った顛末を聞かされた。「がんばったな」と頭を撫でると、顔をくしゃくしゃにして泣いたその姿からは、ダークテリトリーの将兵たちに強烈な印象をのこす“緑の剣士”の鬼神めいた闘いぶりはなかなかイメージしにくい。しかし、同時に俺は深く納得もしていた。何と言っても、直葉は俺がドロップアウトした剣の道をわき目も振らず突進し続ける、真の剣士なのだ。
オークの一族は、講和会議の場で、彼らを初めて人間と呼んでくれた緑の剣士の再臨を、未来永劫待ち続けると宣言していた。その意志は、二百年が経過したのちにも、まったく変質することなく伝えられているに違いない。
シノンは、ガブリエル・ミラーとの単独戦闘の模様を淡々と俺に語り、あの男こそがGGOの個人戦でシノンを倒したサトライザ当人だったことを明かした。ガブリエルの心意攻撃によって麻痺させられ、危うく意識を吸収されかかったところを、“お守り”が護ってくれたのだという。
それが何なのかはどうしても教えてくれなかったが、俺もシノンにガブリエルとの戦いの帰趨と、そして現実世界であの男を襲った末路を伝えた。
襲撃者たちが撤退したのち、第一STL室に、ガブリエルとそしてもう一人の敵たるラフィン・コフィン頭首PoHの姿はなかったが、STLのログからある程度のことは分かっている。まずガブリエル・ミラーは、俺との戦闘の直後、フラクトライトの大部分がまるで過大な情報に押し流されるように脳から喪失。直後に心臓も停止し、死亡したことは確実だ。
PoHのほうは、もうすこし複雑らしい。奴は、限界加速フェーズ開始後も、内部時間でおおよそ十年間は精神活動を保持していた。その後、徐々にフラクトライト活性は低下し、三十年経過の時点で知的活動はほぼ消失したようだ。
これは恐ろしい想像なのだが、俺はPoHと戦ったとき、奴が死亡ログアウト・再ログインするのを防ぐために肉体をただの樹木へと組成転換し、そのまま放置した。つまり奴は、皮膚感覚以外の入力をすべて断たれた状態で、暗闇のなか数十年を過ごしたことになる。フラクトライトが崩壊するのも当然だ。
俺の述懐を聞いたシノンは、まっすぐ俺を見つめ、後悔してるの? とだけ訊いた。
答えは、否だ。俺があの戦いを悔いることは、俺のために異世界に馳せ参じ、巨大な苦痛に耐え抜いたシノンやリーファ、他多くの人々のためにも決して許されない。
二人と深く見交わした視線を外し、その隣に並んで断つリズベットとシリカとも順に握手する。
「あの時、援軍の皆を説得してくれたのはリズなんだって? 演説、俺も聞きたかったなぁ」
言うと、ピンク色の髪に手をやり、リズベットはイヤハハハと笑った。
「演説なんてそんな大層なモンじゃないのよ。あのときはもう、夢中で……」
「すっごかったんですよぉー、大熱弁でしたよ!」
割り込んだシリカの三角耳を、リズベットがぎゅーと引っ張る。
「シリカも、ありがとな」
笑いながらかけた言葉に、小柄なビーストテイマーはとがった八重歯を覗かせてはにかんだ。
「えーっと、じゃあ、ご褒美ください」
言うや否や、ぎゅっと抱きついてくる。右肩に乗った水色の小竜ピナが、高く囀りながら羽ばたき、俺の頭に飛び移る。
「あっコラ! 何してんのよ!」
リズベットが、今度はシリカの尻尾を思い切り引っ張った。ふぎょ! という奇妙な悲鳴に、周囲からどっと笑いが巻き起こる。
見渡すと、いつのまにか周りには幾重もの人垣があった。
サクヤ以下、シルフのプレイヤーたち。アリシャ・ルーの背後にはケットシーたち。ユージーン率いるサラマンダー。それに、シーエンやジュンたちスリーピング・ナイツの姿も見える。
――帰ってきたのだ。
俺はこの瞬間、六本木分室のSTLで目覚めて以来もっとも強く、そう感じた。
無論、これで何もかもハッピーエンドというわけではまったくない。アンダーワールドの行く末は甚だ不透明だし、あの大規模戦闘で死亡・喪失に至ったアカウントの救済や、悪化してしまった隣国のVRMMOプレイヤーたちとの関係改善策など、解決せねばならない問題は山積している。
シリカに対抗して右腕にぶらさがるリズベットに、俺は小声で訊いた。
「……アカウント復旧可否の返事、きたか?」
「あ……うん」
いつも元気な顔が、わずかに曇る。
「ラースの、比嘉さんだっけ? あの人が調べてくれた範囲では、アンダーワールドのサーバーにはまだデータが残ってるみたい。でも、そのアカウントでログインしてこっちに再コンバートするには、回線が復旧するのを待たなきゃならない、って……」
「そっか……。でも、キャラが残ってるのは明るい材料だな。あと……お隣さんたちのほうは……?」
「難しい。すごく」
表情が、さらに沈んだ。
「ひどい戦闘だったからね……。でも……あの憎しみの遠因を作ったのは、こっちにも責任があるんじゃないかって意見もあるんだ。ザ・シード・ネクサスを日本国内だけに留めて、向こうからの接続を一切遮断してたからね。だから今度、対話再開のきっかけにするために、一ワールド開放しようって話が持ち上がってるの。今日は、主にそれについて議論されると思うよ」
かすかな微笑で言葉を切ったリズベットに、俺も小さく頷きかけた。
「うん……。壁は、関係を悪化はさせてもその逆は無いからな……」
脳裏には、もちろん、アンダーワールドの人界と暗黒界を数百年隔てつづけた果ての山脈の威容が浮かんでいた。
空に向かってそびえる世界樹を一瞬仰ぎ見てから、根元に視線を戻す。
内部の大ドームへと繋がるアーチには、すでに歩み入っていく多くのプレイヤー達の姿がある。
「さ、俺たちも行こう」
周囲の仲間たちを促し、足を踏み出しかけた時――。
突然、音声コールの着信を告げるアラームが脳裏に鳴り響いた。
「あ、デンワだ。ちょっと先行っててくれ」
皆をうながし、その場でメニューを呼び出してコールを受ける。発信元は、見慣れぬIDだった。
「もしもし?」
しばし、かすかなノイズだけが続いた。
やがて聞こえてきたのは、懐かしいあの声だった。
『……キリト。私です。アリスです』
「アリス! やあ……久しぶり。たしか、今日の会議に君も来てくれるって聞いてたけど……」
『それが……すみません。こちらで出席しているパーティーが、まだ終わりそうになくて……。皆さんに、ごめんなさいと伝えておいてください』
「……そっか」
思わず、俺も嘆息する。
世界初の真正AIたるアリスは、その存在を現実世界人に印象づけるべく、官公庁・企業主催のレセプションやらパーティーに連日出席するという多忙な日々を送っている。神代博士も謝っていたし、本人もやむを得ぬことと理解しているようだが、しかしまるで見世物のような扱いが楽しいわけはあるまい。
「分かった、みんなにはちゃんと言っておくよ。アリスも、あんまり無理するなよな。嫌なことは嫌って言えよ」
『……私は、騎士ですから。務めは何であれ果たすのみです』
毅然としたその物言いにも、かつての張りがないように思えてしまうのは気のせいか。
『それでは……また、後日』
「ああ。じゃあ、また、な」
俺は言い、通信を切ろうと指を動かした。
ボタンに触れる寸前――。
『キリト……。私……萎れてしまいそうです』
かすかなささやき声が響き、向こうから回線が切断された。
比嘉タケルは、かれこれ一時間近くも迷い続けていた。
積み上げた雑誌類の上に乗る、古ぼけたキーボード。その右端の、磨り減ってつるつるになったエンターキーを、押すべきか押さざるべきか。
東五反田にある自宅アパートの八畳間は、学生の頃から溜め込んできた機械類で隙間なく埋まっている。それらが放出する廃熱を、旧式のエアコン一台では処理しきれず、室内はじっとりと暑い。熱源をひとつでも減らすべく照明はつけていないので、闇に沈む空間のそこかしこに赤や緑、青のLED類が星のように瞬いている。
座椅子にうずくまる比嘉の正面では、万年炬燵に設置された三〇インチモニタが灰色の光を放つ。画面に動きはない。黒いウインドウが一枚、虚ろに表示されているのみだ。
比嘉は、何十度目かのため息を漏らしながら、背中を座椅子に預けた。錆びかけたフレームがぎしっと軋む。
ラースの技術スタッフには、自宅に着替えを取りにいくだけと言ってあるので、もう三十分もしたら再びラース六本木分室に戻らねばならない。神代博士は、“死んだ”菊岡二佐のかわりに日々対外業務に追われる身なので、今は比嘉がプロジェクトの実質的責任者なのだ。
しかし、その立場を利用して分室からあるモノをこっそり持ち出したことが知られれば、間違いなく叱責――いや降格されるだろう。
そのモノは今、炬燵の右側に鎮座する、複雑怪奇な装置に接続されている。手造りのフレームに、基盤だの配線だのがごちゃごちゃと詰め込まれたその装置は、間違いなくこの部屋でもっとも高価かつ高度なシロモノだ。まるまる一年をかけて比嘉自身が設計・開発した、プロトタイプのライトキューブ・インタフェースである。
そして、接続されているのは、一辺六センチの黒い金属製立方体。
“アリス”が使用するマシンボディの頭蓋内に格納されているものと、まったく同じパッケージだ。
比嘉は、しばし立方体の冷ややかな光沢を見つめた。
「……うまく動くわけない」
ぽつんと呟く。
「すぐに崩壊しちゃうに決まってるんだ。この僕や、菊さんのコピーもそうだったんだから。知性は、自らが複製であるという認識には絶対に耐えられない。たとえ……たとえそれが……」
その先を口にすることなく、比嘉は大きく息を吸い、ぐっと胸に溜め――。
震える指先で、キーボードのエンターキーを叩いた。
プログラムが走り出す。マシンに火が入る。大型のファンが唸りを上げて回転する。
モニタに表示された黒いウインドウの中央に、まるで星が生まれたかのごとく、虹色の放射光が小さく浮かび上がった。
無数のピークが、鋭く、力強く闇を貫く。揺らめき、震え、まばゆく輝く。
やがて、モニタの両側に置かれたスピーカーから、聞き覚えのある声が静かに響いた。
『…………そこにいるのは、たぶん、比嘉さんかな?』
ごくりと唾を飲み、掠れた声で答える。
「そ……そうだ」
『俺を、消さなかったんだな。正確には……コピーした、と言うべきか』
「消せる……消せるわけ、ないッスよ!!」
比嘉は、己の行為を弁解するかのごとく、低く叫んだ。
「君は、二百年という時間に耐え抜いた初のフラクトライトなんだ! いや……人類史上、もっとも長い時間を生きた人間になってしまったんだ! 消去できるわけない……そうだろ、キリト君!!」
掌にじっとりと汗が滲むのを感じながら、比嘉は、相手の名を呼んだ。
ウインドウの上部には、経過時間を示すデジタル数字が目まぐるしくカウントされている。三十二秒。
桐ヶ谷和人の――正確には、アンダーワールドでの二百年に及ぶ限界加速フェーズを耐え抜き、覚醒した直後の彼のフラクトライト・コピーは、すでに己が複製であるということを認識している。
これまでの実験では、その認識を得たあたりからコピーの言動は冷静さを失い、恐慌に陥り、奇怪な叫び声を放ちながら例外なく崩壊へと至った。比嘉は、歯を食いしばり、スピーカからの応答を待った。
数秒後――。
『……こういうこともあるかと、予想はしていた……』
呟きにも似た、静かな言葉。
『……比嘉さん。コピーしたのは、俺のフラクトライトだけか?』
「あ……ああ。記憶消去オペレーション中に、菊岡二佐や、神代博士の目を盗んで複製作業するのは、君ひとりぶんが限界だったんだ……」
『そうか…………』
ふたたび、長い沈黙を挟んで、ライトキューブに封じられた複製意識はあくまでも穏やかに語った。
『妃と……アスナと、話したことがある。仮にこのような状況に至ったらどうするか、と。アスナは言った。もし、複製されたのが自分ひとりなら、即座に消去してもらう。二人ともに複製されたのなら、残り少ない時間を、リアルワールドとアンダーワールドの融和のために使いましょう、と、ね……』
「なら……君ひとりの場合は? その時はどうすると?」
つり込まれるように尋ねた比嘉は――。
返ってきた言葉を聞いて、かすかな戦慄をおぼえた。
『アンダーワールドのためにのみ戦う。なぜなら俺は……あの世界の、守護者なのだから』
「た……戦う……?」
『アンダーワールドは現在、非常に流動的な状況に置かれている。そうだろう?』
「確かに……そうッスけど……」
『あの世界は、現実サイドにあっては、悲しいほどに無力だ。エネルギー、ハードウェア、メンテナンス、そしてネットワーク……あらゆるインフラを一方的に依存せざるを得ない。それでは、とても長期的な安全は保障されない』
すでに、経過時間は一分を遥かに超えている。しかし、複製体の口調はあくまで冷静で、崩壊のきざしすら見えない。
比嘉は、座椅子の上で背筋を伸ばしながら、無意識のうちに反論した。
「しかし、それはどうしようもないことッスよ。アンダーワールドの物理存在であるライトキューブ・クラスターは、オーシャンタートルから動かすことはできないんだ。そしてあの船は、いまは国の管理下にある。政府の決定いかんでは、明日にも動力が落とされ、クラスターが丸ごと初期化されちまうことだってあり得る……」
『原子炉の核燃料は、あとどれくらい持つ?』
突然、予想外の質問をぶつけられ、比嘉はまばたきした。
「え……ええっと、あれはもともと原潜用の加圧水炉ッスから……クラスターを維持するだけなら、たぶんあと四、五年は……」
『ならば、原則的には、その期間は燃料を補給する必要はない。つまり、外部からの干渉さえ防げば、アンダーワールドは存続できる、そうだろう?』
「で、でも、防ぐと言っても……オーシャンタートルには、武装のたぐいは一切無いんスよ!」
『俺は、戦うと言った』
静かで、穏やかな、しかし鋼鉄の刃を思わせる声が短く響いた。
「た……戦う、と、言っても……今は衛星回線も遮断されて、オーシャンタートルには通信すら出来ないし……」
『回線はある。あるはずだ』
「ど、どこに……!?」
思わず身を乗り出した比嘉は、予想もしなかった答えを耳にした。
『ヒースクリフ……いや、茅場晶彦。あの男の力が必要だ。まずは、彼を捜さねばならない。比嘉さん……協力してくれるな?』
「か……茅場、先輩……!?」
死んだはず……いや、二度死んだはずだ。
最初は、長野の山荘で。次に、オーシャンタートルの機関室で。
しかし、茅場晶彦の思考模倣プログラムが潜んでいた試作二号のボディは、機関室から忽然と消えうせていた。
「生きて……るのか……」
呻いた比嘉は、もうウインドウの時刻表示を確認することも忘れ、ただ放心した。
どうなってしまうんだ。
かつての仇敵同士であるはずの、茅場晶彦のコピーと、そして桐ヶ谷和人のコピー。このふたつ……いや、二人が出会ったら、何が起きるんだ。
もしかしたら……僕は、何か、とんでもないモノの蓋を開けてしまったのでは……。
一瞬、そのような思考が脳裏をかすめたが、しかしそれはすぐに圧倒的な興奮に吹き飛ばされてしまった。
見たい。その先を知りたい。
比嘉は、大きく息を吸い、吐いて、震える声で言った。
「……わかったッス。幾つか、昔のアテがあるッスから……暗号化したメッセージを流してみるッスよ……」
もう、後戻りはできない。
ぎゅっと目をつぶり、両の掌をTシャツで拭ってから、比嘉は猛然とキーボードを叩きはじめた。
ウインドウでは、凄まじく巨大な放射光が、比嘉の指先を見守るように虹色の輝きを周期的に揺らめかせていた。
俺は、二ヶ月ぶりに帰ってきた自分の部屋を、ぐるりと見回した。
飾り気のないデスクとメタルラック。パイプベッド。無地のカーテン。
懐かしい……と思うより先に、その殺風景さに唖然とする。訂正せねばならない。この部屋を見るのは、ほぼ三年ぶりなのだ。俺は、アンダーワールドで、約二年というもの北セントリア修剣学院の寮に起居していたのだから。
上級修剣士専用の部屋には、どっしりした木製の家具や、時代ものの茶器だの額、分厚い絨毯がくまなく配置され、俺の眼を楽しませてくれた。
なにより、傍付きだったロニエとティーゼ、そして……ユージオの笑顔が、いつでも隣にあった。
思い出に変わったはずの、痛切な胸の痛みが鮮やかによみがえり、俺は喉を詰まらせる。
手に持った大型のバッグをどさりと床に落とし、数歩進むと、ベッドに腰を下ろした。身体をゆっくりと横倒しにする。干したばかりなのだろう、シーツから日向の匂いが漂う。
目を閉じる。
耳のおくに、かすかな声がこだまする。
――昼寝なら、神聖術の課題終わらせてからにしなよ。また僕のを写すつもりかい?
――そうだ、このあいだ教わった技、ちょっと工夫してみたんだよ。あとで修練場にいかないかい。
――あっ、また抜け出してお菓子買ってきたろ! もちろん僕のぶんもあるよな!
――ほら、起きろよキリト。
――キリト……。
俺は、ゆっくりと身体を回転させ、顔をまくらに埋めた。
そして、STLの中で目覚めて以来、ずっと我慢し続けていたことをした。
シーツを握り締め、歯を食いしばり、声を上げて泣いた。幼子のように涙を流し、身体を震わせ、ひたすらに号泣した。
いっそのこと――。
いっそ、すべての記憶を消してもらえばよかったのだ!
森の中でひとり目覚め、小川のほとりを歩き、斧音に導かれて、黒い巨樹の下で一人の少年と出会ったあの瞬間から始まる、三年近い記憶の全てを!
どれほど泣いて、泣き続けても、涙が枯れることはなかった。
やがて、控えめな音で、ドアがノックされた。
俺は返事をしなかったが、ノブが回る音とともに、小さな足音が響いた。枕に突っ伏したままの俺の、頭のすぐ上側で、ベッドがわずかに沈んだ。
指が、遠慮がちに髪を撫でる。
頑なに無反応を続ける俺に、穏やかだが、しっかりと芯の通った声がかけられた。
「ね、話して、お兄ちゃん。あの世界であった、楽しいこと、悲しいこと、全部」
「………………」
俺は、尚も数秒間そのまま沈黙していた。
やがて、ゆっくりと身体を反転させ、涙に滲む視界に、直葉の――俺のたった一人の妹の笑顔を捉えた。
帰ってきたのだ。家に。家族のもとに。
過去は過去となり、今は続いていく。ただひたすらに、前へ、前へと。
目をつぶり、涙を拭って、俺は震える唇を開いた。
「…………いちばん最初に、森のなかで出会ったとき、あいつはただの木こりだったんだ。信じられないと思うけど、たった一本のスギの木を、三百年間、何世代もかけて切り倒そうとしてたんだぜ……」
俺が、リハビリを終えて家に戻ったのは、二〇一六年八月十六日だった。その夜、まるまる一晩かけて、俺は直葉にアンダーワールドでの出来事を語って聞かせた。
翌日の朝、俺は、一本の電話で叩き起こされた。
それは、ラース六本木分室から、アリスが失踪したという知らせだった。
「し……失踪!? それは、情報的に、ってことですか!?」
Tシャツにトランクスという格好のまま、俺は携帯端末をきつく握り締めた。
回線の向こうの神代博士は、抑制されたなかにも緊張を帯びた声で答えた。
「いえ……物理身体ごと、なの。社屋内の監視カメラの映像では、昨夜二十一時ごろ、自分でセキュリティロックを解除して、警備員の目を盗んで外に出たみたい」
「自分で……、ですか」
わずかばかり、詰めていた息を吐く。
今現在、アリスの存在を快く思っていない勢力は、日本国内に両手の指で数え切れないくらいあるだろう。さらに、実利的、宗教的、信条あるいは心情的に彼女を破壊したいと望む個人となると、その数を推測することもできない。そのような輩に強奪されたとあらば、剣も神聖術も使えないいまの彼女では、身を護るすべは皆無だ。
ラースもそれを認識しているからこそ、いまの六本木分室の警備体制はちょっとした要塞なみの堅固さに引き上げられている。しかし、さすがに内部から出る者までは盲点だった、ということか。
あとは、なぜアリスがそのような挙に及んだのか、ということだが――。
数日前、ALO内での音声コールが切断される間際に、彼女がぽつりと発した言葉が脳裏に蘇る。
絶句する俺にむけて、神代博士は沈痛な声で続けた。
「アリスに、過大な負荷をかけているのではと危惧してはいたのよ。でも、何度、疲れてない、休みたくない? って訊いても、笑顔で首を振るばかりで……」
「そりゃ……そうですよ。あの誇り高い騎士が、誰かに弱音なんか吐くわけないんです」
「たった一人、あなたを除いては、ね。……桐ヶ谷君、アリスはまず間違いなく、あなたに連絡してくると思うの。で……退院したばっかりなのに、申し訳ないんだけど……」
語尾を濁らせる博士に、俺は急いで答えた。
「ええ、分かってます、大丈夫です。もしメールなりコールなりあったら、すぐ駆けつけますから……。――でも、博士。いまのアリスが、そんなに長距離を移動できますか?」
「私たちも、それを心配しているの。内臓バッテリーだけでは、フル充電からでも、歩行なら約三十分、走ったりすれば十分も保たないわ。もし、六本木近辺のどこかで動けなくなって……そこを、非友好的な人間に見つかったりしたら……」
「あの外見ですからね……」
新たな不安要素に、強く眉をしかめる。アリスの眩い金髪と、透き通るような肌、そしてシリコン外装を仕上げたスタッフが精魂こめた美貌は、ロボットであるや否やに関わらず目立つことこの上ない。
「いま、手の空いてるスタッフ全員で、この界隈を探し回ってるわ。ネットの書き込みも監視してるし、公共監視カメラ網にも潜り込んで録画チェックもしてる」
「なら、俺もひとまずそっちに行きます。連絡あったとき、すぐ急行できたほうがいいでしょうから」
「そうしてくれると助かるわ。お願いするわね、桐ヶ谷君」
そして、通話は慌しく切断された。
俺はクロゼットから適当に服を引っ張り出し、手足を突っ込むや否や、端末とバイクのキーを引っ掴んで自室を飛び出した。
階段を駆け下りると、一階はしんと静まり返っている。オヤジと母さんは仕事、直葉は剣道部の朝練だろう。今夜は家族四人で俺の退院祝いをしてくれるらしいが、正直それどころではない。
冷蔵庫のオレンジジュースをラッパ呑みし、ラップを掛けて置いてあったベーグルサンドを口に咥え、玄関へとダッシュ。スニーカーを突っかけ、ドアノブを握ったところで、インタフォンが甲高く鳴り響いた。
一瞬、心臓が飛び跳ねる。まさか――アリスが、何らかの手段でここまで自力移動してきたのか。
「アリ…………」
ス、と口走りながらドアをひき開けた先に立っていたのは。
何のことはない、ブルーのユニフォームと帽子に身を固めた、宅配便のお兄さんだった。
間の悪いことこの上ないが、「ちわーす、お荷物です!」と明るく挨拶するその額に、玉のような汗が浮いているのを見れば、後にしてくださいとも言えない。
急いで上り框に取って返し、下駄箱の上から三文判を掴んだ俺に、お兄さんはさらなる追い討ちを加えた。
「お荷物、着払いでーす!」
「あ……、はい」
思わず小銭を取りに戻りそうになるが、この世界にはたしか、電子マネーという便利なものがあったはずだ。ポケットから携帯を引き抜き、お兄さんの差し出す認証端末にかざす。
「まいどーっ!」
一声残して走り去っていく姿を見送り、俺は改めて玄関先に残された荷物を確認した。
七十センチ角ほどのダンボールだ。生ものでなければ、このまま放置して出かけてしまえと思いつつ、送り状を確認する。品物は、電気製品。送り主は――。
「なぬ……」
海洋資源探査研究機構、と明朝体でタイプしてある。ラース六本木分室にストックされている伝票だろうか。あて先欄には、俺の住所氏名。しかし、ぎこちなく角ばったその文字は、どう見ても俺の筆跡ではない。
神代博士が出した荷物なら、さっきの電話で触れただろう。ならば、菊岡さんか、比嘉さんが送ってきたものか。となると中身は、アンダーワールド、あるいはSTLに関連する何らかの機器?
俺は唇を噛み、意を決して、ガムテープの封に指をかけた。
一気に引き剥がす。わずかに持ち上がった蓋を、そっと左右に――開き……。
「…………うわあああああ!!」
そして、恐怖の悲鳴を喚き散らした。
箱のなかに、ぎっしりと詰まり、不自然な方向に折れ曲がったそれは――人間の、手足。
呼吸が止まり、喘ぎながら仰け反った俺は、直後、二度目の絶叫を強いられた。
「ギャアアアアア!?」
手足の隙間の暗がりで、ぱちりと一つの眼が見開かれ、俺をまっすぐ凝視したのだ。
ほとんど腰を抜かした俺の、ダンボール箱の縁にかけたままの右手首を、異様な角度で伸び上がった白い手がぎゅっと掴んだ。
三度目の悲鳴を上げるまえに、どこか呆れたような声が、箱の中から静かに放たれた。
「騒いでないで、早く引っ張り出してくれませんか、キリト」
約三分後。
俺は自宅の上り框に腰を下ろし、両手で頭を抱えてうずくまっていた。
“宅配便で送られてくる美少女ロボット”が実現してしまったというこの現実に、どうにか認識をアジャストさせようと苦闘してみた――ものの。
「……できるか!!」
叫び、努力を放棄して、がばっと立ち上がる。
振り向いた先では、見慣れた制服に身を包んだ美少女ロボットが、物珍しそうに廊下の柱を指でなぞっている。
やがて、ちらっと俺を見て、ロボット――の外装を操る真正ボトムアップAI、アンダーワールド人、整合騎士第三位、アリス・シンセシス・フィフティは、微笑みながら言った。
「この家屋は、木材で建てられているのですね。まるで、ルーリッドの森で暮らした家のよう。あの小屋よりも、ずっと立派ですけど」
「あー……うん……たぶん、建ってから七、八十年は経つと思うよ……」
力なく答えると、青い瞳をいっそう見開く。
「よくもそれほどに天命が持つものですね! きっと、立派な樹を使ったのですね……」
「そうだね……ていうか……ていうか!」
どすどすと廊下を歩き、がしっとアリスの肩を掴み、一体ぜんたい何がどうなっているのか問い質そうとした俺の言葉を、蕾がほころぶような笑顔が遮った。
「まずは、この鋼素製の体の天命を回復させてもらえないかしら? ええと……こちらの言葉では、“充電”と言ったと思いますが」
訂正しよう。
“宅配便で送られてきた美少女ロボットが家庭用コンセントで充電する”現実だ。
俺がアンダーワールドにダイブしているあいだに、リアルワールドはかくも未来へと遷移してしまったのだ。
「ああ……充電ね……どうぞ、好きなだけ……」
俺はアリスの肩を押し、リビングへと案内した。
マシンボディの充電用プラグは、左脚のふくらはぎというやや意外な場所に内臓されていた。
そこから引き出したケーブルを壁のコンセントに繋いだアリスは、ぴんと背筋の伸びた姿勢でソファに腰掛け、なおもくるくると周囲を眺め回している。
――とりあえずお茶でも淹れるべきか、と腰を浮かせかけてから、ようやく今のアリスはおそらく飲食はしないだろうと思い至る。俺はいまだ激しく動転しているらしい。
気を落ち着かせるために、目先のちょっとした疑問から解消するべく、口を開く。
「えーと……まず、どうやって自分を宅配便に仕立てるなんて離れ技を実現したのか、そこから教えてもらおうかな……」
すると、金髪碧眼の美少女は、くだらないことを聞くと言わんがばかりに肩をすくめ、答えた。
「簡単なことです」
いわく。
六本木分室内で、着払いの送り状と梱包テープと大サイズの強化ダンボールを用意したアリスは、まず監視カメラの映像に、わざと居室を出て行く自分の姿を記録させたのだそうだ。
しかるのち、エントランスのカメラ視界外で箱を組み立て、俺の住所を記した送り状を添付し、各関節のロックを解除しながら箱のなかにきっちりうずくまる。上蓋の片側にだけテープを貼り、内側から引っ張るようにして蓋をたたむ。さらに、内部からもテープで蓋を仮止めする。
そうしておいて、宅配業者にメールで集荷を依頼する。やってきた業者は、むろんゲートで警備員のチェックを受けるが、メールは確かにビル内から発信されたものだし、エントランスにはちゃんと荷物がある。よもやその中に、世界でもっとも重要なAIが潜んでいるなどと知るよしもなく、業者はやや甘いテープの封をきっちり貼りなおし、荷物を回収してトラックに乗せ、翌朝に埼玉県は川越市まで配達し……。
「…………なるほどね……」
俺はずるずるとソファに沈み込みながら呟いた。
結局、アリスはある意味では一歩たりとも六本木分室のビルから外に出ていなかったわけだ。足取りが掴めないのも当然だ。
しかし、驚くべきは手口の巧妙さではなく、まだリアルワールドを訪れて一ヶ月にしかならないアリスがそれを発想し得たことだろう。俺がそう口に出すと、異世界人は再び軽く肩を上下させ、言った。
「まだ騎士に任ぜられて間もない見習いの頃、いちどこの手でカセドラルを抜け出して街を見物したことがありますから」
「……そ、そうっすか」
これで、アリスが情報テクノロジーに習熟してしまったら、いったいどうなるのか。彼女は、アミュスフィア無しで即時に仮想空間にダイブできる、ある意味ネットワークの申し子なのだ。
――という恐るべき想像をわきに押しやって、俺はまっすぐ座りなおすと、ようやく根本的な問いを発した。
「しかし……アリス。いったい、なぜ、こんなことを? 俺んチに来てみたかったのなら、凜子博士にそう言えば、時間は作ってくれたと思うぞ」
「そうでしょうね。あの方はいい人です。私のことをとても気にかけてくださっています。ゆえに――キリトの家を訪問する機会は得られても、護衛の衛士が一個小隊つき、ということになったでしょうね」
造りものとはとても信じられない、細くながい睫毛が伏せられる。
「……こんな、逃げ出すような真似をして申し訳ないとは思っています。今頃、リンコ博士たちは大変心配し、私を探し回っているでしょう。謝罪は、戻ってから如何様にもします。しかし……私は、どうしても、この時間を得たかった。あなたと……仮の姿ではなく、本物の体を持つキリトと、二人きりで向き合い、言葉を交わす時間が」
大きく見開かれた青い瞳が、まっすぐに俺を射た。
二つの碧眼は、ガラスレンズとCCDセンサーで構成された光学受像装置であるはずなのに、息を飲むほど美しい煌きをその奥に秘めている。それはもしかしたら、短い回路を経てつながる、彼女のフラクトライトそのものが放つ光なのかもしれない。
アリスは、かすかなモーター駆動音を奏でながら、滑らかな動作で立ち上がった。
ガラステーブルを回り込み、一歩、二歩、俺に近づく。
そこで、壁に繋がるケーブルがぴんと張り詰め、歩行を妨げた。白い頬に、かすかなやるせなさが過ぎる。
俺は、大きく息を吸い、同じように立ち上がった。
同じく二歩進み、アリスのすぐ前に立つ。
俺よりわずかに低い位置にある双眸が、強烈な意思を秘め、きらっと瞬いた。唇が動き、甘く澄んだ、しかし同時に電子的な響きを持つ声が発せられた。
「キリト。私は、怒っているのです」
何に対して、と言われずとも俺は言葉の意味を察した。
「そう……だろうな」
「なぜ。なぜ……あのとき、言ってくれなかったのですか! もう会えないかもしれないと。これが永遠の別れになるかもしれないと。二百年という時間の壁の両側に隔てられ、再びまみえることはもう叶わないのだと、あの“果ての祭壇”でひとこと言ってくれれば、私は……私はひとり逃げたりしなかった!!」
マシンボディに涙を流す機能がもしあったら、間違いなく数多の雫にいろどられていただろう表情で、アリスは叫んだ。
「私は騎士です! 戦うさだめの人間です! なのに……なぜお前はたった一人であの恐るべき敵に立ち向かうことを選び、その隣に私がいることを望んでくれなかったのですか! お前にとって私は……アリス・シンセシス・フィフティという存在は、いったい何なのです!!」
持ち上げられた小さな拳が、どん、と俺の胸を叩いた。もう一度。さらにもう一度。
俯けられた小さな頭が震え、額が左肩にぶつかった。
俺は、持ち上げた両手で、そっと金色の髪を包み込んだ。
「君は……俺の、“希望”だ」
ぽつりと呟く。
「俺にとってだけじゃない。あの世界で生き、死んでいった沢山の人たちの……かけがえのない希望なんだ。だから、どうしても守りたかった。失いたくなかった。希望を、未来へ繋げたかった」
「……未来…………」
胸のなかで、濡れた声が響いた。
「未来とは、どのような形をしているのですか。私がこの混沌とした世界で、不自由な鋼の体に、下らない会合に、そして尽きることのない寂しさに耐え続けた果てに、何があるというのです」
「…………ごめん、今は俺にもわからない」
両腕に力を込め、俺はせめて懸命に、自分の感情と思考のすべてを伝えようとした。
「でも、君がここにいることで、世界は変わっていく。君が変えていく。その行き着く先で、カーディナルの、アドミニストレータの、ベルクーリの、エルドリエの……ユージオの願いが報われるときが必ずくると、俺は信じている」
それだけではない。かつて、もう一つの異世界で生き、戦い、死んでいった多くの若者たちの命もまた、この場所、この瞬間に繋がっているのだ。
アリスは、俺の肩に額を乗せたまま、長い、長い時間沈黙を続けた。
やがて、そっと身体を離した異界の騎士は、かつて白亜の塔で出会ったときと同じように、毅然とした微笑を浮かべ、言った。
「……リンコ博士に連絡しなくては。あまり心配させては、申し訳ありませんから」
俺は、なおもしばらく、アリスの瞳を見つめ続けた。その奥の、張り詰めた感じはまだ消えていない気がしたからだ。
しかし、これ以上俺に何ができるだろう。あるいは、時間をかけることでしか解決できない問題なのかもしれない。
「……うん、そうだな」
頷き、ポケットから携帯端末を引っ張り出すと、俺はラース六本木支部の直通電話にコールした。
俺からの電話でことの次第を知った神代博士は、さすがに五秒ほど絶句したものの、最初に返ってきた言葉はアリスへの謝罪だった。やはり、本当に“善い人”なのだ。あの茅場晶彦が、生涯でただ一人心を許した女性というだけはある。
「……気遣いが及ばなかったわね。むしろ、私たちがアリスさんに甘えてしまったんだわ」
自省に続けて、神代博士は思わぬ指示を俺に伝えた。
電話を切った俺は、ソファから心配そうにこちらを見ているアリスに大きく笑いかけた。
「大丈夫、別に怒ってなかったよ。それどころか、申し訳ながってた。それで……今日は一晩、ここに泊まってきていいってさ」
「ほ、本当ですか!?」
アリスの顔も、ぱっとほころぶ。
「うん。念のため、GPSトラッカーはオンにしてくれって言ってたけど」
「それくらい、ささやか過ぎる代償です」
頷き、一度長めの瞬きをすると、アリスはさっと立ち上がった。
「そうと決まれば、まずはこのお家や庭を案内してくださいな。リアルワールドの伝統的建築物を、実際に見るのは初めてなのです」
「ああ、いいよ。……と言っても、ただの民家なんだから、あんまり見るものなんてなあ……」
首をひねってから、そうだ、と思いつく。
「あ、じゃあ、ちょっと庭に出るか」
アリスが、充電の終わったケーブルを収納するのを待って、玄関から出て玉砂利敷きの庭へと回る。
鯉や金魚の泳ぐ池や、節くれだった松の樹などにいちいち興味を向ける騎士様に、あれこれ解説しながら向かった先は――。
敷地の北東の隅にひっそりと建つ、古めかしい道場だった。
アリスは、靴を脱いで板張りの床に上がったとたん、何のための建物なのかを見抜いたようだった。さっと俺を見て、急き込むように言う。
「ここは……修練場ですね?」
「そう。こっちじゃ、道場って言うんだけどね」
「ドージョー……」
呟き、正面に向き直ったアリスは、右手を胸、左手を腰にあてるアンダーワールド流の騎士礼をさっと行った。俺も、日本流に一礼してから、並んで中に入る。
いまは亡き祖父が建て、現在は直葉だけが出入りする剣道場の床は、黒光りするまでに磨きこまれていた。真夏だというのに、素足にひんやりと冷たい。空気まで、どこか違っているような気がする。
アリスはまず、正面の壁にかかる掛け軸をじっと眺め、次いでその隣に設えられた棚に歩み寄った。
右手を伸ばし、年代ものの竹刀を一振りそっと持ち上げる。
「これは……修練用の木剣ですね。でも、アンダーワールドのものとはずいぶん違う」
「うん。竹っていう軽い木材で出来てて、当たっても大怪我はしないように工夫してあるんだ。向こうの重い木剣は、ヘタすると天命が三割くらい削れたけどな」
「なるほど……。こちらには、即効性の治癒術は存在しないんですものね。剣の修練にも、大変な苦労が伴うのでしょうね……」
深く頷いてから、アリスはさらに数秒間黙考を続けた。
と、突然。
くるりと振り向き、驚いたことに、持っていた竹刀の柄を俺に向けて差し出した。
「へ? 何を……」
「決まっています。修練場ですることはひとつしかないでしょう」
「え……ええ!? ほんとに!?」
その時にはもう、アリスは左手で別の竹刀を取り上げていた。俺はやむなく、突き出された柄を握る。
「と……言っても、なあ。アリス、きみ、その体で……」
「気遣い無用!」
びしっ。
と鋭くも凛々しいひと言。
俺は口を半開きにしたまま、板張りの上を歩いていく制服姿の機械少女を眺めた。
確かに、アリスに与えられているマシンボディは、二〇一六年現在の水準に照らしても途轍もなく高度なものだ。オーシャンタートルで試作されたものを上回る動力性能を、遥かにスマートな躯体に搭載し得た理由は、人型二足歩行ロボット最大の難関であるバランサー機能を丸々省略できたからだと聞く。
俺たち人間は、直立している間、無意識のうちに絶えず左右の脚にかかる重量を制御しバランスを維持している。その機能を、センサーやジャイロ及びプログラムで機械的に再現しようとすると、関連デバイスの容積はとてもリアルな人型シルエットには収まりきれない。だが、アリスはその限りではない。なぜなら、彼女のフラクトライトは、俺たち人間とまったく同レベルのオートバランサーをすでに備えているのだから。各関節に内臓されたアクチュエータやダンパーの制御を、ライトキューブから出力される信号に直結すればいいだけの話だ。
――とは、言うものの。
現時点では、決して、ナマの人間の動作に完全に追いついたわけではない。それは、あの宅配便の送り状に書かれていた文字のぎこちなさを見れば明らかだ。ましてや、竹刀を……剣を振るなどという複雑かつ高速な動きに耐えられるとは思えない。
というようなことを、俺は一瞬のうちに考え、ゆえに大いに困惑した。
しかしアリスは、まったく迷いのない足取りで俺の正面、五メートルほどの距離にまで移動すると、右手で握った竹刀をぴたりと垂直に掲げた。
アンダーワールド古流、天衝崩月の構え。
突然、俺の皮膚を、怜悧かつ稠密な風が撫でた。思わず息を飲み、半歩下がる。
剣気。
嘘だろ、有り得ない、と思うより早く――。
俺の身体も、自然と動いていた。右手で握った竹刀を、腕を外に捻転させて、下段に構える。左手を、柄頭に添える。そのまま腰を落とし、切っ先がほとんど床に触れかける位置で止める。同じく古流、尖月流影の構え。
考えてみれば、俺も病み上がりのうえに、現実世界では虚弱なネットゲーマーに過ぎない。マシンボディの性能どうこうと言えた義理ではないのだ。ならば、全力で一本勝負の相手をするのが、礼というものだろう。
薄く笑みを浮かべた俺に、アリスも微笑で応じた。
「思い出しますね……カセドラルの庭園で、お前と初めて剣を交えたときのことを」
「あんときはコテンパンだったけどな。今回はそうはいかないぜ」
始め、の声を掛ける審判はいなかったが、俺とアリスは、同時にじりっとつま先を動かした。
双方、構えを崩さぬまま、少しずつ少しずつ間合いを詰めていく。ぴりぴりと空気が帯電し、庭で盛んに鳴き続けるセミの声が遠ざかる。
ぴぃーん、という耳鳴りにも似た静寂が、際限なくその密度を増していき。
アリスの青い瞳が、すうっと細められ。
一瞬の雷閃にも似た光が、その瞳孔の奥に瞬き――。
「イヤアアアア!!」
「セエエエアア!!」
同時に裂帛の気合を放ちながらも、俺は、黄金の髪を翻し真っ向正面から剣を斬り降ろしてくる騎士の姿に、ただ見とれた。
ウイン!!
というアクチュエータの咆哮に続き、すさまじい衝撃が俺の右手首を襲った。直後、乾いた音が道場いっぱいに響いた。吹っ飛んだ二本の竹刀が、右と左に落下し、くるくると回りながら床板の上を滑っていった。
俺とアリスは、打突の勢いを殺しきれず正面衝突して、そのまま倒れこんだ。
どすん、と背中が板張りにぶつかる。ついで、ゴンゴン、と鈍い音が二回聞こえた。最初のは、アリスの額が俺のおでこにぶつかった音。二回目のは、俺の後頭部が床板に激突した音だ。
「いっ…………」
呻いた俺の顔を、至近距離から見下ろしたアリスが、にっこりと微笑んだ。
「私の勝ちね。決まり手は、秘技・“鋼頭打槌”よ」
「そ……そんなワザ、聞いたこと……」
「今つくったの」
くすくす、と楽しそうに笑ってから、白い頬が再び降りてきて、俺の頬に触れた。耳元に、澄んだ春風のような声が流れた。
「キリト。私、もう大丈夫。この世界で、生きていけるわ。剣を振れるかぎり、どこにいようと、私は私だもの。いま、解ったの……私の戦いは、まだ終わってない。そして、あなたの戦いも。だから、前を見て、前だけを見て、まっすぐに進んでいくわ」
その日の夜は、別の意味で、緊迫感あふれるものとなった。
自宅のリビングには、ちょっと覚えがないほど久々に家族四人が揃い――さらに賓客一人を交えて、俺の退院祝いが催されたのだ。
直葉とアリスは、すぐに打ち解け、剣道の話で大いに盛り上がっていた。
アリスと母さんも、俺を話のネタにしてなごやかに歓談した。
しかし、テーブルの右端で向き合う俺とオヤジのあいだにだけは、大変に張り詰めた空気が流れることとなった。
俺のオヤジ、桐ヶ谷峰嵩という人物は、ほぼあらゆる意味で俺と真逆なパーソナリティを持つ男だ。真面目。勤勉。秀才。一流大学を出てアメリカのビジネススクールに留学し、そのまま現地で最大手の証券会社に就職して、いまも日本にはほとんど帰ってこない。万事アバウトな母さんと、よくもまあ波風ひとつ立てず――というかいまだに熱愛夫婦を続けていられるものだ。
オヤジは、すでにビールとワインを随分あけているにも関わらず顔色ひとつ変わらない白皙にメタルフレームの眼鏡を光らせ、ついにこの夜の本題へと切り込んできた。
「和人。色々と話したいことはあるが、まずは最初に、お前の口から聞くべき言葉を聞いておきたい」
とたん、テーブルの反対がわも、しんと静まり返る。
俺は、齧りかけのチキンウイングを皿に置くと、咳払いして立ち上がった。テーブルの端に両手をつき、ぐっと頭を下げる。
「……オヤジ。母さん。またしても心配かけて、悪かった」
すると、翠母さんのほうは、快活に微笑んで首を振った。
「もう慣れちゃったわよ。それに、今回は、カズはとっても大きな仕事をしたんでしょ? 人間、一度請け負った仕事は何をおいてもやり遂げないとだめよ。書くと言った原稿は書く、守ると言った締め切りは守る!」
「ママ、私情はいってるよ」
直葉の突っ込みに、緩みかけた空気をふたたびオヤジが緊迫させる。
「母さんはああ言ってるが、お前が失踪してるあいだの母さんの心労は大変なものだったんだぞ。海洋資源探査研究機構の人たちに事情は聞いたし、お前が重要な役目を果たしたのはそこのお嬢さんを見ても解るが、しかし忘れてはいけない。和人、お前の本分はいったい何だ」
剣士! とか、アンダーワールドの守護者! とか答えられたらどんなにか気持ちよかろうと思うが、しかしこの場でそんなことが言えるわけもなく。
「高校生、です」
しゅーんとする、とはこのことだ。これではまるで親に説教される子供だ。唖然と眼を見開くアリスの視線が頬に痛い。かの世界であまたの強敵と渡り合った俺も、現実世界ではこの有様なのだ。
オヤジは、ひとつ頷き、いっそう厳しい声で続けた。
「そうだ。ならば、お前がもっとも力を注ぐべきことは自ずから明らかだろう」
「……勉強して、進学することです」
「もう、高校二年の夏なんだぞ。確か、アメリカに留学希望だと母さんに聞いていたが、準備は進んでいるのか」
「あー……そのことなんだけど……」
俺は口をつぐみ、まず母さん、ついでオヤジの顔を見て、再び頭を下げた。
「すまない。進路、変更したい」
眼鏡の奥で、オヤジの眼が厳しさを増す。
「言ってみなさい」
促され、俺は意を決して、まだアスナにしか言っていない内容を告げた。
「日本の大学の電子工学部……できれば帝工大に行きたい。そして、将来的には、ラー……いや、海洋資源探査研究機構に就職したい」
がたん!
と椅子を鳴らして立ち上がったのは、アリスだった。
両手を胸のまえで握り締め、眼を見開いている。俺はその碧眼をちらりと見やり、一瞬微笑んだ。
ずいぶんと前――のような気もするが実際にはほんの二ヶ月前、俺はアスナに、アメリカに留学して脳インプラント型VR技術について学びたいと言った。その理由は、インプラント型が、アミュスフィアの正しい後継であると考えたからだ。ニーモニック・ビジュアルという異質なデータ形式を用いるSTLよりも、従来型のポリゴンデータを扱うNERDLESマシンに愛着があったからだ。
しかし。
アンダーワールドで過ごした日々は、俺の認識を根底から覆すに充分すぎる体験だった。
俺はもう、あの世界から離れられないし、離れるつもりもない。一生をかけて実現すべきテーマを、ついに見つけたのだから。
アンダーワールドとリアルワールドの融合、という。
俺をまっすぐ見つめ、大輪の花のような笑みを浮かべたアリスが、オヤジに視線を移して口を開いた。
「……お父様」
その呼びかけに、直葉がぎょっとしたように眼をむく。
「私の父様は、私が騎士の道を歩んだことを、ついに許してくださいませんでした。しかし、私はそのことをもう悔やんではいません。私は、己の信ずるところを行動で示し、父様もそれを解ってくださったと信じているからです。キリト、いえ、カズトもそれができる人です。なぜなら、彼はこの世界では一学徒であっても、かの世界では間違いなく、世界最強の騎士だったのですから。雄々しく戦い、無数の民を守った英雄なのですから」
「アリス……」
俺は思わず彼女の言葉を制しようとした。オヤジには、騎士だの戦いだのと言っても解ってもらえないと確信していたからだ。
だが。
「アリスさん」
オヤジが、常に冷厳さを失わない口元に微笑みを浮かべたのを見て、俺は心底ぎょっとした。
「私も母さんも、それはもう知っているよ。和人は、この世界でもすでに英雄なのだから。そうだろ、“黒の剣士”」
「げっ……」
一層の驚愕に見舞われ、仰け反る。まさか、あの与太だらけの本を、二人も読んだというのか。
笑みを消し、オヤジはアメリカ仕込みの強烈な視線をまっすぐ向け、言った。
「和人。進路を決め、勉強し、受験、進学、さらに就職することはすべてひとつのプロセスに過ぎないが、同時に人生が与えてくれる果実でもある。迷い、揺れることはあっても、後悔は無きよう生きなさい」
俺は、短く眼を閉じ、大きく息を吸い――。
みたび頭を下げて、答えた。
「必ず、そうする。ありがとう、オヤジ、母さん」
そして、視線を上げてから、頬の片側だけに笑みを滲ませて付け加える。
「貴重なアドヴァイスのお礼ってわけでもないけど……オヤジ、もしグロージェン・マイクロ・エレクトロニクスかその関連企業の株を持ってるなら早いとこ売ったほうがいいぜ。最近、ものすごいギャンブルに出て大損したらしいから」
俺のささやかな逆襲に、しかしオヤジは片方の眉をぴくりと持ち上げただけだった。
「ほう。覚えておこう」
――このようにして、現実は少しずつ現実らしさを取り戻していくんだな。
などと考えながら、俺は自室のベッドに転がった。
ホームパーティーは無事に終わり、オヤジと母さんは一階の寝室に引っ込んで、アリスは二階の直葉の部屋で寝ることになった。二人がどんな話をするのか少々恐ろしいが、しかし二人が仲良くなってくれたのは喜ばしいことだ。アリスも、そうやって一歩一歩現実世界に馴染んでいってくれればいいと思う。
もうすぐ夏休みも終わり、二学期が始まる。
俺は、体感時間では二年以上も高校の授業から遠ざかっていたため、休みの残り二週間はアスナにみっちりシゴかれることになっている。北セントリア修剣学院で学んだ剣術や神聖術体系の記憶領域に、数式だの英単語だのが上書きされていくわけだ。
アリスはああ言ってくれたが、おそらく俺は、もう二度と本当の意味では剣を取り戦うことはないだろう。
これからは、この現実世界での目標を実現するためにのみ、全ての時間とエネルギーを費やさねばならない。勉強し、進学し、希望が叶うかどうかはともかく就職して、可能な限りまっすぐ歩いていかねばならない。
それもまた、大切な戦いなのだ。寂しいことではあるが。
少年期は、いつか必ず終わる。
陽光と爽風、歓声と興奮、冒険と多くの未知なるものに彩られた黄金時代は、そうと気付いたときには彼方に去り、二度と戻ることはない。
おそらく、俺は、幸運な子供だったのだろう。
数多の異世界を、右手に愛剣、左手に白地図、そして胸をどきどき高鳴らせて走り続けられたのだから。色とりどりの宝石のように煌く思い出を、溢れるほどに魂に刻み込むことができたのだから。
窓の外、どこか遠くで、最終電車が鉄橋を渡る音がする。
庭の草むらで、虫たちが夏の終わりの歌を奏でる。
少しだけひんやりした風が、網戸から入り込んでカーテンを揺らす。
俺は、現実世界の音と匂いを、体いっぱいに吸い込み、眼を閉じた。
「……さようなら」
そっと呟いた、別れの言葉とともに――。
ひとつの時代が通り過ぎていった。
――と、思っていたのだ。
八月十七日深夜、自室ベッドで、穏やかな眠りに落ちたその瞬間までは。
「……キリト。起きてください、キリト」
肩を揺すられ、俺は甘酸っぱい感傷に満ちた睡眠から引き戻された。
「…………ん……」
掠れた声を喉から漏らしながら、いやいや瞼を持ち上げ。
すぐ目の前に、黄金の睫毛に彩られた紺碧の瞳を見出して、シーツの上で軽く飛び上がった。
「ふごっ……!? あ、アリス……!?」
「しっ、大きな声を出さないで」
「と、言われても君、これはちょっとその、不適切というかその……」
「なにを考えているのです」
むぎー、と左耳を引っ張られ、ようやく意識が覚醒しはじめる。
寝ぼけ眼で、改めて枕元の時計を見るとまだ午前三時を少し回ったところだ。窓の外では、まだ高い位置に真ん丸い月が輝いている。
視線を戻す。
朧な月光を受けて、俺の枕元にひざまずくアリスは、青い無地のTシャツ一枚という大変に不穏当な格好だった。長い裾からは、自ら発光しているがごとき白い脚が惜しげもなく晒されている。シリコンの皮膚に薄く走っているはずの接合ラインもこの暗さではまるで見えず、その優美なラインが人造物だとはまったく信じられない。
「……あ、あまり見ないでください」
シャツの裾をぐいっと引っ張る姿に、俺は再び喉を詰まらせて跳ね起きた。
無理やり視線を持ち上げるものの、今度は薄い生地を持ち上げる膨らみと、その上に流れる鋳溶かした黄金のような髪が眼に入り、思考が急減速する。
俺の分かり易すぎる動転ぶりに、アリスも今更羞恥を感じたのか、ぷいと横を向き唇を尖らせながら言った。
「……おそらく覚えていないでしょうが、お前と私は半年も同じベッドで眠っていたのです。今更そのような反応をせずともよいでしょう」
「えっ……そ、そうなの?」
「そうなのです!!」
叫んでから、はっと口を両手で押さえる。俺も首をすくめ、隣室の気配を窺ったが、幸い直葉が起きた様子はない。もっとも彼女は、朝練に出る三十分前までは、たとえ地震と台風が一緒に来ても起きやしないのだが。
アリスは咳払いし、きっと俺を睨んだ。
「お前が妙な反応をするからいつまで経っても本題に入れないではないですか」
「そ……そりゃ失礼。えー、あー、うん、もう大丈夫です」
軽いため息、及びかすかなモーター音とともに立ち上がり、アリスは表情を改めて口を開いた。
「約五分前……尋常ならざる内容の通信文が、遠隔伝信術……ではない、ネットワーク経由で私に届きました」
「メール? 誰から?」
「差出人の名前はありません。内容は……口で言うよりも、文面を見たほうがいいでしょう」
ふい、と視線を動かし、俺のデスクの上、ソリッドPCの隣に設置されたプリンタを凝視する。
度肝を抜かれたことに、突然プリンタが排気ファンを回転させはじめた。背面にセットされたA4の用紙が、一枚引き込まれていく。間違いなく、アリスが無線で印刷命令を発したのだ。いつの間にこんなワザを覚えたのか。
という俺の驚きを。
トレイに吐き出された紙をアリスが俺にさし出し、記された文章に眼を走らせたときの驚愕が、瞬時に地平線まで吹き飛ばした。
横書きに記された、その内容は――。
『白き塔を登りて、かの世界へと至る。
雲上庭園.大厨房武具庫.暁星の望楼.聖泉階段霊光の大回廊』
たっぷり五秒ほどにも渡って、俺は自分が見ているものを理解できなかった。
半覚醒状態だった頭が動き出すにつれ、ようやく、アリスの“尋常ならざる”という言葉を実感する。
一行目の内容もさることながら。
問題は、二行目だ。そこに黒々と刻まれた、聞き覚えのある名称の羅列。
雲上庭園……暁星の望楼……これらは間違いなく、アンダーワールドは人界の首都セントリア、その中心に屹立していた神聖教会セントラル・カセドラルの各フロアの名前だ!
しかし、ならば、このメールの差出人はいったい誰なのだ!?
現実世界において、カセドラルの内部構造を詳しく知る人間は、たった二人しか存在しないはずだ。つまり、俺とアリスである。
菊岡さんや比嘉さんたちラーススタッフは、神聖教会という統治組織の名称までは外部からモニタできても、フロアの名前まではとても調べられなかったろう。また、アスナやクラインたちのように、援軍としてアンダーワールドにログインしたVRMMOプレイヤーは多いが、彼らは皆セントリアから遥か離れたダークテリトリーの荒野に出現し、ほぼその場でログアウトした。カセドラルをその眼で見る機会すら無かったはずなのだ。
いや――。
再び文面を詳細に辿った俺は、さらに信じがたいことに気付いた。
二行目の後半に見える、“聖泉階段”という名前。そんなフロアは、どう思い出しても通過した記憶がない。つまり、このメールの発信者は、俺ですら知らない内容を書き記している。
俺は、真剣な光を湛えるアリスの瞳を見返し、尋ねた。
「……アリス。この、聖泉階段というのは……」
「確かに、カセドラルに実在します」
騎士はこくりと頷き、白い両手を胸の前で握り締めて、続けた。
「しかし……秘匿されているのです。聖泉階段は、地上百層の威容を誇るカセドラルが、遥か昔、たった三階しかない小教会だった頃の遺構なのです! 第一層の大階段の下に封印され、何ぴとたりとも見ることはかないません。その存在を知る者すら、小父様、私、そして……最高司祭アドミニストレータの、たった三人しか居ないはずなのです……」
「な…………」
俺は、更なる驚きに打たれて喘いだ。
アリスは一歩踏み出し、俺の右手をぎゅっと掴んだ。その指先が、細かく震えているのに俺は気付いた。
「キリト……まさか……まさか。生きて……いたのでしょうか。あの半神人……最高司祭が……」
発せられた声には、深い畏れの響きがまとわりついている。
俺は、細い背中に手を回し、そっと引き寄せながら言った。
「いや……有り得ないよ。最高司祭は、確かに死んだ。元老チュデルキンともども、光になって四散するのを俺は確かに見た。そうだ……それに、ここを見ろよ」
左手に持ったプリント用紙を、アリスに示す。
「一行目に、こう書いてある。“白き塔を登りて、かの世界へと至る”。白き塔、というのはセントラル・カセドラル、そしてかの世界とはアンダーワールドのことだろう。もし差出人がアドミニストレータなら、かの世界とは絶対に書かないよ。“我が世界”、そう書くはずだ」
「そう……ですね、確かに。それは、私にも確信できます」
金色の前髪が俺の頬に触れる距離で、アリスが頷く。
「しかし……となれば、この文はいったい誰が……」
「わからない……推測する材料が無さ過ぎる。むしろ……この文章の意味が解れば、差出人も解るんじゃないかな……」
「意味……?」
「うん。よくよく読めば、おかしなところが幾つもある」
俺はアリスを促して並んでベッドに座り、指先で印刷文をなぞった。
「一行目には、登りて、と書いてあるけど……そうすると、二行目がなんかおかしいだろ? 最初の“雲上庭園”、これは俺と君が初めて戦ったフロアだ。たしか、相当上のほうだった。でも、次には“大厨房武具庫”とある。厨房は知らないけど、武具庫があるのはずっと下、地上三階だったはずだよ。と思えば、次は“暁星の望楼”だ。これは、俺たちが苦労して外壁を登って、どうにかこうにかカセドラル内部に戻ったフロアだろ。ほとんど塔の天辺だ。順番が前後しすぎる」
「そう……でしたね。……懐かしい……。外壁に、剣一本突き立ててぶら下がってるとき、お前は私に八回もバカと言ったのよ」
「そ、そこまで思い出さなくてもいいって」
首を縮める俺を見上げ、アリスはにこっと笑った。
「でも、本当は少しだけ嬉しかった。あんなふうに、誰かと心の底から言い合いをしたのは初めてだったから」
思わず、透明感のある笑顔をまじまじと見つめ返してしまう。
青い瞳が、わずかに潤んでいるように見えるのは気のせいか。
その、深い水底のような輝きから、俺は全精神力を振り絞って視線を外した。少々掠れた声で、説明を続ける。
「……それに、ここ。読点の位置もおかしいよ。なんで大厨房と武具庫のあいだ、それに聖泉階段と霊光の大回廊のあいだには点が無いんだ?」
アリスは、低い駆動音とともにゆっくり首を回し、再び文面を見た。
「……打ち忘れ……では、ないのでしょうね。……おや?」
何かに気付いたように、顔を用紙に近づける。
「キリト。一行目と二行目で、点の形が違いませんか? それに、何か意味があるのかは分かりませんが……」
「え……?」
俺も慌てて至近距離から覗き込む。
確かに――。一行目、“登りて”と“かの世界”の間に打ってあるのは、通常の読点だ。
しかし二行目に三つ打たれているのは、読点ではなくピリオドに見える。あるいはドットか。
ドット…………。
「あ…………あっ!!」
俺は低く叫び、腰を浮かせた。
「そ、そうか。カセドラルは百階しかないから……だから、二つを連結させて……つまり、これは……」
手探りで、ベッドのサイドボードからボールペンを掴み取る。キャップを引き抜きながら、アリスに急き込むように尋ねる。
「アリス。雲上庭園は、何階だったっけ!?」
「え……む、むろん、八十層ですが」
「そうだよな。で……大厨房は?」
「十層です」
告げられる数字を、次々に紙の余白に書きなぐっていく。
「確か望楼が……で……聖泉階段は一層……大回廊が……」
手を止めたとき、そこには、三つのドットに区切られた、四つの数列が並んでいた。
見覚えのある体裁――どころではない。俺のような人種が日常的に見慣れている、ある種の書式。
これは、IPアドレスだ。
このメールは、現実世界のどこかに存在する、ひとつのサーバーを示していたのだ。
俺はデスクのPCに飛びつき、スリープを解除すると、キーボードを乱打してまずhttp、次いでftpで問題のIPに接続しようとした。しかし結果は、どちらもアクセス拒否だった。唇を噛み、さらに考える。接続プロトコルは他にも色々あるが、おそらく根本的なところを間違っている気がする。
再び、文面を眺める。
登るべき“白き塔”、とは二行目のアドレスそのものを指しているのだろう。
そして、登った先で“かの世界”に至る、ということは。
そのサーバーは。
「……そう……だったのか!!」
指先が冷たく痺れていくのを感じながら、俺はくるっと振り向いた。
「アリス。これは……接続経路だ! アンダーワールドに繋がる道なんだ!!」
押し殺した叫びを聞いたとたん、アリスの瞳が大きく見開かれた。
弾かれるように、ベッドから立ち上がる。
「……行ける……いえ、帰れるのですか。あの世界へ。私の……世界へ」
囁かれた言葉に、俺は、確信を持って深く頷いた。
アクチュエータの駆動音が高らかに響き、一直線に飛び込んできた身体を、俺は両手で受け止めた。
耳元で響いた嗚咽と、頬に触れた水滴の感触は、たぶん錯覚だったのだろう。
金属とシリコンのマシンボディに、そんな機能は無いはずなのだから。
常識的な時間になるまで待てるほどの忍耐力を、俺もアリスも持ち合わせていなかった。
ゆえに、午前四時を深夜ではなく早朝だとこじつけて、凛子博士の携帯端末に容赦なくコールした。
幸い、博士は今夜、六本木分室に泊り込みのようだった。最初はさすがに何が何だか解らぬ様子だったが、俺の説明が佳境に差し掛かったとたん、「そ、それホントなの!?」という悲鳴まじりの声とともに、ベッドから跳ね起きる気配が届いた。
「ホントです。ヘッダが偽装されてるんで、発信元のトレースはまず無理でしょうけど、内容からして本物としか思えません」
「そ……そう。なら、今すぐにでも確かめてみないと……」
そう口走る博士に、俺はすかさず畳み掛けた。
「その役目……俺と、アリスにやらせてください」
「えっ…………」
聞こえた息づかいは、驚き――ではなく、呆れたゆえのため息だろう。
「桐ヶ谷君……あなた、あんな目にあったのに……」
「それで懲りるような人間なら、そもそも最初からラースでバイトなんかしてませんよ」
再び、長い吐息。
「……そう、よね。そういうあなただからこそ出来たこと、これから出来ることもあるんでしょうし。でもね……今度は、ちゃんと親御さんの許可を取ってきてね」
「勿論です、任せてください。で……ちょっと確認させてほしいんですが。……アリスは、そっちからオーシャンタートルに接続する場合、STLは使うんですか?」
「いえ、必要ないわ。アリスのライトキューブ及びインタフェースは、あなたの生体脳と巨大なSTLを合わせたものとまったく同じ機能を果たすんだから。必要なのは、ケーブル一本とジャック一つよ」
「そう、ですよね。なら……えーと、ちょっと待ってください」
俺は、背後で両手を握り締めて見守るアリスに向き直った。
「アリス。その……悪いんだけど、彼女も一緒でいいかな……アスナも」
ぴくり、と片方の眉が動く。
ため息がわりの、軽いモーター音。
「……ま、いいでしょう。不測の事態となった場合、戦力が多いにこしたことはありませんから」
「す、すまない、恩に着る。……というわけなんで、博士……」
さらに幾つかのやり取りを経て通話を切ったあと、俺はアスナも叩き起こし、状況を伝えた。
こちらは、接続経路が見つかった、と言ったとたん今後の展開をすべて悟ったようだった。
ほんの一、二分で連絡を終え、さて、と部屋を見回す。
卓上には、すでに、明日から使うはずだった参考書やら何やらがきっちりまとめて置かれている。
それらの出番は、甚だ不本意ながら、もう少し先のこととなりそうだった。
プリンタの背中から、用紙を一枚抜き取ると、手早くボールペンを走らせる。直葉の部屋から制服を回収してきたアリスと、互いに背を向けて着替え、足音を殺して部屋を出る。
階段を降り、リビングのテーブルに手書きのメモを置き。
古めかしい引き戸を慎重に開閉して、白みはじめた空の下へと踏み出した。ひんやり冷たい早朝の空気を胸いっぱい吸ってから、ガレージの隅で埃を被っていた一二五CCのバイクとメットを二つ引っ張り出す。
家からじゅうぶんに離れるまで押して歩き、シートに跨ると、後ろにアリスも座らせて――。
俺は、セルを回しながら言った。
「しっかり掴まってろよ! 飛竜並みにすっとばすからな!」
ぎゅっと俺の腹に手を回しながら、アリスが答える。
「私を誰だと思っているのです!」
「はは、そうだったな、竜騎士さん。じゃ……行こう!!」
自宅のリビングに残してきた文面は、以下のようなものだ。
『オヤジ、母さん、スグへ。ちょっとやり残した冒険をしてくる。夏休みが終わるまでには戻るから、心配しないでくれ。  K 』
早朝の幹線道を、川越街道、環七、二四六とすっとばして辿り着いたラース分室通用口の前には、すでにタクシーで先発していたアスナの姿があった。
やっほー、と手を振りかけて、俺の後ろに乗るアリスの姿に気付いてぴきっとこめかみを震わせる。
「……キリトくん。これ、どーゆーコトなのかな?」
「え……ええと、その。手短に言うと、色々あったけど、何もなかった……的な……」
「色々、と、何も、の中身を詳しく」
こうなることは解っていたのだ。解っていて、俺はあえて無策のままここまで来た。なぜなら、穏当な説明などできようはずもないからだ。
「詳しい話は、そのうちする、絶対するから! …………老後の茶飲み話とかに……」
語尾をゴニョっと付け加えて、バイクを職員用駐車場に停め、後輪をロックする。
振り向いた俺の眼には、畏れていた光景が飛び込んできた。
両手を腰に当てて立つアスナ。腕組みして立つアリス。対峙する両者は、しかも同じ学校の制服姿とくる。ぴりぴり、と空気を焦がす電光が見えるようだ。
俺は恐る恐る、両者に声をかけた。
「……あのぅ、君たち、そういうのもう終わったんじゃなかったっけ……ほら、アンダーワールドの、人界守備軍の野営地で……」
「あれはあくまで停戦交渉だったの!」
「停戦とは、ふたたび戦端を開く前提で行われるものです!」
同時に鋭く言い放ち、ふたたび視線をかち合わせる。
闘気を全開にしてせめぎ合う、二人の超級剣士の姿を二秒ほど見つめ――。
俺は、この場で唯一できることをした。
つまり、極力気配を消し、徐々に後ずさりながら、通用口の内部へと退避しようとしたのだ。
しかし、厳重なセキュリティシステムに、通行カードと指紋と網膜を認証させ終わったところで甲高い電子音が響き、二人がさっとこっちを向いた。
「あっ、コラ!!」
「逃げるとは何事です!!」
と、いう声が聞こえたときには、すでに俺は風のごとく廊下を疾駆している。
各方面のデリケートなコンディションを、いつまでもサスペンドしていることの誹りは甘んじて受けよう。
しかし、真に申し訳ないが、俺の少年期はもう少しだけ続く予定なのだ。
息を切らせてSTL室に飛び込んできた俺とアスナ、アリスを、神代博士は目を丸くして迎えた。
「……焦る気持ちはわかるけど、そんなに走らなくたって、STLも接続経路も逃げやしないわよ」
呆れ声を出す博士に、わざとらしい笑顔で答える。
「いやーハハハ、一刻も早く接続を試してみたくて! 何と言っても、ダイブが成功するかどうかで、今後のアンダーワールドの安全保障にも大きく影響っテ!!」
語尾は、アスナに右脇腹を思い切りつねられたことによるものだ。
さらにアリスからの追撃を受ける前に、長時間ダイブ用の滅菌衣に着替えるべく、隣接する更衣室へと退避する。
実際、博士に言った台詞は掛け値なしの本心でもある。
アンダーワールドを内包するオーシャンタートルは、現在、非常に微妙なシチュエーションに置かれている。その稼動および独立を維持するための方策は、いまのところ一つしかない。
人工フラクトライトつまりアンダーワールド人と、現実世界の人間たちの交流を進め、友好的な関係を醸成することだ。現実世界人の大多数が、アンダーワールド人もまた人間なりと認めてくれれば、国や企業も強引なことは出来なくなる。
いや――。
暴論を承知で言えば、別の方策もあることはある。
実際的防衛力の獲得だ。すでに開発が進んでいるはずの“ライトキューブ搭載仕様UAV”で武装し、国家として外圧と伍するのだ。
もっとも、これは妄言の範疇だ。UAVをどうやって必要数配備するのか、維持費をどう捻出するのか、そもそも飛竜しか知らないアンダーワールド騎士が超音速戦闘機に適応するのにいったい何年かかるのか。クリアすべきハードルはあまりに多い。
どちらにせよ、絶対に必要となるのが、国の管理下にある通信衛星以外の恒久接続回線だ。アンダーワールド人が、彼らにとっての新天地たるザ・シード連結体にダイブし、その存在を現実世界人に知らしめていくために。
それが可能となるか否かは、俺が握り締めるメモに書き記された、ひとつのIPアドレスにかかっている。
着替えを終え、更衣室を出た俺は、凜子博士にメモを持つ手をまっすぐ差し出した。
博士は、受け取るのを僅かにためらったようだった。しかしすぐに、指先で強く紙片を挟んだ。
「……おそらく、あの人が関わっているのでしょうね」
ひっそり発せられた言葉に、俺は小さく頷いた。
どうやって、カセドラルの内部名称を知ったのかまでは解らない。しかし、オーシャンタートルとネットを繋ぐ秘匿回線を設けるなど、あの男にしか出来ないことだ。
茅場晶彦……ヒースクリフにしか。
考えてみれば――。
俺の戦いは、あの男との直接対峙なくして終わるわけはないのだ。今回、ヒースクリフは俺の眠るSTLのすぐ傍を通り過ぎただけで、ふたたびネットワークの暗闇へと消えてしまった。
ダイブの準備を始めた博士に背を向け、俺は自分の携帯端末を起動し、囁きかけた。
「ユイ。問題のアドレスについては、何かわかったか?」
家を出る前に、俺から調査を頼まれた超AIにして愛娘ユイは、画面に映る可憐な顔をちいさく横に振った。
「サーバーの物理位置はおそらくアイスランドですが、単なる中継点だと思われます。防壁が手ごわくて、その先まではトレースできません」
「そっか……ありがとう。それで……あの男のほうは?」
「それが……ザ・シード・ネクサスの三〇四番ノードに、それらしきごく微細な移動痕跡を発見したんですが、すぐに失探してしまって……」
しゅん、と肩を落とすその頭を、タッチパネルごしに指先で撫でてやる。
「いや、充分だよ。三百……アメリカか……。それ以上は追いかけなくていい。直接接触は、たとえユイでも危険だからな。あいつは、今やほとんどユイと同質の存在となっているはずだ」
「私のほうが上です!」
ぷーっと膨らんだ頬を、苦笑とともにつつく。
「ま、とりあえず行ってくるよ。今度は、もうあれやこれやの危険はない……と思う」
「もし何かあったら、すぐ助けにいきますから!」
「頼りにしてるよ。じゃあ、またな」
伸ばされた小さな手と、画面越しに指を触れ合わせ、俺は端末の電源を落とした。ちょうどその時、着替えの終わったアリスとアスナが女性用更衣室から出てきた。
幸い、二人は二度目の休戦協定を結んでくれたようで、火花の出るようなオーラは収まっている。
俺は、二人と順番に目を見交わし、言った。
「何せ、二百年後だ。人界と暗黒界が、どうなってるのか見当もつかない。まあ……三百年のアドミニストレータ治世にくらべれば短いし、そんなに激しい変化があるとは思わないけど……」
アリスがしっかりと頷き、続ける。
「少なくとも、セントラル・カセドラルが現存することは確かなようです。ならば、人界もそのままと考えてよいでしょう」
アスナも、アリスの腕に触れ、微笑む。
「いちばん最初に、シルカさん、だっけ? 妹さんを目覚めさせにいかないとね」
「ええ!」
もう一度、深く頷きあい――。
俺たちは、二台のSTLと、一脚のリクライニングシートに、それぞれ歩み寄った。
ひんやり冷たいジェルベッドに、身体を横たえる。凛子博士の操作によって、巨大な量子通信デバイスがゆっくり降りてきて、額から上にしっかりと被さる。
「それじゃ……行くわよ」
博士の声に、異口同音に答える。
「はい!」
マシンが低く唸りを上げる。
俺の意識、魂を構成する不確定光子雲――フラクトライトが生体脳から切り離され、五感と重力が喪失する。
魂は、電気的信号へと翻訳され、広大無辺なネットワークへと飛び出す。
大容量の光回線を超高速で突進し、懐かしい異世界を目指してひたすらに飛翔する。
新たな冒険へ。
次なる物語の中へと。
まず、光が見えた。
極小の白い輝きが、虹色の放射光となって拡大し――視界を覆い――さらに広がり。
その奥に、純粋なる黒が出現した。
俺は、光のトンネルの先の暗闇へと、一直線にダイブする。
いや、全き闇ではない。
黒を背景に、恐ろしいほどの数の、色とりどりの光点がいっぱいに満ちている。
星だ。夜空…………
とも、違う。
なぜなら。
「……う、うわあああ!?」
俺は、足元を眺め、絶叫した。
なぜなら、地面が存在しなかった!
慌てて両脚をばたばたさせるものの、ブーツの先は何にも触れない。足元にもまた、無限の星空がどこまでも続くのみだ。横を見ても、上を見ても、星。星また星。
「きゃ、きゃあああ!?」
「こ……これは……!?」
左右で、同時に悲鳴が聞こえた。
いっぱいに広げた俺の両手が、むぎゅっと思い切り掴まれる。
右を見ると、真珠色のハーフアーマーに細剣、薄い虹色に彩られたスカートというステイシア神の装束に身を包んだアスナが浮いていた。
左には、黄金のブレストプレートと白いロングスカート、腰に白銀の鞭を下げ山吹色の長剣を佩いたアリス。
二人とも、瞳を丸く見開いて、目の前に広がる果てしない星空を眺めている。
いや。
これはもう、星空ではなく。
「…………宇宙…………?」
俺は、おそるおそる呟いた。
途端に、猛烈な寒気を意識する。アリスとアスナも、くしゅんと盛大なくしゃみをする。天命が急減少しているのが確実なほどの、激烈な低温環境だ。
いや、二人の声が聞こえる時点でほんものの宇宙空間ではないのだろうが、限りなくそれに近い。俺たちは、そこに生身でぽっかりと浮遊している。
俺は意識を集中し、光属性の防御壁を球形に展開すると、全員を包み込んだ。
ぼんやり薄い輝きに包まれた途端、突き刺すような寒気がようやく遠ざかる。
ほっと息をつき、改めて眼前のとてつもない光景を見回した。
視界の右上から左下にかけて、ひときわ密な星の群れが帯をつくって横切っている。天の川――と言うべきなのだろうが、抜きん出て明るい恒星たちをどう線で結んでも、現実世界で慣れ親しんだ星座はひとつも見つけられない。
やはりここは、アンダーワールドなのだ。
しかし、ならば大地は……そして空はどこに行ってしまったのか。
ふと、激しい戦慄を覚え、俺は身を竦ませる。
――まさか。
消えてしまった……のだろうか。
二百年の時間のはてに、人界と暗黒界を構成していた大地そのものの天命が潰え。
そこに生きていた十数万の人々ともども、すべて虚無へと還ってしまったのだろうか……。
「うそだ……そんな…………」
震える声で、そう囁いた俺の左手を。
突然、アリスが軋むほど強く握った。
「キリト。……あれを」
はっ、と顔を向けると、黄金の騎士はいつのまにか体の向きを変え、真後ろを見つめていた。
伸ばされた手が、まっすぐに一方向を指差す。
俺も、息を詰めながら、ゆっくり、ゆっくりと振り向いた。
星が見えた。
遥か彼方に小さく瞬く恒星ではなく――視界の全てを覆わんばかりの、巨大な惑星が、そこに在った。
球体の上半分は、完全な黒に染まっている。
しかし、その中ほどから、黒は徐々に藍へ、群青へ、さらに紺碧へと色を変えていく。
そして、下半分の円弧は、眩い水色に輝いている。
水色は、徐々に、徐々にその色を強くしていく。円弧の下端に、白い光が盛り上がり、さっ、と横一直線の光芒が伸びた。
夜明けだ。
惑星の向こうに隠れていた太陽――ソルスが、今まさに姿を現そうとしているのだ。
眩い白光から目を逸らし、再び惑星の表面を見やる。
先ほどまで深い藍に沈んでいた地表も、少しずつ明るい青に照らし出されていく。
白い雲が薄くたなびくその向こうに、黒い大陸の輪郭線があった。
少し上下が短い逆三角形をしている。
大陸の右上付近に、白い光点の集合がひとつ。左上に、さらに大きな円形の集合光が見えた。
明らかに、文明の光だ。よくよく見れば、二つの集合を結び、さらに下方にも伸びるいくつもの光のラインが網目状に走っている。
俺は、その大陸の形と二つの大都市の位置から、自分が見ているものを即座に悟った。
右上の都市は、暗黒界の首都オブシディア。
そして左上は――人界央都セントリアだ。
あの大陸、あの星こそが、かつて俺が生き、戦い、駆け抜けたアンダーワールドなのだ。
茫然としたまま視線をうごかし、隣のアリスを見やった。
その白い顔にも、深い驚きと畏怖だけが浮かんでいる。
と、不意にアリスははっと目をしばたくと、俺の手を離し、剣帯の後ろに装備されたポーチを探った。
そっと取り出されたものは、掌から少しはみ出すほどの大きさの、二つの白い卵だった。
片方はほのかな緑、もう一方はほのかな青に輝いている。光は、一秒間隔で周期的に強さを変動させている。まるで呼吸のように。鼓動のように。
アリスは、二つの卵をそっと胸に抱き、瞼を閉じた。その頬に、音も無く、ふたすじの涙が流れ、零れて、丸い水滴となって漂った。
俺は、自分の目にも涙が滲むのを感じた。反対側を見ると、手を繋いだままのアスナの瞳も濡れていた。
俺たちが見守るなか、アリスは星々の海を踏みしめ、一歩前に出た。左手で二つの卵を抱き締め、右手をまっすぐに巨大な惑星に向けて差し伸べた。
夜明けの星と同じ色の瞳に、無限の輝きを秘め、黄金の整合騎士は凜と響く声で高らかに叫んだ。
「世界よ!! 私が生まれ、私が愛したアンダーワールドよ!! 聞こえますか!!」
全宇宙の恒星たちが震え、青い惑星も、息づくように一瞬その光を強めた。
俺はまぶたを閉じ、ただ耳だけを澄ませた。
新たな時代の訪れを告げる言葉を、永遠に記憶に刻み込むために。
「私は、いま帰還しました! …………私は、ここにいます!!」
[#地から1字上げ](エピローグ 終)
プロローグ
「こちらブルーローズ七三。気圏離脱を確認。星間巡航速度へと移行します」
整合機士スティカ・シュトリーネンは、口元の集声器にそう告げると、左手で制御棹をゆっくりと前に倒しこんだ。
機竜が、白銀の巨体をかすかに震動させる。いっぱいに開かれた両の翼が、ほのかな青に輝く。宇宙空間の希薄なリソースを広範囲から収集し、駆動機関に送り込んでいるのだ。
すぐに、機関心臓部に封じられた永久燃素が甲高い唸りを上げて反応し、長い尾の両脇の主噴射孔から白い炎が吐き出される。ぐん、と体が操縦席に押し付けられる感覚。惑星の気圏内では味わえない強烈な加速に、思わず口元が綻ぶ。
『ブルーローズ七四、了解』
耳の伝声器に、短いいらえがあった。ちらりと映像盤を見ると、二番機も噴炎をまばゆく煌かせながら、右斜め後ろに追随してくる。
スティカと同時に叙任されて以来コンビを組む、整合機士ローランネイ・アラベルが二番機の搭乗者だ。普段から無口な子だが、機竜操縦中の使用を義務づけられている古代神聖語で話すときは、いっそうそっけなくなる。
そのくせ、速度中毒っぷりはスティカ以上だ。苦笑しながら、スティカは軽く注意した。
「速すぎるわ、ローラ」
『あなたが遅いのよ、スティ』
なにぃ、と思う。
アンダーワールド宇宙軍の規律は絶対だが、しかしさしもの鬼教官の眼も気圏の外にまでは及ばない。それに、目的地である伴星アドミナまでは三時間の長旅だ。多少の誤差は出て当然。
スティカは、制御棹をさらにもう一目盛り倒しこみ、真横に並びかけた二番機をわずかに引き離すと、にんまり微笑みながら身体を背もたれに預けた。
上向いた視線が、狭い操縦室の天蓋に嵌め込まれた、精緻なレリーフをとらえる。
垂直に並ぶ、白と黒二本の剣。それを取り巻く、青い薔薇と山吹色の金木犀の花。いまや伝説の存在となりつつある、星王の紋章だ。
星王と星王妃が、主星カルディナはセントラル・カセドラルの玉座を去ってすでに三十年が過ぎた。
整合機士に任ぜられて四年、まだたった十五歳のスティカとローランネイは、もちろん直接まみえたことはない。しかし二人とも、同じく機士だったそれぞれの母親から、たっぷりと逸話を聞かされて育った。そして、母たちもまた同じように、その母から沢山の昔話を伝えられたのだ。
シュトリーネン家とアラベル家は、二百年の長きに及んだ星王の治世に、その当初から近衛機士――当時は騎士と称したらしいが――として仕えてきた歴史を持っている。
七代前の祖先、騎士ティーゼ・シュトリーネンとロニエ・アラベルは、まだ王座につく前の星王を護り、当時カルディナ第一大陸を支配していた四皇帝家との戦いに功を成した。やがて、専横をほしいままにしていた皇帝と大貴族はあまねくその権力を廃され、私領地にて虐げられていた民はすべて解放された。
王はその後、最初の機竜を開発し、大陸を囲み気圏いっぱいまでそびえていた壁を超える。
未開の地に跋扈していた太古の神獣たちと辛抱強く交渉し、時には一対一の決闘に勝利して、次々と肥沃な入植地を開拓しては、当時は亜人と呼ばれ差別されていたらしいゴブリン族やオーク族たちに与え、それぞれの国を作らせた。
やがてカルディナ全星を踏破した王の黒い瞳は、無限の宇宙へと向く。
改良に改良を重ねた機竜で、ついに気圏離脱を果たし。
カルディナと対をなしてソルスを周回する惑星を見出し、アドミナと名づけ。
大型星間航行用機竜による定期航路を拓いて、アドミナ星に最初の移民都市を建設したのち、推されてアンダーワールド初の星王位に就いたのだ。
不老者であった王と王妃の統治のもと、二つの星の繁栄は永遠に続く――と誰もが信じていたのだが、しかし王はあるとき、一つの予言とともに玉座を降りて長い眠りに入った。そして三十年前、ついに再び民の前に現れることなく、揃って世を去ったのだ。
以来、政治は軍及び民の代表による合議のもと行われている。もはや戦うべき敵の存在しない現在では、地上軍、宇宙軍の規模は縮小されつつあるが、しかし王の予言に従い機士の訓練だけは古と変わらぬ厳しさを保っていた。
王は、こう言い残したのだ。
――いずれ、異世界“リアルワールド”の門が再び開くときが来る。
――そのとき、巨大な変革が二つの世界にもたらされることとなるだろう。
スティカには到底実感できない話だが、異世界の門が開いたのちには、アンダーワールドそのものの存続すらも不確定となる時代が訪れるという。融和と友愛を望むだけでなく、誇りと独立を貫くための力も磨き続けねば、人、巨人、ゴブリン、オーク、オーガの人間五族は、二百年前の“異界戦争”を上回る悲劇に見舞われるだろうとも言い伝えられている。
しかし、スティカに畏れはない。
たとえどんな世界に行こうと、どんな時代が訪れようと、機竜の翼さえあれば私は立派に戦ってみせる。なぜなら、私は、遥か創世の時代より続く伝統を持つ、栄光ある整合機士団の一員なのだから。
と、内心で呟き、再び天蓋の紋章を見上げた――
その直後だった。
副映像盤が突如真っ赤に輝き、異常な規模の素因集積体を感知したことを、文字と警告音の双方で告げた。
「な……なに!?」
叫びながら跳ね起きると、ほぼ同時に伝声器からローランネイの緊張した声が響いた。
『こちらブルーローズ七四、闇素系生物の接近を探知! 素因密度……二万七千!?』
「神話級宇宙獣だわ…………“|深淵の恐怖《アビッサル・ホラー》”…………」
神聖語ではなく汎用語でそう呟いたときには、すでに主映像盤に広がる星海の右隅に、インクを落としたような漆黒の虚無が映し出されていた。
アビッサル・ホラーの固有認識名を与えられたその生物は、確認されている宇宙棲息型神獣のなかでも、最悪の一頭だった。球状の体から十二本もの長大な触腕を伸ばした全長は、最大で二百メルを超える。単座機竜の十五倍にも達するサイズだ。
そしてその巨体は、高密度に集積した闇素因で構成されており、ほとんどの属性攻撃を受け付けない。しかし、“最悪”と呼ばれる理由は他にあった。
アビッサル・ホラーは、他の多くの神獣と異なり、人間との意思疎通を一切受け付けようとしないのだ。まるで破壊と殺戮の衝動のみで構成されているが如く、星間航行する機竜を見つけるや、一直線に襲い掛かり、喰らい尽くす。
かつて、神獣たちには常に敬意を以って接していた星王も、アドミナ星に向かう民間の大型機竜が破壊されるという悲劇を受けて、この宇宙獣だけは消滅させようとしたと聞く。しかし、一人で一軍を上回るとすら言われた王にも、アビッサル・ホラーを完全殲滅することはできなかった。
その後の研究により、かの宇宙獣は一定の速度と軌道を維持して二つの惑星のあいだを周回していることがわかり、苦肉の策としてあらゆる機竜は接触を回避できるタイミングでのみ星間航行を許可されることとなった。
もちろん、スティカとローランネイも、宇宙獣が遥かアドミナ星の裏側を飛行しているはずの日時を選んでカルディナ星を離陸してきたのだ。
――なのに。
「なんで……出現が早すぎるわ……」
震える両手を操縦桿に乗せたまま、スティカは呟いた。
しかし直後、ぎゅっと一度強く瞬きし、鋭い声で集声器に向けて叫んだ。
「左旋回百八十度、のち全速で離脱! カルディナ気圏まで退避します!」
『了解!!』
応答するローランネイの声にも、強い緊張の響きがある。
スティカは機竜を左にロールさせながら、思い切り操縦桿を引いた。姿勢制御噴射孔から白い炎が長く迸り、息が出来ないほどの重さで体が座席に押し付けられる。映像盤の星々が、弧を描いて右下に流れる。
旋回が終わったとき、主映像盤には、ほんの数十分前に離陸してきたばかりの惑星カルディナの青い輝きがいっぱいに映し出されていた。手を伸ばせば届きそうな大きさなのに、しかし実際には絶望的なほど遠い。
祈るような気持ちで、最大加速をかける。永久燃素が悲鳴じみた咆哮を放つ。
しかし、速度計に表示される出力は、上限に達する前に停まってしまう。アビッサル・ホラーが超広範囲からリソースを奪っているせいで、機竜の両翼のリソース収集器が性能を発揮できないのだ。
副映像盤の後方視界では、漆黒に染まる宇宙獣の姿が先刻よりも明らかに大きくなっていた。すでに、ざわざわと蠢く触腕までがはっきり視認できる。
そのうち、特に長い二本の腕の先端が、ぼんやりと青紫色の光を蓄え始めた。
『スティ、奴が攻撃態勢に入った!』
二番機からの声に、即座に応える。
「こっちも見えたわ! 後方に光素防壁を展開!!」
言いながら、左手で制御盤に並んだ釦の一つを叩く。ごん、ごんという音とともに機竜の腰部装甲が開く。すうっと息を吸い、意識を集中し――。
「システム・コール! ジェネレート・ルミナス・エレメント!!」
叫ぶと、握りしめた操縦桿内部の伝達経路を介して、機竜の両腰から十個の光素因が宇宙へと放出された。
それらはたちまち、スティカのイマジネーションに従って変形し、円盤型の防壁を作り上げる。
直後。
宇宙獣の触腕が、眩い青紫の光球を、まるで投げるように放った。
金属が引き裂かれるような衝撃音とともに、闇色の攻撃弾が宇宙を貫く。
ほんの三秒ほどで、光素防壁と接触し――。
「……きゃああっ!!」
機竜を襲った凄まじい震動に、スティカは思わず悲鳴を上げた。同時に、伝声器からもローランネイの叫び声が聞こえた。
二つの攻撃弾は、渾身の防壁を紙のように容易く引き千切り、白銀の背面装甲を深く抉ったのだ。
各種計器が、一瞬で真っ赤に染まる。リソース伝達経路にも異常が発生し、加速が格段に鈍る。
映像盤の彼方で、スティカは、不定形の闇でしかないアビッサル・ホラーがにやりと嗤ったのを確かに感じた。
側面映像を見れば、二番機も片翼を引き千切られ、がくりと速度を落としている。
「ローラ! ローラ!!」
叫ぶように呼びかけると、幸い、掠れた声ですぐに応答があった。
『……だいじょうぶ、私は無事。でも……この子は、もう、飛べない……』
「……機外に、脱出するしかないわ。機士服の飛翔器だけで、なんとかカルディナまで……」
『無理よ! …………ううん、嫌よ、そんなの!! この子を捨ててなんか行けない!!』
ローランネイの絶叫に――。
スティカは、何も言い返せなかった。
機士にとって、機竜はただの金属のかたまりではない。心を通わせた唯一無二の相棒なのだ。いにしえの、整合騎士たちが駆っていたという飛竜のように。
「…………そうね。そうよね」
呟き、スティカは両手でそっと操縦桿を包み込んだ。
大きく息を吸い、微笑みを浮かべて呟く。
「なら、最後まで一緒に戦いましょう。……再旋回、のち主砲で攻撃。それでいいわね、ローラ」
『……了解』
最後の通信は、いつものように、素っ気無いひと言だけだった。
微笑したまま、スティカはゆっくり操縦桿を引き、傷ついた愛竜を再び百八十度回頭させた。
主映像盤に、迫り来る巨大な闇の姿がいっぱいに映し出される。蠢く長大な触腕には、すでに八個もの紫色の攻撃弾が蓄えられている。
オオオオオオ――――…………ン。
と、アビッサル・ホラーが吼えた。あるいは哄笑したのかもしれない。
せめて、一矢報いて死のう。次にこの航路を襲うまでの時間が、少しでも長くなるように。
覚悟を決め、スティカは操縦桿上部の赤い釦を半分押し込んだ。
機竜の先端に装備された主砲が、がしゃりと展開する。本来なら、ここで最も有効な属性の素因を生成するのだが、アビッサル・ホラーに対してはどの属性もさして痛打とならない。
ならば、最も得意な凍素攻撃を行おう、と考えてコマンドを唱える。
機竜のあぎとが、澄み切った青に輝く。
ちらりと隣を見ると、二番機の主砲からは赤い光が漏れている。ローランネイは燃素攻撃を選択したようだ。
ほんの千メル先にまで接近した宇宙獣が、攻撃準備の整った八本の触腕をいっぱいに広げた。
スティカは、いっぱいに息を吸い込んで、発射命令を叫ぼうとした。
しかし――。
『ま……待って、スティ!! あれは……!?』
右耳を、ローランネイの驚愕の声が貫いた。
この期に及んでいったい何を……、と思った、その時。
スティカも、それを見た。
星が降ってくる。
映像盤のまっすぐ上方向から、白く煌くひとつの光が、すさまじい速度で接近してくる。
機竜!? と、一瞬思った。しかし、すぐに否定する。距離に対して、あまりに小さい。二メル以下、ほとんど生身の人間の大きさしか……
いや。
そのものだ。
星と見えたのは、球形に展開する光素防壁の輝きだった。その内側には、明らかに人のかたちをした黒い影がくっきりと視認できる。
人影が、二機の機竜の約百メル前方で停止するのと。
アビッサル・ホラーが巨大な咆哮とともに八個の光弾を放ったのは、ほとんど同時だった。
極々低温の宇宙空間になぜ生身の人間が、という驚きに打たれるより早く、スティカは叫んでいた。
「何をしているの!! 早く、逃げて!!」
しかし、その何者かはまったく動こうとしない。
長いコートの裾を翻しながら、敢然と、あるいは傲然と腕組みをしたまま、空間の一点で仁王立ちになっている。
あんな薄い防護壁など、アビッサル・ホラーの攻撃弾の前には薄紙ほどの役にも立たない。唸りを上げて襲い来る弾のひとつに触れたとたん、人影が血肉を振り撒いて四散するさまを、スティカは予期した。
「逃げて――――っ!!」
『逃げなさい!!』
ローランネイと同時に、再び絶叫する。
ひとつが直径三メルほどもありそうな青紫色の光弾が、金属質の唸りとともに殺到し。
まるで、見えない壁に激突したかのごとく、虚空で停止し、あらぬ方向へと跳ね返った。
宇宙が震えた。
見開かれたスティカの瞳がとらえる無数の星々が、水面のように波紋を作って揺れた。直後、到達した衝撃波が、機竜の巨体を震わせた。
唖然と息を飲み言葉を失ったスティカは、映像盤の右端の小さな計器が、一瞬で上端まで振り切れたことに気付いた。
「うそ……あ……有り得ないわ……」
かつて、その計器が二割ほども振れたところすら、スティカは見たことがなかった。耳に、ローランネイの、畏怖したような声が響く。
『……信じられない……こんな……心意強度…………まるで、この世界すべてを揺るがすほどの…………』
だが、眼前の事実だけは疑いようがない。
小さな生身の人間が、素因も使わずに、その心意――古の騎士の秘奥義――だけで宇宙獣の攻撃を弾いてのけた、という事実だけは。
オ……オオオオオオ――――…………
彼方で、アビッサル・ホラーが吼える。
それは怒りか、あるいは――怯えの叫びなのか。
光弾による遠隔攻撃は効かないと悟ったか、宇宙獣は、無数の触腕をいっぱいに伸ばして突進を開始した。
対峙する小さな人影は、広げた両腕を背中に回し、そこに装備された二本の長剣を一気に抜き放った。
「まさか……剣で戦おうというの!?」
思わず身を乗り出し、両手を映像盤に突く。
アビッサル・ホラーの全長は二百メルを超えるのだ。しかも、その体は実存の薄い闇素の集積だ。あんな、一メル少々の刃ではとうてい斬れるものではない。
しかし、人影――謎の剣士は、気負いのない動作でぴたりと左手の白い剣を巨獣に向け。
一声、叫んだ。
虚ろな宇宙空間と、機竜の分厚い外装甲を通してさえ、剣士の声はスティカの耳に朗々と響いた。
『リリース・リコレクション!!』
強烈な光が、一瞬表示映像を白く焼きつかせた。
回復した映像盤の中央で、剣士のかざす刃から、幾筋もの青白い光線が迸りアビッサル・ホラーへと殺到していくのが見えた。
宇宙獣の巨体とくらべれば、まるで絹糸のようにささやかに見える光線なのに、それに貫かれ、絡めとられた獣の突進速度は目に見えて衰えた。自在にのたうっていた十二本の触腕の動きも、徐々に強張り、鈍くなっていく。あたかも、凍りついていくかのように。
しかし、そんなことは有り得ない。アビッサル・ホラーは極限低温環境である宇宙に適応した生物なのだ。宇宙の温度すら下回るほどの冷気など、作り出せるはずがない。
というスティカの驚愕を、耳から響いたローランネイの囁き声が吹き飛ばした。
『あれは……あの技は、まさか…………“武装完全支配術”…………?』
「えっ……そんな、最上位機士にしか使えないはずよ!」
『でも……あの術式は、そうとしか……』
切れ切れの通話を、三度響いた宇宙獣の怒声が遮った。
オッ……オオオオオオンンンン!!
突如、捕縛された巨体が震え、新たな触腕が三本も出現した。それらは漆黒の大槍となって、謎の剣士へと襲い掛かっていく。
しかし、剣士はなおも悠揚迫らぬ動きで、今度は右手の剣を振りかざし。
再び、叫んだ。
『リリース……リコレクション!!!』
迸ったのは、宇宙獣の触腕よりも一層深く、重く、稠密な闇色だった。
全長五十メルを超えるかとすら思われる、凄まじく巨大な闇の刃が、三本の触腕を迎え撃つ。
双方が接触した瞬間、再び空間が歪むかと思われるほどの衝撃波が発生し、二機の機竜を揺らした。青紫の電光が虚空を這い回り、映像盤を眩く光らせる。
もう、スティカには、自身の驚きを言葉にすることはできなかった。
わずか七名の最上位整合機士にしか使えないはずの秘技を、しかも同時に複数発動させ。駆逐機竜の編隊ですら抗し得ないアビッサル・ホラーの全力攻撃を、たった一人で受け止める。
そのような剣士が存在するなどとは、たとえセントリアの両親にだって信じてもらえまい。
だが――。
真に驚愕すべき光景は、その先に待っていたのだ。
『スティ!! また……一人、剣士が!!』
はっ、と視線を彷徨わせると、謎の二刀剣士が出現したのと同じ方向から、さらにひとつの人影が舞い降りてくるのが見えた。
いっそう小柄だ。防御壁ごしにも、長い髪と短いスカートが揺れているのが見える。女性なのだろうか。
右手には、儚いほどに華奢なレイピアが握られていた。
女性は、その剣をすっと真上に掲げ――。
一気に前方へと振り下ろした。
漆黒の宇宙に、虹色のオーロラが一直線に出現し、美しく揺らめくのをスティカは見た。同時に、耳に不思議な、まるで無数の歌い手が高い和声を奏でるかのような音が響いた。
ラ――――――――。
心意検出計の針が、上端でびりびりと震動した。
星が。
あまりにも巨大な隕石が、どこからともなく出現し、炎をまとわりつかせながら頭上を横切っていく。
カルディナとアドミナを結ぶ航路上の隕石は、もう何十年も前にすべて排除されたはずだ。だが、機竜全体をがくがくと揺さぶるその重量感は、幻では有り得ない。
己に向かって、真正面から突進してくる巨大な質量を見て、アビッサル・ホラーが吼えた。
新たに二本の触腕を生成し、星を受け止めようとするかのごとく振りかざす。
衝突の一瞬は、無音だった。
燃え盛る隕石の先端が、宇宙獣の腕を瞬時に分断し。
巨躯の中心に、容易く沈み込み――。
闇の凝集たる獣を、一撃のもとに粉砕せしめた。
オオオオオオオォォォォォ――――――………………
断末魔の絶叫が、隕石の爆発音に重なり、宇宙に響き渡った。純白から真紅へと至るリソースの大解放が、スティカの目を強く灼いた。
「た……倒した…………の……? あの、怪物を…………?」
わななく声で、そう囁く。
だが――。
『あっ……まだ……まだだわ!!』
常にほんの少しばかり冷静な二番機搭乗員が、その現象に先に気付いた。
粉々に四散し、爆発に巻き込まれてすべて焼かれたかと思ったアビッサル・ホラーの断片が、不意に揃って動き出したのだ。
ひとつが数十センほどしかない、もとの巨体と比べればあまりに微細な闇の塊が、蠅の群れのように不規則に蠢きながら宇宙の深淵へと逃れていく。
そう――、言い伝えによれば、かつて星王もここまでは獣を追い込んだのだ。
しかし、数千の断片となって逃走するアビッサル・ホラーをすべて滅することが出来ず、軌道の果てに逃れ去った獣はやがて傷を癒して、再び航路を襲うようになった。
これでは、また伝説が繰り返されるだけだ。
「だめ……逃がしちゃだめよ!! そいつらを、全部焼き滅ぼさないと!!」
思わず、スティカは叫んだ。
しかし、二刀剣士と細剣士は、すぐには動けないようだ。無理もない、あれほど巨大な心意を発動させたのだ。
アビッサル・ホラーの断片群は、まるであざ笑うような湾曲軌道を描き、飛び去っていく。
――と。
蠅の群が、不意に乱れた。
散りぢりになり、逃げ惑うかのように不規則な動きを見せる。
スティカは息を飲み、映像盤に指先を触れさせると、一部を拡大した。
黄金色の光が見えた。
まるで小型のソルスのように、純粋な金の輝きを放射状に放つその何かを、さらに拡大する。
「…………人…………」
三人目の剣士だ。
黄金を流したかのような髪。同じく金の装甲。純白のスカート。揺るぎなく敵を睥睨する瞳は、空の蒼。
……知っている。
「私……この剣士……いえ、騎士を、知ってるわ」
スティカは囁いた。即座に、耳に『私も』の声が返る。
この黄金の騎士は、セントラル・カセドラル五十層・玉座の間に掛けられている、巨大な肖像画に描かれた姿そのものだ。古の異界戦争に於いて数多の武勲を上げ、戦いのさなかに姿を消したと言われる、史上最強の整合騎士のひとり。たしか、名を――。
「……アリス……様……?」
まるで、その声が聞こえたかのように、騎士の右手が動いた。
左腰の長剣を、あでやかな動作で抜き放つ。
山吹色の刀身が、ソルスの曙光を反射して、恐ろしいほどの光を帯びた。まるでその輝きを畏れるかのように、宇宙獣の断片は統制を失い、散り散りになって逃げ去っていく。
騎士は、長剣を両手で体の前に構え。
宇宙に吹き渡る爽風のような声で、叫んだ。そして同時に、機竜の心意計の針が、小さな爆発音とともに吹き飛んだ。
『リリース・リコレクション!!』
剣が、自ら強烈な輝きを迸らせた。
刀身が、じゃきっ! という金属音とともに、無数の細片へと分離した。
騎士はゆるりと右手に残った柄を動かした。
細片たちは、まるで風に舞い散る黄金の花弁のごとく、さあっ……と虚空に広がり。
一気に、無数の流星雨と化して虚空を疾った。
黄金の輝きひとつひとつが、恐ろしいほど正確な照準で、逃げ惑う漆黒の断片群を貫いていく。射抜かれた闇の蠅は、ひとたまりもなく金色の光に焼き尽くされ、蒸発する。
「…………すごい」
スティカには、そう呟くことしかできなかった。
たとえ、機士団の機竜をすべて並べ、主砲を一斉射撃したところでこれほどの精度と威力は望むべくもない。
ほんの数分前まで、宇宙……いやアンダーワールド最強最悪の神話獣と恐れられていたアビッサル・ホラーであった闇の断片の、最後のひとつが黄金の矢に貫かれたとき、これまでとは比べ物にならないほどの異質な絶叫が甲高く轟いた。
ギイイイィイィィィィォォォォォォ………………。
その声を最後に、宇宙獣はついに完全消滅した。
スティカはただ茫然と、黄金の光が騎士のもとに戻り、再び一本の長剣へと還るさまを見守った。
黄金の騎士が、仮にいにしえの整合騎士アリスその人なのだとしても、残る二人はいったい誰なのか。
映像盤では、剣を納めた黄金騎士が、すうっと宙を飛翔して黒衣の二刀剣士と真珠色の細剣士のもとへと近づいていく。
三人は、短くなにかやり取りしたあと――そろって、まっすぐスティカたちのほうへと振り向いた。
顔はよく見えない。しかし、そろって口元に微笑を浮かべているのだけは解る。
と、二刀剣士が、その白と黒の長剣を背中に戻し、右手を軽く振った。
その瞬間――。
スティカの胸の奥の奥、とても深いところを、言い知れぬ巨大な感情が貫いた。
息が詰まるほどの、甘く切ない痛み。
「あ……ああ……」
漏らした吐息と重なって、耳にローランネイの声が密やかに響いた。
『スティ。私、知ってる。私、あの人を知ってる』
「ええ、ローラ。私も……私もよ」
二度、三度と頷く。
知識として記憶しているのではない。そうではなく。
心臓が。体が。魂が、憶えている。
不意に、甘く香ばしい蜂蜜パイの匂いが鼻をくすぐる。
草原を渡る風の爽やかさ。穏やかに降り注ぐ日差しの暖かさ。
遠く、微かに響く笑い声。
スティカはたまらず立ち上がると、気密兜の晶板を下ろし、操縦席右側の持ち手を引いた。
ぷしゅっ、と空気が抜ける。機竜の操縦席を覆う三層の装甲が展開し、頭上に無限の星海がいっぱいに広がる。すぐ隣に遊弋する二番機からも、同じ音が聞こえた。
離れたところに固まって立ち、手を振り続ける三人の剣士たちの姿を、スティカはその眼でじかに見つめた。
いや。
もう一人――。
スティカの紅葉色の瞳は、不意に揺らめくように出現した、四人目の剣士の姿を確かに捉えた。
黒衣の二刀剣士のすぐ左に立ち、穏やかに微笑むひとりの青年。その姿は、眼を離した瞬間に消えてしまいそうなほどに朧に透き通り、陽炎のように瞬いている。
短い亜麻色の髪を揺らし、青年はゆっくり、大きく、頷いた。
スティカの両眼から、涙が溢れた。
頬を伝い、透明な気密晶板の内側に滴り、流れていく。一雫、またひとしずく。
やがて青年の姿は、カルディナの影から現れたソルスの光に溶けるように消え去った。
同時に、齢若い整合機士は、ついに悟っていた。
これが――この瞬間こそが、予言に記された“新たな時代のはじまり”なのだ。
彼らは、過去から現れ、未来の扉を開く使者なのだ。
この時から、世界は変わり始める。
異界の扉が開き、新しい時代の潮流が音を立てて流れだす。
それは決して、楽園の到来を告げるものではないはずだ。想像もできないような、巨大な変革と激動が訪れることになるのだろう。
しかし、スティカに恐れはなかった。
なぜなら――――。
こんなに胸が高鳴っているのだから。
あの人たちとの邂逅を、魂が震えるほどに待ち焦がれていたのだから。
ぎゅっと瞼をつぶり、涙を振り落とし、スティカはまっすぐに前を見た。
立ち上がったまま、指先でそっと操縦桿を前に倒す。
傷ついた機竜の翼が、かすかな青に輝きはじめる。
永久燃素が息づき、ささやかな推力が機体を動かす。
隣のローランネイと、一瞬視線を見交わし、深く頷きあい。
アンダーワールド生まれの少女、整合機士スティカ・シュトリーネンは、機竜をゆるやかに飛翔させた。
彼方で手を振る、見知らぬ、懐かしい剣士たちに向かって。
次なる時代の扉へと。
未来へと。
[#地から1字上げ] Sword Art Online 4 -Alicization- 完
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間違いと思われるため修正(行数は論理行)
473行 ALO内新アインクラッド十八層の → 二十二層の
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