Sword Art Online 3
死 銃
九里史生
プロローグ 二〇一五年冬
『だからね、AGI万能論そのものが幻想だって言ってるんですよ』
キーの高い男の声が、広い酒場いっぱいに響き渡った。
『確かにAGIは重要なステータスですよ。速射と回避、このふたつの能力が突出していれば充分に強者足り得た。これまではね』
得々と語っているのは、薄暗い店内の中央上空に浮かぶ四面ホロパネルに映し出されたプレイヤーだった。
ネット放送局〈MMOフラッシュ〉の人気コーナー、〈勝ち組さんいらっしゃい〉である。現実世界でもPCでストリーム動画を観ることができるが、無数のVRMMOワールド内でも宿屋や酒場などで常時放送されており、やはりプレイヤーたちは「中」で視聴するほうを好む。
ことに、ゲストプレイヤーが「その世界」の住人であれば尚更だ。
『しかし、それはもう過去の話です。八ヶ月かけてAGIをガン上げしてしまった廃組さんたちには、こう言わせてもらいますよ――ご愁傷様、と』
嫌味たっぷりな口調に、広い店内のそこかしこからブーイングが湧き起こり、いくつもの酒瓶やグラスが床に叩きつけられて、ポリゴンの小片を撒き散らしながらたちまち消滅した。
だが「彼」は、その騒ぎには加わらず、店の一番奥のソファに体を丸めたままじっとしていた。
深くかぶった迷彩マントのフードと、顔の下半分を覆う厚布の隙間から、冷ややかな視線で店内を眺める。
テレビの中で鼻高々になっている男も憎らしいが、それ以上に、阿呆面でテレビを眺めるプレイヤーたちが不快だった。皆、ブーブーとやっかみの声を上げながらも、それをお祭り騒ぎとして楽しんでいる。
何故そこまで脳天気になれるのか、「彼」にはまったく理解できなかった。テレビの中の男は、単なる運で世界最強の地位を手に入れ、同時に最大の搾取者となったのだ。大部分のプレイヤーが支払う接続料を掻っ攫い、プロゲーマーを気取っている。
腹の中では、「彼」と同じように全プレイヤーが男を妬み、憎悪しているはずだ。その感情が醜悪だと言うなら、それを隠し、上辺の笑いに紛らわせるのは醜いうえに滑稽ではないか。
「彼」はマントの下で全身を強張らせ、噛み締めた歯のあいだから細く息を吐き出す。まだ時間ではない。トリガーを引くのはもうすこし後だ。
視線をホロパネルに戻すと、カメラがズームアウトし、男の右に座る番組のホストと、左に座るもうひとりのゲストをフレームに入れたところだった。
ホスト役の、テクノポップな衣装に全身を包んだ少女が甘ったるいアニメ声で言った。
『さすが、全VRMMO中最もハードと言われるガンゲイル・オンラインのトッププレイヤーだけあっておっしゃることがカゲキですネ』
『いやあ、「Mフラ」に呼ばれるなんてひょっとしたら一生に一度でしょうしね。言いたいこと言っちゃおうと思って』
『またまたー。今度の「バレット・オブ・バレッツ」も狙ってらっしゃるんでしょう?』
『そりゃもちろん、出るからには優勝を目指しますけどね』
男は、派手な銀の長髪をかきあげ、カメラ目線で不敵に宣言した。再び店内にブーイングの嵐。
MMOフラッシュは、ガンゲイル・オンライン――通称GGO内部のコンテンツではないが、出演者はホストもゲストも生身ではなくバーチャル・ボディだ。〈勝ち組さんいらっしゃい〉は、毎週さまざまなVRMMOからトッププレイヤーを招くインタビュー番組で、今週のゲストは、GGOで先月行われた最強者決定バトルロワイヤル、通称バレット・オブ・バレッツの優勝者と準優勝者というわけだ。
『しかしねえ、ゼクシードさん』
散々銀髪の男の自慢話を聞かされた準優勝の男が、たまりかねたように口を開いた。
『BoBはソロの遭遇戦じゃないですか。二度やって同じ結果になる保証はないわけで、ステータスタイプの勝利みたいに言うのはどうなんですかねえ』
『いやいや、今回の結果は全GGO的傾向の表れと言えますよ。闇風さんはAGI型だから、否定したい気持ちもわかりますがね』
ゼクシードと呼ばれた優勝者が即座に言い返す。
『これまでは確かに、AGIをがんがん上げて、強力な実弾火器を速射するのが最強のスタイルでした。同時に回避ボーナスも上がるので、耐久力の不安点も補えましたしね。でもMMOっていうのは、スタンドアローンのゲームとは違って、刻々バランスが変わっていくものなんですよ。特にレベル型はステータスの組み替えができないんだから、常に先を予測しながらポイントを振らなきゃ。そのレベルゾーンで最強のスタイルが、次でも最強とは限らない。ね、考えればわかるでしょう。今後出現する火器は、装備要求STRも、命中精度もどんどん上がっていきますよ。回避しまくって無傷で切り抜けようなんて甘い考えがいつまでも通用するわけないんです。ボクと闇風さんの戦闘がそれを象徴してますよ。あなたの銃はボクの防護フィールドでかなり威力を減殺されたし、逆にボクの射撃は七割近く命中した。はっきり言えばね、これからはSTR−VIT型の時代ですよ』
立て続けに捲し立てられ、闇風という男はいかつい顔を悔しそうにゆがめた。
『……しかし、それはゼクシードさんがBoB直前に要求STRぎりぎりのレア銃を入手した結果でしょう。いくら払ったんです、あれ?』
『いやだなあ、自力ドロップですよもちろん。そういう意味では、最重要ステータスはリアルラックということになるかもですね、ははは』
ホロパネルの中で笑う銀髪の男を、怨嗟を込めた視線で睨みながら、「彼」はマントの下で手を動かした。ホルスターから突き出た分厚いグリップを探り当て、きつく握り締める。もうすぐ――もうすぐ、その時がくる。視界の端の時刻表示を確認する。あと一分二〇秒。
「彼」の隣のテーブルに座る二人組が、ジョッキを呷りながらぼやいた。
「けっ、調子いいこと言いやがって。昔、AGI型最強! って言いまくってたのはゼクシードのヤツ自身じゃねえかよ」
「今にして思えば、ありゃ流行をミスリードする罠だったんだろうなあ……。やられたぜまったく……」
「てことは、あのSTR−VIT最強ってのもブラフか?」
「じゃあほんとは何が来るんだろうな。LUKガン上げかな?」
「お前やれよ」
「やだよ」
二人組はひゃっひゃっと笑う。その声が、「彼」の怒りをさらに熱していく。騙されたと気付いているなら、なぜそんなふうに笑っていられるのだ。理解できない。
――しかし、その愚鈍な笑いもすぐに凍りつくことになる。真の力、真の最強者をその目で見れば。
時間だ。
「彼」はゆっくりと立ち上がった。テーブルの間を、一歩一歩進んでいく。誰も、「彼」には目も止めない。
愚か者たちよ……恐怖するがいい。
「彼」はつぶやくと、酒場の中央、ホロパネルの真下で立ち止まった。体を包むマントを跳ね除け、同時にホルスターから大ぶりのハンドガンを抜き出す。
闇そのものを凝縮したかのように漆黒のマットブラックに塗装された銃の、やや太目の銃身にはひと筋深紅のラインが流れている。見た目には、大した威力もなさそうな、どこにでもあるカスタムガンだ。しかしこの銃には本物の「力」がある。「彼」はゆるやかな動作で、銃口をぴたりと上空――巨大なホロパネルに向けた。その中で笑う、最強プレイヤー・ゼクシードの額に。
「彼」がしばらくそのままの格好でいると、やがて周囲からいぶかしげなざわめきが湧き起こった。PK無制限のGGOでも、さすがに街中だけはキル不可能となっている。弾丸の発射はできても、プレイヤーにダメージを与えるどころかオブジェクトの破壊すらできない。
「彼」の無意味な行動に、いくつかの失笑が響いた。しかし「彼」は微動だにせず、黒い銃を掲げ続ける。
パネルの中のゼクシードは、相変わらず嫌味な台詞を吐き続けている。ゼクシードの生身は現実世界のどこかに横たわり、そこからMMOフラッシュのバーチャル・スタジオに接続しているので、もちろんガンゲイル・オンライン世界の首都グロッケン中央街にある酒場で、テレビに映る自分に銃口が向けられているなどとは気付くはずもない。
しかし「彼」は口を開き、出せるかぎりの大声で叫んだ。
「ゼクシード! 偽りの勝利者よ! 今こそ、真なる力による裁きを受けるときだ!! ――死ね!!」
呆気にとられたプレイヤーたちの視線を浴びながら、「彼」はトリガーを引いた。
一瞬、銃身を彩る深紅のラインが輝き、同時におなじくクリムゾンレッドの光弾が発射された。ズシュウッ!! という重い炸裂音。照明の絞られた酒場の薄闇を、深紅のビームが貫き――ホロパネルの表面にぱあっとライト・エフェクトを散らした。
それだけだった。画面内では相変わらず、ゼクシードが目まぐるしく口を動かしている。
今度こそ、店内に嘲笑が湧き起こった。「あいたたた」「やっちゃった」などという声が漏れ聞こえる。それにかぶさって、ゼクシードの声。
『……ですからね、ステータス・スキル選択も含めて、最終的にはプレイヤー本人の強さ、資質が…………』
台詞がふっと途絶えた。
店中の視線が再びパネルを向いた。
ゼクシードは、口を開けたまま、目を丸くして凍り付いていた。その手がゆっくりと持ち上がり、ぎゅっと胸の中央を掴む。
直後、その姿はふっと掻き消えた。ホストが、慌てたように言った。
『あらら、回線が切断してしまったようですね。すぐ復帰されると思うので、皆さんチャンネルはそのまま……』
しかし、店中の誰もがもうそれを聞いていなかった。しんとした静寂のなか、全ての視線が「彼」に集まっていた。
「彼」は掲げたままだった銃を戻し、ぴたりと水平に構えた。そのまま、ゆっくりと体を回転させ、店内のプレイヤーたちを射線でなぞっていく。
一回りすると、「彼」はもう一度黒い銃をまっすぐ掲げ、叫んだ。
「……これが本当の力、本当の強さだ! 愚か者どもよ、この名を恐怖とともに刻め――」
「俺と、この銃の名は〈死銃〉…………〈デス・ガン〉だ!!」
静寂の中、「彼」は銃をホルスターに戻し、左手を振ってメニューを出した。
ログアウトボタンを押しながら、「彼」は勝利感と、それに倍する焼け付くような餓えを味わっていた。
第一章 殺意侵食
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
と慇懃に頭を下げるウェイターに、待ち合わせです、と答え、俺は広い喫茶店内を見渡した。
すぐに、窓際の奥まった席から無遠慮な大声が俺を呼んだ。
「おーいキリトくん、こっちこっち!」
上品なクラシックの流れる空間に低くさざめいていた談笑の声が一瞬ぴたりと静止し、批難めいた視線が集中するなかを、俺は首を縮めて早足に進んだ。化繊のスウェットの上に古ぼけた革ブルゾンという出で立ちの俺は、買い物帰りの上流階級マダムたちが八割を占めるこの店ではいかにも場違いで、こんな所に呼び出した相手への怒りが今更のように湧き起こる。
これで、先方が妙齢の美女というならまだ我慢するが、生憎手を振っているのはスーツ姿の男だった。俺は不機嫌さを隠しもせず、どすんと椅子に腰を落とした。
即座に横合いからウェイターがお冷やのグラスとお絞り、メニューを差し出す。本革張りと見えるそれを手にとり、相手の顔も見ずに開く。
「ここは僕が持つから、何でも好きに頼んでよ」
「言われなくてもそのつもりだ」
つっけんどんに答えてメニューに目を走らせると、恐ろしいことに最も廉価なのが〈シュー・ア・ラ・クレーム¥一二〇〇〉也で、反射的にブレンドひとつ、と答えそうになるが、よくよく考えれば男は超高給の上級官僚であり、そもそも支払いは経費つまり国民の血税によって行われるのだということに気付いて阿呆らしくなった俺は、平静を装った声でオーダーした。
「パルフェ・オ・ショコラ……と、フランボワズのミルフィーユ……に、ヘーゼルナッツ・カフェ」
計三九〇〇円だ。ハンバーガーにシェイクで済ませて差額を現金でよこせと言いたくなる。ちなみに、頼んだモノの実態はまるで見当もつかない。
「かしこまりました」
一礼したウェイターが音もなく退場し、俺はようやく一息ついて顔を上げた。
ニコニコしながらごてごてとクリームの乗った巨大プリンをぱくついている男の名は菊岡誠二郎。黒縁の眼鏡にしゃれっ気の無い髪型、国文の教師然とした、キマジメそうな線の細い顔はとてもそうは見えないが、これで国家公務員のキャリア組であり、所属するのは総務省総合通信基盤局高度通信網振興課第二別室、省内での名称は通信ネットワーク内仮想空間管理課、通称仮想課。
つまりこの男は、現在無秩序な氾濫状態にあるVRワールドを監視する、国側のエージェント……もしくはスケープゴートというわけだ。本人はことあるごとにトバされたと我が身を嘆いているが、それはまあ……事実であろうと俺も思う。
その不遇な菊岡氏は、幸せそうにプリンの最後のひとかけらを口に運ぶと、眼鏡の奥の色の薄い目で俺を見た。
「や、悪かったね、わざわざ」
「そう思うなら銀座なんぞに呼び出すなよ」
「この店のカスタードクリーム、絶品なんだよねえ。シュークリームも頼もうかな……」
俺はため息をつきながら、熱いオシボリで手を拭った。
菊岡とは、SAOから脱出した直後、病院で顔を合わせたのが最初だからまだ一年に満たない付き合いだが、この男が自分からは決して本題を切り出さないのを知っているので、こっちから話を振ることにする。
「――どうなんだ、最近のVC件数は」
「増えてるねえ」
相変わらずにこにこしながら、菊岡は答えた。内ポケットからPDAを取り出し、ぽちぽちと叩く。
「ええと……VRゲーム内のトラブルが原因の傷害事件が、十一月だけで十三件。うち二件が傷害致死。また、ゲーム内の盗難等でユーザーもしくは運営会社を相手どった訴訟が六件。それに……これはキリト君も知ってるだろうけど、アメリカから通販で取り寄せた、装飾用の剣を自分で砥いで、新宿駅で振り回して二人殺したって事件ね。うひゃー、刃渡り一二〇センチ重さ三・五キロだって。よくこんなの振れたね」
「廃プレイのために薬使ってたって奴か。確かに救われない事件だけど……言わせてもらえればその程度の件数なら……」
「そう、その通り。全国で起きる事件の中では微々たる数だし、これを以ってVRMMOゲームが社会不安を醸成している、なんて短絡な結論は出しゃしないよ。でもね、君も前に言っていたけど……」
「――VRMMOゲームは他人を物理的に傷つけることへの心理的障壁を低くする。それは俺も認める」
その時、ウェイターが再び歩行音なしに現れ、俺の前に皿を並べた。
「以上でお揃いでしょうか」
頷くと、恐ろしい金額の記された伝票を残し、消える。俺はとりあえずナッツの香りが漂うコーヒーを一口含み、話を続けた。
「……一部のゲームではPK行為が日常化しているし、あれはある意味では現実的殺人の予行演習だからな。先鋭化したタイトルでは、腕を切れば血が噴出すし、腹を切れば臓物がブチまけられる。それに取り付かれたマニアはログアウトの代わりに自殺したりするらしいからな」
こほん、という咳払いの音に隣を見ると、マダム二人が物凄い目で俺を睨んでいた。首をすくめ、小声で続ける。
「毎日あんなことを繰り返してれば、一丁現実でやってやろうって奴が出てくるのも不思議はないな。何らかの対策が必要だろうとは俺も思うよ。法規制は無理だろうがな」
「無理かね?」
「無理だね」
金のスプーンで、極薄の生地と桃色のクリームが何層にも重なったケーキをざくっとすくいとり、口に運ぶ。一口一〇〇円はするだろうな、とつい考えてしまう。
「ネット的に鎖国でもしないとな。国内でいくら取り締まっても、ユーザーも業者も海外に広がるだけだ」
「フム……」
菊岡は、真剣な視線をテーブルに落とし、数秒黙考したあと口を開いた。
「……そのミルフィーユおいしそうだね。一口くれないか」
「………………」
俺は深くため息をつきながら皿を菊岡の前に押しやった。キャリア官僚は嬉々としながらおよそ二八〇円分をざっくり奪い去り、頬張る。
「しかしねえ、キリト君。僕は思うんだけどね……なんでPKなんてするんだろうね。殺しあうよりも仲良くするほうが楽しいだろう?」
「……アンタだってALOをプレイしてるんだから、少しはわかるだろう。NERDLES技術が出てくるずっと以前から、MMOゲームってのは奪い合いなんだよ。更に言えば、クリアという目的のないゲームにユーザーを向かわせる原動力はただ一つ……優越感を求める衝動だけだ」
「ほう?」
「ゲームに限った話じゃないぜ。認められたい、人より上に行きたいってのはこの社会の基本的構造そのものだろう。アンタだって憶えがあるはずだぜ。同じ総務省でも、自分よりいい大学を出て、上のポジションにいる奴は妬ましいし、逆にノンキャリアの役人に謙られりゃあ気持ちいい。その優越感と劣等感のバランスが取れてるから、どうにか平和にニンゲンやってられるんだ」
菊岡はミルフィーユを飲み込み、苦笑した。
「言い難いことをハッキリ言うね、君は。そういうキリト君はどうなんだい。バランス取れてるのかい?」
「…………」
そりゃあ勿論俺にも劣等感は山ほどあるが、他人に説明する気はさらさらない。
「……まあ、美人の彼女もいるからな」
「なるほど、その一点に置いては僕はキリト君が死ぬほど羨ましい。今度ALOで女の子を紹介してくれないか。あのシルフの領主さんなんか、好みだねえ」
「言っとくが、口説くときに、僕高級官僚なんだ、なんて言ったら斬られるぞ」
「彼女になら一度斬られてみたいね。――で?」
「で、その優越感てやつだが、現実世界で手に入れるのは意外に難しい。努力しないとなかなか手に入るもんじゃない。いい成績を取る努力、スポーツが上達する努力、女の子にモテる努力……そんなものがおいそれと実を結べば、誰も苦労はしない」
「なるほど。僕も受験では死ぬほど勉強したが、東大には落ちた」
「そこで、MMORPGだ。これは、現実を犠牲にして時間をつぎ込めばかならず強くなる。レアアイテムも手に入る。もちろんそれも努力だが、なんせゲームだ。勉強したり筋トレしたりするよりも格段に楽しい。高価な装備を着けて、ハイレベル表示をぶらさげて街の大通りを歩けば、自分より弱いキャラクターからの羨望の視線が集まる。あるいは、集まると錯覚できる。狩場に行けば、圧倒的攻撃力でモンスターを蹴散らし、ピンチのパーティーを救ったりもできる。感謝され、尊敬されると――」
「錯覚できる?」
「……もちろん、これは悪意ある視点だ。MMOゲームには他の要素もある。しかし、コミュニケーション自体を主眼としたネットワークゲームは昔からあったが、どれもMMORPGほどには成功しなかった」
「……なるほどね、そういうゲームでは、優越感を満足させにくかった?」
「そう。――そして、VRMMOゲームが出てきた。こいつはなんせ、街を歩けば実際に他人の視線を感じられるんだからな。モニタ越しに想像しなくてもいい」
「フムン。確かに、イグシティで君がアスナちゃんといっしょに歩いてるとみんな見とれるからねえ」
「……言い難いことをはっきり言うな、アンタ。ともかく、VRMMOゲームに時間をつぎ込めば、誰でもそれなりに優越感を手に入れることができる。そしてそれは、勉強ができるとか、サッカーがうまいとか、金があるとかいうソレよりも、もっとシンプルで、プリミティブで、人間の野生に訴える種類のものだ」
「……つまり……?」
「つまり、〈強さ〉だ。物理的な強さ。自分の手で、相手を破壊できる力だ。これは麻薬のようなものだ」
「…………」
「いつか、その力を本当に行使したくなる時が来る」
「……強さ……力、か」
菊岡は一瞬笑みを消し、呟いた。
「……男の子は、誰しも一度は強さにあこがれる。最強になりたいと思う。しかしそれはすぐほかの夢にすりかわる。――だが向こうの世界では、その夢がまだ生きている……ということか」
俺は頷き、珍しく喋りすぎたせいで乾いた喉をコーヒーで湿らせた。
「強力なキャラクターで日常的にPKを繰り返しているプレイヤーが、現実世界でトラブルの相手――つまり「敵」と相対したときに、物理的解決力に訴える確率が上がるのは充分有り得ることだろうな。類型的な見方だけどな」
「VRMMO世界での〈強さ〉が、現実を侵食するわけか。ねえ、キリト君」
菊岡は、再び真剣な顔になり、俺を見た。
「それは、本当に心理的なものだけなのだろうかね?」
「……どういう意味だ?」
「つまり、暴力に対する心理的ハードルを低くするだけでなく……実際に、何らかの〈力〉を現実に及ぼす……というようなことだが……」
今度は俺が考え込む番だった。
「……例えばあの、新宿で剣を振り回した男の筋力が、ゲーム世界で鍛えられたものだったりするか、ということか?」
「うん、そう」
「NERDLES機器が脳神経に及ぼす影響ってのは、まだ研究が始まったばっかりらしいからなあ……何とも言えないけど……でもそんなこと、俺よりアンタのほうが詳しいだろう?」
「大脳生理学のセンセイに話は聞きに行ったがね、チンプンカンプンさ。……ずいぶん遠回りしたが、今日の本題はそこなんだ。これを見てくれ」
菊岡はPDAを操り、俺に差し出した。
受け取り、覗き込むと、液晶画面に見知らぬ男の顔写真と、住所等のプロフィールが並んでいた。伸ばしっぱなしの感のあるぼさぼさの長髪、銀縁の眼鏡、かなり頬や首に脂肪がついている。
「……誰だ?」
俺からPDAを取り返し、菊岡はスタイラスペンを走らせた。
「ええと、先月……十一月の十四日だな。東京都杉並区某のアパートで、掃除をしていた大家が異臭に気付いた。発生源と思われる二〇三号をノックしたが返事がない。電話にも出ない。しかし部屋の中の電気は点いている。これはということで鍵を開けて踏み込んで、この男……新保勇一、二十六歳が死んでいるのを発見した。死後五日半だったらしい。部屋は散らかっていたが荒らされた様子はなく、ホトケはベッドに横になっていた。そして頭に……」
「アミュスフィア、か」
俺が顔をしかめながら言うと、菊岡は頷いた。
「家族に連絡が行き、変死ということで司法解剖が行われた。死因は急性心不全となっている」
「心不全? ってのは心臓が止まったって事だろう? なんで止まったんだ?」
「わからん」
「…………」
「死亡してから時間が経ちすぎていたし、犯罪性が薄かったこともあってあまり精密な解剖は行われなかった。ただ、彼はほぼ二日に渡って何も食べないで、ログインしっぱなしだったらしい」
俺は再び顔をしかめる。
正直、その手の話は珍しくない。何せ、現実世界で何も食わなくても、向こうで仮想の食い物を詰め込むと偽りの満腹感が発生し、それは数時間持続するからだ。廃人級、と呼ばれる超コアなゲーマーにとっては、飯代は浮くしプレイ時間は増やせるしで、一日どころか二日に一食という人間も珍しくない。
しかし当然そんなことを続けていれば、体に悪影響を及ぼさないわけがない。栄養失調なんてのはザラで、発作を起こして倒れ、一人暮らしゆえそのまま……ということも珍しいことではないのだ。
「……確かに悲惨な話だが……」
俺が言うと、菊岡は自分のコーヒーを一口含み、頷いた。
「そう、悲惨だが今やよくある話だ。こういう変死はニュースにならないし、家族もゲーム中に急死なんて話は隠そうとするので統計も取れないしね。ある意味ではこれもVRMMOによる死の侵食だが……」
「……一般論を聞かせるために呼んだわけじゃないんだろう? 何があるんだ、そのケースに?」
「この新保君がプレイしていたVRMMOは一タイトルだけだった。〈ガンゲイル・オンライン〉……知ってるかい?」
「そりゃ……もちろん。唯一〈プロ〉がいるゲームだからな。入ったことは無いが」
「彼は、ガンゲイル・オンライン……略称GGO中ではトップに位置するプレイヤーだったらしい。十月に行われた、最強者決定イベントで優勝したそうだ。キャラクター名は〈ゼクシード〉」
「……じゃあ、死んだときもGGOにログインしてたのか?」
「いや、どうもそうではなかった。〈MMOフラッシュ〉というネット放送局の番組に出演中だったようだ」
「ああ……Mフラの〈勝ち組さんいらっしゃい〉か。そういやあ、一度ゲストが落ちて番組中断したって話を聞いたような気もするが……」
「多分それだ。出演中に心臓発作を起こしたんだな。ログで、秒に到るまで時間がわかっている。で、ここからは未確認情報なんだが……ちょうど彼が発作を起こした時、GGOの中で妙なことが有った、っていうんだ」
「妙?」
「MMOフラッシュはゲーム内でも中継されてるんだろう?」
「ああ。酒場とかで見られる」
「GGOの首都、グロッケンという街のとある酒場でも放送されていた。で、問題の時刻ちょうどに、一人のプレイヤーがおかしな行動をしたらしい」
「…………」
「なんでも、テレビに映っているゼクシード氏の映像に向かって、裁きをうけろ、死ね、等と叫んで銃を発射したということだ。それを見ていたプレイヤーの一人が、偶然音声ログを取っていて、時間が記録されている。ええと……テレビへの銃撃があったのが、十一月九日午後十一時三十分二秒。新保君の回線が切断されたのが、十一時三十分十五秒」
「……偶然だろう」
もう一つの皿を手許に引き寄せながら、俺は言った。
茶色の円筒形物体をスプーンで抉り、口に運ぶ。途端、その冷たさに驚く。ケーキかと思っていたらアイスクリームの類だったらしい。甘味をぎりぎりまで抑えた濃密なチョコレートの風味がいっぱいに広がり、値段を無視すればこれは悪くない代物だと判断する。
立て続けに三分の一ほどを胃に送り込んでから、言葉を続ける。
「GGOのトッププレイヤーともなれば、妬まれたり恨まれたりはほかのMMOの比じゃあないぞ。本人を直接銃撃するのは度胸が要るだろうが、テレビの映像を撃つくらいのことはあってもおかしくない」
「うん、だが、もう一件あるんだ」
「…………なに?」
俺はスプーンを動かす手を止め、相変わらずポーカーフェイスの菊岡を見上げた。
「今度のは一週間前、十一月二十八日だな。埼玉県さいたま市大宮区某所、やはり二階建てアパートの一室で死体が発見された。新聞の勧誘員が、電気は点いているのに応答がないんで居留守を使われたと思って腹を立て、ドアを開けたら鍵が掛かってなかった。中を覗きこんだら、布団の上にアミュスフィアを被った人間が横たわっていて、同じく異臭が……」
ごほん! というわざとらしい咳の音に、俺と菊岡が会話を中断して隣を見ると、先ほどの二人組のマダムたちが、ゲイザーの邪眼もかくやという視線をこちらに向けていた。だが菊岡は意外な豪胆さを発揮し、ぺこりと会釈しただけで話を続けた。
「……まあ、詳しい死体の状況は省くとして、今度もやはり死因は心不全。名前は……これも省いていいか。男性、三十一歳だ。彼もGGOの有力プレイヤーだった。キャラネームは……〈薄塩たらこ〉? 正しいのかなこれ?」
「昔SAOに〈北海いくら〉ってやつがいたからそいつの親戚かもな。――そのたらこ氏も、テレビに出てたのか?」
「いや、今度はゲームの中だね。アミュスフィアのログから、通信が途絶えたのは死体発見の三日前、十一月二十五日午後十時〇分四秒と判明している。死亡推定時刻もそのあたりだね。彼はその時刻、グロッケン市の中央広場でスコードロン――ギルドのことらしいんだけど――の集会に出ていたらしい。壇上で檄を飛ばしているところを、集会に乱入したプレイヤーに銃撃された。街の中だったからダメージは入らなかったようだが、怒って銃撃者に詰め寄ろうとしたところでいきなり落ちたそうだ。この情報も、ネットの掲示板からのものだから正確さには欠けるが……」
「銃撃した奴ってのは、〈ゼクシード〉の時と同じプレイヤーなのか?」
「そう考えてよかろうと思われる。やはり裁き、力、といった言葉の後に、前回と同じ名を名乗っている」
「……どんな……?」
菊岡はPDAを眺め、眉をしかめた。
「〈シジュウ〉……それに、〈デス・ガン〉」
「デス・ガン……シジュウ……。死銃、か」
空になった皿にスプーンを置き、俺はその名前を口中で呟いた。キャラネームというのは、例えどのような冗談めいた名前であっても、確実にキャラクターの印象の一部を形作る。死銃、という名の響きが想起させたのは、黒い金属の冷ややかさだった。
「……死因が心不全ってのは確かなんだろうな?」
「……というと?」
「脳には……損傷は無かったのか?」
訊いた途端、菊岡は意を得たりというふうにニッと笑った。
「僕もそれが気になってね。検視を担当した先生に問い合わせたが、脳に出血や血栓といった異常は見られなかったそうだ」
「…………」
「それにね、ナーヴギアの場合は……あ、いいかい、この話して」
「いいよ」
「……ナーヴギアは、使用者に死をもたらすとき、素子を焼き切るほどの高出力マイクロウェーブを発して脳の一部を破壊したわけだけれど、アミュスフィアはそもそもそんなパワーの電磁波は出せない設計なんだよね。あの機械に出来るのは、視覚や聴覚といった五感の情報を、ごく穏やかなレヴェルで送り込むことだけだと、開発者たちは断言したよ」
「もうメーカーにまで問い合わせてるのか。……随分と手回しがいいな、菊岡さん? こんな偶然と噂だけで出来上がってるようなネタに?」
じっと眼鏡の奥の切れ長の目を見ると、菊岡は一瞬表情を消し、すぐにフッと唇をほころばせた。
「トバされた身としては、毎日が実にヒマでね」
「じゃあ、今度アインクラッドの最前線攻略に付き合えよ。メイジとしてはなかなか筋がいいってユージーンの旦那が褒めてたぞ」
実のところ、俺はこの男を外見や物腰どおりのトボケた役人とは思っていない。俺などと付き合い、ALOにキャラを作っているのも、ゲームに興味があるからではなく、そうするのがVRワールドを把握する上で都合がいいからなのだろう。以前に貰った名刺には確かに総務省と肩書してあったが、それすらもどこか疑わしいフシがある。本当の所属はもっと、国の治安に密接に関わる部署なのではないかと思えてならない。
しかしまあ、現在の「仮想課」が「SAO事件被害者救出対策本部」だった時代に、この男が奔走したことで全プレイヤーを病院に収容する体制が整ったのは確からしい。よって今のところは、好意と警戒心が六対四くらいの接し方をすることにしている。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、菊岡は後頭部を掻きながら照れくさそうに笑った。
「いやあ、スペルワードの暗記はともかく、詠唱がねえ。早口言葉、苦手なんだ昔から。……で、まあ、この件だけど、九割方偶然かデマだろうとは僕も思うよ。だから、ここからは仮定の話さ。――キリト君は、可能だと思うかい? ゲーム内の銃撃によって、プレイヤー本人の心臓を停めることが?」
菊岡のその台詞で、あるイメージが喚起され、俺は軽く眉を寄せた。
全身黒尽くめの……顔の見えない狙撃者が、虚空に向かって銃のトリガーを引く。発射されるのは黒い弾丸だ。それは、仮想空間の壁を貫き、パケットが飛び交うネットワークの世界に侵入する。ルータからルータ、サーバからサーバへと弾丸は何度も直角に曲がりながら突進する。やがてそれは、あるアパートの一室、壁に設けられたモジュラー・ジャックで実体化し、横たわる男の心臓へと……
頭を軽く振ってその妄想を払い落とし、俺は口を開いた。
「……では仮に、その……〈死銃〉なる銃撃者によって、〈ゼクシード〉と〈薄塩たらこ〉に何らかの信号が送られたとして……」
「おっと、まずはそこからだ。できるのかい、そんなことが」
「うーん……。……〈イマジェネレイター・ウイルス〉の騒ぎは憶えてるか?」
「ああ、あのびっくりメール事件ね」
イマジェネレイター、というのは、個人によって開発されたアミュスフィア専用のメールソフトだ。ソフトが生成する仮想空間にダイブし、カメラにむかってメッセージを吹き込むとそれをメール形式のファイルに圧縮してくれる。メールを受け取った側が再生すると、目の前に送り主のバーチャル体が現れ、メッセージを喋る、という仕組みだ。やがて、いろいろな映像、音楽を添付したり、触感までもメールで伝えることができるようになって大流行した。
しかしやがてソフトにセキュリティホールが発見され、それを突いたウイルスメールが横行する騒ぎが巻き起こった。メールを受信した時点で仮想空間にダイブしていると、どこに居ようと強制的にメールがプレビューされ、眼前にショッキングな映像やら音声やら――たいていエロいかグロいかどちらかだった――がぶちまけられるのだ。
もちろん即座に修正ファイルがアップされ、事件は収束したのだが……。
「――〈イマジェン〉はもう、ほとんどのアミュスフィアユーザーがインストールしている。もし未知のセキュリティホールが存在し、対象のアドレスもしくはIPが分かっていれば……」
「……なるほど、前もって送信タイマーを仕掛けておき、銃撃と同時に任意の信号を送り込む――ということは可能か」
菊岡は骨ばった指を組み合わせ、その上に顎を乗せて頷いた。
「では、そこはクリアしたとしよう。――しかし、送信できるのは致命的なレーザー光線じゃない。あくまで正常な感覚刺激だ」
「つまり、心臓を止めるほどの感触……もしくは味、匂い……光景、音……か。順番に考えていこう。まずは触覚、皮膚感覚だ」
俺は言葉を切り、右手の人差し指で左の掌をなぞった。先ほど、ケーキかと思って食べたものがアイスだったときの驚きを思い出す。
「……全身に、限界までの冷感を送り込んだらどうだ? 氷水の風呂に飛び込んだような。心臓麻痺を起こさないか?」
「うーん……。冷水に飛び込んで心臓が止まるっていう、あれはどういうメカニズムなのかねえ?」
「ええと……、温度差によるショックで、全身の血管が収縮するから、だったかな。――じゃあ、この線はダメか。脳が冷感を認識しても、毛細血管までは影響しないだろうしな……」
「なら、こういうのはどうかね」
今度は菊岡が両手を擦り合わせながら言った。心なしか嬉しそうなのは気のせいだろうか。
「ちっちゃい虫……甲虫よりも、ナガムシ系がいいね。毛虫とかムカデだのがぎっしり詰まった穴に放り込まれる感触だ。もちろん映像も併用する。うはっ、想像しただけでさぶいぼが出るね」
「…………」
したくはなかったがつい俺も想像してしまった。
のんびりフィールドを歩いているとき、いきなり足元の地面が消え去り、深い穴に落ちこむ。そこには細くて長い生き物がうじゃうじゃ蠢いており、全身をもぞもぞ這いまわった挙句、袖口や襟元から服の中へと……
「……確かに鳥肌は立つけどなあ」
俺は両腕を擦りながら首を振った。
「でも、その程度のドッキリなら、例の〈イマジェン・ウイルス〉でもやってたぜ。いきなり頭上から巨大芋虫やらエチゼンクラゲが降ってきたりしたんだ。でも心臓が止まった奴はいなかった……と思う。そもそも、VRMMOに入ってる時ってのは、無意識のうちに突発事態に備えてるものなんだ。フィールドによっては、いきなり真横にボスモンスターがスパウンしたりするんだぞ。いちいち心臓が止まってたらゲームなんてやってられない」
「それもそうか」
菊岡は肩をすくめ、紅茶のカップを持ち上げた。
「……では、次は味覚と嗅覚だ。どうかな、いきなり口の中に、恐ろしく臭い……キビャックかなんかの味を再生する。当然、吐き出そうとする。その嘔吐反射が、生身の身体にまで及ぶ……」
「それなら、心停止じゃなくて窒息するんじゃないか? だいたい、そのキビャックってのは何なんだ」
その途端、菊岡の目が嬉しそうに輝いたので後悔する。この男は悪趣味な話をするのが大好きなのだ。エリートのくせに彼女ができないのもその辺りに原因があるのでないか。
「おや、知らない? キビャック。エスキモーの食べ物でね、初夏あたりにアパリアスという小さな渡り鳥を捕まえて、肉を抜いたアザラシで作った袋に詰め込むんだ。それを冷暗所に数ヶ月放置すると、やがてアザラシの脂肪がアパリアスに染み込んで、いい感じに熟成、というより腐敗する。そうなったところで鳥を取り出して、チョコレート状にどろどろに溶けた内臓を賞味するという食い物だ。臭さについてはかのシュールストレミングをも上回るらしいが、これが癖になるとたまらないとか……」
ガタン! という大きな音に視線を向けると、マダム二人が口を抑え、足早に立ち去っていくところだった。俺は深くため息をつき、菊岡の言葉を遮った。
「グリーンランドに行く機会があったら試してみるよ。あと、そのシュールなんとかってのは説明しなくていいからな」
「おや、そうかね」
「残念そうな顔をするな。――いくらなんでも、臭いものを食ったくらいで心臓は止まらないだろう。次に行くぞ。……映像、だが……」
コーヒーの芳しい香りで菊岡の臭い話を払拭してから、言葉を続ける。
「さっきの虫の話といっしょで、やはり意味のある映像で心臓を止めるというのは無理があると思う。たとえどんな恐ろしい、残酷な映像でもな。標的の、ものすごいトラウマを突くようなものならあるいは、と思うが、そんなの調べるのは不可能だろう」
「フム。――意味のある、と言ったね?」
「ああ。……俺の生まれたころの話らしいから、詳しいことは知らないが、テレビアニメを見ていた子供が、全国で同時に何人も倒れる、という事件があったはずだ」
「――あれか。僕は当時小学生だったから、リアルタイムで見ていたよ」
菊岡は懐かしそうに口をほころばせた。
「ええと、確か赤と青の光が連続してフラッシュする演出で、発作を起こしたんだったかな」
「多分それだ。同じように、猛烈な光がスパークするような映像を送り込んだとする。普通人間は、そういう時は反射的に目を閉じるが、直接脳に流し込まれればそうもいかない。何らかのショック症状を起こしても不思議はない」
「うん、たしかに、そうだ」
菊岡は頷き、しかるのちに首を振った。
「――だがね、その問題は、アミュスフィア開発当時にも論議されたんだそうだ。結果、安全装置というか、リミッターが設けられることになった。一定以上のレベル振幅がある映像信号は、アミュスフィアでは生成できないんだ」
「――おい、アンタ」
俺は今度こそ、疑念純度百の視線で菊岡の顔を睨んだ。
「やっぱり、実はもう一通りこのへんのことは検討済なんじゃないのか? 総務省のエリート様連中が頭を絞ったあとなら、今更俺なんかの出番はないはずだぞ。どういうつもりなんだ一体」
「いやいやそんなことはない。キリト君の思考は実に刺激的で、大いに参考になるよ。それに僕、君と話するの好きなんだ」
「俺は好きじゃない。――聴覚についてだが、そういうことなら当然そっちにもリミッターがあるはずだな。ではこれで話は終わりだ。結論――ゲーム内からの干渉でプレイヤーの心臓を止めるのは不可能だ。偶然か、もしくは噂の産物だ。じゃあ、俺は帰る。ご馳走様」
これ以上この話に付き合うと、ロクなことにならない予感がして、俺は早口に捲し立てて席を立とうとした。
だが、やはり菊岡が慌てたように呼び止めた。
「わあ、待った待った。ここからが本題の本題なんだよ。ケーキもうひとつ頼んでいいからさ、あと少し付き合ってくれ」
「…………」
「いやあ、キリト君がその結論に達してくれて、ホッとしたよ。僕も同じ考えなんだ。この二つの死は、ゲーム内の銃撃によるものではない。ということで、改めて頼むんだが――」
来るんじゃなかった、としみじみ思いながら、俺は続く言葉を聞いた。
「ガンゲイル・オンラインに入って、この〈死銃〉なる男と接触して欲しい」
「接触、ねえ? ハッキリ言ったらどうだ、菊岡サン。撃たれてこい、ってことだろう、その〈死銃〉に」
「いや、まあ、ハハハ」
「やだよ! 何かあったらどうするんだよ。アンタが撃たれろ。心臓トマレ」
再び立ち上がろうとした俺の袖を、菊岡がはっしと掴む。
「さっき、その可能性は無いって合意に達したじゃないか、僕らは。それに、この〈死銃〉氏はターゲットにかなり厳密なこだわりがあるようだ。強くないと撃ってくれないんだよ、多分。僕じゃあ何年たってもそんなに強くなれないよ。でも、かの茅場氏が最強と認めた君なら……」
「俺でも無理だよ! GGOってのはそんな甘いゲームじゃないんだ。プロがうようよしてるんだぞ」
「それだ、そのプロってのはどういうことなんだい? さっきもそう言ったが」
ペースに巻き込まれてるなあ……と思いながら、俺はしぶしぶ腰を落とした。
「……文字通りだよ。ゲームで稼いでる連中だ。ガンゲイル・オンラインは、全VRMMO中で唯一、ゲーム内通貨現実還元システムを採用しているんだ」
「……ほう?」
さすがのエージェント菊岡も、ゲームのことに関してはまだまだ知識が追いつかないと見え、今度の疑問符は本物のようだった。
「つまり、簡単に言えば、ゲームの中で稼いだ金を、現実の金としてペイバックすることが可能なんだよ。正しくは、日本円ではなくEマネーだが、今はあれで払えないものはないからな。同じことだ」
「……しかし、そんな事をしてビジネスが成り立つのかい? 運営業者だってボランティアじゃないんだろう?」
「勿論、全てのプレイヤーが稼げるわけじゃない。パチスロや競馬と一緒さ。月の接続料が、確か三千円だ。これはVRMMOとしてはかなり高いほうだ。で、平均的プレイヤーが一ヶ月で還元できる金額は、せいぜいその十分の一……数百円という所らしい。だが、ギャンブル性が高いとでも言うのかな……、ごくまれに、ドカンとでかいレアアイテムをゲットする奴が出る。数万、数十万というカネになる。俺もいつかは……、という気になる。ゲーム内に巨大カジノまであるってんだからな」
「ふうむ、なるほどねえ……」
「で、プロ、ってのはそのGGOで毎月コンスタントに稼ぐ連中さ。トッププレイヤーで、月に十万から二十万ってとこらしいから、現実世界の基準で見れば大したことはないんだろうが……まあ、暮らそうと思えば暮らせるよな。つまりそいつらは、ボリュームゾーンのプレイヤーが払う接続料から収入を得ているということになる。さっき俺が、GGOのトッププレイヤーは他のゲーム以上に嫉まれる、って言ったのはそういう意味だ。国民の血税でクソ高いケーキを食う公務員のようなものだ」
「ふふふ、相変わらずキリト君は言う事がキビシイね。君のそういうところが好きさ」
菊岡のトボケた台詞には取り合わず、俺は話を打ち切ろうとした。
「――そういった理由で、GGOのハイレベル連中は他のMMOプレイヤーなんか比較にならないほどの時間と情熱をゲームにつぎ込んでいるのさ。何の知識もない俺なんぞがのこのこ出ていっても相手になるものか。だいたい、あれは名前どおり銃メインのゲームだからな……苦手なんだよ、飛び道具。悪いが他を当たってくれ」
「待った待った、アテなんて無いってば。僕にとっては、君が唯一、現実で連絡の取れるVRMMOプレイヤーなんだから。それに……プロの相手は荷が重いと言うなら、君も仕事ということにすればいいじゃないか」
「……はあ?」
「調査協力費という名目で報酬を支払おう。その……GGOのトッププレイヤーが月に稼ぐという額と同じだけ出そうじゃないか。――これだけ」
指を二本立てる菊岡の仕草に――
――正直、少々ぐらっときた。それだけあれば、最新の二〇ギガ級CPUでニューマシンを組んでおつりが来る。しかし、同時にあらためて疑問も湧き起こる。
「……引っかかるな、菊岡サン。なんでこの件にそこまでしなきゃならない。これはまず間違いなく後付けの噂というか、MMOにありがちなオカルト話だと思うぞ。心臓麻痺を起こした二人が、ゲームに姿を見せないから、そんな伝説めいた話がでっち上げられたんだ」
ストレートに尋ねると、菊岡は細い指で眼鏡を直しながら、俺から表情を隠した。どこまで真実を話し、どこまでを誤魔化すか思案しているに違いない。まったく食えない男だ。
「――実はね、上のほうが気にしてるんだよね」
話しはじめた高級官僚は、いつもどおりの笑顔に戻っていた。
「NERDLES技術が現実に及ぼす影響というのは、いまや各分野で最も注目されるところだ。社会的、文化的影響はもちろん甚大だが、生物学的なソレも大いに議論されている。仮想世界が、はたして人間の有り方をどのように変えていくのか、とね。もし仮に、なんらかの危険がある、という結論が出れば、再び法規制をかけようという動きが出てくるだろう。実は、SAO事件当時にも法案が提出される直前まで行ったんだよ。だが僕は――というか仮想課は、ここで流れを後退させるべきではないと考えている。VRMMOゲームを楽しむ、君達新時代の子供たちのためにもね。そんなわけで、この一件が妙な場所に着陸して、規制推進派に利用される前に事実を把握したいのさ。単なるデマであればそれが一番いい。その確信が欲しいんだ。――こんなところで、どうかね」
「……VRゲーム世代の若者に理解のある、アンタの理念は善意に解釈しておこう。だがそこまで本気で気にしているなら、直接運営企業に当たったらどうなんだ? ログを解析すれば、〈ゼクシード〉と〈たらこ〉を銃撃したプレイヤーが誰か、わかるはずだ。登録データがでたらめでも、IPからバイダに問い合わせれば、本名と住所はわかるだろう」
「――いくら僕の腕が長くても、太平洋の向こうまでは届かないんだよね」
菊岡の渋い顔は、今度こそは偽りのない苛立ちをにじませているようだった。
「ガンゲイル・オンラインを開発・運営しているザスカーなる企業……なのかどうかすらもわからない……それは、アメリカにサーバーを置いているんだ。会社の所在地はおろか、電話番号すら不明。メールに返事もない。まったく、例の〈ザ・シード〉以来、怪しげなVRワールドは筍のように増える一方だよ」
「……へえ、そうなのか」
俺は、肩をすくめるに留めた。VRMMORPG開発支援パッケージ・〈ザ・シード〉の由来を知っているのは俺とエギルだけだ。新生アルヴヘイム・オンラインに突如出現した浮遊城アインクラッドは、世間一般には、今は無きレクトプログレスが管理していた旧SAOサーバー内部に残されていた、ということになっている。
「とまあそんなわけで、真実のシッポを掴もうと思ったら、ゲーム内で直接の接触を試みるしかないわけなんだよ。もちろん万が一のことを考えて、最大限の安全措置は取る。キリト君には、こちらが用意する端末からダイブしてもらって、モニターしているアミュスフィアの出力に何らかの異常があった場合はすぐに切断する。銃撃されろとは言わない、君の目から見た印象で判断してくれればそれでいい。――行ってくれるね?」
気付いたときには、嫌だとは言えない状況に首まではまりこんでいた。
本当に、来るんじゃなかった……としみじみと後悔しながら、俺は同時にわずかな興味も覚えはじめていた。
仮想世界内から現実世界に干渉する能力……、もしそんなものが実在するとすれば――それは、茅場晶彦が目指そうとした世界変容の端緒なのだろうか? 三年前の冬に始まったあの事件は、まだ終わっていないのか……?
もしそうだとすれば、その流れゆく先を見届けるのは俺の役目であるはずだった。
「……わかったよ。まんまと乗せられるのはシャクだが、行くだけは行ってやる。でも、うまくその〈死銃〉と出くわすかどうかはわからないぞ。そもそも、実在さえ疑わしいんだからな」
「ああ……それだけどね」
菊岡は、邪気のない顔でにっこり笑った。
「言わなかったっけ? 最初の銃撃事件のとき、居合わせたプレイヤーが音声ログを取ってたって。データを圧縮して持ってきている。〈死銃〉氏の声だよ。どうぞ、聴いてくれたまえ」
PDAにイヤホンのプラグを挿入し、こちらに差し出す菊岡の顔を、俺は今度こそ本気でアンタの心臓も止まりやがれ、と思いながら睨んだ。
「……わざわざ、どーも」
受け取ったイヤホンを耳に突っ込むと、菊岡が液晶をスタイラスで突付く。たちまち、頭の中にざわざわという喧騒が再生された。
と、いきなりざわめきが消失し、しんとした沈黙を、鋭い叫びが切り裂いた。
『これが本当の力、本当の強さだ! 愚か者どもよ、この名を恐怖とともに刻め!』
『俺と、この銃の名は〈死銃〉…………〈デス・ガン〉だ!』
その声は、どこか非人間的な、金属質の響きを帯びていた。
それでいて、その向こうにいる生身のプレイヤーの存在を、俺は感じていた。
力を求め、力に酔うその声は、ロールプレイではなく、殺戮を欲する本物の衝動を放射しているように思えた。
第二章 冥界の女神
薄暮。
厚く、低く垂れ込める雲を、傾き始めた太陽が薄い黄色に染めている。
岩と砂ばかりの荒野に点在する、旧時代の遺物である崩壊しかけた高層建築がつくる影は徐々に長くなっていく。あと一時間も待機が続くようなら、夜間戦闘装備の用意を考えなければならない。
暗視ゴーグル越しの戦闘は、殺し殺されることの緊張感を削ぐため、シノンの好むところではなかった。陽光が消える前に、早く標的のパーティーが現れないものか、と、コンクリートの陰に身体をまるめてうずくまりながら考える。もっとも、シノンと一緒に憂鬱な|待ち伏せ《アンブッシュ》を続ける五人の仲間も、まったく同じことを考えているに違いない。
と、全員の内心を代弁するかのように、パーティーメンバーの一人、小口径の短機関銃を腰に下げたアタッカーの男が小声でぼやいた。
「ったく、いつまで待たせんだよ……。おいダインよう、ほんとに来るのかぁ? ガセネタなんじゃねえのかよ?」
ダインと呼ばれた、ごつごつと大柄な体躯と無骨な顔を持つこのスコードロンのリーダーは、肩から下げた大ぶりのアサルトライフルを鳴らしながら首を振った。
「奴らはこの三週間、ほとんど毎日のように同じ時間、同じルートで狩りに出てるんだ。俺が自分で確認したんだぞ。確かに今日はちょっと帰りが遅いが、どうせMOBの湧きがよくて欲かいて粘ってるんだろ。そのぶん分け前が増えるんだ。文句言うな」
「でもよぉ」
前衛の男は、なおも不満そうに口を尖らせる。
「今日の獲物は、確か先週襲ったのと同じ連中なんだろ? 警戒してルートを変えたってことも……」
「前に待ち伏せてからもう六日も経ってるんだぞ。それからも、あいつらはずっと同じ狩場に通ってるんだ。奴らはMOB狩り特化パーティーだからな……」
ダインの口もとに、あざけるような笑みが浮かんだ。
「何度襲われて、儲けを根こそぎにされても、それ以上に狩りで稼げればいいと思ってるのさ。俺たちみたいな対人スコードロンには絶好のカモだ。あと二、三回はこの手でいけるさ」
「でもなあ、信じられねえなあ。普通、一度やられれば何か対策するだろう」
「翌日くらいは警戒したかもしれないが、すぐ忘れたんだろうさ。フィールドMOBのアルゴリズムは毎日一緒だからな。そんな狩りばっかしてるとそいつらもMOBみたいになっちまうのさ。プライドの無え連中だ」
だんだん聞いているのが不愉快になり、シノンは一層深くマフラーに顔を埋めた。感情の起伏は、トリガーを引く指を鈍らせる。そう分かっていても、賢しらに語るダインへの苛立ちが心の中に湧き起こる。
ルーティーンなMOB狩りに特化したパーティーを嗤い、自らをPvPerと誇るわりには、そのパーティーを何度も待ち伏せて襲うことにプライドは傷つかないらしい。こんなニュートラル・フィールドで何時間も費やすくらいなら、地下の遺跡ダンジョンに潜ってハイクラスのスコードロンと一戦交えたほうが、稼ぎの効率は何倍も高まる。
無論、一敗地にまみれ、装備をドロップして街に死に戻る可能性も高まる。しかしそれが戦闘というものだ。その緊張感の中でのみ、魂は鍛えられる。
ダインの率いるこのスコードロンに誘われたのは二週間前だった。参加してすぐに後悔した。確実に戦力で優位に立てるパーティーだけを狙い、危機らしい危機でもないのにすぐに撤退する、怯懦を看板に掲げているようなPK集団だったからだ。
しかしシノンはこれまで、スコードロンの方針には一切口を出さず、黙々とダインの指示に従ってトリガーを引いてきた。別に忠誠心を売り物にしているわけではない。いつか敵として戦場でまみえたときに、思考・行動を読み、確実に弾丸をダインの眉間に撃ち込むためだ。性格的にはまるで好きになれないが、前回のバレット・オブ・バレッツで十八位に入ったダインのレベル・ステータスと、その肩のSIG−SG550が吐き散らす五・五六ミリ弾の威力は本物だ。だから今はひたすら口をつぐみ目を光らせ、ダインが無警戒に振り撒く情報を収集する。
ダインのお喋りは続いている。
「……大体、MOB狩りのために光学銃ばっかり揃えてるあいつらが、そうすぐに対人用の実弾銃を員数ぶん用意できるわけないだろう。せいぜい、支援火器を一丁を仕入れるくらいが関の山さ。そいつを潰すために、今日はシノンにライフルを持ってきてもらってるんだ。作戦に死角はねえよ。なあ、シノン?」
いきなり話を振られ、シノンはマフラーに埋めた顔をわずかに動かして頷いた。だが口はつぐんだままで、会話に加わる意思のないことを表す。
ダインは詰まらなそうにかすかに鼻を鳴らしたが、アタッカーのほうはシノンに向かってニッと笑いかけ、言った。
「まあ、そりゃそうか。シノンの遠距離狙撃がありゃあ優位は変わらねえや。――そういや、シノンっちさぁ」
顔に弛んだ笑みを浮かべたまま、それでも掩蔽物の陰から出ることのないよう四つんばいでアタッカーはシノンの隣に近寄ってきた。
「今日、このあと時間ある? 俺もスナイパースキル上げたいんで相談に乗ってほしいなーなんて。どっかでお茶でもどう?」
シノンはちらりと男の顔と、その腰に下がる武器に視線を送った。実弾系短機関銃、H&K−UMPが男のメインアームだ。AGI型らしく、正面戦闘での回避力はなかなかのものだったが、レベル的にも装備的にも情報を記憶しておくほどの相手ではない。相手の名前を少々苦労して思い出しながら、シノンは小さく頭を下げた。
「……ごめんなさい、ギンロウさん。今日は、リアルでちょっと用事があるから……」
現実の自分の声とは似ても似つかない、高く澄んだ可愛らしい声が流れ、シノンは内心でうんざりする。これだから喋るのは好きではない。ギンロウという男は、すげなく断られたにも関わらず、うっとりとした笑いを消そうとしない。一部の男性プレイヤーは、シノンの声を聞くだけである種の喜びを得るらしい。そう考えると、背筋に寒いものが走る。
このガンゲイル・オンラインに初めて身を投じたときは、無骨で無個性な男の姿を分身にと望んだ。すぐにVRMMOではプレイヤー・キャラクター感の性別逆転が不可能だと知らされ、それならばできるだけ筋肉質で背の高い、兵士然とした女になりたいと思った。しかし、ランダム生成によって与えられたのは、小柄で華奢な、日本人形めいた少女の姿で、即座にアカウントを破棄してキャラクターを作り直そうと思ったのだが、シノンをこの世界に誘った友人が「勿体無い」と強行に主張したためなし崩し的に後戻りできないところまでレベルを上げてしまった。
お陰で、時折このように厄介な申し出を受けることがある。戦うことだけがゲーム目的のシノンにとっては鬱陶しいだけだ。
「そっかぁー、シノンっちはリアルじゃ学生さんだっけ? 大学生? レポートかなんかかな?」
「……ええ、まあ……」
おまけに、いちど落ちるときに、学校が、と口を滑らせてしまってからは誘いが執拗になってきた気がする。本当は高校生だなどとは、口が裂けても言えない。
と、今までしゃがみこんでステータスウインドウを操作していた、前衛三人のうち残る二人が、ギンロウを牽制でもするかのようににじり寄ってきた。その片方、スモーク処理されたゴーグルの上に緑色の前髪を垂らした男が口を開く。
「ギンロウさん、シノンさんが困ってるでしょう。リアルの話を持ち出すもんじゃないですよ」
「そうそう。向こうでもこっちでも寂しい独り身だからってさぁ」
もう一方、迷彩のヘルメットを斜めに被った男がにやにや笑うと、ギンロウは二人の頭を拳でぐりぐりと押しながら言い返した。
「んだよ、お前らだって何年も春が来ないくせに」
ひゃひゃひゃと笑う三人の隣で一層体を縮めながら、シノンは不思議でならなかった。
プレイヤー相手の戦闘を欲するなら、待機中は精神集中でも装備点検でも幾らでもすることがあるし、Eマネー還元を利用して稼ぐつもりならMOBハント専門のスコードロンに入ったほうがいい。そして出会いを求めるなら、こんな殺風景で殺伐としたゲームでなく、もっとメルヘンチックで女の子のプレイヤーが多いゲームに行くべきだ。一体彼らは何を求めてこの世界にやってきているのだろう。
再びマフラーの奥に深く顔をうずめて、シノンは左手の指先でそっと、地面に横たえてある愛用のライフルの銃身をなぞった。
――いつかこの銃で、あなたたちの仮想の体を吹き飛ばすときがくる。その後でも同じように笑って声を掛けられる?
胸の奥でそう呟くと、苛立った気分が徐々に冷えていった。
「――来たぞ」
崩れかけたコンクリート壁の穴から双眼鏡で索敵を続けていた、残る一人のパーティーメンバーがかすかな声で呟いたときには、更に二十分が経過していた。
前衛三人とダインのお喋りがぴたりと止まり、場の空気が一気に緊張する。
シノンはちらりと空を見上げた。黄色い雲はわずかに赤みを増しつつあるが、まだ光量は十分だ。
「ようやくお出ましか」
小声で唸りながら、ダインは中腰で移動すると、壁の偵察役から双眼鏡を受け取った。同じように穴越しに覗き込み、敵の戦力の確認を始める。
「……確かにあいつらだ。七人……先週よりひとり増えてるな。自動ブラスターの前衛が四人。大口径レーザーライフルが一人。それに……やっぱりだ、FN−ミニミが一人。こいつは先週は光学銃だったはずだが、慌てて支援火器に持ち替えたんだろうな。狙撃するならこいつだな。最後の一人は……迷彩マントで武装が見えないな……」
それを聞いて、シノンは地面に腹ばいになり、自分のライフルのスコープを覗いてみた。
シノン達六人のパーティーが伏せているのは、少し高台になった場所に遺された、建築物の残骸の中だ。ぼろぼろのコンクリート壁や鉄骨が掩蔽物となり、前方に広がる荒野を監視するには絶好の地形である。
ライフルの射線上で、厚い壁がV字型に崩れており、その隙間からシノンは荒野を俯瞰した。
すぐに、最小倍率に設定したスコープの視野を動く小さな点が見えた。指先でダイヤルを調節する。かちっというかすかな音がするたびに、胡麻粒のような黒点はみるみる拡大され、やがて七つの人の姿となった。
ダインの言葉どおり、四人が光学系突撃銃を携えており、そのうち二人が頻繁に双眼鏡を顔に当て、周囲を警戒している。しかし、向こうからこちらを発見するのは、最大倍率でダイレクトにコンクリート壁の隙間を覗きでもしない限り不可能だ。
集団の中ほどを、大型の銃を肩に掛けた二人が歩いている。片方はセミオートのレーザー・ライフル、確かアルゴル−Uという名前の銃で、もう一方は実弾系の軽機関銃、FN−MINIMIだ。光学銃による攻撃は、ダメージの半分以上を防護フィールドによって減殺できるため、どちらと言われればMINIMIのほうが圧倒的に脅威だ。
ガンゲイル・オンラインに登場する武器は、大きく分けて実弾銃、光学銃の二つに分類される。
双方のメリット・デメリットは、実弾銃が高威力、防護フィールド貫通能力に対して、重く、弾薬の携帯が困難。光学銃は軽量、長射程、命中精度が高く、また弾倉にあたるエネルギーパックがコンパクトな反面、防護フィールドで威力を散らされてしまう。
よって、対モンスターには光学銃、対プレイヤーには実弾銃が絶対のセオリーなのだが、この二つのカテゴリーにはもう一つ大きな特徴がある。
それは、光学銃が架空の名称と姿を持っているのに対し、実弾銃は現実世界に実際に存在する銃をそのまま登場させているということだ。
よって、GGOプレイヤーのうちかなりのパーセンテージを占める、ダインやギンロウのような銃器マニアたちは好んで実弾銃を常時携行し、MOB狩りの時だけ光学銃に持ち替えている。
いま、シノンが頬をつけているライフルも実弾系だ。だが、シノンはこの世界に来るまで銃器のメーカーなど何一つ知らなかった。必要性があってアイテムとしての銃の名前は憶えたが、それで現実の銃に興味が出たかというとまったくそんなことはない。この世界の銃は、トリガーを引いて弾丸が発射されればそれでいいし、現実世界の銃に至っては見るのも嫌だ。
ただひたすら、この殺戮の世界で、仮想の敵を仮想の銃弾で破壊しつづける。心が石のように硬くなり、流れる血が凍るまで。
そのために、シノンは今日もトリガーを引く。
余計な思考を振り払い、シノンはライフルをわずかに動かした。敵の隊列の最後尾を、巨大なゴーグルで顔を覆い、迷彩マントをすっぽりと羽織ったプレイヤーが歩いている。ダインの言葉どおり、装備は見えない。
かなりの巨漢だ。マントの下の背中に、大きなバックパックを背負っているらしい。それ以外は大した荷物を持っている様子はない。腰か手にあるであろう武器は、最大でも短機関銃クラスだろうと思われた。
「迷彩マントだぁ?」
背後から、ギンロウの声がした。緊張の響きを帯びてはいるが、冗談めかした口調で続ける。
「アレじゃねえのか? ウワサの……〈デス・ガン〉」
「ハッ、まさか。実在するものか」
すぐにダインが笑い飛ばす。
「それに、噂じゃあ死銃ってのは小男なんだろ? あいつはかなりでかいぞ。二メートルはありそうだ。多分……STR型の運び屋だな。稼いだアイテムやら、弾薬やエネルギーパックを背負ってるんだ。武装は大したことないだろう。戦闘では無視していい」
その言葉を聞きながら、シノンはじっとスコープの中の男を見詰めた。
ごつい装甲ゴーグルのせいで表情は見えない。だが、わずかに口元が覗いている。唇は固く引き結ばれ、微動だにしない。他のメンバーは、警戒しながらも雑談中と見え時折歯を見せているが、最後尾のマントの男だけは無言を貫いている。黙々と歩くその足取りには、一切の乱れがない。
半年のGGOプレイ経験で培ったシノンの勘は、MINIMIよりも、この男のほうにより強い脅威を告げていた。しかし、背中のバックパック以外は、マントに目立つ膨らみはない。小型でハイパワーのレア銃を隠し持っているのだろうか。だがその類の銃は光学系にしか存在せず、対人戦闘では決定力とはなり得ないはずだ。ならばこの男に感じる殺傷力は気のせいなのだろうか……。
迷った末、シノンは小声で言った。
「あの男、嫌な感じがする。狙撃するのはマントの男にしたい」
ダインは双眼鏡を顔から離すと、眉を上げてシノンを見た。
「何故だ? 大した武装もないのに」
「……根拠は無い。不確定要素だから気に入らないだけ」
「要素と言うなら、あのMINIMIは明らかに不安要素だろう。あれに手間取ってる間にブラスターに接近されたら厄介だぞ」
光学銃に防護フィールドが有効、と言っても、その効果は彼我の距離が縮まるにつれ減少する。至近での撃ちあいになれば、マガジン一つあたりの弾数が多いレーザーブラスターに圧倒される可能性はある。シノンはやむなく主張を引っ込め、頷いた。
「……わかった。第一目標はMINIMIにする。可能だったら次弾でマントの男を狙う」
そう言ったものの、狙撃が有効なのは、敵に射手が発見されていない初弾に限る。発射点を認識されてからの狙撃は、敵に弾道予測線を与えてしまうため容易に回避されるからだ。
「おい、喋ってる時間はそろそろ無いぞ。距離二五〇〇だ」
索敵担当の男が、ダインから双眼鏡を取り返して覗き込み、言った。ダインは頷き返し、背後のアタッカー三人を振り返った。
「よし。俺たちは作戦どおり、正面のビルの陰まで進んで敵を待つ。――シノン、ここから俺たちには奴らが見えなくなるからな、状況に変化があったら知らせろ。狙撃タイミングは指示する」
「了解」
短く答え、シノンは再びライフルのスコープを覗き込んだ。標的パーティーに変化はない。相変わらず、やや遅いペースで荒野を移動している。
彼らと、シノン達の間には二五〇〇メートルの荒野が広がっており、その中央わずかこちら寄りに、ひときわ巨大なビルディングの遺跡がそびえていた。ダインら五人は、それを利用して標的の死角に入り、接近する作戦である。
「――よし、行くぞ」
短いダインの声に、シノンを除くメンバーが短く答えた。ブーツが砂利混じりの砂を踏む音を残して、高台の後方から降りていく。夕暮れの風鳴りが彼らの足音をかき消すまで待って、シノンは首元のマフラーの下から小さなヘッドセットを取り出し、耳に掛けた。
ここからの数分間、シノンはスナイパーとして、プレッシャーと孤独な戦いを続けなければならない。自分の放つ一発の銃弾で、その後の戦闘の帰趨が動くのだ。頼るのは自分の指と、物言わぬ銃だけだ。左手を、二脚に支えられた巨大な銃身に滑らせる。黒い金属は、冷たい沈黙をシノンに返す。
シノンを、この世界では珍しい狙撃手としてそれなりに有名プレイヤーたらしめているのは、何よりもまずこの実弾銃だった。名を、PGM−ウルティマラティオ・ヘカートU、と言う。全長一三八〇ミリ、重量一三・八キロという図体を持ち、五〇口径、つまり一二・七ミリもの巨大な弾丸を使用する。
現実世界では、アンチマテリアル・スナイパーライフル、というカテゴリーに属すると聞いた。つまり、車両や建築物を貫くことを目的とする銃だ。そのあまりの威力から、何とかいう長い名前の条約で、対人狙撃に使用するのは禁止されているらしい。しかしもちろん、この世界にそんな法律は無い。
手に入れたのは三ヶ月前、GGOプレイヤーとしてそれなりにベテランの域に達した頃だった。そのころ、シノンは一回り小さなスナイパーライフルと、サブアームにハンドガンを使用していた。ある日気まぐれで、ソロで首都グロッケンの地下に広がる巨大な遺跡ダンジョンに潜り、不注意からシュート・トラップに落ちてしまったのだった。
ガンゲイル・オンラインは、遥か過去の世界大戦で文明の滅びた地球に、移民宇宙船で軌道から帰ってきた人々が暮らすという設定の世界を舞台にしている。グロッケンの街はもとの移民船であり、その地下に、大戦で崩壊したかつての巨大都市が眠っているのだ。都市の遺跡には、無数の自動戦闘機械やら、遺伝子改造されたクリーチャー、つまりモンスターが蠢き、一攫千金を夢見て潜り込む冒険者たちを待ち受けている。シノンが落っこちたのは、そんな最高レベルの危険度を持つダンジョンの奥底だった。
当然、ソロでどうにかなる場所とは思えなかった。諦めて、武装ドロップ覚悟で街に死に戻ろうとしたシノンの前に、一際巨大なスタジアムめいた円形の空間と、そこにうずくまる異形のクリーチャーが現れた。サイズと名前から、ボスクラスのモンスターだと思われたが、いまだかつてどの情報サイトでも見たことのない姿だった。そう気付いた途端、シノンの中の、ほんのわずかのゲーマー魂が刺激された。どうせ死ぬなら、こいつと戦ってやろう、そう思ったシノンはスタジアム上部の排気口に身を潜め、ライフルを構えた。
戦闘は意外な展開となった。ボスモンスターは、熱線、鉤爪、有毒ガス他という多種の攻撃パターンを持っていたが、そのどれもが、シノンの伏せている場所までわずかに届かなかったのだ。とは言え、シノンのライフルも有効射程ぎりぎりで、与えるダメージは微々たるものだった。携行していた弾薬数から考えて、ほぼ一発のミスも無く、すべての弾をボスの弱点らしき額の小さな目に命中させなければ撃破は不可能と思われた。そして、シノンは氷のような冷静さと集中力でそれをやり遂げた。ボスが倒れたときには、戦闘開始から三時間が経過していた。
そのボスモンスターがドロップしたのは、見たこともない巨大なライフルだった。設定として、グロッケンの街の工房では強力な実弾銃を製造することができず、街で売られているのは一部の低威力品だけであり、中級品以上を欲するなら全て遺跡から発掘するしかない。シノンが手に入れたライフルは、そんな発掘武器の中でも最もレアリティーの高い一群に属するものだった。
現在、アンチマテリアル・ライフルという冠のついている銃は、シノンのヘカートUの他に十丁ほどが存在すると言われている。当然、取引価格も恐ろしい高額で、前回オークションに出た銃にはゲーム内通貨で二〇Mクレジット、つまり二〇〇〇万の値がついたそうだ。還元システムのレートは一〇〇:一なので、Eマネーに変換すれば二〇万円が手に入ることになる。
シノンは現実世界では高校生にして一人暮らしで、毎月ぎりぎりの仕送りを四苦八苦してやりくりしている身なので、それを聞いたときは正直少し迷った。最近ではようやく月の接続料金の半額、一五〇〇円ほどを還元できるようになってきたものの、それでも小遣いの半分近くが消えてしまう。かと言って、これ以上ダイブする時間を増やせば、成績のキープすら怪しくなる。しかし二〇万あれば、今までの接続料を取り返してなお大部分が残る。
だが、シノンは銃を売らなかった。GGOに潜る目的は、お金を稼ぐことではなく、ただ敵――自分より強い全てのプレイヤーを殺すというその一点だけだったし、なにより初めて、単なるアイテムであるはずの銃に「心」を感じたからだった。
ヘカートUは、その巨体と重量ゆえに恐ろしいほどの要求STR値を設定されていたが、スナイパーとしてAGIよりもSTRを上げていたシノンはぎりぎり装備することが可能だった。初めて戦場に持ち出し、敵をスコープに収めたとき、シノンは手の中の重く、冷たい塊に、力と、そして意思を感じた。殺戮を欲し、死を求める冷酷な魂。シノンがそうありたいと思う、何ものにも屈せず、揺るがず、流す涙など一滴も持たない姿がそこにあった。
それからしばらくして、シノンは「ヘカート」という名前が、ギリシャ神話に出てくる冥界を司る女神から取られていると知った。この銃を最初で最後の相棒にしようと、その時思った。
スコープの中では、標的のパーティーが移動を続けている。
顔を上げ、直接荒野を見下ろすと、標的との間に崩れかけたビルをはさんで、ダインたち五人が接近していくのが見えた。二つの集団の距離は、すでに七〇〇メートルほどに縮まっている。再び右目をスコープにつけ、ダインからの指示を待つ。
数十秒後、ヘッドセットから雑音混じりの声がした。
「――位置についた」
「了解。敵はコース、速度とも変化なし。そちらとの距離四〇〇。こちらからは一八〇〇」
「よし。狙撃開始」
「了解」
短いやり取りのあと、シノンは口をつぐみ、右手をトリガーにかけた。
スコープの視野では、FN−MINIMIを肩にかけた第一標的の男が、何事か喋りながら歩いている。先週の戦闘では、シノンは狙撃ではなくアサルトライフルを装備しての援護射撃を担当したため、この男はかなりの近距離で顔を見ているはずだが、記憶にはなかった。しかし、分隊支援火器を装備できるからにはかなりのレベルに達しているはずだ。
どくん、どくん、と急に激しくなる心臓の動悸を抑えこみながら、トリガーにかけた指に、わずかに力を入れる。
その途端、シノンの視野に、緑色に光る半透明の円が表示された。ゆら、ゆらとその直径を変化させる円は、男の顔を中心に、腹のあたりまで広がっている。ゲームシステムによってシノンの視界にだけ表示される、「着弾予測円」だ。発射される弾丸は、この円のなかのどこかにランダムに命中する。現在の大きさでは、男の体が含まれているのは円の面積の三割程度だ。つまり命中率三〇%。さらに、いくらヘカートUの威力をもってしても、腕などに当たった場合は即死させるのは不可能なので、一撃で仕留められる確率は更に下がる。
この着弾予測円の大きさは、目標との距離、銃の精度、天候、光量、スキル・ステータスといった要素によって変動するが、中でも最重要なパラメータは、射手の精神状態だ。アミュスフィアが使用者の脳波をモニターしており、緊張、不安によって心が乱れると、それだけ予測円も大きくなる。
GGOにおいてスナイパーがごく少ないのは、これが最大の理由だ。つまり当たらないのだ。狙撃に際して緊張するのは止めようがない。無論接近戦でも心の乱れで予測円は変動するが、距離が近ければそれでも当たる。フルオートのサブマシンガンやアサルトライフルなら尚更だ。しかし距離一〇〇〇を越える狙撃では通常、予想円は人間の身長の数倍にも広がる。現在シノンの視野に広がる、命中率三割のサイズがすでに奇跡的なのだ。
――だが。
シノンは心の中でつぶやく。
こんなプレッシャー、こんな不安、こんな恐怖が何ほどのものだというのか。屑篭にまるめた紙を投げ込むようなものだ。そう――
あのときに、くらべれば。
すうっ、と頭の芯が冷えていく。心臓の動悸が嘘のように収まる。氷。わたしは、つめたい氷でできた機械。
ぎゅうっ! と、一気に着弾予測円が収縮した。男の胸、首を通過し、顔の中央、正確に目と目の間にぽつんと浮かぶ、緑色の光点となった。
シノンは、トリガーを引いた。
雷鳴にも似た咆哮が世界を震わせた。
ヘカートUのあぎとに設けられたマズル・ブレーキから巨大な炎が迸り、一瞬、スコープの視野を白く染めた。リコイルによって、シノンの体はライフルごと後退しようとしたが、踏ん張った両足で必至に堪える。
映像が回復したスコープのなかで、マズル・フラッシュに気付いたのか、男が瞬きして視線をこちらに向けた。スコープを覗くシノンと視線が交錯した――
と思った瞬間、男の頭部から両肩、胸の上部までが、極小のオブジェクト片となって粉砕・消滅した。わずかに遅れて、残された体も、ガラスの像を叩き壊すように脆く砕け散る。肩にかけていたMINIMIだけがその場に残り、砂地に落下した。男はきっと、街に帰還・蘇生したあとも、数十分は軽いショック症状に悩まされるだろう。
以上のことを無感動に確認しながら、シノンの右手は自動的に動き、ヘカートUのボルトハンドルを引いていた。金属音とともに巨大な薬莢が排出され、傍らの岩に当たってから消滅する。
次弾が装填されると同時に、シノンはライフルをわずかに右に振り、第二目標であるマントの巨漢をスコープ内に収めていた。ゴーグルに覆われた顔を、まっすぐこちらに向けている。今度はその体の中央に照準を合わせ、トリガーをわずかに絞る。ふたたび着弾予測円が表示され、即座に一点に収縮する。
初弾を放ってからここまでで、三秒が経過していた。セミオートマチックのライフルならば連射が可能だが、ボルトアクションのヘカートUではそうもいかない。それでも、一般的なプレイヤーであれば、目の前でいきなり仲間の体が粉砕されたことに驚愕し、硬直し、そこから精神状態を立て直して狙点を認識、回避準備に入るまで五秒はかかる。その混乱を衝ければ、第二射も成功する可能性はあると踏んだのだったが――
しかし、マントの男は表情ひとつ変えず、スコープの中でまっすぐにシノンを見ていた。やはり男は相当なベテラン、きっと名のあるGGOプレイヤーに違いない、と思いながら、シノンはトリガーを絞った。
この時点で男の視界には、自分を襲うであろう弾丸が描く「弾道予測線」が、赤い半透明の光のラインとなって表示されている。銃撃による戦闘に、ゲームならではのハッタリ的面白さを盛り込むために採用されているGGO独自のシステムだ。反射神経にすぐれ、高いAGIを持ち、度胸の据わったプレイヤーであれば、五〇メートルの距離から撃ち込まれる突撃銃の連射でさえ回避することも不可能ではない。
再びの轟音。ヘカートUがその無慈悲な指先から放った「死」そのものの結晶たる弾丸が、薄い黄色に染まる大気を切り裂いて飛翔していく。
だがシノンの予想どおり、男は落ち着いた動作で大きく一歩右に動いた。直後、その巨体から一メートル離れた空間を一二・七ミリ弾が貫いた。はるか後方の荒野に突き出ていたコンクリート壁が、パッと光を散らして円形に消滅した。
シノンの右手は無意識のうちに動き、更に次の弾丸を装填していたが、グリップに戻った右手の指先をトリガーに掛けようとはしなかった。これ以上の狙撃は無駄だろう。どうしても狙いたければ現在の位置を移動し、男の視界から姿を隠して、認識情報がリセットされる二〇〇秒が経過するのを待つしかないが、その頃には戦闘の帰趨は決しているはずだ。スコープを覗いたまま、口もとのレシーバーに囁く。
「第一目標クリア。第二目標フェイル」
すぐにダインの応答があった。
「了解。アタックを開始する。――ゴウ!」
ザッ! と地面を蹴って駆け出していく音がかすかに届いた。シノンは詰めていた息を細く吐き出した。
課せられた任務はこれで終わりだ。ヘカートUは本物のレア銃であって、それを背負ったまま正面戦闘に参加させてもし死亡・武器ドロップということになれば一大事だからと、狙撃が終わればあとは待機でいいとダインに言われていた。第二射を外したのは心残りだが、こうなっては自分の危機感が杞憂であったことを祈るだけだ。
そう思いながら、シノンは再びライフルを動かし、デジタルスコープの倍率を下げて目標集団全体を視野に捉えた。四人の前衛が慌しく付近の岩やコンクリート壁などの掩蔽物の陰に入り、そのさらに後方で大型レーザーライフルを構えた男と、それに並んで、例のマントの大男が――
「あっ……!!」
シノンは、思わず全身を硬直させて短く叫んでいた。ちょうど、男が両腕を跳ね上げ、迷彩マントを体から剥ぎ取ったところだった。
男の両手に、武器は無かった。腰にも無かった。
その広い背中に担がれた、アイテム運搬用のバックパックだとばかり思っていた膨らみが露わになった。
男の肩から肩へ、金属のフレームが湾曲して伸びている。そのレールに、吊り下げられるように装着されているのは、無骨な、金属の塊だった。
円筒形の機関部を、Y字型の支持フレームが包んでいる。銀色のキャリアハンドルが光り、その下から伸びる、束ねられた六本の銃身。全長は一メートルほどか、機関部にはベルトリンクが装着され、それは同じくレールに懸架された巨大な弾倉へ繋がっている。
その、銃と言うにはあまりに無骨で、獰猛な姿を、シノンはかつて一度だけGGO情報サイトの武器名鑑で目にしていた。
たしか名を、GE−M134ミニガン。武器カテゴリは重機関銃。ガンゲイル・オンラインに登場する銃器の中で最大のもののひとつだ。六連の銃身が高速回転しながら装填・発射・排莢を行うことで、七・六二ミリ弾を秒間一〇〇発というおよそ有り得ない速度でバラ撒く、悪夢の代名詞とでも言うべき銃――いや、もはや兵器か。
当然ながら、重量も凄まじい。確か本体だけで一八キロ、あれだけの弾薬と一緒なら四〇キロを超えるだろう。どんなSTR一極型のプレイヤーでも重量制限内に収めるのは不可能だ。当然、過重状態だろう。あのパーティーの移動がのんびりしていたのは、狩りが長引いたためではない。あれが、男に出せる最大の移動速度だったのだ。
愕然としながらスコープを覗くシノンの視界のなかで、大男は右手を背に回すと、ミニガンのハンドルを握った。レールを巨大な機関銃がスライドし、男の体の右側で前方九〇度回転する。両足を大きく開き、六連の銃口を正面に大きく突き出した姿勢で――男ははじめて、ゴーグルの下の口を動かし、獰猛な笑みを浮かべた。
シノンは慌てて右手を動かし、スコープの倍率を更に下げた。
視界左側から、ギンロウ達三人のアタッカーが、サブマシンガンを構えて突っ込んでくる。レーザーブラスターの光弾が青白い尾を引いて迎え撃つが、それらはすべてギンロウたちの直前一メートルほどの空間で、水面に吸収されるように波紋を残して減衰する。防護フィールドの効果だ。
反撃すべく短機関銃が火を噴き、岩から身を乗り出していたブラスター使いの一人がパ、パッ! と白い着弾エフェクトと共に倒れた。ギンロウ達は更に突出し、敵集団から間近いコンクリート壁の陰へと――
その時、大男がぐっと腰を落とした。
直後、ミニガンの銃身が回転し、きらきらと輝く光の帯が、わずか〇・三秒ほど迸った。
それだけで、壁の一部とともに、ギンロウの体がこまぎれに分解され、消滅した。水流にさらされた砂の人形のような呆気なさだった。
「っ…………」
シノンは、唇を噛んで立ち上がっていた。地面からヘカートUを掴み上げると、二脚を畳んでベルトを体にまわし、背負う。
一三八センチに及ぶヘカートUは、一五五センチほどしか身長のないシノンの肩にずしりと食い込んだが、それでも重量制限内だ。サブアームの超小型短機関銃、H&K−MP7を入れてもどうにか制限をオーバーしないのは、シノンのSTR値が高いせいもあるが、ヘカートUの弾薬をマガジン内の七発しか携行していないこともある。
肉眼でも、ほぼ一・五キロ離れた戦場を飛び交う光がキラキラと見てとれた。シノンは無言のまま、全速で駆け出していた。
こうなった以上、戦闘の帰結はダインたちに不利だった。ミニガン使いの男一人が相手であれば、中距離以上を保って常に高速で移動しながら攻撃することで、倒すこともあるいは可能だろう。しかしミニガンの援護を受けたレーザーブラスター使い達に、防護フィールドが効力を失う距離まで接近されればそちらの相手をしないわけにはいかない。
スコードロンのメンバーとは言え、シノンがここで撤退しても文句は言われないはずだった。命じられた目標の狙撃という任務は立派に果たしたのだ。
それでも、シノンは一直線に戦場目指して走った。仲間を助けたいと思ったわけではない。ただ、あのミニガンの男が浮かべた笑みが、シノンの脚を前に動かした。
男には戦場で笑えるだけの強さがある。ミニガンなどという超のつくレア銃を手に入れ、それを装備できるだけのSTRを積み重ね、シノンの狙撃にも難なく対処するだけの胆力を身につけている。
そういう相手と戦い、殺すことで、あまりに弱いもうひとりの自分――シノンの中でいつまでも泣きじゃくっている幼い朝田詩乃を消滅させる、それだけのために、この狂気の世界に身を投じているのではなかったか。ここで逃げては、今まで積み重ねてきたものが全て無駄になる。
パラメータが許すかぎりの全速で乾いた地面を蹴り、埃っぽい空気を切り裂いて、シノンは疾駆した。
砂利の混じる砂地に転々ところがる岩や崩れかけた壁を避け、飛び越え、数十秒足らずの疾走で交戦エリアに突入した。
AGIパラメータ支援を全開にした一直線の猛ダッシュだ。身を隠すことはわずかにも考えなかった。敵集団にも接近するシノンの姿は捕捉されているはずだった。
両パーティーの交戦域は、開始時と比べて大幅に移動していた。当然、後退しているのはダイン達だ。ミニガンの有無を言わせぬ掃射にバックアップされて、敵集団の前衛は着実に距離を詰め、レーザーの効果範囲から逃れるために、ダインを含む四人は掩蔽物から掩蔽物へと下がりつづけるしかない。
荒野に飛び出しての一直線の逃走もまた不可能だった。姿を晒せば、即座に滝のような銃弾によって蜂の巣だ。しかも、どうにかダインたちの姿を隠しているコンクリート壁の類は、彼らのすぐ後ろで急激に数を減らしていた。残るのは、死角からの接近に利用した、半分以上崩壊したビルディングの遺構だけだった。あそこに逃げ込めば、それが即ちダイン達の墓標となる。
以上のことを瞬時に認識し、シノンはダインらがうずくまる壁の後ろに、一息に飛び込もうとした。その瞬間、三本の赤い光のラインが、シノンのすぐ前方にぱぱっと表示された。
「く……」
歯を食いしばり、回避体勢に入る。これは、敵のアタッカーが持つレーザーブラスターの「弾道予測線」だ。
シノンはまず、体を限界まで低くし、最初の予測線をかいくぐった。直後、頭上のラインを正確にトレースして、青白い熱線が空間を灼いた。目の前には二本目の予測線が伸びている。すぐさま右足に全身の力を込めて地面を蹴り飛ばし、空に身を躍らせる。腹のすぐそばを、次のレーザーが通過し、一瞬視界を白く染める。
三本目の予測線は、飛翔するシノンの軌道と、少し高い位置で交差していた。精一杯首を縮め、飛来した熱線を回避したが、薄いブルーのショートヘアの尖端がわずかに接触して、ぱちぱちと光の粒が散った。
どうにかレーザーブラスターの三点バースト射撃をかわして、地面に着地したシノンの眼前を――
恐ろしく太い、直径五〇センチはあろうかという血の色のラインが貫いた。間違いなく、ミニガンの弾道予測線だった。コンマ何秒後に、あの嵐のような連射が襲い掛かってくる。
恐怖で竦む体に鞭打って、シノンは地面についたばかりの右足をぐっとたわめ、再び思い切り飛び上がった。空中でくるりと体を捻り、ハイジャンプの背面飛びの要領で全身を反らせる。
直後、暴風のようなエネルギーの奔流が、背中ぎりぎりの場所で荒れ狂うのを感じた。白く輝く実体弾の群が視界の端を通過し、少し離れた廃墟ビルディングのぼろぼろの壁を、さらに一部丸く吹き飛ばした。
背中から砂地に落下する寸前シノンは再び体を捻り、両手両足で着地、同時に思い切り体を前方に投げ出した。数回ごろごろと転がると、そこはもうダインらの伏せるコンクリート壁の陰だった。
いきなり目の前に出現したシノンを、スコードロンのリーダーは驚愕の視線で眺めた。どう好意的に見ても、そこにあったのは感謝の輝きではなく、わざわざ死地に首を突っ込む物好きへの疑念に過ぎなかったが。
ダインはすぐに顔を逸らし、手のなかのSG550に視線を落とした。呟いた声は、低くしわがれていた。
「……畜生、奴ら用心棒を呼んでやがった」
「用心棒?」
「知らねえのか。あのミニガン使いだよ。あいつは〈ベヒモス〉っていう、北のオーブスリーの街で有名な野郎だ。カネはあるが根性のねえスコードロンに雇われて、護衛の真似事なんぞしてやがるのさ」
あなたよりは余程尊敬できるプレイスタイルだ、とシノンは思ったが、もちろん口には出さなかった。かわりに、ダインの向こうで時折掩蔽物から顔を出し、敵集団に向かって空しい反撃を行っている三人を見上げ、言った。
「このまま隠れていたらすぐに全滅する。――ミニガンはそろそろ残弾が怪しいはず、全員でアタックすれば派手な掃射はためらうかもしれない。そこを突いてどうにか排除するしかない。SMG二人は左から、ダインと私は右から回り込んで、M4はここからバックアップ……」
そこまで言ったとき、ダインがかすれた声で遮った。
「……ムリだ、ブラスターだって三人残ってるんだぞ。突っ込んだら防護フィールドの効果が……」
「ブラスターの連射は実弾銃ほどのスピードじゃない、半分は避けられる」
「ムリだ!」
ダインは頑なに繰り返し、首を振った。
「突っ込んでもミニガンにズタズタにされるだけだ。……残念だが、諦めよう。連中に勝ち誇られるくらいなら、ここでログアウトして……」
ニュートラル・フィールドでログアウトしても、すぐに消滅できるわけではない。魂の抜けた仮想体は数分間その場に残り、依然として攻撃の対象になり得る。アイテムや武装のランダムドロップも発生する。
今までも、リーダーとしては後退を指示するタイミングが早すぎるとは思っていたが、まさかこのような自暴自棄、いや子供の癇癪とでも言うべき提案を持ち出すとは予想できず、シノンは半ば呆然としてダインの、それだけ見れば歴戦の兵士然とした顔を凝視した。
途端、ダインは歯を剥き出し、喚いた。
「なんだよ、ゲームでマジになんなよ! どっちでも一緒だろうが、どうせ突っ込んでも無駄死にするだけ……」
「なら死ね!!」
反射的に、シノンは叫び返していた。
「せめてゲームの中でくらい、銃口に向かって死んでみせろ!」
これでこのスコードロンとも縁切れだなあ、と思いながら、ダインの、迷彩ジャケットの襟首を掴んで無理やり引っ張り上げた。同時に、目を丸くしている残り三人に向かって鋭く言う。
「三秒でいい、ミニガンの注意を引きつけてくれれば、私がライフルで始末する」
「……わ、わかった」
緑の髪をゴーグルに垂らしたアタッカーが、つっかえながらもどうにか応え、残り二人も頷いた。
「よし、一斉に出るぞ」
シノンは、不貞腐れた顔のダインの腰を押し、掩蔽物の端まで移動した。左腰からMP7を抜き、低い声でカウントする。
「3……2……1……、ゴウ!」
同時に思い切り地を蹴り、一秒先の死が連続して待ち受けるバトルフィールドに飛び出した。
途端、すぐ目の前を複数の着弾予測線が横切った。体を倒し、スライディングのように回避しながら、敵集団に視線を向ける。
すぐ二〇メートルほど先の壁の向こうに、レーザーブラスターが二人。左に離れてもう一人。ミニガンの男〈ベヒモス〉はさらにその一〇メートル後方、今は左に飛び出した二人を射線に収めようとしている。
シノンは横方向に走りながら、左手のMP7をブラスター使いに向けた。トリガーに力を込めると着弾予測円が表示されたが、さすがに照準が絞れず、男たちの体を大きくはみ出している。
それでも構わず発射した。ヘカートUに比べると無いに等しいリコイルを掌に感じながら、四・六ミリ弾の二〇連マガジンを一気を空にする。
無謀とも言える反撃に慌てたように、二人のブラスター使いは壁の向こうに引っ込もうとしたが、数発の弾丸がそれぞれの体を捉えた。HPを削りきるまでには至らなかったが、数秒の余裕はあるだろう。
「ダイン! 援護頼む!」
シノンは叫んで地面に身を投げ、同時に背中からヘカートUを外して両腕でホールドした。二脚を展開している時間はない。恐ろしい重みに耐えながら、スコープを覗く。
低倍率にセットしたままの視野に、ベヒモスの上半身がいっぱいに映し出された。その顔がまっすぐこちらを向くのを見て、予測円が収縮するのを待たずにシノンはトリガーを引き絞った。
轟音と共に必殺の閃光が空間を貫き――ベヒモスの頭のすぐ隣を通過した。衝撃でよろけたベヒモスの頭からゴーグルが吹き飛び、こなごなになって消滅した。
外した――!
唇を噛んで立ち上がろうとしたシノンと、スコープの中のベヒモスの視線が交錯した。素顔を晒したベヒモスは、灰色の両眼を爛々と光らせ、なおも唇に不敵な笑みを浮かべていた。
シノンの全身を巨大な赤い光が包み込んだ。
回避不可能、と一瞬で判断した。伏射姿勢から立ち上がり、左右どちらかにジャンプするだけの余裕はない。
せめて、銃口に向かって――。
自分の言葉を守るべく、シノンは体を起こしながらまっすぐにベヒモスの姿を見た。と、その巨体の数箇所に、ぱぱっ! と光が弾けた。
ダインだった。地面に体を伏せてSG550を構え、最大の命中精度を稼いで狙い打ったのだ。この状況、この距離で数発にせよ命中させるとは、人格はともかくさすがの腕だ、そう思いながらシノンは右方向に思い切り飛んだ。直後、今まで体のあったところを数十発に及ぶ弾丸の嵐が引き裂いた。
「ダイン! もっと右に移動して……」
そこまで叫んだ時。
再び掩蔽物から姿をあらわした二人のレーザーブラスター使いが、立ちあがりかけたダインに向かって容赦ない光の矢を浴びせた。
あまりに距離が近すぎた。ダインの防護フィールドを熱線が貫通し、その体に次々と突き立った。
ダインは一瞬シノンを見た。すぐに顔を正面に向け――
「うおっ!!」
一声叫んでまっすぐ走り始めた。
たちまち、光線の雨がダインを迎え撃った。それをかわし、掻い潜り、ダインは猛然とダッシュする。だが無論回避しきれはしない。
最後の数秒で、腰からお守りがわりの大型ハンドグレネードを引き抜き、ダインは掩蔽物の向こうに投げ込んだ。同時にその体が、無数のポリゴン片となって砕け散った。
閃光が世界を白く染めた。
巨神のハンマーが大地を撃ったような衝撃音。赤黒い焔が吹き上がり、盛大に土砂を撒き散らした。それに混じって、ブラスター使いの体がひとつ宙に舞い、地面に辿り着く前に粉砕・消滅した。
吹き付ける土煙から顔を逸らしながら、シノンは一瞬、戦場を見渡した。
左翼から突撃した二人のうち一人はミニガンにやられたらしいが、そちらにいたはずのブラスター使い一人も姿を消している。こちらはダインが自爆にも等しい攻撃で散り、敵前衛一人を道連れにして、もう一人もしばらくはスタン状態だろう。更に、爆炎が広がる前に一瞬、こちらに向かって接近しつつあるベヒモスが見えた。
つまり、あとはほぼベヒモスとシノンの一騎打ちだ。そしてこの距離で、重機関銃に対して狙撃銃では勝負にもならない。
どうにかしてミニガンの死角に入り、射撃体勢を取らなくてはならない。だが一対一の正面戦闘で死角も糞も……
シノンは一瞬息を詰めた。土煙が盛大に周囲を覆っている今なら、ベヒモスはこちらの姿を見失っている。むろんこちらからも見えないゆえ狙撃などできないが、このエリアに唯一存在する、あの銃弾の暴風が届かない地点に移動することはできるかもしれない。
くるりと後ろを向き、猛然と駆け出した。眼前には、ぼろぼろに崩れたビルディングの遺構がそびえている。
エントランスに飛び込むと、ビルの後ろ半分はすべて崩壊して黄色い空が覗いていたが、すぐ右手の壁際に目指すものがあった。床に積もった瓦礫を蹴り飛ばし、そこに向かう。
上へと続く階段も、そこかしこが抜け落ちている有様だったが、気にせず駆け上る。踊り場の壁を蹴り飛ばして方向転換し、さらに上へ。
二十秒足らずで五階まで登りつめると、そこで階段は終わっていた。すぐ左側に大きな窓があった。ここからなら、ピンポイント狙撃のための数秒を、ベヒモスに気付かれずに稼げるはず……、そう思いながら、シノンはヘカートUの銃床を肩に当て、一気に窓から身を乗り出した。
途端、視界が真っ赤に染まった。
十数メートル下の地面から、ベヒモスがミニガンを限界まで上向けて、まっすぐシノンを照準していた。読んでいたのだ――シノンの思考を、すべて。
後退する時間も、身を伏せる時間も無かった。
強い。本物のGGOプレイヤー、いやソルジャーだ。
だが、そういう相手、敵をこそシノンは求めてきたのだ。殺す。絶対に殺す。
シノンは躊躇しなかった。窓枠に右足を掛け、一気に身を躍らせた。
同時に、燃えるように輝くエネルギーの激流が地上から襲い掛かってきた。バシッ!! と凄まじい衝撃が、シノンの左足の膝から下を叩いた。感覚が麻痺し、HPバーが急激に減少した。
だが、生きていた。ミニガンの射線を飛び越え、シノンは宙を舞った。仁王立ちになったベヒモスの、まっすぐ上空へと。
弾倉が空になるまで撃ち尽くすつもりか、ベヒモスは体を後傾させ、射線でシノンを追った。だが、届かない。真上までは射角が取れない。
落下が始まると同時に、シノンはヘカートUを肩に当て、真下に向けてスコープを覗いた。
視野のすべてに、ベヒモスの掘りの深い顔が映し出された。その顔から、とうとう笑みが消えた。剥き出した歯を食いしばり、怒りと恐怖の混合燃料で燃える瞳をまっすぐシノンに向けていた。
シノンは、自分の口元が動くのを思考の片隅で意識した。笑っていた。獰猛で、残虐で、冷酷な笑み。
落下しながらの、姿勢も何もない射撃だったが、距離があまりにも近かった。ベヒモスの頭からわずか一メートルほどまで肉薄した時点で、着弾予測円がぐうっと収縮し、男の顔の中央に収斂した。
「――死ね」
呟くと同時に、シノンはトリガーを絞った。
まっすぐ垂直に、この世界に存在しうる、一弾での最大エネルギーを秘めた柱が屹立した。
それは、ベヒモスの顔から両足に至るまでに一瞬で孔をうがち、砂交じりの地面の奥深くまでを貫いた。
直後、爆発じみた衝撃音が轟き渡り、ベヒモスの巨体は円筒状に分解・拡散した。
第三章 右手の記憶
校門から出た途端、冷たく乾いた風が頬を叩き、詩乃《しの》は立ち止まって白いマフラーをきっちりと巻きなおした。
顔の半分を深く布に埋め、再び歩き出す。枯葉の積もった歩道を足早に進みながら、胸のなかで呟いた。
これで、高校三年間の総授業日数六〇八日のうち、一五六日が終了した。
ようやく四分の一。――そう思うと課せられた苦行のあまりの長さに呆然とする。いや、しかし、中学時代を計算に入れれば六割近くの日付けが過去へと消えていったことになる。いつかは終わる……いつかは、終わる。呪文のように、そう繰り返す。
もっとも、高校を卒業する日が来たとして、何かしたいこと、あるいはなりたいものがあるという訳ではない。ただ、今の自分が半ば強制的に所属させられている、この「高校生」という集団から解き放たれたい。
一体、毎日あの収容所めいた場所に通い、授業という名のたわ言を聞かされ、幼児期から何一つ内的に変化していないのではと疑いたくなる連中と並んで体操だの何だのすることにどのような意味があるのか、詩乃にはまるで理解できない。ごく例外的に、有為と思える講義をする教師もいるし、尊敬すべきところのある生徒もいるが、それらの存在が詩乃にとって必要不可欠というわけではまったくない。
現在の実質的保護者である祖父母に、高校には行かずにすぐに働くか、あるいは専門学校で就職のための訓練をしたい、と言ったとき、昔気質の祖父は真っ赤になって怒り、祖母は、詩乃にはいい学校に行ってちゃんとした家に嫁いで欲しい、そうでなければあんたのお父さんに申し訳が立たない、と泣いた。それで已む無く必死に勉強し、東京の、そこそこ名の通った都立高に合格したのだが、入ってみて驚いた。郷里の公立中学と、何ら本質的には変わるところが無かったからだ。
結局詩乃は、中学時代と同じように、毎日校門から出るたびに儀式のごとく残る日々を数えている。
詩乃がひとりで暮らすアパートは、学校とJRの駅の中間あたりに位置している。六畳に小さなキッチンだけの狭い部屋だが、商店街の端と接する場所にあり、買い物には都合がいい。
午後三時半のアーケード街には、まだそれほど人の姿は無かった。
詩乃はまず本屋の平台を覗き、好きな作家の新刊が出ているのを見つけたが、ハードカバーだったので我慢して店を出た。オンライン予約すれば、一ヶ月ほど待つが区立図書館で借りることができる。
次に文具店で消しゴムと方眼罫のノートを買い求め、財布の残金を確認してから、夕食の献立を考えつつアーケードの中央にあるスーパーマーケットに向かう。もっとも詩乃の晩餐は一汁一菜が基本で、栄養、カロリー、原価のバランスさえ満たせば味や見てくれは二の次となる。
にんじんとセロリのスープに、豆腐ハンバーグにしよう、と思いながら、ゲームセンターの前を通過してその隣のスーパーに入ろうとしたとき。
「朝田ぁー」
ふたつの店の間、細い路地から、詩乃を呼ぶ声がした。
ついビクリと体を竦ませてから、詩乃はゆっくりと九〇度右に向き直った。
路地には、詩乃と同じ制服――ただしスカートの丈に多大な差がある――に身を包んだ、三人の女子生徒の姿があった。一人はしゃがみ込んで携帯端末を操作し、二人がスーパーの壁に体をもたれさせて、笑みを浮かべて詩乃を見ていた。
無言のままでいると、立っているうちの一人が、薄い茶色の髪いじりながら顎を振った。
「こっち来いよ」
だが詩乃は動かず、小さい声で言った。
「……なに?」
途端、もう一人が数歩あゆみよってきて、詩乃の右手首を掴んだ。
「いいから来いよ」
そのまま、強引に引っ張られる。
商店街からは見えにくい、路地の奥方向に押しやられた詩乃を、しゃがんでいた生徒が見上げた。この三人のリーダー格の、遠藤という女だ。つり上がった細い目と、尖ったあごが、ある種の捕食昆虫めいた印象を与える。
ラメの入ったパープルに光る唇をゆがめ、笑いながら遠藤は言った。
「わり、朝田。あたしらゲーセンで遊んでたらさぁ、電車代無くなっちゃった。明日返すからさ、こんだけ貸して」
指を一本立てる。百円でも千円でもなく一万円という意味だ。
遊んでたもなにもまだ授業が終わってから二十分と経っておらず、電車代もなにも三人ともに定期券を持っていて、更に電車に乗るだけでなぜ一万もかかるのか、と、詩乃は心の中で立て続けに論理的矛盾点を列挙したが、それを指摘してどうなるものでもない。
この三人に、あからさまに金銭を要求されるのは二回目だった。前回は、持ち合わせが無いと言って断った。
同じ手が通用する確率は低い、と思いながら、詩乃は答えた。
「そんなに持ってるわけない」
すると遠藤は一瞬笑みを消し、再びにこっと微笑んだ。
「じゃ、下ろしてきて」
「…………」
詩乃は無言でアーケード街に向かって歩き出そうとした。人目のある銀行まではついてこないだろうし、この場から離脱できれば誰がバカ正直に戻ってくるものか――と思ったその時、遠藤が言葉を続けた。
「鞄、置いてって。財布も。カードだけあればOKっしょ」
詩乃は立ち止まり、振り返った。遠藤の唇は変わらず笑みを形づくっているが、その細い目には、獲物を弄ることに興奮する猫のような光が浮かんでいる。
この三人を、一時にせよ友達と信じたのだ。そう思うと、詩乃は己の愚かしさが許せなくなる。
高校入学直後、地方から出てきたばかりで当然知り合いも居らず、共通の話題もなく毎日黙っているだけだった詩乃に、最初に声を掛けてきたのが遠藤たちだった。
一緒に昼食をと誘われ、やがて学校の帰りに四人でファーストフード店に寄ったりするようになった。詩乃は主に話を聞くだけで、ひそかに彼女らの話題に閉口することもあったが、それでも嬉しかった。なぜなら遠藤たちは、久々に得た、「あの事件」を知らない友達だったから。この学校でなら普通の生徒になれる、そう思えたから。
三人が、クラス名簿の住所から、詩乃が一人暮らしだと当たりをつけて近づいてきたのだということに気付いたのはずっと後になってからだった。
遊びに行っていい? と言われたとき、詩乃はすぐに了承した。アパートの部屋を遠藤たちは褒め、羨ましがり、暗くなるまでお菓子を囲んで話こんだ。
彼女らは、翌日も、翌々日も詩乃の部屋にやってきた。
やがて、三人は詩乃の部屋で私服に着替え、電車で遊びに行くようになった。そんなとき、詩乃の部屋には彼女らの荷物が残され、そのうちに三人の私服が小さなクローゼットを占めはじめた。
化粧品、雑誌、遠藤たちの私物はどんどん増えていった。五月に入るころには、遊びにいった三人が酔って帰ってきて、そのまま泊まっていくようなこともあった。
あるとき、とうとう詩乃は、あまり毎日来られると、勉強ができなくて困る、と恐る恐る言った。
遠藤の答えは、「友達っしょ」の一言だった。翌日、合鍵を要求された。
そして、五月末の土曜日のこと。
図書館から帰宅した詩乃がドアの前に立つと、部屋の中から盛大な笑い声が聞こえた。遠藤たちの声だけではなかった。
詩乃は息を殺し、耳を澄ませた。自分の部屋の様子をうかがう行為が、とてつもなくやるせなかった。
明らかに、複数の男の声がした。
自分の部屋に、知らない男がいる。そう思うと、詩乃は恐怖で竦んだ。次いで怒りが湧き起こった。ようやく真実を悟った。
アパートの階段を降り、携帯電話で警察を呼んだ。やってきた警官は、双方の言い分に戸惑ったようだったが、詩乃はひたすら、知らない人たちです、と繰り返した。
とりあえず交番に行こう、と警官に言われた遠藤は、凄まじい目で詩乃を見てから、「ふうん、そっか」とひとこと言い残し、荷物をまとめて部屋を出て行った。
報復は速やかだった。
遠藤は、普段の彼女からは考えられない悪魔のごとき調査能力で、詩乃が一人で暮らしている理由、遠く離れた県で五年前に起こった「事件」のことを調べ上げ、全校に暴露した。詩乃に話し掛ける生徒は一切いなくなり、教師ですら直視を避けた。
何もかもが、中学時代に逆戻りだった。
だが詩乃は、それでいい、と思った。
友達を欲しがるような自分の弱さが、目を曇らせた。己を救えるのは己しかいない。自分の力だけで強くなり、事件の残した傷を乗り越えなければならない。その為には、友達なんかいらない。むしろ敵でいい。戦うべき敵――周囲の全てが、敵。
ぐっと息を止め、詩乃はまっすぐ遠藤の目を見た。つり上がったその目に、剣呑な光が宿る。笑みを消し、低い声で遠藤が言った。
「んだよ。――早く行けよ」
「嫌」
「……は?」
「嫌。あなたにお金を貸す気はない」
視線を逸らさず、詩乃は答えた。
断固とした拒絶は、更なる敵意と害意を呼び起こすだろう、とわかっていても、要求に従うのはもちろん、曖昧な態度を取って逃げることさえしたくなかった。遠藤らにではなく、自分に「弱い自分」を見せるのが嫌だった。強くなりたい、それだけを考えてこの五年間を過ごしてきたのだ。ここで挫ければ、その努力が無駄になる。
「手前ェ……ナメてんじゃねえぞ」
右目の端をぴくぴくと引き攣らせ、遠藤が一歩踏み出してきた。残る二人は詩乃の後ろにまわり、至近距離から取り囲まれる。
「――もう行くから、そこをどいて」
詩乃は低い声で言った。たとえどれほどキレたポーズを作ろうと、遠藤たちに実際の行動に出る度胸は無いと踏んでいた。彼女らも、家に帰ればそれなりに普通のいい子なのだ。警察沙汰になるのは、以前の一回で懲りているはずだ。
――だが。
遠藤は、詩乃の弱点――どこを刺激すれば、容易く血が流れるか、そのポイントを熟知していた。
フッ、と、悪趣味な色に光る唇に嘲るような笑みが浮かんだ。
遠藤は、ゆっくりとした動作で右拳を持ち上げ、詩乃の顔に突きつけた。拳から、人差し指と親指が伸びて、子供が拳銃を模すときの形を作る。他愛ない、幼稚なカリカチュア。
しかし、それだけで詩乃の全身をすうっと冷気が包んだ。
両脚から徐々に力が抜けていく。平衡感覚が遠ざかる。目の前に擬された遠藤の指先、長い爪が白いエナメルで光るその尖端から、目が離せなくなる。鼓動の加速に伴い、高周波のような耳鳴りが思考能力を奪っていく。
「ばぁん!」
いきなり遠藤が言った。その途端、詩乃の喉の奥から細く高い声が漏れた。体の奥から震えがこみ上げてきて、止めることができない。
「クッフ……、なぁ、朝田ぁ」
指先を突きつけたまま、遠藤が笑いの混じる声で言った。
「兄貴がさぁ、モデルガンいっぱい持ってるんだよなぁ。今度借りて、学校持ってってやろうか。お前好きだろ、ピストル」
「…………」
舌が動かない。口の中から水気がなくなり、ぴたりと口蓋に貼りついてしまったかのようだ。
詩乃は、小さく首を振った。学校でいきなり拳銃など見せられたら、どのような恐慌を来たしてしまうか想像もつかない。ぎゅっと胃が収縮し、たまらずに体を折る。
「おいおい、ゲロるなよ朝田ぁー」
後ろから、やはり笑いに塗れた声がした。
「いつだか社会の時間にアンタがゲロって倒れたとき、後すげえ大変だったんだぞぉ」
「ま、ここならよく酔っ払いの親父がやってるけどさぁ」
甲高い笑い声が湧き起こる。
逃げたい。走って逃げ去りたい。でもそんなことできない。相反する二つの声が、頭の中でがんがんとこだまする。
「とりあえず、今持ってるだけで許してやるよ、朝田。具合悪いみたいだしさぁ」
右手に持った鞄に、遠藤が手を伸ばしてきたが、とても抵抗できなかった。考えちゃいけない、思い出しちゃいけない、そう思うほどに、記憶のスクリーンに黒い輝きが甦ってくる。ずしりと重く、じっとりと濡れて生暖かい鉄の感触。つんと鼻をつく火薬の匂い――
その時、背後から叫び声がした。
「こっちです! お巡りさん、早く!!」
若い男の声だった。
途端、鞄から遠藤の手が離れた。三人はもの凄い速さで前方に駆け出し、アーケードの人波に紛れて消え去った。
今度こそ脚から力が抜け、詩乃は崩れるようにうずくまった。
必死に呼吸を繰り返し、波打つ思考をフラットに戻そうとする。徐々に、周囲の喧騒や、スーパーの店頭から流れる焼き鳥の匂いが戻ってきて、フラッシュバックしかけた悪夢を遠ざけていく。
何分間、そうしていただろうか。やがて背後から、おずおずとした声が掛けられた。
「……大丈夫、朝田さん?」
最後に大きく呼吸をして、詩乃は立ち上がった。
振り向くと、立っていたのは背の低い、痩せた少年だった。ジーンズにパーカー姿、肩にデイパックを下げている。やや伸びすぎの前髪の下、睫毛の長い目には気遣わしそうな光が浮かんでいる。薄く、高い鼻梁と細い顎の線は、整った顔立ちといえないことも無いが、肌の色が青白いほどに薄く、どこか病的な印象がつきまとう。
詩乃は、少年の名前を知っていた。この街で唯一気を許せる――少なくとも敵ではない存在であり、ここではないもうひとつの世界では戦友と言っていい間柄だ。
ようやく動悸が収まったのを感じながら、詩乃はごくわずかに微笑み、答えた。
「……大丈夫。ありがとう、新川くん。――警官は?」
背後を覗き込むが、薄暗い路地は無人のままで、誰かが現れる様子はない。
新川恭二《しんかわきょうじ》は、頭をかきながら笑った。
「出任せだよ。よくドラマや漫画であるじゃない。一度やってみたかったんだ、上手くいってよかった」
「…………」
詩乃は少々呆れて、短く首を振った。
「……君によくそんな真似が出来たね。どうしてここに?」
「ああ、そこのゲーセンにいたんだ。裏口から出てきたら……」
恭二は背後を振り返った。路地に面した、灰色のコンクリート壁に、小さな銀色のドアが見える。
「あいつらが朝田さんを取り囲んでたからさ。ほんとに一一〇番しようかとも思ったんだけど……」
「とりあえず、助かったよ。有難う」
再び詩乃が微笑むと、恭二も一瞬笑みを見せ、すぐに心配そうな表情に戻った。
「……朝田さん、こんなこと……よくあるの? その……僕が言うのも何だけどさ、ちゃんと学校とかに報告したほうが……」
「アテにならないよ、そんなことしても。大丈夫、これ以上エスカレートするようなことがあったらほんとに警察行くから。それに、人の心配するよりも、君のほうは……大丈夫なの?」
「ああ……、僕は、もう。奴らとは顔も合わせないしさ」
小柄な少年は、今度はやや自嘲ぎみに笑った。
新川恭二は、夏休み前まで詩乃のクラスメートだった。だった、と言うのは、二学期以降学校に来ていないからだ。
噂で聞いた程度なのだが、恭二は、所属したサッカー部で上級生からかなり酷いいじめにあっていたらしい。体格が小さく、また家が大きい医院を経営しているということで、格好の標的と見られたのだろうか。金銭の要求も、遠藤たちほどあからさまではないにせよ飲食や遊興代の建て替え払いなどの形で、馬鹿にならない額の被害があったようだ。
もっとも、恭二から直接その話を聞いたことはない。
知り合ったのは六月、近所の区立図書館でのことだった。
詩乃は二階の閲覧室で、「世界の銃器」なるタイトルの、大判のグラフ誌をめくっていた。その頃は、写真であればどうにか発作めいた反応は起こさないようになっていたものの、それでも、「あの銃」が掲載されたページを十秒ほど眺めたところで限界に達し、慌てて本を閉じた――その瞬間、背後から声を掛けられたのだった。
「……銃、好きなんですか?」
という言葉を発したのが、同じクラスの生徒だということにはすぐに気付いた。詩乃は即座にとんでもない、その逆だ、と答えようとしたが、ならばなぜそんな本を見ていたのかという疑問を当然相手は抱くだろうし、それに対する合理的回答をでっち上げるのも難しそうだったので、曖昧に言葉を濁して頷いた。
今では恭二も、詩乃が現実世界では銃に対する極度の恐怖を抱いていることを知っているが、当時は素直に詩乃の言葉を信じ、嬉しそうに笑いながら隣の椅子に座った。
彼が開陳する銃器の知識を、詩乃は内心で冷や汗を滝のように流しながら聞いたものだが、そんな中、恭二がちらりと触れた「別世界」の話が詩乃の興味を引いた。
世界の名は、〈ガンゲイル・オンライン〉。現実世界に存在するあまたの銃器が精密に再現され、それらを帯びたプレイヤーたちが互いに殺しあう凄惨な荒野――。
その場所でなら、もう二度と現実では遭遇することはないであろう「あの銃」と、再び向き合うことができるのだろうか、と詩乃は考えた。これは導きなのだろうか、と。五年を経て十六歳となったいま、正面からあの記憶と向き合い、克服するためのきっかけとなるのだろうか――。
あれから半年。
詩乃の中に生まれた〈シノン〉という名前の少女は、冷酷なる狙撃手として荒野に名を轟かせている。
だが、現実の自分、この朝田詩乃は、ほんとうに強くなっているのだろうか……?
詩乃にはわからない。その答えはまだ見えない。
「ね、何か飲まない? オゴるからさ」
恭二の声が、詩乃を内的思考から引き戻した。顔を上げると、細い路地に差し込む陽光はすでに赤みを帯びはじめていた。
「……ほんと?」
詩乃が微笑むと、恭二は嬉しそうにこくこくと頷いた。
「このあいだの大暴れの話、聞かせてよ。ここの裏通りに、静かな喫茶店があるんだ」
案内された店の奥まった席に体をうずめ、いい香りのするミルクティーのカップを両手で包むと、ようやく少し気持ちが落ち着いた。どうせまた遠藤たちはちょっかいを出してくるだろうが、その時はその時だと懸念を心の隅に押しやる。
「聞いたよ、一昨日の話。大活躍だったんだって?」
恭二の声に顔を上げると、痩せた少年はコーヒーに浮かぶバニラアイスの半球をスプーンで突付きながらやや上目遣いに詩乃を見ていた。
「……そんなことないよ。作戦的には失敗だったわ。こっちのスコードロンは六人中四人もやられたんだから。待ち伏せで襲ってその結果じゃあ、とても勝ったとは言えない」
肩をすくめて答える。現実世界で本物の銃器のことを想起するのは容易くパニックの引き金となるが、GGO内部の話であればこの頃はどうにか平常心を保てるようになっている。
「でも、凄いよ。あのM134使いの〈ベヒモス〉は、今までパーティー戦で死んだことが無いって言われてたんだからさ」
「へえ……。そんな有名な人なんだ。バレット・オブ・バレッツのランキングに名前が無いから知らなかった」
「そりゃあそうさ。いくらミニガンが強力って言っても、弾を五〇〇も持てば重量オーバーで走れないんだ。BoBはソロの遭遇戦だから、あの武器じゃ勝てないよ。その分、集団戦で充分な支援があれば無敵だけどね。反則だよ、あんな武器」
子供のように口を尖らせる恭二の仕草に、詩乃は思わず微笑む。
「……それなら、私のヘカートUだって充分反則って言われてるよ。使うほうにしてみれば、それなりに色々苦労はあるんだけどね。きっとあのベヒモスさんだってそう思ってるよ」
「ちぇ、ゼイタクな悩みだなあ。……で、次のBoBはどうするの?」
「出るよ、勿論。前回二〇位までに入ったプレイヤーのデータは殆ど揃ったからね。今度はヘカートを持っていくつもり。次こそは、全員……」
殺す、と言いそうになり、慌てて誤魔化す。
「……上位入賞を狙ってみるよ」
詩乃/シノンは、秋口に行われた第二回GGO最強者決定バトルロイヤル戦、大会名称バレット・オブ・バレッツに参加し、予選を突破して三十人で行われる本大会に進んだものの、二十二位という結果に終わっていた。広大なマップに三十人がランダムに配置されてスタートするBoBでは、いきなり近距離からの戦闘に巻き込まれる可能性があったので、狙撃ライフルであるヘカートUではなくアサルトライフルのステアー−AUGを装備していったのだが、逆に近接戦闘中をレミントン−M40を装備したスナイパーに遠距離から狙われてしまったのだ。
あれから二ヶ月、じゃじゃ馬もいいところである「彼女」の扱いにも大分慣れ、またレアな軽量短機関銃のMP7を入手したことで近接戦闘にもある程度対応できるようになったので、もうすぐ行われる第三回BoBではあの巨大なライフルを背負って参加しようと思っている。基本的には掩蔽物に身を潜め、卑怯といわれようとひたすらターゲットが視界内に現れるのを待って、一人残らず吹き飛ばすつもりだ。
強力な戦士のひしめくGGOで、敵を全て撃ち倒し、己が最強であると確信できれば――その時には――その時には、きっと……
昏い思考を彷徨わせる詩乃の耳に、恭二の慨嘆めいた声が届き、意識が現実に引き戻された。
「そっかぁ……」
まばたきして視線を向けると、恭二はどこか眩しそうに目を細め、詩乃を見ていた。
「凄いな、朝田さんは。あんな物凄い銃を手に入れて……ステータスも、誂えたみたいにSTR優先だったしさ。僕がGGOに誘ったのに、すっかり置いていかれちゃったな」
「……そんなことないよ。新川君だって、前の予選じゃあ準決勝まで進んだじゃない。あの勝負はもう運次第だったよ。惜しかったよね、決勝まで行けば本大会には出られたのに」
「いや……ダメさ。AGI型じゃあ、レア運ないともう限界だよ。ステ振り、間違ったなぁ……」
愚痴めいた恭二の口調に、ごくごくかすかに眉をしかめる。
恭二の分身である〈シュピーゲル〉は、GGO初期の時流に即したAGI、つまり敏捷力パラメータをひたすら上げたタイプだ。この型は、レベル中盤くらいまでは圧倒的な回避力と速射力――この場合の「速射」は銃自体の発射速度ではなく、照準してから着弾予測円が収縮・安定するまでの時間だ――によって他タイプのキャラクターを圧倒したものの、ゲームが進行するに従って登場した強力な銃を装備するためのSTRつまり筋力値に事欠き、また銃自体の命中精度が向上することによって回避も思うようにいかなくなって、ゲーム開始から八ヶ月が経過する現在ではとても主流とは言えなくなっている。
それでも、速射力がものを言う大口径の強力なライフル、FN−FALやH&K−G3などのレア銃を入手できればまだまだ一線で通用するし、現実に前回BoBで二位に入った〈闇風〉というプレイヤーはAGI一極型だった。――とは言え、彼を破った優勝者〈ゼクシード〉はSTR−VITのバランスタイプであったのもまた事実なのだが。
しかし――。
詩乃に言わせれば、ステータスタイプなどと言うモノは、あくまで「キャラクターの強さ」であって、それよりも重要なファクターが厳然として存在する。それはプレイヤーの強さだ。心の強さ。一昨日戦った〈ベヒモス〉が、常に冷静沈着に戦況を分析し、その上で片頬に笑みを浮かべるだけの余裕を見せたように。かの男の強さの源はM134ミニガンではなく、あの獰猛な笑みそのものだった。
だから、詩乃としては恭二の言い方には少々引っかからざるを得ない。
「うーん……。確かにレア銃は強いけどさ……。強い人の中にはレアな武器装備してる人もいる、ってだけで、レア持ってる人が全員強いわけじゃないよ。実際、前の本大会に出た三十人のうち半分くらいは、店売りのカスタム武器装備だったよ」
「それは……朝田さんがあんな超レア武器持ってて、その上STR−AGI−VITのバランス型だからそう言えるんだよ。やっぱ武装の差は大きいよ……」
ため息をつきつつアイスクリームをつつき回す恭二を見ながら、これ以上は何を言っても無駄だと思い、詩乃は会話を収束させようとした。
「じゃあ、新川君は次のBoBにはエントリーしないの?」
「……うん。出ても、無駄だからさ」
「そう……。ん……まあ、勉強もあるもんね。予備校の大検コース、行ってるんでしょ? 模試とかどう?」
恭二は、夏休み以来不登校を続けており、その件では、大きな病院の院長である父親と相当やりあったらしい。結局、大学入学資格検定を受けて、父親の出た大学の医学部受験を目指す、という線で落ち着いたと以前聞いた。
「あ……うん」
恭二はこくんと頷き、笑った。
「大丈夫、順位は学校行ってたころを維持してるよ。問題ありません、サー」
「よろしい」
冗談めかして答え、詩乃も微笑んだ。
「新川君のログイン時間、すっごいからさ。ちょっと心配だったんだよ。いつ入っても居るんだもん」
「昼間はちゃんと勉強してるよ。メリハリが大事なんだよ」
「あんだけ潜ってれば、随分稼いでるんじゃないのー?」
「……そんなこと、無いって。AGI型じゃあもうソロ狩りは無理だしさ……」
また会話の雲行きが怪しくなってきたので、詩乃は慌てて口を挟んだ。
「まあ、接続料さえ稼げればじゅうぶんだよね。……ごめん、私、そろそろ帰らないと」
「あ、そっか。朝田さんはご飯も自分で作ってるんだもんね。また今度、ご馳走になりたいな」
「あ、う、うん、いいよ。そのうち……もうちょっと腕が上がったらね」
詩乃は再び慌てる。
一度だけ、恭二を自宅に招いて自作の夕食を振舞ったことがあった。食事そのものは楽しかったのだが、テーブルに向かい合って食後のお茶を飲んでいるうちにだんだん恭二の目つきが熱っぽくなってきて、いささか冷や汗をかいたものだ。超のつくネットゲーマーかつ銃器マニアであっても、男の子は男の子であり、一人暮らしの自宅に招待したのは少々軽率だったと反省した。
恭二のことは嫌いではない。彼との会話は、現実世界では詩乃がほっとできるごくごくわずかな瞬間のひとつだ。しかし今は、それ以上のことは考えられない。自分の心の奥底を黒く塗りつぶす、あの記憶に打ち勝つまでは。
「ごちそうさま。それに――有難う、助けてくれて。かっこよかったよ」
立ち上がりながら詩乃が言うと、恭二は相好を崩して頭を掻いた。
「いつでも、守ってあげられればいいんだけど。その……あのさ、学校の帰りとか、迎えに……いこうか?」
「う、ううん、大丈夫。私も、強くならないと、だからさ」
答え、詩乃が笑うと、恭二は再び眩しそうに、少しまぶたを伏せた。
長年に渡って染み込んだ雨水によって斑な薄墨色になっているコンクリートの階段を登ると、二つめのドアが詩乃の部屋だ。スカートのポケットから鍵を取り出し、旧式のピンシリンダー錠に差し込んで半回転させると、がちんという重い金属音が冷たく響いた。
ひんやり薄暗い玄関に入り、後ろ手にドアを閉める。
ロックノブを回し、チェーンを掛けてから、詩乃は無声音でそっと、ただいま、と呟いた。
ドアマットを敷いた上り框から、細長いスペースが三メートルほど伸びている。右側にユニットバスのドア、左側にキッチンシンク。スーパーで買ってきた野菜と豆腐、鶏のひき肉などをシンク横の冷蔵庫に収めて、奥の六畳一間に入ると、詩乃はようやく、ほうっと深く息をついて体の力を抜いた。カーテンを透かして入り込む最後の残照を頼りに壁のスイッチに触れ、照明を点ける。
飾り気のある部屋ではない。フローリング風のクッションタイル張りの床、カーテンはアイボリーの無地。右手の壁に面して置かれた黒のパイプベッドと、その奥に並ぶ同じくマットブラックのライティングデスク、反対側の壁際に据えられた小振りのチェストと書棚、姿見だけが主だった調度だ。
通学鞄を床に置き、白のマフラーをほどく。オーバーを脱いでハンガーに掛け、マフラーと一緒に造り付けの狭いクローゼットの中へ。黒に近い色のセーラー服から光沢のあるダークグリーンのスカーフを引き抜き、左脇のジッパーを下ろしたところで――詩乃は手を止め、ライティングデスクに視線を向けた。
今日の放課後はなかなかに波乱含みだったが、遠藤たちの恐喝行為に正面から立ち向かえたことがわずかな自信を胸の奥に残していた。パニックに陥りかけたのも事実だが、それでも逃げ出すにいられた。
それに二日前、GGO内で、強力な敵を死闘のすえに撃破したことも、一際強い火力で心を鍛えてくれたような気がした。
あのベヒモスという男は、パーティー戦では無敵だったのだと、新川恭二が教えてくれた。たしかに、そう言われれば頷けるだけの、すさまじいプレッシャーだった。戦闘中、詩乃/シノンは何度となく敗北、死を覚悟したものの、なお立ち上がって最後には勝利を力ずくでもぎ取った――
もしかしたら……。
もしかしたら、今ならば、あの記憶と向き合い、ねじ伏せることができるかも、しれない。
詩乃は動きを止めたまま、じっとデスクの抽斗を見詰めつづけた。数十秒後、右手に持ったままだったスカーフをベッドの上に放り投げて、デスクに歩み寄った。
数回、深く呼吸して、背骨のまわりを這いまわる怯えの虫を追い払う。
三段目の抽斗の取っ手に指をかけ――一気に引き開けた。
中には、筆記用具などを分類して収めた小さなボックスが並び、その一番奥に、暗闇を結晶させたかのような黒い輝きを纏って「それ」が横たわっていた。
拳銃。もちろん本物ではなく、プラスチック製のモデルガンだ。だが造りは非常に精緻で、細いヘアラインの走る表面仕上げなどは金属にしか見えない。
その姿を見ただけで、加速し始めた動悸を抑えこもうとしながら、詩乃は右手を伸ばして、そっとその銃のグリップを握り、持ち上げた。ずしりと重く、部屋の冷気を吸って凍るようにつめたい。
このモデルガンは、現実世界に存在する銃のコピーではない。グリップはエルゴノミクス的曲線で構成され、大型のトリガーガードのすぐ上部に大径の銃口が突き出ている。ブルパップ式とでも言うのか、放熱孔の開いた無骨な機関部はグリップのやや後方上部に位置している。
銃の名はプロキオンV、ガンゲイル・オンラインに登場する光学銃だ。カテゴリー的にはハンドガンながらもフルオート射撃モードを有し、対モンスター戦闘用のサブアームとして人気が高い。
シノンも街の保管ルームに一丁所持しているが、現実の詩乃が持つこれは自分で購入したわけではない。そもそも売っているものではないらしい。
二ヵ月前のバレット・オブ・バレッツ本大会に出場し、二十五位に破れてから数日後、詩乃のゲームアカウント宛にGGOの運営体であるザスカーなる企業から英文のメールが届いた。どうやら、参加賞品として、ゲーム内で賞金もしくはアイテムを受け取るか、現実世界でプロキオンVのモデルガンを受け取るか選択せよ、という内容のようだった。
現実で模型とはいえ銃などが送られてきては堪らない、と即座にゲーム内での賞金を選ぼうと思ったのだが、そこで詩乃はふと手を止めた。
GGOにおける「荒療治」の結果を確認するには、いつか現実で模型の銃に触ってみる必要がある、とは以前から考えていた。かと言って、玩具店等に赴いてモデルガンを購入するのは心理的ハードルが多すぎるし、恭二に頼めば嬉々として貸してくれるだろうが受け取ったその場で発作を起こす可能性を考えるとそれもためらわれた。ネット通販が一番現実的だったが、オンラインショップで銃の画像をあれこれ見るのでさえ気が重く、実行に移せないでいたのだ。もちろん、金銭的な問題もあるにはあった。
GGO運営企業が、無料でモデルガンを送ってくれるというなら、あるいは好都合なのかもしれない――と、それでも期限ぎりぎりまで三日間悩んだ挙句、詩乃は現実で参加賞を受け取ることを選択したのだった。
一週間後、ずしっと重い国際小包が届いた。
開封するのに、更に二週間を要した。
そのとき引き起こされた反応は予想以上に酷いもので、詩乃はそれを机の抽斗の奥深くに押し込み、存在の記憶すら頭の片隅に押しやってきたのだ。
そして今――詩乃は再び、それを手に取っている。
銃の冷気が、右の掌から二の腕、肩を伝わって、からだの奥底まで沁み通ってくるようだ。模型のはずなのに、途方もなく重い。シノンなら指先で軽々と振り回すはずのハンドガンが、詩乃には鎖で地面に引っ張られているかのように思える。
掌から体温が奪われていくにつれ、銃は逆に熱を帯びていくように感じられる。冷や汗で湿ったその生暖かさの中に、詩乃は他人の体温を感じる。
誰の? それは……あの……男の……
最早鼓動は抑えようもなく加速され、ごうごうと音を立てて冷たい血が全身を駆け巡る。見当識が低下していく。足元の床が、ゆっくり傾きはじめる。
しかし、詩乃は銃の黒い輝きから目を離せない。至近距離から食い入るように覗き込む。その表面に、ぼんやりと誰かの影。
きいんと高い耳鳴りがする。それはやがて、甲高い絶叫に変化する。幼い少女の、純粋な恐怖に塗れた叫び声。
悲鳴を上げているのは、誰?
それは…………わたし。
詩乃は、父親の顔を知らない。
現実の存在としての、父親の記憶が無いという意味ではない。単純に、写真においてすら父親なる人物を見たことが無いのだ。
父親が事故で亡くなったのは詩乃が二歳の時だと、祖父母に聞かされた。
その日、父親と母親、詩乃の親子三人は、年末を母方の実家で過ごすため、自動車で東北のとある県境、山の側面に沿って伸びる片側一車線の県道を走っていた。東京を出るのが遅れ、時刻は夜十一時を回っていたそうだ。
スリップ痕から、カーブを曲がりきれず対向車線に膨らんできたトラックの速度超過が事故の原因だと断定されている。
衝突の勢いで、トラックの運転手はウインドウを突き破って路面に投げ出されほぼ即死。右側面を直撃された一家の車はガードレールを越えて山の斜面に転落し、二本の樹に引っかかって停止した。その時点では、運転していた父親は意識不明の重傷ではあったものの死には至らず、助手席の母親も左大腿の単純骨折のみ、後部座席のチャイルドシートでしっかりとベルトをかけられていた二歳の詩乃はほぼ無傷だった。しかし、その時の記憶は一欠片も残っていない。
不運だったのは、その道が地元でもほとんど使用されておらず、特に深夜ともなればまったく往来が途絶え、また事故の衝撃で父親が持っていた携帯電話が破損したことだった。
翌早朝、県道を通りがかったドライバーが事故に気付いて通報するまで、六時間にも渡って詩乃の母親は、内出血によってゆっくりと冷たい死に至っていく父親を隣でただ見ていることしかできなかった。その時、母親の心のどこか奥の部分が、少しだけ壊れてしまったのだった。
事故後、母親の時間は、父親と知り合う以前、十代の頃まで巻き戻ってしまったかのようだった。母子は東京の家を出て母親の実家に身を寄せたのだが、母親は父親の遺品、ことに写真はほぼ全てを処分し、一切思い出を語ろうとはしなかった。
母親は、ただただ平穏と静寂のみを愛する、鄙の少女の如き生活を送るようになった。詩乃のことをどう認識しているのかは、十四年が経つ現在でもはっきりとはわからない。あるいは妹のように思っているのかもしれないが、それでも、幸い母親は事故後も変わらず詩乃を深く愛してくれた。毎夜絵本を読み、子守唄をうたってくれたのを覚えている。
だから、詩乃の記憶にある母親はすべて、儚く、傷つきやすい少女のような姿だ。自然、物心つくにつれ、詩乃は自分がしっかりしなければ、と思うようになった。自分が、母親を守らなければ、と。
祖父母の外出中、しつこい訪問販売の男が玄関に居座って、母親が途方に暮れていたとき、毅然と、出て行かないと警察を呼ぶ、と言って追い返したのは九歳の時だ。
詩乃にとって、外の世界は常に、母親との静かな生活を脅かす要素に満ちた存在だった。守らなければ、守らなければ、とそれだけを考えていた。
だから――詩乃は思うのだ。あの事件が起きたのは、ある意味では必然だったと。現れるべくして現れた、外世界の悪意の凝集だったのではないかと。
十一歳、小学五年生になった詩乃は、あまり外で遊ばず、学校からまっすぐ帰ってきて、図書館で借りた本を読むのを好む子供だった。成績は良かったが友達は少なかった。弱者を傷つけようとする存在に異常に敏感で、クラスで子供っぽいいじめ行為をしていた男子三人と口論の末喧嘩になり、双方血を見たこともあった。
二学期に入ってすぐの、ある土曜日の午後。
詩乃と母親は、連れ立って近所の小さな郵便局に出かけた。客は、他には一人もいなかった。
母親が窓口に書類を出している間、詩乃は局内のベンチに腰掛け、足をぶらぶらさせながら持参した本を読んでいた。タイトルは覚えていない。
キィ、とドアが鳴る音がして顔を上げると、新しい客が一人入ってきたところだった。灰色っぽい服装で、片手にボストンバッグを下げた、痩せた中年の男だった。
男は入り口で足を止め、局内をぐるりと見回した。詩乃と、一瞬目が合った。瞳の色が妙だな、と思った。黄ばんだ白目の中央に、深い穴のように真っ黒な瞳がせわしなく動きながら張り付いていた。今にして思えば、あれは瞳孔が異常に拡張していたのだろう。男が、郵便局に現れる直前に覚醒剤を注射していたのがその後判明している。
詩乃がいぶかしむ間もなく、男は足早に窓口へと向かった。
「振替・貯蓄」の窓口で、何かの手続きをしていた詩乃の母親の右腕を、男はいきなり掴んで引っ張った。そのまま左手で烈しく突き飛ばす。母親は声も無く詩乃の座る椅子の近くに倒れこみ、ショックのあまり目を見開いて凍りついた。
詩乃は咄嗟に立ち上がっていた。愛する母親が受けた理不尽な暴力に、大声で抗議しようとした、その時。
男はカウンターにどさっとボストンバッグを置き、中から何か黒いものをつかみ出した。拳銃だとわかったのは、男がそれを右手で窓口にいた男性局員に突きつけたときだった。ピストル――おもちゃ――いや本物――強盗――!? と、いくつもの単語が詩乃の意識を横切った。
「この鞄に、金を入れろ!」
男が、嗄れた声で喚いた。すぐさま続けて、
「両手を机の上に出せ! ボタンを押すな! お前らも動くな!!」
拳銃を左右に動かし、奥にいた数人の局員を牽制する。
今すぐ局から走り出て、外に助けを呼ぶべきか、と詩乃は考えた。しかし床に倒れたままの母親を残していくわけには行かなかった。
躊躇しているうちに、男が再び叫んだ。
「早く金を入れろ!! あるだけ全部だ!! 早くしろ!!」
窓口の男性局員が、顔を強張らせながらも、右手で五センチほどの厚さの札束を差し出した――
その瞬間だった。
局内の空気が、一瞬膨らんだような気がした。両耳がジンと痺れ、それが高い破裂音のせいだと気付くのには時間がかかった。キン、と鋭い金属音が響き、何かが壁に跳ね返されて詩乃の足元に転がってきた。金色の、細い金属の筒だった。
再び顔を上げると、カウンターの向こうで、男性局員が目を丸くして胸元を両手で押さえていた。ネクタイの下で、白いワイシャツにわずかに赤い染みが見えた。と思ったときには、局員が椅子ごと後方に傾き、盛大な衝撃音とともに書類キャビネットごと倒れた。
「ボタンを押すなと言ったろうがぁ!!」
男の声は、甲高く裏返っていた。銃を握った右手がぶるぶると震えているのが見えた。花火のときと同じ匂いが鼻をついた。
「おい、お前! こっちに来て金を詰めろ!!」
男が拳銃を向けた先には、女性局員が二人固まって立ち尽くしていた。
「早く来い!!」
男の声が鋭く響いたが、女性局員たちは首を細かく振るだけで、動こうとしなかった。日ごろ、強盗事件に対する訓練はしていたのだろうが、実際に放たれた弾丸はどんなマニュアルも防いではくれない。
男は、苛立ちが最高潮に達したかのようにカウンター下部を蹴り飛ばし、更に一人撃とうと考えたのか、拳銃を握った腕をまっすぐ伸ばした。ひぃっ! と高い悲鳴を上げて、女性局員たちが後ずさった。
だがそこで、男は考えを改め、体を半回転させながら喚いた。
「早くしねえともう一人撃つぞ!! 撃つぞォォォ!!」
男が拳銃を向けたのは――床に倒れ、虚ろな目で宙に視線を向ける詩乃の母親だった。
眼前で進行中の事件による過大な負荷で、母親は身動きもできないようだった。瞬間的に、詩乃は考えた。
わたしが、お母さんを、守らなくては。
幼児期から常にそう思いつづけてきた詩乃の信念、意志の力が詩乃の体を動かした。
床を蹴って飛び出した詩乃は、拳銃を握る男の右手首にしがみつき、咄嗟に噛み付いた。子供の鋭い歯は容易に男の腱に食い込み、穴を穿った。
「あぁぁ!?」
男は驚愕の声を上げて右手を詩乃ごとブンと振った。詩乃の体はカウンターの側面に叩きつけられ、その時同時に乳歯が二本抜けたが、まるで気付かなかった。目の前に、男の手から滑り落ちた黒い拳銃が転がってきたからだ。詩乃は無我夢中でそれを拾い上げた。
重かった。
ずしりと両腕に響く、金属の重み。そして、縦にラインの入ったグリップは直前までそれを握っていた男の汗でじっとりと湿り、男の体温で生き物のように熱を持っていた。
詩乃は両手で拳銃を構え、まっすぐ前、男のほうに向けた。その途端、奇声を上げながら男が詩乃に飛び掛り、拳銃から詩乃の手をもぎ離そうとするかのように、自分の両手で詩乃の両手首をつよく握った。
それが詩乃にとって良かったのか、あるいはそうでなかったのかは今でもわからない。だが単に事実として、男は自分に向けられた銃のホールドを自ら助ける結果となった。
今では、詩乃はその時の拳銃――「あの銃」について、充分以上の知識を得ている。
一九三三年、つまり八十年前もの昔に、ソビエト陸軍に正式採用された拳銃「トカレフ−TT33」、それを中国でコピー生産した、「五四式−黒星《ヘイシン》」。それがあの銃の名前だ。
三〇口径、つまり七・六二ミリの弾丸を使用する。後発のハンドガンの主流である九ミリと比べて小口径だが、火薬量は通常より多い。そのため弾の初速は音速を超え、拳銃の中では最大級の貫通力を有する。
ゆえに反動も大きく、五十年代に、小型化された九ミリ弾使用の「マカロフ」がトカレフに替わって正式採用された経緯がある。
そのような拳銃を、十一歳の少女がまともに狙って撃てるはずはなかった。だが、男に強く手首を握られ、銃を奪われる、と思ったとき、詩乃は意識せず引き金を絞っていた。猛烈な衝撃が両手から肘、肩へと伝わったが、反動で跳ね上がろうとする銃のエネルギーは、男の両手に吸収された。再び空気が弾け、酷い耳鳴りと同時に音が遠くなった。
男はしゃっくりのような声を出し、詩乃から手を離した。そのままよろよろと数歩後退した。
男の、柄の入ったグレーのシャツの腹部に、赤黒い円が急速に広がりつつあった。
「あぁ……ああぁぁ!!」
高い声を漏らしながら男は両手で腹を押さえた。太い血管が傷ついたのか、その指の間から、一筋の血液が迸った。
だが男は倒れなかった。黒星の使用する小口径フルメタル・ジャケット弾は即座に人体を貫通するために、ストッピングパワー自体は低いのだ。
奇声を上げながら、男は血に塗れた両手を詩乃に向け、再び掴みかかろうとした。傷口と手から飛び散った血液が、詩乃の両手に降りかかった。
その時には、詩乃は再びトリガーを引いていた。
今度こそ両手が盛大に跳ね上がり、肘と両肩に激痛が走った。体ごと後ろに弾かれ、背中がカウンターに激突して息が詰まった。発射音はもうあまり感じなかった。
今度の弾は、男の右鎖骨の下に命中し、再び貫通した。男はよろけ、自ら流した血に足を滑らせてリノリウムの床に倒れた。
「がああああああ!!」
だがまだ男の動きは止まらない。激怒の絶叫を上げ、再び立ち上がろうと両手を床についた。
詩乃は恐慌に陥った。今度こそ、確実に、男を「停止」させないと、自分と母親は絶対に殺されると思った。
千切れるような両腕両肩の痛みを無視し、詩乃は二歩前に進んだ。床に仰向けになり、上体を二十センチほど起こしつつあった男の体の中央に、詩乃は拳銃を向けた。
三度目の射撃で、右肩が脱臼した。今度は反動で吹き飛ぶ体を支えるものがなく、詩乃は床にもんどりうって倒れた。それでも拳銃から手は離さなかった。
前と同じく跳ね上がった黒星から発射された弾丸は、狙いを大きく逸れ、数十センチ上方――
男の顔のほぼ中央に命中していた。ごつんと音を立てて、男の頭が床に落下した。もう、動いても叫んでもいなかった。
詩乃は必死に体を起こし、男の動きが止まっているのを確認した。
守った。
何よりもまず、そう思った。自分は、母親を守ることができた。
詩乃は顔を動かし、数メートル離れた床に倒れたままの母親に視線を向けた。そして、その顔、この世で誰よりも愛する母親の両目に――
明らかに自分に向けられる、無限の恐怖と脅えの色を見た。
詩乃は自分の手に視線を落とした。いまだしっかりと拳銃のグリップを握ったままの両手は、どろりとした赤黒い液体にまみれていた。
詩乃は口を開き、ようやく高い悲鳴を上げはじめた。
「ぁぁぁぁ…………!!」
喉の奥から甲高い悲鳴を絞り出しながら、詩乃は両手で握ったプロキオンVを凝視し続けた。両手の甲、指の間をぬるりと滴る血が見える。何度まばたきしても消えることはない。ぽたり、ぽたりと粘っこい雫を足元に垂らしている。
突然、両目から液体が溢れ出した。視界がぐにゃりと歪み、モデルガンの黒い輝きが全てを覆っていく。
その奥に、あの男の顔が見えた。
発射された三発目の弾丸が、男の右頬骨上部にぼつっと赤い孔を穿つ。衝撃で眼球が突出し、同時に後頭部からばしゃりと赤いものが飛散する。
だが、残った左眼がぎょろりと動き、底なし穴のような瞳が詩乃を見る。
まっすぐに、詩乃の目を見る。
「ぁ……ぁ…………っ」
不意に、喉の奥に舌が張り付き、呼吸が出来なくなった。同時にお腹の底から烈しく突き上げてくるものがあった。
詩乃は歯を食いしばり、全精神力を振り絞ってプロキオンVを床に投げ落とした。すぐさまよろよろとキッチンに走り、ユニットバスのドアノブを千切らんばかりの勢いで引っ張る。
便器の蓋を跳ね上げ、屈み込むと同時に、熱い液体が胃の底から迸った。体を捩り、痙攣させ、何度も何度も、体内にあるすべてのものを排出するかのように嘔吐した。
ようやく胃の収縮が収まったときには、詩乃はすっかり力尽きていた。
左手を伸ばして、タンクの水洗ノブを押す。ふらつきながら立ち上がり、洗面台の蛇口を捻って、切れるように冷たい水で両手と顔を何度も、何度も洗う。
最後に口をすすぎ、棚から清潔なタオルを取って顔を拭きながらユニットバスを出た。思考能力は完全に麻痺していた。
覚束ない足で、部屋に戻る。
なるべく視線を向けないようにして、手にもったタオルを、床に転がるモデルガンに覆い被せた。それをそのまま持ち上げ、すぐさま開いたままのデスクの抽斗の奥に放り込む。ばしんと音を立てて抽斗を閉め、今度こそ精魂尽き果てて詩乃はベッドにうつ伏せに倒れた。
濡れた前髪から落ちた雫が、頬を流れる涙と混ざり、布団に染み込んでいった。いつしか、小声で同じことを、繰り返し繰り返し呟いていた。
「助けて……誰か……たすけて……たすけて……誰か…………」
事件直後から数日間の記憶は、あまり鮮明ではない。
紺色の制服を着た大人たちが、緊張した口調で、銃をこちらに渡しなさい、と言ったとき、指がかたく強張ってどうしてもグリップから剥がれようとしなかったこと。
くるくる回る赤いランプの群。風に揺れる黄色いテープ。その向こうから浴びせられた白い光に目が眩んだこと。
パトカーに乗せられてからようやく右肩の痛みに気付き、恐る恐るそれを訴えると、警官は慌てて詩乃を救急車に乗せ替えたこと――などを断片的に憶えている。
病院のベッドでは、二人の婦警に、事件のことを何度も何度も繰りかえし訊かれた。お母さんに会いたい、と何回も言ったのだが、その希望が叶えられたのはかなり後のことだった。
詩乃は三日ほどで退院し、祖父母の待つ家に帰ったのだが、母親の入院は一ヶ月以上に及んだ。事件以前の穏やかな日常が、同じかたちで戻ってくることはもうなかった。
マスコミ各社の自主規制により、事件の詳細がそのまま報道されることは回避された。強盗事件は被疑者死亡として送検され、公判も一切行われなかった。だが、北の小さな市でのことだ。郵便局の中で起きたことは委細漏らさず――というよりも様々な尾鰭のついた噂となって、燎原の火のごとく街じゅうを駆け巡った。
小学校での残された一年半、詩乃には「殺人者」を意味するありとあらゆる派生語が浴びせられ、中学に上がってからは徹底した無視がそれに取って替わった。
だが、詩乃には、周囲の視線それ自体は大した問題ではなかった。もとより昔から、集団に属することへの興味は非常に薄かったのだ。
しかし、事件が詩乃の心の中に残していった爪痕――、それは何年経とうとも一向に癒えることなく、詩乃を苦しめ続けた。
あれ以来、詩乃は、銃器に類するものを目にするだけで事件の鮮明な記憶を呼び起こされ、激甚なショック症状に襲われるようになってしまったのだ。過呼吸から全身の硬直、見当識の喪失、嘔吐、酷い場合は失神に至るその発作は、道端で子供の持っている玩具の拳銃を目にしたときなどはもちろん、テレビ画面を通してですら容易に引き起こされた。
ゆえに、詩乃はドラマ、映画の類は殆ど観ることができなくなった。社会科の授業で用いられたビデオ教材のせいで発作を起こしたことも何度かある。比較的安全なのは小説で――それも大昔の文学作品に限定されたが――中学時代はほとんど図書館の片隅で大判の全集本を捲って過ごしたようなものだ。
中学を出たらどこか遠くで働きたいと祖父母に訴え、強硬に反対されたとき、ならせめて、遥か昔――詩乃が二歳になるまで、一家三人が幸せに暮らしていたという東京の街にある高校に進学したいと詩乃は言った。常に付きまとう噂と好奇の視線が無い場所に行きたい、という気持ちも当然あったが、それ以上に、この街で暮らしているかぎり、一生心の傷が癒えることはないだろうと確信したからだった。
勿論、詩乃の症状は典型的なPTSD、心的外傷後ストレス障害ということで、四年間でいくつもの大きな病院に連れていかれ、無限回のカウンセリングが行われた。処方された薬も素直に飲んだ。だが、不思議にどこか似通った慈愛の笑みを浮かべた医者たちの言葉は、詩乃の心の表層を撫で、引っ掻くだけで、傷のある場所にさえ届くことは無かった。項垂れて医者たちの優しい言葉を聞きながら、詩乃は心の中で、何度も同じフレーズを呟いていた。それは――
ナラ アナタハ 銃デ ヒトヲ 射殺シタコトガ アルノカ
今では、そういう自分の態度が信頼の醸成を妨げ、治療を遠ざけていたと反省している。しかし、それは今でも詩乃の偽らざる本音だ。自分のしたことが善なのか悪なのか――、たぶんそれをはっきり断じてもらうことだけを、詩乃は望んでいたのだ。勿論、答えられる医者など居ようはずもなかったが。
しかし、どれだけ記憶と発作に苦しめられようと、自ら死を選ぼうと思ったことは一度も無かった。
あの男を手に掛けたことに対する罪悪感は感じない。母親に銃を向けられたとき、ああする以外の選択肢は詩乃には有り得なかった。たとえ事件の瞬間に戻れたとしても、やはり同じことをするだろう。
だが、詩乃が自殺という手段を選べば、男も浮かばれまい、とは思う。
だから、強くなりたかった。あの状況であの行動に出るのが当然、と言えるだけの強さが欲しかった。戦場で、容赦なく敵を倒していく女兵士のような。一人で暮らしてみたいと思ったのは、そのせいもある。
中学を卒業し街を出るとき、別れの言葉を告げたのは、祖父と祖母、それに詩乃のことをいつまでも事件以前の幼い子供と認識し、抱きしめ、髪を撫でてくれる母親だけだった。
詩乃はこの、空気はいがらっぽく、水は不味く、物が高価い街に移り住み――
そして、新川恭二と、VRMMO−RPG――ガンゲイル・オンラインに出会った。
ようやく呼吸と動悸が落ち着き始め、詩乃は薄く目蓋を持ち上げた。
ベッドにうつ伏せになり、左頬を布団につけた詩乃の視線の先に、縦長の姿見があった。
鏡のなかで、青白い頬に濡れた髪を張り付かせた少女がこちらを見返している。少々痩せすぎで、目ばかり大きく見える。小さい鼻はやや丸っこく、唇も厚みに欠ける。総じて、栄養の足りていない子猫のような印象だ。
荒野の狙撃手シノンとは、体格と、顔の両脇で細く結わえたショートという髪型は共通しているが、それ以外は何一つ似通うところはない。彼女は、言わば獰猛な山猫だ。
極度に怯えながら初めてGGOにログインし、訳もわからぬまま戦場に連れて行かれた時、詩乃は思わぬ発見をした。かの世界でいかなる銃器に触れようと、いや、それで他のプレイヤーを撃ち倒しさえしても、多少の緊張を覚える程度であの忌まわしい発作は起こさなかったのだ。
詩乃は、とうとうあの記憶を乗り越える方法を見つけた、と確信した。実際、GGOをプレイするようになってから、銃器の写真程度ならば発作は起こし難くなってきたし、恭二とGGO中の武器の話もできるようになった。この世界で戦い続ければ、いつかは傷が塞がるときが来る――、そう信じて、無数のモンスター、無数のプレイヤーを必殺の銃弾で吹き飛ばしてきた。
だが。
――ホントウニ、ソレデ、イイノ?
心の中で問い返す声がする。
シノンはすでに、数万のGGOプレイヤー中上位三十人に入る存在だ。操れる者は他に居ないとさえ言われるアンチマテリアル・ライフルを自在に支配し、スコープに捉えたものには誰であれ確実な死を与えることができる。氷の心を持つ戦士、かつて詩乃がなりたいと願った存在そのものと言っても過言ではない。
なのに――現実の詩乃は、相変わらずモデルガン一つ手に持つことさえできない。
本当に……本当に、これでいいの……?
鏡の中の少女の瞳は、途方に暮れたように揺らいでいる。
誰か……教えて……私、どうすれば、いいの……?
――誰も、助けてくれはしない!!
弱気な声を撥ね退けるように心の中で叫び、詩乃は体を起こした。視線の先、ベッド脇の小テーブルに、アミュスフィアの銀色の円環が光っている。
まだ足りないだけ。問題はそれだけだ。
シノンよりも強いガンナーたちがあの世界にあと二十四人存在する。そいつらを全員打ち砕いて冥界に送り込み、荒野でただ一人の最強者として君臨した、その時こそ――
詩乃はシノンと一体化し、この世界においても本当の強さを手に入れられるはずだ。あの男は、今までシノンが殺したあまたのターゲットの中に埋没し、二度と記憶に浮かび上がってくることはない。
詩乃はエアコンのリモコンの拾い上げ、弱い暖房を入れると、制服の上着を一気に脱ぎ捨てた。スカートのホックも外して足から抜き、まとめて床に放り投げる。
ふらつく腕に力を込めて、アミュスフィアを取り上げると頭に被った。
手探りで電源を入れると、床に置いてあるゲーム機本体でクライアントディスクが回転し始める。スタンバイ完了を告げるかすかな電子音に、目を閉じる。
「リンク・スタート」
呟いた声は、泣き疲れた子供のように、頼りなく掠れていた。
インタールード 装弾数七
ブラウザが起動すると同時に、スタートアップURLに設定されたサイトに自動でアクセスが行われ、いくつものウインドウがぱぱぱっと重層的に表示された。そのすべてがガンゲイル・オンライン関連で、特に〈死銃〉についての情報を扱っている所は重点的に集められている。
「彼」は右手の指先で3Dマウスを操り、現在もっとも注目しているサイトをアクティブにした。トップには、死銃情報検証サイト、とあり、死銃の文字だけが赤く色づけされている。
まず履歴に目をやり、今夜はまだ管理人による更新が無いのを確認すると、掲示板に移動。前夜にチェックしたときから、いくつかの書き込みがあったらしく、記事ツリーのあちこちに「New!」のマークが点滅している。順に読んでいくことにする。
――現われないね、ゼクシードとたらこ。もうじき一ヶ月? いいかげんアカウント切れるんじゃないの? 誰かリアルで連絡とれる奴ーここ見てたらそろそろ情報投下きぼーーーー
――だからいないって。スコードロンのメンバーも誰もリアル連絡先知らないっつってんだろ? つかGGOで個人情報漏らすやつはアホすぎw ピザ一〇〇人前届くよマジでww
――死銃に撃たれた日付けと時間はわかってるんですから、仮にほんとに二人が死んだとすれば、ちょうどその時間に死んだVRMMOプレイヤーがいなかったか調べれば分かるのでは?
――話題ループさせんな、過去ログ読め。一人暮らしだったら死んだって誰も気付かないし、警察に問い合わせても教えてくれないのは確認済み。ちなみにザスカーに英文メールで聞いたら、ユーザーの個人情報に関してはなんたらっていう定型レスが来て終〜〜了〜〜〜
――やっぱこれはアレでしょ。ゼクたんとたらこたんの引退記念ドッキリネタでしょ。お二人、そろそろ出てきて「大成功!」ってやってくれないとネタが冷めてしまいますよ☆
――歳がばれますよアナタ(笑)
結局、誰かが自分のカラダで検証するしかないと思います。というわけで、明日二三三〇にロッケン中央銀行前で赤いバラを胸にさしてお待ちしていますので、死銃さん私を撃ってください
――勇者登場w でも死ぬ前に本名と住所晒してないと無意味な罠w
――むしろどっかのネカフェから公開ログインでオネガイシマス
――…………
「彼」は苛立たしく舌打ちしてマウスのホイールを回し、次のウインドウをアクティブにした。だが、どこのサイトでも、「彼」の望む種類の記事や書き込みを見つけることはできなかった。
当初の予想では、二人目に死を与えた時点で、〈死銃〉の力は本物なのではないか、という噂がネットを駆けめぐり、GGOプレイヤーたちは自分が次のターゲットとされるのではないかという恐怖に怯え、ゲームから引退する者が相次ぐ――ということになっていた。
しかし現実には、愚かなネットゲーマーたちは未だ〈死銃〉の与える真の恐怖に気付かず、冗談めかしたやり取りに終始している。登録アカウント数も殆ど減っていないようだ。
やはり、現実でのゼクシードとたらこの死がまったく報道されなかったのが計算外だった。どうやら、都内に限っても一日に相当数の変死事件があり、明らかな犯罪性が見られないものはニュースにならないようなのだった。
もちろん、「彼」は自ら銃撃した二人の心臓が現実世界で確実に停止し、死亡に至っていることを知っている。それこそが〈死銃〉の持つ力なのだから。
その情報を、検証サイトの掲示板に書き込みたいという誘惑は強烈だった。だが具体的な証拠を提示するのは「彼」にしても困難だし、そもそもそんなことをすれば〈死銃〉の伝説性が薄れてしまう。〈死銃〉はあの荒野に現われた最初で最後の絶対的強者、運営体の力すら凌駕する、本物の死神なのだから。
――まあいい。
「彼」は深く長い息をつき、気持ちを落ち着かせた。
もうすぐ、第三回のバレット・オブ・バレッツが開催される。〈死銃〉はその本大会において、更に二人、可能なら三人の命を消滅させる予定になっている。もちろん予選はあの銃の力を使わずに突破しなくてはならないが、その日の為に一日二十時間に及ぶログインで鍛え上げたステータスがあれば充分可能なはずだ。
BoBの注目度は絶大だ。MMOフラッシュでの中継番組を見るのはGGOプレイヤーだけに留まらない。その大舞台で名実ともに最強者として君臨し、またあの銃で撃たれた者がまたしても姿を消せば、もう〈死銃〉の力を疑う愚か者はいないだろう。
それだけの注目を浴びてしまえば、現在のアカウントはさすがにもう使えなくなるだろうが、構うことはない。あの銃さえあれば、新しい〈死銃〉が荒野に降り立つのは容易だ。
そして更に殺す。予定では、生贄の数は七にまで増えるはずだ。その頃には、引退するプレイヤーが続出し、やがてはガンゲイル・オンラインというゲームそのものが死に至るだろう。かくて〈死銃〉は伝説となる。かの呪われた〈ソードアート・オンライン〉が生み出した死者の数には到底及ばないが、あれは単なる狂人が、電子レンジでユーザーの脳を茹でてまわったに過ぎない。〈死銃〉の力は、そんな低次元のものではないのだ。仮想世界の銃弾が、現実の心臓を止める――その秘密を理解できるものは、「彼」とその半身以外にはいない。〈死銃〉こそが真の最強者――SAOをクリアしたという噂の「黒の剣士」など問題にならない――絶対の力――伝説の魔王――最強――最強――最強――……
「彼」はいつしか、右手にマウスを握り潰さんばかりの力を込めていたことに気付き、息を荒げながら肩の力を抜いた。
そうなる日が待ち遠しい。その伝説さえ手にできれば、こんな下らない世界にはもう用がない。「彼」を煩わせる愚鈍な連中とも永遠におさらばだ。
ブラウザ中に開いたウインドウ・タブを全て閉じると、「彼」は新たにひとつのローカルHTMLファイルを呼び出した。
七列のテーブルに七つの顔写真、GGO中で撮影したスクリーンショットを切り抜いた画像が配置され、それぞれの右側に名前や武装等の情報が並んでいる。一番上の〈ゼクシード〉と、その下の〈薄塩たらこ〉の写真は色調を黒く落とされ、その上に血の色の×印が刻印されている。
これは、〈死銃〉のターゲットリスト、言い換えればあの銃のマガジンに込められた死の弾丸の数だ。七人の誰もがGGOで名の通った強力なプレイヤーである。
「彼」はゆっくりとファイルをスクロールし、一番下に配置されている写真を中央に表示させた。七人中、唯一の女性プレイヤーだ。
右斜めのアングルで撮影されたスクリーンショット。淡いブルーのショートヘア、顔の両脇で結わえた房が細く流れて、頬のラインを半ば隠している。深く巻いたサンドイエローのマフラーのせいで口もとが見えないのが残念だが、どこか猫を思わせる深い藍色の瞳だけでも充分な輝きを放っている。
右側に表示された名前は〈シノン〉。メインアームは対物狙撃ライフルのウルティマラティオ・ヘカートU。
「彼」は何度も、ゲーム中で直接彼女を見たことがあった。グロッケンのマーケット街で買い物をしている姿、公園のベンチで屋台のブリトーを齧っている姿、そして戦場で巨大なライフルを背負い、疾走する姿――。そのどれもが、所有欲を掻き立てずにおかないコケティッシュな魅力に満ちていた。彼女が笑顔を見せることはほとんど無く、瞳には常にある種の憂いが満ちているのだが、それもまた「彼」を惹きつけてやまない。
このシノンという名の少女を〈死銃〉のターゲットとすることに、「彼」は迷いを抱いていた。もし彼女が――ゲーム中に留まらず、現実でも、身も心も「彼」のものとなってくれるなら――
だが「彼」の半身、〈死銃〉のもう一方の腕は、彼女の死を望むだろう。シノンは、GGOでは冷酷なる狙撃手、冥界の女神として知らぬ者のいない程の有名プレイヤーだ。〈死銃〉伝説に捧げられる花として、彼女ほど相応しい存在はない。
せめて彼女の命を奪わざるを得ないときは、遠距離からの銃撃ではなく、この腕に抱き、素肌に触れ、唇を交わしながらにしたい、と「彼」は思った。もしそれがかなうなら、その瞬間を同時に「彼」がこの世界から離脱する時としてもよい。彼女とひとつになりながら、あの銃によって共に新しい世界へと旅立つ――それは至福の体験となるだろう。
「彼」は、体の底にどうしようもない興奮のうずきを感じた。
「……ああ……」
抑えきれない呼気を漏らしながら、モニタに顔を近づける。舌先でそっと、シノンの写真を舐める。
つるりとしたラスタパネルの感触の中に、シノンの素肌の味と温度を感じとろうと、「彼」は何度も、何度も、飽くることなく舌を動かしつづけた。
第四章 孤剣・弾雨
ウインカーを出し、車体をリーンさせて大きなゲートを通過した途端、並木道の両側を歩く人たちの非難の視線が集中した気がして、俺はあわててバイクのスピードを落とした。
エギルのつてで入手した一二五CC二ストロークのタイ製おんぼろマシンは、エレクトリック動力車両全盛のこの時代にあっては絶望的なまでの騒音を発し、直葉などは後ろに乗るたびに「うるさいうるさいうるさい」と不満を爆発させている。そのつど、このサウンドがわからないうちは風になれないぞ等と言って誤魔化しているのだが、俺も内心では、せめて排ガス規制後の四ストスクーターにしておくんだったかと後悔していなくもない。
ことに、走っている場所がこのような、病院の敷地内である場合などは尚更だ。
ロバの引く荷車のごとき速度でトロトロと並木道を進むと前方に駐車場入り口が見えた。ほっとしながら乗り入れ、バイク置き場の端にマシンを止める。キーを抜き、メットを脱ぐと、師走の寒風に乗ってかすかに消毒薬の匂いが感じられた。
菊岡との高額ケーキ会談から数日後の土曜日。ガンゲイル・オンラインにログインする為の部屋の用意が出来たというメールに重い腰を上げたのだが、指定された場所は何を考えているのか千代田区にある大きな都立病院だった。普段あまり東京都心には来ないのだが、道順に迷うことはなかった。なぜなら、この病院は――SAOに囚われていた二年のあいだ、我が現実の肉体が横たわっていた、まさにその場所だからだ。
覚醒後もリハビリで長い時間を過ごし、退院してからも検査だの何だので何度も通った道である。ここ半年近く訪れたことはなかったが、こうして見慣れた白い建物を見上げると、懐かしいような心細いような何とも微妙な感慨が胸中を過ぎる。軽く頭を振って感傷を振り落とし、エントランス目指して歩きはじめる。
菊岡の依頼でGGOにダイブすることを、俺は結局アスナにも直葉にも伝えなかった。伝えればまず間違いなく一緒に潜ると言い出すだろうし、それを止めさせるために〈死銃〉の話をすれば、今度は俺を行かせまいとするだろう、と思ったからだ。身勝手な言い分だが、俺はもう決して彼女らを、わずかにも危険な匂いのするバーチャルワールドに近づける気はない。
〈死銃〉の話は、九分九厘まで噂の産物だろうと思う。
仮想世界から、現実の人間に死をもたらす――、何度考えてもそんなことが可能とは信じられない。アミュスフィアというのは、いわばテレビの延長線上にある機械に過ぎないのだ。仮想世界、バーチャル技術、とまるでテクノロジーが生み出した魔法のごとき扱われようだが、その実体はあくまで便利な道具であり、人間の肉体から魂を切り離して異世界に運ぶマジックアイテムなどでは決してない。
しかし、残り一厘の可能性が俺の足をこの場所に向けた。
数ヶ月前、自室の押入れに堆積していた古いゲーム雑誌を処分していたところ、SAO稼動以前に行われた、アーガス開発部総指揮・茅場晶彦のショートインタビュー記事を発見した。そこで、生前のあの男はこう言っていた。
――アインクラッドとは、アン・インカーネイト・ラディウス、「具現化する世界」の略です。そこでプレイヤーの皆さんは、数々の夢が現実となるのを見るでしょう。剣、怪物、迷宮、そのようなゲーム的記号の具現化に留まらず、プレイヤー自身をも変容させていくだけの力が、あの世界には存在します――
確かに俺は変わった。アスナも変わった。あの世界での二年間で、絶対に元には戻れないほどの人格変容が行われたはずだ。
しかし、茅場の言う「変容」がそれに留まるものではなかったとしたら……? 今やザ・シードのお陰で無制限に増殖しつつある仮想世界のどこかに、人間の能力それ自体を変化させうる因子が生まれたのだとしたら……?
今まで俺も菊岡もあえてその名称は用いなかったが、この際はっきりと言おう――「超能力」と。〈死銃〉という人物は、茅場晶彦の遠大なる計画が生み出した新しい人類なのだろうか……? もしそうなのだとしたら、彼が殺人者として姿を現したのは大いなる皮肉と言うべき――
ういん、と音を立てて目の前で自動ドアが開き、押し寄せた暖かい空気が俺の思考を押し流した。
まずトイレに寄って体内の貯蔵庫を限界まで空にしてから、プリントしたメールを頼りに、入院病棟三階の指定された病室へとたどり着いた。ドア脇のプレートに患者の名前はない。ノックの後、ドアを引き開けると――
「おっす! 桐ヶ谷君、お久しぶり!」
俺を出迎えたのは、長い入院からリハビリ期間のあいだお世話になった、顔見知りの女性看護師だった。
ナースキャップの下の長い髪を一本の太い三編みにまとめ、その先端で小さな白いリボンが揺れている。女性にしては長身の身体を包む薄いピンクの白衣は、鎖骨の下あたりから目を見張るほど盛り上がり、その頂点に「安岐」と書かれた小さなネームプレート。
にこにこと笑みを浮かべている小作りの顔は、艶麗とでも表現するべき、入院患者にはいかにも毒だろうなあーと思わせる美しさである。
「あ……ど、どうも、ご無沙汰してます」
つっかえながら俺が挨拶すると、安岐ナースはいきなりにゅっと両手を伸ばし、俺の肩から二の腕、わき腹あたりをぎゅうぎゅうと握った。
「わ……わぁ!?」
「おー、けっこう肉ついたねえ。でもまだまだ足りないよ、ちゃんと食べてる?」
「た、食べてます食べてます。というか何故安岐さんがここに……」
部屋を見回すが、狭い個室には他に人の姿はない。
「あの眼鏡のお役人さんから話、聞いてるよー。なんでも、お役所のために仮想……ネットワーク? の調査をするんだって? まだ帰ってきて一年も経ってないのに、大変だねえ。それで、入院中の桐ヶ谷君の担当だった私にぜひモニターのチェックをして欲しいとか言われて、今日はシフトから外してもらったんだ。ドクターや婦長とも話ついてるみたいでさ、さすが国家権力ーって感じだよねー。とりあえず、またしばらくよろしくね、桐ヶ谷君」
「あ……こ、こちらこそ……」
なんだかまるで俺が美人に弱いとでも言わんがばかりの小ざかしい策だなァ菊岡あああああとこの場に居ないエージェントを心中で罵りつつ、俺は笑顔で安岐ナースの差し出した手を握った。
「……で、その眼鏡の役人は来てないんですか?」
「うん、外せない会議があるとか言ってた。伝言、預かってるよ」
渡された茶封筒を開き、紙片を引っ張り出す。
『報告書はメールでいつものアドレスに。経費は任務終了後、報酬とまとめて支払うので請求すること。追記――美人看護婦と個室で二人きりだからと言って若い衝動を暴走させないように』
一瞬でメモを封筒ごと握りつぶし、ブルゾンのポケットへ放り込む。セクハラもいいところだ。
訝しそうな顔をする安岐ナースに強張った笑顔を向け、俺は言った。
「あー……それじゃあ、早速ネットに接続しますので……」
「あ、はい。準備できてます」
案内されたジェルベッドの脇には仰々しいモニター機器が並び、ヘッドレストの上には真新しいアミュスフィアが銀色の輝きを放っている。
「じゃあ脱いで、桐ヶ谷君」
「は……はい!?」
「電極、貼るから。どうせ入院中に全部見ちゃったんだから赤くならなくていいよー」
「…………あの、上だけでいいですか……」
安岐ナースは一瞬考えてから、幸い首を縦に振った。観念してブルゾンとスウェット、Tシャツを脱ぎ、ベッドに横になる。たちまち、ゲルを塗られたモニター用の電極が上半身の数箇所にぺたぺたと貼られていく。
「よし、これでOK……っと」
最後にモニタ機器のチェックをしたナースがこくんと頷くと、俺は手探りでアミュスフィアを取り上げ、頭に被った。電源を入れると、頭の後ろのほうで本体が動作し始める気配。
「えと、それじゃあ……行ってきます。多分四〜五時間くらい潜りっぱなしだと思いますが……」
「はーい。桐ヶ谷君のカラダはしっかり見てるから、安心して行ってらっしゃい」
「よ……よろしく……」
なんでこんなことになってるのかなぁ……という疑問を今更のように抱きつつ、目を閉じた。
同時に、耳もとでチチッ、とスタンバイ完了を告げる電子音。
「リンク――スタート!」
叫ぶと、お馴染みの白い放射光が眼前に広がり、俺の意識を肉体から解き放っていった。
世界に降り立った瞬間感じた強烈な違和感の理由は、数秒後に判明した。
空が一面、薄く赤味を帯びた黄色に染まっていたのだ。
ガンゲイル・オンライン内の時間は、現実同期と聞いていた。つまり、午後一時をいくらか回ったばかりの空は、先ほど病室の窓越しに見えていたのと同じ青であるはずだ。それなのにこの憂鬱な黄昏の色は、どういう理由によるものなのだろう。
しばらくあれこれ想像してから、俺は肩をすくめて思考を打ち切った。GGOの舞台である荒涼たる大地は、最終戦争後の地球という設定だ。黙示録的雰囲気を出すための演出なのかもしれない。
改めて、眼前に広がるGGO世界の中央都市、〈グロッケン〉の威容に目を向ける。
さすがにSF系MMOの雄だけあって、その佇まいは、見慣れたアルヴヘイム首都の〈イグドラシル・シティ〉や、先日ようやく辿り付いたアインクラッド五十層〈アルゲード〉のファンタジックな街並みとは大きく異なっていた。
金属の質感を持つ高層建築群が天を衝くように黒々とそびえ、それらを空中回廊が網の目のようにつないでいる。ビルの谷間を、ネオンカラーのホログラム広告が賑やかに流れ、地上に近づくにつれそれらの数は増して、色と音の洪水のようだ。
地面、と言っても俺が立っているのは土の上ではなく黒い金属でできた道だった。
背後には、どうやら初期キャラクター出現位置に設定してあるらしいドーム状の建物があり、目の前にまっすぐ、あまり広くない道が伸びている。両側にはぎっしりと怪しげな商店が並び、どこか秋葉原の裏通りに似た情景だ。
そして、ぎっしりと道を埋めて行き交うプレイヤー達も、一筋縄では行かない雰囲気を持った連中ばかりだった。
圧倒的に男が多い。比較的女性比率が高いALOをホームとしているせいか、あるいはあの世界の住人は華奢な妖精ばかりだからだろうか、迷彩のジャケットや黒いボディアーマーをまとったゴツい男達が大量に闊歩している光景は実に圧迫感がある――と言うかエネルギッシュ――と言うか、はっきり言えばむさ苦しい。その上どうにも剣呑で、とても話し掛けるような気にはならない。
それも当然、気圧されるのは大抵のプレイヤーが肩や腰に黒光りする無骨な武器――銃をぶら下げているからだ。
装飾的要素のある剣や槍とは違って、銃にはたった一つの目的しかない。武器であること――つまり、敵を倒す、その為だけに磨かれた形であり、色なのだ。
なるほど、つまりそれはこの世界そのものにも言えることなのだな、と俺は内心で頷いた。
このゲーム世界に存在するのは、戦い、殺し、奪う、という先鋭化された目的だけだ。ALOにあるような、「幻想世界での生活を楽しむ」といった要素は在り得ない。
その為には、多分華麗な容姿と言ったようなものは邪魔なのだろう。戦場で敵を怯えさせるための、獰猛な兵士としての外見がすでに重要なパラメータなのだ。男たちの多くが濃い無精髭を伸ばし、あるいは顔に目立つ傷痕を刻んでいるのはそれが理由だ。
そう言えば、俺は一体どのような外見が与えられたのだろう、と今更のように考え、俺は両手と自分の体を見下ろした。理想を言えば、古い映画の「ランボー」やら「ターミネーター」的マッチョソルジャーな姿が望ましい――
――嫌な予感がした。
手の肌は白く滑らかで、指はびっくりするほど細い。黒のミリタリー・ファティーグに包まれた体は、ことによると現実の俺以上に華奢だ。視点の感じからして、どうも背丈もそれほど高いとは思えない。
このガンゲイル・オンラインにダイブするにあたって、初期キャラクターを一から生成したわけでは勿論ない。そんなことをしていては、強者のみを狙うという〈死銃〉といつ出会えるのか知れたものではない。
VRMMO開発支援パッケージ、ザ・シードを利用して生成されたゲーム世界に共通する最大の特徴、それは「キャラクター・コンバート」機能である。ザ・シードを使うかぎりこの機能は決してオフにすることができない。
それはつまり、あるゲームで育てたキャラクター・データを、全ゲームに共通のメタ・ルールを通して、他のゲームに移動させることができる、という機能だ。
例えば、Aというゲームで育てた、筋力一〇〇、素早さ八〇というキャラクターを、ゲームBに移動させたとする。すると、ゲームAでの「強さのレベルを保持した」変換が行われ、ゲームBにおいて、STR四〇、AGI三〇といったキャラクターが誕生することになる。手っ取り早く言えば、ALO内で中の上、と言った強さを持ったキャラクターは、GGOでも中の上として生まれるというわけだ。
無論これは、キャラクターのコピーを増やすという機能ではない。コンバートした瞬間、元の世界でのキャラクターデータは一時消滅し、更に移動できるのは生身のキャラクターだけでアイテム類は一切持ち出せない――理由は説明するまでもないだろうが――ため、便利ではあるがなかなかに度胸の要る行為なのだ。今回ALOにおける剣士キリトをGGOに移動するに当たって、可能な限りの財産を問答無用でエギルの店のコンテナに押し込めてきたが、いきなりフレンドリストから俺が消滅してアスナやリーファ達は泡を食うことだろう。どう説明したものか頭が痛い。
さて、そのコンバート機能によって俺はこの世界でもALOでのキリト程度の強さ――と言っても一度初期化して育てなおしたキャラクターなので、SAOにおける初代キリトほどの無茶ステータスではないが――を得ているはずだが、外見もアイテムと同じく持ち出せないために、どのような姿がランダム生成されるかはまるで分からなかった。ゆえに、どうせなら屈強な兵士の姿を、と望んだわけなのである――が。
どうにも嫌な気配を感じつつ、俺は周囲を見渡し、出てきたばかりのドームにはめ込まれたミラーガラスを見つけて歩み寄った。
そして、愕然とした。
「な……なんだこりゃあ!?」
思わず呻く。ガラスに映っていたのは――身長およそ百六十センチ、体重はどう見ても四十キロそこそこ、艶やかな黒髪は肩のラインで鋭く切りそろえられ、肌は透き通るような白、唇が血の如く赤い――どう見ても少女としか言えない姿だった。濃い眉が一直線に伸び、黒々とした目も勝気そうに吊りあがっているのが救いだが、それにしたって睫毛が長すぎる。
SAOのキリト君はかなり女顔だったよー、とはアスナの弁だが、この姿はもうそんな問題じゃない、一体どこに兵士の屈強さを見出せばいいのだ、と俺が呆然と立ち尽くしていると、少し離れた場所で何かを食っていた背の高い男が走り寄ってきて、背後からガラスに映る俺に声をかけた。
「おおおお、お姉さん運がいいね! その体、F−13型でしょ! め〜〜〜ったに出ないんだよ、それ。どう、今ならまだ始めたばっかだろうしさあ、アカウントごと売らない? 二M出すよ!」
「…………」
俺は思考停止状態のまましばらく男の顔を眺め、ようやくある可能性を思いつき、泡を食って両手で自分の胸部をまさぐった。だが幸い、そこには平らな胸板があるばかりで、危惧したような感触はなかった。それでは、恐怖の性別逆転事故が起こったというわけでもないらしい。ようやく少しばかり頭がマトモになり、男に向きなおりながら答える。
「あー……、悪いな。俺、男なんだ」
その声も、やや低いが充分に女の子で通用するトーンである。げんなりしながら男の顔を見上げると、今度は奴さんがしばらく目を丸くしたあと、先刻に倍する勢いで捲し立てはじめた。
「じゃ、じゃあそれM−B19型かい!? す、すごいな、それなら四……いや五M出す。う、売ってくれ、ぜひ売ってくれ」
売るどころかタダで進呈しよう、いやアンタの外見と取り替えてくれ、と俺は思ったが、残念ながらそういう訳にも行かない。
「初期キャラじゃなくて、コンバートなんだ。ちょっと金には替えられない、残念だけどな」
「そ……そうか……」
男はいかにも惜しそうに俺を各方向から眺め回していたが、やがて気が変わったら連絡してくれ、と透明なカード状のものを俺に押し付けて立ち去って行った。眺めているうちにそのカードは発光・消滅してしまったが、多分システムウインドウ中のアドレス帳か何かにデータが追加されているのだろう。
俺はなおもガラスの中の我が身に呆然と見入りながら、何とかならないものかと考えたが、何ともなりはしないという結論以外出てこなかった。このコンバート履歴は俺のキャラデータに埋め込まれ、ALOに戻ったときに元のツンツン髪のスプリガン・キリトの姿に復帰できる代わりに、再びGGO世界にコンバートした所で与えられるのはこの少女だか少年だか判別できない体なのだ。
不運の中に幸運を捜せ、がモットーの俺は、それから数分間あれこれ考え、ようやく一つの「良かったコト」を捻くり出した。この世界に来た目的は、ひとえにかの〈死銃〉なる男と接触して、銃撃されるのは願い下げだがどうにかしてその能力の真贋を判定することだけだ。その為には、とにかく強さをアピールし、また目立たなくてはならない。
この姿は――少なくとも、目立つのは確かだろう。戦場での威圧感などはカケラも望めそうにないが、そちらのほうは戦闘能力そのものでカバーするしかない。
強さの宣伝に関しては、とりあえず一つの作戦があるにはあった。通常のゲームプレイ、ダンジョン探索や、やりたかないがプレイヤーキルなどで名を売るにはそれなりに時間が必要となるが、幸いこのゲームではほんの数日後に「バレット・オブ・バレッツ」なる最強プレイヤー決定イベントが開催される予定になっていた。それにエントリーし、ともかくバトルロイヤル形式の本戦に進むのだ。上位に食い込んで名を売れば〈死銃〉氏にも当然注目されるだろうし、あるいはことによると大会に本人が出場してくる可能性もあった。
初めてダイブするゲームでどの程度戦えるかは未知数だが、とりあえずやってみるしかない。銃相手の戦闘というのがどのような物なのかは見当もつかないものの、ともかくVRMMOである限り実際に体を動かして闘うには変わりないだろう。頑張れるだけ頑張って――それで力が及ばなければ、その時はこんな無茶な仕事を押し付けた菊岡の責任である。
ともかくまずは大会へのエントリー手続き、そして装備の購入だ。
俺は最後に我が身を一瞥し、フンと息を鳴らしてきびすを返した。そして、揺れて頬にかかった髪を無意識のうちに指先でかきあげているのに気づき、暗澹とした気分に襲われた。
――数十秒後、あっけなく道に迷った。
グロッケンは、どうやら基本となるフロアが三つ重なっている多層構造を取っているらしく、それらを繋ぐ空中回廊やらサブフロアやらエスカレータやらエレベータやらが滅多矢鱈と入り組んで、街なんだかダンジョンなんだかわからない有様なのだ。メインメニューからは、詳細な立体マップを呼び出すことができるのだが、表示される現在位置と、実際に眼前に広がる光景を照合するのも容易ではない。
これがスタンドアローンRPGであれば、自棄を起こして闇雲に歩き回り、元の場所にすら戻れなくなるところだが、幸いこれはMMOだ。こういう時に取るべき手段は一つである。
俺は、目の前の細い路地を流れる人波の中に、一際目を引く水色の髪のプレイヤーを見つけ、後ろから声を掛けた。
「あのー、すいません……ちょっと……道、を……」
そして即座にしまったと思った。
振り向いたのは、どう見ても女の子だったからだ。
さらさらと細いペールブルーの髪は無造作なショートだが、額の両側で結わえた細い房がアクセントになっている。眉はくっきりと太く、猫科な雰囲気を漂わせる藍色の大きな瞳、小ぶりな鼻と色の薄い唇がそれに続く。
いやいや、ひょっとしたら俺のバーチャル体と同様の少女っぽい少年君かも知れぬと思い雷光の迅さで身体に視線を走らせたが、サンドカラーのマフラーの下、ジッパーの開いたジャケットの奥ではシャツの胸部分が控えめに盛り上がり、さらによくよく見れば相当に小柄だ。それに気付かなかったのは、俺の目線もかなり低くなっているせいなのだが。
VRMMOにおいて、男性プレイヤーが女性プレイヤーに「道に迷った」等々と声を掛ける場合、その八割はナンパ目的と思ってよい。
危惧したとおり、振り向いた女性プレイヤーの顔にもあからさまな警戒の色が浮かんでおり――しかし、意外にもその表情はすぐに消え去った。
「……このゲーム、初めて? どこに行くの?」
高く澄んだ可愛らしい声で言うその口もとには、かすかな微笑さえ浮かんでいるではないか。これは一体どうしたことだろう、と内心で首を捻ってから、俺はようやくその理由に思い至った。この女の子は、先刻声を掛けてきたアカウントバイヤーの男と同様の誤解をしているのだ。俺を、自分と同じ女の子だと。まったく何ということだ。
「あー、えっと……」
俺は反射的に己の性別を明らかにしようと思ったが、咄嗟に思いとどまった。
これはある意味都合のいい状況かもしれない。この後、改めて男に声を掛けなおし、また同じような誤解をされれば、少々面倒な事態になりかねない。利用できるものは何でも利用しろが俺の第二のモットーでもあることだし、この際、彼女には悪いがしばらく誤解したままでいてもらうにしくは無い。
「あ、はい、初めてなんです。どこか安い武器屋さんと、あと総督府、っていう所に行きたいんですが……」
比べればやや低く、ハスキーな響きのある声で俺が答えると、女の子はわずかに首を傾げた。
「総督府? 何しに行くの?」
「あの……もうすぐあるっていう、バトルロイヤルイベントのエントリーに……」
それを聞いた途端、彼女の大きな目がぱちくりと丸くなる。
「え……ええと、今日ゲームを始めたんだよね? その、出ちゃいけないことはぜんぜんないけど、ちょっとステータスが足りないかも……」
「あ、初期キャラってわけじゃないんです。コンバートで、他のゲームから……」
「へえ、そうなんだ」
女の子の、藍色の瞳がきらりと光り、口もとに今度こそにこっと笑みが浮かんだ。
「聞いていい? 何でこんな埃っぽくてオイル臭いゲームに来ようと思ったの?」
「それは……ええと、今までずっとファンタジーなゲームばっかりやってたんですけど、たまにはサイバーっぽいので遊んでみたいなあ、って思って……。銃の戦闘とかも、ちょっと興味あったし」
まあこれは嘘ではない。剣での近接戦闘に特化した俺のVRMMO勘が、どの程度GGOに通用するのかということには少々の興味がある。
「そっかー。それでいきなりBoBに出ようだなんて、根性あるね」
女の子はくすりと笑うと、大きく頷いた。
「いいよ、案内してあげる。私もどうせ総督府に行くところだったんだ。その前にガンショップだったね。好みの銃とか、ある?」
「え、えっと……」
そう言われても、咄嗟には出てこない。俺が答えに詰まると、女の子はもう一度微笑した。
「じゃあ、色々揃ってる大きいマーケットに行こう。こっち」
くるりと振り向き、歩き始めた彼女のマフラーの揺れるしっぽを、俺はあわてて追いかけた。
絶対に経路を記憶することなど不可能と思える、路地やら動く歩道やら動く階段を次から次へと通り抜け、数分歩くと不意に開けた大通りに出た。正面に、大手の外資系スーパーを思わせる賑やかな店舗が見える。
「あそこだよ」
女の子はすいすいと人波を縫って店に向かった。
広大な店内は、様々な色の光と喧騒に満ち、まるでアミューズメントパークのようだった。NPC店員たちは皆露出の大きい銀色のコスチュームをまとった美女たちで、ニッコニッコと営業スマイルを振り撒いているのだが、ギョッとするのが彼女らの右手に握られたり、四方の壁に飾られているのが全て、黒光りするゴツい拳銃やら機関銃だということだ。
「な……なんだか、すごい店ですね」
俺が言うと、隣に立つ女の子も小さく苦笑した。
「ほんとは、こう言う初心者用の店よりも、もっとディープな専門店のほうが掘り出し物があったりするんだけどね。まあ、ここで好みの銃系統を見つけてからそういうとこに行ってもいいし」
言われれば、店内をうろついているプレイヤー達の服も派手めな色のコーディネートで、ビギナーっぽい印象ではある。
「さてと。あなた、ステータスはどんなタイプ?」
女の子に聞かれて、俺は一瞬考えた。異世界間コンバートとは言ってもキャラの能力的傾向は引き継がれるはずだ。
「えっと、筋力優先、その次が素早さ……かな?」
「STR−AGI型か。じゃあ、ちょっと重めのアサルトライフルか、もうちょっと大口径の小銃をメインアームにして、サブはハンドガンの中距離戦闘タイプがいいかなあ……。あ……でも、あなたコンバートしたばかりだよね? てことは、お金が……」
「あ……そ、そっか」
俺は慌てて左手を振った。コンバートで能力値は引き継がれても、アイテムやら所持金の移動はできない。つまりウインドウの下端に表示されている金額は――
「ええと……せ、千クレジット」
「……ばりばり初期金額だね」
俺と女の子は顔を見合わせ、困ったように笑いあった。
「うーん……」
女の子は、薄い唇の下に右手の指先を当て、わずかに首をかたむけた。
「……その金額だと、小型のレイガンくらいしか買えないかも……。実弾系だと、中古のベレッタが……どうかなあ……。――あのね、もし、よかったら……」
俺は、彼女が言わんとする先を察し、慌てて首を振った。どんなMMOでも、ニュービーがベテランから過剰な援助を受けるのは決して褒められたことではない。この世界にはゲームを楽しみに来たわけではないが、それでもゲーマーとして譲れない一線というものはある。
「い、いや、いいですよ、そこまでは。えっと……何処か、どかんと大きく儲けられるような場所ってないですか? 確かこのゲームにはカジノがあるって聞いたんですが……」
すると女の子は、さすがに少しばかり呆れたような笑みを見せた。
「ああいうのは、お金が余ってるときに、スるのを前提でやったほうがいいよ。そりゃあ、あちこちに大きいのも小さいのもあるけどね。確か、この店にだって……」
くるりと頭を巡らせ、店の奥を指差す。
「似たようなギャンブルゲームはあるよ。ほら」
細い指先が示す先には、なにやらピカピカと電飾がまたたく巨大な囲いが見えた。
近寄ってみると、それは店の壁の一面を丸ごと占領する、ゲームと言うにはあまりに大きな代物だった。幅三メートル、長さは十五メートルほどもあるだろうか。金属タイルを敷いた床を腰の高さほどの柵が囲い、一方の端に、西部劇のガンマンめいた格好のNPCが立ち、時折腰のホルスターから巨大な拳銃を抜いては指先でくるくる回しながら挑発的な台詞をわめいている。もう一方の端には柵が無く、かわりに開閉式の金属バーと、キャッシャーらしき四角い柱が見える。
ガンマンの後ろには弾痕の刻まれた壁がそびえ、その上部にピンクのネオンで〈Untouchable ! 〉の文字。
「……これは?」
「あっち側のゲートから入って、NPCの銃撃をかわしながらどこまで近づけるか、っていうゲームだね。今までの最高記録が、ほらそこ」
女の子の目線の先、柵内部の床面に、赤く発光する細いラインがあった。全体の三分の二をわずかに超えたところだろうか。
「へえ。……いくら貰えるんです?」
「えっと、確かプレイ料金が五〇〇Cr、八メートル突破で五〇〇、一〇メートルで一〇〇〇、一二メートルで二〇〇〇、ガンマンに触れれば、今までプレイヤーがつぎ込んだお金が全額バック」
「ぜ、全額!?」
「ほら、看板のとこに表示があるよ。いち、じゅう……三十万ちょいか」
「す……凄い金額ですね」
「だって無理だもん」
女の子は即答し、肩をすくめる。
「あのガンマン、十メートルラインを超えるとインチキな早撃ちになるんだ。一度に三発撃ってくるしね。予測線が見えたときにはもう遅いよ。がんばって八メートル超えれば、料金を取り戻すくらいのことはできるけど」
「予測線……」
その時、女の子がくいくいと俺の袖を引っ張った。小声でささやく。
「ほら、またプールマネーを増やす人がいるよ」
見ると、三人連れの男がゲームの入り口に近寄っていくところだった。
そのうちの一人、白地に薄いグレーの、寒冷地仕様と思しきファティーグを着込んだ男が両腕をぐるぐる回しながらゲートの前に立つ。右手の掌をキャッシャー上端のパネル部分に押し付けると、それだけで支払いが行われたのか、一際賑やかなファンファーレが響き渡った。たちまち、店内のあちこちから十人ほどのギャラリーが集まってくる。
NPCガンマンが英語で「てめえのケツを月まですっ飛ばしてやるぜ」的スラングをわめき、腰を落として銃を収めたホルスターに手を添えた。寒冷地用迷彩男の前に、グリーンのホロ表示で大きな「3」の数字が現われ、効果音とともに2、1と減少、0になると同時にゲートの金属バーががしゃんと開いた。
「ぬおおおりゃあああ!」
寒冷男は雄叫びを上げながら数歩ダッシュし――たかと思うと両足を広げて急制動をかけた。一瞬目を見開き、突如、上体を右に傾け、左手、左足を上げるという妙な格好を取る。
何の踊りだろう、と思ったその瞬間、寒冷男の頭の左側十センチのところと、左脇の下と、左ひざの下を青白いレーザーの火線が通過した。NPCガンマンがホルスターから銃を抜き、立て続けに三発ぶっぱなしたのだ。見事な回避だが――まるで、寒冷男には、レーザーが狙っている箇所がわかっていたように見えた。
「……いまのが……?」
顔を寄せてささやくと、水色の髪の女の子はこくんと頷き、同じく小声で答えた。
「そう、弾道予測線による攻撃回避」
寒冷男は、火線が消えると同時に再び猛然とダッシュし、またすぐに停止する。今度は両足をぐっと大きく開き、上半身を九十度屈める。
直後、甲高い唸りとともに、二本のレーザーが男の頭上を、一本が股の間を通過した。再び数歩進み、立ち止まる。まるで、「だるまさん転んだ」のようだ。
男はどうしてなかなかに機敏な動きを見せ、たちまち六メートルほど前進した。あと数歩で、とりあえずプレイ料金だけは取り戻せるはず――と思ったその時。
今まで三発ずつ同じ間隔で連射していたNPCガンマンが、時差をつけて二発、一発とレーザーを放った。遅れて飛来した一弾を、寒冷男はジャンプで回避したが、着地でバランスを崩し、片手を地面に着いた。あわてて立ち上がろうとしたものの時既に遅く、ガンマンの右手が閃いて、放たれた火線が男の白いベストの上にブルーの火花を散らした。
へろへろへろ〜と情けないファンファーレ。ガンマンは口汚く勝利の言葉をわめき、その背後のプール金額表示が金属音とともに五〇〇クレジット分上昇した。寒冷男は肩を落とし、すごすごとゲートから外に出た。
「……ね?」
隣で女の子が、マフラーの奥でかすかに笑いながら再び肩をすくめた。
「左右に動けるならともかく、一直線に突っ込むんじゃどうしたってあのへんが限界なのよ」
「ふうん……なるほど、予測線が見えたときにはもう遅い……か」
俺は呟くと、ゲートに向かって足を踏み出した。
「あ……ちょっと、あなた……」
目を丸くして呼び止めようとする女の子に、軽く片頬で笑みを返し、キャッシャーに右手を押し当てる。がしゃちゃりーんと旧式のレジスターのような音が聞こえ、賑やかなサウンドが鳴り響く。
新たな馬鹿者登場のせいか、あるいは俺の容姿のせいか、ギャラリーや寒冷男を含む三人組がざわめいた。マフラーの女の子は両手を腰に当て、あっきれたーというふうに小さく首を振っている。
ガンマンの、先ほどとは異なる罵り声と同時に、目の前でカウントダウンが始まった。
腰を落とし、全力ダッシュの体勢を取る。数字が減少し、金属バーが開いた瞬間、俺は地を蹴って飛び出した。
数歩も進まないうちに、ガンマンの右手が閃き、握られた銃の先端から三本の赤いラインが伸びた。俺の頭、右胸、左足をそれぞれポイントしている。
――と感じた瞬間、俺は思い切り右前方に飛んでいた。直後、体の左側をかすめて、青い光線が通過。すぐに右足でパネルを蹴り、中央に戻る。
もちろん、VRMMOゲーム内で銃と相対するのは初めてのことだ。
しかし、ALOにも――そしてSAOにも、弓やら毒液やら魔法やらで遠距離攻撃をするモンスターは多々存在した。それらの飛び道具を回避する方法は一つ。敵の「眼」から射線を読むのだ。
俺は赤い弾道予測線も、黒い銃口も見ずに、ただひたすらNPCガンマンの眼だけを凝視した。ぴくりぴくりと動くその生命なき瞳から、攻撃が襲ってくる箇所の気配を感じ取る。と同時に右に左に、あるいは上に下に大きく動き、無音で飛来する予測線それ自体を回避する。
気付くと、ガンマンは俺の目の前、あと少しで手の届こうという所に立っていた。右手の銃はもう間断なく光線を撒き散らしている。俺は顔を右に振り、左に倒し、体を横にして、至近距離からの三連撃をやり過ごした。直後に伸ばした右手が、ドンとガンマンの胸板を叩いた。
一瞬の静寂のあと――
「オー!! マィ……ガ――――――――ッ!!」
大げさな絶叫とともに、ガンマンが両手が頭を抱え、地面に両膝をついた。同時に、狂ったようなファンファーレの嵐。
それに混ざってガラガラという音が響き、何事かと顔を上げると、ガンマンの背後の赤レンガ壁の一部が内側から爆発したように崩れ、内部からドでかい金貨の雨がざらざらと降ってきた。それは俺の足元に跳ね返り、薄れて消えていく。
プール金額の表示がだーっと減っていき、ゼロになると同時に金貨の雨も途絶えた。一際やかましいサウンドが店内中に響いたあと、ゲームはリセットされ、ガンマンも起き上がってまた拳銃を指先でくるくる回し始めた。
「……ふう」
俺は息をつくと、左側の柵を飛び越え、ゲームから出た。
その途端、いつのまにか倍くらいに増えていたギャラリーの壁から、どよめきの渦が湧き起こった。何だよ今の、誰だあれ、という声が飛び交う。
人垣の中からたたっと駆け寄ってきた水色の髪の少女が、藍色の目を丸くして俺を凝視した。数秒後、その唇から掠れた声が流れた。
「……あなた、どういう反射神経してるの……? 最後、目の前……一メートルくらいのとこからのレーザーを避けた……あんな距離だともう、弾道予測線と実射撃の間にタイムラグなんてほとんどない筈なのに……」
「え、えーと……だって……」
俺はどう答えたものかしばし迷った挙句、言った。
「だって、この弾避けゲームは、弾道予測線を予測する、っていうゲームなんでしょう?」
「予測線を予測ぅ!?」
女の子の、可愛らしい叫びが店内の空気を貫いた。ギャラリー達も全員、目を丸くしてしーんと黙りこんだ。
数分後、ようやくギャラリーが三々五々散った武器ショップの一角で、俺はショーケース内のライフルをあれこれ眺めては首を捻っていた。
「う〜ん……。このアサルトライフルってのは、サブマシンガンより口径が小さいのに図体が大きいのはどういうわけなんです?」
隣の親切な女の子に素朴な疑問をぶつけてみたが、彼女はまだ驚きの余韻が冷めないらしく、見慣れぬものを見た猫のような、警戒心と好奇心の入り混じった瞳でじーっと俺を見ている。
「……そんなことも知らないのに、あんなとんでもない回避技術があるなんて……。コンバート、って言ったよね。前はどんなゲームにいたの?」
「え、えっと……よくある、ファンタジー系のやつですけど……」
「そう……。――まあ、いいわ。BoBの予選に出るなら、戦闘を見せてもらう機会もあるしね。で、銃だっけ。三〇〇kも稼いだなら結構いい奴が買えると思うけど……最終的には、その人の好みと拘りだから……」
「ナルホド」
俺はゆっくり歩きながら、黒光りする銃を次々に見て回るが、どうにもピンと来ない。それも当然、銃に関する知識なんて、「拳銃にはリボルバーとオートマチックがある」で終了してしまう程度なのだ。
唸っている間に、いつの間にか、店内に隙間無く並んでいる陳列棚の一番奥まで来てしまっていた。こうなったらもう、女の子にお任せで選んでもらおう――と思ったその時、視界に妙なモノが入った。
長いショーケースの隅に、銃とは明らかに異なる、金属の筒のようなものがいくつか並んでいた。
直径三センチ、長さは二十五センチほどだろうか。片側には登山用のカラビナに似た金具が下がり、もう一方は少し太くなっていて、中央に何かの発射口にも見える黒い穴の開いた突起が伸びている。この店に陳列されているからには銃なのだろうが、握りも、引鉄らしきものも見当たらない。筒の上部に、小さなスイッチが一つ見えているだけだ。
「あの……これは?」
聞くと、女の子はちらりと視線を走らせ、それが癖なのであろう仕草で小さく肩をすくめた。
「ああ……それはコーケンよ」
「こ、こうけん?」
「光の剣、と書いて光剣。正式名は〈フォトンソード〉だけど、みんなレーザーブレードとか、ライトセーバーとか、ビームサーベルとか、適当に呼んでる」
「け、剣!? この世界にも剣があるんですか」
俺はあわててショーケースに顔を近づけた。言われてみれば、古いSF映画で宇宙の秩序を守る騎士たちが振り回していた武器に非常によく似ている。
「あることはあるけど、実際に使う人なんていないよ」
「な……なぜ?」
「そりゃあ、だって……超近距離じゃないと当たらないし、そこまで接近する頃には間違いなく蜂の巣に……」
女の子はそこで言葉を切り、唇を僅かに開いたままじっと俺を見た。
俺はにこっと笑い返し、言った。
「つまり、接近できればいいわけですね」
「で、でも、そりゃあなたの回避は凄いけど、フルオートの銃相手だと……あ」
女の子が言い終わらないうちに、俺はケースに並ぶフォトンソードのうち、色合いが気に入ったマットブラック塗装の奴を指先でワンクリックしていた。出てきたメニューから「BUY」を選択すると、ものすごい速さでNPC店員がすっとんできて、笑顔で金属のパネルのようなものを差し出した。板の中央に、先ほどのゲームのキャッシャーについていたのと同じ、緑色のスキャナ面があるのに気付き、右掌を押し当てる。
またしてもレジスター的効果音が響き、パネル上面にぶうんとフォトンソードが実体化した。持ち上げると、NPC店員はお買い上げありがとうございましたぁ〜と笑顔で一礼し、来たときと同じ速度で定位置まで戻っていった。
「……あーあ、買っちゃった」
女の子が右斜め四十五度の視線で俺を見ながら、言った。
「ま、戦闘スタイルは好きずきだけど、さ」
「そうそう。売ってるってことはきっとそれなりに戦えるはずですよ、コレでも」
答えながら、俺は右手で短い筒状武器をしっかり握りなおし、目の前にかざした。親指を動かしてスイッチを入れると、低い振動音とともに、紫がかった青に光るエネルギーの刃が一メートル強ほど伸長し、周囲を照らした。
「おお」
思わず短くつぶやく。今までいろいろな剣を握ってきたが、刀身が実体のない光でできた奴は勿論初めてだ。とりあえず中段に構えてから、すっかり体に染み付いているSAOの片手直剣ソードスキル〈バーチカルスクエア〉を繰り出してみる。
ブン、ブォン、と心地よい唸りを上げながら、光の剣は空中に複雑な軌跡を描き、ぴたりと停止した。当然ながら、剣の重量による慣性の抵抗はまるで感じない。
「へえー」
横で、女の子が短く手を叩きながら、少し驚いたような笑みを見せた。
「なんだか、けっこうサマになってるね。ファンタジー世界の技かぁ……案外あなどれないかな?」
「や、それほどでも……。しかし、軽いなァ」
「そりゃそうよ、せいぜい軽いくらいしかメリットない武器だもん。――それはそうと、メインアームはまあソレでいいとしても、サブにSMGかハンドガンくらいは持ってたほうがいいと思うよ。接近するための牽制も必要だろうし」
「……なるほど、それはそうかもですね」
「あといくら残ってる?」
言われてウインドウを出してみると、三〇〇kクレジット以上あったはずの所持金は、一五〇kそこそこに減っていた。そう言うと、女の子はまばたきしてからひょいっと肩をすくめた。
「うへ、光剣って無闇と高いんだなぁ。残り十五万だと……弾や防具の代金も考えると、ハンドガンかな」
「あの、もう、お任せします」
「BoBに出るなら実弾銃がいいよね……牽制目的なら、パワーよりもアキュラシーかな……うーん」
呟きながら、女の子は拳銃が並んでいるケースの前をゆっくりと歩き、やがてそのうちの一つを指差した。
「残金ぎりぎりだけど、これがいいかな。FN−ファイブセブン」
細い指の先には、握り部分がなめらかな丸みを帯びた、やや小型の自動拳銃が鎮座していた。
「ファイブ……セブン?」
「口径のこと。五・七ミリだから、普通の九ミリパラベラム弾に比べるとかなり小さいんだけど、形がライフル弾に近いから命中精度と貫通力にアドバンテージがあるの。特殊な弾だから、同じFN製SMGのP90としか共用できないけど、これしか持たないなら関係ないしね」
「は、はあ……」
立て板に水のごとく滑らかな解説が出てくるのを聞いて、俺は初めて、この水色の髪の少女にわずかな興味を抱いた。
性別固定のVRMMOゆえに現実のプレイヤー本人も女性なのは間違いないが、人種、年齢はまったく定かではない。それでも、俺の勘によれば、歳はそれほど離れていない気がする。
もちろん、MMORPGをプレイしているのだから、ゲーム内のアイテムについて詳細な知識があるのは当然だ。アスナやリーファだって、ALO内の剣やら魔法について語らせれば五分や十分では終わらない。
しかし――、やはり「銃」はどこか別格であるように思えてならない。しかも、GGOに登場する銃の半分は、現実世界に実際に存在する武器なのだ。導かれるのはどうしたって荒廃と殺戮のイメージだ。俺と同年代の女の子が、そのような世界にダイブし、すべての銃について詳細な知識を持つベテランプレイヤーとなるまで戦い続けるほどの動機、モチベーションとは一体どのようなものなのだろうか――
「ね、聞いてる?」
「あ、は、はい」
俺は慌てて思考を中断し、頷いた。
「じゃあ、これを買います。他に買ったほうがいいものって、なんです?」
勧められた〈ファイブセブン〉なる拳銃、いやハンドガンのほかに、女の子の言葉に従ってスペアマガジンやら厚手の防弾ジャケット、ベルト型の〈対光学銃エネルギーフィールド発生器〉等々を買い込むと、先ほどの弾避けゲームで稼いだ三〇〇kクレジットは綺麗に消えてしまった。
右腰にフォトンソード、左腰にファイブセブンの新たな重みを感じながら店を出ると、黄昏色の空はわずかに赤味を増していた。
「すっかりお世話になっちゃいました。どうもありがとう」
俺が頭を下げると、女の子はマフラーの奥でかすかに微笑み、首を振った。
「ううん、私も予選が始まるまで、特に予定無かったから。……あっ」
言葉を切り、女の子は慌てたように左手首の無骨なクロノメーターを覗き込んだ。
「いけない、確か三時でエントリー締め切りだよ、急がないと。総督府はこっち!」
ひょいっと俺の手を握り、いきなり駆け出す。これはやはり、同じ女の子だと思っているのだろうなあ、と今更のように罪悪感を覚えながら、俺も必死に後を追った。
複雑に入り組んだグロッケンの街を、三次元的にとても覚えきれない道順で走り抜け、最後に暗渠のような短い地下道を抜けると、突然目の前が大きく開けた。
半月形の広大なスペースに接して、ごつごつと無骨なかたちをしたビルディング――というより塔が聳え立っている。どうやら、ドーム形状のグロッケンのほぼ北端にいるらしく、塔の背後には高い壁が左右に伸び、左手方向から降り注ぐオレンジ色の陽光を受けて鈍く光っている。
「ここが総督府、通称〈ブリッジ〉。あなたが出てきたスタート地点の、ちょうど反対側だね」
女の子は俺の手を離し、塔を見上げながら言った。
「ブリッジ? 橋?」
「じゃなくて、艦橋っていう意味かな? グロッケンが宇宙船だった時代の司令部だから、そう呼ばれてるみたい。イベントのエントリーとか、ゲームに関する手続きは全部ここでするんだ。さ、行こ」
女の子のあとについて広場を横切り、塔の一階に入ると、そこもかなり広い円形のホールになっていて、左右の壁に沿って無数の端末が並んでいた。かなりの人数のプレイヤーがフロアを行き交い、また吹き抜けの二階にはカフェのような物もあるらしく、肩にごつい銃を下げた男たちがアフタヌーン・ティーを楽しんでいるという異様な光景が見える。
俺を並んだ端末のひとつに連れて行き、女の子はひょいっと首を傾げた。
「操作は普通のパソコンと一緒だけど……エントリーの仕方、わかる?」
「やってみます」
「ん。私も隣でやってるから、分からなかったら聞いて」
こくんと頷き、パネルで仕切られた端末に向かう。
モニターに映し出されているのは、「グロッケン総督府」と表記されたホームページ状の画面で、驚いたことにメニューも含めて全てが日本語だ。ダイブ前に、現実世界のネットでGGOのオフィシャルサイトを見たときはすべて英語で閉口したものだが、どうやらゲーム内はある程度のローカライズが行われているらしい。
指先でモニターを辿ると、すぐに第三回バレット・オブ・バレッツエントリーのボタンが見つかり、更に数回の操作で簡単に手続きが終了した。モニタに、予選トーナメント一回戦のブロックと時間が表示される。日付けは今日、時間は――わずかに三十分後だ。
「終わった?」
女の子がひょいっと俺のブースを覗き込んだ。はい、と答え、メニューを初期化して端末から離れる。
「ブロックはどこだった?」
「Kです。K−37だったかな?」
「あ……そっか。同時に申し込んだからかな、私もKブロックだよ。十二番だから……良かった、当たるとしても決勝だね」
「良かった、って、何でです?」
「決勝まで行けば、本大会には出られるの。予選だからって……」
猫を思わせる瞳をくるっときらめかせ、
「手は抜かないけどね」
「ああ……なるほど。もちろん、もし当たったら全力で戦いましょう。――それにしても、ここの端末は日本語なんですね?」
「ああ……うん。運営体のザスカーっていうのはアメリカの企業らしいんだけど、日本向けサーバーのスタッフには日本人もいるみたい。でもほら、GGOって日本でもアメリカでも、法律的には結構グレーらしくて」
「還元システムのせいですね」
「そう。ある意味ギャンブルだもんね。だから、表向きのホームページとかには最低限の情報しかないんだ。所在地も載ってないんだから、徹底してるよね。キャラ管理とか、通貨還元用のEマネーIDとか、ゲームに関する手続きはほとんど中でしか出来ないの」
「何て言うか――凄いゲームですね」
「だから、現実とはほぼ完全に切り離されてるんだけど……でも、そのせいで、今の自分と、現実の自分も……」
ふと、女の子に瞳に影が過ぎった気がして、俺は口を噤んだ。
「……?」
「う、ううん、なんでもない、ご免。――そろそろ会場に行かないと。って言っても、ここの地下なんだけどね。準備はいい?」
「ええ」
「決勝で会えるといいね。あなたの戦い方、ちょっと興味あるし。あ……まだ、名前言ってなかったね」
女の子はメニューを出し、その表面から透明のカードを取り出した。慌てて俺も左手を振ると、出現したホロウインドウの左下に「パーソナルカード」なるボタンを発見し、押した。ピコっという音とともに名刺サイズのカードが出現する。
俺に向かってカードを差し出しながら、女の子は微笑み、言った。
「私の名前はシノン。よろしくね」
偽装もどうやら限界と見て、俺もカードを摘んだ右手を伸ばしながら名乗った。
「――俺はキリト。よろしく」
「…………俺? キリト……?」
女の子の微笑みがすうっと消え、眉がわずかにしかめられる。
「あなた……まさか……」
左手でパッと俺のカードをひったくり、女の子――シノンはそれを覗き込んだ。
「……M。あなた、男!?」
引っ込められかけたシノンのカードを俺も素早く掻っ攫い、視線を落とした。「シノン」という名前の横に、小さく「F」の表記。どうやら俺と違って間違いなく女の子らしい。
「あれ、言わなかったかな? 男だよ、勿論」
「……こ、この……口調まで違うじゃない……」
シノンの藍色の瞳が強い光を放ちながら、俺をじろりと睨んだ。先ほどまでは無かった、明確な敵意の色。
うーんゾクゾクするね、と不埒なことを考えながら、俺はいつもの片頬だけの笑みとともに改めて右手を差し出した。
「助かったよ、ありがとう」
シノンは、左手の甲でぱしんと俺の手を叩き、答えた。
「ほんとに、楽しみだよ、君と決勝で当たるのが」
少女のまとう雰囲気の変化には、驚くべきものがあった。周囲の温度までが、春から冬へと急降下したかのようだ。
真珠のごとく色の薄い唇を一直線に引き結び、改めて「敵戦力」を計る視線で俺を一瞥すると、シノンはくるりと身を翻した。そのまま、総督府一階ホールの奥に見えるエレベータらしき扉へと、コンバットブーツを鳴らして歩いていく。まるで――いま初めて、現実のプレイヤーからゲーム内の戦士へと変貌したとでもいうような……
しばらく、揺れる水色の髪とマフラーのしっぽを見つめていたが、予選会場の場所も知らない俺はここで置き去りにされては困ると思い慌てて追いかけた。シノンは振り向きもしなかったが、壁に設けられたボタンに触れ、開いたドアの内部に一歩踏み込んだところで足を止め、ようやく肩越しに一瞬だけ俺の顔を見た。
「ついてこないで」
「や、その……場所、知らないし」
氷の彫像のような横顔に向かって言うと、シノンはかすかにため息をつき、もう一歩動いて入り口を空けた。ほっとして、俺もエレベータに体を滑り込ませる。
シノンが内部のボタンを押すと音も無く扉が閉まり、すうっと降下する感覚が訪れた。
しばらくは、カシッ、カシッ、と階数表示が切り替わる機械音だけが狭い空間に満ちていたが、やがてシノンが抑揚の薄い声で言った。
「――最低限のことだけ説明しておく。ここから出たら本当に敵同士だから」
「ど、どうも」
「地下二十階のホールが待機場所になってて、時間が来たら対戦者と一緒にバトルフィールドに転送される」
俺はちらりとエレベータ上部のインジケータを見上げた。Bのついた数字は二十五まであるようだ。
「最下層じゃないんだ?」
「ああ、最下層には遺跡ダンジョンに入るためのチェックゲートが……――余計な口挟まないで」
じろりと睨まれてしまう。
「は、はい」
「実際の戦場に飛ぶ前に、カーゴルームにアクセスできるからそこで装備を整えて、と言っても君には必要ないだろうけど。フィールドの広さは五百メートル四方、マップはランダム。最低二百メートル離れた場所からスタートして、決着したらまた待機エリアに戻ってくる。勝ったとして、その時点で、次の対戦者の試合が終わってればすぐに二回戦がスタート。終わってなければ、それまで待機。Kブロックは六十四人だから、五回勝てば決勝進出で本大会の出場権が得られる。――これ以上の説明はしないし質問も受け付けない」
ぶっきらぼうな言葉のわりには丁寧な解説によって、どうやら予選トーナメントの概略は想像できた。俺は改めてシノンに礼を言った。
「大体わかったよ。ありがとう」
すると彼女は、再び一瞬だけ俺に視線を投げ、またすぐに前を向いた。唇が動き、ささやくような声が流れる。
「――決勝まで来るのよ。あれだけ色々説明させたんだから、最後のひとつも教えておきたい」
「最後?」
「敗北を告げる弾丸の味」
「……楽しみだな。しかし、君のほうは大丈夫なのかい?」
シノンはフン、とかすかに鼻を鳴らし、ごくごくわずかな笑みを浮かべた。
「予選落ちなんかしたら引退する。今度こそ――」
エレベータの扉を凝視するシノンの瞳が、強烈な瑠璃色の光を放った。標的にフォーカスするレンズの如く、ギュウッ! と音を立てて焦点が切り替わったような気がした。
「――強い奴らを、全員殺してやる」
その言葉はほとんどボリュームのある音声としては発せられず、かすかな振動として直接俺の意識に響いた。シノンの唇が更に動き、獰猛な獣のような笑みを形作った。俺の背筋を、久しく感じたことのなかった氷のような戦慄が駆け上った。ちょうどその時、電子音と同時にエレベータが減速、停止し、扉が左右に開いた。
ドアの向こうは、ドーム状の広大な空間だった。六角形の金属タイルを敷き詰めたフロアがどこまでも広がり、彼方にトラス構造の支柱が連続する壁と天蓋が見えるものの、ほとんど闇に飲まれている。上空には、街で見たのと同じような巨大なホログラムがゆっくりと回転しているが、それは謎の広告ではなく、明朝体の日本語フォントで「第三回 バレット・オブ・バレッツ予選会場 開始まで あと七分三〇秒」と書いてある。
どうやら俺たちはほとんど最後に会場入りしたようで、フロアには既に数百人は下らないプレイヤー達がたむろしていた。三々五々固まり、盛大にくわえ煙草の紫煙を噴き上げたり、ボトルごと酒をあおったりしている連中は、地上で見たプレイヤー達よりも更に数倍怪しく、剣呑で、俺はおもわず「うわっ」とうめいていた。強面大男のエギルだってここに混じれば目立つまい。
だがシノンはまるで気にするふうもなく、すたすたと壁際を歩いていく。と、その姿を目に留めたプレイヤーの一団が低くざわめいた。やはり彼女は相当な有名人なのだ。この世界では珍しい女性プレイヤーだから、というだけではなく、突出した強さのせいでもあるのだ、きっと。――などと思っていると、男達の視線が俺を捉え、そして新たなどよめきが波のように広がった。反射的に首を縮める。
確かにこの世界には、せいぜい目立って「死銃」氏と接触するために来たのではあるが、こういう場所で直接の注目を集めるのはどうにも苦手だ。
慌てて俺もドアの前を離れ、シノンの後を追った。
すたすたと歩いていくシノンは、やがて壁際に人気の無いスペースを見つけると、そこにすとんとしゃがみ込んだ。マフラーをぐいっと引き上げ、深く顔を埋める。その姿からは他人を拒絶するオーラが強烈に放たれているが、俺は図太い神経を発揮してそれをやり過ごし、シノンの隣にどっこいしょと腰を下ろした。
「……ついてこないで、って言った」
苛立ちを帯びた、氷点下の声が流れる。
「心細いし……どうせあと数分だしさぁ」
子供のように言い返すと、盛大なため息が返ってきて、それきりシノンは黙り込んだ。
数十秒間の沈黙のあと、俺が懲りもせずに話し掛けようとしたその時、新たな足音が俺たちに近づいてきた。膝をかかえて座り込んだまま顔を上げると、それは灰色の長髪を垂らした背の高い男だった。
ダークグレーにもう少し明るいグレーのパターンが入った、迷彩の上下を身につけている。肩から、やや大型の機関銃、多分サブマシンガンではなくアサルトライフルという奴を下げ、痩せた体に似合った鋭い顔立ちだ。歴戦の兵士、というよりは、特殊部隊の隊員といった雰囲気である。
男は俺には目もくれず、シノンをまっすぐ見て微笑を浮かべ、口を開いた。
「遅かったね、シノン。遅刻するんじゃないかと思って心配したよ」
その馴れ馴れしい口調に、俺はまたシノンの言葉のナイフが出るぞー、と思って首をすくめたが、以外や水色の髪の少女は身にまとった雰囲気をふっと和らげ、小さな笑みを浮かべて答えた。
「こんにちは、シュピーゲル。ちょっとしょうもない用事に引っかかっちゃって。あれ、でも……あなたは出場しないんじゃなかったの?」
シュピーゲルと呼ばれた男は照れくさそうに笑いながら右手で頭をかいた。
「いやあ、迷惑かもと思ったんだけど、シノンの応援に来たんだ。ここなら、試合も大画面で中継されるしさ」
どうやら男はシノンと旧知の間柄らしく、すとんと彼女の前に腰を下ろして胡坐をかいた。
「それにしても、しょうもない用事……って?」
「ああ……ちょっと、コノヒトをここまで案内したりとか……」
シノンが、打って変わって冷たい目を一瞬だけこちらに向ける。俺はやれやれ、と思いながらうつむけていた顔を上げ、シュピーゲルという男にむかってかるく会釈した。
「どーも、こんにちは」
「あ……ど、どうも、はじめまして、シュピーゲルといいます。ええと……シノンの、お友達さんですか?」
それなりに雰囲気のある、強そうな男ではあるが、どうやらシュピーゲルはその鋭い外見に似合わず礼儀正しい性格のようであった。あるいは――やはり俺の性別を誤解しているのか。
どう答えると面白いかなあ、と思いながら俺が言葉を捜していたとき、シノンが短く吐き捨てた。
「騙されないで。男よ、そいつ」
「えっ」
目を丸くするシュピーゲルに、しかたなく名乗る。
「あー、キリトと言います。男です」
「お、男……。え、ていうことは、えーと」
シュピーゲルは混乱した表情で俺とシノンを交互に見る。へえ、ふーん、と思った俺はちょっとした悪戯心で、男の混乱に燃料を注いでみることにする。
「いやあ、シノンにはすっかりお世話になっちゃって、いろいろと」
「ちょっ……な、何もしてないわよ私は。だいたいアンタにシノンなんて呼ばれるおぼえは……」
「またそんなつれないことを言う」
「つれないもなにも、赤の他人よ!!」
「武装のコーディネイトまでしてくれたのに?」
「そっ……それは、アンタが……」
と、そこまで掛け合いを続けたときだった。
突然、甘い響きの女性NPCボイスが、大音量で待機エリアに響き渡った。
『大変お待たせしました。ただ今より、第三回、バレット・オブ・バレッツ予選トーナメントを開始いたします。エントリー・プレイヤーの皆様は、カウントダウン終了後に転送されます。幸運をお祈りします』
直後、会場じゅうに拍手とうおおっという歓声が湧き上がる。
喧騒のなかシノンはすっくと立ち上がり、俺にびしっと右手の人差し指を向けた。
「決勝まで上がってきなさいよね! その頭すっ飛ばしてやるから!」
俺も腰を上げ、にっと笑って答えた。
「デートのお招きとあらば参上しないわけには行かないな」
「こっ、この……」
進行していた十秒のカウントダウンがゼロに近づき、俺はシノンに手を振ってから転送に備えようと前を向いた。そして、じっと俺を見ていたシュピーゲルと視線が合った。
その鋭い目に、明らかな警戒と敵意の色を見て、これはちょっとやりすぎたかな、と思ったのも束の間――俺の体を青い光の柱が包み、たちまち視界の全てを覆い尽くした。
転送された先は、暗闇の中に浮かぶ一枚のへクスパネルの上だった。目の前に、斜めに浮かぶ緑色のホロウインドウがあり、上部に「カーゴルーム」の表示がある。更にその奥に、こちらは垂直に「準備時間:残り五八秒 戦場タイプ:古代遺跡G」と書かれたウインドウ。
おそらく、指定されたマップに適合する装備を整えるための準備時間として一分間が与えられているのだろうが、余分なアイテムも、マップの知識も持ち合わせていない俺にはまったく意味がない。右手の指先で、カーゴルーム・ウインドウ下部のOKボタンを押して消去する。
デジタル数字が、蝸牛の歩みほどの速度でのろのろと減少していくのを待つ間、俺はあるひとつの突飛な可能性についてぼんやりと考えていた。
あのシノンという少女の、あまりにも極端な変貌。触れたもの全てを切り裂くナイフのような殺気。
エレベータの中で、まるでテレパシーのように俺の脳裏に響いた声を思い出す。「強い奴を、全員殺す」――荒唐無稽と言えばそれまでの、あまりに直截な台詞ではあるが、俺はなぜかかのSAO世界においても何回とは憶えがないほどの戦慄を感じていた。ゲーム内のロールプレイを超えたリアルな殺意が、彼女の小さな身体から強烈に放射されたかのようだった。
電子信号が作り出す虚構世界において、あそこまでの「意思」を感じさせるプレイヤーにはほとんど会ったことがない。女性プレイヤーでは、端的に言えば、激怒した時のアスナ以外には知らない。いや――「閃光」、そしてそれ以前は「凶戦士」とまで呼ばれたアスナでも、あのような獰猛さを俺に感じさせたことはなかった。
有りうるだろうか? あの水色の髪の少女が、俺の捜す「死銃」その人である、というようなことが?
菊岡が俺に聴かせた音声ファイルに記録されていた死銃の声、あの、金属が軋むような不快な声と、シノンの甘く澄んだ声とはまるで違う。だが、ここはSAOとは異なる、あくまで通常のゲーム世界だ。一人のプレイヤーが複数のキャラクターを所持し、ログインごとに使い分けるということはごく当たり前に行われている。
それに、口ぶりからすれば、シノンはバレット・オブ・バレッツ本大会進出に絶対の自信を持っているようだった。「死銃」はきっとその大会に出てくる、という俺の予測が正しければ、候補者は三十人にまで絞られる。シノンはその一人、ということになる。
心情としては、こんな可能性は検討したくない。俺をショップに案内し、あれこれ説明してくれたときの彼女からは、まったくと言っていいほど殺気を感じなかった。それどころか、そこはかとない寂しさ、人恋しさを漂わせていたような気すらした。一体どちらが本物のシノンなのだろう……
――ここでいくら考えていても結論は出ない。剣を交えれば、いや銃を撃ち合えば、きっと何かが分かるだろう。
そう思って、伏せていた視線を上げたその瞬間、残り時間表示がゼロになった。俺の体を、再度の転送感覚が襲った。
放り出されたのは、陰鬱な黄昏の空の下だった。
甲高い笛のような音を引いて、風が過ぎ去っていく。上空の黄色い雲が恐ろしい速さで流れ、足元の枯草がざわざわと揺れる。
すぐ傍らには、古代ギリシャ風――だかローマ風だかの、巨大な円柱がそびえていた。三メートルほどの間隔を置いて、コの字型に何本も連なっている。ある柱は上部が崩れ、あるものは完全に倒れて、はるか昔に滅びた神殿の廃墟といった趣だ。
俺はとりあえず、手近な柱にぴたりと体を寄せてから素早く周囲を見渡した。
枯れた草原が四方どこまでも続き、その彼方に、今いる場所と似たような遺跡が点在している。シノンの説明によればフィールドは五〇〇メートル四方ということだが、地平線までは数十キロとありそうだ。きっと不可視の障壁が設定してあるのだろう。
更に解説を思い出す。対戦者は、現在少なくとも二〇〇メートル離れた位置に出現しているはずだが、とりあえず見渡したところ人影のようなものはない。きっと、俺と同じようにどこかの遺跡に隠れているのだ。
このまま俺も隠れ続けて、敵が痺れを切らせて動いたところを発見する、という作戦もあるが、どうも「待ち」は性分ではなかった。それよりも、とりあえず最寄の遺跡まで全力ダッシュして、あえて銃撃されることで敵位置を確認するほうが手っ取り早いなあ……と思いながら、何気なく左手で、腰に装備されているハンドガン、確かFN−ファイブセブンなる名前のソレの感触をたしかめた時だった。
一際激しい風が、ざああっと吹き渡って、周囲の草原を激しく波打たせた。突風が過ぎ去り、草が再び立ち上がった、まさにその瞬間。
俺の目の前、わずか二十メートルほど離れた草むらから突然、ザッ! と人間が立ち上がった。
すでに両手でぴたっと構えられたアサルトライフル、その機関部に押し付けられた髭の生えた頬、顔の上半分を覆うレンズのついたゴーグルと、ダミーの草が伸びたヘルメットなどが一瞬で目に焼きつく。
いつのまにそんなところまで接近されたのか、まるで分からなかった。その理由の一端は、彼が身に付けた迷彩服にあるのは明らかだった。周囲の草むらとまったく同じカーキ色の地に、細い縦縞のパターンが入っている。なるほど、これがあの六十秒の準備時間の効用か――と思う間も無く。
敵が右肩に構える黒いライフルから、無慮数十本の赤いラインが伸び、俺を含む周囲の空間をびっしりと貫いた。
「うわっ!!」
俺は思わず悲鳴を上げ、同時に思い切り地を蹴り、飛んでいた。もっとも「弾道予測線」の密度が薄かった方向――上空へ向かって。
直後、敵のライフルがカタカタカタ! と軽快な音を立て、右足の脛部分に立て続けに二回の衝撃を感じた。視界の右端に表示されていたHPバーが、がくん、がくんとほぼ一割減少する。とてもじゃないが、避けきれる弾数ではない。シノンが警告してくれた、「フルオート射撃」という言葉を今更のように思い出す。
俺は空中でくるりと後方に宙返りして、背後にあった円柱の上端に着地した。とりあえず反撃してみようと、左手で腰からファイブセブンを抜く。
が、それを構える余裕すらも敵は与えてくれないようだった。再び、俺の身体に無数の予測線が突き立った。
「わああ」
情けない悲鳴を上げ、円柱の後ろに飛び降りる。が、更に一弾が左腕を掠め、HPが削られる。
降り注いだ弾の雨のほとんどは石の柱に命中し、ビシビシビシと音を立てて細かい破片を飛散させた。ばくばく言う心臓を押さえつけながら、必死に体を縮め、円柱の陰にうずくまる。
いやはや、これは確かに剣対剣の戦闘とはまったく違う!
あの弾除けゲームのNPCガンマンによる銃撃は、二秒のインターバルを置いて三発程度のリズムで、それを避けるのにも全神経の集中を要したのだが、いくらなんでもこんな――秒間十発以上とさえ思える連射には手も足も出ない。
俺の右腰に下がる「フォトンソード」であの髭面をぶった斬るには、どうしたってすぐ目の前まで接近しなくてはならないが、そこまでたどり着く前に穴だらけにされるのは必至だ。
完全に回避するのが不可能なら、どうにかして銃弾を「防御」するしかない。だが生憎、この世界には飛び道具を防いでくれるマジックシールドのような物は存在しない。SAOなら、剣を盾のかわりにする武器防御スキルというものがあったのだが――
俺はふと、右腰に下がったままの光剣に手を添えた。この剣で、せめて何発か銃弾を防ぐことができれば……だが、そんな離れ業を実現するためには、襲ってくる弾の軌道を正確に予測する必要が……
いや――それは可能だ。可能なはずだ。なぜなら、弾の軌道は、「予測線」がきっちり教えてくれるではないか。
俺はごくりと生唾を飲み込み、右手で光剣を強く引いて金具から外した。
現在、銃撃は一時的に止んでいる。おそらく、再び草むらに身を沈め、左右どちらかから回り込んでくるつもりだ。
俺は目を閉じ、聴覚のみに集中した。
あいかわらず風がびゅうびゅうと鳴っている。その甲高い音を、意識から排除する。波立つ草原の乾いた葉擦れの音、規則的に繰り返されるそのリズムの中に、イレギュラーな音を探す。
居た。
左斜め後方、七時の位置を、かすかな不規則音源が九時方向へとゆっくり移動している。二〜三秒動いては停止し、こちらを探る気配を感じる。
敵の移動が再開し、止まり、そしてまた動きはじめた、その瞬間。
俺は右足で思い切り地面を蹴り飛ばし、男の潜む位置へと一直線の全力ダッシュを開始した。
よもや、隠れているはずの自分に向かって敵がまっすぐに突っ込んでくるとは、髭面の男も想像しなかったのだろう。枯草の中から体を起こし、膝立ちになってライフルを構えるまでに一秒半ほどのタイムラグがあった。
その時点で、俺は男との距離約二十五メートルを半分近く詰めていた。走りながら、右手に握ったフォトンソードのスイッチを、親指でスライドさせる。ヴン、と頼もしい音とともに、青紫色に輝く刃が長く伸びる。
三たび、敵のアサルトライフルから伸びる十本以上の着弾予測線が表示された。
首筋をちりちりと疾る恐怖を抑えつつ、冷静に観察したところ、赤く細いラインはすべてが同時に現われたわけではなく、ほんの少しずつの時間差があった。その差がつまり、ライフルのマガジンから吐き出されてくる弾丸の順序、というわけなのだろう。
ダッシュする俺の、現実と比べれば相当に小柄な身体をしっかりと捉えている予測線は合計で六本あった。あとは全て、上下左右にわずかずつ外れている。ごく近距離であることを考えると、敵のライフル――もしくは射手自身の命中精度は案外大したことはないのかもしれない。
久々のガチンコバトルの緊張感に、ようやく俺のスイッチも入りはじめたようだった。視界の余白部分が放射状に引き伸ばされ、ターゲットの姿だけが鮮明になっていくような、懐かしいアクセル感。ゆっくりと流れていく時間のなかで、意識だけが猛烈なスピードで回転しはじめる。
黒い敵ライフルの銃口が、パッとオレンジ色に光った。
その瞬間、俺の体をポイントする六本のライン、その初弾と次弾の軌道を、光剣の刀身で寸分の狂いもなく遮る。
バッ、バシッ!! ――とまばゆい火花が、光の刃の表面に弾けた。それを意識した時にはもう、俺の右腕は電光のように閃き、三弾め、四弾めの軌道を結ぶ線分にフォトンソードを重ねている。再度、銃弾が高密度のエネルギーによって消滅させられる衝撃音。
「当たらないはず」の銃弾が耳もとで立てる唸りを、一切無視して突進し続けるのはかなりの精神力を要する行為だったが、俺は歯を食い縛って更に剣を動かした。五――そして六! 命中弾のすべてを剣で叩き落し、残る距離を一気に駆け抜けるべく全力で地面を蹴る。
驚愕のせいか、レンズつきゴーグルの下、濃い髭に囲まれた男のアゴががくんと落ち、口が大きく開かれた。だが、それでも男の両手はすさまじい速さで動き、空になったマガジンをリリースすると同時に腰からスペアを引き抜いてライフルに叩き込もうとする。
そうはさせじと、俺は左手に握っていたファイブセブンを男に向けた。指に力を込めた途端、男の胸を中心に薄い緑色の円が表示されて驚かされるが、構わず立て続けに五回、引鉄を絞る。
意外に軽い反動が肘から肩へ伝わると同時に、緑の円は小さく収縮し、男の上半身をきっちり収める程度のサイズになった。その内部、男の肩とわき腹に二発が命中し、残り三発は背後の草むらへと消えていったが、どうやら当たった弾は男の防弾装備を貫通してダメージを与えたようだった。ぐらりとよろめいて、僅かにたたらを踏む。
その時間で充分だった。
間合いに入った瞬間、俺は体を小さく右に捻り――
仮想の大地を突き破る勢いで踏み込むと同時に、ダッシュのスピードを余さず乗せた全力の直突き、SAO世界であれば〈ヴォーパルストライク〉と呼ばれた必殺の一撃を、敵の胸板に叩き込んだ。
まるでジェットエンジンのような振動音とともに、光の刃はあっけなく根元まで貫通した。行き場の無いエネルギーの嵐が、一瞬敵の体内で吹き荒れるような感触。
直後、凄まじい光と音が俺の右手元から円錐状に放射され、敵の身体を無数のポリゴン片に変えて空間に拡散させていった。
痺れるような戦闘の余韻を全身に感じながら、俺はゆっくりと体を起こした。ヴヴン、と音をさせて光剣を左右に切り払い、一瞬背中に収めそうになってからスイッチを切る。
カラビナ状の金具で右腰に剣を吊り、左手のハンドガンもホルスターに収めると、ようやく溜めていた息を長く吐き出して、黄昏の空を仰ぎ見た。ちょうどその時、流れていく雲をスクリーンにして、コングラチュレーションの表示が浮かび上がった。
このしんどい戦闘が、あと四回か――と思い、がくりと肩を落とす俺の体を、転送エフェクトの青い光が包んでいく。寂しい風鳴りが徐々に遠くなっていき、大勢の人間が立てる喧騒がそれにとって変わったときには、俺はもう待機エリアへと戻っていた。
どうやら、場所も転送されたときと同じ壁際のようだった。きょろきょろと左右を見渡すが、シノンとシュピーゲルの姿は無かった。シノンは戦闘中としても、彼女との関係が少々気になるあの男はどこに行ったのだろうと周囲を見渡すと、少しドームの中央寄りの場所に、覚えのあるグレーの迷彩服姿があった。こちらに背を向け、上空を見上げている。
俺も視線を上向けると、予選開始前は残り時間の表示が浮いていた場所に、マルチ画面のホロモニターが出現していた。四×四個の巨大な画面それぞれに、さまざまなフィールドで銃をぶっぱなしまくるプレイヤー達の姿が映っている。
おそらく、現在同時進行している数百の試合のうちいくつかを中継しているのだろう。時折、不運なプレイヤーが銃弾を受けて四散し、勝敗が決するたびに、フロアにたむろする無数のプレイヤーから大きな歓声が湧き上がる。
どれどれ、シノンの試合は映っているかな、と思いながら俺も数歩前に進んだ。右上から一つずつ確認していくが、カメラが引き気味なのでどうもよくわからない。あの目立つ水色の髪を見つけようと、じっと視線を集中する――
――だから、いきなり右耳のすぐ近くで声がした時は、心臓が止まるほど驚いた。粘つくような、それでいて金属質な響きのある声が、直接耳に注ぎ込まれた。
「君、強いね」
「!?」
反射的に飛び退りながら振り向く。
立っていたのは、俺より少しだけ背の高い――つまりはどちらかと言えば小柄なプレイヤーだった。
性別はわからない。黒いぼろぼろのマントを体に巻きつけてフードを目深に下ろし、更に顔の下半分を布で覆っているからだ。わずかにフードの奥、暗闇の中で光る眼だけが見て取れる。ナイフで切ったように細く吊りあがり、暗赤色の小さな瞳が瞬きもせずに俺を見ている。
「あ……アンタは?」
反射的に聞くが、黒マントのプレイヤーは答えずに、音も無く俺に歩み寄ってきた。ここは街中で、アタックはできないはずだと判っていても、無意識のうちに腰の剣に手が伸びる。
黒マントは再び俺の眼前数センチにまで顔を近づけると、まるでエフェクターにでも通したかのような非人間的な声で言った。母音が多重にブレる不快な響きに、肌が粟立つ。
「試合、見てたよ。それ……光剣だね。珍しいね、ここで剣を使うなんて」
「…………」
「それに……どこかで見たような動きだったよね。今はもう無い、別のゲームで、だけどね」
――まさか……。
「ねえ……名前、教えてよ」
名乗るべきではない、そんないわれもない強迫観念に捕われ、俺はためらった。しかし――試合経過のデータを参照すれば、どうせ分かってしまうことだ。
「……キリト」
短く告げた、その途端、フードの奥で細い目が一瞬見開かれた。点のごとき瞳孔が、血の色の光を放ったような気がした。
黒マントは、さらに一歩踏み出し、殆ど俺の頬に唇を接するほどに顔を寄せてきた。幾らなんでもこれはハラスメントだろう、突き飛ばしたって文句は言われない――と分かっていても、俺はすでに相手の粘つくような気に呑まれていた。
超至近距離からじっと俺の目を覗き込みながら、黒マントは言った。
「キリト……その名前…………騙りだったら、君、殺すよ?」
「…………!?」
「本物だったら…………ふ、ふ……やっぱり、殺すけどね」
絶句する俺の目に、男の視線がスキャン・レーザーのように突き刺さる。脳の内側を、くまなく走査されているかのような錯覚に襲われる。
数秒間硬直したあと、どうにか動揺した意識を立て直して、俺は黒マントの目を睨み返した。
「……騙りとか、本物とか、どういう意味だ」
「さっき、君が使った剣技……いや、ソードスキルと呼ぼうかな。分かるんだよ、僕も昔、使ってたからね」
「お前は……」
「そうさ、〈生還者〉だよ。君も、そうなんだろう? でも、あの世界にいたプレイヤーで、その名前を知ってる奴はごく少ないはずだよね。本人か、その周囲の攻略組か……あるいは、彼の、敵か」
「……なら、お前はそのうちのどれなんだ。なぜ〈キリト〉を殺したがる」
「もちろん、三つ目……敵だからに決まってるじゃないか」
「……敵……?」
「ギルド〈ラフィン・コフィン〉。聞いたことあるかい?」
その名前を聞いた瞬間、首筋に氷の息を吹きかけられたような気がして、全身が総毛立った。足元の、金属タイルがいつのまにか木板――棺桶の蓋に変わり、それがゆっくりとずれていく。青白い手が音も無く突き出し、俺の足首を握る。
悪魔の顔が描かれた棺からはみ出した腕――「笑う棺桶」のギルドエンブレム。
こいつは亡霊……過去から現われた亡霊だ。そう思いながら、俺は反射的に首を振っていた。
「……いや、知らないな」
「…………」
黒マントはしばらく無言で俺を凝視し続けたあと、すっと体を引いた。完全な闇に隠れたフードの奥から、電子的な声が低く響いた。
「……もし騙りなら、その名前を使うのはやめたほうがいいよ。殺したいと思ってる奴は僕だけじゃないだろうしね」
「殺す殺すって……あの世界はもう無くなったんだ。HPがゼロになることはあっても、もう誰も死んだりしない」
「ふ、ふ……本当に、そうかな?」
「何……?」
男は、ボロボロのマントの前をわずかに開くと、その隙間で右手を動かし、腰のホルスターから大型のハンドガンを少しだけ抜き出した。艶消しの黒に塗装された銃身に、細く刻まれた深紅のラインが目を引く。
反射的に俺も右腰の光剣に手を添えるが、黒マントはそこで動きを止めた。
「君も、すぐに知ることになる。あの世界でたくさん、たーくさん殺したプレイヤーキラー……いや、〈マーダラー〉には本当の力が宿っている、ということをね」
「なんだと……」
本当の力。つい最近も、その言葉を聞いた。菊岡が持っていたファイルの中で、目の前の男と似た声の持ち主が確かにそう叫んでいた。
「お前……お前が……」
掠れた声でその先を言おうとした時、背後で声がして、俺は口をつぐんだ。
「一回戦は勝ったみたいね」
素早く振り向くと、立っていたのは水色の髪の女の子――シノンと、灰色の迷彩服を着たシュピーゲルだった。戦闘の余韻のせいか、シノンの藍色の瞳はきらきらと光り、頬にはわずかに赤味が射している。どうやら彼女も勝ったらしい。
シノンは、少しだけ訝しそうな顔で俺と黒マントを見比べたあと、肩をすくめた。
「新しいお友達? 意外に社交的なんだ」
「……いや……」
どう答えたものか迷って一瞬口ごもっていると、黒マントがシノンに数歩近づいて言った。
「ふ、ふ、そうなんだよ。彼とは――言わば同郷でね」
男の異様な雰囲気に気付いたのか、シノンが唇を結んでわずかに身を引いた。だが黒マントは更にシノンににじり寄っていく。
「君、スナイパーのシノンだよね。……一度、戦いたいと思っていたんだ。ブロックが違うから、予選では当たれないけどね」
「…………」
シノンは無言のまま、剣呑な眼光で黒マントを睨む。と、彼女を守ろうとするかのように、シュピーゲルが一歩踏み出し、シノンと黒マントの間に立った。
「ちょっと、君……」
だが黒マントは、シュピーゲルの抗議の言葉を遮るように短く首を振り、滑るように退いて距離を取る。
「ふ、ふ、まさかここで撃ったりしないよ。あくまで本大会のフィールドで……大勢が見ている前で、ね」
それを聞いたシノンの、獲物を狙う猫の瞳がきゅっと細まった。
「……あんた、名前は?」
「……モルターレ」
短く答え、黒マントはフードの奥の細い目でシノンを、次いで俺を凝視した。すうっと、宙を浮くようにこちらに近づいてくる。再び耳もとで、いんいんと響く金属的な声。
「君とは、一度じっくりと思い出話をしたいね。できることなら――リアルでね。……おっと、二回戦が始まるようだ。じゃあまた……本大会で会おうね」
しゅうしゅうと擦過音の混ざる笑い声をかすかに漏らし、モルターレと名乗る男はぼろぼろに解れたマントの裾を踊らせながら、熱気と歓声の渦巻く人込みのなかへと歩み去ってたちまち見えなくなった。
俺はいまだ動揺から醒めず、棒のように立ち尽くすことしかできなかった。
〈ラフィン・コフィン〉――、その名はすでに遠い過去、混沌とした記憶の海に没したはずだった。あの世界での二年のあいだに次から次へと襲ってきた、嵐のような戦闘の連続のひと欠片でしかないはずだった。
だが、黒マントにその名を出されたとき、俺は反射的に嘘をついた。知らない、と否定した。
それはつまり、俺の中にまだ罪の意識が消えずに残っているというということなのだろうか?
いや――罪悪感は有って当然だ。そう感じて当たり前のことをしたのだから。しかし、それでもなお、あれは必要なことだったのだと……やらなければならなかったのだという確信とともに、あの記憶は解決済みの判を押されて記憶のファイルの奥底に埋まっていたはずなのに。
「レッド」ギルド〈ラフィン・コフィン〉の名前は勿論憶えていた。忘れるはずも無い、そのメンバーを……俺はこの手で……
「妙な知り合いがいるのね」
傍らで声がして、俺は過去から引き戻された。二、三度まばたきして顔を上げると、隣でシノンが眉をしかめ、黒マントが消え去った方向を睨んでいた。
「……あ、ああ……いや、知り合いって訳じゃ……」
わずかに首を振って呟くと、シノンが怪訝な顔で振り向いた。
「……何、魂抜けたみたいな顔をしてるの」
「え……」
「初戦はビギナーズラックで勝てたかもしれないけど、次からはそうも行かないんだからね」
俺はとりあえずいつものペースを取り戻そうと、無理矢理片頬に笑みを浮かべた。右手の指先を、スッとシノンの頬に伸ばしながらささやく。
「嬉しいな、そんなに心配してくれるなんて。安心していいよ、決勝では必ず君と……いってえ!」
バシッと俺の手を弾き、ガツンと向こう脛を蹴飛ばして、シノンは一メートルほども飛び退った。
「ば、馬鹿じゃないのアンタ! その頭を跡形無くすっ飛ばしてやりたい、それだけ!」
青い火花の飛び散りそうな視線で俺を一撃して、ぐるんと振り向く。
「こんなアホに付き合ってられない。行こう、シュピーゲル。…………?」
この炸裂弾のようなお姫様を守る騎士殿は、さぞかし怒っているだろうと思って俺もシュピーゲルに視線を向けた。しかしアッシュグレーの髪を垂らした痩身の男は、俺とシノンのやり取りなど目に入らない様子で、じっとフロア中央の人波――モルターレが去っていった方を見ていた。
「ねえ……ちょっと」
シノンが腕を突付くと、シュピーゲルはハッと顔を上げた。
「あ……な、何?」
「行くよ。ちょっとでも、次の対戦相手の試合を見ておかないと」
「う、うん、そうだね」
もう俺には目もくれず、シノンはすたすたとマルチモニターに向かって歩き始めた。シュピーゲルは一瞬俺に目を向けてから後を追った。
「やれやれ……」
俺はため息をつき、壁に背をつけてずるずると座り込んだ。
何を考えていいのかすらも分からなかった。ここで聞くはずのない名前を聞いたショックが、未だに思考を妨げている。
これは一体何なのだ。何かの罠……俺を呼び寄せる陰謀なのだろうか? 黒マントが〈死銃〉で、俺の命を狙っている……? 復讐のために……?
そんな訳はない。あの菊岡が、ケチな計画の片棒を担ぐはずはないし、そもそも仮想世界で人を殺す力なぞ存在しないというのが俺の結論だったのではなかったか。
第一、黒マントが死銃だと決まったわけでもない。依然として、恐るべき殺気を隠し持つ少女シノンがそうである可能性は残されているし、大会に出ていないとは言え、どこか底の見えない男シュピーゲルが死銃だという可能性だってある。疑いだせばキリがない。出くわす奴出くわす奴すべてが怪しく思える。
いや――それだけではない。
抱えた膝の間でどこか狂おしい笑みを浮かべながら、俺は熱に浮かされたように考えた。
実は、忘れたはずの過去に捕われた俺が、アミュスフィアを被るたびに第二の人格に取って代わられ、この世界にやってきて、殺人者が身に付けるという「本当の力」とやらでプレイヤーを殺している――という可能性だって有り得ないわけじゃない!
軽やかな効果音に顔を上げると、目の前に、二回戦の開始を告げるウインドウが出現していた。転送カウントがカシャカシャと減少していく。
俺はふらりと立ち上がると、思考そのものを放棄し、意識を戦闘モードへと切り替えた。
今はただ戦うだけだ。戦い、勝ちつづけるうちに、おのずと真実が姿を現すだろう。結局、VRMMOワールドで何かを得ようと思ったら、戦うしかないのだ。
カウントダウンがゼロになった。再び青い転送光が足元が伸び上がって、俺を未知の戦場へと誘っていった。
第五章 死を呼ぶ銃
「ムカつく!」ガツン!「……あの男!」
スニーカーのつま先でブランコの鉄柱を蹴り飛ばしながら、詩乃は吐き捨てた。
自宅のアパートから程近い、小さな公園の片隅。すでに空は紺色が濃くなり、またそもそも遊具ふたつに砂場がひとつの公園とは名ばかりの場所ゆえに、日曜ではあるが子供の姿は無い。
立ったままの詩乃の隣で、ブランコの片方に腰掛けた新川恭二が目を丸くした。
「……め、珍しいね、朝田さんがそんな……ストレートなこと言うの」
「だってさ……」
黒のジャンパースカートのポケットに両手をずぼっと突っ込み、鉄柱に背中を預けて、詩乃は唇をとがらせる。
「……傲慢で、皮肉屋で、セクハラやろーで、だいたいGGOに来てまで剣で闘わなくてもいいじゃないのよまったく……」
ブツブツと「あの男」に対する怒りを口にするたび、足元の砂利を一つずつ蹴飛ばす。
「その上最初は女の子のフリして、私に店を案内させたり装備選ばせたりしたのよ! 危くお金まで貸しちゃうところだったわよ。あ〜〜もう、アイツにパーソナルカードまで渡しちゃったし……」
ふと言葉を切って隣を見下ろすと、恭二は驚いたような気がかりなような微妙な顔をしていた。
「……なに? 新川君」
「いや……珍しいって言うか、初めてだから……朝田さんが、他人のことをそんなに色々言うの……」
「え……そう?」
「うん。朝田さん、普段は……人にぜんぜん興味ないって感じだから……」
「…………」
言われてみればそうかも知れない、と思う。そもそも人と積極的に関わろうとすることなど皆無だし、否応無くちょっかいを出してくる相手――遠藤たちのような――についても、煩わしいとは思うが、それ以上の感情を持つのはエネルギーの無駄と考えている。
そもそも詩乃は自分の問題だけで手一杯で、他人のことを考えている余裕はない。――のであるが、あの男ことキリトは妙に詩乃の癇に障り、初接触から二十四時間以上が経過した今でも意識の何割かを占領し続けている。
だがそれも当然と言えば当然だ。GGOであれほど挑発的な態度を取られたのははじめてだし、一回戦後のインターバルタイムにいきなり髪を触られたときは、C4プラスチック爆薬のごとく激発すると同時に深く動転してしまって、その後の二回戦では着弾予測円が定まらずに狙撃弾を二発も外した。
「……私、怒りっぽいのよ、これでも」
つま先が届く範囲内の、最後の小石を思い切り蹴り飛ばしながら、詩乃は呟いた。
「ふうん……そうなんだ」
恭二はなおもじっと詩乃を見ていたが、やがて何かを思いついたように目を見開き、勢い込んで言った。
「じゃあさ……どっかフィールドで待ち伏せて狩る? 狙撃がよければ僕囮やるし、あ、でもやっぱり恨み晴らすなら正面戦闘がいいよね。腕のいいマシンガンナー、二、三人ならすぐに集められるよ。それとも、ビームスタナー使ってMPKするのもいいかも」
詩乃は少々呆気に取られてぱちぱちと瞬きした。あれこれとPKプランを捲し立てる恭二の言葉を、右手を少し上げてどうにか遮る。
「え、えっと……ううん、そういうんじゃないの。何て言うか……ムカつくけど、戦い方だけは馬鹿正直な奴だからさ。私も、公平な条件で、堂々とぶっとばしてやりたいのよ。そりゃ昨日は負けたけど……あれでアイツの戦法もわかったし、幸いリベンジのチャンスもあるしね」
スカートのポケットから携帯を引っ張り出し、時刻を確認する。
「あと三時間でBoB本大会だわ。その舞台で、今度こそ頭に風穴開けてやるんだ」
右手の人差し指をまっすぐ夕闇の彼方に向ける。照準線の先に、昇り始めた赤い月を捉える。
昨夜の、バレット・オブ・バレッツ予選トーナメントKブロック決勝。詩乃/シノンの前に現われたのは、意外にも初心者のはずの――しかし心のどこかではそう予感していたとおり――あの男、キリトだった。
詩乃は一回戦から準決勝までを、すべてヘカートUの一撃のみで勝ち進んでいた。敵との距離が最短二百メートル、最大でも五百メートルという開始条件は、千以上のロングレンジを得意とするスナイパーにとっては圧倒的に不利だが、その一方で距離が近ければ対物ライフルの威力は飛躍的に増加する。
二百メートルあれば、接近する敵を発見・照準し、どんなボディアーマーでも防護フィールドでも防御不可能の必殺弾を叩き込む自信はあった。――二回戦だけは、目の前に迫った敵を三発目でどうにか撃破したわけであるが。
ゆえに、メインアームに常識外のフォトンソードを装備し、サブにはハンドガンしか持たない超近距離仕様のキリトとの決勝戦は、それまでのどの戦いよりも楽勝となる、はずだったのだ。
乱数決定されたバトルフィールドは「旧市街地G」、前文明のビル街の遺跡だった。障害物が多数林立する、狙撃には不利な地形だったが、幸いフィールドの真ん中を巨大なハイウェイが貫いていた。
シノンは視界に敵の姿が無いことを確認すると、即座に長い階段を駆け上り、ハイウェイに出た。広い道の両側は背の高いフェンスに囲まれ、登ってくるには一つ存在するジャンクションか、二つの非常階段のいずれかを使うしかない。シノンはハイウェイの一方、不可視障壁にさえぎられたギリギリの端で伏射姿勢を取った。その場所からなら、三つの入り口のどこからキリトが登ってこようとも、即座に狙撃できるはずだった。
だが、キリトは予想外の場所から攻撃を仕掛けてきた。
ハイウェイの左側、相当に離れた背の高いビルの屋上からすさまじい距離のジャンプを敢行し、伏せるシノンに向かって、ダメージ覚悟で落下してきたのだ。あれには完全に裏をかかれた。
だがキリトもひとつミスをした。GGO世界の空は常に黄色い薄雲に覆われているために、太陽の位置を確認し忘れるのだ。キリトが選んだビルの背後に太陽があり、小さな影が一瞬だけハイウェイの路面に流れたのをシノンは見逃さなかった。
咄嗟に膝立ちになり、シノンはヘカートUを空に向けた。その時点でキリトはかなり肉薄しており、シノンが気付いたとみるや左手のファイブセブンで牽制してきた。一発が左足に命中したが、シノンは微動だにせず、照準に黒い姿を捉えた。
その瞬間勝利を確信した。飛翔中は軌道を変えるすべがない。ライフル弾を回避することは不可能だ。
グリーンの着弾予測円は、シノンの過剰な気負いのせいかピンポイントまでには収縮しなかったが、それでもすべてキリトの胸部中央に収まった。シノンはトリガーを絞り、獰猛な女神は轟音とともに致命的な一弾を吐き出した。
だが。
同時に右手の光剣を展開したキリトは、そのエネルギーの刃を右下から左上におそるべき速度で払い――こともあろうに、音速を遥かに超える五〇口径BMG弾を真っ二つに切り飛ばしたのだった。シノンの目には、左右に分かれて空しく飛んでいく光の欠片がはっきりと見えた。
歯を食い縛り、次弾を装填し終わったその時には、キリトは地響きを立ててすぐ眼前に着地していた。アスファルトがびしびしとひび割れ、あの男も相当のダメージを受けたはずだったが、それをまるで顔に出さずに左手でヘカートの銃口を弾き、同時に右手のフォトンソードをシノンの首筋へ――
そこでぴたりと動きを止めた。
シノンは掠れた声で言った。「……何のつもり。さっさと斬ったら」
キリトは冷静な声で答えた。「ご免、女の子は斬らないんだ。リザインしてくれないかな」
「〜〜〜〜〜〜!!」
思い出しただけで昨夜の屈辱がリアルに再生され、更に石ころを蹴っ飛ばそうと足元を見渡したが、残念ながらもう全部遠くの植え込みへと移動してしまったあとだった。かわりに踵で、背後の鉄柱を思い切り蹴り付ける。
「……覚えてなさいよ、ぜーったいにクツジョク二倍返しにしてやるから……」
ふうふうと鼻息を荒くしていると、恭二が立ち上がり、なおも気がかりそうに眉を寄せながら詩乃の顔を覗き込んだ。
「……な、なに?」
「その……大丈夫なの? そんなことして……」
恭二の視線が詩乃の右手に落ちる。見ると、握った拳から人差し指と親指がぴんと伸び、無意識のうちに拳銃を模した形を作っていた。
「あ……」
慌てて手を開く。確かに、いつもなら、そんな仕草によって「銃」を意識した途端に動悸がはね上がっているところだ。だが今は、不思議にその気配はなかった。
「う、うん。なんか……怒ってるからかな、平気だった」
「そう……」
恭二は顔を上げ、じっと詩乃の目を見た。不意に両手を伸ばし、詩乃の右手を包み込む。温かく、わずかに汗ばんだ手のひらの感触に、詩乃はおもわずぎゅっと肩を縮め、うつむいた。
「ど……どうしたの、新川君……急に……」
「なんだか……心配で……。朝田さんが、いつもの朝田さんらしくないから……。その……ぼ、僕にできることあったら、何でもしてあげたいんだ。本大会は、モニタ越しの応援しかできないけど……その他にも、できること、あったら……って……」
詩乃は一瞬だけちらりと視線を恭二に向けた。線の細いナイーブそうな顔立ちの中で、両の瞳だけが、内側の感情を持て余すように熱く光っている。
「い……いつもの私、って言われても……」
普段の自分がどんなふうなのか咄嗟に想起できず、詩乃は呟いた。すると、恭二は両手に力を入れ、熱っぽく言葉を並べた。
「朝田さんて、いつもクールで……超然としててさ、何にも動じないで……僕と同じ目に合ってるのに、僕みたいに学校から逃げたりしないしさ……強いんだよ、すっごく。朝田さんのそういう強いとこ、ずっと、憧れてたんだ。僕の……理想なんだ、朝田さんは」
恭二の熱気に気圧され、詩乃は体を引こうとしたが、背中に当たるブランコの鉄柱がそうさせなかった。
「で、でも……強くなんかないよ、私。君も知ってるでしょう……銃とか、見ただけで、発作が……」
「シノンは違うじゃない」
恭二が更に半歩踏み出してくる。
「シノンは、あんな凄い銃を自在に操ってさ……GGOでももう、最強プレイヤーの一人じゃない。僕、あれが朝田さんの本当の姿だと思うな。きっと、いつか、現実の朝田さんもああなれるよ。だから……心配なんだ。あんな男のことで、怒ったり、動揺してる朝田さんを見ると。僕が……僕が、力になるから……」
――でもね、新川君。
詩乃は心の中で呟いた。
――私だって、ずっと、ずーっと昔には、普通に泣いたり笑ったりしてたんだよ。なりたくて、「今の私」になったわけじゃないんだよ。
確かに、現実でもシノンのようになりたい、というのは詩乃の切なる願いだった。しかし、それは銃への恐怖を乗り越えるという意味においてであり、感情を捨てた氷の機械人形になりたいということではない、はずだった。
多分……たぶん、心の底では、もっと普通に……大勢の友達と笑ったり、騒いだりしたいと思っているのかもしれなかった。それゆえに、グロッケンの街角で道に迷った少女を見かけたとき、普段のシノンからは考えられないほどあれこれと世話を焼いたし、ソレが男だったと知って怒りもしたのだ。
恭二の気持ちは素直に嬉しい。嬉しいが、どこか気持ちの照準がずれているように思えた。
――私が……私が、欲しいのは……
「朝田さん……」
不意に耳もとで囁かれ、詩乃は目を見開いた。いつの間にか、背後の鉄柱ごと恭二の両腕に包まれていた。
無人の公園はほとんど闇に落ちているが、葉の落ちた街路樹の向こうの道には人通りがある。今の詩乃と恭二を見れば、誰しも恋人同士としか思うまい。
そう考えた途端、詩乃は両手でぐいっと恭二の体を押し返していた。
「…………」
恭二が傷ついたような瞳で詩乃を見た。ハッとして、慌てて言い訳をする。
「ご、ごめんね。そう言ってくれるのは、すごく嬉しいし……君のことは、この街でたった一人、心が通じ合える人だと思ってる。でもね……今はまだ、そういう気になれないんだ。私の問題は、私が戦わないと解決しない、って思うから……」
「……そう……」
寂しそうにうつむく恭二を見て、罪悪感が胸に満ちる。
恭二は、詩乃の過去――あの事件のことを知っているはずだ。彼が不登校となる前に、遠藤たちが全校に喧伝してくれたのだから。それを知ってなお、こんな自分に心を寄せてくれるのなら、それに応え、すべてを差し出すべきなのだろうか、と思わないでもない。恭二が失望し、離れていけば、それは相当の寂しさをもたらすだろうとも感じる。
しかし、なぜか意識の片隅にあの男、キリトの顔がよぎる。あの過剰なまでの自信。己の強さに対する絶対の確信。彼と戦い、勝つために、自分ひとりの強さ、力のすべてをぎりぎりまで絞りつくしてみたい。
そう――今はただ、心を覆い包む恐怖の記憶、その硬く黒い殻を打ち破って自由になりたい。望むのはそれだけだ。その為に、黄昏の荒野で戦い、勝利する。
「だから……それまで、待ってくれる?」
ごくかすかな声で囁くと、恭二は無言のままさまざまな感情の渦巻く瞳で詩乃を凝視したが、やがてこくりと頷き、微笑んだ。ありがとう、と唇だけで呟き、詩乃も笑った。
公園から出たところで恭二と別れ、詩乃は自宅へと急いだ。途中のコンビニエンスストアでミネラルウォーターと、夕食がわりのアロエ入りヨーグルトを買い求める。普段から食事は可能な限りバランスのとれたメニューを自炊するよう心がけているが、三時間を超えるほどのロングダイブ前にあまりしっかりと胃にものを入れるのはいくつかの理由によって望ましいことではない。
かさかさ音を立てる小さな袋を片手に階段を駆け上がり、部屋に入る。ロックノブを回すのももどかしくキッチンを横切って、奥の六畳間へ。壁の時計にちらりと目を走らせる。
BoB本大会が開始される午後九時までにはまだしばらく間があったが、なるべく早くログインし、装備・弾薬の点検と精神集中にたっぷりと時間を費やすつもりだった。
手早くデニム地のジャンパースカートとコットンシャツを脱ぎ、ハンガーに掛ける。上の下着も外して隅のカゴに放り込み、床上にわだかまる冷気に体を縮めながら、タンクトップにだぶっとしたトレーナー、ショートパンツの楽な格好に着替える。
控えめな温度に設定されたエアコンと、加湿器のスイッチを入れると、詩乃はほっと息をつき、ベッドに腰を落とした。コンビニの袋からペットボトルを取り出し、キャップを捻って、冷たい水を少しずつ口に含む。
アミュスフィアの感覚信号インタラプト機能によって、ダイブ中は現実環境からの干渉をほぼ九九パーセント排除することができるが、それでも快適なゲームプレイを維持するためには色々とノウハウが必要なことを詩乃は経験から学んでいた。ダイブ前の食事を控え、トイレを済ませておくことは勿論、気温と湿度に気をつけ、ストレスのない服装を心がけることも重要だ。いちど、夏の盛りに、きんきんに冷えた水をがぶ飲みしてからログインしたときは、ニュートラルフィールドでの戦闘中に猛烈な腹痛に見舞われて、異常信号を検知したアミュスフィアによる緊急カットオフの憂き目に遭った。もちろん、おなかをなだめて再度ダイブした時にはすでに死亡のうえ街に転送されていた。
コアなVRMMOゲーマーで、かつ金銭的に相当の余裕がある者は、完全な感覚遮断ダイブを求めて個人用のアイソレーション・タンクを導入したりもするらしい。リラクゼーション施設を兼ねるような高級ネットカフェにはすでにタンクを備えているところも出始めており、詩乃は先月、恭二に「代金はオゴるから」と誘われてその種の店に行ってみたことがある。
ログイン用の部屋は完全な個室で、備え付けのシャワーを浴びたあと、全裸のまま面積の半分を占めるカプセルに入るという手順になっていた。カプセル内部は意外に広く、四十センチほどの深さで、比重を調節されたぬめりのある液体が満たされていた。
横たわると体がぷかりと浮かび、首を支えるジェル素材のヘッドレストもほとんど接触感が無かった。壁に掛かっていたアミュスフィアを装着し、重いハッチを占めると、タンク内部は完全な闇と静寂に包まれた。
実のところ、その空間に浮遊しているだけでも充分に興味ぶかい体験だったのだが、GGOで恭二と待ち合わせていたのでそうも行かず、詩乃はVR空間にログインした。
入ってみて驚いたのだが、確かに普段よりも、仮想世界から与えられる五感の情報がわずかにクリアなような気がした。身体感覚が極限まで低下しているので、「インタラプト漏れ」するノイズが無いせいだと恭二は言ったが、理屈はともかく、砂を踏む敵のブーツが立てる音まで聞き取れそうなその感覚は確かに高い料金に見合うだけのことはあるかもしれない、と思ったものだ。
しかし、同時に詩乃はある種の、言葉にしにくい不安を感じていた。
完全に現実の肉体から切り離されることで、逆に向こうのカラダが気になる――とでも言おうか。VRワールドへのダイブ中は、現実の自分は一切の知覚を失って人形のように横たわっているだけであるという事実がもたらす、ごくわずかな危惧をあのタンクは増幅したのだ。
もちろん、「プロトタイプ」「悪魔の機械」ことかのナーヴギアに比べれば、アミュスフィアは過剰なまでの安全対策が施してある。感覚インタラプトもあえて一〇〇%には設定されていないし(だからこそアイソレーションタンクが有効なのだが)、音・光・振動その他の刺激によって容易にセーフティが作動し、使用者を現実へと放り返す。
それでも、基本的にダイブ中の肉体は無防備だ。ある意味では睡眠中と大差ないのだが、アイソレーションタンクからログインした時の詩乃は、どうしても首筋にちりちり弾ける不安感を振り払うことができなかった。結論としては、たとえ漏れてくるノイズが少々あろうとも、世界で唯一安心できる場所――自分のちいさな部屋からダイブするのがいちばんだ、ということに落ち着いた。
とりとめのない思考を彷徨わせながら、小さなスプーンを動かしているとヨーグルトのカップはすぐに空になってしまった。シンクでざっと洗って燃えないゴミの袋に放り込む。ユニットバスで歯を磨き、ついでにもうひとつの用事も済ませ、手と顔を洗って部屋に戻る。
「――よし!」
ぴたん、と両頬を叩き、詩乃はベッドにぽーんと転がった。携帯の着信はシェル点滅だけモードにしてあるし、ドアとアルミサッシの鍵も掛けたし、月曜締め切りの宿題も昼間に片付けてある。現実世界のアレコレをとりあえず脳から排除する用意は万端だ。
アミュスフィアを装着し、壁のスイッチに触れて照明を落とす。薄い闇の色に変化した天井に、倒すべき敵の顔が次々に浮かんでは消える。
最後に現われたのは、艶やかな黒髪と紅い唇を持つあの少年――キリトの姿だった。左手にハンドガン、右手にフォトンソードを下げ、片頬に不敵な笑みを浮かべてまっすぐこちらを見ている。
詩乃のからだの奥底に、ポッと闘志の火が灯った。たぶんあの男こそが、殺戮の荒野で捜し求めた最強の敵だ。詩乃に、忌まわしい過去を打ち破る力を与えてくれる、ある意味では――最後の希望。
全力で戦う。そして絶対に倒す。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出して、詩乃は目を閉じた。魂をシフトさせるためのキーワードを唱える自分の声は、いつになく強く、はっきりと響いた。
体に対して水平方向にかかっていた重力がふっと消滅し、わずかな浮遊感、次いで天地がぐるんと九十度回転してつま先が硬質な床を叩いた。シノンはそっとまぶたを開けた。
真っ先に目に入ったのは、星のない夜空に尾を引いて流れていく巨大な真紅のネオンサインだった。『The Bullet of Bullets!! the ultimate battle royal!!』という立体文字列が、ビルの谷間を埋めつくしている。
グロッケン中央大通りの北端、総督府前の広場にシノンは出現していた。いつもはあまり人影のないエリアなのだが、今日に限っては無数のプレイヤー達が詰め掛けて、飲み物食べ物を手に大騒ぎしている。それも当然、もうすぐ始まるBoB本大会をネタにしたトトカルチョのせいで、今この広場ではGGO内に存在する通貨の半分以上が飛び交っているのだ。
倍率が表示されたホロウインドウを掲げた胴元や、怪しげな極秘情報を売る予想屋のまわりには大勢のプレイヤーが詰め掛けて口々に喚き声を上げている。ふと気になって手近なウインドウに近づき、見上げると、シノンのオッズはかなりの高倍率だった。やはり、昨日の予選決勝で敗退したのが原因だろう。ならばと思ってキリトの名前を探すと、こちらも相当の大穴っぷりだ。
ふん、と鼻を鳴らしてから、いっそ全財産を自分に賭けてやろうかとシノンは思ったが、目的意識の純度が鈍るような気がしてそのままきびすを返し、人込みから離れた。早めにカーゴルームに入り、精神を静めておこうと総督府の建物に向かって歩きはじめたところで、背後から声をかけられた。
「シノン!」
振り向くと、シュピーゲルが手を振りながら駆け寄ってくるところだった。モノトーンのファティーグに身を固めた長身痩躯の男は、興奮のせいかわずかに顔を紅潮させていた。
「遅かったじゃない、心配したよ。……? どうか、したの?」
シノンがかすかに笑みを浮かべたのに気付いて、シュピーゲルは首をかしげた。
「ううん、何でもない。……ついさっきリアルで会ってた人と、すぐにこっちで顔を合わせるのって何だか妙な感じだな、と思っただけ」
「……そりゃあ、現実の僕はこのバーチャル体ほどカッコよくないけどさ。そんなことより、どう、勝算は。作戦とか、あるの?」
「勝算、って言われても……がんばるだけ、としか言えないよ。基本的には索敵・狙撃・移動の繰り返しだと思うけど」
「そりゃ、そうか。でも……信じてるよ、絶対シノンが優勝するって」
「ん、ありがと。君は、これからどうするの?」
「うーん……どこか酒場で中継を見ようと思ってるけど……」
「じゃあ、終わったあとその酒場で祝杯か自棄酒に付き合ってね」
もういちど僅かに微笑みながらシノンが言うと、シュピーゲルは一瞬うつむき、すぐに顔を上げた。どこか切迫したようなその表情に、シノンはぱちくりと瞬きする。
「シノン……ううん、朝田さん」
VR世界でプレイヤー本人の名を呼ぶことがどれほどのタブーなのか知らないはずのないシュピーゲルの言葉に、シノンは今度こそ仰天した。
「な……なに……?」
「さっきの言葉、信じていいんだよね?」
「さっきの、って……」
「待ってて、って言ったよね……? 朝田さんが、自分の強さを確信できたら、その時は、ぼ……僕と……」
「い、いきなり何言い出すの」
かあっと頬が熱くなるのを感じながら、シノンはマフラーの奥に顔を埋めた。だがシュピーゲルは一歩踏み出し、ぐっとシノンの右手首を握った。
「僕……僕、ほんとに朝田さんのことが……」
「ごめん、今はやめて」
少し強い口調で言い、シノンは首を振った。
「今は大会に集中したいの。……でも、嘘を言ったつもりはないよ。多分……たぶんだけど、この大会に優勝できたら……私……」
「……そっか、そうだよね……」
シュピーゲルの手が離れた。
「でも、僕、信じてるから。信じて、待ってるから」
「う、うん。……じゃあ、私、そろそろ準備があるから……行くね」
これ以上シュピーゲルと話していると、大会まで動揺を引き摺りそうな気がして、シノンは体を引いた。
「頑張って。応援してる」
尚も熱っぽく言葉を続けるシュピーゲルに頷きかけ、小さく微笑んでから、くるりと振り向く。総督府のエントランス目指して早足に歩くあいだも、シノンはずっと背中に燃えるような視線を感じていた。
ガラスのゲートをくぐり、打って変わって人気のない建物内に入ると、ようやく肩から力が抜けた。
自分の態度が思わせぶりだったのだろうか、とエレベーターに向かいながら考える。
恭二に好意を持っているのは確かなことだ――と思う。だが正直なところ、今は自分のことだけで手一杯すぎる。
父親の記憶がない詩乃にとって、もっとも強い印象を残す男性というのはすなわち――事あるごとに甦り、発作を誘発する「あの顔」だ。底なし沼のように光のない眼が、周囲の暗闇のいたるところに潜み、詩乃を見ている。
普通の女の子と同じように、彼氏を作って毎晩電話したり、週末に遊びに行ったりすることに憧れる気持ちも無いではない。しかし、今のまま恭二と付き合えば、いつか彼の中に「あの眼」を見てしまうかもしれない。それが恐い。
もし、記憶を呼び覚ますトリガーである「銃」に加え、単に「男性」を見ることでも発作が起きるようになったら――その時は、生活することすら困難になってしまうだろう……
ウイン、という音に顔を上げると、いつの間にかエレベータは地下二十階、待機ホールへと到着していた。今は何も考えず、目の前の闘いに集中しよう、そう自分に言い聞かせながら、シノンは勢いよく足を踏み出した。
地上の広場とは逆に、大きなドームにはほとんど人影は無かった。今ここにいるのは、BoB本大会の出場者とその連れだけだ。それも、大半の出場者はまだ到着していないか、すでにカーゴルームに入っていると見えて、中央にわずか十人ほどの姿が見えるだけだった。
シノンがブーツを鳴らしてドーム中央の参加登録コンソールに近寄っていくと、男たちが無言のまま鋭い視線を向けてきた。うち数人とは顔見知りだったが、さすがに殺気立っているのか声を掛けてくる者はいない。
無意識のうちに視線を走らせて黒衣の少年キリトの姿を捜したが、見当たらなかった。開始前に、あの憎たらしい顔に勝利宣言を叩きつけて闘志を掻き立てておこうと思ったのに、残念――などと考えている自分に気付き、眉をしかめる。
待っているのもシャクだったし、とっとと装備の点検をはじめることにして、シノンはコンソールの前に立った。参加登録、と言ってもスキャナに手のひらを押し当てるだけだ。
グリーンの光が一瞬右手を照らすと、目の前にカーゴルームに移動するかどうかを問うウインドウが表示された。イエスボタンに触れると、体を青いライトエフェクトが包み、周囲の光景を消し去った。
出現したのは、黒い金属に囲まれた小さな個室だった。部屋の右側にベンチ。右側にはロッカーが並んでいる。と言っても、実際のアイテム操作は正面に設置されたパネルで行う。
時刻を確認すると、大会開始までにはあと三十分近く残されていた。とりあえずパネルに指を走らせ、分身たるヘカートUを実体化させる。続いて、サブアームのMP7を取り出し、それぞれの弾倉を引き抜いてきちんと装弾されているのを確認する。
スペアマガジンと双眼鏡その他の必需品を装備し、ボディアーマーを身に付けると、所持限界重量はたちまち一杯になった。とりあえず準備はこれで完了だ。
ずしりと重い巨大なライフルを両手で抱き、シノンはベンチに腰を下ろした。まぶたを閉じ、銃身に頬を押し当てると、ひんやりとした硬さが伝わり、頭の芯を冷やしていく。
長い、長い待ち時間が過ぎ去り、ついに大会の開始を予告する人工ボイスが狭い部屋に響き渡るまで、シノンはぴくりとも身動きしなかった。
甘い女性の声が一〇〇秒のカウントダウンを行う間も、シノンはずっと目を閉じていた。数字がゼロに近づくにつれ、耳もとで転送エフェクトの唸りが高まっていく。
『2……1……レディ…………ゴゥ!』
ふっと体の下からベンチの感触が消え、一瞬ののち、ざしっと音を立ててブーツが乾いた地面を噛んだ。シノンは眼を見開いた。
夕陽に赤く燃え上がる荒野が、どこまでも無限に広がっていた。
噛み締めた歯のすきまから、細く長く、息を吸い込む。冷たい空気が仮想の体を満たしたところで、同じだけの時間をかけて吐き出す。
そのゆったりとしたリズムに同期して、グリーンの着弾予測円も収縮と拡大を繰り返す。
スコープの中では、ひとりのプレイヤーがうずくまり、潅木の茂みの中をじわじわと移動していた。両手で抱えているのはホウワ八九式小銃、サブアームの類がほとんど見当たらず、また全身がやけにごつごつと膨れているところを見ると、武器の重量を最低限に収めて替わりに防護フィールドとボディアーマーに所持容量を注いだ防御型のプレイヤーだろう。頭にもフェイスガードつきの分厚いヘルメットを装着し、まるで巨大な陸亀のようだ。
一二〇〇メートル以上の距離があるこの状況では、いかなヘカートUと言えどもアーマーを貫通して致命的ダメージを与えるのは難しいと思われた。立て続けに二発命中させられれば話は別だが、敵も素人ではない。狙撃されれば即座に遮蔽物の陰に姿を消し、しばらく出てこないだろう。再び頭を出すのを悠長に待っていれば、初弾の発射音を聞きつけたほかのプレイヤーがわらわら寄ってきてマシンガンで蜂の巣にされるのは必至だ。
シノンは大きな岩と低木の間に腹ばいになり、銃爪に指を掛けたまま、こっちに来い、と念じた。距離が八〇〇を割れば、装甲が薄く被ダメージ修正も高い顔面に一撃見舞って、ステージから退場させてやる自信があった。
しかしテレパシーは届かず、男は体の向きを変えて徐々に遠ざかっていく。ご丁寧に背中もきっちりと装甲されており、隙はない。残念ながらこのターゲットは諦めて、次の敵が近づいてくるのを待ったほうが良さそうだ――と思い、スコープから右目を外そうとしたところで、男の右腰にぶらさがった丸いものにシノンは気付いた。
ハンドグレネードだ。それも二個。サブアームを持たないかわりのお守りだろう。確かに、掩蔽物の多いフィールドでの超近距離戦では頼りになる代物だが、ゲームにおける安価で有効なアイテムの常としてちょっとしたデメリットが仕掛けてある。シノンは再び全身を緊張させ、右目を細めた。
今まで男の背にポイントしていた照準を、少し右下に下げる。ゆらゆら揺れる楕円形の金属球を十字の中央に捉える。
息を吸う。吐き出す。もう一度吸い――ぐっ、と止める。
すべての雑念が消滅し、腕の中の鋼鉄と存在が一体化したその瞬間、予測円がぐうっと凝集してピンポイントの光点となった。意識せず指が動き、トリガーを絞った。
全身を叩く衝撃。マズルフラッシュによって一瞬視界が白く染まる。それはすぐに回復し、色彩を取り戻したスコープの中で、男の右腰にぶら下がったグレネードのひとつがパッと弾けた。シノンは銃から顔を離した。
遥か遠く離れた丘の中腹でオレンジ色の炎が一瞬噴き上げ、すぐに赤黒い煙がもうもうと巻き起こった。数秒遅れて遠雷のような爆発音が訪れる。確認するまでもなく、男のHPバーは跡形もなく消滅していることだろう。
その時にはもうシノンは立ち上がり、右肩にヘカートUを背負っていた。発射音によって位置が露見してしまうため、スナイパーにとって最も危険なのは狙撃直後からの数十秒だ。素早く左右に眼を走らせながら、あらかじめ決めてあったルートを一目散にダッシュする。
周囲にはびっしりと潅木が密生し、また付近のプレイヤーの眼は派手な爆発に奪われるだろうから発見される可能性は低い、と頭では分かっていても足をゆるめる気にはならない。一分以上走りつづけ、ようやく辿り付いた巨大な枯れ木の根元にうずくまって、ふうっと一息つく。顔を上げると、厚い雲の隙間で、血の色の太陽がその下端をゆっくりと地平線に沈めようとしていた。
バレット・オブ・バレッツ本大会の開始から三十数分が経過し、シノンは二人のプレイヤーを狙撃によって仕留めていた。ウインドウを出して特設欄を確認すると、残り人数は二十一人に減少している。すでに九人が退場している計算だが、前大会と比べるとペースが遅い。
だが考えてみればそれも当然と言えた。前回の舞台は「市街地M」、障害物は多かったがフィールド自体は二キロメートル四方と狭く、頻繁に遭遇が発生した。しかし今回選ばれたのは「荒野S」であり、山あり谷あり川あり森ありの地形が十キロ四方にも渡って続いているのだ。南西の一角には小さな村さえ存在する規模で、敵を発見するのも一苦労である。
シノンは更に指先を動かしてマップを表示させ、周囲の地形を頭に叩き込んでからウインドウを消去した。
腰の後ろのポーチから小型の双眼鏡を取り出し、視界に入る範囲内をつぶさに眺めていく。
シノンが現在身を隠しているのは、四角いフィールドの北東に広がる丘陵エリアの一角だ。さらに北と東にはもう他のプレイヤーの姿が無いことは確認してあるので、南西方向を重点的にチェックする。
赤茶けた岩と潅木が連なる荒地は、徐々に下りながらおよそ三キロメートル続き、その先に大きな川が蛇行しながら流れている。南北に伸びる川はフィールドを左右に分断しており、橋は三箇所しか存在しない。そのうちの一つ、錆びた鋼材を組み合わせた鉄橋が、赤い川面に黒々とした影を投げかけているのが見える。
待ち伏せからのサプライズドアタックを仕掛けようとするプレイヤーにとっては、その橋は格好の目標となる。自分だったら、どこに隠れて橋を狙うか――と考えながら、こちら側の岸に沿って広がる茂みや岩陰をチェックしていく。と――
「!」
橋から五十メートルほど離れた潅木の茂みに、一瞬チカリとまたたく光が見えた。距離があり、また茂みの奥はほとんど暗闇に没しているため、人の姿までは見えない。だが間違いなく、木の葉を貫いた気まぐれな夕陽を金属が弾き返した光だった。シノンは素早く中腰で立ち上がると、念のために周囲をもう一度チェックしてから双眼鏡を仕舞い、移動を開始した。
岩陰から岩陰へと伝いながら、二キロを十分弱で走破し、シノンは適当なくぼ地を見つけてしゃがみ込んだ。赤い陽光をきらきらと反射する広い川と、そこを横切る鉄橋はもう肉眼でもはっきりと見える。まだターゲットが動いていないよう祈りながら、岩の隙間からライフルを突き出し、スコープを覗く。
果たして、先刻マークしておいた茂みの下に、腹ばいになって小銃を構える男の姿がはっきりと見えた。無防備な背中を晒し、一心に橋を狙っている。爆死した亀男と比べれば装甲も薄い。
これなら、頭か背中の中央に命中すれば、一撃で仕留められる可能性も高い――と思いながら、スコープの倍率を上げようとダイヤルに手を伸ばしたところで、シノンは男の全身がぐっと緊張したのに気付いた。構えた小銃、無骨なシルエットからしてM1ガーランドに頭を押し付け、射撃体勢に入る。
気付かれたか、と一瞬思ってから、すぐにそうではないことを悟ってシノンはヘカートUを少し上向けた。
予想たがわず、鉄橋の向こう側から、匍匐前進でじりじりと這い進んでくる人影があった。こんな序盤で渡河に挑戦するとはノンキな奴もいたものだ、と少し呆れる。
川を渡る必要が生じるのはおそらく、戦況が煮詰まる終盤になってからだ。もう自分がいるエリアに敵の姿が無いか、あるいは弾を撃ち尽くして、南東の隅にあるボーナスコンテナ群もしくは南西にある村の武器屋に赴かざるを得なくなった場合にのみ、危険を冒して橋を渡ることになるのだろう――と思っていたのだが。
いったいどんな豪傑だろう、と橋の上をのろのろと進みつつあるプレイヤーに照準を合わせてから、シノンはあれっと思った。男が装備している突撃銃が、なかなかにレアであるSG550だったからだ。これはもしかして、とスコープの倍率を限界まで上げ、ヘルメットの下の顔を覗き込む。
「…………」
見覚えのある髭面は、間違いなく数日前まで所属していたスコードロンのリーダー、ダインのものだった。石橋でも渡らない慎重派だと思っていたのだが、どうやら予想外にチャレンジャーな一面もあったらしい。あるいは単純に――あまり戦略戦術ということを考えない男なのか。
やれやれ、とかすかなため息をつきながら、シノンは心の中で呟いた。
――悪いけど、あなたとガーランド男と、どちらか勝ったほうを狙撃させてもらうわね。
とりあえずは目前の遭遇戦を高みの見物と行こう、そう思ってスコープの倍率を落とし、橋のこちらがわ全体を視野に入れた、その瞬間――。
シノンは首筋に、ぞくりと冷たい戦慄が疾るのを感じた。
すぐ後ろに、誰かいる。
馬鹿! 狙撃のチャンスに夢中になって、後背の警戒を怠った! ……そう頭の奥で絶叫しながら、ヘカートUから手を離した。バネ仕掛けのように体を一八〇度捻りざま、左手で腰のMP7を抜く。
背後の何者かに短機関銃を突きつけるのと、目の前に黒い銃口が突き出されるのはまったく同時だった。最早回避は不可能。あとは互いのHPを削りながら、マガジンが空になるまで弾をバラ撒くしかない――と覚悟して、トリガーを引き絞ろうとしたとき。
襲撃者が、シノンの動きを留めようとするかのように素早く右手を上げ、低い声で囁いた。
「待て」
「!?」
両眼を見開き、視線の焦点を銃口から相手の顔へと移動させる。
肩の線で切りそろえられた、艶のある黒髪。夕陽を受けてなお白い肌。強烈に輝く、切れ長の黒い瞳。
左手にファイブセブンを握った仇敵キリトが、シノンに圧し掛かるように目の前に立っていた。
それを認識した途端、いつもは極地の永久氷のようにつめたいシノンの内側で、いくつかの感情が複合した炎がぱあっと弾けた。眼前の銃口を忘れ、意識せず獰猛に歯を剥き出して、左手のMP7を斉射しようとする。
だが、再びキリトが冷静な声でささやき、シノンの指にかかった重さをギリギリのところで停止させた。
「待つんだ。提案がある」
「……何を今更ッ……」
シノンはごく小さな声で、しかし燃え上がる殺気を込めて言い返した。
「この状況で提案も妥協もありえない! どちらかが死ぬ、それだけよ」
「撃つ気なら、いつでも撃てた!」
キリトの言葉の、やけに切迫した響きに、シノンは思わず口をつぐむ。まるで、銃を突き付けあったこの状況よりも重要なことが他にあるとでも言うかのようだ。
それに、悔しいが確かにキリトの言葉は真実だった。こんなゼロ距離まで接近する余裕があったのなら、いつでも背後から銃弾を打ち込むなり、光剣で斬るなりできたはずだ。
「…………」
押し黙ったシノンに向かって、キリトは更に囁いた。
「今ハデに撃ち合って、銃声を連中に聴かれたくないんだ」
キリトの視線がほんの一瞬だけシノンの背後、今まさにもうひとつの遭遇戦が発生しようとしている鉄橋に向けられる。
「……? どういう意味……」
「あの戦闘を最後まで見たい。それまで手を出さないでくれ」
「……見て、それからどうするの。あらためて撃ち合うなんて、間抜けなこと言わないでよね」
「状況にもよるが……俺はここから離れる。君を攻撃はしない」
「私が背中から狙撃するかもよ?」
「それならそれで仕方がない。諒解してくれ、もう始まる!」
キリトは気が気でないように再び鉄橋のほうを見ると、驚いたことに左手のファイブセブンを下ろした。MP7を額に擬せられた格好のまま、銃を腰のホルスターに収める。
シノンは怒りながらもほとほと呆れかえり、肩の力を抜いた。
このままトリガーにかかる指にほんの少し力を加えれば、MP7の四・六ミリ弾二十発がキリトのHPをあっけなく吹き消すだろう。だが――最大の敵と見込んだこの男との戦いが、こんな不明瞭な決着を迎えるのはシノンの本意でないのも確かだった。
キリトなら、予測線なしでもヘカートUの遠距離狙撃を回避してのけるだろう、そう予想して正面戦闘の対策もあれこれと、頭から湯気が出そうなほど考えてきたのだ。どうせなら、三十人中最後のふたりになるまで勝ち残り、エネルギーの最後の一滴まで絞り尽くすような死闘を演じてみたい。
「……仕切り直せば、今度はちゃんと戦ってくれる?」
「ああ」
頷くキリトの瞳を半秒ほどじっと凝視してから、シノンは短機関銃を下ろした。まさかとは思いつつも、その途端に斬りかかってくることを警戒してトリガーから指は離さなかったが、キリトはふっと体から力を抜くとすぐさまシノンの左隣、窪地の縁に腹ばいになった。背中から双眼鏡を引っ張り出し、そそくさと目に当てる。
こちらのことなど二の次三の次と言わんがばかりのその態度に、ムカつくやら呆れるやら複雑な感情がこみ上げるが、とりあえずぐっと飲み込んでおいてシノンもMP7を左腰に戻した。再び両腕でヘカートUを抱え、スコープに目を当てる。
鉄橋のたもとに程近いブッシュの下には、まだガーランドを構えたままの男の姿があった。橋の上をずりずりと移動しているダインは、ようやく半ばまで差し掛かったところだ。
戦闘開始までおよそあと二分、と見当をつけてから、シノンは今更のように、すぐ隣に横たわる男の意図に首をひねった。確かに情報収集は重要だが、この大会では、極論してしまえば誰が誰を倒そうと関係ないのだ。最後のひとりに勝ち残りさえすればいいのである。
勿論、参加者全員が、どこかに隠れてラスト二人になるまでやりすごそう、などと考えてはイベントにならないので、長時間一箇所に留まれないような工夫はしてある。しかしこの場合、キリトはダインとガーランド男のうち勝ったほうをシノンに狙撃させ、更に狙撃直後の隙を狙ってシノンを片付ければ一石二鳥どころか三鳥だったはずだ。危険を冒してシノンの狙撃を阻止する必要などまるでないのだ。
口をきくのも業腹だったが、増殖したクエスチョンマークがアタマのなかで踊るのに耐え切れず、シノンはスコープに目を付けたままささやいた。
「……言っちゃなんだけど、橋の上のSG550……ダインも、ブッシュで待ち伏せてる、確かザッパって名前のM1も、そう大した奴じゃない。二人とも、よくいるタイプのAGI速射型だし……一体、何を見るつもり?」
するとキリトも、双眼鏡を覗き込んだまま低い声で意外な答えを返してきた。
「気付いてないのか。あの二人だけじゃない」
「え……?」
「橋から右に五十メートル……川岸の草の中だ。俺はそっちを付けてたんだ」
慌ててライフルを動かし、北――川の上流方向をつぶさに眺めていく。
川の両岸には、土手のように盛り上がった赤い裸地が続いているが、水面に向かって傾斜する部分には枯れた草がびっしりと密生し、風になびいている。
その一部に、周囲とは違う動きをする草を見つけ、シノンは目を凝らした。
「……あ……」
いた。褐色の迷彩マントに体を包み、深くフードを下ろしたプレイヤーが、橋を目指してじわじわと移動している。肩にかかるアサルトライフルは、折りたたみストックのベレッタSC70/90だ。
「ベレッタ……いたかな、あんな奴」
シノンは目を細め、暗記してあるBoB本大会出場者名簿を頭の中に呼び出す。
傭兵としてあちこちのスコードロンを流れ歩いた経験によって、GGOの有力プレイヤーのうちかなりの人数を、その武装から戦術の傾向までも把握してある。が、パーティープレイをせず、ソロでダンジョンに潜る者まではチェックしきれない。今大会に関して言えば、顔と名前、戦闘スタイルが一致するのはキリトを含めても三十人中二十人強というところで、あの迷彩マントのベレッタ使いは記憶になかった。
肩をすくめ、視野を橋に戻そうとしたとき。キリトが思わぬことを言い、シノンを驚かせた。
「シノンは、あいつに会ったことあるよ」
「え……?」
「それも昨日さ。予選一回戦が終わった後だ。あの時は、マントの色は黒だったが」
「あ……あの、ちょっと気味の悪い……ええと、名前は……」
「モルターレ。参加登録名はアルファベットで、mortale fucileとなっていた」
キリトは〈モルターレ・フチーレ〉と覚束ない口調で発音した。
それで気付かなかったのか――と思いながら、シノンは昨日の記憶を呼び覚まそうとした。いくら名前をチェックしそこねたとは言え、一度会って、言葉まで交わした相手をこうしてスコープで見るまで忘れていたとは、我ながら不注意な――
「あ……あの後すぐ、アンタのハラスメントで無茶苦茶腹たったせいよ。それで忘れてたんだ」
記憶と共に怒りまで甦り、スコープから目を外して烈火のごとき視線をキリトに浴びせる。
「わ、悪かったよ。……ほら、橋の二人が接触するぞ」
「落とし前はつけるからね」
最後にじろりと一睨みしておいて、シノンは右目をスコープに戻した。
匍匐前進を続けていたダインは、ようやく鉄橋を渡り終え、砂利に覆われた土手まで到達した。伏せたままひょいっと頭をもたげ、周囲を見回す。
他人事――と言うか、ダインが撃たれようが死のうがまったく構わない立場ではあるが、それでもシノンは少しだけハラハラした。
アンタのすぐそばに二人もアンブッシュしてるのよ、何をノンキにきょろきょろと……
と心のなかで呟いたその時、さすがにPvP慣れしているのか、ダインは正面三十メートルほど離れた潅木の下に伏せる敵に気付いたようだった。髭面がぐっと緊張し、両手で素早くSG550を構える。
だがやはり、初動はザッパという名のM1ガーランド使いのほうが早かった。
ブッシュの中で閃光がまたたき、立て続けに五本の火線がダインを襲った。わずかに遅れて、ガッガッガッと重い発射音がシノンの耳を叩く。
スプリングフィールドM1「ガーランド」は、主に第二次大戦で米軍の主力小銃として活躍したセミオートマチック・ライフルである。小口径高速弾を用いるアサルトライフルが歩兵携行銃の主流となる以前の時代の代物であり、でかい、重い、フルオート射撃ができない、クリップ一つで八発しか撃てないと欠点も多いが、使用する七・六二×六三ミリ――通称三〇−〇六弾の威力はそれを補って余りあるものがある。
装備要求STR値が少々厳しいが、速射力に優るAGI型プレイヤーとは意外に相性もいい。不意をうたれてあんなタマを何発も叩き込まれたら、生半可なアサルトライフル使いではそのまま押し切られてしまう可能性が高い。
ダインを狙った五発のうち、命中したのは三発だった。おそらくそれだけでHPを七割以上持っていかれただろう。すでに勝利を確信したか、ブッシュから大型のライフルを抱えたザッパが踊り出て、伏せたままのダインめがけて走り出した。近距離から、残る三発で止めを刺すつもりだ。
だがダインもおとなしく敗北を受け入れるつもりは無いようだった。
バック転の要領で跳ね起き、腰だめに構えたライフルから一気に十発以上をバラ撒いた。フルオート射撃のカタタタッという軽快な音とともに薬莢がつぎつぎと宙を舞い、細く鋭い光の束がザッパを迎え撃つ。
オリーブグリーンの迷彩に小太りの体を包んだザッパは、さすがにAGI型らしい素早い動きで射線を回避した。二、三発が命中したようだったが、多少たたらを踏んだだけで足は止まらない。たちまち十メートル以下の必中距離まで肉薄し、頬をぶつけるような勢いでガーランドを照準した。それを阻止するべく、ダインも550のストックを肩に当て、精密射撃姿勢を取る。
あとはもう、敵のHPを削りきるまで、己の技量と愛銃と幸運を信じて撃ちまくるだけだ。思わず手に汗を握りながら、それでも勝者にはすかさず冷酷な一弾を叩き込もうと、シノンがスコープを覗く右目を細めた――
その時だった。
正対するダインとザッパの右手方向から、突如弾丸の奔流が降り注いだ。二人は驚愕して動きを止め、首を振り向けた。だが、できたのはそれだけだった。
狙われたのはダインだった。襲い掛かった七、八発のライフル弾のすべてが次々と体の各所に命中し、髭面に驚愕の表情を貼り付けたまま、男は地面に叩きつけられて動きを止めた。手足を大の字に投げ出した体の上に、鮮やかな赤に発光する「DEAD」の文字が出現し、くるくると回転をはじめる。これでダインは舞台裏に退場、ということになり、最後の勝者が決定するまで退屈な待ち時間を過ごさなくてはならない。
シノンはライフルをわずかに右に振った。
勝負に乱入して獲物をさらったのは、やはりあの第三の男、モルターレと名乗るベレッタ使いだった。草むらから飛び出し、ザッパから二十メートルほど離れた位置にライフルを構えて仁王立ちになっている。暗い色の迷彩マントの、ぼろぼろにほつれた裾が風に長くたなびき、顔は深く下ろしたフードの陰に沈んで、どうにも陰気な姿だ。
シノンはわずかに迷ったが、トリガーに掛けた指を少し緩めた。予想外の展開ではあるもののやるべき事は変わらない。今度は、ザッパとモルターレのうち生き残ったほうにヘカートUの女神の息吹をプレゼントするだけだ。
ザッパが何か叫んだらしく、口が動いたが言葉まではわからなかった。直後、M1が咆哮し、三〇−〇六弾がモルターレを襲った。
だが、マントの男は、肩にベレッタを構えたまま宙を滑るように動き、あっさりと攻撃を回避した。と思う間もなく今度はモルターレの銃が火を噴き、一発だけ発射された五・五六ミリ弾が、こちらは見事にザッパの体を捉えた。そのまま、無造作な歩調で前に歩きはじめる。
よろめいたザッパは、しかし果敢に次弾を発射した。――ものの、再びモルターレは滑らかな動きで回避。歩みも止めないまま、返礼とばかりにベレッタを撃つ。同じようにザッパの体の一部がパッと弾ける。
更にもう一度、まったく同じ光景が繰り返された。弾倉が空になったザッパが、慌てて腰に手を伸ばし、新しいクリップを掴んでガーランドに叩き込む。その間も、モルターレはするすると距離を詰め続ける。
「……あいつ、強い」
シノンは思わず呟いていた。
モルターレの動きにはまったく気負いがない。つまり至って冷静ということであり、それは着弾予測円の揺らぎが小さいということでもある。
いや――冷静というのとは少し違う。どこか生気のない……まるで、地下遺跡ダンジョンの奥に出現する不死者系クリーチャーのような気配……
装弾を終えたザッパが、再びガーランドを肩に構えた。
しかしその時には、モルターレはほとんど手の届く距離にまで達していた。
何事か喚きながら、ザッパがライフルを発射した。しかし驚くべきことに、モルターレは頭をわずかに振って至近距離からの銃弾を回避すると、手の中のベレッタを地面に投げ落とし――
左手でぐいっとガーランドの銃身を掴み、上空に向けた。同時にマントがばっと跳ね上がり、右手が素早く動いて、腰から大型のハンドガンを抜くのが見えた。
見たことのない銃だった。少なくとも、実弾系ではない。と言うことは光学銃か。
確かに、あの密着状態なら防護フィールドの効果は大幅にダウンするだろうが、それにしても対人戦オンリーのBoBに光学銃を持ち出すとは。よほど己の腕に自信があるのか。
今まで沈黙を守っていたモルターレが、フードの奥で何かを叫んだようだった。右手に握った漆黒の銃を、ザッパの顔面に突きつける。その顔が、屈辱と、諦めと――そして大きな困惑に歪んだ。
不意に、隣で、鋭く息を吸い込む気配がした。接触してはいないが、キリトの肉体がギリッと緊張したのがわかった。
訝しく思ったのも束の間――
モルターレのハンドガンが、真紅の光線を吐き出した。ほぼゼロ距離からザッパのヘルメットの額部分に命中したエネルギー弾は、まばゆい光を撒き散らし、二人を明るく照らし出した。
これで決着か、とシノンは思い、再び銃爪に掛けた人差し指を緊張させた。だが、地面に倒れダインと同じようにDEADマークをくるくるさせる、と思われたザッパは、ガーランドから手を離してよろよろと数歩後ずさっただけだった。
どうやら、HPがわずかに残っていたらしい。せっかくキメたのに、目算を間違えたねモルターレさん、とシノンはかすかに苦笑した――
「――!?」
その瞬間。
ザッパの目が、丸く見開かれた。次いで、口もOの字にぽっかりと開く。
両手がゆっくりと持ち上がり、胸の中央をぎゅうっと掴むような形になった。
直後、丸い体が限界まで反りあがった。そのまま、どうっと地面に倒れる。今度こそHPがゼロになったのか、と思ったのも束の間――ザッパの動きは止まらず、砂利の上でビクン、ビクンと跳ね回る。二度、三度、口が限界まで開けられ、悲鳴を上げているようにも見えるがここからでは聞き取れない。
「な、なに……何なの……?」
シノンが呆然と呟くのと、ほぼ同時だった。ザッパの体全体に空電のようなノイズが走ったと思うと、その姿はいきなり消滅してしまった。
スコープを通して見た光景の意味を解しきれず、シノンは眉をひそめた。
通常GGOにおいては、HPバーがゼロになった者の体は派手なエフェクトとともに四散し、意識は即座に街のセーブポイントへと転送されてそこで蘇生することになる。
だがこのBoB本大会に於いてはその限りではなく、数十秒前に倒れたダインのように、死亡者の体と意識はDEADマークと共にその場に残り、最終的な勝者が決定するのを待たなくてはならない。例外はないはずだ。
しかし、モルターレという迷彩マント男の光学銃に撃たれたザッパは、謎の苦悶のちに消滅してしまった。考えられるのは、リアルで何らかのトラブルが発生し、アミュスフィアの強制カットオフ機構が働いた――ということだろうか。それにしても、あまりにタイミングがよすぎはしないか。まるで――モルターレの銃撃が、ゲームの枠を超えた何らかの影響をもたらした、とでも言うかのような――
「……三度続けばもう、偶然じゃない……」
隣のキリトが妙に掠れた声を漏らし、シノンを内的思考から引き戻した。
ハッと目を見開き、慌ててヘカートUを抱えなおす。指先を緊張させ、照準にあらためてモルターレの姿を捉える。
迷彩マントの男は、賑やかな銃撃戦直後だというのにその場から遁走する様子も見せず、それどころか黒いハンドガンを高く掲げて何事か叫び続けているようだった。近接戦闘シーンは各街に中継されることが多いので、カメラに向かって自己アピールでもしているのかもしれない。実力はあるかもしれないが、軽薄な男だ。
それなら、退場シーンもついでに中継させてあげる、とシノンは胸のうちで呟いた。キリトにいちおう断っておこうと、スコープを覗いたまま囁きかける。
「もういいんでしょ。あいつ、狙撃するよ」
「あ……ま、待て。――一撃で仕留められる自信、あるか?」
「え……うーん、ちょっと距離があるから、百パーセントとは言えないけど……」
「なら、止めてくれ。奴が逆襲してくるかもしれない」
硬くこわばったキリトの声に、シノンは顔をあげると、じろりと冷たい視線を投げかけた。
「何。ビビってるの?」
キリトも眼から双眼鏡をはずし、やけに青白い顔を向けてくる。
「そうじゃない……いや、そうだな、ビビってるよ。アイツは、やばいんだ」
「はあ?」
「近づいちゃいけない。――ともかく、俺は目的を達した。ここでログアウトする。君も落ちるんだ、シノン。もう大会なんて言ってる場合じゃない。早く、あいつを止めないと……」
口早に言い募るキリトの言葉に、シノンは驚くと同時に呆れ帰った。まだ大会はほんの序盤で、倒すべき敵はたっぷり残っているのだ。そもそもこの男は、BoB本大会の基本的なルールも理解していないらしい。
「あのねえ……どういうつもりか知らないけど、できないよ、ログアウト。規約読んでないの? 参加登録するときに出たでしょ?」
「な……なに!?」
今度はキリトが驚愕の表情を浮かべた。
「できないって……どういうことだ!?」
「メインメニュー見てみれば? ボタン無いから。……あ」
狙撃の途中だったことを思い出し、急いで再びスコープを覗く。だが、視野に迷彩マント姿はすでに無かった。
舌打ちして倍率を落とす。モルターレは、ボロボロのマントの裾を風に踊らせながら、ちょうど左手方向の大きな岩の陰に消えていくところだった。その後数回、岩の隙間にちらちらとその影が見えたが、やがて完全に視界から失せてしまった。どうやら川の下流、南に向かって歩き去ったらしい。
「……あーあ、行っちゃった」
肩の力を抜いてスコープから顔を離し、アンタのせいだからね、という非難を込めた視線を隣に向ける。キリトはシステムウインドウを食い入るように見ていたが、ログアウトボタンが無いことをようやく理解したのか、ため息をつきながら手を振ってそれを消去した。
「クソ……一体どうなってんだ」
「そう言いたいのはこっちよ。……仕方ない、あと五分だけ付き合う。なんで狙撃を止めたのか納得いく説明してもらうからね」
マフラーをぐいっと引き上げ、シノンは言葉を続けた。
「BoB本大会が途中ログアウト不可なのは……上であんたも見たでしょう、トトカルチョのせいよ、主に」
「ギャンブル? それが何で?」
「第一回大会ではログアウトできたし、五分以内なら再接続もありだったの。で、出場した三十人中五人が、ある有力スコードロンのメンバーだったんだけど、そいつらが頻繁にログアウトログインを繰り返して、リアルで互いに敵の情報の交換をしたのね。武装は何かとか、どこに隠れてるかとか……。BoBはあくまで三十人が殺しあうバトルロイヤルだから、チームプレイに必須の通信機は一切使えないんだけど、一グループだけが情報交換したら有利なのは当たり前。結局その五人が最後まで勝ち残って、うち四人はそのまま落ちてタイムアウト。残ったのが五人中最低レベルの奴で、倍率的にも大穴で……しかもそのスコードロンがそいつに大金賭けてたから、トトカルチョ会場はもう大暴動よ。GGOのクレジットは現金と一緒だもんね」
「……なるほどな……」
「さすがに放任無干渉主義のザスカーも問題視したらしくて、第二回からはログアウト不可になった上、同じスコードロンに所属してるプレイヤーは予選で同一ブロックに配置されるようになったって訳。勿論、リアルでトラブってカットオフしたり、誰かに頼んでアミュスフィアを外したりしてもらえば落ちられるけど、その場合も再接続はできない。二回目の時、優勝候補のひとりだった奴がWC落ちしてトイレで泣いたってのは有名な話よ。――こんな所で、納得した?」
「ああ……非常によく分かった。まったく……規約を読み飛ばすのは悪癖だな。二度としないぞ畜生」
ごろんと体を仰向けて、キリトは頭を抱えた。そのまま、何やらブツブツと呟く。
「……現実で何かあれば落ちられる訳か……どうにかして連絡を……でも安岐さんは中継なんて見てないし……あの男は言わずもがなだし……」
「ちょっと、今度はそっちの番よ。一体アンタは何なのよ。あのモルターレって奴がどうかしたの?」
「…………」
キリトは口をつぐむと、黒く光る瞳でちらりとシノンを見た。唇が動き、乾いたささやき声が流れた。
「……死銃……〈デス・ガン〉の話を知ってるか」
「はあ……? です……がん……?」
たっぷり二秒半ほど戸惑ったあと、シノンはようやく記憶倉庫の片隅から曖昧な情報を引っ張り出すことに成功した。
「ああ……あの、しょうもない噂でしょ? 前に優勝したゼクシードと、あと……スジコだかカズノコだかって名前の人が姿を消したのは、GGOの中でその、死銃? って奴に撃たれてほんとに死んだからだ、っていう。馬ッ鹿馬鹿しい」
その話は、パーティープレイ中や街の酒場などで何度か耳にしたことがあった。しかし常識的に考えて、そんなことが有り得るわけがない。リアルでの様々な事情によって突然の引退を余儀なくされるプレイヤーは数多いし、ゲームとの永別を宣言しておきながらひょっこり戻ってくるプレイヤーもこれまた多い。いずれ本人が帰ってきて、あっさりと消えていく類のデマだ――と判断し、すぐに忘れてしまったのだが。
「じゃあ……なに? アンタ、あのモルターレって奴が、その死銃だ、って言うの? ……冗談だとしたらつまんないし、それとも何かの作戦のつもり……?」
唇に苦笑、視線に警戒を滲ませて、シノンはキリトを睨んだ。しかし、隣に横たわる少年は、ただただ焦燥の色を浮かべて首を振るだけだった。
「どっちでもない。本当なんだ、死銃の話は。ゼクシードと薄塩たらこの二人は現実で実際に死んでいる。死因は心不全――しかも死亡推定時刻は、GGO内で死銃に撃たれた、まさにその時間だ」
「……ええ……?」
今度こそ、シノンの理解を完全に超えた話だった。キリトの言葉の意味を、数秒かけてどうにか咀嚼する。
「死んだ……? ゼクシードが……?」
「そうだ。俺は死体の写真も、死体検案書も見た。――でも、俺だって偶然だと思ってたさ。偶然心臓発作が起きたんだとな。……さっきの、モルターレの銃撃を見るまでは。まさかと思っていた……だから……畜生、見殺しにしてしまった。昨日の時点で、怪しいのはわかっていたのに……」
キリトはぎゅっと眼をつぶると、右手で額のあたりを覆った。
「でも……だからってまだ、モルターレがその死銃だって決まったわけじゃないんでしょ……?」
「イタリア語だよ」
「え?」
「モルターレは〈致命的な〉。フチーレは〈銃〉。つまり……死銃、さ。それに、君も見たろう。奴の赤いビームに撃たれたプレイヤーが、もがき苦しんで消えたのを。VRMMOで痛みを感じることはないのに、あれだけ苦しんだということは、現実の肉体に感覚インタラプトの閾値を超えた何かが起きたんだ。――三回目はもう偶然じゃない……早く現実に戻って、あいつを止めないと……いや……待てよ」
いきなりを両眼を見開き、キリトはシノンを凝視した。
「死んだら……HPがゼロになったら、退場できるんじゃないのか!?」
「……駄目よ」
シノンはあごを動かして、先ほど戦場となった橋の方向を示す。
「見たでしょう。ザッパは消えちゃったけど、ダインの体はデッド表示が出て、死んだ場所に残ってる。大会が終わるまで、意識もあそこに繋がれたままなのよ。退屈しないように中継画面は見られるけど、動いたり喋ったりはできない」
「意識が……残る?」
「そうよ。私も前回、一時間も無様に転がってたけど、辛いよ」
「じゃあ……死体になっても、リアルの体と回線は繋がってるのか……。てことは、死銃が死体を撃つ可能性もある……?」
キリトは再び頭を抱え、聞き捨てならないことを口走った。
「クソッ、いざとなったらシノンに死んでもらえばいいと思っていたのに……」
「なっ……」
シノンは絶句し、反射的に右手でしっかりとヘカートを抱え、左手でMP7のグリップを握った。
「あんたやっぱりそのつもりでっ……!」
短機関銃を抜き、突きつけようとした――のだが、黒い電光のように伸びたキリトの右手が、シノンの左腕をがしっと掴んだ。
「この……っ」
「君を守るためだ!」
狭い窪地に並んで横たわるシノンとキリトの視線が至近距離で交錯し、鋭い火花を散らした。
「もう大会なんて言ってる場合じゃない。分かってくれ――本当の生き死にの、問題なんだ」
あくまでかすかな囁き声だが、それでもシノンはそこにびりびりと震えるほどの真剣さを感じ、思わず息を飲んだ。数瞬の静寂。
「……痛いよ、離して」
やがてシノンは目を伏せ、呟いた。実際には痛みは無いが、掴まれた左の手首が焼けるように熱い。
「わかったわよ。とりあえず……大会のことは、一時的に忘れる」
あれほど憎らしく、究極的な敵とさえ思ったキリトだが、思わぬ展開に戦意をどこか、心の隙間に落としてしまったかのようだった。今の心理状態では、望んだような死闘、激戦を繰り広げるのはとても無理な気がした。
シノンの言葉にキリトはこくりと頷くと右手を開いた。ふたたびごろんと仰向けに横たわる。
「でも……でもさ……」
まだ熱の残る手首をさすりながら、シノンはまだまだ数多く残る疑問点を改めて尋ねた。
「そんな……ゲームの中から現実のプレイヤーを殺すなんて、一体どうやって……? それに、ログアウトしてあいつを止めるって言ったけど、どうやってリアルのプレイヤーを特定するの? そもそも、あんたは一体、何者なの? なんでゼクシード達が死んだことを知ってるの?」
立て続けに質問をぶつけられ、キリトはわずかに苦笑したようだった。
「……仕組みはさっぱり分からない。だが、ナーヴ……いや、アミュスフィアが装着者に与える影響については、まだまだ未知数の部分も多い。死銃の殺気、怨念……〈悪意〉があまりにも大きくて、それをNERDLESシステムが何らかの形で受け取り、銃撃の対象にゲームシステムを超えたダメージを与える……心臓が止まるほどの……というようなことも、有り得ないとは言えないのかもしれない……」
「まさか、そんな……。それに、悪意って言うけど、そこまでの、ええと……サイコパス、って言うんだっけ? そういう異常な人なら、ゲームの中じゃなくて現実で」
不用意に口にした言葉によって、記憶のフラッシュバックが起こる気配を感じてシノンは体を竦ませたが、さいわい血の色の光が一瞬頭の中を過ぎっただけで済んだ。
「……?」
「な、なんでもない。……ゲームの中じゃなくて、現実で人殺しをしようと思うんじゃないの?」
「異常だからこそ、ゲームを舞台に選んでいるのかもしれない。――これは、奴をどうやってリアルで特定するのか、って質問の答えでもあるんだけど……俺は、死銃ことモルターレと、昔ほかのゲームで会っているんだ。奴はそのゲームでも、PK行為を繰り返していた。金やアイテムのためでも、経験値のためでもなく、楽しみのためだけに……。そのゲームはもう無いけど、殺しの味が忘れられずに、この世界で同じことを繰り返している……そんな印象だった。――ザスカーに問い合わせて死銃のIPを調べるのはほとんど不可能だろうけど、その昔のゲームの登録情報から、あいつの本名や住所を割り出すことは可能なはずだ」
キリトはぎりっと歯噛みをして、殆ど消え去りつつある太陽を睨んだ。
「……昨日の時点でそれをやっていれば……。どうにかして菊岡に連絡を取って、死銃の本体を押さえないと……」
「きくおか、って誰?」
「ああ……総務省の、仮想世界関連部署の役人。俺はそいつと知り合いで、この件の調査を頼まれたんだ。ゼクシードとたらこの事はそいつに聞いたんだよ」
「ふうん……。じゃあ、ゲームを遊びに来たわけじゃないんだ」
何となくいろいろと納得しながらシノンが呟くと、キリトはどこか申し訳なさそうな顔で肩をすくめた。
「まあ、な。GGOプレイヤーとしては気に食わないだろうけど」
「別に。私も……似たようなもんだし」
「え……」
「なんでもない、気にしないで。――ともかく、大会が終わるまでログアウトは不可能よ。ひょっとしてGMが今ここを見てれば、英語で必死にわめけば聞いてくれるかも……だけど、九九パーセント無理ね。ザスカーはほんとにプレイヤーには不干渉だから」
「……いくら死銃に謎の力があっても、まさかアメリカの運営会社とグルってわけじゃないだろうから、ゲームのルールは超越できないはずだ。奴がとっとと他のプレイヤーに負けてDEAD状態になるのが次善なんだけどな……」
「期待できないわね。あいつ、ものすごい近距離から銃撃を回避した。プレイヤーとしても相当の実力だと思う」
「……昔のゲームでも、かなりの手練だった。とても正面から戦う気にはなれないけど……こうしてる間にも、他の出場者がまた殺されているかもしれない。畜生、どうすりゃいいんだ」
焦燥に駆られたキリトの言葉に、ウインドウを出して戦況を確認してみる。
「ええと……残り人数は十六人。負けた十四人中、回線切断したのは……まだ一人だけ……あっ」
まさにその瞬間だった。
カットオフにより退場した者の数が、一から二に上昇した。それを見たとき、はじめてシノンは体の深いところにすうっと冷たいものが流れるのを感じた。
ザッパが消える瞬間を目撃し、キリトの説明を聞いたあとも、〈死銃〉の存在を現実のこととは思えなかった。ゲームの中から人を殺すなどということができるはずがない、と心の奥では思っていた。
しかし、一切の誤謬の有り得ないシステムウインドウ上のデジタル数字が変化したとき、シノンは確かに誰かの命が消える瞬間を見たと信じた。
ゲームではなく、実際に人を殺そうという意思を持つ者、つまり「あの男」と同種の人間がこのフィールドのどこかに存在する。
いや……もしかしたら……
ぐらり、と地面が傾いていく。色が、光が遠ざかる。
もしかしたら――「あの男」がどこか暗いところから帰ってきたのかも――私に――復讐するために――
「おい……おい、シノン」
肩に手が掛かるのを感じて、シノンはハッと目を見開いた。
「あ……」
なんでもない、というように首を振り、キリトの手を押し戻す。
「い、今、また一人殺した……。残り十五人」
「……そうか」
キリトは大きく息を吸い、吐き出した。
「このままだと、あと何人やられるかわからない。やっぱりどうにかして奴を倒すしかない……。……いや……待てよ」
「どうしたの?」
「……〈死銃〉はなぜさっき、二人とも撃たなかったんだ? 撃とう思えば撃てたはずだ」
「…………」
「そうだろう? モルターレの言動から見て、単純に殺しを楽しむことだけではなく、己の力をGGOの……ひいては全VRMMOのプレイヤーに誇示することも奴の目的の一つであるはずだ。なら、襲撃が外部に中継される絶好の機会に、一人だけ殺して一人は見逃す、というのは理屈に合わない」
「つまり……死銃はダインを見逃したのではなくて、殺したくても殺せなかった……っていうこと?」
「そう考えるのが自然だ。……奴の言うとおり、二つのアミュスフィアを介して何らかの致死的なパワーを標的に送り込めるのだとしても……もしかしたら、ある程度はゲームシステムの制約を受けているのかもしれない。あの黒い銃は光学系だった。ダインって奴の装備に、何か死銃の力を阻むものがあったのかも……」
寝転がったままのキリトは、指先で細いあごのラインを撫でながら考えに沈むように呟いていたが、やがて伏せていたまぶたをパチリと開けた。
「これ以上は考えても無駄だな」
左手のクロノメーターをちらりと眺め、
「奴が立ち去ってから二十分……もう充分に離れただろう。俺はさっきの戦場を調べてくる。君はここにいてくれ」
四方に素早く眼を走らせながら、上体を起こす。
こくんと頷きかけてから、シノンはあわてて首を振った。
「――私も行くわよ」
「いや、しかし……」
「どこに居ようと、遭遇の可能性は大して変わらないわ。それに……組むのは癪だけど、いざ襲われたときに二人なら逃げ切れる。もしくは倒せる確率が上がる」
「…………」
キリトは厳しい顔でしばしシノンを凝視した。数秒後、軽く頷く。
「それは確かにそうだ。だが、襲われても戦おうとは思うな。逃げることを最優先するんだ。いいな――これはもう、ゲームじゃない」
顔を近づけ、深い色の瞳で真っ直ぐにシノンの目を覗き込む。
「絶対に、撃たれるなよ」
不意にドクン、と大きく跳ねた鼓動を押し隠すようにシノンは顔を逸らせた。
「……あんたこそ」
呟いた声はいつもより一層か細く、つめたい風に揺れた。
ヘカートUを肩に掛け、MP7は左手に握って、シノンは前を行くキリトのあとを追った。頻繁に後方を見渡し、枯死した木々の奥に人影がないことを確認する。
いつの間にか、キリトの指示に従っているのが癪と言えば癪だった。だが、謎めいた少年の言葉には、歴戦のスコードロン指揮官のように命令し慣れた響きがあってつい頷かされてしまう。
それに――さっき、回線切断による退場者の数が増加する瞬間を目撃したときから、胸のおくに何か冷たいものが這いまわり、時折心臓がきゅうっと縮むような感覚が襲ってくる。認めたくはないが、シノンには分かっていた。
これは多分……恐怖だ。怯えている。
想像してはいけない、と思いつつも、「その瞬間」のことを考えずにはいられない。不意に、すぐ傍の木陰から――あるいは樹上から、土の中から――あのぼろぼろの迷彩マント姿が飛び出してくる。右手に握った黒いハンドガンから赤い光線が迸り、胸の中央に命中する。撃ち込まれた「悪意」がネットワーク回線を駆け抜け、現実世界の自室に横たわる詩乃の体に流れ込み、心臓をその冷たい手で握り潰す。
痛いのだろうか。
……きっと、そうだろう。ザッパはあれほど苦しんだのだ。痛いのは――嫌だ。
そう、シノンには分かっていた。さっきキリトに、ここで待て、と言われたときに拒否したのは、戦力上の問題などのせいではなかった。単に、ひとりになりたくなかったのだ。あれほど憎んだ敵なのに、置いていかれるのが恐かった。
キリトと戦いたい、という気持ちはまだある。予選決勝の借りを返さないわけにはいかない。
しかし同時に、すがりつきたい、とも思っているのではないか。「恐いもの」から守ってほしいと。だから、離れたくない。
結局――シノンの強さなど、その程度のものだったのだろうか。
仮想空間で、データの銃弾を撃ち合っているときだけの極めて限定的な強さ。張子の虎もいいところだ。〈死銃〉という現実的な脅威が現われたとたん、幼子のように怯え、嫌いな相手にすら救いを求めている。
つまるところ、全てが無駄な足掻きだったのか。シノンとしていくら強くなろうとも、詩乃があの記憶に打ち勝つ助けには一切ならない――そういうことだろうか……。
「おっと」
不意に肩を掴まれ、シノンははっと顔を上げた。いつの間にかキリトがすぐ隣に立っている。
「この先は遮蔽物が少ない。警戒を切るなよ」
言われたとおり、枯れた森は少し前方で途切れていた。その先は赤茶色の裸地が広がり、川とそれに掛かる鉄橋へと続いている。黒く錆びた橋のすぐ手前には横たわるダインの姿。
「あ……う、うん」
いつの間にか物思いに沈んでしまっていた。今はただ、生き延びることだけを考えなければ。そう自分に言い聞かせながら、シノンは短く頷いた。
森から出ると、一際強く吹く夕暮れの風が頬にかかる髪を揺らした。太陽は完全に荒野の彼方へと姿を消し、濃い赤から深い紺へと至るグラデーションが空を染めている。あと四、五十分で自然光は消え失せ、苦手なスターライトゴーグルを装着しなくてはならなくなる。それまでに、この異常な状況から脱出できることを祈らずにはおれない。
鋭く周囲を索敵しながら、シノンとキリトは小走りに荒れ地を抜け、盛り上がった土手へと駆け上った。重い水音を立てて北から南へと流れる川に、最後の残照が反射して炎の粒が舞っているように見える。すぐ正面に、鉄骨を組み合わせた橋が黒々と伸び、対岸へと続いている。
五十メートルほど離れた向こう岸も同じような赤い裸地だが、そのさらに奥は奇妙な形の岩やサボテンが点在する砂漠が広がっている。鉄橋からは蛇行する道らしきものが伸び、砂漠に入る少し手前に、廃墟と化した小さな建物が見えた。もしあの廃墟がプレイヤーの手付かずであれば、武器や弾薬などが入ったトレジャーボックスがいくつか配置している可能性は高いが、この状況ではのんびりアイテムを漁っている余裕など無いだろう。
そして、橋のすぐ手前に、大の字になって伸びるダインの姿があった。腹の上に、赤く発光する立体文字がくるくると回っている。傍らには彼の愛銃SG550が落ちているのが見える。拾って使用することはできるが、通常のゲームにおける武器ドロップとは違い、大会の終了とともに元の持ち主へと返却される。
少し離れた場所には、ザッパが持っていたM1ガーランドも遺されていた。あのシーンを思い出しそうになり、慌てて目を逸らせる。たとえアイテム重量制限に余裕があっても、とても手に取る気にはなれない。
ゆっくりとダインに歩み寄りながら、キリトがぼそっと呟いた。
「あの死んでる奴は、その……周囲の状況とか知覚できるのか?」
シノンはうなずき、囁き声で答えた。
「うん。視界に入るモノは見えるし、音も聞こえる。ただ、すぐ目の前に大会中継画面が表示されてるけどね」
「ふうん……。じゃあ、この会話も聞こえてるのかな」
「まあね」
シノンは荒い砂をざくざくと鳴らして、ダインのすぐ傍で立ち止まった。髭面を覗き込むと、こちらからは目蓋を閉じた死人の顔に見えるが、本人は中継ウインドウの横にシノンの顔を認識しているはずだ。
軽く肩をすくめ、シノンは低い声で言った。
「ダイン、お疲れさま。前回よりはいい順位でしょう……多分。それに、もしかしたら今回の大会は無効になるかもしれない。何だか妙なことが起きてて……。アンタを撃ったモルターレって奴のことだけどさ」
隣に立ったキリトが、顔をしかめてダインの「死体」に視線を落とした。
「もどかしいな……。このダイン氏は、あんな間近から死銃の銃撃シーンを見ているんだ。何か気付いたこともあるだろうに……」
「仕方ないよ。そういう情報を漏らさないように、こんな仕様になってるんだからさ。あ……言っとくけど、ダイン。こいつと――」
キリトのほうにあごをしゃくり、シノンは続ける。
「別に組んでるわけじゃないからね。あくまで緊急避難なんだから、後で妙な噂とか撒かないでよね」
「そんなことより、どうだシノン。何か特殊な装備はあるか?」
言われて、シノンは地面に膝をつき、ダインの体を詳細に眺めた。
「ごめん、ちょっと装備見せてね。――うーん……防護フィールド発生器も、ボディアーマーも、高級品だけど特に変わったモノじゃないよ。私もあんたもこれくらいのは装備してるし。ねえダイン、死銃の奴はなんでアンタをあの光学銃で撃たなかったの? むさ苦しいから?」
指先であごひげを突付くが、勿論「死体」は答えを返さない。立ち上がると、キリトが難しい顔でため息をついた。
「結局手がかりなし、か。――シノン、この死体は動かせるのか?」
「え? 無理だけど……何で?」
「いや……もしダイン氏を見逃したのが死銃の単なる気まぐれなら、戻ってきて死体を見たら、今度は撃つ可能性もあるからさ。どこか見えないところに隠せればと思って……」
「ああ、そっか」
ダインは目の前で、ザッパが死銃に撃たれて消えるところを見ている。死銃に撃たれた奴は本当に死ぬという噂は当然知っているだろうし、その上こんな会話を聞かされては、半信半疑ながら気が気ではないだろう。
「ダイン……死銃が戻ってこないことを祈って。あと、余裕があったら私たちが無事に脱出できることもね」
呟き、シノンはマフラーをぐいと引き上げた。
「……で、これからどうするの?」
「取るべき作戦としては三つある」
キリトは腕組みし、視線を伏せた。
「まず、プラン1はこのままどこかに隠れつづけ、死銃が誰かに倒されるか、あるいは――他のプレイヤーが全員やられて、奴と俺たちだけが残るのを待つ。そうなったら、俺たちが相撃ちになって死ねば奴が優勝で、大会は終了する」
「……でも……」
「ああ。でもこの場合、あと何人犠牲者が出るかわからない。――俺は別に聖人君子じゃない、知らない奴よりも、自分の命と、かかわった人間……つまりシノンの命のほうが重要だ。しかし……やはり、事情を知る俺たちが行動せずに隠れ続ければ、自分のために他のプレイヤーを見殺しにすることになるという覚悟はしなけりゃならないだろう」
「…………」
「プラン2は、死銃には極力近づかないように注意しながら、俺たちが他のプレイヤーを倒してまわる。君の狙撃があれば、多分かなり大会終了を早められるはずだ。だが、死銃も、それに他のプレイヤーだって素人じゃない。死銃を察知できずに接触してしまうか、あるいは最悪、他のプレイヤーにやられて動けない死体になったところを死銃に見つかるかもしれない」
シノンはこくりと頷く。文字通り手も足も出ない、口さえ動かせない状況で、あの死神めいたボロマント姿が近寄ってきたらと思うと身の毛もよだつ。
「プラン3は――さらに積極策だ。死銃を捜す。そして倒す。だがこれは……ある意味では自殺と一緒だ。一発食らえばそれだけで殺される銃を持った相手と、こっちはまっとうなゲームルールに則って戦おうと言うんだからな」
シノンは再び頷き、大きく息を吸って、ゆっくり吐き出した。確かに、キリトの提案した三つの案以外に取れる行動はありそうにない。
「……で、あんたはどのプランがいいと思うの?」
マフラーの下から、上目遣いにキリトの顔を見ながら訊くと、黒衣の少年は思わぬことを言った。
「プラン4だ」
「……はあ?」
思わず間抜けな声を出してから、シノンは突然、キリトの言おうとしていることを察した。
「ここで別れよう。俺は単独でプラン2……他のプレイヤーを倒せるだけ倒す。残り人数が三になったら自殺する。君は後ろの森の、木が密集してるあたりに隠れて、残りが二人になったら自分を撃つんだ」
「…………」
鋭く息を吸い込み、シノンはキリトの整った顔を睨みつけた。足元で寝ているダインのことも意識から飛んでいた。
胸の奥では、相変わらず恐怖という名の細い蛇が心臓に巻きついている。しかし、青白く燃えあがったプライドの欠片が、瞬間その冷たい感触を忘れさせた。
「……馬鹿にしないでよ。確かにこの前は負けたけど、だからって総合力であんたに劣っているとは思っていない。あんたが死銃にやられるんじゃないかって考えながら、ウインドウ睨んで震えてるなんて真っ平よ。ここで分かれるのは反対しない。でもその場合は、私は一人で戦う」
「……シノン」
キリトもぐっと力を込めた視線でシノンを見た。
「……こんな状況になったのは、ある意味では俺の責任なんだ。昨日の時点で、奴を止めようと思えば止められた。だが、常識に縛られて、一度死銃の戦闘を見てから判断しよう――と考えてしまった。だから、俺は戦わなきゃならない。でも、君は…………」
「私にだって……戦う理由くらい……」
そう――ここで逃げることはできない、とシノンは思った。
もしここで死銃に怯え、どこか穴に隠れてしまったら……もう二度と、シノンの「強さ」を信じることはできなくなるだろう。「あの記憶」に打ち勝つための、唯一にして最後の希望は消え去り、現実の詩乃はこれからの日々を恐怖の発作に怯えながら生きていかなくてはならなくなるだろう。
それだけは嫌だった。死銃の力がもたらすという「死」も恐い。だが、それと同じくらい、恐怖に塗れた長い「生」も恐ろしい。
ひょっとしたら――キリトの存在ではなく、この状況こそが、運命によって与えられた試練なのではないだろうか。死銃と戦えと。そして倒せと。本物の殺傷力を持つ相手と戦うことによってのみ、あの記憶がもたらす恐怖を払拭できる――
瞬間的に、そのような思考がシノンの脳裏を過ぎった。逃げることはできない、ともう一度キリトに告げるべく、口を開こうとした……
その時だった。
かすかな音が、シノンの聴覚の表面を叩いた。ぷちっと、何かが弾けるような、小さい音。
「待って」
さっと右手を上げ、シノンは素早く周囲に視線を向けた。川沿いに伸びる土手、鉄橋、その向こうの砂漠、背後の枯れた森――どこにも人影は無い。
しかし確かに、異質な音がした。現在聴こえているのは、甲高い風鳴り、低く響く川音、背後の木々の梢が風に擦れる乾いた音――その後ろに紛れるように、確かに……
「!」
また聴こえた。銃声ではない。武器が擦れる金属音でも、ブーツが石を噛む音でもない。左前方……しかしそこにはとうとうと流れる水面しかない。
真紅の残照が反射する水面をじっと凝視する。川の流れは緩く、波頭が立つほどではない。その、揺れる鏡のような表面に――
ぽこっ、と小さな泡が浮いた。白い半球は数秒間水面を流れたあと、弾けて、ぷちっというあの音を発した。
それを見た瞬間、シノンの左手は反射的に動いていた。握ったMP7を横に構え、トリガーを引き絞った。
コンパクトなサブマシンガンは、スネアドラムのロールに似た咆哮を上げ、二十発の弾丸をフルオートで吐き出した。川面に小型の水柱が幾つも立ち、濡れた貫通音が耳朶を叩く。
「シグを拾ってあんたも撃って!」
たちまち空になったマガジンを交換しながら、シノンは叫んだ。その時にはキリトも動いていた。つま先でダインのSG550を弾き上げ、空中でキャッチして腰溜めに構える。再び、今度は二重奏となった発射音が唸りを上げ、水面は沸騰したかのように真っ白になった。
水に潜ることは、ルール的には不可能ではない。だが、三十秒を過ぎた時点でHPが減少をはじめ、またリペアキットによるHP回復が鈍足なこのゲームのシステムゆえに、自らダメージを被るその行為はまったくの愚考と思われていた。
しかし、先ほど浮かんだ泡は、水面の下に何ものかがいることを示していた。まさか、ともしや、の思いが交錯する。今にも、水の表面を貫いて赤い光線が伸びてくるのでは、と考えると心臓がぎゅうっと痛くなる。
新しい弾倉をMP7に叩き込み、再びトリガーを絞るが、目標の見えない射撃ゆえに着弾予測円は定まらない。数秒で再び二十発を撃ち尽くし、同時にキリトの持つライフルも沈黙した。水面に幾つも広がった波紋がゆっくりと消え去り、再び静寂が訪れた。
倒したのだろうか。だとすれば、すぐにこの場を離れなくてはならない。だがこの位置からでは、反射が邪魔をして水底が見えない。
シノンが逡巡し、動きを止めたその隙を狙ったかのように――
いきなり、ざばっと水面が割れた。黒く巨大な影が、凄まじい高ステータスを示す恐るべき跳躍力で空を駆けた。ぼろぼろに解れたマントの裾が、凶鳥の翼のように広がった。
川岸を一度蹴っただけで、襲撃者は二人のわずか五メートル先にまで達し、地面に低くうずくまった。その姿勢のまま、機械のような動きでフードに包まれた頭がもたげられ、暗がりのなかから禍々しい視線が照射された。
間違いなく、モルターレ、デス・ガン、そして死銃の名を持つあの男だった。一度ははるか地平の彼方に歩み去ったと見せかけ、その実延々と川底を遡ってこの場所まで戻ってきたのだ。どのような方法で溺死を回避したのかは見当もつかない。
ぎりっと歯を食い縛り、シノンはMP7のマガジンをリリースした。稲妻のようなスピードで腰から弾倉を掴み取り、装着する。キリトも撃ち尽くしたSG550を投げ捨て、ファイブセブンに手を伸ばす。
しかし、二人が再度攻撃態勢に入るより早く、死銃のマントの隙間から右腕が突き出された。枯れ枝のように骨ばった指に、鈍い黒に光るあの銃が握られている。
深い闇を湛えた銃口にポイントされた瞬間、シノンの全身を冷たい震えが駆けめぐった。脚からすうっと力が抜ける。心臓が小さく縮み上がる。動きを止めたのはキリトも同様だった。
二人を黒いハンドガンで牽制しながら、死銃は左手を口もとに持っていった。フードの陰からつかみ出したのは、細いシリンダーを水平に二本接続したような形の器具だった。シノンは見たことがなかったが、何らかの呼吸補助アイテムと察せられた。それをマントの中にしまいこみ、死銃はしゅうしゅうと掠れた声で笑った。
「……わかってたよ、さっきの戦闘を誰かが見てたのはね。銃を拾いに出てくるかもと思って、苦労して川を潜ってきたんだけど……まさか、君達だとはね。僕は運がいい。こうも順序良く、ターゲットと遭遇できるとは……おっと」
キリトの体が一瞬緊張したのに目敏く気付いた死銃は、ひょいっとハンドガンの照準を移動させた。
「動かないでもらおう。さっきの戦闘を見てたなら、この銃の力は知ってるはずだよね。できれば、中継カメラが来てから撃ちたいんだよね。それまで待ってくれると嬉しいなぁ」
「……モルターレ」
左手をファイブセブン、右手をフォトンソードに添えた格好のまま、キリトが乾いた声で言った。
「お前の力は分かったし、からくりは見当もつかない。だが、もう止めておけ。お前はすぐに逮捕される、これ以上罪を重ねるな」
「……なんだって?」
「本名も、住所もわかっているんだ。ブラフじゃあないぞ、モルターレ……いや、〈赤眼〉のザザ」
ひゅっ、と鋭くモルターレが息を吸い込む音がした。
「……キリト……やっぱり……」
「そうだ。四十九層でお前と戦い、黒鉄宮に送り込んだのは俺だ」
「……ふ、ふ……まさかと思ったけどね……」
モルターレが握った黒い銃が、小刻みに震えているのにシノンは気付いた。反撃するチャンスかも、とかすかに思ったが、凍りついた指先はまるで動こうとしなかった。迷彩マントに包まれた痩せた体から、目に見えるほどの強烈な殺気が放射されてシノンを竦ませた。
「そうか……君かぁ……久しぶりだね……」
陰々と金属的に響くモルターレの声に含まれた悪意は、黒いタールのように粘ついて肌を粟立たせる。
「――お前は知らないだろうけどな、モルターレ。あの世界にいたプレイヤーのデータは、ある程度外部からモニターされていたんだ。お前がどこの誰だか、ちゃんと記録に残っているんだよ。だからもう、馬鹿な真似はやめるんだ」
キリトの言葉に、死銃はしばし沈黙したが、やがて再び乾いた笑いを漏らした。
「……それがどうしたって言うんだい? 僕は、自分の家からゲームを遊んでいるだけだよ。法律で僕を縛ることなんかできない」
「たとえすぐに逮捕はできなくても、お前とお前のアミュスフィアは徹底的に調べられるぞ。謎はすぐに解明され、お前は裁かれる。お前のしていることは唯の人殺しだ。いくらその銃で殺し続けても、誰もお前を称えたりはしない」
「……どれだけ調べたってわからないよ、死銃の力の秘密はね。だいたい……君そんなことを言う資格があるのかい? 僕を……人殺しと……責める資格が……」
モルターレの声は奇妙に歪みながら途切れた。突然、がしゃりと音をさせてハンドガンを構えなおす。極度の緊張のせいか、右腕がぶるぶると震えている。
――撃つ。シノンはそう思って息を詰まらせた。
だが、モルターレはしゅうしゅうと呼吸を繰り返し、やがて腕から力を抜いた。
「……君はまだ撃たないよ。最後のご馳走に取っておくことにしよう」
左腕を出し、ちらりと時計に視線を落とす。
「まずは……こっちのお嬢さんからだ」
ゆらりと銃が動き、まっすぐに――シノンの顔を狙った。
動けない。声も出せない。
思考は完全に麻痺していた。シノンは棒立ちになり、ただ自分を殺そうとする相手を凝視することしかできなかった。
冷たい風が、モルターレのマントの裾を揺らす。空気をはらんだフードがわずかに持ち上がり、赤い残照がその奥を照らし出す。暗闇に、ぼんやりと顔が浮かび上がる。
土気色の肌。口もとと額に刻まれた皺。こけた頬。そして、暗い穴のように光のない目。そこにあったのは、どうしても忘れることのできないあの顔――あの男の顔――
突然、男の右目の下に赤い穴が穿たれ、どろりと赤いものが流れ出す。次いで、右目が白い粘液と化して垂れ落ちる。しかし、男は笑う。とうとうつかまえた、と言わんがばかりににたりと笑う。
高周波のような耳鳴りがすべての音を掻き消す。地面がぐらりと傾き、視野が狭窄していく。
発作が/恐い/死にたくない/発作が起きる/助けて/助けて
混濁した思考の塊が頭のなか一杯に広がった。氷の狙撃手シノンは消え去り、両手を血に染めて悲鳴を上げつづけた五年前の詩乃に戻っていた。
目の前に立つ、腹と肩、それに顔からどす黒い血を大量に流したあの男が、にたにたと笑いながら右手に握った黒星の撃鉄を起こした。
すべてが静止した暗闇のなか、ただ致死的な一撃が飛来するのを待つことしかできなかった詩乃は、だから何かの影が、男の左眼の放つ呪縛的な視線を遮ったときも、その正体を察することはできなかった。
隣に立つキリトが、いつのまにか右足を横たわるダインの体に近づけ、その腰からプラズマグレネードの小球体を死銃目掛けて蹴り飛ばしたのだ、と理解したのは一連の状況が終了したあとのことだった。
視界の右下方向からちいさな丸い影が鋭く飛翔し、男の顔を隠すと同時に、雷鳴のような凄まじい声が詩乃の意識を強打した。たぶん実際には、キリトは小声で叫んだだけだったのだろう。しかしその声は聴覚を経由したというよりも、まるで直接詩乃の脳に注ぎ込まれたかのように頭の中央に響き渡った。
『撃て』とも、『Shoot it』とも聞こえたその声は、あるいは言語ではなく純粋な思考の伝達であったのかもしれなかった。巨大なハンマーの一撃によって、詩乃を捕えた粘液質の幻覚は霧散し、世界に光が戻った。
血の色の空。
巨獣の遺骨のごとき鉄橋。
それらを背景に立つ、迷彩マント姿の男。
その顔に向かって飛翔していく、黒い楕円球体。
視覚情報を認識するよりも早く、シノンの左手は自動的に動いていた。思考は停止していても、刷り込まれたガンナーとしての本能は、機械のような正確さでMP7の照準と射撃を瞬時にやってのけた。ワントリガーで三発の銃弾が発射され、うち二発が空中の手榴弾を捉えた。
青白い閃光が広がり、世界を染め上げた。
至近距離で炸裂したプラズマグレネードは、高熱を伴う爆風で有無を言わさずシノンを吹き飛ばし、地面に打ち倒した。天地が割れたかのような衝撃とともに、視界右端のHPバーが一気に六割近くも消滅する。甲高い爆音が脳をシェイクし、再び意識が混乱するが、仰向けに転がることを許されたのはほんの一秒ほどだった。力強い手がシノンの右腕を掴み、有無を言わさず引っ張り上げた。
「走るぞ!!」
鞭のようにしなる声が、頬をぴしりと叩いた。そのままぐいっと手を引かれる。未だ混濁した思考が回復しないまま、シノンはもつれる脚を必死に動かした。
シノンを引き摺るように走るキリトは、後方の森ではなく、鉄橋を目指した。
空中に漂うプラズマの残光がようやく薄れ、シノンは懸命に駆けながら左方向を見た。あるいは至近距離で炸裂した範囲攻撃兵器によって、死銃のHPは全て消え去ったのではないか、と思ったが、どうやらその期待は裏切られたようだった。浅瀬にまで吹き飛ばされた黒い人影は、体を半ば水没させながらも、上体を起こしてまっすぐシノンに顔を向けた。すぐに飛沫を上げながら川を脱し、四つん這いで土手を登り始める。
追ってくる、そう思った途端喉のおくから悲鳴がこみ上げたが、それを必死に飲み込んでシノンは走った。ようやく橋の鉄板に到達し、二人の足音が硬質の金属音に変わる。
どうにか思考の回転速度が復調し、シノンは強張った口を動かした。
「こ、この先は何も無い砂漠よ! 隠れる場所なんか……」
しかし前を行くキリトには何か考えがあるようだった。
「いいからあの建物まで走るんだ!」
右手で指差す先には、川の対岸、橋から伸びる道の左脇にぽつんと佇む廃墟があった。だが、コンクリート二階建ての監視所と思しき建築物には、とても二人が隠れおおせるような広さはない。
と言って、今さら引き返すことはできなかった。ちらりと後方を振り返ると、土手を這い登った死銃が、怒りの叫びを上げながら鉄橋目指して走り始めるところだった。ふたたび、恐怖に心臓がぎゅうっと縮こまる。
宙を飛ぶようなスピードで、シノンとキリトは長い鉄橋を駆け抜け、BoB本大会フィールドの西半分を構成する砂漠エリアへと突入した。
足元の道だけは、盛大にひび割れてはいるもののどうにか舗装路の体をなしているが、それ以外の場所は移動速度にマイナス修正を受ける細かい砂の海だ。道から外れた途端、死銃に追いつかれてしまうのは明白だった。
その上、広大な砂漠には所々に奇怪なサボテンやら黒い岩山が点在するだけで、双眼鏡での索敵から逃れるのも至難の技だ。一体どうするつもりなのか、と思っても、もうこうなってはただ前を目指すしかない。
アスファルトの欠片を蹴り飛ばしながら更に数十秒走り、二人は灰色の建物へと接近した。
無骨な箱状の廃墟の、一階正面には巨大なゲートが口を開けていた。トラックでも通れそうな四角い入り口の奥はどうやらガレージ状の空間となっているらしく、うずたかく積まれた箱やら何やらの影が見える。おそらく隈なく捜せばいくつかのアイテムボックスを発見できるはずだが、勿論そんな余裕は無い。
まさかこの場所で死銃を迎え撃とうというのだろうか、とシノンは恐怖したが、どうやらキリトの目的は他にあったようだった。キリトに続いてガレージに駆け込んだシノンが見たものは、右の壁際に二つ並んだ奇妙な乗り物だった。
オートバイのようでもあり、バギーのようでもある。前半分はバイクのそれで、一本のごつごつしたタイヤの上にハンドルが迫り出し、跨る形のシートが続く。しかし後ろ半分は甲虫のように広がり、広めのシートの両脇に極太のタイヤが出っ張っている。全体は埃っぽいサンドカラーでお世辞にもキレイとは言えないが、どうやら朽ちた遺物ではなく動くモノのようだった。
キリトはこれを目指していたのか、と思う間もなく、うち一台に跨った少年の鋭い声が飛んだ。
「シノン、運転できるか!?」
慌てて首を振る。
「だめ……自信ない」
GGO世界には、小型のスクーターから、機銃を備えた装甲車までいくつかの乗り物が存在し、街には専用の練習場もあるのだが、シノンは以前バイクの運転を練習しようとしてシュピーゲルに盛大に笑われるという屈辱を舐めて以来触ってもいなかった。
「わかった、後ろに」
キリトの言葉に従い、三輪バギーの後部座席に飛び乗る。
意外に様になった仕草でハンドルを握り、キリトはイグニションスイッチを押した。キュルルッという高い音と共にエンジンが始動し、すぐに太い爆音となってガレージを震わせる。
走り出すかと思ってシノンは両手でしっかりとシート前方の金属バーを掴んだが、意に反してキリトは腰からファイブセブンを抜いた。無言で左横に横たわるもう一台のバギーに銃口を向け、立て続けにトリガーを引く。
すぐにキリトの意図を察し、シノンもMP7を構えた。エンジンを狙ってフルオートで弾を撃ち込んだが、視界下部に表示されたバギーの耐久度メーターは、マガジンが空になっても半分程度しか減少しなかった。
「くそっ、もう時間がない。行くぞ!」
キリトは舌打ちとともにファイブセブンを腰に戻し、右手でアクセルをあおった。シノンも慌ててバーを握りなおす。
クラッチが繋がれると同時に、一瞬悲鳴のようなスキール音を残して、バギーは前輪を持ち上げながら猛然とコンクリートの床を蹴り飛ばした。
スライドしながら左にターンし、薄暗いガレージから夕闇の深まりつつある砂漠へと飛び出し――たその瞬間、
「頭を下げろ!!」
キリトの叫びに、シノンは反射的に首を引っ込めた。いくつもの薄赤い光のライン――弾道予測線が、音も無く周囲の空間を貫いた。
直後、頭上を、唸りを上げて銃弾の一群が掠めた。音からして、死銃のベレッタが発射した小口径ライフル弾だ。うち幾つかが車体に命中したらしく、カンカンと乾いた音とともに震動が伝わってくる。
必死にバギーの装甲の陰に体を隠しながら、シノンは右方向に視線を向けた。
恐ろしいほど近くで、ぼろマントを風になびかせたモルターレが、意味をなさない叫びとともに腰の突撃銃を乱射していた。銃口が間断なく炎の舌を伸ばし、吐き出された弾丸が空気を切り裂く。
だが幸い、獲物を取り逃がしつつある怒りのせいか、モルターレの着弾予測円は定まらないようだった。ろくに命中弾のないままマガジンが空になったらしく、ベレッタが沈黙した。
その隙に道路に達した三輪バギーは、再び後輪から白煙を上げながら左に急ターンした。路面にくっきりと焦げ跡を残しながら、前のタイヤを浮かせてダッシュする。キリトが左足でシフターを蹴り飛ばすたびにエンジンが咆哮し、シノンの体をシートに押し付ける。
たちまちトップギアに達したバギーは、砂漠に甲高い叫び声を響かせながら曲がりくねった道を疾走しはじめた。
――逃げ切った……!?
ようやくそう確信して、シノンはずっと詰めていた息を深く吐き出した。今になって、体中ががたがたと震えていることに気付いた。
こわばった指を動かし、握ったままだったMP7を腰に戻したその時、再びキリトが緊張した声で叫んだ。
「――畜生、まだだ! 気を抜くなよ!」
慌てて振り返ると――
小さく遠ざかりつつある監視所のゲートから、破壊しそこねたもう一台のバギーが飛び出すところだった。乗っているのが誰か、疑う余地も無かった。
再びシノンの体を、深い震えが駆け抜けた。不吉な烏の黒翼のようにマントをはためかせ、執拗に追ってくる男の姿はもはや死の呪いの具現化とも思われた。見たくない、と思いながらも、三百メートルほど後方の死銃の顔に視線を集中せずにいられない。距離的に見えるはずはない――のだが、シノンには、フードの奥の闇に浮かぶ顔の下半分、ニヤニヤと歯をむき出したその口もとがはっきりと見えた。
「追ってくる……もっと速く……逃げて……逃げて……!」
悲鳴にも似たか細い声でシノンは叫んだ。
それに応えるように、キリトはいっそうアクセルを開けたが、その途端後輪の片方が舗装路から外れて砂を噛んだらしく、いきなりバギーの後部が右にスライドした。
シノンは喉の奥から高い声を漏らしながら必死にバーを握り締めた。ここでバギーがスピンでもしようものなら、モルターレは十秒とかからず追いついてくるだろう。キリトは罵り声を上げながら蛇行する車体を制御しようとする。
甲高い絶叫を上げながら左右にスライドを繰り返したバギーは、数秒後にどうやら再び舗装路の中央に戻って加速を再開した。しかし、そのわずかなタイムロスの間にも、死銃は着実に距離を詰めてきている。
砂漠を貫くハイウェイの遺跡は嫌がらせのように次々と曲線を描き、逃走者に限界の高速コーナリングを強いた。その上路面のところどころに砂が薄い層を作り、それを踏んだタイヤから容赦なくミューを奪い取る。その度にバギーは真横に滑り、シノンの心拍をスキップさせる。
条件は追跡者も同じはずだが、死銃は三輪バギーの運転にも熟達しているらしく、着実にコーナーを抜けては追いすがってくる。その上、向こうにはひとつ絶対のアドバンテージがあった。
もしこれが現実世界なら、十キロや二十キロの重量差などさして状況に影響は与えないだろう。しかし、ここは厳然としたデジタルデータの支配するゲームの中だ。同じマシンを使用しているなら、二人乗りのほうが明らかに加速が鈍い。
砂丘の陰にかくれ、再度姿を現すたびに、死銃の駆るバギーのシルエットはじわじわと、しかし確実に大きくなっていく。届くはずはないのに、シノンの首筋を、耳障りな金属音に似た声が(そら、捕まえるぞ、捕まえるぞ)じっとりと撫でる。
距離がついに二百メートルを割った、と思われた時だった。
死銃が、左手をハンドルから離し、まっすぐこちらに向けた。その手には――あの、黒いハンドガン。
全身を凍りつかせ、シートに伏せるのも忘れて、シノンは銃を凝視した。奥歯が震えて、かちかちと不規則な音を立てた。ふっ、と音も無く、シノンの右目の下を弾道予測線の無感情な指先が触れた。思考が命じた結果ではなく、自動的にシノンは首を左に倒した。
直後、悪魔があぎとを開くが如く、銃口が真紅に発光し――
ズシュウッ! と重い唸り声を引きながら、血液の奔流にも似た太い光線がシノンの右頬から十センチほどの空間を通過した。
ビームが消え去ったあとも、空間に残された赤光の粒子がちりちりと漂い、シノンの頬に触れた。その瞬間、シノンはドライアイスを押し付けられたような痛みを感じた。
「嫌ああぁっ!!」
今度こそシノンは悲鳴を上げ、体をシートの上に丸めた。直後、死銃の第二射が襲来し、バギーの後部装甲に命中したらしく、震動音とともに視界の端が赤く染まった。
「やだよ……助けて……助けてよ……」
赤ん坊のようにぎゅうっと体を縮めて、シノンはうわ言のように呟いた。自分が装甲の陰に隠れても、バギーを操るキリトが撃たれて消滅すれば結局は同じことなのだが、それすらもその時は思い至らなかった。
だが、シノンが姿を隠すと同時に、赤いレーザーの襲来は停止したようだった。どうやら死銃は先にバギーを破壊することにしたらしく、突撃銃の発射音が響き渡ると同時に、カンカンという着弾の震動が体に伝わった。うち一発がキリトの背中を捉えたのか、少年の低い声が届いた。
「ぐっ……。――シノン……聞こえるか、シノン!」
名前を呼ばれたが、返事はできなかった。ただシートの上にうずくまり、細い声を漏らしつづける。
「シノン!!」
再び、鋭い声で背中を叩かれ、シノンはようやく歯を食い縛って悲鳴を止めた。首をわずかに動かして、黒髪を風になびかせるキリトの後姿を捉える。前方を睨み、限界までアクセルをあおりながら、キリトは強張っているがいまだ冷静な声で言った。
「シノン、このままだと追いつかれる。――奴を狙撃してくれ」
「む……無理だよ……」
シノンはいやいやをするように首を横に振った。右肩にはずしりとしたヘカートUの感触があったが、いつもなら闘志を与えてくれるその重みも、いまは何も伝えてはこなかった。
「当たらなくてもいい! 牽制だけでいいんだ!」
キリトはなおも叫ぶが、シノンは首を振ることしかできない。
「……無理……あいつ……あいつは……」
過去から甦った亡霊であるあの男は、例え対物ライフル弾が命中しようとも止まりはしない――とシノンは確信していた。牽制などが通用する相手ではない。
「なら俺にライフルを寄越せ! 俺が撃つッ!!」
振り向いたキリトは、黒い瞳を爛々を光らせ、歯をむき出して言い放った。
その言葉は、シノンの中にほんのわずかに残ったスナイパーとしてのプライドを揺り動かした。
ヘカートは……私の分身……私以外に……撃てる奴は……
途切れ途切れの思考が、回路をスパークする電流のようにシノンの右手を動かした。
のろのろとした動きで、肩から巨大なライフルを外す。シートの背に銃身を乗せ、恐る恐る体を起こして、スコープを覗き込む。
照準器の倍率は限界まで下げられていたが、それでも二百メートルの近距離ゆえに死銃の駆るバギーの影は視野の三割ほどを埋めていた。ピンポイントで体の中心線を狙うために倍率を上げようとしてから、シノンは伸ばした手を止めた。
これ以上拡大したら、フードの下の顔がはっきりと見えてしまう、そう思うと指が動かせなかった。厭だ、恐い、見たくない、そう胸の奥で呟きながら、シノンは右手をトリガーに掛け、狙撃体勢に入った。
死銃は相変わらず、左手に握ったベレッタを乱射していたが、さすがに突撃銃の片手撃ちでは照準が定まらないらしく、弾丸は左右に大きく外れていく。それでも、今にも再び銃をあのハンドガン、かつて詩乃が握った五四式黒星の再生した姿であるところの呪われた武器に持ち替えるのではないかと思うと、恐怖の冷たい手が心臓をぎりぎりと締め上げる。
一発、一発だけ撃つんだ、そう自分を鼓舞しながらシノンはどうにか人差し指を数ミリ動かした。視界に着弾予測円が表示された。
だが、この近距離でも、グリーンの円はだらしなく広がり、死銃の体から完全にはみ出して不規則に脈動していた。精神は千々に乱れ、おまけに走行中のバギーが盛大に震動しているせいだ。
「だ……だめ……こんなに揺れたら、照準できない……!」
スコープを覗いたまま、シノンは泣き言のように叫んだ。だが、すぐにキリトの厳しい声が飛んだ。
「三秒だけ揺れを止める! その間に撃て! いくぞ……3、2、1……!」
突然、激しいショックが襲い、バギーは路面を離れた。わざと砂丘に突っ込み、車体をジャンプさせたのだ。激しい揺れが消え、予測円は――ほんのわずか、ささいな気休め程度に小さくなった。
絶対に、当たらない。
スナイパーとして経験を積んだ数ヶ月のなかで、シノンははじめてそう確信しながらトリガーを絞った。
無様に的を外すよりも、いっそ、不発なら――。愛用しているマッチグレード・アモでは不良品などほとんど有り得ないのだが、それでもシノンはそう思った。しかし、物言わぬ鋼鉄であるヘカートUは、常と同じように轟音を響かせて巨大な発射炎を吐き出した。
無理な体勢ゆえにリコイルを殺しきれず、シノンは座席前部の金属バーに叩きつけられた。弾の行方など見たくない、そう思いながらも、染み付いた狙撃手の性によって左目の端で追跡者の姿を凝視する。
敵の心臓を狙った弾丸は、当然のように外れ――
しかし、あるいは女神自身の矜持が完全なミスショットを拒否したのか、バギーのシャーシ下端ぎりぎりの場所を貫いて、深い孔を穿った。
GGOにおけるビークルの類は、全て超高額なレアアイテムである。
ゆえに、不運な一撃によって全損することのないよう、車体の耐久度はどの箇所も一定に設定されており、さらにキリトがガレージで破壊を試みて失敗したように、その数値はとても高いものとなっている。
だが、あの時メーターを半減させておいた事と、更に対物ライフルの威力が今回ばかりは幸運を引きずり寄せた。
いきなり、オレンジ色の炎が死銃のバギーの機関部から噴き出した。ロックした後輪がグリップを失い、くるくるとスピンし始めた車体は、ハイウェイを外れて砂丘の側面に突っ込み――
あっけなく爆発した。轟音とともにタイヤが高く宙を飛び、すぐに黒煙に紛れて見えなくなった。
シノンはへたりとシートの上に崩れ落ちた。ただただ呆然と、紺色の空を染める赤い炎の色を見つめることしかできなかった。
更に数分間バギーを疾走させてから、キリトは舗装路をはずれ、砂漠に乗り入れた。
速度を落とし、慎重な操作で砂丘のあいだを縫っていく。
やがて、光の消えかけた空に黒々とそびえる岩山の一つにゆっくりと近づき、バギーを止めた。
「……やれやれ、こうも見晴らしがいいと、隠れようにも……おっ、あれは」
その声にシノンがぼんやりと顔を上げると、岩山の根元に、一際黒く洞窟が口を開けているのが見えた。キリトは再度アクセルを捻り、のろのろと穴に近づいてそのままバギーを進入させた。洞窟の内部はそこそこ広く、入り口から見通せない位置に車体を隠してもなお僅かなスペースがあった。
エンジンを切り、砂の上に降り立ったキリトは、大きく伸びをしながらシノンを振り返った。
「……とりあえず、しばらくここで様子を見よう」
シートにうずくまり、ヘカートを抱えたままの格好で、シノンはじっと少年の顔を見た。なんだか、すべてが幻のように現実感が無かった。
「……あいつは……死んだの?」
ぽつりと呟くと、キリトは唇を噛みながら首を振った。
「いや……爆発の直前、バギーから飛び降りるのが見えた。HPが高いのか、防具がいいのか……異常に打たれ強い奴だ」
そんな問題じゃない、あいつは絶対に殺せない――なぜなら、通常のプレイヤーではない、本物の亡霊だから。そう思ったが、口には出さなかった。ふらつく足に力を込めて立ち上がると、シノンはバギーから降り、洞窟の壁に体をあずけて再び丸くなった。
「とりあえず、俺たちもヒットポイントを回復しよう。あのグレネードで大分減ったからな……」
キリトはそう言うと腰のポーチをまさぐり、HPリペアキットと呼ばれるドリンク剤の小アンプルを二つ取り出した。片方をひょいっとシノンに放ってきたので、両手で受け止めたが、手の中の小瓶はまったく無力な代物にしか見えなかった。これでいくら数値を回復させても、あの赤いビームに撃たれれば、それで――
どすんとシノンの横に腰を下ろし、キリトはアンプルの首を飛ばしてぐっと呷った。
「……早く飲んでおけよ」
言われて、シノンもガラス瓶を開けて口をつける。薬液は爽やかなレモン味のはずなのだが、今はよく分からなかった。
たちまち瓶を空にしたキリトは、今度は腹ごしらえとばかりに携行食のフィグバーを取り出し、包装を破くとがぶりと齧りついた。
「ひのんも食う?」
「…………」
小さく首を横に振る。キリトは肩をすくめると手を振り、ウインドウを出して覗き込んだ。
「お……ずいぶん進んだな。あと六人……てことは、俺たちとモルターレ以外に残ってるのは三人か……。回線切断者は、変わらず二人……」
再びバーを齧りとり、もぐもぐと口を動かす。
「……運転中に双眼鏡で見たかぎりでは、この砂漠には他のプレイヤーはいないようだったな。シノンは見たか?」
再び首を振る。もっとも、ひたすらシートにうずくまっていたので、ろくに索敵もできなかったのだが。
「そうか……うーん……」
唸りながらレーションの最後のひと欠片を食べ終えたキリトは、しばらく黙考していたが、やがてまっすぐにシノンを見た。
「……あいつは強い。数値的にも……それに、あの狂気ゆえの力も、な。正直、一撃も食らわないで倒す自信はない。さっき逃げ切れたのも半分は奇跡だ……。これ以上、偶然をあてにはできない」
「…………」
己の強さに絶対の自信を持っていると思われたキリトの口から出た意外な言葉に、シノンはじっと少年の顔を見た。黒い瞳に浮かぶ光は、いつになく頼りなげに揺れているように見えた。
「……あなたでも、恐いの?」
ぽつりと訊くと、キリトはかすかに苦笑した。
「――ああ、恐いよ。昔の俺なら……あるいは、本物の死の可能性があろうと戦えたかもしれない。でも、今は……守りたいものが、いろいろ出来たからな……死ねないし、死にたくない……」
「守りたい、もの……?」
「ああ。現実、と言ってもいい。俺には、いまのリアルが何より大切なんだ」
「…………」
「だから……もう、奴とは戦いたくない。モルターレがこの砂漠で俺たちを捜してる間に、他の三人が退場するのを祈って、このままここに隠れよう。奴に優勝させるのは癪だけど……もう、そんな問題じゃないもんな……」
キリトの言葉を聞きながらも、シノンの胸の中には先ほどの一言がリフレインしていた。
リアル――私の、リアル。
このフィールドから生還したあとの、詩乃を待ち受ける現実のことを考える。
鉄橋のたもとで死銃に黒いハンドガンを向けられたあのとき、シノンは完全に竦みあがった。骨の髄まで怯えた。逃走の最中も何度となく悲鳴を上げ、泣き叫び、己の存在理由と言ってもいい狙撃の瞬間に、不発弾を祈りさえした。氷の狙撃手シノンは――完全に消え去った。
たぶん、このままなら、もう二度と自分の強さなど信じられないだろう。心は震え、指は強張って、全ての銃弾が的を外すだろう。
あの記憶に打ち克つことはおろか、現実世界でも、夜道の物陰から――戸口の隙間から、あの男が現われるのではないかと常に怯えることになる。それが、詩乃の、たったひとつのリアル。
そんなものに、守るべき価値など――あるのだろうか?
「……私……」
シノンはゆっくりと顔を上げ、キリトの目を見て、言った。
「私、逃げない」
「……え?」
「逃げない。ここに隠れない。外に出て、あの男と、戦う」
キリトは眉を寄せ、シノンに少しにじり寄って低くささやいた。
「……何を言ってるんだ、シノン。あいつと戦えば……ほんとうに死ぬかもしれないんだ。こんな、架空のゲーム世界で……二度と、現実に戻れないかもしれないんだぞ」
シノンはしばらく唇を閉じたあと、静かな声で唯一の結論を口にした。
「死んでも構わない」
「…………な……」
「……私、さっき、すごく怖かった。死ぬのが恐ろしかった。五年前の私より弱くなって……情けなく、悲鳴上げて……。そんなのじゃ、駄目なの。そんな私のまま生きつづけるくらいなら、死んだほうがいい」
「……怖いのは当たり前だ。死ぬのが怖くない奴なんていない」
「嫌なの、怖いのは。もう怯えて生きるのは……疲れた。――別に、あなたに付き合ってくれなんて言わない。一人でも戦えるから」
言って、シノンは萎えた腕に力をこめ、立ち上がろうとした。だが、その手をキリトが掴んだ。
「――一人で戦って、一人で死ぬ……とでも言いたいのか?」
「……そう。たぶん、それが私の運命だったんだ……」
罪を犯して、しかしいかなる裁きも詩乃は受けなかった。だから、あの男が帰ってきたのだ。しかるべき罰を与えるために。
「……離して。私……行かないと」
振りほどこうとした手を、しかしキリトは更にきつく掴んだ。
「……ふざけるなよ。一人で死ぬ、なんてことは有り得ない。人が死ぬときは、他の人の中にいるそいつも同時に死ぬんだ。俺の中にも、もうシノンがいるんだ!」
「そんなこと、頼んだわけじゃない。……私は、私を誰かに預けたことなんかない!」
「もう、こうして関わりあっているじゃないか!」
キリトは握ったシノンの手をぐいっと持ち上げ、眼前に突きつけた。
その瞬間、凍った心の底に押さえつけられていた激情が、一気に噴き上がった。シノンは音がするほどに歯を食い縛り、もう片方の手でキリトの襟首に掴みかかった。燃え上がるほどの熱量を込めた視線をキリトの目に注ぎ、叫んだ。
「――なら、私を一生守って!! 私を一生愛してよ!!」
突然視界が歪んだ。頬に、熱い感覚があった。自分の眼に涙が溢れ、滴っていることに、シノンはすぐには気付かなかった。
握られた右手を強引に振り払い、固く拳を握ってキリトの胸に打ちかかった。二度、三度、力任せにどんどんと叩きつける。
「何も知らないくせに……何もできないくせに、勝手なこと言わないで! こ……これは、私の、私だけの戦いなのよ! たとえ、負けて……死んでも、誰にも私を責める権利なんかない!! それとも、あなたが一緒に背負ってくれるの!? この……」
握った右手をキリトの目の前に差し出す。かつて、血に塗れた拳銃のトリガーを引き、一人の人間の命を奪った手。肌を詳細に調べれば、火薬の微粒子が侵入してできた小さな黒子が今でも残る、汚れた手。
「この、ひ……人殺しの手を、あなたが握ってくれるの!?」
記憶の底から、口々に詩乃を罵るいくつもの声が甦ってくる。教室で、他の生徒やあるいはその持ち物にうっかり触れてしまおうものなら、たちまち(触んなよヒトゴロシが! 血がつくだろ!!)足を蹴られ、肩を小突かれた。あの事件以降、詩乃は自ら誰かに触れたことはない。ただの一度としてない。
その拳を、最後にもう一度思い切り打ちつけた。この場所はセキュリティコードのないバトルフィールドであり、恐らくキリトのHPは打擲のたびにごく僅かに減少しているはずだったが、少年は身じろぎひとつしなかった。
「う……ううーっ…………」
こみ上げる涙を抑えることが出来なかった。泣き顔を見られるのが嫌で、勢いよく俯くと、額がどすんとキリトの胸にぶつかった。
左手で強くキリトの襟首を掴んだまま、力まかせに額を押し付けて、シノンは食いしばった歯の間から嗚咽を漏らしつづけた。幼子のように号泣しながらも、自分の中にこのような種類のエネルギーがあったことが少し不思議だった。最後に人前で泣いたのがいつだったかも思い出せなかった。
やがて、右肩にキリトの手が触れるのを感じた。しかしシノンは、握ったままの拳でその手を力任せに払いのけた。
「嫌い……大嫌いよ、あんたなんか!」
叫ぶあいだも、涙はあとからあとから零れ落ち、キリトの厚いとは言えない胸に吸い込まれていった。
どれくらいそのままでいたのか、いつしか時間の感覚を完全に喪失していた。
ついに涙も枯れ、シノンは途方も無い虚脱感とともに体の力を抜いた。自分に許したことのない甘い感傷の痛みが今だけは心地よく、少年に頭を預けたまま小さくしゃくりあげ続けた。
さらに数分続いた沈黙を破ったのは、シノンのほうだった。
「……あんたのことは嫌いだけど……少し、寄りかからせて」
呟くように言うと、苦笑の気配とともにキリトは短く、うん、と答えた。投げ出されたキリトの脚の上に、ゆっくりと上体を横たえる。顔を見られるのはやはり恥ずかしかったので、背中をキリトの腹に預けると、視界には、カウルに弾痕のあいた三輪バギーと洞窟の入り口が入った。
頭のなかはぼんやりとしていたが、死銃に襲われたときの思考麻痺状態とは違い、きつく重い服を脱いだような浮遊感があった。いつしか、ぽつりと口にしていた。
「私ね……、人を、殺したの」
キリトの返事を待たず、続ける。
「ゲームの中じゃないよ。……現実世界で。ほんとうに、人を……殺したんだ。五年前、東北の県であった郵便局の強盗事件で……犯人が、局員をひとり拳銃で撃って、自分は銃の暴発で死んだ、って報道されたんだけど、……ほんとは、そうじゃないんだ。その場にいた私が、強盗の拳銃を奪って、撃ち殺したの」
「……五年前……?」
囁くようなキリトの問いかけに、こくんと頷く。
「うん。私は十一歳だった……もしかしたら、子供だからそんなことが出来たのかもね。歯を二本折って、両手首を捻挫して、あと背中の打撲と右肩を脱臼したけど、それ以外に怪我は無かった。体の傷はすぐ治ったけど……治らないものもあった」
「…………」
「私、それからずっと、銃を見ると吐いたり倒れたりしちゃうんだ。テレビや、漫画とかでも……手で、ピストルの真似されるだけでも駄目。銃を見ると……目の前に、殺したときのあの男の顔が浮かんできて……こ、怖いの。すごく、怖い」
「……でも」
「うん。でも、この世界でなら大丈夫だった。発作が起きないどころか……いくつかの銃は……」
視線を動かし、砂の上に横たわるヘカートUの優美なラインをなぞる。
「……好きにすらなれた。だから、思ったんだ。この世界でいちばん強くなれたら、きっと現実の私も強くなれる。あの記憶を、忘れることができる……って。なのに……さっき、死銃に狙われたとき……発作が起きそうになって……すごく、怖くて……現実の私に、戻ってた……。だから、私、あいつと戦わないとだめなの。あいつと戦って、勝たないと……〈シノン〉がいなくなっちゃう」
両手でぎゅっと体を抱く。
「死ぬのは、そりゃ怖いよ。でも……でもね、それと同じくらい、発作に怯えたまま生きるのも、怖いんだ。死銃と……あの記憶と、戦わないで逃げちゃったら、私きっと前より弱くなっちゃう。もう、普通に暮らせなくなっちゃう。だから……だから」
不意に襲ってきた寒気に、深く身震いした、その時。
「俺も……」
いつになく弱々しい、途方に暮れた子供のような声で、キリトが呟いた。
「俺も、人を、殺したことがある」
「え……」
同時に、今度は背中のうしろでキリトの体が震えた。
「……前に、言ったろう。俺はあの死銃……モルターレと、他のゲームで顔見知りだった、って」
「……う、うん」
「そのゲームのタイトルは……〈ソードアート・オンライン〉。きいた事……ある?」
「…………」
思わず首を動かし、キリトの顔を見上げていた。少年は、背中を洞窟の岩壁に預け、昏い目つきで空を見つめていた。
もちろんシノンは、その名前を知っていた。およそ日本のVRMMOプレイヤーで、かの呪われたタイトルを知らない者はいるまい。
「……じゃあ、あんたは……」
「ああ。ネット用語で言えば……〈生還者〉って奴だ。そして、あのモルターレも。俺はあいつと、互いの命を奪りあって、本気で戦った」
キリトの瞳から光が薄れ、視線が茫洋と宙をさまよった。
「あの男は、〈ラフィン・コフィン〉っていう名前のレッドギルドに所属していた。あ……SAOでは、タグの色から犯罪者のことをオレンジプレイヤー、盗賊ギルドのことをオレンジギルド、って言ったんだけど……特にその中でも、積極的に殺人を楽しむ奴らをレッド、って言ったんだ。そういう奴が、いっぱい……ほんとにいっぱいいたんだよ」
「で、でも……あのゲームでは、し……死んだら、ほんとに死んじゃったんでしょ……?」
「そうだ。でも……だからこそ、かな。一部のプレイヤーには、殺しは最大の快楽だった。ラフィン・コフィンは、そういう連中の集団だったんだ。フィールドやダンジョンでほかのパーティーを襲って、金とアイテムを奪って、それから一人ずつ殺した。ずいぶん色々と……酷いやり方を編み出したらしい」
「…………」
「だから、とうとう討伐パーティーが組まれて……俺はそこに雇われたんだ。討伐って言っても、ラフィン・コフィンのメンバーを殺そうっていう訳じゃなくて、全員を無力化して牢獄に送るっていう手筈だった。苦労して奴らのアジトを調べて、戦力的にも絶対大丈夫、っていうくらいのレベルのプレイヤーを揃えて、夜更けに急襲した。でも……こっちのパーティーに、内通者がいたんだ。向こうは罠張って待ち構えてて……討伐隊は、最初の一分で半分以上殺された……。それでも、どうにか立て直して……すごい混戦になって……その中で……お、俺……」
再びキリトの体がぶるぶると震える。目が大きく見開かれ、呼吸が浅くなる。
「武器が壊れて、戦意喪失した奴を……牢獄に送るはずだったのに……こ、殺したんだ。ひとりは……剣で、首を撥ねた。もう一人は、心臓を刺した。三人目も、無茶苦茶に切り刻んで……でも、そいつが死ぬぎりぎりのところで、我に返った。それが……あの男、モルターレだ。俺は……現実に戻ったあと、役人に無理を言って、殺した二人のことを調べてもらった」
「……そ……それで……?」
「――死んでたよ。二人とも。墓にも行った……けど、家族には……会えなかった。会って……本当のことを、言わないと……いけないのに……」
「……キリト」
シノンは体を起こし、キリトの両肩を掴んだ。少年の視線は微妙に焦点を失い、過去の一地点を覗き込んでいるように見えた。
「……私、あんたのしたことには、何も言えない。言う資格、ない。でも……一つだけ、一つだけ教えて。あんたは、その記憶を……どうやって、乗り越えたの? どうやって、過去に勝ったの?」
己の罪を吐露したばかりの相手に対して、あまりにも配慮のない、利己的な質問だと思った。しかし、訊かずにいられなかった。キリトの普段の立ち居振舞いには、そのような過去を感じさせるものは何一つ無かったからだ。
――しかし。
キリトは、二、三度瞬きをすると、シノンの目をじっと見た。そして、ゆっくりと、首を左右に振った。
「……乗り越えてない」
「え……」
「そんなこと……不可能だ。今でも夢に見ては飛び起きるし、人込みの中にあの二人の顔を見た気がして心臓が止まりそうになることもある。二人のことは……」
指先で耳の上を軽く叩き、続ける。
「俺の頭のなかに、絶対に消えない記憶として刻み込まれている。死ぬときの顔……命乞いの言葉……悲鳴……たぶん、一生忘れることは出来ないだろう」
「そ……そんな……」
シノンは呆然と呟いた。
「じゃあ……ど……どうすればいいの……。わ……私……」
――私は、一生このままなのか。
それは、あまりにも恐ろしい宣告だった。
全ては――無駄なのだろうか? たとえここで死銃と戦い、勝利し、GGO最強の称号を手に入れたところで、現実の詩乃の恐怖は続く――そういうことなのだろうか……?
「――でもな、シノン」
キリトの右手が動き、自分の肩を握りしめるシノンの手の上に載せられた。
「たとえ記憶に勝つ……恐怖を忘れることはできなくても、戦い続けることはできる。俺は、我を忘れて、この手で人を殺した……なのに、責められるどころか、称えられさえした。誰も俺を裁きもせず、償う方法も教えてくれなかった。だから、たぶん、この一生続く記憶との戦いが、俺に与えられた罰なんだと思う。俺は、ずっとあの二人のことを考え続ける……後悔し続けるだろう。せめてそれは、受けいれないといけない事なんだと思う……」
「……戦い続ける……そんな……私、そんなこと出来ない……」
「無理矢理遠ざけようとしても、消えることはないんだと思う……。なら、まっすぐ見て、受け止めるしかない」
「…………」
シノンは両手から力を抜き、再びキリトの脚の上に横たわった。
あの記憶をまっすぐ受け止める……そんなことができるとは、到底思えなかった。せめて、呼吸困難や嘔吐といった発作症状さえなければ……それとも、それは詩乃が無理に記憶をねじ伏せようとしているからなのだろうか……?
キリトの話は、正直なところ更なる混乱をもたらしただけのように思えた。しかし――とりあえず、一つだけはっきりとしたことがあった。
「……死銃……」
「ん?」
「じゃあ、死銃――あのモルターレって奴は、実在する、生きたプレイヤーなんだね……」
「そりゃあ、そうさ。SAOでの名前は〈ザザ〉。目の色から〈赤眼〉とも呼ばれてた。調べれば、すぐに現実の本名もわかるはずだ」
「……そう……」
ならば、少なくとも、詩乃の過去から甦った亡霊ではなかったわけだ。
「……じゃあ、SAO時代のことが忘れられなくて、生還した後もこのゲームで殺しつづけてる……ってこと?」
「……本人は、そんな事を言っていたな。SAOで沢山人を殺したからこそ、この世界でも銃で本当に人が殺せるのだ、とも……」
「……そんな、ことが……」
「有り得ない……と思いたいが、しかし……ここから脱出して、現実のモルターレを押さえてみない限り何とも言えないな。……いや、待てよ……そう言えば……」
「……?」
再び顔を見上げると、キリトは考え込むときの癖なのか、あごを指先でなぞりながら宙を睨んでいた。
「いや……まただ、と思ってさ」
「何が……?」
「俺たちを襲ったとき……奴はあのハンドガンで、俺は撃たずにシノンだけを狙った。ダインを見逃し、ザッパを撃ったときと同じだ」
「…………」
「……俺を見逃す理由なんかないはずだ。奴にしてみれば、仲間を殺し、自分を捕らえた仇敵だぞ。……目立つプレイヤーを殺す、っていう死銃の力のアピールの為としても……予選決勝では俺が勝ったんだし、見た目も俺のほうが美人だし……」
「悪かったわね」
肩でキリトの腹を小突く。
「うむ、じゃあ、同程度ということにしておこう。しかし、奴は俺を撃たなかった……」
「ご馳走は後回し、とか言ってなかったっけ?」
「でも、それで食べ逃したら本末転倒ってもんだろう。やっぱり、何か理由があるんだ……。死銃の、力の秘密に繋がる何かが……」
「うーん……」
シノンは体の向きを変え、キリトの脚のうえでうつ伏せになって、組んだ腕に頭を乗せた。この少年に対する腹立ちは消えていないが、そのような相手と密に触れ合っている状況がある種の安心感をもたらしているような気がして、どこか心地いい。
「……つまり、こういうこと? あんたとダイン、それに私とザッパの間には、それぞれ何か共通点があって、それがターゲットになるプレイヤーとならないプレイヤーを分けている……」
「うん。更に言えば、すでに殺されたゼクシードとたらこの二人にも、君とザッパに共通する何かがあるはずだ。……単に強さとか、ランキングってことなのかな……」
「前大会の成績で言えば、確かダインのほうがザッパより少し上だったわ」
「じゃあ……何か、特定の事柄に関わっているとかかな……」
「それも……無いよ、多分。だって私、ダインとはこないだまでずっと同じパーティー組んでて、何度も一緒にフィールドに出たけど、ザッパとはパーティーどころかほとんど話したこともないもん」
「ゼクシードやたらことは?」
「あの二人は、私やダインとはまたひとつふたつランクの違う有名人だから……。ゼクシードは前優勝者だし、たらこって人は五位だか六位だったけど、すごい大きいスコードロンのリーダーだしね。喋ったことなんて一度もない」
「むう……じゃあ、やはり装備とか……あるいはステータスタイプ……」
「装備は、全員バラバラだよ。私はこのとおり狙撃銃だし、ザッパは大口径ライフル、ゼクシードは確か変則で、フィールド中和効果つきの光学銃だったわ。たらこって人は突撃銃だしね。ステータスは……ああ」
「ん?」
キリトの顔を一瞬見上げてから、続ける。
「まあ、ある意味共通と言えば言えるかもね。全員、AGI特化じゃない、って一点でね。でも……とても共通点とは言えないよ。STRに偏ってたり、VITに偏ってたり……」
「ん〜〜〜」
キリトは形のいい唇をひん曲げ、がりがりと頭を掻く。
「単に気まぐれってことなのか……。なんか……何か有りそうな気はするんだけどなあ……。――ザッパ氏とは、ちょっとは話したことあるの?」
「えーと……」
薄い記憶を辿りながら、シノンはもう一度体を半回転させた。キリトの右脚に背中を預け、左足の上で両手を組んで枕替わりにする。これもいわゆるヒザマクラの範疇だろうか、等と考えてしまい気恥ずかしさが少しだけ浮上してくるが、非常事態を言い訳に蹴り飛ばす。
思えば、他人と長時間触れ合うことなど、この数年間まったくなかった。まるで体重と一緒に心の重荷まで預けているようで、不思議な穏やかさが体を満たしていた。もう少しだけこうしていたい、とぼんやり思ってから、不意に新川恭二の気弱そうな笑顔が浮かんで、申し訳ない気持ちになる。もし無事に現実に戻れたら、もう少しだけ歩み寄ってみようか……
「――おい、シノン。ザッパとは……」
「あ、う……うん」
ぱちぱちと瞬きして想念を押し流し、シノンは記憶を呼び覚ました。
「――と言っても、ほんとにちょっと話しただけ。たしか……前の大会が終わって、総督府の地下ホールに戻ったとき、出た場所がすぐ近くだったんだ。で、二、三分、大会のこととか、賞品のこととか喋ったんだけど……フィールドでは直接戦いもしなかったし、世間話程度だよ」
「そっか……。前の大会にはモルターレは出てなかったようだしな……。今はこれ以上は無理か……」
キリトは軽くため息をついた。気分を変えるように肩をすくめ、シノンを見下ろしてくる。
「そういや、そこまで調べなかったんだけど……賞品って何が貰えるんだ?」
「あー、選択式で、色々よ。順位に応じていろいろ選べるんだけど……そういや今回は私たちけっこう順位良さそうだから、いい物もらえるかもね。無事に帰れれば、だけど」
「例えば、どんな?」
「そりゃ当然、銃とか、防具とか……オプションに無い色の髪染めとか、服とかね。ただまあ、ほんとに高性能な奴じゃなくて、外見が目立つ、って感じのものばっかりだけど。あとは、面白いとこだと、ゲーム内の銃のモデルガンとかね」
「モデルガン? ……ってことは、リアルの?」
「そ。私、こないだの大会じゃ順位悪くて、ゲーム内で欲しいもの無かったからそれにしたんだけどね。そういや、ザッパもモデルガンにするような事言ってたかな……。おもちゃはおもちゃだけど、金属とかも使ってあって、けっこうちゃんとした物らしいよ。しん……シュピーゲルがそう言ってた。まあ、私は……」
かすかに自嘲気味な笑みを滲ませる。
「――引出しに仕舞いっぱなしで、ろくに見てないけどね」
「それは、運営体が送ってきたの? アメリカから?」
「うん。フェデックスでね。けっこうお金かけてるよね。儲かってるのかな、ザスカー」
茶化すように言い、再びキリトの顔を見上げて――シノンはぱちくりと目を見開いた。少年が、きつく唇を噛み、眉をぎゅっとしかめて、宙をじっと睨んでいたからだ。
「な……何よ、どうしたの?」
「……フェデックス……。――でもさ、俺ついこないだGGOにサインアップしたんだけど、ユーザー情報欄はジップコードとEマネーIDと、性別年齢くらいしか無かったぜ。住所は、どうやって……?」
「そりゃもちろん、モデルガンを選択してからあて先を申告したのよ」
「それは……公式サイトで? それとも……」
「前にも言ったじゃない。ゲームに関する手続きは、全部中で出来るの。総督府の端末でね。――って……な!?」
突然、キリトはシノンの右肩をがしっと掴み、顔をぐいと近づけてきた。思わず、何か怪しからぬ行為に及ぶ気かと体を固くしたが、勿論そうではなかった。
至近距離から、いつになく真剣な表情でキリトは言った。
「その、賞品だけど……ダインは? 何を選んだ?」
「え、えっと……何か、趣味の悪い色のジャケットだった」
「ゼクシードとたらこは?」
「さ、さあ……話したこともないもん。でも、まあ……あれだけのハイレベルプレイヤーになれば、つまらないアイテムなんか興味ないだろうから、モデルガンじゃないかな……。それが、何なのよ?」
だがキリトは答えず、シノンの目を見ながらもその心は思考の海を彷徨っているようだった。
「モデルガン……フェデックス……総督府……あの場所は……確か……」
うわ言のように、低い声で呟き続ける。
「……時間……順番……」
突然、右肩に乗せられたキリトの手に、ぎゅうっと恐ろしいばかりの力が込められた。両目がかっと見開かれ、黒い瞳が爛々と光った。そこにあるのは――恐怖? あるいは、危惧?
「ど……どうしたのよ!?」
「ああ……なんてことだ…………なんてことだ」
紅く艶やかな唇から、それに似つかわしくないしゃがれた声が漏れた。
「俺は……とんでもない誤解を……」
「ご、誤解?」
「……VRMMOをプレイするときは……プレイヤーの魂は、現実世界から仮想世界に移動し、そこで喋り、戦うのだと……だから、死銃も、この世界で標的を殺しているんだろうと……」
「ち……違うの……?」
「違う。プレイヤーの体も、心も、移動なんてしちゃいない。仮想世界なんてものは、ほんとはありはしないんだ。ベッドに寝転がったプレイヤーが、映像を見て、音声を聴いてるだけなんだ」
「…………」
「だから……ゼクシードたちは、あくまで死体のあった場所、自分の部屋で死んだんだ。そして……殺人者も……その場所に……」
「何を……何を、言ってるの……」
キリトは一瞬唇を閉じ、再び開いた。その声は、彼の恐怖を映してか、凍えるような冷気に厚く包まれていた。
「死銃は――二人いるんだ。ひとり……つまりモルターレが、ゲーム内でターゲットを撃つ。同時に、ターゲットの部屋に侵入したもうひとりが、目の前で横たわるプレイヤーを殺す」
キリトの言葉の意味が、一瞬わからなかった。シノンはわずかに上体を起こし、しばらく放心したあと、首を横に振った。
「でも……だって……そんなの、無理だよ。どうやって、住所を……」
「君がたった今言ったじゃないか。モデルガンが送られてきた、って」
「じゃ……じゃあ、運営体が犯人なの……? それとも、ユーザーデータに侵入して……?」
「いや……その可能性はごく低い。一般のプレイヤーでも、ターゲットの住所を知ることは可能だ。BoB本大会の出場者で、賞品にモデルガンを選択した者に限っては」
「…………」
「総督府だよ。あそこの端末で、宛先を打ち込んだと言ったな。俺が大会の参加登録したときも、少し気になったんだけど……あの場所は吹き抜けになっていて、一階ホールを囲むように、中二階のカフェテリアがあった。そこのテーブルから、双眼鏡なりスコープなりを使えば、操作中の端末画面を詳細に覗き見ることは充分に可能なはずだ」
「……か、鍵はどうするの? 家の人とかは……?」
「ゼクシードとたらこの例に限って言えば、二人とも一人暮らしで……家は古いアパートだった。多分、鍵も旧式だろう……。最近は高性能のピッキングガンも出回ってるしな。それに、部屋の住人の意識が無いのは、モルターレが確認できるんだ。その気になれば侵入は案外容易いんじゃないのかな……。下調べとか、準備にもたっぷり時間を掛けられるしな」
次々と重ねられる言葉に、シノンは耳を塞ぎたいような気持ちを味わっていた。今まで、謎に包まれた茫漠とした存在であった死銃が、現実の犯罪者として徐々にその輪郭を露わにしていくにつれ、先ほどまでとは別種の恐怖が胸に染み出してくる。
どうにかして否定する材料を探そうと、シノンは強張る唇を動かした。
「じゃ、じゃあ……死因は? 不明なんでしょ……?」
「何らかの薬品……だろうな。筋弛緩系の……それで、心臓が止まったんだ」
「そんなの……調べれば分かるでしょう? 注射の痕とか……」
「……死体は、発見が遅くて……かなり腐敗が進んでいた。それに……残念ながら、コアなVRMMOプレイヤーが心臓発作で死ぬ例は、ほんとに多いんだ。ろくに飲み食いしないで、寝てばっかりいるんだからな……。部屋も荒らされず、金が獲られてもいなければ、自然死と判断される確率は高いだろう。それでも一応、脳の状態は詳しく調べたらしいんだけど、まさか薬品が注射されたなんて……最初からそのつもりで調べないと、分からないだろうな」
「…………そんな……」
シノンは両手でキリトのジャケットを握り、いやいやをする子供のように頭を振った。
そこまで周到な準備をして、ただ人を殺すために殺す――。そのような行為に及ぶ人間の心理は、完全に理解の埒外だった。感じられるのは、極北の闇を満たす深い悪意、それだけだった。
「……狂ってる」
囁いたシノンの声に、キリトも頷いた。
「ああ……狂ってる。そうしてまでも、あの男にとっては、真のプレイヤーキラーであるという事実が必要だったんだろう……。共犯者のことまではわからないが……多分、そいつもSAOサバイバーである可能性は高い。いや……ラフィン・コフィンの生き残り、かもしれないな。しかし……おそらく、いや九九パーセント、これが事件の真相だろう。モルターレは、俺たちを襲ったとき頻繁に時間を気にしていた。現実世界での準備が整うのを待っていたんだ。――シノン」
キリトは、両手でぎゅっとシノンの肩を掴んだ。
「君は……ひとり暮らしか?」
「う……うん」
「鍵は……それに、ドアチェーンは?」
「鍵は掛けてあるけど……古い、ピンシリンダーの奴だから……。チェーンは……」
混乱した思考のなかで、必死にダイブ前の記憶を探る。
「……してない、かもしれない」
「そうか。――いいか、落ち着いて聞いてくれ」
キリトの顔に、かつて見たことのない恐怖の色が浮かんているのを見て、シノンの胸の奥は氷を詰め込まれたかのようにきりきりと冷たくなった。
嫌だ、その先は聞きたくない――
「モルターレは、君をあの銃で撃とうとした。いや……バギーで追っているときに、実際に撃った。つまり……準備が完了している、ということだ。……今この瞬間、現実の君の部屋に共犯者が侵入して、中継画面でその瞬間を待っている――という可能性がある」
告げられた言葉が、意味を成すかたちとなってシノンの意識に浸透するのには長い時間を要した。
すうっと周囲の光景が薄れ、見慣れた自分の部屋が脳裏に甦ってくる。幻視のように、高い位置から六畳の自室を見下ろす。
こまめに掃除機を掛けている、フローリング風のフロアタイル。淡い黄色のラグマット。小さな木製のテーブル。
西側の壁に面して、黒のライティングデスクと、同じく黒いパイプベッドが並べられている。シーツは飾り気のない白。その上に、トレーナーとショートパンツ姿で横たわる、自分。目を閉じ、額には二重の金属環で構成された機械が装着されている。そして――
ベッドの傍らにひっそりと立ち、眠る少女を覗き込む、黒い人影。全身はシルエットのように塗りつぶされているが、ただ一つ、右手に握るモノだけがはっきりと見える。曇ったガラスのシリンダー、その先端から伸びる銀色の針――致死性の液体を満たした、注射器。
「嫌……いや……」
シノンはぎしぎしと強張った首を動かし、呻いた。幻が消え去り、砂漠の洞窟に戻っても、侵入者の握る注射器のぎらつきだけは眼の底に残っていた。
「いやよ……そんなの……」
恐怖――などという、生易しいものではない。激甚な拒否反応が駆けめぐり、全身が抑えようもなく震えた。動くことも、周囲を認識することもできない無力な自分のからだを、間近から見知らぬ人間が見ている。いや――それだけではないかもしれない。肌に触れ……あるいは更に……
不意に、喉の奥が塞がるような感覚とともに、呼吸ができなくなった。背筋を反らせ、空気を求めてあえぐ。
「あ……ああ……」
光が遠ざかる。ごうごうと耳鳴りがする。魂が、かりそめの肉体から離脱する――
「だめだシノン!!」
いきなり両腕をきつく握られ、同時に耳もとで凄まじい音量の叫び声がした。
「今カットオフしたら危ない! がんばれ……気持ちを落ち着かせるんだ! 今はまだ大丈夫だ、危険はない!!」
「あ……あっ……」
焦点の合わない眼を見開きながら、闇雲に両手を動かし、声の主にすがりつく。確かな温度を持ったその体に両腕をまわし、無我夢中で抱きつく。
すぐに、力強い腕が背中を抱え、しっかりと繋ぎとめるように力が込められた。もう一方の手が、ゆっくり、ゆっくりとシノンの髪を撫でる。
再び、今度は囁き声がした。
「死銃のハンドガンに撃たれるまで、侵入者は君に何もすることができない。それが、奴ら自身が定めた制約だ。だが緊急ログアウトして、侵入者の顔を見てしまうと逆に危険だ。だから、今は落ち着くんだ」
「でも……でも、怖い……怖いよ……」
子供のように訴えながら、シノンはキリトの肩口に顔を埋めた。
両腕にぎゅうっと力を込めると、かすかに、しかし規則正しくリズムを刻むキリトの鼓動が伝わってくる。
脳裏に広がる恐怖のイメージを打ち消すように、シノンは必死にそのリズムに耳を澄ませた。とくん、とくん、とほぼ一秒に一度のペースで、拍動が体に染み込んでくる。狂騒的なアレグロでわめくシノンの心臓を、メトロノームのようにそっと宥めていく。
気付くと、まるでキリトの精神に同調したかのように、パニックの衝動は薄れていた。恐怖は消えないが、それを抑えるに足る理性が少しずつ復調してくるのを感じた。
「……落ち着いたか?」
低い声とともに、背中からキリトの腕が離れようとした。だが、シノンは小さく首を振り、呟いた。
「もう少し……このままでいて」
返事は無かったが、再び体がしっかりと包まれた。華奢な手が頭を撫でるたび、温もりが凍りついた体の芯を少しずつ溶かしていく。シノンは深く息をつくと、まぶたを閉じ、全身から力を抜いた。
数十秒――あるいは一分以上そのままでいてから、シノンはぽつりと言った。
「……あんたの手、お母さんに似てる」
「お、お母さん? お父さんじゃなくて?」
「私、お父さんのこと何も知らないの。赤んぼの頃、事故で死んじゃったんだ」
「……そうか」
キリトの答えは短かった。シノンは、ぎゅっとキリトの胸に頬を押し付けた。
「――どうすればいいのか、教えて」
思ったよりも、しっかりした声が出せた。キリトは、シノンの髪を撫でる手を止め、即座に答えた。
「モルターレを倒すんだ。そうすれば、現実世界で君を狙う共犯者は、何も出来ずに姿を消すはずだ。――と言っても、君はここで待機していればいい。俺が戦う。モルターレのあの銃では、俺を殺せないんだからな」
「本当に……大丈夫なの?」
「ああ。モルターレは俺の住所なんか調べられないし、そもそも俺は家からダイブしてるわけじゃないんだ。すぐそばに人もいるしな。だから俺は大丈夫――ただ、ゲームルールに則ってあの男を倒すだけだ」
「でも……あの黒いハンドガン抜きでも、あいつ、かなりの腕だわ。回避力だけ見てもあんたと同等かもしれない」
「……確かに、絶対の自信があるわけじゃないけど……残りは何人だろう」
声と共に、シノンの頭からキリトの左手が離れる。ウインドウを確認する気配。
「――四人。シノンと俺……モルターレと、誰かさん、か。微妙な状況だな……。モルターレと残るひとりが戦い、どちらかが倒されれば理想的なんだが……それを待つほうがいいかな……」
「あ……」
シノンはそれを聞いて、とあるルールを思い出し、顔をしかめた。目を開き、尋ねる。
「――この洞窟に隠れてから何分経った?」
「え? ええと……二十分ちょっとだな」
「じゃあ、ここにはあと十分しか居られないわ。三十分以上一箇所に留まり続けると、マップ上にその人の位置が表示されちゃうっていうペナルティがあるの」
「なるほどな……。どれくらい移動すればいいんだ?」
「一〇〇メートル」
「……よし。じゃあ、逆にそれを利用するか……。ここから出たら、俺は五十メートルほど移動して止まり、ペナルティを受けてモルターレをおびき出す。君は百メートル以上離れて、似たような岩山の影に隠れるんだ。俺がモルターレを倒せばそれでよし、もし負けたら、そのまま待機してくれ。残りひとりもこの場所にやってくるはずだから、そいつとモルターレを戦わせる」
「モルターレが、その相手もあの銃で撃とうとしたら……?」
「いや……そう都合よく奴のターゲットが残っているとは思えない」
「うん……」
キリトが退場し、このフィールドにモルターレと一緒に残されることを考えると、深い不安が押し寄せてきたが、シノンはそれを飲み込んで頷いた。
「モルターレが死んだら、残りひとりを狙撃で倒せば君の優勝だ。だが――モルターレが残ったら、決して戦おうと思うな。自殺するんだ。そして待機ホールには戻らずにログアウトする。……いいか、ここからが重要だ」
キリトは両手でシノンの体をそっと持ち上げ、ごく近い距離からじっと目を見つめた。
「ログアウトして、意識が現実の体に戻っても、すぐに動いちゃだめだ。おそらくその時点では、侵入者がいたとしてももう部屋から脱出しているはずだが、万が一そいつが残っている気配がしたら、動かないでダイブが継続しているように装うんだ。そいつは絶対に君には何もできない。なぜなら、死銃に撃たれた、という事実なしに君を殺すことはできないからだ。BoBの外部中継が終了したら、そいつは部屋から出ていくはずだ。そうしたら、すぐに鍵とチェーンを掛け、警察に連絡を――いや、待てよ……」
一瞬口を閉じ、猛烈な速度で何事か考えるように目を閉じてから、キリトはすぐに言葉を続けた。
「状況に関わらず、俺は君より早くログアウトすることになるだろう。万一の為に、俺も警察に通報したほうがいいかもしれない……。――シノン。重大なマナー違反は百も承知だけど……君の本名と住所を、訊いていいか」
「…………」
シノンは無言のまま、じっと目の前の少年を見つめた。
ゲーム内で現実世界に属する情報を漏らすことは、言われるまでもなく非常な禁忌である。しかし――今のこの状況が、すでにゲームではなくなっているのもまた確かなことだった。
ゆっくりと一つ頷いてから、シノンは告げた。
「私の名前は――朝田詩乃。住所は、東京都文京区湯島二丁目……四二の一〇、ナミキハイツ二〇二」
「文京区!?」
キリトは一瞬目を大きく見開いた。
「――俺がダイブしているのは千代田区だ。しかも……湯島二丁目とは、かなり近い……ほとんど目と鼻の先だ。警察よりも早いかもしれない……」
「来て……くれるの?」
「……そうしよう。通報したら、すぐに向かう。一応……俺の名前は、桐ヶ谷、和人という」
「キリガヤ……くん」
とうとう、リアルでまで関わることになってしまった――と思いながら、シノンはその名前を繰り返した。
どうやら、シノンと似たような安易なネーミングであるらしい少年は、こくんと頷くと体を起こそうとした。
「じゃあ……移動の準備をしよう。とりあえず入り口から索敵を……」
「あ……ま、待って」
シノンは反射的にキリトの体にまわした腕に力を込め、その左頬に頭をすり寄せた。
「あ……あの」
慌てたような声を出すキリトの耳に、ごくかすかな声で囁きかける。
「……い、言っとくけどね、私……あんたのこと、嫌いなんだからね」
そのまま少し顔を動かすと、額の脇で結わえた髪がぱさりと流れ、直接頬と頬が触れ合った。
突然、このような衝動に駆られた理由は、シノンにもよくわからなかった。あるいは――ひとと触れ合い、言葉を交わすのがこれで最後となりうることを、心のどこかで悟っているせいかもしれなかった。
ゆっくり、顔の角度を変えていく。唇の端と端がわずかに交差し、離れ、もう一度――
「あの……し、シノン」
「……なによ」
「いや……少し前から、視界の右下に……その、Lの字みたいなマークが……点滅してるんだけど……何だろう」
「え……」
慌てて確認すると、確かにHPバーの下に、四角い枠に囲まれたL字が小さく表示されていた。即座にがばっと体を起こし、周囲の空間を見回す。と――左後方、洞窟の天井ぎりぎりの場所に、明るい水色の光点が浮いているのが見えた。
「あっ……な……しまった……」
一瞬、飛び起きてキリトから離れようと考えたが、すぐに今更手遅れだと思い直し、再び少年の胸に体を預けた。
「あの……あれは、何?」
「ライブ中継カメラよ」
「なっ……やばい、会話を……」
「大丈夫、音声は拾わないから。――手でも振ったら」
それとも――、と、ことさらクールな声で続ける。
「……この映像を見られると困る相手でも、いるの?」
するとキリトはちらりと真剣に怯えた顔を見せたあと、居直るように強張った笑みを浮かべた。
「あー……いや……その……そりゃ君のほうだろう。大体、これ見てる人は、両方女の子だと思う可能性が高いんじゃないか?」
「う……」
確かに言われればそのとおりであり、いずれシノンは厄介な弁明を強いられることになりそうだった。だが――全ては、無事にこの状況を乗り切ってからだ。瞬間、生身の体が瀕している危機のことを思い出して背筋がひやりとするが、何故か、大丈夫、何とかなるという根拠のない確信のほうが大きかった。あるいはそれは、目の前の、美少女の外見にそぐわぬふてぶてしさを備えた光剣使いから伝染したものかもしれなかった。
シノンはふん、と短く鼻を鳴らして言った。
「――カメラに気付いてジタバタ取り乱すほうがかっこ悪いわ。いいわよ別に、その……そういうシュミの持ち主っていう噂でも立てば、面倒なちょっかいも減るだろうし」
「じゃあ、俺はずっと女の子で通さないといけないの?」
「忘れたとは言わせないわよ。あんた最初に女のフリして私に案内を……あ、消えた」
無音の映像からは睦言を囁いているとしか思えないであろう体勢で、皮肉の応酬を繰り広げようとしたその時、ライブカメラを現す光点は新たなターゲットを求めて旅立っていった。
シノンはふう、とため息をつくと、今度こそ体を起こした。
「なんか……色々やりかけだけど、そろそろ移動しないと間に合わない」
「――そうだな」
キリトは表情を引き締めると、軽くシノンの左腕を握り、言った。
「手順はわかってるな。くれぐれも、死銃に発見されないように気をつけろよ」
「ん。もうすっかり日も暮れたし、そうそう見つかるもんじゃないわよ」
頷き、シノンは立ち上がった。思わぬ長時間に及んだ接触を失った体に、夜の砂漠の空気は少しだけ冷たく感じられた。
ヘカートUのスコープを暗視モードに変更し、シノンは右目で覗き込んだ。
グリーンの濃淡で表示される砂漠には、今のところ動くものの影はない。
洞窟の入り口にシノンと並んで横たわり、双眼鏡で索敵していたキリトが短く呟いた。
「赤外線でも見当たらないな。よし――俺はこのまままっすぐ北に五十メートル移動し、モルターレを待つ。君は……見えるか? あそこ」
黒のグローブを嵌めた右手で指差す先、西北西に三百メートルほど離れた場所には、今居る場所と似たような岩山が黒く頭をもたげていた。
「あの根元に、ひとりなら隠れられそうな窪みが見えた。そこまで走って伏せるんだ」
「……わかった。めんどくさいの嫌だから、死銃の奴はあんたが片付けてよね」
そっけない口調でそう言うと、キリトは片頬でニヤリと笑い、中腰で立ち上がった。
それに倣いながら、シノンはふと、もうひとことだけ、何か言わなければ――という衝動を感じた。しかし、言うべき言葉を見つけるより早く、キリトはぐっと頷いて洞窟から一歩踏み出した。
まあ、いいや――何を言うかは、現実世界で会ってから決めよう。
そう思い、シノンも満天の星空のしたに進み出た。
ヘカートをしっかりと背負いなおし、キリトと同時に、しかしおよそ百八十度異なる方向へとダッシュを開始したときには、もう雑念は全て吹き飛んでいた。
細かい砂に数回足をとられそうになりながらも、シノンは目標地点までの距離を一分とかからず駆け抜けた。
キリトの言葉どおり、岩山の下部には、先ほどまでいた洞窟とは比べ物にならないが、どうにか体全体を隠せそうな窪みが存在した。走りながら体を低くして、滑り込むように穴の中へと突っ込む。
うつ伏せになると両足で奥の岩壁をしっかりと支え、ヘカートを肩から下ろした。バイポッドを展開してしっかりと砂に突き立て、セーフティを解除する。
ぶつけるようにストックに肩を押し当て、スコープを覗いた。
狙い違わず、視野の中央、ひときわ大きな砂丘の天辺に俯いて立つ人影があった。
時折吹き抜ける風が、肩のラインでまっすぐに揃えられた黒髪を揺らしている。細い体を包む黒のファティーグは夜闇に溶け込むようで、なぜかその姿は、銃を帯びた兵士と言うよりも、幻想世界の荒野に佇む妖精の剣士のように思えた。
シノンが思わず息を飲んで見守るなか、キリトはゆっくりと右手を動かし、腰からフォトンソードを外した。音も無くプラズマの粒子――あるいは魔法の燐光をまとった刀身が伸び、周囲を青紫色に照らし出した。あまりのまばゆさに、シノンは目を細めてスコープの光増幅率を下げた。
ライフルから顔を離しても、数百メートル先の光剣の輝きは肉眼ではっきりと見えた。これなら、砂漠を彷徨っているであろうモルターレもすぐに気付くだろう。
願わくば――キリトの推理が事実であり、死銃の殺人光線が偽りの力でありますように。
それは同時に、現実の詩乃を狙っているもうひとりの死銃の存在を肯定することにもなる。しかしそれでもなお、シノンはそう祈った。あの禍々しい赤いビームに撃たれ、キリトが悶え苦しんで消滅するシーンなど絶対に見たくなかった。
再びスコープを覗き、撃つ予定は無いもののトリガーに指を掛ける。
それからの待ち時間は、今までスナイパーとして経験したどの狙撃よりも長く感じた。おそらく、たかが数分であったはずなのだが、過ぎ去る一瞬一瞬は永遠にも等しいほどに引き伸ばされていた。
星明りに照らされた砂漠にただひとり、光の剣を携えて立つ中性的な少年の姿は、この殺伐とした戦場には有り得ないほどに美しく感じられた。この世界で最後に見る光景としては悪くない――、シノンはそう思いながら、瞬きもせずにその姿を見つめつづけた。
しかしついに、その瞬間がやってきた。
突如、キリトの周囲で立て続けに砂が弾けた。赤い光線ではなく、実弾の連射だった。しかしキリトは、弾道予測線から威嚇と察していたのか、身じろぎひとつしなかった。数秒後、砂丘の向こうから、あらたな人影が出現した。
夜風になびく、裾がぼろぼろに解れた迷彩マント。右手に握ったベレッタSC70。左手に下げた無銘のハンドガン。間違いなくあの男――モルターレと名乗る死銃の片方の腕だった。
死銃は、キリトから十メートルほど離れた場所に立ち止まった。
その瞬間、シノンはヘカートの銃弾で男の頭を吹き飛ばしたい衝動に駆られ、右手の人差し指をぴくりと震わせた。死銃がシノンに気付いていない今なら、狙撃手の特権として、一度だけ予測線を与えない攻撃を試みることができる。
しかし――多分、あの男は回避するだろう、という予感があった。それに、表面的には平静な意識を保っていても、いざ狙撃となればあの時の恐怖が甦り、照準を妨げるかもしれなかった。こわばった指を苦労してトリガーから剥がす。
即座に激戦が繰り広げられると思いきや、予想に反して二人はなかなか動かなかった。キリトは右手の剣を下ろしたままの格好で、左手を動かしながら何事かを喋っている様子だった。おそらく、推測をもとに、モルターレの凶行を中止させるべく説得しているものと思われた。
しかし、狂える殺戮者はまったく聞く耳を持っていないようだった。いきなり、左手に握った例のハンドガンでまっすぐキリトを照準し、短く叫び返した。
キリトを撃つのでは――、と思った途端背筋を冷たいものが這ったが、シノンは歯を食いしばって耐えた。
二人は、再び動きを止め、言葉の応酬を再開した。数百メートルの距離ゆえに、会話はまったく聞こえないが、それでもシノンには交わされている言葉の内容がおぼろげに察せられた。彼らは恐らく――今はもう存在しない、しかしなお二人の心を幾重にも縛っている彼の世界での出来事について語っているのだ。
いくつかの言葉がやり取りされ、そしてついに、仁王立ちになったモルターレが体を大きく反らせて肺腑の底からすさまじい大音声をしぼり出した。あまりの声の大きさに、その言葉だけはいくつもの砂丘を越えてシノンの耳にまで届いた。
「……なら、お前の罪はこの僕が裁いてやるぞキリトォォォォォ!!!」
直後、右手のベレッタを振り上げて、フルオートで銃弾の雨をばら撒いた。
戦闘が始まった。
キリトは、右手の光剣を目まぐるしく閃かせ、至近距離からの高速弾のほとんどを弾き返したが、それでも一、二発が体の末端を捉えるのが見えた。
突撃銃の斉射が途切れるやいなや、黒衣の少年は十メートルの距離を一足飛びに詰め、モルターレに斬りかかった。
右下から切り上げる第一撃。そのまま真横に凪ぐ第二撃。踏み込みながら素早く剣を引き、直突きの第三撃。振りかぶって大上段に切り下ろす第四撃。
舞のように流麗でありながら、剣の描いた光の軌跡がすべて繋がって見えるほどの、凄まじいスピードの連続攻撃だった。しかし――
驚くべきことに、死銃は体を開き、沈め、後方に飛び退って、すべての斬撃を回避してのけた。明らかに、剣相手の戦闘に慣れきった動きだった。
全力を込めたと思しき上段斬りを回避され、キリトの動きが一瞬止まった。その隙を突いて後方宙返りで距離を取ったモルターレは、再び右手のアサルトライフルを吼えさせた。オレンジ色の発射炎が長く伸び、キリトの体を無数の射線が包み込む。
今度は、キリトが飛び、伏せ、剣を振って、初めて会ったときに武器屋の店先で見せたのと同じ超絶回避技術を披露した。十数発の弾丸すべてが、青白い砂に空しく穴を穿った。
ライフルが沈黙した瞬間、シノンは心の中で、今よ!! と絶叫した。
ベレッタSC70のマガジン装弾数は三〇だ。一回目の連射と合わせると、間違いなくその全てを使い切っている。弾の無くなった銃など単なる鉄の塊であり、また近距離、一対一の戦闘中に弾倉を換える暇などありはしない。
それはキリトも重々承知していたようだった。射撃が途切れた瞬間、激しく砂を蹴って一直線に襲い掛かった。ブルーパープルに輝く刃を、頭上高く振りかぶり――
しかし、その突進は距離なかばでの中断を余儀なくされた。
モルターレが左手の、あのハンドガンを突き出し、立て続けに真紅の光線を撃ち込んだのだ。
キリトは右足を砂に突き立て、真横に転がった。その体を追って、次々と砂に赤いレーザーが突き刺さる。
しかしシノンは、射線から、モルターレにはキリトに光線を命中させる気がないのを察していた。あれは、あくまで牽制なのだ。「死の光線」を命中させ、しかしキリトが消えなければ、今まで築いてきた死銃の伝説に傷がついてしまう。
恐らく、キリトにもモルターレの意図はわかっているだろう。しかし、例えそうであっても、あの光線を身に受ける覚悟で突進するためには、途方もない意思力が必要であろうことは容易に察せられた。己の仮説にどれほど自信があろうと、それは現段階では絶対の事実ではないのだ。「もしかすると」と思ってしまったが最後、反射的にあの銃による攻撃を回避してしまうのも止むを得ない。
血の色の光線でキリトを追い立て、充分に距離を稼いでから、死銃は手練の早業でベレッタのマガジンを換装した。再びライフルが火を噴き、体勢を立て直しきれなかったキリトの脚に更に一発が命中した。と――
今まで、あえてフォトンソードだけで戦っていたキリトが、いつのまに抜いたのか、左手に握ったファイブセブンを連射した。ベレッタとは微妙に異なる色の光を曳きながら、弾丸が宙を切り裂く。
虚を突かれたのか、死銃の回避は初動が遅れ、一発がその胸部を捉えた。貫通力にアドバンテージを持つSS90弾がボディアーマーを貫いたと見え、ぐらりと死銃の体が揺れた。
その隙を逃さず、キリトは空を翔ける勢いで彼我の距離をゼロにし、再度斬りかかった。
だが今度は、モルターレは攻撃を避けようとはしなかった。代わりに、右手のベレッタをまっすぐに突き出す。
キリトの袈裟切りが死銃の肩口に食い込み――同時に、咆哮した突撃銃が三発の弾丸をキリトの腹に叩き込んだ。一瞬の交錯で、HPバーを半分以下に減らした両者は大きく飛びのいて、ぴたりと動きを止めた。
いつしかシノンは、恐怖も忘れて、眼前で繰り広げられる死闘に見入っていた。
通常、GGOにおける戦闘では、回避など端から考えない無様な撃ち合いが繰り広げられるものと相場が決まっている。相手の弾道予測線を意識することができるようになって、三流。十発中三発を回避できれば、二流。同時に己の着弾予測円を安定させられるようになればもう一流だ。
しかし――、いま戦っているキリトとモルターレのように、掩蔽物の一切無いオープンフィールドにおいてこれほどの熱戦を繰り広げられる者は、BoB出場クラスのプレイヤーにもそうはいるまい。
モルターレ・フチーレ、というあの男の名前にはまるで見覚えが無かった。ということは、あのキャラクターはこの「死銃伝説」の為に一から鍛え上げたものだろう。超高レベルのステータスからして、多分ゲーム担当とリアル担当の二人で交互にログインし、経験値を稼いだものと思われた。
しかし、恐らく、「モルターレ」となる以前のあの男は、名の通ったガンナーであったに違いない。そう思うと、シノンはかすかなやるせなさを感じた。
なぜ、それで満足できなかったのか。なぜ、現実での殺人行為に手を染めてまで、真のプレイヤー・キラーなどという汚れた称号を欲したのか。
多分――。
その心の歪みは、代償なのだ。あれほどの強さを手に入れるのと引き換えに、彼は人間の心を失ったのだ。
そう確信するほどに、モルターレの動きは超人じみていた。あの男は、二年に及ぶ、仮想世界における本当の命のやり取りを繰り広げてきた「SAO生還者」という人種なのだ、という事実をシノンは今更のように実感していた。
で、あるならば。
そのモルターレと、互角以上の戦いを繰り広げているキリトにも、やはり失ったものがあるのだろうか。
知りたい。彼がどのように戦い、どのように生きたのか、そのすべてを知りたい、とシノンは痛切に思った。その為には、必ず生き延びて、現実世界で再会しなくてはならない。
HPを大きく減少させたキリトとモルターレは、次の交錯で決着をつけるべく、身じろぎもせずに睨み合っていた。
シノンはスコープから目を外し、肉眼で彼方の青い光を見つめた。一瞬、何ものかに祈ってから、再びライフルに顔を寄せ――
ようとして、視界の端に、ちらりと動いた影を捉えた。
ハッと息を飲み、慌ててライフルの向きを変えて覗き込んだ。
対峙するキリトとモルターレから、北西方向におよそ四百メートル。人の背丈の倍以上はあろうかという巨大なサボテンの根元に、わずかに盛り上がる黒い影があった。こうして見ている限りでは、植物の瘤としか思えない。先ほどの動きを見咎めていなければ気付くことはできなかったろう。
シノンは全神経を右目に集中しながら、スコープの光増幅率を上げた。ノイズ量は増加したが、同時に黒い瘤のディティールが明らかになった。
やはり、そこにあったのはうずくまるプレイヤーの姿だった。戦場に残った四人の、最後のひとりだ。大柄な体を分厚いボディアーマーに包み、ナイトスコープつきのヘルメットを装着している。まっすぐキリトたちのいる地点に向けられている顔は、サボテンの作る陰に入ってはっきりとは見えない。
シノンは顔からプレイヤーを識別するのを諦め、その懐に抱えられたアサルトライフルに視線を凝らした。こちらもほとんどシルエットしか見えないが、上部に装着された特徴的なハンドガードが目についた。コンパクトな全長からしても、ほぼ間違いなくブルバップ式突撃銃のジアット−FAMASだ。
素早く、頭の中の出場者インデックスを検索する。機関部をグリップよりも後方に配置したブルバップ銃は、小型軽量というメリットゆえにAGI型プレイヤーが好んで装備する傾向がある。
FAMAS装備の大柄なAGI型、という条件に合致する出場者はひとりだけだった。前大会で、ゼクシードと最後まで優勝を争った〈闇風〉という男だ。キリトに予選決勝で敗北するまでは、シノンが最大の敵と見なしていたプレイヤーでもある。圧倒的スピードを誇る純AGI型は近距離からのフルオート射撃ですら五割以上を回避してのけるため、間合いを詰められればスナイパーとしてもう成すすべもない。
しかし――、シノンの脳裏からは、そのようなゲーム的思考はすぐに消え去った。
今問題なのは、この闇風の登場が、状況にどのような影響を与えるか、というその一点のみである。
おそらく彼は、このままキリトとモルターレの戦闘を見守り、どちらかが倒れた瞬間奇襲をかけようと考えているのだろう。
もしキリトが勝てば、迷うことなく闇風を狙撃すればよい。だが、モルターレが生き残った場合は……。
先ほどの、キリトの声が耳に甦る。――もし俺が負けたら、そいつとモルターレを戦わせる――。
それで、問題はないはずだ。死銃がターゲットとしうるプレイヤーの条件は非常に限定的なため(一人暮らしで、東京近郊に住み、BoB出場経験があって、参加賞にモデルガンを選択している)、闇風が標的リストに乗っている可能性はかなり低い。それに、例えリストに彼の名があろうとも、死銃は現在シノンをターゲットにしている筈であり、ゆえに現実において闇風の命を奪う準備は出来ていない……
猛烈なスピードでそこまで思考した瞬間、シノンはキリトが見落としたある可能性に思い至り、慄然とした。
死銃の腕は――本当に二本だけなのだろうか?
この瞬間、仮想世界で戦っている〈モルターレ〉は間違いなくひとりだけだ。
しかし、現実世界で、心臓を停める薬品を片手に徘徊している、言わば〈実行者〉は――何人いても、おかしくないのではないだろうか?
シノンは、最早遥かな過去とすら思える大会前半の記憶を、必死に辿った。
モルターレはまず、最初の獲物にザッパを選んだ。そして一端姿を消し、シノンが名前を知らない誰かを殺した。さらに川底を遡って第一の惨劇の舞台に取って返し、その場にいたシノンをあのハンドガンで撃とうとした。
三つの銃撃のインターバルは、それぞれ何分だっただろうか。
正確には思い出せない。だが、三十分とは開いていなかった気がする。
できるものだろうか? ひとりの人間が、それほどの短時間に、現実世界を移動し、鍵を破って侵入して、標的に薬液を注射して回る――などということが?
もしシノンを含む三人の標的を、例えば隣接した区などのごく狭いエリアから選んでいれば、不可能ではないのかもしれない。しかし、現実世界の〈死銃〉が二人以上存在する、その可能性を否定することはできない。
つまり。
このまま傍観し、モルターレと闇風の戦闘となった場合、あの黒いハンドガンが牙を剥いて犠牲者の累計を五に増やす――しかも、横たわり何もできないキリトの目の前で――、ということは起こり得るのだ。
ならばどうするか。降り注ぐ星明りの粒子すら停止するほどのスピードで、シノンは考える。
闇風に状況を警告するのは不可能だ。すべてを説明しようと思ったら一時間あっても足りるまい。となれば、残る選択肢は二つだ。
ひとつは、全てを偶然に委ね、ただ見守る。
もうひとつは――闇風を狙撃し、一発で舞台から退場させることで死銃に近づくのを阻止する。しかしその場合、モルターレは間違いなくシノンに気付くので、距離があるうちに死銃をも狙撃して仕留める。
今の私に、出来るだろうか。シノンは無力感とともにそう思った。
バギーでの逃走中に行った狙撃は、実に惨めなものだった。今まで積み上げたプライドの全ては、あの瞬間に砕け散った。
今にしてみれば、BoBで優勝することで真の強さを手に入れる――などという思い込みは、滑稽というほかはない。昔ながらのテレビゲームでハイスコアを出し悦に入る子供と、本質的には何ら変わるところが無いではないか。状況が「ゲーム」から「現実」になった途端、立ち上って前を見ることすらできなかったではないか。
命が懸かっているのだから、恐れて当然だ――とキリトは言った。死を恐れない者などいない、と。
でも。
五年前、十一歳の私にはそれが出来た。いや――できるはずがないのに、偶然と、狂躁のせいで、出来てしまった。
私はずっと、あの瞬間から逃げつづけてきた。忘れよう、消し去ろうと、目をつぶって闇雲に記憶に絵の具を塗りつづけてきた。
しかし、心のどこかでは、もう一度同じ高さの壁が現われるのを望んでいたのではないか。それを乗り越えることなしに、恐怖に打ち勝つことはできないと、悟っていたのではないか。今度こそ、己の意思によって。
ならば――
今が、その時だ。
シノンはヘカートUの銃身にそっと左手を添え、右手でしっかりグリップを握った。そして、数々の戦闘を共にくぐり抜けてきた物言わぬ金属に向かって、心の中で囁きかけた。
――あなたのことを唯一の相棒なんて言いながら、ほんとは今までずっと、ゲームのアイテムとしか思ってなかったのかもしれないね。ごめんね――この二発だけ、私に力を貸して。
再びトリガーに添えた人差し指は、滑らかに動いた。クロスヘアーの中央に、障害物から僅かにはみ出した闇風の体、その真ん中で鼓動する心臓を捉える。
恐怖も、無力感も消えたわけではなかった。大会以前は、狙撃に際してはいつも氷にように冷たくなった頭のなかは、ごうごうとうねる想念の熱に満たされていた。
しかし、それが戦いというものだ。あの時だって――そうだった。
指に僅かに力を込めると、視界にグリーンの着弾予測円が表示された。ゆらゆらと、闇風の上半身から少しはみ出す大きさで脈動している。これ以上は、収縮することはなさそうだった。
それを無視して、ぐっと呼吸を止める。
システムの力で中ててもらう必要はない。命中させるのだ。意思の力によって。
シノンは、トリガーを引いた。
胸の中央に巨大な穴を開けて吹き飛ぶ闇風の姿を、シノンは最後まで確認することはなかった。右手の指に、一撃でクリティカルポイントを射抜き、仕留めたという確かな手応えがあった。
スムーズな動きでライフルの向きを変え、スコープの視界にキリトとモルターレの姿を捉えた。
そこに見たのは――意外な光景だった。
二人は完全に密着していた。モルターレのライフルの銃身をキリトが左手で掴み、光剣を握ったキリトの右手首をモルターレが押さえている。黒いハンドガンは砂の上に落ちていた。
恐らく、砂漠にヘカートの咆哮が轟いた瞬間、キリトは状況を察したのだ。自力で死銃を斬り倒すことよりも、シノンの狙撃を確実なものとすることを選んだのだろう。
キリトの右手から、フォトンソードが落ちて砂を灼いた。その手でぐっとモルターレの首を鷲掴みにして、同時に少年は地を揺るがすほどの大声で絶叫した。
「――シノン!! 俺ごと撃て!!」
それを聞いた瞬間、シノンは唇に不敵な笑みを浮かべ、囁いた。
「――馬鹿にしないで」
轟音とともに、巨大な炎が砂の海を照らした。純粋な力の結晶たる五〇口径BMG弾は、青い夜を切り裂いて飛翔し――
キリトの右手の五センチ上、フードに包まれた死銃の頭を無数の微細な破片へと分解させた。命中の直前、シノンは確かに、輝く銃弾が暴いた男の恐怖の表情を見た。
キリトが手を離すと同時に、頭部を失った死銃の体は一メートルほども吹き飛び、どさりと砂の上に落下した。大の字に伸びたその腹のうえに、赤い光が凝縮して、すぐにそれは「DEAD」の四文字となって回転を始めた。
ヘカートの銃身が冷えるのも待たず、肩に担ぎ上げると、シノンは夢中で駆け抜けだした。
細かい砂をブーツで蹴るたび、ざく、ざくと心地よい音が耳朶を打つ。移動速度のマイナス補正ゆえにスピードは出ないが、それでもシノンは一足ごとにふわりと宙を滑るような飛翔感を味わっていた。色々なものから解き放たれたかのように、心が軽かった。
目指す先では、キリトが砂の上から光剣を拾い上げ、ブレードを収めて腰に戻していた。顔を上げてシノンを認めると、ゆっくり、しかし大股に歩み寄ってくる。
懸命に走り、黒衣の少年のすぐ前にまで達すると、シノンは盛大に砂を跳ね上げながら停止した。
何かを言おうと唇を開いたが、すぐには言葉が見つからなかった。自分が今どのような感情を抱いているのかも、はっきりとは自覚できなかった。
ただ、熱い情動のうねりが喉元に込み上げて、シノンは左手でぎゅっと胸を掴んだ。
立ち尽くすシノンに向かって、キリトは初めて見せる穏やかな微笑を浮かべた。左の拳を握り、まっすぐ突き出してくる。
シノンも口を閉じ、かすかに笑った。右拳を持ち上げると、キリトの手にごつん、とぶつけた。
「……終わったな」
短く言うと、キリトは降るような星空を見上げた。つられて、シノンも視線を上げた。
そう言えば――、この世界で星を見たのは、初めてのことだった。
GGO世界の空は、かつての最終戦争の影響で、常に厚い雲に覆われている。憂鬱な黄昏の色は消えることがなく、夜空でさえどこか濁った血の赤が残っている。
しかし、街の長老NPCが語る予言の一説によれば、いつか地の毒が浄化され、白い砂へと還るとき、雲は消え去り、星と星船の光が夜空に戻るという。もちろん、そんな定型台詞をまともに聞くプレイヤーはいなかったのだが、あるいはこの砂漠は、普段プレイヤー達が彷徨っている荒野ではなく、遥か未来の約束の地であるのかもしれなかった。
シノンはしばし言葉を失い、リアルブラックの空を彩るさまざまなスペクトルの光点と、その間を川のように流れる星船の残骸に見入った。
やがて、キリトが言った。
「……さて……そろそろ終わらせないとな。ギャラリーが怒ってるだろうし」
「……うん。そうだね」
夜空の一角では、水色の中継カメラが、心なしか苛立ったように点滅している。
シノンは視線を戻し、五十メートルほど離れた場所に転がる死銃の体を眺めた。
頭部を失った完全なる死体であるが、そこには未だにプレイヤーの意識が宿り、眼前の星空を見ながら何ごとかを考えているのだろう。あるいは、中継画面で向かい合うキリトとシノンを見て、罵り声でも上げているのか。
ふと、何か言葉をかけようかと考えたが、言うべきことなど何一つありはしないと思い直した。一度かたく目蓋を閉じてから、顔を上げ、キリトをまっすぐに見た。
少年は再び微笑むと、静かな声で言った。
「さあ、シノン――俺を撃て。君が、優勝者だ。いいか、忘れるなよ……ログアウトのときは、気をつけるんだぞ」
シノンも笑い返し、だが、大きく首を横に振った。
「ううん。それは、できない。キリト……私と、戦って」
真っ直ぐな黒髪を揺らして、少年は軽く目を見開いた。
「いや――しかし……」
「そんな場合じゃないのは、分かってる。私の部屋に、本物の死銃がいるかもしれないんだもんね。でも……私には、あなたと戦うことが必要なの。現実の命と同じくらい、重要なことなの」
キリトは口をつぐみ、じっとシノンを見た。その視線を受け止めながら、言葉を続けた。
「それに、今なら、もう私が勝ってもあなたが勝っても関係ないはずだわ。ログアウト時間はほとんど変わらない」
「でも……俺の装備は近距離型で、君は遠距離型だ。フェアな戦闘をするためには、二人ともこの場所から離れて、遭遇からやり直さないと……」
「その必要はないわ。向かい合って、決闘スタイルで決めましょう。遠慮しなくていいよ。たぶん攻撃力は私のほうが上だわ」
再びキリトは沈黙し、透徹した視線をシノンの瞳に注いだ。
「……わかった」
答えは短かった。
頷いたキリトは、くるりと振り向くと、砂を鳴らして歩きはじめた。正確に十メートル離れ、再び向き直る。
腰からフォトンソードを外し、青紫色に輝く刃を伸長させる。左足を前に半身になると、わずかに腰を落とす。
シノンも肩からヘカートUを外し、両手で体の前に掲げた。対物ライフルは伏射専用であり、立って撃つことは不可能ではないが、無理な姿勢ゆえに弾道はまったく安定せず、また反動を殺しきれずに体ごと吹き飛ばされてしまうのは確実だ。
しかし――どうせ次弾を撃つチャンスなどあろうはずもない。
重いブーツをしっかり砂地に噛ませると、シノンも腰を落とし、ぐっと頷いた。
キリトも頷き、左手を腰にやった。つまみだした、小さな光るものは、どうやらファイブセブン用の弾丸らしかった。
まっすぐ左手を突き出し、キリトは親指を鋭く弾いた。高く舞い上がったSS90弾は、細身の薬莢に星明りをきらきらと輝かせながら飛翔し――
二人の中間地点に、かすかな音をさせて突き刺さった。
同時に二人は動いた。
シノンは、ヘカートを素早く肩につけると、スコープを使わずにキリトを照準した。
キリトは、爆発のように砂を蹴り上げると、右手の光剣を振りかぶりながら一直線に突進した。
少年のスピードは、素晴らしいの一言だった。十メートルの距離を詰めるのに、わずか二回しか地面を蹴らず、黒い雷光のようにシノンの直前にまで達すると、フォトンソードを真っ向正面から振り下ろした。
何の外連もない、必殺の名にふさわしい一撃だった。おそらく、弾丸が砂に落ちてから、シノンの頭上にまっすぐ剣を掲げるまで、二秒とはかからなかっただろう。
それでも、シノンには一弾を発射するだけの猶予はあった。だが、撃たなかった。おそらく、撃ったところで回避されたことは疑いようもなかった。
そのかわりに、ヘカートの銃身から左手を外し、まっすぐ振り上げた。
大会開始時から、ジャケットの袖口、手首の内側に隠してずっと装備していたものが飛び出し、手に収まった。白く、細い円筒。小型のフォトンソードである。
やや高い震動音を発しながら伸びあがった薄桃色のエネルギーブレードは、ほんとうにぎりぎりの、文字通り紙一重のところで、キリトの光剣の下に割り込んだ。
キリトの一撃は、人間技とは思えない、すさまじいスピードだった。これが、他のゲーム世界における金属剣での一撃であれば、どのような防御も回避も無駄だったろう。
しかし、この世界に来て間もないキリトが恐らく意識していなかったことが一つだけある。
それは、フォトンソードの物理的質量は限りなくゼロに近く、ゆえに攻撃にともなう慣性はシミュレートされていない、ということだ。
たとえ攻撃側の速度がどれほど素晴らしいものであっても、それが防御側のエネルギーブレードと衝突した場合、双方にまったく等しい斥力が生じるのだ。
雷鳴にも似た衝撃音が、砂漠に轟いた。まばゆいスパークを発生させながら交差した二本のフォトンソードは、次の瞬間、有無を言わせぬ圧力によって後方に弾き返された。
キリトは顔に驚愕の色を浮かべ、流れた右手を引き戻そうと、慣性に抗った。
しかしシノンは、抵抗せずに左手を開いた。役目を果たした白いフォトンソードは、光の残像を引きながら、空高く吹き飛んだ。
体が左に回転する勢いを利用し、右手一本でホールドしたヘカートUをまっすぐ突き出した。一三・八キロの重量は容赦なく地面に向かって沈もうとしたが、必死にこらえ、銃口をキリトの体に密着させた。
先ほどに倍する衝撃音によって世界が震えた。
巨大なハンマーで一撃されたかのようなショックが右手全体を襲い、ライフルはシノンの手から離れて、重い音をさせて砂にめりこんだ。肩に受けたリコイルによってシノンも倒れそうになったが、両足を踏ん張って必死に耐えた。
ゼロ距離から放たれた弾丸は、キリトの胸の中央に大穴を穿っていた。
少年は、吹き飛ばされながらも、一瞬の驚愕の色を即座に収め、唇に驚嘆の笑みを浮かべた。かすかな声が、シノンの耳に届いた。
「――見事」
どさっという音とともに、キリトは砂地に落下した。その体のうえにDEAD表示が出現するのを、シノンは半ば信じられない気持ちで見つめていた。
必死に考えた作戦ではあったが、成功するとはまったく思っていなかった。
どのようなリアクションも取れず、ただひたすら、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
不意に、頭上に甲高い爆音が轟いた。振り仰ぐと、どこから飛来したのか、小型のエアフライヤーの三機編隊がオレンジ色の炎を引きながら通過するところだった。航空機が、シノンの頭の上に達したその瞬間、夜空いっぱいに、色とりどりの花火が咲き乱れた。
銃声とはまったく違う、どこか陽気な炸裂音が、次々と耳を叩いた。数秒間、盛大に振り撒かれた火花は、やがて寄り集まって、巨大な活字を作り上げた。――〈CONGRATULATION!!〉。
……優勝、したんだ。
胸のおくで、ぽつりと呟いた。とても単なるゲーム大会とは言えない、異常事態とでも言うべき展開を辿った第三回バレット・オブ・バレッツではあったが――それでも、やっぱり、少しだけ嬉しかった。くるっと振り向くと、砂に銃身を突き刺している愛銃を見つけ、そっと持ち上げる。
胸に抱くと、先ほどの発射の余熱がまだその黒く優美な体に残っていた。ありがとう、と小声で呟きかけ、一瞬だけ頬を摺り寄せた。
顔を上げ、唇を綻ばせると、シノンはまばゆい色彩の乱舞する空をぐるりと見渡した。すぐに、水色のライブカメラを発見する。
びしっと右腕を突き出し――握った拳から、高々と二本の指を伸ばした。それと同時に、どこからともなく、すさまじい歓声が聞こえてきた。グロッケンの中央広場の音声が、この戦場にも中継されているのだ。
轟くような声の渦、口笛、そして拍手が、花火の破裂音を圧倒し、夜の砂漠に満ちた。高密度の音の波に揺られながら、シノンは恐らく初めて、この世界において、心の底からの笑顔を浮かべていた。
戦場からの退出を促すシステムボイスに急かされるように、ウインドウを出してログアウトボタンを押しながら、シノンは必死に熱に浮かされた頭を冷まそうとした。
BoBは終わったが、〈死銃〉をめぐる状況は、むしろこれからが本番である。現実に舞台を移し、キリトと協力して、死銃の起こした連続殺人事件を暴かなくてはならない。と言っても、自分に何ができるのかはさっぱり分からなかったが。
だが――その前にまず、自分のからだを守らなくては。シノンは、確認ウインドウの上で指を停止させ、ちらりと先ほどまでキリトが横たわっていた砂地の窪みを見つめた。
はやく来てよね、と胸のなかで呟く。
大きく息を吸い、吐いて、シノンはぐいっと〈YES〉のボタンを押――そうとして、ふと躊躇した。
現実に戻れば、自分のとなりに、狂気に駆られた殺人鬼が立っているかもしれない。その可能性を考えると、無理やりに忘れていた恐怖が鮮明に甦ってくる。
モルターレが死んだ時点で、侵入者は姿を消しているはずだ、とキリトは言った。今はそれを信じるしかない。ぐっと奥歯を噛み締め、シノンは指を動かした。
たちまち、周囲の光景は、白い光の中に溶け崩れていった。すぐに光は薄れ、暗闇が訪れる。右肩のヘカートの重みがまず消え去り、次いで音が遠ざかり、更に重力が消滅する。
一瞬ののち、シノンは詩乃となり、現実世界の自室のベッドにひとり横たわっていた。
いや――ひとり、とはまだ限らない。すぐに目を開けちゃだめだ、動いちゃだめだ、と自分に言い聞かせる。
身動きひとつせず、瞼をしっかり閉じたまま、詩乃はそっと周囲の気配を探った。
耳には、かすかにいくつかの音が届いている。
まず、自分の呼吸音。早いペースで喚く心臓の鼓動。
しゅるしゅると布を擦るような音は、ヘッドボードに置いてあるアミュスフィア本体ドライブ内のBDVDディスクの回転音だ。低く唸っているのは、エアコンの作動音。こぽ、こぽと泡だつような加湿器の音。
窓の外、表通りから遠く響いてくる水素エンジン車の走行音。同じアパートの、どこかの部屋で鳴っているらしいステレオのウーファー。
――それだけだ。部屋のなかに異質な音を立てるものは、無い。
今度はゆっくりと、細く長く空気を吸い込む。鼻腔が捉えた匂いの粒子は、これも、芳香剤がわりにチェストの上に置いたハーブソープの、穏やかな香りだけだった。
部屋には私以外、誰もいない。
そう思っても、詩乃はなかなか目を開けられなかった。ベッドの左横に、ぬうっと立って自分を覗き込んでいる何者かがいるのではないか――という畏れは、一向に去ろうとしない。
いや……たとえ部屋のなかに居なくても、キッチン、あるいはユニットバス……ベランダ……狭い一Kのアパートでも、その気になれば、姿を隠せる場所はたくさんある。ことによると、ベッドの下……という可能性だってあるではないか。
嫌だ、動きたくない! と詩乃は心の中で叫んだ。
たしかキリト――いや桐ヶ谷和人が、ログアウトしたらすぐに警察に連絡し、自身も即座に駆けつける、と言っていた。要する時間はどれくらいだろうか。十分……十五分?
であれば、それまでこのまま動かずに待っていたほうが賢明だろうか。
そう考え、ぎゅっと目を瞑りなおしたその時――
旧式のエアコンが息切れを起こし、しゃっくりのように吐き出した過熱されていない空気のかたまりが、詩乃の剥き出しの太股を撫でた。寒気が肌を駆け上り……不意に、鼻の奥に不穏な気配が訪れた。
抵抗できたのは、わずか二秒ほどだった。眉間と鼻筋がきゅっと収縮し、次いで裏切り者の呼吸器官が、小さく、しかしはっきりとした音を――くしゅん! と炸裂させた。詩乃は体を固くして、部屋の何処かからなんらかの反応が返ってくるのを待った。
しかし、相変わらず、動くものはなかった。
詩乃はそっと、ごく薄く、右の目蓋を持ち上げた。
照明の落ちた室内は、カーテンの隙間から侵入する街灯りによってぼんやりと照らし出されていた。まず眼球の動く範囲、次いで首をじわじわと傾けて、部屋の様子を探る。
とりあえず、視界内に人影は無いようだった。今更ながら、音がしないように注意して頭からアミュスフィアを外し、枕の横に置く。腹筋の力だけで上体を持ち上げ、素早く、もう一度部屋の中を見渡す。
――何もかも、数時間前に離脱したときのまま、のように思えた。
テーブルの上の、ミネラルウォーターのボトル。その横に置かれた、やや大型のオーディオプレイヤー。床に放り出された、通学鞄。どれも動かされた様子はない。
詩乃はシーツに手をついてベッドの端まで移動すると、ごくりと一回喉を鳴らしてから、体を乗り出して床とベッドの隙間を覗き込んだ。当然ながら、何一つありはしない。
顔を上げ、カーテンの隙間から見えるアルミサッシのクレセント錠が、しっかりと降りているのを確認する。
素足を床に下ろし、限界まで首を伸ばして、今度はキッチンの様子を探る。と言っても、わずか三畳ほどのスペースには、人が隠れられるような場所はない。
立ち上げると、意識せずに足音を殺しながら壁際まで歩き、照明のスイッチを入れた。たちまち白い光が部屋に溢れ、キッチンの向こうにある玄関までも照らし出す。
目を凝らすと、ドアのロックノブも水平に寝たままなのが見えた。詩乃はしばらくそこに立ったまま、壁一枚隔てた場所――ユニットバスの気配を探った。
やはり、妙な音がする様子はない。再び爪先立ちになり、六畳間からキッチンへと移動する。
シンクの反対側にあるユニットバスのドアは、しっかりと閉められていた。鍵は掛かっておらず、照明も落ちている。
冷や汗で濡れた右手で、ぐっとノブを握り――
大きく息を吸って、ぐっと止めてから、左手で灯りのスイッチを入れざま、一気にドアを引きあけた。
「…………」
詩乃はしばし無言で内部を凝視してから、
「……馬ッ鹿みたい」
ぽつりと呟いた。樹脂のベージュ色で統一されたバスの中は、もちろん、無人だった。
ようやく、今度こそ、首筋、両肩から体の下方へ向かって、ふうーっと力が抜けていった。詩乃はくるりと半回転すると、壁に背中をあずけ、ずるずると座り込んだ。
部屋には、誰も居なかった。侵入された形跡すらも、今のところは見つからなかった。
もちろん、ピッキングによって入り込んだ何者かが、部屋の中で携帯端末を利用してGGOの中継動画を視聴し、モルターレの死亡と同時に立ち去った――という可能性はまだある。そうであるなら、侵入者はまだこのアパートの付近にいるはずだ。一応、警察には連絡すべきだろう、と思いながらも、立ち上がる気力はなかなか湧いてこなかった。
ちらりと、冷蔵庫の上に置いてあるキッチンアラームを見上げた。時計機能もあるそのデジタル数字は、零時を二分ばかり回った時刻を示していた。
何と長い三時間だったことだろう。ログイン前に、目の前のゴミ袋に捨ててあるヨーグルト容器の中身を食べたことなど、遥か昔の出来事のようだった。
自分が、望んだとおりに変われたようには、まだ思えなかった。
念願のBoB優勝を果たし、更に〈死銃〉という真の脅威を己の手で倒すことで、少しは強くなれたような気もする。
しかし、あの砂漠の洞窟で、キリトが口にした言葉が思い出される。過去に打ち勝つことなど不可能だ――と、あの不思議な少年は言った。ずしりとした重みのある一言だった。
多分、自分はようやく、あの事件から逃げるのではなく正面から向き合う、その第一歩を踏み出したところなのだ。そう、詩乃は思った。もう、モデルガンを手にとり、無理矢理記憶を抉じ開けるような真似はするまい。
――そう言えば、キリトがすぐに駆け付けると言っていた。警察も来るなら、まともな格好に着替えておかなければならない。
よいしょ、と立ち上がったとき、詩乃は思い出したように猛烈な喉の乾きを意識した。シンクに歩み寄り、浄水ポットの水をグラスに注いで、一息に飲み干す。
更にもう一杯注ぎ足そう、としたその時――
キンコーン、と古めかしい音で、玄関のチャイムが鳴り響いた。
詩乃は反射的にびくりと体を竦ませ、ドアを凝視した。今にも、勝手にロックが回転し始めるのではないか、と思うと息が詰まる。
あるいはもうキリトが来たのか、と思って時計を振り返るが、まだログアウトしてからは三分と経ってはいるまい。いかにも早すぎる。
立ち尽くしていると、再びチャイムが鳴った。詩乃は息を殺して、足音を立てないようにドアに歩み寄った。
まずはドアチェーンを掛けよう、そう思って恐る恐る左手を伸ばしたが、指先が触れる前に――
「朝田さん、居る? 僕だよ、朝田さん!」
ドアの向こうから、聞きなれた、やや高めの少年の声がした。
詩乃は、ふううっと肩から力を抜いた。実に紛らわしいタイミングで、しかも電話ひとつせずやってくるとは人騒がせにも程があるが、それもまた不器用な彼らしいと言えば言える。
詩乃はサンダルを踏み石がわりにドアに顔を近づけると、念のためにレンズを覗いた。魚眼効果で歪んだ廊下に立っているのは、間違いなく、新川恭二だった。
「新川くん? どうしたの、急に?」
声をかけると、ドアの向こうから、相変わらず頼りなげな調子の声で答えが返ってきた。
「あの……どうしても、お祝いが言いたくて……」
そんな理由で、深夜に一人暮らしの女性の部屋を突然訪れるとは少々世間知らずと言うほかはないが、それでも善意から出た言葉を無下にはできない、と詩乃は思った。それに、正体不明の殺人者がうろついているかもしれない状況では、恭二が居てくれれば少しは心強い。
「ちょっと待って、今開けるね」
言って、ロックノブに手を伸ばしてから、ふと自分の体を見下ろす。上はだぶっとしたトレーナー、下は素足にショートパンツというやや頼りない格好だが、まあいいか、と肩をすくめてカチリとノブを九十度回転させた。
ドアを押し開けると、そこには、はにかんだような笑みを浮かべた新川恭二が立っていた。ジーンズの上に、ボアつきのミリタリージャケットという重装備だが、外気はそれでも足り無そうなほどの冷たさだった。
素足にまとわりつく冷気に首を縮めながら、詩乃は言った。
「うわ、凄く寒いね。早く入って」
「う、うん。お邪魔します」
恭二はぺこりと首を縮めると、三和土に足を踏み入れ、詩乃を見て眩しそうに目を細めた。
「……な、なによ。……部屋が寒くなっちゃうから、早く上がってドア閉めて。あ、鍵もかけてね」
恭二の視線に気恥ずかしさを覚え、詩乃は照れ隠しに捲し立てると、くるっと振り向いて部屋に向かった。カチリとノブを回す音に続いて、恭二もキッチンを横切り、後をついてくる。
部屋に入ると、詩乃はリモコンを拾い上げ、暖房を強くした。大儀そうな唸りとともに、一際温かい空気が噴き出して、寒気を追い払っていく。
ぼすんと勢い良くベッドに腰掛け、見上げると、恭二は所在なさそうに部屋の入り口に立っていた。
「どこでも、そのへんに座って。あ……何か、飲む?」
「う、ううん、お構いなく」
「疲れてるから、そんな事言うとほんとに何も出ないよ」
冗談めかして言うと、恭二もようやくかすかな笑みを浮かべ、床のクッションに腰を降ろした。
「ごめんね朝田さん、急に押しかけて。でも……さっきも言ったけど、少しでも早く言いたくて」
子供のように膝を抱えて、上目づかいに詩乃を見上げてくる。
「あの……BoB優勝、ほんとうにおめでとう。凄いよ、朝田さん……シノン。とうとう、GGO最強のガンナーになっちゃったね。でも……僕にはわかってたよ。朝田さんなら、いつかそうなるって。朝田さんには、誰も持ってない、本当の強さがあるんだから」
「……ありがと」
詩乃はくすぐったさを感じて、両手でぎゅっと体を抱え、笑った。
「まさか、ほんとに優勝できるなんて、私も思ってなかったよ。――それに、ちょっと……ううん、だいぶ、変なこともあったし……ひょっとしたら、今回のBoBは無効になるかもしれない……」
「え……?」
「あのね……ええと……」
恭二に、死銃事件のことをどう説明したものか、詩乃は迷った。最初から話すととてつもなく長そうだったし、それに――今となっては、まるであの出来事自体が、幻だったような気すらしていた。
ひょっとしたら……すべては、やはり偶然の産物だったのではないだろうか……? GGO世界で銃撃した相手を、現実において毒殺するなど、考えてみればあまりにも荒唐無稽な話ではないだろうか。実際に詩乃が見たのは、ザッパが消えるシーンだけである。確かにモルターレの言動は常軌を逸していたが、あのくらいキャラクターにのめり込んでしまう者も、まるでいないとは言えない。ザッパが現実で本当に死んでいれば、やはり死銃は実在するのだろうが、それが判明するまでは確実なことは何もないのだ。
どうせ、あと十分もすれば、キリトと警察が来る。説明は、責任を取ってあの男にやらせよう。
詩乃は、肩をすくめると話題を変えた。
「や、なんでもない。ちょっと変なプレイヤーがいたってだけ。それにしても……君、ずいぶん早かったねえ? まだ、私がログアウトしてから五分くらいだよ」
「あ、その……実は、近くまで来て、携帯で中継見てたんだ。すぐに、おめでとうが言えるように」
「ふうん……寒いのに、風邪引いちゃうよ。やっぱり、お茶淹れたほうがいいかな」
言って、立ち上がろうとしたのだが、恭二は首を振って詩乃を止めた。その顔から笑みが薄れ、かわりに切羽詰ったような表情が浮かぶのを見て、詩乃はぱちくりと瞬きした。
「あの……朝田さん……」
「な、なに?」
「中継で……終盤の、砂漠のシーンが映ってたんだけど……」
その言葉と恭二の顔つきで、詩乃は咄嗟に彼が言わんとしていることを察した。あの砂漠の洞窟での出来事を思い出し、抑えようもなく、頬から耳までかかあっと熱くなる。
「あ……あの、あれは……」
今まですっかり――あるいは意識的に忘れていたが、岩壁に寄りかかって座ったキリトの膝の上に乗っかって、散々泣いたり喚いたり、更には事もあろうに甘えたりしてしまったのだった。あのシーンを、当然恭二も見ていたのだ。そのことにまるで思い至らなかったのは、迂闊と言うしかない。
気恥ずかしさのあまり俯いた詩乃に向かって、恭二の言葉が飛んできた。てっきり関係を聞かれるものと思ったが、その内容は詩乃の予想を裏切るものだった。
「あれは……あの男に脅されたんだよね? 武器奪われて……殺すぞって言われて。だから、仕方なくあんなことしたんだよね?」
「は、はあ?」
唖然として顔を上げる。
どこか必死な色を目に浮かべ、恭二は中腰になり、詩乃に向かって身を乗り出していた。
「脅迫されて、あいつの敵を狙撃までさせられて……でも、最後にはあいつを撃ったよね。だから、ほっとしたんだけど……それだけじゃ足りないよ。前にも言ったけど……もっと、ちゃんと思い知らせてやらないと……」
「あ……ええと……」
詩乃は絶句してから、どう言ったものか、懸命に言葉を探した。
「あのね……ううん、脅迫とか、そういうんじゃないの。大会中に、あんなことしてたのは不謹慎だと思うけど……私、中で、例の発作が起きそうになっちゃって……。それで取り乱して、キリトに当たっちゃってさ。いろいろ、酷いこと言ったのは私のほう」
「…………」
恭二は目をじっと見開き、無言で詩乃の言葉を聞いている。
「でも……あいつ、ムカつく奴だけど、でもね、あったかかったんだ。何だか、お母さんに似てた。抱っこしてもらったら、子供みたいにすごく泣いちゃって……恥ずかしいよね」
「……朝田さん……でも……それは、発作で、仕方なくなんだよね? あいつのこと……別に、なんとも思ってないんだよね?」
「え……?」
「朝田さん、僕に言ったよね。待ってて、って」
膝立ちになり、身を乗り出す恭二の目が、思い詰めたようにぎらぎらと光っているのに、詩乃は気付いた。
「言ったよね。待ってれば、いつか僕のものになってくれるって。だから……だから僕……」
「……新川くん……」
「言ってよ。あいつのことは、なんでもないって。嫌いだって」
「ど……どうしたのよ……急に……」
大会前、近所の公園で、恭二に向かって、待ってて、と言ったことは憶えていた。
しかし、それは、いつか自分を縛るものを乗り越えてみせる、という意味だったはずだ。それができたとき、ようやく普通の女の子に戻れるのだ、と。
新川恭二の「もの」になる――そんなことを言ったつもりは無かったのに――
「あ……朝田さんは、優勝したんだから、もう充分強くなれたよ。もう、発作なんて起きない。だから、あんな奴、必要ないんだ。僕が、ずっといっしょにいてあげる。僕がずっと……一生、君を守ってあげるから」
うわ言のように呟き、すうっと恭二は立ち上がった。そのままふらりと二歩、三歩詩乃に歩みより――
突然両腕を広げて、容赦のない強さで詩乃を抱きすくめた。
「っ……!?」
詩乃は驚愕のあまり、体を竦ませた。両腕と、わき腹の骨が軋み、肺から空気が追い出される。
「……し……かわ……く……」
ショックと、圧力のせいで息が詰まった。しかし恭二は、なおも腕に力を込め、ベッドに押し倒そうとするかのようにのしかかってくる。
「朝田さん……好きだよ。愛してる。僕の、朝田さん……僕の、シノン」
しわがれ、ひび割れた恭二の声は、愛の告白には程遠い、呪詛のごとき響きを持っていた。
「ゃ……め……っ……!」
詩乃は必死に両腕を突っ張り、体を支えた。両脚に力を込め、右肩を恭二の胸に押し当て――
「……やめてっ!!」
声は掠れた囁きでしかなかったが、どうにか両手で恭二の体を押し返すことができた。あえぐように、空気を吸い込む。
たたらを踏んだ恭二は、床のクッションに脚を取られ、尻餅をついた。
その顔には、詩乃の拒絶が信じられない、と言わんばかりの純粋な驚きの色が浮かんでいた。
丸く見開かれた目から、やがてすうっと光が薄れ――唇が痙攣するように震えて、虚ろな声が漏れた。
「だめだよ、朝田さん。朝田さんは、僕を裏切っちゃだめだ。僕だけが朝田さんを助けてあげられるのに、他の男なんか見ちゃだめだよ」
再び、のろりと立ち上がり、歩み寄ってくる。
「……し、新川くん……」
いまだ衝撃が去らず、詩乃は呆然と呟いた。
確かに、以前この部屋に招いて手料理を振舞ったとき、あるいは公園で抱きしめられたとき、恭二の中にちらりと見えた衝動に、どこか危ういものを感じないではなかった。だが、男の子なんだから、ある程度は当たり前のことだと思ったし、おとなしく気の弱いところのある恭二は、自制を失うような真似はするまいと信じてもいた。
しかし、ベッドに腰掛けたまま動けない詩乃の前に立ち、無言で見下ろしてくる恭二の目には、かつて見たことのない逸脱した光が渦巻いていた。
まさか 新川くん 私を ――!?
思考の断片が切れ切れに脳裏を横切り、ようやく、詩乃のなかに衝撃を上回る恐怖が滲み出した。
だが――。
詩乃の想像は、方向において正しく、しかし質量においては、大いに誤っていた。
唇を僅かに開き、虚ろな呼吸音を漏らしながら、恭二はジャケットの前ポケットに右手を差し込んだ。中で、なにかを握るような動き。
抜き出された手のなかにあったのは、奇妙なモノだった。
全体は二十センチほど。艶のある、クリーム色のプラスチックで出来ている。
滑らかなテーパーのついた、太さ三センチ程度の円筒から、斜めにグリップ状の突起が伸び、恭二の右手に握られている。グリップと円筒の接合部には、薄いグリーンのボタンが突き出しており、人差し指が添えられている。
円筒の先端には、そこだけ銀色の金属で出来た薄い円錐型部品が光っており、どうやらその中心には細い孔があいているようだ。全体としては、子供が遊ぶおもちゃの光線銃、といった趣だが、一切の飾りのないのっぺりとしたその姿には、明確な目的のための機能性が感じられた。
恭二はゆらりとソレを握った右手を動かすと、先端をぐっと、詩乃の首筋に押し当てた。ひやりと氷のように冷たい感触に、全身が総毛立った。
「しん……わ……くん……?」
強張った唇を動かし、どうにか声を出したが、その言葉が終わらないうちに、恭二が低い囁き声で言った。
「動いちゃだめだよ、朝田さん。声も出しちゃいけない。……これはね、無針高圧注射器、って言うんだ。中身は、サクシニルコリンっていう薬。これが体に入ると……筋肉が動かなくなってね、すぐに肺と心臓が止まっちゃうんだよ」
精神の外殻なるものが頭のどこかにあるとして、それの底が抜けるような衝撃を味わうのが今日で何度目のことなのか、もう詩乃にはわからなかった。
首筋から広がった冷たさが手足の先端にまで浸透し、そこがジンジンと痺れるのを意識しながら、詩乃は恭二の言葉をどうにか意味あるかたちに処理しようと、必死に脳を働かせた。
つまり――恭二は、詩乃を、殺すと言っているのだ。言うことを聞かなければ、手に持ったおもちゃめいた注射器から長い名前の薬を注入し、詩乃の心臓を止めると。
以上のことを考えながら、それと平行して、何かの冗談だよね? 新川くんが、そんなことするはずないよね? と頭の片隅で喚きつづける声がした。しかし実際には、詩乃の口は乾いた木にでもなってしまったかのように、動こうとしなかった。それに、首筋――正確には左耳の五センチほど下方に押し当てられた円錐形の金属の感触は、これが何らかのジョークであるという可能性を砂粒ほどにも許容しない冷酷な硬度と温度を持っていた。
逆光のせいでよく表情の見えない恭二の顔を、詩乃はただ見上げることしかできなかった。その、削いだように尖った顎がわずかに動き、抑揚のない声が流れ出した。
「大丈夫だよ、朝田さん、怖がらなくていいよ。これから僕たちは……ひとつになるんだ。僕が、生まれてから今までずーっと貯めてきた愛を、全部朝田さんにあげる。その、いちばん気持ちいいところで、そうっと、優しく注射してあげるから……だから、何にも痛いことなんてないよ。心配しなくていいんだ。僕に、任せてくれればいい」
言葉の意味は、詩乃にはまったく理解できなかった。日本語に似た響きを持つ、どこか異界の言語であるようにすら思えた。ただ、耳の奥に、二つのフレーズだけが、何度も何度もこだましていた。――「ムシンコウアツ注射器ッテイウンダ」「心臓ガ止マッチャウンダヨ」「注射器ッテ」「心臓ガ」「注射器」「心臓」……。
その二つのことばを……ごく最近、どこかで聞いたのではなかったか。
今となってははるかな幻想の中の出来事とも思える、夜の砂漠の洞窟の中で、少女めいた顔立ちを持った少年が、涼やかな響きのある声で(筋弛緩系の薬品を)確かに言った(注射したんだ)。
それでは――まさか――まさか。
自分の唇が痙攣するように動き、掠れた声が漏れるのを、詩乃は聞いた。
「じゃあ……君が……君が、もう一人の、〈死銃〉なの?」
首筋に押し当てられた注射器が、ぴくりと震えた。恭二の口もとに、いつも詩乃と話すときに浮かべていたような、憧れを潜ませた笑みが滲んだ。
「……へえ、凄いね、さすが朝田さんだ……〈死銃〉の秘密を見破ったんだね。そうだよ、僕が〈死銃〉の右手だよ。と言っても、今までは僕が〈モルターレ〉だったんだけどね。ゼクシードを撃ったときの動画、見てくれた? だったら嬉しいけど。でも、今日だけは、僕に現実の役をやらせてもらったんだ。だって、朝田さんを、他の男に触らせるわけにはいかないもんね。いくら兄弟って言ってもね」
何度目かの驚きに、詩乃は体を強張らせた。
恭二に兄がいる、という話は、一度ちらりと聞いたことがあった。しかし、小さいころから病気がちで、ずっと入退院を繰り返している、ということだったので、その話題がそれ以上続くことはなかった。
「き……きょう……だい? モルターレが……〈赤眼のザザ〉が、君の……お兄さん、なの?」
今度こそ、恭二の目は驚きに見開かれた。
「へえ、そんなことまで知ってるんだ。モルターレ……リョウイチ兄さんが、そこまで喋ったのか。ひょっとしたら、兄さんも朝田さんのことを気に入ったのかもね。でも、安心して、朝田さんは、誰にも触らせないから。ほんとは……今日、朝田さんに注射するのはやめよう、って思ってたんだよ。兄さんは怒っただろうけど……でも、朝田さんが、公園で、僕のものになってくれる、って言ったからさ」
そこで恭二は口を止めた。浮かんでいた、陶酔したような笑みが薄れ、再び表情が虚ろになる。
「……なのに……朝田さん、あんな男と……。騙されてるんだよ、朝田さん。あいつが何を言ったのか知らないけど、すぐに僕が追い出してあげる。忘れさせてあげるからね」
注射器を押し付けたまま、恭二は左手で詩乃の右肩を強く掴んだ。そのまま、力任せにシーツの上に押し倒すと、自身もベッドに乗り、詩乃の太腿に跨る。その間も、うわ言のように呟きつづけていた。
「……安心して、朝田さんをひとりにはしないから。僕もすぐに行くよ。二人でさ、GGOみたいな……ううん、もっとファンタジーっぽいやつでもいいや、そういう世界に生まれ変わってさ、夫婦になって、一緒に暮らそうよ。一緒に冒険して……子供も作ってさ、楽しいよ、きっと」
完全に常軌を逸した恭二の言葉を聞きながら、詩乃は麻痺した思考の一部で、それでもどうにか二つのことだけを考えつづけていた。――もうすぐ、キリトと警察がくる。だから、何か喋り続けなくては。
「でも……君が、いなくなったら、モルターレが困るよ……。そ……それに、私、向こうで死銃に、撃たれなかった。私が死んだら、死銃のこと、みんな疑うよ」
完全に乾ききった舌をどうにか動かし、詩乃は言った。恭二は右手の注射器を、トレーナーの襟ぐりから覗いた詩乃の鎖骨の下に押し当てながら、引き攣るような笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。今日は、ターゲットが三人もいたからさ……兄さんが、もうひとり見つけてきたんだ。SAO時代の、ギルドメンバーなんだって。これからは、その人が僕のかわりになればいい。それに……朝田さんを、あんなゼクシードやたらこみたいなクズと一緒にするわけないじゃない。朝田さんは、死銃じゃなく、この僕だけのものだよ。朝田さんが……旅だったら、どこか遠い……人のいない、山の中とかに運んでさ、そこで僕もすぐに追いかけるよ。だから、途中で待っててね」
恭二の左手が、まるで恐れているかのように、こわごわとトレーナーの上から詩乃の腹部に触れた。二、三度指先を下ろしてから、次第に手のひら全体で撫でさすりはじめる。
嫌悪と恐怖に肌が粟立つのを感じながら、詩乃は懸命に口を動かした。急に動いたり、大声を出せば、目の前の無害そうに見える少年は、ためらわずに注射器を作動させるだろうということは、残念ながらもう疑うことはできなかった。
「……じゃ、じゃあ……君はまだ、現実世界で、その注射器を使ったことはないんだね……? な……なら、まだ……まだ、間に合うよ。やり直せるよ。だめだよ、死のうなんて思ったら……。大検、受けるんでしょ? 予備校行ってるんでしょう? お医者様に、なるんでしょう……?」
「ダイケン……?」
恭二は首を傾げ、知らない単語を聞いたかのように繰り返した。やがて、その口から「ああ……」という声が漏れ、左手が詩乃から離れてジャケットのポケットの差し込まれた。
掴み出されたのは、細長い紙切れだった。
「見る?」
どこか自嘲気味な笑みとともに、それを詩乃の眼前に突き出してくる。
何らかのプリントアウトと思しき紙片は、詩乃にとっても見慣れたもの――模擬試験の成績票だった。並んだ得点と偏差値は、どの教科も目を疑うほどの、惨憺たる数字だった。
「し……新川くん……これ……」
「笑っちゃうよね。偏差値って、こんな数字が有り得るんだね」
「でも……ご、ご両親は……」
この成績を見せられて、恭二の親はよくアミュスフィアの使用を許可しつづけているものだ、という意味で口にした一言を、恭二は敏感に理解したようだった。
「ふふ、こんな用紙なんて……プリンタでいくらでも作れるよ。大体、親にはアミュスフィアで遠隔指導受けてるって言ってあるしさ。さすがにGGOの接続料の引き落としはさせてくれなかったけど、それくらい、ゲームの中で稼げた……稼げたのに……」
不意に、恭二の顔から笑みが消えた。鼻筋に皺が刻まれ、食いしばった歯が剥き出される。
「……もう、こんな下らない現実なんて、どうでも良かったんだ。親も……学校の奴らも……どうしようもない愚か者ばっかりだ。GGOで最強になれれば……それで、僕は満足だったんだ。そうなれた……シュピーゲルは、そうなれたはずなのに……」
押し当てられた注射器から、ぶるぶると恭二の手の震えが伝わり、今にもそのボタンを押してしまうのではないかと思って、詩乃は息を詰めた。
「なのに……あのゼクシードの屑が……AGI型最強なんて嘘を……あの卑怯者のせいで……シュピーゲルは突撃銃もろくに装備できないんだ……畜生ッ……畜生ッ……」
恭二の声に含まれた怨嗟の響きは、それがあくまでゲームの話である、という事実を遥かに超越したものだった。
「今じゃ……ろくに接続料も稼げない……GGOは……僕の全てだったのに……現実をみんな犠牲にしたのに……」
「……だから……だから、ゼクシードを殺したの……?」
まさか、そんな――そんなことで、と思いながら、詩乃は訊いた。恭二はぎゅっと一度瞬きしてから、再び陶酔したように笑った。
「そうだよ。〈死銃〉で、今度こそGGO……いいや、全VRMMOで最強の伝説を作るための生贄に、あいつほど相応しい奴はいないだろ? ゼクシードとたらこ、それに今日の大会でザッパとカコートンを殺したから、いくらプレイヤー共が馬鹿でも、もう死銃の力は本物だと気付いたはずだ。最強……僕が、最強なんだ……」
押さえがたい快感のせいだろうか、恭二の全身がぶるりと震えた。
「……これでもう、こんな下らない現実に用はないよ。さあ……朝田さん、一緒に〈次〉に行こう」
「し……新川くん」
詩乃は必死に首を振り、訴えた。
「だめだよ。まだ……まだ引き返せる。君はまだ、やり直せるよ。私と一緒に、警察に……」
「無理だよ」
恭二はどこか遠くを見るような目つきで、首を横に振った。
「今日……ザッパの心臓を停めたのは、僕なんだ。この注射器でね。ううん……注射器じゃない。これが……この銃こそが、本物の〈死銃〉なんだ」
「そん……な……」
心に絶望の色が忍び込んでくる、その冷たさを詩乃は胸の奥に感じた。
「案外、簡単だったよ。胸に注射したら、すぐに動かなくなってさ。ぜんせん、苦しまなかった。だから、朝田さんも、怖がらなくていいよ。一瞬……一瞬のことだから……」
いや――そうじゃない。たとえ筋弛緩剤で体はうごかなくても、意識は地獄の苦しみを味わったのだ。詩乃――シノンは、それを己の目ではっきりと見た。
「さあ……もう、現実のことなんてどうでもいいよ。僕とひとつになろう、朝田さん……」
不意に、恭二の左手が、トレーナーの下端を掴んで捲り上げようとした。詩乃は反射的に右手を動かし、それを阻もうとしたが、途端に一際強く注射器が胸元に押し付けられた。
「お願い、動かないで、朝田さん。この世界の、最後の思い出は、きれいなものにしようよ」
ビクリと体を竦ませた詩乃の右手を元の位置に戻させ、恭二は再びトレーナーを脱がせはじめた。布の端が胸を通り過ぎ、首もとに達したところで一瞬だけ注射器が離れ、今度はむき出されたわき腹へと押し当てられる。
詩乃の両腕を上げさせると、恭二は力任せにトレーナーを引っぱり、手から抜き取った。その下は、黒のタンクトップ一枚しか身につけていない。
恭二の視線は、薄い布地を押し上げる膨らみへと間近から注がれ、詩乃はそこに物理的な圧力を感じた。
「……朝田さん……朝田さん……朝田さん……」
ぶつぶつとそれだけを繰り返しながら、恭二は左手を伸ばし、詩乃の胸の側面を撫でた。食い縛られた歯の隙間と鼻から、ふっ、ふっ、と荒く空気が吐き出され、その生暖かい感触を胸元に感じたとたん、今までに倍する生理的嫌悪感が詩乃の全身を貫いた。
しばらく布の上を蠢いいていた恭二の手は、ついにタンクトップの中に潜り込むと、それを一気に首の下まで引っ張り上げた。素肌が剥き出される感覚に、圧倒的な恐怖のなかにも耐えがたい羞恥を感じ、詩乃はぎゅっと目をつぶると顔をそむけた。
恭二の視線が肌の上を這い回る感触は、まるで小さな虫が歩いているかのようだった。ついに怒りと悔しさが抑えがたく湧き上がり、涙に形を変えて詩乃の目尻に滲んだ。
しかし恭二はそれがまるで目に入らない様子で、わななく声を漏らした。
「ああ……朝田さん……きれいだ……凄くきれいだよ……」
同時に、恭二の指先が直接肌を撫でた。皮膚のささくれが引っかかるたびに、小さく鋭い痛みが走る。
「朝田さん……僕の、朝田さん……ずっと、好きだったんだよ……学校で……朝田さんの、あの事件の話を……聞いたときから……」
「……え……」
恭二のその言葉が、わずかなタイムラグを伴って意識に届いた瞬間、詩乃は思わず目を見開いていた。
「そ……それって……どういう……」
「好きだった……憧れてたんだ……ずっと……」
「……じゃあ……君は……」
そんな、まさか、と心のなかで呟きながら、詩乃は消え入るような声で尋ねた。
「君は……あの事件のことが、あったから……私に、近づいたの……?」
「そうだよ、もちろん」
恭二は左手と同時に注射器の先端を用いて詩乃の上半身をもてあそびながら、熱っぽく頷いた。
「本物のハンドガンで、悪人を射殺したことのある女の子なんて、日本中探しても朝田さんしかいないよ。ほんとに凄いよ。言ったでしょ、朝田さんには本物の力がある、って……僕の理想なんだ、って。愛してる……愛してるよ……誰よりも……」
「……そん……な……」
――なんという乖離。なんという隔絶だろう。
眼前の少年のことを、一度は、この現実世界で肉親を除いて唯一人心を許せる存在とも信じたのだ。しかし――彼の精神は、詩乃と同一の世界にあるものではなかった。そもそもの最初から、遠く、恐ろしく遠く隔たっていたのだ。
ついに、詩乃の心を黒く深い絶望の水が満たした。視覚、聴覚、五感のすべてが意味を喪い、世界が遠ざかっていった。
詩乃は、全身の力を抜いた。
焦点を失ってぼやけた視界のなかに、覆いかぶさる恭二の両の目だけが、黒い穴のように浮かんでいた。まったく光のない、闇の世界に繋がった通路にも似たその目は――
あの男の、目だ。
ついに戻ってきたのだ。夜道の物陰、戸棚の隙間、そして〈死銃〉のフードの奥、あらゆる暗がりに隠れて機会を伺っていたあの男が。
指先が、すうっと冷たくなる。末端から、体と意識の接続が切れていく。魂が縮小していく。
肉体という殻の最奥、暖かく狭い暗闇のなかで幼い子供に戻った詩乃は、ぎゅっと手足を縮めて丸くなった。もう、なにも見たくなかった。感じたくなかった。
いままで十六年を過ごしてきた、あまりに冷たく、過酷な世界。それは、顔も知らない父親を奪い、母親の心を奪い、更なる悪意を差し向けて詩乃の魂の一部を連れ去った。
珍しい動物に向けるような興味と、それを上回る嫌悪を隠した大人たちの視線。同年代の子供たちの、容赦ない悪罵。
それに飽き足らず、この上なおも詩乃から奪い去ろうとするこの世界を、もう唯一の「現実」とは認めたくなかった。
そう――これは現実ではない。無数に重なった世界の、たったひとつの相で起きている取るに足らない出来事でしかない。きっと、それらの世界のうちには、「全てが起きなかった世界」もあるはずだ。
新川恭二と知り合わず、郵便局の事件も起きず、父を殺した交通事故も起きずに、平凡だが幸せな暮らしを送っている朝田詩乃も、どこかの世界にはいるに違いない。闇のなかでぎゅっと手足を縮め、小さく凝固した無機物へと変化しながら、詩乃の魂はひたすら暖かい光のなかで笑っている自分の姿を追い求めた。
水晶発振子が息絶える直前の計算機のように、詩乃の思考も駆動力を失っていく。
残されたわずかな意識のなかで、詩乃はふと、微かなアイロニーを感じた。
現実の過酷さに耐え切れず、夢想のなかに逃げ込もうとしている自分は、ある意味では新川恭二の相似形だ。
学校での苛め、両親の期待、受験の重圧、そのような「現実」を放棄して、恭二は仮想世界に救済を求めた。仮想世界において最強という称号を手にすることができれば、それは現実世界における自分という虚ろな穴を埋めてあまりある価値を持つと信じた。しかし、その望みすらも絶たれて、彼は、壊れた。
いったい、仮想世界とは何なのだろう。
人間の持ちうる時間は有限だ。「現実」を薄めてまで、いくつもの「架空」を生きることで、何を手に入れようというのだろうか。
詩乃も、ガンゲイル・オンラインという名の世界において恭二と同じく強さを求めた。そして、彼があれほど焦がれた最強の座を手に入れた。しかし――
血と火薬の匂いがする記憶の沼から伸びた冷たい手は、いまついに詩乃を捕らえ、連れ去ろうとしているのに、それに対して詩乃は何一つ抵抗できない。目を開けることすらできない。すべては、無駄だったのだ。
深い水底から浮かび上がる小さな泡のように途切れ途切れの思考のなかで、ふと思う。
あの少年は、どうなのだろうか。
二年間ものあいだ、仮想の牢獄に捕えられ、そこで二人の命を奪うことになったというあの少年。長い幽閉の中で、大事な人を失うこともあっただろう。彼も、悔いているのだろうか。自分から多くのものを奪った仮想世界を、憎んでいるのだろうか。
遠い谺のように、あの少年の言葉がよみがえる。
(でもな、シノン)
(戦いつづけることは、できる)
――君は強いね、キリト。
深い闇の底で、詩乃はぽつりと呟いた。
――せっかく助けてもらったのに……無駄にしちゃって、ごめんね。
キリトは、現実に戻ったらすぐに駆け付けると言っていた。あれから何分経ったかはわからないが、どうやら間に合いそうになかった。彼は、抵抗のあともなく殺された詩乃を見たら、どう思うだろうか。それだけが少しだけ気がかり……
そこまで考えたとき、連鎖反応のように、ある危惧がかすかな灯となって闇を照らした。
キリトと遭遇したら、新川恭二はどうするだろう。逃げるか、諦めるか……それとも、手に持った注射器を、彼にも向けるだろうか。
自分がここで死ぬのは、定められた代償として受けいれなくてはならないのかもしれない。
しかし――あの少年を巻き添えにするのは――それは――。
それは、別の問題だ。
だからってもう、どうにもならないよ。
横たわって手足を縮め、目と耳を塞いだ幼い詩乃が呟く。その傍らにひざまずき、細い肩に手を置きながら、サンドイエローのマフラーを巻いたシノンが囁きかける。
私たちはいままでずっと、自分しか見てこなかった。自分のためにしか戦わなかった。だから、新川君の心の声にも気付くことができなかった。でも――もう、遅すぎるかもしれないけれど、せめて最後に一度だけ、誰かのために戦おう。
詩乃は闇の底でゆっくり目蓋を開けた。目の前に、白く、華奢で、しかしどこか力強い手が差し出されていた。恐る恐る手を伸ばし、その手を握る。
シノンはにこりと笑うと、詩乃を助け起こした。色の薄い唇が動き、短く、はっきりとした言葉が響いた。
さあ、行こう。
二人は闇の底を蹴り、遥か水面に揺れる光を目指して上昇し始めた。
一度強く目をしばたくと同時に、詩乃は現実世界と再接続を果たした。
タンクトップは両腕から抜き取られ、上半身は一糸まとわぬ姿になっていた。恭二はふっ、ふっと短く浅い呼吸を繰り返しながら、右鎖骨のあたりに盛んに舌を這わせている。
右手の高圧注射器は相変わらず詩乃の胸に強く押し当てられ、同時に左手は下に降りて、ショートパンツを脱がせようとしているところだった。薄いブルーの下着がなかば露わになっている。
以上の状況を、詩乃は瞬時に見て取った。頭のなかは妙に冷えていた。
ショートパンツがぴったりしたサイズなので、恭二はかなり苦戦しているようだった。苛立たしげに左手が動き、布地をぐいぐいと引っ張っている。
その力に合わせ、引き摺られたように装って、詩乃は体を左に傾けた。途端、ずるりと注射器の先端が滑り、詩乃の体から離れてシーツの上に突き立った。
その瞬間を逃さず、詩乃は左手で注射器のシリンダー部を強く握り、同時に右の掌で恭二の顎を強く突き上げた。
ぐう、と潰れたような声を発して、恭二は仰け反った。体を押さえつけていた重さが消えた。
右足を恭二の下から引き抜くと、全身の力を込めて、胃のあたりを狙って蹴り上げる。
しかし、ほぼ腰の下まで引き降ろされていたショートパンツが邪魔をして、思ったよりも力が入らなかった。恭二は再び鈍い声を漏らして体を折りながらも、右手の注射器を手放すまでには至らなかった。
詩乃は再び右掌を突き出しながら、必死に注射器を引っ張った。このチャンスにこれを奪えなければ、望みは潰える。
だが、利き手でグリップを握る恭二と、滑りやすい胴を左手で握る詩乃との綱引きは、いかにも分が悪かった。体勢を立て直した恭二は、強引に右手を引っ張りながら、奇声を上げつつ左手を振り回した。
「っ!!」
その拳が、強く詩乃の右肩を打った。左手からずるっと注射器が抜けると同時に、詩乃はベッドから転がり落ちて、背中からライティングデスクに衝突した。シンプルな構造の机は大きく傾き、抽斗が一つ抜け落ちて、派手な騒音とともに中身を撒き散らした。
背中を強く打った詩乃は息を詰まらせ、空気を求めて喘いだ。恭二も、ベッドの上でうずくまり、蹴り上げられた下腹部を押さえてうめいていたが、すぐに顔を上げると詩乃を凝視した。
恭二の両目は大きく見開かれ、唾液で光る唇が大きく痙攣していた。数回、開閉を繰り返したその口から、やがてしわがれた声が流れ出した。
「なんで……?」
信じられない、と言わんがばかりに、ゆっくり左右に首を振る。
「なんで、こんなことするの……? 朝田さんには、僕しかいないんだよ。朝田さんのこと分かってあげられるのは、僕だけなんだよ。ずっと、助けてあげたのに……見守ってあげたのに……」
その言葉を聞いて、詩乃は数日前のことを思い出していた。学校の帰りに、遠藤たちに待ち伏せされ、金銭を要求されたとき、通りがかった恭二が助けてくれた――
それでは、あれは、偶然ではなかったのだ。
恐らく恭二は連日、下校する詩乃のあとを付け、帰宅するのを見届け、その後家に取って返してGGOにログインし、シノンを待っていたのだ。
妄執――としか言いようがない。彼の危さをかすかには感じながらも、その本質をなす狂気にはまるで気付かなかった。ひとと正面から向き合おうとしなかった報いなのか、と、この状況にありながらも詩乃は苦いものを感じていた。
「……新川くん」
強張った唇を動かして、詩乃は言った。
「……辛いことばっかりだったけど……それでも、私、この世界が好き。これからは、もっと好きになれると思う。だから……君と一緒には、行けない」
立ち上がろうとして、右手を床に突くと、その指先が何か重く、冷たいものに触れた。
詩乃は瞬時にその正体を察した。先ほど抜け落ちた抽斗の奥に、ずっと隠していたもの。現実世界における、すべての恐怖の象徴。黒いハンドガン――プロキオンVだ。
手探りでそのグリップを握ると、詩乃はゆっくりと重いモデルガンを持ち上げ、銃口で恭二を照準した。
銃は、まるで氷の塊から削り出されたかのように、とてつもなく冷たかった。たちまち右手の感覚が鈍くなり、痺れが腕を這い登ってくる。
それが現実の冷感でないのは、詩乃にもわかっていた。心理的な拒否反応がそう感じさせているのだと、わかってはいても抗うことができなかった。名状しがたい恐怖が、黒い水のように胸の奥に広がっていく。
染みひとつない白い壁紙が、ゆらゆらと水たまりのように揺らいで、その奥からヒビの入った灰色のコンクリートが浮き上がってくる。フローリング調の床は色褪せたグリーンのリノリウムに、出窓は木製のカウンターにそれぞれ変貌し、気付けば詩乃は古びた郵便局の中にいる。
照星の中央に捉えた恭二の顔も、突然ぐにゃりと溶け崩れる。肌が脂じみた土気色になり、深い皺が刻まれ、罅割れた唇のあいだから黄ばんだ乱杭歯が剥き出される。右手に握られていた注射器は、いつしか鈍く黒光りする旧式の自動拳銃へと変化している。そして――詩乃の手にある銃も、また。
このあと出現するであろう光景を予想し、詩乃は竦んだ。突き上げられるように胃が収縮し、背中の筋が固くこわばる。
嫌だ。見たくない。今すぐ、右手の黒星を投げ捨て、逃げ出したい。
でも、ここで逃げたら、何もかもが無駄になる。命と同時に、おなじくらい大切なものも無くしてしまう。
この五年間、何度となく銃を握り、恐怖の記憶と向き合ったこと。死銃の影に怯えながら、スコープを覗き、トリガーを引いたこと。それらの戦いが、結果をもたらすことは永遠にないのかもしれない。しかし――
戦いつづけることは、できる。
詩乃は軋むほどに奥歯を噛み締め、親指で銃のハンマーを起こした。硬く、密度のある音に切り裂かれるように、幻は一瞬にして消え去った。
ベッドの上で膝立ちになった恭二は、向けられたプロキオンVに気圧されたように、わずかに後ずさった。怯みのせいか、激しく瞬きを繰り返す。
その唇が動き、掠れた声が流れた。
「……何のつもりなの、朝田さん。それは……それは、モデルガンじゃないか。そんなもので、僕を、止められると思うの?」
詩乃は左手をデスクの縁にかけ、ふらつく脚に力を込めて立ち上がりながら、答えた。
「君は、言ったよね。私には、本当の力がある、って。モルターレも同じことを言っていた。昔、ゲームの中でたくさん人を殺したから、自分には本物の力があるんだ、って。なら、私にも……ううん、モルターレなんか問題にならない力が、私にはあるはずだわ。なぜなら、私は、この現実世界でほんとうに人を撃ち殺したんだもの」
「…………」
恭二は紙のように白くなった顔を強張らせながら、更に退がる。
わずかに腰をかがめ、左手で床からトレーナーを拾い上げるとそれで胸を覆って、詩乃は言葉を続けた。
「だから、これはモデルガンじゃない。引鉄をひけば弾が出て、君を殺す」
恭二をポイントしたまま、じりじりと足を動かし、床を横切ってキッチンへと向かう。
「ぼ……僕を……ぼくを、ころす……?」
うわ言のように呟きながら、恭二はのろのろと首を振った。
「朝田さんが、ぼくを……ころす……?」
「そう。次の世界に行くのは、君ひとりだけ」
「やだ……嫌だ……そんなの……嫌だ……」
恭二の眼から、すうっと意思の色が抜け落ちた。ぼんやりとした顔で宙を見つめながら、ぺたんとベッドの上に正座するように座り込む。
右手も弛み、高圧注射器が半ば滑り落ちているのを見て、詩乃は一瞬、この機会にそれを奪うべきか迷った。しかし、刺激すると今度こそ理性をかなぐり捨てて襲い掛かってくるような気がしたので、そのままゆっくりと移動を続け、キッチンへと踏み込んだ。
視界から恭二の姿が消えた途端、詩乃は床を蹴り、ドアへと走った。
わずか五メートルほどの距離が、とてつもなく長かった。極力足音を立てないよう、しかし限界まで大股でキッチンを走り抜けて、上がり框に達したその時。
踏んだマットが勢い良く滑り、詩乃は体勢を崩した。バランスを取ろうと振り回した右手からモデルガンが飛んで、シンクの中に落下して派手な音を立てた。
どうにか倒れるのは堪えたものの、左膝を床に打ち付け、激痛が走った。それでも、一杯に体を伸ばし、右手でドアノブを握った。
しかし、ドアは開かなかった。ロックノブが横に倒れているのに気付き、歯噛みをしながらそれを垂直に戻す。
カチリという開錠音が指先に伝わったのと、ほとんど同時に――
後ろに投げ出していた右足の踝を、冷たい手がぐっと握った。
「!!」
息を飲みながら振り向くと、四つん這いになった恭二が、魂の抜け落ちた顔のまま、両手で詩乃の足を捕らえていた。注射器は見当たらない。
振りほどこうと無茶苦茶に足を動かしながら、詩乃は必死に手を伸ばし、ドアを開けようとした。だが、指先はノブに触れたものの、それを掴むことはかなわなかった。恭二が凄まじい力で詩乃の足を引っ張ったのだ。
ずるりと数十センチもキッチンに引き込まれたが、詩乃は左手で上がり框の段差を掴み、抵抗した。
ここからなら外に声が届く、そう思って叫ぼうとしたが、喉の奥が塞がってろくに空気を吸い込めず、出たのは頼りない掠れ声だけだった。
恭二の力は常軌を逸していた。詩乃とほとんど背の違わない、細いその体のどこに、と思うほどの膂力で引き摺られ、左手が外れた。その途端、詩乃は勢い良くキッチンの奥に引き込まれた。
たちまち、恭二の体が圧し掛かってきた。右手を握り、顎を狙って突き上げたが、わずかに掠ったところを恭二の左手に掴まれた。万力のような締め付けに手首が軋み、激痛が頭の奥で火花を散らす。
「アサダサンアサダサンアサダサン」
その奇妙な音が、恭二の口から漏れる自分の名前だとはしばらく気付かなかった。唇の端から白く泡立った唾液を垂らし、両目の焦点を失った恭二の顔が降ってきて、反射的に首を傾けて避ける。
左耳の下から、頬、首筋にかけて生暖かく濡れた器官が激しく蠢く感触に、途方も無い嫌悪感が疾るが、必死にこらえる。武器になるものがないかと左手で床を探るものの、何も触れない。
諦めずに頭上方向に伸ばした指先が、つるりとした壁に当たった。いや、壁ではなく、シンク下部の収納だ。そのドアを開けることができれば、内側のポケットにキッチンナイフと包丁が並んでいる。
しかし、必死に振り上げた指先は、あと数センチ届かない。左足で床を蹴って体を摺り上げようとしたが、その足は恭二の右手に捉えられ、脇の下に抱えこまれてしまう。
詩乃の腰を引っ張り上げ、恭二は右手をショートパンツのギャザー部分に掛けた。容赦ない力で引っ張られ、前ボタンが弾け飛んでユニットバスのドアに当たり、乾いた音を立てた。
その音は何かの決壊を感じさせてわずかに怯んだが、詩乃は歯を食い縛り、左手の指を恭二の顔に突き立てた。爪を短く手入れしていることが今ばかりは悔やまれたが、思い切り力を込めるとそれでもわずかに皮膚が抉れ、恭二はくぐもった声を上げて仰け反った。
しかし、力が抜けたのは一瞬だった。赤い筋に囲まれた右目を血走らせ、恭二は獣じみた吼え声とともに、唾液にまみれた口を大きく開いた。
牙にも似た上下の歯を剥き出して、詩乃の肌を噛み裂こうとするかのように顔を近づけてくる。再び左手で退けようとするが、その手首をも恭二の右手に捕らえられてしまう。
両手をがっちりと押さえられたものの、あと少し恭二の顔が近づいたら、逆に首筋に噛み付こうと、詩乃が口もとを緊張させた――その時だった。
いつドアが開いたのか、冷たい空気の流れが詩乃の肩を撫でた。恭二がさっと顔を上げ、詩乃の後方を見やった。その目と口が、ぽかんと丸く広がった。
と思った次の瞬間、黒い颶風のように走りこんできた何か――誰かが、恭二の顔面に膝をめり込ませた。
どどっと音を立て、ひとかたまりになって奥の部屋に転がり込んだ恭二と謎の闖入者を、詩乃は唖然として見つめた。
鼻と口から血を流して倒れた恭二を、見知らぬ若い男が押さえ込んでいた。
やや長めの黒い髪。同じく黒のライダージャケット。咄嗟に、アパートの他の部屋の住人かと思ったが、男――というより少年がわずかに振り返り、叫んだとき、詩乃には彼の正体が分かった。
「早く逃げろシノン! 助けを呼ぶんだ!」
「キリ……」
呆然と呟いてから、詩乃は慌てて体を起こした。素早く立ち上がろうとしたが、脚が言うことを聞かない。
シンクの縁に手を掛け、どうにか体を引っ張り上げた。キリトが来たということは、すぐに警察も現われるはずだ。ふらつく脚を叱咤しながら、数歩ドアに向かって走り寄ったところで――
詩乃は重要なことを思い出した。
恭二は、致命的な武器を持っている。それをキリトに警告しなくてはならない。
振り返り、注射器が、と叫ぼうとした時。
押さえ込まれていた恭二が、完全に理性を失った、獣のような咆哮を轟かせた。弾かれるようにキリトの体が吹き飛び、二人の体勢が入れ替わった。
「お前……おまえだなああああ!!」
恭二の絶叫は、巨大なスピーカーがハウリングを起こしたような、鼓膜を劈くほどの音量だった。
「僕のシノンに触るなああああああッ!!」
体を起こそうとしたキリトの頬に、恭二の左拳が食い込み、鈍い音を立てた。同時に右手がジャケットのポケットに差し込まれ、あの禍々しい銃型の注射器がつかみ出された。
「キリト――ッ!!」
詩乃が叫ぶのと、
「死ねええええええッ!!」
恭二が吠えるのは同時だった。
高圧注射器が、キリトの胸、ライダージャケットの隙間のTシャツに突き立てられ、
ブシュッ!! という、小さく、鋭く、しかし聞き逃しようのない音が響き渡った。
それは、恐ろしいことに、高性能の消音器を装着した銃の発射音に酷似していた。
もちろん、詩乃が知っているのはあくまでガンゲイル・オンライン内の仮想の銃器が発するサウンドエフェクトであり、実際のサイレンサーがどのような音を立てるものなのかは知る由もない。しかし、耳に染み付いたその音は、詩乃にとっては立ち向かうべき脅威をあらわすものだった。気付いたときには、足が床を蹴っていた。
数歩でキッチンを横断し、部屋に駆け込みざま、無意識のうちにもっとも効果的な武器となりそうなもの――テーブルの上のオーディオプレイヤーに視線を走らせていた。姿勢を低くし、右手でそのハンドルを掬い上げる。
詩乃が長年愛用してきたその機械は相当の年代物で、最近の壁掛け式プレイヤーと比べればいかにも巨大だった。三キログラムは下るまいという金属の直方体の重量を、腰で支えて後方に勢い良く振り回し――
陶酔した笑みを口もとに浮かべたまま、きょとんとした目つきで顔を上げた恭二の右側頭部目掛けて、一回転させた体の重さごと、思い切り叩きつけた。
衝突の瞬間の音も、手応えも、ほとんど感じなかった。しかし、ハンドルを留めていたボルトが折れ、詩乃の手から離れたプレイヤーと恭二の頭が一緒に吹き飛んで、一メートルほど離れたベッドのパイプの角にめり込むときの重い衝撃音ははっきりと耳の底に残った。
半秒ほどの時間差を置いて頭の右側と左側を強打された恭二は、呻き声を上げながらうつ伏せに倒れ込んだ。その右手が緩み、高圧注射器が半ば滑り落ちた。
果たしてその器具が、薬品を連続して発射できるものなのかどうか定かではなかったが、詩乃はとりあえずそれを恭二の手からもぎ取った。持ち主は白目を剥き、低い唸り声を漏らし続けているが、これ以上動く様子は無い。
ベルトか何かを使って手を縛ったりするべきかどうか一瞬迷ったが、その前にやることがあった。詩乃は振り向くと、
「キリトっ……!」
細く叫びながら、床に横たわったままの少年に向かって屈み込んだ。
どこか、ゲーム内のキャラクターに共通した線の細さを持つ少年は、薄く開けた目で詩乃を認めると、掠れた声を漏らした。
「やられた……まさか、あれが……注射器だったなんて……」
「どこ!? どこに打たれたの!?」
注射器を傍らに放り投げ、詩乃はキリトのライダージャケットのジッパーを千切るような勢いで引き降ろした。
救急車を呼ばなければ、その前に応急処置を、でも胸の止血なんてどうやって――口で吸い出す――!? 等々と、混濁した思考が次々と浮かび、指先を震わせる。
ジャケットの中の、色褪せたブルーのTシャツの一部、ちょうど心臓の真上と思しきあたりに、不吉に黒ずんだ染みがあった。注射器が発射した薬液の「貫通力」がどの程度なのかは分からないが、おそらく薄いシャツの布地で阻めるようなものではないと思われた。
「こ……このへん……」
キリトが顔を歪めながら指先で染みのあたりを押さえた。その手を引き剥がし、詩乃は大きく息を吸いながら、シャツの裾をジーンズから引っ張り出して大きく捲り上げた。
男にしては色が白く、つるりとした腹と胸が露わになった。その中央やや右寄り、染みがあったまさにその場所に――妙なモノが張り付いていた。
「……!?」
詩乃は唖然としてそれを凝視した。
直径三センチほどの円形。薄い銀色の円盤のまわりに、半透明のゴムでできた吸盤のようなものがはみ出している。円盤の縁から、何らかのソケットらしき突起が伸びているが、そこには何も接続されていない。
金属円の表面は全体的に濡れ、一本のしずくが下方に流れていた。透明なその液体が、恐らく恭二の言っていた「サクシニルコリン」なる致命的な薬品なのだと思われた。
詩乃は慌てて床を見回し、ティッシュのボックスを見つけて二枚抜き取ると、慎重にその液体を拭った。数センチの距離まで顔を近づけると、謎のパッチの周囲の肌を仔細に眺め回し、高圧流が侵入したあとがないか確かめる。
いくら凝視しても、キリトの胸には傷ひとつ見つからなかった。おそらく高圧注射器の先端は、Tシャツ越しにこの直径数センチの金属円にあてがわれ、発射された薬品はすべて強固な壁に阻まれたらしかった。ためしにパッチの上から手を当てると、どくんどくんと、速いが力強く動き続ける心臓のビートが伝わってきた。
詩乃はぱちぱちと瞬きし、視線を上げると、相変わらず目を閉じてうめいているキリトの顔を見た。
「ねえ……ちょっと」
「うう……駄目だ……呼吸が……苦しい……」
「ねえ、ちょっとってば」
「……ちくしょう……咄嗟に遺言なんて……思いつかないぜ……」
「これ、この貼り付いてるもの、何なの?」
「……え?」
キリトは再び瞼を開けると、自分の胸を見下ろした。訝しげに眉をしかめ、持ち上げた右手の指で金属円をなぞる。
「……ひょっとして……注射は、この上に?」
「なんか、どうも、そうみたいよ。何なのよこれは?」
「……ええと……多分、心電図モニターの電極……だと思う……」
「は……はあ? 何でそんな……あんた、心臓悪いの……?」
「いや、ぜんぜん……。〈死銃〉対策でつけてもらってたんだけど……そ、そうか、焦って引っ張ったから、コードが抜けて一個残ったのか……」
キリトはふううっと大きく息を吐くと、呟いた。
「まったく……、脅かしてくれるなあ」
「そりゃあ……」
詩乃は両手でぎゅっとキリトの首を掴むと、締め上げた。
「――こっちの台詞よ! し……死んじゃうかと思ったんだからね!!」
叫んだ途端、緊張が一気に抜けたのか、目の前がすうっと暗くなった。頭をぶんぶんと振ってから、少し離れた場所にうつ伏せに倒れたままの恭二に視線を向ける。
「彼は……大丈夫か?」
キリトに言われ、おそるおそる手を伸ばし、投げ出された恭二の右手首を取った。幸い、こちらもはっきりとした鼓動が伝わってきた。拘束すべきか、と改めて思ったものの、瞼を閉じたどこかあどけない恭二の顔をそれ以上見ていることが出来ず、詩乃は目をそむけた。恭二のことを、今はもう考えたくなかった。怒りも悲しみも感じなかったが、ただ、虚ろなものが胸に広がっていた。
ぺたりと床にしゃがみ込んだまま、詩乃は床に転がった高圧注射器――あるいは真の〈死銃〉を数秒間、漠然と見つめた。やがて口を開き、ぽつりと呟いた。
「とりあえず……来てくれて、有難う」
キリトは、見覚えのある片頬だけの笑いをかすかに浮かべると、首を振った。
「いや……何もできなかったし……それに、遅くなって悪かった。警察が、なかなか言うことをわかってくれなくて……。――その……ケガは、ない?」
詩乃はこくんと頷く。
「そうか。ええと……あの、シノン」
先ほどから不自然に顔をそむけていたキリトが、頬を赤くしながら言った。
「ふ……服を着たほうが……」
ぱちくりと瞬きしてから、ようやく詩乃は自分がボタンの取れたショートパンツしか身に付けていないことに気付いた。慌てて片手で胸を覆い、床に落ちたままだったタンクトップを拾い上げたそのとき、突然両眼から零れるものがあった。
「あ……あれ……」
頭のなかは、真綿を詰められたようにぼうっとして何も考えられないのに、頬を伝う涙は勢いを増し、次々と滴って、胸に抱いたタンクトップに染み込んでいった。
詩乃は口を閉ざし、身動きもせず、ただ涙が溢れるに任せた。何か喋ろうとしたら、その途端に大声で泣いてしまうだろうと思った。
キリトも無言のまま動こうとしなかった。
やがて、遠くからサイレンの音が近づいてくるのに気付いたが、涙は枯れる様子もなかった。密やかに、次々と大粒の雫をこぼしながら、詩乃は胸を満たす空虚さの源が、深い喪失感であることを強く意識していた。
エピローグ トゥルー・リアル
その向こうの宇宙を感じさせるほどに、高い空だった。
この、「空の高さ」だけはいかなるVR世界でも再現することはできない。過ぎ去った秋が忘れていったような、濃く澄んだ青のなかに、小さな羊雲と筋雲が層をなしてぽつんと浮かんでいる。細い電線のうえで雀が二羽肩を寄せ合い、遥かな高みを往く軍用機がちかりと陽光を跳ね返す。
精神が吸い込まれそうな、途方もない奥行きをもつパースペクティブに、詩乃は飽くることなく見入りつづけた。
十二月半ばにしては風もぬるく、放課直後の生徒たちの喧騒もこの校舎裏にまでは届かない。いつもは薄く灰色がかって見える東京都心の空だが、今日だけは故郷の北の町と似た色に見えた。黒い土が剥き出しになった殺風景な花壇の端に腰掛け、膝のうえに通学鞄を抱えて、詩乃はもう十分近くも無限の空間に心を浮遊させている。
しかしやがて、甲高い笑い声とともに複数の足音が近づいてきて、詩乃を地上に引き戻した。
強張った首の角度を戻し、白いマフラーをぐいっと引っ張り上げて、闖入者たちを待ちうける。
校舎の北西端の角と、大型焼却炉のあいだの通路から姿を現した遠藤と二人の仲間たちは、詩乃を見つけると一様に唇を歪め、嗜虐的な笑みを形作った。
鞄を左手で持ち、立ち上がると、詩乃は言った。
「呼び出しておいて待たせないで」
それを聞いた取り巻きのひとりが、厚ぼったい目蓋を高速でしばたかせてから、笑みを消して喚いた。
「朝田さぁー、最近マジちょっと調子のってない?」
もうひとりも、似たようなイントネーションで追従する。
「ほんとー、友達に向かってそれちょっとひどくない?」
詩乃から一メートルほど離れた場所に立ち止まった三人は、それぞれが効果的と思っているのであろう角度から、威圧するような視線を向けてきた。詩乃はとりあえず中央に立つ遠藤の、捕食昆虫じみた細い目をじっと見つめた。
沈黙は数秒しか続かなかった。すぐに遠藤はにいっと笑うと、あごを突き出して言った。
「別にいいよ、トモダチなんだから何言っても。そんかしさあ、あたしらが困ってたら助けてくれるよな。つうか今、超困ってんだけど」
それを聞いて、左右の二人が短く笑う。
「とりあえず、二万でいいや。貸して」
消しゴム貸して、と言う時のように何気ない調子で、遠藤は要求を口にした。
詩乃は視線に力を込め、一語ずつ区切りながら答えた。
「あなたに、お金を貸す気は、ない」
途端、遠藤の目がきゅっと細められ、ほとんど糸のようになった。その隙間から粘りけのある眼光を放射しながら、一段と低い声で言う。
「……いつまでもチョーシくれてんじゃねえぞ。言っとくけどな、今日はマジで兄貴からアレ借りてきてんだからな。泣かすぞ朝田」
「……好きにしたら」
まさか本当にそこまでの事を、と詩乃は思ったが、驚いたことに遠藤はぎゅっと唇の両端を吊り上げると、鞄に右手を差し込んだ。
大量のマスコット類がじゃらじゃらとぶら下がる女子高生仕様の鞄から、唐突に黒い自動拳銃が出現する光景は、ある種のパラノイアックなユーモアを感じさせた。覚束ない手つきで大型のモデルガンを引っ張り出した遠藤は、右手に握ったそれをぐいっと詩乃に突きつけた。
「これ、マジで弾出るんだぜ。絶対人に向けんなって言われたけどさぁ、朝田は平気だよな。慣れてるもんな」
詩乃の目は、自然に黒い銃口に吸い寄せられた。遠藤の声は、水の膜を隔てたように歪んで聞こえた。
たちまち、心臓の鼓動が跳ね上がる。耳鳴りが周囲の音を遠ざける。呼吸が浅くなり、指先から冷気が這いのぼる――
しかし詩乃はぐっと奥歯を噛み締め、全精神力を振り絞って、瞳を銃内部の闇から逸らした。
グリップを握る遠藤の右手から、その腕へと視線を動かしていく。肩から、色の抜けた髪、そして顔へと辿っていく。
遠藤の目は、興奮のせいか毛細血管が浮き上がり、虹彩は黒く濁っていた。
醜い眼の色だった。単に暴力に酔う者の眼だと思った。
本当に恐れるべきは、銃ではない。それを持つ人間のほうだ。
詩乃が期待したような反応を見せないせいか、遠藤は苛立ったように唇を曲げ、吐き捨てた。
「泣けよ朝田。土下座して謝れよ。ほんとに撃つぞてめえ」
ぐいっとモデルガンを詩乃の足に向け、右腕に力を込めた。肩から腕にかけてがぴくりと震え、引鉄を引こうとしたのが詩乃にはわかった。しかし、弾は出なかった。
「クソッ、何だよこれ」
二度、三度と撃とうとしたが、トリガーは動かないらしい。
詩乃は大きく息を吸い、ぐっとお腹に力を込めると、鞄を足元に落とし、手を伸ばした。
左手の親指で遠藤の右手首を強く押さえ、握力が緩んだところを、右手で銃を奪い取る。トリガーガードに人差し指を掛けてくるりと回すと、すぽっとグリップが掌に収まった。プラスチック製なのだろうが、ずしりと重く感じた。
「一九一一ガバメントか。お兄さん、渋い趣味ね。私の好みじゃないけど」
呟いて、銃の左側面を遠藤に向ける。
「ガバメントは、サムセーフティの他にグリップセーフティもあるから、こことここを解除しないと撃てないわ」
カチリ、カチリと音をさせて二箇所の安全装置を外す。
「それに、シングルアクションだから最初は自分でコッキングしないと駄目」
親指でハンマーを起こすと、硬い音とともにトリガーがわずかに持ち上がった。
唖然として目と口をぽかんと開けている遠藤たちから視線を外し、詩乃は周囲を見回した。六メートルほど離れた焼却炉の傍らに青いポリバケツが並び、そのうちの一つにジュースの空き缶が乗っているのが目に止まった。
両足を開き、左手をグリップに添える。右目と照門、照星が作る直線上に空き缶を捉える。少し考えてからわずかに銃を上向け、息を溜めてからトリガーを絞った。
ばす、という頼りない音とともに、ささやかなリコイルが手に伝わった。感心なことにガバメントはきちんとブローバックし、オレンジ色の小さな弾が発射された。
銃のクセがわからなかったので初弾は外すものと思ったが、運良くタマは空き缶の上部ぎりぎりの場所に当たって、詩乃は内心で少し驚いた。くわん、と高い音を響かせて空き缶はくるくるとコマのように回り、やがて倒れて、バケツから転がり落ちた。
詩乃はふう、と息をつくと銃を下ろした。体の向きを変え、正面から遠藤を見る。
嗜虐的な笑みはあとかたもなく消えていた。遠藤は完全に毒気を抜かれたように呆然としていたが、詩乃がずっとその目を見つづけていると、怯んだように口もとを強張らせ、半歩あとずさった。
「や……やめ……」
上ずった声が漏れるのを聞いて、詩乃はふっと視線を緩めた。
「……確かに、人には向けないほうがいいわ、これ」
言いながらハンマーをデコックし、二つのセーフティを元に戻す。グリップを向けて差し出すと、遠藤はビクリと体を震わせたが、おそるおそるというふうに手を伸ばし、モデルガンを受け取った。
詩乃は振り向くと鞄を拾い、ぐいっとマフラーを引き上げた。じゃあね、と肩越しに言葉を投げ、歩き出したが、遠藤たちは動かなかった。校舎の角を曲がり、視界から姿が消えるまで、三人は無言のまま立ち尽くしていた。
遠藤たちが見えなくなった途端、両脚からすうっと力が抜けて、詩乃はその場にへたりこみそうになった。校舎の壁に手をついて、どうにか堪える。
耳の奥がごうごうと鳴り、こめかみで血流が激しく脈打つのを感じた。今おなじことをもう一度やれと言われても絶対に出来ないと思った。込み上げる胃液で、喉のおくが焼けた。
それでも、しゃがみ込むこともなく、詩乃は無理矢理に歩行を再開した。モデルガンの冷たい重さはしつこく掌に染み付いて去ろうとしなかったが、乾いた寒風にさらしているうちに、少しずつ薄れ始めた。
校舎の西昇降口と体育館を繋ぐ渡り廊下を横切り、しばらく歩くとグラウンドの端に出る。運動部の生徒が掛け声とともにランニングしている横を通り過ぎ、グラウンド南側の小さな林を通り抜けるともう、正門前の広場である。
生徒たちが三々五々連れ立って帰途につくなかを、早足で縫いながら校門に向かおうとして、詩乃はふと首をかしげた。
学校の敷地を囲む高い塀の内側に、いくつかの女子生徒の集団が足を止め、ちらちらと校門のほうを見ながら顔を寄せ合って何事か話している。
そのうちの二人が、同じクラスでそこそこ仲の良い生徒たちであるのに気付いて、詩乃は彼女らに歩み寄った。
黒縁眼鏡を掛けたロングヘアの生徒が、詩乃に気付き、にこっと笑って手を上げた。
「朝田さん、今帰り?」
「うん。――何、してるの?」
聞くと、栗色の髪をふたつに束ねたもう一人が、肩をすくめて笑いながら答えた。
「あのね、校門のとこに、このへんの制服じゃない男の子がいるの。バイク停めて、ヘルメット二つ持ってるから、ウチの生徒を待ってるんじゃないか、って。お相手の剛の者が誰だか、悪趣味だけど興味あるじゃない?」
それを聞いて、詩乃はサーッと血の気が引くのを意識した。慌てて時計を確認し、いやまさか、と内心で必死に否定する。
確かにこの時間に学校を出たところで待ち合わせはしたし、電車代が勿体無いのでバイクで送迎しろとも言った。しかしよもや、校門のど真ん前にバイクを止めて待ちうけるような、あまりにも大胆不敵な真似を――
――あの男なら、やりかねない。
おそるおそる塀に体を寄せ、校門の向こう側の車回しを覗き見てから、詩乃はがくりと肩を落とした。スタンドを降ろした派手な色のバイクに寄りかかり、ヘルメットを両手で抱えて、ぽけーっと空を眺めている見知らぬ制服の男子生徒は、間違いなく一昨日に会ったばかりのあの男だった。
十人以上に注視されている状況で自分から声を掛け、バイクの後ろに乗ることを考えると耳の先端までが燃え上がるように熱くなった。この場からログアウトしてしまいたい、と心の中で呟いてから、詩乃はなけなしの度胸を振り絞り、傍らの同級生に向き直った。
「ええと……あの……アレ、私の……知り合いなの」
消え入るような声で告げると、女子生徒の眼鏡の奥で目が大きく見開かれた。
「えっ……朝田さんだったの!?」
「ど、どういう知り合い!?」
もう一人も驚愕の叫びを上げる。その声に周囲の視線が集まるのを意識して、詩乃は鞄を抱えると限界まで肩を縮め、
「ご……ごめんなさいっ」
何故か謝りながら小走りに駆け出した。
明日説明しなさいよーという声を背中に受けながら、古めかしいブロンズの校門をくぐり、車回しに出る。
すぐ傍まで接近しても、豪胆なるストレンジャーことキリトは、呆けたように青い空に見入っていた。
「……あの」
声を掛けると、ぱちぱち瞬きしてからようやく視線を戻し、のんびりとした笑顔を浮かべる。
「やあ、こんにちは、シノン。いい天気だね」
こうして明るい陽光の下で改めて見ると、現実世界のキリトは、少々浮世離れした透明な雰囲気を持つ少年だった。少し長めの黒い髪と、対照的に色素の薄い肌、びっくりするほど細い体は、どことなく仮想世界で見たバーチャル体と共通する少女っぽさを漂わせている。
その希薄感、言い換えればどこか病的な気配は、彼が経験した二年間の虜囚生活をまざまざと思わせて、詩乃は思わず浴びせようとした舌鋒を収めていた。
「……こんにちは。……お待たせ」
「いや、さっき着いたところだよ。――それにしても……なんか……」
キリトはようやく校門の周囲からこちらを見守る生徒たちに気付いたように、視線を巡らせる。
「……注目されてるような……」
「あ……あのねえ」
それでも少し呆れ声になりながら詩乃は言った。
「校門の真ん前に他校の生徒がバイクで乗りつけたら、目立つのは当たり前だと思う」
「そ……そういうもんか。じゃあ……」
不意に少年は、仮想世界でよく見せたような、片頬だけのシニカルっぽい笑みを浮かべる。
「もう少しここで粘ってたら、生活指導の先生とかが飛んできて怒られたりするのかな? それはちょっと楽しそうだな」
「じょ……冗談じゃないわ!」
実際有り得ないことではない。詩乃は反射的に校門のほうを振り返ってから、声を低くして叫んだ。
「さ、さっさと行くわよ!」
「へいへい」
相変わらず笑みを浮かべたまま、キリトはハンドルに掛けられていたライトグリーンのヘルメットを取ると、詩乃に差し出した。
コイツの中身は、ゲーム内で見せた不敵な皮肉屋と一緒なのだ、外見にダマされてはいけないとしみじみ思いながら詩乃はヘルメットを受け取った。鞄を斜めに肩に引っ掛け、オープンフェイスタイプのそれをすぽっと被ったところで、あご下のハーネスの留め方がわからず手を止める。その途端、
「ちょっと失礼」
キリトの手が伸びてきて、手早く詩乃の首もとでベルトを固定した。再び顔が熱くなり、慌ててシールドを降ろす。明日、教室で説明を求められたときのことが思いやられた。
自分も黒いヘルメットを装着し、ひょいっとシートに跨ったキリトが、ふと首を傾げた。
「……シノン、その……スカートは大丈夫?」
「体育用のスパッツ穿いてるから」
「そ、そういう問題かなあ」
「別にあんたからは見えないでしょ」
キリトに一矢報いておいて、詩乃は勢いよくバイクのリアシートに跨った。子供の頃によく祖父のおんぼろスーパーカブ90の後ろに乗っていたので、要領は身についている。
「ほんじゃ、まあ……しっかり掴まっててください」
キリトがキーを捻ると、いまどき内燃機関の甲高い爆音が響いて、再び首を縮める。しかし、腰に伝わる振動と排気の匂いは懐かしいもので、思わずバイザーの奥で微笑みながら、詩乃は骨ばったキリトの体にぎゅっと手を回した。
学校がある文京区湯島から、目的地の中央区銀座までは、地下鉄を乗り継ぐと少々大変だが、地上を行くなら案外と近い。
御茶ノ水から千代田通りを下りて皇居に出ると、バイクは安全運転でとろとろとお堀端を走った。小春日和が幸いして、吹き過ぎる風も気持ちいい。大手門前を通過し、内堀通りから晴海通りに左折してJRの高架をくぐると、そこはもう銀座四丁目だ。
三輪バギーでモルターレから逃げたときのスピードと比べると亀の歩みだったが、それでもほんの十五分たらずで目的地に到達し、キリトはバイクを停めた。
外したヘルメットを手に持ったまま案内された先は、詩乃がかつて足を踏み入れたことがない種類の、いかにも高級そうな喫茶店だった。ドアを押し開けた途端、白シャツに黒蝶タイのウェイターに深々と頭を下げられてわずかに狼狽する。
お二人様ですか、とウェイターに聞かれて、これではまるで……と更に泡を食ったところで、店の奥から、シックな雰囲気をぶち壊す傍若無人な大声がした。
「おーいキリトくん、こっちこっち!」
「……えーと、アレと待ち合わせです」
キリトが言うと、ウェイターは表情ひとつ変えずに、かしこまりました、と一礼して歩きはじめた。買い物途中のご婦人たちで溢れる店内に制服姿の高校生はいかにも場違いで、詩乃は体を縮めながらぴかぴかに磨かれた床板の上を歩いた。
テーブルで二人を待っていたのは、ダークブルーのスーツに華奢な黒縁眼鏡の、背の高い男だった。事前に役人と聞かされてはいたが、確かにいかにもホワイトカラーといった雰囲気と同時に、どこか学者めいたところもある。
立ち上がり、右手で椅子を示す男の仕草に従って向かいの窓際に腰を下ろすと、即座に湯気を立てるお絞りと革張りのメニューが出現した。
「さ、何でも頼んでください」
という男の声に促されるようにメニューを開き、視線を落として、詩乃は唖然とした。サンドイッチやパスタといった軽食類はもちろん、デザートの欄にもおしなべて四桁の数字が並んでいる。
凍り付いていると、隣でキリトが憮然とした声を出した。
「ほんとに遠慮しないほうがいいぞ。どうせ支払いは税金からなんだからな」
ちらりと視線を上げると、眼鏡の男もにこにこと頷いている。
「じゃ、じゃあ……この、レアチーズケーキ・クランベリーソース……と、アールグレイ」
うわあ合計二二〇〇円、と内心で蒼ざめながら詩乃がオーダーすると、続けてキリトが、
「俺はりんごのシブーストとモンブランとエスプレッソ」
などと信じられないことを言った。合計金額はもう想像するのも恐ろしい。
ウェイターが深々と腰を折ってから立ち去ると、眼鏡の男はスーツの中から黒革のケースを取り出し、一枚抜いた名刺を詩乃に差し出した。
「はじめまして。僕は総務省仮想課の菊岡と言います」
豊かなテノールで名乗られ、詩乃も慌てて名刺を受け取り、会釈を返す。
「は、はじめまして。朝田……詩乃です」
言った途端、菊岡という男は口もとを引き締め、ぐいっと頭を下げた。
「この度は、こちらの不手際で大変危険な状況を招いてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「い……いえ、そんな」
再び慌てて詩乃が頭を下げ返すと、キリトが混ぜ返すように口を挟んだ。
「もっと謝ってもらったほうがいいぞ。菊岡サンがもっと真剣に調べてれば、俺もシノンもあんな目には合わなかったんだからな」
「……そう言われれば返す言葉もないが」
菊岡はやり込められた子供のように項垂れながらも、上目遣いに続ける。
「しかしキリト君だってまるで予想してなかったわけだろう? まさか、〈死銃〉が二人いた、なんてさ」
「そりゃあ……まあ、な」
キリトは、きい、とアンティークっぽい椅子の背もたれを鳴らした。
「……とりあえず、今までにわかったことを教えてくれよ、菊岡さん」
「と、言っても……まだ彼らの犯罪が明らかになってから二日しか経っていないのでね。全容解明には程遠いんだが……」
自分の前のコーヒーカップを持ち上げ、一口含んでから、菊岡は続けた。
「さっき二人と言ったけど、実際には三人いたわけだね。少なくとも、〈死銃A〉……こと新川亮一くんの供述では、三人ということになっている」
「その亮一氏が、俺とシノンをBoB本大会で襲撃したときのモルターレだったんだな?」
キリトの問いを菊岡は軽く首肯した。
「それはほぼ間違いないね。彼の自宅アパートから押収されたアミュスフィアのログにも、該当する時刻にガンゲイル・オンラインに接続していたことが記録されている」
「自宅アパート……。新川亮一というのは、どういう人間だったんだ? 首謀者は彼ということなのか?」
「……それを説明するためには、SAO事件以前から始めなくてはならないようだ。だが、まあ、その前に……」
ちょうどその時、ウェイターが華奢なワゴンに大量の皿を載せて戻ってきた。それらが音も無くテーブルに並べられ、ウェイターが下がるのを待って、菊岡は手振りで詩乃たちに勧めた。
食欲はあまりあるとは言えなかったが、小さなケーキのひとつくらいなら入りそうだった。キリトと揃っていただきます、と言ってから、金色のフォークを手に取る。
艶やかな赤いソースが添えられた乳白色の矩形の一端を切り取り、口にはこんだ。チーズを更に濃縮したかのような密度のある味が広がり、しかしそのわりには舌の上で滑らかに溶け去って驚かされる。レシピを知りたいと一瞬思ったものの、訊いても教えてくれるわけはないだろう。
つい夢中で半分ほど食べてしまってから、フォークを置いて紅茶のカップを持ち上げる。オレンジの風味が漂う熱い液体を少しずつ含むと、心の奥の凝り固まった部分が、少しずつほぐれていくような気がした。
「……おいしいです」
顔を上げて詩乃が呟くと、菊岡は嬉しそうに笑い、言った。
「おいしいものはもっと楽しい話をしながら食べたいけどね。また今度付き合ってください」
「は、はあ」
すると、モンブランの金褐色の山をみるみる低くしつつあるキリトが笑いを含んだ声で茶々を入れた。
「止めといたほうがいいぜ。この男の〈楽しい話〉はクサイかキモチワルイかどっちかだからな」
「し、心外だなあ。ベトナム食べ歩きの話とか自信あるんだが……ま、その前に事件の話をしておこう」
菊岡は胸ポケットから極薄型のPDAを取り出し、二つに開くと、銀色のスタイラスで画面をつつき始めた。
詩乃はわずかに体を緊張させて、どこか教師めいたところのある男の言葉を待った。
この〈死銃〉事件に関するすべてを知りたい、という気持ちはもちろんある。
しかし同時に、これ以上真実に触れたくない、と心の奥でつぶやく声もする。
多分、自分はまだ、ある部分では新川恭二のことを信じているのだ。あれほどの暴力を向けられた後でも、完全には恭二を憎みきれず、完全には恭二への好意を捨てきれない。あれは彼ではなく、彼の頭のなかに入り込んだ何者かの仕業なのだ――と信じたい自分がいる。そう、詩乃は感じている。
日曜から月曜へと日付けをまたいで起きたあの事件から、およそ四十時間が経過していた。
あの夜――キリトに促され、差し出されたティッシュで涙を拭い、半ば着せてもらうような形でどうにか服を身につけ終わったのとほぼ同時に、詩乃の部屋に警察が到着した。
頭を強打されて意識朦朧としていた新川恭二は、その場で逮捕され、救急車で病院に搬送された。
詩乃とキリトも、念のためということで別の病院に運ばれ、そこでひととおりの検査を受けることになった。いくつかの軽い擦過傷のほかはひとまず異常なし、と当直医師に告げられた直後、病室で事情聴取がはじまり、詩乃はぼんやりと紗のかかった頭をどうにか回転させて、実際に部屋であった事だけを告げた。
自覚はなかったが、詩乃の精神的ストレスが限界と見た医師の判断によって、警察の聞き取りは午前二時にいったん終了した。その夜はそのまま病室で一泊し、翌朝六時半に目が覚めた詩乃は、医師の勧めを断ってアパートに戻り、登校することにした。
病院を出る前に、教えてもらったキリトの病室を訪れたのだが、少年は身じろぎもせず熟睡していた。しばらく、案外とあどけない寝顔を眺めてから立ち去ろうとしたとき、様子を見に来た看護婦と鉢合わせたので少し言葉を交わした。
圧倒されるほど美人で肉感的なその看護婦は、どうやらキリトとは長い付き合いらしく、苦笑しながら漏らした「言っちゃなんだけど、病院のベッドが似合うコだよね」という言葉が印象的だった。
月曜の授業はうとうとしながら乗り切った。不登校継続中とは言え立派に学籍のある恭二の起こした事件は、とっくに学校にも伝わっているものと思っていたが、教師にも生徒にもそのことに触れる者はいなかった。
遠藤らの呼び出しを綺麗に無視してアパートに帰ると、警察の車が待っていた。着替えを持って向かった先は昨日と同じ病院で、医師による簡単な問診のあと、二回目の事情聴取があった。今度は詩乃のほうからも色々――主に恭二のことを質問したのだが、怪我はたいした事はない、警察に対してはほとんど黙秘している、という事くらいしか教えてもらえなかった。
「警備上の理由」によって詩乃はその夜も病院に泊まるようにと言われた。食事をし、シャワーを使ったあと、ロビーで実家の祖父母と母親に短い電話を入れてから、あてがわれた病室のベッドに横になった。その途端泥のように眠り込んだらしく、きれいに記憶が途切れている。なんだか長い夢を見たような気がするが、内容は覚えていない。
翌火曜――つまり今朝、およそ九時間の深い眠りのあと、午前五時に詩乃は泡が浮かぶように目を醒ました。濃い朝靄を透過してくる乳白色の光に誘われるように、ふたたびキリトの病室を訪ねたが、ドア脇のネームプレートはすでに空になっていた。
ナースステーションで訊いてみたところ、彼の事情聴取は月曜の朝にすべて終了し、すでに帰宅したとのことだった。わずかな失望を感じながら詩乃は病室に戻り、着替えると、ロビーでうつらうつらとしていた刑事に自分も帰宅すると告げた。
再び覆面パトカーでアパートまで送ってもらい、車から降りたところで、刑事にこれで一応聞き取りは終了だ、と言われた。それは有り難かったのだが、事件に関することを今後どうやって知ればいいのだろう……と思いながら登校の準備をし、朝食のためにトマトを切っていたところに、携帯電話が鳴った。キリトからだった。開口一番に、今日の放課後は時間あるか、と訊かれて、反射的にうんと答えていた。
そして今、詩乃は彼のとなりに座り、キリトの言う「情報筋」であるところの国家公務員の言葉を待っている。
菊岡は、PDAから顔を上げると、周囲を気遣ってか低い声で話し始めた。
「総合病院のオーナー院長の長男である新川亮一は、幼い頃から病気がちで、中学校を卒業する頃まで入退院を繰り返していたらしい。高校入学も一年遅れて……そのせいで、父親は早々に亮一を自分の後継ぎとすることを諦めて、四つ下の弟の恭二にその役目を与えたようだ。恭二には小学校の頃から家庭教師を付け、また自ら勉強を教えたりする一方で、亮一のことはほとんど顧みなかった。――そのことが少しずつ歪みを蓄積させて行った。兄は期待されないことで追い詰められ、弟は期待されることでまた追い詰められたのかもしれない……とは、事情聴取における父親本人の弁だが」
そこで一度言葉を切り、菊岡はコーヒーで唇を湿らせた。
詩乃は視線をテーブルに落とし、「親の期待」というものを想像しようとしてみた。しかし、実感することはできそうになかった。
あれほど近くにいながら、恭二がそのようなプレッシャーに晒されていたことにはまるで気付かなかった。自分のストラグルにばかり一生懸命で、ひとを本当に見ようとしていなかった――とまたしても意識させられ、詩乃は胸に苦い痛みをおぼえる。
菊岡の話は続いた。
「――しかし、そういう境遇でも、兄弟仲は悪くなかったようだ。亮一は、高校を中退してからは精神の慰撫をネットワークの中、ことにMMOゲームに求め、その趣味はすぐに弟にも伝播した。やがて兄はソードアート・オンラインの虜囚となり、二年のあいだ父親の病院で昏睡するのだが、生還してからは、彼は恭二にとってはある種の偶像……英雄化、と言ってもいいかな、そういう存在になったようだ」
となりに座るキリトの呼吸に、わずかな緊張が含まれたのに詩乃は気付いた。しかし菊岡の低く滑らかな声は、小さなな間を置いただけで淡々と続いていく。
「亮一は、生還後しばらくはSAOのことには一切触れなかったようだが、リハビリが終了し、自宅に戻ってから、恭二にだけ語ったそうだ。自分がいかにあの世界で多くのプレイヤーをその手にかけ、真の殺戮者として恐れられたか……ということをね。その頃すでに、成績の下降や上級生からの恐喝などによる重圧を受けていた恭二にとって、亮一の話は嫌悪ではなく解放感、爽快感をもたらすものだったようだね」
「……あの」
詩乃が小さな声を出すと、菊岡は顔を上げて続きを促すように軽く首を傾けた。
「そういうことは……新川くん、いえ、恭二くんが話したんですか?」
「いや、これらは兄の供述に基づく話です。亮一は警察の取り調べに際して饒舌なまでに喋っているらしい。弟の心情の推測も含めてね。しかし恭二のほうは対照的に、完全な黙秘を続けている」
「……そうですか」
恭二の魂が、どのような地平を彷徨しているのかは、詩乃にはもう想像のしようもない。そんなわけはないのだが、いまGGOにログインしてみたら、溜まり場になっていた酒場の隅にうずくまるシュピーゲルが居るのではないか……という気すらする。
「あ、どうぞ……続けてください」
詩乃の言葉に頷き、菊岡は再びPDAをちらりと眺めた。
「兄弟にとってのポイント・オブ・ノーリターンがどこなのかは、推測によるしかないのだが……恭二に誘われてガンゲイル・オンラインを始めた亮一は、始めの頃はそれほど熱心にはプレイしていなかったそうだ。フィールドに出るよりは、街でほかのプレイヤーを観察して、殺し方を想像するのが楽しかった、と彼は言っているね。九月のはじめ頃、いつものように双眼鏡で他のプレイヤーを覗き見ていた亮一は、観察対象が操っていたゲーム内端末の画面に、現実の住所が表示されているのに気付いた。反射的に記憶し、ログアウトして書きとめたが、その時点では具体的にどうしようとは思っていなかったようだ。プレイヤーの個人情報を盗むという行為そのものが彼を興奮させ、それ以降、連日何時間もその場所――総督府? に貼りついては、住所を打ち込むプレイヤーを待ちつづけた。最終的には、十六人の本名と住所を手に入れたということだ。その……朝田詩乃さん、あなたの情報も含めて」
「…………」
詩乃は小さく頷いた。九月はじめ、ということは第一回BoBの直後だ。十月にあった第二回とあわせて六十人の本大会出場者のうち、賞品にモデルガンを選んだ者は多くても四十人というところだろう。そのうち十六人もの情報を盗みおおせるとは、恐るべき妄執というより他にない。
「十月のある日、恭二は亮一に向かって、自分のキャラクターの育成が行き詰まっていることを打ち明けた。〈ゼクシード〉という名のプレイヤーが広めた偽情報のせいだ、と盛んに恨みを口にしたらしいね。そして、亮一は、そのゼクシードの本名と住所を入手していることを思い出し、恭二にそれを教えた」
リアルとヴァーチャルが混沌と溶け合い、あらたな貌を見せる。足元の地面が硬度を失い、自分と外界を分ける境界線が定かでなくなる。おそらく、ゼクシードの本名を知った恭二が感じたのであろうその「移相」感覚は、詩乃があのとき――砂漠の洞窟で、キリトの口から現実の自分の体に迫る脅威を知らされたときに味わったものとほとんど同質だったのではないか。
現実感の喪失によって詩乃は激しい恐怖をおぼえ、そして恭二は――何を得たのだろう。
「どちらか一方が考えたことではない、と亮一は言っているね」
菊岡の声が滑らかに詩乃の耳もとを通過していく。
「二人で、どのようにして個人情報をもとにゼクシードを粛清するか、あれこれ言い合っているうちに、〈死銃〉計画の骨子が出来上がったそうだ。しかしそれでも、最初は単なる言葉の遊びだったのだと、彼は主張している。ゲーム内で銃撃すると同時に、現実でプレイヤーを殺す……言うのは簡単だが、実現にはいくつもの困難がともなう。二人は連日のように議論し、ひとつ、またひとつと机上のハードルをクリアしていった。十六人のうち、一人暮らしのプレイヤーの選別。高性能なピックガンの入手方法。最難関は注射器と薬品の入手だったが、それも父親の病院から盗み出す算段がついた。計画の細部が決定したら、今度は実際に準備を整える段階に進んでみた。無理だろうと思っていたが、やってみたら意外になんとかなった。――それらの過程自体がゲームだったんだ、と亮一は供述している。SAOで、標的パーティーの情報を集め、必要な装備を整え、襲撃を実行するのと何も変わらない、と。自分の供述を取っている刑事に向かって、あんたも同じだろう、とも口にしたようだ。NPCの話を聞き、情報を集め、賞金首を捕らえて引き渡し、金を得る。警官のやってることだってゲームと一緒じゃないか、とね」
「額面どおり受け取らないほうがいいぜ」
不意にキリトがぽつりと呟いた。菊岡がかすかに眉を動かす。
「そうかい?」
「ああ。その亮一氏はある部分では本当にそう思っているのかもしれないが、〈赤眼のザザ〉だったときの奴は、これはゲームなんだと自分と周囲に強弁しながらも、プレイヤーの死が現実のものと理解していたからこそあそこまで殺人行為に魅せられたんだ。仮想世界にいるときも、現実世界にいるときも、都合の悪い部分だけはリアルじゃないと信じ込むことで、支払うべき代償から逃げている。VR世界のダークサイド……なんだろうな。現実が、薄くなっていく」
「フムン。君は……君の現実はどうなんだい?」
いつもの皮肉そうな笑みを浮かべる、と思いきや、キリトは至極真剣な顔でじっと宙の一点を見つめた。
「……あの世界に置いてきたものは、確実に存在する。だからその分、今の俺の質量は減少している、とは思う」
「戻りたい、と思うかね?」
「聞くなよ、そういうことを。悪趣味だぜ」
今度こそキリトは苦笑すると、ちらりと詩乃を見た。
「――シノンはどうなんだ、そのへん?」
「え……」
唐突に話を振られ、詩乃はしばし戸惑った。思考を言葉にする、という行為にはさっぱり慣れていない。それでもどうにか、感じたことをそのまま口にしようと努力した。
「ええと……キリト、あなた言ってることがこのあいだと違うわ」
「え……?」
「仮想世界なんかない、ってあなた言った。その人のいる場所が現実なんだ、って。VRMMOゲームは一杯あるけど、その世界ごとにプレイヤーが分割されてるわけじゃないでしょ? いま私のいる、この……」
右手を伸ばし、指先で軽くキリトの左腕に触れる。
「この世界が、唯一の現実だわ。もしここが、実はアミュスフィアの作った仮想世界だったとしても、私にとっては現実……ってことだと思う」
キリトは目を見開き、詩乃が気恥ずかしくなるほどの時間、ずっと視線を合わせていたが、やがて珍しくシニカルさの欠片もない――と見える――笑みを唇に浮かべた。
「……そうか。そうだな」
ちらりと菊岡を見やり、
「今の言葉、ちゃんとメモっとけよ。この事件において唯一の価値ある真理かもしれないぜ」
「――からかわないで」
右手を握り、どんとキリトの肩を小突いてから正面を向く。何故か菊岡もじっと詩乃を見ていて、いたたまれなくなって空になったケーキ皿を凝視する。
「いや、本当に、その通りだね。亮一にとっては――それがまったく逆だったのかな。自分のいない場所こそが、現実……」
「あの男は、BoBの前日に俺に言った。自分はSAOで多くのプレイヤーを殺したから、この世界でも同じように殺せるのだと……。あの男も……まだアインクラッドから完全には戻っていなかったのかもしれない。――世界創造、という茅場晶彦の計画は、あの城が崩壊したあとにこそ実現するものだったのかもな……」
「怖いことを言うね。彼の死に方にはまだまだ謎が多い……が、今度の事件には関係ないだろう。話を戻すと……亮一には、計画実現のための準備が完了した段階から、実際に目標の部屋に侵入して薬液を注射する段階に移るにあたって、心理的障壁はほとんど無かったようだ。最初の犠牲者……ゼクシードこと新保氏に直接手を下したのは亮一のほうだ。十一月九日午後十一時十五分ごろ、ピックガンを使って鍵を破り侵入。同三十分、MMOフラッシュに出演するためアミュスフィア使用中だった新保氏の顎の裏側に高圧注射器で薬液を注入した。使われたのは塩化スキサメトニウム、またはサクシニルコリンと呼ばれる筋弛緩剤で、新保氏の肺と心臓は即座に停止して死に至っただろうということだ。つまり、同時刻、GGO内でゼクシードを銃撃したのは〈死銃B〉こと弟の恭二……ということになる」
恭二の名を聞いて、詩乃はぴくりと肩を震わせた。
一昨日の夜、詩乃のうえに跨って、ゼクシードに対する怨嗟をぶちまけた彼の声が耳の奥に甦る。
ゼクシードの流した情報によってステータスの配分を誤り、「最強」足りえなくなったことが、現実世界で彼を苛め、金を脅し取った上級生たち以上に許せなかったのだろうか。
いや――そうではなく……恭二にとっての「現実」はそのとき既に……
「二人目の犠牲者、薄塩たらこ氏のときも、現実世界での実行役は亮一だった。手口はほとんど同一。彼らは標的に、いくつかの条件を共有する七人を選び出したんだ。首都圏在住、一人暮らしで、ドアの鍵が破りやすい旧式のピンシリンダー錠、あるいはドア周辺に合鍵を隠している……」
「それを調べるだけでも大変な苦労だな」
キリトの嘆声に、菊岡も眉をしかめて頷く。
「多大な時間と労力を費やしただろうね。――しかし、二人の命を奪っても、〈死銃〉の噂を真剣に受け止めるプレイヤーは殆ど居なかったようなんだ」
「ええ……みんな、下らないデマだと思ってました。――私も」
詩乃が呟くと、菊岡は大きく首肯した。
「そうだろうね。私とキリトくんも、色々な可能性を考えたんだが、結論としては噂の産物だろう、ということになってしまった。もっとも、推測のアプローチからして間違っていたわけなんだが……」
「せめて……一日だけ早く真実に気付いていれば、次の犠牲者が出るのは防げたはずだったのに……」
痛切な響きのあるキリトの言葉に、詩乃は顔を上げないまま呟いていた。
「――でも、私は助けてくれたわ」
「いや、俺は何もできなかったよ。君自身の力さ」
ちらりとキリトに視線を投げてから、そう言えばまだちゃんとお礼を言ってなかったなあ、と考えていると、菊岡が再び口を開いた。
「君達の頑張りがなければ、事件が発覚するまでにリストの七人全員が犠牲になっていたことは想像に難くない。あまり自らを責めないでくれたまえ」
「別に責めちゃいないけどな……。ただ、これでまたVRMMOの評判が悪くなると思うと残念なだけさ」
「それで立ち枯れるほど、あのザ・シードってやつから出た芽はひ弱じゃないだろう。今や無数の苗が寄り集まって大樹のごとき様相だよ。まったく、どこの誰があんなものをばら撒いたのやら」
「……さて、ね。それより、先に進んでくれよ」
キリトは咳払いをすると、菊岡を促した。
「ああ……と言っても、あとはもう君達も知っていることだと思うがね。――死銃の脅威が一向に広がらないことに業を煮やした二人は、一層派手なデモンストレーションに打って出ることにした。第三回の最強者決定戦、通称バレット・オブ・バレッツにおいて、一挙に三人を銃撃する計画を立てたんだ。狙われたのは……プレイヤー名〈ザッパ〉、〈カコートン〉、それに、〈シノン〉……あなたです」
「…………」
詩乃はこくりと頷いた。四人目の犠牲者となったカコートンの名前は、もちろん知っていた。MG42軽機関銃使い、片方の目に精密射撃用光学デバイスをインプラントしていて、正面突破力に定評のある実力派だった。
彼のビア樽のような体躯と髭面を思い出し、心の中で冥福を祈ってから、詩乃はあることに気付いて口を開いた。
「あ……そう言えば、これは偶然かもしれないんですけど……」
「なんですか?」
「ターゲットの七人に共通する条件がもうひとつあるかもしれません。私を含めて狙われたのは全員、ステータスタイプが非AGI型なんです」
「ほう……? それは、どういう……?」
「新川君……いえ、恭二君は、純粋なAGI型で、そのせいでプレイに行き詰まっていました。多分、他のタイプ……特にSTRに余裕のあるプレイヤーに対しては複雑な感情があったと思います」
「ふむう……」
菊岡は絶句し、しばしPDAの画面を見つめた。
「つまり……動機は何からなにまでゲーム内に起因するもの……ということですか。これは検察も起訴に苦労するだろうなあ……。しかしなあ……」
信じられない、というように頭を振る。そこに、キリトが嘆息気味の言葉を発した。
「いや……有り得ることだ。MMOプレイヤーにとって、キャラクターのステータスというのは絶対の価値基準だからな。悪戯のつもりで、ウインドウ操作中の仲間の腕を叩いてポイントアップの操作をミスらせて、そのせいで何ヶ月も殺し合いを続けてる……もちろんゲーム内でだけど……ほどの大喧嘩になった奴らを知ってるよ」
それは詩乃にも深く納得できる話だった。しかし菊岡は目を丸くしたあと、再び左右に頭を振った。
「これは検察官と弁護士、それに判事もいちどVRMMOにダイブする必要がありそうだな。いや――法整備までも考慮するべき時、なのかな……。ま、それは我々が考えることではないがね。えーと、どこまで話したっけ」
PDAを突付き、軽く頷く。
「そうそう、三人を標的に選んだ、ってとこだね。――しかし、前の二件と違って、BoB本大会中の計画実行には、大きな障壁があった。ゲーム内の〈モルターレ〉と、ゲーム外の実行役との間で連絡が取れないので、双方の射撃時間を一致させるのが困難だったんだね。それを一応解決したのが、ゲーム外でも視聴可能なストリーム中継だったんだが……」
「それでもまだ難しいよな。移動の問題がある」
口を挟んだキリトは、苦い顔で眉をしかめた。
「俺はそこを見落とした。てっきり死銃は二人だと思い込んで……」
「そう、そうなんだ。ターゲットには最も自宅の近い三人を選んだらしいんだが、ザッパの自宅がある新宿区四谷と、朝田さんの住む文京区湯島はそう遠くないものの、カコートンの自宅は川崎市の武蔵小杉でね。しかも、今まではモルターレ役を望んでいた恭二が、今回に限っては現実での実行役に固執したんだそうだ。亮一は電気スクーターを持っているが、恭二には運転ができない。――そこで亮一は、新たな仲間……〈死銃C〉を計画に加えることにした。ええと、名前は金本敦、十八歳。亮一の古い友人――というより……」
ちらりとキリトに視線を投げ、
「SAO時代のギルドメンバーだったそうだ。キャラクターネームは……〈ジョニーブラック〉。聞き憶えは……」
「あるよ」
キリトは目蓋を伏せ、小さく頷いた。
「〈ラフィン・コフィン〉でザザとコンビを組んでた毒ナイフ使いだ。少なくとも五人は殺してるはずだ……。畜生……こんな……こんなことなら……」
その先が言葉になる前に、詩乃は素早く右手を伸ばし、キリトの左手を強く掴んでいた。同時にじっと相手の瞳を見て、首をゆっくりと左右に振る。
それだけで、言いたいことは伝わったようだった。
キリトは一瞬、幼い子供の泣き笑いのような顔を見せると、視線で頷いた。その表情はすぐに消え、いつものポーカーフェイスが取って代わる。ひんやりとした彼の手から指を離し、詩乃は前に向き直った。
その途端、じっとこちらを見ていた菊岡と目が合った。眼鏡の奥の双眸にはたちまちいたわるような光が浮かび、口元には淡い微笑が漂うが、その直前、恐ろしく怜悧な、観察対象を眺める研究者を思わせる眼を見た気がして、詩乃は思わずぱちくりと瞬きをした。
あらためて、目の前のこの人物は何者なのだろう――と思うが、そのときにはもう事件の概括が再開されていて、詩乃の戸惑いはすぐに押し流されてしまった。
「――このジョニーブラックこと金本敦が、積極的に計画に荷担したのかどうかは、亮一の供述からはよく分からない。亮一にとっても、金本というのは理解しがたいところのある人物だったようだね……」
「そんなの、その金本氏本人に訊けばいいじゃないか」
キリトの至極もっともな指摘に、しかし菊岡は短く首を振った。
「彼はまだ逮捕されていない」
「え……」
「朝田さんのアパートで死銃Bこと恭二が逮捕され、その四十分後には死銃Aである亮一も自宅で身柄を拘束されたのだが、亮一の供述によって更に二時間後、大田区にある金本敦……〈死銃C〉の自宅アパートに捜査員が急行したところ、部屋は無人だった。今現在も監視中のはずだが、逮捕の知らせは無いね」
「……その彼が、四人目のターゲットを現実で手に掛けたのは確かなのか?」
「ほぼ間違いないね。亮一が渡したという、恭二が持っていたものと同型の高圧注射器と、薬品のカートリッジはまだ発見されていないが、犠牲者の部屋から、金本の自宅で採取したものと同一と見られる毛髪が見つかっている」
「カートリッジ……」
銃の実包を連想させるその単語に、詩乃はうすら寒いものを感じた。注射器を詩乃に押し付け、これこそが真の死銃なんだ、と囁いた恭二の言葉が耳に甦る。
キリトも同様の感想を持ったらしく、顔をしかめて言った。
「薬品はぜんぶ、カコートンを襲ったときに使い果たしたんだよな?」
しかし菊岡はまたしても首を振って否定した。
「いや……カートリッジ一本ぶんのサクシニルコリンでも致死量を軽く上回るが、亮一は念のために二本渡していたそうだ。もう一本残っている可能性がある。月曜から今朝まで君達、とくに朝田さんに警察の警護がついたのは、それが理由だよ」
「……死銃Cが、まだシノンを狙っていると……?」
「いや、あくまで念のためさ。警察もそうは考えていない。だってもう、彼らの死銃計画そのものが崩壊しているんだからね。襲ったところで何のメリットもないし、金本と朝田さんの間には利害も怨恨も有り得ないわけだし。東京都心は自動識別監視カメラ網が張り巡らされてるからね、そう長時間逃げきれやしないよ」
「……なんだよそりゃ」
「通称Pシステム、カメラが捉えた人間の顔をコンピュータが自動解析して手配犯を発見するという……ま、細かいことは秘密なんだけど」
「ぞっとしない話だな」
キリトは顔をしかめてコーヒーを啜った。
「それは同感だがね。ともかく、金本が逮捕されるのも時間の問題と思っていいだろう。事件の話に戻ると……」
菊岡はPDAにスタイラスペンを走らせ、すぐに肩をすくめて顔を上げた。
「あとは、君達のほうが詳しいだろう。バレット・オブ・バレッツ本大会が行われた日曜夜、彼らは打ち合わせどおり、それぞれの役割を遂行しようとした。亮一は自宅アパートから〈モルターレ〉としてログインし、まず最初のターゲットであるザッパを発見、銃撃。すでにザッパの自宅に侵入、待機していた恭二は、携帯端末で大会の中継を見て、同時に薬品を注入、被害者を死亡させた」
そのとき恭二は、どんな顔をしていたのだろう――。詩乃は凶行の瞬間を想像しようとして、すぐにその思考を頭から追い出した。詩乃を襲ったときの、奈落の闇を映した恭二の眼ばかりが黒く広がって、彼の顔をちゃんと思い出せないような気がした。
菊岡の言葉は続く。
「その二十八分後、亮一は第二の標的であるカコートンと遭遇し、これを銃撃。同時刻、現実世界では金本がその役割を果たし、侵入、薬液注射を遂行した。――さらに二十五分後、亮一は運良く三人目のターゲット、つまりシノン……朝田さんと遭遇、銃撃を試みる。おそらくこの時点で、恭二は四谷から湯島までJRを利用して移動していたはずだ。推測になるのは、恭二はザッパ殺害に関しては認めたものの、朝田さんを襲ったことについては一切黙秘しているんだ」
「殺意を否定している……ということか?」
「いや、そういうわけでもないらしい。捜査員に対して……」
一瞬言葉を切り、詩乃に向かって謝罪するように目礼する。
「――シノンは僕のものだ、お前たちには何もやらない、と発言している。つまり……情報を口にすることすらも、なんと言うか、彼の中の朝田さんを汚す行為となる、と思っているのではないかと……」
とても理解が及ばない、というように、菊岡は長く息を吐いた。
「まあ、少なくとも、恭二が現実での実行役に固執したのは、他の二人にはその役を任せられない、と思ったからなのは間違いないだろうね。――しかし本大会では、亮一は再三君達を襲撃したものの失敗し、最後には逆に朝田さんに倒されてしまった。計画では、この時点で恭二は襲撃を中止し、亮一のアパートに戻ることになっていたのだが、彼は何故かそうはしなかった。せっかくここまで演出してきた死銃の力に疑問符をつけることになると分かっていたはずなんだが……」
その理由は、詩乃にはわかっていた。中継で、シノンがキリトと抱擁するのを目撃したからだ。
だが、警察の事情聴取では、そのことは言わなかった。恥ずかしいと思ったからではないし、自分の行為が恭二を追い詰めたことを隠そうと思ったからでもない。恭二の心情を勝手に推測し、公式な記録に残すのは間違っていると感じたせいだ。ゆえに詩乃は、警察に対しては実際にあった事実だけを話すにとどめた。
「――兎に角、あとは手早く済ませるとしよう。新川恭二は本大会終了直後、朝田さんの自宅を襲撃したものの、幸い目的を果たすことなく逮捕された。直後には新川亮一も逮捕され、のこる金本敦は手配中。兄弟の身柄は現在警視庁本富士署にあり、取り調べが続いている。……長くなったが、以上が事件のあらましだ。僕が手に入れられる情報はこんな所なんだが……何か質問はあるかな?」
薄い端末をパタリと閉じ、菊岡は顔を上げた。
「……あの」
答えられる問いではないかもしれないと思いつつも、詩乃は訊かずにいられなかった。
「新川君……恭二君は、これから、どうなるんですか……?」
「うーん……」
菊岡は指先で眼鏡を押し上げながら、短く唸った。
「亮一は十九歳、恭二は十六歳なので、少年法による審判を受けることになるわけだが……四人も亡くなっている大事件だから、当然家裁から検察へ逆送されることになると思う。そこで恐らく精神鑑定が行われるだろう。その結果次第だが……彼らの言動を見るかぎりでは、医療少年院へ収容、となる可能性が高いと、僕は思うね。何せ二人とも、現実というものを持っていないわけだし……」
「いえ……そうじゃないと、思います」
ぽつりと詩乃が呟くと、菊岡は瞬きし、視線で先を促した。
「お兄さんのことは私には分かりませんけど……恭二君は……恭二君にとっての現実は、ガンゲイル・オンラインの中にあったんだと思います。この世界を――」
掲げた右手の指先を伸ばし、すぐに戻す。
「全部捨てて、GGOの中だけが真の現実と、そう決めたんだと思います。それは単なる逃避だと……世間の人は思うでしょうけれど、でも……」
新川恭二は、詩乃を陵辱し命を奪おうとした人間だ。彼に与えられた恐怖と絶望の大きさは計り知れない。しかし、それでも、恭二を憎悪することは、何故か詩乃には出来そうになかった。あるのは、ただただ深いやるせなさだけだ。その哀惜の痛みが、詩乃の口を動かした。
「でも、ネットゲームというのは、エネルギーをつぎ込むにつれて、ある時点からは娯楽だけの物ではなくなると思うんです。強くなるために、自分を鍛えてお金を稼ぎ続けるのは、辛いです。ほんとうに苦痛なんです。……たまに短時間、友達とわいわい遊ぶなら楽しいでしょうけど……恭二君みたいに、最強を目指して毎日何時間も作業みたいなプレイを続けるのは、凄いストレスがあったと思います」
「ゲームで……ストレス? しかし……それは、本末転倒というものじゃ……」
唖然として呟く菊岡に、こくりと頷きかける。
「はい。恭二君は、文字どおり転倒させたんです。この世界と……あの世界を」
「しかし……何故? なぜ、そこまでして最強を目指さなければならないんだろう……?」
「私にも……それはわかりません。さっきも言いましたけど、私にとってはこの世界も、ゲーム世界も、連続したものだったから……。キリト、あなたにはわかる……?」
視線を右隣に振ると、キリトは椅子の背もたれに深く体を預けて瞑目していたが、やがてぽつりと呟いた。
「強くなりたいから」
詩乃は唇を閉じ、しばらくその短い言葉を意味を考えてから、ゆっくり頷いた。
「……そうね。私も、そうだった。VRMMOプレイヤーは、誰だって同じなのかもしれない……ただ、強くなりたい」
体の向きを変え、正面から菊岡を見る。
「あの……恭二君には、いつから面会できるようになるんでしょうか?」
「ええと……送検後、十日間は拘置されるだろうから、鑑別所に移されてからになりますね」
「そうですか。――私、彼に会いにいきます。会って、私が今まで何を考えてきたか……今、何を考えているか、話したい」
たとえ遅すぎたのだとしても、たとえ言葉が伝わらなくても、それだけはしなくてはならないと、詩乃は思った。菊岡はわずかに――今度ばかりはおそらく本心からと見える微笑を浮かべると、言った。
「あなたは強い人だ。ええ、ぜひ、そうしてください。手続きの詳細は後ほど送ります」
ちらりと左腕の時計を覗き、
「――申し訳ないが、そろそろ行かなくては。閑職とは言え雑務には追われていてね」
「ああ。悪かったな、手間を取らせて」
キリトに続いて、ぺこりと頭を下げる。
「あの……ありがとう、ございました」
「いえいえ。君達を危険な目に合わせてしまったのはこちらの落ち度です。これくらいのことはしないと。また、新しい情報があったらお伝えしますよ」
足元のアタッシェケースを掴み、菊岡は椅子から腰を上げた。PDAをスーツの内ポケットに収めつつ、テーブル上の伝票に手を伸ばそうとして――そこで動きを止めた。
「そうだ、キリト君」
「……何だ?」
「モルターレ……いや、赤眼のザザこと新川亮一から、君への伝言があるんだ。取調べ中の被疑者からのメッセージなど外部に漏らせるわけもないので、公式には警察内で止まるはずのものだが……どうする、聞くかい?」
キリトは途方も無く苦いものを飲んだような顔をすると、ぶっきらぼうに答えた。
「そこまで言われたら聞かないわけにいかないだろう。――言えよ」
「それでは。えー……」
菊岡は収めかけたPDAを再び開くと、目を落とした。
「――『現実なんて底なしの糞溜まりだ。こんなところ、生きる価値もない。お前だってそれは分かってるんだろう、キリト?』……以上だ」
「……まったく、食えない奴だ」
菊岡がにこにこと手を振りながら姿を消してからおよそ十分後。店から出て、停めたバイクに向かって歩きながら、キリトが毒づいた。
「……あの人は、一体何者なの? 総務省の役人、って言ってたけど……なんか……」
どうにも捉えどころのない人物だ、と思いながら詩乃が尋ねると、キリトは肩をすくめて答えた。
「まあ、総務省のVRワールド監督部署に所属してるのは間違いないんだろう、今はな」
「今は?」
「考えてみろ、事件からまだたったの二日なんだぜ。それにしちゃ情報が早すぎると思わないか? この縦割り行政の日本で、さ」
「……どういうこと?」
「本来の所属は別なんじゃないか、ってさ。警察庁……か、その上……。あるいは、まさかとは思うけど……」
「……?」
「俺、前にここでアイツと会ったとき、帰りに尾行したんだ」
詩乃はやや呆れて横を歩くキリトを見やったが、少年は素知らぬ顔で続けた。
「そしたら、近くの地下駐車場にでっかい黒のクルマが待っててさ。運転手もタダモノじゃなさそうな、短髪のダークスーツで。苦労してバイクで追っかけたんだけど、あれは気付かれたのかもな……。菊岡は市ヶ谷駅前で降りて、バイク停める場所探してるあいだに見失った」
「市ヶ谷? 霞ヶ関じゃなくて?」
「ああ。総務省は霞ヶ関だが……市ヶ谷にあるのは、防衛庁さ」
「ぼ……」
詩乃は絶句し、ぱちくりと瞬きした。
「それって……自衛隊ってこと?」
「だから、まさかの話さ」
「でも……どうして……」
「これは米軍の話だけど……VR技術を、軍隊の訓練に利用する、って噂がある」
「は、はあ!?」
今度こそ詩乃は驚愕し、思わず足を止めた。
キリトも立ち止まると、再びひょいっと肩をすくめた。
「例えば……あ、ええと……銃の話、大丈夫?」
「う、うん……話くらいなら」
「そうか。例えば、シノンがいま本物のスナイパー・ライフルを渡されたとして、装弾から発射まで出来ると思う?」
「……」
詩乃は、数時間前に遠藤の持っていたガバメントのモデルガンを撃ったときのことを思い出しながら小さく頷いた。
「できる……と思う、撃つとこまでなら。でも、生身じゃリコイルショックを押さえられるかわからないし、もちろん的に当てるのは無理だと思うけど」
「でも、俺は弾の込め方すら知らない。兵器の基本的な操作法をVR世界内で訓練できるなら、それだけでも弾とか燃料とか、どれくらい節約できるかわからないぜ」
「そ……んなこといわれても……」
思わず自分の右手に視線を落とす。キリトの話はあまりにもスケールが違いすぎて、とても実感できない。
「あくまで可能性の話だけどな。この一年で、VR技術の新しい利用法は山ほど登場している。今後、何が出てきてもおかしかない。とりあえず――あの男には気をつけておくに越したことはないって、ね」
飄々とそれだけ口にすると、キリトはバイクに歩み寄り、後輪のU字ロックを外した。抱えていたヘルメットの片方を差し出しながら、詩乃に向かって何かを言いかけて、珍しく口ごもった。
「えーと……その」
「……? 何?」
「……シノン、このあと、時間ある……?」
「別に用事はないけど。GGOにも当分ログインする気ないし」
「そうか。――悪いんだけど、ちょっと、手伝ってほしいことが……」
「なにを?」
「BoB本大会ライブ中継の……あの、砂漠のシーンを、やっぱり昔の馴染み連中に見られててさ。〈キリト〉が俺だってこともあっさりバレて……その、事情を説明するのに付き合ってくれると非常に助かる」
「……へえ」
詩乃は少しだけ面白くなって、口元を綻ばせた。あのときのことを思い出すと相変わらず気恥ずかしくなるが、それ以上に、この常にマイペースを崩さない少年が、自分との仲を疑われて苦境に立っていると聞くと、してやったり、みたいな気分湧いてくる。
「でも、名前だけでよくアンタだって分かったね。いくら昔馴染みって言っても」
「ああ……。剣筋でバレた」
「ふ、ふうん。――ま、別にいいけど、貸しだからね。また今度、ケーキでも奢ってもらうわ」
それを聞くと、キリトは実に情けない顔をした。
「ま……まさか、さっきの店で……?」
「そこまで無慈悲なことは言わないであげる」
「そ、それは助かる。じゃあ……ちょっと御徒町まで付き合ってくれ。そんなに時間は取らせない」
「なんだ、湯島の隣じゃない。ちょうど帰り道だわ」
ヘルメットを受け取り、頭を押し込む。再びキリトに首もとの留め具を掛けてもらいながら、こんなことならGGOでも毛嫌いせずにヘルメット型防具に慣れておくんだったかな、と詩乃は思った。
銀座中央通りから昭和通りに出てしばらく北に走ると、秋葉原駅東側の再開発地区に差し掛かる。どこかグロッケン市街に似た銀色の高層ビル群の谷間を抜け、御徒町界隈に入ると、今度は打って変わってノスタルジックな下町の風情が続く。
とろとろと低速で走るバイクは、細い路地を右に左に分け入り、やがて一軒の小さな店の前で止まった。
シートから飛び降り、ヘルメットから頭を抜いて見上げる。黒光りする木造の建物は無愛想で、そこが喫茶店だと示しているのは、ドアの上に掲げられた、二つのサイコロを組み合わせた意匠の金属板だけだ。下部に、「DICEY CAFE」という文字が打ち抜いてある。
「……ここ?」
「うん」
キリトは頷くと、バイクからキーを抜いて、無造作にドアを押し開けた。かららん、という軽やかな鐘の音に続いて、スローなジャズっぽい曲が流れ出してくる。
香ばしいコーヒーの香りに誘われるように、詩乃はなかに足を踏み入れた。オレンジ色の灯りに照らされた、艶やかな板張りの店内は、狭いが何ともいえない暖かみに満ちていて、身構えていた肩からすっと力が抜けた。
「いらっしゃい」
見事なバリトンでそう言ったのは、カウンターの向こうに立つ、チョコレート色の肌の巨漢だった。歴戦の兵士といった感じの相貌とつるつるの頭は迫力があるが、真っ白いシャツの襟元に結んだ小さな蝶ネクタイがユーモラスさを添えている。
店内には、二人の先客が居た。カウンターのスツールに、学校の制服を着た女の子が座っている。彼女たちのブレザーがキリトの制服と同じ色なのに、詩乃は気付いた。
「おそーい!」
一方の、肩までの髪にわずかに外ハネをつけた少女が、スツールから降りながらキリトに向かって言った。
「悪い悪い。菊岡の話が長くてさ」
「待ってるあいだにアップルパイ二個も食べちゃったじゃない。太ったらキリトのせいだからね」
「な、なんでそうなるんだ」
もう片方、わずかに茶色がかったストレートヘアを背中の中ほどまで伸ばした女の子は、二人のやり取りをにこにこしながら聞いていたが、やがてこちらもすとんと床に降りて、慣れた様子で割って入った。
「それより、早く紹介してよ、キリトくん」
「あ、ああ……そうだった」
キリトに背中を押され、詩乃は店の中央まで進み出た。初対面の相手と接するときに常に這い出てくる怯えの虫を押し殺し、ぺこりと頭を下げる。
「こちら、ガンゲイル・オンラインの現チャンピオン、シノンこと朝田詩乃さん」
「や、やめてよ」
思わぬ紹介の仕方をされ、小声で抗議するが、キリトは笑いながら言葉を続けた。先ほどまで口論していた、威勢のよさそうな女の子を示し、
「こっちが、ぼったくり鍛冶屋のリズベットこと篠崎里香」
「このっ……」
また気色ばむ里香という少女の攻撃をするりとかわし、もう一方の女の子に左手を向ける。
「んで、あっちがバーサク治療士のアスナこと結城明日奈」
「ひ、ひどいよー」
抗議しながらも微笑みを絶やさずに、明日奈は詩乃をまっすぐに見るとふわりとした動作で会釈した。
「そんで、あれが……」
キリトは最後にカウンター奥のマスターに向かって顎をしゃくった。
「壁のエギルことエギル」
「おいおい、オレは壁かよ!? だいたい、オレにはママにもらった立派な名前があるんだ」
驚いたことに、マスターまでもがVRMMOプレイヤーらしい。巨漢はにやりと笑みを浮かべると、詩乃に向かって両手を広げ、言った。
「はじめまして。私は Andrew Gilbert Mills です。今後ともよろしく」
名前のところだけは流れるような英語の発音で、あとの部分が完璧な日本語なので、詩乃は思わずぱちくりと瞬きした。あわててぺこりと頭を下げる。
「まあ、座って座って」
キリトはふたつある四人掛けのテーブルの片方に歩み寄ると、椅子を引いた。詩乃と明日奈、里香が腰を下ろすのを待って、マスターに向かって指を鳴らす。
「エギル、ジンジャーエールくれ。――さて、と。長い話をしようかな」
BoB本大会での出来事プラス菊岡に聞かされた事件の概要を、キリトと詩乃が互いに補填しつつ話し終えるのに、ダイジェスト版でも三十分以上を要した。
「――と、まあ、まだマスコミ発表前なんで細部は伏せたけど、そういうことがあったわけなのでした」
話を締めくくると、キリトは力尽きたように椅子に沈み込み、二杯目のジンジャーエールを飲み干した。
「……あんたって、何て言うか……よくよく巻き込まれ体質ね」
里香が頭を振りながら、ため息混じりの感想を漏らす。だがキリトは視線を伏せると、かすかに頭を振った。
「いや……そうとも言えないよ。この事件は俺の因縁でもあったわけだからさ」
「……そっか。――あーあ、あたしもその場にいたかったな。モルターレって奴に、言ってやりたいこと山ほどあるよ」
「あいつが最後のひとり、ってわけでもないだろうしな。SAOに魂を歪められた人間は、恐らくまだまだいるはずだ」
一瞬、場に満ちた沈んだ空気を、明日奈が柔らかな微笑みで打ち消した。
「でも、魂を救われた人だっていっぱいいると思うよ、わたしみたいに。SAOを……団長のしたことを擁護するわけじゃないけど……いっぱい、亡くなったわけだし……それでも、わたしはあの二年間を否定したり後悔したり、したくないな」
笑みを浮かべたまま、まっすぐに詩乃を見る。その、明るい茶色の虹彩をもつ瞳は輝きに満ちていて、控えめな物腰の奥にある強さを詩乃に感じさせた。
「あの……朝田さん」
「は、はい」
「わたしがこんなこと言うのも変かもしれないけど……ごめんなさい、怖い目にあわせてしまって」
「いえ……そんな……」
先刻の話では、キリトは、詩乃の過去の事件については一切触れなかった。だから明日奈たちには何のことかわからないはずだが、それでも詩乃は一言ずつ、ゆっくりと口にした。
「今度の事件は、たぶん、私が呼び寄せてしまったものでもあるんです。私の……過去が。そのせいで、私、大会中にパニックを起こしてしまって……キリトに落ち着かせてもらったんです。あの、中継されたシーンはそういうことなので……」
するとキリトが体を起こし、早口に捲し立てた。
「そ、そうだ、肝心なことを忘れてた。アレはその、緊急避難というか、殺人鬼に追われてる状況だったんだからな。妙な勘繰りはするなよ」
「……ま、とりあえず了解したけどね。今後はどうなることやら……」
里香はじとっとした視線をキリトに投げながらぶつぶつ呟いたが、両手をぽんと打ち合わせると、にっと威勢のいい笑顔を浮かべた。
「ともあれ、女の子のMMOプレイヤーとリアルで知り合えたのは嬉しいな」
「ほんとだね。色々、GGOの話とかも聞きたいな。友達になってくださいね、朝田さん」
明日奈も穏やかな笑みを見せると、テーブルの上に、真っ直ぐ右手を差し出した。その、白く、柔らかそうな手を見て――
突如、詩乃は竦んだ。
友達、という言葉が胸に沁み落ちた途端、そこから焼け付くような渇望が湧き上がるのを感じた。同時に、鋭い痛みを伴う不安も。
ともだち。あの事件以来、何度となく望み、裏切られ、そして二度と求めるまいと心の底に己への戒めを刻み込んだもの。
友達になりたい。明日奈という、深い慈愛を感じさせるこの少女の手を取り、その暖かさを感じてみたい。一緒に遊んだり、他愛も無いことを長話ししたり、普通の女の子がするようなことをしてみたい。
しかし、そうなれば、いつか彼女も知るだろう。詩乃がかつて人を殺したことを。自分の手が、染み付いた血に汚れていることを。
そのとき、明日奈の目に浮かぶであろう嫌悪の色が恐ろしい。人に触れることは――自分には、許されない行為なのだ。恐らく、永遠に。
詩乃の右手は、テーブルの下で固く凍りついたまま動こうとしなかった。明日奈が瞳に問いかけるような光を浮かべ、首をわずかに傾げるのを見て、詩乃は目を伏せた。
このまま帰ろう、そう思った。友達になって、というその言葉の温度だけでも、しばらくは胸を暖めてくれるだろう。
ごめんなさい、と言おうとした、その時――
「シノン」
ごくごくかすかな囁きが、怯え、縮こまった詩乃の意識を揺らした。びくりと体を震わせて、左隣に座るキリトを見た。
視線が合うと、キリトは小さく、しかし確かな動きで頷いた。大丈夫だよ、とその目が言っていた。促されるように、再び明日奈に視線を向ける。
少女は微笑みを消すことなく、右手を小揺るぎもさせずに差し出し続けている。
詩乃の腕は、鉛を括りつけたかのように重かった。しかし、詩乃はその枷に抗い、ゆっくり、ゆっくりと手を持ち上げた。ひとを疑い、裏切られることを恐れて遠ざかる苦さよりも、信じて傷つく痛みのほうがいい。事件以来はじめて詩乃はそう思った。
明日奈の右手までの距離は、途方もなく長かった。近づくにつれ、空気の壁が密度を増し、詩乃の手を跳ね返そうとしているのように感じた。
しかし、ついに、指先が触れ合った。
次の瞬間、詩乃の右手は、明日奈の右手にするりと包み込まれていた。
その暖かさを、言葉にすることはできなかった。柔らかく伝わる熱が、指から腕、肩、全身にしみとおり、凍った血を溶かしていく。
「あ…………」
詩乃は意識せず、かすかな吐息を漏らした。何という暖かさだろうか。ひとの手というものが、これほど魂を揺さぶる感触を持っていることを、詩乃は忘れていた。この瞬間、詩乃は現実を感じていた。全てに怯え、世界から逃げつづけていた自分が、今ついに真の現実とつながっていることを、深く感じていた。
恐怖の記憶が消え去るまでには、まだまだ長い時間がかかるだろう。それでも、私は、いま在るこの世界が好きだ。
生きることは苦しく、伸びる道は険しい。
それでも、歩き続けることはできる。その確信がある。
なぜなら、繋がれた右手も、そして私の頬を流れる涙も、こんなにも暖かいのだから。
[#地から1字上げ]Sword Art Online3 "Death Gun" ―End―