Sword Art Online 2
フェアリィ・ダンス
九里史生
プロローグ 二〇一四年 秋
深い青の輝点が三つ、ささやかな星座のように並んでいる。
直葉《すぐは》はそっと右手の指を伸ばし、その光に触れてみた。
ナーヴギアの稼動状態を示すLEDインジケータ。ヘルメットの前縁部に設けられたそれは、右から主電源、WANリンク、大脳リンクの状態をモニターしている。左端の光点が赤に変われば――その時は、ギア使用者の脳が破壊されたことを意味する。
そのギアの主は、オフホワイトのモノトーンに統一された病室の中央、広いジェルベッドの上で、醒めない眠りについていた。いや、それは正確な表現ではない。実際には、彼の魂は遥か異世界で日夜戦っているのだ――己の解放を賭けて。
「お兄ちゃん……」
直葉はそっと眠る兄・和人《かずと》に呼びかけた。
「もう二年も経つんだね……。あたし、今度高校生になるんだよ……。早く帰ってこないと、どんどん追い越しちゃうよ……」
再び指を伸ばし、兄の顔の輪郭をなぞる。長い昏睡のあいだに肉が落ち、削いだように薄いそのラインは、もともと中性的な印象のある和人の横顔に輪をかけて少女めいた陰翳を与えている。母親などは、冗談で「うちの眠り姫」と呼んでいるほどだ。
細くなっているのは顔だけではない。全身が痛々しいほどにやせ細り、幼い頃から剣道一筋の直葉と比べると体重は今やあきらかに下だろう。このまま消えてなくなってしまうのではないか……。最近では、そんな恐怖にとらわれることもある。
でも直葉は、一年前から病室で泣くのを可能なかぎり我慢するようにしている。その頃、総務省のSAO救出対策本部のメンバーに教えてもらったのだ――兄の、ゲーム内での『レベル』が全体のトップ数パーセントに位置すること、常に危険な最前線で戦闘を行う数少ない攻略プレイヤーの一人であることを。
きっと今も、兄は死と隣り合わせの状況で戦っているのだろう。だから直葉がここで泣くわけにはいかない。それよりは手を握り、応援しようと思う。
「がんばって……。がんばって、お兄ちゃん」
いつものように、和人の骨ばった右手を自分の両手で包み込み、懸命に念じていると、不意に背後から声をかけられた。
「あら、来てたの、直葉」
慌てて振り返る。
「あ、お母さん……」
立っていたのは、母親の翠《みどり》だった。この病室のスライドドアはモーター駆動で、開閉音が恐ろしく静かなため聞き落としたらしい。
翠は、右手に下げたコスモスの束を手早くベッドサイドの花瓶に生け、直葉の隣の椅子に腰を降ろした。会社帰りなのだろうが、コットンシャツとスリムジーンズの上に革のブルゾンを羽織ったラフな格好だ。化粧も薄く、髪を後ろで無造作に束ねたその格好はとても来年不惑の女性には見えない。コンピュータ系情報誌の編集長という仕事柄のせいもあるだろうが、本人には当分歳相応に落ち着く気はないらしく、直葉にとっては母親というより姉のような存在と言っていい。
「母さんこそ、よく来られたね。校了前なんでしょ?」
直葉が言うと、翠はニッと笑った。
「押し付けて抜け出してきたわ。いつもあんまり来られないけど、今日くらいはね」
「そうだね……。今日はお兄ちゃんの……誕生日だもんね」
二人はしばし口をつぐみ、ベッドで眠る和人を見つめた。カーテンを揺らして夕焼け色の風が部屋に入り込み、コスモスの香りがかすかに漂った。
「和人も……もう十六歳なんだね……」
翠がぽつりと呟いた。
「……いい機会だから、あんたには今話しておくわ、直葉」
いつになく改まった調子の翠の声に、直葉は首を傾げて隣を見た。
「……なに?」
「和人はね……あたしが産んだ子供じゃないの」
「え……?」
母親が何を言っているのか、すぐにはわからなかった。
「そ、それ……どういうこと……?」
「あたしに、姉さんがいた話は知ってるでしょ……?」
「う……うん、車の事故で……亡くなったって……」
「和人はね、その姉さんの子なの。奇跡的に……一人だけ、助かってね。その頃にはもう父さんも母さんも……直葉のお爺ちゃんとお婆ちゃんも亡くなってたしね……。研介さんと相談して、うちで引き取ることにしたの……。だから、和人は、直葉の従兄なのよ……本当は……」
「……そんな……そんなこと……」
直葉は呆然と翠の顔を見詰めた。頭のなかがぐるぐると渦巻いて、何も考えられなかった。
「……お兄ちゃんは、知ってるの……?」
どうにかそれだけ尋ねると、翠はゆっくりと首を振った。
「和人が高校に上がったら、二人に言おうと思ってたんだけどね……。こんなことになっちゃったから……。ごめんね、直葉……」
翠は、気丈な彼女にしては珍しく瞳を伏せると、立ち上がった。
「……それじゃ、あたし会社に戻るから……。あんまり暗くならないうちに帰るのよ」
ぽん、と直葉の頭に手を置き、翠は病室を出ていった。軽いモーター音と共にドアが閉まると、すぐに静寂が訪れた。
直葉は両手を膝の上でぎゅっと握り、眼を見開いて和人の顔を見つめた。熱に浮かされたように全身がふわふわと頼りなく、心臓の音だけがやけに大きく響いた。
白いカーテンの向こうにたゆたう金色の光が、やがて深い朱色に、さらに紫色に変わり、病室が薄闇に包まれる頃になっても、直葉はそこに留まりつづけた。身じろぎもせず、和人のささやかな息づかいにいつまでも聞き入っていた。
第一章 二〇一五年 初春
耳をすませる。
体を包む完全な静寂。無限の暗闇。NERDLES技術が開発される以前は存在し得なかった、五感の遮断によってもたらされる全き孤独の世界。
恐怖に耐えながら、俺は魂を虚無の空間に浮遊させる。ナーヴギア用テストプログラムによって、感覚は肉体から切り離されているものの、いかなるゲームソフトもロードされておらず、どこのサーバにも繋がっていない。LANケーブルは壁のジャックに接続されているが、パケットの往復は無い。
俺は暗黒の中で耳をすませる。
この世界のどこかに彼女がいる。檻に囚われ、助けを求めている。その声を聞き取ろうと全神経を集中する。
しかし、声は聞こえない。俺の耳には何も届かない。やがて、俺の意識はいつものように記憶の中に彷徨いこんでいく。彼女とすごした、短くも暖かい、冬の陽だまりのようなあの日々。
両手に持ったマグカップの片方を差し出し、にこりと笑う彼女。剣を鞘に収め、こちらに向かってVサインする彼女。一枚の毛布にいっしょにくるまり、俺にぎゅっとしがみついて不意に涙をこぼす彼女。俺が尋ねる。
「どうしたの?」
彼女が答える。
「好きってキモチがいっぱいすぎると、涙が出ちゃうんだよ」
記憶の彼方のその声が、あまりにも鮮明に響いて、俺は虚無の中に呼び戻される。五感は遮断されているが、涙が熱く溢れる感覚が湧き上がる。俺は全身の力を振り絞って彼女の名前を叫ぶ。
…………
俺の脳波が平穏状態から外れ、ナーヴギアのオートダウンサインが赤く輝いた。暗闇の中に放射状の光が広がり、同時に感覚がゆっくりよみがえってくる。皮膚感覚、聴覚、視覚の順で脳と肉体との接続が完了し、かすかな電子音とともにギアの電源が落ちた。俺はゆっくりと上体を起こした。
あごの下のロックを解除し、ギアをそっと持ち上げる。目蓋を開けると、きれいに片付いた自室の光景が目に飛び込んできた。
六畳の部屋は、今時珍しい天然木のフローリングだ。家具はシンプルなパソコンラックとスチールラック、俺が座っているパイプベッドの三つしかない。二年留守にしていた間に、ラックを雑然と埋めていた雑誌類はほとんど処分されてしまい、かつての居心地のいい混沌状態を取り戻すにはしばらくかかるだろう。
俺は両手に抱えた古ぼけたヘッドギアをそっと傍らに置き、立ち上がった。ベッドの向こうの壁にかけられた大きな鏡をちらりと見やる。
現実世界に戻ってきて二ヶ月が経つが、未だに自分の姿に慣れることができない。かつて存在した剣士キリトと、今の俺・桐ヶ谷和人は基本的には同じ容姿を持っているはずだが、落ちた体重がまだ完全には戻らないのでTシャツの下の骨ばった体がいかにも弱々しい。
俺は、鏡の中の自分の頬にふた筋の涙が光っているのを発見し、右手でそれを拭い取った。
「俺、すっかり泣き虫になっちゃったよ、アスナ」
呟いて、部屋の南側にある大きな窓に歩み寄る。両手でカーテンを開け放つと、冬の朝の控え目な陽光が、部屋中を薄い黄色に染め上げた。
ざくざくと小気味良い音を立てながら、庭先の霜柱を踏みしめて歩く。先日降った雪はもうほとんど姿を消したが、一月なかばの朝の空気はまだまだ切れるように冷たい。
直葉は、厚く氷の張った庭池のふちで立ち止まると、右手に握った竹刀をかたわらの黒松の幹に立て掛けた。眠気の残滓を体の中から追い出すようにひとつ大きく深呼吸してから、おもむろに両手を膝について、屈伸運動を始める。
まだ完全に目覚めていない全身の筋肉をゆっくりと動かしていく。つま先、アキレス腱、ふくらはぎと、徐々に血流がめぐりはじめると同時に、ちくちくする感覚が体を包んでいく。
揃えた両手を前に伸ばし、腰をぐっとかがめたところで――直葉はぴたりと動きを止めた。池に身を乗り出した自分の姿が、今朝張ったばかりの滑らかな氷に映っていた。
眉の上と、肩のラインですぱっと一直線にカットされた髪は今時珍しい青味がかるほどの黒だ。同じく深い墨色の眉はきりっと太く、その下の大きな、やや勝ち気そうな瞳とあいまって、どこか男の子めいた雰囲気を氷の鏡に映る少女に与えている。身にまとっているのが古式ゆかしい白の道着に黒袴とくれば尚更だ。
(やっぱり……似てないよね……)
最近よく浮かんでくるその思考。洗面所や玄関の姿見で自分の顔を見るたびにそう思ってしまう。昔から自分の容姿は嫌いではないし、そもそもあまり気にかけるほうではないのだが、母親にあの話を聞いたときから、つい比較してしまうのだ――自分と、和人を。
(――考えても、仕方ないよ……)
頭を振って思考を追い出し、直葉は屈伸を再開した。
ストレッチを丁寧に二セット終えると、松に立て掛けておいた竹刀を手に取る。長年使い込んで手のひらに馴染んだそれを絞り込むように握り、背筋を伸ばしてぴたりと中段に構える。
一瞬、その姿勢のまま呼吸を整え――鋭い呼気と共に、振りかぶった竹刀を正面に撃ち出した。朝の空気を断ち割る唸りに驚いた雀が数羽、黒松の梢から飛び立った。
桐ヶ谷家は、埼玉県南部のとある城下町の中でもことに昔の街並みを残した地域に建つ古い日本家屋だ。今は本丸御殿しか残らぬ城に伺候していた武家の流れだということで、四年前に他界した直葉の祖父は、それは厳しい士気質の人物だった。
長年警察に奉職し、若い頃は剣道で鳴らした豪傑で、息子――直葉の父親――にも同じ道に進むことを期待していたようだったが、父親は高校までは竹刀を握ったもののあっさりとアメリカの大学に留学し、そのまま外資系の証券会社に就職してしまった。その後はろくに日本に帰らない生活を選んだため、祖父の情熱は自然と、直葉と一つ年上の兄・和人に向けられることとなった。
直葉と兄は小学校に上がると同時に近所の剣道場に叩き込まれたのだが、コンピュータ技師だった母親の影響か兄は竹刀よりもキーボードを愛し、二年で道場を辞めてしまった。だが兄のオマケで入門した直葉はどうしたことか剣道が性に合い、以来九年、祖父が亡くなってからも竹刀を握り続けている。
直葉は今十五歳。去年、中学最後の大会では全国の上位まで進出し、春からは東京の高校への推薦入学が決まっている。
だが――。
昔は、自分の進む道に迷いは無かった。剣道は好きだったし、周囲の期待に応えることが何より嬉しかった。
しかし、二年前。日本中を激震させたあの事件に兄が巻き込まれてから、直葉の中に消えない揺らぎが生まれたのだった。それは悔い、と言ってもいい。直葉が八歳の時に兄が剣道をやめてから、二人の間に出来てしまった広く、深い溝を埋めようと努力しなかったことに対する悔いだ。
竹刀を捨ててからの兄は、それまでの渇きを一気に癒そうとするかのようにコンピュータを溺愛した。小学生にして小遣いでパーツを買い揃えてマシンを自作し、母親の手ほどきを受けながらプログラムを組んだ。直葉にとって、兄の話すことはまるで異国の言葉だった。
もちろん、学校の授業でコンピュータの操作は習うし、直葉の自室にも一台兄の手になるマシンが置かれてはいた。だが、それでする事はせいぜいメールのやりとりとウェブブラウジング程度で、とても兄の住む世界は直葉に理解できるものではなかった。特に、兄が没頭していたオンラインRPG、あれには本能的な嫌悪を覚えた。自分を偽る仮面をつけて、同じく仮面をかぶった相手と仲良く話すなんて自分にはとてもできないと思った。
とても、とても幼い頃は、直葉と兄は友達もうらやむほど仲が良かったのだ。その兄が遠い世界に行ってしまった寂しさを埋めるように、直葉は剣道に打ち込んだ。自然、日々の会話は減り、それがいつしか普通になって――そして二年前、あの事件が起こった。
悪夢のタイトル、『ソードアートオンライン』。日本全国で五万人の若者たちが意識を根こそぎ刈り取られてこの世界から姿を消した。
兄が東京の専門病院に収容されて、初めて見舞いに行った日。
ベッドの上で、たくさんのコードに拘束され、禍々しいヘッドギアを被って昏睡する兄の姿を目にした時、直葉は生まれてはじめてと言ってもいいほど号泣した。兄の体にすがって、わんわん泣いた。
もう、二度と言葉を交わせないかもしれない。なぜもっと早く、兄との距離を埋めようと努力しなかったのか。それは、そんなに難しいことではなかったはず、自分にはそれができたはずなのだ。
剣道を続ける意味、動機を真剣に考え始めたのはその頃だった。でも、どんなに迷っても答えは出なかった。兄と会えないまま直葉は十四歳、十五歳になり、周囲が勧めるまま推薦での進学を決めたものの、このままの道を進みつづけていいのかどうかという気持ちの揺らぎが消えることはなかった。
兄が帰ってきたら、今度こそいっぱい話をしよう。悩みも、迷いも全部打ち明けて、相談に乗ってもらおう。直葉はそう決意し、そして二ヶ月前、奇跡が起きた。兄が自らの力で呪縛を打ち破り、帰還したのだ。
――なのに、その時には、兄と自分の関係は大きく変わってしまっていた。母親・翠の言葉が脳裏によみがえる。
(和人は、直葉の従兄なのよ……)
父親の研介は一人っ子だし、翠のただ一人の姉も若くして他界していたため、いままで直葉にはいとこという存在はいなかった。だから、突然実は和人がその翠の姉の子なのだと言われても、具体的な距離感がわからない。果てしなく遠くなってしまったような気もするし、それほど変わらないという気もする。
和人はいまだそのことは知らない。両親に、自分から言いたいと直葉が頼んだからだ。だが、まだ直葉は兄に言い出せないでいる。いったい何が変わったのか、自分でもまだ言葉にできないのだ。
(ううん――たった一つ、変わったことがある……)
直葉は、思考の流れを断ち切るように、一際鋭く竹刀を打ち下ろした。その先を考えるのが怖かった。
気づくと、いつのまにか朝日の角度がかなり変わっていた。そろそろ切り上げることにして、竹刀を下ろしくるりと振り返る。
「あ……」
家に目をやった途端、直葉はぴたりと立ち止まった。スウェット姿の和人が縁側に腰掛け、こちらを見ていた。目が合うとにっと笑い、口を開く。
「おはよう」
言うと同時に、右手に持ったミネラルウォーターのミニボトルをひょいと放ってきた。左手で受け止め、直葉も言う。
「お、おはよ。……やだなぁ、見てたなら声かけてよ」
「いやあ、あんまり一生懸命やってるからさ」
「そんなことないよ。もう習慣になっちゃてるから……」
和人の隣にすわり、竹刀を立てかけてボトルのキャップを捻る。口をつけると、よく冷えた液体が火照った体の中を心地よく落下していく。
「そっか、ずっと続けてるんだもんな……」
和人は直葉の竹刀を握ると、右手で軽く振った。すぐに首をかしげる。
「軽いな」
「ええ?」
直葉はボトルから口を離し、和人を見やった。
「それ真竹だから、けっこう重いよ。ファイバーの奴と比べると二百グラムくらい違うよ」
「あ、うん。その……イメージというか……比較の問題というか……」
和人は左手で直葉のペットボトルをひょいと奪い取り、残っていた水を全部飲み干してしまった。
「あ……」
直葉は顔がかーっと熱くなる。それをごまかすように言う。
「な、何と比べてるのよ」
それには答えず、空のボトルを縁側に置くと、和人は立ち上がった。
「なあ、ちょっとやってみないか」
直葉は和人の顔を唖然として見上げた。
「やるって……試合を?」
「おう」
当然、とばかりにうなずく和人。
「ちゃんと防具つけて……?」
「うーん、寸止めでもいいけど……スグに怪我させちゃ悪いからな。じいさんの防具があるだろう、道場でやろうぜ」
「ほーお」
直葉はおもわずニヤニヤしてしまう。
「ずいぶんとブランクがあるんじゃございません? 全中ベスト8のアタシ相手に勝負になるのかしらー? それに……」
表情をあらため、
「体のほう、だいじょぶなの……? 無茶しないほうが……」
「ふふん、毎日のジム通いの成果を見せてやるさ」
にやっと笑うと、和人はすたすたと家の裏手目指して歩き始めた。直葉も慌てて後を追う。
敷地が無駄に広い桐ヶ谷家は、母屋の北側に小さいがちゃんとした道場を備えている。祖父の遺言で取り壊しはまかりならんということになっていたし、直葉も日々の稽古に使っているので、手入れもそれなりに行き届いている。
素足で道場に上がった二人は軽く一礼し、各々の支度に取り掛かった。幸い、祖父の体格はいまの和人とそれほど違わなかったようで、防具は古いがサイズは合っているようだった。面の紐を同時に結び終え、道場の中央で向き合う。再び、礼。
直葉は背筋を伸ばし、愛用の竹刀をぴたりと中段に構える。対する和人は――
「そ、それなあに、お兄ちゃん」
和人の構えを見た途端、直葉は思わず吹き出してしまった。珍妙、としか言いようがない。左足を前に半身に構え、腰を落とし、右手に握った竹刀の先はほとんど床板に接するほどに下げられている。左手は、柄に添えられているだけのようだ。
「審判がいたらむちゃくちゃ怒られるよそんなの〜」
「いいんだよ、俺流剣術だ」
直葉はやれやれ、という心境で再び竹刀を構えなおした。和人はさらに両足を大きく開き、重心を落とす。
がらあきの面に一発入れてやろうと、蹴り足に力を込めたところで、直葉はあれ、と思った。滅茶苦茶な和人の構えだが――なんだか、妙にサマになっている。スキだらけのようで、不用意には打ち込めない気がする。まるで、あの型で長年稽古を積んでいたかのような――。
だが、そんな訳はない。和人が竹刀を握っていたのは六歳から八歳の二年間だけで、その間は基礎の基礎しか学ばなかったはずだ。
と、直葉の迷いを見透かしたように、不意に和人が動いた。低い姿勢で滑るように移動しながら、右下段から竹刀が跳ね上がってくる。驚くほどのスピードではなかったが、一瞬の虚をつかれて、反射的に直葉も動いていた。右開き足から、
「テェ――――ッ!!」
和人の左小手に竹刀を打ち下ろす。絶妙のタイミング、だったはずだが――直葉の一撃は見事に空を切っていた。
有り得ない避け方だった。和人が竹刀から左手を外し、体側に引き付けたのだ。そんなことが出来るものなのか――あっけに取られた直葉の面に向かって、右手一本に握られた和人の剣が飛んできた。首を捻り、必死にかわす。
体を入れ替え、再び距離を取って向き直ったときには、直葉の意識は完全に切り替わっていた。全身の血が沸きあがるような心地よい緊張感。今度は直葉から打って出る。得意技の小手面――。
だが、今度も和人はそれを綺麗にかわしてみせた。腕を引き、体を捻り、紙一重のところで直葉の竹刀をやり過ごす。直葉は内心唖然とする。打突のスピードは全国でも定評のある直葉ゆえ、こうも鮮やかに連続技を避けられたシーンはそうそう記憶にない。
もう本気の本気モードで、直葉は猛然と打ちかかった。息もつかせぬ速さで次々と鋒鋩を叩き込む。だが、和人は躱しに躱しまくる。面の奥の瞳の動きを見ると、直葉の竹刀の動きを完全に捉えているとしか思えない。
業を煮やした直葉は、強引に鍔迫り合いに持ち込んだ。足腰を鍛え上げた直葉の圧力に、和人がぐらりとよろめく。そこを逃さず、気合とともに必殺の引き面一発――。
あっ、と思ったときは遅かった。手加減の無い一撃が、真っ向正面から和人の面に炸裂。ばしーん!! という甲高い音が、道場いっぱいに響き渡った。
和人は数歩ふらついたが、どうにか踏みとどまった。
「だ、だいじょうぶ、お兄ちゃん!?」
慌てて声をかけると、問題ない、というふうに軽く左手を上げる。
「……いやぁ、参った。スグは強いな、ヒースクリフなんか目じゃないぜ」
「……ほんとにだいじょぶ……?」
「おう」
和人は数歩下がると、更に妙な行動に出た。右手の竹刀をひゅひゅんと左右に払い、背中に持っていったのだ。直後に硬直し、右手でぽりぽりと頭を掻く。直葉はいよいよ心配になった。
「あ、頭打ったんじゃ……」
「ち、ちがう!! 長年の習慣が……」
和人は礼をしてどすんと座ると、防具の紐をほどきはじめた。
連れ立って道場を出ると、二人は母屋の裏の手洗い場でばしゃばしゃと頭から水を浴び、汗を流した。ほんのお遊び程度のつもりが、直葉も思い切り真剣になってしまい、全身がかーっと熱い。
「それにしても、びっくりしたよー。お兄ちゃんいつのまに練習してたのよ」
「うーむ、ステップはともかくアタックがな……。やっぱソードスキルは再現できないよな……」
また意味不明なことを呟く和人。
「でも、やっぱり楽しいな。またやってみようかな、剣道……」
「ホント!? ほんとに!?」
直葉は思わず勢いづいてしまった。顔がぱっとほころぶのが自分でもわかる。
「スグ、教えてくれる?」
「も、もちろんだよ! また一緒にやろうよ!」
「もうちょっとキンニクが戻ったらな」
和人に頭をぐりぐりされて、直葉はにへーっと笑った。また一緒に練習できると思うだけで、涙が出そうなほど嬉しくなる。
「あのねーお兄ちゃん、わたしもねえ……」
「ん?」
「うーん、やっぱまだ内緒!」
「なんなんだよ」
大きなタオルで頭をごしごし拭きながら、二人は勝手口から家に入った。母親の翠はいつも昼近くまで寝ているので、朝食の用意は直葉と、最近は和人も交互にやっている。
「私シャワー浴びてくるね。今日はどうするの?」
「あ……俺、今日は……病院に……」
「……」
何気なくした質問の答えを聞いて、直葉の浮き立った気分は少しだけ沈んだ。
「そっか、あの人のお見舞い、いくんだね」
「ああ……。それくらいしか、出来ること無いしな……」
あの世界で、和人には大事なひとがいたのだ、という話は一ヶ月ほど前に本人から聞いた。和人の部屋で、並んで壁際に座り、コーヒーカップを抱えながら、ぽつりぽつりと話してくれた。以前の直葉なら、仮想世界で誰かを好きになるなどとても信じられなかっただろう。でも、今なら何となくわかる気がする。それに――その人の話をしたとき、和人の瞳ににじんでいたかすかな涙――。
最後の瞬間まで一緒だったんだ、と和人は言った。二人とも、一緒に現実に帰ってくるはずだったのだと。でも、和人の意識だけが戻り、その人は眠りつづけたままだった。何が起きたのかは――あるいは何が起きているのかは、誰にもわからなかった。和人は三日とあけずにその人が眠る病院を訪れている。
直葉は想像する。眠る想い人の前で、かつての自分のように、手を握り、涙をこぼし、必死に心で呼びかける和人を。その姿を思い浮かべるたび、直葉はどうにも形容できない気分に襲われる。胸の奥がきゅんと痛く、呼吸が苦しくなる。両手で自分をぎゅっと抱え、その場に座り込んでしまいたくなる。
和人にはいつも笑っていてほしいと思う。あの世界から帰還したあとの和人は、以前の彼とくらべて見違えるように明るくなった。直葉ともよく話してくれるし、びっくりするくらい優しいし、しかも無理をしている様子がない。まるで――ごく幼い頃の二人に戻れたような、そんな気さえする。だから、和人の涙を見ると、こんなに切なくなってしまうのだ。直葉は自分にそう言い聞かせる。
(でも――あたしは、もう、気づいてる……)
和人があの人のことを思って瞳を伏せるとき、自分の胸に去来する痛みの中に、もうひとつ、別の密やかな気持ちがあることを。
台所の入り口で、コップに注いだ牛乳をごくごく飲む和人を見つめながら、直葉は胸のなかでささやきかける。
(ね、お兄ちゃん、あたしたち、ほんとは従兄妹なんだよ……)
きょうだい、からいとこ、になって、何がどう変わったのか、直葉にはまだよくわからない。
でも、たった一つだけ変わったことがある。
それは、ひょっとしたら、和人のことをほんとうに好きになってもいいのかもしれない――ということ。
俺はざっとシャワーを浴び、着替えると、ひと月ほど前に新調したマウンテンバイクにまたがって家を出た。南に向かってゆっくりと漕ぎ出す。目的地までは片道十五キロメートル、自転車で往復するには多少距離があるが、筋トレ中の俺にはちょうどいい負荷だ。
これから向かうのは埼玉県所沢市――その郊外に建つ最新鋭の総合病院。その最上階の病室に、彼女が眠っている。
そう――アスナは、帰ってこなかった。
彼女の消息を調べること自体はそれほど苦労しなかった。東京の病院で覚醒した直後、覚束ない足で病室を彷徨い出た俺はすぐに看護士に見付かって連れ戻され、その数十分後、スーツ姿の男たちが数人血相を変えて俺を訪ねてきた。彼らは『総務省SAO救出対策本部』のエージェントだと名乗った。
そのご大層な名前の組織は、SAO事件勃発後すぐに結成されたらしいのだが、結局二年間ほとんど手出しは出来なかったのだそうだ。まあそれもやむを得まい、下手にサーバにちょっかいを出して茅場のプロテクトを解除しそこねれば、五万人の脳が一斉に焼き切れるのだ。そんな責任は誰にも取れやしない。
彼らに出来たのは、被害者の病院受け入れ態勢を整えたことと(それだけで十分な偉業であると言える)、ごくわずかなプレイヤーデータをモニターすることだけだった。
それでも、彼らには、俺のレベルと存在場所から、俺が攻略組の――自分で言うのもなんだが――トップに立つプレイヤーであることは分かっていたらしい。それゆえ、去年の十一月、突如として生き残った者達が覚醒したとき、何があったのかを尋ねるために俺の病室を急襲してきたわけだ。
俺は彼らに条件を出した。知っていることは全て(あるいは言える範囲で)話す。そのかわりに俺の知りたいことを教えろと。
知りたいこと――それは無論アスナの居場所だった。数分間携帯であちこち電話をかけまくった挙句、リーダー格の眼鏡の男が、当惑を隠せない表情で俺に言った。
『結城明日奈さんは、所沢の高度医療機関に収容されている。だが、彼女は、まだ覚醒していない……彼女だけじゃない、まだ全国で約二千人のプレイヤーが目を覚ましていないらしい』
サーバの処理にともなうタイムラグと当初は思われた。しかし、何時間、何日待とうとも、アスナを含む二千人が目覚めたという知らせはこなかった。
茅場晶彦の陰謀が継続しているのだと、世間では騒がれた。だが、俺にはそうは思えなかった。あの、夕焼けの世界でわずかな時間語り合った時の、彼の透徹した視線。彼は言った、生き残った全プレイヤーを解放すると。あの時の茅場に今更嘘をつく必要があったとは思えない。彼は間違いなく、あの世界に幕を引き、自らの命を絶ったのだ。俺はそう信じている。
しかし、不慮の事故なのか、あるいは何物かの意志によってか、完全に消去されるはずだったSAOメインサーバーは、変わらぬブラックボックスとしていまだに動きつづけている。アスナのナーヴギアも活動を続け、彼女の魂をSAOサーバに縛している。その中で今何が起きているのか――俺にはもう知る術がない。いっそ――もう一度あの中に戻れるなら――。
直葉が知ったら激怒するだろうが、俺は一度書置きを残し、自室でナーヴギアを起動してSAOクライアントをロードしてみたことすらあるのだ。だが、俺の目の前に現れたのは、『サーバーに接続できません』という無機質な一文だけだった。
俺は、リハビリが一応終わり、動けるようになった直後から今まで、可能な限り定期的にアスナの眠る部屋を訪れている。それはとても辛い時間だ。己の半身が引き裂かれ、奪い取られる物理的な痛みによって魂の内側で血が流れるのがわかる。しかし、俺には、それ以外に出来ることがない。あまりに無力で、ちっぽけな、今の俺には。
ゆっくりとしたペースで四十分ほどペダルを踏みつづけ、幹線道路から外れて丘陵地帯を巻く道を走っていくと、やがて前方に巨大なブラウンの建築物が姿をあらわした。民間企業によって運営されている高度医療専門病院だ。
何度も誰何されているうちにすっかり顔見知りになってしまった守衛に手を上げて正門を通過し、広大な駐車場の片隅にある自転車置き場に愛車を駐める。高級ホテルのロビーめいた一階受け付けで通行パスを発行してもらい、それを胸ポケットにクリップで留めて、俺はエレベーターに乗り込んだ。
数秒で最上一八階に到達し、扉が開く。無人の廊下を南に歩いていく。このフロアは長期入院患者が多く、人影を見かけることはごく少ない。やがて、突き当たりに、ペールグリーンに塗装された扉が見えてくる。すぐ横の壁面には鈍く輝く金属のパネル。名前が印刷されたプレートが嵌め込まれている。『結城 明日奈 様』というその表示の下に、一本の細いスリットが走っている。俺は胸からパスを外し、その下端をスリットに滑らせる。かすかな電子音。圧搾空気の音とともにドアがスライドする。
一歩踏み込むと、涼やかな花の香りが俺を包んだ。真冬にも関わらず、色とりどりの生花が部屋のそこかしこに飾られている。広い病室の中央はカーテンで仕切られている。俺はゆっくりとそこに近づく。
この向こうにいる彼女が、どうか目覚めていますように――。布に手をかけ、俺はしばしささやかな奇跡を祈る。そっとカーテンを引く。
大きなベッド。俺が使っていたのと同じ、ジェル素材のものだ。白い、清潔な上掛けが低い陽光を反射して淡く輝いている。その中央に――眠る、彼女。
始めてここを訪れたとき、もしかしたら彼女は意識のない現実の自分を俺に見られるのを嫌がるかもしれないと、ちらりと思った。だが、そんな心配など微塵も寄せ付けぬほどに、彼女は美しかった。
つややかな深い栗色の髪が、クッションの四方に豊かに流れている。肌の色は透き通るように白いが、丁寧なケアのせいか病的な色合いはまったくない。頬にはわずかなバラ色すら差している。
体重も、俺ほどには落ちていないようだ。なめらかな首から鎖骨へのラインはあの世界での彼女のものとほとんど同一と言っていい。薄い桜色の唇。長い睫毛。今にもそれが震え、ぱちりと開きそうな気さえする――彼女の頭を包む、濃紺のヘッドギアさえなければ。
ナーヴギアのインジケータLEDが三つ、青く輝いている。ときおり星のように瞬くのは、正常な通信が行われている証だ。今この瞬間にも、彼女の魂はどこかの世界に囚われている。俺を呼んでいる。
俺は、両手でそっと彼女のちいさな手を包み込む。かすかな温もりを感じる。かつて、俺とかたく手を繋ぎ、俺の体に触れ、背中に回された手。息が詰まる。溢れそうな涙を必死にこらえ、そっと呼びかける。
「アスナ……」
ベッドサイドに置かれた時計が、かすかな電子音で俺の意識を呼び起こした。視線を向けると、すでに正午になっている。
「そろそろ帰るよ、アスナ。またすぐ来るから……」
小さく話しかけ、立ち上がろうとした時、背後でドアが開く音がした。振り返ると、二人の男が病室に入ってきたところだった。
「おお、来ていたのか桐ヶ谷君。たびたびすまんな」
前に立つ恰幅のいい初老の男が、顔をほころばせて言った。仕立てのいいブラウンのスリーピースを着込み、体格の割りに引き締まった顔はいかにもやり手といった精力に満ちている。唯一、オールバックにまとめたシルバーグレーの髪だけが、この二年間の心労を伺わせる。
彼がアスナの父親、結城彰三《ゆうきしょうぞう》だ。アスナからは、父親は実業家、とちらりと聞いたことがあったが、実際には一流電機メーカー『レクト』の社長であると知ったときはさすがに仰天した。
俺はひょいと頭を下げ、口を開いた。
「こんにちは、お邪魔してます、結城さん」
「いやいや、いつでも来てもらって構わんよ。この子も喜ぶ」
結城はアスナの枕許に近寄ると、そっと髪を撫でた。しばし沈思する様子だったが、やがて顔を上げ、背後に立つもう一人の男を俺に示す。
「彼とは初めてだな。うちの開発部で主任をしている須郷君だ」
人の良さそうな男だな、というのが第一印象だった。長身をダークグレーのスーツに包み、やや面長の顔に黒縁の眼鏡が乗っている。レンズの奥の目は糸のように細く、まるで常に笑っているかのようだ。かなり若い、二十代半ばだろうか。
俺に右手を差し出しながら、須郷《すごう》という男は言った。
「よろしく、須郷伸之です。――そうか、君があの英雄キリト君か」
「……桐ヶ谷和人です。よろしく」
須郷の手を握りながら、俺は結城をちらりと見た。すると結城は顎を撫でながら笑った。
「いや、すまん。SAO内部のことは口外禁止だったな。あまりにもドラマティックな話なのでつい喋ってしまった。彼は、私の腹心の息子でね。昔から家族同然の付き合いなんだ」
「ああ、社長、その事なんですが――」
手を離した須郷は、結城に向き直った。
「来月にでも、正式にお話を決めさせて頂きたいと思います」
「――そうか。しかし、君はいいのかね? まだ若いんだ、新しい人生だって……」
「僕の心は昔から決まっています。明日奈さんが――今の美しい姿でいる間に……ドレスを着せてあげたいのです」
「……そうだな。そろそろ覚悟を決める時期かもしれないな……」
話の流れが見えず俺が沈黙していると、結城がこちらを見た。
「では、私は失礼させてもらうよ。桐ヶ谷君、また会おう」
一つ頷いて結城は大柄な体を翻し、ドアへと向かった。二度の開閉音。後には、俺と須郷という男だけが残された。
須郷はゆっくりと歩くと、ベッドの向こう側に立った。左手でアスナの髪をひと房つまみ上げ、音を立ててこすりあわせる。その仕草に、俺はかすかな嫌悪を覚える。
「……君はあのゲームの中で、明日奈と暮らしてたんだって?」
顔を伏せたまま、須郷が言った。
「……ええ」
「それなら、僕と君はやや複雑な関係ということになるかな」
顔を上げた須郷と目が合う。その瞬間、俺はこの男の第一印象が大きく間違っていたことを悟る。
細い目から、やや小さい瞳孔が三白眼気味に覗き、口の両端をきゅっと吊り上げて笑うその表情は、酷薄という言葉以外に表現する手段を持たない。背筋にわずかな戦慄が疾る。
「さっきの話はねぇ……」
須郷は愉快でたまらないというふうにニヤニヤと笑いながら言った。
「僕と明日奈が結婚するという話だよ」
俺は絶句した。この男は一体何を言っているのか。須郷の台詞の意味が、凍るような冷気となってゆっくりと俺の体にまとわりつく。数秒間の沈黙の後、どうにか言葉を絞りだした。
「そんなこと……出来るわけが……」
「確かに法的な入籍はできないがね。書類上は僕が結城家の養子に入ることになる。まあどうでもいいのさ、『レクト』の後継者のキップさえ手に入ればね」
「……そのために、アスナを利用する気なのか」
「この娘は、昔から僕のことを嫌っていてね」
須郷は左手の人差し指をアスナの頬に這わせた。
「親たちはそれを知らないが、いざ結婚となれば拒絶される可能性も高いと思っていた。だからね、この状況は僕にとって非常に都合がいい。当分眠っていてほしいね」
須郷の指がアスナの唇に近づいていく。
「やめろ!!」
俺は無意識のうちに、その手を掴み、アスナから引き離していた。
須郷は再びニイッと笑うと俺の手を振り払い、言った。
「ねえ桐ヶ谷君。アーガスがその後どうなったか知っているかい?」
「……解散したと聞いた」
「うん。莫大な補償金を請求されてね、会社は消滅。SAOサーバの維持を委託されたのがレクトのPCソリューション部門さ。具体的に言えば、僕の部署だよ」
須郷はゆっくり歩いてベッドを回り込むと、俺の正面に立った。デモニッシュな微笑を貼り付けたままの顔をぐいと突き出してくる。
「――つまり、明日奈の生殺与奪は僕の手中ということさ。君がゲームの中でこの娘と何を約束したか知らんがね、いいか、余計な真似はするなよ。今後ここには一切来るな。結城との接触も許さん」
一瞬、常に須郷が浮かべていた笑いが消えた。俺は拳を握り締めた。凍結した数秒間が経過した。
やがて須郷は体を離すと、哄笑をこらえるように片頬を震わせながら言った。
「式は来月この病室で行う。君も呼んでやるよ。それじゃあな、せいぜい最後の別れを惜しんでくれ、英雄くん」
剣が欲しい、と痛切に思った。心臓を貫き、首を斬り飛ばしてやりたい。俺の衝動を知ってか知らずか、須郷は俺の肩をぽんと叩くと身を翻し、そのまま病室を出て行った。
どうやって家まで帰ってきたのか、一切記憶がなかった。気づくと俺は自室のベッドに腰掛け、ぼんやりと壁を見つめていた。
『レクトの後継者のキップさえ……』
『明日奈の生殺与奪は僕の手に……』
脳裏に、須郷の台詞が何度も何度もフラッシュバックする。そのたびに白熱した金属のような憤激が俺を貫く。
だが――。あるいはそれも俺のエゴにすぎないのだろうか。
須郷は昔から結城家にごく近しい人間であり、事実上のアスナの婚約者でもあったわけだ。結城彰三の信頼も篤く、レクトで責任ある立場についてもいる。アスナがあの男のものになるのは遥か昔からの規定の事実であり、それに比べて俺は単なる――ゲーム内だけでの知り合いというに過ぎない。この憤り、アスナをあの男に渡したくないという怒りは、矮小な子供の我が侭なのか――。
俺たちにとっては、あの世界、アインクラッドだけが真実の世界だった。そう信じていた。あそこで交わした言葉、約束、すべてが宝石のように光り輝いていた。
だが――現実という名の粗い研石が俺を磨耗させていく。記憶をくすませていく。
『わたし、一生キリトくんの隣にいたい――』
アスナの言葉が、笑顔が遠ざかる――。
「ごめん……ごめんアスナ……俺……なんにもできないよ……」
今度こそ堪えきれなかった涙が、ぽた、ぽたと握った拳の上に落ちた。
「お兄ちゃん、お風呂空いたよ〜」
直葉は、二階の和人の部屋の前で呼びかけた。だがいらえは無い。
病院からは夕方に帰ってきたようだったが、その後は部屋に閉じこもり、夕食の時も降りてこなかった。
(寝ちゃったのかな……)
直葉はドアノブに手をかけ、しばし逡巡した。が、うたた寝してると風邪引いちゃうし、と心の中で呟いて、そっと手に力を込める。
かちゃ、というかすかな音とともにノブが回り、ドアがわずかに開いた。中は真っ暗だ。やはり寝ているのか、と思ったとき、部屋の中から凍えるような寒気が流れ出してきて、直葉は体をすくませた。
(やだ、窓開けっぱなし……。しょうがないなぁ)
そっと部屋の中に踏み込む。ドアを閉め、南がわのサッシに向かって一歩踏み出してから、てっきり寝ていると思った和人がベッドの端に腰掛けてうなだれているのに気づいて、ぎょっとして立ち止まった。
「お、お兄ちゃん……ごめん、寝てると思って……」
あわてて声をかける。しばしの沈黙のあと、和人がやけにしわがれ、掠れた声で言った。
「……悪い、ちょっと……一人にしておいてくれ……」
「で、でも……こんな寒い部屋で……」
直葉はそっと手を伸ばし、和人の二の腕に触れる。氷のように冷たい。
「やだ、冷え切ってるじゃない、風邪引いちゃうよ。お風呂、入らなきゃだめだよ」
そこまで言ってから、直葉は、窓から差し込むかすかな街明かりに照らされた和人の頬に、うっすらと光る筋が流れているのに気づいた。
「お、お兄ちゃん……どうしたの……?」
「……大丈夫だよ……明日になれば……」
その低い声も、どこか濡れている。
「……でも……」
和人は、ゆっくりと両手で顔を覆った。かすかな呟き声。
「駄目だな、俺は……。スグの前では……泣かないようにしようって……決めたのにな……」
「あの人に……アスナさんに……何か、あったの……?」
和人の体が震えた。絞り出すような嗚咽の声が、かすかに漏れた。
「アスナが……遠くに……行っちゃうんだ……俺の手の……届かないところに……」
それだけでは事情はわからなかった。しかし、背中を丸め、幼い子供のように涙を零す和人の姿に、直葉の心はどうしようもなく震えた。
窓を閉め、カーテンを引き、エアコンのスイッチを入れてから、直葉は和人のとなりにそっと腰掛けた。しばらくためらった後、両腕で冷え切った和人の体をぎゅっと包み込む。一瞬和人の体がこわばったが、すぐにふっと力が抜けた。
耳もとで囁きかける。
「ね、がんばろうよ……。好きになったひとのこと、最後まで、あきらめちゃだめだよ……」
一生懸命に探した言葉だが、自分の口から出たそれが心に届いた瞬間、直葉は張り裂けそうな痛みを感じた。
(そうだ――あたしも……)
これ以上、自分に嘘はつけない――と思った。
(あたしも、好きです……お兄ちゃん……和人、さん……)
直葉は、抱きかかえた和人の体を、そっとベッドの上に横たえた。毛布を引き上げ、その下でもういちど和人を抱きしめる。自分の体の熱で、凍えた体を温めようとするように。
そっと背中を撫でているうち、いつしか和人の嗚咽はかすかな寝息へと変わったようだった。目を閉じながら、直葉は心のなかで呟いた。
(でも――あたしは)
あきらめなきゃいけない。この気持ちは深い、深いところに埋めてしまわなければならない。なぜなら――
(お兄ちゃんの心は……あの人のものだから……)
涙がひと粒だけ直葉の頬を伝い、シーツに落ちて、消えていった。
甘く柔らかいぬくもりの中でゆらゆらとまどろむ。
目覚める直前の心地よい浮遊感。外周から森の梢を透かして差し込む陽光が、穏やかに頬を撫でている。
俺は目を閉じたまま腕のなかの彼女をそっと抱き寄せる。唇の場所を探りながらゆっくり目蓋を開けていく――
「うわ!!」
俺は喉の奥で叫びながら、横になったまま五十センチほど飛びすさった。ばね仕掛けのように上体を起こし、周囲をぶんぶんと見回す。
二十二層の森の家――ではなかった。現実の俺の部屋、俺のベッド、だが俺のほかにもう一人。
唖然としながら毛布をそっと捲り上げる。すぐに戻し、頭をぶんぶん振って眠気を振り落としてから、もう一度捲る。青墨のように黒い、やや短い髪。パジャマ姿の直葉が、俺の枕に頭をうずめて熟睡している。
「ど……どういうことだこれは……」
俺は昨夜のことを必死に思い出そうとした。そうだ――ゆうべ、深い絶望にとらわれているとき、直葉と会話を交わしたような記憶がある。どうしても堪えきれず涙をこぼしてしまって、直葉が抱きしめてくれたのだ。どうやら俺はそのまま眠りに落ちてしまったらしい。
「こ、子供じゃあるまいし……」
しばし恥ずかしさに身悶えたあと、俺はあらためて直葉のあどけない寝顔を見つめた。それにしたって自分までここで寝ることはないだろうに……。
そういえば――。あの世界で、前にもこんなことがあった。四十層あたりで知り合った、テイマーの女の子。直葉に似ている、と思った。あの時も俺のベッドで眠り込まれてしまい、対処に思い悩んだものだ。
俺はおもわず微笑んでいた。アスナのことはいまだに心の底に重くのしかかっているが、昨日の張り裂けるような痛みは夜の間に溶け落ちてしまったようだった。
あの世界――アインクラッドでの数々の思い出は、ぜんぶ俺にとって貴重な宝物だ。嬉しいことも、悲しいことも沢山あったが、その全てが真実の記憶だ。それを俺自身が貶めてはいけない。俺はアスナと約束したのだ。この世界で、もう一度出会うと。きっと俺にもまだ出来ることがある。
眠りに落ちる直前の、直葉の言葉が耳の奥によみがえった。
『あきらめちゃ、だめだよ……』
「ああ――そうだな……」
俺は身を乗り出し、直葉の頬を指先でつついた。
「おい、起きろよスグ。もう朝だぞ」
「うぅ〜……」
不満げな喉声を漏らしながら毛布を引き上げようとする直葉の頬を、今度はむにーと引っ張る。
「起きろって。朝稽古の時間がなくなるぞ」
「う〜ん……」
直葉はようやくうっすらと目を開けた。
「あ……おはよ、お兄ちゃん……」
もぐもぐと呟きながら、体を起こす。
しばらく俺の顔を眺めていたが、そのうちぐるぐると部屋を見回しはじめた。ぼんやりしていた目が、次第に大きく開いていく。ついで白い肌がみるみる赤く染まっていく。
「あっ、あのっ、あたしっ」
耳まで真っ赤になった直葉は口をぱくぱくさせながらしばし硬直していたが、やがて猛烈な勢いで跳ね起きると、がちゃばたん! という大音響とともにドアを開閉し、部屋を飛び出していった。
「やれやれ……」
頭をかきながら、俺も立ち上がった。カーテンを引きあけると、薄曇りの空からささやかな光が部屋に射し込んだ。
とりあえずシャワーを浴びようと思って着替えを用意していると、ぽーん、というアラーム音が耳に飛び込んだ。
デスクに目を向けると、卓上のパネルPCの上端でメール着信ランプが点滅している。俺は椅子に腰掛けると、PCのタッチセンサーに触れてサスペンド状態を解除した。
俺が留守にしている二年の間にパソコンの構造もずいぶん変わっていた。古きよき金属円盤式HDDは姿を消し、大容量不揮発RAMに取って代わられたため、無音で一瞬にしてデスクトップが表示される。キーボードのメーラー起動ボタンを押し、受信トレイに移動。リストの一番下に表示された名前は『エギル』だった。
アルゲードのなんでも屋店主兼斧使いのエギルとは、二十日ほど前に東京で再会した。その時にアドレスも交換しておいたのだが、メールが来たのは初めてだった。タイトルは『Look at this』となっている。開くと、本文は一文字も無かったが、かわりに写真が一枚添付されていた。
その写真を見て――俺は思わず立ち上がっていた。息を呑む。
不思議な構図だった。前景には、ぼやけた金色の格子が一面に並んでいる。その向こうに、白いテーブルと白い椅子。そこに座っている、同じく白いドレス姿の、一人の女性。こちらに横顔を向けているその少女は――
「アスナ……!?」
かなり引き伸ばしたものらしくドットが粗い。それでも、長い栗色の髪の少女は、間違いなく彼女だと思えた。テーブルの上で両手を組み合わせ、横顔は憂いに沈んでいる。よくよく見ると、背中からは透明な羽根状のものが伸びているように見える。
俺は卓上から携帯を掴み取ると、電話帳をスクロールするのももどかしく発信ボタンを押した。わずか数秒の呼び出し音が途方もなく長く感じる。プツ、という接続音のあと、野太いエギルの声が聴こえた。
「もしも――」
「おい、この写真はなんだ!!」
「……あのなあキリト、せめて名前くらい言え」
「そんな余裕ねえよ!! 早く教えろ!」
「……ちょっと長い話なんだ。店に来られるか?」
「すぐ行く。今行く」
俺は返事も聞かずブツリと電話を切ると、着替えを抱えて部屋を飛び出した。
エギルの店は台東区御徒町のごみごみした裏通りにある。煤けたような黒い木造で、そこが喫茶店であることを示すのは小さなドアの上に造り付けられた金属製の飾り看板だけだ。店名は『Dicey Cafe』。
カラン、という乾いたベルの音とともにドアを押し開けると、カウンターの向こうで禿頭の巨漢が顔を上げ、ニヤリと笑った。客は一人もいない。
「よぉ、来たか」
「……相変わらず不景気な店だな。よく二年も潰れずに残ってたもんだ」
「うるせえ、これでも夜は繁盛しているんだ」
まるであの世界に戻ったような、気安いやり取りを交わす。
エギルに連絡してみたのは、先月の末だった。総務省の役人から、思いつく限りの知り合いの本名と住所のリストを入手したのだ。クラインやニシダ、シリカにサーシャと、会ってみたいプレイヤーは多いが、彼らも今は現実世界との折り合いをつけるのに苦労しているだろうと思い接触は当分控えることにしている。最初にこの店を訪ねたときそう言うと、
「じゃあ俺はどうなるんだよ!?」
とエギルはわめいたものだ。お前がそんなデリケートなタマか、と言ってやった時の奴の情けない顔は思い出すだけで笑いがこみ上げてくる。
エギルこと本名アンドリュー・ギルバート・ミルズが、現実世界でも店を経営していたと知ったときはなるほどと思った。人種的には生粋のアフリカン・アメリカンだが同時に親の代からの江戸っ子でもあるそうで、住み慣れた御徒町に喫茶店兼バーを開いたのが二十歳の時らしい。客にも恵まれ、美人の奥さんも貰って、さあこれからという時にSAOの虜囚となった。二年後に帰還したときは店のことは殆ど諦めていたそうだが、奥さんが単身奮戦して細腕でのれんを守り抜いたということだ。実にいい話だ。
実際、店の固定ファンも多いのだろう。木造の店内は、行き届いた手入れによってすべての調度が見事な艶をまとい、テーブル四つにカウンターだけの狭さもまた魅力と思える居心地のよさを漂わせている。
俺は革張りのスツールに腰を下ろすと、コーヒーをオーダーするのももどかしくエギルにくだんの写真のことを尋ねた。
「で、あれはどういうことなんだ」
店主は、カウンターの下に手をやり、長方形のパッケージを取り出すをそれを俺のほうに滑らせた。指先で受け止める。
「それ、知ってるか?」
「……ゲームソフト……?」
手の平サイズのパッケージの右上にあるハードのロゴには、『AmuSphere』とある。
「アミュスフィア? 知らないハードだな」
「出たのは去年だ。ナーヴギアの後継機だよそいつは」
「……」
俺は複雑な心境で、その二つのリングをかたどったロゴマークを見つめた。
あれだけの事件を起こし、悪魔の機械とまで言われたナーヴギアだが、パーソナル仮想エンタテイメントマシンを求める市場のニーズは誰にも押しとどめることはできなかった。SAO事件が落ち着くと同時に、各社から「こんどこそ安全」と銘打たれた後継機が発売され、俺があの世界にいた二年の間に従来のディスプレイ接続型ゲーム機とシェアを逆転するまでになっていた。SAOに似たバーチャルMMOも数多くリリースされ、全世界的な人気を博している。
それらの事情は一応理解していたが、俺自身はもう二度と同様のゲームに手を付ける気は無かったので、詳しいことを知ろうとはしなかった。
「じゃあ、これもVRMMOなのか」
俺はパッケージを手にとり、眺めた。描かれているイラストは、深い夜の森の中から見上げる巨大な満月だ。黄金の円盤を背景に、少年と少女が剣を携え飛翔している。格好はオーソドックスなファンタジー風の衣装だが、二人の背中からは大きな透明の羽根が伸びている。イラストの下部には、凝ったタイトルロゴ――『Alfheim Online』。
「アルヴヘイム・オンライン? ……アルヴヘイムって何だ?」
「妖精の国、っていう意味らしいな」
「妖精……。なんかほのぼのしてるな。まったり系のMMOなのか」
「それが、そうでもなさそうだぜ。ある意味えらいハードだ」
エギルは、俺の前に芳香を漂わせるカップを置くと、ニヤリと笑った。
「ハード? どんなふうに?」
「どスキル制。プレイヤースキル重視。PK推奨」
「ど……」
「レベルは一切ないらしいな。経験値はあるがそれでスキルを上昇させるだけで、どんなに稼いでもHPは大して上がらないそうだ。戦闘もプレイヤーの運動能力依存で、剣技のないSAOと言ったところかな」
「へえ……。PK推奨ってのは」
「プレイヤーはキャラメイクでいろんな妖精の種族を選ぶわけだが、違う種族間ならキル有りなんだとさ」
「そりゃ確かにハードだ。でも人気出ないだろ、そんなコアな仕様じゃ」
「そう思ったんだけどな、今大人気なんだと。理由は、『飛べる』からだそうだ」
「飛べる……?」
「妖精だから羽根がある。フライト・エンジンとやらを搭載してて、慣れるとコントローラ無しで自由に飛びまわれる」
俺は思わずヒュウ、と口笛を鳴らしていた。ナーヴギア発売直後から、飛行系のVRゲームは数多く出たが、その全てがゲーム内で何らかの装置を操って飛ぶタイプのものだった。プレイヤーが生身でそのまま飛行するゲームが出なかった理由は簡単で、現実の人間には羽根が無いからだ。
仮想世界内において、プレイヤーは現実の体と同じように動ける。それは裏を返せば、現実の人間に不可能なことは同じく不可能、ということでもある。背中に羽根をつけることはできても、それをどの筋肉で動かしていいのかわからないのだ。
SAO内では、末期には俺やアスナは超絶的なジャンプ力によって擬似的に飛ぶことも出来るようになっていたが、それはあくまでジャンプの延長線上であってやはり自由な飛行とは違う。
「飛べるってのは凄いな。羽根をどう制御するんだ」
「わからん。だが相当難しいらしい。初心者は、やはりスティック型のコントローラを片手で操るんだとさ」
「……」
俺は一瞬、挑戦してみたい、と思ってしまったが、すぐにその気持ちを打ち消すように熱いコーヒーをごくりと飲んだ。
「――まあこのゲームのことはだいたいわかった。本題に戻るが、あの写真は何なんだ」
エギルは再びカウンターの下から一枚の紙を取り出し、俺の前に置いた。プリンタ用の光沢フィルムだ。あの写真が印刷してある。
「どう思う」
エギルに聞かれ、俺はしばらくプリントを凝視してから言った。
「似ている……。アスナに……」
「やっぱりそう思うか。ゲーム内のスクリーンショットだから解像度が足りないんだけどな……」
「早く教えてくれ、これはどこなんだ」
「その中だよ。アルヴヘイム・オンラインの」
エギルは俺の手からパッケージを取ると、裏返して置いた。ゲームの内容や画面写真が細かく配置されている中央に、世界の俯瞰図と思えるイラストがある。円形の世界が、いくつもある種族の領土として放射状に分割され、その中央に一本の途方もなく巨大な樹がそびえている。
「世界樹、と言うんだとさ」
エギルの指が大樹のイラストをこつんと叩いた。
「プレイヤーの当面の目標は、この樹の上のほうにある城に他の種族に先駆けて到着することなんだそうだ」
「到達って、飛んでいけばいいじゃないか」
「なんでも滞空時間ってのがあって、無限には飛べないらしい。この樹の一番下の枝にもたどり着けない。でもどこにも馬鹿なことを考えるやつがいるもんで、体格順に五人が肩車して、多段ロケット方式で樹のてっぺんを目指した」
「ははは、なるほどな。馬鹿だが頭がいい」
「うむ。目論見は成功して、その樹上の城にかなり肉薄した。ぎりぎりで到着はできなかったそうだが、その五人目が木の枝に下がる大きな鳥かごを見つけて撮影した。それを引き伸ばしたのがあの写真だ」
「鳥かご……」
俺は、その言葉の持つ不吉なイメージに眉をしかめた。囚われの……というフレーズが頭をよぎる。
「だがこれは正規のゲームなんだろう……? なんでアスナが……」
俺はパッケージを取り上げ、もう一度眺めた。
長方形のトールケースの下部に視線を移す。メーカー名は――『レクト・プログレス』。
「おい、どうしたキリト?」
「いや……」
俺はあの男の言葉を思い出していた。
現在SAOサーバを管理しているのは自分だ、と須郷は言った。しかし管理と言ってもサーバ自体は相変わらずブラックボックスで、内部にまでは介入できていない――と俺は理解していたのだが。
奴にとっては、アスナがこのまま眠っていたほうが都合がいいことになる。アスナらしき少女が目撃されたVRMMO――その開発元がレクトの子会社――。偶然だろうか。
総務省の救出チームに連絡してみようか、と一瞬思った。だがすぐに思い直す。あまりにも漠然とした話に過ぎる。
俺は顔を上げ、巨漢のマスターを見やった。
「エギル――これ、貰っていっていいか」
「構わんが……行く気なのか」
「ああ、この目で確かめる」
エギルは一瞬気遣わしげな顔をした。その憂慮は俺にもわかる。まさかとは思いつつも、また何か起きるのではないか――という恐怖が足許からじわりと湧き上がってくる。
それを振り払うように、俺はにやりと笑って見せた。
「死んでもいいゲームなんてヌルすぎるぜ。……ゲーム機を買わなくちゃな」
「ナーヴギアで動くぜ。OSもCPUも一緒なんだ」
「そりゃあ助かる」
俺はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。ポケットからつかみ出したコインをカウンターにぱちりと置く。
「じゃあ、俺は帰るよ。ご馳走様、また情報があったら頼む」
「情報代はツケといてやる。――アスナを助け出せよ。そうしなきゃ俺達のあの事件は終わらねえ」
「ああ。いつかここでオフをやろう」
ごつんと拳を打ち付けあうと、俺は振り向いてドアを押し開け、店を後にした。
自分のベッドにうつ伏せに転がり、枕に顔をうずめた格好で、直葉は数分毎に足をばたばたさせては身悶えていた。
まだパジャマのままだ。今日は一月十六日水曜日、学校はすでに始まっているが、直葉の中学は三年の三学期は自由登校なので行っても剣道部に顔を出すくらいしかすることがない。
直葉は、何度目ともしれない記憶のプレイバックに突入した。
昨夜――凍えた和人をどうにかして暖めたくて、一緒の布団にくるまって
(ひゃ―――――)
全身を密着させて
(うわ―――――)
そのままコトンと寝入ってしまったのだ。横になると十秒で眠りに落ちてしまう即席体質が今日ばかりは恨めしい。
(あたしのばかばかばか……)
せめて和人より先に目を覚ませば、まだこっそり脱出することも可能だったのに、よりにもよって起こされてしまった。これはもう真剣に会わせる顔が無い。
恥ずかしさ、照れくささ、それに隠し切れない愛おしさの混じった感情がぐるぐると渦巻いて、息も出来ないほど胸がきゅーんと痛くなる。
とりあえず竹刀を振って頭をからっぽにしよう、と思い、直葉はようやく立ち上がった。気が引き締まるので稽古は道着でやるのが好きなのだが、一刻も早く庭に出たくて手っ取り早くジャージに着替え、部屋を出る。
和人は早い時間に出かけたようだったし、翠はいつも昼前には出勤するし、研介は年明けからアメリカに戻っているので、家には直葉一人きりだ。一階のダイニングテーブルに置いてある籠からチーズマフィンをひとつ取って行儀悪く口にくわえ、オレンジジュースのパックを片手に持って縁側に腰掛ける。
大きく一口齧り付いたところで――玄関方向から自転車を引きながら庭に入ってきた和人とばっちり目が合った。
「ふぐ!!」
マフィンのかけらが喉を転がり落ち、思わずむせる。咄嗟に右手のジュースを飲もうとして、まだストローを挿していないことに気付く。
「うぐ、うぐ〜〜!」
「おいおい」
駆け寄ってきた和人が、ジュースを奪い取って手早くストローを突き立て、直葉の口に突っ込んだ。必死に冷たい液体を吸い上げ、のどに詰まった塊ごとごくりと飲み込む。
「ぷはっ! し……死ぬかと思った……」
「そそっかしい奴だなぁ。もっと落ち着いて食え」
「うう〜」
しょんぼりうな垂れる直葉。和人は隣に腰掛けると、靴紐を解き始めた。その様子を横目で見ながら、もう一口マフィンを齧ったとき、不意に和人が言った。
「そうだ、スグ、昨夜のことだけど……」
ふたたび咳き込みそうになって慌ててもう一口ジュースを飲む。
「う、うん」
「その、何ていうか……サンキューな」
「え……」
予想外のことを言われ、直葉はまじまじと和人を見つめた。
「スグのお陰で元気出たよ。俺、諦めない。絶対にアスナを助け出してみせる」
ずきん、という胸の痛みを押し隠して、直葉は微笑んだ。
「うん……がんばってね。あたしもアスナさんに会ってみたいもん」
「きっと仲良くなれるよ」
和人は直葉の頭をくしゃくしゃと撫でると立ち上がった。
「じゃ、また後でな」
言い残し、二階に上がっていく和人を見送りながら、直葉はマフィンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。
(あたしも……がんばっていいのかな……)
庭に降り、池のそばでストレッチを開始する。体が暖まったところで竹刀を握り、素振りに移行する。
いつもなら思い切り竹刀を振っているうちに雑念は消えていくのだが、今日はいつまでたっても頭の中にぐるぐるするものが居座りつづけた。
(ほんとに、好きになってもいいのかな……)
昨夜、寄り添って横たわりながら、一度は諦めようと思った。和人の心の中にはあの人しかいない、それが痛いほどわかったから。
(でも――それでもいい)
二ヶ月前、病院からの連絡を受け、母親を待たずに駆けつけた直葉を見て、ベッドの上の和人は涙を滲ませながら笑った。手を差し伸べ、「スグ」、と呼んだ。あの時から――直葉の中にこの気持ちが生まれたのだ。いつでも近くにいたい。もっと話をしたい。無理やり押さえつけるなんて、できない。
そばで見ているだけでもいいんだ、そう自分に言い聞かせながら、直葉は宙に向かって三連撃を放った。動きを止め、ふと居間の時計に目をやると、いつのまにか正午を回ろうとしていた。
「あ、いけない……。約束あったんだ」
呟くと素振りを切り上げ、松の枝にかけておいたタオルで汗をぬぐった。顔を上げると、雲の切れ間からわずかに青空が顔を出しはじめていた。
部屋に戻ってきた俺は、ラフな格好に着替え、携帯を留守モードにすると、ベッドの上に座った。バックパックのジッパーを開け、エギルから入手したゲームパッケージを取り出す。
『アルヴヘイム・オンライン』――話を聞いた限りでは相当に歯ごたえのありそうな内容だ。僥倖なのはレベル制ではないということで、ステータスが足りずに自由に動けないという事態はあるていど避けられそうだ。
本来であれば、MMORPGに手をつけるなら事前にネットや雑誌で情報収集をするべきなのだろうが、俺はとても悠長にそんなことをしている気にならず、パッケージを開封してディスクを取り出した。ベッドの足元に置いてあるナーヴギア本体の電源を入れ、スロットに挿入する。数秒でREADYランプが点灯する。
俺はベッドに横たわると、両手でヘッドギアを目の前に持ち上げた。
かつて濃紺に輝いていたその機械は、いまや塗装があちこちで剥げ落ち、傷ついている。これは俺を二年間捕縛した枷であり、同時に故障一つせずに動きつづけた戦友でもある。
もう一度、俺に力を貸してくれ――。
心のなかで呟き、俺はナーヴギアを頭に装着した。あごの下でハーネスをロックし、シールドを降ろして目を閉じる。
不安と興奮で速まる心臓のビートを抑えつけながら、俺は言った。
「リンク・スタート!」
目の前に虹色の光が弾けた。複雑な和音を組み合わせた起動音とともにナーヴギアのロゴマークが眼前に浮かび上がり、消滅する。ついで各種接続状況のリストアップが開始され、OKマークがフラッシュすると同時に俺の肉体感覚が消滅していく。最後に現れたLOADINGの表示がSTARTに変わり、次の瞬間、俺は新たな世界へと降り立っていた。
――と言ってもそこはまだ、暗闇に包まれたプレイヤー情報登録ステージだ。目の前にアルヴヘイム・オンラインのロゴが出現し、同時に柔らかい女性の声でウェルカムメッセージが響き渡る。
俺は合成音声の案内に従って、キャラクターの作成を開始した。目の前に青白く光るホロキーボードが出現し、まずIDとパスワードの入力を求められる。SAOの時にも使った、長年愛用し、指が記憶しているワードの羅列を打ち込む。
次いでキャラクターネームの入力。何も考えず『キリト』と入力しようとして、一瞬ためらった。
俺、桐ヶ谷和人がSAO世界でキリトと名乗っていたことを知る人間はごく少ない。総務省の救出チームと、チームに密接な関係のあるレクト社長・結城彰三、あの須郷と言う男にエギル、それにもちろんアスナ――。多分それだけだ。直葉や両親も知らないはずだ。
SAO世界でのこと、特にキャラクターネームに関しては、厳しい情報統制が敷かれている。なぜなら、SAO内ではプレイヤー同士の戦闘が頻繁に発生し、その結果現実世界で恐ろしい数の人間が死亡しているからだ。誰が誰を殺した、という話が無制限に流布すれば、おびただしい訴訟が起きることは想像に難くない。
現在、刑法的にはSAO事件で発生した殺人の咎はすべて行方不明の茅場晶彦一人に負わされている。民事訴訟はすべて今は無きアーガスを相手取って起こされ、その結果アーガスは解散してしまったのだが、今後プレイヤー間レベルでの訴訟が続発する事態は避けたい、というのが国の意向らしい。
須郷に知られているのがやや不安ではあるが、それほど目立つ名前でもないし、俺は逡巡を押し切ってキリト、と入力した。SAOと同じく性別は自動で男性が選択されている。
次に、合成ボイスはキャラクターの作成を促した。と言っても初期段階では種族の選択があるだけらしい。容姿は無数のパラメータからランダム生成され、キャンセル不可と説明される。どうしてもやり直したい場合はクライアントから購入しなおすしかないようだ。まあこの際どんな面相になろうともさして問題はない。
プレイヤーの分身たるキャラクターは、いわゆる妖精をモチーフにした九種族から選択できるようだった。それぞれに多少の得手不得手があると説明される。サラマンダー、シルフ、ノームと言ったRPGでお馴染みの名前から、ケットシー、レプラコーンとあまり聞き覚えのないものもある。
俺としては真剣にゲームを攻略する気はないのでどれでもよかったのだが、黒を基調とした初期装備が気に入ったので『スプリガン』なる種族を選択し、OKボタンにタッチする。
すべての初期設定が終了し、幸運を祈ります、という人工音声に送られて、俺は再び光の渦に包まれた。説明だと、それぞれの種族のホームタウンからゲームがスタートするらしい。床の感触が消え、浮遊感、次いで落下感覚が俺を襲う。光の中から、徐々に世界が姿をあらわす。夜闇に包まれた小さな町――その上空に俺は出現する。町の中央にある城へとぐんぐん近づいていく――。
そのとき。
いきなり全ての映像がフリーズした。あちこちでポリゴンが欠け、雷光のノイズが視界のそこかしこを這い回る。モザイク状に全オブジェクトの解像度が減少し、世界が溶け崩れていく。
「な――なんだ!?」
わめく暇もあればこそ――。俺は再び猛烈な落下状態に陥った。途方も無く広い暗闇の中を、果てしなく落ちつづけていく。
「どうなってるんだぁぁぁぁぁ」
俺の悲鳴が、むなしく虚無の空間に吸収され、消えていった。
[#地から1字上げ](第一章 終)
第二章 妖精境の剣士
中天にかかる巨大な月が、深い森を水底のように青く染め上げている。
アルヴヘイムの夜は長い。まだ曙光が射すまでにはずいぶん間がある。普段なら不気味なだけの深夜の森だが、撤退行動中の今はこの暗さがありがたい。
リーファはひときわ大きな樹の陰から、はるか高みの星空を見上げた。今のところ、天空を往く不吉な黒い影は見えない。押し殺した声で傍らのパーティーメンバーに言う。
「羽根が回復したらすぐに飛ぶからね。準備してて」
「ええー……僕、まだ目眩が……」
情けない声で相棒が答える。
「また酔ってるのぉ? 情けないなぁ……いいかげん慣れなさいよレコン」
「そんな事言ったって怖いものは怖いよ……」
リーファはやれやれという心境でため息をついた。
大樹の根元にしゃがみこむレコンという少年プレイヤーは、リーファとは現実世界でも友人で、ALOを始めたのも同時期である。つまりリーファと同じく約一年のキャリアがあるはずなのだが、いつまで経っても飛行酔いが克服できない。空中戦闘能力が強さの全てと言っていいALOで、一度や二度の乱戦でへばっているようでは正直頼りない。
とは言え、リーファはレコンのそんな所が嫌いではない。強いて言えば放っておけない弟、みたいなものだろうか。外見もそんなキャラクターを裏切らず、背の低い華奢な体に黄緑色のおかっぱ風の髪、長い耳も下方向に下がり、顔は泣き出す寸前で固定されたような作りだ。ランダム生成されたにしてはあまりにも現実の彼を彷彿とさせるその姿を、ゲームにジョインした直後に初めて見たときは大笑いしてしまったものだ。
もっともレコンに言わせればリーファの姿も現実の彼女にかなり似ているらしい。シルフ種族の少女にしては少しばかり骨太の体に、眉も目もきりっとした作り。
せめて仮想世界では「たおやか」といった表現の似合う姿を期待していたのだが、まあ客観的に見れば可愛い、と言っていい容姿ではある。それはこの世界ではかなりの幸運に恵まれないと得られないものであるし――満足できる姿を手に入れるまでゲームパッケージを二桁個ムダにした者もザラにいる――リーファとしては決して不満があるわけではない。
付け加えれば、ALO内での容姿はキャラクターの性能には一切影響しないので、レコンがすぐに目を回すのは純粋に彼の平衡感覚の頼りなさによるものだ。
リーファは手を伸ばすと、レコンの装備したブレストアーマーの襟首を掴み、強引に立たせた。背中の透明な四枚の翅を覗き込むと、飛行力が回復した証として薄緑の燐光に包まれている。
「よし、もう飛べるね。次の飛行で森を抜けるよ」
「え〜〜……きっと追手はもう撒いたよ〜。もう少し休もうよ」
「甘い!! サラマンダーどもの中に索敵スキルの高い奴が一人いたから、下手するともう見付かってるよ。二人じゃ次の空中交錯《エアレイド》には耐えられない。根性でテリトリーまで飛ぶのよ!!」
「ふわーい……」
レコンは情けない返事をすると、左手で宙を握る仕草をした。その手の中に、半透明のスティック状のオブジェクトが出現する。短い棒の先端に小さな球がくっついたそれは、ALOで飛行するときに使用する補助コントローラだ。レコンが軽く手前にスティックを引くと、四枚の翅がふわりと伸び、わずかに輝きを増す。
それを確認して、リーファも自分の翅を広げ、二、三度震わせた。こちらはコントローラを使用しない。ALO内での一流戦士の証、高等技術の意思飛行をマスターしているためその必要がないのだ。
「じゃ、行くよ!!」
低い声で叫ぶと、リーファは一気に地を蹴って飛び立った。背中の翅をいっぱいに伸ばして、梢の向こうに見える満月目指して急上昇する。風が頬を叩き、長いポニーテールを揺らす。
数秒で森を突き抜け、リーファは樹海の上空に飛び出した。視界いっぱいに広大なアルヴヘイムの風景が広がる。途方も無い開放感。
「ああ……」
両手を広げ、はるかな高みを目指して上昇しながら、リーファは法悦のため息を漏らした。この瞬間、この感覚だけは何ものにも替えがたい。泣きたいほどの高揚。はるか古代から、人間は空行く鳥に憧れつづけた。そしてとうとう手に入れたのだ――己自身の翼を、この幻想の世界で。
システム的に課せられた滞空制限が恨めしい。心ゆくまで、どこまでも高く遠く飛びつづけられるなら、何を犠牲にしても惜しくない。
もっとも、それはアルヴヘイムで戦う全てのプレイヤーの望みなのだ。他種族に先駆け世界樹の上にあるという伝説の空中都市に到着し、真なる妖精アルフに生まれ変わる――そうなれば、滞空制限は一切解除され、名実ともにこの無限の空の支配者となれるという。
リーファは、自分のステータスの強化にも、レアアイテムの入手にも興味がない。この世界で戦い続ける理由はただ一つ――。
今はまだ届かない金色の月目指して、リーファは一回大きく羽根をふるわせた。零れ落ちた光の粒が、彗星のような緑色の尾となって夜空に流れた。
「り、リーファちゃん〜〜、待って〜〜」
――という弱々しい声が下方から響いてきて、リーファの意識を現実に引き戻した。上昇を停止して見下ろすと、コントローラを握ったレコンが必死にあとを追ってくる。補助システムを使用した飛翔は速度の上限が低いため、リーファが本気で飛ぶとレコンは追随できない。
「ほらもうちょっと、がんばれがんばれ!!」
翅を広げてホバリングしながらレコンに両手で手招きする。顔を上げて周囲を見渡し、広大な樹海のかなた、夜闇の中に一際黒くそびえ立つ世界樹を見つけるとそこを起点にシルフの領土がある方向を見定める。
レコンがようやく同じ高度まで追いついてきたのを確認し、今度は速度を合わせ宙を滑るように飛び始めた。
隣に並んだレコンが、顔を強張らせながら言った。
「ちょ、ちょっと高度取りすぎじゃない?」
「高いほうが気持ちいいじゃない。翅が疲れてもいっぱいグライドできるしさ」
「リーファちゃんは飛ぶと人格変わるしなぁ……」
「なんか言った?」
「う、ううん、なんでも」
軽口を叩きながら、アルヴヘイム西域にあるシルフ領目指して巡航していく。
今日は、レコンを含む気心の知れた仲間四人と待ち合わせ、シルフ領の南西、中立域の中級ダンジョンで狩りをした。幸い他のパーティーと鉢合わせることもなく充実した冒険を行い、たっぷりとお金とアイテムを稼いでさて帰ろうというところで、サラマンダーの八人パーティーに待ち伏せされてしまったのだ。
異種族同士なら戦闘可能なALOではあるが、あからさまに追い剥ぎめいたことをするプレイヤーはむしろ少数派と言っていい。特に今日の冒険は、現実時間では平日の午後ということもあって、そう大人数の襲撃部隊は現れないだろうと予想していたのだが、見事にその油断を突かれてしまった。
逃亡しながらの二度のエアレイドで敵味方とも三人ずつを減らし、もともと人数の少なかったリーファたちはとうとう二人を残すのみになってしまったが、飛行速度でサラマンダーに優るアドバンテージを活かしてどうにか追撃を振り切り、あと少しでシルフ領に到達できるというところまで来た。二度の戦闘で酔ったレコンの回復に時間を取られてしまったが、この調子ならどうにかテリトリーに逃げ込めそうだ――と思いながら、リーファが何気なく背後の森を振り返ったとき――。
鬱蒼と立ち並ぶ巨木の下で、オレンジ色の閃光がちかりと瞬いた。
「レコン!! 回避!!」
リーファは咄嗟に叫び、左下方に急速旋回した。直後、木の葉の隙間を貫いて、地上から三本の火線が猛烈な勢いで伸び上がってきた。
高度を取っていたことが幸いし、長く尾を引く熱線はぎりぎりのタイミングで直前に二人が飛行していた空間を焼き焦がしながら夜空へと消えていった。
だが胸を撫で下ろす暇はない。攻撃魔法が放たれた辺りの樹海から、五つの赤い影が飛び出し、急速にリーファたち目掛けて上昇してくる。
「もー、しつこいなあ!!」
リーファは毒づくと、北西の方角に目を凝らした。シルフ領の中央に立つ巨大な『風の塔』の灯りはまだ見えない。
「仕方ない、戦闘準備!!」
叫び、腰からゆるく湾曲した長刀を引き抜く。
「うえー、もうヤダよ」
泣き言をこぼしながらレコンもダガーを抜刀し、構える。
「向こうは五人、負けてもしょうがないけど簡単に諦めたら承知しないからね! あたしがなるべき引き付けるから、どうにか一人は落として」
「善処します……」
「たまにはイイトコ見せてね」
レコンの肩をちょんと突付くと、リーファは顔を引き締め、ダイブの姿勢を取った。体をくるりと丸め、一回転して弾みをつけると、羽根を鋭角に畳んで猛烈な勢いで急降下。くさび型のフォーメーションを組むサラマンダーたち目掛けて無謀とも言える突進を敢行する。
ALO初期からの古参プレイヤーで、経験も装備も充実しているリーファたちのパーティーがみじめに敗走する羽目になったのは、敵の人数もさることながら最近サラマンダー達が編み出したフォーメーション戦法のせいと言っていい。機動性を犠牲にして、赤いヘビーアーマーにぎっちり身を固め、逆にその重量を活かせるランスによる突進攻撃を繰り返すのだ。水平に何本も並んだ長大な槍が、猛烈な勢いで襲い掛かってくる重圧はすさまじく、シルフの利点である軽快性を発揮できる乱戦に持ち込むのが難しい。
だがリーファは、今日の二度の戦闘で、敵の攻撃方法の弱点をなんとなく察していた。持ち前のクソ度胸を発揮して、敵集団の先頭の一人に狙いを定め臆することなくダイブしていく。あっという間に距離が詰まる。敵が構える銀色のランス、その鋭い先端に全神経を集中する。
キィィィという甲高いシルフの突進音と、ギュアアアという鈍い金属質なサラマンダーのそれが奏でる不協和音がみるみる高まり、とうとう二者が交差した瞬間、大気を揺るがす爆発音となって轟いた。
リーファは歯を食いしばり、視線をそらすことなく必殺の威力を秘めたランスの穂先を首を捻るだけの動作で回避した。頬を掠めた先端が燃えるような熱さをそこに残すが無視する。直後、両手で大上段に構えた長刀を敵の赤いヘルメット目掛けて
「セイィィィィ」
叩き込む。
「ラァァァァァ!!」
分厚いバイザーに開いた覗き穴の奥で、恐怖に見開かれる眼と一瞬視線が交錯する――がそれを意識する間もなく、黄緑色のエフェクトフラッシュが炸裂し、すさまじい手応えとともに敵の巨体が吹き飛んだ。
悲鳴を上げながら錐揉み状態で落下していく敵のHPバーは、重装甲のせいで半分も減っていないが、頭部にあれだけの衝撃を受ければしばらく戦列には復帰できないだろう。リーファは即座に意識を切り替える。
(――ここだ!!)
敵の重突進戦法の弱点は、交錯後の切り替えしに時間がかかることだ。残り四人のサラマンダーとすれ違った瞬間、リーファは体を捻り、羽根を一杯に広げて強引な左ターンを行った。
恐ろしい横Gに全身が軋む。それに耐えながら、少しでもクイックに旋回するために右の羽根で推進、左の羽根で制動という無茶な動作を行い、視界の端に同じく左旋回中の敵戦列を捉える。
重武装のサラマンダーは、リーファの狙いを悟っても旋回半径を縮めることができない。その横腹めがけ、ターンを完了したリーファの剣が襲い掛かった。
左端の敵に、リーファの胴薙ぎが見事にヒット。フォーメーションが乱れる。
(このまま乱戦に持ち込んでやる!!)
五人の敵のうち、意思飛行を行っていたのは先程落としたリーダーだけで、残りは全員コントローラ使用だ。混戦時のクイックさはリーファは大きく上回る。
ちらりとレコンの姿を探すと、右端のサラマンダーと熱戦を繰り広げていた。普段は頼りないが彼もベテランプレイヤーの端くれだ。近接戦に持ち込みさえすればダガー使いの本領を発揮する。
リーファも狙った敵の背後にぴたりと張り付き、的確なダメージを与え続けた。いけるかもしれない、とちらりと考える。唯一の不安は先刻の火焔魔法攻撃で、あれは五人の中に少なくとも一人メイジがいることを意味する。武装は全員が同じ金属鎧なので補助的に魔道スキルを選択している魔法戦士だろうが、サラマンダーの操る火焔魔法は低級のものでも侮れない威力を持っている。
フォーメーションの常識として、メイジは左右どちらかの端だろうとリーファは予想していた。つまり、今相手にしている敵か、もしくはレコンが張り付いてちくちくと嫌味な攻撃をしている奴だ。この距離ならスペル攻撃を行う余裕はない。この二人を落とせば、あとは五分の勝負だ。
「ウラァァァァ!!」
リーファは気合とともに再び得意の両手上段斬りを放った。見事に敵の肩口にヒットし、HPバーがぐいっと動いて消滅した。
「畜生!!」
敵が毒づいた直後、その体が深紅の炎に包まれた。ごおっという効果音と共に火焔の雫が飛散し、あとには小さな赤い炎が残される。この火が消えないうちに蘇生魔法なりアイテムを使用すればこの場で復活できるが、約一分が経過してしまうと彼は己のテリトリーに転送されてしまい、そこで蘇生することになる。
リーファは倒した敵のことをすぐに脳裏から振り払い、新たな敵へと目標を定めた。残り三人はまだ長大なランスの扱いに不慣れらしく、接近戦での動きが鈍い。無理な突撃を交互に繰り返してくるが、速度の乗らない突き攻撃など、武器の見切りの達人であるリーファには通用しない。
再び視線を動かすと、レコンも今まさに止めを刺そうというところだった。彼のHPバーもそれなりに減少しているが、回復魔法が必要なほどではない。五対二の圧倒的に不利なエアレイドだったが、これなら勝てる――そう確信し、リーファが長刀を振りかぶった、その時。
下方向から立て続けに伸び上がった炎の渦が、レコンの体を捉えた。
「うわああ!!」
悲鳴を上げてレコンが空中で停止する。
「バカ、止まるな!!」
リーファの叫びが届く前に、瀕死のサラマンダーのランスがレコンの体を貫いた。
「ごめえええええん」
断末魔と謝罪を同時にこなしたレコンが、緑色の光に包まれた。直後、その体が消滅し、先程と同じように小さな残り火が漂う。
すぐに蘇生するとわかっていても、やはり仲間が倒れるのは嫌なものだ。リーファは奥歯を噛み締めるが、感傷に浸っている余裕はない。再び地上から殺到する火焔攻撃を、連続ターンで必死に避ける。
(メイジは先頭の奴だったのか――!!)
そうとわかっていれば、落下するのを追って止めをさしたものを。だが今更悔やんでも遅い。状況は絶対的に不利だ。
しかし、諦めるつもりはない。最後の最後まで醜くあがいて執拗に逆転の一本を狙う、それが長い年月で培ったリーファの美学でありリアリズムである。
スペルの援護で態勢を立て直した二人のサラマンダーが、遠距離からの突撃を開始した。
「来い!!」
叫んで、リーファも上段に長刀を構えた。
「フムグ!!」
途方もなく長い落下の末、情けない悲鳴を発しながら俺はどことも知れぬ場所に着陸した。前記のような声が出たのは、最初に地面に接したのが足ではなく顔面だったからだ。深い草むらに――石畳でなくて本当によかった――顔を突っ込んだ姿勢で数秒間静止したあと、ゆっくりと背中から仰向けに倒れる。
ともかく自由落下が終了した安堵感で、俺はしばらくそのまま寝転がり続けた。
夜だ。深い森の中。樹齢何百年とも知れない節くれだった巨木が、俺の周囲に天を突く勢いで伸び、四方に枝葉を広げている。その向こうに見えるのは星屑を散りばめた黒い空、そして真上に輝く巨大な金色の円盤。
虫の声がする。それに被せて夜鳥が低く歌っている。かすかに響く獣の遠吠え。鼻腔をくすぐる植物の香り。肌を撫でていく微風。すべてが恐ろしく鮮やかに俺の五感を包み込んでいる。現実以上の現実感――まごうことなき仮想世界の手触りだ。
「また……来ちまったなぁ……」
俺は目を閉じてひとりごちた。あの世界から解き放たれて二ヶ月、一度はもう決して訪れることはあるまいとすら思ったダイレクトVRワールドに、再びこうして横たわっている。性懲りもなく――、という言葉が脳裏をよぎり、思わず苦笑する。
だが、あの世界とひとつだけ異なるのは、いつでもここから出られるという保証があることだ……と、そこまで考えたところで、俺は不意にギクリとした。
先程のオブジェクト表示異常、謎の空間移動、あれは何だったのか。そもそも俺はなぜこんな所にいるのか。開始地点は種族のホームタウンだとナビゲータが言っていたではないか。ここはどう見ても街中ではない。
「おい、まさか……まさかねえ……」
俺は片頬を引き攣らせながら、左手を上げ、人差し指を振った。が、何も起こらない。冷や汗をかきながら何度か試したところで、先程聞き流したチュートリアルでメニューの呼び出しは右手、飛行コントローラが左手と教えられたことを思い出す。
右手の指を振ると、今度は軽快な効果音とともに半透明のメインメニューウインドウが開いた。デザインはSAOのものとほとんど同一だ。右に並ぶメニューを食い入るように見つめる。
「あ、あった……」
一番下に、『Log Out』と表示されたボタンが光っていた。ためしに押してみると、「フィールドでは即時ログアウトはできませんが云々」という警告メッセージとともにイエス/ノーボタンが現れる。
ひとまず俺は安堵のため息をついた。片手をつき、上体を起こす。
改めて周囲を見渡すと、どうやら広大な森の奥深くにいるようだった。巨木の連なりが無限に続くばかりで、灯り一つ見えない。なぜこんな所にいるのか見当もつかない。とりあえずマップを開いてみようと、再びウインドウに目を落とす。ボタンに指を伸ばしかけ――俺はあることに気付き、ぴたりと動きを止めた。
ウインドウ最上部には、キリトというお馴染みの名前とスプリガンなる種族名の表示。その下にヒットポイント、マナポイントというステータス数値がある。それぞれ四〇〇、八〇といういかにも初期値然とした数字だ。
俺が目を止めたのは、さらにその下にあるスキルアップポイントという表示だった。これがいわゆる経験値なのだろう。ゲームを始めたばかりの俺は当然ゼロ――であるはずなのだが。
「ええと……いち、じゅう……」
俺は指でゆっくりとケタを数えた。そこには七つの数字が並んでいた。
「二三九万……三千四百二十一……」
呆然と呟く。初期ボーナス値、という可能性もなくはないがそれにしたって膨大すぎる上にキリが悪すぎる。
これはどう考えてもデータがバグっている。こんな所に飛ばされてしまったことといい、システムが不安定なのだろうか。
「大丈夫なのかよこのゲーム……。GMコールってあるのかな……」
呆れつつ再びコマンド群を辿ろうとして、俺はふとなにか記憶にひっかかるものを感じた。スキルアップポイントの数値に目を戻す。なんだか見覚えがあるような気がする。二……三……九……。
不意に電撃のような天啓に打たれ、俺は飛び起きた。
見覚えがあるはずだ。これは俺があの世界で二年かけて稼いだ経験値、そのトータルの数字そのままだ。間違いない、アインクラッドとともに消滅したはずの剣士キリトの最終的ステータス――それが今目の前に表示されている。
俺は激しく混乱した。ありえない事が起きている、としか思えない。別の会社が開発した、別のゲームなのだ。セーブデータが勝手に移動したとでも言うのか。それとも――ここは――
「SAOの中なのか……?」
立ち尽くした俺の唇からうつろな声が漏れた。
たっぷり数十秒は続いた意識の空白からようやく回復した俺は、頭をぶんぶんと振ってからふたたびウインドウに目を戻した。
何が何だかわからないが、とりあえず他の情報がないか探ってみることにして、アイテム欄を開いてみる。
「うわ……」
そこに現れたのは、膨大な数の文字化けした表示の羅列だった。謎の漢字、数字、アルファベットが入り混じり、何がなにやら見当がつかない。
多分、これは俺がアインクラッドで所持していたアイテム群の残滓なのだろう。やはり何らかの原因で旧キリトのデータがこの世界に存在するのだ。
「あっ……待てよ……」
俺は突然、ある可能性に思い至った。
アイテムが残っているなら――あれもあるはずだ。アイテム欄を食い入るように見つめ、指先で画面をスクロールしていく。
「頼む……あってくれ……頼むよ……」
意味をなさない文字列の奔流が眼前を流れていく。心臓が早鐘のように鳴り響く。
「……」
俺の指が無意識のうちにぴたりと止まった。その下に、暖かなライムグリーンに発光するアルファベットの並び。『MHCP001X.zip』。
呼吸をするのも忘れ、俺は震えるゆびでその名前に触れた。アイテムが選択され、カラーが反転する。指を移動させ、下部の『取り出す』というボタンを押す。
ウインドウの表面に、ゆっくりと白い輝きが浮かび上がった。涙滴型にカットされた、大粒のクリスタル。中心部分がとくん、とくんと瞬いている。
俺は両手で宝石をすくいとると、そっと持ち上げた。ほのかなぬくもりを感じる。それを意識しただけで、目頭が熱くなってくる。
神様、お願いします――、胸のなかでそう念じながら、俺は人差し指の先でそっとクリスタルを二度叩いた。その途端、手の中で純白の光が爆発した。
「!!」
目を細め、一歩下がる。光の結晶体は俺の手を離れ、地上から二メートルほどの高さで停止した。光はどんどん強くなる。周囲の木々が青白く染め上げられ、月すらその輝きを失う。
俺が目をいっぱいに開いて見守るなか、光の奔流の中心部分にゆっくりとひとつの影が生まれ始めた。それは徐々に形を変え、色彩をまとっていく。四方にたなびく長い黒髪――純白のワンピース――すらりと伸びた手足――。目蓋を閉じ、両手を胸の前で組み合わせたひとりの少女が、まるで光そのものが凝集したかのような輝きをまといながら、ふわりと俺の眼前に舞い降りてきた。
光の爆発は、始まったときと同じように不意に消え去った。地上からすこし浮いた場所で静止した少女の長い睫毛が震え、目蓋がゆっくりと開いていく。やがて、夜空のように深い色の瞳が、まっすぐに俺を見つめた。
俺は動けなかった。声が出ない。まばたきすらできない。
そんな俺を見ていた少女の、桜色の唇がゆっくりとほころんだ。天使のような――という陳腐な言葉でしか表現できない微笑。それに勇気づけられ、俺は口を開いた。
「俺だよ……ユイ、わかるか……?」
そこまで言ってから、はっとして俺は自分の体を見下ろした。今の俺は、あの世界とはまるで異なる姿だ。自分では確認できないが、服装はおろか顔の造作も違うはずだ。
だが、心配は杞憂だった。少女――ユイの唇がうごき、懐かしい鈴の音のような声が響いた。
「また、会えましたね――パパ」
大粒の涙をきらめかせながら、宙を飛ぶように移動したユイが俺の胸に飛び込んできた。
「パパ……パパ!!」
何度も叫びながら、細い腕を俺の首にかたく回し、頬をすり寄せる。俺もその小さな体をぎゅっと抱きしめる。喉の奥から堪えきれない嗚咽が漏れる。
ユイ――、あの世界で出会い、たった三日だけ一緒に暮らし、そして消えてしまった少女。短い時間だったが、あの日々は俺の中でかけがえのない記憶として焼きついていた。アインクラッドでの長く辛い戦いの中、間違いなく俺が真に幸福だと感じていたあのわずかな日々――。
郷愁にも似た切ない甘さに包まれながら、俺はユイを固く抱いたままいつまでも立ち尽くしていた。こんな奇跡が起きるのだ――だから、アスナとも、きっとまた出会える。もう一度あの暮らしを取り戻せる。
それは、現実世界に帰還してから初めて芽生えた確信だった。
「で、こりゃ一体どういうことなんだろ?」
森の中、先刻墜落した空き地の片隅に手ごろな切り株を見つけて腰掛けた俺は、膝の上のユイに尋ねた。
俺の胸に頬をすり寄せて――こういう仕草はアスナにそっくりだ――至福の笑みを浮かべていたユイは、きょとんとした顔で俺を見上げた。
「――?」
「いや、ここSAOの中じゃないんだよ実は……」
ユイが消滅してからの経緯をかいつまんで説明する。ユイを圧縮して保存したこと。アインクラッドの消滅。そして新たな世界、アルヴヘイム。だがアスナのことは簡単には言葉にできなかった。
「ちょっと待ってくださいね」
ユイは目を閉じると、何かの声に耳を澄ますかのように首を傾けた。
「ここは――」
ぱちりと目蓋を開け、俺を見る。
「ここは、ソードアート・オンラインサーバーのコピーだと思われます」
「コピー……?」
「はい。基幹プログラム群はほぼ同一です。ただカーディナル・システムのバージョンが少し古いですね。その上に乗っているゲームコンポーネントはまったく新しいものですが……」
「ふむう……」
俺は考え込んだ。
このアルヴヘイム・オンラインがリリースされたのはSAO事件の十四ヶ月後、アーガスが消滅し、事後処理をレクトが委託されたしばらく後だ。アーガスの技術資産をレクトが吸収したということになれば、それをそのまま流用して新規のVRMMOを立ち上げるということは十分考えられる。ゲームの根幹を成す感覚シミュレーション・フィードバック技術が出来上がっているなら、開発費は大幅に抑えられるだろう。
つまり、ALOがSAOのコピーシステム上で動いている、という事は有り得なくもない。だが――。
「でも……何で俺の個人データがここにあったんだろう……」
「ちょっとパパのデータを覗かせてくださいね」
ユイは再び目を閉じた。
「……間違いないですね。これはSAOでパパが使用していたキャラクター・データそのものです。システムが共通なのでセーブデータのフォーマットもほぼ同じなのですが、この世界に存在しないアイテムは破損してしまっているようですね……。このままではエラーチェッカーに検出されると思います。アイテムは全て破棄したほうがいいです」
「そうか、なるほどな」
俺はアイテム欄に指を滑らせると、文字化けしているアイテムを全て選択し、まとめてデリートした。残ったのは正規の初期装備品だけだ。
「この経験値はどうしたもんだろう」
「システム上はエラーではないですが……不自然ではありますね。人間のメンテナンスが入ると発見されるかもしれません。使用してしまってはどうでしょう」
「おお、素晴らしい証拠隠滅方法だ。ユイは素質がある」
「へ、へんなこと言わないでください!」
頬をふくらませるユイの頭を撫でながら、俺はコマンドボタンを操作してスキルアップ画面に移動した。
「なるほど、経験値を消費して各種スキルレベルを上げるんだな……。どれどれ」
とりあえずHP増加スキルの上昇ボタンを押してみる。――効果音と共にHPが一〇増え、経験値が一〇〇減少した。
「……この調子で二百万消費すんの……?」
「がんばってください」
にこにこ笑いながらユイが言う。俺は相当にゲンナリしながら、半ば自棄になりつついろいろなスキルの上昇ボタンを押し捲った。
「これはもうビーターというよりチーターだよな……」
――だがまあステータスが強力であるに越したことはない。俺はこれから世界樹とやらに登り、アスナを探しに行かねばならないのだ。まっとうにゲームをプレイする気はもとより無い。
あれこれ悩みつつ数十分をかけてスキルアップポイントをほぼ消費した俺は、大きくひとつ伸びをしてウインドウを消した。
作業の結果わかったのは、この世界では経験値稼ぎはあまり意味が無い、ということだ。SAOに存在した敏捷力や筋力のパラメータは存在しないし、ヒットポイントやマナポイントの上昇幅は微々たるものである。各種武器スキルは、上昇しても装備できる武器の種類が増えるだけで、威力には影響しない。当然SAOに存在した剣技もない。
唯一未知数なのはSAOにはなかった魔法スキルだが、こればかりは使ってみないとわからないということで、適当にあれこれ上昇させておくことにした。
作業を終えた俺は、相変わらず俺に密着して猫のように目を細めているユイに尋ねた。
「そう言えば、ユイはこの世界ではどういう扱いになってるんだ……?」
彼女の実体は人間ではない。SAOのケアプログラムが異常変化を起こし、その結果生まれた人工知能、AIである。
二〇一三年現在、いくつかの最先端の研究機関が「かぎりなく知能に近い人工知能」を発表している。プログラムの「知性的ふるまい」は、突き詰めていくと見かけ上は擬似的な知能と真の知能との境い目があいまいになっていき、現在ではそれら境界上のAIがもっとも先進的なものとされている。
ユイもあるいはそのような存在なのかもしれないし、あるいは最初に生まれた真のAIなのかもしれない。だが俺にとってはどうでもいいことだ。俺はユイを愛しているし、彼女も俺を慕ってくれている。それでじゅうぶんだ。
「えーと、このアルヴヘイム・オンラインにもプレイヤーサポート用の擬似人格プログラムが用意されているようですね。ナビゲートピクシー、という名称ですが……わたしはそこに分類されています」
言うなり、ユイは一瞬難しい顔をした。直後、その体がぱあっと発光し、次いで消滅してしまった。
「お、おい!?」
俺は慌てて声を上げる。立ち上がろうとして――膝の上にちょこんと乗っているモノに気付いた。
身長は十センチほどだろうか。ライトマゼンタの、花びらをかたどったミニのワンピースから細い手足が伸びている。背中には半透明の翅が二枚。まさに妖精と言うべき姿だ。愛くるしい顔と長い黒髪は、サイズこそ違うがユイのままである。
「これがピクシーとしての姿です」
ユイは俺の膝上で立ち上がると、両腰に手を当てて翅をぴこぴこと動かした。
「おお……」
俺はやや感動しながら指先でユイのほっぺたをつついた。
「くすぐったいですー」
笑いながらユイは俺の指から逃れ、しゃらんという効果音と共に空中に浮き上がった。そのまま俺の肩に座る。
「……じゃあ、前と同じように管理者権限もあるのか?」
「いえ……」
少ししゅんとした声。
「できるのは、リファレンスと広域マップデータへのアクセスくらいです。接触したプレイヤーのステータスなら確認できますが、主データベースには入れないようです……」
「そうか……実はな……」
俺は表情をあらためた。
「ここに、アスナが……ママがいるらしいんだ」
「えっ……ママが……!?」
ユイが肩から飛び上がり、俺の顔の前で停止した。
「どういうことですか……?」
「……」
俺は須郷のことから説明しようとしたが、寸前で思いとどまった。ユイをかつて崩壊寸前まで追い込んだのは人間の負の感情だ。これ以上ユイを人の悪意で汚染したくなかった。
「……アスナは、SAOサーバーが消滅しても現実に復帰していないんだ。俺はこの世界でアスナに似た人を見たという情報を得てここにやってきた。もちろん他人の空似かもしれないんだけど……藁にもすがる、ってやつかな……」
「……そんなことが……。ごめんなさいパパ、わたしに権限があればプレイヤーデータを走査してすぐに見つけられるのに……」
「いや、大体の居場所は見当がついてるんだ。世界樹……とか言ってたな。場所、わかるかい?」
「あ、はい。ええと、ここからは大体北東の方向ですね。でも相当に遠いです。リアル単位置換で五十キロメートルはあります」
「うわ、それは凄いな。アインクラッド基部フロアの五倍か……。うーん、そういえばここでは飛べるって聞いたなぁ……」
俺は立ち上がり、首を捻って肩越しに覗き込んだ。
「おお、羽根がある」
背中から、クリアグレーに透き通る鋭い流線型の羽根――というよりも昆虫の翅と言うべきか――が伸びている。だが動かし方がさっぱり分からない。
「どうやって飛ぶんだろ」
「補助コントローラがあるみたいです。左手を立てて、握るような形を作ってみてください」
再び肩に乗ったユイの言葉に従って、俺は手を動かした。するとその中に、簡単なジョイスティック状のオブジェクトが出現した。
「えと、手前に引くと上昇、押し倒すと下降、左右で旋回、ボタン押し込みで加速、離すと減速となっていますね」
「ふむふむ」
俺はスティックをゆくり手前に倒してみた。すると、背中の翅がぴんと伸び、ぼんやりとした燐光を放ち始める。そのままスティックを引きつづける――。
「おっ」
不意に、体がふわりと浮いた。ゆっくりとした速度で森の中を上昇していく。一メートルほど浮いたところでニュートラルに戻し、今度はてっぺんの球を押し込んだ。すると体が滑るように前方に移動していく。
下降や旋回を試すうち、俺はすぐに操作を飲み込むことができた。かつて遊んだ飛行系VRゲームに比べれば相当に単純な操作系だ。
「なるほど、大体わかった。とりあえず基本的な情報が欲しいよな……。一番近くの街ってどこかな?」
「北西のほうに『スイルベーン』という街がありますね。そこが一番……、あっ……」
突然ユイが顔を上げた。
「どうした?」
「プレイヤーが近づいてきます。三人が一人を追っているようですが……」
「おお、戦闘中かな。見に行こうぜ」
「あいかわらずパパはのんきですねえ」
ユイの頭をこつんと突付き、俺はウインドウを操作して初期アイテムの片手用直剣を背中に装備した。抜いて、数回振ってみる。
「うわあ、なんかちゃちぃ剣だなぁ。軽いし……まあいっか……」
鞘に収め、俺は再びスティックを出して握った。
「ユイ、先導頼む」
「了解です」
鈴のような音とともに肩から飛び立ったユイを追って、俺も空中移動を開始した。
サラマンダーの放った火炎魔法が、ついにリーファの背を捉えた。
「うぐっ!!」
無論痛みや熱は感じないが、背後から大きな手で張り飛ばされたような衝撃を受けて姿勢を崩す。逃亡を図りながら風属性の防御魔法を張っておいたお陰でHPバーには余裕があるものの、シルフ領はまだまだ遠い。
その上、リーファは加速が鈍り始めたのに気付く。忌々しい滞空制限だ。あと数十秒で翅がその力を失い、飛べなくなる。
「くうっ……」
歯噛みをしながら、樹海に逃げ込むべく急角度のダイブ。敵にメイジがいる以上、魔法を使っても隠れおおせるのは難しいだろうが諦めておとなしく討たれるのは趣味ではない。
梢の隙間に突入し、幾重にも折り重なった枝を縫いながら地表に近づいていく。そうするうちにも速度はどんどん落ちる。やがて前方に草の繁った空き地を見つけそこにランディングを敢行、靴底を滑らせながら制動をかけ、正面の大木の裏に飛び込むと身を伏せた。
すぐさま両手を宙にかざし、隠行魔法を使用する。詠唱タイマーバーが視界に表示され、それがゼロになると、薄緑色の大気の流れが足許から湧き上がり、リーファの体を覆った。
これで敵の視線からはガードされる。しかし、高レベルの索敵スキルもしくは看破魔法を使われればその限りではない。息を詰め、ひたすら身を縮める。
やがて――。サラマンダー特有の鈍い飛翔音が複数ゆっくりと近づいてきた。背後の空き地に着陸する気配。がちゃがちゃと鎧の鳴る音。すぐに低い叫び声がした。
「このへんにいるはずだ! 探せ!!」
「いや、シルフは隠れるのが上手いからな。魔法を使おう」
スペルを使用する効果音が続く。リーファは思わず毒づきそうになって口をつぐむ。――やがて、ざわざわと草の鳴る音が背後から近づいてきた。
巨木の根を乗り越えてこちらに近づいてくるいくつかの小さな影。赤い皮膚と眼を持つトカゲだ。火属性の看破魔法である。数十匹のサーチャーが放射状に放たれ、隠行中のプレイヤーまたはモンスターに接触すると燃え上がって場所を教えるスペルだ。
(あっちに行け! この!!)
トカゲの進路はランダムだ。リーファは必死に小さな爬虫類に向かって念ずる。が、願い空しく――。
一匹がリーファを包む大気の膜に触れた、その途端、一声甲高く鳴いて、赤々と燃え上がった。
「いたぞ、あそこだ!!」
がしゃがしゃと駆け寄ってくる音。リーファはやむなく木の陰から飛び出す。一回転して立ち上がり、抜剣して構えると、三人のサラマンダーも立ち止まってランスをこちらに向けてきた。
「梃子摺らせてくれるなぁ」
右端の男が兜のバイザーを跳ね上げ、興奮を隠し切れない口調で言った。
中央に立つリーダー格の男が、落ち着いた声で言葉を続ける。
「悪いがこっちも任務だからな。金とアイテムを置いていけば見逃す」
「なんだよ、殺しちまおうぜ!! ポイントも稼げるしさぁ」
今度は左の男が、同じくバイザーを上げながら言った。暴力に酔った、粘つく視線を向けてくる。
一年の経験から言うと、こういう、女性プレイヤーを殺すのに執着を見せる連中はかなり多い。リーファは嫌悪感で肌が粟立つのを意識する。卑猥な言葉を発したり、戦闘以外の目的で無闇と体に触れたりすればハラスメント行為で即座に隔離のうえバンされてしまうが、殺傷自体はゲームの目的でもあるゆえに自由だ。VRMMOで女性プレイヤーを殺すのはネットにおける最高の快楽とうそぶく連中すらいるのだ。
正常に運営されているALOですらこうなのである。いまや伝説となった『あのゲーム』の内部はさぞ……と思うと背筋が寒くなる。
リーファは両足でしっかりと地面を踏みしめると、愛用のツーハンドブレードを大上段に構えた。視線に力を込め、サラマンダー達をにらむ。
「あと一人は絶対に道連れにするわ。デスペナルティの惜しくない人からかかってきなさい」
低い声で言うと、両脇のサラマンダーが猛り立つように奇声を上げながらランスを振り回した。それを両手で制しながらリーダーが言った。
「諦めろ、もう翅が限界だろう。こっちはまだ飛べるぞ」
確かに、言われたとおりだった。ALOにおいて、飛行する敵に地上で襲われるのは絶対的に不利なポジションである。一対三となれば尚更だ。しかし諦める気はない。金を渡して命乞いをするなどもってのほかだ。
「気の強い子だな。仕方ない」
リーダーも肩をすくめると、ランスを構え、翅を鳴らして浮き上がった。左右のサラマンダーも左手にスティックを握り、追随する。
たとえ三本の槍に同時に貫かれようとも、最初の敵に全力を込めた一太刀を浴びせる覚悟でリーファは腕に力を込めた。敵が三方からリーファを取り囲み――今まさに突撃しようという、その時だった。
突然右方向の潅木ががさがさ揺れたかと思うと、黒い人影が転がり出てきた。
予想外のことに、リーファと三人のサラマンダーの動きが止まった。あっけに取られて黒衣の闖入者を凝視する。
「うう、いてて……。着陸がミソだなこれは……」
緊張感の無い声とともに立ち上がったのは、浅黒い肌の男性プレイヤーだった。つんつんと尖った勢いのいい髪形、やや吊り上った大きな目、どことなくやんちゃな少年と言った気配だ。背中から伸びるクリアグレーの翅はスプリガンの証である。
はるか東の辺境にテリトリーを持つスプリガンがこんな所で何を、と思いながら彼の装備をチェックしたリーファは目を疑った。黒い簡素な短衣にズボン、アーマーの類はなく、武器は背中の貧弱な剣一本。どう見ても初期装備そのままだ。初心者《ニュービー》がこんな中立域の奥深くに出てくるとは何を考えているのか。
右も左もわからないニュービーが無惨に狩られるシーンを見るにしのばず、リーファは思わず叫んでいた。
「何してるの! 早く逃げて!!」
だが黒衣の少年は動じる気配もない。まさか他種間ならキル有りというルールを知らないのだろうか。右手を腰に当てると、リーファと上空のサラマンダーたちをぐるりと見渡し、声を発した。
「重戦士三人で女の子一人を襲うのはちょっとカッコよくないなぁ」
「なんだとテメエ!!」
のんびりした言葉に激発した二人のサラマンダーが、宙を移動して少年を前後から挟み込んだ。ランスを下方に向け、突進の姿勢を取る。
「くっ……」
助けに入ろうにも、リーダー格の男が上空でこちらを牽制しているためうかつに動けない。
「一人でノコノコ出てきやがって馬鹿じゃねえのか。望みどおりついでに狩ってやるよ!」
少年の前方に陣取ったサラマンダーが、音高くバイザーを降ろした。直後、広げた翅からルビー色の光を引きつつ突撃を開始。後方の一人は、少年が回避した所を仕留めるべく時間差で襲い掛かるつもりらしい。
とうていニュービーにどうにかなる状況ではなかった。ランスが体を貫く瞬間を見たくなくて、リーファが唇を噛んで目を逸らせようとした――その時だった。
信じられないことが起こった。
右手をポケットに突っ込んだまま、無造作に左手を伸ばした少年が、必殺の威力をはらんだランスの先端をがしっと掴んだのだ。ガードエフェクトの光と音が空気を震わせる。あっけに取られて目と口をぽかんと開けるリーファの眼前で、少年はサラマンダーの勢いを利用して腕をぶんと回すと、掴んだランスごと背後の空間に放り投げた。
「わあああああ」
悲鳴を上げながら吹っ飛んだサラマンダーが、待機していた仲間に衝突し、両者は絡まったまま地面に落下した。がしゃがしゃん! という金属音が重なって響く。
少年はゆっくり振り返ると、背後の剣に手をかけ――そこで動きを止め、やや戸惑ったような表情でリーファを見て、言った。
「ええと……斬ってもいいのかな?」
「……そりゃいいんじゃないかしら……。少なくとも先方はそのつもりだと思うけど……」
もう訳がわからず、呆然と答える。
「それもそうか。じゃあ失礼して……」
少年は右手で背から貧相な剣を抜くと、だらりと地面に垂らした。斬る、と威勢のいいことを言っているわりには動きに気合というものがない。すっと重心を前に移しながら左足を一歩前に――
突然、ズバァン!! という衝撃音と共に少年の姿が掻き消えた。今までどんな敵と相対しようともその太刀筋が見えなかったことはないリーファの眼ですら追いきれなかった。あわてて首を右に振ると、遥か離れた場所に少年が低い姿勢で停止していた。剣を真正面に振り切った形である。
と、二人のサラマンダーのうち立ち上がりかけていた方の体が赤い光に包まれた。直後にその体が四散。小さな残り火が漂う。
(――速過ぎる!!)
リーファは激しく戦慄した。いまだかつて目にしたことのない次元の動きを見た衝撃で全身がぞくぞくと震えた。
この世界でキャラクターの運動速度を決定しているものは唯一つ、NERDLESシステムの電磁パルス信号に対する脳神経の反応速度である。アミュスフィアが信号を発し、脳がそれを受け取り、処理し、運動信号としてフィードバックする、そのレスポンスが速ければ速いほどキャラクターのスピードも上昇する。生来の反射神経に加えて、一般的に長期間の経験によってもその速度は向上すると言われている。
自慢ではないがリーファはシルフの中で五指に入るスピードの持ち主と称されている。長年鍛えた反射神経と、一年に及ぶALO歴によって、一対一ならばどんな相手にも遅れは取らないと近頃は自信を深めていたのだが――。
リーファと、サラマンダーのリーダーが唖然として見守る中、少年はゆっくりと立ち上がり、再び剣を構えつつ振り向いた。
もう一人のサラマンダーはまだ何が起こったのか理解していないようだ。見失った相手を探して見当違いの方向をきょろきょろと見回している。
その相手に向かって、容赦なく少年が再びアタックする素振りを見せた。今度こそ見失うまいとリーファは目を凝らす。
初動は決して速くない。気負いのない、ゆらりとした動きだ。だが一歩踏み出した足が地面に触れた瞬間――
再び大気を揺るがす大音響とともにその姿が霞んだ。今度はどうにか見えた。映画を限界まで早送りしたような、コマの落ちた映像がリーファの目に焼きつく。少年の剣が下段から跳ね上がり、サラマンダーの胴を分断。エフェクトフラッシュすら一瞬遅れた。少年はそのまま数メートルも移動し、片膝を突いた姿勢で停まる。再び死を告げる炎――エンドフレイムと呼ばれる――が噴き上がり、二人目のサラマンダーも消滅した。
スピードにばかり目を奪われていたリーファだが、今更のように少年の攻撃が発生させたダメージ量の凄まじさに気付いた。二人のサラマンダーのHPバーはフルでこそなかったもののまだ八割程度は残っていた。それを一撃で吹き消すとは尋常ではない。
ALOにおいて、攻撃ダメージの算出式はそれほど複雑なものではない。武器自体の威力、ヒット位置、攻撃スピード、被ダメージ側の装甲、それだけだ。この場合、武器の威力はほぼ最低、それに対してサラマンダーの装甲はかなりの高レベルだったと思われる。つまりそれをあっさり覆すほど少年の攻撃精度と、何よりもスピードが驚異的だったというわけだ。
少年は再びのんびりとした動作で体を起こすと、上空でホバリングしたままのサラマンダーのリーダーを見上げた。剣を肩で担ぎ、口を開く。
「どうする? あんたも戦う?」
その、あまりにも緊張感のない少年の言葉に、我に返ったサラマンダーが苦笑する気配がした。
「いや、勝てないな、やめておくよ。アイテムを置いていけというなら従う。もうちょっとでメイジスキルを上げられるんだ、デスペナが惜しい」
「正直な人だな」
少年も短く笑う。リーファに視線を向け、
「そちらのお姉さん的にはどう? 彼と戦いたいなら邪魔はしないけど」
乱入して大暴れしておきながらこの言い草にはリーファも笑うしかなかった。刺し違えても一人は倒すという気負いがいつの間にか抜けてしまっていた。
「あたしもいいわ。今度はきっちり勝つわよ、サラマンダーさん」
「正直君ともタイマンで勝てる気はしないけどな」
言うと、赤い重戦士は翅を広げ、燐光を残して飛び立った。がさり、と一回樹の梢を揺らし、暗い夜空へ溶け去るように遠ざかっていく。あとにはリーファと黒衣の少年だけが残された。
リーファは再びわずかに緊張しながら、少年の顔を見た。
「……で、あたしはどうすればいいのかしら。お礼を言えばいいの? 逃げればいいの? それとも戦う?」
少年は右手の剣をさっと左右に切り払うと、背中の鞘に音を立てて収めた。
「うーん、俺的には正義のナイトが悪漢からお姫様を助けた、っていう場面なんだけどな」
片頬でにやりと笑う。
「感激したお姫様から熱い口付けを、というのはどうだろう」
「ば、バッカじゃないの!!」
リーファは思わず叫んでいた。顔がかあっと熱くなる。
「なら戦ったほうがマシだわ!!」
「わははは、冗談だ」
いかにも楽しそうに笑う少年の顔を見ながらギリギリと歯軋りする。どう言い返してやろうかと必死に考えていると、不意にどこからともなく声がした。
「そ、そうですよ、そんなのダメです!!」
幼い女の子の声だ。咄嗟に周囲をきょろきょろと見回すが人影はない。と、少年がやや慌てた様子で言った。
「あ、こら、出てくるなって」
視線を向けると、少年の短衣の胸ポケットから何やら光るものが飛び出すところだった。小さなソレはしゃらんしゃらんと音を立てながら少年の顔のまわりを飛び回る。
「パパにキスしていいのはママとわたしだけです!」
「ぱ、ぱぱぁ!?」
あっけに取られながら数歩近寄ってよくよく見ると、それは手のひらに乗るような大きさの妖精だった。ヘルプシステムの一部、お馴染みのナビゲートピクシーだ。だがあれはゲームに関する基本的な質問に答えてくれるだけのそっけない存在だったはずなのだが。
リーファは少年に対する警戒も忘れ、飛び回る妖精にまじまじと見入った。
「あ、いや、これは……」
少年は焦った様子でピクシーを両手で包み込むと、引き攣った笑いを浮べた。リーファはその手の中を覗き込みながら訊ねた。
「ねえ、それってプライベートピクシーってやつ?」
「へ?」
「あれでしょ、プレオープンの販促キャンペーンで抽選配布されたっていう……。へえー、初めてみるなぁ」
「あ、わたしは……むぐ!」
何か言いかけたピクシーの顔を少年の手が覆った。
「そ、そう、それだ。俺クジ運いいんだ」
「ふうーん……」
リーファは改めてスプリガンの少年を上から下まで眺めた。
「な、なんだよ」
「や、変な人だなあと思って。プレオープンから参加してるわりにはバリバリの初期装備だし。かと思うとやたら強いし」
「ええーと、あれだ、昔アカウントだけは作ったんだけど始めたのはつい最近なんだよ。すっと他のVRMMOやってたんだ」
「へえー」
どうも腑に落ちないところもあったが、他のゲームでアミュスフィアに慣れているというなら、ずば抜けた反射速度を持っていることについても頷けなくもない。
「それはいいけど、なんでスプリガンがこんなところをうろうろしてるのよ。領地はずうっと東じゃない」
「み、道に迷って……」
「迷ったぁ!?」
情けない顔で少年が返した答えに、リーファは思わず吹き出してしまった。
「ほ、方向音痴にも程があるよー。きみ変すぎ!!」
傷ついた表情でうなだれる少年を見ているとお腹の底から笑いがこみ上げてくる。ひとしきりけらけらと笑うと、リーファは右手に下げたままだった長刀を腰の鞘に収め、言った。
「まあ、ともかくお礼を言うわ。助けてくれてありがとう。わたしはリーファっていうの」
「……俺はキリトだ。この子はユイ」
少年が手を開くと、頬を膨らませたピクシーが顔を出した。ぺこりと頭を下げて飛び立ち、少年の肩に座る。
リーファは、なんとなくこのキリトと名乗る少年ともう少し話をしたいと感じている自分に気付いて少々驚いた。人見知りとまでは言わないが決してこの世界で友達を作るのが得意ではないリーファにしては珍しいことだった。悪い人ではなさそうだし、思い切って言ってみる。
「ねえ、君このあとどうするの?」
「や、とくに予定はないんだけど……」
「そう。じゃあ、その……お礼に一杯おごるわ。どう?」
するとキリトと名乗る少年は顔中でにこりと笑った。リーファは内心でへえ、と思う。感情表現の難しいVR世界で、ここまでいい顔で笑える人間はなかなかいない。
「それは嬉しいな。じつは色々教えてくれる人を探してたんだ」
「色々って……?」
「この世界のことさ。とくに……」
不意に笑いを収め、視線を北東の方角に向ける。
「……あの樹のことをね」
「世界樹? いいよ。あたしこう見えてもけっこう古参なのよ。……じゃあ、ちょっと遠いけど北のほうにグリエルって村があるから、そこまで飛びましょう」
「あれ? スイルベーンって街のほうが近いんじゃあ?」
リーファはやや呆れながらキリトの顔を見る。
「そりゃそうだけど……ほんとに何も知らないのねえ。あそこはシルフ領だよ」
「何か問題あるの?」
あっけらかんとしたキリトの言葉に思わず絶句する。
「……問題っていうか……領土内じゃ君はシルフを攻撃できないけど、逆はアリなんだよ」
「別にみんなが即襲ってくるわけじゃないんだろう? リーファさんもいるしさ。シルフの国って綺麗そうだから見てみたいなぁ」
「……リーファでいいわよ。ほんとに変な人。まあそう言うならあたしは構わないけど……命の保証まではできないわよ」
リーファは肩をすくめると答えた。愛着のあるシルフ領を見てみたいと言われれば嫌な気はしない。それに、この辺では滅多に見かけないスプリガンを連れて帰ればみんな驚くだろうなあ、と思うと悪戯心もわいてくる。
「じゃあ、スイルベーンまで飛ぶよ。そろそろ賑やかになってくる時間だわ」
ウインドウをちらりと確認すると、リアル時間は午後四時になったところだった。まだもう少し潜っていられる。
リーファは、飛翔力がかなり回復し、輝きの戻った翅を広げて軽くふるわせた。するとキリトが首を傾げながら言った。
「あれ、リーファはコントローラ無しで飛べるの?」
「あ、まあね。君は?」
「ちょっと前にこいつの使い方を知った所だからなぁ」
キリトは左手を動かす仕草をする。
「そっか。意思飛行はコツがあるからね、できる人はすぐできるんだけど……試してみよう。ちょっと後ろ向いて」
「あ、ああ」
くるりと体を半回転させたキリトの、決して大きいとは言えない背中に両手の人差し指を伸ばし、肩の少し下に触れる。肩に座ったピクシーが興味しんしんといった風に見下ろしてくる。
「今触ってるの、わかる?」
「うん」
「じゃあ、これから指をゆっくり動かすから、感触を追ってみて」
「了解」
リーファはそっと二本の指を下降させ始めた。一秒に一センチほどのじわじわとしたスピードで肩甲骨を目指す。
「うは、くすぐったいよ」
「しっ、集中して!」
かたく盛り上がった骨の頂点目指してゆっくりと指を滑らせる。やがて指が半透明の翅の根元に到達する。その部分では翅はおぼろに薄れて実体を失い、服を貫通しているのだが、そっと背中から指を離し、今度は翅の背のラインにそって滑らせはじめる。
「どう……? まだ感じる?」
「う、うん……でもなんかこれは……ヘンな感じがぁー」
「おっ!」
リーファは指を止めた。
「感触を逃がさないで!! 多分後頭部の内側がむずむずすると思うけど、そこと今の感覚を結びつける感じ。ほら、接続がどんどん太くなる……固くなる……」
指で翅の背をなぞりながら、キリトの耳に口を寄せ、ささやく。と――
突然、キリトの灰色の翅がぶるっと震えた。
「そう、そのまま! 体を上に引っ張る!!」
「うわっ!!」
キリトが声を洩らした、次の瞬間。その体がロケットのように上空へと飛び出した。
「うわあああああ」
キリトの体はたちまち小さくなり、悲鳴も遠くなり、ばさばさと葉を鳴らす音がしたと思うとすぐに梢の彼方へと消えていった。
「……」
リーファは、キリトの肩から転げ落ちたピクシーと顔を見合わせた。
「やばっ」
「パパー!!」
二人同時に慌てて飛び立ち、後を追う。樹海を脱し、ぐるりと夜空を見渡すと、やがて金色の月に影を刻みながら右へ左へとふらふら移動する姿を見つけた。
「うわあああああぁぁぁぁぁ………止めてくれええええぇぇぇぇぇ」
情けない悲鳴が広い空に響き渡る。
「……ぷっ」
再び顔を見合わせたリーファと、ユイというピクシーは同時に吹き出した。
「あはははははは」
「ご、ごめんなさいパパ、面白いです〜〜」
並んで空中にホバリングしたまま、お腹を抱えて笑う。少し収まったと思うと、またキリトの悲鳴が聞こえてきて笑いの発作がぶり返す。
足をばたばたさせて爆笑しながら、リーファは、こんなに笑ったのいつ以来かなあと考えていた。少なくともこの世界では初めてなのは間違いなかった。
散々笑って満足すると、リーファは無軌道に飛び回るキリトの襟首を捕まえて停止させ、あらためて意思飛行のコツを伝授した。キリトの筋はかなり良く、十分ほどのレクチャーでどうにか自由に飛べるようになった。
「おお……これは……これはいいな!」
旋回やループを繰り返しながらキリトが大声で叫んだ。
「そーでしょ!」
リーファも笑いながら叫び返す。
「何ていうか……感動的だな。このままずっと飛んでたいよ……」
「うんうん!」
嬉しくなって、リーファも翅を鳴らしてキリトに近づくと、軌道を合わせて平行飛行に入った。
「あー、ずるいです、わたしも!」
ピクシーも二人の間に位置を取り、飛び始める。
「それじゃあ、このままスイルベーンまで飛ぼう。ついてきて!」
リーファはくるりとタイトターンして方向を見定めると、森の彼方目指して巡航に入った。飛び始めて間もないキリトの事を慮って速度を抑え目にしておいたのだが、すぐに真横に追いついてきたキリトが言った。
「もっとスピード出してもいいぜ」
「ほほう」
リーファはにやっと笑うと翅を鋭角に畳み、ゆるい加速に入った。キリトが音を上げるところを見てやろうと、じわじわと速度を増していく。全身を叩く風圧が強まり、風切り音が耳元で唸る。
だが驚いたことに、リーファがマックススピードの七割程度にまで達しても、キリトは真横で追随してきた。システム的に設定された最高速度に到達する以前に、普通は心理的圧迫を感じて加速が鈍るものだが、初めての意思飛行でこのレンジにまでついてくるとは尋常な精神力ではない。
リーファは口許を引き締め、最大加速に入った。未だかつてこのスピード領域で編隊飛行をしたことはない。それに耐えられる仲間がいなかったからだ。
眼下の樹海が激流となって吹っ飛んでいく。キュイイイ、という弦楽器の高音にも似たシルフの飛翔音と、ヒュウウウという管楽器を思わせるスプリガンの翅音が美しい重奏をかなでる。
「はうー、わたしもうだめです〜」
ユイという名のピクシーがキリトの胸ポケットにすぽんと飛び込んだ。リーファとキリトは顔を見合わせ、笑う。
気付くと、前方で森が切れ、その向こうに色とりどりの光点の群が姿を現しつつあった。中央から一際明るい光のタワーが伸びている。シルフ領の都市スイルベーンと、そのシンボルである風の塔だ。街はぐんぐん近づき、すぐに大きな目貫通りと、そこを行き交う大勢の人波までも見て取れるようになってくる。
「お、見えてきたな!」
風切り音に負けないようキリトが大声で言った。
「真中の塔の根元に着陸するわよ! ……って……」
不意にあることに気付いて、リーファは笑顔を固まらせた。
「キリトくん、君、ランディングのやりかたわかる……?」
「……」
キリトも顔を強張らせた。
「わかりません……」
「えーと……」
すでに、視界の半ば以上が巨大な塔に占められている。
「ゴメン、もう遅いや。幸運を祈るよ」
リーファはにへへと笑うと、一人だけ急減速に入った。翅をいっぱいに広げ、足を前に出す姿勢で広場めがけて降下を開始する。
「そ……そんなバカなぁぁぁぁぁぁ」
黒衣のスプリガンが絶叫と共に塔の外壁目掛けて突っ込んでいくのを見送りながら、心の中で合掌。
数秒後、びたーん!! という大音響が空気を震わせた。
「うっうっ、ひどいよリーファ……飛行恐怖症になるよ……」
翡翠色の塔の根元、色とりどりの花が咲き乱れる花壇に座り込んだキリト恨みがましい顔で言った。
「目がまわりました〜」
彼の肩に座るピクシーも頭をふらふらさせている。リーファは両手を腰に当て、笑いをかみ殺しながら答えた。
「キミが調子に乗りすぎなんだよ〜。それにしてもよく生きてたねえ。絶対死んだと思った」
「うわっ、そりゃあんまりだ」
最高速度で壁面に激突しておきながら、キリトのHPバーはまだ半分以上残っていた。運がいいのかHPが多いのか、本当に謎の多い少年である。
「まあまあ、ヒールしてあげるから」
リーファは右手をキリトに向けてかざすと回復スペルを唱えた。青く光る雫が手からほとばしり、キリトに降りかかる。
「お、すごい。これが魔法か」
興味津々というふうにキリトが自分の体を見回す。
「高位のヒールはウンディーネじゃないとなかなか使えないんだけどね。必須スペルだから君も覚えたほうがいいよ」
「へえ、種族によって魔法の得手不得手があるのか。スプリガンてのは何が得意なの?」
「トレジャーハント関連と幻惑魔法かな。どっちも戦闘には不向きなんで不人気種族ナンバーワンなんだよね」
「うへ、やっぱり下調べは大事だな」
肩をすくめながらキリトが立ち上がった。大きくひとつ伸びをして、周囲にぐるりと視線を向ける。
「おお、ここがスイルベーンかぁ。綺麗な所だなぁ」
「でしょ!」
リーファも改めて住み慣れたホームタウンを眺める。
シルフの街スイルベーンは、別名翡翠の都と呼ばれている。華奢な尖塔が沢山の空中回廊で複雑に繋がり合って構成される町並みは、色合いの差こそあれ皆つややかなジェイドグリーンに輝き、それらが夜闇の中に浮かび上がる有様は幻想的の一言だ。
二人とひとりが声もなく光の街を行き交う人々に見入っていると、不意に右手から声をかける者がいた。
「リーファちゃん! 無事だったの!」
顔を向けると、手をぶんぶん振りながら近寄ってくるのは黄緑色の髪の少年シルフだった。
「あ、レコン。うん、どうにかねー」
リーファの前で立ち止まったレコンは目を輝かせながら言った。
「すごいや、アレだけの人数から逃げ延びるなんてさすがリーファちゃん……って……」
今更のようにリーファの傍らに立つ黒衣の人影に気付き、口を開けたまま数秒間立ち尽くす。
「な……スプリガンじゃないか!? なんで……!?」
飛び退り、腰のダガーに手をかけようとするレコンをリーファはあわてて制した。
「あ、いいのよレコン。この人が助けてくれたの」
「へっ……」
唖然とするレコンを指差し、キリトに言う。
「こいつはレコン。あたしの仲間なんだけど、キミと出会うちょっと前にサラマンダーにやられちゃったんだ」
「そりゃすまなかったな。よろしく、俺はキリトだ」
「あっ、どうも」
レコンはキリトの差し出す右手を握り、ぺこりと頭を下げてから、
「いやそうじゃなくて!」
また飛び退る。
「だいじょぶなのリーファちゃん!? スパイとかじゃないの!?」
「あたしも最初は疑ったんだけどね。スパイにしてはちょっと天然ボケ入りすぎてるしね」
「あっ、ひでえ!」
あはははと笑いあうリーファとキリトを、レコンはしばらく疑わしそうな目で見ていたが、やがて咳払いして言った。
「リーファちゃん、シグルド達は先に水仙館で席取ってるから、分配はそこでやろうって」
「あ、そっか。う〜ん……」
キャラクターの所持しているアイテムは、敵プレイヤーに殺されるとランダムに三十パーセントが奪われてしまうが、パーティーを組んでいる場合に限っては保険枠というものがあり、そこに入れているアイテムは死亡しても自動的に仲間に転送されるようになっている。
リーファたちも今日の狩りで入手したアイテムのうち価値のあるものは保険扱いにしておいたので、最終的にはリーファがすべての稼ぎを預かることとなり、サラマンダー達もそれを知っているゆえにしつこく追ってきたわけだが、キリトの助力によってどうにか全てをスイルベーンまで持ち帰ることができた。
このような場合は、死亡して先に転送された仲間と馴染みの店で改めてアイテム分配をするのが慣例となっていたが、リーファは少々悩んだすえにレコンに言った。
「あたし、今日の分配はいいわ。スキルにあったアイテムもなかったしね。あんたに預けるから四人で分けて」
「へ……リーファちゃんは来ないの?」
「うん。お礼にキリト君に一杯オゴる約束してるんだ」
「……」
先ほどとは多少色合いの異なる警戒心を滲ませながらレコンがキリトを見る。
「ちょっと、妙な勘繰りしないでよね」
リーファはレコンのつま先をブーツでこつんと蹴っておいて、トレードウインドウを出すと稼いだアイテムの全てを転送した。
「次の狩りの時間とか決まったらメールしといて。行けそうだったら参加するからさ、じゃあ、おつかれ!」
「あ、リーファちゃん……」
なんだか照れくさくなってきてしまったリーファは、強引に会話を打ち切るとキリトの袖をひっぱって歩きだした。
「さっきの子は、リーファの彼氏?」
「コイビトさんなんですか?」
「ハァ!?」
キリトと、その肩口から顔を出したユイに異口同音に尋ねられ、リーファは思わず石畳に足を引っ掛けた。慌てて翅を広げて体勢を立て直す。
「ち、違うわよ! パーティーメンバーよ、単なる」
「それにしちゃずいぶん仲良さそうだったよ」
「リアルでも知り合いって言うか、学校の同級生なの。でもそれだけよ」
「へえ、クラスメイトとVRMMOやってるのか、いいなぁ」
「うーん、いろいろ弊害もあるよー。宿題のこと思い出しちゃったりね」
「ははは、なるほどね」
会話を交わしながら裏通りを歩いていく。時折りすれ違うシルフのプレイヤーは、キリトの黒髪を見るとギョッとした表情を浮かべるが、隣で歩くリーファに気付くと不審がりながらも何も言わずに去っていく。それほどアクティブに活動しているわけではないリーファだが、スイルベーンで定期的に行われるPvPイベントで何度か優勝しているので顔はそこそこ通っているのだ。
やがて、前方に小ぢんまりとした酒場兼宿屋が見えてくる。デザート類が充実しているのでリーファが贔屓にしている『鈴蘭亭』という店だ。
スイングドアを押し開けて店内を見渡すと、プレイヤーの客は一組もいなかった。まだリアル時間では夕方になったばかりなので、冒険を終えて一杯やろうという人間が増えるにはしばらく間がある。
奥まった窓際の席にキリトと向き合って腰掛ける。
「さ、ここはあたしが持つから何でも自由に頼んでね」
「じゃあお言葉に甘えて……」
「あ、でも今あんまり食べると落ちてから辛いわよ」
メニューの魅力的なデザート類を睨みながらリーファもしばし唸る。
実に不思議なのだが、アルヴヘイムで食事をすると満腹感が発生し、それは現実に戻ってからもしばらく消えることはない。カロリーの心配なしに甘い物が好き放題食べられるというのは、リーファにとってはVRMMO最大の魅力の一つなのだが、それで現実世界での食欲がなくなると母親にこっ酷く怒られてしまうのだ。
実際このシステムのせいで、VRMMOをダイエットに使用したプレイヤーが栄養失調に陥ったり、あるいは生活の全てをゲームに捧げた一人暮らしのヘビープレイヤーが食事を忘れて衰弱死したりというニュースはいまやあまり珍しくない。
結局リーファはフルーツのムース、キリトはナッツタルト、少々驚いたがユイはチーズクッキーをオーダーし、飲み物はハーブワインのボトルを一本取ることにした。NPCのウェイトレスが即座に注文の品々をテーブルに並べる。
「それじゃあ、改めて、助けてくれてありがと」
不思議な緑色のワインを注いだグラスをかちんと合わせ、リーファは冷たい液体を乾いたのどに一気に放り込んだ。同じく一息でグラスを干すと、キリトははにかむように笑いながら言った。
「いやまあ、成り行きだったし……。それにしても、えらい好戦的な連中だったな。ああいう集団PKってよくあるの?」
「うーん、もともとサラマンダーとシルフは仲悪いのは確かなんだけどね。領地が隣り合ってるから中立域の狩場じゃよく出くわすし、勢力も長い間拮抗してたし。でもああいう組織的なPKが出るようになったのは最近だよ。きっと……近いうちに世界樹攻略を狙ってるんじゃないかな……」
「それだ、その世界樹について教えて欲しいんだ」
「そういや、そんな事言ってたね。でも、なんで?」
「世界樹の上に行きたいんだよ」
リーファは少々呆れながらキリトの顔を見た。冗談を言ってるわけではないらしく、黒い瞳に真剣な色が宿っている。
「……それは、多分全プレイヤーがそう思ってるよきっと。っていうか、それがこのALOっていうゲームのグランド・クエストなのよ」
「と言うと?」
「滞空制限があるのは知ってるでしょ? どんな種族でも、連続して飛べるのはせいぜい十分が限界なの。でも、世界樹の上にある空中都市に最初に到達して、妖精王オベイロンに謁見した種族は全員、『アルフ』っていう高位種族に生まれ変われる。そうなれば、滞空制限はなくなって、いつまでも自由に空を飛ぶことができるようになる――」
「……なるほど……」
ナッツタルトを一口齧り、キリトが頷いた。
「それは確かに魅力的な話だな。世界樹の上に行く方法っていうのは判ってるのか?」
「世界樹の内側、根元のところは大きなドームになってるの。その頂上に入り口があって、そこから内部を登るんだけど、そのドームを守ってるNPCのガーディアン軍団が凄い強さなのよ。今まで色んな種族が何回か挑んでるんだけどみんなあっけなく全滅。サラマンダーは今最大勢力だからね、なりふり構わずお金溜めて、装備とアイテム整えて、次こそはって思ってるんじゃないかな」
「そのガーディアンてのは……そんなに強いの?」
「もう無茶苦茶よ。だって考えてみてよ、ALOってオープンしてから一年経つのよ。一年かけてクリアできないクエストなんてありだと思う?」
「それは確かに……」
「実はね、去年の秋頃、大手のALO情報サイトが署名集めて、レクトプログレスにバランス改善要求出したんだ」
「へえ。それで……?」
「お決まりっぽい回答よ。『当ゲームは適切なバランスのもとに運営されており』、なんたらかんたら。最近じゃあね、今のやり方じゃあ世界樹攻略はできないっていう意見も多いわ」
「……何かキークエストを見落としている、もしくは……単一の種族だけじゃ絶対に攻略できない?」
ムースを口許に運ぼうとしていた手を止め、リーファは改めてキリトの顔を見た。
「へえ、いいカンしてるじゃない。クエスト見落としのほうは、今躍起になって検証してるけどね。後の方だとすると……絶対に無理ね」
「無理?」
「だって矛盾してるもの。『最初に到達した種族しかクリアできない』クエストを、他の種族と協力して攻略しようなんて」
「……じゃあ、事実上世界樹を登るのは……不可能ってことなのか……?」
「……あたしはそう思う。でも……諦めきれないよね、いったん飛ぶことの楽しさを知っちゃうとね……。たとえ何年かかっても、きっと……」
「それじゃ遅すぎるんだ!!」
不意にキリトが押し殺した声で叫んだ。リーファがびっくりして視線を上げると、眉間に深い谷が刻まれ、口許が震えるほど歯を食いしばったキリトの顔がそこにあった。
「パパ……」
両手でチーズクッキーを抱えて端をかりかり齧っていたピクシーが、クッキーを置いて飛び上がり、キリトの肩に座った。宥めるように黒衣の少年の頬に小さな手を這わせる。やがて、キリトの体からふっと力が抜けた。
「……驚かせてごめん」
キリトが低い声で言った。
「でも俺、どうしても世界樹の上に行かなきゃいけないんだ」
研ぎ上げた刃のように鋭い輝きを放つキリトの黒い瞳にまっすぐ見つめられ、リーファの心臓は不意にわけもなく早鐘のように鳴り響き始めた。動揺を静めようとワインを一口ごくりと飲んでから、どうにか口を開く。
「なんで、そこまで……?」
「人を……探してるんだ」
「ど、どういうこと?」
「……簡単には説明できない……」
キリトは、リーファを見てかすかに微笑んだ。だがその瞳は、深い絶望の色に濡れているように見えた。いつか、どこかで目にしたことがある瞳だった。
「……ありがとうリーファ、色々教えてもらって助かったよ。ご馳走様、ここで最初に会ったのが君でよかった」
立ち上がりかけたキリトの腕を、リーファは無意識のうちに掴んでいた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。世界樹に……行く気なの?」
「ああ。この目で確かめないと」
「無茶だよ、そんな……。ものすごく遠いし、途中で強いモンスターもいっぱい出るし、そりゃ君も強いけど……」
あっ、と思った時にはもう口が勝手に動いていた。
「――あたしが連れていってあげる」
「え……」
キリトの目が丸くなる。
「いや、でも、会ったばかりの人にそこまで世話になる訳には……」
「いいの、もう決めたの!!」
時間差でかあっと熱くなってきた頬を隠すようにリーファは顔をそむけた。ALOには、翅があるかわりに瞬間移動手段は一切存在しない。アルヴヘイムの央都、その向こうにそびえ立つ世界樹まで行くのは、現実世界での小旅行に匹敵するほどの旅となる。なのに、まだ出会って数時間の少年に同行を申し出るとは、自分でも信じられない行動だった。
でも――なぜか放っておけなかった。
「あの、明日も入れる?」
「あ、う、うん」
「じゃあ午後三時にここでね。あたし、もう落ちなきゃいけないから、あの、ログアウトには上の宿屋を使ってね。じゃあ、また明日ね!」
立て続けに言うと、リーファは右手を振ってウインドウを出した。シルフ領内ではどこでも即時ログアウトが可能なので、そのままボタンに触れる。
「あ、待って!」
キリトの声に顔を上げると、少年はにこりと笑いながら言った。
「――ありがとう」
リーファもどうにか笑みを浮べ、こくりと一回頷くと、OKボタンを押した。世界が虹色の光に包まれ、次いでブラックアウトした。リーファとしての肉体感覚が徐々に薄れるなか、頬の熱さと心臓の鼓動だけが最後まで残っていた。
――ゆっくりと目蓋を開ける。見慣れた自室の天井、そこに貼った大きなポスターが目に飛び込んでくる。B全版に引き伸ばし、プリントしてもらったスクリーンショットだ。無限の空をゆく鳥の群、その中央に長いポニーテールをなびかせて飛翔する妖精の少女が写っている。
直葉は両手を上げ、ゆっくりと頭からアミュスフィアを外した。二つのリングが並んだ円冠状のその機械は、初代ナーヴギアと比べるとあまりに華奢だが、その分拘束具めいた印象は減っている。
仮想世界から戻っても、頬の火照りは消えていなかった。直葉はベッドの上で上体を起こすと、大きくひとつ深呼吸し――おもむろに両手で顔を挟み込んだ。
(うわ―――――ー)
今更ながら、自分の行動にとてつもない気恥ずかしさがこみ上げてくる。以前から、リーファでいるときの直葉は大胆さが五割増しだとレコン――長田伸一に言われていたが、今日のは極め付きだった。両足をばたばたさせながらひとしきり悶える。
不思議な少年だった。いや、プレイヤーとしての彼が少年かどうかはわからないが、直葉のカンは自分と大差ない年齢だろうと告げている。しかしその割りには妙に落ち着いた物腰、かと思うとやんちゃな言動、どうにも掴み所がなかった。
謎なのは性格だけではない。あの恐ろしいまでの強さ――。剣を交えても絶対に勝てない、と思わされた相手は一年のALO歴のなかでも初めてだった。
(キリトくん、か……)
仮想世界を自分の目で見てみたい、と直葉が初めて思ったのは、SAO事件後一年が経とうとしたころだった。
それまでの直葉にとって、VRMMOゲームというのは、文字通り兄を奪っていった憎悪の対象でしかなかった。だが病室で眠る和人の手を握り、語りかけるうちに、いつしか和人がそこまで愛した世界というのはどういうものなのだろうか、という気持ちが芽生えはじめたのだった。和人のことを、もっと知りたい――その為には、彼の世界を自分の目で見なければと、そう思ったのだ。
アミュスフィアが欲しい、と言ったとき、翠はしばらくじっと直葉の顔を見ていたが、やがてゆっくり頷き、時間と体にだけは気をつけなさい、と笑った。
その翌日、学校の昼休みに直葉は、クラスで一番のゲームマニアと賞され(あるいは揶揄され)ていた長田伸一の机の前に立ち、聞きたいことがあるから屋上まで付き合って、と告げた。その時クラスに満ちた沈黙、次いで怒号と悲鳴は今でも語り草となっている。
屋上の金網にもたれた直葉は、妙な期待に目を輝かせながら直立不動で立つ長田伸一に向かって、VRMMOのことを教えてほしいと言った。長田は数秒間の百面相のあと、どういうタイプのが希望なのか、と聞いてきた。
直葉としては、勉強と剣道部の練習に割く時間を減らすわけにはいかなかったのでそのように言うと、長田は眼鏡をせわしなく押し上げながら「ふむ、じゃあ、あんまり廃仕様じゃなくて、スキル制のやつがいいよね」等々とぶつぶつ呟いた挙句、推薦してきたのがアルヴヘイム・オンラインだったというわけだ。
よもや長田が一緒にALOを始めるとは思わなかったが、彼の懇切丁寧なレクチャーもあって、直葉は自分でも驚くほどの速さで仮想ゲーム世界に適合してしまった。その理由は主に二つ。
一つ目は、直葉が長年研鑚を積んだ剣道の技が、ALO内部でも有効に機能したからだ。一般的なプレイヤー同士の戦闘では、基本的に回避ということは考えない。敵の攻撃を食らいつつ自分の武器をヒットさせ、累積したダメージの総量で決着がつくことになる。しかし直葉の場合、鍛え上げた反射速度とカンによって容易く攻撃を避けることができたため、反則的なまでの強さを発揮するのはむしろ当然と言えた。
無論ALO以外のレベル制MMOであれば、ゲームに費やせる絶対的な時間の少ない直葉はとてもコアなプレイヤーには太刀打ちできなかったろう。事実リーファの数値的ステータスは、古参プレイヤーとしては平均を下回る。それでもシルフ五傑と言われるほどの実力を維持できるのは完全スキル制のゲームであればこそだ。
そして、直葉がALOに魅せられた二つ目の理由――、それは無論あのゲームだけが持つフライト・システムである。
初めて意思飛行のコツを会得し、空を思うままに飛び回ったときの感動はいまだ容易に思い出すことができる。
体の小さい直葉は、剣道の試合でもリーチ差に苦しめられることが多く、打ち込みをもっと速く、もっと遠く、というのははるか昔から体に染み付いた欲求だった。それゆえ、ALOにおいて愛用の長刀を大上段に構え、(片手がふさがる補助飛行ではこれができない)超々ロングレンジからの突進を行うのは筆舌に尽くしがたい快感だった。無論それに留まらず、体がばらばらになりそうな鋭角ダイブや、あるいは鳥の群に混じってのんびりと高空をクルーズしたりと、飛翔行為そのものに直葉は深く魅せられてしまった。
飛ぶのが苦手なレコンあたりは直葉のことを「スピードホリック」などと言うが、直葉に言わせれば飛ばずしてALOの楽しみを語るなかれというところだ。
ともかく、あれから一年、直葉は今や一人前のVRMMOプレイヤーなのだ。
直葉のもとに還ってきた和人に、ALOの話をしたい――と一日に何度も思う。しかし彼の瞳によぎる影を見ると、どうしても言葉を切り出すことができない。
SAO事件という、あれだけの凄まじい体験を経ても、和人のVRMMOへの愛情が変わっていないのは確かだと思う。すべて回収されたはずのナーヴギアを、どんな手段を用いてか自室に持ち帰っていることや、フォトスタンドに入れて飾られたSAOクライアントディスクがそれを示している。
だが、和人にとっては、多分まだSAO事件は終わっていないのだ。「あの人」が眠りから目覚める、その時まで――。
そのことを考えると直葉の心は千々に乱れる。昨夜のような、深い絶望に囚われて泣く和人は二度と見たくない。いつも笑っていてほしい。そのためにも、「あの人」に早く目覚めてほしいと思う。
しかしその時は、和人の心はまた直葉の手の届かないところに行ってしまう。
いっそ本当の兄妹のままだったら。それなら、この気持ちに気付くこともなかった。この、和人の全部が欲しい、という気持ちが生まれることもなかったのに――。
ベッドの上に横たわり、アルヴヘイムの空を写したポスターを見上げながら、なぜ現実の人間には翅がないのかな、と直葉は思った。リアルの空をどこまでも飛んで、ぐちゃぐちゃに絡まった心の線をいっぺんに解いてしまいたかった。
リーファというシルフの少女がつい今しがたまで座っていた椅子を、俺はやや呆気に取られながら見つめた。
「――どうしたんだろう彼女」
呟くと、肩の上でユイも首を傾げる気配がした。
「さあ……。今のわたしにはメンタルモニター機能がありませんから……」
「ううむ。まあ、道案内してくれるっていうのは有り難いな」
「マップならわたしにもわかりますけど、確かに戦力は多いほうがいいですね。でも……」
ユイが立ちあがり、俺の耳に顔を寄せて、言った。
「浮気しちゃダメですよパパ」
「しない、しないよ!!」
泡を食って首をぶんぶん振る俺の肩から笑いながら飛び立つと、ユイは再びテーブルの上に着陸し、食べかけのチーズクッキーを両手で抱え上げた。
「くそう、からかいやがって……」
俺は憮然としてハーブワインのボトルを直接呷る。
だが、確かに意識しておいたほうがいい。浮気云々ではなく、彼女――リーファはあくまでゲーム内でのキャラクターであり、その向こうには別人格の見知らぬプレイヤーがいるのだ、ということを。
俺にとっては長い間、仮想世界が唯一の現実だった。あの世界ではキャラクターとプレイヤーの人格を分けて考えることは無意味であり、悪意も好意もすべてが真実の感情だった。そう考えねば生き残れなかった。
だがここでは無論その限りではない。プレイヤーによって程度は異なるだろうが、誰もが仮想のキャラクターを演じているのだ。盗賊として他のキャラクターを襲い、奪い、殺戮することすら咎められない――いやむしろ推奨されているとすら言っていい。
「難しいな……VRMMOって……」
我知らず嘆息してから、自分の台詞に苦笑いを浮かべる。空になったボトルを置き、自分と同じくらいの大きさのクッキーに挑み続けているユイの服を摘み上げて肩に載せると、俺は一時この世界を離れるため席を立った。
MMORPGにおける『ログアウト』という行為は、プレイヤーの利便性とゲーム的公正さがせめぎ合ういささかの問題をはらんでいる。
つまり、急な用事を思い出したり、突然生理的欲求を覚えたりといった事情によってゲームを即座に「落ち」たくなる場合は多いのだが、それを無制限に認めると、今度は戦闘中にピンチに陥ったり、盗みを働いて追われたりといった状況で、ログアウトを利用したお手軽な脱出方法がまかり通ってしまうことになる。そのため、大概のMMORPGではログアウトに一定の制限を設けている。このALOもその例に漏れず、「どこでも即ログアウト」が可能なのは種族のテリトリー内だけで、それ以外の場合はプレイヤーが現実に帰還したあとも魂無きキャラクターは数分間その場に残り、攻撃や盗みの対象とされる仕様になっているようだった。
テリトリー外で即時ログアウトを望むなら専用のアイテム――キャンプ用具など――を使用するか、あるいは宿屋で部屋を借りるしかないということで、俺はリーファの言葉に従って『鈴蘭亭』の二階でゲームを落ちることにした。
カウンターでチェックインを済ませ、階段を上がる。指定された番号のドアを開けると、中はベッドとテーブルが一つずつあるだけの簡素な部屋だった。ぐるりと見渡すと猛烈な既視感が襲ってくる。アインクラッドでも、部屋を買えるようになるまでは、よくこの手の宿屋にお世話になったものだ。
あとはもうウインドウを開き、ログアウトボタンを押せば現実に復帰できるはずだったが、俺は『寝落ち』を試してみるべく武装解除するとベッドに腰を下ろした。
NERDLESを利用したVRゲームにおけるログアウトには、更にもう一つささやかな問題が発生する。ログアウト時に、ゲーム内の仮想の五感と、ゲーム外の生身の五感が受け取っている情報にギャップがありすぎると、現実に復帰したときに不快な酩酊感を覚えるのだ。立った状態から横たわった状態への移行程度ではわずかな目眩を感じるくらいで済むが、一度SAOに入る以前に、飛行系ゲームで錐揉み急降下状態からログアウトしたときは復帰してからも落下感に付きまとわれて酷い目に合ったものだ。
その症状を防ぐための理想的ログアウトとされているのが通称『寝落ち』で、仮想空間内で睡眠状態に入り、寝ているうちにログアウトして、現実で睡眠から目覚めるというものだ。
俺がベッドにごろんと横たわると、とうとうクッキーを食べ終えたユイが空中をぱたぱたと移動し、くるんと一回転したかと思うと本来の姿に戻って床に着地した。長い黒髪と白いワンピースの裾がふわりとたなびき、ほのかな芳香が宙を漂う。
ユイは両手を後ろに回すと、わずかに俯きながら言った。
「……明日まで、お別れですね、パパ」
「……そうか、御免な……。せっかく会えたのにな……。またすぐ戻ってくるよ、ユイに会いに」
「……あの……」
目を伏せたユイの頬が僅かに赤く染まった。
「パパがログアウトするまで、一緒に寝てもいいですか?」
「え……」
俺も自分の顔に血が上るのを感じる。ユイにとっては俺はあくまで「パパ」であり、AIとしての彼女が人間的なエモーションの総体を求めているに過ぎないのだろうが、その姿と言動は俺を動揺させるに十分なほど愛らしい少女のものであって――
「あ、ああ。いいよ」
だが無論俺は気恥ずかしさを脇に押しやって、ユイに頷きかけると体を壁際に移動させてスペースを作った。にこりと輝くような微笑を浮べたユイがそこに飛び込んでくる。
俺の胸に頬をすり寄せるユイの髪をゆっくり撫でながら、俺は呟いた。
「早くアスナを助け出して……また何処かに家を買おうな。――このゲームにもプレイヤーホームってあるのかな?」
一瞬首をかしげたユイが、すぐに大きく頷く。
「相当高いみたいですけど、用意されているようです。――夢みたいですね、また、パパと、ママと、三人で暮らせるなんて……」
あの日々のことを思い出すと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような郷愁を感じる。たった数ヶ月前のことなのに、手の届かない遥かな記憶の中へと去っていってしまったかのような――。
俺は両腕でしっかりとユイの体を抱きしめ、目を閉じた。
「夢じゃない……すぐに現実にしてみせるさ……」
かすかに呟く。久々の仮想ゲーム体験で脳が疲労したのか、強い眠気が襲ってくる。
「おやすみなさい――パパ」
暖かい暗闇の中に沈んでいく俺の意識を、ユイの鈴の音のような声がふわりと撫でていった。
[#地から1字上げ](第二章 終)
第三章 樹上の檻
つがいの小鳥が、白いテーブルの上で身を寄せ合って朝の歌をさえずっている。
そっと右手を伸ばす。碧玉のように輝く羽毛に一瞬指先が触れる。――と思う間もなく、二羽の小鳥は音も無く飛び立つ。弧を描いて舞い上がり、光の射す方向へと羽ばたいていく。
椅子から立ち上がり、数歩後を追う。だがすぐに、金色に輝く細い格子が行く手を遮る。小鳥達はその隙間から空へと抜け出し、高く、高く、どこまでも遠ざかっていく――。
アスナはしばらくその場に立ち尽くし、鳥たちが空の色に溶けてしまうまで見送ると、ゆっくりきびすを返してもとの椅子に腰掛けた。
白い大理石で造られた冷たい丸テーブルと椅子。側に、同じく純白の豪奢な天蓋つきのベッド。この部屋の調度品はそれだけだ。部屋――と言ってよければ、だが。
やはり白のタイルが敷き詰められた床は、端から端まであるけば二十歩はかかろうかという巨大な真円形で、壁はすべて華奢な金属の格子でできている。格子の目はアスナでも無理をすれば通り抜けられそうなほど大きいが、それはシステム的に不可能である。
十字に交差する金の線は垂直に伸び上がり、はるか頭上で半球形に閉じている。その頂点には巨大なリングが取り付けられ、それを恐ろしく太い木の枝が貫いて、この構造物全体を支えている。枝はごつごつとうねりながら天を横切り、周囲に広がる無限の空の一角を覆い尽くす巨大な樹へと繋がっている。
つまりこの部屋は、途方もないスケールの大樹の枝から下がった金の鳥籠――いや、その表現は正しくない。時折遊びに来る鳥たちは皆格子を自由に出入りしている。とらわれているのはアスナ唯一人、だからこれは檻だ。華奢で、美しく、優雅で、しかし冷徹な樹上の檻。
アスナがこの場所で覚醒してから、すでに六十日が経過しようとしていた。いや、それも確実な数字ではない。何一つ書き残すことのできないこの場所では、日数を記録できるのは頭の中だけだ。
毎朝目覚めるたびに、今日は何日め、と自分に言い聞かせる。だが、近頃ではその数字に確信が持てなくなってきている。ひょっとしたら同じ日付を何回も繰り返しているのではないか――実際にはすでに数年の月日が過ぎ去っているのではないか――。そんな想念にとらわれてしまうほど、「彼」と過ごした懐かしい日々は遠い記憶の中に没しようとしている。
あの時――。
浮遊城アインクラッドが崩壊し、世界が輝きに包まれて消滅していく中、アスナは彼と固く抱き合って意識が消え去る瞬間を待っていた。
恐怖はなかった。自分は為すべきことを為し、生きるべき人生を生きたという確信があった。彼と一緒に消滅するのは喜びですらあった。
光が二人を包み込み、肉体が消え去り、魂が絡み合って、どこまでも高く飛翔し――
そして不意に彼のぬくもりが消えた。一瞬にして周囲が暗闇に包まれた。アスナは必死に手を伸ばし、彼の名を呼んだ。だが容赦ない奔流が彼女を捕らえ、暗闇の中を押し流していった。断続的な光の点滅。どことも知れない場所に運ばれていく、そんな気がして、アスナは悲鳴を上げた。やがて前方に虹色の光彩が広がり、そこに突入して――気付くと、この場所に倒れていた。
ゴシック調の巨大なベッド、その天蓋を支える壁に鏡が据えられている。そこに映る姿は、昔とは微妙に異なっている。顔のつくり、栗色の長い髪は昔のままだ。だが身にまとうのは、心許ないほど薄い、白のワンピース一枚。胸元に、血のように赤いリボンがあしらわれている。剥き出しの足に、大理石のタイルがしんしんと冷気を伝えてくる。武器はおろか何一つとして持っていないが、背中からは不思議な透明の羽根が伸びている。鳥というよりは昆虫の翅のようだ。
最初は、ほんとうの死後の世界なのか――とも思った。だが今ではそうでないことがわかっている。手を振ってもメニューウインドウは出ないが、ここはアインクラッドではない、新しい仮想世界だ。コンピュータの作り出すデジタルの牢獄。アスナは、そこに、人間の悪意によって幽閉されている。
ならば負けるわけにはいかない。悪意に心を挫かれるわけにはいかない。そう思って、アスナは日々襲ってくる孤独と焦燥に耐えている。だがこの頃では、それが少しずつ難しくなってきている。絶望の毒がゆっくりと心を染めていくのを感じる。
冷たい椅子に腰掛け、テーブルの上で両手を組み合わせて、アスナはいつものように心の中で彼に囁きかける。
(早く……はやく助けに来て……キリトくん……)
「その表情が一番美しいよ、ティターニア」
不意に鳥籠の中に声が響いた。
「泣き出す寸前のその顔がね。凍らせて飾っておきたいくらいだよ」
「なら、そうなさいな」
ゆっくりと声の方に顔を向けながら、アスナは言った。
金の檻の一箇所、巨大な樹――世界樹――に面している部分に、小さなドアが設けられている。ドアまでは、階段が刻み込まれた枝が伸び、世界樹の幹との間に通路を繋いでいる。
そのドアから入ってきたのは、ひとりの痩せた長身の男だった。
カールした長い金髪が豊かに流れ、それを額で白銀の円冠が止めている。体を包むのは濃緑のゆったりとした長衣、これも銀糸で細かい装飾が施されている。背中からはアスナと同じように翅が伸びているが、こちらは透明ではなく、巨大な蝶のものだ。漆黒のびろうどのように艶のある四枚の翅に、エメラルドグリーンの鮮やかな模様が走っている。
顔は造り物のように――としか言い様がない――端麗だ。秀でた額から連なる鋭い鼻梁、切れ長の目には翅の模様と同じ色の瞳が冴えざえとした光を放っている。だがそれらを台無しにしているのが、薄い唇に張り付くゆがんだ微笑だ。全てを蔑むような、卑しい笑い。
アスナは一瞬男の顔を見ると、汚らわしいものを見たかのようにすぐに視線を逸らせた。呟くように言葉を繋げる。
「――あなたなら何でも思いのままでしょう、システム管理者なんだから。好きにしたらいいわ」
「またそんなつれない事を言う。ぼくがいままで君に無理やり手を触れたことがあったかい、ティターニア?」
「こんな所に閉じ込めておいてよく言うわ。それにその変な名前で呼ぶのはやめて。私はアスナよ、オベイロン――いえ、須郷さん」
アスナは再び男――須郷伸之の化身オベイロンの顔を見上げた。今度は瞳を逸らさず、力を込めた視線を向けつづける。
オベイロンは不愉快そうに唇をゆがめると、吐き捨てるように言った。
「興醒めだなぁ。この世界では僕は妖精王オベイロン、君は女王ティターニア。プレイヤー共が羨望を込めて見上げるアルヴヘイムの支配者……それでいいじゃないか。一体いつになったら君は僕の伴侶として心を開いてくれるのかな」
「いつまで待っても無駄よ。あなたにあげるのは軽蔑と嫌悪、それだけだわ」
「やれやれ、気の強いことだ……」
再びオベイロンは片頬を吊り上げて笑うと、ゆっくりアスナの顔に向かって右手を伸ばしてきた。
「でもねえ……なんだか最近は……」
アスナは顔をそむけようとしたが、おとがいに手がかかり、無理やり正面に向けさせられる。
「そういう君を力ずくで奪うのも楽しいかなあと、そんな気もするんだよね」
万力のような力で固定されたアスナの顔に、今度は左手の指が這い始めた。頬から、唇に向かって細い指がじわじわと動いていく。どこか粘つくようなその感触に、背筋に寒気が走る。
嫌悪のあまり固く目を瞑り、歯を噛み締めるアスナの唇を指先で数度なぞると、オベイロンはそのまま首筋をゆっくりと撫で下ろした。やがて指は、深い襟ぐりの胸元で結ばれた真紅のリボンに辿り着く。アスナの恥辱と恐怖を愉しむように、リボンの一端がじわり、じわりと引かれていく――。
「やめて」
ついに耐え切れなくなり、アスナはかすれた声を洩らした。
それを聞いたオベイロンは喉の奥をククッと鳴らすとリボンから手を離した。指をひらひらを振りながら、笑いの混じった声で言う。
「冗談さ。言ったろう? 君に無理矢理手はかけない、って。どうせすぐに君の方から僕を求めるようになる。もう時間の問題だ」
「――何を言っているの。そんな訳ないじゃない」
「ねえ君」
オベイロンは両腕を胸の前で組むと、テーブルに体を預けた。にやにや笑いが一層大きくなる。
「NERDLESが娯楽市場のためだけの技術だと思うかい?」
予想外の台詞にアスナは口を噤んだ。オベイロンは芝居がかった仕草で両腕を大きく広げる。
「冗談じゃない! こんなゲームは副産物にすぎない。あの機械は、電子パルスのフォーカスを脳の感覚野に限定しているが、その枷を取り払ったらどういうことになるか――」
見開かれたオベイロンのエメラルド色の瞳にどこか逸脱した輝きが宿り、アスナは本能的な恐怖を感じた。
「――人間の思考、感情、記憶までも制御できる可能性があるってことだよ!」
あまりにも常軌を逸したオベイロンの言葉に、アスナは絶句するしかなかった。数回呼吸を繰り返してから、どうにか声を絞り出す。
「……そんな、そんなことが許されるわけが……」
「誰が許さないんだい? すでに各国で研究が進められている。でもねえ、この研究だけはサルで済ませるわけにはいかないんだよね。連中は自分が何を考えてるか喋ってくれないからね!」
ひっ、ひっと甲高い声で笑いを洩らし、テーブルから跳ねるように体を起こしたオベイロンは、せかせかした歩調でアスナの周りを歩き始めた。
「脳の高次機能には個体差も多い、どうしても大量の被験者が必要だ。だがアタマをいじくり回すわけだからね、おいそれと人体実験なんかできない。それでこの研究は遅々として進まなかった。――ところがねえ、ある日ニュースを見ていたら、いるじゃないか、格好の研究素材が、五万人もさ!」
再びアスナの肌を怖気が走った。オベイロンが何を言わんとしているのか、その先がようやく想像できた。
「――茅場先輩は天才だが大馬鹿者さ。あれだけの器を用意しながら、たかがゲーム世界の創造だけで満足するなんてね。SAOサーバー自体には手をつけられなかったが、あそこからプレイヤー連中が解放された瞬間、必要十分な被験者二千人をこの僕の世界にリレーする準備を整えてひたすら待ったよ。ああ、勿論君もね。いやあ、クリアされるのが実に待ち遠しかったね!」
妄念の熱に浮かされたかの如く、オベイロンは饒舌に言葉をまくし立て続けた。アスナは昔から彼のこの性癖が大嫌いだった。
「この二ヶ月で研究は大いに進展したよ! 記憶に新しいパーツを埋め込み、それに対する情動を誘導する技術は大体形ができた。魂の操作――実に素晴らしい!!」
「そんな……そんな研究、お父さんが許すはずがないわ」
「無論あのオジサンは何も知らないさ。研究は私以下極少数のチームで秘密裏に進められている。そうでなければ商品にできない」
「商品……!?」
「アメリカの某企業が涎を垂らして研究終了を待っている。せいぜい高値で売りつけるさ。――いずれはレクトごとね」
「……」
「僕はもうすぐ結城家の人間になる。まずは養子からだが、やがては名実ともにレクトの後継者となる。君の配偶者としてね。その日のためにもこの世界で予行演習しておくのは悪くない考えだと思うけどねえ」
不意にオベイロンは言葉を切ると、わずかに首を傾け沈黙した。すぐに右手を振ってウインドウを出し、それに向かって言う。
「わかった。すぐに行く」
ウインドウを消し、再びにやにや笑いを浮べながら、
「――という訳で、君が僕を盲目的に愛し、服従する日も近いということが判ってもらえたかな? しかし僕も勿論君のアタマを操作するのは望まない、次に会うときはもう少し従順であることを願うよ、ティターニア」
猫撫で声でささやくと、アスナの髪をひと撫でして身を翻した。
ドア目掛けてせかせかと歩いていく男の姿を、アスナは見なかった。ただ俯いて、オベイロンの最後の台詞が心に垂らしていった恐怖に耐えていた。
やがてカシャン、というドアの開閉音が響き、次いで静寂が訪れた。
制服に着替え、竹刀ケースを下げて剣道部の部室から出ると、巨大な校舎の谷を抜けてきた微風が直葉の火照った頬を心地よく撫でていった。
午後一時、すでに五時限目が始まっているので学校はしんと静まり返っている。一、二年生はもちろん授業中だし、自由登校の三年生も、学校に来ている者は高校入試直前の集中ゼミナールを受講しているので、今ごろ校内をのんきに歩いているのは直葉のような推薦進学組だけだ。
気楽な身分ではあるが、同級生に出くわすと必ず皮肉のひとつも言われてしまうので、直葉としては無闇に学校に来たくはない。しかし剣道部の顧問が実に熱心な人物で、東京の名門校に送り出す愛弟子のことが気になって仕方ないらしく、一日おきに学校の道場に顔を出して指導を受けるよう厳命されている。
顧問いわく、最近直葉の剣には妙なクセがある、らしい。直葉は内心で首をすくめながら、そりゃそうだろうなぁ、と思う。短時間とは言えほぼ毎日のように、アルヴヘイムで型もなにもないチャンバラ空中殺法を繰り広げているのだ。
しかしそれで剣道部員としての直葉の腕が落ちているかと言うとそういうことはなく、今日も、かつて全日本で上位に入ったことのある三十代の男性顧問から立て続けに二本とってひそかに快哉を叫んだ。
なんだか、近頃相手の竹刀がよく見えるのだ。強敵との試合で、神経が極限まで張り詰めると、時間の流れがゆるやかになるような感覚すら覚える。
数日前の、和人との試合を思い出す。あの時、直葉の本気の打突を和人はことごとく躱してみせた。まるで、彼だけが違う時間流のなかにいるかのような凄まじい反応だった。ひょっとして――、と直葉は考える。NERDLES機器は、使用者の脳になにか器質的な変化を与えるのではないか……。
物思いにふけりながら自転車置き場に向かって歩く直葉に、校舎の陰からいきなり声をかける者がいた。
「……リーファちゃん」
「うわっ」
びくっとして一歩飛びすさる。現れたのは、ひょろりと痩せた眼鏡の男子生徒だった。レコンと共通の特徴である、常に困ったように垂れ下がった細い眉毛が、今日は一層急角度を描いている。
直葉は右手を腰に当てると、ため息混じりに言った。
「学校でそう呼ばないでって言ってるでしょ!」
「ご、ごめん。……直葉ちゃん」
「この……」
竹刀ケースの蓋に片手を沿えながら一歩詰め寄ると、男子生徒はひきつった笑みを浮かべながらぶんぶん首を振った。
「ごごごめん、桐ヶ谷さん」
「……なに? 長田クン」
「ちょ、ちょっと話があって……。どこかゆっくりできるとこ、行かない?」
「ここでいいわよ」
長田伸一は情けない顔をしながら肩を落とす。
「……ていうか、そもそも推薦組のあんたが何で学校にいるのよ?」
「あ、すぐ……桐ヶ谷さんに話があって、朝から待ってたんだ」
「げげ! ヒマな奴……」
直葉はふたたび数歩後退し、背の高い花壇の縁に腰を下ろした。
「で、話って?」
長田は微妙な距離を保って直葉の隣に座ると、言った。
「……シグルド達が、今日の午後からまた狩りに行こうって。今度は海底洞窟にしようってさ、あそこはサラマンダーがあんま出ないし」
「狩りの話ならメールでいいって言ったじゃない。……悪いけど、あたししばらく参加できないわ」
「え、ええ!? なんで!?」
「ちょっとアルンまで出かけることに……」
アルヴヘイムの中央にそびえる世界樹、その根元には大きな中立都市が広がっている。それが央都アルンだ。スイルベーンからはかなりの距離がある上に、途中に飛行不可能な区域も多く、辿りつくには数日を要する。
長田はしばらく口をがくーんと開けて硬直していたが、やがてずりずりと直葉ににじり寄りながら言った。
「ま、ままさか昨日のスプリガンと……?」
「あー、うん、まあね。道案内することになったの」
「な、何考えてんのさリー……桐ヶ谷さん! ああんなよく分からない男と、と、泊りがけで……」
「あんたこそ何赤くなってるのよ! 妙な想像しないでよね!」
すぐそばまで接近してきた長田の胸を竹刀ケースでどつく。長田は極限まで眉に八の字を描かせ、直葉を恨みがましい目で見つめた。
「……前に僕がアルンまで行こうって言ったときはあっさり断ったくせに……」
「あんたと一緒じゃ絶対辿り着けないと思ったからよ! ……ともかくそういうわけだから、シグルドたちにはよろしく言っといてね」
直葉はぴょんと立ち上がり、「じゃね!」と手を振って自転車置き場目指して走り出した。長田の、叱られた犬のような情けない顔がちくりと胸を刺すが、そうでなくても学校ではいろいろと噂されているのだ。これ以上距離を縮める気にはならない。
(……道案内するだけだよ……)
自分にも言い聞かせるように、胸のなかで呟く。キリトという少年の、謎めいた黒い瞳を思い出すと、妙にそわそわと落ち着かない気分になる。
広大な駐輪場の片隅に停めてある、街乗り仕様のマウンテンバイクのロックを手早く外す。えいやっとまたがると、立ち漕ぎで猛然とダッシュ。冬の冷たい空気がぴりぴりと頬を叩くが、気にせず裏門から飛び出して、急な下り坂をノーブレーキで駆け下りていく。
早く飛びたい、と直葉は思った。キリトと並んで、全開パラレル飛行をすることを考えると、少しだけわくわくした。
二時少し前に自宅に着いた。
庭に、和人の自転車は無かった。どうやらまだジムから戻っていないらしい。
実のところ、最近の和人はもう「SAO以前」の彼の体格をほぼ取り戻していると思う。しかしどうもそれでは満足できないらしい、と言うより仮想世界内での自分との間にギャップを感じているようだ。
そんなの当然、ゲーム内のキャラクターに生身の体を近づけようなんて無理な注文だ――と思う一方で、和人の気持ちも良くわかる。直葉だって現実で「飛ぼう」として転びそうになったことは一度や二度ではない。
縁側から家に上がり、洗濯機に道着を放り込んでスイッチを入れ、ざっとシャワーを浴びる。ラフな格好に着替えると、二階に駆け上がって自室のベッドに転がり込む。
アミュスフィアの電源を入れ、すっぽり被ると、目を閉じる。大きく一回深呼吸、ついで魔法の呪文を――。
「リンク・スタート!」
リーファが目蓋を開けると、鈴蘭亭一階の風景がふわりと広がった。テーブルの、向かいの席にはもちろん誰もいない。待ち合わせまではまだ数十分の余裕がある。それまでに旅の準備を整えなければならない。
店から出ると、スイルベーンの街は美しい朝焼けの空に覆われていた。
毎日決まった時間にしかログインできないプレイヤーのための配慮か、アルヴヘイムでは約十六時間で一日が経過する。そのため、現実の朝晩と一致することもあればこのようにまったくずれることもある。メニューウインドウの時刻表示は、現実時間とアルヴヘイム時間が併記されており、最初は多少混乱したが、今ではこのシステムが気に入っている。
あちこちの店をばたばたと駆け回り、買い物を済ませると、ちょうどいい時間になっていた。鈴蘭亭に戻ってスイングドアを押し開けると、今まさに奥のテーブルに黒衣の姿が実体化しようとしているところだった。
ログインを完了したキリトは、数回まばたきをすると近づくリーファを認めて微笑んだ。
「やあ、早いね」
「ううん、さっき来たとこ。ちょっと買い物してたの」
「あ、そうか。俺も色々準備しないとな」
「道具類は一通り買っておいたから大丈夫だよー。あ、でも……」
キリトの、簡素な初期武装に視線を落とす。
「キミの、その装備はどうにかしておいたほうがいいね」
「ああ……俺もぜひどうにかしたい。この剣じゃ頼りなくて……」
「お金、持ってる? 無ければ貸しておくけど」
「えーと……」
キリトは右手を振ってウインドウを出し、ちらりと眺めて、なぜか顔をひきつらせた。
「……この『ユルド』っていうのがそう?」
「そうだよー。……ない?」
「い、いや、ある。結構ある」
「なら、早速武器屋行こっか」
「う、うん」
妙に慌てた様子で立ち上がったキリトは、何かを思いついたように体のあちこちを見回し、最後に胸ポケットを覗き込んだ。
「……おい、行くぞ、ユイ」
するとポケットから黒髪のピクシーがちょこんと眠そうな顔を出し、大きなあくびをした。
リーファ行きつけの武具店でキリトの装備一揃いをあつらえ終わった頃には、街はすっかり朝の光に包まれていた。
と言っても、特に防具類に凝ったわけではない。属性強化されている服の上下にコート、それだけだ。時間がかかったのは、キリトがなかなか剣に納得しなかったからだ。
プレイヤーの店主に、ロングソードを渡されるたびに一振りしては「もっと重い奴」と言い続け、最終的に妥協したのはなんと彼の身長に迫ろうかというほどの、超のつく大剣だった。ノームやインプに多い巨人型プレイヤー用装備だ。
ALOでは、余ダメージ量を決定するのは「武器自体の攻撃力」と「それが振られるスピード」だけだが、それだと速度補正に優るシルフやケットシーのプレイヤーが有利になってしまう。そこで、筋肉タイプのプレイヤーは、攻撃力に優る巨大武器を扱いやすくなるよう設定してバランスを取っている。
シルフでも、スキルを上げればハンマーやアックスを装備できないことはないが、固定隠しパラメータの筋力が足りないためにとても実戦で振り回すことはできない。スプリガンはマルチタイプの種族だが、キリトはどう見てもスピードタイプの体型だ。
「そんな剣、振れるのぉー?」
呆れつつリーファが聞くと、キリトは涼しい顔で頷いた。
「問題ない」
……そう言われれば納得するしかない。代金を払い、受け取った剣をキリトはよっこらしょうと背中に吊ったが、鞘の先が地面に擦りそうになっている。
まるで剣士の真似をする子供だ、そう思ったとたんにこみ上げてきた笑いをかみ殺しながら、リーファは言った。
「ま、そういうことなら準備完了だね! これからしばらく、ヨロシク!」
右手を差し出すと、キリトも照れたように笑いながら握り返してきた。
「こちらこそ」
ポケットから飛び出したピクシーが、二人の手をぺちぺち叩きながら言った。
「がんばりましょう! 目指せ世界樹!」
巨大な剣を背負い、肩にピクシーを乗せたキリトと連れ立って歩くこと数分、リーファの目前に、翡翠に輝く優美な塔が現われた。
シルフ領のシンボル、風の塔だ。何度見ても見飽きることのない美しさだ――と思いながら隣に目を向けると、黒衣のスプリガンは先日自分が貼りついたあたりの壁を嫌そうな顔で眺めていた。リーファは笑いを噛み殺しながら彼のひじを突付いた。
「出発する前に少しブレ―キングの練習しとく?」
「……いいよ。今後は安全運転することにしたから」
キリトが憮然とした表情で答える。
「それはそうと、なんで塔に? 用事でもあるのか?」
「ああ……長距離を飛ぶときは塔のてっぺんから出発するのよ。高度が稼げるから」
「ははあ、なるほどね」
頷くキリトの背を押しながら、リーファは歩き出した。
「さ、行こ! 夜までに森は抜けておきたいね」
「俺はまったく地理がわからないからなあ。案内よろしく」
「任せなさい!」
トンと胸を一回叩き、大きな塔の正面扉をくぐって内部へ。一階は円形の広大なロビーになっており、周囲をぐるりと色々なショップの類が取り囲んでいる。ロビーの中央には魔法力で動くとおぼしきエレベータが二基設置され、定期的にプレイヤーを吸い込んだり吐き出したりしている。アルヴヘイム時間では夜が明けたばかりだが、現実では夕方に差し掛かっているので、行き交う人の数がそろそろ増え始める頃だ。
キリトの腕を引っ張りながら、ちょうど降りてきた右側のエレベータに駆け込もうとした、その時。
不意に傍らから数人のプレイヤーが現われ、二人の行く手を塞いだ。激突する寸前で、どうにか翅を広げて踏みとどまる。
「ちょっと危ないじゃない!」
反射的に文句を言いながら、目の前に立ち塞がる長身の男を見上げると、それはリーファのよく知った顔だった。
シルフにしては図抜けた背丈に、荒削りだが男っぽく整った顔。この外見を手に入れるためには、かなりの幸運か、かなりの投資が必要だったと思われる。体をやや厚めの銀のアーマーに包み、腰には大ぶりのブロードソード。額に幅広の銀のバンドを巻き、波打つ濃緑の髪を肩の下まで垂らしている。
男の名前はシグルド。ここ数ヶ月リーファがよく行動を共にしているパーティーの前衛だ。見れば、彼の両脇に控えているのもパーティーメンバーである。レコンもいるのかと思って更に周囲に目をやったが、目立つ黄緑色の髪は視界に入らなかった。
シグルドはシルフ最強剣士の座をいつもリーファと争う剛の者で、また同時に、主流派閥に関わるのを忌避しているリーファと違って政治的にも実力者だ。現在のシルフ領主――月に一回の投票で決定され、税率やその使い道を決める指導者プレイヤー――の側近としても名を馳せる、言わば超アクティブ・プレイヤーである。
その恐るべきプレイ時間に裏打ちされた数値的ステータスはとてもリーファの及ぶところではなく、シグルドとのPvPデュエルはいつも、運動性に優るリーファがいかにして彼の膨大なHPを削りきるかというしんどい戦いになる。それだけに、狩りではフォワードとして実に頼もしい存在感を発揮するのだが、反面その言動はやや独善的で、束縛を嫌うリーファを辟易とさせる局面も少なからずあった。今のパーティーでの稼ぎは確かにかなりの効率なのだが、そろそろ抜ける潮時かな、と最近は考えないでもない。
そして今、リーファの前にずしりと両足を広げて立つシグルドの口許は、彼が最大限の傲慢さを発揮させる時特有の角度できつく結ばれていた。これは面倒なことになりそうだ――と思いながら、リーファは口を開いた。
「こんにちは、シグルド」
笑みを浮べながら挨拶したものの、シグルドはそれに応える心境ではないらしく、唸り声を交えながらいきなり切り出した。
「パーティーから抜ける気なのか、リーファ」
どうやら相当に機嫌が悪いらしいシグルドを、ちょっとアルンまで往復するだけ、と言って宥めようと一瞬考えたが、なんだか急に色々なことが面倒になってしまって、気づくとリーファはこくりと頷いていた。
「うん……まあね。貯金もだいぶできたし、しばらくのんびりしようと思って」
「勝手だな。残りのメンバーが迷惑するとは思わないのか」
「ちょっ……勝手……!?」
これにはリーファも少々かちんと来た。前々回のデュエルイベントで、激戦の末シグルドを下したリーファを試合後にスカウトにきたのは彼自身である。その時リーファが出した条件は、パーティー行動に参加するのは都合のつくときだけ、抜けたくなったらいつでも抜けられる、という二つで、つまり束縛されるのは御免だとしっかり伝えてあったつもりなのだが――。
シグルドはくっきりと太い眉を吊り上げながら、なおも言葉を続けた。
「お前は我がパーティーの一員として既に名が通っている。そのお前が理由もなく抜けて他のパーティーに入ったりすれば、威信に泥を塗られることになる」
「…………」
シグルドの大仰な台詞に、リーファはしばし言葉を失って立ち尽くした。唖然としつつも、やっぱり――という思いが心中に去来する。
シグルドのパーティーに参加してしばらく経った頃、リーファの相方扱いで同時にメンバーになったレコンが、いつになくマジメな顔で忠告してきたことがあったのだ。
このパーティーに深入りするのはやめたほうがいいかもしれない、と彼は言った。理由を聞くと、シグルドはリーファを戦力としてスカウトしたのではなく、自分のパーティーのブランドを高める付加価値として欲しがったのではないか――更に言えば、自分に勝ったリーファを仲間、というより部下としてアピールすることで勇名の失墜を防いだつもりなのではないか、と。
まさかそんな、と笑い飛ばしたリーファに向かってレコンは力説したものだ。曰く――性別逆転の許されないVRMMOにおいては女性プレイヤーは希少な存在であり、それゆえに戦力としてよりアイドルとして求められる傾向にあり、ましてリーファちゃんみたいなかわいい女の子はレジェンダリーウェポン以上にレアであり見せびらかし用に欲しがられて当然なのであり中にはそれ以上の下心を抱いてる奴も多いのでありしかし自分に関しては一切そんなつもりは無くあくまでピュアかつリアルなお付き合いを望んでいるのであり云々かんぬん。
どさくさに紛れて妙なことを口走り始めたレコンに体重を乗せたリバー・ブローを一発撃ちこんで黙らせておいて、リーファは一応真剣に考えてみた。のであるが、自分がアイドル扱いされているなどという状況にはどうにも現実感がわかなかったし、ただでさえ覚えることの多いMMORPGが更にややこしくなりそうだったので、それ以上考えるのをやめ、今日までさして大きな問題もなくパーティープレイをこなしてきたのだったが――。
怒りと苛立ちを滲ませて立つシグルドの前で、リーファは全身に重苦しく絡みつくしがらみの糸を感じていた。ALOに求めているのは、すべての束縛から脱して飛翔するあの感覚だけ。何もかも振り切って、どこまでも飛びたいと、それだけを望んでいたのに……。
しかし、それは無知ゆえの甘えだったのだろうか。全ての人が翅を持つこの仮想世界なら、現実世界の重力を忘れられる――と思ったのは幻想だったのだろうか?
リーファ/直葉は、小学校の頃よく自分を苛めた剣道場の上級生のことを思い出していた。入門して以来道場で敵なしだったのが、いつしか年下でその上女の直葉に試合で勝てなくなってしまい、その報復としてよく帰り道で仲間数名と待ち伏せては卑小な嫌がらせを行った。そんな時、その上級生の口許は、今のシグルドと良く似た憤懣に強張っていたものだ。
結局、ここも同じなのか――。
やるせない失望に囚われ、リーファがうつむいた、その時だった。背後に下がり、影のように気配を殺していたキリトが、ぼそりと呟いた。
「数を恃む奴はいずれ死ぬ」
「え……?」
その言葉の意味が咄嗟につかめず、リーファは目を見開きながら振り向いた。同時にシグルドが唸り声を上げた。
「……なんだと……?」
キリトは一歩踏み出すと、リーファとシグルドの間に割って入り、自分より頭一つぶんほども背の高い威丈夫に向き合った。
「仲間の数に頼る奴は長生きできないって言ったのさ。あんたのその剣は、背中を女の子に守ってもらわなきゃ振れないのか」
「きッ……貴様ッ……!!」
あまりにもあからさまなキリトの言葉に、シグルドの顔が瞬時に赤く染まった。肩から下がった長いマントをばさりと巻き上げ、剣の束に手をかける。
「屑漁りのスプリガン風情がつけあがるな! リーファ、お前もこんな奴の相手をしてるんじゃない! どうせ領地を追放されたレネゲイドだろうが!」
今にも抜刀しそうな勢いでまくし立てるシグルドの台詞に、ついカッとしたリーファも思わず叫び返していた。
「失礼なこと言わないで! キリト君は――あたしの新しいパートナーよ!」
「なん……だと……」
額に青筋を立てながらも、シグルドは声に驚愕をにじませて唸った。
「リーファ……領地を捨てる気なのか……」
その言葉に、リーファはハッとして目を見開いた。
ALOプレイヤーは、そのプレイスタイルによって大きく二種に分かれる。
ひとつは、今までのリーファやシグルドのように領地を本拠にして同種族のパーティーを組み、稼いだユルドの一部を領主に上納して種族の勢力を発展させようとするグループ。もうひとつが、領地を出て中立都市を本拠とし、異種族間でパーティーを組んでゲーム攻略を行うグループだ。前者は後者を目的意識に欠けるとして蔑視することが多く、領地を捨てた――自発的、あるいは領主に追放された場合を問わず――プレイヤーを脱領者、レネゲイドと呼称している。
リーファの場合は、共同体としてのシルフ族への帰属意識は低いのだが、スイルベーンが気に入っていることと、あとの半分は惰性で領地に留まり続けていた。だが今シグルドの言葉によって、リーファの中に、解き放たれたい――という欲求が急速に浮かび上がってきたのだった。
「ええ……そうよ。あたし、ここを出るわ」
口をついて出たのは、その一言だった。
シグルドは唇を歪め、食いしばった歯をわずかに剥きだすと、いきなりブロードソードを抜き放った。燃えるような目でキリトをねめつける。
「……小虫が這いまわるくらいは捨て置こうと思ったが、泥棒の真似事とは調子に乗りすぎたな。のこのこと他種族の領地まで入ってくるからには斬られても文句は言わんだろうな……?」
芝居がかったシグルドの台詞に、キリトは肩をすくめるだけの動作で応じた。その糞度胸に半ばあきれつつも、リーファは本当に戦闘になったらシグルドに斬りかかる覚悟で腰の長刀に手を添えた。緊迫した空気が周囲に満ちた。
と、その時、シグルドの背後にいた彼の部下が小声で囁いた。
「今はやばいっすよ、シグルドさん。こんな人目があるとこで無抵抗の相手をキルしたら……」
周囲にはいつの間にか、トラブルの気配に引かれたように見物人の輪ができていた。正当なデュエルならともかく、この場では攻撃権を持たないキリトをシグルドが一方的に攻撃するのは確かに褒められた行為ではない。
シグルドは歯噛みをしながらしばらくキリトを睨んでいたが、やがて剣を鞘に収めた。
「せいぜい外では逃げ隠れることだな。――リーファ」
キリトに捨て台詞を浴びせておいてから、背後のリーファにも視線を向けてくる。
「……今オレを裏切れば、近いうちに必ず後悔することになるぞ」
「留まって後悔するよりはずっとマシだわ」
「戻りたくなったときのために、泣いて土下座する練習をしておくんだな」
それだけ言い放つと、シグルドは身を翻し、塔の出口へと歩き始めた。付き従うパーティーメンバー二人は、何か言いたそうにしばらくリーファの顔を見ていたが、やがて諦めたようにシグルドを追って走り去っていった。
彼らの姿が消えると、リーファは大きく息を吐き出し、キリトの顔を見た。
「……ごめんね、妙なことに巻き込んじゃって……」
「いや、俺も火に油を注ぐような真似しちゃって……。しかし、いいのか? 領地を捨てるって……」
「あー……」
リーファはどう言ったものか迷った挙句、無言でキリトの手を取って歩き始めた。野次馬の輪をすり抜けて、ちょうど降りてきたエレベータに飛び乗る。最上階のボタンを押すと、半透明のガラスでできたチューブの底を作る円盤状の石がぼんやりと緑色に光り始め、すぐに勢い良く上昇を開始した。
数十秒後、エレベータが停止すると壁面のガラスが音も無く開いた。白い朝陽と心地よい風が同時に流れ込んでくる。
足早にチューブから風の塔最上部の展望デッキに飛び出す。数え切れないほど訪れたことのある場所だが、四方に広がる大パノラマは何度見ても心が浮き立つ。
シルフ領は、アルヴヘイムの南西に位置する。西側は、しばらく草原が続いたあとすぐに海岸となっており、その向こうは無限の大海原が青く輝いている。東は深い森がどこまでも連なり、その奥には高い山脈が薄紫色に連なる。その稜線の更に彼方に、ほとんど空と同化した色で一際高くそびえる影――世界樹。
「うお……凄い眺めだな……」
リーファに続いてエレベータを降りたキリトが、目を細めてぐるりと周囲を見回した。
「空が近いな……。手が届きそうだ……」
瞳に憧憬にも似た色を浮かべて青い空を仰ぎ見るキリトに並んで、リーファはそっと右手を空にかざし、言った。
「でしょ。この空を見てると、ちっちゃく思えるよね、色んなことが」
「……」
キリトが気遣わしげな視線を向けてくる。それに笑顔を返し、リーファは言葉を続けた。
「……いいきっかけだったよ。いつかはここを出ていこうと思ってたの。一人じゃ怖くて、なかなか決心がつかなかったんだけど……」
「そうか。……でも、なんだか、喧嘩別れみたいな形にさせちゃって……」
「あの様子じゃ、どっちにしろ穏便には抜けられなかったよ。――なんで……」
その先は、半ば独り言だった。
「なんで、ああやって、縛ったり縛られたりしたがるのかな……。せっかく、翅があるのにね……」
それに答えたのはキリトではなく、彼の肩、ジャケットの大きな襟の下から顔を出したユイという名のピクシーだった。
「フクザツですね、人間は」
きららんと音を立てて飛び立つと、キリトの反対側の肩に着地し、小さな腕を組んで首を傾げる。
「ヒトを求める心を、あんなふうにややこしく表現する心理は理解できません」
彼女がプログラムであることも一瞬忘れ、リーファはユイの顔を覗きこんだ。
「求める……?」
「他者の心を求める衝動が人間の基本的な行動原理だとわたしは理解しています。ゆえにそれはわたしのベースメントでもあるのですが、わたしなら……」
ユイは突然キリトの頬に手を添えると、かがみこんで音高くキスをした。
「こうします。とてもシンプルで明確です」
あっけに取られて目を丸くするリーファの前で、キリトは苦笑いしながら指先でユイの頭をつついた。
「人間界はもうちょっとややこしい場所なんだよ。気安くそんな真似したらハラスメントでバンされちゃうよ」
「手順と様式ってやつですね」
「……頼むから妙なことを覚えないでくれよ」
キリトとユイのやり取りを呆然と眺めていたリーファは、どうにか口を動かした。
「す、すごいAIね。プライベートピクシーってみんなそうなの?」
「こいつは特にヘンなんだよ」
言いながらキリトはユイの襟首をつまみあげると、ひょいと胸ポケットに放り込んだ。
「そ、そうなんだ……。――人を求める心……かぁ……」
リーファはピクシーの言葉を繰り返しながら、かがめていた腰を伸ばした。
なら――、この世界でどこまでも飛んでいきたいと願っている自分の気持ちも、実はその奥で誰かを求めているのだろうか。不意に、和人の顔が脳裏を過ぎって、ドキン、と心臓が大きな音を立てる。
ひょっとしたら……この妖精の翅を使って、現実世界のいろんな障害を飛び越えて、和人の胸に飛び込んでいきたいと――そう思っているんだろうか……。
「まさかね……」
考えすぎだ。心の中でそう呟いた。今は、ただ飛びたい。それだけだ。
「ん? 何か言った?」
「な、なんでもないよ。……さ、そろそろ出発しよっか」
キリトに笑顔を向けると、リーファは空を振り仰いだ。夜明けの光を受けて金色に輝いていた雲もすっかり消え去り、深い青がどこまでも広がっていた。今日はいい天気になりそうだった。
展望台の中央に設置されたロケーターストーンという石碑を使ってキリトに戻り位置をセーブさせると、リーファは四枚の翅を広げて軽く震わせた。
「準備はいい?」
「ああ」
キリトと、彼の胸ポケットから顔を出したピクシーがこくりと頷くのを確認して、いざ離陸しようとしたところで――。
「リーファちゃん!」
エレベータから転がるように飛び出してきた人物に呼び止められ、リーファはわずかに浮いた足を再び着地させた。
「あ……レコン」
「ひ、ひどいよ、一言声かけてから出発してもいいじゃない」
「ごめーん、忘れてた」
がくりと肩を落としたレコンは、気を取り直したように顔を上げるといつになく真剣な顔で言った。
「リーファちゃん、パーティー抜けたんだって?」
「ん……。その場の勢い半分だけどね。あんたはどうするの?」
「決まってるじゃない、この剣はリーファちゃんだけに捧げてるんだから……」
「えー、別にいらない」
リーファの言葉に再びレコンはよろけたが、この程度でメゲるような彼ではない。
「ま、まあそういうわけだから当然僕もついてくよ……と言いたいとこだけど、ちょっと気になることがあるんだよね……」
「……なに?」
「まだ確証はないんだけど……少し調べたいから、僕はもうしばらくパーティーに残るよ。――キリトさん」
レコンは、彼にしては最大限にマジメな様子でキリトに向き直った。
「彼女、トラブルに飛び込んでくクセがあるんで、気をつけてくださいね」
「あ、ああ。わかった」
どこか面白がっているような表情でキリトが頷く。
「――それから、言っておきますけど彼女は僕のンギャッ!」
語尾の悲鳴はリーファが思い切りレコンの足を踏みつけたことによるものだ。
「余計なこと言わなくていいのよ! ――しばらくアルンにいると思うから、何かあったらメールでね。じゃね!!」
早口でまくし立てると、リーファは翅を広げ、ふわりと浮き上がった。名残惜しそうな顔のレコンに向かって二分の一秒ほど手を振ると、くるりと向きを変えて塔から離れ、北東の方角に滑空を始める。
すぐに隣に追いついてきたキリトが、笑いを押し殺したような表情のまま言った。
「彼、リアルでも友達なんだって?」
「……まあ、一応」
「ふうん」
「……何よ、そのふうんってのは」
「いやあ、いいなあと思ってさ」
キリトに続けて、彼の胸ポケットからピクシーも言った。
「あの人の感情は理解できます。好きなんですね、リーファさんのこと。リーファさんはどうなんですか?」
「し、知らないわよ!!」
つい大声で叫んでしまい、リーファは照れ隠しにスピードを上げた。レコンの直球な態度にはいいかげん慣れてしまっているのだが、キリトの隣でやられると何故か妙に恥ずかしかった。
気づくと、いつの間にか街を出て、森の縁に差し掛かっていた。リーファは体を半回転させて後進姿勢を取り、遠ざかっていく翡翠の街を見つめた。
一年を過ごしたスイルベーンから離れることを思うと、郷愁に似た感情がちくりと胸を刺したが、未知の世界へ旅立つ興奮がすぐにその痛みを薄めていった。バイバイ、と心のなかで呟いて、再び向き直る。
「――さ、急ごう! 一回の飛行であの湖まで行くよ!」
はるか彼方にきらきらと輝く湖面を指差し、リーファは思い切り翅を鳴らした。
じっとりと冷たい指先が自分の二の腕を這い回る感触に、アスナはひたすら耐えていた。
鳥かごの中央、巨大なベッドの上。緑のトーガをだらしなく着崩したオベイロンが長々と体を横たえ、隣に顔を背けて座るアスナの左手を取って肌を撫でまわしている。その気になればいつでも襲える、という状況を楽しんでいるのだろう、端正な作り物の顔にはいつにも増して粘つくような笑いが浮かんでいる。
先刻、オベイロンが鳥かごに入ってくるなりベッドに横たわり、隣に来いと言ったときは無論拒絶してやろうと思ったし、腕をいじくりはじめた時は殴りかかってやろうと思った。それでも、嫌悪感に耐えて唯々諾々と言葉に従ったのは、感情の起伏が激しいこの男に、今以上に自由を奪われるのを恐れたからだ。むしろオベイロンはアスナが反抗するのを待っているフシがある。たっぷりとアスナが嫌がる様を満喫した上で、システム的に束縛してから挙に及ぼうと言うのだろう。今はまだ、せめて籠の内部だけでも自由に動ける状態を確保しておかなければならない。――少しでも脱出の可能性が残されているうちは。
しかし勿論限度というものがある。もしこの男が体に触れてきたら、右拳を思い切り顔の真ん中に叩き込んでやろう――。そう思いながらアスナが石のように身を固くしていると、いくら腕を撫で回してもアスナが何の反応も見せないことに失望したのか、オベイロンは手を離すとごろりと体を上向けた。
「やれやれ、頑なな女だね、君も」
少々不貞腐れたように言う。その声だけは、記憶にある須郷のものを完全に再現していて、それがまた嫌悪の元になる。
「どうせ偽物の体じゃないか。何も傷つきゃしないよ。一日中こんな所にいて退屈するだろう? 少しは楽しもうって気にならないのかねえ」
「……あなたにはわからないわ。体が生身か、仮想かなんてことは関係ない。少なくともわたしにとってはね」
「心が汚れるとでも言いたいのかね」
オベイロンは喉の奥でくくっと笑った。
「どうせこの先、僕が地位を固めるまでは君を外に出すつもりはない。今のうちに楽しみ方を学んだほうが賢明だと思うけどねえ。あのシステムは実に奥が深いよ、知ってた?」
「興味ないわ。……それに、いつまでもここにいるつもりもない。きっと……助けに来るわ」
「へえ? 誰が? ……ひょっとして彼かな? 英雄キリト君」
その名前を聞いて、アスナは思わずびくりと体を震わせた。オベイロンはニヤニヤ笑いを大きくしながら上体を起こした。アスナの心をくじくスイッチをよくやく見つけた――と言わんばかりに、勢い良く喋りはじめる。
「彼……キリガヤ君とか言ったかな? 本名は。先日、会ったよ。向こうでね」
「……!!」
それを聞いた途端、アスナはさっと顔を上げ、オベイロンを正面から見つめた。
「いやあ、あの貧弱な子供がSAOをクリアした英雄とはとても信じられなかったね! それとも、そういうモノなのかな、筋金入りのゲームマニアってのは?」
嬉々とした表情で、オベイロンがまくし立てる。
「彼と会ったの、どこだと思う? ……君の病室だよ、本当の体がある、ね。寝ている君の前で、来月この子と結婚するんだ、と言ってやったときの彼の顔は実に傑作だったね!! 骨を取り上げられた犬だってあんな情けない顔はしないね、大笑いしそうになったよ!!」
くひっ、くひっと妙な笑い声を切れ切れに発しながら、オベイロンは体を捩った。
「じゃあ君は、あんなガキが助けにくると信じているわけだ! 賭けてもいいけどね、あのガキにはもう一回ナーヴギアを被る根性なんてありゃしないよ! 大体君のいる場所がわかる筈がないだろうに。そうだ、彼に結婚式の招待状を送らないとな。きっと来るよ、君のウェディングドレス姿を見にね。まあそれくらいのおこぼれは与えてやらないとね、英雄君に!」
アスナは再びゆっくりうつむくと、オベイロンに背を向け、体をベッドの天板に掛けられた大きな鏡に預けた。力なく肩を落とし、クッションをぎゅっと握り締める。
そのアスナの様子に満足したのか、鏡の中でオベイロンがベッドから降り、立ち上がった。
「あの時は監視カメラを切っておいたから、しょぼくれた彼を撮影できてないのは惜しかったなぁ。もし撮れてれば動画を持ってきてやったのに。次の機会があったら試みるよ。ではしばしの別れだ、ティターニア。明後日まで、寂しいだろうが堪えてくれたまえ」
最後に一回ククッと笑うと、オベイロンは身を翻した。トーガの裾を揺らしながら、ドアに向かって歩いていく。
鏡の中に、小さくなるオベイロンの姿を捉えながら、アスナはすすり泣く様子を装いつつ心の中で思い切り叫んだ。
(――馬鹿な男!!)
まったく、頭はいいのかもしれないが実に愚かな男だ。昔からそうだった。他人を言葉でこき下ろす衝動が我慢できないのだ。アスナの両親の前ではうまく猫を被っていたが、アスナや兄は、須郷の他人に対する毒舌には何度も辟易とさせられていた。
今も、そうだ。本当にアスナの心を折ろうとするなら、彼は現実世界でのキリトのことを話すべきではなかった。彼は死んだと言うべきだったのだ。
この世界に囚われてからの、それがアスナの最大の憂慮だった。自分だけがこの世界に転送され、キリトの意識は消滅してしまったのではないか――、必死に打ち消しながらも、その想像はアスナの心に毒を垂らしつづけた。
しかし今や、オベイロンがその憂慮をきれいに打ち払ってくれた。
(キリト君は――生きてる!!)
何度も、心の中でその言葉を噛み締める。その度に、アスナの中に灯った炎は確固としたものになっていく。
生きているなら、彼が状況を黙視しているはずがない。絶対にこの世界のことを探り出し、やってくる。だから、自分もただ囚われているわけにはいかない。出来る事を見つけ出し――躊躇せず実行に移すのだ。
アスナは、鏡に顔をつけて悲嘆に暮れる様を装った。鏡の中では、はるか遠くのドアにたどり着いたオベイロンが、こちらをちらりと振り返り、アスナの様子を確認している。
ドアの脇には小さな金属のプレートがあり、そこには十二の小さなボタンが並んでいる。それを正しい順で押すことによってドアが開閉するのだ。
何もそんな厄介な仕組みにしなくても、管理者属性の者だけがドアを開けられるようにすればいいではないかと思ったが、どうやらオベイロンには彼なりの美学があって、この場所にシステム臭のするものを持ち込むのが嫌いらしい。あくまで自分は妖精の王であり、囚われの王妃を虐げているつもりなのだ。
それもまた彼の愚かしさであり瑕《キズ》だ。
オベイロンが手を上げ、金属板を操作している。彼の立つ場所はアスナからは遠く、遠近エフェクトによってディティールが減少し、どのボタンを押しているのかはわからない。それを確認済ゆえにオベイロンはそんなシステムでもこの檻は磐石だと思っている。
それはその通りだ――オベイロンを直接見る場合に限っては。
彼はナーヴギアの作り出す仮想世界に触れてまだ間がない。だから知らないこともたくさんある。例えば、この世界の鏡は光学現象ではない、ということをだ。
アスナは泣くふりをしながら、至近距離から鏡に目を凝らした。そこには、くっきりとオベイロンの姿が映し出されている。現実の鏡なら、どんなに顔を近づけても遠くにあるものが詳細に見えたりはしないが、ここではオブジェクトとしての鏡の表面に微細なピクセルを用いて、映るべきものが計算され、表示されているのだ。遠近エフェクトも、鏡の中までは及ばない。指先の動きがはっきりと見える。
このアイデアを思いついたのはかなり前だ。しかし、オベイロンが部屋を出るときに、自然に鏡に近づくチャンスが今日までなかった。この機を逃すわけにはいかない。
(……8……11……3……2……)
オベイロンがボタンを押す順番を、アスナはしっかりと心に刻み付けた。やがてドアが開き、オベイロンがそこをくぐるとガシャリと音を立てて閉まった。黒地に碧玉色の翅を揺らしながら妖精王は樹上の道を遠ざかっていき、やがてその姿が消えた。
中天に輝く太陽が、鳥かごの中に格子状の影を作り出していた。その碁盤模様がゆっくりと伸びていくのを、アスナはじりじりしながら待ちつづけた。
現在分かっていることは、そう多くはない。
ここが『アルヴヘイム・オンライン』という、SAOタイプのバーチャルMMOゲームの内部で、信じがたいことだがそのゲームは正式にユーザーを募って運営されていること。オベイロン/須郷はそのサーバーを利用して元SAOプレイヤーの一部、約二千人の“頭脳を監禁”し、違法な人体実験に使用していること。それだけだ。
なぜ世間に知られたゲーム内で違法実験を行うような危険な真似をするのか聞いてみたところ、須郷は鼻を鳴らして答えた。――君ねえ、この種のターミナルを動かすのに幾らかかるのか知ってるのかい? サーバ一台でウン千万だよ! こうすれば会社は利益を上げられるし僕は研究ができる、一石二鳥じゃないかね。
つまりは財布の事情だったわけだが、それはアスナにとっても都合がいいことだった。完全にクローズドな環境なら手の出しようがないが、現実世界と繋がっているならばどこかにきっと綻びがある。
この世界での一日が、現実よりいくぶん早く経過しているのはオベイロンからそれとなく聞き出してあった。つまり、現実では今が何時なのかを推測するのは容易なことではないが、その難問に対する回答はまたしてもオベイロン本人が意図せず提供してくれていた。
彼がここにやってくるのは二日に一度、業務が終了してから、会社の端末を使用してダイブしているのだということが分かっている。生活のサイクルを守ることに固執する彼の性癖はよく知っているので、その時間はほぼ一定と考えていい。ゆえに行動を起こすなら、彼が帰宅し、眠りについてからのほうが望ましい。
無論、この陰謀に関わっているのは彼一人ではないだろう。だがこれは明らかな犯罪行為だ。ALO運営企業全体が荷担しているとは考えにくい。よくて数人――。それが皆須郷直属の部下なのだとしたら、夜通しALO内部を監視するのはほとんど不可能なはずだ。毎晩徹夜できるサラリーマンなどいるはずがない。
どうにか彼らの目をくぐり抜けてこの鳥かごから脱出し、どこかにあるであろうシステム端末にアクセスしてログアウトしてしまえば。それが不可能でも外部にメッセージさえ送れれば――。ベッドの上にうつ伏せになり、枕に顔を押し当てた格好で、アスナはひたすら時間が経過するのを待ちつづけた。
リーファは半ば感嘆し、半ば呆れながらキリトの戦闘を眺めていた。
シルフ領の北東に広がる『古森』の上空、もう少しで森を抜けて高原地帯に差し掛かる辺りだ。スイルベーンはもはや遥か後方に遠ざかり、どんなに目を凝らしても翡翠の塔を見分けることはできない。
いわゆる中立域の奥深くに分け入っているために、出現するモンスターの強さもかなりのレベルになりつつある。今キリトが三匹を同時に相手にしている、羽の生えた単眼の大トカゲ『イビルグランサー』もシルフ領の初級ダンジョンならボス級の戦闘力を持っている。
基本ステータスもさることながら、厄介なのは大きな紫の一ツ眼から放つ『呪念』――カース系の魔法で、食らうと大幅な一時的ステータスダウンを強いられる。ゆえにリーファは距離を取って援護に徹し、キリトにカースが命中するたびに解呪魔法をかけているのだが、正直に言ってその必要があるのかどうかも怪しいところだ。
身長に迫るほどの巨剣を握ったキリトは、防御や回避といった言葉は辞書にない、と言わんばかりのバーサークっぷりを見せて次々とトカゲと叩き落としていった。尾を使ったトカゲの遠距離攻撃など意に介するふうもなく、巨剣を振り回しながら突進しては時に数匹を一度にその暴風に巻き込み、切り刻む。恐るべきはその一撃の威力で、当初は五匹いたイビルグランサーはあっという間にその数を減らし、最後の一匹はHPを残り二割程度に減らされたところで逃走に移った。情けない悲鳴を上げながら森に逃げ込もうとする奴に向かってリーファは左手をかざすと、遠距離ホーミング系の真空攻撃魔法を発射。緑色に輝くブーメラン状の刃が四〜五枚宙を疾り、トカゲの体に絡みつくようにその鱗を切り裂いた。直後、青い爬虫類の巨体はポリゴンの欠片となって四散し、この日五度目の戦闘はあっけなく終了した。
大きな金属音と共に剣を鞘に落とし込み、宙をふわふわと近づいてきたキリトに向かってリーファは右手を上げた。
「おつかれー」
「援護サンキュー」
ぱしんと手のひらを打ち付け合って、笑みを交わす。
「しっかしまあ……何ていうか、ムチャクチャな戦い方ねえ」
リーファが言うと、キリトは頭をかいた。
「そ、そうかな」
「普通はもっと、回避を意識してヒットアンドアウェイを繰り返すもんだけどね。キミのはヒットアンドヒットだよ」
「その分早く片付いていいじゃないか」
「今みたいな一種構成のモンスターならそれでもいいけどね。近接型と遠距離型の混成とか、もしプレイヤーのパーティーと戦闘になった時は、どうしても魔法で狙い撃たれるから気をつけないとだめだよ」
「魔法ってのは回避できないのか?」
「遠距離攻撃魔法には何種類かあって、威力重視で直線軌道の奴は、方向さえ読めれば避けられるけど、ホーミング性能のいい魔法や範囲攻撃魔法は無理ね。それ系の魔法を使うメイジがいる場合は常に高速移動しながら交錯タイミングをはかる必要があるわ」
「ふむう……。覚えることが沢山ありそうだなあ」
キリトは難解な問題集を与えられた子供のような顔で頭をかいた。
「まあ、キミならすぐに勘がつかめる……と思うよ。目はいいみたいだしね。現実でスポーツか何かやってるの?」
「い、いやまったく」
「ふうん……。ま、いっか。さあ、先に進みましょう」
「おう」
頷きあうと、二人は翅を鳴らして移動を再開した。傾きはじめた太陽に照らされ、緑金色に輝く草原が森の彼方に姿を現しつつあった。
その後はモンスターに出会うこともなく、二人はついに古森を脱して山岳地帯へ入った。ちょうど飛翔力が限界に来たので、山の裾野を形成する草原の端に降下することにする。
靴底を草に滑らせながら着地したリーファは、両腕を上げて大きく伸びをした。生身の体には無い器官なのに、長時間の飛行をすると不思議に翅の根元が疲労するような感覚に襲われる。数秒遅れて着陸したキリトも同じように腰に手をあてて背筋を伸ばしている。
「ふふ、疲れた?」
「いや、まだまだ!」
「お、頑張るわね。……と言いたいとこだけど、空の旅はしばらくお預けよ」
リーファの言葉に、キリトは眉を上げた。
「ありゃ、何で?」
「見えるでしょう、あの山」
草原の先にそびえ立つ、真っ白に冠雪した山脈を指差す。
「あれが飛行限界高度よりも高いせいで、山越えには洞窟を抜けないといけないの。シルフ領からアルンへ向かう一番の難所、らしいわ。あたしもここからは初めてなのよ」
「なるほどね……。洞窟か、長いの?」
「かなり。途中に中立の鉱山都市があって、そこで休めるらしいけど……。キリト君、今日はまだ時間だいじょぶ?」
キリトは右手を振ってウインドウを出すと時計を確認し、頷いた。
「リアルだと夜七時か。俺は当分平気だよ」
「そう、じゃもうちょっと頑張ろう。ここで一回ローテアウトしよっか」
「ろ、ろーて?」
「ああ、交代でログアウト休憩することだよ。中立地帯だから、即落ちできないの。だからかわりばんこに落ちて、残った人がシルエット……プレイヤーの入ってないキャラクターを守るのよ」
「なるほど、了解。リーファからどうぞ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。十分ほどよろしく!」
言うと、リーファはウインドウを出し、ログアウトボタンを押した。警告メッセージのイエスボタンに触れると、周囲の風景が中央の一点に流れ込むかのごとく遠ざかり、消えていった。
ベッドの上で覚醒した直葉は、アミュスフィアを外すのももどかしく飛び起きると、部屋から出た。足音を殺しながら階段を駆け下りる。雑誌の校了日が近いので翠はまだ帰っておらず、和人も自室にいるのか一階はしんと静まり返っていた。
冷蔵庫を開け、買い置きのベーグル三つと生ハムやクリームチーズ、野菜類を次々と取り出す。丸いパンを手早くスライスして、薄くマスタードを塗ってからハムその他をどさどさと挟み、完成したベーグルサンドを皿に移す。小さなミルクパンに牛乳を注ぎ、レンジにかけてから直葉は再び階段まで戻り、二階に向かって呼びかけた。
「お兄ちゃん、ご飯どうするー?」
……だが返事はない。寝ているのかな、と肩をすくめ、台所へ取って返す。薄く湯気の立ち始めたミルクを大きなマグカップに注ぎ、皿と一緒にリビングテーブルの上に移動。いただきます、と小声で言って、即席の食料に大きく一口かぶりついた。
本当は、VRMMOにかまけてこういう食事をすると翠に叱られてしまうので、なるべく団体行動は夕食時にかからないように注意しているのだ。だが今回ばかりはそうもいかない。多分キリトとの旅は明日いっぱい、ヘタをするとその翌日までかかってしまうだろう。性分なのか直葉は長時間のパーティープレイが苦手で、日をまたぐような場合はどうしても気詰まりになってしまうのだが、不思議に今回はそれがなかった。それどころか――
(あたし、わくわくしてる……)
もぐもぐと咀嚼しながら胸の中で呟く。あの謎めいた少年(と、更に謎めいたピクシー)と未知の世界を冒険することを考えただけで気持ちが浮き立つ。
思い返せば、昔は毎日がそんな感じだった。強くなるにつれ少しずつ行動範囲が広がり、見知らぬ場所の上空を飛ぶだけでドキドキしたものだ。でも、シルフ領の中で、古参の有力プレイヤーとして持ち上げられ、知識と同時に色んなしがらみが増えていき――気づかないうちに毎日が惰性の中に埋もれていった。種族全体のために戦うという義務が、翼に見えない鎖をかけていたのだ。
ALOで領地を捨てた者を指す言葉「レネゲイド」、それは本来「背教者」という意味の英単語なのだと言う。義務として課せられた教えを捨て、国を追われた人々……今まではみじめな裏切り者というイメージを重ねていた彼らの胸中にも、もしかしたら一片の誇りがあったのかもしれない――。
漠然とそんなことを思いながら、直葉はベーグルサンドの最後のひとかけらを口に放り込み、ホットミルクと一緒に飲み下した。残った二つのベーグルにラップをかけ、メモ用紙を一枚剥ぎ取って、「お兄ちゃんへ、お腹が空いたら食べてね」と走り書きをして皿の下に挟む。
時計を見ると、そろそろ落ちてから十分が経過しつつあった。あわてて食器を洗い、トイレを済ませて、部屋に駆け戻る。
ベッドに体を横たえ、サスペンド状態のアミュスフィアを被ると、すぐに草原の微風がさわやかな香りで直葉――リーファを迎えた。
「お待たせ! モンスター出なかった?」
待機姿勢――片膝立ちでしゃがみこんだ格好――から立ち上がり、リーファが言うと、傍らに寝転がっていたキリトは口から緑色の曲がったストロー状のものを離し、頷いた。
「おかえり。静かなもんだったよ」
「……それ、ナニ?」
「雑貨屋で買い込んだんだけど……スイルベーン特産だってNPCが言ってたぜ」
「あたし知らないわよ、そんなの」
するとキリトはそれをひょいっと放ってきた。片手で受け止め、ドギマギする心を素知らぬ顔で隠して端っこを咥える。一息吸うと、甘い薄荷の香りがする空気が口に広がった。
「じゃ、今度は俺が落ちる番だな。護衛よろしく」
「うん、行ってらっしゃい」
キリトがウインドウを出し、ログアウトすると、自動的にその体が待機姿勢を取った。その横に腰を下ろして、ぼんやりと空を眺めながら薄荷味のパイプを吸っていると、キリトの胸ポケットからもぞもぞとユイが姿を現してリーファを仰天させた。
「わぁ! ……あ、あなた、ご主人様がいなくても動けるの?」
するとユイは当然といった顔で小さな手を腰にあて、頷いた。
「そりゃそうですよー。わたしはわたしですから。それと、ご主人様じゃなくて、パパです」
「そういえば……なんであなたはキリトのことパパって呼ぶの? マサカそういう設定なの?」
「……パパは、わたしを助けてくれたんです。俺の子供だ、ってそう言ってくれたんです。だからパパです」
「そ、そう……」
やはりどうにも事情が飲み込めない。
「……パパのこと、好きなの?」
リーファが何気なく訊ねると、ユイはふいに真剣な表情でまっすぐ見つめ返してきた。
「リーファさん……好きって、どういうことなんでしょう?」
「ど、どうって……」
思わず口篭もる。しばらく考えてから、ぽつりと答えた。
「……いつでも一緒にいたい、一緒にいるとどきどきわくわくする、そんな感じかな……」
脳裏に和人の笑顔がよぎり――なぜかそれが、目の前で瞼を閉じてうつむくキリトの横顔と重なって、リーファははっと息を飲んだ。心の奥底に隠した和人への思慕とよく似たものをいつの間にかキリトにも感じているような、そんな気がしてしまって、思わず頭をぶんぶんと振り払う。怪訝な顔でユイが首をかしげる。
「どうしたんですか、リーファさん?」
「なななんでもない!」
つい大声で叫んだ、その途端――
「何がなんでもないって?」
「わっ!!」
いきなりキリトが顔を上げて、リーファは文字通り飛び上がった。
「ただいま。……何かあったの?」
激しく動揺するリーファに怪訝な目を向けながら、キリトは待機姿勢から起立した。するとその肩に乗ったままのユイが言った。
「おかえりなさい、パパ。今、リーファさんとお話をしてました。人を好――」
「わあ、なんでもないんだったら!!」
慌ててその言葉を遮りながらリーファも立つ。
「それより、さっさと出発しましょう。遅くなる前に鉱山都市までたどり着けないと、ログアウトに苦労するから。さ、洞窟の入り口までもう少し飛ぶよ!」
早口でまくし立てると、キリトとユイは揃って首をかしげた。それに構わず翅を広げ、軽く震わせる。
「あ、ああ。じゃあ、行こうか」
腑に落ちない顔ながらもキリトも翅を展開し――突然ふいっと、今まで飛んできた森の方に振り向いた。
「……? どうかしたの?」
「いや……」
声をかけると、キリトは思いがけず厳しい顔でうっそうと繁る木立の奥を見据えている。
「なんか、誰かに見られた気が……。ユイ、近くにプレイヤーはいるか?」
「いいえ、反応はありません」
ピクシーは小さな頭をふるふると動かした。だがキリトはなおも納得できない様子で眉をしかめている。
「見られた気が、って……。この世界にそんな第六感みたいなもの、あるの?」
リーファが聞くと、キリトは右手で顎を撫でながら答えた。
「……これが中々バカにできないんだよな……。例えば誰かがこっちを見ている場合、そいつに渡すデータを得るためにシステムが俺たちを『参照』するわけだけど、その流れを脳が感じるんじゃないか……という説もある」
「は、はあ……」
「でもユイに見えないなら誰も居ないんだろうしなあ……」
「うーん、ひょっとしたらトレーサーが付いてるのかも……」
リーファが呟くと、キリトは眉を上げた。
「そりゃ何だい?」
「追跡魔法よ。大概ちっちゃい使い魔の姿で、術者に対象の位置を教えるの」
「便利なものがあるんだなあ。それは解除できないの?」
「トレーサーを見つけられれば可能だけど、術者の魔法スキルが高いと、対象との間に取れる距離も増えるから、こんなフィールドだとほとんど不可能ね」
「そうか……。まあ、気のせいかもしれないしな……。とりあえず先を急ごうぜ」
「うん」
頷きあい、リーファとキリトは地を蹴って浮かび上がった。間近に迫った白い山脈は絶壁の如くそびえ立ち、その中腹にぽっかりと口を開けた洞窟が見て取れる。不吉な黒い冷気を吐き出しているかのような巨大な穴目指して、リーファは力いっぱい翅を鳴らし、加速を始めた。
数分の飛行で、二人とひとりは洞窟の入り口までたどり着いた。
ほぼ垂直に切り立った一枚岩の岩盤の中央に、巨人の鑿で穿たれたかの如き四角い穴が開いている。幅も高さも、リーファの背丈の三、四倍はありそうな大きさだ。遠くからはわからなかったが、入り口の周囲は不気味な怪物の彫刻で飾られ、上部中央には一際大きな悪魔の首が突き出して侵入者を睥睨している。
「……この洞窟、名前はあるの?」
キリトの問いに、リーファは頷きつつ答えた。
「『ルグルー回廊』って言うのよ、確か。ルグルーってのが鉱山都市の名前」
「ふうん。……昔の映画だけどさ、『ロードオブザリング』って観たことある?」
にやにや笑うキリトの顔を横目で睨む。和人の部屋に、数年前出た愛蔵版のBDVDがあったので、勝手に借りて三作とも観ていた。
「……あるわよ。山越えで地下を通ると、でっかい悪魔に襲われるんでしょ。あいにくだけどここに悪魔は出ませんからね」
「そりゃ残念」
「あ、オークは出るらしいわよ。そんなに楽しみなら全部お任せしますわね」
つん、とそっぽを向くと、リーファはすたすたと洞窟の中へと歩き出した。
洞窟の中はひんやりと涼しく、外から差し込む光はすぐに薄れ、周囲を暗闇が覆いはじめた。魔法で灯りをともそうと手を上げてから、ふと思いついて、横を歩くキリトを見る。
「そう言えば、キリト君は魔法スキル上げてるの?」
「あー、まあ、そこそこに……。使ったことはあんまりないけど……」
「洞窟とかはスプリガンの得意分野だから、灯りの術も風魔法よりはいいのがあるはずなのよ」
「えーと、ユイ、分かる?」
頭をかきながらキリトが言うと、胸ポケットから顔だけ出したユイがどこか教師然とした口調で言った。
「もう、パパ、マニュアルくらい見ておいたほうがいいですよ。灯りの魔法はですね……」
ユイが一音ずつ区切るように発声したスペルワードを、キリトは右手を掲げながら覚束ない調子で繰り返した。すると、その手から仄白い光の波動が広がり、それがリーファの体を包んだ途端、すっと視界が明るくなった。どうやら光源を発生させて周囲を照らすのではなく、対象に暗視能力を付与する魔法らしい。
「わあ、これは便利ね。スプリガンも捨てたもんじゃないわね」
「あ、その言われ方なんか傷つく」
「うふふ。いやでも実際、使える魔法くらい暗記しておいたほうがいいわよ。いくらスプリガンのしょぼい魔法でも、それが生死を分ける状況だってひょっとすると無いとも限らないし」
「うわ、さらに傷つく!」
軽口を叩きながら、曲がりくねった洞窟を下っていく。いつの間にか、入り口の白い光はすっかり見えなくなっていた。
「うええーと……アール・デナ・レ……レイ……」
キリトは、紫に発光するリファレンスマニュアルを覗き込み、覚束ない口調でスペルワードをぶつぶつと呟いた。
「だめだめ、そんなにつっかえたらちゃんと発動できないわよ。スペル全体を機械的に暗記しようとするんじゃなくて、まずそれぞれの『力の言葉』の意味を覚えて、魔法の効果と関連付けるようにして記憶するのよ」
リーファが言うと、黒衣の剣士は深いため息とともにがっくりとうな垂れる。
「まさかゲームの中で英熟語の勉強みたいな真似することになるとは思わなかったなぁ……」
「言っときますけど上級スペルなんて二十ワードくらいあるんだからね」
「うへぇ……。俺もうピュアファイターでいいよ……」
「泣き言いわない!! ほら、最初からもう一回」
――洞窟に入ってすでに二時間が経過していた。十回を越えるケイブオーク相手の戦闘も難なく切り抜け、スイルベーンで仕入れておいたマップのお陰で道に迷うこともなく、順調に路程を消化している。マップによればこの先には広大な地底湖にかかる橋があり、それを渡ればいよいよ地底鉱山都市ルグルーに到着することになる。
ルグルーは、ノーム領の首都たる大地下要塞ほどではないが良質の鉱石を産し、商人や鍛冶屋プレイヤーが多く暮らしているということだったが、ここまでの行程で他のプレイヤーと出会うことはなかった。この洞窟は、狩場としてはそれほど実入りのいい場所ではないし、何より飛行が身上のシルフゆえ、飛べない場所は敬遠する者が多いのだろう。洞窟内は幅も高さも充分あるのだが、飛翔力が一切回復しないのだ。
シルフのプレイヤーで交易のためにアルンを目指す者は、かかる時間は大幅に増えてしまうが、シルフ領の北にあるケットシー領を経由し、山脈を迂回する場合が多い。猫に似た耳と尻尾を持つ種族ケットシーはモンスターや動物を飼い馴らすスキル「テイミング」が得意で、テイムした騎乗動物を昔からシルフ領に提供してきた縁があるためシルフとは伝統的に仲がいい。領主同士の関係も良好で、近いうちに正式に同盟を結ぶという噂もある。
リーファにも親しいケットシーの友人が何人かいるために、今回のアルン行きも北回りルートを取ろうかと考えたが、キリトが急ぐ様子だったので山越えを選んだ。地下深く潜るのは正直不安もあったけれど、この調子ならさして問題もなく突破できそうだった。
――そう言えば、キリトが何故それほどアルン……世界樹へ急ぐのか、その理由も謎のままだ。飄々とした態度からはなかなか内心がうかがい知れないが、戦闘の様子を見るとどうやらかなり気が急いているようでもある。
確か人を捜している――というようなことを言っていたような覚えがあった。リアルで連絡が取れない相手をゲーム内部で捜す、というのは、実はそれほど珍しい話でもない。雑貨屋の店先にある掲示板の尋ね人コーナーには、常に「捜しています」の書き込みが後を絶たない。大概その理由は恨みつらみか色恋沙汰のどちらなのだが、しかしそのどちらもキリトには似合わない気がした。それに――アルンで捜す、ならわかるがなぜ世界樹なのか。あそこは今のところ不可侵領域であり、たとえ根元までは辿りつけても上部に登ることは不可能なのだ……。
スペルワードに悪戦苦闘し続けているキリトの隣を歩きながら、リーファはぼんやりと取り留めのない思考に身を任せていた。普段なら中立地帯で物思いにふけるなど自殺行為だが、この旅に限ってはユイが恐るべき精度でモンスターの接近を予告してくれるために不意打ちの心配はない。
更に数分が経過し、いよいよ地底湖が間近に迫りつつあったその時、リーファの意識を呼び覚ましたのはユイの警告ではなくルルルル、という電話の呼び出し音にも似たエフェクト音だった。
リーファはハッと顔を上げ、キリトに声をかけた。
「あ、メッセージ入った。ごめん、ちょっと待って」
「ああ」
立ち止まり、体の前方、胸より少し低い位置に表示されたアイコンを指先で押す。瞬時にウインドウが展開し、着信したフレンドメッセージが表示された。――と言ってもリーファがフレンド登録しているのは(不本意ながら)レコンただ一人なので、差出人は読む前からわかっていた。どうせまた益体もない内容だろうと思いながら目を走らせる。だが――
『やっぱり思ったとおりだった! 気をつけて、s』
書かれていたのはこれだけだった。
「なんだこりゃ」
思わず呟く。まったく意味を成していない。何が思ったとおりなのか、何に気をつけろというのか、そもそも文末の「s」というのは何なのだ。署名ならばLのはずだし――書きかけで送信したのだろうか?
「エス……さ……し……す……うーん」
「どうしたの?」
不思議そうな顔のキリトに、内容を説明しようとした、その時だった。彼の胸ポケットからぴょこんとユイが顔を出した。
「パパ、接近する反応があります」
「モンスターか?」
キリトが背中の巨剣の柄に手を掛ける。だが、ユイはふるふると首を振った。
「いえ――プレイヤーです。多いです……二十三人」
「にじゅう……!?」
リーファは絶句した。通常の戦闘単位にしては多すぎる。ルグルーもしくはアルンを目指す交易キャラバンだろうか。
確かに、月に一回ほどのペースでスイルベーンと中央を往復する大パーティーが組まれている。しかしあれは出発数日前から大々的に告知して参加者を募るのが慣例だし、朝に掲示板を覗いた時にはそのような書き込みは無かった。
しかし正体不明の集団であろうとも、それがシルフである限り危険はないし、まさかこんな場所に異種族の集団PKが出るとも思わなかったが、何となく嫌な感じがしてリーファはキリトに向き直った。
「ちょっとヤな予感がするの。隠れてやり過ごそう」
「しかし……どこに……」
キリトは戸惑ったように周囲を見回す。長い一本道の途中で、幅は広いが身を隠せるような枝道のたぐいは見当たらない。
「ま、そこはオマカセよん」
リーファはすました笑みを浮かべるとキリトの腕を取り、手近な窪みに引っ張り込んだ。照れくささを押し隠して体を密着させると、左手を上げてスペルを詠唱する。
すぐに緑に輝く空気の渦が足許から巻き起こり、二人の体を包み込んだ。視界は薄緑色に染まったが、外部からはほぼ完全に隠蔽されたはずだ。リーファはかたわらのキリトの顔を見上げ、小声で囁いた。
「喋るときは最低のボリュームでね。あんまり大きい声出すと魔法が解けちゃうから」
「了解。便利な魔法だなあ」
キリトは目を丸くして風の膜を見回している。そのポケットから顔を出したユイも、難しい顔をしてひそひそと囁いた。
「あと二分ほどで視界に入ります」
二人は首を縮め、岩肌に体を押し付ける。緊迫した数秒が過ぎ、やがてリーファの耳にザッザッという足音がかすかに届いてきた。その響きの中に、重い金属音の響きが混じった気がして、あれ、と内心で首を傾げたとき――。
キリトがひょいと首を伸ばし、不明集団が接近してくる方向を睨んだ。
「あれは……何だ?」
「何? まだ見えないでしょ?」
「プレイヤーは見えないけど……。モンスターかな? 赤い、ちっちゃいコウモリが……」
「!?」
リーファは息を呑んで目を凝らした。洞窟の暗闇の中に――確かに小さな赤い影がひらひらと飛翔し、こちらに近づいてくる。あれは――
「……くそっ」
無意識のうちに罵り声を上げると、リーファは窪みから道の真ん中に転がり出た。自動的に隠蔽魔法が解除され、キリトも途惑い顔で体を起こす。
「お、おい、どうしたんだよ」
「あれは、高位魔法のトレース・サーチャーよ!! 潰さないと!!」
叫びながら両手を前方に掲げ、スペル詠唱を開始。長めのワードを唱え終わると、リーファの両手の指先からエメラルド色に光る針が無数に発射された。ビィィィ、と空気を鳴らし、赤いコウモリ目掛けて針が殺到していく。
コウモリはふわりふわりと宙を漂い、巧みに射線から身をかわし続けたが、やがて弾数の多さに屈したように数本の針に貫かれると地面に墜落し、赤い光を発して消滅した。それを確認するやリーファは身を翻し、キリトに向かって叫んだ。
「街まで走るよ、キリト君!!」
「え……また隠れるのはダメなのか?」
「トレーサーを潰したのは敵にももうわかってる。この辺に来たら山ほどサーチャーを出すだろうから、とても隠れきれないよ。それに……さっきのは火属性の使い魔なの。ってことは、今接近してるパーティーは……」
「サラマンダーか!」
察しのいいところを見せてキリトも顔をしかめた。そのやり取りの間にも、ガシャガシャという金属音の混じった足音は大きくなっていく。リーファがもう一度ちらりと振り返ると、彼方の暗闇にちらりと赤い光が見えた。
「行こう」
頷きあい、二人は走り出した。
一目散に駆けながらマップを広げて確認すると、この一本道はもうすぐ終わり、その先に大きな地底湖が広がっていた。道は湖を貫く橋に繋がり、それを渡り終えれば鉱山都市ルグルーの門に飛び込むことができる。街の中はアタック不可能圏内なので、いかに敵の数が多くとも何もすることはできない。
でも、どうしてこんなところにサラマンダーの大集団が……。
リーファは唇を噛んだ。トレーサーに付けられていたということは、連中は最初からリーファ達を狙っていたということだ。しかしスイルベーンを出てからは、ユイのサーチ能力のせいでそんな隙はなかったはずだ。可能性があるとすれば、まだスイルベーンの街中に居たときしかない。
火属性の魔法を使うシルフもいないわけではない。各属性の魔法は、風ならシルフ、土ならノームというように特定の種族に秀でた適正があるが、習得に苦労するだけでスキルを上げること自体は可能だ。
だが、さっき潰した赤いコウモリは、目標を追跡するトレーサーと、隠蔽を暴くサーチャーの機能を兼ね備えた高位の術で、サラマンダー以外の種族があれを使えるほどに火魔法スキルをマスターするのは至難の技と言っていい。ということは――
「スイルベーンにサラマンダーが入り込んでいた……?」
走りながら、リーファは呟いた。もしその想像が的中しているとすれば容易ならざる事態だ。スイルベーンは比較的他種族の旅行者に門戸の開かれた街だが、敵対関係にあるサラマンダーの侵入だけは厳しくチェックしていた。強力なNPCガーディアンが、見つけ次第斬り倒しているはずなのだ。それをかいくぐる手段はごく少ない……。
「お、湖だ」
右前方を走るキリトの声が、リーファの意識を引き戻した。顔を上げると、ごつごつした通路はすぐ先で石畳の整備された道に変わり、その向こうで空間がいっぱいに開けて、広大な青黒い湖水がほのかに光っていた。
湖の中央を石造りの橋が一直線に貫き、彼方には空洞の天井までつながる巨大な城門がそびえ立っている。鉱山都市ルグルーの門だ。いっぱいに開かれたその内部に飛び込んでしまえば、この鬼ごっこはリーファ達の勝ちだ。
わずかに安堵して、リーファは再び後方を振り返った。追手の灯す赤い光とはまだかなりの距離がある。これなら――、そう思って、石畳を蹴る足に力を込める。
橋に入ると、周囲の温度がわずかに下がった。ひんやりと水の香りがする空気を切り裂いて疾駆する。
「どうやら逃げ切れそうだな」
「油断してコケないでよ」
キリトと短く言葉と笑みを交わしながら、橋の中央に設けられた円形の展望台に差し掛かった、その時だった。
ゴゴ、ゴーン! という重い轟音がリーファの耳朶を叩いた。
「!?」
橋が揺れている。息をのむ間もなく、展望台の少し先の部分に、茶色の光の柱が屹立し――その直後、地面から巨大な岩の壁が地響きとともにせり上がり、二人の行く手を完全に塞いだ。
「な……」
キリトも一瞬目を丸くしたが、走る勢いは緩めなかった。背の巨剣を鈍い金属音と共に抜き放つと、それと一体になって岩盤に突進していく。
「あ……キリト君!」
無駄よ、という余裕は無かった。キリトは巨剣を思い切り岩に打ち込み――ガツーン! という衝撃音と共に弾き返されて橋に叩きつけられた。茶色の岩肌には傷ひとつついていない。
「……ムダよ」
翅を広げて急制動をかけ、その横に停止すると、改めてリーファは言った。キリトは恨めしい顔で立ち上がった。
「もっと早く言ってくれ……」
「キミがせっかちすぎるんだよ。これは土魔法の壁だから剣じゃ破れないわ。攻撃魔法をいっぱい撃ち込めば破壊できるけど……」
「その余裕は無さそうだな……」
並んで背後を振り返ると、血の色に輝く鎧をまとった集団の先頭が橋のたもとに差し掛かるところだった。
「飛んで回り込む……のは無理なのか。湖に飛び込むのはアリ?」
キリトの提案に首を横に振る。
「ナシ。ここには超高レベルの水竜型モンスターが棲んでるらしいわ。ウンディーネの援護無しに水中戦するのは自殺行為よ」
「じゃあ戦うしかないわけか」
巨剣をがしゃりと構えなおしたキリトに向かって、リーファは頷きつつ唇を噛んだ。
「それしかない……んだけど、ちょっとヤバいかもよ……。サラマンダーがこんな高位の土魔法を使えるってことは、よっぽど手練のメイジが混ざってるんだわ……」
橋の幅が狭いために、多数の敵に一方的に包囲殲滅されるという最悪の展開は避けられそうだった。しかしそもそも二十三対二という圧倒的に不利な戦力差の上、このダンジョン内では飛ぶことができない。リーファの得意な空中での乱戦に持ち込むことができないのだ。
全ては個々の敵がどれほどの戦闘力を持っているかにかかっている。
(――それもあんまり期待できそうにないけどね……)
内心で呟きながら、リーファはキリトの隣に立つと長刀を抜いた。重い金属音を響かせながら接近してくる敵集団はすでにはっきりと目視できる。先頭、横一列に並んだ巨漢のサラマンダー三人は、先日戦った連中よりも一回り分厚いアーマーに身を固め――左手にメイスなどの片手武器、右手に巨大な金属盾を携えている。
それを見て、リーファは一瞬いぶかしく思った。ALO内での利き腕は現実世界と同じなので、サウスポーのプレイヤーはやはり少ないはずなのだ。
だがその疑問を口にする前に、隣に立つキリトがリーファをちらりと見て、言った。
「きみの剣の腕を信用してないわけじゃないんだけど……ここはサポートに回ってもらえないか」
「え?」
「俺の後ろで回復役に徹してほしいんだ。そのほうが俺も思い切り戦えるし……」
リーファは改めてキリトが携える片刃の大剣を見やった。確かに狭い橋の上で、味方を気遣いながらあの武器を振り回すのは至難の技だろう。ヒール役は性分ではなかったがリーファはこくりと頷き、トンと地面を蹴って橋を遮る魔法の岩壁ぎりぎりの場所まで退いた。どちらにせよ議論している時間はもうない。
キリトは腰を落とすと体を捻り、巨剣を体の後ろ一杯に引き絞った。津波のような重圧で三人のサラマンダーが迫る。キリトの大きいとはいえない体が、ぎりぎりと音がしそうな程に捻転していく。蓄積されたエネルギーの揺らぎが目に見えるようだ。両者の距離は見る見るうちに縮まり――
「――セイッ!!」
気合一閃、キリトは左足をずしんと一歩踏み出すと、青いアタックエフェクト光に包まれた剣を思い切り深紅の重戦士たちに向かって横薙ぎに叩きつけた。空気を断ち割る唸り、橋を揺るがす震動、間違いなくかつてリーファが見た中で最大の威力を秘めた斬撃だった。だが。
「!?」
リーファは唖然として目を見開いた。三人のサラマンダーは武器を振りかぶることもせず、ぎゅっと密集すると右手の盾を前面に突き出しその陰に体を隠したのだ。
ガァーン!! という大音響を轟かせ、キリトの剣が並んだタワーシールドの表面を一文字に薙いだ。ビリビリと空気が震え、湖面に大きな波紋が広がった。しかし――重戦士たちは、わずかに後方に押し動かされただけでキリトの攻撃を耐え切った。
リーファは慌ててサラマンダー達のHPバーを確認した。揃って二割ほど減少している。だがそれも束の間、次の瞬間戦士たちの後方から立て続けにスペル詠唱音が響き、三人の前衛の体を水色の光が包んだ。ヒールの重唱でHPバーが瞬時にフル回復する。そして、同時に――
金属の城壁にも似たシールドの列の後背からオレンジ色に光る火球が次々に発射され、大空洞の天井一杯に無数の弧を引いて降り注ぐと、キリトの立つ場所に炸裂した。
湖面を真っ赤に染めるほどの爆発が巻き起こり、小さな黒衣の姿を飲み込んだ。
「キリト君!?」
リーファは思わず悲鳴にも似た叫びを上げた。キリトのHPバーが恐ろしい勢いで減少していく。いや――、初撃で即死していないのが奇跡と言えた。それほどの高レベル多重魔法攻撃だった。リーファは深い戦慄とともに敵の意図を悟った。
この敵集団は、間違いなくキリトのことを、彼の凄まじい物理攻撃力のことを知っており、それへの対抗策を練り上げているのだ。
重武装の前衛三人は一切攻撃に参加せず、ひたすらシールドで身を守る。どんなにキリトの剣の威力が高くとも、体に届かなければ致命的なダメージを受けることはない。そして残る二十人はおそらく、全員がハイクラスのメイジだ。一部が前衛のヒールを受け持ち、それ以外の者が曲線弾道のホーミング魔法で攻撃する。これは、物理攻撃に秀でたボスモンスター攻略用のフォーメーションだ。
しかし、なぜ。これほどの人数を動員してまでなぜキリトとリーファを狙うのか――。
その疑問はとりあえず先送りして、リーファは回復魔法の詠唱に入った。ようやく薄れた炎の中から姿を現したキリトに、使える中で最も高位のヒールを連続してかける。だが、キリトのHPの絶対値が高いせいか、思ったほど回復しない。
キリトも敵の意図を悟ったようだった。持久戦は不利と見てか、大剣を構えなおすと猛然と重戦士の列に打ちかかる。
だが――、戦闘はすでに単純な数値的問題へと堕していた。
キリトが剣を振るって与えるダメージは、すぐに後方でヒールタンクと化したメイジ集団によって回復されてしまう。その直後、詠唱を完了した攻撃魔法が降り注ぎ、キリトを爆発の渦に飲み込む。
個人の技量の介在する余地のない、リーファの最も忌み嫌うパターン戦闘だった。趨勢を決めるのは最早、メイジ集団のマナポイントと、キリトのヒットポイントどちらが先に尽きるかというその一点でしかない。その結果はすでに明らかだった。
何度目とも知れない火球の雨がキリトを包み込んだ。立て続けに炸裂するオレンジの光がキリトの体を翻弄し、吹き飛ばし、地面に叩きつける。
あくまでゲームとして「痛み」自体は再現していないALOだが、爆裂系魔法の直撃を受けるのは最も不快な感覚フィードバックのひとつであると言っていい。轟音が脳を揺さぶり、熱感が肌を灼き、衝撃が平衡感覚を痛めつける。その影響は時として現実の肉体にまで及び、覚醒してから数時間頭痛や眩暈に苦しめられることがあるほどだ。
だがキリトは何度火焔に飲まれても立ち上がり、剣を振りかぶった。回復魔法を空しく唱えながら、リーファはその姿に痛々しいものを感じずにはいられなかった。これはゲームだ。こんな局面に至れば、誰でも諦めて当然なのだ。負けるのは悔しいけれど、システムの上で動かされている以上、どうにもできない数値的戦力差というものがある。なのに、何故――。
これ以上キリトの姿を見ているのに耐えられなくなり、リーファは数歩駆け寄るとその背中に向かって叫んだ。
「もういいよ、キリト君! また何時間か飛べば済むことじゃない! アイテムだって買えばいいよ! もう諦めようよ……!」
だがキリトは、わずかに振り返ると、押し殺した声で言った。
「嫌だ」
その瞳は、周囲を焦がす炎を映して赤く輝いていた。
「俺の目の前で仲間を殺させやしない……絶対に、絶対にだ」
リーファは言葉を失って立ち尽くした。
どうにもならない死地に陥った時の反応はプレイヤーによって様々だ。『その瞬間』を笑いに紛らせようとする者、目を固く閉じ、体を縮めて耐えようとする者、最後の最後まで剣を振りつづけようとする者。しかし対処の差はあれ、結局はすべての者が擬似的な『死』に慣れていく。VRMMO−RPGというジャンルのゲームをプレイする上で避けられない事象としてそれぞれに折り合いをつけていくのだ。そうでなければこの『ゲーム』は『遊び』になり得ない。
だが――キリトの瞳に浮かんだ凄惨とでも言うべき光は、リーファがかつて見たことの無いものだった。システムによって明確に宣告された死をも断固として拒否する、あまりにも烈しい生存の意思。瞬間、リーファはここがゲームの仮想世界であることを忘れた。
「うおああああああ!!」
仁王立ちになったキリトが吼えた。びりびりと空気が震動した。敵の火力が途切れた一瞬の隙を突き、そびえ立つシールドの壁に無謀としか言えない突進を敢行。剣は右手に下げ、空いた左手をシールドのエッジに掛けると無理矢理にこじ開けようとする。思いがけないアクションに、サラマンダーの隊列が乱れた。わずかに開いた防壁の隙間に、右手の大剣を強引に突き立てる。
型もなにもあったものではない。攻撃にすらなっていないその行為では、とても効果的なダメージは望めない。だが、狂気とも取れるキリトの行動に、盾の内側から戸惑いの叫びが上がった。
「くそっ、なんだコイツ……!」
その時、リーファの耳もとで小さな声がした。
「チャンスは今しかありません!」
見ると、いつの間にかユイが肩に掴まっている。
「チャンス……!?」
「不確定要素は敵プレイヤーの心理状態だけです。残りのMPを全部使って、次の魔法攻撃をどうにか防いでください!」
「で、でも、そんなことしたって……」
焼け石に水、という言葉をリーファは飲み込んだ。ユイの目は真剣で、キリトと同じ確固たる意思を宿しているように見えたからだ。
リーファはこくんと頷くと、両手を上空に向かって突き出した。敵メイジ集団は既に火球呪文の詠唱に入っている。しかし、発射タイミングを合わせるためかそのスピードは遅い。リーファは得意の高速詠唱で立て続けにスペルワードを組み上げていく。音ひとつでもトチれば発動がキャンセルされてしまうが、いちかばちかで限界まで口の回転を上げる。
スペル完成は、リーファのほうがわずかに早かった。掲げたリーファの両手から、無数の小さな蝶が飛び出すと、キリトの体を包み込んでいく。
直後、敵も詠唱を完了。爆撃機による空爆を思わせる甲高い音を引きながら火球の群が天を切り裂いた。シールドの壁に取り付くキリトを、次々に咲く火焔の花が巻き込み――
「ふっ!」
リーファは広げた両手に爆圧のフィードバックを感じて歯を食いしばった。キリトを包む防御魔法のフィールドが、爆裂魔法を一つ中和する度に残りのMPががくん、がくんと減っていく。マナ回復ポーションを飲んでいるがとても追いつかない。この爆撃一回を防いだところで何になるのか――と思った、その時。
リーファの肩に立ったユイが鋭い声で叫んだ。
「パパ、今です!!」
ハッとして目を凝らす。紅蓮の炎の中、キリトが剣を掲げすっくと直立していた。かすかに呪文の詠唱が届いてくる。スペルワードの断片を、記憶のインデックスと照合する。
(確かこの呪文は……幻惑系最上位の……!?)
リーファは一瞬息を飲み――そして歯噛みした。今キリトが詠唱しているのは、プレイヤーの見た目をモンスターに変えるという高位魔法だ。だが、実戦での評価は無いに等しい。なぜなら、変化する姿はプレイヤーの攻撃力によってランダムに決定されるのだが、大抵はパッとしない雑魚モンスターになってしまう上、実ステータスの変動が無いということが周知されてしまっては恐れる者などいるはずもないからだ。
リーファのMPは容赦ない速度で減少していき、ついに残り一割を切った。ユイの言葉に従っていちかばちかの博打に打って出たものの、どうやらダイスは裏目に出たようだった。
しかし、それも仕方ない――。この手のゲームでは『強さ』のかなりの部分を知識が占める。ゲームを始めて数日のキリトに、膨大な数のスペルひとつひとつの実効力を網羅せよと要求するのは余りに酷というものだ。
リーファはそう思いながら、両手に最後の力を込めた。敵の火球攻撃の最終波が降り注ぐのと、防護フィールドが消えるのはほぼ同時だった。一際大きく火焔の渦が巻き起こり、ゆっくりと鎮まって――
「え……!?」
炎の壁の中で、ゆらりと黒い影が動いた。一瞬、目の錯覚かと思った。それが、あまりに巨大だったからだ。
大男揃いのサラマンダー前衛の、優に三倍の高さがある。視線を凝らすと、背を屈めた巨人のように見えた。
「キリト君……なの……?」
呆然と呟く。そうとしか考えられない。あれは、キリトが幻影呪文によって変化した姿なのだろうが――しかしあの大きさは――。
立ち尽くすリーファの眼前で、のっそりと黒い影が頭を上げた。巨人ではなかった。その頭部は山羊のように長く伸び、後頭部から湾曲した太い角が伸びている。丸い目は真紅に輝き、牙の覗く口からは炎に似た息が漏れている。
漆黒の肌に包まれた上半身には縄のような筋肉が盛り上がり、逞しい腕は地につくほどの長さだ。腰からは鞭のようにしなる尾。禍々しいその姿を表現する言葉は、『悪魔』以外に無かった。
サラマンダー達も皆凍りついたように動きを止めていた。その場の全員が魂を抜かれたように見守る中、黒い悪魔はゆっくりと天を振り仰ぎ――
「ゴアアアアアアア!!」
轟くような雄叫びを上げた。今度こそ、誇張でなく世界が震えた。体の底から、原初的な恐怖が沸き起こる。
「ひっ! ひいっ!!」
サラマンダー前衛の一人が、悲鳴を上げて数歩後退した。その瞬間、恐ろしいスピードで悪魔が動いた。鈎爪の生えた右手を無造作にシールドの列に開いた隙間へと突きこみ、その指先が重武装の戦士の体を貫いた――と見えた次の瞬間、赤いエンドフレイムが吹き上がって、サラマンダーの姿はかき消すように消滅した。
「うわあああ!?」
たった一撃で仲間が斃れるのを見た残る二人の前衛は、異口同音に恐慌の叫びを上げた。盾を下ろし、左手の武器を振り回しながら、じりじりとあとずさっていく。
後方のメイジ集団の中から、リーダーのものと思しき怒鳴り声がした。
「馬鹿、姿勢を崩すな! 奴は見た目だけだ、亀になればダメージは通らない!」
しかしその声は戦士たちには届かなかった。漆黒の悪魔は大音量で吼えながら飛び掛かると、右の戦士を巨大な顎門で頭から咥え、左の戦士を鈎爪で掴み上げた。ゴ、ゴッ! と連続して赤い断末魔の光が疾り、悪魔の口と拳からまるで鮮血のごとく飛び散った。
三人の前衛が消滅するのに、五秒もかからなかったろう。気を取り直したように再びリーダーの指示が飛び、メイジ集団がスペル詠唱を始めた。だが、アーマーの類は一切身につけず、赤いローブを纏っただけのピュアメイジの集団は、前衛と比べるといかにも脆そうで――シュルルル、と呼気を吐き出しながら屹立した黒い悪魔の前では、刈り入れを待つ麦の穂にも等しかった。
殺戮が始まった。
スペル詠唱中のメイジ群に向かって悪魔は大きく右腕を振り上げ、横一文字に薙ぎ払った。前面に居た三、四人が襤褸切れのように吹き飛ばされ、宙で次々と赤い炎を撒き散らし、消滅。悲鳴と、ガラスを叩き割るようなバシャッ! という効果音が空に満ちる。間を置かず巨木の如き左腕が唸り、再び数名のサラマンダーが四散する。
つい数瞬前までは集団の中央にいた一際高級そうな魔道装備を身にまとったメイジが、いかにも魔法職といった怜悧な顔を引き攣らせた。スペルワードをファンブルしたらしく、両手を包んでいたエフェクト光がブスン! と黒煙を上げて消滅する。
キリトの変化した悪魔は、地響きと共に一歩足を踏み出すと再び轟くような雄叫びを放った。リーダーと思しき男は「ヒッ!」と喉を詰まらせたような悲鳴を上げ、右手をぶんぶん振り回した。
「た、退却! たいきゃ――」
だが、その言葉が終わらないうちに――。
悪魔は一瞬身を縮めると、大きく跳躍。ズシンと橋を揺るがして着陸したのは集団の真っ只中だった。それから後はもう、戦闘と呼べるものではなかった。
暴虐の嵐――、そんな言葉がリーファの脳裏を過ぎった。悪魔の鉤爪が唸るたび、その軌跡に複数のエンドフレイムが飛び散る。中には健気に杖で肉弾戦を挑もうとする者もいるが、武器を振り下ろす間もなく頭から顎門に咥えこまれ、絶命する。
暴風圏から器用に逃げ回っていたリーダー以下数名が、最早これまでと見てか一斉に橋から身を躍らせた。水柱を上げて湖面に飛び込むと、そのまま猛烈なスピードで彼方の岸目指して泳いでいく。
ALOでは水に落ちても、装備重量が一定値以下なら沈むことはない。メイジの軽装が幸いして、不恰好ながらもみるみるうちに橋から遠ざかっていったが――突然、その数名の下にゆらりと巨大な黒い影が現われた。
直後、がぽんという水音を残して全員が一瞬で水に引き込まれた。無数の泡を残して影は湖水の深みに潜っていき、消える直前、いくつかの赤い光が閃いたのが見えた。
キリトの悪魔は彼らには興味を示さず、橋に残ったサラマンダーをひたすら殺戮し続けた。手当たり次第に掴み上げては、杭のような牙で噛み砕いていく。リーファは彼らにわずかに同情した。武器で斬られるならともかく、あんな『死に方』をしては怯え癖がついてしまっても不思議はない。
無論キリトにはひと欠片の慈悲も無いようで、とうとう最後の一人となった不運なメイジを両手で高々と持ち上げた。ぎゃーぎゃーと悲鳴を上げるその体を、二つに捻じ切る勢いで力を込めていく――。
あまりのバイオレンスシーンに呆然としていたリーファは、そこでようやく我に返った。ハッとして、大声で叫ぶ。
「あ、キリト君!! そいつ生かしといて!!」
すごかったですねえ〜、などとノンキな感想を述べるユイを肩に乗せたまま、リーファは駆け出した。悪魔は動きを止め振り返ると、不満そうな唸りを上げながらもサラマンダーの体を空中で解放した。
ドチャッと音を立てて橋の上に落下し、放心の体で口をぱくぱくさせている男の前で立ち止まると、リーファは右手の長刀を男の足の間に突き立てた。金属音と共に剣先が石畳に食い込み、男の体がビクッと震える。
「さあ、誰の命令とか色々吐いてもらおうか!!」
せいぜいドスの利いた声で叫んだつもりだったが、男は逆にショックから醒めたらしく、顔面蒼白ながらも首を振った。
「こ、殺すなら殺しやがれ!」
「この……」
その時、上空から様子を見下ろしていた悪魔が、黒い霧を撒き散らしながらゆっくりとその巨躯を消滅させ始めた。リーファが顔を上げると、宙に溶けていく霧の中央から黒衣の人影が飛び出し、すとんと橋に着地した。
「いやあ、暴れた暴れた」
キリトは首をこきこき動かしながら打って変わってノンビリした口調で言い、巨剣を背中に収めた。ぽかんと口を開けるサラマンダーの隣にしゃがみこみ、肩をポンと叩く。
「よ、ナイスファイト」
「は……?」
唖然とする男に向かって、爽やかな口調で話し続ける。
「いやーいい作戦だったよウン。俺一人だったらやられてたなあー」
「ちょ、ちょっとキリト君……」
「まあまあ」
リーファが尖った声を出すと、ぱちりとウインク。
「さて、物は相談なんだがキミ」
右手を振ってトレードウインドウを出し、男にアイテム群の羅列を示す。
「これ、今の戦闘で俺がゲットしたアイテムと金なんだけどな。俺たちの質問に答えてくれたら、これ全部、キミにあげちゃおうかなーなんて思ってるんだなコレが」
男は数回口を開けたり閉じたりしながら、キリトのにこやかな笑顔を見上げた。不意にキョロキョロと周囲を見回し――おそらく、戦死したサラマンダー全員の蘇生猶予時間が終了し、セーブポイントに転送されたのを確認したのだ――再びキリトに向き直る。
「……マジ?」
「マジマジ」
にやっと笑みを交す両者を見て、リーファは思わずため息。
「男って……」
「なんか、みもふたもないですよね……」
肩でユイも感心したように囁いてくる。女性二人のアキレ視線にもひるまず、取引が成立したらしい男二人はグッと頷き合った。
サラマンダーは、話し出すと饒舌だった。
「――今日の夕方かなあ、ジータクスさん、あ、さっきのリーダーなんだけどさ、あの人から携帯メールで呼び出されてさ、オレ飯食ってたから断ろうとしたら強制召集だっつうのよ。入ってみたらたった二人を何十人で狩る作戦だっつうじゃん、イジメかよオイって思ったんだけどさ、昨日カゲムネさんをやった相手だっつうからなるほどなって……」
「そのカゲムネってのは誰だ?」
「槍騎士隊の隊長だよ。シルフ狩りの名人なんだけどさ、昨日珍しくコテンパンにやられて逃げ帰ってきたんだよね。あんたがやったんだろ?」
シルフ狩りなる言葉に顔をしかめながら、リーファはキリトと視線を交わした。おそらく昨夜撃退したサラマンダー部隊のリーダーのことだろう。
「……で、そのジータクスさんはなんであたし達を狙ったの?」
「ジータクスさんよりもっと上の命令だったみたいだぜ。なんか、『作戦』の邪魔になるとか……」
「作戦ってのは?」
「マンダーの上のほうでなんか動いてるっぽいんだよね。俺みたいな下っぱには教えてくれないんだけどさ、相当でかいこと狙ってるみたいだぜ。今日入ったとき、すげえ人数の軍隊が北に飛んでくのを見たよ」
「北……」
リーファは唇に指先をあて、考え込んだ。アルヴヘイムのほぼ南端にあるサラマンダーの街『ガタン』からまっすぐ北に飛ぶと、リーファたちが現在通過中の山脈にぶつかる。そこから西に回ればこのルグルー回廊があるし、東に行けば円環状の山脈の切れ目である「竜の谷」がある。どちらを通過するにせよその先にあるのは央都アルン、そして世界樹だ。
「……世界樹攻略に挑戦する気なの?」
リーファの問いに、男はぶんぶんと首を振った。
「まさか。さすがに前の全滅で懲りたらしくて、最低でも全軍にエンシェントウェポン級の装備が必要だってんで金貯めてるとこだぜ。おかげでノルマがきつくてさ……。でもまだ目標の半分も貯まってないらしいよ」
「ふうん……」
「ま、俺の知ってるのはこんなトコだ。――さっきの話、ホントだろうな?」
後半はキリトに向けられた言葉だ。
「取引でウソはつかないさ」
スプリガンの少年は飄々とうそぶくとトレードウインドウを操作した。入手したアイテム群を覗き込んだサラマンダーは、嬉々とした表情でせかせかと指を動かしている。
リーファは半ばあきれながら男に言った。
「しかしアンタ、それ元々は仲間の装備でしょ? 気がとがめたりしないの?」
すると男はちょっちょっと舌を鳴らす。
「わかってねえなあ。連中が自慢げに見せびらかしてたレアだからこそ旨みも増すってもんじゃねえか。ま、さすがに俺が装備するわけにもいかねえけどな。全部換金して家でも買うさ」
ほとぼりを冷ますために何日かかけてテリトリーに戻ると言い残し、サラマンダーはもときた方向に消えて行った。
なんだか、つい十分ほど前まで繰り広げられていた死闘がウソのように思えて、リーファはすっかりいつもの調子に戻っているキリトの顔をまじまじと眺めた。
「ん? なに?」
「あ、えーっと……。さっき大暴れした悪魔、キリト君なんだよねえ?」
訊くと、キリトは視線を上向けてあごをぽりぽりと掻いた。
「んー、多分ね」
「多分、って……」
「俺、たまにあるんだよな……。戦闘中にブチ切れて、記憶が飛んだりとか……」
「うわ、こわっ」
「まあ、さっきのは何となく覚えてるよ。ユイに言われるまま魔法使ったら、なんか自分がえらい大きくなってさ。剣もなくなるし、仕方ないから手づかみで……」
「ぼりぼり齧ったりもしてましたよ〜」
リーファの肩で、ユイが楽しそうに注釈を加える。
「ああ、そう言えば。モンス気分が味わえてなかなか楽しい体験だったぜ」
にやにや笑うキリトを見ていると、どうしても聞いてみたい疑問が湧いてきて、おそるおそる口にする。
「その……、味とか、したの? サラマンダーの……」
「……ちょっと焦げかけの焼肉の風味と歯ごたえが……」
「わっ、やっぱいい、言わないで!」
キリトに向かってぶんぶんと手を振る。と、不意にその手をがしっと掴まれ――。
「がおう!!」
一声うなるとキリトは大きく口を開け、リーファの指先をぱくりとくわえた。
「ギャ―――――ッ!!」
リーファの悲鳴と、それに続くばちこーんという破裂音が地底湖の水面をわずかに揺らした。
「うう、いててて……」
リーファに思い切り張られた頬っぺたをさすりながらキリトがとぼとぼと歩く。
「さっきのはパパが悪いです!」
「ほんとだわよ。失礼しちゃうわ」
リーファと、肩に乗せたユイが口々に言うと、キリトは叱られた子供のような顔で抗弁した。
「殺伐とした戦闘のあとの空気を和ませようというウィットに満ちたジョークじゃないか……」
「次やったらぶった斬るからね」
まぶたを閉じてツンと顔を逸らすと、リーファは歩調を速めた。
眼前には、巨大な石造りのゲートがはるか地下空洞の天井まで聳え立っている。鉱山都市ルグルーの城門だ。
補給と、色々わからないことが出てきたので情報整理も兼ねてこの街で一泊することにしたのだ。思いがけない大規模戦闘で時間を取られ、リアル時刻はすでに深夜零時を回っている。
アルヴヘイムが本格的に賑わいはじめる時間帯はこれからだが、リーファは一応学生の身分なので、どんなに遅くても一時前には落ちることにしていた。キリトにその旨を告げると、少し考える様子だったがこくりと頷いて了承した。
並んで城門をくぐると、BGMがわりのNPC楽団の陽気な演奏と、幾つもの槌音が二人を出迎えた。
街の規模はそう大きくはない、だが、中央の目貫通りを挟むようにそびえる岩壁に、多種多様な商店やら工房が積層構造を成して密集している様は見事なものだ。プレイヤーの数も思ったより多く、普段目にすることの少ないプーカやレプラコーンといった種族のパーティーが談笑しながら行き交っている。
「へええー、ここがルグルーかぁー」
リーファは、初めて目にする地底都市の賑わいに思わず歓声を上げると、早速手近な商店の店先に設えられた剣の陳列棚に取り付いた。たとえ無粋な武器店であろうとも買い物はわくわくする。
「そう言えばさあー」
銀造りの長剣を手にとってためつすがめつしていると、背後でキリトがノンビリした口調で言った。
「ん?」
「サラマンダーズに襲われる前、なんかメッセージ届いてなかった? あれは何だったの?」
「……あ」
リーファは口をあんぐりと開けると振り返った。
「忘れてた」
慌ててウインドウを開き、履歴を確認する。レコンからのメッセージは、しかし改めて読んでもさっぱり意味がわからない。回線がトラブって途中で切れたのかとも思ったが、それにしては続きが届く気配もない。
ならばと思い、こちらからメッセージを打とうとすると、フレンドリストのレコンの名前はグレーに消灯している。すでにオフラインになっているようだ。
「何よ、寝ちゃったのかな」
「一応向こうで連絡取ってみたら?」
キリトの言葉に、うむむと考えこむ。
正直、現実世界にアルヴヘイムのことを持ち込むのは好きではなかった。ALOのコミュニティサイトにも一切出入りしていないし、レコン――長田伸一ともリアルでゲームの話はほとんどしていない。
しかし、謎のメッセージにはどこか引っかかるものがあるのも事実だった。
「じゃあ、ちょっとだけ落ちて確認してくるから、キリト君は待ってて。あたしの体、よろしく。――ユイちゃん」
肩に乗ったままのユイに向かって、付け加える。
「はい?」
「パパがあたしにイタズラしないように監視しててね」
「りょーかいです!」
「あ、あのなあ!!」
心外だというふうに首を振るキリトにうふふと笑っておいて、リーファは手近なベンチに座ると右手を振った。
ログアウトボタンを押し、この日二度目の世界移動。眩暈に似た感覚を味わいながら、はるか彼方のリアルワールド目指して意識を浮上させていく。
「ふう……」
いつになく長時間のログインに、わずかな疲労感を覚えて、直葉は深く息をついた。
ベッドに寝転がり、アミュスフィアを被ったままちらりと目覚し時計に目をやる。そろそろ翠が帰ってくる時間だ。顔くらい見せておいたほうがいいかもしれない――。
そんなことを考えながら、手探りでヘッドボードに置いてある携帯を手に取った。外装を兼ねるELディスプレイ・シェルに、ログイン中の着信履歴が表示されている。
「!?」
それを見て直葉は目を丸くした。着信十二件、すべて長田伸一からのコールだ。一体何事だというのだ。
ぱちっと音をさせて携帯を開き、コールバックしようとしたところで、十三回目の着信が入ったらしくシェルがブルーに発光点滅した。通話ボタンを押し、耳元へ。
「もしもし、長田クン? 何なの、一体?」
「あっ! ようやく捕まった! もーッ、遅いよ直葉ちゃん!!」
「何がモーなのよ。ちょっと中でゴタゴタしててね」
「た、大変なんだ! シグルドの野郎、僕たちを……そ、それだけじゃない、領主も――サクヤさんも売りやがったんだよ!」
「売った……って……。どういう意味なの? 最初から説明してよ」
「うー、時間ないのに……。えーと、ほら、昨日古森でサラマンダーに襲われた時さぁ、直葉ちゃん、なんかおかしいと思わなかった?」
長田は、言葉とは裏腹にいつものスローな口調に戻って言う。面と向かって話すときは、馴れ馴れしく直葉ちゃん呼ばわりされれば必ず物理攻撃を伴う訂正を加えているのだが、電話ではそうもいかないのでやむなく黙認することにする。
それにしても、あの出来事がまだたった一日前のことだという事実は直葉を少々驚かせた。キリトと出会ったのはなんだかもう遥か昔の出来事であるような気さえする。
「えー? おかしいって……何かあったっけ……?」
正直、キリトの印象が強すぎて、その前の空中交錯のことはよく覚えていなかった。
「最初、サラマンダーが八人で襲ってきた時、シグルドが、自分が囮になるって言って独りで三人くらい引っ張っていったじゃない?」
「ああ、そう言えば。結局彼も逃げ切れなかったんでしょ?」
「そうなんだけどさ。あれ、シグルドらしくないよ、今にして思えば。パーティーを分けるなら絶対自分はリーダーとして残って、囮は誰かにやらせるでしょう、いつもなら」
「あー……。それは、確かに……」
シグルドの、戦闘指揮官としての腕は確かなものだが、そのぶん独善的で、常に自分がトップに立たないと気がすまないところがある。たしかに、メンバーを逃がすために捨石になるような自己犠牲的行動は彼にそぐわない。
「でも、それって……どういうことなの?」
「だからさぁ」
長田は不味いものを噛み砕くような口調で言った。
「あいつ、サラマンダーと内通してたんだよ。多分、相当前から」
「はあ!?」
今度こそ心の底から驚愕して、直葉は携帯を握り締めて絶句した。
種族間のパワーゲームが繰り広げられるALOにおいて、捨てアカウントでのスパイ行為は日常的に行われている。スイルベーンをホームにするシルフの中にも、他種族、特にサラマンダーの偽装キャラクターが何人かいるのは間違いないだろう。
ゆえに基本的に、低スキルかつ低貢献度、低アクティヴィティのプレイヤーは皆スパイの可能性があるとして執政部の中枢には近づけない。リーファでさえ、風の塔の裏手にある領主館に立ち入れるようになったのはそう昔のことではない。
しかしシグルドは、ALO黎明期から積極的に執政サイドに参加し、今まで四回あった領主投票にもすべて立候補しているほどの古参プレイヤーだ。現領主の圧倒的な人気のせいで毎回次点、次々点に甘んじているが、選挙に破れてもへこたれる様子もなく補佐に名乗り出て、すっかり中枢の一角に大きな座を占めている。
その彼が、サラマンダーのスパイだなどという話はにわかに信じられなかった。
「ちょっとあんた……それ、確証はあるの?」
思わず声をひそめながら直葉は問いただした。
「僕、なんか引っかかると思って、今朝からずっとホロウでシグルドをつけてたんだ」
「……ホント、ヒマな人ねえ」
ホロウボディというのは、レコンの最も得意とする透明化の術である。高位の隠蔽魔法と、隠密行動スキルの双方をマスターしないと使うことができない。
もともと、レコンの英語表記である『Recon』というのは、アメリカの軍隊用語で偵察隊を指す(正しくはリーコンと発音するらしいが)のだそうだ。狩りでの先行偵察を目的としたキャラメイクに特化しているため、尾行は得意中の得意なのだろう。一度、それを悪用してリーファが休んでいる宿屋の部屋に侵入してきたことがあり――本人曰く、こっそり誕生日プレゼントを置こうとしただけ、らしいが――その時は容赦なく半殺しの目に合わせたものだが。
長田は、直葉のアキレ声を無視して言葉を続けた。
「風の塔であいつがリーファちゃんに暴言吐いたあと、あんまりムカついたんで毒で暗殺してやろうと思ってずっとチャンスを狙ってたんだ。そしたら――」
「うわ、アブナい奴」
「――裏道であいつらも透明マントかぶって消えるから、こりゃいよいよ何かあると思ってさ。ま、アイテムくらいじゃ僕の目は誤魔化せないけどね」
「自慢はいいから、早く先を言いなさいよ」
「そのまま地下水道に入って、五分くらい歩いたかなあ、めっちゃ奥のほうで妙な二人組が待っててね。そいつらも透明マント被ってたんだけど、それを脱いだらこいつはビックリ、サラマンダーじゃないですか!」
「ええ? でも、マントじゃあガーディアンは誤魔化せないでしょう? 街に入った時点で斬られてるはずだけど……。まさか……」
「それそれ、そのまさか。メダリオン装備してたよ」
パス・メダリオンというのは、通商などでテリトリーを訪れる他種族プレイヤーに厳しい審査のうえで与えられる通行証アイテムである。執政部のごく限られた人間しか発行できず、譲渡不可という代物だが、当然シグルドなら発行権があるはずだ。
「こいつはアタリだと思って聞き耳立ててたら、サラマンダーがリーファちゃんにトレーサー付けたとか言っててさ。それだけじゃないんだ。実は今日、領主……サクヤ様が、ケットシーと正式に同盟を調印するってんで、極秘で中立域に出てるらしいんだよ。あいつら……サラマンダーの大部隊に、その調印式を襲わせる気なんだ!」
「な……」
直葉は一瞬息を詰め、次いで受話センサーに怒鳴りつけた。
「それを早く言いなさいよ!! 大変じゃないの!!」
「だから、最初に大変だって言ったじゃないのさぁー」
情けない声でぶつぶつ抗弁する長田に、立て続けに言葉をぶつける。
「で、それ、サクヤに知らせたの!? まだ時間あるんでしょうね!?」
「僕もヤバイと思って、地下から出ようと思った時、うっかり石ころ蹴っ飛ばしてネ……」
「このドジ! 大間抜け!」
「……なんか、最近直葉ちゃんに怒られるの気持ちよくなってきたかも……」
「どヘンタイ!! それで!? 連絡できたの!?」
「サラマンダーのサーチャーにハイド破られて、まあ殺されたら塔で蘇生して領主館に駆け込めばいいやーと思ったら、連中毒矢撃ちこみやがって、酷いことするよねえ」
……先刻の自分の言葉を棚に上げた発言だが、突っ込んでいる余裕はない。
「じゃあ……レコンは……?」
「地下水道で麻痺したままサラマンダーに捕まってます……。そんで、仕方なくログアウトしてきて、直葉ちゃんに電話してたけどさっぱり出ないし、僕、他にリアルで連絡つく人いないし……。あ、えーと、ケットシー領主との会談は一時って言ってたから……うわっ、あと四十分じゃん! ど、どうしよ直葉ちゃん!?」
直葉はひとつ深く息を吸ってから、口早に言った。
「その会談の場所はわかる?」
「詳しい座標までは……。でも、山脈の内側、蝶の谷を抜けたあたりらしいよ」
「わかった。……あたしがどうにかして知らせに行くわ。急ぐから、もう切るわよ」
「あっ、直葉ちゃん!」
切断ボタンに指先を伸ばしたところで、切羽つまったような長田の声が流れてくる。
「なによ?」
「えーとネ。あのキリトって奴、直葉ちゃんとどういう関係なのー?」
ぶちっ。
と問答無用で回線を切断し、携帯を再びヘッドボードに放り投げると、直葉は枕に頭を埋めて目を閉じた。現実世界で唯一使えるスペルワードを口にして、陰謀渦巻く異世界へと意識をシフト。
ぱちりと目を見開き、同時にリーファは勢い良く立ち上がった。
「うわっびっくりした!!」
目の前で黒衣のスプリガンが、屋台で買ったらしき謎の食べ物――見たところ小さな爬虫類を数匹串焼きにしたもののようだ――を取り落としそうになって、危ういところで握りなおした。
「お帰り、リーファ」
「おかえりなさいー」
口々に言うキリトとユイに向かって、リーファはただいまを言う間も惜しんで口を開いた。
「キリト君――ごめんなさい」
「え、ええ?」
「あたし、急いで行かなきゃいけない用事ができちゃった。説明してる時間も無さそうなの。たぶん――ここにも帰ってこられないかもしれない」
「……」
キリトは一瞬じっとリーファの目を見詰め、すぐにこくりと頷いた。
「そうか。じゃあ、移動しながら話を聞こう」
「え……?」
「どっちにしてもここからは足を使って出ないといけないんだろう?」
「……わかった。じゃあ、走りながら話すね」
ルグルーの目貫通りを、アルン側の門目指してリーファは駆け出した。
人波を縫い、巨岩を削りだした大門をくぐると、再び地底湖を貫く橋がまっすぐ伸びていた。ブーツの鋲を鳴らして全力で疾走しながら、リーファは事情をキリトに説明した。さいわいこの世界ではどれだけ走ろうと息切れしたりということはない。
「――なるほど」
リーファの話が終わると、キリトは何事か考えるように視線を前方に戻した。
「いくつか聞いていいかな?」
「どうぞ」
「シルフとケットシーの領主を襲うことで、サラマンダーにはどんなメリットがあるんだ?」
「えーと、まず、同盟を邪魔できるよね。シルフ側から漏れた情報で領主を討たれたらケットシー側は黙ってないでしょう。ヘタしたらシルフとケットシーで戦争になるかもしれないし……。サラマンダーは今最大勢力だけど、シルフとケットシーが連合すれば、多分パワーバランスが逆転するだろうから、それは何としても阻止したいんだと思うよ」
一行は橋を渡り終わり、洞窟に入っていた。リーファは目の前にマップを表示し、道を確認しながら走りつづける。
「あとは、領主を討つっていうのはそれだけですごいボーナスがあるの。その時点で、討たれた側の領主館に蓄積されてる資金の三割を無条件で入手できるし、十日間、街を占領状態にして税金を自由に掛けられる。これはものすごい金額だよ。サラマンダーが最大勢力になったのは、昔、シルフの最初の領主を、汚い罠にはめて殺したからなんだ。普通領主は中立域には出ないからね。ALO史上、領主が討たれたのは後にも先にもあの一回だけ」
「そうなのか……」
「だからね……キリト君」
ちらりと隣を走る少年の横顔に視線を向け、言葉を続ける。
「これは、シルフ族の問題だから……これ以上キミが付き合ってくれる理由はないよ……。この洞窟を出ればアルンまではもうすぐだし、多分会談場に行ったら生きて帰れないから、またスイルベーンから出直しだろうしね。――ううん、もっと言えば……」
胸が塞がるような思いを味わいながら、リーファはその先を口にした。
「世界樹の上に行きたい、っていうキミの目的のためには、サラマンダーに協力するのが最善かもしれない。サラマンダーがこの作戦に成功すれば、充分以上の資金を得て、万全の体制で世界樹攻略に挑むと思う。スプリガンなら、傭兵として雇ってくれるかもしれないし。――今、ここで、あたしを斬っても文句は言わないわ」
その時は、抵抗はするまい――とリーファは思った。普段の自分からはとても考えられない思考だったが、戦っても絶対に勝てない確信があったし、それに何となく、このたった一日前に知り合った少年と戦うのは嫌だった。
もしそうなったら……あたし、ALOをやめるかもしれないな……。
そんなことを考えながらもう一度キリトの顔を見ると、彼は表情を変えずに走りつづけながら、ぽつりと言った。
「所詮ゲームなんだから何でもありだ。殺したければ殺すし、奪いたければ奪う」
わずかに間を置き、
「――そんなふうに言う奴には、嫌っていうほど出くわしたよ。一面ではそれも真実だ、俺も昔はそう思っていた。でも――そうじゃないんだ。仮想世界だからこそ、どんなに愚かしく見えても、守らなきゃならないものがある。俺はそれを――大切な人に教わった……」
その瞬間、キリトの声が優しく、暖かい響きを帯びた。
「バーチャルRPGっていうこのゲームでは、矛盾するようだけど、プレイヤーと分離したロールプレイというものは有り得ないと俺は思う。この世界で欲望だけに身を任せれば、その代償はかならずリアルの人格へと還っていく。プレイヤーとキャラクターは一体なんだ。俺――リーファのこと、好きだよ。友達になりたいと思う。たとえどんな理由があっても、自分の利益のためにそういう相手を斬るようなことは、俺は絶対しない」
「キリト君……」
不意に胸が詰まって呼吸ができなくなり、リーファは立ち止まった。わずかに遅れてキリトも停止する。
両手を体の前でぎゅっと握り、言葉にできない感情の流れをもてあましながら、じっと黒い瞳の少年を見つめた。
そうか……そうだったんだ――。心の奥でつぶやく。
今までこの世界で、どうしても他のプレイヤーに、ある距離以上には近づけなかった理由、それは相手が生身の人間なのか、ゲームのキャラクターなのかわからなかったからだ。相手の言葉の裏に、本当のこの人は何を思ってるんだろうと、そんなことばかり気にしていた。どう接していいのかわからないがゆえに、他人の差し出す手を重荷と感じ、いつも翅を使って振り切っていた。
でも、そんなことを気にする必要はなかったのだ。自分の心が感じるままに――、それだけで良かったし、それだけが真実だった。
「……ありがとう」
心の奥底から浮かび上がってきた言葉を、そっと口にした。それ以上なにか話したら、泣いてしまいそうだった。
空の頂に貼りついたまま微動だにしないと思われた太陽も、やがてゆっくりと傾き始めた。オベイロンが訪れてから現実世界で最低五時間は経過したと判断し、アスナはそっと体を起こした。多分向こうは真夜中過ぎだ。監視の目がないことを祈りながら、タイルの上に降り立つ。
十歩も進むと、すぐに金の扉の前に到達した。こんな狭い場所に二ヶ月もいたのだと思うと唖然とせざるを得ない。
でも、それも今日で終わり――。
心の中で呟いて、右手の指をドアの脇の金属板に伸ばした。何度も暗唱して心に刻み付けた数字の羅列を、ひとつひとつ口に出しながら再現していく。小さなボタンを押すたびにカチリという感触が届き、張り詰めた神経を震わせる。
「……3……10…………12」
祈りながら最後のひとつを押すと、果たして一際大きくカチーン! という音が響き、わずかに扉が開いた。思わず右腕を小さく曲げてぐっ! と拳を握り、それがキリトのよく見せていた動作だと気づいて笑いを浮かべる。
「キリトくん……わたし、がんばるからね」
かすかに呟くと、アスナは扉を押し開けた。その向こうには、細い道が刻まれた太い枝が曲がりくねりながら伸び、遥か彼方の巨木の幹まで続いている。鳥かごから一歩、二歩と踏み出すと、背後で扉が自動的に閉まる音がした。だがもう振り返らなかった。肩にかかった髪を払い、決然と胸を反らすと、アスナはかつてのように確かな歩調であるきはじめた。
ふと後ろを振り返ると、金の鳥篭は厚く重なった濃緑の木の葉に覆われてすでに見えなかった。
世界樹の長大な枝、その中ほどに立ち止まり、アスナはふう、と息をついた。感覚的にはすでに数百メートルも歩いている。まったく途方も無い大きさだ。
せっかちなオベイロンのことだから、ログアウトにシステムコンソールを使用しているなら鳥篭の外、そう遠くない場所に設置しているに違いないと思っていたがどうやらあてが外れたようだった。もし彼がSAOタイプのホロウインドウ、または音声オペレーションを使っているとすると、システムにアクセスするのはかなり難しくなる。
だからと言って、無論あの場所に戻るわけにはいかない。今はただ行けるところまで行くだけだ――。
アスナは唇を引き結ぶと、再び歩きはじめた。
枝の直径は、進むに従ってどんどん太くなっている。視線を下方に向けると、うっすらと広がる無限の雲海と、その奥にかすかに緑の山々や湖と思しき青い水面が見て取れる。
オベイロンの話では、あそこはもう通常のゲーム圏内で、数多のプレイヤーが日々冒険を繰り広げているということだった。もしここから飛び降りたらどうなるだろう、とふと考える。
須郷の息のかからない正規のGMに接触できれば――。それがだめでも一般のプレイヤーに、今この世界の裏側で進行している陰謀を伝えることができれば。
だがアスナはそっと頭を振って、その考えを払い落とした。あまりにも荒唐無稽なこの話をプレイヤーに説明し、納得してもらうのはほとんど不可能だろうし、そもそもこの恐ろしいまでの高さから地上に落下したら一体どうなるのか想像もつかない。
仮に、今のアスナにもHPがあり、落下によるダメージが発生し、死亡判定がなされたら。アスナはまだナーヴギアを被り、コピーとは言えSAOの延長線上にあるプログラム上に存在するわけで、あの茅場晶彦の定めた第一原則が適用されないとも限らないのだ。それだけは回避しなくてはならない。
わたしは絶対に生きて現実世界に帰る。
アスナは、心に刻み付けるようにゆっくりと頭の中で呟いた。生きて――
「キリト君に、もう一度出会う」
さらに数分をかけて歩くと、ようやく木の葉のカーテンの向こうに基幹と思われる巨大な壁が見えてきた。枝と幹が接合する部分にぽっかりと木のうろのような穴が黒く口を開け、小路はその中へと続いている。無意識のうちに足音を殺しながら、アスナはゆっくりとその穴へと近づいた。
目の前まで来てみると、入り口それ自体は自然の樹木を模してうねった楕円形だったが、その奥に明らかに人工物然とした長方形のドアがあるのがわかった。ノブに類するものはないが、その位置にタッチパネルのようなプレートが据えられている。ロックされていないことを祈りながら、そこに指先を触れさせる。
と、音もなくドアが右にスライドした。息を詰めてその奥に人の気配が無いのを確かめ、素早く体を滑り込ませる。
内部は、そのまま奥へと続く、オフホワイトの直線的な通路だった。薄暗く、所々オレンジ色の照明が無機質な壁面のパネルを照らしている。見事な樹木の造形美を見せていた外部の通路と違い、ここはオブジェクトを設計する手間を惜しんだかのようなのっぺりとした造りだ。剥き出しの足からひんやりとした冷気が伝わってくる。その感触に、いよいよ敵の牙城に侵入したのだ、という事実を容赦なく認識させられ、アスナは唇を噛み締めた。
須郷は、茅場とは別種の狂気に支配された男だ。企業の一員でありながら、その立場を利用して二千人の脳を虜囚とし、危険な人体実験に供するなど尋常な精神ではない。彼を動かすのは、飽くなき欲望そのものだ。常により多くを手に入れたいという底の無い餓えに支配されている。それは子供の頃から近くにいたアスナが一番よく知っている。
須郷は今、アスナの一部を手に入れ、やがて全てを手に入れることができると確信してある程度の満足を得ている。だがアスナが己を出し抜き、鳥篭からの脱出を試みたと知れれば怒り狂うに違いない。現状で可能な陵辱の限りを尽くし、その上で邪悪な研究の生贄として捧げることも厭わないだろう。そう思うと膝から力が抜けそうになる。
だがここで引き返し、鳥篭に戻れば、アスナは本当の意味で須郷に屈したことになる。もしキリトなら――、決してここで立ち止まりはしないだろう。たとえ手に剣は無くとも。
アスナはきっと背筋を伸ばすと、通路の先を見つめた。鉛のように重い足をどうにか動かして一歩踏み出す。一度歩き出すと、後はもう止まることはなかった。
通路は無限に続くとも思われた。上下左右のパネルには継ぎ目どころか目印ひとつなく、自分が本当に前進しているのかだんだんわからなくなってくる。たまに天井に現われるオレンジの光源だけを頼りにひたすら歩きつづけ、ついに正面に二枚目の扉が見えてきたときは思わずほっと息をついた。
扉は先程のものとまったく同じだった。再び、パネルに慎重に指先を触れさせる。無音でドアがスライドする。
その奥は、今度は左右に広がる、まったく同じような通路だった。げんなりしながらドアをくぐる。と、驚いたことに、数秒後自動で閉まったドアは、その瞬間何の痕跡も残さず壁面に溶け込んでしまった。慌ててあちこち触るが、開く様子はなかった。
アスナは肩をすくめると、ドアのことは忘れることにした。どうせ戻るつもりのない場所だ。顔を上げ、左右を眺める。
通路は、今度は直線ではなく、ゆるやかに円弧を描いているようだった。一瞬考えたあと、右方向へと歩き出した。
ひたひたと微かな足音を響かせながら、ひたすら進みつづける。またしても見当識が怪しくなりはじめ、ひょっとして円形の通路をぐるぐると何周も歩いているのではないかと思えだしてきた頃――とうとう壁以外のものがアスナの視界に入った。
カーブの内側、ライトグレーの壁に、何かポスターのようなものが貼られていた。思わず駆け寄ると、それはこの場所の案内図のようだった。食い入るように表示を眺める。
長方形のオブジェクトの上部には、味気ないフォントで『ラボラトリー全図 フロアC』と書かれている。その下に、簡単な絵図。どうやら現在位置は、真円形の通路が三階層に重なった、その最上部らしかった。
アスナが今いるフロアCには、円形の通路以外何もない。先程通ってきた鳥篭へと続く直線の通路も表示されていない。だが、下のフロアB、さらに下のフロアAには、円環通路の内側に様々な施設――『データ閲覧室』だの『主モニター室』だの『仮眠室』などというものまでがある。
フロア間の移動は、地図上で円環の頂点部分に表示されているエレベータで行うようだった。俯瞰で描かれた楕円形の三つのフロアを、一本の垂直線が繋ぎ――更にその下まで長く伸びている。
エレベータの直線を目で辿っていくと、一番下には長方形の広い部屋があるようだった。その上に記された文字を読んだ途端、アスナの背中を軽い悪寒が走った。『実験体格納室』、そこにはそう書かれていた。
「実験体……」
小さく呟いたその言葉は、アスナの口の中に苦い後味を残して消えていった。
ここが須郷の違法研究施設であるのは間違いないと思われた。確かに、研究の全てを仮想世界内で行えば、それを会社に隠蔽するのは容易いことだ。もし秘密が露見しそうになっても、指先ひとつで全てをまとめて消去でき、あとには紙一枚残らない。
そしてこの施設の目的を鑑みれば、「実験体」という単語の意味するものはただひとつだった。須郷に拉致された旧SAOプレイヤー……彼らの精神が、いかなる形によってか、案内図に示された格納室なる場所に囚われているのだ。
アスナはしばし黙考したあと、身を翻して湾曲した通路をふたたび歩きはじめた。早足で数分進むと、やがて通路の左手、外周側の壁に飾り気の無いスライドドアが現われた。そばの壁面にプレートが据えられており、小さな下向きの三角印が浮き上がっている。
一回深呼吸をしてから指先でそこに触れる。すると即座にドアがスライドし、直方体の小部屋が出現した。中に踏み込み、体を半回転させると、現実のエレベータにそっくりな操作盤が目に入る。
一瞬の逡巡のあと、アスナは並んだ四つのボタンのうち一番下ものを押した。ドアが閉まり――驚いたことにわずかな落下感覚が体を包んだ。アスナを乗せた小さな箱は、仮想の大樹の深部目指して音も無く突き進んでいった。
キリトは照れたように笑った。
「ごめん、偉そうなこと言って。悪い癖なんだ」
リーファも両目をしばたき、笑顔を返した。
「ううん、嬉しかった。――じゃ、洞窟出たとこでお別れだね」
するとキリトは意外そうに眉を上げる。
「や、俺も一緒に行くよ、もちろん」
「え、え?」
「――しまった、時間無駄にしちゃったな。ユイ、走るからナビよろしく」
「りょーかいです!」
肩に乗った小妖精が頷くのを確認し、再びリーファに向かって、
「ちょっと手を拝借」
「え、あの――」
左手を伸ばし、あっけにとられるリーファの右手をぎゅっと掴むと――キリトはいきなり猛烈なスピードで駆け出した。空気の壁を突き破る衝撃音が鼓膜を叩いた。
今までもかなりのペースで走っていたつもりだったが、まるで比較にならない。あまりの速度に岩肌のテクスチャが放射状に溶け流されて見える。右手を引かれるリーファの体はほとんど水平に浮き上がり、キリトが洞窟の湾曲に沿ってコーナリングするたびに左右にぶんぶん振り回される。
「わあああああ」
たまらず悲鳴を上げつつ前方を凝視すると、通路の少し広くなった箇所に断続的に大量の黄色いカーソルが点滅するのが見えた。洞窟に巣食うオークの集団らしい。
「あの、あの、モンスターが」
叫ぶが、キリトはスピードを落とす気配も見せずオークの群に突っ込んでいく。右手を伸ばして背から巨剣を抜くと、体の前に突き出し――
その直後、密集しつつこちらに走り寄る敵集団に真正面から突入。
「わ――――――」
目蓋を閉じるひまもなく、バシャバシャバシャッ!! と音を立てて視界の上下左右で黄色い閃光が炸裂した。一撃でほぼ全てのモンスターが粉砕されたのだ、と悟ったときにはもう次の通路に飛び込んでいる。
その後も何度かモンスターにエンカウントしたが、キリトは足を止めることなく体当たりで蹴散らし続け、やがて前方に白い光が見えてきたときはリーファは半分目を回していた。
「おっ、出口かな」
キリトの言葉が耳に届いた直後、視界全てが真っ白に染まり、思わず両目をぎゅっと瞑る。
体を包んでいた轟音が一気に拡散したのに気づき、おそるおそる目蓋を開けると、そこはもう無限に広がる空の真ん中だった。どうやらキリトは、走る勢いを緩めず、山脈の中腹に開いた出口からカタパルトよろしく飛び出したらしい。二人は慣性に従って放物線を描きながら飛翔していく。
慌てて翅を広げ、滑空体勢に入ると、リーファは詰めていた息をいっぺんに吐き出した。
「ぶはっ!! ……ぜいぜいぜい」
荒い呼吸を繰り返しながら、傍らで背面飛行するキリトを睨みつける。
「――寿命が縮んだわよ!」
「わはは、時間短縮になったじゃないか」
「……ダンジョンっていうのはもっとこう……索敵に気を使いながら、モンスターをリンクさせないように……あれじゃ別のゲームだよ全く……」
ぶつぶつ文句を言ううちにようやく動悸が落ち着いてきて、リーファは改めて周囲を見回した。
眼下には広大な草原が広がり、所々に湖が青い水面をきらめかせている。それらを結ぶように蛇行する河が流れ、さらにその先には――
「あっ……」
リーファは思わず息を飲んだ。
雲海の彼方、おぼろに浮かぶ巨大な影。空を支える柱かと思うほどに太い幹が垂直に天地を貫き、上部には別の天体にも等しいスケールで枝葉が伸びている。
「あれが……世界樹か……」
隣で、キリトも畏怖にうたれたような声音で呟いた。
山脈を越えたばかりのこの地点からは、まだリアル距離置換で二十キロメートル近く隔たっているはずのその大樹は、すでに圧倒的な存在感で空の一角を占めていた。根元に立てばどれほどの光景となるのか想像もつかない。
二人はしばらく無言で世界樹を眺めていたが、やがてキリトが我に返り、言った。
「あ、こうしちゃいられない。リーファ、領主会談の場所ってのはどの辺りなんだ?」
「あっ、そうね。ええと、今抜けてきた山脈は、輪っかになって世界中央を囲んでるんだけど、そのうち三箇所に大きな切れ目があるの。サラマンダー領に向かう「竜の谷」、ウンディーネ領に向かう「虹の谷」、あとケットシー領につながる「蝶の谷」……。会談はその蝶の谷の、こっち側の出口で行われるらしいから……」
リーファはぐるりと視線をめぐらせると、北西の方角を指した。
「あっちにしばらく飛んだとこだと思う」
「了解。残り時間は?」
「――二十分」
「サラマンダーは、あっちからこっちへ移動するわけか……」
キリトは南東から北西へと指を動かした。
「俺たちより先行してるのかどうか微妙だな。ともかく急ぐしかないか。ユイ、サーチ圏内に大人数の反応があったら知らせてくれ」
「はい!」
こくりと頷き交わし、リーファとキリトは翅を鳴らして加速に入った。
「それにしても、モンスターを見かけないなあ?」
雲の塊を切り裂いて飛翔しながら、キリトが言った。
「あ、このアルン高原にはフィールド型モンスターはいないの。だから会談をわざわざこっち側でするんじゃないかな」
「なるほど、大事な話の最中にモンスターが湧いちゃ興醒めだしな……。でも、この場合はありがたくないな」
「どういうこと?」
するとキリトはニッと悪戯っぽく笑う。
「モンスターを山ほど引っ張っていって、サラマンダー部隊にぶつけてやろうと思ってたんだけどな」
「……よくそんなこと考えるわねえ。サラマンダーはさっき以上の大部隊らしいから、警告が間に合って全員でケットシー領に逃げ込めるか、もしくは揃って討ち死にか、どっちかだと思うよ」
「……」
キリトが思案顔で顎を撫でた、その時――。
「あっ、プレイヤー反応です!」
不意にユイが叫んだ。
「前方に大集団――六十八人、さらにその向こうに十四人。双方が接触するまであと五十秒です」
その言葉が終わると同時に、視界を遮っていた大きな雲の塊がさっと切れた。限界まで高度を取って飛んでいたリーファの眼下に、緑の高原がいっぱいに広がる。
その一角、低空を這うように飛ぶ無数の黒い影。五人ずつくさび型のフォーメーションを作り、それらが密集して飛行する様は、攻撃目標に音もなく忍び寄る不吉な戦闘機の群のようだ。
視線を彼らが向かう先へと振る。円形の小さな台地が見える。その上に、ぽつりと白く横たわるのは長テーブルだろうか。左右に七つずつの椅子が据えられ、即席の会議場といった案配だ。
椅子に座る者たちは、会話に夢中なのか、まだ迫り来る脅威に気づいていないようだった。
「――間に合わなかったね」
リーファは、傍らのキリトに向かってぽつりと言った。
今からでは、サラマンダー軍を追い越し、領主たちに警告しても、とても全員が逃げ切る余裕はない。それでも、討ち死にを覚悟で盾となり、領主だけでも逃がす努力をしなければならない。
右手を伸ばし、キリトの手をそっと握る。
「ありがとう、キリト君。ここまででいいよ。キミは世界樹に行って……短い間だったけど、楽しかった」
笑顔でそれだけ言い、ダイブに入ろうと翅を鋭角に畳んだとき、キリトが右手をぎゅっと握り返してきた。あわてて顔を見ると、いつもの不敵な笑みを浮かべ――
「ここで逃げ出すのは性分じゃないんでね」
手を離し、肩のユイを摘み上げて胸ポケットに放り込むと、翅を思い切り震わせて猛烈な加速を開始。バン! という衝撃音に顔を叩かれたリーファが一瞬目を閉じ、再び開けたときには、キリトはすでに台地目指して急角度のダイブに入っていた。
「ちょ……ちょっとぉ!! なによそれ!!」
少しだけ感傷的になりながら口にしたお別れの台詞を一瞬で台無しにされ、リーファは思わず抗議したが、キリトは振り返りもせずみるみる遠ざかっていく。アキレつつも慌てて後を追う。
目指す先では、シルフとケットシー達がようやく接近する大集団に気づいたようだった。次々に椅子を蹴り、銀光を煌かせながら抜刀するが、その姿は重武装の攻撃隊に比べあまりにも脆そうに見える。
草原を這うように飛んでいたサラマンダーの先頭部隊が、一気に高度を取り、ウサギを狙う猛禽のように長大なランスを構えてぴたりと静止した。後続の者たちも次々と左右に展開し、台地を半包囲する。殺戮の直前の静けさが一瞬、世界を包む。
サラマンダーの一人がさっと手を上げ――振り下ろそうとした、その瞬間。
対峙する両者の中央、台地の端に、巨大な土煙が上がった。一瞬遅れて、ドドーン! という爆音が大気を揺るがす。漆黒の隕石となったキリトが速度を緩めずに着地したのだ。
その場にいるすべての者が凍りついたように動きを止めた。薄れゆく土煙の中、ゆっくりと体を起こしたキリトは、仁王立ちになってぐるりとサラマンダー軍を睥睨した。胸を反らせ、一杯に息を吸い込んで――
「双方、剣を引け!!」
「うわっ!」
リーファはダイブしながら思わず首をすくめた。なんという馬鹿でかい声だろうか、先ほどの爆音の比ではない。まだ数十メートルも上空にいたリーファの体さえビリビリと震えた。まるで物理的圧力に晒されたかのごとくサラマンダーの半円が動揺し、わずかに後退る。
声もさることながら、あのクソ度胸には呆れるほかない。一体なにをどうするつもりなのか、見当もつかない。
リーファは背中に冷や汗が伝うような感覚を味わいながら、キリトの背後、シルフと思しき緑衣の集団の傍らにすとんと着陸した。見渡すと、すぐに特徴的な衣装の人物が見つかる。
「サクヤ」
声をかけると、そのシルフは呆然とした表情で振り向き、更に目を丸くした。
「リーファ!? どうしてここに――!? い、いや、そもそもこれは一体――」
彼女がこんなに取り乱すところは初めて見たなあ、と思いながら、リーファは口を開いた。
「簡単には説明できないのよ。ひとつ言えるのは、あたし達の運命はあの人次第、ってことだわ」
「……何がなにやら……」
シルフは再び、こちらに背を向けて屹立する黒衣の人影に目をやる。その心中を思いやりながら、リーファは改めてサクヤ――現シルフ領主の姿を見やった。
女性シルフにしては秀でた長身、黒に近いダークグリーンの艶やかな直毛を背に長く垂らし、その先を一直線にぴしりと切りそろえている。肌は抜けるように白く、切れ長の目、高い鼻筋、薄く小さな唇という美貌は刃のような、という形容詞が相応しい。
身にまとうのは、前合わせの和風の長衣。帯に無造作に差してあるのは、リーファの持つ長刀よりもさらに二寸ほども長い大太刀だ。裾から覗く真っ白な素足に、深紅の高下駄を突っ掛けている。一目見れば忘れられないその姿は、領主選挙での得票率が八割に近いのも頷けるほど印象深い。
もちろん、その得票の全てが美貌によるものではない。領主ゆえに数値的ステータスは高いとは言えないが、デュエル大会では常に決勝に進むほどの剣の達人であり、公正な人柄で人望も篤い。
視線を動かすと、その隣に立つ小柄な女性プレイヤーの姿が目に入った。
とうもろこし色に輝くウェーブヘア、その両脇から突き出た三角形の大きな耳はケットシーの証だ。小麦色の肌を大胆に晒し、身にまとうのはワンピースの水着に似た戦闘スーツ。その両腰に、巨大な三本のツメが突き出たクロー系の武器を装備している。スーツのお尻の部分からは縞模様の長いシッポが伸び、本人の緊張を映してかぴくぴくと震えている。
横顔は、まつげの長い大きな目、ちょっとだけ丸く小さな鼻、多少愛嬌のありすぎるきらいはあるがこちらもALO基準に照らせば驚くほどの美少女振りだ。直接まみえるのは初めてだが、彼女がケットシー領主のアリシャ・ルーだろう。サクヤと同じく圧倒的な人気で長期の政権を維持している。
並んで立つ二領主の後ろをちらりと見回すと、シルフとケットシーが六人ずつ、揃って呆然とした顔で立ち尽くしていた。無論ケットシーは全員初めて見る顔ばかりだが、シルフは執政部の有力プレイヤーばかりだ。念のため確認したが、やはりシグルドの姿はない。
改めて視線をサラマンダー部隊に向けたとき、再びキリトが叫んだ。
「指揮官に話がある!」
あまりにふてぶてしい声と態度に圧倒されたかのようにサラマンダーのランス隊の輪が割れた。空に開いたその道を、一人の大柄な戦士が進み出てくるのが見えた。
炎の色の髪を剣山のようにつんつんと逆立て、浅黒い肌に猛禽に似た鋭い顔立ち。逞しい体を、ひと目で超レアアイテムと知れる赤銅色のアーマーに包み、背にはキリトのものに優るとも劣らぬ巨剣を装備している。
深紅に光るその双眸を見た瞬間、リーファの背にぞくりという寒気が走った。対峙したわけでもないのにこれ程の恐怖を感じたプレイヤーは初めてだった。
ガシャッと音をさせてキリトの前に着地した戦士は、無表情のまま小柄な黒衣の少年を高い位置から睥睨した。やがてその口が開き、錆びているがよく通る声が流れた。
「――スプリガンがこんなところで何をしている。どちらにせよ殺すには変わりないが、その度胸に免じて話だけは聞いてやろう」
キリトは臆するふうもなく、大声で答えた。
「俺の名はキリト。スプリガン=ウンディーネ同盟の大使だ。この場を襲うからには、我々四種族との全面戦争を望むと解釈していいんだな?」
(――うわぁ……)
リーファは絶句した。何たるムチャクチャか――ハッタリをかますにも程がある。今度こそ錯覚でなく背中を冷や汗がだらだらと流れる。愕然とした顔でこちらに視線を向けるサクヤとアリシャ・ルーに向かって必死のウインク。
サラマンダーの指揮官も、さすがに驚いたようだった。
「ウンディーネとスプリガンが同盟だと……?」
だがすぐにその表情は元に戻る。
「……護衛の一人もいない貴様がその大使だと言うのか」
「ああ、そうだ。この場にはシルフ・ケットシーとの貿易交渉に来ただけだからな。だが会談が襲われたとなればそれだけじゃすまないぞ。四国の軍事同盟を結んでサラマンダーに対抗することになるだろう」
しばしの沈黙が世界を覆った。――やがて、
「たった一人、たいした装備も持たない貴様の言葉を、にわかに信じるわけにはいかないな」
サラマンダーは突然背に手を回すと、巨大な両刃直剣を音高く抜き放った。暗い赤に輝く刀身に、絡み合う二匹の龍の象嵌が見て取れる。
「――オレの攻撃を十秒耐え切ったら、貴様を大使と信じてやろう」
「ずいぶん気前がいいね」
飄々とした声で言うと、キリトも背から方刃の巨剣を抜いた。こちらは鈍い鉄色、装飾のたぐいは一切ない。
翅を震動させて浮き上がり、サラマンダーと同じ高度でホバリングする。瞬間、両者の間で圧縮された闘気が白くスパークしたような気がした。
(十秒……)
リーファはごくりと喉を鳴らした。
キリトの実力からすれば、余裕のある条件とも思える。だがあのサラマンダー指揮官の発する殺気もただごとではない。
緊迫した空気の中、隣に立つサクヤが低く囁いた。
「まずいな……」
「え……?」
「サラマンダーの両手剣、レジェンダリーウェポンの紹介サイトで見たことがある。あの男は多分『ユージーン』だ……知ってるか?」
「……な、名前くらいは……」
息を飲むリーファに向かって軽くうなずくと、サクヤは言葉を続けた。
「サラマンダー領主『モーティマー』の弟……リアルでも兄弟らしいがな。知の兄に対して武の弟、純粋な戦闘力ではユージーンのほうが上だと言われている。サラマンダー最強の戦士……ということはつまり……」
「全プレイヤー中最強……?」
「ってことになるな……。とんでもないのが出てきたもんだ」
「……キリト君……」
リーファは両手を胸の前でぎゅっと握り締めた。
対峙する二戦士は、相手の実力を計るかのように長い間睨み合っていた。高原の上を低く流れる雲が、傾き始めた日差しを遮って幾筋もの光の柱を作り出している。そのひとつがサラマンダーの剣に当たり、まばゆく反射した、その瞬間。
予備動作ひとつなくユージーンが動いた。
びぃん! と空気を鳴らして、超高速の突進をかける。右に大きく振りかぶった大剣が宙に紅い弧を描き、小柄なスプリガンに襲い掛かる。
だがキリトの反応も流石の速さだった。無駄の無い動作で頭上に巨剣を掲げ、翅を広げて迎撃態勢に。敵の剣を受け流し、カウンターの一撃を叩き込むつもりか――とリーファが見て取った、その直後。
「――!?」
キリトに向かって振り下ろされる赤い剣は、黒い剣に衝突するその瞬間、刀身をおぼろに霞ませた。そのままキリトの剣を透過し、再び実体化。
ダガァァァァン!! という爆音が世界を揺らした。キリトの胸の中央に炸裂した斬撃は巨大なエフェクトフラッシュを爆発させ、黒衣の姿は暴風の中の木の葉のように叩き落されて一直線に地面に突き刺さった。再び轟音、そして土煙。
「な……いまのは!?」
絶句するリーファに答えたのはアリシャ・ルーだった。
「あの剣は伝説武器のひとつ、『フェイズシフター』だヨ! 剣や盾で受けようとしても擦り抜けてくる厄介なEX効果があるんだヨ」
「そ、そんな……」
慌ててキリトのHPバーを確認しようと目を凝らす。だが、カーソル照準を合わせる間もなく、土煙の中から矢のように飛び出す影があった。ホバリングするユージーンめがけて一直線に突進していく。
「ほう……よく生きていたな!」
うそぶくサラマンダーに向かってキリトは、
「なんだよさっきの攻撃は!」
お返しとばかりに巨剣を叩きつける。
ガン、ガァン! と撃剣の音が立て続けに響いた。武器の性能に負ぶさっているだけの戦士ではないらしく、リーファの眼にも捉えきれないほどのキリトの連続攻撃を、ユージーンは的確に両手剣で弾き返していく。
そして、連撃にわずかな間が空いた、その瞬間。
再びフェイズシフターが牙を剥いた。横薙ぎに払われる剣を、キリトが反射的に己の剣で受けようとする。しかし、先ほどと同じように刀身が霞み、直後、キリトの腹に深々と食い込んだ。
「ぐはぁぁっ!!」
肺の中の空気を全て吐き出すような声を上げながら、今度は宙をくるくると吹き飛ばされる。翅を一杯に広げてブレーキをかけ、どうにか踏みとどまる。
「……効くなぁ……。おい、もう十秒経ってんじゃないのかよ!」
わめくキリトに向かって不敵に笑うユージーン。
「悪いな、やっぱり斬りたくなった。首を取るまでに変更だ」
「この野郎……。絶対泣かせてやる」
キリトは巨剣を構えなおすが、残念ながらもう勝負の行方は見えたも同然と思えた。
フェイズシフターの攻撃を防ぐには、パリィに頼らずすべてを避けるしかない。だが剣同士の高速近接戦闘においてそれはほとんど不可能だ。
ユージーンが翅から赤い光の帯を引いてスラストをかける。その攻撃を、キリトがランダム飛行で危なっかしく回避していく。
絡み合う二本の飛行軌跡が空に複雑な模様を描き、時々パパッとエフェクトの光塵を散らしてはまた離れる。視線を合わせると、キリトのHPバーは二度の被弾によって半分以上減少している。先刻、あれほどの多重魔法攻撃を耐え切ったキリトのHPを容易く削り取るとは、ユージーンの攻撃力も只事ではない。
と――、不意にキリトが振り返り、右手を突き出した。いつの間にスペルワードを詠唱していたのか、その手が「黒く」輝き――
ボン、ボボボボン! と二人の周囲に立て続けに真っ黒な煙がいくつも爆発した。それらはたちまちモクモクと広がっていき、空域を覆い尽くす。
黒雲は地上のリーファたちの頭上にも及び、さぁっと周囲が薄暗くなった。みるみる悪くなっていく視界のなか、必死に眼を凝らしてキリトの姿を捜そうとする。
「リーファ、ちょっと借りるぜ」
「わっ!?」
突然、耳もとでささやき声がした。同時に、腰の鞘から愛刀が抜かれる感触。
「き、キリト君!?」
慌てて振り向くが、すでにそこには誰の姿もない。だが、いつの間にか鞘は空っぽになっていた。
「時間稼ぎのつもりかァ!!」
厚い煙の中央からユージーンの叫びが響き渡った。次いで、スペルの詠唱が耳に届く。
すぱっ! と、幾つもの赤い光の帯が放射状にほとばしり、黒煙を切り裂いた。ディスペル系の呪文なのだろう、煙がたちまち薄れ、世界は光を取り戻す。
空の一角に、赤い大剣を携えて浮かぶユージーンの姿。見回すと、すぐに同高度でホバリングする黒衣の姿が目に入る。右手にくろがねの巨剣を担ぎ、そして左手には――白銀に煌くリーファの長刀――。
「な……!?」
キリトの意図がつかめず、リーファは目と口をぽかんと開けた。
二刀装備――、概念としては目新しいものではない。握った「武器」が一定以上の「速度」で敵の身体に命中すればダメージが入るというALOのシンプルな戦闘システムゆえに、片手用武器を二本持てば二倍強くなるのではないかと考えたものは以前にもいた。
だが、人間の脳というのは意外に不器用なものだ。
例えば、現実世界で左右の手にペンを握り、別々の字を書くのはよほどの訓練を積まなければ不可能だ。交互にペン先を動かすことはできても、同時に操ることは至難と言ってよい。
そして、アミュスフィアによるI/Oのワンクッションが入るダイレクトVRワールドでは、その脳の「不器用さ」は激しく増幅される。両手でひもを結ぶことすら非常な困難をともなう程なのだ。
二刀を装備し、左の剣で防御したあと、右の剣で攻撃――といった使い方なら可能だろう。しかしそれなら盾を使えばいいし、リーファに言わせれば両手剣でより大きなダメージを狙ったほうが更によい。
つまるところ、二本の剣を効果的に連携させるのは不可能なのだ。ALO初心者のキリトはそれを知らないのだろうか――?
ユージーンも口元に呆れたような苦笑を滲ませた。もう小技は不要と見てか、フェイズシフターを真っ向正面に振りかぶる。
「ドアアアァァァ!」
天地を揺るがす気合と共にサラマンダーの真骨頂である重突進。
必殺の威力をはらんだ不可避の斬撃がキリトの頭上に降りかかる。
「ぬん!」
キリトも右手の巨剣で迎撃態勢に。だが、当然のように赤の剣はその身を霧と変え、音もなく障害をすり抜ける。一瞬で実体を取り戻し、キリトの首筋へと――
炸裂したエフェクト光は、まばゆい銀色だった。
耳をつんざく金属音とともに、受け流されたフェイズシフターが宙を泳いだ。
キリトは、右の剣を掲げると同時に、わずかに時間差をつけて左手に握ったリーファの剣を跳ね上げていたのだ。
全力突進をいなされたユージーンの体勢が大きく崩れる。そこに間髪入れずキリトの右手の巨剣がカウンターの突きとなって――
ドッ! という重い音を立て、サラマンダーの体を貫いた。
「ぐあっ!!」
キリトの神速の突きと、ユージーン自身の突進のスピードが相乗効果となって、そのダメージは凄まじいものとなった。HPバーが一瞬でレッドゾーンに突入する。だがキリトは攻撃の手を緩めることなく、串刺しとなったユージーンの体を高々と持ち上げると――
左手に握ったリーファの長刀を一直線に薙いだ。一瞬、真紅のアーマーをまとった美丈夫の首と胴がわずかに分断され、
「…………!!」
驚愕の表情を張り付かせたその姿は、巨大なエンドフレイムを巻き上げてあっけなく燃え崩れた。
誰一人、身動きするものはいなかった。
シルフも、ケットシーも、五十人以上のサラマンダー攻撃部隊も、魂を抜かれたように凍りついていた。
それほどまでに、ハイレベルな戦闘だったのだ。
通常、ALOの戦闘は、近接ならば不恰好に武器を振り回し、遠距離ならば芸も無く魔法をぶつけ合うのがスタンダードだ。防御や回避といった高等技術を使えるのは一握りの熟練プレイヤーだけで、「見映えのする」戦闘などというものはデュエル大会の上位戦でもなければお目にかかることはできない。
だが今の、キリトとユージーンの戦闘は明らかにそれ以上だった。
流れるような剣舞、空を裂く高速エアレイド、そして何より「フェイズシフター」の度肝を抜くEXアタックと、それを打ち砕いたキリトの「二刀流」――。
最初に沈黙を破ったのはサクヤだった。
「見事、見事!!」
張りのある声で言い、両手を高らかに打ち鳴らす。
「すごーい! ナイスファイトだヨ!」
アリシャ・ルーがそれに続き、すぐに背後の十二人も加わった。盛大な拍手に混じって、口笛を鳴らすわ「ブラヴォー」などと叫ぶわ大変な騒ぎだ。
リーファはハラハラしながらサラマンダー達の様子を見やった。指揮官が討たれた上にこの有様ではさぞかし心中穏やかではあるまい――と思ったのだが。
驚いたことに、拍手の波はまたたくまにサラマンダー軍にも伝染していった。割れんばかりの歓声を上げ、長大なランスを立てて旗のように振りまわす。
「わぁ……!」
リーファは思わず笑顔を浮かべた。
今まで、敵――無法な強奪者としか見ていなかったサラマンダー達も、やはりそれ以前に同じALOプレイヤーだったのだ。彼らの心をも揺さぶるほどに、キリトとユージーンのデュエルが素晴らしかったということか。
不思議な感動にとらわれながら、リーファも一生懸命両手を叩いた。
歓声の輪の中央で、立役者となったキリトは相も変らぬ飄々とした笑みを浮かべ、巨剣を背に戻すと右手を上げた。
「や、どーもどーも!」
気障な仕草で四方にくるりと一礼すると、リーファたちの方に向かって叫ぶ。
「誰か、蘇生魔法頼む!」
「わかった」
頷くと、サクヤがすっと浮き上がった。着流しの裾をはためかせながら、ふわふわ漂うユージーンの残り火の傍まで上昇し、スペルワードの詠唱を開始する。
やがてサクヤの両手から青い光がほとばしり、赤い炎を包み込んだ。複雑な形状の立体魔方陣が展開し、その中央で残り火は徐々に人の形を取り戻していく。
最後に一際まばゆく閃光を発すると魔方陣は消滅した。キリトとサクヤ、そして蘇生したユージーンは無言のまま舞い降り、台地の端に降り立った。再び周囲を静寂が包む。
「――見事な腕だな。俺が今まで見たなかで最強のプレイヤーだ、貴様は」
静かな声でユージーンが言った。
「そりゃどうも」
短くキリトが応じる。
「貴様のような男がスプリガンにいたとはな……。世界は広いということかな」
「俺の話、信じてもらえるかな?」
「……」
ユージーンは目を細め、一瞬沈黙した。その時――
台地を取り囲むサラマンダー部隊前衛の槍隊から、一人のプレイヤーが降下してきた。ガシャリと鎧を鳴らして着陸し、左手で尖った面頬を跳ね上げる。
無骨な顔つきのその男は、ユージーンに歩み寄りながら口を開いた。
「ジンさん」
「カゲムネか、何だ?」
どこかで聞いた名前だな――とリーファは一瞬首を捻り、すぐに思い出した。地底湖で襲ってきたメイジ部隊の生き残りが口にしていた名前だ――ということは、昨日キリトと初めて出会ったとき、古森で剣を交えたサラマンダーパーティーの隊長である。
「昨日、俺のパーティーが全滅させられた話をしたじゃないスか」
カゲムネがまさにその話をしているのに気付き、リーファは固唾を飲んで耳を澄ませた。
「ああ」
「その相手が、まさにこのスプリガンなんですが――確かに、ウンディーネが何人か一緒でした」
「!?」
リーファは唖然としてカゲムネの横顔を見つめた。キリトも一瞬眉をぴくりと動かしたが、すぐにポーカーフェイスに戻る。カゲムネの言葉は続く。
「それに、エスの情報でメイジ隊が追ってたのもこの男ですよ、確か。どうやら全滅したようですが」
エス、というのはスパイを指す隠語だ。あるいは、そのままシグルドの頭文字なのだろうか。
ユージーンは首を傾け、カゲムネの顔を見た。周囲の者の大半にとってはチンプンカンプンな話だろうが、リーファは手に汗握る思いで話の行方を見守った。
やがて――ユージーンは軽く頷くと、言った。
「そうか」
軽い笑みを浮かべ、
「……そういうことにしておこう」
次いでキリトに向き直り、言う。
「確かに現状でスプリガン、ウンディーネを事を構えるつもりは俺にもモーティマーにも無い。この場は引こう。――だが貴様とはいずれもう一度戦うぞ」
「望むところだ」
キリトの差し出した右拳に、ゴツンと己の拳を打ち付けると、ユージーンは身を翻した。翅を広げ、地を蹴る。
それに続いて飛び立とうとしたカゲムネは、一瞬リーファの顔を見ると、ニッと笑いながら不器用に右目をつぶった。借りは返した――とでも言うつもりだろうか。リーファも右頬にかすかな笑みを浮かべる。
翅を鳴らして二人が飛び去ると、リーファは胸の奥に溜めていた息を大きく吐き出した。
地上に残された者たちが見守るなか、サラマンダーの大軍勢は一糸乱れぬ動作で隊列を組みなおすと、ユージーンとカゲムネを先頭に鈍い翅音の重奏を残してたちまち遠ざかっていった。無数の黒い影はすぐに雲に飲み込まれ、薄れ、やがて完全に消え去った。
ふたたび訪れた静けさの中、キリトが笑いを含んだ声で呟いた。
「……サラマンダーにも話のわかる奴がいるじゃないか」
リーファは何をどう言っていいかわからず――おなかの奥底から浮かんできた言葉をそのまま口にした。
「……あんたって、ムチャクチャだわ」
「よく言われるよ」
「……ふふふ」
笑い合う二人に、サクヤが咳払いをひとつしてから声をかけた。
「すまんが……状況を説明してもらえると助かる」
一部は憶測なんだけど、と断ってリーファは事の成り行きを説明した。サクヤ、アリシャ・ルーをはじめとする両種族の執政者たちは鎧の音ひとつ立てず長い話に聞き入っていたが、リーファが説明を終えて口を閉じるとそろって深いため息に似た音を洩らした。
「……なるほどな」
両腕を組み、艶麗な眉のアーチをかすかにしかめながら、サクヤが頷いた。
「ここ何ヶ月か、シグルドの態度に深い苛立ちのようなものが潜んでいるのは私も感じていた。だが、独裁者と見られるのを恐れ合議制に拘るあまり彼を要職の座に置きつづけてしまった……」
「サクヤちゃんは人気者だからねー、辛いところだヨねー」
サクヤ以上の単独長期政権を維持しているアリシャ・ルーが、自分のことを棚にあげて深々と頷く。
「苛立ち……何に対して……?」
いまだシグルドの心理が理解できないリーファが呟くと、サクヤは視線を遠い稜線に向けながら答えた。
「多分……彼には許せなかったのだろうな。勢力的にサラマンダーの後塵を拝しているこの状況が」
「…………」
「シグルドはパワー志向の男だからな。キャラクターの数値的能力だけでなく、プレイヤーとしての権力をも深く求めていた……。ゆえに、サラマンダーがグランド・クエストを達成してアルヴヘイムの空を支配し、おのれはそれを地上から見上げるという未来図は許せなかったのだろう」
「……でも、だからって、なんでサラマンダーのスパイなんか……」
「もうすぐ導入される『アップデート13』の話は聞いているか? ついに『転生システム』が実装されるという噂がある」
「あっ……じゃあ……」
「モーティマーに乗せられたんだろうな。領主の首を差し出せばサラマンダーに転生させてやると。だが転生には膨大な額のユルドが必要となるらしいからな……。冷酷なモーティマーが約束を履行したかどうかは怪しいところだな」
「…………」
リーファは複雑な心境で、金色に染まりつつある空と、その彼方に霞む世界樹を見やった。
アルフに生まれ変わり、飛行制限の頚木から脱するのはリーファの夢でもある。そのために、シルフ一の実力と噂されるシグルドのパーティーに参加し、熱心に狩りをこなして、稼いだユルドのほとんどを執政部に上納してきた。
仮に、キリトと出会いパーティーを脱退した経緯がなければ、シグルドの口ぶりからして彼はおそらくリーファをサラマンダー転生計画に誘っただろう。そうなった場合、自分はどうしただろうか……。
「まったく、プレイヤーの欲を量る陰険なゲームだな、ALOって」
不意に、苦笑のにじむ落ち着いた声で傍らのキリトが言った。
「設計者は嫌な性格してるに違いないぜ」
「ふ、ふ、まったくだ」
サクヤも笑みで応じる。
リーファは、何となく自分の心を少しばかり立て掛けたくなって、キリトの左腕に自分の腕を絡めると体重を預けた。どのような状況に至ってもまるで動じないように見えるキリトにぴったり接していると、揺れる気持ちがほっと落ち着くような気がする。
「それで……どうするの? サクヤ」
訊ねると、美貌の為政者は笑みを消し、一瞬目蓋を閉じた。すぐに開いた双眸は冴え冴えとした光を放っている。
「ルー、あんた闇魔法上げてたよね?」
サクヤの言葉に、アリシャ・ルーは大きな耳をぱたぱた動かして肯定の意を表す。
「じゃあ、シグルドに『月光鏡』を頼む」
「いいけど、まだ夜じゃないからあんまり長くもたないヨ」
「構わない、すぐ終わる」
もう一度耳をぴこっと動かし、アリシャ・ルーは一歩下がると両手を掲げて詠唱を開始した。
耳慣れない韻律を持つ闇属性魔法のスペルワードが、高く澄んだアリシャの声に乗って流れる。たちまち周囲がにわかに暗くなり、どこからともなく一筋の月光がさっと降り注いだ。
光の筋は、アリシャの前に金色の液体のように溜まっていき、やがて完全な円形の鏡を作り出した。周囲の者が声も無く見守るなか、その表面がゆらりと波打って――にじむようにどこかの風景を映し出した。
「あ……」
リーファはかすかに吐息を洩らした。鏡に映っているのは、何度か訪れたことのある、領主館の執政室だった。
正面に、巨大な翡翠の机が見える。その向こうで領主の玉座に身体を沈ませ、卓上にどかっと両足を投げ出している人物がいた。目を閉じ、頭の後ろで両手を組むその男は間違いなくシグルドだ。
サクヤは鏡の前に進み出ると、琴のように張りのある声で呼ばわった。
「シグルド」
その途端、鏡の中のシグルドはぱちりと目を開き、バネ仕掛けのごとく跳ね起きた。同じく鏡の中のサクヤと真っ直ぐに目を合わせてしまったのだろう、唇をゆがめてビクリと身体を竦ませる。
「サ……サクヤ……!?」
「ああ、そうだ。残念ながらまだ生きている」
サクヤは淡々と応えた。
「なぜ……いや……か、会談は……?」
「無事に終わりそうだ。条約の調印はこれからだがな。そうそう、予期せぬ来客があったぞ」
「き、客……?」
「ユージーン将軍が君によろしくと言っていた」
「な……」
今度こそ、シグルドは大いなる驚愕に見舞われたようだった。剛毅に整った顔がみるみる蒼白になる。言葉を探すかのように瞳をキョロキョロと動かし――その視線が、サクヤの背後のリーファとキリトを捉えた。
「リー……!?」
一瞬、飛び出すほどに見開かれたその目は、ついに状況を悟ったようだった。鼻筋に深くシワを寄せ、猛々しく歯を剥き出す。
「……無能な赤トカゲどもめ……。で……? どうする気だ、サクヤ? 懲罰金か? 執政部から追い出すか? だがな、軍務を預かる俺が居なければお前の政権だって……」
「いや、シルフでいるのが耐えられないならその望みを叶えてやることにした」
「な、なに……?」
サクヤが優美な動作で右手を振ると、領主専用の巨大なシステムメニューが出現した。無数のウインドウが階層をなし、光の六角柱を作り出している。一枚のタブを引っ張り出し、素早く指を走らせる。
鏡の中のシグルドの眼前に、青いメッセージウインドウが出現するのが見えた。それに目を走らせたシグルドが、血相を変えて立ち上がった。
「貴様ッ……! 正気か……!? 俺を……この俺を、追放するだと……!?」
「そうだ。レネゲイドとして中立域を彷徨え。いずれそこにも新たな楽しみが見つかることを祈っている」
「う……訴えるぞ! 権力の不当行使でGMに訴えてやる!!」
「好きにしろ。……さらばだ、シグルド」
シグルドは拳を握り、さらに何事かを喚きたてようとした。だがサクヤが指先でタブに触れると同時に、鏡の中からその姿が音もなく掻き消えた。シルフ領を追放され、アルンを除くどこかの中立都市にランダム転送されたのだ。
金色の鏡は、しばらく無人となった執政室を映していたが、やがてその表面が波打ったと思うとはかない金属音を立てて砕け散った。同時に周囲を再び夕陽の光が照らし出した。
「……サクヤ……」
再び静寂が訪れても眉根を深く寄せたままのサクヤの心中を慮って、リーファはそっと声をかけた。
美貌の為政者は、右手を振ってシステムメニューを消去すると、吐息交じりの笑みを浮かべた。
「……私の判断が間違っていたのか、正しかったのかは次の領主投票で問われるだろう。ともかく――礼を言うよ、リーファ。執政部への参加を頑なに拒みつづけた君が救援に来てくれたのはとても嬉しい」
照れ隠しに肩をすくめると、リーファは傍らの少年を視線で示した。
「あたしは何もしてないもの。お礼ならこのキリト君にどうぞ」
「そうだ、そう言えば……君は一体……」
並んだサクヤとアリシャ・ルーが、あらためて疑問符を浮かべながらキリトの顔をまじまじと覗き込む。
「ねェ、キミ、スプリガンとウンディーネの大使……ってほんとなの?」
好奇心の表現か、立てたシッポをゆらゆらさせながらアリシャが言った。キリトは右手を腰にあて、胸を張って答える。
「勿論大嘘だ。ブラフ、ハッタリ、ネゴシエーション」
「な――……」
二人はがくんと口を開け、絶句。
「……無茶な男だな。あの状況でそんな大法螺を吹くとは……」
「手札がショボい時はとりあえず掛け金をレイズする主義なんだ」
悪びれずにうそぶくキリト。それを聞いたアリシャ・ルーは突然ニィッと、いかにも猫科といったいたずらっぽい笑みを浮かべると、数歩進み出てキリトの顔を至近距離から覗き込んだ。
「――おーうそつきさんにしてはキミ、ずいぶん強いネ? 知ってる? さっきのユージーンくんはALO最強って言われてるんだヨ。それに正面から勝っちゃうなんて……スプリガンの秘密兵器、だったりするのかな?」
「まさか。しがない流しの用心棒――ってところかな」
「ぷっ。にゃはははは」
あくまで人を食ったキリトの答えにひとしきり笑うと、いきなりアリシャはひょいっとキリトの右腕を取って胸に抱いた。ナナメ下方からコケティッシュな流し目に乗せて、
「フリーなら、キミ――ケットシー領で傭兵やらない? 三食おやつに昼寝つきだヨ」
「なっ……」
リーファは思わず口もとをピキッとひきつらせた。だが割り込む隙を見つけるより早く――
「おいおいルー、抜け駆けはよくないぞ」
とサクヤの、心なしかいつもより艶っぽい声。
「彼はもともとシルフの救援に来たんだから優先交渉権はこっちにあると思うな。キリト君と言ったかな――どうかな、個人的興味もあるので礼も兼ねてこの後スイルベーンで酒でも……」
ピキピキッ。とさらにこめかみまでもひきつる。
「あーっ、ずるいヨ、サクヤちゃん。色仕掛けはんたーい」
「人のこと言えた義理か! 密着しすぎだお前は!」
美人領主二人に左右からぴたっと挟まれて、キリトは困った様子ながら顔を赤くしてまんざらでもなさそうな……。
と思ったときには、リーファは後ろからキリトの服をぐいっと引っ張って叫んでいた。
「だめです! キリト君はあたしの……」
三人がひょいっと振り向いて、リーファの顔を見る。我に返ると同時に言葉に詰まった。
「ええと……あ、あたしの……」
適切な台詞が出てこずしどろもどろになっていると、キリトが軽い笑みを滲ませながら口を開いた。
「お言葉はありがたいんですが――すみません、俺は彼女に中央まで連れて行ってもらう約束をしているんです」
「ほう……そうか、それは残念」
いつも心の底は覗かせないサクヤだが、今度ばかりは本当に残念そうに言うと、リーファに視線を向けてきた。
「アルンに行くのか、リーファ。物見遊山か? それとも……」
「領地を出る――つもりだったけどね。でも、いつになるか分らないけど、きっとスイルベーンに帰るわ」
「そうか。ほっとしたよ。必ず戻ってきてくれよ――彼と一緒にな」
「途中でウチにも寄ってね。大歓迎するヨー」
二領主はキリトから離れると、表情を改めた。サクヤは右手を胸に当てて優美に上体を傾け、アリシャはふかぶかと頭を下げて耳をぺたんと倒す動作でそれぞれ一礼する。顔を上げたサクヤが言った。
「――今回は本当にありがとう、リーファ、キリト君。私達が討たれていたらサラマンダーとの格差は決定的なものになっていただろう。何か礼をしたいが……」
「いや、そんな……」
困ったように頭をかくキリトの姿を見て、リーファははっと思いつくことがあった。一歩進み出て、言う。
「ねえ、サクヤ――アリシャさん。今度の同盟って、世界樹攻略のためなんでしょ?」
「ああ、まあ――究極的にはな。二種族共同で世界樹に挑み、双方ともにアルフとなれればそれで良し、片方だけなら次のグランドクエストも協力してクリアする……というのが骨子だが」
「その攻略に、わたしたちも同行させて欲しいの。それも、可能な限り早く」
サクヤとアリシャ・ルーは顔を見合わせる。
「……同行は構わない、と言うよりこちらから頼みたいほどだよ。時期的なことはまだ何とも言えないが……しかし、なぜ?」
「……」
ちらりとキリトを見る。謎の多いスプリガンの少年は、一瞬瞳を伏せると、言った。
「俺がこの世界に来たのは、世界樹の上に行きたいからなんだ。そこにいるかもしれない、ある人に会うために……」
「人? 妖精王オベイロンのことか?」
「いや、違う――と思う。リアルで連絡が取れないんだけど……どうしても会わなきゃいけないんだ」
「へえェ、世界樹の上ってことは運営サイドの人? なんだかミステリアスな話だネ?」
興味を引かれたらしく、アリシャ・ルーが大きな目をきらきらさせながら言う。だがすぐに耳とシッポを力なく伏せ、申し訳なさそうに、
「でも……攻略メンバー全員の装備を整えるのに、しばらくかかると思うんだヨ……。とても一日や二日じゃあ……」
「そうか……そうだよな。いや、俺もとりあえず樹の根元まで行くのが目的だから……あとは何とかするよ」
キリトは小さく笑うと、「あ、そうだ」と何かを思いついたかのように右手を振った。出現したウインドウを手早く操り、かなり大きな革袋をオブジェクト化させる。
「これ、資金の足しにしてくれ」
言って差し出した袋は、じゃらりと重そうな音からしてユルドが詰まっているようだった。受け取ったアリシャは一瞬ふらついたあと慌てて両手で袋を抱えなおし、ちらりと中を覗き込んで――目を丸くした。
「さ、サクヤちゃん、これ……」
「ん……?」
サクヤは首を傾げ、右手の指先を袋に差し込む。つまみ出したのは、青白く輝く大きなコインだった。
「うぁっ……」
それを見た途端、リーファは思わず声を洩らした。二領主は口を開けて凍りつき、背後で事のなりゆきを見守っていた十二人の側近たちからも大きなざわめきが漏れる。
「……十万ユルドミスリル貨……これ全部……!?」
さすがのサクヤも、掠れた声で言いながらコインを凝視していたが、やがて呆れたように首を振ってそれを袋に戻した。
「これだけの金額をソロで稼ぐのはヨツンヘイムで邪神クラスをキャンプ狩りでもしない限り不可能だと思うがな……。いいのか? 一等地にちょっとした城が建つぞ」
「構わない。俺にはもう必要ない」
キリトは何の執着も無さそうに頷く。
再び袋を覗き込んだサクヤとアリシャは、ほぅーっと深く嘆息してから顔を上げた。
「……これだけあれば、かなり目標金額に近づけると思うヨー」
「大至急装備をそろえて、準備が出来たら連絡させてもらう」
「よろしく頼む」
サクヤの広げたウインドウにアリシャが革袋を格納する。
「この金額を抱えてフィールドをうろつくのはぞっとしないな……。マンダー連中の気が変わる前に、ケットシー領に引っ込むことにしよう」
「そうだネー。話の続きは帰ってからだネ」
領主たちはこくりと頷きあうと、部下たちに合図した。たちまち大テーブルと十四脚の椅子がてきぱきと片付けられていく。
「何から何まで世話になったな。きみの希望に極力添えるよう努力することを約束するよ、キリト君、リーファ」
「役に立てたなら嬉しいよ」
「連絡、待ってるわ」
サクヤ、アリシャ、キリトにリーファはそれぞれ固く握手を交わした。
「アリガト! また会おうネ!」
アリシャはいたずらっぽく笑うとシッポでキリトの体を引き寄せ、その頬に音高くキスした。ふたたび口もとをひくつかせるリーファに向かって――どういう意味なのか――ぱちりとウィンクすると、薄黄色の翅を大きく広げる。
二人の領主は手を振りながら一直線に上昇すると、空に光の帯を引き、赤く染まった西の空へと進路を向けた。その後を六人ずつの配下が雁の群のような美しい隊列を組んで追っていく。
夕焼けの中に彼らの姿が消えてしまうまで、キリトとリーファは無言で見送っていた。
やがて周囲は、あの激闘と、三種族の命運をかけた駆け引きが幻だったかのように静まり返り、吹き渡る風が鳴らす葉擦れの音が残るのみとなった。リーファはわずかな寒さを感じて、そっとキリトに寄り添った。
「……行っちゃったね」
「ああ――終わったな……」
一連の事件の発端となったシグルドとの決裂は、もう遥か昔の出来事のような気がした。まだせいぜい七、八時間前のこととは信じられない。
「なんだか……」
キリトと一緒にいると、この世界こそが現実で、翅のある今の自分が真の姿であるような気がしてくる――というようなことをリーファ/直葉は思ったが、うまく言葉にすることができなかった。そのかわりに、キリトの胸に体を預け、その鼓動を感じてみようとした、そのとき――。
「まったくもう、浮気はダメって言ったです、パパ!」
「わっ」
憤慨したような声とともにキリトの胸ポケットからユイが飛び出してきて、リーファは慌てて距離を取った。
「な、なにをいきなり……」
焦ったような声を出すキリトの頭のまわりをパタパタ飛び回ったユイは、その肩に座ると可愛らしく頬を膨らませる。
「領主さんたちにくっつかれたときドキドキしてました!」
「そ、そりゃ男ならしょうがないんだよ!!」
自分のことを言われたわけではないとわかってリーファはほっとしたが、同時に新たな疑問がわいてきて、ついユイに訊ねてしまった。
「ね、ねえユイちゃん、あたしはいいの……?」
「リーファさんはだいじょうぶみたいです」
「な、なんで……?」
「うーん、リーファはあんま女のコって感じしないんだよな……」
ぽろっと本音が出た、というふうなキリトの台詞。
「ちょっ……な……それってどういう意味!?」
聞き捨てならない言葉に、思わず剣の柄に手を遣りながら詰め寄る。
「い、いや、親しみやすいっていうか……いい意味でだよ、うん」
引き攣った笑いを浮かべながらキリトはすいっと浮かび上がった。
「そ、そんなことよりとっととアルンまで飛ぼうぜ! 日が暮れちゃうよ!」
「あ、こら、待ちなさい!!」
リーファも翅を広げ、地を蹴る。
一目散に世界樹目指して加速していくキリトを追って思い切り翅を震わせながら、リーファはちらりと背後を振り返った。巨大な山脈に遮られて、その向こうに広がるはずの古森と懐かしいシルフ領は望めなかったが、暮れ行く濃紺の空に、チカリと大きな緑の星がまたたくのが見えた。
仮想のエレベータは、仮想の駆動音と減速感を伴いつつ停止した。つるつるした純白のドアに、直前までは存在しなかった裂け目が縦に入り、左右に開く。
アスナは可能なかぎりの静かな動作で、そっとドアの向こうへと足を踏み出した。
眼前には、上層と同じような味気ない構造の通路がまっすぐ伸びていた。人の気配がないのを確かめ、歩き始める。
オベイロンに与えられた衣装は、シンプルな薄手のワンピース一枚のみという非常に心許ないものだが、素足なのがこの状況ではありがたい。靴を履いていれば多分、避けがたく足音のサウンドエフェクトが発生してしまうところだ。
SAOでは、こちらに気付いていないモンスターへのバックアタックやアンブッシュといった静殺傷術を試みるときは、防御力の低下を覚悟で素足になったりしたものだ。
実戦以外でも、アルゲードの廃墟地区を舞台にキリトやクライン、リズたちと「不意打ちゲーム」を何度もやったが、もともと軽量のアスナはほとんどノイズ発生源がないためにコンスタントに上位に入った。しかしキリトにはなぜかバックアタックが成功せず、一度業を煮やして素足での接近を試みたのだが、木剣が後頭部にヒットする直前で察知され、回避された挙句、足をがしっと掴まれて笑い死ぬかと思うほどくすぐられてしまった。
もはや存在すら定かでない現実世界よりも、あの頃に戻りたい――、不意に浮かび上がってきた涙とともにそう思ってしまってから、アスナは頭を振って感傷を払い落とした。
キリトが現実世界で待っている。唯一、自分がいるべき場所は彼の腕の中だけだ。そのために今は前に進むのだ。
通路は、そう長いものではなかった。歩くうちに、前方にのっぺりとした扉が見えてくる。
ロックされていたら、上層のラボラトリーエリアでコンソールを探そう、そう思いながらドアの前に立つと、意に反してそれは音もなく左右に開いた。内部からさっと差し込んできた強烈な白い光に、アスナは思わず目を細めた。
「……!?」
内部をひと目見た途端、アスナは息を飲んだ。
途方もなく広大な空間だった。
真っ白い、超巨大なイベントホール――とでも言おうか。遥か遠く、左右と奥に垂直にそびえる壁面は、ディティールがまったく無いために遠近が感じ取れない。天井は一面に白く発光し、そして同じく白いフロアには――びっしり、かつ整然と、奇怪なモノが並んでいた。
視界に動くものがないのを確かめ、アスナは恐る恐る内部へと歩を進めた。
並ぶモノは、アスナの側から見るかぎりざっと四十以上の列をなして配置されている。この空間が正方形なのだとすれば、それらはおよそその二乗、ほぼ二千もの数が存在することになる。恐怖心を押し殺しながらそのうちのひとつに近づく。
床面から、アスナの胸あたりまでの高さがある、白い円柱が伸びている。太さは両手でも抱えきれないほどだ。平滑なその上面から、わずかな隙間を空けて浮かぶモノは――どう見ても――人間の、頭部だった。
大きさは実物大だが、色合いはリアルなものではない。青紫色の半透明素材で出来ている。オブジェクトとしては非常に精緻で、ホログラフ表示というよりはサファイアを加工した彫像のようだ。
つるっとした頭蓋の内部には、同じく微細なつくりの脳髄が透けて見える。よくよく観察すると、周期的にその各所に光の筋が走り、それが消えたあたりでパッとカラフルな火花が散る。
視線を顔面に移す。「彼」のまぶたは閉じられ、口も結ばれている。美しくも醜くもない、無個性極まりない造作だ。性別すらわからない。昔、美術の授業で見た、数千人の顔の特徴を平均化して生成したという3D画像を思い出す。
生理的な違和感を呼び覚ますその顔を、眉をしかめながらじっと覗き込んだその瞬間――
突然、カッとそのまぶたが開いた。
「ッ……!!」
悲鳴を上げそうになり、必死に堪える。
「彼」は、瞳のないサファイア色の眼球が飛び出すかと思うほどに目を見開き、眉間にシワを寄せ、唇を歪めて歯を食いしばった。あまりにも明確な「恐怖」の表情だ。アスナは全身が総毛立つ感覚に襲われる。
「彼」の透明な脳の一部に、ひときわ強く光のラインが走っているのが見えた。その周辺が薄赤く染まり、ぼうっと発光している。光の脈動と完全に同期して、「彼」は何度も無音の絶叫を繰り返す。その表情は、絶対に造り物ではない。完全にリアルな、真の恐怖の発露。
その恐ろしい光景に耐えられなくなり、アスナは数歩後退った。頭の中に、上層で見た案内板――『実験体格納室』――と、オベイロンの台詞――『感情を操るテクノロジー』――がフラッシュバックする。それらと目の前の光景が結び合わされ、ある結論が浮かび上がる。
それでは、この「彼」、いや数千に及ぶ「彼ら」は、コンピュータによって生成された仮想オブジェクトではなく本物の人間――つまりかつてのSAOプレイヤー達、切り離されたその意識体なのだ。ゲームクリアに伴って解放されるはずが、オベイロンの手によってこの場所に幽閉され、思考、感情、記憶までも操作するという悪魔の研究に供せられているのである。
「なんて……なんて酷いことを……」
アスナは両手で口を覆いながら喉の奥で呟いた。
視線を右に振る。二メートルほど離れたその場所にも同様の円柱が生え、その上に青く透き通る頭部が浮かんでいる。顔の造作は細部にいたるまでまったく同じだが、こちらの「彼」はまぶたをとろんと半眼に開け、口もとを緩ませている。脳に電光が走るたびに、その顔に痴呆めいた陶酔の笑みが浮かぶ。
その向こう……さらにその向こう、無限とも思える数で整列する「彼」たちは、多種多様な表情をクリスタルのマスクに貼り付かせながら、その奥では皆が絶望の叫びを上げているように思えた。
アスナはパニックの衝動を必死に押さえつけ、目尻に溜まった涙の粒をぐいっとぬぐった。
こんなことは許されない。いや、絶対に許さない。自分とキリトが命を賭けて戦ったのは、須郷にこんな所業を為さしむるためではない。絶対にこの悪事を暴き、あの男に相応しい罰を与えなくてはならないのだ。
「待っててね……すぐ、助けるからね……」
呟くと、アスナは目を閉じる「彼」の頬をそっと撫でた。次いでキッと顔を上げ、立ち並ぶ彫像の間を部屋の奥目指して早足で歩き始めた。
歩を進めながら数えた円柱の列の数が二十を超えたころ、不意にアスナの耳に人間の声とおぼしき音が届いた。反射的に体を伏せ、手近な円柱に張り付く。
油断なく周囲に視線を走らせながら音源の方向を探る。話し声らしいものは右手奥から流れてくるようだ。ほとんど這うような姿勢のまま、そろそろとその方向に前進していく。
いくつめかの円柱の陰に達したとき、行く手になにか、「妙なモノ」が見えた。
「!!?」
慌てて体を引っ込める。何度かパチパチと瞬きしてから、恐る恐るもう一度顔を出す。
アインクラッド六十一層、通称「むしむしランド」と言われていたフロアはその名の通り虫系モンスターで溢れ、アスナを含む大多数の女性プレイヤーにとっては地獄に等しい場所だったのだが、中でも苦手だったのが「ブルスラッグ」という巨大なナメクジ型モンスターだった。黒い斑紋のある灰色の表皮はヌラヌラとした粘液に包まれ、大小三対の眼柄でこちらを見据えながら円環状に牙の生えた口から触手を伸ばして攻撃してくる姿は悪夢そのものだったのだが――。
今、アスナから数メートル離れた場所で、こちらに背を向けて話し込んでいる二匹の生き物は、限りなくそのブルスラッグに似ていた。
巨大ナメクジたちは、ひとつの実験体を覗き込んで熱心に意見を交換しているようだった。右側のナメクジが、長い眼を振り動かしながらキーキーした声で言う。
「オッ、こいつまたスピカちゃんの夢見てるぜ。B13と14フィールドがスケールアウト。16もかなり出てるな……大興奮してやがる」
実験体の周囲に浮かぶホロウインドウを触手で示しながら左側のナメクジが答える。
「偶然じゃないのか? まだ三回目だろ?」
「いや、感情誘導シナプス形成の結果だって。スピカちゃんは俺がイメージを組んで焼きこんだのに、この頻度で現れるのは閾値を超えてるだろ」
「うーん、とりあえず継続モニタリングサンプルに上げとくか……」
耳障りな甲高い声で話しつづける二匹のナメクジに嫌悪の念を感じながら、アスナは再び柱の陰に引っ込んだ。
なぜあんな姿をしているのかは不明だが、彼らはこの非人道的実験に従事する須郷の部下たちなのだろう。その言葉からは、倫理的なためらいは一切感じられない。
右手を硬く握り締めながら、この手のなかに剣があれば……と思う。奴らの姿に相応しい末路を与えてやるのに。
燃え上がった怒りの衝動をどうにか鎮め、アスナはゆっくり後退した。彼らから距離を取り、再び空間の奥を目指す。
遅々とした速度で円柱の列をひとつ、またひとつと通り過ぎ、ついに部屋の最深部へと達した。果たして――遠く離れた白い壁面の手前に、ぽつんと黒い立方体が浮かんでいるのが見えた。
かつて、アインクラッド基部フロアの地下迷宮で見たシステムコンソールを思い出す。もしあれを使って管理者権限でアクセスできれば、この狂った世界からログアウトすることが可能かもしれない――!
ここから先はもう身を隠すものは何一つない。アスナは大きく一回深呼吸すると、意を決して円柱のそばから飛び出した。
極力音を立てないよう、かつ素早くコンソール目指して駆け寄る。わずか十メートルほどの距離が途方もなく遠く思える。
一歩ごとに、背後から呼び止められるのではという恐怖を味わいながら、アスナは縺れそうになる脚をどうにか動かしつづけ、とうとうコンソールの前まで辿りついた。サッと背後を振り返る。幾重にも並ぶ円柱の列の彼方に、ゆらゆら揺れる触角が見て取れる。どうやらナメクジたちはまだ議論に夢中らしい。
アスナはふたたび漆黒のコンソールに向き直った。斜めにカットされた上面は黒く沈黙しているが、その右端に細いスリットがあり、溝の上端に銀色のカードキーと思しき物体が差し込まれたままになっている。祈りながら手を伸ばし、カードをつかんで一気に下にスライドさせる。
ポーン、という効果音が響いて、アスナは首を縮めた。スリットの左に、薄青いウインドウとホロキーボードが浮かび上がった。
ウインドウにはびっしりと多種多様なメニューが表示されている。焦る心を押さえつけながら、細かい英字フォントを端から確認していく。
左下に「transport」というボタンを見つけ、震える指先でそこにタッチ。ブン、という音とともにあらたな窓が浮かぶ。このラボラトリーエリアの全体図が表示されている。どうやらこのシステムで直接各所にジャンプできるらしい。
だが、もうこの場所に用はない。必死に目を走らせると、右隅に「exit virtual labo」というボタンが小さく光っていた。
「これだ……!」
思わず口の中で小さく叫び、それにタッチ。さらなるウインドウが上面に出現する。小さな長方形のそれに表示されているのは「execute log−off sequense, ok?」の一文とOK、CANCELのボタン。
神様――。
心の奥で必死に念じながら、OKボタンに触れようとしたアスナの右手に――
突然背後から、灰色の触手がびしりと巻きついた。
「……!!」
漏れそうになる悲鳴を必死に押しとどめ、アスナは強引に指先をボタンに近づけようとしたが、細い触手はまるで鋼鉄のワイヤーででもできているかのようにびくともしなかった。ならばと伸ばそうとした左手にも、新たな触手が絡みつく。そのままアスナの両腕はぐいっと上に引っ張られ、つま先が床から離れてしまった。
捕獲者は、高く吊り上げたアスナの体をくるりと半回転させた。目の前に出現したのは、予想どおり先ほどの巨大ナメクジたちだった。
オレンジ色の虹彩を持つ、テニスボール大の眼球が四つ、細い枝の上でゆらゆらと揺れている。表情のないその眼は、アスナの顔や体を検分するように眺めまわしていたが、やがて、左がわのナメクジの円い口がもごもごと動き、軋るような声で言った。
「――あんた誰? 何やってんの、こんなとこで?」
アスナは恐怖を押し殺し、極力何気ない声を装って答えた。
「ちょっと、降ろしてよ! わたしは須郷さんの友達よ。ここを見学させてもらってたんだけど、もう帰るところよ」
「へえ? そんな話聞いてないなぁ?」
右のナメクジが、二本の眼枝を、首を傾げるかのごとくひょいっと曲げる。
「お前なんか聞いてる?」
「なんにも。つうか部外者にこんなとこ見せたらヤバイだろ」
「あ……待てよ……」
真ん丸い目玉がにゅっと伸びて、アスナの顔を覗き込んだ。
「……あんたあれだろ。須郷チャンが囲ってるっていう……」
「あーあー。そういや聞いたなそんな話。ずるいなぁボスばっかり、こんなかわいい娘を」
「く……」
アスナは肩越しにコンソールを振り返り、左足を伸ばしてつま先でボタンを押そうとした。だが、ナメクジの口の周りに生えた触手が新たに伸び、足までも絡め取る。体を捩って抵抗しようとしたが、その努力が実る前に、処理がタイムアウトしたらしくホロウインドウは初期画面に戻ってしまった。
「こらこら、暴れちゃだめだよ」
ナメクジたちは次々と触手を繰り出し、アスナの全身をきつく縛りあげ始めた。お腹や大腿部に、容赦ない強さで細い肉のワイヤーが食い込んでくる。
「痛っ……! やめて……離してったら、この化け物!」
「あー、ひどいなあ。これでも深部感覚マッピングの実験中なんだぜ」
「そうそう。このボディをここまで操るのは訓練がいるんだよー」
アスナは、仮想世界特有の真綿に包んだような痛みに顔をしかめながら、必死に言葉を投げかけた。
「あなたたちも科学者なんでしょ……!? こんな……非道い研究に手を貸して、恥ずかしいと思わないの!?」
「んー、サルの頭開けて電極刺しまくるのよりは人道的だと思うけどねえ。この連中は夢見てるだけなんだしさ」
「そうそう。たまにはすっげえ気持ちいい夢も見せてやってるんだぜ。あやかりたいくらいのもんさ」
「……狂ってるわ……」
アスナは、氷のような寒気を感じながら呟いた。この連中は、感情のないナメクジの見かけこそが真の姿なのだ。
アスナの言葉など気にかけるふうもなく、ナメクジたちは目を見交わすと相談を始めた。
「ボスは出張中なんだろ? お前、向こうに戻って指示聞いてこいよ」
「ちっ、しょうがねえなあ。俺がいない間に一人で楽しむなよな」
「わかったわかった。早く行け」
ナメクジの片割れは触手をアスナの体から離すと、その一本で器用にコンソールを操り始めた。数回ぽちぽちとボタンを押すと、その巨体が音も無く、あっけなく消え去った。
「…………!!」
それを見て、アスナは焼け付くような焦燥にとらわれ、縛られた体を滅茶苦茶に振り動かした。すぐそこに――目の前に、あれほど夢見た現実世界への出口がある。そのドアは焦らすようにわずかに開かれ、内側の明るい光を溢れさせている。
「離して!! 離してよ!! ここから出して!!」
狂おしく絶叫するが、ナメクジの触手はわずかにも緩まない。
「だめだよぉー、ボスに殺されちまうよ。それよりさぁ、君もこんな何もないとこにずーっといたら退屈してるでしょ? 一緒に電子ドラッグプレイしない? 俺も人形相手はもう飽き飽きでさぁ」
言葉と同時に、冷たく湿った触手がアスナの頬を撫でた。
「やっ……やめて!! なにを……!?」
必死に抗おうとするが、ナメクジは次々と新たな触手を伸ばしてくる。それらはアスナの腕や脚の素肌を撫でまわし、徐々にワンピースの中にまで侵入を開始する。
全身をまさぐられる不快な感覚に耐えながら、アスナは体の力を抜き、抵抗する気力を失ったかのように装った。調子に乗った触手の一本が口に近づいてくる。それが唇に触れた瞬間――。
さっと顔を上げると、アスナは触手に思い切り噛み付いた。
「ぎゃっ!! いだだだだだ!!」
悲鳴を上げるナメクジに構わず、容赦なく歯を食い込ませる。
「やっ、やめっ、いだっ、わかった、わかったから!!」
服に潜り込んでいた触手が撤退するのを確認し、アスナは口を開いた。痛めつけられた触手がぴゅるっと引っ込んでいく。
「いてて、センスアブソーバ切ってたの忘れてたぜ……」
ナメクジが眼柄を引っ込めてうめいていると、その傍に光の柱が立ち上った。効果音とともにもう一匹のナメクジが出現する。
「……? お前何やってんの?」
「なんでもねえよ。それよりボスは何だって?」
「怒り狂ってたよ。すぐにラボの上の鳥篭に戻して、パス変えて二十四時間監視しとけだとさ」
「ちぇっ。せっかく楽しめると思ったのになぁ……」
アスナは失望のあまり目の前が暗くなるのを感じた。千載一遇のチャンスが指の隙間からこぼれ落ちていく。
「せめて、テレポートじゃなくて歩いて戻ろうぜ。もうちょっと感触を味わわせろよ」
「好きだねえ、お前も」
アスナを縛り上げているほうのナメクジは、脚の無い体をぬるりと動かし、格納室の入り口のほうに向き直った。二匹の視線が一瞬外れた瞬間、アスナは素早く右足を伸ばした。コンソールのスリットに差し込まれたままのカードキーを、指先で挟んで抜き取る。
同時にウインドウが消滅したが、ナメクジたちはそれに気付かなかったようだった。体を海老のように反らし、足先のカードを、体の後ろで縛られた手の中に移動させる。
「ほらほら、暴れちゃダメだよ」
ナメクジは改めてアスナの体を持ち上げると、出口目指してぬるぬると移動を始めた。
ガシャン、と音を立てて鳥篭の格子戸が閉まった。ナメクジは触手でナンバーロックを操作すると、それをアスナにむかって振った。
「じゃあねー、チャンスがあったらまた遊ぼうねー」
「あんたたちの顔は二度と見たくないわ」
そっけなく言い、ベッドに腰掛ける。二匹は名残惜しそうにアスナを見ていたが、やがて体の向きを変え、枝の上を遠ざかっていった。
いつの間にか、濃い暮色が世界を包んでいた。ほとんど沈みかけている巨大な太陽を見つめ、アスナはかすかに呟いた。
「わたし――負けないよ、キリトくん。絶対にあきらめない。必ずここから脱出してみせる」
手の中の、銀色のカードキーに視線を移す。コンソールが無ければ役に立たないだろうが、今のところこれが唯一の希望だ。
アスナは、ベッドに横たわるふりをしてそれを大きな枕の下に挟み込んだ。
まぶたを閉じると、疲れ果てた頭の芯を、眠りのベールがゆっくりと包み込んでいった。
[#地から1字上げ](第三章 終)
第四章 イグドラシル侵攻
薄く雪の残る庭に出ると、ぴりぴりと冷たい朝の空気が俺の体を包んだが、それでも頭の芯に居座る眠気の残り滓は消えなかった。
何度かぶんぶん頭を振ってから、意を決して庭の隅にある手洗い場へ向かう。古めかしい銀色の蛇口を捻り、零れ出る水を両手で受け止める。
凍る寸前といった温度の冷水をばしゃりと顔に浴びせると、強引に叩き起こされた神経系が痺れるような痛みで抗議した。構わず二度、三度と水を被り、ついでに蛇口から直接ごくごくと飲む。
首にかけたタオルで顔を拭いていると、縁側のガラス戸がからりと引き開けられ、ジャージ姿の直葉が降りてきた。いつも朝から元気な彼女にしては珍しく、こちらも半眠半覚醒といった体でぼーっとしている。
「おはよう、スグ」
声をかけると、ふらふらした足取りで俺の前まできて、眼をしばたきながら言った。
「おはよー、お兄ちゃん」
「やけに眠そうだな。昨日は何時に寝たんだ?」
「うーっと、三時くらいかなぁ」
俺はあきれて首を振った。
「だめだぞ、子供がそんな夜更かししちゃ。何してたんだよ」
「えーっと……ネットとか……」
「ほどほどにしとけよ。――俺も人のことは言えんけど……」
後半は口の奥でごまかすように呟いてから、俺はあることを思いついて直葉に言った。
「おいスグ、後ろ向いてみ」
「……?」
半分眠っている顔を傾げながら直葉はくるりと半回転する。右手を蛇口に伸ばしてたっぷり濡らすと、ひょいっと直葉のジャージの襟首を引っ張り、無防備な背中に極低温の水滴を半ダースほど投下。
「ぴぁ―――――っ!!」
飛び上がった直葉の悲鳴が盛大に響き渡った。
ストレッチと素振りのメニューをこなす間も、直葉はぷーっとふくれていたが、近所のファミレスで特大宇治金時ラズベリーパフェを奢る約束をするとあっさり機嫌を直した。
今日は二人とも少々寝坊したので、トレーニングのあと順番にシャワーを浴び終わった頃には時計の針は九時を回っていた。母さんは例によって寝室で爆睡中だったので、直葉と二人で朝食の用意をする。
洗ったトマトを六等分に切っていると、隣でレタスを千切っていた直葉が俺の顔を覗き込みながら言った。
「お兄ちゃん、今日はどうするの?」
「うーん、昼過ぎからちょっと約束があるんだけど……午前中は、病院に行ってこようかと思ってる」
「そう……」
アスナの置かれた状況を知ってから、一日おきに眠る彼女の病室を訪れるのは俺の最も重要な習慣となっていた。
現実世界では無力な十六歳の子供でしかない俺が、アスナにしてやれることはごく少ない。いや――ほとんど無いに等しいと言っていい。彼女の手を取って祈る、できるのはそれだけだ。
エギルから送られてきた写真を脳裏に思い浮かべる。
あれを手がかりにアルヴヘイムなる仮想世界に足を踏み入れ、二日をかけてどうにか写真の少女がいるらしい場所の足元までは到達したが、彼女がアスナであるという確証はなにもない。まったく見当違いの方向を探しているにすぎないかもしれないのだ。
あの世界には何かある――、それは確かだと思う。
アスナが永遠の眠り姫であり続けることを望む男・須郷、奴の息がかかった企業の運営するアルヴヘイム・オンライン、その世界に残された『キリト』のキャラクターデータと、SAOのヘルスケアAIだった『ユイ』の存在……。それらのピースがどのようなパズルを組み上げるのかは、今はまだわからない。
今日の昼にALOの定期メンテが明け次第、俺はあの世界に戻っていよいよ世界樹なる巨大構造物に挑むことになっている。そのことを考えるたび、はやる気持ちで背中が震えるのを感じる。このまま自室で、俺の目指している方向が正しいのか間違っているのか自問自答しながらメンテ終了をじっと待つのはとても耐えられそうにない。
だから、その前に現実のアスナに触れ、彼女の温もりを確認しておきたかった。須郷は二度と来るななどと言っていたが知ったことではない。
切り終わったトマトをレタスやクレソンといっしょにボウルに入れ、ドレッシングを振りかけてかき混ぜながら直葉はしばらく無言だったが、やがて顔を上げて言った。
「ねえ、お兄ちゃん――あたしも、一緒に病院に行っていい……?」
「え……」
俺はわずかに戸惑った。今まで直葉は、SAOに関することはあまり積極的に知りたがろうとしなかったからだ。アスナのことだけはしばらく前に話したが、それ以外は俺のキャラクターネームに至るまで何一つ伝えていない。
一昨日の夜、アスナの婚約という話に打ちのめされて直葉の胸で泣いてしまったことを思い出し、内心で激しく狼狽する。が、俺はどうにか平静な顔を保ったまま頷いた。
「ああ……いいよ。きっとアスナも喜ぶ」
すると直葉も笑みをうかべてこくんと頷いたが、なぜかその笑顔にわずかな翳りを感じて、俺は彼女の瞳を覗き込んだ。だが直葉はすぐにくるりと振り向くと、ボウルを抱えて食卓のほうに歩いていった。
その後は特におかしい様子はなかったので、俺は直葉のぎこちない笑顔のことをすぐに忘れてしまった。
「ねえ、お兄ちゃん、学校のほうはどうなるの?」
俺の向かいの椅子に座り、ぱりぱりと音を立てて生野菜を噛みながら、直葉が言った。
「そういや総務省の連中が何か言ってたな……。俺の場合は、中学にもう一年通うか、あるいは指定高校に特設されるSAO帰還者用カリキュラム・コースの入試を受けるか選ぶ感じらしいよ」
「へえ、そんなのできるんだ。どこの高校なの?」
「首都圏だけでも受験できなかった中学生が千人以上いるみたいだからな。えーと、東京のなんとか言う私立校だったな……名前忘れた」
「んもう、ちゃんと聞いとかないとダメだよー。せっかくだから入試受けてみなよ。お兄ちゃん成績いいんだしさ」
「もう過去形だ。二年も勉強しなかったんだぜ」
「ならあたしが家庭教師してあげる!」
「ほう。じゃあ数学と情報理論をお願いしようかな」
「うっ……」
言葉に詰まる直葉ににやにや笑いを向け、バターを塗ったトーストを口に運ぶ。
正直、当分は学校のことなど考える心境にはなれそうにもなかった。アスナのこともあるが、何よりも学生である自分にさっぱりリアリティが感じられないからだ。
この世界に帰還して二ヶ月が経過した今でも、背中に二本の愛剣が無いことが実に心細く思える。ここは現実で、命を奪おうと襲ってくるモンスターなどいないのだと分かっていてもなお不安なのだ。俺の「本体」は剣士キリトで、今後学校に通い、授業を受け、齢を取っていく桐ヶ谷和人のほうが仮の存在なのだという意識は当分拭い去ることはできないだろう。
あるいは、それは俺のなかでソードアート・オンラインというゲームがまだエンディングを迎えていないせいなのかもしれなかった。アスナがこの世界に戻ってくるまで、俺は剣を置くことはできない。彼女を取り戻す――、すべてはそれからだ。
プリペイドカードを支払機に二度通して、俺と直葉は連れ立って降車口から道路に降りた。いつもは自転車で病院まで通っているが、今日は帰り道にかける時間が惜しいのでバスを使うことにしたのだ。
直葉は眼前の病院を見上げて目を丸くした。
「うわぁー、大きい病院だねえ」
「中もすごいぞ。ホテル並だ」
守衛に手を上げ、ゲートを通過する。徒歩だと驚くほど長い並木道を数分歩き、巨大なダークブラウンの建築物に足を踏み入れる。健康の申し子である直葉は病院自体が珍しいらしく、きょろきょろとあたりを眺め回すその襟首をひっぱるようにして受け付けまで行き、二人分のパスを発行してもらってからエレベータへ。最上フロアで降り、人気の無い廊下を突き当たりまで歩く。
「ここ……?」
「ああ」
俺は頷いて、パスカードをドアのスリットに差し込んだ。金属プレートを見つめ、直葉が呟く。
「結城……明日奈さん……。キャラネーム、本名だったんだね。あんまりいないよね、そういう人」
「へえ、詳しいな。俺の知るかぎりアスナだけだな、本名だったのは……」
言いながらカードを滑らせると、控えめな電子音とともにオレンジのLEDが青く変わり、ドアが開いた。
途端に、濃密な花の香りが内部から流れ出した。自然に呼吸音までを殺しながら、静謐な眠り姫の寝室へと歩を進める。俺にぴったりくっつくようにして歩く直葉の体からも緊張が伝わる。
純白のカーテンに手を掛け、いつものように短く祈る。
そっと、それを引き開ける。
直葉は、息をするのも忘れ、広いベッドの上で眠りにつく少女に見入った。
瞬間、人間ではない、と思った。これは妖精――、世界樹の上に住むという伝説の真なる妖精アルフに違いない、と。それほどに、少女は世俗離れした雰囲気を漂わせていた。
隣の和人もしばらく無言のまま佇んでいたが、やがて小さく息をつくとかすかな声で言った。
「紹介するよ。彼女がアスナ……KoB副団長、『閃光』アスナだ。剣のスピードと正確さでは俺も最後までかなわなかった……」
わずかに言葉を切り、少女に視線を落として続ける。
「アスナ、俺の妹の直葉だよ。――仲良くしてやってくれ……」
直葉は少し進み出ると、恐る恐る少女に声をかけた。
「……はじめまして、アスナさん」
もちろん、眠る少女からの答えはない。
彼女の頭を拘束する、濃紺のヘッドギアに視線を移す。かつて直葉も毎日のように目にし、時として深く憎悪した『ナーヴギア』だ。その前縁部で青く輝く三つのインジケータランプだけが、少女――アスナの意識の存在を示している。
和人があのゲームに囚われていた二年の間、直葉が抱きつづけた深い痛みと同じものを、今和人も感じているのだろう。そう考えると、直葉の心は水面の木の葉のように揺れる。
この、妖精のように美しい人の魂が、どことも知れない異世界に繋がれたままというのは残酷すぎると直葉も思う。一刻もはやくこの現実世界に、和人のもとに帰還し、和人に心からの笑顔を取り戻させてあげてほしいと、そう思う。
でも同時に、今となりに立ち、無言で少女を見つめている和人の顔は見たくない、そんな気もして直葉はそっと目を伏せた。ほんの少しだけ、この場所に来たことを後悔した。
和人に同行を申し出たときは、自分の気持ちを確かめたい、そう思ったのだ。
二年間の後悔と切望に満ちた日々の果てに、翠に真実を告げられたあの日、直葉の中に生まれた疼き。それは、兄である和人への愛情なのか、それとも従兄としての彼への恋慕なのだろうか。自分は和人に何を求めているのだろう。一緒にいて欲しい――、仲のいい兄妹として? 並んでトレーニングしたり、一緒にご飯を食べたりすること以上のなにかを求める気持ちが、自分の中に無いと言い切れるだろうか?
それは、和人の帰還以後の二ヶ月、直葉が何度も何度も自分に問うた疑問だった。
和人の心の奥底を占める「彼女」に直接会うことで、その答えが出るかもしれないと、そう思っていたのだが。
今、金色の静謐に満ちた病室に立ちながら、直葉は心が怖じ気づくのを感じていた。答えを知るのが恐かった。
和人の顔を見ないようにしながら、邪魔しちゃ悪いから廊下に出てるね、と言おうと唇を開いた、その時――。
不意に和人が歩きはじめ、直葉はタイミングを逸してしまった。和人はゆっくりベッドの足元を回りこむと、向こう側にあった椅子に腰を下ろした。自然、直葉の視界に和人の姿が映る。
和人は、純白のシーツからのぞくアスナの小さな手を両手で包み込むと、無言のまま少女の寝顔に見入った。その顔を見た途端――
「ッ…………」
直葉の胸の奥を、鋭い痛みが深く貫いた。
なんて目をするんだろう、と思った。何年も……いや、前世から今生、そして来世へと何度も生まれ変わりながら運命の相手を捜し求める旅人のような目だった。優しく、穏やかな光の奥に、狂おしいほどの慕情を感じた。瞳の色さえがいつもとは違っていた。
その瞬間、直葉は自分の心が真に求めていたものを知り、同時にそれが決して手の届かないものであることを悟った。
帰り道、和人と何を話したのかさえよく覚えていなかった。
気付くと、直葉は自室のベッドに横たわり、天井のポスターを染めるスカイブルーに見入っていた。
ヘッドボードの上で携帯が軽やかな音を立てている。着信音ではなく、昨夜寝る前にセットしておいたアラームだ。午後一時、ALOの定期メンテナンスが終了し、かの世界のゲートが再び開かれる時刻。
現実世界では、涙を流したくなかった。泣けば逆に諦められなくなる、そう思った。
そのかわりに、妖精の国でちょっとだけ泣こう。いつも元気なリーファなら、きっとすぐに笑えるはず。
直葉はアラームを止め、その隣からアミュスフィアを持ち上げた。そっと被り、再び横たわる。瞳を閉じ、魂を飛翔させる。
出現したのは、央都アルン外縁の宿屋の一室だった。ゆうべ、眠い目を擦りながらどうにかシルフ・ケットシー会談場からアルンまで飛び、この宿屋に転がり込んでベッドに倒れこみ、直後に寝落ちしてしまったのだ。二部屋取る余裕すらなかった。
リーファは体を起こすとベッドの端に腰掛けた。街の喧騒、空気の匂い、自分の肌の色すら変わっていたが、心の奥に突き刺さる切ない痛みだけは消えていなかった。うつむいたまま、痛みが液体に形を変えて目尻に溜まってゆくに任せる。
数十秒後、涼やかな効果音とともに、傍らに新たな人影が出現した。リーファはゆっくりと顔を上げた。
黒衣の少年は、リーファを見るとわずかに目を瞠ったが、すぐに柔らかい声で言った。
「どうしたの……リーファ?」
その穏やかな、秋の微風のような笑みは、どこか和人に似ていた。それを見た途端、リーファの両眸から涙が零れ、光の粒となって宙に舞った。どうにか頬に微笑を浮かべながら、言った。
「あのね、キリト君……。あたし……あたし、失恋しちゃった」
キリトは闇色の瞳でまっすぐリーファを見つめた。この、外見のわりに大人びた、どこか謎めいた少年に、すべてを話してしまいたい――という衝動に一瞬駆られたが、ぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。
「ご……ごめんね、会ったばかりの人に変なこと言っちゃって。ルール違反だよね、リアルの問題をこっちに持ち込むのは……」
笑みのかたちを保ったまま、リーファは早口で言った。しかし頬を流れる涙はいっこうに収まろうとしなかった。
キリトは左腕を伸ばすと、薄いグローブに包まれた手をリーファの頭に乗せた。二度、三度、いたわるように手が動く。
「――向こうでも、こっちでも、辛いときは泣いていいさ。ゲームだから感情を出しちゃいけないなんて決まりはないよ」
仮想世界で動いたり、喋ったりするときは、必ずどこかにぎこちなさが残るものだ。だがキリトの韻律に富んだソフトな声や、リーファの頭を撫でる手の動きは、あくまでも滑らかだった。何にも障ることなく、リーファの感覚神経をゆるやかに包み、流れていく。
「キリト君…………」
呟くと、リーファは隣に座る少年の胸にそっと頭を預けた。ひそやかに零れる涙のつぶが、キリトの服に落ちるたびに、淡い光を放って蒸発していく。
――あたしは、お兄ちゃんが、好き。
確認するように、胸の奥で呟いた。でもその気持ちは、芽を出し、小さな葉を広げたところで摘んでしまわなければならなかった。
――これでよかったんだ……
言い聞かせるように、自分に向けて囁く。
たとえ本当は従兄妹同士なのだとしても、和人と直葉は長い間ずっと兄妹として育ってきたのだ。この気持ちを露わにすれば、和人も、そして父や母も激しく戸惑い、悩むだろう。それに何より、和人の心はすべて、あの美しい人だけに向けられているのだ……。
全部、忘れなくてはならない。リーファに姿を変え、不思議な少年キリトの胸に頬を預けていると、いつかはそれが出来るかもしれないと、そう思えた。
ずいぶん長い間そのままの格好でいたが、キリトは何も言わずにリーファの頭を撫でつづけた。
やがて窓の外から遠い鐘の音が響いてきたのを合図にリーファは体を起こし、キリトの顔を見た。今度は普段の笑顔を浮かべることができた。涙はいつの間にか止まっていた。
「……もう大丈夫。ありがとう、キリト君。やさしいね、キミ」
言うと、キリトは心底照れたような顔で頭を掻いた。
「その反対のことはずいぶん言われたけどな。――今日は落ちる? 俺も、もう一人でも何とかなると思うし……」
「ううん、ここまで来たんだもん、最後まで付き合うよ」
リーファは勢いをつけてぴょんとベッドから立ち上がった。くるんと一回転半してキリトに向き直ると、右手を差し出す。
「――さ、行こ!」
キリトは唇の端にいつもの笑みを浮かべると、頷いてリーファの手を取った。立ち上がり、何かを思い出したかのようにひょいっと上空を見回す。
「ユイ、いるか?」
その言葉が終わらないうちに、二人の間の空間にキラキラと光が凝集し、お馴染みのピクシーの小さな姿が出現した。右手で目を擦りながら大あくびしている。
「ふわぁ〜〜〜……。……おはようございます、パパ、リーファさん」
すとんとキリトの肩に着地したユイの顔を、リーファは新たな驚きに見舞われながら覗き込んだ。
「お、おはようユイちゃん。――ピクシーも、夜は眠るの?」
「まさか、そんなことないですよー。でも、パパがいない間は入力経路を遮断して蓄積データの整理や検証をしてますから、人間の睡眠に近い行為と言っていいかもしれませんが」
「でも、いま、あくびを……」
「人間って起動シークエンス中はああいうことするじゃないですか。パパなんて、平均八秒くらい……」
「妙なことを言わなくてよろしい」
キリトは人差し指でこつんとユイの頭を突付いてから、ウインドウを広げて背中に大きな剣を背負った。
「さて、行こうぜ!」
「うん!」
リーファも頷き、愛刀を腰に吊った。
連れ立って宿屋から出ると、ちょうど朝陽が完全に昇りきった頃だった。軒を連ねるNPCショップも大半が開店し、逆に夜間営業の酒場や怪しい道具屋などは木戸にクローズドの札をかけている。
現実時間では平日の午後一時過ぎだが、週に一度の定期メンテナンス明けでモンスターやアイテムのポップがリセットされた直後とあって、プレイヤーの通行は意外に多かった。
昨日は、あまりの眠さにろくろく周囲を見もしなかったが、改めて広い通りを行き交う人々を眺めると新鮮な驚きがあった。
ずんぐり、がっしりした体を金属鎧に包み、巨大な戦斧を背負ったノームや、その腰ほどまでの高さしかない小さな体に銀色の竪琴を携えたプーカ、不思議な薄紫色の肌に黒いエナメルの革装備をまとったインプなど、雑多な種族のプレイヤー達が連れ立って楽しそうに談笑しながら歩いている。所々に置かれた石のベンチでは、赤い髪のサラマンダーの少女と青い髪のウンディーネの青年が仲睦まじく見つめあい、その傍らを巨大な狼を従えたケットシーが通り過ぎていく。
街並みも人々の姿もグリーンを基調に統一されていたスイルベーンとは、似ても似つかぬ雑多な光景だったが、そこには心が浮き立つような活気が満ちていた。いつしかリーファも、胸の奥で疼いていた切ない痛みを忘れて笑顔を浮かべた。
ここなら、シルフとスプリガンでも普通のカップルに見えるのかな、などと心のどこかで考え、つい隣のキリトの腕に自分の腕を絡ませてしまう。そのまま視線を通りの先へと向けていくと――
「うわぁ……」
にわかには信じられない眺めがそこにあった。
アルヴヘイムの央都アルンは、円錐形に盛り上がった超巨大な積層構造を成している。今リーファが立っているのは、中心からはまだ相当に離れた外環部だが、それでも幾重にもかさなるアルン市街の全景を一度に視界に収めることはできない程だ。
高くそびえ立つアルン市街の表面には、薄いグレーの岩で出来た建材とは明らかに異なる質感の、モスグリーンの恐ろしく太い円筒がうねりながら何本も延びている。一本の直径が、ことによるとスイルベーンの風の塔以上の高さがあるかもしれない。
アルン中央市街を包み込むように這いまわるそれらの円筒物は、実は木の根なのだった。何本もの根っ子は、うねうねと曲がりながら次第に合流し、太さを増し、アルン市街の頂点でひとつに寄り集まっている。
視線を上に向けていく。同時にリーファの背中を、ぞくぞくという興奮が疾る。
根元部分からは、ごつごつ盛り上がった幹がまっすぐ上空に伸び上がっている。苔やその他の植物に覆われて金緑色に光る幹は、高さを増すほどにその色が空に溶け合い、薄いブルーに変わっていく。やがて幹の周囲を、白いもやが取り囲む。霧ではなく、あれは雲なのだ。飛行高度限界を示す雲の群を貫き、幹はなおも高く高く伸びていく。
そして、完全に空の青と混ざって見えなくなる寸前で、幹からは太い枝が放射状に広がっているのがどうにか見て取れる。枝は薄れながら広がり、リーファたちが立つ外環部の上空までも覆っているようだ。あまりの大きさから鑑みるに、木の頂点はアルヴヘイムの空を突き破り、宇宙――もし存在するのならだが――までも続いていてもおかしくなかった。
「あれが……世界樹……」
隣のキリトも、畏れに打たれたような声で言った。
「うん……。すごいね……」
「えーと確か、あの樹の上にも街があって、そこに……」
「妖精王オベイロンと、光の妖精アルフが住んでいて、王に最初に謁見できた種族はアルフに転生できる……って言われてるわ」
「……」
キリトは無言のまましばらく巨樹を見上げていたが、やがて真剣な表情で振り返った。
「あの樹には、外側からは登れないのか?」
「幹の周囲は侵入禁止エリアになってて、木登りは無理みたいだね。飛んでいこうとしても、雲がかかってるあたりで限界高度になっちゃうらしいよ」
「何人も肩車して限界を突破した連中がいるって話を聞いたんだけど……」
「ああ、あの話ね」
リーファはくすりと笑って続けた。
「枝までもうちょっと、ってとこまで迫ったらしいけどね。GMも慌てたみたいで、すぐに修正が入っちゃったの。今は、雲のちょっと上に障壁が設定されてるんだって」
「……なるほど……。とりあえず、根元まで行ってみよう」
「ん。りょーかい」
軽く頷きあい、二人は大通りを歩き始めた。
行き交う混成パーティーの間を縫うように数分歩くと、前方に大きな石段と、その上に口を開けるゲートが見えてきた。あれをくぐればいよいよ世界の中心、アルン中央市街だ。空を仰ぐと、屹立する世界樹はすでに巨大な壁としか見えなかった。
荘重な空気にうたれながら階段を登り、門をくぐろうとした――、その時だった。
突然、キリトの胸ポケットからユイが顔を突き出した。いつになく真剣な顔で、食い入るように上空を見上げている。
「お、おい……どうしたんだ?」
周囲の人目を憚るように、小声でキリトが囁いた。リーファも首を傾けながらピクシーの顔を覗き込む。しかし、ユイは無言のまま見開いた瞳を世界樹の上部に向けつづけた。数秒間が経過し、そしてついに小さな唇から掠れた声が漏れた。
「ママ……ママがいます」
「な……」
今度はキリトが顔を強張らせた。
「本当か!?」
「間違いありません! このキャラクターIDは、ママのものです! まっすぐこの上空です」
それを聞いたキリトは、燃えるような視線で空を振り仰いだ。顔の色が蒼白になり、ぎりぎりと音がしそうなほどに歯を食いしばったかと思うと――
いきなり、背の翅を大きく広げた。クリアグレーのそれが、瞬間白熱したかのように輝き、バン!! という破裂音が空気を叩いたと思った時には、彼の姿は地上から消え去っていた。
「ちょ……ちょっと、キリトくん!!」
リーファは慌てて叫んだが、黒衣の少年はすさまじい勢いで急上昇していく。わけがわからなかったが、やむなくリーファも翅を広げて地を蹴った。
垂直ズームは、ダイブと並んでリーファの得意技だったが、まるでロケットブースターのように加速していくキリトにはとても追いつけなかった。黒い姿が、みるみる点のように小さくなっていく。
アルン市街を構成する無数の尖塔群の間を抜け、街の上空に出るのに数秒もかからなかった。塔のテラスでくつろぐプレイヤーたちが、何事かという表情でこちらに視線を向けたが、キリトは彼らの鼻先を掠めてなおも上昇を続けた。
やがて視界から建造物の姿が消え、かわりに金緑色の絶壁にも似た世界樹の幹が現われた。それと平行して、キリトは黒い弾丸のように空を駆け上っていく。幹の周囲を包む白い雲の群がぐんぐん近づいてくる。リーファは必死に後を追い、顔を叩く風圧に耐えながら叫んだ。
「気をつけて、キリト君!! すぐに障壁があるよ!!」
だが、キリトに声が届いた様子はなかった。天地を貫く一本の矢となった彼は、仮想世界に孔を穿たんばかりの勢いで上昇を続ける。
何が彼をここまで駆り立てるのだろう。世界樹の上にいるというその誰かは、彼にとってそれほど重要な人なのだろうか。
ユイは、その人のことを「ママ」と呼んだ。女性なのだろうか――? キリトがこうまでして捜し求めるその人は――?
そう考えた途端、リーファの胸の奥はずきんと痛んだ。和人に感じたものとは似て非なる痛みだった。
集中力が乱れ、ズームの速度が鈍った。リーファは頭を振って雑念を払い落とし、全神経を背中の翅に集中する。
キリトに遅れること数秒、リーファも分厚い雲海に突入した。視界が濃密な白に染まる。以前聞いた話が確かなら、この雲海の上はすぐに侵入不可能エリアに設定されているはずだ。わずかに速度を緩めつつ、雲の中を駆け抜ける。
不意に、眼前に濃紺の世界が広がった。地上から見るのとは違う、染みひとつないコバルトブルーの空が無限に続いている。頭上には、天を支える柱のごとく四方に枝葉を広げる世界樹の巨体。キリトは、その枝の一本目指して更に加速していく――。
と、突然、彼の体を中心に、ぱぁっと虹色の光が広がった。
数瞬遅れて、落雷の音にも似た衝撃音が大気を揺るがした。見えない壁にぶつかったキリトが、銃に狙撃された黒鳥のように弾け飛び、力なく空に漂った。
「キリトくん!!」
リーファは悲鳴を上げ、キリトのもとへと急いだ。この高さから墜落すれば、ログアウト後も現実世界に悪影響を引きずりかねない。
しかし、リーファが追いつく前に、キリトは意識を取り戻したようだった。二、三度頭を振って、再び上昇を開始する。すぐに障壁に阻まれ、空しくエフェクト光を散らす。
ようやく同高度に達したリーファは、キリトの腕を掴んで必死に叫んだ。
「やめて、キリト君!! 無理だよ、そこから上には行けないんだよ!!」
だが、キリトは両眼に憑かれたような光を浮かべながら、なおも突進を繰り返そうとした。
「行かなきゃ……行かなきゃいけないんだ!!」
彼の視線の先では、世界樹の太い枝が天を横切っている。地上からよりは格段にクリアに見えるが、ディティールの減少具合からしてまだまだ相当の距離があると思われる。
その時、キリトの胸からユイが飛び出した。きらきらと光の粒を振り撒きながら、枝目指して上昇する。
そうか、システム属性のピクシーなら……、とリーファは一瞬思ったが、しかし見えない障壁はユイの小さな体をも冷酷に拒んだ。水面に波紋が広がるごとく、七色の光が揺れてユイを押し戻す。
だが、ユイは、プログラムとは思えない必死の面持ちで障壁に両手をつき、口を開いた。
「ノーティス・メッセージなら届くかもしれません……! ママ!! わたしです!! ママー!!」
『……!!』
突然、耳もとにかすかな呼び声を感じて、アスナは突っ伏していたテーブルから顔を跳ね上げた。
慌てて周囲を見回すが、金色の檻の中には誰の姿もない。時々遊びに来る、瑠璃色の小鳥も今はいない。陽光が格子状の影を落としているだけだ。
気のせいか、と、テーブルに両手を戻したとき。
『……ママ……!!』
今度ははっきりと聞こえた。アスナは椅子を蹴って立ち上がった。
幼い少女の声だった。細い銀糸を鳴らすようなその声は、アスナの遠い記憶と共鳴して強く鳴り響いた。
「ユイ……ユイちゃんなの……!?」
アスナはかすかな声を漏らすと、格子の壁に駆け寄った。金属の棒を両手で掴み、必死に周囲を見回す。
『ママ……ここにいるよ……!!』
その声は、アスナの頭の中に直接響くようで、咄嗟に方向がわからなかった。だが、それでもなお「感じ」た。下だ。巨樹を包む白い雲海、どんなに目をこらしても何も見えないが、声はそこから届いてくる。
「わたしは……わたしはここだよ……!!」
アスナは声の限りに叫んだ。
「ここにいるよ……!! ユイちゃん……!!」
それに――ユイ、あの世界で出会った「娘」がいるということは、きっと「彼」もそこに――。
「……キリトくん――!!」
こちらの声が届いているかどうかはわからなかった。アスナは咄嗟に鳥篭を見回した。何か、声以外に自分の存在を知らせる手段は――。
だが、この鳥篭にあるオブジェクトは全て位置情報をロックされており、何一つとして格子から外に出すことができないのは確認ずみだった。はるか以前に、ティーカップやクッションを落として下界のプレイヤーにメッセージを送ろうと試み、挫折していた。アスナは焦燥に駆られながら金の格子をきつく握り締めた。
いや――。
たった一つ、あった。以前はこの場所に存在しなかったもの。イレギュラーなオブジェクト。
アスナはベッドに走り寄ると、枕の下からそれをつかみ出した。小さな銀色のカード・キーだ。再び格子の前に戻る。カードを握った右手を、恐る恐る差し出す。以前なら、ここで目に見えない壁に阻まれてしまったのだが。
「……!」
右手は、何の抵抗もなく檻から外に出た。クリアシルバーのカードが、陽光を反射してきらりと輝く。
(キリトくん……気付いて……!!)
祈りながら、アスナは躊躇なく手を開いた。音も無く宙に舞ったカードキーは、きらきらと光を振り撒きながら一直線に雲海目指して落下していった。
俺は全身が引きちぎれそうなもどかしさに駆られて、右拳を見えない障壁に叩きつけた。強烈な磁石にも似た斥力によって拳が弾き返され、虹色の波紋が宙に広がった。
「何なんだよ……これは……!」
食いしばった歯の間から震える声を絞り出す。
ここまで――ようやくここまで来たのだ。アスナの心が捕われている牢、そこにあとわずかで手が届く。それなのに、「ゲームのルール」などという曖昧なプログラム・コードにすぎないものが立ち塞がる。
すさまじいほどの破壊の衝動が全身を貫き、白熱した火花を散らした。
壊したい。この、アルヴヘイムなる世界を全て崩壊させてしまいたい。ここは「あの世界」とは違う、単なる商業エンタテインメント・ワールドではないか。たかがその程度の代物が、この俺――真の「生存者」キリトの行く手を阻むだと――!?
このアルヴヘイム・オンラインにログインして二日、ゲームのルールに則ってここまで移動する間に、俺の心の奥底に蓄積しつづけた焦燥がいっぺんに爆発したかのようだった。俺は犬歯を剥き出し、背の剣を抜こうと右手で柄を握り締めた。
――その時だった。
瞋恚の炎に揺れる俺の視界に、小さな白い光がちかりと瞬いた。
「……あれは……?」
瞬間、俺は憤激を忘れて光を凝視した。きらきらと輝く何かが、ゆっくり、ゆっくりとこちらに向かって降ってくる。真夏の空に流れるひとひらの雪のように、長い旅路を経たたんぽぽの綿毛のように、まっすぐに俺を目指して舞い降りてくる。
俺は剣の柄を離し、両手を輪にして光に向けて差し伸べた。途方もなく長い数秒間のすえに、白い光はゆっくりと俺の手のなかに収まった。どこか懐かしい温もりを感じながら、俺はその手を胸の前で開いた。
左からユイ、右からリーファが覗き込む。俺も無言で手の中のものをじっと見つめた。
「……カード……?」
リーファがぽつりと呟いた。たしかにそれは、小さな長方形のカード状のオブジェクトだった。銀色に透き通り、文字や装飾の類は何もない。俺はちらりとリーファの顔を見た。
「リーファ、これ、何だかわかる……?」
「ううん……こんなアイテム、見たことないよ。クリックしてみたら?」
その言葉に従って、俺はカードの表面を指先でシングルクリックした。だがゲーム内のアイテムなら必ず出現するはずのポップアップ・ウインドウは表示されなかった。
その時、ユイが身を乗り出し、カードの縁に触れながら言った。
「これ……これは、システム管理用のアクセス・コードです!!」
「なっ……」
俺は絶句してカードを凝視した。
「……じゃあ、これがあればGM権限が行使できるのか?」
「いえ……ゲーム内からシステムにアクセスするには、対応するコンソールが必要です。わたしでもシステムメニューは呼び出せないんです……」
「そうか……。でも、そんなものが理由もなく落ちてくるわけがないよな。これは、多分……」
「はい。ママがわたし達に気付いて落としたんだと思います」
「……」
俺はカードをそっと握り締めた。寸前まで、これにアスナが触れていたのだ。彼女の意思が、おぼろげに感じ取れるような気がした。
アスナも戦っている。この世界から脱出しようと懸命に抗っている。俺にもまだ、できることがあるはずだ。
俺はリーファを見つめ、口を開いた。
「リーファ、教えてくれ。世界樹の中に通じてるっていうゲートはどこにあるんだ?」
「え……あれは、樹の根元にあるドームの中だけど……」
リーファは、気遣わしそうに眉を寄せた。
「で、でも無理だよ。あそこはガーディアンに守られてて、今までどんな大軍団でも突破できなかったんだよ」
「それでも、行かなきゃいけないんだ」
カードを胸ポケットに収め、俺はそっとリーファの手を取った。
思えば、このシルフの少女には随分助けられた。右も左もわからない世界で、焦る気持ちを抱えながらここまで来ることができたのは、彼女の元気な笑顔に励まされた部分が多い。いつか現実世界できちんとお礼を言わないとな……と思いながら口を開く。
「今まで本当にありがとう、リーファ。ここからは俺一人で行くよ」
「……キリト君……」
泣きそうな顔で口篭もるリーファの手をぎゅっと握り、離した。ユイを肩に乗せ、身を翻す。
翅を畳み、落下速度に加速の勢いを乗せて、俺は一直線に世界樹の最下部を目指した。
目もくらむような急降下を数十秒続けると、やがて複雑に入り組んだアルン市街が世界樹の幹に張り付くようにその姿を現した。その上部、巨樹の根と接する部分にひときわ大きなテラスを見つけ、俺は体勢を入れ替えて減速を始めた。
大きく広げた翅でブレーキをかけながら着陸地点を見定める。両足を突き出し、石畳に接する瞬間に思い切り制動をかけたが、それでもかなりの衝撃音が周囲に響き渡った。テラスからの眺望を楽しんでいた数組のプレイヤーが、驚いた顔でこちらを見た。
俺は彼らの目が離れるまで待ってから、肩のユイに小声で話し掛けた。
「ユイ、ドームとやらへの道はわかるか?」
「はい、前方の階段を上ればすぐです。でも――いいんですか、パパ? 今までの情報から類推すると、ゲートを突破するのはかなりの困難を伴うと思われます」
「ぶつかってみるしかないだろう。失敗しても命まで取られるわけじゃない」
「それは、そうですが……」
俺は手を伸ばし、軽くユイの頭を撫でた。
「それにな、もうあと一秒でもぐずぐずしてたら発狂しちまいそうだ。ユイだって早くママに会いたいだろう」
「……はい」
頷くユイの頬をつんと突付くと、俺は目の前に見える大きな階段目指して歩き始めた。
幅の広い石段を登りつめると、そこはもうアルン市街地の最上部らしかった。巨大な円錐形を成すアルンの表面を這いまわる世界樹の根が、俺の眼前で寄り集まって一本の幹になっている。と言ってもあまりにも直径が太すぎるので、ここからでは単なる一枚の壁にしか見えない。
その壁の一部に、プレイヤーの十倍はあろうかという高さの、妖精の騎士を象った彫像が二体並んでいる場所があった。像の間には、華麗な装飾を施した石造りの扉がそびえている。
――待ってろよ、アスナ。すぐに行くからな……
俺は自分の心に刻み込むように、胸の奥で呟いた。
さらに数十秒歩き、大扉の前に立った途端、右側の石像が低音を轟かせながら身動きを始めた。少々意表を突かれて振り仰ぐと、石像は仰々しい兜の奥の両眼に青白い光を灯しながらこちらを見下ろし、口を開いた。大岩を転がすような重々しい声が響き渡る。
『未だ天の高みを知らぬ者よ、王の城へ到らんと欲するか』
同時に、俺の目の前にイエス、ノーのボタンが表示された。あまりにも芝居がかった演出に首を縮めながら、ボタンに手を触れる。
と、今度は左側の石像が大音声を発した。
『さればそなたが双翼の天翔に足ることを示すがよい』
遠雷のような残響音が消えないうちに、大扉の中央がぴしりと割れた。地響きを上げ、ゆっくり左右に開いていく。
その轟音は、否応なく俺にアインクラッドのフロアボス攻略戦を思い起こさせた。当時の、呼吸も忘れるほどの緊張感が甦り、背筋に冷たい戦慄が走る。
ここで倒れても実際に死んだりはしないんだ、と自分に言い聞かせてから、俺はその思考を振り払った。アスナの解放が懸かったこの闘いは、ある意味ではかつて経験したどんな戦闘よりも重い。
「行くぞ、ユイ。しっかり頭を引っ込めてろよ」
「パパ……、がんばって」
胸ポケットに収まったユイの頭を一撫でして、背中の剣を抜き放つ。
分厚い石扉は、完全に開ききるとひときわ大きな轟音と共にに停止した。内部は完全な暗闇だった。一歩足を踏み入れてから、暗視スペルを使うべきかと考えたが、右手を掲げるより早く、突然のまばゆい光が頭上から降り注いだ。思わず両目を細める。
そこは、とてつもなく広い円形のドーム状空間だった。ヒースクリフと戦った、アインクラッド七十五層のボス部屋を思い出したが、優にあの数倍を超える直径があるだろう。
樹の内部らしく、床は太い根か蔦のようなものが密に絡み合って出来上がっている。蔦は外周部分で垂直に立ち上がり、壁を形成しながらなだらかに天蓋部分へと続く。
半球形のドームとなっている天蓋では、絡み合う蔦は床よりも疎となり、ステンドグラス状の紋様を描いている。白光はその向こうから降り注いでいるようだ。
そして――天蓋の頂点に、円形の石扉が見えた。精緻な装飾が施されたリング型のゲートを、十字に分割された四枚の岩盤がぴたりと閉ざしている。目指すべき樹上への道はあの向こうにあるはずだ。
俺は大剣を両手で構え、大きく深呼吸した。両足に力を込め、翅を広げる。
「――行けッ!!」
己を叱咤するように一声叫び、猛然と地を蹴った。
飛び上がって一秒も立たないうちに、天蓋の発光部に異変が現われるのが見えた。白く光る窓の表面が沸き立つ泡のように盛り上がり、何かを生み出そうとしている。瞬く間に光は人間の形を取り、滴り落ちるかのようにドーム内に放出されると、手足と、そして六枚の輝く翅を広げて咆哮した。
それは、全身に白銀の鎧をまとった巨躯の騎士だった。鏡のようなマスクに覆われて顔は見えない。右手には、俺の得物をも上回る長大な剣を携えている。
守護騎士は、急速に上昇する俺に鏡の顔を向けると、再び人語ならぬ雄叫びを上げながら真正面からダイブしてきた。
「そこをどけええええっ!!」
俺も絶叫しつつ大剣を振りかぶる。両者の距離がゼロに近づくにつれ、脳の中で冷たい火花がスパークするような感覚が俺を襲い、あの世界での限界戦闘で何度か味わったアクセル感が戻ってくる。守護騎士のマスクに映る俺の姿に向かって、剣を思い切り打ち下ろす。
俺と、奴の剣が空中でぶつかり合い、落雷にも似たエフェクト光が空間を切り裂いた。騎士は大きく弾かれた剣を再度頭上高く振りかぶろうとしたが、俺は剣が流されるに任せたまま、奴の懐に潜りこんだ。俺の二倍の身長がある巨人騎士の首元を左手で掴み、密着する。
CPUが動かすモンスターを相手にする場合、敵の武器が作り出すアタック圏を見切り、その外側にポジションを取るのは基本だが、このような巨大なエネミーの場合アタック圏の内側にも死角が発生する場合が多い。無論そこに留まり続けるのは危険だが、崩れた体勢を回復する程度の時間は稼げる。
俺は右手一本に握った剣を引き戻すと、その剣尖を守護騎士の首元にあてがった。
「ラァッ!!」
翅を力いっぱい打ち鳴らし、全身の重さを乗せて剣を撃ち込む。ガツッ!! と硬い物体を断ち割る響きと共に、剣が騎士の首を深く貫いた。
「ゴガアアアアア!!」
神々しい外見にそぐわない、獣のごとき絶叫を上げて守護騎士は全身を硬直させた。直後、その巨体は純白の炎に包まれ、四散した。
――行ける!!
俺は心の奥で快哉を叫んだ。この守護騎士は、ステータス的にはSAOのフロアボスに遠く及ばない。一対一なら、こちらに分がある。
体にまとわりつく白い炎を振り払い、俺は顔を上げてゲートを見据えた。そして――その光景を見た途端、顔が強張るのを感じた。
未だかなりの距離がある巨大な天蓋、それを作っている無秩序なステンドグラスの、殆ど全ての窓から、白い守護騎士が出現しようとしていた。その数、数十――いや数百か。
「――――うおおおお!!」
一瞬怯んでしまった己を鞭打つかのように、俺は叫んだ。例え何匹来ようとも、全てを切り捨てるだけだ。翅を震わせ、猛然とダッシュする。
天蓋から新たに産み落とされた数体の騎士が、俺の進路を阻もうと舞い降りてきた。その先頭の一体に狙いを定め、再び剣を振りかぶる。
今度は、剣を打ち合わせて体勢が硬直してしまうのを避けるべく、俺は斜めに振り下ろされる敵の剣の先端に意識を集中し、体を捻ってそれを回避した。完全には見切れず、肩を掠った剣先によってわずかなダメージ感が発生したが、それを無視して自分の攻撃に全神経を傾ける。
俺の大剣は、一直線に守護騎士のマスクに吸い込まれるように命中し、そのまま二つに断ち割った。白い炎が噴き上がり、消滅する巨体の向こうから、次の騎士が姿を現す。
敵の剣がすでに攻撃軌道に入っているのを見て、俺は歯を噛み締めた。完全に回避する余裕はないと判断し、左拳を上げて襲い来る剣に叩きつける。
骨まで浸透するような衝撃とともに、視界左端のHPバーが一割ほど減少した。だが敵の剣の軌道は俺の体を逸れ、騎士の体がぐらりと崩れる。その首筋に、右手の剣を叩き込む。
今度はこちらの攻撃スピードが減殺されたため、一撃で片付けることが出来なかった。右方向から、更に新たな守護騎士が迫ってくる。俺は体をそちらに捻ると同時に、その勢いを利用して左足のブーツを手負いの騎士のマスクに叩き込んだ。
この世界に初ログインしたとき、膨大なスキルアップポイントを格闘術スキルにもつぎ込んでおいたのが幸いし、蹴りのダメージは敵のHPを削りきることに成功したようだった。仰け反らせた体を炎が包み、エフェクトで歪んだ悲鳴とともに爆散する。
三体目の騎士の剣を、危ういところで俺の剣が弾いた。
「せああああっ!!」
気合と共に握った左手を鏡のマスクに叩き込む。ビシィッ!! と硬質な音を立ててその表面が放射状にひび割れ、騎士が苦悶の叫びを上げる。
「死ね!! 死ねェェ!!」
全身を駆動する破壊の衝動に意識を委ね、俺は絶叫した。右手の剣を騎士の首に引っ掛け、何度も何度も左拳を打ち付ける。
そうだ――、俺はかつてこの世界に生きていたのだ。孤独にダンジョンの最奥を彷徨い、死線の連続に魂を磨耗させ、モンスターの屍で己の墓碑を築くかのごとく剣を振るい続けた。
とうとう拳が敵のマスクを貫通し、ぐちゃりと嫌な感触が左腕を包んだ。だが殺戮を求める内なる声に従い、俺は闇雲に柔らかい何かを掴むと引きずり出した。赤黒い紐のような肉塊が千切れ飛び、同時に俺の体を白いエンドフレイムが包み込む。
あの頃、俺の心は石のように固く乾ききっていた。ゲームクリアだとか、プレイヤーの解放だとかいうお題目はもうどうでもよかった。他人を拒絶し、ただひたすらに次の戦場を求めて這いずっていた。
更に四、五匹の守護騎士が、輝く剣を高く掲げ、怪鳥のような奇声とともに降下してきた。俺は片頬に獰猛な笑みを浮かべ、その群に突っ込んだ。激烈な加速感に全神経が震え、俺の脳とかりそめの肉体を繋ぐ電子パルスが青白いスパークとなって視界を横切った。
「うおおおああぁぁぁぁぁ!!」
雄叫びとともに、俺は両手に握った剣を横一文字に薙ぎ払った。敵の剣が弾かれる。そのまま体を風車のように回転させ、限界まで加速してから守護騎士どもの首に撃ち込む。
がつ、がつっ! と鈍い音が連続し、二つの鏡面に包まれた首が宙高く舞った。白いバラのように咲く断末魔の炎が俺の神経を灼き、更に熱く燃え上がらせる。
死の中でだけ、俺は生を感じられた。ギリギリの戦闘に身を投じ、己を最後まで焼き尽くし、その後に倒れることだけが、俺の眼前で死んでいった者達に報いる道だと思っていた。
俺は回転の勢いを止めずに体の向きを入れ替え、伸ばした右足のつま先を錐のように新たな守護騎士の胸板に突き立てた。硬い殻に包まれた軟体生物を岩に叩きつけるような嫌な音が響き、俺の体が騎士を貫通する。エンドフレイムの中で動きの止まった俺の体に、左右から二本の剣が鋏のように迫った。右の剣を自分の剣で受け、左の剣は左腕で止め、HPバーに目もくれず俺は双方を押し返した。
間髪入れずに右の騎士の手首を掴み、
「ぐうううおおおおっ!!」
咆哮しながら頭上高く振り回すと左の騎士に叩きつける。二匹が重なったところを、剣で串刺しにし、止めをさす。
いつまでも、敵が何匹来ようとも戦いつづけられると思った。あの頃のように、殺戮の炎で己を焦がし、心を硬く、硬く鍛え上げて――。
いや――そうじゃない……。
――そんな、乾ききった俺の心に、懸命に水を注いでくれた人たちがいたのだ。シリカ、クライン、エギル、リズベット、そしてアスナ――
俺は……俺は、アスナを助けだし、あの世界を本当に終わらせるためにここへ――
顔を上げると、天蓋に視線を向けた。意外なほど近くに、石のゲートが見えた。
そこへ向かって上昇しようとしたその時、唸りを上げて飛来した何かが俺の右足を貫いた。
まばゆく輝く光の矢だった。俺の動きが止まる瞬間を狙い定めたかのように、雨のように矢が降り注いだ。二本、三本、立て続けに命中し、HPバーががくん、がくんと減少する。
視線を巡らせると、いつのまにか遠距離で俺を取り囲んでいた守護騎士たちが、左手を俺に向け、ディストーションのかかった耳障りな声でスペルを詠唱していた。光の矢の第二波が、甲高い音とともに殺到してくる。
「うおおおおおっ!」
俺は大剣を振り回して矢を叩き落したが、更に数本が命中し、HPバーがイエローゾーンに突入した。顔を上げ、ゲートを凝視する。
遠距離攻撃を行う敵を単騎で撃破するのは難しい。俺は強行突破を図るべくゲートに向かって突進した。降り注ぐ光の矢が全身を貫くが、ゴールはもうすぐそこだ。歯を食いしばって衝撃に耐えながら、石扉に触れようと左手を伸ばす――。
――しかし。
あと数秒というところで、すさまじい衝撃が背中を襲った。振り向くと、いつの間に接近していたのか、守護騎士が一匹、鏡面マスクに歪んだ笑みを浮かべて俺の背に剣を突き立てていた。体勢が崩れ、加速が止まる。
そこへ、獲物に群がる白い屍鳥のごとく、十数匹の守護騎士が四方から押し寄せてきた。ドッ、ドッと鈍い音を立てて、剣が次々に俺の体を貫いた。HPバーを確認する余裕もなかった。
視界に、青い燐光をまとった黒い炎が渦巻いた。それを背景に、小さく浮かび上がる紫の文字。『You are dead』。
次の瞬間、俺の体は呆気なく四散した。
次々とスイッチを切るように、身体感覚が消失していく。
アインクラッド七十五層で聖騎士ヒースクリフと相打ちになり、倒れたときの記憶が鮮明にフラッシュバックし、瞬間、俺は激甚な恐怖に晒された。
だが勿論、そこで意識が途切れることはなかった。半思考停止状態のなか、俺はSAOベータテスト以来の「ゲームにおける死」を体験することとなった。
不思議な感覚だった。視界は彩度を失い、薄い紫のモノトーンに染まっている。その中央に、同じくシステムカラーの小さな文字で『蘇生猶予時間』の表示と、右に減少していく数字。視界の奥では、俺を屠った白銀の守護騎士たちが、満足の唸りを上げながら天蓋のステンドグラスに帰還していくのが見えた。
四肢の感覚は存在しなかった。動かそうにも、今の俺は多分、この世界で斬り倒してきたプレイヤー達がそうなったように、小さな火の玉にすぎないのだ。心細く、惨めで、卑小な気分だった。
そう――、惨めだった。この世界のことを、心のどこかで常に、たかがゲーム、と思い続けていた報いを受けたと感じていた。俺の強さなどというものは所詮、ステータスデータという名の数字でしかないのだ。なのに、ゲームの枠を越え、限界を超えて、何でも出来ると思っていた。
アスナに会いたい。彼女の、全てを包み、癒す温かい腕に抱かれ、思考、感情、すべてを解放したい。しかし、俺の手はもう彼女には届かない。
秒数表示が減少していく。これがゼロになったとき俺はどうなるのか、即座には思い出せなかった。
しかしどうなろうと、俺に出来ることは唯ひとつだ。再びこの場所まで這い戻り、守護騎士に挑むのだ。何度倒れようと、例え勝てないとわかっていても――俺の存在が切り刻まれ、磨耗し、この世界から全て消えてなくなるその瞬間まで――……
その時だった。下向けた俺の視界を、きらりと横切る影があった。
リーファだった。開いたままの入り口からドーム内に侵入し、凄まじいスピードで上昇してくる。
バカ、やめろ!! と叫ぼうとしたが、声は出なかった。慌てて上空を見ると、天蓋に並ぶ白い窓から、再びボトボトと守護騎士どもが産み出されつつあるのが見えた。
神経を逆撫でる叫びを上げながら、白い巨人たちが俺の横を通過し、リーファ目指して殺到していく。彼女の敵う相手とはとても思えなかった。俺はいいから逃げろ、と必死に念じるが、リーファは翡翠色の瞳に強い光を浮かべ、真っ直ぐこちらに向かってくる。
最前列の守護騎士数匹が、右手に握った長大な剣を次々に振り下ろした。リーファは俊敏な機動でそれらを回避したが、時間差で襲い掛かった剣が体を掠めた。それだけでHPバーががくっと減少し、華奢な体が大きく跳ね飛ばされた。
だがリーファは、その勢いを利用して更に加速すると、騎士どもの列を回り込み、上昇を続けた。彼女が俺に近づくにつれ、それを阻止するかのように天蓋が吐き出す騎士の数は増え、奇怪な合唱を響かせながら所狭しと飛び回る。
リーファは右手に長刀を握っていたが、それは防御にのみ利用し、敵を一箇所にまとめては逆に障壁として利用する見事な機動で着実に距離を詰め続けた。痛々しいほどの必死の飛行だった。
「――キリト君!!」
ついに、俺の前に達したとき、リーファは涙の粒を散らして一声叫んだ。両手を伸ばし、俺をしっかりと包み込む。
すでにゲートにかなり接近しており、騎士どもはこれ以上の上昇は絶対に許さないと言わんばかりに、上空にびっしりと密集し、幾重もの肉の壁を作り上げた。だがリーファは俺を確保した途端急激にターンし、今度は一直線に出口を目指した。
背後から、呪詛のごときスペル詠唱音が鳴り響いた。たちまち、唸りを上げて白い光の矢が飛来する。リーファは右に左に進路を揺らし、敵の狙いを外そうとするが、降り注ぐ矢は驟雨のような密度で、避けきれなかった一弾が命中する震動が俺にも届いた。
「っ……!!」
リーファは息を詰まらせたが、ダイブの勢いは鈍らなかった。ド、ドッと立て続けに矢がリーファの体を貫く。俺の視界の端に表示された彼女のHPバーが、たちまちイエローに変色する。
追撃は、光の矢だけではなかった。猛烈な勢いで肉薄した二匹の守護騎士が、左右から十字に長剣を振り下ろすのが見えた。
リーファは右に錐揉みし、片方の剣をかわしたが、もう一方の金属塊がまともに彼女の背を捉えた。
「あっ……」
悲鳴に似た声を上げ、リーファは毬のように弾き飛ばされ、間近に迫っていた床に叩きつけられた。数度のバウンドののち、床面を削る勢いで滑走し、停止する。そこに、とどめの一撃とばかりに、数匹の守護騎士が舞い降りてくる。
リーファは震える片手で体を起こすと、背中の翅を一度羽ばたかせた。その勢いで床を転がり――不意に俺の視界を、明るい日光が包み込んだ。そこはもう、ドームの外だった。
かつてない程の絶望的な状況からどうにか生還し、リーファは恐怖に冷え切った体を石畳に投げ出して荒い息をついた。背後に目を向けると、巨大な石扉がゆっくりと閉ざされ、その奥で白い巨人たちが舞い上がっていくのが見えた。
腕の中には、小さく揺らぐ黒い残り火。キリト君――、と胸の奥で呟くが、感傷に浸っている時間はない。上体を起こし、傍らに立つ巨石像の足にもたれさせると、右手を振ってアイテムウインドウを開く。
水属性魔法をマスターしていないリーファは、高位の蘇生魔法を使うことができない。ゆえに、『世界樹の雫』なるアイテムをオブジェクト化させ、出現したブルーの小瓶を手に取る。
ウインドウを消して小瓶の栓を抜き、輝く液体をキリトのリメインライトに注ぎかける。たちまちその場に、蘇生スペルと似たような立体魔方陣が展開し、数秒後、黒衣の小柄な少年の姿が実体化した。
「……キリト君……」
座ったまま、リーファは泣き笑いのような顔で少年の名を呼んだ。キリトも、どこか哀切な笑みを浮かべると、石畳に片膝をつき、右手をそっとリーファの手に乗せた。
「ありがとう、リーファ。……でも、あんな無茶はもうしないでくれ。俺は大丈夫だから……これ以上迷惑はかけたくない」
「迷惑なんて……あたし……」
そんなつもりじゃない、と言おうとしたが、その前にキリトは立ってしまった。くるりと振り向き――再び、世界樹内部へ繋がる扉へと足を踏み出す。
「き、キリト君!!」
愕然としながら、リーファは震える脚に力を込め、どうにか立ち上がった。
「ま、待って……無理だよ、一人じゃ!」
「そうかもしれない……。でも、行かなきゃ……」
背を向けたまま呟くキリトの姿に、リーファは限界まで過重のかかったガラスの像のような脆く儚いものを感じ、必死にかける言葉を探した。でも、喉が焼き付いたように声を発することができなかった。夢中で両手を伸ばし、キリトの体をぎゅっと抱いた。
惹かれている、と強く感じた。和人のことを諦めるために、無理矢理この人を好きになろうとしているのかもしれない、と心の隅で考えたが、同時に、それでもいい、と思った。この気持ちは真実だと思えた。
「もう……もうやめて……。いつものキリト君に戻ってよ……。あたし……あたし、キリト君のこと……」
右手がふわりとキリトの手に包まれた。耳に、穏やかな彼の声が流れ込んでくる。
「リーファ……ごめん……。あそこに行かないと、何も終わらないし、何も始まらないんだ。会わなきゃいけないんだ……もう一度……アスナに……」
何を聞いたのか、一瞬、わからなかった。空白に塗りつぶされた意識の中で、キリトの言葉の残響がゆっくりと消えていった。
「……いま……いま、何て……言ったの……?」
キリトはわずかに首を傾げ、答えた。
「ああ……アスナ、俺の捜してる人の名前だよ」
「でも……だって、その人は……」
口元に両手をあて、リーファは半歩後退った。
白く凍りついた脳裏に、滲むように記憶の残像がよみがえる。
数日前、道場で試合した時の和人。初めて会ったとき、古森でサラマンダーを退けたキリト。記憶の中の二人は、戦いを終えたあと、右手の剣を素早く切り払い、背中に収める。寸分違わぬ動作で。
ぴたりと重なった二人のシルエットが、放射光の中に溶けていった。リーファは目を大きく見開き、震える唇から消え入るような声を絞り出した。
「……お兄ちゃん……なの……?」
「え……?」
それを聞いたキリトはいぶかしそうに眉を動かした。漆黒の瞳がまっすぐリーファの目を捉える。瞳に浮かぶ光が、水面の月のように揺らぎ、たゆたい、そして――
「――スグ……直葉……?」
黒衣のスプリガンは、ほとんど音にならない囁きに乗せて、その名前を呼んだ。
周囲の光景、アルンの街や巨大な世界樹、それらを包み込む世界そのものが崩壊していくような感覚に捕われて、リーファ/直葉はよろめくように更に数歩下がった。
目の前の少年と旅をした数日間、リーファはこの仮想の世界がどんどん鮮やかに色づいていくのを感じていた。並んで飛ぶだけで心が躍った。
直葉として和人のことを愛し、リーファとしてキリトに曳かれる自分に罪悪感を抱かなかったといえば嘘になる。しかし、リーファにとっては長らく仮想飛行シミュレータの延長でしかなかったアルヴヘイム世界が、もうひとつの真なる現実であることを教えてくれたのはキリトだった。それゆえに、リーファはこの世界で自分が抱いた感情もまたデジタルデータではなく本当の気持ちだと悟ることができたのだ。
和人を求める心を無理矢理に凍らせ、深く埋める痛みも、キリトの隣でならいつかは忘れられそうな、そんな気がしていた。――それなのに、この世界の基盤を成している「現実」、妖精のキャラクターに命を与えているのは本当の人間であるというリアルは、思いもよらない形の結末をリーファに突きつけたのだった。
「……酷いよ……。あんまりだよ、こんなの……」
うわ言のように呟きながら、リーファは首を左右に振った。これ以上、一秒たりともこの場所に居たくなかった。キリトから顔をそむけ、右手を振る。
出現したウインドウの右下端に触れ、更に浮かび上がった確認メッセージを殆ど見もしないで叩いた。堅く閉じた目蓋の下で、虹色の光の輪が広がり、薄れ、暗闇が訪れた。
自室のベッドで覚醒し、最初に目に入ったのは、アルヴヘイムの空を映した深いブルーだった。いつもなら憧憬と郷愁に似た感慨をおぼえるその色も、今は苦痛しか感じなかった。
直葉はゆっくりと頭からアミュスフィアを外し、目の前にかざした。
「っ……ぅ……」
喉の奥から、抑えきれず嗚咽が漏れた。細い円環を二つ重ねた華奢な機械を握った両手に、衝動のままに力を込める。リングがたわみ、微かな悲鳴を上げる。
このままアミュスフィアを破壊し、あの世界への通路を永遠に閉ざしてしまおうと思った。しかし、できなかった。リングの向こうにいるリーファという名の少女が、あまりにも憐れだった。
機械をベッドの上に戻し、直葉は体を起こした。両足を床に降ろして、目を閉じ、項垂れる。もう何も考えたくなかった。
静寂を破ったのは、控えめなノックの音だった。次いで、ドアの向こうから、キリトとは違うが、同じ抑揚を持つ声。
「――スグ、いいか?」
「やめて!! 開けないで!」
反射的に叫んでいた。
「一人に……しておいて……」
「――どうしたんだよ、スグ。そりゃ俺も驚いたけどさ……」
戸惑いをはらんだ和人の言葉が続く。
「……またナーヴギアを使ったことを怒ってるなら、謝るよ。でも、どうしても必要だったんだ」
「違うよ、そうじゃない」
不意に、感情の奔流が直葉を貫いた。床を蹴るように立ち上がり、ドアに向かう。
ノブを回し、引き開けると、そこに和人の姿があった。気遣わしそうな光を浮かべた瞳で、じっと直葉を見ている。
「あたし……あたし……」
気持ちが、勝手に涙と言葉になって溢れ出すようだった。
「あたし――お兄ちゃんを裏切った。お兄ちゃんを好きな気持ちを裏切った。それで、キリト君のことを好きになろうと思った。――なのに……それなのに……」
「え……」
和人は瞬間、絶句してから、戸惑ったように言った。
「好き……って……だって、俺たち……」
「違うよ」
「……え……?」
「違うんだよ。本当は」
いけない、と思った。しかし止められなかった。激情の全てを込めた視線を和人に向け、わななく唇で直葉はその先を告げた。
「――知ってるでしょう、お母さんに、亡くなったお姉さんがいたこと」
いけない。母親に頼んで、和人にこの事実を告げるのを待ってもらったのは、こんな風に持て余す感情を和人にぶつける為ではなかったはずだ。このことが持つ意味を、時間をかけてちゃんと考えたい、そう思っていたはずなのに。
「お兄ちゃんは、その人の子供なの。あたしたち、本当の兄妹じゃないんだよ。だから――だから!」
その言葉を聞いた和人は目を見開き、表情を凍りつかせた。全てが停止したような数秒間ののち、掠れた声が漏れる。
「……本当、なのか……?」
覚醒してからの二ヶ月間、直葉を見る和人の瞳は常に、慈しむような穏やかな光に彩られていた。今、その光が消え、かわりに深い虚無を映した暗闇が広がるのを見て、直葉は悔恨の刃が激痛を伴って胸の奥を切り裂くのを感じた。詰まった喉の奥から無理矢理に言葉をしぼり出した。
「……ごめんなさい……」
それ以上和人の顔を見ていられなかった。罪悪感と自己嫌悪に押し潰されそうになりながら、直葉は逃げるようにドアを閉め、数歩あとずさった。かかとがベッドに触れ、そのまま後ろ向きに倒れこむ。
シーツの上で固く体を丸め、直葉はこみ上げる嗚咽に肩を震わせた。涙があとからあとから溢れ、白い布にかすかな痕を残して吸い込まれていった。
閉じられたドアの前で立ち尽くしたまま、俺は耳の奥に反響する直葉のことばの意味を必死に理解しようとしていた。
母さんのお姉さんという人――昔、交通事故で夫婦一緒に――俺の、本当の母親――。短い言葉が刻まれた無数の断片が、舞い踊る木の葉のように集まり、離れ、俺の思考を翻弄する。呆然とした足取りで廊下を歩き、自室に戻った俺は、無意識のうちにOAチェアに体を沈めた。
ホワイトアウトしかけた視界の中央に、パソコンのモニタが黒い穴のように口を開けている。右手を伸ばし、デスクトップを表示させる。
ブラウザを立ち上げて市のホームページを表示させた。自分のものとは思えない右手が自動的にマウスを操り、リンクからリンクへと飛んで戸籍データベースへとアクセスする。
机の上の財布を取り上げ、中から住基ネットカードを抜き出した。レンタルショップの会員になるときくらいしか使ったことのないこのカードを、初めて本来の用途で使用する。十一桁のコードとパスワードを打ち込むと、俺の戸籍データが表示された。
父親――桐ヶ谷研介、母親が翠、妹に直葉。記憶と同様の家族構成が素っ気無いフォントで並んでいる。しかし、養子縁組の記録は世帯主の意思で伏せることもできたはずだ。思案のすえ、検索システムに、母親の旧姓に俺の名前を組み合わせたものと、記憶の彼方に埋もれかけていた母親の出身地を入力する。
珍しい苗字のせいか、ヒットしたのは一件だった。その名前をクリック。再びコードとパスワードを求められる。エラーが出ることを予期し、半ばそう願ってもいたが、しかしシステムはあっさりと俺の要求を受け入れた。
表示されたのは、三人のみのささやかな家族だった。親二人は十六年前に死亡。遺された子供が一人。俺と同じ名前と生年月日を持つ、見知らぬ誰か。
俺は大きく息を吸い、吐き出した。
それでは、全て真実なのだ。目を瞑り、背もたれに体を預けて、俺はこのことのもつ意味を考えようとした。
意味? そんなものは明白だ。今まで母、父と信じていた人たちが、正しくは俺の叔母と血の繋がらぬ男性であり、妹と信じていた女の子が従妹だったという、それだけのことだ。
エアコンは低い唸りを上げているが、不意に肌を這い上がる寒気を感じた。所在ない、という言葉の指すところを初めて理解できたような気がしていた。自分という存在が現実から切り離され、忘却の辺土へと漂っていくようだった。
――だが。
この寂寥感には覚えがあった。
そうだ……俺は、あの世界では常にストレンジャーだった。全てのコミュニティから遠ざかり、孤独にダンジョンを這いまわって、ねぐらに戻って獣のように体を丸めて眠った。人は皆、俺を見ると恐れ、哀れみ、蔑んだ。
そんな俺を救ってくれた人がいたのだ。世界崩壊の直前、あの短い日々の間に俺は人の温もりを知り、その暖かさを周りの人々に還していこうと思った。浮遊城は消滅してしまったが、その気持ちは今も変わらない。
直葉の、思いつめた目の光を思い出す。
俺のことを好きだと言った。直葉は、いつからかは分からないが、多分俺が覚醒する以前からこのことを知っていたのだ。
正直、妹であるという意識を変えることは当分できそうになかった。だが俺は直葉の前にいるときも、常にアスナのことを考えていた。アスナのことを思って泣きさえしたのだ。それが直葉を傷つけたであろうことは想像に難くない。
いや、それだけではない。
PC音痴でゲーム嫌いだった直葉が、いかなる経緯でバーチャルMMOゲームに手を出すことになったのかは分からないが、あのアルヴヘイムという世界で俺を助けてくれたリーファという少女――。彼女こそが直葉だったのだ。
ログインして初めて出会ったのが彼女だった、それが偶然なのか、あるいはIPが同一だったせいなのかはわからないが、俺はキリトでいるときもアスナのことで頭がいっぱいで、同じようにリーファを傷つけてしまったのだと思う。
自分のアイデンティティについて悩むのは、全てが決着してからでも遅くはない。俺は目を開くと、本当の母親であるという人の名を一瞬見つめてからPCをシャットダウンした。勢いよく立ち上がり、ドアへ向かう。
今は直葉のために出来ることをしよう。言葉で足りないときは手を伸ばす、それはアスナが教えてくれたことでもある。
力強いノックの音が、虚脱した直葉の意識を揺り動かした。反射的に体を竦ませる。
開けないで、と叫ぼうとしたが、喉からは掠れた音が漏れるだけだった。しかし和人はノブを回さずに、ドアの向こうで短く言った。
「スグ――アルンの北側のテラスで待ってる」
落ち着いた、穏やかな声だった。そのままドアの前を離れていく気配。廊下の向こうで開閉音がして、静寂が訪れた。
直葉は、目蓋を固く閉じ、再び体を小さく縮こまらせた。弾き出された涙が、ぽつぽつと音を立てて落下する。
和人の声には、動揺の響きは無かった。自分の本当の両親がすでに死去していると告げられたばかりなのに、もうそれを受け入れたのだろうか。
――強いね、お兄ちゃんは。あたしは、そんなに強くなれないよ……
心の中で呟いてから、ふと数日前の夜のことを思い出した。
あの夜、和人は今の直葉のように、ベッドの上で体を丸めていた。同じように、手の届かない人のことを思って泣いていた。その姿は、途方に暮れた幼子のようだった。
キリトと出会ったのはその翌日だ。つまり和人は、どのようにしてか、眠るあの人の意識がアルヴヘイムに――世界樹の上にあるという情報を得て、再び仮想世界に身を投じたのだ。涙を振り払い、剣を握って。
――あのとき、あたしは、がんばれって言った。諦めちゃだめだと、そう言った。なのに、自分はこうして泣き続けている……
直葉はゆっくりと目を開けた。視線の先に、輝く円冠が横たわっていた。
手を伸ばし、それを持ち上げると、深く頭に被せた。
うす曇りの空から降り注ぐ淡い陽光が、アルンの古代様式の街並みを柔らかく照らしていた。
ログイン地点には、キリトの姿は無かった。今いるドーム前広場は世界樹の南側で、北側にはイベント用の広大なテラスがある。多分そこでリーファを待っているのだろう。
ここまで来たものの、正直会うのは恐かった。何を言うべきか分からなかったし、何を言われるのかも予想できない。リーファは悄然と数歩あるくと、広場の片隅にあるベンチに腰を下ろした。
俯いたまま何分経過しただろうか。不意に、目の前に誰かが着地する気配がした。反射的に体を固くし、目を閉じる。
だが、リーファの名を呼んだのは意外な人物だった。
「んも〜〜〜、捜したよリーファちゃん!」
馴染みの深い、頼りないくせに元気いっぱいな声が響き渡る。唖然として顔を上げると、黄緑色の髪の少年シルフの姿があった。
「……れ、レコン!?」
思いがけない顔の出現に瞬間、疼痛を忘れて、どうしてここにと訊ねた。するとレコンは両手を腰に置き、自慢そうに胸を反らせて言った。
「いやー、地下水路からシグルドがいなくなったんで隙見て麻痺解除してサラマンダー二人を毒殺して脱出して、いざ旦那にも毒食わせてやろうと思ったらなんかシルフ領にいないし、仕方ないんで僕もアルンを目指そうと思って、アクティブなモンスターはトレインしては他人に擦り付けトレインしては擦り付けでようやく山脈を越えて、ここに着いたのが今日の昼前だよ。一晩かかったよ、マジで!」
「……アンタそれはMPKなんじゃあ……」
「細かいことはいいじゃんこの際!」
リーファの指摘など気にするふうもなく、レコンは嬉々とした様子で、隣に密着する勢いで腰を下ろす。そこで今更のようにリーファが独りでいることに疑問を持ったらしく、周囲をキョロキョロ見回しながら言った。
「そういやあのスプリガンはどうしたの? もう解散?」
「ええと……」
リーファはそれとなく腰をずらして隙間を空けながら言葉を探した。しかし相変わらず胸の奥は切ないうずきの塊に塞がれていて、器用な言い訳は浮かんでこなかった。気付いたときには心のうちをぽろりと口にしていた。
「……あたしね、あの人に酷いこと言っちゃった……。好きだったのに、言っちゃいけないことを言って傷つけちゃったの……。あたし、バカだ……」
再び涙が溢れそうになったが、リーファは必死に堪えた。レコン/長田は単なるクラスメートで、その上ここは――少なくとも彼にとっては――架空のゲーム世界であって、彼を困惑させるような剥き出しの感情を見せたくはなかった。顔をそむけ、早口で続ける。
「ゴメンね、変なこと言って。忘れて。あの人とは――もう……会えないから……帰ろう、スイルベーンに……」
たとえここで逃げても、現実の二人は数メートルと離れていない場所に横たわっているのだ。しかしやはりキリトと会うのは恐かった。スイルベーンに帰って、数は少ないが親しい人たちに挨拶して、「リーファ」を永い眠りにつかせよう、そう思った。いつかこの痛みが薄れる、その時まで。
心を決め、顔を上げて、リーファはレコンの顔を見た。そして思わずギョッとして仰け反った。
「な……なに!?」
レコンは、茹で上がったかのように顔を紅潮させ、眼を見開き、口をぱくぱくと開閉していた。一瞬ここが街の中であることを忘れ、水属性の窒息魔法でも掛けられたかと思ったその時、突然レコンが猛烈なスピードでリーファの両手を取り、胸の前で固く握った。
「なななんなの!?」
「リーファちゃん!」
問いただす間もなく、かなり遠くにいるプレイヤー達も振り向くような大声で叫ぶ。顔をぐいーっと突き出し、限界まで後傾したリーファを至近距離から凝視しつつ言葉を続ける。
「り、リーファちゃんは泣いちゃだめだよ! いつも笑ってないとリーファちゃんじゃないよ! 僕が、僕がいつでも傍にいるから……リアルでも、ここでも、絶対独りにしたりしないから……ぼ、僕、僕、リーファちゃん……直葉ちゃんのこと、好きだ!」
壊れた蛇口のように一気にまくし立てたレコンは、リーファの返事を待つこともなくさらに顔を突出させてきた。いつもは気弱そうな目に異様な輝きを貼り付け、脹らませた鼻のしたの唇がにゅーっと伸びてリーファに迫る。
「あ、あの、ちょっ……」
アンブッシュからの不意打ちはレコンの得意技ではあるが、それにしてもあまりの展開に度肝を抜かれてリーファは硬直した。それを許諾と取ったか、レコンは顔を傾け、リーファに覆いかぶさらんばかりに身を乗り出して接近を続ける。
「ちょ……ま、待っ……」
顔にレコンの鼻息を感じるところまで肉迫されてから、ようやくリーファはスタンから回復し、左拳を握った。
「待ってって……言ってるでしょ!!」
叫ぶと同時に体を捻り、全力のショートブローをレコンの下腹部に叩き込む。
「ぐほェ!!」
街区圏内ではあるもののパーティーを組みっぱなしであるがゆえにダメージが通り、レコンは一メートルほど浮き上がったのちベンチに落下した。そのまま腹部を両手で押さえつつ苦悶の声を上げる。
「うぐぐぐううぅぅ……ひ、酷いよリーファちゃん……」
「ど、どっちがよ!! い、いきなり何言い出すのよこのアホチン!」
ようやく顔がかーっと熱くなるのを感じながらリーファはまくし立てた。危うく唇を奪われるところだったと思うと怒りと恥ずかしさが相乗効果でドラゴンブレスの如く燃えさかり、とりあえずレコンの襟首を掴み上げると右拳を更に数発ドカドカと見舞う。
「うげ! うげえ! ご、ごめん、ごめんって!!」
レコンはベンチから転げ落ち、石畳の上で右手をかざして首をぷるぷると振った。リーファがとりあえず攻撃姿勢を解除すると、胡坐をかいて座り込んで、がっくりと項垂れる。
「あれ〜〜……。おっかしいなあ……。あとはもう僕に告白する勇気があるかどうかっていう問題だけだったはずなのになあ……」
「……あんたって……」
リーファはほとほと呆れ、ついしみじみした口調になりつつ言った。
「……ほんっとに、馬鹿ね」
「うぐ……」
叱られた子犬のようなレコンの傷ついた顔を見ていると、呆れるのを通り越して笑いがこみ上げてきた。ため息と笑みの混合したものを大きく吐き出す。同時に、すーっと胸の奥が軽くなったような気がした。
今まであたしは何もかも飲み込みすぎてたのかな、とリーファはふと思った。傷つくのが恐くて、ぐっと歯を噛み締めてばかりいた。そのせいで、抱えきれなくなった気持ちが洪水のようにあふれ出て、大切な人を傷つけてしまった。
もう遅いかもしれないけど――でもせめて、最後くらいは素直になりたい。そう考えて、リーファは肩の力を抜き、空を見た。そのまま、ぽつりと言った。
「――でもあたし、アンタのそういう所、嫌いじゃないよ」
「え!? ほ、ホント!?」
レコンは再びベンチに飛び上がると、懲りもせずにリーファの手を取ろうとした。
「調子にのるな!」
その手をすり抜けて、リーファはすいっと空に浮かび上がった。
「――あたしもたまにはアンタを見習ってみるわ。ここでちょっと待ってて。――ついてきたら今度こそコレじゃ済まないからね!」
ポカンとした顔のレコンに向かってしゅっと突き出した右拳を開き、ひらひらと振ってから、リーファは体を反転させた。そのまま翅を強く震わせ、世界樹の幹目指して高く舞い上がった。
恐ろしく太い世界樹を、回り込むように数分飛ぶと、眼下に広大なテラスが見えてきた。時々フリーマーケットやギルドイベントに利用されているらしいそのスペースは、しかし今日は閑散としていた。アルン北側は大した建築物もないために観光客の姿も見えない。
がらんとした石畳の中央に、小柄な黒い人影がぽつんと立っていた。鋭利な形のグレーの翅、その上に斜めに背負った巨大な剣。
リーファは大きく一回深呼吸すると、意を決して彼の前へと舞い降りた。
「……やあ」
キリトは、リーファを見るとかすかな微笑を交えながら短く言った。
「お待たせ」
リーファも笑みとともに言葉を返した。しばしの沈黙。風の音だけが二人の間を吹きぬけていく。
「スグ……」
やがてキリトが口を開いた。瞳が真剣な輝きを帯びる。だが、リーファは軽く手を上げてその言葉を遮った。翅を一度羽ばたかせ、すとんと一歩後ろに下がる。
「お兄ちゃん、試合、しよ。あの日の続き」
言いながら腰の長刀に手をかけると、キリトは軽く目を瞠った。唇が動き、何かをいいかけるが、すぐに引き結ばれる。
その深い輝きだけは現実の彼と共通している黒い瞳でしばらくリーファを見つめていたが、数秒後、こくんと頷いた。彼も翅を動かし、距離を取る。
「――いいよ。今度はハンデ無しだな」
微笑を消さぬまま言い、背中の剣に手を添えた。
抜剣は同時だった。涼やかな金属音がふたつ、重なって響く。リーファは手に馴染んだ愛刀をぴたりと中段に構え、真っ直ぐにキリトを見つめた。キリトは腰を落とし、大剣を地面すれすれに低く構えている。あの日と同じように。
「寸止めじゃなくていいからね。――行くよ!!」
言うと同時に地を蹴った。
距離を詰める須臾の間、リーファは、そうか――と思っていた。あの日、無茶苦茶だが見事に様になっていた和人の構えは、この仮想世界で磨かれたものだったのだ。二年もの長い日々、和人は命を賭けて本当の剣のやり取りをしていたのだ。
知りたい、と、初めて痛切に思った。殺人ゲームとして憎悪の対象でしかなかったあの世界で、和人が何を見、何を考え、どのように生きたのか知りたい。
高く振りかぶった剣を、リーファは一直線に振り下ろした。スイルベーンでは不可避と言われたリーファの斬撃だが、キリトは空気が動くようにわずかに体をずらすだけでそれをかわした。直後、唸りと共に大剣が跳ね上がってくる。引き戻した長刀で受けるが、ずしんと重い衝撃に両腕が痺れる。
武器が弾かれる勢いを利用して、二人は同時に地を蹴った。二重螺旋状の軌跡を描きながら急上昇し、交錯点で剣を打ち合う。爆発にも似た光と音のエフェクトが宙に轟き、世界を震わせる。
剣を交えながら、リーファは妖精の剣士として、また剣道家として、キリトの動きに感嘆せざるを得なかった。無駄の一切無い、舞踏のように美しい動作で攻防一体の技を次々に繰り出してくる。
彼のリズムに同期して剣を振りつづけるうち、いつしかリーファは自分がかつて体験したことのない領域に登りつめつつあるのを感じていた。思えば、かつてこの世界で何度となく行ったデュエルでは、一度として心の底から満足を味わったことはなかった。破れたことは無論あるが、それらは全て武器のエクストラアタックやスペルによるもので、真に剣だけでリーファを圧倒した者は居なかったのだ。
今、ついに自分を遥か上回る剣士とまみえ、それが誰よりも愛する人だったことに、リーファは歓喜にも似た感情を味わっていた。例え二度と心が交わることはないとしても、この一瞬だけで充分に報われたと、そう思った。いつしかリーファは、目の縁に涙が溜まっているのに気付いた。
何度目かの激しい撃剣によって体が弾かれたとき、リーファはそのまま宙を後ろに跳ね飛んで大きく距離を取った。翅を広げてぴたりと静止し、高く、高く、大上段に剣を構える。
これが最後の一撃、というリーファの意思はキリトにも伝わったようだった。彼も体を捻り、後方に大きく剣を振りかぶる。
一瞬、凪いだ水面のような静謐が訪れた。
リーファの頬を音も無く涙が伝い、雫となって落ち、静寂の中に波紋を広げた。同時に二人は動いていた。
空を焼き焦がす勢いで、リーファは宙を駆けた。長刀が、まばゆい光の弧を描いた。正面では、キリトが同じようにダッシュするのが見えた。彼の剣も純白に輝き、空を裂いて飛ぶ。
自分の愛刀が頭上をわずかに越えたところで――リーファは両手を開いた。
主を失った剣は、光の矢となって空高く飛んでいった。しかしそれにはもう視線を向けず、リーファは両腕を大きく広げ、キリトの剣を迎えようとした。
こんなことで、キリト/和人が満足するとは思えなかった。しかし、彼を深く傷つけたであろう自分の愚かしさを謝罪し得る言葉を、リーファ/直葉は持たなかった。
せめて、彼の剣の下に、自分の分身であるこの身を差し出すことしか出来ることはないと、そう思った。
両手を広げ、眼を半ば閉じて、リーファはその瞬間を待った。
しかし――。白い光に溶けつつある視界の中、飛翔してくるキリトの手に、剣は無かった。
「!?」
リーファは愕然として目を見開いた。視界の端に、自分の剣と同じように回転しながら遠ざかっていくキリトの大剣が見えた。リーファが剣から手を離すと同時に、彼も自分の武器を捨てていたのだ。
何で――、と思う間も無く、二人は宙で交錯した。同じく両腕を広げたキリトの体とリーファの体が正面から衝突し、息も止まるようなショックに見舞われて、リーファは夢中で相手にしがみついた。
エネルギーを殺しきれず、二人の体はひとつになって回転しながら吹き飛ばされた。視界を、青い空と巨大な世界樹がぐるぐると横切っていく。
「どうして――」
それだけを、どうにか口にした。至近距離からリーファを見つめるキリトも、同時に言った。
「何で――」
沈黙し、視線を交差させたまま、しばらく二人は慣性に乗ってアルヴヘイムの空を流れ続けた。やがてキリトが翅を広げ、姿勢を制御して回転を止めながら口を開いた。
「俺――スグに謝ろうと思って――。でも……言葉が出なくて……せめて剣を受けようって……」
不意に、リーファは、背に回されたキリトの両腕にぎゅっと力が入るのを感じた。
「ごめんな――スグ。せっかく帰ってきたのに……俺、お前を見てなかった。自分のことばかり必死になって……お前の言葉を聞こうとしなかった――。ごめんな……」
その声を耳もとで受け止めると同時に、リーファの両眼から迸るように涙が溢れた。
「あたし……あたしのほうこそ……」
それ以上はもう言葉にならなかった。リーファは声を上げて泣きながら、キリトの胸に強く顔を埋めた。
永遠に続け、と思った時間もやがて終わり、二人はふわりと草の上に着地した。リーファがしゃくりあげている間、キリトはそっと頭を撫でつづけてくれていたが、数分が経過したあと静かな声で話しはじめた。
「俺……本当の意味では、まだあの世界から帰ってきてないんだ。終わってないんだよ、まだ。彼女が目を醒まさないと、俺の現実は始まらない……。だから、今はまだ、家族のこと……スグのことを、どう考えていいのかわからないんだ……」
「……うん」
リーファは小さく頷く。
「だから、事件がぜんぶ決着したら、俺、真剣に考えてみるよ。それまで、答えは待ってもらっていいか……?」
「ん……」
ふたたび頷き、リーファは呟くように言った。
「あたしは、もうじゅうぶん。これだけで、じゅうぶんだよ。……あたしも手伝う。説明して、あの人のことを……なんで、この世界に来たのか……」
飛んでいってしまった二本の剣を苦労して回収し、キリトと連れ立ってゲート守護像前の広場に着陸すると、予想外におとなしく待っていたらしいレコンが駆け寄ってきた。リーファの隣に立つ黒衣のスプリガンの姿を見て表情を目まぐるしく変えた挙句、首を捻りながら言う。
「えーと……ど、どうなってるの?」
リーファはにっこり笑いかけながら答えた。
「世界樹を攻略するのよ。この人と、アンタと、あたしの三人で」
「そ、そう……って……ええ!?」
顔面蒼白になって後退るレコンの肩をポンと叩き、がんばってね、と言っておいて、リーファは改めて眼前の巨大な石扉を見上げた。二体の守護像に挟まれたそれは、侵入者を拒絶するかのごとく冷酷な輝きをまとって聳え立っている。
攻略する、と言ってはみたものの、キリトほどの剣士が守護騎士に無惨に倒されるシーンを見せつけられたあとでは、正直二人増えたところでどうにかなるものとも思えなかった。かたわらのキリトにちらりと視線を向けると、彼も厳しい表情で唇を引き結んでいる。
と、キリトが何かを思いついたように顔を上げた。
「ユイ、いるか?」
その言葉が終わらないうちに、中空に光の粒が凝集し、お馴染みの小さなピクシーが姿を現した。両手をがっしと腰にあて、憤慨したように唇をとがらせている。
「もー、遅いです! パパが呼んでくれないと出てこられないんですからね!」
「悪い悪い。ちょっと立てこんでて」
苦笑しながら差し出したキリトの左手に、小妖精がちょこんと座った。するとその前にレコンが物凄いスピードで首を伸ばし、食いつかんばかりの勢いでまくし立てた。
「うわ、こ、これプライベートピクシーって奴!? 初めて見たよ!! うおお、スゲエ、可愛いなあ!!」
「な、なんなんですかこの人は!?」
「こら、恐がってるでしょ」
リーファは思い切りレコンの耳を引っ張ってユイから遠ざける。
「コイツのことは気にしないでいいから」
「……あ、ああ」
呆気に取られた様子のキリトは、二、三度瞬きをすると、改めてユイの顔を見た。
「――それで、あの戦闘で何かわかったか?」
「はい」
ユイも、可愛らしい顔に真剣な表情を浮かべて頷く。
「あのガーディアン・モンスターは、ステータス的にもかなりの数値に設定されていますが、それよりも湧出パターンが異常です。ゲートへの距離に比例してスパウン量が増え、再接近時には秒間十二体にも達していました。あれでは……攻略不可能な難易度に設定されているとしか……」
「ふん」
キリトは顔をしかめながら首肯した。
「有り得ることだな。ユーザーの興味を繋げるぎりぎりのところまでフラグ解除を引っ張るつもりだろう。しかしそうなると厄介だな……」
「でも、異常なのはパパのステータスも同じです。瞬間的な突破力だけならあるいは可能性があるかもしれません」
「…………」
キリトはしばらく黙考するふうだったが、やがて顔を上げ、真っ直ぐにリーファを見た。
「……すまない。もう一度だけ、俺の我侭に付き合ってくれないか。ここで無理をするよりは、もっと人数を集めるか、別のルートを捜すべきなのはわかる。でも……なんだか嫌な感じがするんだ。もう、あまり猶予時間がないような……」
リーファはキリトの目を見つめ、深く頷いた。
「いいよ。あたしに出来ることなら何でもする。それと、コイツもね」
「え、ええ〜……」
リーファに肘で突付かれたレコンは、いつも困ったような眉を最大限に傾けて情けない声を出したが、リーファちゃんと僕は一心同体だし等々とぶつぶつ呟いた挙句にかっくんと頷いた。
地の底から響くような低音を轟かせつつ開いた石扉の向こうからは、濃密な妖気が流れ出しているような気がして、リーファは軽く翅を震わせた。先ほどキリトを助けるために飛び込んだときは無我夢中だったが、改めて前に立つと強烈な心理的圧迫があった。
しかし、心の中は不思議に穏やかだった。
今、自分は嵐の中にいるのだと思う。何もかもが音を立てて流れ、変わっていく。この激流の行方はまるでわからないけれど、今はただ、彼方に見える灯り目指して懸命に飛ぶだけだ。
キリトに続いてリーファとレコンも剣を抜く。ユイも含めた四人は無言で視線を交わすと、翅を広げた。キリトの合図で地を蹴り、一気にドーム内部へと突入する。
事前の打ち合わせどおり、キリトは猛烈な加速で天蓋中央のゲート目指して急上昇を開始した。リーファとレコンは底面付近に留まり、ヒールスペルの詠唱に入る。
天蓋の発光部分から、粘液が滴るように次々と白い巨人が産み出されるのが見えた。不気味な雄叫びを上げつつキリトに殺到していく。守護騎士の先陣と、それに比べてあまりにも小さなキリトが交差した瞬間、轟くような爆音と閃光がドームを揺るがした。
複数の巨人が、一撃で胴を分断されて四散するのを見て、隣のレコンが低くうめいた。
「……すげぇ」
確かに恐ろしいほどの剣の威力だ。しかしリーファは、鬼神の如く戦うキリトの向こうに出現しつつある光景に、全身を冷気が駆け巡るのを感じていた。
あまりにも、敵の数が多すぎる。キリトのリメインライトを救出に行ったときは無我夢中で気付かなかったが、網目状の天蓋から吐き出される守護騎士はゲームバランスの埒外と言ってもいい数だ。現在最悪のフィールドと目されているのは、アルヴヘイム北方の地下に広がるヨツンヘイムという氷雪の国で、邪神級モンスターとその護衛が凄まじい勢いで湧出するためにどんな手練のパーティーでも一時間の滞在が限界なのだが、目の前で繰り広げられる白い巨人の出現ペースは明らかにそれを上回る。
守護騎士たちはいくつかの密集した群を作り、うねる帯を描いて次々とキリトに襲い掛かった。その度に空間に眩い閃光が連続し、吹き飛ばされた騎士の体が雪のように舞い散るが、一体消滅するたびに三体が増えるような有様だ。
ゲートまでの距離を半分ほど詰めたところで、ついにキリトのHPバーが一割ほど減少した。間髪入れず、リーファとレコンは待機状態のまま保持していた治癒魔法を発動させる。キリトの体を青い光が包み、HPが回復していく。
――だが。
スペルが届くと同時に、恐ろしいことが起きた。
最も低空を飛行していた守護騎士の一群が、短い奇声とともにまっすぐリーファ達のほうに顔を向けたのだ。
「うぁ……」
レコンが引き攣ったような声を上げた
守護騎士の、鏡面マスクの奥から放射される残虐な視線がまっすぐ自分に注がれるのをリーファは感じた。思わず強く歯を噛み締める。
ターゲットされるのを回避するために、リーファとレコンはキリトに対するヒール以外のスペルを一切使わないことを決めていた。通常、モンスターは反応圏内にプレイヤーが侵入するか、あるいは遠距離から弓やスペルで攻撃されない限り襲ってくることは無いからだ。
しかし、どうやら守護騎士たちは外界のモンスターとは違う、より悪意あるアルゴリズムを与えられているようだった。圏内にいるプレイヤーに対する補助スペルにさえも反応するのであれば、前衛にアタッカー、後衛にヒーラーというオーソドックスな配置は意味がない。
五、六匹で構成される騎士の一群は、あっちを向け! というリーファの願いも空しく、六枚の翅を打ち鳴らすと急降下を開始した。彼らの右手に握られた、リーファの身長を軽く上回るであろう長大な剣がぎらぎらと餓えたような光を放った。
リーファは咄嗟にレコンに向かって叫んだ。
「奴等はあたしが引きつけるから、あんたはこのままヒールを続けて!」
そのまま返事を待たずに上昇しようとする。しかし、今まで戦闘中は常にリーファの指示に従うだけだったレコンが、待って、と右手を掴んだ。驚いて振り向くと、緊張に震えた声で、しかしいつになく真剣な表情を浮かべつつ言った。
「リーファちゃん……僕、よく分かんないんだけど、これ、大事なことなんだよね?」
「――そうだよ。多分、ゲームじゃないのよ、今だけは」
「……あのスプリガンにはとても敵いそうにないけど……ガーディアンは僕がなんとかしてみる」
言うやいなや、レコンはコントローラを握ると床を蹴った。リーファが虚を突かれて立ち尽くすうちにみるみる遠ざかり、正面から守護騎士群に突入していく。
「ば、ばかっ……」
――歯が立つ相手じゃないのに、と思ったときにはもう追いつけないほどの距離ができていた。視線を彼方に向けると、一度は全快したキリトのHPバーが再びわずかに減少を始めている。リーファはやむなく回復スペルの詠唱に入った。スペルワードを早口で組み立てる間にも、気が気でない思いでレコンの後姿を見守る。
レコンは、飛行中に準備していたらしい風属性の攻撃魔法を正面から守護騎士に浴びせた。緑色のカッターが複数枚、扇状に広がって飛び、騎士たちに絡みつくように切り裂く。気休め、としか言えないほどのわずかな量騎士たちのHPバーが減少し、同時に彼らのターゲットが全てレコンに移る。
歪んだ怒声を上げながら、白い巨人の群が、対峙するにはあまりに小さな緑色の少年に襲い掛かった。レコンは風に翻弄される木の葉のようにふらふらと飛行しながら、危いところで巨剣をかいくぐり群の後方に抜けた。騎士たちも急旋回し、彼を追う。
リーファの詠唱が終わり、遥か上空で闘うキリトをヒールスペルの光が包んだ。再び数匹の守護騎士が反応し、下降を始める。その一団はすぐにレコンを追いまわす群と合流し、白いうねりは倍の大きさに膨れ上がる。
エアレイドが決して得意ではないはずのレコンだが、彼は驚くほどの集中力で殺到する剣を避け続けた。時折かすめる攻撃でHPバーはじわじわと減少していくが、致命的なヒットはまだない。
「……レコン……」
あまりにも懸命なその飛行に、リーファは思わず胸を衝かれたが、それがいつまでも続かないことは明らかだった。リーファの回復呪文がキリトに届くたびに、確実に降下してくる騎士の数は増えていく。
ついに、レコンを追う守護騎士の群は二つに分裂し、左右から挟み込むような動きを見せ始めた。雨のように降り注ぐ剣尖のひとつがレコンの背を捉え、その体を大きく跳ね飛ばす。
「レコン、もういいよ! 外に逃げて!!」
これ以上見ていられず、リーファは叫んだ。一度退避した者は、内部の戦闘が続いている間はもう扉をくぐることができない。後は自分が限界まで引き受けるしかない、と覚悟を決め、ヒールの詠唱をしながら飛び立とうとする。
しかし、その直前、レコンがちらりと振り向いた。その顔に、ある種の決意に満ちた笑みが浮かんでいるのを見て、リーファは開きかけた翅を止めた。
立て続けに剣を身に受けながら、レコンは新たなスペルの詠唱を開始した。体を、深い紫色のエフェクト光が包む。
「!?」
それが闇属性魔法の輝きであることに気付き、リーファは息を飲んだ。たちまち、複雑な立体魔方陣が展開する。その大きさからしてかなりの高位呪文と思われた。シルフ領ではあまり目にする機会のない闇魔法ゆえ、咄嗟にはそれがどのような効果を持つものなのか判らなかった。
魔方陣はいくつかの軸を作って回転しつつみるみる巨大化し、全方位から押し寄せる騎士の群を包み込んだ。複雑な光の紋様が一瞬、小さく凝縮し――次いで恐ろしいほどの閃光を放った。
「あっ……!!」
リーファは、あまりの眩さに思わず顔をそむけた。天地が砕けたかと思うほどの爆音が轟き、ドーム全体が激しく震動した。
白く飛んだ視界が回復するのに一秒ほどかかった。リーファは手をかざしながら必死に爆心点のほうを凝視し、そして驚きの余り言葉を失った。あれほど密集していた守護騎士の群が、綺麗に消滅していた。跡には紫の残光が宙に揺らいでいるだけだ。
恐ろしいほどの威力だった。範囲攻撃魔法でこれほどのパワーを持つ呪文は、風魔法はもちろん火属性魔法にも存在しない。レコンの奴、いつのまにこんな隠し技を、とリーファは驚嘆すると同時に快哉を叫んでいた。この魔法を数発撃てば、ゲートまでの突破口を開くことも可能なはずだ。とりあえずレコンにヒールを掛けようと手をかざし――そして再び凍りついた。
爆発の余光が残るその場所には、レコンの小さな姿も既に無かった。
「――自爆魔法……?」
呆然と呟く。そう言えば――闇魔法に、そのようなものが存在するとは昔聞いた記憶があった。しかしあれは、死ぬと同時に通常の数倍のデスペナルティを課せられる、言わば禁呪だったはずだ。
リーファは数瞬絶句してから、ぎゅっと目を瞑った。たかがゲーム、たかが経験値、でもその為にレコンが費やした努力と熱意だけは本物の犠牲だ。もう、ここからの撤退は許されない、そう決意して目を見開き、上空を凝視する。そして――
その光景を見て、リーファは両足が力なく萎えるのを感じた。
いつの間にか、ドームの天蓋は、びっしりと蠢く白いモノに隙間無く埋めつくされていた。
小さな黒点となったキリトは、あとわずか、ほんのわずかのところまで天蓋に肉薄している。彼の剣が閃く度に、分断された騎士の体がバラバラと落下する。しかしそれは、広大な砂浜に針で穴を穿とうとする行為にも思えた。守護騎士の体で作られた白い肉の壁は、わずかに凹みはするものの次の瞬間には埋め戻され、分厚くキリトの行く手を阻む。
「うおおおおおおお!!」
鬼神の如く闘うキリトの、血を吐くような絶叫が、リーファの耳にもかすかに届いた。反射的に、ヒールを掛けようと両手を掲げたが、しかしリーファは力なくその手を下ろし、呟いた。
「……無理だよ、お兄ちゃん……こんな、こんなの……」
正直なところ、キリトの言ったこと、この世界にあの人の魂が囚われているという話を、そのまま信じられたわけではなかった。ここはあくまでゲームを楽しむための仮想世界であって、リーファにとっては悪夢と同義語である彼の「SAO世界」に侵食されているという話には抵抗を感じずにはいられなかった。
しかし、リーファは今初めて、これまで意識することのなかった「システムの悪意」を感じた。公平なバランスのもと世界を動かしているはずの見えない存在が、この空間でだけはプレイヤーに対する殺意に満ちた、血塗られた大鎌を振り回しているような――そんな気がした。それは神の殺意だ。抗うことは誰にもできない。
冷気にも似た恐怖に心を鷲掴みにされ、リーファはよろよろと数歩後退した。
その時だった。
突然、背後から、津波のような声のうねりがリーファの萎えた翅を叩いた。
「っ……!?」
慌てて振り向いたリーファの目に入ったのは――開け放たれた大扉から、密集隊形をとって突入してくる、新緑の色に輝く鎧に身を固めたシルフの戦士たちの姿だった。
一見してエンシェントウェポン級と知れる、お揃いのフル装備を煌かせたプレイヤーの大集団は、春の突風を思わせる勢いでリーファの傍らを駆け抜け、天蓋目指して一直線に上昇していった。その数、五十は下るまい。
唖然としながらも視線を集中し、次々とカーソルを出現させる。目深に下ろされたバイザーのせいで顔はわからなかったが、表示された名前はどれもシルフ領ではよく知られた有力プレイヤーのものだった。
つまり――来てくれたのだ、彼女が。約束を果たすために。
リーファの背を、戦慄とも感動ともつかぬ震えが駆け抜けた。だが、ドーム攻略に参戦したのは彼らだけではなかった。
シルフの精鋭部隊の最後尾が大扉をくぐった数秒後、再びときの声が響き渡った。それに重なって、遠雷のような巨獣の雄叫びも。
突入してきた新たな一団の数は、シルフ部隊よりもかなり少なかった。およそ十と言ったところか。しかし、その一騎一騎がとてつもなく巨大だった。
「飛龍……!」
リーファは驚愕のあまり叫んでいた。頭から尾までがプレイヤーの数倍はあろうかという、鉄灰色の鱗をもつドラゴンの集団だ。野生のモンスターではない証に、龍の額と胸、長大な両翼の前縁部には輝く金属のアーマーが装着されている。
額の装甲の両端からは、銀の鎖で作られた手綱が伸び、背の鞍に跨るプレイヤーの手にしっかりと握られていた。騎手も真新しい鎧に身を固めているが、頭の両脇に突き出た三角形の耳と、腰アーマーの下から長くたなびく尻尾は見落としようもない。
それでは彼らがケットシーの最終戦力、ドラゴンライダー隊なのだ。切り札として秘匿され、スクリーンショットすら流出したことのない伝説の戦士たちが、今リーファの眼前を飛翔していく。
全身の血が沸き立つような高揚感にとらわれ、翅をぴんと伸ばして立ち尽くしていると、不意に背後からリーファに声をかける者がいた。
「すまない、遅くなった」
さっと振りかえると、そこに立っていたのは高下駄に着流し姿のシルフ領主・サクヤだった。隣に寄り添うケットシー領主アリシャ・ルーが、耳をぱたぱたと動かしながら言った。
「ごめんネー、レプラコーンの鍛冶匠合を総動員して人数分の装備と竜鎧を鍛えるのにさっきまでかかっちゃったんだヨ〜。スプリガンの彼から預かった分も合わせて、うちもシルフも金庫すっからかんだヨ!」
「つまりここで全滅したら両種族とも破産だな」
サクヤは腕組みをして涼しげに笑った。
「……ありがとう……ありがとう、二人とも」
震える声でリーファが言うと、二領主は異口同音にそれは全てが終わってから、と答え、厳しい顔で天蓋を睨んだ。サクヤが右手に握った扇子を音高く、ぱちんと鳴らした。
「さて――我々も行こう!」
力強く頷きあい、三人が地を蹴って向かった先では、すでに白い守護騎士の壁から群が何本も長く垂れ下がり、突進するシルフ部隊を迎え撃とうとしていた。中央では相変わらずキリトが激戦を繰り広げているが、彼も援軍に気付いたのか、遮二無二突貫しようとするのを止めて、壁からある程度の距離を取っている。
ドーム中央部まで急上昇すると、アリシャ・ルーが高く右手を上げ、アニメ声優のように可愛らしいがよく通る声で叫んだ。
「ワイバーン隊! ブレス攻撃用――意!」
十騎の竜騎士は、リーファたち三人を囲むように広い円陣を組んでホバリングした。翼を大きく広げた飛竜は長い首をS字型にたわめ、牙の奥からオレンジ色の光がかすかに漏れる。
次いで、サクヤが朱塗りの扇子をさっと掲げた。
「シルフ隊、エクストラアタック用意!」
密集方形陣に固まったシルフ部隊も、突進しつつ右手の長剣を頭上にかざす。その刀身を、エメラルド色の電光が網目のように包み込む。
あまりの数が集まっているために白い虫の群のように見えていた守護騎士の塊が、呪詛にも似た奇声を上げつつ殺到してきた。アリシャ・ルーは長い八重歯で唇を噛み締め、限界まで守護騎士を引き付けたあと、大きく右手を振り、声を張り上げた。
「ファイアブレス、撃て――――ッ!」
直後、十騎の飛竜が、溜め込んだ紅蓮の劫火を一斉に吐き出した。クリムゾンレッドの火線が、長く尾を引いて宙を疾る。シルフ隊とその前方に浮かぶキリトを囲むように、十本の炎の柱が屹立し、守護騎士の群に突き立った。
パァッ、と眩い光がドームを照らし出した。一瞬の後、膨れ上がった火球が立て続けに炸裂し、巨大な爆炎の壁を作り出した。凄まじい轟音が世界を揺り動かす。千切れ飛んだ守護騎士の残骸が放射状に拡散し、白い炎を引いて燃え尽きていく。
だが、無限とも思える数のガーディアンは、肉の壁から新たな群を伸ばし、燃えさかる業火を強引に突破してきた。まず、最前線にいるキリトを飲み込もうというのか、液体が広がるように大きく口を開ける。
その白い塊が殺到する寸前、サクヤが鋭く扇子を振り下ろし、叫んだ。
「フェンリルストーム、放てッ!!」
シルフ部隊が、一糸乱れぬ動作で長剣を鋭く突き出した。五十本の剣それぞれから、まばゆいグリーンの雷光が迸り、宙をジグザグに切り裂いて守護騎士群を深く貫通した。
ふたたび純白の閃光が世界を白く染め上げた。今度は爆発は起きなかったが、替わりに縦横無尽に太い稲妻が走り、そのあぎとに捕えた守護騎士を粉々に吹き飛ばしていく。
二度に渡って大集団を粉砕され、守護騎士の壁の中央部分はさすがに大きく落ち窪んでいた。しかしそれも、液体の表面が元に戻ろうとするかのように、周囲からじわじわと盛り上がっていく。
今しかない、とリーファは確信した。瞬時に長刀の鞘を払い、宙を蹴って突進を開始する。そう判断したのは領主たちも同じようだった。サクヤの鞭のように鋭い声が響き渡った。
「全員――突撃!!」
それは、間違いなくこの世界で行われた最大の戦闘だった。後方から断続的に放たれるブレスによって、守護騎士が次々と炎上、落下していく。一個の弾頭のように密な陣形を取ったシルフ部隊は、肉の壁に更に深い穴を穿つべく、押し寄せる巨人たちを凄まじい威力を持つ長剣で切り倒していく。
弾丸の尖端に立つのは、黒衣のスプリガンの小さな姿だった。装備のグレードは明らかにシルフ戦士たちには劣るだろうが、神速と言うよりない勢いで振り回される巨剣は、触れるもの全てを瞬時に崩壊、霧散させていく。
リーファはシルフ隊の中央に開いた間隙を駆け抜け、キリトの直後にまで到達した。彼の背後から襲いかかろうとした守護騎士の剣を長刀で弾き、その鏡面マスクの下、白い柔組織に深く刀身を埋め込む。全身を振り回すように剣を薙ぐと、騎士の首が飛び、その体が白く炎上した。
ちらりと振り返ったキリトが、唇の動きだけで言った。
「スグ――後ろを頼む!」
「任せて!!」
同じく視線で応え、リーファはぴたりとキリトの背に自分の背を合わせた。そのまま二人はぐるぐると回転し、目の前に現われる守護騎士を次々と切り倒していった。
一対一なら、巨人の騎士は自分に倒せる相手とは思えなかった。しかし、キリトと密着し、その速度に同期するうちに、リーファは騎士の動きがどんどん遅くなっていくのを感じていた。いや――自分の神経が加速されているのだろうか? かつて剣道の試合中にほんの何度か訪れたような、全てを脳の中心でダイレクトに把握できる感覚がリーファを包んでいた。
キリトと一体になっている、と感じた。直結した神経を、電子パルスが青白い尾を引いて流れていく。見なくても、背後のキリトの動きがわかる。彼が剣を弾き上げた守護騎士の首を、反転したリーファが高く刈り飛ばす。リーファが傷をつけた騎士のマスクの、まさに同じ箇所をキリトの剣が深く貫く。
キリト、リーファ、シルフ隊、ワイバーン隊は、白熱した一個のエネルギー体となって、無限に出現しつづける守護騎士の壁を融かし、抉り、深く深く突き進んでいった。騎士の数は無限でも、ドームの空間は固定されている。前進し続ける限り、いつかはその瞬間がやってくる。
「セラァァァッ!!」
気合と共に、リーファが縦に分断した守護騎士の体が、崩れ、飛び散った。
その向こうに――光が広がっていた。
見えた。樹の枝が網目のように絡み合ったドームの天蓋、その中央に、十字に分割された円形のゲートがあった。
「うおおおおっ!!」
絶叫したキリトが、リーファの背から離れ、黒い閃光となって肉壁の間隙に突進した。それを阻止しようと、怨嗟の唸りを上げながら新たな守護騎士が迫る。だが――
振り下ろされる大剣の列を、一閃させた巨剣で全て弾き飛ばし、キリトは体をその向こうに躍らせた。
抜けた。とうとう。黒衣の姿は、光の尾を引き、ゲートに向かって飛翔していく。
リーファの眼前で、たちまち守護騎士の体が幾重にもかさなり、一瞬開いた隙間を埋め尽くした。キリトが防衛線を突破したのを見て取ったサクヤが、後方から叫んだ。
「全員反転、後退!!」
シルフ隊と一緒に身を翻し、ファイアブレスの援護を受けながら急降下に入ったリーファは、一瞬、天蓋の方向を振り返った。ガーディアンの壁に阻まれてキリトの姿は見えなかったが、リーファの目には、高く、高く、かつて誰も達したことのない場所目指して舞い上がっていく彼の姿が映った。
飛べ――行け――行け、どこまでも! 巨樹を貫き、空を翔け、天を穿ち、世界の核心まで――!
俺は、脳神経が灼きつくかと思うほどの速度で最後の距離を駆け抜けた。
眼前には、巨大な円形のゲートがあった。四分割された石版が十字に組み合わさり、その中央を閉ざしている。その向こうに、彼女が――アスナがいる。あの世界に置き去りのままの、俺の魂のもう半分とともに。
背後で、守護騎士どもの悲鳴にも似た怨嗟の声が轟いた。反転して、俺を追ってくる気配。また、ゲートの周囲の天蓋発光部分からも再現なく騎士が産み落とされ、俺目掛けて押し寄せてくる。
だが、俺のほうが早い。ゲートはもう手を伸ばせば届くほどの距離だ。
しかし――しかし。
「……開かない……!?」
俺は、予想外の事態に思わず叫んでいた。
ゲートが開かない。直前まで接近すればその忌々しい重い口を開けるものとばかり思っていたが、ぴたりと閉ざされた十字の溝は、小揺るぎさえせず俺の行く手に立ち塞がっている。
今から減速する余裕はない。俺は剣をかざすと、それで石壁を打ち砕かんとばかりに、一体になって突進した。
直後、凄まじい衝撃とともに俺はゲートにぶち当たった。剣尖が石版に突き立って火花が激しく飛び散った。だが――その表面は、わずかにも傷ついた様子は無かった。
「ユイ――どういうことだ!?」
混乱して、俺は絶叫した。まさか――まだ足りないのか? 守護騎士どもを蹴散らすだけではなく、何らかのアイテム――条件――フラグが必要だとでも言うのか? そんな物、そんなモノは、糞食らえだ!!
衝動のまま、再び剣を振りかぶろうとした俺の胸ポケットから、鈴の音を引きながらユイが飛び出した。小さな両手でゲートを塞ぐ石版を軽く撫でる。
「パパ――」
さっと振り向き、早口で言った。
「この扉は、クエストフラグによってロックされているのではありません! 単なる、システム管理者権限によるものです」
「ど――どういうことだ!?」
「つまり……この扉は、プレイヤーには絶対に開けられないということです!」
「な――……」
俺は絶句した。
それでは、このグランドクエスト……世界樹の上の空中都市に達したものは、真の妖精に生まれ変わるというそれは、プレイヤーの鼻先にぶら下げられた、永遠に手の届かないニンジンだということか? 難易度を極限まで上昇させるに留まらず、扉に絶対に解除できない、システム権限という名の鍵を――。
全身から力が抜けるのを感じた。背後に、俺目掛けて津波のように殺到してくる守護騎士の叫びが響く。しかしもう、剣を握りなおす気力も湧かなかった。
アスナ――、ここまで、ここまで来たのに……もう少しで、手の届くところまで……。
君の手からこぼれた一片の温もりが、あれが、俺たちの最後の触れ合いなのか……?
――いや。待て。あれは、あれは確か……
俺は目を見開いた。左手で、腰のポケットをまさぐる。あった。小さなカード。ユイは言った。これは、システムアクセス・コードだと……。
「ユイ――これを使え!」
俺は引っ張り出したシルバーのカードを、ユイの眼前に差し伸べた。ユイも一瞬目を丸くし、次いで大きく頷いた。
小さな手がカードの表面を撫でる。光の筋がいくつか、カードからユイへと流れ込む。
「コードを転写します!」
一声叫ぶと、ユイは両手をゲートの表面へと叩きつけた。
俺はあまりのまばゆさに目を細めた。ユイの手が触れた箇所から、放射状に青い閃光のラインが走り、直後、ゲートそのものが発光を始めた。
「――転送されます!! パパ、掴まって!!」
ユイが伸ばした右手を、俺は左手の指先でしっかりと掴んだ。光のラインは、ユイの体を伝わり、俺の中にも流れ込んできた。
突然、頭のすぐ後ろで守護騎士どもの奇声がした。体を固くするのも束の間、何本もの大剣が降り注いできた。だが――、それらの剣は、まるで実体を失ったかの如く、何の感触ももたらさずに俺をすり抜けた。いや、透過し始めているのは俺の方か。体が薄れ、光に溶けていく。
「――!!」
不意に、前方に引っ張られた。すでに白く輝くスクリーンへと変貌していたゲートの中へ、俺とユイはデータの奔流となって突入した。
意識の空白は一瞬だった。
数回頭を振り、ぱちぱちと瞬きをしながら俺は転送感覚の余韻を払い落とした。アインクラッドで転移結晶を使ったあとに似ていたが、必ずゲート広場の喧騒の中に出現したあれとは異なり、周囲は完全な静寂に満ちていた。
肩ひざをついた姿勢から、俺はゆっくりと立ち上がった。目の前に、心配そうな顔をしたユイの姿があった。小さなピクシー態ではなく、本来の、十歳ほどの少女の姿だ。
「大丈夫ですか、パパ?」
「――ああ。ここは……?」
俺は頷きながら周囲を見回した。
何とも――奇妙な場所だった。最新のゲームらしく、過剰なほどに精緻な装飾を与えられていたスイルベーンやアルンの街並みとは大きくことなり、視界に入るのはのっぺりとした、ディティールやテクスチャの一切無い白い板だけだ。
どこか、通路の途中のようだった。直線ではなく、ゆるく右に湾曲している。後ろを振り返ると、こちらも同様に曲がっていた。どうやら長いカーブか、あるいは円形の通路らしい。
「……わかりません、ナビゲート用のマップ情報が、この場所には無いようです……」
ユイも困惑した顔で言った。
「アスナのいる場所はわかるか?」
聞くと、ユイは一瞬目を閉じ、すぐに大きく頷いた。
「はい、かなり――かなり近いです。上のほう……こっちです」
白いワンピースから伸びた素足で床を蹴り、音も無く走り出す。俺は握ったままの剣を背中に戻し、慌ててその後を追った。
数十秒走ると、左側、外周方向の壁に四角い扉が見えてきた。これも一切装飾はない。
「ここから上部へ移動できるようです」
立ち止まったユイの言葉に頷いて、俺は扉の脇に視線を落とし――一瞬、硬直した。
そこにあったのは、上下に二つ並んだ三角形のボタンだった。この世界では初めて見るが、現実ではよく見慣れた形のモノ。エレベータのボタンとしか思えない。
何だか、不意に、戦闘服に身を包み、剣を背負った自分がとてつもなく場違いな存在であるような違和感に襲われて、俺は顔をしかめた。いや――おかしいのはこの場所のほうだ。これが見た目どおりの物なら、ここはゲーム内世界ではない。ならば……何処なのだろうか?
しかし、その疑問は一瞬俺の脳を走りぬけただけだった。何処でもいい。アスナがいるなら。
躊躇せず、俺は手を伸ばすと上向きの三角形にタッチした。すぐに、ポーンという効果音と共に扉がスライドし、その向こうに箱型の小部屋が現われる。ユイと共に乗り込み、向き直ると、やはりドアの脇にボタンの並んだパネルがあった。光っているボタンが現在位置なのだとしたら、この上にさらに二つのフロアがあるようだ。わずかに迷ったのち、一番上のボタンを押す。
再び効果音。ドアが閉まり、紛うことなき上昇感覚が俺を包んだ。
エレベータはすぐに停止した。開いたドアの向こうは、先ほどまで居た場所と同じような湾曲した通路だ。俺の右手をぎゅっと握っているユイに向かって、言う。
「高さはここでいいか?」
「はい。――もう、すぐ……すぐそこです」
言うやいなや、ユイは俺の手を引いて走り出した。
更に数十秒、高鳴る鼓動を必死に抑えつけつつ通路を駆ける。いくつか、内周に並んだドアの前に差し掛かったが、ユイはそれらには目も向けることなく通過した。
やがて、何もない場所でユイはぴたりと立ち止まった。
「……どうしたんだ?」
「この向こうに……通路が……」
呟きながら、ユイは外周のつるりとした壁を手で撫でた。と、手がぴたりと止まり、ゲートの時と同じような青い光のラインが直角に曲がりくねりながら壁面に走る。
突如、太いラインが四角く壁を区切り、ブン、と音を立ててその内側が消滅した。奥には、やはりツルリとした無味乾燥な通路が、真っ直ぐ伸びている。
ユイは無言で通路に足を踏み入れると、一層スピードを増して駆けはじめた。その幼い顔にも、これ以上一秒たりとも待てないという渇望が色濃く浮かんでいるのを見て、俺はアスナが近いことを確信した。
早く、早く。心の奥で一心不乱に念じながら、ひたすら進む。やがて、前方で通路は終わり、四角いドアが行く手を塞いでいた。ユイはもう立ち止まることなく、左手を伸ばすと、勢いよくそのドアを押し開いた。
「――!!」
正面に、今まさに沈みつつある巨大な太陽が見えた。
世界を包む、無限の夕焼け空。視点の位置にわずかな違和感を感じ、そして気付いた。ここは、恐ろしく高いのだ。ゆるいカーブを描く地平線が見える。かすかに風が鳴っている。
否応無く、俺はあの瞬間を想起していた。
アスナと並んで腰掛け、浮遊城の終焉を看取った、あの永遠の夕焼けの世界。耳もとに、彼女の声が甦る。
『わたしたちは、いつまでもいっしょ――』
「ああ――そうだ。俺は、戻ってきたよ」
呟いてから、俺は視線を足元に向けた。
そこにあったのは、水晶の板ではなく、恐ろしく太い樹の枝だった。
深紅の夕陽だけにむかって狭窄した視野が、角度を取り戻した。気付くと、頭上には天を支える柱のような枝が四方に大きく伸び、葉を繁らせている。眼下には、更に何本かの枝が広がり、その向こうには薄い雲海、そして遥か彼方の地上には、緑の草原を蛇行して流れる河がかすかに見て取れる。
ここは――世界樹の上だ。リーファ……直葉があれほど夢見た、世界の頂。
しかし――。
俺はゆっくりと振り向いた。そこには、壁のごとく屹立する世界樹の幹がどこまでも伸び上がり、枝分かれしていた。
「無いじゃないか……空中都市なんて……」
呆然と呟いた。あったのは、あの無味乾燥な白い通路だけだ。あんなものが伝説の都市のわけはない。
つまり、全ては中身のないギフトボックスだったのだ。包装紙やリボンを飾り立て、しかしその内側に広がるのは空疎な嘘のみ。直葉に何と言えばいいのだろうか。
「……許されないぞ……」
思わず呟いていた。この世界を動かしている誰か、何かに向かって。
不意に、右手が軽く引っ張られた。ユイが、気遣わしそうな顔で俺を見上げていた。
「ああ――そうだな。行こう」
全ては、アスナを救い出してからだ。今、俺は、そのためだけに存在する。
目の前には、太い樹の枝がまっすぐ夕陽に向かって伸びていた。枝の中央には、人工的な小道が刻み込まれている。道の先は、生い茂った木の葉に遮られているが――その梢の向こうに、夕陽を反射して、金色にきらりと光る何かがあった。俺とユイは、その光目指して走り始めた。
今にも発火しそうなほどの焦燥と渇望を必死に抑えつけ、樹上の道を進む。あと数分――数十秒――でとうとうその瞬間が来ると思うほどに、加速された俺の知覚神経は一瞬一瞬を無限の長さにも引き伸ばしていく。
色濃く繁った不思議な形の木の葉の群をくぐり、乗り越え、道は続く。枝のうねりに合わせて、短い階段が登ったり下ったりしながら現われるたびに、背中の翅を一振りして飛び越える。
行く手できらめく金色の光の正体が、やがて明らかになってきた。金属を縦横に組み合わせた格子――いや、鳥篭だ。
俺たちが走る太い枝の、少し上空に平行して伸びる別の枝から、円筒の上部が窄まったオーソドックスな形の鳥篭がぶら下がっている。だが、恐ろしく大きい。小鳥はおろか、猛禽だって閉じ込めることはできまい。そう――あれはもっと、別の用途の――。
もう遥か昔に思えるほど遠い記憶の中から、エギルの店で奴が言った台詞が思い出される。バカなプレイヤーが、肩車で世界樹に肉薄し……枝に下がった鳥篭を見つけて……撮影したのがあの写真だ……――そうだ。間違いない。アスナ――あの中に、アスナがいる。
俺の右手を引くユイの小さな手にも、確信を示す強い力がぎゅっと込められた。俺たちはほとんど宙を滑る勢いで疾走し、最後の繁りを飛び越えた。
小道の刻まれた枝は、急激に細くなりながら鳥篭の下部に達し、そこで道は終わっていた。
金色の鳥篭の中も、すでにはっきりと見えた。一つの大きな植木と、様々な花の鉢が白いタイル張りの床を彩っている。中央には、豪奢な天蓋つきの大きなベッド。傍らに、純白の丸テーブルと、背の高い椅子。それに腰掛け、両手をテーブルの上で組み合わせ、何かを祈るような姿勢で頭を垂れる、ひとりの少女。
艶やかな栗色の髪。ユイのものに似た、白いワンピース。その背から伸びる、プラチナ色の翅。すべてが、巨大な夕陽の力を受けて赤く輝いている。
少女の顔は翳になって見えなかった。だが、俺にはわかった。わからない筈があろうか。引き合う魂の磁力が、目に見えるほどの閃光となって、俺と彼女の間にスパークした。
その瞬間、少女――アスナがさっと顔を上げた。
あまりにも深い思慕のゆえに、俺のなかではもう光に満ちた概念にまで昇華されていたその懐かしい姿。時には研ぎ上げた刃のような怜悧な美しさ、時には人懐っこいやんちゃな暖かさを浮かべ、あの短くも懐かしい日々のあいだ、常に俺の傍らにあった彼女の顔に、まず純粋な驚きが走り、次いで組み合わされていた両手が口もとを覆った。はしばみ色の大きな瞳に、溢れるような輝きが満ち、それはたちまち涙に形を変えて睫毛に溜まった。
最後の数歩を一息に飛翔しながら、俺は音にならない声で囁きかけた。
「――アスナ」
同時に、ユイも叫んだ。
「ママ……ママ!!」
小道の終点、鳥篭と接する部分には、壁より少し密な格子で作られた四角いドアがあり、その横にロック機構と思しき小さな金属板があった。ドアは閉じられていたが、ユイは俺の手を引きながらわずかにも勢いを緩めず、ドアの直前で右手を体の左側に振り上げた。その手を青い輝きが包んだ。
直後、手はさっと右側に払われ、同時にドアが金属板ごと吹き飛んだ。それはたちまち光の粒を散らして消滅する。
ユイは俺の手を離すと、両手をまっすぐ前方に差し伸べて再び叫んだ。
「ママ――!!」
そのまま一気に、開け放たれた入り口から鳥篭に駆け込む。
アスナも、椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。口もとに添えられていた両手が大きく開かれ、そしてその唇から、震えているがはっきりとした声が発せられた。
「――ユイちゃん!!」
直後、床を蹴ったユイの小さな体が、アスナの胸にまっすぐ飛び込んだ。二人の、栗色と漆黒の長い髪が宙に揺れ、夕焼け色の光が舞った。
固く抱き合ったユイとアスナは、互いの頬をすり寄せ、確かめるようにもう一度名前を呼んだ。
「ママ……」
「ユイ……ちゃん……」
二人の涙が次から次へと零れ落ち、紅玉のように輝きながら消えていった。
俺は走る勢いを緩め、そっとアスナに歩み寄り、数歩手前で足を止めた。顔を上げたアスナが、瞬きをして涙を払い落とし、まっすぐに俺を見た。
あの時と同じように、俺は動けなかった。これ以上近づき、手を触れたら、全てが消えてしまいそうな――。それに、今の俺の姿は当時とはまるで違う。俺はただただ涙をこらえ、じっと彼女を見つめることしかできなかった。
しかし、やはりあの時と同じように、アスナの唇が動き、そして俺の名を呼んだ。
「――キリトくん」
一瞬の静寂のあと、俺の口が動き、彼女の名を呼んだ。
「……アスナ」
俺は、最後の二歩をあるき、両手を広げた。胸に抱かれたユイの体ごと、アスナの華奢な体をそっと包み込み、ゆっくりと力を込めた。懐かしい香りがふわりと漂い、懐かしい暖かさが俺の体を包んだ。
「……ごめん、遅くなった」
震える声で呟くと、アスナは至近距離からまっすぐ俺の目を見詰め、答えた。
「ううん、信じてた。きっと――助けに来てくれるって……」
それ以上、言葉はもう不要だった。俺とアスナはどちらからとも無く目を閉じると、穏やかに唇を合わせ、そのまま頬を触れさせた。俺の背にアスナの両手が回され、固く力が込められた。二人の間で、ユイが幸せそうな吐息を洩らした。
――これで、もう、いい。そう思った。
この瞬間が最期になるなら、俺の命が燃え尽きてももう悔いはなかった。あの世界と共に終わっていたはずの命は、ここで完結する、それだけのために長らえ――
――いや、そうじゃない。ようやく、ここから始まるのだ。ここで、あの剣と戦闘の世界がついに終わり、現実という名の新しい世界へと二人で旅立つのだ。
俺は、顔を上げ、言った。
「さあ、帰ろう。いるべき場所へ」
抱擁を解いたあとも、俺とアスナはしっかりと手を握り合い、ユイはアスナのもう片方の腕に抱かれていた。俺はその顔を覗き込み、訊ねた。
「ユイ、ここからアスナをログアウトさせられるか?」
するとユイは瞬間眉を寄せ、すぐに首を振った。
「ママのステータスは複雑なコードによって拘束されています。解除するにはシステム・コンソールが必要です」
「コンソール……」
首を傾げると、アスナが俺を見て言った。
「あ、わたし、それっぽい物を見たよ。ラボラトリーの一番下で……あ、ラボラトリーっていうのは……」
「あの、白い何も無い通路のことか?」
「うん。……あそこを通って来たの?」
「ああ」
頷いた俺に向かって、アスナは何か気がかりそうに眉をしかめる。
「何か……ヘンなモノ、居なかった?」
「いや、誰にも会わなかったけど……」
「……ひょっとしたら、須郷の手下がうろついてるかもしれないの。その剣で斬れればいいんだけどなあ!」
嫌悪感に満ちたその声の調子も気になったが、それよりも俺はアスナが出した名前に、軽い驚愕とやはり、という確信を同時に味わっていた。
「あの男……須郷の仕業なのか? アスナをここに閉じ込めたのは」
「ええ。――それだけじゃないわ、須郷はここで恐ろしいことを……」
アスナは深い憤りを滲ませながら何かを言いかけたが、すぐに首を振った。
「続きは、現実に戻ってから話すわ。須郷は今、会社に居ないらしいの。その隙にサーバーを押さえて、みんなを解放しないと……。行きましょう」
色々と聞きたいことはあったが、何よりもアスナを現実に戻すのが先決だった。俺は頷き、体を翻した。
ユイを抱いたアスナの手を引き、俺はドアの吹き飛んだ入り口に向かって駆けはじめた。二歩、三歩進み、格子をくぐろうと身をかがめた、その時だった。
――誰かが、見ている。
不意に、俺はうなじの辺りに嫌な気配をちりちりと感じた。あの世界で、誰か――いや、モンスターではなくオレンジカラーの殺人者が、物陰に身を潜めて俺をターゲッティングしたときに感じた視線とまったく同じ感覚だ。
とっさに俺はアスナの手を離し、背中の剣の柄を握った。それを抜こうと、わずかに腕を動かした、その瞬間。
いきなり、鳥篭が水没した。ドプン、と粘性の高い、濃い色の液体が俺たちを包んだように感じた。
いや、そうではない。呼吸はできるが、しかし空気が異常に重くなったのだ。体を動かそうとすると、ねっとりとした粘液の中にいるかのような、凄まじい抵抗を感じる。体が重い。立っているのも苦痛だ。
同時に、世界から光が遠ざかっていった。鳥篭を満たしていた赤い夕陽が、深い闇にみるみる覆い尽くされていく。
「――な、なに!?」
アスナが叫んだ。その声も、深い水底で発せられたかのように歪んでいる。
俺は途方もなく嫌な戦慄を感じながら、振り返ってアスナとユイを抱き寄せようとした。だが――体を動かせない。ねばねばとした空気が、意思あるもののように俺に絡みつく。
やがて、ついに世界は全くの暗闇に包まれてしまった。いや、それとは少し違う。白いワンピース姿のアスナとユイは明瞭に見える。だが、視界のバックグラウンド全てが濃密な黒に塗りつぶされてしまっているのだ。
俺は歯を食いしばって右手を動かした。すぐ近くに鳥篭の格子があったはずだ。それに掴まって、体をこの空間から引き抜こうとしたのだが――しかし、伸ばした手は何にも触れることは無かった。
見た目だけではない。俺たちはどことも知れない闇の世界に放り込まれたらしい。
「ユイ――」
状況が分かるか、と言おうとした時。アスナの腕の中で、突然ユイが体を仰け反らせ、悲鳴を上げた。
「きゃあっ! パパ……ママ……気をつけて! 何か……よくないモノが……!」
その言葉が終わる前に。ユイの小さな体の表面を紫色の電光が這いまわり、一瞬まばゆくフラッシュした――と思ったときにはもう、アスナの腕の中はからっぽになっていた。
「ユイ!?」
「ユイちゃん――!?」
俺とアスナは同時に叫んだ。しかし答えはない。
どろりと濃い、リアルブラックの闇の中に、俺とアスナだけが残された。俺は必死に手を伸ばし、アスナの体を引き寄せようとした。不安そうに目を見開いたアスナもこちらに手を伸ばす。
だが、二人の指先が触れ合う直前、すさまじい重力が俺たちを襲った。
まるで、深い深い粘液の沼の底に放り込まれたかのようだ。全身にのしかかるプレッシャーに耐えかね、俺は片膝をついた。同時にアスナも倒れこみ、床――もし存在するとしてだが――に両手を突く。
アスナが俺の瞳を見つめ、唇を動かした。
「キリト……くん……」
だいじょうぶ――君は俺が助けてみせる――、と答えようとした、その時だった。粘つくような笑いを含んだ、甲高い声が闇の中に響き渡った。
「やあ、どうかな、この魔法は? 次のアップデートで導入される予定なんだけどねえ、ちょっと効果が強すぎるかねえ?」
抑え切れない嘲弄の色を含んだその声には、聞き覚えがあった。眠るアスナを前にして、俺を嘲笑ったあの男の声。
「――須郷!!」
俺は立ち上がろうともがきながら、顔を上げて叫んだ。
「チッチッ、この世界でその名前は止めてくれるかなあ。君らの王に向かって呼び捨ても戴けないね。妖精王、オベイロン陛下と――そう呼べッ!!」
声の語尾が、高く跳ね上がって絶叫に変わり、同時に何かが俺の頭を強く打ちつけた。
首を動かすと、いつの間にかそこに立っている男がいた。ごてごてと刺繍の施されたブーツを履き、白いタイツに包まれた足の片方を、俺の頭に乗せて左右に動かしている。
視線を上向けていくと、体には毒々しい緑色の長衣をまとい、その上に、作り物のように端正な顔が乗っていた。いや――実際作り物なのだ。ポリゴンで美貌を創造しようとすると必ず陥ってしまう、生気の無い、ある種醜悪な美しさ。真っ赤な唇を大きく歪め、かつて見たことのあるニヤニヤ笑いを浮かべている。
たとえ姿は違えど、俺には分かった。この男は須郷だ。アスナの心を強奪し、こんなところに閉じ込めた、どれほど憎んでも憎み足りない男。
「オベイロン――いえ、須郷!」
床にほとんど倒れながらも、気丈に顔を上げたアスナも鋭い声で叫んだ。
「あなたのした事は、全部この目で見たわ!! あんな酷いことを……許されないわよ、絶対に!!」
「へえ? 誰が許さないのかな? 君かい、この彼かい? それともまさか神様かな? 残念ながら、この世界に神はいないよ。僕以外にはね、ヒッ、ヒッ!」
耳障りな笑いの混じった声で言うと、須郷は一際激しく俺の頭を踏み下ろした。その途端、圧し掛かる重力に耐え切れず、俺の体は床に押し付けられた。
「やめなさい、卑怯者!!」
アスナの言葉には耳も貸さず、須郷は身を屈めると、背中から俺の剣を抜き去った。伸ばした人差し指の上に、巨大な剣をまっすぐに立て、くるくると垂直に回転させる。
「――それにしても桐ヶ谷君、いや……キリト君と呼んだほうがいいかな。まさか本当にこんな所まで来るとはねえ。勇敢なのか、愚鈍なのか。まあ今そうやってへたばってるんだから、後の方かな、ククッ。僕の小鳥ちゃんがカゴから逃げ出したって言うんで、今度こそきついお仕置きをしてあげようと急いで帰ってきてみれば、いやあ驚いたね! カゴの中にゴキブリが迷い込んでるとはね! ――そう言えば、あと一つ妙なプログラムが動いてたな……」
須郷は言葉を切ると、さっと右手を振ってウインドウを出した。唇を曲げながらしばらく青く発光するスクリーンを眺めていたが、やがてフン、と鼻を鳴らし、閉じた。
「……逃げられたか。あれは何だい? そもそもどうやってここまで登ってきたのかな?」
少なくともユイが消去されたわけではないらしいと知り、かすかに安堵しながら、俺は言った。
「飛んできたのさ、この翅でね」
「――ふん、まあいい。すぐに分かるさ、君の頭の中身はね」
「……なに?」
「君はまさか、僕が酔狂でこんな仕掛けを作ったと思ってるんじゃないだろうね?」
須郷は指先でひょいひょいと剣をバウンドさせながら、ニタリと毒の滴るような笑みを浮かべた。
「元SAOプレイヤーの皆さんの献身的な協力によって、思考・記憶操作技術の基礎研究はすでに八割がた終了している。そして本日めでたく新しい実験体が加わったわけだ。いやあ、楽しいだろうね!! 君の記憶を覗き、感情を書き換えるのは!! 考えただけでフルエるね!!」
「そんな……ことが、出来るわけが……」
あまりに途方も無い須郷の台詞に、愕然としながら俺が呟くと、須郷は再び右足を俺の頭に載せ、つま先をとんとんと動かした。
「君、性懲りも無くナーヴギアで接続してるんだろう? クライアントを書き換えるくらい容易いさ。やっぱり馬鹿だね、子供は。犬だって一度蹴飛ばされれば入っちゃいけない場所は分かるだろうに」
「そんな……そんな事、許さないわよ須郷!!」
アスナが、血の気の引いた顔で叫んだ。
「キリトくんに手を出したら、絶対に許さない!!」
「小鳥ちゃん、君のその憎悪が、スイッチ一つで絶対の服従に変わる日も近いよ」
陶酔した表情で言うと、須郷は俺の剣を握りなおし、もう一本の手で刀身をぱちんと叩いた。
「さて! 君達の頭をいじる前に、盛大にパーティーと行こうかな! ああ……とうとう、待ちに待った瞬間だ。最高のお客様も来てくれたことだし、限界まで我慢した甲斐があったというものだ!!」
くるりと体を一回転させ、両手をさっと広げる。
「ただ今、全方位から超高解像度で録画中だ! せいぜいいい顔をしてくれ給えよ!!」
「…………」
アスナは唇を噛み締めると、俺の目をじっと見つめ、早口で囁いた。
「……キリトくん、今すぐログアウトして。現実世界で、須郷の陰謀を暴くのよ。わたしは大丈夫」
「アスナ……!」
俺は一瞬、体を引き裂かれるような葛藤を感じた。しかし即座に頷くと、右手を振った。これだけの情報があれば、救出チームも俺の言葉を無視できないはずだ。レクトプログレスにあるALOサーバーを押さえれば、すべてを白日のもとに引き出せる。
――だが。ウインドウは、出現しなかった。
「キャハハハハハ!!!」
須郷は体を折り、腹を抱えて哄笑した。
「言ったろう、ここは僕の世界だって! 誰もここからは逃げられないのさ!!」
ひっ、ひっ、と体を跳ねさせながら踊るように歩き回り、突然さっと左手を掲げる。その手がパチンと鳴らされると、いきなり無限の闇に塗り込められた上空から、じゃらじゃらと音を立てて二本の鎖が垂れ下がってきた。
耳障りな金属音を立てて床に転がった鎖の先端には、幅広の金属リングが鈍い輝きを放っていた。須郷はその片方を取ると、俺の目の前に倒れたままのアスナの右手首にカチンと音を立てて嵌めた。次いで、闇の中にまっすぐ伸びている鎖を軽く引く。
「きゃあっ!」
いきなり鎖が巻き上げられ、アスナは右手を上にして高く吊り上げられた。つま先がぎりぎり床につくかどうかという所で鎖が停止する。
「貴様……何を……!」
叫ぶが、須郷は俺には目もくれず、鼻歌交じりにもう片方のリングを手に取った。
「小道具は色々用意してあるんだがね。まあ、まずはこの辺からかな」
言いながら、リングをアスナの左手首に嵌め、鎖を引く。そちらもジャラっと巻き上がり、アスナは両手を強く引かれる格好で宙吊りになった。重力はまだかかっているらしく、優美な眉の曲線が苦痛に歪む。
須郷は、アスナの前で腕組みをすると、下品な口笛を吹いた。
「いいね。やっぱりNPCの女じゃあその顔はできないよね」
「……っ!」
アスナはキッと須郷を睨みつけると、俯いて目を閉じた。須郷は喉の奥でククッと笑うと、ゆっくりと歩いてアスナの後ろに回った。長い髪をひと房手に取り、鼻に当てて大きく息を吸い込む。
「うーん、いい香りだ。現実のアスナ君の香りを再現するのに苦労したんだよ。病室に端末まで持ち込んだ努力を評価してほしいねえ」
「やめろ……須郷!!」
耐えがたい怒りが俺の全身を貫いた。赤い炎が神経を駆け巡り、瞬間、体にかかる重圧を吹き飛ばした。
「ぐ……おっ……」
俺は突っ張った手を伸ばし、体を持ち上げた。膝を立て、そこに全身の力を込めてじわじわと立ち上がっていく。
須郷は芝居がかった仕草で左手を腰にあて、首を振った。のっそりと俺の前まで歩き、言う。
「やれやれ、観客はおとなしく……這いつくばっていろッ!!」
いきなり両足を真横に蹴り払われ、俺は支えを失って床に叩きつけられた。
「ぐはっ!!」
肺が空になるような衝撃に、思わず声を上げる。再び手を突っ張り、顔を上げると、須郷は唇の両端を持ち上げてニタっと笑い――右手に握ったままの俺の剣を、思い切り俺の背に突きたてた。
「がっ……!」
分厚い金属が体を貫通する衝撃が、俺の神経を駆け巡る炎を吹き飛ばした。剣は俺の体を貫き、床に深く食い込んだようだった。痛みはないが、ざらざらした不快感が強烈に襲ってくる。
「き……キリトくん!!」
アスナの悲鳴に、俺は顔を上げ、大丈夫だ、と言おうとした。
――しかし。須郷は笑いを消さず、ふいっと上空の闇を振り仰ぐと、言った。
「システムコマンド! センスフィードバック・アブソーバ、レベル八に変更」
その途端。鋭い錐を突き込まれるような純粋な痛みが、俺の背中に疾った。
「っ……ぐっ……」
俺がうめき声を上げると、須郷は愉快そうな含み笑いを洩らした。
「おいおい、まだツマミ二つだよ君。段階的に強くしてやるから楽しみにしていたまえ。ま、レベル三以下にするとトラウマが残る恐れがあるらしいがね」
さて、と手を叩き、アスナの背後に戻っていく。
「い……今すぐキリトくんを解放しなさい、須郷!」
アスナの叫びにも、無論耳を貸す様子はない。
「標本箱の虫はピンで止めておかないとね。それに、彼のことを心配できる状況じゃないだろう、小鳥ちゃん?」
須郷は背後から右手を伸ばすと、人差し指でアスナの頬を撫でた。アスナは首を捻り、避けようとするが、強烈な重力ゆえにままならない。
指先は、アスナの顔を縦横に這いまわり、やがて首筋に降りた。アスナの顔が嫌悪に歪んだ。
「やめろっ……須郷!」
必死に体を起こそうとしながら、俺は叫んだ。するとアスナは気丈な笑みを浮かべ、震える声で言った。
「――大丈夫だよ、キリトくん。わたしは、こんなことで傷つけられたりしない」
その途端、須郷がきっきっと軋るような笑いを上げた。
「そうでなくっちゃね。君がどこまでその誇りを保てるか――十分? 一時間? それとも丸一日? なるべく長引かせてくれたまえよ、この楽しみを!!」
叫ぶと同時に、須郷の右手がアスナのワンピースの襟元を飾っていた赤いリボンを掴んだ。布地ごと、一気に引きちぎる。血のように赤い、細い紐はゆっくりと宙を舞い、俺の目の前に落下して力なくわだかまった。
破れ、大きく開いたワンピースの胸元から、真っ白い肌が覗いた。須郷の右手はゆっくり、ゆっくりとその中に侵入していく。アスナの顔が恥辱に歪み、固く閉じられたまぶたの縁に涙の雫が盛り上がる。
アスナの素肌をまさぐりながら、須郷は首を伸ばし、ニタニタと笑った。唇が三日月型に裂け、毒々しい赤い舌が長く伸びた。粘液がしたたるような音を立てながら、アスナの頬を下から上に舐めあげる。
「クッ、クッ、今僕が考えていることを教えてあげようか」
舌を出したまま、須郷が狂熱を帯びた声で言った。
「この場所でたっぷり楽しんだら、君の病室に行く。ドアをロックして、カメラを切ったら、あの部屋は密室だよ。君と僕、二人きりさ。そこに大型モニタを設置して、今日の録画を流しながら、君ともう一度じっくりと楽しむ。君の、本当の体とね。――まず心の純潔を奪い――しかるのちに体の貞節を汚す!! 面白い、実にユニークな体験だと思わないか!」
完全に裏返った須郷の甲高い哄笑が、暗闇に満ち、吸い込まれていった。
アスナは目を見開き、ゆっくりと首を左右に振った。
「いや……嫌よ……そんなの……」
ついにその唇から、絶望に満ちた悲鳴が漏れた。
「いや……いやぁぁ!!」
全てを焼き尽くすほどに白熱した怒りが、俺の思考をまっすぐ貫き、視界に激しい火花を散らした。
「須郷……貴様……貴様ァァァ!!」
絶叫しながら、俺はがむしゃらに四肢を動かし、立ち上がろうとした。だが、俺を貫いた剣は小揺るぎもしない。
両目から涙が溢れるのを感じた。虫のように無様に這い、もがきながら、俺は咆哮した。
「貴様……殺す!! 殺す!! 絶対に殺す!!」
俺の絶叫に被さって、狂ったように笑う須郷の声が高く響き渡った。
今、俺に力を貸してくれるなら――
両手の指を立てて床を引っ掻き、一ミリでも前に体を動かそうとしながら、俺は念じた。
もし今、俺に立ち上がる力を与えてくれるなら、何を代償にしてもいい。命、魂、全てを奪われても構わない。鬼でも悪魔でもいい、あの男を斬り倒し、アスナを彼女のいるべき場所に戻してさえくれるなら。
須郷は両手を使って、アスナの体を思うままに蹂躙し続けていた。奴の手が動くたびに、邪な電子パルスが強制的に感覚刺激を励起するのだろう、アスナは血が出るほど唇を噛み締めて、辱めに耐えている。
その姿を視界に映しながら、俺は己の思考が白く、白く灼き切れていくのを感じていた。怒りと絶望の炎が俺を焼き尽くしていく。脳の奥を走るシナプスの全てが灰になる。骨の色の、乾いた塊になってしまえば、もう何も思うことはない。思わなくていい。
剣一本あれば、何でもできると思っていた。なぜなら俺は、五万人の剣士たちの頂点に立つ英雄だから。魔王を倒し、世界を救った勇者だから。
利潤を追求するだけの企業がマーケティングに基づいて組み上げたにすぎない仮想世界、ただのゲーム、それをもう一つの現実と思い込み、そこで手に入れた強さが本物の強さだと思い込んでいた。SAO世界から解放――または追放され、現実に帰還してから、俺は現実の貧弱な肉体に失望していたのではないか? 心のどこかでは、あの世界に、最強の勇者でいられた世界に帰りたいと思っていたんだろう?
だからお前は、アスナの心が新たなゲーム世界にあると知った時、それならば自分の力でどうにか出来ると思い込み、真にするべきこと、現実の力を持つ大人たちに任せることをせず、のこのことやって来た。再び幻想の力を取り戻し、他のプレイヤー達を圧倒し、醜いプライドを満足させて、悦んでいたんじゃないのか?
ならばこの結果は――当然の報いだ。そうだろう、お前は与えられた力に嬉々としてはしゃいでいた子供だ。システム管理権限という単なるID一つ圧倒することすらできない。これ以上できることはただ一つ、悔恨のみだ。それが嫌なら、思考を放棄することだ。
『逃げ出すのか?』
――そうじゃない、現実を認識するんだ。
『屈服するのか? かつて否定したシステムの力に?』
――仕方ないじゃないか。俺はプレイヤーで奴はゲームマスターなんだよ。
『それは、あの戦いを汚す言葉だな。私に、システムを上回る人間の意思の力を知らしめ、未来の可能性を悟らせた、我々の戦いを』
――戦い? そんな物は無意味だ。単なる数字の増減だろう?
『そうではないことを、君は知っているはずだ。さあ、立ちたまえ。立って剣を取れ』
『――立ちたまえ、キリト君!!』
その声は、雷鳴のように轟き、稲妻のように俺の意識界を切り裂いた。
遠ざかっていた感覚が、一瞬で全て接続されたようだった。俺は目を大きく見開いた。
「う……お……」
喉の奥からしわがれた声が漏れた。
「お……おおぉ……」
歯を食いしばり、瀕死の獣にも似た声で唸りながら、俺は右手を床に突き、肘を立てた。
体を持ち上げようとすると、背中の中央を貫いた剣が固く、重く、圧し掛かってきた。
――こんな物の下で無様に這いつくばっているわけにはいかない。こんな、魂の無い攻撃に屈服するわけにはいかない。あの男の剣はもっと重かった。もっと痛かった。須郷などという、剣士の誇りを持たない人間の剣に、倒されるわけにはいかない!
「うおお……オオォォォォ!!」
一瞬の咆哮ののち、俺は全身全霊の力を込めて体を起こした。ざりっ、と嫌な音を立てて剣が床から離れ、俺の体から抜け落ちて転がった。
ふらつきながら立ち上がった俺を、須郷はぽかんとした顔で見つめた。次いでアスナの体から手を離し、芝居じみた動作で肩を竦めながら首を振る。
「やれやれ、オブジェクトを固定したはずなのに、妙なバグが残っているなあ。開発部の無能どもときたら……」
呟きながら俺の前まで歩き、右拳を振り上げて俺の頬を張ろうとした。俺は左手を上げ、その拳を空中で掴んだ。
「お……?」
訝しい顔をする須郷の目を見ながら、俺は口を開いた。脳の奥で響いた一連の言葉を、そのまま繰り返す。
「システムログイン。ID、ヒースクリフ」
その途端、俺を包んでいた重力が消失した。
「な……なに!? なんだそのIDは!?」
須郷は歯を剥き出して驚愕の叫びを上げると、俺の手を振り払って飛び退り、右手を振った。青いシステムメニューウインドウが出現する。
だが、奴が指を動かすより早く、俺は言っていた。
「システムコマンド、スーパーバイザ権限変更。IDオベイロンをレベル一に」
同時に、須郷の手の下からウインドウが消滅した。須郷は目を見開き、何も無い空間と俺の顔の間で視線を何度か往復させたあと、苛立ったように右手を振った。
しかし何も起こらない。須郷に王の力を与えていた魔法のスクロールはもう現われない。
「ぼ……僕より高位のIDだと……? 有り得ない……有り得ない……僕は支配者……創造者だぞ……この世界の帝王……神……」
PCMを倍速再生したような、甲高い声で須郷は立て続けに捲し立てた。その、醜く崩れた美貌に視線を向けながら、俺は静かな声で言った。
「そうじゃないだろう? お前は盗んだんだ。世界を。そこの住人を。盗み出した、汚れた玉座の上で独り踊っていた泥棒の王だ」
「こ……このガキ……僕に……この僕に向かってそんな口を……後悔させてやるぞ……その首をすっ飛ばして飾ってやるからな……」
須郷は鉤のように曲げた人差し指を俺に突きつけ、金切り声を上げた。
「システムコマンド!! オブジェクトID『エクスキャリバー』をジェネレート!!」
だが、システムはもう須郷の声には応えなかった。
「システムコマンド!! 言うことを聞けこのポンコツが!! 神の……神の命令だぞ!!」
喚きたてる須郷から視線を逸らし、俺は吊り上げられたままのアスナを見た。
力任せに引き千切られたワンピースは、ぼろぼろの布となって体にまとわりついているだけだ。髪は乱れ、頬には涙の跡が光る。しかし、その瞳はいまだ輝きを失っていない。その強靭な魂は挫かれていない。
――すぐ終わらせる。もう少し待っていてくれ
俺はアスナのはしばみ色の瞳をじっと見つめ、心の中で呟いた。アスナは小さく、しかし確かな動作でこくりと頷いた。
虐げられたアスナの姿を見たことによって、俺の中に新たな怒りの炎が噴き上がった。俺は視線をわずかに上向けると、言った。
「システムコマンド。オブジェクトID『エクスキャリバー』ジェネレート」
すると俺の前の空間が歪み、微細な数字の羅列が猛烈な勢いで流れ、一本の剣を形作った。尖端から徐々に色と質感が与えられていく。金色に輝く刀身を持つ、美麗な装飾を施されたロングソードだ。
俺はその剣の柄を掴むと、目を丸くしている須郷に向かって放り投げた。奴が危い手つきで受け止めるのを見ながら、左足を動かし、床に転がったままの俺の剣を跳ね上げ、手に収める。
無骨な黒鉄色の大剣をぴたりと構え、俺は言った。
「決着をつける時だ。泥棒の王と鍍金の勇者……。システムコマンド、センスフィードバック・アブソーバをレベルゼロに」
「な……なに……?」
黄金の剣を握った須郷の顔に動揺が走った。一歩、二歩、後退る。
「逃げるな。あの男は少なくとも臆したことは無かったぞ。あの――茅場晶彦は」
「か……かや……」
その名を聞いた途端、須郷の顔が一際大きく歪んだ。
「茅場……ヒースクリフ……アンタか。またアンタが邪魔をするのか!!」
右手の剣を虚空に振り上げ、須郷は金属を引き裂くような声で絶叫した。
「死んだんだろ! くたばったんだろうアンタ!! なんで死んでまで僕の邪魔をするんだよ!! アンタはいつもそうだよ……いつもいつも!! いつだって何でも判ったような顔しやがって……僕の欲しいものを端から攫って!!」
不意に剣を俺に向かって突きつけ、須郷は更に叫んだ。
「お前みたいなガキに……何が、何がわかる!! アイツの下にいるってことが……アイツと競わされるのがどういうことか、お前にわかるのかよ!?」
「判るさ。俺もあの男に負けて家来になったからな。――でも俺はあいつになりたいと思ったことはないぜ。お前と違ってな」
「ガキ……このガキが……ガキがぁぁぁぁ!!」
須郷は裏返った悲鳴とともに地を蹴り、剣を振りかざした。その体が間合いに入るや否や、俺は右手の剣を軽く一閃させ、奴の滑らかな頬を剣先が掠めた。
「イアァァ!!」
須郷は高く叫ぶと左手で頬を押さえ、飛び退った。
「い……痛ァァアアッ」
目を丸くして悲鳴を上げるその姿は、俺の怒りを更に燃え上がらせた。こんな男がアスナを閉じ込め、二ヶ月もの間虐げつづけたと思うと耐えがたかった。
大きく一歩踏み込み、正面から剣を撃ち下ろした。反射的に掲げた須郷の右手が、一撃で断ち割られ、黄金の剣を握った手首ごと高く飛んで濃い闇の彼方へと消えていった。
「アアアアァァァァ!! 手が……僕の手がああぁぁああ!!」
擬似的な電気信号ではあるが、それゆえに純粋な痛みが今須郷を襲っているのだろう。しかし勿論、そんなものでは足りない。足りるわけがない。
消えうせた右手を抱えてうめく須郷の、緑色の長衣に包まれた胴を、俺は力任せに薙ぎ払った。
「グボアアァァァ!!」
均整の取れた長身が、腹から真っ二つに切断され、重い音を立てて床に転がった。直後、下半身だけが白い炎を上げて燃え崩れた。
俺は、須郷の波打った長い金髪を左手で掴み、持ち上げた。限界まで見開かれた目からどろりとした涙を流し、口をぱくぱくと開閉しながら、須郷は金属質な悲鳴を上げ続けている。
その顔を無表情に眺めながら、俺はしわがれた声で言った。
「――お前のHPが幾つあるか知らんがな、それがゼロになるまで端から少しずつスライスしてやる」
「ヒィ……やめ……や、やめ……」
その姿は、もう俺に嫌悪しか与えなかった。左手をぶんと振って、須郷の上半身を垂直に放り投げる。
大剣を両手で握り、体を捻って直突きの構えを取った。耳障りな絶叫を撒き散らしながら落ちてきた須郷の顔面に向かって――
「うらぁ!!」
俺は全力の突きを叩き込んだ。ガツッと音を立てて、刀身が須郷の右目から後頭部へ抜け、深々と貫いた。
「ギャアアアアアアア!!!」
数千の錆び付いた歯車を回すような、不快なエフェクトのかかった悲鳴が暗闇の世界に響き渡った。剣を挟んで左右に分断された右目から、粘りのある白い炎が噴出し、それはすぐに頭部から上半身に広がった。
溶解し、燃え尽きるまでの数秒間、須郷は途切れることなく叫び続けていた。やがてその声が徐々にフェードアウトし、姿が消え去った。世界に静寂が戻ると、俺は剣を左右に切り払って白い残り火を吹き散らした。
軽く剣で薙いだだけで、アスナを戒めていた二本の鎖は千切れ飛び、消滅した。役目を終えた剣を床に落とし、俺は力なく崩れるアスナの体を抱き止めた。
俺の体を支えていたエネルギーも同時に尽き、俺は床に膝をついた。腕の中のアスナを見つめる。
「……うっ……」
やるせない感情の奔流が、涙に形を変えて俺の両眼から溢れ出した。アスナの柔らかい体を固く抱きしめ、その髪に顔を埋めて、俺は泣いた。言葉は出なかった。ただ、泣き続けた。
「――信じてた」
アスナの、透明な声が耳もとで揺れた。
「……ううん、信じてる……これまでも、これからも。きみは私のヒーロー……いつでも、助けにきてくれるって……」
そっと、手が俺の髪を撫でた。
――違うんだ。俺は……俺には何の力もなくて……
だが、俺は大きく一度息をついてから、震える声で言った。
「……そうあれるように、がんばるよ。さあ……帰ろう……」
右手を振ると、通常のものとは異なる、複雑なシステムウインドウが出現した。俺は直感的に階層を潜り、移動し、転送関連のメニューを表示させると指を止めた。
じっとアスナの瞳を見つめ、言う。
「現実世界は、多分もう夜だ。でも、すぐに君の病室に行くよ」
「うん、待ってる。最初に会うのは、キリトくんがいいもの」
アスナはふわりと微笑んだ。純水のように澄み切った視線で、どこか遠いところを見つめながら、囁いた。
「ああ――とうとう、終わるんだね。帰るんだね……あの世界に」
「そうだよ。……色々変わっててびっくりするぞ」
「ふふ。いっぱい、いろんなとこに行って、いろんなこと、しようね」
「ああ。――きっと」
俺はゆっくり、大きく頷くと、一際強くアスナを抱きしめ、右手を動かした。ログアウトボタンに触れ、ターゲット待機状態で青く発光する指先で、アスナの頬を流れる涙をそっと拭った。
その途端、アスナの白い体を、鮮やかなブルーの光が包み込んだ。少しずつ、少しずつ、水晶のように透き通っていく。光の粒が宙を舞い、足先、指先から消えていく。
完全にこの世界から消え去るまで、俺は、強く強くアスナを抱いていた。ついに腕の中から重みが消え去り、俺は暗闇の中、独りになっていた。
しばらく、そのままの格好で俺はうずくまっていた。
全てが終わったような気もしたし、まだ大きな流れの過程にいるような気もした。茅場の夢想と須郷の欲望が引き起こしたこの事件――これがそのエンディングなのだろうか? あるいは、これすらもより巨大な変革の一部なのだろうか?
俺は、エネルギーの尽きかけた体に鞭打って、どうにか立ち上がった。頭上、暗闇に包まれた世界の深奥を見やって、ぽつりと呟く。
「――そこにいるんだろう、ヒースクリフ」
しばしの静寂ののち、先ほど俺の意識の中で響いたのと同じ、錆びた声でいらえがあった。
『久しいな、キリト君。もっとも私にとっては――あの日のこともつい昨日のようだが』
その声は、先ほどとは異なり、どこか遥か遠いところから届いてくるように感じられた。
「――生きていたのか?」
短く問うと、一瞬の沈黙に続いて答えが聞こえた。
『そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。私は――茅場晶彦という意識のエコー、残像だ』
「相変わらず判り難いことを言う人だな。とりあえず礼を言うけど――どうせなら、もっと前に助けてくれてもいいじゃないか」
『――』
苦笑を洩らす気配。
『それはすまなかったな。カーディナルに溶けた私のフラグメントが結合・覚醒したのが、つい先ほど――君の声が聞こえたときだったものでね。それに礼は不要だ』
「……なぜ?」
『君と私は無償の善意などが通用する仲ではなかろう。もちろん代償は必要だよ、常に』
今度は俺が苦笑する番だった。
「何をしろと言うんだ」
すると、遥か遠い闇の中から、何か――銀色に輝くものが落下してきた。手を差し出すと、かすかな音を立てて収まった。それは小さな、卵型の結晶だった。内部に微弱な光が瞬いている。
「これは?」
『それは、世界の種子だ』
「――何?」
『芽吹けば、どういうものか分かる。――では、私は行くよ。また会おう、キリト君』
そして唐突に、気配は消え去っていた。
俺は首を捻り、輝く卵をとりあえず胸ポケットに落とし込んだ。そして、ハッと思い出した。
「そうだ――ユイ、いるか? 大丈夫か!?」
そう叫んだ途端、暗闇の世界が裂けた。
さっとオレンジの光が暗幕を切り裂き、同時に風が吹いて、みるみるうちに闇を払っていく。あまりの眩しさに一瞬目蓋を閉じ、恐る恐る開くと、そこはあの鳥篭の中だった。
正面に、今まさに沈もうとしている巨大な夕陽が最期の光を放っていた。風が鳴るだけで、人の姿はない。
「――ユイ?」
もう一度呼ぶと、眼前の空間に光が凝縮し、ぽんと音を立てて黒髪の少女が姿を現した。
「パパ!!」
一声叫んで俺の胸に飛び込み、首にぎゅっとかじりつく。
「無事だったか。――よかった……」
「はい……。突然アドレスをロックされて、消去されそうになったので、一度ナーヴギアに退避したんです。でももう一度接続してみたら、パパもママも居なくなってるし……心配しました。――ママは……?」
「ああ、戻ったよ……現実世界に」
「そうですか……よかった……本当に……」
ユイは目を閉じ、俺の胸に頬を擦り付けた。その顔に、かすかな寂しさの影を感じて、俺はそっと長い髪を撫でた。
「――また、すぐ会いにくるよ。でも……どうなるんだろうな、この世界は……」
呟くと、ユイはにこりと笑って、言った。
「わたしのコアプログラムはパパのナーヴギアにあります。いつでも一緒です。――あれ、でも、へんですね……」
「どうかしたのか?」
「なんだか大きなファイルが、ナーヴギアのローカルエリアに転送されています。……アクティブなものではないようですが……」
「ふうん……」
俺は首を傾げたが、その疑問は棚上げすることにした。それよりも、今はやらなくてはならないことがある。
「――じゃあ、俺は行くよ。ママを出迎えに」
「はい。パパ――大好きです」
うっすらと涙を滲ませ、力いっぱい抱きつくユイの頭を撫でながら、右手を振った。
ボタンを押す手を一瞬止め、俺は夕焼けの色に染まる世界を眺めた。偽りの王が治めていたこの世界は、一体これからどうなるのだろうか。この世界を深く愛しているであろうリーファや他のプレイヤー達のことを考えると胸が痛んだ。
ユイの頬に軽く唇を当て、俺は指を深く動かした。放射状の光が視界に広がり、意識を包んで、高く、高く運び去っていった。
頭の芯に深い疲労感を覚えながら瞼を開けると、目の前に直葉の顔があった。心配そうな表情でじっと俺の顔を覗き込んでいたが、目が合うと慌てたようにさっと体を起こした。
「ご、ごめんね、勝手に部屋に入って。なかなか戻ってこないから、心配になって……」
ベッドの縁にぺたんと座り込んだ格好で、直葉は頬をわずかに赤らめながら言った。俺は少々のタイムラグの後に接続感の回復した四肢に力を込め、勢いよく上体を跳ね上げた。
「遅くなって、ごめんな」
「……全部、終わったの?」
「――ああ。終わった……何もかも……」
俺は瞬間、視線を虚空に向けながら答えた。あやういところで再び仮想世界の虜囚に、しかも今度はクリアフラグなしの牢獄にとらわれる所だったなどとは、とても直葉には言えない。いずれ全てを話すときが来るだろうが、今はこれ以上の心配をかけたくなかった。このたった一人の妹に、俺はすでに言葉では言い尽くせないほどの救いを与えてもらっているのだ。
深い夜の森で、緑色の髪の女の子に出会ったあの時から、俺の新しい冒険が始まり――長い旅のあいだ、傍には常に彼女が居てくれた。道を示し、風物を語り、剣で守ってくれた。彼女の導きによって二人の領主たちと出会い、知己を得ることが無ければ、あの守護騎士の壁は突破できなかったに違いない。
思えば、何と多くの人たちに助けてもらったことだろう。最たる助力となってくれたのは勿論彼女だ。俺はキリトとしてリーファに、和人として直葉に頼り、支えられ、しかもその間じゅう、彼女はその小さな肩に深い懊悩を背負っていたのだ――。
俺は改めて直葉の、どこか男の子のようなまぶしい生気と、萌え出たばかりの新緑の儚さの同居した顔を見つめた。手を伸ばし、照れたように小さく笑う彼女の頭をそっと撫でながら言う。
「本当に――ほんとうにありがとう、スグ。お前が居なかったら、俺、何も出来なかったよ」
直葉は真っ赤に染めた顔を俯かせ、しばらくもじもじしていたが、意を決したように体を前に進ませて俺の胸に頬を預けた。
「ううん……あたし、嬉しかった。お兄ちゃんの世界で、お兄ちゃんの役に立てて」
目を閉じて呟く直葉の背に手を回し、軽く力を入れる。
しかし――つい数分前、アスナを同じように抱擁し、その後ユイを抱きしめ、さらにその後直葉と触れ合っていることには罪悪感を覚えずにはいられない。この状況に結論を出すのは非常な困難を伴うであろうという深い確信に、神の前に引き出された罪人のような気分を味わっていると、直葉が俺を見上げて言った。
「じゃあ……取り戻したんだね、あの人――アスナさんを……」
「ああ。ようやく――ようやく帰ってきた。……スグ、俺……」
「うん。行ってあげて、きっとお兄ちゃんを待ってるよ」
「ごめんな。詳しいことは帰ってきてから話すよ」
俺はぽんと直葉の頭に手を乗せ、体を離した。
記録的な速さで身支度をし、ダウンジャケットを引っ掴んで縁側に立つと、外はすっかり暗くなっていた。居間に掛かった時代物の柱時計は十時少し前を指している。面会時間はとうの昔に終了しているが、状況が状況だ。ナースステーションで事情を話せば入れてもらえるだろう。
直葉がとてとてと走り寄ってきて、「これ、作っといた」と分厚いサンドイッチを差し出した。ありがたく受け取って口に咥え、サッシを開けて庭に降りる。
「さ、寒……」
ジャケットを透過してくる冷気に首を竦めると、直葉が暗い夜空を見上げて、言った。
「あ……雪」
「なぬっ」
確かに、大きな雪片が二つ、三つ、白く輝きながら舞い降りてくるところだった。一瞬タクシーを使うべきか迷うが、これから呼んだり、幹線道路まで歩いてから拾うよりは、自転車を飛ばしたほうが時間的には早い。
「気をつけてね。……アスナさんに、よろしくね」
「ああ。今度、ちゃんと紹介するよ」
直葉に手を振ってMTBに跨り、俺はペダルを踏み込んだ。
頭の中が空っぽになるほどの勢いで自転車を疾走させ、埼玉県南部を縦断する。雪は徐々に勢いを増したが、路面に積もるほどではなく、交通量が減るのは逆に有り難かった。
一秒でも早くアスナの病室に辿りつきたい――と思う反面、あの場所を訪れるのを恐れる自分もいた。二ヶ月間というもの、俺は一日置きにあの部屋を訪れては、深い、深い失望を味わいつづけてきた。このまま冷たい彫像になってしまうのではないかと思うほどに、静寂に満ちた眠りにとらわれたままの彼女、その手を取り、届かないと知りつつ何度も、何度も呼びかけた。
こうして、もう路面のギャップに至るまで覚えてしまった道を再び走っていると、あの妖精の世界で彼女を見つけ――残虐な王を倒し――鎖を解き放ったことが、ただの幻想であったような気がしてならない。
もし、あと数分後に病室を訪れ、アスナが目覚めていなかったら。
アルヴヘイムに彼女の魂はすでに無く、現実にも帰還しておらず――ふたたび、どことも知れぬ場所に消え去ってしまったら。
顔を叩く雪のせいだけではない、恐ろしいほどの冷気が俺の背を駆け巡る。いや、そんなことがある筈はない。この現実という名の世界を司るシステムが、そこまで冷酷である筈はない。
縺れ、絡み合う思考の渦を抱えたまま、俺はペダルを踏み続けた。太い幹線道路を右折し、丘陵地帯に入る。トレッドの深いブロックタイヤが、シャーベット状の雪をまとったアスファルトを噛み、蹴り飛ばし、マシンを加速させる。
やがてついに、前方に黒々とした巨大な建築物の影が出現した。灯りは殆ど落ち、屋上のヘリパッドに設置された青い誘導燈が、暗黒の城を彩る鬼火のように明滅している。
最後の坂を登ると、高い鉄柵が出現した。それに沿って更に数十秒走る。一際高い門柱に守られた正面ゲートが見えてくる。
急患の受け入れはしていない、高度医療専門の機関ゆえに、この時間ではすでに門は固く閉ざされ、ガードマンの詰めるボックスも無人だ。俺は正門前を通過してパーキングエリアまで走ると、職員用に開放されている小さなゲートから敷地内に乗り入れた。
駐車場の端に自転車を停め、ロックするのももどかしく俺は走った。ナトリウム灯がぼんやりとしたオレンジ色の光を投げかける夜の駐車場はまったくの無人だ。ただ、大粒の雪だけが無音で天から降り注ぎ、世界を白く染めていく。荒い呼吸と共に水蒸気の塊を吐き出しながら、俺は走る。
恐ろしいほど広大なパーキングを半分ほど横切り、背の高い濃い色のバンと、白いセダンの間を通り抜けようとした、その時だった。
バンの後ろからスッと走り出てきた人影と、俺は衝突しそうになった。
「あ――」
すみません、と言いつつ身をかわそうとした俺の視界を――
ギラリとした、生々しい金属の輝きが横切った。
「!?」
直後、俺の右腕、肘の少し下に鋭い熱感が疾った。それが痛みだと気付くのに、コンマ五秒ほどかかった。白いものが大量に散った。雪ではない――細かい、羽だ。俺のダウンジャケットの断熱材。
俺はよろけ、白のセダンのリア部に衝突してどうにか踏みとどまった。
いまだ状況が理解できず、二メートルほど離れた場所に立つ黒い人影を、唖然としながら凝視した。男だ。黒に近い色のスーツ姿。何か白く、細長いものを右手に握っている。オレンジ色の光を受けて、鈍く輝いている。
ナイフ。大ぶりのサバイバルナイフだ。しかし。何故。
凍りついた俺の顔を、バンの作り出す陰の中から男が凝視するのを感じた。男の口もとが動き、殆ど囁きのような、しわがれた声が流れた。
「遅いよ、キリト君。僕が風邪引いちゃったらどうするんだよ」
その声。キーの高い、粘り気のある、その声は。
「す……須郷……」
呆然と、俺がその名を呼ぶと同時に、男が一歩進み出た。ナトリウム灯の放つ光が、顔を照らし出した。
かつて一度まみえた時は丁寧に撫で付けられていた髪が、激しく乱れている。尖った顎には髭の翳が浮き、ネクタイはほとんど解けて首にぶら下がっているだけだ。
そして――メタルフレームの眼鏡の下から俺に注がれる、異様な視線。その理由はすぐにわかった。細い目は限界まで見開かれ、点のように収縮した瞳孔が細かく震えているが、右の白目の部分が全て真っ赤に染まっているのだ。あの世界で――俺の剣が貫いた、その箇所が。
「酷いことするよねえ、キリト君」
須郷が軋る声で言った。
「まだ痛覚が消えないよ。まあ、いい薬が色々あるから、構わないけどさ」
右手をスーツのポケットに突っ込み、カプセルを幾つか掴み出して口に放り込む。こりこりと音をさせてそれを咀嚼しながら、須郷は更に一歩踏み出した。俺はようやく衝撃から回復し、乾いた唇をどうにか動かした。
「――須郷、お前はもう終わりだ。あんな大き過ぎる仕掛けを誤魔化しきれるものか。おとなしく法の裁きを受けろ」
「終わり? 何が? 何も終わったりしないさ。まあ、レクトはもう使えないけどね。僕はアメリカに行くよ。僕を欲しいっていう企業は山ほどあるんだ。僕にはまだ二千の実験体がある。あれを使って研究を完成させれば、僕は本物の王に――神に――この世界の神になれる」
――狂ってる。いや――おそらく遥か昔から、この男は壊れていたのだ。
「その前に、幾つか片付けることはあるけどね。とりあえず、君は殺すよ、キリト君」
表情を変えず、ボソボソと喋り終えると、須郷はすたすたと歩み寄ってきた。右手のナイフを無造作に俺の腹目掛けて突き出してくる。
「――!」
俺はどうにかそれを避けようと、右足でアスファルトを蹴った。しかし、靴底にこびり付いた雪のせいか、大きく滑ってバランスを崩し、駐車場に倒れ込んだ。体の左側をしたたか打ち付け、瞬間、息が詰まる。
須郷は焦点を失った瞳孔で俺を見下ろした。
「おい、立てよ」
直後、革靴の尖った先端が、鈍い音を立てて俺の大腿部に蹴り込まれた。二度。三度。熱い痛みが脊髄を駆け、頭の奥に響く。
俺は動けなかった。声も出せなかった。須郷の握るサバイバルナイフ――刃渡り二十センチを越えるであろう、その殺傷のための道具が放つ重い圧力が、俺を凍らせた。
殺す――俺を――あのナイフで――?
断片的な思考が流れ、消える。肉厚の刃が、音も無く俺の体に侵入し、致命的な――文字通り命を奪うに足る損傷を与える、その瞬間を何度も、何度も想像する。それ以外、何もできない。
右腕に、痺れるような熱を感じた。ジャケットの袖口と、ウインターグローブの隙間から、黒い液体が数滴したたった。体から、血液が際限なく流れ出すイメージ。HPバーではなく、数値ではなく、明確な、リアルな「死」のイメージ。
「ほら、立てよ。立ってみろよ」
須郷は、壊れた人形のように何度も、何度も俺の足を蹴り、踏みつけた。
「キリト君、さっき何か言ってたよな。逃げるなとか? 臆するなとか? 決着をつけるとか? 偉そうなこと言ったよな」
須郷のささやき声に、あの闇の中で聞いたのと同じ狂気の色が混ざりはじめた。
「わかってんのか? お前みたいなゲームしか能の無い小僧は、本当の力は何も持っちゃいないんだよ。全てにおいて劣ったクズなんだよ。なのに僕の、この僕の足を引っ張りやがって……。その罪に対する罰は当然、死だ。死以外ありえない」
抑揚の無い声でぼそぼそと言いおえると、須郷は左足を俺の腹の上に乗せた。ぐっと重心を移す。その物理的圧力と、奴の狂気が放つ精神的プレッシャーで、息が詰まる。
俺は浅く、速い呼吸を不規則に繰り返しながら、ただ近づいてくる須郷の顔を見ていた。体を屈めた須郷は、右手に握った凶器を高く振りかぶり――
瞬き一つせず、それを振り下ろした。
「――――ッ」
俺の喉の奥から、引き攣った声が漏れるのと――
鈍い金属音とともに、ナイフの先端が俺の頬を掠め、アスファルトに食い込むのは同時だった。
「あれ……右目がボケるんで狙いが狂っちゃったよ」
須郷はぶつぶつ呟くと、再び右手を高く掲げた。
ナイフのエッジをナトリウム灯の明かりが滑り、暗闇の中にオレンジ色のラインを描いた。
硬い路面に突き立てられたせいだろうか、切っ先が、ほんのわずかに欠けている。その瑕が、より現実的な、物理的な凶器としての存在感をナイフに与えている。ポリゴンの武器ではなく、金属分子が密に凝縮した、重く、冷たい、本物の、殺傷力。
何もかもが、ゆっくりと動いていた。黒い空を舞う雪片。歪んだ須郷の口から吐き出される息の塊。俺に向かって降下してくるナイフ。その背に刻まれたセレーションを明滅しながら移動するオレンジ色の反射光。
そう言えば、あんなギザギザのついた武器があったな……。
停止しかけた思考の表層を、無意味な記憶の断片が流れていく。
あれは何だったか。アインクラッド中層の街で売っていたダガー系のアイテムだ。確かソードブレイカーという名前だった。背の鋸状の部分で敵の剣をパリィすると、武器破壊に成功する確率に僅かなボーナスがあるという奴だ。面白そうだったので短剣スキルをスロットに入れてしばらく使ってみたが、基本攻撃力が低いので満足する結果にはならなかった。
今、須郷の手に握られている武器は、あれよりも更に小さい。ダガーと言うにも及ばない。いや――武器の範疇ではない、こんな物は。日常作業用のツールだ。剣士が闘いに用いるような物ではない。
耳の奥に、数秒前の須郷の言葉が蘇る。
本当の力は、何も持っちゃいない――。
そうだ……その通りだ。今更言われるまでもない。しかし、ならば俺を殺すと言うお前は何なのだ、須郷。ナイフ術の達人なのか? 武道の心得でもあるのか?
俺は須郷の眼鏡の奥、血の色に染まる細い目を見つめた。興奮。狂気。しかしそれ以外にも何かある。あれは――逃げる者の眼だ。ダンジョンでモンスターの大群に囲まれ、絶体絶命の死地に陥ったとき、その現実を遮断するために狂躁的に剣を振り回す者の視線。
頭の芯が、急激に冷えていくのを感じた。知覚の加速感。全身の神経をパルスが駆け回る。戦闘待機状態――
そうだ、これは戦闘だ。
俺は左手を上げ、振り下ろされつつある須郷の右手首を掴んだ。同時に右手を伸ばし、親指を須郷の緩んだネクタイの間、喉の窪みに突き込む。
「ぐぅ!!」
ひしゃげた声を上げ、須郷が仰け反った。俺は体を捻ると、両手で須郷の右腕を掴み、その手の甲を凍ったアスファルトに思い切り擦りつけた。悲鳴と同時に手が緩み、ナイフが路面に転がった。
笛の音のような甲高く掠れた絶叫を上げながら、須郷がナイフに飛びつこうとする。右足を曲げ、その顔面を靴のソールで蹴り飛ばした。ナイフを掬い上げ、反動を利用して立ち上がった。
「須郷……」
喉から、自分のものとは思えないさび付いた声が漏れた。
右手のグローブ越しに、硬く冷たいナイフの存在を感じた。武器としては貧弱だ。軽いし、リーチもない。しかし――
「お前を殺すには、十分だ」
呟くと、アスファルトに座り込み、バンに寄りかかって、ぽかんとした顔で俺を見ている須郷に向かって、猛然と飛び掛った。
左手で髪ごと頭を鷲掴みにし、バンのドアに打ち付けた。鈍い音とともにアルミのボディが凹み、眼鏡が吹き飛んだ。須郷が口を大きく開けた。
「イイイィィィィィィィ……」
涙と悲鳴を同時に撒き散らすその口に、俺はナイフを鋭く突き入れた。
カツン、というかすかな音と共に、前歯が一本折れて消し飛び――
そして俺は、左膝をバンのフェンダーにぶつけて体の勢いを止めた。ナイフの先端は、須郷の口蓋の奥にほんのわずか食い込んだ所で停止していた。
「ぐう……ううっ……!」
俺は歯を食いしばった。
「ィィィ! ヒィィィッ!! ィィィィィ!!」
須郷は悲鳴を上げ続けている。
この男は――死んで当然だ。裁かれて当然だ。今、この右手に体重を乗せ、刀身を撃ち込めば、全て終わる。決着だ。完全なる勝者と敗者の決定。
しかし――
俺はもう、剣士ではない。剣の技によって全てが決まるあの世界は、もう、終わったのだ。
「ヒィィィィィィ……」
不意に、須郷の口から血の混ざった白い泡がボトボトと大量にこぼれた。眼球が裏返り、悲鳴が途切れ、その全身が、電力の切れた機械のように脱力した。
俺の手からも、力が抜けた。ナイフが滑り落ち、須郷の腹の上に転がった。
左手も離し、俺は体を起こした。
これ以上、一秒でも長くこの男を見ていれば、再び殺意の衝動が沸き起こり、そしてそれにはもう耐えられないだろうと思った。
須郷のネクタイを引き抜き、体を路面に転がして、両手を後ろに回して縛り上げた。ナイフはバンのルーフの上に放り上げる。俺はよろめく脚に鞭打って後ろを振り向き、一歩、一歩、ゆっくりと駐車場を歩き始めた。
広い階段を登って正面エントランス前に出るころには、五分ほどが経過していた。立ち止まって大きく深呼吸し、どうにか言う事を聞くようになった全身を見下ろす。
雪と砂に汚れ、ひどい有様だ。切られた右腕と左頬が疼くが、すでに血は止まっているようだった。
自動ドアの前に立つ。しかし開く様子はない。ガラス越しに覗き込むと、メインロビーの照明は落ちているが、奥の受け付けカウンターには灯りがあった。左右を見回す。左奥に、小さなガラスのスイングドアを発見し、押してみると音も無く開いた。
建物の中は静寂に満ちていた。広大なロビーに整然と並べられたベンチの列を、ゆっくりと横切っていく。
カウンターの中も無人だったが、その奥に隣接したナースステーションからは談笑する声が漏れていた。俺はマトモな声が出ることを祈りつつ、口を開いた。
「あの……すみません!」
俺の声が響いた数秒後、ドアが開いて薄いグリーンの制服を来た看護師の女性が二人、現れた。いぶかしむような警戒の色を浮かべていたが、俺の顔を見た途端目を丸くする。
「――どうしたんですか!?」
背の高い、髪をアップにまとめた若い看護師が低い声を上げた。どうやら、俺の頬の出血は思った以上の量があるらしい。俺はエントランスの方向を指差し、言った。
「駐車場で、ナイフを持った男が暴れています」
二人の顔に緊張が走った。年配の看護師がカウンターの内側にある機械を操作し、細いマイクに顔を寄せる。
「警備員、至急一階ナースステーションまで来てください」
巡回中のガードマンが近くにいたらしく、すぐに足音と共に紺色の制服を来た男が小走りに現れた。看護師の説明を聞くと、男の顔も厳しくなる。小さい通信機に何事か呼びかけ、ガードマンはエントランスへ向かった。若い方の看護師も後を追う。
残った看護師は、俺の頬の傷を仔細に眺めてから言った。
「君、十二階の結城さんのご家族よね? 傷はそこだけ?」
少々事実に誤認があるようだが、訂正する気力もなく俺は頷いた。
「そう。すぐドクターを呼んでくるから、そこで待っていてください」
言うや否やパタパタと駆けていく。
俺は大きく一度息をついて、周囲を見回した。とりあえず近くに誰もいないのを確認し、カウンターに身を乗り出して、内側からゲスト用のパスカードを掴みだす。看護師が走って行ったのとは別の方向、何度も通った入院棟への通路に向かって、震える足を鞭打って走り出す。
エレベータは一階に停止していた。ボタンを押すと、低いチャイムと共にドアが開く。内部の壁に体を預け、最上階のボタンをプッシュ。病院ゆえに加速は緩やかだが、その僅かなGですら膝が折れそうになる。必死に体を支える。
気が遠くなるほど長い数秒間ののち、箱が停止してドアが開いた。半ば這うように通路へと転がり出る。
アスナの病室までの、ほんの数十メートルは、もう無限の距離と思えた。倒れそうになる体を壁の手すりで支え、前に進む。L字の通路を左に折れると――正面に、白いドアが、見えた。
一歩、一歩、歩いていく。
あのときも――。
夕焼けに包まれた終焉の世界から、現実世界に帰還し、ここではない別の病院で目覚めたあの日も、俺は萎えた脚に鞭打って、歩いた。アスナを捜して、ただただ歩いた。あの道は――ここに繋がっていたのだ。
ようやく、会える。その時が来る。
残りの距離が縮むと同時に、俺の胸に詰まる様々な感情が恐ろしい勢いで高まっていく。呼吸が速くなる。視界が白く染まる。しかし、ここで倒れるわけにはいかない。歩く。ひたすら、脚を前に出す。
ドアの直前まで達したのに気付かず、衝突しそうになって危うく足を止めた。
この向こうに、アスナが――。もう、それしか考えられない。
震える右手を持ち上げると、汗のせいかカードが滑り落ちて床に転がった。拾い上げ、今度こそメタルプレートのスリットに差し込む。一瞬息を止め、一気に滑らせる。
インジケータの色が変わり、モーター音と共にドアが開いた。
ふわりと、花の香りが流れ出した。
室内の照明は落ちている。窓から差し込む雪明りが、ほのかに白く光っている。
病室は、中央を大きなカーテンが横切っている。その向こうにジェルベッドがある。
俺は動けない。これ以上は進めない。声も出せない。
不意に、耳もとで囁き声がした。
『ほら――待ってるよ』
そして、そっと肩を押す手の感触。
ユイ? 直葉? 三つの世界で、俺を助けてくれた誰かの声。俺は右足を動かした。もう一歩。さらに、もう一歩。
カーテンの前に立つ。手を伸ばし、その端を掴む。
引く。
鈴のような――草原を渡る風のような――かすかな音とともに、白いヴェールが揺れ、流れた。
「……ああ」
俺の喉から、祈りに似た声が漏れた。
純白のドレスにも似た薄い病衣をまとった少女が、ベッドに上体を起こし、こちらに背を向けて大きな窓を見ていた。つややかな長い髪に、舞い散る雪が淡い光を届けている。細い両手は体の前に置かれ、その中に深いブルーに輝く卵型のものを抱えている。
ナーヴギア。常に少女を拘束し続けた茨の冠が、その役目を終えて静かに沈黙している。
「アスナ」
俺は、音にならない声で呼びかけた。少女の体がかすかに震え――花の香りに満ちた空気を揺らして、振り向いた。
永い、永い眠りから醒めたばかりで、まだ夢見るような光をたたえているヘイゼルの瞳が、まっすぐ俺を見た。
何度、夢に見たことだろう。何度、祈ったことだろう。
色の薄い、しかしなめらかな唇に、ふわりと微笑みが浮かんだ。
「キリト君」
初めて聴く、その声。あの世界で毎日耳にしていた声とは大きく異なる。しかし、空気を揺らし、俺の感覚器官を震わせ、意識に届くこの声は、何倍も――何倍も素晴らしい。
アスナの左手がナーヴギアから離れ、差し伸べられた。それだけでかなりの力を使うのだろう、わずかに震えている。
俺は、雪の彫像に触れるように、そっと、そっと、その手を取った。痛々しいほど細く、薄い。しかし、温かい。俺の、すべての傷を癒していくように、手から温もりが染み込んでいく。不意に脚の力が抜け、ベッドの端に体を預けた。
アスナは右手も伸ばすと、おそるおそるというふうに俺の傷ついた頬に触れ、首を傾けた。
「ああ……最後の、本当に最後の闘いが、さっき、終わったんだ。終わったんだ……」
言うと同時に、俺の両目から、ついに涙が溢れた。雫が頬を流れ、アスナの指に伝い、窓からの光を受けて輝く。
「……ごめんね、まだ音がちゃんと戻らないの。でも……わかるよ、キリト君の言葉」
アスナは、いたわるように俺の頬を撫でながら、囁いた。その声が届くだけで魂が震える。
「終わったんだね……ようやく……ようやく……きみに、会えた」
アスナの頬にも、銀に輝く涙が伝い、零れ落ちた。濡れた瞳で、意識すべてを伝えようとするかのようにじっと俺を見て、言った。
「はじめまして、結城、明日奈です。――ただいま、キリトくん」
俺も、嗚咽をこらえ、応えた。
「桐ヶ谷和人です。……おかえり、アスナ」
どちらともなく顔が近づき、唇が触れ合った。軽く。もう一度。強く。
腕を、華奢な体に回し、そっと抱きしめる。
魂は、旅をする。世界から世界へ。今生から、次の生へ。
そして誰かを求める。強く、呼び合う。
昔、空に浮かぶ大きな城で、剣士を夢見る少年と、料理が得意な少女が出会い、恋に落ちた。彼らはもういないけれど、その心は長い長い旅をして、ついに再び巡り合った。
俺は、泣きじゃくるアスナの背をそっと撫でながら、涙で揺れる視線を窓の外に向けた。一際勢いを増して舞い散る雪の向こうに、寄り添って立つふたつの人影が見えた気がした。
背に二本の剣を背負った、黒いコート姿の少年。
腰に銀の細剣を吊った、白地に赤の騎士装の少女。
二人は微笑み、手を繋ぐと、振り向いてゆっくりと遠ざかっていった。
[#地から1字上げ](第四章 終)
エピローグ1 二〇一五年初夏
「それでは今日はここまで。課題ファイル二五と二六を転送するので来週までにアップロードしておくこと」
鐘の音を模したチャイムが午前中の授業の終わりを告げ、教師がライトパネルの電源を落として立ち去ると、広い教室には弛緩した空気が漂った。
俺は端末に差した旧式のマウスを操り、ダウンロードされた課題ファイルを開いて一瞥した。たっぷりと歯ごたえのありそうな長文の設問にため息をついてから、マウスを引き抜き、端末を閉じて一緒にデイパックに放り込む。
それにしても、このチャイムはアインクラッド基部層・はじまりの街のチャペルの音にとてもよく似ている。それを知ってこの音色に設定したのなら、この校舎の設計者はなかなかブラックユーモアのセンスがある。
もっとも、揃いの制服を着た生徒たちは誰もそんな事を気にしてはいないようだ。和やかに談笑しながら、三々五々連れ立って教室を後にし、カフェテリアへと歩いていく。
デイパックのジッパーを引き、肩にかけて立ち上がろうとすると、隣席の仲のいい男子生徒が俺を見上げて言った。
「あ、カズ、食堂行くなら席取っといて」
俺が返事をする前に、さらにその隣に座った生徒がにやりと笑いながら言う。
「無理無理、今日は『姫』に謁見の日だろう、カズは」
「あ、そうか。ちくしょう、いいなあ」
「うむ、まあ、そういうことだ。悪いな」
連中のいつもの愚痴が始まる前に離脱すべく、俺は手を上げると素早く教室を抜け出した。
薄いグリーンのパネル張りの廊下を早足で歩き、非常口から中庭に出ると、ようやく昼休みの喧騒が遠のいて俺はほっと息をついた。真新しいレンガの敷かれた小道が、新緑に萌える木々の間を塗って伸びている。梢の上に見える校舎はコンクリートの地肌剥き出しの素っ気無い外見だが、総じて三ヶ月の突貫工事で造成されたとは思えない立派なキャンパスだ。
緑のトンネルを潜るように続く小道を更に数分歩くと、円形の小さな庭園に出る。ふんだんに花壇の配されたその外周部には白木のベンチがいくつか並び、そのうちの一つに、一人の女子生徒が腰掛けて空を見上げている。
濃いグリーンを基調にしたブレザーの制服の背に、ブラウンの長い髪が真っ直ぐに流れている。肌の色は抜けるように白く、しかし最近ではようやく頬にバラのような赤味が戻りつつある。
黒のロングソックスを穿いた細い脚をぴんと揃えて伸ばし、パンプスのつま先でぱたぱたとレンガを叩きながら一心に青い空を見つめているその姿は例えようもなく愛らしく、俺は庭園の入り口で立ち止まると木の幹に手をかけ、我知らず微笑を浮かべながら少女を眺め続けた。
と、彼女は不意にこちらを真っ直ぐ振り返り、俺を見た途端ぱっと笑顔を浮かべた。次いで澄ました表情を浮かべて目を閉じると、ふん、というふうに顔を逸らせる。
俺は苦笑しながらベンチに近づき、声を掛けた。
「お待たせ、アスナ」
アスナはちらりと俺を見上げると、唇をとがらせた。
「もう、どうしてキリトくんはいつもこっそり見てるのよう」
「悪い悪い。うーむ、ひょっとしたら俺、ストーカーの素質があるかもしれん」
「えー……」
嫌そうな顔で身を引くアスナの隣にどかっと腰を下ろし、俺は大きく伸びをした。
「ああ……疲れた……腹減った……」
「なんだか年寄りくさいよ、キリトくん」
「実際この一ヶ月で五歳くらい歳取った気分だなぁ……。それと――」
頭の後ろで手を組み、アスナの顔を横目で見る。
「キリトじゃなくて和人だぞ。ここじゃ一応キャラネーム出すのはマナー違反だからな」
「あ、そっか。つい……ってわたしはどうなるのよ! バレバレじゃないの」
「本名をキャラネームにしたりするからだ。……まあ、俺もなんかバレてるっぽいけど……」
この特殊な「学校」に通う生徒は全て、中学、高校時代に事件に巻き込まれた旧SAOプレイヤーである。積極的殺人歴のある本格的なオレンジプレイヤーこそ、カウンセリングの要有りということで一年以上の治療と経過観察を義務付けられたものの、俺やアスナを含めて自衛のために他のプレイヤーを手に掛けた者は少なくないし、盗みや恐喝といった犯罪行為は記録に残らぬゆえにチェックのしようもない。
よって、基本的にアインクラッドでの名前を出すのは忌避されているものの、何せ顔がSAO時代とほとんど同じだ。アスナにいたっては入学式に即バレしていたようだし、俺も一部の旧上層プレイヤーの間では、古い通り名を含めてかなりの部分が露見してしまっている節がある。
もっとも、すべて無かったことにしようというのは土台無理な話なのだ。あの世界での体験は、夢ではなく現実なのだし、その記憶にはそれぞれのやり方で折り合いをつけていくしかない。
俺は、膝の上で小さな籐のバスケットを抱えているアスナの左手をそっと取り、両手で包み込んだ。
まだかなり細いが、目覚めた直後に比べればふっくらとしてきつつある。
入学に間に合わせようとしたため、リハビリテーションは相当に過酷なものとなったらしい。松葉杖なしで歩けるようになったのはつい最近のことで、今でも走ることを含め運動の類は固く禁じられているそうだ。
覚醒後も、俺は頻繁に病院を訪れたが、歯を食いしばり、涙を滲ませながら歩行訓練をするアスナの姿には我が身を切られるような痛々しさを感じた。あの頃のことを思い出した俺は、いつしかアスナの細い指を、そっと、何度も何度も撫でていた。
「き、キリトくん……」
アスナが体をすくめ、頬を赤くして俯いた。俺は顔を上げ、じっとアスナのはしばみ色の瞳を見つめた。
「あ……」
右手を伸ばし、艶やかな長い髪に触れる。耳のうしろに手をかけ、引き寄せ、唇を近づける――。
「……学校じゃ、だめ!」
――が、左の手の甲をむぎゅーと抓られてしまった。已む無く不埒な行為を断念する。
「ちぇー。いいじゃん、誰もいないんだしさ」
「知らないの? ここ、カフェテリアから丸見えなんだよー」
「なぬ……」
顔を上げると、確かに木々の上に、校舎最上階の大きな採光ガラスが見えた。慌てて手を離す。
「ほんとにもう……」
アスナは呆れたようにため息をつくと、再びつんと顔をそらせた。
「そういう悪い人には、お弁当あげない」
「うあ、勘弁」
必死に謝ること数秒、アスナはようやくニコリと笑い、膝の上のバスケットの蓋を開けた。丸いキッチンペーパーの包みを一つ取り出し、俺に差し出す。
受け取っていそいそと紙を開くと、それはレタスのはみ出た大ぶりのハンバーガーだった。香ばしい香りに胃を直撃され、慌てて大口をあけてかぶりつく。
「こっ……この味は……」
がつがつと咀嚼、そののちにごくんと嚥下してから、俺は目を丸くしてアスナの顔を見た。アスナはにっこり笑い、言った。
「えへへ。覚えてた?」
「忘れるもんか。七十四層の安地で食べたハンバーガーだ……」
「いやー、ソースの再現に苦労したのよこれが。理不尽な話だよね。現実の味を真似しようとして向こうで死ぬほど苦労して、今度はその味を再現するのにこっちで苦労するなんてさ」
「アスナ……」
俺はあの幸福な日々を思い出し、感傷の嵐が胸中に吹き荒れるのを感じながら、思わず再びアスナを抱き寄せた。
「やだ、口にマヨネーズついてる!」
そして再び拒絶された。
俺が大きいのを二つ、アスナが小さいのをひとつ食べ終える頃には、昼休みも残りわずかとなっていた。小ぶりの保温ポットからハーブティーを注いでくれたアスナが、紙コップを両手で抱えながら言った。
「キリトくん、午後の授業は?」
「今日はあと二コマかな……。まったく、黒板じゃなくてELパネルだし、ノートじゃなくてタブレットPCだし、宿題はLANで送られてきやがるし、これなら自宅で授業でも一緒だよなぁ」
ぼやく俺を見て、アスナがふふ、と笑う。
「そのお陰でこうやって会えるんだから、いいじゃない」
「まあそうなんだけどさ……」
アスナとは、自由選択科目はすべて共通にしたものの、いかんせん元々の学年が違うのでカリキュラムに差があり、会えるのは週に三日である。
「それに、ここは次世代学校のモデルケースにもなってるらしいよ。お父さんが言ってた」
「へえ……。彰三氏は、元気?」
「うん。一時期は相当しょげてたけどね。人を見る目がなかったー、って。CEOやめて半分引退したから、肩の荷の下ろし方に迷ってるんじゃないかな。そのうち趣味でも見つければ、すぐ元気になるわよ」
「そっか……」
俺はお茶を一口すすり、アスナに倣って空を見上げた。
アスナの父、結城彰三氏が娘の夫にと見込んでいたあの男――須郷。
あの雪の日、病院の駐車場で逮捕された須郷は、その後も醜く足掻きに足掻きまくった。黙秘に次ぐ黙秘、否定に次ぐ否定、最終的に全てを茅場晶彦に背負わせようとした。
しかし、奴の二人の部下が、重要参考人で引っ張られた直後からあっけなく全てを告白し、レクトプログレスの横浜支社に設置されていたサーバーにおいてSAO未帰還者二千人が非人道的実験に供されているのが露見するに及んで須郷に逃げ道は無くなり、公判が始まった現在では精神鑑定を申請しているらしい。主な罪状は傷害だが、略取、監禁罪が成立するのかどうかが世間の耳目を集めている。
奴の手がけていた、NERDLESによる洗脳という邪悪な研究も、結局初代ナーヴギア以外では実現不可能な技術であるということが判明した。ナーヴギアはほぼ全て廃棄されたはずだし、須郷の実験結果から対抗措置の開発も可能ということらしい。
幸いだったのは、二千人の未帰還者に、実験体とされてる間の記憶が無かったことだ。脳に器質的障害を負ったり、精神に異常を来してしまったプレイヤーがわずかに居たものの、大半の被害者は十分な加療ののちに社会復帰が可能だろうとされている。
しかし、レクトプログレス社とアルヴヘイム・オンライン、いや、ダイレクトバーチャル・リアリティというジャンルのゲームそのものは、回復不可能な打撃を被った。
もともと、SAO事件だけでかなりの社会的不安を醸成していたのだ。それを、あくまで一人の狂人の例外的犯罪と断じて、今度こそ安全、と銘打って展開したALOを含むVR−MMOゲームだったが、須郷の起こした事件によって、全てのVRワールドが犯罪に利用される可能性がある、と目されることとなった。
最終的にレクトプログレスは解散、レクト本社もかなりの事業縮小を行い、社長以下の経営陣を刷新してどうにか危機を乗り切りつつあるところだ。
勿論ALOも運営中止に追い込まれ、その他に展開されていた五、六タイトルのVR−MMOもユーザーの減少こそ微々たるものの――ネットゲーマーの救いがたい性ゆえだ――社会的批判は喧しく、こちらも中止は免れ得ないだろうと言われていた。
その状況を、力技で根こそぎひっくり返してしまったのが――
茅場晶彦が、俺に託した「世界の種子」だった。
茅場についても触れておかねばなるまい。
二〇一二年十一月のSAO世界の崩壊と同時に、やはり茅場晶彦は死亡していた、ということが明らかになったのは二ヶ月前――二〇一三年三月のことだった。
茅場がヒースクリフとしてアインクラッドに存在した二年の間、彼が潜伏していたのは長野県の人里離れた山間にあった山荘だった。
もちろん、茅場のナーヴギアには「死の枷」は仕掛けられておらず、自由にログアウトできる状況だったが、ギルド血盟騎士団の団長としてそのログインは最長連続一週間に及ぶこともあり、その間の介助をしていたのは、茅場がアーガス開発部と同時に在籍していた、とある工業系大学の研究室で、彼と同じ研究をしていた大学院生の女性だった。
その研究室にはかの須郷も学生時代に席を連ね、表面的には茅場を先輩と慕いつつも猛烈な対抗心を燃やしていたそうだ。その女性にも再三求愛したことがあったそうで――俺はその話を、先月保釈されたその女性本人から聞いた。女性のメールアドレスを救出対策室のエージェントから無理やり聞き出し、会って話をしたいとメールを出し、一週間後に許諾の返事を貰うやいなや彼女が暮らす宮城県の生家までのこのこ出かけて行ったのだった。
茅場は、SAO世界の崩壊とともに命を絶つことを、事件を起こす以前から決意していたらしい。しかしその死に方が異常だった。彼は、NERDLESシステムを改造したマシンでおのれの大脳に超高出力のスキャンを行い、脳を灼き切って死んだそうだ。
成功の確率は千分の一もありませんでしたが――、と、その、水仙の花を思わせるどこか儚げな女性は言った。
もし茅場の目論見が成功すれば、彼は己の思考、つまり大脳内部の電気反応をすべてデジタル信号に置き換え、本当の意味での電脳となってネットワーク内に存在するはずだ、と。
俺は迷った末、世界樹、つまり旧SAOサーバー内部で茅場の意識と会話したことを話した。彼が俺とアスナを救ってくれたこと、そして俺にある物を託したのだということを。
女性は、数分間うつむき、ひとつぶの涙を零したあと、俺に言った。
彼のしたことは許されることではない。
彼を憎んでいるなら、それを全て消去してください。
でも、もしも、そうでないのなら――。
「――キリトくん。キリトくんてば。今日のオフだけどさ……」
肘をつつかれ、俺は我に返った。
「ああ――ごめん。ぼんやりしてた」
視線を白い雲の群から、右隣のアスナに移す。
両手を伸ばし、今度こそしっかりと彼女を抱き寄せる。
「あ、もう……」
アスナは少し抵抗する素振りを見せたが、すぐに体の力を抜き、頭をぽふっと俺の肩に預けた。
カフェテリアの西側の窓際、南から三つ目の丸テーブルに陣取って、あたしはパックの底に残ったいちごヨーグルトドリンクをストローで力任せに吸い上げた。乙女が立てるには相応しくない騒音が盛大に発生し、向かいの椅子に座る綾野珪子が顔をしかめる。
「もう、リズ……里香さん、もうちょっと静かに飲んでくださいよ」
「だってさぁ……あー、キリトの奴、あんなにくっついて……」
あたしの視線の先では、このテーブルからだけ梢を貫いて見ることができる中庭のベンチで、一人の男子生徒が女子生徒をしっかとかき抱いて髪を撫でている。
「けしからんなあもう、学校であんな……」
「そっそれに趣味悪いですよ、覗きなんて!」
あたしはちらりと珪子を見て、少々意地悪い口調で言った。
「そんなこと言いながら、シリカだってさっきまで一生懸命見てたじゃない」
珪子ことダガー使いのシリカ――逆かな?――は、顔を真っ赤にして俯き、はぐはぐとエビピラフを口に詰め込みはじめた。
空になったパックを握りつぶして数メートル離れた屑篭に放り込み、あたしはテーブルに頬杖をついて盛大にため息をついた。
「あーあ……こんなことなら『一ヶ月休戦協定』なんて結ぶんじゃなかったなあ」
「リズさんが言い出したんじゃないですか! 一ヶ月だけあの二人にらぶらぶさせてあげよう、なんて……。甘いんですよまったく」
「ほっぺたにご飯粒ついてるよ」
あたしはもういちどため息をついて、頭上の採光ガラスの向こうを流れていく白い雲を見上げた。
どうやって調べたのか、キリトから突然メールが来たのは二月の半ばだった。
あたしは驚愕し、第二ラウンドのゴングを頭のなかで響かせつついそいそと待ち合わせ場所に向かったのだが、喫茶店で聞いたキリトの話には更なる驚きを味わった。
世間を盛大に騒がせていたあの「ALO事件」にキリトが関わり、世間一般には伏せられているもののアスナも特殊な形の被害者だったというのだ。
アスナがとても会いたがっていると言われ、勿論あたしはすぐさまお見舞いに飛んでいった。そして、今にもとけて消えてしまいそうな、雪の精のようなアスナの姿を見て、アインクラッドで彼女に感じていた保護者的感情を大いに刺激されたのだった。
幸い、アスナは日に日に元気を取り戻し、この学校に同時に入学することができた。しかしやはり彼女を前にすると、あたしはライバルというよりも守るべき妹のように思えて仕方なく、つい、同じようにキリトに惚れている、数人のSAO時代の友人を巻き込んで「五月いっぱいはあの二人を暖かく見守ろう」同盟を結んだ――のである。が。
三度目のため息を、BLTサンドの最後のひとかけらと共に飲み込み、あたしはシリカを見やった。
「あんたは今日のオフ会、行くの?」
「もちろんですよー。リーファ……直葉ちゃんも来るんですって。オフで会うのはじめて、楽しみだなぁ」
「シリカはリーファと仲いいもんね」
あたしは再びイジワルな笑みを浮かべた。
「あれかな? 同じ『妹』として親近感あったりするの?」
「むっ……」
シリカは頬をひくつかせると、ピラフの最後のひとくちを口に放り込み、同じように笑った。
「そういうリズさんこそ、すっかり『お姉さん』ですよね、この頃」
あたしたちは数秒間ばちばちと火花を散らしてから、同時に雲を見上げ、同時にため息をついた。
エギルの店『ダイシー・カフェ』の、無愛想な黒いドアには、同じく無愛想な木札が掛けられ、無愛想な字で「本日貸切」と書きなぐってあった。
俺は、隣の直葉に顔を向け、言った。
「スグはエギルと会ったことあったっけ?」
「うん、向こうで二回くらいいっしょに狩りしたよ。おっきい人だよねえ〜」
「言っとくけど、本物もあのマンマだからな。心の準備しとけよ」
目を丸くする直葉の向こうで、アスナがくすくすと笑う。
「わたしも、初めてここに来たときはびっくりしたよー」
「正直、俺もびびった」
怯えたような顔をする直葉の頭をぽんと叩いて、にやっと笑いかけると俺は一気にドアを押し開けた。
カラン、と響くベルの音、それに重なって、わあっという歓声、拍手、口笛が盛大に巻き起こった。
広いとは言えない店内には、すでにぎっしりと人が詰まっていた。スピーカーがずんずんと大音量でBGM――驚いたことにアインクラッドのNPC楽団が奏でていた街のテーマだ――を響かせ、皆の手には飲み物のグラスが光り、すでにかなり場は盛り上がっているようだ。
「――おいおい、俺たち遅刻はしてないぞ」
あっけに取られて俺が言うと、制服姿のリズベットが進み出てきて言った。
「へっへ、主役は最後に登場するものですからね。あんた達にはちょっと遅い時間を伝えてたのよん。さ、入った入った!」
俺たち三人はたちまち店内に引っ張りこまれ、店の奥の小さなステージに押し上げられた。ドアがバターンと閉まり、直後、BGMが途切れ、照明が絞られる。
いきなりスポットライトが俺に落ち、再び、リズベットの声がした。
「えー、それでは皆さん、ご唱和ください。……せーのぉ!」
「「キリト、SAOクリア、おめでとー!!!」」
全員の唱和。盛大なクラッカーの音。拍手。
俺のポカーンとした間抜け面に、いくつものフラッシュが浴びせられた。
今日のオフ会――『アインクラッド攻略記念パーティー』を企画したのは俺とリズ、エギルだったはずなのだが、いつの間にか俺抜きで話は進みまくっていたようだった。店内に溢れる人数は、俺の予想の倍を上回るだろう。
乾杯のあと、全員簡単な自己紹介、それに続いて俺のスピーチ――これも予定には無かった――が終わり、エギル特製の巨大なピザの皿が何枚も登場するに及んで、宴は完全はカオス状態に突入した。
俺は男性の参加者全員から手荒い祝福と、女性参加者からのやや親密すぎる祝福を受け、へろへろになってカウンターにたどり着き、スツールに沈み込んだ。
「マスター、バーボン。ロックで」
言うと、白いシャツに黒の蝶タイ姿の巨漢はじろりと俺を見下ろした。数秒後、驚いたことに本当にロックアイスに琥珀色の液体を注いだタンブラーが滑りでてくる。
ちびりと舐め、その強烈な味に顔をしかめていると、隣のスツールにひょろりと長身の男が座った。スーツに趣味の悪いネクタイを締め、あろうことか額に同じく悪趣味なバンダナを巻いている。
「エギル、俺にもバーボン」
男――カタナ使いのクラインはくるりとスツールを回転させ、店内の一角、女性陣が華やかな笑い声を上げているテーブルをだらしない顔で見つめた。
「おいおい、いいのかよ。この後会社に戻るんだろう」
「へっ、残業なんて飲まずにやってられるかっての。それにしても……いいねェ……」
鼻の下を伸ばしまくるクラインに、俺はため息をつくともう一口バーボンを啜った。
しかしまあ、確かに視覚の保養と言いたくなる光景ではある。アスナ、リズベット、シリカ、サーシャ、ユリエール、直葉と、女性プレイヤー陣が勢ぞろいしているところは写真に撮って飾っておきたいほどだ。いや――実際、ユイのために録画しているのだが。
反対側のスツールに、もう一人男が座った。こちらもスーツ姿だが、クラインと違ってまともなビジネスマンと言った印象だ。元「軍」の最高責任者、シンカーだ。
俺はグラスを掲げると、言った。
「そういえば、ユリエールさんと入籍したそうですね。遅くなりましたが――おめでとう」
カチンとグラスを合わせる。シンカーは照れたように笑った。
「いやまあ、まだまだ現実に慣れるのに精一杯って感じなんですけどね。ようやく仕事も軌道に乗ってきましたし……」
クラインもグラスを掲げ、身を乗り出した。
「いや、実にめでたい! くそう、俺もあっちで相手見つけとけばよかったぜ。そういえば、見てますよ、新生『MMOトゥデイ』」
シンカーは再び照れた笑顔を浮かべる。
「いや、お恥ずかしい。まだまだコンテンツも少なくて……それに、今のMMO事情じゃ、攻略データとかニュースとかは、無意味になりつつありますしねえ」
「まさしく宇宙誕生の混沌、って感じだもんな」
俺も頷くと、ちゃかちゃかとシェイカーを振っている店主を見上げた。
「エギル、どうだ? その後――『種』のほうは」
禿頭の巨漢は、ニヤリと子供なら泣き出しそうな笑みを浮かべると、愉快そうに言った。
「すげえもんさ。今、ミラーサーバがおよそ五十……ダウンロード総数は十万、実際に稼動している大規模サーバが三百ってとこかな」
茅場から託された『世界の種子』――。
俺は、茅場の助手であった女性との会談の数日後、ユイの手によってナーヴギアのローカルエリアからBDVDに落とされた巨大なそのファイルを、エギルの店に持ち込んだ。種子の『発芽』を手助けできるのは、俺の知己ではこの男しかいないと思ったからだ。
世界の種子。
それは――茅場の開発した、NERDLESシステムによるダイレクトVR環境を動かすための、一連のプログラム・パッケージだった。
五感のインプット・アウトプットを制御するプログラムの開発は、困難を極める。現実的には、全世界で稼動している全てのVRゲームは、茅場がアーガスで開発した『カーディナル』システムを元にしており、そのライセンス料は恐ろしいほどの巨額だった。
アーガス消滅に伴って、プログラムの権利はレクトに委譲され、更にレクトプログレスの解散によって新しい引き受け先が求められていたが、金額の大きさと、VRゲームというジャンルに対する社会的批判によってどの企業も手が出せず、ジャンル自体の衰退は確実視されていたのだ。
そこに登場したのが、完全権利フリーをうたうコンパクトなVR制御システム『ザ・シード』だったというわけだ。俺の預けたそのプログラムを、エギルはコネクションを駆使して全世界のあちこちのサーバにアップロードし、個人、企業に関わらず誰でも落とせるようにそれを完全に解放したのだった。
茅場はカーディナルシステムを整理し、小規模なサーバでも稼動できるようダウンサイジングしただけに留まらず、その上で走るゲームコンポーネントの開発支援環境をもパッケージングした。
つまり、VRワールドを創りたいと望むものは、回線のそこそこ太いサーバを用意し、『ザ・シード』をダウンロードして、3Dオブジェクトを設計、もしくは既存のものを配置し、プログラムを走らせれば――
それで、世界がひとつ誕生することになるのだ。
死に絶えるはずだったアルヴヘイム・オンラインを救ったのは、ALOのプレイヤーでもあったいくつかのベンチャー企業の関係者だった。
彼らは共同出資で新たな会社を立ち上げ、レクトからALOの全データをタダに近い低額で譲り受けた。それは、生還した愛娘から「おねだり」されたレクト新会長の意向によるものだったのだが。
アルヴヘイムの広大な大地は、新しいゆりかごの中で再生され、プレイヤーデータも完全に引き継がれた。事件によってゲームを辞めた者は全体の一割にも満たなかったらしい。
もちろん、誕生した世界はアルヴヘイムだけではなかった。
従来、ライセンス料を支払うほどの資金力の無かった企業や、はては個人に至るまで、数百にのぼる「創り手」が名乗りを上げ、次々とVRゲーム・サーバが稼動したのだ。あるものは有料、あるものは無料だったが、自然な流れとしてそれらは相互に接続されるようになり、いくつかのメタ・ルールが導入された。今では、ひとつのVRゲームでキャラクターを作れば、それで複数のゲーム世界をシフトできるのも当たり前になりつつある。
さらに、ザ・シードの利用法は、ゲームだけに留まらなかった。教育、コミュニケーション、観光、日々新たなカテゴリーのサーバが誕生し、日々新たな世界が生まれる――。VR世界の「現実置換面積」が、日本という国の大きさを上回る日も、そう遠くはない。
シンカーは苦笑しながらも、どこか夢見る眼差しで言葉を続けた。
「私たちは、多分いま、新しい世界の創生に立ち会っているのです。その世界を括るには、もうMMORPGという言葉では狭すぎる。私のホームページの名前も新しくしたいんですがね……なかなか、これ、という単語が出てこないんですよ」
「う〜〜……む……」
クラインが腕組みをして、眉を寄せて考え込む。俺は奴の肘を突付き、笑いながら言った。
「おい、ギルドに『風林火山』なんて名前付けるやつのセンスには誰も期待してないよ」
「なんだと! 言っとくが新・風林火山には加入希望者が殺到中なんだぞ!」
「ほう。かわいい女の子がいるといいな」
「ぐっ……」
言葉に詰まるクラインの顔を見てひとしきり大笑いすると、俺は再びエギルに向かって言った。
「おい、二次会の予定は変更無いんだろうな?」
「ああ、今夜十一時、イグドラシル・シティ集合だ」
「それで……」
俺は声を潜めた。
「アレは、動くのか?」
「おうよ。新しいサーバ群をまるまる一つ使ったらしいが、なんせ『伝説の城』だ。ユーザーもがっつんがっつん増えて、資金もがっぽりがっぽりだ」
「そう上手く行きゃあいいがな」
――茅場が残したファイルは、解凍したところ中身が二つあったのだ。
一つは『ザ・シード』。そしてもう一つは――
俺はグラスを干し、馴れないアルコールでくらくらする頭を一振りして店の天上を見上げた。黒い板張りが、深い夜空のように見えた。うっすらと灰色の雲が流れていく。月が姿を現し、世界を青く染める。そして、その彼方から現れる、巨大な――
「おーいキリト、こっちこーい!」
すっかり出来上がっているらしいリズベットが大声で喚き、手をぶんぶん振って俺を呼んだ。
「……あいつ、酔ってるんじゃないだろうな……」
彼女が手にもつ、ピンク色の液体を湛えた巨大なグラスに目を止め、俺が呟くとアウトロー店主がすました顔で言った。
「一%以下だから大丈夫だ。明日は休日だしな」
「おいおい」
首を振り、俺は立ち上がった。長い夜になりそうだった。
エピローグ2 浮遊城への帰還
漆黒の夜空を貫いて、リーファは飛翔していた。
四枚の翅で大気を蹴り、切り裂き、どこまでも加速する。耳もとで風が鳴る。
以前なら、限られた飛翔力で最大の距離を稼ぐため、最も効率のいい巡航速度や、加速と滑空を繰り返すグライド飛行法など、色々なことを考慮しながら飛ばなくてはならなかった。
しかしそれはもう過去の話だ。今の彼女を縛るシステムの枷は存在しない。
結局、世界樹の上に空中都市は無かった。光の妖精アルフは存在せず、訪れたものを生まれ変わらせてくれるという妖精王は偽の王だった。
しかし、一度この世界が崩壊し、新たな大地を得て転生したとき、新しい支配者――いや、調整者たちは、すべての妖精の民に永遠に飛べる翅を与えたのだ。アルフではなく、緑色の風の民シルフのままだけれど、リーファにはそれで十分だった。
集合時刻より一時間も早くログインし、ここしばらく滞在しているケットシー領首都フリーリアを飛び立ったリーファは、もう四十分に渡って飛びつづけていた。その間、一秒たりとも休むことはなく、ただ本能の命ずるままに翅を全力で振動させているのだが、グラスグリーンに発光する魔法のプロペラはわずかにも力を失うことなく、リーファの意思に応えつづけている。
この新しい世界での加速セオリーは、キリトに言わせれば自動車のそれによく似ているらしい。
飛び立った直後は、翅を左右に広げ、振幅も大きく取り、「トルク重視」――これもキリトの言葉だ、意味はよくわからない――の飛び方で力強く空気を蹴り飛ばす。
徐々に速度が乗ってくると、それに合わせて翅の角度を鋭くし、振幅も細かくしていく。最高速度域では、翅は殆ど一直線になるまで畳まれ、見えなくなるほどの高速で振動するために地上からはまるで色つきの彗星が飛んでいくように見える。その段階に達すると速度の増加幅も微々たるもので、どこまでスピードが出せるかは、あとはもう飛行者の根性ひとつだ。たいていのプレイヤーは、恐怖と疲労によってやがて減速していくことになる。
先週開かれた「アルヴヘイム横断レース」では、リーファはキリトと凄まじいデッドヒートを演じた挙句、僅差で先にゴールに飛び込んだ。二人があまりに他の参加者をぶっちぎってしまったために、第二回の開催が危ぶまれているほどだ。
(あの時は、楽しかったな……。)
リーファは飛びながら小さく思い出し笑いをした。ゴール直前で追いすがってきたキリトが、リーファを笑わせようとしょうもない冗談をわめくという汚い手段に出て、まんまと爆笑してしまった。お返しにと、オブジェクト化して投げつけた毒消しポーションが命中しなかったら危くトップを奪われるところだった。
ああいうイベントで飛ぶのもいいけれど――しかしやはり、頭のなかを空っぽにして、ただただ限界の先を目指して加速していく時がいちばん気持ちいい。
数十分の飛翔で、すでに速度はギリギリのところまで上がっている。暗い闇に包まれた地上はもはや流れていく縞模様でしかなく、時々前方に小さな街の灯りが現われては、たちまち後方に消え去っていく。
体感的に、今までで最高のスピードに達した――と思った時点で、リーファは一瞬翅を広げ、体を反らせて急上昇に転じた。
頭上では、厚い雲の切れ目に巨大な満月が輝いている。その、青白い円盤目指してロケットのように舞い上がっていく。
数秒後、風鳴り音のわずかな変化とともに雲海に突入する。黒いヴェールの真っ只中を、銃弾のように一直線に貫く。至近距離で雷光が瞬き、雲の塊が白く染まるが、意に介せず突き進む。
やがてついに雲海を抜ける。ペールブルーの月光が世界を包み、眼下には一面の雲の平原。もう見えるのは、彼方で雲を貫いてそびえる世界樹の尖端のみだ。さすがに速度がやや鈍ってくるが、唇を引き結び、指先をぴんと伸ばして、一心に満月を目指す。気のせいか、銀の皿のような月の直径が少しずつ大きくなってくる。いくつものクレーターがはっきりと見える。
そのうちのひとつ、巨大な窪みの中央に、キラキラと瞬く光の群があるように思えるのは眼の錯覚だろうか? それともあそこには、誰も知らない月の民が暮らす街があるのだろうか? もう少し――もう少し近づけば――
しかしとうとう、世界の果て、限界高度の壁がリーファを捕える。加速が急激に鈍り、体が重くなる。この先で仮想空間が終わっているのだ。これ以上上昇できないのは仕方ない。でも……
リーファはいっぱいに右手を伸ばす。月を掴もうとするかのように、指を広げる。行きたい。もっと、高く。どこまでも遠く。成層圏を越え、重力を切り離し、あの月世界まで。いや、その先、惑星軌道をまたぎ、彗星を追い越し、星々の大海まで――。
ついに上昇速度がゼロになり、ついでマイナスになる。リーファは手を大きく広げたまま、夜空を自由落下していく。月が徐々に遠ざかる。
でも、リーファはまぶたを閉じ、微笑を浮かべる。
今はまだ、届かないけど――
キリトに聞いた話では、このアルヴヘイム・オンラインも、より大きなVRMMO集合体に接続する計画があるそうだ。手始めに、月面を舞台にしたゲーム「LUNASCAPE」と相互連結するらしい。そうすれば、あの月まで飛んでいけるようになる。やがて他のゲーム世界も、それぞれひとつの惑星として設定され、星の海を渡る連絡船が行き来する日がくる。
どこまでも飛べる。どこまでも行ける。けれど……絶対に行けない場所もある。
不意にリーファは、一抹の寂しさを感じる。
ふわふわと雲海に向かって落下しながら、両手でぎゅっと体を抱きしめる。
寂しさの理由はわかっている。今夜、現実世界でキリト――和人に連れていってもらったパーティーのせいだ。
とても楽しかった。今まで、この世界でしか会うことのできなかった新しい友人たちと初めてリアルで顔をあわせ、色々な話をした。あっという間の三時間だった。
でも、同時に直葉は感じていた。彼らを繋ぐ、目には見えないけれどとても強い、絆の存在を。いまは無い「あの世界」、浮遊城アインクラッドで共に戦い、泣き、笑い、恋をした記憶――それは、現実世界に帰ってきてもなお、彼らのなかで強い光を放っているのだ。
和人のことが好きな気持ちは変わっていない。
夜、ドアの前でおやすみを言うとき、朝、いっしょに駅まで走るとき、いつもふんわりと暖かい陽だまりのような気持ちを感じる。
いっそ本当の兄妹のままなら、そうでないなら違う街にすむ他人同士ならと、辛い涙を流したこともあった。でも今は、毎日同じ屋根の下で暮らせることが幸せだと思う。和人の心全部でなくていい。その片隅に、ほんの少し自分のための場所を作ってもらえれば、それでいい。
――ようやく、そう思えるようになってきたところだったのに。
あのパーティーで、和人がいつかは遠い、手の届かないところに行ってしまうような、そんな予感がした。あの人たちの絆のあいだには入っていけない。そこに、直葉の場所はない。なぜなら、直葉には「あの城」の記憶がないから。
体を小さく丸めて、リーファは流星のように落下を続けた。
雲海はもうすぐだ。集合場所は世界樹の上部に新設された街イグドラシル・シティなので、そろそろ翅を広げ、滑空を始めなくてはならない。でも、心を塞ぐ寂しさのせいで、翅が動かせない。
冷たい風が頬を撫でていく。胸のなかの温もりを奪っていく。このまま暗い雲の海に、深く、深く沈んで――
突然、体が何かに受け止められ、落下が止まった。
「――!?」
リーファは驚いて瞼を開けた。
目の前に、キリトの顔があった。両手でリーファを抱きかかえ、雲海の直前でホバリングしている。なんで――、と言う前に、浅黒い肌のスプリガンは口を開いた。
「どこまで昇ってくのか心配したぞ。もうすぐ時間だから迎えにきたよ」
「……そう……ありがと」
リーファはにこりと笑うと、翅を羽ばたかせ、キリトの腕から抜け出した。
この新しいアルヴヘイム・オンラインを動かしている運営体が、レクトプログレス社から移管された全ゲームデータ、その中には旧ソードアート・オンラインのキャラクターデータも含まれていた。そこで、運営体は元SAOプレイヤーが新ALOにアカウントを作成する場合、外見も含めてキャラクターを引き継ぐかどうか選択できるようにしたのだ。
よって、リーファが日ごろ一緒に遊んでいるシリカやアスナ、リズベット達は、妖精の種族的特徴は付加されたものの基本的に現実の姿に限りなく近い外見を持っている。でも、キリトは選択肢を与えられたとき、以前の外見を復活させることをせず、このスプリガンの姿を使いつづけることを選んだ。あの凄まじいまでのステータスもあっさりと初期化し、一から鍛えなおしている。
今、ふとリーファはその理由を知りたくなり、同じく宙にホバリングしながらキリトに問い掛けた。
「ねえ、お兄ちゃ……キリト君、なんで他の人みたいに、元の姿に戻らなかったの?」
「うーん……」
するとキリトは腕を組み、どこか遠くを見るように瞳を煙らせた。薄く微笑み、答える。
「あの世界のキリトの役目はもう終わったのさ」
「……そっか」
リーファも小さく笑った。
スプリガンの戦士キリトと最初に出会い、世界樹まで旅をしたのは自分なのだ。そう思うと、少しだけ嬉しかった。
立ったまま宙を移動すると、リーファはキリトの右手を取った。
「ね、キリト君。踊ろう」
「へ?」
目を丸くするキリトを引っ張り、雲海の上を滑るようにスライドする。
「最近開発した高等テクなの。ホバリングしたままゆっくり横移動するんだよ」
「へ、へえ……」
キリトも挑戦心を刺激されたようで、真剣な顔をするとリーファの動きに合わせて滑ろうとした。しかしすぐつんのめってバランスを崩す。
「のわっ!」
「ふふ、前加速しようとするとだめなんだよ。そうじゃなくて、ほんのちょっとだけ上昇力を働かせて、同時に横にグライドする感じ」
「むむう……」
リーファに腕を引かれ、よろめきながら数分間苦戦したキリトは、やがてさすがの適応力でコツを会得したようだった。
「おっ……なるほど、こうか」
「そうそう。うまいうまい」
ニコっと笑い、リーファは腰のポケットから小さなビンを取り出した。栓を抜き、空中に浮かせると、ビンの口から銀色の光のつぶが溢れ出し、同時にどこからともなく澄んだ弦楽の重奏が聞こえてくる。プーカのハイレベル吟遊詩人が、自分たちの演奏を詰めて売っているアイテムだ。
音楽にあわせ、リーファはゆっくりとステップを踏み始めた。
大きく、小さく、また大きく、ふわりふわりと空を舞う。両手を繋いだキリトの目をじっと見て、動きの方向をアドリブで合わせていく。
しんしんと蒼い月光に照らされた無限の雲海を、二人はくるくると滑る。最初は緩やかだった動きを徐々に速く、一度のステップでより遠くまで。
リーファの翅が散らす碧の光と、キリトの翅が振り撒く白い光が重なり、ぶつかって消える。風の音が遠ざかる。そっと目を閉じる。
指先から伝わるキリトの心を、気持ちぜんぶで感じ、受け止める。
これが最後になるかもしれない、そう思った。
今まで何度か訪れた、二人の気持ちが触れ合う魔法の瞬間。それも多分、これで最後。
キリト――和人には、彼の世界がある。学校、仲間たち、そして、大切な人。彼の羽根は強く、その歩幅は大きすぎて、伸ばした手もなかなか届かない。
二年前、彼があの世界に旅立ち、帰ってこなかったあの日から、やはり二人の道は遠ざかりはじめていたのだ。その背中に近づきたくて、妖精の翅を手に入れてみたけれど、和人や、あの人たちの心の半分はいまでも空に浮く幻の城にある。
科学技術の進歩は、仮想の世界を限りなくリアルにしていった。ゲームという枠を越えて、仮想を現実に変えていった。でも、人はいくつもの現実を生きられるほど器用じゃない。きっと和人は、あの世界で一生分を生きてしまったのだ。直葉が決して目にすることのない、夢幻の世界で。
閉じた瞼から、涙がこぼれるのを感じた。
「――リーファ……?」
耳もとで、キリトの声がした。
リーファは目をあけると、微笑みながら彼の顔を見た。同時に小瓶から溢れていた音楽が薄れ、フェードアウトし、瓶が砕けるかすかな音とともに消滅した。
「……あたし、今日は、これで帰るね」
キリトの手を離し、リーファは言った。
「え……? なんで……」
「だって……」
再び、涙が溢れた。
「……遠すぎるよ、お兄ちゃんの……みんなのいる所。あたしじゃそこまで、行けないよ……」
「スグ……」
キリトは真剣な瞳でリーファを見つめた。かすかに首を振った。
「そんなことない。行こうと思えば、どこにだって行ける」
答えを待たず、キリトは再びリーファの手を取った。固く握り、身を翻す。
「あ……」
力強く翅を鳴らし、加速をはじめた。まっすぐ、雲海の彼方にそびえる世界樹に向かって。
有無を言わせない猛烈なスピードでキリトは飛んだ。繋いだ手はわずかにも緩まず、リーファも必死で後を追う。
世界樹は、近づくにつれ天を覆うほどの大きさになった。その、幹がいくつもの枝に分かれている中央に、無数の光の群があった。イグドラシル・シティの灯だ。
その中央、一際高く、明るく輝く塔に向かってキリトは翔けていく。
灯りの集合体が、建物の窓から漏れる光や、大通りを照らす街灯に分かれはじめた――その時だった。
幾重にも連なった鐘の音が響き始めた。アルヴヘイムの零時を知らせる鐘だ。世界樹内部、アルンとイグドラシルシティを繋ぐエレベータが設けられた大空洞上部に設置され、その音は全世界に響く。
キリトが翅を広げ、急ブレーキをかけた。
「わぁっ!?」
リーファは止まりきれず、衝突しそうになった。ホバリングし、腕を広げたキリトの体にぶつかり、ふわりと抱き止められる。
「間に合わなかったな。――来るぞ」
「え?」
台詞の意味がわからず、リーファはキリトの顔を見た。キリトはにっと笑ってウインクすると、空の一角を指差した。彼の腕のなかで体の向きを変え、夜空を見上げる。
巨大な満月が、冴え冴えと蒼く光っている。――それだけだ。
「月が……どうかしたの?」
「ほら、よく見ろ」
キリトが一層高く腕を伸ばす。リーファは目を凝らす。
輝く銀の真円、その右上の縁が――わずかに欠けた。
「え……?」
リーファは目を見開いた。月蝕……? と一瞬思ってから、アルヴヘイムではついぞそんなことは起きたことがないのを思い出す。
月を侵食する黒い影は、どんどんその面積を増やしていく。しかし、その形は円形ではない。三角形の楔が食い込んでいくような――。
不意に、低い唸りがリーファの耳をとらえた。ゴーン、ゴーンと重々しく響く音。はるか遠くから、空全体を震わせるように降り注いでくる。
影はついに、月全体を覆い隠してしまった。しかし彼方から届く月光が、三角形の影の輪郭を朧に浮き上がらせている。どんどん、どんどん大きくなる。近づいてくる。
どうやらそれは、円錐形の物体のようだった。距離感がよく掴めない。眉をしかめ、視線を凝らす。と――
突然、その浮遊物それ自体が発光した。
まばゆい黄色い光を、四方に放つ。
どうやら、幾つもの薄い層を積み重ねて作られているようだった。光はその層の間から漏れてくる。底面からは三本の巨大な柱が垂れ下がり、その先端も眩く発光している。
船……? 家……? リーファは首をかしげた。その間にも、それはみるみる大きくなっていく。もう、空の一部を完全に覆い尽くしてしまっている。重低音が体を震わせる。
と、一番下の層と層との間に、何か見えるのに気付いた。いくつもの小さな突起が下から上へと伸びている。いや――あれは――
建物だ! 何階分もの窓が並んだ巨大な建築物が、いくつも密集している。しかし――建物のサイズから換算すると、あの、何十もありそうな層ひとつが、風の塔ほどの高さがあることになる。それでは、あの空飛ぶ円錐の、全体の大きさは……何百メートル、いや、何キロメートル……?
「あ……まさか……まさかあれは……」
そこまで考えて、ようやくリーファの脳裏に電撃的な啓示が閃いた。
「あれは……!」
振り向き、キリトの顔を見る。
キリトは、大きく一回頷くと、興奮を隠せない声で言った。
「そうだ。あれが――浮遊城アインクラッドだよ」
「――! ……でも……なんで? なんでここに……」
空に浮く巨城は、ようやく接近を緩め、世界樹の上部の枝とわずかに接するほどの距離で停止した。
「決着をつけるんだ」
キリトが、静かな声で言った。
「今度こそ、一層から百層まで完璧にクリアして、あの城を征服する。死と悲鳴の世界の記憶を塗り替える。――リーファ」
ぽん、とリーファの頭に手を置き、言葉を続ける。
「俺、よわっちくなっちゃったからさ……手伝ってくれよな」
「……あ……」
リーファは声を詰まらせ、キリトの顔を見つめた。
――行こうと思えば、どこにだって行ける。
再び、涙が頬を伝い、キリトの胸に落ちた。
「――うん。行くよ……どこまでも……一緒に……」
寄り添って、あまりにも巨大な浮遊城を眺めていると、足元の方向から声がした。
「おーい、遅いぞキリト!」
リーファが視線を向けると、赤い髪に黄色と黒のバンダナを巻いて、腰に恐ろしく長い刀を差したクラインが上昇してくるところだった。
その隣に、ノームの証である茶色の肌を光らせ、巨大なバトルアックスを背負ったエギル。
レプラコーン専用の銀のハンマーを下げ、純白とブルーのエプロンドレスをなびかせたリズベット。
艶やかに黒い耳と尻尾を伸ばし、肩に水色の小さなドラゴンを乗せたシリカ。
手を繋いで飛ぶ、ユリエールとシンカー。
まだ飛行に馴れないようで、スティックを握ってふらふらと飛ぶサーシャ。
いつのまに合流したのか、サクヤとアリシャ・ルーに、数人のシルフとケットシーのプレイヤー達も続く。
ぶんぶん手を振りながら上昇してくるレコン。
サラマンダー将軍のユージーンと、部下たち。
「ほら、置いてくぞ!」
クラインの叫び声を残して、大パーティーは我先にと夜空を舞い上がり、天空の城目指して突進していく。
最後に、白のチュニックとミニスカートに白銀のレイピアを吊り、肩に小さなピクシーを乗せたアスナが、長い、青い髪をきらめかせて二人の前に停止した。
「さあ、行こ、リーファちゃん!」
差し出された手を、リーファはおずおずと握った。アスナはにこっと笑い、背中の水色の翅を羽ばたかせて身を翻す。
その肩からユイが飛び立ち、キリトの肩に着地した。
「ほら、パパ、はやく!」
キリトは透き通った視線で一瞬アインクラッドを見つめ、しばしうつむいた。その唇が動き、かすかな声で誰かの名前を呼んだようだったが、聞き取れなかった。
勢い良く顔を上げたときは、キリトの顔にはいつもの不敵な笑みが戻っていた。翅を大きく広げ、真っ直ぐに天を指差す。
「よし――行こう!!」
[#地から1字上げ]― 完 ―