Sword Art Online 4
Alicization
九里史生
第七章 後
孤独というものの味を、長いこと忘れていたな。
長い階段をとぼとぼと登りながら、ユージオは胸のうちでそうひとりごちた。
アリスと引き離された十一の夏から、ユージオは目と耳を閉ざし、ひたすら黒い巨木だけを相手にして生きてきた。家族を含む村の誰もが、整合騎士による村長の娘の連行という一大事件を、まるでそれ自体ひとつの禁忌ででもあるかのように一切話題にしようとしなかったし、アリスのいちばんの友達でもあり問題の事件にも関わったユージオのことすら避けるようになったからだ。
しかしそれと同じくらい、ユージオも人を、そしてあの出来事の記憶を遠ざけ続けた。己の弱さ、怯懦を認めることに耐えられず、諦めという名の沼に深く潜ることで過去と未来から目を背けようとした。
ユージオにとって孤独とは、常に諦念の甘苦さに塗れている。自分は一人では何もできない人間なのだ――あの事件よりずっと以前、アリスと二人野山を遊び場にしていた幼い頃から。親や兄たち、村の大人の言いつけに一切逆らわず、他人の顔色だけを窺って生きてきたのだと、煮詰めすぎたママレードのように口中にまとわりついて再確認を迫る味。
しかし十八の春、荷物ひとつ持たずにふらりと森に現れたあいつが、ユージオを泥濘から力ずくで引っ張り出した。共にゴブリンの集団を斬り伏せ、ギガスシダーを打ち倒し、ユージオにもう一度自信と目的を与えてくれた。
ルーリッドの村を飛び出し、ザッカリアの町を経ての央都までの長い旅路、修剣学院での修練の日々のあいだも、常に傍らにはキリトがいた。予定とは少々異なる経緯だったが、最終目標たる神聖教会にとうとう入り込み、幾多の障害を退けて塔最上階の直下にまで迫れたのは、間違いなくあの黒髪の風来坊のお陰だ。
だがこうして、目的地まであと一歩のところで相棒の姿を見失うと、その途端に喉の奥からあの味が込み上げてくる。これまでいかに強くキリトに依存してきたのか――ほんとうは、自分は森で倒せぬ樹を叩いていた頃からなにひとつ変わっていないのではと思えてくるほどだ。
キリトとアリスが、突如崩壊した塔の壁から外に放り出された直後、ユージオは極度の恐慌に襲われて闇雲にもういちど壁を壊そうとした。しかし、いくら拳で殴り、剣を叩きつけようとも、一度修復された壁はもうびくともしなかった。
考えてみれば、あの瞬間に目の当たりにした現象からして、塔の外壁には永続性の自己修復術が施されているに違いないのだ。言葉にすれば簡単だが、本来、術者と対象の接触が原則となる神聖術に、術者と離れても永続する術式など存在し得ない。つまりあの自己修復は、この塔全体をある種の完全支配状態に置いている、とでも言うべき超絶的な術式が導いたものなのだ。
そのような壁相手では、たとえ無理矢理に一センでも石をずらせたとしても、すぐに押し戻されてしまうのは明らかだ。あれは、二人の剣の記憶解放技が複合し、瞬間的に膨大な攻撃力が発生したゆえの異常事態だったのだろう。
それほどの技と力を持った彼らが――ことにキリトが、虚空に放り出された程度のことで死ぬはずはない。状況への即応力だけを取れば、彼が整合騎士をすらも大きく上回るのは、これまでの戦闘を見ても明らかなのだから。
キリトはきっと、アリスをも落下から救いだして塔の外壁を登っているに違いない。そう信じて、ユージオは単身、“雲上庭園”の南側の大扉から出て再び大階段を登り始めたのだった。独りになった途端、心細さや無力感が背中に這い登ってくるのを懸命に振り払いながら。
どのような襲撃があるか予想できなかったので、走るのはやめて慎重に進むことにしたが、八十一階、八十二階と過ぎても、塔内には人の気配はまったく感じられなかった。騎士たちの話によれば、教会にはまだ高位の司祭たちと少なくとも一人の整合騎士――“団長”と呼ばれる人物――、そして最高司祭アドミニストレータが居るはずだ。行政を天職とする司祭たちが直接戦闘を仕掛けてくるとは考え難いが、いずれ高位の術者であろう彼らが神聖術を用いた罠を張っている可能性はあるし、何より整合騎士を束ねるという“団長”がユージオを素通りさせてくれるはずはない。
ゆえに限界まで感覚を張り詰めさせ、剣の柄に手を沿えて一歩一歩階段を登っているのだが、どうしても余計な思考が入り込んでくるのを防ぐことができない。
キリト――ぶっきらぼうで目つきの剣呑な彼が、あれほど攻撃に呵責のなかった騎士アリスを説得なり休戦なりできただろうか。塔の壁にぶら下がったまま、尚も戦闘を続けるという想像のほうがよほどしっくりくる。
しかし、キリトのあのつっけんどんさと斜に構えた態度が、何故か人の胸襟を開かせるのもまた事実なのだった。これまでの旅で出会った多くの人々が、いつの間にかキリトに魅せられ、笑顔を向けるようになるのをユージオは何度も目の当たりにしている。そう、勿論、ユージオ自身もそこには含まれる。
彼の不思議な魅力は、整合騎士としての使命感の塊のようだったアリスにも通用するのだろうか。
そう考えた途端、ユージオはいわく言い難い感情の流れを自覚し、思わず唇を噛んだ。
数時間前――炎の弓を操る整合騎士デュソルバートに剣先を突きつけたときに襲われた葛藤が、焦げ臭い残り香のように甦ってくる。あの時、止めを刺そうとしたユージオを制したキリトに、ほんの一瞬とは言え、ユージオは激烈な嫉妬を感じた。君なら、連れ去られるアリスを黙って見ているなんてことはしなかったろう、という巨大な劣等感。
あらゆる枷から自由であるように思えるキリトなら、今のアリスの心さえ、ほんとうに溶かしてしまうかもしれない。
嫌だ、これ以上考えたくない。
思考を更に続ければ、自分がどうしようもなく醜くなってしまうような気がして、ユージオは激しく頭を振り、右手でごしごしと顔を拭った。ユージオの存在証明の全てと言ってよいアリスの奪還という目的を知るキリトが、おかしなことをする筈がない。だいたい、こんなことを考えること自体無意味なのだ。なぜなら――。
あの黄金の整合騎士は、正確には“アリスの体”でしかないのだから。
ユージオの愛するルーリッドのアリス・ツーベルク、その核心とでも言うべき“記憶のピース”は塔最上階のアドミニストレータの居室に保管されている。それを奪還し、アリスの体に戻せば、今の整合騎士アリスは、そうであった間の記憶ともども消滅する。
目を醒ました本物のアリスを、この腕に強く抱くのだ。そのとき初めて、全てがあるべき形に戻る。明日には――ことによると今夜中に、その瞬間が来る。だから今は、雑念を振り捨て、前に進まなければ。
大階段の両脇に細く開いた窓から見える空は、たちまちのうちに光を薄れさせ、濃紺から黒へとその色を変えた。
央都じゅうの礼拝堂からかすかに届く鐘の音が夜七時を告げると同時に、ユージオの眼前からついに続くべき階段が途絶えた。
階がひとつ過ぎるたびに折った指の数は十本。つまり次が九十階だ。いよいよ、神聖教会の核心部に足を踏み入れたのだ。
ホールから折り返して伸びる階段は無く、北側の壁に大扉がひとつあるのみだった。これまでの塔内の構造から類推するに、この先は五十階や八十階と同じくぶち抜きの大空間となっているに違いない。
そして恐らく、これまで以上に強力な敵が待ち構えている。
勝てるのか? 僕が?
じっとりと湿ってくる掌を、ユージオはズボンで擦りながら自問した。キリトを半死半生にまで追い込んだファナティオや、傷ひとつつけさせなかったアリス以上の剛の者と、どのように戦えばいいというのか。
しかし考えてみれば、これまでの戦いにおいて常に敵の剣に身を晒しつづけたのはキリトだった。ユージオはその背中に隠れ、決めの大技を放ってきただけだ。完全支配術の性格上それが当然の作戦だ、とキリトは言ったが、彼がいない以上今度こそユージオが最初から最後まで戦うしかない。それが出来なければ、キリトと対等の場所に立つことはもうできない。
腰の愛剣をそっと撫で、ユージオは強く奥歯を噛み締めた。氷薔薇の術はおそらくあと一回ならば使えるだろうが、闇雲に放っても奏効する可能性は低い。まずは純粋な剣技で敵を圧倒しなくてはならない。
「……行くぞ」
小さく呟いて、ユージオは右手を掲げ、扉を強く押し開いた。
途端――押し寄せてきたのは、眩い白光と、厚い煙、連続的に響く低音だった。
もう敵の術が発動しているのか!?
そう考え、口と鼻を覆って飛びのこうとしたユージオは、その直前にそれが煙ではなく濃い蒸気であることに気付いた。湿った熱気が全身を包み、たちまち肌を水滴が伝い落ちる。
予想どおり、扉の内部は一階ぶんをそのまま使った大部屋だった。天井もずいぶんと高い。恐らく、“霊光の大回廊”や“空中庭園”といった類いの名前がついているのだろうが、今は知るすべはない。
まず目に入ったのは、広大な床面を覆う真っ白い湯気と、その向こうに煌めく水面だった。
湯だ。すさまじい量のお湯が、階段状に窪んだ床全面になみなみと湛えられている。どどどどと低く響く音の源は、左右の壁に幾つも設けられた、様々な幻獣の頭部を象った彫像の口から流れ落ち水面を叩く湯の滝だった。
湯気を透かしてよくよく見れば、ユージオの立つ扉前から、幅五メルほどもある大理石の橋が奥へと続いている。広間の中央で橋は十字に分岐しているので、湯の池は四つに分かれていることになる。
一体これは何だ……?
予想外の光景に、ユージオは目を丸くしながら呆然と考えた。このような高温の湯の中で生きられる魚などいないし、観賞用の庭園にしては湿気が不快すぎる。つまりこれは――。
超巨大な、風呂なのだ。
「……なんてこった」
思わず嘆息する。ルーリッドの村では、風呂と言えばタライに毛の生えたような桶と相場が決まっていたし、ゆえに学院の寮の大風呂を見たときは、こんな大量の湯をどうやって沸かすのかと目を見張った。
しかしこれは桁外れだ。学院の修剣士全員が一度に入浴してもまだ余りそうだ。今は人影は見えないが、同時に何人が入浴するにしても贅沢の極みというものだ。
これも整合騎士や司祭たちの特権のひとつかとあきれ返りながら、ユージオは肩の力を抜き、大理石の橋を進み始めた。いくらなんでも風呂場で待ち伏せはあるまい。
と、不覚にも思い込んだため、気付くのが随分と遅れた。
浴場の中央、橋の十字部分に近づいたとき、ユージオはようやく北東の一角、一際濃い湯気をもうもうと上げる水面に、大の字に手足を広げた人影があるのを見て取った。
「!?」
瞬間的に飛び退り、剣に手を掛ける。
水蒸気に阻まれてよく見えないが、随分と大柄なようだ。敵か……? 入浴中だけあって裸のようだが、剣は近くにあるのか?
そう考えたとき、低く錆びているがよく通る声が水面に響いた。
「妙齢の美女でなくって悪ぃな。すぐに上がるからちっと待っててくれ。なんせ、さっき央都に着いたばっかりなもんでよ」
これまで塔内で遭遇した人間の誰よりもぞんざいな言葉遣いに、瞬間唖然とする。騎士というよりもむしろ、故郷の村の農夫たちを思い起こさせる飾り気の無さだ。
ユージオがどう対応したものか決めかねているうちに、ざぶりという水音が立ち、巨大な浴槽を覆っていた湯気に切れ間ができた。
全身から滝のように水滴を落としながら、巨躯の男がこちらに背を向けて身を起こしたところだった。両手を腰に当てて首をぐるぐる回し、ううーんなどと緊張感のない唸り声を上げている。
しかし、男の後姿を見たとたん、逆にユージオは鋭く息を飲んでいた。
何という重厚さだろうか。膝から下は湯の中だが、それでも男の身長が二メル近いのは明らかだ。青みを帯びた鈍色の髪は短く刈り込まれ、首筋の尋常ではない太さが一目瞭然となっている。そして、そこから繋がる肩がまた異様に広い。丸太のような上腕は、いかなる大剣ですら容易く振るだろう。
何より目を引くのは、幾重にもうねる筋肉に鎧われた背中だった。ユージオが知る限り最も分厚い背中を持っていたのは、学院で傍付きを務めたゴルゴロッソだが、湯船の男は彼をも明らかに凌駕する。腰周りにはたるみ一つなく、大腿がまた樽のように太い。
湯の滴に照り映える、あまりに完璧な筋肉の連なりに目を奪われていたため、ユージオは男の全身がほぼ隈なく古傷に覆われていることにすぐには気付かなかった。改めて注視すると、それら全てが矢傷、刀傷であることがすぐにわかる。
恐らく、この男が騎士長と呼ばれる人物なのだろう。つまり全整合騎士中最強の剣士、ひいては教会を敵に回したこの戦いにおける最大の障壁なのだ。
となれば、ユージオが選択し得る最善の行動は、男が剣も防具も持たぬ今のうちに一気呵成に斬りかかることだったが、しかしユージオは動けなかった。
男の背中が、隙だらけなのか、それとも万全の備えが行き渡っているのか判断できないのだ。むしろ誘っているのかとすら思えてくる。
そんなユージオの逡巡を一切気にとめる様子もなく、男は湯の中をざぶざぶと歩きはじめた。湯船の北がわに、衣類を入れてあるらしい篭の乗ったワゴンが見える。
階段状にせり上がっている縁を大またに登り、大理石を敷いた床に立つと、篭からひょいと下穿きを取り上げて脚を通した。次にやたらと大きな衣をばさっと広げ、背中に羽織る。どうやら東域風の綿織物のようで、前で合わせた布を腰下に巻いた幅広の帯で留めてから、男はようやくユージオに顔を向けた。
「おう、待たせたな」
深みのある錆び声のよく似合う、剛毅としか言いようのない風貌だ。
思ったよりも齢が行っている。口許と額に刻まれた鋭い皺は、男が整合騎士となった時点で四十を越していたことを示しているが、高い鼻梁と削げた頬には肉の緩みはまったくない。しかし男の印象を決めているのは、深い眼窩から放たれる強烈な目の光だ。
淡い水色の瞳には、殺気らしい殺気はまったく無いのに何故か気圧されるものがあった。これから斬り結ぶであろう相手に対する、敵意抜きの純粋な興味と、戦闘そのものへの歓び、だろうか。そのような目ができるのは、自分の剣技に圧倒的なまでの自信を持っているからだ。つまりこの男は――どこか、キリトに似ている。
着替えの篭が乗った銀のワゴンから、長大な剣を取り上げ、男は素足でぺたぺたと大理石を踏んで歩きはじめた。浴槽の角を回りこみ、ユージオが立つ中央通路の北端へと移動する。二十メルほど先で立ち止まり、鞘の先端で敷石を突くと、さてと、とまばらに髭の生えた逞しい顎を撫でた。
「お前さんとやりあう前に、一つ聞いておかなきゃならねえ」
「……何ですか」
「なんだ、その……な。副騎士長は……ファナティオは、死んだのか?」
夕食のメニューを訊くような素っ気無い口調に、あんたの一番の部下のことじゃないのか、とユージオは反発をおぼえた。しかしすぐに、視線を横に逸らせた男の表情に、不器用な取り繕いがあるのに気付く。本心では気になって仕方がないのに、それを見透かされるのが嫌なのだろうか。そういう所もまた、ここにはいない相棒を思い起こさせる。
「生きてますよ。今、治療を受けている……はずです」
ユージオの答えを聞いた男は、太い息を吐き出し、ひとつ頷いた。
「そうか。なら、お前さんも殺すまではしねぇでおこう」
「な……」
再び、言葉を失う。心理作戦か、などと疑う気も起こさせないほどの強烈な自負だ。勝利への確信はそれ自体が大きな武器だ、とはキリトがよく言っていたことだが、彼ですら敵を目前にしてここまでの揺ぎ無さを示すことはできまい。おそらくは、男の砦のごとき自負心の礎となっているのは、最古の整合騎士として百年を越すであろう戦闘経験であるからだ。
しかしそれを言うなら、これまで倒してきた騎士たちだって同じことだ。整合騎士が決して絶対無敵なる存在ではないことを知っている今ならば、少なくとも胆力のせめぎ合いだけで負ける道理はない。
萎えそうになった心を奮い起こし、ありったけの戦意をかき集めて、ユージオは正面から男を睨んだ。声が揺れないように腹に力を込めて、言う。
「気に入らないな」
「ほう?」
右手を衣の懐に入れたまま、男は面白そうな声を出した。
「何がだい、少年」
「あんたの部下はファナティオさんだけじゃないでしょう。なのに、アリスの生死はどうでもいいってことですか」
「あぁ……そういうことかい」
男は顔を上向け、左手で鞘を握った大剣の柄で、側頭部をごりごりと擦った。
「何つうかな……オレはファナティオよりも強ぇ。奴さんはオレの弟子だからな……だからもしファナティオがお前さんに斬られたのなら、その片はオレがつけなきゃなんねえ。でもよ、アリスの嬢ちゃんとオレ、どっちが上かは正直わからん。本気でやったこたぁ無えし、やろうにも嬢ちゃんはオレを親父代わり扱いするしなぁ……いや、んなことはどうでもいいんだけどよ。ともかく、オレはお前さんに負ける気はこれっぽっちもしねえし、だから嬢ちゃんが斬られたとも思わん。聞いた話じゃ、お前さんには相棒がいるって言うじゃねえか? そいつがここにいないってことは、大方、今どこぞで嬢ちゃんとやりあってるんじゃねえのかい」
「……だいたいそんな所です」
釣り込まれるように素直に頷いてしまってから、ユージオはきつく剣の柄を握りなおした。どうにも男の喋りには敵意を削がれるものがあるが、緩んでいる場合ではないのだ。目に一層力を込め、挑発的な台詞を叩きつける。
「ちなみに、あんたを斬ったら次は誰が仕返しに出てくるんですか」
「ふっふ、安心しな。オレに師匠はいねえ」
にやっと笑い、男は大剣をゆったりした動作で抜いた。左手に残った鞘を、ひょいと傍らに放り投げる。
黒ずんだ刀身は艶やかに磨き込まれているものの、砥いでも消せない無数の古傷が白い灯りを受けて、獣の牙のように立て続けに光った。鍔も握りも刀身と同質の鋼でできているようだが、これまでの騎士たちが携えていた神器のような壮麗さはまったくない。
と言って、軽んじていい武器では決してないのは、遠目にも明らかだった。気の遠くなるような年月、無数の敵の血を吸い込んできた妖気のようなものが鈍色の刃にまとわりついている。
すーっと細く息を吐きながら、ユージオも左腰の愛剣を鞘走らせた。完全支配状態ではないが、主の緊張に反応しているのか、薄蒼い刀身からはわずかに冷気が放出されて周囲の濃密な蒸気をきらきら輝く氷の粒へと変えていく。
整合騎士は、その巨躯に見合った豪壮な動作で、右手の剣をほとんど垂直に、左手をまっすぐ前に、腰をどっしりと落として構えた。たしか『天衝崩月』という名の、古流のなかでも相当に旧い、一撃必殺ではあるが外したときの変化などまったく考えない型だ。
ユージオはそれを見て、二連撃技『リバースホイール』の体勢を取った。一撃目で敵の大技を受け流し、その勢いを利用して二撃目が下からの逆回転で襲い掛かる反撃系の技である。キリトがアリスと戦ったときのように、敵の超重攻撃を正面から受け止めれば恐らく後方に弾かれてしまうだろうが、最初からごく僅かに軌道を逸らせることだけを狙えば、敵は即応できないはずだ。
全身の力みを抜き、剣を中段引き気味に構えたユージオを見て、男の眉間に新たな縦皺が刻まれた。
「見慣れねえ構えだな。少年……お前ぇ、もしや連続剣の使い手かよ」
「…………!」
読まれた――!?
男は、自分がファナティオの師だと言った。ならば、あの女性騎士が密かに磨いていた我流の連続剣技のことも知っていておかしくないということなのか。いや、たとえユージオが連続技で来ることを看破しても、技の中身までは見切れないはずだ。アインクラッド流剣術を知るのは、この世でキリトとユージオの二人だけなのだから。
「……だったら、何だっていうんです」
低い声で返すと、男はふん、と鼻を鳴らした。
「いや何、暗黒騎士にもたまにそいつを使う奴がいるんだがよ、あんまりいい思い出はねぇんだよな……。何せこちとら、ちょこまか器用な技はさっぱり知らねえもんでよ」
「だから、こっちも古臭い見せ技で付き合えと?」
「いやいや、好きなだけ使ってくれて構わんよ。そのかわり、こっちもハナっから奥の手を出させてもらうぜ」
片方の犬歯をむき出してにやりと笑い、男は高く構えた剣をさらにぐぐっと引き絞った。
直後、ユージオは大きく目を見開いた。使い込まれた男の大剣が、突如陽炎のように揺れたのだ。周囲を流れる濃い蒸気のせいかと思ったが、どんなに目を凝らしても、刀身それ自体が揺らいでいるようにしか見えない。
しまった、あの剣はすでに記憶解放中だったのか、とユージオはきつく奥歯を噛んだ。
武装完全支配術を、術式詠唱から発動までどれくらいの時間保留しておけるかは、術の性質が大きく影響する。キリトの黒い剣が召還する巨大樹のように、詠唱そのものが発動の鍵となっている術ではそもそも保留は不可能だし、ユージオの氷薔薇の術のように剣を床に突き立てる等の動作が鍵となっていれば数分間は待機させておけるだろう。
男の完全支配術がどのような物なのかはまだ分からないが、恐らく発動鍵となっているのは攻撃動作だと思われる。そしてこれほど長時間保留しておけるからには、大掛かりな召還や空間操作系ではないはずだ。エルドリエの鞭のように間合いを広げるか、あるいは斬撃の威力を増すといった補強系の能力である可能性が高い。
そうであるなら、集中していれば初見でも対応できないことはない。今から完全支配術を詠唱している余裕はないし、それ以前にこの高温の環境では氷薔薇の術も本来の力を発揮できまい。
たとえどれほどの威力を秘めていようとも、あの構えから放たれる技は馬鹿正直な右上段斬り一択だ。軌道は読めるし、その一本さえ弾ければこちらの反撃を回避する余裕は男にはあるまい。
肚を決め、ユージオはありったけの集中力を両眼に込めて男の全身を注視した。まだ彼我の距離は二十メルもある。もしあの位置から剣を振る気ならば、男の奥の手とは斬撃の間合いを伸ばす術だろう。エルドリエの変幻自在な鞭と比べれば、剣の軌道は遥かに直線的だ。回避して、一気に距離を詰めれば男の優位は消滅する。
ユージオの読みどおり、男は脚を動かすことなくぐうっと全身を撓め、攻撃体勢に入った。笑みが消えた口許から迸った太い声が、大浴場全体を震わせた。
「整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワン、参る!!」
どこかで聞いた名だ――という思考が一瞬脳裏を横切ったが、ユージオはその雑念を打ち払い、吸い込んだ息をぐっと止めた。
ずどん! と凄まじい音と震動を放ち、騎士長の剥き出しの左足が床石を踏み締めた。周囲の蒸気が、一瞬で遥か遠くにまで吹き散らされる。
恐ろしく迅いのに、しかし同時にゆったりと見える動きで男の腰、胸、肩、腕がうねった。学院で教えられた古流剣技の、究極の完成形がそこにあった。最大の威力と壮麗さを両立させた、人の子の天命を越えた年月の修練のみが実現し得る奇跡とでも言うべき斬撃。
しかしながら、その技には一つ大きな欠落がある。アインクラッド流連続剣技がひたすらに追及する、確実な命中性だ。男の剣と同質と言っていいアリスの攻撃に、キリトが次々に追い詰められたのは、自分の剣で正面から弾こうとしたからだ。
剣で受けずにギリギリの距離で回避し、ひと跳びで懐に飛び込む!
キリトの超高速剣に鍛えられたユージオの目は、騎士長の大剣の軌跡をしっかりと捉えていた。予想通り、右上段からの斬り降ろしだ。剣自体が伸びるにせよ、衝撃だけが飛んでくるにせよ、僅かな左への移動でかわせるはずだ。
稲妻のような白光を宙に描き、男の剣が振り下ろされた。
同時にユージオは右足で床を蹴った。
頬をかすめるはずの、威力の余波は――無かった。
「!?」
突進しようと前傾した体をユージオは凍りつかせた。男の剣が発生させたのは、颶風のような轟音と、一直線に蒸気を吹き払う空気の流れ、それだけだった。刀身が伸びもしなければ、斬撃の円弧が輝きながら飛んで来ることもなかった。
つまり、男が今やってみせたのは――ただの、素振りだ。修剣学院の試験で行うのと何ら変わりない、剣技の表演だ。
「な……」
何のつもりだ、とユージオは声の出ぬまま唇を動かした。
しかし騎士長はもうユージオを見ようともせず、剣を振り切った姿勢からのっそりと体を起こし、先刻までの気合が嘘のように抜け落ちた顔でぼりぼりと顎の無精髭を掻いた。
「ふん、まあまあの振りだったな」
ぼそっと呟き、そして信じがたいことに、くるりと背中を向けた。剣を右肩に担ぎ、そのままぺたぺたと床に転がる鞘に向かって歩いていく。
「…………!!」
これにはユージオも、頭の後ろ側がちりっと燃えるような感覚を覚えた。馬鹿にしているとしか思えない。学校に通っている子供なら、素振りひとつで尻尾を巻いて逃げ帰れ、ということか。
気付いたときには床を蹴っていた。全速の突撃で男の背中に迫る。
しかし男は尚も振り向く様子を見せない。もうこの位置からなら、絶対に先手を取れる。青薔薇の剣を引き絞り、最大射程の直突きを構える。
ゆらっ、と、すぐ目の前の空間が揺れた。
何だ。陽炎? さっき、男の剣を包んでいたような。
この位置は――数秒前、あいつの素振りが通過した――。
ぞわっと背中がそそけ立った。ユージオは両足を踏ん張り、突進を止めようとした。が、濡れた大理石の上だ、簡単に止まるものではない。
どかあっ!! と、凄まじい衝撃が、左肩から胸下へと抜けた。ユージオは突風に煽られた襤褸切れのように吹き飛ばされ、何回転もしながら宙を舞った。胸に刻まれた傷口から、大量の血液が真紅の螺旋を描いて流れるのが見えた。
背中から落下したのは、通路東側の浴槽の中だった。高く上がった水柱が収まるやいなや一瞬で周囲の湯が真っ赤に染まる。
「ぐはあっ!!」
喉奥に侵入した湯を吐き出すと、その飛沫にも薄い朱が混じっている。傷の一部は肺に達したようだ。もしあそこで僅かなりとも勢いを殺していなければ、体が両断されていてもおかしくない、それほどの衝撃だった。
「システム……コール」
ぜいぜいいう呼吸を懸命に抑え、切れ切れに治癒術を唱える。幸い、周囲には大量の湯がある。冷水に比べれば、遥かに大量の空間神聖力を蓄えているはずだ。とは言え、これほどの深手を短時間の施術で完治させることは不可能だが。
血止めをしながら、どうにか上半身を浴槽の縁に引っ張り上げたユージオを、遠くで振り返った騎士長が見た。すでに拾い上げた鞘に剣を収め、右腕を懐に戻している。
「おいおい危ねえなあ、まさかそんな勢いで突っ込んでくるとは思わなかったからよ……悪ぃな、殺しちまうとこだった」
呑気な台詞に、怒る余裕もなくユージオは掠れた声を絞り出した。
「い……今のは……一体」
「だから言ったろう、奥の手を使うってな。オレはただ空気を斬ったわけじゃねえぜ。言わば……ちょいと先の、未来を斬ったのよ」
男の言葉が、頭の奥で具体的な形をとるまでに少しの時間がかかった。湯のなかで、まるでそこだけに氷を押し付けられているかのような痺れをともなって疼く傷口の痛みが思考を妨げる。
未来を……斬るだって?
現象としては確かにそのとおりだ。騎士長が大剣を振り抜いてから、ユージオが突進するまでにたっぷり二十秒は経過したはずだ。しかし、問題の場所に踏み込んだとたん、過去から斬撃が襲ってきた、とでもいうかのようにユージオの体は手酷く切り裂かれた。
いや、より正確を期すならば、剣によって発生した斬撃の威力そのものが空中に留まっていた、と言うべきだろうか。吹き飛ばされる直前、ユージオはたしかに、空中にゆらゆらと揺れる力の軌跡のようなものが漂っているのを見た。つまるところ、あの男の剣が持つ能力は、攻撃が命中するために必要な、“その場所”を“その瞬間”に斬るというふたつの絶対条件のうち後者を拡張するのだ。拡げられる範囲がどれほどなのかはまだ不明であるが。
見た目には派手な現象は何一つ付随しないが、しかしこれは恐るべき力だ。あの剣が通った軌道がすべて、致命的な受傷圏として蓄積していってしまうのである。その広さは、しょせん時間と空間のごく限られた一点を重ねていくだけの連続剣技の比ではない。剣と剣での接近戦など、とても挑めない。
ならば、遠距離戦か。
騎士長の完全支配術は、時間は拡張できても距離までは伸ばせない。対して、青薔薇の剣が発生させる氷の蔓の射程は三十メルを超える。
問題は、この膨大な湯に満たされた場所で、ユージオの術式が本来の性能を発揮できるか、ということだ。発動から効果発生までに、多少の遅延があることは覚悟しなくてはならない。つまり、あの男を、氷薔薇の術の性質を見切っても射程外に逃れることができないぎりぎりの距離まで引き込む必要がある。
いちかばちかの勝負に出る肚を決め、ユージオは左手で胸の傷を探った。びりっと鋭い痛みが走るが、どうやら血は止まったらしい。無論完治には程遠く、天命は三分の一がとこ減少しているだろうが、まだ立てるし、剣だって振れる。
「システム……コール。エンハンス・ウェポン・アビリティ」
激しい水音に声を紛れさせ、ユージオは術式詠唱を開始した。騎士長ベルクーリは、それに気付いているのかいないのか、離れた床の上で腕組みをしたまま尚も緊張感のない口調で喋り続ける。
「オレが初めてその連続技ってやつを見たのは、整合騎士の任についてそう間もない頃でなぁ。最初は、そりゃあぐうの音も出ねえほどやられたさ。ほうほうの体で逃げ返ってから、なんで負けたのか悪い頭で随分と考えたもんだ」
ぐいっと指先で撫でた顎を横切る薄い傷痕は、その時のものなのだろうか。
「まあ、分かってみりゃあ難しい話じゃあなかったんだけどな。要は、オレの体に染み付いた剣術がただひたすら一撃の威力だけを追及したモンなのに対して、連続技ってのは如何にして敵の打ち込みを捌き、自分の攻撃を当てるかってことだけを突き詰めたモンなんだっつうことだわな。どちらがより実戦的なのかは言うまでもねえ。どれほど強烈な打ち込みだろうとも、当たらなきゃあちょいとそよ風が吹いたようなもんだしよ……」
ひん曲げた唇の端から、ふん、と短く息を吐き出す。
「――しかしそれが分かったところで、はいそうですかと連続剣技に宗旨変えできるほどオレは器用じゃねえんでなぁ。まったく、神サンも整合騎士を創るなら創るでなんでもうちっと便利なヤツにしなかったのかねぇ」
その言葉に、詠唱を続けながらもユージオは眉をしかめた。
やはりこの男も、整合騎士となる以前の記憶は存在しないのだ。しかし本人が忘れようとも、これほどの威丈夫にして剛剣士が、世の人々の記憶に残らぬなどということは有り得まい。いや、先刻の男の名乗りを聞いたときから、ユージオ自身も頭の片隅に何かが引っかかるもどかしさを感じている。ベルクーリ、間違いなくどこかで見聞きした名だ。四帝国統一大会の優勝者か……あるいは建国期の帝国代表騎士か……?
食い入るようなユージオの視線などどこ吹く風で、男は飄々と述懐を続ける。
「なもんでよ、足りねえ頭を捻って、どうすりゃあオレの剣が敵に当たるか三日ほど考え抜いてな。出した答えが、こいつよ」
すべてが鋼色の無骨な剣を、鞘のなかでかしゃりと鳴らす。
「この剣はもともと、セントラル・カセドラルの壁に据えられてた“時計”っつう神器の一部だったのよ。今じゃあ同じ場所にある鐘が音で時刻を知らせてるけどよ、大昔はその時計ってヤツが、丸く並べた数字を針で指してたんだぜ。なんでも、世界ができたその時から存在したっつう代物でよぉ……最高司祭殿は、しすてむ・くろっく、とか妙な呼び方をしてたなあ。司祭殿いわく、その時計は時間を示すに非ず、時間を創るのだ……ってな、意味はよく解らんがな。ともかく、その時計の針を丸ごと戴いて剣に打ち直したのがこいつって訳だ。出所はアリスの嬢ちゃんの剣と似てるが、あれがこう……横方向の広がりをぶった斬るのに対して、こいつは時間っつう縦方向を貫くのよ。銘は時穿剣……時を穿つ剣だ」
時計、なるものを具体的に思い描くことは難しかったが、男の言わんとするところはユージオにもどうにか理解できた。やはり、剣を振ったその瞬間発生した威力を、時間を貫いて保持する能力を持つのだ。それが可能ならば、アインクラッド流のように、何撃もの技を繋げる必要はまったくない。連続技がなぜ連続するのかと言えば、それは取りも直さず、斬撃の時間的な幅を広げるために他ならないからだ。ベルクーリの時穿剣が、単発技の攻撃力と、連続技の命中力を両立させるならば、その剣技はもはや絶対無敵だ――間合いのうちにおいては、であるが。
いみじくもベルクーリ本人が言ったように、やはり対抗する術はただひとつ、水平方向の広さで勝負するしかない。
と、ユージオが考えたのと同時に、騎士長もニヤリと笑った。
「となりゃあ遠隔攻撃だ、と考えるわけだな、オレの技を見た奴は」
ぎくっとする。しかし今更詠唱を止めることはできない。ユージオが遠距離攻撃を仕掛けることを読んでも、技の中身までを知る術はないはずだ。
「ファナティオを含め、整合騎士たちが必殺技に遠隔型のもんを選ぶ傾向があるのは、オレの剣を見ちまったせいってのも無くはねえだろうなぁ、あいつらはあれでなかなか負けず嫌いだからよ。しかし言っとくが、オレは連中との手合いで負けたことはいっぺんもねえぜ。もしオレに勝ったら、その時からそいつが騎士長だって言ってあるしな。ま、アリスの嬢ちゃんにはいつかやられるかもしんねえが……兎も角、オレも楽しみなのさ。連中を軒並み退けてきたお前さんの技が、どんな代物なのかよ」
「……余裕、ですね」
ようやく術式を、最後の一句を残して唱え終わり、ユージオはぼそりと呟いた。
実際、余裕そのものなのだ。ベルクーリが長広舌を披露したのは、間違いなく、ユージオに完全支配術を発動させる時間を与えるためだ。どのような技であろうとも、初見で破れるという確信がなければできないことだ。
そして、口惜しいことではあるが、ユージオにはたとえ氷薔薇の術がベルクーリを捉えても天命を削りきれるという確信はまるでなかった。もともと、敵の動きを止め、隙をつくることに特化した術なのだ。いや、それすらも完全には成功するまい。自由を奪えたとしても恐らく数秒――その時間をどう使うか、そこにこの攻撃の成否がかかっている。
全身から水滴をしたたらせながら、ユージオは立ち上がった。薄く塞がっただけの胸の傷がずきんずきんと疼く。次に同程度の斬撃を受ければもう動けない。
「ふっふ、来るかよ、少年。言っとくが、手加減するのはさっきの一振りで仕舞えだぜ」
時穿剣の鋼の柄をぐっと握り、騎士長は太く笑った。
二十メル離れた位置で、ユージオも青薔薇の剣を腰溜めに構えた。すでに刀身は硬く凍りつき、周囲を漂う湯気を一瞬にしてきらきら光る氷のチリへと変えていく。
キリトなら、ここで口上のひとつも切り返してみせるのだろうが、ユージオの口はからからに乾いてとても滑らかに回りそうにはなかった。最後の一句をしくじることのないよう、ごくりと唾をのみこんで、ユージオは低く呟いた。
「リリース……リコレクション」
ごっ!!
と足元から渦巻き、四方へ吹き荒れる冷気の中心で、ユージオは逆手に持ち替えた剣を思い切り床石へと突き立てた。
大理石の滑らかな表面を覆っていた水の膜が、一瞬にして鏡のように凍りつく。ばしばしと生木のひび割れるような音を立てながら、氷結域は前方に立つベルクーリ目掛けて拡大していく。
凍気は通路の左右で波打つ湯をも飲み込み、輝く氷に変えていくが、そのスピードは目に見えて遅い。やはり、一度の術で浴槽全体を凍結させるのはとても不可能だ。
全ての想念を右手だけに集中し、ユージオは一層強く剣を握り締めた。ぎゃいんっ! と硬質の咆哮を上げ、凍りついた床から無数の氷の棘が伸び上がる。
それらは、長槍兵隊の突撃のように、鋭い穂先を通路いっぱいに煌めかせてベルクーリに殺到した。圧力はかなりのもののはずだが、騎士長は口許をやや引き締めたのみで、ぐっと腰を落とし動こうとしなかった。左右の湯中に逃れる気は毛頭ないらしい。
その、巨大な砦のごとき立ち姿を見て、ユージオも覚悟を決めた。文字通り捨て身で掛からねば絶対に倒せない相手だ。床から青薔薇の剣を抜き、右手を鋭く振りながら開いて、再び握る。
空中を濃密に覆う氷霧のなかを、氷の槍衾を追って走り出す。ベルクーリが、数十本の氷柱を迎撃するときにできるであろう一瞬の猶予を利用して肉薄する作戦だ。
疾駆するユージオの姿も当然見えているだろうが、騎士長に動揺の気配は微塵もなかった。左右に広く足を開き、左腰で握った剣をぐぐうっと溜める。
「ぬうんっ!!」
太い気合が迸るや、横一文字に時穿剣の一薙ぎ。氷槍の陣が間合いに入るよりも一呼吸以上早く、刃は何もない宙を焦がしたのみだが、時穿剣には時間的間合いは関係ない。
約半秒後、がしゃああんっ!! と耳をつん裂くような硝子質の悲鳴を上げて、無数の氷柱が同時に砕け散った。直前にベルクーリが“置いた”斬撃を抜けた槍は一本もない。騎士長は憎らしいほどの余裕を持って、振りぬいた剣を上段に戻し、ユージオの追撃に備えた。
しかし、ユージオもついに己の間合いに敵を捉え、右手の得物を高く振りかぶった。周囲に幾重にも浮遊する氷柱の残片に天井からの光が反射し、視界を霞ませるが、それは敵も同じことだ。
「せああっ!!」
「おうっ!!」
ユージオとベルクーリの気合が同時に響いた。
ぼっ、と凄まじい圧力を伴って、真上から分厚い鋼が降ってくる。
まさに必殺の名に相応しい一撃だ。うなじから背中にかけてがざわっと総毛立つ。歯を食い縛り、己の斬撃を右斜めから合わせる。
ベルクーリの鈍色の軌跡と、ユージオの薄青い軌跡が交錯した。
その瞬間。
かしゃーん! と儚い悲鳴を放って、ユージオの握った“剣”が砕け散った。
ベルクーリの目がわずかに見開かれた。あまりの手応えの無さに驚愕したのだろう。ユージオの右手にも、剣が破砕するときの衝撃はほとんど伝わらなかった。
それも当然だ。ユージオは、突進を開始する直前、握った青薔薇の剣を右に放り投げ、傍に屹立していた氷柱の一本を折り取って剣の代わりにしていたのだ。
ベルクーリの上段斬りは、撃剣によってユージオが後ろに弾かれることを予想した軌道だった。しかし、氷柱が抵抗なく砕けたため、ユージオは突進の勢いを削がれることなく、ベルクーリの目算よりも一歩深く懐に潜り込んだ。
轟、と必殺の唸りを上げて、時穿剣がユージオの左腕を掠めて背後に流れた。
ユージオは、氷柱の残骸を握っていた右手を左手で抱えると、右肩から全突進力を乗せた体当たりをベルクーリの腹にぶちかました。アインクラッド流“体術”、メテオブレイクなる技だ。本来ならこのあとに左からの斬撃が続くが、もう剣は無い。
替わりに、ユージオは両手を広げ、騎士長の体に組み付いた。
「ぬおっ……」
さしもの巨漢も、二重に虚を衝かれ、ぐらりと体勢を崩した。これが最初で最後の機だ。
「うおおおお!!」
叫びながら、ユージオは全身の力を振り絞り、騎士長もろとも右の浴槽目掛けて体を投げ出した。ベルクーリは左足を踏ん張って堪えようとしたが、凍りついた床の上で素足が滑った。
体が宙に浮く感覚に続いて、着水の衝撃が体の右側を激しく打った。
しかしそんなものは、全身を包み込む殺人的な冷たさに比べたら些細なものだった。
「なっ……!?」
ユージオに組み付かれたまま、ベルクーリが三度目の驚愕に声を漏らした。つい先刻まで己が浸かっていた煮えるような湯が、いつのまにか凍る寸前の冷水に変わっているのだ、それは驚くだろう。
立ち上がろうとする巨漢を左手で懸命に抑えながら、ユージオは右手で浴槽の底を探った。確かにこの辺に投げたはず――。
緻密な目算と、もう半分は運に助けられ、指先が馴染んだ愛剣の柄に触れた。
「ぬうううおっ!!」
ユージオを振りほどき、ベルクーリが立ち上がりかけた。
それよりほんの一瞬先んじて、ユージオは水中で青薔薇の剣をしっかり握り、叫んだ。
「凍れええええっ!!」
びしいいいいっ!
と、数千の鞭を鳴らすような衝撃音が迅った。
完全支配状態の青薔薇の剣を投げこまれ、凍結寸前にまで冷却されていた巨大浴槽の水は、二人の剣士を飲み込んだまま一瞬にして硬く硬く凍りついた。
全身を数万本の針に刺されるような凄まじい冷気に、ユージオは思わず喘いだ。真冬のルーリッドの森に裸で立ってもこれほどの寒さは感じまい。目を閉じれば、肌に触れているのが氷なのか灼熱の炎なのか分からないほどだ。
瞼を覆い始めた霜を拭いたかったが、左手は浴槽深くでベルクーリの腹を押さえ、右手は青薔薇の剣を逆手に握った拳がようやく氷の表面から突き出した状態でそれぞれがっちりと固定されてしまっている。やむなく懸命に瞬きして薄い氷の膜を振り落とし、濃密な靄を透かしてユージオは敵の様子を確かめた。
ベルクーリも、ユージオと同じく首元ぎりぎりのところまでが完全に氷中に没していた。直前に体を起こそうとしたせいで、左手も、時穿剣を握った右手も浴槽の底に突いた状態だ。
眉や髭から垂れ下がった極小の氷柱をぱりぱりと鳴らしながら、騎士長は低く唸った。
「よもや、敵を前に剣を放り捨てる剣士がこの世に居ようとはな。お前ェ一人で編み出した戦い方か?」
「……いえ。師……相棒が教えてくれたことです。“戦場のあらゆる物が武器とも罠ともなり得る”」
余りの寒さに強張った口で、ユージオは短く答えた。ベルクーリはしばし目と口を閉じ、何事か考えていたが、やがて太い笑みを浮かべた。
「ふん、なるほど、“地の利”って奴か。一本取られたことは認めてやるぜ……だが、まだ負けてやるわけにはいかねえな」
すう、と息を吸い、溜める。
この状況で何をするつもりか、とユージオは緊張した。考えられるとすれば神聖術しかない。詠唱を始めたら、即座にこちらも対抗術の準備をする必要がある。
かっ、とベルクーリの目が見開かれた。
直後、食い縛った歯列の奥から、裂帛の気合が迸った。
「ぬうううううんっ!!」
たちまち、騎士長の額に太い血管が何本も浮かび上がる。わずかに露出した首元に、幾筋もの太い肉の束が盛り上がり、皮膚が真っ赤に昂ぶっていく。
「な……」
これにはユージオも唖然とした。ベルクーリは、肉体の力のみで無理矢理この分厚い氷を割ろうというのだ。
そんなことが出来るはずがない。体が自由で、充分な助走距離があったとしても、これだけの氷の塊を素手で破壊するのは困難を極めるだろう。翻って、騎士長は全身を毛一筋の隙間もなく固定されているのだ。
噛み合わされた白い歯が、ぎりりっ、と鋼が軋むような音を立てる。水色の双眸が、まるで自ら発光するかの如く、苛烈な輝きを帯びる。
氷点下の冷気の中にあって、それを上回る寒気がユージオの背筋を疾った。
ぴしり、とかすかな――しかし決定的な破砕音が鼓膜を撃つ。
直後、氷の滑らかな表面に、一筋の亀裂が刻まれた。すぐに、それから分岐してもう一筋。さらにもうひとつ。
やはり、眼前の威丈夫は、ただの人間ではないのだ。全世界の剣士から選りに選った猛者を集めた整合騎士の、さらにその頂点に立つ、つまりは地上において最強の男。恐らく百年、二百年の時を戦場の中で過ごしてきた、生ける伝説。そう、掛け値のない伝説なのだ。ベルクーリ、その名をどこで聞いたのか、ユージオは今になってようやく思い出しつつあった。
そのような敵と対峙しておきながら、一度裏を取っただけで勝った気になるのは勘違いも甚だしいというものだ。もとよりユージオも、敵と自分を氷漬けにしただけで優位に立てると思っていたわけではなかった。真に狙ったのはここから先、文字通りの、両者の天命の削り合いに持ち込むことだ。
いまだ完全支配状態下で、刀身を薄く輝かせる青薔薇の剣の柄をしっかり握り、ユージオは意識を集中した。大きく息を吸い、叫ぶ。
「咲け――青薔薇!!」
びきびきびきっ――!
と、硬く凝るような音を立てて、幾つもの透明な“蕾”が、刀身を中心にして氷面に突き出した。それらは回転しながらほころび、剃刀のごとく薄く透き通った蒼い花びらを広げていく。
一輪の氷薔薇が、鈴に似た音を立てながら満開になったのに続いて、無数の――それこそ数百、数千の薔薇が凍りついた浴槽全体に一気に広がった。途方もなく美しく、しかし冷酷な美の饗宴だ。なぜなら、これら膨大な青薔薇たちは、ユージオとベルクーリの天命を吸って咲き誇っているのだから。
全身から力が抜け、視界さえも薄暗くなるのをユージオは感じた。最早冷たさはおろか、肌に触れる氷の硬ささえも感じられない。ただただ、痺れるような無感覚さが体を包む。
さしものベルクーリも、いまにも氷の獄を割ろうとしていた四肢の力を根こそぎ奪われたようで、上気していた肌がみるみる白く血の気を失っていくのが見て取れた。いかつい顔が初めて大きく歪む。
「小僧……手前ェ……端っから、相討ち狙い、だったのかよ」
「勘違い……しないで、ください」
力の入らない喉から、ユージオは掠れた声を絞り出した。
「僕が……貴方に優れるかもしれない唯一の要素……それは、天命の……総量です。ファナティオさんは……僕の相棒と、ほぼ同じ傷を負い、同じように倒れた……つまり、老いて死ぬことのない、整合騎士と言えども、天命の量そのものは僕らと変わらない……ということです」
口を動かすあいだにも、幾重にも咲き誇る氷の薔薇たちからは、きらきらと輝く冷気の粒が銀砂を撒くように筋を作って流れ出ている。少し前から、湯の流れ落ちる轟音が聞こえなくなっているのは、あの幾つもの滝がすべて凍りついた証だろう。
最早、ベルクーリも、ユージオも、口と鼻のまわりだけを残して氷の膜に覆われている。今ステイシアの窓を開けば、天命の数字が恐るべき速さで減少しているのが見えるはずだ。不意に襲ってきた、途方も無い眠気を振り払うために、ユージオは懸命に言葉を続ける。
「……外見からして、貴方が整合騎士になったのは、四十歳を越えてからのはずだ。対して、僕は今が天命の自然増のほぼ頂点……例え一太刀受けていても、総量ならまだ優っているはず、それに賭けたのです」
ユージオがそう言い終わるか終わらないうちに、ベルクーリの巌のような相貌が――。
くわっ! と、鬼神の如く昂じた。額と鼻筋から下がっていた氷柱が、ばりんと一斉に割れ飛ぶ。
「手前ェ……今、何て言った」
最早意識を保っているのも辛い状況で、騎士長の瞳がぎらりと強烈に光った。
「整合騎士に……なった、だと? まるで、オレたちの“それ以前”を知ってるような口を叩くじゃねえか」
ユージオは、一度瞼を閉じてから、全身全霊を込めた視線を相手にぶつけた。
「僕が……あんた達を嫌いなのは、まさにそこですよ」
腹の底からかあっと湧き上がってくる激情が、一瞬にせよ虚脱感を上回る。
「自分が何者なのかも知らず……その剣を捧げた相手の真の姿も知らずに……自分たちだけが正義の、法の守護者だという顔をする!! ベルクーリ……あんたは、アドミニストレータが天界から召還した神の騎士なんかじゃない! 人の母親から生まれた、ただの人間なんだ……あんたはこの剣に、見覚えがあるはずだ!!」
今や持てる能力を完全解放し、冴えざえとした蒼光を放つ青薔薇の剣をベルクーリに示す。
整合騎士の長、そして数百年前の御伽話の英雄は、ちらりと視線を青薔薇の剣の精緻な鍔の細工に落とした。
そして、ぐっと歯を食い縛った。
「……確かに……どこかで……。あれか……あの時か。北辺の守護竜を殺した時……彼奴の棲家に、たしかその長剣が……」
ごく低く漏れ出でたベルクーリの声に、今度はユージオが息を飲んだ。
「殺した……だって? あの竜の骨……あれは、あんたの仕業なのか? あんた……自分の……物語の竜を、殺したのか」
ぐうっと胸を衝き上げてくる、得体の知れぬ感情のうねりに、ユージオは激しく首を振った。こんな状況なのに何故か、両目に熱く滲むものがあった。
「ほんとうに忘れてしまったんですか……何もかも……。ベルクーリ、あんたはね、僕が生まれたルーリッドって村では、年寄りも子供も誰だって知ってる英雄なんですよ。央都からの長く辛い旅の末に村を拓いた、僕らのご先祖様なんだ。アドミニストレータはそんなあんたを拉致し、記憶を封じて整合騎士に仕立てた。あんたの剣の腕だけを自分の世界支配に都合よく役立てるためにね! あんただけじゃない、ファナティオさんも……エルドリエさんも、アリスだって、みんなそうなんだ。みんな、整合騎士にさせられる以前は、僕らと同じ……人間だったんだ……」
「記憶……を、封じた、だと……」
これまで、一度たりとも揺るがなかったベルクーリの両眼が、どこか遠くを見通そうとするかのように泳いだ。
「……オレも……“シンセサイズの秘儀”にはどこか胡散臭いものを感じていた……最高司祭殿の為政が……すでに限界に来ていることも……分かっちゃ……いたんだ……」
ベルクーリの顔を、ふたたび白い霜が厚く覆いつつあった。ユージオの頬を流れた涙もすでに二本の氷柱へと姿を変え、いっときの激情もまた青薔薇の根に吸われてしまったかのように虚ろな無力感へと変化しつつある。
幼い頃から何度も聞かされて育った、“ベルクーリと白い竜”の御伽話――その主役たる英雄が、もう一方の主人公である竜を冷酷にも惨殺していたのだという事実は、ユージオに言いようの無い喪失感をもたらした。アドミニストレータの権力は、予想を遥かに超える強大な代物だったのだ。大昔の英雄でさえ容易く洗脳し、自分の忠実な手駒にしてしまっている。そのような敵を相手に、いったい二人の剣士見習いが、何を出来るというのだろうか……。
自分の天命が残り僅かであることを、ユージオは痺れた思考の中で感じた。ベルクーリも同様だろう。氷の奥で半眼に俯いた瞳からは、生気の光がほとんど消えつつある。
殺してしまっていいのか?
疼くような迷いが、頭の芯でほのかに明滅する。それをしてしまったら、結局自分も整合騎士と何ら変わることのない存在になってしまうのではないか。そんな逡巡に、青薔薇の剣を握るユージオの右手が、わずかに緩んだ。
その時だった。
「ほおぉーお、これは絶景、絶景」
鉄鍋をフォークで引っ掻くような、甲高く耳障りな声がきんきんと響いた。
ユージオが霞む目を動かすと、大浴場の入り口に、奇妙なモノがいた。
丸っこい。ほとんど球形近くまで膨らんだ胴体に、冗談のように短い手足がついている。首はまったく存在せず、これまた真ん丸い頭がころんと乗っている。まるで、冬に子供が作る雪人形のようだ。
しかし、着ている服は目が痛くなるような極彩色だった。右側が真っ赤、左側が真っ青な光沢のある衣装を纏い、ぱんぱんに膨れた腹に金色のボタンがかろうじて留まっている。ズボンも同じく左右で違う色、ご丁寧に靴まで同じだ。
丸い頭には毛の一本もなく、つるりとしたてっぺんに金色の角張った帽子が載っている。大図書室にいたカーディナル前最高司祭の帽子と形は似ているが、悪趣味さは遥かに上だ。それを含めても、身長は一メル半足らずだろう。
ルーリッドの村に、毎年夏になると巡業にやってくる旅芸人の一座にも、同じような格好をした道化の玉乗りがいた。しかし、そのような心和む存在ではないのは、小男の顔を見れば明らかだった。
年齢はまったくわからない。肌は異様に白く、丸い鼻、弛んだ頬、やけに紅い唇が左右に大きくニタリと裂けている。眼は半月形に細長く、まるでにこにこ笑っているような弧を描いているが、その隙間から覗く眼光はどこか怖気を催すものがあった。
赤と青の服を来た道化は、ぴょんぴょんと跳ねるように大理石の床を横切り、氷結した浴槽に高いところから飛び降りた。つま先のとんがった左右の靴が、二輪の氷薔薇をがしゃりと踏み潰す。
「ホ、ホオーッ! ホオッ、ホオッ、ホオッ!」
何が面白いのか、丸い小男はしばし短い両手を叩いて軋るように笑うと、次々に周囲の薔薇の花を蹴散らして硝子の小片へと変えていった。そのまま、がしゃがしゃと騒々しい音を振り撒きながら、氷の中に捕われたユージオとベルクーリのほうへとやってくる。
数メル先で立ち止まり、最後に一つ薔薇を蹴り割ってから、ようやく小男はユージオたちのほうを見た。にたっ、と唇が裂け、再びあの不快な声が鳴り響く。
「いけません……いけませんねえ、騎士長殿。まさか、そのままくたばる気ですかねえ。それは明白な反逆ですよう、我らが最高司祭様への。猊下がお目覚めになられましたら、きっとお嘆きになりますよう?」
ほぼ完全に凍り付いたベルクーリの唇がかすかに震え、しわがれた声が流れ出た。
「貴様……元老チュデルキン……手前ェごとき俗物が……騎士の戦いに、口を出すんじゃねえ……」
「ホオ、ホオーッ!」
ベルクーリの言葉を聞いた道化風の小男は、再び両手を叩きながら跳び上がった。
「騎士の! 戦い! 笑わせてくれますねえ、ホオホオホオッ!」
きしきし、と人間のものとも思えぬ甲高い笑い声を振り撒く。
「忌むべき背教者を相手に、手心を加えておいてよく言いますよう! 騎士長殿、あなた時穿剣の“裏”を使いませんでしたねえ、その気になればそのガキを、一言も喋らせずにぶっ殺せたというのに! それがすでに教会への反逆だって言ってるンですよう!!」
「うるせえ……オレは……全力で戦った……それに、手前ェ、オレを謀りやがった……な。この小僧は……闇の国の手先……なんかじゃ、ねえ。手前ェみてえな醜い肉ッコロより……よっぽど、まともな、人間……」
「うっさァァァァァい! その首ひっこ抜くぞォォォォォッ」
突然両目を真ん丸く剥き出し、小男は躍り上がるように跳ねると、短い両足でベルクーリの頭を思い切り踏みつけた。そのまま器用に体勢を保ちながら、左右にゆらゆら丸い体を揺らす。
「だいたいオマエら糞騎士どもが糞程にも役立ちゃしねえからこんな面倒なことになってんですよう。たかだかガキ二人に良いようにやられまくって、アタシゃ笑いすぎて腹が破けちまいますよう。もうね、猊下がお目覚めになったら、騎士ども軒並み……少なくとも、オマエと副官の男女は再処理決定ですよう」
「なんだ……手前ェ、いったい……何を、言って……」
「ああもう、うっさい。いいから眠っときなさい」
小男は、ベルクーリの頭に乗ったまま気取った仕草で右手の小指を突き出し、真っ赤な舌でべろりと唇を舐めると叫んだ。
「システム・コール! ディープ・フリーズ・インテグレータ・ユニット・ゼロ・ゼロ・ワン!」
まったく聞いたことのない神聖術だった。しかし式は非常に短く、大した威力は無いと予想された。のだが――。
「ぐ……」
ベルクーリが低くうめいた。直後、その体がみるみる奇妙な灰色に染まっていくのを見て、ユージオは驚愕した。凍り付く、というよりも、まるで石の彫像の変わっていくかのように肌が生気を失っていく。
眼が光を失い、髪の先までもが鈍い泥のような色に変わりきったところで、ようやく小男……元老チュデルキンと呼ばれた道化は、騎士長の頭からぴょんと飛び降りた。
「ホヒ、ホヒッ……実際、もうオマエみたいなジジィは要らねえんですよう。使えそうなコマも見つかったことですしねえ」
そう呟いた小男の、針穴のように小さな瞳孔がじろりとユージオを見下ろした。背中を、ある種の――素足でノビヌル虫を踏み潰してしまったときのような怖気が這いまわる。
しかしそこで、ユージオの意識にも限界が来た。急速に暗くなっていく視界の中、氷の薔薇の上を選んでがっしゃがっしゃと踏み潰しながら近づいてくる赤と青の靴がぼんやりと見えた。
突然、激しい身震いに襲われ、俺は驚いて瞼を開けた。
眼を閉じて横になっているだけのつもりが、いつのまにか寝入ってしまったのだろうか。怖い夢を見て飛び起きたとたんに夢の内容を忘れてしまった、とでも言うかのように、頭の内側に焦燥感の余韻だけが色濃くこびり付いている。
上体を起こしながらちらりと周囲を確認したが、変わったことは何一つなさそうだった。
セントラル・カセドラルの、たぶん八十八階西側外壁に設えられたテラス上だ。太陽はずいぶん前に地平線下に没し、頭上は墨を刷いたような闇に覆われている。しかしどれだけ首を巡らせても、黒いちぎれ雲の隙間から幾つかの星が見えるのみで、待ち望む月の姿はない。しばらく前に八時の鐘が遠く聞こえた気がするので、ルナリア神がささやかなリソースの下賜を始めるまでにはまだ二時間近く間があるだろう。
黄金の整合騎士アリスは、俺への疑心を距離で表現しているのか、これ以上左に動くと新たな守護石像ドローンの索敵範囲に入ってしまうというギリギリのところに膝をかかえて座り、瞼を閉じていた。俺としては、この待ち時間を利用してわずかなりとも彼女を説得し、来るべき戦闘を回避する糸口を掴んでおきたいところだが、騎士様には世間話にすら応じるつもりはさらさら無いらしい。この場にユージオも居れば、彼の持つカーディナル謹製の短剣をちくりと刺して問題解決なのだが。
そのユージオは今ごろどうしているのか――。
考えてみると、ルーリッドの南の森であいつと出会ってからのこの二年半で、会おうと思っても会えないという状況に陥ったのはこれが初めてかもしれない。央都までの長い旅路では草枕を並べたり安宿の狭い寝床を半分ずつにして文句を言い合ったりのしどおしだったし、修剣学院に籍を得てからも寮では常に同室だった。お陰で、俺の悪態だの唆しをあいつが苦笑とともに諌めるというパターンが染み付いてしまって、引き離されると妙に心許ない。
いや、ことはもうそんな単純な話ではないのだろう、恐らく。
このアンダーワールドという異常かつ究極の仮想世界において、俺は生まれて初めて、同性の親友と呼べる存在を得たのだ。面映いことだが、それだけは認めなくてはなるまい。
デスゲームSAOに囚われる以前の俺は、同年代の少年たちを幼稚な子供と見なし、ネットの中で歳を上に偽って悦に入るという甚だ救いがたいガキだったし、それはSAOという獄に繋がれてからも大して変わらなかったろう。クラインやエギルといった、非常に人間の出来た大人達のお陰で幸いにも彼らと友誼を結ぶことはできたが、それでも彼らに腹の底までを曝け出すことは無かったように思う。俺のその度し難い傾向は、あれほど深く求め合ったアスナの前でも変わらなかったのだ。彼女に俺のほんとうの年齢と内面の弱さを吐露できたのは、アインクラッドが崩壊し、二人の意識がまさに消え去ろうというその直前だったのだから。
俺は、自分に何か人と違う特別な能力が備わっているなんて思っちゃいない。実際、SAO以前は運動面でも学業面でも何一つ人に優る部分など無かった。まして人格においてをや。
それが、SAOの虜囚となった途端トップ数パーセントに含まれるプレイヤーにランク付けされてしまい、おそらく俺は、“抜きん出る”ことの甘美さに深く魅了されてしまったのだろう。俺をトップに押し上げる要因となったのは、NERDLES技術が開発された当時からダイレクトVRワールドに耽溺したという習熟と、SAOのベータテストに狂ったようにダイブしまくった経験という、本人の能力とは何の関係もない代物だけだったにもかかわらず。
しかし、以来俺は――SAOから解放されたその後でさえ――“VRワールドにおける強さ”を誇示せずには自分というペルソナを保てなくなってしまった。周囲の人たちは俺を、生身の虚弱な桐ヶ谷和人ではなくSAOをクリアした剣士キリトとしてより強く認識しているだろうし、むしろそうなるように俺自身が無意識のうちに誘導していたことも否定できない。そのような虚飾を積み重ねれば重ねるほど、己が大事な人たちから遠ざかっていくのだと、心の底では解っていたというのに。
だから、この世界でユージオと出会い、いつしか彼の前では何一つ飾らない素の自分を曝け出していることに気付いたとき、俺は驚き、なぜそうなのかと考えた。ユージオが俺とは異なる人工フラクトライトだから? 彼はSAOの英雄キリトを知らないから? いや、そうではない。理由はただ一つ――ユージオが、このアンダーワールドという、ある意味では現実だが同時に厳然とした仮想世界において、俺を遥か上回る能力を備えているからなのだ。
彼の、剣の天分は凄まじいの一言だ。知覚力、判断力、反応速度、どれを取ってもVRワールドで散々戦ってきた俺を大きく引き離している。俺のフラクトライトに装備された戦闘回路を、旧世代のシリコン半導体CPUに喩えれば、ユージオのそれは最新のダイヤモンドCPUだ。現状ではまだ俺が指導めいたことをしてはいるが、その理由は単に俺のほうがより多い経験と知識を蓄えているからというだけにすぎない。いまのペースでユージオが腕を磨いていけば、立場が逆転する日はそう遠くあるまい。
“アインクラッド流”なる珍妙な名前をつけてしまったが、俺がこれまでのVRMMOダイブ経験において身につけた広範な戦術を、砂が水を吸収するかのように猛烈なスピードで我が物にしていくユージオの成長ぶりには、かつて覚えのない深い喜びと充足を感じずにはいられなかった。俺が長いあいだ、自我の拠り所としつつも同時に所詮はゲームの巧さでしかないことに忸怩とせざるを得なかった“剣技”が、ユージオの中で磨かれ花開くことで、はじめて本物になれたのだ、そんなふうにさえ思える。
アンダーワールドを取り巻く問題を全て解決し、ユージオのフラクトライトを首尾よく現実世界に移行させることができたら、彼をALOにダイブさせ――ライトキューブのインタフェースには、ザ・シード準拠のVRワールドとI/Oの互換性があることはほぼ間違いない――、皆に紹介しよう。俺の剣技を受け継ぎ、俺を超えた、一番弟子にして親友なのだ、と。その瞬間が待ち遠しくてたまらない。恐らくその時はじめて、俺は俺を気にかけてくれた人たちと、ほんとうの意味で――
「何をニヤニヤしているのですか」
不意に左隣から声をかけられ、俺は目をしばたいて夢想を中断した。
顔を向けると、アリスが薄気味悪そうな顔で俺を眺めていた。俺はあわてて右手の甲で口許のあたりをごしごし擦り、言った。
「いや、ちょっと……今後のことなどあれこれ考えてて……」
「それであんな緩んだ笑い方ができるのは、よほどの楽天家か、よほどの考え足らずのどちらかですね。ここからの脱出さえ覚束ない状況だというのに」
相も変わらぬ辛辣な舌鋒だ。アリスの元人格を俺は知らないが、キャラクターがこのまま変わらないなら、彼女をユージオと一緒に脱出させて現実世界で皆に引き合わせたとして、シノンやリズベットあたりと相当激しく角突き合わせることになるのは想像に難くない。
もっとも、確かにそんな究極グッドエンドめいた想像を繰り広げる前に、解決せねばならない諸問題が目の前に山積していることは事実だ。最優先なのは、この気色悪い石像ばかりが並ぶ岩棚からの脱出であるが、そのために必要な空間リソースの不足もさることながら、俺の気力リソース、具体的には腹に詰め込むべき何かの不足もそろそろ限界に達しつつある。
空を見上げつつ右手で腹のあたりを押さえ、俺は可能な限り真面目な顔と声で答えた。
「脱出のほうは、月が昇れば再開できると思うよ。ハーケンを作って地道に登っていけばいいんだし、この上にはもうドローンも置いてないみたいだしな。ただ、この絶壁をよじ登ると考えただけで目が回りそうなくらいハラが減ったという問題はあるが」
「……お前のそういう所が不真面目だというのです。一度や二度食事が取れないくらいなんですか、子供じゃあるまいし」
「あーあー、どうせ子供ですよ、こちとらまだぎりぎり育ち盛りの範疇なもんでね。天命ががっちり保護されてる整合騎士様と違って、食わなきゃ数字ががんがん減るんだ」
「言っておきますが、整合騎士とてお腹はすくし食べねば消耗します!」
きっ、と眦を吊り上げてアリスはそう言い放った。とたん、くう、という可愛らしい音が彼女の腹部辺りから発生し、俺は思わずふひっと笑いをこぼしてしまった。
騎士様の顔がさっと赤くなり、次いで右手ががしっと剣の柄を握るのを見て、慌てて両手を前に出す。
「うわ、待った、悪かった! そりゃそうだな、整合騎士と言えども生きてるんだものな、生きてるっていいなあ!」
白々しい弁解を並べながら身を縮めると、ズボンの左ポケットに何かが押し込まれている感触に気付いた。はて何を入れたのかな、と手をつっこみ、指先が触れたものの正体に気付いて、己の抜け目無さと意地汚さに感謝する。
「おお、天の助けだ。ほら、いいものがあったぞ」
引っ張り出したのは、二つの小さな蒸し饅頭だった。カーディナルの大図書室から退出するときに両ポケットに失敬しておいたやつだ。半分は昼にユージオと食べたが、残りのことをすっかり忘れていた。幾多の激戦を経て多少ひしゃげているが、この状況下で贅沢を言ってはいられない。
「……なんでそんなものをポケットに入れているのです」
アリスは呆れ返ったように脱力し、剣から手を離した。
「ポケットを叩けば饅頭が二つだ」
間違いなくアリスには理解できないだろうフレーズで煙に巻きながら、俺は饅頭の窓を引き出し、その天命が十分残されていることを確かめた。見た目はみすぼらしいが、カーディナル様が貴重な古代書オブジェクトから生成した代物だけあって、デュラビリティは驚くほど高い。
しかし、さすがに冷えて固くなっているそれをそのまま齧っても美味くあるまい。俺は少し考えてから、左手を広げ、コマンドを唱えた。
「システム・コール、ジェネレート・サーマル・エレメント」
オブジェクト生成には足りなくとも、炎素をひとつ作るくらいの空間リソースは残っていたようで、頼りなく瞬くオレンジ色の点が掌中に発生する。右手に掴んだ二つの饅頭をそこに近づけ、続くコマンドを口にする。
「バー……」
スト、と続ける前に、横合いから伸びた手がびしっと俺の口を押さえた。
「むぐ!?」
「馬鹿ですかお前は! そんなことをしたら、一瞬で黒焦げです!」
怒りと呆れと蔑みを等分ずつ瞳に浮かべ、アリスはそう罵ると、ぱっと俺の手から饅頭を攫っていった。ああっ、と情けない声を出す俺にはもう目もくれず、しなやかな左手をひらめかせると、神聖術を歌うように口ずさむ。
「ジェネレート・サーマル・エレメント、アクウィアス・エレメント、エアリアル・エレメント」
親指から中指までの三本の指先に、それぞれ橙、水色、緑色の光点がともる。何をするつもりか、と首を傾げていると、アリスはさらに術式と指の動きで、複雑な操作を加えた。まず風素で球形の空気の渦を作り、二個の饅頭をその中に浮かべる。次いで、炎素と水素もそこに投じ、それらが触れ合った瞬間、解放する。
しゅっ! という音とともに、風のバリアの中はたちまち真っ白な湯気で充満した。見た目には何ということはなさそうな現象だが、バリア内部は高温の蒸気が渦巻いているはずだ。なるほどこれなら、蒸し器を使うのと同じ効果を発生させられるというわけだ。
三十秒ほどで三つのエレメントはその寿命を終え、ふわりと溶けて消えた。流れた蒸気の中からアリスの篭手に転げ落ちてきた二つの饅頭は、まるで出来たてのようにふわりと膨らみ、ほかほかと湯気を立てていた。たまらず、口中に湧いた生唾を飲み下す。
「は、早くくれ……ギャアアア!?」
手を伸ばしかけた俺は、アリスが両手に持った饅頭をふたつ同時にかぶりつこうとするのを見て、情けない悲鳴を発した。しかし幸い、整合騎士殿は直前で口を停止させ、面白くもなさそうな顔で冗談ですとつぶやいて、片方をぐいっと突き出してきた。胸をなでおろしながら素早く受け取り、あちあちとお手玉してから大きく齧りつく。
アンダーワールドはそのクオリティにおいて現実世界にまったく劣るものではない、と分かってはいるが、蒸したての肉饅頭の皮のやわらかさ、溢れ出す熱い汁気、餡のとろける舌触りは、俺をしばし桃源郷へといざなった。とはいえわずか二口で貴重な食料は胃へと――正しくはフラクトライトの記憶野へと還元されてしまい、充足感と物足りなさを同時に味わいながら、俺はふうーっと長い息をついた。
隣でアリスも、こちらは三口で饅頭を平らげ、俺と同じように切なげなため息を小さく漏らした。俺は、戦闘の権化のような黄金騎士様にもそれなりに女の子らしいところはあるのだ、とある種の感慨を覚えながらつぶやいた。
「なるほどね……道具も何もなしにあんな調理ができるとは思わなかったな。さすがはあの料理上手の妹さんのお姉さん、という所かな……」
言い終わらないうちに、またしても横から伸びてきた手が、俺の襟首をがしっと掴んだ。
だが今度は、アリスの顔に浮かんでいるのは、青白い炎にも似た激昂の色だった。瑠璃色の瞳から飛び散った火花が、俺の眼から脳天までを貫いたような気さえした。
「お前……いま、何と言いました」
ここでようやく俺も、自分が、とてつもない失言をしてしまったのだということを遅まきながら自覚した。
十センチの至近距離から俺を睨んでいる黄金の整合騎士が、ユージオの幼馴染にしてルーリッドの修道女見習いシルカの姉、アリス・ツーベルクであることはほぼ間違いないのだが、本人にその記憶はない。九年前に教会に拉致され、“シンセサイズの秘儀”によって整合騎士に仕立てられた際、フラクトライトを改変されてそれ以前のことを一切合財思い出せなくなってしまったからだ。
今のアリスは、己が世界の平和と秩序を保ち、闇の侵略と戦うために神界から召還された騎士だと信じて、いや、そう思い込まされている。彼女にとって、神聖教会と最高司祭アドミニストレータの権威は絶対であり、そのアドミニストレータが、己の支配欲を満たすという目的のためだけに世界各地から秀でた人間を拉致しては手駒に改造しているのだ、などという説明は到底受け入れられるものではないだろう。
そもそも、どれほど言葉を尽くそうと、それだけではアリスの説得は不可能であろうと予測したからこそ、俺とユージオはカーディナルに与えられた短剣を使い、アリスを一時凍結させるという作戦を立てたのだ。今の状況は決して予定されたものではないが、それでも、俺のすべきことはただ一つ――アリスとの戦闘を回避しつつ再びユージオと合流し、彼の持つ短剣を使うチャンスを作り出すことだったはずだ。
考えなしの一言でその可能性をぶち壊しつつあるという焦りのなかで、俺は、必死に欠陥だらけの脳味噌を回転させた。アリスの表情を見れば、もはや言い間違いで押し通せる状況ではないことは明らかだ。
どう考えても、出来ることは二つしかなさそうだった。アリスとこの場で戦い、致命傷を負わせることなく気絶させて最上層まで運ぶか――あるいは、覚悟を決めて全てを話すか。
どちらを選ぶかは、アリスの何を信じるかによる。彼女の剣技が俺より劣ると信じるなら戦闘を、彼女の知性が俺より優ると信じるなら対話を。
数秒間の苦慮ののち、俺は決断を下し、襟首を吊り上げるアリスの烈火の如き視線を受け止めながら口を開いた。
「君には妹がいる、そう言ったんだ。話すよ……君が受け入れるかどうかは分からないけど、俺が事実と信じることのすべてを」
どうせ賭けるなら、相手が俺の予想を上回って優れていると思う部分に賭けたい、そう考えた俺の言葉に何がしかのものを感じたのか、今度はアリスが数秒間逡巡したあと、いきなり右手を開いた。
どすっと尻餅をついて落下した俺を、両膝立ちのまま高所から凝視する。恐らく、俺の言葉を聞く、という行為それ自体がすでに整合騎士としての範を外れるのだろう。彼女の中では、俺を一刀のもとに斬り伏せるべきだという衝動、いや命令と、自分の知らないことを知りたいと思う気持ちがせめぎあっているはずだ。
「……話しなさい。ただし……お前の言葉が、私を謀るものだと判断したら、その時点で斬ります」
低く押し潰したようなアリスの声に、俺は長く息を吸い込んで肚に力を溜めてから、ゆっくり頷いた。
「……いいよ、その判断が、真に君自身の心から出たものならな。なぜそんなことを言うかというと……君の中には、君以外の人間に植え付けられた後付けの命令が存在するからだ」
「……整合騎士の責務のことを指してそう言っているのですか、お前は」
「そのとおりだ」
頷いたとたん、アリスの水色の瞳がすうっと危険に細まる。しかし同時に、そこには隠せない感情の揺らぎも見てとれる。その揺れている部分こそが、アリス本来の心だろう。それに向けて語りかけるべく、俺は言葉を続ける。
「整合騎士は、神の代行者たる教会最高司祭アドミニストレータによって、秩序と正義を維持するために神界から召還されたものだ――と君たちは認識しているはずだ。しかし、そう信じているのは、実はこの世界では君たち整合騎士だけなんだ。世界に暮らす数万の一般民も、そして教会の司祭たち、当の最高司祭様だって、そんなことは思っちゃいない」
「何を……馬鹿なことを」
「誰でもいいぜ、今下界に降りて、央都の住民をつかまえてこう尋ねてみろよ。数年ごとに開催される四帝国統一武術大会の優勝者に与えられるものは何だ、ってな。そいつはこう答える。“決まってるさ、教会の整合騎士に任じられる栄誉に浴することだ”」
「整合騎士に……任じられる? 一般民が……? あるはずがない、そんな愚かしいこと。私は多くの騎士たちと日々接していますが、誰ひとりとして、もとは人間だったという者など居りません」
「逆だ。誰ひとり、もとは人間でなかったものなど居ないんだ」
俺は壁に預けていた上体を起こし、アリスの瞳を覗き込んだ。そこに必ずあるはずの、アリスの人間部分に向かって懸命に言葉を投げかける。
「君は、自分が神界とやらでどうやって生まれて育ったか覚えていないはずだ。最初の記憶は、アドミニストレータが君に向かって、あなたは天から使わされた神の騎士なのです、とか何とか話し掛ける場面だろう」
「…………」
図星だったらしく、アリスは僅かに体を引きながら軽く唇を噛んだ。
「……それは……神界の住人は、地上に遣わされた時点でステイシア神によって記憶を封じられるから、と……いつか地上全てに神の楽土を出来させ、整合騎士の責務を全うしたその時には、再び神の国に迎えられて封じられた記憶を……私の両親、きょうだいたちのことを全て思い出せると……」
黄金騎士の毅然たる声が、尻すぼみに揺れて消えた。
そこだ、と俺は直感的に思った。アリスは家族の記憶を、本人も自覚できない心の深奥で求めている。だからさっき、俺が口にしたシルカの名前に、激発的に反応したのだ。
「アドミニストレータの言っていることはごく一部だけ正しい。確かに君は記憶を封じられている。だがそれをしたのはステイシア神じゃなく、アドミニストレータ本人だ。そして封じられているのは神界の記憶じゃなく、君がこの人の世界で人の子として生まれ育ったという記憶なんだ。君以外の整合騎士……君の弟子のエルドリエだってそうだ。彼は帝国貴族の嫡子で、数年前の統一武術大会で優勝し、整合騎士になるという栄誉を得た。でも、それは本当に栄誉だったのか……エルドリエが俺たちとの戦闘中に倒れたのは、斬られたからじゃないぜ。彼の体に傷は無かっただろう。俺の相棒が、エルドリエの封印された“前世”を憶えていたせいで……エルドリエは、アドミニストレータに封印、いや奪われた、お母さんの記憶を刺激されてしまったんだ。でも、どうしても思い出せなかった、だから倒れた。当然だ、その記憶は、アドミニストレータが抜き出して保管しているんだからな」
「エルドリエが……人間の……貴族の子だと……?」
アリスの唇が一瞬わなないた。
「エルドリエだけじゃない。整合騎士の半分以上は大会で優勝した剣の達人だし……あくまで人間の、だぜ……その大部分が、幼い頃から剣技を習える環境にあった貴族の子女のはずだ。貴族たちは、子供を永遠に奪われるかわりに多大な金品と地位を得ている。そんな仕組みがもう何十年、何百年と続いているんだ」
「……信じられない……とても受け入れがたい」
これまで、教会と騎士の神聖さ、無謬を信じて疑わなかった黄金の騎士は、いやいやをするように首を左右に振った。
「私は……人間の貴族どもの、唾棄すべき行いをよく知っています。彼らは……禁忌目録に書かれていないあらゆる非道に手を染めている。司祭様は……ダークテリトリーを平定した暁には、腐敗した貴族たちも一掃すると……なのに……エルドリエの、他の騎士たちの親が、あの汚らわしい貴族だなどと……有り得ない。信じることはできません」
「その実証例を、君だって知っているはずだ」
俺はさらに身を乗り出し、詰め寄った。
「整合騎士見習いのアーシンとビステンを知っているだろう。あの子供たちは、もとは修道士見習いとして教会に入った貴族の子供だ。なのに、整合騎士を斬り殺して騎士見習いに取り立てられた。彼らは毒のナイフを使って俺たちも殺そうとしたよ。彼らこそ、整合騎士に必要なのは正義でも高潔さでもなく、ただの戦闘能力のみであるという証拠だろう」
「あの……二人は、あくまで例外で……騎士になれば、正しき秩序の守護者として目覚めるはずだと……」
苦しそうにそう口にするアリスの言葉に、俺は自分の声を被せる。
「そうだろうさ、アドミニストレータがそれまでの記憶を封じ、偽の記憶を埋め込んで騎士に仕立て上げるんだからな。恐らくその時点で、あの子供たちだけでなく、君達ほかの整合騎士全員の記憶も操作されるはずだ。アーシンとビステンが人間の子供だったということは忘れ、彼らもまた神界から召還されたのだと信じこまされる」
「馬鹿な!」
アリスは鋭く叫んだ。
「それこそ有り得ない! 司祭様が、私達の記憶を弄ぶような真似をなさるはずが……」
「あるんだ!」
俺も叫び返す。
「すでに同じことが何度も行われている! なぜなら、君達には……自分たちがこれまで連行した罪人たちに関する記憶その一切が存在しないからだ!!」
「ざ、罪人……?」
眉をしかめ、アリスは黙り込んだ。
「そうだ。君とエルドリエは、おととい俺と相棒を修剣学院から飛竜にくくりつけて教会まで運んだ。さすがにそれは憶えているだろう?」
「忘れるはずがありません。私が咎人を連行する任務を命じられたのはお前たちが初めてですから」
「それはどうかな。エルドリエの次に戦った、デュソルバート・シンセシス・セブンは君のことを憶えていなかったぞ。九年前、自分の手で北方から連行した君、アリスのことをな」
決定的な俺の言葉を聞いたアリスの顔から、みるみる血の気が引いた。額をひとすじの汗が流れ落ちる。
「デュソルバート殿が……私を、連行した? 罪人として……? つまり、私が……禁忌を、侵したと、お前はそう……言っている……?」
途切れとぎれの声ひとつずつに、俺は頷いた。
「そう、それこそが、貴族以外から整合騎士になった数少ない人間たちだよ。禁忌目録を侵すほどの強烈な意思力を備え、騎士となったあとは無類の戦闘力を発揮する。アドミニストレータにとっては一石二鳥だ、己の支配を揺るがす反乱分子を摘み取り、自分の強力な手駒に生まれ変わらせるんだからな。……君の話をしよう」
ここが、アリスに俺の言葉を受け入れさせられるかどうかの分水嶺だ。俺はありったけの真剣さをかきあつめ、両の眼に込めた。石のテラスにぺたんと座り込み、どこか心細そうに肩を縮めるアリスは、まるで何らかの託宣を待つかのように伏せぎみの瞳で俺を見た。
「君の、本当の名前はアリス・ツーベルクだ。北方の辺境にある、ルーリッドという小さな村で生まれた。ユージオ……俺の相棒と同い年だから、今年で二十歳になるはずだ。君が教会に連行されたのは九年前、つまり事件は十一歳のときに起きた。君はユージオと二人で、果ての山脈を貫く洞窟を探検に行き……洞窟を抜けた先、つまり人界とダークテリトリーとの境界線を一歩踏み出してしまったんだ。君が侵した禁忌は“ダークテリトリーへの侵入”、何を盗んだわけでも傷つけたわけでもない……いや、むしろ君はあのとき、死にかけた暗黒騎士を助けようとして……」
不意に俺はそこで口をつぐんだ。
俺はユージオからそこまで聞いたのだろうか? そのはずだ、二年前にアンダーワールドにやってきた俺が、そのはるか七年も前のことを詳しく知るはずもない。なのに、何故か俺の眼前には、血の筋を引きながら落下する黒い騎士と、それに向かって駆け寄ろうとするアリスの白いエプロンがまるで自分で見た光景であるかのように一瞬閃いた。耳の奥で、アリスの靴がダークテリトリーの石炭殻のような石を踏む、じゃりっという音までが再生された気がした。
俺はすぐに我に返ったが、アリスのほうにも、不自然に途切れた俺の言葉を気にする余裕は無かったようだ。蒼ざめた頬がかすかに震え、ほとんど声にならない声が低く漏れた。
「アリス……ツーベルク……それが私……? ルーリッド……果ての山脈……思い出せない、何も……」
「無理に思い出そうとするな、エルドリエみたいになるぞ」
俺は慌ててアリスの言葉を遮った。ここでアリスの“行動制御キー”が不安定になり、エルドリエの時のように他の騎士が回収にきたりしたら大事だ。しかしアリスはきっと俺を睨み、声を震わせながらも毅然と言った。
「今更何を言うのです。私は全てを知りたい。まだお前の話を信じたわけではありませんが……それは、お前が何もかもを話してから決めます」
「……わかった。と言っても、俺が知っていることはそれほど多くないけどな……。君の父親はルーリッドの村長で、名前はガスフト・ツーベルクだ。残念ながら母親の名は、俺は知らないけど、さっき言ったとおり妹が一人いるよ。シルカって名前で、今は教会でシスター見習いをしてる。彼女とは何度も話したよ、お姉さん思いのいい子だった……教会に連行された君のことをずっと気にかけていた。ルーリッドに居た頃の君もシスター見習いで、神聖術の天才と呼ばれてたそうだ。そんなお姉さんのあとを継いで、立派なシスターになろうと、一生懸命がんばってたよ」
俺が口を閉じたあとも、アリスは何の反応も示さなかった。
先ほどまでの、動揺にも似た表情は消え去り、星灯りの下でも艶やかに白い顔は、ある種のマスクのように俺の眼前で微動だにしない。恐らくいま彼女は、俺が出したいくつかの固有名詞を記憶の底から呼び覚まそうとしているのだろうが、それがどうやら失敗に終わりそうなことは最早明らかだった。
だめだったか――。
俺は内心で肩を落とした。アドミニストレータの記憶封印術は予想以上に強力だ。俺などの言葉では抗すべくもない。打ち消せるのは同じ管理者権限を持つカーディナルのみ、しかもそれにはアドミニストレータの手に有るアリスの記憶ピースが必要なのだ。
落胆しながら、俺はアリスの、お前の言葉は欺瞞だ、という宣告を待った。
その時、アリスの唇が小さく動き、短い音が発せられた。
「シルカ」
続けて、もう一度。
「シルカ……」
蒼い瞳がうごき、ふっと頭上の星空に向けられた。
「思い出せない。顔も、声も。でも……この名前を呼ぶのは初めてじゃない。私の口が、舌が、喉が憶えている」
「……アリス」
俺は息をのみ、ささやいた。もはやアリスは、俺の存在など眼に入らぬ様子で、尚もかすかな声で続けた。
「何度も呼んだ。毎日、毎晩……シルカ、シル……シー」
アリスの、長い睫毛に透明な液体が珠のように溜まり、溢れて、星の光を受けて煌めきながらこぼれ落ちるのを、俺は信じられないものを見る気持ちで見つめた。涙はあとからあとから湧き出して、俺とアリスの間の床石にかすかな音を立てて落ちつづける。
「本当なのね……。私に、家族が……妹が。血を分けた妹が……この空の下の、どこかに……」
たどたどしい声は、込み上げる嗚咽にせき止められ、アリスは子供のように喉を鳴らした。
「アリス……」
思わず伸ばした俺の右手を、アリスは見もせずに、自分の手の甲で強く払った。
「見るな!!」
半ば泣き声でそう叫んだアリスは、乱暴に俺の胸を衝き、篭手のないほうの手で何度も眼を拭った。しかし涙は止まることなく、騎士はくるりと振り向くと、立てた膝の間に顔を埋め、激しく両肩を震わせた。
「う……うぐっ……ううっ……」
声を押し殺し、号泣するアリスの背中を見ているうち、いつしか俺の目にも涙が溜まっているのに気付いた。そんな場合ではないと分かっていながら、俺も目尻に滲む液体をとどめることはできなかった。
必ず――。
必ずや、アドミニストレータを倒し、アリスを故郷に連れていくのだ。俺は改めてそう決意しながら、自分の涙の半分は、ただのもらい泣きではないことを意識していた。
俺とユージオがその目的を果たしたとき、ルーリッドでシルカと再会するのは、目の前にいるこのアリスではないのだ。かつての記憶を取り戻したとき、アリスはユージオとシルカ、そしてルーリッドで過ごした日々のことを思い出し、同時に整合騎士であった九年間のことを忘れる。
あるべき形に戻るだけだ、そう言い聞かせようとしたものの――俺は、背中を向けて子供のように泣きじゃくる最強の騎士にして一人の女の子が憐れだと思うことをやめられなかった。恐らく、九年に及ぶ孤独の日々のなか、心の奥底では常に、失われ二度と手の届かない家族の暖かさを渇望しつづけてきたのであろう整合騎士アリス・シンセシス・フィフティが、どうしようもなく不憫でならなかった。
激しい嗚咽が、徐々にその音量を落とし、やがてひそやかなすすり泣きへと終息するまでにずいぶんと長い時間がかかった。
俺のほうは少しばかり先んじて緩んだ涙腺のバルブを閉め直し、今後の展開へと思考を切り替えていた。
現在想定し得る、最も理想的な展開とは、次のようなものだろう。
登攀を再開し、邪魔されることなく塔内へと戻ったら、アリスとの戦闘を対話と説得によって回避し、ユージオと合流する。残る障害、最古にして最強の整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンをどうにか倒す、あるいはこれも説得し(ユージオが退けていてくれたなら申し分ないが!)、究極の敵アドミニストレータが眠る最上階へと突入する。
最高司祭が目覚めないうちに、ユージオが温存しているはずの短剣を突き刺し、カーディナルから一方的に送り込まれる破壊的コマンドによって無力化、あるいは消滅させる。そして秘匿されているアリスの記憶中枢を回収し、彼女の記憶と人格を復元する。
しかる後に俺は現実世界へと連絡を取り、菊岡誠二郎と交渉して現アンダーワールドの永久保存の確約を取り付け、間近に迫る“負荷実験段階”への突入も停止させる。アンダーワールドの平和的調整をカーディナルに一任し、アリスとユージオをルーリッドに送り届け、状況が落ち着き次第、彼らにこの世界とその外側に広がる世界についての真実を話す。そこでようやく俺は現実へとログアウトし、ユージオたちのフラクトライトを、広大無辺な外部ネットワークへと導く。彼らを、いわば人工フラクトライト達の“大使”として、アンダーワールド住民の存在を現実世界の人間たちに認めさせる――。
ざっと考えただけでも、気が遠くなるほどの高難易度ミッションの連続だ。すべての段階が、成功率五割……いや三割、二割を下回ると思えてならない。
しかし、もう俺は立ち止まることの許されない地点にまで達しているのだ。アンダーワールドで過ごした二年半、いや、もしかしたらSAOにログインしたあの日からの長い、長い時間すべてが、ユージオたち新しい人類、新しい知性を現実世界へと解き放つという目的のために存在したのかもしれないのだから。
茅場晶彦は、アインクラッドが崩壊するあの真っ赤な夕焼け空の下で、こう言った。自分は、ただ、ほんとうの異世界を創りたかっただけなのだ、と。
俺は別に、あの男の目的を引き継いだつもりはまったくないが、真なる異世界というべきものは、まさにいま俺の眼下に遥か地平線まで広がっている。そして、茅場の人格コピーが俺に託した“ザ・シード”パッケージは、すでに現実世界におけるVR空間のデファクト・スタンダードとなり、偶然か必然か、ユージオたちアンダーワールド民はザ・シード世界と互換性のあるインターフェースを備えている。
SAO世界において、二年間ものあいだ多くの人々が戦い、死に、そして生きた意味をどこかに求めるとするならば――それは、ユージオたち新人類が現実世界において創りあげる何かにのみ見出されるのだと、そう考えてしまうのは、俺の感傷だろうか?
ともあれ、俺はもう引き返すことはできない。ルーリッドの南の森で目覚めてから、長い時間をかけてこの塔のほぼ天辺まで、ほとんど腕を伸ばせば最終目標に届くところにまでやってきたのだから。あとはもう、頭と剣技のすべてを絞り尽くして邁進するだけだ。
しかし、ほんの小さな、しかし無視できない問題があるとすれば。
先に列挙したクリアすべき段階のうち、俺が果たして心の底から望んでいるのかどうか定かでないものがたったひとつだけあるということだ……。
「……お前は、さいぜん言いましたね」
こちらに背を向け、膝を抱えて蹲ったまま、不意にアリスがそう呟いた。
俺は、混迷の度合いが深まるいっぽうの思考を一時中断し、顔を上げた。すこし間をおいて、まだ湿り気の残る細い声で、アリスが続けた。
「塔の壁が破れ、外に放り出されたあと……お前は、このような反逆を企てた目的は、最高司祭様の過ちを正し、人の世を守るためだ、と言った」
「ああ……そのとおりだ」
あまりにも多くを省いた言葉だが、そこに欺瞞はない。俺はアリスの背中を流れる金髪に向けて頷く。
「まだ、お前の言葉を全て信じたわけではありませんが……塔の外壁に、闇の国のドローンが配置されていたり……整合騎士が、神界ではなくこの人界から集められ、記憶を封じられて造られたのだという話も、どうやら本当のようです。つまり、最高司祭様が、忠実なしもべたる我ら整合騎士を深く欺いておられるのは否定できない……」
俺は息を飲んでアリスの言葉に聞き入った。
記憶を改変され、行動原則キーなるものを思考回路に挿入された整合騎士は、アドミニストレータへの絶対なる従属を魂レベルで強制されているはずだ。事実、これまで出会った整合騎士たちは、俺たちがどれほど言葉を尽くそうと教会への疑義をひとかけらでも表すことはなかった。
それを考えれば、アリスがいまの台詞を口にできたことがすでに驚異的としか言えない。やはり彼女には何か、他の人工フラクトライトにはない秘密があるのだろうか。見開いた俺の目の前で、小さく手足を抱えたまま、黄金の騎士は囁くように話しつづける。
「しかしいっぽうで、最高司祭様が我らに与えた第一の使命が、ダークテリトリーの侵略からの人界の防衛だというのも事実なのです。現にいまも十名以上の整合騎士が飛竜にうち跨り、果ての山脈で戦っているし、私も長らくその任についていました。最高司祭様が整合騎士団を編成せず、その防衛力が存在しなければ、人界は遥か昔に暴虐極まる侵略に晒されていたでしょう」
「そ、それは……」
それは、この世界のあるべき姿ではないのだ――整合騎士たちが独占し続けている成長リソースは本来、多くの一般民に与えられるべきものだったのだ、などと、今言っても理解してはもらえまい。言葉に詰まった俺にむけて、アリスはさらに静かだが厳しい声を投げかけてくる。
「お前は、私が生まれ育ったという……今でも私の両親と妹が暮らしているというルーリッドなる村が、北方の辺境、果ての山脈の麓にあると言った。つまり、ダークテリトリーの侵略が始まれば、真っ先に蹂躙される地域です。もしお前たちが全ての整合騎士を退け、最高司祭様をも刃にかけたとして、その時はルーリッドを含む辺境の地を、いったい誰が守るというのです? まさか、お前たち二人だけで、闇の軍勢を平らげてみせるとでも?」
細い背中はまだ小刻みに震えているが、しかしアリスの声には確たる意思が刻み込まれていて、俺はすぐに答えることができなかった。人の世をなんとしても守るのだ、というアリスの裏表のない決意に比べ、俺の抱え込む隠し事のなんと巨大なことか。
唇を噛み、今ここで全てを――この世界が造られたものであるということも含めて何もかもをぶち撒けてしまいたいという衝動を堪えてから、俺は口を開いた。
「なら、逆に訊くけど……君は、整合騎士団が万全の態勢を以って迎え撃てば、来るべきダークテリトリーの総攻撃を完全に退けられると、本当に信じているのか?」
「……それは……」
今度は、アリスが言葉に詰まった。
「俺も昔、闇の国のゴブリンの一隊と戦ったって話はしたよな。……闇の軍勢では最下級の兵士であるはずのゴブリンでさえ、剣技も、腕力も、恐るべきものだった。ダークテリトリーには、あんな奴らが何万とひしめいているんだし、その上に君たちと同じように飛竜を駆る暗黒騎士、そして司祭級の術式を操る暗黒術士がごまんと控えているんだ。たとえ全整合騎士を揃え、アドミニストレータ本人が出陣したとしても、そんな寡兵で防ぎきれるようなもんじゃないぞ」
無論これはカーディナルからの受け売りだが、アリスにも同様の認識はあったらしく、これまでのように即座に鋭い舌鋒で切り返してくることはなかった。しばしの沈黙ののちに、苦しげな声が低く絞り出される。
「……確かに……騎士長ベルクーリ殿も、胸の裡には、同様の懸念を秘めておいでのようでした。ダークテリトリーの精兵はすでに数万の規模で整えられ、それらが一斉に四方から押し寄せてきたら我が騎士団だけでは抗しきれまい、と……。――しかし、だからと言って、人界には我らのほかに戦力と呼べるものなど無いのもまた事実。剣やその他の武術を学ぶ者は貴族を中心に数多いですが、美々しい型のみを追い求め、一滴の血も見たことのない彼らに実戦などできようはずもない。結局……三神のご加護を信じて、我らが戦うしかないのです。お前ならこの状況は理解できるでしょう」
「君の言うとおり……今の人界には、実際に闇の軍勢と戦える力を持つのは整合騎士しかいないだろう」
俺は言葉を選びながら、慎重に答えた。
「だが、それはアドミニストレータが望んで作り出した状況なんだ。最高司祭は、自分の完全なる制御が及ばない戦力が人界に発生するのを恐れた。だからこそ、武術大会の優勝者や禁忌目録の違反者をかきあつめ、記憶を封じ忠誠心を植え付けて整合騎士に造り変えてきたんだ……数百年に渡ってね。つまり言い換えれば、アドミニストレータは、君達……俺たち人間を信じちゃいないんだ、これっぽっちも」
「!!……っ」
アリスの背中がぴくりと強張った。
「もし、最高司祭が、自分の支配する人間たちを信じ、きちんとした訓練を受け装備の整った軍隊を編成していれば、今ごろはダークテリトリーにじゅうぶん伍し得る戦力が人界にもあったはずだ。しかし最高司祭はそうしなかった。もし戦時となれば真っ先に剣を取るべき上級貴族たちに怠惰と放埓を許し、結果彼らの魂は澱みきってしまった……俺と相棒が斬った、あの男のように」
修剣学院の初等練士、ティーゼとロニエを襲った悲劇を思い出すとずきりと胸が痛む。あの惨たらしい出来事は、まだほんの三日前のことなのだ。彼女らは今も心身に負った深い傷に苦しんでいるだろう。もしこのまま負荷実験段階が到来し、人界が闇の侵略に飲み込まれれば、あのような悲惨が数限りなく出現するのだ。
鋭い疼きを押し殺し、俺は口を動かしつづける。
「でも……まだ、全てが手遅れになってしまったわけじゃない。ダークテリトリーの軍勢が押し寄せてくるまでに残された時間が、あと一年か二年かわからないけど……それまでに、人界にも出来るかぎりの規模の軍隊を整えるんだ」
「出来るわけがない、そんなこと!」
アリスが鋭く叫んだ。
「お前も今言ったばかりではありませんか、この世界の貴族たちがどれほど腐敗しているか! 戦争が始まるから剣を取れと、四皇家や大貴族に命じたとたん、彼らは逃げ出す算段を始めるに決まっている!」
「ああ、確かに上級貴族に戦う気概は無いだろうさ。でも、そんな人間ばかりじゃないんだ。下級貴族や、多くの一般民には、なんとしても家族を、町や村を、そしてこの世界を守ろうという強さと誇りを持った者たちが沢山いるんだ。彼らに、この塔に蓄積されている膨大な武具を全て分け与え、君らが磨いた本物の剣技と神聖術を学ばせれば、一年で立派な軍隊を作り上げることも不可能じゃない。少なくとも、それを背景に、闇の勢力と交渉を行えるくらいのな」
無論――実際に戦争へと突入してしまう事態は避けねばならない。ダークテリトリーの住人とてもまた、本物の魂をもつ人工フラクトライト達なのだから。
首尾よく外部のラースに向けてチャンネルを開き、実験の凍結を受け入れさせられれば戦争は回避できる。しかし、もしそれに失敗すれば、人界を襲う悲惨な運命をキャンセルするために、カーディナルが全アンダーワールドを消去してしまう。あの頑固な管理者様にその決意を翻させるためには、人間の軍隊を背景としたダークテリトリーとの和平交渉という可能性に一縷の望みを繋ぐしかない。
「一般……民を……?」
掠れた声で呟くアリスに、俺はさらに畳み掛けた。
「そうだ。無理な徴兵をしなくとも、義勇兵を募るだけで充分な戦力が集まるはずだ……すでに、各々の街や村には衛士隊も編成されてるんだしな。俺の言ってることが決して夢物語じゃないことは君にもわかるだろう。だが……それとは別の理由によって、今のままじゃ、これは絶対に実現不可能な話なんだ」
「…………最高司祭様が……お許しになるはずがない」
アリスは苦しそうな声を低く絞り出した。
「そう、そのとおりだ。説得することすら不可能だろう。忠誠を魂レベルで強制できない軍隊なんて、アドミニストレータにとっては、闇の軍勢以上に恐ろしいものだろうからな。つまるところ……結論は一つなんだ。最高司祭アドミニストレータの絶対支配を打ち破り、残されたわずかな時間を最大限有効に使って、来るべき侵略に対抗できる防衛力を作り上げるしかない」
アリスの背中にそう告げながら、俺は大いなる皮肉を感じずにはいられなかった。
菊岡誠二郎率いるラースがこのアンダーワールドで壮大な実験を行っているのは、つまるところ、彼の属する自衛隊に、周辺諸国――ひいては太平洋の向こうの強大な軍事国家にすら抗えるほどの“防衛力”を備えさせるという目的のために他ならないのだろう。俺はユージオたち人工フラクトライトが、そんなふうに兵器として利用されるなんてことはどうしても容認できないと思っている。なのに今、抑止力としての戦力――などといかにも菊岡が言いそうなことを口にしているのだ。
そんな俺の忸怩たる思いなど知るよしもないアリスは、俺とは別の理由によって再び長い沈黙を続けていた。
今彼女は、魂に刻み込まれた神聖教会への忠誠と、数時間前に会ったにすぎない薄汚れた侵入者の言葉を心の天秤にかけているのだろう。表面上は抑制されているが、その葛藤、苦しみは、大変なものがあるはずだ。
やがて――。
ぽつり、と大理石の床に声がこぼれ落ちた。
「……会えますか」
「え……?」
「もし、お前に協力し……奪われた私の記憶を取り戻せたら、私はもういちどシルカに……妹に会えるのですか」
俺は思わず息を詰めた。
会える。会うことにはなんの問題もない。でも……。
今度は俺が長いあいだ言葉を失った。アリスは相変わらずこちらに背中を向けたまま座り、立てた膝を両腕で抱え込んでじっと俺の答えを待った。
「……会えるよ。飛竜を使えば、ルーリッドまでほんの一日、二日だろう。けれど……いいか、よく聞いてほしい」
俺はわずかに前ににじり寄り、アリスの左の耳に顔を近づけて、その先を口にした。
「シルカと再会するのは、君であって君じゃない。記憶を取り戻したその時、君は九年前の……“シンセサイズの秘儀”を受ける前のアリス・ツーベルクへと戻り、同時に整合騎士アリス・シンセシス・フィフティは消滅するんだ。今の君の人格は、整合騎士として生きてきた九年間の記憶とともに消え去り、その体を本来の人格へと明渡す……残酷なことを言うけど……今の君は、アドミニストレータによって作られた“仮のアリス”、仮の人格なんだ」
ゆっくり、ゆっくりとそう告げる俺の言葉を聞くうちに、アリスの肩が二度、三度と震え、頭が両腕のあいだに低く埋められた。
しかし、先ほどのように、嗚咽が漏れることはもうなかった。
やがて懸命に感情を押し殺された声が、俺の耳にかすかに届いた。
「……整合騎士が人より造られたという話を聞いたときから……そういうこともあろうかと……思っていました。私は……この体を、アリスという名の少女から奪い取り、道具として使ってきた……そうなのでしょう」
俺にはもう、かけるべき言葉が見つからなかった。これまで信じてきたものが全て崩れ落ちていく衝撃に、おそらくは必死に耐えながら、なおもアリスは語りつづけた。
「盗んだものは……返さなくてはね。それが……妹の、両親の、お前の友人の……そしてお前自身の望みでもあるのでしょうから」
「…………アリス」
「ただ……ひとつ、ひとつだけ頼みがあります」
「それは……?」
「この体に本来のアリスの人格を復元する前に……私をルーリッドの村に連れていってくれませんか。そして、物陰から……ほんのひと目だけでいい。シルカの……妹の姿を、そして家族の姿を見せてほしいのです。それだけ叶えられれば、私は満足です」
言葉を切り、アリスはゆっくりと首を回して、肩越しにちらりと俺を振り向いた。
その瞬間、いつの間にか頭上にのぼっていた月が、黒い雲間からさっと一条の光を投げかけた。金色の光の粒に輪郭を縁どられながら、アリスは幼子のように赤く泣き腫らした目の縁をやわらげ、かすかに微笑んだ。
俺は思わず顔を伏せ、きつく歯を食い縛った。
アリスの記憶を取り戻す。
それが、俺の無二の相棒であるユージオのたったひとつの望みだ。つまり同時に俺の望みでもあるはずだ。
しかし――それは、いま眼前で心細そうにうずくまる一人の少女の死と同義だ。
やむを得ない犠牲、やむを得ない優先順位。
これは、どうしようもないことなのだ。
「ああ……約束する。誓うよ」
俺は視線を伏せたまま、そう声に出した。
「記憶を復元する前に、必ずルーリッドに連れていく」
「……絶対ですよ」
念を押すアリスに、ふかく頷き返す。
「わかりました。それでは……人の世を、この平和を守るために、私、アリス・シンセシス・フィフティは、今より整合騎士の使命を捨て……っ……あっ……!!」
突然アリスの声が、鋭い悲鳴とともに途切れ、俺は驚いてがばっと顔を上げた。
すぐ目の前で、アリスが白い顔をおおきく歪め、両手で強く右目を押さえている。激痛を示して唇が破れるほどに噛み締められ、仰け反った細い喉が絶叫を飲み下そうとするかのように二度、三度と痙攣する。
俺は驚愕しながらも、同時に、三日前に見たあの光景を想起していた。
ライオス・アンティノスの右腕を斬り飛ばし、血刀をぶら下げたユージオ――その右眼は跡形もなく吹き飛び、噴き出した鮮血が赤い涙となって頬に流れていたのだ。
一晩を費やした治癒術によって眼はどうにか復元できたのだが、施術の最中、ユージオはぽつりぽつりと語った。ライオスを斬ろうとした瞬間、右手がまるで自分のものでなくなってしまったかのように凍りつき、同時に右目に凄まじい痛みが走った、と。そして眼前に、真っ赤に光る、見慣れぬ神聖文字が出現したのだ、と――。
今アリスを襲っているのは、ユージオの語ったものと同一の現象だろう、恐らく、禁忌と認識しているものを侵そうとすると発現する、何らかのセキュリティ・ブロックなのだ。
「何も考えるな! 思考を止めるんだ!」
俺は叫び、アリスに飛びついた。
「あ……うああ……っ」
耐えかねるように細い悲鳴を漏らすアリスの手首を握り、右目から外す。
「!?」
碧玉の色をしているはずのアリスの瞳に、ちらちらと明滅する赤い光を見つけて、俺は息を飲んだ。光の正体を確かめるべく、間近から覗き込む。鼻先が触れ合うほどの距離にまで双方の顔が接近し、数秒前までならこの瞬間俺の首がすっ飛んでいてもおかしくないが、アリスにももう俺の行為を咎める余裕はまったく無いようだった。
見開かれたアリスの右目の、真円を描く蒼い光彩。
その周囲に、赤く発光する微細な縦ラインが行列を作り、ぎりぎりと回転している。ラインには三種類ほどの異なる太さがあり、それらがランダムに並んでいる。まるで――。
まるでバーコードだ。
俺は、ユージオの話を聞いたときから、この心理ブロックを組み上げたのはアドミニストレータだと推測していた。しかしこれまで、この世界でバーコードなどというものを眼にしたことはついぞ無かった。
アドミニストレータの仕業ではない……? しかし、となると、一体何者が……。
その瞬間。
円形のバーコードの回転が停止し、アリスの収縮した瞳孔の真上を横切って、奇妙な記号の羅列が、これも真紅に輝きながら浮かび上がった。“TЯヨ」A MヨT2Y2”、俺の目にはそのように見て取れた。
それが何を意味しているのか、俺はいっとき戸惑ってから、すぐに悟った。
鏡文字なのだ。文字列の直下にあるアリスの瞳には、左右に裏返したかたちに見えているはずだ。つまり、“SYSTEM ALERT”と。
システムアラート。俺にとっては、PCを操作していると時折ポーンというビープ音とともに出てくる不愉快なアレ、として馴染みのある代物だが、しかしアリス達アンダーワールド人には何の意味も持たない単語だ。この世界では基本的に日本語のみが用いられ、英語は“神聖文字”、つまり人間には理解不能でありまた理解する必要もないものとして扱われている。
神聖術を使う者であれば、例の“システム・コール”を始め様々な英単語を頻繁に口にはするものの、それらが具体的になにを意味しているのかは一切知らない。現実世界のRPGで、回復呪文や攻撃呪文を使うときに口にする奇妙なカタカナの呪文が、言語的にはどのような意味を持っているのか俺たちプレイヤーがまったく気にしないのと一緒だ。
つまるところ、このSYSTEM ALERTという文字列は、アンダーワールドでは完全に意味を成さない代物なのだ。アリスに見せても何の効果もない。よって、この心理的ブロックをアリスやユージオたちアンダーワールド人に組み込んだのは外部世界の人間――具体的にはラースのスタッフである誰かだ。
高速回転する俺の思考を、至近距離で発せられたアリスの押し殺した悲鳴が遮った。
「く……あっ……眼が……! 何か……おかしな……モノが、見える……!?」
「何も考えるんじゃない! 頭をからっぽにするんだ!!」
慌ててそう叫び、俺はアリスの小さな顔を両手で挟みこんだ。
「君が今見ているソレは、禁忌を破ろうとすると現れるブロック……障壁のようなものだ。右目に痛みを発生させて、禁忌への無条件服従を誘導しているんだろう……そのまま考え続けると右目が吹っ飛ぶぞ!」
咄嗟にそう説明したが、しかしこの場合は言えば言うほど逆効果かもしれない。どんな人間だって、考えるなと言われて考えるのを止めたりするような器用な真似はできない。
俺の声を聞いたアリスは、ぎゅっと両目を瞑り、唇を噛み締めた。しかし、瞳の表面に貼り付く赤い文字列は、それで見えなくなることはないだろう。華奢な両手が持ち上げられ、俺の両肩をシャツ越しにきつく掴む。小さな悲鳴が断続的に喉のおくから漏れるたび両手に物凄い力が込められ、俺の筋肉と骨がみしみしと軋むが、アリスの堪えている痛みはその比ではないだろう。
せめて思考を止める助けになればと、アリスの顔を両の掌でしっかり挟みながら、俺はなおも推測を積み重ねる。
アリスを含む一部の整合騎士は、すでにいちど禁忌を破っている。そのせいでアドミニストレータに発見され、洗脳処置を施されたのだから。
しかし、アリスに限って言えば、九年前“ダークテリトリーへの侵入”罪を犯したとき、右目が吹き飛んだというような事実はないはずだ。ユージオからそのような話は一切聞いていない。彼が語ったところによれば、アリスはふらふらと無意識的に境界線を踏み越えてしまったということらしい。つまりその際、自発的に禁忌を破ろう、という明確な思考はアリスの意識には無かったと思われる。
現在彼女を襲っている心理ブロックは、あくまで禁忌を積極的に侵害しようという意思にのみ反応するのだろう。そのような行動を意識したとたん、まず右目の痛みで、次にSYSTEM ALERTの赤文字で対象者の思考を乱し、改めて禁忌への畏怖を植え付ける。ただでさえ規則を破るという性向を持たないアンダーワールド人に、このような神の御業としか思えない障壁を施せば、彼らの法への従順性はかぎりなく完璧に近づくだろう。
ただ、この障壁をラースのスタッフが埋め込んだと考えるとき、そこには大きな矛盾が発生する。
なぜなら、首謀者の菊岡は恐らく、禁忌を破れる人工フラクトライトを求めてこのような壮大な実験を延々続けているはずだからだ。せっかくアンダーワールド人がブレイクスルーに近づいても、こんな粗雑で暴力的な心理ブロックでそれを無理矢理押し止めてしまっては、本末転倒以外の何ものでもない。
つまりこのブロックは、ラーススタッフの手になるものであっても、菊岡以下の首脳の預かり知らぬものなのではないか? それを端的に表現するならば、内部の反乱分子によるサボタージュだ。ラースに潜り込んだ何者かが、意図的に実験の成功を遅らせているのだ。
ならばその人物の目的は何か?
ヒースクリフ……茅場晶彦の仕業なのか、と俺は一瞬考えたが、すぐにそれを打ち消した。彼もまた、目的は違えど真正人工知能の発生を望んでいるはずだ。だいたい、こんな世界のルールを無視した粗暴な手段は彼のスタイルではない。やはりこれは、ラースという組織そのものへの敵対者のしたことだろう。
ラース=自衛隊内部の菊岡派とでもいうべき先鋭化した一部勢力と考えるとき、それに敵対する勢力は数多く想定できる。もちろん自衛隊の主流派、そして国内の防衛産業を独占する財閥系メーカー、考えを飛躍させれば無人兵器群による自衛隊の軍備増強を警戒する周辺アジア国家すら含まれる。
しかし、もしそれら巨大勢力がラースのサボタージュを企てたとき、このような手の込んだ手段を採るだろうか? ライトキューブ中のフラクトライト原型に妨害プログラムを組み込めるほどの中枢アクセスが可能な人間ならば、もっと手っ取り早く、アンダーワールドの本質たるライトキューブクラスターを爆破なりしてしまうこともできるのではないか。
つまりこれを企てた人間は、実験の遅延は意図しているが、完全な消滅は望んでいないということになる。遅延させ、何かを待っているのだ。準備に時間のかかる、大掛かりで最終的な作戦が実行されるのを。例えば――
ライトキューブクラスターを含む、人工フラクトライト研究すべての奪取だ。
アンダーワールドには、外部世界のさらに外側からも危険が迫っている。その可能性を認識し、俺は慄然とした。ますます、一刻もはやく菊岡に連絡を取る必要がある。
「……ひどい……」
俺の両手のなかで、懸命に痛みに耐えるアリスが、喘ぎ混じりの声を絞り出した。
はっと我に返り、俺は整合騎士の顔を見下ろした。
常に優美なラインを保っていた眉がきつく顰められ、両の瞼もしっかりと閉じられている。目尻には小さな涙の玉が宿り、唇は血が滲むほどに噛み締められている。
その、白く色の失せた唇がわななき、再びかすかな言葉が発せられた。
「ひどい……こんなの……。記憶……だけでなく、意識すらも……誰かに操られる……なんて……」
俺の両肩を掴むアリスの両手が、痛み以外の感覚、悲しみかあるいは怒りによって更にきつく握り締められる。
「これを……この神聖文字を……私の眼に焼きこんだのは……最高司祭……様なのですか……?」
「……いや、違う」
俺は無意識のうちにそう答えていた。
「この世界を、外側から観察している……君らが神と呼ぶ存在、そのうちの一人がしたことだ」
「神……」
アリスの目尻から、涙の粒がいくつか転がった。
「私が……私達が、これほど信じ、帰依し、その教えを守るために……無限の日々を戦ってもなお……神は私達を……信じてくださらないのですか。私から妹を……妹から私を奪い、思い出を、命すらも書き換え、そのうえこのような……疑うことすらも……許さないなんて……」
九年という時間をただ神の騎士としてのみ生きてきたアリスが、今どのような衝撃と混乱に見舞われているのか、俺には想像することもできなかった。息を詰め、見守ることしかできない俺の眼前で、突然アリスの両目がかっと見開かれた。
右目の蒼い光彩を横切る鏡文字は、一層血の色の輝きを増している。しかしアリスはそれを意に介する様子もなく、ただまっすぐ上を――黒雲の隙間からのぞく丸い月を凝視した。
「私はモノじゃない」
荒い呼吸のなかにも確固たる激しさを込めて、アリスが叫んだ。
「私は確かに、造られた人格、盤上の駒かもしれない。でも私にも意思はあるのです! 私はこの世界を……人間の世界を守りたい。家族を、妹を守りたい。それが私の果たすべき使命です!」
キイイイン、と耳障りな金属音を放ち、鏡文字が高速で明滅を開始した。光彩を取り囲むバーコードも、再び目まぐるしく回転をはじめている。
「アリス……!」
もう今すぐにでも起こりうる現象を懸念し、俺は叫んだ。アリスは俺に視線を向けることなく、切れぎれの声で囁いた。
「キリト……私を、しっかり押さえていて」
「…………」
俺にはもう、何も言えなかった。かわりに、右手をアリスの背に、左手を頭の後ろに回し、両腕に強く力を込めた。黄金の鎧を通して、早鐘のように、しかししっかりと鳴り響くアリスの鼓動が伝わる。
アリスは俺の右肩に頭を乗せ、ぐいっと顔を反らせて、まっすぐに天を振り仰いだ。
「最高司祭……そして神よ!! 私は……私の成すべきことを成すために、あなたと、戦います!!」
凛と響く独立の宣言。
その残響に重なるように、ばしゃりという破裂音が続いた。俺の頬と首筋に、暖かい液体が大量に降りかかった。
ユージオ。
ユージオ……。
どうしたの、怖い夢を見たの?
ぽっ、と柔らかい音を立てて、ランプが小さなオレンジ色の光を灯した。
廊下に立つユージオは、両腕に抱いた枕に半ば顔をうずめ、少しだけ開いたドアの陰に身を隠すようにして暖かな光の源を見つめた。
部屋の奥には、粗末な木のベッドが二つ並んでいる。右側のほうは空だ。洗いたての上掛けがひんやりと畳まれている。
左側のベッドには、ほっそりとした人影が横たわり、上体をもたげてこちらを見ていた。右手に掲げたランプの、揺れる光のせいで顔はよく見えない。艶のある純白の寝巻きの少し開いた胸元からは、いっそう白く滑らかなふくらみが覗いている。ベッドに流れる長い髪は絹のように細く、柔らかそうだ。
ランプの向こうにどうにかそこだけ見える口許の、薔薇のように紅い唇がほころび、再び声が流れ出た。
そこは寒いでしょう、ユージオ。さあ、こっちにいらっしゃい……。
そっと持ち上げられた上掛けの奥は、とても暖かそうなとろりとした暗闇に満ちていて、不意にユージオは全身を包む凍るような冷気を意識した。いつしか足が戸口をまたぎ、不思議に縮んでしまった歩幅でとことことベッドに向かう。
近づくほどに、なぜかランプの光は小さくなり、ベッドに横たわる女性の顔を見ることはどうしてもできない。しかしユージオはそんなことを一切気にせず、ただあの暖かな暗がりに潜りこみたい一心で足を動かす。
ようやく辿り着いたベッドは、腰の高さほどもあって、ユージオは抱いていた枕を投げ出すとそれを踏み台にしてどうにか寝台によじ登った。とたん、ふわりと分厚い布が体を覆い、世界が闇に包まれた。ある種の渇望に急かされるように、ユージオはその奥へ奥へとにじり進んだ。
伸ばした指に、暖かく柔らかなふくらみが触れた。
ユージオは夢中でそれに縋りつき、顔を埋めた。しっとりとした肌が、まるでユージオを飲み込もうとするかのように優しく蠢く。
痺れるような満足感と、しかしそれに倍する餓えに翻弄されながら、ユージオは懸命に暖かな躯にしがみついた。滑らかな腕が背中を抱き、頭を撫でるのを感じて、ユージオは小さな声で尋ねた。
「母さん……? 母さんなの?」
すぐに答える声がした。
そうですよ……お前のお母さんですよ、ユージオ。
「母さん……。僕のお母さん……」
暖かく湿った暗闇になおも深く深くうずまりながら、ユージオは呟いた。
半ば麻痺しきった頭の片隅に、泥沼に浮き上がる泡のような疑問がぷちりと弾ける。
母さんは……こんなにほっそりとして、柔らかかっただろうか? 毎日麦畑で働いているはずの両手に、なんで傷ひとつないんだろう? それに……右側のベッドで寝ているはずの父さんはどこへ行ってしまったんだ? 母さんに甘えようとするといつだって邪魔をする兄さんたちはどこに?
「ほんとに……あなたは、母さんなの?」
そうですよ、ユージオ。あなた一人だけのお母さんですよ。
「でも……父さんはどこ? 兄さんたちはどこへいったの?」
うふふ。
おかしな子ね。
みんな、
お前が殺してしまったじゃないの。
突然、指がぬるりと滑った。
ユージオは目の前で左右の掌を広げた。
暗闇の中なのに、両手にべっとりとこびりつき、ぽたぽたと滴る真っ赤な血がはっきりと見えた。
「……ぁぁぁあああああ!!」
絶叫とともにユージオは飛び起きた。
ぬるつく両手を、無我夢中で上着に擦りつける。悲鳴を上げながら、何度も何度も拭ったところで、自分の手を濡らしているのが血ではなくただの汗だとようやく気付く。
夢を見ていたのだ――とやっと思い至っても、早鐘のように鳴り響く心臓も、吹き出す脂汗も、しばらく収まろうとしなかった。とてつもなく恐ろしい夢の余韻がいつまでもじっとりと背中に貼り付いている。
母親のことなんて……何年も考えたことさえなかったのに。
ひとりごち、ぎゅっと目を瞑って、ユージオは恐慌から脱け出そうと深い呼吸を繰り返した。
実際の母親は、畑仕事と家畜の世話、家事全般の雑忙に疲れユージオを優しくあやしてくれることなどほとんど無かった。頑固で口うるさい父親にただ従うばかりで、自己主張した場面の記憶は無いに等しい。というより、母親にまつわる思い出の絶対量がごく少ないと言っていい。
つまり、ユージオにとっては、自分を産み育ててくれた人としての感謝の念こそあれ、決してそれ以上の存在ではないはずなのだ。そうでなければ、新たな天職を選ぶとき、なぜほとんど迷うこともなく村を出るという決断を下せたのか。
なのに、どうして今更あんな夢を……。
ユージオは強く頭を振り、思考を止めた。どんな夢を見るかは、眠りの神ヒュプニーが気ままに決めることだ。今の悪夢には何の意味もない。
最後に大きく息を吐いてから、ようやく、自分は今どこにいるのか、という疑問が湧いてくる。
うずくまった姿勢のまま、そっと瞼を持ち上げた。
最初に視界に入ったのは、驚くほど毛足の長い、込み入った模様の編み込まれた絨毯だった。一メル四方で果たして幾らするのか見当もつかないそれが、視線を前に上げても上げても、どこまでも続いている。
顔が真っ直ぐ前に向いたところで、ようやくはるか遠くに壁が見えた。
壁、と言っても板や石造りではない。神々の姿を浮き彫りにした黄金の柱が弧をえがいて等間隔に並び、その間に巨大な一枚硝子が埋め込まれている。だから実際には壁というより連続した窓なのだろうが、貴重な硝子をあれほどたっぷりと使った窓は皇帝の居城にもあるまい。
総硝子張りの壁のむこうには、厚くうねる雲の連なりが見えた。ただし、その黒い雲海があるのは視点の下方だ。この部屋は、雲よりも高い場所にあるのだ。
黒い雲の縁を、淡い光がほのかに青く染めている。朧な光の源は、天上に坐す丸い月だった。その周囲を、これまで見たこともないほどの数の星々がしずかに瞬きながら取り巻いている。濃密な星空から降り注ぐ蒼光があまりにも鮮やかすぎて、ユージオが現在は深夜なのだと気付くのが少々遅れた。月神の位置からして、零時を少し回った頃だろうか。つまり、眠っているあいだに日付けが変わってしまったことになる。
視線を、夜空から更に上向けて部屋の天上を見た。広大な円形のそこにも、絨毯に劣らず華美かつ精密な絵が一面に描き込まれている。神々の軍勢、退けられる魔物、地を分かつ山脈……どうやら創世記の絵物語になっているらしい。
しかしどうしたことか、絵の主題からして絶対に必要と思われる創世神ステイシアの似姿が、あるべき中央部に存在しない。その部分は漆黒に塗りつぶされ、いわく言いがたい虚無感のようなものが絵全体を支配してしまっている。
眉をしかめ、首を振りながらユージオは顔を戻した。
そして、今更ながら、自分が何か柔らかいものに背中を預けているのに気付いた。
慌てて振り向く。
「え…………」
身体を捻ったまま、ユージオは絶句し、しばし凍りついた。寄りかかっていたのは、驚くほど巨大な円形のベッドの側面だったのだ。
差し渡しが八メル、いやもっとありそうだ。周囲を五本の黄金の柱が取り巻き、紫の羅紗と半透明の薄布が垂れ下がる天蓋に繋がっている。寝台は純白の絹とおぼしきシーツに覆われ、窓からの燐光を受けてほの青く輝いている。
そして――ベッドの中央に、横たわる人影がひとつ。周囲を薄い紗に囲まれ、輪郭しか見えない。
「!!」
ユージオは息を飲み、跳ねるように立ち上がった。これほどの近距離にいながらまるで気配に気付かなかったのは考えられない迂闊さだ。いや、それ以前に、自分はこのベッドにもたれ掛かってたっぷり四、五時間は眠ってしまったのだ。いったい何故こんなことに――。
そこまで考えてから、ユージオは、ようやく途切れた記憶の直前の場面を思い出した。
そうだ……僕は、騎士長ベルクーリと戦ったんだ。そして青薔薇の剣の力によって双方を氷の中に閉じ込めて……互いの天命が尽きる直前、変な道化、元老チュデルキンと名乗る小男が現れていろいろ奇妙なことを言った。あいつの靴が薔薇を踏み割りながら近づいてきて……そして――。
記憶はそこで暗闇に沈んでいる。あの道化が自分をここまで運んできたのだろうか、と考えながらユージオは唇を噛んだが、今は推測する材料すらない。無意識のうちに腰を探ったが、青薔薇の剣はどこかに消え去ってしまっている。
途端に襲ってきた心細さを懸命に押し戻しながら、ユージオはベッド上の人影のほうに眼を凝らした。敵か味方か……いや、ここは間違いなくセントラル・カセドラルの、それもほとんど最上階だ。そんな場所に居る人間が味方ということはあるまい。
このまま足音を殺して部屋から脱出するべきか、とも思ったが、眠る人物が誰なのか知りたい、という欲求のほうが勝った。意を決して、気配を殺しながらそっとベッドに右ひざを乗せる。
ふかっ、と淡雪のようにどこまでも柔らかくシーツが沈み込み、ユージオは慌てて両手を突いた。その手もまた滑らかな絹に沈んでしまう。
あの恐ろしい夢で何者かが横たわっていたベッドの感触が甦ってきて、思わずぶるりと背中を震わせてから、ユージオは音を立てないようにそっと左ひざも持ち上げた。そのまま四つん這いで、ゆっくり、ゆっくりとベッドの中央を目指す。
有り得ないほど巨大な寝台を息を殺して這い進みながら、この絹の下に包まれているのが最高級の羽毛だとしたら一体何羽ぶんになるのだろう、とユージオは考えずにはいられなかった。ルーリッドの村では、飼っていた家鴨の抜け羽を毎日毎日少しずつ集め、ひとつの薄い布団を作るのに一年はかかったものだ。
こんな贅の限りを尽くした寝台にたった一人眠るのは、はたして誰なのか。垂れ下がる紗幕はもう、すぐ目の前だ。
そこで動きを止め、ユージオは息を止めて耳を凝らした。ごくごくかすかに、規則的な呼吸音が聞こえてくる。相手はまだ眠っているようだ。
生唾を飲み込みたくなるのを堪え、そっと右手を伸ばす。指先を紗の隙間に差し込み、ゆっくり、ゆっくりと持ち上げる。
「…………!」
ついに、背後からの蒼い光がベッドの中央に届き、その瞬間ユージオは眼を見開いた。
眠っていたのは、ひとりの女性だった。いや、少女、と言うべきか。
身の丈はかなりある。立てばほとんどユージオと変わらないだろう。銀糸の縁取りがついた淡い紫――ステイシアの窓の色――の薄物をまとい、身体の上に載せた白く華奢な両手を組み合わせている。露わな腕や指は滑らかに細いが、その上側で布地を押し上げるふたつの膨らみは量感豊かで、ユージオは慌てて眼を逸らした。広く開いた襟ぐりから覗く胸元もまた、輝くように白い。
浮き出た鎖骨、細い首、そしてそれに続く小造りの顔――。
魂の抜けるような、という表現を、ユージオはほとんど生まれてはじめて実体験していた。
何という造形の完璧さだろうか。もはや人とも思えない。
先日から数回眼にした、成長した騎士アリスも非の打ち所のない美貌だったが、しかし彼女はそれでも人間の美しさの範疇に留まっていた。貶めているわけではない、それで当然であり自然なのだ、アリスは人なのだから。
しかし、今眼下に眠るこの存在は。
央都で最高の腕を持つ彫刻家が、一生を費やして彫り上げたかのような――いや、もはや人の手によるものではあるまい。芸術の神アルティノスが数百年の時をかけて創造したとでも比喩すべき、完璧という語彙そのものがここにある。眉、鼻、唇、それらすべてを形容する言葉をユージオは思いつけなかった。花のような唇、と譬えたくとも、これほどの可憐な曲線を持つ花が人界には存在するまい。
閉じられた瞼を縁どる長い睫毛、そして四方に長く広がる髪、そのどちらもが溶かした純銀の色だった。今は闇と月光を吸い込んで、深い蒼に煌めいている。この髪のたった一すじでさえ、ソルスのもとではどんな貴族の装身具よりもまばゆい輝きを放つだろう。
ユージオは、いつしか甘い蜜に惑う蜂のように考える力を失っていた。
この手に、髪に、頬に触れてみたい――という欲求だけが、身体の奥のから激しく衝き上げてくる。
じり、じり、と意識せぬまま膝が前ににじりよった。
これまで嗅いだことのない種類の、ほのかに薫る香が鼻から入り込み、思考を覆っていく。
伸ばした右手の指先が、もう少し……あと少しで、紫の薄物に届く――。
いけない、
ユージオ、
逃げて!
突然、どこか遠くでかすかに、しかしはっきりと、誰かが叫んだ。
一瞬、電光のように思考の糸が繋がり、ユージオははっと眼を見開いた。
今の声……どこかで、聞いたような――。
いや、それどころじゃない。考えるんだ、考えろ。自分が今どういう状況にいて、何をすべきなのか。
まるでそれ自体の意思があるかのように、尚も前に伸びようとわななく右腕を抱え込んで、ユージオは懸命に頭を回転させようとした。呪縛的な麻痺感は、不思議な甘い香りとともに身体に入り込んでくるようで、息を止めて必死に抗う。
考えるんだ。
僕は、この女性を知っているはずだ。セントラル・カセドラルの最上部で……これまで見たどんな部屋よりも豪華なベッドで、たったひとり眠る人物。つまり、教会でもっとも高位の権力を持つ――ひいては、この人界すべてを支配する人物……。
最高司祭。
アドミニストレータ。
ようやく思い出したその名を、ユージオは計り知れない衝撃とともに何度も頭のなかで繰り返した。
アリスを連れ去り、記憶を奪って整合騎士に造り変えた……あの驚異的な力を持つカーディナルでさえ敵わなかった、最強究極の神聖術者。自分とキリトの、最後の敵。
その相手が今、目の前で、眠っている。
今なら殺せる!?
しかし剣が――。
いや、待て。ある――小さな、しかし強力な武器が。
ユージオは、こわばった右手を動かし、布地ごとシャツの胸元を掴んだ。
硬く、鋭い十字の感触がしっかりと掌に伝わった。
この短剣を刺せば、アドミニストレータはカーディナルの術の支配下に捕われる。空間を越えて送り込まれてくる超攻撃術によって、たちまちのうちに焼き殺されてしまうはずだ。
「…………く……」
しかし、ユージオは、シャツごしに短剣を握ったまま動けなかった。
ユージオの半身は、最強の術者アドミニストレータへの恐怖に怯え――もう半身は、その人と思えぬ美貌の呪縛にいまだ囚われていた。
傷つけてしまっていいのか……これほど美しい、完璧なる神の似姿を。
躊躇いが、ほんの僅かな時間、ユージオの右手を石に変えた。
しかし、その強張りが解ける寸前。
ぴくり、と、眠る少女の銀の睫毛が震えた。
それがゆっくり、ゆっくり持ち上がっていくのを、ユージオはただ、呆けたように口を開けながら見つめた。
神の国へと繋がる窓というものがもし存在するとすれば、それはこの少女の瞳以外のものでは有り得ない。
そんなふうに思えてならないほどに、薄く開かれた瞼の下から漏れた光は玄妙かつ神々しく、ユージオはもう視線を動かすこともできなかった。自分が今、どこで何をしているのかといったことすら、意識の彼方に吹き飛ばされていく。
そんなユージオを焦らすかのように、少女は薄く開いた瞼をふたたびそっと閉じ、そのゆっくりとした瞬きをさらに二度繰り返した。そしてついに、完璧な棗型の目をぱっちりと見開いた。
「あ…………」
自分の口から零れたため息を、ユージオは自覚できなかった。
少女の瞳は、白金を液体に変えたかのような、純粋な銀色だった。その鏡の如き虹彩を、文字通り虹の七色が、かすかにたゆたいながら彩っている。この世界に存在するどんな宝石よりも――それこそ四皇帝の宝冠の中央に輝く金剛石すら足元にも及ばないほどの、神々しい煌めき。
もはや指先の感覚までも失せ、ただベッドの上に膝を衝いた格好で石像のように固まったユージオの眼前で、目覚めた少女はまったく重さを感じさせない動作でふわり、と上体を持ち上げはじめた。腕を使うこともなく、筋肉の力というよりも目に見えぬ超常の力に背中を押されるかのように体が起き上がり、とてつもなく長い銀の髪も、風もないのに一度後方にさら……と流れてからまっすぐにまとまって流れ落ちる。
その動きにあわせて、これまで嗅いだことのない濃密かつ清冽な薫りがあたりに漂い、ユージオの思考を一層麻痺させた。
ほんの二メルの距離から呆然と見つめる侵入者の存在を、少女――アドミニストレータはまるで気にもとめぬ様子で、頬にかかった一筋の髪を右手の指先で後ろに払った。まっすぐ伸ばしていた、紫の薄物に包まれた両脚を、揃えて右に折りたたむ。重心が傾いた細い体を、華奢な左手をシーツについて支える。
その艶かしい姿勢のまま、アドミニストレータは、ついに顔を左に傾けてまっすぐユージオのほうを向いた。
俯いていた両の瞳がすっと上に動き、ユージオの目を正面から覗き込んだ。
虹色の燐光に縁どられた純銀の瞳。その中央に、人間ならば有るべき瞳孔は存在しない。とてつもなく美しいが、しかし鏡のようにすべての光を反射し、心の奥を一切覗かせぬ瞳――ユージオはそこに映り込んだ己の顔を目にしたが、しかし自分がどれほど危険かつ無防備な状況にあるのかということに気付く前に、アドミニストレータの艶やかな真珠色の唇が小さく動いた。
「可哀想な子」
何を言われたのか、理解するのにずいぶんと時間がかかった。しかし己の思考力の鈍磨を自覚することもなく、ユージオは呆然と問い返した。
「え……?」
かわいそう? 誰が? 僕が……?
「そうよ。とっても可哀想」
幼い少女のようでもあり、同時にあでやかな成熟をも感じさせる声が言った。無垢な清らかさと、触れなば落ちん危さを等しくはらんだ、聞くものの心を深く掻き乱す響き。
その声を生み出した、ほんのりと赤みを帯びた真珠のごとき唇が、ごくごくかすかな微笑みを浮かべ、ユージオの心中に更なる混乱を渇望を巻き起こす。アドミニストレータは謎めいた微笑を漂わせたまま、更にいくつかの言葉を宙に零れさせた。
「あなたはまるで、萎れた鉢植えの花。土にどれだけ根を張ろうと、風にどれだけ葉を伸ばそうと、ひとしずくの水にさえ触れない」
どういう……意味なんだ……?
僕が……萎れた鉢植え……?
ユージオは眉をしかめ、痺れた頭で不思議な言葉の意味を理解しようとした。しかし、停滞した思考のなかにあっても、アドミニストレータの言葉には、何かしら心に突き刺さる痛みを喚起させるものがあった。
「そうよ……あなたにはわかっている。自分が、どれほど渇き、餓えているか」
「……何に……?」
口が勝手に動き、低くしわがれた声が漏れた。
アドミニストレータは、輝く銀の瞳でじっとユージオを見つめ、微笑を消さぬまま弓形の眉をまるで憐れむかのようにひそめて答えた。
「愛に」
愛……だって?
まるで……僕が……愛を知らないみたいに……。
「そのとおりよ。あなたは、愛されるということを知らない、可哀想な子」
そんなことない。
母さんは……僕を愛してくれた。眠れないときは……僕を抱いて、子守唄を歌ってくれたんだ。
「その愛は、ほんとうに、あなた一人のものだったの? 違うでしょう? ほんとうは、あなたの兄弟に分け与えた余り物だったんでしょう……?」
嘘だ。母さんは……僕を、僕だけを愛してくれたんだ……。
「自分だけを愛してほしかった。でもそうしてくれなかった。だからあなたは憎んだの。母の愛を奪う父を。兄たちを」
嘘だ! 憎んでなんかいない。僕は、僕は、父さんや兄さんたちを殺したりしてない。
「そうかしら……? だって、あなたは殺したじゃない」
…………。
誰を……?
「はじめて、自分ひとりを愛してくれるかもしれなかった、あの赤毛の女の子……あの子を力ずくで奪い、汚した男を、あなたは殺した。憎いから。自分だけのものを獲られたから」
……!!
違う……僕は、そんな理由で……そんな理由でライオスを斬ったんじゃない。
「でも、あなたの乾きは癒されない。もう誰も、あなたを愛してくれないから。誰も、あなたに水を与えてくれないから。みんなあなたを忘れてしまった。もう要らないって、捨ててしまったの」
違う……違うよ。僕は……僕は、捨てられてなんかいない……。
そうだ……違う。
僕には、
アリスがいる。
その名を思い出したとたん、頭の中を濃密に覆い尽くすねっとりとした霧が少し晴れたような気がして、ユージオはぎゅっと両目をつぶった。このままじゃいけない、この声を聞いてちゃいけない、湧き上がった危機感がそう囁く。
しかし、思考する力を取り戻す前に、再び甘く蠱惑的な声が、両の耳から滑り込んできた。
「本当にそうかしら……? 本当にあの子は、あなただけを愛しているのかしら……?」
憐れみの響きの裏に、かすかにくすくすと笑うような音が混じる。
「あなたは忘れているの。思い出させてあげる。真実を……あなたが深いところに埋めてしまった、ほんとうの記憶を」
途端、ユージオの視界がぐらりと傾いた。
膝をついていた柔らかいシーツは消えうせ、暗い、暗い穴のなかを、どこまでも落ちていく。
ふと、生々しい青草の匂いが鼻をつく。
視界の隅に緑色の光がちらちらと瞬き、さえずり交わす小鳥の声に、ざくざくという足音が重なる。
気付くと、ユージオは深い森の中を一人走っている。
視点がやけに低く、歩幅も短い。見下ろせば、粗い麻の半ズボンから伸びた脚は、細く頼りない子供のものだ。だが違和感はすぐに消え去り、変わりに圧倒的な焦燥感と寂寥感が取ってかわる。
今日は、朝からアリスの姿が見えないのだ。
午前中の家の手伝い、牛の世話と菜園の草取りを終わらせ、ユージオは一目散にいつもの集合場所、村の外れの林檎の樹の下に急いだ。しかし、どれだけ待とうとアリスは来なかった。それに、同じく産まれたときからの幼馴染である黒髪の少年――キリトも。
ソルスの光が作り出す自分の影がずいぶんと短くなるまで二人を待ってから、ユージオは言い知れぬ不安を抱えながらアリスの家までとぼとぼと歩いた。きっと、何かイタズラが見つかって遊びにいくのを禁止されたんだ、そう思ったのに、ユージオを出迎えたツーベルクのおばさんは首をひねりながら言った。
おかしいわねえ、今日は随分とはやく出かけたわよ。キリ坊が迎えにきたから、てっきりユー坊も一緒だと思ったんだけどねえ。
もごもごと礼を言って村長の屋敷を後にしたユージオは、不安が焦りに変わるのを感じながら、村中を探し回った。しかし、村の餓鬼大将である衛士長の息子ジンクとその子分たちが占拠している中央広場はもちろん、どの遊び場にも、隠れ家にも、キリトとアリスの姿は無かった。
思い当たる場所はもう、一箇所しかなかった。普段、子供たちが一切近づかぬ東の森、その奥に最近見つけた、小さな円形の空き地。大人達が“妖精の輪”と呼ぶ、様々な花や甘い果実に埋めつくされた、三人だけの秘密の場所。
そこを目指して、半ばべそをかきながら、ユージオは懸命に走る。寂しさと訝しさ、そしてもうひとつ、名前を知らない不快な感情に衝き動かされながら。
曲がりくねった獣道を懸命に駆け抜け、一際太い古木にぐるりと囲まれた秘密の空き地が近づいてきたとき、不意に樹の幹と幹のあいだに眩い金色の光が瞬いて、ユージオははっと脚を止めた。
間違いなく、見慣れたアリスの金髪の輝きだった。何故か反射的に息を潜め、耳をそばだてる。ぼそぼそ、と密かに交し合う言葉の端々が、かすかに届いてくる。
どうして……どうしてだよ。
そんな言葉だけを頭のなかで繰り返しながら、ユージオはそっと、そっと空き地に歩み寄った。巨大な惨めさを抱えながら、ひときわ太い樹の陰に身を隠し、陽光溢れる秘密の場所を覗き見る。
咲き乱れる色とりどりの花の中央に、アリスがこちらに背を向けて座っていた。顔は見えないが、流れるまっすぐな金髪と、深い青のドレス、白いエプロンは間違いようもない。
そしてその隣に、つんつんと硬い黒髪の頭。無二の親友、キリトだ。
じっとりと冷たい汗が、握った手のひらを濡らす。
何してるんだ。二人だけで、僕にかくれて、何してるんだよ。
立ち尽くすユージオの耳に、微風に乗ったキリトの声が聞こえた。
「なあ……そろそろ戻ろうぜ。ばれちゃうよ」
それに答える、アリスの声。
「まだだいじょうぶよ。もう少し……もうちょっとだけ、ね?」
いやだ。
もう、ここにいたくない。
しかしユージオの脚は、まるで樹の根に絡みつかれたかのように動かない。
どうしても逸らせない視線の先で、アリスの頭がそっとキリトに近づく。
かすかな囁き声の断片。
鮮やかなソルスの光の下、咲き誇る花々の中央で寄り添う二人の姿は、まるで一枚の絵のようで。
いやだ。
うそだ。こんなの、全部うそだ。
ユージオは心の中で叫ぶ。しかしどれほど否定しようと、この光景すべてが、自分の記憶のなかから出てきた真実であるという確信がぬぐいがたく湧き上がり、胸に苦い水となって満ちる。
「ほら……ね?」
くすくす。
ひそやかな笑いの混じる、アドミニストレータの囁き声が、ユージオを現実に引き戻す。
セントラル・カセドラル最上階、薄暗い最高司祭の居室の巨大なベッドの上で我に返っても、ユージオの瞼の裏に閃く緑と黄金の輝きはなかなか消えなかった。それに、耳に染み付く、アリスとキリトの囁き声も。
キリトと出会ったのはたったの二年半前、もうアリスが教会に連れ去られたずっと後だ――というかすかな理性の声も、ユージオの胸中を埋め尽くす圧倒的な黒い塊を溶かすことはできなかった。感情の大渦に翻弄され、蒼白になって荒い息を繰り返すユージオを、すこし離れた場所からアドミニストレータは憐憫の表情を作って見つめてくる。
「わかったでしょう……? あの子の愛すら、あなた一人のものじゃないのよ。ううん……そもそも、最初からあなたの分はあったのかしらね?」
甘い声がするりするりとユージオの中に滑り込み、そのたびにユージオの胸のうちをかき乱し、いっそう乾かしていく。くっきりと浮き上がる、果てしない餓えと孤独感。心がみるみるひび割れ、かさかさと剥がれ落ちていく。
「でも、私は違うわ、ユージオ」
これまででもっとも誘惑的な声が、蜜をたっぷりと含んだ果実から漂う芳香にも似て、ユージオの耳にとろりと流れた。
「私があなたを愛してあげる。あなた一人だけに、私の愛をぜんぶあげるわ」
半ば曇った眼をぼんやりと持ち上げたユージオの視線の先で、銀の髪と瞳をあでやかに煌めかせた少女が、とろけるような微笑を浮かべた。
柔らかなシーツに沈み込んだ脚を動かし、上体をまっすぐに伸ばす。
両手がゆっくりと持ち上がり、薄紫の絹の寝巻きの胸元を止めるリボンを思わせぶりに弄る。
銀糸を編んだリボンの端を、しなやかな指先がつまみ、少しずつ、少しずつ引っ張っていく。広い襟ぐりから半ば以上露わになった、しっとりと白いふくらみが、誘うように揺れる。
「もっとこっちにきて、ユージオ」
その囁きは、夢の中で聞いた母の声のようでも、また幻の中で耳にしたアリスの声のようでもあった。
「どっ……こい……すああああ!」
形振りかまわない掛け声とともに、両腕による懸垂で体を持ち上げた俺は、そのまま前のめりに頭から水平な床に突っ伏した。
限界を越えて酷使した全身の関節や筋肉が、まるで巨人の手で捻り上げられているかのようにみしみしと痛む。大粒の汗が額から首筋から幾筋も滴り落ちるが、拭う気力などあるはずもなくただひたすら荒い呼吸を繰り返す。この世界が、俺の脳に与えられた量子的情報なのだという大前提がどうにも信じられなくなりそうなほどのすさまじい疲労感だ。
およそ二時間にわたる壁面登攀のすえ、ついに辿り着いたセントラル・カセドラル九十五階“暁星の望楼”であるが、フロアの地形や敵の有無を確かめる余裕すらなく、俺は電池の切れたおもちゃのように四肢を投げ出し、天命の自然回復を待った。
たかが八フロアぶんの壁を登るのにこれほどの時間と体力を消耗してしまったのは、ひとえに、今俺の背中に乗っかり細い鎖でしっかりと固定されている整合騎士様の存在ゆえだ。
数時間前、ついにユージオと同等の精神的ブレイクスルーに到達し、謎のシステムアラート、外部のラーススタッフの誰かによって施されたと思しき心理拘束を打ち砕いた騎士アリスではあるが、その代償はやはり大きかった。
碧玉の如き右眼は跡形も無く吹っ飛び、そのショックによりアリスは気を失ってしまったのだ。
人工的記憶媒体であるライトキューブ中に魂を保持されたアンダーワールド人は、俺たち現実世界の生身の人間のように、脳に加えられた外部的衝撃によって失神するということはない。例えば、アンダーワールド内で高所から落下して頭を打っても、タンコブができ天命は減少し痛みに涙を滲ませはするが、昏倒だけはしないのだ。
しかしそのかわりに、彼らは心理的ショックには比較的脆弱な傾向がある。余りにも大きな悲しみ、恐怖、あるいは怒り等を感じると(犯罪が存在しないこの世界ゆえ、それら負の感情が発生することは非常に稀であるが)、おそらくは致命的エラーからフラクトライトのコア部分を守るために、ある程度の時間心神喪失状態に陥ってしまうのである。一例を挙げれば、思い出すも辛いことだが、上級修剣士ライオス・アンティノスらによって陵辱されるという恐怖と苦痛を味わったティーゼとロニエは一時間ちかく気を失っていたし、加害者であるライオスのほうは、ユージオに殺されるという恐怖を処理しきれずに魂を崩壊させてしまった。
アリスもまた、深い心理的ショックによりフラクトライトに被ったダメージを緩和、修復するために失神したのだろうと、俺はいささか慌てたすえに推測した。もしそのダメージが致命的なものであれば、ライオスのように一瞬で天命がゼロになり、ユニットとして消去処分されていたはずだからだ。
そう考えれば、同様のショックに見舞われたはずのユージオが、意識を失うことなく直後にライオスを斬ってのけたその精神力はやはり驚嘆すべきものだ。事件がひと段落し、懲罰房に放り込まれたあとはさすがに放心していたが、それでも思考が混乱したりする様子は無かった。
アンダーワールド人の精神的脆弱性と命令に対する絶対服従性、それに例のシステム・アラート封印にどのような関連があるのかはまったく謎だが、少なくともそれらを克服することは不可能ではない。それをユージオとアリスは身をもって証明している。やはり、長い時間はかかるだろうが、全アンダーワールド人が俺たち人間と対等の知的存在して現実世界で生きていける可能性は確実に存在するのだ……。
――などということを考えつつ、俺は八十七階のテラスでアリスの回復を待っていたのだが、一時間経っても騎士様は眼を覚ましてくれなかった。右目の傷には俺の天命を使って血止めは施したが、完全に治癒させるにはとうてい時間もリソースも足りない。月はとうに高く昇り、空間リソースの供給は開始されていたが、それはすべて登攀用のハーケン生成に使わなくてはならなかった。せめてものことに、俺のシャツの裾を千切って作った即席の包帯だけは巻いておいてから、俺は腹を括り、アリスを背負って塔を登ることにしたのだ。
互いの体を繋いでいた黄金の細鎖をはずして、アリスの細いが死ぬほど重い体を背中に乗せたときは、よっぽどその重量の大半を占めるブレストプレートと金木犀の剣を置いていこうかと考えたものだ。しかし、アリスがアドミニストレータと戦う決意をしてくれたからには、これはもう二度とは得難い貴重な戦力であり、その武装を捨てるのは愚策以外の何ものでもない。
もう一度覚悟を決めなおし、背負った体を鎖でしっかりと固定してから、俺は夜空に溶け込む塔の最上部目指して絶壁を登りはじめたのだった。
二時間に及んだ地獄の道行きの果てに、ついに前方の壁面に開口部が見えてきたときは、つい気が遠くなってハーケンひとつぶん滑り落ちてしまったりもした。命綱がない状況で、もし完全に落下してしまったら、八十七階まで逆戻りかヘタをしたらはるか地上で二つの小さな染みになっていたところだ。
ともあれ、こうして目標地点までの八フロアぶんを――塔外に放り出された時点から数えれば十五フロアぶんの距離を登りきったからには、まるでしかばねのように返事もせず地面に転がるくらいのことは許されるだろう。どうせ、前方のフロア内には少なくとも誰かが居るような気配はない。
と考えながら俺はただひたすら目を閉じ水平面に寝転がる快楽に耽っていたのだが、それを妨げたのは、背中の上で発生したもぞもぞする動きと声だった。
「う……ううん……」
小さな息遣いとともに、俺の首筋にこそばゆい空気の流れが当たる。
「……ここは……私は……どう……」
という呟きとともに、アリスが起き上がろうとした気配があったが、すぐにぐるぐる巻きになった鎖がちゃりっと張り詰め、いったん離れた重みがふたたびどさっと背中に戻ってきた。
「な……何これ……え……? お前、キリト……? 私を……背負って……?」
そのとおり、少しは感謝してくれよ。と胸中で一人ごちたのも束の間。
「えっ、ちょっと、やだ! お前、汗でびちょびちょじゃないですか! 嫌っ、私の服に! 離れて! 離れなさい!」
悲鳴とともに、後頭部をごちんとどつかれ、俺は額をしたたか硬い石床にぶつけた。
「ひでえよ……あんまりだ……」
急かされつつ鎖を解き、背中の荷物を下ろした俺は、巨大な円柱にもたれかかって嘆いた。
しかし騎士様のほうは、俺の献身的重労働など一顧だにする様子もなく、顔をしかめて白い衣装のあちこちをパタパタと払っている。その手を止めたと思ったら、背負われている間じゅう俺の首筋に密着していた肩口のふくらんだ袖部分をつまみ、くんくんと匂いを嗅いで鼻筋に皺を寄せたりしているのを見れば、俺も余計な憎まれ口を叩かずにおれない。
「そんなに気になるなら風呂でも入ってくればどうっすか」
潔癖症のアリスへの皮肉のつもりだったのだが、言われたほうは首をかしげて検討する素振りなので、慌てて付け加えた。
「いや、冗談だよ! これからまた中層に降りるなんて冗談じゃないぞ」
「いえ、そこまで行かずとも、ほんの五階下に大浴場があるにはあるのですが」
「なぬ……」
今度は俺のほうがぐらりとくる。牢を破ってからの激闘につぐ激闘と、先刻の壁のぼりで埃まみれ汗まみれの服と体をさっぱり洗えるというのは正直魅力的な話ではあった。
座ったまま首を回し、フロアの様子をあらためて確認する。
九十五層・暁星の望楼は、その名のとおり巨大な展望台として造成された場所らしかった。正四角形のフロアは全周がそのまま空へ開放されており、約三メートル間隔で立つ円柱だけが上層の天井を支えている。この素通し構造を見れば、アドミニストレータがまさかの侵入者に備えて少し下方の壁に衛兵を配置したのもなるほどと頷ける。
俺たちが居る最外周部は、フロアをぐるりと取り巻く通路になっていて、その各所から内側に向けて短い上り階段が設けられていた。すこし高くなったフロア内部には、均等に並ぶ華麗な彫刻やら、見たことのない花をつけた小型の樹に囲まれるように、大理石のテーブルと椅子が置かれている。こんな真夜中ではなく昼間にあの椅子に座れば、さぞかし四方に広がるアンダーワールド全体を見下ろす絶景が楽しめることだろう。今更ではあるが、現在はどのテーブルにも人っ子一人いない。
そして、俺から見てフロアの右端と左端に、それぞれ上りと下りの大階段が次のフロアへと繋がっているのが見えた。
問題は、ユージオがすでにこの九十五層を通過しているかどうか、ということだ。
彼と分断されたのが八十階、普通に考えれば、四苦八苦して外壁をよじ登ってきた俺と、内部の階段を登るだけのユージオでは、むこうのほうが遥かに早くここまで辿り着けたはずだ。しかし問題は、俺たちが戦ったドローン以上の強敵――恐らくは整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンその人がユージオの前に立ちはだかったであろうということだ。俺と互いに死の際まで踏み込む激闘を演じたファナティオより、そしてそもそも相手にすらさせてもらえなかったアリスより強いという、伝説上の英雄。
無論ユージオも強い。剣技だけを取るならあるいはすでに俺を超えたかもしれない。しかし、もはや超人というべき上位整合騎士には剣の腕だけでは勝てない。相手の裏を衝き、周囲の状況すべてを利用した、ある意味では卑怯とすら言うべき戦術が必要となる。真面目一本のユージオにそれが出来ただろうか……。
悩む俺に、同じく左右の階段を見回したアリスが、ぽつりと声を掛けてきた。
「これはもちろん、お風呂とは関係なしに言うのですが……お前の、あのユージオという名の仲間は、まだここまで登ってきていないのではないでしょうか」
「え? どうして?」
「何故なら、この層が唯一、カセドラルの外部に放り出された私達が再び中に戻り得る場所だからです。それは見ればわかることですし……つまり、もし先にここに到達していれば、彼はお前をここで待っているはずでしょう」
「……なるほど、そりゃ理屈だな……」
俺はあごを撫でながら頷いた。言われてみれば尤もな話であり、もしユージオがここを先に通過したとすれば、それは彼が捕縛されたか、意識を失っていたか、あるいは――亡骸になっていたか、の三通りしかないのだ。先の推測とは矛盾するが、そう容易く捕まったり殺されたりするユージオではない、と信じたい。
「それに、ユージオが……」
自分でも自覚はしていないだろうが、するりと彼の名を呼び捨てで口にしたアリスが、俯きながら呟いた。
「……雲上庭園から大階段を登ったとすれば、このような最上部まで達する以前に、最強の相手と遭遇したはずです。小父様……騎士長ベルクーリと」
オジサマ、という呼称はさておいて、俺はある種の興味に促されて尋ねた。
「やっぱり強いのか? 騎士長様っつうお方は」
するとアリスは、ふっと小さく微笑み、頷いた。
「私も勝てません。となれば、私に負けたお前や、お前と同等の腕であろうユージオも勝てぬ道理」
「……道理だけどさ、そりゃ。でも、俺があんたに負けたかどうかは……」
ぶちぶちと口にした俺の負け惜しみを聞き流し、黄金の騎士は続ける。
「小父様は……あの人の持つ神器・時穿剣は、その銘のとおり時間を斬るのです。具体的には、小父様の斬った空間はその斬撃の威力をおよそ十分間保持する、と言えばわかるでしょうか……目に見えない必殺の刃が、対する者の周囲を取り巻いてしまうようなものです。動けばそれに触れて手足、へたをすれば首が落ちますし、さりとて動かねば実体たる剣の一撃で絶息は必至。小父様と戦う者は、あの人の一撃必殺の“型”を、木偶のように受けるしかないのです」
「む……むう……」
言葉で聞いただけではイメージは難しいが、要は斬撃の持つ時間的座標を前方に引き延ばすということだろうか。一見地味ではあるが、しかし確かにこれは恐るべき力だ。俺やユージオの操る連続剣技の、一撃の威力をスポイルしてでも攻撃の効果範囲を広げるという本質を、あっさりと無効化してしまうからだ。
そんな敵と対峙して、はたしてユージオはどうなっただろうか。彼が死ぬわけはない、と確信しつつも、嫌な予感が拭いがたく背中を這い登ってくる。
やはり階下へ向かい、彼を捜すべきか。しかしもし、すでに彼が拘束され、階上……おそらくは“シンセサイズの秘儀”が行われるのであろうアドミニストレータの本丸へ連れ去られていたら? この上ユージオが最新の整合騎士にでもされてしまったら、もう望みは九割断たれたも同然だ。
ようやく疲労感の薄れてきた手足に力を込め、俺はよろりと立ち上がった。再び左右の大階段を睨み、唇を噛む。
神聖術の中には、人の居場所を捜すためのものもあるが、他人を直接、術式の対象に指定することが許されない(もしそれが可能なら、相手のステイシアの窓に記されたユニットIDさえわかれば、直接相手の天命を消し飛ばすような恐ろしい術さえ組み得る)この世界では、探したい人が常に身につけているオブジェクトのIDをサーチ対象の代用とすることになる。学院にいるときは、俺はユージオの制服についていた銀の校章のIDを用いていたのだが、あれは放校の憂き目にあったときに没収されてしまったし……。
いや、待った。
「そうか、なんだ、そうじゃん」
ついそう呟いた俺は、訝しそうな顔を見せるアリスに小さく笑ってみせてから、右手を掲げて大声で唱えた。
「システム・コール!」
右手が紫の燐光に包まれるまで待ち、俺がハーケン生成に使いまくった空間リソースがまだ残されているのを確認してから、続く式を口にする。
「サーチ・ポゼッション・プレース! オブジェクトID、DI:WSM:0131!」
何事も憶えておくものだ。俺が指定したのは、無論ユージオの愛剣、青薔薇の剣のIDである。
伸ばした人差し指の先端から糸のように放たれた紫の光線は、するすると伸び――足元の石床に突き刺さった。
「下だな」
「下ですね」
なるほど、という顔でこちらを見たアリスと頷き交わす。指を振って術式を解除すると、俺はその右手を何度か握り締め、体力がある程度回復しているのを確かめた。ついで、再びアリスに視線を向ける。
「大丈夫か? 動けるか……?」
騎士は軽く唇を噛み、元は俺のシャツだった黒い眼帯に覆われた右眼をそっと押さえた。
「この包帯は……お前が?」
「ああ……血は止めたけど、もっと綺麗な布に取り替えたほうがいいかもしれない」
「いえ、このままで構いません」
ぽつりと呟き、アリスは残された碧い左眼でまっすぐ俺を見た。
「痛みはもうほとんど無いですが……やはり、視界がかなり制限されますね。戦闘に影響が出るのは避けられそうもありません」
「何、右は俺がカバーするさ。じゃあ……悪いけど急ぐぞ。さっきの光線のかんじだと、四、五階は下みたいだからな」
「わかりました。私が先に立ちましょう、道をよく知っていますから……と言っても、階段をただ降りるだけですが」
そう宣言すると、アリスは俺に口を差し挟むひまも与えず、ブーツの鋲でかっかっと大理石を鳴らしながら小走りに進み始めた。俺も慌ててその後を追う。
道路からにょきりと飛び出す地下鉄の出入り口を華美壮麗にしたような造りの下り大階段は、薄暗がりからひんやりとした空気を吹き上げてくるのみで、何者かの気配は微塵もなかった。下層ですら人間の生活感は限りなく微かだったセントラル・カセドラルだが、この最上部に至っては、まるである種の建築美術、もしくは廃墟にも似た寒々しさを濃く漂わせている。とうてい、全アンダーワールドを統治する為政の府の中枢とは思えない。
これまでに得た情報では、神聖教会の上層部には、整合騎士団のほかに元老院なる機関があるはずだったが、こんなほとんど天辺まで登ってきてもそいつらの気配すらしないというのはどういうことだろうか。
先に階段を駆け下り始めたアリスの右横に追いつき、俺は小声でその疑問を口にしてみた。するとアリスは軽く眉をしかめ、同じくささやき声を返してきた。
「実のところ……私達、管制騎士という座にある整合騎士の指揮官にすら、元老たちの全貌については知らされていないのです。九十六層から九十九層までが元老院と呼ばれる区画なのですが、騎士や修道士の立ち入りは禁止されていますし……」
「ふむ……。そもそも、元老っつう連中の仕事は一体何なの?」
「禁忌目録」
アリスはぽつりと、どこか危険物に触れるかのような慎重さの漂う声でつぶやいた。
「禁忌目録が、この世界を完璧に維持……あるいは停滞させ続けているかどうかの監視と、必要があらば各条項の更新を行う、それが元老の仕事です。そして、目録の条項だけでは対処しきれない事態が生じた場合は、整合騎士団に命じて事態の収拾に当たらせる。私に、八十階でお前達を迎撃させたのも元老院の指令です」
「なるほどな……つまり、元老院は最高司祭の仕事のほとんどを代行してるってわけだ。しかし、よくアドミニストレータがそんな権限を与えたもんだな。それとも、元老たちも整合騎士と同じように行動制御キーを埋め込まれてんのかな」
俺の言葉を聞いたアリスは、嫌な顔をして指先で額をなぞった。
「その話は止めてください。私の中にもまだそのなんとかキーがあると思うと不安になります」
「君はもう大丈夫だと思うよ……最高司祭が埋め込んだ制御キーよりも深いレベルの、言わば神の束縛を打ち破ったわけだし……」
「……だといいのですが」
指先を、額から右目の眼帯にそっと移動させるアリスの様子を横目で見ながら、俺は先の一幕を思い出していた。
あれほどの動揺に翻弄されながらも、アリスの額に埋め込まれた制御キーが不安定になることはついになかった。俺は、アドミニストレータがアリスから奪った記憶のピースは、恐らくユージオかシルカとの思い出なのだろうと予想していたのだが、ユージオとは二度も直接相対しているし、シルカの名前を聞いたときも涙を見せこそすれ額から例の三角柱が脱け出したりはしなかったのだ。
となると、今現在アドミニストレータの手許にあるはずのアリスの記憶ピースの中身とは、一体何なのか。
無論、“逆シンセサイズ”によって騎士アリスがもとのアリス・ツーベルクに戻れば分かることである。であるのだが、しかし……。
再び、胸の奥に疼くような二律背反を感じながらも、俺はアリスに並んで機械的に足を動かした。しんと静まり返った深夜の大階段に、二つの足音だけが硬く響く。
高い天窓から、踊り場のじゅうたんに降り注ぐ蒼い月光を五度踏むと、目の前に巨大な扉が立ち塞がった。ここまで、階段や壁の滑らかな石材に、戦闘の痕跡らしきものは小さな傷ひとつとて目にしていない。
隣で足を止めたアリスに、俺は短く、ここが? と尋ねた。
「ええ……。この先が大浴場です。よもやこのような場所を迎撃地点に選んだりはしないと……思うのですが……あの人のすることは……」
眉をしかめ、語尾を小さく飲み込みながら、アリスは右手を揚げて右側の扉に当てた。軽く力を入れただけで、巨大な無垢材の一枚板が音も無く奥に滑る。
途端、濃密な靄が白いかたまりとなって押し寄せてきて、俺は思わず顔を逸らせた。
「うわ……すごい湯気だな。どんだけデカい風呂なんだよ、奥がまるで見えないぞ」
そんな場合では無論ないが、泳いだらさぞかし気持ちいいだろうなあ、などと思いつつ一歩、二歩、内部に踏み込む。その時になって俺はようやく、全身を包んでいる白い靄が、熱湯から立ち上った蒸気なのではなく――極低温の凍気であることに気付いた。
堪えようもなく、二度、三度と盛大なくしゃみを連発する。そのせいではないだろうが、直後、目の前の白いベールがすうっと左右に分かれた。露わになった“大浴場”の全景は、俺を心底から驚愕させるに充分以上の代物だった。
途方もなく広い。カセドラルのワンフロアぶち抜きで作ってあるのだろう、突き当たりの壁が霞むほどの面積のほぼ全体が、それこそ巨大プールとでも言うべきサイズの浴槽になっている。俺が立つ場所から真っ直ぐ前に広い通路が一本、中央でそれと交差する通路が一本あり浴槽は四分割されているのだが、そのひとつが俺の学校――修剣学院ではなく現実世界の高校――の二十五メートルプールより明らかに大きい。
しかし、真に驚愕すべきは、その巨大風呂桶になみなみと湛えられていたのであろう湯が、今はすべて真っ白に凍り付いていることだった。
周囲の壁に設えられた、獣の頭部を模したレリーフから流れ落ちる滝までもが湾曲した氷の柱と化しており、この凍結が瞬時に行われたことを示している。当然、自然現象ではなく大規模な神聖術が荒れ狂った結果と見るべきだろう。
しかし、この容積の湯を一瞬で氷結させるとは只事ではない。氷素を用いた通常の凍結術ならば、高位の術者が最低でも十……いや二十人は必要だ。だが――おそらく、この氷の世界を現出させたのは……。
俺は左前方に数歩進み、階段状になっている浴槽の縁を降りると、氷の表面に立った。腰をかがめて足元にたなびく靄に手を突っ込み、そこに頭を出していた小さな氷の突起物を折り取る。顔の前まで持ってきたそれは、予想どおり、青く透き通った花弁を幾重にも開いた氷の薔薇だった。
「……ユージオ」
呟いた俺の隣に、しゃり、と音をさせてアリスも降り立った。驚きに左眼を見開きながら、掠れた声で囁く。
「なんという……。これを引き起こしたのは、お前の仲間の……?」
「ああ、間違いないだろう。ユージオの“青薔薇の剣”の完全支配術だ。まあ、俺も正直……これほどの威力とは思ってなかったけどな……」
今更ながら、俺は長年苦楽を共にした相棒の戦闘能力に舌を巻く思いだった。ユージオは自分の武装完全支配術を、足止めのためのものだなどと言っていたがとんでもない。この氷の地獄に捕らえられれば、それだけで天命が全て消し飛びかねない。
これならば、あいつは本当に伝説の騎士ベルクーリを退けたのかも――と思いながら、俺は懸命に目をすがめ、四方の靄を見通そうとした。青薔薇の剣をサーチした光線は確かにこの大浴場を示したのだし、その近くに彼も居るはずだ。
と、その時、隣でアリスが小さくあっ……と言いながら右手で前方を指差した。
「…………!」
俺も鋭く息を吸い込んだ。確かに、二十メートルほど先の氷結面に、こんもりと突き出したシルエットが見えた。間違いなく、人の肩から頭にかけてのラインだ。
アリスと同時に駆け出し、足元にびっしり咲いた氷薔薇をかしゃかしゃ蹴散らしながら人影へと向かう。しかし、半分ほど距離を詰めたとき、俺は氷に埋まった人物が明らかにユージオではないことに気付いた。肩幅も、首回りも、ユージオの倍はあろうかという逞しさだ。
落胆と警戒心によって速度が落ちた俺とは逆に、アリスは一声細く叫んで残りの距離を疾駆し始めた。
「小父様……!」
引き止める間もなく、凍結したシルエットの傍へと駆け寄っていく。
あれがベルクーリ!? ならばユージオは何処に行ったんだ……!?
混乱しながらも、俺は左右に視線を走らせつつアリスを追った。数秒後に追いついたときには、アリスはもう氷に埋まった巨漢の隣にひざまずき、胸の前で両手を組んで、悲鳴のような声で何度も呼ばわっていた。
「小父様……! 騎士長様……! なぜ、このようなお姿に……!?」
どこか奇妙なその言葉の理由は、俺にもすぐ解った。
分厚い氷に胸元まで埋まり込んだ威丈夫は、しかし、ただ凍りついているわけではなかった。隆々と筋肉が盛り上がった肩も、丸太のような首も、そしてそこに乗る、無骨だが、研ぎ澄まされた名刀のように鋭い相貌も――すべてが、濃褐色の石へと変じていたのだ。遠い昔に現実世界で観た大河シリーズもののSF映画、あの二作目で敵に捕らえられた宇宙船の船長が、ちょうどこのような質感のレリーフに変えられていたことを、俺は頭の片隅で思い出していた。
「……これは……ユージオの術じゃない」
しわがれた声でそう呟いた俺に、背を向けてひざまずいたままのアリスが小さく頷いた。
「……ええ、そうでしょう……小父様に聞いたことがあります、元老たちは、整合騎士に……“再調整”なる処理を施すため、石に変じせしむる術式を用いる権限を与えられていると……確か、“ディープ・フリーズ”、そんな名でした」
「ディープ……フリーズ。なら、このおっさん……いや、ベルクーリにその術を掛けたのは元老の一人なのか……しかし何故? 今や、元老院……ひいてはアドミニストレータに残された貴重な戦力だろうに」
「……小父様は、確かに元老院の指令には密かな疑念をお持ちのようでした。しかし……私と同じように、教会の存在なくして人界の平和は有り得ないと信じ、これまで永劫の日々を戦ってこられたのです。“再調整”がいかなるものなのか知りませんが、このような……このような仕打ちを受ける謂れはありません! 断じて!!」
俯き、そう叫んだアリスの膝元の氷に、頬を伝った涙がぽたりぽたりと滴った。それを拭うことなくアリスは両手を伸ばし、石に変じた英雄の肩に縋りついた。宙に散った涙の滴が、騎士長の額に当たり、弾けた。
その時だった。
びしり! という鋭い音が、俺の耳朶を打った。
はっと身を引いたアリスが、一瞬前まで手を乗せていたベルクーリの首筋に、一本の深い亀裂が入ったのに俺は気付いた。裂け目は見る間に数を増し、細かい石の欠片がぴしぴしと割れ飛ぶ。
硬質の石像が、無数のひび割れを作りながらも徐々に、徐々に首の角度を変えていくさまを、俺たちは呆然と見守った。
数秒かけて顔を仰向かせた騎士長は、今度は顔の眉間と口の両側にびしりと亀裂を刻んだ。ぽろぽろと鋭い欠片がこぼれ落ち、周囲の氷に飛び散っていく。
ディープ・フリーズという名前からして、そのコマンドは、このアンダー・ワールドにおける人間の体の活動を最高優先順位で完全停止させるものと思われた。現実世界で、例えば体に石膏を塗りたくられるのとは訳が違う。システム的に――つまりは神の命令によってあらゆる動作を禁止されているのだ。それを、この男は、意思の力のみで打ち破ろうというのか。
「小父様……やめて、もうやめて! 体が……壊れてしまうわ、小父様!!」
アリスが涙混じりの声で叫んだ。しかしベルクーリは神への反逆を一瞬たりとも止めることなく、ついに一際大きな、ばきっという破砕音とともに両の瞼を持ち上げた。露わになった両の眼は、皮膚と同じく石の色だったが、その視線に込められた意思の力を俺はまざまざと感じた。
ぽろぽろと欠片を振り撒きながら、口もとにニヤリと太い笑みが形作られ、同時にごくごく微かな、しかし力強い声が流れた。
「よ……よう、嬢ちゃん。泣くんじゃねえよ……び、美人が、台無しだぜ」
「小父様……!!」
「し……心配すんな、この程度で、オレがくたばるわきゃねえ……だろう。それより……」
ベルクーリは一瞬言葉を止め、すぐ眼の前で両膝をつくアリスの顔を見上げると、石の貌にまるで父親のような慈愛に満ちた笑みをうっすらと浮かべた。
「そうか……嬢ちゃん、ついに……壁を、破ったんだ……な。このオレが……三百年かけて……破れなかった、右目の……封印を……」
「お、小父様……私……私は……」
「そんな顔……すんじゃねえ……。オレは……嬉しいんだ、ぜ……。これで、もう……オレが、嬢ちゃんに、教えることは……何も無え……」
「そんなこと……そんなことありません!! 小父様には、もっと、もっと、教わりたいことが、た、沢山、たくさん……!!」
アリスは、子供のように泣きじゃくる声を隠そうともせず、再び騎士長の首を両腕でかき抱いた。ベルクーリも、もう一度優しい微笑みを浮かべ、アリスの耳に囁きかけた。
「嬢ちゃんなら、できるさ……教会の……過ちを正し、この歪んだ世界を、あるべき形へ……導く……ことが……」
その声が、急速に力を失いつつあることに、俺は気付いた。騎士長のフラクトライトから生み出される驚異的な意思力も、今や枯渇する寸前なのだと思われた。
光を失い、鈍い石に戻りつつあるベルクーリの眼が、僅かに動き、まっすぐに俺を見た。もう動かない唇から、おそらく最後の言葉が流れ出た。
「おい、小僧……アリス嬢ちゃんを……頼んだ……ぞ」
「……ああ、任せておけ」
頷いた俺に向かって、古の英雄は、ぴしりとひび割れを増やして頷き返して見せた。
「お前の……相棒、は……元老、チュデルキンが……連れていった……恐らく……最高司祭様の、居室へ……急げ……あの坊やが、記憶の迷路に……惑わされる前に…………」
その一言を最後に、騎士長ベルクーリは完全に動きを止めた。無数の亀裂だらけになったその彫像から声が発せられることは、二度と無かった。
「……小父様……」
騎士長の肩に縋りついたままのアリスが細く絞り出す悲痛な声を聴きながら、俺は、いまの言葉の意味を懸命に考えた。
元老チュデルキンなる人物が、ベルクーリに“ディープ・フリーズ”コマンドを施し、ユージオを連れ去ったということか。視線を動かすと、胸まで氷結したベルクーリのすぐ前方に、まるで氷を電動鋸で切断したかのような真四角の滑らかな穴が、浴槽の底まですっぽりと深く開いているのが見えた。
ユージオは、おそらく騎士長と相打ちになるのを覚悟で互いの身体を凍結させたのだろう。そこに闖入した元老が、これ幸いとユージオを氷ごと切り出し、上層に運んだのだ。ただ、その届け先が、“シンセサイズ”のための儀式の間ではなく、アドミニストレータの居室とはどういうことか。それに、記憶の迷路という言葉の意味は……。
これ以上は、考えても詮無いことだ。確かなのは、ユージオが現在敵首魁の手の内に落ちているという事実だけなのだから。彼のことだ、容易く洗脳されたりはするまいが、フラクトライトに直接アクセスする力を持つというアドミニストレータがどのような手段を弄するかは俺にも想像がつかない。
さらに視線をめぐらせると、四角い穴のすぐ横に、刀身を半ば以上氷に埋めた青薔薇の剣がひっそりと置き去りになっていた。そして、その隣に無造作に投げ出された白革の鞘。
もはやある意味ではユージオの分身ですらある美しい神器が、細いつららをいくつもぶら下げた姿で打ち棄てられている光景は、俺に名状しがたい漠然とした不安感をもたらした。
数歩移動し、腰をかがめて青薔薇の剣の柄を握る。凄まじい冷気が無数の針となって掌を突き刺すが、構わず全身の力を込める。
剣は数秒間、まるでその場に根付いてしまったかのように微動だにしなかったが、やがてぴしりという鋭い音とともに氷に罅が入り、同時に青銀色の刀身がわずかに抜け出た。亀裂が一つ増えるごとに、少しずつ、少しずつ剣はその姿を露わにし、半分を過ぎたところで鈴の音のような響きを放って一気に氷から解き放たれた。
直後、両膝があまりの負荷に抗議するように軋み、俺は思わず短くうめいた。左腰の黒い剣だけでもすでに鉄球をぶら下げているほどの重みがあるというのに、それと同等の重量がある青薔薇の剣を持ち上げたのだから当然のことではあるが。
つい、これは無理かという思考が頭の片隅を過ぎるが、すぐに思い直す。ユージオを最高司祭の手から救出し、彼に剣を返すのはどう考えても俺の役目だろう。幸い、この世界では、少なくともただ運ぶぶんにはシステム的重量制限などというものはない。
腰を屈め、白い鞘も拾い上げると、俺は左腕の袖で抜き身に付着した氷片をぬぐってからそっと納剣した。少し考えてから、それを剣帯の右側に吊るす。そうしてみると、なんとか動き回れるくらいには重みに収まりがつき、ほっと息をつきながら両腰の剣の柄に左右の手を乗せた。
顔を上げると、いつの間にか立ち上がっていたアリスと視線が合った。赤くなった左目の縁を指先で擦っていた少女騎士は、照れ隠しのようにぱちぱちと瞬きし、ややぶっきらぼうな口調で言った。
「……剣を二本装備するような酔狂者は、ただ恰好をつけたいだけの貴族だの皇族と相場が決まっていますが……なんだかお前は妙に様になっていますね」
「ん? そうかな……」
思わず苦笑し、肩をすくめる。確かにSAO時代は、二本のロングソードがソロプレイヤーとしての俺の拠り所となっていたのは事実であるが、しかし当時は他人にそうと知られるのを恐れて二本目の剣をほぼ常に隠していたせいだろうか、いまだに居心地の悪さを感じずにはいられない。
いや――もしかしたらそれだけではなく、“二刀流”キリト、というあまりにも救世の勇者として一人歩きしてしまった名前を、俺はどこかで恐れ……あるいは嫌悪しているのかもしれないが。あんな役回りだけは、誰になんと言われようともう二度とご免だ。
「……だからって、二本を同時に操るのはとても無理だよ」
首を振りながらそう言った俺に、アリスもさもありなんというふうに頷いた。
「同時に複数の神器の“記憶解放”を行うのが不可能だということはすでに実証されていますからね。その一事を取っても、二剣装備に意味が無いことは明らかです。それより……その剣の持ち主、お前の相棒はやはりすでに最高司祭様の手中に捕われてしまったようですね。……急いだほうがいい、あの方のする事は、私にも予想できませんから……」
「……会ったことがあるのか? アドミニストレータと」
「一度だけ」
俺の問いに、アリスは口もとを引き締めると、短く首肯した。
「もうずっと昔……整合騎士として目覚めた私は、まず己の“召喚主”でありこの世界における神の代理人であるという最高司祭様と謁見させられました。見た目には、とてもなよやかな……剣はおろか、羽ペンの一本すらも握ったことのなさそうな美しい方なのですが、でも……あの眼」
篭手のない右手で、左腕の肌をそっと包む。
「あらゆる光を吸い込み、渦巻かせる銀色の瞳……そう、今なら解ります。あの時、私は、あの方を深く懼れた……。決して逆らってはならない、御言葉の一片たりとも疑ってはならず、忠誠の全てを捧げて仕えねばならないと私に思わせたのは、圧倒的な恐怖……だったのでしょうね、恐らく」
「アリス……」
俺はかすかな危惧とともに、青白い顔を俯かせる整合騎士を見詰めた。
しかしアリスは、そんな俺の内心を察知したかのように、大きく深呼吸すると視線を上げて頷いた。
「大丈夫です。私はもう決めたのです。北空の下のどこかにいる妹のために……まだ見ぬ家族、そして多くの無辜の民のために、正しいと信じたことを行うと。――小父様は、我らに施された右目の封印のことをご存知だった。ということはつまり、全整合騎士を束ねるベルクーリ・シンセシス・ワンにして、神聖教会の絶対支配を決して盲目的に善しとはしておられなかったということです。この階まで降りてきたのは、お前の相棒を助けるという点では無駄足でしたが、でも小父様と会えてよかった……これでもう、私の心は決して揺らぐことはありません」
アリスは腰を屈め、伸ばした手でさっと石化したベルクーリの頬を撫でた。しかしその動作も一瞬のことで、くるりと身を翻した騎士は、力強い足取りで氷上をもときた方へと歩きはじめた。
「さあ、急ぎましょう。ことによると、最高司祭様とまみえる前に、元老どもと一戦交える必要があるかもしれませんから」
「お……おい、騎士長はあのままにしておいていいのか?」
慌てて小走りでその横に並びながら、俺は尋ねた。すると、騎士アリスは、蒼い左目にちかりと凄愴な光を浮かべ、こともなげに言った。
「元老チュデルキンを吊るし上げて術を解除させるか……あるいは斬り捨てればそれで済むことです」
この少女をもう一度敵に回すのだけは絶対にご免だな、と、二本の剣の重みを堪えて走りつつ俺は考えた。
恐ろしく細い腰のまわりに、紫の薄物がまるであでやかな花のようにふわりと広がり落ちるのを、ユージオは阻害された意識のなかでぼんやりと見詰めた。
まさに花、それも、強烈な芳香と滴る蜜で虫たちを惑わせ捕らえる、魔性の大輪だ。そんなふうに感じる部分はまだユージオの中に残っていたが、しかし、紫の花弁の中央に儚げにたたずむ真っ白い花芯――アドミニストレータの一糸纏わぬ上体から放たれる誘引力はあまりにも強烈で、先刻の幻に千々に乱されたユージオの思考を、粘性の液体のなかにどっぷりと引き込んでいくかのようだった。
あなたは、本当に満ち足りたと思えるほど誰かに愛されたことがない。
アドミニストレータはそう言った。そしてそれが、一面では確かな事実であると、ユージオは徐々に認めはじめていた。
ユージオ自身は幼少のころ嘘偽り無く、母を、家族を、友人たちを愛した。彼らの幸せが自分の幸せだと思い、自分が摘んできた花で母が笑い、獲ってきた魚を兄や父たちが旨そうに食べるのを幸福感とともに見た。ユージオに色々な意地悪をしたジンクやその仲間たちだって、たとえば彼らが熱を出したりしたときは苦労して薬草を集めて届けたりしたのだ。
でも、その人たちはあなたに何をしてくれたの? あなたの愛の見返りに、どんなものをくれたのかしら?
そう……それを思い出せない。
再び、目の前のアドミニストレータの微笑がぐにゃりと歪み、過去の場景が甦ってくる。
あれは十歳になった年の春……村の中央広場で、大勢の子供といっしょに、村長から生涯の天職を告げられた日のことだ。緊張するユージオを、台上からちらりと見下ろし、ガスフト村長が与えたのは“ギガスシダーの刻み手”という思いがけないものだった。
それでも、一部の子供からは羨望の声がちらほらと上がった。刻み手は村にたったひとりの稀少な天職だし、剣ではないにせよ本物の斧が与えられるのだ。ユージオ自身も、その時は決して不満には思わなかった。
赤リボンで丸めた羊皮紙の任命証を握り締め、村はずれの家まで駆け戻って、ユージオは上気した顔で、自分の帰りを待っていた家族に天職を告げた。
しばしの沈黙のあと、最初に反応したのは下の兄だった。彼はチッと短く舌打ちすると、牛の糞掃除は今日で終わりだと思ってたのに、と毒づいた。ついで上の兄が、これで今年の作付けの計画が狂ったな、と父に言い、父も唸るように、その仕事は何時に終わるんだ、帰ってから畑は手伝えるのか、とユージオに訊いた。男たちの不機嫌を恐れるように、母は一言もなく台所に消えた。
以来八年間、ユージオは家のなかでは常に肩身が狭かった。それなのに、ユージオが稼いでくる決して少なくはない賃金は父親の財布に消え、気付くと羊が増えていたり、農具が新品になっていたりした。ジンクらは稼いだ金をほとんど全て自分で使えて、昼飯には肉をたっぷり挟んだ白パンのサンドイッチを買い、新品のなめし革の短衣やら剣帯やらを毎月のようにユージオに自慢していたのに。そんな友人たちの前を、ユージオは擦り切れた靴で歩き、麻袋には干からびた売れ残りのパンしか入っていなかったのに。
ほら、ね?
あなたが愛した人たちは、一度でもあなたのために何かをしてくれたことがあった? それどころか、彼らは、あなたの惨めさを喜び、嘲笑いさえしたでしょう?
そう……そのとおりだ。
十一の夏にアリスが整合騎士に連れ去られてから二年ほど経った頃、ジンクはユージオに言ったのだ。村長の娘が居なくなっちまったら、もうお前が落とせる女は村にいねえよなあ。おい、俺はよう、こないだ雑貨屋のビリナとよ……。
あの時、ジンクの眼はあきらかに、いい気味だ、と言っていた。村でいちばん可愛くて、神聖術の天才のアリスと誰よりも仲が良かったユージオが、その特権を失って喜んでいた。
結局、ルーリッドの人々は誰ひとり、ユージオの気持ちに報いてはくれなかったのだ。差し出したものと等価の見返りを得る権利がユージオにはあったのに、それは不当に奪われていた。
なら、あなたのその惨めさや口惜しさを彼らに返したっていいじゃない? そうしたいでしょう? 気持ちいいでしょうね……整合騎士になって、銀の飛竜にまたがって、故郷の村に凱旋したら。あなたを嘲った愚か者を全員地面に這いつくばらせて、その頭をぴかぴかのブーツで押さえ付けてやったら。そうしてやってようやく、あなたはこれまで奪われたものを取り立てられるのよ。それだけじゃないわ……。
すぐ眼前の銀髪の美少女は、それまで自分の胸を覆っていた両の腕を、焦らすかのようにゆっくり、ゆっくりと外した。支えを失ったふたつの豊かな膨らみが、熟れきった果実のように重そうに弾んだ。
アドミニストレータは両腕をまっすぐユージオに伸ばし、蕩けるような微笑を浮かべて囁いた。
「あなたは初めて、愛される歓びを心ゆくまで味わうことができるのよ。頭のてっぺんから爪先までが痺れるような、本物の満足を。私は、あなたから奪うだけだった連中とは違うわ。あなたが私を愛してくれたら、それとまったく等価の愛を返してあげる。深く愛してくれればくれるほど、あなたがこれまで想像もしなかったような、究極の快楽に誘ってあげるのよ」
ユージオの思考力はすでに、最後の一滴までもが魔性の花びらに吸い尽くされようとしていた。しかしそれでも、心の深奥に残された最後の領域で、彼はささやかに抵抗した。
愛っていうのは……そういうものなのかな?
お金と同じように……価値で購う、それだけのものなのかな?
違いますよ、ユージオ先輩!
と、どこかで叫ぶ声がして、そちらに視線を向けると、灰色の制服に身を包んだ赤毛の少女が、幾重にも垂れ下がる黒い布の隙間から懸命に手を伸ばしているのが見えた。
しかしユージオがその手を取るまえに、少女の足元の泥沼のような闇から、生白い肌をした長身の男がずぶずぶと湧き出て、少女に絡みついた。男の紅い唇がきゅうっと裂け、粘つくような笑いを含んだ声が発せられた。――これはもう貴君のものではないよ。
赤毛の少女は、悲しそうな瞳の色だけを残して再び闇に消えた。すると今度は、別の方向からまたユージオに囁く声がした。
違うわ、ユージオ。愛は決して、何かの見返りに得られるものじゃないのよ。
振り向くと、暗闇のなかにぽっかりと開けた緑の草原に、青いドレスを着た金髪の少女がたたずんでいた。少女の蒼い瞳が、この底無しの沼から脱せられる唯一の窓であるかのように眩く煌めき、ユージオは懸命に萎えた脚に鞭打ってそちらに這い進もうとした。
しかしまたしても、少女の隣に人影が現れ、ユージオに向けられていた小さな手を握った。その黒髪の少年は、ゆっくりと首を振りながら言った。――悪いなユージオ。これは俺のなんだ。
直後、緑の野原もまた粘つく闇に没した。光を見失い、ユージオは途方に暮れてうずくまった。胸中に溢れ、渦を巻くような渇きは、最早耐えがたかった。自分は子供のころから不当に虐げられ、搾取され、与えられるべきものを誰かに奪われつづけてきたのだと考えると、惨めさと口惜しさが濃い塩水となって喉を焦がした。
ついに、彼はゆっくり、ゆっくりと四肢を動かし、にじり寄りはじめた。とめどなく滴る、甘い蜜の泉へと。
ふかふかの絹のシーツをかき分け、伸ばした指先に触れたアドミニストレータの脚は、ベッドに詰められた最高級の羽毛など問題にならぬほど滑らかに柔らかく、その感触だけでユージオの全身を痺れるような衝撃が貫いた。
餓えと渇きに急かされるように、ユージオはすがりついた脚を遡った。両手で掴めそうなほど細い腰、絶妙な曲線でいざなう腹部を夢中で通り過ぎる。
曇り、光を失った瞳を上げたユージオの顔を、二つの膨らみがふわりと包んだ。頭の後ろに華奢な腕が回され、ぎゅっと強く引き寄せた。しっとりと吸い付くような、ひんやりとした肌に、ユージオはたちまち飲み込まれた。
すぐ耳もとで、くすくすと笑う声がした。
「欲しいのね、ユージオ? 何もかも忘れて、貪り尽くしたいんでしょ? でも、まだだめよ。言ったでしょう、まず私に愛をくれなくちゃね。さあ……私の後に続いて言うのよ。心の底から私だけを想い、信じ、全てを捧げると念じながらね。いいかしら? ……まず神聖術の起句を」
ユージオにはもう、自分を包み込む途方も無い柔らかさだけが現実の全てだった。これが愛の本質であると信じ込むに充分すぎるほどに、彼を捕らえた蜜はとろりと甘すぎた。
自分の口が勝手にうごき、掠れた声が漏れるのを、自分とは無関係の事柄であるかのように彼は聞いた。
「システム……コール」
「そうよ……つづけて……“リリース・コア・プロテクション”」
はじめて、アドミニストレータの声が、ある種の感情――期待と歓喜――の存在を示して、ごくわずかに震えた。
ふたたび五フロアぶんの階段を、こんどは重力に逆らって駆け抜けた俺とアリスは、『暁星の望楼』の上り階段前まで到達して足を止めた。
新たに加わった右腰の剣の重みのせいで荒い息を繰り返す俺に対して、装備の重量という点ではこちらと大差ないはずの重装騎士様の顔はどこまでも涼しげだ。冷気すら感じさせる雪白の肌と紺碧の瞳に、確たる決意を浮かべて階段の上部を睨みつけている。
「……息を整えながらでいいから聞きなさい。元老たちは、武器による近接戦闘能力は一般民並みですが、神聖術の行使権限ならば我々整合騎士より高位にあるはずです。神聖力の供給源となる各種媒質や霊杖を携え、ほぼ無限に遠隔攻撃術を放ってくるでしょう」
「そういう……相手には、不意打ちからの……接近戦と、相場が決まってる……な」
情けなく喘ぎながら口を挟んだ俺に、アリスはこくりと頷いた。
「気取られずに接近できればそれに越したことはありませんが、そう都合よくも行かないでしょう。その場合は、金木犀の剣の“流散花”で攻撃術を防ぎますから、お前が突入するのです」
「……俺がフォワードか」
SAOやALOでは、遠隔タイプの敵がどうにも苦手だったことを思い出しつつ浮かない顔をすると、アリスがぴくりと片方の眉を持ち上げて得意の皮肉を放った。
「私は構いませんよ、一人で攻めと護りの両方やっても。ただその場合は、お前は物陰からおとなしく見ていることになりますが」
「わかったよ、やるよ、やりますよ」
確かに俺の黒いやつは、現在天命の回復中で記憶解放が行えるか心許ない。それに出来ることなら対アドミニストレータ戦まで温存しておきたいのが正直なところだ。そもそも、ギガスシダーの過去の姿を召喚するだけというシンプル極まりないあの必殺技は、状況をひっくり返す破壊力はあれども、アリスの剣の分離攻撃のような応用力に乏しい。
「気が向けば後ろから回復術のひとつも掛けてやります。存分に暴れて構いませんが、チュデルキンだけは生かしておいてください。私の記憶どおりの姿なら、悪趣味な青と赤の道化服の小男です」
「……なんか……威厳もへったくれもない恰好だな」
「だからと言って侮ってはなりませんよ。整合騎士ではないお前に“ディープ・フリーズ”術は効かぬはずですが、それ以外にも高速かつ高威力の術式を多数操る……恐らく教会でも最高司祭様に次ぐ能力を持つ術者ですから」
「ああ、わかってるよ。そういう一見小者っぽい見かけの奴が、実は一番厄介だったりするのがお約束だからな」
俺の台詞に怪訝な顔をしたのも束の間、アリスは鋭い視線を階段に向けなおし、それでは、と力強い声で言った。
「――行きましょうか」
今度は、急ぎつつも可能な限り足音を殺してワンフロアぶん駆け上がった階段の先に待っていたのは、やけに狭く薄暗い通路とその突き当たりに見える黒い扉だった。
壁に並ぶ奇妙な黄緑色の蝋燭に照らされた通路の幅は一メートル半というところだろう。人ふたりがすれ違うのもちょっと面倒なほどの狭さだ。その奥の、片開きの扉がまた小さい。俺やアリスはなんとか頭をぶつけずに潜れるだろうが、たとえば騎士長ベルクーリほどの威丈夫ならばそうとう身を屈める必要があるのではないか。
どうにもしっくりこない眺めだった。ふつう、このような最高支配者の本拠地――ぶっちゃければラストダンジョンは、奥に進めば進むほどに構造も装飾も豪華絢爛になっていくものではないか? 実際、下の『暁星の望楼』までは細部まで贅を尽くした、広々とした設計になっていたのだ。現在は、俺とユージオが暴れまわったせいで完全に無人だったが、あそこを美しく着飾った騎士や司祭たちが行き交っていたらさぞかし大作ファンタジー映画のような眺めだったろう、と思わせるほどに。
それが、いよいよ最上階まであと一エリアという所まで来てこのせせこましさは何だ。まるで――この通路を利用するのが、小柄な人間たったひとりしかいない、と言うかのようだ。
おそらく俺とは違う理由で、しかし同じように眉を寄せていたアリスだったが、すぐにふわりと金髪を流して通路に進みはじめた。
この狭さは、もしかしてトラップだの伏兵だのの仕掛けがあるせいかと考えはじめていた俺は、反射的に引き止めようとしたがすぐに思い直し、後を追った。絶対支配組織たる神聖教会のこんな中枢に、侵入者を想定した面倒な罠などあるはずがない。勇者のパーティーを待ち受けるためだけに作られた魔王の城とは訳が違うのだ。
長さ二十メートルほどの通路は、何事もなく侵入者の通過を許し、俺たちはすぐに小さな扉の手前にまで到着した。
ちらりと目を見交わし、同時に頷いてから、俺が手を伸ばして使い込まれて黒光りするドアノブを握る。扉には鍵すらも掛けられておらず、カチリと呆気なくノブが回り、そっと引っ張ると滑らかに開いた。
しかし、途端にその奥から吹き寄せてきた冷たい空気には間違いなく濃密な何ものかの気配が――例えるならアインクラッド迷宮区のボス部屋のドアを初めて開けたときのような――含まれており、俺の背筋をぞわりと戦慄が横切った。
だからと言って、無論アリスに今更前衛を代わってくれなどとは言えない。ぐっと大きくドアを引き開け、少々頭をかがめて内部を見通す。
狭い大理石の通路がもう少しだけ奥に続いており、その先はほとんど光のない、暗い広間になっているようだった。いくつかの紫色の光がちらちら瞬いているのが見えるが、詳細は不明だ。
そして同時に、何やら低くぶつぶつと呟く呪詛めいた声が耳に届いた。それも一人のものではない。何人――何十人といった規模だ。懸命に耳をそばだてるが、言葉の中身がすぐにはわからず、斜め後ろでアリスが低く「神聖術だわ」と囁くのを聞いてようやく合点が行った。
たしかに神聖術のコマンドだ。すわ、俺たちを狙った多重魔法攻撃か、と体を固くしたが、どうやらそういうわけでもなさそうだった。断片的に聞き取れるコマンドの内容は、何かの数値を操作するようなものばかりなのだ。
首をかしげていると、アリスがほとんど音にならない声で俺を促した。
「行きましょう。元老たちが皆、何かの大規模な施術の最中ならば逆に好都合です。これだけ暗ければ、剣の間合いにまで近づけるかもしれない」
「……ああ、そうだな。予定どおり俺が先に仕掛ける、防御よろしく」
囁き返し、俺はゆっくりと左腰の剣を抜いた。アリスの金木犀の剣も抜刀される音を確かめてから、ぐっと腹に息をため、扉を潜る。
内側の通路に踏み込むと、頬を撫でる冷たい風に、何かいやな匂いが含まれているのに気付かされた。獣臭や血臭というのとは違う。夏場にうっかり鍋を半日放置してしまったときのような、かすかに饐えた匂い。それを意識から振り落とし、最後の三メートルを詰める。
通路の終わり角にぴったり背中をくっつけ、俺はついに元老の間の内部を視界に収めた。
広い――というより、高い。
床の直径三十メートルほどの円形になっている。湾曲した壁は、おそらく三フロア分ほどをもぶち抜いてまるで塔の内部のように頭上に伸び、天井は闇に沈んでよく見えない。
照明らしきものはほとんど設置されておらず、光源は壁に沿っていくつもならぶ仄かな紫の瞬きだけだ。懸命に視線を凝らし、それがランプの類いではなく四角く半透明な板状の光――つまり“ステイシアの窓”であることに気付いた頃、ようやく闇に慣れた俺の目に、壁に等間隔に並ぶモノの姿がはっきりと映った。
人間だ。
人間が何人も、壁から突き出た椅子に座っている。いや、座らされている、と言ったほうが正しい。なぜなら、彼らは一切衣服を身につけていないその肉体を、幾つもの金属環でがっちりと椅子に固定されているからだ。
ぶよぶよの真っ白い体に鉄の縛めが食い込む様は痛々しかったが、しかし彼ら当人がその境遇をどう思っているのかは、俺の目では察せられなかった。背もたれの上部から突き出た半円形の首輪に繋ぎ止められた彼らの顔には、表情というものがまるで存在しないのだ。
頭髪や眉毛すら一本もない、白くたるんだボールのような頭に埋め込まれた二つの眼球は、ぼんやりと顔のすぐ前に表示された紫のシステムウィンドウを眺めている。その窓には、びっしりと何かのデータが表示されており、その文字列がちらちら瞬いて切り替わるたびに、白い人間たちの色のない唇も動く。
「しすてむ・こーる……」
「しすてむ・こーる……」
抑揚の乏しい、嗄れた声に耳をそばだてると、それはどうやらこの世界のあらゆるエリアのあらゆるオブジェクト数を参照、照合する命令のようだった。
本来、ザ・シードパッケージの中核たるカーディナルシステムが行うはずの世界のバランス調整、それをこの人間たちが行っているのだ。しかし何故。権限をアドミニストレータ(及び図書室のカーディナル)に乗っ取られたとはいえ、自動調整プログラムたるカーディナルシステムそのものはまだ機能しているはずだ。
眼前の光景に圧倒され、混乱した頭を必死に整理しようとしていると、不意にびびーというブザー音のようなものが鳴り響き、俺はハッと剣を握りなおした。
同時に、数十人はいようかという白い人間たちの術式詠唱がぴたりと止まり、今度こそ侵入がバレたかと覚悟したが、そうではないようだった。人間たちが一斉に、下方の俺たちではなく、頭上に顔をもたげたからだ。
彼らを拘束する、無骨な金属椅子の背もたれの上からは奇妙な蛇口のようなものが伸びており、人間たちはそろってその先端を見詰めると、ぱかりと大きく口を開いた。
直後、蛇口から褐色のどろどろしたものが嫌な音をさせながら流れだし、人間たちはそれを口に受けると、無我夢中といった様子で咀嚼し、飲み下しはじめた。口から溢れたどろどろは彼らのアゴから滴り、腹や脚を汚していく。饐えた匂いの源は間違いなくあれだ。
白い人間たちは、体が汚れるのなど一切意識しないかのように、歓喜にとろけた表情を浮かべながら茶色いどろどろを貪りつづけた。
やがて再びブザーの音が響き、同時に蛇口から垂れる流動食も止まり、人間たちの顔から感情が消えた。かくりと頭を正面に戻し、ぼんやりとした目でウインドウを眺めると、コマンドの詠唱を再開する。しすてむ・こーる……しすてむ・こーる……。
人間ではない。
この扱いは、決して人間たる存在に――いや、どのような動物に対してだって、して良いものではない。
腹の底から湧きあがってきた畏れ、憐れみ、そして巨大な怒りに耐えかねて、俺がぎりっと歯を鳴らすのと同時だった。
「彼らが……彼らが、世界を守護する神聖教会の、元老だというのですか」
絞り出すようなアリスの声が聞こえた。
視線を向けると、通路の反対側の壁に背中を預けたアリスが、蒼白の肌に蒼い瞳を爛々と燃やして前方を睨んでいた。
「この光景を作り出したのも……最高司祭様なのですか」
「ああ……そうだろう」
俺も、ひび割れたささやき声で肯定した。
「世界各地から数百年にわたって拉致した人間のうち、戦闘能力には欠けるが神聖術行使権限に秀でた者をこうして……思考と感情のほとんどを破壊し、元老という名の世界監視装置に作り変えたんだ」
そう、彼らは単なる監視装置なのだ。このアンダーワールドが、神聖教会の統治のもと、完璧な停滞のなかに維持されつづけているかをチェックするための。もし何らかの異常、つまりオブジェクトの不正な増加あるいは減少を発見した場合、禁忌目録を更新して対応する。そうやって、アドミニストレータ治下の怠惰で緩慢な人の営みが数百年にわたって続けられてきたのだ。
アリスの顔がゆっくりと伏せられ、はらりと垂れた金髪がその表情を隠した。しかし、続けて流れた声の響きが、彼女の苛烈な意思を如実に示していた。
「……許せない」
右手に握られた金木犀の剣が、主の怒りを反映してか、かすかにりんと刃鳴りした。
「彼らも人間……教会が守るべきステイシアの子ではありませんか。それを……私たちのように記憶を奪うだけに飽きたらず、あのような……人の証たる知性すらも取り上げ、身動きすらも許さず、獣以下の食事をさせるなど……ここに最早正義は無い。暗黒騎士だってこのような所業はしない」
言い切った直後、アリスはかっとブーツを鳴らし、広間へと歩み入った。慌てて俺もその後を追う。
まばゆい黄金の騎士が目の前に現れても、元老たちの視線はぴくりともウインドウから動かなかった。アリスは左に進み、もっとも近い椅子に拘束された元老のひとりの前に立った。
間近で見ても、哀れな人間の年齢も、性別すらも、よくわからなかった。それでも、その全身に漂う生気の無さは、ここに拘束されて数十年、あるいは百年以上の年月が流れたことを明確に告げていた。
アリスは一瞬、耐えがたい様子で顔をそむけたが、すぐに左目をかっと開き、金木犀の剣をすっと掲げた。元老の四肢を縛める鉄環を斬るのかと思ったが、その剣尖は弛緩した胸の中央、心臓の真上に擬せられ、俺は息を飲んだ。
「アリス……!」
「命を絶ってやるのが……慈悲だとは思いませんか」
俺は即答できなかった。
この有様を見れば、整合騎士のように記憶のピースを取り戻せば元の人格に戻せるという楽観的な推測は一切できない。この人間たちのフラクトライトは、おそらく取り返しのつかないほどに無惨に破壊され、修復は不可能だろう。
しかしそれでも、カーディナルなら――あるいはアドミニストレータなら、せめて彼らに一片の望みを、例えば産まれたばかりの赤子にまで戻すというような希望を与えることが出来るのではと俺は考え、アリスの剣を押し留めようとした。
しかしそれより早く、広間の奥から響き渡った奇怪な叫びが、俺たちの動きを止めた。
「ああっ……ああ――っ!」
きんきんと甲高い、男の金切り声だった。
「ああっ、そんな、ああっ、最高司祭様、そんな勿体無い、ああっ、いけませんっ、ああ、おおお――っ!!!」
意味不明な感嘆詞の羅列に、俺とアリスは同時に眉根を寄せ、首をかしげた。
聞き覚えの無い声だ。若者ではなく、さりとて老人とも思えない。ただ一つ確かなのは、声の主が、我を失うほど何かに興奮しているらしいということだけだ。
怒りに水を差されたようにアリスが剣を引き、声の聞こえてくる方向を伺った。俺もそれに倣う。
円形の広間の反対側に、俺たちが入ってきたのと同じような通路がぽっかり口を開けていた。身悶えするような絶叫は、その奥から絶え間なく響いてくる。
「…………」
行ってみましょう、と言うように、アリスが剣の先でそちらを指した。それに頷き返し、俺たちは足音を殺して移動を開始した。
広間には遮蔽物になりうる柱や調度が一切無く、その真ん中を突っ切るのは少々度胸を要したが、壁に繋がれた数十人の“元老”たちは俺たちの存在にはまったく気付かぬ――と言うよりも端から意識の埒外であるようだった。彼らにとっては、眼前のシステム・ウィンドウと、蛇口から供される流動食だけが世界の全てなのだ。
地下牢の獄吏や、エレベータを動かしていた少女の境遇を知ったときも憐れの念を催さずにいられなかったが、この元老たちの人生はもう俺の半端な想像や共感の及ぶ範疇を遥か超えている。
そして同時に、このような究極的悲惨の現出した場所において、あんな脳天気な悶え声を喚き散らす人間もまた理解不能としか言えない。少なくとも、味方となり得る人間ではまったく有り得ない。
その思いはアリスも同様のようで、顔の左半分には、先刻とは別種の怒りと苛立ちが色濃く浮かんでいた。俺の半歩前を、まったく音を立てずしかし憤激も隠さない足取りで踏破した彼女は、奥の通路の入り口の壁際に身を伏せると、先の暗闇を覗き込んだ。反対側の角から俺も先を伺う。
またしても異様に狭い通路の先は、広間ほどではないにせよ大きな部屋になっているようだった。ドアが半ば開け放たれ、内部をじゅうぶんに見通すことができる。
一見して、奇怪千万な空間だった。
まず、ありとあらゆる調度がすべて金ピカだ。箪笥やベッドといった大型のものから、小さな丸椅子や収納箱に至るまでが、壁際の黄緑色の蝋燭の光を受けてギラギラと下品に輝いている。思わず視線を動かすと、“黄金の聖騎士”アリスがとてつもなく嫌な顔をしているのが見えて、慌てて目を逸らす。
そして、それら金色の家具からはみ出し、あるいはその上を覆っているのは、大小無数の様々なおもちゃだ。
大部分が、どぎつい原色の縫いぐるみである。ボタンの目と毛糸の髪を持つ人形から、犬猫牛馬といった様々な動物、果ては一体何なのか見当もつかぬ醜悪な怪物までが床やベッドのそこかしこに堆く積もっている。その他にも、積み木やらボードゲーム、小さな楽器や武器などが数え切れないほど散乱しているのが見える。
そして、それらの真ん中に埋もれるようにして、叫び声の主がこちらに背を向けて座り込んでいた。
「ホオオオオッ!! ホオオオオオオオッ!!」
最早意味を成さぬ絶叫を立て続けに放つ人物がまた、奇怪としか言えぬ姿だった。
丸い。ほぼ真球形の胴体に、これまた真ん丸い頭が乗っかり、まるで雪だるまだ。しかしその色は白ではなく、右半身が赤、左半身が青のテラテラ光るピエロ服を着込んでいる。短い腕をつつむ袖も赤青の細い縦じまで、じっと見ていると眼がチカチカしてくる。
丸い頭は真っ白で、一本の毛髪もないのは背後の元老たちと同様だが、彼らの黴たような弛みはまったくなく、逆にぴんと脂ぎっている。その頭頂部に乗るのは、調度と同じく下品な金色の角帽。
俺は再び視線をアリスに向け、今度は同時にこちらを見た彼女に、唇の動きだけで「あいつが?」と訊いた。眼で頷いたアリスも、音を出さずに「チュデルキンです」と答えた。
世界第二位の魔術師にしては、しかし、その後姿は無防備もいいところだった。と言うよりも、両手に抱えた何かに完全に意識を奪われているらしい。
ぷっくり膨れた背中に隠されてよく見えないが、どうやらチュデルキンが夢中で覗き込んでいるのは、大きな硝子玉のようだった。その内部でちらちらと色彩が瞬くたびに、投げ出した短い脚をばたばたさせ、あああだのほおおだのと絶叫を繰り返す。
てっきり遠距離魔術戦が始まるものと思っていたのに、これは一体どうしたらいいんだと俺がアクションを決めかねていると、不意にもう我慢ならぬというようにアリスが動いた。それも、もう足音も隠さぬ全力ダッシュだ。
と言っても、実際に床を蹴ったのは四歩か五歩だろう。慌てて追随した俺を軽々と引き離し、黄金の突風となっておもちゃ満載の部屋に突入したアリスは、チュデルキンの丸い首がわずか三十度ほど回転した時点でがっしと赤青の道化服のひらひらした襟首を掴んでいた。
「ホオオオオアッ!?」
素っ頓狂な声を漏らす丸い物体を、アリスは縫いぐるみの海からすぽんと引っこ抜き、高く掲げた。その時点でようやく追いついた俺の目に、チュデルキンが夢中で覗いていたものが曝された。
直径五十センチはありそうな硝子玉の中央には、渦巻く光に彩られてどこか別の場所の映像が表示されていた。見えたのは、どこまでも続くシーツの海にしどけなく横座りをした一人の少女だ。長い銀髪に隠されて顔が見えない。少女は、今まさに細い両手で、身につけた薄紫のネグリジェのリボンを解こうとしているところだった。
エロ動画かよ! と心の中で突っ込みそうになったが、その時、少女の前方に力なくうずくまる誰かが居ることに気付いた。その人間の、短い髪の色に見覚えがある、と思った瞬間、映像の中央がしゅっと白くフラッシュし、直後すべての光が消えた。
アリスは、端からそんな映像などには興味を示さず、宙吊りにした丸い道化男の巨大な口に、金木犀の剣の切っ先をぴたりとつきつけた。
「術式起句の“シス”まで口にした時点でその舌を根元から斬り飛ばします」
凍るような声音で発せられた宣言に、何かを叫ぼうとしていた小男の口がぴたりと静止した。
あらゆる魔法には“システム・コール”の発声が必要となるこの世界の原則からして、メイジ相手にこの体勢に持ち込めばもうこちらの優位は動かない。それでも、短い両腕から意識を切らぬように注意しながら、俺は改めて男の顔を眺めた。
元老チュデルキンは、これまでアンダーワールドで出会った人間のうちで、最も正体不明という形容が似合う人物だった。真ん丸い顔の下半分を占める真っ赤で巨大な口、同じく巨大な団子鼻、そしてスマイルマークのように弧を描いた目と眉。
しかし今は、その細い目が限界まで見開かれ、小さな黒い瞳がぷるぷる震えながらアリスを凝視している。
分厚い唇が数回わななき、そして錆びた螺子が軋むような声がキイキイと漏れた。
「お前……五十番……何故こんなとこにいるんですよう。反逆者の片割れと一緒に塔の外に落っこちておっちんだ筈ですよう」
「私を番号で呼ぶな。私の名はアリス。そしてもう五十番《フィフティ》ではありません」
極北の冷気に包まれたアリスのいらえに、チュデルキンは脂汗まみれの顔を引き攣らせ、そして初めて俺のほうを見た。ふたたび、上向きの三日月型の目が半月くらいまでむき出され、喉のおくからホゴッ、ホゴッ、という喘ぎ声が漏れた。
「おまっ、オマエっ、なんでどうして!? 五十ば……アリス、何故この小僧を斬らないンですよう!? こいつは反逆者……ダークテリトリーの手先だと言ったじゃないですかああっ!!」
「確かに反逆者です。しかし闇の国の先兵ではない。私と同じように」
「なっ……なっ……」
吊り上げられたチュデルキンの両腕が、まるで部屋を埋める玩具のひとつであるかのようにばたばたと動いた。
「うらぎっ、裏切る気かぁぁぁぁっこの糞騎士風情がぁぁぁぁぁっ!!」
頭から自分の置かれた状況が消し飛んだのか、チュデルキンの真っ白い頭全体が一瞬にして真っ赤に染まり、只でさえ高い声がさらに裏返った超音波の怒声が部屋中に鳴り響いた。
「てめえってめえら整合騎士はァッ!! 単なる木偶ッ!! 教会の命ずるまンま動く操り人形の分際でええッ!! こともあろうに猊下をッ!! 最高司祭様を裏切るだとォォォォッ!!」
顔をそむけ、チュデルキンの口から飛び散る唾液を避けたアリスは、侮蔑にも眉ひとつ動かさずに氷の冷静さで言葉を返した。
「確かに木偶でしょう。“シンセサイズの秘儀”によって記憶を封印され、教会への強制的な忠誠心を埋め込まれているのですから」
「なッ…………」
再び、チュデルキンの顔が白く変じ、口がぱくぱくと動いた。
「なぜ、どうしてそれを……」
「封じられたとは言え、僅かに残っているものもあるようです。広間の憐れな元老たちを見たとき、かすかに甦った記憶……不安と恐怖に怯えきった幼い少女を、あの広間の中央に縛り付け、元老たちの三日三晩の多重術式によって心の壁を無理矢理に抉じ開けて大切な思い出を奪った……それがシンセサイズの秘儀、整合騎士召喚の儀式の真実。あの広間の床石には、かつて私であった十一歳の少女が流した恐怖と絶望の涙も染み込んでいるはず。そしてお前はその光景を、愉悦と興趣に悶えながら味わった」
アリスの、抑制されてはいるが一言ひとことが鋼刃のように鋭い言葉を聞くあいだに、チュデルキンの顔色は目まぐるしく赤と白のあいだを行き来し、滝のように流れた脂汗が道化服をぐっしょりと濡らした。
しかし最終的に、ただ一人意思ある元老であるチュデルキンは、開き直ったような卑しい笑みを巨大な口にニタリと浮かべた。
「ええ……そのとおりですよう。アタシは今でもくっきりと思い出せますよ、幼く、無垢で、最上等の人形のように美しいオマエが、宝石のような涙を流しながら、何度も何度も懇願する様を……“お願い、忘れさせないで……私の大切な人たちを忘れさせないで……”」
醜悪な裏声で幼い少女の口真似をするチュデルキンを見て、アリスの眼が、高温の炎のような輝きを秘めてぎりりと細められた。しかしチュデルキンは挑発を止めず、なおも野卑な独白を続けた。
「おほ、おほう、思い出せますとも! アタシはいまでもあの光景を肴に一晩たっぷり愉しめますよ、ファナティオやエルドリエの時のも悪かァないが、やっぱり一番はオマエですよう! 忘れてしまったオマエにも話してやりましょうか、幼いオマエが、どんなふうにして三晩の責め苦のはてに魂なき木偶人形に変わっていったか?」
この台詞には、俺も剣を握る右腕が激しく震えるのを止めることはできなかった。しかし同時に、アリスを挑発するチュデルキンの意図をはかりかねてもいた。騎士長ベルクーリを石に変えた“ディープ・フリーズ”コマンドは、チュデルキンが死ねば解除されるとアリスは言っていた。となれば、アリスには長々とチュデルキンの戯言に付き合っている必要はないのだ。道化男がこれ以上の侮辱を口にする前に、金木犀の剣でさっくりと串刺しにしてやればよい。
チュデルキンにもそれは重々分かっているだろうに、なぜ死に急ぐような真似を……?
しかし、俺の思考がどこかに辿り着く前にアリスが、俺とユージオを学院に逮捕にきたときの十倍は冷酷な声音で呟いた。
「チュデルキン、あるいは貴様も犠牲者であるのかと……最高司祭……アドミニストレータに人生を弄ばれた哀れな道化なのかと思っていました。しかし例えそうであれ、貴様は己の境遇を存分に愉しんだようだ。ならば、その愉しき思い出に浸りつつ死になさい」
金木犀の剣の切っ先がすっと動き、丸く膨らんだ道化服の胸の中央に押し当てられた。
テラテラ光る布地が、最後の抵抗を見せてわずかに凹み――。
チュデルキンの細い目が、してやったり、といふうにギラリと光った。
「待て、アリ……」
ス、と俺が言い終える前に、黄金の剣が十センチ以上もチュデルキンの肉体に沈み込んだ。だが、直後にどばっと噴き出したのは鮮血ではなく――赤と青の、どぎつい色の煙だった。
ぱぁん!! という巨大な破裂音を放って、チュデルキンの道化服が風船のように弾けとんだ。同時に四方八方に噴き出した二色の煙が、周囲の空間を濃密に覆いつくした。
「くっ……」
俺は歯噛みをしつつ、視界の隅でシュッと動いた影めがけて右手の剣を薙ぎ払った。しかし、渇いた音とともに剣尖が捉えたのは、奴が被っていた金色の帽子だけだった。
更に追撃するべく踏み込んだが、赤と青が交じり合って紫になった煙を吸い込んだ瞬間、眼と喉を猛烈な痛みが覆い、たまらず咳き込む。
「貴様ッ……!!」
アリスが咽ながらもそう叫び、影を追って飛び出した。チュデルキンが逃げたのは部屋の入り口ではなく奥方向だ、まだ追い詰められると思いながら、俺も息を止め姿勢を低くしてダッシュする。
しかし、煙の中心を脱け出した俺たちが目にしたのは、スライドした金の箪笥と、その奥に口を開けた隠し通路だった。奥にたったひとつだけ蝋燭の灯りがあり、その下を、真ん丸い頭の下に冗談のように細長い胴体と手足がついた人影が猿のように俊敏な動作で駆け抜けていくのが見えた。
「ホヒィッ!! ホヒ――ッヒッヒッヒッヒッ!!」
けたたましい笑い声が、涙と咳に苦しむ俺たちの耳に届いた。
「駆式ばかりが術じゃねえんですようバーカ! バァ――カ!! 追ってきたけりゃきなさいよう、でも今ごろはオマエらの仲間……ベルクーリを倒したあの小僧が、最新最強の整合騎士になってますよう!? 小僧とアタシ、そして最高司祭猊下に勝てると思うなら追ってきなさぁぁぁぁいっ!! ホホォ――――――ッ!!」
壊れた玩具のような笑い声に、かんかんかんと階段を駆け上がる靴音が重なった。
「リリース……」
短い術式句の、音素ひとつひとつを発声するその度ごとに、ユージオは己自身がどこまでも薄まり、軽くなっていくのを知覚していた。長い、長い時間ユージオを苛みつづけてきた餓えや渇きが甘い蜜に溶けて消えていくのと同時に、ここまで辿り着くための原動力となった使命感もまたその形を崩し、失われようとしている。
僕はいったい何故、何のためにこんな遠いところまで旅をしてきたのか。
一瞬の火花のような自問に、アリスのためだ、と答えが返る。本当にそれだけだったのだろうか、もっと大きくて大切な目的があったのではなかったか、という思考がちかっと閃くが、それが形になる前に、口から次の式句が紡ぎだされる。
「コア……」
だって、もう、悲しいのは、辛いのは嫌なんだ。
今まで、僕は疑いもしなかった。教会からアリスの体と心を助け出し、もとのままのアリスと手に手を取ってルーリッドに帰って、小さく暖かい家庭を築けば、その時こそ世界のすべてが正しい形へと回帰するのだと信じていた。
でも――もし、ルーリッドの教会前広場で、白いドレスを着て大きな笑顔をつくるアリスの隣にいるのが、僕じゃなかったら?
その場所に立っているのが、ただ一人の親友である黒髪の剣士だったとしたら?
そしてこれからもたったひとり、癒されることのない渇きに満ちた時間が、どこまでも続く。
銀髪の少女が示した術式を最後まで口にしたとき、自分は恐らく自分ではなくなってしまうのだろうということが、ユージオにはおぼろげに理解できていた。しかしそれによって、使命を、友情を打ち棄てる罪悪感を忘れられるなら――そして、少女が約束した唯一無二の愛のなかにどこまでも深く潜っていられるのなら、もうそれでもいいという気持ちが確かに存在した。
「そうよ……さあ、いらっしゃいユージオ、私のなかへ」
耳もとで、至上の甘さを湛えた囁き声がとろりと流れた。細くとがった舌先が、くすぐるように耳朶を這った。
「いらっしゃい、永遠なる停滞のなかへ……」
「プロ……テク…………」
魂を明け渡す最後の一音節が紡がれるのを、その寸前で押しとどめた力が何なのか、ユージオ自身にもわからなかった。
導かれるまま、銀の瞳の少女のなかへと身を投げ打ってしまいたいという衝動はとてつもなく巨大だった。しかし、なぜか――何ものかが、少女とユージオの間を薄紙一枚の距離でなおも隔てつづけていた。
閉じていた目を薄く開くと、ユージオはすでに銀髪の少女、最高司祭アドミニストレータをシーツに押し倒し、その細い体を強く抱きしめていた。剥き出された豊かな胸がユージオの下で柔らかく潰れ、しなやかな脚はユージオのそれへと絡みついている。
あとほんの一挙動、そして一音節でユージオはアドミニストレータとあらゆる意味で融合し、吸収され得るだろう。しかしほんの小さな何か――異物が、ユージオと少女のふたつの心臓のちょうど中間に留まり、ささやかな冷気を放って一体化を妨げる。
ユージオの顔のすぐ下で、蕩けるような微笑を湛えていたアドミニストレータの顔が、かすかな、ほんのかすかな苛立ちを浮かべた。
「どうしたの、ユージオ? 私が欲しいんでしょ? さあ……もう一度言ってごらんなさい」
「プ……プロ……」
促されるまま、ユージオは口を動かした。だが今度は、ちくりと刺すような明確な冷たさが胸の中央を貫き、ふたたび舌が縺れて停止した。
アドミニストレータも、先刻よりはっきりと唇の端を強張らせ、ユージオを促すように体を艶かしくくねらせた。
「あとほんの一言、それだけであなたは何もかもを手に入れられるのよ。至上の快楽、権力、そして永遠の生命さえも。さあ……言いなさい、ユージオ」
「…………」
しかし、ユージオの思考の一部には、もはや無視できない大きさで疑問、もどかしさ、そして違和感が湧きあがりつつあった。胸をちくちくと刺す、この小さくて硬いものは一体なんだったろうか――何のために、誰が与えたものだったろうか、という。
不意に、アドミニストレータの両手がユージオの肩を掴み、驚くほどの力で右に倒した。
くるりと体を入れ替えた少女が、ユージオの腰の上にまたがり、掌で両頬を包んでくる。銀の髪が垂れ下がり、首筋を撫でる。
「悪い子ね……私だけじゃ不満なの? もっと欲しいの?」
すうっと鏡の瞳を細めて、アドミニストレータが、これまでとは別種の淫らな笑みを浮かべた。
「そんなにおなかが空いてたのね? なら、これも食べてみたくないかしら……?」
頬から離れた右手が、ゆるやかに宙に掲げられた。真珠の唇から、聞き取れないほどの超高速で術式が紡がれ、すると不思議な現象が起こった。
広大な寝室の天井に描かれた無数の神々――その中央近くで、花冠を編んでいた幼い姿の女神の細密画が、すうっと紫色に発光したと思うとそのまま一点に流れ集まって、輝く大きな雫へと変じたのだ。
ぽたり、と滴った光の凝集は、空中で紫の三角柱へとふたたび姿を変え、アドミニストレータの手のなかに音も無く収まった。
とてつもなく美しい物体だった。三つの長辺を、輝く点がすべるように行き来し、内部にも微細な光の線が複雑に煌めいている。
なおも分厚い霧に包まれたような意識のなかにあっても、ユージオの心臓がどくんと大きく跳ねた。思わず持ち上げた右手で短衣の胸元をぎゅっと掴むと、掌の中にあの“何か”、硬く鋭いものの感触が伝わるが、今はもう気にしていられなかった。
あの紫のプリズムが、自分にとってとてつもなく大切な――ほとんど究極の目的であることが、本能的に理解できたからだ。
「あ……ああ……」
ユージオは眼を見開き、しわがれた呻き声とともに左手を伸ばした。しかしアドミニストレータは、じらすようにプリズムをひょいと遠ざけ、くすくすと喉を鳴らした。
「うふふ……そうよ、これが、あなたがとっても欲しかったモノ。ずっと昔、あなたが大好きだった、金髪の女の子の記憶」
まるで、ユージオ、ユージオ、と呼びかけるように、プリズムの中央がちかちかと瞬く。
「私の願いを叶えてくれたら、これもあなたにあげてもいいのよ。ユージオ」
アドミニストレータは、色の薄い唇をプリズムに寄せ、ちろりと舌先で撫でた。銀鏡の瞳に虹色の光が渦巻き、凄まじい幻惑力となってユージオの脳を貫いた。
「ほんのみっつの言葉を口にしてくれたら、ね? アリス・シンセシス・フィフティ……あれはほんとは私の次の体にしようと思ってたんだけど、あの体にこの記憶を戻して、あなたの本物のアリスを返してあげる」
「あ……あり……す」
うわ言のようにその名前を繰り返すユージオを見て、アドミニストレータはもう一度くすりと笑った。
「そうよ。しかも……もう二度と、あなたのアリスが誰かを見たりすることのないように、魂を書き換えてあげるわ。永遠にあなた一人を愛し、あなた一人の言葉だけに従うように……どんな命令だって聞いてくれるのよ。何だってさせられる、あなただけのかわいいお人形」
くすくすくす。愉しそうに、銀髪を揺らして少女が笑う。
「永遠の愛……永遠の支配を、あなたは手に入れられるの。さあ……言いなさい、ユージオ。もう一度……“リリース・コア・プロテクション”」
「…………」
ユージオの唇が震え、そしてこぼれ落ちた言葉は、しかし先ほどほとんど言い終えかけた術式ではなかった。
「永遠……の……愛」
「そうよ。ほしかったんでしょう?」
「永遠の……支配……」
「そうよ!」
アドミニストレータの唇から、すっと笑みが消えた。右手のプリズムをユージオに突きつけ、左手で自分の肢体を撫でながら、アドミニストレータは迫るように叫んだ。
「さあ……言うの! 私の支配を受け入れなさい、ユージオ!!」
「愛は……支配し、されること……か。そうか……ふ、ふ、皮肉……だな」
ユージオの口から、掠れてはいるが意味をなす言葉が発せられたのを聞き、アドミニストレータの瞳が一瞬見開かれ、ついですうっと細められた。
「……君も、そうだったんだね。愛に餓え……求めつづけ……しかし与えられることはなかった」
右手に握り締めた細く鋭いものの感触と、鼓動のように瞬くプリズムの光が、自分の意識を絡め獲っていた呪縛を清澄な流水のように洗い流していくのをユージオは感じていた。
確かに、僕は誰かに明白な形の愛を与えられたことはないのかもしれない。
でも、例えそうであっても、僕は確かに多くの人たちを愛した。
「違うよ、可哀想な人」
ユージオは、強烈な虹色の光を渦巻かせる少女の瞳を見詰め、ゆっくりと言った。
「支配することが愛じゃない。愛の本質は、ただ与えつづけること、それだけだ。でも、残念だけど……僕は君を愛せない。僕は君を救えるほどの人間じゃない」
「救う……ですって……?」
アドミニストレータの唇が、ふたたび、薄っすらとした笑みをかたちづくった。しかしそこにはもう、誘惑の甘さはひとしずくも存在しなかった。
「あらあら……困ったわね。道に迷った哀れな坊やに、気まぐれで一時の夢を見せてあげようとしただけなのに……」
己にまたがる少女が、みるみるうちに“人”から“神”へと変貌を遂げていくさまを、ユージオは懸命に恐怖を堪えながら見詰めた。外見的には変化はない――あくまで、華奢なか弱さと豊満な肉感が同居した、裸身の少女にすぎない。しかし、その透き通るような肌を底知れぬ威圧感、言うなれば神気のようなものが幾重にも覆っていく。指先ひとつ振るだけで、どのような剣士だろうと術者だろうとばらばらに引き千切られるだろうと思わせる、圧倒的な力の兆し。
「ユージオ……あなた、もしかして、私があなたを必要としている……なんて思っているのかしら? あなたと、あなたのちっぽけなお仲間に、私が思い乱されている……とでも……?」
最早、少女の薄い笑みに感情を読むことはできなかった。ユージオはただ、右手を固く握り締め、歯を食い縛って恐怖に耐えた。
「うふふ……あなたみたいなつまんない子は、もういらないわ。ついでにこの可哀想な記憶のカケラも、ね。両方リソースに戻して、何か気の利いた置物でも作ることにしましょう」
明らかに抑揚の薄くなった声でそう言い放つと、アドミニストレータは左手をユージオの首に掛け、右手のプリズムに強く爪を立てた。
その瞬間、ユージオは、かき集めた全身の力を右腕に込め、拳に握り込んだもの――胸元にぶら下がっていた赤銅の短剣型ペンダント――をアドミニストレータの胸の中央めがけて突き出した。
必中の間合いだった。
短剣の刀身部分はわずか五セン強しかないが、それでも自分の上にまたがる人物に届かぬわけはなかった。
しかし、ペンダントの針のような切っ先が、アドミニストレータの珠のごとき肌からほんの薄紙数枚ぶんの距離にまで迫ったとき――ユージオの想像を絶する現象が発生した。
ガガァン!! という、雷鳴にも似た衝撃音が轟き、同時に紫色の光の膜が短剣の先端を中心として同心円状に展開したのだ。その輝く波動が、ごく微細な神聖文字のつらなりで形作られていることをどうにか見て取ったその直後、まるで鋼鉄の厚板にぶち当たったが如き手応えがユージオの右腕を襲った。
「ぐ……うっ!!」
しかし、歯を食い縛り、ありったけの気力を振り絞って、ユージオはその巨大な反発力に抵抗した。カーディナルと名乗る不思議な幼子から与えられた最後の切り札を、アドミニストレータに対して行使できる唯一の機会が今であることがよく解っていたからだ。ユージオのペンダントはもともと、整合騎士アリスを捕縛するために携えていたものだが、同じものを持つキリトがそれを騎士ファナティオの救命のために使ってしまった今、そして手の届く距離にアドミニストレータが無防備な裸身を晒している今、断固として選択せねばならぬ行動はもはや明らかだった。先刻どうしても思い出せなかった、アリスを連れ戻すという個人的目的を上回る使命――つまりわずか十一歳の少女を拉致洗脳するような、そして罪無き下級貴族の息女をその身分差ゆえに陵辱せしむることを許すような、歪んだ支配構造そのものを打ち壊さねばならないという強い意志が、ユージオの右腕を動かした。
ただ一つの誤算は、アドミニストレータが裸形でありながら無防備ではなかったということだ。ユージオには術式の見当もつかない紫光の障壁はますます密に、まばゆく波動し、それを貫こうと抗う短剣の切っ先もまた、直視できないほどに白熱し輝いた。
「なっ……!?」
さしものアドミニストレータも驚いたのか、銀瞳を見開いて上体を仰け反らせた。だがユージオの体から腰を上げ身を退けるよりもほんの少し速く、バチィッ!! と千の火花が弾けるような音を放って、短剣の先端が障壁をわずかに抜けた。
しかし、鋭い針がアドミニストレータの心臓の真上の肌に触れ、そこをまさに貫かんとしたその瞬間、紫の障壁が数多の神聖文字の断片となって爆発し、ユージオと最高司祭双方の体を後方へと吹き飛ばした。
「うわっ……!!」
惜しくも目的を果たせず、まるで巨人の掌に薙ぎ払われたかのような勢いで後ろ向きに回転しながら宙を舞ったユージオだったが、しかしそれでも二つのことを同時にやってのけた。
まず、右手からすっ飛ぼうとしたペンダントを危く握りなおし、そして障壁の断片に混じって視界の端できらりと光った紫の煌めき――アドミニストレータの掌から跳ね飛んだ小さなプリズムを、左手で掴み取ったのだ。
直後、背中から床に叩きつけられ、なおもごろごろと後ろに転がるあいだも、ユージオは二つのものを懸命に腹に抱え、衝撃から守った。再びどかんという衝撃とともに硝子壁にぶち当たり、ぐはっと大量の空気を吐き出してから、ユージオはその場に無様に横臥した。
かたや、まったく同じ勢いで吹き飛ばされたはずのアドミニストレータの方は、尚も優雅さをまったく失わなかった。懸命に見開いたユージオの視界のかなたで、銀髪をほうき星の尾のように引きながら宙を滑ったアドミニストレータは、両手を広げるとふわりと音もなく空中の一点に静止した。長い髪が煌めきながら放射状に波打ち、ひと筋にまとまって、ゆるりと背中に垂れた。
少女は、すぐにはユージオを見なかった。一切の表情が消えた顔を俯かせ、己の豊かな双丘のあいだに視線を落としている。
カーディナルの短剣がわずかに触れたその箇所には、いまだに紫の火花がばちっ、ばちっと音を立てながら絡みついていた。しかし、少女の右手がすっとその上を撫でるとその現象も収まり、見た目には一切の痕跡も残らなかった。
アドミニストレータは、右手をそのまま持ち上げると額の銀髪をふわりと整え、まるで空中に透明な揺り椅子でもあるかのようにゆったりとした動作で腰を下ろすと、長い脚を組んだ。その姿勢のまますうっと音も無く空中を移動し、円形のベッドを横切ると、部屋の隅に倒れるユージオから十メルほどの位置にまで近づき停止した。
上体を起こし、指を組み合わせた両手をおとがいの下にあてがったアドミニストレータの視線が、わずかな冷気を伴って降り注ぐのをユージオは肌で感じた。動くことも、何を話すこともできぬうちに、少女の唇がほのかな笑みの形を作り、言葉を紡いだ。
「一切の武器を帯びていないことを確かめたはずなのに、と思ったら……図書室のちびっこの仕業ね、それは。私の知覚からフィルタするなんて、気の利いたマネができるようになったじゃないの」
くすくす、と喉の奥で猫のように笑う。
「でも残念でした。私だってただ寝てたわけじゃないのよ。そのおもちゃの剣をメタリック属性に置換したのはちびっこの失点ね。今の私の肌には、あらゆる金属オブジェクトは傷をつけられないの……例えそれが巨人の鉄槌だろうと、裁縫屋の待針だろうと」
なんてことだ、とユージオは内心でうめいた。
金属武器に対して不可侵、などということなら、もうこの赤銅の短剣を含むあらゆる剣による攻撃は無力ではないか。あとは、術式すら推測できぬその対金属障壁に対抗式で組み入り解除するか、遠距離での攻撃術をもって挑むよりない。しかし、世界最強の術者に剣士見習いの身で神聖術戦を仕掛けるなど、結果は火を見るよりも明らかだ。
ここは、思いがけない僥倖によってアリスの記憶だけは取り戻せたのだし、一時撤退の機をうかがうべきか。塔の内部に戻りつつあるはずのキリトと合流できれば、あるいは――。
しかし問題は、このアドミニストレータの寝室に、出入り口らしきものが一切見当たらないことだ。
周囲の壁はすべて仄青い夜空へと続く硝子板だし、それらを支える等身大の神像たちもとうていドアを隠せるほどの幅はない。調度と呼べるのは巨大な円形の寝台だけで、よもやあれが丸ごと動いたりするとは思えない。
とは言え、自分がこうしてこの場所に居るからには、どこかを通ってきたに違いないのだ、とユージオは尚も懸命に視線を走らせながら考えた。凍結した大浴場からユージオを運んできたのがあの元老チュデルキンという道化者だとすれば、やはり塔の階下からこの最上階にまで続く通路が絶対に存在するはずだ。
「うふふ……何を探してるのかしら?」
しかし、ユージオの眼が何かを見つけるよりも早く、アドミニストレータがひそやかな笑い声を含みながら空中をすっと二メルほど近づいてきた。じわり、と背中に冷たいものが走る。
「まだ何かしようだなんて、健気な坊や。ん……、やっぱり玩具にしちゃうのは勿体無いかしら? 面倒だけどシンセサイズ処理にかけたほうがいいかしらね? ねえ……坊やはどっちがいい……?」
くす、くす、と喉を鳴らして、中空に腰掛けた裸形の少女は、組んだ脚を揺らしながら少しずつ近づいてくる。
残念ながら、逃亡の機会は残されていないようだった。いや――たったひとつ、残された道があることはある。ありったけの力を背後の硝子板にぶつけ、叩き割るのだ。階下の分厚い石壁を素手で破壊するのは絶対に不可能だろうが、薄い硝子ならばあるいは砕き得るかもしれない。無論、その先は手掛かりひとつない虚空であり、飛び出したところで数百メル下の地面まで落下するしかないが、八十階で同じ目にあったキリトはどうにかして生き延びたはずとユージオは確信している。ならば、自分もまたここで、己が身体能力と万にひとつの僥倖に賭けるよりあるまい。
それに、少なくとも、左の掌をほんのりと暖める小さなかけらだけは――。
このアリスの記憶だけは、なんとしても二度とアドミニストレータの手中に戻させてはならないのだ。たとえ己はここで命を散らそうとも、整合騎士アリスがもとのアリス・ツーベルクに戻り、ルーリッドでの穏やかな暮らしの中に帰っていくという可能性だけは絶対に繋がなくては。
アドミニストレータとの距離は、すでに五メルを切ろうとしていた。彼女の超高速詠唱力を考えれば、残された猶予は一瞬のみ、そう覚悟を決めたユージオは、立ち上がろうと両足に力を込めた。
しかしその時、思いがけぬ音――声が、どこか下方から届き、緊迫した静寂を破った。
「開けっ、開けてっ、開けてくださぁぁぁぁい最高司祭様ぁぁぁぁぁぁっ!!」
盆をフォークで引っ掻くようなその金切り声は、間違いなくあの道化――元老チュデルキンのものだった。
「おねっおねっお願いですようぅぅぅぅ助けてくださぁぁぁぁぁいっ!! 開けてぇぇぇぇぇぇっ!!」
その情けないわめき声を聞いたアドミニストレータが、いかにもうんざりしたような嫌悪感を眉間のあたりに滲ませ、ふううっと深いため息をついた。
「……何故あやつは、年経るにつれ幼な児めいてゆくのでしょう。そろそろリセットしないと駄目かしら」
そう呟いた最高司祭は、厭わしそうな表情ながらもぴたりと静止し、右手を離れた床の一点に向けて伸ばした。唇から一瞬の術式が紡がれ、人差し指がとんと振られると、思いがけぬ現象が起こった。絨毯の一部に描かれていた円模様が発光し、くるりと回転したと思ったら、そのまま螺子のようにせり上がりはじめたのだ。
あれが出口か!
――と目を見開き、ユージオはこの機に窓から脱出しようとしていた体の動きを危いところで止めた。
直径一メル半ほどの大理石の円筒は、くるくると滑らかに回転しつつ人の背丈を上回る高さにまで床から突出し、止まった。何らかの機械仕掛けなのか、あるいは術式の効果なのかは不明だが、その筒の側面に嵌め込まれた湾曲した扉を見れば、そこが唯一の出入り口であるのは明らかだった。
その扉の奥からは、なおも情けない悲鳴と、どんどんと叩くこもった音が響いていたが、アドミニストレータが上向けた指をくいっと引くと掛け金が外れたかのように急に開いた。
「ほおおおおおっ!!」
と、奇声を上げながら転がり出てきた真っ白で真ん丸い頭は、間違いなくあの元老チュデルキンのものだった。しかし――。
「……おまえ、その恰好は何なの?」
と冷ややかな声でアドミニストレータが呟いたのも無理はなかった。チュデルキンは、腰に悪趣味な赤青縞の下着を身に着けているだけという、とうてい最高支配者に謁見するに相応しいとは言えない姿だったのだ。
そして、その体つきがまたユージオを驚愕させた。記憶にある元老チュデルキンは、丸い頭を同じく真ん丸い体に乗せた雪人形のような体格だったはずだ。しかし今彼が晒している半裸の肉体は、棒のようにがりがりの胴から同じく枝めいた手足が伸びた、それでいて頭だけが巨大な真球という子供の落書きめいたものなのだ。
なら、あのぱんぱんに膨れた服のなかには何が入っていたんだ!? ――という疑問を口にする精神的余裕は無論ユージオには有りはしなかったが、しかし床にべたりと這いつくばったチュデルキンは、自らキイキイと弁解じみた台詞を喚きたてた。
「げっ、猊下にあらせられましてはこのような御見苦しい姿さぞ御不快でありましょうがこれは小生已む無く奥の手を使わざるを得ずっ!!」
そこでがばりと顔を上げたチュデルキンは、宙に腰掛けるアドミニストレータの裸身を見るや、上向きの三日月のような細い目をくわっと見開き直後に両手でばちんと顔を覆った。まるでそれが仕掛け釦ででもあったかのように、白い頭が一瞬にして真っ赤に湯気を上げる。
「ああっ!! ほおおおおおっ!! いけませんそんなっ、勿体無いっ、小生眼が潰れますっ、石になりますよおおおうっ!!」
勿体無い畏れ多いとまくし立てながらも、指の隙間は大きく開き、その奥からあからさまな視線をぎらぎらと輝かせるチュデルキンの様に、さしもの最高司祭も嫌悪感もあらわに左手で胸を覆った。一層の冷気を帯びた声で、道化の痴態を串刺しにする。
「今すぐに用向きを言わないとほんとうに石にするわよ」
「ほああっ! ほああああっ……あ…………あっ」
細長い体躯をねじりながら悶え声を上げていたチュデルキンは、それを聞いたとたんにピタリと動きを止めた。赤く熱していた頭部がすうっと白くなる。
直後、くるりと振り向いた元老は、蛙のような動きで跳ね上がると背後の円筒扉に飛びついた。ほひいいと悲鳴じみた声を上げながら両手で扉を押し、それが戸枠にぴたりと収まる寸前――。
内部の暗闇から稲妻のように伸びた黒衣の袖が、がしりと扉の縁を押さえた。
前後からの力に挟まれた扉が静止していた時間は、わずか一秒足らずだった。どかん、という明らかに内側から蹴り飛ばしたと思しき大音響とともに、弾かれるように再び開いた扉がしたたかにチュデルキンの顔を打った。
「ほぶうっ!!」
ひしゃげた悲鳴とともに吹き飛んだ元老は、その巨大な球形の頭部をごろごろとどこまでも回転させ、はるか離れたベッドの縁に半ば埋まるかたちでようやく停止した。
その有様を思わず最後まで見守ってしまってから、ユージオはハッと我に返り、もういちど円筒形の出入り口に視線を戻した。
扉の奥、灯りのまったくない暗闇からは、戸板を蹴り開けた恰好のまま黒いズボンに黒革ブーツの足が一本まっすぐに突き出していた。ユージオが唖然として見守るなか、その無遠慮な足がゆっくりと下ろされてゆき、高価な絨毯をずしりと踏みつけた。
続いてぬっと現れたのは、やけに毛先が尖った長めの黒髪。同じく黒いシャツに包まれた細身の上体はわずかに屈められ、右手はだらりと垂れ、左手はぐいとポケットに突っ込まれている。
暗がりから最後に引き抜いた右足で、もういちどどすんと床を踏み据え、そこで侵入者はようやく顔を上げた。
どこか中性的な線の細さと、その印象に倍する刃物のような剣呑さが同居した相貌が、ぐるりと広大な部屋を見回し、壁際に尻餅をつくユージオに視線を止めると、唇の端がぐいっと吊りあがってふてぶてしい笑みを形作った。
「よう」
短い台詞を放って寄越したその人物――二年半前、ルーリッド南の森に突如として現れ、ユージオを長い旅路にいざない、己の両脚のみでついにセントラル・カセドラルを最上階まで踏破してのけた唯一無二の相棒・キリトの姿は、幾多の激闘を経てなお倣岸なまでの剣気に包まれていて、それを見た途端ユージオの胸に名状しがたい熱がかーっと渦巻いた。
「……遅いぞ」
意識せぬままそう呟くと、キリトはもう一度へっと笑い、右手もポケットにぐいと突っ込んだ。
左右の腰に黒白二本の長剣をぶら下げ、腰を突き出し上体を引いた姿勢で屹立するキリトの姿に、さしものアドミニストレータも計りかねるものを感じたのか、無言のまま瞳を細めると空中をすうっとうしろに滑り距離を取った。
それを見て、ユージオも力の失せかけた両脚に活を入れなおし、背中を板硝子に預けてぐいっと立ち上がった。右手の短剣と左手のプリズムをそれぞれズボンの左右のポケットにそっと仕舞い、汗で濡れた掌をごしっと拭う。
キリトは、ちらりと鋭い視線をアドミニストレータに投げかけてから、右腰の白鞘の金具を鳴らしてベルトから外し、それをユージオに向けてひょいっと放ってきた。左手で受け止めると、懐かしい重みが掌に吸い付くように収まった。ふたたび手許に戻った愛刀・青薔薇の剣が、まるで再会を喜ぶように鞘の中でかすかにりぃんと刃鳴りするのを聞き、全身にさらなる活力が甦ってくる。
キリトのほうに移動しようと足を踏み出しかけたとき、相棒の背後の暗闇から、聞き覚えのある声がかすかに響いてきてユージオは軽く息を飲んだ。
「ちょっとお前、いつまでそんなとこで恰好つけているつもりですか」
「あ、ああ……ワリ」
キリトはちらりと背後を見てから、肩をすくめて一歩横に移動した。
かかっ、と金属の靴が石段を軽やかに叩く音に続いて、まばゆい純白と黄金の色彩がふわりと戸口から浮き上がり、重さを感じさせない動きで床に降り立った。ひるがえった長い金髪と白のロングスカートが、宙に優美な曲線を描いた。
それは、間違いなくアリス・シンセシス・フィフティ――カセドラル八十階でキリトを容易く追い詰め、しかし崩壊した壁の穴からともに虚空へと放り出された整合騎士の姿だった。
ユージオの全身の血流が、どくんと大きく波打った。なぜここに、それもキリトと一緒に!? という驚愕が指先までを震わせる。
確かに、数時間前ユージオは、キリトならば間違いなく己とアリスを落下から救って塔の内部に戻り、騎士アリスを殺さずに無力化するかあるいは説得して休戦に持ち込んでくれるに違いないと自分に言い聞かせた。
しかし実際にこうして、黒衣の反逆者と純白の守護騎士がぴたり並び立つ姿を眼にすると、とても信じがたいという思いのみが胸中に満ちる。
キリトが、とても友好的ではないと思われる人物の胸襟を開かせ、いつのまにか確たる信頼を得る様を見るのは決して初めてではない。そのたびに、自分にはできないことだという尊敬の念と、わずかばかりの羨望をユージオは感じてきたのだ。
しかし――あの、血液のかわりに教会への信仰のみが流れているとさえ思えた整合騎士アリスを、一体どうすれば説得しえたというのか。
見れば、アリスの右眼は黒い布で作った眼帯で幾重にも覆われ、その生地を提供したらしいキリトのシャツは左の裾が大きく千切り取られている。
ライオス・アンティノスを斬ったときに自分の右目を襲った痛みと奇妙な神聖文字をユージオは思い出し、もしかして同じことがアリスにも起こったのだろうかと考えたが、具体的に何があったのかを推測するすべがあるはずもなかった。キリト、一体君はアリスに何を言い、何をしたんだ!? という圧倒的な疑問が脳裡を圧し、ユージオは思わずぎゅっと両目を瞑った。
考えるな。今はそんなことを思い悩んでいるときじゃない。
あそこに立っているのは、ユージオの幼馴染アリス・ツーベルクではなく、その肉体でしかないのだ。アリスの心はいま、ポケットの中でひっそりと瞬いている。
大きく息を吸い、吐いて、ユージオは思考を無理矢理に切り替えた。今はともかく、最大最後の敵アドミニストレータとの戦いに意識を集中せねばならない。
ぐっ、と右足を意識して前に出し、そうするとようやく体が動いて、ユージオはキリトの隣へと歩を進めた。
近づくユージオを、キリトは力強い頷きで、そしてアリスは左目の短い一瞥で迎えた。
騎士の蒼い瞳には、ユージオを戦力として値踏みする冷徹さしか見出すことができず、ユージオはちくりとする痛みを感じながらすぐに視線を逸らせて部屋の中央へと向き直った。
最高司祭アドミニストレータは、新たなる二人の侵入者を、興趣と苛立ちが半ばずつ混じったような酷薄な微笑で睥睨していた。腰掛けた見えない寝椅子の高さを、更に一メルほどすうっと持ち上げる。
不意に、隣でキリトがぼそりと呟いた。
「なあ……あの人、何で裸なの? ユージオ、まさかお前……」
「なっ……何考えてんだ馬鹿! 何もないよ!」
ひそひそ声で軽口を叩き合うと、ようやくわだかまりが少しずつ溶け出し、ユージオは更に集中して最高司祭の挙動を凝視した。
二人のやり取りが聞こえたわけでもないだろうが、裸形の少女はくすりと笑みを浮かべると、胸を覆っていた両腕を大きく上に伸ばしてからしどけなく宙に寝そべった。
「あらあら……お客様が増えちゃった。チュデルキン、おまえ、あんな簡単な言いつけも守れなかったの? 連れてくるのは亜麻色の髪の坊や一人だけ、あのイレギュラーは適当に固めておきなさいって、私、言わなかったかしら?」
笑み混じりでありながら、真冬の山おろしのような凍気に包まれた声が響いたとたん、少女の下方でベッドの側面に埋まり込んでいたチュデルキンがずぼっと頭を引き抜いた。
「ほっ、ほひいっ! すっすみませえええん御免なさぁぁぁぁい猊下ぁぁぁぁっ!!」
きいきいじたばたと喚き立てた異形の道化男は、ようやく重心がおかしそうな体をまっすぐにすると、棒のような腕でびしっとアリスを指差した。
「こっ、これというのもあの糞インテグレータがぶっこわれて裏切りやがったせいなんですよおおおおうっ! あの下品な金ピカ騎士めが、こともあろうに小生に剣をぶっさしやがったんですよお! 無論、ピカピカ馬鹿の剣なんざアタシにかすり傷の一つもつけられやしませんけどねえええっ! ホオオオッ!!」
「……あやつだけは……」
めらっ、と炎が燃え上がるが如くアリスが呟いた。それに気付く様子もなく、チュデルキンはさらに金切り声を喚きたてた。
「も、も、もとっからあいつら……ベルクーリの薄らでかと副官の男女はイカレ気味だったんですよおっ! 連中の阿呆が五十番にも伝染ったに決まってますよおおおおっ!」
「ふむ。……おまえ、少し黙ってなさい」
アドミニストレータがそう囁いた途端、壊れた玩具のようにキイキイ飛び跳ねていたチュデルキンの動きがピタリと止まった。と思いきやそのまま、懲りずにまた脂ぎった両目を見開いて頭上の主君の姿を舐めまわすように凝視している。
もう道化の所業には一切の興味を無くしたように、アドミニストレータは銀の瞳をじっとアリスに向けると、もう一度ふうんと呟いた。
「一番と二番はそろそろリセットの頃合だったから不思議はないけど……アリスちゃんはまだそんなに使ってないわよねえ? 論理野にエラーが起こるには速いわ……てことは、やっぱりそこのイレギュラーユニットの影響なのかしらね? 面白いわね」
最高司祭が一体何を言っているのか、ユージオにはほとんど理解できなかった。それは前最高司祭というカーディナルの言葉も同様だったが、しかし、銀髪の少女がつぶやく台詞には何かしらぞっとするような――まるで、父や兄たちがその日に締める牛の話をしている時のような冷徹さがあった。
「ねえ、アリスちゃん。あなた、何か言いたいことがあるんでしょ? 怒らないから、ちょっと言ってご覧なさいな」
うふん、と艶っぽく笑うアドミニストレータの視線を受けた途端、アリスの黄金の鎧がかすかにカタタ、と鳴ったのにユージオは気付いた。
ちらりと視線を向けると、ユージオの位置から見えるアリスの横顔は半分が黒い眼帯に覆われていたものの、それでもあの無敵の整合騎士が身を強張らせ、立ちすくみ――深く恐怖しているのが如実に感じ取れた。
じり、じりっと、両のブーツがわずかに後ずさった。
しかしアリスはそこで踏みとどまり、ゆっくりと左手を持ち上げると、いつの間にか篭手がなくなっているその指先でそっと右眼の眼帯に触れた。まるでその粗末な布切れから何かの力を得たかのように、後ろのめりになっていた体がぐっと前に押し出された。
かっ。
毛足の長い絨毯の上なのに、鋭く澄み切った足音が響き、騎士アリスは一歩前に出た。さらに一歩。もう一歩。
そこで立ち止まった整合騎士は、最高支配者に対してひざまずくかわりに、昂然と胸を張り、凛とした口上を響かせた。
「我らが栄光ある整合騎士団は、本日潰滅いたしました! 半分は、この二名の不遜な反逆者の剣によって……そしてもう半分は、最高司祭様、あなたの執着と愚かさによって!!」
おお、言う言う。
――と俺は、口中に満ちる鋭利な戦慄の味を無理矢理飲み下しながら呟いた。
ついに対面叶ったアンダーワールドの絶対支配者にして最長命のフラクトライト、最高司祭アドミニストレータの姿は、ここがサーバの中の仮想世界であり、彼女が人工的媒体に保存されたAIであるという俺の認識を、机上の砂文字ででもあるかのように一瞬で吹き散らしてしまう圧倒的なオーラに満ちみちていた。
いや、その優美な銀髪と銀瞳を眼にするずっと以前、元老チュデルキンの部屋の奥に隠されていた螺旋階段を駆け上がっているその時点でもう、俺の肌は冷たい恐怖の予感に粟立っていたのだ。
階段の天辺に開いた小さなドアからチュデルキンが逃げ出し、そこから漏れる光が消え去る寸前にどうにか再度蹴り開けることに成功したものの、俺は続く一歩を踏み出すのに、文字通り全身から気力を掻き集めねばならなかった。
なぜならドアの先の、蒼い月灯りと白い蝋燭の光に満ちた広大な空間には、かつてアインクラッドで踏み込んだどのボス部屋よりも明確な“死の予感”がひんやりと凝集していたからだ。
生身の俺、つまり上級修剣士キリトではなく高校生桐ヶ谷和人が、このアンダーワールド内で現実的に死ぬ筈がない。
俺はこれまで、その認識を――世界を“仮”へと変え、眼と判断を曇らせかねない認識を脳裡から拭い落とそうと一度ならず努力してきた。
しかし、最高司祭アドミニストレータを名乗る恐るべき美貌の少女には、俺に死以上の悲惨な運命を与え得る力があるのだと、俺はこの部屋に踏み込み彼女の瞳を見たとたん今更ながら気付いた。
そう、カーディナルが確かに言っていたではないか――アドミニストレータは禁忌目録には拘束されないが、それでも幼少の頃に与えられた禁忌の概念により、殺人を犯すことだけはできないと。そしてその制限こそが、俺に“HPがゼロになりこの世界からログアウトする”という結末を遥か上回る責め苦、たとえば、あの人間性を破壊された元老たちとまったく同じ境遇を、数年……数十年、ことによると魂が擦り切れて精神的に死ぬまで強いるという、現実世界ですら有り得ないほどの苦痛を与えかねないのだ。
仮に、俺たち三人ともに剣折れ血に塗れて倒れたとき、アドミニストレータはアリスとユージオのフラクトライトを操作し整合騎士へと作りかえるだろう。
しかし、生体脳とSTLを用いてこの世界にダイブしている俺の魂にはそのような操作は出来ない。
そして、たとえ俺が剣と誇りのすべてを差し出し恭順を誓っても、あの少女はそんな裏づけのない服従など決して信じない。
となれば、俺のメンタルに現れた異常にラースのスタッフが気付きダイブを停止するまで、この時間が恐るべき倍率で加速された世界において、いったいどれほどの年月が流れるのだろうか。
――とは言え、そのような、様々な事情を知るが故の俺の恐怖は、アリスやユージオのそれを上回るだろうなどと思ったわけでは勿論ない。
とくに、魂の深奥に“絶対服従キー”を埋め込まれている整合騎士アリスが、己の絶対支配者から与えられているであろうプレッシャーの巨大さは想像を絶する。恐らく、二本の足で立っているというそれだけで、ありったけの精神力を振り絞っているのだろう。両の拳が体の横で固く握り締められ、とくに篭手のない左手は真っ白に血の気を失って痛々しいほどだ。
それでも、アリスはあくまでしっかりと胸を張り、凛と響く声で騎士の口上を続けた。
「我が使命は、神聖教会の、そして最高司祭様の為政の護持に非ず!! 剣なき幾千万の民びとの幸なる営みと安らかな眠りの守護こそが我と我が騎士団の使命なり!!」
アリスの黄金の髪が、まるでその信念を映したかのごとくわずかに輝きを増し、俺は目を細めた。高く澄んだ声が曙光のように、部屋中にたゆたう淫靡な気配を切り裂き、押しのけた。
しかし、離れた空中に浮遊する支配者は、アリスの口上を微風ほどにも感じた様子もなく、なお一層興がるように真珠色の唇の笑みを深くした。
代わりに、真っ赤になって跳ね上がったのは、見た目の嵩が半分以下になってしまった元老チュデルキンだった。
「だっ、だぁっ、黙らっしゃぁぁぁぁぁいッ!!」
俺とアリスの前から神聖術ならぬ忍術によって遁走した道化男は、アドミニストレータの超魔力の圏内に逃げ込んで安心したか、あるいは主君の裸身をたっぷり眺めて気力充填でもしたのか、機敏な動作でベッドに飛び上がり、びしっと両手の人差し指をアリスに突きつけた。
「この半壊れの騎士人形風情がぁっ! 使命!? 守護!? 笑わせますねえホォ――ッホッホッホッホォ――――ッ!!」
甲高く笑いながら縞パンツ一丁の体をぐるりと一回転させ、今度は両腕を胸で組み棒じみた右足の指先でアリスを指す。
「お前ら騎士など!! 所詮アタシの命令どおりに動くしかない木偶の集まりなのですよッ!! この足を舐めろと言われたら舐め、踏み台になれと言われたらなるッ!! それがお前ら整合騎士のありがたぁぁぁぁい使命なんですよぉぉぉぉッ!!」
そこまで言ったところで、巨大な頭の重みに堪えかねたか、チュデルキンはぐぐっと体を後ろに傾かせたが危いところでびよんと飛び上がり、腕を組んだまま仁王立ちになった。
「だいたいですねェ! 騎士団が潰滅とかちゃんちゃらおかしいことをゆってましたねオマエ!! やられたかぶっ壊れたのは、もともとおかしかった一番二番とその他十人、いや十駒程度じゃないですかッ! つまりこちらにはあと四十も駒が残ってるんですよォ! オマエ一人がガタガタぬかしたところで教会の支配はぴくりとも揺るぎゃァしねェんですよこの金ピカ!!」
皮肉にも、道化の安っぽい悪罵はアリスの恐怖を薄れさせたようだった。冷静さを取り戻したようにアリスは両の拳をほどき、その手をがしゃりと腰の装甲に当てた。
「馬鹿はお前です、この毒風船。その丸い頭にも、脳味噌ではなく臭い煙が詰まっているのですか?」
「なッ……なぁぁぁッ!!」
ただでさえ赤くなっていた頭を、さらにどす黒く染めたチュデルキンが何かを喚く前に、アリスが氷のような声音を放った。
「残る騎士四十名のうち、十名は“再調整”、つまり汚らわしき術による記憶の操作中で動けません。そして三十名は、今も飛竜に打ち跨り、果ての山脈の上で戦っております。彼らを呼び戻すことなど出来はしない、なぜなら彼らがいなくなった途端、南北西の地下道そして東の大門は闇の軍勢に破られ、お前の言う教会の支配なぞ一瞬にして崩れ去るからです」
「ぐッ……むぐぐッ……」
紫色になった顔の眉と目尻と口もとを上げ下げするチュデルキンに向けて、アリスは尚も刃のような言葉を続けた。
「いえ、もうすでに崩れかけている。彼らも飛竜も、永遠に戦えるわけではない。しかしカセドラルにはもはや交替要員は残されておりません。それともお前がダークテリトリーに赴き、剛勇を誇る暗黒騎士たちと一戦交えますか?」
この指摘には、チュデルキンだけでなくアリスの背後の俺もぐさりと来るものを感じずにはいられなかった。塔内に詰めていた騎士たちを病院送りにしてしまった件はほとんど俺とユージオに責任があるからだ。
しかし、俺が視線を下向けるよりも早く、チュデルキンの頭の内圧が限界を超えた。
「ムッホォォォォォォ!! こっ、こっ、小賢しいぃぃぃぃぃぃッ!! それで一本取ったつもりですか小娘ぇぇぇぇぇッ!!」
ほとんど蒸気のように大量の息を鼻から噴き出し、道化はじたばたと地団駄を踏んだ。
「無礼ぇぇぇぇぇをぶっこいた罰として!! お前は再調整が済んだら最低三年は外地送りだぁぁぁぁッ!! いや、その前にアタシのオモチャとしてたっぷり色んなことをしたりさせたりしてやるぅぅぅぅッ!!」
続けて、アリスにしたりさせたりする予定の行為を際限なくキイキイキイと喚き立てるチュデルキンの下卑た台詞をぴたりと停止させたのは、上空のアドミニストレータが発した短いひとことだった。
「……ふぅーん」
最高司祭は、笑みを口の端に浮かべたまま、細い首を小さく傾けた。
「単純に論理野のエラーってだけでもなさそうね。服従キーはまだ機能している……となると、あの者が施した“コード八七一”を自発的意思で解除したのかしら……? 感情ではなく……?」
何だ――何を言っているのだ。『あの者』? 『コードハチナナイチ』?
アドミニストレータの言葉を解釈できず、俺は眉をしかめた。
しかし銀髪の少女は、それ以上の情報を与えることなく、ゆっくりと右手で髪をかきあげながら結論めかした口調で言い放った。
「ま、これ以上は構造解析してみないと、かな。……さて、チュデルキン。私は寛大だから、下がりきったおまえへの評価を挽回する機会をあげるわよ。あの三人、おまえの術で凍結させてみせなさい」
言い終わると同時に、くるりと伸ばした右手の人差し指を軽く一振り。
途端、部屋の中央に鎮座していた天蓋つきの円形ベッドが、重い響きとともに回転を始めて、俺は思わず目を見張った。
直径十メートルはありそうなその代物は、まるでそれ全体が巨大な螺子の頭ででもあるかのように滑らかに床の中へと沈降していく。シーツの上でふんぞり返っていた元老チュデルキンが、ほひいっと悲鳴を上げて危いところで転がり落ちる。
わずか数秒で、黄金の支柱も薄紫のベールもすっぽりと床下へと収納され、最後に残った天蓋がくるくるぴたりと床面にはまり込むと、もうそこにあるのは絨毯に描かれた巨大な円模様だけだった。
ふと思いついて視線を動かすと、俺とアリスがくぐってきた円筒形の入り口も、それと床の境目には似たような模様が描かれているのが見えた。さてはこの部屋は、床から色々なものが伸びたり沈んだりする仕掛けがあるのか――と考えて更に周囲を見回したが、同様の模様はあとひとつだけ、小さなものがずっと離れた壁際にあるだけだった。そこから何が出てくるのかは、今は推測する手立てもない。
ベッドが無くなった最上階は、今までにも増して広大に見えた。
それはそうだ、セントラル・カセドラルの一フロアをまるまる占有しているのだから。さすがに、四角形の中層部と比べると、円形になっているこの最上層エリアの面積はずいぶんと小さいようだが、それでも部屋の直径は五十メートルを下回ることはないだろう。
円弧を描く壁面はすべて曇りひとつない硝子製で、それらを等身大の神像が柱となって繋いでいる。少しばかり意外なのは、それらが皆猛々しい戦神だということだ。像たちは例外なく大小さまざまな剣を携え、まるでこれから始まる戦いの審判者ででもあるかのように、瞳なき眼で俺たちを見守っている。
更に視線を上向けると、えらく高い天井にも沢山の神々の細密画が描かれている。しかし奇妙なことに、中央にかなり大きな、そして少し離れた場所には小さ目の、不自然な空白部がある。
――ともかく、このアドミニストレータの寝室は、遮蔽物なし・面積たっぷりの接近戦には甚だ不向きなフィールドだということだ。瞬時の観察でそう判断した俺は、敵の術式詠唱が始まる前に突っ込むべきか、と考えじりっと右足に力を込めた。
しかし、実際の動作に入るよりも早く、アリスがごくかすかな声で肩越しに囁いた。
「不用意な突進は危険です。最高司祭様には、手で触れさえすれば瞬時の詠唱でこちらを無力化する術がいくらでもある。チュデルキンに先に仕掛けさせるのは、それを狙っているからに違いありません」
「そういえば……」
これまで隣で沈黙していたユージオが、まだどこかアリスに気後れしているかのように、控えめな声で割って入った。
「あの元老は、ベルクーリさんに“ディープ・フリーズ”術を掛けるとき、わざわざ乗っかっ……いや、直接触れていたよ」
「なるほど、“対象接触の原則”か」
俺も頷きながら呟いた。間接的攻撃術、つまり火炎や稲妻による攻撃以外で敵に大きな影響を与えようとする場合は、ほぼ必ず手なり体の一部で触れる必要がある。学院の初等練士でも知っている、神聖術の基本ルールだ。
つまり、ベルクーリと同じ整合騎士のアリスも、チュデルキンらに直接触れられさえしなければ、あの恐るべき石化術を掛けられる心配はないということになる。しかしそれは同時に、こちらも剣の間合いまで接近できなくなるということでもある。となればやはり、状況は圧倒的に不利だ。遠距離での術の撃ち合いは敵のもっとも望むところだろう。
道化者といえどもそれくらいは理解しているのか、ベッドから転げ落ちたまま床上で逆さになりコマのように回転していたチュデルキンは、両手をひろげてその運動を停止させると、おどけた掛け声とともに立ち上がった。
「ホホウッ!!」
びよん、とバネ仕掛けのように正立すると、チュデルキンは頭上の支配者に対して、右手を胸にあて左手を背後に伸ばすという芝居がかった礼をした。
「……あのような糞虫三匹、猊下にあらせられましては小指一本でぶっちりぶちぶち潰せますものを、わざわざ小生にその悦びを御下賜くださるとは欣快の極み! 小生泣けます! 泣けますですぞぉぉぉぉ!! おくっ、おくくくく……」
そして言葉どおり、巨大なまなこから粘液質の涙をねとりぼとりと落とす様には、どうにも唖然とするしかない。
アドミニストレータもまた、相手をするのにそろそろ疲れたのか、そっけない一言とともに更に数メートル宙を退いた。
「……ま、適当にやって」
「ははぁっ! 小生死力を尽くしてご期待に応えますぞぉぉぉぉぉッ!」
そこにスイッチでもあるのか、チュデルキンが右手の指でこめかみを押すとキュッと涙も止まり、異躯の道化は打って変わって陰険な目つきで俺たちを睨んだ。
「さぁてさてさて……テメェらはそうそう楽にゴメンナサイさせやしねえんですよう。ひぃひぃ泣いて這いつくばる前に、ど汚ェ天命を最低八割はちっくりちくちく削ってやるから覚悟しなさいよぅ?」
「……お前のたわ言はもう聞き飽きました。先に言ったとおり、その小汚い舌を根元から切り飛ばしてあげますから、かかってきなさい」
舌戦でも一歩も退かずにそう言い返したアリスは、ゆっくりと右手で左腰の剣の柄を握ると、ぐいっとスタンスを広げた。
はるか二十メートル彼方のチュデルキンもまた、両腕を胸の前で交差させるという奇妙なポーズを取った。
「ンンンンンもぉ許しませんよぉぉぉぉッ!! そんなに私のかぐわしいベロが欲しければ、たっぷり舐めまわしてやりますよッ!! お前をカッチンコチコチ凍らせた後でねえッ!! ほァァッ!!」
びよーん。
と飛び上がったチュデルキンは――何を考えているのか、空中で逆さ向きになり、どすんと巨大な頭で床に着地した。
「…………」
これには俺もユージオも絶句する。たしかにあの、どでかい頭に棒の体ではさかさまになったほうがよほど安定はするだろうが、自ら動けなくなってどうするつもりなのか。
しかし当のチュデルキンは、至って大真面目な顔――さかさまになると、上向きの三日月マナコが下向きになって怖さは倍増だ――でびしっと両手両足を広げると、金切り声で起句を絶叫した。
「システムッ……コォォォォ――ル!!」
それに対応して、アリスがしゃらっと音高く抜刀する。どうしていいのかわからぬまま、俺とユージオもそれに倣う。
「ジェネレイットォォォォォ……クライオゼニック! エレメントゥァ!!」
やけに巻き舌の発音で、チュデルキンが冷素召喚の術式を繋げた。
遠隔型攻撃術の威力・規模は、最初に発生する素因の数でかなりの部分まで予測できる。離れた場所に呼び出される光点を見逃すまいと、俺は目を眇めた。
ぱぁん!! と派手な音をさせて逆向きチュデルキンの両手が打ち鳴らされ、ばっと広げられる。両の手の指先に、バシバシッと凍結音を放ちながら生み出された青い冷素――その数、十。
「くそっ、多い」
俺は毒づき、対抗すべく熱素を呼び出す態勢に入った。とは言え、俺が同時にジェネレートできる素因の数は最大でも五個だ。これはユージオも大差ない。つまり、二人で同時にカウンターせねば間に合わない。――という意味をこめて、一瞬ちらりと右の相棒に視線を送る。
しかし、ユージオがそれに頷き返してくるよりも早く――。
ばしぃん!! という音がさらに響き、俺はハッと視線を戻した。
それは、逆立ちしたチュデルキンの両足もまた器用に打ち合わされた音だった。続いて、Y字型にまっすぐ伸ばされた両足の五指それぞれの前にも、霜が伸びるような響きとともに十個の冷素が召喚された。隣で、ユージオが掠れた声で呟いた言葉に、俺もまったく同感だった。
「うそ……だろ……」
合計二十の青い光点にびっしり取り囲まれたチュデルキンは、さかさまの口で巨大な笑いを作った。
「おほっ、オホホホホ……ビビってますねェ、チビリあがってますねェェ? このアタシを、そこらの木偶騎士どもと一緒にしてもらっちゃ困るんですよぅ」
アンダーワールドにおける神聖術――つまり魔法は、半分が音声によるコマンド、そしてもう半分は術者によるイメージによって制御される。例えば、治癒術を使う場合は、癒したい対象の者への敵意が心のなかにあると効果が激減するし、逆に真摯な献身の念をそそぐことで術者のレベル以上の効果が生み出されもする。
そして、それは素因を操る攻撃術も例外ではない。
具体的には、生み出したエレメントの変形や発射に、術者の意識と直結したイマジネーションの回路が必ず必要なのだ。ではどうやってその回路を作るかというと、これは指を使うのである。一本の指に一つのエレメントが繋がっているイメージを常に保持しながら指先を動かすことで、術式全体を制御するのだ。
つまりそれはイコール、どんな高位の術者でもふつうは同時に十個までのエレメントしか操れないということになる。その制限を突破し、足の指にまでもイメージ回路を作ろうと思えば、アドミニストレータのように超々高位術によって宙を飛ぶか(そもそもこの世界には飛行コマンドは用意されていない)――逆立ちの姿勢を維持するしかないということになる。道化の元老チュデルキンのように。
「オホホホォ…………」
甲高い笑い声に続けて、変成コマンドを詠唱したチュデルキンは、立ち尽くす俺たちに向かってまず右腕をびしっと振りぬいた。
「ホォォォォォアッ!!」
シュゴッ!!
と突風のような音を立てて、空中に発生した五本の巨大なつららが冷たく煌めきながら迫った。続けて、左腕からも更に五本。
回避しようにも、扇形に広がりながら飛んでくる氷の槍衾に死角などなさそうだった。撃ち落せるか!? と迷いつつも腹をくくったその時、吹き付けてくる冷気を力強い叫びが切り裂いた。
「散・花・流・転!!」
しゃらああああっ!!
と、千の鈴が打ち鳴らされる音とともに、横なぎに振りぬかれたアリスの金木犀の剣が、その切っ先から無数の黄金の花びらとなって舞い散った。
最大の死地にありながらも、俺は(そしておそらくユージオも)煌めく光の群れのあまりの美しさに息を飲んだ。
この最上階を照らす灯りは決して多くない。硝子窓の南面から差し込む月光と、そして柱の上部に設けられた燭台に揺らめくささやかな白い炎だけだ。しかし、アリスの剣から分かたれた黄金の欠片たちは、自ら放っているとしか思えない山吹色の輝跡を引きながら、一群の流星雨と化して飛翔した。
「せいっ……」
アリスが鋭い気合とともに、手中に残る柄を右に振り払う。その動きに連動して宙を舞った無数の鋭片は、まさにアリスを貫かんとしていた五本の氷柱を飲み込み、凄まじい切削音を響かせた。
高速回転するミキサーに角氷を放り込んだようなもの、と言うべきか――。
チュデルキンが生み出した、恐るべき威力を内包しているはずの氷の槍は、わずか半秒で無害なシャーベットへと転換させられ、宙にきらきらと溶けて空しくリソースを散らした。
「……やっ!!」
その結果を見届けもせず、アリスは右手を左方向へと突き出した。ぐるりと空中で向きを変えた黄金の花吹雪は、再びざぁっという葉擦れの音を振り撒きながら、さらに五本の氷柱を迎撃した。再び大量のみぞれが放射状に飛び散り、周囲の気温を少しばかり低下させた。
「……ぬっ……ぬぬぬぬぐぐぐぐぐっ……」
己の放った術があっさりと退けられたのを見たチュデルキンは、巨大な唇からむき出した歯列を左右にキリキリキリと鳴らしながら同時に怒りの唸り声を上げるという器用な技を披露しながら、逆向きの頭部を一層赤黒く染めた。
「……そんなチンケな下ろし金で勝った気になってんじゃねぇってんですよう! そんならこいつはどうですかッ!! ホォォォォォッ!!」
十の素因を保持した短い両脚を、同時に前に蹴り出す。
ひゅうっと青い平行線を描きながら高く舞い上がった氷素は、そこでひとつに融合すると、いきなり巨大な氷の塊を発生させた。
見るみる間に、それはごつんごつんと角張りながら体積を増やし、直径二メートルはありそうなドラム缶の形へと成長した。変形はそこで止まらず、後ろの側面中央部から細長い棒状の氷柱が伸びる。
出現したのは、白い冷気の靄を纏った、恐ろしく巨大なハンマーだった。鏡のようにつやつやと輝く打撃面の、大岩ですら一撃粉砕できそうな硬さと重さを想像し、俺は思わず一歩あとずさった。
「ホヒヒッ……どうですかァ、我が氷系最強ちょっと手前の術はァッ!! さぁ、行きますよおおおおっ……“グレート・グレイシャル・プレッサー”!!」
うわっ、と隣でユージオが声を漏らし、身を屈めた。無理もない、自分より数倍はでかい巨大トンカチが、重く空気を圧縮しながら降ってくるさまには俺も体を強張らせることしかできなかった。しかも、いかにも必殺技というべき大層な名前がついている! この世界で、神聖文字(つまり英語)を言語として認識できるのは、俺のほかにはカーディナルとアドミニストレータだけだと思われるので、おそらくこの術式を編み出したのは最高司祭本人なのだろう。部下に与えるくらいだから彼女にとっては余技にも等しい術式なのかもしれないが、それを食らうほうは堪ったものではない。
しかし、今度も、騎士アリスは一歩たりとも退かなかった。己を叩き潰さんと肉薄する巨大オブジェクトを、両足を踏ん張ったまましかと見据え――。
「旋・花・砕・巌!!」
こちらは一般アンダーワールド語だが、たっぷりとイマジネーションの詰まった技名を、区切りながら声高く叫んだ。
直後、それまで不定形の一群として浮遊していた黄金の花吹雪が、ジャキリッ! と歯切れのよい響きとともに、アリスの右手を中心とした巨大な円錐形を形作った。その輝く巨大なドリルは、たちまち高周波を放ちながら高速回転を開始し、鋭い先端で落下してくる氷のハンマーを迎え撃った。
二つの必殺技が接触した瞬間、すさまじい大音響と閃光が発生し、部屋中を激しく揺るがした。
「くっぬうううううほぉぉぉぉぉッ……ブッツブ……れなっ……さぁぁぁぁいッ!」
「…………砕けっ……花たちっ……!!」
チュデルキンとアリスは、美醜の対極にある顔を同様にきつく歪め、食いしばった歯の間から声を漏らした。
こうなると、双方の技の優劣を決めるのは、数値的なプライオリティ以前に意志力、イメージ力の強さにかかってくる。なんといってもここはアンダーワールド……夢が現実となる世界なのだ。
青い大槌と金の螺旋は、白熱した接触点をはさんでしばし静止を続けていたが、やがて徐々に互いを飲み込みはじめた。振りまかれる光芒の眩さと、耳をつんざく破壊音のせいで、ハンマーがその打撃面でドリルを潰しているのか、あるいはドリルがその尖端でハンマーを穿ちつつあるのか判別できない。
勝敗が明らかになったのは、双方の姿が半ば以上光に飲み込まれた時だった。
びきっ。
という鈍い破砕音とともに、氷の大槌全体に白く輝く亀裂が走った。
直後、ちょっとした小屋ほどもありそうなハンマーは、先のつららのように無数の氷片となってその巨体を散らした。ばがぁぁぁん、と盛大な震動を伴って周囲の空間が一気に白く凍り、空しく放散された冷気リソースの波動を俺は左袖で防いだ。
「ひきゃああ!?」
素っ頓狂な悲鳴は、無論元老チュデルキンのものだ。
さかさまになったまま、道化は細い体を後ろに傾け、ゆらゆらと揺れた。
「そっ……そんなバカチンなっ……。げ……猊下に頂戴した、アタシの美し格好良い術式がっ……」
大きく裂けた唇が、ついにニヤニヤ笑いを消し去り、小さく窄められてわななく様は痛快だったが、しかし見事巨大ハンマーを粉砕してのけたアリスも無傷とは行かなかった。ドリルの回転をゆるめた金の小片たちを、右腕の一振りでじゃきっと元の剣に戻した騎士は、大きく姿勢を崩し、危ういところで踏みとどまった。天命にダメージはないはずだが、振り絞った精神力の消耗が激しいのだろう。
「アリス……!」
駆け寄ろうとした俺を、しかし左腕で鋭く制し、アリスは気丈に剣の切っ先をびしりとチュデルキンに向けた。
「チュデルキン、お前の信念なき技など、虚ろに膨れた紙風船にすぎないと知れ! お前本人と同じように!!」
「なっ……んですってェ……この小娘っ……」
アリスの、斬撃のごとく鋭い舌鋒に、ついにチュデルキンの悪口雑言が止まった。限界まで歪めた巨顔を激しく痙攣させ、滝のような脂汗が逆向きに流れる。
しばしの沈黙を破ったのは、ほとんど退屈したとでも言わんばかりの、アドミニストレータのため息混じりの呟きだった。
「あーぁ、ほんと、何年経ってもお馬鹿さんねえ、チュデルキン」
チュデルキンの後方で宙高く、寝そべった姿勢で浮遊していた最高司祭は、細いおとがいを乗せた両手の甲ごしに唯一の腹心を見下ろし、続けた。
「あの娘の持つ“金木犀の剣”は、この世界に存在するディヴァイン・オブジェクトの中でも最大クラスの対物理優先度を持っているのよ。そして、その事実をあの娘も強く確信している。そんなの相手に実体系攻撃術を使うなんて、神聖術の基本も忘れちゃったの?」
「はっ……ほほはひっ……」
甲高い声を漏らし、チュデルキンは丸くした両目を頭上――正確には眼下に向けた。その上まぶたに、たちまち大粒の涙がぼろりぼろりと溢れる。
「おぉぉっ……なんと勿体無いっ、有難いっ、畏れ多いっ!! 猊下御自ら小生めに御教示下さるとはっ……! 応えますぞ、このチュデルキン必ずやお応えしますぞっ!!」
アドミニストレータの声は、チュデルキンにとって最高級の治癒術以上の効果を持っているようだった。先刻までの驚愕と怯えは一瞬にして払拭され、逆さまの元老は、おそらく彼なりの最大の気迫が篭っているのであろう奇相でしっかとアリスを睨みつけた。
「……整合騎士アリス・シンセシス・フィフティよ!! オマエさっき言いましたねェ!! このアタシが虚ろな、信念なき紙風船だと!!」
「……違うとでも言うのですか」
「違――――う!! 違う違う違う違う!!」
チュデルキンの両眼に、ぼっと音を立てて赤い炎が点った――ように見えた。
「アタシにだって信じるものはあるんですよう!! それは、ズバリ、愛ッ!! 我が尊く麗しき最高司祭猊下への、偽りなき愛なりィッ!!」
この時この場所以外のどんな状況で聞いても三流の滑稽劇にしかなり得ない台詞ではあるが、しかし今だけは――たとえそれを放ったのが、丸頭に棒体の道化者だとしても――ある種の悲壮感すら伴って、力強く部屋中に響き渡った。
チュデルキンは、燃えるまなこでアリスを凝視し、両手両足を大きく広げながら、背後のアドミニストレータにむかって限界まで甲高く裏返った声を奏上した。
「さ、ささ、最高司祭猊下ッ!!」
「なぁに? チュデルキン」
「小生、元老チュデルキン、猊下にお仕えした永の年月において初めての不遜なお願いを申し上げたてまつりまするぅっ!! 小生これより身命を賭して彼奴ら反逆者どもを殲滅致しますればっ! その暁には猊下のっ! げっ、猊下のぉぉっ、貴き玉身をこの手で触れっ、くっ口付けしっ、一夜の夢をとっとっ共にするお許しをっ、頂きたくございますぅぅぅぅぅッ!!」
――半人半神の最高支配者に対して、なんとも直截的なお願いもあったものである。しかしその絶叫が、このチュデルキンという歪みきった道化男の、魂よりの真実の吐露であろうことは間違いなかった。
悲壮感さえ通り越し、もはやヒロイックですらあるその雄叫びを聞き、俺もユージオも、そしてアリスも、身動きひとつできずに絶句した。
そして、チュデルキンの背後で己への“お願い”を聞いた最高司祭アドミニストレータは――。
まるで、可笑しくてたまらぬ、というふうに真珠色の唇をきゅうっと吊り上げた。
感情無き鏡の瞳に、今だけは明らかな、愚かな人間への興趣と嘲弄の色が揺らめいた。哄笑を堪えるかのように、右手ですっと口元を覆ったアドミニストレータは、その表情からは想像できぬ、慈愛に満ちた囁き声で――。
「……いいわよ、チュデルキン」
と、嘘をついた。
その言葉が明白な虚偽であることが、同じく偽り多き人間である俺にははっきりと感じ取れた。
「創生神ステイシアに誓うわ。そなたが責を果たしたそのときには、私の体の隅々までも、一夜そなたに与えましょう」
この世界の人間は、人工フラクトライトの構造的要因と、謎の“コード八七一”によって宿命的に法というものに逆らえない。その法には、村や町の掟から帝国基本法、そして勿論禁忌目録、さらには自ら神に誓った約定も含まれる。支配構造の上位に属する者ほど、縛られる法も少なくなるが(たとえば整合騎士は禁忌目録に拘束されないように)、その原則は世界最高位の存在たるカーディナルとアドミニストレータとて例外としない。カーディナルがティーカップを机に置けないように、そしてアドミニストレータが人を殺せないように。
しかし今、アドミニストレータは、己が神への誓いにすら制約されないということを俺の目の前で実証してみせた。それはつまり、あの少女は、寝室の天井に描かれていないステイシア、ソルス、テラリアの創生三神への帰依心など欠片も持ち合わせていないということに他ならない。
だが、勿論、哀れな道化チュデルキンには思いもよらぬことであったろう。
己の背後で、主が嘲笑を堪えながら放った言葉を聞き、チュデルキンの眼にまたしても大粒の涙が盛り上がった。
「おお…………おおっ…………小生、ただいま、無上の……無上の歓喜に包まれておりますよぅ…………もはや……もはや小生、闘志万倍、精気横溢、はっきり言って無敵ですようぅぅぅぅッ!!」
じゅっ、と音を立てて涙が蒸発し、直後、チュデルキンの全身がすさまじいほどの赤々とした炎に包まれた。
「シスッ!! テムッ!! コォォォォル!!! ジェネレイトォォォォォサァァァァァマルゥゥゥウゥ!! エレメ――――――ント!!!」
しゅばばっ、と両手両足で宙を斬り、指先までがぴんと広げられたその四肢に、赤熱する幾つもの光点が宿った。これが元老チュデルキンの、己が天命までもリソースに変えた最大最後の攻撃となろうことは、アリスの背後に隠れる俺にもしかと感じ取れた。
先ほどと同じく、生成された素因――ただし今度のはルビーのごとく輝く熱素――の数は、すべての指先に計二十個だった。
確かに、倒立状態のチュデルキンの両足は、体を支えるという役目から解放されて完全に自由ではある。しかしそうは言っても、足指十本をそれぞれ別個かつ同時に認識するのはよほどの訓練を積まねばできることではない。あまりに特異な外見と人格にばかりつい注意が向いてしまうが、この元老チュデルキンという人物も、整合騎士の猛者たちと同じように――あるいはそれ以上に長い経験を重ねてきた、恐るべき強敵なのだ。
果てしなく遅きに失した俺の恐怖を感じでもしたか、チュデルキンの両眼がまるで勝ち誇るかのようにすうっと細められ、直後、零れ落ちんばかりに丸く見開かれた。その針穴のごとき瞳孔が、突然真紅の光を帯びてあかあかと輝き、俺の恐れは驚愕へと変わった。もしや、奴の気迫が呼び起こした現象なのか――と思ってから、ようやくそうではないことに気づく。あれも、チュデルキンの両眼のすぐ前に浮かんで煌く赤光もまた、大型の熱素因なのだ。奴は己の両眼までも端末として、二十一個目と二個目のエレメントを生成したのだ。
変成・射出前の素因それ自体も、わずかではあるがその属性に準じたかたちでリソースを放散している。指の数センチ先に熱素を呼び出すくらいなら、多少爪が炙られるくらいで済むが、目の玉の至近にあれほど巨大な奴を保持して術者が無事なわけがない。たちまち、チュデルキンの目のまわりの白い皮膚が、しゅうしゅうと音を立てて黒く焦げ始め、俺はたまらず頬を引きつらせた。
しかし元老本人は、その熱さなどもはや毛ほども感じていないようだった。眼窩が広く黒ずみ、異相が凶相へと転じた顔全体でニィィっと笑ってみせると、チュデルキンは低く軋る声で最後の見栄を切った。
「お見せしましょォォォォう、我が最大最強の神聖術ゥゥゥゥッ……! 出でよ魔人ッ!! そして敵を焼き尽くせェェッ!! “クルゥエル・クリムゾン・クラウン”――――ッ!!」
ぶおっ、と細い四肢が同時に前に振り下ろされた。打ち出された二十のエレメントは、すぐには変成せず、宙に五本ずつの平行線を描きながら猛烈なスピードで飛び回った。
その赤く輝く軌跡が、見る見る間に巨大な人間のかたちを描き出していくのを、俺は思わず魅入られながら凝視した。短い足。でっぷりと膨れた腹。妙に長い腕、そして角がいくつもついた冠を載せた丸い頭。まるで、破裂する前のチュデルキンをそのまま数倍に拡大したかのような――巨人のピエロだ。
ごうごうと燃える身長五メートルの道化を創り出した二十個の素因は、最後にひらひらした道化服に炎の縦じまを描き、ようやく消えた。
いまだ二十メートル近くの距離があるのに、すでに見上げるほどの高さにあるピエロの顔は、チュデルキンのそれを模していながら何倍も残酷そうに見えた。分厚い唇の隙間からは火焔の舌がちろちろと見え隠れし、細長い吊り目を作る暗い亀裂からは、炎の巨人であるにもかかわらず凍えるような冷気が吹き付けてくるように思える。
両手両足を振り回しながら超絶的召喚術を組み終えたチュデルキンは最後に、残るふたつのエレメントを宿した両の目をばちっと一度まばたきした。すると、目の前の熱素が消え去り、同時に炎のピエロの細い目がくわっと開いて、そこに二つの燃える瞳が宿った。
火焔の巨人は、チュデルキン本人が乗り移ったかのごとく残酷な殺意のこもった両眼でぎろりと俺たちを見下ろした。とがった靴を履いた右足がゆっくり持ち上がり、一歩前の床をずしりと踏みしめた。重い震動音とともに、大量の炎が巨人の足元から巻き起こり、周囲の空間を揺らした。
もはや唖然と立ち尽くすばかりだった俺とユージオは、ごくかすかだが鋭いアリスの声が発せられたのを聞き、はっと気を取り直した。
「……あの術、私も見たことがないほどの、恐るべき優先度です」
アリスの声はこの状況でもあくまで毅然としていたが、しかし内心の畏れを映してか、語尾がかすかに掠れ、揺れた。
「あやつを甘く見過ぎました。残念ですが、あの炎は私の花たちでも破壊できない」
「な……って、じゃあ、どう……」
非生産的な声を挟んだ俺に、アリスは初めて出会った頃以上に厳しい声を短く叩き返した。
「十秒、どうにか防ぎます。キリト、ユージオ、その間にチュデルキン本体を討ってください。ただし接近してはいけない! 最高司祭はそれを待っているのですから」
「じゅう……」
「……びょう」
俺とユージオは同時に呻き、顔を見合わせた。
もはや剣技でも発想でも俺を超えたかもしれない相棒だが、しかし今度ばかりはその顔を彩っているのは絶望と恐慌の蒼白だった。無論、俺もまったく同じ表情を浮かべているはずだ。
アリスが防いでいるあいだに突貫せよというならいくらでもやる! それはもともと俺の好むスタイルだし、実際SAO時代はボス攻略のたびにその役目を務めたのだ。
しかし、彼我の距離二十メートルを縮めてはいけないというのは、俺とユージオの戦闘力を九割減じる大きすぎる枷だ。俺たちはなんといっても剣士なのであり、遠隔攻撃の手段などわずか二つしかないからだ。
そのひとつはこちらも神聖術を使うという手だが、俺とユージオに使えるコマンドはまったく初心者級のものでしかなく、せいぜい距離を詰めるための小技にしか使えない。とてもチュデルキンのような高位術者の護りを貫き天命を削りきる威力は望めない。
もうひとつは、取って置きの必殺技――つまり武装完全支配術だが、これは取って置きすぎたのが災いした。アリスの技があればチュデルキン相手には使う必要はあるまい、対アドミニストレータ戦まで維持できるはずと判断したせいで、俺もユージオもあの長ったらしい術式をまったく唱えていないのだ。今からではどう考えても間に合わない。
俺が絶望的思案を懸命に巡らす間にも、燃え盛る巨大ピエロは、踏み出した右足で床を蹴り、その図体をふわりと宙に浮かべてさらに前進を続けた。
どすん、と両足で着地する。まるで水溜りを散らすかのように火焔の飛沫を振り撒いてから、次のジャンプに移る。とても敏捷とは言えない動きだが、何といってもサイズがサイズだ。一跳びで三メートルの距離を詰めてくる。
ピエロの放散する熱気と焦げ臭さが圧力となって感じられるほどの間合いとなったとき、ついにアリスが動いた。
凝集している金木犀の剣を、すうっと真っ向正面の大上段に振りかぶる。後ろに伸ばされた左腕、大きく前後に開いた両足が、ぎり、ぎりと弓の弦のように張り詰めていく。
突如、アリスの足元からも竜巻のごとき突風が沸き起こり、白のロングスカートと長い金髪が水平に舞い上がると激しくひらめいた。金木犀の剣の刀身が、黄金の光に包まれてぴしっと幾百の菱形へと分離し、ひとすじの列を作って空中を滑りはじめる。
「――嵐! 花! 裂! 天!」
あの細い体のどこから、と思えるほどの叫びが鋭く宙を切り裂いた。
同時に、それまでゆるりと円運動をしていた黄金の花弁たちが、個々の姿が見えないほどの超スピードで渦を作り、それはたちまち巨大な竜巻へと成長した。
先に氷のハンマーを砕いたドリルの時は、密に凝集した先細りの円錐形を作っていたのだが、今度はその逆だ。アリスの手元から漏斗状に広がり、その直径も先端では五メートルはあるだろう。
たちまち周囲の空気が、まるで大嵐に見舞われたかのように圧縮され、引きちぎられ、そして放出された。俺とユージオの髪と服が激しくばたばたと揺れる。
もはや圧し掛からんばかりに接近していた火焔ピエロは、にやにや笑いを消さぬまま高々と最後のジャンプで天井近くにまで舞い上がり、アリスの竜巻の中央に恐れ気もなく落下してきた。
どばぁぁぁぁっ!!
という、千の溶鉱炉が咆哮するが如き轟音がそれ以外のあらゆる音を圧した。
黄金の竜巻はほとんど垂直近くにまで立ちあがり、その真ん中に火焔ピエロの両足が飲み込まれている。高速回転する黄金片に引き裂かれた炎が、大掛かりな花火のように放射状に飛び散り空気を焦がす。
しかしピエロの総体はわずかにも減少しているような気配すらなく、燃え盛る両眼のにやにや笑いをさらに大きくしながら徐々に、徐々に竜巻をその巨大な足で踏み潰しはじめた。真下ですべてを支えるアリスの両足がじわ、じわと崩れ、かすかに見える横顔は鬼気迫るほどの形相だ。
さらには、竜巻を作る黄金片たちが、ピエロの熱量に耐えかねるようにたちまち赤熱していく。いままさに、整合騎士アリスも、その手の金木犀の剣も、凄まじい速度で天命を失いつつあるのだ。
残り時間――十秒。
あらゆるシステム・コマンドはもはや何の助けにもならない。
そして俺にあるのは、右手の黒い剣と、体に染み付いた技だけだ。
このアンダーワールドにおいて、俺は、主にユージオに教え伝える目的でかなりの数の“連続技”、つまり旧SAO世界において俺のフラクトライトに深く刻み込まれたあまたのソードスキルを再生させた。その過程において俺は、SAO世界のようなシステム・アシストの存在しないこの世界でも、ほとんどかつてのものと変わらない速度・威力のソードスキルを放つことが可能であることを知った。
なぜならば、アンダーワールドでは、行動とその結果のかなりの部分を、システムによる演算ではなく行う者の意志力、イマジネーションが決定するからだ。俺や人工フラクトライト達が見ているのはポリゴンで作られたオブジェクトではなく、記憶のアーカイブから取り出し加工された夢――ニーモニック・ビジュアルであるからだ。
ゆえに俺は、俺の記憶に強く刻み込まれたソードスキルたちを――現実世界では絶対に行うことのできない超高速の連続剣技を再生し得た。
そしてそれは同時に、この世界においてならば、俺の剣技はSAO世界のシステム・アシストを超える高みに――旧アインクラッドに於いて、数多の剣士たちが憧れを込めてソード・アートと呼んだ、システムの規定を超えた速度と威力そして美しさを持つ真の技へと達し得るかもしれない、ということでもある。
その為に今だけは、俺は、SAO世界で生まれそして消えた“黒の剣士キリト”への忌避――あるいは恐怖を捨てねばならない。
アリスの竜巻を踏み破りつつある巨人の熱気を頬で感じながら、俺は大きく体を右に開き、腰を沈めた。
右手の黒い剣を肩の高さまで持ち上げ、完全な水平に倒すと同時に限界まで後ろに引き絞る。
左手はその剣尖に、カタパルトのごとくまっすぐに伸ばしてあてがう。
アンダーワールドでは、幾つかの理由によって完全再現を試みようとしなかった単発重攻撃技――アインクラッドにおいて間違いなく最多回数放ったソードスキル、“ヴォーパル・ストライク”の構え。
透明感のあるブラックに輝く切っ先のはるか延長線上に、倒立した元老チュデルキンの姿が見える。
焼け焦げた眼窩に嵌まる巨大な両眼は、ダメージはあれども視力は健在らしく、爛々とひん剥かれてこちらを睨みつけている。意識の大部分は、己の四肢と視線で操る火焔ピエロに向けられているのだろうが、俺のアクションも無論視界には入っているはずだ。
攻撃はワンチャンス、決して防御も回避も許してはならない。その意味でも、この二十メートルという距離はあまりに遠い。頭頂部のみで体を支えるチュデルキンには素早い移動は不可能だろうという期待はあるが、しかしあの男の土壇場のしぶとさを、もうこれ以上過小評価する過ちは犯せない。一瞬――一秒の半分のその半分でいい、チュデルキンの注意を強く外に逸らさねばならない。
残り時間八秒。俺は限界まで速く短い言葉で、隣の相棒に頼んだ。
「奴の目を」
「そう来ると思った。いくよ」
打てば響く、とはこのことだ。ちらりと視線を向けると、いつのまにジェネレートしたのか、ユージオの右掌には青く光る鋭利な氷の矢が保持されていた。それほど大きなサイズではないが、眩いほどの輝きに包まれているのを見れば、その矢が持つのが生半なプライオリティでないのはすぐにわかる。おそらく、先刻のアリスと元老の攻防によって放散された冷気リソースを、消滅する前に素早くエレメントに変えていたに違いない。このような状況判断力は、まったく頼もしいの一言だ。
残り七秒。ユージオの両手が見えない大弓を引き絞るように動き、つがえられた氷の矢がひときわ激しく光った。
「ディスチャージ!!」
コマンドとともに発射された氷の矢は、しかし、まっすぐにチュデルキンに向かったわけではなかった。
ユージオの両手にコントロールされた軌道に沿って、まず火焔ピエロを左に迂回し、そこから右方向へと大きくカーブを描いて舞い上がる。炎の赤一色に染まる戦場に、その矢が長く引く青い軌跡は強烈なコントラストでまばゆくきらめいた。
残り五秒。アリスとチュデルキンの間の虚空を、涼やかな音を振りまきながら斜めに横切った氷の矢は、高い位置でさらに左へとターンした。ユージオの両手がぐっと握られる。それが合図となり、矢は直線軌道を描いてそれまでの数倍のスピードで突進した。その鋭い鏃が狙ったのは――。
今度もまた、チュデルキンではなかった。
奴の後方約二メートルの空中にしどけなく寝そべる最高司祭アドミニストレータこそが、ユージオの照準した標的だった。
残り四秒。
もちろん、いかに氷の矢の優先度が高かろうと、ユージオの権限レベルから生み出された程度のものに最高司祭が慌てるはずもない。銀髪の少女は、小煩そうに己に向かってくる青い矢を見やると、唇を尖らせ、ふっと軽く息をふきかけた。その息にどのような術式が込められていたのか推測する手立てはないが、矢は少女の素肌に達するはるか一メートル以上も手前で、ぱしゃっと光のしずくを振りまきながら呆気なく粉砕された。
しかし、ユージオが真に攻撃したのは、アドミニストレータ本人ではなかった。
彼がその冷静な判断力と苛烈な意志力によって一撃を浴びせたのは、元老チュデルキンが声高に宣言した、彼の最高司祭への盲目的執着、あるいは愛情だったのだ。
それまで、油断なく俺たちの動向を注視していたチュデルキンの両眼が、氷の矢が下降したその瞬間のみぐりっと横を向いた。窄められていた唇がいっぱいに開き、甲高い叫びが発せられた。
「猊下、御気をつけくださいぃぃぃッ!!」
残り三秒。
チュデルキンの絶叫が聞こえるよりも早く、俺の体は動き始めていた。
前に大きく踏み出した左足で、強く床を蹴る。その加速を腰で回転力に変え、胸と背中の筋肉を経由させて右肩に伝える。そこから繋がる俺の右腕はすでに黒い長剣と一体化した武器となり、エネルギーのすべてを超重量の刀身へと注ぎ込む。
打突開始の一瞬、剣の反動は俺の右半身を引きちぎりそうなほどに大きい。しかし歯を食いしばり、喉の奥から気合を放ちながら、俺は凄まじく重い武器を一直線に加速させていく。
旧SAO世界において、連続技に組み込めない単発のソードスキルであり発射後の隙も大きいこの“ヴォーパル・ストライク”をなぜ俺がそこまで愛用したかというと、それは戦況を一撃で決定し得る威力もさることながら、片手用直剣技にあるまじき長大なリーチにこそ理由がある。
かの世界では、強烈なエフェクト光を持つソードスキルは押並べて武器の実サイズを越える当たり判定を持っていた。なればこそ俺たちプレイヤーは、自身の数倍の体躯と得物を持つ巨大なボスモンスターたちと正面から渡り合えたのだ。しかしそのなかでも、ヴォーパル・ストライクの間合いは群を抜いて広かった。血のように赤いエフェクト光が敵を貫くその距離は、およそ刀身の二倍。限界まで伸ばされる右腕のリーチも加えれば、時として鞭や長槍すらも凌駕する射程距離を誇った。
――とは言え、もちろん、それはこのアンダーワールドとは距離、時間、観念他あらゆる意味に於いて遥か隔てられた浮遊城アインクラッドでの話だ。
この世界でこれまで多くのソードスキルを再生し得た、と言ってもそれはすべて連続技の動作としてのみであって、色とりどりのエフェクト光や剣の実寸を超える間合いなどは当然含まれていない。二年半前に一度だけヴォーパル・ストライクを実戦で――アリスの妹シルカを攫ったゴブリン部隊長との戦闘で使ったことはあるが、そのときも技としては何の変哲もない直突きでしかなかったのだ。
しかし、今、この一撃だけは――。
俺はヴォーパル・ストライクという名の剣技を、真の意味で甦らせねばならない。
いや、それ以上だ。俺と敵の距離は二十メートル、かつての技でさえ到底届かない。この“距離”というシステム上の制約を、意思とイマジネーションの力で打破しなくてはならないのだ。
不可能事では絶対にない。この世界では、イメージの力はシステムの規定を超える力を持つのだ。その証左が、今俺とユージオを限界以上の気力で炎魔人の攻撃から護っている騎士アリスの存在だ。彼女は、己の愛剣の記憶解放を行う際に一切のコマンド詠唱を行っていない。そんなものは、もうアリスには必要ないのだ。己と剣との絆を信じる彼女の意志力が、それを可能としているのである。
であれば、俺も、アリスのその意志に応えなくては。
信じろ。
確信せよ。
断固として実現するのだ。
俺は、何者であるよりも先に、剣士キリトなのだから。
突然、右手が猛烈な熱に包まれた。素手のはずの皮膚が、どこからか現れた黒い指貫きのグローブに瞬時に覆われる。続いて、激戦でほつれたシャツの上に、艶やかな黒革の袖が出現し、一瞬で腕から肩へと広がっていく。懐かしいロングコートの裾が、俺の腰の周りで大きくひるがえる。
どこからか、外燃機関の猛りにも似た金属質の轟音が響いてくる。発生源は今まさに撃ち出されようとしている黒い刀身そのものだ。
紅い閃光。
剣全体を包む、圧倒的な輝きは、炎ではなく血の赤。切っ先から放射されるその光は、部屋を埋め尽くす火焔の色すらも覆い尽くす。
「う……おおおおおッ!!」
喉から迸る獰猛な気合とともに、俺は右手に集ったすべての力を、一直線に前へと解き放った。
残り、一秒。
何の音だ!?
いきなり耳元で炸裂した異質の咆哮に、ユージオは全身を硬直させた。
獣の吼え声とも、稲妻の轟きともまるで違う。炎の怒号でも、吹雪の絶叫でもない。金属、それも幾千の剣が一斉にその身を震わせたかのような――。
氷の矢を放ち終えた両腕を前に伸ばしたまま、ユージオはすぐ左に立つキリトへと視線を送った。そして新たな驚愕に激しく打たれた。
轟音の源は、キリトが右手に構えた黒い直剣だった。黒曜石の輝きを持つ肉厚の刀身が、その鋭い刃を朧に霞ませるほどに高速で震動させながら、戦場の何よりも激しい咆哮を放っている。
記憶解放が行われたのか!? 術式詠唱もなしに!?
ユージオの一瞬のその思考は、すぐに否定された。キリトの黒い剣の完全支配術は、これまで数回見たように、深い夜にも似た闇の中からかの巨大樹を召喚するというものだ。
しかし、ユージオの目の前で剣の切っ先から強く迸ったのは、血のように重い紅の光だった。
幾つもの束となって溢れ出た赤い閃光は、みるみるうちに刀身すべてを覆いつくし、それにとどまらず持ち主の腕をも包み込んでいく。
真に驚くべき現象が起きたのはその後だった。
キリト本人の姿が、まばゆい輝きに覆われた一瞬を境に、それまでとは違う出で立ちに変化したのだ。
今まで彼が身につけていたのは、数々の激戦を経て解れ傷んだ黒いシャツと、同色の麻のズボンだったはずだ。だが赤い光の波が、右腕から体、足へと通過した途端、高い襟と長い裾を持つ輝くような革のコートがどこからともなく現れてキリトの体を装い、ズボンもまた細身の革素材のものへと瞬時に変わった。光沢のあるブーツは重そうな金属鋲つき、両の手もまた鋲の埋め込まれた手袋に包まれた。それらの色はすべて、吸い込まれるように深い黒。
瞬きよりも短い刹那に起きたその、言わば“変身”のとどめは、キリトの肉体そのものに起きた変化だった。
まず、黒い髪がわずかに伸び彼の横顔をほとんど隠した。次に、ユージオとほぼ同じ大きさだったはずのその躯が、ぎゅっと密度を増すように少しばかり小柄になった。しかし、その全身から放たれる威圧感は逆に倍化したように思えた。理由は、激しく揺れる前髪の隙間からのぞく黒い眼だ。これまで常にキリトの瞳に宿っていた穏やかさ、言い換えれば戦うことへの迷いと躊躇いのようなものが、嘘のように失われている。その眼光の鋭さは、まるで彼自身が一本の剣になってしまったかのようだ。整合騎士たちの冷厳さすら上回る、あらゆる感情を削ぎ落とした戦闘者の眼。
その瞳が、ぎらりと禍々しく光った。噛み締めた歯が剥き出され、唇がまるで笑うように歪んだ。
直後、その唇の奥から、剣の唸りを上回る雄叫びが放たれた。
「う……おおおおおッ!!」
ユージオの背中が総毛立った。
剣が放つ金属質の咆哮が限界まで高まり、直後、キリトの右手が消えうせるほどの速度で前に撃ち出された。
じゃきぃぃぃん!! と、見えない鋼板をぶちぬくような轟音。荒れ狂う紅の閃光。長いコートの裾が、伝説の闇の魔物の翼のように激しくはためく。
なんという凄まじい突き技だろうか。これまでキリトに教授されたアインクラッド流剣術のどの技とも異質な、どちらかと言えば伝統流派に近い単発の大技だ。だが、それら流派が重視する様式美など寸毫も無い、只々敵の肉体をぶち抜くためだけの殺戮技――。
しかし。
ユージオは、どうにか目の端にとらえた剣尖の輝きを追って視線を右に動かした。キリトが狙ったのは無論、火焔の巨大道化を操る元老チュデルキンだ。だがその体は遥か二十メルの彼方だ。どんな技だって、それが剣技である限り届くはずがない。
攻撃の瞬間、チュデルキンはキリトを見ていなかった。その視線は己の左上方、ほんの数秒前にユージオが発射した氷の矢の軌道に向けられていた。ユージオとしては限界まで威力を高めた術式も、無論アドミニストレータに通用するはずもなく、息吹ひとつで粉砕されてしまった。だが、狙ったとおりチュデルキンは主への攻撃を無視せず、声高に警告の叫びを上げたので、奴の注意を逸らせというキリトの要求は達せられたことになる。
氷の矢が呆気なく消失したことに安心したように、チュデルキンはぐるりと巨大な顔の向きを戻した。
その細い眼がくわっと見開かれ、いくつかの感情が刹那のうちに目まぐるしく入り乱れた。
まず、今まさに打ち出されようとしているキリトの剣と、それが放つ紅い閃光への驚愕。
次に、攻撃が遥か間合いの外からの単なる突き技であったことへの安堵と侮り。
最後に――超高速で打突された剣から、耳を劈く轟音とともにどこまでも伸びてくる紅い光の刃を見た恐怖。
息をするのも忘れるほどの驚きに打たれたのはユージオも同じだった。血の色の光剣は、二人の前方で火焔を防ぐアリスのすぐ左横を通過し、二十メルの距離を一瞬で駆け抜けて――
倒立するチュデルキンの棒のごとき胴体のど真ん中を、それが紙ででもあるかのように呆気なく貫いた。
紅い刃は、そのまま尚も三メル近く伸び、ぽかんとした表情の元老の体をわずかに宙に留めてから、束が解けるように周囲の空間へと拡散し、消えた。直後、チュデルキンの胸と腹の境に開いた、ほとんど胴を分断しかけるほどの横長の傷口から、どこにこれだけと思えるくらい大量の血液が迸った。
「ほおおおぉぉぉぉぅぅぅ…………」
空気が抜けるような、高く力ない叫びが、血霧の舞う空中に響き渡った。
自分が作り出した鮮血の池に、ばちゃっと仰向けに落下したチュデルキンは、細い右腕をぶるぶると震わせながら頭上に漂うアドミニストレータに向けて差し伸べた。
「……あぁ……げい……か…………」
か細い声を放つ、年経た道化者の表情は、ユージオの位置からは見えなかった。右手が湿った音を立てて濡れそぼった絨毯に落下し、それきりチュデルキンは動きを止めた。
直後、アリスの頭上でいままさに黄金の竜巻を踏み破ろうとしていた火焔の巨人も、その膨れ上がった胴体を大量の白煙へと変え、ニヤニヤ笑いを宙に溶かして消滅した。アリスの操る黄金の小片たちも、強敵の消滅に戸惑うかのようにゆるゆると減速し、宙に漂った。
突如訪れた沈黙に、耳が痺れるような感覚を味わいながら、ユージオはそっと隣に視線を戻した。
キリトは、右足を大きく踏み込み、右腕を限界まで伸ばした姿勢のまま沈黙していた。
黒い剣の表面に残っていた紅い光がすうっと消え、黒髪とコートの裾が最後にふわりとなびいてから垂れた。小柄なその姿が、末端からぼやけるようにもとの相棒へと戻っていくさまを、ユージオはただ息を詰めたまま見つめた。
革のコートや厚底のブーツが、まるで幻ででもあったかのように完全に消え去ったあとも、キリトは数瞬動かなかった。やがてゆるりとその右腕が降ろされ、黒い剣の先がとん、と絨毯を叩いた。
丈を取り戻した体をまっすぐに起こしてからも、キリトはうつむいたまま、ユージオのほうも、転がるチュデルキンの体も見ようとしなかった。ユージオもまた、何と声を掛けていいのか判らなかった。瀕死のファナティオを前にあれほど取り乱した相棒が、たとえ敵があの元老チュデルキンであったにせよ、その剣にかけたことに決して快哉を叫ぶ気分ではないだろうことが想像できたからだ。かいま見えたキリトの横顔は、攻撃時の氷のような冷徹さをもう微塵も感じさせないものだった。
数秒間続いた沈黙を破ったのは、アリスの鋭い呼吸音だった。黄金片が剣へと戻る、じゃっと鋭い金属音がそれに続いた。
素早く顔を戻したユージオが見たのは、倒れた最後の配下の体へと華奢な左手を差し伸べるアドミニストレータの姿だった。
治癒術を掛ける気か!? まさか、どう見てもチュデルキンはすでに絶命している。それとも最高司祭は、子供の頃に聞いた伝説どおり、禁断の蘇生術すらも操るというのか――?
瞬間、そう危惧したユージオが、術式詠唱が開始される前に突進して接近戦に持ち込むべきかと青薔薇の剣の柄に手をやった、その時。
あらゆる感情を伺わせないアドミニストレータの声が、ゆるりと流れた。
「勘違いしないで。片付けるだけよ、見苦しいから」
ふいっと左手が振られると、チュデルキンの骸は、綿入りの人形かなにかのように軽々と吹き飛び、はるか離れた窓際にかすかな音を立ててわだかまった。
「……なんということを」
最高司祭の所業を見たアリスが、わずかに顔を背け、押し殺した声で呟いた。
いまの彼女の人格は改変された冷徹な整合騎士のものだが、しかしその気持ちはユージオにも理解できた。チュデルキンは到底敵として尊敬できぬ人物ではあったが、しかし少なくとも、主のため死力を尽くして戦い命を落としたのだ。ならばせめて、その死に対しては礼を以って報いるべきではないのか。
だが、配下の犠牲にアドミニストレータはわずかにも感情を動かされた様子はなかった。
彼女の銀色の瞳は、放り捨てたチュデルキンの骸をもう一顧だにせず、それどころか意識と記憶からその存在すべてを消し去ってしまったかのように、以前と何ら変わらぬ謎めいた微笑をとろりと宿した。
「……ま、退屈な一幕ではあったけど、それなりに意味のあるデータも少しばかり拾えたわね」
難解な神聖語を交えつつ、最高司祭は無垢な美声でそうひとりごちた。見えない寝椅子にうつ伏せに上体をもたげた姿勢のまま、空中をふわりと滑り、円形の寝室の中央まで移動する。
なびいた銀髪のひと筋を指先で背中に払いながら、七色の光が揺らめく瞳をすっと細め、裸形の少女はその磁力的な視線をまっすぐにユージオの隣――いまだ俯き加減のキリトへと注いだ。
「イレギュラーの坊や。詳細プロパティにアクセスできないのは、非正規婚姻から発生した未登録ユニットだからかな、って思ってたんだけど……違うわね。ボク、あっちから来たのね? “向こう側”の人間……そうなんでしょ?」
囁くように投げかけられた言葉の意味を、ユージオは九割がた汲み取ることができなかった。あっち? 向こう側……?
黒髪の相棒にして親友キリトは二年半前、記憶をなくした“ベクタの迷子”としてルーリッド南の森に現れた。そのような人間がたまに出現することをユージオはうわさとして伝え聞いていたが、もちろん俗称のとおり闇の神ベクタが悪戯に人の記憶を消すのだなどと信じていたのはほんの子供の時分だけだ。人はあまりにもつらいこと、悲しいことが起きると自らその記憶を失い、時には命すら落としてしまうことがあるのだ、とユージオに教えたのは、前任の刻み手であるガリッタ老人だった。彼はずいぶんと昔、大水の事故で奥さんを亡くしていて、その時あまりにも嘆き悲しんだせいで奥さんとの思い出を半分以上失ってしまったらしかった。それは命の神ステイシアの慈悲であり罰でもある、と老人はさびしそうに笑った。
ゆえにユージオは、キリトにもおなじことが起きたのだろう、という推測をこれまで秘め続けてきたのだ。髪と瞳の色からして東域か南域の生まれと思うが、その故郷で何かとても辛く悲しい出来事があり、記憶を失いながら長い距離を彷徨ってついにルーリッドの森に辿り着いたのだろう、と。
央都までの旅路や学院での日々において、キリトに記憶のことをほとんど尋ねなかったのはそのせいもある。もちろん、彼が記憶を取り戻し、故郷に帰ってしまうのを恐れた――という理由も無いとは言えないが。
だが今、世界のすべてを見通す力を持つ最高司祭は、キリトの生まれた場所を不思議な言い方で表した。
向こう側。それはつまり、果ての山脈の向こう――闇の国、ダークテリトリーを指すのだろうか? キリトとその出自を結ぶ唯一のもの、連続剣技アインクラッド流は、闇の国で興された流派なのか?
いや――だが、最高司祭ならばダークテリトリーの地勢すらも詳細に知悉しているはずではないか。彼女の配下たる整合騎士たちは自由に果ての山脈を越え、かの国の暗黒騎士と日々激戦を繰り広げているのだ。その騎士たちの支配者たるアドミニストレータが、ダークテリトリーにどんな国がありどんな町があるのか、そこにどのような人々が暮らしているのかを知らないなどということは有り得ない。“あっち”とか“向こう側”などという曖昧な言葉を使う必要はないのだ。
ということは、つまり――。
アドミニストレータがその言葉で指し示したのは、彼女の眼すら届かない、この世界そのものの外側……? 闇の国のさらにその彼方、などという平面的な意味ではなく……世界を包む見えない壁、その向こう……?
ユージオには、己の思考が導き出しかけた概念はあまりにも抽象的すぎて、それを的確に表す言葉すらも不足していた。だが、自分がいま、何かあまりにも重大な、世界の秘密とでもいうべきものに触れかけていることだけは何となく分かった。焼け付くようなもどかしさに襲われ、ユージオは視線を動かして巨大な窓の向こうに広がる夜空を眺めた。
過ぎ行く黒い雲の切れ間に、瞬く星屑の海が広がっていた。あの空の向こう側、キリトが生まれた国、そこはどのような場所なのだろうか? そしてキリト自身は、その記憶を取り戻しているのだろうか?
数秒間続いた静寂を破ったのは、ゆっくりと顔を持ち上げた黒衣の剣士だった。
「そうだ」
キリトは短く、しかしとてつもなく重い一言で、最高司祭の問いを肯定した。ユージオは痺れるような衝撃とともに、心を繋げた相棒の横顔を見つめた。やはりキリトはすでに記憶を回復していたのだ。いや――もしかしたら――彼は、最初から……?
黒い瞳が一瞬、ちらりとユージオに向けられた。そこに浮かぶさまざまな感情、その中でも最も大きいのは、俺を信じてくれ、という懇願の光であるようにユージオには思えた。
視線はすぐに、前方のアドミニストレータに戻された。キリトは厳しい表情のなかに、ほんのわずかな苦笑の色を仄めかせ、そっと両手を広げた。
「……とは言え、俺に与えられた権限レベルはこの世界の人たちとまったく同等で、あなたのそれには遠く及ばないんだけどな、アドミニストレータ……いや、クィネラさん」
不思議な響きの名前で呼ばれたとたん、最高司祭のかんばせから微笑がすっと薄れた。しかしそれは一瞬のことで、アドミニストレータは再び先刻よりも大きな笑みを艶やかな唇に宿らせた。
「あのちびっこが、詰まらない話をいろいろと吹き込んだようね。で? 坊やは、いったい何をしに私の世界へ転げ落ちてきたのかしら? 管理者権限ひとつ持たずに?」
「権限はなくても、知っていることは少しばかりある」
「へぇ。たとえば? 下らない昔話には興味ないわよ」
「なら、未来の話はどうかな」
キリトは、床に立てた黒い剣に両手を乗せ、体重を片足にかけた姿勢で最高支配者に相対した。頬のあたりに張り詰めたような厳しさが戻り、黒い瞳が刃のように鋭く光る。
「クィネラさん、あなたは、そう遠くない未来にあなたの世界を滅ぼす」
発せられた衝撃的な言葉を聞き、しかしアドミニストレータは、唇の笑みをきゅうっと大きくした。
「へぇ。私が? 私のかわいい手駒たちを散々いじめてくれた坊やじゃなく、私が滅ぼすの?」
「そうだ。なぜならあなたの過ちは、神聖教会と整合騎士団を作り上げたそのこと自体だからだ」
「ふふ。うふふふ」
おそらく、己の過ちを指摘されることなどその至聖の座について以来初めてであろうアドミニストレータは、哄笑を堪えるように唇に指先を触れさせ、肩を揺らした。
「ふふふ。いかにも、図書室のちびっこが言いそうなことね。あんな形《なり》で男を篭絡するなんて、おちびさんも随分と手管を覚えたのねぇ。いっそ不憫だわ……そこまでして私を追い落としたいあの子も、うかうかと乗せられた坊やも」
くっ、くっ、と細い喉を鳴らし、最高司祭は笑い続けた。対して、キリトは更に言葉を投げかけようと口を開きかけたが、それより一瞬速く凛と鋭い声が響き渡った。
「お言葉ですが、最高司祭様」
かしゃっと鎧を鳴らし、一歩前に出たのは、これまで沈黙を続けていた整合騎士アリスだった。長い金髪が、アドミニストレータの艶やかな銀髪に対抗するように月明かりにまばゆく煌いた。
「来るべき闇の軍勢の総侵攻に、現在の騎士団では抗しきれないとお考えだったのは、騎士長ベルクーリ閣下も、副長ファナティオ殿も御同様でした。そして――この私も。無論我ら整合騎士団は、最後の一騎までも戦い抜き散り果てる覚悟でしたが、しかし最高司祭様には、騎士団なきあと無辜の民びとを護る手立ては御在りだったのですか! よもや――お一人で、かの大軍勢を滅ぼし尽くせるなどと御考えだったわけではありますまい!」
騎士アリスの、烈しくも涼やかな声音が広大な部屋中に風となって吹き過ぎ、アドミニストレータの髪を揺らした。少女は、すこしばかり意外そうな面持ちで微笑みを薄れさせ、じっと黄金の騎士を見下ろした。
そしてユージオにとっても、別の意味でアリスの言葉は衝撃だった。
整合騎士アリス・シンセシス・フィフティ、ユージオの幼馴染の少女の体に作られた偽者の人格――それは、数日前に学院の大講堂でユージオの頬をしたたか打ち据えたように、感情なき冷徹な法の執行者であるはずだった。騎士アリスのなかに、かつてのアリス・ツーベルクが持っていたたくさんの感情、とりわけ慈愛と献身、そして善性は微塵も存在しないはずだった。
だが、今のアリスの言葉はユージオの中で、まるでかつてのアリスがそのまま世界の守護騎士として成長し、発したものであるかのように響いたのだ。
息を呑むユージオの視線になど気づくふうもなく、整合騎士は右手の金木犀の剣をカァン! と音高く床に突き立て、更に宣した。
「最高司祭様、私は先刻、あなたの執着と愚かさが騎士団を潰せしめたと言いました。執着とは、あなたが我ら騎士以外のものに一切の武器と力を与えなかったことであり、そして愚かさとは、あなたがその騎士たちすら微塵もお信じにならなかったことです! あなたは我らを謀った……親から、妻や夫、兄弟姉妹たちから無理やりに引き離しその記憶を封じておきながら、ありもしない神界から召喚したなどと麗々しい偽りを植えつけた。でも、それはいい……この世界を、民たちを護るために必要なことであったのなら、それは今は糾しますまい。ただ、どうして我らの……私たちの、教会と最高司祭様、あなたに対する忠誠と敬愛すらも信じて下さらなかったのですか! なぜ私たちの魂に、あなたへの服従を強制する術式などという穢れたものを埋め込まれたのですか!!」
振り絞るようにそう叫んだアリスの、わずかに見える頬の輪郭から、ほんの数滴のしずくが散ったのをユージオは見た。
涙。
あらゆる感情を棄て去ったかのようだった整合騎士アリスが、涙を。
愕然とするユージオの視線の先で、騎士は頬をぬぐうこともせず、昂然と背筋を反らせて支配者を見上げた。
烈火のごとき言葉を浴びせられたアドミニストレータは、しかし、それを微風ほどにも感じなかったように薄い冷笑を浮かべた。
「あらあら、アリスちゃん。随分と難しいことを考えるようになったのねえ。まだたった七年……八年? それくらしか経ってないのにね……造られてから」
情というものを一抹も含まない、軽やかな声だった。美しいが、しかしそれは磨き上げられた貴金属の響きだ。わずかな温もりや揺らぎさえ聞き取ることができない。
「私があなたたち整合騎士《インテグレータ》を信じなかった、ですって? やぁね、心外だわ。とっても信頼してたのよ……歯車仕掛けで健気にカタカタ動く、かわいいお人形さんたちですもの。あなただって、その大事な剣が錆びたりしないように、こまめに磨いてあげるでしょう? それと同じことよ。あなたたちにプレゼントした行動制御キーこそ、私の愛のあかしだわ。あなたたちが、いつまでもきれいなお人形でいられるように。下民たちのように、くだらない悩みや苦しみに煩わされずに済むように」
酷薄な笑みを消さぬまま、アドミニストレータは白い両手を胸の前で握り締め、芝居がかった仕草でゆっくりと首を左右に振った。
「ああ……なんて可哀想なアリスちゃん。きれいなお顔をくしゃくしゃにしちゃって。辛いんでしょう? 苦しいのね? 私のお人形のままでいれば、そんな涙なんて汚らしいものをこぼす必要は、永遠になかったのに」
ぽたり、ぽたりと、アリスの頬から滴り床にはじける水音は途切れなかった。そして同時に、きし、きしっと何かが鋭く軋む音もユージオの耳に届いた。
音源が、アリスの金木犀の剣であることはすぐにわかった。床に突き立てられた剣尖が、分厚い絨毯を貫通し、その下の滑らかな大理石に食い込みつつあるのだ。騎士アリスの心の痛みは、ほぼ破壊不能の天命をもつ塔の基材よりも硬く、大きい。
あふれ出す寸前の感情に彩られたアリスの声が、途切れ途切れに流れた。
「……小父様……騎士長ベルクーリ閣下が、整合騎士として生きた二百年の永の日々で、わずかにも悩んだり、苦しんだりしなかったと、最高司祭様はそうお考えですか。この世界で最も巨大な忠誠をあなたに捧げた人物が、その心に抱きつづけてきた痛みを知らぬと、そう仰いまするか」
ビキッ、と一際鋭い音が、剣の下の床から響いた。同時にそれを上回る烈しさで、アリスは叫んだ。
「否!! ベルクーリ閣下は、司祭様への忠誠と、民びとの守護という使命のあいだで、常に苦しんでおいでだった!! 閣下が、四帝国の名ばかりの近衛隊の強化と整合騎士団による直率を、何度元老院に上申したか、あなたはご存知ありますまい! 閣下は……小父様は、私たちの右目に仕込まれた封印のことを知っておられた。それこそが、小父様こそが誰よりも巨大な苦しみを抱き続けてきた方だという明らかな証左ではありませんか!!」
まさに、血を吐くがごとき痛切な独白だった。
しかしその言葉すらも、アドミニストレータの謎めいた瞳の奥に届いた様子はなかった。絶対支配者の白い頬に色濃く浮かんだのは、なおも面白がるような笑みだけでしかなかった。
「ほんと……悲しくなっちゃうな。私の愛が、そんな程度のものだと思われてるなんて」
笑みがきゅうっと深くなり、興趣のなかにある種の残酷さが揺らいだようにユージオには思えた。
「七歳の幼いアリスお嬢ちゃんに教えてあげるわ。一番……ベルクーリが、その類の詰まらないことにうじうじ悩むのは、初めてのことじゃないのよ。実はね、百年くらい前にも、あの子は同じようなことを言い出したのよ。だからね、私が直してあげたの」
くすくす。細い喉のおくから、さえずるような笑い声がこぼれる。
「ベルクーリの魂のページをめくって、そこに書いてある悩みだの苦しみだの、ぜーんぶ消してあげたのよ。あの子だけじゃないわ……初期に造られた騎士は、みんなそう。辛いことは、何もかも消してあげたわ、私の愛でね。安心して、アリスちゃん。ちょっとおいたをしたくらいで、あなたに怒ったりしないから。今、あなたにそんな悲しい顔をさせてる記憶も、ちゃんと消してあげる。何も考える必要のないお人形に、ちゃんと戻してあげるわ」
静寂のなかに、しばしアドミニストレータの含み笑いだけが揺れ続けた。
あの人は――もう人間ではないのだ。改めて襲い掛かってくる戦慄に肌を粟立てながら、ユージオは強くそう認識した。
人の記憶を覗き自在に書き換える力、そんなものが存在するなんてことを、ユージオは想像すらしたことはなかった。床に収納されたベッドの中での出来事の記憶は曖昧だが、あの重く粘ついた夢のなかで、最後にアドミニストレータに何らかの術式を唱えさせられそうになったことはかすかに憶えていた。あの短い術式を口にしていたら、いったい何が起きていたのか――想像するだけで背筋に氷のような汗が流れる。
もはや神にも等しい権限を持つ支配者を前に、その被造物である整合騎士アリスは、すぐには言葉を返そうとはしなかった。いつしか滴る涙は止まり、剣の軋みも収まっていた。アリスの背中から、ゆるりと力が抜けるのを、ユージオは不安とともに見つめた。決していまのアリスを完全に信用しているわけではないが――何せほんの数時間前に見失ったときは恐るべき強敵だったのだ――それでも、今アドミニストレータ側へ戻られたら、この戦いの帰趨は完全に決する。
アリスの金髪に彩られた頭が、ゆっくりと項垂れた。左手が持ち上がり、胸の辺りを押さえた。
「……たしかに、私は今、この胸が引き裂かれるほどの苦痛と悲しみを感じています。こうして立っていられるのが不思議なほどに」
発せられた声は、数分前とは打って変わったかすかな囁きだった。
「……でも、私はこの痛みを……初めて感じるこの気持ちを、消し去りたいとは思いません。なぜなら、この痛みこそが、私が人形の騎士ではなく、ひとりの人間であることを教えてくれるからです。いいえ、最高司祭様。私にあなたの愛は必要ない。あなたに直してもらう必要はありません」
「人形であることをやめた人形――」
アリスの訣別の言葉を聞いたアドミニストレータは、表情を変えぬまま歌うように言った。
「それを、何て呼ぶのか教えてあげる。“壊れた人形”よ、アリスちゃん。残念だけど、あなたがどう思うかなんて、どうでもいいことなの。私が再シンセサイズすれば、今のあなたの感情なんて何もかも無かったことになっちゃうんだから」
「あなたが、自分に対して行ったように――かな、クィネラさん」
これまで沈黙を守っていたキリトが、再び奇妙な名でアドミニストレータを呼んだ。それを聞くや、先刻と同じように少女の顔からわずかに笑みが薄れた。
「ねぇ坊や、昔の話はやめてって、私言わなかった?」
「そうすれば事実が消えるとでも? いくらあなたでも、過去を好き放題編集できるわけじゃない。あなたもまた人の子として生まれ育った、ただの人間であるという事実は決して上書きできない、そうだろう?」
そうか――おそらくキリトは、あの大図書室にいた不思議な子供からアドミニストレータの過去について聞いていたのだ。ユージオはそう直感し、キリトがそれを隠していたことに僅かながら傷ついたが、しかし同時にその話がキリトの出自とも密接に関連しているのだろうとも推測していた。
「人間……、ニンゲン、ね」
アドミニストレータはすぐに笑みを取り戻し、これまでとは少し趣きの異なる、どこか皮肉そうな表情でつぶやいた。
「“向こう側”からきた坊やにそう言われると、なかなかに複雑なものがあるわねぇ。つまり坊やは、自分のほうがエライと言いたいの? アンダーワールド人ごときが生意気な、って、そういうことかしら?」
再び出てきた耳慣れぬ言葉に、ユージオの混乱はいや増した。アンダー……ワールド? 神聖語であることはわかるが、意味まではとても汲み取れない。前後の流れからして、“向こう側”に対する“こちら側”を示しているのだろうか。
「いやいや、とんでもない」
ユージオの思索は、すぐさま発せられたキリトの声に遮られた。
「それどころか、多くの点でこっちの人たちのほうが向こうの人間よりも優れてると思ってるよ。でも、大本のところでは、どちらも同じ魂を持つ人間であることに違いはない。そう、それはあなたも例外じゃない。たとえ三百年の時間を生きてきたとしても、それで人間が神になれるわけじゃない」
「……だからどうだ、って言うのかしら? 同じ人間どうし、仲良くお茶でも飲もうとでも言うつもり?」
「そうするに吝かではないけどな。……でも今俺が言ってるのは、あなたも人間である以上、完璧な存在では在り得ない、ってことさ。人は過ちを犯す、宿命的にね。そしてあなたの過ちは、もう修正不可能なところまで来てしまっている。整合騎士団が半壊した以上、もし今ダークテリトリーの総侵攻が始まったら人界は滅ぶぞ。あなたがこれまで苦心して維持……あるいは停滞させてきたこの世界は、凄まじい破壊と暴力に晒される。そんなこと、無論あなただって望んじゃいないだろう」
「騎士たちを壊してまわったのは坊やなのに、随分ねぇ。ま、いいわ。それで?」
「自分だけ生き延びられれば、その後に最初からやり直せばいい……そう思ってるのかもしれないけどな」
キリトは語気を強め、右足を半歩前に動かした。
「この地に溢れた闇の民たちと生き残った人間を再び法で縛って、新しい……暗黒教会とでもいうべき支配組織を作り上げる。あなたならあながち不可能なことじゃないと思うけど、でも、残念ながらそうはならない。“向こう側”には、この世界に対して真に絶対の権限を持つ者たちがいるからだ。彼らこそこう思うだろう……今回は失敗だった、何またやりなおせばいいさ、ってな。そしてひとつボタンが押され、この世界の何もかもが消え去る。山も、川も、街や畑も……そして人間を含むあらゆる生命もまた、一瞬で消滅するんだ」
キリトの言葉はもはや、遥かユージオの理解の埒外だった。それはアリスも同様だったろう。目のふちが乾かぬ顔をわずかに振り向かせ、物問いたげに眉を顰めている。
しかし、最高司祭ただ一人だけは、謎多き剣士の言わんとすることを完璧に汲み得たらしかった。笑みが極限まで薄まり、細められた銀の瞳に凍てつくような冷たい光が一瞬過ぎった。
「……さすがに、愉快ではないわね。この世界が、誰かさんの気まぐれで生み出された小さな箱庭だ、なんてはっきり言われるのは」
なよやかな指が組み合わされた両手に、美貌の下半分が隠される。見えない唇から発せられる声は、先刻までのからかうような響きをほとんど失っている。
「でも、それなら、あなたたち……“向こう側”の人間たちはどうなのかしら? 自分たちの世界が、より上位の存在に創造されたものである可能性を常に意識し、世界がリセットされないように、上位者の気に入る方向へのみ進むよう努力しているのかしらね?」
この問いは、キリトにも予想外のものであるらしかった。すぐには答えられない反逆者を高みから睥睨しながら、アドミニストレータはゆるりと上体を起こし、両手を左右に広げた。折り畳んでいた長い両脚も、誇示するように伸ばし、組む。豊かさと清らかさが同居した輝くような裸身が――実際にほのかな燐光を放ちながら、圧倒的な神々しさを空間すべてに振り撒いた。
「そんなはずはないわよね。戯れに世界と生命を創造し、気に入らなくなれば消し去ろうなんて連中だものね。そんな世界からやってきた坊やに、私に融和と博愛なんていう実存のない代物を押し付ける権利があって? 私は御免だわ、創造神を気取る奴輩におもねって、存在し続ける許可を乞うなんて惨めな真似は! ちびっこに昔話を聞いたなら、坊やは知っているはずよ……私の存在証明は、支配の維持と強化それのみにある。その欲求のみが私を動かし、私を生かす。この足は踏みしだく為にのみあるのであって、決して膝を屈する為ではない!!」
ごう、と空気が逆巻き、銀の髪を大きく広げた。ユージオはどうしようもなく気圧され、思わず一歩右足を引いた。アドミニストレータは、アリスを奪い記憶を書き換え、また貴族たちの腐敗を放置した敵ではあるが、しかしやはり世界に唯一人の最高支配者なのだ――本来であればユージオのような無姓民は目にすることすら叶わぬ半神人なのだ、と改めて認識させられる。
そのユージオをここまで導いてきた黒髪の相棒も、同じく圧倒されたのか上体を揺らしたが、しかし下がることなく逆にぐっと一歩踏み込んだ。自分を鼓舞するように、右手の剣を一度強く床に突き立てる。
「ならば!!」
発せられた声は、背後の硝子窓を揺らすほどの大音量だった。
「ならば――あなたはこのまま人界が蹂躙されるに任せ、民なき国の支配者として虚ろなる玉座で独り滅びの時を待つつもりなのか!」
「黙れ若造!!」
その瞬間だけ、アドミニストレータの容貌から少女めいた部分が消滅し、彼女が生きた時間の悠久さが感情無き怒りとして色濃く現れた。しかしすぐにそれは薄れ、再び戯れるがごとき笑みが真珠の唇を彩った。
「……坊やが言ったことを、私が考えなかったと思われたなら心外だわ。私には考える時間はたっぷりあったのよ……時間だけは私の味方ですものね、創造者たちのではなく」
「……では、あなたにはこの終局を回避する手段があるというのか」
「手段であり、目的でもあるわね。支配こそが私の存在意義……その適用範囲に制限など無いわ」
「何……? どういう意味だ」
僅かに戸惑ったようなキリトの声に、アドミニストレータは答えなかった。代わりに一層笑みを深くし、お話はこれでおしまい、と言うように両手をぽんと打ち合わせた。
「その先は、坊やが私のお人形さんになったときに聞かせてあげるわ。勿論アリスちゃんも……亜麻色の髪の坊やもね。ひとつだけ付け足すなら……私は、このアンダーワールドを消滅させる気は勿論、ダークテリトリーによる負荷実験さえも受け入れるつもりだって無いのよ。そのための術式はもう完成してるの……喜びなさい、誰よりも最初に、あなたたちに見せてあげるから」
「……術式?」
キリトが低くかすれた声で聞き返した。
「いまさら、制限だらけのシステム・コマンドに頼るって言うのか。あなたひとりのコマンドで、闇の軍勢を全滅させられるつもりなのか。今この状況では、もう俺たち三人すら処理できないだろうに」
「あらそう?」
「そうさ。もうこうなってはあんたの負けだ。遠隔攻撃術はアリスの剣が一瞬にせよ止めるし、その隙に俺とユージオが斬り込む。接触コマンドで無力化させる気なら、さっきチュデルキンを斃した技であなたも斬る。――今さらこんなこと言いたくないけど、前衛のない術士ひとりでは複数の剣士には勝てない。それはこの世界でも絶対の原則であるはずだ」
「ひとり……ひとり、ね」
アドミニストレータはくすくすと喉の奥で笑った。
「いい線突いてるわね。そう……結局、数が問題なのよね。駒が多すぎれば制御しきれない。少なすぎれば負荷に耐えられない。整合騎士団は、そのバランスの中で増やしてきたわけだけど、もうそれじゃ足りない」
最後の忠臣を失い、残るはわが身ひとつの最高支配者は、三人の反逆の徒を前に底知れない余裕を見せながら詠うように独白した。
「でも、今必要なのは、アリスちゃんみたいなお人形ですらないのよ。何も考えずにただひたすら敵を屠るただの機械であればいい。可愛くも、綺麗でもなくていい……つまりもう、人間である必要はない」
「何……? なにを……」
問い質すキリトの声を無視し、アドミニストレータはさっと高く両手を掲げた。
「最後までお馬鹿な道化だったけど、チュデルキンも少しは役に立ったわね。まだ整理できてないこの長ったらしい術式を組む時間を作ってくれたんですから。さあ……目覚めなさい、私の忠実なる僕! 魂無き殺戮機械よ!!」
続いて銀髪の少女が高らかに歌い上げた言葉は、介入しようがないほどに短く、しかしその恐ろしさをユージオも他の二人も充分以上に理解しているあの一句だった。
「リリース・リコレクション!!」
記憶解放――。
その命を受け取ったのは、これまでユージオの視界に入り続けていながら、まったく脅威として認識できていなかった物たちだった。本来、それを握る主がなければ何の役にも立たないはずの代物。すなわち――壁に並ぶ無数の神像、それらが携える大小無数の剣。
ぎぃぃぃん、という骨を軋ませるような共鳴音を放ち、総数三十は越えるだろう剣たちが一斉に青紫に発光した。そして同時に、どういう理由なのか、天井に描かれている無数の神の線画もまた大部分が紫に輝いた。
突如、すべての剣が神像の手から外れ、唸りを上げて宙に舞い上がったので、三人は慌てて身を屈めた。空気を切り裂きながら飛翔した剣の群れは、渦を巻くように広大な部屋の中央に集まると、更に驚くべき現象を発生させた。
まず、最も巨大な両刃剣――長さ二メルはあるであろうそれが、柄を上にして静止した。即座にその両側に、小型の剣たちが籠を作るように十本以上も整列する。まるで、修剣学院の治療術の授業で教わった、人間の背骨と肋骨であるかのように。
ユージオのその連想が当を得ていた証として、骨盤があるべき場所には二本の鎌のごとく湾曲した東域刀が向き合わせに接続した。そしてその弧に柄を収めるように、大型の直剣が二本ずつ束になって繋がる。更に、その剣尖の隙間に同型の剣が一本挟まれる。
瞬く間に胴体と下半身を完成させた剣の骸骨は、次に四本ずつの束を肩部分に合致させた。脚に対して倍以上の太さがある上腕に見合うかのごとく、最大級の、ほとんど背骨と同じ刀身長がある両手剣がその先に接続する。
最後に、背骨を成している大剣の柄に、二本の短剣が交差しながら収まった。短剣の柄の端に埋め込まれた宝玉が、両の眼であるかのように、気味の悪い青白い光を明滅させた。
数秒とかからずに完成した、剣のみで構成された巨人が、がしゃりと各関節を鳴らしながら床にその足――を成している剣の切っ先を降ろすのを、ユージオは呆然と眺めた。
「……まさか……有り得ない」
半ば呻くようにそうつぶやいたのは、整合騎士アリスだった。声には出さねどユージオもまったく同感だった。
これは有り得ない術だ。
確かに、完全支配術をそのように組み記憶解放を行えば、剣に空中を飛翔させることは可能だろう。そして自在に操ることも。だが、それができるのは剣一振りのみだ。所有者が複数の剣の記憶解放を同時に行うことはできない、それはこの術式が根本的に内包する大原則だからだ。
だが、この場にいるのはアドミニストレータただ一人。最高支配者の権限は、神聖術の原則すらも超越するのか!? しかしそれが可能なら、三人の身体を遠距離から拘束する程度のことだってできるはずではないか。
つまり彼女は、なんらかの説明可能な手段で所有者と剣一対一の原則を回避しているのだ。
ユージオが、僅かな刹那で看破できたのは、残念ながらそこまでだった。説明を求めて周囲を見回すよりも速く、ぎぃぃぃっ!! という金属質の雄叫びを放って、身の丈四メルに達する剣の巨人が突進を開始した。
恐るべき速度、そして圧倒的な重量感だった。
巨人の身体は、骨に見立てた剣だけで構成された空疎なしろものだし、その上背も先に元老チュデルキンが召喚した炎の魔人には及ばない。しかし、各関節をじゃきりじゃきりと鳴らして肉薄してくる悪夢のごとき剣巨人の姿に、ユージオは腹の底まで凍りつくほどの恐怖をおぼえた。ある意味ではアドミニストレータその人をも上回る、完璧なる絶望の具象化――。
三秒と無かった猶予時間を、ユージオはただ呆然と立ち尽くすことで消費した。
キリトは半秒足らずで何かを考え決定したらしく、左斜め前方へと飛び出した。
しかし、最も素早く、しかも果敢な行動に出たのは整合騎士アリスだった。
黄金の残光を引きながら、アリスは剣巨人の前進とほとんど同時に、その真正面へと突撃したのだ。
「いやあああああ!!」
巨骸の放つ金属共鳴音すら上回る、烈破の気合。両手で握った金木犀の剣を、アリスは右肩に担ぐように大きく振りかぶった。
敵もまた、右腕を構成する鈍色の大剣を、ほとんと天井に届かんばかりに高く掲げた。
その時点で、すでにこちらも疾走を開始していたキリトは巨人の左真横に達しようとしていた。
脚の感覚すらも失い棒立ちとなっていたユージオではあるが、それでもアリスとキリトの、まるで意識そのものを交感させたかのごとき同時攻撃の意図はどうにか察することができた。
二人とも、巨人に弱点があり得るとすればそれは後ろ側、背骨をなす剣と四肢の接合部だろうと判断したのだ。前面はどこもかしこも刃だらけでとても攻撃は届かない。ゆえにアリスが囮となって敵の動きを止め、その間にキリトが急所を断つ――つまり今回も、チュデルキンの魔人を退けたときと同じ役割というわけだ。
キリトとしては内心複雑なものはあろうが、しかし事前の相談もなしにしては驚くべき意思疎通、まさに完璧な連携攻撃だ、とユージオは無意識の羨望とともに感嘆した。
そして同時に、否応無く湧き上がる卑小感もまた。
それをいや増すかのように、ソルスの光にも似た眩い軌跡を描いて、アリスの剣が疾った。巨人の右腕も、交錯軌道を取って轟然と振り下ろされた。双方が激突した瞬間、塔全体を揺るがす爆発じみた衝撃と閃光がすべてを圧した。
戦闘開始から、ここまでで三秒。
そして、戦闘と呼びうるものはこの瞬間終わった。
続いて始まったのは、一方的な惨劇だった。
アリスの金木犀の剣が――“永劫不朽”の二つ名を持つ、この世のすべての剣のなかで最も古く力ある神器のなかの神器が、巨人の右手剣に呆気なく弾き返され宙を泳ぐさまを、ユージオは愕然と見つめた。
剣に引き摺られるように、騎士の身体もわずかに浮きあがり、重心を崩した。倒れまいと懸命にもがくアリスの、がらあきの正面に――
何の躊躇も気負いもなく、巨人の左腕がほとんど無造作に、しかし煙るほどの速度で突き込まれた。
どっ。
というその音は、先の戟剣と比べればあまりにもささやかに響いた。しかし引き起こされた結果は、比べるまでもなく決定的だった。
アリスの細い背中から、凶悪なほどに鋭く分厚い剣の先端が出現し、真紅の雫を撒き散らしながら深く突き抜けた。長く美しい金髪が、血液の飛沫のあいだを縫うようにふわりと流れた。
左右に分断された黄金の胸当てが、瞬時に天命を失いながら粉々に砕けた。騎士の右手から、その命である剣が抜け落ち、床に転がった。
そして最後に、アリスの華奢な身体は、己を貫く剣に沿ってずるりと滑りながら床へと倒れ臥した。
「う……ああああ!!」
悲鳴にも似た絶叫。
迸らせたのはキリトだった。巨人の後背に回りこみ終えたところだった黒衣の剣士は、蒼白の顔に両眼をぎらりと光らせ、歯を剥き出しながら猛然と床を蹴った。
黒い凶鳥のように、三メル以上も高く飛翔したキリトは、獰猛な雄叫びを放ちながら愛剣を大上段から振り下ろした。狙ったのは巨人の中心を成す最大の剣の柄部分。
急所であろうそこを、防御するすべは巨人には無いはずだった。
しかし――。
闇に囲まれて狭窄したユージオの視界の中で、再び有り得べからざる現象が起きた。
剣巨人の上半身が、背骨を軸として、猛烈な速度で回転した。人間には不可能な動きで、完全に真後ろを向いた巨人の右の剣が、横薙ぎにキリトを襲った。
がぎぃん!!
という音は、キリトがこれも超人的な反応で、振り下ろしつつあった剣の軌道をずらし巨人の右腕を迎撃してのけた証だった。
だが、やはりそこまでだった。
一瞬前の再現として、布切れのように弾かれた剣士は、恐ろしいほどの速度で床に叩きつけられ反動で半メル近くも浮き上がった。その身体が、もう一度床に落ちることはなかった。
巨人の左脚を成す片刃の大段平が、何の予備動作もなしに轟と跳ね上がり、キリトの身体を捕らえた。どかぁっ!! という鈍い衝撃音とともに、剣士の身体はふたたび、しかし今度は水平に吹き飛ばされ、十メル以上の距離を瞬時に飛翔して硝子壁に激突した。ばしゃっとそら恐ろしいほどの量の血液を、放射状に硝子面に広げてから、そこに太く赤い筋を引きながらキリトの身体はゆっくりと床に滑り落ちた。
うつ伏せに倒れた相棒の下から、尚もじわりと血溜まりが広がっていく様を、ユージオは棒立ちになったままただ凝視した。
脚も、腕も、感覚は無かった。ただひたすら冷たく、そして己の肉体ではないように細かく震えるだけだった。
唯一そこだけはどうにか動かせる眼球を、ユージオは苦労しながら巡らせて、離れた場所に屹立する剣巨人を見上げた。
巨人もまた、まっすぐにユージオを見下ろしていた。その顔部分を構成する二本の短剣の、柄に嵌められた宝石が、ひたすら無感情にちかちかと明滅する。
うそだ。
こんなのは嘘だ。
ユージオは、頭のなかで何度もそれだけを繰り返した。
アリスとキリト、いまや間違いなくこの人界で最強と言えるはずの二人の剣士が、こうも容易く斃されていいはずがなかった。いや、それ以前に――キリトは確かに言っていたではないか。この剣巨人を生み出した術者、最高司祭アドミニストレータは、人を殺すことはできないと。
あの残忍なチュデルキンも、戦闘に際してユージオらを殺すとは言わなかった。天命を削り、無力化し、拘束すると言っただけだった。それがアドミニストレータの命令だったからだ。
だが――この剣巨人の攻撃に、手加減などというものは皆無だ。あの傷と出血を見れば、キリトとアリスの天命が今まさに尽きようとしているのは明らかだ。いったいなぜ――どうして。
くすくす。くすくすくす。
巨人が放つ共鳴音のかげに、かすかに揺れるさざなみめいた音が、アドミニストレータの含み笑いであることにユージオは気づいた。
視線を動かすと、最高司祭を名乗る銀髪の少女は、その双眸にただ興味と満足の色だけを浮かべて、血塗られた惨劇の場をはるか高みから見守っていた。その唇を彩る魔性の微笑みのどこにも、ユージオの疑問を解消しうる答えは見出せなかった。
ただひとつ明らかなのは、アドミニストレータにはもはやユージオを手駒として懐柔しようなどというつもりは無いのだということだけだ。少女の美貌に浮かぶのは、己が組み上げた術式とその恐るべき威力への喜悦それのみだった。
主の意を受けた剣の巨人は、それを最後まで忠実に実行すべく、青白く明滅する眼でまっすぐにユージオを凝視した。
右足が持ち上がり、長大な歩幅でがしゃんと床を突く。
左足がぎらりと輝きながらそれに続く。
己の死が、最後の数メルをゆっくりと接近してくるのを、ユージオは灼き切れかけた感情とともに見つめた。
巨人の左腕と左脚は、ともに細く滴る赤い雫に彩られている。どうせなら、そのどちらかに斬られて終わりたいと、理由もなくユージオは考えた。もはや恐慌すらも消えうせ、世界はあまりにも静かだったので――。
不意に、左脇で泡のように弾けたかすかな囁き声が、現実のものだとはすぐには気付けなかった。
「バカね! 短剣を使うのよ!!」
かなり年上と思われる、艶っぽい女性の声だった。やれやれ、今わの際の幻聴を聞くにしてももう少し節操というものがあってもいいだろう、などと思いつつ再び左を向いたユージオの目に飛び込んできたのは、それこそ幻としか思えない、あまりにも意外すぎる光景だった。
うつ伏せに倒れ、動かないキリトの身体。
その背中の襟の折り返しから、ちょろりと姿を現し、ユージオに右手――あるいは右足の一本をまっすぐ突きつける、小さな漆黒の蜘蛛。
すでに限界まで負荷のかかったユージオの思考には、もう驚く力すら残されていないようだった。痺れた意識のなかで、ユージオは自分の口が、幼子のように言い分けをするのを聞いた。
「だ……だめなんだ。あの短剣は、アドミニストレータには効かないんだ」
「違うわよ! ドアよ!! ドアに刺しなさい!!」
「え……」
ユージオは唖然と目を見開いた。黒い蜘蛛は、紅玉のように煌く八つの眼でしかとユージオを見据えながら、今度は左の後ろ足でびしっと部屋の隅――キリトとアリスが乗り込んできた、円筒形の通路を指した。
「時間はあたしが稼ぐから! 急いで!!」
口のあたりから覗く可愛らしい牙を動かしながら蜘蛛はそう叫ぶと、右手を降ろした。そしてその先で、目を瞑り血の気を失ったキリトの頬を、まるで名残を惜しむかのように一瞬、そっと撫でた。
次の瞬間、指の先に載るほどの極小の黒蜘蛛は――
間近に迫りつつある剣の巨人、掛け値なく己の数千倍の質量があろうというその相手に向かって、果敢な突進を開始した。
肉体的苦痛はある程度克服したつもりだった。
二年以上も昔、この世界に放り出されてすぐの頃、ゴブリンと呼ばれるダークテリトリーの住人との戦闘において俺は肩に受傷し、それが決して致命的なものではなかったにもかかわらず苦痛のあまり――正しくは苦痛が誘起した恐怖によって竦みあがり、動けなくなってしまった。
あの経験は、アンダーワールドにおける俺の最大の弱点を如実に浮かび上がらせた。ナーヴギアおよびアミュスフィアが備えるペイン・アブソーバによって執拗なまでに保護された環境で長い時間を過ごしてしまったため、痛みへの耐性が極限まで低下していたのだ。
以来俺は、主にユージオとの手合わせで積極的に木剣を身に受けることで痛みに慣れるよう努めた。その経験が奏功したのか、この塔に突入してからの実戦の連続で手酷い傷をどれほど負おうと、精神的に硬直してしまうことだけはなかった。アンダーワールドでの負傷は、たとえ四肢や臓器を損失するほどの重傷であっても天命がゼロにならない限り完全治癒が可能だし、となれば克服しなければならないのは恐怖それのみであるからだ。
だが――。
この局面に突入して、俺はいまさらのように自分の精神力を過信していたことを思い知らされた。
アドミニストレータが造り上げた剣の巨大人形、ソードゴーレムとでも言うべき怪物のパワーとスピードは桁外れだった。この世界の根幹的なバランスを逸脱した超絶的な性能だ。一撃目を防御できたのがすでに万にひとつの僥倖であり、下方から跳ね上がってきた二撃目は、眼で捉えることすらできなかった。
ゴーレムの足を構成する剣は、どうやら俺の右下腹部から入り、内臓と脊柱を分断して左脇に抜けたようだ。あの一瞬、ひやりと氷のような感触がその軌道を撫でたのは意識できたが、吹き飛ばされ、窓にぶつかり、床に転がった今ではもう胴体を包む灼熱のごとき激痛が存在するだけだ。首も両手も動かせず、下半身に至っては感覚すら消えうせている。ことによると身体が真っ二つになっていてもおかしくない。
意識と思考力を保ち得ているのがいっそ不思議だった。
あるいはそれは、苦痛や恐怖といった感覚よりも、絶望のほうが遥かに大きいせいかもしれなかった。
恐らく今、俺の天命はかつてない速度で減少しているだろう。ゼロになるまでの時間は一分と残されているまい。
そしてその猶予は、整合騎士アリスのほうが恐らく少ない。離れた床に倒れ臥す黄金の剣士は、出血こそ俺より少ないが、ソードゴーレムの腕に心臓を直撃されている。たとえ今すぐ最上級の治癒術を施しても間に合わない可能性が高い。アンダーワールド三百年の歴史の果てについに出現した、法への盲従性を超越した奇跡の人工フラクトライトが、まさに今むなしく消滅しようとしている。
視界には捉えられないが、左方向に居るはずのもうひとつの奇跡にして掛け替えの無い親友ユージオの命運も、もはや風前の灯だ。
ゴーレムが足を上げ、ずしりと前進するのが霞んだ眼にうつる。
逃げてくれユージオ、そう念じるが口も舌もぴくりとも動かせない。
いや――たとえ叫べたとしても、ユージオは逃げるまい。青薔薇の剣を構え、俺とアリスを救うために、巨大すぎる敵に立ち向かうだろう。
この状況を招いたのはすべて俺の誤り――“アドミニストレータに人は殺せない”はずだ、という読み違いのせいであるのに。図書室のカーディナルは、俺にわざわざティーカップとスープカップの実演を見せてくれた。それは即ち、殺人禁止の法ですら長い時間のなかでは変質し得る、ということの喩えに他ならなかったのに。
灼熱の激痛は、いつしか凍えるような虚無感へと摩り替わろうとしている。
もうすぐ、俺に設定された天命という名のステータス値がゼロになる。その瞬間俺はこの世界から弾き出され、STLの中で意識を取り戻し、そして知るだろう。現在のアンダーワールドが――アリスやユージオを含む全てのフラクトライト達が、悲嘆と絶望の果てに完全リセットされたのを。
ああ――いっそ、俺の天命も、ユージオたちのそれとまったく同じ意味を持っていれば! それ以外に、俺はどうやって彼らに詫びることができるというのか――。
徐々に暗くなる視界には、重々しく前進を続けるソードゴーレム、その後方で愉悦の色を浮かべるアドミニストレータ、そして斃れたアリスの金髪の輝きが収められている。
数秒先の新たな惨劇を見るに偲びず、俺は、そこだけが動くまぶたをそっと閉じた。
耳元で、小さく、しかし確かな声がはじけたのはその時だった。
「バカね! 短剣を使うのよ!!」
初めて聞く、どこか徒っぽさのある女性の声だ。俺は何も考えられず、目を閉じたままその声と、ユージオの戸惑い声のやりとりと聞き続けた。
声の主は、手短にいくつかの指示を放ったあと、時間を稼ぐ、と宣言して俺の首筋から移動した。一瞬、頬に何か、小さくあたたかいものの感触が横切った。
その温度がわずかな力を取り戻させたのか、俺のまぶたが殆ど自動的に持ち上がった。
視界の中央に、俺の頬からすとんと降り立ったのは――全身が艶々とした漆黒にきらめく、ごくごく小さな一匹の蜘蛛だった。
声は記憶にないが、しかしこの姿は覚えている。
シャーロットだ。カーディナルが長い間俺にくっつけていた情報収集端末。
しかし何故。この小蜘蛛は、図書館で端末としての命令を解除され、本棚の隙間に消えていったではないか。それに――人の言葉をしゃべるとは、一体。
瞬間、痛みと恐怖を忘れた俺の目の前で、あまりにも小さなその蜘蛛は、接近しつつある巨大なゴーレムに向かって、一直線に突進を開始した。
八本の細い脚が、優雅ですらある滑らかな動きで目まぐるしく絨毯を蹴る。しかし、その一歩が刻む距離は、ソードゴーレムのそれとは比較にならない。ユージオに向かって大股に接近していくゴーレムに対して、一体どのような手段で時間を稼ぐつもりなのか見当もつかないが、到底間に合いそうにない――。
と思考したその瞬間、再び俺に激痛を忘れさせる驚異が出現した。
ぐっ、と、黒蜘蛛の体躯が一回り大きくなったのだ。
尖った脚が床を突くたびに、まるで何らかのエネルギーが注入されでもしたかのように、ぐい、ぐいと蜘蛛はその体積を増していく。現象は留まるところを知らず、わずか数秒で猫から犬のサイズを越え、なおも巨大化を続ける。いつしか俺は、床に接した頬でシャーロットの脚が生み出す重い震動を感じていた。
ぎっ。
という金属質の軋み声を上げて、ソードゴーレムがシャーロットを見下ろした。青白い二眼が、新たな敵を評価するように激しく明滅する。
しゃあああっ!!
と、こちらは剃刀を革で研ぐような咆哮を放ち、ついに全長二メートルほどにまで達した黒蜘蛛は、真紅の複眼を強烈に発光させた。
上背はゴーレムの半分にも及ばないが、向こうが細長い骨だけで構成されているのに対して、巨大シャーロットの姿は禍々しいほどに逞しく、それでいてとてつもなく優美だった。全身を覆う漆黒の繊毛は光を受けると金色に輝き、八肢の先端の鉤爪は黒水晶のように冷たく透き通っている。
両腕と言うべき最前の二脚はひときわ大きく、爪もまるで剣かと思うほどに長く鋭い。その右脚を高く掲げると、シャーロットは躊躇い無くゴーレムの左脚に叩き付けた。
大剣同士を打ち合わせたとしか思えない、重々しい金属の衝突音が部屋中に響いた。発生したオレンジ色の火花が、薄暗い室内を瞬間眩く照らした。
それが合図であったかのように、これまで硬直していたユージオが、ついに走り出す気配を俺は感じた。
ゴーレムに向かってではない。俺やアリスを目指したのでもない。
シャーロットの不思議な指示――“短剣をドアに刺せ”というその言葉を実行するべく、部屋の左隅にある円筒形の階段目掛けて駆け出したのだ。倒れた俺の視界を、ユージオの革ブーツが瞬時に通過する。
その向こうでは、シャーロットの一撃によって僅かに体勢を崩したソードゴーレムが、しかし難なく踏みとどまり逆襲の右腕剣を高く掲げたところだった。
質量では己と拮抗するかもしれない巨大蜘蛛を、ゴーレムはもう完全に敵と認識したらしく、青白い両眼をびかぁーっと光らせて超重超速の斬撃を撃ち放った。
対してシャーロットは、左腕の鉤爪を下から鋭く振り上げた。
空中で衝突したふたつの刃は、再び大音響で床を震わせた。俺とアリスを紙人形のように吹っ飛ばしたゴーレムの一撃を、漆黒の蜘蛛は七本の脚をふかく沈めながらも正面から受け切った。
両者はそのまま、交錯した腕と脚で、互いを押し切るべくぎりぎりとせめぎ合いを続けた。超重量を支えるシャーロットの脚がその甲殻を軋ませ、ゴーレムの右腕を構成する複数の剣が、その接合部を赤熱させる。
力の拮抗は――わずか一秒ほどで決着した。
びぎっ、という鈍い音とともにへし折れ宙を舞ったのは、シャーロットの左前脚だった。断面から白い体液がほとばしり、黒の繊毛を染めた。
しかし蜘蛛は退かず、声ひとつ漏らさず、残る右脚を再び繰り出した。狙ったのはソードゴーレムの背骨だった。槍のごとく閃いた鋭い爪が、ゴーレムの体幹を成す巨大剣の腹に食い込む――と見えたその瞬間、背骨の脇に並んでいたあばら骨がいっせいに動いた。
じゃきぃぃん!! とある種の裁断装置めいた金属音を放って、左右七本ずつの曲刀があぎとのごとく交差したのだ。そこに銜え込まれる形となったシャーロットの右前脚は、ひとたまりもなく中ほどから切断され、再び大量の白色血が噴き出した。
ゆるりとゴーレムの肋骨剣が開き、その檻の内側から千切れた脚がぼとりと落下した。勝利を確信したのか、ゴーレムの両眼がまるであざ笑うかのように薄く瞬いた。
直接攻撃手段を失ったシャーロットだが、しかしその果敢さは消えなかった。
もういちど鋭い叫びを放ち、口に生えた太く短い牙で噛み付くべく跳びかかる。
しかし、攻撃は届かなかった。蹴り上げられたゴーレムの右脚剣が、シャーロットの左側の脚をさらに二本斬り飛ばし、八肢を半減させられた蜘蛛はバランスを崩してどうっと床に落下した。
もういい――逃げろ。
俺はそう叫ぼうとした。
あのシャーロットという名の黒蜘蛛と、直接会話を交わしたことはない。彼女は二年のあいだ一度も俺に気取られることなく、カーディナルに与えられた任務を果たし続けたのだ。
その任務とはすなわち、俺とユージオの映像を主に送ることだ。それだけのはずだ。決してこのような絶望的な戦いを挑み、捨石となって死ぬことではない。
しかし、俺の喉から声は出なかった。
右の脚だけでよろよろと身体を起こしたシャーロットが、再び跳躍しようと姿勢をたわめた。
一瞬早く、真上から降ってきたゴーレムの左腕剣が、優美な曲線を描く黒蜘蛛の胴を深く刺し貫いた。
ぞっとするほど大量の血が、剣の周囲から高く迸り――。
同時に、何もかもを塗りつぶすがごとき、紫色の強烈な光が部屋の左側から炸裂した。
見覚えのある閃光だった。ただの照明ではない。光の筋ひとつひとつが、微細なプログラムで編まれたリボンとなっている。五十階での戦闘で俺が倒した副騎士長ファナティオに、カーディナルが呉れた短剣を使用したときに見た輝き。
俺からは見えないが、ユージオがドアまで辿り着き、彼の短剣をそこに突き刺したに違いない。それで一体どのような結果が導かれるのか定かでないが、シャーロットが文字通り懸命の挺身で稼いだ時間を、ユージオは無駄にしなかったのだ。
その漆黒の蜘蛛は、身体の中央を完全に貫かれてなお、立ち上がろうと弱々しく残った脚で床を掻いていた。しかし、ずるっと湿った音を立ててゴーレムの腕が引き抜かれると、白い血溜まりにその巨体を力なく沈ませた。
一本の脚が、震えながら伸ばされ、突っ張るように身体の向きを変えた。
八つの複眼は、ルビーのようだった鮮やかな緋色を、ほとんど失いかけていた。その眼でドアの方角を確かめたシャーロットは、牙の間からも血を零しながら、あの年上の女性を思わせる声でかすかに囁いた。
「よかった……間に合った」
頭部の向きが僅かに動き、左の眼がまっすぐに俺を見た。
「最後に……役に……立てて……うれ、し……」
言葉は、宙に溶けるように薄れ、途切れた。艶やかな丸い眼に、紅い光がちかちかと瞬き、そして消えた。
視界がゆらりとぼやけ、俺は瀕死のこの状況でもなお溢れる涙があったことを知った。歪んだ光景のなかで、黒い蜘蛛の巨体が、音もなく縮んでいくのが見えた。白い血溜まりもみるみるうちに蒸発し――一秒後、そこに残されたのは、仰向けになり肢を縮めた指先ほどの大きさのなきがらだけだった。
ゴーレムは、己が断った命への関心を瞬時に失ったかのように、ぐるんと頭をもたげると光る両眼でユージオを追った。
巨体が九十度向きを変え、踏み出された足の先端がずしりと床を突く。その目指す先では、乱舞する紫の光の帯がますますその輝きを強めている。
俺は、残された全精神力を振り絞って、感覚のない首を数センチ動かし視界に光の源を収めた。
円形の部屋の北側、ガラス窓から三メートルほど離れた位置に突出した円筒形の出入り口が見えた。ほんの数十分前、俺とアリスが巨大な恐怖と、同量の自負心を抱えて潜り抜けたセントラル・カセドラル最後のドアだ。あの先は狭い螺旋階段になっており、今は亡き元老チュデルキンの悪趣味な私室へと続いている。
艶やかな大理石の扉、その湾曲した表面に、ごく小さな針のようなものが刺さっているのに俺は気付いた。十字架の長辺を尖らせたようなそれは勿論、カーディナルが俺とユージオにひとつずつ託したブロンズの短剣だ。かの、もう一人の最高司祭が百年間伸ばし続けた髪をリソースとしており、彼女と短剣を刺されたものとの間に空間を超越した術式のチャンネルを開くことができる。
対アドミニストレータ用の最終兵器であったそれを、恐らくユージオはこの部屋で行使しようとして果たせなかったのだろう。代わりに、不思議な蜘蛛シャーロットの指示によってドアに刺したのだ。
短剣を突きたてられたドアは、いまや全体が紫色に光り輝き、その周囲を同色の半透明のリボンが無数に乱舞している。光は際限なくその勢いを増し、部屋中をラベンダーの色に覆い包んでいく。ひぃぃぃん、という大量の音叉が共鳴するような甲高い唸りが光と同期して高まるなか、ついに短剣そのものがばらりと解け、渦巻く細長い文字列となって宙を踊った。
ドアの傍らに立ち尽くしたユージオが、眩さに耐えかねたか左腕で顔を覆った。彼に向かって着実な前進を続けていたソードゴーレムも、理解不可能な現象に戸惑うように、がしゃりと関節を鳴らして停まった。
ドアの手前で螺旋をつくっていた紫の文字列が、その先頭から音も無く大理石の表面に吸い込まれた。と見えたその瞬間、艶やかな白いマーブル模様が、水面のようにゆらりと揺れ波紋を広げた。中央に、インクを垂らしたように濃い漆黒が生まれ、それは瞬時にドア全体に広がった。
バシィッ!! という、高圧電流が弾けるような大音響が部屋を揺るがした。同時に、空間を乱舞していた紫の光たちが放射状に広がり、薄れて消えた。
つい一瞬前まで、硬そうな白大理石であったドアが、今はつや消しの黒檀の扉へと変わっていた。どこかで見た色艶と装飾のある、重厚な扉だ。いつしか光も音も消え去り、部屋に静寂が戻った。
現象が終息したことで、コマンドが再入力されたかのように、ソードゴーレムがずしりと右脚を一歩踏み出した。
戸惑いと決意を半分ずつ顔に浮かべたユージオがさっと振り向き、至近に迫りつつある巨大な敵を睨んだ。右腕が閃き、青薔薇の剣の柄をがしっと握った。
その瞬間――。
カチリ、という硬く小さな音が、ささやかに、しかし確かに空気を揺らした。
黒檀のドアの左脇に据えられた、艶のある青銅のドアノブ。それがゆっくりと回っている。
半回転したところでもう一度硬い音が響き、そして、内側からドアがそっと押された。
きいい、という古めかしい軋みとともに、戸口の細い隙間が徐々に大きくなっていく。その向こうにあるはずの、螺旋階段のオレンジ色の灯りが見えない。内部は完全な暗闇だ。
ゆるゆるとドアは開いていき、九十度角をすこし越えたところでギッと鳴って停まった。いまだその向こうに誰がいるのかは目視できない。ゴーレムは、もうそんな現象にかかずらうつもりはないらしく、前進を停めることはない。その巨大な剣の間合いにユージオを捉えるまであと三歩――二歩――。
突然、ドアの内側の闇が、純白の閃光に満たされた。
そこにシルエットとなって浮かぶ小さな人影を認識できたかできぬ内に、恐ろしく巨大な稲妻が開口部から水平に迸り、ゴーレムの腹を打った。
ガガァァァン!! と、およそこれまで見聞きしたあらゆる術式のうちでも最大の衝撃音が俺の耳を痛打した。ゴーレムの全身が黒く染まるほどの閃光が、まるで純白の竜であるかのようにうねり、空中に無数の細枝を広げて放散・消滅した。
これまで完全無敵ぶりを嫌と言うほど見せ付けてきたソードゴーレムが、その巨体をぐらりと揺らし、前進を停めた。各所の剣骨から薄く白煙を上げ、薄青い両眼を不規則に点滅させている。
がしゃがしゃ、と両脚を鳴らして踏みとどまった巨人を、再び極太の雷光が打ち据えた。あの超優先度にして何と言う連射速度だろうか。驚愕する俺の視線の先で、ゴーレムがぎぃぃっと怒り、あるいは恐怖の唸りを放って一歩後退した。そのわずか半秒後。
ガガァッ!! と神撃のごとき咆哮を伴い、三発目の雷閃がドアの内側から迸った。先の二発よりさらに巨大なその光に打たれ、ついに身長四メートルの巨大ゴーレムが、突風に撫でられた紙人形のように空中を吹き飛んだ。ぐるぐると回転しながら二十メートル近くも舞った巨体が、凄まじい衝撃音を放って部屋の反対側の壁際に墜落し、動きを止めた。それでもなお天命は尽きないようで、両手の剣をぎしぎしと動かし、眼を高速で明滅させているが、すぐには立ち上がれまい。
俺は視線を戻し、ドアの向こうの闇を再度見やった。
そこから現れるべき人物の名を、俺はもう強く確信していた。この世界で、あれほどの超絶的神聖術を連発できるのは、最高司祭アドミニストレータのほかには一人しか存在しないからだ。
蝋燭と星明りの織り成す仄白さのなかに、まず見て取れたのはシンプルな黒い杖と、それを握る小さな手だった。華奢な手首を包む、ゆったりとした漆黒の袖。幾重にもドレープを作った学者のようなローブ。大きく角ばった帽子もまた学究の徒を思わせる簡素なものだ。長いローブの裾からちらりと覗く平底の靴は、床から二十センチばかり浮き上がっている。この世界には存在しないはずの、空中飛翔術。
最後に、やわらかそうな茶色の巻き毛と、銀縁の小さな眼鏡が光のもとに現れた。幼さと無限の叡智を同居させた大きな瞳が、青い夜灯りを受けてきらりと輝いた。
永劫にも等しい年月を隔絶した空間で過ごしてきた幼な子――アドミニストレータの分身にして対等の権限を持つ最高術者カーディナルは、俺の記憶にあるとおりの教師のような厳しい表情で、ゆっくりと広大な寝室を見回した。
まず、すぐ隣に立つユージオを見やり、小さく頷く。ついで離れた場所に倒れたままの整合騎士アリスを見つめ、最後に同じく床に臥す俺に視線を向けると、その小さな唇にごくごくかすかに苦笑の色をほのめかせ、もう一度頷いた。
最後に、くるりと首を巡らせ、遠く部屋の北端に浮遊したまま動作も声も発しない最高司祭アドミニストレータをちらりと見やった。二百年ぶりに相対する究極の敵の姿に、その胸中にいかなる感慨を抱いたのか、表情からは察することができなかった。
状況を確認し終えたカーディナルは、すっと右手の杖を掲げた。とたん、その小さな身体が音も無く宙を滑り、俺とアリスの中間地点へと移動していく。
俺の前を通過するとき、カーディナルはふいっと無造作に杖を振った。するとその先端から、暖かな白い光の粒がきらきらと宙を流れ、俺の傷ついた肉体を包んだ。
途端、腹から胸にかけてわだかまっていた冷たい虚無感が消滅し、灼熱の激痛が戻り、悲鳴を上げそうになったもののその熱はみるみる間に暖かく溶けて薄れた。突然、抜けたコードが挿し直されたかのように身体感覚も復活し、俺は慌てて右手を動かすと、腹の傷を探った。いまだにヒリっとくる盛り上がりは残っているが、ほとんど体を分断しかけたあの傷が、溶接したかのように瞬時に融け塞がっているのには驚愕するしかない。俺かユージオが同じ結果を導こうと思ったら、日光降り注ぐ森のなかで丸々三日はコマンドを唱えねばなるまい。
有り難い、などという言葉ではとても足りない奇跡の癒しだが、しかし無論相応の巨大な代償はあるはずだ。なぜなら、恐らく、最高司祭アドミニストレータはこの状況をこそ――。
俺の戦慄に満ちた想像などまるで意に介せぬように、カーディナルはふわりと眼前を通過すると、今度はアリスに向かって杖を振った。もう一度、ダイヤモンドの粒のような癒しの光が降り注ぎ、黄金の騎士の胸を染める真紅へと溶けていく。
カーディナルは尚も動きを止めず、更に数メートル前進してから、すとんと靴を着地させた。
幼き賢者が降り立ったのは、絨毯の上に小さく横たわるささやかな骸の前だった。
とっ、と軽い音とともに黒い杖が床に突き立てられた。主の手が離れても、その杖は微動だにせず直立を続けた。
カーディナルはそっと腰をかがめ、両手で床からシャーロットの遺骸を優しく救い上げた。掌に包み込んだ黒蜘蛛を胸に当て、うつむいた少女は、聞き取れぬほどの小さな声で囁いた。
「この……馬鹿者。任を解き労をねぎらい、お前の好きな本棚の片隅で望むように生きよと言うたじゃろうに」
丸眼鏡の奥で、長いまつげが一度しばたかれた。
俺は傍らに転がっていた剣を杖代わりによろよろと立ち上がり、まだ力の入らない両脚でどうにか二、三歩カーディナルに近づくと、色々と言うべきことを棚上げにしてまず尋ねた。
「カーディナル……その蜘蛛、いや彼女は、いったい……?」
巻き毛を揺らして顔を上げた賢者は、薄く濡れた瞳を俺に向けぬまま、懐かしくすらある口調で答えた。
「お主の知ってのとおり、この世界はもともとファンタジーゲーム・パッケージを基盤にしておるでな。古の時代には、多くの不思議や奇跡が森や野を棲家としていたのじゃ。そう言えばわかるじゃろう?」
「つまり……ネームド・モンスター? でも……シャーロットは言葉をしゃべったぞ。本物の感情だってあった……フラクトライトを持っていたんじゃないのか……?」
「いや……お主にも馴染みのある、いわゆるNPCと一緒じゃよ。ライトキューブではなく、メインフレームの片隅にささやかな擬似思考エンジンを与えられた、何の変哲もないトップダウン型AIじゃ。はるか昔には、そのような人語の受け答えを可能とする獣やモンスター、草木や岩が世界にあまねく、数多く配置されておった。しかし、皆消えてしもうた。半数は整合騎士に退治され、半数はアドミニストレータめにオブジェクト・リソースとして利用され、な」
「そうか……ベルクーリのお伽噺に出てきた、果ての山脈の守護竜たちと同じように、か」
「然り。わしはそれを不憫に思い、新たに生成されるその種のAIたちを保護でき得るかぎり保護してきたのじゃ。わしが使役した感覚共有端末はその殆どが思考エンジンを持たぬただの小型動的ユニットじゃが、中にはこのように保護したAIに苦労してもらうこともあった。何せこやつらは高プライオリティゆえにちょっとやそっとのことでは傷もつかんからな。お主の服に忍んだまま、お主がどれほど暴れようとも無事だったのはそのおかげじゃ」
「で、でも……でもさ」
俺は視線をじっと、カーディナルの掌中に横たわるシャーロットの骸に据え、胸の痛みに耐えながらさらに尋ねた。
「シャーロットの言葉……行動は、擬似AIなんてものじゃなかったぞ。彼女は……俺を救ってくれた。俺のために自分を犠牲にしたんだ。なぜ……なんで、そんなことが……」
「以前言ったと思うが、この子はもう五十年も生きておった。その間わしを始め多くの人間たちと交わり、自らを高めてきたのじゃ。お主に張付いてからですら早二年……。それほどの時を共に過ごせば、たとえフラクトライトが無くとも――」
不意にカーディナルは声を強め、その先をきっぱりと言い切った。
「たとえその本質が入力と出力の蓄積に過ぎなくとも、そこに真実の心が宿ることだってあるのじゃ。そう、時として愛すらも。――貴様には永遠に理解できぬことであろうがな、アドミニストレータ、虚ろなる者よ!!」
苛烈な叫びとともに、幽り世の賢者は、ついに二百年来の仇敵をその双瞳でまっすぐに見据えた。
遠く離れた位置に高く浮遊し、状況を睥睨していた総天の支配者は、すぐには言葉を返さなかった。
指を絡み合わせた両手に顔の大部分を隠し、ただ鏡の双眸に謎めいた光だけを浮かべている。
かつてカーディナルに聞いた話では、アドミニストレータは世界調整プログラムと融合したときに己の内部に埋め込まれた自己訂正サブプロセス(つまり現在のカーディナルの基となった人格)の反乱を防ぐため、フラクトライトを操作しほぼすべての感情を捨てたのだという。
物理的に肉体が分かたれてからは、分裂人格に乗っ取られる危惧はなくなったはずだが、だからといって感情などという彼女にとっては無駄なものをわざわざ復活させる必要もあるまい。ゆえに、俺がアドミニストレータという存在に抱いていたイメージは、ただ機械のようにタスクを処理していく、それこそプログラムのような人間というものだったのが、しかしこのカセドラル最上階で実際にまみえた彼女の姿には少なからぬギャップがあった。チュデルキンを嘲り、アリスを弄ぶその微笑みは、確かにほんものの感情に彩られているような気がしたのだ。
そして今も、最高司祭アドミニストレータは、隠された唇のおくから珠を転がすような笑い声を漏らし、両の眼をすうっと細めた。
くすり。くすくす。
自分に向けられたカーディナルの舌鋒など、そよ風ほどにも感じておらぬふうに、細い肩を揺らして笑い続ける。
やがて、その合い間に、短い一言が――先刻の俺の畏れを現実のものとする台詞が軽やかに発せられた。
「来ると思ったわ」
くす、くすくすくす。
「その坊やたちを苛めてれば、いつかは黴臭い穴倉から出てくると思った。それがお前の限界ね、おちびさん。私に対抗するために手駒を仕立てておきながら、それを駒として使い捨てることもできないなんて、まったく度し難いわね、人間というものは」
やはり。
危惧したとおり、アドミニストレータの真意は、俺たちを死の際まで追い詰めることによって不可侵の壁に守られた大図書室からカーディナルを誘き出すことにあったのだ。つまり彼女には、この状況で絶対確実に勝利できる奥の手がまだ存在するということだ。しかし――最終兵器であったはずのソードゴーレムはすでに動作不能、対してユージオは無傷だし俺もどうにか戦えそうだ。見れば、アリスも意識を取り戻したのか、片手をつき上体を起こそうとしている。
カーディナルとアドミニストレータは、一対一で戦えばほぼ相打ちになるはずの同等の術者なので、この状況はもうこちらの圧倒的有利と判断して差し支えあるまい。つまりアドミニストレータは、少なくともカーディナルが出現したその瞬間に、傍観を解き全力攻撃を開始して然るべきだった。なのに一体何故、ゴーレムが破壊され、俺とアリスが回復されるのを許したのか。
カーディナルも当然、俺と同じ疑問を感じていると思われた。しかしその表情には、さすがにもう一人の最高司祭と言うべきか、小揺るぎもしない厳しさのみがあった。
「ふん。暫く見ぬまに、貴様こそずいぶんと人間の真似が上手くなったものじゃな。二百年のあいだずっと、鏡を見て笑う練習でもしておったのか」
痛烈な言葉を、アドミニストレータはまたしても微笑で受け流した。
「あらぁ、そういうおちびさんこそ、その変な喋り方はなんのつもりなのかしら。二百年前、私の前に連れてこられたときは、心細そうに震えてたのに。ねぇ、リセリスちゃん」
「わしをその名で呼ぶな、クィネラよ! わしの名はカーディナル、貴様を消し去るためにのみ存在するプログラムじゃ」
「うふふ、そうだったわね。そして私はアドミニストレータ、あらゆるプログラムを管理する者。挨拶が遅くなって御免なさいね、おちびさん。歓迎用の術式を用意するのにちょっと手間取ったものですから」
高らかにそう云い終えたアドミニストレータは、ゆるりと右手を掲げた。
大きく広げられたしなやかな五指が、まるで見えない何かを握りつぶそうとするかのようにぐぐっと撓む。これまで一度たりとも顔色の変わることのなかった陶磁器のような頬にわずかな赤みが射し、銀の瞳に凄絶な光が宿る。あの最高司祭が、ついに本気の精神集中を行っていることを察して、俺の背中に無数の氷針にも似た戦慄が疾る。
いかなる対応を考える余裕もないわずかな刹那ののち、アドミニストレータの細い右手が、ぐっ、と強く握り締められた。
同時に――。
がっしゃぁぁぁん!! という、十重二十重の硬質な破砕音が、周囲の全方向から猛々しく響き渡った。
両耳がきんと痺れるほどの、圧倒的な音量だった。俺は、部屋の全周を取り囲む硝子壁がすべて粉砕されたのだと直感した。
だが、そうではなかった。
砕けたのは、窓のむこう――うねる黒い雲海と、その上に瞬く星ぼし、そして冴えざえと輝く青白い月、それら夜空のすべてだった。
世界が、無数の平らな破片となって舞い散り、互いに衝突してさらに砕けながら落下していくのを、俺はただ呆然と見つめた。きらきらと輝く断片たちの向こうに存在するのは、“非存在”とでも言うよりない光景だった。
光も奥行きも無い真黒の闇に、マーブル模様のような濃い紫色が融け、ゆるゆるとうねっている。長時間見ていたらこちらの精神までも虚ろに吸い取られてしまいそうな、まったき虚無の世界。
色合いも美しさもまるで違うが、しかしそれでも、あのとき見たものに似ていると俺は瞬間、連想した。かつて浮遊城アインクラッドが崩壊するときに見た、夕焼け空を覆い包み消し去っていく白い光のベールたち。
まさか、このアンダーワールドも同じように、すべてが崩壊・消滅したのか!?
強い恐慌に陥りそうになった俺を引き戻したのは、驚きはあるがしかし尚も確固としたカーディナルの言葉だった。
「貴様……アドレスを切り離したな」
何だ――どういう意味だ?
戸惑う俺の視線の先で、すっと右手を降ろしたアドミニストレータは、わずかに解れた前髪を整えながら寒々しい笑みを浮かべた。
「……二百年前、あと一息で殺せるところだったあなたを取り逃がしたのはたしかに私の失点だったわ、おちびさん。あの黴臭い穴倉を、非連続アドレスに置いたのは私自身だものね? だからね、私はその失敗から学ぶことにしたの。いつかお前を誘い出せたら、今度はこっち側に閉じ込めてあげよう、って。鼠を狩る猫のいる檻に、ね」
言い終えた最高司祭は、仕上げとばかりに右手を横に伸ばし、指先をぱちんと鳴らした。
途端に、先刻のものに比べれば随分とささやかな破壊音とともに、円筒形の出入り口がドアごと砕け散った。“黒檀の板”や“大理石”といったオブジェクトとして破壊されたのではない証に、それらはまるで一枚の鏡に映し出された平面図であったかのように薄っぺらい破片となって降り積もるそばから跡形もなく溶けて消えた。残ったのは、ふかふかの絨毯に描かれた円模様だけで、そのどこにも継ぎ目や織りの乱れすら見当たらなかった。出入り口のすぐそばに立っていたユージオは、目を丸くして上体を仰け反らせていたが、やがて恐る恐るつま先で一瞬前まで穴が開いていたはずの床を探ると、ちらりと俺を見て小さく首を振った。
――つまり、こういうことだ。
アドミニストレータが破壊したのは窓の外の世界ではなく、世界とこの部屋との接続そのものなのだ。
仮に、どうにかしてこの部屋の窓なり天井なりを破壊しても、その先には絶対に進入できまい。移動するための空間が存在しないのだから。仮想空間に於いて誰かを閉じ込めるための手段としては完璧すぎるほどに完璧――まさしく、管理者権限を持つ者だけに許された禁じ手だ。カーディナルが出現してからの数秒間を、アドミニストレータは無為に浪費したのではなく、この大掛かりなコマンドを準備していたという訳だ。
しかし。
空間の連続性を完全切断したということは、すなわち――。
「その喩えは正確さに欠けるのではないかな」
俺と同じ疑問にいち早く気付いたらしいカーディナルが、低い声を投げ返した。
「切断するのは数分でも、繋ぎなおすのは容易ではないぞ。つまり、貴様自身もこの場所に完全に囚われたということじゃ。そしてこの状況では、どちらの陣営が猫でどちらが鼠なのかは確定しておらぬと思うが? 何せ我々は四人、そして貴様は一人。この若者たちを侮っておるのなら、それは大いなる誤りじゃぞ、アドミニストレータよ」
そう、そういうことだ。かくなった以上、アドミニストレータ本人もこの部屋からはもう容易くは抜け出せないはずなのだ。そして彼女とカーディナルはまったく対等の術者である。俺たちとしては、カーディナルに敵の神聖術を相殺してもらっているあいだに斬り込むだけで勝敗を決定できる――ということになる。
しかし、カーディナルの指摘を突きつけられてもなお、最高司祭の薄ら寒い微笑は消えない。
くすくす、という細波のような喉声に乗せられて届いた言葉は、すぐには理解できない内容だった。
「四対一? ……いいえ、その計算はちょっとだけ間違ってるわね。正しくは……四対、百五十一なのよ」
無垢な響きの声がそう言い切ると同時に、遥か高い天井に描かれている無数の神々が、強烈な紫の輝きを放った。
そしてその現象と同期するように、半壊したはずのソードゴーレムが、全身から凄まじい金属音を高らかに共鳴させた。
「なにっ……」
口走ったのはカーディナルだった。最高位の術式を三連撃で叩き込んで、完全に無力化したと判断したのだろう。俺だってそう思っていた。
しかし、ついさっきまでは確かに消える寸前だったゴーレムの両眼の光が、今は二つの恒星のように青白く燃え上がっている。二条の眼光でまっすぐに俺たちを射抜きながら、巨人はダメージがすべて消え去ったかのように両手両脚の剣で軽がると胴体を持ち上げると、ぐるんと股関節を回転させて直立した。
よくよく見れば、カーディナルの稲妻に撃たれ、各所で焼け焦げて白煙を上げていたはずの剣骨も、いつのまにか新品同様の輝きを取り戻している。たしかに、この世界の高プライオリティの武器は天命の自己回復力を備えているが、それはきちんと手入れをして鞘に収めた上でのことだ。と言うよりも、対となる鞘に、空間リソースを吸収し剣に還元させる術式が仕込まれているのだ。そのうえ半減した数値を最大に戻すには、少なくとも丸一日はかかる。
つまり、あのゴーレムを回復させようと思ったら、いちど完全支配を解いて分離させ、剣をすべてそれぞれの鞘に戻さねばならないということになる。
だが、小揺るぎもせずに直立し、四メートルの高みから俺たちを見下ろす巨人の姿には、そのような理屈を超越した圧倒的な存在感があった。もしかしたら――このゴーレムが量産できるなら、ほんとうにアドミニストレータは独力でダークテリトリーの侵略を撥ね退けて見せるのではないか、と思わせるほどの。
そして何より恐ろしいのは、もしそれが可能なら、俺たちの今までの戦いはその意味をほとんど失ってしまうという、事実。
同じことを、カーディナルなら一瞬で考えたはずだった。しかし小賢者はあくまでたじろぐことなく、ゴーレムに向けて右手の杖を鋭く掲げると、俺たちにさっと左手を振った。
「キリト、アリス、ユージオ、下がれ! わしの前に出るでないぞ!」
そう言われても、見た目十歳の子供の背中に隠れるのは大いに躊躇われる。しかし同時に、俺たちはつい数分前あのゴーレムに挑みまさに瞬殺の憂き目にあったので、指示に逆らって突撃することもできない。
やむなく俺は、剣を構えながらも数歩下がった。左にユージオ、右にアリスが、それぞれ素早く駆け戻ってくる。
ゴーレムの剣に心臓を直撃されたアリスは、肉体的には治癒されたとは言え感覚的ダメージが幻痛となって残っているはずで、俺はちらりと表情を確かめた。さすがに顔色は青白く、胸当てを失い深く穴のあいた装束も痛々しかったが、しかし騎士は気丈に背筋を伸ばし、俺に低く囁きかけてきた。
「キリト……あの子供はいったい誰なのです!?」
「……名前はカーディナル。二百年前にアドミニストレータに追放された、もう一人の最高司祭」
そして――管理者《アドミニストレータ》に対する、初期化者《フォーマッタ》。世界を慈悲深き空白に還す者。
しかしもちろん、今はそこまでは言えない。俺の答えに怪訝そうな顔をするアリスに、更に説明を重ねる。
「大丈夫、味方だよ。俺とユージオを助け、ここまで導いてくれた人だ。この世界のことを心から愛し、憂いている」
少なくともこれは確かな真実だ。アリスはまだ戸惑いから抜けきれないようだったが、それでも、左手でそっと胸の傷痕を覆いながらうなずいた。
「……分かりました。高位の神聖術は使用者の心を映す鏡でもある……私の致命傷を癒した彼女の術の温かさを信じます」
まったくその通りだ、と、俺も深く同感しながら頷きかえす。たとえ定型コマンドを用いた初歩の治癒術でも、それを他人に用いるとき術者がなおざりに使うか真剣な祈りを込めるかで相手が受ける感覚は大いに異なる。カーディナルの治癒術には、あらゆる痛みを柔らかく包み溶かす真の慈愛が満ちていた。だからこそ俺は、彼女の、世界すべてを無に還すという覚悟は決して本意ではあるまいと期待し信じてもいるのだが――しかしそれはすべて、この戦いに勝ち得てのちの話だ。
完全に力を失っていたはずのソードゴーレムを一瞬で全回復させた仕掛けは何なのか、どうすれば対抗できるのか、それが看破できなければ残念ながらこちらの敗北はほぼ決定的と言っていい。
全身を黒ずんだ鋼色に煌かせながら、ゴーレムはじり、じりと接近を続ける。対峙するカーディナルは油断なく杖を構えているが、今度は先ほどのように大掛かりな術を叩き込んでとりあえず黙らせる、というわけにはいかない。その瞬間、ゴーレムの後ろからアドミニストレータの攻撃術が降り注ぎ、分身たる両者の力の均衡を崩してしまうだろう。
考えろ。今、俺にできるのはそれだけなのだから。
記憶解放状態で自己治癒するからには、ゴーレムの体を構成する剣たちの基となったオブジェクトにも同じ属性があったはずだ。天命の自然回復と聞いて真っ先に思い出すのは、俺の剣の前身である巨樹ギガスシダーだが、しかしあの超回復力は森の中でふんだんに供給される空間リソースあってこそのことだ。この部屋のリソースは、先のチュデルキンとの戦闘でほとんど使い尽くされており、とてもあれほどの瞬時回復を賄えたとは思えない。つまりゴーレムの基材は自然物オブジェクトではない。
となれば、残る可能性は、空間リソースに依存しない回復力を与えられた動的オブジェクト、つまり生物ユニットだ。だが、カーディナルは、かつてこの世界に存在していた巨大ネームドモンスターはすべて絶滅したと確かに言った。そして現在フィールドにスパウンする動物ユニットには、とてもあれほどの威力・重量を実現できるほどの高プライオリティはない。たとえ一万匹まとめて変換したところで、整合騎士の持つ神器一本ほどの威力もあるまい。獣の天命はそれほど少なく、寿命は短いのだ。優先度《プライオリティ》と耐久度《デュラビリティ》は比例するので、あれほどの武器群を作ろうと思えば、最低でも千、二千の天命と、五十年以上の寿命をもつ動物ユニットが百体は必要――
待て。
さっき、アドミニストレータが妙なことを言わなかったか?
“四対、百五十一”。
四人対、百五十一――人。
動物ではないのだ。
あのソードゴーレムを造るのに使われたリソースは、この世界に暮らす人間たちなのだ。それも百五十人。ちょっとした村がまるまるひとつ廃墟になってしまう。
脳が焼け焦げるほどの思考のすえに辿り着いた真実だが、しかし爽快感などまるでなかった。代わりに俺を襲ったのは、圧倒的な恐怖だった。つま先から背筋を経てうなじまでの肌が限界まで粒立つ。
アンダーワールド人は、ただの動的オブジェクトではない。ライトキューブに保存された魂、フラクトライトを持っているのだ。そして、そのかりそめの器たる肉体がたとえ剣に変質させられようと、それが存在し続ける限りフラクトライトの活動も終わらない。つまり、あのゴーレムの部品に変えられた人々は、いまだ意識を保っているということになる。動けず、喋れず、見るべき眼も、聴くべき耳も持たずに。おおよそ考えうるかぎり最悪の牢獄――いっそ、なぜ魂が崩壊、消滅しないのかが不思議なほどの。
前後して同じ結論に達したらしいカーディナルが、やはり全身をびくりと強張らせた。杖を掲げる小さな手が、真っ白になるほどにきつく握り締められた。
「……貴様」
発せられたその言葉は、あどけない声音に似つかわしくない怒りで嗄れていた。
「貴様。なんという……なんという非道な真似を! 貴様は統治者じゃろうが!! その剣人形に変えた民は、本来貴様が護るべき者たちではないのか!!」
えっ、という鋭い声が、俺の左右で同時に響いた。
「民……? 民って、人……間?」
ユージオが、よろりと一歩後退しながら呟いた。
「人……だと言うのですか、あの怪物が……?」
アリスが、先刻貫かれた胸に左手をあてながら呻いた。
そして、やや間をあけてアドミニストレータが、俺たち四人の驚愕を楽しむかのようにゆっくりと答えた。
「ご・名・答。やぁーっと気付いてくれたのねえ。このままじゃ種明かしをする前に全員死んじゃうかもって心配しちゃったわぁ」
本心から嬉しそうに、ひとしきり無邪気な笑い声を上げると、絶対統治者はぱたんと一度両手を合わせ、でもねぇ、と続けた。
「おちびさんにはちょっとガッカリだわね。二百年もこそこそ穴倉から覗き見してたくせに、まだ私のこと分かってくれてないのね。ある意味ではあなたのママなのになぁ」
「……たわ言を! 貴様の腐りきった性根なぞ底の底まで見通しておるわ!」
「ならどうして下らないこと言うのかしら? 護るべき民、とか何とか。私がそんな詰まらないことするわけないじゃない。護るだの、統治するだの」
にこやかな表情は一切変わらないのに、しかしアドミニストレータを包む空気の温度が急激に低下したように俺には思えた。絶対零度の微笑を浮かべる唇から、するりと続く言葉が紡がれた。
「私は支配者よ。私の意志のままに支配されるべきものが下界に存在しさえすればそれでいいの。たとえその形が人だろうと剣だろうと、それは大した問題じゃないわ」
「貴……様……」
カーディナルの声が掠れ、途切れた。
俺も、発するべき言葉を見つけられなかった。
アドミニストレータと名乗るかの女性――いや存在の、精神の在り様はもう俺の理解を遥か絶している。彼女はその名のとおりシステム管理者であり、書き換え可能なデータファイルとして国民たちを保存しているに過ぎない。言わば、現実世界におけるネット中毒者《アディクト》が、ただ収集・整理することだけを目的に膨大なファイルをダウンし続けるようなものだ。ファイルに何が含まれているのかなど、ほとんど気にも留めずに。
カーディナルは大図書室での会話において、アドミニストレータの魂に焼きこまれた行動原則を“世界の維持”だと語った。それは正しいのだろうが、しかし真実のすべてを捉えてはいなかった。
旧SAO世界において、魂なき管理プログラムであった初代カーディナルは、果たして俺たちプレイヤーを人間、つまり意思ある生命だと認識していただろうか?
答えは否だ。俺たちは、管理、選別、そして削除されるべきデータファイルに過ぎなかった。
遠い昔に存在した少女クィネラは、たしかに人を殺せなかったのかもしれない。
しかし今のアドミニストレータにとって、人間はもはや人ではない。
彼女が維持せんとする世界に、人の営みは必要ない。
「あら、揃って黙り込んじゃって、どうしたの?」
遥か高みから俺たちを見下ろし、管理者は首をかしげながら微笑んだ。
「まさか、たかだかユニット百五十個ていどを変換したくらいで驚いてるわけじゃないわよねえ?」
「たかが……じゃと」
ほとんど音にならない声で咎めたカーディナルに、その仇敵はとても嬉しそうにうなずいた。
「たかが、ほんの、それっぽっち……よ、おちびさん。その人形が完成するまでに、一体いくつのフラクトライトが崩壊したと思って? だいたい、それはあくまでプロトタイプなのよね。厭ったらしい負荷実験に対抗するための量産型には、ま、半分くらいは必要かなって感じだわ」
「半分……とは……」
「半分ははんぶんよ。四万ユニット。それだけあれば充分だわ……ダークテリトリーの侵攻を退けて、向こう側に攻め込むのに、ね」
あまりにも恐ろしいことをさらりと口にし、アドミニストレータは銀の瞳を俺の右隣に立つ騎士へと向けた。
「どう、これで満足かしら、アリスちゃん? あなたの大事な人界とやらはちゃんと守られるわよ?」
からかうようなくすくす笑いを、アリスはしばらくただ黙って聴いていた。金木犀の剣の柄を握る手が細かく震えているのに俺は気付いたが、そうさせているのが恐怖なのか、あるいは怒りなのかは、すぐには察せられなかった。
やがて発せられたのは、ぎりぎりまで抑制された、ひとつの問いだった。
「……最高司祭様。もはやあなたに人の言葉は届かない。ゆえに、同じ神聖術者として尋ねます。その人形を作っている剣――所有者はいったいどこに居るのです」
一瞬、俺は戸惑った。数十本の剣の記憶解放を行い、ゴーレムへと組み上げたのは間違いなくアドミニストレータ自身だ。ゆえに、原則からは外れるが、所有者は最高司祭なのだろうと俺は考えていたのだが。
しかし、アリスは続く言葉で、俺の推測を打ち消した。
「司祭様が所有者ということは有り得ない。たとえ、完全支配できる剣は一本のみという原則を破れたとしても、この場合だけは有り得ないのです。なぜなら――記憶解放を行うには、剣とその主のあいだには強固な絆が必要だからです。私とこの金木犀の剣、そして他の騎士たちとその神器、あるいはキリト、ユージオと彼らの剣のように。主は剣を愛し、また愛されなくてはならない……武装完全支配術とは、剣と主が互いに完全なる結合を成すという意味なのですから! 司祭様、その人形の剣の基となったのが罪なき民たちだというのなら、あなたが剣に愛されるはずがない!!」
りぃん、と涼やかな残響を引きながら、アリスが言い切った。
しばしの静寂を破ったのは、どこまでも謎めいたアドミニストレータの含み笑いだった。
「うふふ……どうしてこうも瑞々しいのかしらね、幼い魂というものは。黄金の林檎のように甘酸っぱいセンチメンタリズム……今すぐに握りつぶし、最後のひとしずくまで絞り尽くしてしまいたいくらいよ」
銀鏡の瞳が、胸中の昂ぶりを映してか虹色にぐるぐると輝く。
「でも、まだダメダメ。まだその時じゃないわ……――アリスちゃん、あなたの言いたいことはつまり、私ではこの剣たちの実存を上書きできるほどのイマジネーション強度は発揮できないだろう、ってことよね。その指摘は正しいわ。私の記憶野にはもう、こんなにたくさんの剣を高精細に記録するほどの余裕はないものね」
最高司祭が優雅に指差す先では、数十本の剣で構成されたゴーレムがじり、じりと前進を続けている。
俺の理解しているところでは、武装完全支配術というのはつまり、所有者がそのフラクトライト中に武器の外見、質感、重さ等あらゆる情報を覚え込み、その上でコマンドの助けを借りて武器そのものを想像の力によって変化させるという技だ。術を発動させるためには、所有者はその剣の全情報を己の記憶のなかに完璧以上に保存しているのが必須条件となる。俺の黒い剣を例に言い換えると、まずライトキューブ・クラスターの中央にあるはずのメイン・ビジュアル・タンクとでも言うべき共有記憶倉庫中の剣の情報Aと、そして俺のフラクトライト中にある剣の情報Bが、ほぼ無限小の誤差で一致していなくてはならない。そうであってはじめて、俺は情報Bを想像力で変化させることによって情報Aをも上書きする、イコール他の人間やオブジェクトにもその変化の影響を与えることができるというわけだ。このロジックは、先ほど俺の体に起きた“変身”と共通するものでもあろう。
さて、ひるがえってアドミニストレータはと言えば、彼女のライトキューブ容量はもう三百年の人生の記憶で限界まで圧迫されているはずなのだ。とても三十本もの“剣を愛し愛される”、つまり完全な記憶を保持することが可能とは思えない。アリスの指摘はあくまでリリシズムから出たものだろうが、しかし同時にシステム的な正鵠を射てもいたわけだ。
となれば――やはりあのゴーレムの剣たちには、それぞれ対応する所有者がいるはずなのだ。そのライトキューブ中に剣の情報を持ち、そしてあれほどまでの破壊の意思を秘めた魂たちが。
しかし何処に!? いまやこの空間は、外界とはあらゆる意味で隔離されている。つまり所有者たちもまたここに居なくては理屈が通らない。しかし、今この場所に存在するのは――
「答えは坊やたちの眼の前にあるのよ」
不意に、アドミニストレータがまっすぐ俺を見てそう言った。
続いて、その視線が左に振られ、
「ユージオちゃんにはもう分かってるはずよ」
何――!?
俺は息を詰め、隣のユージオを見やった。
亜麻色の髪の相棒は、血の気を失った顔で身じろぎもせずに最高司祭を凝視していた。奇妙なほどに表情のないそのブラウンの瞳が、細かく震えるように動き、すっとはるか高い天井に向けられた。
俺も釣られて上を見た。円形の天井には、無数の神々の細密画が描かれ、それらのほぼすべてが紫色に発光している。
俺はいままで、その光を単なる装飾的照明だと思っていた。だってあれはただの絵ではないか。オブジェクトですらないものに、一体なんの秘密があるというのだ。戸惑いながら視線を戻し、もう一度ユージオを見る。
相棒は、いまだ愕然とした顔つきのまま、ぎこちなく左手を動かしズボンのポケットを上から押さえた。唇が二度、三度と震えてから、からからに掠れた声が絞り出された。
「そうか……そうだったのか」
「ユージオ……何か気付いたのか!?」
俺の問いかけに、ユージオはゆっくりとこちらを見ると、深い恐怖を湛えた顔で呟いた。
「キリト……あの天井の絵……。あれは、ただの絵じゃないんだ。あれは全部、整合騎士たちから奪われた記憶の欠片なんだ!」
「な……」
絶句した俺に続いて、カーディナルとアリスがそれぞれ、「何じゃと!?」「何ですって!?」と異口同音に叫んだ。
整合騎士の記憶の欠片――それはつまり、“シンセサイズの秘儀”によって騎士となる以前の人間たちから抜きだされた、最も重要な記憶情報のことだ。その記憶とはすべからく、もっとも愛しい人間の思い出であると考えて間違いない。エルドリエにとっては母、デュソルバートにとっては妻。
だが、それらはあくまで、フラクトライト中の記憶書庫の断片であるはずだ。それを完全な魂と同一視することはできない――。
いや、待て。なにかが俺の思考をちくちくと刺激している。
あの細密画がすべて騎士の記憶ピースということなら、その中には奪われたアリスの記憶も含まれているはずだ。
そしてここはセントラル・カセドラル最上階。
そうだ――二年半前、ルーリッド北の洞窟でゴブリン先遣隊と戦闘になりユージオが深手を負って、その傷を治療しているときに俺は確かに奇妙な声を聴いたのだ。カセドラル最上階で俺とユージオを待っている、という不思議な少女の声――そして同時に感じた大いなる癒しの力。
あの声の主が、この部屋に封じられたアリスの記憶なのだとしたら? それはつまり、騎士から奪われた記憶ピースそれ自体も独自の思考力を持っているということにならないか?
いや、しかしあらゆる神聖術には対象接触の原則があるのだ。このセントラル・カセドラルから、遥か地の果てのルーリッドまで、声や治癒力を届けるなどということはアドミニストレータその人にも出来まい。そんな奇跡が可能になるのは、唯一、武装完全支配術と同じロジックが働いた場合だけで……となると、アリスの記憶ピース中に保持された思い出というのは、つまり――つまり……。
高速回転する俺の思考を遮ったのは、烈火のごときカーディナルの叫びだった。
「そうか……そういうことか! おのれクィネラ……貴様は、貴様はどこまで人の心を弄ぶつもりなのじゃ!!」
はっ、と眼を見開いた俺の視線の先で、銀髪の現人神は悠然と微笑んだ。
「あら、さすが……と言ってあげるべきかしらね、おちびさん? 案外早く気付いたみたいね、偽善的な博愛主義者にしては。じゃあ、改めて聞かせてくれるかしら、あなたの解答を?」
「フラクトライトの共通パターン。そういうことじゃろう!」
カーディナルは、右手の黒いステッキをびしりと上空のアドミニストレータに突きつけた。
「シンセサイズの秘儀で抜き取った記憶ピースを、別のライトキューブに改めてロードした思考原体に挿入すればそれを擬似的な人間ユニットとして扱うことは可能じゃ。しかしその知性はきわめて限定され……ほとんど本能的衝動しか持たぬ存在となるじゃろうから、とても武装完全支配などという高度なコマンドを使役させることは出来ぬ。じゃが……その制限にも抜け道はある。それはつまり、挿入した記憶ピースと、それに与えられる武器の構成情報が限りなく共通するパターンを持っている場合じゃ! 具体的には……整合騎士たちから奪った記憶に刻まれた“愛しき人”、及びその親族をリソースとして剣を作った……そういうことじゃな、アドミニストレータよ!!」
混乱とその収束に続いて、俺を襲ったのは、只でさえ凍るような背筋を更に痺れさせる凄まじい恐怖と嫌悪だった。
剣の所有者が、整合騎士たちから抜き盗られた“愛する人”に関する記憶ピースであり――そして剣は、その愛する人の身体を素材として造られたもの。
これなら確かに、理論上は、記憶解放現象を起こすことは可能かもしれない。情報Aと情報Bが、ともに同一の存在に由来しているのだから。記憶ピースを基に作られた擬似フラクトライトが、リンクされた剣に対して何かを強く想えば、それが実現することはあり得る。
問題は、その“何か”とは何なのか、ということだ。記憶の欠片たちは一体いかなる衝動に従って、あのような凶悪なゴーレムを造り動かしているのか?
「欲望よ」
まるで俺の疑問を見透かしたかのように、アドミニストレータがするりと言葉を放った。
「触りたい。抱きしめたい。支配したい。そういう醜い欲が、この剣人形を動かしているの」
ふふ。うふふ。銀瞳を細め、少女はひそやかに嗤う。
「騎士たちの記憶フラグメントから合成した擬似人格たちが望むのはただ一つ――記憶の中にいる誰かを自分のものにしたい、ってことよ。彼らはいま、すぐそばにその誰かがいることを感じているわ。でも触れない。ひとつになれない。狂おしいほどの飢えと渇きのなかで、見えるのは自分の邪魔をする敵の姿だけ。この敵を斬り殺せば、欲しい誰かが自分のものになる。どう? 素敵な仕組みでしょう? ほんとに素晴らしいわ……欲望の力というものは!」
アドミニストレータの高らかな吟声を背景に、接近しつつあるソードゴーレムの両眼が激しく明滅した。
その無骨な全身から放たれる金属質の共鳴音――それが、俺には悲哀と絶望の叫びのように聞こえた。
あの巨人は、殺戮を求める合成兵などではなかったのだ。唯ひとり憶えている誰かにもう一度会いたいという気持ちが寄り集まり、造り出した哀れな迷い子なのだ。
アドミニストレータは、ゴーレムを動かす原動力を欲望と表現した。しかしそれは――
「違う!!」
俺の思考と同期するようにそう叫んだのは、カーディナルだった。
「誰かにもう一度会いたい、手で触れたい、その感情を欲望などという言葉で穢すな! それは――それは、純粋なる愛じゃ!! 人間の持つ最大の力にして最後の奇跡……決して貴様のような者が弄んでよいものではない!!」
「同じことよ、愚かなおちびさん」
アドミニストレータは喜悦に唇を歪め、両の掌をソードゴーレムに向けて差し伸べた。
「愛は支配、愛は欲望!! その実体は、フラクトライトから出力される単なる量子信号にすぎない!! 私はただ、最大級の強度を持つその信号を効率よく利用してみせただけよ……お前が用いた手段より、もっとずっとスマートにね!!」
銀瞳で俺たち三人をさっと撫で、支配者は勝利を確信した音声をさらに高らかに謳い上げた。
「お前に出来たのはせいぜい、子供を二、三人篭絡する程度のことに過ぎない! でも私は違うわ……その人形には、記憶フラグメントも含めれば百八十人以上の欲望のエネルギーが満ちみちている!! そして何より重要なのは、その事実を知ったいま、もうお前には人形を破壊することは出来ないということよ! なぜなら、ある意味では、人形の剣たちはいまだに生きた人間共なのだから!!」
しん、とした静寂の中を、アドミニストレータの声の余韻だけが長く尾を引き、消えた。
ソードゴーレムに向けて掲げられていたカーディナルのステッキが、ゆるゆると頭を垂れていくのを、俺は愕然としながら見つめた。
続けて流れたカーディナルの言葉は、奇妙なほどに穏やかだった。
「ああ……そうじゃな。わしに人は殺せぬ。その制約だけは絶対に破れぬ。人ならぬ身の貴様だけを殺すために、二百年のときを費やして術を練り上げてきたが……どうやら無駄だったようじゃ」
くく。くくくく。
アドミニストレータの唇が限界まで吊り上がり、哄笑を堪えるような喉声が絹のように宙を滑った。
「なんという暗愚……なんという滑稽……」
くっくっくっく。
「お前ももう、知っているはずなのに。この世界の真実の姿を。そこに存在する命なるものが、単なる量子データの集合にすぎぬことを。それでもなおそのデータを人と認識し、殺人禁止の制約に縛られるとは……愚かさも極まれりだわね……」
「いいや、人だとも、アドミニストレータよ」
カーディナルは、どこか温かですらある声で、おそらくは微笑みながら、そう反駁した。
「彼らには、我々が失った真の感情がある。笑い、喜び、愛する心がある。人が人たるために、それ以外の何が必要であろうか。魂の容れ物がライトキューブだろうと生体脳だろうと、それは本質的な問題ではない。わしはそう信じる。ゆえに――誇りとともに受け入れよう、敗北を」
ぽつり、と発せられた最後の一言が、俺の胸の中央を深く抉った。だが、真に激痛をもたらしたのは、それに続く言葉だった。
「じゃが、一つ条件がある。わしの命は呉れてやる……その代わりに、この若者たちは逃がしてやってくれ」
「……!!」
俺は息を飲み、一歩踏み出そうとした。しかしカーディナルの小さな背中から強烈な無言の意思が放射され、俺の動きを押し留めた。
アドミニストレータは、獲物を爪にかけた猫のように瞳を細め、ゆるりと小首をかしげた。
「あら……この状況でいまさらそんな条件を呑んで、私にどんなメリットがあるのかしら?」
「さっき言うたじゃろう、術を練り上げてきたと。あえて戦闘を望むなら、その哀れな人形の動きを封じながらでも、貴様の天命の半分くらいは削ってみせるぞ。それほどの負荷をかければ、貴様の心もとない記憶容量限界が更に危うくなるのではないか?」
「ん、んー……」
あくまで微笑みを消さぬまま、アドミニストレータは右手の人差し指を頬に当て、考える素振りを見せた。
「別に、結果のわかってる戦闘ごときで私のフラクトライトが脅かされるなんてことは無いけど、でもま、面倒ではあるわね。その“逃がす”っていうのは、この閉鎖空間から下界のどっかに飛ばしてやれば条件を満たすのよね? 今後永遠に手を出すな、なんてことなら拒否するわよ」
「いや、一度退避させるだけでよい。彼らなら、きっと……」
カーディナルはその先を口にしなかった。代わりに一瞬うしろを振り向き、あまりにも優しい瞳で俺を見た。
冗談じゃない、そう叫びたかった。俺のかりそめの命と、カーディナルの本物の命が等価であるはずがない。いっそ今すぐアドミニストレータに斬りかかり、カーディナルが脱出するための時間を稼ぐべきかと俺は真剣に考えた。
しかし、それはできない。一か八かの博打に、ユージオとアリスの命まで賭けることになってしまうからだ。
右手はいますぐ抜剣しろと柄を痛いほどに握り締め、右脚は動くなと床を穿つほどに踏みしめる。そんな焼け付くような鬩ぎ合いを続ける俺の耳に、アドミニストレータの声がするりと届いた。
「ま、いいわ」
にっこりと無垢な微笑を浮かべ、美貌の少女は瞬きをしながらうなずいた。
「私も、面白いことを後に取っておけるし、ね? じゃあ、神に誓いましょう。おちびさんを殺したあと、後ろの三人は無傷で逃がして……」
「いや、神ではなく、貴様が唯一絶対の価値を置くもの……自らのフラクトライトに誓え」
びしりと遮るカーディナルの声に、アドミニストレータは微笑にほのかな苦笑を混ぜ、もういちど首肯した。
「はいはい、それでは私のフラクトライトと、そこを流れる光量子に誓うわ。この誓約だけは私も破れない……今のところ、ね」
「よかろう」
こくりと頭を動かしたカーディナルは、ふわりと振り向き、今度は時間をかけてユージオとアリス、そして俺を見つめた。幼い顔にはあくまで穏やかな微笑みが、そしてブラウンの瞳には慈愛の光だけが満ちみちていて――俺は、胸中に溢れる巨大すぎる感情が液体となって視界をぼやけさせるのを止めることができなかった。
カーディナルの唇が動き、音にならない声で、すまぬな、と囁いた。
彼方でアドミニストレータも、こちらは高く澄んだ声で、さようならおちびさん、と告げた。
その右手が振られると、部屋の中央に達しつつあったソードゴーレムの動きがぴたりと止まった。手はそのまま高くかかげられ、掌が何かを握るような動作をとると、まるで空間からにじみ出るようにきらきらと光の粒が舞い踊り、細長いものの形を取った。
それは、一本の銀色の細剣だった。針のような刀身も、流麗な形の鍔も柄も、すべてが完璧な鏡の色だ。触れただけで折れそうな華奢な姿だが、しかしその秘める圧倒的なプライオリティは遠目に見ただけでも明らかだった。間違いなく、カーディナルの黒いステッキと対になるアドミニストレータ本人の神器――彼女の術式を支える最強のリソース源だ。
銀のレイピアが、しゃりん、と鳴りながらまっすぐにカーディナルを指した。
アドミニストレータの瞳が、恍惚とした歓喜の虹を渦巻かせた。
直後、極細の剣尖から、空間すべてを白く染める極大の稲妻が迸り、カーディナルの小さな身体を貫いた。
ハレーションを起こした世界のなかで、華奢なシルエットが弾けるように二度、三度と仰け反った。
巨大すぎる電撃のエネルギーが、空気をも焦がしながら拡散消滅し、俺は灼かれた眼を懸命に見開いてカーディナルの姿を追った。
幼き大賢者は、まだ倒れていなかった。長いステッキに体重の大半を預けながらも、両の足でしっかりと床を踏みしめ、その顔はまっすぐに己の究極の敵へと向けられていた。
しかし、ダメージの痕跡は痛々しいほどに明らかだった。漆黒の帽子やローブはそこかしこが焼き切れて煙を上げ、艶やかだった茶色い巻き毛までも一部が黒く炭化している。
声も出せずに立ち尽くす俺のほんの五メートル先で、ゆっくりとカーディナルの左手が持ち上げられ、焦げた髪を無造作に払い落とした。嗄れてはいるが、しっかりした声が宙に流れた。
「ふ……ん、こんなもの……か、貴様の術は。これでは、何……度撃とうが……」
ガガァァァン!!
という大音響が再び世界を揺るがした。
アドミニストレータのレイピアから、先刻をわずかに上回る規模の雷撃が放たれ、カーディナルの身体を容赦なく打ち据えた。
四角い帽子が吹き飛び、無数の灰となって消滅した。細い体が痛々しく突っ張り、ぐらりと揺れて、横倒しになる寸前でがくりと片膝を床に突いた。
「……もちろん、手加減はしているわよ、おちびさん」
溢れんばかりの狂喜を無理やり押さえつけるかのようなアドミニストレータのひそやかな声が、焦げ臭い空気を揺らした。
「一瞬で片付けちゃったら詰まらないものね? 何といっても私は、二百年もこの瞬間を待ったんだもの……ね!!」
ガガッ!!
三度の雷閃。
それは鞭のように弧を描いて上空からカーディナルを直撃し、その身体を凄まじい勢いで床に叩き付けた。高くバウンドした小さな姿が、かすかな音を立ててもう一度墜落し、力なく横臥した。
黒いローブももう大半が炭となって消え、内側の白いブラウスと黒のキュロットも無残な焦げ痕に覆われている。染み一つない雪のようだった腕の肌もまた、蛇のような火傷に巻かれ惨い有様だ。
その腕が震えながら伸ばされ、床に爪を立てるようにして身体を少しばかり持ち上げようとした。
死力を振り絞ったその動作を嘲うかのように、新たな稲妻が横薙ぎに襲い掛かった。幼い姿はひとたまりも無く吹き飛び、床の上を数メートルも転がった。
「ふ……うふふ。ふふふふ」
彼方の高みで、アドミニストレータが我慢できぬというように笑いを漏らした。
「ふふ、あはっ。あははは」
もう白目も虹彩も定かでない銀の眼が、凶悪なまでにまばゆいプリズムの輝きを強く迸らせた。
「あははは! はははははは!!」
高笑いとともにまっすぐ掲げられた鏡の細剣の切っ先から――。
ガガァッ!!
ドカァァァッ!!
ガガガァァァ――――ッ!!
と、立て続けに雷撃が発射され、もう動かないカーディナルを立て続けに突き刺した。そのたびに小さな身体は鞠のように跳ね、服も、肌も、その存在のすべてを焼き焦がされていった。
「ははははは!! あははははははは!!!」
悪魔の喜悦に身を捩り、銀髪を振り乱して哄笑するアドミニストレータの声は、もう俺の耳にほとんど届かなかった。
両眼からとめどなく液体が溢れ出し、視界をおぼろに歪ませるのは、決して際限ない雷閃の白光に網膜を痛めたからではない。
心中に吹き荒れる大渦は、灼熱と極寒を等しく混淆し、いっそ存在しないと思えるほどに激烈なものだった。カーディナルの命が今まさに失われつつあることへの焦燥、無慈悲な処刑を愉しむアドミニストレータへの怒り、しかし何より大きいのは、自分の無力さへの言いようのない感情だった。
ここに及んでもなお、俺は動けず、剣を抜くこともできなかった。たとえ結果が最悪な――カーディナルの遺志をも無駄にするものとなろうとも、俺は剣を抜き、己に可能な最大の攻撃をソードゴーレムと、その彼方のアドミニストレータへと撃ち込むべきだと、そうせねばならないと判っていてもなお動けなかった。
情けないことに、その理由すら俺には理解できているのだった。
元老チュデルキンを、通常では有り得ない超長距離の“ヴォーパル・ストライク”で斬ってのけたのが俺のイマジネーションの力なら、今俺を木偶のように縛り付けているのもまさにその力なのだ。俺は数分前、ソードゴーレムに赤子のように吹き飛ばされ、致命傷を負わされた。あの、腹から入って背骨を断ち割った剣の感触が、俺に強烈すぎる敗北のイメージを焼き付けた。ゴーレムを前にしては、もう二度とSAO時代の“黒の剣士キリト”を呼び起こすことは出来まいと俺に確信させるほどの、断固たる敗北と死のイメージ。
今の俺はどんな整合騎士にも、いや学院の生徒の誰にすらも勝てまい。ましてや――もう一度、あの最強の怪物に斬りかかることなど。決して。
「……くっ……うぐっ…………」
自分の喉が鳴り、餓鬼のような情けない嗚咽が漏れるのを、俺は聞いた。自分の敗北を悟り、しかしそれを正面から受け止めて雄々しく立ったカーディナルが今まさに襤褸切れのように殺されようとしていて、その犠牲をただ傍観することで救われようとしている俺という人間を、俺は強く憎んだ。
気付けば、左に立つユージオも、右のアリスも、それぞれの感情によるそれぞれの涙を流していた。彼らの胸中を推し量ることなどとてもできないが、しかし少なくとも、三人がともに己の無力という大きすぎる蹉跌を感じていることは明らかだった。そう――たとえこの場から脱出できたとしても、これだけの傷を心に刻まれたまま、果たして何が出来るのか、と言わねばならぬほどの。
動けない俺たちの視線の先で、恐らく最後の、そして最大の稲妻をその刀身にまとわり付かせたレイピアを、アドミニストレータが高く高くかざした。
「さあ……そろそろ終わりにしましょうか。私とお前、二百年のかくれんぼを。さようならリセリス……私の娘、そしてもうひとりの私」
どこか感傷的な台詞を、しかし狂喜に歪む唇に乗せ、最高司祭は鋭くレイピアを振り降ろした。
幾千の光条となって宙を疾った最終撃は、ふたたび一つに撚り集まり、横たわるカーディナルの身体を撃ち、包み、焼き、焦がし、破壊した。
右脚の先を炭と変えて散らしながら、最古の賢者はゆっくりと宙を舞い、俺のすぐ足元へと落下した。もう質量すらも殆ど感じさせない、がさりと渇いた音が響いた。更に多くの黒い欠片が、身体の各所から床に零れた。
「うふふ……あはは……あははははは! あーっはははははは!!」
右手の剣をくるくると回し、空中でダンスを踊るがごとくアドミニストレータが再びの哄笑を放った。
「見える……見えるわ、お前の天命がぽとりぽとりと尽きていくのが!! ああ……なんという法悦……なんという……うふふ……ふふふふ……さあ、最期の一幕を見せて頂戴。特別に、お別れを言う時間を許してあげるから!!」
その言葉に諾々と従うがごとく、俺は、壊れた人形のようにがくりと膝から崩れ、カーディナルに向けて手を伸ばした。
幼い少女の、炭化していないほうのまぶたは閉じられていた。だが、指先が触れたその頬からは、消え去る寸前のほんの、ほんのわずかな命の温かさが伝わった。
ほとんど無意識のうちに、俺は両手でカーディナルの身体を抱き上げ、胸に抱えた。とめどなく溢れる涙が、次々に惨い傷痕のうえに滴った。
それが切欠でもあったかのように、少女の睫毛がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がった。激痛のさなか、死の寸前にあって尚、カーディナルのマホガニー色の瞳は尽きることの無い慈愛を湛え、俺を見た。
『泣くな、キリトよ』
その言葉は、声ではない音として俺の意識に響いた。
『そう……悪くない、最期じゃ。こうして……心を繋いだ誰かの腕に抱かれ……死ねるなどとは、とうてい……想って……おらなんだよ』
「ごめん……ごめんよ……」
俺の唇から零れ落ちた言葉も、ほとんど声とは言えない空気の震動でしかなかった。それを聞いたカーディナルの、奇跡的に無傷な唇が、ほのかな笑みを浮かべた。
『なにを……謝る……ことがある。お主には……まだ、果たすべき……使命がある、じゃろう。お主と、ユージオ、そして……アリス……三人で……この、儚く、美しい、世界……を……』
カーディナルの声は急速に薄れ、その身体もまた軽くなっていくようだった。
不意に、同じく跪いたアリスが両手を伸ばし、カーディナルの右手を包んだ。
「必ず……必ず」
その声も、頬も、しとどに流れる涙で深く濡れていた。
「あなた様に頂いたこの命……必ずや、お言葉を果たすために……使います」
続いて、左側からユージオの手が伸ばされた。
「僕もだ」
ユージオの声は、これがあの気弱で優しい相棒かと思えるほどにしっかりとした意思に満ちていた。
「僕も、いまようやく、僕の果たすべき使命を悟りました」
しかし――。
それに続いた言葉は、俺も、アリスも、そして恐らくはカーディナルですらも予想し得ないものだった。
「そして、その使命を果たすべき時もまた今――この瞬間です。僕は逃げない。僕にはいま成さねばならないことがある」
ユージオ――一体なにを。
そう思い、俺は視線を動かした。
亜麻色の髪の少年、俺の無二の親友、ルーリッドの剣士ユージオは、一瞬だけ俺の瞳を見返し、微笑み、頷いた。彼はすぐにカーディナルに瞳を戻し、その言葉を口にした。
「最高司祭カーディナル様。残された最後の力で、僕を――僕のこの身体を、剣に変えてください。あの人形と同じように」
その言葉が、意識を引き戻したのか――。
ほとんど光が失われつつあったカーディナルの瞳が、ほんの僅かだけ見開かれた。
『ユージオ……そなた……』
「こうするしかないんです。今僕らがここから退いたら……アドミニストレータは世界中の人間たちの半分を、あの恐ろしい怪物に変えてしまう。そんなの、絶対にさせちゃだめだ。その悲劇を防ぐための、ほんの一筋の光が……最期の可能性が残されているとすれば、それは、この術式の中に……」
すべてを悟り切ったような、透明な微笑みを浮かべ、ユージオはごく微かな声で、しかしはっきりと詠じた。
「システム・コール……リリース・コア・プロテクション」
初めて耳にする、ごくごく短い術式だった。
それを言い終えたユージオが、唇を結び、まぶたを閉じた。
途端、彼の滑らかな額に、まるで電気回路のような複雑な紋様が、紫色の光のラインで描き出された。それは見る見る間に、両頬から首を伝って伸び、肩、二の腕、そして指先へと達する。
幾多の光のパラレルラインは、ユージオが両手で握るカーディナルの右手にまでわずかに浸出し、そこで入力を待ち受けるかのようにちかちかと先端を瞬かせた。
核心防壁解除――。
その名前から察するに、ユージオは今、己の全存在に対する無制限の操作権をカーディナルに与えたのだろう。彼がなぜそんな術式を知っているのか、そもそもなぜそのようなコマンドが用意されているのか、何一つ解らないが、しかし少なくともその短い式句はユージオの決意と覚悟を明らか過ぎるほどに映し出していた。
コマンドを受け取った瀕死の賢者は、無事な左目と、灼かれた右目をも限界まで見開き、唇を震わせた。わななくような思考波が、触れる肌を介して伝わった。
『よいのか……ユージオ。元の姿に……戻れるかどうか……わからぬぞ』
額と両頬に光の回路を浮き立たせたユージオは、目蓋を閉じたまま、深く頷いた。
「いいんです。これが僕の役目……僕がいま、この場所に存在する唯一の意味なんです。さあ、早く……アドミニストレータが気付く前に」
やめろ。
俺はそう叫びたかった。
人間の肉体を、その属性を無視して武器に変換するなどという超高位コマンドを実行できるのはこの世界にアドミニストレータとカーディナルの二人しかいない。うち片方は究極の敵であり、もうひとりは今まさにその命を尽きさせようとしている。つまり、仮にユージオがその身を剣と成し状況を打破し得たとしても、もう一度彼を人に戻すことができる術者はもう居ないかもしれないのだ。
しかし――今の俺に何が言えるだろう。
一度の敗北で骨の髄まで震え上がり、もう剣を振りかぶることも、前に足を出すことすらも出来ない俺に。
血がにじむほどに唇を噛み沈黙する俺の腕のなかで、カーディナルはすうっと眼を閉じながら、一度深く頷いた。
『よかろう、ユージオ。我が生涯最後の術式を……そなたの意志に、捧げよう』
燃え尽きる寸前の蝋燭が一瞬強く輝くかのように、はっきりとした声が俺たちの意識に響いた。
かっ、とブラウンの瞳が見開かれ、その中央に、紫の光が宿った。
カーディナルの手に接続された無数の回線が、強烈な輝きを宿して燃え上がった。その光は一瞬でユージオの身体を駆け上り、額の紋様にまで達すると、そこから溢れてまっすぐ上空に柱となって屹立した。
「なにを……!」
叫んだのは、彼方から陶酔の表情でこちらを睥睨していたアドミニストレータだった。勝利の余韻が一瞬で消え去り、銀瞳をいっぱいに剥き出させて、支配者は怒りの声を放った。
「死に損ないが何をしているッ!!」
右手のレイピアが振り下ろされ、耳を劈く咆哮とともに巨大な雷光がまっすぐこちらに向けて迸った。
「させない!!」
叫び返したのは、整合騎士アリスだった。
もう天命も限界のはずの金木犀の剣が、じゃああっ!! とその刀身を分裂させ、黄金の鎖となって宙を疾った。
鎖の先端が、アドミニストレータの稲妻に触れた。と思った瞬間、エネルギーの奔流は一直線に鎖を伝い、アリスの右手に迫った。
しかし、致命の一撃が主を撃つ寸前、黄金の鎖は後方にもその身を伸ばし、端についた針を大理石の床に突き立てた。稲妻はその回路から逃れることが出来ず、巨大なエネルギーのすべてを塔の構造物にむなしく撃ち込み、ただ爆発音と白煙のみを生み出して消滅した。
アリスは、左手の人差し指をまっすぐにアドミニストレータに向け、高らかに叫んだ。
「私に雷撃は効かぬ!!」
「人形風情が……生意気を言うわね!!」
唇をゆがめてそう吐き捨てた支配者は、あらためて凄絶な笑みを浮かべなおすと、白銀のレイピアを高く掲げた。
「なら……これはどうかしら!?」
ぼぼっ!! と低い唸りを放ち、刀身のまわりに無数の紅点が出現した。その数四十か、五十か――。あれほどの数の熱素をどうやって制御しているのか、もう推測することもできない。
アリスの金木犀の剣が、火焔による不定形の攻撃に弱いのは先のチュデルキンとの戦闘で明らかになっている。しかし黄金の騎士は退く気配も見せず、決死の覚悟で右脚を一歩前に出した。主の決意を感じたかのように、鎖を形作る小片たちもじゃきっ! と鋭い金属音を響かせると、空中に整然と並んだ。
両者が対峙するあいだにも、ユージオを包み込む紫の光輝は際限なく強まり続けている。
手が離されてもなお、光の回線はカーディナルとユージオを固く結び、洪水のような情報を伝えているようだった。不意にユージオの身体からがくりと力が抜け、しかし彼はそこに倒れることなく、逆にわずかに空中に浮かび上がった。
まっすぐに直立したユージオの身体から、すべての衣服が蒸発するように消えうせた。その寸前、片方のポケットから、不思議な物体が――ちかちかと瞬く紫のプリズムが零れ、ふわりと舞い上がるのを俺は見た。
それが、整合騎士アリスから失われた記憶の欠片であることを、俺は直感的に悟った。本来、天井で輝く神話図の一角に収まっているはずのそれを、ユージオはいつのまにか回収してのけていたのだ。
彼にしてみれば、あとは騎士アリスの魂にその記憶ピースを戻すだけで目的のすべてを達成できていたことになる。しかし、一体なにがユージオを、目的の成就を目の前にしてこのような自己犠牲に駆り立てているのか。
俺の内心に渦巻く疑問に答えることなく、ユージオは目を閉じたその顔を高く仰向かせた。舞い上がった紫のプリズムが、彼の額のすぐ前にぴたりと停止し、強く瞬いた。
そしてもうひとつ――。
腰に巻かれた剣帯が消滅し、繋がれていた青薔薇の剣も落下すると見えたのだが、それもまた重力に抗うように浮き上がると、鞘のみを脱ぎ捨ててユージオの胸の前に音もなく静止した。
ユージオの鍛えられた白い身体と、青薔薇の剣の氷色の刀身、そして紫の小さな三角柱が、一直線に並んだ。
直後、すべてを覆いつくすような強烈な輝きが、三者を中心として部屋中に迸った。
「みんな燃え尽きてしまいなさい!!」
アドミニストレータが、絶叫とともにレイピアを突き出した。
その刃を包んでいた炎が、巨大な火球となってこちらに発射された。
「させないと……言ったはず!!」
凛とした声で叫び返し、渦巻く火焔にむかって飛び出していったのはアリスだった。
彼女の周りで浮遊していた黄金片たちが、一瞬にして凝集し、ひとつの巨大な盾を作り出した。それを右手に掲げ、騎士は高く、高く跳躍すると、身体ごと恐るべき大きさの火球へと突っ込んだ。
一瞬の静寂。
直後の爆発は、閉鎖空間すら揺るがすほどの規模だった。荒れ狂う熱と閃光、そして衝撃波が広大な部屋中に広がり、すべてを焼き焦がしたが、アリスの身体に守られた俺は熱波に息を詰まらせただけだった。離れた場所で静止したままのソードゴーレムすらぐらぐらとその巨体を揺らし、さらに彼方のアドミニストレータも左腕で顔を覆った。
真紅の閃光が薄れ、爆発の中心点からどさりとアリスが落下した。わずかに遅れて、無数の黄金片もまた、その力を失ったかのように主の周囲に舞い散り落ちた。
アリスの白い装束は各所で炭化し、煙を上げている。肌も広範囲に受傷し、天命が大きく減少したことは明らかだ。意識も失ったようで、その身体はもうぴくりとも動かなかったが、しかし彼女が稼いだ貴重な数秒のあいだに、カーディナルの最後の術式はついに完成されようとしていた。
紫の光柱に包まれたユージオの身体が、実体を失い、すっと透き通った。その胸の中央に、吸い込まれるように青薔薇の剣が沈み込み、それもまた半透明の光と化して主と完全に同化した。
再びの強烈な閃光。
思わず目蓋を閉じかけた俺の視線の先で、ユージオの身体が無数の光となって解けた。それらは渦を巻くようにひとつの十字架のかたちに寄り集まり、凝縮した。
一瞬ののち、そこに浮遊しているのは、もう俺の親友の姿ではなかった。
青いほどに純白の刃と、十字の鍔、柄を持つ、一本の巨大な剣がそこに在った。刀身はもとのユージオの腰ほどにも幅広く、それでいて優美なラインを描き、鋭い剣尖へと収縮している。その刀身の中央に穿たれたちいさな溝に、いまだ宙に漂っていた紫のプリズムが、まるで寄り添うように近づき、かちり、と音を立てて嵌まった。
カーディナルの左腕が、力を失い、ぱたりと垂れた。
唇がかすかに震え、最後の一句が、微風のように宙を渡った。
『リリース……リコレクション』
きぃぃぃん!! と鋭い共振音を放って、紫のプリズム――アリスの記憶ピースが眩く光り輝いた。それに応えるように、ユージオの剣も涼やかに刀身を鳴らし、ふわりと更に高く浮かび上がった。
いまや、白い大剣は、ソードゴーレムとまったく同じロジックによって自ら動いていた。つまり、人の身より鍛えられた剣、その所有者たる人の記憶、両者を繋ぐ想いの力だ。
その想いの色だけが、ソードゴーレムと決定的に異なるはずだった。
ゴーレムを動かすのが、引き裂かれた恋人や家族の哀しみの力であるならば、白い大剣はついに巡り合ったユージオとアリスの愛の力で動いている。その証左として、俺は剣から放射される、人の善なるエネルギーの波動を強く感じた。
「おのれリセリス……余計な真似をっ……!!」
まるで、剣の放つ輝きから眼を守るように顔を背けながら、アドミニストレータが叫んだ。
「術式を模倣したところで……そのような貧相な剣一本で私の機兵に対抗できるはずもない! 一撃のもとにへし折ってあげるわ!!」
さっ、とアドミニストレータの左手が振られると、これまで沈黙していたソードゴーレムの両眼が再び青白く輝いた。ぎいいいん、と耳障りな軋み声を放ち、巨体がぐぐっと前進を始める。
世界最強の怪物に対し、ユージオの剣はすっと刀身を回転させると、その切っ先をまっすぐに敵に向けた。
白い刀身が一層その輝きを増し、雪のように光の粒を舞い散らせた。
直後、彗星のように光の尾を引きながら、剣はまっすぐにゴーレム目掛けて突進を開始した。
『……美しい……』
俺の腕のなかで、カーディナルがかすかに呟いた。
『人の……愛、そして意志の放つ……光……。なんて……美しい……』
「ああ……そうだな」
抑えようもなく、両眼から涙が溢れるのを感じながら、俺は囁き返した。
『キリト……あとは、頼んだ、ぞ……。世界を……人々を……守っ……て……』
最後の力で目蓋を持ち上げ、透き通った瞳でまっすぐ俺を見て、カーディナルはそっと微笑んだ。俺が頷くのを見届けると、世界最古の賢者にして齢幼き少女は、ゆっくりと目を瞑り、穏やかに息を吐き――そして二度と呼吸することはなかった。
両腕に感じていたささやかな重みが、溶けるように消えていくのを、俺は滂沱と滴る涙の熱さとともに感じた。
滲む視界のなか、カーディナルの遺志を注ぎ込まれた白い剣は、光の翼を羽ばたかせながらどこまでもまっすぐ飛翔していく。
それを迎え撃つかのように、くろがねの巨兵は、両手の大剣と肋骨の鎌を大きく広げた。黝い闇をまとわり付かせた無数の刃が、凶悪なあぎとと化していっぱいに口を開いた。
数値上のプライオリティだけで比較するなら、ユージオひとりの身体と青薔薇の剣だけが基となった白の剣では、百数十人もの人間を転換したゴーレムには抗すべくもない。
それでも、ユージオの剣はさらに速度を増し、待ち受ける刃の獄へと突進する。
その軌道が貫く先――ゴーレムにもし心臓があるとすればそこだったろう、という左胸の肋骨部を凝視した俺は、あることに気付き、涙の雫を散らしながら大きく目を見張った。
これまで、左右同じ数だけ対になっていると思っていたゴーレムの肋の剣が、左側のそこだけ一本少ない。
もしかしたら――あそこには本来、天井の神話図に組み込まれたアリスの記憶が操る剣が合体するはずだったのではないだろうか。
それが、何らかの理由によって記憶ピースが分離されたため、本来あるべきパーツが一つ少なくなってしまったのだ。アリスの記憶とユージオの身体からなる白の大剣は、まっすぐにその空虚を目指している。
俺がそう悟ったその瞬間。
両者が激突し、白と黒のエネルギーが絡み合い、渦巻き、炸裂した。
ギャァァァァッ!! という、獣の咆哮にも似た多重の金属音を放ってゴーレムの剣の牙が噛み合わされ――。
しかし、それより一瞬早く、白い剣はゴーレムの肋骨に開いたわずかな間隙を深々と貫き通していた。
これまで、黒い炎のような闇によって接合されていたゴーレムの無数の間接部に、貫かれた肋骨から広がった白い光が猛烈な勢いで浸透していく。
それはまるで、引き裂かれた恋人たちの悲哀を、ユージオとアリスの愛が癒し、昇華させているかのように俺には見えた。
ぎいいいというゴーレムの醜い叫びが、みるみるうちに澄んだ鈴の音となって高まり、共鳴し、拡散した。
直後、閉じた両腕と肋骨の中心部から、純白の輝きが迸り――数十本の魔剣は、嵐に引き裂かれるかのように、ばらばらに分離して吹き飛んだ。
凄まじい速度で回転しながら高く舞い上がった剣たちは、放射状に飛び散り、轟音とともに円形の部屋の外周部に一斉に突き立った。
俺のすぐ背後にも、巨大な刃が墓標のごとく屹立した。それは間違いなく、俺の身体を分断したゴーレムの右脚だったが、まとわり付いていた鬼気とでも言うべきオーラはすでに消えうせ、今はもうただの冷たい鉄でしかなかった。
ゴーレムを動かしていた天蓋の数十の神図たちも、不規則に明滅しながらその紫の輝きを薄れさせ、やがて完全な闇に没した。“彼ら”の意識がどうなったのかは定かでないが――少なくとも、その感情を糧にしていたアドミニストレータの完全支配術は解け、二度と再現されることはあるまいと思えた。
世界最強の魔神を一撃で分解せしめた白の大剣は、いまだ空中に横たわり、きらきらと光の粒を振り撒いていた。
その刀身の中央に埋まり煌くアリスの記憶フラグメント、その内部に刻まれているのは、ルーリッドに生まれてから十一歳の夏までを共に過ごしたユージオとの思い出であることはもう明らかだ。だからこそこの奇跡は起こり得たのだし、剣のまとう輝きがこれほどまでに美しいのだ。
「ああ……ほんとうに、綺麗だ」
俺は、腕のなかのカーディナルの骸を強く抱きしめ、もはやアンダーワールドからも現実世界からもはるか遠い場所へと旅立った彼女の魂へと囁きかけた。
応える声はなかったが、惨く傷つけられた小さな体が、ほのかな燐光に包まれていくのを俺は感じた。その輝きは、白い剣の放つ奇跡の光とまったく同質の清浄さに満たされていた。それこそが、カーディナル、あるいはリセリスという名を持つ少女が、何度も繰り返し自称していたようなプログラムではなく、真の感情と愛を持つひとりの人間であったという証左だと俺は確信した。燐光は、ほのかな温かみすら伴って俺の萎え切った体に染み込み、同時に骸はその重みを少しずつ薄れさせていく。
隔絶空間をあまねく照らし出し、浄化するかのような白い輝きの波動を――。
あくまで拒絶するがごとく、冷ややかな声が刃となって切り裂いた。
「死に際に悪あがきをしてくれるわね、ちびっこは。ちょっとだけ興醒めだわ」
己の最後の切り札を破壊されてなお、傲然とした態度を崩すことなく、アドミニストレータは壮絶な笑みを浮かべて見せた。
「――でも、せいぜい試作品をひとつ壊すくらいが限界だったってことよね。あんなもの、これから何千個、何万個だって造れるんだもの」
鏡のレイピアに左手の指先を這わせながらそう嘯くその姿には、カーディナルの同位体であるはずの彼女のほうはほんとうにすべての感情を凍結しているのかもしれないと思わせる、底知れない闇の色がまとわり付いている。いや、比喩でなく、輝かんばかりの白亜の肌と銀髪を持つその肢体を、瘴気のごとく赤黒いうねりがゆったりと取り巻いているのが見える。
俺の体の底に、恐怖のいう名の冷たい蛇がふたたび鎌首をもたげるのを感じる。無敵と思えたソードゴーレムはついに破壊されたが、その代償はあまりに大きかった。世界で唯ひとり、アドミニストレータの超魔力に抗しうる人物を俺たちは失ってしまったのだから。
声も出せず、ただ最高司祭の姿を見ることしかできない俺とは対照的に――。
涼やかな音を響かせ、先端をまっすぐに敵に向けたのは、浮遊を続けるユージオの剣だった。
「あら」
凶悪な輝きを銀鏡の瞳に浮かべ、アドミニストレータが囁いた。
「まだやる気なの、坊や? 術式の穴を衝いて私の機兵を崩したくらいで、ずいぶんと強気じゃない?」
その言葉が、鉄身と化したユージオの意識に届いているのかどうかは定かでない。しかし、純白の大剣は小揺るぎもせず、鋭い切っ先で最高司祭を狙い続ける。刀身を取り巻く輝きは再び強まり、きん、きんという刃鳴りもその周波数を高めていく。
「……やめろ、ユージオ」
俺は思わずそう口走り、左手を伸ばした。
「もういい、戻れ。一人で行くな」
圧倒的な危惧に突き動かされ、俺は力の抜けた足でわずかに前ににじり進んだ。まっすぐ差し出した指先に、剣から放射される光の粒がひとつ触れ、弾け、消えた。
直後。
轟という響きを放ち、大剣の柄部分からもういちど純白の翼が大きく広がった。それを力強く羽ばたかせ――白い剣は、凄まじい速度で一直線にアドミニストレータ目掛けて突進した。
支配者の真珠色の唇に、凶悪な笑みが一杯に浮かんだ。軋むような音を立てて振り下ろされた鏡のレイピアから、尽きることない極大の雷光が迸り、迫る光の剣を迎え撃った。
剣の切っ先が、雷光に触れた瞬間。
これまで記憶にないほどの衝撃波が荒れ狂い、遠く離れた俺の全身をも強打した。
顔を背けながらも、限界まで眼を見張った俺の視線の先で、アドミニストレータの雷光が、無数の細条へと引き裂かれるのが見えた。
バァァァーッ!! という轟音とともに飛び散った稲妻の破片が、部屋の各所を叩く。超高優先度の激流を正面から打ち毀し、剣はなおも飛翔する。その刀身の表面が、微細にひび割れ、次々と破片を散らしていくのを俺は見た。それら全てはユージオの肉体、命そのものであるはずなのに。
「ユージオ!!」
叫んだ俺の声は、荒れ狂う嵐に紛れ。
「小僧……!!」
アドミニストレータの唇からついに笑みが消え。
雷光をその源まで遡りきった白の大剣は、その尖端を、レイピアの針のような切っ先に正確に命中させた。
超高周波の震動が空間すべてを揺るがした。アドミニストレータの全魔力を支えるリソース源たる鏡のレイピアと、ユージオの変じた白い剣は、真正面から凄まじい密度の鬩ぎ合いを数瞬、続けた。見かけ上は完全な静止状態だったが、それが次なる破壊への前兆であることを俺は全身の肌で感じた。
やがて起きた現象は、コンマ数秒のことだったが、俺にはとてつもなくゆっくりとしたスロー再生のフィルムのように見えた。
アドミニストレータのレイピアが、無数の鏡の破片となって粉砕され。
白い大剣が、その刀身の中央から真っ二つにへし折れ。
回転しながら吹き飛んだ前半分の刃が、アドミニストレータの右腕を、その肩口から滑らかに斬り飛ばした。
それらすべてが、無音のスクリーンに緩やかに映し出され、やがて遠くから音と震動が追いついた。
直後、解放されたリソースが引き起こした大爆発が、二者を飲み込んだ。
「ユージオ――――――――!!」
俺の絶叫は、荒れ狂う電磁ノイズのような轟音に呑まれ、俺自身にも聞こえなかった。打ち寄せてきた衝撃波が、俺の体を叩き、壁際まで吹き飛ばした。
突き立つゴーレムの剣の陰で激流をやり過ごし、腕にカーディナルの遺骸を抱えたままよろよろと立ち上がった俺が見たのは――。
初めて二本の足で床に立ち、蒼白の無表情で肩の傷口を押さえたアドミニストレータと。
その足元に横たわる、ふたつの剣の破片だった。
剣には、いまだうっすらと白い輝きが宿っていた。
しかし呆然と見守るうちに、それはまるで心臓の鼓動のようにゆっくりと明滅しながら力を失い、やがて、消えた。
白い剣の断片たちは、同時にすうっとその実体を失い、紫に透き通った構造体に戻ると、徐々にその形を人の姿へと変じさせた。
切っ先から刃の中ほどまでの破片は、両脚と腰の半ばほどまで。
そして柄を含む破片は、ユージオの上半身へと。
亜麻色の髪の少年は、目を閉じ、胸の上に乗せた右手に紫のプリズムを握っていた。その体が肌の質感を得、重さを取り戻し、その直後。
分断された体の双方から、恐ろしいほどの量の血液が溢れ出し、一瞬にしてアドミニストレータの素足を浸した。
「あ…………あ…………」
自分の喉から搾り出される割れた声を、俺はどこかとても遠い場所から聴いた。
世界はすべての色を失い、匂いも、音も、極限まで希釈された。
無感覚の空間のなかで、こんこんと広がり続ける血の色だけがぞっとするほど鮮やかだった。その真紅の海の中央、横たわるユージオの上半身のすぐ傍らに、はるか上空から煌きながら舞い降りたものがあった。
とん、と軽い震動と波紋を生じさせて血溜まりに突き立ったのは、華奢な青銀の長剣――青薔薇の剣だった。見た目は完璧なまでに無傷、と思えたのはほんの一瞬で、不意に、かしゃん、とささやかな破砕音が響き、刀身の半ばから下が極微の結晶となって砕け散った。支えを失った上半分が、ゆっくりと傾いて、ユージオの顔のそばに力なく転がった。飛び散った飛沫のひとつがユージオの頬に当たり、つう、と流れた。
俺は、よろよろと二、三歩あとずさると、床に両膝を突いた。
虚ろに眼を開いたまま、すがりつくように腕のなかのカーディナルの遺体を強く抱いた。しかしその小さな体は、すでに半ば以上光の粒へと還元され、実体をほとんど失っていた。放出された仄かに暖かいリソースは俺の体へと浸透し、何らかの作用を導こうとしているようだったが、俺の胸中に広がる虚無を埋めるには足りなかった。冷ややかで果てのない空疎のみが俺の内部を満たした。
もう――これで終わりにしよう。
そんな思考が、虚ろの奥から泡のように浮かんではじけた。
俺たちは、いや俺は、あらゆる意味で敗れたのだ。俺がいまこの場所に存在する意味、それはただひとつ、ユージオという名の魂を現実世界へと解き放つためではなかったか。なのに現実には、俺がユージオの犠牲に守られ、こうして木偶のように跪いている。この世界で命を落とそうと、それは単なる“ログアウト”にしかならない俺が。
なら、もう終わらせてくれ。
あとはただ、フェードアウトするようにこの場所から消え去りたい。
もうこれ以上、何を見たくも、聞きたくもない。
俺はただそれだけを願った。
しかし――。
アンダーワールドは、やはり、ひとつの確たる現実であり、その支配者もまたエンド画面とともに停止するプログラムなどではなかった。
血の海に立ち尽くしていたアドミニストレータの、彫像のごとき無表情のなかに、かすかな感情の色がいくつか浮かび、消えた。唇が動き、俺の耳に否応なく美しい声が届いた。
「これほどの傷を負ったのは……何百年ぶりかしらね」
その呟きは、怒りよりもむしろ感嘆しているかのようだった。
「ユージオちゃんが転換した剣……プライオリティ的には、とても私の“シルヴァリー・エタニティ”に対抗できるはずはなかったのに、意外な結果だわ。メタリック属性でないのを見落としたのも私の失点ね。まだまだ考証すべきデータは多いわ……」
切断された右肩からは、ぽたり、ぽたりと紫がかった真紅の血が垂れ、足元の海に波紋を作っている。アドミニストレータはその雫をいくつか左の掌に受けると、それを青い光へと変え、傷口に注いだ。切断面が一瞬にして滑らかな皮膚に覆われた。
「さて……」
応急手当を終えた支配者は、長い睫毛をしばたかせ、銀の視線を俺に向けた。
「最後に残ったのがお前だとは、これも少々意外ね、人間の坊や。管理者権限も持たずに、一体何のためにここまで来たのか、わずかばかりの興味はあるけど……でも、もういささか飽きたし、眠いわ。顛末はあとであの者に訊くとして、いまはお前の血と悲鳴でこの喜劇の幕を引くとしましょう」
す、と右足が前に出され、アドミニストレータは優美な動作で歩行を始めた。ユージオの血でできた海に、ぱしゃりぱしゃりと飛沫が跳ねる。
歩きながら、俺の死神である少女は、滑らかに左手を真横に伸ばした。その掌目掛けて、後方からふわりと飛んできたのは、華奢な一本の腕――ユージオの剣に撥ねられた彼女の一部だった。
肩に再接続するのか、と思ったが、自分の腕の手首部分を握ったアドミニストレータは、それを顔の前まで持ち上げ、ふっと息を吹きかけた。その途端、紫色の光が腕を包み、金属質の震動音とともにオブジェクト転換が行われた。
出現したのは、シンプルながら華麗な刀身と柄を持つ、銀色の長剣だった。破壊されたレイピアほどには完璧な鏡色ではないが、世界最高の優先度を持つ人間の腕一本をまるまるリソースとしているだけあって、その秘めたる威力は明らか――少なくとも、一撃で俺の首を撥ねるには充分すぎると思えた。
死が、滑らかな音で絨毯を踏みながら近づいてくるのを、俺は跪いたままただ待ち受けた。
もう何の感情も見せることなく、俺の目の前までやってきたアドミニストレータは、片腕を失ってもなお輝かんばかりの裸形で、傲然と俺を見下ろした。
見上げた俺の視線と、鏡の瞳がはなつ磁力的な光がぶつかった。その双眸に、ごく微かな笑みを浮かべ、少女は優しい声で囁いた。
「さようなら、人間。いつかまた、向こうで会いましょう」
きらきらと光を振り撒きながら、長剣が高々を振りかざされた。
針よりも鋭い切っ先に、ちかりと星のような瞬きが宿り――。
神速でそれが降り注ごうとした、その寸前。
ひとつのシルエットが、俺と死のあいだに割って入った。
長い髪が、ふわりと宙を舞った。
両腕をいっぱいに広げた、満身創痍の少女騎士の背中を、俺は呆然と見つめた。
この光景は、
見たことがある。
俺は、
何度、
同じ過ちを――
――繰り返すつもりなのか!!
閃光にも似たその叫びが、時間を一瞬、停止させた。
静寂に包まれたモノクロームの世界で、いくつかのことが連鎖的に起きた。
俺の腕のなかのカーディナルのからだが、ついに最後の光を散らして消滅した。放出されたリソース、あるいは世界を愛した一人の少女の遺志が仄かな熱となり、俺の内側の深いところにまで届いた。
そこに凝っていた冷たい恐怖、俺の動作を縛していた敗北の確信を、小さな手が撫で、ほんの少しだけ溶かした。
負のイメージが消えたわけではない。
しかし、その弱さを肯定することはできるのだと、温かな手の持ち主が俺に囁いた。
常に勝ち続けなくてもいい。いつか敗れ、倒れたとしても、心を、意志を誰かに繋げられれば、それでいい。
――これまで、お主とひとときを共有し、そして去っていったすべての者はそう思っておったはずじゃ。無論、このわしも。
――ならば、お主だって、まだ立てるはずじゃ。
――愛する誰かを、守るためなら。
身体の、あるいは意識の奥底から発生したささやかな熱が、凍りついたフラクトライトのなかに細い回路をつないでいくのを俺は感じた。
胸の中央から、右肩を通り、腕をたどって、指先へと。
燃え上がるような熱さに包まれた五指が、ぴくりと震えた。
かつてない程の速度で閃いた右手が、左腰の剣の柄を、しっかりと掴んだ。
そして再び、時間が動き出した。
俺を守らんと、大きく両手を広げて立つ騎士アリスの左肩口めがけ、アドミニストレータの剣が流星となって墜ちてくる。
その告死の刃が、焼け焦げた騎士服のふくらんだ袖を引き裂き、白い肌に食い込もうとした、まさにその瞬間。
俺が立ち上がりざまに抜刀した黒い剣の切っ先が、ぎりぎりの所で下方から迎え撃ち、凄まじい火花を散らした。
発生した衝撃は、密接していた俺とアリス、そしてアドミニストレータを圧倒的な勢いで吹き飛ばした。
胸に倒れ込んでくるアリスの身体を左手で抱えたまま、数メートルも後方に押しやられた俺は、両脚を踏ん張って硝子に激突するのをこらえた。俺の右肩に頭をあずけたアリスは、ずるりと顔を傾かせて、青い瞳で俺を見た。
「なんだ……」
アドミニストレータの火炎攻撃をその身で防いだ傷も生々しい頬を、ほんのわずかにほころばせ、騎士はかすれた声で囁いた。
「まだ、動けるでは……ないですか」
「……ああ」
俺も、どうにか笑みらしきものを返し、そう答えた。
「後は、任せておけ」
「そう、させて……もらいます」
その一言を最後に、アリスは再び意識を失い、がくりと膝を折った。
細い体を左腕で支え、そっと床に降ろすと、俺はもういちど胸中で呟いた。
あとは任せて、ゆっくりと休んでくれ。
シャーロット、カーディナル、そしてユージオから預かったこの命を、俺は君に繋ぐ。
いま、どうしても成すべきは、アリスだけでも何としてもこの隔絶空間から脱出させることだ。そのために、俺はアドミニストレータと戦い、勝てないまでも相討ちに持ち込まねばならない。
たとえこの四肢すべて斬り飛ばされ心臓を貫かれようとも。
その覚悟を噛み締めながら視線を上げ、俺は敵を見据えた。
アドミニストレータは、笑みを極限まで薄れさせ、剣を握った左手を見つめていた。先の戟剣で傷ついたのか、柔らかそうなその掌がわずかに擦りむけ、一滴の血が剣の柄に伝っている。
「……さすがにそろそろ不愉快になってきたわ」
ぽつり、と極寒の響きをまとった声が漏れ出た。俺に向けられた鏡の瞳が、すう、と細められた。
「何なの、お前たちは? なぜそうも無為に、醜く足掻くの? 結果はもう明らかだというのに。そこにたどり着く過程にどんな意味があるというの?」
「過程こそが重要なんだ。跪いて死ぬか、剣を振りかざして死ぬかがね。俺たちは人間だからな」
応え、まぶたを閉じ――俺はもういちど、敗れるべき己の姿をイメージした。
これまで、長い間俺を否応なく規定してきた“黒の剣士キリト”の自己像。決して敗北してはならない――もし敗れたときは、あらゆる居場所を失うと怯えてきた呪縛の象徴。
しかしもう、その虚像からも手を離すべきときだ。
眼を開けると、長い前髪が視界にかかっていた。それを、指貫きのグローブに包まれた左手でかき寄せ、長い黒革のコートの裾を翻すと、俺は右手の長剣を正眼に構えた。
離れた場所に立つアドミニストレータは、瞬間眉を険しくしかめたあと、この一幕でもっとも残酷な笑みを浮かべた。
「そう、いいわ。あくまで苦痛を望むというのなら……お前には、とてもとても永く惨い運命を与えましょう。はやく殺して、と千回懇願したくなるほどの」
「それじゃ足りないな……俺の愚かさを償うには」
呟き、ぐっと腰を落として、俺は敵の銀の長剣を見た。
アドミニストレータの神聖術の超絶的威力はこれまで散々思い知らされたが、そのリソース源であった鏡のレイピアが破壊されたいま、高優先度の術式を連発することはもうできないだろう。それゆえに彼女はわざわざ己の腕を、新たな剣へと変換したのだ。
武器による近接戦闘は俺としても望むところだが、敵の剣技はまったくの未知数である。恐らくはアリスに代表される整合騎士のスタイル、つまり単発の大技を主とするものだろうが、それが決して侮ってよいものではないことは、アリスとの戦闘で思い知らされたとおりだ。
武器のプライオリティそのものでは恐らくこちらが劣るので、遠距離からの撃ち合いとなれば不利だ。なんとか密接し、敵の一撃を体で止めて、反撃を確実に命中させるしかない。
腹を決め、俺は突進に備えてさらに腰を落とした。前に出した右脚に、引き絞られた弓のように限界まで力を込める。
対峙するアドミニストレータは、涼やかな立ち姿で左手の剣を高く左後方に掲げた。やはりアンダーワールド風の古流の構えだ。あそこから放たれる一撃は恐らく回避不可能の神速技、それをなんとか連続技の初撃でいなして致命傷を避け、続く二撃目を当てる。
「………………」
俺は大きく息を吸い、ぐっと腹に溜めた。
一瞬ののち、右脚のブーツを爆発するように踏み切って、俺は跳んだ。
コートの裾が、翼のように両側ではためく。一条の黒い光線となって、俺は宙を疾る。右手の剣が、きらりと閃いて初動に入る。垂直四連撃、バーチカルスクエア――。
アドミニストレータは、俺の予想どおり、振りかぶった銀の剣を斜めの軌道で撃ち降ろしてきた。その描く曲線を読み、こちらの技を微調整して、敵の剣の腹へと叩きつける。
ギャアアンッ!!
という強烈な金属音が響き、迸った火花が空間を灼いた。
跳ね返された剣を、そのまま左に振りかぶり、無呼吸の二撃目に――
待て。
軽い。
予想では、アドミニストレータの剣は、俺の左肩に命中しそこで止まるはずだった。
しかし、敵の刃は、俺の右手にさしたる手応えも残さずに左側の虚空へと流れ――
そこで凄まじい速度で切り返されて、
俺の二撃目よりも迅く、真横から襲い掛かってきた。
――っ!?
驚愕に打たれながらも、俺は反射的に技をずらし、危うい所で銀の刃を迎え撃った。再びの衝撃。火花。
跳ね上げられた黒い剣を、引き戻すよりも一瞬先んじて。
アドミニストレータの剣が、再度左から滑り込んでくる。
受けは間に合わない。連続技を停めて身体を捻り、なんとか回避を試みる。
しかし、切っ先が僅かに胸をかすめ、コートの一部が鮮やかに切り裂かれる。
通り過ぎた銀の煌きは、何たることか、右側でもう一度超高速の切り返しを見せ――
ずばっ!! という鮮やかな横薙ぎの一撃を、俺の腹に叩き込んだ。
「…………ッ!!」
迸る鮮血の糸を引きながら、俺は後方に跳びのき、左手で傷を押さえた。
あとわずかで内臓に達するほどの深手だ。しかしその激痛よりも、俺は言葉を失うほどの驚愕に打たれていた。
いまの――今の技は――!?
喋れない俺に代わって、アドミニストレータが、剣尖のあかい雫を振り切りながらゆっくりと告げた。
「――片手直剣四連撃ソードスキル、“ホリゾンタル・スクエア”……だったわね」
自分の耳が捉えた言葉が、意味へと変換されるまでに少しのラグがあった。
ソードスキル――、
今、アドミニストレータは、そう言ったのか。
この世界では、俺とユージオしか知るはずのない、旧ソードアート・オンライン由来の連続剣技。それを見事に使いこなし、しかも技の名まで口に出すなどと――一体なぜ、そんなことが。
巨大な混乱に襲われ、じりじりと距離を取る俺の視界に、血の池に倒れ臥すユージオの姿が僅かに入った。ずきりと襲ってくる疼きと焦燥に耐えながら、俺はある可能性を思いつく。
アドミニストレータはユージオの名前を知っていた。恐らく、俺とアリスがこの部屋に乗り込む以前に、ユージオに対して何らかの干渉が行われたことは間違いない。フラクトライトへの直接アクセス権を持つアドミニストレータは、ユージオの記憶を走査し、そこから俺が彼に伝えた連続剣技を掬い取ったのではないか?
この推測が正しければ――彼女が使えるのは、片手直剣用の中級スキルまでに限られるはずだ。ユージオがマスターしていた技は最大でも五連撃までなのだから。
ならば、俺がそれ以上の技を繰り出せば、勝機はある。
片手直剣技を完全習得した俺の最大攻撃は、十連撃に及ぶのだ。もう、出し惜しみをしている状況ではない。
ぐ、と足を開き腰を落とした俺を見て、アドミニストレータがくすりと嗤った。
「あら……まだ、そんな生意気な眼ができるの? いいわね、楽しい時間が長くなるというものだわ」
片腕を落とされ、天命も大幅に減少しているはずの最高司祭は、底知れぬ余裕を見せてそう嘯いた。俺はもう言い返そうとせず、大きく息を吸い、ぐっと溜めた。
身体と記憶に染み付いたソードスキルのイメージが、鮮明に蘇ってくる。見れば、右手の剣を、ぼんやりとスカイブルーのエフェクト光が包み始めている。
ゆるり、と円を描くようにその剣を大上段に持ち上げ――
「――ハァァッ!!」
気合一閃、同時に剣から迸った眩い光芒を振り撒きながら、俺は片手直剣最上位ソードスキル、“ノヴァ・アセンション”を発動させた。
見えない力に後押しされるように、身体が超高速で宙を翔ける。初弾は、ほとんどの剣技に撃ち合わせることが可能な上段から最短距離の斬撃だ。この速度を上回る技は、片手直剣には無いはずだ。
刃がアドミニストレータの肩口を襲うまでの約〇.五秒。
加速感覚によってゼリーのように密度を増した時間のなか、俺の瞳が捉えたのは――。
す、と剣尖をこちらに向けられるアドミニストレータの銀の剣。
その刀身が、一瞬でその幅を半分ほどに縮め。
ヴァーミリオンのライト・エフェクトをちかっと瞬かせ。
ドカカカカッ!! と、立て続けの刺突八弾が自分の肉体を貫くさまだった。
「がっ……」
俺の口から、大量の血液が迸った。
黒い剣の刃は、あと髪ひとすじ程でアドミニストレータの肌を切り裂く、というところで停止していた。
初弾をインタラプトされた俺の十連撃は、ブルーの輝きをむなしく宙に放散させ、消滅した。
一体何が起きたのか、もうまったく理解できなかった。激痛と驚愕の双方に等しく翻弄され、俺は腹から血塗られた極細の刀身がずるりと抜き出されるさまを、ただ見つめた。
突き技――!?
しかし、何というスピードだ。あんな技、直剣カテゴリには存在しない。
混乱と同期するかのように、八箇所の小さな傷口から、勢い良く鮮血が噴き出した。がくりと膝から力が抜け、俺は剣を床に突きたてて倒れるのをどうにか堪えた。
俺の血を避けるように、軽やかに数歩跳んだアドミニストレータは、極細の剣で唇のあたりを覆った。それが、哄笑を抑える仕草であることを俺は直感的に察した。
「うふ……ふふふ……ざーんねんでした」
刃の縁から、きゅうっと唇の両端をはみ出させ、美貌の支配者は嘲るように告げた。
「細剣八連撃ソードスキル、“スター・スプラッシュ”よ」
――嘘だ。
そんな技、俺はユージオに教えていない。
それは――俺ではなく――アスナの得意技ではないか。
ぐうっ、と世界が歪む感覚。いや、歪んでいるのは俺自身か。有り得ないはずの事象を突きつけられ、俺は必死に解答を求める。
覗かれたのは――俺の記憶?
今の技は、俺のフラクトライトから盗まれたのか?
「嘘だ……」
俺の口から、俺のものとは思えない潰れた声が漏れた。
「そんなの嘘だ」
ぎりり、と噛み合わされた歯が軋む。自分でも理由のわからない怒り、そして再び忍び寄りつつある恐怖を打ち消そうとするかのように、俺は床から乱暴に剣を引き抜き、ふらつく脚を叱咤して大きくスタンスを取る。
左手を前に、右手を引いて。一撃必殺、“ヴォーパル・ストライク”の構え。
彼我の距離、約五メートル。完全に間合いのうちだ。
「う……あああああ!!」
萎えかけたイマジネーションの力を無理やりに引っ張り出すべく、俺は腹の底から絶叫した。肩の上につがえられた剣が、獰猛なまでのクリムゾンに輝く。それは血の色――あるいは、むき出しの殺意の色か。
対するアドミニストレータは。
俺と同じように、両脚を大きく前後に広げると、左手のレイピアを滑らかな動作で右腰に回し、まるでそこに鞘があるかのようにぴたりと止めた。
その針ほどにも細い刀身が、再び形を変えた。
ぐ、と幅と厚みを増し、その上ゆるやかな弧を描く。片刃の曲刀――あれは、まるで。
いや、もう思考はいらない。怒りだけがあればいい。
「――――おおおッ!!」
獣の咆哮とともに、俺は剣を撃ち出した。
「――シッ!!」
アドミニストレータの唇からも、抑制された、しかし鋭い気合が放たれた。
右腰の剣が、眩い銀色に輝き。
俺の血色の直突きよりも、滑らかで、美しく、そして速い曲線軌道を描いて。
抜き打ちの一撃が、俺の胸を抉った。
巨人のハンマーで横殴りにされたような、凄まじい衝撃が俺を紙切れのように吹き飛ばした。決定的な深手から、残ったほぼすべての天命を真紅の液体に変えて放出しながら、俺は高く宙を舞った。
左手をまっすぐに振りぬいた姿勢のまま、アドミニストレータが悠然と放つ言葉が、かすかに俺の耳に届いた。
「カタナ単発重斬撃、“絶虚断空”」
俺の――
知らない、
ソードスキル。
驚愕などという形容では追いつかない、圧倒的に拒絶された感覚を抱えながら、俺は床に墜落した。ばちゃり、という水音とともに、大量の鮮血が周囲に散った。俺のものだけではない――落ちたのは、ユージオの肉体から零れた真紅の海のなかだった。
痺れ切った意識、そして身体のなかで、動かせるのはもう視線だけと思えた。俺は懸命に眼を巡らせ、すぐ傍らに横たわるユージオを見た。
骨盤の真上あたりから無残に分断された、誰よりも大切な相棒は、真っ白な顔をわずかに傾けて目蓋を閉じていた。その傷口からは、まだぽた、ぽたと血が垂れていて、天命がすでに尽きてしまったのか、あるいはまだ僅かに残っているのか判別できなかったが、しかしもう意識は戻るまいと思えた。
そして、何より確かなのは――俺が、彼から受け取った意志を無駄にしてしまったということだった。
アドミニストレータには勝てない。
神聖術戦ではもちろん、剣と剣の戦いにおいても、俺があの存在に勝る部分は何一つ無かったのだ。
一体彼女が、いかなる情報源からソードスキルの恐らく全体系を己に取り込んだのかはもうまったく解らない。ユージオの記憶でも、俺の記憶でもないことだけは明らかだ。アンダーワールド構築にも使用された、汎用のザ・シードパッケージには、ソードスキルのシステム・アシスト・プログラムは含まれていない。それが現存するのは旧SAOサーバーを受け継いだアルヴヘイム・オンラインの内部だけだ。しかし、高度なプロテクトに守られたはずのALOサーバーにハッキングを仕掛けるなどということは、現実世界の人間ではないアドミニストレータに出来るはずはないのだ。
これ以上はもう、推測するだけ空しい。たとえ真実を導けたとしても、俺にはもう何もない、という事実は厳然として変わらない。
許し難い無力――耐え難い矮小さ。
シャーロットの献身、ユージオの覚悟、そしてカーディナルの遺志を、俺は――。
「――いいわね、その顔」
凍りついた刃物のような声が、倒れ臥す俺の首筋を撫でた。
剣を下げたアドミニストレータが、一歩、一歩と、しなやかに近づいてくる気配が感じられた。
「やっぱり、向こうの人間は感情表現も一味違うのかしらね? その泣き顔のまま、永遠に氷漬けにしておきたいようだわ」
絹を撫でるような喉声で、小さく嗤う。
「それに、面倒なだけだと思ってた武器戦闘も、これはこれで悪くないわね。相手の苦痛を指先で感じるもの。せっかくだから、もう少しだけ生きていて頂戴な。私がさきっぽから切り刻んで遊べるように」
「……好きに、しろ」
音にならない声で、俺は答えた。
「好きなだけ……嬲って、殺せ……」
せめて俺が、ユージオやカーディナルの倍、いや十倍苦しんでこの世界から消えるように。
もう喋る力も尽きかけ、貼り付いたように黒い剣の柄を握り続ける右手の指を、俺は最後の気力で引き剥がそうとした――
その瞬間。
耳元で、声がした。
「らしく……ないぞ、諦め……る、なんて」
切れ切れの、
今にも消え入りそうな、
しかし聞き間違えるはずもないその声は。
俺は、自分がすでに意識を失い幻覚に落ち込んだのかと疑いながら、再び視線を動かした。
泣きたくなるくらい懐かしい、鳶色の瞳が、うっすらと俺を見て微笑んでいた。
「ユー……ジオ!!」
掠れ声で叫んだ俺に向かって、相棒は、ほんの僅かに唇をほころばせてみせた。
先刻、ソードゴーレムの攻撃で腹を分断されかけた俺は、痛みと恐怖で動くこともままならなかった。しかしユージオの傷は、その比ではない。内臓から脊髄まで、全てが完璧に切断されているのだ。その痛みは、フラクトライトが崩壊するに充分なレベルに達しているはずなのに――。
「キリト」
凄まじい意志力の発露を見せ、ユージオがもういちど囁いた。
「僕は――あのとき……アリスが連れ去られるとき……動けなかった……。君は……幼い君は、勇敢に……立ち向かおうと、したのに……」
「……ユージオ……」
それが、九年前の出来事に関する言葉であろうことはすぐに解った。しかし、俺はその場には居なかったはずなのだ。ユージオの記憶が混乱しているのか、と一瞬思ったが、彼の眼に宿る光はあくまでもまっすぐで、その言葉が真実を告げていることを明白に表していた。
「だから……今度は、僕が……君の、背中を、押すよ……。さあ、キリト……君なら、もう一度、立てる。何度だって、立ち上が……れる……」
ユージオの右手が、ぴくり、と動いた。
その指が、血の海のなかから、青銀に輝く金属――青薔薇の剣の柄を拾い上げるのを、俺は溢れる涙を通して見た。
刀身の半分が粉砕された愛剣を、ユージオはその断面を血に沈めたまま僅かに持ち上げ、そして一瞬眼を閉じた。
直後、とてつもなく暖かな朱色の輝きが、俺たちを包んだ。
血だ。ほとんどはユージオの、そして少しばかり俺の零したものが混ざりこんだ血の海が、炎のように発光している。
「何をっ……!?」
アドミニストレータが、そう叫ぶ声がした。しかし、何故か無敵の支配者は、朱色の光を恐れるかのように左手で顔を覆い、一歩後ずさった。
輝きは、どんどん……どんどんその強さを増し、ついに無数の光点と化して一斉に舞い上がった。
それらは皆つぎつぎと、渦を巻いて青薔薇の剣へと吸い込まれていく。
そして、剣の断面から――真紅の、新たな刀身が。
ダイレクトリソース変換!
世界にたった二人の管理者にしか使えないはずの超絶技を間近に見て、俺は息を詰まらせた。恐ろしいほどの感情のうねりが胸の奥から湧き上がり、それは新たな涙に変わって次々と溢れ出した。
数秒でもとの長さを取り戻した青薔薇の剣の、その名の由来となった、柄に精緻に象嵌されている幾つもの青紫色の薔薇たちが、真紅にその花弁を変えた。今はもう紅薔薇の剣となったその美しい武器を、ユージオは震える腕で俺に差し出した。
さっきまで感覚すら失せていた俺の左手が、滑らかに動き、ぐっとユージオの手ごと剣の柄を掴んだ。
瞬間、身体の奥深いところに流れ込んできたエネルギーを――
俺は術式とは呼ばない。
それは確かに、ユージオの意志そのものが生み出す力だった。奇跡、そう言ってもいい。システムも、コマンドもまったく超越したレベルで、ユージオのフラクトライトから俺のフラクトライトへと伝わる魂の共振を、俺は確かに感じた。
ユージオの手から力が抜け、俺に剣を預けると、ぱたりと床に落ちた。再び微笑みを浮かべたその唇から――いや、彼の意識から俺の意識へと、短い一言が伝達された。
『さあ……立って、キリト。僕の……英雄……』
全身に穿たれた傷の痛みが消えた。
胸の奥の虚無が、燃え上がるような熱さに埋め尽くされた。
再びまぶたを閉じたユージオの横顔を、いっとき強く見つめ、俺はうなずいた。
「ああ……立つよ。お前のためなら、何度だって」
数秒前までは感覚すらなかった両腕を高く差し上げ、そこに握った二本の剣を床に突いて、俺は歯を食いしばって全身を持ち上げた。
体は半分以上言うことを聞こうとしなかった。足はふらつき、孔だらけの体幹は今にも砕けそうだ。それでも、俺は一歩、二歩と、よろけながら前に進んだ。
アドミニストレータは、背けていた顔をゆっくりとこちらに戻し――蒼い炎のような両眼で俺を見た。
「――何故だ」
放たれたその声は、フィルタがかかったかのように低く歪んでいた。
「何故そう幾度も幾度も抗おうとする。何故そうまで拒絶するのだ、慈悲深き絶望の腕を」
「言ったろう」
同じく、低く掠れた声を俺は返した。
「抗うことだけが、俺が今ここにいる意味のすべてだからだ」
その間も足を止めず、何度も倒れそうになりながら、俺はひたすらに進み続ける。
右手と左手に握った二本の剣たちは、とてつもなく重かった。しかし同時に、その強烈な存在感からはある種のイマジネーティブな力が尽きることなく湧き上がり、俺の内部を満たし、身体を動かした。そう――遠い、遠い昔、こことは別の世界で、俺はこうして二刀を引っさげて幾度も死地へと赴いたものだ。これこそが、俺が長い間忌避しつづけてきた黒の剣士、“二刀流”キリトの真にあるべき姿だ。
再び視覚のオーバーライティング現象が発生し、切り刻まれたロングコートが一瞬で再生した。無論、肉体に負ったダメージまでは消えない。だがもう、残る天命数値が幾つだろうと関係ないと思えた。手足が動き、剣を振れさえすれば、それ以上必要なものはもう何一つない。
レーザーのような視線で俺を射ていたアドミニストレータが、不意にじりっと片足を下げた。ついでもう片方も。
そののちに、己が後退したという事実に気付いたかのように、白銀の美貌に鬼神のごとき憤怒の表情が浮かんだ。
「……許さぬ」
唇が動くことなく発せられた一言は、青白い炎に包まれていた。
「ここは私の世界だ。貴様如き侵入者に、そのような振る舞いは断じて許さぬ。膝を衝け。首を差し出せ。恭順せよ!!」
ごっ!! と凄まじい勢いで、支配者の足下から、黝い闇のオーラが噴き出し蛇のようにうねった。カタナから再び直剣へと戻った銀色の刃が凶悪にぎらつきながら持ち上げられ、ぴたりと俺の胸の中央を擬した。
「……違う」
距離約五メートルの位置で脚を止め、俺は最後の言葉を返した。
「あなたは只の簒奪者だ。世界を……そこに生きる命を愛さない者に、支配者の資格は無い!!」
身体がほとんど勝手に動き、構えを取る。左手の紅い薔薇の剣を前に、右手の黒い大樹の剣を後ろに。右脚を引く。腰を落とす。
アドミニストレータの銀の剣も、すうっと肩の上まで掲げられ、俺の黒い剣と対象の位置、角度で停止した。真珠の唇から、何度と無く繰り返された言葉が、託宣のように放たれた。
「愛は……支配也。私はすべてを愛する。すべてを支配する!!」
外燃機関を思わせる同質の金属音が、双方の剣から放たれ、高く共鳴した。
銀の剣と黒の剣が、まったく同色の真紅の閃光に包まれた。
俺とアドミニストレータは、同時に床を蹴り同一のソードスキルを始動させた。
完璧な鏡像を成して、剣が矢のように引き絞られ、一瞬の溜めで光を倍増させ――撃ち出される。
等しい軌道上を直進したそれぞれの剣は、ほんの僅かに剣尖を触れ合わせ、交差した。
重い衝撃とともに、俺の右腕が肩の下から斬り飛ばされ、
しかしその時には、俺の剣もアドミニストレータの左腕を付け根から断ち斬っていた。
吹き飛んだそれぞれの剣と腕が、いまだクリムゾンの光芒を引きながら、高く舞い上がった。
「おのれええええええ!!」
双腕を失ったアドミニストレータの鏡の眼が、虹色の焔と化して燃え上がった。
長い髪が、まるで生き物のように逆立ち、無数の束を作って宙をうねった。その尖端が鋭い銀色の針に変わり、俺の全身目掛けて襲い掛かった。
「まだだあああああっ!!」
俺の叫びと同時に、左手に握られたユージオの剣が、再び真紅の閃光を解き放った。
SAO世界では決して有り得なかった、二刀によるヴォーパル・ストライクの二撃目が、やや下方から血の色の彗星となって突進し――
銀針の群れの中心を突き破って、アドミニストレータの胸の中央を深く貫いた。
とてつもなく重く、決定的な手応えが、俺の左の掌に深く浸透した。全身に穿たれたレイピアの傷より、胸を抉ったカタナの傷より、そして切断された右腕の痛みよりも、それは鮮明に俺の意識の隅々にまで響き渡った。
剣がアドミニストレータの滑らかな皮膚を切り裂き、筋肉を断ち骨を砕き、その奥の心臓を吹き飛ばすのを――つまり、自分がひとりの人間の生命を破壊したのを、俺は実際に眼で視たかのように自覚した。この世界の人間たちが本物のフラクトライトを持っていると悟ってから、執拗に避け続けてきた行為。しかし、この一撃に限っては一抹の躊躇いもなかった。ここで迷うことは、俺たちを信じて逝ったカーディナルのためにも決して許されなかった。そして恐らく、誇り高き支配者であるアドミニストレータのためにも。
そのような思考を巡らせることができたのも、ほんの一瞬だった。
最高司祭の胸の中央を貫いた青薔薇の剣が、ソードスキルのエフェクト光ではない、恐ろしいほどに強烈な真紅の輝きを放ったのだ。
ユージオの血から再生された刀身の前半分が、融ける寸前の鋼のように発光し、次の瞬間――数千、数万のエレメントを同時にバーストさせたかのごとく、リソースの大解放現象を引き起こした。
アドミニストレータの両眼が極限まで見開かれた。小さな唇が無音の絶叫を放った。
この世界の誰よりも美しいその体のそこかしこから、細い光の束が放射状に屹立し――
そして、純粋なエネルギーの極大爆発が、すべてを飲み込み、広がった。
轟風に叩かれた木の葉のように、俺は回転しながら吹き飛ばされ、背中から硝子の壁に激突した。跳ね返り、床に墜落したあと、ようやく右肩の傷口から噴水のように血が噴き出すのを感じた。散々切り刻まれたあとにこれほどの血が残っているのがいっそ不思議なほどで、いよいよこれで俺の天命もゼロになるのか――と一瞬考えたが、しかし俺にはまだやらなければならないことがある。もう少しだけ、生きていなくてはならない。
左手の剣に目をやると、刀身は再び半分になり、薔薇の象嵌も青に戻っていた。それを床に落とし、五本の指で右肩を強く握る。
不思議なことに、術式を唱えずとも治癒のイメージを想起しただけでブルーの光がほのかに零れ、凍てつくようだった傷口に暖かさが広がった。しかし術はほんの一秒ほど、出血がぎりぎり止まったところで解除する。ほとんど枯渇しているはずの空間リソースをこれ以上使うわけにはいかない。
左手を離し、それを床に突いて、俺は身体を持ち上げた。
そして、驚愕のあまり呼吸すらも忘れた。
いまだバーストしたエネルギーの残滓が、空中を蜃気楼のようにゆらゆらと漂うその先に――。
凄まじい爆発で、跡形もなく吹き飛んだと思えた銀髪の少女が、よろめきながらも二本の脚で立っていた。
その身体は、いまだ人のかたちを留めているのが奇跡と思えるほどの有様だった。両腕は喪失し、胸の中央には巨大な孔が開き、全身のそこかしこにも陶器が割れたかのようなひび割れや欠損がある。
そして、無数の傷口から流れ出しているのは、血ではなかった。
銀と紫が混じった火花のようなものが、ばち、ばちっと鋭く弾けながら絶え間なく噴き出し、空中に拡散していく。剣に変えられた人々だけではなく、アドミニストレータ自身の身体すらもはや生身の人間のものではないのだと思わずにいられない光景だ。
溶かしたプラチナのように美しかった長い髪もずたすたに切断され、不揃いに垂れ下がるその奥で俯けられた顔はよく見えなかった。
しかし、暗がりでかすかに唇が動き、漏れ出した声が俺の耳に届いた。竪琴の音色にも似たその響きは完全に失われ、それはもう歪んだノイズでしかなかった。
「……よもや……剣が、二本ともに……金属でないとは……ふ、ふ」
壊れた人形のように小刻みに肩を揺らし、支配者はそれでも短く笑った。
「意外……まったく、意外な、結果だわ……。残るリソースすべてを掻き集めても……追いつかない、傷を、負うなんて……ね」
アドミニストレータが、一瞬で傷を完璧に癒してしまう悪夢を否応無く想像させられていた俺は、詰めていた息をわずかに吐き出した。
瀕死の支配者は、もう俺のほうなど見ようともせず、がくりと崩壊寸前の身体の向きを変えた。ばち、ばちと火花をこぼしながら、電池の切れかけた玩具のように、ゆっくりと歩き始める。
その向かう先は、部屋の北側――最初から最後まで何一つ存在しなかった箇所だった。俺は必死の努力で、硝子に背を預けて立ち上がり、アドミニストレータを目で追った。これ以上、何か逆転の手を打たれるまえに確実に倒さなくてはならない。そう思い、後を追おうとしたが、俺の体もほとんど言うことを聞かなかった。最高司祭よりもさらにぎこちない動作で、ずるり、ずるりと脚を引き摺って進みはじめる。
俺の二十メートルほど先を歩くアドミニストレータは、間違いなく一点を目指しているようだった。しかし、リソースの枯渇したこの隔絶空間から脱出する術は、彼女にも無いはずだ。切り離すのは一瞬でも繋ぐのは大ごと、というカーディナルの言葉を、アドミニストレータも否定はしていなかった。
数十秒後、支配者が立ち止まったのは、やはり何も――部屋のそこかしこに散らばるゴーレムの剣骨すら一つたりとも存在しない場所だった。
しかし、傷だらけの裸身を大仰そうに振り向かせ、俯いたまま俺を見て、少女はかすかに嗤った。
「……しかた、ないわ。予定より、随分と早い……けど、一足先に、行ってるわね、向こうに」
「な……何を……」
言っているのだ、と俺が問い質すまえに。
アドミニストレータは、伸ばした右脚で、とん、と床を衝いた。
その箇所の絨毯に――不思議な円形の紋様があった。
巨大ベッドを収納した跡のような、そして円筒形の出入り口が砕け散った跡のような。
直径五十センチほどのその円が、ぱあっと紫の光を放った。
輝くサークルの底から、かすかな震動とともにせり上がってきたものは。
大理石の柱の天辺に載った、
ひとつのノートパソコンだった。
「な……」
俺は驚愕のあまり棒立ちになった。
いや――現実世界のノートPCそのものというわけではない。筐体は半透明の水晶製だし、画面も薄紫に透き通っている。キーボードはダイヤモンドのように輝き、ポインティングデバイスは磨かれた鏡のようだ。あれは――PCではなく、SAO世界でいちど目にしたバーチャルシステム端末そのものだ!
つまり、あれこそが――
俺がこの二年間追い求めてきた、“外部世界への連絡装置”なのだ!
背を殴られるような衝動に従い、俺は思わず駆け出そうとしたが、その命令を右脚が拒否しがくりと膝を突いた。
それでも俺は、片手で床を掻き、這い進んだ。しかしその速度は絶望的なまでに遅く、アドミニストレータの居る場所は決定的に遠かった。
両腕の無い支配者の、銀の髪がひと房生き物のように持ち上がり、その先端で素早くキーボードを叩いた。ホロ画面に幾つかのウインドウが開き、何らかのインジケータがカウントを刻みはじめ――、
そして、アドミニストレータの身体を、床から天井へと流れる紫の光の道が包み込んだ。素足のつま先が、音も無くふわりと浮き上がった。
ここでついに、爆発からはじめてアドミニストレータが顔をあげ、まっすぐに俺を見た。
完璧を誇っていたその美貌は、無残な有様だった。左側が大きくひび割れ、眼のあった場所は底なしの暗闇に満たされている。その奥で、細いスパークが連続して弾け、崩壊寸前の機械の印象をいっそう強めている。
真珠色に輝いていた唇もいまは紙のようだったが、そこに浮かぶ微笑は変わらずに極北の冷気を湛えていた。無事な右眼をすうっと細め、アドミニストレータは再び短く嗤った。
「ふ、ふ……じゃあね、坊や。また……会いましょう。今度は、お前の、世界で」
その言葉を聴いて、ようやく俺は、アドミニストレータの意図するところを察した。
彼女は――現実世界へと脱出しようとしているのだ!
天命という絶対限界に縛られたこのアンダーワールドから抜け出し、そのフラクトライトを保全するつもりなのだ。俺が、ユージオやアリスの魂をそうしようとしていたように!
「ま……待て!!」
俺は懸命に這いずりながら叫んだ。
俺が彼女なら、脱出と同時にあの端末を破壊する。もしそうされたら、すべての希望が潰える。
しかし、アドミニストレータの裸身は、ゆっくりと、しかし着実に光の回廊を上昇していく。
笑みを湛えたその唇がゆっくりと動き、無音の言葉を刻んだ。
さ、よ、
う、
な――
最後の一音が形作られる、その直前。
いつの間にか、俺もアドミニストレータも気付かぬうちに、彼女の足元まで這い進んできていた人物が、甲高い絶叫を放った。
「行かないでくださいよほぉぉぉぉぉぉうぅぅぅぅぅッ!!」
チュデルキン。
もうはるか昔と思えるほど以前に、俺の技に貫かれ、アドミニストレータに処分されたはずの道化が。
青いほどに血の気を失った丸い顔に、すさまじい形相を浮かべ、両手の指をかぎづめのように曲げて上空へと伸ばした。
その、胸の下でほとんど分断されかけた身体が、突然灼熱の炎と化して燃え上がった。
ぼおおっ!! と轟音を撒き散らし、まるで自身が火焔ピエロの術式と化したかのように赤熱したチュデルキンが、螺旋を描いて上空へと突進した。
さしものアドミニストレータの顔にも、驚愕と、そして恐らく恐怖の表情が浮かんだ。ほとんど天井に達しようとしていたその小さな両足に、チュデルキンの燃え盛る両手ががっちりと食い込んだ。
引き伸ばされた道化の身体は、そのままぐるぐるとアドミニストレータの裸身を這い進み、火焔でできた蛇のようにしっかりと巻きついた。直後、これまでに倍する炎がその全身から吹き荒れ、両者の身体を包み込んだ。
アドミニストレータの髪が、その先端から融けるように燃え上がった。
唇が歪み、悲鳴にも似た叫びが放たれた。
「離せっ……! はなしなさいこの馬鹿者!!」
しかし、チュデルキンはまるでその言葉が愛の告白ででもあったかのように、真ん丸い頭の中央の細い目をさらに糸のようにして、至福の笑みを浮かべた。
「ああぁぁぁ……ついに……ついに猊下とひとつになれるのですねぇぇぇ……」
短い両腕が、アドミニストレータの身体をしっかりと抱きしめ、ついに支配者の肌それ自体が灼熱の炎を吹き上げた。
「貴様ごとき……醜い道化に……この私がっ……」
その言葉は半ば悲鳴だった。身体のあちこちに穿たれていたひび割れが、さらに拡大しつつ次々と剥離し、そこから噴き出す新たな銀のスパークと火焔が混じり合って花火のように飛び散った。
チュデルキンの体躯はもうほとんど原型を失い、純粋な炎と化していた。その中心に至福の表情だけが残り、最後の言葉を響かせた。
「ああ……猊下……アタシの……アドミニストレータ……さ……ま……」
そして、アドミニストレータの身体もついに実体を失い、荒れ狂う炎と化した。
支配者は、破壊され、燃え上がる顔からすっと表情を消し、銀の瞳で上空を見つめた。この状況にあっても、支配者の相貌は、恐ろしいまでに美しかった。
「……私の……世界……。どこまでも……ひろがる……わたし……の……」
その先を聴くことはできなかった。
燃え盛る火焔が、一瞬ぎゅっと凝縮し、
純白の閃光となって解き放たれた。
爆発というよりも、すさまじいエネルギーの全てが光に還元され、空間に満ちたように思えた。轟音も震動もなく、ただ、世界でもっとも巨大な存在が崩壊・消滅したという概念的事象それのみが空間を満たした。
もう、世界はもとの姿に戻らぬのではないかというほどの長時間、白光は密度と方向を揺らめかせながら輝き続けた。
しかし、やがてついにそれも薄れてゆき、俺の視界に色と形が戻りはじめた。
涙が溢れる眼を何度もしばたかせながら、俺は爆発の中心点を懸命に見通した。
そこには、紫のゲートがまだかすかに残っていた。しかし存在するのはそれだけで、アドミニストレータとチュデルキンという存在の痕跡は何一つ見つけられなかった。数秒のうちにゲートが瞬きながら消滅し、あとには床から突き出した大理石の柱と、バーチャル端末だけが冷たく鎮座するのみだった。
ついに、アドミニストレータ、あるいはクィネラという名の女性が、完全に消滅したことを俺は論理と直感の双方で悟った。彼女の天命はゼロになり、そのフラクトライトを格納していたライトキューブは初期化された。おそらくは、その隣に並んでいたのであろうカーディナルのライトキューブと同じように――。
「……終わった……のか……」
俺は、床に両膝を突いたまま、無意識のうちにそう呟いた。
「これで、よかったのか……カーディナル……?」
無論、答えはなかった。
しかし、恐らくは俺の記憶から発生したかすかな波動のようなものが、微風となってそっと頬を撫でた。大図書室の底で、そっと抱きしめたカーディナルの香り――古書と、蝋燭と、そして甘い砂糖菓子の香りが混じった風だった。
俺は一瞬顔を仰向かせ、眼を閉じた。
そして、左腕でぐいっと涙を拭いた。それを包む袖が、いつの間にか黒革のロングコートからもとの麻のシャツに戻っていることをわずかに意識しながら、身体の向きを変え、部屋のほぼ中央――横たわるユージオに向かって這い進んだ。
相棒の身体には、まだかすかに生命の気配が残っていた。
無残に切断された身体からは、ぽたり、ぽたりと間隔をあけて血が滴っている。残る天命はおそらく数分も保つまい。
必死の前進でユージオの傍らまで達した俺は、まず出血を止めるべく、離れた場所に転がる下半身を運んでぴたりと切断面を合わせた。
そして、傷口に左手を当て、治癒のイメージを想起する。
掌の下に、ぽっ、と点った青い光は、愕然とするほど頼りなかった。しかし俺はその光を懸命に切断面に翳し、傷を塞ごうとした。
だが――。
じわり、じわりと滲み、流れ出てゆく、ユージオの命そのものである紅い液体は、いっこうに止まろうとしない。ダメージの巨大さに対して、治癒術の優先度が絶望的に足りないのだ、と頭では理解しながらも、俺は執拗に手を動かし、叫んだ。
「止まれ……止まれよ! なんでだよ!!」
アンダーワールドでは、イメージの力がすべてを決定し、あるいは覆すのだ。想いはどんな奇跡だって起こせるのだ。そうであるはずではなかったか。俺は魂を絞り尽くすほどに祈り、念じ、そして願った。
しかし、血はなおも一滴、一滴とこぼれ続ける。
イマジネーションが干渉できるのは、あくまでオブジェクトの外形という視覚的要素のみで、プライオリティやデュラビリティといった数値要素までをも改竄できるわけではない――。
そんな理屈が意識の片隅を横切ったが、俺はそれを認めることを拒否した。
「ユージオ……戻ってこい! ユージオ!!」
もう一度叫び、俺は顔を下げると、歯で自分の左手首を噛み破るべく口を開いた。計算上は圧倒的に足りないのは解っていたが、しかし現在俺が利用でき得るリソースのすべてを注ぎ込まずにはいられなかった。たとえそれで、俺とユージオの天命がともにゼロになろうとも。
犬歯が皮膚に食い込み、肉と一緒に引きちぎらんととした、まさにその瞬間――。
ごくごく微かなささやき声が、俺の頬をそっと撫でた。
「ステイ・クール…………、キリト」
はっ、と顔を上げる。
ユージオが、ほんの少しだけ目蓋を持ち上げ、微笑んでいた。
顔色は紙のように青白く、唇にもまったく血の気がなかった。天命は変わらず減少を続けているのは明らかだ。しかし鳶色の瞳は、常と変わらず、穏やかな光をきらきらと湛えて俺を見つめた。
「ユージオ……!」
俺は、かすれた声で叫んだ。
「待ってろ、いま治してやるからな! お前を死なせやしない……絶対に死なせない!」
もう一度、手首を噛み破ろうとする。
しかし、寸前、氷のように冷たく、しかし同時に仄かに暖かい手が俺の手首を覆い、握り締めた。
「ユー……」
言いかけた俺を、ユージオはごく僅かに首を振って制した。
「いい……んだ。これで……いいんだ、キリト」
「何言ってるんだ! いいわけないだろう!!」
悲鳴のような俺の言葉にも、ユージオは、どこか満ち足りたような笑みを消すことはなかった。
「僕は……果たすべき、役目を、ぜんぶ果たした……。ここで、僕らの道は……分かれてたんだよ……」
「そんなわけがあるか!! 俺は運命なんて認めない!! そんなの絶対に認めないからな!!」
子供のように、泣き声混じりにそう言い募る俺を諭すように、ユージオはもう一度瞳でかぶりを振った。
「……もし……こうならなければ、僕と……君は、お互いの“アリス”のために……戦わなくちゃ、ならなかったろう。僕は……アリスの記憶をその身体に戻すために……そして君は、整合騎士アリスの魂を、守るために……」
瞬間、俺は息を詰めた。
それこそは、俺が心の奥底で危惧し、しかし意識して考えようとしてこなかった未来図だった。仮にすべてが解決し、いまの騎士アリスを消去してルーリッドのアリスを復活させるとなったとき、俺は果たしてそれに同意できるのだろうか――という。
今この時になっても、俺は答えを出すことはできなかった。
しかし、その迷い自体を、涙とともに俺はユージオにぶつけた。
「なら、戦えよ!! 傷をぜんぶ完璧に治してから、俺と戦え!!」
だが、ユージオの、透徹したような笑みは揺らぐことがなかった。
「僕の……剣は、もう折れて……しまったよ。それに……僕も……決められた、運命なんて、厭だ。僕と……君が、戦うなんて、そんな……誰かに決められた……筋書きみたいなの、絶対に、厭だよ」
そう呟いたユージオの両眼に、大きな涙の粒が盛り上がり、すうっと音もなく流れた。
「僕は……ずっと、君が、羨ましかったんだ……キリト。誰よりも……強く、誰にだって……愛される、君が。もしかしたら……アリスだって、君のほうを……、そんな風に、思ってたんだ……よ。でも……ようやく、解った。愛は……もとめる、ものじゃなくて、与える、ものなんだって。アリスが……それを、教えて、くれたんだ」
言葉を切り、ユージオは左手も持ち上げた。その掌に包まれた紫のプリズムがちかちかと瞬きながら、俺の指先に触れた。
その瞬間――。
世界のすべてが白い光に包まれ、溶け、消滅した。
床の硬さも、重力も、斬られた右腕の痛みも消え、穏やかな流れが俺の魂を載せてどこか遠くへと運んだ。胸を覆い尽くす巨大な哀しみすらも、暖かなストリームに優しく融かされ――そして――
ちらちら、と鮮やかな緑色の輝きが、高みで揺れている。
木漏れ日。
ようやく訪れた春の日差しを謳歌するように、樹々の新芽がいっぱいにその手を伸ばし、微風にそよぐ。艶やかな黒い枝を、名も知れぬ小鳥たちが追いかけっこをするように飛び渡っていく。
「ほら、手がお留守よ、キリト」
鳥たちの囀りよりも軽やかな声に、見上げていた視線を戻した。
傍らに座った、青と白のエプロンドレス姿の女の子の金髪が、日差しを受けて眩くきらめいた。一瞬眼を細めてから、肩をすくめて言い返す。
「アリスだってさっき、口ぽかーんて開けてワタウサギの親子を見てたじゃないか」
「ぽかーんなんてしてないわよ!」
ぷい、と顔を反らせ、すぐにくしゃっと笑ってから、少女――アリスは手にしていたものを高く差し上げた。
それは、丁寧に仕立てられた小剣用の革鞘だった。真新しい、ぴかぴか光る表面に、色鮮やかな白糸で竜をかたどった刺繍が施してある。どこか親しみを覚える、丸っこい形の竜の尻尾だけが中途で途切れ、その先端からは針に通された糸が垂れ下がっている。
「ほら、私のほうはもうすぐ出来るわよ。そっちはどうなのよ」
言われて、目を自分の膝に落とす。
乗っているのは、森で二番目に硬い白金樫の枝を削り出した小剣だ。森のことに誰よりも詳しいガリッタ爺さんに教わって、鉄のようなその木材を二ヶ月もかけて形にしたのだ。刀身はもう完全に出来上がり、あとは柄の細工の仕上げを残すのみだ。
「俺のほうが速いさ。もうあとこんだけだ」
答えると、アリスはにっこりと笑って言った。
「じゃあ、あと少しがんばって仕上げちゃいましょうよ」
「うーん」
もう一度、高い梢を透かして空を見ると、ソルスはすでに真ん中を通り過ぎている。今日は朝からこの森の秘密の場所で作業をしていたので、さすがにいい加減帰らないとまずい気もする。
「なあ……そろそろ戻ろうぜ。ばれちゃうよ」
首を振りながらそう言うと、アリスは小さな子供のように唇を尖らせた。
「まだだいじょうぶよ。もう少し……もうちょっとだけ、ね?」
「しょうがないなあ。じゃあ、ほんとにあとちょっとだぜ」
頷きあい、互いの作業に没頭して数分後。
「できたぞ!」「でーきた!」
同時に響いた二つの声に重なるように、背後でがさがさと草を踏み分ける音がした。
手の中のものを背中に隠しながら、さっと振り向く。
そこに、きょとんとした顔で立っていたのは、ぽわぽわした亜麻色の髪を短く切り揃えた小柄な少年――ユージオだった。
澄んだ瞳をぱちぱちと瞬かせ、ユージオは訝しげな声を出した。
「なんだ、朝からずっとこんなとこに居たの、二人とも。いったい何やってたの?」
アリスと、首をすくめながら目を見交わす。
「ばれちゃったわねえ」
「だから言ったじゃないかー。台無しだよもう」
「台無しってことないわよ。いいからそれ貸しなさいよ」
アリスは、後ろ手で仕上がったばかりの木剣を奪い取ると、自分の持つ鞘にそっと収めた。
そして、ぴょん、とユージオの前に一歩飛び出すと、お日様のように満面の笑みを浮かべて、叫んだ。
「三日ばかり早いけど……ユージオ、誕生日、おめでとう!!」
さっと差し出された、真新しい革鞘に包まれた小剣を見て、ユージオは大きな目をさらに丸くした。
「え……これ、僕に……? こんな、すごい物……」
アリスにおいしいところを持っていかれ、苦笑しながら言葉を添える。
「ユージオ、前に、買ってもらった木剣を折っちゃったって言ってたろ? だからさ……勿論、お前の兄ちゃんが持ってるみたいな本物には負けるけど、でもこいつは雑貨屋に売ってるどんな木剣よりもすげえんだぜ!」
おずおずと伸ばした両手で小剣を受け取ったユージオは、その重みに驚いたように体を反らせ、次いで、アリスに負けないくらい大きく顔をほころばせた。
「ほんとだ……これ、兄ちゃんの剣よか重いよ! すごいや……僕……僕、大事にするよ。ありがとう、二人とも。嬉しいな……こんな嬉しい誕生プレゼント、はじめてだ……」
「お……おい、泣くなよ!」
ユージオの目じりに、小さく光るものを見て、慌てて叫ぶ。泣いてないよ、とごしごし目をこすり、
ユージオはこちらをまっすぐに見て、
もういちど笑った。
不意に、その笑顔が虹色に歪んだ。
突然の、切ない胸の痛み。どうしようもないほど強い郷愁と、喪失感。あふれ出した涙はとめどなく流れ、頬を濡らす。
並んで立つアリスとユージオも、同じように泣き笑いの顔で――。
声を揃えて、言った。
「僕たち……私たち三人は、確かに同じ時を生きた。道はここで分かれるけど……でも、思い出は永遠に残る。君の、あなたの中で生き続ける。だから、ほら――」
そして、木漏れ日に包まれた情景は消え去り、俺は再びセントラル・カセドラル最上階へと引き戻された。
「だから、ほら――泣かないで、キリト」
ささやいたユージオの両手から力が抜け、右手は床に、左手は胸の上に落ちた。その掌のなかのプリズムも、瞬く光をほとんど失おうとしていた。
いま観た、ごく短い情景は、確かに俺の記憶だった。思い出せたのはそのワンシーンだけだったが、それでも、俺とアリス、ユージオが、幼い頃から共に育ち、揺るぎない絆で結ばれていたのだという事実が、暖かく俺の胸を満たし、痛みをわずかに癒した。
「ああ……思い出は、ここにある」
俺は、自分の胸に左手の指をあて、嗚咽混じりにそう囁いた。
「永遠にここにある」
「そうさ……だから僕らは、永遠に、親友だ。どこだい……キリト、見えないよ……」
微笑を浮かべたまま、輝きの薄れかけた瞳を彷徨わせ、ユージオが呟いた。俺は身を乗り出し、ユージオの頭を左手でかき抱いた。零れた涙の粒が、次々にユージオの頬に滴った。
「ここだ、ここにいるよ」
「ああ……」
ユージオは、どこか遠くを見つめながら、笑みをわずかに深めた。
「見えるよ……暗闇に、きらきら、光ってる……。まるで……夜空の……星みたいだ……ギガスシダーの、根元で……毎晩、見上げた……そう、君の剣の……輝きの……ようだよ……」
囁き声はどこまでも透きとおって音を失い、しかし水滴が染みこむように俺の魂に響いた。
「そうだ……あの剣……“夜空の剣”って名前が……いいな。どうだい……」
「ああ……いい名前だ。ありがとう、ユージオ」
徐々に軽くなっていく友の身体を、俺は強く抱いた。触れ合う意識を通して、さいごの言葉が、水面に落ちる雫のように伝わった。
「この……悲しい、世界を……夜空のように……優しく…………包んで……………」
そして、音もなく瞼が降り、
ささやかな重みを俺の腕に残して、ユージオの顔がことりと仰向いた。
ユージオは、どことも知れぬ暗い回廊に立っていた。
しかし、一人ではなかった。
繋がれた左手をたどると、青いドレス姿のアリスがにっこり微笑みながらそこに居た。
少しだけ握る手に力をこめ、ユージオはそっと尋ねた。
「これで……よかったんだよね」
アリスは金髪を結わえる大きなリボンを揺らして、しっかりと頷いた。
「ええ。あとは、あの二人に任せましょう。きっと、世界をあるべき方向に導いてくれるわ」
「そうだね。じゃあ……行こうか」
「うん」
いつの間にか、ユージオも幼い少年の姿に戻っていた。同じ背丈の少女と、強く互いの手を握り合い、ユージオは回廊のかなたに見える白い光めざして歩きはじめた。
その瞬間――。
NND7-6361というIDで管理されるヒューマン・ユニットに設定されたデュラビリティ数値がゼロへと変化した。
アンダーワールド・メインフレームを制御するプログラムが、そのアルゴリズムに従い、該当するユニットのフラクトライトを格納するライトキューブ・インターフェースへひとつの命令を発した。
命令を受け取ったインターフェースは、接続された希土類結晶格子中の全量子ゲートを、忠実に初期化した。
内包されていた百数十億のフォトンは、一瞬の煌きを残して拡散、消滅し――
ユージオという名で、二十年にわずかに満たぬ主観時間を生きたひとつの魂が、ふたつの世界から喪われた。
殆ど同時に。
そのライトキューブから、かなり離れた位置に格納された、もうひとつのキューブでも同様の処理が行われた。
非正規的操作によって製造された、限定的思考力と、アリス・ツーベルクという名の魂の記憶の一部を格納したそのフラクトライトもまた永遠に喪失した。
ふたつの魂を構成していたフォトンの雲が、どこに向かい、どのように消えたのかを知るすべは存在しない。
ユージオのからだと、その胸に乗ったアリスの記憶プリズムが、光の粒となって完全に消え去るまで俺はただその場所に跪きつづけた。
どれくらいそうしていただろうか。
気付くと、硝子窓の向こうに渦巻いていた虚無空間はいつのまにか消えうせ、満天の星空が戻ってきていた。東の果てに刻まれた黒い稜線のかなたに、ごくうっすらとした曙光が訪れつつあった。
思考力のほとんどを失ったまま、俺はよろよろと体を起こし、どうにか立ち上がると、離れた場所に横たわる騎士アリスに近づいた。
アリスの傷も酷いものだった。しかし幸い、そのダメージは火傷がほとんどで出血は止まっており、天命の持続的減少は無かった。左手で抱き起こすと、意識を取り戻しはしなかったが、微かに眉が動き、唇から細い声が漏れた。
アリスを抱えるようにして、俺はゆっくり、ゆっくりと、部屋の北端目指して歩いた。
いまや、この空間でそれのみが無傷で残る水晶のシステム端末が、きらきらと冷たく、無機質に輝きながら、俺を迎えた。
アリスをそっと床に横たえ、俺は左手の指先でタッチパッドをなぞった。
インタフェースは、慣れ親しんだ日本語と英語の混在したシステムだった。ほとんど機械的に階層をもぐり、やがて俺は求めるものを発見した。
“外部オブザーバ呼出”。
そう名づけられたタブをクリックすると、ひとつのダイアログがビープ音とともに浮かび上がった。『この操作を実行すると、STRA倍率が一・〇倍に固定されます。よろしいですか?』――という窓のOKボタンを、躊躇いもせずに押す。
突然、空気の粘度が増したような気がした。音、光、すべてが引き伸ばされ、遠ざかり、そして追いついてくる。まるで自分の動きも、思考までもが超スローモーションになってしまったかのような違和感が一瞬俺を襲い、そして何事もなかったかのように消滅した。
画面の真ん中にひとつの真っ黒いウインドウが開いた。片隅に音声レベルメーターが表示され、その上にSOUND ONLYの文字が点滅している。
虹色のメーターが、ぴくり、と跳ねた。
さらに動く。同時に、ざわざわというノイズが俺の耳に届いてくる。
現実世界の音だ、と思った。
アンダーワールドの状況に関わり無く、平穏な日常が繰り返されている向こう側の世界。血も、痛みも、死すらも例外的な出来事でしかないリアル・ワールド。
不意に、身体の奥底から、名状しがたい激情が吹き上がり、俺を揺さぶった。
感情のまま、端末に顔を近づけ、俺は出せる限りの大声で叫んだ。
「菊岡……、聞こえるか、菊岡!!」
今、この手が菊岡誠二郎あるいは他のラース・スタッフに届いたら、俺はそいつを絞め殺してしまうかもしれない。行き場の無い怒りに震える左こぶしを大理石の柱に叩きつけ、もう一度叫ぶ。
「菊岡ぁぁぁっ!!!」
直後――何かの音が、画面から流れ出した。
人の声ではなかった。カタタタ、カタタタタ、という歯切れのいい震動音。咄嗟に思い出したのは――はるかな昔、ガンゲイル・オンラインというVRMMOゲームの中で接した、小火器の連射音だった。しかし――まさか、そんなはずが――。
立ち尽くす俺の耳が、今度こそ人間の叫び声をかすかに捉えた。
『――メです、A6通路占拠されました! 後退します!!』
『A7で何とか応戦しろ! システムをロックする時間を稼げ!!』
再び、カタカタという音。それに混じって、散発的な破裂音も。
何だ、これは。映画? 誰かの見ているストリーム動画と混線でもしたのか?
しかし、そのとき、知らない声の持ち主が、俺の知っている名前を呼んだ。
『菊岡二佐、もう限界です! 主コントロールは放棄して、耐圧隔壁を閉鎖します!!』
それに答える、すこし錆びのある鋭い声。
菊岡誠二郎――俺をこの世界へと引き込んだ男。しかし、彼のこれほど切迫した声を俺は聴いたことがなかった。
『済まん、あと二分耐えてくれ! 今ここを奪われるわけにはいかん!!』
何が起きているというのだ。
襲撃されている? ラースが? しかしいったい何者に――?
再び菊岡の声。
『ヒガ、ロックはまだ終わらないのか!?』
また、新しい未知の声。
『あと八……いや七十秒ッス……あ……ああ!?』
その、やけに若々しい声が、驚愕をあらわして裏返った。
『菊さんッ!! 中から呼出です! ちがいます、UWの中っすよ!! これは……、あああっ、彼です、桐ヶ谷くんだッ!!』
『な……なにぃっ!?』
足音。がつ、とマイクが鳴る。
『キリト君……いるのか!? そこにいるのか!?』
間違いなく菊岡だ。俺は戸惑いを押し殺し、叫んだ。
「そうだ! いいか菊岡……あんたは……あんたのしたことは……っ!」
『誹りはあとでいくらもで受ける! 今は僕の言葉を聞いてくれ!!』
その、彼にそぐわぬ必死さに押され、俺は思わず口を閉じた。
『いいか……キリト君、アリスという名の少女を探すんだ! そして彼女を……』
「探すもなにも、いまここにいる!」
俺が叫び返すと、今度は菊岡が一瞬押し黙った。次いで、急き込むように――。
『な、なんてことだ、奇跡だ! よ、よし、この通信が切れ次第倍率を戻すから、アリスを連れて“ワールド・エンド・オールター”を目指してくれ! 今君が使っている端末はこのメインコントロール直結だが、ここはもう墜ちる!』
「墜ちる……って、一体何が……」
『説明している暇はないんだ! いいか、オールターは東の大門から出て南へ……』
そのとき、最初に聞いた知らない声が、至近距離で響いた。
『二佐、A7の隔壁を閉じましたが保って数分……ああ、まずい、奴ら、正電源ラインの切断を開始した模様ッ!!』
『えええっ、ダメだ、それは今はダメだよッ!!』
悲鳴を返したのは菊岡ではなく、“ヒガ”と呼ばれた高い声の持ち主だった。
『菊さんッ、いま主ラインがショートしたらサージが起きる! メインフレームやクラスターは保護されてますが……上の、キリト君のSTLに過電流が……フラクトライトが焼かれちまいます!!』
『何っ……馬鹿な、STLにはセーフティ・リミッターが何重にも……』
『全部切ってるんですってば! 彼は今治療中なんだ!!』
一体――何なのだ。俺のフラクトライトが――どうするというんだ?
コンマ数秒の沈黙を破ったのは、再度菊岡が叫ぶ声だった。
『ロック作業は僕がやる! 比嘉、君は神代博士と明日奈くんを連れてアッパーシャフトに退避、キリト君を保護してくれッ!!』
『で、でも、アリスはどうするんスか!?』
『倍率をリミットまで上げる!! 後のことはまた考えるッ、今は彼の保護を……』
続く叫び声の応酬を、俺はほとんど聞いていなかった。
直前に聞いたひとつの名前が、俺の意識を強打し、嵐のように揺さぶった。
明日……奈?
アスナがそこに? ラースにいるのか……? 何故!?
菊岡に問い質そうと、俺はモニタに覆いかぶさった。
しかし、声を発する直前、悲痛な絶叫が耳朶を打った。
『ダメだ……電源、切れます!! スクリューが止まります、総員対ショック!!』
そして――。
不思議なものが見えた。
頭上はるか彼方から、カセドラルの壁も天井も貫いて、俺めがけて殺到してくる白いスパークの渦。
凍りつき、それを見上げる俺を、音もなく無数の雷閃が貫いた。
衝撃も、痛みも、音すらもなかった。
しかし、それでもなお、俺は自分に与えられた取り返しのつかないほどに深いダメージを強く自覚した。それは、俺の肉体や感覚ではなく、魂の基層に加えられた傷、そう思えた。
俺という存在を規定する、何か大切なものが、ばらばらに引き千切られ、消えていく。
空間、時間、すべてがかたちを失い、混沌なる空白へと融ける。
俺は――。
その言葉すらも、意味をなくし。
思考する能力を奪われるその直前、どこか遠くで呼ぶ声を聴いた。
『キリトくん……キリトくん!!』
泣きたくなるほど懐かしく、狂おしいほどに愛しい、その響き。
あれは――――
誰の声だったろう?
[#地から1字上げ](第七章 終)
転章 U
洗い終えた皿を水切り籠に立て、エプロンの裾で手を拭きながら、アリスはふと窓の外を眺めた。
粗製のガラスを通して見える樹々の梢は、ここ数日の冷え込みで、せっかく赤や黄に色づいた葉をかなり散らしてしまった。やはり央都と比べると冬の訪れがずいぶんと早い。
それでも、久しぶりの透き通るような青空から降り注ぐソルスの日差しはぽかぽかと暖かそうだ。すぐ近くの太い枝で、キノボリウサギのつがいが身体を寄せ合って目をつぶり、気持ちよさそうに日光浴をしている。
我知らず微笑みながらしばしその様子に見入ってから、アリスは振り向き、言った。
「ねえ、今日はいい天気だから、東の丘まで行ってみましょう。きっとすごく遠くまで見えるわ」
返事は無い。
二部屋しかない狭い丸太小屋の、大きいほうの部屋の中央に据えられた丸テーブルの傍ら、質素な椅子に腰掛けた黒髪の若者は、ぼんやりと視線を俯けたままだ。
痩せている。もとより肉付きのいいほうではなかったが、今では明らかにアリスよりも細い。ゆったりとした部屋着の上からでも、その身体が骨ばかりなのが見て取れる。中身のない、ぶらりと垂れ下がった右袖が、痛ましさをいっそう増している。
しかし、真に寒々しいのはその表情だった。髪とおなじく漆黒の瞳に、輝きは無い。閉ざされたその心を映してどこまでも虚ろなその双眸は、決して誰かを正面から見ようとはしない。
一日に何度も感じる鋭い胸の痛みを押し殺し、アリスはさらに明るい声で続けた。
「でも、ちゃんと厚着したほうがいいわね。待ってて、すぐ用意するから」
エプロンを外して洗い場の横に掛けてから、足早に寝室へと向かう。
長い金髪を後ろでくくり、綿布のスカーフでしっかりと覆う。壁に並んだ二着の羊毛の外套の、小さいほうを羽織るともう一方を小脇にかかえ、居間へ戻る。
若者は、さっきと寸分変わらぬ姿勢のままただ緩慢な呼吸のみを繰り返していた。その背にそっと手をかけ、立つように促すと、やがてがく、がくと膝を揺らしながらゆっくりと身体を起こす。
しかし、自発的に可能なのはここまでで、歩行は一メルとても行えない。アリスは椅子を引き、外套を着せ掛けると、前にまわってきっちりと革紐を留めた。
ちょっとだけがんばってて、と声をかけ、急いで居間の片隅へと走る。
そこに置いてあるのは、明るい白茶色の木材でこしらえた頑丈な椅子だ。しかしさっきまで若者が腰掛けていたものと異なり、四本の足がすべて丸木を輪切りにして鋼の心棒を通した車輪となっている。森の奥に独居する、ガリッタという名の老人が工夫してくれたものだ。
その車椅子の、背もたれについている握りを持ってごろごろと若者の背後まで移動させる。ゆらゆらと危なげに身体を揺らす若者を、そっと椅子に座らせ、分厚い毛糸のひざ掛けを身体の前に載せてやる。
「よし! じゃあ、行きましょうか」
ぽん、と若者の肩を手でたたき、取っ手を握って、小屋の戸口目指してわずかばかりごろんと椅子を押したときだった。
不意に若者が顔の角度を変え、左手を持ち上げて、一方の壁に差し伸べて口を開いた。
「あー……、あー」
掠れたその声には、顔とおなじく感情というものがなかった。しかしアリスはすぐに若者の求めるものを察した。
「あ、ごめんなさい。すぐ取ってくるわ」
若者の手が指す部屋の南の壁に、頑丈な金具で掛けられた三本の剣があった。
右側には、アリスの所有物である黄金の長剣、“金木犀の剣”。
左側に、若者がかつて帯びていた漆黒の長剣、“夜空の剣”。
そして中央に――黒の剣に名前を与え、そして今はもういない一人の少年のものだった純白の長剣、“青薔薇の剣”。
アリスはまず、ずしりと重い漆黒の剣を壁から外し、抱えた。次に真ん中の白鞘を外す。こちらは、重みが黒の剣の半分ほどしかない。収められている刀身が、その半ば以上を失っているからだ。
二本の剣を抱いて戸口へ戻り、膝にそっと載せると、若者は左腕でしっかりそれらを抱きかかえ、ふたたび顔を俯けた。彼は決して、この二振りの武器から離れようとしない。彼が何らかの反応を見せるのは、剣を求めるときだけだ。
「……さ、行きましょう、キリト」
再び襲ってきた胸のうずきを飲み込んで、アリスはそう声を掛けると、さっきより格段に重みを増した車椅子を押した。
扉をくぐり、石段ではなくなだらかな板を渡してある短い坂を降りると、ひんやりとした微風と、滋味に満ちた陽光が同時に二人を包んだ。
小屋は、深い森のなかにぽっかりと開けた丸い草地に建っている。アリスが自身で丸太を切り出し、皮を剥ぎ、ガリッタ老人に手伝ってもらって組み上げたものだ。見栄えは悪いが、優先度の高い木材だけを使用しているので造りはしっかりしている。もっとも、老人には、こんな怪力の娘っ子は見たことねえと数十回は言われてしまったが。
老人は、この森の空き地は子供だったころのアリスと、青薔薇の剣の所有者だった少年ユージオが二人だけの遊び場にしていたのだとも言った。勿論アリスにその記憶はない。ガリッタ老や他の人々には、ただ昔のことは全部忘れてしまったのだとだけ説明してあるが、実際には今の自分、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティは、彼らが知るルーリッド生まれのアリス・ツーベルクの身体を奪い占拠しているのが真実だ。叶うならば今すぐにでも身体を彼女に返したいが、本来のアリスはユージオとともにこの世界から去ってしまった。
一瞬の物思いを振り払い、アリスは草地を横切る細道に、車椅子を進ませた。
細道は、周囲を取り囲む深い森を貫き、東と西へと伸びている。西へ小一時間も歩けばルーリッドの村だが、用無く訪れる気にはどうしてもならない。ソルスの光を右前に受けながら、東へと小路を辿る。
十月も終わりに近づき、紅葉から落葉の季節へと移りつつある森のなかを、ゆっくりゆっくりと進む。
「キリト、寒くないかしら?」
声を掛けるが当然答えはない。仮に、極寒の吹雪のなかに裸でいたとしても今のキリトは声ひとつ上げるまい。ただ身体が凍りつき、天命が尽きるに任せるだろう。首を伸ばして覗き込み、上着の襟元がしっかり閉じているのを確認する。
勿論、その気になれば熱素因系の術を使い、周囲への冷気の進入を完璧に防御するのは容易なことだ。しかし、ただでさえ微妙な立場なのに、高度な術式を操るところを村人に見られて奇妙なうわさを流されるのは避けたい。
重い車椅子をごろごろと、十分ほども押すと、前方で木立の切れ間が見えた。
その先は、短い草に覆われた小高い丘になっている。もう道もない斜面を、アリスは苦も無く車椅子を押し上げ、たちまち天辺へと達する。
さっと視界が開けた。広大なルール湖の青い水面と、その奥に連なる湿地帯がどこまでも見通せる。左手には、天を衝く壁のように果ての山脈が聳え、正面から右奥へと弧を描いて連なっている。かつてあの峰々を、飛竜を駆って軽々と飛び越えていたことがまるで幻のようだ。
美しく広がる景色を前にしても、キリトの瞳はそれを見ようとはしなかった。ただ、虚ろな黒瞳をぼんやりと虚空に向けている。
その隣に腰を下ろし、アリスはそっと身体を椅子にもたれさせた。
「綺麗だわ。カセドラルに掛けられていた絵よりずっと綺麗」
そっと呟く。
「……あなたが守った世界よ」
眼下の湖水を、一羽の白い水鳥が、点々と波紋を作りながら滑走し、高く飛び去っていった。
どれくらいそうして座っていただろうか。
気付くと、ソルスはずいぶんと高いところまで昇っていた。そろそろ小屋に戻り、昼食の準備に取り掛かる時間だ。自分の空腹などまるで気にならないが、一度にほんの僅かしか食べようとしないキリトのためにも、一食と言えどおろそかにするわけにはいかない。
立ち上がり、帰りましょうか、と声を掛けながら車椅子の持ち手を握ったときだった。
草を踏みながら丘を登ってくる小さな足音に気付き、アリスは振り返った。
近づいてくるのは、黒いベールと修道衣に小柄な身体を隙間無く包んだ、ひとりの少女だった。いまだ子供の面差しが残る可愛らしい顔に、輝くような笑みを浮かべて手を振っている。
「姉さま!!」
弾むような声が微風に乗って届き、アリスも笑みを返しながら小さく手を振った。
最後の十メルを勢いよく駆け上がってきた少女は、目の前で足を止めると、息を切らした様子もなくもう一度言った。
「おはよう、アリス姉さま!」
くるっと身体を回し、車椅子のキリトを覗き込んで、一層元気よく叫ぶ。
「キリトもおはよう!」
まるで反応のない相手の様子を気にする気配もなくにっこり笑ったその顔が、キリトの膝の二本の剣に向けられた瞬間だけ、わずかに痛みを感じさせるものに変わった。
「……おはよう、ユージオ」
呟き、指先で青薔薇の剣の鞘をそっと撫でてから、少女は改めてアリスに向き直った。心にぽっと暖かいものが流れるのを感じながら、アリスも挨拶を返した。
「おはよう、シルカ。よくここが分かりましたね」
シルカさん、と言わずにすむようになったのはつい最近のことだ。世界でただ一人の妹であるこの少女のことを、愛しく思えばおもうほど、今の自分にこの暖かさを感じる資格があるのか、と己を責めもしてしまう。
そんなアリスの絶えざる葛藤に、とっくに気付いているのであろうシルカは、まるで屈託なく笑った。
「べつに神聖術で探したわけじゃないわよ。姉さまの居るところならすぐ分かるもの。今朝しぼったばかりのミルクと、あと少しだけどりんごとチーズのパイを持ってきたの。家のテーブルに置いてきたから、お昼に食べてね」
「ありがとう、とっても助かるわ。何を作ろうか迷ってたのよ」
「姉さまの料理の腕じゃ、いつかキリトが逃げ出しちゃうかもしれないからね!」
あははは、と笑うシルカにむかって、アリスも笑いながら右手を上げてみせた。
「こら、言いましたね! これでも、最近ずいぶんと勘が分かってきたのよ」
はしゃぎながらするりとアリスの手をかわし、シルカはすぽんと胸に飛びこんできた。そのまま眼を閉じ、心地よさそうに頬をアリスの胸にこすりつける。アリスも、自分よりずいぶんと背の小さい妹の背を、そっと包む。
この瞬間だけ、アリスは自分を苛む罪の意識を忘れたいと本気で思う。剣を捨て、騎士の責務から逃げ、森の奥で穏やかな日々に暮らすことへの罪悪感を消し去れたら、どんなにほっとするだろう。しかし同時にそれが絶対に不可能であることも、アリスは悟っている。こうしている今この瞬間でさえも、目の前にそびえる果ての山脈のむこうから、終わりの時が刻一刻と近づいてきているのだから。
半年前の、あの激闘の最終幕において――。
瀕死の重傷を負い、まるで動かせない身体をカセドラル最上階の床に横たえたまま、アリスはおぼろげに戦いの行方を知覚していた。
アドミニストレータとキリトの死闘。チュデルキンの妄執の炎に巻かれ、共々に消えた最高司祭。キリトのパートナーであったユージオの死。彼の、いまわの際の言葉だけは、途切れとぎれの記憶に鮮明に焼きついている。
そして、もう一つ、不思議な水晶細工から流れる声とキリトが交わした会話も。ほとんど意味の汲み取れない、奇妙なやりとりの終わりに、突然キリトが身体を硬直させて倒れ――世界は完全に沈黙した。
どうにか天命がほんのわずか回復し、アリスが動けるようになったとき、硝子窓のむこうでは再びソルスの光が空を染めつつあった。いっぱいに差し込む曙光を神聖力源とし、アリスはまず倒れたキリトの傷を癒した。しかし彼は意識を取り戻さず、やむなくそのまま寝かせておいて自分にも治癒術を掛け、そののちにキリトが言葉を交わした水晶細工を調べた。
だが、紫に輝いていた表面はすっかり黒に変わり、どこをいじろうと二度と光ることはなかった。
アリスは途方にくれ、座り込んだ。キリトの言葉を信じ、世界の人々とどこかにいる妹を守るために絶対の支配者であったアドミニストレータと戦ったものの、よもや自分が生き残るとは考えていなかったのだ。ここで自分は死ぬだろうと、そう覚悟して最高司祭の剣のしたにわが身を晒したのだが、しかしいかなる奇跡か命をつないでしまった。
助けたならその責任を取りなさい、かたわらに横たわるキリトに向かって何度もそう叫んだが、黒髪の若者は決してその瞼を開けようとしなかった。ここからは自分で考えろ、まるでそう言っているかのようにアリスには思えた。
ずいぶん長い時間膝をかかえてから、アリスはようやく立ち上がり、行動に移った。出入り口があったあたりの床を、こちらもやっと回復した金木犀の剣で苦労して破壊し、現れた螺旋階段をひとり降りたのだ。
主を失ったチュデルキンの部屋と、いまだぶつぶつ術式を続ける元老たちの広間を抜け、向かった先は剣の師のもとだった。氷がほとんど溶けた大浴場に、大の字になって浮かぶ整合騎士長ベルクーリの身体は、幸い石化術からは解放されていた。おじさま! と呼びかけ、びしびし頬を叩くと、威丈夫はまるで長い間寝こけていたかのように伸びをすると、一度盛大なくしゃみをし、目を覚ましたのだった。
ようやく緊張がほぐれ、泣き笑いに喉を詰まらせながらも、アリスはどうにか状況をすべて説明した。ベルクーリは厳しい顔ですべてを訊き終えると、一言、よくがんばったな、嬢ちゃん、と言った。
あとはぜんぶ任せろ、そう宣言したベルクーリの行動は迅速だった。キリトらに破れ、しかしなぜか完全に治療された状態で薔薇園の片隅で発見された副長ファナティオをはじめ、同じく石化拘束されていたらしいデュソルバートやエルドリエといった主だった整合騎士を全員五十層の大回廊に集めると、真実をぎりぎりまで述べたのだ。
キリト、ユージオとの戦いの結果、最高司祭アドミニストレータが破れ、死んだこと。
その最高司祭の人界防衛計画が、人間の半数を剣骨の兵に変えるというものだったこと。
騎士団の上部組織・元老院の実体が、チュデルキンただ一人であったこと。
隠されたのは、整合騎士の来歴のみだった。もとより“神界からの召喚”に疑いを持っていたベルクーリは真実に耐えられたが、他の騎士たちには不可能だろうという判断だ。これは、最上階に残る数十の剣と神図の秘密の解明を待つ必要があろうとベルクーリはアリスのみに言った。
しかし、それでも尚、騎士たちの混乱は深刻だった。無理もない、これまでの永遠にも等しい年月において、最高司祭は唯一絶対の支配者であったのだ。
議論の果てに、彼らがともかくも騎士長に従うという選択をしたのは、皮肉にも、アドミニストレータに施された強制従属術ゆえのことだったかもしれない。例え最高司祭が消滅しようとも、彼らは“教会”に隷属しているのであり、そしてもはや騎士長ベルクーリが神聖教会の最高権力者であるのは疑いようもない事実だったのだから。
そしてそのベルクーリは、恐るべき精神力で本来の任務、“人界の守護”遂行へとまい進し始めた。彼にも葛藤はあったはずだ、己から奪われた愛する者の記憶が、すぐ手を伸ばせば届く場所に存在すると知ってしまったのだ。
しかし彼は記憶の回復よりも、迫り来る闇の侵攻への防御を整えるという責務を選んだ。数日で整合騎士団は体勢を立て直され、四帝国の近衛軍を実戦用に再編するという新たな任務へと動きはじめた。
それを見届けてから――アリスは、昏睡状態のキリトとともに自分の飛竜に乗って密やかに央都を去った。騎士の一部に、反逆者を処刑すべしとの意見が消えないのがその理由だった。最上階の激闘から、五日後のことだ。
悩みに悩んだ末、北の最果ての村、ルーリッドへと竜の手綱を向けるのに、更に三日を要した。央都の郊外で野営する間もキリトはいっこう目を醒まさず、充分に治療するにはどうしてもちゃんとした屋根とベッドが必要だと判断したのだ。しかし、街の宿屋に泊まろうとも市井の通貨の持ち合わせは無く、と言って整合騎士の権威を振りかざすような真似をする気にはもうなれなかった。
一縷の望みを――たとえ記憶を失っていようとも、生まれ故郷に暮らす家族たちは自分を暖かく迎えてくれるのではないかという期待を胸に、アリスはひたすらに北へと飛び、ノーランガルス帝国を縦断して、果ての山脈の裾野に接する深い森に抱かれた小村へとたどり着いた。
飛竜を住民に見られぬよう、低空を飛んで村にほど近い森のなかに降り、そこで三本の剣を守っているように竜に言いつけて、瞑るキリトを背負ってアリスはルーリッドの村へ徒歩で入った。
青い麦畑を横切るあいだも、小さな農家のわきを抜け、小川にかかる橋を渡るときも、多くの村人の視線がアリスに注がれた。しかしそこにあったのは、驚きと警戒の色だけだった。
裸の道が石畳に変わろうとする直前、小さな番屋から飛び出してきた若者が、そばかすの消えない顔に血を上らせて行く手を塞いだ。
待て、よそ者が勝手に通ったらいかんぞ!
叫びながら安物の剣を抜き、無遠慮に切っ先を突きつけてきたその衛士は、まず背負われたキリトの顔を見て訝しそうに首を捻った。あれ、こいつは……、そう呟いてから、改めてアリスを凝視し、そしてぽかんと目と口を丸くした。
あんた……あんた、まさか。
衛士のその言葉を聞いて、アリスは僅かながらほっとした。どうやら九年の時間が経ても自分を覚えていたらしい、そう思いながら、言葉を選んで衛士に告げた。
自分はアリス・ツーベルク。父親で村長の、ガスフト・ツーベルクを呼んでほしい。
カセドラル外壁で、たった一度キリトに聞いただけの名前だが、忘れるはずもなかった。衛士は顔色を赤から青に変え、ま、ま、待ってろと喚いて駆け出していった。
昼下がりの村はたちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。子供から大人までが、どこにこんなにいたのだと思うほどに集まってきて、アリスを遠巻きにして口々にひそひそ声を交し合った。
アリスが再度不安に襲われたのはその時だった。村人たちの顔には、こちらの素性を知ってもなお、警戒の色が濃く浮かんでいたからだ。そして、少なからぬ嫌悪すらも。
数分後、人垣の向こうから大股で近づいてきたのは、口とあごの髭を綺麗に整えた初老の男だった。
男はアリスを見た瞬間、いわく言いがたい表情に顔をゆがめた。その奥にどのような感情があったのか、アリスには察せられなかった。
ゆっくりと、何かを恐れるような歩調で目の前までやってきた男は、しわがれた声で言った。
アリス、なのか。
そしてこう続けた。
何故ここにいる。罪は赦されたのか。
抱きしめるでも、涙を浮かべるでもなく、“父親”がそう言い放つのを聞いて、アリスは手足の先が冷たくなるのを感じた。しかし、懸命に相手の目を見返して、アリスは答えた。
処罰により、私はこの村で暮らしたころのすべての記憶を失いました。しかし、ここより他に行くところはありません。
言えるかぎりの真実だった。
ガスフトは、ぐっと目をつぶり、顔を仰向けさせ、そしてくるりと背を向けた。
肩越しに投げかけられた言葉は――。
去れ。この村に罪人を入れるわけにはいかぬ。
一瞬の回想がアリスの身体を強張らせたのを感じとったのか、シルカが顔を上げ、少しだけ首を傾けた。
「姉さま……?」
気遣わしそうに問いかける最愛の妹に、アリスは微笑みを浮かべながら短く答えた。
「いえ……なんでもないのです。さあ、そろそろ帰りましょう、シルカ」
あの日、打ちひしがれて悄然と森の奥に戻ろうとしたアリスを、木立のかげから呼び止めてくれたのがシルカだった。父親である村長の意向に添わぬ行動だと知りながらそうした彼女の勇気と、彼女が引き合わせてくれたガリッタ老人の善意が無ければ、アリスはいまも寄る辺無き逃亡者として荒野を彷徨っていただろう。
シルカにとっても、決して簡単に受け入れられる話ではなかったはずだ。
ただ一人の姉が、過去をすべて忘れてしまったこと。二年前に交流があったというキリトの昏睡。そして、兄にも等しい存在だったユージオの死。
しかし、シルカが涙を見せたのはただの一回だけで、以降は決して笑顔を絶やすことなく元気に振舞っている。その心の強さと思いやりの深さには、日々感謝と驚嘆の念を新たにせずにはいられない。教会の司祭たちの神聖術より、整合騎士の剣よりもずっと強く、尊い力だと思う。
そして同時に、自分がいかに空疎な存在であるか、とも。
老人の手助けを得て、村の境界外の森に小さいながらしっかりとした住処を造りあげてから、アリスがまず行ったのは大規模な回復術を眠るキリトに施すことだった。
広い森でもっともテラリアの恩寵が潤沢な地点を選び抜き、ソルスの光を遮る雲が一片たりとも空にない日に、それら膨大な神聖力を根こそぎ回収・凝縮させてキリトの身体に注ぎこんだのだ。
発生した癒しの力はキリトの天命の数十倍に達し、またそこまでの高位術を駆式できるのは人界でもいまや自分ひとりであろうという自負がアリスにはあった。キリトの受けた傷がどれほど深いものだろうと、斬り落とされた右腕を含めてたちまち回復し、何事もなかったかのように目を醒ますだろうと確信していた。
しかし、結果は無残なものだった。
どれほど青い霊光を注ぎ込もうとも、まるで傷そのものが癒されることを拒むかのように右腕は戻らず――そして、ようやく開かれた瞼のおくの黒い瞳に、意志の光は無かった。
数時間の施術のすえについに諦めたとき、力の余波を受けたか、自分の顔に巻かれた包帯のしたで右眼が何事もなかったかのように再生していたことも、アリスには己の無力を嘲われているようにしか感じられなかった。
以来、キリトの心が戻ってくる兆しはまったく無い。
シルカは、こんなに姉さんが一生懸命看病してるんだもの、きっといつか元のキリトに戻るよ、と事あるごとに言ってくれるが、アリスはひそかに、自分では無理なのではないかと深く恐れている。
なぜなら、自分は心を持たぬ人形の騎士だから。
枯れた下草を踏みながら前を行くシルカが、不意に歩調をわずかに緩め、アリスは再び物思いから醒めた。
小さな修道衣の背中が、何かを言い出そうとして躊躇っていることを察し、アリスは車椅子を押す速度を少し落として声をかけた。
「どうしたの、シルカ? 困りごと?」
すると、さらに数秒ためらってから、ちらりと振り向いたシルカが言いづらそうに答えた。
「あのね……、バルボッサのおじさんが、また倒せない樹の始末を頼みたい、って……」
「なんだ、そんなこと。あなたが気にやむことないのに」
アリスが微笑むと、シルカは不意に憤慨するように唇を尖らせ、両手を胸の前で組んだ。
「勝手だわ、あの人たちは! 姉さんを怖がって村から追い出したくせに、困ったときだけ助けてもらおうだなんて。前から言ってるけど、断ってもいいのよ、姉さん。必要なものは、何でもあたしが持ってきてあげるから」
今度は少し声に出して笑い、アリスはなだめるように言った。
「ありがとうシルカ、でもほんとに気にしなくていいのよ。村の近くに住まわせてもらえてるだけでも有り難いことだわ。キリトにお昼をたべさせたら、すぐに行くわね。南の畑でいいのよね?」
「……うん。あのね……あたし、来年の春にはシスター見習いから準シスターに昇格して、少しだけどお給金もらえるようになるから。そしたらもう、姉さんにあんな奴らの手伝いなんてさせないからね」
すぐ横まできて、決然とした表情でそう告げるシルカの頭を、アリスは右手でそっと撫でた。
「ありがとうね……、でも、あなたが居てくれるだけで、私はじゅうぶん幸せなのよ……」
名残惜しそうに手を振り振り去っていくシルカと、小屋のある草地の真ん中で別れ、アリスは手早く昼食の準備をした。
最近では、どうにか家事の真似事をこなせるようになってきたものの、料理の腕だけはいかんともしがたい。金木犀の剣と比べると、村で買った包丁はおもちゃのように軽く頼りなく、恐る恐る材料を切るだけで三十分や一時間くらいすぐに経ってしまう。
今日は幸いシルカが、すぐに食べられるパイを届けてくれたので、それをフォークで小さく切ってキリトの口に運んだ。唇が開かれるのを辛抱強く待ち、そっと中に入れてやると、まるで食事の記憶を本人ではなく口が思い出しているかのように、ゆっくりゆっくりと噛む。
小さな一切れを長い時間をかけて食べさせ、スプーンでミルクを飲ませるあいだに、自分も素朴な手作りパイを大事に味わって食べる。カセドラルでは、四帝国の各地から集められた美味佳肴が常に巨大なテーブルに満たされ、それらをいい加減につついては下げさせるような真似をしていたのが今更恥ずかしく思い出される。
後片付けをしてから、再びキリトにしっかりと外套を着せ、膝に二本の剣を載せてやる。自分も、身体と髪を隠すように分厚く着込む。
車椅子を押しながら外に出ると、いつのまにかすっかり向きが変わった日差しが梢のあいだから零れていた。近頃は随分日が短くなり、午後はたちまち空の色が変わってしまう。少しばかり急ぎ足で、今度は細道を西へ辿る。
森が切れると、目の前に刈り入れを待つばかりの黄金の麦畑が広がった。重そうに揺れる麦穂の海のむこうに、丸い丘を覆うようにして赤い屋根の家々が軒先を並べるルーリッドの村が見える。中央から、一際高い尖塔を伸ばしているのがシルカが暮らす教会だ。むろん、シルカも、彼女を指導するアザリヤという修道女も、全世界の教会組織を束ねるセントラル・カセドラルの最上階がいまや主無き廃墟であることを知らない。
たとえカセドラルが大混乱に陥ろうとも、地上の営みにはまるで影響はなかったのだ。禁忌目録は変わらず有効に機能し、人々の意識を縛り続けている。果たして彼らに、剣を取り国を守るなどということができるだろうか。無論、教会の名で命じれば従いはするだろう。しかし、戦いに勝つためにはそれだけではまったく不十分なことは、少なくとも騎士長ベルクーリにはよく分かっているはずだ。
武装の優先度でも、術式の行使権限でもなく、最終的に戦いの帰趨を決するのは意志の力だ。絶望的な戦力差を覆し、多くの整合騎士を、そして最高司祭アドミニストレータをすら斬り伏せてのけた修剣士キリトの存在がそれを証明している。
農作業の手を止め、忌まわしそうな視線を向けてくる村人たちの姿を、伏せた眼のはしで捉えながらアリスは胸中で呟いた。
――小父様、彼らにとって平和とはただ誰かに保証されたものに過ぎないのかもしれません。
そして、そうさせてしまったのは神聖教会と整合騎士団だ。こうして土の上で暮らしてみて初めて、アリスはこの世界がいかに歪んだ姿をしているかに気付いた。
物思いに沈みながらも、早足で麦畑の外周を回る道を辿り、村の南に広がる開墾地へと出たアリスは、そこで車椅子を止めた。
ほんの二年前までは、この先には東の森を上回る深く暗い原生林が広がっていたのだという。
しかし、その森の主であり、神聖力を底無し穴のように吸い取っていた巨大樹をキリトとユージオが切り倒してくれたので、いま村の男たちは畑を広げることに夢中なのだ、とシルカが少々困ったような顔で言っていた。禁忌目録で、村の人口に対する畑の上限面積が厳密に規定されているため、そこに達すればそれ以上の開墾は出来なくなる。その前に、他の農家よりも少しでも大きな土地を確保しようと、男たちは殺気立っているらしい。
視線の先には、荒く掘り返された黒土が半円を描いて広がり、その彼方で数十人の村人が盛んに斧音を響かせている。中でもひときわ多くの人数を指揮し、あれやこれや喚いている太鼓腹の男が、ナイグル・バルボッサという村一番の大農家の長だ。一族の人数では、現村長を出したツーベルク家を上回るそうで、その尊大さは元整合騎士のアリスも驚くほどだ。
気が進まないながらも、アリスは踏み固められた細道に車椅子を進ませた。キリトは、かつて自分が倒した巨大樹の痕跡を僅かにとどめる、朽ちかけた黒い切り株の傍らを通過しても一切の反応を見せず、ただ二本の剣を抱いたまま俯いている。
二人に最初に気付いたのは、倒したばかりらしい木の幹に腰掛けて豪勢な弁当をがっついてるバルボッサ一族の若者たちだった。歳は十五、六とおぼしき彼らは、深く巻いたスカーフを貫くような粘ついた視線でアリスを眺め回したあと、車椅子のキリトに視線を移し、小声で何かを言い合っては厭な笑い声を立てる。
無視してその前を通過すると、若者の一人が間延びした大声を出した。
「おじさーん、来たよぉー」
すると、腰に手を当てて怒声を撒き散らしていたナイグル・バルボッサがくるりと振り向き、脂ぎった丸顔ににんまりと大きな笑みを浮かべた。丸い鼻や細い眼が、どこか元老チュデルキンを思い起こさせて肌が軽く粟立つ。
しかしアリスは、可能な限りの笑みを返し、軽く会釈した。
「こんにちは、バルボッサさん。何か御用と聞きましたので……」
「おお、おお、アリスや、よく来てくれたのう」
丸い腹を揺らし、両手を広げて近づいてきたので、よもや抱擁する気ではと再びぞっとしたが、幸いその前にキリトの膝に載った剣呑な武器に眼を留めて思いとどまったようだった。
代わりにアリスの右横五十センに立つと、ナイグルは大儀そうに巨躯を回し、森と開墾地の境を指差した。
「ほれ、見えるじゃろう。昨日の朝からあの糞ったれな白金樫にかかりっきりなんじゃが、大の男が十人がかりでようやく指いっぽん分しか進まん有様での」
見れば、直径が一メル半はありそうな、巨大な白褐色の樹が四方八方に根と枝を広げ、開墾者たちに頑強に抵抗しているようだった。幹の一方には二人の大男が取り付き、かわるがわる斧を樹皮に叩きつけているが、刻まれた切り込みは確かに十センにも届かない浅さだ。
男たちの、裸の上半身は真っ赤に染まり、汗が滝のように流れている。胸や上腕の筋肉はそれなりの厚みだが、普段鍬や鋤しか持ったことのない手に急に斧を握ったせいだろう、重心移動も腰の回転もお粗末のひとことだ。
見守るうち、男の一人が右脚を滑らせ、見当違いの箇所を斜めに叩いた斧が柄の中ほどからべきりと折れ飛んだ。怒声を上げて両手を抱え、うずくまる男に、周囲の仲間たちが遠慮のない笑い声を浴びせる。
「まったく、何をやっとるんだ馬鹿者めらが……」
ナイグルが唸り、もう一度アリスを見た。
「あれでは、あの樹一本に何日かかるか知れたもんじゃねえ。ウチが手間取ってるあいだに、リダックの盗っ人どもが二十メルも土地を広げよった!」
バルボッサ家に次ぐ規模の麦作農家の名前を挙げると、ナイグルは鼻息荒くブーツで足元の地面をこじった。ふうふうと胸を波打たせてから、不意にまた脂っこい笑顔を満面に浮かべる。
「そんな訳でな、月に一度の約束じゃけんども、すまんけど今回だけ特別に力を貸してもらえんかの、アリスや。あんたは憶えておらんじゃろうが、ワシは子供のころのあんたにお菓子を呉れたことが何度も……」
ため息を押し隠してアリスはナイグルの言葉を遮り、頷いた。
「ええ、いいですよバルボッサさん。今回だけということでしたら」
このように、開墾の邪魔をする高優先度の樹や岩を排除する、それが現在のアリスの天職だ。無論、誰に与えられたものでもない。村はずれに落ちついて一ヶ月ほど経ったころ、地崩れで村道を塞いだ大岩を、アリスがひとりで押して退かしたのが噂になりこんな手伝いを頼まれるようになった。
実際、暮らしていくうえで多少の現金はどうしても必要だったので、稼ぐ手段があるのは有り難いことではある。しかし言われるままに頼みごとを聞いていたら、男たちは際限なく要求してくるとシルカが心配したので、手伝うのはひとつの開墾地で一ヶ月に一度まで、と取り決めを交わしてある。
禁忌目録から村の掟にいたるまで、一切の規則を厳守するはずのナイグルが、このような取り決めに外れた依頼をしてくる時点で、彼らがアリスのことを村人よりも下に見ているというのは明らかだ。内面を看破されているとも知らず、にこやかに揉み手をするナイグルに、しかしアリスは無言で頭を下げると車椅子から手を離し、大木へと歩み寄った。
アリスの姿に気付いた男たちの中には、野卑な笑みを浮かべるものも、あからさまに舌打ちするものもいた。しかし、今はもう皆がアリスの力を知っているので、全員が持ち場を離れ、遠くで輪になった。
彼らには一切眼を向けず、アリスは白金樫の古木に近寄ると、右手でそっとその表面を叩き、ステイシアの窓を引き出した。さすがに天命はかなりの数値だ。この優先度では、いつものように借り物の斧を使っては歯が立つまい。
一度小走りにキリトのところに戻り、腰を屈めて、小声でそっと囁いた。
「ごめんね、キリト。少しだけ、あなたの剣を貸して頂戴」
軽く右手を黒い長剣の鞘に掛けると、キリトの身体がわずかに強張るのが感じられた。しかし、辛抱強く虚ろな黒い瞳を覗き込んでいると、やがて左腕から力が抜け、かすかな声が喉から漏れた。
「……ぁー」
これは、意志が伝わったというよりも、記憶の残響のようなものなのだろう。キリトの心ではなく、思い出の残滓だけが、今の彼をほんの僅かに動かしている。
「ありがとう、キリト」
囁いて、膝からそっと黒い剣を持ち上げて、アリスは再び樹の前へ向かった。
それにしても立派な大樹だ。央都セントリアの構造材になっている古代樹には及ばないまでも、樹齢は百年を軽く越すだろう。
心のなかで、ごめんなさい、と呟き、アリスはぐいと足場を固めた。
右脚を前に、左脚を後ろに。左手で腰溜めに構えた“夜空の剣”の、黒革を巻かれた柄に軽く右手を添える。
「おいおい、そんな野暮ったい剣で白金樫を倒す気かぁ?」
男の一人が叫び、周囲がどっと笑った。剣が折れるぞぉ、その前に日が暮れちまわぁ、と次々に喚き声が交わされる中、背後から心配そうなナイグルの声がかけられた。
「あー、アリスや、できれば一時間くらいで何とかして欲しいんじゃがのう」
これまでアリスは、借り物の斧を振るってどんな樹でも三十分以内に倒してきた。そんなに時間を掛けたのは、斧を破壊してしまうのを避けたからだ。しかし、今日ばかりは武器を折る心配はない。夜空の剣は、金木犀の剣には及ばぬまでも世界で最強クラスの優先度を備えた神器なのだ。
「いえ、そんなには掛かりません」
呟くように答え、アリスはぐっと柄を握った。
「……せあっ!!」
短い気合。両の足元から、爆発じみた土煙が上がる。
随分と久々に振るう本物の剣だったが、身体は滑らかに動いた。抜きざまの左水平斬りが、黒い稲妻となって宙を疾った。
周囲の人間で、斬撃そのものを視認できた者はいるまい。剣を右前方に振り切った姿勢で動きを止めたアリスの頭から、ふわりとスカーフがはずれ、長い金髪がなびいた。
黄金の輝きに眼を奪われた男たちは、立ったままの大木に視線を戻し、訝しそうに首を捻った。白褐色の滑らかな樹皮には、彼らがつけた小さな刻み目が残るのみで、それ以外は傷痕ひとつ見えない。
なんだよ、外れかぁ?、という声が上がるなか、アリスはゆっくり身体を起こし、漆黒の刀身をぱちりと鞘に収めた。足元からスカーフを拾い上げてから、男たちの輪の一部を指差す。
「そこ、倒れますよ」
訝しそうに眉をしかめたその顔が、驚愕に変わったのは、ゆっくりと自分たちのほうへと傾いてくる大木の幹を見てからだった。うわあああと盛大な悲鳴を上げて飛び退り、尻餅をついた男たちのあいだに、凄まじい地響きを立てて切断された巨樹が横倒しになった。
もうもうと巻き上がった土煙をぱたぱたと払いながら、アリスはちらりと幹の切断面を確認した。年輪がくっきりと浮き上がった、磨かれたように滑らかな断面に、一箇所わずかなささくれが見て取れた。
やはり腕が鈍っている、と軽いため息をつきながら振り向いたアリスは、ぎょっとして立ち止まった。ナイグルが再び、満面の笑みで両腕を広げて急接近しつつあったからだ。
思わず左手の夜空の剣をわずかに持ち上げると、かしゃりという刃鳴りを聞いてナイグルは急停止した。しかし笑顔はまったく減じられず、野太い叫びが喉の奥から発せられた。
「すばっ、すんばらしい! なんという腕じゃ! 衛士長のジンクなんぞ問題にならん! まさに神業! どっ、どう、どうじゃアリス、手間賃を倍にするから、週に一度……いや、一日いっぺん手伝ってくれんかのう!!」
丸い体を捩り、絞るように手を揉むナイグルに、アリスはそっけなくかぶりを振った。
「いえ……、今頂いている金額でじゅうぶんですので」
仮に、金木犀の剣を持ってきて完全支配術を使えば、一日一本の大木を切るどころか、数分でこの森を見渡す限りの裸地に変えることだって容易い。しかし、そんなことをすれば、彼らの要求は土地を畑に整備し、重い杭を打ち、雨を降らせることにすら及ぶだろう。
んぬぬぬぬぬ、と唸りながら悶えていたナイグルは、アリスの「御代を」という声で我に返ったように瞬きした。
「お、おう、そうじゃったそうじゃった」
懐に手をやり、ずしりと重そうな革袋から、約束の銀貨一枚をつまみ出す。
それをアリスの掌に落としながら、ナイグルはなおも未練がましく言葉を連ねた。
「そ、それじゃこういうのはどうかのう。今、銀貨をもう一枚やるから、今月のリダックの連中の手伝いは断る、ってのは……」
呆れ返りつつため息を飲み込んだアリスの耳に、がたん、という大きな音が届いた。はっと顔を上げ、音源のほうに視線を走らせる。
車椅子が横倒しになり、投げ出されたキリトの痩身が見えた。
表情はないが、しかしどこか必死さを感じさせる動きで、枝のような左腕を伸ばしている。あー、ああー、という掠れ声が、搾り出されるように喉から間断なく漏れる。
その腕の先では、弁当を食べていた少年らが、青薔薇の剣を二人がかりで持ち上げようとしていた。真っ赤に興奮した顔で、口々に喚いている。
「うおっ、なんだこりゃ重ェぞ!!」
「馬っ鹿、だからあんな女でも白金樫が倒せるんじゃねえか」
「いいからちゃんと押さえてろよ!」
三人目の少年が叫び、剣を抜こうと両手で柄を握って体を反らせた。
ぎりっ、という剣呑な音が、噛み合わされた奥歯から発せられるのをアリスは聞いた。それを意識するより早く、右脚が強く地面を蹴った。
「貴様らっ……!!」
鋭い声を聴いた少年たちが、ぽかんとした鈍重な顔をアリスに向けた。
その締まらない表情が、僅かながらも怯んだのは、アリスが二十メル以上の距離を一瞬にして駆けるのを見たからだろう。土埃を巻き上げて止まったアリスの眼前で、三人がじりっと後ずさる。
大きく一度息を吸い、激しい感情をどうにか押し留めてから、アリスは倒れたキリトを助け起こしながら低く言った。
「その剣はこの人のものです。早く返しなさい」
それを聞いた少年たちの顔に、挑戦的な反抗の色が浮かんだ。青薔薇の剣を抜こうとしていた、最も大柄な藁色の髪の一人が、唇を歪めて笑いながら片手でキリトを指差す。
「俺たちはちゃんとそいつに剣を貸してくれって言ったぜ」
車椅子に戻ったキリトは、肩にかけられたアリスの手も、少年の言葉もまったく意識することなく、なおも純白の剣に向けて左腕を伸ばしながら細く声を漏らしている。
その様子を嘲るように歯を見せながら、別の少年が続けた。
「そしたらそいつ、気前よく貸してくれたんだよ、なぁ? アー、アーって言ってさぁ」
残る一人も、調子を合わせてへっへっへと笑う。
アリスは、自分の右手を襲った強い震えを抑えるのにかなりの苦労をしなければならなかった。その手は間違いなく、左手で下げたままの夜空の剣を抜こうとしていたからだ。
半年前の自分なら、一瞬の躊躇もなく、青薔薇の剣に掛けられた六本の腕を斬り飛ばしていただろう。整合騎士は禁忌目録には一切規制されず、騎士団の内規はあるにせよ、それも“不敬行為”という曖昧な基準に拠って処罰対象の天命の最大七割までを減ずることを許している。そもそも、右眼の封印を破った自分を、真に縛る法も規則ももう一つとして存在しないのだ。
しかし――。
アリスは痛いほど奥歯を噛み締め、己を襲う衝動と戦った。
あの少年たちは、キリトとユージオが、魂と命までもを引き換えにして守ろうとした“人界の民”だ。傷つけることはできない。キリトもそれは望むまい。
数秒間、アリスはぴくりとも動かず、声も発さなかった。しかし恐らく、瞳に浮かんだ殺気までは隠せなかったのだろう、少年たちは不意に怯えたように笑みを消し、口をつぐんだ。
「……わかったよ、怖ぇ顔しやがって」
やがて、ふて腐れたようにそう吐き捨て、藁色の髪が剣の柄から手を離した。残る二人も、恐らくはもう支えているのも限界だったのだろう、どこかほっとしたように鞘を離し、青薔薇の剣はその場に重々しい音を立てて横たわった。
アリスは無言のまま数歩進み、腰をかがめて、わざと右手の指三本だけで軽々と白革の鞘を持ち上げた。振り向く瞬間、悪餓鬼どもにじろりと一瞥を呉れ、車椅子のところまで戻る。
鞘についた土埃を外套の袖でぬぐってから、白黒二本の剣を一緒に膝に置いてやると、キリトはそれをしっかりと抱きしめて沈黙した。
改めてナイグルのほうを見ると、富農の頭領はこの騒ぎには一切の興味を持たなかったようで、すでに男たちの指揮に没頭していた。湯気を立てながらあれこれ喚き続けるその背中に軽く一礼して、アリスは車椅子の背を押して元きた道を戻り始めた。
胸中に吹き荒れた激しい怒りは、いつの間にか冷たい虚無感に取って変わられていた。
ルーリッド近郊で暮らし始めて、このような思いをするのは初めてのことではない。村人たちの多くは、アリスと言葉を交わそうとすらもしないし、魂に傷を受けたキリトに至っては人間として扱ってさえくれない。
それを責めるわけではない。彼らにとっては、禁忌目録を破った人間などというものは闇の国の怪物と大差ない存在なのだろうから、いっそ村の外に住まわせ、食料や日用品を売ってくれるだけで有り難いと思うべきなのだ。
しかし同時に、何故、何のために、とも思わずにはいられない。
いったい何のために自分たちは、あれほどの苦難を乗り越え、アドミニストレータと戦ったのか。前最高司祭カーディナルとユージオは命を落とし、キリトは言葉と感情を失い、そこまでして守ったものは一体何だったのか。
この思考の行き着く先は常に、決して言葉には出せぬひとつの問い――。
あの村人たちに、守る価値、意味があったのか、という。
その迷いこそが、アリスに剣と整合騎士第三位の座を捨てさせ、この地の果てに留まらせていると言ってもいい。
こうしている今も、イスタバリエス帝国の果てにある“東の大門”では、騎士長ベルクーリ率いる新生守備軍が、迫り来る大侵攻への備えを重ねているはずだ。四帝国の近衛軍と各地の衛士隊を掻き集めたと言っても、士気も武装も頭数も充分には程遠く、立場から言えばアリスは一刻も早く馳せ参じるべきなのだろう。
しかし、今のアリスには、金木犀の剣はあまりにも重過ぎる。
唯一絶対の忠誠を誓った最高司祭アドミニストレータを自ら倒し、天には神界も創世三神も存在しないことを悟り、更に人間たちの醜さを知りすぎるほどに知ってしまった。自らの善と正しさを疑うことなく剣を振るうことができたあの頃は遠くに過ぎ去った。
今、アリスが真に守りたいと思う人間はたった三人、妹のシルカとガリッタ老人、そしてキリトだけだ。彼らさえ守れるなら、この地で眠るように暮らし続けるのもいいのではないか。そう思わずにいられない。
稼いだ銀貨で一週間分の食材を買い込み、それを背負って東の森の小屋に帰りつくころには、空はすっかり夕焼けの色に染まっていた。
扉を開けようとしたアリスは、北から低い風きり音が近づいてくるのに気付いた。木々の梢を掠める低空から現れたのは、巨大な竜の影だった。アリスの騎竜、名前は雨縁《アマヨリ》だ。
飛竜は、二度大きく羽ばたいて勢いを殺すと、軽やかに草地に降り立った。長い首を伸ばし、まずキリトに鼻息を吹きかけてから、アリスに大きな頭を寄せてくる。
緑がかった銀色の和毛を掻いてやると、雨縁はるるるると低く喉を鳴らした。
「お前、ちょっと太ったわね。湖の魚を食べすぎなのではなくて?」
笑み混じりにそう叱ると、ばつが悪そうにふうっと鼻から息を吐き、長い体を回して小屋の裏手にある寝床へと歩いていく。
数ヶ月前、住処が完成したその日に、アリスは雨縁の首に留められていた銀のはみを外し、拘束術もすべて解除した。その上で、お前はもう自由です、西域にある飛竜の巣へ帰りなさい、そう命じたのだが、しかし竜は森から離れようとしなかった。
自分で枯れ草を集めて小屋の裏に寝床をつくり、日中は気ままに森で遊んだり、湖で魚を獲ったりしているようだが、夕暮れには必ず戻ってくる。誇り高く凶暴な性質を、強力な神聖術によってのみ抑え込んでいたはずだったが、いったい何が飛竜をこの場所に留めているのかはアリスにも分からない。しかし、九年間ともに空駆けた雨縁が、彼女自身の意志で一緒にいてくれるのは素直に嬉しいので、あえて追い出そうとはしなかった。飛翔する姿が時折村人に目撃され、アリスへの悪意ある噂の一因になっているようだが、今更気にかけても始まらない。
干し藁の上で丸くなった雨縁に、おやすみを言ってからアリスは車椅子を押して家に入った。
夕食には、豆と肉だんごのシチューを作った。多少豆が硬く、だんごは大きさが不揃いだったが、味は随分とまともになってきた気がした。もちろん、キリトが感想をくれるわけではない。小さなスプーンで口に入れてやったものを、思い出したように噛み、飲み込むだけだ。
せめて、何が好物で何が嫌いなのかくらい知っていれば、と思うものの、この若者と話をした時間は一日にも満たぬ短さだった。シルカは二週間近く同じ教会で寝起きしたらしいが、しかし食事に何が出ようと嬉しそうにがっついていた記憶しかないという。それもまたキリトらしいと思う。
時間をかけてどうにか皿を空にさせ、ごちそうさまを言った。
洗った食器を拭き、棚に並べているときだった。突然、いつもならもう静かに眠っているはずの雨縁が、窓の向こうでルルルッと低く唸った。
はっとして手を止め、耳を澄ます。森を渡る夜風に混じって届いたのは、間違いなく大きな翼が立てる風切り音だった。
戸口の掛け金を上げるのももどかしく、前庭に飛び出して空を仰ぐ。切れぎれの雲間にのぞく星空を背景に、螺旋を描いて舞い降りてくる黒い影は、間違いなく竜の翼のかたちだった。
「まさか……」
暗黒騎士が山脈を越えてきたのか、と息を飲んだが、剣を取りに戻りかけた直前、星明りを受けて竜のうろこが明るく輝くのが見えた。僅かに肩の力を抜く。銀鱗を持つ飛竜を駆るのは、人界とダークテリトリーを含めても整合騎士しかいない。
しかし、安心するのは早い。いったい誰が何のためにこんな辺境まで飛んできたのか。反逆者キリトの粛清論は、半年経っても消えていないのだろうか。
小屋の裏から雨縁も這い出てきて、長い首を高くもたげて再び低く唸った。
しかし、剣呑な響きはすぐに消え、喉声はきゅうんと甘えるような甲高いものに変わった。その理由は、アリスにもすぐに分かった。
見事な手綱さばきで、狭い草地に大した音もさせずに着地した騎士の竜は、雨縁とよく似た青緑がかった銀の鱗を持っていた。間違いなく彼女の兄竜、名を滝刳《タキクリ》。ということは、その背に乗る白鎧の騎士は――。
左腰の長剣と、右腰に束ねた鞭を鳴らして降り立った騎士に、アリスは硬い声で呼びかけた。
「……よくここが分かりましたね。何をしに来たのです、エルドリエ」
長身痩躯の整合騎士は、すぐには応えず、流麗な仕草で右手を胸にあててまず一礼した。おもむろに外された、後方に長い飾り角を立てた兜の下から現れたのは、艶やかな藤色の長い巻き毛と、男としてはやや華美すぎるほどに整った容貌。紅を引いたように鮮やかな唇が動き、音楽的な声が流れた。
「お久しゅうございます、我が師アリス様。装いは違えど相変わらずお美しくいらっしゃる。今宵の月明かりには師の御髪もさぞ麗しく輝いておられようと思うと居ても立ってもいられずに、秘蔵の銘酒片手に馳せ参じた次第」
背中に回されていた左手がさっと差し出されると、そこに握られていたのは一本の赤ワインだった。
アリスはため息を飲み込みながら、剣の弟子であるところの整合騎士、エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスを眺めた。
「……傷は癒えたようで何よりですが、性格は変わっていませんね。今気付きましたが、そなた少し元老チュデルキンに似ていますよ」
うぐっ、と妙な音を出すエルドリエに背を向け、小屋へと歩きだす。
「あ、あの、アリス様……」
「真面目な話があるのなら中で聞きます。無いならそこで一人酒をしなさい、好きなだけ」
半年振りの再会に、嬉しそうに首をこすり合わせている滝刳と雨縁の兄妹をちらりと見上げてから、アリスは足早に小屋へ戻った。
おとなしく付いてきたエルドリエは、狭い小屋のなかを物珍しそうに見回したあと、テーブルの脇で俯くキリトをちらりと一瞥し、僅かに切れ長の眼を細めた。しかしそれきり、かつての剣敵のことは無視することに決めたようで、素早くテーブルの奥に滑り込むと、アリスのために椅子を引いた。
「…………」
ありがとう、と言うのも馬鹿馬鹿しいのでため息で代用し、アリスはどすんと腰を降ろした。エルドリエは勝手にアリスの向かいに座ると、ワインをテーブルに置き、不意に顔を持ち上げて形のよい鼻をひくひく動かした。
「何やら良い匂いがしますな、アリス様。ところで私、夕餉はまだ食べておりませぬ」
「何がところでなのですか。だいたい、長駆するのに酒を持って携行食を持たぬとはどういうことですか」
「私はあのぱさぱさした奴は一生食わぬと三神に誓いましたので。あんなもので腹を満たすくらいなら、飢えて天命が尽きようとも本望というもの……」
エルドリエの益体も無い返答のなかばでアリスは椅子を立ち、背後の台所に移動すると、かまどに乗った鉄なべからシチューの残りを皿についでテーブルに戻った。
無言で目の前に置かれた皿を、エルドリエは一瞬の喜びと、続く疑念をあらわにして見下ろした。
「…………つかぬことを伺いますが、これはもしやアリス様お手ずから……?」
「そうですが。それがどうかしましたか」
「…………いえ。我が師の手料理を頂ける日が来ようとは! 秘剣の型を授かったときに勝る喜びというもの」
緊張した表情で匙を握り、豆を口に運ぶエルドリエが再び何かを言い出す前に、アリスは声音を改めて再び問い質した。
「それで、そなた、どうやってこの場所を探り出したのです。央都からはいかなる探査術も届かぬ距離……さりとて、今更私ひとりを見つけるために騎士を割く余裕など、カセドラルには無いはずです」
エルドリエはしばらく答えず、何だ旨いじゃないですか、などと呟きながらシチューをがっついていたが、やがて綺麗になった皿を置くとまっすぐにアリスを見た。
「私とアリス様の魂の絆によって……と言いたいところですが、残念ながらまったくの偶然ですよ」
芝居がかった仕草でさっと右手を広げる。
「最近、北方で活動するダークテリトリー勢があるという情報が届きましてね。南北西の洞窟はすべて、騎士長の指示で潰してありますが、そこを性懲りも無く掘り返す気かもしれんということで、私が確認にきたのです」
「何……洞窟を……?」
アリスは眉をしかめた。
果ての山脈に穿たれた四箇所の孔のうち、南、西、そして北の洞窟はごく狭く、闇の軍勢の中核を成す巨躯のオークやトロールは通過できない。ゆえに、敵軍の本陣は東の大門に集結すると予想されたが、騎士長ベルクーリは念を入れて、指揮権を得た直後に三箇所の洞窟をすべて崩落させたのだ。
それを知っていたからこそ、アリスはこの地を隠遁先に選んだのだが、敵が洞窟を掘り返すとなれば状況は変わる。ここは平和な辺境からたちまち戦火の最前線となってしまう。
「それで……動きは確認できたのですか」
「丸一日かけて飛びまわりましたが、オークはおろかゴブリンの一匹すらも見ませんでしたよ」
エルドリエは再び肩をすくめた。
「大方、新米の騎士が、獣の群れか何かを軍勢と見違えたのでしょう。……っと、これは失言」
新米と言うならば、最新の整合騎士であるアリスがもっとも該当することになる。頭を下げるエルドリエに軽く手をかざし、アリスは考えた。
「……洞窟は確認しましたか?」
「無論。向こう側から中を覗きましたが、見渡すかぎり岩で埋まっておりましたよ。あれを掘り返すにはトロールが一部隊は要るでしょう。……それを確かめ、再び東へ戻ろうと手綱を引いたところ、滝刳が妙に騒ぎましてね。導かれるまま飛んでみたら、この場所に降りたという次第です。正直、私も驚きましたよ。大した偶然……いや、やはり運命の導きか」
いつの間にか芝居めいた口調を一切消し、エルドリエは剛直な騎士の貌になって続けた。
「いまこの時、再び相まみえたからには、これを申すのは私の責務。アリス様……騎士団にお戻りください! 我々は、千の援軍よりもあなた御一人の剣を必要としております!!」
迷いの無い強い視線から逃れるように、アリスは僅かに俯いた。
判っている。
人界を包む脆い殻が、いま音を立てて砕けようとしていることも。それを支えようとするベルクーリと守備軍の絶望的な状況も。
騎士長には返し尽くせぬ恩があるし、エルドリエを含む整合騎士団の朋輩たちには絆を感じもする。しかし、それだけでは戦えないのだ。強さとは意志の力そのものである、アリスは最高司祭との戦いで知りすぎるほどにそれを知ってしまった。天命や権限の絶望的戦力差を覆すのも意志力なら、最強の刃をなまくらに変えてしまうのもまた同じ――。
「……できません」
ごく微かな声で、アリスは答えた。
間髪入れず、エルドリエの鋭い声が響いた。
「何故です」
返事を待たず、鞭のように鋭い視線を、左横の車椅子に沈み込む若者に向ける。
「その男のせいですか。カセドラルの神聖を侵し、多くの騎士を刃にかけた此奴が、今も尚アリス様のお心を惑わせているのですか。であればその迷い、今すぐにでも私が断って差し上げる!」
ぎり、と右腕に力を込めるエルドリエを、アリスは一瞬かつての剣気を取り戻した両眼で射た。
「やめなさい!」
抑えた声量ではあったが、整合騎士は指先を持ち上げただけでぴたりと動きを止めた。
「彼もまた、己の信じる正義のために戦ったのです。そうでなければ、なぜ最強たる我ら整合騎士が、騎士長にいたるまで遍く敗れ去ったのですか。彼の剣の重さは、直接刃を交えたそなたが一番よく知っている筈」
怜悧な鼻梁に、僅かに悔しげな皺を寄せ、エルドリエは再び体を落とした。勢いの失せた口調で、呟くように独白する。
「……確かに、人の半数を剣骨の兵に変えるという最高司祭様の計画は、私にも受け入れがたいものです。そして、此奴が現れなければ、計画が実行されるのを何ぴとも止められなかったでしょう。増して、此奴を導いたのが、アドミニストレータ様に放逐されたもう一人の最高司祭であった、という騎士長殿の話が事実であるなら、私も今更此奴の罪を問おうとは思いませぬ。しかし……そうであるなら、尚のこと納得が行かない!!」
今までせき止めていた胸のなかのものを吐き出すように、エルドリエは叫んだ。
「この男が、アリス様の仰るように整合騎士をも上回る最強の剣士だというのなら、何故いま剣を取り戦おうとしないのです!! 何故このような情けない姿に成り果て、アリス様をも縛りつけようとするのですか!! 民を守るというなら、まさに今こそがその時だというのに!!」
火を吐くようなエルドリエの言葉にも、キリトは一抹の反応すらも見せなかった。薄く開いた黒瞳を、虚ろにテーブルに向け続けるのみだ。
降り積もる重い沈黙を、やがてアリスは穏やかな声で破った。
「……御免なさい、エルドリエ。私はやはり行けません。この人とは関係ない……私の剣力はもう失せてしまった、それだけなのです。今そなたと立ち会えば、たぶん三合と持たないでしょう」
エルドリエははっとしたように顔を上げ、アリスを見つめた。歴戦の騎士の貌が、一瞬、幼い少年のようにくしゃりと歪み、やがて諦念を映した微笑に変わった。
「……そうですか。では、もう何も言いますまい……」
ゆっくりと右手を伸ばし、低く速い詠唱で神聖術の起句を呟いた。生み出した二個の晶素を、騎士は熟練の駆式でたちまち光り輝く薄いグラスに変えた。
テーブルからワインの瓶を取り上げ、指先でキン、と音をさせて首を切断する。鋭利な切断面を傾け、優美な仕草でごく僅かずつ真紅の液体をグラスに注ぎ、瓶を置いた。
「……別れの酒になると知っていれば、秘蔵の西域産二百年を持って参りましたものを」
片方のグラスを持ち上げ、エルドリエは一息に呷ると、そっとテーブルに戻した。一礼して立ち上がり、純白のマントを翻して背中を向ける。
「では、これで御別れです、師よ。教授頂きました剣訣、このエルドリエ生涯忘れませぬ」
「……元気で。無事を祈っています」
どうにかそれだけ口にしたアリスの言葉に、僅かに見せた横顔で微笑みを返し、整合騎士はかつかつと長靴を鳴らして歩き去った。その背中は揺るぎない剣士の誇りに満ちていて、アリスは思わず目を伏せた。
ドアが開き、閉じると、数秒後に滝刳が一声高い鳴き声を放ち、羽ばたき音がそれに続いた。兄との別れを惜しむ雨縁の鼻声が、アリスの胸をちくりと刺した。
アリスはしばらく、身動きせずじっと座っていた。
やがて手を伸ばし、残されたグラスを持ち上げると、中身をそっと唇で受けた。半年振りのワインは、甘さよりも渋さを強く舌に残した。直後、短い天命が尽きた二客のグラスが微かな光と変じて消滅した。
そのまま、アリスは長いこと椅子に背を丸めていたが、どこか遠くで名も知れぬ獣が遠吠えしたのを機に、やっと身体を起こした。
「……御免なさいね、キリト。疲れたでしょう、いつもならもうとっくに休む時間だものね」
車椅子の若者に囁き、そっと肩に手をあてて起立させる。黒い部屋着を脱がせ、生成りの寝巻きに着替えさせると、やせ細った体を抱えて寝室に運んだ。
窓際の大きなベッドの奥がわにそっと横たえ、足元から毛布を持ち上げて首元までかけてやる。半眼に開いたままのキリトの瞳は、瞬きもせずに虚ろに天井を見上げる。
ベッドから離れ、壁のランプを吹き消すと、室内にはうす青い闇が降りた。それでもキリトは尚もじっと天井を見続けていたが、数分が経ったとき、まるで何かの動力が切れたかのように、音も無く瞼が閉じた。眠ったのではなく、恐らくは、夜、暗い部屋で横になれば眠るものだ、という過去の記憶に体が反応しただけに過ぎないのだろうが。
それでも、アリスはほっと息をつくとベッドから離れ、自分も寝巻きに着替えた。居間の灯りも落とし、戸口に閂をかけてから寝室に戻る。
ベッドの毛布を持ち上げ、手前側にもぐりこむと、微かな温もりが身体を包んだ。
いつもなら、眼を閉じればすぐに穏やかな眠りのなかに逃げ込めるのだが、今日はなかなか眠りの神の一撫では訪れなかった。
歩き去るエルドリエの背中、眩いほどに白いマントの上で揺れる藤色の巻き毛の輝きが瞼の裏にのこり、ちくちくと眼の奥を疼かせる。
かつては、自分の背中も同じように誇り高い光に彩られていたはずだ。己の剣で世界を、正義を、あまねく善なるものを護っているのだという揺るぎない確信がいかなるときも指先までに強く行き渡っていた。しかしもう、その力は最後の一片まで失われてしまった。
エルドリエに、かつての弟子に問いたかった。あなたは一体何を信じ、何のために戦うのかと。
しかしそれはできない。アリスとベルクーリ以外の整合騎士は、最高司祭の恐るべき企てについて最小限のことしか知らされていないからだ。あのエルドリエにしても、封印された最上階に己の“過去の記憶”と、そしてその記憶に残る“最愛の人”の変わり果てた体が残されているなどとは露にも思っていないのだ。
ゆえに、彼はまだ教会そのものの正しさを信じていられる。いつかまた次の最高司祭が彼らの上に立ち、再び栄光の時代が戻ることを疑わず、それゆえに雄々しく剣を取り竜を駆れる。
だが、それすらも大いなる欺瞞だと知ってしまった自分はどうすればいいのだ。止むを得ないとはいえ、騎士長ベルクーリはすべての騎士に真実を隠し、絶望的な戦いへと向かわせている。今そこへ加われば、この胸に抱えた迷いはきっと他の騎士たちも惑わせてしまうだろう。
間もなく、最後にして最大の侵攻が始まる。騎士は一人、また一人と倒れ、戦火は広がり、やがてこの山すその村までを飲み込む。それを止めることはもう誰にもできない。僅かな可能性があるとすれば、あのカセドラルでの戦いの最後で、キリトが謎の“神たち”と交わしていた会話の断片――。
『ワールド・エンド・オールター』、そして『東の大門から出て南へ』。その二言だけがおぼろげに記憶に残る。
しかし、大門から出る、ということはその先は黒い荒野と血の色の空が広がるダークテリトリーだ。キリトは、いったいその地で何をしようとしていたのだろうか。
アリスは枕の上で首をかたむけ、離れたベッドの向こう端に横たわる傷ついた若者を見やった。
毛布の中を這い進み、その隣まで移動する。そっと手を伸ばし、まるで悪夢に追われる幼子のように、体にすがりつく。
骨ばかりの体は寒々しいほどに細く、右腕のあるべき空間の虚ろさが胸を刺す。
どれほど強く抱きつこうと、かつてあれほど荒々しくアリスの心を揺さぶり、目覚めさせ、導いた若者はいかなる反応も見せなかった。睫毛の先が震えることすらなかった。ここにあるのは、最早完全に燃え尽きた炭殻に過ぎないことを、アリスは痛いほどに感じた。緩慢に鼓動する心臓の動きすらも、いっそ哀れだった。
いま、右腕に剣があったら――。
触れ合ったふたつの心臓をともに貫き、そしてすべてを終わりに。
その一瞬の思考が、熱い涙となって目尻から零れ、キリトの首筋に散った。
「教えて……。どうすればいいの……」
答えはない。
「私は……どうすれば…………」
静寂のなか、ただ、木々の梢を揺らす晩秋の夜風だけが過ぎていった。
[#地から1字上げ](転章U 終)