Sword Art Online 4
Alicization
九里史生
第八章(後)
急げ。
急げ急げ!
両の拳を握り締め、拳闘士団長イシュカーンは胸のうちで何度もそう叫んだ。
広大な峡谷に張り渡された十本の荒縄を、拳闘士と暗黒騎士たちが半分ずつ分け合って次々に渡り始めている。
両手両脚を綱に絡め、ぶら下がって進もうとするのだが、そのような訓練などしたことのない兵たちの動きはぎこちない。せめて全員分の命綱を作り、配布する時間があればよかったのだが、皇帝はその猶予を与えてくれなかった。
その上、自分が真っ先に渡りたい、というイシュカーンの上申も瞬時に退けられた。昨夜、命令を拡大解釈してわずかな手勢とともに先行接敵した行動への戒めらしい。貴様らは余の命令にただ従えばよい、という皇帝の氷のような声が耳朶に染み付いている。
歯噛みしながら拳闘王が見守る先で、最も進みの早い部下がようやく綱の中ほどにまで達した。
赤銅色の肌は、早朝の冷気に晒されてもうもうと湯気を上げ、滴る汗の輝きがこの距離からでも見て取れる。やはり相当の苦行なのだ。
その時だった。
巨大な谷間を、一際強い突風が吹き抜けた。
びょおおおっ! と綱が鳴り、ぐらぐらと大きく揺れる。
「あっ……!」
イシュカーンは思わず声を上げた。数人の部族兵が、汗で濡れた掌を綱から滑らせたのだ。
谷間に轟く、吼えるような雄叫び。それは断じて悲鳴ではない、と若き長は歯を食いしばった。いくさ場ではなく、曲芸の真似事をさせられた挙句に命を落とすことへの無念の咆哮だ。
突風の一吹きで、無限の暗闇に沈む谷底目掛け十名を超える拳闘士と黒騎士が落下していった。
しかし、すぐ後に続く者たちは果敢にも綱渡りを続けた。さらに根元では、およそ三メルの間隔をあけて、次々と新たな兵らが綱に取り付いていく。
無情にも、突風は断続的に吹き寄せ、その度に新たな命が失われた。いつしか、イシュカーンの握り拳からは、炎にも似た赤い光が立ち上りつつあった。
犬死にだ。
いやそれ以下だ。弔うべき骸すらも残らないのだから。
しかもその目的が、暗黒界五族の悲願である人界侵攻ではなく、光の巫女などという女一人を皇帝が欲しがっているからと来れば、部族の者にどう詫びていいのかもわからない。
急げ、急いでくれ。これ以上の邪魔が入る前に全員渡りきってくれ。
若い長の願いが伝わったのか、あるいは動作に馴れたせいか、速度を上げた先頭の兵らがようやく向こう岸に到着した。五秒ほどの間をあけ、次の者も大地に足をつける。
この調子だと、十本の綱を一万の兵が渡り終えるのに一時間以上は楽に掛かる計算になる。そんな長時間、敵がこの作戦に気付かないでいるなどということが有り得るとは思えない。
しかし、今だけは万に一つの幸運を祈るしかなかった。
恐ろしいほどの速度で太陽が東の空を昇り、大地を赤く照らし出していく。
対して、渡り終えた兵たちの数はじれったいほどゆっくりとしか増えていかない。多くの落下者を出しながら、五十が百となり、二百、ようやく三百を超えたとき。
赤い空に黒々と刻まれる南の稜線に、五の騎馬がその姿を現した。
イシュカーンの超視力を以ってしても、その背に乗る敵兵の姿までは識別できない距離だった。たった五……偵察兵か。ならば、敵が態勢を整えるまでにまだ少しの猶予はあるか。
その判断、あるいは希望は、一瞬で打ち砕かれた。
五騎は、恐ろしい速度でまっすぐ峡谷目掛けて丘を駆け下りはじめたのだ。翻るマント、色とりどりの煌びやかな甲冑、そして何より、全員から陽炎のように濃く立ち上る強烈な剣気をイシュカーンは否応なく視認した。
整合騎士! しかも五人!!
「守れ!! 綱を死守しろぉーっ!!」
対岸までは声が届くかどうかも定かでない距離だったが、イシュカーンは思わず叫んでいた。
命令が聞こえたか、すでに渡峡を終えた三百強の兵らの半数が、綱を留める丸太杭の根元に集まり円陣を組む。残りはその前で迎撃態勢を取る。
飛翔するが如き速度で、丘から峡谷までの千メルの荒野を駆け抜けた敵騎士たちは、同時に馬から飛び降りると一丸となって右端の綱へと突進した。
先頭を走るのは、白いゆったりとした装束をなびかせた巨漢。その右に、黄金の髪と鎧を輝かせる女騎士。左には、昨夜イシュカーンと拳を交えたシェータという名の女騎士の姿が見える。その三者に囲まれるように小柄な騎士が一人と、さらにその後ろにもう一人居るようだが、仔細には確認できない。
裸体から汗の珠を飛び散らせながら、数十人の拳闘士たちが一斉に飛びかかった。
「ウラアァァ――――ッ!!」
猛々しい喊声とともに、拳が、足が、騎士らに降り注ぐ。
ちかっ。ちかちかっ。
幾つかの閃光が短く瞬いた。
どばっ。
大量の鮮血が、逆向きの滝となって空へと噴き上がった。その向こうで、闘士たちの腕が、脚が、そして首が冗談のように呆気なく体から切り離されるのが見えた。
直後。
銀色の輝きが、きらきらと光の筋を引きながら三騎士の背後から高く飛翔した。
それは、赤い朝焼けの中、斜めの弧を描いて拳闘士たちの頭を飛び越え――今も大量の兵らが取り付く、右端の太縄へと――。
「やめろおおおぉぉぉ――ッ!!」
イシュカーンの鋭敏な耳は、自身の絶叫に紛れることなく、ぶつ、というかすかな切断音を聞き分けた。
張力の反動で、大蛇のように宙をうねる綱。
ひとたまりもなく振り落とされ、谷底へと落ちていく数十人の闘士たち。
その光景を、見開いた両のまなこに焼き付けながら、イシュカーンは我知らず口走っていた。
「これが……戦かよ。こんなものが闘いと呼べるのか」
背後に付き従う副官ダンパも、今ばかりは何も言えないようだった。
軽業師の真似事をさせられた挙句、敵の前に立つことすら出来ずに地割れに飲み込まれていく部族の民たちは、断じてそのような死に方をするために長く辛い修練に耐えてきたのではない。
郷で彼らの帰りを待つ、老いた親や幼子らに何と伝えればいいのだ。敵の刃に雄々しく立ち向かい、誉ある散りざまを得たのではなく――その肌にひと筋の傷も受けぬうちにただ地の底に消えたなどとどうして言えよう。
立ち尽くすイシュカーンの耳に、闘士たちの無念の雄叫びが幾重にもこだました。
かならず仇は取ってやる。だから許せ。許してくれ。
ひたすらにそう念じたものの、しかし何者を仇と定めればいいのか、イシュカーンには即座に判断できなかった。
数倍の軍勢を前に、敵整合騎士たちも必死なのだ。こちらの最後の一人が谷を渡り、整列し終えるまで座って見ていてくれ、などと頼める筈もない。むしろ、時宜を逃さず即応するためにたった五人で斬り込んできたその意気は見事ですらある。
ならば、いったい誰が。
何者が、闘士たちの無為なる死の責を負うべきなのか。
こうしてただ、阿呆のように両手を握って立っている名ばかりの長か。
それとも――。
不意に、右眼の奥に鋭い痛みを感じ、イシュカーンは歯を食いしばった。血の色の光が脈打つように視界にゆらめき、その向こうで、二本目の綱が断たれて空に舞った。
敷設させた十本のロープのうち、三本までもがたちまちのうちに切断される様子を、ガブリエル・ミラーは自軍後方から頬杖をつきながら眺めた。
やはり、AIの性能では人界側のユニットのほうがやや優秀と見える。いや、状況対応力だけを見れば段違いというべきか。昨夜の第一次会戦も含め、ダークテリトリー軍の攻撃を瞬時に切り返し、手痛いカウンターを決めてくる様は、とてもCPU相手のシミュレーション・ゲームとは思えない。
そのゲームの結果、ガブリエルはすでに自軍ユニットの七割以上を損耗しているのだが、しかし彼にいまだ焦りは無かった。
今この瞬間、百の単位で失われていく主力ユニットを目視しながらも、彼はただ待っていたのだ。“その時”が来るのを。
約八時間前――。
オーシャンタートル・メインコントロールルームに陣取る襲撃チーム唯一の非戦闘員クリッターは、STRA倍率を×一に引き下げると同時に、衛星回線を通じてあるひとつのURLを全米のオンラインゲーム・コミュニティへとばら撒いた。
それは、彼がガブリエルの指示で手早く作成した、とあるプロモーション・サイトへのアクセスを促すものだった。
サイトには刺激的な配色のフォントが並び、飛び散る鮮血のエフェクトとともに、以下の内容を告知していた。
新規VRMMOタイトルの時限ベータテストを開催。
史上初、“殺戮特化”型PvPゲーム誕生。
レーティング無し。倫理コード無適用。
それらの惹句を見たユーザーたちは、このメーカーはどんな命知らずか、と呆れつつも大いに喜んだ。
二〇十六年現在、VRMMOタイトルの法規制が進むアメリカでは、業界団体による厳格なレーティング審査を受け、倫理コードに則ったうえでなければとてもサーバーの運営は出来ない状況となっている。具体的には、血液エフェクト、悲鳴エフェクト、死体表現の全面禁止である。
その規制は、VRMMO発祥国である日本よりも格段に厳しく、全米のプレイヤーは巨大なフラストレーションを募らせていた。そこに突如現れたのが、謎のベータテスト告知だったのだ。
URLはあらゆる種類の回線を通じて口コミで広がり、接続用クライアントが恐ろしい勢いでダウンロードされ、コピーされ、再アップロードされた。たった八時間で、クリッターの作成したクライアントプログラムを導入したアミュスフィアは、実に三万台を突破した。
ガブリエルが貴重な現実時間を消費してまでも仕掛けた最大の策。
それは、全米のVRMMOプレイヤーに、ダークテリトリーの暗黒騎士アカウントを与えたうえで自らの戦力としてアンダーワールドに接続させるというものだった。
そのようなことが可能であるとは、ラースを率いる菊岡誠二郎も、アンダーワールドを設計した当人である比嘉タケルですらもまったく考えもしなかった。しかし、アンダーワールドは、下位レベルではあくまでザ・シード規格に適合したVRMMOパッケージに過ぎないのだ。通常のポリゴン表現によるゲーム世界としてならば、ただアミュスフィアさえ有ればログインすることも、オブジェクトに触れることも――あるいは他のキャラクターを殺すこともできるのである。
そして、全米のアミュスフィア販売数は、現時点で五百万台を突破している。
ガブリエルとクリッターの秘策は、完全にラーススタッフの想像の埒外にあった。
また、たとえ気付いたところで、メインシャフトを占拠された状態では衛星回線の切断すらも不可能だった。
しかし、クリッターが問題のURLを送信した時点で、ただ一つの存在だけがそのパケットに気付いた。
結城明日奈の持ち込んだ携帯端末から、オーシャンタートル内の状況を観察していたトップダウン型人工知能・ユイは、プロモーションサイトにアクセスし、ガブリエルの狙いを正確に推測してのけたのだ。
彼女はなんとか、物理的・回線的に封鎖されたサブコントロールルームに状況を警告しようとしたが、明日奈の船室に置きっぱなしにされた端末のアラームをいくら鳴らそうと、とても聞こえるものではなかった。
やむなくユイは、遥か太平洋を隔てた日本へと意識を引き戻し、幾つかの携帯端末番号を同時にコールした。
現実世界では女子高校生、仮想世界では超級狙撃手である朝田詩乃は、寝入りばなに響いた着信音が意識に届くや、自宅アパートのベッドからがばっと跳ね起きた。
心臓が口から出そうになった理由は、そのメロディが、桐ヶ谷和人の自宅回線からの着信を示すものだったからだ。
まさか。意識不明のうえに行方不明になったままのキリトからコールが。
混乱しながら端末に押し当てた耳に、飛び込んできたのは幼い少女の切迫した声だった。
『シノンさん、ユイです!』
「え……ゆ、ユイちゃん?」
キリトの所有するAIであるユイのことは無論知っている。ほんの一週間前、彼の行方を明日奈たちと話し合ったとき、ユイの情報処理能力と感情表現の高度さを目の当たりにしたばかりだ。
しかし、よもや直接電話をかけてくるとは予想できず、詩乃は絶句した。耳に、ほんのかすかに電子的な響きのある甘い声が、急き込むように流れ込んでくる。
『説明は後からします。今すぐ準備をし、家を出てタクシーに乗ってください。行き先住所と最小時間経路は端末に送ります。運賃はシノンさんの電子マネー口座に入金しておきます』
直後、ちゃりーんというサウンドエフェクトが、詩乃の端末にオンライン振込みがあったことを告げた。
「え……た、タクシー?」
言われるままに立ち上がり、パジャマのズボンから脚を引き抜きながら、詩乃はいまだ回転数の上がらない頭でそう訊ねた。しかし、続いたユイの言葉が、氷水のように詩乃の意識を覚醒させた。
『はい。パパとママが危険なのです!!』
「き……危険!? お兄ちゃんとアスナさんが!?」
女子校生にして剣士、そして桐ヶ谷和人の妹でもある桐ヶ谷直葉は、ジーンズのボタンを留めながら聞き返した。
『リーファさん、あまり大声を出すとおばさまが起きてしまいます』
端末から流れ出すユイの冷静な声に、慌てて口をつぐむ。
「そ……そうね。ていうか……こんな時間にこっそり抜け出すなんて初めてだよ……」
『今からおばさまに事情を説明し外出許可を求める時間的余裕は残念ながらありません。ホームサーバーに、部活の朝練があるので早く登校するむねメッセージを吹き込んでおけば大丈夫でしょう』
「わ……わかった。すごいな……ユイちゃん策士だねえ」
いたく感心しながら着替えを終えると、直葉は足音を忍ばせて階段を降り、玄関の戸に手をかける。いかに時代物の日本家屋とは言え、夜間はオンラインセキュリティが働いているはずなのだが、警報はユイが切ったらしい。
和人が行方不明となって以来、心労の色著しい母親・翠の目を盗んで行動することに罪の意識を感じたが、直葉は心の中で手を合わせて家を出た。
――ごめんなさい、お母さん。お兄ちゃんは、きっと私が助け出すからね。
大通りに出ると、幸いまだ回送ではなく割増表示のタクシーがたくさん走っており、すぐに掴まえることができた。直葉の年齢にやや訝しげな顔をする運転手に、親戚が急病なんですと言い訳し、端末を覗き込む。
「ええと……東京の港区までお願いします」
六本木とまでは言わないほうがいいような気がした。
比嘉タケルは、かじりかけのエナジーバーが膝の上に落ちた感覚に、はっと目を開いた。
きつく瞬きを繰り返してから、壁の時計を確かめる。JSTで午前四時少し前。視線を横に動かすと、サブコントロールルームに詰めるラーススタッフたちの、疲れ果てた顔がいくつも見えた。
ドクター神代は、コンソールの椅子の一つに横向きに腰掛け、こくりこくりと頭を揺らしている。菊岡二等陸佐ですら、寝てはいないまでも、メインモニタに向けられた黒縁めがねの下の細い眼にいつもの鋭さは無い。
あとは、技術系のクルー四人が壁際に敷かれたマットレスに屍のように転がっているだけだ。自衛官の警備要員たちは、情報漏洩者が含まれる可能性を考慮し、菊岡が全員をサブコントロールの一層下で耐圧隔壁の警戒に当たらせた。
謎の武装グループの強襲を受けてから、ようやく六時間が経過したことになる。
オーシャンタートルを護衛する――はずだった――イージス艦〈ながと〉に突入命令が出るまで、あと十八時間。この状況下では、絶望的なまでに長い。時間が加速されているアンダーワールドにおいてをや、である。
結城明日奈が、スーパーアカウント“ステイシア”を用いてダイブしてからももう三時間が経過している。内部時間では四ヶ月にもなんなんとする月日が過ぎ去った計算になる。なのに、いまだにアリス確保任務が成功したとも失敗したとも連絡が無いとはどういうことか。
「そんなに遠くしたっけなあ……ヒューマンエンパイアからワールドエンドオールターまで……」
もごもご呟きながら、脳裏にラースのロゴマークと酷似するアンダーワールド全図を思い描こうとした――そのとき。
コンソールに設置された電話機が、びびび、びびびと耳障りな音で喚きたて、比嘉は思わず飛び上がった。
「き……菊さん、デンワ」
下のフロアで何かあったのか、と思いつつ指揮官に声を掛ける。
同じようにびくっと跳ね起きたアロハシャツ姿が、つま先から下駄を落としながら受話器に飛びついた。
「サブコントロール、菊岡だ!」
少々掠れてはいるが、びんと強く響く応答に、やや間を開けてスピーカから流れたのは――防衛要員を指揮する中西一尉ではなく、戸惑いをたっぷり含んだ若い男の声だった。
「え、えーとそちら、ラース本社のSTLプロジェクト本部……ですよね? 私、ラース六本木支部の平木と申しますが……」
「は? ろ、ろっぽんぎ?」
菊岡にしては珍しく、完全に意表をつかれたような間の抜けた声だったが、しかし比嘉もまったく同感だった。
なぜこんな時間に六本木支部が連絡してくるのだ。あそこのスタッフは、ラースが国防予算によって運営される偽装企業であることも、その中核が日本本土ではなくはるか南洋を漂うオーシャン・タートルに置かれていることも、プロジェクト・アリシゼーションという名称すらも知らされていない。
そしてもちろん、ラースが今謎の敵の攻撃に晒されていることも。六本木支部は、完全にSTL関連技術開発のみに特化した、あくまで一出先機関なのだ。
そう……STL……。
不意に、何か閃きのシッポのようなものが比嘉の脳裏をかすめたが、それを捕まえる前に菊岡が大きく咳払いした。
「あ、ああ、はい。STLプロジェクトチームの菊岡ですが」
「あ、どうもどうも! 以前一度お眼にかかりました。ご無沙汰しております、こちらで開発主任をやらさしてもらってます平木ですぅー」
そんなカイシャインみたいな挨拶はいいから早く本題を言え!!
と比嘉は胸中で叫んだし、菊岡もまったく同じ顔をしていたが、出てきた声は見事な偽装会社員振りだった。
「あっはい、どうもお疲れ様です平木主任。こんな時間まで残業ですか?」
「いやぁー、それがちょっと、飲んでるうちに終電逃がしちゃってぇー。会社の場所が悪いんですよー六本木とか。あ、上にはオフレコでこれ、うふふ」
お前が今話してるのが上だよ! ザ・てっぺんだよ! いいから用件を言えよ!!
比嘉の念力が通じたか、平木はそれ以上無駄口を叩かず、口調を改めた。
「あーっと、それでですねえ……ちょっと問題、というか……妙な話なんですけどね。ここに今、外部のヒトがアポなしで突然来まして……」
「外部? 取引先ですか?」
「いえ、まったく無関係の……ていうか、どう見ても女子高生なんですよ、しかも二人……」
「はぁ!?」
再び菊岡と、比嘉、ついでにいつの間にか立ち上がっていた神代博士も素っ頓狂な声を出す。
「じょ……し、こうせいですか?」
「ええ。いやもちろん追い返そうとしたんですよ、この会社守秘関連すごい厳しいですから。でも……そのコたちの言ってることが、どうにも……」
要領を得ない平木の言葉に、ついに比嘉も立ち上がり、コンソールに両手をついた。菊岡のほうは、見上げた忍耐力を発揮し、穏やかに問い返した。
「で、いったい何を言われたんです?」
「えーとですね。今すぐラース本部の菊岡誠二郎って人に連絡して、こう言えと。アンダーワールドの、STRA倍率を即刻確認するように、と……」
「なにぃ!?」
再び、異口同音に驚愕の叫びが漏れた。
なんで外部の女子高生がそんな単語を知っているのだ!! アリシゼーション計画の全貌を知悉していなければ絶対に出てこない台詞ではないか。
口をぽかんと開けて菊岡と眼を見交わした比嘉は、半ば自動的にコンソールに向き直り、キーボードに指を走らせた。
暗いモニタに、白く現在の時間加速倍率が浮き上がる。
×一・〇〇。
「げっ……等倍!? いつからだ!?」
あえぐ比嘉から視線を外し、菊岡が急き込むように受話器に向けて叫んだ。
「な……名前。その女の子たちは名乗りましたか」
「あっ、はい。それが、これもフザケた話っていうか……どう考えても本名じゃないんですが。えっとですね、“シノン”と“リーファ”だって菊岡さんに伝えてくれって言うんですよ。顔は日本人なんですけどねえー」
ガコッ。
という乾いた響きは、菊岡が右足だけに突っかけた下駄からカカトを滑らせた音だった。
ラース六本木支部エントランスのオートロックが開き、浅田詩乃と桐ヶ谷直葉が小走りに中に入るのを確認して、人工知能ユイは小規模な安堵表現を行った。
具体的には、ほう、とささやかなため息を漏らし、演算能力の大半を同時継続中の別のタスクへと振り分ける。
ユイは、こちらの目的の達成には多大な困難が伴うと推測していた。なぜなら、ユイ単独では絶対に遂行不可能なことがらだからだ。
しかし同時に、これに失敗すれば、愛する“パパ”と“ママ”の願いは空しく潰えるであろうことも確かだった。
詩乃の携帯端末から意識を引き戻し、ユイはそのつぶらな瞳で、目の前に並んで座る四人の“妖精たち”を順に見た。
VRMMO−RPG、アルヴヘイム・オンライン内部に存在するキリトとアスナのプレイヤーホーム、そのリビングルームにユイたちは居る。
葉っぱで編んだようなソファに腰掛けるのは、三角形の耳と小さな牙を持つケットシー族のアバターでログインしている、プレイヤー“シリカ”。
隣に、メタリックピンクの髪をふんわり膨らませた、レプラホーン族の“リズベット”。
少し離れたテーブルに腰を乗せるのは、赤く逆立つ髪に悪趣味なバンダナを巻いたサラマンダー族、“クライン”だ。さらに、その横に腕組みをして立つ灰色の肌の巨漢が、ノーム族の“エギル”。
彼らはいずれも、生還者《サバイバー》と通称される、デスゲームSAOを生き抜いた歴戦のVRMMOプレイヤーであり、またキリトとアスナの無二の親友たちでもある。ユイの連絡を受け、深夜にも関わらず快くALOにログインした彼らは、いまちょうど状況の概説を聞き終わったところだった。
額に巻いたバンダナごしにがりがりと頭を掻きながら、クラインが持ち前の飄々とした声に最大限の深刻さを滲ませて呻いた。
「ったく……あんにゃろう、まーた一人でとんでもねえことに巻き込まれやがって……。自衛隊が作ったザ・シード連結体《ネクサス》“アンダーワールド”に、そこに生まれたマジモンの人工知能“アリス”かよ」
「その人工知能っていうのは、NPCじゃなくて……あたしたち人間と同じ存在、っていうことなの?」
続けて発せられた質問はリズベットのものだ。ユイはそちらに向けて大きく頷いた。
「ええ、そのとおりです。私のような既知AIとは構造原理から完全に異なる、本物の魂なのです。ラース内部では“人工フラクトライト”と呼ばれていますが」
「それを、戦闘機に乗せて戦争させようだなんて……」
ユイと、膝で丸くなる小竜“ピナ”を順に見たシリカが顔をしかめた。
「実際には、ラースとしてはそれを他国向けのデモンストレーション的な技術基盤に用いる意図のようですが……現在オーシャンタートルを占拠している襲撃者たちは、もっと具体的な用途を想定していると私は推測します」
ユイの言葉に、クラインが渋面を作って訊ねた。
「いったい何者なんだい、その襲撃者っつうのは」
「九八%の確率で米軍か米情報機関が関与しています」
「べ……べーぐん!? てアメリカ軍!?」
仰け反るリズベットに、ユイはこくりと首を動かした。
「もし“アリス”が米軍の手に落ちれば、いずれ確実に無人機搭載AIとして実戦配備される日が来るでしょう。パパもママも、それだけはなんとしても阻止したいと思うはずです。なぜなら……なぜなら」
不意に、自分の情動アウトプットプログラムが不思議な反応を見せたことに、ユイは戸惑った。
頬を、ぽろり、ぽろりと大粒の水滴が転がり落ちていく。
涙。
私、泣いている。でも、いったいなんで。
その戸惑いすらも、衝き上げるような未知の感覚に押し流され、ユイは胸の前で小さな両手を握り締めて言葉を続けた。
「なぜなら、“アリス”は、SAOから始まったあらゆるVRMMOワールドと、そこに生きた多くの人々の存在の証であり、費やされたリアル・リソースの結実だからです。私は確信します。ザ・シードパッケージが生み出されたそもそもの目的が、“アリス”の誕生に他ならないと。連結された無数の世界で、たくさんの人たちが笑い、泣き、哀しみ、愛した、それら魂の輝きがフィードバックされていたからこそ、アンダーワールドに真の新人類が生まれたのです。パパや、ママや、クラインさん、リズベットさん、シリカさん、エギルさん、そのほか多くの人々があの浮遊城で流した涙が、今“アリス”の体に赤い血となって流れているのです!」
しばらく、誰ひとりとして口を開こうとしなかった。
ユイには、眼前の人間たちの意識回路で発生しているであろう思考や感情を推察するすべは無かった。情報集積体でしかない既知AIが、本物のエモーションを持たず、理解もできない存在であることを、誰よりも知っているのはユイだったからだ。
そう、キリトやアスナ、そしてその愛する人たちを助けたいというこの強い衝動ですらも、メンタル・ヘルスケア・プログラムとして最基層に書かれたコードに由来するものでしかないのだ。
そんな自分の発する、単なる情報の羅列にすぎない言葉が、人間たちの心にどれほど届き得るものだろうか、とユイはこの会合を始める以前から――大きな目的を抱いてオーシャンタートルを飛び立ったその瞬間から危惧していた。
だから、突然リズベットの瞳に透明な涙が盛り上がり、つう、と流れるのを見てユイは珍しく驚きを覚えた。
「そう……、そうだよね。繋がってるんだ、ぜんぶ。時間も、人も、大きな川みたいに」
シリカも、目を潤ませながら立ち上がり、ユイの前に跪くとそっと両腕を回してきた。
「大丈夫だよ、ユイちゃん。キリトさんも、アスナさんも、私たちが助けにいくから。だから泣かないで」
「おうとも。水臭ぇぞユイッペ、俺らがキリトを見捨てるわきゃ無ぇだろうが」
ぐい、とバンダナを目深に引き下げ、クラインが湿った声で追随した。隣のエギルも深く頷き、重々しいバリトンで宣言した。
「あいつにはでっかい借りがあるからな。ここらで少しは返しておかんとな」
「……皆さん…………」
シリカに抱かれたまま、ユイはそう言うのが精一杯だった。
先ほどから、理由のわからない涙が後からあとから溢れ、一向に止まろうとしないからだ。
時間がないのに。語るべきことがまだまだあるのに。行動優先度からすれば、今は冷静に情報を伝達しなければいけないときだ。私の情動アウトプット回路は壊れてしまったのだろうか。
しかしユイは、己の全存在を満たすひとつのコードに支配され、しゃくりあげながら同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
「……ありがとう、ございます……ありがとうございます、皆さん……」
数分後、ようやく情動の最適化に成功したユイは、口早に現在の状況と今後起こるであろう事象の推測を四人に告げた。
眉間に険しい谷を刻み、クラインが唸った。
「USからのダイブが、最低でも三万……多ければ十万以上か……。そいつらにとっては、キリトとアスナ、そしてアリスを含む人界軍てのは、PvPのマトでしかねぇ、って訳かよ」
「いっそ、アメリカのネットゲームコミュニティにこっちも書き込みをしたらどうなの? 実験のこととか、襲撃のこととか暴露して、偽装ベータテストに参加しないでください、って頼めば……」
リズベットのストレートな意見に、ユイは小さくかぶりを振った。
「ことの真相は、日米の軍事機密争奪戦なのです。下手にそれを匂わせると、むしろ逆効果になりかねません」
「相手は本物の人間だから、殺さないで……って書くのも、じゃあ、やぶへびですよね」
シリカがしゅんとした顔で呟く。
重い沈黙を、すぐにクラインの威勢のいい声が破った。
「へっ、なら同じ手を使えばいいってこった! ネトゲ廃人の数ならUSなんぞに負けやしねえぞ。こっちもベータテスト告知サイトを作って、その……ラースの何とかさんに対等のアカを用意してもらえば、三万や四万すぐに集めてみせるぜ!」
「だが、厄介な問題がひとつある」
エギルが、丸太のような両腕を組みながら短く指摘した。
「ンだよ、問題って」
「時差だ。日本はいま日曜の午前四時半、つまりもっとも接続数の減る時間帯だ。対して、アメリカは土曜の昼間。アクティブプレイヤーの数では、向こうのほうが圧倒的に多いぞ」
「う…………」
今はじめてそれに気付いたような顔で、クラインが呻いた。
当初から、まったく同じことを懸念していたユイは、大きく頷くと言った。
「エギルさんの仰るとおりです。そもそものVRMMOプレイヤー絶対数の差に、時間帯の問題、さらに募集にも大きく出遅れていることを加味すると、我々が日本で集められる人数は一万にも遠く及ばないでしょう。つまり、敵側と同レベルのアカウントを使用するのでは、対抗できる可能性は非常に低いと言わざるを得ません」
「でも、アスナが使った神様アカウントってもう無いんでしょう? だからって、キリトみたいに一からレベル上げしてる時間もあるわけないし……やっぱり、ラースに用意してもらえるアカウントのうち、一番強いやつで頑張るしかないんじゃ……」
硬い表情でそう呟くリズベットを、ユイはじっと見つめた。
「いいえ……アカウントは存在します。敵側の使用するデフォルトアカウントより、レベルも装備もはるかに強力なものが」
「えっ……ど、どこに?」
「皆さんはもうそれを持っています。今この瞬間、ログインに使用している、まさにそのアカウントです」
ぽかん、とした顔を作る四人に向け、ユイは己の使命の核心を告げるために口を開いた。
彼らに、とてつもなく巨大な代償を――文字どおりその半身を捧げることを求めようとしているという認識はあった。
しかし同時に、この人たちならば必ず応じてくれると、ユイは強く信じた。
「――コンバートです! 皆さんが、そして他の多くのVRMMOプレイヤーたちが、あまたのザ・シード世界で鍛え上げたキャラクターを、アンダーワールドにコンバートするのです!」
午前五時。
アルヴヘイム・オンライン世界の中央に位置する中立都市アルン、そのさらに中心にそびえる世界樹内部の巨大ドームに、三千人を超えるプレイヤーが集結していた。
かつて、ドームの天蓋に設けられたゲートを防御していた守護騎士モンスターの姿はもうない。かわりにこの場所は、妖精九種族間の会議や交渉に用いられるようになっている。
クラインやリズベットらがゲーム内メールを飛ばしまくった時点で、ログインしていた領主プレイヤーはほんの三人だけだった。しかし彼らや、各種族の役職プレイヤーを拝み倒し、リアルで連絡をつけてもらうという禁じ手までも繰り出した結果、わずか四十分で八人の領主全員が一同に会することとなった。
周囲の広大な空間に、立ったり浮遊したりしているプレイヤーたちの三割近くは、作成したばかりのキャラクターを使用している。だが、VRMMO初心者というわけではない。彼らは皆、他のザ・シード規格タイトルにおけるベテランプレイヤーであり、ALOにアカウントを持つ友人知人の求めに応じて集まったのだ。
つまり、このドームに集う三千人は日本人VRMMOプレイヤーの精鋭中の精鋭であり、ユイが一縷の望みをかけた、アンダーワールドの人界守備軍を救いうる唯一の戦力なのだった。
いま、しんと静まり返った彼らの頭上を、よく通るリズベットの声がさらに魔法で増幅されて高らかに響いている。
「……私が皆さんに言ったことは、嘘でも冗談でもありません! 日本が、その国家予算で造ったザ・シード・ネクサスである“アンダーワールド”を、もうすぐアメリカ人プレイヤーたちがそれと知らずに侵略し、攻め滅ぼそうとしているのです!」
リズベットは、ナショナリズムを煽るような言い方に忸怩としたものを覚えながらも、今はそれすらも利用しなければいけないのだと自分を叱咤した。
「アンダーワールドに暮らしているのは、ただのNPCではないんです! 皆さんがダイブしてきた、たくさんのVRMMO世界から還元された情報を源として生まれた、ほんものの人工知能なんです! 彼らを守るために、皆さんの力を貸してください!!」
リズベットは、数分間の演説をその言葉で締めくくり、プレイヤーたちをぐるりと見回した。
たくさんの妖精たちの顔には、一様に戸惑いの表情だけが浮かんでいる。それはそうだろう、突然聞かされて、すぐに理解できるような話ではない。
低いざわめきを割って、しなやかな腕が発言を求めた。
進み出たのは、長身を緑色のローブに包んだシルフ族の領主、“サクヤ”だった。
「リズベット。君や、君の友人たちが悪戯でこんなことをするとは思えないし、何よりあのキリトがもう一週間もログインしていないのは確かにただ事ではないだろう。しかし……」
低く滑らかなサクヤの声が、いつになく困惑を含んで揺れた。
「……正直、にわかに信じがたい。いや、事実確認は、君の言うとおりログインしてみれば出来るのだろうが……先ほど君は、“アンダーワールド”へのダイブにあたっては、幾つかの問題点があるとも言ったな? まずその問題とやらを説明してくれないか?」
――ついに、この瞬間がきた。
リズベットは大きく息を吸い、そっと瞳を閉じた。
正念場だ。ここでしくじれば、誰も救援には来てくれないだろう。
ぱちりと両眼を開き、目の前のサクヤを、そして他の領主たちと無数のプレイヤーを順に見渡しながら、リズベットはしっかりした声で告げた。
「はい。アンダーワールドは、ゲームとして運用されているわけではありません。ゆえに、ダイブには幾つかの問題が発生します。まず第一に……コマンドメニューが存在しません。よって、自発的ログアウトができないんです」
ざわめきが突然大きくなる。
“自発的ログアウト不能”、それはかつて存在したデスゲーム・ワールドを否応なく思い起こさせるフレーズだ。現在では、アイコン操作と音声コマンド双方でログアウトできないVRワールドは、MMOゲームに限らず違法となっている。
「ログアウトの方法は、内部で“死亡”するしかありません。しかし、ここで第二の問題が発生します。アンダーワールドには……センス・アブソーバが設定されていないのです。恐らく、ダメージに伴って、かなり強烈な錯覚痛があるはずです」
さらに大きなどよめき。
痛覚遮断もまた、法で義務付けられたVRサーバの必須機能だ。それが存在しない、つまりアブソーバレベル〇状態ということは、剣で切られたり炎で焼かれたりすると、ほとんど現実と同じ強さの苦痛を味わうことになる。場合によっては、生身の体に痣が浮き出ることすらある。
動揺の声が少し収まるのを待って、リズベットはついに第三の、そして最大の代償を口にした。
「そして、もう一つ。アンダーワールドサーバは、現在、開発者たちですらオペレーションできない状態にあります。つまり……コンバートした皆さんのアカウントデータを、再コンバートできるかどうかは保証できません……ことによると、キャラクターロストという結果になる可能性があるのです」
一瞬の沈黙に続き――。
突如、凄まじいボリュームの怒号が、広大なドーム空間に満ち溢れた。
フロアの中央に並ぶリズベット、クライン、シリカ、エギルの四人と、小さなピクシーに姿を変えてクラインの肩に乗るユイは、実際的圧力をともなって押し寄せてくる罵声の波に耐えて、まっすぐに立ちつづけた。
この反応は、まったく予想されたとおりのものだった。
彼らハイエンドゾーンのプレイヤーたちは、そのキャラクターを育て上げるために、尋常ならぬ時間と努力をつぎ込んでいる。一時間必死になってモンスターを倒しまくって、ようやく経験値が〇・一%上がるかどうか、という、湖の水をバケツでくみ出すような作業を日々積み重ねてその位置にとどまっているのだ。
その、精魂傾けて鍛えてきたキャラクターを失うかもしれないなどと言われて、平静でいられるはずもない。
「ふ……ふざけんなよ!!」
集団から数歩飛び出てきたひとりが、リズベットに人差し指をつきつけて叫んだ。
深紅の全身鎧に身を包み、背中に巨大な両手剣を背負ったサラマンダーだ。たしか、領主モーティマー、将軍ユージーンに次ぐ地位にある指揮官格のプレイヤーだったはずだ。
ヘルメットをもぎ取り、怒りに燃える両眼を露わにしたサラマンダーは、背後の大集団が一瞬押し黙るほどのボリュームで更に言葉を放った。
「こんな時間に無理やり人を集めまくって、わけのわかんねえ違法サーバーにダイブしろってだけでもどうかしてんのに、その上キャラロスするだぁ!? 消えたらお前らが補償できんのかよ!!」
呵責のない言葉に、隣から飛び出そうとするクラインを手で押さえ、リズベットは可能な限り静かな声で答えた。
「できないわ。あなたたちの育てたキャラクターが、お金に換えられるものじゃないことくらいよく分かってるもの。だからお願いしてるんです。私たちを助けて、って。今、アンダーワールドで必死になってアメリカの攻撃を防いでる、私たちの仲間を助けてくださいって」
叫ばずとも、リズベットの声はドーム全体に滔々と流れた。サラマンダーは一瞬息を詰めたようだったが、すぐにそれを怒気に変えて吐き出した。
「仲間っつうのはあいつらだろ! 生還者とか言われて、レベルも大したことねえのに自分らだけ特別みてえな顔してる連中だろうが! 分かってんだよ、お前ら元SAO組が、心んなかじゃ俺たちのこと見下してることくれえよ!!」
今度は、リズベットが言葉を失う番だった。
サラマンダーが指摘したことを、リズベットはこれまで自覚も意識もしたことはなかった。だが、言われてみれば、そのような心理がほんとうに一欠片も存在しないと確信はできない気もした。プレイヤーホームを、地上フィールドではなく上空の新アインクラッドに構え、ほとんど下に降りることもなく、昔なじみとばかり交流してきたのは事実なのだ。
リズベットの動揺を見抜いたか、サラマンダーは尚も容赦ない言葉を重ねた。
「人工知能とか、防衛機密とか知るかよ! VRMMOにリアルの話持ち込んで偉そうなこと言ってんじゃねえよ! そういうのは、お前らだけでやりゃいいだろうが! リアルでもお偉い生還者様だけでよ!!」
そうだ、帰れ、という罵声が周りからいくつも追随した。
だめだった。
あたしの言葉じゃ、ぜんぜん届かなかった。
リズベットは、我知らず涙ぐみそうになりながら、すがるような気持ちで仲のいいALOプロパーの実力者、シルフ領主サクヤや、サラマンダー将軍ユージーン、ケットシー領主アリシャ・ルーたちを見やった。
しかし、彼らは言葉を発しようとしなかった。
それぞれの瞳に強い光を宿し、ただじっとリズベットを見つめていた。まるで、おまえの意思を、覚悟を見せてみろ、と言うかのように。
リズベットは、大きく息を吸い、ぎゅっと瞼を閉じた。そして、今この瞬間にも懸命の闘いを続けているはずのアスナや、傷ついたキリト、そして一足先に戦場に馳せ参じていったリーファやシノンのことを思った。
――あたしのレベルじゃ、たとえコンバートしても、とてもみんなのようには戦えない。でも、だからこそ、あたしにしかできないことだってあるんだ。いまこの瞬間が、あたしの戦いなんだ。
ぱちりと瞼を開け、涙滴を振り飛ばし、リズベットは話しはじめた。
「……ええ、これはリアルの話よ。そしてあなたの言うとおり、SAO出身者は、リアルとバーチャルを混同しがちなのかもしれない。でも、決して、あたしたちは自分が英雄だなんて思ってない」
隣で、涙を浮かべて立ち尽くすシリカの手を握り、続ける。
「あたしとこの子は、あなたの言う生還者だけが集められた学校に通ってるわ。転入に選択の余地はなかった。元の学校は中退扱いになってたから。あの学校ではね、かならず週に一度カウンセリングを受けないといけないの。モニタリングソフトに繋がれて、現実感がなくなることはないかとか、人を傷つけたくなることはないかとか、下らない質問いっぱいされる。学籍と引き換えに、投薬を強制されてる子だって何人もいるんだ。あたしたちはみんな、政府にとっては監視対象の犯罪者予備軍なの」
いつしか怒声の波は収まり、張り詰めた静寂がドームを支配していた。眼前のサラマンダーさえも、意表をつかれたように目を見開いている。
自分の言葉の行き先が、リズベットには分からなかった。ただ、溢れてくる感情を、意思を、懸命に声に変え続けた。
「でも……ほんとは、そういう扱いをされてるのは旧SAOプレイヤーだけじゃないわ。VRMMOプレイヤーはみんな、多かれ少なかれそんな目で見られてる。ネットゲーマーは社会に寄生してるとか、真面目な労働者が積み上げたGDPをすり減らすだけとか、税金も年金も払わない現実逃避者だとか……徴兵制を復活させて、訓練で強制的に現実を教え込むべきだなんて議論まであるわ!」
数千のプレイヤーのあいだに、ぎりりと緊張が高まるのをリズベットは感じた。針で一つつきすれば、先ほどに倍する怒りが爆発するに違いない。
しかし、リズベットは、片手を胸にあてて尚も叫んだ。
「だけど、あたしは知ってる! あたしは信じてる! 現実はここにあるって!!」
もう一方の手で、大きく周りを――世界を指し示す。
「この世界は、ここと繋がる沢山の連結体は、絶対に仮想の逃げ場所なんかじゃない! 本当の生活と、本当の友達と、本当の笑いや、涙や、出会いや、別れがある……“現実”なんだ、って!! みんなもそうでしょう!? この世界こそがリアルなんだって信じてるから頑張れるんでしょう!? なのに、これはただのゲームだって、所詮バーチャルだって切り捨てたら、じゃあ、あたしたちの本当はどこにあるの……!!」
ついに、堪えきれずに涙が溢れた。それを拭うこともせず、リズベットは最後の言葉を絞り出した。
「……みんなで育てた沢山の世界が、この世界樹みたいに寄り集まって、芽吹いて、ようやくつけたたった一つの実を、あたしは守りたい! お願い……力を貸してください……!!」
静まり返ったドームの天蓋にむけて、リズベットは両手を差し伸べた。
涙に揺れる視界に、幾千の妖精の羽が放つ燐光が、きらきらと滲んだ。
瞬く銀光が、暁の空にきらきらと大きな弧を描く。
ほんの一秒後、乾いた音とともに五本目の太綱が切断され、黒い蛇のように宙をうねった。
多重の悲鳴。なすすべもなく跳ね飛ばされ、奈落へと落ちていく人影。
それらから耳と目を背け、アスナは懸命に眼前の敵だけに意識を集中させた。
いや、たとえそうしたところで、胸中の動揺が薄れるわけではなかった。右手の細剣を閃かせるたびに飛び散る鮮血、崩れる肉体、そして失われる命はすべて本物なのだ。
悲壮な決意を呑んだ表情で、次々に飛びかかってくるダークテリトリーの戦士たちは、決して自身の望みによってそうしているわけではない。
皇帝ベクタなる最高権力者に身を宿した、現実世界の何者かに命ぜられるままに戦い、命を散らしていく。
しかしアスナは、全精神力を振り絞ってその事実を意識から排除した。
いまはアリスの身を護ることだけが最優先事項だ。実際、僅かにでも気を散らせば剣を弾き飛ばされかねないほどに、敵拳闘士たちの拳足は硬く、疾い。
ベクタ神の指揮下にある、ダークテリトリー軍の戦力はこの拳闘士と暗黒騎士を残すのみと聞いた。無謀な渡峡作戦を利用して敵主力を損耗させれば、ベクタアカウントを利用する強襲チームに打てる手も尽きてくるはずだ。
あとは、人界に対する危険が消えたところで、あらためてアリスをワールド・エンド・オールターまで導き、現実世界へ――オーシャンタートル上部のサブコントロール側へとイジェクトすればよい。強襲者たちに、イージス艦突入時刻までに隔壁を破る手立てが無ければ、だが。
「――よし、六本目にいくぞ!!」
騎士長ベルクーリの鋭い声が響いた。即座に、アスナを含む四剣士が応と返す。
西に移動を開始しかけたとき、遥か南から、高らかな角笛の旋律が響き渡った。
見れば、一キロ先の丘を、人界軍の衛士たちが整然と隊列を組んで駆け下りはじめたところだった。ほんの十五分ほどで装備・編成を終え、整合騎士たちの救援に馳せ参じたのだ。
「ったく……大人しくしてない奴らだ」
ベルクーリが苦言じみた声を出したが、しかしその口元には笑みが滲んでいる。
いかに騎士たちの剣力が圧倒的とはいえ、五本のロープを切断するあいだに、残る五本を渡り終えた敵の数は五百ほどにも達している。このタイミングでの援軍は、正直ありがたい。
ロープを守ろうと隊列を組む敵拳士・騎士たちにも動揺が走った。一部が南に向き直り、急造の防御線を築こうとする。しかし、土煙を上げて殺到する人界軍は一千を超える数だ。
この戦いは、どうやらこっちの勝ちね、ベクタさん。
アスナが胸中で呟いた――
その言葉が消えないうちに。
奇妙な現象を、両の瞳がとらえた。
血の色の朝焼けを背景に、遥か上空から、不思議なものが降りてくる。
黒い線。一本ではない。数十――いや、数百。
いや、数千か。
線は、微細なドットの連なりからなっているように見えた。懸命に目を細めると、そのドット一つひとつが、数字やアルファベットであることが分かる。
それら謎のラインあるいは情報は、幾束も寄り集まって、峡谷のこちら側、戦場から一、二キロほど離れた場所に円を描くように降り注いだ。
いつしか、アスナだけでなく他の整合騎士や、ダークテリトリーの兵たちすらも、足と腕を止めてその奇妙な現象に見入っていた。
戦場の西側に突き立った最初の黒線が、地面に溜まり、小さな塊となり――
それが人の姿を取るまで、ほんの二秒ほどしかかからなかった。
拳闘士団長イシュカーンは、身のうちに滾る憤怒を、一瞬にせよ忘れた。
あれは、何だ。
巨大峡谷の対岸では、大綱を渡り終えた五百の暗黒界兵と、五人の整合騎士、そして一千の人界兵がまさに激突せんとしていた。
しかし、突如彼らの動きが止まり、愕然とした様子で視線を戦場の外側へと向けたのだ。
引き寄せられるように自らも顔を動かしたイシュカーンが見たのは、峡谷南岸に巨大な半円を描いて降り注ぐ、漆黒の雨だった。
天から、奇妙な震動音を放ちながら無数の黒線が落ちてくる。
それらは、地面に接すると同時にぶわり、ぶわりと膨れ上がり――たちまち、人間の形へと変化した。
出現したのは、艶のない黒の全身鎧に身を固め、長剣や戦斧、長槍で武装した戦士たちだった。
一見、暗黒騎士団の歩兵のように見える。
だが、直後、言いようの無い違和感がイシュカーンを襲った。
黒い歩兵たちの、緊張感のないだらりとした立ち姿。それでいて、濃密に立ち上る生々しい欲望。
何より――その数!
主戦場から五百メル以上の距離をあけて出現したというのに、歩兵集団は黒い壁に見えるほど密だ。ざっと概算しただけでも、一万人は軽く超える。二万、いや三万にすら達するか。
暗黒騎士団にそれほどの戦力があったのなら、十侯合議体制などとうに破棄され、ダークテリトリーは彼らの統べる地となっていただろう。
それに、峡谷のこちら側に並んで陣取る暗黒騎士たちの間からも、驚きと動揺の声がさざめきとなって湧き上がっている。彼らも知らないのだ。あの軍団が何なのか。
そもそも、彼らはどこから現れたのか。黒い雨に身をやつして移動する術式など聞いたこともない。また、三万の歩兵を自在に転移させる力は、暗黒術師ギルドにだってあるはずがない。
となれば――。
あれは、皇帝にして暗黒神たるベクタその人の成したことに違いない。
漆黒の歩兵らは、皇帝が地の底より召喚した、本物の“闇の軍勢”なのだ。
イシュカーンの驚きは、一秒後、更なる憤りへと変化した。
あんな大軍の召喚が可能なのならば!
なぜもっと早く実行しなかったのか。これでは、無謀な渡峡作戦によって命を散らした拳闘士と暗黒騎士たちは、ただ敵をおびき寄せるための囮ではないか。
いや――事実そのとおりなのか。
皇帝は、自らの配下を呼び出す時間を稼ぐためだけに、あのような、まるで殺してくれと言わんがばかりの作戦を強行させたのか。
……違う。
この作戦だけではない。東の大門での攻防も含めて、暗黒界軍の戦力損耗ぶりは異常だった。亜人混成軍を、オーク予備戦力を、そして暗黒術師団をほぼ全滅させておきながら、皇帝は彼らの死を悼むどころか、眉ひと筋動かすことさえしなかったのだ。
つまり、最初から、皇帝ベクタにとっては五万の暗黒界軍すべてが捨石だったのだ!
この瞬間まで、弱冠十七歳の拳闘士長イシュカーンは、己が体の鍛錬と技の向上、そして部族の躍進にしか興味のない若者だった。
しかし今、彼ははじめて自らが属する暗黒界と、そして人界をも含む世界全体を俯瞰する視点を得た。
その観念は同時に、圧倒的な矛盾を彼の意識中に生み出した。
皇帝は強者である。強者には従わねばならない。
しかし。
しかし――。
右眼が、これまでないほどの激痛に見舞われ、イシュカーンは呻いた。
よろめき、跪いた彼の視線の先で、三万を超える黒の兵たちが、人語ならぬ喊声を轟かせながら、一斉に地を蹴った。
半円の環が縮まっていく。
約一千の人界兵たちが、整合騎士らと合流し、方陣を作って迎撃態勢を取る。
その西側では、五百の拳闘士と暗黒騎士たちが、どうしていいか分からないように立ち尽くしている。
いかに皇帝ベクタの策が無慈悲極まるものであろうとも、しかしこれで、少なくともあの五百人の命は救われたことになるのか。
イシュカーンは、右眼を強く抑えながら、意識の片隅でそう思った。
しかし彼は、無慈悲という言葉の本当の意味を知らなかった。
五百の暗黒界兵は、人界兵らより先に、召喚された闇の大軍と接触した。
無数の剣が、斧が、槍が振りかざされ――。
血に飢えた叫びとともに、味方であるはずの拳闘士たちに振り下ろされた。
「な……なんだあの連中は!?」
アスナは、初めて聞く騎士長ベルクーリの驚愕の叫びに、何と答えていいか分からなかった。
数万にも上る軍勢の突如なる出現が、皇帝ベクタのアカウントを乗っ取った襲撃チームの仕業であることは明らかだ。
しかし、どこからこれほどの数の戦力を引っ張り出したというのか。
モンスター扱いの自動操縦キャラクターを生成したのだろうか。しかし、メインコンソールはロックされ、そのような管理者権限操作は不可能だ。せいぜい、アスナのように座標を指定しての直接ダイブしか手段はないはずで、しかも襲撃者たちに使用できるSTLはたったの二機。
アスナを襲った一瞬の混乱を――。
ほんの百メートル先まで迫った、漆黒の剣士たちの叫び声が氷解させた。
「Shake it up!」
「Kill'em all!!」
英語!!
あれは現実世界の人間――しかも発音からしてアメリカ人だ!
だが、なぜこんなことが……ここは、隔離された真の異世界……。
いや。
いや――。
アンダーワールドは、STLを使用してダイブした者にとっては、“ニーモニック・ビジュアル形式”という現実以上のリアリティを持つ異界だが、しかしその設計には汎用VRMMOパッケージ、ザ・シードが用いられているのだ。つまり、アミュスフィアされあれば、ポリゴンレベルの下位層にはダイブ可能であり……そしてオーシャンタートルには、軍事レベルの大容量衛星回線が備えられている。
ならば、アンダーワールド・メインフレームのアドレスと、ダイブ用アカウントを付与したクライアントプログラムを作成し、現実世界にばら撒けば。
可能なのだ。何万人――それこそ何十万人にも及ぶ軍勢を作りだすことは。
あのアメリカ人たちは、この戦いの真実など何も知らず、おそらく新VRMMOタイトルのオープンβテストとでも信じ込まされてダイブしたのだろう。
それなら、剣を振り下ろすことに一切の呵責は無いはずだ。彼らにとっては、眼前の兵士たちは、人間と同じレベルの意識体などではなく、単によく出来たNPCでしかないのだから。
彼ら一人ひとりに悪意があるわけではない。現実世界でなら、同じサーバーに接続し、パーティーを組むことだってある気のいいVRMMOプレイヤーたちなのだ。おそらく、時間をかけてアンダーワールドと人工フラクトライトの真実を話せば、剣を引いてくれる者が大半なのではないか。
しかし――いまはその時間がない。もし、倒した敵のポイントに応じて、正式サービス稼動後にレアアイテムが分配される、等とでも説明されていれば、日本人だって同じことをするだろう。
もはや、一切の説得も、説明も通じまい。
守らなければ。この場でただ一人、かりそめの命を与えられている自分が。
アスナは右手の細剣を振り上げると、口のなかで素早くコマンドを唱えた。
「システム・コール! ジェネレート・フィールド・オブジェクト!!」
剣に、七色のオーロラが宿る。
昨夜と同じように、底なしの峡谷を作るわけにはいかない。人界軍の退路まで断たれてしまう。
かわりに、槍のように鋭い巨岩をイメージしながら、アスナは剣を大きく振った。
ラ――――、という荘重なサウンドエフェクトが響き渡る。虹色の光が切っ先から迸り、地に突き刺さる。
ゴ!!
突如、前方の地面が震動し、険峻な岩峰が頭をもたげた。それはたちまち、三十メートル近くも伸び上がり、その場所にいた黒い歩兵たちを数十人も高々と跳ね飛ばす。
ゴン! ゴッ!! ゴゴォォン!!
続けて、更に四つの岩山が並んで出現し、一気にせり上がった。大地が揺れ、更に数百単位で黒い鎧兜が空に舞った。英語の罵り声を甲高く喚き散らしながら、ある者は岩に磨り潰され、ある者は地面に激突して、大量の血と肉片をばら撒く。
アスナには、彼らが己の“死”をどう知覚したのかを推測する余裕は無かった。
いきなり、猛烈な激痛が頭の芯を貫き、その場に膝を突いてしまったからだ。
目の前に白い火花が飛び散り、息もできずに喘ぐ。昨夜、巨大峡谷を作ったときよりも遥かに強烈な痛みだ。膨大な地形データが通過する過程で、フラクトライトが――あるいは脳細胞が損耗していく生々しい感覚。
でも、ここで倒れるわけにはいかない!!
これでキリトと同じ傷を負うなら本望だ。アスナはそう念じながら、歯を食いしばり、剣を杖にして立ち上がった。
東側から押し寄せる兵士たちの足は、多少鈍った。西側では、アスナの推測を裏付けるかのように、アメリカ人たちがダークテリトリー軍にまでも襲い掛かっている。考えてみれば、彼ら暗黒界人こそ哀れと言うべきかもしれなかった。しかし今は、憐憫にかられている余裕はない。
残る一方、南に突破口を作り、そこから人界軍を脱出させる。
荒く息をつきながら振りかざした右腕を――。
曙光を受けて煌く篭手が、そっと抑えた。
「……アリス……!?」
掠れ声で叫ぶ。
黄金の騎士は、その白い美貌に確たる決意を浮かべ、小さく首を振った。
「無理をしないで、アスナ。あとは私たち整合騎士に任せなさい」
「で……でも、あいつらは……リアルワールドの……私の世界からやってきた敵なの……!」
「……分かります。覚悟なき欲望……血に飢えた刃。あのような奴ばら、何万いようと物の数ではない」
「そうだとも。オレたちにも少しは出番を分けてくれや」
アリスの言葉を引き取り、ベルクーリが太く笑った。
この状況でも、余裕に溢れた騎士たちの言葉だが――その表情には、これまで以上の悲壮なる覚悟がみなぎっていることを、アスナは察した。
黒い津波となって押し寄せる敵の数は、人界軍の三十倍以上。
もう、気迫でどうなるレベルではないのだ。
しかし、騎士長はその使い込んだ長剣を高々と掲げると、強靭な声を響かせた。
「よおォし!! 全軍、密集陣形!! 一点突破でずらかるぞ!!」
「オ……オ、オ……」
イシュカーンの口から漏れたのは、人の言葉ではなかった。
「オ……オオオオォォォォォ――――!!」
体の両側で握り締めた拳から、ぽたぽたと血が垂れた。しかしその痛みを自覚することもなく、若い闘士は獣の咆哮を放ち続けた。
死んでいく。飲み込まれていく。
状況が分からず、戦うことすらもできない一族の闘士たちが、闇雲に振り下ろされる刃のしたで悲鳴と鮮血を次々と撒き散らしていく。
なのに、残された五本の太縄を渡る兵たちは動きを止めることはない。対岸に渡れ、というのが皇帝の命令だからだ。絶対者に命ぜられたままに、諾々と綱を渡りきり、その直後に黒の軍勢にわっと集られ、切り刻まれる。
なぜ――どうして皇帝は、渡峡の中止と、ダークテリトリー軍への攻撃停止を命じてくれないのか。
これでは、部族の兵たちは囮ですらない。
召喚された黒い軍勢に捧げられる生贄ではないか。
「こ……皇帝に……」
上申せねば。作戦を停止してくれるよう要請しなくては。
怒りと絶望、そして視界の右側を染める赤光と右眼の激痛に苛まれながらも、イシュカーンは後方の御座竜車に向かおうと足を一歩動かした。
その瞬間。
上空を、ひとつの巨大な影が横切った。
飛竜。
黒い装甲によろわれたその背に乗るのは――豪奢な毛皮のマントと、長い金色の髪を翻した、まさしく皇帝ベクタその人だった。
「あ……あ……!!」
イシュカーンが無意識のうちに発した言葉ならぬ叫びが聞こえたか、竜の鞍上で、皇帝がちらりと地上に視線を投げた。
その闇色の瞳には、一切の表情はなかった。
無為に死にゆく兵たちに、ひとかけらの憐憫も、それどころか興味すらも抱いていない、氷のような一瞥だった。
皇帝ベクタは、イシュカーンからすっと視線を外し、峡谷の南へと竜を飛翔させた。
あれが――神。あれが支配者。
しかし、支配者ならば。何ぴとも及ばない力を持つ強者ならば。
それに応じた責務だってあるはずではないか!
統べる軍を、治める民を導き、一層の繁栄をもたらす、それが支配者の務めであるはずだ。何千何万の命をただ使い捨て、そのことに何ら感情を動かさない者に――皇帝を――右眼が――支配者を名乗る――右眼が痛い――資格など…………!!
「うっ……お……おおおああああああ!!」
イシュカーンは、高々と右拳を突き上げた。
そして、その指先を鉤づめのように曲げ。
思考を妨げる灼熱の発生源である、おのれの右眼に突き立てた。
鮮血が飛び散り、ぶち、ぶちという嫌な音が響き渡った。
「お……長よ!! 何を!?」
駆け寄ろうとするダンパを左手で押しのけ、短い絶叫とともに、若き闘士は右の眼球を一気に引き抜いた。その白い球体は、拳のなかで奇怪な閃光を放っていたが、ぐしゃりと粉砕されると同時に光も消えた。
この時点でイシュカーンは、アリスやユージオのように“コード八七一”の自力解除にまで到ったわけではなかった。
ゆえに彼は、皇帝に対する直接的叛意を形成することはできず、現状与えられた命令である、「渡峡作戦の継続」及び「自身は綱を渡ってはいけない」という二つの指示は破棄できなかった。
しかし、彼はほとんど反逆に等しいレベルで、皇帝の命令を回避する手段を無理やり見出すことには成功した。
イシュカーンはゆっくり振り向き、唖然とした顔で見下ろすダンパに、低い声で語りかけた。
「皇帝は、あの黒い兵どもに関しちゃ何も命令してねえ。そうだな?」
「は……それは、そのとおりですが」
「なら、俺達があいつらをブチ殺すぶんには皇帝にゃ関係ないってことだ」
「……チャンピオン…………」
絶句するダンパを隻眼でぎろりと凝視し、イシュカーンは命じた。
「いいか……橋がかかったら、部族全軍で突撃してこい。何がなんでも、仲間を助けるんだ」
「は……!? 橋なぞ、ど、どうやって……」
「知れたことだ。頼むんだよ」
静かに言い放ち、イシュカーンは峡谷に向き直った。
突如、その逞しい両脚を、強烈な炎が包み込んだ。
赤々と燃える足跡を残しながら、拳闘士王は谷に向けてゆっくりと走り出した。速度はすぐに高まり、やがて一条の火焔となるまでに加速する。
綱を渡っちゃいけねえなら……飛びゃぁいいんだろうが!!
胸中でそう絶叫し、彼は幅百メルの奈落へと向けて、左脚を思い切り踏み切った。
“跳躍”は、拳闘士の重要な鍛錬の一つである。
修行は、砂地での安全な幅跳びに始まり、やがては並べた刃や煮えたぎる油を飛び越すことで心意を形成する。
その距離は、一流闘士では最終的に二十メルを超える。それは、人間の飛行が禁じられたこの世界においては、生身での跳躍の上限でもある。
しかし今、イシュカーンが体を投じたのは、限界距離の五倍にも達する幅をもつ底なしの峡谷だった。
宙に火炎の尾を引きながら、拳闘士はひたすらに前だけを睨み、空気を蹴った。
十メル。二十メル。体はまだ上昇していく。
三十メル。三十五メル。谷から吹き上がる強風に乗り、見えない翼に後押しされるように、さらに高みに駆け上る。
四十メル。
もう少し――あとほんの一息昇れれば……そこから先は惰力で向こう岸まで届く――。
しかし。
谷の真ん中の、ほんのわずか手前まで達したとき、無情にも風が止んだ。
がくり、と体が勢いを失う。跳躍軌道が頂点に達し、下向きの曲線へと移行する。
五メル……足りねえ。
「うおおおお!!」
イシュカーンは叫び、何かを掴もうとするかのように右手をまっすぐ伸ばした。しかし手がかりも、足がかりもあるはずはなく、足下の暗闇から這い登る冷気だけが彼の体を撫でた。
その時――。
「チャンピオオオオオン!!」
凄まじい雄叫びがイシュカーンの耳を打った。
ちらりと後方を見る。
副官ダンパが、己の頭よりも大きい巨岩を右腕で掴み、今まさに投擲体勢に入ったところだった。
長年付き合った忠実なる部下の意図を、長はすぐに察した。しかし――あれほどの大岩を、五十メル以上も投げるなど、人間に出来ることではない……。
ごわっ。
と、突如ダンパの右腕が膨らんだ。全身の力がそこだけに集中したかのように、筋肉が盛り上がり、血管が浮き上がる。
「オオオオ!!」
巨漢が吼え、数歩の助走に続いて、右腕が振り抜かれた。
まるで投石器のように、空気を震動させて岩の塊が射出され――直後、腕全体が、鮮血と肉片を振り撒いて爆裂した。
どさりと倒れるダンパの姿を左眼に焼きつけ、イシュカーンは歯を食いしばって、一直線に飛来する岩のみに意識を集中させた。
「……いぇああああ!!」
気合とともに、左の足裏で思い切り岩を踏み抜く。
バガァァン!!
と岩が四散し、その反動でイシュカーンの小柄な体は弾かれたように再度加速した。対岸で戦う剣士たちの姿が、もう目の前にあった。
盛大な罵り声を上げてばったりと倒れるアメリカ人歩兵の体から細剣を引き抜き、アスナは荒く息をついた。
暗黒界人を相手にするときのような、命を奪うことへの心理的重圧はない。かつての“閃光”、その後の“バーサクヒーラー”の二つ名のとおりに容赦ない連続剣技を繰り出し、屠った黒い兵たちの数はすでに十を超えた。
しかし――いかんせん、敵が多すぎる!!
アスナだけでなく、人界軍の衛士たち、そしてことに四人の整合騎士の奮戦はまさに鬼神の如しだ。方形に密集陣を組む衛士たちの先頭に立ち、なんとか南に血路を切り開くべく、屍の山を築いている。
だが、あとからあとから押し寄せる黒い歩兵の壁を押し戻すことができず、足を止めて鬩ぎ合うのが精一杯の状況だ。
何より、いずれ彼らも気付くだろう。切り倒した敵の死骸が、数十秒後にあとかたもなく消滅し、その場に血の一滴すらも残らないことに。自分たちが、命を持たぬ幻の軍隊を相手にしていることに。
「うわ……だめだ……うわあああ――!!」
突如背後から響いた絶叫に、アスナはハッと振り向いた。
衛士たちの戦列の一部が破られ、漆黒の泥水のように、アメリカ人たちがなだれ込むのが見えた。
甲高い罵声を迸らせながら、手当たり次第に衛士たちに襲いかかり、数人で取り囲んで切り刻む。血が、肉が飛び散り、悲鳴が断末魔の絶叫に変わる。
そのあまりにもリアルな死に様に、一層の欲望を掻き立てられたかのように、黒の兵士たちは新たな得物へと群がっていく。
「やめて……やめて……!!」
アスナは叫んだ。
今は、一部の犠牲は無視して、ひたすら南へと斬り進むときだ。理性ではそう分かっていたのに、しかし体が勝手に向きを変え、北へと走り出すのを止められなかった。
「やめてえええええええええ!!」
血を吐くような苦鳴とともに、押し寄せる黒い奔流へと単身斬り込む。
アメリカ人プレイヤーたちに悪意はない。ただ利用されているだけ――という認識も、吹き荒れる激情を止めることはできなかった。
ズカカカッ!!
右手が閃き、真珠色の細剣が立て続けに黒いヘルメットのバイザーを貫いた。頭部にクリティカルヒットを負った四人が、剣を取り落とし、喚き声を上げながらのたうち回る。
その反応からして、アミュスフィアを利用してダイブしているはずの彼らが、ペイン・アブソーバ機能で保護されていないことは明らかだ。すでにそうと察していたアスナは、これまでなるべく一撃で心臓を破壊し即死・即ログアウトさせるようにしていたのだが、そんな理性もいつしか失せていた。
剣の高優先度に任せ、鎧の上から突き、切り裂き、時には敵の剣ごと断ち割る。
アメリカ人たちが見ているのは、あくまでポリゴンの敵であり、エフェクトの血液だ。しかしSTLダイブしているアスナには、彼らもまた生身の人間であり、飛び散る返り血は鳥肌が立つほどに生暖かく、噎せ返るほどに鉄臭かった。
いつしか足元に溜まっていたその血に――ずるりと右足が滑った。
どうっ、と横倒しになったアスナの眼前に、巨躯の歩兵が圧し掛からんばかりに立ちはだかった。
「fucking bitch!!」
振り下ろされるバトルアックスの下から逃れようと、アスナは右に転がった。
しかし、地面を突いた左腕を引き戻すまえに、分厚い刃が前腕を捉えた。
かつっ。
あまりにも軽い音とともに、腕が肘の下から切断され、宙に舞った。
「っ……あ…………ッ!!」
凄まじい激痛に、目の前に白い火花が散った。呼吸が止まり、体が硬直した。
滝のように血を振り撒く左腕を抱え込み、アスナは喘いだ。抑えようもなく溢れた涙を通して、自分を取り囲み、武器を振り上げる四、五人の黒い影だけが見えた。
突然――。
バトルアックスの大男の頭部が、爆発したかのように飛散した。
ボッ、ボガガガン!!
鈍い打撃音だけが連続して響いた。機関銃のようなその響きひとつで、アスナに止めを刺そうとしていた歩兵たちの体が次々に粉砕され、視界外に消えた。
「へっ……ヤワい連中だ」
激痛を堪えながら、どうにか上体を起こしたアスナが見たのは、精悍な容貌と炎のように逆立った髪を持つ、小柄な若者だった。
――ダークテリトリー人!
一瞬痛みを忘れ、アスナは息を吸い込んだ。肌の色、革の腰帯ひとつのその装束、間違いなくつい先ほどまで剣を交えていた拳闘士の一族だ。
しかし、なぜ皇帝ベクタの支配下にあるはずの者が、同じくベクタに召喚された黒歩兵を攻撃したのか。まるで、アスナを助けようとするかのように。
見下ろす拳闘士の、朱色の眼は片方しかなかった。右の眼窩は醜い傷痕に潰され、まだ新しい血の筋が涙のように頬で乾いている。
若者は、更に押し寄せようとするアメリカ人たちを、その隻眼でぎろりと睥睨すると、右拳を高々と掲げた。
ゴッ!!
そのごつごつした拳骨を、突然赤々とした炎が包んだ。
「ウ……ラアァァァッ!!」
裂帛の気合とともに、拳が地面へと叩き込まれる。
ドッ……グワッ!!
炎の壁にも似た衝撃波が半円形に発生し、前方の黒歩兵たちをひとたまりもなく吹き飛ばした。
――なんという威力だ!
アスナは瞠目した。今戦ったら――あるいは負ける……。
ずいっ。
突き出された左腕が、アスナの鎧の首元を掴んだ。強引に立たされたアスナを、一つだけの瞳が間近で睨み付けた。
「……取引だ」
若々しい、それでいて深い苦悩の滲む声で発せられた言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「と……りひき?」
「そうだ。あの岩槍や、でけえ地割れを作ったのはお前だな。いいか、地割れに、狭くていいから橋を架けろ。そうすりゃ、四千の拳闘士団が、この黒い軍隊どもをブッ潰すまでお前らと共闘してやる」
共闘――ダークテリトリー軍が!?
そんなことが有り得るのか。暗黒界人は、いやこの世界の人間は、コード八七一によって上位者とその命令には逆らえないのではないのか。
しかし、この若者には右眼が無い。これはつまり、封印を自力解除した証なのか? 彼もまた、アリスと同じく限界突破フラクトライトへと進化したのか?
でもこの傷痕は――右眼が破裂したというより、無理やり抉り出したかのような……。どう考えれば、どう判断すればいいのか。
アスナの刹那の逡巡を、右側から響いた声と剣風が破った。
「その人、たぶんウソはつかない」
ぴゅ、ぴゅぴゅん。
驚くほど細く、よくしなる漆黒の剣で数人の歩兵の首を落としたのは、灰色の髪を持つ女性の整合騎士だった。名は、たしかシェータ。
「おう」
シェータを見た若い拳闘士が、にやりと不敵な――それでいてどこか照れたような笑みを微かに浮かべた。
その瞬間、アスナは決断を下した。
信じよう。
おそらく、“地形操作”能力が使えるのはこれで最後だ。ならばその機会は、破壊ではなく創造のために使うのも、悪くないだろう。
「……わかった。橋を作ります」
左腕の傷口から手を離し、アスナは右手のレイピアを高く掲げた。
ラ――――――――。
荘重な天使の歌声に続き、七色のオーロラが高く天を衝いた。
それは一直線に北へと突き進み、峡谷を貫き、対岸まで達した。
低い地響きが轟き、大地が震えた。
ゴン! ゴゴゴゴン!!
突如、崖の両側から岩の柱が突き出た。それらは見る間に長く伸び、谷の中央で結合すると、更に太く、しっかりとした架橋へと変化した。
「ううううううう、らあああああああ!!」
地形変化に伴う地響きの数倍の音量で迸ったのは、四千の拳闘士団が放つ怒りの雄叫びだった。
隻腕の巨漢を先頭に、闘士たちが一斉に橋上を疾駆し始めた。
切断された左腕の痛みに数倍する頭痛に、一瞬気を失いながら、アスナはわずかに安堵の息を吐いた。
これで――この場は脱出できるかもしれない。
どうか無事でいて、アリス。
約一分前。
戦場の最南部に於いて――。
整合騎士アリスは、あとからあとから湧いてくるような黒い歩兵たちを、もう何人斬り倒したのか数えられなくなっていた。
こいつら――おかしい。
剣士としての覚悟も、鍛錬された剣技もないのに、奇妙な言葉を喚き散らしながら仲間の死骸を踏み越え次々に飛びかかってくる。まるで、命が惜しくないかのように。それどころか、自分の、仲間の、敵の命の重さを歯牙にもかけぬかのように。
これが、リアルワールドの人間たちなのだとしたら。
確かに、アスナの言うとおり、向こう側は決して神の国ではないのだろう。
果てしなく続く殺戮と、尽きることなく出現する敵の数に、さしものアリスもいつしか意識を鈍らせていた。
もう嫌だ。こんなのは戦いではない。
早く――早くこの戦列を切り崩し、抜け出したい。
「どけ……そこをどけえええ!!」
鋭く叫び、金木犀の剣を横一文字に振り抜く。
敵の頭が、腕が、立て続けに飛ぶ。
「システムコール!!」
即座に術式起句を唱え、十の熱素因を生成する。それらを融合させ、炎の槍を作り出し、放つ。
「ディスチャージ!!」
ドッゴオオッ!!
デュソルバートの熾焔弓には劣るが、巨大な爆発がまっすぐに敵軍を突き抜け、穴を穿った。
その向こうに――。
見えた。黒い大地と、盛り上がった丘。
包囲を破ってあそこまで後退したら、この戦場から発散されたリソースを利用して“封鎖鏡面光術”を組み、黒い歩兵どもを一気に焼き払ってやる!
「せあああああ!!」
気合とともに、アリスは地を蹴った。
戦列に開いた穴を、剣を左右に閃かせながら駆け抜ける。
「……嬢ちゃん!!」
背後で、騎士長ベルクーリの鋭い声が聞こえた。
だが、それに続く、先走るな、のひと言はアリスの耳には届かなかった。
抜ける。もう少しで突破できる。
立ちふさがった最後の一人を、足を止めぬまま斬り伏せ、アリスはついに無限とも思えた敵の包囲を破って南の荒野へと飛び出した。
剣を鞘に収めながら、血のにおいのしない新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、尚も全力で疾駆する。
不意に、周囲が暗くなった。
朝日が翳ったのか、と一瞬思った。
直後、ドカッ!! と凄まじい衝撃が背中を打ち、アリスの意識は暗転した。
皇帝ベクタ/ガブリエル・ミラーにとっても、この局面は賭けだった。
しかし彼は確信していた。戦場にダイブさせた数万のアメリカ人プレイヤーに、人界軍を包囲攻撃させれば、“光の巫女”アリスは必ず再びあの巨大レーザー攻撃を行うために単身、あるいは少人数で脱出してくると。
徴用した飛竜の背にまたがり、戦場の遥か高空でホバリングしながら、ガブリエルはひたすら待ち続けた。それは、アンダーワールドにダイブして以来、最も長く感じた十分間だった。
しかしついに、黒蟻の群のような歩兵の戦列を抜け出た黄金の光を彼は見た。
「アリス……アリシア」
ガブリエルは、彼にしてはまったく珍しい本当の笑みを唇に浮かべ、囁いた。
手綱を一打ちし、竜をまっすぐに急降下させる。
彼の虚無的な心意は、すでに飛竜のAIを完全に侵食し、道具のごとく意のままに操っていた。竜は命ぜられるまま、翼を畳んで音も無く落下すると、突き出した右の鉤爪で地面を駆ける黄金の騎士の背中を一掴みにした。
バサッ!!
広げた翼を大きく鳴らし、竜は再び空へと駆け上がった。
ガブリエルは、背後の混沌極まる戦場には一瞥も呉れなかった。
彼にはもう、暗黒界軍が、人界軍が、そして召喚した現実世界人たちがどうなろうとどうでも良かった。
あとはただひたすら、この座標から最短距離のシステムコンソールである、“ワールドエンド・オールター”を目指す。そこからアリスの魂をメインコントロールルームへと排出する。
ちらり、と視線を下向けると、気を失ったまま竜の足に捕獲されている黄金の騎士の、風になびく金髪が見えた。
早く触りたい。その体を、魂を、心行くまま味わいたい。
システムコンソールまでは長い道行きだ。飛竜に乗っても数日は掛かるだろう。その時間を利用して、アリスがアンダーワールドでの肉体を備えているあいだに愉しむのもまた良かろう。
ガブリエルは、背筋を甘美な衝動が這い登るのを感じ、もういちど唇を吊り上げた。
まさか。
よもや――五万のダークテリトリー軍と、新たに召喚した三万の歩兵たちを、丸ごと使い捨てにするとは。
たった一人の少女を攫うためだけに!
騎士長ベルクーリは、皇帝ベクタなる存在の虚無的な心意を知覚したその瞬間から、強く警戒し続けてきたつもりだった。しかし、己に敵の全貌がまるで見えていなかったことを、アリスが拉致された瞬間になってようやく自覚させられる結果となった。
割れ砕けんばかりに歯噛みをしてから、ベルクーリは、いったい何十年ぶりなのか自分でも分からない行動に出た。
腹の底から、本気の怒声を放ったのだ。
「貴様ッ、オレの弟子に何しやがるッ!!」
びりっ、と空気が軋み、声の軌跡に白い電光すら弾けた。
しかし、アリスを捕獲した飛竜の騎手は、振り向くことすらせず一直線に南空へ上昇していく。
愛剣を構え、ベルクーリはその後を追って走ろうとした。しかし、アリスが術式で敵戦列に開けた穴はすでに塞がり、漆黒の歩兵たちが奇怪な罵声を吐きながらうじゃうじゃと押し寄せてくる。
「そこを……」
どけっ、とベルクーリが叫ぶより早く、頭上を眩い銀の光が駆け抜けた。
きりきりきり、と高く澄んだ音を響かせながら飛翔する二条の投刃。整合騎士レンリの神器、比翼だ。
背後で、少年騎士の鋭い声が聞こえた。
「リリース・リコレクション!!」
カッ、と一瞬の閃光を放ち、二枚の投刃がひとつに融合する。十字の翼へと変化した刃は、低空へ舞い降りると、ぎざぎざの軌道を描いて突進し敵兵たちを左右になぎ倒す。
「騎士長、行ってください!!」
レンリの叫びに、ベルクーリは背中を向けたまま応じた。
「すまん! 後は頼む!」
ふっ、と腰を落とし、右足で思い切り地を蹴る。
瞬間、騎士長の姿は白い突風へと変化した。敵の大群に再び開いた間隙を、飛ぶが如く駆け抜けたベルクーリの速度は、ダークテリトリーの拳闘士が武舞によって実現する疾駆を遥か上回っていた。
長剣をぶら下げた右手と、前に傾けた上体は微動だにさせぬまま、脚だけを朧にかすませて最古の騎士は戦場の南へと抜けた。
アリスを攫った皇帝ベクタの竜は、すでに遥か高空をゆく小さな黒点でしかなくなっている。
疾走しながら、ベルクーリは左手を口元にあて、高らかに笛の音を吹き鳴らした。
数秒後、前方の稜線から、銀色の巨大な翼がその姿を現した。ベルクーリの騎竜・星咬だ。
飛来する竜は、しかし一頭だけではなかった。アリスの騎竜・雨縁、そして今は亡き騎士エルドリエの竜・滝刳もその後ろに従っている。
「お前ら……」
ベルクーリは呟き、二頭に出そうとした待機命令を、ぐっと飲み込んだ。
低空を滑るように接近してきた星咬が、くるりと向きを変え、ベルクーリに向けて脚を突き出す。
その鉤詰に左手をかけ、騎士長は一気に竜の背中へと自らを放り上げた。鞍に跨るや、右手の剣をまっすぐ前方に突き出す。
「行けっ!!」
叫ぶと、星咬と、雨縁、滝刳は同時に翼を打ち鳴らし、紫に染まる暁の空へと駆け上った。
くさび型に隊列を組んで併進しはじめた三騎の、はるか前方をゆく黒い飛竜の脚のあたりで、黄金の光が一瞬ちかっと煌いた。
岩の架橋を一気呵成に突進してきた四千の拳闘士たちは、半ば殲滅されかかっていた数百の同族たちと合流すると、人界軍のすぐ横を駆け抜け、まるで巨大な破城槌のごとく敵軍の中央へと激突した。
十人ひと組が横一列に密接し、完璧に同期した動きで右拳を引き、構える。
「ウッ、ラァッ!!」
ボッ、と放たれた十本の突きが、黒歩兵たちの剣をへし折り、鎧を穿った。悲鳴と血煙を撒き散らし、二十人以上の敵が後方へと吹っ飛ぶ。
闘気の全てを込めた突きを放ち終わった十人が、すっと横に広がって隙間を空けると、その間から真後ろの十人が飛び出てきてガチッと横列を組む。
「ウララッ!!」
今度は前蹴りが、これも見事にシンクロした動作で撃ち出された。再び大量の敵が、爆弾でも落とされたかのように四散した。
「……すごい」
左腕の傷口に、即席で丸暗記してきた治癒術を施しながら、アスナは思わず呟いた。
拳闘士たちの闘いぶりは、SAOで攻略組が行っていたスイッチ・ローテーションと似ているが、遥かに洗練されている。十人かける十列で百人、その集団が四十以上も、まるで工事用重機のように敵を蹂躙していく様は見ていて空恐ろしいほどだ。
「感心してるだけじゃ困るぜ。このまま南に抜けたとして、そのあとはどうするんだ。あれだけの敵、囲みを突破はできても、この場での殲滅はちと難しいぜ」
アスナの隣で腕組みをして立つ、一時共闘中の敵将が、厳しい表情で言った。
確かに、前への突進力は無敵と思える拳闘士隊だが、数倍の歩兵に側面から突っ込まれて崩される集団も出始めている。何せ、召喚されたアメリカ人たちの数は、いまだ二万を軽く超えるのだ。
「……では……敵陣を破り、南へ抜けたら、そのまま距離を取ってください。わたしがもう一度、地割れを作って敵を隔離します」
アスナは低くそう応じた。
――できるだろうか。さっき、小さな橋を作っただけでも気絶しそうになったのだ。再び、地平線まで届くほどの大規模な地形操作を行ったら、今度こそ強制カットオフされるか……下手をすると、脳に物理的な外傷を負うことも……。
一瞬の迷いを、アスナは強く唇を噛んで振り払った。やるしかないのだ。この、アメリカ人の召喚が、強襲チームの最後の策のはずだ。ならば、たとえ相討ちになったとしても――。
戦場の北端に居るアスナのもとに、一人の衛士が南から駆けつけてきたのはその時だった。
「伝令!! 伝令――!!」
深手を負ったらしく、顔の半分を血に染めた衛士が、アスナの前に膝をつくとかすれ声で叫んだ。
「整合騎士レンリ様より伝令であります!! 整合騎士アリス様が、敵総大将の駆る飛竜に拉致されました! 飛竜はそのまま南に飛び去った模様……!!」
「な…………」
アスナは言葉を失った。
そうか――まさか、この状況は。人界軍から、アリス一人を誘い出すための……!!
「皇帝……が、飛び去った、だと」
しわがれた声で応じたのは、拳闘士の長だった。左だけ残った赤い眼に、異様な光を浮かべてさらに声を絞り出す。
「それで……さっき、飛竜に……。見物じゃなかったのか……。おい、女!!」
若者は、アスナを爛々と輝く隻眼で凝視し、急き込むように詰問した。
「アリスってのは、“光の巫女”だな!? 皇帝はなぜそいつに固執するんだ!? 光の巫女が皇帝の手に落ちたら、いったい何が起きるってんだよ!?」
「この世界が……滅びます」
アスナは、短く答えた。拳闘士の顔が、愕然と強張る。
「暗黒神ベクタが、光の巫女アリスを手に“世界に果ての祭壇”に到ったとき……この世界は、人界も、ダークテリトリーも、そこに住む人々を含めてすべて無に還るのです」
自らの言葉が、どうしようもなくロールプレイングゲームのシナリオじみていることを、アスナは僅かに意識した。しかし、これはまったくの事実なのだ。アリスの魂を手に入れた強襲チームは、もう用無しとなったライトキューブクラスターを丸ごと破壊するであろうことは当然の予測である。
ああ……どうすれば。スーパーアカウント“ステイシア”にも飛行能力は付与されていない。飛竜に乗っている皇帝ベクタを、どうやって追いかければいいの。
アスナの内心の苦悩に答えたのは、いつのまにか前線から戻っていた灰色の騎士シェータだった。レイピアというよりフルーレに近い漆黒の剣をぴゅんっと鳴らし、血のりを振り落としながら、涼しげな容貌の女騎士は言った。
「飛竜も……永遠には飛べない。半日が限界」
すると、シェータをちらりと見てすぐに視線を逸らした拳闘士の長が、ばしっと掌に拳を打ち付けて叫んだ。
「なら、気合で追っかけるっきゃねえな!!」
「追っかける、って……あなた……」
アスナは呆然と敵将の若々しい顔を見た。
「あなた、ダークテリトリー軍の人なんでしょう? なんで、そこまで……」
「皇帝ベクタは……俺たち暗黒界十侯を並べて、確かに言ったんだ。自分の望みは光の巫女だけだと。そいつさえ手に入れれば、あとはどうでも知ったこっちゃねえ、ってな。巫女をかっ攫った今、皇帝の目的は達せられた……つまり、俺ら暗黒界軍の任務も一切合財終わったわけだ。あとは、俺らが何をどうしようと自由、そうだろが!!」
なんという――牽強付会な。
アスナは唖然と若き将の顔を見た。しかし、そこにあったのは、威勢のいい言葉とはほど遠い、悲壮な決意の色だった。
左眼でまっすぐにアスナを見て、拳闘士は言った。
「……俺は……俺たちは、皇帝には直接逆らえねえ。あの力は圧倒的だ……俺より恐らくは強かった暗黒将軍シャスターを、指一本動かさず殺したからな。もし改めてあんたらと戦うよう命じられたら、従うしかねえ……。だから、俺たち拳闘士団は、ここで黒い兵隊どもを防ぐ。あんたと人界軍は力を使わずに、皇帝を追っかけてくれ。そんで……皇帝を……野郎を……」
突然言葉を切り、若者は、まるで存在しない右眼が痛むかのように顔をゆがめた。
「野郎に、教えてやってくれ。俺たちは、てめぇの人形じゃねえってな」
ちょうどその時、一際高い拳闘士たちの喊声が、戦場の南から響いた。部隊の先頭が、ついに黒歩兵軍の囲みを破り、荒野へと抜け出たのだ。
「よぉし……」
若い長は、ずだん! と右足を踏み鳴らし、凄まじい音量で命じた。
「その突破口を保持しろ!!」
アスナに視線を戻し、短く言う。
「あんたたちは早く脱出しろ!! 長くは持たねえ!!」
大きく息を吸い――アスナは頷いた。
人間だ。この人は、まさしく強靭なる魂を持つ人間に他ならない。一族が渡っているロープを無慈悲にも切断し、百人以上を剣に掛けたわたしたちに、叩き付けたい恨みと憎しみだってあるだろうに。
「……ありがとう」
どうにかそれだけを口にし、アスナは身を翻した。
背中に、整合騎士シェータの声が掛けられた。
「私も……ここに、残る」
何となく、それを予測していたアスナは、肩越しに灰色の髪の女騎士に向かって短く微笑みかけた。
「わかりました。しんがりをお願いします」
一族の闘士たちが東西に構えて保持する突破口を、栗色の髪の不思議な女騎士と、七百ほどに減じた人界軍が走り抜けていくのを、イシュカーンは無言で見送った。
土煙から視線を外し、となりに立つ灰色の整合騎士を見やる。
「……いいのかよ、女」
「名前、もう言った」
剣呑な目つきで睨まれ、苦笑まじりに言い直す。
「いいのか、シェータ。生きて戻れるかどうかわかんねえぞ」
真新しい鎧をかしゃりと鳴らし、細身の騎士は肩をすくめた。
「あなたを斬るのは私。あんな奴らにはあげない」
「へっ、言ってろ」
今度こそ、イシュカーンは朗らかに笑った。
犬死にしていく仲間を助けたい。それだけを願っていたはずの自分が、人界軍に協力し、黒い軍隊から彼らを守るために部族全体の命運を賭けようとしているのはどうにも不思議だったが、しかし、胸中には爽やかな風が吹いていた。
まあ、悪くねえさ。こんな死にざまも。
世界を守るためなら――郷のオヤジも、弟や妹たちも、分かってくれるだろう。
「よぉおし!! 手前ら、気合入れろよ!!」
即座に、ウラアー!! という雄叫びが返った。
「円陣を組め!! 全周防御!! 寄ってくるアホウ共を、片っ端からぶちのめしてやれ!!」
「滾りますな、チャンピオン」
音もなく背後の定位置に戻っていたダンパが、左手をごきごきと鳴らした。
南の丘を越え、補給隊の待つ森へと撤退しながら、アスナは少年騎士レンリから、騎士長ベルクーリが三匹の飛竜とともに皇帝ベクタを追跡していることを知らされた。
「……追いつけると思いますか?」
アスナの問いに、レンリは幼さの残る顔に厳しい表情を浮かべ、答えた。
「正直、微妙なところです。基本的には、同じ速度で飛び、同じ時間に休息せねばならないわけですから……ただ、皇帝ベクタの竜は、アリス様を運んでいるせいで、天命の消耗は多少なりとも多いはずです。逆に騎士長閣下は、三匹の竜を順次乗り換えて疲労を抑えることが可能ですゆえ、徐々にですが距離は詰まるかと……」
となると、あとは果ての祭壇までの道行きのあいだに、騎士長が追いついてくれることを祈るのみだ。
しかし、首尾よく皇帝を捕捉したとして――。
騎士長ベルクーリは、スーパーアカウントたる暗黒神ベクタに単独で勝てるのだろうか?
よもや、襲撃者たちも神アカウントでログインしてくるなどとは予想もしなかったアスナは、ベクタに付与された能力を比嘉タケルに説明されていない。しかし、ステイシアの地形操作と同等の力をベクタも持っているとしたら――たとえ整合騎士たちの長と言えども、一対一での戦いは厳しすぎるのではないだろうか……。
そこまで考えたとき、レンリがしっかりした口調で言った。
「もし追いつければ、騎士長閣下はかならずアリス様を助けてくださいます。あの方は……世界最強の剣士なのですから」
「……ええ、そうですね」
アスナも、ぐっと強く頷いた。
今となっては、信じるだけだ。アンダーワールド人の意思の強さを、先刻目の当たりにしたばかりではないか。
「ならば、私たちも全軍で南進しましょう。幸い、この先はひたすら平坦な土地が広がっているようです。ベルクーリ様が、敵の飛竜を落としてくだされば……」
「分かりました、アスナ様。至急出立の準備をさせます!」
レンリは走る速度を上げ、一足先に森の中へと消えた。
ちょうどその頃――。
オーシャンタートル・メインコントロールルームでは、情報戦担当員クリッターが、ログイン準備の整ったアメリカ人VRMMOプレイヤー第二陣・二万人を、新たにアンダーワールドに投入しようとしていた。
しかしその座標は、ガブリエル・ミラーの現在位置を追うかたちで、第一陣の投入地点よりも南に十キロメートルほども変更されていた。
「ワウッ!!」
奇妙な喚き声とともに、ヴァサゴ・カザルスはがばっと身を起こした。
長い巻き毛を振り回しながら、周囲を素早く確認する。
鈍く光る鋼板の壁。滑り止めの樹脂加工が施された床。薄闇にぼんやりと浮かぶ幾つものモニタやインジケータ。
そして、目の前でくるりと回転した大型のシートに座る、ひょろりと痩せた坊主頭の男をまじまじと眺めてから、ヴァサゴはようやくここが現実世界のオーシャンタートル・主コントロール室なのだと認識した。
坊主頭の男――クリッターは、ふん、と短く鼻を鳴らしてから高い声で言った。
「あらら、目ぇ醒ましやがったか。脳細胞がコゲてるほうに賭けたのになぁー」
「んだとコラ」
反射的に罵り声を上げてから、自分の身体を見下ろす。壁際に敷かれた薄いマットレスに寝かされ、腹の上にはおざなりにフライトジャケットが掛けてある。
一体何がどうしたんだったか、と強く頭を振ると、脳の芯がずきんと痛んだ。思わず再びアウッツ! と罵り、部屋の反対側で車座になってカードに興じている数人の隊員に声を掛ける。
「おい、誰かアスピリン持ってねえか」
髭面のブリッグが、無言でポケットを探ると、小さなプラスチック瓶を放ってきた。片手で受け取り、キャップを捻って中身をざらっと口に投げ込み、ぼりぼり噛み砕く。
舌が痺れるほどの苦味に、ようやく記憶がわずかに鮮明化した。
「そうか……あのクソ深ェ穴に落っこちて……」
「いったい、どんな死にザマしたんだぁー。八時間もぶっ倒れやがってよー」
「は、八時間だぁ!?」
驚愕し、ヴァサゴは頭痛も忘れて跳ね起きた。
クリッターのシートに駆け寄り、正面コンソールのデジタルクロックを睨む。JSTでAM六:〇三。イージス艦突入のタイムリミットまで、約十二時間しか残されていない。
いや、それよりも、八時間も失神していたならば、すでにアンダーワールド内部では一年もの年月が過ぎ去ったはずだ。戦争は、アリス捕獲ミッションはどうなったのか。
だが、クリッターはヴァサゴの驚きを見透かしたかのように、ちっちっと舌を鳴らして言った。
「眼ン玉剥いてんじゃねえー。安心しなー、おめえが中でおっ死んだ時点で、時間加速は一倍にまで下がってっからよー」
「い……一倍だと」
ならば、状況は大して変化していないのか。いやしかし、それはそれで大問題だろう。
「おい、分かってんのかこのコオロギ野郎! あと十二時間で、JSDFの海兵隊だか何だかが突っ込んでくるんだぞ!」
坊主頭をがくがく揺らすヴァサゴの手を、煩わしそうに振り払い、クリッターは答えた。
「ったりめーだろうがぁー。こりゃあ全部、隊長の指示だっつうのー」
続いて説明された“作戦”は、ヴァサゴの度肝を抜くに充分なものだった。
ミラー中尉は、ダークテリトリー東端の帝城、つまりシステムコンソールを離れる時点で、クリッターに秘かに指示していたのだ。刺激的な“ハードコアVRMMO”のベータテスト告知サイトを作成し、接続用クライアントプログラムを用意しておけと。そして、ダークテリトリー軍の戦力が半減した時点で加速率を一倍に低下させ、同時に全米でベータテスターの募集を開始しろ、と。
「この機能制限されたコンソールじゃー、中尉とてめーの座標、それに大まかな人間の分布しかわからねー。だから、この作戦は、ヒューマンエンパイア側の抵抗が予想より激しかった場合の保険だったんだがよー」
クリッターは細長い指をキーボードに躍らせ、大モニタにアンダーワールド全図を表示させた。
丸っこい逆三角形をした世界地図の、東の端から二本の赤いラインが伸び始め、西へと移動していく。
「これがてめーと隊長の移動ログだー。いいかー、てめーはこの、エンパイアのゲートあたりをウロチョロして、ここで死にやがったわけだ」
赤いラインの片方が、“東の大門”から南へ少し折れたあたりで×印とともに途切れた。
「しかし隊長は今、さらにズーっと南へと進行してる。しかも全軍を北に置き去りにして、単独でだー。これがどういうことかっつうと……」
「“アリス”を追っかけてるか、もしくは既に捕まえてるか、のどっちかだな」
ヴァサゴは唸った。クリッターも頷き、説明を続ける。
「もともとの作戦じゃー、残り時間が八時間にまで減るか、あるいはヒューマンエンパイア軍が全滅したとこで、もう一度加速率を上限まで戻すっつーことになってた。それでも内部では一年にもなるからなー。加速を戻した時点で、ダイブさせた外部ベータテスターは同期ズレで全員放り出されちまうけど、戦争さえ勝ってりゃーこっちのモンだー」
「なら、今すぐ戻せよ! もう、人界守備軍はほとんど残ってねえんだろうが」
「それが、そう単純じゃねー。いいか、ここを見ろー」
クリッターはキーを叩き、マップの一部を拡大させた。
人界と暗黒界を隔てる東の大門、そこから南へ数キロ下ったところに、平地と丘、森林が並んでいる。ヴァサゴの記憶にも新しい、人界軍が潜伏していた森だ。
しかしいつの間にか、森と平地のあいだには、東西に五十キロメートル近くも伸びる巨大な峡谷が出現していた。その谷のすぐ南側に、もやもやと蠢く雲のようなものが、二色に色分けされて表示されている。
「この、黒で表示されてんのが、俺がアンダーワールドにぶっこんだUSベータテスターの集団だー。ずいぶん減ったが、まだ二万は残ってる。んで、黒に半包囲されてる赤い丸はダークテリトリー軍だ。四千人くれーかな」
「お……おいおい、どう見ても黒が赤を襲ってるじゃねェか」
「偽ベータテスト告知じゃー、超リアルなNPCを殺し放題としか書いてねーからな。USからダイブしてる連中は、人界軍も暗黒界軍も区別してねー。けど、なんでだか、赤の減りが予想より遅ぇー。皇帝に絶対忠実の暗黒界軍が、皇帝に召喚されたUSプレイヤーに抵抗するわきゃねーんだけどよー」
「どうせ、ねちねちいたぶって殺すのに夢中になってんじゃねえのか」
「まー、この赤四千はそのうち全滅するとしてだー。問題は、ここにちょこっとだけ、青い集団がいるだろがー」
クリッターがカーソルを動かす。確かに、南へ直進する皇帝ベクタことミラー中尉を追うように、ほんのささやかなブルーのもやが移動している。
「こりゃ人界軍だー。マップ上じゃちっちぇーけど、これでも七、八百はいる。こいつらが隊長に追いつくと面倒だからなー、なんとか阻止しなきゃなんねー」
「阻止ったってよ……どうするんだよ」
ヴァサゴの問いに直接答えず、クリッターはひっひっと短く笑うと、キーを操作した。
マップ上に、ぽっと別ウインドウが開く。そこには、白一色を背景に、巨大な黒い雲がもやもやと蠢動している。
「こいつらは、第一次接続に乗り遅れたプレイヤー連中だー。二万に達したら、これをこの青集団の座標にブチこむぜー。戦力比一:二十五、一瞬で殲滅するぜー? そしたら加速を一千倍まで戻す。隊長がアリスを捕まえて、南のシステムコンソールに到着する猶予はたっぷり残るはずだぁー」
「……そう上手くいきゃいいけどな」
ヴァサゴは顎に伸びた髭をざらっと擦りながら反駁した。
「おめーが思ってる以上に、人界軍てのはヤルぜ。とくにあの整合騎士って連中はとんでもねえ、ダークテリトリー軍の第一波を根こそぎブチ殺したからな。さもなきゃ、俺があんなブザマにやられる……わけが……」
そこまで口にした時。
ヴァサゴはようやく、自分が何者に、どのようにして殺されたかを思い出した。
鋭く息を詰め、黒い眼を見開く。網膜に、はるか高みから見下ろす、女神じみた姿がまざまざと蘇る。
「“閃光”……!! そうだ……間違いねぇ、ありゃあ絶対にあの女だ……!!」
「はぁ? 何言ってんだー?」
怪訝そうなクリッターの坊主頭をがしっと掴み、ヴァサゴは喚いた。
「おいトンボ野郎!! てめーの作戦、もうK組織の奴らもやってんぞ!! 人界軍に、日本人のVRMMOプレイヤーが混じってたんだよ!!」
「なにぃー?」
胡散臭そうな顔のクリッターには構わず、ヴァサゴは獰猛な笑みを口の端に上せた。
「“閃光”アスナが居るってことは……もしかしたら、ヤツも中に居るんじゃねえのかよ。うおっ……マジかよ、こうしちゃいらんねえ……。おい、俺ももう一度ダイブするぞ! 二万の援軍と同時に、俺もその青集団の座標に降ろせ!!」
「ダイブ、つったって、もうテメーが無駄にした皇帝副官アカウントは残ってねーぞ。雑兵アカでいいんなら幾らでもあるけどよ」
「あるぜ……アカならよ。とっておきのヤツがよ」
クック、と喉の奥で笑い、ヴァサゴはコンソール上からエナジーバーの包み紙を拾い上げると、クリッターの胸ポケットから抜き取ったペンを手早く走らせた。
「いいか、そのIDでザ・シード・ネクサスのポータルサーバーにログインしたら、キャラをアンダーワールドにコンバートしろ。それを使ってダイブする」
そういい残し、ヴァサゴはSTL室に続くドアへと数歩走りかけた。
しかし、そこでぴたりと脚が止まった。
怪訝な顔で見守るクリッターを、ゆっくりと振り向いたその顔には――豪胆な電子犯罪者さえぞっとするような、凶悪な笑みが色濃く浮かんでいた。
ヴァサゴは、分厚いブーツに何の音もさせずに引き返し、クリッターの耳に短く囁きかけた。数秒後、今度こそがしゃりと開閉したドアを呆然と見やるハッカーの手には、小さな紙片だけが残された。
紙には、“ID:”に続いて、三文字のアルファベットと八桁の数字が記されていた。
“SAO12418871”。
補給隊の馬車に駆け込んだアスナが見たのは、横倒しになった銀色の車椅子と、左手を弱々しく動かす黒衣の青年、そして覆いかぶさる二人の少女たちだった。
さっ、と顔を上げたロニエが、涙に濡れる頬を歪めて言った。
「あ……アスナ様! キリト先輩が……何度も、何度も外に出ようとして……」
アスナは唇を噛みながら頷き、キリトの前に跪くと骨ばった左手を右手でぎゅっと握った。
「ええ……。アリスさんが……敵の皇帝に拉致されたのです」
「えっ……アリス様が!?」
叫んだのはティーゼだった。白い頬が、いっそう青ざめる。
一瞬の沈黙を破ったのは、キリトの細いしわがれ声だった。
「あ……ぁ……」
左手が弱々しく動き、アスナの左腕を撫でようとする。
「キリトくん……わたしを、心配してくれたの……?」
思わずそう呟いたとき、アスナの負傷に気付いたロニエが、悲鳴に似た声を発した。
「あ、アスナ様! 腕が……!!」
「大丈夫。この傷は……わたしにとっては仮初めのものですから……」
呟き、アスナは切断されたままの左腕をそっと持ち上げた。
比嘉タケルに、アンダーワールドの上位レイヤーを形作る“ニーモニック・ビジュアル”についてはざっと説明を受けている。下位サーバーで生成されるポリゴンや、与えられた数値的ステータスとは別に、イマジネーションによって具現化するもうひとつの現実。
スーパーアカウント・ステイシアに付与されたヒットポイント――天命は膨大なものだ。設定可能な上限の数字を与えられている。だから、通常武器による攻撃ならば、百、いや千の剣に貫かれても天命がゼロにはなるまい。
しかし、この傷を受けたとき、アスナは振り下ろされる巨大なバトルアックスに恐怖した。イマジネーションが弱化したのだ。ゆえにこれほどの重傷を、自ら作り出してしまった。
キリトの右腕も同じことだ。数値としての天命は全快しているのに、腕は復元されない。それは、キリトが自分を許せないでいるせいなのだ……。
アスナは自分の右手を、左腕の切断面にかざした。
意識を集中し、自分に強く言い聞かせる。
もう、わたしは二度と怯えたりしない。キリトくんに心配させたり、絶対にしないんだ。
ぽっ、と左腕に光が宿った。白く暖かい輝きは、次第に前腕を、五指をかたちづくり、喪われた左手を復元していく。
奇跡を見るように眼を丸くする二人の少女たちに微笑みかけ、アスナは元通りになった左手でそっとキリトの頭を抱いた。
「ね、わたしは大丈夫。アリスさんだって、きっと救い出してみせる。だから……その時は、キリトくんももう、自分を責めるのはやめて……」
言葉が届いたかどうかは分からなかった。しかしアスナは、一瞬強くキリトを抱きしめ、身体を起こした。
「わたしたちは、これから全軍で敵皇帝の後を追います。いま、ベルクーリさんが飛竜で追跡してくださってますから、わたしたちもきっとどこかで追いつけるはずです。それまで、キリトくんをお願いね、ロニエさん、ティーゼさん」
「は……はいっ!」
「お任せください、アスナ様!」
頷く少女たちにもう一度にこりと笑みを向け、アスナは涙をこらえながら馬車から飛び降りた。
整合騎士レンリの指示は的確で、部隊が移動準備を整えるのに五分と掛からなかった。負傷者の治療も術師隊の手によってすぐに終わり、補給隊を中央に隊列が組まれる。
準備完了を報告するレンリに、アスナは言った。
「いま、残っている整合騎士はあなただけです、レンリさん。出発の指示は、指揮官であるあなたが」
緊張した面持ちで、しかし力強く頷いた少年騎士は、右手を高く掲げ、叫んだ。
「全隊……進行開始!!」
隊列の先頭を、レンリの飛竜・風縫がどっどっと走りはじめる。続いて、衛士四百をふたりずつ乗せた二百頭の騎馬。物資と補給隊、術師隊を乗せた十台の馬車。さらに、衛士三百が分乗する、百五十の馬が続く。
ただ一頭、整合騎士シェータの竜だけがどうしてもその場を動こうとしなかった。
主の髪に似た灰色の鱗を持つ飛竜は、去りゆく仲間に向けてクルルルルッと一声高く啼き、自らは北へ――主の残った死地へと飛び去っていった。
残る敵は、皇帝ベクタただ一人。
その正体は、同じく仮の命を持つ現実世界人だ。ならば、刺し違えてでもかならずわたしが倒してみせる。騎士シェータと、赤い眼の若者、そして四千の拳闘士たちのためにも。
アスナは、強い決意を抱きながら、部隊の中ほどをゆく馬車に追いつくとその天蓋にひらりと飛び乗った。
数分後、黒い木々の連なる森が途切れ、前方にすり鉢状の巨大な盆地が姿を現した。まるでクレーターのようなそのくぼ地を貫き、細い道が南へとまっすぐ伸びている。
道が設定してあるということは、その先に何か建造物があるということだ。そして、ダークテリトリーの南部は何ものも住まない荒野だと比嘉に説明されている。つまり――この道の終わるところに“ワールド・エンド・オールター”があり、そしてその途上のどこかに皇帝ベクタと整合騎士アリスがいる。
皇帝の飛竜はもちろん、それを追うベルクーリの竜もすでに見えない。しかし、人界軍八百は、地響きを立てながら可能な限りの速度で道を突き進んでいく。
クレーターの縁を越え、下り坂を駆け降り――すり鉢の底に部隊が差し掛かった。
何かが、震えた。
ぶうぅぅ……ん、という、虫の羽音のような震動音。
「……?」
アスナはちらりと視線を上げた。正面から、右へ、そして左へ。
真後ろを向いたとき、ようやく、音の発生源を眼で捉えた。
黒く、細い、線。
ランダムに途切れ、明滅するラインが、赤い空から一直線に地面に降りてくる。
「…………うそ……」
唇が震え、声がこぼれた。
嘘よ。やめて。
しかし。
ザアアアアッ!!
という、驟雨にも似た轟音が一気に炸裂した。ラインは、左右へと広がりながら、無数に降り注ぐ。クレーターの縁に沿って、何千、万を超える勢いで南へ進み、部隊の進行方向をぴたりと閉ざす。
もう怯えない、と誓ったばかりなのに、アスナの両脚からすうっと力が抜けた。
ラインの溜まった地点に出現したのは、あのおぞましい漆黒の鎧姿だった。
「ぜ……全隊、止まるな!! 突撃!! 突撃――!!」
先頭で、整合騎士レンリが的確な指示を発した。動揺しかけた人界軍の、そこかしこから馬のいななきが響き渡る。
ドッ、と重い音とともに、部隊の速度が増した。クレーターの斜面を、今度はまっすぐに駆け上がっていく。
しかし、まるでその動きを読んでいたかのように、出現した新手の歩兵群は南に多く配置されていた。槍衾の分厚さは、ささやかな小川に叩き込まれた土嚢の山のようだった。
どうする、“地形操作”を使うか――。しかし、下手に手を出せば、部隊の進軍をも妨げてしまう。
アスナの一瞬の躊躇いを、飛竜の雄叫びが貫いた。
見れば、隊列の先頭で、騎士レンリの乗った竜がその口から炎をちらつかせながら一気に突進していく。
「いけない……あの子、捨て身で……!」
口走ったアスナの声が聞こえたかのように、竜の背中でレンリがちらりと振り向いた。
あとは、頼みます。
少年の唇が、そう動いた。
前を向いた騎士は、両腰から二枚のブーメランを取り出し、大きく構えた。
それが投擲される――寸前。
空の色が、変わった。
血の赤に染まるダークテリトリーの空が、四方八方に引き裂かれ、その奥に紺碧の青空が広がるのをアスナは見た。
クレーターの縁に密集し、今にも突進しようとしていた無数の黒歩兵も、突進を続ける人界兵たちも、先頭を走る騎士レンリすらも、一様に天を振り仰いだ。
無限の蒼穹。
その彼方から――白く輝く太陽が降りてくる。
いや、人だ。空と同じ濃紺の鎧と、雲のように白いスカート。激しく揺れる短い髪は水色。白く輝くのは、左手に握られた巨大な弓だ。顔は、逆光になってよく見えない。
誰――あなたは、誰なの?
アスナの、無音の問いに答えるかのように、空に浮く少女はゆっくりと弓を天に向けて掲げた。
右手が、これも強く発光する細い弦を引き絞る。
一際鋭い閃光。弓と弦に大して垂直に、天地を貫くかのような巨大な光の矢が出現した。
人界軍も、黒い歩兵たちも、一人のこらず言葉を忘れた静寂の中。
ほんの微かな音とともに、巨大な光線が真上に向かって撃ち出された。
それは、ぱっ、と瞬時に全方位へ分裂し――。
百八十度向きを変え、無限数のレーザーと化して地上へと降り注いだ。
スーパーアカウント〇二、“ソルス”。
付与された能力は、“無制限殲滅”である。
朝田詩乃/シノンは、自らのもたらした巨大な破壊を見下ろしながら、比嘉という名の技術者によるレクチャーを耳裏に蘇らせていた。
『スーパーアカウントは、確かに強力だけど決して万能じゃない。どうしてもアンダーワールドにダイブしたうえで大規模なオペレーションを実行しなくてはならなくなった場合に、内部の住民たちにギリギリ受け入れられるであろう形でそれを行うために用意されたものなんス』
『えーと……つまりGM《ゲームマスター》じゃなくて、ものすごく強いPC《プレイヤーキャラ》でしかない、ってこと?』
初期のNERDLES実験機のように巨大なSTLマシンに横たわったシノンは、眉をしかめながらヘッドセットにそう問いかけた。流れてきたのは、パチン、という恐らく指を鳴らす音だった。
『イエス、まさに然りッスよ。ゆえに、君に使ってもらう“ソルス”アカウントも、アンダーワールドのリソース原則からは逃れられない。アスナさんの使っている“ステイシア”は、オブジェクトに設定されたリソースを利用してその形を変えるわけですが、ソルスの熱線攻撃にはどうしても空間リソースの吸収・リチャージが必要なんス。自動リチャージ能力は上限設定ですから、日中であれば枯渇は有り得ないはずッスが、連射は不可能と考えてください』
たしかに、左手の白い長弓は、広範囲射撃の直後からその輝きを薄れさせていた。両端からふたたび光が戻りつつあるが、再度の全力攻撃が可能となるまでは十分はかかるだろう。
連射不可。ふん、上等じゃない。
オートマチックよりボルトアクションのほうがしっくり来るってもんだわ。
胸中で嘯き、シノンは爆炎の収まった地上を確認した。
差し渡し一キロはありそうなクレーターの縁には、黒焦げになり煙を上げる死体がぐるりと折り重なっている。いちどの射撃で、おそらく六、七千の敵兵を屠っただろう。あれが、本物のアンダーワールド人ではなく、シノンと同じように現実からログインしているアメリカ人だというのは正直さいわいなことだ。ベータテストと信じ込まされ、接続した瞬間に焼き殺されたプレイヤーたちは、今頃向こう側で怒り心頭だろうが。
クレーターの中央では、黒い軍勢に比べるとあまりにもささやかな騎馬部隊が、再度の前進をはじめている。敵はまだたっぷり一万以上も残っているが、そのうち半数近くはふたたびの射撃、というより爆撃を恐れて上を見たまま動かないので、なんとか囲みは突破できそうだ。
シノンはいっそう眼を凝らし、人界部隊の戦列を確認した。
すぐに、一台の馬車の天蓋に立ち、まっすぐ自分を見上げている栗色の髪の少女に気付く。
思わず笑みをこぼれさせ、シノンはソルスアカウントに付与されたもう一つの能力・“連続飛行”を制御しながら、斜め下方へと一直線に舞い降りた。
群青色のブーツのつま先が、カンバス地の幌を捉えると同時に、軽く片手を挙げる。
「や、お待たせ、アスナ」
にこ、と微笑むと、眼前の少女のはしばみ色の瞳に、珠のような涙が盛り上がった。
「……詩乃のん……!!」
絞りだすような叫びとともに飛びついてきたアスナに、思い切り抱きしめられる。シノンは身体を震わせる親友の背中をそっと叩き、もういちど囁いた。
「がんばったね。もう大丈夫……あとは私に任せといて」
自分よりほんの少し背の高いアスナを腕のなかに抱いたまま、一割ほどリチャージされた左手の弓をまっすぐ前方に向け、右手で軽く弦を引く。
ソルスの弓は、弦を引き絞る強さでその威力を、弓の縦横の向きで攻撃範囲を設定する。十センチほど引いた弦の中に、細く眩い光矢が出現した。シノンはその先端を、部隊の先頭を走る大きな竜の行く手をさえぎる敵集団に照準した。
ビシュッ、とささやかな発射音。
僅かに傾けていた弓から放たれた光線は、直径十メートルほどの範囲に着弾し、スティンガーミサイル顔負けの爆発を引き起こした。黒い鎧兜が塊で吹っ飛び、ぽかりと開いた間隙に、すかさず竜が突入した。踏みとどまっていた歩兵も、巨大な鉤爪に引っ掛けられ、ひとたまりもなく宙を舞う。
ここに来て、ようやく敵兵たちも、倒すべき獲物あるいは稼ぐべきポイントが逃げていくことに気付いたようだった。一万数千のスラングが全方位から炸裂し、クレーターの斜面を黒い津波のように歩兵たちが駆け下りてくる。
シノンは、弓を腕にひっかけてアスナの両肩に手を置き、そっと体を引き起こした。
「アスナ。ここからしばらく南にいったとこに、遺跡みたいな廃墟が見えたわ。道はその真ん中を貫通してて、左右はでっかい石像がいっぱい並んでるの。あそこでなら、敵に包囲されることなく戦線を限定できると思う。なんとかそこで、この敵を撃退しよう」
流石にアスナも歴戦の剣士だけあって、シノンの言葉を聞くと即座に眼に勁い光が戻った。ぐい、と涙を拭ってから口を開く。
「わかったわ、詩乃のん……シノン。いくらアメリカ人VRMMOプレイヤーが多くても、これ以上の数はすぐには用意できないはず。あの一万何千かを撃退すれば、敵に打てる手はもう無いわ」
「ま、私にまかせといてよ。……で、それはそうと……」
人界軍の隊列の最後尾が、どうにか敵の包囲を抜けたことを確認してから、シノンは改めてちらりとアスナを見た。
「……その、キリトは……この部隊にいるの?」
これには、アスナも微かな苦笑を漏らした。
「今更そんな、遠慮っぽい聞き方しなくてもいいわよ。キリトくんは、ココ」
持ち上がった右手の人差し指が、ちょいちょいと足元を指す。
「わ、そうなの。じゃあ……ちょっと、挨拶してくるね」
ごほん、と咳払いしてから、シノンは大型馬車を覆う幌の後ろ端に右手を引っ掛け、すとんと内部に身体を降ろした。
続いてアスナも降りてくるまで待って、積んである木箱の奥へと向かう。
まず眼に入ったのは、灰色の制服に身を包んだ二人の異国の少女たちだった。同時に眼をまん丸にし、片方が小さな声を漏らす。
「そ……ソルス様……?」
「こんにちは、はじめまして。ソルスっぽいけど、中身は違うの。私の名前はシノン」
可能なかぎりの笑顔を向けると、二人はいっそうの驚き顔を作ったが、すぐに背後のアスナを見て何か得心したようだった。
「そ、アスナと同じリアルワールド人よ。そして、キリトの……友達」
「そう……なんですか」
赤い髪の少女がほうっと息をつき、黒い髪の子は、口のなかで小さく、女のひとばっかり、と呟いた。
まだまだこんなもんじゃないわよ、と内心で苦笑しながら、シノンは左右に分かれた少女たちの間を数歩進んだ。
キリトの状態は、比嘉タケルから聞かされてはいた。しかしこうして、実際に傷ついた姿を見ると、胸がいっぱいになって思わず涙が滲んだ。
「ぁ…………」
しわがれた声を漏らす、かつての敵にして戦友、そして命の恩人の前に、シノンはそっと膝をついた。
車椅子に沈むその姿に、かつての力強さはわずかにも残されていなかった。シノンは弓を肩にひっかけたまま、両手を差し伸べ、痩せ細ったからだをきつく抱いた。
キリトの魂は、その中心の大切な部分――“自己”が損なわれてしまったのだという。
回復の手段は、いまのところ見つかっていない、と比嘉は沈んだ声で言った。
しかしシノンは、ぎゅっと眼をつぶって涙の粒をこぼしながら、そんなの簡単なことじゃない! と胸中で叫んだ。
キリトの記憶、キリトのイメージ、そしてキリトへの気持ち――愛ならば、沢山の人が山ほど持っている。それらを少しずつ集めて、キリトの心に戻してあげればいいんだ。ほら、感じるでしょう……私のなかの君を。皮肉屋で、そのくせ隠れ熱血で、そして誰よりも強い、同い年の男の子を。
シノンは顔の向きを変え、キリトの頬にしっかりと唇を触れさせた。
この時――。
朝田詩乃は、自分の強い感傷が、桐ヶ谷和人の唯一の治療方法に紙一重のところまで肉薄していることを知らなかった。
もし彼女に、アンダーワールドとフラクトライトの構造について充分な知識があれば、解答にたどり着くことは可能だったかもしれない。しかし、詩乃がダイブ直前に受けたレクチャーは、現在の状況とソルスアカウントの使用方法にとどまっていたのだ。
ゆえに詩乃は、唇を触れさせたときになぜ和人が一瞬その身体を震わせ、体温がかすかに上昇したように感じたのか、その理由に思いを致すことはなかった。
すぐにキリトから身体を離したシノンは、立ち上がり、背後の三人を見た。
「だいじょうぶ、キリトはきっとすぐに元通りになるよ。みんなが、本当にこの人を必要とした時にね」
アスナと二人の少女たちは、涙ぐんだままこくりと頷いた。
「じゃあ……私、一足さきに南の遺跡に飛んでいって、地形の確認をしてくる。貴方たち、キリトのこと、よろしくね」
そう声をかけ、馬車の後ろに向かいかけたシノンの肩を――。
突然アスナが、がしっと強く掴んだ。
その瞳にとてつもなく切迫した光が浮かんでいるのを見て、シノンは息を飲んだ。
「あ……アスナ、どう……」
「シノン、今飛ぶって言った!? あなた、飛べるの!?」
急き込むような問いに、戸惑いながら頷く。
「え……ええ。ソルスアカウントの能力なんだって。制限時間とかもないって聞いたけど……」
「なら、助けてほしいのはわたし達じゃないわ! アリスを……皇帝に攫われたアリスさんを追いかけて!!」
続けてアスナが説明した状況は、シノンの心胆を寒からしむるに充分なものだった。
すべての鍵となる整合騎士アリスが、現実側の敵である皇帝ベクタに拉致され、はるか南を飛行中であること。いまそれを追っているのは、騎士長とよばれる剣士ただ一人であること。
「スーパーアカウント相手に、いかに騎士長さんと言えども荷が重いわ。もし皇帝が果ての祭壇に到着する前にアリスさんを救出できなければ、この世界は丸ごと破壊されてしまうの。シノン、ベルクーリさんを助けて!」
どうにか事情を飲み込み、騎士長ベルクーリの外見を頭に叩き込んだシノンは、馬車から離陸すると一気に高度を取った。
土煙を立てて南下する人界軍八百。
北から怒涛の勢いで追いすがる一万以上の黒い軍勢に比べれば、まるで津波に飲まれる直前のボートの群れのようだ。
アリスを取り戻したら、すぐ駆けつけるから――それまでがんばって、アスナ。
内心でそう呼びかけて、シノンはくるりと南を向き、一気に加速した。白い尾を引く流星となり、赤い空をまっすぐに切り裂く。
前方、無限に広がる世界を俯瞰しながら、シノンはふと考えた。
そういえば――。
同時にログインしたはずのリーファは、どこに行ってしまったんだろう?
レンリ率いる人界軍、追いすがる一万三千のアメリカ人プレイヤー。
その遥か北では、アスナが作った峡谷の際で、イシュカーンとシェータ及び拳闘士団が、いまだ二万近く残るアメリカ人たちを相手に絶望的な戦いを続けている。
そして、さらに数万メル北方。
もはや古戦場の趣きすらある、東の大門を望む荒野に、一つのずんぐりした姿がたたずんでいた。
丸い巨躯を包む、鈍色の鎧。風になびく革マント。丸い頭の両脇に薄い耳が垂れ、大きな鼻がまっすぐ突き出ている。
オーク族の長、リルピリンである。
残るわずかな部族兵を後方に待機させ、単独で東の大門にほど近い地点までやってきたのだ。一人の護衛すらもつけなかったのは、地面を這い回る自分の姿を見せたくなかったからだ。
何時間も苦労して、リルピリンはようやく求めるものを見つけ出した。華麗な彫刻を施した、銀のイヤリング。
そっと拾い上げ、掌に載せたそれは、皇帝の命により人身御供となったオーク族の姫将軍の耳にいつも輝いていたものだった。
遺品は、それだけだった。荒野には、姫とともに死んだ三千のオークの遺骸どころか、骨の欠片すらも残っていなかった。暗黒術師たちのおぞましい邪術が、オークたちの身体をあまさず喰らい尽くしてしまったのだ。
その残酷を行ったあの憎むべき女術師も、それを許した皇帝も、もうこの地には居ない。
暗黒術師ギルド総長ディーは、“光の巫女”の反撃により死に、皇帝は巫女を追って飛び去ってしまった。リルピリンへの待機命令を解除することもなく。
のこる数千の部族兵だけでは、とても東の大門を守る人界兵と整合騎士に勝つことはできない。暗黒界五族の悲願である、人界征服の夢は潰えたのだ。
だとすれば。
いったい――なんのために。
なぜ、リルピリンと共に育った姫将軍と、生贄にされた三千、そしてそれ以前に大門での戦いに出陣した二千のオークは死なねばならなかったのか。その死がなにをもたらしたというのか。
無。一切、何ひとつ。
ただ、人より醜いという理由だけで、五千もの一族が空しく死んだ。
リルピリンは、握り締めたイヤリングを胸に抱き、がくりと地に膝を突いた。怒り、やるせなさ、そして圧倒的な哀しみが胸に突き上げ――それが涙と嗚咽に変わろうとした――
その直前。
背後で、どすっと軽い音がした。
慌てて振り向いたオークの長が見たのは、地面に尻餅をつき顔をしかめた、深緑の髪と白い肌、そして若草色の装束に身を包む若い人間の女だった。
その唐突すぎる出現に対する驚きよりも、人間族への怒りや殺意よりも、リルピリンが真っ先に感じたのは、自分を見ないでくれ、という羞恥にも似た感情だった。
なぜなら、眼前の娘は、あまりにも美しすぎたのだ。
絞ったばかりのミルクの色の肌からして、初めて間近に見る白イウム――人界人であるのは明らかだ。
背が高く骨太で、たっぷりと張った肉と、銅色の肌を持つ暗黒界人の女とはまるで違う。手足は触れただけで折れてしまいそうなほど華奢で、髪は風もないのにさらさらと揺れ、きょとんとした風情でまっすぐ見上げてくる大きな瞳は、磨き抜かれた翠玉のようだ。
リルピリンは、この小さくひ弱な種族を、震えるほどに美しいと思ってしまう自分の感覚を呪った。
同時に、娘の緑色の瞳に、嫌悪の色が満ちるのを恐れた。
「み……見るなッ!! おでを見るなあッ!!」
喚きながら左手で自分の顔を覆い、右手で大刀の柄を握る。
悲鳴を聞かされるまえに、首を刎ねてしまえ。
そう思って、抜き打ちの動作に入りかけたリルピリンは、耳に届いた声――言葉にびくりと凍りついた。
「あの……こんにちは。それともおはよう、かな」
身軽な動作で立ち上がり、裾の広がった短い足通しをぱたぱた叩きながら、娘はにっこりと笑った。
顔を覆う指のあいだから、唖然と小さな人間を見下ろし、リルピリンは瞬きを繰り返した。
娘の瞳には、いっさいの嫌悪も、侮蔑も、それどころか恐怖すらも浮かんでいない。白イウムの子供にとっては、オークは人食いの悪鬼そのものであるはずなのに。
「な……なぜ」
自分の口から漏れ出た言葉は、一万の軍団を率いる暗黒界十侯の一人にはまるで似つかわしくない、途方にくれたような響きを帯びていた。
「なぜ逃げない。なぜ悲鳴を上げない。人間のくぜに、なぜ」
すると、今度は娘が驚いたような、困ったような表情を作った。
「なぜ、って……だって」
そして、まるで大地は平らで、空は赤い、と言うかの如き何気なさで続けた。
「あなたも人間でしょう?」
その瞬間、背筋に走った震えの理由が、リルピリンには分からなかった。大刀の柄を強く握り締めたまま、喘ぐように亜人の長は言った。
「に……にんげん? おでが? 何を馬鹿な、見ればわがるだろうが! おではオークだ! おまえらイウムが人豚と罵るオークだッ!!」
「でも、人間だよね」
華奢な両腰に手をあて、娘はまるで親が子に言い含めるような調子で繰り返した。
「だって、こうして話が出来てるじゃない。それ以外に何が必要なの」
「なに……って…………」
最早、どう反駁していいのかすらリルピリンには分からなかった。緑色の髪の少女が自信たっぷりに提示した価値観は、これまで人間族に対する劣等感と怨嗟のみを燃やして生きてきたオークの長にはあまりにも異質すぎた。
話が出来れば人間?
“人間”の定義とはそんなものなのか? 言葉なら、ゴブリンだって、オーガだって、ジャイアントだって操る。しかし、それにオークを含めた四種族は、ダークテリトリーの開闢以来“亜人”と呼ばれ、人間とは頑として区別されてきたのだ。
荒い鼻息だけを漏らして立ち尽くすリルピリンの衝撃と混乱を、少女は「そんなことよりも」とひと言で押しのけ、くるりと周囲を見回した。
「……ここは、どこなの?」
桐ヶ谷直葉/リーファ/スーパーアカウント〇三“テラリア”は、どうやらログイン座標が大きくズレてしまったらしいと推測し、短くため息をついた。
使用したSTLマシンが、ロールアウトしたばかりの、まだビニールカバーも取れていない新品だと聞いたときから嫌な予感はしていた。直葉は新品の竹刀は決して試合では使わないし、同様に電子機器も信用していない。どういうわけか昔から、電子デバイスの初期不良引き当て率は異常高値を維持しているのだ。
ログインは、並んでマシンに入ったシノンと同様、先にダイブしているアスナの座標で行われたはずなので、周囲にひと気がないのはやはり事故が起きたのだろう。いや、正確にはひとりだけ、目の前にお相撲さんのような巨体を持つ誰かが立っている。
ダイブ直後のみ有効となるカラーマーカーによれば、このオークのアバターを持つ人は、目下の敵であるアメリカ人プレイヤーではない。アンダーワールドに暮らす“人工フラクトライト”、つまりAIユイの説明によるところの真正人工知能だ。
その成り立ちを説明されたときから、リーファは、どうしても、何がなんでもそれが必要という状況にならない限り、彼ら相手に剣は抜くまいと決めていた。当然のことだ――兄キリトが守ろうとした“人間たち”を、殺すなんて出来るわけがない。人工フラクトライトは、この世界で死ぬと、その魂は現実世界でも完全に消滅してしまうのだから。
それにしても――。
眼前のオークアバターの精密度は、数多あるザ・シード規格VRMMO中最高峰のグラフィックを誇るALOに馴れたリーファの目にも驚異的だった。ピンク色の大きな鼻と耳の動き、逞しい巨体をよろうアーマーとマントの質感、そして何より、小さな黒い両眼の表情の豊かさは、その奥に宿る魂が紛れもなく本物だということを如実に示している。
なぜか気後れしたように顔を背けるオークに、とりあえずここがどこなのか尋ねてみたが、答えはすぐには返ってこなかった。ならばもっと手前から始めよう、と思い、リーファは別の質問を発した。
「えーと……あなたのお名前は?」
混乱の極みに突き落とされたオークの長は、娘が二度目に発した質問には、思わず反射的に答えていた。名前だけは、自分に与えられたすべてのもののなかで、唯一気に入っていたからかもしれない。
「お……おでは、リルピリン」
口にしてから、すぐに後悔する。昔、はじめて帝城にのぼったとき、リルピリンの名を聞いたイウム貴族の若者たちが大笑いしたことを思い出したのだ。
しかし娘は、またしてもにっこり笑いかけてきた。
「リルピリン。可愛い、良い名前ね。私はリーファ。はじめまして、よろしく」
そして、何度目かの驚愕すべき挙に出た。
しなやかな白い右手を、まっすぐ差し出してきたのだ。
握手――という習慣は無論知っている。オーク同士でも日常的に行われる。しかし、これまでイウムとオークが握手した話など聞いたことがない!
いったい何なのだ、この人間は。何かの罠か、それとも術師の手妻なのか。いつのまにか幻惑術にでも掛けられてしまったのか。
娘の右手を凝視し、唸るしかできないリルピリンを娘はたっぷり十秒近くも見つめていたが、やがて少しだけがっかりしたように手を下ろした。その様子に、なぜか胸の奥がちくりと痛む。
これ以上娘と会話をしていたら、いや見ているだけでも、頭がどうにかなってしまいそうだった。リルピリンは、もう眼下の小さな人間を叩き斬る気にはなれなかったが、それ以外のもっとも頭を使わずにすむ解決法にすがるべく、口を開いた。
「お前……人界軍の士官だな。お前を捕虜にする。皇帝のところに連れでいぐ!」
年齢はともかく、娘の装備する若草色の鎧や、背負われた長い曲刀は、どう見ても一介の兵士に与えられるものではない。精緻な意匠や素材の輝きは、あるいはリルピリンの装備より上質とも思える。
大将軍たるリルピリンの大声にも、娘はまるで怯える様子も見せなずに何かを考えているようだったが、やがて小さく肩をすくめると訊いてきた。
「皇帝、ってのは暗黒神ベクタのことよね?」
「そ……そうだ」
「わかった。なら、いいわ。連れていって頂戴」
頷き、両手をそろえてずいっと前に突き出す。それが、握手ではなく虜縛を促す動作であることはすぐに分かった。
ほんとうに、一体何を考えているのか。
リルピリンは、ベルトから飾り帯を一本外し、少女の手首を手荒に――しかし少しだけ緩めに縛った。その端を握り、ぐいっと引っ張ってから、ようやく皇帝がもう本陣には居ないことを思い出す。
しかし、これ以上難しいことを考えると、頭の芯が焼き切れてしまいそうだった。皇帝がいなくとも、あの嫌な目つきの副官か、商人の長レンギルあたりが処置を決めてくれるだろう。
ぐるっと身を翻し、やや控えめに帯を引っ張りながら歩きはじめた、ほんの数秒後。
突如、周囲に、黒い靄のようなものが色濃く立ちこめはじめた。嫌なにおいがつんと鼻をつく。たちまち視界が失われ、リルピリンは油断なく周囲を見回した。
「あっ……!?」
短い驚きの声、あるいは悲鳴は、まちがいなくリーファという名の娘のものだった。
さっと振り向いたリルピリンが見たのは、濃密な黒霧のむこうからぬっと突き出た一本の腕が、娘の髪を掴んで引っ張り上げているさまだった。
直後、腕の持ち主が霧を割って姿を現した。
死んだはずのあの女――暗黒術師総長ディー・アイ・エルが、狂気じみた笑みを紅い唇に浮かべ、立っていた。
なぜ、追いつかない。
整合騎士長ベルクーリは、怒りと焦燥のなかにも深い驚きを感じていた。
追跡行はもう二時間以上も続いている。
人界守備軍が野営していた森を、その南に広がっていた円形の窪地を飛び越え、奇怪な巨像が林立する遺跡を通過して、かつてないほど深くダークテリトリーの奥地に分け入りながら、しかし距離は一切縮まる様子がない。愛弟子である整合騎士アリスを拉致した皇帝ベクタの飛竜は、相変わらず遥か地平線に浮かぶ極小の黒点のままだ。
皇帝は、一頭だけの飛竜に、自身とアリスの二人を乗せて飛んでいる。
対するベルクーリは、星咬、雨縁、そして滝刳の三頭に順に飛び移り、竜たちの疲労を可能なかぎり抑えている。理屈では、そろそろ追いついていてもおかしくないはずだ。
一体なぜ追いつけないのか。皇帝は、飛竜の天命をも自在に操るというのか。そんなはずはない。天命及び空間力の循環は、最高司祭アドミニストレータすら操れなかった、世界の最大原則ではないか。
もちろん、まさか無限に飛べるというわけではないだろう。この先、“世界の果ての断崖”までは、飛竜の翼でも二、三日は確実に要する距離があるはずだ。しかし、ベルクーリを乗せる竜たちもいずれは降下、休息しなくてはならない。速度が同じなら、永遠に距離は縮まらない。
やむを――得ないか。
はるか地平線まで届く射程の術式など、ベルクーリにも到底操れない。今この状況を打破できる可能性があるとすれば、それは唯一……。
騎士長は、右手でそっと腰の愛剣に触れた。
ひんやりと硬い、頼もしい手ざわり。しかし、その天命がまだ完全回復にはほど遠いのは、感触で分かる。東の大門で使用した大規模な記憶解放攻撃による消耗が、予想以上に大きかったのだ。
これから使う術は、神器・時穿剣の最終奥義ゆえに、莫大な天命を消費する。
撃てて一度。その一撃を、針の穴を通す以上の精密さで命中させねばならない。
ベルクーリは、騎乗していた滝刳の首筋をそっと撫でると、ひょい、と隣の星咬の背に飛び移った。
長年共に戦った相棒に、手綱を持つこともなく意思を伝え、高度を慎重に調整する。
照準するのは、遥か地平線を往く砂粒のような黒点。
皇帝本人を狙いたいのはやまやまだが、姿も視認できないこの距離では外す危険が大きすぎる。どうにかその動きが滲むように見て取れる、飛竜の片翼に全精神力を集める。
鞍の上に仁王立ちになったベルクーリの右手が、ゆるり、と動いた。鞘から、全体が同一の鋼より削り出された長剣を滑らかに抜き出す。
体の右に構えられた、傷だらけの刀身が、不意に揺れた。朧のごとくかすんだ刃が、飛竜の前進につれて、幾つもの残影を後ろに引く。
唇が、罪のない飛竜への詫びを短く呟く。
直後、薄青い色の瞳をすうっと細め――最古の騎士ベルクーリは、裂帛の気合を込めて叫んだ。
「時穿剣――裏斬《ウラギリ》!!」
ずうっ、と重く、しかし凄まじい速度で刃が振り下ろされた。青い残影がいくつも斬撃の軌道に沿って輝き、順に消えた。
遥か数十万メルかなたで、黒い飛竜の左の翼が、付け根から吹き飛ぶのが確かに見えた。
「匂う……におうわ、なんて甘い……天命の香り……」
人族の娘の髪を掴み、体ごと吊り上げたディー・アイ・エルの唇から、ひび割れた声が漏れ出でた。
どれほど憎んでも憎み足りないはずの暗黒術師の姿を、しかしリルピリンはただ呆然と眺めた。
艶やかに輝いていた肌も、豪奢だった黒い巻き毛も、酷い有様だった。全身に、鋭利な刃物に斬られたような傷が縦横無尽に走り、じゅくじゅくと血を滲ませている。ディーが身動きするたびに、それらの傷が幾つかぱっくりと口を開き、鮮血がほとばしるが、術師の身にまとわりつく黒い煙がたちまち傷口に集まり、しゅうっと嫌な匂いを放って止血していく。
煙の源は、ディーの腰にぶら下がる小さな皮袋だった。見ると、袋の口からは時折、奇怪な虫めいた代物が顔を出し盛んに黒い霧を吐き出しているようだ。おそらく、天命の減少を抑えるためのおぞましい邪術に違いない。
嫌悪感のあまり鼻を拉げさせるリルピリンをちろりと見て、ディーは再び唇の両端を吊り上げた。
「素晴らしい獲物ね。誉めてやるわよ、豚。ご褒美に、いいものを見せてあげるわ」
言うや否や――。
ディーは、髪を引っ張り上げられて顔をゆがめる娘の襟首に、鉤爪のような右手の指を食い込ませた。
ばりぃっ、と容赦のない音とともに、鎧と、その下のチュニックまでもが一瞬で引き裂かれる。
眩いほどに白い上半身の肌が露わになり、娘はいっそう顔を歪めた。その様子に、ディーは嗜虐的な吐息を荒々しく吐き出し、しゅうしゅうと笑った。
「どう、人族の女の体を見るのははじめてかしら? 豚には目の毒かしらね! でも、面白いのはこれからよ…………!!」
毟り取った緑色の鎧と長刀を背後に投げ捨てたディーの右手の五指が、突然、骨をなくしたかのようにうねうねと蠢いた。
いつのまにか、それは指ではなく、ぬらぬらと光る長虫のような姿へと変じていた。先端には、同心円状に細かい鋸歯が並ぶ口がぱくりと開き、おぞましい蠕動を繰り返している。
「ほら……!!」
ディーが叫ぶと同時に、五本の指あるいは触手は、娘の上体に巻き付きずるずると這い回った。動きを封じた上で、先端が鎌首をもたげ――肌の五箇所に、突き刺さるがごとく噛み付いた。
「アァッ!!」
鮮血が飛び散り、リーファという名の娘は、瞳を見開いて悲鳴を上げた。触手を剥ぎ取ろうと手を動かすが、手首をリルピリンの飾り帯に拘束されているためにままならない。
五箇所の傷口からの出血は、一瞬で収まったかのように見えた。しかし実際はそうではなく、ディーの右手に繋がる触手が、ごくごくと音を立てて飲んでいるのだと、リルピリンは察した。
暗黒術師は、喉を反らし、甲高い声で術式を唱えた。
「システムコール!! トランスファ・デュラビリティ……ライト・トゥ・セルフ!!」
ぽっ、と青い輝きが娘の傷口から迸る。それは血液の流れと同調するように触手を伝い、ディーの腕に吸い込まれていく。娘の苦悶はいっそう激しくなり、華奢な身体が折れんばかりに仰け反る。
「はぁっ……凄いわ……凄いわぁ!! なんて濃くて……甘いの!!」
きんきん響く金切り声がリルピリンの耳を劈いた。
その痛みで、オークの長は我に返り、喘ぐように叫んだ。
「な……何をする!! こでは、おでの捕虜だ!! おでが皇帝のもとへ連れでいぐ!!」
「黙れ豚アアッ!!」
瞳孔をぐるりと裏返したディーが、狂気に満ちた声で喚いた。
「私が皇帝に作戦指揮の全権を委任されていることを忘れたかッ!! 私の意志は皇帝の意思!! 私の命令は皇帝の命令なりいいいッ!!」
ぐっ、とリルピリンは喉を詰まらせた。
その作戦なぞ、とうの昔に失敗に終わっているではないか、という反駁が喉元まで突き上げる。しかし、皇帝は何も指示せぬまま戦場から消えてしまったのだ。ならば、あらゆる命令は維持されているというディーの主張を覆す材料は何もない。
立ち尽くすリルピリンの目の前で、声無き悲鳴を上げる娘の動きが、徐々に弱々しくなっていく。それに比例して、ディーの肌に刻まれた無数の傷が、片端から癒着し、ふさがっていく。
「ぐ……グゥ……」
食い縛った牙のあいだから、押し潰された声が漏れた。
リルピリンの目にはいつしか、天命を吸われる娘の姿が、生贄となり息絶えた姫将軍の姿と重なって映っていた。
娘の瞳から、徐々に光が薄れていく。肌の色はすでに白を通り越して蒼ざめ、いつしか両腕はだらりと力なくぶら下がっている。しかし、ディーの右手の触手は、尚も飽き足らぬように蠢き、一滴のこさず血を吸い取ろうとする。
死ぬ……死んでしまう。
せっかくの捕虜が。
いや、自分を見ても恐れも蔑みもしなかった、はじめての人間が。
その時――。
不思議な現象、あるいは奇跡が発生し、リルピリンは目を見張った。
地面が。
炭殻のように黒く不毛なダークテリトリーの大地が、娘を中心に、緑色に輝いている。
オーガ族の住まう東の果てでしか見られないはずの、柔らかそうな若草が一斉に萌え出で、色とりどりの小さな花もそこかしこに咲いた。風の匂いが芳しく変わり、血の色の日差しすら穏やかな黄色へと転じた。
その、生命に満ち溢れる光景が、渦巻きながら瞬時に娘の体へと吸い込まれていく。
青白かった肌にたちまち血の色が戻り、瞳にも輝きが蘇る。
一瞬の幻視が消え去ると同時に、娘の天命が全回復したことをリルピリンは直感で悟った。理由のわからない安堵が、胸の奥に満ちた。
しかし、それは即座に打ち破られた。
「なんてこと……湧いてきた……また溢れてきたわぁぁぁ!!」
すでに、こちらも傷はほぼ全快しているはずのディーが、箍が外れたような声で喚いた。
娘の髪を掴んでいた左手を離し、そちらの指をも醜悪な触手生物へと変容させる。
どすっ、どすどすと鈍く湿った音を立て、あらたに五本の触手が娘の肌に突き刺さった。
「っ……あああっ……!!」
か細い悲鳴を、ディーの哄笑がかき消した。
「アハハハハ!! ア――ハハハハハハ!! 私のよ!! これは私のよおおおお!!」
――耐えなければ。
現実世界でもかつて感じたことのない、目のくらみそうな激痛に晒されながら、リーファはただそれだけを念じた。
スーパーアカウント“テラリア”に付与された能力はダイブ前に説明されている。
“無制限自動回復”。周囲の広範な空間から、自動的にリソースを吸収し、天命つまりヒットポイントに常に変換し続けるのだ。ただでさえ膨大な設定数値にその能力が加われば、天命損耗による死亡はほとんど有り得ないはずだ、と比嘉という技術者は言っていた。
なればこそ、リーファは、捕虜となる危険を冒しても暗黒神ベクタ――現実世界人の“敵”――と遭遇し戦いを挑もうと意図したのだし、またアンダーワールド人に対しては剣を抜くまいと決めもしたのだ。
ただでさえ、自分はこの世界で死のうと何も失わないというのに、それに加えてヒットポイントが無限では、不公平にも程がある。剣士として、そんな真似だけはどうしても出来ない。
いま、自分を苛んでいる女性も、リルピリンと同じくアンダーワールド人、つまり人工フラクトライトだ。
剣で斬れば、その魂は完全に消滅してしまうのだ。どのような事情で傷つき、どのような理由により回復を欲しているのか、知りもせずに戦うわけにはいかない。
ああ――でも。
衣服をほとんど剥ぎ取られた羞恥すら感じる余裕がないほどに、天命を吸い取られる痛みは圧倒的だ。
これは本当に、現実の肉体とは切り離された仮想の感覚なのだろうか。
「……やめろ」
それが自分の口から漏れた言葉だと、リルピリンはすぐには気付かなかった。
しかしすぐに、今度は明らかに口が動き、喉が震動した。
「やめろ!」
針穴のように瞳孔が縮んだディーの眼が、きろり、とリルピリンを舐める。腹の底に湧き上がる寒気に耐え、オークの長は更に言った。
「もう、あんだの天命は完全に回復しだではないか。これ以上そのイウムから吸い取る必要はないはずだ!」
「……なぁに、それ。命令……?」
歪んだ歌のような調子で、ディーが囁いた。
その間にも、両手の指は一層激しく蠢き、娘の肌を締め上げ血を貪り続ける。暗黒術師の肌は完全に再生して油を塗ったような照りを取り戻し、髪すらも本来以上の長さで豊かに垂れている。
それどころか、その全身から、余剰となった天命が青い光の粒となって空中に放散されていくではないか。なのに、ディーは自身より遥かに小柄な娘を背後から抱き絡め、虐げるのをやめようとしない。
「言ったでしょ、豚? この捕虜はもう私のよ。私がどれだけ天命を吸おうと、豚の目の前で辱めようと、あるいはこの場でくびり殺そうと、お前には関係ないでしょ?」
くく、くくく、と喉奥からこもった笑いが響く。
「ンー、でも、そうね。見つけたのはお前なんだし、少しくらいは譲歩すべきかしらねえ? なら……今そこで、裸になってみせなさい」
「な……何をいっでる……」
「私ね、前まえっから、お前がその大仰な鎧とマント着てるのを見ると吐き気がするのよねえ。豚のくせに、まるで人みたいじゃなぁい? そこで素っ裸になって、四つん這いでフガフガ鳴いてみせたら、もしかしたらこの娘を返してあげるかもよ?」
ずきり。
突然、視界の右半分に赤い光がちらついた。同時に、右眼奥から鉄針を差し込まれるような痛みが頭を貫く。
豚のくせに。
人みたい。
ディーの言葉に、リーファという少女の発した言葉がかさなる。
人間でしょう?
それ以外に、何が必要なの?
この娘を、ディーに殺させてはいけない。いや、殺させたくない。そのためなら……そのため、ならば。
リルピリンの震える両手が、マントの留め金にかかった。ぶちっ、と一気に引き千切る。
足元にわだかまったマントを踏みつけ、リルピリンは鎧を締める革帯に手をかけた。
不意に、微かな声が聞こえた。
「……やめて」
はっ、と顔を上げると、自分をまっすぐ見ているリーファと眼が合った。
激痛に涙ぐむその翠玉の瞳が、ゆっくり左右に振られた。
「私は……だいじょうぶ、だから。やめて、そんな、こと」
声は最後まで続かなかった。ディーが突然、娘の頬に軽く歯を立てたのだ。
「それ以上つまらないこと言ったら、可愛い顔を食い破るわよ。せっかく面白い見世物なのに。ほら、どうしたの豚。さっさと脱ぎなさいよ。それとも人間の裸に興奮しちゃったのかしら?」
きゃはははは、とけたたましい笑いが続く。
リルピリンは、鎧の留め具に掛けた手を、ぶるぶると震わせた。
右眼の痛みはもはや圧倒的だった。だが、胸中に渦巻く怒りと屈辱に比べれば、何ほどのこともなかった。
「お……おでは……おでは」
突然、両眼から溢れ、頬を伝って滴るものがあった。左側に垂れる雫は透明だったのに、右側のそれは深紅に染まっていた。
右手が、ゆっくりと留め具から離れ――左腰の大刀の柄へと伸びた。
「おでは、人間だッ!!」
叫ぶと同時に、右の眼がばしゃりと爆裂した。
半減した視界の端に、リルピリンはしっかりとディーの姿を捉え続けていた。嗜虐的な哄笑が途切れ、その口がぽかんと開いた。
ディーの無防備な足元に向け、リルピリンは全身全霊を込めた抜き打ちを放った。
しかし――片目が消滅した直後ゆえに、距離感が狂った。
剣先は、ディーの右足の脛を掠めただけで空しく流れ、リルピリンは無理な斬撃姿勢ゆえに左肩から地面に倒れこんだ。
見上げた先で、凶悪な面相へと変じたディー・アイ・エルが、唇を歪めて吐き捨てた。
「臭い豚がァ……よくもこの私に傷をッ……!」
ぶん、と娘の身体を後方に投げ捨て、両手の触手を高くかざす。それらはギィンと硬い音を放ち、一瞬で黒く輝く十本の刃へと変容した。
「切り刻んで、肉にして、竜のエサに食わしてくれる!!」
左右に大きく広げられた刃が、振り下ろされるのをリルピリンはただ待った。
とっ。
とん。
と微かな音が、立て続けに響いた。ディーの動きがぴたりと止まった。
術師の両腕が、その付け根からぽろりと零れ落ち、湿った音とともに地面に転がるのを、リルピリンは呆然と眺めた。
驚愕の表情を浮かべたのはディーもまた同様だった。左右の肩から滝のように鮮血を振り撒きながら、長身の女はゆっくりと身体の向きを変えた。
白く輝くリーファの姿が、リルピリンの視界に入った。
ほぼすべての衣服を失ったその華奢な体躯では、とても扱えそうにない長大な曲刀をまっすぐ前に振りぬいている。両手首は拘束されたままなのに、この娘が、ディーの両腕を瞬時に切断したのは明らかだ。
ディーが、乾いた声で言った。
「人間が……豚を助けて、人を斬る……?」
信じられぬ、というふうに首を左右に振り続ける暗黒術師をまっすぐ見て、リーファが答えた。
「違います。人を助けるために邪悪を斬るのです」
すうっ、と長刀が大上段に構えられた。
ひゅかっ。
とても届くとは思えない遠間から、娘が真っ向正面の斬撃を放った。
なんと――美しい。
鍛え上げられた、一切の無駄のない体。研ぎ上げられた極限の技。
再度の、しかし今度は感動の涙に滲むリルピリンの視界で、暗黒界最強の術者にして十侯最大の実力者、ディー・アイ・エルの肢体が音も無く真っ二つに裂けた。
最後の力を振り絞って片翼のみで軟着陸し、細く一声啼いて息絶えた飛竜を、ガブリエル・ミラーは無感動に見下ろした。
視線を外したときにはもう、彼の記憶と思考から竜の存在は完璧に排除されていた。表情を変えぬまま、ぐるりと周囲を見渡す。
墜落したのは、円柱様の奇岩がいくつも立ち並ぶエリアだった。どの岩山も、高さ三百フィート、直径も百フィートはありそうだ。そのうち一つの上に彼は立っている。
飛び降りるのは、さすがに無謀に過ぎる。エレメントを生成・操作するこの世界の魔術にも、まだ習熟しているとは言いがたい。足元に、意識を失ったまま横たわる整合騎士アリスを抱えて降下するとなれば尚更危険は増す。
カラビナとハーケン、ザイルがあれば、現実世界でもこの程度の垂直壁面はたやすく懸垂降下してのけるガブリエルだが、今は“待ち”でよかろう、と判断を下した。
なぜなら、遥か北の空から、ガブリエルを何らかの手段で撃墜した張本人とおぼしき敵が、三匹の竜を伴って急接近中だからだ。敵を処理し、しかるのちに新しい竜のAIを支配して南下を再開すればよい。
視線をまっすぐ頭上へと動かす。クリムゾンの空に浮かぶ太陽は、すでにかなりの高さに達している。
クリッターが時間加速を再開するまで、もう何時間もあるまい。問題は、戦場に投入したアメリカ人ベータテスターたちが、再加速で弾き出されるまでに首尾よく人界軍を殲滅してのけるかどうかだが――テスターの数はおそらく五万は楽に越えるはずだ。たった一千ほどしか残っていなかった人界軍に抵抗はできまい。
不確定要素があるとすれば、暗黒界軍を次々に蹂躙してのけた整合騎士とやらだが、そのひとりアリスはこうして手の内にあるし、恐らく接近中の追跡者もまた騎士だろう。北方の戦場には、残っていたとしても一人、二人。
問題は何もない、と短く頷き、ガブリエルは最後に、横たわる整合騎士アリスをじっと眺めた。
改めて、つくづく――美しい。
体の奥を這い回る興奮を抑えられないほどに。
眼を醒ましたときのために、武装を布一枚に到るまで全解除して、きつく拘禁しておくかどうかガブリエルは少し迷った。合理的判断としてはそうすべきなのだろうが、しかし敵が迫っている中で、慌しく作業的に扱うのは躊躇われる。
やはり、時間加速が再開してから、たっぷりと時間をかけて味わいたい。鎧のバックル一つ外すにも、優美に、厳粛に、象徴的に。
「……もう暫らくそのまま眠っているといい、アリス……アリシア」
優しく言葉をかけ、ガブリエルは敵を迎え撃つべく、テーブルロックの中央へと歩を進めた。
暗黒神ベクタアカウントを使用するガブリエル・ミラーにも、それを発見したクリッターにも知る由もないことだったが、最強騎士たるアリスが、たかが飛竜に蹴られただけで気絶したまま数時間も覚醒しないのは、すべてベクタに付与された能力ゆえのことだった。
アンダーワールドに設定された四種のスーパーアカウントは、それぞれ、世界の直接的――つまり神の御業的な――操作を目的として存在する。
フィールド改変を行うステイシア。
動的・静的オブジェクトを破壊するソルス。
オブジェクト耐久度を回復するテラリア。
そしてベクタは、住民たる人工フラクトライトそのものを操作の対象とする。
具体的には、住民たちの精神活動、つまりフラクトライト中の光子情報《ベクターデータ》を一時停止し、遥か離れた地点に再配置したり、新たな家族を作らせたりするのだ。
行為としては住民を襲い、攫うかたちとなるため、他の三神とは異なり信仰の対象とはなりにくい。ゆえに最高優先度装備、上限天命数値に加え、術式対象にならないという強力な保護が施されている。アンダーワールドに童話として伝わる“ベクタの迷子”は、過去に行われたその種の操作が元となっているのである。
もちろん、そのための音声コマンド体系が存在するのだが、STLを使用して他フラクトライトに働きかけるかぎりにおいては、コマンドはトリガーにすぎない。限定的な効果ならば、イマジネーションのみにても発生させることは可能となる。
そして、暗黒神ベクタの能力は、ガブリエルの特異な精神とは、ある意味では最上の、同時に最悪の組み合わせでもあった。
人の心を――その熱を、光を、輝きを吸う。
アリスは、一時的にフラクトライトの活力を奪われ、強制的な昏睡状態へと置かれていたのだ。
暗黒将軍シャスターの必殺の心意を喰らい尽くしたのもまた、ベクタとガブリエルの力の融合あってのことだった。
そして今、シャスターの長年の好敵手であった整合騎士長ベルクーリも、同じ道へと進もうとしていた。
ベルクーリは、幸運にも、敵皇帝ベクタがすぐには脱出できそうもない高い岩山の上に着陸したのを視認した。
絶技を使用したことによる強い消耗感を、気力で振り払う。
「よぉし……もうひとっ飛び、頼むぞ星咬、雨縁、滝刳!!」
声と同時に、三頭は限界まで接近し、ひとつの巨大な翼のように加速した。
敵が静止していれば、たとえ十万メル以上の距離でも飛竜にとってはほんの数分だ。
戦いの前に残された時間を、ベルクーリは静かな黙考へとあてた。脳裏に、今朝方見た夢が鮮明に蘇る。
死を予感したことはある?
夢のなかでそう言った最高司祭アドミニストレータは、二百年以上付き合ったベルクーリにも、最後まで謎に包まれた存在だった。
深凍結処理から解放され、アリスに最高司祭の死を知らされたときも、驚愕というほどのものはなかった。長い間お疲れさん、という感慨があった程度だ。むしろ、寿命ある存在だった元老チュデルキンが死んだことのほうに驚いたものだ。
だから、アドミニストレータの最後の戦いと、その散り様について、殊更アリスに尋ねることもしなかった。突然自分の肩にのしかかってきた人界防衛の任に忙殺されたせいも無論あるが、あるいは、知りたくなかったのかもしれないという気もする。あの銀髪銀瞳の少女の、欲望と執着、業の深さを。
ベルクーリにとっては、アドミニストレータは常に物憂げで、飽きっぽく、気まぐれなお姫様だった。
尊敬したことはない。服従こそすれ忠誠を誓った覚えもない。
しかし――。
仕えること自体は、決して、厭ではなかった。
「そうさ……それだけは、信じてくれよな」
呟き、最古の騎士はぱちりと鋭い双眸を開いた。
もう、横たわるアリスの黄金の鎧と、その手前に影のようにひっそりと立つ皇帝ベクタの姿がはっきりと見て取れた。
「よし……お前らは、上空で待機! もし俺がやられたら、すまんがなんとかアリスを奪還して、北へ逃げてくれ!」
竜たちに低くそう指示し――ベルクーリは、遥か高空から、ふわりとその身を躍らせた。
流星のように光の軌跡を残して飛び去ったソルス/シノンの後を追うように、人界軍八百は必死の南進を続けた。
徒歩で追ってくる黒の歩兵軍団一万三千は、多少引き離されつつある。しかし、一頭が二人の衛士を乗せている馬たちもこのまま走り続けることはできない。
アスナは、キリトとティーゼ、ロニエの乗る馬車の天蓋に立ちながら、祈るように南を凝視し続けた。
はたして――。
二十分ほどの行軍のあと、地平線に、寺院めいた巨大な遺跡が蜃気楼のように浮かび上がった。
生命の気配は無い。朽ちた石たちが静かに眠るばかりだ。
まっすぐ伸びる道を挟むように、ふたつの平らな大宮殿が横たわっている。高さは二十メートルほど、幅は左右に三百メートル以上もあるだろうか。敵軍の包囲を防ぐ障壁としては充分な規模だ。
ふたつの宮殿の間を、道はそのまま南へ続いている。参道めいた印象を持つのは、宮殿の壁に接するかたちで道の両側に、奇怪な巨像がびっしり並んでいるからだ。
東洋風の仏像でも、西洋風の神像でもない。しいて言えば、どこか南米の遺跡を彷彿とさせる、ずんぐりと四角いシルエットだ。すべてが真ん丸い目と巨大な口を彫り込まれ、胸の手前で短い手を合わせている。
あれは、アンダーワールドが生成されたとき、ラースのエンジニアがデザイン、配置したものなのだろうか? それとも、ザ・シードパッケージが自動生成したのか?
あるいは――かつてこの地に暮らしたダークテリトリー種族が、岩山から掘り出したものか……?
たとえば、たくさんの死者に捧げる、巨大な墓標として。
不吉な想念を、アスナは鋭い吐息で押しやった。
部隊の先頭を走る飛竜の背の騎士レンリに、大声で伝える。
「あの参道の中ほどで敵を迎え撃ちましょう!」
すぐに、了解です! という声が返った。
数分後、部隊はその勢いを減じることなく、薄暗い遺跡に突入した。左右から、四角い巨大神像たちが、じっと無言で見下ろしてくる。馬のひづめと馬車の車輪が、土から敷石へと変わった道路に硬質の音を響かせる。
ひんやりと冷たい空気を切り裂くように、レンリの爽やかな声が命じた。
「よし、前部衛士隊は左右に分かれて停止! 馬車隊と後方部隊を通せ!」
さっ、と割れた騎馬の間を十台の馬車が進み、同じように停止した後続騎馬隊も抜けて、いちばん奥に達したところで停まった。
密度のある静寂をはらんだ風が、人界軍を撫でるようにひゅうっと吹き抜ける。
しかしそれも一瞬だった。北から追いすがる大部隊の立てるどろどろという地響きが、たちまち追いついてくる。
アスナは、馬車から飛び降りると、幌の内側から顔を見せた少女たちに声を掛けた。
「これが、最後の戦いよ。キリトくんのことお願いするわね」
「はい! 命に代えても!」
「必ずお守りいたします!」
固く握った小さな右拳で騎士礼をするロニエとティーゼに、同じ仕草を返しながら、アスナは短く微笑みかけた。
「大丈夫、絶対にここまで敵は通さないから」
それは、半ば自分に誓った言葉だった。開いた右手を軽く振り、アスナは毅然と身を翻した。
駆けつけた部隊の先頭では、レンリがてきぱきと衛士たちを配置していた。
道の幅はおよそ二十メートル。理想的とは言えないが、この人数でも完全ブロックした上でスイッチローテーションを組むのは不可能ではあるまい。
要は、後方からの術師たちの支援が続くあいだに、犠牲者を極力抑えて敵を削りぬくことが可能かどうか、だ。幸いなのは、黒歩兵軍に、魔術職の姿がまるで見えないことだ。アンダーワールドの複雑なコマンド体系を、短時間でアメリカ人プレイヤーたちに習得させることは不可能と判断してのことだろうが、この状況では正直ありがたい。
いざとなれば――。
わたし一人で、敵全軍斬り伏せる。
アスナは大きく息を吸い、決意とともに体の底に溜めた。
ステイシアの膨大な天命を考えれば、数値的ダメージによって倒されることはないだろう。問題は、あの恐るべき痛みに耐え切れるかどうか、だ。心が痛みに負けたとき、この体は傷つき、命はあれども剣を握れないという無様を晒すことになる。
アスナは目を閉じ、傷ついたキリトのことを思った。彼が受けた痛みと、背負った悲しみの大きさを思った。
部隊の一番前に向けて歩き出したとき、心にはもう一片の恐れも無かった。
おそらくは、この戦争において最後の大規模戦闘となるはずの激突は、昇りきった朝日のもとで行われた。
プロモーションサイトが約束していたリアルな血と悲鳴を求めて、二十人ほどの重武装ベータテスターたちが、真っ先に遺跡参道へと突入していった。
彼らを迎えたのは、しかし、レーティング無視の娯楽を提供するための哀れなNPCなどではなかった。
世界を、そして敬愛する黄金の少女騎士を救わんとする決意を秘めた、真の勇士たちだった。その剣は意志に満ち、断固たる威力で振り下ろされた。
一方的に殲滅されていくアメリカ人プレイヤーたちを、高みから見下ろすひとつの影があった。
極限まで金属装甲を廃した、ライダースーツにも似た革の上下。艶のあるレザーの到るところに、銀色の鋲が突き出ている。
武器は、腰に下がる大型のダガーひとつのみ。顔は見えない。レインコートに似た、やはり黒革のポンチョを羽織り、フードを口元まで下ろしているからだ。
唯一覗く大きめの唇は、極限まで歪んだ笑みをにやにやと湛えていた。
ヴァサゴ・カザルスである。
アンダーワールドに再ログインした彼は、直後浴びせられたシノンの広範囲レーザー照射をなんなく回避し、アメリカ人たちに紛れ込んで人界軍を追ったのだ。しかし初期の突撃には加わらず、西側の大宮殿の壁をするすると登ると、戦線を見下ろす位置にある神像の頭にあぐらを掻き、特等席からの見物を決め込んだのだった。
「おーお、相変わらずキレると容赦ねーなあの女。うほほ、殺す殺す」
愉しくてたまらぬ、というふうに、笑い混じりに呟く。
はるか眼下では、真珠色の鎧に栗色の髪をなびかせた少女――“閃光”アスナが、ヴァサゴの遠い記憶にある姿そのままに、右手のレイピアを閃かせている。
あの時も、ヴァサゴは同じように、ハイディングしつつアスナの戦闘を眺めたものだ。世界《ゲーム》が終わる前にかならず仕留めてやる、と内心で固く誓いながら。
――アスナの隣で、より凄まじい戦いぶりを見せる黒衣の剣士ともども。
騎竜の背を離れたとき、ベルクーリの下にはまだ二百メル近い空間が残っていた。ただ落下するに任せれば、いかに彼とて着地の衝撃には耐えられない。
しかし騎士長は、まるで見えない階段でも存在するかのように、螺旋を描きながら空を駆け下りた。
実際には、一歩ごとに足下に風素を生成・炸裂させ、その反動で落下速度を殺したのだ。下肢を素因制御端末とする技を、彼は十年以上前に元老チュデルキンから盗んでいた。アンダーワールドに存在する闘法に、騎士長ベルクーリの知らぬものは無い。
遥か眼下の、尖塔にも似た岩山の頂上に立つ皇帝ベクタの死角へ、死角へと跳躍しながら、最古騎士は愛剣の柄に手を添えた。
初撃で決める。
容赦なく、静かに、当たり前のように、殺す。
整合騎士長ベルクーリが必殺の心意を練るのは、実に百五十年以上も昔に初代の暗黒将軍を斬って以来のことだった。それほどの長きに渡って、彼の殺意を呼び起こす敵は出現しなかったのだ。
セントラル・カセドラルで単身挑みかかってきた、ユージオという名の若者との戦闘に於いてでさえ、ベルクーリは本気になりこそすれ殺気を漲らせることはなかった。いや、それを言うならば、初代暗黒将軍に対してすら、怒りや憎しみのような負の心意を抱いたわけではない。
つまり、ベルクーリは、その長い生涯で初めて刃に怒りを込めたことになる。
彼は怒っていた。心底激怒していた。アリスを拉致されたことのみに対してではない。
リアルワールドという外世界からやってきたよそ者が、和睦成立の可能性のあった暗黒界人たちをいいように操り、戦場に駆り立て、無為に命を落とさしめた。それは、二百年以上もこの世界を見守り続けてきたベルクーリには、どうしても赦せないことだった。
――てめぇにどんな事情があるかは知らねえ。
だが、リアルワールド人の全員がてめぇのようなど腐れじゃねえことは、あのアスナという娘を見ればわかる。
つまり、てめぇという個体の本質が、どうしようもなく悪だということだ。
ならば、その報いを。
暗黒将軍シャスターの、整合騎士エルドリエの、そして戦場に散った多くの人間たちの、命の重さを。
この一撃で、とくと知れ!!
「ぜ……あぁッ!!」
高度十メルで最後の一歩を踏み切り、騎士長ベルクーリは、あらんかぎりの意思を込めた斬撃を皇帝ベクタの脳天目掛けて振り下ろした。
大気が灼け、白く輝いた。刃が生み出す光のあまりの眩さに、空の色すら彩度を失った。
それは間違いなく、かつてアンダーワールドで発生したすべての剣技中最大最強の威力を内包した一撃だった。メインビジュアライザー内のニーモニック・データ書き換え優先度はシステム制御命令のそれをも上回り、つまりあらゆる数値的ステータスを無効化するほどの絶対事象だったのだ。
皇帝ベクタに設定された無限に等しい天命数値すらも削り切るほどに。
命中しさえすれば。
降り注ぐ絶対的な死を見上げながらも、ベクタの表情はまるで動かなかった。
せいぜい見ることしかできないくらいの、超速の一撃だったのだ。いかなる反応も、対処も不可能なはずの、その刹那。
黒水晶の鎧に包まれたベクタの体が、音もなく滑った。
唯一回避可能な方向へ、回避に足るだけのぎりぎりの距離を。
ベルクーリの剣に触れたのは、宙になびいた赤いマントだけだった。その瞬間、分厚い毛皮は微細な塵へと分解し――。
ズガァァァッ!! という雷鳴じみた轟音とともに、硬い岩盤に一直線の傷痕が刻まれた。巨大な岩山全体が震動し、縁からいくつもの塊が剥がれ落ちていった。
あれを、躱すかよ。
そう瞠目しながらも、ベルクーリの体はほんの一瞬たりとも停まらなかった。戦闘のさなか、予想外の展開に思考が凍るような段階はとうに脱している。
弧を描くように体を入れ替え、皇帝の側面へと回りこむ。再度、横薙ぎに一閃。全身全霊を込めた大技を空振っておきながら、着地、移動、再攻撃まで、半秒とかかっていない。
その追い撃ちすらも、ベクタは避けた。
まるで風に吹かれた黒い煙のように、予備動作もなくゆらりと地面を滑る。切っ先は、鎧の表面を掠めて空しく火花を散らすのみ。
しかし。
今度こそ、ベルクーリは確信した。
――取った。
初撃は、外れはしたが消えたわけではなかった。神器・時穿剣の完全支配技、“未来を斬る”という能力を、彼は発動させていたのだ。
皇帝ベクタは、致死の威力が留まる空間に、まっすぐ背中から吸い込まれていく。
鉄の環で束ねられた、白っぽい金色の髪が中ほどから切断され、ぱっと広がる。
額に嵌まる宝冠が、かすかな金属音とともに砕け散る。
ベクタの腕が、許しを請うかのように高く掲げられた。
黒を纏う長身が、縦に裂けるさまを、ベルクーリは強く予感した。
ぱん。
軽く乾いた破裂音。
その源は――頭の後ろで打ち合わされた、皇帝の両の掌だった。
――素手で、
挟み止めた、だと。しかも背を向けたまま。
有り得ない。いや、斬撃を両手で包み込むように受ける奥技は、暗黒界の拳闘士たちには伝えられているが、あれは彼らの鉄より硬い拳あっての代物だ。そもそも、あの空間に保持されていた威力は、拳闘士の長と言えども素手で止められるようなものではなかったはずだ。
その思考は、ほんの一瞬のものではあったが、しかしベルクーリの動きはついに止まった。
ゆえに、続いて発生した事象を、彼はただ黙視してしまった。
蜃気楼のように空中に留まる必殺の斬撃が、皇帝の両手に吸い込まれていく!
同時に、見開かれたふたつの青い瞳が、底なしの闇に染まりはじめる。
いや、それだけではない。闇の底には、ちかちかと瞬く無数の――あれは――星?
違う。
あれは、魂だ。この男が、これまで同様に吸い取ってきた、人々の魂が囚われているのだ。
「……貴様は、人の心意を喰うのか」
そう呟いたベルクーリに、斬撃を吸収し尽した両手をすっと降ろしながら、ベクタは答えた。
「シンイ? ……なるほど、心《マインド》と意思《ウィル》か」
ひどく寒々しい、生物の気配が抜け落ちた声だった。それを発した赤い唇が、見かけは微笑みに似た形へと変形した。
「お前の心は、まるでグレート・ヴィンテージのワインのようだ。とろりと濃密で……どっしり重く、キックの強い後味。私の趣味ではないが……しかし、メインの露払いに味わうには吝かではない」
青白い右手が動き、腰の長剣の柄を握る。
ぬるぬると鞘から抜き出された細身の刀身は、青紫色の燐光に包まれていた。それを力なく垂らし、皇帝ベクタはもういちど微笑んだ。
「さあ、もっと飲ませてくれ」
ついに、粗雑な造りの大剣が、アスナの二の腕を掠めた。
焼けた金串を押し当てられるような感覚。
――痛いもんか!!
強く念じる。途端に、僅かに薄赤く刻まれた痕が、すうっと消えていく。
その時にはもう、右腕が煙るように閃き、眼前の大男の右肩から左脇腹へと四連の突き技を叩き込んでいる。男の顔が歪み、シッ!! という罵り声とともに地に沈む。
今のが何人目だったか、すでに数えられなくなっていた。
それどころか、遺跡参道での戦端が開かれてもう何分、何十分経っているのかすら定かでない。ひとつだけ確かなのは、参道入り口から殺到してくる黒い歩兵たちは、まだまだ無限に等しいほど存在する、ということだけだ。
ふん、これくらいの持久戦、大したことないわ。アインクラッドじゃ、ボス戦が一、二時間続くのなんてザラだったんだから。
内心でそううそぶき、アスナは大男の死体を踏み越えて飛びかかってきた敵の斧を思い切り払い落とした。
重心を崩した上で、的確なクリティカルダメージを叩き込みながら、ちらりと横に視線を走らせる。
参道中央で奮戦するアスナの右側では、数人の衛士をはさんで整合騎士レンリが、両手のブーメランを交互に投射しながら死体の山を築いている。その威力と、照準の正確さはそら恐ろしいほどで、こちらはもう暫く任せきりでも平気そうだ。
しかし問題は左サイドだった。隊長格の衛士たちを多めに配置しているが、徐々に戦線が押し込まれているのがわかる。
「左、先頭交代の間隔を速めて! 治癒術もそっちを厚くしてください!」
背後から即座に諒の叫びが返るが、その声にも疲弊の色が濃い。
気がかりは、もう一つあった。
いま戦っている歩兵たちは、決して単純なAIで動く人型モンスターではないのだ。MMORPG発祥国たるアメリカの、百戦錬磨のプレイヤーたちなのである。PvP、GvGに慣れ親しんだ彼らが、そろそろ単純な突撃では埒が開かないと考え始めてもおかしくない。
自分なら、どうするだろう。ひたすらレイピアを閃かせながら、アスナは考える。
定石としては、後方からの遠隔攻撃だ。だが、敵に魔術師は居ないし、そもそも術式コマンドのチュートリアルを受けているかどうかすら怪しい。
となれば弓だが、弓兵のアカウントが用意できなかったのか、これも装備した兵を見た記憶はない。あとは手持ちの武器を投げるくらいだが、それは心理的抵抗が大きかろう。投げたものは、その後戦闘に参加できなくなってしまう。
どうやら、打開策ナシと判断してよさそう――か。
ならば、当初の予定どおり一万の敵を削り切るのみ!
アスナが、決意を新たにしたのと、ほとんど同時に。
参道の入り口が、不意に黒く翳った。
差し込む朝日が遮られたのだ。横一列に並ぶ巨大な盾と――旗ざおのように林立する、長大なランスに。
重槍兵!
「た……対突撃用意!! 槍の穂先をしっかり見て回避してください!! 懐にさえ入れれば倒せる敵です!!」
アスナが叫ぶと同時に、ガシャッ! と金属音が轟き、巨大なランスが一斉に構えられた。
二十人近くもぎっしり並んだ重装歩兵たちが、太い雄叫びとともに突進を開始する。
その威圧感に、衛士たちが浮き足立つ気配がした。お願い、落ち着いて! と念じながら、アスナは自分の正面を走る槍兵を凝視した。凶悪に黒光りするランスが、一直線に迫ってくる。
ぎりぎりまで引きつけ――パリィ・アンド・ステップ。
ぎゃいっ、と火花を散らしながら、レイピアが槍の側面を滑っていく。
「……せああっ!!」
気合とともに、見上げるように巨大な敵の、鎧の首元に剣尖を突き上げる。重い手応えとともに、ヘルメットのバイザーから鮮血が噴き出す。
響いた悲鳴は、しかし、アメリカ人のものだけではなかった。
左を護る衛士数名が、ランスを回避しきれず身体を貫かれたのだ。
「こ……のおッ!!」
叫び、アスナは持ち場を離れて左へ走った。全体重を乗せたシングル・スラストで、一人の胸板を鎧ごと突き破る。血に濡れる刃を引き抜き、その向こうの敵の両腕を、二連撃スラッシュで切り落とす。
さらにもう一人が、衛士の体から抜き取ったばかりのランスを、アスナは駆け上った。二メートル近い巨躯の肩に着地すると、左手でヘルメットを無理やりずらし、露出した首筋に逆手のレイピアを叩き込む。
悲鳴も上げられずに地に沈んだ敵の背中に乗ったまま、アスナは叫んだ。
「負傷者を後方へ!! 最優先で治癒して!!」
荒く息をつきながら確認すると、いまの突撃で六人もの衛士がランスの直撃を受けたようだった。すでに絶命したとしか見えない者も混じっている。
いけない……これでは、狭い参道は逆に敵を利してしまう。
瞬時に対応策を見つけられず、立ち尽くしたアスナの耳に、再びの地響きが届いた。
数秒の間も置かずに、次の重槍兵二十人が突進を開始したのだ。
アスナは、二、三秒ほども迫りくるランスの列を見てしまってから、視線を自分が本来立っているべき戦列の中央へと戻した。
そこには、まだ幼い顔をしたうら若い衛士が、がくがくと両膝を震わせながら剣を構えていた。
「あ…………!」
細く叫び、アスナは走った。
飛び込むように少年の前に駆け込み、左側を見る。
ぎらつく鋭い穂先が、すぐそこにあった。
アスナは左手でそれを掴んだ。しかし。
滑らかな表面に手袋が滑り――。
ドカッ。
という鈍い衝撃が、全身を叩いた。声も出せぬまま、アスナはただ、自分の上腹部を深々と刺し貫いた巨大な金属を見下ろした。
最小限。
いや、最大効率の剣、と言うべきか。
騎士長ベルクーリは、これまで見たどんな流派とも異質な皇帝ベクタの剣技を、そのように感じた。
まず、ほとんど足が動かない。踏み込みも、回り込みも、ごく僅かに地面を滑るだけで行われる。さらに、攻撃に際しても予備動作が無いに等しい。空中にだらりと掲げられた剣が、突然ぬるっと最短距離を飛んでくる。
つまり予測が不可能に近いのだ。ゆえにベルクーリは、皇帝の決して素早くも力強くもない攻撃に、五回までもただ退がることを強いられた。
そして、五回で充分だった。
膨大な戦闘経験から、予兆のないベクタの剣技ですらも間を盗み、ベルクーリは反撃に転じた。
「シッ!」
敵に付き合ったわけではないが、最低限の気合とともに、上段斬りをベクタの六撃目に合わせる。
強く歪んだ金属音を、青い火花が彩った。
敵の水平斬りを、全力の斬り降ろしが抑え込み、押し返した。
大した抵抗もなく、ぐぐぐっと刃が沈んでいく。ベクタの長身が、くにゃりと撓む。
口ほどにも無ぇ!!
ベルクーリは、このまま肩から腹まで斬り下げてやる、と練り上げた心意を刀身に注ぎ込んだ。時穿剣が鋼色の光でそれに応える。ベクタの長剣を、断ち割らん勢いで押し下げていく。切っ先が敵の肩に触れ――装甲に僅かに食い込み――。
瞬間、ベクタの剣が怪しく輝いた。
青紫色の燐光がその厚みを増し、ぬるぬると時穿剣に絡みつく。同時に、力強く漲っていた白銀の煌きが、萎れるように消え去っていく。
なんだ、これは。
いや……。
そもそも、オレは、何を……しようと……。
ビシッ、という鋭い音とともに左肩に凍るような痛みを感じ、ベルクーリははっと目を見開きながら大きく飛び退いた。
胸を膨らませて激しいひと呼吸を行い、一瞬失われそうになった意識を立て直す。
――今のは、一体。
戦いの最中に、己が何をしているか分からなくなった……だと!?
強く自問した直後に、いや、そんな生易しいものではなかった、と思い直す。
そう、まるで、自分がなぜこの場所に存在するのか、自分が誰なのかすらも分からなくなったような、圧倒的な空白が意識を侵食したのだ。
「貴様……剣から、直接オレの心意を吸いやがったのか」
低い唸り声でベルクーリは問うた。
答えは、左右非対称に歪んだ微笑だった。
舌打ちして、左肩を一瞥する。かすり傷、と言うにはやや深い。
「フン……楽しませてくれるじゃあないか、皇帝陛下。剣を撃ち合えねェとは、面倒な縛りだぜまったく」
にやりと笑いながら嘯くと、ベクタは一度瞬きしてから、ちいさく首を捻った。
「……ふむ。そういえば、試したことはなかったな」
言葉の意味は、すぐに解った。
皇帝は、右手の長剣を、無造作にベルクーリに向けて突き出したのだ。
その切っ先から青黒い嫌な光が、ぬとっ、と伸びた。
なんだと……まさか、遠間からも。
という思考が閃いたのと、光がベルクーリの胸に触れたのは同時だった。
蝋燭の炎が立ち消えるように、意識がふうっと遠ざかった。
騎士長は、するすると近づいてきた剣が、己の左腋下に忍び込むのを棒立ちのままただ見つめた。
ずちっ。
という湿った音が響き、跳ね上がった長剣が、ベルクーリの太い腕をその付け根から切り離した。
「ぐ……う……うぅッ!!」
アスナは、喉から溢れ出そうになった絶叫を、低い呻き声のみに押し止めた。痛み――などというものではない。高温のバーナーで体を穿たれ続けているような、許容量を超える圧倒的な感覚の爆発。
――痛いもんか。
痛いもんか、こんな傷!!
黒光りするランスは、上腹のやや左側を深々と刺し貫いている。おそらく背中からは一メートル近くも抜け出ているだろう。
肩越しにちらりと確認すると、真後ろにいた少年衛士は、幸い切っ先に頬を掠められただけだったようだ。アスナは、蒼白な顔で自分を見上げる少年に、全精神力を振り絞って微笑みかけた。
この子の命の重さにくらべれば――わたしの、仮想の傷なんて!!
「うぅ……あッ!!」
気合とともに、身体を貫くランスを握ったままの左手に、ありったけの力を込める。
バギン! と耳障りな音がして、直径十センチ近い金属槍が掌のなかで砕け散った。手を背中に回し、突き出た槍を掴んで引っ張る。
目の前に火花が散り、指先からつま先までを灼熱感が駆け抜けた。しかしアスナは手を止めず、無理やりにランスを引き抜くと、それを足元に放り捨てた。
腹の巨大な傷と、口の両方から凄まじい量の鮮血が迸った。しかし身体をふらつかせることもなく、口元を右手でぐいっと拭い、アスナは燃えるような視線で眼前の敵を見上げた。
ランスの持ち主だった巨漢は、ヘルメットの奥の眼を、どこか戸惑ったように激しく瞬かせた。
「オーマイゴッド」
同じ言葉がもう一度繰り返され、早口の英語が続く。
「……なんだよ……ぜんぜん楽しくないぜ、こんなゲーム。俺はもう降りる。とっとと殺してくれ」
アスナは頷き、右手のレイピアで、大男の心臓を正確に貫いた。分厚い鎧を騒々しく鳴らしながら巨体が崩折れ、命の気配が消えた。
傷の痛みでは流れなかった涙が、なぜか今になって両眼に滲んだ。
この戦場を覆う痛みは、苦しみは、そして憎しみは、本来存在する必要のなかったものだ。
アメリカ人プレイヤーたちと、人界軍の衛士たちが殺しあう理由なんて何もない。出会う状況さえ異なれば、きっといい友達にだってなれたはずの人々なのだ。自分がそうであったように。
仮想世界は……VRMMOは、こんなことのために生まれてきたんじゃない。
「うがっ……た……たす……」
日本語の悲鳴が、アスナの一瞬の想念を停止させた。視線を向けると、地面に倒れた衛士にむけて、今まさに巨大なランスが突き下ろされようとしているところだった。
「う……ああああ!!」
激情を雄叫びに変え、アスナは地を蹴った。
右手のレイピアをまっすぐに突き出す。左手を体の脇で握り締める。
全身を、白い光が覆った。足が地面から離れ、まばゆい彗星となってアスナは飛翔した。細剣最上位突進技、“フラッシング・ペネトレイター”。
黒い槍兵が、無数の肉片と化して飛び散った。その向こうにいた敵も、同様の運命を辿った。さらにもう一人。
四人目の体を、巨大神像の根元に縫いとめ、アスナは動きを止めた。肩で息を吐きながら振り向く。
重槍突撃の第二波でも、五人以上の死傷者が出たようだった。しかし、参道入り口ではすでに、第三波の二十人が凶悪な槍衾を構えている。
ぐったりとした骸からレイピアを引き抜き、アスナは叫んだ。
「全員、持ち場を死守!! レンリさん、中央に移動してください!!」
アスナの身体を染める鮮血を見て顔を強張らせる若い騎士に、安心させるように短く微笑みかけてからアスナは続けた。
「――わたしは、単騎で斬り込みます。討ち漏らした敵だけ、よろしく頼みます」
「あ……アスナ様!?」
喘ぐような声を出すレンリや他の衛士たちに、ぐっと右拳を突き出して――。
アスナは、一直線に走り出した。
体の重心が狂い、よろめいたベルクーリは、地面に転がった己の左腕を踏みつけた。
痛みよりも先に、その怖気をふるうような感覚に、意識が呼び戻された。
「ぐっ……!」
再び大きく跳んで距離を取る。
左肩の傷口から振り撒かれた血が、白い岩板に深紅の弧を描いた。
なんて――ことだ。
剣を向けられただけで意識が強制停止されるだと。
剣を咥え、右手を傷口にかざしながら、ベルクーリは全速で思考を回転させた。その間にも、無詠唱で発動した治癒術が、青い光で出血を止めていく。しかし無論、腕を再生させるほどの時間も、空間力もこの岩山には無い。
どうする。どう対抗する。
完全支配技“時穿剣・表”はもう通用しない。宙に留まる斬撃心意を、片端から吸われるだけだ。
ならば“裏”なら。しかしあの技を発動するには、巨大すぎる条件が二つある。ひとつは、長すぎる攻撃動作を敵が黙って見ていてはくれないということ。もうひとつは――照準すべき座標の固定が、異常に困難だということ……。
考え続けようとした騎士長は、額を伝ってきた脂汗を、瞬きで振り飛ばした。
そのあと、不意に気付いた。
オレは今、必死になっている。
いつのまにか一欠片の余裕も無くなってるじゃねえか。
つまり――こここそが死地だ。その際の際だ。
「……へっ」
整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンは、状況を正確に認識してなお、太い笑みを浮かべた。
視線を、ゆるゆると近づいてくる皇帝ベクタから、頂上の片隅に横たわる黄金の騎士――アリス・シンセシス・フィフティへと動かす。
嬢ちゃんよ。
オレは、嬢ちゃんが求めていたものを、満足に与えてやれなかったな。親の情、ってヤツを。
なんせ、オレも自分の親ってもんをまるで覚えちゃいないもんでな。
でも、これだけは分かるぜ。
親は、子を守って死ぬモンだ。
「貴様には……永遠に分からねぇことだろうがな、化け物め!!」
叫び、ベルクーリは地を蹴った。
策も何もなく、ただ愚直に、己の全てを剣に込め――最古の騎士は走った。
「がっ……は……」
荒い呼吸とともに吐き出された大量の血液が、足元に飛び散った。
地面に突き刺したレイピアだけを支えに、それでもアスナは立ち続けた。
重槍突撃の第三波、及び第四波をどうにか斬り伏せたものの、全身の受傷は十箇所を超えている。乳白色だった上着も、薄い虹色に輝いていたスカートも無残に引き千切れ、濃い赤一色に染まってしまった。
ランスの直撃を受け、穴だらけになった体が、今も動くことが信じられない。いや――実際には、理不尽なまでに膨大な天命が、アスナに力尽きることを許さないのだ。
この体が崩れ落ちるのは、心が折れたときだけ。
なら、わたしは、永遠に立ち続けられる。
全身の体感覚はすでに無かった。灼熱感と極冷感が交互に神経を苛み、視界を歪ませる。
アスナは、薄暗い視界に敵第五波を捉えると、地面からレイピアを引き抜いた。
もう、俊敏な回避動作は取れない。
ならば、ランスを体で受け止め、しかるのちに斬るのみ。
羽のように軽かったはずのレイピアが、今はまるで鉛の棒だ。それを両手で構え、上体をかがめて、アスナは敵を待った。
「GO!!」
威勢のいい号令。ドッ、と地面が揺れ、二十の鉄塊が突進を開始する。
どっ、どっ、どどどど……。
たちまち加速する足音に。
高周波の震動音が、どこからともなく混じった。
アスナは視線だけを上向けた。
赤い空から、一本の線が降りてくる。
それは、途切れ途切れのコードの羅列。
「…………ああ……」
零れた吐息には、ほんの少しだけ、諦めの色が混じっていた。
しかし――。
ラインの色は、見慣れた黒ではなかった。夜明け前の空のように、深い蒼に染まっていた。
その事実がどういう意味を持つのか、もうアスナには推測できなかった。両眼を見開き、ただ結果のみを待った。
ラインは、高さ十メートルほどの空中でそのコードを凝集させ、一瞬の閃光に続いて、人の姿へと変じた。
ぶんっ。
突然、人影が霞んだ。回転をはじめたのだ。ヘリコプターのローターのように、あるいは巨大な竜巻のように、猛烈な唸りを上げて再度降下を開始する。
その真下に立つ二十人の重槍歩兵たちも、いつしか脚を止めて空を見上げていた。
彼らのまんなかに、群青の竜巻がふわりと舞い降り――。
突如の深紅を生み出した。
血だ。竜巻に巻き込まれた歩兵たちが、瞬時にバラバラに分断され、広範囲に鮮血を撒き散らしたのだ。
放射状にばたばたと倒れた槍兵の中央で、竜巻はゆっくりとその回転を減じ、ふたたび人の姿に戻った。
背を向けて立つ、細身の長身。艶のある群青色の板金鎧が、逆光を受けて煌く。左手を腰の鞘の鯉口に添え、右手は、抜刀された恐ろしく長い曲刀をまっすぐ横に振り抜いている。
アスナは、今の攻撃――技を、見たことがあった。
ソードスキル。
カタナ広範囲重攻撃――“旋風車《ツムジグルマ》”。
ゆっくりと身体を起こした人影は、カタナを右肩に担ぎ、ひょいっと顔を振り向かせた。
趣味の悪い漢字柄のバンダナの下で、無精ひげの浮いた頬が、にやりと動いた。
「おう、待たせたな」
「ク……ライン……?」
アスナは、自分のかすれ声を最後まで聞くことができなかった。
突然、凄まじい震動音の重奏が、世界に満ちたからだ。アメリカ人たちが出現したときとまったく同じサウンドなのに、アスナにはそれが、最上の交響楽のように聞こえた。
空から降ってくるのは――無数の色彩に輝く、幾千ものコードラインだった。
斬りかかる。
意識が薄れる。
受傷の痛みで覚醒する。
それを何度繰り返したのか、もう分からなかった。
皇帝ベクタは、まるで戦いを長引かせようとするかのように致命傷を与えてはこなかったが、数多の傷口から流れ出た血液、つまり天命の総量が、そろそろ最大値を上回りつつあることをベルクーリは知覚していた。
だが彼は、二百数十年の生で築き上げた不動の精神力を振り絞り、何も考えず、何も恐れず、脳裏でただ一つのことだけを遂行し続けていた。
数をかぞえること。
正確には、時間を測ることを。
時刻を察するという特技を持つベルクーリだが、その超感覚を、ただ一秒を厳密に感じるためにのみ使い、ひたすらに時を刻み続けたのだ。皇帝の剣に思考を混濁させられているその最中にすら、ベルクーリは無意識下で数字を積み重ねていた。
――四百八十七。
――四百八十八。
最も困難なのは、その行為を、明確な心意にしてはいけないということだ。
心を吸われ、時を測っていることを敵に知られてしまっては、この怪物ならばあるいは目的までも悟るかもしれない。
ゆえにベルクーリは、剣には全力の殺気のみを込め、愚直な攻撃のみを繰り返した。時には、挑発的な台詞までも吐きながら。
「……どう、やら……剣技のほうは、大したこと無ぇようだな……皇帝陛下、よ」
――四百九十五。
「こんだけ当てて、倒せねぇようじゃ……二流、いや、三流だな」
――四百九十八。
「そらッ、まだまだ行くぜ!!」
気合とともに、真っ向正面から斬りかかる。
――五百。
皇帝の周囲に広がる、青紫色の光の撒くに剣が触れる。
ふっ、と思考が途切れる。
気付くと、地面に片膝を突いており、新たに左頬に増えた傷から音を立てて血が滴る。
――五百八。
もうすぐだ。もう少しだけ保ってくれ。
ゆらり、と立ち上がり、ベルクーリは背後の皇帝を見た。
これまで一切の感情を見せなかったその顔に、かすかな嫌悪の色が浮かんでいた。原因は、斬りこみとともにベルクーリが飛び散らせた血の一滴が、白い頬に飛び散ったかららしい。
指先で赤い染みを擦り落とし、ベクタは囁いた。
「……飽きたな」
ぱしゃっ、と赤い水溜りを踏んで一歩前に出てくる。
「お前の魂は重い。濃すぎる。舌にこびりつく。その上単調だ。殺すことしか考えていない」
平板な声で切れぎれの言葉を連ねながら、皇帝はさらに一歩近づいてきた。
「もう消滅していい」
すう、と持ち上げられた剣が、粘液質の光を放った。
ベルクーリは表情を変えぬまま、しかし僅かに奥歯を食いしばった。
もう少しなんだ――あと三十秒。
「へ……そう、言うなよ。オレは、まだまだ……楽しめる、ぜ」
よろよろと、誰もいない空間に向かって数歩踏み出す。右手の剣を持ち上げ、力なく動かす。
「どこだ……よ、どこ行きゃあがった。お、そこか……?」
両眼にうつろな光を浮かべ、騎士長は力ない動作で剣を振った。
こつん、と剣先が地面を叩き、さらに大きくよろめく。
「あれ……こっち、だったか……?」
再び、風切り音すらしない一撃。ずるずると片足を引き摺り、ベルクーリは尚も動き続ける。
大量出血により視力を喪失し、思考すらも混濁した――としか思えぬ、情けない姿。
しかしそれは、騎士長一世一代の演技であった。
おぼろに霞がかった灰青色の瞳は、あるものだけをしっかりと捉えていた。
足跡である。
十分間の無為な攻撃により、決して広いとは言えない岩山の頂上には、ベルクーリの血がほぼ満遍なく振り撒かれている。それが皇帝のブーツの底と、騎士長の革サンダルの底に踏まれることで、明らかに異なる二種類の赤い靴跡が縦横無尽に走っているのだ。
言い換えれば、それは――両者の詳細な移動記録だ。
譫妄状態の演技とともにベルクーリが目指しているのは、もっとも乾いて黒ずんだ、皇帝の足跡だった。
最初にベルクーリの左腕を切断したときに作られたものである。
無意識下の時間計測は、その直後から開始されている。
つまり――皇帝ベクタは、十分前そこに存在した。そして、そこからどの方向に移動したか、血の足跡は如実に記録していた。
――五百八十九。
――五百、九十。
「おっと……みつけた……ぜ……」
ベルクーリは弱々しく呟き、左右にふらつきながら時穿剣を振りかぶった。
掛け値なしに最後の一撃となるはずだった。
剣に、そして主に残された天命は、双方ともに今まさに尽きんとしていた。
その全てを費やし、ベルクーリは、神器・時穿剣の武装完全支配技を発動させようとした。
“時穿剣・裏”。
斬撃威力を空間に保持し、“未来を斬る”表技とは逆に、裏は“過去を斬る”力である。
アンダーワールドのメインフレームは、あらゆるヒューマンユニットの移動ログを、六百秒つまり十分間ぶん記録している。
時穿剣はそのログに干渉し、正確に十分前のたった一秒の位置情報を、現在のそれとシステムに誤認させる。
結果、ただ虚空を斬った刃は、かつてその位置に存在した者の、現在の身体に届く。回避不可能、防御不可能の、文字通りあらゆる技や努力を裏切りあざ笑う一撃。
ゆえにベルクーリは、裏攻撃の発動を忌避し続けてきた。ユージオ青年と戦い、敗れたときすら、使えば難なく勝てたはずなのに使わなかったのだ。元老チュデルキンに、神聖教会への背信行為と取られかねないと分かっていながら。
しかし、同等以上に規格外の力を操る皇帝ベクタ相手に用いるに、一切の遠慮は無い。
皇帝ベクタの飛竜を落としたとき、ベルクーリは、一直線に同じ速度で飛ぶ敵の動きを利用し、十分前に敵が存在した座標を正確に割り出した。だが、互いに接近しての混戦では、座標特定は飛躍的に困難となる。
もちろん、十分前の一瞬に敵がどこに存在したかを覚えておくことはできる。しかしその方法だと、仮に技の発動を邪魔された場合、また十分の数えなおしとなってしまうのだ。
たとえば、この瞬間のように。
「お前、何か考えているな」
滑るように接近してきた皇帝ベクタの、全身にまとわりつく青黒い“気圏”をベルクーリは打って変わって俊敏な動作で回避した。
――仕損じた。
記憶解放直前だった時穿剣を構えなおしながら、ベルクーリは胸中で呟いた。
これで、掛け値なしに万策尽きた。
秘策の存在を悟られた以上、皇帝はもう二度と大技を発動させるだけの猶予を与えてはくれまい。事実、ベルクーリに向かって、長剣から次々と青紫の光を伸ばしてくる。
騎士長は、しかし、その攻撃を全力で回避し続けた。
足掻く。
足掻いて足掻いて、醜く倒れる。己の死に様はそのように迎えると、ずいぶん昔に決めたのだ。
三回。四回。
五回までも、ベルクーリは皇帝の攻撃を避けた。
しかしそこでついに、光の触腕が身体を掠めた。
ふっ、と意識が途切れ――。
目を見開いたベルクーリが見たのは、己の腹に深々と突き立ったベクタの長剣だった。
ずるっ、と刃が引き抜かれ、最後の天命が深紅の液体へと姿を変えて勢いよく噴き出した。
ゆっくりと後ろ向きに倒れる騎士長の眸に。
遥か高みから、大気を切り裂いて急降下してくる一頭の飛竜が映った。
――星咬。
おいおい、どういうこった。待機しとけって言ったろう。飛竜が、主の命令に背くなんて聞いたことねえぞ。
大きく開かれたあぎとから、青白い熱線が一直線に迸った。
一撃で数十の兵を焼き尽くす威力を秘めたそれを、皇帝ベクタは、無造作に掲げた左腕で受けた。
装備された透き通る黒の装甲が、熱線を四方へと難なく弾く。飛び散った火花が、眩く宙を焦がす。
皇帝の剣からあの光が放たれ、白い熱線を遡るように星咬の体へと達した。以前乗っていた竜を、難なく支配したその技を受けて――しかし、ベルクーリの騎竜は停まらなかった。
その命を熱と光に転換しながら、皇帝へと真っ逆さまに突っ込んでいく。
ベクタの白い顔に、わずかに厭わしそうな色が浮かんだ。
剣を大きく引き絞り、己を咬み千切らんとする巨大な竜の口へと、無造作に突き立てた。
限界優先度の武器に押し戻された熱線が、行き場を失い逆流して、飛竜の体を引き裂いた。
星咬が命を投げ出して作り出した、たった七秒の猶予――。
それを、ベルクーリは無駄にしなかった。
背後で、数十年の時を共に過ごしてきた愛竜が絶命する気配をまざまざと感じながら、騎士長は、記憶を解放され青い残影を引く時穿剣を、六百七秒前に皇帝ベクタが存在したことを示す血の足跡目掛けて全力で斬り降ろした。
時穿剣・裏のもうひとつの特性。
それは、システムに干渉するがゆえに、威力が対象の天命数値へと完全に届き得るということである。心意による防御もまた不可能なのだ。
ゆえに、あらゆる心意攻撃を無効化・吸収する皇帝ベクタの能力も、この瞬間だけは発動しなかった。
まず、システム上設定されたベクタの膨大な天命がゼロへと変じた。
そしてその結果として、皇帝の長身が、その左肩口から右腰にかけて完全に分断された。
ずるり、と切断面から体がずれる瞬間にも、皇帝ベクタの顔には一切の表情というものが無かった。蒼い瞳が、硝子玉のように虚ろに宙に向けられていた。
落下した上半身が、地面に接するその寸前。
漆黒の光が、心臓のあたりから炸裂し、無音無熱の大爆発を引き起こした。
それが収まったとき、地面には、皇帝の存在を示すものは何一つ残されていなかった。
数秒遅れて、ベルクーリの右手の中で、天命の尽きた時穿剣がかすかな金属音とともに砕け散った。
……あったかいな。
もう少し、このままでいたい。
アリスは、まどろみから目覚める寸前の心地よさに意識を漂わせながら、かすかに微笑んだ。
揺れる日差し。
身体を受け止める、大きな膝。
髪を撫でる無骨な手。
お父さん。
こんなふうに、膝まくらをして貰うのは何年ぶりだろう。この安心感を、完全に守られて、心配事なんか一つもない、何もかも大丈夫な感じを長いあいだ忘れていた。
ああ……でも、そろそろ起きなきゃ。
そして、整合騎士アリスは、そっと睫毛を持ち上げた。
見えたのは、瞼を閉じ、微笑みながら俯いている初老の剣士の姿だった。
逞しい顔や首筋に走る幾つもの古傷。その上に、これも無数の真新しい刀傷が刻まれている。
「……小父様?」
アリスは、ようやくはっきりしてきた意識とともに、短く呟いた。
そうだ――私、皇帝の飛竜に捕まったんだ。まったく、何て迂闊だったんだろう。背後も警戒しないで闇雲に突撃するなんて。
でも、やっぱりさすがは小父様だわ。敵の総大将から助け出してくれるなんて。この人さえ居れば、何もかも安心ね。
微笑み、上体を起こしたアリスは――騎士長の受けている傷が、顔に留まらないことに気付き、息を詰めた。
左腕は丸ごと斬り落とされている。白かった装束は、血で真っ赤だ。そして、はだけた胸の下に……恐ろしいほど深く、惨い傷が……。
「お……小父様……!! ベルクーリ閣下!!」
叫び、アリスは手を伸ばした。
その指先が、騎士長ベルクーリの頬に触れた。
そしてアリスは、偉大なる最古騎士の天命が、すでに尽きていることを悟った。
……おいおい、そんなに泣くなよ嬢ちゃん。
いつか、必ず来るときが来ただけじゃねえか、なあ。
己の骸にすがりつき、泣きじゃくる金髪の少女を見下ろしながら、整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンはそう言おうとしたが、しかし声は地上までは届かなかった。
……嬢ちゃんなら大丈夫。もう、一人でもやってゆけるさ。
なんたって、オレのたった一人の弟子で……オレの娘なんだからよ。
眼下の光景は、どんどん遠ざかっていく。愛しい黄金の騎士に最後の微笑みを投げかけ、ベルクーリは視線をかなたの空に向けた。
その下に居るはずの、もう一人の騎士へも思念を飛ばす。
届いたかどうかは分からなかったが、心の中にはただ、無限に続くと思われた日々の果てにも、ついに死すべきときが来たのだという感慨と満足だけがあった。
まあ、悪いくたばり方じゃねえよな。
「そうよ、泣いてくれる人がいっぱい居るんだから、幸せだと思いなさい」
不意に響いた言葉に振り向くと、そこに浮かんでいるのは、眩い裸体に長い銀の髪だけを流したひとりの少女だった。
「……なんだ、アンタやっぱり生きてたのかよ」
肩をすくめると、銀瞳を瞬かせ、最高司祭アドミニストレータは軽く笑った。
「そんな訳ないじゃない。これは、あなたの記憶のなかの私。あなたが魂に保持していた、アドミニストレータの思い出」
「ふうん、何だかよくわかんねえな。でも……オレの記憶のなかのアンタが、そうやって笑ってられてよかったよ」
ベルクーリもにやりと笑い、おっ、と横を見た。
そこには、いつのまにか愛竜・星咬がその長い首を摺り寄せていた。
銀色に透き通る飛竜の首筋を掻いてやってから、騎士長はひょいっとその背中に飛び乗った。手を伸ばし、アドミニストレータの華奢な体も自分の前に座らせる。
ただ一人の主は、振り向くと首を傾げて問うた。
「お前は、私を恨んでいないの? お前を無限に続く時間の牢獄に閉じ込めた私を?」
ベルクーリは少し考え、答えた。
「うんざりするほど長かったのは確かだが、でもまあ、面白え一生だったさ。うん、そう思うよ」
「……そう」
微笑むアドミニストレータから眼を離し、ベルクーリは星咬の手綱を鳴らした。
竜は透き通る両翼を広げ、無限の空を目指して、ゆっくりと羽ばたいた。
遥か離れた北の空の下――。
大地に高く屹立する、かつて東の大門として知られた巨大な遺構の中央に立っていた整合騎士ファナティオ・シンセシス・ツーは、はっと眼を見開いて空を見上げた。
耳元に、愛する男の声が響いた気がしたのだ。
――済まねえな。どうやらもう、会えそうにない。
――後は頼んだぜ。その子を、幸せにしてやってくれ……。
同じ言葉を、ファナティオは、この場所で別れる直前に騎士長ベルクーリから掛けられた。
篭手に包まれた両手で、そっと下腹部を撫でる。
新しい命を授かったのは、三ヶ月前だった。これまで、百年というもの頑なにファナティオに触れようとしなかったベルクーリは、あるいはその時点から予感していたのかもしれない。
己の死を。
ゆっくりと地面に跪き、ファナティオは持ち上げた両手で顔を覆った。
自然と、嗚咽が漏れた。
ベルクーリが、ファナティオだろうと誰だろうと女性を遠ざける理由は、遥か昔に聞かされていた。
整合騎士が異性と契りを結び、子を授かったとして――。
その子供は、天命凍結処理を受けているベルクーリやファナティオよりも、確実に先に老いて死んでしまうのだ。と言って、最高司祭に同様の処理を施してもらうのもまた残酷なことである。
ベルクーリがファナティオの気持ちを受け入れたのは、最高司祭が入寂したあとのことだ。
つまり彼は、見守ると決めたのだ。限りある時を生きる、我が子の姿を。
ならば――。
「……御安心ください、閣下。この子は、私が立派に育てます。閣下のように、雄々しく、誇り高い人間に」
嗚咽とともに、ファナティオはしっかりと決意を言葉にした。
でも、今だけは。
今だけ、嘆く私を許してくださいね。
地面に身を投げ出し、かつて騎士長ベルクーリが駆け抜けていった土を握り締め、ファナティオは声を上げて泣いた。
「てめえらに個人的な恨みは無ぇが……」
長刀をまっすぐ黒の歩兵群に向けたクラインの、ブロークンな英語が古代遺跡に響き渡った。
「ダチをさんざ痛めつけてくれた借りは返すぜ。三倍返し……いや、億倍返しだこの野郎ども!!」
言い放つや、敵軍の壁にまっすぐ突っ込んでいく。その無謀さに、傷の痛みも一瞬忘れてアスナは呆れたが、直後クラインのすぐ隣に黒褐色のコードラインが降り注ぎ、新たな人影を作り出した。
現れたのは、大型工具のごとく無骨かつ凶悪なバトルアックスをひっさげた、チョコレート色の肌の巨漢だった。
「……エギルさん!!」
掠れた声でその名を呼ぶ。
かつて、SAO攻略組を戦力面でも経済面でも強力にサポートし続けた“戦う商人”は、ちらりとアスナを振り返ると、魁偉な容貌ににやりと笑みを浮かべ、右拳の親指を立てた。
すぐに、地響きを立ててクラインの後から突撃していく。
三人目と四人目は、アスナのすぐ目の前に現れた。
青いワンピースの上にフリルつきの白いエプロンを重ね、腰に大型のハンマーを下げたショートカットの少女。続いて、軽快なスパッツ姿に銀灰色のチェーンメイルを装備し、二本のおさげを頭の両側に跳ねさせた小柄な女の子。
「リズ!! シリカちゃん!!」
ここでついに、アスナの両眼に涙が溢れた。
同時に全身から力が抜け、がくりと膝を突きながら、アスナは強い絆で結ばれた仲間たちに両手を差し伸べた。
「来て……来てくれたのね……」
「来るわよ、もちろん」
「当たり前じゃないですか」
同時ににっこりと笑ってから、リズベットはアスナの右手を、シリカは左手をぎゅっと握った。二人の顔が、泣き笑いに変化する。
「……こんなに無茶して……傷だらけになって……。がんばりすぎだよ、アスナ」
「あとは任せてください。みんな、来てくれましたから」
リズベットとシリカに両側から抱きしめられただけで、アスナは全身に穿たれた傷の痛みが、仄かな暖かさに溶け、消えていくのを感じた。
「ありがと……ありがとう……」
あとからあとから零れ落ちる涙を通して、コードラインの雨が、遺跡の入り口付近に降り注ぐのが見えた。
現れたのは、鮮やかな色彩を身にまとう無数の剣士たち。
一斉に剣を、斧を、槍や弓を握り、周囲の黒い歩兵たちに斬りかかっていく。
その熟練の個人技と、見事に統制の取れた集団連携は、彼らがみなアメリカ人テスター達を上回る経験を持つVRMMOプレイヤーであることを示していた。
――そうか。
アスナは、ようやく再回転し始めた頭で状況を察した。
アメリカ人たちが現れた時点で、アンダーワールドの時間加速は当然一倍に固定されていたのだ。それはつまり、日本からでも、アミュスフィアによるダイブが可能だということだ。
でも、皆の身にまとう鎧や携えた剣の強い輝きからは、使用されているのがデフォルトの衛士アカウントでないことが如実に見て取れる。
つまり――コンバートしたのだ。
長い、長い時間と努力をつぎ込み、育てたVRMMOキャラクターを、アンダーワールドサーバーへと同等置換させたに違いない。
もう一度、元のVRMMOに持ち出せるかどうかも定かでないのに。それどころか――アンダーワールドの法則を考えれば、“死亡”した瞬間にキャラクターがデリートされてしまうことだって有り得るのに!
「みんな……ごめん……ごめんね」
アスナは涙声で目の前の親友二人に、そして前線を押し上げていく沢山の剣士たちに謝った。
「何言ってるのよ、アスナ」
リズベットの答えは、揺るぎない確信に満ちていた。
「あたしたちがキャラを育ててきたのは、きっとこのためなんだよ。今この場所で、大切なものを守るために、あたしたちのアバターは存在したんだ」
アスナはゆっくり、深く、強く頷いた。
最後にぎゅっと二人の手を握り、立ち上がったときには、全身の傷はすべて消え去っていた。
と、背後から、おずおずと声が掛けられた。
「あの……アスナ様? いったい……あの騎士たちは……」
目を丸くして立っていたのは、整合騎士レンリだった。その後ろに、危地を救われた衛士たちも従っている。
アスナは、レンリとリズベットたちの間に視線を往復させてから、微笑みとともに答えた。
「わたしの、大事な仲間たち。リアルワールドから、助けに来てくれたの」
レンリは数回瞬きし、リズベットとシリカに遠慮がちな視線を向け――。
その幼さの残る顔に、大きく安堵の表情が浮かんだ。
「……よかった……ほんとによかった。僕はてっきり、外の世界の人間たちは、アスナ様以外はみんなあの恐ろしい兵隊たちなのかと……」
「ちょっとちょっと、そんな訳ないじゃん!!」
少し心外そうな、しかし親しみを込めた笑顔とともに、リズベットがレンリの肩を叩いた。
「あたしリズベット。よろしくね、騎士くん」
「あ……は、はい。僕は、レンリといいます」
その光景を微笑みながら眺めていたアスナは、不意に、強い予感をおぼえた。
自分はたぶん、この光景を、一生忘れないだろう。
分かたれた二つの世界に生まれた人たちが、出会い、言葉を交わし、関係を築きはじめた、この瞬間を。
ここから続いていくはずの物語に、悲しみで幕を下ろしてしまうわけにはいかない。
大きく息を吸い、アスナは口調を変えてリズベットに尋ねた。
「リズ、コンバートしてくれた人たちの数は?」
「あ、うん。二千を少し超えるくらい、かな。がんばったんだけど……話を聞いてくれた人全員ってわけにはいかなかった……」
唇を噛む親友の背中を、軽く叩く。
「じゅうぶん過ぎるわ。でも……再コンバートの可能性を残すためにも、消耗戦は避けたいわね。あまり前線を広げないで、ヒールを厚くしよう。リズとシリカちゃんは、二百人くらい後方に下げて、支援隊を組織して」
意識を戦闘に切り替え、アスナはレンリと衛士たちにも口早に指示した。
「皆さんも、不本意でしょうが治癒術要員に回ってください。リアルワールドの剣士たちは神聖術に不慣れなので、彼らにコマンドを教えてやってくださると助かります」
「は……はい! 衛士隊、聞いてのとおりだ! 援軍のかたがたを支援するぞ!」
すぐに、この一両日の連戦に疲弊の色濃い衛士たちも、強く応の叫びを返した。
「……それで、アスナさんはどうするんですか?」
訊いてくるシリカに、アスナは片目をつぶってみせた。
「勿論、いちばん前で斬り込むわよ」
もう、負ける気はさらさらしない。
最前線に駆けつけ、そこにアルヴヘイムで見慣れた面々――シルフ領主サクヤや、ケットシー領主アリシャ、サラマンダー将軍ユージーンらの姿を見出したアスナは、意を強くしながら彼らと深く頷きを交わした。
いや、ALOからのコンバート組だけではない。
正確極まるクロスボウの連射で、剣士たちを強力に援護しているのはガンゲイル・オンラインのガンナーたちだろう。
それに、密に固まって嵐のように敵をなぎ払っていくのは、かつてあまたのVRMMOを席巻した最強集団、スリーピング・ナイツの面々だ。
アスナを見つけ、にこっと笑顔を送ってくるシーエンの顔に、もう一度涙がにじみそうになるのを堪える。
彼らは皆、分身たるアバターを喪失する覚悟で助けにきてくれたのだ。ならば、ただ一人スーパーアカウントに保護されている自分が最大の危険を冒し、彼らの犠牲を最小にとどめなくてはならない。
アスナは戦場を走り抜け、広がりすぎた前線を縮小して、遺跡参道の入り口を中心とした半円形へと築きなおした。
いかにコンバートプレイヤーたちのステータスが強力と言えども、総数二千に対してアメリカ人プレイヤーたちはまだ一万を超える数が残っている。消耗戦になれば、死者つまり喪失するアバターの増加は避けられない。
幸いというべきか、アンダーワールド人界軍の少なさと必死の防戦ぶりに戸惑いを見せつつあったアメリカ人たちも、この状況に至って、これを通常のベータテストと認識しなおしたようだった。威勢のいい叫びとともに、日本プレイヤーの防御線に馬鹿正直な突撃を繰り返し、次々と倒れていく。
残る最大の懸念は――。
アンダーワールドに厳として存在する、リアルな“痛み”だった。
斬られ、痛みを感じたときにはもう死亡・ログアウトするアメリカ人たちと違い、負傷・後退・回復を繰り返す日本人たちは、常に強い苦痛に晒され続ける。
それが、徐々に心を折っていくのは、アスナが先刻我が身で実感したとおりだ。
お願いみんな……がんばって。あと一万、いえ九千の敵を削り切るまで。
そうすれば、オーシャンタートルを襲撃した者たちが、アンダーワールドで行使できる戦力は尽きる。あとは、騎士長ベルクーリとシノンが足止めしていてくれるはずの皇帝ベクタに追いつき、アリスを奪還するのみ。
最前線でレイピアを振るいながら、アスナは精一杯の声で叫び続けた。
「大丈夫……勝てるよ! みんななら、絶対に勝てる!!」
広野タカシは、何度目かの、一体僕はここで何をしているんだろう、という疑問を感じていた。
午前五時に友人からのメールで叩き起こされ、ログインしたALOでの理不尽極まるコンバート要請に応じたのは、決して演説していた女の子に共感したからでも、涙にほだされたからでもない。
正直、なんとなく、というのが一番近い。
どんなVRMMOだろうという好奇心が少し。高校に入って初っ端の実力テストが最悪だったせいで、どうせもうすぐ親にアミュスフィア取り上げられるし、という投げ遣りな気持ちがもう少し。そして――何かがあるのかも、見つかるかも、というほんの僅かな予感。
二年間の廃プレイで育て上げたキャラクターをコンバートし、聞いたこともないサーバーにログインしたタカシを待っていたのは、目の前に立ちはだかる黒い鎧の大男と、本場の発音による“サノバビッチ”と、振り下ろされるハルバードだった。
悲鳴を喉に詰まらせながら飛び退いたが、斧槍の先っぽが左脚の装甲にがつっと食い込んだ。
あんな痛みを感じたのは、小学生の頃に自転車で転び、スネの骨を折ったとき以来だった。
聞いてねえよ――!! と内心で絶叫しながら、タカシはハルバードの追い討ちを懸命に掻い潜り、抜いた廃装備の片手剣で何とか大男とのタイマンに勝利し、脚の傷から流れ出るリアルな血に吐きそうになっていたところを、引っ張られるように戦域後方の回復部隊へと連れてこられたのだった。
僕はここで何をしているんだ。
という疑問に曝されつつ、もう嫌だ、ログアウトする! と口走るタカシの治療に当たったのは、薄青い僧侶服を着た、つまり僧侶なのであろう同年輩の女の子だった。
なんだか――不思議な感じがした。
「まあ、酷い傷! すぐに治して差し上げますから、騎士様」
細い声でそう言い、タカシの脚に両手をかざして呪文――というかコマンドを唱える女の子を見て、一瞬NPCかと思った。
しかし、灰色がかった茶色の瞳に浮かぶ懸命な色、異国風なのに何人だか定かでない顔立ち、そして、傷を癒していく白い光の暖かさ。それら全てがタカシに、この子は本物の人間なのだ、と告げていた。
そんなことがあるのだろうか。日本語を話すのに、日本人プレイヤーではなく、NPCでもない。ならば、この女の子は一体誰なのか。そして、ここは何処なのか。
奇妙なことではあるが、タカシは、左脚の傷とその痛みを受けたときよりも、それらが暖かな光に溶けるように癒されていく瞬間はじめて、自分が単なるVRゲームではなくある種の巨大な出来事(もしくは運命)の只中に居るのだということを強く意識した。
「さあ、これでもう大丈夫です、騎士様」
僧侶服の少女が、少しだけ誇らしげな表情で両手を離したとき、あれほど惨たらしかった傷口はすっかり塞がり、薄茶色の痕がわずかに残るのみだった。
「あ……ありがとう」
タカシはつっかえながらも礼の言葉を口にした。何かもう少し、“騎士様”に相応しい気の利いた台詞が言えないものかともどかしく思い、しかし俯けた顔がかあっと熱くなるだけで舌はぴくりとも動こうとせず、気付くと彼は、自分でもまったく思いがけない行動に出ていた。両腕を伸ばし、少女の華奢な体を、そっと抱き寄せたのだ。
もしこの世界が、通常のVRMMOワールドであれば、タカシの行為は“NPCへの不適切な接触”コードを侵害し、警告を受けるか強制的にログインステージまで戻されていただろう。
しかし僧侶見習いの少女は、タカシの腕のなかでぴくりと体を震わせ、驚いたように小さく息を吸い込んだだけだった。数秒後、タカシは、少女の腕がおずおずと自分の背中に回され、控えめではあるが確かな圧力をもって引き寄せるのを感じた。
「大丈夫ですよ、異国の騎士様」
肩口で、穏やかなささやき声が発せられた。
「臨時の神聖術師の私だって、こうして……ささやかですが、自分の務めを果たせているんですもの。騎士様はその何倍も、立派に、勇敢に、戦っておいでです。いくさ場で畏れの風に惑わされたときは思い出してください……ご自分が、多くの民を、そして世界を守るために剣を取っているのだということを」
口をつぐみ、少女は、いっそう強くタカシを抱きしめた。
タカシにとって、女の子と抱き合うという経験は、現実世界と仮想世界を通して初めてのことだった。しかしたとえ、万が一現実世界で彼女ができるようなことがあったとしても、この瞬間を上回る経験は決してできまいという確信があった。
目くるめく一瞬が過ぎ去り、互いの体がそっと離されたあと、タカシは意を決して尋ねた。
「君……よかったら、名前を教えてくれないか」
幸い、今度はスムーズに口が動いた。見習い僧侶は、白い頬をほんのりと赤く染めながら頷き、言った。
「はい……。私はフレニーカと言います。フレニーカ・シェスキ」
「フレニーカ」
不思議な響きだが、しかし目の前の少女にしっくりと馴染むその名を呟いてから、タカシははっきりとした声で名乗った。“ヴォルディレード”というキャラクター名ではなく、大嫌いなはずの本名を。
「僕は……僕の名前はタカシ。広野タカシ。……あの……この戦争が終わったら、また、会えるかな」
フレニーカは眉をわずかに持ち上げ、その下の薄茶色の瞳を微笑むようにきらめかせて頷いた。
「勿論ですとも、騎士タカシ様。戦が終わり、世界に平和がきたら、その時にはかならず。ご武運を……いつも神にお祈りしております」
膝の上に置かれたタカシの左手を、フレニーカはぎゅっと両手で包み込んでから、恥じ入るように俯き、さっと立ち上がった。
薄い青色の僧服の裾をひるがえし、たたっと天幕の外へ走り去っていくフレニーカの姿を見送りながら、タカシは強く意識した。再び彼女の前に、胸を張って――騎士として立つためには、彼女の言うとおり、勇敢に戦い抜かねばならないと。この世界は、もはやゲームでも、そしてある意味ではアミュスフィアが作り出す仮想世界ですらもないのだ。タカシの生まれ育った現実世界と同じ質量を持つ、もうひとつの現実なのだ。
もしかしたら、ログアウトしたあと、何を馬鹿なことを考えたんだ僕は! とのたうち回る羽目になるかもしれなかったが、しかしタカシはこの瞬間だけは本気で信じた。そして決意した。
たとえHP、いや命が尽き、この世界から放逐されるときがきても、最後の一瞬まで前を向き、剣を振りかざそう。どれほどの傷、痛みを与えられようとも。それが出来なくては、きっと二度とフレニーカと会うことはできまい。
タカシは立ち上がり、おっしゃあ! と叫んで、再び最前線目指して走りはじめた。
「間に合った……ッスかね……」
酷使しすぎて強張った両腕をぶらぶらさせながら、比嘉タケルは呟いた。
日本のVRMMOネットワークから急遽送り込まれてきた約二千ものアカウントデータを、わずか一時間足らずでアンダーワールド適合形式にコンバートしてのけたのだ。両手の指先に、キーボードの硬い感触が張り付いてしまったかのようだ。
「間に合ったわ。必ず」
スポーツドリンクのボトルを差し出した神代博士が言った。
受け取り、握力の失せた右手で苦労してキャップを捻ると、中身を大きく呷る。ベンダーの電源はとうに落ちているので、液体は生ぬるかったが、それでも腸に染み入るようだった。
ふうっと息を吐き、比嘉はゆっくり首を振った。
「まったく……なんて迂闊だったのか……」
ラース六本木支部に突然現れた二人の女子高生から、メインシャフト下層を占拠する襲撃者たちが、現実世界のアメリカ人VRMMOプレイヤーたちをアンダーワールド内で戦力として利用しようとしていると告げられたときは、たっぷり五秒近く思考停止してしまったものだ。
しかもそれを察したのが、結城明日奈の携帯端末に潜んでいた既存型AIだと言われれば、自分の目のフシ穴っぷりと脳みそのスポンジっぷりを全面的に認めるしかなかった。
取るものもとりあえず、菊岡二佐の知己だという女子高生たちを残るスーパーアカウントでダイブさせ、しかる後に膨大なコンバート作業をこなし、どうにか“援軍”を結城明日奈の現在座標に降下させたところ――である。
五万を超えるアメリカ人プレイヤーたちに、創世神ステイシアたる明日奈と人界軍が排除されていれば、アリス確保の可能性はほぼ潰える。実際、状況を認識した菊岡と中西一尉は、オーシャンタートル外壁を人力で登攀し、衛星アンテナを物理破壊することも検討していた。
しかし、外壁に出るには、どうしても一時的に耐圧隔壁のロックを解除する必要がある。それを襲撃者たちに察知されれば、サブコントロールまで制圧されるという最悪の結果を招きかねない。
ゆえに、菊岡と比嘉は、すべてを託すことにしたのだ。女神としてアンダーワールドに降り立った三人の女子高校生たちと、アカウント喪失のリスクを承知で援軍に志願してくれた、日本の若者たちに。
この時点で、プロジェクト・アリシゼーションの機密はすでに半ば以上がネットに流出してしまったことになる。
しかしもう、そんなことは大した問題ではない。
襲撃者たち――そしておそらくその背後にいるのであろうアメリカ軍産複合体にアリスを奪われ、来るべき無人兵器の時代を、またしても彼らに完全支配されてしまうことに比べれば。
「そうッスよ……」
比嘉はシートにぐったりと身を沈ませながら、誰にも聞こえない音量でひとりごちた。
「“アリス”はもう、ただのUAVコントローラなんかじゃない。本物の異世界に生まれた、新しい人類なんだ……君にはとっくにそれが分かっていた、そうッスよね、桐ヶ谷君」
視線を、アンダーワールド南部の地勢を表示するメインウインドウから、片隅に表示された桐ヶ谷和人のフラクトライトモニタに向ける。
ささやかに揺らぐ放射光は、相変わらずその中央に寒々しい虚無を抱え込んだままだ。失われた主体。傷ついた自己イメージ。
これ以上そのウインドウを開いておくのがいたたまれず、比嘉はマウスを操作して、窓を閉じようとした。
そして×印をクリックする寸前、ぴたりと指を止めた。
「ん……?」
丸い眼鏡を持ち上げ、目を凝らす。おや、と思わされたのは、ウインドウ下部に横長の線で表示された、フラクトライト活性の変動ログだった。
ほんの四、五十分前。それまで殆ど動くことのなかったラインが、鋭いピークをたった一つだけ刻んでいた。慌ててログを過去にスライドさせる。するとはたして、八時間ほども遡ったあたりに、もう一つさらに大きなピークが見出された。
「ちょ……ちょっと、凛子ハカセ。これ見てくれますか」
「その呼び方やめてちょうだい」
嫌そうな声とともに、ドクター神代がメインスクリーンに顔を向けた。
「これは、桐ヶ谷君のフラクトライトモニタでしょ? この変動は何なの?」
「彼の、全喪失したはずの自己意識が一瞬活性を示した……ってことなんスが……そんなこと、あるはず無いはずなはずなんス」
「日本語おかしいわよ。――外部から、何か強い刺激があったんじゃないの?」
「と言っても、その刺激を処理する回路が吹っ飛んでる状態なんスよ。本能や反射を処理する領域の活性ならまだ分かりますけど……ええと、この時間は……」
比嘉はログ窓のタイムスケールに目を凝らした。だが、それを確認したところで、その時刻にアンダーワールド内部で何があったのかまでを知るすべは無い。
しかし、その時――。
「ちょっと待って」
神代博士が、緊張感の増した声を出した。
「この時間。これ……どっちも、あの子たちがSTLでダイブした頃じゃないの? 明日奈さんと、六本木に現れた二人が」
「えっ、マジっスか。……うわ、マジっスよ」
比嘉も息を飲んだ。たしかに、折れ線グラフに二つの鋭利なピークが刻まれた時間は、まさしく女子高校生たちがアンダーワールドに降り立った直後に他ならない。
「えっ、どういうことなんだ……。ただ、親しい人間が現れたから強い反応を示した、ってだけなのか? いや……桐ヶ谷君のダメージは、そんなリリカルな理由で回復する代物じゃないはずだ……何か理由が……フィジカルでメカニカルな理由があるはずなんだ……」
シートから立ち上がり、比嘉はうろうろとサブコンを歩き回った。容易ならざる気配に気付いたのか、さすがにダウン気味だった菊岡や、壁際にへたりこむ技術者たちもいぶかしい視線を向けてくる。
しかしそれを意識もせず、比嘉は思考をひたすら回転させた。
「自己……主体……己を己と規定するイメージ……そのベクターデータのバックアップが、どこかにあった……? いや、有り得ない……キリト君のフラクトライトは一度もコピーしていない……仮にコピーしていたところで、それを単に書きもどすだけじゃ機能しないはずだ……生きた接続回路を持つデータじゃないと……どこだ……どこに……」
「ねえ。ねえ、比嘉くん」
ヒガくんってば、と何度か名前を呼ばれて、ようやく比嘉は顔を上げた。
「なんッスか」
「前から君が言ってる、主体の喪失、って具体的にどういうことなの?」
「ええと……そりゃつまり……」
黙考を邪魔されて、あからさまな渋面を作りながらドクター凛子に答える。
「心のなかの自分っスよ。客体に対する主体。自分ならこの場面でどうするか、を処理する回路」
「うん、それは前にも聞いたわね。でも、私が言いたいのはね……主体と客体って、そんな簡単に分割できるものなの? ってことなの」
「は?」
予想外の言葉に、比嘉は激しく目をしばたかせた。
しんと静まり返り、クーリングユニットの低音だけが響く部屋に、神代博士の艶のある声が流れる。
「私たちは理系だから、どうしても主観的予測と客観的データを厳密に切り分けようとする習い性があるけど……でも、こと心に限って言えば、自分ひとりだけで自己像を規定するなんてこと、ほんとにできるのかしら。自分のなかの自分ていうのはつまり、他の人の目から見た自分とかなり重複する部分がある……、そうは思わない?」
「他人の……なかの……自分……」
言葉にしたとたん、比嘉はその概念が、自分のもっとも忌避する種類のものであることを自覚した。
人にどう見られるか。人と比べてどうか。
――神代凜子にどう見られるか。
――茅場晶彦と比べてどうか。
そうか……。
僕は、自分の顔すらよく知らない。たぶん似顔絵を描けば、似ても似つかぬ代物になるだろう。それは僕が、自分の容姿を――どう足掻いても茅場先輩と比べるべくもない有様を、遠い昔から忌避してきたからだ。僕のなかの主体なんて、所詮その程度のものなんだ。
おそらく、周囲の人間のなかの“比嘉タケル像”を集めて合成すれば、かなりのところまで再現できてしまう程度のものでしかないのだ……。
こりゃ一本取られた、と自嘲ぎみの微笑みを浮かべようとした比嘉は――。
びくっ、と口元を強張らせた。
ここに至ってようやく、凛子博士の発言の真意を悟ったからだ。
「……セルフイメージの、バックアップ」
呟き、がばっと顔を上げたときにはもう、情けない自己嫌悪など欠片も残さず消え去っていた。
「そうか……ある、あるぞ、桐ヶ谷君が吹っ飛ばしちまった主体を補い得るデータが! 彼に近しい人たちのフラクトライトの中に……!!」
叫び、先刻に倍する速度で床上を歩き回る。
「でも、それを抽出するにはSTLが必要だ……しかも、一人だけじゃ再現性が薄い……せめて二人、いや三……人……」
大きく息を吸い、止める。
桐ヶ谷和人をもっとも深く知り、そのイメージを魂に保存している人物。それは間違いなく結城明日奈だ。しかも彼女は、まさに今、和人の隣のSTLに接続している。
そして六本木分室のSTLには、おそらく和人とも知り合いなのであろう女の子が、さらに二人。
比嘉は菊岡二佐に視線を向け、掠れた声で聞いた。
「菊サン。六本木からダイブしてる子たちは、桐ヶ谷君の関係者……なんスよね?」
「……ああ、無論」
菊岡も、黒縁メガネのレンズをきらーんと輝かせながら頷いた。
「シノン君は、キリト君に文字通り命を助けられた仲だ。そしてリーファ君は、キリト君の妹だよ」
一瞬の沈黙に続き、比嘉も丸メガネのレンズを光らせた。
「……来た。来たっスよこれ! できる……復元できるかもしれないッス、キリト君のセルフイメージを! 女の子たちのフラクトライトから、強固に構築されてるはずの桐ヶ谷君像を抽出・融合させて、STLを使って喪失領域に繋いでやれば……その“生きたデータ”は、桐ヶ谷君のフラクトライトに接続し得るはずだ……」
体の底から湧いてくる熱気に、比嘉はばしっと両手を打ち合わせた。
そして――一秒後。
その熱が、跡形もなく奪われ、冷えていくのを感じた。
「あっ……ああ……うそだろ……あああっ……」
「ど、どうしたの、何なのよ比嘉君!」
早口に言い募るドクター神代の顔を見て、比嘉はうわごとのように呟いた。
「その操作が……できるのは……メインコントロールからだけッス……」
再び、重い沈黙が灰のように降り注ぎ、サブコントロールルームの床に積もった。
深いため息を漏らしたのは、指揮官である菊岡だった。
「そうだな……当然、そういうことだ……。いや、そうしょげるな、比嘉君。キリト君の治療に光明が見えただけでも良しとしよう。実際のオペレーションは、状況が終了し、オーシャンタートルから連中を追い出した後からでも……」
「それじゃあ……遅いんスよ……」
比嘉は俯いたまま菊岡の言葉を遮った。
「“ながと”からコマンドが突入してきて、メインシャフトで大規模な戦闘になったら、十中八九サブ電源も落ちるでしょう。メインコンも破壊されるかもしれない。当然、桐ヶ谷君のSTLはシャットダウンして、彼はアンダーワールドからログアウトする。そしたら……おそらく桐ヶ谷君は、もう二度とSTLダイブは出来ません。今の状態では、初期ステージを通過できないスから……。治療はなんとしても、彼と三人の女の子たちが、アンダーワールドに接続してるあいだに行わなくちゃならないんス」
淡々と言葉を続けながら、比嘉は自身のなかに、ある種の決意が満ちてくるのを感じていた。
こんな時、自分ならどうするか。
しばらく前ならば、おそらくこう答えていただろう。僕に何ができるわけもない。茅場センパイじゃあるまいし、と。
でも、そんなものは本物のセルフイメージじゃない。ただの逃げだ。言い訳だ。
僕が知っている比嘉タケル、STLとアンダーワールドを設計した大天才ならば、きっとこう言うはずなんだ。
「……僕、行くッスよ、菊さん」
「行くとは……どこにだ」
眉をしかめる指揮官を見やり、比嘉はにやりと笑った。
「別に、下に殴りこもうってわけじゃないッス。メインコントロールから、キリト君のSTLに繋がってる主回線ダクトには、一箇所だけ点検用コネクタがあったはずッスよね。あそこに端末を繋げば、四つのSTLの操作だけなら可能ッス。残念ながら、ライトキューブクラスタは別回線ですが……」
一瞬、唖然とした顔を見せた菊岡は、鋭さを増した表情で反駁した。
「しかし、コネクタは隔壁の向こうだぞ。一瞬でもロックを解除すれば、敵に意図を悟られるかもしれん。それに、ケーブルダクトは下からもアクセスできる。あんな狭いパイプの中で、敵に発見されたら撃ってくれと言うようなものだ」
「一番目の問題は、囮作戦でいきましょう」
「オトリ、とは?」
「隔壁を解除したら、艦内通路のハッチからも下に突入させるんス。もちろん、貴重な人員をじゃなくて……アレを」
再び、菊岡の細い目が光った。
「なるほど……アレか。“ロボ三衛門”だな。すまない、誰か隣の倉庫から運んできてくれないか」
スタッフの一人が通路に走り出すのと同時に、神代博士ががくんと顎を落とした。
「な……なにそれ!?」
「凛子先輩は、人工フラクトライトのこちらでの姿をご存知ッスよね?」
「姿……つまり保存メディア? ライトキューブのこと?」
「そう、単なるこれっくらいの立方体です」
比嘉は両手で五センチ四方のサイコロ型を示しながら頷いた。
「つまり、単体では一切の動作や移動が出来ない。それでは、仮に“アリス”が完成し、現実世界にイジェクションしたところで、体が無いというストレスで崩壊してしまうのではと我々は危惧したんス。ゆえに、まあ、その、人間型のマシンボディを試作してみようと。幸い予算はタップリあるし」
ちょうどその時、ドアがしゅっとスライドし、大きな台車がごろごろと運び込まれてきた。しゃがむ形で乗っているのは、確かに人間のシルエットをしてはいるが、どこか大昔のロボットヒーローめいた外装を与えられた等身大のメカニカルボディだ。
「あっ……きれた……。国民の税金をチョロまかして、そんな物作ってたのね……」
「いやいや、バカにしたもんじゃないッスよ! 既存の制御プログラムでも、時速二・五キロで二足歩行するんスから! 人工フラクトライトは、勿論僕らと同レベルのバランサー機能を備えてますからね。こいつに搭載すれば、理論上はナマの人間に迫る動きが可能なはずッス!」
「はぁ……、まあ……いいわ」
神代博士は額を押さえながら二、三度頭を振り、表情を切り替えた。
「つまり、隔壁ロックを解除したあと、通路のハッチからその……ロボザエモンをオートプログラムで侵入させるわけね。まあ……確かに目立つ、というか悪巧み以外の何物にも見えないでしょうけど……」
「そして同時に、僕がケーブルダクトに侵入する。連中が哀れな三衛門を撃ちまくってるあいだに、コネクタからSTLを操作する」
「ねえ。ちょっと待って。ザエモンて……まさか、イチエモンとニエモンが……」
比嘉と菊岡はドクター神代の疑問を黙殺し、深刻な表情で作戦検討を続けた。
「しかし比嘉君。ロック解除はそれで誤魔化せたとしても、君が発見される危険が完全に消滅するわけじゃないぞ。やはり、護衛を数人連れていったほうが……」
「いえ、今となっては自衛官スタッフは貴重すぎる戦力ッス。それに、あんなクソ狭いダクトを移動できるのはガリチビの僕くらいッスよ。何、さっと行ってさっと帰ってきますから」
比嘉は軽い調子でそう言った――ものの、やはり心拍が増加するのは止めようがなかった。
もし敵に発見され、拳銃で撃たれたら、と思うと胃の下あたりがきゅうっと縮む。オーシャンタートル襲撃時ですら、比嘉は直接には敵コマンドの姿を目視していないのだ。
しかし。
僕は、いやラースという組織全体が、桐ヶ谷君に巨大な借りがある。比嘉タケルは内心でそう呟いた。
記憶をブロックしたとは言え、現実世界で三日、内部では十年以上もの時間を過ごさせて、人工フラクトライト達に重要なトリガーを与えてもらった。限界突破フラクトライトたる“アリス”が発生したのは、間違いなく彼の存在あってこそだ。
さらにその後、治療目的だったとは言えリミッターを解除したSTLにつなぎ、結果としてフラクトライト破損という重大なダメージを被らせてしまった。しかもその原因は、彼がアリスを保全しようとしてアンダーワールド統治組織と苦しい戦いを繰り広げ、多くの仲間を失ったせいなのだ。
ならば、彼を治療できる可能性がある以上、どんなリスクを冒してでもそれに挑戦しなくてはならない。そうでなくては一生彼に顔向けできない。
比嘉タケルはぐっと両拳を握り、菊岡に頷きかけた。
――その時だった。
第四の声が、細々とサブコントロールルームに響いた。
「あのぉ……私も、比嘉チーフと一緒に行きますよ……」
全員の視線を集めたのは、これまで壁際のマットレスにうずくまっていた、ラース技術スタッフの一人だった。比嘉に負けず劣らず小柄で、四肢の細さではあるいは上回るかもしれない。
「私もこんなガリガリですし……でも、弾除けくらいには……なるかな、って……。それに、あのケーブルダクトの敷設監督したの、私ですから……」
これまであまり存在感のなかったその男性スタッフの顔を、比嘉はまじまじと見つめた。けっこう齢が行っている、おそらく三十代半ばか。長い髪を後ろで束ね、海のまんなかに何ヶ月もいたにしては肌が白い。勇気ある挙手をしたわりには、小さい眼をおどおどと泳がせているが、しかしこれでも確か大手メーカーの研究職ポストを蹴って偽装企業ラースに参じた志ある人物だったはずだ。
正直、道連れができるのはありがたい。比嘉はそのスタッフにまっすぐ向き直り、深く頭を下げた。
「……ほんとのトコ、コネクタの位置をいまいち覚えてないんスよね。すみません、同行お願いします……柳井さん」
ガブリエル・ミラーは、わずかな意識途絶も起こさず、スムーズに現実世界へと帰還した。
いや、正しくは、帰還ではなく予定外の放逐と言うべきだった。STLのシートベッドに横たわったまま、ガブリエルはかすかな驚きの味を口中に転がした。
よもや自分が、仮想世界での一対一での戦闘で敗れるとはついぞ予想していなかったのだ。しかもその相手は、人間ではなく人造の擬似意識だった。
あの老いた男に敗れた理由がなんなのか、ガブリエルは貴重な数秒間を費やして考えようとした。
意思の強さ? 魂の絆? 人と人とをつなぐ愛の力……?
馬鹿馬鹿しい。
ガブリエルは、自覚することなく唇の端に仄かな冷笑を浮かべた。この世界に、目に見えぬ力があるとすれば、それはただ一つ――自分を、来るべき楽土へと導く運命の力だけだ。
つまり、敗れたのは必然だ。それが必要だったからだ。運命は、暗黒神ベクタなどという紛い物の姿ではなく、ガブリエル自身の血肉を求めている。正しいかたちで、再びあの世界に降り立つことを求めているのだ。
ならば、そうするまでだ。
思考を終え、ガブリエルは音もなくシートから降りた。
もう一台のSTLに目をやると、意外にもヴァサゴ・カザルスがまだダイブを継続している。とっくに“死亡”し、ログアウト済みかと思っていたのだが、この男はこの男で何か求むべきものを見出したのだろうか。
まあ、好きにすればいい。
肩をすくめ、ガブリエルは隣接するメインコントロールルームへのドアをくぐった。すぐに、金色の坊主頭がコンソールからひょいっと離れ、緊張感の無い声を放ってくる。
「おつかれです、隊長ー。いやー、やられちまいましたねえー」
「状況は」
そっけなく尋ねると、クリッターはやや表情を改めて報告を返した。
「えー、ご指示のとおり、アメリカから掻き集めたプレイヤー五万人を順次投入しました。すでに半数が損耗していますが、マァ『人界軍の殲滅』という目的は達せられるでしょう。不確定要素としては、K組織側も同様の手段に出まして……戦場に、日本からの大規模接続が確認されましたが、数は二千程度なので、大きな問題にはなるまいと……」
「フムン?」
ガブリエルは片眉を持ち上げて主スクリーンを見た。
そこには、アンダーワールド南部の地形図が表示されている。“東の大門”から一直線に南へと飛び、×印とともに途切れている赤いラインは、暗黒神ベクタことガブリエルの移動ログだろう。世界の南端に存在するシステムコンソールまではまだ半分も来ていないが、アリスは今もその場所に留まっているはずだ。
そして、赤いラインを追いかけるかたちで、青の太いラインも南下している。これが人界軍か。いまは密に固まって停止しているようだ。
その青い人界軍を半包囲するかたちで、黒で表示されている大勢力が押し潰そうとしている。これがアメリカ人のVRMMOプレイヤーとすると、青と黒の間に防壁のように広がる白い光が、日本からの接続者二千――というわけか。
「この日本人たちが使用しているのは、人界側のデフォルトアカウントなのか?」
「だと思いますがねー。それが何か?」
「いや……」
ペットボトルのミネラルウォーターを呷りながら考える。日本のVRMMO中毒者たちが、その半身、いやある意味では現実以上の自分自身であるキャラクターを、アンダーワールドにコンバートするなどということが有りうるだろうか?
いや、まさか。ガブリエルは再度冷たい笑みを浮かべた。
つい一ヶ月ほど前、VRMMO“ガンゲイル・オンライン”の大会でガブリエルに苦もなく全滅させられた連中のような若者たちが、興味本位で接続することはあっても、キャラクター喪失などというリスクを冒すはずはない。
短く回想した戦闘シーンの最後、水色の髪の少女スナイパーが、遠隔起動トラップで爆死させられる寸前に見せた強い目の光だけがかすかに意識に引っかかったが、しかしガブリエルは肩をすくめて思考を打ち切った。
「よし、それでは俺は再度ダイブする。アカウントは、これをコンバートしろ」
ちょうどコンソールに転がっていたペンで、紙切れにIDとパスワードをメモって渡すと、クリッターがぱちぱちと瞬きをした。
「おやま、隊長もですかー」
「も……とは」
「いやー、ヴァサゴの野郎も一度死に戻ったんですがねー。なんかヤケに嬉しそうに、自前アカをコンバートしてまた潜りましたよ」
「ほう」
ガブリエルは、クリッターの手元に放置されていた包み紙に目をやった。記されていたIDの先頭に並ぶ、三つのアルファベットが視界に飛び込んでくる。
「……なるほど。なるほどな」
くっ、と珍しく本物の笑いが喉から短く漏れた。訝しげな顔をするクリッターの肩をぽんと叩き、言う。
「気にするな。ああ見えて、ヤツにもあるんだろう、しがらみってものが。では、よろしく頼むぞ」
身を翻し、STL室に向かう間も、ガブリエルの唇には歪んだ笑みが張り付いていた。
同時刻、ヴァサゴ・カザルスもまた、フードの下でにやにやと笑いながら眼下の戦場を眺めていた。
遺跡参道の北端に立つ巨大神像の頭上からは、アメリカ人プレイヤーと日本人プレイヤーが血みどろの殺し合いを繰り広げるさまが一望できる。
いや、正確に表現するならば、それは一方的殺戮と言うべきものだろう。
参道入り口を中心に、広い半円を描いて布陣する二千人のカラフルな剣士達は、殺到する黒い歩兵群をほとんど損耗することなく斬り倒していく。装備の差も大きいが、仮想世界慣れした身のこなしや、何より後方の支援体制の厚さが決定的だ。傷を負ったものは即座に参道内部に築かれた天幕に運び込まれ、回復呪文で傷を癒してまた元気に前線へと走っていく。
痛みの存在するアンダーワールドにおいて、その士気の維持されようは見上げたものと言うべきだった。それを言うなら、二千ものプレイヤーが、自らのメインキャラクターをコンバートしてまで参戦したこと自体が大いなる奇跡と言ってよかった。
ガブリエル・ミラーすらも、有り得ないことと退けた現状を――。
しかしヴァサゴ・カザルスは、ほぼ正確に予測していた。
アメリカからの接続が可能なら、日本からも人界の援軍がやって来るだろうこと。そしてそれは、コンバートを利用して行われるだろうということまでも、ヴァサゴは予期したのだ。
彼は今、獅子奮迅の活躍を見せる日本プレイヤーたちの中に、“閃光”アスナ以外にも幾つか覚えのある顔を見出し、心の底から興奮していた。躍り上がらんばかりに狂喜していた、とさえ言っていい。
二度と再来するまい、と諦めていたあのデスゲームが、形を変えて再び出現したのだから。
いや、勿論この世界で死んだとて、本物の命まで取られるわけではない。
しかしアンダーワールドには、あの浮遊城には無かったものが有り、有ったものが無い。
つまり――。
“苦痛”があり。
“倫理保護コード”がない。
ならば、きっと大いに楽しめるはずだ。あるいは命を奪う以上の興奮すらも。
「くく、くくくふふふふ」
堪えきれず、ヴァサゴはフードの下でひそやかな笑いを漏らした。
――間に合わなかった。
シノンは、言葉もなく、初老の剣士の傷だらけの骸とそれに取りすがる黄金の少女騎士を見下ろした。
傍らでは、二頭の巨大な飛竜が、嘆きを共有するかのように頭を垂れている。
二つの世界の行く末を左右する黄金の騎士アリスと、彼女を拉致した暗黒神ベクタ、そして二人を追跡する整合騎士長ベルクーリに追いつくために、シノンは懸命に飛行した。ALOで猛特訓した随意飛行技術を大いに発揮し、システムの許す限りの速度で南を目指したのだが、ようやく追いついたときにはもう戦闘は終わってしまっていたのだ。
いや――、讃えるべきはベルクーリの力だろう。
追いつくはずのない飛竜に追いつき、斃せるはずのないスーパーアカウントを斃したのだから。
しかし、ここに一つの巨大な不条理がある。
騎士長は死んだ。その魂は永遠に喪失した。
しかし、暗黒神ベクタはその限りではないのだ……。
シノンは、虚脱したように座り込むばかりのアリスに、危機が去ったわけではないことを告げねばならなかったが、しかし言葉が見つからなかった。
貴重な数分の時間が沈黙のうちに流れ、先に声を発したのは、騎士アリスのほうだった。
仰向けられたとてつもない美貌に息を飲むシノンを、濡れたように輝くふたつのコバルトブルーの瞳がまっすぐに射た。
「あなたも……リアルワールドの方ですか」
「ええ……」
シノンは頷き、どうにか唇を動かした。
「私はシノン。アスナとキリトの友達。暗黒神ベクタから、あなたとベルクーリさんを助けるために来たんだけど……ごめんなさい、間に合わなかった」
跪き、こうべを垂れたシノンに向かって、アリスはそっとかぶりを振った。
「いえ……。私が愚かだったのです。赤子のように攫われてしまった私の咎です……。小父様の……偉大なる整合騎士長の御命に、到底釣り合うものではないのに」
その声に滲む、凄まじい悔恨と自責の響きに、シノンは言葉も無かった。アリスは視線を彷徨わせ、続けて尋ねてきた。
「戦況は、どうなっていますか」
「……アスナと人界軍が、アメリカの……いえ、黒い軍勢を何とか防いでいる、と思う」
「ならば、私も戻ります」
ふらっと立ち上がり、飛竜の片方に向かおうとしたアリスを、シノンはそっととどめた。
「いけない。アリスさん、あなたはこのまま南の……“世界の果ての祭壇”に向かってください」
「なぜです。皇帝ベクタはもう死んだのでしょう」
「……それが……そうではないの」
そしてシノンは、アリスに説明した。リアルワールド人は、アンダーワールドで死んでも、その命を失うわけではないこと。皇帝ベクタに宿っていた“敵”が、今この瞬間にも新たな姿を得て襲来しかねないことを。
反応は――これまで抑えてきたあらゆる感情が炸裂したかのような、凄まじい怒りだった。
「小父様が……命を捨ててまで刺し違えた敵が、死んでいないと!? ただ一時姿を消し、何事も無かったかのように甦ると……そう言うのですか!?」
がしゃっ、と黄金の鎧を鳴らし、アリスはシノンに詰め寄った。
「そんな……そんな、ふざけた話があってたまるものか……!! では……小父様は何のために……何ゆえに死なねばならなかったのですか!! 片方の命しか懸かっていない立ち合いなぞ……まるで、まるでただの茶番ではないですか……」
蒼い双眸から、再び涙が溢れるのを、シノンはただ見つめることしかできなかった。
自分に何を言う資格も無い、とシノンは強く思った。
これまで、仮想世界における無限回の戦闘で、無限回の死を繰り返してきた自分に。そして、この世界では、暗黒神ベクタと同じように死ねども死なない自分には。
しかしシノンは、大きく息を吸い、アリスをまっすぐ見つめて言った。
「なら……アリスさん、あなたは、キリトの苦しみも偽物だと、茶番だと言うの?」
はっ、と黄金の騎士が息を飲む。
「キリトもリアルワールド人よ。この世界で死んでも、リアルワールドでの命までは失わない。でも、彼が受けた傷は本物。彼が感じた痛みは、損なわれた魂は、本物なのよ。……私はね、キリトが好き。大好きだわ。アスナだってそう。他にも、彼のことが好きな人はいっぱいいる。その全員が、キリトのことを心配してる。元気になって、って必死に祈ってる。そして、言葉にはしなくても、何でそこまでしなきゃいけなかったの? って思ってるわ」
アリスの両肩をそっと掴み、シノンははっきりした声で言った。
「キリトが傷ついたのはね、あなたを助けるためなのよ、アリス。そのためだけに、彼はあんなになるまで頑張った。彼の、その気持ちまで、あなたは偽物だって言うの? いえ、キリトだけじゃないわ。騎士長さんだってそう。あなたを助けるために、こんなに傷だらけになって、必死で機会を作ってくれたのよ。あなたが、“敵”の手から脱するための貴重な時間を!」
いらえは、すぐには返らなかった。
アリスは、横たわるベルクーリの骸を、しばし無言で見つめていた。その瞳から、大粒の涙がぽろりと零れ――そして騎士は、ぎゅっと瞼を瞑って、何かに耐えるように顔を上向かせた。そのまま、かすれた声で問いが発せられた。
「私は……もう一度、この世界に戻ってこられますか。愛する人たちに、もう一度会えますか」
それに対して、確たる回答を生み出すための知識はシノンのなかには無かった。ただ一つだけ確実なのは、アリスが“敵”の手に落ちれば、アンダーワールドを内包するアーキテクチャの一切は全て破壊され尽くしてしまうだろうということだけだった。
だから、シノンはゆっくり、力強く頷いた。
「ええ。あなたが……無事でさえいれば」
「……分かりました。ならば、私は南へ向かいましょう。“世界の果ての祭壇”に何が待つのかはわかりませんが……それが小父様の、そしてキリトの意思ならば……」
アリスはふわりと白いスカートを広げて跪き、横たわるベルクーリの頬にそっと口づけた。
立ち上がったとき、その全身には、見違えるようなオーラが漲っていた。
「雨縁。滝刳。もう少しだけ飛んで頂戴ね」
二頭の飛竜にそう言葉を掛けてから、アリスはシノンに視線を向けた。
「あなたは……どうするのですか、シノンさん」
「今度は、私がこの命を使う番だから」
にこっと微笑みかけ、シノンは続けた。
「暗黒神ベクタは、おそらくこの場所に復活すると思う。私は、なんとか斃せるように……少なくとも充分な時間が稼げるように、頑張ってみる」
アリスは軽く唇を噛み、深く頭を下げた。
「……すみません。お願いします。あなたのお命……お心を、決して無駄にはしません」
南の空へと飛び去っていく二頭の竜を見送り、シノンは肩にかけていた白い長弓を手に戻した。
オーシャン・タートルを襲撃したのは、恐らくアメリカ国家機関に支援されたアサルトチームだという。その一人がスーパーアカウント〇四たる暗黒神ベクタに宿り、アリスを襲った。
現実世界では、単なる高校生のシノンには到底抗いようもない相手だ。
しかしこの場所でなら。仮想世界での一対一の戦闘ならば。
誰が来ようと勝ってみせる。
強く自分にそう誓い、シノンはただ、敵が再ダイブしてくるその瞬間を待った。
振り抜いた右拳から、最後の骨が砕ける音がかすかに伝わった。
拳闘士団長イシュカーンは、胸甲の真ん中を陥没させて大の字に倒れる黒い敵兵から視線を外し、己の拳を静かに眺めた。
そこにあるのはもう、あらゆる物を打ち毀してきた鋼鉄の拳骨ではなかった。粉砕された骨と肉が詰まる、ぐずぐずに腫れた皮の袋だった。
左拳は数分前から同じ状態になっている。両脚の骨にも無数の亀裂が走り、蹴ることはおろか走ることすら不可能だろう。
「……見事な闘いぶりでしたよ、チャンピオン」
副官ダンパの掠れた声に、ちらりと後ろを見る。
地面に座り込んだ巨漢は、両腕を完全に喪失したあとも頭突きと体当たりのみで戦い続けた証として、顔と胴体に酷い刀傷を縦横に受けていた。常に闘志と智慧を湛えて光っていた小さな両眼はおぼろに霞み、ダンパの天命が今まさに尽きかけていることを示していた。
イシュカーンは、勇士の魂に敬意を表すべく、砕けた拳を額に掲げてから答えた。
「まァ、これなら、あの世で先代に会っても恥ずかしくねえ死に様だろう」
脚を引き摺って副官の隣まで移動し、どかっと座り込む。
二万を超えていた黒い敵軍は、長時間の激戦を経て、すでに三千程度にまで減少している。しかしその代償として、拳闘士団も今や三百人程度が残るのみとなっていた。しかも全員が満身創痍、もう満足に陣形も組めず、ひとところに密集して座り込みただ押し潰されるのを待っているに過ぎない。
周囲をぐるりと取り囲む三千の敵兵が、一気呵成に最後の突撃を仕掛けてこないのは――。
イシュカーンとダンパの視線の先で、鬼神の如き戦闘を続ける、一人の騎士と一頭の飛竜の存在ゆえだった。
消耗はもう完全に限界を超えていた。
整合騎士シェータ・シンセシス・トゥエルブは、それでも霞む視界に敵の影を知覚すると、鉛のように重い右腕を動かし、黒百合の剣を振りかぶった。
びう、と鈍い風切り音。
極細の刀身が、敵の黒い鎧の肩口に食い込む。反動で、手首から肘にかけて無数の針に刺されるような痛みが駆け巡る。
「い……やああぁぁぁぁ!!」
“無音”のあざなにまったく似つかわしくない、形振り構わない気合を絞り出す。剣がどうにか敵の装甲を割り、その下の身体を一直線に切り裂く。
意味の取れない罵声とともに倒れる歩兵から刀身を引き抜き、シェータは荒く息をついた。
これほどまでに疲労困憊した理由は、無限とも思われる敵の数もさることながら、黒い兵たちの奇妙な生気の無さゆえだった。
心意が通じにくいのだ。黒い鎧も剣も、シェータの神器と比べれば優先度では遥か劣る代物のはずなのに、切断に際して妙に乾いた抵抗感がある。同じことが、敵の攻撃にも言えた。剣には一切の心意を感じず、事実軽く粗雑な斬撃ばかり繰り出してくるくせに、なぜか実効力だけはあるのだ。
まるで、影と戦っているようだった。ほんとうにはこの場に居ない者たちが、どこからか映し出す影絵の軍隊と。
楽しくなかった。斬るためだけに生きているはずの自分が、この影たちを斬ることに、強い嫌悪しか感じていないことをシェータは自覚した。
――なんでだろう。
――相手が影だろう生身だろうと、それどころかただの彫像だとしても、ただ硬ければ私は満足できたはずなのに。斬ることしか知らない人形、それが私なのに。
最小の刀身に最大の優先度を秘めた神器、黒百合の剣。それは切断のためにのみ存在する道具であり、また鏡に映るシェータ自身でもあった。斬ることをやめれば、どちらの存在証明も完全に失われてしまう。
最高司祭アドミニストレータは、シェータが暗黒界の古戦場から持ち帰った一輪の百合を、一振りの剣に組成変換した。それをシェータに下賜しながら、こう言った。
――この剣は、あなたの魂に刻まれた呪いを形にしたものよ。性質遺伝パラメータの揺らぎが生み出した、殺人衝動という名の呪いをね。斬って、斬って、斬り続けなさい。その血塗れた道の果てにのみ、あなたの呪いを解く鍵がある……かもしれないわ。
その時は、最高司祭の言葉の意味は分からなかった。
シェータは、言われたままに、無限に等しい年月に渡ってひたすら斬り続けてきた。そしてついに、最高の好敵手に巡り合った。これまで刃を通して触れ合った、全ての人、全ての物より硬いひとりの男に。
もう一度戦いたい。戦えば、何かが分かるかもしれないから。
その思いだけに衝き動かされ、シェータは人界軍と分かれてこの戦場に残ったのだ。なのに、どうやら、赤い髪の闘士との再戦は叶いそうになかった。
シェータは荒い息をつきながら、ちらりと背後を振り返った。
離れた岩の上にあぐらをかく、傷だらけの拳闘士の長が見えた。なぜか悲しそうな、済まなそうな視線で、じっとシェータを見つめる朱色の瞳と目が合った。
不意に、ずきん、と胸が痛んだ。
――なんだろう。
――私は、あの人を斬りたいはずなのに。何もかも焼き尽くすような、熱い、熱い戦いをもう一度味わいたい、そしてあの金剛石のように硬い拳を断ち切りたい、それだけが望みだったはずなのに。なのになんで、こんなふうに胸が……締め付けられるんだろう。
――私は、あの人を……。
きしっ。
微かな音が、右手の中から響いた。
シェータは黒百合の剣を持ち上げ、その刀身を眺めた。あらゆる光を吸い込むような、極細の漆黒線の一箇所に――蜘蛛の糸よりも薄い亀裂が、稲妻のように走っているのが見えた。
ああ、
そうか。
シェータは大きく息を吸い込み、そして小さく微笑んだ。
あらゆる疑問が、今氷解した。アドミニストレータの言葉の意味、呪いとは何なのかを、シェータはついに悟った。
どすどすという地響きに視線を戻すと、次の敵兵が、無骨な戦槌を振り上げて駆け寄ってくるところだった。
シェータは滑らかな足取りで敵の一撃を回避し、右手の剣を黒い鎧のど真ん中に突きこんだ。
最後の攻撃は、まったくの無音だった。すべるように、しなやかに敵の命を絶った黒百合の剣が――その中ほどから、同じく一切の音を立てずに、無数の花弁を散らすように砕けた。
手中の柄までもがはらはらと崩れ落ちていくのを、シェータは名残惜しく口元にあてて呟いた。
「……長いあいだ、ありがとう」
一瞬、さわやかな花の香りが漂った気がした。
少し離れた隣では、騎竜である宵呼《ヨイヨビ》が、尾の一撃で敵兵を叩き潰したところだった。
竜の灰色の鱗は、流れ出た血でほぼ隙間なく濡れ、爪や牙もほとんど欠けている。熱線はもう吐き尽くし、動きは見る影もなく緩慢だ。
敵の突撃がいっとき途絶えたのを確認し、シェータは竜に歩み寄ると、その首に手を這わせた。
「あなたも、ありがとう、宵呼。疲れたね……もう、休もう」
そしてシェータと飛竜は、身体を引き摺るように、拳闘士団の生き残りが固まる低い丘に向かった。
迎えた拳闘士の長は、今にも弾けてしまいそうな傷だらけの右手を持ち上げ、シェータを迎えた。
「すまねえ……大事な剣、折らしちまったな」
詫びる言葉を、シェータは首を振ってとどめた。
「いいの。やっと、分かったから。私がなぜ斬り続けてきたのか……」
がくんと地面にひざを突くと、両手を持ち上げ、若い闘士の顔を挟み込む。
「斬りたくないものを見つけるため。守りたいものを見つけるために、私は戦い続けてきた。それは、あなた。だからもう、剣は必要ない」
一瞬、大きく見開かれた拳闘士の左眼に、透明な雫が湧き上がるのをシェータは少し驚きながら見つめた。
若者は、きつく歯を食いしばり、喉を鳴らして囁いた。
「ああ……ちきしょう。アンタと、所帯を持ちたかったな。きっと、強ぇガキが生まれたろうにな。先代より、オレよりずっと強い、最強の拳闘士になれる子がよう」
「だめよ。その子は、騎士にするわ」
二人は短く見つめあい、そして微笑んだ。優しい表情の巨漢に見守られるなか、シェータとイシュカーンは短く唇を触れ合わせ、並んで座った。
三百人の拳闘士と、一人の整合騎士、そして一頭の飛竜は、黒い歩兵たちがじりじりと包囲の輪を縮めてくるのを、ただ無言で待った。
「どうやら大勢は決した……ってヤツかな、こりゃ」
アスナは、自分とほぼ同時に後方に戻ってきたクラインの言葉に、そうねと応じた。
幾つかの手傷を負った二人を、もと魔法職の日本人プレイヤーが、覚えたばかりの神聖術で癒していく。本職のアンダーワールド人修道士の、イマジネーションを利用して効果を増幅する技までは真似できないものの、ハイレベルからのコンバートによる高い術式行使権限ゆえに治癒力はじゅうぶんなものがある。
「ほんとうにありがとう、クライン。何てお礼を言ったらいいか……」
言葉を詰まらせるアスナを見て、クラインは照れくさそうに鼻の下を擦った。
「おいおい、水臭ぇよ。お前さんと……キリトの野郎にゃ、これくらいじゃ返しきれねえ借りがあるからな。……あいつも、居るんだろ、ここに?」
声をひそめるクラインに、アスナはそっと頷いた。
「ええ。戦闘が終わったら、会ってあげて。クラインがいつもの下らないギャグかませば、ツッコミたくて目を覚ますかも」
「おい、ひでえよそりゃ」
口元に笑みの形をつくりながらも、クラインの目は深い気遣いに満ちていた。すでに知っているのだ――キリトの受けた傷の深さを。
ああ、でも、本当に。
すべてが無事に解決し、“敵”がアンダーワールドからもオーシャンタートルからも撃退されて、シノンや、リーファや、クラインたち元攻略組、サクヤたちALO組……そしてアリスたち人界の剣士らに囲まれれば、キリトも目覚めずにはいられないかもしれない。
その瞬間を、笑顔で迎えるためにも、今をがんばらなくては。
傷が完全に癒えるや否や、アスナは術師プレイヤーに礼を言って立ち上がった。
前線では、クラインの言うとおり、すでに戦闘の趨勢は決していると言っていい。黒いアメリカ人プレイヤーたちの数は最早日本人と同数程度にまで減少し、戦意を喪失したかのようにやけっぱちな突撃を繰り返すのみだ。
しかし、この古代遺跡での戦闘は、単なる一局面に過ぎない。
問題は、皇帝ベクタに拉致されたアリスだ。騎士長ベルクーリ、それにシノンがどうにか足止めしてくれているうちに、何とか追いついてアリスを奪回せねばならない。コンバート組から最精鋭のチームを編成し、人界軍の馬を借りて全速で南下するのだ。
追いつきさえすれば、敵がどんなアカウントを使っていようが、日本のトップVRMMOプレイヤーを結集した選抜チームに勝てないはずはない。そう断言できるほど、彼らの力は圧倒的だ。戦う彼らの鎧や剣が、陽光を反射して放つ七色の輝きは、まさしく最高の宝石を零したようだ……。
滲みかけた涙をぐいっと拭い、アスナは視線を前線から後方へと向けた。
遺跡の参道入り口では、補給隊の馬車も奥から引き出され、即席の陣地が築かれている。傷ついた日本人たちが、アンダーワールド人たちに術式で癒されている光景は、これもアスナの目には言葉に出来ないほど貴重なものに映った。
「……大丈夫、ぜんぶうまくいくわ……きっと」
思わず囁いた言葉に、隣のクラインが力強い相づちを入れた。
「おうさ。さて、俺らももう一頑張りしてこようぜ!」
「ええ」
頷き、再び戦線へと振り向きかけたアスナは――。
視界の端をかすめた何かに注意を引かれ、ぴたっと動きを止めた。
何だろう……何か、黒い、いや暗い……染みみたいな……。
きょろきょろ視線を彷徨わせたアスナは、ようやく、それを見つけた。
遺跡参道に立ち並ぶ、巨大な神像。
その右側、一番手前の像の頭上に、誰かが立っている。
逆光で、よく見えない。赤いダークテリトリーの空に滲むように、揺れる黒い影。
戦場から逃げ出したアメリカ人だろうか? それとも、偵察を買って出た日本人?
いぶかしみながら目を凝らすと、その影が揺れているのは、だぶっとした黒いポンチョをかぶっているからだと分かった。フードを口元まで引き下げているために、顔はまったく見えない。
しかし。
「ね、クライン。あの人……」
走り出しかけていたクラインの袖を引っ張って、アスナは左手の指を伸ばした。
「あそこに立ってる人、なんか見覚えない?」
「へ……? ありゃ、見物してやがる。誰だよまったく……見覚えっつったって、あんなカッパ着てりゃ、顔……なんか……」
クラインの声が、急に途切れた。
アスナが目をやると、無精ひげの浮いた面長の顔が、紙のように色を失っているのに気付いた。
「ちょっと、どうしたのよ。思い出したの? 誰だっけ、あの人?」
「いや……まさか。ありえねぇよ、そんな……。亡霊を……見てるのか……? ありゃあ……あの黒いカッパは……ラフィン・コフィンの」
その単語を聞いた瞬間。
アスナも、頭の中がすうっと氷のように冷えるのを感じた。
ラフィン・コフィン。かつて、浮遊城アインクラッドに恐怖を撒き散らした最強の殺人者《レッド》ギルド。“赤眼のザザ”や“ジョニー・ブラック”が属し、多くの一般プレイヤーをその毒牙に掛け……最終的に、攻略組プレイヤーによる合同討伐隊との死闘を経て壊滅した。
その戦いで、ラフィン・コフィンのほぼ全てのギルドメンバーは死亡するか黒鉄宮送りとなったが、しかしただ一人だけ取り逃がした者がいたのだ。急襲したアジトになぜか姿が無かったギルドリーダー、SAOで最も多くのプレイヤーを殺した男、その名前を、“PoH《プー》”と言った。
常に黒いポンチョのフードを目深にかぶり、包丁じみたダガーのみを装備していた殺人鬼が、二年のときを経て、いま遺跡神像の上からアスナとクラインを見下ろしている。
「……嘘、よ」
アスナも、掠れた声で囁くことしかできなかった。
幻だ。亡霊を見ているのだ。
消えろ。消えてよ。
しかし――陽炎に揺れる黒い影は、アスナの願いをあざ笑うかのように、ゆるりと右手を挙げた。そして、生気の無い動きで左右に振った。
続く光景は――。
まさしく、悪夢の現出に他ならなかった。
黒いポンチョ姿の隣に、ひょいっと新たな人影が現れた。二人、三人。
そして、神像の背中が接する巨大な遺跡宮殿の屋上に、ごそりと黒い集団が頭を出した。左側の宮殿屋上にも、ぬっと数十人規模で影が湧き出る。
やめて。もうやめてよ。
アスナは祈った。これ以上の絶望には、もう心が耐えられそうになかった。
なのに。
黒い集団の出現は、左右に果てしなく伸びる宮殿のふちに沿って、尽きることなくどこまでも続いた。千、五千、一万人――。おそらく三万を超えたところで、アスナは数える努力を放棄した。
有り得ない。
アメリカ人は、五万もの大人数が苦痛とともに追い出されたばかりなのだ。これほどの大軍を、こんな短時間で用意できるはずはない。と言って、日本人のはずもない。日米のVRMMOプレイヤーの総数からしても、到底考えられない数だ。
幻だ。あれはみんな、術式で作り出された実体無き影なのだ。
いつしか、アメリカ人プレイヤーとの戦いにほぼ勝利した前線の日本人たちも、手を止めて後ろを振り返っていた。広大な戦場に、奇妙な静寂がしんと張り詰めた。
さわさわ。ざわざわ。
宮殿の屋上に密集する、途轍もない大軍勢の放つさざめきが、不吉な風のようにアスナの耳に届いた。
混ざり合い、溶け合ったそれが何語なのか、とっさに分からなかった。懸命に耳を済ませると、うち一人がやや大きな声で言った語尾が、どうにか聞き分けられた。
――しゃおりーべん。
何……どういう意味なの?
その時、隣でクラインが、声にならない声で呻いた。
「ああ……やべえ……やべえぞこりゃ……。あの大軍は、日本《jp》でも|アメリカ《us》でもねェ……」
アスナは、背中に冷たい汗が這うのを感じながら、続く言葉を聞いた。
「あいつらは……中国《ch》と、韓国《kr》だ」
クリッターは、中国・韓国からの大量の接続をアンダーワールドに導き終えたいまもまだ半信半疑だった。
ヴァサゴ・カザルスが再ダイブ直前に指示していったとおり、日本の北西に位置する二国のネットワークにも偽の誘引サイトを作り、接続用クライアントをバラ撒いたのだが、その作業中にも何度首を捻ったかわからない。
――だって、あいつらみんな同じ顔をしてるじゃないか。
アメリカ人には、日本と韓国が地続きではないことを知らない者も大勢いる。両方とも中国の一部だと思っている者も。クリッターはさすがにそこまでという事はないが、しかし完全なる友好国なのだとは思っていた。EUのゴチャゴチャしている辺りと同じように。
だから、ヴァサゴが指定していった誘引サイトの体裁は、まったく理解不能だったのだ。
サイトは、アメリカに作ったものとは異なり、わざと急ごしらえの粗雑な出来を装っていた。実際、中国語と韓国語に堪能な隊員の手を借りて突貫作業で翻訳したのでデザインに凝る余裕は無かったのだが。
サイトのトップには、『中韓の有志が合同で立ち上げた、初の草の根VRMMOサーバーが日本から攻撃を受けている!!』と書かれていた。
その下にやや小さなフォントで、ザ・シード連結体を独占しようとする日本プレイヤー達がサーバーをハックし、異常に強力なキャラクターを好き放題に作り出して、有志のテスターを攻撃している。サーバーにはまだ痛覚遮断機能も倫理保護コードも存在せず、ゆえに同朋たちは非常な苦痛とともに虐殺されているのだ、という意味の説明が続いた。
クリッターにしてみれば、まったく真実味も説得力もない話だった。しかし、彼を驚愕させたことに、偽誘引サイトへのアクセスは凄まじい勢いで増加し、クライアントが各所でミラーされていく速度は、アメリカの比ではなかった。
クリッターは、唖然としながら思った。
――これではまるで、この日本と、中国・韓国のVRMMOプレイヤーは、仲がよくないみたいじゃないか?
――ところがどっこい、憎みあってるとすら言っていいんだなぁ、これが。
ラフィン・コフィンを率いていた頃のキャラクター、PoHとしてアンダーワールドに復帰したヴァサゴ・カザルスは、黒いフードの下でにやにや笑いながらひとりごちた。
ヴァサゴは、サンフランシスコで生まれ、十歳の頃母親に連れられて日本に渡った。日本の貿易商社の社長が、まだ若く美しかった母親を見初め――いや、金で買ったのだ。籍は入れずに、住まいと生活費だけを与えたのだから。
暮らしは豊かだったが、心はいつも荒んでいた。街にひしめく、同じ色の髪と肌をした連中を見ると吐き気がした。ナーヴギアが発売され、アメリカのバーチャルネットに接続できるようになったときは、心のそこから解放された気分を味わったものだ。
なのに、ほんの気まぐれから購入したゲームソフト、“Sword Art Online”に五万人もの日本人と一緒に閉じ込められ、ログアウトできなくなってしまったのだ。
――そりゃあ、殺すさ。殺すしかねぇだろ。
最初の“殺人”は偶発的なものだった。
次のときには、仲間を誘った。
恐怖やストレスを抱え込み、鬱屈している連中を見つけて誘惑するのは実に簡単だった。“ラフィン・コフィン”が結成され、レッドギルド・レッドプレイヤーという概念が確立されたのは、その後のことだ。
つまり、ヴァサゴこそが、SAOに“プレイヤーによる殺人行為”を持ち込んだ張本人であると言える。
その動機は、日本人を殺したかったから、ではない。
日本人が日本人を殺すところが観たかったからだ。連中同士の殺し合いが、どうしようもなく興奮させられる最上のショウだったからだ。
そして今、長い時を経て、あの興奮がすさまじい規模で再現されようとしている。
ヴァサゴにとっては、何人だろうと関係ない。東アジア人は皆等しくクズである。母親を金で買った日本人も――母親を妊娠させて捨てた韓国人も。
ヴァサゴ/PoHは、高く右手を挙げ、彼が最初に覚えた言語である韓国語で叫んだ。
「あの侵入者どもに思い知らせてやれ!! 二度と同朋に手出しする気にならないように、念入りに痛めつけて、辱めて、切り刻んで殺せ!!」
恐らく五万は下回らないだろう大集団は、二つの言葉で口々に怒りの叫びを迸らせた。彼らの目には、日本人プレイヤーたちが殺していたアメリカ人集団が、同国人のクローズドαテスターに見えていたはずだ。
ヴァサゴは、哄笑を懸命にこらえながら、勢いよく手を振り下ろした。
直後、どざあああっ! と音を立てて、大軍勢は宮殿の屋上から、洪水のように僅かな日本人たちへと降り注いでいった。
――さあ、殺し合え。醜悪に、無様に、滑稽に踊ってくれ。
「……来た」
シノンは、口のなかで呟いた。
赤い空から糸のように垂直に伸びてくる、漆黒の破線をついに視認したのだ。
理想を言えば、この時点でソルスの弓の最大威力攻撃をチャージし、敵の実体化直後を吹き飛ばしたい。それなら、防御も回避もできないはずだからだ。
しかし、今すべきことは時間稼ぎである。もし敵が無限に高位アカウントを生成できるなら、即死させても意味がない。
それよりは持久戦に持ち込み、まずは敵の対応を見定めるのだ。もし命を惜しむ様子を見せるなら、アカウントは貴重なワンオフ物と判断できる。その場合は全力で破壊し、二度と同じアカでログインできなくすればよい。
しかし、もしアカウントが量産タイプならば、殺してしまうわけにはいかない。限界まで戦闘を長引かせ、アリスが遠くまで逃げる時間を稼がなくてはならないのだ。
ゆえにシノンは、弓の弦を引くことなく、空中にホバリングしたまま敵の実体化を待った。
黒いデータラインは、つい数分前まで騎士長ベルクーリのむくろが横たわっていた岩山へと震動しながら降りていく。
遺体は、整合騎士アリスがコマンドによってリソースへと変え、騎士長の剣のかけらと混ぜ合わせて小さな鋼のペンダント二つに転換し、持ち去った。ひとつは、同輩である女性騎士に渡すと言う。
恋敵? と聞くと、アリスは少し微笑んで答えた。私の恋敵はあなたです、と。
――まったく。
そうと聞いては、簡単にログアウトしてやる訳にはいかない。キリトが目覚める瞬間までは、何が何でもこの世界にとどまらなくては。
シノンは、もう一度戦闘方針を心中で確認してから、じっと岩山に視線を凝らした。
黒い線が、頂上の中央に達し、粘性の液体となってどろどろとわだかまっていく。
それはまるで、地獄へと続く底なしの水溜りのように濃く、深い色をしていた。
ラインが最後まで吸い込まれていき、そして――。
とぷん。
表面に小さな波紋が立ち、直後、ずるっと右手が突き出された。シノンの背に、理由のわからない悪寒が強く這った。やけに細長い五指が、うねうねと滑らかに宙を掻く。
今すぐ焼き払ってしまいたい! という渇望をこらえ、シノンは敵の実体化を待った。
ずるり。腕が一気に肩口まで伸び上がる。ついで左手が出現し、ぐっと水溜りのふちを掴む。
湿った水音を立て、ゆっくりと男の頭部が出現した。
――意外にも、どうという特徴のない顔だった。暗黒神ベクタを操っていた人間が再ダイブしたはずなのに、麗しくも、逞しくもない。張り付くようなスタイルの短い金髪、微かに灰色がかった白い肌、白人系のデザインではあるのだが妙にのっぺりした印象がある。
青いビー玉のような目が、きょろ、きょろと動いてから、上空のシノンを捉えた。
あれっ、と思った。
どこかで見たような眼だ。すべてを反射するような、それでいて吸い込むような、表情のない瞳。
つり上がっても、垂れてもいない眼窩が、シノンを見据えた瞬間、少しだけ見開かれた。そして――きゅうっ、と笑うように細められた。
ああ、間違いない。知ってる。私はこの眼を知っている。それも、つい最近――どこかで――。
シノンが呆然と見下ろす先で、どぷんっ、と音がして男の全身が一気に現れた。
服装がまた奇妙だ。ごつごつと皺の寄った灰色のジャケットとボトムス。足は編み上げブーツに包まれ、胴は硬そうなベストに覆われている。まるで、コンバットスーツのようだ。左腰に下がる長剣と、背中に装備されたクロスボウが、とてつもない違和感をかもし出している。
驚いたことに、男の足元から、さらに出現するものがあった。
黒い水溜りがぎゅうっと広がる。それが地面から薄く剥がれ、翼のように左右へと伸びる。
いや、ほんとうに翼なのだ。ばたばた、と忙しなく羽ばたいた直後、男を乗せたまま岩山から離陸したではないか。
飛竜か、と思ったが違う。なんだか妙な生き物だった。お盆のように丸く平べったい胴体の前縁に、黒い眼球が幾つも張り付いている。左右に伸びる翼だけが、竜のような皮膜と鉤爪を備えていた。
男は、謎の有翼生物の背に乗ったまま、すうっとシノンと同じ高度まで上昇してきた。
そして、薄笑いを浮かべたまま、右手を横に挙げた。シノンは警戒しながらその動作を見守った。
男の手は、まるで何かを握っているフリのようにゆるく開かれていた。と、親指がにゅっと伸び、見えないスイッチを深く押した。
同時に男の唇が、無音のまま動いた。ボム、と発音するがごとく。
瞬間、シノンはついに思い出した。無意識のうちに掠れた声が漏れた。
「……サトライザ……」
間違いない。あの男は――ほんの一ヶ月前に行われたガンゲイル・オンラインの大会決勝戦で、シノンを遠隔起動爆弾で吹っ飛ばしたアメリカ人だ。
しかし、なぜここに。こんな場所に。
シノンは弓を構えるのも忘れ、愕然と眼を見開き続けた。
ピラミッド型の自走メガフロート・オーシャンタートルの中央部を、高強度チタン合金製の堅牢なメインシャフトが貫いている。
円筒状のシャフト最下部には、さらに複層の防護壁に覆われたうえで、主機である加圧水型原子炉が格納される。その上に、占拠されたメインコントロールルームと、第一STL室が存在する。
アンダーワールド、ひいてはアリシゼーション計画の中枢たるライトキューブクラスターとメインフレームは、さらにその上部に鎮座している。ここまでが下層《ロウワー》シャフトということになる。
シャフトはそこで一度、水平に広がる耐圧隔壁によって分断される。上層《アッパー》シャフトと呼ばれる隔壁の上側には、巨大な冷却設備群に続いて、ラーススタッフが退避中のサブコントロールルームと、第二STL室が設置されている。
アッパーシャフトの船首サイドを貫く狭い階段を、今ひとりの――あるいは一体の人間型ロボットがゆっくりと自力下降しつつある。人工フラクトライト格納用マシンボディ試作三号機、通称“ロボザエモン”である。ぎこちない動きを見守るように、武装した数名の自衛官があとに続く。
同時に、シャフト船尾サイドを垂直に走るケーブル格納ダクト内に、申し訳程度に設置されたハシゴを、二人の小柄な人間がゆっくりと這い下りていた。
――閉所恐怖症でも、高所恐怖症でもなくてほんとうに良かった。
と比嘉タケルは自分を勇気付けようとしたが、この状況に恐怖症の有る無しなど関係ないような気もした。
何せ、ダクトはまっすぐ五十メートルも真下に伸びているのだ。汗ばむ手を一度でも滑らせ、あるいは足を踏み外したら、はるか下方でダクトを封鎖している耐圧ハッチに激突して、かなり楽しくない経験を味わうはめになる。
こんなことなら、同行の柳井さんに先に行ってもらえばよかった。それなら少なくとも、眼下の底なし穴を見つづけるハメにはならなかったのに。
――ていうか、弾避けになるとか言っといて、いざ侵入となったら「お先にどうぞ」ってどうゆうこっちゃねん。
比嘉は少々恨めしい目つきで、数メートル上でハシゴに取り付いているスタッフ柳井をちらりと見やった。
しかし、色白の顔をいっそう青くして、必死の形相でステップを握り締めている姿を見れば文句も言えない。この危険な任務に名乗り出ただけでもアッパレと思うべきだし、柳井のベルトに差し込まれたオートマチック拳銃の存在は、多少なりとも心強くさせてくれる。
再び下に視線を戻したのと同時に、耳のインカムから低い声が流れ出た。
『どう、比嘉君。問題はない?』
頭上のダクト入り口から頭だけ覗かせ、降りる二人を見守っている神代博士の声だ。
比嘉は口元のマイクに、同じくぎりぎりの囁き声を返した。
「え……ええ、何とか。あと五分ほどで、耐圧ハッチまで到達すると思うッス」
『了解。そちらの準備が出来次第、ロボザエモン班に突入の指示を出すわ。比嘉君たちがハッチを開けるのは、敵が迎撃を開始してからよ』
「ラジャー。うわお、なんかミッション・インポッシブル感漂いまくりッスね」
『頼むからポッシブルにして頂戴。私には、アンダーワールド内部の状況がどう転ぶかも、キリト君の復活にかかってる気がしてならないのよ。……すみません柳井さん、その子のこと宜しくお願いしますね』
後半の言葉を向けられた柳井スタッフの、ラッジャーです! という裏返った声が比嘉のインカムからも聞こえた。
――その子って、ねえ。
比嘉は苦笑しつつ、いつのまにか汗の乾いた掌で、鋼鉄のステップをぎゅっと握った。
ハッチまでは、もうあと半分を切っていた。
中国・韓国からダイブしたプレイヤーたちが、モニタ上で巨大な黒雲となってゆらめく様を呆然と眺めていたクリッターは、不意に響いた警報にがばっと飛び起きた。
「なん……!?」
慌ててコンソールを見回すと、右側のサブモニタのひとつに赤いアラーム表示が瞬いているのに気付いた。
「おわっ……耐圧隔壁のロックが解除されてるじゃねえかー! だ、誰か通路を見にいってくれ!!」
叫ぶ言葉が終わらないうちに、壁際からアサルトライフルを掴み挙げたハンスが脱兎の如く駆け出していった。
「お……おい、いい手なんだぞ畜生!」
一声ボヤいて、色の揃ったトランプカードを床に叩きつけ、ブリッグが後を追っていく。
まさか、装備で圧倒的に劣るK組織がやぶれかぶれのバンザイアタックを仕掛けてきたのか? それとも何かの策か……?
クリッターも思わずコンソールから離れ、コントロールルームのドアまで移動した。
階段を駆け上っていく足音に続いて聞こえてきたのは、ワァッツ、ガッデム、という驚愕の叫び声だった。
直後、ライフルの連射音がそれに続いた。
かたた、かたたたた、という乾いたその音が、自動小銃の立てるものだと比嘉はもう知っていた。
今頃シャフトの反対側では、哀れなロボザエモンが美しいCNC切削アルミ外装を孔だらけにされているのだろう。しかし、電源とサーボ系は強靭なチタン骨格の後ろに実装されているため、しばらくは動き続けるはずだ。
『いいわ! 開けて!!』
インカムからドクターの声が響くと同時に、比嘉は全身の力を込めて、マンホール型の耐圧ハッチのハンドルを回した。ぷしっ、という音がして、油圧動力により分厚い蓋が持ち上がる。
ロウワーシャフトに続くダクトは完全な暗いオレンジの光に沈んでいた。ライフルの連射音が、一層鮮明に響いてくる。
ごくりと唾を飲み、比嘉はストラップで胸にぶら下げた小型端末の感触を確かめてから、一気にハシゴを降りはじめた。
こういうとき、映画だと何か叫ぶんだよな。えーと確か……。
「……ゴーゴーゴーゴー!!」
口の中で呟くと、耳から凛子博士のいぶかしげな声が返った。
『え、何か言った?』
「い、いえ、何でも。……点検用コネクタまで、あと二十メートル……あっ、見えた、あれッス!」
ダクトの壁を這う、何本もの太い光ケーブルを飲み込むパネルボックスが、ずっと降りたところに確かに見えた。
あそこに端末を繋げば、理論上はすべてのSTLを直接オペレーションできるはずだ。
待ってろよ、桐ヶ谷君。いま、君の心を目覚めさせてやるからな!
恐怖心も忘れ、懸命にステップを降りる比嘉のインカムから、最後の通信が響いた。
『じゃあ、私はサブコンで、キリト君のフラクトライトをモニタするからね。比嘉君、気をつけてね!!』
ドクター神代、いや凜子先輩のその声は、遥か遠い学生時代と何ら変わらず、比嘉は思わずはるか上を仰ぎ見ようとした。
しかし視界に入ったのは、必死の形相でハシゴを降りる柳井スタッフの姿だけだった。
やれやれ、と思いながら、比嘉はすぐ足元に迫ったパネルボックスに視線を戻した。
「おやおや……君は、GGOの。確か“シノン”だったかな? まさか、こんなところで会えるとは」
特徴の薄い顔に、にっこりと笑顔を浮かべる“サトライザ”を凝視しながら、シノンは懸命に両手の震えを抑えようとした。
しかし指先は強張り、掌は冷たく、無理に動かすとソルスの弓すらも取り落としてしまいそうだった。
奇妙な有翼生物の背に乗ったサトライザは、温度のない笑顔を作ったまま、滑らかな日本語で続けた。
「これはどういうことかな。
日本国内にもSTLは存在するとラビットは言っていたが……君はK組織の関係者? それとも、こんな場所でまで傭兵をやってるのかい?」
シノンは、乾いて張り付いてしまったような口を懸命に開き、どうにか声を発した。
「サトライザ……お前こそ、なぜここに」
「必然だからに決まってるじゃないか」
嬉しくてたまらぬというふうに、黒と灰色の迷彩に彩られたジャケットの腕を広げ、サトライザは言った。
「これは運命だよ。私と君を引き付けあう魂の力さ」
その口調が、じわじわと変容していく。声の帯びる温度までもが、際限なく低下する。
「そう……私は君を欲した。だからこうして巡り合った。これで色々なことが分かるだろう。ライトキューブからだけでなく、STLとSTLを介せば現実世界の人間からでも魂を吸い取れるのかどうか。君とK組織の関係。そして……君の魂は、どんな味と香りを持っているのかも。さあ……こっちに来たまえ、シノン。私にすべてを委ねるのだ」
ずっ……。
と、重い音を立てて、不意に世界が歪んだ。
空気が。音が。そして光さえも、ぐにゃりと捻じ曲げられながら、サトライザを中心に吸引されていく。
「な……」
何、これ。
という思考を最後に、シノンは己の意識までもが、奇妙な磁力に引かれていくのを感じた。
いけない。抵抗しないと。戦わないと――。
心の片隅でそう叫ぶ声は、しかしどうしようもなく小さく無力だった。
いつしか、群青の鎧に包まれたシノンの体そのものが、広げられたサトライザの腕のなかへと吸い寄せられはじめた。
くたりと力を失った左手の指先に、ぎりぎり白い弓を引っ掛けたまま、シノンはするすると空中をスライドしていく。
数秒後、朧に霞む意識のなかで、シノンは自分の体がサトライザという名の重力源にぬるりと包まれるのを感じた。
男の左手が、虫のように背を這う。右手の指先が頬をなぞり、耳を覆い短い髪をぱさりと払う。
露わになった左耳に、サトライザのやけに赤い唇が近づき、耳介を軽く挟まれた。同時に、冷たい粘液のような声が頭のなかに滴り落ちてくる。
「シノン。君は、サトライザという名前の意味を考えてくれたことはあるかな?」
「…………?」
ぐったりと脱力したまま、シノンは首を左右に振った。
「いかにもアメリカ人ごのみの、禅の“サトリ”をもじった単語のようだろう? しかし違う。これは純然たる英単語なのだ。フランス語からの借用語ということになっているが、大本はラテン語だ。スペリングは、Subtilizer。意味は“下に隠すもの”。転じて――“盗むもの”」
呪文めいた抑揚で喋りつづける唇から忍び出た舌が、軽く耳を舐めた。同時に、指の長い両手がアーマーの継ぎ目を探りはじめる。
「私は、君を盗む。君のすべてを盗む……」
「じ……人界軍! 補給隊! 全速前進――ッ!!」
アスナは、東西の遺跡宮殿屋上を埋め尽くす大軍が動き出す寸前、声を振り絞ってそう叫んだ。
アンダーワールド人の衛士部隊と馬車隊は、遺跡参道を少し入ったところに陣を構えている。宮殿は、その参道のすぐ両側に広がっているのだ。これでは、真っ先に襲ってくれと言っているようなものだ。
「物資は捨てて!! 今すぐ参道から出て、走って!!」
さらに指示するが、到底間に合いそうにない。新たに戦場に現れた、おそらく中国と韓国からの接続者たちは、いまにも巨大神像の頭を踏み越えて、人界軍の真っ只中へと飛び降りていきそうだ。
アスナは歯を食いしばり、思念を凝らした。
ラ――――――、という多重サウンドに続き、振り下ろしたレイピアからオーロラが一直線に迸った。
目の前に白い火花が飛び散る。すさまじい激痛が脳を焼く。
しかし同時に、参道の両側に並ぶ四角い神像たちが、地響きを立てて動き始めた。短い腕を振り回し、いかつい口を開いて、空中の黒い兵士たちを叩き落し噛み潰す。
聞きなれない言語による悲鳴と絶叫。降り注ぐ鮮血。
それに重なって、一層の激怒と罵倒の雄叫びが響き渡る。
対話と説得の可能性は最初から無かった。いったい、何をどのように説明されたのか、それほどまでに隣国のプレイヤーたちが放つ怒りの集合思念は強烈だった。
神像群を操作できたのはほんの三十秒程度だったが、その時間を利用して、どうにか数百人の人界人たちと十台の馬車は参道から脱出した。一直線に広い荒野へ突進してくるその部隊を、二千の日本人プレイヤーでぐるりと包み、応戦態勢を取る。
しかしこれでは、掩体に利用できるものは一切無く、絶望的な全周防御を強いられてしまう。数で優るアメリカ人たちを、さしたる被害もなく撃退できたのは、宮殿の壁を利用して戦線を限定し、分厚いスイッチローテーションを組めたからだ。おそらく四万から五万に迫ろうという中国・韓国人部隊に全方位を取り囲まれれば、前線崩壊は時間の問題だ。
「くっ……」
アスナは歯を食いしばりながら、もう一度レイピアを高く掲げた。
お願い、壁を……二千人を囲むに足る防壁を、最後に作らせて。
祈りながら、思念を凝らそうとした。
しかし。
ばちっ、という一際巨大なスパークがアスナの全身を貫いた。同時に膝から力が抜け、がくりと地面に両手を突いてしまう。
喉元に熱くこみ上げてきたものを吐き出すと、それは少量の血だった。
「無理すんな、アスナ!!」
叫んだのはクラインだった。
「そうだ、ここは任せろ」
太い声でエギルも続ける。
前方から押し寄せ、日本部隊を取り囲むように左右に割れる黒い大軍勢の分厚い中央めがけ、二人の剣士が突撃していく。
炸裂するソードスキルのエフェクト光が、青く、赤く瞬いた。
彼らの左右でも、ALOの領主たちや、スリーピングナイツの猛者たちが、それぞれに全力の戦闘を開始した。
機関銃のように突き抜ける金属音。重く響く単発の爆砕音。長剣が、戦斧が、槍が唸り、鍛え上げた連続剣技が炸裂するたびに、黒い兵士たちが鮮血とともに地に臥した。
ぎしっ、と空気が密度を増して軋み、大軍の突進が一瞬止まった。
それは――。
決壊した堤防から襲い来る怒涛の濁流を、素手を広げて防ごうとする哀切な努力に他ならなかった。
悲鳴と喊声の渦巻く戦場の空を、かすかに流れる甲高い哄笑を、うずくまったままアスナは聞いた。
霞む眼を向けると、遥か離れた宮殿の屋上で、黒いフードの男が腹をかかえて身を捩っているのが見えた。
遠くで断続的に響く銃撃音を聞きながら、比嘉は出せる限りの速度でハシゴを降りた。
オレンジの光を受けて鈍く輝くパネルボックスにやっとで辿りつくと、強張った指先で蓋を開ける。
内部には、ごちゃごちゃと配線がひしめく端子盤が鎮座していて一瞬げんなりするが、片手でそれらを掻き分け掻き分けどうにか問題のコネクタを見つけ出した。
いよいよだ。
大きく息を吸い、思考を落ち着けてから、持参したケーブルの片端をそっと捻りこむ。胸にぶら下げた端末を開き、LCDに光が入るのを確認してからもう一端を接続する。
祈るような気持ちで、自作のSTLオペレーション用ツールを立ち上げ、スタートアップ表示を睨みつける。四角いカーソルの点滅間隔がやけに遅く感じられる。
STL#3、Connect. . . . . OK。
#4、OK。
まず、サブコントロールに隣接する第二STL室の二台から正常な信号が返る。
続いて、数秒の間をあけて六本木分室の#5、#6との接続が確立した。
「……っし!」
比嘉は低く呟いた。これで、桐ヶ谷和人と三人の少女たちが使用するすべてのSTLの直接操作が可能となったはずだ。
惜しむらくは、メインコントロールから第二STL室および衛星アンテナに続く回線のみをジャックしている状態ゆえに、第一STL室の二台には手を出せないことだ。それが可能なら、#1、#2からダイブしている襲撃者の魂を焼き払うことすらできるのだが。
余分な思考を堰き止め、比嘉は作業を急ぐべく小さなキーボードに右手の五指を置いた。
――行くぜ!
と気合を入れるのと、頭上から甲高い囁き声が降ってきたのはほぼ同時だった。
「……うっ、動くな!!」
柳井スタッフの声だ。この状況でいきなり何を。
苛立ちながら頭上を振り仰いだ比嘉が見たのは、三メートル先で青黒く輝く自動拳銃の銃口だった。
「…………は?」
ぽかん、と放心したのは、わずか半秒足らずだった。
比嘉は瞬時に状況を把握し、その原因を推測した。
――こいつだ。この男が、襲撃者たちにアリシゼーション計画の情報を流していた内通者だったんだ。
しかし残念ながら、即時の対応策までは出てこなかった。
ゆえに、比嘉はただ無為な質問を発することしか出来なかった。
「……柳井さん。何でッスか」
生白い額に脂汗の玉をびっしりと浮かべた技術者は、唇をかすかに痙攣させてから、細い声を絞り出した。
「い……言っとくけど、お門違いだからな。ボクを裏切り者扱いするのは」
扱いも何も、そのものだろ!!
という比嘉の内心の叫びが聞こえたかのように、柳井は更に言葉を重ねた。
「ぼ、ボクは初志貫徹してるだけだ。ボスの遺志はボクが引き継ぐ、そのためにラースに潜り込んだんだからな」
「ぼ……ボスの、遺志? 誰のことを言ってるんスか……」
呆然とそう尋ねると、柳井は肩から垂れた長髪を払い、芝居じみた笑みを浮かべて答えた。
「き、君もよぉーく知ってる人さ。……須郷サンだよ」
「な…………」
――何い!?
比嘉は今度こそ目を剥いた。
須郷伸之。比嘉や神代博士と同時期に、東都工業大学重村ゼミに在籍していた人物だ。天才・茅場晶彦にあからさまな対抗心を燃やし続け、しかしついに超えることあたわず、そのせいなのかどうか、旧SAOサーバーの接続者数千人を違法な人体実験に利用するという暴挙に出た男。
事件が明るみに出たあと逮捕され、一審の実刑判決に控訴して現在は東京高裁で係争中、のはずである。
「……死んでないッスよ」
思わずそう呟くと、柳井はヒヒッと甲高い笑いを漏らした。
「に、似たようなもんさ。最低でも十年は食らい込むでしょ。ボクも危ないとこだった、もう一人のスタッフに全部おっかぶせて、どうにか逃げ延びたけどね」
「じゃあ、あんたも……あの人体実験に関わってた……?」
「関わったなんてもんじゃないよぉ。ありゃあ楽しかったなあ……バーチャル触手プレイとかさぁ……」
――いったい菊岡二佐は、なんでこんな男の背景をチェックし損ねたのか!
と比嘉は鼻息荒く考えたが、しかしすぐに無理もないかとため息をついた。
偽装企業ラースは、アメリカにほぼ掌握されている現在の防衛技術基盤に、純国産の風穴を開けようという意図のもとに設立された。それはつまり、既存の財閥系メーカーや防衛商社の利潤をおびやかす存在となり得る、ということでもある。
ゆえに、技術系スタッフの陣容を揃えるのには大いに難渋した。こと大メーカーからの参加者は皆無に近かったはずだ。そんななかで、レクトという大企業でNERDLES技術部門に勤めていた柳井のラース参入が、もろ手を挙げて歓迎されてしまったのもやむを得ない。
比嘉の視線の先で、柳井はしばしうっとりと回想に浸っている様子だったが、すぐに拳銃をちゃきっと構え直した。技術スタッフにまで射撃訓練を施した菊岡の周到さが、今だけは裏目に出たかっこうだ。
幸い、柳井はまだ吐き出すべき鬱屈が残っているらしく、裏返り気味の声で会話を続けた。
「ま、ボスの人生はもうエンドロールだけど、あの人が繋いだラインは生きてる。なら、ボクがそれをきちんと使ってあげなきゃ、あの人も浮かばれないよね」
「ライン……て、どことっスか」
「グロージェン・マイクロ・エレクトロニクス」
にんまりと、どこか得意そうな柳井の声。
「な、なんだって!?」
と比嘉は驚いて見せたものの、内心ではやはり、と思っていた。
グロージェンMEは、アメリカの軍産システムに深く食い込むハイテク企業だ。須郷伸之はガンとして口を割らなかったが、違法実験データの売り込み先だったという噂は、では事実だったのだ。須郷が研究していた、NERDLESによる思考・感情操作技術への投資を回収するため、“A.L.I.C.E.”の強奪までも目論んだというわけだ。
「下の連中が首尾よく“アリス”を回収すれば、ボクにもでっかいボーナスと、向こうでのポストが約束されるってワケさ。これぞまさに、須郷さんが夢見てたアメリカンサクセスストーリーだよね」
その後、世界はアメリカ軍が配備するであろう超高性能無人兵器群に震え上がるわけだけどな。
比嘉はそう反駁したいのを必死に堪えた。今は、少しでも会話を長引かせ、僅かなチャンスを拡大しなくてはならない。
――気付いてくれ、凛子さん!
強くそう念じたとき、無意識のうちに右手をぎゅっと握ってしまった。
「うっ動くな!!」
柳井が叫び、銃口をダクトの壁面方向にずらし――トリガーを引いた。空気が膨らみ、鼓膜が痺れた。
おいおい、という思考が比嘉の脳裏に瞬くのと、ダクトの金属壁に火花が弾けるのと、右肩の下に強い衝撃が走ったのはほぼ同時だった。
「あれっ」
と、柳井が驚いたような声を出した。
シノンは、上体を包むブレストプレートが、音もなく前後に割れ、落下していくのをぼんやりと感じた。
明け方の夢によく似ていた。
何かをしなくてはならない。したはずなのに、それは夢なので本当にはしていない。ひたすら繰り返される幻のサイクル。
何者かのひんやりと冷たい指が、首筋を撫でる。強い嫌悪感。恐怖。しかしそれらすらも、即時に意識から吸い出され、ぼんやりとぬるい空疎が取って変わる。
腕が背中に回り、身体を持ち上げられた。ふわりと仰向けになる感覚。お盆型の有翼生物の、濡れたような背中に横たえられる。
いけない。
これは、仮想空間における非現実の出来事ではない。
その認識が、赤い警告灯のように暗い意識の片隅で瞬く。そちらへ向かって走り出そうとするが、粘度の高い液体に、いつしか腰の辺りまで飲み込まれている。
上着の胸元をゆわえる細い革紐が、丁寧に抜き取られていく。太腿を、指先がくすぐるように這い回る。
それらの感覚に反応して浮かび上がってくる感情を、男は洞穴のような両眼で、長い舌で、貪欲に吸い取っていく。
――やめて。
――盗まないで。
という懇願すらも即座に奪われ、残るのは真綿のように分厚い麻痺感のみ。
はだけられた胸元から冷たい手が忍び込み、シノンはついに諦めの涙をひとつぶ零した。
生き物のような舌がそれを舐め取る。
「やめ……て…………」
呟いた唇に、男の舌が近づく――。
バチッ!!
という衝撃が、突如シノンの身体と意識を打った。
見開いた目の先で、開かれた上着の襟ぐりから、眩い銀色の火花が迸るのが見えた。
熱い!!
という巨大な感覚が、男の吸引力を一瞬上回った。ほんの短い時間だけ回復した思考力を、チャンバー内の炸薬のように破裂させ、シノンは男の身体の下から全力で飛び退いた。
ソルスアカウントの飛行能力をフルに発揮し、大きく距離を取る。
「…………っ……」
大きく喘ぎながら、シノンは尚も上着の内側でスパークする何かを、右手で引っ張り出した。
それは、細い銀のチェーンにぶら下がる、白っぽい小さな金属のプレートだった。薄い円形の一端に孔が穿たれ、鎖が通っている。
「な……んで、これが」
ここに。
シノンは驚愕し、息を詰めた。
これは、現実世界の自分、朝田詩乃がいつも首に下げているネックレスだ。高価なものではない。金属はただのアルミニウムである。
しかし、シノンにとっては大きな意味を持つ品だ。
去年、シノンが巻き込まれた“死銃事件”。
その犯人の一人だった同級生の少年が、劇薬を封入した高圧注射器でシノンを襲った際、駆けつけた桐ヶ谷和人――キリトは胸に致死の薬液を噴射された。
その薬の侵入を防いだのが、彼が胸から外し忘れていた、たった一つの心電モニター用電極だ。
シノンはその電極からシリコン部分を剥離させ、アルミプレート部だけをペンダントヘッドに加工して、ひそかにいつも胸にぶら下げている。そのことは、キリトやアスナにも秘密にしている。勿論、STLでのダイブをオペレートした、ラースの技術者が知る道理があるはずもない。
だから、これがアンダーワールドにおいて、オブジェクト化されているなどということは有り得ないのだ。
――しかし。
ラースの人は言っていた。STLを用いてダイブする限りにおいて、アンダーワールドはただのポリゴン被造物ではない、と。
記憶とイマジネーションによって生み出される、もうひとつの現実なのだ――と。
ならばこのペンダントは、自分のイメージが出現させたものだ。
シノンは白い金属板にそっと唇をつけてから、それを服の下に戻した。
完全に回復した意識を、離れた場所に浮遊する平たいコウモリ生物に戻す。
背中では、サトライザが虚無的な視線を、自分の右手に注いでいた。その指先から、かすかな白煙が上がっているのをシノンは見た。
サトライザの顔が、かくん、と持ち上がった。
口元に、かすかな、ほんのかすかな不快の色が浮かんでいた。
「……お前は、怪物じゃないわ。ただの人間よ」
シノンは低くそう呟いた。
確かにサトライザの力は強力だ。おそらく、凄まじいイマジネーション強度で、シノンの用いるSTLにまで干渉しているのだ。
でも、イメージ力なら負けない。
なぜなら、それこそが、狙撃手にもっとも必要とされるパラメータなのだから。
シノンは、左腕に引っかかっているソルスの弓を見下ろした。ぱしっと手中に移し、じっと思念を凝らす。
白く輝く弓の中央部が、突然青みがかったスチールの色へと変化した。
変色範囲が広がると同時に、湾曲する弓がまっすぐな直線を描きはじめる。四角いグリップが、銃床が出現し、最後に巨大なスコープがどこからともなく装着された。
手のなかにあるのは、もう流麗な長弓ではなかった。
無骨で、凶悪で、しかし途轍もなく美しい五十口径対物狙撃ライフル――“ウルティマラティオ・ヘカートU”。
無二の相棒のボルトハンドルを、じゃきんと音高く操作し、シノンはにやりと笑った。
サトライザが厭わしげに歪めた口元から、白い犬歯が牙のようにちらりと剥き出された。
“交戦”と呼べるものは、わずか七分間しか続かなかった。
その後状況は、三分間の防戦を経て、一方的な殺戮へと移行した。
「死守して……! アンダーワールド人部隊だけは……何としても!!」
アスナは頭の芯に居座り続ける痛みを無視し、最前線でレイピアを乱舞させ続けながら声のかぎりにそう叫んだ。
しかし、声の揃った頼もしい応答はもう返らない。
周囲では、カラフルな鎧を輝かせる日本人プレイヤーたちが一人またひとりと、モノトーンの暗黒界アカウント仕様装備に身を固めた隣国人たちに包囲され、飲み込まれ、刃で滅多刺しにされていく。咆哮、金属音、悲鳴、そして断末魔の絶叫が次々に響く。
比較すれば、アメリカ人重槍兵部隊の直線的突進のほうがまだしも対処のし様があった。
新たに出現した大軍は、二つの国からダイブしているせいか、あるいは滾らせている異様な怒りのせいか、秩序も統制もなく形振りかまわない殲滅のみを目指している。複数人で目標の脚に掴みかかり、引き倒し、圧し掛かって自由を奪う。このような戦い方をされては、数の差を戦術、あるいは士気で覆すことなど到底できない。
二千人が円形に繋いだ防御陣が、見る間に侵食され、薄くなっていく。
アスナは、尽きることなく押し寄せてくる兵士たちを闇雲に斬り払い、突き倒しながら、昨夜アンダーワールドにダイブして以来はじめて心の中で声を上げた。
――誰か、たすけて、と。
絶望的抗戦のなかにあって、比較的健闘を続けている部隊のひとつが、アルヴヘイム・オンラインにおいてシルフ族の領主を務める女性プレイヤー、サクヤ率いる緑の剣士隊だった。
シルフはもともと、ALO内種族対抗戦においても、密集陣形での集団戦を得意としている。重装プレイヤーの個人技にウェイトを置くサラマンダー族に対抗するために練り上げた連携が、この場の混戦でもある程度有効に機能した。剣士たちがほとんど肩を接するように密に並ぶことで、各個に引きずり倒されるのをどうにか防いでいるのだ。
「よし、我々が後退の突破口を作るぞ! “りんどう”隊、“からたち”隊、密集陣のまま戦線を右に押し上げろ!!」
自身も最前面で細身の長刀を縦横に振るいながら、サクヤは叫んだ。
右翼方向で戦闘中のはずのサラマンダー隊と合流し、彼らの突貫力を利用して一気に敵陣を破る。支援部隊を包囲から逃がすことができれば、どうにかまともな撤退戦へと移行し得るかもしれない。
「行くぞ! 両部隊、“シンクロソードスキル”開始用意!! カウント、5、4、3……」
サクヤが、そこまで指示しかけたときだった。
耳に、遠くからかすかなひとつの悲鳴が、くっきりと明瞭に聞こえた。
「きゃああああっ!!」
はっ、と呼吸を止め、サクヤは左方向に視線を走らせた。
今しも、オレンジと黄色を基調とした装備の日本人部隊が崩壊し、黒と灰色の波に飲み込まれていくところだった。その中ほどで、両手に装備したメタルクローを押さえられ、引き倒される小柄な姿が確かに見えた。
「アリシャ!!」
サクヤは叫んだ。瞬間、彼女は勇猛果敢な指揮官から、ひとりの女子大生へと戻っていた。
「やめろ――――――っ!!」
叫び、持ち場を離れて単身左へと駆け出す。立ち塞がる敵を右に、左に斬り飛ばし、ひたすらに親友のもとへと突き進む。
ケットシー族領主アリシャ・ルーは、手足を拘束され、無数の手に装備を引き剥がされながらも、接近するサクヤを見るや激しく左右に顔を振った。
「だめっ、サクヤちゃん戻って!! 部隊を指揮してえっ!!」
そのひと言を最後に、黄色い髪から伸びる三角の耳と小麦色の肌がサクヤの視界から消えた。
「アリシャ――――ッ!!」
悲鳴にも似た声を迸らせながら、サクヤはケットシー隊を押し包む敵の大集団にひとり突入した。あらん限りのソードスキルを繰り出し、鮮血と肉片の雨を振り撒いてひたすら前進し――。
どかっ。
という衝撃に視線を落とすと、背中から右腹を貫いて伸びる槍の穂先が目に入った。
恐るべき激痛が神経を駆け巡り、脚から力を奪った。
それでもさらに四歩前進したものの、そこで身体が意思の制御から離れ、がくんと膝が地面にぶつかった。
直後、暴虐の嵐がサクヤをも飲み込んだ。右手から長剣が奪われ、和風の二枚胴と具足が引き剥がされ、薄緑の直垂が一瞬で千切れ飛んだ。
この場にダイブしている二千人の――急激に減少中ではあるが――jp接続プレイヤーのなかで、もっとも正確に状況を把握しているのはおそらく、ギルド“スリーピング・ナイツ”の三代目リーダーであるシーエンだった。
シーエンは、kr接続プレイヤーたちが口々に放つ怒りの言葉を断片的に聞き取り、彼らがどのような情報に煽動されたのかを察知した。
――私がなんとかしないと。たぶん、韓国語を話せるのは私だけだ。
そう決意し、魔法職のシーエンを守るように周囲に立つ四人のギルドメンバーに声を掛ける。
「みんなお願い、一秒だけでいいからブレイクポイントを作って!!」
すぐさま、以心伝心の仲間たちが、疑問を差し挟むことなく諒の声を返す。
先頭で鬼神の如き激戦を続ける両手剣士のジュンが、ちらりと背後を見て叫んだ。
「よし、テッチ、タルケン、ノリ、シンクロで単発大技を決めるぞ! カウント、2! 1!」
完璧に同期して繰り出された重攻撃が、天地を揺るがす大爆発と閃光を引き起こし、一瞬周囲に静寂と停滞を作り出した。
すかさずシーエンは、目をつけていたリーダー格らしき大柄な韓国人プレイヤーへと走り寄り、振り下ろされる長剣を、むき出しの左手で受け止めた。
掌が裂け、骨が砕け、血があふれ出す。
しかしその仮想の痛みは、かつてシーエンが味わった骨髄移植や治験薬カクテル療法の苦しみに比べれば、どうということはなかった。わずかに眉をしかめただけで、シーエンはじっと相手の鎧の奥の両眼を見つめ、韓国語で叫んだ。
「聞いて!! 貴方たちはだまされています!! このサーバーは日本企業のものだし、私たちはチーターじゃなく、正規の接続者です!!」
その声は、周囲の広範囲に高らかに響き、沈黙をさらに少しだけ長引かせた。
シーエンの手に刃を握られた韓国人は、やや気圧されたように仰け反ったものの、すぐに鋭い声で反駁した。
「――嘘をつけ! 見たぞ、お前たちはさっき、俺たちと同じカラーのプレイヤーを皆殺しにしていたろう!!」
「あれは、貴方たちと同じように偽の情報でダイブさせられたアメリカ人です! 日本企業の実験の妨害をさせられているのは、貴方たちなのよ!!」
再び、戸惑いを帯びた静寂。
それを破ったのは、シーエンの声でも、韓国人リーダーの声でもなかった。
「汚い日本人に騙されるな!!」
韓国語でそう叫んだ声は、重く、強く、冷たく、それでいてどこか嗤いを含んでいるように感じられた。
視線をずらしたシーエンが見たのは、いつの間にか少し離れた後方に立っていた、黒いフードポンチョ姿の男だった。
艶のある布が割れ、同じく黒いレザーにぴったりと包まれた右腕が伸びて、まっすぐにシーエンを指差した。
「正規接続者だというなら、なぜお前らだけそんな高級な装備を持っているんだ? GM装備なみにピカピカ光ってるじゃないか! チートで好き勝手に作り出したに決まってる!!」
そうだ、そうだ! という叫びが周囲から追随した。
シーエンは、必死に男の言葉を否定した。
「違います! 装備が異なるのは、私たちのメインアカウントをコンバートしたからよ!」
その途端、フードの男が高くせせら笑った。
「テストサーバーにメインキャラを移すなんて、そんな間抜けが居るかよ! 嘘だ、全部嘘だぞ!!」
「本当よ、信じて!! 私たちは、このアカウントを喪失する覚悟で、ここに……」
ひゅんっ、と空気を切り裂く音がした。
シーエンは、飛来したダガーが自分の右肩に深く突き立ったとき、痛みよりも遥かに大きな絶望を感じた。武器を投じた男が猛々しく喚いた言葉は、シーエンには理解できなかった。
ch接続プレイヤーの集団が、いっときの停戦状態を破って突撃してくるのを見て、目の前の韓国人も荒く剣を引き戻し、右足でシーエンを蹴り飛ばした。
地面に倒れこんだシーエンは、背後から仲間たちが駆け寄ってくる足音を聞きながらも、再び立ち上がることができなかった。
――なぜ。
整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナインは、戦場の空に渦巻く憎しみの劫火を見上げながら、それだけを胸中で繰り返した。
――なぜ彼らは、同じリアルワールド人同士で、これほどまでに憎みあい、殺しあわなくてはならないんだ。
いや、己が言えたことではないのかもしれない。この世界に住まう者たちだって、人界人と暗黒界人に分かれ、何百年も血みどろの戦いを続けてきたのだから。ほんの数日前、東の大門で流された血の量は、この戦場の土に浸み込みつつあるそれと匹敵するだろう。レンリ自身、両腰に下がる神器・比翼により、数え切れないほどのゴブリンの命を絶った。
それより遥か以前に、たかが剣名と栄誉のためにかけがえのない友の血に刃を濡らしもした。
でも、だからこそ。
世界の外側に広がるというリアルワールドには、憎しみも争いもなく、ただ友愛のみが空気を満たしているのだと信じたかった。
しかし、それが幻想であるのは最早明らかだった。リアルワールド人であるアスナや、その仲間たちは人界人と同じ言葉を話すのに、新たに襲ってきた数万の軍勢が口々に放つ叫びは、レンリにはまるで理解できないものだ。言語ですらここまで乖離しているのなら、休戦や和睦の交渉すら不可能ではないか。
つまり、争いこそが人間の本質だということなのだろうか。
アスナがアンダーワールドと呼んだこの世界でも、その外側のリアルワールドでも、そしてもし存在するのならばさらにその外の世界でも、人は果てしない殺し合いだけを続けているのか。
――そんなはずがあってたまるか!
レンリはぎゅっと両拳を握り締め、滲みかけた涙をこらえた。
整合騎士シェータは、敵であるはずの暗黒界軍拳闘士団を守るためにひとり死地に残った。あの人は、たぶん、剣と拳を通じて暗黒界人と分かりあったのだ。血にまみれた道の向こうにだって、きっと希望はあるんだ。
ならば、今は戦わねばならない。ただ守られ、立ち尽くしているときではない。
レンリは、必死の防戦を続けるアスナ側のリアルワールド人部隊の救援に向かうべく、前線に歩き出そうとした。
と、小さな声が背後で響いた。
「騎士様。私も行きます」
振り向くと、立っていたのは補給隊に所属する赤い髪の練士、ティーゼだった。小ぶりの剣を左手にしっかりと握り、悲壮な表情でぎゅっと口元を引き締めている。
「だ……だめだよ、君はあの人を守らないと……」
「その役目は、ロニエに譲ります。私は……、私の好きだったひとは」
ティーゼは、紅葉色の瞳にうすく光るものを浮かべ、続けた。
「あの人は、大切なものを守るために命を散らしました。私も、その志を継ぎたいんです」
「…………そう」
レンリは顔を歪め、唇を噛んだ。
突然、自分でも思いがけないことに、両の腕が前に伸び、細いティーゼの身体を引き寄せていた。はっ、と強張る背中に軽く手をあて、声をかける。
「なら、君は僕が守る。絶対に守るから……だから、僕の背中から離れないで」
「…………はい。有難うございます、騎士様」
ティーゼの小さな手も、ほんの一瞬レンリの背中に触れた。
それでもう充分だった。
エルドリエさん。シェータさん。そしてベルクーリさん。
あなた達のように、僕もようやく命の使い場所を見つけられたようです。
心のなかで呟き、整合騎士レンリは少女練士ティーゼの手を取ると、悲鳴と絶望渦巻く戦域へと駆け出した。
神代凜子は、サブコントロールに駆け戻ると、つい十数分前まで比嘉タケルが座っていたオペレーター席に飛び込んだ。
正面の大モニタに幾つも開かれたウインドウのうち、下部のひとつを注視する。表示されているのは、桐ヶ谷和人のフラクトライト状態を現す立体グラフだ。
虹色のグラデーションに彩られた星のような放射光の中央部には、“主体の欠損”を示すという黒い闇が滲んでいる。
いま、比嘉タケルは四台のSTLを直接操作し、問題の欠損を桐ヶ谷少年と深く関わる三人の少女の記憶を用いて修復しようとしている。そのために、敵に占拠された下層シャフトに単身――いや、たった二人で潜入したのだ。
今のところ、敵襲撃者たちは、囮としてシャフトの主通路から突入させた“ロボザエモン”の迎撃に気を取られている。しかし、ライフルで撃ちまくられればそう長くは持たない。ロボットを破壊すれば、敵も考え出すだろう。果たして、日本人たちは何をしたかったのか、と。
――比嘉君、急いで!
心のなかでそう呼びかけたとき、しゅっとドアがスライドし、がこがこ下駄を鳴らしてアロハシャツ姿の男が駆け込んできた。
「ど……どうだい、キリト君のほうは!?」
「今のところは、まだ。囮のほうはうまく行ってる?」
訊き返すと、菊岡は肩で息をつきながら、ずれた眼鏡をくいっと持ち上げた。
「ザエモンに即席で搭載したスモークグレネードは全部撃ちつくした。煙が通路から排出されるまではもう少し引っ張れるだろうが、その後は再び隔壁をロックしないと危険だ。あまり時間はないぞ」
「比嘉くんは、長くても五分で終わるって言ってたけど……」
口をつぐみ、凛子は再びモニタに視線を戻した。
桐ヶ谷少年のフラクトライトには、相変わらず変化はない。ぎゅっと両手を握り締め、アメリカの主婦が口にする『鍋の湯を見つめていると沸騰が遅くなる』という諺に従う心境で目を上に向ける。
するとそこには、まるで架空のファンタジー地図のような――いやある意味その物である、アンダーワールドの地形概略図ウインドウが開かれたままになっていた。
つい、じっと凝視してしまう。
数日前、オーシャンタートルに到着してすぐに見せられた“人界全図”の、さらに外側が表示されている。人界を取り囲む円形の山脈から、南東方向にずっと下ったところに、四角を二つ並べたような人工地形が見て取れる。そこには、結城明日奈を示す白い光点と、人界側アンダーワールド人集団を示す青いモヤ、日本から接続中のプレイヤー集団を示すクリーム色のモヤが密に固まっている。
そして、彼らを取り囲む黒いモヤが、襲撃者たちに誤誘導されてダイブしたアメリカ人集団――のはずなのだが、しかしやけに規模が大きい。日本人たちの二十、いや三十倍ほどもいるのではないか。
これでほんとうに大丈夫なのだろうか、明日奈以外の二人はどこに行ってしまったのだろうと画面を見回すと、その人工地形から遥か南に下ったところに、水色の光点を一つ発見した。おそらくこれが朝田詩乃か。
となると桐ヶ谷直葉はどこに。更に地図を詳細に眺め、ようやく見出した黄緑色のドットは、主戦場から随分と北で輝いていた。たしか比嘉は、二人とも明日奈の座標にダイブさせたと言っていたのに何故、と眉をしかめた凜子は――。
ふと、直葉の光点の強い輝きにほとんど隠れるように、もう一つ赤い光が瞬いているのに気付いた。
「…………?」
もう、ラース側からSTLダイブしている人間は居ないはずだ。となるとこのドットは何だろう。
反射的にマウスを滑らせ、カーソルを慎重に赤いドットにあわせてクリックすると、はたして、新たなウインドウが開いた。眼を凝らし、連なる微細な英字フォントを読み取る。
「ええと……制限、対抗指数……検出閾値……報告? 何なのこれ……」
意味が分からない、と続けようとした、その時だった。
「な……なにィ!?」
今まで桐ヶ谷和人のグラフに注視していた菊岡がいきなり大声を出し、凜子は飛び上がった。
「な、なによ!?」
しかし菊岡は何も言わず、凛子の手の上からマウスを操作し、新たなウインドウを引っ張り出す。
「ぐっ……間違いない、新たな限界突破フラクトライトだ……なぜこのタイミングで……!」
がりがりと髪をかき回す菊岡の顔を、凛子も思わず目を丸くして見上げた。
「えっ……それってつまり、第二の“A.L.I.C.E.”ってこと?」
「そう、その通り……ああ、いや、待った……これは……」
菊岡は、詳細なログが表示されているウインドウを高速でスクロールさせ、喉の奥で長く唸った。
「……厳密には、“アリス”と同じレベルとは言えない……。論理回路ではなく、情動回路を生成して制限を突破したようだが……しかし貴重なサンプルなのは間違いない。このまま大人しくしてくれていればいいが……ああ、いかん、すぐ南のアメリカ人集団に向かっている!」
両手で頭を抱える菊岡からマウスを奪い返し、凜子も問題の人工フラクトライトが限界を突破したときの詳細ログを注視した。
「はあはあ……確かに、感情フィールドに新しいノードが連鎖反応的に発生してるわね……そうか、まるでこれは……薄膜上のバイオチップの成長過程に似て…………ん? ねえ、菊岡さん?」
「な……なんだい」
おっおおお、と身を捩っていた菊岡は、仰け反らせた首だけをモニタに向けた。
「この、ここんとこに挿入されてるルーチンは何なの? なんだか、やけに違和感があるって言うか……人工的な……まるで、回路の新生を阻害するみたいな……」
凛子は、目を細め、懸命に長大なプログラムコードを追った。
「右視覚領域に……擬似痛覚注入? これじゃ、せっかく人工フラクトライトが発生させかけた論理や情動も、痛みでかき消されちゃうわよ。あなたたちは、わざと限界突破にこんな障壁まで設けていたの?」
「い……いや、そんなことはしていない。するわけないじゃないか、目的と真逆の行為だ……というか、明白に妨害してる」
「そう……よね。それに、このコードのクセ、比嘉くんのと違う……あ、最初のとこにコメントアウトがあるわ、消し忘れかしら……。“コード八七一”? 八七一って何?」
「ハチナナイチ? 聞いたこともないよ……いや、待て……待てよ、つい最近、どこか……で……」
突然菊岡はがっこがっこと駆け出し、すぐ傍の椅子に掛けられたままになっていた薄汚れた白衣を掴みあげた。ばんっと音をさせて広げ、襟のあたりを凝視している。
「ちょっと、何よ、どうしたの?」
凛子が尋ねると、黒縁眼鏡の下で両目をぐりんと見開いた菊岡が、白衣の襟タグを突き出すように示した。
そこには、黒の油性マジックで、“八七一”の数字がくっきりと記されていた。
「その、白衣は……さっき、比嘉くんと一緒に下に行った、スタッフの柳井さんが……」
呟いた凜子は、自分の声が尻すぼみに消えていくのを聞いた。
柳井。八七一。
「……ヤナイ!?」
凜子と菊岡は、同時に声を上げた。
拳闘士団長イシュカーンは、近づく黒い死の姿を、片方だけの瞳で眺めた。
皇帝の召喚した奇妙な兵士たちは、包囲の輪をほんの二十メルの距離まで縮めると、もう拳闘士たちに戦意が無いのを確認したのか、互いに頷き合った。
直後、意味の取れない、やけに威勢のいい雄叫びを口々に放ち、一斉に地面を蹴った。
地面と空気が揺れるのを感じながら、イシュカーンは壊れた左手で、隣に座る女騎士の右手を強く握った。すぐに握り返される感覚があり、痺れきった神経に、甘い痛みが一瞬かよった。
最後のときを迎えるため、目をつぶろうとした、その瞬間――。
震動と雄叫びが、一気に倍に増えた。
「……イシュカーン。あれ」
シェータの声に、視線を巡らせる。
見えたのは、戦場の北に広がる巨大峡谷の向こうから、土煙を上げて殺到する大軍勢だった。
丸く、巨大な身体。突き出た平たい鼻と、垂れ下がった耳。
オークだ。
「……なんでだ」
イシュカーンは呆然と呟いた。オーク軍は、ずっと北の大門前で皇帝ベクタから待機を命ぜられたままのはずだ。皇帝が姿を消したままである以上、その命令が解除されるはずはない。事実、五千の暗黒騎士団は、峡谷のすぐ向こう岸で愚直な待機をひたすら続けている。
わけがわからず、ひたすら目を凝らしたイシュカーンは、オーク軍の先頭をつっ走るひとつの小さな姿にようやく気付いた。
肩のあたりで切りそろえられた深緑色の髪を揺らし、裾の広がった短いズボンから、真っ白な脚をのぞかせている。間違いなく人間――人界人――の娘だ。
しかし、あれではまるで、あのちっぽけな女の子が、オーク部隊全軍を率いているようではないか!
殺到する大軍に気付いたのか、拳闘士団を取り囲む黒い歩兵たちの動きも止まった。
直後、オーク軍の先頭を走る娘が、峡谷にかかる石橋へと突入した。
きらっ、と眩い輝き。
全身を緑色の装備に包んだ小さな娘が、背中から恐ろしく長い刀を抜き放ったのだ。
瞬間、何かを感じたのか、イシュカーンの手の中でシェータの手がぴくっと震えた。
緑の娘は、まだ橋を渡りきらないうちから、すうっと長刀を両手で高く振りかぶった。黒の歩兵たちまでは、まだ百メルちかい間隙がある。
だが――。
ふっ、と娘の刀が煙った。イシュカーンの眼にすら、その斬撃は視認できなかった。緑色の閃光が一瞬閃き、そして直後、凄まじい現象が発生した。
振り下ろされた刃から、黒い地面にまっすぐに光が走り、その直線状に存在した黒の歩兵団から鮮血の幕が高く、高く吹き上がった。
ぴっ。
振り切られた位置から、返された刀が今度はまっすぐ跳ね上がった。再度、光の直線が黒の軍勢を貫いた。先の血飛沫がまったく収まらぬうちに、やや角度を変えて新たな真紅の幕がそそり立つ。
「……すごい」
シェータが、音にならない声で囁いた。
出現した愛銃ヘカートUを、シノンは即座に頬づけして構えた。
サトライザとの距離は五十メートルも無い。対物ライフルで狙撃するには、いかにも近すぎる。この距離で、動く敵を照準し続けるのは至難だ。
ゆえにシノンは、サトライザが状況に対応してくる前に勝負をつけるべく、スコープのクロスヘア上に黒い影を捉えた瞬間迷わずトリガーを引いた。
閃光。轟音。
凄まじい反動に、空中に浮いたままのシノンは、ひとたまりもなく木の葉のように吹き飛ばされた。くるくる回転する世界を、懸命に制動する。イマジネーションで作り出した銃なら反動をゼロにすることもできるか、と一瞬考えるが、しかしそれでは恐らく威力もゼロに減じられるだろう。
どっちにせよ、今の一撃が当たっていればそれで終わりだ。
どうにか体にブレーキをかけ、シノンはサトライザの居る方向を見やった。
そして、信じがたい光景を目にした。
複眼有翼の怪生物の背に立つ男は、黒ファティーグの左腕を持ち上げ、その掌をぴんと立てている。
掌の前には、闇と光が入り混じって激しく渦巻いており、その空間を挟んで小さく、強く輝いているのは――間違いなく、シノンが放った弾丸だった。
吸おうというのか。
五十口径ライフルから放たれた、戦車の装甲すら貫く徹甲弾を。
一瞬、シノンの心に怯えが走った。それと同期するように、渦巻く闇がその勢いを増した。白く輝く光弾に、黒い触手の如くまとわりついていく。
「負けるな……」
シノンは無意識のうちに呟いた。続けて、叫んだ。
「負けるな、ヘカート!!」
ズバッ。
と微かな音を立てて、光が闇を貫いた。
サトライザの左手から、指が三本瞬時に消し飛んだ。ファティーグの袖も引き千切れ、むき出しになった腕からぱぱっと鮮血が飛び散る。
……行ける!!
シノンはぐっと歯をかみ締め、ヘカートUのボルトを引いた。排出された空薬莢が、きらきら輝きながらはるか地面へと落下していく。
サトライザは、しばし傷ついた己の手を見ていた。その滑らかな眉間に、ひと筋の谷が刻まれた。
ぎろり、と青い眼がシノンを睨んだ。
同時に右手が動き、背中から大型のクロスボウを抜き出す。
「……ふん」
シノンは微かに息を吐いた。あんなもので、対戦車ライフルに対抗しようとは――……。
ぐにゃ。
突然、黒い石弓が歪んだ。
左右に広がる弓部が折りたたまれるように消えていく。同時にズルリと湿った音を立て、全体の長さが倍以上に伸びる。木製だったはずのフレームが、黒い金属の輝きを帯びる。
ほんの一秒後、サトライザの右手には、巨大なライフルが握られていた。シノンはその銃の名前を瞬時に想起した。
バーレットM82A1。
ヘカートUと同じ、五十口径対物狙撃銃だ。
サトライザの口元が、薄い笑みの形に歪んだ。
「……上等じゃない」
シノンも呟き、ヘカートの銃床をぐっと右肩に押し当てた。
「うわっ……だ、大丈夫?」
まるで本気で心配しているが如き柳井の細い声に、比嘉は一瞬痛みを忘れた。
「じ……自分で撃っといてその言い草……!」
「いやー、当てる気は無かったのよ、これホント。ヒトゴロシとか背負う覚悟無いしさぁ。せっかくキャリフォルニアあたりにイカすコンドミニアム買っても、悪夢とか見て飛び起きたりとかしたらウザイじゃん」
どうやら本当に本気でそう思っているのだ、と理解した途端、脱力感が倍増し腕から力が抜ける。いかん、と強く瞬きしてから、おそるおそる傷を確認する。
弾はどうやら、鎖骨のすぐ下に命中したようだ。痛みというより、凍るような麻痺感が右腕全体に広がり始めている。酷く出血しており、シャツはすでに脇腹あたりまで赤黒く染まっている。
現在の状況、及び今後の展開に対する恐怖が、ようやく比嘉の胃の下あたりに重く湧き上がりはじめた。歯を食いしばる比嘉を見下ろし、柳井はなおも喋り続けている。
「ほんとは、キミの作業をチョロっと妨害して、点検コネクタを破壊してから下のメインコントロールに脱出するつもりだったんだよねえ。ボクも帰りの潜水艦に乗せてもらう手はずになってるからさぁ。幸いラース側に死人も出なかったし、これでアリスさえ回収できれば、さわやかな結末だったのにねぇ」
「死人が……出なかっただって……?」
比嘉は再び怪我のことを忘れ、軋るような声を出した。
「……今、このチャンスに桐ヶ谷君の治療が出来なければ、彼の意識はもう二度と回復しないんだぞ! 彼の魂を殺すのは、アンタだよ柳井さん!」
「あー。あー……そーね……」
柳井は、不意にすっと表情を消した。オレンジの非常灯に浮かび上がる生白い頬を、かすかな痙攣が走る。
「うん……死んでいいや、あのガキは」
「な…………」
「だってさぁ、あの小僧は殺しちゃったんだよ。ボクのかわいいアドミーちゃんをさ」
「あど……みー……?」
「神聖教会最高司祭・アドミニストレータ猊下だよ。ボクはねえ、約束してたんだ。あの子のアンダーワールド完全支配に最大限協力するって。それに、もしサーバーが初期化されることになっても、あの子のライトキューブだけ保全してあげる、ってね」
比嘉は愕然と眼を見開いた。
神聖教会――というのは、アンダーワールド内の“人界”統治組織の名称だ。凄まじく厳密な法体系と、強大な武力であまねく人界住民を完全に支配していた。
比嘉たちが、高適応型フラクトライト“アリス”の出現を察知しつつも確保できなかったのは、時間加速下のアンダーワールドで、神聖教会が迅速な対応でアリスを連行し、そのフラクトライトに独自の封印処置を施してしまったせいだ。
そう、あまりにも素早すぎ、的確すぎる手際だった。
まるで、人工フラクトライトの何たるかを完全に熟知しているかのように。
そのとおりだったのだ。神聖教会は、少なくともそのトップであったらしい“アドミニストレータ”という人工フラクトライトは、世界と人の魂の構造を知ってしまっていたのだ。
「……アンタが、汚染したのか……」
比嘉が低く呻くと、柳井はツツっと小さく舌を鳴らした。
「おっと、最初にコンタクトしてきたのはあの子のほうだよ。ボクが当直のとき、いきなりスピーカーから声が聞こえたときはそりゃあ焦ったなぁ……。あの子は、自力でアンダーワールドの全コマンドリストを発見して、システムコンソールから外部コールしてきたんだ。リスト呼び出しコマンドをサーバーに残してたアンタのミスだよぉ、元を辿ればね」
んっふふ、と笑い、柳井は何かを思い出すように、とろんとした目つきになった。
「ボクも最初は、こりゃあ完全初期化だなぁと思ってさ。どうせみんな消されちゃうならまぁいいかって、こっそりSTLでアドミーちゃんのとこにダイブしてみたんだよね。そしたらさぁ……ああ、あんな綺麗な子、ボクは見たことなかったなぁ……。性格から、声から、口調から、何もかもボクの理想どおりで……あの子は、約束してくれたんだ。協力したら、見返りに、ボクを第一のシモベにしてくれるって。いろいろ……いろいろしてくれるってさぁ……」
――違う。
汚染されたのは、この男のほうだ。
比嘉は、背中が総毛立つのを感じながらそう悟った。柳井は、馬鹿な裏切り者だが知能は高い。そんな人間を、ここまで取り込み支配する――アドミニストレータとは、如何なる存在だったのか。
と、回想に浸っていた柳井の顔から、不意に表情が抜けた。
「……でも、あの子は死んでしまった。殺されちゃったんだ。須郷さんの実験も邪魔した、あの小僧にさ。カタキ、取ってあげなきゃアドミーちゃんが可哀想だよね」
ちゃき、と金属音を立てて柳井は拳銃をまっすぐ構え直した。
「そうだよ……そうだ、やっぱりボクも一人くらいは殺さないと、あの子の供養にならないよね……」
柳井の細い眼は大きく見開かれ、小さな瞳孔が細かく震えていた。
……やばい。今度こそ、本気だ。
比嘉は思わず目をつぶった。
――間に合わないか。
リーファは、遥か離れた場所でアスナとキリトが陥っている窮地を感じ、強く唇を噛んだ。
眼前には、数千の黒い兵士たちがわだかまり、行く手を阻んでいる。
実はオーク族の長だったらしいリルピリンに要請し、アスナたちを助けるために南進をはじめたものの、やがて見出したのは目指す人界部隊ではなかった。
現実世界からのダイブ者と思しき軍勢に囲まれる、わずか数百の男女たちは、リルピリンいわくオークと同じ暗黒界軍の拳闘士団らしかった。それを聞き、一瞬も迷うことなく、リーファは救援を決めた。
「敵陣には、私ひとりが斬り込むからね。あなたたちは、拳闘士たちを守って、そっちに向かうヤツだけを迎え撃って」
そう指示すると、リルピリンは共に闘う、と猛然と抗議した。リーファは首を振り、五指にひづめの生えたオークの手をそっと押さえた。
「だめよ、あなた達に犠牲者は出したくないの。私なら大丈夫……あんな奴ら、何万人いたって負けないわ」
そう笑いかけ、リーファは単身、突撃を敢行したのだった。
自身のヒットポイントが、ほぼ無限の回復力を持つことはすでに実証されている。それに、前方のアメリカ人も、同じようにかりそめの命を持つ者たちだ。
キリト達の救援が間に合いそうもない以上、ここでオークたちの命を無為に落とさせることはリーファには出来なかった。
超ロングレンジからの二連斬を叩きこんだあと、リーファは脚を止めることなく、勢いのままに敵集団へと突入した。
いかなる理由によるものか、ALO内と比べて間合いが数倍に拡張されたソードスキルを、立て続けに放つ。地面を切り裂くような咆哮と、鮮やかな閃光が炸裂し、放射状に血風が巻き起こる。
しかし、連続技と連続技のあいだにできる隙までは消せず、わずかな硬直時間を狙って無数の剣が襲ってきた。かわしきれず、リーファの体からも大量の鮮血が飛び散る。
「ええ――いッ!!」
気合とともに、強く地面を踏む。足元から、ぶわっと緑の輝きが溢れ、全身の傷が一瞬で癒える。
四肢に反射するような痛みの余韻を振り払い、リーファは更に剣を振るった。
たとえ万の傷を受けようと、この場の敵だけは現実世界へ追い返してみせる。
ログイン座標ずれで意図せぬ場所に飛ばされてしまった自分に役目があるとすれば、それはきっと一人でも多くのアンダーワールド人たちの命を助けることだ。キリトが愛し、守ろうとしたという人々の。
左方向から、なかなかの速度で突き出されてきた剣を、リーファは腕を貫かせて止めた。
「せああ!!」
返す刃で、その持ち主を一息に切り伏せる。
リーファは、腕に突き刺さったままの剣を、口に咥えて抜き取ると、血のりとともに吐き捨てた。
第二射は、ほぼ同時だった。
二丁のアンチマテリアルライフルから放たれた巨大な弾丸は、ほとんど擦れるような距離ですれ違い、悲鳴じみた轟音とともに大きく軌道を逸らして飛び去った。
シノンは、今度は無様にくるくる回転することなく、両足で後方の空気を踏みしめながら反動を抑え切った。視線の先では、サトライザも有翼怪物を強く羽ばたかせて空中に踏みとどまっている。
このような、三六〇度完全なオープンスペースで、しかも対物狙撃銃同士で撃ち合うのはシノンには初めての経験だった。ガンゲイル・オンラインでは飛行はサポートされていないので当然と言えば当然だが、二脚を立てての伏射が常だったヘカートUの、空中での反動の大きさは予想外だ。
この勝負――。
先に反動を抑え、同様に敵が静止した一瞬を照準できたほうの勝ちだ。排莢しながら、シノンはそう考えた。
つまり、敵にまず撃たせ、それを回避してのける必要がある。
同じことを、おそらくサトライザも考えているだろう。右方向へスライド飛行するシノンの逆へ、逆へと回り込んでくる。
何の合図が有ったわけではないが、まったく同時に、双方とも高速機動を開始した。
静止時間が発生しないぎりぎりの鋭角ラインを描きながら、ランダムに飛び続ける。銃口をぴたりと敵に追随させながらも、己もまた敵の射角に捉われ続けていることを強く意識する。
サトライザの構えるバーレットのマズルが、ついにシノンの動きを先読みしたか、ひゅっと霞むほどの速度で動いた。
――来る!!
シノンは歯を食いしばり、眼を見開いた。
巨大な銃口から火炎が迸る。
限界速度でダッシュしつつ、体を右に捻る。
胸元が焦げるほどの距離を、致死の銃弾が擦過していく。群青色のアーマーが、ぴしっと音を立ててひび割れる。
――避けた!
最初で最後の機会。サトライザが急制動し、静止する一瞬を撃つ!
ヘカートを構えかけたシノンが見たのは。
真正面から飛来する、二発目の銃弾だった。
連射――なぜ!?
ああ……しまった。
バーレットは、セミオートマチックライフル……。
その思考が弾けるのと同時に、シノンの左足が、太腿の中ほどから音も無く爆砕した。
絶望的状況に抗い、戦場に最後まで立ち続けたのは、スーパーアカウントに保護されたアスナと、そしてアンダーワールド人である整合騎士レンリ、及び彼の騎竜、更に騎士と竜に守られるかたちで剣を握る少女剣士ティーゼだった。
アスナは、極限の疲労と苦痛で霞む視界に、鬼気迫る闘いぶりを繰り広げる少年騎士の姿をとらえ続けた。
小柄な騎士は、前線に現れるや巨大な十字ブーメランを自在に飛翔させ、押し寄せる敵の波を片端から薙ぎ倒した。その凄絶なる威力は、怒りに燃える隣国人たちの突撃を、数分にせよ押し返したほどだった。また、巨大な飛竜が浴びせ掛ける熱線もおおいに敵を怯ませた。一人と一頭の戦いぶりは、彼らがまさしくアンダーワールドという異世界に生まれ育った本物の竜騎士なのだということを、十二分に証明していた。
しかしやがて、敵も気付いた。騎士レンリは、その武器を投擲・操作している間、本人はほぼ無防備になってしまうということに。
何十度めかにブーメランが放たれ、黒い軍勢の最前列を横薙ぎにしかけた瞬間、その後方から長槍が無数に投擲された。アメリカ人たちと戦ったとき、アスナが秘かに恐れた戦法が、ついに実行されたのだ。
槍は、黒い雨となって空を流れ、降り注いだ。
最初の投擲は、飛び出した飛竜が、広げた翼と胴体で受け、防いだ。
銀の鱗と赤い血を飛び散らせながら、竜は細い悲鳴とともに横倒しになった。
すかさず、第二陣の槍衾が投げ放たれた。
ざあっと重い音を立て殺到する黒い穂先を一瞬見上げてから、騎士レンリは振り向くと、背後に居たティーゼの細い体をぎゅっと抱きかかえ、自分の下に隠した。
甲高い無数の反射音に混じって、どかっ、どかっ、という鈍い音を二回、アスナは聴いた。
背中の装甲の継ぎ目に二本の槍を深々と受け、レンリはティーゼを覆うようにゆっくりと前のめりに倒れた。制御を失った十字ブーメランが、一瞬の光とともに二つに分裂し、離れた地面に突き刺さった。
その頃にはもう、戦域のほかの場所でも戦闘はほぼ終了していた。
力尽き、倒れた日本人プレイヤーに、黒い姿が一斉に群がり、我先にと武器を叩きつけていく。血と肉、かすかな悲鳴が振り撒かれ、やがて途絶える。
あるいは、高優先度装備をすべて強制解除された姿で、地面に突きたてられた長柄の武器に磔にされている者も数多く見える。彼らの傷から流れる血よりも、顔を伝う屈辱と無念の涙のほうが何倍も痛ましい。
コンバート者二千人の円陣がほぼ無力化され、いままでその中央に守られていた人界軍がいよいよ露出し始めていた。
非武装の補給隊、術師隊を守るように、約六百人の人界軍衛士たちが、ぐるりと密集して剣を構えている。どの顔にも悲壮なまでの覚悟が満ち、じりじりと迫る黒の軍勢に向け、決死の突撃をかけるその時を静かに待っている。
「……やめて……」
アスナは、自分の唇から零れた声を聞いた。
それは、全身に受けた傷の痛みではなく、ただ絶望と哀しみによって心が折れた音だった。
「お願い……もうやめてよ……」
呟きとともに、右手からレイピアが落ちて地面に転がった。その傷だらけの刀身に、頬から滴った涙の粒が小さく弾けた。
眼前に立ちはだかる大柄な男が、敵意に満ちた鋭い罵声とともに、両手剣を高々と振り上げた。
その刹那。
雷鳴にも似た大音声が轟きわたり、アスナに向けて振り下ろされんとしていた刃と、全戦場で進行中のあらゆる攻撃行為を停止させた。
スト――――――ップ!! と途轍もないボリュームで叫んだのは、これまで戦域を少し離れたところから見守っていた黒フードの男だった。殺人ギルド・ラフィンコフィン頭首“PoH”――の亡霊。
隣国人プレイヤーたちは、おそらくマーカーによって黒フードを指揮官と認識させられているらしく、不承不承ながら徐々に武器を降ろしていった。アスナを斬り伏せようとしていた大男も、激しい舌打ちとともに剣を引き、代わりに無造作な足蹴を見舞ってきた。
黒い地面に倒れこんだアスナは、歯を食いしばり、萎えた腕で懸命に身体を起こした。
視線を巡らせると、黒革の裾を揺らしながらゆっくりと前進してくる黒フード男の姿が見えた。指揮慣れしたよく通る声で周囲のプレイヤーたちに何か声を掛けているが、韓国語なので理解できない。
と、周囲の黒い兵士たちが次々に頷き、周りの仲間たちに何かを伝えはじめた。
突然、傍に立っていた男がアスナの髪を掴み、引っ張りあげた。思わず細く悲鳴を漏らしてしまうが、男は聞く耳も持たず、ずるずるとアスナを引き摺っていく。
周囲でも、似たようなことが行われていた。どうやら、まだ生きている日本人プレイヤーを一箇所に集めるつもりらしい。複数人に蹴立てられ、あるいはポールアーム製の十字架に磔にされたまま、半死半生のプレイヤー達が次々と連行されてくる。
黒フードは、小規模な全周防御態勢を取る人界軍衛士隊の至近まで堂々と歩み寄っていくと、振り向いて片手を振り、再び何かを指示した。
自分を引っ立てる男に、乱暴に背中を蹴り飛ばされて、アスナは数メートルも吹っ飛んで地面に沈んだ。周りに、どさどさと立て続けに日本人が突き転ばされてくる。チェーン系の武器で磔にされた者は、そのまま一箇所にまとめて晒された。
生存者の数は、すでに二百を切っていた。
ヒットポイント量が生存率に直結したのか、やはりハイレベルプレイヤーが多く残っている。少し見回すと、すぐにALOの領主の面々や、スリーピングナイツのメンバーを発見できた。
しかし、彼らの姿に、かつての誇り高いおもかげはもう無かった。
すべての武装を強制解除され、ほとんど全員が身ひとつの有様だ。肌には惨い傷が縦横に走り、折れた刃が体に突き刺さったままの者も多い。だが、みなの顔に一様に浮かぶのは、苦痛でも怒りでもなかった。生気を失ったかのような、虚脱した絶望だけが色濃く漂っていた。
戦場に荒れ狂った憎しみの凄まじさ。
それに対してさして抵抗することもできなかった無力感。
いわば――魂に刻み込まれた、敗北という烙印。
もうこれ以上何も見たくなかった。地面に突っ伏して、最後の時まで瞼を閉じていたかった。
しかしアスナは、滲む涙をとおして、尚も仲間たちの姿を目に焼き付け続けた。
視線を一周させたところで、乱れたピンク色のショートヘアに気付いた。顔を両手に埋め、肩を震わせている。
アスナは脚を引き摺り、ゆっくりとその背中に近づくと、親友の体に両手を回した。
リズベットは一瞬全身を強張らせてから、がくりとアスナの胸に頭を預けてきた。血と涙に汚れた頬が引き攣り、掠れた声が漏れた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、みんな……あたし……あたしが……みんなを……」
「違う……違うよ、リズ!」
アスナも、涙まじりの声で小さく叫んだ。
「リズのせいじゃない。わたしが悪いの……ちゃんと考えれば……予想できたはずなのに……」
「アスナ……。あたし……知らなかったよ。戦うこと……負けることが、こんなだって、知らなかった……」
返す言葉が見つからず、アスナは顔を上げると、ぎゅっと両眼をつぶった。零れ落ちた涙が、幾つも頬を伝った。
耳に届いた小さなすすり泣きに眼を開けると、地面に大の字になった褐色の肌の巨漢――エギルと、その隣にうずくまる小柄なシリカが見えた。
エギルは、よくこれで天命が残っているとすら思えるほど酷く負傷していた。おそらくはシリカを守り、よほど激しく戦い続けたのだろう。樽のような体にはスピアやハルバードが十本以上も貫通し、四肢はほとんど叩き潰されたような有様だ。髭の下で歯を食いしばっているのは、想像を絶する苦痛に耐えているからに違いない。
少し離れた場所には、背を向けて胡坐をかくクラインの姿もあった。こちらは、左腕が肩の下から斬り飛ばされ、傷口にトレードマークのバンダナが巻いてある。身体を丸め、俯いているのは、顔を見られたくないからだろうか。
生存者は皆、大なり小なり同様の状態だった。
武器も、鎧も、そして闘志も奪われ地に伏す二百人を、少し離れた位置に立つ黒フードの男はぐるりと睥睨し――そこだけ覗く口元に、にやりと大きな笑みを浮かべた。
再びぐるりと振り向き、アンダーワールド人部隊へと正対する。
右手が持ち上がり、皆殺しにしろ、という指示が発せられる瞬間を、アスナは恐怖とともに待った。
しかし、響いたのは意外な内容の日本語だった。
「武器を捨て、抵抗を止めろ。そうすれば、お前らも、後ろの捕虜も殺しはしない」
衛士隊長たちの顔に、一瞬の驚きに続いて、朱色の憤激が走った。
「……ふざけるな!! 今更我らが命なぞ惜しむと……」
「言うことを聞いて――ッ!!」
衛士の言葉を遮り、叫んだのは、アスナだった。
リズベットの身体を抱きしめたまま、涙に濡れた顔を上げ、アスナはさらに懇願した。
「お願い……あなたたちは生きて! どんな屈辱を味わおうとも、生きのびてください!! それが……それが、私たちの……たった一つの…………」
希望なのだから。
胸が詰まり、そこまでは言葉にできなかった。
しかし、衛士たちはぐっと歯を噛み締め、顔を歪め、やがて――ゆっくりと項垂れた。
がしゃ、がしゃんと音を立てて投げ捨てられる剣を見て、周囲の、いまだ三万以上残るプレイヤーたちの間から、高らかな勝利の叫びが湧き上がった。それらはすぐに、リズミカルな自国名の連呼へと変わっていく。
黒フード男は、さっと片手を上げて数人の黒い歩兵を呼びつけ、何かを指示した。即座に兵らは頷き、降伏した人界軍部隊のなかへと足音高く分け入った。
一体、何を……と思ったのも束の間、黒フードがざくざくと音を立てて歩み寄ってきて、アスナの視界を塞いだ。
目の前で立ち止まった男を、なけなしの力を込めた両眼で見上げる。
フードの奥の闇は、この距離でも見通せなかった。逞しく割れた顎や、首元にのぞく巻き毛がかろうじて見える。
その顎が動き、低く湿った笑いを含む声が漏れ出た。
「……よう、“閃光”」
――やはり!!
息を飲み、アスナは胸の奥から言葉を絞り出した。
「……お前……PoH……!」
「おおっと、懐かしい名前だな。知ってたか? それ、“Prince of Hell”の略なんだぜ?」
そのとき、片手を地面に突いてにじり寄ってきたクラインが、燃えるような目で黒フードを見上げた。
「てめェ……てめェかよ。この……人殺しが!!」
掴みかかろうとしたクラインを、男のブーツが無造作に蹴り飛ばした。たちまち、周囲の人垣から数名が走り出てきて、剣や槍でクラインの動きを封じる。
アスナはぎりっと奥歯を噛みながら、PoHに低く尋ねた。
「これは……復讐なの? ラフィン・コフィンを壊滅させた私たち攻略組への……?」
「…………」
PoHは、しばし無言でアスナを見下ろしていた。その肩が細かく震えているのにアスナは気付いた。
やがて、男は――ぷっ!! と盛大に吹き出した。
ポンチョの下で細い身体を折り曲げ、くくく、ひひひと笑い続ける。
発作のような嘲笑をようやく収め、ポンチョから細い右手を突き出すと、PoHは朗らかな声で続けた。
「あー、ええっと……こういう時、日本語でなんて言うんだったかな……」
くるくると回された指が、パチン! と鳴った。
「そうそう。“お目出度ぇな”? まったくウケるぜ。あのな……」
かくん、と膝を折り曲げた男は、至近距離からアスナを覗き込んできた。フードの奥に、ぎらぎらと輝く眸だけが見えた。
「……教えてやるよ。ラフィン・コフィンの隠れアジトを、てめぇら攻略組様に密告したのは……このオレなんだぜ?」
「な…………」
アスナも、クラインも、そして瀕死のエギルまでもが目を見開いた。
「なぜ……そんな…………」
「あのアホどもと付き合うのも飽きてたしなァ。サル同士殺しあうのが見たかったっつぅのもあるけど……一番の理由は、やっぱこれだな。オレはな……お前らを、“人殺し”にしてやりたかったんだよ。お偉い勇者ヅラして最前線に篭もってる攻略組ご一行様をよ。お膳立てには苦労したぜ。ラフコフの奴らにも直前に警告して、“逃走はムリだが迎撃は間に合う”タイミングをびったし作ってさ」
――そうか。あのアジト急襲が事前に漏れていた形跡があったのは、そういう訳だったのか、とアスナは愕然としながらも思った。
そのせいで、戦闘の初期にはレベルで優る攻略組のほうが押され、数名の死者まで出したのだ。劣勢を覆したのは、当時すでに抜きん出た実力を示していたキリトの奮戦であり、彼がラフィンコフィンの切り込みプレイヤー二名を斬り倒したことで――状況が逆転し……。
「……あれが……狙いだったの?」
アスナは、ほとんど音にならない声で囁いた。
「キリトくんに……PK行為を、背負わせるために……?」
「イエス。アブソリュートリィ・イエス」
PoHの声も、熱を帯びた囁きにまでひそめられた。
「オレは、あの戦いを近くからハイディングして見てたんだよ。“黒”の熱血バカが、ブチ切れて二人もぶっ殺したときは、思わず爆笑してハイドが破れるとこだったぜ。理想としてはよ、のちのちあいつとアンタを無力化のうえ拘束して、あん時のことをロング・インタビューしてやろうと思ってたんだけどよ……まさか七十五フロアでエンディングとはなぁ」
瞬時に沸騰した怒りが、アスナに傷の痛みをいっときにせよ忘れさせた。
「き……キリトくんが、どれだけあの時のことを、悩んで、苦しんでると思うの!?」
「ほ、そりゃよかった」
PoHの声は、対照的に氷のような冷たさを帯びていた。
「でも、そいつは怪しいもんだな? ほんとに後悔してるならよ……普通、VRMMO辞めるんじゃねえの? 殺したヤツに申し訳なくてさぁ。分かってんだぜ、あいつも居るんだろ、ここに。感じるんだよ。なんで馬車に篭もってんのかは知らねえが……まあ、直接聞くさ」
言葉を失ったアスナの頬を、指先でそっと撫で、PoHは勢い良く立ち上がった。
いまだ周囲でうねり続ける大歓声の底に、低く湿った声が流れた。
「イッツ・ショーウ・タァ――――イム」
くるりと振り向いたPoHの向こうに――。
人界軍部隊をふたつに割って、黒い歩兵の手でごろごろと運ばれてくる車椅子と、拘束されたまま付き従う、灰色の制服姿の少女が見えた。
ああ……。
やめて。
それだけは。
アスナの胸中に、悲痛な懇願が溢れた。クラインが跳ねるように立ち上がろうとし、すぐに押さえつけられた。
PoHは、目の前まで押されてきた車椅子を、身体をひょいと傾けて覗き込んだ。
「……ンン?」
訝しそうな唸りとともに、つま先でこつんと、椅子からぶら下がる脚をつつく。
「何だこりゃあ……? おい、“黒の剣士”、起きろよ。“二刀流”、聞こえてんのかぁ?」
かつてのあざなで呼ばれたキリトは――しかし、まったく反応しなかった。
黒いシャツの上からも如実に分かる、痩せ細った体を背もたれに斜めに預け、顔をかくんと俯かせている。中身のない右の袖が風に揺れ、二本の剣をきつく抱く左手も、骨ばかりが目立つ。
アスナの隣に突き飛ばされてきたロニエが、真っ赤に泣きはらした目をしばたかせ、小さく言った。
「キリト先輩……戦いのあいだ、何度も、何度も立ち上がろうとして……そのうち、力尽きたみたいに静かになって……でも……涙が……涙だけが、いつまでも……」
「ロニエさん……」
アスナは左手を伸ばし、しゃくりあげるロニエの華奢な身体を引き寄せた。
きっと顔を上げ、PoHに鋭い言葉を投げる。
「分かったでしょう。彼は戦って、戦いぬいて、傷ついたの。だからもう構わないで! キリトくんをそっとしておいて!!」
しかし黒フードの男は、アスナの声など耳に入らぬ様子で、キリトの顔を至近距離から覗き込み喚き続けた。
「おいおーい、嘘だろ! 締まらねえよこんなんじゃよ! おい、起きろって! ヘイ、朝だよー! おーい!! グッド・モー……ニン!!」
突然、PoHは右足を銀の車輪に掛け、容赦なく蹴り倒した。
騒々しい金属音とともに横倒しになった車椅子から、痩せた体が地面に投げ出された。
アスナとクラインが、同時に立ち上がろうとして背後の剣に押し止められた。エギルも、血の泡が混じった低い怒りの声を漏らし、リズベットとシリカ、それにロニエが細い悲鳴を上げる。
PoHは、背後の様子にはもう目もくれず、キリトに歩み寄るとつま先で乱暴に身体を仰向けさせた。
「なんだよ……マジで壊れちまってるのかよ。あの勇者サマが、ただの木偶かぁ?」
いまだ、しっかりと二本の剣を抱えたままの左腕から、白いほうの鞘を奪い取る。じゃきっと引き抜かれたその刀身は、半ばほどで痛々しい折れ口を晒している。
盛大な舌打ちとともに、PoHは剣を鞘に戻した。と――。
「ぁ……。ぁー……」
キリトが、細いしわがれ声とともに、左腕を白い剣へと弱々しく伸ばした。
「おっ!? 動いたぜ!! なんだ、コイツが欲しいのか?」
PoHは、じらすように空中で白い剣を動かしてから、それを無造作に投げ捨てた。空中でそちらに動こうとするキリトの左腕を、ぐいっと右手で掴み、引っ張り上げる。
「ほら、何とか言えよ!!」
ぱし、ぱしん! と音を立て、PoHの左手がキリトの頬を張った。
アスナの視界が、憤怒のあまりか薄赤くそまった。しかし、再び立ち上がろうとするより早く、クラインの血の滲むような絶叫が響き渡った。
「てめえが!! てめえがキリトに触るんじゃねえ――――!!」
片腕で掴みかかろうとするその背中を、背後から太い剣が貫き、容赦なく地面に縫いとめた。
がっ、と大量の血を吐き出し、突っ伏してなお、クラインは己の身体を引き裂きながら、前に進もうとした。
「てめえ……だけは……!! 許さ……ね……」
どかっ!!
と鈍い音が響き、二本目の刃がクラインを貫いた。
いまだ枯れないことが不思議なほどに、止め処も無い涙がアスナの頬に溢れた。
片脚がまるごと吹き飛んだ痛みより、はるかに強く濃い恐慌を、シノンは感じた。
これまでシノンは、脚で空気を蹴る感覚で随意飛行を制御してきたのだ。はたして、右脚だけで試みた急速回避は、ぶざまな錐揉み旋回へと変わってしまった。
「く…………」
歯噛みをしながら、シノンは唯一可能な機動、つまりひたすら真っ直ぐな後退に移った。空中に、左脚から漏れ出る血が鮮やかな赤のラインを引く。
可能な限りの速度で距離を取りつつ、サトライザを照準し、三発目の弾丸を発射した。
しかし、まったく同時に、余裕の表情で追ってくる敵のライフルも火を吐いた。
同一直線上を突進するふたつの一二・七ミリ弾は、交錯した瞬間、甲高い不協和音と鮮やかな火花を撒き散らして軌道を逸らし、それぞれ遥かな虚空へと飛び去った。
胸中に忍び込む懼れを、ボルト操作で薬莢と一緒に払い捨て、シノンは第四射を敢行した。
またしても、二つの雷鳴が重なって轟く。弾丸たちは齧り合った瞬間、巨大なエネルギーを空しく宙に放散し、螺旋を描いて飛び去っていく。
第五射。第六射。
結果はまったく同じだった。サトライザが、わざとシノンの射撃にあわせて自らもトリガーを引き、弾丸を相殺させ続けているのは明らかだ。
現実世界ではもちろん、GGO内でもこんな芸当は出来るまい。しかし、この世界ではイマジネーションが全てに優先する。意図しているサトライザはもちろん、シノンまでもこの結果を予想してしまっているゆえに、超音速で飛行する弾丸の相撃ちという有り得ない現象が現実となるのだ。
それでもシノンにはもう、ボルトを引き、照準を合わせ、トリガーを絞るという三動作以外のことは何ひとつ出来なかった。
七発目の弾丸が、哀切な悲鳴を撒き散らしながら大きく右へと逸れ、消えた。
排莢。照準。
――カチン。
かちん、かちんと、シノンの指の動きに合わせて撃針が空しく鳴った。
ヘカートUの装弾数は、ワンマガジン七発。予備の弾倉は無い。
対して、バーレットの装弾数は十。まだ、あと二発残っている。
百メートル離れた場所で、サトライザが浮かべた冷たい笑みを、シノンははっきりと視認した。
構えられた黒い銃が、ぱっと炎を吐いた。
シノンの右脚が付け根から吹き飛んだ。
途端、一直線の飛行すらままならなくなり、シノンの身体は徐々に落下し始めた。
反動を抑えたサトライザが、最後の一撃を放つべく、右眼をスコープに当てた。レンズいっぱいに広がる青い硝子のような虹彩が、シノンの心臓をまっすぐに射抜いた。
――ごめんね。
ごめんね、アスナ。ごめんね、ユイちゃん。ごめんね……キリト。
シノンが口の中でそう呟いた直後、バーレットが十発目の弾丸をそのあぎとから解き放った。
赤い炎の螺旋をあとに引き、サトライザの視線を正確にトレースして飛来した弾が、シノンの青い装甲を粉砕し、上衣を蒸発させ、その捻転する尖端を肌に――。
バチッ!!
と、再びあの火花が迸った。
閉じかけた両眼を見開いたシノンの目の前で、高速回転する細長い弾丸を、ちっぽけなアルミのメダルが食い止めていた。
渦巻く白いスパークの中心で、厚さ一ミリもない円盤が、断固たる意思を示して光り輝いているのを見た瞬間、シノンの両眼から涙が溢れた。
――諦めない。
絶対に諦めたりしない。信じるんだ。私を。ヘカートを。そして、このメダルを通して繋がる、ひとりの男の子を。
一際激しい閃光とともに、金属円盤とライフル弾が同時に蒸発した。
シノンはヘカートUを力強い動作で構え、トリガーに人差し指を掛けた。
たとえイマジネーションによって変形したとは言え、この武器に与えられたシステム上の性能は持続しているはずだ。周囲の空間からリソースを自動吸収し、攻撃力としてチャージする“ソルスの弓”の力が。
ならば撃てる。マガジン内の弾が尽きていようが、絶対にヘカートは応えてくれる。
「いっ……けええぇぇ――――!!」
トリガーを引いた。
発射されたのは、金属をまとった徹甲弾ではなかった。
無限のエネルギーを凝縮した純白の光線が、マズルブレーキから七色のオーロラを放散させながら、一直線に宙を疾った。
サトライザの顔から笑みが消えた。右へとスライド回避しかけた瞬間、白い光線がバーレットの機関部を直撃した。
オレンジ色の火球が膨れ上がり、サトライザを完全に飲み込み――。
轟音。爆発。
押し寄せる熱い突風を肌に感じながら、シノンは石のように落下し、数秒後、岩だらけの地面に激突した。
もう、飛ぶことはおろか、這いずることも出来そうになかった。吹き飛ばされた両脚の痛みは凄まじく、意識を保つことすら至難だった。
それでも、シノンは瞼を持ち上げ、かすむ視界を懸命に見通そうとした。
遥か中空にわだかまる黒煙が、徐々に風に運ばれていく。
やがて現れたのは――いまだホバリングを続ける、サトライザの姿だった。
しかし無傷ではない。ライフルの爆発に巻き込まれた右腕は完全に消し飛び、肩口から薄い煙がなびいている。滑らかだった顔の右側も焼け焦げ、唇からひと筋の血が垂れている。
サトライザの顔に、ついに凶悪な殺意が浮かんだ。
……いいわよ。何度だって相手してあげるわ。
シノンは、残された全ての力を振り絞り、ヘカートを持ち上げようとした。
数秒後、サトライザの視線がふっと外された。有翼生物がぐるりと向きを変え、黒衣の男は細い煙の筋を引きながら、一直線に南に向かって飛び去った。
シノンは、もう保持しているのも限界だった巨大な対物ライフルを、そっと地面に降ろそうとした。接地した瞬間、それはもとの白い弓へとその姿を戻した。
最後の力で、シノンは右手を持ち上げ、胸元に残されたチェーンの切れ端に触れた。
「……キリト」
呟くと同時に、涙が頬にすうっと流れた。
身体に突き立つ幾つもの刃を、抜き捨てる余裕すらもうリーファには無かった。
全身の痛みが融けあい、まるでむき出しになった全神経を直接針で突き刺されているかのようだ。
幾つかの傷は、明らかに致命傷と呼べるものだった。腹部を貫く二本の剣は動くたびに内臓を切り刻み、背中から胸に抜ける一本は確実に心臓を直撃している。
しかしリーファは止まらなかった。
「う……おおあああッ!!」
大量の鮮血とともに気合を迸らせ、何十度――あるいは何百度目かのソードスキルを開始する。
長剣が黄緑の輝きを帯び、縦横に空を裂く。身体の周囲に留まった幾つもの光の円弧が、一瞬の溜めのあとにパッと周囲に拡散し、それを追うように無数の敵兵がばらばらっと身体を崩壊させる。
大技を放ったあとの硬直時間を狙い、数人の敵が殺到してきた。ぎりぎり飛び退き、攻撃の大半は避けたものの、長いハルバードの一撃に左腕を叩き斬られた。
勢いで倒れそうになるのをぐうっと踏みとどまり、
「ぜあああッ!!」
横薙ぎの一閃で三人の身体を分断する。
リーファは、地面に落ちた左腕を拾い上げ、傷口に押し当てながら強く右足を踏んだ。
緑の閃光とともに、地面に草花が萌え出で、消えていく。天命が上限まで回復し、惨い傷は残ったものの、左腕も再度接続される。
この状況では、テラリアに付与された無限回復能力は、もう神の恩寵などと呼べるものではなかった。
むしろ、呪いと言うのが相応しい。どれほど傷つき、激痛を味わおうとも、倒れることは許されないのだ。不死ではあるが不可侵ではない矛盾ゆえの、想像を絶する責め苦。
リーファを支えているのは、ただひとつの信念だけだった。
――お兄ちゃんなら。
絶対に、こんな傷くらいで倒れたり、しない。
なら、私も倒れない。たかが三千人、一人で斬り伏せてみせる。だって私は……お兄ちゃんの……
「――――妹なんだからああああッ」
左手につがえられた長刀の切っ先が、真紅の輝きを迸らせた。
がしゅっ!! という重い金属音とともに突き出された刀から、巨大な光の槍が解き放たれ、百メートル以上もまっすぐに戦場を貫く。ばしゃあっ! と円状に敵兵の身体が捩れ、引き千切られ、飛散する。
「……はっ……はあっ…………」
荒く吐いた息は、すぐに大量の鮮血へと変わった。
口元を拭い、ふらりと立ち上がったリーファの左眼を、唸りを上げて飛来した長槍が貫き、後頭部へと抜けた。
数歩後ろによろめき――しかしリーファは倒れなかった。
左手を後ろに回して、槍を一気に引き抜く。頭の内側を、痛みとはちがう異様な感覚が突き抜ける。
「う……うううおおお!!」
だん、だん!! と足踏みし、天命を回復させる。欠けた左の視界が、テレビのようにぶつっと音を立てて復活する。
見れば、いつしか敵はもう百人ほどしか残っていなかった。
にやり、と笑いながら、リーファは血まみれの左手を持ち上げ――掌を上向けると、そろえた指先をくいくいと動かした。
やけっぱちな雄叫びを上げて突進してくる集団に向け、ずうっと重い動作で長刀を振りかぶる。
「いぇ……ああああああッ!!」
一閃。
鮮血を吹き上げ、分断された敵集団のただ中へ、リーファは恐れることなくその身を投じた。
約三分後に、最後の敵兵が倒れたとき、リーファの身体に突き立つ金属は十本に増えていた。
四肢から力が抜け、後ろに倒れこんだが、背中に貫通した剣や槍がつかえて途中で止まった。
悲鳴のような声で名前を呼びながら駆け寄ってくるオークたちの足音を聞きながら、リーファは瞼を閉じ、小さく呟いた。
「私……がんばったよね……、お兄ちゃん……」
左耳のインカムから、低い囁き声が聞こえたのは、柳井の銃のトリガーが動き始めたのと同時だった。
『比嘉君、避けて!!』
え。
避けてって……弾を?
と間抜けなことを考えた直後に、ずっと高いところから、何かが空気を切り裂いて落下してくる音を比嘉は聴いた。
ガァン!!
と響いた音は、拳銃の発射音ではなかった。遥か頭上の、ケーブルダクト進入口から投げ込まれた巨大な何かが、柳井の脳天を直撃した音だった。
柳井の見開かれた目が、ぐりんと上を向いた。ステップを握っていた左手が、ずるりと滑り落ちる。
「うわ……ちょっ……」
比嘉は、肩の痛みも忘れて右腕を上げると、両手でステップを握り、限界まで身体をダクトの壁面に押し付けた。
まず落下してきたのは、一体どこから持ち出したのかと言いたくなるほど馬鹿でかいモンキーレンチだった。続いて、まだ硝煙の匂いをこびり付かせた小型の拳銃が目の前を横切った。
最後に、意識を失った柳井の身体が、ずぼっと比嘉の身体とダクト壁の間に挟まり、停まった。
「ひ……ひぃっ!」
思わず肩を縮め、一層身体を引っ込めてしまう。
柳井の身体が徐々にずれ始め、汗とコロンの匂いを擦りつけながら眼前を通過し――。
「…………あ」
比嘉が呟くと同時に、足下に五十メートル続く空間へと落下していった。何度か、壁やハシゴにぶつかる音が響いたのに続いて、最後にどすんという一際重い衝突音が伝わってきた。
「…………うーん……」
死んじゃった……かな? いや、あの感じだと骨が二、三……いや五、六本イッたくらいかな……。
という、半ば停止気味の比嘉の思考を、インカムからの悲鳴じみた声が破った。
『比嘉君……ねえ、比嘉君!! 無事なの!? 答えてよ、ねえ!!』
「…………いや、ちょっと、ビックリして……。凛子さんでも、そんな声出すんスねえ……」
『な……何のんきなこと言ってるの!! 怪我は!? 撃たれてないの!?』
「あー、えーっと……」
比嘉は、あらためて肩の傷を眺めた。
出血量はちょっと恐ろしいことになりつつある。右腕は、動くものの表面感覚はないし、それにやけに寒い。思考もちょっといつもどおりではない気がする。
しかし、比嘉は大きく息を吸い、腹に力を溜めてから、可能なかぎり元気そうな声を出した。
「いや、ぜんぜん平気ッス! かすり傷ッスから。僕はオペレーションを継続します、先輩はキリト君のモニタリングのほう、よろしくッス!!」
『……ほんとうに、大丈夫なのね? 信じるわよ!? 嘘だったら許さないからね!?』
「いやもう……ばっちり、バッチグー、ッス」
比嘉は上を仰ぎ、はるか頭上に見える小さなシルエットに向けて慎重に手を振った。この距離でこの暗さなら、神代博士からは出血の様子までは確認できないはずだ。
『じゃあ……私は戻るけど、グラフに変化があり次第飛んでくるからね! 頼むわね、比嘉君!!』
シルエットが引っ込みかけた瞬間、比嘉は思わず小さく呼びかけていた。
「あっ……り、凛子さん」
『何、どうしたの!?』
「いや……その、ええと……」
――学生時代、茅場先輩や須郷サンだけじゃなく、僕もあなたに夢中だったって知ってました?
と、比嘉は言おうとしたものの、そんなことを口にしたら生還の確率が大幅に減少する気がしたので、かわりに適当な台詞でお茶を濁した。
「あの、この大騒ぎが全部片付いたら、食事でもどうッスか?」
『……分かったわ、マクダでも星牛でも奢ってあげるから、がんばって!!』
そして、神代博士の姿が比嘉の視界から消えた。
――やっすいなぁ。
て言うか、“死ぬやつが言うっぽい度”では大差なかったなあ。
比嘉は苦笑し、端末のモニタに視線を戻した。指先の痺れた右手をキーボードに載せ、慎重にコマンドを打ち込み始める。
三番STLに……四番を接続。五番、六番……接続。
ふっ、とフォントが二重に霞み、比嘉は両眼をしばたいた。
さあ……キリト君、そろそろ起きる時間だぜ。
アスナは、涙のベールを通して、ただひたすらに愛する人の姿を見つめ、祈った。
お願い、キリトくん。私の心も、命も、なんでもあげるから……だから、目を覚まして。
――キリトくん。
――キリト。
――お兄ちゃん。
………………キリト……。
キリト。
誰かが、名前を呼んだ気がして――
俺は、浅いまどろみから引き戻された。
瞼を持ち上げると、オレンジ色の光の帯に浮かぶ、いくつもの粒子が見えた。
朧な視界が、徐々に焦点を結んでいく。
揺れる白い布。カーテン。
銀色の窓枠。古びたガラス。
揺れる梢。傾き始めた太陽の色に染まる空に、ゆっくりと伸びる飛行機雲。
埃っぽい空気を大きく吸いながらのろのろと身体を起こすと、深緑色の黒板を大儀そうに擦るセーラー服の背中が目に入った。しゅっと音を立てて滑った黒板消しが、白いチョークで大きく書かれた文字の最後のひとつをかき消した。
「……あの、桐ヶ谷君」
再び名前を呼ばれ、視線を動かすと、気後れしたような、苛立ったような表情で俺を見下ろす、別の女子生徒が目に入った。
「机、動かしたいんだけど」
どうやら俺は、ホームルーム中に居眠りして、そのまま掃除時間へと突入してしまったらしい。
「ああ……悪い」
呟き、机にぶら下がるぺたんこのザックを指に引っ掛けると、俺は立ち上がった。
頭の芯が重い。
長い――とてつもなく長い映画を見たあとのような疲労感があった。筋もなにも思い出せないのに、巨大な感情の残滓だけが身体の中にこびり付いている気がして、強く頭を振る。
訝しそうな顔つきになる同級生から視線を外し、教室の後ろの出口に向けて歩きだしながら、俺は小さく呟いた。
「なんだ……夢か…………」
学校を出て、青みを増しはじめた空に浮かぶ黄色い雲を見上げると、ようやく僅かばかり思考が冴えた。ひんやり乾いた秋の空気を、大きく吸い込む。
毎朝四時にベッドに倒れこみ、八時には起床して登校、その後ひたすら続く授業中に補填的な睡眠時間を稼ぐ生活を送る俺にとって、一日がピークを迎えるのは夕刻以降のことだ。秋分の日が過ぎ、夜が長くなるこれからの季節は気分も軽くなる。逆に、明かりを消す頃にはすでに窓の外が白み始めている六月、七月などは、寝入り端の憂鬱さを日中も引き摺ってしまう。
と、言ってもべつに、再来年に待ち構える高校受験の勉強に明け暮れているわけではない。
前後を歩く中学生たちの、夢と希望、恋と友情に溢れた会話を遮断するためにオーディオプレイヤーのイヤホンを両耳にねじこみ、背中を丸めて、俺は家路を辿った。
途中にあるコンビニで、これから朝四時まで続く戦いのための補給食を買い込み、ついでに電子マネーアカウントに幾らかチャージする。
ゲーム情報誌をぱらぱら捲ってから自動ドアを抜けると、駐車場のすみの薄暗がりに輪になって座り込む四、五人の同級生の顔が見えた。周囲にはカップ麺やおにぎりの包装が散乱し、傍若無人な笑い声を響かせている。
無視して通り過ぎようとしたとき、中の一人が俺に向けた、すがるような視線と目が合った。
ブレザー姿でなければ小学生にしか見えないその男子生徒とは、去年一年間そこそこ仲良くしていた。当時、同じネットゲームにハマっていたせいだ。
そして、いかにも文科系の極みのような二人組に、不良連中が目をつけるのも当然の流れと言えた。今、彼の周囲で馬鹿話に興じている連中だ。使いっぱしりを強要するところから始めて、ジュースやパンを奢らせるようになり、やがてダイレクトに金銭を要求し出すに及んで俺は行動に出た。剣道場から持ち出した竹刀で、リーダー格をしたたかブチのめしたのだ。
たった二年で辞めてしまった剣道だが、思わぬところで役に立ったものだ。双方の親が学校に呼ばれ、大ごとになりかけたが、俺が超小型レコーダーで録画しておいた恐喝シーンを会議室の大モニタで再生してやったら即座にウヤムヤな決着を迎えた。
その後、ヤンキー連中はしばらく大人しくしていたようだが、どうやら懲りずにパシリだの恐喝だのを再開したらしい。
脚を止め、顔を向けていると、しゃがみ込む一人が鼻筋に皺を寄せて唸った。
「んだよキリガヤ、何見てんだよ」
俺は肩をすくめ、答えた。
「別に」
そして、そのまま歩行を再開した。かつて友達だった生徒の視線を強く背中に感じたが、もう二度とあんな面倒な真似をする気はない。今年になってからは話もしていない相手だし、そもそも武闘派のネトゲ廃人なんて笑い話にもならない。
白いビニール袋をほとんど空のバックパックに押し込み、インナーヘッドフォンのボリュームを上げて、夕暮れに染まる世界を掻き分けて歩く。こっち側で誰かとルーティーンではない会話をしたあとは、決まってこんな乖離感覚が押し寄せてくる。
早く接続したい。世界に繋がりたい。
強い焦燥に急かされるように、ダークグレイとオレンジに塗り分けられた住宅街をひたすら歩く。
やがて、古めかしい竹垣に囲われた自宅が、設定視野に入った地形オブジェクトのように前方に浮かび上がる。
屋根つきの門をくぐり、砂利を踏んで玄関へ向かう。
と、鋭く空気を切る音と、歯切れのいい掛け声が耳に届いた。
裏手の広い芝生のうえで、竹刀の素振りをする緑色のジャージ姿の女の子が目に入る。短く切りそろえられた髪、飛び散る汗、見事なまでに制御された動作のすべてが眩しく、思わず歩みを止める。
俺が立ち尽くしていると、女の子はすぐに気付き、素振りをとめてにっこりと笑った。
「おかえり、お兄ちゃん!」
屈託無く掛けられた言葉に、反射的に視線を逸らせてしまう。
凄まじい隔絶感。俺が遠ざけてきたあらゆるものが、薄膜一枚へだてた向こうに光り輝いている気がする。いったいいつから、こんな感覚が生まれてしまったのか。同時に習い始めた剣道を、俺だけさっさと辞めてしまった時だろうか。それとも――その少し前、生前の祖父にしたたか叱られた時か。
あれは何が原因だったんだっけ。
祖父の道場に通っていた、年上の近所の男の子に、ネットで調べた立ち関節技を使って勝ったせいだったか……。
瞬時の物思いに囚われた俺を、ジャージの女の子は大きな瞳でじっと見つめ続けている。
「……ん」
挨拶にもならない短音を返し、俺はすぐさまきびすを返した。玄関に向かう背中に、やはり物言いたげな視線だけが残った。
広い家のなかは無人だった。
父親は海外に赴任中だし、母親は仕事柄、俺より不規則な生活を送っている。そのことに文句はまったくない。むしろ有り難いほどだ。
ネクタイを引き抜きながら階段を駆け上り、自室へと飛び込む。ふう、と大きく息を吐き、ザックを放り出す。
ほんとうに中学二年男子の部屋か、と言いたくなるほどに殺風景だ。シンプル極まるデスクには自作のパソコンとELモニタ。本棚にはプログラミングやアプリの解説本。あとはタンスとベッドしかない。
そのベッドの上に鎮座するモノが、この部屋と俺の生活を支配する主だ。
艶やかなダークブルーの外装をまとうヘルメット型ヘッドギア。
そしてもう一つ、細いケーブルで接続するキューブ型のマシン本体にマウントされた、一枚の光学ディスク。
“ナーヴギア”と、“ソードアートオンライン・βエディション”。
俺は制服を蹴散らすように脱ぎ捨て、楽なスウェットに着替えると、コンビニで買ってきたブロック栄養食を一本貪るように胃に詰め込んだ。水分を取り、トイレを済ませ、ある種の中毒患者のように息を浅くしながらベッドへと倒れこむ。
ナーヴギアを被り、ハーネスをロックして、電源を入れる。かすかなドライブ回転音。ファンの排気音。
遮光シールドを降ろし、スタンバイ完了を示すビープ音が鳴るや否や、きょう一日に出したすべての声のなかで、もっとも明確な発音で接続プロセス開始コマンドを口にする。
リンク・スタート。
俺が降り立ったのは、当然ながら、昨日――正確には今朝ログアウトした座標だった。
浮遊城アインクラッド最前線、第十層主街区。その中央に高く聳える、鐘楼の最上部。頭上には、くっきりと上層の底が見える。
俺は、目の前の窓ガラスに映る自分の姿を確認した。
現実の俺より、二十センチは背が高い。胸も腕も逞しく、しかし腹は削いだようにくびれている。その完璧なバランスの身体を包むのは、純白の地にコバルトブルーのトライバルパターンが入った華麗なハーフアーマーだ。メンテしたばかりなので、ワックスを掛けたような光沢が日光を眩く反射している。背中に流れるマントは純銀の毛皮製。腰には、クリスタルのように透きとおる柄を持つ大型の片手剣。
すべての装備が、現時点で入手可能な最高性能を備えている。とは言え、週末には次の層が開通するだろうから、また一式更新する必要があるだろう。どうせ、金《コル》は口座に腐るほど溜まっている。
最後に、これも瑕疵ひとつ無いデザインの顔を確認する。βテスト開始当初に、無限とも思えた数値パラメータをいじり込んで造り上げた自信作だ。実は“かわいい女の子”を作るよりも、“かっこいい男”を造るほうが十倍は難しい。ここまでのレベルに達している男アバターは、アインクラッドには存在しない確信がある。
背中に垂れる青銀の長髪を一振りし、俺はガラスから視線を外した。
黒のレザーパンツのポケットに両手を突っ込み、鐘楼の手すりに白いブーツを乗せ――ひと息に空中に飛び出す。
眼下の中央広場までは、たっぷり三十メートルはあるだろう。その高度を、マントと長髪をなびかせながら、俺は矢のように落下する。敷石に衝突する直前でくるくると二回転し、物凄い大音響とともに両脚から着地する。
高い敏捷度、筋力パラメータおよび軽身スキルはもちろん、熟練のプレイヤースキルとおまけに度胸がなくてはできない芸当だ。俺のステータスでも、この距離を頭から落下したらヒットポイントが吹っ飛び、はるか下層の黒鉄宮で気まずい蘇生をすることになる。
見事着地を決め、立ち上がった俺を、周囲で目を丸くしていたプレイヤーたちが笑顔で迎えた。「キリト、おはー!」「キリトさん、こばーっす」と次々に掛けられる統一感の無い挨拶に、こんばんはーっす! と、現実世界の俺が口にしたこともない元気な声を返す。
たちまち殺到するパーティー狩りの誘いを、一つずつ丁寧に断り、俺は街区のはずれにある宿屋へと向かった。
事前に指定されていたのは、二階の一番奥の部屋だった。カウンターのNPCから古めかしい真鍮のキーを貰い、素早く階段を登ると奥の扉の鍵を外す。
中で待っていたのは、俺に負けず劣らず高価かつ派手な装備に身を固めた、二人の男性プレイヤーだった。一人が大柄な両手剣使い、一人は華奢なナックル使いだ。
「ちわ」
と、短く頭を下げたのはナックル戦士のほうだった。俺も、どもっすと答え、ドアを閉める。ロックされたのを確認してから、索敵スキルを使い、部屋と壁の向こうを丹念にチェックする。
「やー、ハイドしてる奴なんかいないっすよー」
と苦笑する男に、俺も薄く笑いながら肩をすくめて見せた。
「念のためですよ。それと……もちろん、記録系クリスタルも無しですよね」
「もち、当然っす。キリトさんを引っ掛けるようなこと、うちのギルドがするわけないっすよ」
鵜呑みにするわけには行かないが、それでも俺は一応納得し、空いている椅子に腰を下ろした。
それを待っていたように、これまで無言だった両手剣が、ずいっと身を乗り出してきた。
「改めて、はじめまして、よろしくです」
「はじめまして」
俺も再び頭を下げる。
初対面ではあるが、互いに知らない間柄ではない。この二人は、SAOβで現在最大勢力を誇るギルドの、副長と参謀なのだ。そして俺は、つい二週間前まで第二勢力ギルドに属していた。
フリーになった途端、数多のギルドから加入の誘いが舞い込んだが、たっぷりともったいつけた上で今日この二人との会談に応じたのには、訳があった。
しかし俺は、内心を隠したままポーカーフェイスで交渉に就いた。
二人は、準備金として用意できるコルの額や、ギルドで蓄積しているレアアイテムの一覧などをウインドウで示し、熱心なリクルートを開始した。それをひととおり聞いたところで、俺は脚を組み、にこやかに言った。
「うーん、正直、金には困ってないですし、アイテムもこれと言って……って感じですかねえ」
「いや、勿論これは叩き台ってことで、ここからも交渉の余地は……」
早口でそう言い募る副長の目をじっと見て、俺は囁いた。
「金とかアイテムはいらないです。ただ……たった一つだけ、条件を飲んでくれれば、あとは何も無しで加入しますよ」
「じ……条件……とは?」
つり込まれたようにひそひそ声になった男に、俺はニッと片頬を歪めて笑いかけ、言った。
「おたくのギルドのリーダー職に、すごい地味な装備の片手剣使いの男がいるでしょう」
「え……、ええ」
「あいつ……狩らせてもらえませんか」
「狩る、って……どういう……?」
「べつに、フィールドでPKしようってわけじゃありません。俺もいまさらオレンジになりたくないですしね」
二人を安心させるように、笑顔を当たり障りないものへと変える。
本音では、PKも辞さないくらいの気分ではあるが、オレンジネームを人知れず白に戻すのは大変な苦労だし、そもそも人口過密な上層の狩場でプレイヤーを襲うのはよほどタイミングに恵まれなければ不可能だ。
「……ただ、何か理由をつけて、|鍵つき《クローズド》の闘技場にあいつが一人になるようにセッティングしてもらえればそれでいいです。あとは俺がケリつけますから」
「闘技場……ですか」
副長のほうが、考え込む仕草を見せる。
SAOβにおいて、街区圏内で対人戦闘を行うには、デュエルを申し込んで受諾されるか、あるいは第一層はじまりの街にある闘技場を利用するしかない。もちろん、いきなり開いたデュエル窓のYESボタンを闇雲に押す人間などいるはずはないが、闘技場ならばゲートをくぐった時点であらゆる保護は消滅する。設定次第で、デスペナルティも装備のランダムドロップも発生するのだ。
「うーん……。彼は、ウチにとってもかなりの戦力ですしねえ……。それにしても、なんでそんなことを? キリトさんは確か、前の大会の個人戦で彼と当たって、勝ってますよね?」
「や、まあ、そうなんですけどね。ちょっと事情がありまして」
俺は語尾を濁しておいて、表情を改めると言葉を続けた。
「……これさえOKしてもらえれば、すぐにそちらに加入させてもらいますし……それに、本サービス開始後もお世話になれるといいなと思ってるんです」
途端、二人の目つきが変わった。
正直なところこのゲームでは、俺程度のプレイヤースキルがあれば、ソロプレイのほうが経験値的にも金銭的にもずっと効率がいい。“不可避の魔法攻撃”が存在しないゆえに、反応速度いかんでは、一人で同時に複数のMobを相手にすることも可能だからだ。ろくにスイッチもできず、経験値とドロップだけ吸っていくPTメンバーなど邪魔物以下の存在だ。
だからこそ、ギルド運営に燃えるタイプの連中は、強力な前衛プレイヤーの確保に血道を上げることになる。俺は、彼らが口を開くまえから、答えの内容を確信していた。
「……まぁ、あくまで事故、って体裁にしてもらえるなら……なあ?」
語尾は、ナックル男に向けられたものだった。そちらもかくかくと頷き、おもねるように続けた。
「ぶっちゃけ、あの人最近IN率低いんですよね。リーダー職がそれじゃあ、ちょっと、ねえ」
「じゃ、決まりですね。一件が片付き次第、すぐに加入させてもらいますから」
俺も笑顔で調子を合わせ、右手を差し出した。
よほど話を急いでいたのだろう、彼らはその夜のうちにセッティングを終え、闘技場のクローズドルームの入室パスとなる鍵をメッセージに添付して送ってきた。
俺は、オブジェクト化した大型の鍵を指先でくるくる回しながら、はじまりの街の裏通りだけを選んで闘技場を目指した。
指定された時刻は午前三時。さすがにプレイヤー達も続々ログアウトしていく頃合で、裏道にはNPCの黒い影しか見えない。
今日一日、どこで何をしていたのかすらよく思い出せないほど、俺は気を昂ぶらせていた。指先にまで負の感情が満ち溢れ、今にも黒く滴りそうだ。
前方の夜闇をついて、ぬっと聳え立つ遺跡めいた闘技場に、ほとんど駆け足で踏み込む。
毎月開催される公式大会や、大規模なGvG戦で使用されるメインコロシアムの入り口を通り過ぎ、奥に幾つも並ぶ小コロシアムの、一番奥のドアの前で立ち止まる。
張り出されている羊皮紙には、CLOSEDの大フォントと、無制限ルールの但し書きが黒々と連ねてある。鍵穴に右手のキーを差込み、重い金属音を響かせながら回す。
内部も薄暗かった。照明は、四隅の鉄籠で揺れる篝火だけだ。小部屋とは言うが、そこは遠距離職同士のデュエルにも対応した空間なので、縦横とも三十メートルはある。周りは黒ずんだ石壁に囲まれ、床は白い砂が敷き詰められている。
その中央に、所在なげにぽつりと立つ人影があった。
赤い篝火を反射するのは、ただ打ち出した鋼鈑を連ねただけのような、簡素なバンディッドメイル。頭には、同じく鋲打ちスチールのオープンヘルメット。マントは無く、服は茶色のなめし革。
そして左腰に、実用一本やりの無骨な片手用直剣が下がっている。
あらゆる武装が、まるでログイン直後の初期装備だが、しかしもちろんそれは見た目だけだ。数値的性能では、俺の純白と藍青のアーマーと遜色ないはずだ。そういうところが――気に食わない。
まったく、気に入らない。
バンディッドメイルの男は、闘技場に入ってきた俺に気付くと、少年とすら言える幼い顔に怪訝そうな表情を浮かべた。その容貌すらも、やる気あるのかと言いたくなるほど地味な、特徴の無いデザインだ。
「あれっ……キリトさん?」
暗がりから、砂の上に進み出た俺を見て、少年は目を丸くした。
「あっ、ども……ひ、久しぶりです。あれ……今日は、新しいギルメンの顔合わせイベントって聞いてるんですが……他の人はどうしたんだろう」
「どうも」
俺も軽く頭を下げ、低い声で続けた。
「他の人には、今日は遠慮してもらったんですよ。ちょっと、二人だけで話がしたいな、って思って」
「え……?」
怪訝そうながらも笑顔を浮かべる少年に、俺はゆっくり歩み寄った。こちらも、にこりと笑顔を浮かべ――。
ノーモーションで放った抜き打ちを、ぎりぎりのところで防いでみせたのは、流石と言うべきか、食わせ者と言うべきか。
ギャリン!! と軋むような金属音が響き、相手の鈍色の剣と、俺の半透過色の剣が激しく火花を散らした。そのまま、小柄な少年に圧し掛かるように鍔迫り合いを続けながら、俺は打って変わった口調で囁いた。
「キリトさん、じゃねえよ。俺がアンタに何の用なのか、とっくに分かってるだろう」
「え……ぼ、僕は何も……」
小刻みに首を振る相手の顔を間近で見た途端、腹の底に押さえつけていた怒りが爆発し、俺は叫んだ。
「ざけんな!!」
両手で握っていた剣の柄から、左手を離して固く握り、体術スキルの単発重攻撃を思い切りバンディッドメイルの腹に叩き込む。黄色いライトエフェクトが炸裂し、小柄な体がひとたまりもなく吹っ飛ぶ。
砂地の上を転がる少年を追うように、片手剣の長距離ソードスキルを発動させる。緑色の円弧を描いて襲い掛かる刃を、相手――敵はごろごろ転がって避けた。白い砂が爆発したように飛び散り、俺はそれ以上は追わず、敵が立ち上がるのを待った。
唇を震わせる相手の顔を凝視し、吐き捨てる。
「つい先月のことを、忘れたわけじゃないだろうが。個人戦のセミファイナルで俺と当たったときの話だよ。気付いてないとでも思ってたのか。アンタが、手ぇ抜いて、わざと負けやがったことに」
篝火の下でも分かるほど、ヘルメットの下の顔が瞬時に血の気を失った。フルダイブ環境下の過剰な感情表現だが、その分相手の精神状態を如実に伝えてくる。
「……どうせトトカルチョ関係の八百長請け負ったんだろ。アンタがいくら稼ごうと知ったこっちゃないけど……許せねえんだよ!! てめえみたいな、どうせゲームだろとか、マジになってんじゃねえよとか裏で言ってる奴は!!」
そう――、この世界は、たかがゲームである。それが絶対不変の真実なのは俺も重々理解している。
恐らく、デュエルで手を抜かれたくらいで熱くなっている俺が馬鹿なんだろう。公式大会の上位カードでは、巨額の賭け金が動く。考えようによっては、八百長を請け負い大金を稼ぐことすらも、ロールプレイの一環と言えなくもない。
しかし。
俺は、準決勝でこの男と戦ったとき、おそらくSAOβに初ダイブして以来もっとも本気になった。ソードスキルの出の速さ、ディレイの短さ、あらゆるフェイントに即応してくる判断力、すべてが感嘆すべきレベルだったからだ。
それまでまったくノーマークのプレイヤーだったこともあって、こんな奴もいたのか、と――俺は、嬉しくなった。勝っても負けても、試合が終わったら声を掛けてフレンド登録させてもらおう、などと本気で思った。
タイムアップ間際に、相手がわざとこちらの技を喰らい、大仰に倒れるその瞬間までは。
間抜けもいいところだ。
青ざめる少年をねめつけながら、俺は腰のポーチに手を突っ込み、つかみ出したものをざらっと周囲にばら撒いた。
砂の上で輝くのは、すべて深紅色のクリスタルアイテムだ。
「見たことあるだろ、これ。“即時蘇生結晶”……すごい値段だったぜ、これだけ揃えるのには」
俺の意図を察したのだろう、相手の表情が一層強張る。
この高価なクリスタルは、効果範囲内で死んだプレイヤーひとりを、黒鉄宮送りになる前にその場で自動蘇生させてくれる。しかしデスペナは発生するし、装備も落とす。
それはつまり、使いようによっては、意図的な連続殺害《レスキル》も可能となるということだ。
「これから、アンタを十回連続で殺す。確実に一レベルダウン、装備も全ロスするまで。明日からどんなに必死こいても、次の……β最後の大会までにリカバリーは絶対できない。それが嫌なら……本気で戦ってみせろよ」
抑揚の失せた声でそう宣言し、俺は剣を振りかぶった。
戦いは、予想、あるいは期待したとおり激烈なものとなった。
俺の習得しているあらゆるソードスキルを、少年は的確にパリィし、あるいはステップで避け続けた。一人のギャラリーもいない深夜のクローズドエリアで、俺と彼はさきの大会を上回る熱戦を繰り広げた。
怒りは消えていなかったが、それでもなお抑えようもなく手足が、そして精神が昂ぶるのを俺は感じた。全速の攻撃を撃ち込んだ直後、鼻先を掠めるような反撃を掻い潜るタイトロープ感覚。
これほどのテクニックがあって、なぜ――。
何でなんだよ!!
と内心で叫びながら、俺は脳神経が灼き切れるほどの勢いで、現時点で最長の五連撃を放った。
ほとんど同時に、立て続けの光芒が四つ、眩く弾けた。
そして、まるでデジャヴのように、戦いは意外な結末を迎えた。
少年が、受けられるはずの五撃目を受けず、わざと胸のど真ん中に喰らったのだ。
その一撃はクリティカル判定され、半分以上残っていたHPバーが一瞬で吹っ飛んだ。俯き、よろめいた少年の身体が無数のポリゴンとなって爆砕し、直後、床に転がるクリスタルの一つが強く輝いて同じく砕けた。
いったん宙に拡散しかけたポリゴンが、ぎゅうっと再凝縮されていく。
赤い光の柱が伸び、収まったその場所には、蘇生された少年の姿があった。しかし、つい一瞬前まで被っていたヘルメットが消え失せ、金属音とともに足元に転がった。
俺は、顔をうつむけたままの少年を愕然と凝視し――。
軋り声を絞り出した。
「て……めぇ……! また……同じ、真似を……」
ほとんど自動的に、剣が動いた。真正面からの、見え見えの右袈裟斬り。
しかし、またしても少年は避けなかった。肩口から脇腹へと斬撃が疾り、赤いライトエフェクトが斜めに輝いた。
ぐらりと身体を揺らし、一歩よろめいただけで、少年は踏みとどまった。
「……僕は」
赤みがかった短い金髪に表情を隠し、少年がぼそりと呟いた。
「僕は、嬉しかったんだ。君が……キリト君が、うちのギルドに入るかも、って聞いて。すごく楽しみだったんだよ」
「な……」
一瞬言葉を飲み込み、直後それは猛烈な怒声となって俺の喉から迸った。
「……何を今更言ってやがる!! なら、なんであの時手抜きなんかした!! 俺は……俺は……ッ」
「わざと負けたのは、八百長したからじゃない!!」
少年も高い声で叫び、露わになった顔を上げた。両眼から、滝のように涙が溢れていた。
この世界では、感情を隠せないかわりに、嘘泣きもできない。ほんとうに、泣きたくなるほど悲しいと感じなければ、涙は流れない。
その、何かを訴えかけるような、すがるような眼差しを見て――俺は、短く息を飲んだ。
どこかで……この目を、どこかで見たような……。
「僕は、君と向こうでもういちど友達になってから、こっちでちゃんと名乗りたかったんだ!! 僕だよ……僕なんだよ、キリト君。いや、桐ヶ谷君……」
「な…………」
俺は言葉を失った。
目の前の、特徴のないアバターの顔が、昨夕、コンビニの駐車場で見た幼い顔と重なった。
「お……お前……なんで……。SAOβに当選したなんて、ひと言も……」
「僕は……いつも、君みたいになりたいって思ってた。VRでも、現実でも、すごく強くて、いつもクールな君みたいに……。だから、僕も自分の力であいつらを撃退して、それからもう一度……友達に、なれたらって…………」
少年が大きくよろめき、地面に剣を突いて踏みとどまった。
「僕は……あの大会で、君と戦ってるとき、心のなかで思ってた。気付いてくれたら、って……君が、僕だって気付いてくれたら、そしたら言おう、って。もう一度……僕と…………仲良く…………」
その時。
少年の口から、大量の鮮血が溢れた。
俺の剣が身体を薙いだ箇所からも、恐ろしいほどの血が飛び散った。
ずるっと音を立てて傷口から内臓がはみ出し、砂の上に次々に落ちた。
「な…………」
何だこれは。
SAOに、こんなリアルな死亡エフェクトは存在しないはずだ。
いや――リアルなんてものじゃない。噎せ返るような血の匂い。篝火を反射する臓器の色合い。そして、少年の頬に伝う涙の煌き。
ぐらりと小柄な体が傾いた。
どう、と横倒しになり、動きを止めたその姿を、俺はただ呆けたように見つめ続けた。
「……おい。……おいって」
ふらつきながら砂に膝をつき、手探りでクリスタルをひとつ拾い上げる。
「おい、とっとと蘇生しろよ。どうなってんだよ……何だよ、これ」
おそるおそる少年の顔を覗き込む。
見開かれた目に、光は無かった。
生乾きの涙に濡れる瞼をうつろに開いたまま、少年は絶命していた。
「なあ……冗談やめろよ。わかったよ……俺が、俺が悪かったから、なあ、おい、起きろよ!!」
ぼっ、と音を立て、篝火がひとつ消えた。
もう一つ。三つめ、四つめも掻き消え、闘技場は暗闇に包まれた。しかし、俺の剣によってほとんど真っ二つに分断された遺骸だけは、視界から消えようとしなかった。
「う……うぁ……」
喉からしわがれた声を漏らし、俺は後ずさった。
後ろを向き、走り出そうとしたが、いつの間にか足元が砂からタールのような粘液に変わっていて、ばしゃっと倒れこんでしまう。
うずくまり、瞼をきつく瞑って、俺は悲鳴を上げ続けた。
夢だ。
これは全部、悪い夢なんだ。
だって、こんなこと、実際には起きなかったはずだ。
俺とあいつは、闘技場から出て気まずい沈黙のうちにログアウトしたあとも、結局リアルでは何ひとつ変わらなかった。俺はあいつを無視し続け、あいつは不良グループと縁切りできずネットゲームを辞め、一ヵ月後にはSAO正式サービスが――あのデスゲームが始まり、俺はただ生きのびることだけに懸命になって……。
何だ……?
これは――記憶?
ねばつく暗闇の底で手足を縮め、悲鳴をかみ殺しながら、俺は脳裏にフラッシュする幾つもの情景に翻弄された。
浮遊城での、二年間に及んだ生存闘争。
妖精の国で目指した、果てしない空。
黄昏の荒野を飛び交う銃弾。
嫌だ――もう思い出したくない。この先を知りたくない。
そう何者かに懇願するものの、しかしシーンは容赦なく切り替わり続ける。
現実世界から突如切断され。
深い森に囲まれた空き地で目覚め。
斧音に導かれるように歩き、辿り付いた巨大な黒杉の根元で、俺は彼と出会った。
ゴブリンとの戦闘。切り倒された巨大樹。
世界の中央を目指した長い旅。学院で修練に明け暮れた二年間。
いつだって、彼は俺の隣にいた。穏やかに笑っていた。
彼と一緒なら、なんだって出来るはずだった。
肩を並べて白亜の塔を駆け上り、強敵を次々と打ち破った。
そしてついに頂上に達し、
世界の支配者と剣を交え、
長く苦しい戦いの果てに、
彼は、その、
命を――
「う……うああああああ――――ッ!!」
俺は両手で頭を抱え、絶叫した。
俺だ。俺の無力さ、俺の愚かさ、俺の弱さが彼を殺した。流れてはいけない血が流れ、失われてはいけない命が失われた。
俺が死ぬべきだった。かりそめの命しか持たない俺が。俺と彼の役目が逆になっても、何ら問題は無かったはずなのだ。
「あああ……アアアアア!!」
叫び、のた打ち回りながら、さっき近くに投げ捨てたはずの剣を手探りで捜す。自分の胸に突き立て、首を掻き切るために。
しかし、指先には何も触れない。ねっとりとした黒い粘液がどこまでも広がるだけだ。
ぐるりと向きを変え、尚も捜し続ける。這いずり、闇雲に掻き毟る指先に。
何か、柔らかいものが触れた。
はっと目を見開く。
つい数分、あるいは数瞬前、俺が闘技場で斬り殺した少年の死体がまだそこにあった。
完全に分断された胴。黒い粘液の上に、あざやかに広がる深紅の血。
吸い寄せられるように体をさかのぼった視線が、青白い顔を捉えた。
それはいつの間にか、遠い記憶にかすむ同級生のアバターではなくなっていた。
柔らかそうな、亜麻色の短い髪。繊細な目鼻の造作。
びくっ、と指先を引っ込めた俺の喉から、金属を磨り潰すような声が漏れた。
「ア……アア…………」
彼の惨たらしい死体が、そこにあった。
「ウア……アアアアア――――!!」
不協和音じみた悲鳴を撒き散らし、俺はいつの間にか身にまとっていた簡素な黒いシャツの前を引き千切った。
痩せ細った胸の中央に、鉤爪のように曲げた右手の指先を突き立てる。
皮膚が裂け、肉が千切れるが、痛みはまるで感じない。俺は両手でおのが胸を引き毟り続ける。
心臓を抉り出し、握りつぶすために。
それだけが、俺が彼のために出来る、最後の……――
「キリトくん……」
突然、誰かが俺の名を呼んだ。
俺は手を止め、虚ろな視線を持ち上げた。
彼の死体のすぐ向こうに、いつのまにか、ブレザーの制服姿の女の子が一人立っていた。
長い栗色の髪をまっすぐ背中に流し、はしばみ色の瞳を濡らして、じっと俺を見つめている。
「キリト……」
新たな声とともに、右側にもう一人少女が出現した。額の両脇で結わえた髪を細く垂らし、やや吊り上がり気味の灰色がかった瞳に、こちらも涙の粒を光らせている。
「お兄ちゃん……」
そして、さらにもう一人。
白いセーラー服の襟のすぐ上で、黒い髪をまっすぐに切りそろえた少女が、同じく漆黒の瞳からぽろぽろと涙を溢れさせた。
三人の少女たちの意思と感情が、強い光となって迸り、俺のなかへと流れ込んでくる。
陽だまりのような暖かさが、俺の傷を癒し、哀しみを溶かそうとする。
――でも。
でも……ああ、でも。
俺に、この許しを受け取る権利なんか……
あるはず、ないんだ。
「ごめんよ」
俺は、自分の口から静かな言葉が零れるのを聞いた。
「ごめんよ、アスナ。ごめん、シノン。ごめんな、スグ。俺は……もう立てない。もう戦えない。ごめん…………」
そして俺は、胸から抉り出された小さな心臓を、ひとおもいに握り潰そうとした。
「何でだ……なぜなんだ、キリト君!!」
比嘉タケルは、薄れようとする意識を懸命に繋ぎとめながら、低く叫んだ。
接続された三台のSTLからは、桐ヶ谷和人の傷ついたフラクトライトを補完するべく、圧倒的な量の信号が流れ込んでくる。これまで、数多の実験を繰り返し膨大なデータを収集してきた比嘉でさえ驚愕するほどの、奇跡とすら言える数値だ。
しかし、携帯端末の小さなモニタの左上に表示された三番STLのステータスインジケータは、いまだに機能回復ラインの直前で震えながら停止したままだった。
「まだ……足りないのか…………」
比嘉は呻いた。
桐ヶ谷和人の回復しかけた主体意識は、このままでは“現実”ではなく、“記憶”――あるいは“傷”とのみリンクしてしまい、そこから戻ってこられなくなる。待っているのは、永遠にリフレインする悪夢だ。これなら、まだ機能停止していたほうが幸せだと断言できるほどの。
せめて、あと一人。
もう一人、和人と大きな繋がりを持ち、強いイメージを蓄積している人間が接続したSTLがあれば!
しかし、菊岡二佐いわく、今接続している三人の少女たちが、間違いなく世界でもっとも桐ヶ谷少年を知り、愛している人間だと言う。それに、空いているSTLはもうどこを捜しても存在しない。
「くそっ……畜生……」
比嘉は奥歯を噛み締め、ダクトの壁を殴りつけようと拳を握った。
そして、その手をゆっくり解いた。
「……あれ……なんだ……? この……接続は……」
呆然と呟きながら、眼鏡をモニタに限界まで近づける。
今まで気付かなかったが、画面左上に四角く表示された三番STLのウインドウに、右、下、右下の三台のSTLから繋がるラインのほかにもう一本――ドットをごく薄く輝かせながら、画面外へと消える接続ラインを見つけたのだ。
吸い寄せられるように、解いた右手の人差し指を近づけ、ラインに触れる。
画面がズームアウトし、接続先が下からスクロール表示されてくる。
「メイン……ビジュアライザーから……? なぜ…………!?」
自分が重傷を負っていることも忘れ、比嘉は叫んだ。
メインビジュアライザーは、数十万の人工フラクトライトたちの魂を格納するライトキューブ・クラスターの中央に鎮座する巨大なデータストレージだ。
そこに蓄積されるのは、あくまでアンダーワールドを構成するオブジェクトのニーモニックデータのみであり、人の魂は一つたりとも存在しないはずだ。
だが――、しかし。
「オブジェクト……記憶としてのオブジェクト……」
比嘉は全速で思考を回転させながら、無意識のうちに呟いた。
「フラクトライトも、オブジェクトも、データ形式としては同一だ……つまり、誰かが……あるいは誰か達が、意識が焼きつくほどに強い思いを、モノに込めれば……? それが、擬似的なフラクトライトとして機能することも……ある……のか…………?」
自分でそう推測しておきながら、比嘉は半信半疑だった。もしそんなことが可能なら、アンダーワールドでは、記憶としての物体を、持ち主の意思の力で自在に制御できるということになってしまう。
しかしもう、この薄く頼りない接続ラインが、たったひとつの望みであるのは確かなようだった。
何が起きるのか、これで事態が好転するのか悪化するのか比嘉にはまったく推測できなかったが、それでも彼は意を決し、メインビジュアライザーから三番STLへと続くゲートを全解放した。
「キリト」
心臓が破壊される、その寸前――。
新たな声が、俺の名を呼んだ。力強く。暖かく。包み込むように。
「キリト」
ゆっくり、ゆっくり顔を上げた俺が見たのは。
つい一瞬前まで、惨い死体が横たわっていたはずのその場所に、しっかりと両脚で立つ“彼”の姿だった。
ダークブルーの制服には染み一つない。亜麻色の短い髪は綺麗に撫で付けられ、薄めの唇には穏やかな微笑が浮かんでいる。
そして、明るいブラウンの瞳には、いつもそうだったように、二人の絆を信じ、疑うことのない輝きがどこまでも無限に深く煌いていた。
俺は、いつのまにか傷が消えうせてしまった胸から両手を離し、それを差し伸べながら立ち上がった。
わななく唇から、彼の名を呼ぶ声が漏れた。
「……ユージオ」
もう一度。
「生きてたのか、ユージオ」
彼――俺の親友、そして最高の相棒であるユージオは――。
笑みにほんの少しの哀しみを滲ませ、そっとかぶりを振った。
「これは、君が抱いている僕の思い出。そして、僕が焼き付けた、僕の心」
「思い……出…………」
「そうさ。もう忘れてしまったのかい? あの時、僕らは強く確信したじゃないか。思い出は……」
そしてユージオは、右手を広げ、自分の胸に当てた。
「ここにある」
俺も、鏡像のようにまったく同じ動作を行い、続けた。
「永遠に……ここにある」
もう一度、にこっと微笑んだユージオの隣に、アスナが進み出てきて言った。
「わたしたちとキリトくんは、いつだって心で繋がってる」
反対側に踏み出したシノンが、小さく首を傾けて笑った。
「たとえ、どんなに遠く離れてても……たとえ、いつか別れがやってきても」
その横に、ぴょんと飛び出した直葉があとを引き取った。
「思い出と、気持ちは、永遠に繋がりつづける。そうでしょ?」
ついに、俺の両眼から、熱く透明な雫が滝のように溢れ出た。
一歩前に踏み出し、俺は永遠の親友の瞳を懸命に覗き込んで、尋ねた。
「いいのか……ユージオ。俺は、もう一度、歩きはじめても……いいのかな」
答えは速やかで、揺るぎなかった。
「そうとも、キリト。たくさんの人たちが、君を待ってるよ。さあ……行こう、一緒に、どこまでも」
双方から差し出された手が、触れ合った。
瞬間、眼前の四人が白い光の波動となって、俺のなかへと流れ込んだ。
そして――――。
「てめえ……だけは……!! 許さ……ね……」
どかっ!!
と鈍い音が響き、二本目の刃がクラインを貫いた。
いまだ枯れないことが不思議なほどに、止め処も無い涙がアスナの頬に溢れた。
深く地面に縫いとめられながらも、なおも右手で地面を引っかくクラインを、PoHは厭わしそうに見下ろした。
「ウゼェ……吐き気がするぜ。こんなぶっこわれた木偶になに熱くなってんだよ。いいやもう、お前消えろ」
そして、黒フードがアスナ達の背後の黒いプレイヤーたちに向けられ、何か指示が発せられようとした――そのとき。
いつの間にか、拘束された日本人プレイヤーたちの間に紛れ込んでいたひとりの小柄な剣士が、突如立ち上がり、PoHに向けて突進した。
「いやあああああっ!」
鋭い気合が響き、灰色のスカートと赤い長髪がひるがえった。
腰溜めに構えた簡素な直剣とともに、体当たりするがごとく突っ込んでいくのは、後方で騎士レンリと一緒だったはずの補給隊の少女だった。
「ティーゼ……!!」
目を見張るアスナの腕のなかで、ロニエが悲鳴を上げた。
ティーゼの突進は、アスナの目から見ても、飛んでいるがごときスピードだった。これは当たる、と息を飲んだ、次の瞬間。
ばさっと広がったポンチョがティーゼの目をくらませたか、突き出された剣が貫いたのは、惜しくも薄い黒レザーのみだった。
ぬるっとした動きで飛び退いたPoHが、右腰にぶら下がる大型のダガーを、音も無く抜いた。まるで中華包丁のように四角く、禍々しい赤に染まる刃に、アスナの呼吸が止まった。
“友切包丁《メイトチョッパー》”。SAOで、間違いなくもっとも多くのプレイヤーの血を吸った、呪われた武器だ。
「ティーゼさん!!」
叫びながら立ち上がろうとしたが、背後から交差して伸ばされた剣が、肩に食い込んで動きを封じた。
渾身の突撃をかわされたティーゼは、頭上に高々と振りかざされた肉厚の刃をただ見上げていた。
項垂れたその小さな頭に、容赦なく赤黒い包丁が叩き付けられ――
キィン!!
と、オレンジの火花を振り撒いて、赤毛に触れる寸前で跳ね返された。
「……お?」
PoHが訝しげに呟き、再度ダガーを振り下ろす。
結果は同じだった。三度目も。
無力に立ち尽くすティーゼの技ではないことは明らかだ。アスナから見える横顔のなかで、紅葉色の瞳を大きく見開いている。
と、アスナの腕のなかで、ロニエが掠れた囁きを漏らした。
「……心意の太刀」
「え……? そ、それは……?」
「整合騎士の……最高奥義です。私も……本物を見るのは初めてですが……でも、誰が……」
確かに――。
この戦場に残る整合騎士は、レンリ少年ただ一人。しかし彼は、ずっと後方で重傷を負い、倒れたままのはずだ。
アスナは、不意にある予感をおぼえ、息を詰めてゆっくりと視線を動かした。
そして、唇から、かすかな吐息を漏らした。
「ああ…………」
もう一度。
「ああ」
溢れた涙は、数十秒前のそれとは、まったく意味合いを異にしていた。
PoHの足元に、力なく倒れたままのキリトの――
右腕[#「右腕」に傍点]が動いている!
中身が存在しないはずの、黒いシャツの右袖が、徐々に、徐々に持ち上がっていく。
同時に、肩から肘にかけて、布の内側に確たる存在が満ちていく。
やがて、まっすぐ真上に伸ばされた袖口から、逞しい右手が一瞬の輝きとともに出現した。
現象に、やっとPoHも気付いたようだった。しかし、行動に移るでもなく、フードから覗く唇をぽかんと開いてただ見下ろしている。
今度は、キリトの左腕も動きはじめた。
傍らの地面に放り出されていた、白鞘の長剣を拾い上げる。それを、体の前へと持ち上げる。
右手が、青い薔薇の象嵌が施された柄を強く握った。
すう、と薄青い刃が抜き出されていく。
でもあの剣は、真ん中から……。
とアスナが思った、その瞬間。
鞘の内側から、凄まじい強さで青い閃光が幾条も迸り、それ以外のすべてを影に沈めた。光は、渦巻き、荒れ狂い、一気に収束し――。
折れた箇所から、刃を再生していく!
大きく抜き放たれた長剣は、完全にその刀身を取り戻していた。魂を抜かれるほどに美しく、凄絶な輝きが青く世界を照らした。
「…………キリト、くん」
アスナの濡れた呟きが、まるで聞こえたかのように。
バッ!!
と、痩せ細り、萎えきっていたはずの黒衣の体が、一切の予備動作なしに高く、高く空中へと飛び上がった。
アスナが、クラインが、エギルが、リズ、シリカ、ロニエ、ティーゼが……そしてPoHと無数の黒い歩兵たちが見上げるなか、黒い姿は右手の剣で光の尾を引きながら、何度も前方宙返りを繰り返し。
全員に背を向けて、ざしゃあっと音高く両脚で着地した。その反動で、足元に転がっていた黒いほうの鞘が、くるくると空中に舞い上がった。
じゃりん!!
黒衣の左手が閃き、宙にある剣の柄を握るや、一気に抜刀する。
こちらの剣は、透き通る漆黒の刀身を持っていた。黒と白、二本の剣を握った左右の手が、それらを勢いよく回転させ、高らかな金属音とともに両側に切り払った。
信じがたい現象はさらに続いた。
埃にまみれていた黒いシャツとズボンが、突然、艶やかなレザーの輝きを帯びる。骨ばかりだった五体が、一気に逞しい筋肉を取り戻す。
どこからともなく黒いロングコートが出現し、背中を包んで大きくたなびく。前髪が鋭く突き出し、額に垂れる。
その頃にはもう、アスナを含む全員が、喉の奥から堪えきれない嗚咽を漏らしていた。
今ついに甦った黒の剣士、“二刀流”キリトは、ゆっくりと肩越しに振り向くと――。
まっすぐにアスナを見て、あの懐かしい、力強く、ふてぶてしく、それでいてかすかに含羞のある笑みを、にっと浮かべた。
――キリトくんだ。
わたしのキリトくんが、帰ってきた。
アスナは、胸の奥であらゆる感情が爆発し、光となって体の末端まで広がっていくのを感じた。悲嘆と絶望が一瞬で蒸発し、無数の刀傷が作り出す痛みすらも消えた。
今なら、万の敵とも再び対峙できるという確信があったが、しかしアスナは動かなかった。この光景を、そして感情を、心のなかに永遠に焼き付けておくために。
同様に、リズベットやクラインたち、あるいは周囲のコンバートプレイヤーも、それぞれの感情に打ち震えながらただ目を見開いていた。
皆を拘束し、包囲する数万の隣国人たちもまた、成り行きを見守って立ち尽くしている。
静寂を、最初に破ったのは殺人鬼PoHだった。
殺そうとして殺せなかった赤毛の少女のことなど、もう意識から完全に飛んでしまったかのようにキリトに向き直り、赤い包丁の背で肩を叩きながら低く言った。
「オゥ――ケェ――――イ。やぁっと起きたかよ、勇者サマ。そうこなきゃな。これでやっと、お預け食ってたエンドロールが見れるってわけだ。てめぇが、やめてーやめてーって泣き喚く最高のシーンがよ」
ずい、とキリトにフードを寄せて、音になるかならない声で続きを囁く。
「手足をぶった切って、もう一度動けなくしたてめぇの目の前で、あの女をグチャグチャにぶっ壊してやるぜ。SAOじゃコードに引っかかって出来なかった、最高のメニューでな」
ククク、と喉を鳴らして身を引いたPoHは、左手を高々と掲げて、韓国語及び英語で叫んだ。
「こいつがサーバー攻撃の首謀者だ!! 拘束しろ!! 他の奴らは全員殺して、狭い島国に叩き帰してやれ!!」
戦場にくすぶっていた狂乱の余熱が、一気に再点火された。
怒声とともに、津波のような黒い軍勢が、剣を手放した人界軍へと殺到していく。キリトへも数十人のプレイヤーが走り寄り、日本人を拘束していた者たちも、我先にと剣を振り上げる――。
悲劇的結末へのカウントダウンの最中にも、アスナはただ信じ、黒衣の剣士を見つめ続けた。
キリトは、まったく気負いも何もない動作で、右手の白い剣をひょいっと半回転させ、地面に突き立て。
ひと言、静かに発音した。
「リリース・リコレクション」
世界の色が消えた。
剣の刀身が放った青白い輝きの、あまりの眩さが何もかもを塗りつぶしたのだ。
光は、円環となって剣から全方位に迸り、虜囚となった日本人たちを、人界軍を、そして三万以上の黒い軍勢を瞬時に飲み込んだ。
ほんの一秒足らず瞼を閉じたアスナは、戦場に渦巻いていた憎悪と殺意の熱気が嘘のように吹き払われるのを感じた。
清浄とした冷気を胸に吸い込みながら、ゆっくりと目を開ける。
そして、驚きのあまり息を止めた。
世界が――凍っている。
つい一瞬前まで、石炭のような黒い瓦礫だけが果てしなく広がっていたはずの大地が、深く透き通る青い氷へと変じている。見つめるあいだにも、きん、きんと音を立てながら霜の結晶が成長し、微風に舞い上がって、空気を微細に煌かせる。
溜めていた空気を大きく吐き出すと、それは白い雲へと変わった。
そのあとでアスナは、ようやく世界からあらゆる音が消えていることに気付いた。
あれほど轟々と響いていた雄叫びも、地面を揺るがす無数の足音も、それどころかすぐ背後で罵り声を上げかけていたプレイヤーの気配すらも消えているではないか。
地面に突き立てた白い剣に手を乗せたまま立つキリトから視線を外し、アスナはロニエとリズベットの身体を抱いたまま、ゆっくりと振り向いた。
そこに居た――あるいは在ったのは、五体を分厚く氷に覆われた黒い兵士の姿だった。
高々と剣を振り上げた格好で、ヘルメットのおくの両眼を見開いたまま、二センチちかくありそうな青い氷に完全に封じ込められている。
いや、それだけではない。
足元から、螺旋を描いて這い登っているのは、氷で出来た植物の蔓だ。アスナが見入るあいだにも、蔓はみるみるうちに腰から胸、腕へと成長していく。透き通った極薄の葉を次々と開かせながら、青い蔓はついに兵士の頭部へと達し、そこに大きな蕾をいくつか膨らませた。
しゃりん。
と、鈴の音のような音がかすかに響き、蕾が綻んだ。青く透ける大きな花弁が、幾重にも開いていく。これは――薔薇だ。
現実世界には存在しない、純粋なブルーに輝く薔薇の花が、血の色の陽光にもその色をいささかも濁らせることなく咲き誇った。
開いた花の中央から、白い光の粒がいくつも空中に漂いだすのをアスナは見た。同時に、爽やかな甘い香りが大気に満ちた。
「…………神聖力が……」
左腕の中で、ロニエがごくごく微かな声で囁いた。
神聖力。つまり、アンダーワールドを動かす根源法則、空間リソースのことだ。あの薔薇は、兵士に与えられた天命をリソースに変えて放散しているのか。
ようやく視線を引き離し、周囲を見る。
青薔薇の花園が、どこまでも無限に続いていた。
日本人プレイヤーを拘束していた兵士たちも、人界軍に襲いかかろうとしていた者たちも、それどころか荒野にひしめく数万の隣国人全員が、無音のうちに凍りつき、それぞれ複数の青い花を頭や胸に咲かせている。花からは一様に光の粒が次々と零れ、風に乗って舞い飛ぶ。
つまり――つまり今この瞬間――。
三万のプレイヤー全員が完全に動きを封じられたうえで、そのヒットポイントを奪われ続けているのだ。
アスナやシノン、リーファが使用するスーパーアカウントの能力を結集したとて、このような真似は到底できない。いったい、いかなる力、いかなる術理がこれほどの超現象を実現しているのか。
そんな疑問が、アスナの脳裏を過ぎったのは一瞬のことだった。
あまりにも凄絶にして、あまりにも美しすぎる光景に、アスナも、ロニエも、他の日本人たちもただ呆然を目を見開くことしかできなかった。
再び滲んだ涙を通して、アスナは空に舞い散る光の群れを追った。
と、その一部が、他とは異質な動きで寄り集まり、流れていくのに気付いた。リボンのように宙を滑る輝きを、アスナは目で追った。
それは頭上を超え、螺旋を描いて地面へと降り――
そして、不思議な光景を、アスナは見た。
PoHへの捨て身の攻撃が回避されたその場所で、いまだに膝を突いていたままのティーゼのすぐ前に、光が凝集しておぼろな人影を作り出したのだ。
それは、ティーゼやロニエが着ているのと同じ意匠の制服に身を包んだ、ひとりの青年だった。
短く、柔らかそうな髪が額に流れる。涼しげな目元と、細めの唇には穏やかな微笑が湛えられている。
白く光る人影を見上げた瞬間、ティーゼの顔がぎゅっと歪んだ。
唇が小さく何かを叫び、弾かれるように立ち上がった少女は、青年の胸に一直線に飛び込んだ。
青年はティーゼを抱きしめ、その耳に何かを囁きかけるような仕草を見せたあと、ゆっくりと顔の向きを変え、キリトを見た。キリトもまた、微笑みを浮かべて青年を見やった。
二人は同時に頷きあい――そして、人影はすうっと、空に溶けるように消えた。ティーゼが青く凍る大地に膝から崩折れ、うずくまり、低くすすり泣いた。
その声を圧して、怒りと憎しみに満ちた叫びが響き渡った。攻撃側ではただ一人、青い薔薇の拘束を受けなかったPoHの声だ。身体を折り曲げ、伸ばしながら英語の罵り言葉を幾つも連発させたあと、黒フードの殺人鬼は日本語で詰問した。
「……なんだこりゃあ!! てめぇ、何しやがった!?」
キリトは、右手を白い剣の柄に置き、左手で黒い剣をゆるりと下げたまま、微笑みを消して鋭くPoHを見返し、答えた。
「“武装完全支配”。騎士たちが三百年をかけて磨き上げた技だ。お前には理解できない」
「ぶそう……? ハッ、つまりはシステム上のインチキ技だろうが!! てめぇには似合いだぜ、“二刀流”さんよ!!」
PoHは、右手の包丁で大きく周囲を指し、吐き捨てた。
「そらどうした、早く連中を殺せ! 動けない奴らを切り刻んで、悲鳴の大合唱を聞かせてくれよ!!」
「その必要はない」
キリトの声は、あくまで静かで、それでいて強い意思に満ちていた。
「彼らの天命が尽きるまで、薔薇は咲き続ける。そして、お前が望む苦痛も憎悪も生み出すことなく散っていく」
「この……ガキがぁ…………」
突如、PoHの声が、凄まじい怨嗟の響きを帯びた。実際に、フードの下の口の付近に、悪魔の吐息のごとき火炎がちらつくのすらアスナは見た。
「てめぇの、そういう所が許せねえんだよ。人殺しの分際で勇者面しやがってよ。サルはサルらしく、食ってヤって殺しあってりゃぁいいんだ!!」
ゴッ!!
という重い震動は、PoHの右手の包丁めいたダガーが赤い光を帯びた音だった。
ぎし、ぎし、と軋みながらダガーが巨大化していく。赤黒い刀身に、生き物のように血管が這い回り、脈打ちながら膨れ上がっていく。
たちまちのうちに、包丁はギロチンの刃のごとき凶悪な代物へと変貌を遂げた。それを、右手一本でPoHは軽々と振り上げ、巨大術式を維持中のキリト目掛けて振り下ろした。
鼓膜を引き裂くような金属音とともに、刃はキリトの手前の空間で止まった。ティーゼを守ったときの数倍の火花が発生し、青い世界を赤く照らした。
二人の足元の氷がひび割れ、飛び散った。同時にPoHのフードがばさっと跳ね上がり、その中の素顔が露わになった。
SAO時代には一度も晒されることのなかった殺人者の容貌は、どう見てもアジア人のものではなかった。高い鼻筋、窪んだ顎、長く伸びる巻き毛は、まるでハリウッド俳優のように整っている。
しかし、両の眼に渦巻く憎しみの炎が、男の顔をその名のとおり悪魔じみたものに見せていた。アスナは、キリトの力に僅かの疑いも抱いていなかったが、それでも背筋に冷たいものが這うのを感じた。
PoHの唇が歪み、むき出された犬歯が、突然長く伸びた。
額に流れる巻き毛を突いて、黒く鋭い角が二本伸び上がった。
それだけではない。ポンチョの下の、どちらかと言えば小柄な体すらも、見る見るうちに逞しく膨れ上がり上背を増していく。
キリトの、不可視の“心意の太刀”に食い込む巨大包丁が、徐々に、徐々に沈みはじめる。火花はいつしか火炎へと変わり、周囲の氷を溶かし出す。
「……死ね、イエロー」
にやりと笑った悪魔の口から、低く歪んだ声が漏れた。
キリトの両眼が、すうっと細められた。これまで無表情を貫いていた口元が、こちらも強靭な笑みを浮かべた。かつて彼が、アインクラッドのフロア守護ボスや、多くの強力なプレイヤーと対峙したときに決まって見せた表情。
コートの左腕が、すう、と動いた。
握られた黒い長剣を、まっすぐ空へと掲げ――再び、あのコマンドが響いた。
「リリース・リコレクション!」
轟!!
という唸りとともに、刀身を黒く渦巻く闇が包み込んだ。
アスナは風を感じた。大気が、キリトの左手へと吸い込まれていく。同時に、戦場に咲き誇る十万以上の青薔薇から放散された光の粒――空間リソースも、一斉に揺れ、動き、寄り集まって、黒い剣に流れ込んでいく。
突如、刀身が輝いた。
純黒でありながら――黄金。
黒曜石を透かして太陽を見るかのような。
ちりちり、と空気が弾けるのをアスナは感じた。剣の優先度が、無限の高みへと昇りつめ、世界そのものを震わせているのだ。
“武装完全支配”とはつまり、整合騎士レンリの二つのブーメランが融合し、自在に飛翔するような、武器固有の性能拡張コマンドなのだろう。
白い剣は、広範囲の敵を凍結し、その天命をリソースとして空中に放散する。
黒い剣は、周囲のリソースを吸収し、威力へと変える。
とてつもなくシンプルで、それゆえに強力無比な複合技《コンボ》だ。完璧なる一対。最高のパートナー。
白い剣の本来の持ち主が、先ほど一瞬現れた幻影の青年であることをアスナは直感的に察した。
そして彼がもう、この世には居ないことも。
またしても溢れた涙の向こうで、アスナは、キリトがゆっくりと左手の剣を振り下ろすのを見た。
速度も重さもない、刃で空気を撫でるような動き。
黄金に輝く刀身が、悪魔へと変じたPoHの、赤い巨大包丁に触れた。
ぱっ。
と一瞬の閃光を残し――赤い刃が微細な粉塵と化して飛び散った。
悪魔の逞しい右腕が、筋繊維と血管を解くように、手首から肘、肩へと分解、消滅していく。
そして――。
どぐわっ!! という爆発音とともに、PoHの体が高々と空中に跳ね上がった。
深紅の空を背景に、いっそう赤い血の螺旋が描かれる。
旋風に巻かれる木の葉のように吹き飛んだPoHは、たっぷり五秒以上もかけて青く凍る地面へと戻ってきた。
無様に墜落するのではなく、両足の靴底で着地してみせたのは、最後の矜持の発露だろうか。しかし、その時にはもうあれほど逞しかった筋肉は元に戻り、悪魔の角や牙も消えうせていた。
革つなぎに包まれた細い体をよろめかせ、踏みとどまったPoHは、左手で右肩の傷口を強く抑えながら鼻筋に皺を寄せて吐き捨てた。
「……キャラの性能で勝ったのが……そんなに自慢かよ、小僧。いいさ、とっとと殺しやがれ。だがなァ……」
血まみれの左手が、まっすぐキリトを指差した。濃い眉の下の両眼が、かすかに赤い焔を瞬かせた。
「ここで死んだって、たかがログアウトするだけだってことを忘れるなよ。俺は必ず返ってくるぜ。この仕事でたっぷり稼いだ資金で、過去を買い換えて、必ずてめぇの国に戻る。光栄に思えよ、殺すサル一覧の上のほうに、てめぇとあの女の名前も書き加えといてやるからなぁ」
くっ。
クックックックッ。
歪んだ唇から響く嗤い声は、まさしく呪詛と呼ぶべきものだった。アスナは歯を食いしばり、恐れるもんか、怖がってなんかやるもんか、と自分に言い聞かせた。
鼻先に指を突きつけられたキリトは――。
表情を、まったく変えなかった。
漆黒の瞳に毅然とした光を浮かべたまま、PoHを正面から見据えている。
唇が動き、静かな声が流れた。
「……まだ分からないのか。俺がなぜ、お前だけを青薔薇の蔓に捕らえなかったのか」
「な……んだと……?」
そこでようやく、キリトの唇にもかすかな笑みが滲んだ。
「殺さないために決まってるだろ。SAO攻略組の、レッドプレイヤー対応方針を忘れたのか? “無力化、及び無期限幽閉”だ」
「きっ……さまァ……!!」
PoHの貌に凄まじい表情が浮かんだ。
怒り。殺意。そして――屈辱。
左手一本で殴りかかろうとしたPoHの胸に、キリトはいまだ強い輝きを放ち続ける黒い剣の切っ先を、軽く当てた。
アスナは、先ほどと同じく、PoHの体が瞬時に爆裂する光景を予想し息を詰めた。
しかし、直後発生した現象は、想像を絶するものだった。
剣の刀身から幾筋もの“闇”が噴き出し――PoHの五体の各所へと流れ込んでいく!
闇の奔流は、ごつごつと波打ち、分岐し、まるで樹の枝であるかのようにアスナには見えた。
「ぐおっ……な……ンだこりゃァッ……!!」
動きを止め、叫ぶPoHに顔を寄せ、キリトが一層低い声で囁いた。
「この剣の完全支配術式は俺が組んだんだけど……ちょっと手抜きでさ。ただリソースの記憶を無加工で呼び覚ますだけなんだ。陽力、地力を無限に吸い上げ、力に換える大樹の記憶を」
「樹……だと……」
「そうだ。樹の属性は……穿ち、貫くだけじゃない。取り込み、同化する力もある。見たことないか、PoH? 他のモノが、樹の根っこや幹に埋まって、一体化してるところを?」
同化……。
アスナははっと目を見開き、PoHの足元を凝視した。
銀の鋲を無数に打ったロングブーツは、もうそこには無かった。男の両足は、かわりに、いくつにも分岐して地面にもぐる樹木の根へと変貌していた。
「あっ……脚が……うごかねェ……!? 何しやがったッ……このガキがぁ……ッ!!」
PoHは吼え、左拳で再度キリトを殴ろうと高く振りかぶった。
ぎしっ。
と固い軋み音が響き、ほそい左腕が空中で動きを止めた。
艶やかな黒レザーが、ごつごつとささくれた樹皮へとみるみるうちに変質する。指が細長く伸び、裂け、たちまち完全な枝へと姿を変える。
形質変化は、脚と腕から始まり、胴体へと広がっていく。ついに恐怖の色を映しはじめたPoHの顔に、キリトはそっと最後の言葉を囁きかけた。
「お前たちが呼び込んだプレイヤー集団のHPが尽き、ログアウトしたら、すぐに時間加速が再開されるだろう。お仲間が、なるべく早くお前をSTLから出してくれるように祈れよ、PoH。たぶん、少しばかり長くなるだろうからな。あるいは……もしかしたら遠い、遠い未来、このへんに開拓村ができたら、斧を持った子供がお前を切り倒してくれるかもな」
それに対して、何かを言い返そうとしたPoHの口が――。
黒い樹皮に空いた、ちいさなウロへと変わった。整っていた目も鼻も、樹皮に刻まれた単なる皺でしかなくなった。
そこに存在するのはもう、幹を奇妙な形に捩り、一本だけの枝を高々と空に向けた、小さな黒いスギの樹でしかなかった。
キリトは、ようやく輝きを薄れさせた黒い剣を引き戻し、とん、と地面に突き立てた。
そして、ゆっくりと空を振り仰ぎ、尚も無数に漂い続けるリソースの集合光をその瞳に捉えた。
すうっと左手が持ち上がる。五本の指が、見えない楽器を奏でるように、しなやかに閃く。
続いたコマンド詠唱もまた、謳うがごとく抑揚豊かに、力強く響いた。
「システム・コール……トランスファ・デュラビリティ、スペース・トゥ・エリア」
さあああっ……。
と、かすかな、それでいて無数に、無限に広がる優しい音が世界に満ちた。
雨が降る。
リソースの星ぼしが上空に凝集し、白く、暖かく輝く光の雫となって降り注ぐ。傷つき、力尽きて横たわる二百人の日本人プレイヤーたちに染みこみ、その体を癒していく。
あるいは、心も。
ほとんど同時に、クラインの身体を剣で貫いたまま凍る二人の隣国人たちの体が、すうっと薄れ、消えるのをアスナは見た。静寂のうちにHPが完全消滅し、アンダーワールドからログアウトしたのだ。
消滅は、連鎖するように続いた。エギルを、シリカを拘束していた兵たちが消え、アスナの肩を押さえていた剣も同じく消えた。ALOプレイヤーたちを磔にしていたポールアームや、チェーン類も次々に空気に溶けていく。
全てを癒す雨の下を、ゆっくり、ゆっくりと歩み寄ってくる黒衣の剣士の姿を、アスナはただ見つめた。
立ち上がることも、声をかけることもできなかった。動いたら、すべてが幻になってしまう気がした。だから、ただただ目を見開き、唇に微笑みを浮かべ、アスナは待った。
代わりに、立ち上がったのはクラインだった。
切り落とされた片腕は、すでに完全に修復されている。胸と腹を貫かれた箇所も、滑らかな肌が見えるばかりだ。
「キリト……。キリトよう」
湿った声が、低く響いた。
「いっつも……オイシイとこ持って行きすぎなんだよ、オメエはよう……」
よろよろと進みながら発せられた言葉は、もうほとんど泣き声だった。
長身のカタナ使いは、黒衣の二刀剣士の両肩をがしっと握り、バンダナのなくなった額を、やや背の低い相手の胸に乱暴に押し当てた。背中が震え、太い嗚咽が漏れた。
「うおっ……うおおおおううう…………」
号泣する友の背中に、キリトもまた両腕を回し、強く引き寄せた。目を瞑り、きつく歯を食いしばって仰向けられたその頬にも、光るものがあった。
たっ。
と、小さな足音が聞こえた。アスナの傍から走り出したのはロニエだった。涙の粒を空中に引きながら、キリトの右肩へとぶつかっていく。すぐに、高く細い嗚咽が加わった。
身体を起こし、地面に胡坐をかいたエギルの眼も濡れていた。リズベットとシリカが、抱き合って泣きはじめた。周囲から集まってきた日本人プレイヤーたち、ALO領主のサクヤやアリシャ、ユージーン、またスリーピングナイツのシーエンやジュン、その他多くの者たちの顔にも、光の雨以外の雫が見える。
驚いたことに、前方から近づいてきた人界軍の衛士や術師たちも、一様に目元を赤くしていた。彼らはいっせいに跪くと、右拳を胸に当てながら深くこうべを垂れた。
「…………僕には分かっていましたよ、あの人と、二本の剣が、皆を救ってくれると」
不意に、背後から穏やかな声がかけられた。
振り向いたアスナが見たのは、微笑む少年騎士レンリと、その後ろに従う巨大な飛竜だった。
アスナは胸がいっぱいで、一度、二度と頷くことしかできなかった。レンリも頷くと、少し離れた場所に膝をついたままのティーゼに歩み寄り、その隣に腰を落とした。
いつしか、まわりを取り囲む氷結した兵士たちの大群は、半分以下へと数を減じていた。
彼らが皆ログアウトすれば、襲撃者たちは『外部兵力による状況制圧』を諦め、時間加速倍率を再び上限まで引き上げるだろう。アミュスフィアを用いて接続している皆は、その時点で自動切断されてしまうはずだ。
キリトもそれに気付いているのだろう、クラインの肩を叩いてそっと身体を離すと、生き残った日本人プレイヤーたちをぐるりと見渡した。
そして、深々と頭を下げ、言った。
「みんな……ありがとう。みんなの意思と、流してくれた血と涙は、絶対に無駄にしない。本当に、ありがとう」
そう――。
戦いは、まだ終わったわけではないのだ。
PoHと、アメリカ人、中国人、韓国人プレイヤーたちは排除されたが、まだ敵の首魁が残っている。アリスを拉致し、今この瞬間も、はるか南の空を飛び去りつつある。
アスナは大きく息を吸い、ようやく立ち上がった。
それぞれの感情に打ち震えながら立ち尽くすプレイヤーたちの間を、ゆっくりとキリトに歩み寄る。
身体を起こしたキリトが、まっすぐにアスナを見た。
ああ――今すぐ胸に飛び込みたい。子供みたいに泣きじゃくりたい。抱きしめ、髪を撫でてほしい。
しかしアスナは、全精神力を振り絞って感情を押さえつけ、口を開いた。
「キリトくん……。皇帝ベクタが……アリスを」
「ああ。状況は、おぼろげにだけど記憶している」
キリトも表情を引き締めて頷き、そして、まっすぐ右手を差し出した。
「助けにいこう。手伝ってくれ、アスナ」
「…………ッ……」
もう、限界だった。
アスナは走り、その手を取り、頬に押し当て、身体を預けた。
キリトの左腕が、ぎゅっと強く背中に回された。
抱擁は一瞬だったが、しかし、言葉にできないほど大量の情報が瞬時に二人の魂を行き交うのをアスナは感じた。
キリトは、まっすぐに視線を合わせながらもう一度頷き、その瞳を南の空へと向けた。
左腕も、その方向へとまっすぐに伸ばされる。指が、何かを探るように動く。
「…………見つけた」
「え……?」
アスナは瞬きしたが、キリトは答えず、小さく微笑んだだけだった。
突然、少し離れた場所に突き立ったままの二本の剣が、かすかな音とともに地面から抜け、浮き上がった。
同じく浮遊したそれぞれの鞘に、澄んだ音を立てて収まり、回転しながら飛んでくる。
黒のロングコートの背中に、ばしっと交差してぶつかると、自動的にベルトが両肩のバックルに接続された。
キリトはもう一度ぐるりと皆を見回し、クラインの肩と、ロニエの頭を軽くぽんと叩くと、言った。
「それじゃあ、行ってくる」
そして――。
そしてリズベットは、キリトとアスナの姿が、地面から屹立した光の柱に飲み込まれ、掻き消えるのを見た。
一瞬ののち、そこにはもう誰も居なかった。見開いた眼をぱちぱちと瞬きさせ、リズベットは、はぁーっと長くため息をついた。
「まったく……相変わらず無茶というか無軌道というか……」
隣でシリカが、くすっと笑った。
クラインが、ばしっと両手を打ち合わせ、叫んだ。
「おいおい、ちくしょう……――かよあの野郎。無敵じゃねえかよ。ちくしょう、オイシイよなあ、いっつもよう……」
クラインが大ファンであると常々標榜している、大昔の少年向けバトル漫画の主人公の名を出して毒づくその口調を、新たな涙がつたう表情が裏切っていた。おそらく彼にとっては、SAOで出会って以来惚れ抜いてきたキリトという存在は、まさにそのものだったのだ。無敵で、絶対的な、永遠のヒーロー。
――そして、あたしにとっても。
リズベットも、尽きぬ涙に濡れる瞳を、はるか南の空へと向けた。
ログアウトされるまで、おそらくあと数分となったこの世界を、強く記憶に焼き付けておくために。
激痛と屈辱のなか切断されていったたくさんのプレイヤーたちに、あたしたちの戦いは無駄じゃなかった、と伝えるために。
クリッターは、思わずコンソールに身を乗り出し、短い罵り声を上げた。
数万規模の黒い集合ドットが、中心から外側へ向けて急速に消滅していく。
つまり、ヴァサゴの秘策によってアンダーワールドに投入された中国及び韓国のVRMMOプレイヤーたちが、何らかの手段によって殲滅され、自動ログアウトしているのだ。
黒い円環の中央部には、いまだに青で表示される人界軍と、乳白色の日本人部隊が一千人規模で残存している。無視するには大きすぎる数だし、この千人に、三万の中韓連合軍を撃破する力があるというのなら尚更危険だ。
「……ヴァサゴのアホは何やってんだ……」
ちょっちょっと舌打ちしながら、クリッターはメインモニタをさらに凝視した。
日本人部隊の至近には、強く輝く赤ドットが一ついまも残存している。二番STLから、自前のアカウントをコンバートしてダイブ中のヴァサゴだ。
捕虜か何かになって身動き取れないのか? それとも、単身で千の敵軍をどうにかする手段がまだあるのか?
いますぐ隣のSTL室に駆け込み、ヴァサゴを叩き起こして襟首をがくがく揺さぶりたいという衝動をクリッターは堪えた。
サーバーに対するGM権限操作がロックされている現状では、アカウントの初期化もできない。つまり、ヴァサゴを強制ログアウトさせた場合、今のアカウントは二度と使えないのだ。どうにか可能なのは、ザ・シードプログラムとは切り離された機能である内部時間加速倍率の操作だけだが、それをするにも慎重にタイミングを図る必要はある。
大きく深呼吸してから、クリッターは視線を下に動かした。
アンダーワールドの深南部に、今も高速で移動中の赤ドットがもう一つ。襲撃チーム隊長、ガブリエル・ミラー中尉だ。
今考えるべきは、アリスを確保、あるいは追跡中のミラー中尉に、人界軍が追いつき邪魔をする可能性が依然としてあるかどうか、である。
アメリカ、中国、韓国から総数十万になんなんとするプレイヤーを送り込んだ結果、敵性勢力の南進は大きく阻害された。今やミラー中尉は、内部距離にして数百マイルも先行している。むろん、ジェット戦闘機ならばひと息に飛べてしまうが、アンダーワールドにそんなものが有るとは考えにくい。せいぜい、有翼の生物ユニット程度だろう。
――追いつきはするまい。
クリッターは、三秒ほどの長考のすえにそう判断した。
イージス艦突入のタイムリミットまで、もう現実時間にして十時間を切っている。ミラー中尉の指示は、残り八時間に達したところで加速再開だったが、外部から投入したプレイヤー集団がほぼ全滅した今、等速倍率を維持している意味は無い。
ならば、ふたたび内部を一千倍に加速し、ミラー中尉のアリス捕獲任務に充分な時間的猶予を作り出しておくべきだろう。
「しゃあねえ……ヴァサゴ、もうちっと根性見せとけー」
いまだ微動だにしない北部戦場の赤ドットにそう呟きかけ、クリッターはSTRA倍率操作レバーへと指を伸ばした。
レバーと連動する仕組みの、メインモニタ上のスライダーウインドウを見上げたところで、ふと横の目盛りに視線が停まる。
いまは、スライダーの針は一番下、×一のところに存在する。そこから、一〇〇刻みでスケールが切られ、×一〇〇〇のところでいちど横に区切り線が引いてある。
実際には、目盛りはさらにその上にも続き、×一二〇〇でもう一度区切られる。どうやらそこが、STLを用いて生身の人間がダイブしている場合のセーフティラインらしい。
ところが、スライダーウインドウはまだまだ伸び、最終的には×五〇〇〇にまで達しているのだ。住民がライトキューブ中の人工フラクトライトだけならば、内部時間はそこまで加速できるということだろう。
時間加速倍率は、レバーを操作し、その隣の開閉式カバーつきボタンを押し込むことで決定される。クリッターはボタンに触らぬよう注意しながら、そっとレバーを上に押し上げてみた。
モニタ上のスライダが滑らかに上昇し、隣でデジタル数字が目まぐるしく切り替わる。
×一〇〇〇のところで、がくんという抵抗感。
強く押し込むとレバーはさらに動き、×一二〇〇で再び止まった。そこからはもう、どれだけ力を入れようともぴくりとも動く気配はなかった。
「ふうむ…………」
クリッターは好奇心を刺激され、飛行機のスロットルに似たかたちの大型レバーをじっと観察した。
するとすぐに、決定ボタンの反対側に、銀色に輝くキーホールがあることに気付いた。
「なるほどね」
坊主頭を一本指でこりこり掻きながら薄く笑う。
安全リミットが千二百倍、ということは、実際の危険域はもう少し上のはずだ。仮に内部時間がぎりぎりまで逼迫したような場合に備えて、安全装置の解除を試みておくのも悪くはあるまい。
くるりと振り向いたクリッターは、銃撃で孔だらけになった人型ロボットを取り囲みワイワイ言っている部隊員たちに、ぱちんと指を鳴らした。
「おおい誰か、ピッキングのスペシャリストはいないかー?」
なんて柔らかくて……いい匂いなんだ……。
それは間違いなく、ここ数ヶ月で最上の眠りだった。ゆえに比嘉タケルは、彼を揺り動かし目覚めさせようとする外部刺激に、限界まで抵抗した。
「……っと、比嘉君! ちょっとってば! 眼を開けてよ、ねえ!!」
しかし、それにしてもやけに必死だなあ。
まるで僕が死にかけてでもいるみたいじゃないか。
いくらなんでも大袈裟すぎるだろう。まさか刺されただの、撃たれただのって訳でもあるまい……し…………
「――――うお!?」
覚醒とともに一気に記憶が甦り、比嘉は喚きながら目を開けた。
すぐ眼前にあったのは、黒縁眼鏡を強烈に光らせた三十男の顔だった。
「うおわ!!!」
もう一度叫ぶ。
飛び退ろうとしたが、体が命令を拒否した。代わりに、右肩に凄まじい痛みが走り、比嘉は三度目の奇声を上げた。
――そうだ。
僕は、ケーブルダクトであの男に撃たれて……。
血がすんごい出たけど無かったことにして、STLの操作を優先したんだ。三人の女の子のフラクトライト出力を、桐ヶ谷君のSTLに直結したけど覚醒には至らず……その後、何かがあって……。
「……き、キリト君は」
打って変わって弱々しく掠れた声で、比嘉は聞いた。
答えたのは、清涼感のある女性の声だった。
「フラクトライト活性は……完全に回復したわ。それどころか、活動的すぎるくらい」
「そ……そうっ、スか……」
比嘉はふううっとため息まじりに呟いた。
あの状態から回復するとは、まさに奇跡だ。そして、自分があの出血で生きているのもまったく奇跡的――。
そこで、ようやく己の置かれた状況を確認する。
寝かされているのは、サブコントロールルームの床の上だった。右肩には包帯。左腕には輸血パック。
そして、体の左側に、覚醒時に見た眼鏡の男。菊岡二佐。右側に、白衣を脱いだ神代博士がそれぞれ座っている。
菊岡が、こちらもはあーっと息を吐きながら、首を左右に振った。
「まったく……あれほど無茶をするなと……いや、スパイが技術スタッフに居たことを看破できなかった私の失点だが…………」
いつも丁寧に梳かされていた前髪は乱れ、眼鏡のレンズには汗の雫が伝っている。見れば、神代博士のほうも汗だくだ。どうやら、二人で比嘉の救命措置にあたっていたらしい。ならば、夢うつつに感じた好ましい感触は、その時の……。
――ん?
どっちが心臓マッサージで、どっちが人口呼吸だったんだ?
比嘉は思わずそれを尋ねそうになったが、あやういところで口をつぐんだ。世の中には、追求すべきでない真実というものもある。
比嘉は、力の入らない身体をぐったり横たえたまま、眼を閉じて別の質問を口にした。
「アンダーワールドは……アリスは、どうなってますか」
菊岡が、比嘉の左腕を軽く叩き、答えた。
「アメリカ、中国、韓国からの接続者はすべて撃退された。ことに、中韓プレイヤーはどうやらキリト君が一人で片付けたらしい。流石というか矢張りというか、凄まじい力だね……それも、比嘉君の頑張りがあったればこそだが」
「えっ……中国と韓国からも来たんスか!? 援軍でなく……敵として!?」
思わず身体を起こそうとしてしまい、右肩から指先まで走った激痛に喘ぐ。
「ちょっと、無理しちゃだめよ! 弾は貫通したけど、神経をぎりぎりのとこで避けてたんだから……。中国、韓国に関しては、ネチズン間の緊張をうまく煽って接続させたみたいね。戦場トランス効果も、もちろんあったでしょうけど……」
「そう……ですか……」
比嘉は小さく慨嘆した。もともと、このアリシゼーション計画に身を投じたのは、イラン戦争で散った韓国人の親友のためという動機も何割かを占めている。なのに、計画がなりゆきとは言え日韓の若いネットワーカー達の対立を加熱させてしまったならば、不本意以外の何者でもない。
そこだけはどうにか動かせる首を小さく振り、比嘉は思考を切り替えた。
「中韓からは……どれくらい来たんッスか?」
「四万を超えていたようだ。日本本土から応援に来てくれたプレイヤーたち二千人は、ほぼ全滅した……」
菊岡が、錆び色を深めた声で呟いた。
「その時点で、中韓プレイヤーはまだ三万以上が残っていたが、幸いそこでキリト君が」
「えっ、なんですって」
比嘉は思わず指揮官の言葉を遮った。
「三万の大軍勢を、キリト君が一人で!? ……有り得ない。アンダーワールドに、そんな大規模かつ高威力な攻撃が可能な武器も、コマンドも存在しないッスよ。しない……はず、ッス……」
そこまでを口にしたとき、比嘉はようやく、あのスパイ――柳井に撃たれた前後のことを鮮明に思い出した。
柳井は、“最高司祭アドミニストレータ”なるアンダーワールド人に深く取り込まれていたようだった。いったいいかなる経緯で、そのような事態に至ってしまったのか。
それに、桐ヶ谷和人のSTLに接続していた、メインビジュアライザー内のイレギュラー・フラクトライト。ただのオブジェクトが、擬似的にせよ人の意識として機能するなどと、まったく想定もしていなかったことだ。
「……ねえ……菊さん…………」
比嘉は、大量失血によるもの以外の寒気を背中に感じながら、指揮官に呟きかけた。
「もしかしたら……僕らは……何か、とんでもないものを……」
その時だった。
コンソールのほうから、鋭いアラーム音が部屋中に響いた。
それは、比嘉が設定した、時間加速倍率の変動警報に他ならなかった。
アンダーワールドで最も高速に移動しうる属性である光素因に、肉体と装備のすべてを組成転換し、俺とアスナは飛んだ。
とは言え、そのスピードは現実世界で言うところの光速には程遠い。はるか南を行くアリスに追いつくには、最低でも三分はかかりそうだ。
この時間を利用して、アスナに言いたいこと、謝りたいこと、感謝したいことは山ほどあった。しかし俺は、手をつないで右側を飛翔するアスナの光り輝く姿を、どうしても直視できなかった。
理由は――。
覚醒直後の、全身の血液が炎に変わってしまったかのような全能感覚が薄れるにつれて、直近の記憶がみるみるうちに整理整頓鮮明映像化していったからだ。
問題は、昨日の深夜の光景である。
馬車の荷台に寝かされた俺の周りに、アスナとアリスとロニエが輪になって座り、全員が順番に俺の思い出あるいは悪行の数々を披露し続けるというあの一幕を、生き地獄と言わずして何と言おう。
――キリト先輩ったら、傍付きをしてたすっごい美人の上級生さんが卒業するとき、西部帝国にしか咲かない花のブーケ贈って大泣きさせたんですよー。
――そういえば、整合騎士団の女副長もやたらと気に入ってたみたいだわ。“坊や”とか呼んでたわよあの人。
「うっ…………」
思わず両手で頭を抱えてしまう。
「うぎゃ――――――」
これが呻かずにおれようか。
しかしその瞬間、意識集中が途切れ、体の属性がたちまち元に戻った。物凄い風圧が全身を叩き、ひとたまりもなくく錐揉み落下状態に陥る。
やべ、と呟きながら、とりあえずロングコートの裾を飛竜の翼に形状変化させ、姿勢を制御する。と――。
「きゃあああああ!!」
はるか上空から、スカートの裾を押さえながらアスナがまっすぐ落ちてきた。
もう一度、やばっと口走りつつ慌てて両手をいっぱいに伸ばす。
危ういところでキャッチした瞬間、アスナの真ん丸く見開かれたはしばみ色の瞳と、ばっちり眼が合った。ここだ。謝るならここしかない。
「アスナ……ちがうんだ!!」
ってこれじゃあ謝罪でなく言い訳じゃないか。しかしもう後戻りはできない。
「ソルティリーナ先輩やファナティオ副長とは、まったく何にもなかった! ステイシア神に誓って、なん〜〜〜にもなかった!!」
俺の必死の弁解を聞いたアスナの顔が――。
ほにゃ、と緩んだ。小さな両手で俺の頬を挟み、どこか呆れたように言う。
「……変わってないねえ、キリトくん。こっちで二年もがんばってたっていうから、少しは大人になったのかな……って……思ったけど…………」
突然、アスナの両眼から、透明な雫が溢れた。唇がわななくように震え、掠れた声が押し出された。
「よかったぁ……キリトくんだ……何にも、変わってない……わたしの……」
「そんな……俺は、俺だよ。変わるわけない」
「だって……なんだか、神様みたいだったんだもん。あんなすごい大軍を、一瞬で片付けちゃうし……二百人を一発ヒールするし……おまけに、空飛ぶし……」
これには思わず苦笑してしまう。
「この世界の仕組みに、他の人よりちょっと詳しいだけさ。飛行くらい、慣れればアスナもすぐできるようになる」
「できなくていい」
「え?」
「こうして、抱っこして飛んでもらうからいい」
アスナは泣き笑いの顔でそう言うと、両手を俺の顔から背中へと移し、ぎゅっと抱きついてきた。摺り寄せられる頬に、俺も強く抱擁を返し、改めて口にする。
「ほんとに……ありがとな、アスナ。あんなに傷だらけになってまで、人界の人たちを守ってくれて……痛かったろうに……」
この世界における苦痛の鮮明さを、俺は二年前、果ての山脈で隊長ゴブリンに斬られたときに知った。あの時は、たかが肩を掠められただけだったのに、痛みのあまりしばらく立ち上がれなかったほどだ。
なのにアスナは、外部接続者の大軍を向こうにまわし、全身に惨い傷を受けながらも戦い抜いた。アスナのがんばりがなければ、ティーゼやロニエたちの人界部隊は、ずっと早く全滅していただろう。
「ううん……わたしだけじゃないよ」
俺の言葉を聞いたアスナは、触れ合う頬をそっと横に動かした。
「シノのんや、リーファちゃんや、リズや、シリカちゃん、クライン、エギルさん……それに、スリーピングナイツやALOのみんなも、ものすごく頑張ってくれた。それに、整合騎士のレンリさんや、人界軍の衛士さんたちや、ロニエさん、ティーゼさんも……」
そこまで言いかけて、アスナははっとしたように身体を強張らせた。
その理由を、俺は続く言葉を聞くまえに察していた。
「あっ……そうだ、キリトくん! 騎士長さんが……ベルクーリさんが、敵の皇帝を追いかけて、ひとりで……」
「…………」
俺は――ゆっくりと、首を左右に振った。
ついに直接言葉を交わす機会のなかった最古騎士ベルクーリの巨大な剣気が、すでにこの地上に存在しないことを知覚したからだ。
彼とは、この戦争が始まる直前、たった一度だけイマジネーションの刃――彼は“心意”と呼んでいた――を打ち合わせた。徐々に蘇っていく俺の記憶のなかでは、ベルクーリはすでにそのとき己の死を予感していた。
彼は三百年の生の終着点に、アリスを守るための戦いを選んだのだ。
俺の動作の意味を悟り、アスナは両腕に一層の力を込めると、小さく啜り泣いた。しかしすぐに嗚咽を押し殺し、尋ねた。
「……アリスさんは……無事なの……?」
「ああ。まだ捕まってはいない。もうすぐ、世界の果てに……三つ目のシステム・コンソールに到着する」
「そう……なら、わたしたちが守らないと。ベルクーリさんのために」
そっと離されたアスナの顔は、涙に濡れてはいたが強い決意に満ちていた。俺も、ゆっくりと頷き返した。と、アスナの瞳が、わずかに揺れた。
「でも、いまは……少しだけ、もう少しだけ、わたしだけのキリトくんでいて」
囁きとともに近づいた唇が、強く俺の唇を塞いだ。
異世界の赤い空の下、ゆっくりと黒い翼を羽ばたかせながら、俺とアスナは長い、長いキスを交わした。
この瞬間――俺はようやく、なぜ二年半前に俺がこの世界に落とされたのかを思い出した。
あの、六月の雨の日。
アスナを自宅に送る道すがら、俺たちは“死銃事件”の最後の主犯にして“ラフィン・コフィン”の幹部、ジョニー・ブラックに襲われたのだ。筋弛緩薬を大量に注射されたところで記憶は完全に途切れる。おそらく俺は呼吸停止に陥り、脳になんらかのダメージを負い、その治療のためにSTLとアンダーワールドが使われたのだろう。
SAO時代の怨霊と言うべき、赤眼のザザとジョニー・ブラックは逮捕され、なんの因果かオーシャンタートルの襲撃者たちに紛れていた頭首PoHも今や小さな樹の姿で拘束されている。時間加速が再開すれば、外部から強制切断されるまでにあのまま感覚遮断状態で何日、何週間過ごすことになるのかは定かでないが、精神には少なからぬダメージはあるはずだ。少なくとも、この半年間の俺と同じくらいの。残酷だとは思うがやりすぎとは思わない。絶対に。
奴は、アスナを狙うと言ったのだから。
存在が溶け合うほどの、めくるめく時間が過ぎ、俺とアスナは唇を離した。
「思い出すね、あのときを……」
アスナが、そう言いかけ、不意に唇をつぐんだ。その理由はすぐに分かった。
あのとき――とは、SAOクリア後の浮遊城崩壊のさなか、赤い夕焼け空の下で交わしたキスのことだ。あれは、そう、別れのキスだった。
俺は微笑み、不吉な予感を振り払うようにしっかりと言った。
「さあ、行こう。敵を倒し、アリスを助けて、みんなで現実世界に……」
その言葉が終わる前に。
頭の中央に直接、切迫した大声が鳴り響いた。
『キリト君!! 桐ヶ谷君!! 聞こえるか!? キリト君!!』
この、錆びた声は――。
「え……あんたか? 菊岡さん?」
『そうだ、聞こえてるな! すまん……大変なことになった!! 時間加速倍率が……やつら、STRAのリミッターを……!!』
額に血管を浮き上がらせ、キーホールに突っ込んだ二本のワイヤをこねくり回すブリッグの髭面を、少々の不安を感じつつクリッターは見守った。
鍵開けならまかせてもらおう、と威勢のいい台詞とともに立候補したものの、さすがにSTRA操作レバーのセーフティだけあって安アパートの旧式シリンダー錠とは訳が違ったらしい。指先の動きはどんどん乱暴になり、吐き出される罵り言葉のボリュームも上昇する一方だ。
ブリッグのすぐ後ろに立つハンスが、左手首のクロノメータを覗き込みながら楽しそうに言った。
「はーい、三分経過よぉ。あと二分で五十ドルだからねぇ〜」
「うるせえ、黙ってろ! 二分ありゃ……こいつを開けたあと、ハワイで一泳ぎして、帰って……これるぜ……」
ワイヤが立てるがちゃがちゃ音が、解錠と言うより破壊行為じみてきたところで、クリッターは「やっぱもういい」と口を挟もうとした。が、この二人がギャンブルを始めてしまった以上、決着を見るまでもう誰にも止められない。
「はいあと一分〜。そろそろサイフの準備しといたほうがいいわよぉ〜」
「ホーリー・シット!!」
巨大な喚き声とともに、突然ブリッグが立ち上がり、ワイヤの切れ端を床に叩きつけた。
やっと諦めてくれたか、とクリッターが内心ほっとした、その時。
顔面を赤黒く染めた兵士は、無言で腰のホルスターから馬鹿でかいハンドガンを抜き出し、銃口をキーホールに向けた。
「おい……ま…………」
轟音。もう一発。
彼以外の全員が呆然と黙り込むなか、ブリッグはデザート・イーグルを腰に戻し、まずハンスを、次いでクリッターを見てから肩をすくめた。
「開いたぜ」
クリッターは口をぽかんと丸くしたまま、視線を動かして、今や直径二インチの黒い孔になってしまった鍵穴を眺めた。
暗闇の奥で二、三度火花が散り、直後、斜めの状態で静止していた操作レバーがゆっくりと傾きはじめた。五インチほど動いたところで、がこ、とかすかな音とともに停まる。モニタのデジタル表示を確認すると、クリッターが意図した一二〇〇倍のちょっと上――どころか、設定上限の×五〇〇〇という数字がこうこうと輝いている。
その時、再びがこんという音が響いた。
レバーが、更に奥へと傾いていく。
「う……うそ…………」
呟いたクリッターの眼前で、デジタル数字も五〇〇〇を超え――一〇〇〇〇を超え……。
いや、まだ大丈夫だ。処理実行ボタンに触れなければ、実際に倍率が変動することはない。そっとレバーを戻し、無かったことにするのはまだ可能だ。
「おい……触るなよ!! 誰も触るなよ!!」
裏返った声でそう喚きたて、クリッターはハンスとブリッグを手振りでコンソールから遠ざけた。
振り返り、そっとレバーに右手を伸ばす。
ボンッ。
というささやかな爆発音は、クリッターの手がレバーに触れる直前に響いた。
ハッカーのすぐ眼前で、赤いボタンが、透明カバーごと吹っ飛んだ。
メインコントロールルーム正面の壁いっぱいに広がる大モニタ全体が真っ赤に染まり、スピーカーから耳障りなアラームが響き渡った。
時間加速機能が再び操作されたことを教える警報が耳に届いた瞬間、比嘉は再び起き上がろうとしてしまい、激痛に顔をゆがめた。
「ひ……比嘉くん! だから、ムリは……」
神代博士が駆け寄り、比嘉の体に手をかけた、その直後――。
サブコントロールルームのメインモニタが、一気に赤く染まった。
「な……なんだ!?」
叫んだのは菊岡だった。コンソールに飛びつく指揮官の肩ごしに、助け起こされた比嘉も懸命に目を凝らした。
巨大なフォントで表示されているのは、STRA機能に三段階に設けられたリミッターがすべて解除され、アンダーワールド全体が限界加速フェーズへ突入することを知らせるカウントダウンだった。
「な…………」
絶句し、喘ぐ比嘉に代わって、神代博士が鋭い質問を発した。
「限界加速、ってどういうこと!? STRA倍率は上限千二百倍じゃなかったの!?」
「そ……それは、ナマの人間がダイブしてるときのリミットで……人工フラクトライトだけなら、五千倍が……上限ッス……」
ほとんど自動的に比嘉が答えると、博士の涼しげな目元が強張った。
「五千!? てことは……こっちの一秒が、内部では約八十分……十八秒で一日経っちゃうじゃないの!!」
その声を聞き、比嘉と菊岡は顔を見合わせ――同時に、軋むような動作でかぶりを振った。
「え……何、なにが違うのよ?」
「千二百倍は、現実世界の人間の魂寿命を考慮した安全上限……五千倍は、外部からのアンダーワールドの観察が可能な上限で……どちらも、ハード面での限界ではないんです……」
比嘉は、からからに乾いて焼け付く喉から懸命に言葉を押し出した。背中を支える神代博士の腕が、びくっと震える。
「な、なら……ハード的な上限って……いったい……」
「ご存知のとおり、アンダーワールドは、光量子によって構築され、演算されているんです。その通信速度は、事実上無限……つまり限界は、下位サーバーに搭載されたアーキテクチャによってはじめて規定されるわけで……」
「いいから早く! 何倍なのよ!?」
比嘉は目を瞑り、言った。
「限界加速フェーズでは……STRA倍率は、五百万倍[#「五百万倍」に傍点]をわずかに超えます。衛星回線で接続してる六本木の二台は、そんな速度には対応できないッスから自動切断しますが……こっちの二台を使ってる二人にとっては……」
現実世界での一分が――内部における十年。
その暗算を瞬時にこなしたのだろう、神代博士の見開かれた両眼が軽く痙攣したように見えた。
「な……んてこと……。早く……はやく明日奈さんと桐ヶ谷君を、STLから出さないと!!」
立ち上がりかけた博士の腕を、こんどは比嘉が押さえた。
「だめです凜子さん! もう初期加速フェーズに入っている、むりやりマシンから引き剥がしたら、フラクトライトが飛んじまう!!」
「なら、さっさと切断処理を始めてよ!!」
「僕がさっき、なんでわざわざケーブルダクトを這い降りたと思ってるんスか! STLのオペレーションは、メインコントロールからしかできないんだ!!」
比嘉も裏返った声でそう喚いてから、視線をコンソール前の指揮官へと動かした。
菊岡はすでに、比嘉の言おうとしていることを察しているようだった。
「……菊さん。僕、もう一度下に行きます」
その言葉を聞いた途端、指揮官も頷き、答えた。
「わかった。私も行こう。君を背負ってハシゴを降りるくらいの体力はあるつもりだ」
「い……いけません二佐!!」
叫んだのは中西一尉だった。血相を変え、ごつごつとブーツを鳴らしながら数歩進み出る。
「危険です、その任務は小官が……」
「隔壁をもう一度開放するんだ、君らには通路の防衛をして貰わなければならない。時間がない、これは命令だ!」
これまで見せたことがないほど鋭い表情で菊岡が言い放った言葉に、中西はぐっと下顎を強張らせ、視線を落とした。
比嘉は、右手をおそるおそる持ち上げ、痛みはするものの指先がちゃんと動くことを確認しながら、尚も必死に考えた。
モニタに表示されている、限界加速フェーズ突入カウントダウンは残り十分足らず。
しかし、今から耐圧隔壁を再開放し、あの延々続くハシゴを降り、コネクタからSTLを切断操作するにはどう見積もっても三十分はかかる。
その二十分の時間差のあいだに、アンダーワールドで経過する時間は――実に、二百年。
人間の魂寿命である百五十年を、遥か超える年月だ。
それ以前に、そのような無限に等しい年月を、アンダーワールド内部で過ごすことなど……現実世界人には、とても耐えられるものでは……。
アンダーワールド内部……。
「そ……そうか!!」
比嘉は叫び、左手を菊岡に向かって振り回した。
「き、菊さん!! さっきSTLを操作したとき、僕、キリト君との通信チャンネルを確保しといたんス! C12番回線で呼びかけてください!!」
「し、しかし……何を言えば……」
「内部から脱出するんスよ!! あと十分のあいだにシステムコンソールまでたどり着くか、もしくは天命を全損すれば、STLが自動的に切断処理を開始するッス!! ただ、限界フェーズに突入したあとはコンソールは機能しませんし、死ぬのはもっと最悪だ!! 全感覚遮断状態で二百年過ごすことに……それだけは強く警告してください!!」
「に…………」
二百年だって!?
と口走りそうになり、俺はあやうく言葉を飲み込んだ。
すぐ目の前で、アスナがきょとんとした表情で俺を見ている。菊岡の声は、彼女には聞こえていないのだ。
『いいかキリト君、あと十分だ! それまでにコンソールまでたどり着き、自力ログアウトしてくれ!! どうしても不可能なら、自ら天命を全損するという方法もあるが……これは不確実なうえに危険が大きい、理由は……』
擬似死状態で二百年過ごさなければならない可能性があるから。
それを悟った俺は、菊岡の言葉を遮り、尋ねた。
「わかった、なんとかコンソールからの脱出を目指してみる! もちろん、アリスも連れていくからそのつもりで準備しといてくれ!」
『……すまん。だが、この際アリスの確保よりも、君たち二人の脱出を優先してくれ! いいか、たとえログアウト後に記憶を消去できるとしても、二百年という時間は人間の魂寿命をはるかに超えている! 正常に意識回復できる可能性は……ゼロに等しい……』
苦しさの滲む菊岡の声に――。
俺は、静かに応えた。
「心配するな、必ず戻るよ。それと、菊岡さん。半年前……いや、昨夜は酷いこと言って悪かったな」
『いや……我々は、誹られて当然のことをした。こっち側で、君にぶん殴られるときのために絆創膏を用意しておくよ。……比嘉君の用意ができたようだ、私はもう行かねば』
「ああ。じゃあ、十分後にな、菊岡さん」
そして、通信が切れた。
俺は、コートの裾を羽ばたかせてホバリングしながら、腕のなかのアスナをじっと見つめた。
「……キリトくん、菊岡さんから連絡があったの? 何か……大変なこと?」
ゆっくりと首を左右に振り――俺は、答えた。
「いいや……十分後に時間加速が再開するから、なるべく急いでくれっていう話さ」
アスナはぱちぱちと瞬きし、小さく微笑みながら頷いた。
「そうね、いつまでもこんなことしてちゃ、アリスさんに悪いもんね。さ、助けにいこ!」
「ああ。もう一度飛ぶよ」
ぎゅっとアスナを抱きしめ、再び光素へと二人を組成転換する。あらゆる色が金色の輝きへと置き換わる。
遥か南を往くアリスと、それを追う巨大かつ異質な気配を捕捉し――俺は、飛んだ。
追いつかれる。
雨縁の鞍上で後方を振り返ったアリスは、小さく唇を噛んだ。
赤い空を背景に、ぽつんと浮かぶ黒点は、五分前より確実に大きくなっている。敵の速度が増したというよりも、ついに二頭の飛竜が力尽きつつあるのだ。
まったく休息もせずに飛びっぱなしなのだから当然、と言うより、ここまで頑張ってくれたことが奇跡に近い。人界の直径に数倍する距離を、たった半日で天翔けたのだ。二頭ともに、天命そのものを消費しての限界飛行を続けているのは明らかだ。
しかし――となると、あの追跡者は何なのか。
遠視術で確認したところ、飛竜とは異なる奇怪な有翼生物の背に乗っているようだ。だが、あんな生き物は、人界はもちろんダークテリトリーでもついぞ見たことはない。
追いすがる男は、暗黒神ベクタの姿を借りていたリアルワールド人なのだと言う。
そして、一度は騎士長ベルクーリの捨て身の剣に斃れた。しかし再び新たな命を得てこの地に降り立ち、アリスを追ってきた。
ベルクーリの死を貶めるその仕業に対して、断じて許せないという怒りはまだある。
だが、アリスはこの数時間の飛行のあいだに、ようやく成すべきことを見出していた。
敵が、この世界では不死だというのなら――。
リアルワールドで斬るまでのこと。
そのためにも、何としても“世界の果ての祭壇”まで辿り着くのだ、といちどは決意したのだが、どうやらそれは叶わないらしい。
視線を前方に戻すと、まっすぐ前方の赤い空を透かして、凄まじい規模の断崖絶壁がはるか天までそびえているのがうっすらと見える。伝説に聞く、“世界の終わり”だ。飛竜で超えることが可能な“果ての山脈”とは異なり、ダークテリトリーをぐるりと囲むあの断崖は、無限の高みにまで続いているらしい。
その壁面の手前、飛翔する竜たちとほぼ同じ高度に――。
小さな浮島がひとつ、ぽつんと漂っていた。
底のとがった杯のような形をしている。いったい、いかなる力で虚空に浮遊しているのかは推測もできない。
眼を凝らすと、平らな上面の中央に、何らかの人工的構造物が見て取れる。おそらく、あれこそが目指す“果ての祭壇”なのだろう。世界の出口。リアルワールドへの入り口。“真実”の在り処。
惜しむらくは、わずかに遠い。
背後に迫る敵と比べて。
アリスはそっと眼を閉じ、息を吸い、長く吐いた。
右手で軽く愛竜の首を撫で、命じる。
「ありがとう雨縁、それに滝刳。ここまででいいわ、地上に降りてちょうだい」
二頭は、弱々しい声でかすかに鳴き、並んだまま螺旋降下に入った。
眼下の地形は、すこし前から、まるで虚無の具現化のごとき黒い砂漠へと変わっている。神が創造に飽いたかのような、茫漠と続く砂の海に長い軌跡を引きながら、竜たちは倒れこむように着地した。
ふるるるる、と喉の奥から掠れ声を漏らして身体を横たえた雨縁の背から、アリスは即座に飛び降りた。腰のポーチを探り、最後の霊薬の小瓶を取り出す。
竜の、半開きになった口のなかに、青い液体を正確に半分だけ注ぎ入れ、ついで隣の兄竜の口にも一滴残さず流し込む。いかに神聖教会製の霊薬とは言え、飛竜の膨大な天命を癒すにはまるで足りないが、それでももう一度離陸するだけの力は戻ったはずだ。
アリスは、左右の手で竜たちの和毛の生えた顎下をそっと撫でた。
「雨縁。滝刳」
呼びかけた途端、自然と両眼に涙が浮いた。それを懸命に堪え、続ける。
「ここでお別れです。最後の命令よ……人界まで飛び、西域の竜の巣に戻って、雨縁はだんなさん、滝刳はお嫁さんを見つけなさい。子供をいっぱい生んで、立派に育てるのよ。いつかまた、騎士を乗せて飛べるくらい、強い、強い子供たちを」
不意に、雨縁が頭を持ち上げて、アリスの頬を舐めた。
滝刳は腰に鼻面を摺り寄せて、そこに下がる星霜鞭の匂いを嗅いだ。
二頭が頭を離すと同時に、アリスは強く命じた。
「さあ、行って!! 振り返らないで、まっすぐ飛びなさい!!」
くるるるっ!!
竜たちは同時に頭をもたげ、高らかに鳴いた。
命令どおり、後ろを見ることなくまっすぐ西に向けて助走を開始する。
どっどっどっという重い足音に続いて、広げられた翼が砂漠の風をはらみ、ふわりと巨体が宙に浮いた。
兄妹竜は、翼端が触れ合うほどの近さで大きく空気を打ち、一気に高度を取った。
と、そこで――。
雨縁が、その長い首をくるっと振り向かせた。
愛竜の、銀色の瞳がまっすぐにアリスを見た。その縁に、大きな雫が溜まり、きらっと輝いて空に散った。
「雨……縁……?」
アリスの呟きが終わらぬうちに。
頭を前に戻した飛竜とその兄は、左の翼だけを激しく打ち鳴らし、体の向きを九十度転換した。
猛々しい雄叫びを響かせ、全速で空に駆け上がっていく。まっすぐ一直線に――もうはっきり視認できるほどにも近づきつつある、追跡者目指して。
「だめ……だめよ! 雨縁、だめ――――ッ!!」
アリスは絶叫し、走った。
しかし、砂漠の黒い砂が重くブーツに絡みつく。
手をついて倒れこんだアリスの視線のさきで、雨縁と滝刳は、二重の螺旋を描きながら不死の敵が待ち受ける高空へと突進していった。
銀色の鱗が、赤い陽光を受けて炎のように輝く。
鋭い牙の並ぶあぎとが、一杯に開かれる。
二頭の竜たちは、追跡者が射程距離に入るやいなや、渾身の熱線を吐き出した。空を貫く純白の光は、まるで飛竜の命そのものの燃焼であるようにアリスには見えた。
怪生物の背に乗る敵は、迫り来る超高熱を見ても、その軌道を一切変えようとしなかった。
ただ、無造作に左手を伸ばし、五指を広げる。
防げるわけがない。飛竜の熱線は、整合騎士の記憶解放攻撃と、高位術者の集団多重術式を除けばこの世界で最も高い優先度を持つのだ。それが二条。あんな短時間では、とても対抗し得る防御術など組む余裕はない。
アリスはそう推測し、あるいは願った。
しかし。
甲高い共鳴音を響かせながら殺到した二本の熱線が、敵の身体を飲み込み焼き尽くすと見えた、その寸前。アリスの理解を超えた、奇怪な現象が発生した。
追跡者の左手を中心に、漆黒の闇が渦巻きながら広がったのだ。
周囲の光景が、まるで闇に向かって落ち込むかのようにくにゃりと歪んだ。凄まじい威力を内包するはずの、飛竜の熱線ですらもその例外ではなかった。直進軌道がたわみ、色が青紫へとくすむ。そのまま、男の左手へと吸い寄せられていき――。
幾つかの光芒を散らしただけで、音も閃光も爆発もなく、二条の光線は闇へと飲まれた。
どんな術も剣技も届かない遥か高空を飛ぶ、黒い点でしかない敵の口元に、薄い笑みが浮かぶのをアリスは確かに見た。
直後。
ジャッ!! という耳障りな響きとともに、男の左手にわだかまる闇から、幾本もの漆黒の稲妻が迸った。
まるで、竜たちの熱線を飲み込み、咀嚼し、己の力へと消化してから吐き出したかのようなその攻撃が、飛翔する雨縁と滝刳の体を容赦なく貫いた。二頭の体ががくんと揺れ、鮮血と白煙が空に色濃くたなびいた。
「あ……あ…………」
アリスは喘ぎ、空に高く手を差し伸べ、叫んだ。
「雨縁――――ッ!! 逃げて!! もういいから、逃げて――――ッ!!」
悲鳴は、確かに竜たちに届いたはずだった。しかし二頭の飛竜は、まるでアリスの声に決意を新たにしたかの如く両翼を激しく打ち鳴らし、再び突進を開始した。
口が大きく開かれる。牙の隙間から、陽炎のような熱気が立ち上り、ちらちらと白炎が瞬く。
ズバッ!!
二撃めの熱線が、空を灼いた。
今度もまた、男は闇の盾を展開させ、光の矢を受けた。
先刻と同じ反撃がくるのは明らかだったのに、竜たちは果敢にも突撃を続けた。あぎとから光線を放ち続けたまま、翼を猛然と羽ばたかせ、一直線に敵に向かって突っ込んでいく。
二頭の体に穿たれた傷口から飛び散る血が、炎へと変わった。銀の鱗が次々と剥離し、光の粒となって空に舞った。
竜たちの、存在そのものが光に転換されていく。
命を燃やして放たれつづける熱線が、闇の渦を満たし、飽和させていく。荒れ狂う熱気に耐えかねたか、男の左手からも白煙が上がりはじめる。
だが――そのとき。
敵の全身が、青黒い闇のベールに包まれた。左手から放たれる虚無の渦も勢いを増し、直後、その中央から放たれた黒い稲妻が白い熱線を押し戻しはじめた。
衝突する白と黒の力は、両者の中間でほんの一秒ほど拮抗し。
あっけなく逆転した。
力尽きたように翼の勢いを緩める雨縁と滝刳にむかって、無数の黒い稲妻が躍りかかる――。
「いやぁ――――ッ!! 雨縁!! あまより――――――ッ!!」
アリスの絶叫が、涙とともに砂漠の空気に散った、その瞬間だった。
星が降った。
天から、ふたつの煌く光が、恐ろしい速度で落下してくる。
ひとつはそのまま地上を目指し。
そしてもう一つは、竜たちと追跡者の中間地点で、なんの反動もなくぴたりと静止した。白い光がぱっと飛び散り、そのうちに隠していたものの姿を露わにした。
人。
剣士だ。
尖った黒髪と、同じく漆黒のコートが風になびく。背中には、交差して装備された白黒二本の長剣。両腕を胸の前で組み、迫りくる闇の雷閃を、傲然と見つめている。
バン!! バシィッ!!
という衝撃音とともに、稲妻が剣士を打った。いや、正確には、触れることなく弾かれた。腕組みをしたまま空中にすっくと立つその姿の直前で、不可視の障壁に遮られて空しく威力を散らしたのだ。
アリスはただ、息を止め、眼を見開いて空を見上げた。
黒衣の剣士が、ゆっくりと振り向き、地上のアリスを見た。
わずかに少年らしさの残る、鋭利な容貌が小さくほころび、漆黒の双瞳が強く煌いた。アリスは、胸のおくに強い火花が散るのを感じた。それは、感情というよりも、実際の着火力であったかのようにアリスの心を激しく燃え立たせた。
両眼から新たな涙が溢れるのを意識しながら、アリスは呟いた。
「キリ……ト…………」
半年の長い眠りから醒めた青年は、力強い、しかしどこか照れたような笑みを一瞬浮かべて頷くと、身体を反転させて右手をまっすぐ掲げた。
彼の背後では、瀕死の竜たちが最後の力で翼をはばたかせている。その翼端と、長い尾の先端は、すでに光に溶けるように消滅を始めている。
雨縁が、ルーリッド郊外の家で半年間ともに暮らしたキリトを見て、首をかたむけ、小さくくるるっと鳴いた。
キリトも頷きを返し、眼を閉じた。
不意に、虹色の光の膜が二頭の竜を覆った。まるで、巨大なしゃぼん玉に包まれたかのようだ。
しかし竜たちは恐れるでもなく、翼を畳み首を曲げて、小さく身体を丸めた。
ふたつの光球が、アリスの頭上に、ゆっくりと舞い降りてくる。
呼吸も忘れて見上げるアリスの視線のさきで、不思議な現象が生起した。
七色の光をまとう雨縁と滝刳の巨体が、みるみるうちに小さくなっていく。いや、小さくと言うよりも――若く、幼くなっていくのだ。
鋭い鉤爪が丸みを帯びる。銀鱗が、柔らかいにこ毛に置き換わっていく。尾も首も短くなり、翼が薄い皮膜から、長い羽毛の集合へと変化する。
差し伸べたアリスの両腕のなかにふわりと収まったとき、竜たちの体はもう全長五十センもなかった。青みがかった白の毛皮に包まれた滝刳は、眼を閉じすやすやと眠っているようだ。
そして、緑がかった柔毛の球のような雨縁が――かつて、二頭の母竜がその天命を終えたとき、腕のなかで悲しげに啼いていたときとまったく同じ姿に戻った愛竜が、まっすぐアリスを見上げ、真珠粒のような歯のならぶ口を開いて短く声を発した。
「きゅるっ」
「あま……より……」
呟いたアリスの頬を伝い、こぼれた涙が、竜の毛皮に弾かれてきらきらと光った。
直後、二頭の幼竜を包む虹色の光が、一気にその強さを増した。アリスの腕を、現実的な固さで押し返してくる。何度か瞬きしたとき、そこにあるのは二つの大きな卵になっていた。
白銀色の卵は、どんどん小さくなっていき、最終的に掌に並んで載るくらいにまでなってからようやく七色の輝きを消した。
アリスは、二つの小さな卵にそっと頬を寄せながら、この現象の意味をおぼろげに推測した。雨縁と滝刳の天命が、その膨大さゆえにもう術式では回復しきれないほど損耗していると判断したキリトは、天命上限そのものを最小限に縮小する――つまり幼竜から卵にまで還元することで消滅を免れさせたのだ。
如何様に術式を組めばそのような効果を実現できるのか、いまや世界最高の術者でもあるはずのアリスにすら想像もつかなかった。しかし、訝しく思う気持ちはかけらも無かった。
卵たちを優しく両手で包みこみ、アリスはまっすぐ空を見上げた。
「ありがとう……おかえりなさい、キリト」
涙混じりの声でそう囁きかける。
遥か高空までは届くはずもなかったが、黒衣の人影はしっかりと頷き、微笑んだ。
耳に、懐かしいあの声が聞こえた。
――俺のほうこそ……長い間、心配かけたな。
――ありがとう、アリス。
――次は、リアルワールドで会おう。
そして、キリトはゆっくりと体の向きを変え、闇をまとう追跡者と正対した。
両者のあいだの空間が、せめぎあう心意に耐えかね、白く火花を弾けさせた。
「……キリト……」
その敵は、たとえあなたでも、尋常の攻撃では斃せない。
アリスはそう危惧し、唇を噛んだ。
と、不意に傍らから声がした。
「だいじょうぶよ、アリスさん」
振り向くと、立っていたのは真珠色の装備に身を包むリアルワールド人の少女だった。
「アスナ……さん……」
柔らかい茶色の髪を風になびかせながら、アスナは微笑み、アリスの背に触れた。
「キリトくんを信じましょう。わたしたちは、“果ての祭壇”に急がないと」
「え、ええ……」
頷いたものの、今やそれはそう容易いことではない。
アリスは真南に向き直り、遥か地平線から屹立する“世界の終わり”の断崖と、その手前に浮遊する白い浮島を見上げた。
「“果ての祭壇”は、たぶんあの浮島にあると思うけど……もう竜たちには乗れないし、どうやってあんな高いところまで……」
「大丈夫、私に任せて」
アスナは頷くと、腰から華麗な細剣を抜いた。
それをまっすぐ彼方の浮島に向け、長い睫毛を伏せる。
突然、昨夜も聞いたあの天使の重唱が、ラ――――――、と高らかに響き渡った。
七色の光が空から黒い砂漠へと、一直線に降り注ぐ。
ごん!!
重い音とともに、すぐ目の前の砂のなかから、白い石版が浮き上がった。
ご、ごごごん!
その向こうに、少し高さを増してもうひとつ。さらにひとつ。
息を飲むアリスの眼前に、はるか天まで伸び上がる白亜の階段が出現し、浮島までつながるのに二十秒とかからなかった。
地形操作を終え、剣を降ろしたアスナが、がくりと砂に膝をついた。
「あ、アスナさん!!」
「だい……じょうぶよ。急ぎましょう……祭壇が閉じるまで、あと八分くらいしかないわ……」
閉じる――?
言葉の意味が、アリスには咄嗟に理解できなかったが、尋ねるまえに強く右手を掴まれた。
立ち上がり、物凄い速さで階段を駆け上りはじめたアスナに手を引かれ、アリスも走った。走りながら、もう一度だけ振り向き、高みで敵と対峙する黒衣の剣士を見上げた。
――キリト、言いたいこと、聞きたいことが、山ほどあるんですからね!!
――絶対に勝って。勝って、もういちど私の前に戻ってきて。
漆黒の砂漠につらなる大理石の浮き階段と、その上を飛ぶような速度で登っていく二人の少女剣士の姿は、ため息が出そうなほどに美しく、詩的で、かつ象徴的だった。
俺は、その光景を脳裏に焼きつけ、胸のうちで呟いた。
――アリス。アスナ。
――これで……お別れだ。
アスナに、次の時間加速は五百万倍に達することと、もしそれまでに自力脱出できなければこの世界で二百年を過ごさねばならないことを伝えなかったのには理由がある。
それを知れば、アスナも、アリスも、俺とともに戦おうとするに違いないからだ。たとえそれで、タイムリミットである十分のうちに脱出できなくなったとしても。
俺は、アリスを追う敵の気配を知覚した瞬間、その異質さに戦慄した。いや、気配という表現は相応しくない。そこに在るのは無それのみだからだ。あらゆる情報を呑み込み、光ひとつぶすら逃がさないブラックホール。
そのような相手をタイムリミット前に撃破し、尚且つ三人そろって無事に脱出できる可能性はごく低い。となれば、俺のなかの行動優先順位はおのずから定まる。
アスナとアリスを確実にログアウトさせること。
それ以外に優先されるものなど無い。何一つ。
俺は、一枚絵のように美しい光景をしっかりと記憶に刻みこみ、顔の向きを変え、まっすぐに“敵”の姿を見た。
ついに邂逅したそいつ――いや、それは、まったく奇妙としか言えない存在だった。
男だ。それは分かる。
そして、それしか分からない。
顔の造作は、これが自作のアバターなのだとしたら、おそらく“白人男性の平均的容貌”の再現を意図したのだろう。眉にも、眼にも、鼻筋、口元、輪郭にもいっさいの特徴というものがない。ただ、肌が白く、瞳が青く、髪が薄い金色としか表現のしようがないのだ。
体格も、白人種としては至って普通だ。太っても、痩せてもいないその体を、ミリタリージャケットめいた服に包んでいる。ならばこの男は軍人なのか、というとそれも定かでない。なぜなら、ジャケットの上下に施された黒と灰色の迷彩模様が、ある種の粘液のように絶えず動き回っているからだ。それが、男の“不定”という特徴を強く表していると思えてならない。そもそも、左腰に装備されているのは銃ではなく長剣だ。
この男が、オーシャンタートルを襲撃した特殊部隊――おそらく米軍関連――の一員であることは移動中にアスナから聞いた。ならば、人工フラクトライト関連技術の奪取を目論んだ組織なり企業に、金で雇われた傭兵であるはずなのだ。しかし、少し離れた場所から、ガラスのような眼で俺を見ている男が、そんな現実的利益を求めている人間とはとても思えない。いや、そもそも人間である気すらしない。
約一秒の観察と思考を終え、俺は口を開いた。
「……お前は、何者だ」
答えは即座だった。滑らかな、それでいてどこか金属的な響きのある声で、男は言った。
「求め、盗み、奪う者だ」
途端、男の全身を取り巻く青黒い闇が、その蠕動の勢いを増した。俺は頬にかすかな微風を感じた。空気が、いや情報が闇に吸い込まれているのだ。
「何を求める」
「魂を」
問答を交わすにつれ、吸引力も増していく。空間を構成する情報だけではない。俺の意識そのものもまた、虚無的な重力に引かれるのを感じる。
と、はじめて男の口元が表情めいたものを浮かべた。希薄な気体を思わせる笑み。
「オマエこそ何者だ。なぜそこに居る。何を根拠として私の前に立つのだ」
逆に、問い。
俺が――何者か、だって?
アンダーワールドに降臨した勇者? ――まさか。
人界を守護する騎士? ――違う。
脳裏に否定の言葉を浮かべるたびに、何かが俺のなかから吸い出され、奪われていくのを感じる。しかし、なぜか思考を止めることができない。
SAOをクリアした英雄? ――否。
最強のVRMMOプレイヤー? ――否。
“黒の剣士”? “二刀流”? ――否、否。
どれも、俺自身が望み描いた存在ではない。
ならば、俺はいったい何者だ……?
すう、と意識が薄れかかったその瞬間。
あの懐かしい声が、心の奥底で俺の名を呼んだ。
俺は、いつの間にか俯けていた顔をさっと持ち上げ、呼ばれたままに強く名乗った。
「俺はキリト。剣士キリトだ」
ばちっ!!
と白いスパークが弾け、俺にまとわりつこうとしていた闇の触手を断ち切った。思考が即座に鮮明さを取り戻す。
今の現象はいったい何だ!?
この男は――二台のSTLを介して、直接こちらの意識に干渉できるのか。
俺は、イマジネーションの防壁を強く張り巡らせながら男の眼を凝視した。そこにあるのはまさしく虚無だ。他人の心を吸い取る、底なしの暗闇。
この戦いはおそらく、いかに自分を強く規定し、そして相手にも自己を規定させるかで決まる。
「お前の名は」
無意識のうちに俺は誰何していた。
男はわずかに考え、名乗った。
「ガブリエル。私の名はガブリエル・ミラー」
それがキャラクターネームやハンドルネームではなく、男の本名であることを俺は直感的に察した。
なぜなら、途端に男の容貌が変化したからだ。目つきが異様に鋭く、氷のような冷酷さを帯びる。唇が薄く引き締まり、頬が削げる。
同時に、全身から噴き出す闇のオーラが一気にその厚みを増した。
この段階で、俺ははじめて男の右腕が肩から欠損しているのに気付いた。これまで、腕のように蠢いていた不定形の闇が、ずるずると伸びて腰の剣に触れた。
湿った音を立てて抜かれた剣に、確固とした刀身は存在しなかった。
青黒い闇だけが、一メートルほども炎のように立ち上っている。まさしく、非存在の存在だ。
右肩から伸びる影の腕で握った闇の剣を、男は奇怪な震動音とともに切り払った。
俺も、わずかに距離を取りながら、両肩の剣を同時に抜刀した。左手に青薔薇の剣、右手に夜空の剣。
闇色、ということならギガースシダーの枝から削り出した夜空の剣も負けてはいない。しかし、その刀身が黒曜石のように陽光を反射しているのに対して、男の剣はまるで空間がそこだけ切り取られているかのようだ。リソース吸収属性、などというレベルではあるまい。おそらくは……
「――行くぜ、ガブリエル!!」
敢えて敵の名を叫び、俺は翼に変形させたマントの裾を羽ばたかせた。
高く舞い上がりながら剣を体の前で交差させる。
「ジェネレート・オール・エレメント!」
全身の体表面を端末とするイメージで、全属性の素因をそれぞれ数十個ずつ同時に生成すると、俺は急降下と同時にそれらすべてを発射した。
「ディスチャージ!!」
炎の矢が、氷の槍が、その他幾つもの色彩が光線となって宙を疾る。
術式を追いかけるように、左右の剣を振りかぶる。
ガブリエル・ミラーは、一切の回避行動を取ろうとしなかった。
薄笑いを浮かべたまま、ただその場ですっと両手を広げただけだった。
青い闇を纏うその体に、八色の光が突き刺さる。
わずかに上半身をぐらつかせた隙を逃さず、俺は右手の剣で薙ぎ払い、左手の剣で貫いた。ボッ、と闇が飛び散り、交錯した俺の肌に冷気を残した。
そのまま全力で飛翔を続け、上昇と同時に振り向く。
俺の視線が捉えたのは――。
流出した闇を、ずるすると引き戻し、何事もなかったかのようにこちらに振り向くガブリエルの姿だった。その身体を包む黒いジャケットには、傷一つ残っていない。
やはり。
あの男の属性は、斬撃、刺突、火炎、凍結、旋風、岩弾、鋼矢、晶刃、光線、闇呪に対して吸収《ドレイン》だ。
交錯の瞬間、虚無の刃に撫でられた俺の右肩から、抉られるようにコートと筋肉が消滅し、ぶしゅっと鮮血が飛び散った。
ガブリエル・ミラーは、長い空中階段を駆け上っていく“アリス”ともう一人の少女の姿をちらりと確認し、二人がシステムターミナルに到達するまでの残り時間を五、六分と見積もった。
となれば、唐突に出現した邪魔者との戦闘にかまけている余裕は無い。即刻無力化し、浮島へと急行するのが論理的な判断というものだろうが、新たな敵にほんのわずかな興味を覚えて、彼はその場に滞空し続けた。
一瞥したところでは、ただの子供にしか見えない。
先に戦い、相討ちとなった初老の騎士と比べれば、威圧感など無に等しい。おそらくは、“シノン”と同じくK組織に協力する現実世界人のVRMMOプレイヤーなのだろうが、圧力という点ではあの少女にすら劣る。
なぜなら、眼前の黒衣の若者は、闘気のたぐいをほとんど放散していないからだ。
何者か、と尋ねたその瞬間だけ、僅かに意思を吸い出すことができたものの、その回路もすぐに遮断されてしまった。以降は、まるで透明な殻に包まれているかのようにガブリエルの思考走査を弾き続けている。心を味わえぬ敵などとは、戦っても何も面白くない。
すぐさまステータス数値的に殺害・排除し、アリスを追おうと一度は考えた。
しかし若者がコートの裾をコウモリの翼状に変化させ、更に全属性の魔法を同時に操るのを見て少しだけ気が変わった。この世界に慣れている、と感じたからだ。
アリスを確保し、STL技術とともに第三国に脱出したあとは、自分だけの世界を隅々まで好みに合うように構築する作業が待っている。それを効率的に行うためにも、若者が持っている操作技術を奪っておくのは悪くない。
そのためには、あのイマジネーションの殻を破壊する必要がある。
ガブリエルは薄い笑みとともに、黒衣の少年に向けて言葉を放った。
「三分やろう。私をせいぜい楽しませてくれ」
「……気前のいいことだな」
俺は、指先の一撫でで傷を塞ぎながら呟いた。
だが、ガブリエル・ミラーの余裕にはたっぷりと裏づけがある。何と言っても全属性の攻撃に対して無敵なのだ。
――いや、たった一つだけ、通用するダメージも無くはないだろう。奴の右腕を肩から吹っ飛ばしたのは、恐らく先行していたシノンだ。イマジネーションで狙撃銃を作り出し、撃ち抜いたのだ。つまり、“銃撃”属性の攻撃ならばさしものガブリエルも吸収しきれないということになる。
その理由は、あの男がまがりなりにもミリタリージャケット姿であることと無関係ではあるまい。兵士としての長い経験を通して大口径銃の威力を知り抜いているがゆえに、自分が撃たれたときのダメージもまた無効化できなかったのではないか。
だが、このアンダーワールドで銃を具現化するなどという離れ業は、愛銃ヘカートUを手足のように扱うシノンだからこそ出来たことだ。俺にはとても真似できないし、仮に拳銃ひとつくらい作り出せたところで、とても威力までは伴うまい。
つまり俺は、銃撃属性以外に、何かあの奇怪な男がダメージとして認識し得るものを見つけ出す必要がある。
それは即ち、ガブリエルという人間を知るということだ。どのように生き、何を望み、何故今ここに居るのかを看破しなくてはならない。
左右の剣をぴたりと構え、俺は口の端に笑みを浮かべた。
「いいだろう、楽しませてやるよ」
いったい、あの態度の根拠は何なのか。
長期間アンダーワールドにログインし、システムに慣れているのは確かだろうが、しかしたかがゲームプレイヤーの子供ではないか。大仰に両手に握った剣や、派手派手しい魔法攻撃の全てが無力であることを思い知らされたばかりだというのに、何故ああもふてぶてしく笑っていられるのか。
ガブリエルはかすかな不快感とともに考え、つまりは時間稼ぎのための虚勢だと結論づけた。
たとえこの世界で死のうとも、現実の肉体には何の傷も負わないとたかをくくっているのだ。その上で、もう一人の仲間がアリスを確保するまで戦闘を引き伸ばすことだけを考えている。
所詮は愚昧な子供だ。付き合うのは三分でも長すぎる。
かりそめの右腕に握った、虚ろなる刃をゆらりと振り――ガブリエルはそれを、自らが乗る有翼生物の背に無造作に突き刺した。
もともとこの怪物は、剣やクロスボウと同じく、“サトライザ”のアカウントが所持していた飛行用バックパックがコンバート時に置換されたものだ。意思のままに制御できるとは言え、両足だけで乗っているのは安定感に欠ける。あの少年のように、翼だけにしたほうが合理的というものだ。
背中を串刺しにされた怪物は、ギイッと短い悲鳴を上げただけで、たちまち虚無に吸い込まれた。ガブリエルは、剣を通して右腕に流入してきたデータを背中に回し、意思を集中させた。
ばさっ。
という羽ばたき音ともに、少年と同じく黒い翼が肩甲骨のあたりから伸長した。しかし、こちらはコウモリのような皮膜型ではなく、鋭い羽毛を重ねた猛禽のそれだ。天使の名を持つ自分には、こちらのほうが相応しい。
「……一つ、盗んだぞ」
ガブリエルは、虚無の刃を若者にまっすぐ向けながら囁いた。
次の攻撃で、敵の乗る円盤型の飛行生物を陥とそうと思っていた俺は、先手を打たれて一瞬判断力が低下した。
その隙を逃さず、黒い猛禽の翼を羽ばたかせてガブリエルが間合いに滑り込んでくる。
ノーモーションで突き込まれてきた刃の速度は、驚くべきものだった。剣技に関しては素人と睨んでいたがとんでもない。十字にクロスさせた二本の剣で、下から救い上げるように受ける。
ぎじゅっ!
と異様な音とともに、青黒い闇の剣が俺の鼻先で停止した。
青薔薇の剣と、夜空の剣が激しく軋む。かろうじて虚無に喰われはしないものの、言わば断絶空間と切り結んでいるようなものだ。天命に巨大な負荷がかかっていることは想像に難くない。
しかし、バックステップで回避せず、あえて危険を冒してブロックで受けたのは作戦のうちだった。俺は、下から突き上げた剣が再度斬り降ろされてくる勢いを利用し、思い切り身体を後転させた。
「ラァ!!」
気合とともに、ガブリエルの顎目掛けて真下から蹴りを浴びせる。
橙の光を引きながら伸び上がったつま先が、尖った顎下を捉えた。ボッ、と闇が飛び散り、敵が仰け反る。
――どうだ!?
翼で強く空気を叩き、距離を取りながら俺は敵の様子を確かめた。銃撃、とまでは行かなくとも、“打撃”ならば――奴がほんとうに特殊部隊の兵士なら、当然格闘術の訓練も受けているはずゆえ、ダメージと認識する可能性はある。
かくん、と頭を戻したガブリエルは、しかし、表面的にはまったく無傷だった。
顎から飛び散った黒い闇は、すぐに元通りに凝集して滑らかな皮膚へと変わった。そこを左手で撫でながら、敵はにやりと笑った。
「なるほどな。しかし残念ながら、そんな大技はショウ・アップされたテレビ向けの代物だ。本物のマーシャル・アーツというのは……」
びゅっ!!
と空気を鳴らし、言葉半ばで、ガブリエルはその姿が霞むほどの速度で突っ込んできた。左上から振り下ろされる剣を、俺は反射的に青薔薇の剣で弾き、同時に右手の剣で反撃した。敵の肩口に刃が食い込み、まるで高濃度の粘液に包まれたかのような手応えとともに動かなくなる。
と、伸びきった俺の右腕に、するりと絡みつくものがあった。ガブリエルの左腕だ。黒い蛇のように巻きつき、たちまち逆関節を極められ――。
ごきっ。
という嫌な響きとともに、俺の脳天に銀色の電流にも似た激痛が走った。
「ぐあっ……」
呻く俺の眼を間近から覗き込み、ガブリエルは囁いた。
「……こういうものだ」
直後、猛烈なラッシュが開始された。
虚無の剣が、無限にも思える連続技を超高速で撃ち込んでくる。それを右手の剣一本でどうにか捌こうとするが、時折防御を抜けてきた一撃が、体のあちこちを浅く抉り取っていく。へし折られた左腕を回復させるために精神を集中する暇などまったく無い。
「く……おっ……」
思わずうめき声を漏らし、俺は距離を取るべく翼を強く羽ばたかせた。
全力でバックダッシュしながら、剣を握るだけで精一杯の左腕に右手の指を二本這わせる。
白い光が集まりかけた、その時。
ガブリエルがすっと左手を掲げ、鉤爪のように五指を曲げてから、一気に開いた。
十本以上の漆黒のラインが放射状に広がり、途中で鋭角に折れてまっすぐ襲い掛かってくる。
俺は歯を食いしばり、イマジネーションの防壁を展開した。アリスの竜たちを襲った同じ技を弾いたときは強固な確信があったが、今は集中力の半分を治癒に割いている――という認識それ自体が、盾の強度を減少せしめ――。
ズバッ。
という震動が、体の数箇所に生じた。
防壁を貫通した闇の光線三本が、胴と両脚を穿った。痛みよりも先に、凄まじい冷気が感覚を駆け巡った。見れば、撃たれた箇所には青黒い虚無がまとわりつき、俺の存在そのものを喰らっている。
「ぐ……!!」
再び唸りながら、大きく息を吸い、気合を放つ。それでようやく虚無は剥がれたが、新たな傷口から大量の鮮血が迸った。
「ハハハ」
乾いた声に顔を上げると、ガブリエル・ミラーがその刃のような相貌を歪め、笑っていた。
「ハハハ、ハハハハハ」
いや、これは笑いではない。唇はつり上がっていても、目元は一切動かず、硝子のごとく青い瞳にはさらなる飢えだけが渦巻いている。
ガブリエルは、両腕をゆっくり体の前で交差させると、力を溜めるような仕草を見せた。
闇が重く身震いする。炎のように激しく揺れ動き、その厚みをどこまでも増す。
「ハ――――――ッ!!」
強烈な気声とともに、腕が左右に開かれた。
ズッ、と新たな黒翼が二枚、すでにある翼の上から伸び上がり、大きく広がった。さらに下側からももう一対。
計六枚になった巨大な翼を上から順に羽ばたかせ、ガブリエルは徐々に高度を増していく。撫で付けられていた金髪が波打ちながら広がり、その頭上に漆黒のリングが輝く。
いつしか両眼も、人のそれではなくなっていた。眼窩にはただ、蒼い光だけが満たされている。
まさしく――死の天使だ。
人の魂を狩り、奪い去る超越者。このような自己像を持つものに対して、いったいどんな攻撃が有効だというのか。
俺は、恐怖の具現化たるその姿から視線を外し、手をつないで空中階段を駆け上るアスナとアリスの姿を確認した。まだ、道程の半分をやっと過ぎたところだ。ターミナルまで到達するにはあと二分、いや三分はかかろうか。
たったそれだけの時間すら稼げるかどうか、俺はすでに確信することができなくなっている。
なんという、全能感だ。
全身を駆け巡るパワーの、あまりの強烈さにガブリエルは三度目の哄笑を放った。
なるほど、これがこの世界におけるイマジネーションの真髄――“心意”というものか。
竜巻の巨人と変じた暗黒将軍や、時間を斬った敵騎士の力の秘密をついに手に入れたのだ。ガブリエルは今まで、彼らの技を未知のシステムコマンドに拠るものと思っていたが、そうではなかった。要は、いかに強く己が力を確信できるかだけだ。すべて、あの子供が眼前であれこれ実演してくれたお陰である。
感謝の意味で、もう一分くれてやろう。
ガブリエルは六翼を大きく広げ、闇のつるぎを高々と掲げた。
一分のあいだに、小僧の存在すべてを切り刻み、魂を抽出して喰らい尽くす。更なる力を我が物とするために。
青紫色の稲妻をまとわりつかせながら、ガブリエルは突撃態勢に入った。
もはや軍人ですらなくなってしまった敵の姿を、俺はただ見上げた。
あの男――いや存在が恐れ、脅威と認識するようなものなどもう何も思いつかない。既に銃撃ですら無効となった証として、吹き飛んでいたはずの右腕も、いつのまにか完全に再生している。
つまるところ、覚悟が足りなかったのだ。
ガブリエル・ミラーを甘く見ていたわけではない。その異質な気配は、最大の警戒に値するものだった。しかしだからこそ俺は、この戦いを始める前から、あるいは勝利を諦めてしまっていたのかもしれない。時間さえ稼げれば――、つまりアリスとアスナが脱出するまで戦いを引き延ばしさえすれば、俺も敵も二百年という時間の獄に囚われ、二度と現実に戻れないのだから。
ああ……そうか。
もしかして俺は、それを望んですらいたのだろうか?
アインクラッドを超える、真なる異世界。茅場晶彦が望み、創ろうとした理想郷。アンダーワールドはまさにそう呼ぶに相応しい。
俺はかつて、SAOに囚われた二年間のあいだ、自分が真に脱出を望んでいるのかどうか常に迷っていた。迷いながらも攻略組として最前線で戦い続けたのは、あの世界での生活にも厳然としたタイムリミットがあると認識していたからだ。病院のベッドに横たわり、点滴だけで命をつなぐ生身の体がいつかは衰弱の限界を超えるだろう、という。
しかし、加速されたアンダーワールドにはそれがない。倍率五百万倍となれば尚更、現実の肉体のことなど考える必要が無くなる。俺は魂の寿命が尽きるまで、この異世界に留まり続けられる。無意識にでも、そう考えなかったとほんとうに断言できるだろうか?
その結果――。
俺の大切な人たちが、どれほど哀しむかに思いを致しもせず。
直葉が、母さん、父さんが、ユイ、クライン、エギル、リズ、シリカ……その他多くの、俺を救ってくれた人たちが。
そしてアリスが。
アスナが。
どんなに嘆き、苦しみ、涙を流すかを、考える……こともなく……。
結局、俺は、人の心を知ることのできない人間なのだ。
中学生の頃、初めての友達を見捨て、仮想世界で斬り殺したあの時から、何も変わっちゃいないんだ……。
――違うよ、キリト。
懐かしい声。
氷のように冷えた左手に、かすかな温もり。
――君がこの世界を離れたくないと思ったなら、それは自分のためじゃない。この世界で知り合った人たちを、君が愛しているからだ。
――シルカを、ティーゼを、ロニエを、ルーリッドの人たちや、央都や学園で知り合った人たち、整合騎士や衛士たち……カーディナルさんや、もしかしたらアドミニストレータも……そしてたぶん、僕をね。
――君の愛は、大きく、広く、深い。世界すべてを背負おうとするほどに。
――でも、あの敵は違う。
――あの男こそ、心を知らない。理解できない。だから求める。だから奪おうとする。壊そうとする。それはつまり……
怖れているからだよ。
ガブリエル・ミラーは、黒衣の少年の頬に、細い涙の筋が伝うのを見た。剣を握る両手が、怯えるように胸の前に縮こまった。
恐怖か。
死に行く者の恐怖こそ、ガブリエルにとっては最も甘美な調味料だった。これまで手に掛けた多くの犠牲者が流した涙を、ガブリエルは舌で味わい、陶然としたものだ。
体の芯から湧き上がる巨大な渇きを感じ、尖った舌先で唇を舐めながら、ガブリエルは左手の指先を振りかざした。
たちまち無数の黒球が出現し、蠅のように唸る。
指先で小僧をポイントすると同時に、それらはすべて極細のレーザーへと変わり、空中を走った。
どす、どすどすっ。
確たる手応えとともに、華奢な五体のそこかしこに突き刺さる。闇と鮮血が絡まりながら迸る。
「ハハハハハ!!」
哄笑しながら一気に零距離まで肉薄したガブリエルは、虚無の剣を思い切り引き絞り――。
一息に、少年の腹を貫いた。
時間が圧縮されたような刹那ののち。
黒のシャツとコートに覆われた胴が、荒れ狂う虚無に引き裂かれ、呆気なく分断された。
飛び散る血と肉。骨。臓器。
紅玉のように美しいその輝きに、ガブリエルは左手を突っ込んだ。
少年の上半身からぶら下がり、尚も脈打つ最大の宝石――心臓を掴み、引き千切る。
掌のなかで、抵抗するようにどくん、どくんと震え続ける肉塊をそっと口元まで引き寄せ、ガブリエルは虚ろな表情で宙に漂う瀕死の少年に向かって囁きかけた。
「オマエの感情、記憶、心と魂の全てを……今、喰らってやるぞ」
そう言い放った死の天使の姿を、俺は、半眼に閉じた瞼の下から見つめた。
ガブリエルは、異様に赤い唇を大きく開け、まるで熟しきった林檎を齧るように、俺から奪った心臓に真っ白い歯を立てた。
……ざりっ。
という怖気をふるうような音が大きく響いた。
白面が大きく歪み、その口から俺のものではない血が大量に溢れた。
当然だ。
俺が、自分の心臓のなかに鋼素から生成しておいた無数の小刃を食ったのだから。
「ぐっ……」
唸り、口を押さえて後退するガブリエルに、俺は掠れた声で言った。
「そんな……ところに、心も記憶もあるものか。体なんか……ただの、器だ。思い出は……いつだって……」
ここにある。
俺という意識そのものと融けあい、一体となり、永遠に分かたれることはないのだ。
体が引き千切られた痛みは、もう痛みとも呼べぬほどの凄まじいものだった。しかしこの一瞬こそが、最大最後の機だ。逃せば二度目は無い。
ユージオだって、身体を分断されて尚戦ったのだ。
俺は両手の剣をいっぱいに広げ――鮮血を飛び散らさせながら叫んだ。
「リリース・リコレクション!!!」
青白と純黒の光が、同時に炸裂した。
前に向けた青薔薇の剣からは、氷の蔓が幾筋もほとばしり、ガブリエルの体を二重三重に締め付ける。
そして、まっすぐ掲げた夜空の剣からは――。
巨大な闇の柱が屹立し、天を目指した。
轟音とともに伸び上がった漆黒は、真紅の空を貫いてはるかな高みまで届き――まるで太陽そのものに激突したかのように、そこで四方八方へと広がった。
空が、覆われていく。
血の色が凄まじい速度で塗りつぶされ、真昼の光が消える。
暗闇は数秒で地平線まで達し、尚も彼方を目指し続ける。
いや、それは虚無的な闇ではない。滑らかな質感と、微かな温度を持つ、
無限の夜空。
無人の荒野、林立する奇岩群の根元にシノンはひとり横たわり、天命が尽きるその時をただ待っていた。
吹き飛んだ両脚の傷が間断なく疼き、意識を半ば以上霞ませている。胸元に残るチェーンの切れ端を、まるで命綱にすがるように強く握り締め続けるが、その右手にも徐々に力が入らなくなっていく。
薄れゆく思考が、はたしてログアウトを予告しているのか、それとも本物の失神へと至るものなのか分からなくなりかけた、その時。
空の色が、変わった。
真昼なのに不気味な血色を漲らせていた空が、南から凄まじいスピードで黒く覆われていく。太陽の光が遮断され、灰色の雲も塗りつぶされ――そして、まったき闇がシノンを包んだ。
違う。完全な暗黒ではない。
どこからか降り注ぐほのかな燐光が、頭上の岩山や、枯れた木々や、首元の鎖を薄青く照らし出した。暖かなそよ風が吹き渡り、前髪を揺らした。
夜だ。あまねく世界を、優しく、穏やかに包み、癒していく夜のとばり。
不意にシノンは、はるか過去の情景を思い出した。
こことは違う異世界の、砂漠での一夜。幼い頃に遭遇した事件の記憶に日々苛まれる苦しみを、シノンは思い切り吐き出し、ぶつけ、泣き喚いた。あのときそっと背中を抱き、受け止めてくれた腕の強さと優しさが、頭上の夜空にも満ちみちている。
そうか――この夜は、キリトの心なんだ。
あの人は、決して眩しい太陽じゃない。人々の先頭に立ち、燦々と輝くことはない。
でも、辛いとき、苦しいときにはいつだって後ろから支えてくれる。悲しみを癒し、涙を乾かしてくれる。ささやかに、でもたしかに煌く星のように。夜のように。
いま、キリトはこの世界を、ここに生きる人たちを守るための、最後の戦いのさ中にいるのだろう。巨大すぎる敵に抗い、抗いつづけて、最後の力を振り絞っているのだろう。
なら、お願い――届けて、私の心も。
シノンは、涙に濡れる瞳で懸命に夜空を見上げ、祈った。
まっすぐ頭上に、水色の小さな星がひとつ、ちかっと瞬いた。
リーファは、無数のオークたちと拳闘士たちに囲まれて横たわり、やはり最後の時を待っていた。
もうテラリアの回復力を行使するために、右足を踏みしめる力も残っていなかった。切り刻まれ、貫かれた全身はただ凍るように冷たく、指先すらぴくりとも動かない。
「リーファ……死ぬな! 死んだらいげない!!」
傍らに跪くオーク族長リルピリンが、吼えるように叫んだ。その小さな眼に限界まで溜まった透明な涙を、リーファは薄く微笑みながら見上げ、囁いた。
「泣かない……で。私は、きっとまた……もどって、くるから」
それを聞いたリルピリンが、身体を丸め、肩を震わせるのを見てリーファは思った。
――お兄ちゃんを直接手助けはできなかったけど、でも、これでよかったんだよね。私は、ちゃんと役目を果たしたよね。そうでしょ……?
と、その瞬間。まるで、リーファの心の声に応えるかのように。
空の色が消えた。
真昼の空が、突如闇夜へと変じたことへの驚きの声が、オークや拳闘士たちのあいだに満ちた。リルピリンも濡れそぼった顔を上げ、いっぱいに両目を見開いている。
しかし、リーファは驚きも、恐れもしなかった。闇を追うように南から吹き渡り、やさしく頬を撫でた夜風に、兄の匂いを感じたからだ。
「お兄ちゃん……」
呟き、大きく空気を吸い込む。
リーファにとってキリトは、常に最も近く、そして最も遠い存在だった。
兄はたぶん、自力で真実を見出す前から、無意識下では察していたのだろうと思う。いまの父母が、自分のほんとうの両親ではないことを。リーファが物心ついた頃にはすでに、キリトは孤独と隔絶の色を濃くまとわりつかせていた。決して誰かと深く結びつこうとせず、友情が生まれかける端から自分で壊し続けた。
その性癖が兄をネットゲームに耽溺させ、その耽溺が兄に“SAOを解放すべき勇者”の役回りを導いたという事実を、しかしリーファは偶然の皮肉だとは思わない。同時に予定された救済だとも思わない。
それは兄が自ら選び取った道なのだ。選び、懸命に背負い続けようとする。それこそがキリトという人間の強さだ。
この夜空は、キリトがこの世界を、そこに住まう人々すべてを背負うと決意した証に他ならない。なぜなら――
……お兄ちゃんは、私よりもずっと、ずっと剣士なんだから。
リーファは、最後の力を振り絞って感覚のない両腕を動かし、胸の上で竹刀を握るように組んだ。
そして、念じた。兄の剣に、私の心の力よ、届け、と。
遥か頭上に、緑色の星がひとつ強く輝くのが見えた。
リズベットは、シリカの手を握り締めながら、無言で太陽の消えた空を見上げた。
空を夜闇が塗りつぶしていく途轍もない光景は、否応なくあの日のことを思い起こさせた。
SAOが開始されて二年が経った、初冬の午後。
店から飛び出したリズベットは、上層の底を埋め尽くすシステムメッセージの羅列に、ついにデスゲームがクリアされたことを知ったのだ。瞬間、キリトだ、と思った。キリトが、私の鍛えた剣を振るって最終ボスを倒したのだ、と。
現実に戻ってのちに、キリトはリズベットに言ったことがある。
――俺はあのとき、本当は負けたんだ。ヒースクリフに斬られて、確かにHPがゼロになった。でも、なぜかすぐには消えなかった。ほんの数秒だけど右手が動いて、相討ちに持ち込めた。あの時間をくれたのは、リズや、アスナや、クラインたち他のみんなだと思う。だから、ほんとうの意味でSAOをクリアした勇者は俺じゃないんだ。リズたちみんなが勇者なんだ。
その時は、何謙遜してんのよ、と笑って背中を叩いてしまったのだが、しかしあれはキリトの本心だったのだろう。彼は、こう言いたかったのだ。真に強い力は、人と人との心のつながりの中にこそある、と。
「……ね、シリカ」
リズベットは夜空から視線を外し、ちらりと隣の友人を見やった。
「あたしね……やっぱり、キリトが好き」
シリカも微笑み、答えた。
「私もです」
そして二人同時に、かすかな燐光を帯びる闇夜に顔を戻した。
目を瞑る寸前、少し離れた場所で高く拳を突き上げるクラインと、両腰に手を当てて何事か呟くエギルのシルエットが見えた。
同じように、それぞれのやり方で祈り、願う、数百人のプレイヤーたちの呟きを、リズベットは聞いた。
――あたしたちは、アミュスフィアだけでこの世界に接続してるけど……でも、届くよね、キリト。心が繋がってるもんね。
頭上に、同時に数百の星屑がさあっと広がった。
整合騎士レンリは、左手を騎竜・風縫の首にかけ、右手で少女練士ティーゼの左手を握ったまま、息をすることも忘れて突如訪れた夜闇を見つめた。
昼を夜に変えてしまうなど、教会に残されているどのような史書にも記述のない、恐るべき現象だ。しかし、レンリに恐れはなかった。
二本の槍に身体を貫かれ、不可避の死をいままさに受け入れようとしていた時、空から光の雨が降り注いで致命傷を跡形もなく癒した。あの雨とまったく等質の暖かさを、この夜ははらんでいる。
自分が最後まで生き残ってしまったことが、レンリには不思議でもあり、また許せないという気持ちもあった。騎士エルドリエのように、戦いのなかで雄々しく散ることこそが、もう名前も思い出せないかつての友に報いる唯一の道であると思い定めていたからだ。
しかし、レンリはあの光の雨のなかで感じた。
車輪つきの椅子から立ち上がることもできなかった黒衣の剣士。彼もまたたった一人の友を喪ったのだ。そしてその死の責が自らにあると苦しみ、心を閉ざしていた。
なのにあの人は立ち上がった。そして、レンリの神器・比翼と同じように己と友の分身たる二本の剣を操り、凄まじい力を発揮して数万の敵軍を滅した。彼は、その背中でレンリに教えてくれた。
生きること。生きて、戦い、命を、心を繋いでいくこと。それが――それだけが……。
「それだけが、強さの証なんだ」
呟き、レンリはティーゼの手を握る手にわずかに力を込めた。
黒髪の友達ともう一方の手を繋ぐ赤毛の少女は、ちらりとレンリを見上げると、夜闇のなかでも紅葉色に煌く瞳を和らげ、しっかりと頷いた。
三人は、再びまっすぐ漆黒の空を見上げ、それぞれの祈りを捧げた。
さあっと刷かれた数百の星屑のなかに、三つの強い輝きが星座となって瞬いた。
拳闘士団長イシュカーンは、跪くオークたちに囲まれて今まさに死にゆこうとしている緑の髪の娘を、言い知れぬ感慨とともに少し離れた場所から見つめた。
あの娘の戦いぶりは、鬼神と呼んでも追いつかぬ途轍もないものだった。それを見て、オークたちが皇帝の命に背き拳闘士団の救援に駆けつけた理由を、イシュカーンはようやく理解できたと思った。つまりオーク族は、あの娘が皇帝よりも強いと信じたのだ、と。
しかし、違った。
一万のオークがあの娘に従った――いや、恭順した理由はただ一つ、娘が彼らを人間だと言ってくれたからだと、族長リルピリンはイシュカーンに教えたのだ。誇らしげにそう告げたときのリルピリンの隻眼からは、かつてあれほど渦巻いていた憎しみの色が嘘のように抜け落ちていた。
「なあ、女……じゃねえ、シェータよ」
イシュカーンは、傍らに立つ灰色の女騎士の名を呼んだ。
「力ってのは……強ぇってのは、どういうことなんだろうな……」
今や無刀の騎士となったシェータは、束ねた長い髪を揺らし、首を傾げた。その涼しげな瞳が、背後に並んで立つ飛竜と、両肩に包帯を巻いた巨漢を順に見てからイシュカーンに戻され、そして唇が小さく綻んだ。
「あなたにも、もう分かってる。怒りや憎悪より、強い力があるってこと」
瞬間――。
見慣れたダークテリトリーの血の色の空が、闇に沈んだ。
息を飲み、頭上を振り仰いだイシュカーンの視線のまっすぐ先に、たったひとつ緑色の星がちかっと瞬いた。
シェータの手が伸び、星を指差した。
「……あれだわ。ほんとうの力。ほんとうの光」
「……ああ。…………ああ、そうだな」
イシュカーンは呟いた。左眼に滲んだもののせいで、星の緑色が滲んだ。
傷だらけの拳を、生まれて初めて殴るためではなく握り締め、拳闘士の長は勝利以外の何かのために祈った。
緑の星から少し離れたところに、真紅の星がひとつ炎のように燃え上がった。すぐ隣に、灰色の光が寄り添うように浮かんだ。
直後、生き残った拳闘士たちが控えめに武舞を唱和する声が響き、数百の星がさあっと広がった。
同じように、一万のオーク軍も夜空を見上げ、祈りに加わった。
そしてまた、背後に固まる暗黒騎士たちも続く。彼らの一部は、オーク軍に同調して謎の軍勢から拳闘士団を守ってくれたのだ。
星の数はたちまち千を超し、万を超えた。
東の大門に残る人界守備軍と、整合騎士ファナティオ、デュソルバート、さらに数名の下位騎士たちも、一様に言葉を失い夜空を見つめた。
彼らの胸中に去来する思いはそれぞれ異なっていたが、祈りと願いの強さは同じだった。
ファナティオは、世を去った整合騎士長ベルクーリが愛した世界、そしてまた体内に宿る新たな命がこれから生きていく世界のために祈った。
デュソルバートは、左手の指に輝く小さな指輪をそっと右手で包み込み、かつて対となる指輪を嵌めていた誰かと共に暮らした世界のために祈った。
他の騎士や衛士たちも、愛する世界が平和のうちに存続するように、祈りを捧げた。
遥か北方の山岳地帯では山ゴブリン族が祈り、荒野では平地ゴブリン族が祈った。
東方の湿地では夫や父の帰りを待つオークたちが祈り、西方の高台ではジャイアント族が祈った。
主なき帝城オブシディアの城下町では浅黒い肌の人間たちが、そして南東の草原地帯ではオーガたちが眼を閉じ、祈った。
夜のとばりは、果ての山脈を越え、人界にまでも一瞬で届いた。
遥か北方、ルーリッドの村の教会で、洗濯のための井戸水を汲んでいた見習いシスターのシルカは、高く澄んだ青空が南東の方角から暗闇に覆われていく光景に眼を奪われ、立ち尽くした。掌からロープが滑り、水面に落ちた桶がかすかな水音を立てたが、耳に届くことはなかった。
唇から漏れた囁きは、ひそやかに震えていた。
「……姉さま。…………キリト」
今、まさにこの瞬間――。
誰よりも愛する二人が、懸命の戦いを繰り広げていることを、シルカは夜風に感じ取った。
つまり、キリトは再び目覚めたのだ。ユージオを喪った悲しみの縁から、もう一度立ち上がったのだ。
シルカは短い草の上に跪き、両手を胸の前で組み合わせた。眼を閉じ、呟いた。
「ユージオ。お願い……姉さまとキリトを、守ってあげて」
祈りとともに再び見上げた夜空に、青い星がひとつちかっと瞬いた。
その周囲に、見る間に色とりどりの星が浮かび上がる。見れば、先ほどまで中庭で遊びまわっていた子供たちが、無言で地面に膝をつき、小さな手を握り締めている。
教会前の広場では商人や主婦たちが。
牧場や麦畑では男たちが。
村長の執務室ではアリスの父ガスフトが、森のはずれではガリッタ老人が祈った。誰一人、恐れ慌てる者はいなかった。
ルーリッドの上空を、無数の星々が埋め尽くすのに数秒とかからなかった。
同じように、少し南に上ったところにあるザッカリアの街のうえにも、数多の星屑が広がった。
四帝国の各地に点在する村や街の住民たちも一様に無言の祈りを捧げた。
さらに、人界の中央に位置する巨大都市セントリアの市民たち。修剣学院の生徒たち。
神聖教会に属する修道士や司祭たちすら例外ではなかった。
カセドラル五十階と八十階を結ぶ昇降板の操作係を務める少女は、その長い生を通して初めてすることをした。職務中に、硝子製の風素生成筒から手を離し、天窓の彼方に広がる無限の星空を見上げて両手を組み合わせたのだ。
彼女は、カセドラル以外の世界を知らなかった。最高司祭の死も、暗黒界軍の侵攻も、少女の人生にはこれまで何らの変化ももたらさなかった。
だから少女は、ただひとつのことだけを祈った。
もう一度、あの二人の若い剣士たちに会えますように、と。
広大なアンダーワールド全土を包む真昼の夜空に、色とりどりに煌いた星の数は十数万に及んだ。
それら星ぼしは、最果ての辺境のものから順に、鈴の音のような響きを奏でながらある一点を目指して流れはじめた。
世界の最南端。
ワールド・エンド・オールターと呼ばれる浮島の至近で、まっすぐ天に掲げられた一本の長剣のもとへと。
ようやく天辺の見えてきた階段を全速で駆け上っていたアリスは、足元の大理石にくっきりと映る自分の影が、より巨大な影に突如として溶け消えるのを見た。
息を詰め、背後を振り仰いだ瞳に飛び込んだのは、とてつもない光景だった。
虚無の剣を振りかざし、六枚の黒翼を広げる敵。
その身体に幾重にも巻きつき、動きを封じる氷の蔓。
氷の源、青白く輝く長剣を握るのは、飛竜の翼を背負う黒衣の剣士。
剣士の体は、胸から下が完全に喪われていた。瞬時に天命が全損して当然の状態で、尚も戦い続けるその心意力は驚異と言うよりない。
しかし、真なる奇跡はほかに存在した。
高々と掲げられた剣士の右手が握る、漆黒の長剣から膨大な闇の奔流がまっすぐ屹立し、空を、あまねく世界を覆っている。
いや、無明の闇ではない。
遥か北のかなたに瞬きはじめた無限の色彩、無数の光点は、あれは星だ。静謐なる輝きの群れが、空を……夜を彩っていく。
と――。
星たちが、動き始めた。
銀鈴のような、竪琴のような、清らかな音色を幾重にも奏でながら、まっすぐこの地を目指して集まってくる。白の、青の、赤、緑、黄色の線を細く、長く引いて、夜空に巨大な虹の弧を描き出す。
すべての星々が、全世界に生きる人々の心の力そのものの顕現であることをアリスは直感した。
人界人も。
暗黒界人も。
人間も。
亜人も。
いま、世界は祈りのもとにひとつになっている。
「……キリト…………!!!」
アリスはその名を呼び、高く左手をかざした。
私の心も。人造の騎士として、わずかな年月だけを生きたかりそめの心ではあるけれど、でもこの気持ちは――この胸に溢れる感動は、きっと本物だから。
左手から、眩く煌く黄金の星が放たれ、一直線にキリトの剣を目指して飛翔した。
アスナは、振り返らなかった。
キリトの死闘に応えるために唯一できるのは、たとえ一刹那たりとも無駄にせず、システムコンソールを目指すことだけだと解っていたからだ。
だからアスナは、アリスの手を引き、あらゆる心と体の力を振り絞って懸命に駆け続けた。
しかし、胸の奥に熱い想いが満ちるのだけは止められなかった。
想いはふたつの雫となって睫毛を滑り、宙にこぼれた。
夜風に運ばれ、舞い上がった雫は溶け合って、七色の光を放つ星になった。
闇にオーロラの尾を引き、まっすぐ飛んでいく星を一瞬だけ見上げ、アスナは振り向くことなく走った。走りながら、ただ信じた。
ガブリエル・ミラーは、なぜたかが氷如きに己が拘束されるのか理解できなかった。
つい先刻は、あらゆる属性の術式攻撃と、さらには剣による斬撃すらも完全に無効化してのけたではないか。
確かに、心臓に仕込まれた姑息な刃に口を傷つけられはした。しかしそれは、咀嚼の動作が口腔を実体化させてしまっただけのことだ。今はもう、全身を虚無のイメージに厚く覆いなおしている。
我は刈り取る者。あらゆる熱を、光を、存在を奪うもの。
深淵なり。
「NU……LLLLLLLL!」
人のものならぬ異質な唸りが、喉の奥から迸った。
背から伸びる三対の黒い翼すべてが、右手の剣と同じ虚無の刃へと変貌した。
それらを激しく打ち鳴らし、周囲の空間すべてを切り裂く。ようやく青白い蔓が引き千切れ、体の自由が戻った。
「LLLLLLLLLLLLL!!」
咆哮とともに、ガブリエルは七本の虚ろなる刃を全方位に広げた。
何も持たぬ左手をまっすぐ前に突き出し、今度はこちらが小僧を拘束するべく、闇のワイヤーを放とうとした、その時。
ようやくガブリエルは、空から赤い光が消えていることに気付いた。
そして、まっすぐ頭上に次々に降り注いでくる、無数の流星にも。
夜空の剣を解放したとき、俺は具体的なイメージを何ひとつかたちにすることが出来なかった。
心のなかにはただ、長いこと“黒いやつ”だったこの剣に名前を与えてくれたときの、ユージオの言葉だけが遠い残響となって蘇っていた。
しかし、剣から迸った闇が昼を夜に変え、その名のとおり夜空を作り出し。
夜空に突如流れた無数の星たちが、虹色の光柱となって剣に流れこんできたときに、俺は何が起きたのかを察した。
夜空の剣の力は、広汎な空間からのリソース吸収力である。
そして、この世界における最強のリソースは、決して太陽や大地からシステム的に供給される空間神聖力ではない。人の、心の力だ。祈りの、願いの、希望の力なのだ。
無限に降り注ぎ続けると思われた星光の、最後のひとつが剣に吸い込まれ。
そして、たった二つだけ地上から舞い上がってきた、金色と虹色の星が刃に融けた、その瞬間――。
剣全体が、とてつもない強さで純白に輝いた。
光は、柄から俺の腕へと流れ込み、身体をも満たしていく。さいぜん爆散させられた下半身も、白い光体となって瞬時に再生する。
そして左腕が星光に包まれ、握られた青薔薇の剣もまた眩く煌き――。
「お……おおおおおお!!」
俺は、二本の剣を大きく広げ、叫んだ。
「LLLLLLLLLLLLLLL!!」
眼前で、青薔薇の縛めを破ったガブリエル・ミラーが、同じく奇怪な咆哮を放った。
ガブリエルの姿は、もはや人のものではなくなっている。漆黒の流体金属のように不気味に輝く裸体を青黒いオーラが包み、眼窩から放たれるバイオレットブルーの光は地獄から漏れ出てくるかのようだ。
右手に握る、長大なる虚無の刃を高々と振りかざし、更に同じ刃へと変じた六枚の翼を全方位に伸ばしている。
直後、まっすぐ俺に向けられた左手から、密度のある冷ややかな細線が無数に溢れ、飛びかかってきた。
「……おぉッ!!」
俺は、気合とともに光の壁を放ち、それら全てを弾き返した。
背中から伸びる、輝く翼を一杯に広げ。
左右の剣をぴたりと構え、思い切り空を蹴る。
彼我の距離は僅かなもので、突撃は一瞬にも満たないはずだ。しかし、俺はその時間がどこまでも引き伸ばされるような加速感に包まれる。
俺の右側に、何者かの影が出現した。
黒い美髯を蓄え、長大な刀を帯びた見知らぬ壮年の剣士だ。ぴたりと連れ添う浅黒い肌の女剣士の肩を抱くその男は、俺を見て言った。
『若者よ、殺意を捨てるのだ。あやつの虚ろなる魂は、殺の心意では斬れぬ』
今度は、左側に初老の威丈夫が現れた。白い着流し姿に、鋼色の長剣を佩いている。魁偉な容貌ににやっと太い笑みを浮かべるのは、騎士長ベルクーリだった。
『恐れるな、少年。お前さんの剣には、世界そのものの重さが乗ってるんだぜ』
更に、ベルクーリの隣に、真っ白い素肌に長い銀髪を流した少女が出現する。
最高司祭アドミニストレータは、あの謎めいた銀の瞳と微笑みを俺に向け、囁いた。
『さあ、見せてみなさい。私から受け継いだ、お前の神威なる力のすべてを』
そして最後に、俺のからだに寄り添うように、ローブと学者帽姿の幼い女の子が現れた。茶色の巻き毛が流れる肩に小さな蜘蛛を乗せた、もう一人の最高司祭カーディナル。
『キリトよ、信じるのじゃ。おぬしが愛し、おぬしを愛する、たくさんの人々の心を』
小さな眼鏡のおくで、バーントブラウンの瞳が優しく瞬いた。
そして、彼らの姿は消え――。
最大の敵、ガブリエル・ミラーが最小の間合いに入った。
俺は、いっそうの力に満たされた両腕で、かつて最も修練し、最も頼った二刀剣技を放った。
“スターバースト・ストリーム”。連続十六回攻撃。
「う……おおおおおおお!!」
星の光に満たされた剣が、宙に眩い軌跡を引きながら撃ち出されていく。
同時に、ガブリエルの六翼一刃が、全方位から襲い掛かってくる。
光と虚無が立て続けに激突するたびに、巨大な閃光と爆発が世界を震わせる。
速く。
もっと速く。
「オオオオ――――ッ!!」
俺は咆哮しながら、意識と一体化した肉体をどこまでも加速させ、二刀を振るう。
「NULLLLLLLLLLLLLLL!!」
ガブリエルも絶叫しながら絶空の刃を撃ち返してくる。
十撃。
十一撃。
相討ち、放出されるエネルギーが周囲の空間を灼き、稲妻となって轟く。
十二、
十三撃。
俺の心には、怒りも、憎しみも、殺意もなかった。全身に満ち溢れる、無数の星の――祈りの力だけが俺を動かし、剣を閃かせた。
――この世界の、
十四撃。
――全ての人々の心の輝きを、
十五撃。
――受け取れ!! ガブリエル!!!!
最終十六撃目は、ワンテンポ遅れるフルモーションの左上段斬りだった。
攻撃を視認したガブリエルの蒼い眼が、勝利の確信に嗤った。
まっすぐ放たれた斬撃より一瞬速く、敵の左肩から伸びる黒翼が、俺の左腕を付け根から切り飛ばした。
光に満たされた腕が一瞬で爆散し、空中に青薔薇の剣だけが流れた。
「LLLLLLLL――――――!!!!」
高らかな哄笑とともに、ガブリエルの右手に握られた虚無の剣が、まっすぐ俺の頭上に振り下ろされた。
ぱしっ、
と頼もしい音が響き、俺のものではない白いふたつの手が、宙に漂う青薔薇の剣の柄を握った。
凄まじい炸裂音とともに、無数の星が飛び散り――
青薔薇の剣と、虚無の刃がしっかと切り結ばれた。
剣を握るユージオが、短い髪を揺らして俺を見た。
『さあ――今だよ、キリト!!』
「ありがとう、ユージオ!!」
確かな声で叫び返し。
「う……おおおおお――――!!!!」
俺は、十七撃目となる右上段斬りを、ガブリエル・ミラーの左肩口に渾身の力で叩き込んだ。
漆黒の流体金属を飛び散らせ、深く斬り込んだ剣は、ちょうど心臓の位置まで達して停まった。
瞬間――。
俺とユージオ、夜空の剣と青薔薇の剣を満たす星の光のすべてが、ガブリエルの裡へと奔流となって注ぎ込まれた。
ガブリエル・ミラーは、自身のうちに広がる虚ろなる深淵に、突如圧倒的なまでの正のエネルギーが大瀑布となって流れ落ちてくるのを感じた。
視覚は無数の流光に覆われ、聴覚を多重の音声が次々に通過していく。
――神様、あの人を……
――あの子を、無事に……
――戦を終わらせ……
――愛してるわ……
――世界を……
――世界を、
――世界を、守って……!
「……ハ、ハ、ハ」
心臓を少年の剣に貫かせたまま、ガブリエルは両手と六翼をいっぱいに広げ、哄笑した。
「ハハハ、ハハハハハハ!!」
愚か、愚昧、愚劣極まれり。
私の飢えを、果てなき虚無を、満たそうなどと。
それは所詮、宇宙そのものを人の手で暖めようという不遜な企てに過ぎないと――何故わからぬ!!
「一滴あまさず、呑み干し――喰らい尽くしてくれる!!」
ガブリエルは、両眼と口から蒼い虚無の光をほとばしらせ、叫んだ。
「できるものか! 人の心の力を、ただ恐れ、怯えているだけのお前に!!」
少年が、全身に黄金の波動を漲らせ、叫び返した。
剣が一層強烈に輝き――凍りついた心臓に、さらなる熱と光を叩き込んでくる。
視界が白熱し、聴覚が振り切れる。
それでも尚、ガブリエルは哄笑を放ちつづけた。
「ハハハハハ、ハ――――ハハハハハハ!!!」
俺に懼れは無かった。
敵の裡を満たす虚無はまさに果て無きブラックホールの如きだったが、しかし俺のなかにも、人々の心と祈りが作り出した巨大な銀河が煌々と渦巻いていた。
ガブリエルの眼窩と口腔から屹立するヴァイオレットの光が、徐々にそのスペクトルを変移させはじめた。
紫から赤へ。オレンジへ。イエローを経て――そして、純白へと。
ぴしっ。
とかすかな音が響き、夜空の剣を呑み込む漆黒の流体金属の身体に、ほんの小さな亀裂が走った。
もう一本。さらに、胸から喉へと。
亀裂からも、白い光が溢れ出す。背中の六枚の翼が、根元から白い炎に包まれていく。
哄笑を続ける口元が大きく欠け、肩や胸にも孔が開いた。
四方八方に、鋭い光の柱を伸ばしながらも、ガブリエルは嗤うのをやめようとしない。
「ハハハハハハハハハハアアアアアアアァァァァァァ――――――――」
声はどんどん周波数を上げていき、やがてそれは金属質の高周波でしかなくなり。
虚無の天使の全身が、くまなく白い亀裂に包まれて――。
一瞬、内側へ向けて崩壊、収縮し。
解放され。
恐るべき規模の光の爆発が、螺旋を描いて遥か天まで駆け上った。
「――――――ははははははは!!」
ガブリエル・ミラーは、哄笑しながらがばっと起き上がった。
眼に入ったのは、灰色の金属パネルを張られた壁面だった。日本語の注意書きステッカーが、配線やダクトに幾つも貼られている。
「ははは、は、は…………」
息を荒げて笑いの余波を収めながら、ガブリエルは何度か瞬きを繰り返した。改めて左右を見回す。
間違いなくそこは、オーシャン・タートル第一STL室だった。どうやら、予期せぬ要因により自動ログアウトしてしまったらしい。
何たる興ざめな結末だ。あのまま、無限とも言える魂の集合流を飲み尽くし、ついでに小僧の心も喰ってやろうと思っていたのに。今すぐ再ログインすればまだ間に合うだろうか。
顔をしかめつつ振り向いたガブリエルが見たのは。
STLのシートに横たわり、眼を閉じる長身の白人男性の姿だった。
……誰だ。
と一瞬思った。
襲撃チームにこんな隊員がいただろうか? それよりこいつは、私がダイブするためのマシンで一体何をしている……
そこまで考えてから、ようやく気付く。
これは、この顔は、自分だ。
ガブリエル・ミラーだ。
ならば、それを見おろしているこの私は……いったい、誰なのか?
ガブリエルは両手を持ち上げ、眺めた。そこにあったのは、ぼんやりと半透明に透ける、朧な光のかたまりだった。
何だこれは。何が起きたのだ。
その時――。
背後で、小さな声がした。
「……ようやく、こっちに来てくれたのね、ゲイブ」
さっと振り向く。
立っていたのは、白いブラウスと紺のプリーツスカート姿の、幼い少女だった。
長いふわふわした金髪の頭を深く俯けているため、顔は見えない。しかしガブリエルには、その少女が誰なのか、すぐに解った。
「……アリシア」
つぶやき、口元を綻ばせる。
「なんだ、そんな所にいたのかい、アリー」
アリシア・クリンガーマン。ガブリエル・ミラーが、魂の探求という崇高なる目的のために、はじめて殺した幼馴染の少女。
あの時、確かに見た清らかに輝くアリシアの魂を、捕獲しそこねたことはガブリエルにとって長らく痛恨事となっていた。だが、実は喪われてはいなかったのだ。ちゃんと傍に居てくれたのだ。
ガブリエルは、己を襲った奇妙な現象のことも忘れ、微笑みながら右手を伸ばした。
しゅっ。と凄まじい速さでアリシアの左手が伸び、小さな五指がガブリエルの手をきつく握った。
冷たい。まるで氷のようだ。ちくちくと、冷気が針のように突き刺さってくる。
ガブリエルは反射的に手を引こうとした。しかし、アリシアの左手は万力のごとく微動だにせず、ガブリエルは笑みを消し、眉をしかめた。
「……冷たいよ。手を離してくれ、アリー」
呟くと、金髪が素早く左右に揺り動かされた。
「だめよ、ゲイブ。これからはずっと一緒なんだから。さあ、行きましょう」
「行くって……どこにだい。だめだよ、私にはまだやるべきことがあるんだ」
呟きながら、ガブリエルは渾身の力で手を引っぱった。しかし動かない。それどころか、徐々に下に引っ張られていく。
「離して……はなすんだ、アリシア」
少し厳しい声を出したのと、ほとんど同時に。
さっ、とアリシアが頭を持ち上げた。
丁寧に梳られた前髪の下の顔が、視界に入ったその瞬間――。
ガブリエルは、心臓がきゅうっと縮み上がるような感覚に襲われた。
内臓がせりあがる。息が荒くなる。肌が粟立つ。
何だこれは。この感情は一体何なのだ。
「あ……あ、あ、あ……」
奇妙なうめき声を上げながら、ガブリエルはゆっくり首を左右に振った。
「離せ。やめろ。離せ」
無意識のうちに左手を持ち上げ、アリシアを突き飛ばそうとしたが、しかしその手も即座にがっちりと掴まれてしまう。冷え切った金属のような指が、ぎりぎりと肌に食い込んでくる。
うふふ。
とアリシアがわらった。
「それが恐怖よ、ゲイブ。あなたの知りたがっていた、本物の感情。どう、素敵でしょう?」
恐怖。
これまで探求と実験のために殺してきた人間たちが、いまわの際に一様に浮かべていた表情の源。
しかし、その感覚は、とても心地よいものとは言えなかった。それどころか、とてつもなく不快だった。こんなものは知りたくない。早く終わらせたい。
しかし――。
「だめよ、ゲイブ。これから、ずーっと続くの。あなたは永遠に、恐怖だけを感じ続けるの」
ずるり、と音がして、アリシアの小さな革靴が金属の床に沈みこんだ。
そして、ガブリエルの足も。
「あ……ア……やめろ。はなせ……やめろ」
うわごとのように口走るが、沈降は止まらない。
突然、床から白い腕がずぼっと飛び出し、ガブリエルの脚に巻きついた。もう一本。さらに。もっと。
それらが、これまで手にかけてきた獲物たちの手であることを、ガブリエルは直感的に察した。
恐怖はどこまでも高まっていく。心臓が恐ろしい速さで脈打ち、額を脂汗が流れる。
「やめろ……やめろ、やめろやめろやめろ――――――ッ!!」
ガブリエルはついに絶叫した。
「来てくれ、クリッター! 起きろヴァサゴ!! ハンス!! ブリッグ!!」
部下を呼んだが、しかしすぐ目の前にあるドアはしんと沈黙したままだ。隣のSTLに横たわるはずのヴァサゴも、起き上がる気配は無い。
いつしか、身体は腰までも床に飲み込まれている。両手を引っ張るアリシアは、もう肩までしか見えていない。
その“顔”が、完全に没する寸前、大きく笑った。
「あ……あああ……うわあああああ――――――――ッ!!」
ガブリエルは悲鳴を上げた。
何度も。何度も。
肩に、首に、そして顔に白い手たちが巻きつく。
「ああああ……ぁぁぁ…………ぁ………………」
とぷん、と音がして、視界が闇に沈んだ。
ガブリエル・ミラーは、己を待ち受ける運命を悟り、未来永劫放ち続けることになる悲鳴をいっそう甲高く迸らせた。
そして――。
アンダーワールドの時間流が、再びその速度を増しはじめた。
同期信号が途切れた瞬間、アミュスフィアを用いてダイブしていた数百人の日本人たちは自動切断され、それぞれの部屋やネットカフェのブースで、それぞれの感慨に熱く胸を浸しながら目覚めた。
彼らは皆、しばらく無言のまま、異世界で体験したことを噛み締め、考え、心に刻んでいたが、やがて目尻に滲んだ涙を拭うと、改めて携帯端末やアミュスフィアを操作した。先の戦闘で倒れ、ログアウトした友人たちに、すべてをありのまま伝えるために。
シノンとリーファは、再加速の寸前に、天命喪失によりアンダーワールドを去った。
ラース六本木分室のSTLで覚醒した二人は、なおも神経に漂いつづける痛みの余韻が薄れるのを待ちながら、瞳を見交わし、ふかく頷きあった。
シノンも、リーファも、キリトが蘇り、敵を倒し、世界を救って、もうすぐこの世界に戻ってくることを疑っていなかった。
次に会った、その時こそは――。
たとえ届かなくても、ちゃんと気持ちを言葉にしよう。
二人はそう心を決め、それを互いに悟って、小さく微笑んだ。
――しかし。
リミッターを完全解除されたSTRAシステムは、アンダーワールドに流れる時の鼓動を、これまでを遥か上回る領域にまで加速しようとしていた。
千倍を超え。五千倍を超え。
限界加速フェーズの名で呼ばれる、現実比五百万倍という時間の壁の彼方を目指して。
俺は、星の光が消え去った身体を宙に横たえ、背中の翼を力なく羽ばたかせた。
斬り飛ばされ、消滅したはずの左腕はいつの間にか再生していた。その手のなかの青薔薇の剣を、残された力で懸命に握りしめながら、俺は滲もうとする涙をこらえた。
剣のなかに焼きつき、これまで何度も俺を救い、励ましてくれたユージオの魂が、あの瞬間――ガブリエルの刃を揺るぎなく受け止めてくれた刹那に、ついに全て燃え尽きてしまったことを俺は悟っていた。
死者は還らない。
だから思い出は貴く、美しい。
「……そうだよな、ユージオ……」
呟いたが、応えはなかった。
俺はゆっくりと両手の剣を持ち上げ、背中の鞘に収めた。
直後、頭上の夜空が、その色を薄れさせはじめた。
闇が溶け、流れ、その彼方の光を甦らせていく。
……青。
ふたたび現れたダークテリトリーの空は、しかし、あの血の色ではなかった。
澄み切った青だけが、どこまでも広がっていた。
ついに開始された“限界加速フェーズ”の影響によるものなのか、それとも十数万の人々の祈りがもたらした奇跡なのかは定かではない。
どのような理由であるにせよ、透明感のある蒼穹は泣きたいほどに美しかった。俺は、郷愁と感傷が強く揺り起こされるのを感じながら、その青を胸いっぱいに吸い込んだ。
まぶたを閉じ、長く息を吐き、そっと身体の向きを変える。
開いた眼にうつったのは、下方から音も無く崩壊していく白亜の階段だった。
翼を広げ、溶け崩れる階段を追うように、ゆっくり降下する。目指すのは、空に浮かぶ小さな島。
円形の浮島には、溢れんばかりに色とりどりの花が咲き乱れていた。その花畑を貫いて白い石畳が伸び、中央の神殿めいた構造物へと続いている。
俺は、石畳の中ほどに着地し、翼をもとのコートの裾へと戻しながら周囲を見回した。
甘く、爽やかな蜜の香りが鼻をくすぐる。瑠璃色の小さな蝶が何匹もひらひらと舞い、幾つか生えている小さな樹のこずえでは小鳥が囀る。抜けるような青空と、穏やかな陽光のもとで、その光景はとてつもなく美しかった。まるで一幅の名画のようだった。
そして、無人だった。
小路の上にも、その先の、円柱が立ち並ぶ神殿にも、人の姿は無かった。
「……よかった。間に合ったんだな」
ぽつりと呟く。
ガブリエル・ミラーが光の螺旋に飲み込まれて消滅した直後、STRAによる加速が再開されたのを俺は感覚で知った。アスナとアリスが、無事にコンソールから脱出できたかどうかは微妙なタイミングだった。しかし、二人はあの長大な階段を時間内に駆け抜け、辿り着いたのだ。
アリス――この世界が生まれた理由そのものたるひとつの魂、限界突破フラクトライトたるあの少女は、ついに現実世界へと旅立った。
これからも、彼女には多くの苦難が待っているだろう。まったく理を異にする世界、不自由な機械の身体、そして真正人工知能を軍事利用しようとする企図とも彼女は戦わねばならない。
しかし、アリスならやり遂げるだろう。彼女は、最強の騎士なのだから。
「……がんばれよ…………」
俺は、空を振り仰ぎ、もう二度と会えない黄金の整合騎士のために祈った。
そう――。
限界加速フェーズが開始された今、俺が内部から自発的にログアウトする手段は完全に失われた。世界に三つあるシステムコンソールはすべて凍結され、また天命を全損しても、無感覚の暗闇のなかでフェーズ終了を待たねばならない。
いま、外部では菊岡たちラーススタッフが、俺のSTLを停止させるために奮闘しているはずだが、それも最短であと二十分はかかるということだった。
そのあいだに、この世界では二百年もの月日が経過する。
魂の寿命を使い果たし意識消失へと至るのか、それとも五百万倍という加速に長時間耐えられずもっと早い段階で消えるのかはわからない。
唯一確かなのは、俺はもう現実世界に戻ることはない、ということだ。
両親や、直葉。シノン。クライン、エギル、リズ、シリカ。
学校の友人たちや、ALOのフレンドプレイヤーたち。
アリス。
そして、アスナ。
愛する人たちに、もう決して会うことはできない。
白い敷石のうえに、俺はゆっくり膝を突いた。
崩れる上体を、両手で支えた。
視界がぼやけ、きらきらと光が揺れて、磨かれた大理石に落ちて弾けた。いくつも。何度も。
今だけは――たぶん、少しだけ泣く権利はあるだろう。
喪われ、二度と還らない、大切なものたちのために、俺は泣いた。食いしばった歯のあいだから嗚咽を漏らし、涙を次々と雫に変えた。
ぽた、ぽたぽた。
水滴が石を叩く音だけが、耳に届く。
ぽた。
ぽた。
――こつ。
こつ、こつ。
不意に、確かな密度を持つ音が、重なって響いた。
こつ、こつ。近づいてくる。かすかな震動が指先に伝わる。
空気が揺れる。濃密な花々の芳香に、ほのかに新しい香りがたなびく。
こつ。
……こつ。
すぐ目の前で、音が止まる。
そして、誰かが、俺の名を呼んだ。
神代凜子は、サブコントロール室の操作席に腰掛け、コンソールの正面やや左に設けられた小さなガラスのハッチを息を飲んで見つめた。
ハッチ上部の液晶窓には、『EJECTING. . . 』という赤い文字が点滅している。
圧縮空気が抜ける音が、低く耳を打つ。
やがて、窓の向こうに、小さな黒い四角形が姿を現した。液晶が緑に変わり、『FINISHED』の表示が輝いた。
凜子は震える手を伸ばし、ガラスハッチを開け、それを取り出した。
堅牢そうな金属のパッケージだ。一辺六センチほどの立方体。ずしりと重い。継ぎ目無く密閉された面のひとつに、超微細なコネクタが設けられている。
このなかに――“アリス”の魂が眠っている。
オーシャンタートル基部に設けられた巨大なライトキューブクラスターから、システム命令に従ってたった一つの結晶キューブがイジェクトされ、自動的に金属パッケージに封入されたのちに長いエアラインを押し上げられてここまで到達したのだ。
それは同時に、アンダーワールドという内的世界から、リアルワールドという外部世界への旅でもある。
凛子は一瞬、言い知れぬ厳かな感慨に打たれて言葉を失ったが、すぐに我に返るとパッケージを握り締めたまま叫んだ。
「アスナさん、アリスのイジェクト完了したわ! あとはあなたよ、急いで!!」
ちらりと、真紅に染まる主モニタのカウントダウンを見やる。
「残り三十秒しかない!! 早く……ログアウトを!!」
一瞬の沈黙。
続いて、スピーカから返ってきたのは――予想だにしない言葉だった。
「ごめんなさい、凛子さん」
「え……? な、何を……?」
「ごめんなさい。わたしは……残ります。今までほんとうに有難うございました。凜子さんのしてくださったこと、決して忘れません」
スピーカから響く結城明日奈の声は、穏やかで、優しく、そして静かな決意に満ちていた。
「アリスをお願いしますね。アリスは、優しい人です。とても大きな愛を持ってるし、沢山の人に愛されています。アリスのために消えていった魂たちのためにも……そして、キリトくんのためにも、絶対に軍事利用なんかさせないでください」
言葉を失った凜子の耳に、明日奈のさいごの言葉が届いた。
「みんなにも、伝えてください。ごめんね、って……。さようなら……ありがとう」
直後、カウントがゼロに達した。
長いサイレンの音に続いて、重々しい機械の唸りが狭いケーブルダクトに反響した。
壁のむこうの冷却システムがフル稼働を開始したのだ。アンダーワールドを支えるシステム群が放つ膨大な廃熱を、幾つもの大型ファンが懸命に吸い出している。いまオーシャンタートルを海から眺めれば、ピラミッドの天辺付近にかすかに陽炎が揺れているのが見えるだろう。
「…………はじまった……」
比嘉タケルは、低く呟いた。
「ああ」
短く応えたのは、比嘉を背負って細いハシゴを降りている菊岡誠二郎だ。
二人は、限界加速フェーズ突入が避けられないと判断した時点で即座に準備し、ダクトに潜り込んだのだが、負傷した比嘉の体をハーネスで固定する作業などに八分を費やしてしまった。
菊岡は、噴き出た汗が滴るほどの勢いでハシゴを降り続けたものの、耐圧隔壁に到達する前についに加速が再開してしまったのだ。
祈るような気持ちで比嘉はインカムのスイッチをいれ、サブコントロールの神代博士に呼びかけた。
「凛子さん……どうなりましたか」
ノイズに続き、回線接続音がしたものの、届いたのは重い沈黙だった。
「……凜子さん?」
「……ごめんなさい。アリスは、無事に確保できたわ。ただ……」
押し殺すような声で、神代博士はその先を告げた。
比嘉は息を飲み、ついでぎゅっと眼をつぶった。
「……わかりました。こちらも、全力を尽くします。ハッチ開放タイミングは、追って連絡します」
回線を切り、比嘉は詰めていた呼吸を長く吐き出した。
状況を察したのだろう、菊岡は訊いてこなかった。ただ、筋肉質の背中を懸命に躍動させ続けている。
「……菊さん……」
数秒後、比嘉はようやく囁き声を絞りだし、指揮官に神代博士の言葉を伝えた。
クリッターは、メインモニタに新たに開いたウインドウと、そこに並ぶアルファベットを呆然と眺めた。
クラスターからライトキューブが一つ排出され、耐圧隔壁のむこうのサブコントロール室へ運ばれたことを、短い文字列が教えている。
それはつまり、アリスがK組織に確保された、ということだ。
言い換えれば、アンダーワールド内部からアリスを発見・奪取しよう、という十時間以上にも及んだ作戦が完全に失敗したわけだ。ヴァサゴとミラー中尉がダイブし、暗黒界の軍勢を率いて人界に侵攻して、ハリウッド映画じみた派手な戦争を繰り広げ、さらにはアメリカ人と中国、韓国人あわせて十万人近くを騙して戦わせた努力すべてが水の泡となった。
坊主頭をがりがりと掻き、クリッターはひとつ鼻を鳴らしただけで思考を切り替えた。
残された五時間ちょっとで、物理的にアリスを再奪取できる可能性はあるだろうか?
耐圧隔壁をこちら側から破壊する方法は無い。ただ、先ほどのように上から隔壁が開放されれば話は別だ。
そもそも、さっきハッチが開いたのは何だったんだ。あんなロボットにスモークグレネードを載せただけで、こっちをどうにか出来るなどとほんとうに考えたのか?
あれが、もし陽動だったとしたら? 隔壁開放の目的が、ほかにあったのだとすればそれは一体何だ?
クリッターは振り向き、隊員たちに声をかけた。
「おい、誰かオーシャンタートルの設計図持ってきてくれー」
すると、ブリッグとさっきの賭けが成立したのしないのの言い争いを続けていたハンスが、こちらを見ないままラミネート加工された紙綴りを放ってきた。やれやれと首を振り、クリッターは受け取った設計図を捲った。
「えーと……? これがメインシャフトで……隔壁がここを横切ってて……ロボットが突っ込んできた階段がこれだろー……」
そのとき、モニタに表示されていたカウントダウンがゼロになり、部屋全体に低い機械音が響いた。時間加速が再開したのだ。しかも、ブリッグの馬鹿が制御レバーを破壊してしまったせいで、倍率がとんでもないことになっている。
しかしもう、アンダーワールドがどうなろうと関係ない。作戦が失敗したということはイコール、ヴァサゴもミラー中尉もダイブ中に“死亡”したのだろうから、今ごろ隣の部屋でログアウト処理が進んでいるはずだ。
今は、ミラー中尉が戻ってくるまえに、次の作戦オプションを見つけておくのが先決だろう。
クリッターは、薄暗い照明の下で懸命に地図を睨み、そしてついに気付いた。
「お、ここにも小さいハッチがあるぞー……なんだこりゃ、ケーブルダクト……?」
比嘉タケルに状況を伝え終えた凜子は、長く沈痛なため息とともにシートに背を預けた。
時間内の脱出が確実に不可能となった桐ヶ谷和人のために、自身もアンダーワールドに残ろうという結城明日奈の決意は、あまりにも若く、直情的で、そして――貴いまでに美しかった。
凜子はどうしても思い出さざるを得ない。
かつて愛した男が、彼女を現実世界に置き去りにして遥かな異世界に消えてしまったことを。
もしあの時、共に往く機会を与えられていたら、自分はどうしただろうか。彼と同じように、一方通行のプロトタイプSTLで脳を焼き尽くし、意識のコピーのみを残す道を選べただろうか。
「晶彦さん……あなたは…………」
眼を閉じ、声ならぬ声でつぶやく。
浮遊城アインクラッドと、そこに閉じ込められた五万のプレイヤーたちによる“本物の異世界”を創り出すことだけが当初は彼の望みだったはずだ。
しかし、二年間に及んだ浮遊城での日々において、彼は何かを見、何かを知った。その何かが彼の考えを変えた。
もっと、もっと先がある、と。
SAO世界は終着点ではなく、始まりでしかないのだと彼は気付いた。だからこそ、長野の原生林に囲まれた山荘で、彼はナーヴギアの信号入出力素子の高密度化を進め、やがて自身を殺すことになる試作機を完成させた。
その基礎資料を託された凜子が、医療用高精度NERDLESマシンたるメディキュボイドを開発し。
メディキュボイドに数年間も連続接続しつづけた一人の少女によって提供された、膨大なまでのデータを基にラースと比嘉タケルがSTLを完成させた。
つまり考えようによっては、アンダーワールドという究極の異世界は、彼――茅場晶彦の意思を礎として生まれたのだと言い切れる。
ならば、アンダーワールドの完成をもって、茅場の望みはその到達点に至ったということなのか?
いや、違うはずだ。
なぜなら、彼が残したもうひとつの種子、“ザ・シード”パッケージというピースがパズルのどこに収まるのかがまだ解らない。
確かに、ザ・シード規格のVRMMOがスタンダード化していたからこそ、先刻の外部勢力によるアンダーワールド襲撃に、日本人プレイヤーたちのアカウント・コンバートによって対抗できたのだと言える。
だがまさか、さしもの茅場もあの事態を数年前に予想していたわけではあるまい。コンバート機能によるアンダーワールドへのダイブは、あくまで副次的産物であったはずだ。
であれば、一体何が目的なのか……全世界のVRワールドを、共通規格のもとに相互連結することが、なぜ必要だったのか……。
「……せ。神代博士」
背後から呼びかけられ、凜子ははっと瞼を開けた。
振り向くと、剛毅な容貌の中西一尉が、素早い敬礼とともに報告した。
「隔壁再開放への対応準備、完了いたしました。いつでもどうぞ」
「あ……は、はい。どうもありがとう」
さっとモニタの時刻表示を確認する。限界加速フェーズに突入してから、すでに一分が過ぎている。内部時間では……十年。
信じられない。桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂年齢は、もう凜子のそれをも超えてしまっている。
早く……一分一秒でも早くログアウトさせなければ。もし、魂寿命すべてを使い尽くす前に脱出できさえすれば、限界加速フェーズが開始されて以降の記憶すべてをリセットすることは可能だ。しかし、そのための猶予時間は、理論上ではあと約十二分足らずしかない。
比嘉君……菊岡さん。
急いで!!
凜子はきつく唇を噛み、念じた。
菊岡二佐の喉から吐き出される呼吸音は、もう壊れかけの送風機のようだ。滝のような汗がシャツを変色させ、比嘉の服をもぐっしょりと濡らしている。
比嘉は、ここからは自力で降ります、という台詞を何度も飲み込んだ。
柳井の放った銃弾に撃ち抜かれた右肩は、鎮痛剤を限界量まで飲んでいるにも関わらず鈍く疼き、大量に失血した体は鉛のように重苦しい。とても自力でステップを掴むことなどできそうもない。
それにしても――、と、比嘉は思う。
この事態に際し、菊岡二佐がここまで必死になるとは、正直意外と思わざるを得ない。
アリシゼーション計画の精髄たる限界突破フラクトライト“アリス”は、すでに確保されたのだ。あとは、アリスを構造解析し、従来のフラクトライトとの差異をつきとめれば、真正ボトムアップAIの量産にめどがつく。きたる無人兵器時代に、日本独自の技術基盤を打ち立て、アメリカ軍産システムによる支配から脱するというラースの設立目的がついに達成されるのだ。
それこそが、菊岡誠二郎という人間の悲願であるはずだ。
総務省に出向してまでSAO事件に首を突っ込んだのも、自らキャラクターを作ってまで若いVRMMOプレイヤーたちとの交流を続けたのも、すべてはそのためだ。
だから、菊岡の行動優先順位から言えば、いまは耐圧隔壁をガンとして閉め切り、イージス艦の突入時刻までアリスのライトキューブを死守する、という選択をしそうなものだ。
たとえそれで、アンダーワールドに取り残された桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂が崩壊しようとも。それに激しく反対するであろう神代博士を、船室に軟禁することも辞さず。
「……意外、だなあ……と、思ってる……かい」
突然菊岡二佐が、荒い息の下からそう声を発し、比嘉はウヒッと妙な音を漏らした。
「いっ、いえ、そのぉ……ま、その、キャラじゃないなーと、いう気はするッスけど……」
「まっ……たくだ」
菊岡は、残りわずかとなったハシゴを全力で降下しながら、ぜいぜいと喉を鳴らして短く笑った。
「しかし……言って、おくがね。これも……打算、あっての、行動……さ」
「へ……へぇ」
「僕は……常に、最悪を、考える、主義でね。今は……敵に、まだ、アリス……再奪取の、可能性があると、思わせておいたほうがいい」
「さ、最悪……ッスか」
敵がこのケーブルダクトに気付き、耐圧隔壁開放中に下から突っ込んでくる以上の最悪が、果たしてあるだろうか。
しかし、比嘉がその推測を進めるまえに、ついに菊岡のコンバットブーツの底が、チタン合金のハッチにぶつかった。
動きを止め、激しい呼吸を繰り返す指揮官に代わって、比嘉はインカムの通話スイッチを押した。
「凜子さん、到着しました! 隔壁ロック、解除してください!!」
「うおっ……マジに、開けやがったー!」
クリッターは、メインモニタに表示された耐圧隔壁開放警告を見上げ、叫んだ。
いったい何故。なんのために。
どう考えても間尺に合わない。アリスを確保した今、K組織がわざわざ防御をゆるめるどんな理由があるというのだ。
しかし、今はあれこれ考えている時間はない。クリッターは背後を振り返り、長い腕を振り回して隊員たちに喚いた。
「えーっと、あー、ブリッグだけ残して、ハンス以下全員は主通路に突入してくれー! 撃ちまくって、隔壁の向こうを確保するんだー!」
「簡単に言ってくれるわね……」
ハンスがちっちっと舌を鳴らしながらも、ライフルを担ぎ上げた。十数名の隊員たちも続く。
「お……おいおい、俺はどうすりゃいいんだ」
不服そうに唇を尖らせるブリッグの髭面に向けて、クリッターはぱちんと指を鳴らした。
「ちゃーんと仕事はあるってー。アンタの腕にふさわしい、重要な任務がさー」
無論内心ではまったく別のことを考えている。このアホウからは、なるべく眼を離さないほうがいい。
「いいかー、俺とアンタは、こっちのケーブルダクトを見にいく。どうやらコイツが敵の本命だと、俺は睨んでるんだよねー」
「お……おう、そうか。そうこなくっちゃな」
ニンマリと笑い、大げさな仕草でアサルトライフルのマガジンを確認するブリッグの背中を、クリッターはため息を隠して叩いた。
ハンスたちに続いてメインコントロールのドアをくぐり、別方向に駆け出す寸前、クリッターはちらりと奥の扉――第一STL室を見やった。
そう言えば、やけにログアウトに時間がかかってないか? ヴァサゴの奴、まさかノンビリ煙草でも吸ってるんじゃないだろうな。
一応確認するべきか、と思ったが、すでにブリッグがどかどか走り出してしまっている。
再びため息を飲み込み、クリッターも後を追った。
ほんの数十秒で、目標地点まで辿り着く。一見、ただ通路が行き止まっているだけだ。しかし地図によれば、眼前の小さなハッチの向こうに、シャフト上部とメインフレームを繋ぐケーブルダクトが設けられているはずだ。
回転式の開閉ハンドルを、汗ばむ手で握り、まわす。
重い金属扉を引きあけたクリッターがまず眼にしたものは、暗いオレンジの光に照らされたごく狭いトンネルだった。正面の壁に、垂直にのぼるステップが設けられている。
次に、何気なく足元を見下ろして――。
「……ウオァ!?」
拉げた声とともに、クリッターは飛び退った。
そこに、身体をUの字に折りたたむようにして、男が一人すっぽりと嵌まりこんでいたからだ。背後で、ブリッグががしゃっとライフルを構える。が、すぐに、押し殺した声で指摘する。
「……死んでるぜ」
確かに、横顔を向ける男の頚椎は、不自然な角度に曲がっている。最大級のしかめ面を作りながら、クリッターは男の顔を覗き込み、数回まばたきした。
「あれっ……こいつ、アレじゃねーかー。K組織の情報提供者……どうなってんだ、スパイだってバレたのかぁ……? でも、だからってこんな殺し方ー……」
おそるおそる指先で男の肌に触れると、ひんやりじっとりした感触が伝わってくる。温度からして、死んだのは恐らく最初の隔壁開放時だ。つまり一度目は、この男がロウワーシャフトに脱出しようとして行ったものなのか? そして、ハシゴを踏み外して墜落死した?
しかし、とすればなぜ隔壁は再び開かれたのか。
クリッターは、ブリッグに向き直り、言った。
「一応、ダクトの上がどうなってるか、確認してみてくれー」
髭面の巨漢はふんと鼻を鳴らし、右手を伸ばすと、無造作にスパイの死体を通路に引っ張り出した。ライフルを構えながら、ずいっと上体を暗いトンネルに突っ込み――。
おいおい、頭から入るなよ、とクリッターが考えかけたその瞬間。
「ダムン!!」
叫ぶと同時に、いきなり発砲した。
黄色い閃光がクリッターの網膜に弾け、音調の異なる二種の射撃音が鼓膜を叩いた。
悲鳴を飲み込んで飛びすさった目の前で、ブリッグの巨体が、見えないハンマーに打ちのめされたかのように床に叩き付けられた。
「うおっ!! 何だよ、くそっ!!」
クリッターは喚き、尻餅をついてさらに後ずさった。ブリッグは、ついさっきまでスパイの死骸が収まっていた場所に上体をつっこみ、ぴくりとも動かない。格好だけでなく、運命も同じ道をたどったのは明らかすぎるほどに明らかだ。
――さて。どうしたものか。
冷や汗を滝のように流しながらクリッターは考えた。
ブリッグの右手からライフルを回収し、トンネル内の敵と果敢に撃ち合って仇を取る? まさか! 俺はただのコンピュータ・オタクで、仕事は考えることとキーボードを叩くことだけだ。
ずりずりと尻を擦り、メインコントロール室を目指して退避しながら、さらに思考を続ける。
少なくとも、これでK組織に積極的な攻撃の意図があることだけはわかった。しかし、戦力では明らかにこちらが優っているのだ。戦えば、向こうにも当然犠牲は出よう。ヘタをすれば、アッパーシャフト全てを占領され、アリスを再奪取されかねないではないか。
それ以上の“最悪”があると、K組織の指揮官は考えているのか? こちらに、オーシャンタートルを丸ごと吹っ飛ばすほどの火力があるとでも思っている? まさか、手持ちのC4では耐圧ハッチ一枚吹っ飛ばせないのに……。
火力…………。
不意に、クリッターは鋭く空気を吸い込んだ。通路の先に転がる二つの死体も、意識から消えた。
ある。
オーシャン・タートルを丸ごと破壊し、アリスとK組織をもろとも海の藻屑に変える方法が。たった一つだけ。
確かに、アリスの奪取が不可能と判断した場合は、少なくとも完全に破壊せよというのがクライアントから与えられた命令だ。しかし、そのためにこの巨大な自走メガフロートと、数十人の乗員をもろとも道連れにするなどということが許されるのだろうか。
そんな恐ろしい決断を、自分に下せるわけがない。一生悪夢に悩まされること必定だ。
クリッターは立ち上がり、指揮官の判断をあおぐべく、走った。
「き……菊さん! 大丈夫っすか、菊さん!!」
押し殺した声で、比嘉は尋ねた。ダクト最下部のハッチから出現した敵は、少なくとも三発はライフルをぶっぱなしたはずだ。
返事は、なかった。比嘉を背負い、右手にステップを、左手に拳銃を握る菊岡二佐は、肩を壁面に押し当てるようにして力なく項垂れている。
うそだろ、おい、やめてくれ。あんたはまだまだ必要な人間なんだ。
「き……」
菊岡サァァァァァァン!!
と、叫ぼうとしたその時、二佐が激しく咳き込んだ。
「げほっ……うえぇ、いや……参った。防弾ベスト着てきて正解だったと、今思っている……」
「あ……当たり前っすよ! 本気でアロハのまま来るつもりだったんスか……」
はああ、と安堵の息を吐きながら、再び怪我の有無を問い質す。
「うん、一発ベストに当たっただけのようだ。それより、君こそ無事か。やたらと跳弾したようだが」
「え……ええ。身体も、端末も無傷っス」
「なら、急ごう。コネクタはもうすぐそこだ」
再び降下をはじめた菊岡の背に揺られながら、比嘉はふたたび意外だ、と内心で呟いた。
菊岡二佐は、てっきり肉体的技能は苦手な人なのだろうとこれまで思っていたのだが、広い背中にうねる筋肉は鋼のようだし、それにさっきの射撃。ハシゴにぶら下がり、左手一本で真下を狙うという悪条件にも関わらず、ダブルタップで連射した二発が敵のノドと額を正確に撃ち抜いたのだ。
まったく、どれだけ付き合おうと底の割れないオッサンだ。
小さく首を振り、比嘉は視界に入ってきた点検コネクタに繋ぐためのケーブルを、右手で準備した。
通路を駆け戻ったクリッターは、上方から響いてくるライフルの連射音を聞きながら、メインコントロール室に走りこんだ。
部屋に、ミラー中尉とヴァサゴの姿はない。まだSTLから出ていないのだろうか。すでに、時間加速が再開してから五分以上が経っているというのに。
思いついたアイデアを、彼らに説明したものかどうか、クリッターはまだ迷っていた。聞けば、二人は即座に実行の命令を出すだろうという確信があったからだ。彼らは、目的遂行のために無関係な犠牲者が何人出ようと気にするような人間ではない。
結論を出せぬまま、クリッターは勢いよく第一STL室のドアを押し開いた。
「隊長! アリスが、敵に…………」
続くべき言葉は、軋るような音に変わって喉の奥に引っかかった。
手前側、一番STLのシートベッドに横たわり、額から上を巨大なマシンに飲み込まれたミラー中尉の顔には、これまで一度も見せたことのない表情が浮かんでいた。
いや、クリッターは、そのような表情を、いままでどんな人間の顔にも見たことはなかった。
青い両眼が、ほとんど飛び出す寸前にまで見開かれている。口は、顎関節が外れてしまったかのごとく限界まで広げられ、しかも斜めに歪んでいる。突き出た舌が奇怪な角度で折れ曲がり、まるで別の生き物のようだ。
「た……隊……長……?」
喘ぎながら、クリッターはがくがく膝を震わせた。いま、ミラー中尉の突出しかけた眼が動いたら、自分は悲鳴を上げてしまうだろうという確信があった。
奥歯を小刻みに鳴らしながら、おそるおそる手を伸ばし、まるで何かを防ごうとするように掲げられた中尉の左手首を、そっとつまむ。
脈は、なかった。
そして肌は氷のように冷たかった。強襲チーム指揮官ガブリエル・ミラー中尉は、身体に何の傷もないのに、完全に絶命していた。
胃からこみあげてくるものを必死に押し戻し、クリッターはかすれ声で叫んだ。
「ヴァサゴ……早く起きろ! 隊長が……し、死……」
脚を引き摺るように一番STLを回り込み、その奥の二号機のシートに視線を振る。
今度こそ、クリッターは本物の悲鳴を上げた。
副隊長ヴァサゴ・カザルスは、一見おだやかに眠っていた。瞼の閉じた顔に表情は無く、両手もまっすぐ身体の横に伸びている。
しかし――。
あれほど艶やかな黒に輝いていた、波打つ長髪が。
いまは、百歳を超えた老人のような、乾いた白髪ばかりに変じていた。
もうヴァサゴの脈を確認する気も起こらず、クリッターは言うことを聞かない膝をかくかく震わせて後ずさった。一刻もはやくこの部屋を出ないと自分も二人と同じ目に合うと、理性とコードのみを信奉するハッカーであるはずのクリッターは、本気で信じた。
開けっぱなしの入り口から後ろ向きに転がり出て、右足で思い切りドアを閉める。
そこでようやく深く息をつき、クリッターは懸命に思考を立てなおした。
隊長とヴァサゴに何が起きたのかを調べるすべは無いし、知りたくもない。推測できるのは、アンダーワールドで何かがあり、その結果二人の魂は、現実の肉体を道連れに破壊されてしまったのだろうということくらいだ。
つまるところ、作戦は失敗したのだ。指揮官が死んでしまった以上、船ごとアリスを破壊するかどうかの判断も下せない。これ以上、この場に留まる意味はない。
クリッターは、コンソールから通信機を掴み上げ、掠れた声を押し出した。
「ハンス……戻ってくれ。ブリッグと、ヴァサゴと、隊長が死んだ」
数十秒後、コントロール室に走りこんできたチーム一の伊達者の顔には、ぎらつくナイフのような異様な表情が浮かんでいた。
「ブリッグが死んだですって!? なぜ!?」
「け……ケーブルダクトで、上から撃たれて……」
それを聞くやいなや、ライフルを構えなおして走り出そうとするハンスを、クリッターは必死に止めた。
「やめろ! 敵の攻撃は陽動だ――。もう、戦う意味はない……」
ハンスはしばらく無言だった。やがて、凄まじい音をさせて壁をなぐりつけると、くるりと振り向いて足早に歩み寄ってきた。
「……いえ、まだ命令は残っているはずよ。奪えないなら、破壊すべし。アンタ、何かアイデアくらいあるんでしょ」
綺麗に整えられた揉み上げを震わせ、問い詰めてくるハンスに呑まれ、クリッターはかすかに頷いた。
「あ……ああ、無くもないが――……いや、ダメだ――。隊長なしに、下せる判断じゃない」
「言うのよ。言いなさい!!」
突然ハンスが、アサルトライフルの青光りする銃口をぐいっとクリッターに突きつけた。ブリッグとコンビを組み、中東や南米の戦場を渡り歩いてきた傭兵の眼にうかぶ剣呑な光は、クリッターに抗えるものではなかった。
「え……エンジンだ――」
「エンジン? この船の?」
「そうだ……。このドでかい船の主機は、原子炉なんだ……」
十分経過。
神代凜子は、わななく両手を強く握り締めながら、無情に刻まれていくデジタル数字を凝視した。
限界フェーズ突入以降、アンダーワールド内で過ぎ去った年月は――実に、百年。
その膨大な時間を、桐ヶ谷和人と結城明日奈がどのように体感したのかは、もう遥か想像の埒外だった。一つだけ確実なのは、ふたりのフラクトライトの記憶保持容量がいよいよ限界に近づきつつあるということだ。
比嘉の予測によれば、人間の魂は、おおよそ百五十年ぶんの記憶を蓄積した時点で正常な動作ができなくなり、崩壊がはじまる。むろん、実験で確認された話ではない。実際の限界はもっと先かもしれないし――あるいは、ずっと早いかもしれない。
いまはただ、魂が自壊してしまうより早く、ログアウト処理が完了することを祈るのみだ。それさえクリアできれば、まだもとの二人に戻れる望みは残る。
比嘉くん……菊岡さん。お願い。
祈る凜子は、階下からかすかに響いていた銃撃音がいつしか途切れたことに気付かなかった。それを教えたのは、サブコントロールに駆け戻ってきた中西一尉だった。
「博士! 敵が撤退を開始しました!」
「て……撤退!?」
顔をあげ、唖然と繰り返す。
なぜこのタイミングで。耐圧隔壁が再開放中のいまは、襲撃者たちにとってアリス確保の最後のチャンスではないか。諦めるにしても早い。イージス艦が突入してくるまで、まだ四時間以上も残っている。
凜子は、キーボードに指を走らせて艦内各所の状況を知らせるステータスウインドウを呼び出しながら、一尉に尋ねた。
「戦闘で……怪我人は出ましたか?」
「は……軽傷二名、重傷一名、治療中ですが命に別状ないと思われます」
「そう……ですか」
詰めていた息を、わずかに吐く。ちらりと視線を向ければ、剛毅なラインを描く一尉の頬骨のあたりに大きなパッチが貼られ、薄く血が滲んでいるのに気付く。軽傷者のうちに、彼自身も入っているのだろう。
彼らの奮戦を無駄にしないためにも、二人の若者たちを必ず救出しなくては。
少なくとも、敵が撤退を開始したというのはいいニュースだ。ステータス窓を視線で追い、凜子はたしかに艦底水中ドックが開扉中なのを確認した。
「ええ、再び潜水艇で脱出するようですね……。それにしても……やけに慌しく……」
眉をしかめ、唇を軽く噛んだ、その時だった。
これまでとは異質な震動が、メインシャフト全体を揺るがした。
ひゅううーん、という木枯らしのような唸りが巨大なメガフロートを突き抜ける。卓上のボールペンが転がり、床へと落ちる。
「な……何!? 何がおきたの!?」
「これは……ああっ……まさか、奴ら……!!」
中西一尉が低い声で呻いた。
「この震動は、主機の全力運転によるものです、博士!!」
「しゅ……き?」
「メインエンジン……つまり、シャフト基部の、加圧水型原子炉です……」
愕然と目を見開く凜子にかわり、コンソールに飛びついた一尉が、不慣れな手つきでステータスウインドウに更なる操作を加えた。次々と新たな窓が開き、うち一つに不鮮明な映像が浮かび上がる。
「くそっ!! 制御棒が、全部下がっている!! 連中、何てマネを!!」
だん! とコンソールを叩く一尉に、凜子はかすれ声で訊いた。
「でも、安全装置くらい、あるんでしょ……?」
「無論です。炉心が臨界状態に達する前に、自動的に制御棒が突入し、核分裂は停止します。ただ……ここ、これを見てください」
一尉の指が、モニタに浮かぶ原子炉格納室のリアルタイム映像の一部を示した。赤に光に紛れてわかりにくいが、どっしりした機械の一部に、何か小さな白いものが貼り付いているようだ。
「これはおそらくC4……プラスチック爆弾です。このサイズでは、炉心が破れることはないでしょうが、しかしこの場所は、制御棒を炉心に持ち上げるための駆動装置なのです。もしここが破壊されれば……」
「核分裂を……止められなくなる? すると、どうなるの……?」
「まず一次冷却水が水蒸気爆発し、格納容器を破壊……最悪の場合、融解した炉心が海面まで落下し、さらに大量の蒸気を発生させ、おそらくシャフト内部をすべて吹き飛ばすでしょう。メインコントロールから、ライトキューブクラスター、そしてこのサブコントロール室まで」
「な…………」
凜子はおもわず、足元の床を見下ろした。この強固な金属を突き破り、超高温の蒸気が襲ってくる――?
そんなことになったら、せっかくここまで犠牲者を出すことなく耐えてきたラースの人員も、STLに横たわる和人と明日奈も、そしてライトキューブクラスターに封じられた十数万の人工フラクトライトたちも、ひとたまりもなく……。
「自分が、爆薬を解除します」
不意に、中西一尉が低い声で言った。
「連中は、潜水艇がオーシャンタートルから充分に離れられるだけの余裕をもって起爆時間を設定しているはずです。あと五分か……十分はあるはずだ」
「で、でも、中西さん。エンジンルーム内の、温度は、もう」
「なに、熱めのサウナと変わりゃしません。走り込んで、信管を抜くくらい簡単です」
――それは、きちんと防護服を着ていればのことだ。だが、もうそんな準備をしている時間はない。
凜子は、心中のその言葉を、口に出すことはできなかった。ドアに向かう一尉の大きな背中は、あらゆる柔弱な感傷をはねのける鋼の板のようだった。
しかし。
ごつごつと鳴るコンバットブーツが辿り着くより早く、何者かが通路側からドアをスライドさせた。
薄暗い通路に立つ誰かのシルエットに、凜子は目を凝らした。
ういん。と、モーターの駆動音。がちゃ、と金属が金属を踏む響き。
よろめくように脇に下がる中西一尉の向こうから、明かりの下に姿を現したのは――鈍く光る無骨な四肢と、複数のレンズを搭載した頭を持つ、人型の機械だった。
「に、ニエモン……試作二号機!? なぜ、勝手に……!?」
喘ぐ一尉を無視し、ロボットはまっすぐに凜子を見て、言った。
『私が行こう』
その声。
部屋に漂う、ワックスとオイルの匂い。
数日前、オーシャン・タートルに降り立った日の夜、夢のなかで聞き、嗅いだ……。
凜子はよろよろと立ち上がり、数歩あゆみよりながら、かすれ声を押し出した。
「……あ……晶彦、さん…………?」
ぼんやりと緑に発光するセンサーが、まるで瞬きするように明滅し、ロボットは小さく頷いた。
吸い寄せられるように近づいた凜子は、震える両手で、そっとアルミニウムの外装に触れた。かすかな駆動音とともに持ち上がった両手が、凜子の背中に触れた。
『長いあいだ、一人にしてすまなかった、凜子くん』
電気合成されたものであっても、その声は間違いなく、神代凜子がかつて愛したたった一人の男――茅場晶彦のものに間違いなかった。
「こんな……ところに、いたのけ」
もう忘れてしまったはずの郷言葉で、凜子は囁いた。両眼から涙が溢れ、センサーの光が滲んだ。
『時間がない。だから、必要なことだけ言うよ。凜子くん……私は、君に出会えて、幸せだった。君だけが、私を現実世界に繋ぎ続けてくれた。願わくば……これから先も、君に繋いでほしい。私の夢を……今はまだ隔てられている、二つの世界を……』
「ええ……、もちろん。……もちろん」
何度もうなずく凜子をじっと見つめ、機械の顔が微笑んだ。
身体を離したロボットは、滑らかな重心移動で向きを変え、ほとんど走るような速度で通路へと出た。
無意識のうちに後を追いかけた凜子の目の前で、ドアがかすかな音とともに閉まった。
大きく息を吸い、ぐっと歯を噛み締める。今は、このサブコントロールを離れるわけにはいかない。各所の状況確認を任されたのは自分なのだ。
代わりに、凜子はエンジンルームの映像を見上げ、胸元のロケットを握り締めて最大限の祈りを凝らした。すぐ横に歩み寄ってきた中西一尉が、ため息に似た声で、頼むぞ、と呟くのが聞こえた。
比嘉タケルは、ケーブルダクトの下方から押し寄せてきた重いタービンの唸りを聞いたとき、ようやく菊岡の危惧していた“最悪”の正体を悟った。
「き……菊さん……連中、原子炉を……」
かすれた呻きは、強い声に遮られた。
「分かっている。いまは、STLのシャットダウンに全力を注いでくれ」
「は……はい。しかし……」
ようやく辿り着いた点検パネルに、再びリボンケーブルのコネクタを指し込みながらも、比嘉は背中に噴き出す汗を止められなかった。
仮に原子炉が暴走した場合、この作業の意味もなくなってしまうのだ。それどころか、アンダーワールドも、アリスのライトキューブも、丸ごと高温の蒸気と高レベル放射線に破壊され尽くしてしまう。多くの人命ともども。
だが、原子炉を爆発させるというのはそう容易いことではない。炉心を覆う分厚い金属容器は小銃などではとても破れないし、制御系にも何重ものセーフティがかかっている。仮に無謀な全力運転を続けさせたところで、すぐに安全装置が働き、核分裂を停止させるはずだ。
と、その時、菊岡が普段どおりの声で何気ないように尋ねた。
「うーん、比嘉くん。あとは一人でも何とかなるかい?」
「え……ええ、ハーネスをステップに固定すれば、作業は可能ですが……。で、でも、菊さん、まさか……」
「いやいや、ちょっと様子を見てくるだけだよ。ムチャはしないさ、すぐに戻ってくる」
言うと、菊岡は手早く二人を固定するハーネスを外し、いくつかのナス環をハシゴにがっちりと噛ませた。比嘉の身体が保持されたのを確認し、するりと下方に身体を抜く。
「じゃあ、後は頼んだよ、比嘉くん」
上を向いた黒縁眼鏡の奥で、細い目がニッと笑った。
「き、気をつけてくださいよ! 連中がまだ残ってるかもしれないッスから!」
比嘉の声に、似合わぬ仕草でぐっと右手の親指を突き出し、菊岡はするすると物凄い速さでステップを下っていった。
最下端のハッチに達すると、慎重に奥を覗き、通路へと這い出す。
それに比嘉が気付いたのは、菊岡の姿が完全に消えたあとだった。
端末を右手で叩きながら、何気なく腹を締め付けるハーネスを直そうとした左手に、ぬるりという感触が伝わった。ぎょっと見下ろした掌は、オレンジ色の非常灯の下で真っ黒に見える液体に濡れていた。
それが、比嘉のものではない血であることは明らかすぎるほど明らかだった。
数分前まで襲撃者たちに占拠されていたシャフト下部の艦内カメラはほとんど破壊されたが、原子炉を格納する機関室エリアのものは無事だった。
カメラからの映像を大写しにするメインモニタを見上げ、凜子は両手でロケットを包み込み、待った。
すぐ左で中西一尉が、コンソールに乗せた両手を硬く握り締めている。背後では、階下の防衛線から引き上げてきた警備スタッフや技術スタッフたちが、それぞれの姿勢でそれぞれの意思を念じている。
皆さんはせめて船首のブリッジまで退避してください、と凜子は要請した。しかし、一人としてメインシャフトを出て行くものはいなかった。
ここに居る人たちは全員、日のあたらぬ偽装企業であるラースでの研究開発に人生を捧げているのだ。真正ボトムアップ人工知能が必ずや拓くであろう新時代に、おのおのの夢を、願いを託しているのだ。
凜子は今日この瞬間まで、自分はあくまでこの船にいっとき留まる客に過ぎないのだと思っていた。菊岡誠二郎という本心の見通せない人間の目的に同調する気にはなれそうもなかった。
しかし、凜子もまた、訪れるべくしてラースを訪れたのだった。それをようやく悟った。
人工フラクトライトは、無人兵器搭載用AIなどという狭いカテゴリにおさまるものではない。
同様にアンダーワールドは、ただの社会発達シミュレーションなどではない。
それらは、巨大なるパラダイム・シフトのはじまりなのだ。
閉塞していくばかりの現実世界を変革する、もうひとつの現実。既存のシステムから脱却しようとする若者たちの意思を、その目に見えぬ力を|具現化する世界《アン・インカーネイト・ラディウス》。
――それこそが、あなたの目指したものなのね。
あなたが、浮遊城での二年間で気付き、見出したのは、“彼ら”の可能性。眩いばかりに輝く、心の光。
繋いでみせるわ。かならず。だから――
お願い、晶彦さん。みんなを、世界を、守って。
凜子の祈りに応えたかのように、ついにモニタ上の遠隔映像に動きがあった。
分厚い二重の隔壁に封じられた加圧水型原子炉。その炉心へと至る狭い通路に、“人工フラクトライト搭載用人型マニピュレータ試作二号機”の姿が出現したのだ。
すでにバッテリー出力が低下しているのか、足取りは鈍い。チタン骨格の脚自体の重量と戦うように、ずちゃ、ずちゃと大きな音を立てて前進していく。
茅場晶彦の思考コピー体が、いったいいつからあのボディに潜伏していたのかは凜子には想像もできなかった。しかし、一つだけ確かなのは、あのマシンの物理メモリ領域に宿るそのプログラムは、唯一のオリジナルであるはずだ。あらゆる知性は、己が複数存在するコピーであるという認識に耐えることはできないのだ。
炉心の高熱に、電子系がほとんど剥き出しの試作ボディがどこまで耐えられるのか。
お願い、無事に爆弾を解除して、もう一度私のところに戻ってきて――と祈ろうとして、凜子はぐっと唇を噛んだ。
おそらく、茅場晶彦は、ここで消える覚悟なのだ。
かつて生身の脳を焼いてまでその意志を残した彼も、ようやく目的を果たし、死に場所を見つけたのだ。
ういん。アクチュエータが唸る。
ずちゃ。ダンパーが軋む。
懸命の、しかし確たる歩行で、ロボットはついに最初のドアにまで到達した。
右手を伸ばし、開閉パネルを操作する。ぷしっ、と油圧が抜け、分厚い合金の扉が奥に開く――。
その時。
甲高いライフルの咆哮が、スピーカから迸った。
開いたドアの奥から、一人の黒ジャケット姿の兵士が、何かを叫びながら飛び出してきた。
以前のように、ヘルメットとゴーグルに顔を隠してはいない。一見優男ふうの容姿に、整った口ひげと揉み上げを蓄えている。
「な……一人残っていたのか!? 何故!? 死ぬ気か……!?」
中西一尉が、愕然と呻いた。
モニタでは、二号機が両腕を前で交差させ、ボディを守ろうとしている。そこに、更に数発の銃弾が浴びせられる。
火花が弾け、アルミの外装に幾つも孔があいた。各所でケーブルが引き千切れ、細かいギアやボルトが飛散した。
「や……やめて!!」
凜子は思わず悲鳴を上げた。しかし画面内の敵兵士は、激したような英語で更に何かを喚き、ライフルのトリガーを引き続ける。ロボットがよろめき、一歩後退する。
「い……いかん! ニエモンの簡易外装では耐えられん!!」
もう、とても間に合わないのは確実だったが、中西一尉が拳銃を手に駆け出そうとした。
瞬間。
新たな銃声が、反対側のスピーカから立て続けに響いた。
通路に、三人目の人物が、拳銃を乱射しながら走りこんできた。敵兵の身体が、右に、左に大きく揺れる。二号機の背後から、ロボットを一発も誤射することなく撃ち続けるとはすさまじい腕だ。いったい誰が――。
呼吸も忘れ、目を見開く凜子の視線のさきで、ついに敵兵士の喉もとから鮮血が弾け、細い長身が弾かれたように仰向けに倒れて動かなくなった。
直後、救援者も、通路の中ほどにゆっくりと膝をつき――。
横向きに、その身体を沈みこませた。
額にかかる前髪。斜めにずれた、黒縁の眼鏡。口元は、わずかに笑っているように見えた。
「き……菊岡さん!!」
「二佐ッ……!!」
凜子と中西が、同時に叫んだ。
今度こそ、自衛官が転げるような勢いで部屋を駆け出していく。それを止めることは、もう凜子にはできなかった。
代わりに、技術スタッフの一人がコンソールに飛びつく。キーボードが凄まじい速度で乱打され、二号機のものと思しきステータスが表示される。
「左腕、出力ゼロ……右脚、七十パーセント。バッテリー残量三十パーセント。いけます、まだ動けます!!」
スタッフの絶叫が聞こえたかのように、二号機が前進を再開した。
ずちゃ。ず、ちゃ。ぎこちない歩行とともに、千切れたケーブルから火花が飛び散る。
ぼろぼろのボディがドアを潜り、扉が奥から閉められた。カメラが、炉心内部の映像に切り替わる。
二つ目の耐熱ドアは、大型のレバーで物理的にロックされていた。二号機の右腕がレバーを掴み、押し下げようとする。ヒジ部のクラッチが空転し、大量の火花が飛び散る。
「おねがい……」
凜子が呟くと同時に、サブコントロールのそこかしこから声援が湧き起こった。
「がんばれ、ニエモン!!」
「そこだ、もうちょっと!!」
が、こん。
レバーが下がった。
途端、重そうなドアが、内部からの圧力に押されるように開いた。凄まじい熱気が噴出してくるのが、モニタ越しにもはっきりと見えた。
二号機がよろめく。背中右側の太いコードが、一際激しくスパークする。
「あ……ああっ、いかん!!」
不意に、技術者が叫んだ。
「なに……どうしたの!?」
「バッテリーと主制御盤を繋ぐケーブルが損傷しています!! あそこが切れたら……全体への、電力供給が停止して……完全に動けなくなります……」
凜子も、他のスタッフたちも一様に絶句した。
二号機に宿る茅場自身も、その深刻なダメージに気付いたのだろう。揺れるコードを右ヒジで押さえるようにして、ゆっくり歩行を再開する。
ついに到達した原子炉内部は、全力運転を続ける炉心が放つ高熱を排出しきれず、とても生身の人間には耐えられない高温となっていた。
おそらく、もう間もなく安全装置が働き、制御棒が自動的に突入して核分裂を停止させようとするはずだ。
しかし、それより早く、仕掛けられたプラスチック爆薬が炸裂し、制御棒駆動装置を破壊すれば。核燃料から放出される大量の中性子は、連鎖的にウラン原子を崩壊させ続け、やがて制御不能の臨界状態へと導く。
溶融した炉心が、下部の一次冷却水を一瞬で大量の水蒸気へと変え、格納容器を引き裂き、炉心は重力に引かれるまま船底をも貫いて海面に到達し――。
凜子の脳裏に、オーシャンタートルを貫いて噴き上がる白煙の映像がちらりと過ぎった。
一瞬目を閉じ、再び祈る。
「お願い……晶彦さん……!!」
皆の声援も再開した。それらに背を押されるように、試作二号機は主機格納室へとその脚を踏み入れた。
再び、カメラが切り変わる。
途端、凄まじい騒音がスピーカから溢れた。モニタの映像が、赤一色に染まる。
熱気を掻き分け、片足を引き摺るように前進していく二号機と、格納容器に張り付くプラスチック爆弾まではもう五、六メートルしかない。
ロボットの右手が、信管に向けて持ち上げられる。身体の各所から間断なく火花が飛び散り、ひび割れた外装の破片が金属の床に落ちる。
「がんばれ……がんばれ……がんばれ……!!」
サブコントロールルームは、たった一つの言葉だけに満ちていた。凜子も、両拳を握り、声を嗄らして叫んだ。
あと四メートル。
三メートル。
次の一歩――。
と同時に、ほとんど爆発じみたスパークが、二号機の背中から迸った。
千切れ、揺れる黒いコードは、まるで傷ついた内臓のようだった。
顔の全センサーが、光を失った。右腕が、ゆるゆると沈んだ。
両膝が、油圧ダンパーに任せて、がくりと折れ曲がり――
二号機は、完全に沈黙した。
モニタのステータス窓で何本も並んで揺れていたレインボーカラーの出力バーが、すべて左端へと落ち込み、ブラックアウトした。
技術スタッフが、囁くような声で告げた。
「……全出力、消失……しました……」
――私は、奇跡は信じない。
かつて、SAOが予定よりはるかに早くクリアされ、全プレイヤーが解放されたその日、山荘のベッドで覚醒した茅場晶彦は凜子にそう言った。
その瞳は穏やかな光に満ち、無精髭に囲まれた口元はかすかに微笑みを浮かべていた。
――でもね。私は今日、生まれてはじめて奇跡を見たよ。
――私の剣に貫かれ、ヒットポイントが完全にゼロになったはずの彼が、まるでシステムに抗うように……消滅することを拒否し、右手を動かして、私の胸に剣を突き立てた。
――私は……もしかしたら、ただあの一瞬だけを待ち望んでいたのかもしれないな……。
「……晶彦さん!!」
凜子は、胸元のロケットを握る右手から血が滴るのにも気付かず、叫んだ。
「あなたは……“神聖剣”のヒースクリフでしょう!! 彼の、“二刀流”キリト君の、最大の好敵手でしょう!! なら、あなたも……奇跡の一つくらい、起こしてみせてよ!!」
ちか。
ちかちかっ。
瞬いた緑の光は、二号機の両眼に内臓された測距センサー。
膝の関節部から覗くギアが、き、きり、と軋む。
抗うように。
ステータスウインドウの左端で、紫の光がかすかに揺れて――。
四肢と体幹の出力を示すバーが、一気に右端まで伸び上がった。猛々しい駆動音を放ち、各所のアクチュエータが火花を散らして回転した。
「に……二号機、再起動!!」
スタッフが悲鳴じみた声で絶叫した。
凜子の両眼から涙が溢れた。
「いけえええ――っ!!」
「すすめええっ!!」
全員が叫んだ。
右脚が持ち上がり、一歩、前へ。
身体を引き摺りながら、右手を高く伸ばす。
一歩。もう一歩。
小爆発。がくりとボディが揺れる。しかし、更に一歩。
限界まで伸ばされた右手の指先が、ついに炉心格納容器下部に貼り付けられたプラスチック爆弾に触れた。
親指と人差し指が、差し込まれた信管を捉えた。
手首、肘、肩の関節から断末魔のようにスパークを散らしながら、二号機が時限装置ごと信管を引き抜き、その右手を高々と掲げた。
閃光が画面を白く焼いた。
炸裂した信管に、右手を吹き飛ばされた二号機が、ゆっくりとボディを横倒していき――。
がしゃん、と床に崩れ落ちた。センサーが薄く明滅し、消えると同時に、出力バーも再び黒に沈んだ。
しばらく、誰も、何も言わなかった。
数秒後、湧き上がった大歓声が、サブコントロールルームを揺るがした。
木枯らしのようなタービンの唸りが、徐々に弱まり、遠ざかっていく。
比嘉は、詰めていた息を大きく吐き出した。敵の手によって全力運転を強いられていた原子炉が、ついにその炎を収めたのだ。
左手の袖口で額の汗を拭い、汚れた眼鏡ごしに小型端末のモニタを凝視する。
二台のSTLのシャットダウン処理は、ようやく全プロセスの八割ほどが完了したところだ。限界加速フェーズが開始されてからの経過時間は、すでに十七分を超えた。アンダーワールドでは、百七十年に相当する。
比嘉の予測したフラクトライトの限界寿命を、遥かに超える膨大な時間だ。理屈だけで考えれば、桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂は、すでに自壊してしまっている可能性が高い。
しかし比嘉はもう、自分がアンダーワールドとフラクトライトに関して、本当には何も知らないに等しいのだということを認めていた。確かに、設計し、構築し、稼動させはした。だが、あの美しく輝く希土類結晶の積層体のなかで育まれた世界は、どうやらラース技術者の誰もが想像もしなかった高みにまで達したらしい。
そしていま、その世界をもっとも深く知る現実世界人は、間違いなく桐ヶ谷和人だ。十八歳の高校生に過ぎないはずの彼は、あの世界に全力でコミットし続け、適応し、進化して、四つのスーパーアカウントをも果てしなく上回る力を顕した。
それは、彼という人間に生来的に与えられた能力などではない。
ラーススタッフ全員が、ただの実験用プログラムとしか見ていなかった人工フラクトライトたちを、桐ヶ谷和人だけは最初から、自らと同じ人間であると認識した。人間として触れあい、戦い、守り、愛した。
だから、アンダーワールドは、そこに暮らす人々は、彼を選んだのだ。守護者として。
であるならば、比嘉ですら思いもよらぬ何らかの奇跡により、二百年の時間流に耐えてのける可能性だってある。
――そうだろう、キリト君。
――今なら、菊岡二佐がなぜあれほどまで君の協力を求めたのか、僕にもよくわかる。そして、これからも君が必要なんだということも。
――だから……
「……頼む、戻ってきてくれ」
比嘉は呟きながら、シャットダウン処理の最後の数パーセントが進行していく様子をじっと見つめつづけた。
サブコントロールルームには、凜子ひとりが残った。
他の全員は、菊岡二佐の救助と、メインコントロールルームの制御権回復のために我先にと駆け出していった。
凜子も、本心で言えば原子炉格納室に飛んでいって、監視カメラのフレーム外に倒れているはずの試作二号機と、その物理メモリに留まる茅場晶彦コピー体を保護したかった。しかし、今はまだ持ち場を離れるわけにはいかない。比嘉によるSTLシャットダウン処理が終了し次第、隣室に眠る桐ヶ谷和人と結城明日奈の状態を確認せねばならない。
二人が、何事もなかったかのように目覚めると、凜子は信じていた。
彼らの手にアリスのライトキューブを握らせて、あなたたちが守ったのよ、と言ってあげたい。
おそらく、階下へ向かったスタッフの手で数分のうちに限界加速フェーズも終了させられ、アンダーワールドの時間流も等倍へと戻るだろう。その世界を守った、ひとつの意思の存在のことも、二人に伝えたい。かつて彼らを幽閉し、戦わせ、苦しめた男が、バッテリーの切断された機械の身体を動かして、アンダーワールドとオーシャンタートルを守ったのだ、と。
許して、とは言えない。
二万人の若者たちを殺した茅場晶彦の罪は、どのような償いによってもあがなえるものではない。
しかし、茅場の遺した意思と、その目指したものについてだけは、どうしても和人と明日奈に理解してほしい。
凜子が、血の滲む掌でアリスのライトキューブ・パッケージを包みなおし、瞼を閉じたそのとき、耳のインカムから比嘉の声がかすかに響いた。
「……凜子さん、二人のログアウト処理終了します、あと六十秒!!」
「了解。すぐに、誰かを迎えにいかせるわね」
「お願いします。さすがに、このハシゴを一人で登るのは無理っぽいんで……。それで、菊さんが下に様子見に行ったんですが、どうなってます? どうも、負傷してるみたいなんスが」
凜子は、すぐには答えられなかった。原子炉へと続く通路で敵兵と撃ち合い、倒れた菊岡二佐を中西一尉が救助に行ったのはもう三、四分も前だが、いまだ彼からの連絡はない。
しかし、あの菊岡が、目的なかばで斃れたりするものか。つねに飄々と底の見えない態度を崩さず、状況の裏側をするりするりと立ち回ってきたあの男が。
「……ええ、二佐なら物凄い活躍ぶりだったわよ。ハリウッドのアクション俳優顔負けの」
「うへぇ、似合わないッスね。……残り、三十秒ッス」
「私はSTL室に移動するわ。何かあったら連絡よろしく。以上」
凜子は通信を切り、黒い金属の立方体をそっと両手に握ったまま、コンソールから離れ隣室に向かった。
ドアに触れる寸前、室内のスピーカから、階下に向かったスタッフの一報が入った。
それは、中西一尉からでも、メインコントロールに向かった技術者からでもなかった。温度の下がり始めた原子炉格納室に、念のためプラスチック爆薬本体の除去に向かった警備スタッフの声だった。
「こちらエンジンルーム! 博士……聞こえますか、神代博士!」
凜子はどきんと跳ねる心臓を押さえながら、インカムの回線を切り替え、叫んだ。
「ええ、聞こえます! どうしました!?」
「そ、それが…………爆薬は無事取り外したんですが、その……無いんです」
「無い……って、何が……?」
「二号機です。試作二号機のボディが、エンジンルームのどこにも見当たりません!」
安物のデジタルウォッチに設定したタイマー表示が、ゼロに到達した。
強襲揚陸用小型潜水艇のコクピットにうずくまり、外部ソナーに耳を澄ませていたクリッターは、聞こえてくるはずの爆音が何秒待とうと届いてこないのを確認し、震える息を吐き出した。
それが、安堵のため息なのか、落胆のそれなのか、自分でも分からなかった。
ひとつだけ確かなのは、オーシャンタートルの原子炉に仕掛けたC4は何らかの要因によって爆発せず、よって制御棒駆動装置も破壊されず、つまるところメルトダウンも起こらなかった、ということだ。
原子炉に残ったハンスが無事なら手動で爆発させているだろうから、あの男もまた排除されたのだろう。
金だけが目的のはずの傭兵が、絶対に死ぬと分かっていながら脱出しなかったのは、まったく意外なことだった。相棒のブリッグが死んだと知らされたときから様子がおかしかったが、まさか死に場所まで共にするほどの仲だったとは。
「……まー、いろいろあったんだろうさー……」
ソナーのヘッドホンを頭から外しながら、口中で呟く。
そう、ハンスたちより先に死んだミラー隊長やヴァサゴにも、金以外の事情がいろいろあったのだろう。そのしがらみが、彼らを殺した。
それを言うなら、クリッターや潜水艇に乗るほかの隊員たちも、この作戦が完全なる失敗に終わったことで、すさまじく巨大なしがらみに咥え込まれてしまったわけなのだが。全員の雇い主である民間警備会社は、その実体はアメリカの軍事関連企業お抱えの違法トラブルシューターであり、切捨てられるときは一瞬だ。本土に帰りついたその瞬間、全員まとめて口を封じられる可能性だって無くはない。
己の身を守る保険として、オーシャンタートルからひそかに持ち出してきた一枚のディスケットが納まる内ポケットを、クリッターは服の上からそっと撫でた。
こんなものでどこまで対抗できるかわからないが――しかし少なくとも、殺されるときは頭に銃弾方式だろうから、ヴァサゴやミラー中尉の恐ろしい死に様に比べればはるかにマシだ。
「やれやれ、だー」
ふん、と鼻を鳴らし、クリッターは近づきつつあるシーウルフ級原潜“ジミー・カーター”の位置を示す輝点をじっと眺めた。
限界加速フェーズ開始から、十九分四十秒後――。
オーシャンタートル第二STL室に設置された、二台のソウル・トランスレーターのシャットダウン処理が終了した。遅れること約三分、時間加速そのものも解除され、冷却システムの減速にともなって、艦内に静寂が戻った。
神代凜子博士の手でマシンから解放された二人の少年少女、桐ヶ谷和人と結城明日奈は――
しかし、目を醒ますことはなかった。
フラクトライト活性は極限まで低下し、その魂において精神活動がほぼ消失していることは明らかだった。
博士は二人の手を握り、涙ながらに、懸命に呼びかけつづけた。
深い瞑りにつく和人と明日奈の唇には、ごくほのかな笑みが浮かんでいた。
こつ。
……こつ。
すぐ目の前で、音が止まる。
そして、誰かが、俺の名を呼んだ。
「……キリトくん」
穏やかに澄んだ、慈愛そのものが空気を震わせているようなその声。
「あいかわらず、一人のときは泣き虫さんだね。……知ってるんだから。キミのことは、なんだって」
俺は、ゆっくりと、涙に濡れた顔を持ち上げた。
両手を背中に回し、少し首を傾げたアスナが、微笑みながらそこに立っていた。
何を言えばいいのか分からなかった。だから俺は、いつまでも、いつまでもアスナの顔を、その懐かしいはしばみ色の瞳を見上げつづけた。
そよ風が穏やかに吹き過ぎ、連れ立って舞う蝶が俺たちのあいだを横切って、青い空へと消えた。
それを見送ったアスナが、視線を戻し、そっと右手を差し出した。
触れたら、幻のように消えてしまう気がした。
いや、そんなはずない。
アスナにはわかっていたんだ。この世界がもうすぐ閉ざされること。再び現実世界に戻れるのは、果てしない時の流れの彼方であることが。だから、残った。俺のために。もし立場が逆だったら、同じ選択をするであろう俺のためだけに。
俺も手をのばし、アスナの小さな手を、しっかりと握った。
引かれるまま立ち上がり、あらためて、間近から美しいヘイゼルの瞳を見つめる。
やはり言葉は出てこなかった。
しかし、何を言う必要もない気もした。だから、俺はただ、細い身体を引き寄せ、強く抱いた。
胸にすとんと頭を預けてきたアスナが、囁くように言った。
「……向こうに戻ったとき、アリスに怒られちゃうかな」
俺は、あの勝気な黄金の騎士が、蒼い瞳に火花のような輝きを浮かべて俺たちを叱るようすを思い描き、小さく笑った。
「だいじょうぶさ、俺たちがちゃんと覚えていれば。アリスと過ごした時間を、一秒でも忘れたりしなければ」
「……うん。そうよね。アリスのこと……リズや、クラインや、エギルさんや、シリカちゃんや……それに、ユイちゃんのこと、わたしたちがずっと覚えていればだいじょうぶ、だよね」
俺たちは抱擁を解き、頷き合って、同時に無人の神殿を見やった。
機能を停止した白亜の遺跡は、世界の果ての柔らかな日差しの下で、静かな眠りについていた。
振り向き、手をつないだまま、敷石の続く小道を歩きはじめる。
色とりどりの花の間を、ほんのしばらく進むと、浮島のふちに辿り着いた。
深い青に染まる空の下、世界がどこまでも広がっていた。
アスナが、俺を見上げ、尋ねた。
「ね、わたしたちは、これからこの世界でどれくらい過ごすの?」
俺は、しばし沈黙を続けたあと、真実を口にした。
「最短でも二百年、だそうだ」
「ふぅん」
アスナはひとつ頷いて、ずっと昔から何も変わらない笑顔をにっこりと浮かべた。
「たとえ千年だって長くないよ。キミと一緒なら。…………さ、いこ、キリトくん」
「……ああ。いこうアスナ。すべきことはたくさんある……この世界は、まだ生まれたばかりなんだ」
そして俺たちは、手をとりあい、翼を広げ、無限の青空へと最初の一歩を踏み出す。
[#地から1字上げ](第八章 終)