MOTHER2
著者 久美 沙織
1  新しい冒険のはじまり
2  最初の試練
3  謎の教団
4  ジェフ見参!
5  史上最悪の戦い
6  ハンバーガー
7  天国に一番近い街
8  ネスの場所
9  時の裂け目を越えて
10 我が家へ
あとがき
1 新しい冒険のはじまり
とある夏の日。真夜中近く。くしゃくしゃ汗まみれのシーツの上で、少年はさかんな寝返りを繰り返していました。
なんだかいやに寝苦しい晩です。右を向いてもうっとうしいし、左に転んでも落ち着かない。覚めているわけでもなく熟睡しているのでもない中途半端なだるい気分に、重たいまぶたを半分あげて、開けっぱなしの窓のほうをぼうっと見ます。
と。風もないのに、カーテンがそよと広がったのです。そうして星空の一点にふと光の粒が生まれたかと思うと、みるみる大きくなるではありませんか。針の先から米粒ほどに、豆粒に、ピンポン玉に、ぐんぐん輝きをましたまぶしい光が、さかんなフレアを引きながら、まっすぐこちらに向かってくる! ホームベースのど真ん中を貫く、燃える火の玉剛速球です……!!
「うぉおおおおお!!」
野球少年の闘争本能が瞬時に即座に目覚めました。ヘルメットを被りなおし、ばっとのグリップを決め、スタンス固めて、ぼかんと一発。やった! 手ごたえあり!
どかぁん! 大ホームランです! すさまじい衝撃です!!!!!!
「おにいちゃん! おにいちゃん、しっかりして」
気がつくと、ネス少年は、子供部屋の床に倒れているのでした。おしゃまな妹のトレーシーが頬をぴたぴた叩いています。どうやらベッドから落ちたようです。
確かに打ち返した! と思ったのに、手の中にはバットなんかありません。
「なんだ……夢か……寝ぼけたのか」
「夢じゃないわ。すごい音がした。裏山のほうに、なにか大きなものが落ちたみたい」トレーシーがいつもながら冷静な様子で言いました。「もう飛行機の飛ぶ時間じゃないから、きっと隕石《いんせき》だわ。ほら、見て。光ってる」
窓の外、山の頂上附近に、間違ってプラスティックを燃やしてしまった時みたいな不気味な色の光が乱舞しています。夜空を焦がす異星の灯《あか》り!
「……見に行こう、トレーシー!」
「まさか!」トレーシーは両手で頬を押えました。「だめよ。きっと放射能が出てる。謎のウィルスか凶悪エイリアンが乗ってきたかもしれないし……そもそもおにいちゃん、夜遊びは非行のはじまりよ。夏休みの諸注意プリントにちゃんと書いてあったじゃない、午後七時を過ぎたら、保護者の同伴なしに外をぶらついちゃいけないって。補導されちゃうわよ」
「そりゃそうだけど……」
ネスが頭を振った時。どんどんどこどん。家じゅうを揺るがすような激しいノックの音がします。ネスとトレーシーは顔を見合せ、大急ぎで階下に降りてゆきました。
「いやぁね、こんな時間に誰かしら」
ピンクの寝間着の豊かな胸をかきあわせるようにして、ママもしっかり目覚めていました。頭にはカーラーがたくさん巻いてあります。
ママの足元には、オールド・イングリッシュ・シープドッグのチビが古いピアノの毛ばたきのようなからだをいかにもだるそうに伏せています。チビはチビという名前ですが、体重五十八キロ、年齢かれこれ十五歳。犬の十五歳は人間でいうとほぼ還暦《かんれき》。かつて小さかったこともあるのでしょうが、ネスが知る限り、チビはずっとデカく、いつもどこか年寄りっぽくグウタラだらけた犬でした。普通、犬ってもんなら、夜中に怪しいノックがしたら、吠えるかなんかしますよねぇ。
どんどこどこどん。その間にも、急き立てるような音がますます強くなるばかり。
「警察かも」と、トレーシー。「ああ、どうしよう! きっと火星人が攻めてくるって知らせだわ!」
「警察だろうと火星人だろうと」ママはため息をつきました。「スッピンの顔は見せられないわ。これでも、ネスのおねえさんでも通るバツグンに若いママって評判なんだから。……あーあ。こんな時、パパがいてくれたらねぇ」
パパは外食産業の一翼を担って、某経済大国に長期出張に出かけたっきりです。ちなみにネスパパの会社はネスバーガーといいます。
ネスは、赤ちゃんの時から何故かハンバーグが大好きでした。ネスママは若い頃スーパーモデルをやっていてとても忙しかったので、毎日の厨房業務は、当時ミンチさんのスーパーマーケットで優秀な営業マンをしていたパパの係だったのです。凝り性のパパは、ネスの鋭敏な味覚にダメだしをされながら世界で一番美味しいハンバーグを作ろうと粉骨砕身疾風怒濤《ふんこつさいしんしっぷうどとう》。やがて完成した究極で至高のネス好みハンバーグは、バザーで大評判を取りました。パパはミンチさんのところから仕入れたお肉を使って、ネスバーガーを創設しました。お店はぐんぐん発展し、やがて、よその国にまで支店を作ろうという話が出るほどにまでなったのですが……いや、いまは、のんびりこんな話をしている場合ではないのでした。
どことどことどことことことこ。どんたくどんたくどんたこす!
ノックの音は、ますますファンキーに、アヴァンギャルドに、かつ苛立たしげになっています。なにがなんでも、誰か応じるまでやめるつもりはないようです。
「……ぼくが出るよ」
ネスはパジャマの襟のボタンをきちんとしめながら、玄関に行きました。
「どなたですか?」
「開けろ、ネス! おれだよ、おれおれ!」
追い詰められた豚そっくりのキーキー声がしました。ポーキーです。ミンチさんちの長男です。どこどん、どこどん、叩き続けています。
「ヤバイぜ、まずいぜ、おおごとだ! 開けろ、開けろったら、こらネス、早く開けねぇとぶっ殺すぞ!」
ネスは心底うんざりしました。
ポーキー・ミンチは学校で一番の嫌われものです。乱暴で、下品で、とても威張っているのです。バカな子供っぽいイタズラをしたり、授業の妨害をするのはほぼ毎日。ゼンソク持ちのエディや、痩せっぽちのマイクや、焦ると時々喋ることばがひっかかる癖のあるビルやなんかを、しょっちゅうひどくからかったり苛めたりします。時には校長先生に呼ばれてお説教をされるようですが、それでも、大人たちは、ポーキーをほんとうに反省させることはできないのです。なぜなら。
ポーキーのパパのミンチさんが、町一番の名士だからです。
小さくて地味なオネットの町が全国に名前を知られているのは、ミンチさんのスーパー・チェーンのおかげです。いや、ほんとうは、一度食べたらもう決して他のハンバーガーは食べられなくなるほどスーパー美味しいネスバーガーのおかげだって、相当あるわけなんですが……ほら、言いかけましたよね。ミンチさんは昔、ネスパパの雇い主だったでしょう。その上、ネスバーガーを創設する時、親切ごかしに、無理矢理に、資金を貸してくれたんです。
海千山千のビジネスマンであるところのミンチさんがあくどい知恵と手管を使って作りあげた契約書に、ひとのいいネスパパはうっかりハメられてしまいました。がんばってもがんばっても、儲けの半分をミンチさんのところに吸いあげられてしまうのです。お金だけじゃありません。名声もです。ミンチさんは、ネスバーガーが美味しいのはミンチ・チェーンの特約農場のお肉が特別だからだって、大声で言いふらします。ネスバーガーの包紙には、ミンチ・マーケットの広告をやたらでっかくのせています。契約をたてに、経営にも宣伝にも自分の都合ばっかり言い立てます。
そしてこの間、ついに、ネスパパを海の向こうに追いやってしまったのです。それは、ネスパパが、脅してもすかしても、ハンバーガーのレシピの肝心の部分を――秘密のスパイスの製法を――けして明してくれないのに、すっかり腹を立てたからなのです。
近頃、オネットやこのイーグルランドの他の場所では、ネスバーガーは確かによそのハンバーガーよりはやっぱりとってもベリーベリー美味しいんだけど、何故か以前ほどには美味しくはないかもしれないって、こっそり囁かれているようです。どうもなんだかミンチさんが質の悪いお肉を使いはじめたらしい。ネスパパのいない隙を狙ってです。これで少々評判が落ちて、ネスパパがガックリしたら、お店を乗っ取って、ポーキーバーガーと名前を変えて、再び大々的に売り出そうと計略しているようなのです。
ねっ? ネスが、太っちょポーキーの奴を――いくら家が隣同士だからって、おさななじみだからって――あんまり好きになれないのも、まったく無理ない話でしょう?
……だけど。
いくら嫌いなともだちでも。こんな夜中にわざわざ訪ねてきたのです。せっぱつまっているみたいです。脅しに乗るのはいやだけど、無視するわけにもいきません。
「いったいどうしたんだい」
扉を開けると、ポーキーは汗まみれの丸いからだで転がりこんできました。
「隕石だ。隕石が落ちたんだ、それは知ってるだろ……うわわぁあ!!」
たちまちチビが飛んできて、すごい剣幕で吠えたてます。さしものんびり屋のチビも、ポーキーには我慢なりません。不倶戴天《ふぐたいてん》の怨敵と、よらば切るぞと狙っています。ぽっちゃりヒップに噛みつかんばかりの形相で、部屋じゅうぐるぐる追いかけます。
「や、やめろ!! よせ! こら、おい、このバカ犬をひっこめろネスぅ!」
「チビ!」
ネスが呼ぶと、チビはピタッと立ち止まりました。
「いい子だから、静かに。寝室に行っておいで」ネスは部屋を横切ってドアをあけてやりました。チビはいとも悔しそうな目でジロリとポーキーをねめつけると、ネスの脚に毛むくじゃらのわき腹をこすりながら、しかたなく奥に向かいました。
「ふう、やれやれ。……なんだよあのボケ犬。ヨダレだらだら垂らしちゃってよ。おまえんち、ちゃんとエサやってねーんじゃねーか?」
助けてもらったお礼どころか、苦手の犬が見えなくなるや態度のデカくなるポーキーです。
「で?」ネスは聞こえなかったふりをしました。「何の用なんだい」
「ああ! そうそう。だから、隕石。隕石だってば! 裏山の」
「ああ。なんか光っているよね」
「おれたち、山にいたんだ。今日は親父《おやじ》もお袋も町に出かけてるからさ、おれ、親父の新しいフェラーリにピッキーのやつを乗せて山道でドリフト走行の練習をしてた」
「ポーキー、車なんて運転するの!」
ポーキーはネスよりふたつ年上ですが(成績が悪かったので、いまでは同じ学年です)まだ十四歳です。もちろん、免許なんか取れるわけありません。ちなみにかわいいピッキーはポーキーの弟で、トレーシーの仲良しです。
「へっへへへ、ちょろいもんよ」ポーキーは赤い鼻をこすりながら得意そうににやにやしました。見つかりさえしなければ悪いことをしてもいいと、たぶん父親に習ったのでしょう。
「おれのダブルクラッチは電光石火だぜ! 夜中の山道なんか、どうせ誰にもみつかんねぇんだしよ。そいで、せっかくぶいぶい気持ちよく走ってたってぇのに、突然あの隕石騒ぎだろ。たちまちおまわりが大勢やってきやがって、オネット名物道路封鎖なんかしやがるから。大急ぎで車を降りて隠れたんだわ」
悪質な無免許運転がバレたら、法定年齢に達した時にも免許が取れなくなっちゃいます。
「んーで、家まで戻ってきたんだけど、気がついたら、ピッキーの阿呆《あほ》がどこにもいねぇの。迷子になったのかな。もしおまわりどもにつかまっちまったら……ちくしょう、もう喋ったかなぁ、おれが運転してたって……親父が帰ってきて車がないのに気づいたら、おれ、すげぇ怒られる。けつたたき百回だ。……だから……なぁ、ネス!」ポーキーの目が暗がりの中で見る猫の目のように、奇妙な緑色に光りました。「助けてくれるだろ? 親友じゃねぇか。一緒にピッキーを迎えに行ってくれよ。そんで、おまえが運転してたことにしてくれよ!」
ネスはあんぐりと口を開けました。「……なんだって?」
「おっと!」ポーキーはソーセージみたいな指をたてて、ちっちっち、と振りました。「渋いね、侠気《おとこぎ》があるね、さすがネスだぜ! そう言ってくれるって信じてたよ」
「待てよ、ポーキー、ぼくは」
「なんたって山じゃ狂暴な野犬が群れを作ってるからな。親友のおれをひとりで送り出すなんて、そんな非常な男じゃないって知ってたよ。……ああ、かわいそうなピッキー、きっと心細くって泣いているぜ。まさか、犬に喰われちまってないだろうな!」
ネスは拳骨を固めました。
ポーキーのやつにうまく言いくるめられてるのは、よーくわかっていました。でも何の罪もないピッキーが心配です。なにせ、山には、警官と、野犬と、ひょっとしたら遊星から来たエイリアンまでも、勢ぞろいしているかもしれないのです!
「着替えてくる」
二階の踊り場ではママとトレーシーが心配そうな顔をしていました。
「みんな聞こえたわ。あのガキったら、ほんとにまったく憎たらしいわねぇ」
「おにいちゃん気をつけて。ピッキーを助けてあげてね!」
シャツとズボンを身につけて、大好きな赤い野球帽もかぶりました。準備万端!
オネット山は町の北。ほんの小さな岩山で、斜面も緩やか。冬には子供たちがそり滑りをします。頂上には展望台があって、その昔暴走族という血気さかんな若者たちが活躍していた頃には、しょっちゅう『集会』が行なわれていたとか。それがなにより証拠には、展望台のコンクリートのあちこちに『仏血義理《ぶっちぎり》』とか『罵詈罵詈《ばりばり》』とか、『ヨーコ・LOVE』とか、誰かさんと誰かさんのアイアイ傘とか、いろんな文字や絵がスプレーかましてあったりします。
かつてその暴走族だったひとたちが、いまではオネット警察のおまわりさんたちになったのだという噂もあります。ついカッとなる癖のあるストロング署長は、昔ゾクのヘッドだったんだ、とも。だからこそ、古い落書きも消さずにとってあるし、だからこそ、つまんない理由でしょっちゅう道路封鎖をしては、ギネス・ブックに挑戦しつつ、パトカーで懐かしい『仏血義理』レースをやって遊ぶと……いや、もちろん、これはただの噂なんですけれどね。
さて。
両脇から樹の枝がこんもりと伸びてまるで緑のトンネルのようになった山道を、ネスたちはおっかなびっくり登ってゆきました。星の明るい夜ですが、木の陰になった部分は真っ暗だし、足元は砂利でひどく滑ります。こんな道にフェラーリを持ち込むなんて、ポーキーもほんとにムチャクチャです。
緩い坂道を回り込むあたりに、誇大広告専門の看板屋ライヤー・ホーランドさんの事務所兼住居が建っています。これより上には、もう人家はありません。
振り返ると、町の灯が地の底に沈んだブローチのようにぼんやり輝いていました。なんだかずいぶん遠くに見えるような気がして、ネスは少しばかり怖くなりました。
「どこいらへんではぐれたんだい?」小声で尋ねます。
「もっと上だ」ポーキーが横柄《おうへい》に顎をしゃくります。「確かその先あたりに285GTBを置いてきちまったんだ……ほら、早く行けよ!」
足音を忍ばせ、木の陰にからだを伏せるようにして進んでゆくと、やがて、木立の向う側に、ぐるぐる回る赤と青の灯が見えました。パトカーの脇に立った警察官が無線を使っています。
「ちきしょう。まずいなぁ。駐車違反のチケット切られちまったかなぁ」
「ピッキーはそばにはいないみたいだね」
「おい、ネス。おまえ、行けよ。行って、おまわりに、あやまってこい」
「ぼくが?」
「ああ」ポーキーは男の子にしては妙に色白の顔を平然と微笑ませました。「そうすりゃ、おまえがしょっぴかれている間に、おれは車を戻せるからな。フェラーリのゴキゲンなエンジン音を聞きゃあ、腰抜けピッキーもきっと慌てて出てくるさ」
なんて勝手な言い種でしょう。ネスが呆れて黙っていると、ポーキーはぶよんぶよんの顔を驚いたかのようにぽかんとさせ、それから嫌らしくニヤリと笑わせました。
「おいおい、いいのか、ネス? そんな挑むような目なんかしちゃってよ? おれさまを怒らせると、おまえら一家はおしまいだぜ。あの家は、おれのものなんだからな」
「なんだって」
「おまえのバカ親父、いよいよ糞づまったらしくってな、今月、とうとう借金の利息を払えなかったのさ。あの家は抵当に入ってるから権利が親父に移る。親父はあんなボロ家いらないから、おれにくれるってよ。つまり、なんと、おれさまは、おまえの大家さんになるんだぜ、あーっはははは!」
「誰かそこにいるのかっ」
警察官が懐中電灯を向けたので、ポーキーはあわてて口を押えましたが、小さなひねくれた目がいかにも得意そうににたついています。ぶんなぐってやりたい気持ちをこらえると、ネスの胸は、べっとりタールにふさがれたように黒くなりました。
もしもあの家を追い出されるようなことになったら! ネスひとりなら、ツリーハウスで寝泊りもできるし、イザとなったら学校の庭にテントを張らせてもらってキャンプ生活をしたってかまいません。でも、ママやトレーシーは、清潔なベッドやシャワーや素敵なシステムキッチンがなくなってしまったら、どんなにどんなに泣くでしょう。
ああ、パパ。パパはなにをしているんだ。早く帰ってきてくれればいいのに。
たった十二歳のネスには、まだ家族を守ることができません。憎らしいポーキーをこらしめて、二度とナマイキを言わせなくしてやるだけの充分な力がないのです。
警察官がこっちに来ます。懐中電灯を揺らしながら。すごく背の高い、でっかい警察官みたいです。砂利を踏む音が、ジョーズのテーマソングみたいに、どんどん近づいてきます。ネスたちは姿勢を低くし、息を殺して、くさむらに隠れます。
こんなところをポーキーと一緒にコソコソ隠れているところなんか見つかりたくはありません。ひょっとして、手下だと思われてしまうかも。ああ。でも、実際。いやだいやだと想いながら、やつの言うがままになっている自分は、手下そのものなんじゃあないでしょうか?
悔しくて、じれったくて、ネスは小さな拳骨をギュッと強く握りしめました。
と。
ぴーぴー、ガーガー! 無線が入ります。警察官は大慌てで身をひるがえし、パトカーのところに戻ります。
「……はい、こちら、キャラハン。……えっ、シャーク団が? ゲーセンで暴れてるんですか? やれやれ、世話のやけるガキどもだ。……わかりました。すぐに行きます」
パトカーは派手なサイレンを鳴らしながら町のほうに戻っていってしまいました。
「なんとなんと、ついてるじゃん、ラッキーじゃん!」ポーキーはフェラーリのドアを開け、居丈高に言い放ちました。「ネス! おまえは、ピッキーを探して家に連れてこい! 急ぐんだぞ!」
ぶろろろろ! ひとしきりエンジンを咆哮《ほうこう》させたかと思うと、ライトがまぶしくともり、すさまじい土煙があがりました。飛び散る小石と煤煙《ばいえん》に思わず顔をかばっているうちに、ポーキーは行ってしまいました。あたりが急に静まりかえります。
突然、ネスはひとりぼっちになってしまいました。
あたりには街灯ひとつありません。星たちが冷たく輝いているばかり。
ひょおおお。かすかな風の渡る音が、野犬のうなり声に聞こえます。さわさわさわ。揺れる木の葉が、潜んでいる悪意の居場所をさりげなく主張しているみたいです。
赤青灯もヘッドライトもなくなってみると、頂上の不可思議な色の光が、とても目立つようになりました。凶悪エイリアンの焚き火なのかもしれないと思っても、こころはあかりに惹かれます。ただの真っ暗闇よりは、怪しい炎のほうがまだマシ。
そうだ。ひとりじゃないんだった、とネスは思いました。この暗い山のどこかには、小さなピッキーだっているはずです。置き去りにされてしまったことに気づいたら、ピッキーだって心細くて、あかりのあるほうを目指したのではないでしょうか。
よし。行こう。
ネスは歩き出しました。
せめて、バットくらい持ってくればよかった、と、チラッと思いながら。
オネット山の山頂は、テーブルのように平になっています。サッカー・コートが一つ取れるかどうか怪しいぐらいの面積の、ほとんど真ん中といっていいあたりに展望台があります――あったんですが――それはいまや無惨に半分潰れています。瓦礫《がれき》の中に埋り込んでいるものこそ、間違いありません、隕石です。
「……すごい……」
ネスは周囲をゆっくりと回ってみました。
直径七、八メートルはあるでしょうか。ほぼ完全な球体で、ごつごつした表面を、赤や青や緑のキラキラした炎が幻のように駆け抜けては消えてゆきます。へんな匂いのする蒸気がしゅうしゅうあがっているところからすると、たぶん、まだアツアツなのです。
とっ……とくん……とっ……とくん。知らず知らずのうちに鼓動が高まります。気のせいでしょうか。球体の光も、ネスの心臓の拍動に同調するように、明るくなったり暗くなったりしているみたいです。そして。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
無意識に払った掌《て》が空を切って、はじめて、何かがすぐ耳元を飛んでいったことに気がつきました。カブトムシです。立派な角をして、ツヤツヤと真っ黒なでっかいカブトムシが、ネスの頭のまわりを回っています。追い払っても、追い払っても、しつこくつきまとっているのです。
「変な虫だなぁ。ぼくを木とまちがっているのかな……オシッコひっかけられなきゃいいけど……あっ」瓦礫と化した展望台のわずかに残った屋根の下に誰かがいます。膝を抱えてうずくまっています。ヘルメット型に切り揃えた赤毛。「ピッキー! ピッキー、大丈夫か」
駆け寄って、肩を揺すると、ピッキーはキャッと叫んで飛び起きます。それから、ちょっと長めの前髪の下でしげしげ瞳を見張ります。
「……ああ、びっくりした。どうしてここに?」
「ポーキーに頼まれてきたんだ。怪我してない? 歩ける?」
「大丈夫だよ」ピッキーは泣き笑いのような顔をしました。「実の兄貴にひとりぼっちで置き去りにされたんだ。将来きっと精神的外傷になるだろうけど、とりあえずいまは安心した。肉体的には元々擦り傷しかない」読書家のピッキーは、時々妙に難しいことを言います。「さぁ、帰ろう。きっと、おじさんやおばさんが心配してる」
手を繋いで立ちあがらせましたが、ピッキーの膝はギクシャクして、歩くことができません。隕石の不可思議な灯の照りかえしが、ふたりの手や足を赤や緑に染めました。
「しっかり、ピッキー! 悪いけど、ぼくはポーキーほど力持ちじゃない。おんぶしては行けないんだ。ほら、がんばって」
「……あのさ……つかぬことを聞くけどさ……」ピッキーはつっかえつっかえ言いました。「ポーキーにあったんだよね。ポーキーって、ポーキーだった?」
「なに?」
「ほんとにほんもののポーキーだった? いつも通りの兄貴だったかい?」
ひたむきに見上げるピッキーの目に映る色とりどりの炎の動きをのぞきこんでいるうちに、ネスの背中はゾッと冷たくなりました。毛穴が開いてすうすうします。
「なにを言ってるんだ、ピッキー?」
「だって……ぼく、見たんだ。……これがここに落ちてきた時」とピッキーは隕石のほうに顎をしゃくり、ついでにぶるぶるっと震えました。「こまかいかけらがたくさん散った。フロントグラスにがんがん当った……地面もすごく揺れて、ポーキーは必死にハンドルをぶん回した……ふと、いきなり、ドアが開いて、ぼくは外に放りだされちゃった。そうしたら……星のかけらの特に極めてでっかいやつが、車の屋根を突き抜けて……」ピッキーは目を瞑ります。「ぎゃああああって、すごい悲鳴が聞こえたよ。車ごと、カッと燃えるように明るくなった。ぼくは、ポーキーはきっと丸焼けになっちゃったに違いないと思った……なのに……ほんとのほんとに、なんともなかったの、ポーキーは?」
「……よせよ」ネスは頭を振りました。「ポーキーはいつも通り憎らし……いや、とっても元気であいつらしかったよ。フェラーリだって……じっくり見たわけじゃないけど……何かが突き抜けたようには、全然見えなかった。こらピッキー。ぼくを怖がらせようと思って作り話しているんだろ?」
「作り話なんかしてないよ! 嘘ついたってしょうがないだろ!」ピッキーは悔しそうに顔をクシャクシャさせました。「……でも……じゃあ……錯覚だったのかな……ひょっとすると夢かな……車から落ちた時、ショックと痛みで、ちょっと気が遠くなったし……」
「きっとそのせいだよ」ネスはピッキーの肩を抱きました。「ひどい目にあったショックで、夢と現実がわからなくなっちゃったんだよ」
「ならいいんだけど……ほんとうにそう思うかい? ネス」
〈ネス!〉
突然、キテレツな、頭蓋骨《ずがいこつ》をビンビン揺するような声がして、ネスは飛びあがりました。
〈ピッキーったら、なんて声を出すのさ!〉
「何も言ってないよ」ピッキーは頬をふくらませました。「どしたの? ネス、真っ青だよ」
〈ネス! ネス! ネス! ネスなんだな! おまえがネスだな! そうか。やはり、おまえがネスなのか!〉
ネスは両手で耳を押えながら目を見張りました。普通の声ではない。それは思い[#「思い」に傍点]です。ネスの頭に直接響く、こころにダイレクトに伝わって来る、強烈でシャープな思考です。
これがあの有名な、テレパシーってやつなんでしょうか?!
〈そうだ! テレパシーだ。ネス、聞け! 落ち着け! わしはブンブーン。おまえを探しにやってきた〉
ブンブーン? すぐ鼻先をしつこく横切るカブトムシ。ネスはハッとしました。
「おまえ……まさか……この、カブトムシなのか?!」
〈確かにいまは、小さなしがないカブトムシだ。ある時アラブの大富豪、ある時謎の音楽家……しかしてわたしの実態は。……十年後の未来から時の流れを越えてやってきた、正義の使者ブンブーンなのだ!〉
ぶぶぶぶぶ。ぶーんぶーん! 羽根を鳴らして虫が飛びます。あんまり近すぎ、あんまり動きが早すぎて、目の焦点がちゃんとあいませんが。少々大きめである以外どこといって変りばえのしない、いわゆるふつうのカブトムシです。
ネスは指をずらして、そっとこめかみを押えました。
「……なんてこった。ぼくまで変になっちゃったぞ。きっとこの隕石からガスかなんかでも出てて、ひとに幻覚を見せるんだ」
〈幻覚ではない!〉
「てっ☆」
カブトムシが小さな肢《あし》でネスの髪の毛をつかんでひっぱったのです。
〈どうだ、聞く気になったか〉
「乱暴だなぁ……でも、わかったよ。夢なら、いまので覚めるはずだもの……あれ? ピッキー? どうした!」
なんとピッキーはかたわきで、きょとんとした顔のまま固まってしまっているのです! コチンカチンで、まるで瞬間冷凍したみたいです。
「おまえ、ピッキーになにかしたのか!」
〈ピッキーになにかしたのではない。おまえになにかしたのだ〉ブンブーンは得意そうにぶぶぶと羽根を振動させました。〈我々ふたりは、いま時の隙間に立っておる。相対的に言えば、確かに、わしとおまえ以外の世界じゅうが時を止めたようなものだがな〉
時の隙間……時を止めた? いやに大きく出たもんです。
「そんなことができるの!」
〈できる。が。時空操作はエントロピーに逆らう行為じゃ。人間の肉体を捨て、これこのように極端に質量が小さくかつまた寿命の短い甲虫の姿にまで我が身をやつしたのは他でもない、物理的にいって、これが我々が過去に送りこむことのできる限界だったからだ。既にわしらの未来には、その程度の余剰エネルギーしか残されていなかったゆえ……そんなにしてまでやってきたのは、これすべて、ネス、他ならぬおまえにメッセージを届けるためじゃと言うに! つれない態度をするんじゃないわよ、まったくもう〉
「……ごめんなさい」
〈未来はな。もう惨憺たるありさまじゃ。銀河最大の破壊主が何もかもを地獄の暗闇にたたきこんでしまった。……それというのも、ネス! 十年前に……いや、つまりだから、現在すなわちこの今に! 凶悪宇宙怪獣ギーグの卵が孵《かえ》ってしまったからなのじゃ!〉
「凶悪宇宙怪獣の卵だって……?!」ネスは目をぱちくりさせました。「わかった。それがこの不気味な隕石なんだね」
〈そゆこと。ギーグはこいつで時空を渡って来たんじゃ。この次元のこの空間に突然出現したとたん、わしのタイムマシンを、トホホ、つぶしてしまいよったわい。流星号っちゅー、いかにも未来的で流線型のカッコいいマシンじゃったのに……ぐっすん……あまりといえばあまりにもぴったりドンピシャ計算があいすぎた〉
「計算?」
〈さよう。我々未来の科学者の頭脳を結集した研究の結果、卵がここ、このオネット山の展望台附近に産み落とされたことがわかった。それでともかく追っかけてきたんじゃが……いやはや、こう忙しなく飛んでいると疲れていかん。ちょっくらつかまらせてくれ……ふう、やれやれ〉ブンブーンはネスのさしだした腕にとまると。羽根を畳みました。〈卵のうちに始末できればそれにこしたことはなかったのだが、あいにくとな、これ以前の座標は調べがつかんかったのじゃ。ギーグは世に放たれてしまった。おまけに、ギーグの幼生は見た目ではわからん。孵化《ふか》直後のギーグは、なにげないめだたないどうってことない人間の姿をしている。誰か近くに居合せた人間に、寄生して〉
「寄生?」ネスの胸はまた一段とドキドキしはじめました。「誰か、その宇宙怪獣にとり憑《つ》かれちゃったってこと?」
〈そうじゃ! 普通の誰かの腹の中で、怪物が育っていくのだよ。ギーグを宿した人間は、邪悪な陰険ななんとも憎たらしい性格になるだろう。腹の中のギーグに操られるからな。悪の波動の影響は、そいつのみならず、周囲にも及ぶ……もとから少々性格のねじれたやつならば、地球上の反対側にいてもギーグに共鳴し、ギーグに同調し、ギーグの傀儡《かいらい》となるだろう。……そしておよそ半年の時間をかけて、じっくりゆっくり成長し、完全なる変態を果たす準備ができた時、怪獣ギーグは宿主を食い破り、いよいよおもてに現われる。こうなったら、もう手の施しようがない。よって、なんとかしてそれまでに、ギーグを宿した人間を見つけ、見分け、退治しなくてはならないのだ。……それをするのは、することができるのは、地球の上にただひとり。ネスという名の少年だ!〉
「ぼく?」
〈そう、おまえだ! おまえと、これからおまえの出会う三人の仲間たち……三人の少年とひとりの少女だけが地球に残された希望の星だ……さぁ、これを取りなさい〉ブンブーンは背中を開くと、隙間に押し込んであった小さな透明な結晶体をつまみ出しました。
「宝石だね」
丸くて、すべらかで、光に透かしてみると、虹みたいな七色にきらめきます。
〈音の石じゃ〉ブンブーンは重々しく言いました。いや、思考しました。〈この地球上にはな、ネス、いくつかの『おまえの場所』があるのじゃ。『おまえの場所』には、おまえを解放する秘密の音が隠されている。この石はそれを確実に記憶するための特別の装置なのじゃ。すべての『おまえの場所』に立った時……すべての音を集めた時……おまえは真実のおまえを見出し、至上の力を得るだろう。その力をもってしてはじめて、凶悪ギーグを倒すことができる〉
「『ぼくの場所』だって?……いったい、どこにあるの、それは」
〈あいにくと、こればっかりはおまえにしかわからん。そこがおまえを呼ぶ。おまえがそこに立てば、場所がおまえに応える〉
なんとも曖昧《あいまい》な話です。ズッシリ肩が重くなってしまうような話です。
でも。ネスが目を落とすと、手の中の石が、キラッと光ったように見えました。それは、ほんのり温かく、なんだか励ましてくれているみたいです。
「……わかったよ」ネスはうなずきました。「でも、あまり遠くには行けないよ。いまうちにはパパがいないんだ。ぼくまでいなくなったら、ヒューズが飛んだ時とか、瓶づめピクルスの蓋がかたくて開かない時とかに、うちのママが困っちゃうもん」
〈母上にはわたしからよく説明しよう〉ブンブーンは再び飛び立ちました。〈さぁ、時の流れに戻るぞ。とりあえず、ネス! おまえの家にLET’SのGOだ!〉
めまいのような感触と共に、空気が動き出しました。風がひゅうひゅう、耳の中を渦巻きます。どくんどくん。心臓が盛んにもがいています。
「……ネス、真っ青だよ」ピッキーが言いかけてたセリフを続けました。ビデオのポーズ・ボタンを解除した時みたいに、ちょっとだけ時間が戻ったのです。「貧血を起こしたんなら、我慢してないでしゃがんだほうがいいよ」
手の中には、虹色の丸い石。頭の周囲には飛び回るブンブーン。
……どうやら、いまのは、幻想などではなかったようです。
「大丈夫」ネスは頭を振り、ピッキーに笑いかけました。「とにかく、きみを、家に送っていかなくっちゃね」
「うん、ありがとう」
下り坂を、ふたりはほとんど競争するような早さで駆け降りました。町のほうへ。灯りのほうへ。崖のほうに近づきすぎたり道路に穴ぼこがあいているところに来ると、ブンブーンが顔の前を飛んで合図してくれました。
夜の山道は不気味です。野犬が吠え、カラスが舞い飛びます。石を投げて追い散らしました。こころがはやるほどには、人間の足は素速く動きません。それでも、どうにか、家のすぐそばまでやってきた、ネスの家に行く小道と、ミンチさんちに通じる道との分かれ目まで辿《たど》りついた、その時のこと。
大きな木の陰からぬっと突然現われたのは。
「ピッキー! ネス!……よかった。こんなところにいたのか」ポーキーです。暗いのでよく見えませんが、なんだかりりしく頼もしい劇画調の顔つきをしています。「探したぞ。夜遅く、子供だけで出歩いたりしちゃだめじゃないか。さ。早く帰ろう」歩きだします。
「なに言ってんだい、ポーキーは」ピッキーが呆れます。「隕石見に行こうって、無理にぼくを連れ出したのはそっちだろ」
「フェラーリは大丈夫」ネスも聞きます。「ずいぶん飛ばしてたみたいだけど、ぶつけなかった?……それに。帰ろうって、そっちは、ぼくの家だけど?」
ポーキーは「しまったな」という顔をしながら振り返り、頭を横に振りました。
「まず、友達から送るのが当然じゃないか。ぼくはきみたちより大きいんだから」
ネスとピッキーは顔を見合せました。
「なんか、へんだね」
「怪しい。おまえ、ほんとに、ほんもののポーキーか……?」
「フフフ……そうか」ポーキーは渋く笑いました。「バカな子供たちだ。おとなしく騙されていれば、怖い思いをせずニ・スンダノニ……フフフ……アッハハハハ、エエイッ!」
「うわっ!!」
星のシャワーが降り注ぎます。一陣の風が巻き起こり、ポーキーの姿が、フラッシュライトみたいに輝きます。ネスはあわててピッキーを背中にかばいました。両手を腰に当てて、威張った高笑いをしている太っちょポーキーが、強い光の中でざぁっと歪んでかすんだかと思うと、深海作業員みたいな奇妙な服を着た背の高い男に変身しています。
〈スターマンの息子!〉
ブンブーンがハッとしたように叫びました。……いや、叫ぶような思考が、ギザギザつきのセリフの形になって、ネスの脳みそに直接はっきり伝わりました。
「フフフ、ヒサシブリダナ・ブンブーン」スターマンの息子は片手をあげ、威嚇するように突き出しました。ひとを指さしたら失礼だって、おかあさんに教わらなかったみたいです。
「ギーグサマハ・オマエラノ・チャチナ・ケイカクナド・トックノムカシカラ……モトイ、トックノミ・ラ・イ・カラ・オミトオシヨ! アキラメロ・ブンブーン。イマ・ノ。オマエハ・エイユウデハナク、タダノ・チッポケナ・ムシケラ・ダ!……タタキツブシテ・ヤル!」
世界が歪み、空気が重くなりました。鼻をつきさす変な匂いに、ネスはクシャミをもよおしました。高々と得意そうにポーズを決めて突きあげたスターマンの息子の右手がチカッチカッと発光します。何かのパワーが結集してゆきます。強烈な悪の波動が高まります。
やられる!
ネスが思わずギュッとまぶたを瞑《つむ》った瞬間。
〈サイコシールド!!〉
ブンブーンの思いが響き、ほとんど動じに、乾いた邪悪な意識の渦がごうっと唸りをあげながら押し寄せてきました。ギンッ!! あたります。冷たい! 痛い! 最強にしておいた冷蔵庫にいきなり顔をつっこんだみたいです。でも、サイコシールドとやらのおかげなのでしょうか、衝撃はほんの一瞬。逆に、敵がぎゃあっと叫んでいます。ネスは目を開けてみます。敵は腕を抱えてもがいています。どうやら、シールドに跳ね返された自分のパワーで、怪我をしたようです。
ネスは手や足をちょっと動かして確かめてみました。傷ひとつ、焦げ目一箇所もありません。かたわらに倒れているピッキーも、幸い怪我はないみたい。たぶん怖さのあまり気絶してしまっただけなのでしょう。
「なんだい、おどかしやがって!」ネスは歯を食い縛りました。見れば、あの小さなブンブーンが、六つの肢を振りたてて、敵に体当りをしてゆくではありませんか。
勇気と負けん気が、少年野球で培《つちか》ったチーム意識が、『攻撃は最大の防御なり』の本能が、ネスの全身をぶるるっと震えさせました。手近な石を拾います。ふりかぶります。ホームを狙う敵の走者。遠い遠いキャッチャーが必死に構えた小さなミット。
「……どええええいっ!」
崩れた姿勢から無理に投げた弾丸ライナーが、ズバリ、ミットに突き刺さります!
アウトー!!
「ぎゃああああ!」ひときわ明るくバチバチ放電したかと思うと、スターマンの息子は消えてしまいました。まるで、蒸発するみたいに、スッと。
〈ふう。あぶないところじゃった〉ブンブーンがパタパタと飛んで来ました。〈あれはわしを、そして、おまえを消すために十年後からきた殺し屋じゃ。今後も次々にああいうのが現われるやもしれんゆえ、ゆめゆめ油断するなよ……ともあれ、ありがとう。素晴らしい投球だ。さすがじゃな、ネス〉
ネスはちょっと照れました。「あんたこそ、すごく強いんだね」
〈サイコシールドのことか。いやいや、わしの技など幕下同然。おまえの秘めている能力は、もっとずっとウルトラすごいぞ〉
「ぼくが?……ぼくも、あんなことができるようになるの?」
〈なるとも。治癒《ちゆ》の力、攻撃の力、そして時空をねじ曲げるほどの力さえ、いずれ見出すことになろう。ただ、能力者としてのおまえはまだ生まれたばかり。赤んぼうのようなものだ。少しずつおとなになれるはずだがな〉
「そうか。……そういうことなのか……」
ネスはだんだんじわじわ、その気になってきました。誉められれば悪い気はしません。不思議な力に憧れもあります。そして、なにより。それ以上に。
敵がネスを狙っているのだとするのなら、家にいたって危険です。もし、ブンブーンの機嫌をそこねて、助けてもらえなくなったら。
いまのネスには、ひとりで、あんな怪物に立ち向かうほどの知恵も力もありません。ママやトレーシーを巻添えにしてしまう心配もあります。
「わかったよ、ブンブーン、この際、きみの言うとおりにする! でも、とりあえず、ピッキーを家に連れて帰ってあげなくちゃ」
〈おお。そうじゃの〉
「そういえば……」ポーキーは、いったいどうなってしまったんでしょう?
モーローとしているピッキーを、肩に担ぐようにして家に運びました。赤いフェラーリはきちんとガレージに入っています。もう一台、銀色のボルボも停めてあります。ミンチさんちの両親は、もう町から帰って来たみたいです。
「こんばんは……」おそるおそるインターフォンを鳴らすと、すぐさま返事がありました。
「どなた?」
「隣のネスです。あの……ピッキーを連れてきたんですけど……」
「ネスちゃん! なんなのいったい、あんたは!」
チェーンを引き毟《むし》らんばかりの勢いでドアがあけられます。立っているのは、ラードナおばさん、ミンチさんの奥さんです。燃えるように真っ赤なチリチリの髪。耳まで避けそうなでかい口。ポーキーそっくりに、でぶでぶに太ったおばさんです。耳や首にたくさん宝石を飾っています。
「まぁ。ピッキー、ピッキー、どうしたの、かわいそうに」おばさんは、まだぐったりしているピッキーの襟がみをつかむようにして奪いとり、抱いて頬ずりをしました。「ちょっと、ネスちゃん! 隕石見物だかなんだか知らないけど、もう二度とうちの子を誘わないでちょうだいね! あんたんとこと違って、うちは、きちんとした家なんですからね!」
「えっ? でも、ぼくは……」
「さっ、ピッキー。いい子ね。歯を磨いて寝ンネしましょうねぇ」
おばさんがひっこむのと入れ替わりに、パイプの煙をくゆらしながら出てきたのは、アンブラミ・ミンチさん。ミンチさんちのご主人です。いかにも高価そうなサバ色に光るガウンを着ています。
「やぁ、ネスくん。息子が世話になったようだね」唇や優しげなかたちにしてありますけれど、青い目は少しも笑っていません。「長いことパパがいなくて、きみも大変だろう。麗しのレイチェルは……ママは、お元気かね? たまには夕食でもご一緒したいと伝えてくれたまえ。きみのパパの連れていってあげられない高級レストランに、ご招待するよ、と」
そんなこと金輪際《こんりんざい》言うもんか、とネスは思いました。もちろん、たとえ言ったって、ママだって『ゲッ』って顔をして断ってくれるに決ってますけどね。
「あの、ミンチさん、ポーキーは?」
「ずっと部屋にいたようだが? 用があるなら、あがりたまえ」
「はい」
二階の子供部屋に通されます。なるほど、ポーキーは肉まんのような肩を丸めて机に向かい、なにか熱心に書いているようです。
「ポーキー?」
「やあ、ネス。こんばんは」振り向いたポーキーは、いかにもひとがよさそうににっこりします。「いま、算数の宿題をやってたんだ。数字っていいねぇ、計算ってこんなに面白いもんだったとは思わなかったよ」
ネスは唖然としました。これはポーキーじゃありません。確かに顔とからだはポーキーそっくりだけど、でも。こんな丁寧なきちんとした喋りかたをするのも変だし。第一、ほんもののポーキーなら、熱心に勉強なんてするわけがない。宿題は、ちゃんとやって来た子たちのノートを脅して奪って写すだけです!
「……おまえ……誰だ……スターマンの息子二号か?」
「ジョークがうまいな、ネスは」ポーキーはクスクス笑いました。「隕石なんか見てきて、すっかりその気になったんだね。UFOごっこかい?」
〈目の焦点が合っていない……操られている……そうか、こいつが!〉ブンブーンが興奮したように飛び回りました。〈ネス! 見つけた、ギーグだ! ギーグの幼生は、こいつに寄生してしまったのだ!……ギーグとしての自覚はまだないようだ……普通の人間の少年の心性に擬態している……いまなら、問題なくやれるぞ! さぁ、やっつけよう!〉
「で、でも……!」ネスは混乱します。「そんな。それはまずいよ! ポーキーは……ポーキーは、好きじゃないけど、でも、一応ともだちなんだから……」
「なんだ、ネス。ブツブツひとりごとなんか言って」ポーキーは近づいてきて、ネスのおでこに手を当てました。「熱はないな。夏風邪には気をつけろよ。医者にかかると、金がいるからな」
〈ネス! なにをためらう! 地球の未来のためだ、人類六十億のためなんだぞ!〉
「でも、でも!……いやだ……無理だ……ぼくにはできない……」
〈……ええい、おまえがやらんなら、わしがやるぞ……!〉
「あらっ、あんたまだ帰らなかったのっ!」ピッキーを寝かしつけて隣の部屋から出てきたラードナおばさんが、ネスに目を止め、フンッと肩をそびやかしました。「深夜徘徊《はいかい》は不良の第一歩だわよ。なにさ、この虫。ブンブンうるさい便所バエだっ、えいっ!」
……あっ!
それは。
それはあまりにも突然で、いきなりで、止めようもなければ、こころの準備だってできていないことでした。ラードナおばさんの丸太ん棒のような腕が一閃《いっせん》したかと思うと。頼りの未来人ブンブーンは床に叩き落とされ。さらに。
「まっ。ハエじゃない! でっかいアレ[#「アレ」に傍点]だわっ! いやっいやっ、死ねっ!!」
脱いだスリッパでビシバシドシズシ。たちまち、叩き潰されてしまったのです……!
「お……おばさん、違う、違うったら、やめてっ!」
ネスは床に飛びつきました。ああ、でも、もう遅い。遅すぎる。
角が折れ、足がもげ。羽根もひしゃげて、ぺしゃんこです。拾い上げた手の中に、じわじわと体液が染みだします。ヒクヒクと、小さく痙攣《けいれん》しています。
〈……ネス……すまん……〉
「ブンブーン!」
ようやく落ち着きを取り戻したラードナおばさんは、あらやだ、ゴキブリじゃなくてカブトムシだったの、と顔を赤くしました。「なにさ、そんなに大事な虫なんだったら、ちゃんとカゴにでも入れときなさいよ、フン、紛らわしい!」足音高く行ってしまいます。
「悪かったなぁ、ネス」ポーキーがもじもじします。「お袋はゴ[#「ゴ」に傍点]のつくアレ[#「アレ」に傍点]が大っきらいなんだ。アレ[#「アレ」に傍点]を見るとパニックになっちまうんだ。……それにしても、すげぇ立派なカブトムシじゃないか。高かったんだろう。しょうがない。待ってろ、オヤジに弁償させるから」
ポーキーは大急ぎでどこかに行ってしまいました。
「うそだ……うそだろ、ブンブーン……こんなことで死ぬな、しっかりしてくれよ……!」
ネスは床にぺたんと座ります。
〈いや……わしはもうだめだ……これ以上おまえを助けてやれん〉ブンブーンは、最後の力をふりしぼって、半ペショになった角をゆっくりと振り上げると、ネスの目をじっと見上げました。〈ともだちをかばう優しさもまた、おまえのおまえであるゆえんであるのなら……ふふふ、ネス。いまは無理にあの少年をやらずともいい。……いずれ、おまえにもわかる……時が至る。地球のパワーとおまえの生命がひとつになる時がな……。ならば、ネス、まずはツーソンに向かえ。そこにはポーラがいるはずじゃ〉
「ポーラ? 誰それ?」
聞き質《ただ》しかけた、そのとたん。
〈ネス……ネス……〉
誰かの声が聞こえます。いいえ、それもまた、テレパシー。こころに直接訴えるもの。空の高みでさえずる小鳥のように、どこと知れぬ遠くでそっと囁く歌。
〈……ネス……まだあったことのないわたしのともだち……わたしはポーラよ……わたしの呼びかけを感じる? 感じたら答えて! ネス……ネス……わたしはポーラよ……〉
捕まえたと思ったら、またすぐ擦り抜けていってしまうところも小鳥に似ていました。
いなくなってしまうと、あっけにとられるほど寂しくなる。その純粋さ。可愛らしさ。なんとも言えない柔らかくて温かなものが、ネスのこころを満たしました。
ともだち。そう呼ばれました。ほんとにそうなりたい。この子に逢いたい。一刻も早く。
あまりにも急激に単純に膨れ上がった憧れに、思わず赤面してしまうほどです。
〈よしよし〉ブンブーンの思考が微笑みます。〈ポーラは、世界じゅうに散った四人の仲間のうちのひとりじゃ。彼女のPSIは既に相当に強い。きっと、おまえの良き助けとなり道しるべとなろう〉
「わかった。行く。このポーラって子を探す! 『僕の場所』もちゃんと探す! だから、ブンブーン、お願いだから元気だして! 生き返って!」
〈いやそれは無理な注文だ……ネス……地球を、頼んだぞ〉
ちいさなトゲトゲのついた肢を、まるで握手でも求めるかのように弱々しく動かしたかと思うと……ブンブーンは、それっきり動かなくなりました。
すっかり、まったく。動かなくなりました。
胸のまんなかにぽっかり空洞があいたみたいです。ネスは思わず眼を瞑りました。
頼んだぞ。
ブンブーンの最後の声が、よその国に出かけてゆく前のパパの声に重なります。ちょっとまぶしそうにしかめたパパの笑顔が、まぶたの裏に浮かびます。
パパはいつだっておまえを信じてるぞ、ネス。おまえはママに似てがんばり屋だからな。ちょっとくらい困ったことがあったって、簡単にくじけやしないよな。無理は禁物だけど、いつもできるだけ元気でいて欲しい。うなだれた姿勢は内臓を圧迫して成長をさまたげる。つらいなぁと思う時にも、とにかくまず、思い切って胸を張ってごらん。
ネスはのろのろと目を開き、立ちあがりました。ブンブーンの遺骸を手に乗せたまま。
階段を降り、廊下を渡り、ミンチさんの家を出ました。居間から『バカバカしい! ムシの慰謝料なんて払えるか!』ってオジサンの声がしたきり、そのまま誰にもあわなかったので、誰にも挨拶はしなくてすみました。
玄関を出たとたん。
いつの間にそんなに時間がたっていたのでしょう。東の山の端《は》が桃色に輝きだし、たちまちのうちに朝の光が空いっぱいに輝きはじめました。先々の不安と当惑にうつむきがちだったネスの顔を天の高いところに向けさせるような。縮こまる手足をバーンと広げさせるような。曇る心を励ましてすっきり晴れ渡らせてくれるような。
なんとも気持ちのいい朝でした。
……よし! 行こう。勇気を出して出かけよう。まずは隣町のツーソンで、ポーラって子を見つけるんだ。そして、いつか、きっと、ギーグってやつと戦うぞ。
十年後の未来からわざわざ来てくれたブンブーンのためにも。
ぼくは、がんばる!
家に帰って決意を告げます。ママもトレーシーも、そんな夢みたいな話って笑い飛ばすかと思ったら、ちゃんと真面目に聞いてくれました。
「わたしね」とママは言います。「昔、すっごく当るんで有名な占いの先生に見てもらったことがあるの。その時言われた。あんたはやがて男の子を生むが、その子は世界を救う少年になるだろうって……その時は、ぶったまげのリップ・サーヴィスだと思ったけど。ほんとのことだったんだって、いま、確信したわ」
「あたしたちのことは心配しないで」トレーシーも請け合います。「ちゃんとやるから。ミンチさんちのおじさんがママを誘惑しにきても、バッチリ退治しちゃうから大丈夫よ!」
黄色いリュックを背にしょって。真っ赤な野球帽をかぶり。この前の誕生日にパパが買ってくれた愛用のバットを肩に担ぎ。
意気揚々、足取り軽く。ネスは元気に出発します。
温かな家を。大好きな家を。
さぁ、冒険のはじまりです……!
2 最初の試練
少年が大志を抱いても学成り難く、ガクは名高いカヌー犬……なんのこっちゃ。
そうなんです。せっかく張り切って出発してきたというのに、なんてことでしょう。ツーソンに至る道は、何台ものパトカーで厳重に封鎖されているのです。こっそり脇を擦り抜けようとしたネスは、怪しまれて、たちまち警察に連行されてしまいました。
「シャーク団の悪たれになるには、若すぎるようだが」ストロング署長さんは腕組みをし、スーパー・ウルトラ・サンボ・マンボ・マーシャルアーツで鍛えた筋肉をぐりぐりっと盛り上げて、ネスを睨みました。「近頃は非行が若年化しているからな。……こら。坊主。なぜ無理に町を出ようとした。おまえもフランクの手下なのか」
「違います!」ネスは言いました。「フランクって、最近のゲームセンターをアジトにしている不良の親玉でしょう? 逢ったこともありませんよ」
「嘘をつくと為にならないぞ」
署長さんはじっとネスを見ました。ネスもひるまず、見つめかえしました。
「……よし」署長さんが笑います。「おまえを信じよう。放免してやるから、とっとと帰れ。子供は家でニンテンドーでもやっていろ」
「でも、ぼくはどうしてもツーソンに」
「口答えするな!」署長さんはピッと指を一本たてました。「俺に逆らうな! 保護者の同伴なしに徘徊しているところを見つけたら、今度は本気でしょっぴくぞ!」
ネスは事情を説明しようとしましたが、署長さんはうるさそうに手を振って受話器を取ります。「マギー? ジムを寄越してくれ。それから、この電話を市庁舎に回してくれないか……あーもしもし? こちら警察署のストロングですがね、ピカール市長は? ええ、あのワルども撲滅計画のことで、ちょっとご相談が……はい、待ちます」
「署長、お呼びですか」
ひょろりと背の高い若い制服警官がひとり入ってきました。署長さんは送話口を手で押え「ああ、ジム。その子を家まで送ってやってくれ」と横柄《おうへい》に言いました。
「わかりました。……さ、坊や、行こう」
おおきな手に肩を押されてしまったし、署長さんは繋がった電話となにやらヒソヒソ話し込んでいます。しょうがありません。ネスは促されるままに部屋を出ました。
ガラス仕切の向うでは、おおぜいの刑事さんたちが、互いに唾を飛ばし合ってなにか相談したり、背広の内側の脇の下のホルスターから拳銃をサッと出す練習をしたり、チェリー・パイを味見したりしています。野犬駆除だの、不良撲滅だのの嘆願に来ている熱心な市民のかたがたの相手をしているひともいます。
狭い通路を、SWATみたいな一群がバタバタ走ってゆきました。通りすがりの婦人警官が抱えていた書類を飛ばされ転ばされて、一瞬何か言おうとしましたが、あきらめたらしく、どうしようもないわね、と両手を広げます。ネスとジムさんは、書類を拾う手伝いをしてあげました。
「まぁ、どうもありがとう、ジム」女のひとは、ずれた眼鏡をかけなおすと、まつげをパチパチさせてジムさんを見つめました。「まったく、やあね、みんな、ピリピリしちゃって。大好きな駐車違反の取り締まりもできやしない」
「そうだね、マギー」ジムさんはうっとりした顔で、マギーさんの手を取ります。「きみのチョーク引きが見られなくって、残念だよ。あれって、いつ見てもサイコーなのに」
「うふん。あなたの違反切符の切り方だって、とてもセクシーでチャーミングだわ」
「早くまた一緒に取り締まりできるようになるといいね」
「ほんとにそうね、ハニー♪ また一緒にビシバシ取り締まりしましょうね」
「あのう……もしもし」ネスは、いつしかぴたりと寄り添って甘く見つめ合うふたりに、遠慮がちに尋ねました。「どうしてこんなに、ピリピリしているんですか」
「あ? そりゃ、ピリピリもするじゃないか!」ジムさんは肩をすくめます。「謎の隕石は落ちるし、不良どもはうかれてる。非常事態だ。暴動が起きたり、悪さをするやつが現われたりでもしたら大変だろ。……G《ゲー》・H《ハー》・ピカール市長は次の選挙でも絶対負けたくないからね。署長も心配してるわけさ……子供にはこのへん、わからないだろうけど」
みくびってもらっちゃ困ります。市長さんと署長さんは、どっちかの妹さんがどっちかの奥さんになるぐらい仲良しなんだってことは、オネットではジョウシキです。小学生だって知っています。
がっちりタッグを組んだ警察とお役所がコトを重く見るたびに、小さな町は、非常事態の緊急事態の戒厳令目前のピリピリ状態になります。名物道路封鎖がはじまるのです。このままでは、いつになったらツーソンに行きつくことができるやら。
地球の危機が近づいているというのに!
ネスは、ふうっとため息をつきました。なんとかして封鎖を解いてもらわなきゃ。でも、署長さんは話を聞いてくれないし、市長さんだって、たぶん、小学生ごときが頼みごとをしに行っても、それどころじゃないって言うに決っています。市役所の建物は真四角ででっかくてなんとなく怖いです。ネスには選挙権さえないんですからね!
……でも……もしも……。
緊急事態の原因を取り除いてあげることができたら、署長さんだって市長さんだって、きっとすごく喜びますよね。感激しますよね。
あの隕石はただの卵の残骸なんだから、怖がらなくていいって、教えてあげたらどうでしょう?……だめです。証拠がない。きっと大笑いされるだけです。『音の石』なんか見せびらかしたら、どこで盗んできたんだ! って牢屋に入れられちゃうかもしれません。それに、隕石そのものには害はないけど、凶悪宇宙人ギーグの魔の手が迫っていることは確かなんです。大人たちにあんまりノンビリされても困る。
とすれば……。
ネスはあたまをめぐらし、あることを思いつきました。あまり嬉しい思いつきじゃなかったけど、やってみるしかありません。
「ねぇ、ジムさん、ぼく、ひとりで帰れます。家まで送ってもらわなくっても大丈夫です」
「そうかい?」ジムさんはまだマギーさんの手を放しません。「きみがそういうんなら、それでもいいよ。ぼくもなにかと忙しいから、助かる」
「ええ。あなたはほんとになにかと忙しいんですものねぇ」マギーさんはジムさんの制服のシャツのお腹のあたりを一本指にまきつけてクルクル盛んに捏《こ》ねています。
「じゃあ。どうもすみませんでした。サヨナラ」
帽子を取ってお辞儀をしましたが、ジムさんもマギーさんもお互いを見つめっぱなしだったので、ちゃんと気づいてくれたかどうかはなはだ怪しいものでした。
ネスは模範的な小学生の顔つきで警察署を出、素直に家の方角に向かって歩きだしました。けれど、角をひとつ曲っておまわりさんたちから見えなくなると、大急ぎでとってかえしました。ゲームセンターは、町の南側にあるのです。
じめついた横町の角、古びた貸しビルの一階。ぴこぴこ聞こえる電子音、埃まみれのクレーンゲーム。ゲーセンです。不良たちの溜まり場です。去年の新作ゲームのポスターの張ってあるガラス窓は、喧嘩でもしたのかガムテで補強してあるし、ボロい自転車や原付バイクが無雑作に放り出されて歩道を塞いでいます。ボコボコになったトラッシュ缶、散らばったままのファストフード店のコップや包紙。
いずれも薄汚く黒っぽい、バスケの選手みたいなタブタブのズボンからシャツをはみ出させた格好の男の子たちが三人、だるそうに道端にしゃがみこんで何か喋っていました。ひとりがネスを見て、笑いを消します。あとのふたりも視線に気付いて、振り向きます。煙草を捨てるやつ。立ちあがるやつ。
「こんにちは」ネスは静かに近づきます。「フランクさんってひと、いますか? ちょっと話があるんだけど」
「なんだおめぇ」頭がモップみたいな背の高い少年が、地面にペッと唾を吐きます。「金、持ってるか」
「お金?……どうして」
「ひとに物尋ねようって時に、ただってこたァねえだろォ?……金がねェんなら」モップは長い腕を伸ばしたかと思うと、ネスの頭から帽子を奪い取りました。「これでもいいや。ほっほー、どうだ? 似合うか?」
「だせー!」
「オッシャレー♪」
不良たちは、膝をたたき、大口開けて、下品にギャハハと笑います。頭がでっかすぎて、帽子がちゃんとはまらないのです。モップはフラフープを腰にあてがうと、お尻をつきだし、両手で架空のボインを揺すりあげながらチョコマカ歩き「あっはん♪」といやらしいポーズを決めます。
ネスはカッと赤くなりました。
「よせよ、返せよ!」
「へっへっへー、欲しきゃあ自分で取りにきなー」膝と肘にパッドをつけた少年が、スケボーに乗って走り抜けながら、帽子をかっさらいました。
ネスがさっとそっちに向かうと、今度は、飛行士ゴーグルをはめたのが、ジャンピング・ボードでびょんびょん跳ねてきて、後ろからネスのリュックをひっかけ上げ、むやみやたらにひっぱりまわします。リュックの傘入れのところに挟んでおいたバットがずれて、ネスは転んでしまいました。野球帽を手から手へ回すのにも飽きると、不良たちは、今度は、それを地面に落として踏んずけます。サッカーボールがわりにパスします。追いかけるネスの顔をかすめてスケボーが走りぬけ、思わずエビぞりになってしまった背中に、フラフープが激突します。とうとうネスがアスファルトにうずくまると、不良たちは、ますますかさにかかって、小突きまわしました。
「無敵のフランクさまに、チビ、おめえみたいなガキが、いったい、なんの用だ」
「けっけっけ、たたきのめしてもらいたかったんだろ」
「シャーク団に入れて欲しいんじゃない? ママにでも叱られて、もうグレちゃおうって決めたとか」
「おいらたちにまざりたいんなら、ボーズ、もうちっと、喧嘩の腕をあげてきな!」
グシャグシャのゴミみたいな塊になった赤い野球帽が、地面にポンと捨てられます。掴もうと伸ばしたネスの手を、ジャンピング・ボードがズシン! と踏んで通りました。甲高い笑い声とガムの噛みカスをネスの上に吐きだすと、不良たちは、ゲーセンの中に入って行ってしまいそうになりました。
……ちくしょう! ネスは奥歯を喰い縛って立ちあがりました。凶器を持ち出したくはなかったけれど、一対三です。向うだって、さんざん卑怯な道具を使いました。黙ってやられっぱなしじゃ、男がすたる!
破れた帽子を被ります。転がっていたバットを拾いあげます。
「……待て」
三人が振り向き、バットをぶらさげたネスを見て、ちょっと驚いたように顔を見合せます。
「フランクはどこだと聞いたんだ。案内しろ」
「あのなぁ」モップがやれやれと肩をすくめました。「そうマジに熱くなるなよ、ガキだなぁ。こりゃジョークなんだから。わかるか? ジョークだぜ」
「ぼくは本気だ」ネスは赤い帽子のヒサシの影から三人を睨みつけながら、じりっと前に進みました。「フランクに逢わせろ」
不良三人組は目と目を見交わします。スケボーを小脇にかかえた少年が、あかんわコリャ、とばかりに頭を振りました。
「言っとくけど、無敵のフランクさまは、おれたちよりか、もっと短期でマッドだぜ。なんの話があるのか知らないが、怒らせたら偉いことになるよ。なにせあのひとは、アクションヴァイオレンスが三度の飯より好きなんだ。病院行きにされちまっても、知らねぇよ」
「逢わせろ」
三人は黙りました。みんな急に真剣な顔になっています。飛行士眼鏡の少年が、両手を肩のところで上に向けます。モップがうさんくさそうにうなずきました。
「忘れるな。おれたちは忠告したぜ、チビ」
「ああ」
「来な」
モップが顎をしゃくります。ネスは無言のまま、後に続いていきました。
ゲームセンターは、遊園地の潜水艦の中のように薄暗く、ひんやり湿って不気味です。よどんだ空気のあちこちにたくさんのゲーム機が並んでいます。ところどころにひと影が見えますが、すぐそばを通っても、顔もあげません。うつろな取り憑かれたような表情でピンボールをしているやつ、具合が悪いんじゃないかと思うほど青ざめてマシンガンをぶっぱなしまくっているやつ、ぽかんと口を開けっぱなしにして裸に近い格好の画面の中の女の子とジャンケンゲームを続けているやつ。みんな周囲に無関心です。キューンキューンとミサイルを打つ音や奇妙に陽気なマーチみたいななにかのキャラのテーマソングが聞こえる以外、あたりはいやに静かです。
ネスたちは半地下へ、階段を降りました。トイレ臭い狭苦しい廊下の先のドアを、モップがそっとノックします。なんだ、と低い声で返事がありました。モップは窮屈そうにからだをひねってネスを追いやりました。「忠告したぞ」
ネスは、うなずきました。
三人はふりかえりふりかえり、階段を登っていってしまいました。
ネスはノブをつかみ、ドアを開けます。
さらにいっそう暗さを増した小部屋には、オレンジ色の灯りがひとつ。背広をきて、目の見えないひとが使うような真黒いサングラスをかけた二十歳くらいの男が、羅紗《らしゃ》の擦り切れたビリヤード台にかがみこんでいます。
キューが突き出され、白い玉が転がって、いくつかの玉に当って跳ね返ります。玉がひとつふたつ、続けて台の角の穴――ポケットって言います――に落ちる音が、ごとごとんと響きました。男は黙って台を回りこみます。別の方向から、白い玉にまた狙いをつけます。
「フランクさんですか?」
ネスが言うと、男はチラッと目をあげました。
「おまえは?」
「ネスと言います。お願いがあってきました」
フランクは声を出さずに笑い、キューを突き出しました。また、玉がいくつか、ごとごとんと落ちます。
「ぼくは、どうしても急いでツーソンに行かなくてはならないんです。でも、町を出る道路は封鎖されています。警察は非常事態だとか言って、通してくれません。あなたがたがなにか悪いことをするんじゃないかって警戒しているみたいです」
「ほほお」フランクはチョークを取ってキューの先端に擦りました。黒板を爪でひっかいたような嫌な音がします。「サツの旦那がたァ、ほんと暇だよなァ……しかし、そんなに期待されてるんなら、またひと暴れすっかな。……そうすりゃ、おまえひとりぐらい、封鎖を擦り抜けられねぇこともないだろう」
こつん。また玉が落ちます。残りはあとふたつ。
「いくら出せる?」
ネスは黙っています。
「え、いくら出せるんだよ、ぼうず? 言っとくが、フランクさまは安くないぜ」慎重に、慎重に、構えます。「そうだなぁ、ざっと五百ドルはもらっとこうかな」
「でも……聞いてください! 実は地球の危機なんです!」
スカッ! キューがずれ、白玉の横っ面を撫でてしまいます。白玉が吸いこまれるようにしてポケットに落ちました。フランクの眉が黒サングラスの上端を越えてあがります。
「だから、ぼくは、どうしてもツーソンに行って、ポーラって子と逢わなきゃならないんだ。十年後の未来から凶悪宇宙人ギーグがやってきて、地球をのっとろうとしているんです。人間同士、いがみあってる場合じゃない。フランクさん、どうか、ストロング署長と仲直りしてください。そしたら、封鎖なんて必要なくなる」
フランクは足をひきずるようにして歩いて行って、白玉と他の玉を取り出し、もう一度はじめからセットしなおしました。
「フランクさん! お願いします!」
「黙れ」フランクはチラッとネスを見、肩を揺すりました。「もうたくさんだ。おまえ、どーせ、これなんだろ?」コメカミの横を指でぐるぐる回します。「でなかったら、とっくにぶん殴ってるとこだぜ。だから、おれがぶっちぎれる前にとっとと帰んな。でもって、窓辺に水晶玉でも握って、チャクラでも回して、おまえのテレパシー通信を受け取ることのできるムー大陸の正義の戦士の生まれまわりとでも交信してな」
「信じられないのは無理もないけど、でも、本当のことなんです。昨日、隕石が落ちたでしょう? あれは、未来のブンブーンの乗り物だったんです。スターマンの息子ってやつとも逢いました。そいつは、未来からきた殺し屋で……」
「黙れってんだよ、この野郎!」フランクはキューを台に叩きつけて折り、凄《すさま》じい顔つきで、ネスに迫ってきました。「ひとが真剣に遊んでる時に。夢みたいなことをぴーぴーぎゃーぎゃー言いやがって。うるせぇっつーんだよ!」
襟もとを掴んでひっぱりあげます。ネスのつまさきが、床をかすります。
「目上の人間の邪魔をしちゃーいけねぇって、学校でならわなかったのかよ!!」
シャキッ! 飛出しナイフです。ぎらぎら光る銀色の刃が、ネスの頬に冷たく触れます。
「ふふふ、怖いか。小便チビんなよ、あとの掃除が大変だからな……おっとっと、なんだそれは? バットか? いやいや、かはははは! わらかしてくれるじゃねぇか!」
フランクに思い切り突き飛ばされて、ネスはドアに激突します。リュックの中の何か固いものが、背中をぶって、ウッと息が詰まります。掴まれていた喉が干上がって、げほげほ咳こんでしまいます。
「よーし、ガキ。ちょっくら運動してみろ。かまわねぇ。思い切って、そいつでかかって来てみやがれ!」右手から左手へ。左手から右手へ。ナイフをパスして、ニヤつきます。「ほらほら、早くしろよ。こねぇなら……こっちから行くぜ!」
いきなり突き出されたナイフを、ネスは思わずバットで受けました。やった! ナイフがバットに刺さりました。凶器を奪いました! ところが。フランクは。おや、と一瞬、感心したような笑顔を作ったかと思うと、すぐにどこからともなく、ダーツの矢を取りだしたではありませんか!
「おらおらおらおら! ぼーっとしてると穴だらけだぜ、ガキぃ!」
針のようにとがった矢が、次々とネスに飛んできます! フランクは、ビリヤードの前にはダーツに熱中していたのではないでしょうか。極めて正確な効果的な投げ方です。ネスは必死でバットを振り回し、からだをひねって逃げますが、まるで無限のように次々に新しいのが現われる! おまけに矢にばかり注意していると、いつの間にかすぐそこまで近づいてきていたフランクに、足をさらわれます、メリケンサック・パンチも飛んできます! 必死にバットで応戦しますが、なんといっても場数が違う。フランクは攻撃をかわす間合いも実にうまいのです。
「あーっはははは! 踊れ踊れぇ」フランクは攻撃の手を緩めないまま、狂ったように大笑いをします。「あほたれのくそガキめ。いけ好かないこなまいきなクズめ。てめえみてぇな野郎は、おとなしく学校で、マークシート塗り潰してりゃいいんだっ!!」
髪を掴まれ、放り出され。ピータイルの冷たい床に仰向けで転がされてしまいました。ぴかぴかに磨かれたフランクのコンビの靴が、ネスの頬を踏みます。奪われたバットが、胃のあたりにぎゅうぎゅうねじこまれます。
「あーっははは、泣け。泣いてみろよ! こころ優しいフランクさんが、許してくれるかもしれねぇぞ!……なんだ? その顔は? 子供はもっと、素直じゃなくっちゃいけねぇな。悪いと思ったら、まずはきちんと謝ることだ。どうだ、ガキ? ご迷惑をおかけしてすみあせんでしたって言ってみな? 偉大なるフランクさまに逆らって、アホなたわごとをお聞かせするなんて、わたしは世界一の大馬鹿者でしたと。ほら! 言えよ! はっきりちゃんと、言ってみろってんだよバカ!」
頭はガンガン目はチカチカ、胃から口へ酸っぱいものが逆流してきます。手も足もだるくて重くて、動かすこともできません。いまにも気が遠くなりそうです。
ネスだって男の子ですから、少々の殴りっこやひっぱたきあいは、やったことがあります。男の勝負の野球対決では、生命を賭けたつもりになった場面がこれまでに何度も何度もありました。
でも、これは次元が違う。これがほんものの掛値なしの暴力なんだ、とネスはぼんやり思いました。そして。これでも。これでさえ。
地球の平和を脅かす怪物ギーグと戦うことを思えば、ハナクソぐらいに過ぎません。フランクは過激ですが、手加減はしています。殺す気はないんです。町の子供の生命を脅かしてしまったりしたら、いくらなんでもマズいと思う程度にはこれでも社会性があるわけです。
宇宙怪獣には、常識を期待するわけにはいかない。
そう思うと、ネスはついちょっと笑ってしまいました。
「ん?」フランクが顔をしかめます。「なんだ……おまえ……まだ懲りないのか!」
ズガッ! ボスッ! ぼかぼかバカッ! またひとしきり殴られます。撲《ぶ》たれます。蹴りをいれられます。鼻血が喉に流れこむ気持ち悪い感触。目のあたりが腫れあがってもう前もよく見えません。思い切り踏みにじられた指は感触がありません。骨が折れてしまったかもしれません。
でも。こんなとこで負けるわけにはいかないんだ。あきらめるわけにはいかないんだ。ブンブーンと約束した。ぼくは、ぼくの場所を探し出して、ぼくになる! 地球を救う。そして。そのためにはまず、ツーソンに行って、ポーラに逢わなくっちゃならないんだから!
〈……ネス……ネス……!〉
ポーラのことを考えると、ポーラの声が聞こえたような気がしました。
〈痛い? 苦しい? しっかりして、がんばって……信じて! きみは強い。きみには力がある。きみの中に眠っているたくさんの不思議な力を……さあ、目覚めさせるのよ……!〉
ちかっ!
フラッシュライトが閃《ひらめ》きます。からだじゅうが、内側のどこかに発した白い光に照されて、フレッシュ・アップします。もう痛くありません。苦しくありません。気分爽快、エネルギー満点。まるで電池を新しくしてもらったオモチャみたい。
〈そう! それが、サイコ・ヒーリングよ!〉
ポーラの声に励まされて、ネスはパチリと目を開けました。自分で自分に吃驚《びっくり》です。
横たわるネスの上にのしかかるようにしてニヤニヤ笑いながら、実は、汗みずくで息を荒げているフランクが、急に、妙にちっぽけに弱々しく見えます。何だか、すごく、臆病そうな、寂しそうな、かわいそうなひとに見えました。
「……終わりかな?」ネスはニッコリし、反動もつけずに起きあがりました。半ズボンの裾をぱたぱた叩いて、埃を落としながら、静かに言います。「気がすんだら、フランクさん、ぼくのお願いを聞いてください。喧嘩なんかやめて、不良なんかやめて、ストロング署長さんたちを、安心させてあげてください」
「……ば……ばけものか、おまえ……?!」汗にすべって、サングラスがずれます。つんのめるように壁際まで逃げると、フランクはなにかのスイッチを押しました。
「ちくしょう! こうなったら奥の手だ。……見ろ! おれさまの造った無敵戦闘ロボ、フランキースタイン2号だぞ!」
大砲でも打つような音がして、内張りのベニアと外壁の煉瓦《れんが》ががらがらと一気に崩れ落ちました。ビルの隙間の青空を背負って、狭苦しい裏庭いっぱいを埋めつくしているのは、いかにもガラクタを寄せ集めて手作りしたらしい不格好な金属の塊。
「フンガー!!」つきあげた片手がナマイキにも『フアッキュー』サインを出したので、ようやく、どこがどうなっているのかわかりました。おおまかに言えば、足のかわりに戦車のキャタピラをつけた巨大ロボットです!
「わははは、行け、すすめ、フランキースタイン2号! このくそガキをやっちまえぇっ!!」
フランクが四角い箱のような機械のレバーを操作すると。ズシューーー!! ロボットの頭の上のヤカンの蓋みたいな部分から蒸気が洩れます。フランクのサングラスそっくりの目の部分が、赤に緑に点滅します。
ネスはスクイズの構えをし、両脚をふんばりました。
でも、いくらネスが優秀な打者でも、こいつに押《の》しかかってこられたら、あっという間にぺしゃんこです! 冷や汗に背中が凍ります。
〈ポーラ! ポーラ聞こえる? 教えてよ! いったい、どうすればいいんだっ……!〉
〈あわてないで、ネス。そういう時は、PKを使うのが一番よ〉
〈PK? ってなんだ? 使うって? ど、どうやって?……うわぁあああ!〉
パーンチ! ばかでかい鉄の拳骨が振り下ろされます。咄嗟《とっさ》にバットで打ち返します。ピーッ! ロボットがぶたれた手を押えて、痛そうに蒸気を鳴らします。でも、ネスも両手がビリビリです。いまにもバットを落としてしまいそうです。
〈こらこら、逃げちゃだめ。まっすぐに立ち向かうの。信じるのよ、自分を。きみの精神力の全部をギューッと固めて、小さなボールにして、思い切り投げるって想像してみて……!〉
「ギューッと……ボールにして……?」
ネスはバットを落とします。両手をだらりと下げ、息を整えます。
「そら行けっ! ひるむなっ、やれっ、フランキースタイン2号!」
フランクが操縦器をガチャガチャさせると、ロボットはブモモッと蒸気を吐き、闘牛場の牛みたいに頭を低くして突進してきました!
「……白い小さなボール……」ネスは自分の力が野球ボールになったところをイメージしました。いつも使ってる小学生用の柔らかくてちょっとでかいのじゃなくって、ほんものの大人の使う硬球です。握りをかため、ワインドアップ。男の花道、直球勝負です!
「ぃやあぁあぁぁああああ!!」
火花を散らし電撃を飛ばし、真っ白い龍の姿になってうねりながら飛んで行った球が……ズガーン!! 大当りです、疑いなしのストライクです! ロボットの鼻のアンテナがヘシ折れます。ロボットは、しゅうしゅう蒸気を吐きながら、もとのガラクタになってバラバラ無惨に崩れます。接着剤が足りなかったみたいです。
「お……おお……おお」フランクがガクリと膝をつきます。顎がだらりと落ちています。
「なんだ……いまのは……し、信じられん……いまのはいったい、なんだったんだ……」
「PK気合いストレート時速一五〇キロだよ!」ネスは、バットを拾い上げ、ニッコリ笑ってみせました。
「おまえ」フランクはネスを見、ビクッと震えました。「ほんとにほんもののエスパーだったのか……あれが、有名なサイコキネシスってやつか」
「あ、そっか。PKって、サ・イコキ・ネシスの頭文字だったんだね」
「だったんだねって……」フランクはあっけにとられたような顔をしたかと思うと、がははと大声で笑い出しました。「こいつぁいい。傑作だ。チビ、おまえ、自分がなにをやったかもよくわかんないで勝っちまったわけか?」
「うん……ほんと言うと」ネスは赤くなります。「そうなんだ」
「そうか。そりゃあすげぇ」フランクは立ちあがり、お尻のあたりでゴシゴシ手を拭うと、握手のかたちに差しだしました。「バカ扱いして悪かった。許してくれるか」
「もちろん!」ネスはがっちり握り返します。「せっかくの工作、壊しちゃってごめんね」
「いいんだ。あんなのは。また作れば」サングラスのないフランクの顔は、なんだかやけに気の弱そうな、ひとのよさそうなおにいさんです。「昔なぁ、おまえぐらいだった時に、おれ、アストロボーイっつー、ロボットアニメがすげぇ好きでさ。いつか世界的な科学者になって、すげぇロボットを作るんだって思ってた。けど、うちゃビンボーで、オヤジもオフクロもガッコなんか続けなくていい、とにかく働け! 金を稼いで来い! なんて言われて……気がついたら、グレちまってたんだけどさ。昔のおれが夢見てたようなことを本気で言ってるおまえが悔しくて、憎らしくって、ついつい乱暴しちゃったけど……『凶悪宇宙人』とか『地球の危機』とかって、あれは、マジにほんとなのか?」
「うん。マジにほんとなんだよ」
「そっか。いいなぁ。ぞくぞくするなぁ!……しかし」フランクは腕組みをして、ちょっと考えました。「じゃ、あれも……パワースポットってやつも、冗談じゃなかったのかな」
「パワースポット?」
「ああ。おれはオカルト系はダメなんだけどよ、うちのモップが――やつは霊感が強いんだけど――オネットにそいつがあるって言うんだ。『ジャイアントステップ』っつって、あの隕石の落ちた山の西側の洞窟の先。シャーク団で肝だめしに出かけてみたら、なんかキラキラしたもんが道を塞いでいて、どうしても通れない。モップの野郎、そいつを見ると白目剥いて震え出して、おれたちはここに呼ばれてない、っつーんだ。ここは、誰か他のやつを呼んでるって。そこには、パワースポットのエナジーを吸い取ったばけもんの気配もするって」
「それは『ぼくの場所』かもしれない」ネスはうなずきました。「ありがとう。行ってみる」
「ああ」フランクは優しく目を細めると、ネスの肩に手を起きました。「気をつけろ。おまえが無事に戻ってくるまでに、おれは、封鎖を解除してくれるようにサツの旦那に頼んでおく」
「ほんとかい!」
「ああ。ちょっと悔しいけどな。地球の危機じゃ、黙ってられねぇよ」フランクは照れ臭そうに笑います。「おれより強いネス、がんばれよ。おれたちの地球を、守ってくれよ!」
図書館の裏庭の使われなくなった倉庫の上に、大きく枝を張った楡の木があります。その楡の樹上に、板組みの小屋がありました。ツリーハウスです。オネット・ジュニア・ハイのヤンチャ坊主たちの隠れ家です。放課後や夏休み、仲良しの男の子たちは誰からともなくここに集って、カード・ゲームをしたり、野球の試合の作戦を練ったり、時には、ちょっとしたイタズラの計画をたてたりするわけです。
岩山の洞穴に向かう道すがらネスが小屋に顔を出したのは、仲良しのともだちには事情を説明しておこうと思ったからです。なにせ地球を救う旅。いつ戻れるかわかりません。トレーシーやママが心細くないように、それとなく助けてやって欲しいと、頼みました。
「オーケィ、相棒、わかったよ」おとなびた顔をしかめながら、ガキ大将のクリスが請け合います。「心配するな。新学期がはじまっちまっても戻れなくっても焦るんじゃねぇぜ。学校のほうも、なんとかうまいこと誤魔化しておくからサ」
「帰ったら、冒険の話を聞かせておくれよね」作家志望のゴーディは知らない人にいつも女の子とまちがわれるほどきれいな顔を輝かせます。「ぼくは、それを書いて、デビューするんだ!」
「なんだい、そのボロボロは。ほら」バーンが自分の被っていた帽子とネスの帽子を取り替えてくれました。
「いいのかい、バーン?」ネスはびっくりしました。「だってこれ、ずっと君が大事にしてた、ミスターのサイン入りの帽子じゃないか」
「いいって、いいって」バーンは肩をすくめます。「前に犬におっかけられた時、捨身でかばってくれただろ。いつかおまえに礼をしなきゃって思ってたんだ」
「あっ おれも! じゃ、そうだ。これ持ってけよ」テディはポケットを探ると、マジックインキくらいの大きさのものを手渡してくれました。迷彩模様を施した、ミニマグライトです。
「ちっちゃいけど、けっこう明るいからね。洞窟なんかで便利だよ」
「じゃ、借りてく……いつか、ちゃんと返すね」ネスは新しい帽子のつばを調整して、感激に涙が浮かびそうになった目をいそいでまたたいてごまかしました。「みんな、ありがとう。行ってくる」
がんばれよう! 四人のともだちが、手を振って見送ってくれました。
藪《やぶ》に覆われた急斜面を、草や蔓《つる》や樹の根っこに掴まりながら登りきると、洞窟の入口が見えました。剥き出しになった山肌にぽっかり開いた丸い穴。まるで、岩の巨人があくびでもしているみたいです。
ネスはゴクリと唾を飲むと、テディのミニマグライトを取り出し、しっかりと握りしめました。入ります。
ひんやり湿った空気です。露を帯びた岩がぬらぬら不気味に光ります。ライトを浴びた何かが獣の瞳のようにキラッとして、ネスは思わず足を止めましたが。ジュースの空き缶です。シャーク団の行儀の悪い連中が投げ捨てでもしたのでしょうか。ネスはふうっと息を吐き、ゴミを拾いました。
道は上下左右にうねりながら続き、奥に行くにつれてだんだん狭くなりました。こんなところで道に迷ってしまったら? と胸がドキドキしてしまいましたが、幸いどうやら一本道です。ひときわ天井が狭くなったところを越えると、彼方に光が見えました。湧き出る泉のように、光の粒を吹き出しては、あたり一面に振りまく場所。
不思議なきれいな神秘的な光がネスのからだを包みます。光は冷たく清潔なシャワーになって、ネスの手足をくすぐります。
〈よくきた〉光の中、まぶしすぎてよく見えない何か巨大な物体が、こころの声で語ります。〈ここは一番めの『おまえの場所』だ。しかしいまは、わたしの場所だ。奪いかえせばいい。……できるものなら〉
おぼろげな影が進みでたのを見て、ネスは我が目を疑いました。
ひとの背丈ほどもあるアリです! 飴色の六本肢をもぞもぞさせたかと思うと、巨大な顎をいっぱいに開いて、ネスに飛びかかってきました! あわてて振りかぶったバットに、ガシャン! 顎が噛みつきます。まるでパワーショベルです!
「うわぁっ」よろけたネスの足を、たくさんの子分のアリたちが這いあがります。半ズボンの中にも、シャツの中にも、かまわずどんどん入ってきます。くすぐったくってたまりません。
ぶわぁあぁっ! 巨大アリがお尻から酸を噴きだします。デッドボール避けの要領でうまく身をかわしたものの、酸のかかった岩が、ジュッといやな匂いの煙をあげます。ネスはゾッと目をみはり、まつげをぱちぱちさせました。どうやら冗談抜きです。遠慮してたら、やられてしまう!
「えええいっ!!」必殺の気合いを込めて、バットで殴りかかります。ピッチャー返しぃ! アリはのけぞり、苦しがってもがきます。やみくもに振り回す肢が風をきり、帽子を飛ばします、ネスはあわてて飛びつきます。うっかりすっぽぬけたミニマグライトが、なんと偶然、アリのどてっ腹にぶち当りました! ぎゃあああっ!
ころんと仰向けにひっくりかえったかと思うと、巨大アリはみるみる縮んでゆきました。もとを正せばちっぽけなアリ。仲間たちに助けられながら、よれよれと情けない足取りで、地面の隙間に這いこんでゆきました。
ふう。良かった。ネスはライトを拾いあげ、ほっと汗を拭います。
光の噴水が音もなく消えてしまうと、さらに先に続くねじまがった穴が見えました。その向こうから、なにかの気配がネスを招いています。ネスはおそるおそる進んでみました。
洞窟はすぐに終わりになり、気がつくと、おもてに立っていました。青い青い夏空の下、柔らかな草原が風にそよいでいます。なんともいえない、いい匂い。その真ん中……剥き出しの地面が、草の生えていないところが、奇妙な形を作っています。ジャイアントステップ! 大きな大きな、足跡です。自分が何をしているのかもよくわからないうちに、ネスはリュックの中から、音の石を取りだしました。そっとつまんで、陽にかざします。宝石レンズごしに見る足跡が、ピカッ! 純白の清らかな光を発します! 優しいひそやかなメロディが、どこからともなく聞こえます。
けして知らない、これまで聞いたことがない旋律なのに、ひどく懐かしく、胸に染みます。
ネスの目に一瞬、小さなむく犬の姿が見えました。
音の石の中のどこかが、くるくる回り、七色の光箭《こうせん》を発します。音の石は、ジャイアントステップの音を記憶したのです……!
〈ネス……やったね! おめでとう!〉まだ会ったことのないポーラの声が、なんだか前より近くなりました。とてもはっきり、よく聞こえます。〈そうよ、だって、きみは階段をひとつ登ったんだから! PKの威力だって、どんどん大きくなるよ。……さぁ、ネス、はやく来て! ツーソンへ! わたしのところへ……!〉
山をおりると、お役所のひとがネスを探して走り回っていました。
市役所に連れてゆかれます。立派な素敵な会議室で、市長さんと警察署長さんと、なぜかSFまんがのヒーローみたいなテカテカする制服のようなものを着込んだフランクが、なごやかに歓談しているところでした。
「おお、きみが噂のネスくんか」名前の通りおつむのてっぺんが輝かしいG《ゲー》・H《ハー》・ピカール市長さんは、立ちあがって握手を求めました。「無理に呼びつけてすまない、ひとことお礼がいいたかったんだ。このフランクくんは、こんど、新しく我がオネットの清掃隊長になってくれることとなったのだよ!」
「フランキースタイン2号の残骸を使って、とびきりカッコいい清掃車を作ってみたんだ」フランクは相変わらずのサングラスの下で、照れくさそうに笑います。「シャープでメカニックでごきげんなヤツさ。シャーク団は、全員清掃局員になって、町じゅうの美化とリサイクルに励むことにした。ゴミのポイ捨てするやつは、ネスにかわってオシオキだぜ」
「浄化運動に協力してくれてありがとう」と、ストロング署長さん。「きみは町の埃……いや、誇りだ。誉《ほまれ》だ。英雄だ」
「そういうわけで、次の選挙の時には、ぜひ、応援演説を頼むよ」とすかさずピカール市長。
「道路封鎖は解除になった。ツーソンに行きたいそうだが、パトカーで送ってあげることもできるんじゃないかな、ねっ、ストロングくん?」
「おれのスーパークリーナー・ビューティホー・フランシスに乗ってってもいいんだぜ」
「ありがとう!」
嬉しい知らせに、ネスはさっそくテレパシーを飛ばしました。
〈ポーラ、ポーラ、聞こえる? ぼく、行くよ。もうすぐ、ツーソンに行くよ!〉
……しかし……。
〈ポーラ? もうすぐ逢えるよ! よろしくね!〉
なんの手ごたえもありません。
〈どうした? 聞こえないの? ひょっとしてお昼寝でもしているのかい……〉
やっぱり返事がありません。
「……おかしい……」
「どうした、ネス?」
「顔色が青いぞ」
フランクが、署長さんが声をかけましたが、ネスの耳には入りませんでした。
いやな予感がします。とてもいやな予感です。もしや、ポーラの身に何かあったのではないでしょうか?
急速にふくれあがる不安に急かされるように、ネスは思い切り走り出しました。
3 謎の教団
夏草生い茂る街道を、一路、南へ。
ネスが必死の急ぎ足で進んでいる頃――
「ブルーブルー」
呼びかけられて、ポーラはうっすら目をあけました。
錆びた鉄格子の向うで、不健康な顔色の女が薄笑いを浮かべています。
「気分はどうだい、お嬢さん。そろそろお腹が減っただろう」女は手提げ籠《かご》を床に置くと、中からタッパーウェアを取り上げました。「さぁ、お食べ。ごはんだよ」
差し入れられた容れ物の中は、ほかほかと湯気の立つスープ。甘酸っぱいハーブの匂いは美味しそうなのですが、色がとんでもない。目のさめるような青なのです。食べ物には全く見えません。続けて女が取り出したパンもまた、学校で理科の実験の授業の時に見た硫酸銅溶液そっくりの、なんとも鮮やかなブルーに染っています。
「ありがとう、でも、欲しくないわ」ポーラはぎこちなく微笑みながら、そっと後ずさりました。「ごめんなさい。わたし、いま、ダイエット中なの」
「いけないねぇ」女は頭を振りました。「あんたは充分きれいじゃないか。神さまからいただいたからだを粗末にしちゃあ、バチがあたるよ。……まぁ、その、これみよがしの金髪をブルーに染めたらもっときれいだろうとは思うけどね。ここに置いていくから、食べたくなったら食べるんだよ」
ガチャリと鍵の音をさせて女が行ってしまうと、広くもない小屋の中に、ポーラはひとりきりになりました。
底冷えのする丸木小屋です。古びて歪んだ羽目板の隙間から、じっとりと湿った風が吹きこんできます。どこかで、水の流れる音。
ポーラは、スープの容れ物にさわってみました。かじかんだ指を慰めてくれる、柔らかなぬくもり。お腹もぐうぐう鳴っています。
でも、もし、これを食べてしまったら。
ポーラはゾッとして震えます。異様な光景を思い出してしまったからです。
「オネットからきた男の子が、あんたに逢いたがっているんだよ」
電話がかかってきたのは、子供たちにお昼寝をさせている時のことでした。
「ちょいとちょっくらちょいと、ヌスット広場まで出てきれくれないかなぁ」
ポーラの家は、ポーラスター幼稚園。働く女性の少なくないツーソンで、おかあさんが充分に面倒を見てあげられない子を、おおぜい預かっているのです。ポーラパパが理事長先生、ポーラママが園長先生です。
学校が夏休みに入ったので、ポーラも率先して手伝いました。毎年のことなので慣れたものです。絵本を読んで聞かせたり、オルガンと歌を教えたり。水泳教室では模範演技だってやってみせます。きれいでカッコよくて何でもできるポーラおねえちゃんは、今年もたちまち子供たちの人気ものになりました。
「オネットから来た男の子ですって!」ポーラは電話口でにっこりしました。「まぁ、ネスったら早かったわね。でも、どうして、自分で来ないんですか? ヌスット広場からなら、うちまでもうすぐです。道順を教えてあげてください」
「それがね、怪我をしていてね」電話の相手は、耳をくすぐるようなしゃがれ声を出しました。「一歩だって歩けない。だから、悪いけど、あんたのほうから来てもらいたいんだ。広場まで出向いてきてくれたら、こっちから声をかけるからさ」
「怪我? それは大変!……いいわ。すぐいきます」
親指をしゃぶったり、むにゃむにゃ寝言を言ったりしている、床一面のよい子たちを起こさぬように、ポーラは足音を忍ばせて幼稚園を出ました。おかげで、パパやママにも、どこに行くか、何時に帰るか、言ってくるゆとりがなかったのです。
ちょっぴり、変な気分はしました。歩けないほどの怪我をしたというのに、ネスはどうして、SOSをしてこなかったんでしょう? テレパシーで呼んでくれればいいのに。それに、電話をくれたあのオジサンは、いったいどこの誰でしょう?
ポーラはまだネスに逢ったことがないのでした。正直で勇敢な男の子だということは知っています。家族思い、ともだち思いで、卑怯なことの嫌いなスポーツマンだと知っています。でも、どんな顔をしているのか、背は高いのか低いのか、好きなタレントは誰か、星座は、血液型は……詳しいところはまだわかりません。
ひょっとすると……ネスは、あんまり何度も助けられたのを、ちょっとくやしく恥かしく思っているのかもしれない。よく知らない女の子に偉そうにあれこれ指図されるようなのを、うっとうしく感じていたりして。……まったく。遠慮なんてしてる場合じゃないのに!
ちょっと口をとがらせながらも、ポーラは足を緩めませんでした。
ヌスット広場は、町の西南に広がった大きな空き地です。手作り品やリサイクル・グッズ、書画骨董に世界の民芸品。露天のお店がたくさん並んだ、ちょっとしたフリー・マーケット。ヒッピー風のおにいさんのアクセサリー・ショップや、農家のおばあさんの生みたて卵の店などを横目で眺めながら足早に歩いていると。
「あんた、ポーラね」ターバンを巻いた外国人に、腕をつかまれました。「くる。こっち。トンチキさん、待つ、あっち」
「行くわよ、行きますけどね、……ちょっと、痛いわ、放してよ!」
ポーラはもがきましたが、外国人は、ことばがわからないのか、知らんぷり。力を緩めてくれません。ほとんどひきずられるようにして、広場の奥の掘ったて小屋に連れて行かれました。グイッと押し込まれた背中で、バタンとドアがしまります。
「……あ……あなたは!」
声をあげようとしたポーラの口許《くちもと》を、外国人の大きな掌《て》が一瞬のうちに押えます。
小屋の中にいたのは、三人。うち、ひとりに、見覚えがありました。
じょろじょろとだらしない恰好をした、ジーザス・クライストの縮小コピーみたいな男です。名前はカーペインター。ツーソン郊外に突如現われた新興宗教ハッピーハッピー教の教祖だそうです。不思議な力を持つポーラの評判を聞いて、是非ぜひうちの専属チェネラーにと、何度も何度もスカウトに来ました。パパもママも、ウサン臭い教団のしつっこい勧誘にはすっかり頭に来ていて、近頃じゃ、日常会話でうっかりハッピーって言葉を使ってしまうたびに『塩まけ、塩!』と慌てるほどです。
あとのふたりは、髪も鬚もモジャモジャでとぼけた黒い丸眼鏡の小柄なオジサンと、いやに色の白い太っちょの少年。
〈ネスじゃないわ……!〉ポーラはすぐに気がつきました。〈この男の子は、別の誰かだわ。だってハートが、変な格好にねじけてるもの……わたしの知ってるネスみたいにピカピカじゃないもの……!〉
「あっけにとられるほど簡単にひっかかってくれたな」その太っちょが、バカにするような笑いを浮かべました。「けど、ポーラ、トンチキさんは嘘は言わなかったんだよ。ぼくだって、オネットから来た男の子には違いないし……ほら、見て、ここ。この膝っこぞう。ちょっと転んで怪我だってしてるのさ!」
「う〜ううう!」ポーラは呻きました。あんた、誰なの、と言ったつもりだったのが、わかったようです。
「こちらはポーキー・ミンチさまだ」カーペインター尊師が恭しいと言ってもいいような口調で言いました。「我がハッピーハッピー教団の新しいホープだ。なんたって、我等が長らく求め探していた神聖なる黄金像を探しだしてきてくれたんだから……あとは、ポーラ、可愛いおまえが生き神さま役に就任してくれれば完璧だ。もっとハッピーすごくハッピー、世界ぜんたいがブルーになる!」
「悪く思わんでくれよ、お嬢ちゃん」レゲエのオジサンが揉み手をします。「あっしゃあ、ヌスット広場の元締めのトンチキってもんだがね。お客さんのニーズにゃ快くお答えするのがウチの信条ってやつなのだ。このひとたちゃ、もし、あんたをうまいことコッソリ誘き出すことができたら、千ドル払うって約束してくれたんでねぇ」
「そら、金だ」カーペインターが懐から札束を投げだしました。
「どうもどうも! そんじゃ、あっしはこれで」トンチキさんが心得顔で、さっさといなくなります。
「さてと、愛しのポーラ。痛い目にあいたくなかったら、どうかちょっとの間、おとなしくしていてくれたまえ」……。
さるぐつわを噛まされ、手足を縛られて、荷物を担ぎあげるようにして車に載せられたのですから、もうこれは疑う余地もなく誘拐です。ポーラは怖くはありませんでしたが、腹がたって腹がたって、落ち着いてものを考えることができませんでした。どうしてこんなイージーな罠にひっかかってしまったのか、自分が情けなくてなりません。
幸い(塩だ、塩!)目隠しはされなかったので、車が町を抜け、グレートフルテッドの谷を越えて、造成中の山の中に入っていくのがわかりました。曲りくねった山道を、どんどん登ると、やがて道の向うに大きな看板が見えてきました。
***
ようこそ!
ここは楽園
この世の極楽
我等が聖地!
ハッピーハッピー村
世界全体が
ブルーに
なりますように
***
開発途中で資金ぐりのつかなくなった不動産屋さんが放りっぱなしにしていた土地を、教団が安く買い取って、信者さんたちを集めて生活させているのです。真新しい家がぽつぽつ建っている間を通りぬけると、やがて、青々とした牧草地が広がっています。文字通りの青々。緑の意味ではありません。牛も馬も、働いているひとたちの衣装も、顔色さえ、みんなブルー。ポーラは気分が悪くなりました。そこらじゅう、まるで、カラー調整が狂ってしまったテレビ映像か、クレヨンの他の色をみんな使っちゃった子供がしょうがなく青一色で描いた絵みたいな景色なのです。
車はやがて、ひときわ鮮やかなトルコブルーの建物に到着しました。
「まず、いいものを見せてやろう」カーペインター尊師がひんやり冷たい指でポーラの頬を撫で、さるぐつわを外しました。「きっと、おまえも、我等と共に暮らすことを望むようになるだろう」
それは教団の聖堂のような場所でした。学校の体育館ほどの広い空間に、おおぜいの信者さんたちがひしめいていました。目の部分だけを刳りぬいたトンガリ帽子を肩まですっぽり被っているので、顔がちっとも見えません。からだも、ダブダブしたローブで覆われていて、手と足の先っちょがチラッとのぞけるだけです。男のひとか女のひとか、若いのか年寄りなのか、全然区別ができません。みんな一様の不気味な青い服を着て、めいめい勝手な方向を向いて、床に座ったり蹲《うずくま》ったりして、のろのろゆらめくように動いています。海鳴りのように高くなったり低く鳴ったりしながら、ブツブツ呟かれ続けている祈りの歌は、ポーラには全く意味不明でした。ただ、時おりいっせいに感極まったように叫ぶ『ブルーブルー!』が、いつまでも耳の底にこだまします。
カーペインターたちは、よろめくポーラをひったてて、奥の祭壇に連れてゆきました。
「いや……やめて……! 行きたくない!」大きな声を出しても、彼らはいっこうに怯《ひる》みません。明らかに嫌がっているポーラの態度にも、その抗議の声にも、部屋いっぱいの人間の誰ひとり、なんの関心も示してくれないのです。眠くなりそうな祈りの歌を、ゆらゆら揺れながら歌い続けるばかり。
手すりのある階段を三つほど登った上に、巨大な厨子《ずし》が掲げられています。厨子というのは扉が二枚左右からあわさるようについている物入れです。よく、仏像などをいれておくあれです。さて、下手くそな宗教画を描きつけられた扉の前に立たされたとたん、何かがドスンとポーラを押しました。肩を鋭い爪で鷲づかみにされたように感じました。空気が粘り、渦巻いています。髪がさかだち、背中がゾッとしまいた。ポーラは、誘拐されて以来はじめて、ほんとの恐怖を覚えました。
扉の向うには、何か途方もなく貪欲なものがありました。底なしの飢え、膨大な悪夢。近づくものの魂を、否応なしにひきずりこもうとする、それはブラックホールのようなものでした。
カーペインターも、外国人も、床一面の信者たちも、みなうっとりと酔ったような顔つきになっています。ポーキーとかいう太っちょだけが、少しも変らぬニヤニヤ顔で、扉の取っ手に両手をかけます。
「……だめ!……いや……お願い、開けないで!」ポーラは叫びました。
「そう言わないで。見るだけタダだよ」肩ごしにニヤリと笑うと、ポーキーはひと思いに扉をひき開けました。
必死にとじたまぶたを、黄金の光が射ぬきます。光の圧力で、目をこじあけさせるのです。
〈なぁんだ、ブルーじゃないのね!〉強がるように嘲笑《あざわら》うことができたのも一瞬。案外小柄な、エキゾチックでオカルティックな金色の彫像ぜんたいを目にしてしまったとたん、ポーラはふわりと宙に浮きました。いや、実際はそこに立ったままであることはわかっているのですが……足元の床も、入ってきた建物も、なにもかも消失してしまい、茫漠《ぼうばく》と広がった宇宙のどまんなかに放りだされたかのように感じたのです。
みるみるからだが小さくなります。どんどんどんどん小さくなります。虚空に立ちはだかった黄金像が、逆にぐんぐん膨れあがり、間近に迫り、圧倒します。いまではゴマ粒ほどになってしまったポーラを、その鼻の穴から、フッと吸いこんでしまいそうです。飲みこんで、取りこんで、仲間にしてしまいそうです。
「……いやあぁああああ!」拒絶!
こころの限りでNOを言います。絶対イヤだと踏ん張ります。バチーン!! となにか、電撃のようなものが弾け、あたり一面がまぶしすぎる白の中に溶けさり……。
……気がつくと、ポーラは、このボロい小屋の中に閉じこめられていたのでした。
麓は夏まっさかりだったというのに、標高が高いのでしょうか、ずいぶん涼しいところです。冷や汗をかいた背中が湿って気持ち悪く、風邪をひいてしまいそう。頭はぼんやり曇り、目の焦点がうまくあいません。ハードな遠泳をやった後か、歯医者さんで苦手の麻酔注射をされた後みたいに、からだじゅうがぐったり重く、節々が痛く、どこにも力が入りません。
危なかった、とポーラは思いました。ラッキーにもまずとりあえずは無事だった。でも、この次はどうかしら……何度も、あんな目にあわされたら? あいつらが、もっともっと強烈な力で迫ってきたら……?
まっ青なスープが、なんだかやけに美味しそうに見えます。からだがポカポカあったまりそうです。でも、食べたら負けだと思います。安心して、気が緩んでしまうでしょう。ここでひとつ譲ったら、次は簡単です。もう、強固に抵抗はできません。きっと、あの大勢の信者さんたちみたいに、魂を抜かれたみたいになって、ブルーに染って……カーペインターや黄金像の言うがままになってしまう……でも……なんてあたたかで、なんていい匂いなんでしょう。
両手で器を抱えたまま、知らず知らず顔を近づけていました。手が震えて、スープがちょっぴり指にかかりました。じわりとぬくもりが広がります。ハーブの湯気があがります。青って、青って、なんて素敵な色でしょう……。
〈……ラ! ポーラ、どこだ! どこなんだ! どこにいる!……〉
ポーラはハッと顔をあげました。急いで容れ物を鉄格子の外に放り投げます。パンも捨てます。食べ物を無駄にするなんていけないことですが、手の届くところに残しておくと、いつまたフラフラと惹かれてしまうかもしれません。
〈ここよ! ネス……わたしはここよ!〉凍えた両手を握りしめて、せいいっぱいにこころを凝らします。〈山の上の小屋、水の流れのそばなの。……早く、早く、助けにきて……!〉
「タコが道を塞いでいる?」
「そうなんだ」とネス。「橋が壊れてて、そこしか道はないっていうのに。でも、ポーラの呼ぶ声は、間違いなくそっちのほうから聞こえてくるんだ!」
「なるほどねぇ」キッドはモグモグ口を動かしました。
アップルキッドは、あのポーキーの五割増しみたいな太っちょです。
町じゅうを駆け回って情報を集めているうちに、ネスは、たまたま、キッドの家を見つけました。床に倒れている彼を目にした時は、死んでしまっているんじゃないかと胸がドキドキしましたが……実は、キッドは、ただ考えごとに夢中になりすぎてごはんを食べるのを忘れていたんだそうです。ネスは持っていた特製ネスバーガーをプレゼントしました。お弁当用にママが作ってくれた分の、貴重な最後の一個だったんですけれど。
キッドが夢中で食べている間に話しました。ポーラと名乗る子の不思議な声に呼ばれて、大急ぎでツーソンまでやってきたこと。ところが、幼稚園に行ってみると、もう行方不明になっていたこと。ポーラパパが立ったり座ったりしながらおろおろ心配しているのに対し、ポーラママは「あの子には神さまがついているんだから大丈夫」なんてにこにこ笑って言っていたこと。
「あのお袋さんは、根性座っているからねぇ」キッドは指についた特製ソースを名残り惜しそうに丁寧に嘗めました。「いやぁ、おかげで生き返ったよ! ほんもののネスバーガーってのは、ほんとのほんとにうまいもんだ」
「ねぇねぇ、それで? 見たこともない金属でできてるタコってやつはどうすんのさ!」床板のほうからキイキイ声がしました。「ひとをバカにした装置だねぇ。そりゃあ間違いなく、地球を狙う悪の科学者の発明品だよ」
「ネズミだ!」ネスは飛びあがります。「ネズミが喋ってる!」
「へん。おいら、ただのネズミじゃない。天才ネズミ、アルジャーノンさまさ」ちっちゃな灰色のネズミくんは、首につけた真っ赤な蝶ネクタイの端を、ピピッと摘んで整えました。
「我が親友、天才発明少年アップルキッドが、齧歯類《げっしるい》知能増大装置を作ってくれたおかげで、喋れるようになったんだ」
「発明少年? この……あのう、体重が少々オーバー気味の彼が?」
「そうさ!」とますますそっくり返るアルジャーノン。「だから。おい、なんとかしてやれよ、キッド! 悪いライバルをぶっとばさなきゃ。ごはんのお礼って意味もあるしさ!」
「なんとかねぇ」キッドはぷくぷく太った口許を両手の袖でかわるがわるゴシゴシしながら考えこみました。「なんとかしてあげたいのは山々だけど……実物を見れば、材質の見当もつくかもしれないし、蓋然的《がいぜんてき》対応もできるかと思うけど、ぼくには登山なんて金輪際無理だしねぇ。……あ、そうだ。あれをあげよう! きっと役に立つ」
すさまじくちらかった家の中を、あっちゴソゴソこっちモソモソ。さんざんさがしたその揚げ句、やっと見つけてくれたのは、掌に収まるほどの小さな機械です。
「特殊形態限定選択消滅装置だよ」キッドは機械の蓋を開けて、中の配線をちょっといじり、いくつかの部品を取り替えました。「ちょっとした思いつきで作ってあったんだけど……よし。できた。これで、こいつは、タコケシマシンになったはずだ! 木でも鉄でもダイヤでも、なんでできてるものであれそいつがタコの格好をしてるなら、それを分子レベルにまで破壊するんだ」
「ほんとかい?」受け取って、ネスはしげしげ観察しました。リモコンと目覚し時計とオモチャの光線銃を混ぜて溶かして固めたみたいなガラクタです。あっちが凹《へこ》み、こっちがでっぱり、ひび割れはガムテープで止めてあります。そこらに落ちてたら、即座にゴミ箱にいれたくなっちゃうようなシロモノです。「あんまり、そうは見えないけど……」
そもそも。赤ちゃんみたいなプクプク顔でボーイソプラノ、稽古不足のスモウレスラーみたいな巨漢のアップルキッド自身が、そんなとてつもない発明をやってくれそうな頭脳の持ち主にはとても見えません。服はあちこち汚れています。部屋だって、ネスママが見たらヒステリーを起こしそうなくらい、メチャクチャのゴチャゴチャ。とってもだらしないのです。
「キッドを信じて損はなし!」アルジャーノンが請け合います。「この天才ネズミのアルジャーノンさまが保証すんだから! あんたもキッドを信じなさい!」
「うーん……わかったよ!」ネスは真面目にうなずきました。こんな小さな生き物に励まされちゃうなんて、なんだか変です。「それじゃあ、もらってくね。どうもありがとう。無事にポーラを救い出せたら、きっと、お礼を言いに来るよ」
「ポーラによろしくね」キッドはにっこりしました。「ぼく、昔、あの子の家の幼稚園に通ってたんだ。ポーラはまだ赤ちゃんだったけど、すごい美人だった」
「へぇ」ネスはなにげなく言おうとしましたけど、頬がちょっぴり赤くなりました。「そっか。ポーラって、可愛い子なんだ」
「将来のミス・ツーソンは間違いないって言われてる。ミス・イーグランドもいけるかもしれない。ミス・地球までは保証しないが」キッドが冷静に請け合います。
「よかったなぁ、ネス!」アルジャーノンがはやしたてます。「どっちにしろ助けに行かなきゃならないとしても、可愛くない子よりは可愛い子のほうがいいもんな!」
青い空を青い鳥が飛び、青い草を青い牛が食《は》んでいます。青い家並の向うに青い山々がなだらかな連なりを見せ、青いリボンのような川の流れが青い森の隙間を縫って青くキラキラ輝いています。
「マーヴェラス……」教祖は青い衣の貧弱な胸のあたりを感極まったように押えました。
「どうだい、ポーキーくん! 我が村は、いやはや、なんと美しいのだろう! 青はなんとすがすがしく、なんと清らかで、味わい深いのだろう!」
「好き好きだね」太った少年は、高々と足を組んでソファにひっくりかえり、爪の垢をほじりながら、気のない声で言いました。「昔、地球は青かった、って嬉しそうに言ったやつもいたもんな。ま、青ってのはそんなに悪い選択じゃない。見渡す限りまっ黄色だったりした日にゃ、まぶしくって適わないや」
「ポーキーくん」カーペインターは窓辺でくるりと振り返り、慈悲深そうな顔で言いました。
「きみは、時々……その……必ずしも子供らしからぬ言動をする。できれば、そういう可愛げのない振るまいは以後慎んでもらいたい。なんたってきみは将来の大幹部なんだから」
「ふん」ポーキーは肩をゆすりました。「誰のおかげで、そんなに偉そうにしていられるんだい。約束は忘れていないだろうね?」
「忘れていない」教祖は顔をしかめます。「HH教の収入の六十六・六パーセントはきみのものだ。教団のある限り永遠に。……信者は急激に増えている。みな財産という財産を寄付してくれるし、実に献身的に働いてくれる。すべてはあの黄金像『マニマニの悪魔』を手にいれたおかげだ。だから、きみにガバガバ取られても、教団は前よりずっと裕福でいられるが……良かったら教えてくれないかね? どうしてきみのような子供が、そんなに金を欲しがる? そんな大金を何にするつもりだ?」
「ゲームさ。ただのゲームだよ」ポーキーは小さな冷たい目をどこか遠くに向けました。
「ぼくは目覚めた。ぼくはぼくに何ができるのか、どこまでできるかを知りたくなった……金は、数字だ。実力をはっきり確かめるにはもってこいなんだ」
教祖が黙っていると、ポーキーはふと我に返ったように立ちあがりました。
「出かけてくる」
「どこへ?」
「どこだっていいだろ」そっけなく言い放ち、振り向きもせずに出ていきました。
教祖は、ふうっと大きくため息をつき、ポーキーが座っていたところに行きました。シワクチャになってしまったカバーリングを、きれいに手で撫でつけます。
部屋は、殺風景と言っていいほど質素でした。大きな執務室は、足が折れて捨てられていたのを拾ってきて修繕してきれいなブルーに塗ったものですし、いくつかある椅子もバザーや廃品回収から手にいれたので、形がみんなバラバラです。カーテンや床のラグマットや椅子のカバーは、信者の女のひとたちが競い合うようにして作ってくれたキルトです。
『ひとりはみんなのために みんなはひとりのために』
『誰もが愛を必要としている』
『世界ぜんたいがブルーになりますように』
壁には、教団のスローガンをぶっきらぼうな字で書いた額がかかっています。
教祖はじっと目を閉じて、悲しみに浸りました。少年の頃、彼は、痩せっぽっちで病弱で、ひどく不器用でした。学校ではいいところを見せるチャンスがありません。おまけに常用していた薬の副作用で顔がゾンビみたいに青かった。気味悪がられて、いつもひとりぼっちでした。こころを通わせることのできる友達が欲しくて堪らなかった。でも、どうすれば、ひとに好かれるような人間になれるのか、ちっともわからなかったのです。
せつない気持ちをぶつけるために、教祖は絵かきになりました。さまざまな青の濃淡で描《えが》かれた彼の絵に、希望や共感を見出すひとたちが現われます。寂しいのは、彼だけじゃなかったのです。悩んでいるひと、困っているひと。ひと見知りで、ともだちを作るのが苦手なひとたちと、助け合って暮らしたい。そう思ったので、一生懸命働いて、この、人里離れた谷間の土地を買いました。誰でも、来たいと思うひとを歓迎する場所、みんなが他人を脅かさずに静かに過ごすことのできる場所として、ハッピーハッピー村を作りました。狭い画布《カンバス》ではなく、大地そのもの、空間そのものを、青いっぱいで埋めるのが、彼の夢でした。いつしかひとは彼を教祖と呼び、尊師と呼ぶようになりました。
でも……。
なにかが違う。どこかが違う。いつしか、どこからか、ずれはじめている……。
ブルーグレイの瞳から、ひと筋の涙がこぼれます。教祖は両手をあげて、顔を覆いました。
「あなたがカーペインターさんですか?」
教祖はハッとして顔をあげました。赤い野球帽をかぶり、バットを肩に担いだ少年が、扉のところに立っていました。
「誰だ?」教祖はムッとしました。スポーツマンは嫌いです。スポーツマンは、乱暴でガサツで、めったやたらに明るくて、なんの苦労もなくみんなの人気者になってしまう上、それをちっともありがたいことだと思わないほど鈍感なのです。「おまえ、うちの信者ではないな。どうやって入ってきた!」
「ぼくはネス。オネットから来ました。あなたがさらった、ポーラのともだちです。ポーラを、返してください」
物おじしない、ハキハキとした口調。ひたとみつめるまっすぐな目。教祖はますます頭に来ました。鼻タレのガキんちょのくせに、なんてナマイキなんでしょう!
「なにを言っているんだかわからないね。帰ってくれ! 瞑想《めいそう》の邪魔だ!」
「乱暴はしたくないけど」少年は肩からバットを降ろします。「ぼくらには時間がないんです。口で頼んでもだめなのなら、ぼく、戦います」
「戦うだと!」教祖の顔に血がさして、不気味な紫色になりました。「身のほど知らずのガキめ! おとなに逆らっていいと思っているのか」
「できれば逆らいたくはない。でも、おとなだって、うんと間違ってる時がある」
「口の減らない小僧だ! そうまで言うなら、見せてやろう」
教祖は足を踏ん張り、猫背に構え、呼吸を整えて気合いを凝らします。手や服の上をバチバチと青紫の放電が走り、ぺしゃんこの髪が独立した生き物のようにザワザワ逆立ちました。ネスはバットを掴んで身構えましたが、教祖はニヤニヤ笑うばかり。自分のからだの中に、あの黄金像が冷たく淡い光となってじわじわ侵入してくるのを感じていたのです。それは脈打ち、膨れ上がり、偉大この上もない輝かしさで、彼の全身を満たします。そしてやがて、圧倒的な力は、ちっちゃな人間のからだに収まりきれなくなって溢れ出します。解放。放射! 「そぉれ……マニマニ……!!」
突き出した両手から、目もくらむばかりのイナズマが飛び出します!
「うわあぁぁぁあぁぁあ!」
閃光の中心、絶叫する少年の四肢を硬直させた姿が影絵になり、バラバラのこまぎれに砕けたかと思うと、フッと見えなくなりました。あとには、焦げ臭い匂いが漂うばかり。
「……バカめ……」かすかに笑いながら、教祖はガクリと膝をつきました。力の限りを使い果たしたからだは、びしょぬれになった雑巾みたいです。黄金像のイメージが満足気なきらめきと共にどこへとも知れず消え去ると、こころは、うつろにからっぽになりました。ちょうど聖書に出て来る、きれいに掃除されてしまった家のように……悪魔でも天使でも容易に入りこむことのできる部屋のように……「ブルーブルー」呟きながら目を閉じて、教祖は眠りの救いの中に静かに落ちてゆきました。
いつでもない時間の、どこでもない空間。ネスは膝を抱えた赤ちゃんの姿勢でゆっくりと漂っています。とても温かくて居心地のいい、広大な暗がり。とくん、とひとつ、鼓動を売った勢いで、ネスは回りはじめました。くるくるくるりん。ころころころりん。いつまでも弾みがついて回り続けます。あっちへくるくる。こっちへころころ。なんて愉快。なんておもしろい。ネスはくすくす笑います。
と。
〈ネス! ネス! しっかりして!〉誰かの呼ぶ声がしたのです。〈のんびり夢を見てる場合じゃないでしょ!〉
「あ!」声をあげ、自分の声に驚いて、ネスはパッチリ目を開けました。
倒れていたのは、深い山です。すぐ鼻先の岩がちの地面の向う側を澄んだせせらぎが流れてゆきます。ネスはよろよろ立ちあがり、水に手をつっこみました。手の切れそうな冷たい水で、ザブザブ顔を洗います。犬のチビがやるみたいに、ぷるぷる、プハーっと首を振ります。
「死んでない」自分で自分に確かめるように呟きます。「生きてるんだ……でも、油断したな。あの気の弱そうなオジサンが、あんなすごい技を使うとは思わなかった。……いったい、なにが起こったんだろう。ぼくは、どうしてこんなところにいるんだろう」
〈テレポーテーションだと思うわ〉
「ポーラ!」ネスは飛びあがりました。「ポーラだね! すごく近い! どこにいるの!」
〈丸木小屋の中。水のそばよ〉
ネスはあたりを見回し、ぼうぼうに草の生えた土手を駆けあがりました。薄い霧がミルク色に霞んだ、ひとけのない森です。緑の樹木。赤や黄色の実。露に濡れたピンク色の花。幸い、ブルーブルーの影響もここまでは届いていないようです。鬱蒼《うっそう》と茂った下生えを両手で掻き分けて進んでゆくと、やがて踏み分け道に行き当りました。
〈こっちよ! 近い。確かに近くなってるわ!〉
「うん、近い。待ってね、すぐ行くからね!」
三分後には、山肌にうずくまった掘ったて小屋を見つけました。駆けだして、駆けつけて、駆けこんで。歪んだ床。鉄格子で仕切られた部屋。向う側で立ちあがって、鉄格子を掴んで、目を丸くしている女の子。
とうとうふたりが出会います。
「……ネス?」
「ポーラだね!」
駆け寄って。鉄格子ごしに、思わずしっかり手を取って。ネスはまじまじとポーラを見ました。ほんと、噂通り。なんてきれいな女の子でしょう。トレーシーの大事にしているバービー人形が、ちょっとだけ若返ったみたい。水蜜桃《すいみつとう》の頬っぺた、スミレ色の瞳。くっきりと濃く長いまつげが、びっくりしたように盛んに何度も瞬《まばた》きます。お陽さまの光を集めたような髪は、肩にさわるあたりで、くるくるカールしています。
「うふっ」ポーラが笑いました。くすぐったくって、たまらないみたいに。「ふふふふふっ。そうか、きみがネスね! わたしのともだちのネスなのね!」
「そうだよ」真剣にうなずいたとたん、たまらなく照れ臭くって、あはっ、と笑いが洩れました。「良かった。やっと、やっと逢えたね、ポーラ!」
「ぷふふふっ」
「あはっ。あーっははははは!」
安心が笑いの発作になって、ピンポン玉みたいに飛び交います。嬉しくっておかしくって、互いに肘で小突いたり、手をギュッと握りしめたりしながら、しばらくの間、ただもう笑い転げてしまいました。しかしそういつまでも、喜んでばかりもいられません。ひとしきり笑うと、ネスはがんばって生《き》まじめな顔をつくりました。
「さ。行こう」力強く言います。「とにかう、ここを出るんだ」
「だめなの」ポーラも笑いをひっこめました。「見てよ、その大袈裟な南京錠《なんきんじょう》」
鉄格子の一部、扉みたいになった部分に、太い鎖が回してあります。鎖の端は、海賊の宝物をしまっておくのに使うような、ずっしり持ち重りのする古風な錠前が、がっちりキープしているのです。
「開けられない? 壊しちゃおうか」
「無理だと思う。鍵はカーペインタインが持っているはずよ」
「あの教祖か」ネスは眉を曇らせました。「意外にも手強いやつなんだ。殺されそうになった。どうやって逃げられたのか、自分でもよくわからない……そう言えば、ポーラ、さっき何か言ってた?」
「テレポーテーション。たぶん、きみが、潜在的に持っている力のひとつなんだと思う。絶体絶命になったから……もしかすると、意識がなくなったから……無意識があわてて、まだ充分使いこなせていないPSIの力まで、緊急出動させてくれたんじゃない?」
「なるほど。でも……じゃあ、どうしよう? あのすごい電撃に対抗するには」
「電撃」ポーラは頬に手を当てて考えこみました。「……電気……カミナリ……もしかして……ひょっとすると。そうだわ!」胸につけていた、バッジを取り外します。ネスに渡します。
「なんだい? 昔の、大統領の、メダル?」ネスは首を振りました。「悪いけど、このぐらいじゃ買収されてくれないと思うな、あのひとは」
「ただの大統領じゃないわ。フランクリン大統領よ」ポーラは、ツンと顎をそらしました。「名前から考えてみて。雷には強いはずだと思わない?」
「ああ、凧あげの実験の、あのフランクリン? このひととあのひとは別だろ」
「でも、同じ名前よ」ポーラはバッジごと、ネスの手を握りしめました。「あのね、ネス、世界にはね、人間がまだ突き止めてない不思議がたくさんたくさんあるわ! あなたやわたしが持っているPSIの力だってそうだし。怪物や謎の古代国家だって、全部が全部作りごとだってわけじゃあないのよ。本や伝説の中には、ほんとうのことが何喰わぬ顔で紛れこんでいる。魔法使いなら誰でも知ってるわ。名前には、秘められた力があるって」
「秘められた、力……?」
「わたしがこのバッジをつけていたのも、偶然じゃない。だって、わたしたち、地球を救わなきゃならない戦士なんだもの。地球だってわたしたちを応援してくれてるはずよ! 地球の応援に、フランクリンの名前に、きみの勇気が加わったら。ねっ、きっと勝てる。絶対負けない。そう信じるのよ、ネス。信じることが、パワーなの!」
「ふうん……よくわかんないけど、でも、なんとなくそんな気がしてきたよ。とにかく、これを借りて行って、もう一度あいつと戦ってみる!」
「待ってる」ポーラはネスの手を離すと、ちょっと後ずさりしました。「大丈夫、心配しないで。いつまでだって、待ってられるわ。わたしは、きみを、信じてるから」
「うん」
バッジをつけて、改めてポーラを見ます。とてもきれいで、可愛くって、こんな時にもけしてメソメソなんかしない、落ち着いて考えを巡らすことのできる女の子。かけがえのない仲間です。その子が、自分を、信じるって言ってくれた。ネスの胸に、勇気と誇りと喜びが三位一体《さんみいったい》で膨れあがりました。
「それではいよいよ」マイクに向かって、気取ってワザとらしい作り声を出したのは、司会進行役の女のひとです。青い目、青い口、青い爪。もちろん髪もきれいなブルーに染めています。「今週の信仰大賞を発表します!」
聖堂の階段状になった客席いっぱいを埋めつくしたハッピーハッピー教のひとびとが、おおお、といっせいに歓声をあげました。全員お揃いの青い服が、海のようにうねりました。壇上のカーペインターが両手をあげて応えます。彼の後ろでは、例の厨子の扉が、青い証明をたっぷり浴びて、いとも怪しげに輝いています。
「まず、佳作第二席。ヌリ村のジョン作さん。ご近所一帯に青大将三百匹を放した功績です。みなさま、盛大な拍手をお願いします!」
青波の中で、小柄な青が立ちあがり、とんがり帽子を脱いでひとのよさそうな陽に灼けた顔をのぞかせました。偉いぞー。よくやったー! ひとびとが叫ぶと、どうもどうもとお辞儀をして、照れ臭そうにさっさと座ってしまいました。
「佳作第一席。オリゴ島のアネーゴさん。まだブルーブルーの教えを知らない哀れな子羊約五十人を、次々に愛の鞭でしばき倒し、数えきれないほどの青アザを作ってさしあげたという素晴らしい働きに対してです!」
ほっそりとした青い影が、かねて用意のお立ち台によじのぼると、青いマントをパッと脱ぎ捨てました。青レザーのボンデージ・ファッション、羽根扇をくゆらせながら見事な躍りを披露します。前よりもっとすごい拍手、足を踏みならす音、甲高い口笛。
「さて、今週の大賞は!」照明が落ちます。どろどろどろどろ。意味深なドラムの音が響く中、スポットライトが客席じゅうを探すように、ぐるぐる目まぐるしく動きます。「ブリハ町のミスター・チン! なんと、町じゅうの信号機の配線を工夫し、どれもこれもみーんな青のでっぱなしにしてくださいました! これこそまさに『世界ぜんたいがブルーになりますように』の実践、いとも信仰深ぁい行ないと言えるでしょう! ありがとう、そして、おめでとう!」
おおおー! すごいー! 素晴らしいー!!
ファンファーレ。割れんばかりの拍手。青サングラスに青いアロハ。なぜか青いスケボーまで抱えた矍鑠《かくしゃく》とした老人が、あっちこっちから集中するライトを浴びて、やあやあサンキュウと手を上げながら、壇の上にあがります。教祖の前までくると、両腕を脇につけて、ぴたっと気をつけ[#「気をつけ」に傍点]をします。
会場は、シンと静まりかえりました。
「表彰状」カーペインター尊師が声を張り上げます。「ブリハ待ち、ミスター・チン殿。あなたは、抜群の発想と勇気ある行動でもって、その比類なき信仰をみごとに証明なさいました。よってここにその栄誉を讃え、最優秀信者ブルーリボンと、副賞として、我等がハッピーハッピー村のログハウス一軒を贈ります!」
ご老人が、しゃっちょこばって両手をあげ、賞状を受け取ろうと進みでました。教祖が優しく微笑み、賞状を差しだしました。その時です。
「待てっ!」
「む?」
カッ! ライトのひとつが急に方向を変えて、モロに教祖の目を射ます。
「みなさん、聞いてください!!」凛々しい声が響きます。どこ? どこだ? だれ? 信者さんたちがきょろきょろします。うがっ、とくぐもった声がしたかと思うと、操作のおかしいライトのブースから、青ずくめの誰かがドサリと落っこちました。続いて飛びだした敏捷《びんしょう》な影を、残りのライトが必死に追います。少年です。なんと。真っ赤な野球帽の!
「どうか、はやく、目をさましてください。だまされちゃいけない。そいつは、いやがる女の子をさらって閉じこめるような悪人です! きっと、地球を狙う怪物の悪の波動を受けているんです! そんなやつの言いなりになっちゃダメだ!」
「きさま」教祖が手にした賞状を思わずグシャグシャ握り潰したので、そばのご老人が、おお、と悲しそうに呻きました。「ちょこざいな小僧、まだ生きていやがったのか!」
「あたりまえさ!」ネスは……ええ、もちろん、それはネスです! あっけにとられた信者さんたちの真ん中で、胸を張っていいました。「正義は必ず勝つんだからね!」
「とんで火に入るハッピー野郎め」教祖は凄じいまでの笑顔を浮かべると、背後の厨子に駆け寄って、扉に両手をかけました。「今度はもうほんとの本気で容赦せんぞ! それ、我等がご神体、マニマニの悪魔のスーパー・オーラを受けてみよ!」
バーン!! ひどく乱暴に開けたので、扉がバラバラになりました。集中するライトの青を反射して、黄金像が目くらむほどに輝きます。ゴージャスに、燦然《さんぜん》と、光の束を照射します!
それを背負って立ったカーペインター尊師は、不気味な光の羽根を広げた巨大な孔雀そっくりです! たちまち聖堂じゅうに信者さんたちの呻きと悲鳴がこだましました。あまりのパワーとまばゆさに、みんな殴られたように薙《な》ぎ倒されてしまったのです。
「卑怯だぞ、カーペインター!」ネスは吠えました。扉が開こうとした瞬間、咄嗟に野球帽のひさしを目深《まぶか》にひきおろしギュッと目を細めておいたので、そんなにショックは受けずにすんだのですが。回りじゅうでひとが倒れ、無闇に逃げ惑ってうごめくので、もう全身がモミクチャです。ラッシュアワーの駅の階段で、じっと立ったままでいるとこを想像してください。「信者さんたちを巻きこむな!」
「ぬは、ぬはははは、なんとでも言うがいい!」青光に彩られた教祖の顔は、悪魔そのもの。気弱なひとのいい尊師の面影など、もうどこにもありません。「逆らうやつは許さない。俺は教祖だ、偉いんだ。もうじき世界じゅうがブルーになって、全部が全部俺のものになるんだ! ふふふふ、あーっははは、なんて愉快だ、気持ちがいい! みんなみんな、俺の足元にひれ伏すんだ! 俺は強いぜ。最高だぜ」
「ああ、教祖さま……わたしたちの大好きな教祖さま」ネスのそばで、クマの出た顔の女のひとが、目にいっぱい涙をためて呟きます。「わたしはあなたに従います。どこまでだってついていきます」
「みんなブルーになるんだ!」屈強な樵《きこり》さん風の男のひとが唾を飛ばします。「ブルーは素敵だ、きれいなんだ! ブルーな地球で、誰でも楽しく暮らすんだ!」
「ふふふふふ、どうだ、見たか、俺の力を!」教祖はますます調子に乗って、ますます青く輝きます。「ううう、むずむずする。じりじりする。もっといけるぞ。もっと出る。力が余って溢れそうだ。あああ、もういい。面倒臭い、この際みんな、究極のブルーパワーを浴びるがいい! マニマニの天国に行くがいい! どーせ信者なんてまたいくらだって集められるんだからな……あっ、あっ、行くぞ、行っちゃうぞ、ええい……マニマニ!!」
「ひいいいい!」
「うわぁっ、オガーヂャーン!!」
「すごすぎるぅ! ぐげごげ」
ハッピーブルーの高波が、うずくまったひとびとを飲みこみます! あまりの幸福感に全身ひきつってピクピクするひと、白目を剥いて絶叫するひと。そして空気を切り裂いて、ひと筋の太い稲妻が飛びます!……が。
きらりん☆
「ぐがぁあああああっ!!」
この期に及んでまだ気丈にも目を開けていた少しのひとびとは、見ました。真っ赤な野球帽の少年が、凄じい青の奔流の中で、揺らぎもせずに立ちつくしているのを。手近な少しのひとびとをせめて守ろうとでもするかのように、両手を広げ、胸を張って、まっすぐ稲妻を受けとめたのを。そうして、その胸につけられた小さな銀色のコインのようなものが、教祖の発した図太い光槍《こうそう》を真正面から受けとめ、ずん、と重たげな衝撃を持ち堪えたかと思うと、そのまま即座に反射したのを。……壇上の教祖は、自らの放った稲妻に打たれました! レントゲンでも浴びたように骨格が透けます。青が爆発します……!
その瞬間、窓や照明のガラスが割れ、聖堂の壁に亀裂が走りました。剥がれた漆喰や抜け落ちた板きれが、冷たい静かな雨のようになって、ひとびとの上に降り注ぎました。空気の中に漂い澱んでいた嫌らしい青が散り、青が消えます。急にすがすがしくも透明になった沈黙の後、ひとり、また、ひとり、うっすらとからだを起こします。目をあげます。
ひとびとは見ました。柔らかく優しい自然の太陽の淡いオレンジ色の光線がうっすらさしこんだ壇上で、倒れ伏す教祖をそっと抱き起こす少年の姿を。
「……ああ……」カーペインターは弱々しく目を開けます。「おお。いったい……どうしたのだろう……なにかがわたしから抜け落ちたようだ。世界がクリアになっている。長い長いこと、ひどく苦しかった。いまにも窒息しそうだったよ。青いネバネバした泥沼にはまりこんで」
「ギーグの波動に影響されてたんですよ」ネスは力を込めて、カーペインターを助け起こしました。
「その金色の人形」カーペインターは稲妻のとばっちりで焼け爛《ただ》れた厨子を振り返り、ぶるるっと震えました。「それが欲しくて欲しくてたまらなかった。だが、手に入れた時から、何かがはっきりずれだしたのだ。時おり、ひどく混乱したのを覚えている。自分で自分のやっていることのわけがわからなくて……どうしよう、わたしは、みんなに、すまないことをしてしまった」
「大丈夫ですよ。ほら」
ネスがからだを開くと、教祖にも、壊れて崩れかけた聖堂じゅうで、きびきびと立ちあがって働きだした信者さんたちの姿が見えました。みな、うっとうしい制服を脱ぎ捨て、晴ればれとした顔を見せています。怪我をしたひとを庇《かば》い、散らばったものを片付けます。互いに優しいことばをかけあって、無事を喜びます。
まだ壇の上にいたアロハのご老人は、茫然自失の教祖と目があうと、少し歯の抜けた顔ではにかんだようににっこりしました。
「悪い夢を見てたね」ご老人はいいました。「儂《わし》ら、みんなどうかしてた。でも、尊師さま、誰もが楽しく暮らせる場所をってあんたの理想は間違ってないよ。ここで挫けてしまわないで、またみんなで力を併せて、今度こそほんとのほんとにハッピーな村を作りましょうや」
「チンさん……」カーペインターはジワリと涙の滲んできた目尻を袖口で拭くと、それが嫌らしい青い色であるのにいまさら吃驚《びっくり》したような顔をして、大慌てで手を抜き、頭を抜き、放り捨てました。「ありがとう。でも、尊師だなんて、もうやめてください。わたしはまたひとりの絵かきに戻って、みんなの喜んでくれるような絵をたくさん描こうと思います。青ばっかりじゃない、きれいな色を、ありとあらゆる色を使ってみたいと思います。そうして、きっと、こんなわたしについてきてくださったみなさんの恩に報います」
うんうんとうなずくご老人。カーペインターは、こころの底からホッとしたように微笑むと、ネスに向き直りました。
「さぁ、これが小屋の鉄格子の鍵だ。一緒に行ってちゃんと謝るのが筋だとは思うが、わたしはポーラにとても逢わせる顔がない。きみが開けてあげてください」
「わかりました」ネスは鍵をギュッと握りしめました。「それじゃ、ぼく、行きます。さよなら!」
軽やかな迷いのない足取りで駆けてゆくネスに、通りすがりの信者さんたちが口々に声援を送ります。ありがとう、元気でね。がんばってね!
「気持ちのいい若者じゃのう」ミスター・チンもまぶしそうに目を細めて呟きます。
「ええ、ほんとに」カーペインター。「羨ましいです。ああいう明朗快活な少年時代を過ごせていたら、わたしだって、世界じゅうを青にしようなんて妙なことは思いつかなかったでしょう……おっと!」
「なんじゃ?」
「そう言えば」カーペインターは痩せた顎を撫でながら、眉を曇らせます。「ポーキーくんは、いったいどうしたろう? あの子も、あのままじゃ、将来が心配だが……」
「おれのことなら、ほっといて欲しいね」
ハッとして振り返ると。ふてくされた表情の太っちょが、黄金像によりかかって腕組みをしていました。
「ポーキーくん!」
「あんたらにはガッカリしたよ。もう少し利口かと思っていたのにね!」ポーキーはカーペインターをジロッと睨《にら》みました。「ただの理想主義になっちゃった新興宗教になんか興味ないから、例の契約は破棄するよ。かわりに、これは、返してもらうからね」
「ちょ、ちょっと待て! それは、危険な……」
「どうせ、あんたらには、もう必要ないだろ?」憎々しげに唾を吐くと、ポーキーは黄金像をひょいと持ち上げました。「こんどはもうちょっとうまく使おう……んじゃな」
「あっ、待て、ポーキーくん!」
「あ〜ばよ!」くるりと背を向け、上体を屈め。太ったお尻をつきだして。ニヤリとし。
ボワンッ!
「う、うわ、げほげほげほ……」
「く、くさー! たまらーん!」
噴射されたのは、目のシパシパするようなガスです。鼻のまがりそうな匂いがします。カーペインターやチン老人は、たまらず顔を背けて咳きこみました。そして、気がついたら……ポーキーも、あの像も、どこかに消えてしまっていたのです……。
悪魔の青い吐息が消えてしまうと、村はまことに平和で牧歌的な理想郷の姿を取り戻しました。羊雲の丸い影が次々にくすぐってゆく路地や家々の軒下を、ひとびとはきびきびと行き交い、お喋りをし、井戸を汲み、洗濯物を広げます。町はずれの牧場では、鍬《くわ》や鋤《すき》を打ち直す威勢のいい音、藁束《わらたば》を積み上げて小山にするかけ声がこだましています。緑鮮やかな広野原では灰色や栗色の若駒が楽しくてたまらなさそうに駆けっこをしているし、日当りのいい丘では、白黒ぶちの乳牛がいかにも満足そうなのんびりした声をあげます。
「ウーン、空気も美味しい! やっぱこうでなくっちゃね!」自由になったポーラは、気持ちよさそうに伸びをしました。
お陽さまの下で見るポーラはますますピカピカに輝いて、まるでクリスマス・カードの天使みたいです。ネスはなんだかアガッちゃいます。もっとじっくりよく見たいけど、あんまりジロジロ見ちゃ悪いみたいで。そらした瞳が、ギョッとします。
「うわっ、あそこにまだ青が残ってる! 飛んでる!」
「青い鳥よ」ポーラは呆れたように言いました。「幸福のシンボルってやつよ。今度こそ掛値なしにハッピーになったハッピーハッピー村に、ぴったりじゃない」
「そっか、ごめん」ネスは帽子のつばをちょっと直すと、まっすぐずんずん歩きました。じっとしてると、もっとバカなことを言ってしまいそうです。
「待ってよ、早すぎるったら! そんなに大股で歩かないで!」
「ごめん」
「ネスったら。謝ってばっかり」駆け足で追いついたポーラは、くすっと笑いました。「わかった。きみ、女の子と歩くのが恥かしいんでしょう。ふたりで並んで歩くなんて、デートみたいだって思うんでしょう」
「そ、そ、そんなことないけど」
「じゃ、手つないで」
ポーラが右手を伸ばします。小さな、清潔そうな、柔らかそうな手です。
ネスはカーッと真っ赤になりました。
「やなのぉ?」
「やややややじゃないけど、けどけど、でも、……そうだ! 手なんかつないでると、敵に逢った時危ないよ! とっさに攻撃できないから、ねっ」
「そうかしら」ポーラは首をかしげます。「そんなに危なそうな道じゃないと思うけど……ま、いいや。じゃ、腕をかしてね」抵抗する間もあらばこそ。ポーラはネスの左の肘《ひじ》のところに、ちょこんと指をかけました。「だってつかまってないと、きみ、どんどんひとりで行っちゃうじゃない。せっかくこうして一緒になれたのに、またはぐれたくないもの。ねっ」
かくて。カチンコチンに緊張してロボットみたいな動作になったネスと、あどけなくもリラックス顔のポーラが、仲よく一緒に歩くことになりました。
「先は長いけど、まず、ツーソンに寄りたいよ。パパがきっと心配して鼻水垂らして泣いてるわ。無事な顔見せて、旅支度を整えたら、さっそくスリークに出かけましょうね」
「あ……ああ」ネスは返事もうつろです。心臓が左の肘に引っ越してバッコンバッコンいっています。なのに、ポーラったら! ただそっと指をかけてるだけでもドキドキなのに、いつの間にか、すっかり腕をからめてギュッとからだを押しつけているんです。なんて積極的なんでしょう!
〈ワザとかなぁ〉ネスは考えました。〈それとも、まだまだ赤ちゃんで、ただ無邪気だからなのかなぁ。女の子って何考えてんのか、ぜんっぜんわっかんねぇや!〉ひょっとして、ポーラは、こんなこといつも平気でやっているんじゃないでしょうか。どこかの誰かさんの腕にぶらさがって、そう、まるで、デートみたいに歩くなんてことを……。
「次の予定地スリークは、そんなに遠くないわ。定期バスですぐ次なの。問題はトンネル。おばけが出てきて脅かすんですって。でも、ネス、きみは、おばけなんて怖くないよね?」
「あ、ああ」おばけは怖くないけどオマセは怖い。こんな可愛い子とふたりっきりで旅行するなんて……一緒に泊っちゃったりもするんだぞ! 嬉しいけど、嬉しくないわけじゃないけど……でも……そんなの、ともだちにバレたら何を言われるか!
「スリークにも不穏な気配が漂っているの。何か恐ろしいことが起こっているのかもしれない。でも、ふたりなら、平気よね! それに、そこに行けば、もうひとりの仲間に逢えるような気がするの」
「え、もうひとりの仲間?!」ネスは急に元気になりました。「それ、男の子かな?」
ポーラは立ちどまり、黙りこみ、まじまじネスの顔を見ました。スミレ色をした瞳の表面張力をテストするかのようにじわじわと水が盛りあがるのを見て、ネスは真っ青になりました。
「ご、ごめん、そういう意味じゃ」
「わかった。いい! もう、よーく、わかったから!」ポーラはネスの腕を振り払います。
「ガッカリだわ。きみって、頭の古いコンコンチキの男尊女卑のセクハラ少年だったんだね! ともだちなんて思うの、やめにする。同じ目的のために戦うって言っても、ちゃんと分担すればいいもんね! 足手まといにならないようにしますから、きみもきみでせいぜいがんばってちょうだい」
「ポーラぁ!」
ポーラはツンと顎をそらすと、ぷりぷりしながら行ってしまいます。
ネスはふうっと息を吐き、肩を落としました。「怒らせるつもりじゃなかったんだ……」呟きましたが、ポーラは聞こえないみたいです。足を止めません。「ちぇっ。あんなぐらいで、そんなにガミガミ言わなくったっていいじゃないか」
「ガミガミなんか言ってないでしょ!」遠くでポーラが怒鳴ります。聞こえて欲しくないほうに限って聞こえるみたいです。
そう言えば、ネスとポーラの間にはテレパシーが通じていたはずではなかったでしょうか? PSIコントロールはポーラのほうが上手です。うまく口で説明できないネスの気持ち、察してくれたってよさそうなものなのに。それとも。
口にしていない、こころの中で思ってただけのことのほうに怒ってるんだろうか。ネスはギクッとしました。さっき、チラッと頭に浮かんでしまったエッチな想像が、もしも筒抜けだったなら。どうしよう。まさか、ポーラのそばにいる時には、言うことだけじゃなく、考えることにも気をつけなきゃならないんだとしたら……そんな! 無理だよ! ネスがパニックを起こしそうになった、その瞬間。
「きゃあっ! いやあっ」
ポーラがこっちに走ってきます。何かがポーラを追いかけています。
「ど、どうしたの?」思わず動揺も忘れ、両手を広げて受けとめます。ポーラの抱きついた勢いで倒れそうになりましたが、大急ぎで背中にかばいます。「……な……なんだ、これ?!」真っ赤なキノコです。白い水玉模様です。イシヅキの代りに小さな脚が生えていて、スタコラ走って迫ります! あまりにヘンテコなので、ネスは一瞬、目を見張ったまま茫然としてしまいました。すると、そいつは、突然地面を蹴って、飛びかかってきました! 真っ赤な傘をヒラヒラさせながら舞上がり……パッ! 白い煙みたいなものを吐きました。
「ぶわっ……ゴホゴホッ!……うげぇ、ま、マズイッ!」
イガイガ苦くて粉っぽいものが、鼻やら喉やらを攻撃します。お酒のような、頭のクラクラする匂い! むせて苦しむネスに、キノコがドカンとぶつかります。思いがけないほど強力なアタック! 慌てて気合いを凝らし、愛用バットを振り回します。何度めかに、うまいことぶち当てた! と思ったら……その勢いでキノコのやつは、またも胞子《ほうし》を吐き出します。目はシパシパ、胸はクシャクシャ。ちょこまか動き廻る憎たらしいキノコ! なんとかバットで追い回し、ようやく撃退したものの。
「とととと……なんだこりゃ、地球がくるくる回ってる……銀河系が回ってるよぉ……」
地平線が波打っています。景色や色がみんな度のきつい眼鏡ごしみたいにサイケデリック! ネス自身も、なんだか海の底のコンブになったみたいです。膝にも腰にも力が入らないので、一歩ごとにヨレヨレします。傾いて傾いて、くるりと回ってしまったり、樹《き》にぶつかってしまったり。ちょっと休もうとしゃがみこむと、地面がぼこぼこ沸騰しています。
「……ネス! ネス! しっかりして!」
「き、気持ち悪い……何だか変だよ」
「そりゃ変よ」うなずくポーラが二重三重に見えました。「頭にきのこが生えてるもの」
白い垣根の大きな家。色とりどりの花壇。かわいらしい子供の歌声。ポーラスター幼稚園です。屋根の上では黒猫がのんびり昼寝をしています。
金髪を肩に垂らした美人のポーラママが玄関口に駆けつけて、娘をギュッと抱きしめます。ポーラはよろめくネスの手を引いて、大統領執務室の小型版みたいな部屋に案内しました。立派な机の向うにはリンカーン髭のおじいさんがいて、山なす書類を前に、片手で胃を押え、片手をズボンの裾からつっこんで足首のあたりをボリボリ掻きながら、しかめ面をしていました。が、ポーラを見ると、椅子を蹴倒す勢いで立ちあがり「よく戻った」と渋く笑いました……。
「そら、とれた」ツーソン市立病院から往診に来てくださったお医者さまが、上手に切り取ったキノコを見せてくれました。「でっかいのう。ソイソースでもつけて焼いたらうまいかな……いやいや、冗談だよ。研究用にもらってもいいね?」
「もちろんです」ネスは心からホッとしました。キノコをはずしてもらったら、世の中はまた正常に戻りました。「どうもありがとうございました」
「どういたしまして。でも、きみたち、今後は充分に気をつけたまえね」お医者さんは危ないキノコをビーカーに入れると、厳重に封をしました。「ヤボな説教するんじゃないが、ここら近頃ぶっそうだ。怪物、野獣に天候異変。変態、悪人、ダンジョン男。知らない場所に出かければ、道に迷って冷や汗かいて風邪をひくかもしれないし、ちょっと油断をしたならば怪我に火傷に腹下しも危ない。世界じゅうにはまだ知られていない風土病だってあるかもしれないぞ。子供たちだけで冒険旅行に出かけるだなんて、正直言って気が知れん。ポーラ、おたくのオヤジさんは、昨日もカウンセリングを受けに来ていたんだよ。娘の身の上が心配で胃はやられるし肩は凝るし腰はギックリだし夜も眠れないから幼稚園の子供たちと一緒に昼寝してたらアセモをうつされたとかって……」
「まぁ、パパったら」
「むむむ」ポーラパパがこっそり目に当てていたハンカチをサッと背中に隠します。「おまえの元気な笑顔を見たら、みんな治ってしまったよ。いやはや、そうか、なんともはや。ネスくん。まずはきみにお礼を言わなければ……おお、妻や、見てごらん、なんとまっすぐな目をした若者だろうね。なるほどこれが、ポーラがいつも夢に見た世界を救う少年か」
「なかなか凛々しい面魂《つらだましい》ね」ポーラママもうなずきます。「ポーラは、ずっと、小さい時から、何度も何度もきみの夢を見て、逢える日をそれはそれは楽しみにしてたの。いつか、ポーラを、きっと助けにきてくれる、って。……ねぇ、ネスくん、きみのこと、この子は、わたしの赤い野球帽の王子さまって呼んでたのよ」
「ほんと?」ネスは吃驚してポーラを見ました。「そんなこと、ひとっことも言ってなかったじゃない」
「わ、忘れてたわ、子供の頃の話よ!」ポーラは頬を赤くしました。「本気にしないでよ」
「ポーラ、これからは、おまえがネスくんの力になってあげる番だぞ。おまえは少しワガママではねっかえりでお転婆だが、根は素直ないい子なんだとパパはよぉぉく知っている。本来なら、子供たちだけで旅に出すなんて親として許せるわけのないことだが、なにせ地球の危機だしな」
「ママはあなたたちを信じてるわ」
「パパも応援する。ここはひとつ、気合いを入れて、是非がんばってくれたまえ!」
先を急ぐ旅ではありましたが、その日はもう遅かったので、ひと晩泊めていただくことになりました。晩ごはんは、町のひとたちも招いての、にぎやか持ち寄りホームパーティー壮行会になりました。なにせ幼稚園が会場です。可愛い工作やお絵かきや特大積み木や室内用ブランコのある大ホールに、ツーソンじゅうの老若男女が集ってきたみたいでした。みんなポーラが大好きで、ポーラを心配していたのです。
励ましのメッセージに園児たちのお遊戯披露。ポーラママのオルガンで、ポーラパパが素敵なテナーを響かせます。秘蔵の八ミリの、赤ちゃんの頃からのポーラの生い立ちなんかも上映されちゃいます。
「やあやあ、あんたがネスさんかね。へぇぇ、あんたがねぇ」
「ほんとに赤い帽子かぶってるざますね。ずっとポーラが言ってた通りざます」
「きみ、ポーラを頼むよ。大事に守って、ちゃんと無事に連れ帰ってきてくれよ!」
知らないひとに口々に言われ親しげに肩をたたかれなどして、少々閉口ぎみのネスは、ヌードルスープのそばで知った顔を見つけてホッとしました。
「アップルキッド! 来てくれたのか。明日にでもお礼に行こうと思ってたよ」
「ごちそうが出るって聞いたからね」キッドはケチャップでべとべとの手でがっちりネスと握手をしました。「んじゃ、ぼくのタコケシマシンはちゃんと役にたったわけだ」
「たった、たった! もうびっくりするくらいバツグンの効き目だったよ!」
「だからおいらが言っただろ!」キッドのオーバーオールの胸ポケットから、天才鼠のアルジャーノンが顔を出します。クラッカーに乗っていた穴あきチーズを、ちゃっかりもらったみたいです。
「キッドはお祝いに、またいいもの作ってもって来たんだよ。ほら、出しなよ、キッド」
「あ、そうだ」キッドは平らげてしまったお皿を置き、そこらのテーブルクロスで顔と手を拭くと、お尻のポケットから小さな機械を取り出しました。「超超伝導無線電話だ。地面の中の鉄分やマグネシウムをケーブルがわりに使うから、地球の反対側にいても話ができる。ただし、パワー・チャージにヒマがかかるから、そんなにしょっちゅうはかけられない。おまけに、ダイヤルをつけるのを忘れちゃったんだ!! ぼくのほうからかけるから楽しみに待っててくれよ」
「ありがとう」それは空缶回収機で潰した電子蚊取り線香みたいなモノでしたが、ネスはもうキッドのことばを疑いません。「そんなすごい機械をこんなに小さく作れちゃうなんてすごいね」
「まあね。また何か役にたってあげられるかもしれないからさ」
「ともだちは、離れていてもともだちだ!」アルジャーノンが陽気に叫びます。「ああ、ともだちって、いいもんだねぇ」
お腹のいっぱいになったキッドがサヨナラを言って帰ってしまうと、ネスはまた、ぽつんとひとりになりました。いつの間にか、照明が暗くなり、ムード音楽がかかっています。お酒タイムに入り、お客さんたちはのんびりゆっくり寛《くつろ》いでいます。パーティーはまだまだ続きそうです。所在なくて、ネスはあくびを噛み殺しました。
見ればポーラは、知らないおじさんに誘われてダンスをはじめたところです。純白の花嫁さんのようなドレスの長い裾をつまんで、ひらひら優雅で軽やかです。ドレスアップしたポーラは、誰が見ても文句なしの主役。注目の的、アイドルです。パーティー慣れしているのでしょう、おとなっぽくて、堂々としていて、なんだかますますキレイです。笑うポーラの金髪巻き毛のまわりに、キラキラっと七色の星が散るのが見えたような気がして、ネスはあわてて目を擦りました。
「ネス、疲れたでしょ」ポーラママがネスを見つけてくれました。「あの子は夜更かしだから、まだまだ起きていてつきあうつもりみたいよ。良かったら先にやすんで。バスルームは教えたわね。ベッドの上に、主人のパジャマを出しておいたから」
「ありがとうございます。じゃあ、お先に失礼します。おやすみなさい」
ネスはシャワーを浴び、濡れた頭をタオルでゴシゴシ擦りながら廊下を歩いてゆきました。と。ポーラの部屋の扉がほんの少しだけ開いています。中から灯りが洩れています。なにか、変な囁き声がします。
ネスは気配を殺し、足音を忍ばせて近づきました。そーっと覗いてみました。
「ううう、ポーラぁ、行っちゃやだよう、あうあう」なんとポーラパパです。タキシード姿のまま渋いお髭のオジサンが、ポーラの勉強机に腰をかけ、つっぷして啜《すす》り泣いているのでした。「おまえの笑顔がしばらく見れなくなるなんて、おとうさんは、寂しい。悲しい。危ない目に合うかもしれないと思うと、胸が痛くてたまらない。でも、笑って送りださなくっちゃな。それが戦士の父親ってもんだもんな。あああ、せつないよう、こんちくしょう。なんだって、よりによって、うちの可愛いひとり娘が地球を救う戦士なんてモンにならなくっちゃあならないんだ。神さまのバカバカバカ」
〈かわいそうなオジサン〉ネスは小さくため息をつき、そっと扉を閉じました。
〈待っててください、できるだけ大急ぎで仕事を果たして戻ってきますから。たとえぼく自身のいのちを賭けてでも、ポーラをきっと、無事にここに連れ帰りますから〉
ネスは寝床に横たわり、決心と拳を固めながら目を閉じました。あっという間に眠りに落ちるその刹那、無邪気に笑うポーラの姿が浮かびます。園児の上っぱりを着て、髪のひとふさをリボンでチョコンとつまんだ、まだ赤ちゃんっぽい、ちょっと舌足らずのポーラです。
〈あろね、しょれれね、らから、おーじさまが、くゆの。あかい、やきーぼーの、おーじさまらの。ポーラたしゅけに、きてくれゆの〉
幼いポーラの小さな手を、大きな優しい手がギュッと握ります。
〈ねぇ、ポーラ。ポーラは、その王子さまとパパだったら、どっちが好きなんだい?〉
〈どっちも〉
〈だから、どっちかだったら〉
〈えーーー?!〉赤ちゃんポーラがべそをかきます。〈どっちもしゅき! こまゆ……ポーラ、こまゆよぉ〉
〈あはははははは、ごめんごめん。困るよねぇ。あははははは〉
抱き上げて、高い高いをするポーラパパ。きゃっきゃとはしゃぐ小さなポーラ。つないだおててをぶらぶらさせて、歌を歌いながら歩く道。オシャマなポーズで写真をパチリ。はじめての海。はじめての学校。次々にめくれてゆくアルバムの中、赤ん坊が幼児に、少女に、そしてまぶしい娘に、あっと言う間に月日が流れ。さぁどうぞ、突きだす肘。差しだす腕。おとなぶった気取った顔でうなずいて、シャナリと滑りこませる細い指。お買い物にお食事、まるでデート。恋人同士みたいな父と娘……。
〈そうか〉夢の中でネスは笑いました。〈いつも手をつないでたのは、オジサンとだったんだ〉
誰も間に入りこめないほどぴったり寄り添った父と娘。少し引いたところから、いつも見守っている優しい母。幸福で安穏《あんのん》な家族の思い出の数々がいくつもいくつもくっきりとあるいはほのかに霞んで浮かんだり沈んだりしている川を漂いながら、ネスはいつしか、さらに深い眠りの中に落ちてゆきました……。
翌朝は、強がりパパのひそかな涙が天に昇ってまた落ちてきたかのような、しとしと静かな雨でした。オジサン本人は、あんなに悲しんでいたことなんか微塵《みじん》もにじませぬ明るい笑顔で「さぁ、行っておいで、戦士たち!」送りだしてくれたのでした。
黄色のフードつきレインコートを着て、パッと見にはまるで双子のようになったネスとポーラは、まっすぐ定期バスの待合い所に出かけました。ところが。
「すまないね、いま、全面運転休止中なんだ」窓口のおじさんが言いました。「スリークに通じるトンネルには、も〜どれ〜、も〜どれ〜って、陰に籠《こも》って物凄い声でひとを脅かすおばけが出てね。運転手たちがみんないやがって、ストライキに突入しちゃったんだよ」
「まぁ、ひどいわ」
「どうしよう」
「歩いて行くしかないかしら……せっせと歩けば、たぶんまる一週間ぐらいで着くと思うけど」
ふたりが顔を見合わせ、とぼとぼ待合い所を出た、その時です。
「もしもし、ぼっちゃん、お嬢ちゃん」肩を叩いたひとがいます。くしゃくしゃ縒《よ》れたような頭に、まんまる真黒サングラス。ニカッと笑った前歯のひとつのうちがポッカリ穴になっています。「なんぞお困りでしたらば、このトンチキがお役にたちまっせ」
「あなたは!」
「いやいや、その節はすみませんでした」トンチキさんは悪びれもせず、ポーラにぺこぺこし、ネスに片手を差し出しました。「あんたが噂のネスさんですね? はじめまして、あたしゃヌスット広場の元締めの、ガッチリ・トンチキってもんでさあ。実は、先だって、ハッピーハッピーの連中がそちらのポーラちゃんをさらう手助けをしたんですがね。いまさら言い訳に聞こえるだろうが、ありゃあ作戦のうちだった」
「作戦ですって?」
「マニマニなんっすよ」トンチキさんが声をひそめます。「あたしゃ、あのオネットから来たデブの持っていた『マニマニの悪魔』って黄金像が欲しかったんで。ありゃあ、古買屋仲間の間じゃあ最重要の垂涎《すいぜん》アイテム。カタログ写真だけでも、高額プレミアムつきで取り引きされてるってぇ、大変貴重な宝物なんっす。なんとか連中に渡りをつけたのはいいが、もらった金が嬉しくて、ついつい酒を過ごして、そりゃもうひでぇ宿酔い。やっと起きあがれるようになってみたら、あんたはもうポーラちゃんを助けちまってるし、カーペインターは人が変ってるし、我が憧れのマニマニは、ポーキーとかってガキが持ってどっかへ消えっちまったと言うじゃありませんか」
「ポーキー!」ネスが眉をひそめます。「ポーラ誘拐事件に、ポーキーがかかわっていたって言うのかい?」
「はぁ。確か、あのデブはそう呼ばれていましたけれど……お知り合いなんですか?」
「知ってる」とネス。「隣の家の子なんだ。でも、ポーキーのやつ、そんな大変な宝物を、どこで見つけてきたんだろう……」
「そこんとこがあたしも是非とも知りたくってねぇ」
「モシモシ。お話が盛り上がってるみたいですけど」とポーラ。「役にたつって、言いかけてたの、忘れないで。なんの話? あんたがバスの運転をしてくれるとでも言うの?」
「いやいや、そうでした! あなたがた、スリークへ行きたいわけでしょ? スイマセン、あたしゃ免停になってかれこれ三十年、ハンドルとコンドルの区別もつかないが、いい友達を紹介します。トンズラブラザーズってしがねぇ流しのバンド野郎たちなんっすが、移動用に自前のバスを持ってまして。ちょうどフォーサイドの劇場まで出かけるとこなんで。どうせスリークを通りますから」
揉み手をするトンチキさんを、ポーラがジト目で睨みます。
「うんとお金取るんでしょ」
「いやいや! ですから、ご迷惑をおかけしたお詫びがわりってことで、もちろん、タダ。無料でいいです、無料ご奉仕で……おっととと」
「まぁ、ラッキー♪」ポーラはたちまち機嫌を直し、トンチキさんの頬にチュッ! としました。「わたし、オジサマのこと誤解してたみたい。ほんとはいいひとだったのね」
「でへへへへ」
トンズラのオジサンたちは、映画のマフィアみたいな黒服黒帽黒眼鏡。ちょっと見にはおっかないひとたちのようですが、とんでもない!
「よくきた、よくきた、おふたりさん!」
「世界を救う戦士なんだってなぁ。こんなチビっちょがよぉ、たいしたもんだぜ!」
五人のブラザーズの大歓迎。次々に握手され背中をバシバシされ、抱きしめられ。あまりにも早口の掛合いに、ネスもポーラも口をきく隙もありません。
「トンチキのおやっさんから話ゃ聞いてる。俺たちゃあのひとにゃ世話になってんだ」
「うちのバスはちょいとボロくて狭苦しいが、遠慮なんかはいらねぇぜ。さぁ、乗った乗った。ずずずいいっと、ずうっと奥まで入りなせえ」
「コーラ飲む? ビスケ喰う? 音楽聞く?」
「音楽だあ! なにがなくても音楽だあ! 音楽抜きじゃあ、人生真っ暗」
「それ、ワン、トゥー、スリー……」
♪どべべべべーん……どべべべべーん……。
機材とひとでぎっちぎちのトラベリング・バスのその中で、たちまち陽気な即興演奏がはじまります。エバー・グリーンのオールド・ファッションド・スタイル。渋いリズム、どこか懐かしいメロディ。ネスもポーラも思わず曲にあわせてスウィングし、手拍子し、足を踏みならしてしまいます。
「♪イェーイ、レッド・キャップ・ボーイ、プリティ・リトル・ガール!」
「♪ボーイ・ミーツ・ガール、オール・ユー・ニード・イズ・LOVE!」
「♪ヒァ・カムズ・ザ・グレイテスト・トンズラブラザーズ・バンド」
「♪ザッツ・エンターテインメント!!」
ジャズにブギウギ、ロックンロール。甘くブルージーなラブソング。休憩知らずのエンドレス・メドレー。ネスは、昔、夜中に目をさましてしまった時、パパとママの部屋から流れてきたラジオを思いだしました。ポーラはパパの背中で聞いたヒット曲をいくつも見つけました。あんまり音楽がにぎやかで、すっかりノリノリになってしまったのと、楽器ケースだのブラザーズの衣装だので窓という窓がほとんど隠れていて景色なんてまるで見えなかったおかげで、いったいいつ問題のおばけトンネルを通りすぎたのかさえ、結局まったく気づきませんでした。
永遠に続きそうな車中ギグがさりげなく蛍の光のモチーフに変り、ペットがベースがハモニカが、順繰りに超絶のソロ・テクニックを披露したかと思うと、バスが速度を落とし、停車します。
「さぁて、ついたぜ、スリークだ」
バスのドアが開き、機材やひとを乗り越えて、子供たちが下ります。
「良かったらそのうちフォーサイドに来いよ。一ケ月ぐらいは、俺たち、劇場に出演しているからよ」
「んじゃーなー、がんばれよ。どこにいても応援してるぜ」
「俺たちの地球を守ってくれよぉ」
アカペラで、渋い男声五重コーラスのウィ・アー・ザ・ワールドを響かせながら、トラベリング・バスが行ってしまうと、ふたりはぽつんと取り残されました。
いまのいままで浸っていたご機嫌なムードと対照的に、そこは、なんだか、どんより暗い町でした。雨こそ落ちていませんが、黒いぶあつい雲が、空の低いところまで垂れ込めています。のどかなオネットやツーソンとは違って、無愛想に四角い背の高い建物がずいぶん多い、都会化の進んだ町みたい。濡れた石畳に、壊れた街灯がついたり消えたりジイジイ虫みたいに鳴きながら、黄色い灯を滲ませています。ビルの谷間の濃い影を、ゆきかう人もまばらです。
「これがスリーク」ネスはぐるりと見回しました。「ずいぶん寂しいところだね」
「とりあえず、泊るところを決めましょうよ」ポーラが、ハクション、とクシャミをしました。「寒気がするわ。今日は早めに休みたい」
少し歩いてみると、舗道に案内図がありました。町の全体がのっています。
「あった。ホテル・スリーク。けっこう大きいみたい。ここから三ブロックぐらい北に行ったところだ」
「ええ……」ポーラの返事は、少しぼんやりしています。
「どしたの? そんなに具合悪いのかい? じゃあ、急がなきゃ」
「……見て」ポーラの白い手が、地図看板の上のほうを指差します。「お墓」
なるほどそれは墓地でした。町の北方の、ずいぶん大きな面積を占めています。
「そりゃ、お墓ぐらいあるよ。このぐらい大きな町なら」
「動いてるわ」ポーラが呟きます。「見えないの? そこが、もぞもぞ、動いているのが? お墓の冷たい土の下で、とっくに死んだひとたちが、次から次に蘇ってるんだわ……ひとり、またひとり、出てくるチャンスをうかがってる……ああ、ダメ! こないで! やめて!」苦しげな呻き声を洩すと、ポーラはふらりと倒れかかります。
「ポーラ!」ネスはポーラを支え、おでこに手をあてました。「うわ、熱があるじゃないか! 風邪だよ、きっと。バスの中があんなに暑かったのに、急に寒くなったから……ひょっとして車酔いもしてたんじゃないの? 病院に行く?」
「いや……怖い……ネス、あたし怖い!」ポーラはびっくりするほどの力で、ネスのシャツを掴みました。「誰かいる。何かいる。邪悪で陰険な何者かが、ヘドロの底の暗がりから、いじけて拗ねた暗い目で、あたしたちを見つめてる。すごく汚い、吐き気のするような奴だわ。うー、なにこれ、サイテー! 気持ち悪い!」
「……おばけなんて怖くないって、言ってなかったっけ?」
「ただのおばけなら平気よ。死んだひとだって怖くない。誰だってみんないつかは死ぬんだもん……でも、こいつは、もっとグロで、オエプッチで、ゲロゲロパーな……うっ」
「しょうがないなぁ」
ネスは地図を見ました。病院もありましたが、ずいぶん遠くです。ホテルのほうがずっと近い。とりあえず、着替えて、あったかくして、休んだほうがいいんじゃないかと思いました。それでダメだったら、救急車を呼んでもらうしかありません。
「とにかく、こんなところにいつまでもつっ立っているわけにはいかないよ。ホテルまで行こう。歩ける? おんぶしようか?」
「なんとか歩けると思うわ……ごめんね、ネス……」
「いいよ。ほら、ぼくにつかまって。もうちょっとだけ、がんばって!」
なんとも気分の悪そうなポーラを、半ば抱きかかえるようにして、ネスはホテルに向かいました。とうとう霧雨が落ち始め、石の擦り減った舗道はツルツル滑って歩きにくいことこの上もありません。ようやく二ブロックを越え、雨に煙るネオンサインを見つけた時には、思わずホッとして笑い顔になりました。ところが。
『H  EL    L』(地獄)
思わず足が止ります。笑顔が凍ります。ポーラが弱々しく顔をあげ「どうしたの?」と呟きます。からだじゅうがガクガク震えています。目もよく見えないみたいです。
真っ赤なネオンがパチリと消えて、もう一度改めてつきました。今度は青紫色です。
『HOTEL THREEK』(ホテル・スリーク)
「……なんでもない」ネスはふうっと息を吐きます。「道を間違ったかと思ったんだ。大丈夫、もう、すぐそこだからね」
ネオンがもう一度点滅し、再び赤く、ところどころが抜け落ちた不気味な『HELL』の表示になりました。ネスは急いで顔をそむけ、見なかったふりをしました。ポーラはいよいよ苦しげで、それどころじゃなくて、全く気づかなかったようです。良かった、と思いました。
〈なんだい。脅かすない〉もうぐったりと意識もないポーラのからだをひきずって、急ぎ足に道を渡ります。〈古くなって、ところどころつかなくなってるだけじゃないか。でも、よりによって地獄だなんて! 気の弱いお客だったら、泊るのやめちゃうところだよ。はやく直しておけばいいのに〉
その時、そのままホテルに入っていってしまったのを、ネスは以後何度も何度も後悔することになるのでした。もしもポーラが、こんなひどい状態でさえなかったら、こんなに慌てなくても良かったのです。ふたりで相談してどうするかを決めることだってできたはずです。
でも、この時ネスの頭には、ただもう一刻も早くポーラをあったかいベッドに横たえてあげたいということしかありませんでした。だから。
「こんにちはー!」玄関の自動ドアを潜り、フロントにも、ロビーにも、誰ひとり、ひとっこひとりいないことに気づいても、何かを疑う余裕さえ全然まったくありませんでした。「っかしいなぁ、おーい、誰かいませんかー! 泊めてくださーい!」
「……いらっしゃいませ」急に耳元で囁くような声がして、ネスは思わず飛びあがりました。いつの間にか、背後のすぐ近くに、やたらに背の高い女のひとが立っています。まっすぐな濡れたような黒髪で、まぶたはトルコ石のブルーです。つやつやしたシルクみたいなシャツを着ています。「おふたりさまですか。よいお部屋があります。ご案内しましょう」
「お願いします」このひと、どっかで見たことがあるな、と思いながらも、なんたってポーラがもう相当に重くてしょうがない、一刻も早く降ろして楽になりたい一心で、ネスは素直に彼女のあとについて行きました。
「こちらです、どうぞ」音もなく、女のひとは先に立ちました。なんだかろくに、足を動かしていないように見えました。廊下に敷き詰めたワイン色の絨毯《じゅうたん》の上空何ミリってあたりを、ただスーッと滑るように進んでゆくように。
でもネスは、ポーラを落っことさないように抱えておくのに懸命で、そんなによく観察していたわけじゃあありません。
〈あ、そうだ〉ネスは思いだしました。〈このオバサン、映画の、おばけのアダムソン一家のママさんにちょっと似てるんだ!〉
妙に暗い、冷たく静まりかえった建物の中を、曲りくねって進みます。やがて、女のひとは、どこからともなく金色の鍵を取りだすと、廊下の行きどまりの重厚な扉を開けました。
「どうぞ」女のひとが、唇の端を持ちあげて、ニッと笑います。
「ああ、良かった。どうもありがとう」ポーラを抱いたまま、ネスは扉を潜ります。ぶあつい絨毯みたいなものにつまずきそうになって、ちょっとよろけてしまいました。中は、すこぶる真っ暗です。まるで顔の前に黒い布をべたっと押しつけられたみたいです。「すみません、灯りのスイッチはどこですか?」
返事はありません。かわりに。
バタン。
扉が閉る音がしました。続けて。ガチャガチャン。鍵のかかる音もしました。
「……え……ちょっと!……ちょっと待ってよ!」
ネスが叫ぶと、ポーラが意識を取り戻しました。「ネス? ネス、ここはどこ? どうしてこんなに真っ暗なの?」腕の中から滑りおります。
ネスは、扉を揺すります。ノブをガチャガチャ鳴らします。
もちろん、それは、開きません。
「閉じこめられた……」ネスはぺたんと座ります。あたりにモワッと何か柔らかなものが舞上がりました。ポーラが激しく咳きこみます。ネスはテディにもらったミニマグライトをとりだしてスイッチを入れました。
飛んでいたのは埃です。何年も何十年も、掃除したことのない部屋に積もり積もった、こまかく、黴《かび》臭い、埃です。それは、窓もない、狭苦しい四角い部屋でした。染みだらけのぼろぼろの壁紙のあちこちに、古くなった蜘蛛の巣が、死んだひとの服の残骸のように垂れ下がっています。ベッドはもちろん、椅子のひとつもありません。
「すごーい。ホーンテッドマンションみたいねぇ」
「ごめん……ああ、ポーラ、ごめん!」ネスは言いました。「油断した。ネオンも、女も、怪しかったのに! 何も考えずについてきてしまった。ぼくが、もう少し気をつけていれば!」
「うううん、わたしこそ、ごめん」座りこんだネスのま正面の床に座ると、ポーラは両手でネスの頬に触りました。「怖がって、勇気をなくして。殻を作って閉じこもっちゃった。でも気絶してたおかげで、わたしビジョンを見たの」
「ビジョン?」
「そうよ」ポーラがうなずくと、鼻と鼻がさわりました。「いまさっき、わたしたちのもうひとりの仲間が目ざめたの! 海の向う、雪深いどこかの国、ジェフって眼鏡の男の子よ。彼が、来る。ここに向かってる。だから、ネス、彼が道を間違えないように、一刻も早くたどりつけるように、わたしと一緒に呼びかけて!」
4 ジェフ見参!
ウィンタース……
イン・ザ・ノース・サイド・オブ・ジ・アナザー・カントリー……
柔らかな雪をまとった針葉樹が、ぎっしり整列したオモチャの兵隊のように、どこまでもどこまでも見渡す限り続いています。ここはスノーウッドの森。月灯りに青味を帯びた景色を脅かすものとてない、静かな静かな夜。
冴えざえと輝く星空の下に、古めかしいお城がひとつありました。美貌と傲慢《ごうまん》で世界に名高いウィルビー・グラント・エヴァレット公爵の狩猟用別邸であったこの館は、全寮制パブリック・スクール、ヴィスコンティ大学付属モーリス校に寄贈され、寄宿舎として使われているのでした。七歳から十八歳までの成績優秀な少年たちが、およそ百人、両親のもとを離れ、厳格な規則と予定に従って研鑽《けんさん》の日々を過ごしています。消灯時間をとうに過ぎて、館は冷たく静まりかえっていました。生徒たちはみな、与えられた部屋の固いけれど清潔なベッドの中で、安らかな夢を楽しんでいるはずでした。
しかし。
館の三階の一室、ふたつのベッドが並んだ部屋で。
ジェフはまじまじと目を開いて、天井の暗がりを見つめていました。つぶらな、まつげの濃い、ひどく大きな相眸《そうぼう》です。うっすらと汗の浮かんだ額には、明るい褐色のサラリと癖のない前髪の一筋が張りついています。頬骨やちょこんとした鼻の上にかすかに散ったソバカスも、拗《す》ねたように引き結んだ唇のふっくら加減も愛らしい、なんとも魅力的な、ちょっと中性的な、実に整った顔だちでした。ここだけの話ですが、モーリス校はどちらかと言うと顔のいい子供をヒイキします。
しばらくそうして仰向けのまま、ピクリとも動かずに闇を見上げていたかと思うと、ジェフは静かに息を吐きだしました。眉をしかめ、小さく呻《うめ》きながら、上体を起こします。枕元に手をやって愛用の眼鏡を探ります。レンズ部分がまんまるで、鼻当てがピンクのセルロイド、耳にかける部分は金色のバネでできた、ちょっと変った眼鏡です。一九二〇年代のデッドストックものです。これをかけると、ジェフはちょっとヒョーキンになりました。サイレント映画の喜劇役者に似ています。ここだけの話ですが、ジェフは顔を誉められるのが苦手なのです。
毛布を撥ねのけ、冷たい床に、ガチャリと足を降ろします。ガチャリです。パジャマの裾からちょっと覗く痩せて骨ばった両脛には、アルミと鉄と革でできた補助装具がはまっているのでした。音は闇の底にひどく忌まわしく響き、ジェフに、毎度おなじみのことながら、まるでフランケンシュタインみたいだという自嘲的な気分を催させました。ボーリングの玉そっくりのおもりのついた鎖を引きずった、あの不格好でいじらしい怪物……。
ジェフが思わず頭を振って、ベッドを軋ませてしまったので。
「……あれ? ジェフ、どうかしたの?」
気配りトニーが目をさましてしまいました。ひどい寝癖のモジャモジャ頭を引っ掻きながら、ふわわわっ、とあくびをします。
「トイレかい? 手伝おうか?」
「大丈夫」ジェフは短く答えると、重たい足をひきずるようにしてクローゼットに向かいました。てきぱきと着替えはじめます。
「どこ行くのさ」トニーがあわてて飛び起きてきます。「まさか、外に出かける気じゃないだろうね、こんな夜中に!」
「呼ばれたんだ。すぐに行かなきゃ」ジェフはシャツの襟をきちんと喉まで留め、そのまま習慣通りに、モーリス校のマークの入ったネクタイを結びかけて、ふとためらいました。「これは、いらないな、たぶん」
「おいおい、寝惚けてンのかい?」トニーは頭を振りました。「ったく、秀才さんのやることは、ぼくみたいな凡人には理解できないよ……あっ、気をつけて」
立ったままズボンを履くのは、ジェフにはちょっと危険です。でも、それをやろうとしたので、ほんとの本気で急いでいることがわかります。本来親切なトニーは、わけがわからないまま、せっせと手伝いはじめました。脱いだパジャマをどかし、ハンカチを渡し、靴紐を結ぶ時の支えになってあげます。
「呼ばれたんだって言ってたよね。誰に?」
「女の子」
「女の子ぉ?」
「もうひとり、野球帽をかぶったやつと。イーグルランドの、スリークって町の幽霊ホテルの一室に閉じこめられたらしい」
「イーグルランドだって? 海の向うじゃないか?!」
「ああ。だから、一刻も早く出かけないと」ようやく身支度ができました。ジェフはまだあっけにとられたままのトニーの肩に手をおいて、ニッと笑いました。ただし、鋭い目つきだけはそのままです。「朝礼までには戻れないと思う。きみは、何も知らなかったことにしてくれ。ぐっすり眠っていて、出てったことにも気付かなかった。どこに行ったかも知らないと言ってくれ……迷惑をかけてすまない」
「迷惑だって? やだなぁ、ともだちじゃないか!」トニーは傷ついた顔をします。「きみは何でもひとりでやりたがる。助けになってあげたいのに……いまだって、一緒に行きたいと思うよ。でも、どうせ、それこそ迷惑だって言うんだろう?」
「……ああ」ジェフはクールにうなずきます。「これはぼくの問題だ。きみのじゃない」
「わかった、わかったよ」トニーは、おてあげ、というポーズをしました。「きみの邪魔はしない。でも、せめて、ガウス先輩にだけは、ひとこと挨拶をして行ってくれよ。先輩は正門の鍵を持ってるし、つねづねきみに目をかけてるからね。いきなりいなくなったりしたら、ぼくが怒鳴られちゃう」
居並ぶビーカー、ずらりとフラスコ。数かぎりなく勢揃いした試験管はまるでシロホン。石綿金網の上で熱せられた容器からあがるさかんな水蒸気が、透明なガラス管の中をぐるぐるらせん状に回りながら冷やされ、ろ紙でこされてたまってゆきます。不思議なキラキラする紫色の液体となって……。
「地球を救う戦士だと?」ガウス先輩は研究室で何かの実験の最中でした。最上級生で寮長で、世界数学大会に前人未到の五連続優勝の経歴を持つガウス先輩は、学内でも特別の地位と特権を持っています。真夜中だろうと、授業中だろうと、ガウス先輩が実験を続けたいと言ったら、実験をしてていいということです。「じゃあ、おまえは、地球を救う戦士を救う戦士ということになるわけか」
「ええ。そして、先輩は、地球を救う戦士を救う戦士を救う戦士になることができるんです」
「無断外出の手助けをするぐらいはなんでもないが」ガウス先輩はニヤッと笑いました。
「いったいどうやってイーグルランドまで渡るつもりだ? 散歩気分で出かけるには、ちょっと遠い距離だぞ。おまけに、おまえの、その足で」
「わかりません」頬の一点を赤くしながらも、ジェフは落ちついた声で答えました。「でも、まず、南に向かわなければなりません。それが、ぼくにテレパシーを送ってきた女の子の指示でした」
「はなはだ曖昧で、いきあたりばったりな話だな」
「おっしゃる通りです。ぼく自身、まだ不思議な夢を見ているような気持ちです。でも先輩、何かが、これは嘘じゃない、冗談でもないって、ぼくに教えてくれるんです」
「純粋理性の先験的知覚の本質直観ってやつかな?……もともと、ジェフ、おまえにはどこか、他のやつと違うところがあると思っていたよ。まぁ、いいだろう。正門を開けてやろう。鍵を取って来るから、先に行っておけ……トニー、おまえは、この装置を見張ってろ! 実験を止めるわけにはいかないんだ。ここがあんまり沸騰するようだったら、そのバルブを緩めるんだぞ」
「は、はい!」トニーはしゃっちょこばって返事をしました。名残り惜しそうにジェフの手を取ります。「ほんとは門まで送りたかったけど、でも、ここでおわかれだね。ジェフ、気をつけて! ぼくはいつもきみの無事をお祈りしているからね!」
ひとけのない寮のグレイの絨毯を敷きつめた階段を昇り、階段を降り。長い廊下を進んで、また階段を昇り……ようやく玄関ホールのそばまでたどりついた時には、ジェフはもう息がきれてヘトヘトでした。鉄の足はうまく曲らないし、充分持ちあがらないので、手すりがないと大変です。関節は油の足りないジョイントみたいにギシギシ言うし、ふくらはぎの筋肉がむくんで腫れてキンキンします。
ふだんは、いつも、トニーがそばにいて、さりげなく助けになってくれていたんだということが、よーくわかってしまいました。おせっかいなやつだと思っていたけど、実はけっこうアテにしていたわけです。はっきりいって、日頃の運動不足もたたっています。
〈こんなぼくが、雪原を越えていけるのだろうか〉ジェフは不安になりました。〈ひとりぼっちで、知らないやつらを助けるために、海を越えて行かなければならないんだろうか〉
「遅かったな」
ガウス先輩はもう先に来ていて、玄関ドアを開けてくれていました。冷たい風が吹きこんできます。外は恐ろしいほど真っ暗です。「どうした、ジェフ。顔色が悪いぞ」
「……なんでもありません。ありがとうございました。行ってきます」
ジェフは無理に微笑んで、玄関ドアを潜《くぐ》ります。……と。
ドサドサッ! 雪玉がぶつけられます。アッと驚いた拍子に、ジェフは凍った地面で滑って転んで、尻もちをついてしまいました。
「なんだなんだ、それでも戦士かぁ」
「モーリス校の名を汚すんじゃねーぞぉ」
「がんばれ、ジェフ、へこたれるな!」
「……みんな……」
ジェフはあんぐり口を開けます。パジャマ姿の少年たちが大勢、見送りにきてくれていたのです。いずれも成績抜群、品行方正。いつも皺ひとつない制服で、オスマシしている連中です。授業やテストの時なんかは、密かに激しいライバル意識を燃やし、隙あらば蹴落とそうと虎視眈々《こしたんたん》狙っているような気配がありました。それでなくてもムードの暗い孤独癖のあるジェフには、進んで何かと話しかけてくるのはトニーばかり。みんな、他人のことになんか、なんの関心もないような顔をしているのでした。
そのトニーもいます。実験室に縛りつけられていたはずなのに。やっぱり真っ先に駆け出して、ジェフを助け起こしてくれました。
「この程度のことでいちいちスッ転んでいるようじゃあ、先が思いやられるな、戦士さんよ」ガウス先輩がニヤニヤしながら近づいてきます。「おまえにピッタリのプレゼントをやろう」
四人ほどの学友たちが、ヒャッホーと歓声をあげながら、何か銀色をしたものを押してきます。スノーモビルのような、オフロード・バイクのような、合体ロボットアニメの操縦装置みたいなものです。
「あ、それは!」
「そう。先々々々代の寮長、ホーキング大先輩のご愛用品、ハイパー車椅子だ! 記念館からかっぱらって来た。ありがたがって展示なんかしてたって、まったく宝の持ち腐れだからな。おまえならきっと使いこなせるだろう」
乗ってみます。赤い|革張り《レザー》の操縦席を、空気圧で調整します。太陽電池の六輪駆動。方向指示は、ジョイ・スティック型。コクピットには、メーターやスイッチがズラリ並んでいます。物入れには、用意のいいことに、ファーストエイドのセットと、湯沸しポット、菓子パンやミートパイ、房ごとのバナナも入っていました。
「ひゅうひゅう! カッコいーじゃーん!」
「似合うぜー」
「無茶すんなよ、暴走すっと退学だぞ!」
「……みんな……」ジェフは込み上げてきた塊りを、グッと喉に押し戻しました。「みんな、ありがとう! ほんとに、ありがとう!……先輩も」
「よしよし」ガウス先輩と、がっちり握手。「男の旅立ちだ。おめでとうと言ってやるぜ。だせぇ死に方だけはするんじゃないぞ」
「はい。……ああ、トニー!」
「うわぁん、ジェフぅ」トニーはジェフの首ったまに齧《かじ》りつきます。「ああ、もうこうなったら告白する。ほんといってね、ほんといってね、ぼくきみのこと大好きだった! そうとう……あの、危ない意味で、好きだったんだ!」
「うん」ジェフはトニーの癖っ毛に指をつっこんでクシャクシャしました。「ぼくもきみが好きだ。あんまり危ない意味じゃないけど」
「そーか。そーだよね。そーじゃないかと思ってたんだ。しょうがないよね」トニーは両手で涙を擦り取りました。「けど、友情は、友情で、絶対ほんものだよ!」
「わかってる」ジェフはうなずき、エンジンをかけました。ここちよい唸りが、勇気を高めてくれます。「それじゃあ、行ってきます!」
雪ダルマ・マークのスイッチをみつけて押しこむと……シュバッ! 車高が変わります。タイヤのゴムの内側から、強力スパイクが飛びだしたのでした。
月灯りの森、白一面の景色の中を、ジェフは快調に飛ばしてゆきました。なにせ雪道、凍結路面。そうそうスピードは出ませんが、一歩一歩腰まで埋まりながら歩くことを考えたら信じられないほど快適です。鼻歌だってでるほどです。
「えーっと、これがフォグ・ランプで、これが交通情報……このスイッチはなんだろう?……うわわっ!」
運転中に注意をそらしてはいけません。基本的なドライバー心得を怠ったジェフは、突然出現した人影にあわてて急ブレーキをかけるはめになりました。たちまちバランスを崩したハイパー車椅子が、弾んでよじれて一回転! モミの樹に激突し、ドサドサ雪が降ってきました。
「ひー冷たい!」やっとの思いで這いだして、埋もれたマシンを眺めます。「やれやれ。壊れてなきゃいーけど……うんしょっ」全身の力を使って、押したり、引っ張ったり。「くそー、重いぜ……よっこら、どっこい!」
「うーふー、ふいっ!」
「へ?!」ジェフは仰天しました。ずれていた眼鏡を、あわててかけなおします。なんと、隣で、一緒にハイパー車椅子を起こそうとしてくれているのは、髭ぼうぼう、頭もじゃもじゃの大男。この寒いのに裸足で、からだにも、獣の皮をつないでまとっているだけです。力を込めているおかげで腕や胸には、凄じい筋肉が盛りあがっています。「い、イエティ? 謎の巨人族……? そうか、さっきの人影はきみは……」考えこんだジェフが手を離してしまっているというのに。
どどーん! 車椅子がみごとにちゃんと起き直り、「うーふ!」大男が得意そうに腕をあげました。
「あ、ありがとう」ジェフは必死に笑い顔を作りました。「助かったよ。きみ、大丈夫? ぶつからなかったかい?」
「えっふー? ふー」大男はジェフのことば尻を真似て、にこにこします。垢じみた頭髪になかば隠れた顔は陽に灼けて、まるで古くなった革みたい。でっかい鼻はイボだらけ、めくれあがった唇から覗く歯は、すり減ってやたらに隙間が開いています。ひどく不細工な顔でしたが、どこかしら愛敬もありました。
「ことばは、わからないのかな……えっと……あ、そうだ! きみ、お腹すいてないかい?」
「ふへほへ、ふー?」
「良かったら、食べなよ」ジェフは物入れを探って、食べ物を取りだしました。バナナとパンを渡します。
「ほえっふ、えふー?」
「食べものだよ。ほら、こうやって……あーん」バナナを剥いて、食べて見せようとすると、大男がガフウッ! と叫び、大きな手を伸ばしてきて凄じい勢いでひったくりました。夢中で食べます。次々に食べます。パンも食べます。どんどん食べます。
「お腹がすいていたんだねぇ。……でも、それじゃ、喉がつまるだろ。お茶は飲む?」
魔法瓶の蓋をカップにして、ほかほか湯気のたつ紅茶を注いだやつを差し出しました。ギロリと瞳を光らせて、またしても早速ひったくろうとした大男の手に、こぼれたお茶がかかります。「ふぇあいぃいいいい!」熱かったみたいです。大男は、ひいひい泣きながら、転げ回り、両手を雪につっこみました。
「ごめん、大丈夫かい?」
「があっ!!」
「うわっ!」振り払った手にあばらを撲たれて、ジェフは仰向けにひっくりかえってしまいました。「いてて……乱暴だなぁ」
大男はくすんくすん言いながら、膝を抱えるようにして縮こまっています。ファーストエイドのセットを片手にゆっくりと近づくと、臆病そうな横目で、ぎろぎろジェフを眺めます。
「診せて」ジェフはきっぱりと言いました。「やけどしたんでしょう。診せて」
「うー……ふー……がぁう!!」唇をめくりあげ、歯をむいて威嚇する大男。
ジェフは無言で座りこみ、大男の腕を握りしめました。怖くなかったと言ったら嘘になります。この怪力の持ち主が、もしまた、カッと腹をたてでもしたら、ジェフなんて、けちょんけちょんに叩きのめされてしまうに違いないのですから。
じっと見つめていると、大男が、シュンと力を抜きました。ごわごわ大きなグローブみたいな手を、雪の中からひっぱりだします。ギザギザの、たぶん、歯で噛み千切って短くしているらしい爪。いくつもの古い傷跡。ひとさし指の先っちょのほうが、かすかに赤くなって腫れています。
「なんだ。これっぽっちかい。弱虫だなぁ」ジェフは笑い、軟膏を出して塗りました。大男は目を丸くし、鼻を近づけて、フンフン匂いを嗅いでいます。「あ、こらこら、嘗めちゃだめだよ! しょうがないなぁ、じゃあ、特別だよ」
バンドエイド三枚でぐるぐる巻きになった指を、大男はぽかんと見つめました。
「やれやれ」ジェフは立ちあがり、雪を払ってコクピットに乗りこみます。無事エンジンがかかりました。そんなに壊れてはいないみたいです。「それじゃ、悪いけど、ぼくは先を急ぐから。サヨナラ。お大事にね」
ライトをつけて、走り出します。今度はわき見運転は絶対しないつもりでした。
ところが。
どすん、どすん!
「な、なんだ、この振動は……やっぱ壊れてたのかな、うわわわ、きみ!」
ずしん、どしん! バックミラーの中に、鼻の穴をおっぴろげ、顔を真っ赤にして走ってくる大男の姿がみるみる大きくなったかと思うと、大股の大突進で、あっという間にハイパー車椅子に並びます。あっけにとられたジェフに、いかにも得意そうにニヤッとします。月灯りに牙みたいな前歯が、ギラリと輝きます。膝が顎にさわるほどの腿上げで、一気呵成に抜きはなちます。うっかり操作を誤ると、凍った地面に大男の開けた足跡にはまってしまいそう! ジェフが必死で追いすがれば、敵もいっそうその気を出し、ますます調子に乗って走ります。
「こらー、こっちは遊んでんじゃないんだぞー!」
「がふふふ、ふー!!」
月夜の雪原のデッドヒート! ぼっこんぼっこん揺れまくりのジェフと、大喜びで踊りながら走る大男。樹木の向うから、眠りをさまされた鳥や獣たちが、呆れ顔で見送ります。
いつしか夜が明け始め、こずえの先の雪の塊りが朝の太陽の光を浴びて優しい桃色になりました。さすがに速度の落ちた大男が、がくんと膝をつき、バッタリ前のめりに倒れます。
「はあはあ……ったくもう……なんだってこんなことになったんだか……」
ジェフもまた力つき、車を止めて、ぐったり座席にもたれます。まぶたの皮が緩んで垂れて、いまにも閉じてしまいそう……と。ハクション! クシャミが出ました。「いけない。このままじゃ風邪をひいてしまう」ジェフは物入れをさぐってタオルをひっぱりだし、シャツの中につっこんで汗をぬぐいました。クッション型に畳んであったのは羽根ぶとんです。いそいで広げてもぐりこみます。天国のようにぬっくぬく!……でも。「あいつは、寒くないかな?」気になりました。あわててのびあがって様子をうかがうと、大男は雪原に堂々と大の字になり、ガーガーいびきをかいているのでした。どうやら、いつもそうして眠っているようです。ジェフはホッとして、座りなおし、もう一度首まですっぽりやわらかなフトンにくるまりました。そして、そのまま。
心地好い眠りの中に、ふわふわ沈んでゆきました……。
一方その頃。あの不気味なホテルの埃臭い部屋の扉が――
すっとと、とんと、と、と。
ふざけたリズムで、小さくノックされたのです。
からだを寄せ合いうずくまってまどろんでいたネスとポーラが、一瞬のうちに飛び起きます。
「誰だろう?」ネスが囁き、ポーラをふりかえります。ミニマグライトは電池がもったいないので消してありました。窓もない部屋ですが、羽目板の隙間から町のどこかの灯《ひ》あかりがかすかにかすかに洩れてきます。お互いの表情がなんとか見分けられるくらい、ふたりは闇に目が慣れてしまっていました。
「ジェフかな?」
ポーラが無言で、首を振ったとたんです。
「やあやあ、ネスくん、元気かい!」この場のムードにそぐわない、いとも陽気な声がしました。「ここにいるって聞いてきたんだけど、ずいぶんとサーヴィスの悪そうなホテルだねぇ。可愛い女の子とふたりなら、ま、いいかな?」
「ポーキー!」ひと声叫ぶと、ネスは分厚い扉に体当りするように駆け寄りました。「ポーキー、きみか! 開けてくれ、ぼくら閉じこめられちゃったんだ!」
「そうなんだってねぇ」いとものんびりと言うポーキー。「あれ、なかなか、耽美《たんび》なゾンビだっただろ? きみたちをここに連れてきた女のことさ。彼女に命令したやつも知ってるよ。ゲップーとかってゲテモンなんだ。頼りにゃなるけど、これが、耽美どころか、最低最悪にゲロゲロな極めつきの悪玉でねぇ」
「ポーキー?」愕然とするネスの背を、ポーラがそっと支えます。「どうして……どうしてそんなやつを知っているんだ……まさか、ほんとに、きみは……」
「ゲップーは、宇宙のどこかからやってきたんだって。おれのこと、なぜか、ギーグさまって呼んで、すごく尊重してくれるんだよね」けけけ、とポーキーは笑います。「デブだのグズだの卑怯者だのって、さんざんバカにしてくれた人間たちよか、ずっといいともだちさ! ゲップーの理力《フォース》のおかげで、ここスリークじゃ、面白いことが起こってる。墓場から、ゾンビや幽霊が這い出して、そこらウロウロしだしたんだ。人間なんて勝手なもんだな。目に見えなきゃ、ご先祖さまの魂だの、天国の住人だのって、やたらに美化して、時々都合のいいお願いなんてヤツまで託したりしやがるくせに、イザ実際、腐って溶けて凄じく臭い死体が復活の喜びを遂げて逢いに来るっつーと、ギャアギャア逃げ惑いやがるんだから……あ、ところで話は違うけど。ネス、おまえにひとつ聞きたいことがあるんだ」
ネスは眉をしかめます。「……なんだ?」
「ネスバーガーのレシピだよ。秘密の特製スパイスだよ。うちの親父が、是非この機会に知っておきたいんだって。そいつを教えてくれるなら、それこそダブルチーズバーガーのサンキュッパ・セットでも差し入れてやってもいいけど?」
ぐぐぐううう。食べ物の話を聞いたとたん、ネスとポーラのお腹が鳴りました。閉じ込められて、かれこれ半日。ごはんのことは、極力思い出さないようにしていたのです。
「知らない」ネスは奥歯を噛みしめました。「ぼくは知らない。たとえ知ってたって、おまえなんかに言うもんか!」
「あっそ。そんじゃ、もう用はないや。……バイバイ、ネス。腹減って、パニクって、しょんべんたれ流して死んじまえ! あはははははは」
いやらしい高笑いが次第次第に遠くなり、やがて聞こえなくなりました。
「……ポーキー……」ネスは扉にもたれかかり、汗ばんだ顔を手で覆いました。「ほんとの、ほんとに、悪の手先になっちまっていたのか……あのポーキーが……」
「手先じゃなあないわ」ポーラが冷静に言いました。「あいつが、あいつこそが、悪そのもの、地球を脅かす脅威そのものよ。……それに、まだ、自分でも気がついていないみたいだけど……ああ、だから! いまのうちなら、まだ勝てるのに!」
冷たい床に跪《ひざまず》き、両手を組んでまぶたを伏せ、ポーラは思念を凝らします。
「ジェフ……ジェフ……わたしの声が聞こえる?」
ネスも並んで座ります。
「わたしたち、あなたを待っている……ジェフ……お願い! 早く来て……来て……!」
〈……早く来て……ジェフ……!〉
針葉樹の枝先でとけた雪のひとしずくが、もうすっかり昇ってしまった陽の光にきらめきながら、白くつややかな頬にぽつりと落ちます。
「わわわっ!」ジェフは飛びおき、あたりを見回しました。あの大男は、もういませんでした。ジェフはひとりぼっちです。「夢だったのかな……いや、そんなことはないぞ」あたりには、たくましい裸足の足跡が縦横無尽についているのでした。
「とにかく、急がなきゃ!」
半日ほど南に走ると、行く手が一面平らになって、キラキラ輝きだしました。タス湖です。この国一番の大きな大きな内海です。
「しまったなぁ……こいつがあることを忘れていたぞ。どうやって越えよう……」
湖畔の氷原に、大小さまざま色とりどりのテントが設営されています。双眼鏡を顔にくっつけたオジサンが何人も、あっちこっちキョロキョロしています。こころここにあらずの様子で、ジェフが近づいて行っても気づきもしません。
「こんにちは」
ジェフはひとりのオジサンの双眼鏡のまん前に顔を出しました。
「わっ!」いきなり、すぐそばのものを高倍率で見たオジサンが、びっくりしてひっくりかえって、心臓を押えます。「ああ、びっくりした。なんだい、きみは」
「ジェフと言います。モーリス校の学生です。ちょっと用があって、南に向かっているんですが……オジサンたち、何をしているんですか?」
「我々はタッシー・ウォッチング隊であ〜る!」オジサンはオジサンと言われてちょっとムッとしながらも、うっかり見逃してならじとばかりに、大急ぎでまた双眼鏡を目にくっつけました。「この神秘の湖タス湖に、最近、なぞの巨大生物が出現するようになったのだ! ネス湖のネッシーがあんなことになってガッカリしていたわたしたちは、もちろん、すぐに、タス湖のタッシーと名前をつけた! いい名前だろう。愛しいタッシーをひと目みようと世界じゅうから駆けつけてきた筋金入りの不思議オタクが、つまり我々ウォッチング隊、およそ二十人だ!……ああ、あっちのド派手なオレンジ色のテントのやつらは違うぞ。あれはヤーパン国のテレビ・クルーだ」
「なるほど」ジェフは感心したふりをしました。「じゃあ、テント生活、もう長いんでしょうね。食糧とかの補給は、船ですか?」
「ヘリだ。だが荷物は昨日届いたばかりだ。次の便は一週間先だ」
「一週間も……」乗せてもらえないかと思ったのですが、それじゃあ待っていられません。
「がっかりするな。若いの。カップ麺でも食べないか?」
「はあ、ありがとうございます……」
「お湯はあるかね?」
「ポット持ってます。水があれば、湧せますから」
「そうかい」
〈ジェフ……南よ! もっと南よ! 早く来て。でないと、あたしたち、もう……〉
頭の中で、せつなく訴える、まだ逢ったことのない誰か。
ジェフはまぶしさに目を細めながら湖のほうを伺いました。貰ったカップ麺をヒサシがわりにして、南の方角を見つめてみます。そこに何があるのかわからないけれど、でも、行かなくてはなりません。
どこかに工場か、せめて充分な機械部品があったなら、ハイパー車椅子を小型船舶に改造することもできるかもしれませんが、このあたりにはそんな設備はなさそうです。
「それでも来いって言うんだから、きっと、行けばなんとかなるだろう……」本来合理的理性的なジェフのこころに、我ながら理不尽な確信が芽生えます。ちょっと自棄のヤンパチってやつかもしれません。「ようし……出たとこ勝負だ!」
ジェフはハイパー車椅子に乗りこみ、ゆっくりと南を向くと、エンジンをスタートさせました。ぶるん、ぶるるん、ぶるるるる! ハンドブレーキを外します。
「あっ、きみ! なにをする」
「こらこら少年、うちのカメラの画角に入るじゃないか、どいてくれー!」
「バカ、回せ回せ! 謎の少年、タス湖で唐突な入水自殺! いまなら今夜のニュースに間に合うぞ!」
岸辺のやじ馬やカメラ・クルーがそれぞれに騒ぎたてる中、ジェフは速度を上げて一直線に湖に乗り入れます。六輪駆動の下でメキメキと氷が割れ、凍りつきそうに冷たい水が侵入してきました。はじめちょろちょろ、中パッパ。勢いがついているので、ともかく進んではいますが、もう機械がシュウシュウ言い、ガクガクし、いまにも沈んでしまいそうです。
「……ヤバイなぁ、さすがのホーキング先輩も、水陸両用車にしておいてはくれなかったらしいな」あちこちのスイッチを、せめて何かの役にたたないかとパチパチさせます。格納式のライトが、開いたり、ついたり。フロントグラスにウォッシャー液が飛び、ワイパーがぎくしゃく。おっ、ありがたい! 衝突時緩衝クッションが膨らみました! おかげで多少浮きましたが、水はなおも無情に入りこみます。もう腰のあたりまで水浸しです。お魚が紛れこんできて、ぴゃっ、と飛んで逃げます。ジェフは情けない笑い顔を作りました。「ぼくの直観、間違っていたかな?」
その時です。
「おーおおおー!!」大地も湖面も揺るがして、たくましい叫び声が響きます。「うおうーーーー、おおおーーー!」
「え?」思わず振り向いたジェフの目が、眼鏡の下でまんまるになります。「きみは!」
それは昨夜の大男。湖につきだした崖の突端で、狼のように天に喉を向けて吠えています。ジェフと目が合ったのがわかると、彼は、はがれかけのバンドエイドの手を大きく振りました。――そして。
「うわ、なんだ?!」飛行機がエア・ポケットに入った時のような、スッと体重の消える感覚。ジェフは思わず、ハイパー車椅子の車体にしがみつきました。それまでずっと、鏡のように静まりかえっていた湖面に、細かな細かなさざ波がたっています。もうそこはキラキラしていません。真黒です。ジェフは血の気がひき、硬直してしまって、なにもできません。波はぶるぶる震えながら次第次第に大きくなり、やがてあたりは、沸騰中のお鍋みたいに激しくボコボコ揺れはじめました。「やめてくれー! ぼくは船酔いする性分なんだーっ!」しかしもちろん、湖は聞く耳をもってません。振動が流れに、速く力強い潮流に。いまや、きっぱりと渦巻きに! まるで遊園地のコーヒーカップ。いえむしろ、巨大洗濯機の中に放りこまれたみたいです!
「うう、気持ち悪いっ……勘弁してくれぇ……!」
ジェフの悲鳴に、岸辺のウォッチング隊のみなさんは――もともと気のいい人たちですから――ハラハラ顔を見合わせます。
「誰か助けてやれよ」
「で、でも、いったいどうやって?」
「おい回せっ」カメラ・クルーの方は人命救助よりスクープのようです。「回せっ、寄れっ! (ドボン! 言われるままに前進したカメラマンが、気の毒にも水に転げ落ちた音です)そうだ! いいぞっ、そこでズームだっ!」
「浮き袋かなんかないのか?」
「ロープを投げたら届かないかな」
「おい、みろ、なんだ、あの渦巻きは、もしや?」
オジサンたちがドタバタしている、その横で。
「おうおーおおおー!」あの大男が、もう一度、大きな声で呼びました。すると。
「ああああああ〜〜〜!?」なんということでしょう!
ジェフが浮きます。みるみる浮いてゆきます。滴り落ちる水滴が、陽光にキラキラ輝きます。何か大きな大きなものが、ごつごつした頭のてっぺんにジェフを乗せて、静かに静かに伸びあがっていくのです。柔和《にゅうわ》で穏やかな巨大な顔。ああ、恐竜です。長い首の、鰭足《ひれあし》の、青ざめた緑色の肌をした生き物です!
「……タッシー……」
ウォッチング隊のオジサンたちが双眼鏡を取り落とし、頬にぽろりと涙をこぼします。
「ほんとにいた。いてくれた」
「やはり。やはり生きていたんだ!」
「ああ……タッシー……」
その生き物の大きさに、あまり静かなまなざしに、サスガのテレビ局のスタッフたちまでも、動きを止め、ぽかんと口をあけ、誰からともなくひざまずきます。
ジェフは頭が真っ白になってしまいました。目の高さがかわって、水面が、ひどく遠くなりました。もしぶつかったらひどく痛そうな、青味を帯びた銀色のギラギラ光る塊り。
そして、すぐそこには、タッシーの頭皮……。
「……すごい……」ジェフは呟き、ぶるっ、と震え、まぶたをぴくぴくさせます。「しっかりしろ、ジェフ、気絶するなよ、気絶すると、落ちるぞ……」ここだけの話ですが、ジェフはちょっぴり高所恐怖症なのです。「怖がるな。……ほら、笑え。喜べ。自慢できるぞ、こんな経験誰もしたことがないんだ。ガウス先輩だってトニーだって羨ましがるぞ」
充分に首を伸ばしてしまうと、タッシーは力強く泳ぎはじめました。じっとしている時より、かえって揺れません。驚いたことに、まさにジェフが向かおうとしていた方角にです。南にです。
〈そっか……やっぱり、直観は正しかったんだ。ひょっとすると、あのテレパシストの女の子が力を貸してくれているのかもしれない〉
そう考えると、急に気分が落ち着いてきました。周囲を見回す余裕ができました。もちろん、うっかりバランスを崩して転げおちないように、そーっとそっとですけれども。岸辺や、森や、遠くの山々が、ぐるりまるごと見回せます。ウォッチング隊のひとたちなんか、アリンコよりもっとチビッチョです。ちょっとありえない視点、人間には滅多なことでは許されない神聖な座。誇らしさに、思わずニッコリしたジェフは、遠くの崖で心配そうに身を乗り出して見守っているあの大男を見つけました。さすがの彼にしてからが、もう点のようです。
「そうか。彼がこのタッシーを呼んでくれたんだ」ジェフにははっきりわかりました。「ああ、もう見えなくなる。……さようならぁ、どうもありがとう!」
大きく片手をあげると、
「うーふ、ふー!」大男が、飛びあがって、両手をぶんぶん振り回します。
「元気でねぇ」
タッシーは、広々とした湖をまっすぐ横切ってゆきました。
タッシーの頭が充分に広かったので、そのうちジェフはハイパー車椅子を這いだして、濡れたからだをお陽さまに干しました。夢のような遊覧船を楽しむこと、およそ二時間。向う岸にジェフを降ろすと、タッシーはまた湖の深みに静かに戻ってゆきました。
湖のこちら側は、幸い気温が高いようで、もう雪景色ではありませんでした。
ただ車椅子の調子がよくありません。エンジンはかかるのですが、パワーが車輪にうまく伝わらないのです。駆動系の一部が破損してしまったようです。
「無理ないなぁ。あんなハードな使い方をしたんだから」備え付け工具を持って、シャフトの下に潜りこみます。「ああ、ここが折れてんのか。じゃあ、こっちとこっちを繋げて……と」六輪のうちふたつを外して、車体の後ろのほうにゴム紐で括りつけました。小半刻《こはんとき》を費やして、なんとかかりそめの改造に成功したものの。乗ってみると、いとも不安定なガタガタ走りです。「こりゃあ、もう、いつ動かなくなってもおかしくないな」
だましだまし進みます。野を越え山越え、森を抜け、谷を渡り。南へ、南へ。
そのうちに、比較的見晴らしのいい、たいらな道になりました。お腹がすいてきたので、ジェフはもらったカップ麺を食べることにしました。紅茶をいれたポットは、湖を去る時に洗って水を詰め替えてあります。シガー・ライターに接続すると、ポットはやがて、コポコポ沸騰しました。あとはご存じ、わずか三分待つだけです。
「それにしても」膝でハンドルを操作しながら、麺をずるずる啜りながら、ジェフは考えます。考えながらひとりごとを言うのは、ジェフの癖です。「あの大きな彼といい、タッシーといい……もうとっくに絶滅してしまったような生き物ばかりだ。タッシーが出現するようになったのは、つい最近だって言ってたよな。あの親切な彼だって、テレビでもまだ見たことがないぞ。いったい、いままで、どこに隠れて……」ドキリとしました。「そうだ。彼はタッシーと仲がよさそうだった。どこから来たにしろ、たぶん、同じところから来たんじゃないだろうか」
そして、それは。普通に歩いていて、あるいは、車ででも、泳いででも。とにかう、尋常な手段で到達できるような場所にあるとは思われません。
「次元断層?」ジェフは眉をしかめました。「平行宇宙、時間軸の乱れ、謎の侵略者、遺伝子操作……ジュラシック・パーク……いずれにしても、何かただならないことが起こっているのは確かだぞ! それにもし、何かの異変が起こったとしたら、急にここいらに放りだされたのは、何も彼らばかりじゃなくって……ひょっとすると他にも……ん?」
行く手の道に覆いかぶさるように伸びていた樹木の枝がかすかに揺れ、葉っぱが数枚、ひらひらひらっと落ちました。スロットル・レバーにかかった指がとっさに、GO! 全速前進を指示し、オンボロ・エンジンが瀕死の力を振り絞って、バスン、と排気ガスを吐いた、その途端。
「わぁっ!」
あたりじゅうの樹という樹から、毛むくじゃらの腕の長い猿のような生き物がばらばらっとぶらさがりました。ジェフより小柄な、学校にあがったばかりの子供ぐらいの背丈です。好奇心いっぱいのでっかい目玉がパチクリします。鼻をクンクンさせています。どうも、カップ麺の、美味しそうな匂いをかぎつけたようです! 棍棒《こんぼう》を持ったやつ、骨を降り翳《かざ》したやつ、鹿のような生き物の頭蓋骨をヘルメットみたいにかぶったやつまで! およそ百、いやもっと、二百近くもいるでしょうか。
「原人だ!」
ジェフはあわてて、カップ麺を外に捨てました。サッと飛びついた、素速いやつが、アチアチ、とお手玉します。地面に落ちた麺のきれっぱしを、ひとりの原人がつまんで眺めて、下からツルツルッと飲み込みました。コイツァ、イケルゼ! 誰がみたって、満足至極のその表情。たちまち、原人という原人が飛び降りてきました。奪い合いです。もっとあると思っているのでしょうか、ハイパー車椅子に飛びついてもきます。掴みかかり、車体をかすめて転びます。ビッビー!! ジェフが思い切りフォンを鳴らすと、赤ちゃん原人を抱っこしたおかあさん原人が、ヒャッと叫んで腰を抜かしました。
「もうないったら、どけどけ、頼むからどいてくれ〜、轢《ひ》いちゃうぞぉ!」超絶テクのジグザグ運転をしながら、片手で物入れを探りました。食べ物を投げれば、そっちに気をとられてくれるかと思ったのです。でも、ああ、しまった! パンもバナナもみんなあの大男にやってしまったのでした!
「ええい、ごめんよ!」後ろに積んでおいた、タイヤのゴム紐をほどきます! たちまち落ちて、転がって、弾んで走っていく謎の物体に、後ろから追っかけていた原人たちは、悲鳴をあげて逃げ惑います。ビッビー!! フォンで蹴散らして走ります。気の弱い連中はすっかり震えてひっこんでしまいましたが、ああ、まずい! ぶっとい倒木を両手に持って、道の先にたちはだかっているあの、ひときわ体格のいい原人(といっても、まだまだジェフより小柄)は、このひと群れのボスあるいは指導者《リーダー》なのではないでしょうか。レスリングの選手みたいな、逆三角形の肩。幅と同じほど厚みもありそうな、毛むくじゃらの胸。どうでも勝負をするつもりのようです。鼻息も荒々しく、筋肉を揺すって誇示しています。彼の背後には、耳の上に花をくっつけたのや、貝殻を繋げて首飾にしたのなど、原人ではきれいどころらしいギャル集団がヒステリックなグルーピーになって、唾を飛ばし、拳骨《げんこ》をつきあげ、キイキイ声を張り上げて応援までしているのです。
「ひゃあ、あんなのに捕まったら、ケッチョンケチョンにやられちゃうぞ! どうしよう……何か、何かないか……あれ?」盛んにダッシュボードを探った手が、奥のほうに隠してあった小さなボタンにさわります。「なんだこれ?」もちろん! ジェフはそれを押してみました。ここだけの話ですが、学問好きの少年であるジェフは好奇心もひと一倍です。たちまち。「わあ!」
パーン! パン、パン、パーン! 破裂するかんしゃく玉、たなびく煙は色とりどり。ビックリ箱の蓋みたいにポンと開いたボンネット、飛びあがったのは半乾きのテデイ・ベア?!
あわててジェフが抱き止めたでっかい熊の頭から脱げて飛んでく帽子には、ずらずら紐つき万国旗が繋がっていました! さらにさらに。後ろ側では、どこに格納してあったやら、ツナだの、ミート・ソースだの、キャンベルのABCスープだのの缶カラが、がらがらがらんと弾んでいます。まるで、『新婚ホヤホヤ(ジャスト・マリイド)』のお祝い車です!
「……せ……先輩はー! ははははは」テディ・ベアを抱きしめながら、ジェフは思わず笑いだしてしまいました。そう言えば、すっかり忘れていましたが、この前の寮祭の時、他ならぬこのハイパー車椅子を使って、みんなで悪戯をしかけたのでした。記念堂の展示コーナーに『お手を触れないでください』って張り紙を出しておいて。それでも触ろうとして、ひとのいない時を見計って、コッソリ一歩前に出ちゃうひとがいる。(ええ、もちろん、必ずいるんです。それも、立派な紳士とか、着飾ったおばあちゃまとかに限ってやるんですよね)、たちまちボンネットが開いてオチャメな熊が飛びあがり、警報機が点滅しサイレンを鳴らし、寮生の中で一番背の大きな子たちで結成した迷彩服のコンバットチームがサッと現われ、散開し、オモチャのマシンガンをつきつけて「両手両足を開いて床に伏せろぉぉぉ!」と脅かすという……それにしても、あれだけの短時間で、実際ジェフがひっかかるかどうかもわからない、たとえひっかかったとしても、その時の顔を見て笑うこともできない、こんな冗談を仕掛けるなんて……ガウス先輩はやっぱりきっぱり、そんじょそこらの天才じゃないんですね!
さてジェフは、おかげですっかり愉快になってしまいましたが。
例のマッチョなボス原人のほうはと言えば、これはもう吃驚仰天《びっくりぎょうてん》です。へなちょこのヒョロヒョロの、ろくに髭も生えていないような相手など、ハナクソみたいに丸めて潰して、ギャル原人たちにイイトコ見せてやれと手ぐすねひいて待っていたのに……そいつは、謎の手下[#「手下」に傍点]を出現させ、やたら大きな音をさせ、おまけに、この偉大なるボス原人さまに、あくまでまっすぐ突進し、げらげら笑っているのです! こいつは魔法使い、いやさ、悪魔そのものなのかもしれない! ボスは震えあがりました。
「GASHHHHH!!」ちょうどあのムンクの叫びと同じポーズで悲鳴をあげたかと思うと、ボス原人はくるりと後ろを向いて逃げだしてしまいました。ギャル軍団の、抗議すまいことか!
「ごめんね、怨まないでくれよー!」凄じいブーイングの嵐の中を、ジェフはテディ・ベアの陰にからだをすくめるようにして素速く突っ走り抜けました。万国旗をたなびかせ、缶カラ楽団を鳴り響かせながら!
やれやれ、なんとか切り抜けました。空も晴ればれ、いい天気!
「ああ、良かった。一時はどうなることかと思っ……え? うわわわわ!」
どどどど。何かが後ろから追っかけてきます! 大事なスターをコケにされ、怒りに燃えたギャル原人軍団が、地響きを立て、砂誇りを舞い上げながら、怒濤になって押し寄せてくるのです! おまけに、「うへっ! そ、そりゃないよぉ!」ばん、ばすん、ぼっすん! 無理なパワーをかけすぎたのでしょうか。頼りのハイパー車椅子が、まるで痙攣でも起こしたように撥ね回りだしたのです! 血相をかえたギャル集団は、オリンピック選手みたいに俊足です。凶悪極まりない顔つきで、藪も木枝《えだ》も薙ぎ倒し、長い腕を振り回し、時には小石まで投げてきます!
「うわっ、いてっ、いててっ!」
缶カラがブッ千切られます。万国旗がたぐりよせられます。テディ・ベアはさらわれてしまいました。もう囲まれます、いまにも捕まってしまいそうです。「ひゃあっ」ジェフが身をかがめ、ギュッと目をつぶった、その時。……ボッスン! ハイパー車椅子が、真黒くろの煙を吐きました。ギャルたちがゴホゴホ咳きこみます! この機に乗じて、加速します。パン、パパパンの、スッパンパン! マフラーはマシンガンのような音を立てながら、いまやもう跡切れもない黒煙をたなびかせ続けています。「まずいな、排気ガスに燃料が混じったぞ!……このまま加熱しすぎると爆発するかも……うわ、あああ!」
突然、足元から地面が消えました! ひゅうんと飛びだした空中で、眼鏡が浮きます。あわてて手を伸ばしたそのとたん、ジェフのからだはハイパー車椅子からすっぽ抜けてしまいました! 知らず知らずのうちに、崖っぷちに追いやられていたのです!
ギャル原人たちがキャハハハと笑い、カチドキの声をあげる中、ジェフはくるくる回転しながら、空中を落ちて、落ちて、ズボリと樹の枝にはまります。卵を抱えていた小鳥が、盛んに抗議の声をあげながら飛び立ちます。「ふう……。助かっ……うわ、わわわわ、わっ!」ホッとしたのも一瞬、ジェフの重みでベキバキと枝が折れ、また、落ちます。今度は藪に、ひっかかりながら。「てっ……あたっ! 痛うっ……でぇぇぇっ!」青くさい樹の匂いと、大量の木の葉をまき散らしながら、ジェフはずりずり、落ちて、落ちて……、枝に撲たれます、岩にぶつかります。からだじゅう擦り剥けて、服も肌もギタギタです。意識は霞み、足も手ももう感覚がありません。それでも、片手に握りしめた眼鏡だけは離しません。
〈ああ、ちくしょう、こんなことになるなんて〉
〈ごめん、トニー。ごめん、ガウス先輩。ごめん、まだ逢ったことのないともだち……ぼくは、もう、進めない……〉
バウン! ひときわ大きな岩にぶちあたり、ジェフのからだが弾みます。こころなんてない、ただの物体のようになって……。
――とある小高い丘の上。何かをじっと待っているかのような、息を殺しているかのような、静寂……。
それは、神秘だの世界の七不思議だのに興味のあるひとが見たならば、ひと目でアレだとわかる場所。ストーンヘンジと呼ばれるもの。古代人が星座観測や祭礼を行なっていたのではないかと考えられている場所。世界に散らばるそんな空間のひとつです。
互いに大きく感覚を開いて正円を描いた十二本の石の柱は、自然のままのバラバラな姿形を留めながら、妙に高さが揃っています。その中央、掃き清められたかのようにたいらかな赤土の地面には、粗末な革衣《かわごろも》だけを身につけたたくましい体躯《たいく》の大男が六人、円の中心を向いて座っていました。あぐらをかいて、目を閉じて。静かに瞑想しているのでした。
時が流れるに従って、石と男たちの影が音もなく動き、やがて長く長く伸びました。西の山の端に陽が落ちて、あたりが燃えるように赤くなりました。
と。男たちのひとりが、静かに目を開け、立ちあがります。そのからだの大きさからすると、意外なほど優雅で荘厳《そうごん》なふるまいでした。
そして、次の男も。次の男も。
六人の大男たちは無言のままに列をなし、丘を降りてゆきました。枯れ葉を踏んでも音をさせません。枝や藪のこみいったところでも、けして折ったり揺すったりしません。厳《おごそ》かな巡礼のような行進を、邪魔するものはありませんでした。
やがて男たちは、切り立った崖の底に達しました。灌木《かんぼく》の枝に、千切れてクシャクシャになった小さな日の丸がひっかかっていました。先頭の男は、そっとそれをつまみ、さらに進みました。タイヤがあります。パイプがあります。ひしゃげて潰れた、車椅子の残骸があります。そして、その向う側の草の中に、何か白いものが突きだしていました。
手です。宙を掴むように指を曲げ、力なく放りだされた、まだ若々しい、人間の手。すぐそばに、レンズの割れた眼鏡がころがっています。
男たちは黙りこくったまま、倒れた少年のまわりに集りました。じっと見下ろします。
蒼白い、いかにもひよわそうな肌。苦しげにしかめた顔。かぼそい胴。金属と革の道具をつけた細い脚。
男たちは目と目を見交わし、静かにうなずきました。
ひとりが、屈みこんで、抱き上げます。少年のからだは、まるで重さなんてありはしないかのように、ふわりと腕に乗りました。そのまま歩きだそうとすると、別のひとりが、片手をあげて留めました。草の中から、壊れた眼鏡を取りあげて、少年の胸のところに乗せてやります。まるで、それがわかったかのように、少年の長いまつげが、ほんのかすかに震えます。大男たちの化石のような顔もまた、ほんのすこしだけ和らぎます……。
しゅー……ゴウウウ……しゅー……ゴウウウウ。
最初に戻ってきたのは、音。
規則正しい一定のリズム。少しずつ少しずつ吹きだしたかと思うと、急激に吸いこまれてゆく空気の音。波にからだを委ねるように、音に揺すられ、音に撫でられ、音に励まされるようにして……ジェフの意識は徐々にはっきりとしてきました。
〈聞こえる 聞こえる……どこかしら懐かしい音……機械の呼吸〉
〈ベッドだ 固いベッド 仰向けになってる 家にいるんだろうか いや 違う ぼくは寮にいるはずだ〉
〈いや 違う ぼくは出かけてきたんだ 南へ〉
〈一刻も早く 南へ……!〉
いきなり、まぶたを開けました。
たちまち目に入ったのは、べったりとしたクリーム色。眼鏡なしの時には、いつも視界がボンヤリするわけですが、どう顔をしかめても焦点があいません。おかしいな、とさらに目を凝らして、ようやく事情がわかりました。透明ビニールのジッパーつきテントの中に入れられているのです。クリーム色なのは思っていたよりずっと高い天井だったようです。細いのや太いの、さまざまなパイプが、ところ狭しと走り回っています。顔を振ると、右は比較的すぐ壁、左側の主に足元のほうに、部屋が広がっています。
大小さまざまなボンベの列、金庫のみたいなハンドルつきのドア、LEDの瞬く機械パネル、壁いっぱいの大画面、円柱型のコンピュータ、ヘルメットをかぶったオジサンがお辞儀をしている看板、安全操業の緑十字。
〈工場? 研究所? いや 軍の秘密基地かなんかだろうか?〉
頭の向うでは機械のアームが、しゅー、ゴオオオ、しゅー、ゴオオオ、と相変わらずのリズムを刻みながら、テントに空気を送りこんでいます。清浄な風が、ジェフのサラリとした前髪を一方に吹き流しては、またパタリともとに戻します。
腕を突っ張ってからだを起こそうとして、軋むアバラにウッと縮みました。バランスをとろうとしてとっさに力をこめたお尻に、ひやりと冷たい感触がします。同時に、当惑のあまりからだが硬直しました。まる裸です。パンツ一枚履いていません。アルミも鉄も革もなし……なんと! ジェフのほっそりとした脚は、むきだしのそのままで、それでいて、ちゃんと、スムーズに曲ったではありませんか!
そっと手を伸ばしてさわります。なにか目がよく見えないので指先で確かめる他ありませんが、膝の少し上のあたりに、かすかに継ぎ目があるようです。脛は、がっしりと固く、傷ひとつないツルツルです。〈義足……?〉ジェフはぱちぱちと瞬きをしました。脚を横に滑らせ、降ろしてみます。立ってみます。〈痛くない……〉曲げてみます。背伸びします。片足に体重をかけてみます。歩いてみます。ちょっとジャンプしてみようとしたら、頭がテントにぶつかりました! 〈ぜんぜん痛くない! それに……軽い!〉
そばのワゴンに見慣れた形があったので、手にとってみると、案の定愛用の眼鏡でした。ただし、かけてみると、これもまたずいぶん軽くなっていました。レンズ部分が前より薄いようです。それでも、ぴったり、目に合います!
寝かされていた台のシーツを剥がしてからだに巻きます。ジッパーを掴み、引き開けます。
しゅー……ゴオオオオオ……しゅー……ゴオオオオ。
ずっと聞こえていた音が不意に大きくなり、同時に、他の機械の立てる音もみんな迫ってきました。ぴこぴこ甲高い電子音。ジッ……ジジジッと、間歇的な、プリンタの動くような音。ブウンとかすかな重低音。ウィィィィン、歯医者さんのドリルのような音もします。巨大コンピュータの向うから、かすかに、ひとの話し声のようなものもしました。ぼそぼそして、とても不鮮明なので、何を言っているのか、どんなひとなのかはわかりません。
裸足のままの足の裏が、合金パネルの床を踏み締めながら歩きます。ツルツルして滑りやすそうなのに、不安定には感じませんでした。黒くてまったいらな床は、鈍い鏡になって、ぽつんと白いジェフのシーツ姿……ちょっと古代ギリシャの賢人みたいです……をはじめとして、ありとあらゆるものをきっかりさかさまに映しています。
回りこみかけて、ジェフはハッと円柱を掴んで立ち止まりました。
ボードを片手に何かをチェックしている様子の、銀白のモシャモシャ頭をした白衣の男の背中には、確かに見覚えがあったのです。斜めこちら向きにのっそりと立っているのは、無骨で大柄な髭むじゃら。チェックのシャツを着て前当てつきのジーンズを履いていますけれども、あの、大恩ある火傷の苦手な大男に雰囲気がとてもよく似ています。ジェフの視線を感じた大男がけげんそうに顔をあげると、白衣の男も振り向きます。ジェフとそっくりな、丸い眼鏡がキラリと光ります。
「気がついたのか」
「……パ……パパ……?」ジェフはぎこちなく言いました。「こんなところで、いったい、なにをやっているの?」
「ここは、わたしのラボだ」銀髪の男――ピーティル・フォン・アンドーナッツ博士――は、にこりともせずに肩を揺すりました。「具合はどうだ」
「とてもいいよ」ジェフは引き攣《つ》るように、うなずきました。「脚を治してくれたんだね。どうもありがとう」
「義足をこしらえたのはわたしだが、執刀してくれたのは、彼だ」博士は持っていたペンで、髭むじゃらの男を差し示しました。「クロオくんだ。そもそも、おまえを見つけてくれたのも彼と彼の仲間たちだ」
「ドモ、ハジメマシテ」クロオが屈託なく笑います。「博士ニハ、オセワニナッテマス」
「ああ、そ、そうなんですか」戸惑いながらも笑みを返そうとした瞬間、ジェフは貧血を起こしました。
「まだ無理をせんほうがよかろう」博士はボードを棚に戻し、崩れかけたジェフの脇の下に腕をさしこんで立たせました。クロオが素速く進みでて、ひょいと軽々抱きあげます。
もとのベッドに横たえられ、腕に注射を刺されます。
「……パ、パパ……」ジェフは博士の袖を掴みます。「ぼくは……あなたに……」
「眠れ」
「あなたに……謝らなければ……」
「いいから眠れ」
クロオがどこからか、掛け物を持ってきてくれました。ふわふわ清潔なぬくもりに包まれると、ジェフの意識は急激に遠ざかります。「ちゃんと、謝ら、なく……ちゃ……」呟きが唇の中に吸いこまれ、ジェフは眠りにつきました。
それはまだジェフがほんの小さな男の子だった頃。パパとママと、大好きなジャックにいさんと、リゾートに遊びに行った時のことです。
プールや水族館やショッピングでたっぷり楽しんだ、ある日のサンセット・ディナーは、港の海鮮レストラン。潮風に吹かれるデッキで、じゅうじゅう豪勢なバーベキューです。でっかい火の玉のような太陽が水平線に隠れると、あたりは急に暗くなり、あちこちに焚かれた篝火《かがりび》がロマンチックな雰囲気を盛りあげました。ジャックもジェフも手あたり次第に詰め込んで、たちまちお腹いっぱいになってしまいましたが。おとうさんとおかあさんは、きれいな色をしたカクテルをゆっくり啜り、テーブルの上で手に手を取り、時どきじっと見つめ合ったりなんかしています。お皿はサッパリ汚れていません。まだまだ席を立つ気配がありません。
「ねぇ、もう帰ろうよう。つまんないよう」幼いジェフがダダを捏ねると、
「シッ。だめだよ、邪魔しちゃ!」ジャックが袖を引っ張りました。「じゃあ、にいちゃんとちょっと出かけよう。ほら、そこの桟橋にカッコいいクルーザーが泊ってたろう? あれを、見物させてもらおうよ」
「ウン!!」興奮に、たちまち不機嫌が吹き飛びました。「行く!」
ヤシの木陰を走ってゆきます。立派なでっかいクルーザーが、マリーナの照明を浴びて、ぷかぷか浮いています。着飾った男のひとや女のひとが、進水式のパーティーをしています。生バンドが陽気な音楽を演奏しています。白い上っぱりのボーイさんや、ウサギの耳と尻尾をつけたハイレグ水着のおねえさんが、飲み物や食べ物を持って忙しくいったりきたりしています。
「すげーなぁ……」
「乗ってみたいねぇ、にいちゃん」
小さな兄弟があんぐり口をあけて眺めているのに気がついたのは、デッキで煙草を吸っていた、アロハ・シャツのお兄さんです。金色のとても高価《たか》そうな腕時計をしています。「なんだ、チビたち。興味あんのか?」夢中でうなずくと、お兄さんはニヤッとしました。招かれた人のひとりのようです。「よし、じゃ、こい!」順番に抱き上げてもらって、船に乗り移りました。
「おやおや、これは可愛いお客さまだ」キャプテン・ハットをかぶり、紺色のジャケットを着込んでいるのは船長さんだと紹介されました。船じゅうを案内してもらいます。コンパクトなギャレー、ふかふかベッドの客室、立派な貝殻コレクションのある、船長室。ゲーム室に、操舵室。ジャックはもう夢中で、うわあ、うわあの言いっぱなしです。ジャックは船が大好きで、とても精密なクィーン・エリザベスII世号の模型をひとりで作りあげたことだってあるのでした。
ひと通り見物すると、ジャックは船長さんに専門的なことを質問しだしました。何か、子供らしからぬ鋭い指摘をしたようです。船長さんが、オオ、と声をあげます。「きみの言う通りだよ、いや、驚いたな」みんながワイワイ集ってきて、ジャックと船長さんを囲みます。ジェフはいつの間にか、輪から弾きだされてしまいました。
「……にいちゃーん……」聞こえないようです。ジャックは話に夢中なのです。「にいちゃんったらぁ!……ちぇっ」
ジェフは、しばらくひとりでウロウロしていましたが、誰もかまってくれないので、いじけて部屋を飛び出しました。ドアを潜ると、真っ暗なデッキです。照明の集中している艫《とも》のほうからは、華やかな音楽と笑い声が聞こえてきますが、舳先《へさき》側には誰もいません。海はどこまでも真っ暗で、小さな三角の波が遥か彼方まで続いていました。
「……ちぇっ……つまんないの」
舳先の突端には、輪っかの形をした金具が留めつけてありました。ジェフはしゃがみこんで、輪っかをいじりました。いまは、何にもついていませんが、たぶん、船をもやう時に使うものでしょう。ここに綱を結ぶのは、きっとおにいちゃんの得意な船員結びです。ついこのあいだ教えてもらったばかりの、あの複雑な結びかたです。
「ぼくにだって、できるもん」ジェフはその場にしゃがみこみ、着ていたパーカーのウエストを絞るコードを引っ張り出し、輪っかに通して試してみました。教わったとおりに結んでみようとしました。……うまくできません。
「おっかしいなぁ……ここを、こうくぐらして……こうじゃないのかなぁ」なにしろ学問好きなジェフです。徹底的にやってみないと、納得がいきません。フードの紐を伸ばして、さらに挑戦します。「だからぁ、ここが、こうでぇ……あれ、こんぐらがった……エイッエイッ!……わぁ、余計固くなっちゃったぞ!」
その頃。
「……どうもありがとうございました」ジャックは親切な船長さんの大きな手を、ガッチリ掴みました。「とても勉強になりました」
「またおいで」船長さんがにっこり笑います。「こんどは、もっと話そう」
「はい」紅潮した顔で返事をして、ジャックははじめて、ジェフの姿が見えないことに気づきました。「あいつったら! どこにいったんだ!」
船はこれから、ドッグに入るのだそうです。パーティーのお客さんたちは、もうみんな降りだしています。船員さんたちが、もやい網を解き、錨をあげて準備しています。
「早く帰らないと、パパたちだって心配してるっていうのに……ジェフー! ジェフ、どこだーい?」
駆け足で船じゅうを探します。「まさか」デッキから乗りだして暗い水面も覗きました。通りすがるいろんなひとに尋ねてみます。みんな首を振るばかりです。やっと思いついて舳先に回ると、なんとジェフが、変な罠みたいなのの中にぐるんぐるんにはまりこんで、すっかりべそをかいているではありませんか。
「うっ、くっ、く……いちゃ……にいちゃあ! た、助けて……えっえっ」
「ジェフ! なにやってんだ」
「と、とれ、取れなく、なっちゃっ……あぁあん! わぁぁん!」
「泣くなったら! しょうがないなぁ」
ジャックは急いで膝をつくと、必死で紐のもつれを解きはじめました。なまじ凝り性の弟が、ありとあらゆる方向から潜らせたり引っ張ったりした紐です。なかなか解くことができません。ナイフでも持っていればよかったのですが、学校では、危ないものを持ち歩くのを禁止しています!
「くそっ……だめだ」ジャックは立ちあがりました。「ちょっと待ってて、誰か呼んでくる」
「にいちゃ、にいちゃ、やだ、行かないで!」
その時。
パーティーの照明が落ち、かわりに、カッ! マリーナの灯りと、船のライトがともります。操舵室の窓のところにいた船長さんが、無人のはずの舳先の先端にまぶしそうにうずくまった少年たちを見てギョッとします。大声で横を向いて、誰かに何かを怒鳴ります。でも、楽団の演奏は最高潮、ぱんぱあん! 花火だってあがります。ぶるるるるるるるる! 耳をつんざかんばかりのエンジン音! 船がいきなり回転します、グラリ! ひどく揺れます!
「きゃあ!」小さなジェフが浮きあがり、ビリッ! パーカーが破け、袖が千切れ、紐がプツプツ切れました。放りだされたジェフはデッキの上を滑ります。お尻から、もう外に落っこちてしまいそうです!
「ジェフうぅううう!」
ジャックが、にいさんが、駆け寄り、腕を伸ばし……まるで何も恐れるものなんかないかのように床を蹴って飛びつきます。ぱん、ぱん、ぱあん! 夜空を彩る色とりどりの花火、パニック顔の船長、操舵手。空中で、兄の手が弟の手に触れ、繋がり、グイッと引っ張り寄せ。胸に抱きしめ。船が大きくこちらに傾くように見えました。揺り戻しです!
「にいちゃ……」言い掛けたせりふが喉に凍りつきます。ジャックは、その時、にこっと笑いました。にこっと。そして……ずん……。
「うわあぁああああ!」
ジェフは自分の叫びに飛びおきました。
両脚が、膝が、三千トン・クルーザーと桟橋の桁の間で押し潰された瞬間の、あのゾッとするような音。感触。人形のように無表情になってしまった兄の耳から流れだす、ひと筋の赤。その赤い色がスッと黒くなったかと思うと、視野が全部モノクロームになって、それから、うすら暗くなって、真っ暗になって、それから……。
思いだします。救急車のサイレン。ストレッチャーで駆け抜ける病院の廊下。泣き叫び、床に崩れるママ。一夜で白くなってしまったパパの髪。松葉杖で歩けるようになってはじめて聞かされた、お葬式のこと。……たった十五歳で死んでしまったジャック。
「にいさん……」頬が涙でぐしょ濡れでした。「謝ったって……いくら謝ったって、もう遅いね……」
ジェフは転校し、寄宿舎に入りました。もとの完全な家族の姿を知っている覚えているすべての人々から、遠く離れたかったからです。パパとママが離婚したのも、たぶん、同じ気持ちでしょう。ジャックなしで、三人だけで、なにもなかったような顔をして生きてゆくことはできません。一家はバラバラになりました。パパが学費を振りこんでくれ、ママがクリスマス・カードを送ってくれるだけ。それが、ジェフの、いまの家族の姿なのでした。
「もう……遅いよね……」ジェフが寂しくうつろに笑いかけた、その時です。
〈……ジェフ……どこ? どこなの! 早く来て……助けて! お願い、ジェフ!〉
「しまった……そうだった!」ジェフはあわてて飛び起きます。
どれだけの時間を無駄にしてしまったのでしょう。こんどこそ、こんどこそ、ちゃんと間に合わなくてはいけません。ラボの床を走ります。階段を駆け上がり、また、駆け降り。あちこちの扉を開け、窓を覗き。手すりなんかアテにしなくても、いとも軽やかに滑らかに、すごいスピードで走れることに、ジェフは自分でちっとも気がつきません。いつの間にか、シャツとズボンを履かされていることにも気がつきません。ただ一心に、博士の姿を探します。
いました! 最上階の、天文台のようなドーム型の部屋。クロオと一緒に、なにやら、大きな、球形の機械をいじっています。
「パパ!」
「復活したな」博士がゆっくり振り向きます。「そろそろ目覚める頃だと思っていた」
「ごめん……説明してる暇がないんだ。ぼくは、行かなきゃ! 助けを求めてる仲間がいるんです!」
「イーグルランドのスリークだな」博士がうなずきます。「そうセットしておいた。このスカイウォーカーは急ごしらえの未完成で、あまり長い距離は飛べないが、スリークまでなら行けるだろう」
「なぜ?」ジェフは目を見張ります。「どうしてわかったの? ぼくがスリークに行くことが?」
「くろお、夢、ヨム」クロオが自分の胸を押えます。「じぇふ、乗ル、スグ、出発」
イマイチわけがわからないまま、スカイウォーカーとかいう機械に乗りこみます。心臓がまだドキドキしていますが、とりあえず、操縦席に腰を据えて、コクピットを点検してみましょう。
パワー、と表示のあるボタンを押すと、目の前一面に、ディスプレイが立ちあがりました。『コマンダーをテストしてください』座席の肘掛けがパタパタ開いて、左右の手のすぐ下にそれぞれ、ニンテンドーのリモコンみたいなものが出現しました。『十字ボタンで選択、Aボタンで決定、Bボタンで取消です。XYはオプション。LRボタンを同時に押すと、HELP画面が出ます』ジェフはメニューを操って、発進準備、を見つけました。Aで選択。
「おまえの乗ってきたものは、修理がすんだら、モーリス校に送り返しておく」スピーカーから、博士の声がします。「しっかりやってこい」
「あ、ありがとう」ジェフはちょと口ごもり、それから、思い切って言いました。「……おとうさん……逢えて嬉しかった。それに……ごめんなさい。クロオさんも、ありがとう! じゃ、行ってきます!」
ドーム天井が開きます。帯のような青が、たちまちまばゆいばかりの空となって、頭上一面に広がります。その瞬間、ジェフはずっと意識の底のほうにあった澱が消えて、ちょうどそのどこまでも広がる青空のように気分が晴ればれとしていることに気づきました。そして同時に、悟ったのです。クロオは、あの、火傷させちゃった大男と同じ種族なのだと。粗野で純朴な巨人族の中で、特別に知恵が発達したひとりなのだろうと。
〈ニュータイプ〉ジェフの脳裏にそんな単語が閃きます。〈もしや、過去から来た? 人類の、太古の祖先……?〉
戸惑うジェフの全身をビリビリさせながら、エンジンが咆哮し、ジェットが噴射されます。
スカイウォーカー、発進!
――さてこちらは、相変わらずジメジメと暗い不吉な小部屋。隅っこに並んで座っているふたり。ネスは、隅《くま》と埃でどす黒くなった顔をあげ、熱っぽい不安な瞳でここではないどこかを見つめています。ポーラは、立てた膝に肘をあて、頬杖をついて、蝋《ろう》のように白い顔を放心させています。
「ほんとに……来て、くれるんだろうか……」
不意に、ネスが、低く、ひとりごとのように呟きました。ポーラがギョッとしたように振り向きます。ネスはちょっとバツが悪くなりましたが、言わずにいられませんでした。「その、ジェフとかってやつさ……きみの声、ほんとに受けとめてるわけ?」
「聞いてるわ」ポーラはネスを睨みます。「絶対、絶対、来てくれるわ!」
「でも、返事らしい返事はないんだろ?」
「しょうがないわ。ジェフにはPSIの才能はほとんどないの。でも、すごく賢い、勇気のある子よ。科学的な知識はそこらのおとなよりずっと豊富だし。機械工学も得意なの。わたしにはわかる」
「そんなこと聞いてるんじゃないだろ」ネスはいらいらして、手を振り回します。「問題は、そいつがぼくらの仲間になる気があるかどうかじゃないか。割と単純なほうのこのぼくだってさ、はじめてブンブーンの声を聞いた時は、頭がどうかしちゃったんじゃないかって思ったぜ。そんな、科学とか機械とかが得意で、PSIの才能のカケラもないようなヤツが、いきなり呼びかけるきみの声を信じるか? 逢ったこともない誰かの頼みを聞くために、わざわざ海を越えてやって来るか?」
「来るわよ!」ポーラは言い張りましたが、「絶対……来るもん……」瞳が自信なさげに、ネスの顔からそれてゆきます。「……来る……もん……」首がうなだれます。がんばって見開いたままの瞳が濡れた感じにキラッとしました。
しまった、泣いちゃう! ネスはあわてて、ポーラの肩を抱きよせました。
「ごめん! ごめんポーラ、泣かないで! いじめるつもりじゃないんだ」
「…………」
「ただ、ちょっとお腹が痛くて……その……告白するよ、実はさ、さっきからずっとトイレ行きたくってたまんないんだ。どんどん限界に近づいてるって感じなんだ。だから、もうなんとか一刻も早く来てくれないもんかと」
「言わないでよ!」ポーラは両手で耳を塞ぎ、ぶるぶるっと震えます。「我慢してるのは、あんただけじゃないのよ! お、女の子の身にもなってよ!」
「なぁぁんだ」ネスは安心して笑いました。「きみもか」
「あったり前じゃない、もう丸一日以上過ぎてんのよ!」
「うーん、そうだよな、困ったな……じゃあさあ。この際、いっそのこと、お互い目をつぶって、あっちの隅のほうでちょっと……」
「そんなことできるわけないでしょ!」ポーラは立ちあがり、ぐるぐる落ち着きなく歩き回りました。「だいたい、ネスは冷たいよ。そんなに急ぐなら、一緒に呼びかけてくれればいいじゃない! 思念凝らすのって体力使うんだよ、わたしにばっかりやらせて!」
「祈ってるよ!」ネスも立ちあがります。「ずっとせいいっぱい呼ぼうとしてる。でも、正直、どうやってやればいいのか、よくわかんなくて」
「だったら、もっと前に、ひとこと聞いてくれれば」
「だってきみ、必死に集中してるから、邪魔をしちゃいけないかと」
「ああ、もうっ! どうせ気を使うんなら、どうしてちゃんと役にたつような使い方ができないかしら!」
「ちぇっ、ヒステリー女……」
「なによっ、喧嘩売る気っ?!」
暗がりで、ふたりが、ムムムッと顔をつきあわせた、その瞬間です。
ズシッ! 部屋が揺れます。まるで、なにか重たいものが屋根に衝突したみたいに。「なんだ?」ネスはふわふわと降ってくる埃に手をかざしました。
「ひょっとして!」ポーラが瞳を輝かせ、天井を見上げます。
すぽ! その天井から、メタリックでたくましい機械の脚が出ます! 悲鳴をあげるポーラ。ずしゃ! 梁が折れ屋根材が剥がれ落ち。ポーラを横抱きにして、ネスが必死に飛び退いたその場所に、ばりばりばり、ずしゃどしゃばぁん! なにやら巨大な丸いものが、落ちて止って半壊します。崩れて抜け落ちた屋根の隙間から空が見えます。どんより曇ったうっとうしい天気模様ですが、それでも、空には違いありません!
「……いやぁ、ごめんごめん!」到着した機械のひしゃげたドアから這いだしてきたのは、細っこい眼鏡の少年です。「やんなっちゃうよ、まったく。着陸ってコマンド入れといてくれないんだから。墜落する他なかった」
あっけにとられるふたり組に、にこにこ握手を求めます。
「ぼくはジェフ、ぼくを呼んだのは、きみたちだよね?」
「ああ!」ネスは急いで立ちあがり、埃っぽい掌《て》をズボンのお尻にこすりつけておいて、差しだしました。「ようこそ、ジェフ! 来てくれて嬉しいよ。ぼくはネス」
「わたし、ポーラよ。はじめまして。よろしく!」
三人の手が重なります! かけがえのない仲間たちが、とうとうやっと出会ったのです!
「そりゃそうと、ジェフ、早速で悪いんだけど、ここの鍵」
「きみの科学力で開かないかしら?」
「電子キーか。任せてくれ!」ジェフは大破したスカイウォーカーの中から、工具箱を持ってきました。ドライバーでノブ台をこじり、出現した七色のコードをペンチで切り、小さなテンキー装置に繋いで、パチパチ何かを打ちこむと、……ピン! たちまち錠の外れる音! ネスもポーラも思わず夢中で拍手します。
「いやいや。このぐらい、ちょろいちょろい……あれっ?」ジェフが扉を引き開けたとたん、残りのふたりが凄じい勢いで走り出したのです。「おーい、どこ行くんだよ、置いてかないでくれよぉ!」
ふたりが大急ぎでどこに行ったのか、言わなくってもわかりますね?
5 史上最悪の戦い
緑したたる山奥の木もれ陽《び》きらめくせせらぎの、澄んだ流れを上へ上へとずっとたどって行ったなら、いつか源流とか水源地とか呼ばれる場所に到達することができます。中には、こんこんと湧き出す水が切り立った崖を落ちかかる美しくもたくましい景色に出会えるところもあることでしょう。
ここ、スリーク郊外サターンバレーでは、そこはなぜか爽やかな柑橘《かんきつ》系の匂いを漂わせているので、グレープフルーツの滝、と呼ばれているのでした。
カラスの羽根のような真黒な髪を背中に垂らしたひとりの女が、石ころだらけの川沿いを、こけつまろびつ急いでいました。腕には、大きな壺を抱えています。苔《こけ》だらけの岩を伝い、じゃらじゃら長い古めかしい衣装をずっぽり水に濡らして、ようやく滝のすぐそばまで来ると、女は躊躇《ためら》うこともなくまっすぐ水の壁につっこみました。なんと、滝の裏は空洞になっています! それも、天然のほこらではなく、工場みたいな空間です。実はこの滝はもともとあった滝ではなく、ダムの放水口だったのでした。
ダム内部の薄暗い廊下を、濡れた足跡を引きずりながら、女はさらに急ぎました。おもての滝の、乾いた喉がゴクッとなってしまうような美味しそうな匂いが、次第次第に薄れ、なんともいわく言い難い吐き気をもよおす匂いにとってかわられました。形容するのもイヤですが、うんと古い、お掃除もしていないお便所の中に充満しているような空気です。目はチカチカ鼻はムズムズ、うっかり息を吸いこんでしまいでもしようものなら、思い切り後悔せずにいられないようなソレです。
でも、この女は、まったく平気のへいざです。むしろ、その気持ち悪い匂いを頼りに、いっそうそのひどい匂いが強くなる方へ強くなる方へと、せっせと急いでいるようなのです。
壺を落とさないように気をつけながら、はしご段を降り、しゃあしゃあと音を立てて流れてゆく暗い水のそばの狭い通路を、小走りに駆けぬけます。やがて、とある扉の前まで来ると、女ははじめて立ちどまりました。ノックします。ノブを掴み、開けます。あのとんでもない匂いが、蓋を外されたお鍋から蒸気が逃げだすように、ドッと勢いよく溢れだしました。
♪いーにー、みーにー、まいにー、むー
部屋の中では、何かが床から少し盛り上がったステージの上で、カクテル光線を浴び、マイクに向かって歌を歌っています。ひどい音痴でガラガラ声、やたら意味もなくコブシがまわります。どうやら、即興で作詞してるらしい、いい加減で真似っこ臭い、インチキでっち上げソングです。
♪ネス湖にいるのがネッシーで
タス湖にいるのがタッシーなら
ジャスコにいるのはジャッシーで
パスコはパッシーに決ってる
それはとんでもなく汚らしく、許せないほど気味の悪い物体でした。もし、あなたの家や学校の近くに、飲み屋さんがまとまった地域にあったとしたら、時々、朝、道路の端のほうとか、電信柱の脇とかに、何があってもお近づきになりたくない粘っこそうなモノを見ることがあるでしょう? もしか誰かが踏んじゃったら、それがどんなに仲のよい友達でも、思わずエンガチョ切りたくなる、万が一その上に転びでもしようものなら早く家かえってお風呂入って着替えてこいと叫ばずにいられない。アレです。等身大のアレです。
それに、妙に可愛らしいマツゲびしばしの瞳と、ねちょねちょよく曲る巨大な口(特に下唇がめくれかえって、立派です!)がついたとこを想像してください。それです。それこそ、最低最悪の宇宙人ゲップーの姿です!
♪クマはあくまでクマだけど
プーはプーでもゲップーだ
oh yeah oh yeah
get out get out
ゲップーだ
「オエオエ、ゲロゲロ、ゲップーだ、とくらぁ!」
「ゲップーさま! ゲップーさま!」
自分の歌声に陶酔しているゲップーに、例の女が近づきます。イヤじゃないんでしょうか? うっかり端っこのほうだけでも踏んじゃったら、どうするんでしょうか?
「オエオエ、ゲロゲロ……グゲ? なんだ、せっかくのサビを邪魔するのは……誰かと思えば耽美なゾンビか。ゲロッピゲロップ! なんのようだ?」ゲップーは、女が得意気に掲げた壺を見ると、いかにも嬉しそうに全身をプルプルさせました。「グェップ! そうか、ついに見つけたか、ハエミツを!」
「ははぁっ!」
「ゲロゲー(よこせー)!」
女が壺を恭しく捧げ持つと、ゲップーは待ち切れない様子で、ステージからグチョグチョヌルヌル流れ落ちてきました。どこが顔でどこがお腹なのか区別もできないからだから、ニュッと触手がつきだします。ネチョッ! と湿った音を立てて巻きつくと、素速く壺を引き寄せて、アーンと開けたデカ口へ、さっそく流しこもうとしましたが……。
「グガ、うげげげっ、ぺっぺっ! ゲロバカ、これは違う! ただのハチミツじゃねぇか! ゴゲグゲ」
ガシャーン! 壺を投げつけられて、女が悲鳴をあげ、逃げ惑います。
「グエホゲ、まずいー! ああ、悲しい……ゲロゲロ……ゲップーは悲しい……ハエミツが食べたい。とろーっとして、甘くて、とっても滋養のあるハエミツ……ああ、食べたい、食べたい、食べたいよお!」
悲しみのゲップーはズリズリずるりとまたもステージに這いあがると、マイクのヴォリュームを最大にし、力いっぱいエコーを効かせながら、ハエミツが食べたい〜と、六クン・ロール調で叫びました。
「しかし、しかし、ゲップーさま!」女は耳と目がキンキンしぱしぱするので大きくよろめきながら、金色のハチミツまみれで半透明なネバネバを引きながら、必死に頭を起こしました。「おっしゃるような品は、あいにくどこにも見当りません! わたしどものこの星では、あいにくハエはミツを集めないのでございます!……ぐげっ!」
ゲップーが自分の裾のほうを千切って投げたやつが、女の顔にべちょりとあたります。
「だまれ、この嘘つき! ごまかしを言うんじゃないぞ、ゲロゲッ! だってちゃんと、匂いがするもんゲー! ゲップーの大好きなハエミツの匂いが、ゲロッピゲロップするんだもん!」
「どこに? どこに、でございますか?」ハチミツとゲップーの一部でぐちょぐちょになりながら、女が苦しげにのたうちます。「お申しつけくだされば、また、探しにまいります! 何度でも行ってまいります!」
「グエップ、もういいよ! 他の奴にたのむ。せっかく墓場の土から蘇らせてやったのに、このゲロゲロの役たたずめ! おまえなんか、おまえなんか、もう一度死んじゃえっ!……ゲーゲゲ、ゲーップ!」
「ぎゃあっ!」
ゲップーの目がバチバチッと瞬《まば》いたかと思うと、ひらひらした唇が柔軟に伸びて、ヤカンの口のように鋭くとがり、中からドドメ色の液体が噴きだしました! ところどころに固形物の混じったそれを、頭から浴びせられた女は、たちまち全身を引き攣らせ、大きく悲鳴を上げたまま、もはや少しも耽美でないゾンビの姿になり、骸骨になり、炎に放りこまれた蝋人形のように、どろどろに溶けて滴り落ちました。床一面に広がった汚らしい色のシミの中に、女の目だけが未練がましく瞬いて、シュウシュウ蒸気の怨みごとを呟きながら、この部屋のただならぬ匂いにさらに留めのニュアンスを添加しつつ、やがて崩れて消えました。
「ぐぇっぷ」ゲップーは満足そうにゲップをしました。「ゲハゲハ、ざまみろ。ちぇっ、やぁっと大好物のハエミツが食べられるかと思ったのになー。おかげで、せっかく作りかけてたご機嫌なフレーズを忘れちまうところだ……えーと、なんだっけな、グゲッグゲッ……(と声を整えて)♪ウマはきょうまでウマだけどぉ……あれー、なんか違ったような気がするなぁ、ゲロゲロ、腹が立つなぁ、グゲゴゲ……」……。
場面かわってスリークの町。
ようやく人心地ついたネスたちは、不気味なマリオネットのサムくんやトムくんや、ちょっと油断するとすぐひとに取りついてくる嫌らしい幽霊などと果敢な戦いを繰り広げながら、どんより暗い街角を探索し、ついに中央広場にたどりつきました。ここには大きなサーカス・テントがあって、町のひとたちが、おおぜい避難していたのです。
「家にゃあ、とてもいられません」疲れ果てた顔つきのオジサンが泣きます。「誰もいないはずの二階で足音や笑い声がするし、壁や天井がドンドン鳴るし。うちの奥さんが料理しようと冷蔵庫から出した肉なんか、うにょうにょ這って逃げ出すし」
「ポルターガイスト現象ですね」と、ジェフ。「わりとよくある話です」
「でも、百グラム四千円もする最高級のTボーン・ステーキだったんですよ!」奥さんがハンカチを顔にあてて、ポーラに慰められます。
「ペットのグッピーが、いつの間にかピラニアになっちまっててよぉ」
「シャワーを浴びようとしたら、蛇口から血が出てくるのよ、怖かった!」
「地下室の扉が突然崩れて、黒猫が出てきてタンゴを踊る」
「そんなのまだいい! うちの息子なんか、学校でアイス・ホッケーのキーパーをやってるんですよ! おまけに趣味が、日曜大工なんですよ!」
「まぁまぁ、みなさん、落ち着いて」ネスが割って入ります。「いったいぜんたい、そういったことがらは、いつから始まったんですか? なんでそんなことになったのか、どなたか、心当たりはありませんか?」
町のひとたちは口をつぐみ、顔を見せ、視線をさまよわせて誰かを探しました。モーセが紅海を分けたように、ザッと人垣がふたつに割れたその先に、ひとりのおばあさんが座っています。ペルシャ猫を膝に乗せた、ふくよかなご老人です。
「……あたしは、ミス・メイプル。趣味で長年、天文観測をやっているんですけれど」おばあさんは、かすかに微笑みを浮かべ、高貴な王族のように尊大な顔つきの猫の頭を、指輪のはまった手で撫でながら、静かにことばをつむぎます。「あれは先月の末かしら。ずっと北のほうのオネット山のあたりに、大きな彗星が落ちましたでしょう。あの時、この町の東のサターンバレーにも、細かい星屑がたくさんたくさん降ったんです。これは悪いことの前兆に違いないって、あたし、みんなに言ったんです。趣味で長年、占いもやっていますから。そして、いつだってそうだけど、あたしの占いは当ったの。ほんとうよ。いろいろと変なことがはじまったのは、間違いないわ。その直後からなのよ!」
「サターンバレーか……怪しいな、行ってみよう!」と、ネス。さっそく駆け出さんばかりの勢いです。
「待って!」とポーラ。「このひとたちを、このままにはしておけないわ」
「そうだよ。短気だなぁ、きみは」ジェフも言います。「ちょっと、考えさせてくれ……えーと、遊星からの物体Xかける次元断層の係数αにミンスキー仮説のジョセフソン接合を仮定し、ヘルムズ地域変異を代入し、非晶質《ひしょうしつ》の直流SQUIDにかければ……」何か難しそうなことをブツブツ言いながら歩き回っていたかと思うと、ジェフはやがて立ちどまり、やれやれ、と頭を振りました。「うーん……理論はいけそうだけど、数値が特定できないな。ぼくの頭じゃ、この計算は少なくとも三十七日間はかかる。大容量のコンピュータがあればなぁ」
「なんの計算さ?」と、ネス。
「周波数だよ。ある特定の波長の音波を流せば、ゾンビも幽霊も、フェロモンに引かれた蛾みたいに、どんな遠くからでもやってくる。惹きつけられ吸い寄せられてきたところを一網打尽《いちもうだじん》にすればいい。つまり、言うなれば、ゾンビ・ホイホイだね」
「ゾンビ・ホイホイぃ?」テントじゅうのひとたちが、信じられない! という顔つきでジェフを見ます。「そんなの、できるんですか?」
「いけないかな?」ジェフは肩をすくめます。「ゾンビやおばけを、どこか一点に集めて閉じ込めちゃえば、みなさん、安心して家に帰れるでしょう?」
「ぜひ、ぜひ、ぜひ、作ってください!」町のひとたちが口々に叫びます。
「だからぁ、数値が決らないことには……」ジェフが申し訳なさそうに言いかけた、その時です。
てぃりりりりりり! ネスの背中のほうで、何かが鳴りました。
「あ、電話だ!」ネスはリュックを開け、受信オンリー電話を取ります。「はいっ、もしもしっ!」
「ネスくん、元気してる?」スピーカーから、アップルキッドのウキウキ声がします。「突然だけどね、世界的に有名な大科学者のアンドーナッツ博士がね、隠遁《いんとん》生活をやめて、世界じゅうの人々に協力を呼びかけたんだよ。きみが戦ってる相手と、同じ相手と戦うためなんだって! 良かったねぇ。これはすぐ知らせなきゃと思ってさ」
「キッド?!」ジェフが電話機を奪い取ります。「きみは、もしや、発明少年のアップルキッドくんじゃないか? ジェフだよ、パソ通のイナズマ・サーヴの、サイエンス・SIGでよくチャットしてた、モーリス校の」
「あれー? こんちは。どうしてきみがそこに?」
「頼む! きみのターミナルに次の方程式を処理させてくれ! 緊急なんだ!」
「へぇ? いいけど?」
ジェフはひと息に、必要事項と計算式を伝えます。のんびりしているように見えるアップルキッドも、イザとなれば速いようです。あっという間に、計算結果が届きました。
ジェフは母校のネクタイを鉢巻き代りにすると、町のひとたちがテントに持ちこんでいた生活用品をいくつか貰って――CDラジカセだの、エレキギターだの、車のバッテリーだのはまだしも、フライパンや猫の蚤取り首輪やテニス・ラケットがいったい何の役にたったやら、素人にはまったくもって想像もできませんが――奇妙なオルゴールみたいなものを作り出しました。「できた!」
「それが?」と、ネス。
「ゾンビ・ホイホイ?」と、ポーラ。
「そうさ」ジェフはニヤリと笑います。「さ、手伝ってくれ、備えつけよう!」
巨大テントをそのまんま、ゾンビ・ホイホイとして使うことになりました。
スリーク町民のみなさんが半信半疑見守る中、ネスとジェフが脚立に乗って、テントのほぼ中央にポールをたて、完成したばかりの秘密装置を取りつけます。「そのへん……もうちょっと、右、右!」ポーラが下から指示します。「オッケーイ、そのへんでバッチリ真ん中よ!」
ネスとジェフは目と目を見交わし、うなずきあいます。ジェフがプルリングを引っ張って特製エンジンをスタートさせれば、ネスがオルゴールの蓋をあけます! 猛ダッシュで床に駆け降り、脚立をしまいます。
固唾を飲んで見守り、耳をすませていたひとたちは、一様に顔をしかめました。内心そりゃもうガッカリだったのですが、はっきり文句を言う元気は誰にもありません。だって、何も、何ひとつ聞こえないのです。もしかして、失敗だったんでは?
「いいんです、これで」と憤慨顔のジェフ。「人間の可聴領域外の……つまり、耳には聞こえない音を発しているんですよ。デジタルメーターはちゃんと指定した数値範囲に落ち着いてます。細工はりゅうりゅう、あとは仕上げをごろうじろ!」
一同はそそくさとテントの外に出て、生け垣や木立に隠れ、じっと息を殺して待ちました。
ほどなく……「わ、来た!」「シッ」「うへぇ、なんてこった、ぞろぞろ続いて来やがったぜ!」まさしくです。その通りです。ゾンビゾンビゾンビ! いやはや、なんという数でしょう。全部くまなくゾンビです。おばけの集会、死霊の盆踊り、ゾンビとゾンビのオン・パレードです。
雑巾みたいになった服を着たのだの、腕を前へ習えするみたいに掲げたのだの、痩せさらばえて干からびてほとんど骨格標本みたいなのだの、首を両手で抱えたの、あたまに斧をくっつけたの、一歩ごとにズサズサ部品を落っことすの、お札をオデコにくっつけて足を揃えてピョンピョン飛ぶの、|etcetc《エトセトラエトセトラ》……ホラー映画の画面から抜けだしてきたみたいな連中が、後からあとからやってきて、先を争ってテントの中に入ります。急ぐあまり、互いにぶつかりあったり、滑って転んで積み重なったりします。のろまで、ぐずで、後から来たのに追い越されてばかりで、なかなか入れてもらえなくて、もじもじ盛んに足を踏みかえてる気の毒なやつもいます。どれもこれも、ぼーっと虚脱したような、途方にくれたような、なんとも情けない様子です。
騒ぎは、およそ半時間も続いたでしょうか。大量のゾンビ行列も、ついに全部中に吸いこまれます。まるで、大会場コンサートの開演時間直後みたいです。テントはもちろんギュウ詰めで、あちこちで布が膨れあがり、もぞもぞ揺れているほどです。
人々は隠れ場所から抜けだして、そうっとテントを覗いてみました。
「うひゃあ〜。ゾンビだらけ、ゾンビづくし、まるでゾンビの缶詰だわね」
「ちきしょう、さんざんひとを脅かしやがって」
「どうすんだ、これ? 火でもかけっか?」
「そんな、やめてください、もったいない!」いつの間にか派手なピンクの燕尾服《えんびふく》を着込んだ町長さんが、みんなにチラシを配ります。
『秘法ゾンビ館、おちゃめで愉快なホラー・スターの競演!』
「世界じゅうに配りましょう!」とウキウキ顔の町長さん。「きっと、観光客がいっぱい来ますよ。この広場は幸い、まだだいぶ空いています。ジェット・コースターや観覧車も作りましょう! 我等がスリークは、世界発の、ほんもののゾンビのいるテーマ・パークのある町になるんですよ!」
「なるほどぉ!」「そりゃいいかも」拍手が湧きます。町のひとたちは、だいたい賛成のようです。「そんなっ! 暴力|礼賛《らいさん》なんて! 子供たちに悪影響がっ!」PTAのオバサン風がひとり反対の声をあげていますが、興奮した町のひとたちは聞いちゃいません。
「やったね、ジェフ」
「あなたってほんとに頭がいいのね!」
ネスやポーラに誉められて、ジェフは照れることしきりです。
さて大量のゾンビが捕獲されてしまうと、町はだいぶ歩きやすくなりました。ほとんどのひとが、家に戻ります。黴臭く埃っぽくなってしまった街路を、みんなで総出で掃除します。スカイウォーカーがブチ壊してしまったホテルも、修理の上、ちゃんとした管理の元で営業を再開することになりました。
しかし、まだ、すべてが解決したわけではありません。だいたい、このいかにも不景気にどんより曇った空をなんとかしなければスッキリしません。
「よし、それじゃあ、いよいよ!」ネスが拳骨を固めると、
「サターンバレー!」ジェフが丸眼鏡の縁を、チョイとひっかけ直します。
「ええ……そうね」
「あれ? どうしたの、ポーラ」
「浮かない顔だね」
「思い出しちゃったの」ポーラは自分で自分を抱きしめるようにして、ぶるるっとからだを震わせました。「この町に着いた途端に見たビジョンを。サターンバレーでわたしたちを待っているのは、たぶん、あの(うえっぷ)史上最低最悪の敵なのよ……あーあ、正直言って、気がすすまないわ!」
それでも。サターンバレーに行く道は、最初なかなかに快適でした。町はずれのまばらな家々を通り過ぎ、未舗装の野の小道を進むと、やがて遮断機が車の侵入を禁じているところに出ました。ここから先は国有林なのです。
林業組合のトラックのわだちの残った埃っぽい道の両側には、雲つくようなモミやナラが、きれいに並んで生えています。樹木の合間には、イバラやつる草が茂り、黄色や赤の小さな野草が咲いています。小鳥が歌い、りすが小枝を走ります。
「いいとこねぇ」ポーラが言います。さっきあんなにいやがったことなど、すっかり忘れた顔つきです。「もうちょっと天気がいいと最高なんだけど」
「ふだんなら、このへんはきっと、スリーク町のよい子たちの週末のピクニック・コースなんだろうね」と、ネス。
「ああ。ほんとにいいな」ジェフが笑います。「ちょっとくらい歩いてもくたびれないってのは……ほんとのほんとに、素晴らしいことだね」
「なんだぁ、秀才さん、ひょっとして運動は苦手なわけ?」
「うん、そうなんだ。いや、そうだった。きみはバットを背負ってるけど、ぼくは野球なんて、ほとんどやったことないんだよ」
ジェフがあんまり、サラッと言うので、ネスは困ってしまいました。
「どうして?」小声で聞いてみます。「勉強が忙しかったの?」
「そういうわけじゃないんだけどね」ジェフははにかんだように微笑みます。「ま、いいじゃん」
「ねぇ、見てみて! 洞窟よ!」ポーラが道の先を指差します。「何か看板が出てるわ……『サターンバレー近道』ですって」
毎度おなじみ、洞窟であります。吹きこんだ落ち葉がジケジケ湿って、踏むと足がイヤな感じにのめりこむ、どうにも不気味な暗がりです。ネスは例のミニマグライトを出してつけました。
「離れるなよ、くっついて行こうぜ」
うねうねと入り組み曲りくねった洞窟を、三人は小さく固まって歩きました。土中の水がしみだすのか、ゴツゴツとした岩壁は濡れて湿って黴が生えており、あかりがあたるとまるで怪物の顔みたいな気味悪い形になってギラギラします。時々、ぴとん! 冷たい水が天井から落ちてきたりもします。
「ねぇ、気のせいかしら……変な匂いがしない?」ポーラが鼻を押えます。「……したんでしょう」
「なんで見るんだよ?」とネス。「ぼくじゃないぞ!」
「まさか! ぼくでもないよ!」とジェフ。「そんな非紳士的なことしないよ!」
「でも、絶対、これってアレじゃない?……あっ、わたしももちろん違うわよ!」
罪をなすりあいながら進んでゆくうちに、匂いはますます鮮明に濃厚になってきました。気にしないようにしようと思っても、とても耐え切れません。みんなバンダナを顔に結わえたので、なんだか強盗団みたいです。
〈げー、やな匂いだ〉息をこらえながら、ネスは考えました。〈もうひと息でも吸いこんだら、本気で吐いちゃいそうだぞ。……ああ、早く、新鮮な空気を思い切り吸いたい!〉
やがて、行く手にかすかな光が見えてきました。向う側です。洞窟の出口でしょう。三人は思わず、先を争って駆けだしました。どこからともなく、せせらぎの音も聞こえます。水辺です。川のほとりです。川といえば、きれいな流れ! きっと気持ちいい風も吹いているに違いありません。ネスもポーラもジェフも、蹴つまずきそうになるほどの勢いで走りました。
しかし。
「……うッ? なんだ、ここは……」
飛びだした先は、ぽっかりと広い円形の空間。体育館ほどもある床のほぼ中央に、黒っぽいツヤツヤした樹木のようなものがあって、高天井まで届いてそこにまた根のようなものを広げています。ごまんと張られた枝々は、互いにネバネバする黒い糸で繋がって、複雑な網目をなしています。いっそう強く、手で掴めそうなほど強烈になった臭気は、どうやらその謎の樹木状物体から溢れだしているようです。何万匹というハエたちが、ブンブン羽音をさせながら、樹にたかり、樹に集い、樹枝の合間を縫って狂乱のハエ・ダンスを踊っています。
「何かの巣かな……?」バンダナでくぐもった声で、ネスが言います。
「採集したほうがいいな」ジェフもまた、モゴモゴ言います。「こんなの、ヤング生物学紀要でも報告されたことがない。分析したほうがいい」
「あれに、さわるの?」泣きべそ声のポーラ。「本気?」
ジェフが答えをためらっている間にも、ハエたちは、たがいに寄り集ってブンブン唸る黒銀の煙みたいになったり、また解けたりしています。気のせいか、ドクロのマークの形になったり、バカ、と文字を書いてみせたりもしています。
「もし、どうしても、どおおおしても持って帰るんだとしたら」ポーラがジェフに頼みます。「ちゃんと蓋のしまる容れ物で、ラップとビニールとアルミフォイルで、何重も何重もくるんで欲しいわ」
「うん……」
「それよりさ。近道って、どれなんだろう?」と、ネス。「見ろよ!」
なんと。この天然の小部屋の周囲ぐるりの壁沿いには、ひいふうみい……樹木に隠れて見えない分を除いても、五つの穴が開いているではありませんか!
「案内の看板は?」
「見当らないよ、そんなもん!」
「ひょっとして……」
「これって、罠、だったの?」
「ねぇねぇ、そもそも、ぼくらが入ってきたのってさ、後ろの三つのうち、どれだった? 誰かわかる?」
三人は唖然茫然愕然《あぜんぼうぜんがくぜん》のゲンナリ顔を見合せます。ネスが舌を鳴らし、ジェフがゆっくりと首を振ります。ポーラは、ふうっと息を吐いて、白いおでこに手を当てます。
こんな臭くて気持ち悪い迷路で迷子になっちゃうなんて、なんてドジだったんでしょう! こんな嫌らしい罠を作るなんて、いったいどんなヤツでしょう!
「とにかく」ネスが力づけるように、残りふたりの肩にそれぞれ手をかけました。「こんなところにじっとしていても、何にもならない。心細いけど、とりあえずどれか選んで、探検してみよう」
そうね。しょうがない。互いにウン、とうなずきあって、歩き出そうとした、その時です。
ぴょっこ、ぴょっこ、ぴょこりん!
へんてこな足音をさせながら、黒い樹木の向うから、なんとも奇妙珍妙な、ピンク色の生き物が現われたではありませんか。
まぁるい大きなノンキ顔。目はゴマ粒ほどの黒ボタン。鼻はずんぐり立派です。胴体らしい胴体はなく、まるで顔の下側がでろんと伸びて、そのままちんまりした手足に繋がっているようです。頭のてっぺんには、アンテナみたいな棒みたいなものがつきだしています。背丈はネスたちの半分ぐらい、片手に、小さな、バケツのようなものをさげています。ぴょっこ、ぴょっこ、ぴょこりん! そいつはまったく無防備に、小さなからだを重たそうに揺すりたてながら、樹木の陰から出てきたのです。
「わっ!」
「わ!」
ネスたちが思わず叫ぶのと、そのピンク色のがネスたちに気づいてスッと飛びあがるのと、まったくほとんど同時です。
「ななな、なんだ?!」ネスはひらりと前に飛びだし、油断なくバットを構えます。「敵か?」
「びっくりです! なにです、おまえ」ピンク色の生き物は、ぴょんと弾んで落ちたその場で、そのままへたへた腰を抜かし、届きもしない手で頭を抱えるようにして、イヤイヤと首を……いえ、首らしい首はないんであります、顔全体を……震わせました。「いたいのやです、やめてね、おねがい」
「ちょっと待って、ネス」ジェフがネスの腕を掴みます。「害意は持ってないみたいだよ。友好的な知的生命体なんじゃないかな。一応だけど、ことばも通じるみたいだ。……ねぇ、ピンクのひと、きみはなにもの? どこから来たの?」
「これ、どせいさん」こわごわ、土星さんは答えました。「おちたます。そら、あなあいたら、おちちゃった。こまったこまった」
「まぁ、あなた、どせいさん、っていうの?」止める暇などあらばこそ。ポーラはネスの背中からダッと走り出すと、まだちょっとまごまごしている土星さんのそばにしゃがみこんで、小さなその手を取りました。「こんにちは、わたしポーラよ。よしよし、泣かないでね、びっくりさせて、ごめんね」
「んにちや」オズオズと、土星さんが答えます。「これ、どせいさんです」ぴょこりとお辞儀をします。
「まぁあ、なぁんておりこうちゃん!」
「ちょっと、ちょっと、ポーラ」ジェフが肩を揺すります。「知的生命体にそりゃ、失礼だよ」
「あら、ごめんなさい、悪気はないの。でもね、でもね、あたし……ああ、こーゆー、丸くてちっちゃくってぷくぷくしてるのに弱いの。だってだって……可愛いじゃない!」
熱狂的なポーラの賛辞に、「ぽえーん」土星さんが赤くなります。
「ああ、ほーんとに、可愛いー♪」
「やれやれ」ネスは腕を組み、肩をすくめます。「そういや、ポーラって、幼稚園のおねえさんなんだよな」
「なるほど。丸くってちっちゃくって、ぷくぷくね」ジェフがニヤニヤ笑いを浮かべます。「ポーラは母性本能が強いタイプだったってわけか」
これが、不思議な土星さんと、ネスたちの、第一番めの出会いだったのです!
ちびっちょ土星さんはポーラと手を繋ぎ、まるで楽しいお散歩のようなスキップまじりで、やっかいな洞窟をすんなり抜けさせてくれました。複雑な通路の行き止まりには、ぽっかり空に向かって開いた緑の草萌《も》える野原があり、土星さんたちは周囲の岩壁の穴ぐらや、草を刈り取った地面に、見たこともない金属や布でできたテントみたいな住居を構えていたのでした。
そう。土星さんは、ひとりじゃなかった。おおぜいの土星さんたちが、そこで暮らしていたのです!
あのイヤな匂いも届かない、のどかで不思議なその村は、ネスたちを歓迎してくれました。ふかふかソファで休みます、美味しいお茶をいただきます。はじめモジモジひっこみ思案をしていた土星さんたちも、そのうちに三人が悪いやつじゃないということがわかったのでしょう。戸口から次々に顔を覗かせては、ピュッと逃げます。勇気を出してそばに来ては、挨拶をします。
「こにちあ。どせいさんです」
「よこそきたます。どせいさんです」
「ゆっくりするいいよーん。どせいさんだよーん」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」ネスは面食らって頼みました。「みんな、そっくりでぜんぜん見分けつかないよ。それに、全部土星さんなの? 名前はないの?」
土星さんたちは目をパシパシさせながら互いに鼻をくっつけました。(人間で言う、顔を見合せる、にあたる動作のようです)
「みなおなじ、ひとつ、いっしょ」
「どせいさん、どせいさんです、ほかにない。ぽえーん」
「群体みたいなものなのかな?」ジェフが首をひねります。「集団意識というか、社会生命体というか、共同幻想というか……個々の区別がないんだね。きっとDNA配列も……DNAがあるとしたら、全員完全に一致しているんだろうな」
「どの子もみんな可愛いわ♪」ポーラは目を潤ませ、ぼうっとしています。「ひとり、欲しいわぁ。さらっちゃおうかしら」
「をいをい」
「もう、さらわれた、ともだち、たくさん」ちょうど、三人にお菓子を持ってきてくれた土星さんのひとりが、ほんのちょっとだけシンミリした調子で言いました。「いばりんぼ、ふとっちょ、つれてったます、たきのむこう」
「な、なんだって?」
「威張りんぼ太っちょ……って、まさか。ひょっとして、ポーキーのことか?」
土星さんは、小さな目を盛んに点滅させたかと思うと、ぴー、と仲間たちを呼びました。たちまち、近くにいた土星さんたちが、ぞろぞろと集まってきます。揃って、三人を見上げます。
「ひみつきちある、ぐれぷふるつのたきのところ」
「こわいやついる。こわくて、ぴー、きもちわるい」
「はえみつ、ほしがるます。だから、つくるた、どせいさんです」
「ともだちと、こうかんます、たのむつもり」
「こわい、いじわるやつ、すごくけち。だめだったら、がっかりがっかり」
口々に言います。土星さんに可能な限り、真剣な顔です。
「ちょっと待って、整理するよ」と、ネス。「グレプフルツの滝とかってところに、何か悪いやつがいて、そいつがきみたちの仲間をさらったんだね?」そうそう、と土星さんたちがいっせいにうなずきます。「それで、きみたちは、そいつの好物のハエミツってものを作って、交換を申し出ようとしているけど、敵が応じてくれるかどうか、わからないし、ちょっと怖いと……あ! そうか、それが、あの、すごい匂いのする、黒い樹なんだね!」
「そうそうそうそう!」
土星さんたちがいっせいにぴょこぴょこ跳ねます。
「あたりあたりあたあたあたり!」
「ハエミツー? ハエの蜜だって?」ジェフがウックと口許を押えます。「そんなもの、食べるやつがいるのか……信じられん」
「いるます、げっぷー、ぶっぷー、ぷー」
「こわいやつ、つよいやつ、ぐちゃねろりん」
「はえみつ、たべれば、もっと、でんでろ」
「ゲップー?!」ポーラが悲鳴をあげました。「それそれ、それだわ! わたしのビジョンに、あまりといえばあまりにピッタリのその名前。あれなら……あの気持ち悪いやつなら、ハエの蜜、いかにも喜んで食べそうよ!」
「ゲップー」ネスが鼻に皺を寄せます。「やっつけるしか、ないな」
「ああ。あの、臭いのを武器にしてね」
「あれを……?」
三人は、苦渋に満ちた顔を見合せました。
♪カバの酒場に ラバが来たらば
ロバの老婆が 転ばせた
アリの在りかに ハエは這えない
ダニだに ノミのみ 転倒無視!
oh yeah oh yeah
get out get out
ゲップーだ
oh yeah oh yeah
get out get out
ゲップーだ
「オエオエ、ゲロゲロ……ゲホ、ゲゲホッ! うう、ゲロゲロだぜ、まったくよぉ……」
ゲップーは、例のヤカン口をとんがらせると、ぷぷー、と黄色いため息をつきました。
「ぐげっぷ、ちくしょうめ、調子が出ねぇったらありゃしねぇ! グゲゴゲ……いつもなら四オクターブ半は楽々声が出るのになぁ。やっぱ、痛んだ喉にはハエミツだよ、ああ、ハエミツ、ハエミツ……欲しいなぁ」ねちょねちょ、ぐずぐず。特設ステージの上で、所在なさげにのたうちます。「ギーグさまは、いったいぜんたい、どぉこ行っちまったんだろーなー、ゲボゲボッ……こーんなローテクな星で、ロートルは発電所で、ヘドバカ土星どもなんか働かせて。いったい何を作ろうってんだか、ゲロゲロゲェッ。現場監督なんて、おれの柄じゃねっつの。ったくよぉ。ゲロ使いの荒いおひとだぜ……グブグブ……しょうがねぇ、たまに点検にでも行っかな」
ずるっちょ、ずるっちょ、ずりずりずっちょ。未練たらたらマイクを手放し、カクテル光線のスイッチを切ると、ゲップーは嫌らしい緑青《ろくしょう》色のからだをのたくりながら、床を這ってゆきました。
ゲップーのカラオケ道場のすぐ隣では、ダム施設の一部を改造して作られた工場で何十人もの土星さんが働かされているのでした。運ばれてくる板切れを型にはめ、切りとり、磨き、ネジをしめ、ハンダごてでくっつけます。炉の温度を調節し、バルブを閉め、また緩め、できあがった製品をワゴンに乗せて運びます。ベルトコンベアから流れでてくる部品を、ひとつひとつ、けんめいに点検する係もいます。ちっちゃくて力の弱い土星さんたちは、ピンク色の肌を真っ赤にし、ボタンのような目をシパシパさせながら、土星さんたちにしては限界と言えるスピードで《まぁ、けして速いとは言えないソレでありますが》いっしょうけんめい作業をしています。
「うぉら、なまけんじゃねーぞぉ、グゲゲゴゲ」ゲップーはからだの一部を鞭のように長くして、ぴしり! と床をぶちました。
びっくりして飛びあがった土星さんのひとりが、汗と蒸気で濡れた床で滑って転びました。持っていた部品を落とします。「ぴー!」あわてて拾いますが、ああ、ちょっと端っこが曲ってしまいました!
「ピーじゃねぇ、このゲログズ、なぁにやってんだぁっ!」ぴしぃいいいいっ! ぱしぃいいいっ! ここぞとばかりに、ゲップーの鞭が飛びます。「おらおらゲロゲロリンめ、働け働け、土星の奴隷! みんな死ぬまで働くんだぁっ! ゲロゲロゲハハハ!」
ぴしぃいいいいっ! ぱしぃいいいいっ!
ぴー! うずくまって、ごめんなさいごめんなさいと頭を抱えこんだままの土星さんに、彼を(彼女かもしれません)、念為《ねんのため》かばおうとして駆け寄った仲間の土星さんたちのからだにも、容赦なく鞭が打ちかかります。
「ゲロゲー、サボんじゃねぇ、のろまの、グズの、なまけもんの、ブタチビめ! ゲロのプーさんのそばで働けるのをありがたいと思いやがれゲロ! 働け働けぇっ、ゴボゴボゴボ……」
興奮したゲップーの吐き散らす、ぶくぶく泡まじりのいやな匂いの唾は、床をシュウシュウ溶かします。ぴー! ぴーぴー! 土星さんたちの悲鳴が、苦痛の声が、工場いっぱいに響きます。……その時です!
「弱いものいじめは、やめろぉっ!!」
誰かがその場に駆けこんできました。もちろん、ネス、ポーラ、ジェフの三人です!
せっかくの凛々しいセリフのその声が、ちょぴっと変てこだったのは、鼻をゴム栓でつまんでいるから。三人とも、シンクロナイズド・スイミングの選手みたいに、目が真ん中にひっぱられた顔をしています。また、思い切り走ってきた勢いも、ゲップーからだいぶ遠いところで、目に見えない壁にでもぶちあたったかのように、ぴたりと止ってしまっています。
ま、無理ないです。なんせ、このとんでもないやつを実際その目にしてしまったのは、全員、はじめてだったのですからね。
「ぬぶ?」悠揚《ゆうよう》迫らぬ身ごなしで、げろげろゲップーが振り向きます。上も下も濃ゆいマツゲが取り囲んだ、でっかく丸いバチバチ目。でろんとめくれたデカイ唇! あまりの醜さ不気味さに、三人はまた、ウッとひるんで後ずさりしてしまいます。
「なんだ、人間のヒナか……ゲゲゴゲ」いかにもバカにした様子でゲップーは笑いました。
「ゲヘ、待てよ、その赤い頭のカワ? そりゃヤーキューボとかいうもんじゃあないか? グエーップ、そうか、おまえ、ネスだな! ギーグさまの言ってたガキだな! 脱出したのか!……耽美なゾンビのやつめ、しくじったな……懲らしめてやる!……いや、そうか、もうとっくに懲らしめちまってたか、おれさまって用意がいいや、グゲゴゲ」
「……うそぉ……」ポーラが泣きそうな声で呟きます。「なにこれ、思ってたより、もっと、ひどい」
「ひどいってより、こりゃ、ヘドいぜ」ジェフが端正な顔をこわばらせて、ひとりごとのように答えます。
「ゲホ! それ、もぉらい!」ゲップーがペチョリとからだの縁を鳴らし、そのまま、指でパチンとするように、ぴち、ぱち、とリズムを刻みます。「♪ひどがヘドいと、ひとが言う……あ、どぶどろ、ちみどろ、あおみどろ……ゲハゲハ、いいぞいいぞ、いい歌だ! 調子が出てきたぞ、こりゃ行ける! グェップゲップ」
「……驚いたな、ひょっとすると、彼は詩人なのか?」
「ネスったら、彼だなんて言わないで! あんなもの!」
「詩人なんかじゃねぇ。おれさまは銀河にその名も轟いたカラオケ大王ゲップーだ! こんど、無限に広がる大宇宙を股にかけた……いや、股はないから、この愛らしくもたっぷりした唇にかけた……シンガー・ソング・ライターとして華々しくデビューするつもりの予定なのだ!」ゲップーは、エッヘンと胸を張り――いや、ねばつくからだの中央部を、焼いたお餅のように膨らませ――得意そうにニヤニヤしました。「どうだ、聞きたいか、聞くか、おれの歌を?! 特別アリーナで観せてやるぞ!」
ネスが、ポーラが、ジェフが、口をへの字にし目を見開き、パーにした両手を前に出して、なしなし、いらんいらん、と必死で首を振ります。
「ゲロゲロ、そーか残念だが……ま、しょうがないか。敵なんだからな」ゲップーはねちょねちょジョップジョップと縁を波打たせながら伸びあがると、油断のない目つきで三人をにらみつけます。「ギーグさまは、おまえたちを、封じこめておけとおっしゃられた……ゲハゲハゲハ、笑わせるなぁ、こんなションベンチビのクソッタレを、あのギーグさまが少しでも恐れているなんざ……グエップ……最近聞いた中で一番傑作なジョークだぜ!」
「来るぞ……油断するな」ジェフが鋭く囁きます。ネスもポーラもうなずきます。
「いやな予感は元から断たなきゃダメだよな。ギーグさまの心配の種を、このゲップーが、ヘドまみれにして昇天させてやろう! グケゲゴゲェッ!」
ゲップーの全身がボコボコ波打ったかと思うと、きりきりとねじれながら鋭くとがった唇が黄色いものを噴きだします!
「バリアー!」ポーラが叫び、両手を広げます! たちまち空中に出現した、水晶レンズのような障壁に、汚物がべちょりと張りつきます!
「予測した通りだ」ジェフの手の中で、小さなカードのようなものが、ちかちか液晶を瞬かせます。これは、天才少年科学者ジェフが土星さんの協力で開発した、スーパー・モンスター・チェッカーなのです! 「こいつは低温に弱い! 催眠術に弱い! そしてなにより、ハエミツに目がない!」
「よおし……いくぞ、くらえぇえっ!」ネスはどこからともなく取り出した黒いボールをトスすると、バットで思い切り打ちました!
弾丸ライナー!
ボールは空気を切り裂いて、まっすぐゲップーにブチ当ります! 目と目と口のちょうどド真ん中につっこんで、びよよよよん、と伸び切ります!
「ヒョドベグゲ(髑髏マーク)!!」でっかい目を白黒させたゲップーが、ングッ、と唸り、ゴクゴクゴクッと、喉を鳴らすような音をさせます。
「……は……ハエミツ?……」ぴちゃ、ぴちゃ、ぺちょ。慎重に味わった舌が、ぴゃーっと伸び、びよよよよ〜ん、と震えます。「ハエミツだぁ、ハエハエのハエミチだぁ! ほんとに、ほんものの、ミチミチのハエミチじゃないかぁ!」
でっかい目玉が歓喜に輝き、からだじゅうがピン・ボール・マシンみたいに赤だの緑だの黄色だのに発光します! 『LUCKY(らっき)』とか、『I GET IT! (やった)』とかいった文字まで浮びあがり、ジャジャジャジャジーン! と、どこかで鐘が鳴り響きます。いまや、ゲップーの全身は、でろでろべしゃーっと流れだし、焼き損ないのクレープみたいになった端のほうが、ひらひらホヨホヨ震えるばかり。
「♪うーれしいな、うれしいな、ヒック! こいつぁ極上のハエミツだぁ! ゲホッ!」
ひゅんひゅんところ構わず伸びだした触手たちが、いったいどこから出したやら、お箸や茶碗や小皿を持って、チャンチキチャカチャンと踊ります。もうこりゃ、ほとんど、ただの酔っぱらいです。
「そーれ、お次はこれだ!」ネスは、真っ白でシュウシュウ蒸気のあがっているボールを取りだして――ええ、ドライアイスなんです、よい子のみなさんは、けっして素手で持ってはいけませんよ! ――トスし、バットを叩きつけます! と、同時に。
「PKフリーぃぃズ!」
「元素変換超冷却砲、絶対零度ぉぉぉ!」
ポーラが、ジェフが、それぞれ攻撃します!
ぴきーん! さしものゲロゲロゲップーも、これにはいっかなたまりません! 凍りつきます。とうとう手に入れたハエミツに、うかれ騒いで絶頂の、至福の喜びの表情のまま、端から端まで、目玉も口も、小皿叩いてチャンチキおけさのまんまの数多《あまた》のかぼそい触手まで、一瞬のうちにかちかちのキンキンに凍りつき……そして、息づまる静寂の後、ペキ……パキ……ガラガラ、ガッシャーン! 砕けて落ちて、全部壊れてしまいました。
「……やった!」ネスがガッツ・ポーズをし、
「やれやれ、なんとかなりましたね」ジェフは、バックパックから強力消臭除菌スプレーを取りだして、せっせとあたりに振りまきます。
「なんだか、ちょっと可哀想だったみたい」ポーラはおそるおそる鼻栓をむしりとり、ふうっと息をしました。「見た目も匂いも、歌の音程もひどかったけど、どこか無邪気なやつだったかも……」
「たすかったます、ありがと、ぷー!」
「おうち、もどる、ともだちとこ、もどる! うれし、うれし」
「げっぷー、いない。さたんばれ、にほんばれ!」
つらい強制労働を科せられていた土星さんたちが、次々に持ち場を捨てて駆け寄ってきました。中にはゲップーのダジャレ癖の伝染《うつ》ってしまった土星さんもいるようですが……みんな、ニコニコ嬉しそうです。怪我をした土星さんや、へとへとになって力の出ない土星さんは、ネスがおんぶしたり抱っこしたりして、集めてやります。
「……そうだわ」ポーラがPKヒーリングで手助けをしながら、呟きます。「あいつ、こんな可愛い土星さんたちをひどくいじめてたのね。同情の余地なし! 自業自得よ、プンだ」「ゾンビたちも操っていたみたいだし」とジェフ。「もし倒さなきゃどうなっていたか、考えたくもないですよ」
「そーよねぇ」
「……ポーキー」ネスはしんみり呟き、頭を振ります。「あいつは、ここでも、関わり合いになっていたみたいだ。どんどん、悪くなっていく……いまはいったい、どこで何をしているんだろう……」
「土星さんたち、みんな揃いましたね? じゃあ、脱出しましょう」ジェフは粘土みたいなものを取りだしました。「これはプラスティック爆弾です。敵の基地なんて、破壊しておくに限る。土星さんたちも、動けるひとは、手伝ってください!」
手分けして工場のあちこちに爆弾をセットしました。ジェフが信管をつけ、電線をひとつに集め、時限起爆装置のスイッチをいれます。「よし! 逃げろ!」
複雑なダムの内部構造を、上へ上へ! なにせおおぜいの土星さんたちです。本来急ぐのは苦手です。あわてるあまり足がもつれる子や、でんぐり返しをしだしたままどこかに転がっていってしまう子、緊張のあまり突然瞑想に入ってしまう子などを、必死で励まし走らせます。土星さんの手足では段に届かなくて昇れないはしごでは、ネスとジェフが上と下に別れて、ひとりずつ投げあげて受け取りました。
そうこうするうちに、工場跡では、装置のカウンターの数字がみるみるうちに減ってゆきます。〇〇九、〇〇八、〇〇七……。
一行がグレープフルーツの滝の水を潜りぬけた、その途端。
バーン! ズバズバ、ドバババーーーン!
爆発です! 電線のやけおちてしまった分も、ショックと熱風に巻きこまれ、次々に爆発してゆきます! ずずずずず……やがて、あたりが地震のように揺れたかと思うと、大音響が響いて、滝の土台になっていた岩やコンクリートが、いとも簡単に崩れ落ちてゆきます。もうもうと水煙があがり、ドッと押しだされた水に川岸の岩がくずれ、樹が倒れ、一気に広がった川幅を長年溜まっていた泥や、水力発電の機械の壊れたものが、どんどん流されてゆきました。
そして見上げる空一面を低く覆っていた黒雲に、亀裂が走り、細かな稲妻が光り、全体がフッと薄れたかと思うと、まるでどこか天の高いところにある掃除機にでも吸いこまれたようにして、一切合財《いっさいがっさい》、消え果ててしまいました。
青空です! ぴかぴかのドピーカン。柑橘系のそよ風が吹きます。いまや、ちょぼちょぼと可愛らしくなってしまった滝のそばに、きれいな虹がかかります。
わぁっ、と、みんな、声をあげます。
「予想通りだ。あの基地の中に、気象変異を導く装置があったんだ」ジェフがまぶしげに片手をひさしにします。「時間があったら、どんな仕組みだったのか、ちゃんと調べておきたかったなぁ」
「こんないいお天気になったら、スリークに残ってるおばけさんたちも、みんなコソコソ隠れちゃうに決ってるわね!」ポーラがにっこりします。
「かえるます、ともだち、まってるとこ」
「めでたしめでたし」
「あっぱれ、あっぱれ、さたんばれ!」
気の毒にまだダジャレが抜けない土星さんもいます。
「よおし」ずっと物思わしげだったネスも、やっと元気を出しました。「それじゃあ。さぁ、みんな、行こう!」
おおぜいのともだちを無事送り届けたお礼に、土星さんたちは様々なこころづくしの贈りものをくれました。もう最後かと思うような時にも勇気の湧いてくる不思議な薬や、敵のエナジーを吸い取るマシン、泥水でも毒の水でも浄化してしまう超サバイバル・ストローなどなど。こう見えても土星さんたちの科学力は素晴らしいのです!
ただでさえ大感激のジェフには、時計組み込みがたのエイリアン検知機が贈られました。
ポーラは、守りの力を増大させる素敵なリボンを結んでもらいます。
ネスは。
サターンバレーの奥、ミルキーウェルに、新たなパワースポット、いわゆるひとつの『ネスの場所』があるのを教えてもらったのです。もちろん、すぐに出かけます。この場所のパワーを横取りしていたのは、長年樹の芽と呼ばれる怪物。こいつを倒した時、ネスは、遠くのどこかでママの声がしたように思いました。思いやりのある強い子になりますようにと、祈っているママの声が。
そうして、ネスは、またひとつ、おとなになったのです……。
6 ハンバーガー!
赤い野球帽をかぶりバットを肩に乗せた明るく元気な少年と、金髪巻き毛にリボンの可愛いちょっと目を惹く女の子、そして、ほっそりと華奢な眼鏡の秀才タイプ……。
仲の良さそうな三人組が、にこにこ笑いながら歩いてゆきます。砂漠の黄色い砂の上を、小さな足跡を残しながら。ジリジリ頭上に照りつける真夏の強烈な太陽も、どこまでもどこまでもウンザリするほど際限なく遥かに遠く続いて見える殺風景な光景も、いっこうに苦にしている様子ではありません。
眼鏡の子が時計を見て、太陽を見て、方角を決めます。
ジャンケン、ポン! 負けた帽子が、荷物を全部担ぎ、真っ赤な顔して走ります。
リボンの子が、きれいな声で、どこかで覚えたらしいおかしい歌を歌うと、みんなで笑いころげます。
誰かの靴に砂が入ると、誰かが肩を貸してあげるし、誰かがプシュッと缶ジュースをあけると、みんなで順繰りに回し飲みです。
そのうちに赤い帽子の子が、立ちどまって、早口に何かを言いました。みんなで荷物を降ろします。眼鏡の子が短いペンみたいなものを取りだし、サッと伸ばして広げると、なんと銀色のパラソルです。仮ごしらえの日蔭に座って、リボンの子がピクニック・マットを広げ、冷たいオシボリを配ります。帽子の子がリュックから、ジャン! とばかりに、ハンバーガーの包みを取りだします。眼鏡の子が、パラソルに何かのコードを繋げ、片面がピカピカ光るジャバラのフォイルを組み立てて手早く箱のようなものを作ります。どうやらパラソルは太陽電池、フォイル箱はインスタントの電子レンジだったようです。チン! ハンバーガーがホカホカになります。みんなで並んでお弁当。
赤い帽子が、大口あけてかぶりつきます。眼鏡の子は、バーガーをそーっと開いて、スライス・オニオンを摘んで出して捨てようとしましたが、リボンの女の子に見つかって、ピシャッと掌《て》をぶたれます。がはははは、と虫歯ひとつない大口を開けて帽子が笑います。
岩サボテンの陰でグッタリとしゃがみこんだ、飛べない鳥類のトサカランや、眠そうな目をしたデザートウルフが、なんとも羨ましそうに見ています……。
〈ちくしょうめ……まるで、るんるん楽しい遠足じゃねぇか……!〉
遥か彼方、空の向う。歯ぎしりをする、孤独なまなざし。
三人はむろん、どこかの誰かに見つめられていることになんかまったく気づきもせぬままに、お喋りをし、笑い合い、もぐもぐ美味しそうに食べ続けています。
〈くそ、……見てろ、いまに、いまに、やっつけてやる……!〉
「覚えてろよ、ネス!」
叫んで怒鳴って、自分の声に驚いて。
ポーキーは、小さな冷たく青い目を、思わずぱちぱちさせました。
パステル・ストライプの壁紙。いかにも高級そうな派手な花柄の絨毯。ツートン・カラーのブラインドの半びらきになった大きな窓、天井埋め込み式の反射防止照明。幅二メートルもあるオークの執務机。
横たわっていたのは、サーモン・ピンクの巨大なレザーのソファです。すぐ鼻先には、大理石の脚をした、厚みが三センチもあるガラスのテーブル。インテリア雑誌の紹介ページに出てきそうな、モダンでカジュアルで真新しい、とてもリッチなオフィスです。
五十人がワルツを踊ることができそうなだだっ広い部屋に、彼はぽつんと、ひとりぼっちでした。あまりにも静かすぎて耳鳴りがしているのかと指をつっこんでほじりますが、どうやらエアコンの唸りだったようです。空気は冷たく、乾燥し、かすかにグリーンの香りがします。
ポーキーは舌打ちをすると、ぽちゃぽちゃした腿の、レザーと肌に挟まれて汗が溜まって赤くなったところをボリボリ掻きながら起きあがり、壁際のキャビネットを開けて、オーディオ装置をオンにしました。ヴィヴァルディかなにかの、オーケストラ曲が聞こえてきます。素晴らしい臨場感です。せわしなくチャンネルを変えます。カントリー&ウェスタン、甘いラブソング、バリのガムラン、子供の高い澄んだ声の聖歌、スタンダップ・コミック……ビートの効いたハード・ロック。
GO TO HELL
GO TO HELL
I WANNA YA TO
GO TO HELL
だだ、だんだだ、だんだだ、だんだだだん
だだ、だんだだ、だんだだ、だんだだだん……
「地獄へ、道連れか……」たぷたぷと緩んで垂れ下った頬を揺らして、ポーキーは歪んだ笑いを洩しました。まるでピンク色のブルドッグです。腕の肉が盛りあがって、Tシャツの袖がいまにも破けそうに喰いこんでいます。半ズボンもぱちぱちです。ポーキーはまた一段と太ってしまったみたいです。
キャビネットの冷蔵庫から真っ赤なコーラの缶を出すと、ブシュッと握りつぶすようにして開けました。素敵な床にねばっこい茶色い液体がぼたぼた落ちるのもおかまいなしです。よたよたと窓辺に行きます。ブラインドを開けます。
どうやらここは、かなりの都会の、そうとうに背の高いビルのてっぺんのほうにある部屋のようです。眼下には数多のビルと街路。たくさんの車とひとが、顕微鏡映像で見る血液のように流れています。
ぴくぴくと引き攣るまぶた。血走り、異様なほど飛びだした瞳は、街を見ると同時に、ここではないどこかも見ています。缶を逆さまに立てて飲み干そうとして、ポーキーはゴフッと噎《む》せました。茶色い液体が口の端からこぼれます。げほっ、げほ、げぇっ……。膝をつき、胸を押えます。壁に爪を引きずったので、いやな音がします。目をとじ、眉をしかめて、けんめいに堪えますが、ビクン! 全身がショックを受けた拍子にまた、どうっと倒れます。床に両手をつき、吠えるようにして呻きます。半ペショになったコーラの缶がカラカラと不規則に転がり、こぼれたものが、床でシュワシュワ小さなアブクを生じさせます。ぐわ、がぁぁぁっ、ごはぁぁぁっ! 飲んだものを吐きつくしても、まだ痙攣が治まりません。苦しげに開いた口から、粘っこいよだれが滴ります。どっくん……どっくん……頸《くび》の動脈が、外から見えるほどに膨らんだり戻ったりします。汗と涙と鼻水が、だらだらと顔じゅうからこぼれます。
「ちくしょう……どうしたってんだ……」つきあげる発作の合間に、ポーキーは低く呟きます。「おれは……おれのからだは……いったいどうなっちまったんだ……ううう、ちくしょう……ちくしょう……」
美しい田園風景を描いた絵と、前肢を蹴りあげた格好の馬上の凛々しい将軍の絵の間に、小さな不気味な黄金像がひとつ、台座に飾ってありました。どこかでいつか見たような……そう、これは、あのブルーブルーのひとたちが崇《あが》めていた、マニマニの悪魔と呼ばれる彫像です。
つやつやなめらかな金色の肌の凹凸《おうとつ》に、呻き続けるポーキーの姿を映しながら、黄金像はただそこに、じっと立っているのです……。
さて、こちらネス一行。
砂漠を横断中の三人組は、粗末な小屋を見つけました。近くにはでかい建築機械が黄色い砂に埋もれかけています。
「俺たち、金鉱を掘っているのさ」ジョージ・モッチーと名乗った東洋系の、安全帽のオジサンが、タタミ・マットを敷いた上に、ジカタビの脚をあぐらに組んで、麦茶を注いでくれました。話好きのひとのようです。「謎の古文書を見つけてね、絶対ここいらに出るはずなんだ! んで、おまえさんたちゃ、なんだって道路を行かないんだい? え、バッファローの大群が横断ちゅうで大渋滞? はははは、そりゃあ、災難だったな。あれがはじまったら、まる二日は動けないからね。思い切って徒歩に切り替えて、ま、正解だったね。体力があれば、の話だけど。……フォーサイドに行くって? ああ、方角は間違ってないよ。こっから、東に、もうあと一日ばっか行くとゴールデン・ブリッジが見えてくる。そいつを渡れば大都会だ」
「良かったわね、ネス」ポーラが言うと、ヤカンの口から直接お茶を飲もうとしていたオジサンが、ブフッと飛沫《しぶき》をとばしました。
「ネスだって? あのネスバーガーと、何か関係あるんかい?」
「ええ」ネスはちょっと照れながらうなずきます。「ネスバーガーは、うちの父が作ったんです」
「そうかぁ……」ジョージ・モッチーさんは、口ごもり、作業着の膝のあたりの皺を伸ばしたり畳んだりしています。いかにも、何か言いたそうです。
「ネスバーガーがどうかしたんですか?」ジェフが礼儀正しく尋ねます。
「いやぁ、うん。まあねぇ……」
「言ってください、びっくりしませんから」ポーラがズイッと身を乗りだします。
「じゃあ、いうけどさ。あれ、最近、よくないぜ」
「よくないって……どういう風に? 味が落ちたって意味ですか?」
「うん……いや、そういうんじゃなくってね」ジョージ・モッチーさんは、ショックを受けたネスを上目使いに見つめると、小さくため息をつき、思い切ったように話しはじめました。
「俺たち、時々フォーサイドに買いだしに行くわけさ。んで、みんな大好きだから、ネスバーガーも、もっちーたくさん買ってくるよね。ところが……これが、妙なんだ。こないだ買ってきた時なんだけどね。一個や二個食べても、ものたりない。三個でも四個でもまだ足りない。十個二十個たいらげて、それでも満腹しないなんて、どう考えたって異常だろ?……なのに、まだまだ食べたくて、残ったバーガーの奪い合いさ。気の荒いのが力ずくで、ひとの分まで盗んだりさ。どうしても我慢できない、もっと食べたいから、ちょっと買いに行ってくるって……みんなして出かけていったきり、ぜんぜんまったく戻ってこないの。それで……俺、いまひとりなんだ」
三人は顔を見合せました。ネスは怖い顔になっています。
「ジョージさんは、大丈夫だったんですか」
「うん、それがね……俺、その時、腹こわしててさ、あんま食欲なかったの。んで、後から食べようと思って取り分けておいてもらったんだけど……食欲魔人になっちまった連中が血相変えて殺到して、アッと言うまに喰っちゃってさ。結局、喰いはぐれちゃったんだよね」
「怪しいな」ジェフが眼鏡の下で目をすぼめます。「誰か、麻薬でも入れたんじゃないか? 食欲|中枢《ちゅうすう》を麻痺させるような秘密の物質を調合したとか」
「二十個食べても満腹できないなんて、どんな激しい肉体労働しているひとだって、絶対カロリー・オーバーよね」ポーラが、頭を振りました。「胃拡張になるし、脂肪分も、コレステロールも取りすぎでしょ。ぶくぶく太って体調は狂う。ストレス解消しようとしてまた食べる。ほとんど最悪の過食症だわ!」
「フォーサイドのひとたちが危ない」ネスが立ちあがります。「早く助けにいかなくちゃ!……ああ、でも、よりによってネスバーガーが、なんだってそんなことになるんだ」
「そういやぁ」と、顎を揉む、ジョージ・モッチー。「包み紙がちょっといつもと違ってたな。ただのネスバーガーじゃなくって、新製品だって。バイオの魅力、バイオネスバーガーとかって、印刷してあったような……」
「バイオネスバーガー?!」もう出口に駆けだしかけていた三人が、あっけに取られて振り向きます。
「コーヒーにも気をつけたほうがいいかもよ。最近テレビやラジオで盛んに宣伝してるの、知らない?」知らない知らない、と三人は首を振ります。テレビもラジオも、このところ視聴していません。「コーヒー通もまだ知らない、違いのわかるひとのための、つこてる豆がちゃう、いままでより十倍美味しいバイオネスコーヒー、とかってやつ」
「怖いわ」ポーラが自分で自分を抱きしめるようにして囁きます。「邪悪で貪欲な作意が見える……フォーサイドでは、きっとすごくイヤなことが起こってるって気がする」
ネスもジェフも、無言のままにうなうずきます……。
「どおぞー、無料サーヴィスですよぉ」
「お試しください、新製品でーす」
摩天楼《まてんろう》の交差点、行き交うひとと車の流れの中に、バイオネスバーガーWITHバイオネスコーヒー! 横断幕がかかります。でっかいイベント・トラックが機械仕掛けで荷台を開き、ぴかぴかの看板と、仮設ステージをあっと言う間に出現させます。
「はい、押さないで、押さないで。あなたもあなたもいらっしゃい」
「近頃なにかと評判の、バイオネスバーガー、バイオネスコーヒーの試食試飲コーナーどぇぇぇす!」
ハイレグ・レオタードのおねえさんたちが、ズラリ並んで登場します。とってつけたようなニコニコ顔で、小さなバーガーと紙コップを乗せたトレイを配ります。
交差点の回りでひとの流れがせきとめられます。せかせか歩いていたひとたちが急にパタリと立ちどまり、とっくに行きすぎたひとたちがあわててクルリと戻ってきます。たちまちトレイに殺到する、手、手、手! 夢中で食べる飲む、口、口、口! 赤信号で停車中の隙を狙って、自動車のドアを開け、足のもつれるほどの勢いで、もらいに駆けつけてくるひともいます。ひとりが走ると、五人が続きます。信号がかわっても動かすひとがいない車が残ってしまったそのせいで、ひどい渋滞になりました。ブッブー! ビー! 轟くフォーン。ピッピピピーッ! 台に登ったおまわりさんが鋭く警笛を吹きますが、焦れて乱暴に前に出る車が後を断ちません。まごまご動けなくなった車が交差点に残ってるうちに、信号が変わります、イラついたドライバーたちが、ぎゅうぎゅうに押しかけます。ビビビー! ぱらりらぱらりらぱらりら! フェンダー・ミラーがこすれ合い、擦り抜けようとしたバイクが後ろからどつかれて、ライダーが宙を舞います。バンパーをひっかけられ、ドーンと押しだされて、歩道に乗りあげる銀色セダン! 両側からでかいトラックに押されて、ぺっちゃんこに歪んでしまう小さなロード・スター。ピッピー、ピピー! ついにおまわりさんも、笛を放りだして人垣につっこみます。
揉み合いやどつきあい。ハンドバッグを漁《あさ》る掏摸《すり》。ハイヒールの踵《かかと》で踏まれる靴。つんのめるお年寄り、ワンワン吠える鎖に繋がれた犬。ママぁ、ママぁ! 迷子になった小さな子供の甲高い泣き声も聞こえますが、誰ひとり、面倒を見てあげようともしません。
「はーい、おひとりさま、一個ずつですよー」
「もっともっと食べたいひとは、お店で買ってくださいねー」
「あ、ちょっと、その線から出ないで! 出ないでったら、きゃあああっ!」
どどっと砕けた人波に、ハイレグおねえさんが飲みこまれます。白いコック帽のオジサンたちが、新たなバーガーとコーヒーを満載したワゴンを押して駆けつけます。たちまち殺到する手、手、手! こちらに寄越せとわめく、口、口、口! やっともらえたひともけして安心はできません、四方八方から手が伸びてあわよくば奪おうとするのです。とにかく大急ぎで食べてしまわなきゃ! 凄じい狂乱です。
「もうなし、もうなーし! ありませんったら、ちょっと、さわんないでよっ!」
「あとはぁ、お店でぇ、買ってくださーい。お店はあっち、あっちですよぉ」
必死の擦《かす》れ声、がなり声に、密集した人々がハッとしたように顔をあげます。一気に動きだします。おおぜいの人々がひとかたまりになって、ゆっくりと、大戦艦が向きを変える時のようにして目標を定めると、分厚く長い帯になって、そのままじりじりと流れます。交差点を越え、車道にまではみだして。
お店へ、お店へ、バイオネスバーガーの専門ショップへ!
「……ぬほほほ、行きよる、行きよる」下向きにした望遠鏡を覗きこみながらほくそ笑んでいるのは、見るからに高級そうな背広の男。口許のピンと端のあがった髭を、マニキュアをした爪でチョリチョリとねじって捻りあげています。「ぞろぞろまぁ、みんなで並んで行きよるわ。まるで砂糖に群がるアリんこだねぇ……ふっふふふ、あんなに大勢で押しかけたんじゃ、焼くほうだって大変だ。休む暇だってないだろう」
「昨日の売り上げは、三十七万二千八百飛んで三ドル九十セント!」背後の机で喜々とした様子で電卓を叩き終わったのは、どこかしらイタチに似た貧相な顔つきの中年です。「先週と比較して、なんと純益が六十三パーセントも伸びているぞ! いまんところ成績トップは、南店か。我がモノトリー・デパート屋上遊園地の売店も健闘してるな……おかげでデパートじゅうの他の売場も順調だし……材料と人手をもっとあそこに投入せんとな」
「まぁ、見てごらんなさい、モノトリーさん」望遠鏡の男が、手招きします。「傑作ですよぉ、もう千人は軽く越えてる」
「どれどれ」書類を置き、はずした老眼鏡を片手に、ちょこちょことお尻を突きだす気取った足取りで窓辺に寄ったイタチ顔――モノモッチ・モノトリー――は、ずっと下の道路にうごめく黒山のひとだかりに、いとも満足そうにうなずきました。とろけるような笑顔を作り、まだ望遠鏡を覗いたままの男の頬に、ん〜〜〜まっ! と激しく強くキスします。「ああ、感謝しています、ミスター・ミンチ! いやまったく、どれだけ感謝してもしたりないほどです!」
「そのようですな」吸われてタコ焼みたいに赤くなった頬っぺたを、絹のハンカチで拭いながら、アンブラミ・ミンチは苦笑いしました。「しかし、手柄はうちの息子にある。新しいバーガーのレシピを作りだしたのは、あの坊主なんですからな」
「ああ、ポーキー坊っちゃま!」モノトリーは両手を熱狂的に祈る時のように組み合わせると、くねくねっとからだじゅうを震わせました。「ご子息さまは調理とマーケティングの天才です。我がモノトリー財団の救世主、商売繁盛の神の使わされた大天使です!」
「本気で、そう思って、いるん、なら」バタンとドアを鳴らして、当のポーキーが入ってきます。半ズボンの腿にも半袖Tシャツの脇の下にも、余った肉が垂れさがっています。のろのろ歩きの一歩ごとに、擦れてただれて真っ赤っか、とても痛そう。ぶくぶくの頬肉に小さな目鼻が埋り込んで、ひどく不機嫌そうな顔つきです。「優秀な、医者を」心臓が苦しいのか、胸を手で押えています。呼吸も荒く、ひと息でセリフを喋れません。「ひとり、雇って、くれ、ないかな。……ちょっと、気分が、悪、いんだ……」
「おお、それはいけません!」モノトリーはすっ飛んでゆきます。「さぁ、ここに、ここに、おかけください、すぐ手配します……おいっ秘書! 医者だ、フォーサイド病院で最高の医者を一個団体すぐに大至急呼んでこいぃ!」
「大丈夫か、ポーキー」アンブラミ・ミンチは、ぐったりと椅子の背にもたれた息子の姿に、口髭をぴくんと揺らしました。
親の目で見ても、いとも無様な太りかたです。かつては、焼きたてのパンのようにふっくら丸かった頬っぺたが、ぶざまに緩んで垂れさがっています。二重三重の肉襞のたたまれた顎は胸にぺたりとくっついていて、首がまったく見えません。腕も脚もひどくむくんでいて、手首や足首は輪ゴムでも填めたかのよう。ふつうのひとならたっぷり余裕のあるはずの大きなレザーの安楽椅子が、贅肉《ぜいにく》のたるみに覆われて、ろくに隙間もありません。
「ああ……パパ」ポーキーはうっすら笑いました。「心配、いら、ないよ、ちょっ、と、吐き気が、する、だけさ……ああ……なんか、酸っ、ぱい、ものが、食べ、たいな」
「赤ん坊でもできたみたいだな」アンブラミは眉をしかめ、ポケットからパイプを出して、刻み煙草を詰めはじめます。「女の子なら、恐ろしい想像をするところだ。おまえがお腹にいる時のラードナも、ひどく太ったものだった。毎日オレンジを半ダースも食べた」
「オレンジだ!」モノトリーが卓上電話に怒鳴ります。「キウイだ、レモンだ、キイチゴだ! 酸っぱい系のくだものを、とにかく山盛りで持ってこい!」
「……モノ、トリー、さん……?」
「はいはいっ、なんでございましょうか、お坊っちゃまっ!」モノトリーはたちまち飛びあがり、揉み手をしながら近づきます。ポーキーの足元にうやうやしくひざまずきます。
「あの……モノトリー、ビルの、隣の、空き地だけ、ど……ちゃん、と……立ち、入り、禁止に……して、くれまし、た?」
「いたしましたとも!」モノトリーはガクガク首を振って請け合います。「ご安心ください。五メートルの壁を張り巡らし、鉄条網《てつじょうもう》には高圧電流を流し、唯一の出入り口は、鉄板を打ちつけた上からコンクリで固めました! 元レスラーや空手チャンピオンの警備員も配備して、総勢二十四名、三交代制度で、二十四時間、しっかり見張らせておりますです!」
「そう……なら、いい……」ポーキーはちょっとだけ笑い、苦しそうに目を閉じます。
「あのう、お坊っちゃま? ひとつうかがってよろしいでしょうか? あのつまらん空き地の、どこがそんなに重要なんです?」
ポーキーは薄く目を開け、じっ、とモノトリーを見ます。黙っています。
「……いえ、いえ……あの、おっしゃりたくないんでしたら、おっしゃっていただかなくってもけっこうなんでございますが……その……」
「ネスが」ポーキーが呟きます。モノトリーから目をそらし、どこか、ここではない場所を、じっと見つめて。「やつが、来るから、だ」
「ネス……ですか?」
「そう。なん、としても……絶対に、やつをあそこに、近づけ、るな……」ポーキーの手が椅子の肘掛けをつかみます。ころころに膨れあがったいもむしのような指が、ブチブチと音を立てて、分厚いレザーに喰い込みます。鉄パイプでできた支柱さえ、飴細工のように曲げて行きます。
「来るな……」ポーキーは白目を剥いて、がくがくと病的に震えます。「殺すぞ……もう、これ、以上、おれに、近づくな……ネス……!」
くわえたパイプに火をつけようとしたままあっけに取られていたアンブラミは、堪え切れなくなって、廊下に出ました。
廊下の突き当りでは、ちょうど、エレベータの扉が開いたところです。白衣のお医者さんと看護婦さん、果物を満載したワゴンが一緒に到着します。エレベータ・ホールの受付のところに控えていた、目つきの悪いガードマンたちが、全員を手早くチェックします。
アンブラミは、そこらの壁際にあった椅子に腰をおろすと、震える指でマッチを擦りました。「金持ちだ……金持ちになるんだ……世界でも指折りの金持ちに……」ようやくパイプに火がつきます。うなだれた頭のすぐ向うを、お医者さまご一行とワゴンが、あわてた様子で走り抜けてゆきます。ふうっと大きく紫煙を吐きだし、揺れる膝を手で押えます。「莫大な富……桁違いの金……金は金を生み、金を育てる……ああ、そうとも、金があれば! できないことなんて何ひとつない! もっと金を、もっともっと金を……!」パイプにガチガチ歯があたります。焦点をなくしたうつろな目。寒くてたまらないかのように自分で自分を抱きしめながら、その実、アンブラミの脂ぎった顔はびっしょりと汗をかいています……。
ゴールデン・ブリッジを渡り、フォーサイドの街に入ったネスたち三人は、とりあえず小さなホテルに部屋を取り、作戦会議を開きました。バーガーは避け(ちょっと買ってみようと思ったぐらいでは、とうてい買えない、ひどい行列なのです!)宅配ピザを頼みました。たぶん、うんとこさ暇なのでしょう。あっけにとられるほどすぐに届けてくれたピザ屋の紙の箱に、フォーサイドの市街案内が印刷されています。
「モノトリー・ビルって、あのひときわ大きな立派なビルだよね……わぁ、恐竜博物館だって! 行ってみたいな」
「トポロ劇場ってのもあるぞ」
「バーガー問題を片付けてからよ」ポーラがおねえさんぶってピシャリと指摘します。「できれば、厨房を探りたいわね。きっと、何か、秘密があるのよ」
「忍び込むか」
「でもショップはみんな、終日営業してるだろ。お客も、あの調子じゃ、真夜中でもぜんぜん跡切れないに決ってる」
「お客はもちろん、それぞれの店で働いてるひとたちも、きっと何にも知らないよね」
「くそっ……関係ないひとたちを巻き添えにはできない……!」
「ねぇ、待って。ほら、デパートがある!」ポーラが地図のその地点を指差し、ふたりを見回します。「名前はモノトリー・デパートですって。きっと、そっちのビルと同じひとがオーナーなのよ。名前のついたビルをいくつも持ってるような商売上手なひとは、こんだけ流行ってるバイオネスバーガーを放っときはしないんじゃないかしら。きっと、デパートの中にもバーガー・ショップがある。……そして、デパートは、必ず、夜閉る!」
「それだ!」
「よし!」
そろそろ夕方でした。三人は早速モノトリー・デパートにやってきました。
ご存じの通り、特別天井の高い一階のほとんどを占めているのは婦人小物。アクセサリーや傘、ハンカチ、靴下、ハンドバッグ……素敵でシャレた商品が、きらびやかに飾りつけられています。世界の一流品だの、特別SALE五十パーセント引きだのとデカデカと描かれた張り紙に、ポーラはついつい横目を使い、足がのろくなってしまいました。でも、化粧品のお試しコーナーでニカッと笑ったマヌカンのおねえさんとうっかりバッチリ目が合うと――まるでお芝居に出てくるひとみたいな凝りまくり塗りたくった強烈至極なメイクで、獲物を狙う猛獣のように目が光るのです! おまけに、五センチも伸びたショッキング・ピンクの爪で、オイデオイデ、と招くのです! ――ゾッとして、正気に返って、あわてて、ネスたちに追い付きました。
二階、三階と登ります。デザイナーズ・ブランドにジュニアもの、紳士服。下着に寝間着に毛皮フォーマル。四階、スポーツ用品、趣味の小物。五階、キッチン・グッズとインテリア。六階は図書、CD、文房具。七階が時計、パソコン、家電製品。八階はエステと美容室と展示場。九階、大食堂。
見たこともないほど巨大な売場でした。エスカレーターだって、あっちにもこっちにもあります。三人がそれぞれ、ちょっと興味のあるところで回り道をしたり、立ちどまって見物したりしているうちに、もうどっちがどっちだか、どっちから来てどっちに行くはずだったのか、サッパリわからなくなってしまいました。なにせ売場が広いので、相当おおぜいのひとたちが行ったりきたりしていても、すこぶるゆったりしています。しかし……。
とうとう最後の階段を登り、屋上に出たとたん。
「うわ、なんだ? この混雑」
「すごい人だかり!」
「見ろ。バイオネスバーガーだ!」
赤白青三色ストライプの派手な日除け布。何十本ものノボリに、バイオネスバーガーの真っ赤なロゴがはためいています。人込みは明らかに、その周辺に集中しているのでした。
まったいらでだだっ広い屋上は、ちょっとした子供遊園地になっています。プールにコースター、ゴーカート、白いお馬車のメリーゴラウンド。十五セント入れてパカパカ動く幼児用のオモチャ。バイキング船に回転ブランコ。ゲーム・コーナーやお花屋さん、犬猫熱帯魚などなどのペット売場もあります。そしてもちろん、ひときわそびえる観覧車!
催しものステージのすぐ脇に、白いプラスティックのガーデン・テーブルがおよそ百個ほど並べてあります。周囲には、タコス、シェイブ・アイス、フランクフルト、フィッシュ&チップスや絞りたてジュースなど、手軽な飲み食いのためのお店がズラリ並んでいるのですが、どれもこれもみごとにガラガラ、閑古鳥《かんこどり》。お店のおにいさんやおねえさんは、手をこまねいたふてくされ顔で、ぼーっと立っています。
これに対して、ただ一軒、圧倒的に繁盛しているのが、かの忌まわしいバイオネスバーガー。「はい、こちら、バイオネスバーガー、二十個です!」「ダブルチーズのバイオネスバーガー十個に、バイオネスコーヒーLサイズを五つですね! かしこまりました!」十人もの店員さんが、かすれ声をはりあげててんてこまい、目の回るような忙しさです。「ちょっとあんた、あたしが先よ、割りこまないでよッ!」「そっちの列ばっかり進んで、ずるいぞッ!」「ああ、もう早くして、もう我慢できない!」お客さんのほうもキイキイ声で大騒ぎ。いらいら足踏みするひと、やたらに列を並びかえるひと。カウンターにやっと届くような小さな子供がいるかと思えば、話のタネに並んでみたんじゃヨと聞きもしない誰かれに大声で説明するおばあさんもいます。両手にバーガーぎっしりずっしりのいかにも重そうな紙袋を渡してもらったオバサンなどは、周りじゅうの嫉妬の視線に恐れをなしてあわててダッシュで帰ります。
見ればガーデン・テーブルを埋めているのも、みんな、一様に、バイオネスバーガーの真っ赤な紙包を開けて、夢中でかぶりついているひとたちです。山のようなバーガーを積みあげて次々に口に放りこんでいるひと、両手に一個ずつ持ってングングやっては喉を詰らせて目をシロクロさせるひと、ぱんぱんに膨れたお腹を苦しそうにさすりながらそれでもノロノロとさらなるバーガーを噛み続けているひともいます。とうとう食べ過ぎでひっくり返って、たのむ、だれか、救急車を呼んでくれ、って呻いているひとたちまでいます。あたりじゅうにおおぜいひとがいるのに、誰ひとり顔をむけもしません。みんな、食べるのに必死なのです!
「しっかりして、いま消化剤をあげますからね」床にへばったひとりを助け起こしたネスが、アッと驚きの声をあげました。「あなたは!」
「まぁ、トンズラの!」ポーラもすぐに気がつきました。
見れば、このテーブルを囲んでいた男たちは、全員黒スーツに黒ネクタイ。黒い帽子もかぶっています。場末の殺し屋みたいな格好は、トンズラブラザーズ・バンドの陽気なジャズ・メン五人組ではありませんか!
順番に、ジェフがファースト・エイド・キットの中から差し出した胃散のカプセルをごくんと飲みます。タイコ腹をふうふう言わせながら、汗ばんだ鼻の頭で落ちそうにズレた黒眼鏡の下から、ネスやポーラを見上げます。
「おんやまぁ、これはこれは、誰かと思えば、レッド・キャップ・ボーイじゃねぇか!」
「プリティ・リトル・ガールも! 元気だったか〜い」
「スリークでの用事はすんだんか」
「トンズラブラザーズを覚えててくれたんだね」
「ぼくって目立たないから、人込みで見かけても、わかんないはずなんだけど」
「また逢えて嬉しいです!」と、ネス。「こちら、ジェフ、新しい仲間なんです。……ああ、それにしても、みなさん、なんだってバイオネスバーガーなんか食べちゃったんですか!」
「なんでってよぉ、そりゃ」
「流行りモンには取り敢《あ》えず手ェ出してみなきゃ」
「それが芸能人ってもんだべさ」
「ぼくって目立たないから、時代オクレでも、どってことないはずなんだけど」
「……あああ、苦しい! もう食べられない! でもまだ食べたい!」
「我慢してください!」ネスは厳しく言いました。「あれは危険です、お願いですから、もう絶対に食べないでください」
「え〜〜〜?」
「でもよぉ」
「無理だ、そりゃ」
「食べたいんだけど」
「喰いてぇ〜〜〜!」
「太るわよ」ポーラが言います。周りじゅうに、ピシッとひびの入るような声で。「際限もなく太るわよ。健康を害するほど肥満なんかしたら、間違いなく感性がニブるんだから! そしたら、もうまともな演奏なんてできるわけないんだから!」
ブラザーズはシィンと黙り込みました。
「誰も、二度も、あんたたちのコンサートになんか、来てくれなくなるんだからね!」
「……リトル・ガールの言う通りだ」ブラザーズのリーダーのラッキーが、真剣そのものにうなずいて、のそりとからだを起こします。「俺たちみたいな半端モン、バンドができなきゃ生きてる価値がねぇ……考えても見ろ! もしも、弦が押えらんねぇくらい指がぶっとくなっちまったらって!」
ぶるるるる! ブラザーズの一同に震えが走ります。
「で、でもよぉ、ラッキーの兄貴ぃ、喰いてぇよ、たまんねぇよ」
「腹ぁとっくに苦しいんだけど」
「あと、一個、あと一個だけ……」
「もう一個だけ食べたからってそんなに急に太らないと思うんだけど」
「俺だって喰いてぇ!」ラッキーさんが渋いバリトンで怒鳴ります。「だが、俺は、たとえ飢えて死んでも、死ぬまでスターでいたい! あくまでちゃんとカッコいい男のまんまで死にたいんだ……!」
「あのぉ、すみません。みなさん、良かったら」ジェフが割って入ります。「これをつけてみてくれませんか? 異常な食欲が押えられますから」黒いツヤツヤした紐のようなものを、まず、ラッキーさんの腕に巻きます。
「お?……おおっ、ほんとだ! どうしたことだ、もう腹がへってないぞ!」
「でしょ?」ジェフが笑います。「魔法のブレスレットなんですよ」
「わっ、俺にもくれ!」
「つけてくれ!」
「くれくれ!」
「ぼくも忘れないで欲しいんだけど」
次々に黒い紐をもらうと、ブラザーズたちはみな目が覚めたようにピンシャンします。食べたい気持ちもどこかにスッ飛んで、すっかり元気になりました。
「ありがてぇ……この恩はけして忘れねぇぜ、プレッピー」ラッキーさんが、黒いブレスレットをキラリとさせて、ジェフに握手を求めます。プレッピーというのは、だいたい、いい学校の生徒さんっていう意味です。ヤング・エグゼクティブともいいます。「俺たち、今夜もトポロ劇場でギグやっているからさ、聞きにきてくれ、な!」
陽気に手を振り、踊りながら、トンズラブラザーズが行ってしまいます。ずっとポカンと見とれていたネスとポーラが、早速ジェフに尋ねます。
「すごいな、あれ、なんだったんだ?」
「強力消化装置かなんかなの?」
「うんにゃ」ジェフはにやにやしました。「電線の切れっぱしさ」
「電線ん?」
「プラシーボ効果って言ってね、ただの水でも、薬だと信じて飲むと効くんだよ。あのひとたちは、こんなに食べたのに満腹してないのはなんか変だぞって思ってた。芸人として、だらしなく太るのはイヤだとも強く思った。だから、電線の暗示が効いたんだよ」
「……じゃあ、あれを、町じゅうのひとたちにただ配ってもダメなのね」
「誰にでも効くってわけじゃないわけか」
「そう。でも……思ってた通りだ。バイオネスバーガーは、こころに働きかけてる。どうやら、ひとの理性を消し去り、もっともっとって、限りない欲望をひきだすもののようだ……さぁて、どうやって撃退するかな……」
と。
「……ママぁ」
立ち尽くした三人組のすぐ横で、お上品なスーツのご婦人に手を繋がれた、小さな男の子――青い野球帽をかぶっています――が、悲しげな声をあげました。
「マイケル、あれ、たべたい」
「ジャンクですよ」スーツのママが言います。「買い喰いはよしましょう。バイキンがたくさんついていますからね。おうちに帰ったら、ママが美味しいハンバーグを作ってあげるから」
「やだぁ」子供はグズります。「たべたい、たべたい、あれ、たべたい。学校でもみんなたべてるよ。たべてみたいよぉ」
「……ンもう……しょうがないわねぇ」ママさんは優雅に頭を振ります。「……でも、あら、どうしましょう。ほんとにとってもいいにおい。なんだかママもたべてみたくなっちゃったな……ね、マイケル、一個だけ買って、半分こしようか?」
「ウンっ!」
親子はウキウキと弾んだ足取りで、とんでもなく混雑した列に並びにいきました。
「止めなくていいの?」ポーラがネスの袖をひっぱります。「あの、あなたの縮小サイズみたいなマイケルくんも、ママさんも、きっと恐ろしいことになっちゃうわよ」
「あのひとたちだけ止めても意味がないよ」ネスは苦々しげに首を振ります。「とにかく、夜を待とう。……どこか、隠れ場所をさがすんだ!」
三人は互いに肩に腕をまわしながら、のろのろと向きをかえました。その背中に。
「すみません、間もなく売り切れですー!」バイオネスバーガーの売り子さんの叫び。悲鳴、怒号、激しいブーイング。「たいへん申し訳ありませんが、あと二百個、あと二百個です。ただいまからはおひとりさま十個に限らせていただきます!」「おそれいりますが、二十名さまの後ろにお並びのかたで、どーしても、どーしても欲しいかたは、南店のほうに回ってくださいませぇ!」たちまち人がドッと動きだします。
「……マイケルは、食べずにすんだね」ジェフがホッとしたように言います。「あのママさんは、きっともうこれ以上並ぶぐらいなら、家に帰るだろう」
「今日はね」ネスは肩ごしにふりむいて、まだダダをこねながら引っ張られてゆくマイケルを見つめて、目をすがめます。「でも、明日になればわからない……だから、今晩じゅうにきっちり決着をつけてやる!」
大観覧車が夕陽に沈み、閉店の音楽が流れます。お客さんたちがぞろぞろと階段を降り、エスカレーターを降り、それぞれの家路へ散ってゆきます。店員さんたちがあたりを片付け、照明を消します。急に寂しい風が吹き、丸い月のおもてをひとはけの雲が流れます。ペットショップの子犬たちがきゅーんきゅーんと鳴きました。
ガードマンの靴音。暗闇を探る懐中電灯。
そして、それも、遠ざかります。
「……よし……」
「行くか」
犬用オシッコ・シートの段ボールが開き、ネスが出ます。ラビット・フードの大袋の陰から、ジェフが出ます。
「ポーラ、おい、ポーラ、起きろったら」猫にゃんハウスのふかふかのモヘアの上でまどろんでいたポーラが、ムニャムニャ目をこすりながら立ちあがります。
ひとけのなくなった屋上遊園地。満月ながら雲がちの空。飛行機の衝突防止用の赤灯が、避雷針の上で点滅しています。ひんやり湿って黒く見えるコンクリートを、三つの小柄な影がサッと走り抜けました。
まっすぐ、バイオネスバーガーの特設スタンドに駆け寄ります。三色日除けは丸めて格納されていましたが、ノボリはそのままで、夜風にぱたぱた揺れています。ジェフがスタンドの裏手の通用口の錠をはずしました。忍びこみます。
ペンライトの小さな黄色い丸灯《まるあか》りに、ステンレスの流しや棚や大きな冷蔵庫が照しだされました。あちこち開けてみます。ポリ容器に、紙容器。ストローやコップ。
「食材は置いてないな……」
「もう売り切れだったもんね」
「ちょっと待て……エイリアン反応があるぞ」ジェフの手の中で、インテリジェンス・ウォッチがぴこんぴこんと鳴っています。見かけによらずメカに強い、土星さんのくれた、あの時計です。「こっちだ……このでかいタンクだ」
「これって」
「水……?!」
ねじを緩め、ジョイントを外します。ネスとジェフが力ずくでなんとかひっぱりだしたタンクの蓋を開けてみます。照します。
「中になにかある。沈んでる」
「光ったわ」
「出してみよう」
「だいじょうぶ? 噛みつくかもしれないわよ」
「なんとかなるって」ネスが腕をつっこみます。何か、小さな固いものです。生き物のようではありません。でこぼこしてます。取りだします。
「黄金像……?!」
そう、それは、あのマニマニの悪魔の縮小レプリカ、ミニミニサイズのマニマニです! カーペインターが我を忘れ、トンチキさんが欲しがった、あの不気味な黄金像の分身です!
読者のみなさんは、これの本家本元が、ますますデブりひどく具合の悪そうなポーキーのすぐそばに置いてあることも、既にご存じですね!
「これは金じゃないな……金に似てるけど、なにかが少し違うようだ」ジェフが時計の表示を読みます。「微弱なオーラを放射してる……アイソトープみたいなものかな。……元素番号が表示されない……おい、どう見てもこりゃ、地球上の物質じゃないよ、ネス!」
「水の中に……」ポーラは顔を押えます。「じゃあ、何もバーガーショップに限らないじゃない! もし水道局にこんなのが仕掛けられちゃったとしたら……」
「たぶん、自分が影響されないためだよ」ネスが冷静に言います。「特別な店の、特別なハンバーガーとコーヒーにだけ、仕掛けをしておいたなら、それを食べたり飲んだりさえしなければ、自分は安全なまま、みんなを狂わせてしまうことができる」
「自分って、誰さ?」とジェフ。
「売り出したやつさ」ネスが眉をしかめます。
「ポーキー?」ポーラが小声で囁きます。「いま、ネスは、ポーキーってひとのこと考えたね? それって、あの……あたしたちが閉じこめられた時に意地悪をいいに来たやつでしょ。あ! あの時、あいつ、ネスバーガーのレシピを教えろって言ってた……」
「そこで何をしている!」
パッ! いきなりライトで照されます! まぶしい! 手をかざします。ネスが大急ぎで奪ったミニミニマニマニを背中に後ろ手に隠します。
「なんだ、子供じゃないか」大声で笑うのは、どうやらデパートの警備員さんのようです。不気味なでっかい警棒を油断なく構えています。「泥棒め、そんなにバーガーが欲しいのか! さぁ、出ていきなさい!」
三人はゆっくり立ちあがります。ポーラが、チラッとふたりに目配せをします。
「ご、ごめんなさい、おじさん、グッスン」突然、啜り泣き声を出しはじめたポーラの頬にドッと涙があふれます。「うっうっ、わたしたち、えっえっ、迷子になっちゃったんですうぅううう! うわぁぁぁぁん!」
「お、おいおいっ! こら、泣くな、泣くなったら!」ひとの良さそうなオジサンは、たちまち目にみえてオロオロしました。なんたって、ポーラは、こんなに思い切り顔を歪めて泣いていても、誰もがハッとみとれちゃうほどの美少女です。ライトが効果的に当るように、さりげなくポーズも決めています。「そんなに泣いたら、可愛い顔がダイナシじゃないか、ね、落ち着いて。落ち着きなさいっ!」
この間にネスとジェフは、そろそろ灯りの範囲からはずれます。
「あ〜〜ん! オジサン怒ってるー! 怒鳴るー! ぶつー! 怖い〜〜〜、ああああん!」
「ああ……いや、コホン。怖くないぞ。オジサンはいいひとなんだから。ねっ」
「ほんと?」ポーラは両手の指の隙間からオジサンを見上げます。「怒ってない?」
「ああ。もう全然怒ってないよ」オジサン、両手を広げます。「ほら、もう、この警棒だって、捨てちゃう」ぽーん! 思い切り遠くに放ります。
「よかった」ポーラもにっこり。マンガだったら、大輪のバラや百合を背負ってしまいそうな、極上の笑顔。「じゃあ……覇《は》ッ!!」
ほっそりときれいなポーラの脚が高々とあがり、一瞬、スカートの裾がきわめて危なく翻《ひるがえ》ったかと思うと、あっけにとられたままのオジサンの長い顎を……ボガッ! 蹴りつけました! 「ムガゴガッ!」たちまち仰向けに倒れる警備員、どこかにふっとぶ懐中電灯!
「ごめんね、オジサン。バイバイ!」
ポーラは天使の微笑みを浮かべ、チョコンとスカートの裾をつまんで挨拶すると、足早にネスとジェフとを追いかけました。「あん、待ってぇ」
「……女って……」と走りながら呟くジェフ。「怖い」
「まったくだ」うなずくネス。
ガーデン・テーブルの間を駆け抜けようとした、その時です。
「待て……!!」
ぱぱぱぱぱ! ぱぁっ! 遊園地じゅうの照明が点灯します! ぐんっ。ごおおお! 鈍い音をたてて、観覧車が、コースターが、メリーゴーラウンドが、動きだします。ハッと振り向いた三人は見ました。催物ステージのど真ん中、ピンクや緑の照明を浴び、レスリング着や空手着のオジサンたちを大勢率いて立ちはだかったのは――真っ赤なマントに銀ブーツ、青い仮面はともかくも、ありもしない首にまきつけた蝶ネクタイがうっとうしい、いとも醜い百貫《ひゃっかん》デブです!
「わははははは、そのまま逃げられると思うか!」ビブラートを聞かせたマイクに、轟く声もにくにくしい。「もうこれまでだ、ネス! おまえは結局、おれの足元にひれ伏す運命だったのだ!」
「ポーキー……!」ネスは大きくため息をつきます。「やっぱり、きみがいたんだね……でも、いったいどうしたんだ、そのからだは?」
「ふふふ、太ったのさ。太って悪いか!」ポーキーは挑戦的に言い張ります。「おれは偉大だ、偉大だから、文字通り、見た目も偉大になったのだ! 慣れるまではちょこっと具合が悪かったけど、いまはもう平気だ、絶好調だ!」
「けど、不細工」と、嫌悪まるだしのポーラ。
「よせよ、刺激するな」ジェフが顔をしかめます。
「さぁ、行け、おれの可愛いガードマンたちよ!」ポーキーはサッとマントを広げると、両手で金貨を噴水のように飛ばします。じゃらじゃらすごい音がします! 「あいつらを捕まえたら、たっぷりたんまり、褒美《ほうび》をやるぞぉ!」
「うおっしゃぁ!」
「やったるぜぇい!」
ずん、ずん、ずん! 元レスラーが、空手家が、次々にステージを降りてきます! 椅子をはらいのけ、テーブルを倒し。みるみる三人に迫ってきます!
「ま、まま、まずいよ、ネス!」ジェフが時計を覗きこみ、ネスの肩を掴みます。「こいつら全員、エイリアン・オーラを発してる! 理性がどっかにぶっとんでるんだ!」
「けど、ほんとは普通の一般市民でしょ」ポーラが両手を握りしめます。「きっと、家に帰れば、素敵な旦那さまだったり、子煩悩《こぼんのう》なパパだったりするのよ……戦うわけにはいかないわ!」
ネスは無言です。動きません。
くちびるを噛みしめて、ただ、まっすぐ、壇上のポーキーを見つめたきりです。
じりっじりっ。ガードマン軍団が油断なく、円を描いて囲みます。ポーラが、ジェフが、背中あわせに身構えます。「きえぇえええい!」誰かが叫び、ポーラがビクッとします、ガードマンたちが掴みかかってきました!……その刹那《せつな》!
きらりん!
ネスは一直線に腕をあげ、高々と何かを掲げました! 黄金像です! ミニミニマニマニです! あたりの照明を反射して、すさまじいばかりに輝きます。まるでレーザー光線のように四方八方に振り注ぐ、黄金の光、その強さ、まぶしさ! ガードマンたちは目を射られ、思わず呻き、足を止めます。
「こんなもの……!」ネスはポーキーを睨んだまま、くぐもった声で言います、てのひらにグイッと力をこめます。「こんなものに、人間が、負けるもんかぁあああぁっ!」
ネスの手が、腕が、純白の光に包まれます! ネスの願いが、ネスの祈りが、ネスのこころの絶叫が、小さく細い少年の指に恐ろしいばかりの力を与えます……!
ぐにょりっ! 黄金像が潰れてゆきます、まるで柔らかいチョコレートででもできていたかのように、よじれ、くびれて、曲ります、そして、さらに、スパーク!!
「うわぁあああ!」
「ぎぁはぁあああ!」
ガードマンさんたちが苦悶をあげ、悲鳴をあげ、喉や頭を掻き毟《むし》って、その場でバタバタと倒れます。
「……消えた?」ジェフが時計をポーラに見せます。「ほら、見て! さっきの異様な数値が……エイリアンの波動が、ほとんど消えてしまったぞ……!」
「すごい!」ポーラは目を輝かせ、まだじっと立ったままのネスを振り仰ぎます。「ネス! すごいよ!」
ネスは振り向きません。手を降ろし、歩きだしました。バットも、ぼろぼろのもろい岩のようになった元ミニミニマニマニも、無雑作に落として。
「うわ……わわわ」ステージ上のポーキーは、からだじゅうの肉を波打たせながら、よろよろと後じさりをしました。どん、と壁にぶつかり、反動で前のめりに転びかけます。マントがどっかにひっかかり、ビリッと破けてしまいます。「わわわ……おい、やめろ、よせ、ネス。来るな。いまのは冗談だ、冗談だったら!」
ネスはゆっくりと進みます。まっすぐポーキーを見つめたまま。無言のまま。
「……これは……」ジェフとポーラはマニマニの残骸のところにしゃがみこんでいます。汚らしいその塊りは、不気味な感じの赤や青に、時折ギラリと輝きます。「……隕石か……?!」
「怒ってんだな、わかるよ」ポーキーは壁伝いに横に動きます。仮面を毟り取り、卑屈な愛想笑いを浮かべながら。「おまえの腹立ちはもっともだ。大事なネスバーガーを冗談のタネにしたんだからな! けど、おれの立場にもなってくれよ、親父もモノトリーさんも、すげー喜んでくれてさ! ほら、おれって、孤独なデブだろ? 誰にも誉められたことも愛されたこともないだろ? だから、つい、おだてられるとその気になって……ほら、よく言うじゃないか、豚もおだてりゃ樹に登……うわっ!」足元がなくなり、ポーキーがステージから転がり落ちました! 「ひいい、痛ぇ……お?」転がっていった先に、観覧車の乗り場があります。追い詰められた顔つきだったポーキーの目が、キラッと悪魔的な緑色に光ります。つんのめりながら、走ります!
ネスが、むっ、と顔をしかめます。足を早めます。
「へへーんだ!」ポーキーは観覧車のワゴン――黄色いやつです――にサッと乗りこむと、窓からムッチムチのお尻の一部をつきだして、ぺーんぺん! とぶってみせました。ワゴンはみるみる、登っていきます! 「はーっはははは、どうだ、ネス、来れるもんなら来てみやがれ!……あれ?」
ネスは素速く観覧車に飛びつきました! ポーキーとの差はワゴン三つ。ぐんぐん上昇しだしたそれの、窓枠に足をかけ、屋根の手をかけ、懸垂《けんすい》の要領でからだをひきあげます。
「ほ、ほほほ、ほんとに来るのか? マジのほんとに?」ポーキーはガチガチ言う前歯の間に手をくわえ、あっけにとられ震えていたかと思うと、フン! ッと鼻息を吐き目を怒らせ、突然、プロレスラーのみたいな頑丈そうなブーツを脱いで投げました!
まっすぐ顔めがけて落ちてきます! 急いでサッとひっこめた頭をギリギリかすめます。おかげでネスはよろめき、バランスをくずしました! 「きゃあ!」ポーラの悲鳴! ネスは支柱に手をかけ、持ち堪えます。ポーキーは腹のでっぱりに苦労しながら屈みこみ、もう一方の靴も脱ぎます、また投げます! 「えーい、落ちちゃえ!」くるくる回転するでかいブーツの踵に、ギラリンと拍車! こんどはモロに肩に当りました! ウッ、ネスは片手で肩を押え、仰向けに屋根に倒れこみます! ごん! モロに後頭部をぶつけたので、目から火が出ました、頭がフラッとなります。「あはははは、ざまみろー!」ポーキーの笑い声。ネスはそのまま力なくワゴンの屋根を滑ります。ポーラの悲鳴! 頭が屋根からでっぱりだし、首がガクンと後ろにそります。そのショックでネスはハッと我にかえりました! 手が指が、屋根板の継ぎ目を掴みます、反動をつけて起きあがります、ギッとポーキーを睨みます。「あわわわわ!」ポーキーは中にひっこんでしまいました。
ネスは静かに立ちあがりました。ワゴンはますます上昇中、町のあかりを見下ろして、夜の冷たい空の中へ。もっと上へ、さらに、上へ、ポーキーのそばへ! 風が吹き、シャツの裾をはためかせます。ネスはからだを伏せて、風をやりすごします。帽子が脱げて飛んでゆきます!
「ネスー! やめてぇぇぇっ!」バットを抱き、落ちて来る帽子を捕まえて、ポーラが大声で叫びます。「お願い、もうやめて、危なぁい!」
「たっ……くそっ……どうしたっ!」こちらはジェフ。観覧車の操縦ブース。レバーに取りついて、渾身《こんしん》の力で押し戻そうとしているのですが、なぜかビクとも動きません。「なぜ止らないんだ、このクソメカっ!」足元の箱をガンガン蹴りますが、なんにもありません。
やがて風がやみます。ネスは息を整え、立ちあがります。こんどは足をかがめました。……気合いをこらして、こらして……ジャンプ! 「きゃあああ!」ポーラは思わず眼を瞑りましたが……もう一度目をあけて、ほうっと肩をおろしました。ネスは、ひとつ上のワゴンの脚のところに取りついています! 歯を喰い縛り、懸垂の要領でからだをもちあげます。まだもっと登るつもりみたいです! 「すごい無茶……」ポーラは両手で頬を押えます。「無茶だけど……やってくれるじゃない、ネス、かっこいいじゃない」ぶつぶつ呟きます。知らず知らずのうちに微笑んでいます。
ジェフはブースのパネルを開けて、配線を覗きこみました。「ああ、ちくしょう……こりゃだめだ、どれがどれだかわからない!……変なの切ったら、ネスが振り落とされちまうし……!」なにせでっかい観覧車です、頂上までは、まだたっぷり五分はかかりそう! ジェフは月の輝く空を見上げ、眉をしかめて何か考えこんでいましたが、突然ブースを飛びだします。
「ポーラ、マットを用意しよう! もしか落ちた時のために」
「あ、そうね!」
ふたりは屋上を渡って、にっくきバイオネスバーガーの日除けをひっぱがしはじめました。観覧車はますます回り、ますます動き、ネスは次のワゴンをクリアしました。いまやついに、ポーキーの乗った黄色いワゴンに飛びつこうとしています。そしてそれは、もうじき頂上に、一番てっぺんに、さしかかろうとしています!
「えいっえいっ、ヨイショッ!」
「よし、はずれた!」
ジェフとポーラがヨットの帆のように丸まった日除け布を抱えて、大急ぎで観覧車の下に駆けつけた、ちょうどその頃。
ばらららららららら! 周りじゅうを踏み潰すような凄じい音がしたかと思うと、すぐ隣の大きなビル――モノトリー・ビルです! ――の屋上から、大きな黒いものが飛び立ったのです!
「ヘリ?!」ジェフが叫びます。「ちくしょう、あんなものまで用意していたのか!」
「ポおおおお、キいいいいぃぃ……!!」アンブラミ・ミンチ氏が、ヘリコプターの窓から縄ばしごを投げおろします。ヘリが旋回しているので、声はセンサラウンドでドップラー効果します。「さあぁ、掴まれぇ、ポーキー!」
「わい、サンキュー、パパ!」ポーキーが黄色いワゴンから小山のような身を乗りだし、縄ばしごを掴みます。その瞬間、ガクンとヘリが揺れましたが、いやいや、大丈夫、持ち堪えます。
「いやっほーーー! へーっへへへへ! どうだ、ネス、見たか〜!」ぶっくぶくに膨れまくったポーキーの醜いからだが、縄ばしごをブランコのように揺らしながら、ネスの乗った観覧車のすぐ傍らを通過します。「ぐずバカドジのとんま野郎! おまえなんかに捕まるもんか、あっかんベロベロベ〜〜だ!」
ウィンチで縄ばしごが巻き上がり、ポーキーの巨体が機体に消えます。いったん遠ざかったヘリがまた近づいてきました。攻撃されるのか。ネスが思わず緊張すると……ポーキーは、窓からわざわざ、あの本家本元のマニマニの悪魔を見せびらかして、がははははは、と笑ったのです!
そして、ヘリコプターはくるりと向きを変え、南の空に、大海の方角に、どんどん飛んでゆきます。みるみる小さくなります。
「ポーーーキーーーー!」
くやしげなネスの叫びが、夜の町に響き渡りました。
「いやはや、なんだってあんなに金かね金かね言うたものやら……アテにもさっぱりわかりまへんのや」モノトリーさんは気弱なイタチ顔を恥かしさで真っ赤にしながら、ぺこぺこ頭を下げました。「もう、バイオネスバーガーなんて、ニセモノを作るのは止めにします。これからは、まごころこめて、オネット本店の指導通り、老舗のほんまもんのネスバーガーをあんじょう作らせていただきますよって、堪忍したって、どうか、ごめんなさってくだはりませぇぇぇ!」
ヘリの飛び立ったビルの屋上に、モノトリーさんはひとり、放心した顔で、ぽつんと腰を抜かしたように座りこんで取り残されていたのです。マニマニの悪魔がそばからなくなると、限度もなかったお金儲けへの欲望が急にしぼんでしまったようです。それでも、その間の記憶がなくなってしまったわけではありません、自分が自分でないような顔をして、おかしくなっていた時にしていたことは、みんな逐一覚えています。
恐縮し反省し責任感じたモノトリーさんは、これからは愛と福祉と商売繁盛を人生目標に、力強く生きてゆくと宣言しました。さっそく夜間特別勤務手当つきで、各店舗に元ガードマンさんたち――やっぱり憑きモノが落ちたように、優しい強いオジサンたちに戻りました!――を派遣し、水のタンクを回収します。取りだされた不気味なマニマニ像を、ネスがPKで破壊します。
長かった夜が明けてゆきます。モノトリー財団は緊急会議を開き、例の巨大ビルを大改装して、困っているひとたちを助ける施設を作ることを決定しました。フォーサイド病院に巨額の寄付を送り、暴飲暴食でお腹をこわしたり、奪い合いで怪我をしたひとたちの面倒を見ることも満場一致で承認です。デパートは儲けよりも便利と楽しさを追求し、都会のひとたちのオアシスとなるべく努力することになりました。
人々のバーガー中毒も拭ったように消え去って、フォーサイドはまた、平和で活気あふれる大都会の顔を取り戻しました。
そんな中ネスは、ポーキーの命令で厳重に封鎖していたという空き地に行ってみました。案の定、また新しいパワースポットが見つかりました。ネスの持っている「音の石」がマグネット・ヒルのメロディを記憶します。観覧車での戦い以来、どこかしょんぼり落ち込んでいたネスも、これを機に気分をいれかえて、もとの元気で勇敢なスポーツマンらしくなりました。
さて三人は、モノトリーさんのご好意で、半日観光も楽しみました。恐竜博物館ではティラノサウルスの骨を見学し、トポロ劇場ではトンズラブラザーズのご機嫌なバンドを聞きました。デパートの一番いいレストランで、美味しいディナーもいただきます。
その素晴らしい会食の最中に、アップルキッドから電話がかかってきたのです。墜落以来置き去りにしてあったスカイウォーカーを、直してくれたというのです! 空が飛べれば、消えたヘリの後を追うことができます。ポーキーが次に何をしようとしているとしても、しっかり阻止しなくてはなりません。
財団のひとや都会のひとたちがおおぜい手を振って見送ってくれる中、出演契約がちょうど切れたトンズラブラザーズのご好意で、またまた楽しいトラベリング・バスに乗せてもらって、早速スリークに帰ります。キッドとの再会の喜びも束の間、ぴかぴかに一新したスカイウォーカーに、こんどは三人で乗り込みます。
「よおし、行くぞ」
「進路南! 海の彼方!」
そこにいったい何が待っているのでしょう?
「はっきりは言えないんだけど」とポーラ。「こんども誰かに逢えるみたい……誰か、かなり不思議な神秘的な雰囲気のひとと……ええ、もちろん、悪いひとじゃないわ。きっと、もうひとりのともだちよ!」
予言はこころウキウキするものでしたが、ネスはちょぴっとだけ寂しい気持ちを押し隠していました。だって、懐かしいイーグルランドとは、これで、しばしのお別れなのです。
これから行くのは、まだ見たことも聞いたこともない、よその国なのです……。
7 天国に一番近い街
水平線に沈みゆく、かげろう立って歪んだ太陽。赤い夕焼けの作りだす一直線の帯、高く低く寄せる小波《さざなみ》……。
グラニュー糖をこぼしたような白い砂浜が美しい、リッチな海辺のリゾートです。
静かにたゆたう小舟の上で、ぬくもりの残るビーチ・マットで、シルエットになったヤシの樹の陰で……世界じゅうからやってきたカップルが、恋の季節に身を焼いています。互いに腕をからめたり、頬と頬をふれあわせたり、目と目を見つめあったり、髪のひと房に指に巻きつけてくるくる盛んにねじったりして……。赤いバケツと黄色いスコップで、一心に砂の城を作っている幼いふたりもいます。
この世の憂《う》さも、時の過ぎ行くのも、明日のゴハンの心配も何もかもみな忘れ、愛する誰かさんとただふたり、生命の輝きに互いのはかなさを照し合う……そんな場所なのでございます。
いやはやカップルしかしカップルそれにつけてもカップルカップル。日暮の風吹く海辺には、ほぼ五メートルおきにカップルばっかいるんであります。もしカップル・ウォッチング隊なんてものがこの世にあるとしたら、ここはカップルの宝庫、カップルのサンクチュアリだと大感激するに違いありません。
「ジュテーム、モナムール」アランが、ピエールが囁きます。耳をくすぐるような、ムードたっぷりの声で。「セマニフィーク、ラヴィアンローズ」ルイがレオーが恋人の顎をそっともたげます。
「オーシャンゼリゼ、トレビアン」マリーが、カトリーヌが長いまつげをうっとり震わせ、「ショコラオレ、プリンアラモード」フランソワーズがシャルットが、甘く優しく呟きます。「カラメルボンボン……」
ジャンとジュヌビエーブが、半びらきにしたくちびるとくちびるを、いまやまさに触れ合わせようとした、その時。
きぃぃぃぃぃん!
薄闇いっぱいに響き渡った、耳をつんざく金属音! カップルたちは愕然として、空のあちこちを見上げます。
「ケスクセ(あれはなんですか)?!」誰かが、高いところを指さします。青い目や緑の目やハシバミ色の目が吸い寄せられるように集ったその附近、針でついたような一点が、たちまちカナリア・イエローの丸い機体になります。こっちに来る!
舟遊び中の恋人たちは必死に漕いで脇に避け、ビーチ・マットに寝そべっていたカップルは飛び起きて砂につんのめりながら走りだし、ヤシの木陰でイチャイチャしていたふたりは、ヒィィ! とばかりに抱き合いました。砂の城建築中のちいちゃなちっちゃな恋人たちも、腰を抜かしてぽかんと口を開けています。あっちとこっちのカップルが、あわててぶつかりあって混ざって起きあがって……やっと手に手を取って走りだしてみたら、いつの間にか彼と彼女を取違えてるのに気づいて大騒ぎ、なんてことにもなったりします。
地上のパニックもなんのその。カナリア・イエローの飛行物体は、ふらふらっとよろけたり、ストンと落っこちたりして高度を失いながら、みるみるうちに巨大化します。夕陽の名残りのオレンジをわずかに留めた海面に、ザァッとひと筋の衝撃波を引きずり、宇宙船めいたガニ股の着陸脚を水に触れさせて凄じいまでの白波を蹴たて……一直線に進みます……ずざあぁああああ、ずしゃああああん!
浜通りと浜そのものの間には、高さ三メートルほどのコンクリート護岸がありました。スカイウォーカーは――あ、申し遅れました。丸くて黄色いこの機械は、他でもない、直ったはずのスカイウォーカーです――そのコンクリ壁に激突し、半ばのめりこんでやっと停止したのであります。
思考停止状態のカップルたちのあっけにとられて見守る中……ポテン! 中から乱暴に扉部分が蹴り開けられ、勢いあまって外れて落ちます。三人の、ぐったりした子供たちが、助けあいながら出てきます。
「つ、着いたの? ここ、どこ?」
「ひょっとして天国じゃないか」
「ああ、ぼくも、もう死んだような気がする……」
へたへたと砂に座り、あるいは仰向けに倒れこんだのは、もちろん、ネス、ポーラ、ジェフの三人組。
「なんだ、あの子供たちは」
「まぁ、あの女の子ったら、生意気! ふたりもボーイフレンドがいるなんて!」
「いこいこ」
せっかくのムードをダイナシにされて腹をたてたカップルが、プンスカ怒りながら踵《きびす》を返します。「うほ、あの娘《こ》かわいい♪」さっそくポーラを見染めちゃったプレイボーイさんの袖をあわててひっぱるヤング・ギャル。「あのぐらい若いコもいいわねぇ」舌嘗めずりして連れをギョッとさせる裕福そうなレディ。野次馬たちはそれぞれの思惑ムキダシの態度で次第に散らばってゆきましたが、当の三人は疲労困憊《ひろうこんぱい》、気づく余裕もありません。
「やれやれ」
「ともかく、来たわね」
「あ〜あ。また壊しちゃった。こんどこそ修理不能かな」
順調な飛行を続けていたスカイウォーカーが、ある瞬間から突然、メチャクチャになったのです。
「なー、教えてくれよ。なんで、あんなことになったんだ、ジェフ?」
「ウン、それなんだけどさ。ぼくが思うに……あの時って、ネスはハンバーガーを食べようとして電子レンジをつけたろ? ポーラは掃除機をかけだしたし。ぼくが、現在地の座標を調べようとして端末を立ちあげた……したら、突然、パシッ! って真っ暗になった。……たぶん、電気が足りなくなって、ブレーカーが跳ねたんだと思う」ジェフは眼鏡を外し、鼻のつけねを揉みました。「それで、メイン・コンピュータがハングアップしちゃったんだ」
それが遥かな海の上。本来手動装置の設置されていないスカイウォーカーで、スッタモンダのてんてこまいの阿鼻叫喚《あびきょうかん》のそのあげく、一番近くに見えた陸地にやっとなんとかたどりついたところなのでした。安堵のあまり、グッタリもしますよね。
「……そっか」と、ネス。「エアコンとヘア・ドライヤーとトースターをいっぺんにつけちゃだめ、みたいなアレだったのか」
「そんなにアンペアが足りないなら、ひとこと言っといてくれれば良かったのに!」ポーラが砂まみれになった靴を脱いでザァッと中身をあけながら、ブツブツ言いました。「そしたら、いっぺんに電化製品使ったりしないように気をつけたわ」
「ごめん。でも、悪いけど、ぼくも知らなかったんだよ」ジェフはシャツの袖で眼鏡のレンズを拭きます。「だって、前にはひとりしか乗ってなかったんだもの。そんなにいっぺんにいろんなこと、やろうと思いつきもしない」
「ま、とりあえず、怪我はなくて良かったわ」ふうっと息をついて起きあがったポーラは、なにげなくすぐ横のジェフを見て、びっくりしました。
肩を落とし、小首をかしげ、せっせと眼鏡を拭いているジェフ……つまり眼鏡をかけてないジェフ……長く濃いまつげ、凛々しい眉、すっきり通った鼻筋、広い額にハラリと落ちかかる前髪……。どこからともなく、甘い風が吹き、ポーラの鼻腔《びこう》をくすぐりました。
「ジェフ!」ポーラは叫びました。「んまぁ、驚いた。知らなかった。あなたって、ハンサムだったのねぇ」
「え、あ……ああ」ジェフは大急ぎで眼鏡をかけようとします。「そんなことないって」
「ちょっとやだ、なに照れてんの。もっとよく見せてよ……!」ポーラは眼鏡を奪い取ります。「あらあら、見違えるわ、まるで別人ね。そんなきれいな顔、隠しておくなんてもったいないじゃないの、バカなジェフ!」
「返せよ」ジェフは立ちあがり、眼鏡がないのでよろめきます。あてずっぽうで、腕を伸ばします。
いつになくぶっきらぼう。口調もとんがっているみたい。ネスは『なんかヤバそうだぞ』とことばを飲み、不安なまなざしで見守りますが、うかれたポーラは気付きません。
「ああ、うんうん、それそれ! いいわぁ、美形には怒った顔が似合うものだわ♪ ねぇ、ジェフ、この際コンタクトにしようよ、ねっ!」ひらひら、ひらりん、蝶が飛ぶように逃げます。
「ポーラ、ふざけるなよ」スカッ! からぶり。ジェフの手が、脚が、ぶるぶるワナワナ震えます。「いい加減にしろ」
「なぁにぃ、すごんじゃって」ポーラは両手を腰にあて、びっくりしたように目を見張ります。「あんたなんか怖くないわよ〜だ! そんなに欲しいんなら、取り返しなさいよ。こっこまっでおいで! ウフフフフ」
「もうっ!」
ジェフがダッシュで迫ります。ポーラは一直線に走っていたかと思うと、サッと横に飛び退いたり、振り向きざまに見当違いの方角に滑りこみをしたりします。サンゴ砂を蹴たてて、追いつ、追われつ。一見すると、まるで犬のようにじゃれあう幸せまっしぐら青春真っ只中《ただなか》のヤング・カップルそのものであります。
手を繋いだオシャレなご老人カップルが「まぁまぁ、まるで若い頃のあたしたちみたいですねぇ」「まったくだ」「いのち短し、恋せよおとめ」「ほんとうだ」なんて言いながら、浜通りの歩道を、ゆっくりと通りすぎて行きます。
「……変だな……」ネスは頬に手をあてて考えこみました。「ジェフは、なんであんなにムキになって怒るんだろう?」
「岡惚れかね、少年」
背中のほうで声がしました。ネスが振り向くと、知らないひとがニヤニヤ笑いながらジェフとポーラを見つめています。
いかしたアロハにサングラス、頭頂の薄い金髪を嵐に薙ぎ倒された麦畑みたいに真横にとかした小柄なオジサンです。ゴム草履の足をザッと組み、スミレの花を一輪くちびるのあたりで弄《もてあそ》びながら、壊れたスカイウォーカーにもたれています。
「なかなかに得難かりけり恋の味……女ごころのさみだれに流々《るる》転々や最上《もがみ》リバー……いやいや、そんな顔をしたもうな、恥じることはない。嫉妬はオレンジにも似て甘酸っぱく、羨望は胸をかきむしる炎の酒だ。酔いから覚めぬうちこそは、ただならぬ力の源のよりとも。それでこそ青春、それでこそ主人公というものではないか?」
「あのう……?」ネスは面食らいました。
「しかしきみよ知るや南の国、そも女性という現存在は我々Y染色体の呪いを受けし被造物《ひぞうぶつ》に比べて本来勘や直感の気配の察知に遥かに優れているものだ。イノセントにも無防備なきみのプティラパンはたぶんご当地名物恋熱にさっそく感染したものに違いない。かくも気高ききみすらもその何かを気遣うあまり原子のごとく縮退したこころの壁を打ち砕くなら、場のアトモスフィアに抵抗する無益な戦いを止めることができるだろうに……おお神よ助けたまえ、人生は花火、美しけれどあまりにも短い」
「アトモ……なんですって?」
「雰囲気。知っていたかね、これは科学用語なのだ。〈窒素雰囲気中のGaN温度上昇〉なんつ言い方をする。オシャレだと思わないか?」
「何を言ってんのか、全然わかんないよ」ネスはなんだか腹が立ってきたので、プイッと顔を背けました。「難しい話は、あの、眼鏡のやつにしてください」
「きみがいい」ゴム草履男は不意にしゃがみこむと、ネスの肩に腕をまわし、耳元に熱い息を吹き掛けます。あいているほうの片手で、ネスの肘を、あばらを、半ズボンから剥きだしの腿を、みょうにネットリと撫でまわします。「ぼくにはきみのほうが、彼なんかよりずっと美しく見えるよ、ダーリン」
「な、なな、なんですか!」ネスはゾゾゾッとして、飛びのきます。「変な冗談はやめてください!」
「冗談ではない。ぼくはいつでも本気さ。なぜならぼくの名はトゥルーマン……真実の男なのだから」オジサンは紫色に濡れた酷薄《こくはく》なくちびるをニッと笑わせると、アロハの胸ポケットから真珠色にテカテカ光る名刺を取りだしました。細い金の流麗《りゅうれい》な筆記体で『トゥルーマン・アホーディ 芸術家』とだけ、書いてあります。「色は匂えど苦悶の天使よ、常に曇りなく真実を見抜かずにおかぬぼくの灰色の瞳には、きみがただの子供じゃないことぐらいとっくの先からお見通しだ。世界を背負うのは重たかろう、真冬に裸足は冷たかろう……助言が欲しくなったら、いつでも尋ねてくるがいい。ぼくは毎日夜から朝まではストイック・クラブにいるからね。……サリュー、トワ」
スミレの花に短いキス、それをぽかんとしたネスの頭の上に投げかけたかと思うと、トゥルーマンは優雅な礼をひとつ、鼻歌まじりに行ってしまいました。
「……なんだ、あれ……?」ネスはまだぼーっとしています。
「ネスー!」眼鏡を取り戻したジェフが走ってきます。「おい、無事か?」
「無事? って、ああ。なんで?」
「ごめんね、ひとりぼっちになんかして」ポーラも息を切らして戻ってきます。「怖かったでしょ、ホモに迫られて」
「ホモ?」ネスはぱちぱちと瞬きをしました。「あのひとが?」
ジェフとポーラは目と目を見交わし、こりゃダメだ、と頭を振りました。
「とにかく、泊るところ、さがしましょ」
しかしそれは折しもヴァカンス・シーズン真っ只中。貧相な子供の三人組であることが嫌われたのでしょうか、ホテルはどこも満室です。あっちでもこっちでも断られ、ダメもとでやってきたのは、中で一番大きな立派な、いかにも高そうなホテル・ド・サマーズ。
ブーゲンビリアのアーチを潜ると、小さなお城みたいな建物と庭が広がります。緑の芝生、色とりどりの花壇。スイカズラの甘い香り、南国の鳥の情熱的な歌。神話の登場人物の格好をした彫像が何体も何体も、リズミカルに形を変える巨大な噴水に濡れています。
「なんか、すっごーい……」
「高そうだね、ここ」
「う、うん……たぶん……カード使えると思うんだけど……」
おそるおそる緩い坂道のファサードを登ってゆく三人を、普通の車の二台分以上もの長さのあるピンクのリムジンが追い越してゆきました。
乗っていたのは、真っ白なシュミーズドレスにゴージャスな毛皮のストールを巻きつけた、すごくきれいな女のひとです。ひょっとしたら、女優さんではないでしょうか。玄関先に車が停《と》まるやサッと駆けつけたのは、衛兵さんみたいな緑の帽子、肩章《けんしょう》やモールや金ボタンで飾りつけたきらびやかなコートのドア・ボーイ。嬉しそうに差し出した腕を、美女は優雅にふわりと微笑んで借りました。十五センチも高さのあるハイヒールで、ゆっくりゆっくり歩きます。ぴちぴちのドレスが、左右に揺れるまん丸いお尻の一歩ごとにクリックリッと動くさまをそのままモロに透かしています。
「色っぺえ……」と呆れたようなジェフ。
「おとなの女って感じだなぁ」ネスはちょっぴり、ママのことを思いだしましたが、そんなことをここで言うと、マザコン! とかなんとかからかわれるに決っているので、口には出しませんでした。
「なによ、あんなトシマ」ポーラはツンと顎をそらせました。「グラマーって言えば聞こえはいいけど、少し太りすぎなんじゃないの」
周りじゅうのひとが美女にみとれている隙に、三人も、金の縁取りのあるガラスドアを、潜ります。
大理石を張り巡らせた玄関は、まるでどこかの神殿か博物館のよう。床はピカピカで十分アイスホッケーの練習ができそうだし、柱はみんなおとなのひと抱えぶん以上もあります。遥かに高い天井には、ラッパを吹く天使や、花をふりまく乙女たち、片手に剣片手に天秤ばかりを持って判決を下すかのように険しい顔をしている男のひとなどが、まろやかな彩色つきで彫刻されています。花でいっぱいのフロントの横には、見たこともないほど大きな階段が、ハート型の弧を描きながら上に続いておりました。
「ようこそ」ハンサムで長身なホテルマンが、三人に近づいてきました。「ご予約でいらっしゃいますか」丁寧だけれど、油断ならない様子です。
「そうじゃないんですけどぉ……」ネスが言いかけたとたんです。
「あのね。いま、女のひとが来たでしょ」ポーラが進み出て言いました。喉にかすれるような、セクシーなハスキー声です。肩にかかる金髪巻き毛をサッと後ろに払いのけ、片足に体重を乗せた変にしどけないポーズで、青い目をキラキラ光らせます。「ここだけの話だけど、あれ、わたしのママなの」
アッ、と、ホテルマンも、男の子たちも口を開けますが、ポーラは愛らしい顔をいたずらっぽくしかめ、いとも堂々と微笑みます。「また浮気してんじゃないかって、パパが心配してね。見張ってこいって、言われたのよ」
「なるほど、そういうご事情ですか」ホテルマンさん、心得顔にうなずきます。「わかりました、では、お母さまのアフロディテ・スイートの、すぐお隣のエラクレス・スイートをば、ご用意させていただきます」
「メルシボーク。でも……ね、誰にも内緒よ?」
「心得ておりますとも」ホテルマンさんは、深々とお辞儀をしたまま、ポーラの耳に口をよせました。「参考までに伺いたいのですが、で、お嬢さまのお父上と言うのは、どちらさまで?」
「ああ」ポーラは頬に手を当て、さも辛そうにまつげを瞬かせます。「ほんとのパパ? わたしにそれを聞くの? このわたしが一番知りたいと思っていることを……?」
「お察しします」ホテルマン氏は何度も何度もうなずきました。「では……どうぞ、こちらへ。……お荷物お持ちいたしましょう」
ホテルマンの肘に、いとも当然のように手をかけて、ポーラはしゃなりしゃなりとハート階段を登ってゆきます。
「どっから出るんだ、あんな声」と、ジェフが囁けば、
「それにあの流し目」ネスが真顔で受けました。
「女って」
「怖い」
エラクレス……いえ、ふつうに言うところのヘラクレス・スイートは、ホテル南面最上階、もちろん当然オーシャン・ビュー。
透かし模様の鉄細工のバルコニーの真下はプライヴェート・ビーチ。スイート付の直通エレベータであッと言うまに行くことができます。そうしてすぐそこが海だというのに、わざわざ、底に蘭の花の絵が描いてあるプールもあるんです。つけていないよりつけているほうがエッチなんじゃないかと思われるような水着のひとが安楽椅子に寝そべっているかと思ったら、隣の部屋のあの女のひとです。
ホームパーティーの開けそうな居間に、寝室がふたつ、ウォーク・イン・クロゼット兼用の化粧室に、ぴかぴかのキッチン。バスルームだってふたつもあります。なんだかネスの家よりも広いくらいです。
ベッドはどれも、ほとんどプロレス・リングになりそうなほどの大きさです。キッチンに近いほうの部屋のは、比較的シンプルなブルー系のリネンで飾られていましたが、奥のほうのは大変です。黒びろうどにピンクのサテンのリボン刺繍《ししゅう》のあるベッド・カヴァーが折り返され、同じ色合いのふたつの枕がぴったりくっついてふわふわに膨らませてある上には、ハート型のハーブ・ピローが乗っています。ピンクと金の花模様のレースのベッド・カーテンが長い喪裾《もすそ》を引きながら、天蓋《てんがい》を支える花をささげもった半裸の乙女の格好をした柱に括《くく》りつけられています。ベッドサイドのテーブルには、きちんと畳んだシルクのナイトガウンと、びっしり霜をまといつかせた銀色のワイン・クーラー、てんこもりのウェルカム・フルーツにむせ返るほど匂いの強い深紅のバラの花束まで!
これは、つまり、新婚さんの部屋、新婚さんのベッドなのではないでしょうか? 男の子たちは、見たとたんに、なんとなく顔を赤らめてしまいましたが。
「きゃあ、素敵! わたし、こっち、取ーった♪」ポーラは、大喜びで言いながら、ベッドの真ん中にジャンプしました。ごろごろどこまでも転がります。「うわー、ふっかふかー! いい匂い……気持ちいーい……あら、遠慮しないでいいわよ。ふたりとも。そのへんに座れば?」
「ああ……いや、いいよ」
「おれ、非常口確かめてくる!」
ジェフは壁際の机のところに行って、ホテル案内を検分します。ネスは部屋の鍵を持って、緊急時脱出ルートを確認しに行ってしまいました。
「そうか……ここは、やっぱりサマーズだったのか」ふと取ったパンフレットを読んで、ジェフが思わずため息をつきます。
「サマーズって?」ポーラがベッドでうつぶせのまま、肘をついて顔を上げます。
「北フォギーランド大陸の南端だよ。ぼくは、ついこの間まで、ずーっと北のほうの、ウィンタースってとこにいたんだ」
「ふぅぅん」ポーラはサイドテーブルににじりよります。銀バケツの中でキンキンに冷たくなっている、ずんぐり太い瓶を見つけました。わぁい、と取り上げ、ぽん、と音を立てて栓を抜きます。
「だとすれば……いっそのこと、山岳地帯まで戻ってみるか……親父はまだラボにいるかな。ここから電話が通じないだろうか」
「えーっ、ジェフって、パパがいるんだぁ」
「そりゃいるよ、ぼくを何だと思ってるんだ」
「どんなひと?」
「アンドーナッツ博士って言って、科学者で……おいおいっ、ポーラっ!」
「ん〜」ポーラは、とろんとした目をあげ、くふふっ、と笑いました。片手に、いまにも落っことしそうにして、チューリップ型のグラスを持っています。「ンねぇぇ、ジェフったら、そこじゃ話が遠いわ。ここにいらっしゃいよ」
「何飲んでんだ、おい、何を?」
「あったんだもん」グラスの底のほうに残っていた金色の液体を、クイッとひと飲みにすると、ポーラはスカートの裾がめくれそうになっているのにも全然気付いていない顔つきで、ワイン・クーラーのところまで這ってゆき、またボトルを取りあげました。「すごーく冷えてて、美味しいよ、このサイダー」
「ドン・ペリニヨン?!……サイダーじゃないよ、そりゃ、シャンパンだ!」
ジェフがグラスをひったくろうとすると、ポーラは、ああん、と鼻声で抵抗します。「返してよぉ」
「だめだよ、ポーラ、もうよせ! 急性アルコール中毒になっちゃうよ!」
「やだ、もっと飲むう」
「だめだったら!」
「おい、やつの行方がわかったぞ!……おーっと」ネスが駆けこんできたのは、ふたりが揉み合っているところにです。とっさにネスに見えたのは、もみくちゃのベッド・カヴァー、ジタバタ跳ねあげたので、すっかり剥きだしになっちゃってる、ポーラの白く細い脚! 「ご、ごめん! 邪魔した!」ネスはクルッと向きをかえ、あわてるあまり、壁に激突。ふらふらしながら続き部屋へのドアを開け、やっとの思いで逃げこみます。バタン! ドアを閉めます。
「ネス、待て、誤解だ……うわ!」追いかけようとしたジェフの足首に、ポーラが素速くタックル!
「もっとぉ」ぽおっと焦点を失った目。甘えるように訴えるポーラ。
シャンパンの瓶を抱えたまま、ジェフはカァッと赤くなります。
一方。
どきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきど……
ネスはドアにもたれかかりながら、暴れる心臓を押えました。脚が震えます。からだじゅうに力が入りません。なんだかひどく悲しい気持ちがします。ウッカリ大事なものをなくしてしまっていたことに突然気づいたような気持ち。
〈そうかそうだったのかでもぼくのほうが先だった先だったずっと先だったのに先だからってなんになるなんにもならない〉頭の中をことばの列がドシンドシン互いにぶつかりあいながら凄じい早さで流れていきます。〈ジェフはいいよいいやつだし頼れるしカッコいいし頭もいいし背も高いしぼくなんかよりぼくなんかただの野球バカでこれまでも女の子にモテたことなんてないけどポーラはもうおとななんだボーイフレンドだっていっぱいいるだってミスイーグランドになるんだもんなそりゃそうだポーラかわいいものきれいだもの時々うるさいけどでも健気《けなげ》でがんばり屋で勇気があって大事な仲間〉
ポーラの顔が浮かびます。これまでやってきたさまざまなこと、通りすぎたさまざまな町。笑い、泣き、怒り、がっかりし、ホッとし、恐怖にこわばり、心配そうに顔をしかめ、疲れ切って眠る……ありとあらゆる表情が、いつしか溶けてあいまいになって……故郷の町オネットでパパもネスもいない家を守っているはずのママの顔に――元レースクィーン、今もなお若々しく美しいネスママ・レイチェルのがははと笑う顔になります。そう、ママは、レイチェルは、ネスが思いだす時、いつもがははと笑っているのです。きれいな顔が皺だらけになるのも構わず、治療中の奥歯の銀冠《ぎんかん》が覗けるくらい大胆に口を開けて、がははと。あっけらかんと、世の中に何の苦労もないかのように、ただひたすら開放的に。
〈ああ、そこが似てるんだ〉ネスは目を閉じ、うっすらと笑います。〈どんな目にあってもけしてくじけない、ひるまない、自分を運命を信じてる、明るく笑ってまた立ちあがる。ママは負けない。ポーラは負けない。誰かに守ってもらうことを選んだっていいのに、それがかよわい女のひとってもんなのに……負けない。挑戦し続ける。そこのところが、つまり、ぼくは、好きなんだな……〉
「好き?」声に出して言ってみて、ネスはまたしても耳まで赤くなりました。「そ、そうだったのか……知らなかった、ぼくは、ポーラを……」
「おい、ネス! ネス! どうしたんだよ!」どんどんどんどん! ドアが向う側からノックされます。「ここを開けろよ、開けろったら!」
「あ、う、うん」
開けます。
「バカ!」ジェフは茹でたエビみたいに背中を怒らせ、上目使いにネスを睨んで、ハァハァ息をつきました。「どう見えたのか想像はつくけどな! 誤解だぞ! ポーラが間違って、お酒飲んで酔っぱらっちゃったから、必死で取りあげようとしてた、ただそれだけなんだぞ!」
「……え」ネスはあっけにとられ、ジェフが掲げてみせたお酒の瓶を見、まだムッとしているジェフを見……笑いだしました。「なぁんだ。そうだったの」
「ったくもう」ジェフは長々と息を吐くと、ネスの肩を抱き寄せて、もとの部屋に戻ります。ほらよ、と顎でさししめす先では、酔いがまわってひっくりかえってしまったポーラが、ベッド・カヴァーにぐるぐる巻きにされて顔だけ出して、スウスウ気持ちよさそうに眠っています。「やっと取り押えて、あきらめさせたんだ」
「そりゃご苦労さまでした……ごめんよ」
「いいけどさ」乱れた前髪を撫でつけて、ジェフはイヤイヤと頭を振ります。「なんだって? さっき。やつの行方がどうとか言ってなかったか?」
「あ、そうだ!」ネスはパンと手をうちます。「ロビーで新聞もらってきたんだよ! ほら見て!」半ズボンのお尻に押しこんでいたのを取りだします。「ここ」
「なになに……」ジェフが眼鏡をツイッと直します。「サマーズ社交タイムズ特報……イーグルランド一の大富豪ミンチ家のアンブラミ氏とポーキー坊っちゃま、来サマーズ。スカラビ博物館を見学……ヒエログリフにいたく感銘の様子……本日午後ヘリコプターで出発。次の目的地は魔境……なんだ! また逃げられちゃったのか!」
「そうらしい」
「まずいな……」
ふたりは顔を見合せました。
「スカイウォーカー、直らないよねぇ」
「うん。あれは、ちょっと無理だな」
「じゃあ、船かなんか借りなきゃ」
「船?」一瞬暗い顔をしたジェフですが、なんと言っても歴戦の勇士、いらぬことは口にしません。「確かさっきのパンフに、すぐ隣に港町があるって書いてあったな」
「そっか……よし、行ってみよう!」
港町トトは坂の町でもありました。海岸ぎりぎりまで迫ってきている山裾のために、使える土地が少ないようです。いずれもそっくりのスタッコ塗りで青い屋根|瓦《かわら》の家々が、軒と軒を接し押しあいへしあいくっつきあって、ぎっしりびっしり並んでいます。道はみなひどく狭く、しょっちゅう行きどまりや急階段につきあたります。ただでさえ狭いところに樽《たる》だの桶《おけ》だの木箱だのが積んであるので、ちっともまっすぐ歩けません。向うとこっちにかけ渡された洗濯物でいっぱいの綱の下では、暗色の肌をした子供たちがオニゴッコをしています。棒っきれのような裸足の間を、やっぱりガリガリに痩せた犬が興奮してわんわん吠えながらさかんに走り回っています。
「船か。そいつぁ生憎《あいにく》だね」
「アイニクダネ!」
埠頭のもやい杭の近くで見つけた縞々シャツにニット帽のおじさんは、肩に乗せた利口なオウムの胸毛のあたりを何度も梳《す》いてやりながら、陽に灼けた顔をすがめたせつない表情で水平線を見つめました。「サマーズ湾一周の観光クルーズならまだしも、海外に出るのはごめんだな。俺だけじゃねぇ。承知する船乗りゃあ、トトにはひとりもいねぇはずだ。なんせ、クラーケンが出る」
「デルデル、コワイ。クラーケンクラーケン」オウムがバタバタ暴れます。
「クラーケンって?」
「海蛇だよ。お城ほどもあるんだってよ」渋い茶色の紙袋にいれたままのお酒をグイとあおります。「俺ぁ幸いお目にかかったことがないが。何隻も襲われて海のモクズよ。おかげで漁もさっぱりだ。ここらの男たちゃ、ほとんど出稼ぎに行っちまった。ドコドコ砂漠とかってとこで、金鉱掘るんだって」
「キンキキキンキン、キキキンキン!」
「モッチーさん、まだ諦めてないんだなぁ」ジェフが感動したように言います。
「うん……」ネスはちょっと考えこみました。「ねえ、オジサン?」
「モネ船長」
「モネ船長」きちんと言い直して、ネスはモネ船長の目をじっと見つめます。「もしかして、ぼくらがその怪物をやっつけたら、トトのひとたち、すごーく嬉しいよね」
「そりゃもちろん、すごーく嬉しいがよ! おいおい、若いの、冗談にしてもホドがあるぜ。人生ダイスを投げた男に虚しい希望を抱《いだ》かせるんじゃないよ」
「できるかできないか、やってみちゃだめかな」ネスは粘ります。「だって船長さんなんでしょう? あなたは、きっと素敵な船を持っているはずだ。ねぇ、ちょっとでいいから乗せてくれませんか、そしたらきっと……」
「ああ、だめだめ。だめなの」モネ船長は顔を伏せ、大きな手を振りました。「確かに以前、わしゃあ船を持っていた。|黄金の子羊号《ゴールデン・フリース》ってそりゃあきれいな船をな……それ、あの船台に乗ってるのがそれだ。カッコいいだろう! だが、仲間たちがみんないなくなって、ひとりぼっちになってしまって、クサッちまったその揚げ句……よせばいいのに、リッチマンどもの社交場に出かけてっちまったんだなぁ。そこで、ある男にトランプ勝負の賭けを挑まれて……ああ、負けたんだ。あっさりね。いっさいがっさい取られちまった……ありゃあ、いまじゃあ、トゥルーマン・アホーディって作家先生のものなんだ。この俺さまも、このオウムさえもな。先生が船に乗りたくなったら、わしが行って操艇《そうてい》する、このオウムのポリーも行ってお愛想をする、そういう契約になっているんだ」
「ケイヤクケイヤク!」オウムがでっかい嘴《くちばし》をカチカチ鳴らし、自棄っぱちのように怒鳴ります。「ポリー、ケイヤク!」
「トゥルーマンってどっかで……ああ、あの変なひとか」ネスは思いだしました。半ズボンのポケットをさぐってみると、あります、名刺! 「もしかこのひとが船を返してくれたら、ぼくらを乗せてくれますか?」
モネ船長は無言のままにお酒をあおり、ぶっとい眉毛をおでこの上の上のほうまであげました。
「……ジェフ、行ってみよう! スットコドッコイ・クラブとかってとこに行けば、このひとに逢えるはずだ」
「ストイック・クラブ」と、船長。「気をつけな、そりゃ、他でもない、わしが賭けに負けたところだぜ」
「ありがとう……きっと、また来ます!」ネスは早速走りだしましたが。
「……船……」ジェフは黄金の子羊号を見つめて、ぼうっとしています。
帆柱三つの帆船《はんせん》です。白い優雅な船体は、ぴかぴかに磨きあげられています。舳先《へさき》の部分に、名前の由来であるらしい、金色の羊の顔がつきだしています。
手入れするひともないままに放り出された周囲の漁船の中では、まるでカラスの群れの中に舞い降りた一羽の白鳥のようです。そしてなによりそれは、昔々、ジャックの組み立てた模型の船に似ています。今はもうよそのひとが住んでいるだろう緑の屋根の家の、二階の半屋根裏の子供部屋の棚の上に、自慢げに飾られていた、あの船に……。
「ジェフー、どうしたんだよ、来ないのかぁ!」ネスが遠くで叫びます。
「ご、ごめん。いま行く!」サヨナラ、と、船長さんにお辞儀をして、ジェフも走りだしました。
「ゴメンネゴメンネ」オウムが鳴きます。「ユルシテユルシテ」
サマーズとトトのちょうど境目あたり。海岸通りの喧噪《けんそう》を一本二本、はずれて曲った袋小路の先、小さな水路にかかった橋の向う側に、秘密クラブがありました。
古びた倉庫を改造したのでしょうか、打ちっぱなしコンクリートに赤く染めた鉄骨を飾ったいやにそっけない建物です。鉄のジャバラのシャッターのとりつくしまもない入口に、監視カメラが光っています。小さなボタンを押してみます。インターフォンから「会員制のクラブです。ご紹介のないかたは、お断り申しあげております」慇懃無礼《いんぎんぶれい》な声がします。
「紹介されました」ネスはあのテカテカの名刺をさしあげます。「このひとに、逢いにきたんですけど」カメラに向けます。
レンズがジーッと首を伸ばし「おお!」驚いたような声がしました。「アホーディ先生のお客さまでしたか。これは失礼をばいたしました」ガチャッ。遠隔《えんかく》操作で鍵がはずれます。
「どうぞ、お入り下さい」
ガラガラと音を立ててシャッターが開きます。中はひどく暗い。床のごく下のほうに青や淡紫《あわむらさき》のホロホロと揺れるランプが灯っているばかりです。なんだか水族館の中みたいな雰囲気です。
「まっすぐ進んで」インターフォンの声が導きます。「エレベータがあります。乗ってください」
ネスとジェフはおっかなびっくり前に出ました。一歩踏みだすごとに、真っ暗な壁のあちこちに、小さな絵が照射されます。クラゲにヒトデ、アンモナイト。ぼうっと滲《にじ》んですぐ消えます。
「赤外線だ」と、囁くジェフ。「横切るのがスイッチになってるんだ」
突き当りでドアが開きます。小さな箱が暗闇から切り取られます。床一面が妖しい緑色に光っているだけで、やはり真っ暗。なんだか床板だけが宙に浮かんでいるように見えます。けっこう怖いです。
「遊園地みたい」
「凝りすぎ」
小声で囁きあい、顔をこわばらせながら、エレベータに乗り込みます。すぐにドアが閉り、グン……と動きだす気配がしました。いやに遅くて、上ってるのか下ってるのか、サッパリわかりません。ネスもジェフも下から緑に照されて、ついぞ見慣れぬ不気味顔。うっかり口を開くと歯が光って最高に気持ち悪いので、思わずお互いに顔をそむけ、ムッツリくちびるを結んで黙ってしまいます。
やがてエレベータが止り、ドアが開きました。
「あっ」
ネスは思わず目を見張ります。そこは、海の底だったのです……!
サンゴ礁の明るいブルー、ゆったり泳ぐ魚たちのきらめくナイフの銀。床がすぼまり天井が広がった逆プリン型の部屋の周囲をぐるりと取り巻いたガラス窓いっぱいに、沈黙の風景が広がっています。海面の波のきらめきがそのまま光の絵になって、水底の岩やサンゴを照しているのが美しい。広がったりすぼんだり、そよそよそよぐイソギンチャク。挟まれたら絶体絶命になりそうなでっかいシャコ貝のわずかに開いた貝殻の隙間の、信じられないような青。二匹仲よく散歩するツノダシ。縦縞模様のツバメ魚。クラリネットそっくりのヘラヤガラ。赤地に白青二重の水玉の下くびるのでっかいギョロ目の魚には、ちいさなお掃除魚がつきまとっています。遠くのサンゴ岩の向う側を、大きなエイが悠々と通りすぎてゆきます。
「……すげ……」
思わず知らず、窓にくっついていました。あっちこっちに目を彷徨《さまよ》わせているうちに、すぐ近くで、小さな小さなヒレをビリビリ震わせるようにして、こっちを見ている魚に気づきました。黄色地に黒い水玉模様もオシャレな妙に四角いやつ。チビフグです。ホバリングするように一点に止って、じーっとネスを見ています。なんだか喧嘩を売ってる顔で。
「わぁ、かわいいなぁ」ニッコリした、その瞬間。
「来たね」肩に手が置かれました。振り向くまでもなくトゥルーマン・アホディです。ツンと先のとがったオバサンみたいなサングラスに、魚たちが映っているのが、ちょっとひとをバカにした風。たちまちここに来た目的を思いだして、ネスの表情がガラリと変わります。
「お願いがあって来たんです」ネスは言います。「モネ船長ってひとに聞いたんだけど、あのひとの船を」
「まぁまぁ。ともあれ座りなさい」
トゥルーマンはネスの背中を必要以上に強く抱き寄せるようにして、窓に向いたソファに案内しました。からだがすっぽり沈み込む柔らかすぎるソファです。腎臓型のテーブルに、何冊かの本と、トゥルーマンのらしい水のグラスがありました。ジェフはネスを真ん中にしておいて、トゥルーマンから遠いほうに座ります。
「何か飲むかね?」トゥルーマンがパチンと指を鳴らすと、どこかの民族衣装を来た背の高い黒人がメニューを持って来ました。
***
menu
おいしい水
すごくおいしい水
とってもおいしい水
やたらにおいしい水
なによりおいしい水
それよりさらにおいしい水
***
「水ばっかり?」
ネスが目を見張ると、トゥルーマンが薄いくちびるをニヤリとさせます。「スノップだろ。どれにする?」
「あんまり時間はないんです」ネスは帽子を脱ぎ、握りしめます。「ぼくらは南に行かなきゃならない。お願いします、あの船を貸してください」
「ついでにクラーケンをやっつけます」ジェフも言います。「そしたら、サマーズもトトも、もっと豊かになるでしょ」
「けして遊びじゃない。変な目的でもないんです。実は……突拍子《とっぴょうし》もなく聞こえるかもしれないけど、ぼくらは地球の危機を救うために旅をしていて」
「誤解があるようだね、ボー・ギャルソン」トゥルーマンは指先で尖塔《せんとう》を作って、鼻にあてました。「ぼくは正義にも、まして豊かさなんてものにも興味はない。惹かれるのは、美と官能だ。なにせ芸術家なんだからね。それは平和より戦いに、成功より失敗に、到達より挫折に、そして構築よりは破壊の中に見出されるものだ……見たまえ、ここの客たちを」
トゥルーマンが手を振ってしめした店内を、ネスもジェフも改めて見回します。
髪型も服装もよく陽に灼けたつややかな肌も優雅で裕福そうなひとびとが、あちこちの椅子に座り込んで、窓の外の魚たちを見るともなく見つめています。テーブルの上にはミネラルウォーターの瓶やグラスがありますが、ほとんど手をつけてもいません。誰もが押し黙り、じっと動かないのです。
揺らめく水を反射したそれぞれの顔は、奇妙に青く、表情も生気もありません。ネスはスリークの町で見たゾンビたちを思いだしました。もちろん、ここのひとたちは、もっと清潔だし、もう少しきれいではありますが……。
「あちらの彼は某国の高官だ。あっちの彼は、とある国の王族。おお、あれは、人気女優のマリマリではないか。いつ来たのかな」部屋の真ん中でぼーっとしているのは、なるほど、オテル・ド・マザーズで隣の部屋のあのひとです。「みんな、途方もない金持ちで、誰もが羨む成功をおさめたひとびとだよ。だが、どうだね? 幸福そうに見えるかね?」
「…………」
ネスとジェフは顔を見合せ、またトゥルーマンに向き直り、ゆっくり首を振りました。
「だろう? だが、見誤ってはいけない。彼らはひとしなみ幸福なのだ。だからこそ、美しくもなければ、官能的でもなく、すなわち、いっかな魅力的でないわけだ。だからこそ、幸福でいられる。トートロジーだがね。……なぜ幸福であるかと言うと、ここでは、無名の、まったく誰サマでもない、平凡でつまらない裸の人間になることができるからだ。スターはスターである限り、いつも輝いていなくてはならない。こんな無防備な顔を晒してはいられないのだ。この、自分の場所、自分を取り戻す場所以外では……」
「自分の場所……?」ネスはハッとしました。「ぼくにも、自分の場所があります」
「おぉ?」
「世界じゅうに八つあるそうです。ぼくはそれを、全部、戦って取り戻さなくてはならないんです」
トゥルーマンのぼんやり曇ったような表情が、好奇心に、ほんの少しだけ動きます。「それを取り戻すと、どうなるんだね?」
「わかりません……でも、やらなくっちゃ。約束したんです。ブンブーンと……未来からきたカブトムシと」ネスは爪を噛み、イライラと脚を揺すります。「それに、ポーキーをなんとかしなくちゃ」
「おじさん」ジェフが焦れて口を挟みます。「あの船はモネ船長に賭けで勝って手にいれたものだそうですね。ぼくとも、掛けをしていただけませんか」
「ジェフ?!」
「おやおや」トゥルーマンはからかうように言って、ジェフを見ました。「自信があるようだね」
「カード勝負には統計的な傾向がありますから」ジェフはじっとトゥルーマンを睨みます。
「イカサマは、すぐ見抜きますよ」
「ふん、ではカードはよそう。……で、きみはなにを賭ける? 少なくとも、あの船と等価なものでないといけないよ」
「ぼくの生命《いのち》を」まっすぐにトゥルーマンを見つめたまま。ジェフはためらいもなく、言いました。
「ジェフ!!」ネスはあわてます。「そんなの、だめだよ、ジェフ!」
「いいんだ」ジェフはネスを見もしません。
「生命、ねぇ……」
トゥルーマンは腕組みをし、くちびるの端に苦笑を溜め込んだまましばらく考えていましたが、やがて、身を起こし、あの黒人のひとを呼びました。手で合図して、しゃがませて、耳元に何かを囁きます。黒人は、ちょっと目を大きくしましたが、トゥルーマンがさらに何か言い募《つの》ると、黙ってうなずき、急ぎ足にどこかに行きます。
「ジェフったら、どうしてあんなこと言うんだよ!」ネスはジェフの胸倉をつかんで揺さぶります。「きみが勇敢なのはよく知ってるよ、いまさら見せてくれなくったって」
「そんなんじゃないんだ」
やっと視線をあげたジェフの、この上もなく真剣な顔つきに、ネスはどきんとしました。
「戦って勝たなくちゃ。このままじゃどうせ、ぼくは、きっと、あの船に乗れないから」
「……どういうこと……?」
「怖いんだ」ジェフは痛いような笑いを浮かべました。「ぼくはぼくに、ぼくもこれでも、まんざら捨てたもんじゃないと、なんとか納得させなきゃならないんだよ、ネス!」
黒人のひとが戻ってきます。お盆の上に、透明な水を入れた、小さなグラスが六つ。
「ロシアン・ルーレットは知ってるね」トゥルーマンがサングラスを外します。いやに色の薄い、どこを見ているのかわからないような瞳です。「このグラスのうち、どれかには、ネクロトキシンという速効性の毒が溶かし込んである。解毒剤はない。ひとつずつ交替に飲み干す。怖ければ、飲まなくていい。だが、飲まなければその時点で負けだし、もちろん、死んだら死んだやつの負けだ」
「あなたも生命をかけると……?」ジェフが目を見張ります。
「どうせこんな世界だからね」と、トゥルーマン。「ぼくはもう、ただの水にも飽きてしまったんだ。……さて、どうかな?」
「わかりました」ジェフは手を伸ばし、無雑作に一番近くにあったグラスを取りあげました。
澄んだ水のレンズごしに、トゥルーマンの緊張顔がおぼろにゆがんで見えました。海を通ってきた陽光がゆらゆらときらめいて、ネスに、あたりを不思議な美しい夢の世界のようにみせました。
覚えがありませんか? ふと、突然、すべてがまぼろしのように見える瞬間。さっきまでと今がうまくつながらなくなる刹那。どこがどう違うと指摘することはできないけれど、なにかがちょっとひっかかる。リアルでなくなってしまった情景の中に、いきなりひとり放りだされてることに気づくようなこと。ネスが顔をしかめた、その時に。
無邪気な静かな微笑みを浮かべて、ジェフがグラスを掲げました。
「ジャックに」
「ジャックって?」ネスは聞き返しましたが、答えを口にする暇も惜しむかのように、ジェフは一気にグラスをあおりました。そして、すぐ、びっくりしたように目を開け、ネスを見つめると、前のめりに倒れます。
「ジェフぅううぅぅぅ!」
窓の外、海底に生じた小さな泡がひとつ、水の層を抜け、空を越え、薔薇《ばら》色の雲の彼方まで一直線に上ります。
目には見えないその泡を、ぱくんとひと息に飲みこんで。
少年はカッとまぶたを開きます。切れ長一重の涼しい目です。陶器の人形のようなすべらかな頬、ちんまりちいさい鼻にギュッと結んだ口。漆黒の髪が頭頂にきつく結《ゆ》わかれ、そこから長い三つ編みになって背中に垂れ下がっています。
腕を胸の前で交差させ、それぞれの手の指を複雑な形に折り曲げて印《いん》を結んでいます。ふいに、パッと手を広げると、からだが静かに降りはじめました。そう、少年は、宙に浮かんでいたのです! 右脚を結跏《けっか》させたまま、左脚のつまさきをまっすぐ床に伸ばします。音もなく床に降りたちます。
身につけているのは、ナチュラルな色合の襟の詰った胴衣とズボン。足には布の靴をはいています。
石作りの長い廊下をずいずいと大股に進み、鍵穴型の壁のくりぬきを通り過ぎると、香《こう》の煙のたなびく大広間に出ました。やはり石作りの無骨な部屋です。床の一部が四角く盛り上がり、朱塗りの欄干《らんかん》をめぐらした壇になっています。ふたつならんだ玉座の向かって左側に、白髪白髯《はくはつはくぜん》の老人が錫杖《しゃくじょう》片手に腰かけています。キラキラする緑色の着物をつけた八の字髭の男がふたり、老人の左右に控えています。
「……いよいよ、刻《とき》が至りましたかや」老人がしゃがれ声で問いかけると、少年は無言のまままぶたをぱちりとさせました。肯定。「下界にはこのランマと違《ちご》うて、種々の汚《けが》れがございます。なにとぞ、お気をつけられて」
少年はくるりと向きを変え、退出しようとしました。
「プー王子」老人が片手をあげて呼びとめます。「戻って……こられまするか?」
少年は肩ごしに老人を見つめて、静かにくちびるを笑わせます。
「イースーチー」低く、言います。「年を取ったな」
「嘘つき!」ネスが怒鳴ります。「このペテン氏の大バカ野郎! 全部のグラスに毒を入れたんだな!」
腕の中では、ジェフが青い目をカッと見開いたまま、人形のように硬直しています。
「ぼ、ぼ、ぼくは嘘は言わないぞ!」トゥルーマンがわめきます。「どれかには毒が入っていると言った。どれかひとつ[#「どれかひとつ」に傍点]とは言っていない。他のグラスはただの水だとも言っていない。真実しか口にしていない。ぼくの名前はトゥルーマンだ!」
さしも無気力なお客たちも、この騒ぎには思わず我を取り戻して、ざわざわまわりを囲みます。非難がましい目でトゥルーマンを見ると、こそこそ囁くひと。あのきれいな女優さんなどは、そばの誰かに事情を聞くと、オオ?! とセクシーなくちびるをつきだして、たちまちそのまま気絶します。
「だって、みなさん、見てたでしょ?」と、トゥルーマン。「賭けを言いだしたのは、そいつのほうなんだぞ! なにも無理に飲まなくったって良かったんだ。少なくとも、まず最初に、このぼくに飲ませるように知恵を絞れば良かったじゃないか!……ぼくは……ぼくは悪くないぞ!」
「ジェフ、ジェフ、しっかりしてくれ!」ネスはジェフの頬をぴしゃぴしゃ叩きます。まったく反応がありません。「ああ……そんなバカな……こんなことで、こんな場所で、きみを失ってしまうなんて……!」
グッと拳を握りしめ、その拳に歯を立てて。ネスは意識をこらします。こころの高ぶりを押えこみ、明るい白い光のイメージを固定させます。両手をジェフの心臓のあたりにあてて、パワー! PKヒーリング! ネスのてのひらが灼熱します。お客さんたちが目を見張り、わっと湧きます。そのまま力の限りを注ぎこみますが……ジェフの目はガラス玉のよう。なんにも、少しも見ていません。
〈ダメだ……ああ、ぼくじゃだめなんだ……!〉ネスはハッとしました。ポーラ。ポーラのことをすっかり忘れていました! PSIコントロールは、いまだにポーラのほうが得意です。
テレパシーを飛ばそうとしましたが、あまりに焦っているのと、いまの一撃で疲労したので、精神集中ができません。悔しいけれど、頼みます。
「すみません、電話貸してください!」
「どうぞ」黒人のひとが、クッションに乗せた電話を運んできました。
「ありがと!」ネスは大急ぎでダイヤルをプッシュしようとして、ホテルの電話番号を知らないことに気づきました。「重ねてすみませんが、ホテル・ド・サマーズにかけてくださいませんか? ヘラクレス・スイートってとこに繋いで、ポーラという女の子を呼びだしてもらって欲しいんです」
「かしこまりました」黒人は優雅な長い指先で、ぴ・ぽ・ぱとダイヤルします。「しかし、申し遅れましたが、お客さま……わたしはあのグラスに、毒は入れてはおりませんよ」
「え?」
「なんだって!」
ネスとトゥルーマンが同時に叫びます。
使いこんだピアノのようなツヤツヤした肌の黒人のひとは、すっきりと長い首をかすかにかしげるようにして、うっすらと微笑みます。
「いくらお得意さまのご要望でも、我がストイック・クラブでは、毒入り水はお出しできかねますです……ああ、アロー、エラクレス・スイート・シルブプレ?」
「じゃ、じゃ、ジェフはなんで……?」
〈自己暗示〉ネスの脳裏にネスにしては珍しく難しい単語が浮かびます。〈スパシーボ効果〉ちょっと間違ってますけど、いつかジェフの言っていたことも思いだしました。効くと信じてのんだなら、ただの水でも薬になるんだという、あれです……。
〈ああ、ひょっとして!〉ジェフの無意識がこの緊急事態にあたって、無意識のうちにふだんできないテレパシー送信をしているのではないでしょうか? 〈だったら〉
ネスは気力をふりしぼって、ジェフの心に集中します。〈ジェフ、ジェフ、呼んでくれ! ひとりぼっちで行かないで、ぼくも、そこに連れてってくれ……!〉
いかにも聡明そうな白皙《はくせき》のジェフの顔、眼鏡の下の青い瞳……ぴくりとも動かないともだちの顔を食い入るように見つめると、ネスは自分が自分のからだがスルリと出て行くところを想像します。強く縛りつけられていて、まるで実体と影法師《かげぼうし》のようにぴったりくっついていて、なかなか取れません。
〈影だって離れる。ちょっと、ジャンプさえすれば〉ネスはこころの中でジャンプをしてみます。こころとからだを繋ぐ弾力が、ぐぃーんと引っ張られるのを感じます。〈もっと……もっとだ……そうだ、よし!〉限界まで張った糸が、ついにプツンと切れます!
「あっ!」
「きゃああああ!」
ネスが倒れます、バッタリと、ジェフの上に。
「なんだ?」
「どうした」
「こっちの子と同じだ。コチコチに固くなっちまったぞ!」
お客さんたちが口々に騒ぐ中、
「アロー? エラクレス・スイート?」黒人のひとが落ち着き払った声で受話器に話しかけます。「ジュスイムッシュノワール。ストイック・クラブという店の支配人をしておるものですが。マドモアゼル、もしもネスとジェフというギャルソンをご存じでしたら、すぐこちらに来ていただけませんか」
「オルフェ……ホフマン……ダンテの神曲……」がたがた震えながら、トゥルーマンが呟きます。「彼らは黄泉《よみ》の国に行ってしまったのか?……ああ、くそっ、いいないいなっ! 羨ましいぞ! できれば、ぼくも行きたかったぞ!」
「いけば」誰かが意地悪く囁くと、トゥルーマンはギョッとして目を見張ります。
峨々《がが》たる山脈、たなびく霞《かすみ》。ピンクの雲海を見下ろして、プー王子が瞑想しています。鋭くとがった山の上、白骨のような岩がごつごつと散らばった、茹で卵ひとつだって立てられそうにない空間に……王子は半ば浮かぶようにして座っています。
半眼にした瞳の奥に、光の中にうずくまった胎児が見えます。その細胞のひとかけらに、脈動し回転し振動する生命の流れが見えます。きらめく川のその水の一滴の中に、生まれたばかりの宇宙があります。銀河の真空が、渦状《うずじょう》星雲が、音もなく爆発する新星が見えます。その星の表面が沸騰し、雲が湧き雨が降り、すさまじい勢いで植物が繁殖します、種子が落ちて芽生え、葉が茎が伸び蕾みを持ちます。ゆっくりと開いてゆく花弁の中に片手をあげ片手を膝に置いた仏がひとり静かに座っている、燦然《さんぜん》と輝くその仏がカッと目を開くと、ありとあらゆる生命が、原形質生物から太陽風に乗って恒星間空間をただよう宇宙生命体まで、太古の昔から未来の果てまでのすべての生命が現われます。
〈オンドュビシャバドュシャバダシャバドュビドュバアデュワア、ナンタラカンタラウンタラナアカンマン……〉
「なによなによ、ネスもジェフもっ!」ストイック・クラブに駆けつけたポーラは顔を真っ赤にして怒りました。「ひどいじゃない、ずるいじゃない! 黙ってわたしを置いてったりするから、こんなことになるのよっ!」
並べて横たえられたネスとジェフ。まるでそっくりに作った蝋人形です。
「……ったく、冗談じゃないわよ! 男同士の友情だかなんだか知らないけど……こんなのってセクハラだわ!」ぽろぽろ涙をこぼしながら、ふたりのそばに座ります。
「神さま……お願い、ふたりを助けて……わたしもそこに、つれていって……!」祈りはじめました。
どこでもない場所、どこでもない時間……。
〈でも知ってる。来たことがある〉
〈いつか、なんどか。そう、たぶん、生まれる前にも……〉
ネスはふうわり飛んでゆきます。
〈ジェフ、どこだ? どこにいるんだ?〉
きらきらと輝く星屑が、やがて大輪の牡丹《ぼたん》の形に開きました。ぱぁん! 花火です。次々に開きます。潮の香り。波のざわめき。寄せては返す白いレース。
〈海? なぎさだ……いや、港かな?〉
ヨットハーバーの桟橋にはおおぜいのひとが集って、にぎやかなパーティーを繰り広げています。ビッグバンドの演奏が少しずつ聞こえてきました。
〈いた……あそこだ!〉
モネ船長のヨットに似たきれいな白い帆船のメインマストのそのてっぺんに、ジェフがいます。ぽつんと立っています。首に何かを巻いている。綱です。船を繋ぐような、粗《あら》よじりの太いロープ。
「ジェフー!」
外を飛んで、近づきます。ネスの姿を見つけると、ジェフは寂しそうに笑いました。
「ぼく、来た。もいちど、来たんだ」声が幼い。まるで、まだ四、五歳の幼児です。「ぼく、ここから、やりなおさなくっちゃ」
「わかった。でも、そのロープは外せよ!」ネスは宙に浮かんだまま、ジェフの手を掴みます。「なんか、すごくイヤな感じだよ」
「はずせない」ジェフは首を振ります。「一生、こうしてさげておくんだ」
「だってやりなおすんだろ? こんなの、もういらないじゃないか!」ネスはロープにさわろうとしました。
「さわるな!」
「わっ!」
ジェフの気合いがネスを十メートルもふっとばします。ジェフは泣いています。紅潮した頬に、涙の筋が流れます。「さわらないで! これ、絆なんだ。ジャックとぼくの。永遠に切れない絆なんだから……!」
「ここにいるよ」
突然、空の高いところから、優しい静かな声がします。
「ジャック……?」ジェフがきょとんとします。「ほんとに? ほんとにジャックなの? ねぇ、来て! お願い、姿を見せて!」
荘厳な音楽が響きます。ネスが見回すと、いつの間にか周囲はどこまでも続く花園に……薔薇色の雲に囲まれたあたたかな場所に変っています。そしてどこからともなく降り注ぐ金色の柔らかな雨に乗って雨と共に……大きな真っ白い翼をもったローブ姿の少年が、静かに静かに降りてくるではありませんか。
両手をだらりと脇にさげ、ぽかんと口をあけたジェフのそばに、ゆっくりゆっくり、まるで雪の大きなひとひらが落ちる時のように降りて来ると、天使は――ああ、それを天使といわずしてどこに天使がいるでしょう? ――そっと両手をジェフの頬に当てました。
「取りに来たんだ」天使の声が響きます。「もう、いらないはずだから」
ジェフの細い首のまわりで、ロープがふわりと浮きあがります。きらきらまぶしく輝きながら、顎の線を越え、耳を越え、おでこを越えて昇ります。見たこともないほど美しく豪華な首飾りのように、冠《かんむり》のように……。
じっと黙って立ち尽くしたままのジェフの美しく長いまつげの奥に、また新しい涙の粒がもりあがり、ぽろりとこぼれて走ります。
見つめているネスも思わずグッと喉が詰りました。あわてて顎を引き、帽子のツバで顔をかくします。
「……ああ、もう! 探したよ。こんなとこにいたの!」
「ポーラ?!」虹の尾を引いていきなり実体化したポーラに、ネスは仰天しましたが。「えっ、このひと誰?」
ポーラのすぐ隣に、もうひとり、知らない少年がいたのです。
「プー王子。チョンモのランマの」ポーラが紹介すると、プー王子はつりあがった目をニッとさせて、ほんのちょっとだけ会釈をしました。「ずっと待ってた、もうひとりの、そして、最後のともだちなの!」
「ジェフ」天使がロープを自分の頭の上にかざすと、それは、金色の輪っかになりました。翼が、ローブが、懐かしい顔が、神々しいまでに輝き渡り、透き通っていきます。「ぼくはいる。きみのそばに。いつも、いつでも……どこにでもいるのだから……」
「ジャック……ジャック……」ジェフは我に返り、声を限りに叫びます。
「にい……さぁああああん!」
ぱちくり!
ジェフは瞬きをし、あわてて起きあがってあたりを見回しました。
知らない大勢のひとたちが、感激した顔つきでおおっといっせいにどよめきます。拍手をします。ストイック・クラブです。
「……ど……どうしたんだ、ぼく?……いまのはいったい……」ジェフはからだを起こし、隣で目ン玉剥いて昏倒《こんとう》しているネスを見つけてギョッとします。「お、おい、ネス!」
「……ん〜〜〜……復活うっ!」元気のいい声をあげたかと思うと、ネスがピョコンと飛び起きます。両足をあげ、反動をつけて。体操のフィニッシュみたいに。
そばには、ポーラが、ひざまずいてお祈りをする姿勢のままじっと頭《こうべ》を垂れています。頬のあたたかみを取り戻し、目がいつもの快活な光を帯びます。ポーラは水からあがった犬のように、ぷるぷるっと金色巻き毛を振りました。
「さてさて、男子諸君」両手を腰にあてて、すました声で言います。「これに懲りたら、もう二度と、あたしを置いていかないでよ!」
「わかってるよぉ」
「チェッ……なんで置き去りにされたか、そっちこそわかってんのかなぁ……」
男の子たちは赤面しました。
「さぁ、行きましょ! どこか近くに、プーの実体が来てるはずよ。……あたしの勘では、なんか古いものや珍しいものが集っているところ……なんか、石が……大きな石があるみたいだわ」
「博物館だ!」とネス。「そう言えばポーキーのやつもそこに立ち寄ったはずだ」
「ヒエログリフだ!」とジェフ。「すぐ行ってみよう!」
三人は肩を組むと、元気よく出口に向かいます。
「ね、でも、プーって誰?」思いだしたように、ジェフが聞きます。どうやらジャック天使との遭遇に忙しくて、あんまりこっちを見ていなかったようです。
「いますぐ紹介するよ、なんかちょっと不思議な感じの……おっと」
エレベータの前に、トゥルーマンが立っています。
「なんです? まだ、なにか?」ネスが警戒しながら、ズイッと前に進み出ると。
トゥルーマンは気弱そうに笑いながら、アロハの胸ポケットから畳んだ紙を取りだし……契約書、とかいてあります。モネ船長が賭けに負けて書かされたもののようです……ビリビリ細かく引き裂きました。
「きみたちには負けた……傲慢だったぼくを許してくれるか?」
トゥルーマンがおそるおそるさし出した手を、ネスはちょっと迷ってから、ガシッと強く握りました。ジェフも、ポーラも、続きます。
「よかった」トゥルーマンはホッとしたように首を振りました。「ぼくはね……若くして有名になり、金持ちになり、名声を得た。偉いひとと呼ばれるようになってしまったんだ。天才だの鬼才《きさい》だの売れっ子だのと呼ばれたよ。お城のような家に住み、ジェット機や豪華客船で世界じゅうを見物し、美しい男性や女性と毎日パーティーに明け暮れた。だが……こころの底に、いつしか巣くった虚しさを、飼い慣らすことができなかった……」
トゥルーマンはふと目をあげて、クラブじゅうを見回します。男も女も、お年寄りも、若いひとも……秘密クラブのお客のほとんどが、立ちあがり、じっと彼を見つめています。彼のことばに耳を傾けています。苦虫を噛み潰したような顔のひと、両手をよじって苦しげなひと、いまにも泣きだしそうな顔のひと。誰もが、他人《ひと》ごとではないような、その告白に、注目しているのです。
「ですよね、みなさん?」
石油成金が、大農園主が、ロックンローラーがうなずきます。バスケットボールの有名選手が、スキーの世界チャンピオンが、映画監督がそっと目頭を拭います。支配人のノワールさんは、落ち着き払ったわけ知り顔のまま、床に視線を落としています。
誰もが沈黙する中、あの色っぽい女優さんが、とても静かな厳《おごそ》かな態度で進みでて来たかと思うと、トゥルーマンの小柄な肩をそっと抱きしめました。けしてお色気をふりまくようにではなく、傷ついた戦友を励ますように。
トゥルーマンは少し驚き、それから、とても嬉しそうに、彼女を抱き返し、そのオデコに、優しくキスをしました。
「すべてはバカバカしく、すべては面倒臭く、すべては憎たらしかった……ぼくは人生に倦《う》んでいた。明日なんか欲しくなかった。どこかの国が戦争をしようと、人類が滅亡しようと、たとえ地球がまるごと消えてなくなったって、べつにそれで構わないと思っていた……だって、ぼくはもう、やるべきことは、みんなやりつくして退屈してしまっていたんだから! だけど。だけど……。
思いだしたよ、世界には、子供たちがいるんだってことを。素直で、純粋で……大好きなともだちのためになら、どんな困難にだってまっすぐ立ち向かうことのできる素敵なひとびとがいるんだってことを。
芸術はけして頽廃《たいはい》とイコールではない。文字も音楽もスポーツも、けして出世の道具ではない。小賢《こざか》しい知識やテクニックを披露して誉められても、通《つう》にウケて得意がっても、なんにも、なんにもならないんだ! 創世の奇跡はもともと神のものだ……創造の力もまたひとつの奇跡なんだ。どんなに小さな奇跡でも、ぼくはこの力を、偶然の神秘がぼくに与えてくれた小さな魔法を、もっともっと大切にして、もっともっと素晴らしいことに使わなくっちゃならない。
ぼくはこんど、胸のわくわくするような冒険物語を書こうと思う。まっすぐなこころと生命がけの覚悟と篤《あつ》い友情を武器にして、絶望や倦怠《けんたい》と、世界を飲みつくそうとする邪悪と、敢然《かんぜん》と戦い続ける勇敢な少年少女の物語を……世界じゅうの子供たちに向けて、世界じゅうの子供たちのために、書こうと思う。きっと多くのひとを楽しませ、勇気づけることができるだろう。そうしたい、そうしなきゃ。そう思うと、ぼく自身、まだまだ死ねないって……がんばって生きてかなきゃって、そう思うんだよ……!」
一瞬しぃんとした店内に、あたたかな笑い声が満ち溢れます。拍手。歓声。トゥルーマンに駆け寄って、親愛の情を示すひとたち。
「ありがとう、ネス、ジェフ、ポーラ……きみたちのことは忘れない」
トゥルーマンの目は、確かに前よりずっと生き生きしているようでした……。
さっそく港町トトに、嬉しい知らせを届けます。大喜びのモネ船長は取り戻した黄金の子羊号を大車輪で整備してくれることになりました。とはいえ、これだけの大きな船を艤装《ぎそう》するのには少々時間がかかります。三人は、その間に、噂のスカラビ博物館に行ってみることにしました。
ホテルからオプショナル・ツアーのバスに乗って北方山岳地帯に登ってゆくと、やがて遠くの山肌に遺跡地帯が見えてきました。丘陵《きゅうりょう》ひとつ分がまるごと青味を帯びた灰色です。
小さな石を丹念に積み重ねた古代の帝国の神殿は、それはそれは巨大な砦城《とりでじろ》でした。あちこち崩れ草むしてはいるものの、いまでも充分使えそうです。真夏の強い日差しを浴びながら、案内人さんの旗の後にぞろぞろ並んで見学コースをたどります。見上げるばかりにそびえた柱、大階段には小ぶりのスフィンクスが左右に六頭ずつ、一ダースもいます。見張り塔、武器倉庫、兵隊さんたちのすまい。敵の突撃を妨害するためとかで複雑怪奇に曲りくねった通廊《つうろう》。落とし穴に、罠。行き止まりの部分の天井には、でっかい石がいくつも溜めてありました。階段をいくつも昇ったり降りたりしてやっとたどりついたのは、案外小さめの王様の寝所です。第一夫人から第十六夫人までの寝室に、ぐるぐる取り囲まれています。
「まるで奥さんたちを盾にしてたみたいね!」ポーラはぷんぷんです。
「なんだかダンジョンみたいだなぁ」
「RPGごっこができるね」
遺跡発掘はまだまだ完全ではないそうで、ほんとに重要な王族の墓所や神殿部分は残念ながら、入口から金網ごしに覗くだけ、立入禁止でした。
敷地が広く入り組んでいるので、案内嬢は、時々お客さんの数を数えて、誰か迷子になっていないかどうか確認します。あなぐらのような墳墓《ふんぼ》の通路をたどり、青空の下《もと》に出たところで、また立ちどまって数えました。
「いちにいさん……あら、変ね? いつの間にか、ひとり増えてる……?!」案内嬢は、顔をしかめました。「あのう、ひょっとして……他のツアーのかた、混じってませんか? これ、オテル・ド・マザーズご一行さまですよ?」
客一行は、面食らって、たがいに顔を見合せます。一様に首を振ります。
「…………」案内嬢さんはくちびるを噛みます。なにせよりによってお墓から出てきたところなので。ちょっと怖くなったみたいですが。「じゃ、出発します!」ホテルの紋章の旗を高々と掲げ、くるっと回れ右をして歩きだします。「……いいわ……知らないもん! 足りなくなったんじゃないんだから……あたしのせいじゃないんだから!」ひとりでブツブツ言ってます。
「プー……」ポーラは、いつの間にか傍らを歩いている小柄な少年に、ため息をつきました。
「気の毒に、あのひと、きっと悪い夢をみちゃうわよ」
「そうか?」ランマのプー王子は、つりあがった目をきょとんとさせます。「でも、落ち着いたら、きっと嬉しくなるぞ」
「『このお墓では、いつの間にかお客さんの数がひとり増えてしまうことがあるんです。みなさん、お隣にいるかたは、さっきまでそこにいたひとですか?』なーんて言って、スリル味わわせるネタができたんだもんね」ジェフが笑います。
「そゆこと」
「絵本で読んだことがあるよ」とネス。「どこかの国では、知らない間に増えている子供は神さまだって言うんだって。騒いだりしないで、さりげなく大切にもてなしてあげると、家じゅう幸せにしてくれるって」
「俺だな、それ」プーは顔色もかえずにそう言いました。「俺はクマリだから」
「クマリって?」
「人間に宿る神。俺の国では、代々クマリを受け継いでいる。ふつうは小さな女の子が二、三年だけクマリを宿すんだけれど、六百六十六代めだけは時の王子が宿して、悪魔の王と戦うよう、さだめられている。……ランマ王国二千年の昔から伝えられてきた伝説だ。そして、俺は、六百六十六代めなんだ」
「ねぇ、その元クマリだった女の子たちはどうなるの? まさか人身《ひとみ》ごくうじゃないんでしょうね」
「まさか」プーはポーラを睨みます。「そんな野蛮《やばん》なことをするか。神をおろした後は、普通の女がみんなするように暮らすだけだよ。そのうち結婚して、子供も生む。うちの国には、もと神だの、もと神の夫だの、もと神の子供だのが、ごろごろしている」
「うわー、エキゾチックぅー!」
お喋りしながら歩いているうちに、見学コースの終点、博物館につきました。
最初の展示室には、神殿から出土した像や焼物などが並んでいます。犬の頭をしたひと、猫の頭をしたひと、カエルの頭をしたひと。わずかに残った彩色は、サマーズの空のようなきれいなブルーです。素晴らしい細工や甕《かめ》や壺、お墓の飾りなどもありました。
二番めの部屋は装飾品コーナーです。金銀ビーズ、エメラルドにルビー。ぼろぼろに古びたのをつなぎあわせた、祭礼衣装。アクセサリーがたくさん入ったショウケースの片隅に、ネスはカブトムシのような形をした香炉《こうろ》を見つけました。
「驚いたな、これ、ブンブーンそっくりだ……」
「スカラビでございます」案内嬢がネスの凝視に気付いて、すかさず得意そうに説明してくれます。「既に絶滅してしまった甲虫《こうちゅう》の一種です。寒くなると地中に潜り、越冬《えっとう》してまた翌年飛んだと言われています。死と再生のシンボルとして、古代サマーズ人は、このスカラビをたいそう尊んだのです。スカラビ型をした宝飾品が、数多《あまた》出土しております」
「ふぅん……」
パンフレットによれば、奥まった階段の上が、謎の石板ヒエログリフの展示室なはずでした。ところが、この階段の途中に綱が渡され、『関係者以外立入禁止』の札がさがっているのです。
「えーっ、どうして?」
「変だな」
「ヒエログリフ見られなくっちゃ、来た意味ないじゃない、ねぇ!」
「では、ランチ会場にご案内します! みなさん、どうぞぉ!」
四人は階段の下に立ち止まったままがんこに動きませんでしたが、他のツアー客はあきらめがよく、旗のひとの後にくっついて、さっさと退出してしまいます。ヒエログリフより、食堂のチキングリルのほうが魅力的なようです。
「お客さまがたも、どうぞ」博物館の学芸員のオジサンが子供たちが残っているのに気づきました。
「ヒエログリフ、見たいんです」
「いやいや、申し訳ございませんが」学芸員さんが、眉をよせます。「実は、誰かいたずらをしたひとがいましてね。いま、大急ぎで修復作業をしているところなんです」
「いたずら?」ネスが顔をしかめます。あのポーキーは見学にきたのです。その時は異常はなかったはずです。ということは……まさか……。
「作業の邪魔はしません。チラッと。ひとめでも! お願いしますよ」
「このために、ツアーを申しこんだんですよ!」
ジェフもポーラも口々に訴えます。
「そうですか……じゃあ、待ってください。聞いてみます」学芸員さんは、館内電話をかけました。ええ、子供さんたちなんです。熱心で。向学心旺盛で。とっても楽しみにしていたんだそうですよ。いっしょうけんめい頼んでくれます。「……おお、よかった!」電話を切ります。「特別に許可してくれるそうです。じゃあ、どうぞ。案内します!」
階段を昇ったところに、小さな部屋がありました。青い養生シーツを敷きめぐらし、足場が組んであります。問題のヒエログリフは、どこかうずくまった猿に似たかっこうの、天井までそびえた無骨な自然石です。作業着にヘルメット姿のオジサンがふたり、図面を覗きこんでなにやら相談していますた。
「どうも、どうも、すみませんね」学芸員さんが四人の代理で、腰低くお辞儀をしてくれます。「さぁ、どうぞ、見てください」
四人は転がっている工具や材木を踏まないようにして、進み出ました。
「あの有名なロゼッタ・ストーン同様に、古代文字解読の鍵になると言われている人類の貴重な宝ですよ」学芸員さんが言いました。
石の表面に細かな文字がびっしり刻んであります。ぜんたいが、三つのブロックに分れているようです。下は、丸と三角とクネクネのめだつ、みょうに可愛らしい文字。次は、上向き下向き右向き左向きの、ありとあらゆるくっつきかたをしたクサビ印ばかり。一番上が絵文字です。さっきのスカラビや犬頭猫頭などがあちこちに散らばっています。
その絵文字の上に、マジックインキのようなもので、稚拙《ちせつ》ならくがきがしてあります。まんまる顔でブタ鼻をしたのと、八の字髭のが、ヘリコプターに乗って「やーい!」と言っています。眼鏡とリボンと野球帽と、頭のてっぺんに三つ編みをくっつけたのが、じだんだを踏んで悔しがっています。
「……えっ……おや……?」親切な学芸員さんが、絵と四人を見比べます。「な、なんだ? これではまるで……」
「『悪魔の炎山々に降り注ぎ、連星海に墜《お》つ』」ただでさえ細い目を糸のようにして石を睨んでいたプーが、厳かな声で言いだしました。「『いと長き齢《よわい》を経《ふ》りしもの、邪念を抱きて天より来たり』」
学芸員さんが仰天します。「きみ……きみ、これが読めるのか……!」
「『世々の王姫《おうき》英雄|数多《あまた》集い、民人四角|錘《すい》の砦《とりで》築きて、能《よ》くこれと戦う。戦うこと数年、神々の恩寵《おんちょう》によりて、遂には|擬偉愚《ギーグ》を懲《こ》らし、世の果てに追放せし。大地は歓びの歌を取り戻せり。然《しか》れども学者{占卜師《せんぼくし》の見立ていわく、悪の巣は時の彼方にあり、未だ潰《つい》えておらず。時の裂け目魔境にあり、世々に暗黒をもたらす。千の齢を経りし時、奸計《かんけい》再び蘇り、魔丹魔丹《マニマニ》の黄金、衆人を惑わせ欲に溺れさせん。我等が末裔《まつえい》よ稚気の四勇よ、立ちて征《ゆ》け。此《こ》の空と地と海に、久しく聖なる守りのあらんことを』……」
「つまり」と、ジェフ。「千年前、古代人たちはピラミッドを使って、一度はギーグを撃退したんだね。でも、また戻ってくるって言ってる。マニマニの黄金像のせいでみんなが欲張りになっちゃうことも、ちゃんとここに予言されていたんだ」
「『時の彼方』ってとこに、巣があるんですって?」と、ポーラ。「そこを叩かなきゃだめってことなのね、きっと」
「そして、時の裂け目は、魔境にある!」と、ネス。「ああ、急がなくっちゃ! ポーキーはもうとっくに魔境に向かってしまったぞ!」
「よしっ!」
「走れっ!」
「ああ、おい、待ってくれ、きみたちぃ!」学芸員さんが、ノート片手に追いかけます。
「いまの、もう一回。もう一回読んでくれぇ、まだ全部メモしていないんだぁ!」
「シュッパーツ、シンコー!」
オウムのポリーの飛び切り嬉しげな合図の声で、もやい綱が解かれ、帆が風を孕《はら》みます。モネ船長は舵輪《だりん》を握ってしみじみ感激しています。四人の子供たちは甲板に出て、桟橋の見送りのひとたちに花やテープをなげました。
それにつけても態度の落ち着いている支配人ノワールさんや、セクシー女優のマリマリさんと親友みたいに並んだトゥルーマンさん、その他もろもろのクラブのお客、港町の子供たちや、単なる野次馬、あいかわらず何がどうなっても俺たちには関係ないと言わんばかりながら好奇心はないわけでもないカップル集団などなど……大勢のひとびとが手を振り、声をかけ、名残り惜しげに微笑んでくれる中、黄金の子羊号は、トトの港を意気|揚々《ようよう》と出港しました。
天気は上々、風もさわやか!
目指すは、魔境。
8 ネスの場所
フォギーランドの南方、水平線の果て。大海原のど真ん中に、新大陸パラダイスはその豊満な緑のからだを静かに横たえておりました。
新と呼ぶのは実際のところ、先進国の横暴ってやつです。ここにはここでちゃんと住人がいます。何万年か昔からいたようです。レク族、クナ族、アピル族。独自の生活様式と美学を持った先住民のかたがたが、惑星北部に発生してかれこれ二千年を越える文明といまだにほとんど接触を持たず、亜熱帯ジャングルを縦横に駆け抜ける川のほとりに、ひっそりと生活していました。
高床の簡素な小屋を水辺に建て、小さな手漕ぎ舟で魚を取り。女たちは樹の実をもぎ、子供を育て、男たちは弓矢と槍の腕を磨く……そんな生活です。豊かな自然の中にあって、けして必要以上のものをそこから奪うことのない、実にエコロジカルな人々でありました。すべての川は大河ミルミルの支流。すべてのひとはミルミルの子。そんなコトワザもありました。
魔境と呼ばれるのは、広大なミルミル支流の奥まったほう全体です。なにせやたらに広くて複雑で、湿地であるか、緑が茂りまくって足の踏み場もないかのどちらかなので、ほとんど探検もされていないのです。
しかしながら。ごく最近になると、この大陸にも開発の波が押し寄せてきました。海辺の村には港が作られ、みるみるうちに発展して大都市ニューポートになりました。これが首都です。舗装道路が敷かれ、ホテルが、銀行が、スーパーマーケットができました。ガソリン・スタンドや、免税店《DFS》や、ビデオのレンタル・ショップさえできてしまいました。お金とかいうへんてこりんなものを持った観光客が次から次へとやってきて、きれいな浜辺に集って日焼けオイルの匂いをぷんぷんさせたり、食べ切れないほどのごちそうを作らせてはどんちゃん騒ぎをしたりします。
なにかと人手が足りないので先住民たちにも就職の話が持ちこまれましたが、この首都で働こうとすると、そこを牛耳《ぎゅうじ》っているひとたちの使うよその国のことばを覚えなくてはなりません。おつりの計算のしかたや、文字を書いたり読んだりすることも覚えなくてはなりません。学校に通うには通えるほど近くに住む必要があります。北からきたガイジンたちは、子供に勉強をさせるのは親の義務だと言い張りました。学問がないと、おとなになった時、ぜったい困るはずだと言うのです。
いかにも確信的に言うひとのことばを疑うこころを持ったことのないおとなたちは、とりあえず首都に住んで、子供たちを学校にやることにしました。しかし、首都では、好きなところに好きなように自分で家を建ててはいけないようです。すべての土地は誰かのもので、すべての樹木も誰かのものでした。勝手に使うと、牢屋にいれられてしまいます。既に建ってるコンクリート制の蟻塚みたいなものに住もうとすると、家賃というやつがいるのです。食べ物も、必要になった時にちょっと行って取ってくるわけにはいきません。スーパーマーケットには見たこともないほどたくさんの種類と量の食べ物が毎日あふれているというのに、譲ってもらうにはお金がいります。だからまず働いてお金を手にいれなくてはなりません。
なるほど、ガイジンたちの言うとおり、学問のないおとなは苦労をしました。ことばがわからなかったり、文字が読めなかったりすると、お金をたくさんもらえる仕事をすることができないのです。そもそもお金に不慣れなのがバレると、しょっちゅう計算をごまかされます。来る日も来る日もいっしょうけんめい働いても、なんだかサッパリお金をもらえないというのに、さらにさらに……なんと! お金を手にいれると、お金を払わなくてはいけないと言われてしまいます。ゼーキンと言って、これを払うのは働いてお金を手にいれたひとの当然の義務なんだそうです。
なんとまぁ首都は、義務が多いところでしょう!
こんなことなら、あのまんま、緑の川辺で暮らしていれば良かった。首都になんかこなければ、お金になんか関わり合いを持たなければ良かった。そうすれば、子供たちだって、魚取りの手伝いをしたり、小さな弟や妹と遊んでやったりして、のんびり暮らしていくことができたのに……。
後悔しても、もうダメです。川辺はなぜかいつの間にか、誰かよそのひとのものになってしまっているのです。土地も小屋も魚も樹も、みんな、ここに来ることもないガイジンのものなのだそうで、黙って取れば泥棒と呼ばれます。もう一度そこで暮らしたいのなら、がんばって買い戻さなくてはいけません。それには、一生の何倍もの時間、働いて働いて、働き続けなくてはならない……。
かくいうわけで、大河ミルミルの支流の水際には、住むひとのいなくなってしまった村がいくつも放置されているのでした。
そんなひとつ。隙間だらけの板張りの、ヤシの葉で屋根をふいた小屋が、床を支えた木の柱をミルクコーヒー色の波にそっと洗われています。古びて水草の絡みついた綱で、柱に舫《もや》われた小舟がひとつ、底に穴が開いているので半分水に沈みながら、魚たちの遊び場になっています。ジャングルに住むきれいな色の小鳥が二羽、つがいなのでしょう、チュクチュク鳴きかわしながら飛んでいきました。人間の放りだした道具でも、鳥にとっては、いい巣材になります。どうせ誰もいないのだからと、安心して近づいたのに。
「クラーケンがやられたって?!」
無人のはずの小屋の中から、いきなり大声が聞こえたのです。小鳥たちはびっくりして、あわてて逃げてゆきました。
「どういうことだ。説明しろ」板張りの小屋の床を半分以上も埋めつくした肉の塊りが呻《うめ》きます。
「説明モナニモ」しどろもどろ言うのは、白くてぴたぴたのおよそ場違いのスキーヤーみたいなウエアに、全身を包みこんだ怪人です。横長のミラーグラスをかけています。慣れないお茶席に招かれたひとのように、妙に四角ばった格好できちんと正座をしています。
「イツモノ通リ、くらーけんハ、怖ク、カッコヨク、頼モシク、白波蹴立テテニジリヨッテ、ざばぁっト顔ヲ出シタノデス。デッカイ不気味ナ顔デアリマス。牙ダッテ、チャント、ずらりト見エマス。ソウイウ笑イカタヲ、シッカリ指導シテオキマシタカラ。……オカゲデ、舵ヲ取ッテイタ人間ノ中年オスハ『ででででで、どぇーたー!』ト、オ約束通リニ吃驚仰天《びっくりぎょうてん》、ガタガタ震エテクレタノデスガ……」
「が?」
「ハア。ソレガ」怪人は、どこからともなく取りだしたハンカチで、顔のあたりを拭います。
「マズ、メガネノ、ヤセデス。コレガ『あれー、タッシーの親戚かなあ』ナンテ、実ニノンビリ言ウンデス。『海にいるんだから、ウッシーかな』ダナンテ……! ヒドイ、ヒドスギマス! コレデくらーけんノヤツハ、露骨ニ意気消沈シテシマッタニ違イアリマセン。ナニセ、アレハ、アア見エテ繊細デ傷ツキヤスイ性分ナンデス……アア、カワイソウナくらーけん……」
「それで?」ピンクの肉の塊りが、バカにしたように鼻を鳴らしました。
怪人はあわてて続けます。「次ニ頭ノ黄色イ女デス。コレガ、コトモアロウニ、『PKフリーズ!』ト叫ビマシタ! トコロガ勤勉ナくらーけんハ、コノトコロ、人間界ノにゅーすニ非情ニ敏感ニナッテマシテ、例ノ銃規制ノ問題ナドニハ一家言持ッテイルワケデスヨ。デ、『ふりーず』ッテノガ『動くな』ッテ意味ダッテコトハヨーク知ッテイマシタカラ、礼儀トシテジットシマスヨネ? ソコニ、アノ目ノ細イノガ徒手空拳デ殴リカカッタノハマダシモ、野球帽ノちびナド、失敬センバン、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》、ナント金属ばっとデ襲イカカリ……」
「いい、もうわかった」肉の塊りは、グローブのような手をじゃけんに振ると、ううむとため息を洩らしました。「あれで時間が稼げる予定だったんだがなぁ。売り込みほどの実力はなかったな。……おい、スーパースターマン、どうせまたカタログを持ってきたんだろ? 見せろ」
「ア、ハイハイ! コレデゴザイマス」スーパースターマンと呼ばれた怪人は、背中側に置いてあった紫色の風呂敷包みを手にとり、解きました。中から出てきたのは、アルバムのようなもの。表紙に金箔《きんぱく》押しで『もんすたありすと』と書いてあります。怪人は、それを両手で捧げるようにして、そそくさと膝で肉の塊りににじりよりました。一ページ一ページ開いてみせます。
一ページに四つずつ、履歴書みたいなものが張ってあります。写真があって、グラフがあって、スペック・メモが書き込まれています。
「コノヘンガ秋ノ新作デス。コチラハ出血大奉仕ノ廉価品《れんかひん》デアリマス」
「……なんだ? マル・デ・タコ? サカナ人間?……パッとしないなあ。もうちょっと強そうなのはいないのか」
「デシタラ、コノどむーく・しにあナドハイカガデゴザイマショウ? HPハ三九〇、がっつガ五〇単位モゴザイマス。特技トシテハ、らいふあっぷα、さいまぐねっと……」
「わかった。二十体ほど用意しろ。他には?」
「ハア。でへへへへらー、ブキミぼーる、えれきすぴりっとノ混成軍ガオ勧メデショウカ。電撃ばちばち[#「ばちばち」に傍点]ヤ根性うっどーモ、ナカナカイイ仕事ヲシテクレテイマスガ」
「なら、みんな呼べ! どんどん呼べ! ケチケチするな。エネルギーなら、まだまだいっぱいあるんだから……」なんともウンザリしただらしのない格好で、スーパースターマンのせっせとめくるアルバムを眺めていた肉の塊りが、ふと、オッ、と身を乗りだしました。さざなみのように、肉襞が揺れます。「……ちょっと待て、いまのページを見せろ!」
「エ? エ? ドレデゴザイマショウ?」あわてて戻すSSマン。
「……それだ。その怪獣」
肉の塊りがニヤリ指差したのは。
カニメザウルス。ハラペコザウルス。一体にページがひとつまるごと使ってあります。スター扱いです。「そいつらが欲しい! 連れてこい!」
「シカシ、シカシアノ、ぎーぐサマ」SSマンが、すりすりと手をすります。「タイヘン申し訳アリマセンガ、コレラハ質量ガけた違いナノデゴザイマス! ウチノ次元移送機デハ、切リ身ニシナイト通リマセン」
「じゃ、新しい移送機を作れ。おまえのとこのロボットを少しそっちに回せばいいだろう。大急ぎで作るんだ、こいつらがニッコリ後進できるようなデッカイのをな!……ふふふ、楽しみだな」肉の塊りはたるんだ頬をぶるぶるさせました。どうやら笑ったみたいです。
「せっかく呼ぶんなら、活躍してもらわなくっちゃな。こいつらの前に置くのは、ほどほどのモンスターにしておけ。おれはネスの野郎が逃げ惑って踏んづけられてぺっちゃんこにされるところが見たい! ぜひ見たいぞ!……よし。話は終わりだ。行け!」
「ハ、ハーッ!」
両手をつき頭を床にすり寄せるようにして畏《かしこ》まったSSマンが、電波の乱れたテレビのようにザザーッと歪んで霞みます。空気の焦げたようないやな匂いを残して、掻き消すようにいなくなります。後には、小山のような肉の塊りだけが残りました。
それはもう一見人間には見えません。限界を越えて太ったからだは、ぶよぶよと余った肉が何重にも重なって、お餅で作ったケルンのようです。こんなになったんでは、もちろん着られる服がありませんから、腰のあたりにミッフィーちゃん模様のバスタオルを二枚つなげて申し訳程度に巻いただけ。こんな人間離れしたデブであっても、まる裸は落ち着かないのでしょうか。
しかしもし彼に、ふつうの当たり前の羞恥心があったなら、そもそもこのからだを悔みそうです。醜いし、不気味だし。おまけに、怖いというより、むしろ、お笑いと言ったほうがいいような姿かたちなんであります。
そう、これが、あのポーキー・ミンチの現在ただいまのルックスでした。
「ギーグさま、か」苦笑すると、ポーキーは、ドーナツを重ねたような腕を、よっこらしょ、と床につっぱり、なんとかかんとか立ちあがりました。
座っていたところの後ろに、あの黄金像が飾ってあります。
「どいつもこいつも、そう呼びやがる……まぁ、いい。呼びたいなら、そう呼んでいればいいんだ。たぶん、ギーグってのは、多次元世界の支配者とか、ボスとか、総統とか、大統領とか、神とかいう意味なんだろう」
安普請《やすぶしん》の床をギシギシ鳴らしながら、ポーキーは外に出ました。そばの空き地に……そこは昔、ここに村があった時、ひとびとが焚き火を囲んで集ったり、一緒に作業をしたりするスペースだったのですが……彼の父である、アンブラミ氏がいました。
探検家のようなポケットのたくさんある服を着て、半ズボンをはき、サファリ帽をかぶっていますが、どれも汚れて破れてぼろぼろです。顔は無精髭と埃と隅《くま》でどす黒く、頬がぺっこりこけ、老眼鏡の下で血ばしった目がギラギラしています。地面の右手には、ヤシの葉っぱを短く切り揃えたものが、小さな山をなしています。左手には、その葉っぱがきちんと四角い束になって、重ねてあります。
ポーキーはそっと近づいてゆきました。なにかブツブツ言う声が聞こえてきます。
「……九十六、九十七、九十八……」アンブラミ氏はヤシの葉っぱを、一枚一枚数えているのでした。「……九十九……百!」百枚を丁寧に重ねて揃えると、輪ゴムでひとつに留めます。左手の束の上にまたひとつそれを乗せ、膝の上に載せた小さなノートになにか書き込むと、アンブラミ氏は、額の汗を袖で拭って、満足そうに微笑みました。
「親父《おやじ》」ポーキーはむっつりと声をかけました。「腹減ってないか?」
「おお、ポーキー。見てくれ、もう五十八万三千七百ドルだ!」アンブラミ氏は、得意気にヤシの小山を示します。「そして、まだまだ、数えてないのがこんなにあるんだ!」
「そんなに根をつめて数えるなよ」ポーキーは泣きそうな顔で笑います。「誰も取りゃあしねぇんだからさ。飯くらい、喰えよ」
「うん、だが、もうちょっと。六十万ドルまで数えたらひとやすみするから」アンブラミ氏は熱っぽい目を片方閉じてウィンクすると、また葉っぱのほうに向き直り、一枚一枚数えはじめました。「一、二、三、四……」
ポーキーは目を閉じ、薄く開き……まぶたの肉のせいで、どうせそんなに開きません……そっと頭を振りました。「うちどころが、悪かったんだな……」
目をやるジャングルの彼方、丘の途中に、黒い金属の棒が突きでています。不時着炎上したヘリコプターのなれの果てでした。
操縦不能になったのは、ポーキーが突然またズンズンと大きくなって、耐久重量をオーバーしたからです。ツーソンで、フォーサイドで、さんざん儲けたドル紙幣を、海やジャングルにバラ捲きながら、なんとかここまで来たのです。地面に激突した時、ポーキーはなぜか、蚊に刺されたほどにも怪我をしませんでしたが、アンブラミ氏は息子の巨体の下敷になって息もできなくなり、気絶してしまいました。ガソリンに火が回る前に、意識のない父を抱きかかえ、マニマニの黄金像を背中にしょい、命からがら逃げだして……やっとこの村を見つけました。くたびれ果てたポーキーが眠って起きてふと気づくと。アンブラミ氏は、ヤシの葉をお札の大きさに切りそろえて、一心不乱に数えていたのです。
そしてどこからともなく、あのSSマンがやってきました。多次元世界の住人であると名乗る彼は、ポーキーの……いや、ギーグの命令ならなんでも聞くと言うのです。
がんばって一刻も早くこの地球を手にいれてください、と、応援なんかもしてくれるのです。
「地球なんか……別に欲しかねぇや」ポーキーは頭を振り振り、川に入りました。タオルを小屋の床にひっかけて、裸になってしゃがみます。泥底に裸足の脚が、ずぶずぶ沈みます。
「なんだって、おれ、こんなとこまで来たんだろう?」ポーキーが水中で広げた手の指を、小さな魚がつつきにきます。きっとソーセージと間違ったのでしょう。小さな魚を追いかけて、大きな魚も近づいてきました。ポーキーはじっと待ちます。じっと待ちます。大きな魚が、すぐそばにやってきました。ザバァッ! 跳ね上げて、捕まえます。びちびち跳ねる大きな魚。尻尾をつかみ、小屋の柱にゴンと頭をぶつけて気絶させると、ポーキーはすぐに食べ始めました。焼いたほうが美味しいのはわかっていますが、火を起こす手間がめんどくさい。とってもお腹がすいているのです。
「もっと南に、もっとジャングルの奥まで行かなくちゃな……なんでか、サッパリわかんないけど。きっと、そこに行けばわかるだろう。なんかすることがあるんだ」
もしゃもしゃ、ぐちゃぐちゃ。まだもがいている魚を無我夢中で食べながら、口の回りを血だらけにしながら、ポーキーはニヤリと笑います。「そこで、きっと、おれは、あのネスの野郎をぶち殺してやるんだ……!」
いっぽうこちらはネス一行。
首都ニューポートに入港した美しい帆船黄金の子羊号は、大勢のひとに出迎えられました。なにせ剣呑な海の怪物クラーケンが現われてからと言うものの、よその国とほとんど行来《ゆきき》ができなくなっていたのです。海を越えて近づいてくる船があるぞ! と言うので、暇なひともそうでないひとも、こぞって見物に来たわけです。
さっそく駆けつけた報道陣に、モネ船長が、なにげなさそうに、怪物ならやっつけてやったと打ち明けたもんだから大変です。ニュースはその日のうちに首都じゅうを走り、勇敢な英雄をひと目見たいひとたちで、街路は満杯になりました。誰かが準備してくれたコンバーティブル・カーで、花冠《はなかんむり》をかぶせられ、ぐるぐる延々オン・パレード。吹奏楽団の演奏に、オウムのポリーが興奮して、ちょっと逃げだす騒ぎもあり。夕方からは、町で一番のグレート・サザーン・ホテルでは、熱烈歓迎の晩餐会《ばんさんかい》が開かれることになりました。
「あんまりのんびりしてられないよ」休憩《きゅうそく》に借りた部屋の中で、ネスはため息をつきました。
ホテルの用意してくれた着替えは、お祭りで戦士の躍りをするひとたちのフォーマル衣裳。腰に布、腕や足首や裸の胸のまわりにはビーズ細工のアクセサリーがずっしりぎっしり重いほど。いつもの野球帽のかわりに、鳥の羽根のたくさんついたボンネット。おまけに、真っ赤な房のついた槍まで持ってなきゃいけないようです。
「ぼくとしては、一刻もはやくポーキーのやつを追っかけたいんだけど……」
「まぁ、そう言うなって! せっかくのご好意じゃないか」モネ船長は昼間からのふるまい酒にご機嫌です。こちらは用意よく、渋い銀色のタキシード。「たんまり喰って、よく休んで、それから出かけても遅くねぇよ」
「そうかなぁ……」
「用意できたかーい?」ジェフとプーがノックして入ってきます。「わっ、ネス、なかなか似合うじゃないか」
「そういうきみたちは、なんで着替えてないんだよぉ」
「サイズが合わなかったんだ」とジェフ。
「嘘つけ」
「ほんとうのことを言うと、この格好で眼鏡じゃあまるでアホみたいだろ? ぼく、これがないと歩けないからねぇ」
「俺は、クマリによって清められた手で織られた清められた布をしか身につけることができない」とあくまで真面目なプー。「異教人には悪いが」
「ちぇーっ。……あーあ、ポーラはどうしたかな」
「お待たせ」ノックの音がして、ドアが開きます。
みんな、おおっとどよめきます。
肩から半径一メートルも扇型にそびえたつ羽根はまるで孔雀《くじゃく》。天然真珠をつないだケープ、胸を覆った貝の殻。腰から下は人魚のヒレみたいにキラキラ虹色にきらめくスカートです。きっとコスプレ、たぶんショウガール、いやはやカーニバルの女王です。
「そ、そ、そんなにジロジロ見ないでよッ」ポーラは頬を赤くしました。「だって、せっかくだし……これが正式だって言うし……こんなかっこう、一生よそではできないわ!」
はてさて出向いた大ホールは立食パーティー、ひとと御馳走でいっぱいです。さすが南国、長々とした挨拶などはなく、みんなで乾杯をするともう無礼講の御歓談のひとときになりましたが、船長も子供たちもあっちでもこっちでもひっぱりだこ。なかなかごはんにありつけません。
「遠慮してちゃだめよ、この際しっかり食べておきましょう!」ポーラはネスの手を引いて――たぶん、同じようなかっこうをしてる同士、はなればなれになりたくないんだろう、とネスは思いました――孔雀扇をまわりのひとにぶつけながら、ずいぶん壁際のビュッフェ・コーナーに進みます。「お寿司に、カレーに、テンプラに……うーん、迷っちゃう! あら、ネス、見て! ハンバーガー・スタンドがあるわ!」
「え?……あ〜っ!!」
「あ? ? あ、ああああ!!」
ネスが叫びを洩らしながら思わず指さすと、ハンバーガー・スタンドで、せっせとハンバーガーを焼いていた紅白縞々のやたらに丈の高いコック帽子のオジサンも、気づいて顔をあげ、たちまち指差しかえして叫びます。
「パパ!」槍を構えて突進します。あたりのひとがびっくりして避けます。
「ネス! ほんとにネスなのか?!」パパはパパで、フライ返しを持ったままの腕を大きく広げます。
ハンバーガーがじゅうじゅう焼ける熱い鉄板のすぐ隣で、父と息子が抱き合います!
「いやはや、そうか! 怪物退治の英雄っていうのは、ネスたちのことだったのか。これは驚いたな」
「ぼくだって驚いたよ!」ネスは赤白黄色の横棒の塗られた顔で笑います。「パパったら、海外出張って、こんなとこまで来てたんだね?!」
「そうなんだ」パパはネスの顔をちょっと眩しそうに見つめたまま、にこっと笑ってうなずきます。「アンブラミさんの指令でね、やけに次々に飛ばされて、ついには海のこっち側まで来たんだが……いやはや、来た甲斐はあったよ。ここの国のひとたちのほとんどは、ハンバーガーってもんをまだ見たことがなかったんだ! 美味しい美味しいってとても喜んでくれるんだよ。なんだか高級料理店のシェフになったみたいな気分なんだ」
「そうだったの……」ネスはフォーサイドでのバイオネスバーガー騒ぎを思いだしました。他ならぬアンブラミ氏も、片棒を担いでいたことは明らかなのですが……わざわざパパを悲しませる必要もないだろうと、黙っていることにしました。「でも、ママは寂しがっていると思うよ」
「ああ……」パパは困った顔をして、オシャレに畳んでネクタイみたいに首にさげたナプキンの先をいじりました。「レイチェルには、時々国際電話をかけてる。だから、おまえが悪いやつと戦うために旅に出たってことも知ってたんだ。もしかしたらいつかどこかで逢えるかもしれないと思っていたけど、今日逢えるとは思わなかったなぁ」パパのでっかい手が、ネスの頬に触れます。「いつの間にか、でっかくなりやがって。ネスは、ほんとにがんばってるんだな。パパも負けていられない……この上は、我が愛するネスバーガーを、世界ナンバーワンのハンバーガーにするぞお!」
もうそうなってるんじゃないかな、とネスは思いました。
「しかし、お互い、もうそろそろ家に帰りたいよな。なのに最近、アンブラミさんは、なぜか、いくら電話してもつかまらないんだ。許可がないと現場を離れるわけにはいかないからね。……まったく、どこに雲隠れしたんだろう。フォーサイドに事務所を移したところまでは知っているんだが……」
「……あのね、パパ……」ネスは顔をしかめます。「アンブラミさんは、ポーキーと一緒なはずなんだ。サマーズからヘリコプターで、こっちのほうに来たはずなんだけど」
「ヘリだって? ヘリならこの間、ジャングルのどこかに落ちたらしいぞ」
「ジャングルに?!」
「ああ。ニュースでやってた。救助隊が行こうとしたんだが、地図も整っていない奥地なんで諦めたとか。いまは乾期で水かさがさがっているから、あのへんは舟もろくに通れないんだ。この国の面積の九割は、いわゆるひとつの魔境だからね」
「魔境」ネスは拳骨《げんこつ》を固め、くちびるに当てます。ヒエログリフの予言を、改めて思いだしました。
「それで、今夜はどこに泊るんだ? たまにはパパと水いらずで過ごさないか」
「ごめん、パパ。せっかくだけど……ぼくらはゆっくりしてられないんだ。さっそく、その魔境にでかけなきゃ!」
「なんだって?」目をぱちぱちさせたパパが、ふと顔色を変えます。「……おい、まさか。ひょっとして、おまえの追っかけている悪いやつって、アンブラミさんなのか?」
「違う」
〈アンブラミさんじゃない。ポーキーなんだ。あの太っちょの、にくらしい、隣の子なんだよ!!〉
こころは叫んでいましたが、ことばはごくんと飲みこみます。
だってパパは、あのポーキーを知っているんです。うんと小さい頃には、時々一緒に遊んであげたこともあるくらい、猛烈ビジネスマンのアンブラミさんは、いつもやたらに忙しがっていて、子供と遊んでいるヒマなんてない! ってひとでしたから、子煩悩《こぼんのう》なネスパパが、隣の子もうちの子もひとまとめにしてみんなのパパ役を引き受けてる時期がありました。
上司の子だからではありません。ポーキーの数少ないいいところをちゃんと見て、なかなかガッツのあるヤツじゃないかと、可愛がっていたのです。
思いだします。ネス兄妹と、ポーキーとピッキーと、みんなまとめて、釣りや、キャンプや、昆虫採集に連れて行ってくれたこと。インディ・カーの試合のチケットを手にいれた時には、三枚ぽっきりだったので、ポーキーとネスと三人で出かけました。男は男同士! これは男の見るもんだ。赤ん坊や女にはもったいないぜ。ポーラが聞いたら怒るようなことを言って。悔しがるから内緒にしておけよ、って、特大のアイスクリーム・コーンも、並んで食べて。
その頃は、まだポーキーも、そんなに太っていなくって、そんなに意地悪でもなかったのです。釣竿から魚をはずす時とか、ハンモックをつるす時とか、年下でまだ不器用なネスのことを、よく面倒見てくれていたのです。いちいち「どうだ、すげーだろ。尊敬しろ」って、威張りながらではありましたが……兄というのは無理にしても、イトコ同士ぐらいの気持ちでした。
それが……学校に行きだしてみたら、ポーキーは急に元気がなくなりました。いま考えてみると、わかります。知らないやつがいっぱいいて、できるやつがいっぱいいて……スポーツも勉強もあまり得意なほうじゃなかったし、子分のネスやピッキーはまだ幼稚園ですから、頼ってくれる相手がいません。お山の大将でいるのが好きなポーキーは、打ちのめされたのではないでしょうか? 居場所がないような気持ちだったのではないでしょうか?
そんな頃、アンブラミさんがどんどんお金持ちになりました。物だけは次から次へと買ってくれます。ラジコンとか、ニューメディア対応のビデオだとか、コンピュータ・ゲームの機械とか。新しい、高価な、まだ誰も持っていないような、ひとに自慢できるようなオモチャを、呆れるほどたくさん。ごはんは毎日御馳走です。寂しさや不安を、カロリー豊富な食べ物をやたらに詰めこむことでごまかせば、からだはどんどん太ります。太ると動くのがおっくうになるので、アウトドア活動はおのずとやめ、部屋の中でばかり遊ぶようになります。いくらでも買ってもらえる、新しい素敵なオモチャで!
不健康な生活の中、ポーキーは頭脳も運動神経もますます鈍り、やがて、誰が見てもあきらかに太りすぎの肥満になってしまいます。クラスの連中に囃《はや》したてられます。デブ、デブ、間抜けのポーキー、空気デブ……。そんなに本気じゃなくっても、ちょっとからかってるだけのつもりでも、傷つくほうは傷つくもの。
不満と憎しみに凝り固まってしまったポーキーは、鼻つまみの乱暴者にまっしぐら。運動が苦手でも、喧嘩はできます。いつも、遊びじゃなく、本気で相手を憎いと思っていればいいんです。嫌われるかもとか、相手に怪我させちゃったら大変だとか、そんなこと、一切考えなきゃいいんです。だって、もしかほんとうに怪我をさせても、おとうさんがお金で庇ってくれますから! そうなってはじめて、ポーキーは、バカにされなくなりました。一目置かれるようになりました。たとえそれが、マイナス評価の注目でも、みんなに知られる人間になりました。
〈ああ、ポーキー!〉ネスには、いまやっと、はっきりとわかりました。〈ぼくも捨てた。見捨てたんだ。小さい頃は、あんなに仲よく、一緒に遊んだともだちなのに。みんなが嫌ってることがわかると、遊ばなくなった。近づかなくなった。そこにポーキーがいても、気もつかないふりをするようになった〉
〈そうだ〉頭の中で、声がします。ピンク色の風船のような太っちょが、生の魚を頬張って、ニヤニヤ笑っているイメージ。〈そうだ、ネス! おまえはおれを捨てたんだ。おれは知ってる! 知ってるぞ……!〉
思いだします。グラマー・スクールの運動場。一年生のネスが帰ろうとして歩いていると、上級生たちが、鉄棒で逆あがりの練習をしていました。いえ、必死で鉄棒にしがみついているのは、見慣れた大きなからだのポーキーひとり。あとの生徒たちは、ニヤニヤ笑いながら、そばで囃したてているのです。「残され坊主、デブ坊主」「三年生にもなって逆あがりひとつできないなんて、やーね、みっともないわねぇ」「しょうがないじゃない。ポーキーはブタなんだから」「やーい、ブタ。ブタの子ポーキー! ポーキー・ポーク! 親父のマーケットで、徳用パックで売られちまえ!」
なにを言われても、無言のまま、何度も何度もトライするポーキー。顔を真っ赤にして、くちびるを一文字にして、いかにも重たそうなそのお尻を必死にふりあげます。勢いつけて、持ちあげます。むっちむちの脚が、なんども宙を切り、鉄棒の下の砂塵《さじん》を巻きあげます。だけど悲しいへっぴり腰、赤ちゃんみたいにつけ根に凹《くぼ》みが出ちゃうぷくぷくした手。あとちょっと。あとちょっとなのに……どうしてもできません! と、突然、汗に濡れた手でも滑ったのでしょうか、背中からドサリと落ちました。見物の上級生たちがきゃはははっと笑います。砂まみれの顔で、唾を吐きながら起きあがった時……ポーキーがふと、顔をあげ、こちらを見ました。ネスはショックで、校庭に立ち止まったままだったのです。ポーキーとネスの目が一直線に交わります。
〈見られた!〉ポーキーの目に絶望が走ります。〈弟分のネスに、こんなみっともないところを!〉もともと赤かった顔が、さらに赤く、ほとんど紫色に変ります。
気がつくとネスは、歩いていました。みっともないポーキーから、顔を背け、急ぎ足に。心臓がドキドキ言っています。喉がカラカラに干上がっています。こわばった背中に、上級生たちのまた盛んに言い募る声がしました。「よせよせ、もういい加減やめちまえ」「あんたがぶらさがると、鉄棒が歪んじゃうわ。迷惑なのよ」「ブタはブタらしく、ブーブー言ってりゃいいんだよ! そらよ。ブーブー言ってみろ!」どかっ。ぼかっ。蹴りつける音。「うわぁ」ポーキーの悲鳴。呻き声。
ネスはギュッと目をつぶり、足を早めます。いつしか、走りだしています。〈やめさせなきゃ、おおぜいで、ひとりにかかるなんて、卑怯なこと、すぐやめさせなきゃ!〉そうは思いますが、なにせ相手は上級生、それも五、六人もいるのです。「助けて、誰か、助けて!」ポーキーが甲高い声で叫んでいます。いまにも泣いてしまいそうな声で。でも、いったい、誰が助けてあげるでしょう? ネス以外、いったい誰が? 〈行かなきゃ……行って、加勢しなきゃ!〉そう思いました。でも……。
まぶたの奥にはっきり浮かんでいます。紫色の顔を歪めて、ギロッと睨んだポーキー。悔しそうな、恥かしそうな、ひどく傷ついた表情。それは拒絶。それは、ネスには金輪際《こんりんざい》助けてなんか欲しくないと訴えているような気もします。
〈もしもぼくに助けて欲しいなら、あんな顔しなきゃいいんだ!〉ネスは夢中で走ります。走って、走って……ようやく学校が見えなくなると、道端にしゃがみこんで泣きました。弱虫の自分に。みっともないポーキーに。最低のふたりに……!
小さな頃、ダイヤモンドのようにきらめく時間を共有したことなど、どこかに消えてしまいます。あんなやつ、ともだちじゃない。あんなだらしないやつ、ともだちなんて思うもんか! きっと、あの同じ瞬間から、どちらもそう思ったに違いありません。
〈そうだ。あの時からだ。ぼくは、すぐ隣に住んでいるのに、ポーキーとなるべく顔をあわせないようにした。すれちがっても声もかけないで……ちゃんと元気でいるかどうか、ぜんぜん気にもしなくなった。ああ、そうだ。ポーキーがほんとのほんとにやなやつになってしまったのは、あれから後のことだったんじゃないか? じゃあ……ぼくが、他でもない、このぼくが……ポーキーを、決定的にいやなヤツにしてしまったのか……?!〉
〈そうだ、そうとも! いまごろやっと気がついたのか〉ポーキーの高笑いが聞こえます。
〈おまえはたいしたことだと思っていなかったようだが、おれはあれからただの一度も忘れたことなんかなかったさ。だから、だからさ! だから、おれは、おまえだけは、絶対に、絶対に、死ぬまで許せないんだ……!〉
〈……ああ、ごめん……ごめん、ポーキー!〉
「ネス? ネス、しっかりして!」ポーラが腕を掴みます。「テレパシー、傍受《ぼうじゅ》したけど、ところどころ霞んでてよくわかんなかった。いまのデブデブのひどくダサいの、誰なの? ひょっとして、あのポーキー?」
「……ポーラ」ネスは顔をしかめ、急いで目のあたりを拭きます。「頼むよ。きみの好みじゃないのはしかたないけど、どうかぼくには、ぼくの前では、あいつをデブって言わないでくれ」
「え、……ええ。いいけど……」
「邪悪の種子《たね》がいよいよ膨らんでいる」どこからともなく現われたプーがあいかわらず神秘的ななにを考えているのかわからない顔でそっけなく言い放ちます。「まもなく生まれるぞ、怪物が」
「おーい、ヘリの行方がわかったぞ!」フライドチキンとポテトの大袋を持ったまま、ジェフが人込みを掻きわけて近づいてきます。「エイリアン探知機で、捕捉できたそうだ!」
「ああ……そうか。そうだ」
〈ぼくは戦っているのだ〉
〈ギーグと〉
〈ギーグを宿した、ポーキーと〉
ネスは、ギュッと目を閉じます。過去は過去。現在は現在。運命はふたりをそれぞれ少年にし、地球をかけた戦いに巻き込みました。
オネット川の上流の、雪の塊の随所に溶けのこった清らかなせせらぎ、春まだ浅いよく晴れた日。早朝。一本きりの釣竿をふたりで握って、パンツまでぐしょ濡れになりながら、ようやくでっかいマスを釣りあげたと思ったら……ぎりぎりの刹那で糸を切られて逃げられてしまった。それでも、お互いよくやったじゃないかと、肩を組んで笑いあったあの日は、もうけして、けして帰ってこないのです……。
ネスは目を開けます。
パパがポーラやジェフと、はじめまして息子をよろしく、とかなんとか、挨拶をしている姿が、なにか現実でないように見えます。パパは優しくて、でっかくて、太陽みたいにいつもポカポカあったかなひとです。たとえ信じていた隣人に陥れられても、くさったりいじけたり相手を憎んだりせず、いっしょうけんめい自分の仕事をするひとです。パパには、こんな苦い経験は、自分で自分を嫌いになってしまうようなことは、ないのでしょうか。それとも……あったのに、もう乗り越えてしまったんでしょうか。
にぎやかで華やかなパーティー会場が、この世でないところのように見えます。着飾った大勢の紳士淑女、たっぷりの食べ物、たっぷりの飲み物……誰もが明るく、満ち足りて、幸福そうで。世の中になんの心配もないような顔をしています。でも、ほんとにそうなんでしょうか。好きなひとを悲しませてしまったことや、甘く見てはじめたことが手ひどく失敗して落ちこんでしまったことや……そんなつもりは全然なかったのに、ともだちを裏切ってしまったことが……みんな、一度もないんでしょうか?
と。気がつくと、じゅうじゅうじゅう。ハンバーガーのお肉の端のほうが焦げています。
その匂いがいきなり、ネスを我に返らせました。
「いけない、焼きすぎだよ、パパ!」ネスが叫ぶと、
「お、すまんすまん」パパはあわててグリルに向き直りました。「しまったなぁ、無駄にしてしまった。牛さんに申し訳がない」
「パパ。ぼくは、行ってくる」ネスは槍を握りしめます。「行かなきゃならないところへ行って、しなければならないことをしてくる。……どうか、祈っていてください。まだ取り返しがつくように。ぼくもあいつも、無事にオネットに帰れるように!」
くるっと踵《きびす》を返して、走りだそうとしたその時です。
「待て、ネス!」パパさんは、あわててハンバーガーを包みます。「せめて持ってけ、パパの特製の、スペシャル美味しい、とびきりバーガーを!」
ネス、ポーラ、ジェフ、プー。
四人は小舟を借りて、ミルミル川の支流をさかのぼりました。あ、もちろん、ネスもポーラも、民族衣裳はちゃんとお返しして、もとのいつものかっこうです。
かわりばんこに櫂《かい》を漕ぎます。浅瀬では降りて押します。行く手が何本もの倒木に遮《さえぎ》られてどうにも通れなくなってからは、舟を降りて、泥水に肩までつかって進みました。
川の左右は、枝の途中から何本も何本も根っこを伸ばした風変りな樹木でいっぱいです。水面に届いた根はネスの手首ぐらいの太さになっていて、ほとんど幹と見分けがつきません。まるで何百もの長い足をもった背の高い生き物の骨が半分水没しているみたい。巨人の籠《かご》か檻《おり》のようにも見えます。
背の高いシュロやヤシ、レモンのようなものがなっている木、花でいっぱいのツタ草が絡み付いていて王様の庭園のゲートにすると似合いそうな樹もあります。
やがて川はそういったたくさんの樹や草に飲みこまれ、シダだらけの湿地になり、また深くなったかと思うと、ぽっかりと丸い池に出ました。子供用ビニール・プールほどもあるハスの葉がびっしり浮かんでいる隙間の水に、眠そうな目をしたワニが何匹も何匹も鼻面をつきだしています。ポーラはぞっとしましたが、プーが水辺に立って、両手に印を結び、不思議な響きをもったことばでなにやら静かに言い聞かせると、ワニらは互いに寄り添って、線路のような背中を並べてくれるではありませんか! ゴツゴツいかついワニ橋をそーっと伝って渡り切ると、向う岸は干上っていました。しっかり踏んで歩ける固い地面です。ただし、植物の茂りかたがすごいので、よく気をつけていないとなにかにつまずいて転んですりむいてしまいそうです。
昼なお暗いジャングルを、迷子にならないよう、ぴったり固まって歩きます。まるい葉っぱの樹に、長い葉っぱの樹。蛇の鱗《うろこ》みたいな模様のある幹や、イボイボのたくさんある幹。樹ぜんたいのかっこうも、噴水型、ブラシ型、ずどんとまっすぐただ一文字型など、実にいろいろさまざまです。つる草や花綏《はなづな》がブランコのように垂れ下がり、高い梢《こずえ》の隙間から強い太陽光線がさしこんで、あたりはまるで、黄金の刺繍《ししゅう》のある緑のカーテンをかけめぐらしたかのよう。遠くの枝を小さな影が飛び過ぎて、興味津々追いかけてくるのは、猿の仲間でしょうか。おとなの靴ほどもある蜘蛛《くも》が巨大で複雑な巣を構えていたり、ネスのてのひらよりもでっかいカタツムリがのろのろと枝を這っていったりします。
ぎゃっぎゃっ。きええーい。きえーーい。きるきるりん、きるきるりん。じゃーころ、じゃーころ。ぴょーぴるぴる。鳥や獣や虫のコーラスは耳を塞ぎたくなるほどですが、四人が足を勧めると、そばでは、ぴたりと黙ります。
「うー、かゆい!」ジェフが突然、ぽりぽり腕をかきだしました。「わ、刺されちゃった! 強烈な蚊だなぁ、虫避けスプレーかけておいたのに」
「大丈夫、ここらにマラリアはないはずよ」ポーラが顔をしかめます。「あんまり盛大にかかないでよ、乾いた泥が飛んでくるわ」
「それにしても、ポーラ、偉いね」と、ネス。「ひとことも不平をいわないなんて、見直したよ。女の子には過酷な道だったろ。泥んこにならなきゃならないってわかった時には、べそかいちゃうかと思った」
「あらっ……バカにしないで」ポーラはツンとすまします。「ちょっとうっとうしいけど、このぐらい平気よ。泥んこパックだと思えば、得した気分だわ。シャワー浴びてさっぱりするのを楽しみにしておくわ」
「でも、さっきの川には吸血ヒルがいっぱいいたでしょ」
「な、ななな、なんですって!」ポーラの顔から、サーッと血が引きます。「ひひひ、ヒル? じゃ、じゃ、じゃあ、さっきわたしに水の中でキスしようとしたのは、お魚ちゃんじゃなかったの? くすぐったくて、とっさにPKではねつけちゃったけど……ひ、ヒルだなんて、ヒルだなんて! なんで教えといてくれなかったのよお!」
「知らせとかなくって良かったんじゃない、結果として」
「む」まるで重さを感じさせない足取りで、先頭をつとめていたプーが、不意にぴくりと耳を動かし、腕を横にあげてみなを立ちどまらせました。「殺気だ」
「ジェフ、言うなよ」とネス。
「なにをさ?」
「だから『いつから?』『さっきから』って、古典的なジョークは」
「……ぼくがいつそんなことを言ったぁっ!」
「わぁ、許して、絞めないで、ぐるじいっ」
ジェフに襟首をつかまれて、ネスがジタバタした、その途端です。
ぎゃ〜〜〜っ!
耳をつんざく絶叫が、ジャングルを揺らして轟《とどろ》き渡りました! たちまち、色とりどりの鳥が、みんないっせいに飛び立ちます。猿たちが、ターザンごっこみたいに、綱をフリコにして枝から枝へ渡ります。どたばたどたっ、ばさばさばさっ! あわてるあまり、ネスたちの頭をかすめてはばたいてゆくのもいます。
「うわっ!」
「な、なんだ? 敵か?」
「こっちだ!」
道なき道を走ります。樹の根を乗り越え、朽ち葉を踏み。苔《こけ》で滑って、綱にすがり。たどり着いたのは、森の中に突然にぽっかりひらけた空き地です。
地面の上に、直径五メートルほどの、巨大な花が落ちています。夏の暑い日にローストビーフにしようと思って冷蔵庫から出してまないたの上に置いたとたん仲良しの友達から電話がかかってきて延々長いことお喋りをしてそのまま出かけて帰ってきてお風呂に入って寝て起きてハッと気づいた時にはしっかりすっかり腐っていた牛肉の塊そっくりの色と匂い。その真ん中の芯の部分に、尻尾の先を取り込まれて、小猿が一匹もがいています。いや、違う、この花はけして落ちているんではありません、このかっこうで咲いているんです。そして、巨大な牙のようなオシベを使って、かわいそうな小猿を、ずるずるひっぱりこもうとしているではありませんか!
「ラフレシアだ! 世界最大の虫媒花《ちゅうばいか》だ!!」ジェフが雑学に詳しいところを披露します。「あのとんでもない臭いでハエとかおびきよせて受粉する……でも牙があるなんておかしいぞ……わっ、やっぱりだ。エイリアン反応がある! ギーグの波動で狂わされたな!」
「どうする」プーは腕組みをし、涼しい顔です。「われわれには関わりない猿だ。道を急ぐなら、ほうっておくが」
「えーっ、もちろん、助けてあげようよ!」とポーラ。「見殺しになんかできないわよ!」
きー、ききー、きー! 捕まえられているちいさなお猿が悲しげに鳴きます。もう、お尻のギリギリまで飲みこまれてしまっています! あちこちの木の高いところには、このお猿の家族らしい一群が散らばって、ガラスでもひっかくような声で盛んにきーきー言っていますが、あくまで降りてくる勇気はないようです。お猿がガクガク震えたり、焦れて貧乏揺すりをしたりするので、葉っぱがやたらに舞い落ちます。すぐ目の前に、フランクフルトほどもある毛虫がぶらんとさがると、ポーラはギャッと言ってジェフに抱きつきました。
「……だあぁぁああぁぁあっ!」
突然、ネスがなにか銀色の缶のようなものをトスすると、かぁん! 小気味いい音をさせてバットで打ちました。ぐんぐん飛んでく、銀の缶。ラフレシアは、ギョッとしたように全身を震わせると、花びらを巨大なキャッチャーミットの形にして待ち受けます。ずばん! ストラァァァイク!! ラフレシアは、全体をくちびるの形にして、ニヤッとしました。が。
ニヤッとしたままの口が、よじれ、ゆがんで、もっとゆがんで……へ、へ……ぶぇっくしょいっ! びぇぇっくしょおん!!
そう! ネスが打ったのは、コショーの缶だったんですね!
大量の唾と一緒に弾き飛ばされて、もんどりうって倒れた小猿は、あわてて手近な樹に駆け昇ります。枝を伝って走ります。きーきー、きー! 両手を広げて迎えに来るのは、おかあさん猿でしょう。抱き合って、手に手を取って喜びますが。「うっきー?」おかあさん猿が、ふと小猿のお尻を見つめます。尻尾がない! おまけにお尻のへんの毛も、つるりと剥けてしまっています。真っ赤な桃みたいなお尻がハダカになってすっかりサッパリ丸見えです。「きー……」小猿はあわててお尻を隠し、恥かしそうに顔も真っ赤に染めました。
その間に、ネスたちはPKや武器の力をあわせて、不気味なラフレシアを退治してしまいました。
「小猿くんも無事に助かったみたいだね。良かった良かった」とネス。「QABINの銀缶はなくなっちゃったから、野営は当分、塩だけの味付けになるけど」
「うわ、信じられない。こいつ、足まであるぜ。学会報告ものだ」ジェフはラフレシアを観察し、せっせと写真を取り、メモにペンを走らせます。
「もしか知らずにうっかり背中から忍び寄られて、辮髪《べんぱつ》を飲みこまれでもしていたら、プーはつるつるのハゲチョビンになっちゃってたわねぇ」
「俺の後ろが取れるものか」プーは細い目をなお鋭くして、ポーラを見つめます。「なぜそこで俺を例に出す」
「だって」とくちびるをとがらせるポーラ。「ひどく冷たいこと言うんだもん」
「俺はただ、ネスの考えを確かめただけだ」
「あら?」
「ここではネスがボスだ。俺は従う」
「へぇ?……じゃ、ネスは神さまを従わせちゃうってわけなの? すごぉい」
「それがさだめだ」あくまで無表情に、淡々と言うプー。
ポーラは青い目をきょとんと見張って、しばらくじっとプーを見つめます。プーは細い目をさらに半分にし、ツイッと顔を背けます。ポーラは、ふうっと大きく肩を揺らして息を吐いたかと思うと、いきなり腕を伸ばし、面食らうプーの小柄なからだをギュウッとばかりに抱きしめました。
「な、なにをする! 離せ」
「かわいー! プーって、かわいー♪」つるつるの頬にチュッとしちゃいます。「クールぶっちゃって、照れ屋さんなのね。かわいー♪」
「ば、ばか、無礼者! クマリの肌を汚すなー!」
「まぁ失礼ね、あたしのキスのどこが汚れなのよ。そんなこと言うと、いっそくちびる奪っちゃうから」
「よ゛せ゛ー、や゛め゛ろ゛ー!」
すっかりポーラのノリにはめられて、とうとう無我の境地を捨て、慌て顔のプーの姿に、ネスとジェフはやれやれと肩をすくめました。
「うちのチームで最強は、たぶん、彼女でしょうね」と、ジェフ。
「ぼくもそう思う」と、深くうなずくネス。「……お〜い、行くぞ!」
はてさて、またしても、ジャングルを歩き始めた四人ですが。
さしこむ日差し、茂った枝葉。濃い緑と薄い緑と淡い緑と渋い緑。金色がかった緑と、茶色がかった緑と、白っぽくなった緑。緑と緑と緑のあふれた片隅に、時おりチラリと鳥が飛ぶ、その羽根の鮮やかな青や赤を目にしてやっと網膜《もうまく》がホッとするような光景が、延々どこまでも続くのであります。それは美しいし、神秘的だし、大自然の脅威だの、植物は酸素の母だの、太陽と水の恵みだのといったことを、実にしみじみ感じさせてくれるありがたい景色ではありますが、こうもずっとだと、少々気分が滅入《めい》ります。
マージャンなら緑一色《リューイーソー》は高い役になりますが、ネスはマージャンをやりません。プーならひょっとすると、知っているかな?
一刻も早くこの緑づくしを抜けだそうと、おのずと足が早くなり、ルートの取り方も少々乱暴になります。大きな倒木を無理に跨いだり、滑りやすそうな苔の生えているところを無雑作に踏んでしまってあやうく転びかけたり。そう、森の中にだって、よりよい道はあるんですよ。それはたいがい、回り道なんです。
「ねー、気のせいだったら、いいんだけど」ポーラは荒くなった息の間に間に訴えました。「あの樹、何度も、見たような気がするの。あたしたち、さっきっから、同じところ、ぐるぐるしてない?」
四人はパタリと立ち止まりました。のろのろ見合せる顔も、なんだか、全員緑がかっています。
「やっぱり?」
「無念無想で歩いていた」
「実は、磁石も、エイリアン探知機も、さっきからずーっと動かないんだ。磁場に乱れがあるらしい」
「困ったわね……」
みんながじっとネスを見ます。こんどは、ネスが先頭で歩いていたのです。一見確信に満ちた足取りでしたが、実はネス自身さっきから、ちょっと不安になっていたのでありました。
「しょうがない。とりあえず、ここで、ちょっと休もう」
ネスは柔らかそうな地面を選んで腰をおろします。気がついてみれば、全身疲労と緊張でからだじゅうがワギワギです。ポーラは男の子たちから少し離れてストレッチ体操をはじめ、プーは、とある樹の枝の上で両足を組んで瞑想に入りました。ジェフはネスのすぐそばで、リュックサックの中から、工具セットを取りだしました。
「……ん……?」首や肩をぐるぐる回してほぐしながら何気なく見ていたネスが、目を丸くします。「ジェフ?! なんだ、そりゃ?」
「え?……ああ。そうか。まだ見せたことなかったか」ズボンをめくりあげ、膝のあたりにねじ回しをあてがっていたジェフは、びっくりしたように顔をあげ、中途半端に笑いました。
「義足なんだ、ぼく。汚い水がしみこんで、錆びちゃうといけないからね。ちょっと手入れさせてもらうよ」
ジェフはてきぱきと片方の脚を外すと、ミニ・バキュームとスプレーとブロワーで丁寧に目づまりやゴミをのぞき、掃除しました。六角レンチとモンキースパナで、どこかを調節し、機械油をさします。余った油は丁寧に拭き取り、日差しにかざして、よく眺めて、もとの通りにはめこみます。片方が終わると、もう一方です。
「……知らなかった……」ジロジロ見たりしちゃ悪いんじゃないかと思いながら、ネスは目が離せません。
実によく慣れた手付きです。きっと、しょっちゅう調整していたんでしょう。でもいつ? みんなが寝静まった夜に? ひとりで、機械の脚を黙々と磨いていたのでしょうか。
「別に隠してたわけじゃないぜ」終ったようです。工具をまとめ、パチンパチンと防水ケースの蓋をしめると、ジェフはズボンの裾をおろしました。「いや……嘘だな。ほんとは、ちょっと、隠してた」
「…………」
「事故でね。サマーズでジャックを見たろ? 兄は死に、ぼくは両脚の膝から下を潰しちゃったんだ」
「うん……そのう」ネスはくちびるを噛みます。「なんて言ったらいいか……」ついついうなだれてしまいます。
「おいおい、よしてくれ! 気にすんなよ!」ジェフはネスの背中を叩きます。「これで態度変えるようなネスじゃないだろ? だからぼくも、つい、きみがいるのを忘れて、はずして見せちゃったりしたんだ」
「……痛く……ないのかい?」
「痛くなんかないよ。前のは時々ちょっと痛かったけど、これ、すごくよくできてるから」ジェフはズボンの上から、そっと脚を撫でます。「父が作ってくれたんだ」
「そういや、きみのパパって、偉い科学者なんだよね」
「うん。偉いみたい」ジェフは屈託なく笑います。「でも、きみのパパだって偉いじゃないか! あのハンバーガー、すげー美味しかったぜ」それはまだ舟の上にいる頃とっくに平らげてしまいました。「間違いなく、世界最高のハンバーガーだと思うよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「いや……親父やハンバーガー誉めてくれたことだけじゃなくて」ネスはちょっと詰った喉をごくんとさせます。「ずっといっしょに来てくれたことに、感謝してるんだ。ジェフ、きみがぼくのともだちでいてくれて、ほんとうに嬉しい。ありがとう……」
ふたりは互いの目を見つめ合います。どちらからともなく、ガシッと手を結びます。
「これからも、頼む」
「ああ。こっちこそ」
真剣この上なく言ってから、ネスは急に照れ臭くなって、テヘヘヘヘッと笑いだし、ジェフもくすっと吹きだします。
「ぶふふ、あはははは、わははは!」
「あーっはははは!」
お腹を抱え、脚をジタバタさせて笑いまくった、その時です。
「あああっ!」
ジャングルに響き渡る、あえかにも物狂おしい女の子の叫び声! 上空の枝から、プーが音もなく降りたち、物も言わずに走りだします。
「しまった、ポーラだっ!」
「どっちだ?」
しかし。
大慌てで駆けつけたふたりが見たものは。
「……あっ、あん、そこ、そこなのよぉ……きゃ、そっちはだめっ、くすぐったーい」
苔のベッドにうつぶせになり、大勢のお猿たちに手足や肩や背中をマッサージしてもらっているポーラです。金髪にはハイビスカスの花冠、首のまわりには野生の百合の首飾り。周囲にも、花や果物がてんこ盛りに捧げられています。傍らでは、ずらりと並んだ小猿たちが、大きなバナナの葉っぱをウチワにして、ウエイブするように、一心に風を送っています。
「……あっあん、効っくーぅ……サイコー……」
背中に乗って、指圧している小猿を改めてよく見れば、お尻にしっぽがありません。
「なるほど」とネス。「さっき助けた猿くんの親戚友人一同ってわけか」
「丸くないし、あんまりぷくぷくもしてないけど……取り敢《あ》えず、ちいちゃくはあるよね」ジェフが言います。
「『やーんかわいー♪』って、また、あれ?」
「それ」
「……ああ、なんていい気持ちなんでしょう!……ほんと天国だけど、もういいわ……どうもありがとう。みんな疲れたでしょ」ポーラはお猿の一匹一匹ににっこり笑いながら、目をあげました。「あら? ネス! ジェフ。なんでそんなとこでボーッとしてんの?」
「なんでって……」
「あ! そうか。きみたちも揉んで欲しかったのね? じゃあ、ほら、ここに寝なさいよ。このポーラさんが、ママ直伝の妙技を披露してあげましょう」ポーラはンッ! と胸を張ると、袖をせっせとまくります。
「い、いやいや、遠慮するよ」
「ぼくも! だめなんだ、くすぐったがりだから」
「あら、そーお?」ポーラは眉をひそめます。「残念ねぇ」
「おい、ネス、話がついたぞ」プーが風のように戻ってきます。「彼らが案内してくれるそうだ」
「え?」ネスは唖然《あぜん》とします。「プーは、猿と話ができるのかい?」
「ま。カタコトながら」
「案内って、どこへ?」
「知らん」プーはそんなことはたいした問題じゃないだろう? とでも言いたげに、肩をすくめます。「彼らが、俺たちを、連れてゆきたいというところだ」
「ともかく、この緑の迷路から出られれば、それでラッキーってやつじゃない?」ジェフが言い、ネスもそれはそうだと思いました。
お猿の一家は四人組を樹の上に案内しました。高い梢を枝から枝へ、伝って渡ってゆこうと言うのです。
木登りはまだしも、木渡りはかなり運動神経に自信のあるひとでも、あまりトライしたことがないでしょう。それもそのはず、なかなかどうして大変なのです。
ちょっとでも頭が下を向くと、血がのぼって気持ちが悪くなってしまいますし。足の指が柔軟で枝を握りこむことができ、腕が長くて這うかっこうが苦しくないお猿たちにとってはいとも簡単な動作でも、二足歩行で腰の弱い人間の骨格には明らかにキツい。おまけに、地面は緑のヴェールの遥か下です。うんざりしていたはずのジャングルが、まるで違って見えてしまいます。どっかだけの話でしたが、高所恐怖症の気《け》のある誰かさんなどは、まるで死ねと言われたようなものだというのに、時には思い切ったジャンプもしなくちゃなりません。枝の先のほうを踏み切り台みたいにピョンピョンさせて、パァッと飛ぶんであります。飛んだら飛んだ先で素速くどこかにつかまらないと、まっさかさまです。
身軽なプーは、一番速いヤング猿たちと競争するようにしてどんどん進み、あっという間に見えなくなってしまいましたが、あとの三人はとてもとても、そんなにうまくはいきません。コーチ役のたくましい猿がマンツーモンキー[#「マンツーモンキー」に傍点]で張り付いて、ごくチビな初心者猿に教える時のようにコマメに面倒を見てくれますが、こわごわノロノロ行くのがやっと。お腹に小猿をぶらさげたママさん猿たちにさえ悠々追い越されてしまいます。
見守られ、励まされ。歩行機みたいに補助になってもらい。どうしても飛べないところは、お猿たちの手つなぎブリッジに頼ってすがって目をつぶり。やっとこさっとこ、森の縁に出た時には、ネスもジェフもポーラも、すっかり汗まみれ、クタクタのへとへとでした。手足はガクガク、心臓は破れんばかり。目もかすんで、はじめ、ちゃんと焦点があいませんでしたが。
「……岩山だ……!」
なんとかマトモに息ができるようになったとたん、眼前に広がったのは、なんともみごとに広大な風景。
赤い肌を持ち、頂上が平らかにテーブルのようになった岩山が、幾重《いくえ》にも連なっています。霧のわく渓谷、たなびく靄《もや》。鏡をおいたような湖のきらめき。遠くでは、スリバチを逆さまにしたような形の山が薄い噴煙を吐いています。澄み切った青空には、綿菓子をちぎったような雲がまぶしい白さに輝いています。
西部劇みたいー、とポーラは思い、大恐竜展示館みたいだ、とジェフは思い。
うわぁ、あの雲って、チビの毛みたいだな、とネスは思いました。老犬チビは、たまにブラシをかけてやると、柔らかで白い下毛がいくらでもじゃんじゃん抜けてきます。その毛が床の木目の上をふわふわ飛んでゆくさまを思いだしたのです。
なんだかふいに、オネットの家が懐かしくなります。ママもトレーシーも、いったいどうしているんでしょう……。
そんなことでも考えて、思わず自分をいま現在に引き戻さなければ、まるで夢でも見ているような。太古の地球、原始の大地の、荘厳《そうごん》にして静謐《せいひつ》なまことに偉大な姿でありました。
三人がしばし、茫然《ぼうぜん》とみとれていると。
「きっきー!」お猿の一匹が、急《せ》かすようにネスの手をひっぱりました。
「あ、ごめんごめん。行くよ」
体積層の横縞がとてつもなく大きなめのうのような、美しい赤岩の台地です。枝渡りに比べれば、登山なんて屁のかっぱ。急に元気を取り戻し、お猿の後について登ってゆくと、やがて、スパリとナイフを入れたように切り立った断崖の下に出ました。
「……うわ」
岩面のあちらこちらに整然と、窓のような穴が穿《うが》たれています。まるで巨大なマンションです。その穴のいくつかに、こちらをのぞく、小さな顔。
「穴居人《けっきょじん》か……?!」ジェフが双眼鏡を取りだします。
「あっ、プーがいるわ。プー!」ポーラが、大きく手を振ります。
来い来いと、お猿に引かれるそのままに、ネスたちは謎の岩崖に入りこみました。
天然の岩崖をくりぬき、まるで蟻《あり》の巣みたいに入り組んだ……そこはあのスカラビで見た古代民族の遺跡にちょっと似た、でももっと素朴で平和的な住居でした。
原始的、というコトバで語るには、あまりに通路がきれいです。床はピシッと水平で、天井側は柔らかくカーブしています。ところどころ、壁の垂直面に灯《あか》り取りの窓が開けられていますが、それもみんな、下がまっすぐで、上がきれいな半円形。ユンボもバックホーも電気ドリルを使うためのコンセントさえ見当らないのに、いったいどうやって、こんなに長い距離を掘ったのでしょう? 何百人というひとの手が、何十年、何百年もかけて作りあげたのでしょうか。
通廊は、やがて、ひときわ大きな部屋に出ます。そこにプーがおり、頭のてっぺんが栗の実みたいにとんがった小柄なひとびとが集っていました。男も女も樹の皮の繊維でも紡いだような簡素な貫頭衣《かんとうい》をつけ、ツヤツヤ濡れたような黒髪を肩に垂らしているか、後ろでひとつに縛っています。髭をはやしているひとはいません。筋肉のよく発達した裸足です。
中にひとりだけ、獣の骨をつないだらしい、白い首飾りをつけているお年寄りがいます。いや、よく陽に灼けた顔の皺《しわ》の具合はご老齢なのではないかと思われるのですが、髪は少々薄くパサパサしているものの、りっぱに黒ぐろ。背筋もピンと伸びています。威厳あふれる表情は、たぶん、長老、というような地位のひとではないでしょうか。
「あの……こんにちは」ネスはそのひとの前に進み出ました。帽子を脱いで、にこっと笑います。「おじゃましてます」
わざわざこう言ったのは、なんとなく、このひとたちこそ、この魔境ぜんたいの主のような気がしたからなのですが。
メイビー長老は、そっけなくうなずいただけで、何も答えてくれません。眼光鋭く、くちびるはキッと一文字。なんだか怒ってるみたいです。
〈ひょっとして〉とネスは思います。〈あのラフレシア、やっつけちゃったのがまずかったのかな? まさか、このひとたちの、大事な盆栽かなんかだったとか?〉
するとパーハップス長老が、プーのやつと顔を見合せて、ニヤリとするではありませんか。
〈な、なんだ?!〉
プローバブリー長老は、自分の両脇にいた若者を手招きし、彼らとその手を繋ぎました。三人がひとつになった、そのとたん。
〈ようこそ、ネス。わしら、グミ族〉
頭の中に、いかめしい声が……いや、声のように感じられる思念がくっきりはっきり響いたのです……!
〈怒ってなど、おらん。わしら、無口。わしら、音のことば、持たない〉
「テレパシー!」ポーラが叫びます。「このひとたち、テレパシーを送っているんだわ!」
「えっ、えっ? うそっ!」ジェフが悲しそうな顔で、耳に手を当てます。「ぼくには、こない。伝わらないよ!」
すると、ポッシブリー長老がなにも言わないうちに、ふたりのグミ族がサッと動いて、両端に並び、手繋ぎ列に加わります。全部で五人。
〈氷の輪の目を持つものよ、これでどうだ、聞こえないか〉
「あ、きたきたきたっ!」ジェフは嬉しそうに叫びます。「うわーっ、よく聞こえる。ちゃんとわかる。びっくりしちゃうなぁ、ウワオ!」
「あのひとたち、手を繋ぐことで、PSIを増幅するんだわ」ポーラが呟きます。
〈そう。よそのひと、こころのことば、よくきかない。わしら同士なら、ささやけば伝わる。クマリの王子も、ささやきを聞く〉
「プーはさすがに、念力が強いんだな」と、ちょっと羨ましそうに、ネス。
〈まず、グミ族のこと話す。聞くか?〉
「あっ、聞きます聞きます」
子供のグミ族が、いい香りのお茶をいれて持ってきてくれました。草の葉を編んだ敷物に腰をおろし、みんなで、ライクリー長老の――いえいえ、テレパシーのおかげで、もうちゃんとわかりました。このひとは確かにほんものでした――ほんものの長老の、ことばを伴《ともな》わない物語りに、こころの耳を傾けます。
誰も彼もがテレパシー能力を持ち、普通の会話を使わないグミ族は、嘘をつけません。嘘という概念がそもそも彼らにはなかったのです。
何万年もの昔から、彼らはこの魔境と呼ばれるジャングルのほぼ全体に広がって、静かで平和な暮らしを営んでいました。大地と調和し、雨と太陽に励まされながらの、とても穏やかで美しい暮らしぶりでした。しかし、いつか侵入してきた他部族が――こっちは、うるさいことに、始終ギャアギャア音を発してる連中です――彼らの住む森を奪おうとしたのです。
喧嘩を好まぬグミ族も、ただ追い出されるわけにはいきません。しかたないので、敵のことばを覚えます。まず発声から練習しなきゃならなかったので、それはそれは大変でした。なにせグミ族は、イビキだってテレパシーでかくようなひとたちなんですからね!
さてようやく通訳ができたので、話し合いで穏やかに、互いの利益を守り尊重しようと提案しました。それが知恵ある部族のあたりまえではないかというわけです。敵も見た目はうなずきます。なるほどその通りと言ってくれました。しかし、こいつらはなんと、真っ赤な嘘つきだったのです。口では美味しいことをいい、仲よくしようとニコニコ顔で誓いながら、こころの中では「イッヒッヒ、見てろ、おまえらみたいなウスノロは、すぐに全滅させてやる!」なんて思っているのです。ぶったり蹴ったり叩いたり、略奪したり。実際に暴力をふるう場面をあれこれ具体的に想像して、楽しみにさえ思っているではありませんか!
あ、ちなみに、グミ族はこころの声を、つまり、テレパシーを送る力はそんなに強くありません。そんな必要はないんです。PSIの才能の乏しいひとにこっちの気持ちを伝えるには、あのような合体が必要になりますが、彼ら同士なら、ごく微弱なエネルギーで十分実用になります。考えを読む力のほうが、うんと発達しているからです。
うんと安いオモチャのトランシーバーのことを考えてください。電池さえ新しければ、近くにいれば、ちゃんとそれなりに聞こえますね。でも、片方が部屋の外に出たり、天気がジメジメしてるなど、多少条件が悪くなるだけで、いきなり感度が悪くなっちゃいますよね。警察や軍隊で使う無線機や、最近ハヤリの携帯電話、それにもちろん、放送局の特別の電波発信機なら、そんなことはありません。コードレス電話が、マンションの隣の部屋のひとんちの電話と混線してしまったことはありませんか? ラジオのチャンネルを回していて、番組表に乗ってない放送が聞こえちゃったことはありませんか? これは、みんな、つまるところ、送る側がしっかり確実に送ろうとして、あまりに強力なパワーを発しているからですね。
グミ族は、全員超受信感度のいいテレパシストです。耳のそばで怒鳴られると鼓膜がジンジンするように、あまり強烈なこころの声を発せられると、うるさくって参ってしまうぐらい。ところが他の種類の人間は、みんな、ふつう、あまりにも感度が悪いので、彼らの放つ『ささやき声』など聞こえもしないのはもちろんのこと、自分自身が知らず知らずのうちに発している感情パワーのテレパシー的発露《はつろ》、つまりこころの怒鳴り声も、まるで意識していないのです。知らないから、押えることはできません。コントロールしていないので、たびたびレッドゾーンを越える強さになってしまいます。
思考はすべて、テレパシーを伴います。ただ、感度の悪い人間にとっては、あまりにもささやかなものなので、誰も気がつかないだけなんですよ。
さて、暴力好みのこの敵は、自分たちのズルい考えが全部グミ族にツツヌケだなんてことは、もちろん全然知りませんでした。知ったらきっと、もっと逆上したでしょう。そしてグミ族は、横っ面をひっぱたかれたようにショックを受けたでしょう。
いくさがはじまるその前に、グミ族は勝負を捨てました。ひとを傷つけるのを厭《いと》わないばかりか、好みさえする連中と、たとえ他人の痛みでも我が身に感じてしまう彼らでは、最初から結果は明らかです。
悲しいけれど、逃げました。森を離れて、隠れました。せっかく盛りあがった戦闘意欲のやり場に困った敵たちは、必死で捜索しましたが、テレパシストの裏をかくなんてことができるはずがありません。呆れて怒ってムキになり、ささいな喧嘩が本気になり、とうとう味方同士でさんざん殴り合い、殺し合いをしました。何百もの生命が、なんの意味もなく失われます。何百もの子供たちが親をなくし、何百もの妻たちが夫をなくし、何百もの親たちが子供をなくしました。
憎しみと悲しみと絶望の声が森に満ちます。こころ優しいグミ族のひとたちは、みな影響されてひどく落ちこみ、すっかり虚しくなりました。ますます巧妙に隠れます。二度と、捲きこまれないよう、二度と、よそものに、見つからぬよう……。
〈それ、その大地が、天の火のまわりを、三千回ぐらい回る昔〉長老のこころが、苦しげに吐息をつきます。〈親の親の親の、そのまたずーっと親のころ……。でも、グミ族は、忘れない。昔のグミ族の魂。いまのグミ族の中、みな生きている〉
「……あんまりだわ……かわいそうすぎるわ……!」ポーラは袖口で頬を擦ります。「グミ族って、信じられないぐらい純粋できれいなこころを持ったひとたちなのね」
「お互いにお互いの気持ちの中が全部見えちゃうとすると」ジェフが考え考え言います。
「少しでも邪悪な気持ちを持っていると、適応できないはずだからね。そもそも、生まれたての赤ちゃんの時から、他人を思いやることが自然な環境で育つから、誰でもおのずとそうなる。たまたま偶然、不幸にも、悪い芽を持ってしまったひとは、長年の間に淘汰《とうた》されてしまったんだろうな」
「ところがだ」プーが言います。「最近、そのグミ族の中にさえ、悪意が異様なほど強く漂いはじめた。……ですね?」
〈さよう〉と長老。〈わしら、よくない気持ち、ないわけではない。たとえば、嫉妬は、ある。怠惰《たいだ》は、ある。ちいさな憤懣《ふんまん》も、なくはない。だが、そんなことは、ふだんなら、小さな芽のうちに、包みこまれて消え去る。
羨ましさは、つまりは、相手を敬《うやま》い誉める気持ちだし、怠けごころは、ひとが誰も、弱いものである証《あかし》だ。いらだちは、どこかで知らず知らず、無理をしたしるしだ。
怪我を負えば、血が出て痛み、悪いものを食べれば、腹がしぶって、いつもの力が出なくなる。こころにも、小さな傷、できる。よくない感情は、こころがほんの少し、風邪をひいたようなもの……なのだが……それなのに、昨今、無益な欲望、願っても適《かな》わない夢、欲しがっていけないもの、欲しがるこころ、いや増しに増して、苦しい。ひとり悩めば、みんな憂《うれ》うる。わしら、グミ族、このままでは、死んでしまう〉
「欲望ですって?」ネスが言いました。「欲しがってはいけないものを欲しがるですって? ああ、それは、もしかすると、それは……マニマニの悪魔のせいなんじゃ……?!」
〈鉄の船、飛んで来た、東の空〉長老がうなずきます。〈回る羽根、とまり、ふたつの生命、森に沈んだ。その時から。月が太陽を隠し、昼日に夜になるのと同じ。邪悪の闇、森を覆い、空を埋めた〉
「ふたり……ポーキーとアンブラミさんか!」ネスは拳を固めます。「もしかして、誰かそのひとたちを見ていませんか? 顔がわかりませんか?」
あ、すみません。言うのが遅れました。グミ族のテレパシーはことばとは違いますから、当然映像も伝達できます。小説の都合上、もっぱらコトバで語られたかのような形で書いていますが、同時に具体的なヴィジュアルや心象イメージなども、次々に送られてきたのだとご了解くださいまし。念為《ねんのため》。
〈顔は、知らない。だが、魚取りに行ったわしらの仲間、これ、見た〉
そして、長老が伝えてきたのは。
これは風景描写をするしかありません。
ミルクコーヒー色の川のほとりです。水際に朽ちかけた小屋があります。遠くにヘリコプターの残骸が見えています。そして、小屋の裏手、丸く平らかな地面のその片隅に……いかにも投げやりに作った感じの十字架がひとつ。
小さく盛りあげた土まんじゅうの上に、ヘリの部品であったらしい、ぺこぺこに曲った鉄板が置いてありました。鉄板の表面に、釘のようなもので引っ掻いたらしい文字。
***
アンブラミ・ミンチ
1943〜1994
ガリガリ亡者のくそったれ
地獄で待っていやがれ!
***
「……お墓?」ネスは顔から血が引くのを感じました。「アンブラミさんが……亡くなったのか?……なぜ? まさか、まさか、ポーキーのやつ! 親を手にかけるほどまでおかしくなったんじゃあ」
「いや。残留思念を感じる」プーが半眼になって言います。「これは餓死《がし》だ」
「飢え死にだって? でも、どうして? ポーキーはいったいどこに行ったんだ?」
〈邪悪の根元、時の裂け目に向かった〉長老のことばに、ネスはハッとしました。
「時の裂け目! ぼくらも、そこに、急がなきゃ!」
〈遠くない〉なだめるような長老の思いが、焦りがちのネスの胸をそっと温めます。〈おまえたちに必要なこと、まだある。わしらの神殿を訪ね、神のことば、聞け。わしらの神、輝く岩。おまえの持つ、音の石の兄弟〉
「あ!」
ネスはあわててポケットを探り、音の石を取りだします。
既にたくさんの音を記憶した石です。
オネットでは『ジャイアントステップ』を、サターンバレーで『ミルキーウェル』を見つけました。ジェフの時計のエイリアン探知機を使って怪しいところを発見しては、既に通りすぎた町に戻って、次々に奪取してきました。ついこの間は、プーの故郷であるランマの山の『ピンククラウド』を取り戻したばかりです。
「にい、さん、しい……次は、七番めのパワースポットだ! それって、いったいどこにあるんですか?!」
〈奥の奥。ひかりごけの洞窟〉長老のこころに悲しみのヴェールがかかります。〈わしらの誰も、知らぬうちに、こころ読めないなにか、そこに住みついた。わしら争い、好まない。でも、神殿取られるの、とても困る。わしら、神のそば、行きたい。でも、いくと、バチバチ痛くなる。あのなにかには、もういて欲しくない。できれば、穏やかに、出ていってもらいたい〉
「任せてください!」ネスは胸を叩きます。「……でも、ぼくの場所の力を吸収した怪物は、たいがいちょっと手強いんです。あんまり穏やかには、いかないかもしれない。だったら、すみません、ごめんなさい!」
急げ急げ! グミ族の若者たちの案内で、ネスたちは岩廊の最深部へと急行します。七番めのネスの場所を守っていたのは、イナズマがそのまま固まってメタル装甲《そうこう》になったような、奇妙キテレツな怪物です。ジェフの見立てでは、どこかよその星の生き物、すなわち、宇宙人であるようです。本人の名乗りによれば、名前はなんと電撃バチバチ!
読者のあなた、どっかで聞いたことがあると思いませんか? そう、あのポーキーが、スーパースターマンの見せたカタログから、こいつを選んでイマしたね! つまりポーキーはネスの邪魔をするために、わざわざ、さまざまなモンスターを寄りすぐって通販で取り寄せていたのです。いったいどこから、ですって? いやいや、それはまだわかりません。これから先のお楽しみ……。
さて、電撃バチバチの戦法は、ビリビリ攻撃にHP吸いあげ。ロケット砲も発射します。ちょうどポーラの得意なバリアーのような、パワーシールドも張っていて、こちらのPSIを残らず跳ね返してきます!……しかし。
「反撃のシールドぉぉっ!」
「そーれ、スーパーチューチューだ」
「PKスター・ストーム!」
「ええい、気合い一発弾丸ライナーだぁっ!!」
所詮、この四人の敵ではありませんでした。
ご苦労さんな電撃バチバチがいかにも宇宙人らしく七色の光線となって消滅すると、パワースポットを守っているまぶしい光がいっそう強まり、周囲の岩壁いっぱいに、巨大な光文字が浮かびます。
『ぼくはネスだ。ぼくは、ここまで来た』
〈あれーっ、なんだ?!〉ネスは仰天しました。
『あれーっ、なんだ?!』文字が出ます。
〈ぼくの考えることが、文字になってる!〉
『ぼくの考えることが、文字になってる!』
「いやっ、見ないで!」突然、ポーラが赤い顔をして、ネスの肩にぶちあたります。「だめだめ! あっち向いてよ、見ちゃやだったら?」
「どうして?」あっけにとられてネスが言うと、文字も『どうして?』に変ります。「ぼくが嫌がるならまだしも、なんでポーラがそんなにあわてるの?」
「え? だって!」ポーラはきょとんと目を見張ります。「あれ、わたしの気持ちそのままじゃない。ネスが嫌がるならまだしもって、どういうこと?」
「そうか!」ジェフがポンと手を叩きます。「ぼくには、ぼくの思考の過程がすさまじい勢いで流れてくフローチャートになって見えるよ。みんな、それぞれそうなんだ。自分のこころを見せられてるんだ!」
「なぁるほどぉ」
「そうか。やはり、俺のこころは無一文字か」
四人はしばし、声もなく、光の文字の浮かびあがる壁をながめました。
そう、そこは、こころを読むグミ族の不思議の力の源、誰もが自らの剥きだしのこころと対面しなくてはならない場所だったのです。
〈地球には、まだまだたくさんの不思議が隠されているんだなあ〉ネスは自分の考えを、はっきりとその目でたどります。〈この素敵な星を……ぼくらの故郷を、絶対ぼくはあきらめない。どんなことがあっても守ってみせるぞ……!〉
まさに正直な思い、真摯《しんし》な願いそのものですが、いくらなんでもチカチカきらめく、人間のからだほどもあるデッカイ光文字で見せられると、ちょっと照れます。
〈……うへ……よしてくれ、そんなに気張るなよ。ま、気楽に行こうぜ、気楽にさ!〉
かくてネスは七番めの場所を取り戻しました。音の石がルミネホールのメロディを読み込みます。いつしか、ネスは、目の前の壁いっぱいに、赤ちゃんの自分を抱いているパパの幻《まぼろし》を見ていました。光のパパはいかにもパパらしく、限りなく優しく笑いながら、じんわりにじんで消えました。
不意に、光が弱まったかと思うと、微妙ながら、その色あいが変ります。
『ありがとう、ネス! ポーラ! ジェフ! プー!』
「あ、長老さまだ!」
「ああ。こんどは、みんなで同じものを見ているらしいな」
『神の場、清まった。わしらのこころ、安らいだ。邪悪の手駒《てごま》に使われて、去っていったものに、哀悼《あいとう》を。……さあ、見せよう。時の裂け目は、この先だ。わしらグミ族三万人、いま、いっせいに思念する。扉が開く。行くがよい……!』
ぱぁあぁぁぁぁっ!
「うわぁっ!」
壁一面が見ていられないほど、強くまばゆく輝きます。ネスたちは、みな、グミ族のひとびとが互いに手と手を重ね合って、ひとつになって思いを凝らしてくれている姿を、なんとも神々《こうごう》しく荘重《そうちょう》な姿をこころの両眼で見つめます。
〈開け……〉
三万のグミ族のこころが、静かに静かに語りかけます。
〈開け……扉よ……!〉
光の壁の中心に、サッと鉛筆を走らせでもしたかのような縦一本の筋が走りました。そして、壁は左右両開きの扉となり、ゆっくりと音もなく向う側に押されます。どんなお城の門よりも、ずっと大きな、ずっとすごい門が、いま、開きます……!
強い光を受けたばかりの瞳には、そこははじめ、ただ一面の闇の世界に見えました。
湿ってむっと熱い空気が吹き寄せてきます。茹で卵そっくりの硫黄《いおう》の匂いもします。
おそるおそる踏みだしてまぶたをこすっているうちに、やがて目が慣れ、見えてきました。赤味を帯びた大地、岩がちの荒れ地です。ところどころに流れている、オレンジ色の川は溶岩でしょうか? 上の世界とよく似たような……ただし、さらにいっそうスケールのでっかい火山地帯です! 空はなく、うんと高いビルのてっぺんほども向こうにある岩天井が、燠火《おきび》のようにちろちろ赤く発熱しています。
「……ち、地底大陸だ……!」ジェフが上擦った声をあげました。「確かに……この地球という惑星の比重はおかしい。理論上の計算がどうしてもピッタリ合わないんだ。通念になっているコアとマグマの構造からは、自転や公転が、月の動きが、あるいは世界じゅうの潮流が、イマイチうまく説明つかない。宇宙ぜんたいの規模で考えても、地球上のさまざまな元素の量の分布割合の異常につきあたるんだけど……でも……ああ、信じられないよ! 地殻の中に、こんな空間があるなんて!」
「それをこの目で見るなんてね」ポーラがこっくりうなずきます。
「古来数多の伝説があった」プーが言います。「地の底に、別の国があると。あるいは、世界じゅうに、そこへの入口があると」
「とにかく、行こう!」ネスは野球帽をかぶりなおします。「時の裂け目ってとこに」
「でも、いったい、どうやって?」とポーラ。「地図なんかないわよねぇ。それに……シラミ潰しに探すには、ここって、ずいぶん広そうよ」
「道案内がいる」とプー。「他でもない諸悪の根元が、既にその地に向かっている」
「ジェフ!」
「はいはい、見てますよっ!」ジェフは時計をチェックします。「エイリアン反応、ポジティブ! 二時の方角。距離およそ3キロ」
「よおし!」
熱風うずまく地底世界を、四人は足早に横断しはじめましたが。
靴の底が焼けつきそうな地面です。かげろうが立ち、ゆらゆらと遠くの景色が歪みます。大地は古くなった冷蔵庫のように低く鈍く振動し、時おり思いだしたかのように、もっと過激に揺さぶりをかけます。およそ一分間に一度もの割合で地震があり、十にひとつは足を止めずにいられないほどのマグニチュード! そのたびに、山が、岩が、がらがらと音を立てて崩れます。地面に亀裂が走り、溶岩があふれます。比較的頑丈そうな部分を選んで歩きますが、それでもあちこちに蟻地獄の穴のようなものが開いているかと思ったら、シュウウウ! 間歇《かんけつ》的に、蒸気の柱があがるのです。何千度という温度の、マグマの息吹です!
「わー、サウナみたいー」ポーラがもうろうと呟きます。「痩せるかしらー」
「気をつけろ。蒸気口に踏みこんだら、大火傷だぞ!」
温まって手足のコリや緊張がほぐれてけっこう気持ちがいいかも、なんて思っていたのは最初のうちだけ。全身に湧きでた汗が、衣服を肌に張りつかせ、手足を動かしにくくします。髪の毛の中や顔に浮かんだ汗の玉が、つつーっと流れて、顎の先から滴《したた》ります。
ネスはTシャツをとっくに腋の下までめくりあげています。脱いでしまうと、もしも火山弾とかが飛んできた時に危ないからです。ポーラは羨ましそうに見ましたが、さすがに服装を乱しません。いつもきちんと喉まで襟をとめているジェフでさえ、ネクタイを緩め、襟のボタンをひとつずつあけ、ついには、ワイシャツを脱いで畳んでリュックにしまって、あまりひとに見せたことのないタンクトップ姿になりました。しかもなんと、ズボンから、裾を出してです! その裾に『四年D組 ジェフ・A(アンドーナッツ)』なんて、マジックでしっかり書いてあったりします。
「心頭を滅却すれば、火もまた、珠洲《すず》市役所」精神修養の賜物《たまもの》か、汗ひとつかかず、一見いつもと変りのないプーでさえ、なにやらわけのわからないことをブツブツ言っています。
「ああ……喉がカラカラだよ……」ぽつりとジェフが呟くと、
「アイスクリーム食べたい」ポーラが即座に答えます。「ラムレーズンとチョコミント」
「こう喉が渇いてる時は、氷のほうがいいぞお」ネスも加わります。「炎天下のスタジアムで、ちゅーっとやるカチワリはうまいぞー。いまあったら最高なんだけどなー」
「新鮮な水が一番だ」プーは本気です。「深山の底のせせらぎのよく磨かれた水をこそ、甘露《かんろ》という」
「きみ、いっぺん、ストイック・クラブ行ってみれば? きっと話が合うわよ」
「なんだそこは」
「ああ、サマーズ! あの海にいま、ザブンと入ることができたらなぁ!」
無駄口を叩かずにいられないのは、そうでもしないと気絶してしまいそうだからです。放射しきれない体熱に、頭はぼんやり、心臓は早鐘。筋がつっぱり、骨が軋み、おのずと足取りも重くなります。
「……おい、まだか、時の裂け目は……」
「うん……数値から行くと、もうそろそろなはずなんだけど……ん?」汗で滑る眼鏡をずりあげて時計をのぞきこんだジェフが最初に気付きました。「な、なんだ、この振動は!」
ずん、ずん、ずん……ずででででーーーーん!
「わぁっ!」
「怪獣だ……いや、恐竜だ!」
そう! 行く手の岩影からズシズシと地響きを立てて現われたのは、みあげるばかりの古生物。黄色地に赤斑《あかまだら》。長い首、長い尾、ジャバラのような腹、鎧《よろい》のような背。やたらに左右に離れた目。
「ひー、ほんものの恐竜だ。かっこいー!」ネスはいかにも男の子らしく感動の叫びをあげます。
「えと、えと、この骨格で、この特徴のある顔は……」ジェフが急いで電子手帳の百科事典にアクセスします。「たぶん、カニメザウルス・チョットキテルスだな!」
ぶうん! ぶっとい尻尾が宙を切り、四人の頭をかすめます。ずしん、ばたん! 大型トラックほどもある足が、狙いすまして踏みつけてきます!
「シルシラン紀後期、推定体重二十三トン!」
「きゃあ!……ねぇ、ジェフ、教えて! こ、これって、肉食? 草食?」ちょこまか必死で逃げながら、ポーラが尋ねます。
「うーん、下顎骨《ががくこつ》のかたちからすると、ごくおとなしい草食獣だと思われるんだけど……うわ、しまった! ごめんネス! さっきのエイリアン反応は、ポーキーじゃない。こいつだぁ!」
「てことは、こいつもまたエイリアン? 誰かにあやつられてるっていうのか?」
があっ! カニメはイラついたようにひと声吠えると、重そうな首を前に伸ばした姿勢でドスドス走り、でっかい口で噛みついてきます!
「よおし……じゃあ、残念ながら遠慮はしてられない……行くぞ、PK気合……わわわ、わーーーっ!」前肢で掴みかかられて、ネスはあわてて横っ飛びに逃げます。「くそっ、こう相手がでっかくちゃ、間合いもなにもありゃしないっ!」
「大いなるものよ……我は敵にあらず……汝《な》はこの時にあるべきものにあらず……疾《と》く戻れ、もとの場に、汝が故郷に……」プーは高い岩に登って印を結び、けんめいに説得しようとしています。小首を、いや、大首をかしげ、プーのせりふに聞き入っているように見えたカニメですが。「我が目に臥《ふ》せよ……こころよき睡夢《すいむ》のうちに……ぬっ?!」
ぶぎゃうっ! いきなり突然怒りだし、角のある鼻でつきさします! プーは猫のような身のこなしでサッと飛びのきましたが、いままで乗っていた岩はバラバラに砕かれてしまいました。
「こんな暑いとこじゃ寝られないと言うのか」プーはくるりとからだをまわして、降り立ち、両手を拝むようにあわせます。「悪かった、許せ」
「えーい! くらえ、ミサイルだぁっ」ジェフがランチャーを発射しましたが……ぷすん、ぱすん! 頑丈な尾っぽの先で、払い除けられてしまいます。「だめだ、戦車でもなきゃ対抗できないよ!……しかし、こんなもんが暴れてるって、グミ族のひとたち、なんで教えといてくれなかったんだろ?」
「知らなかったんじゃないか?」岩礫《いわつぶて》を次々にノックしてなんとか相手が近づかないようにしながら、ネスが言います。「きっと、前からいたんじゃないんだ。ぼくらの邪魔しに出現させられたんだ」
「やーな感じ」とポーラ。
「とすると、こいつと戦っても意味がない。かわいそうに、頼みもしないのにどっかから連れてこられた被害者なんだもの! きっと、近くのどっかにマニマニの黄金像があるんじゃないか。それさえ、破壊してしまえば」
「そうか。でも、いったい、どこに?」
「うーん……」
「そんな悠長な。真面目に戦わないと、わたしたちみんな踏み潰されてペッチャンコよ!……きゃーっ、ほらほら、言わんこっちゃない! もう一匹、出ちゃったじゃないのぉっ!」
こんどのは、カニメのさらに二倍も大きな恐竜です。なんとこの熱気の中ではちょっと嬉しいことにからだの色は夏の青空の裾のほうのような涼しげなブルーで、四肢《しし》の先が足袋《たび》でもはいたように白くなっています! まるでオシャレな女子校の制服みたいなカラーリングですが、目つきは陰険この上なく、頭を低く構えてうずくまったまま、えぐるように突進してくるさまが、いかにもなんとも獰猛《どうもう》そう。
「ハラペコザウルス・サックスソックス。完全な肉食。ザボン紀からドボン紀。推定体重六十三トン半!」ジェフが絶望的に叫びます。
「正確は狂暴残忍とか」ひらりと飛びのきながら、プー。
「怪獣百科じゃないんだから、そんなことまでは書いてないよ……わっ!」
悪口が聞こえてしまったんでしょうか、ハラペコのやつは、なんと、いきなり火を吹きました! ごうっ! 火炎の薙《な》ぎ払う先から、四人は大急ぎで逃げだします。
「肉食って言っても、生食趣味じゃなかったのね」
「そんなバカな!」タンクトップをはためかせ、かわいいおヘソをのぞかせながら、ジェフが文句を喚《わめ》きます。「火炎放射器つきの恐竜なんて、いるもんかーっ!!」
「きっと悪い宇宙人に改造されたんだ」ネスは全力で走りながらも、まるきり真面目です。
「ジャパニーズ・カイジュウ・ドラマに、そういう話、よくあったぞ」
「怪獣が実在するんなら、ウルトラなんとかも出してくれねばな」プーはいったいどこでテレビを見たんでしょう?
四人を丸焦げにしそこなったハラペコは、うがぁっと怒って尾を振ります。……が、それがちょうど、ドタドタ駆けつけていたカニメの横っ面に、激突しました!
〈あっ、ひどいわ、なにするのよ!〉横だおしになって訴えるカニメ。メスだったんでしょうか。
〈てめえがグズグズしてるからじゃねぇか!〉ぶーっと鼻から煙を吐くハラペコ。
〈あんたのせいでしょ!〉カニメの左右に離れた目に、うるうる涙が浮かびます。
〈ちぇっ、わかったよ、あやまるよ!〉
〈なにさ、その態度〉
〈いいから早く起きろったら!〉
怪獣二匹が揉めている隙に、素速く駆けこんだのは、岩崖と岩崖の細い隙間です。プーは、あるかなきかの足場をワン・ポイント・タッチで蹴りつけながら、斜めにジグザグに、素速く飛んで登ります。「おい、続け! 急げ!」高い崖の上から下に向かって怒鳴ります。
「そんなニンジャみたいなことできないよ!」
「待って……ほらっ、これを!」ジェフがぐるぐる巻きにしてあった電気コードを、ひゅんひゅん回しておいて、投げあげます。なかなか絶妙のコントロールです。
プーがパシッとキャッチします。からだに巻いて構えます。「いいぞっ!」
「登れ登れっ!」
「ポーラ、先に行け! ぼくを台にしていいからっ」
「あ、ダメ、わたしスカートだから、最後」
「バカ言ってないで、行けったら!」
「わぁん」
スカートをパンツの裾にたくしこんでブルマみたいにしたポーラが、電気コード・ロープを手がかりに、素速く崖を登ります。次はジェフ。長いこと脚が弱かった分、腕の力はこれでも案外あるほうです。足場の足りないところでは、ドガドガ蹴りつけて、無理矢理岩に大きな穴をあけました。
「すご……なんであんなことできるの? きみのブーツ、鉄製?」
「ちょっとね」たどりついたジェフは、ポーラにニヤッとしてみせます。「ネス、早く!」
「おーし、行くぞっ!」
台になってくれるひとのいない分、助走をつけて、飛びつきます。ジェフの作ってくれておいた足場を伝って、ぐんぐん登ります。
やっと駆けつけたカニメとハラペコが、地団駄《じだんだ》を踏んでくやしがります。彼らの体重では登れないし、そもそも、この隙間じたい、通りぬけられないほど狭いのです。腕をつっこんで引っ掻いたり、何度もズシドシ体当りをしたり、があがあ悔しげに叫びましたが、ついには諦めて走りだしました。どこかの脇のほうの、もっと緩やかなところから、登ってくるつもりのようです。
「この隙に、なんとかまいちまおうぜ」
「そうね。いまのうちに、遠くに行っちゃえばいいわね」
「ぬ? 見ろ!」
「え? あ……な……なんだこれはっ!」
はじめてまじまじ振り返って見た崖の上。巨人がさんざん溜めこんだコーヒー滓《かす》でも捨てたかのような、黒々とした溶岩斜面の、延々と続くその途中に、銀色の長四角が、明らかに誰かの手で作りだしたらしい不可思議な物が、にょっきりひとつそびえているのです!
逃げようと言ったことなどアッサリ忘れ、みんなですぐに、近づいてみました。
高さは三階建ての家ぐらい。幅は二車線道路ぐらい。なのに、厚みというか、奥行きというかは、ほんの一メートルもありません。おまけに真ん中は空洞で、向うの景色がまるみえです。石をなげてみると、ごくあたりまえに通りぬけます。
ごく薄い、ただ枠だけの扉みたいです。
「おそらく、なんらかの次元ゲートだぞ、これは」ジェフがさっそく調べます。枠の下のほうに、金属パネルがあります。電気ドライバーでネジを回して開けてみると、水晶のようなプラスティックのような奇妙な透明な塊と、板切れが何枚かと、こんぐらかった草っぱみたいなのが現われました。
「どうだ?」
「わかりそう?」
「うん……たぶん……案外単純だ」ジェフは素速く配線を確かめます。「うわ、ひでぇ結線……ねじれまくってら。不器用だなぁ……これを設置したのは素人だよ。市販ユニットをマニュアル片手に、なんとかくっつけてみたって感じ」
「すごいな」プーがいつになく驚いた顔で覗きこみます。「おぬしそんな機械が、ほんとに全部わかるのか?」
「全然」ジェフは肩をすくめ、にっこり笑いました。「この結晶体はたぶん集積回路だと思う。この干からびた紐みたいなのが、配線だろう。ひとつひとつの構造とか理論とかは、もちろん全然わかんないよ。……でも、物理法則は宇宙じゅうひとつだし、知的生命体のやることなんて、所詮似てるんじゃないかと思うんだ……だとすると……」
どす、どす、どすっ! ずがずが、ずがっ! ばきっ!
崖の向うから、手が出ます。足が出ます! ぬーっ! 頭が見え、ぎろり!! でっかい目玉が睨みます。
「わっ、来た!」
「見つかっちゃった」
「えええい、喰らえ、PKサンダー!」
「スターストームう!」
ぐげぎゃう! おわああああっ! ネスたちの攻撃を避けようとして、頭をひっこめ、手を離したとたん、お気の毒にも叫び声をあげて、怪獣たちがずり落ちます。固まったばかりの溶岩はすごくもろいので、そもそも足場が十分ではなかったようです。
「うーん……よおし。こうなったら、イチかバチかだ!」ジェフはカッターナイフを出すと、風変わりな配線を、ばちんばちんと切りました。水晶状の物体をくるりとまわし、さかさまに止めつけます。切った草を、ねじって巻きます。「あ、しまった。ハンダがない……ええい、じゃあ、これでどうや!」安売り電気店のお姉さんみたいな奇妙なイントネーションで叫んだジェフは、リュックの中からチューインガムを探しだして口に放りこむと、すさまじい勢いで噛みはじめました。
その間に、ネスたちは。
「どうだ、やったか?」
「いや……」
問題の崖っぷちに忍び寄って、恐竜たちの様子を伺いました。
ハラペコの肢がいっぽん、崖の小岩をしっかりガッシリ掴んでいます。爪がギリギリ喰いこんでいます。なんと、ハラペコは、足場を失って、いまにも谷底に落ちてしまいそうな下のカニメの前肢を一本持って、必死で支えてやっているようです。
上のが力んで、引っ張りながら、高らかにギャアウオーっと鳴くと、下のがすかさず、ウオワアン、と答えます。「なんだか、『ふぁいとー』『いっぱーつ』みたいですね。
「ねー。あの、掴まってる手をくすぐったりしたらどうかしら」
「そういう卑怯なことはやりたくないな」
「無益な殺生《せっしょう》は身の汚《けが》れ」
「おーいっ、みんな、準備ができたぞ。こっちに来ておいてくれーっ!」ジェフが叫びます。クチャクチャのネバネバになったガムで、配線のねじったところをくっつけると、大急ぎで蓋をしめます。両手を組んでひざまずき、空でない空に祈ります。「ああ、神さま、ボーアさま、アインシュタインさま、ホーキング先輩にガウス先輩、それにうちの親父《おやじ》さま! どうかどうか、うまくいきますように……!」
駆け足で戻ってくる三人と合流すると、ジェフは、ゲートの向う側の一番前に陣取ります。
一方がんばる恐竜チームは、崖を登りきり、ぜぇぜぇ肩を上下させて息を整えたところです。
〈踏ん張ったな〉ハラペコが凶悪なまなこをヒョウキンにグルンと回せば、
〈あんたが庇ってくれたのよ〉カニメがポッと頬を赤らめます。
なかなか素敵なタッグのようです。もとはと言えば、捕食者《ほしょくしゃ》と餌にならないこともないこの二匹なのでありますが、ポーキーの阿呆《あほ》の手下であるSSマンに、無理やりにスカウトされ連れてこられた災難は一緒。同病あい哀れむというか、遠くの親戚より近くの他人というか。ふだんはあんまり好きなほうじゃないともだちでも、外国旅行の途中で偶然バッタリであったりすると、ついつい一緒にお茶しちゃう、そんな感じと言えばいいでしょうか。
ハラペコとカニメが、思わず知らず、腕と腕をからめ、尾と尾をからめ、鼻と鼻をくっつけて、ウットリ見つめあってしまった、まさにその時です。
「やーい、どうした」
「もう終わりかー」
「きっと疲れちゃったんでしょ」
「悔しかったら、ここまでおいで!」
ちょこまか憎らしいあのチビどもが、飛んだり跳ねたり叫んだり。お尻を向けて、ペンペーン! などという失礼なこともしています。
〈ぐっぞーーーー!〉
〈な、なにさ、こしゃくな下等哺乳類め……あたしを嘗めたらイカンゼよおおおっ!〉
どすどすどす! どがっどがっ、どかっ! カニメがダッシュすれば、ハラペコすかさず追いすがる。二匹のバカでかい恐竜は、大地を蹴りつけ、埃をまいあげ、足音高く怒濤《どとう》のごとく突進します!
「……ほほほほんとに、だだだだいじょうぶなの、じぇじぇジェフ?」
「ううううん……たたたたぶん……たたたたぶんだだだいじょうぶだとおおおお思うんだけど」
不安な顔をハタと見合せたのも一瞬。四人は、膝で顎を打たんばかりの勢いで、ダーッとばかりに逃げだしました。揺れる地面を、のたうつ地面を、恐ろしく走りにくい地面の上を。
〈待てーっ〉
〈逃がさへんでーーーーっ!〉
どどどどとどどどどどとどどどどどどどどとどどどどどどどどどどどどどとどどどどどとととどどどどど…………ふっ。
「わぁっ」
「ひゃあああああっ!」
不意に地響が鳴りやみます。いきなり振動が止ったおかげで、四人はふわっと投げだされ、どさどさぶつかって重ね餅になります。慣性の法則ですね。
「痛ぇ! 痛ぇぞ、誰だ、この足!」
「キャッ、変なとこ、さわんないでよっ」
「おまえのそこは変なのか?」
「んまーっ、なんですって?」
「……消えた……?」団子状態のその中で、ジェフは背後を見ています。何もない、恐竜もいない、ゲートもない、溶岩台地を。ずれた眼鏡をかけなおし、瞳をすがめて確かめます。
「確かに、消えた……消えたぞ……んじゃ、やっぱり、あれで良かったんだ……ぃやっほおおお!」
すぽっ! ジェフが抜けた勢いで、口論中のあとの三人は、なおさらムギュムギュッと潰れてしまいましたが。
「ぃやったあああああい! 宇宙人の装置を改造してやったぞおーおお!」
喜びのジェフの叫びに、我にかえります。
「わっ、ほんとだ、みんななくなってる!」
「やるな、ジェフ」
「すごーい、すごい、てんさぁい!」
抱き合って喜びます。ぴょんぴょん跳ねて喜びます。
「……でも……ねぇ? あの子たち、どこ行ったの?」
「あの子? いや……うん……たぶん……もとの次元に戻ったと思うんだけど」ジェフは小さく言いました。「もしか、そうじゃなかったらって考えるのは、怖いからやめとく」
「そだな」
「それがいい」
ひょっとしたら、どこか知らない世界に、大迷惑をかけたかも。せっかくのヤッタネ気分が、一気にすぼまってしまいましたが。その時です。
「あれでいい。みごとだった」
低い低い、あまりにも低いので、ひずんで歪んでちょっと間延びしたような声が、あたり一面に轟きわたったのです。
「誰?」ネスがまわりを見回します。
「なにやつ」プーが油断なく身構えます。
「わたしは、わたしだ。岩だ」
「岩ぁ?」ジェフが目をぱちぱちさせます。
「えっ、うっそぉ!」ポーラが指をさしました!
ごろんごろんごろん。
なんと! 溶岩の斜面の向うから、大きな大きな、あの恐竜たちでさえ一撃で圧《お》し潰してしまいそうなほど大きな丸いものが転がってくるではありませんか! 蟻んこがボーリングの玉を見たら、こんな感じでしょうか。いや、運動会の玉ころがしの時に使うアレを見たら、こんな感じでしょうか。
あまりの驚きと非現実感に、四人が四人とも、その場で凍りついてしまいました。そのままならば、無惨に轢《ひ》かれてぺっしゃんこ!……と気づいた時には、もうどっちへ走っても間に合いそうにもありません。ポーラがへなへなと腰を抜かし、ジェフがあわてて支えます。切れ長の瞳を修羅《しゅら》のようにして、なにかの印を結ぶプー。全員を背中にかばい、愛用のバットをバントのかっこうに、真横にかまえるネス! そのバットにしてからが、マッチのように、ツマヨウジのように、いやいや、極細シャープペンの芯の先っちょのように、まるで頼りなく見えてなりません。
……しかし。
「ははははは。勇敢だな、ネス」喋る岩は、ほんの少し向うで、ぴたりと止ります。たちまち岩の表面が、ぶにょぶにょっと歪んで、顔になります。それはそれはでっかい顔ですが、ちょっと垂れ目で、鼻がちんまりして、なかなか優しそうな微笑みです。
「とうとうきたな。待っていた」
「……ど……どういうことだ!……ごほっごほっ」ネスは声をはりあげました。焦りすぎたおかげで、少々裏返ってしまったので、咳をして喉を整えます。「ぼくはおまえなんか知らないぞ!」
「わたしはおまえを知っているよ」深みのある声を笑わせて、喋る岩が言います。「地上に起こる重大なことがらは、みんな残らず知っている。わたしたちの仲間は、どこにでもいるからね」
「おまえの仲間って……石や砂のことか?」
「そう。鉄も、金も。鉱物から作られるものはみな親しい親戚だ。そして草木は多くわたしたちの上に育ち、獣はその草木を取りこむ。生命はすべて、わたしたちのともだちだ」
ネスはそろそろとバットをおろしました。戦うべき相手ではないことが、わかったのです。あとの三人も、やっと息が、できるようになりました。
「待ってたって……待ってたっていったね? なぜ? どうしてぼくが来ることを知っていたの?」
「なぜなら、おまえが、選ばれた少年だからだ。おまえの運命はおまえひとりのものではない。おまえのすべては宇宙のすべてと重なり、すべての生命と重なる」
「クマリだ」プーがうなずきます。「おれはランマのクマリだが、ネス、おまえは地球のクマリなのだ」
「そうだ。そのとおりだ」喋る岩が笑います。「地上に散らばった七つのパワースポットつまりおまえの場所は、おまえをその重大な役目にふさわしくするための試練の場であった。と、同時に、おまえに希望と願いを託す地球じゅうの生命の、祈りを集めた場所でもあった。白い光を見ただろう? あれは、数多の生命を、声なき声を代弁した。あの光を見、声なき声を聞くたびに、おまえはよりおまえになり、おまえを取り戻して行ったのだ」
「ぼくに……みんなが……」ネスは胸を掴もうとし、シャツがめくれたままであることに気づきました。あわててきちんと降ろします。「あなたはきっと、なんでも知っているんですね。パワースポットは、まだ隠されているんですか? もしあるとすればどこにあるのか、教えてもらえませんか?」
「時の彼方だ」岩はひときわ重々しく言いました。「それはこの時この地上にはない。時の裂け目を越えて行かなくては、けして見つけることはできない」
「そうか……そうだったのか……でも、じゃあ、行きます! すぐにも!」
「いや」岩は目を伏せ、そっと頭を振りました。そっと振っただけですが、びりびりと大地が震え、四人は思わずよろめいてしまいました。
「生命あるものは、時の裂け目を越えることはできない。裂け目の向うには、この宇宙が誕生のそのはじめの瞬間から永遠で完全な闇という終焉《しゅうえん》を迎えるその時までの、すべての時間が混沌《こんとん》と存在している。長く生きても百年がそこそこの人間の肉体では耐えることはできない。時嵐《ときあらし》に揉まれ、時渦《ときうず》にさらわれ、瞬きをする間もなく消滅してしまう……平たく言えば、からだじゅうのすべての細胞から、瞬時にして生命を吸い取られるのだな」
「じゃあ、じゃあ!」ネスはつんのめるように前に出て、喋る岩に迫りました。「いったい、どうしろって言うんです! ぼくはどうすればいいんですか!」
「答えは、あるひとが知っている。そのあるひとは、フォギーランド北部の、とある山中の研究所にいる」
「えっ!」ジェフが飛びあがります。「そのひとって、そのひとって、もしかすると……うちの?」
「そうだよ」喋る岩は笑います。「そして、そのひとは他でもない、いま現在、ちと面倒なことに巻きこまれているところなのだ。わたしがおまえたちにしてやれる最もいいことは、一刻も早くその場に送ってやることだと思う。だから、そうする」
言ったとたんです。あたりの景色がゆがみだし、地面がまるで海の波の上にでもいるかのようにさかんに泡だちはじめました。
「うわ? わわわわわ!」
「きゃっ、な、なにこれっ! 手が、足が痺《しび》れちゃう、気持ち悪いっ」
「テレポートだ」プーひとりが、あくまで落ち着いた様子です。「逆うな。抵抗すると苦しいぞ」
「近きことは獣に聞け、少し前のことは樹木に聞け、さらに昔のことは岩石に聞け、とかって言うよね」ジェフが妙に達観した顔で呟きます。「石が生きているんなら、人間からは想像もつかないほど長い寿命《じゅみょう》を持っていることになる。……きっと、あの岩は何万年も生きていたんだ。だから、計り知れない力を秘めているんだ」
「ああ……なんか目の前が暗くなってきたわ……からだが浮く……浮いて……バラバラになっちゃう!……」
「だから逆らうなと言うに」
黒インクを溶かし込んだような闇の中、からだじゅうの力を抜いて、ふわふわぼんやり漂いながら、ネスは無言のまま、耳の奥にこだまする、喋る岩の声を聞いていました。
「ネス、おまえなら、きっとやってくれるだろう……わたしたちは、おまえの決意を待っている。けして強制はしない。よく考えて、迷えばいい。それは辛い決断なはずだから。……だが、きっと、きっと、おまえは最良の答えに至るはずだ。そうに違いない。わたしたちは、信じている……信じているぞ……」
〈決意だって? いったい、なんのことなんだろう……でも、ぼくはぜったいひるんだりしないぞ……!〉
ネスはひとり、微笑みました。
そうして気がつくと……四人は四人ともさっきまでいたのとはまるで違う場所にたどりついていたのです。奇妙な石柱の丸く並んだ中央に。ストーンヘンジの、真ん中に。
9 時の裂け目を越えて
――それより少し前。
じいじいじい。バチバチバチバチ。レーザーがうなり、火花が散ります。アナログ計器の針が揺れ、赤いランプや青いランプが盛んについたり消えたりします。コンソールにかがみこんだ男の顔をすっぽり覆ったプラスティックもまた、明るくなったり暗くなったり。光が揺れるそのままに、計器や火花や、それを操作している手のめまぐるしく動くさまをひどく歪めて反射して見せていたかと思うと、ふいに透明になって、苦しげに眉を寄せた白髪の男――アンドーナッツ博士――の顔を素通しにするのです。
じいじいじい。バチバチバチ。
「む?」博士が呻き、手を止めます。しかめ面が下からの灯りに青く赤く照されて、なんだかドラキュラ俳優のようです。
じいーーーーー。レーザーの発する音が安定し、小さくなり、同時に火花も治まります。アナログ計器の針はみなきれいに停止し、ランプがいっせいに青に変ります。
「……どうです?」アップルキッドが、博士の座っている椅子の背を掴みます。いかにもひとのよさそうな丸顔が、心配そうにこわばります。
「……どうなんです?」キッドの白衣の胸ポケットに陣取った、天才ネズミのアルジャーノンも、長い髭をぴくぴくさせています。
「……やった……おい、やったぞ……」ささやくような声から、だんだん大きく力強い叫びになります。「わしはやったぞ、キッドくんっ!!」
博士はフェイス・プレートを跳ね上げ、拳骨をガッツ・ポーズにし、いきなりくるりと勢いよく椅子を回します。おかげでそこにすがっていたキッドはモロにずっこけ、アルジャーノンはあやうくポケットから飛び出しそうになりましたが、幸いどちらも博士の広げた腕に抱き止められました。
「われわれはついに、時空移動装置の開発に成功したぞ! これは……人類の手にいれたイカルスの翼、多元宇宙空間を移動する初めての乗り物だ! わたしは、これに、スペーストンネルと名をつけたいと思う!」
「素晴らしい!」キッドは小さな目をうるませます。「博士はやっぱり、世界一の天才です」
「きみもよくやってくれた」
「ああ……博士!!」
「キッドくん!!」
感激のあまり椅子を蹴倒し、ひしと固く固く抱き合った科学者ふたりが。
「やったます、ぷー」
かわいい声に、へなへなと膝の力を失います。どちらものろのろ視線をおろし、傍らで嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねている土星さんたちを見つめます。
「できますと、おもっていたけど、できちゃった」
「めでたいな、めでたいな」
「はやかったよねー、すごかったよねー」
「……なんか違う……」ため息をつく博士。
「確かにちょっと、調子狂いますね」うなずくキッド。
「なんだなんだ。文句言わないでくださいよ」ガラス扉の向うから現われたのは、宇宙服みたいな絶縁作業服の二人組。ヘルメットを脱いで、ニヤニヤ笑いを見せたのは、超頭脳のあのガウス先輩です。「土星さんたちの助けがなければ、絶対できっこなかったんですから」「それはまったくその通り」ガリガリ頭を引っ掻くアンドーナッツ博士。「きみの言うことは正しい。悪気はない」
「それより、ジェフたちに早く連絡をつけなきゃ!」ヘルメットを脱いだもうひとりは、まだあどけない顔をした小柄な少年。モーリス校のトニーです。「いったい、どこにいるんでしょう」
「何度か、電話して見てるんだけどね」アップルキッドが言います。「どっか、よっぽど変なとこにいるらしくって、繋がらないんだ」
人間四人とネズミ一匹は、不安そうな顔を見合せました。
土星さんたちも、跳ねるのをやめて、たがいに鼻と鼻をくっつけ、またくるっと回って逆側の隣の土星さんとくっつけ、はーあ、としょんぼりします……。
ここはご存じフォギーランド、タス湖の南の、アンドーナッツ博士のラボラトリーです。
博士が世界じゅうに送った呼びかけに答えて、ガウス先輩が、アップルキッドが、十と一人の土星さんたちが駆けつけてきました。化学の知識はそんなにないけど、せめて何かの手伝いにと、健気なトニーもやってきました。不思議な大男のクロオさんも含め、二十人足らずのこのチームで、ラボに寝泊りすることかれこれ一ケ月半。食べるものと言えば宅配のレンジでチンするオニギリかカップ麺、せいぜいがんばってインスタント・カレー。なにせ僻地で、コンビニひとつないのが困ります。寝るのは順番の交替で、一度に長くても二時間半だけ。お風呂なんて、みんな遥か前にしか入った覚えがないという強行軍。全員一丸となって必死の研究と作業を続け、きょう、この日、ついに完成したのです!
人類史上初の、時空移動装置、スペーストンネルが!
その機械は、ガラスドアの向うにありました。見た目は、まぁその、あんまりシリアスっぽくありません。まるまる団子型に、つきでた同じく丸い鼻。はっきり言って、土星さんそっくりです。これのもとになる空間移動装置の設計図を持っていたのは他でもない土星さんで、なにせ時間が足りません、外見に拘《こだわ》る暇もなく、そのまま時間軸に対しても対応できるように改造したのであります。
では、博士は、そもそもなぜ、急いでみんなを集めたのでしょう? こんなものを作らなくてはいけないと考えるようになったのでしょう?……それは、博士が、その卓越《たくえつ》した脳みそで、すべての問題を解決する鍵は、どこか時空の彼方にあるはずだと結論したからです。
タッシーや大男、人類の祖先みたいな連中。フォギーランド周辺にいきなり現われたさまざまな生物。中でも、こころを読む力のあるクロオさんとの語らいは、彼らが、太古の地球つまり過去から……あるいは、別の次元にある別の地球のどこかから……なんらかの次元断層の混乱にたまたま偶然巻きこまれてしまったのだということを、博士に確信させました。そこに、担ぎこまれたのが、他でもないジェフ。傷ついて倒れた息子がうわ言に口走った物語もまた、その確信を裏付けました。そして、ジェフの言うのには……どこかにギーグとかいう悪者がいて、なにもかもそいつのせいだそうではありませんか!
地球が危ない! この次元が危ない!
頭脳明晰《めいせき》な科学者たちの中には、必死の呼びかけを、SF小説の読みすぎじゃないかと鼻で嘲笑《あざわら》うひともいました。自分の研究に忙しくって、それどころじゃありませんって、断るひともありました。ローンの返済に追われてるので、いまの仕事をやめるわけにいかないんです、スミマセンスミマセンと、すごく悔しそうだったひとも。もともと予定してアテにしていた多くの科学者が、来てくれませんでした。……しかし、しかし! 天は博士を見捨てなかった。遅れて到着した土星さんたちは――ええ、土星さんたちは、急ぐっていうのがなにより苦手なんですよね――博士の仮説をさらにいっそう補強します。なにせ、その土星さんたち自身もまた、恒星間航行中に奇妙な渦に巻きこまれて、この地球に落ちてきてしまったひとたちだったからです。
「クロオさん、遅いですね」
ふと呟いたトニーに、みんな我に返ります。
「どこ行ったんだい、彼は?」とガウス先輩。
「瞑想だ」博士が苦々しい声で答えます。「仲間たちと一緒に、ストーンヘンジにいるんだろう。あれでなかなか頑固でな、どんなに忙しいから我慢してくれと言っても、参加しなきゃならんと言い張るのだ。……ったく! あのような知能の高い男が、なんだってあんな迷信を……」
軽蔑しきった言い種に、ガウス先輩はぐるぐる眼鏡の奥の目をしかめ、キッドもハッと胸でもつかれたように顔をあげます。またはじまってしまった、とどちらも思っているのでした。
さっきの土星さんのことでもそうです。博士は時々、サベツ的な発言や行ないをついしてしまうひとなのです。実験が思うように行かなかったり、寝覚めが悪かったりすると、すぐイライラして椅子や机を蹴ったり、カップ麺をひっくりかえしたりします。小さなミスをしたひとにも、さんざん文句をつけるのです。
でも、ふたりとも、アンドーナッツ博士をあまりにも尊敬しているので、あえて意見するなんてことはできません。だいたい、特別優秀に頭のいいひととか、何かの達人だったりするひとに限って、変人だったり、人ぎらいだったり。沈着冷静を通りこして、冷たくてコチコチでわがまま放題と、まぁ相場は決っているものです。
しかし。
「そんな!」純粋|無垢《むく》なトニーには、そんな理屈は通じません。幼い顔を真っ赤にして、ボーイ・ソプラノで叫びます。「そんな言い方ってひどいです! クロオさんは、誰よりもいっしょうけんめい働いてくれてるじゃないですか! 傷ついたジェフを助けてくれたのだって……」
「そんなことはわかっておる」博士はムッとして、顔を背けました。「大きな声を出すんじゃない。頭痛がする」
「わかってなんか、いないです!」頭に血の昇ったトニーは、ますます声をはりあげます。「だいたい博士は冷たいよ!……息子さんに……ジェフに対してだってそうです。ジェフが、どんなに、どんなに待ってたか……ガッカリしたか、おとうさん、知らないでしょ!」
「ガッカリ……?」博士はぶたれたように頬を染めました。「なんだ、それは?」
「父兄訪問日のことです。その日が来ると、ジェフはいつも部屋をとびきりきれいに掃除して、お小遣いの中から、花なんか買って。おとうさんを待っていたんです。他のみんなに家族が来て、庭でティーパーティーしているのを、ジェフはいつも、窓のとこに腰をかけて、寂しそうに見ていました。……なのに、あなたは来なかった。たった一度だって、来てやりはしなかった! だから、ジェフはいつも、ぼくの母に花をくれました。まるで、そのために買ってきたような顔をして見せたけど、ぼくは騙《だま》されませんでしたよ。……クリスマスだってそうです。プレゼントはおろか、カード一枚、寄越さなかった。だから、ジェフは、ジェフは、自分で、自分に、メリー・クリスマス、ってカード、書いて……」トニーは手をあげて、ごしごしっと目を擦ります。「この機械だってそうだ。ぼくには難しいことはわからないけど……ガウス先輩に聞きました。ネズミとかで実験しなくっていいのって、尋ねたら……ちょうど、アップルさんのとこにネズミもいるんだし」
「じょ、冗談じゃないよー!」ネズミのアルジャーノンが飛びあがり、キッドのポケットにサッと飛びこみ、ガタガタ震える顔を出します。「それ、往復用じゃないんだろ? 行ったら、二度と、戻ってこれないかもしれないんだろ!」
「そうだ。そんなものに」トニーは童顔をゆがませて、博士に鋭く詰め寄ります。「そんなものにあなたは、自分の息子を乗せようって言うんですか? それでもあなたは、冷たくないって言うんですかっ!」
「……あいつが……」博士は小さく呟き、しばらく茫然と立ち尽していました。「……待ってた……?」
ガウス先輩がハンカチを渡し、トニーがびぃぃぃむ、と鼻をかみました。土星さんたちが、近づいてきて、トニーの手をそっと握ります。
「博士」キッドがぽちゃぽちゃした手を博士の肩に乗せかけて、誰もをみんなホッと安心させてくれるような、とびきりの笑顔をして見せます。「ジェフって、ほんとにいいやつですよね。ぼく、通信してたから、知ってるんです。でも、けっこう、子供っぽいところがある」
「あたりまえだ。あれはまだガキだ!」唾を飛ばして喚いた博士は、自分のことばにハッとします。「……そうだ……あれは、まだ、ほんの子供なんだったな……」
「……すみません、博士。興奮して」トニーは視線を床に落としたまま、ぺこりと頭をさげました。
「いや」
博士は小さく頭を振ったかと思うと、不意にトニーの頬っぺたに、皺だらけの手を触れました。ぎこちなく、頬を緩めます……まるで、自分にも、笑い顔ってものができるのかどうか、試すみたいに。そして、それは……おやおや、なんとか、うまくできたじゃないですか。
「ありがとう、トニーくん」博士は言います。「きみのようないいともだちを持って、あれは、幸せだな」
「……お……おとうさん!」
首ったまに齧《かじ》りつかれて、「おとうさん?」博士はあからさまに面食らいます。
「あ、す、すみません!」トニーはあわてて離れます。「あ、あのう、へんな意味じゃないんです! けして、そんな、ジェフのこと好きだからとかそういうんじゃなくて、いやあの、好きは好きなんですけど……あ、そうだ! でも、ジェフはぼくにとって、兄弟みたいなものだといつも思ってるから、だから、ジェフのおとうさんなら、ぼくにとってもおとうさんでも、いい、かなあ……なんちて」
「兄弟か……」痛いような、かゆいような。遠くを見つめて、博士が笑います。「それじゃあ、当然だな。いいとも、トニーくん、これからは、わたしをおとうさんと呼びなさい」
「わ、ほんとですか! 嬉しい!」
トニーが飛び上がって喜んで。
「そんなに嬉しいかね? おとうさんって呼ぶのが」
「なんとなーく、変ですね」
ガウス先輩とキッドが顔を見合せた、その時です。
ラボの戸が少しだけ開き、クロオさんが姿を見せます。「……ボス……」
「なんだ。遅かったじゃないか!」博士が反射的に怒鳴りかけ、トニーに袖をひっぱられて、あわてて不器用に作り笑いを浮かべ「むう、きみの場合、わたしが時間的に予想していたのとは、ちょっと違っていたんだぞ」なるたけ優しげな声音《こわね》で言い直しました。
「……スミマセン、ボス……」クロオさんは青ざめた髭顔をうつむけました。そのまま、前のめりに、倒れてゆきます。「……ヤラレ……マシ……」ばたーん!
「クロオ?!」
「クロオさん!」
博士が、トニーが叫び、キッドが、ガウス先輩が走りだした、その時。
扉がバァン! とばかりに、全開になります! 倒れたクロオさんが、こちらに向けて放りだされます。あわてて受け止めたそのままに、みんな動きを凍らせます。
なぜなら、そこには、つるりと白い、妙なやつがいたからです。スピードスケートの選手のような少々恥かしいほどのぴたぴた服で、なんだかゴツゴツした銃らしいものを構えています。
「ウゴクナ! 全員、手ヲアゲロ!」そいつは不敵な笑いを洩らしました。「コノ研究所ハ、イマカラワタシ、すーぱーすたーまんノ支配下ニハイル! 逆ラウヤツハ、容赦ナク殺ス!」
ひゅん、ひゅんひゅひゅん! 銃が唸り、壁に熱線が走ります。SSと、ちょっと歪んだサインが描かれました。そう、読者のみなさんはもうご存じですね。これは宇宙の怪物商人いやさスーパースターマン、略してSSマンだったのです!
その後ろからは、スイスイやスーダラダッタ、クルーン、クルルーン、デヘラーにデヘヘヘラーなど、宇宙のどこかから特に取り寄せられた商品見本であるロボットの一群が、ぞろぞろぞろりと顔を見せます。……きっと、どっかで返品されたんでしょう。
「ちくしょう!」
「博士、どうしましょう?」
「むう」博士は両手を肩から上に掲げたまま、ほんのわずか前に出ようとしました。
たちまち、ひゅひゅひゅひゅひゅうん! 熱線銃が火を吹いて、足元の床を一掃しました!
博士はあわてて飛びのきます。
「ヌハハハハハ! 動クナト言ッタロウガ!」
「なにをして来た! 目的を言え!」博士は震えかける声を励ましてSSマンを怒鳴りつけます。さすがに強気に年季が入っています。
「決ットロウガ。オマエラノ、チャチッコイ玩具《おもちゃ》ヲ破壊シニサ」SSマンは銃をおろし、きゅいきゅいと変な足音をさせながら、部屋の中に踏みこんできました。ガラスの向うのスペーストンネルを腰をかがめて観察すると、両手を、あらまぁ、みたいに開きました。「イヤハヤコレハ驚イタ。ナンダ、アノ趣味ノ悪イ造形ハ? アレデモまじニ次元移動機械ナノカ? アレデチャント作動スルノカネ?」
「しつれいやつ! わらうし!」土星さんがぷんぷんして言い返します。
「あ、待て……!」ガウス先輩が口を挟もうとしましたが。
「うごくます。ちゃんとしっかりうごくます」
「さっき、かんぺきの、ことになった。めでたかったもん、ゴーだ!」
「ホホオ、ソウカソウカ」SSマンはぴたぴたの仮面の下でニヤニヤします。「ナラバ壊シ甲斐モアルト言ウモノダ!」
「……正直すぎるぜ……」ガウス先輩が呟いてはじめて、土星さんたち、ハッとします。
「ちゃー! しっぱい……」
「あれちがうって、いう、よかったます……」
「ごめさい……こまった」赤くなります。
「サアテ、ソレジャ、オ楽シミノ、ブッ壊したいむト行キマショウカ!」SSマンがぱんぱんと手を打つと、ガヤガヤざわざわ私語を交わしていた有象無象《うぞうむぞう》の宇宙人たちが、ぴたりと静かになりました。「存分ニ暴レテイイカラネ、サ、ミンナ、順序ヨク、入ッテ、入ッテ……」
その声が、まだ言い終わらないそのうちに。
「どえあぁあああああっ!!」
「エネルギー、放射ぁっ!」
「PKバリアーっ!」
「ぬしら、既に破れたり……喝《か》あああっ!!」
威勢のいい声が互いに重なってたて続けに聞こえたかと思うと、狭い廊下にぎゅうぎゅうにひしめいていた連中が、突然ころころ倒れます。ばったばったと薙ぎ払われ、ぽんぽん音をたてて爆発します。速い! あまりにも速くて、なにがどうなっているのやらわかりません。ほんの一呼吸もする間には、あんなに大勢いた宇宙ロボットたちが、みなガラクタのポンコツのスクラップになってしまったではありませんか!
「ナ……ナンダ? ドウシタノダ!」SSマンは焦りまくり、頭のてっぺんからぴーぴー煙を吹きだします。きょろきょろ忙しく視野を振るあまり、ちょっとフラフラしてしまうほど。
やつの注意と銃のそれた間を、逃しはしません! 博士たち四人は両手や背中に土星さんをしがみつかせると、おおわらわのおっとり刀でガラスの奥に移動します。
「全員入ったか? じゃ、閉めるぞ!」博士が耐火耐放射能シャッターのスイッチを押しました。これでひとまず安心です。おまけに、トランスルーセント構造なので、戦いの模様は、バッチリ見えます。とっておきの、かぶりつきの、特等席で!
「……オ……オノレ、ナニモノダ! 名ヲ……名ヲナノレ!」
おたおたするSSマンの前に、仕事を終えた四人組が……ええ、もちろんですとも、あの四人です、他にいるわけがないじゃないですか!……ひとりずつ静かに進み出ます。
「ツーソンのポーラ」金色の巻き毛をかわいく揺らし、にっこり微笑む、一番手。
「ランマのプー」両手を隙なく印に組んだ、二番手。
「オネットのネス」バットを肩にゆらりと背負い、赤い野球帽のひさしをちょっとハスにした三番手。
そして。
サッと構えた両手指。それぞれに、ドライバーだの、レンチだの、電力テスターのジャックだのペンシルロケットだのを、手裏剣《しゅりけん》のように挟みこんで。
「ウィンタースのジェフ! こう見えても、この研究所の跡継ぎだぁっ!」
「うおー!」アップルキッドが笑います。
「言ったな……」ガウス先輩があごをなでます。
「わーい、ジェフー!! すごいすごい、カッコいいよお!」トニーがけんめいに拍手をします。
博士はひとり、顎を撫でながら、無言でニヤニヤするばかり。
……さて、あとは言わずもがなですね。本来営業は得意でもあまり実践向きでないスーパースターマン、ただでさえ腰も引けています。あっと言う間にへこまされ、危ない銃もとりあげられ、ぐるぐる巻きにふん縛られます。
「ワアアア、オ許シクダサイ、助ケテクダサイ。アタシャア、タダノ小物デス。何デモ、ミナサンノ、オッシャル通リニシマスカラ……!」
「じゃあ、言え!」と、ネス。「ポーキーは……いや、ギーグはどこだ」
「ぎーぐサマ?……イヤ、ぎーぐノばかたれノ行方ヲオ尋ネデ?」
「そうだ! 早く言え!」
「デモ、イッタイドウ言エバイイデショウ?……アノカタハ、イヤ、アノばかハ、モウコノ惑星ニハイヤシマセン。コノ銀河系ニモ、時間軸ニモ、オリマセン。でぃめんしょんトでぃめんしょんノ隙間ノ超時空間デ、ソロソロキット、オ産ノ準備ニ入ッテイル頃で……」
「お産? お産ですって?」ポーラがあっけにとられます。「ポーキーって、男の子じゃあなかったの?」
「神に性別はない。悪魔も、おそらく」プーが呟きます。
「その超時空間を特定する方法は?」ジェフがいかにも頭のキレる問いを発します。「あるんだろう? でなければ、おまえは自分のボスに連絡もできない」
「ソンナモナァアリマセン! ダカラ言ッタデショ、アタシャタダノ小物、使イ捨テノ下ッパニスギナインデスッタラ! アトハ、アノカタガ無事完全ナ姿ニナリ、再ビ全宇宙全時空ニ君臨スルノヲ、楽シミニ待ッテリャイイハズダッタノニ……アア辛イ……ウチニカエレバ年老イタオッ母アト、病気ガチノ女房ト、腹ヲスカセタ子供ガ三人、アッシノ仕送リヲ待ッテイルンダ……ナンデコンナコトニナッチャッタヤラ……とほほほほ」
スーパースターマンなんて名前の割には、いたってチンケな奴だったみたいですね。
「ダメか……」
「どうする?」
「しょうがない、なにか改めて考えるんだな」
ネスたちは、ふうっと大きくため息をつきました。
「こやつ、いかがいたそう」
「ロボットたちみたいに、オシャカにしちゃう?」
「そうね。それが安全かも」
「家族もこんな悪人はいっそ戻ってこないほうが嬉しかったりして」
四人に冷たい目で見られると。
「ア……! スミマセン待ッテクダサイ!」SSマンはあわてて早口に喋り出します。「ソウイエバ、イマキュウニ、思イダシマシタ!……イツカ、ぎーぐガ洩ラシタンデス。超時空ニモ追イカケテ来ルコトノデキル方法ガ、タダヒトツダケアルト」
「それは?」
「ソレハ……」
言い澱んだSSマンに、四人がいっそう詰め寄ります。プーが拳をあげ、ネスがバットを構えます。ポーラが殺気をこめたまなざしで見つめ、ジェフが電極をつきつけます。
ゴクリとひとつ喉を鳴らすと、SSマンは、遂に口を開きました。
「ソレハ、生命ヲステ、魂ダケヲ、精巧ナルろぼっとニ託シ、時ノ裂ケ目ニ飛ビコンデ……ソシテ……コノ先ノホウノ意味ハワタシニハさっぱりナンデスガ……八番目ノ場所[#「八番目ノ場所」に傍点]ヲ取リ戻スコト、ダソウデス……!」
――湖。
見晴るかす眼下いっぱいに広がった水の鏡。真昼の小さな太陽が、さざなみ立った表面をキラキラとまぶしいほどに輝かせています。遠く大陸のウィンタース側の山々が白い粉砂糖のような雪を頂いて連なっているのが、湖面にも逆さまになって映っています。
行き交う舟の影はなく、釣人の姿も見えません。海とも見まごう広さながら、潮の香りはいたしません。波のざわめきも聞こえません。
神秘のタス湖はひとけもなく、ひっそりと、静まりかえっておりました。
ネスはひとり、クローバーの丘に座り、そんな景色をじっと眺めていたのでした。片手を地面につき、片手を膝に乗せています。
そよ風が吹き、青草たちを掻き回し、いっせいにあっちにこっちに伏せさせます。傍らに立ったスズカケの老木の枝も揺れ、さわさわと、またぱらぱらと、ひそかな音を立てました。葉と葉のすれあう涼しげな音色の他に、なにか聞き慣れない不思議な音を聞いて、ネスは顔をあげます。
緑のヴェールを重ねた枝のあわいのところどころに、丸い小さなスズカケの実が、文字通り、鈴でもさげたようにひとつひとつ下がっており、どうやらそれが、揺れた時、鼓笛隊のバチのようになって、小さな小さな葉太鼓を叩いて鳴っているようです。音に気づかなければ見つけることもできなかったかもしれない、かわいい小さな実りでした。
ネスはちょっと微笑みます。
それから、ふっと、目を伏せます。
クローバーのもしゃもしゃした塊の中、履きこんでくたびれた泥汚れのまぶされた運動靴が見えました。長すぎる紐は蝶結びにしてから、足首のとこのベルクロにちょっと挟んで止めてあります。内側の真ん中、土ふまずの上のほうが蒸れないようにメッシュになっていて、全体は黒、黄色いラインが斜めに走った、走るのが得意な子にこそぴったりの、渋くてカッコいいデザイン。ただしサイズは二十二センチ半です。クラスの男子の中でも、大きなほうではありません。
白いゴム底に黒土がこびりついています。湿って重い黒土でした。畑にすれば、美味しい野菜ができそうです。
ネスは何度か瞬きをし、また湖を眺めました。まぶしそうに顔をしかめながら。
野球帽をハスにかぶった横顔がかすかに青く見えるのは、スズカケの葉を通ってきた光のせいばかりではありませんでした……。
長い長いこと、そのまま座っていたでしょうか。
「ネースー!」
ネスはゆっくり振り返ります。
ポーラが丘を登ってきます。やけに女の子っぽい、たくさんリボンやフリルのついたワンピースなんか着ています。これまでに見たことのない姿です。歩くにつれ、金髪巻き毛が肩で跳ねて、にこにこ笑っている美人顔の豪華な額縁になりました。
「こんなとこにいたの。探したよ」隣に腰を落とすと、ポーラは、きちんと裾をたくしこみ、膝を抱えて座りました。白いワンピースの裾から、白いペチコートのレースがのぞきます。遠目には無地に見えたワンピースは、そばで見ると、小さな地味な花束がいくつも散らばった模様でした。「わぁ、ここ、きれいなのねぇ」
ネスは何も言いません。うるさがっているというほどではありませんが、あまり嬉しくもなさそうです。
そんなネスの様子を見ると、ポーラも口をつぐみました。
ふたりで風に吹かれます。ぽろぽろとスズカケの実が鳴ります。
ポーラは気持ちよさそうに髪をなびかせながら、指先でクローバーをくすぐったり、茎をぐるぐる巻きつけてたりしていましたが、「あ、四つ葉!」ふと見つけて、摘《つ》みました。「あたしたちと、おなじだね……四つ……四人」そっとくちびるにあてがいます。
ネスは首を傾けてポーラを見、ふと、何か言おうと口を開きかけました。
「ね、ちょっと聞くけど」ポーラが急いで先に割りこみます。「ネスは、おとなになったら、何になりたかった?」
ネスは、えっ、と目を見張り、ふうっと肩から息を吐きました。「……野球選手かな」
「ふうん。そっか」面白くもなさそうにうなずいて、ポーラは続けます。「わたしね、いっぱいあるんだ。聞いて聞いて。バレリーナでしょ、女優でしょ、オペラ歌手に、騎馬《きば》警官! レースクィーンなんてのもいいわよねえ」
「幼稚園の保母さんになるんじゃないの」
「それもいいけど……でもさ、じゃ、言うね。ほんとの理想」ポーラはネスのほうに、ズイッと膝を擦り寄せます。「レースクィーンじゃやなの。あのねあのね、F1レーサーの奥さんがいいの。頭、ポニーテールにしてさ、アポロキャップの後ろの穴のとこから、ちょこーっと出して、膝までの丈のスパッツはいて。おヘソがでるくらい短いTシャツは絶対白っぽいやつで、下はもち、絶対だんぜんノーブラよね!」
「の……のー……」ネスの顔がぱぁっと赤くなります。
ポーラは無視して、続けます。「そんで、まっ黒いサングラスして、鼻をツーンとさせて、観客席のいい場所でクールにレースを見つめるの。わたしのことを、たくさんのカメラが、みんな狙っているんだわ。そんで、もし旦那さんが死んじゃった時には、はじめて感情むきだしにして、わぁわぁ思い切り泣く! 旦那さんがいくらヨソの女と噂になっても、けして気にもとめなかったのに」
「…………」
「ねっ、いいでしょう! うーん、やっぱりこれよね! カッコいいと思わなーい? F1レーサーの奥さんって、女の中の女、女の花道よー!」
そうかなぁ、と、ネスは思いましたが、口には出しませんでした。
なにせ、ネスママ・レイチェルは、その昔、スーパーモデルだったころ、とあるF1レーサーとウワサになったことがあったんです。ほんとに、ちょっと好きになりかけていたのよ、って写真を見せてもらったことがあります。
それはとっても有名で、ネスも知ってるひとでした。ただ、もう、この世にいないひとではありましたけど。
どうしてパパと結婚したの? まだ幼かったネスがあからさまに尋ねると、ママはちょっと迷ってから、答えました。
こいつにとってはさ、結局アタシって二の次三の次なんだなぁってわかっちゃったからよ。彼にとっては、勝負に勝つのが目的じゃなくて――ううん、いつだって、勝負っていうのは自分が勝つためにあるもんだって思っていたからね。負けるかもしれない、なんて少しも思わないわけよ。思うようなら、レースなんてやれないんじゃないかなぁ――だから、けして勝利の喜びとかのためにじゃなくて、勝負すること、腕を磨くこと、一瞬一瞬に自分のすべてを賭けることそのもの[#「そのもの」に傍点]が、人生で一番大事なことだったのね。その次あたりがライバルとかチームメイトとか。んで、そのやっと次が、はじめて、女って感じ。そんなやつに惚れちゃって、ついて行くしかない人生なんて、真っ暗闇もいいとこじゃないの。……それに比べて、うちのパパは。もうなんったって、あたしのこと、世界で一番の宝物だって思ってくれているし。仕事で死ぬ、とは、思えないからねぇ。あーっははははは。……あーら、ほんとよ。パパはママにゾッコンなの! だって例えば……あっ、なによ、なにを言わせるのよ! こらこら、親をノセるんじゃない。だめだめ、まだ、教えないもーんだ。……そうね。あんたが、ほんとに男らしくなったなら、そしたら、教えても、いいかしら……?
悪戯っぽく笑ったママの、年の割にはいやにきれいでセクシーな、懐かしい顔が浮かびます。
〈そーか……ポーラって、そうなのか……『それはセクハラよ!』とかなんとか、すぐ言うくせに。案外、古風なんだな……〉
「うん。そう。わたし、案外なの。フェミニスト失格なの」ポーラはニコッと笑います。うっかり心を読まれてしまったのがわかって、ネスはあわてて、顔をしかめます。
「……ほんとのほんとは、もっと違う」ポーラは四つ葉をくるくるまわし、かわいらしい鼻にぶつけながら、遠く湖のほうを見つめました。「正直なところ、一番、一番、絶対なりたかったのはね……そんな夢みたいなんじゃない。見かけによらず、ささやかな願いよ」
「なに」
「あのね。なりたいのはね、ただの」
ポーラは、がらにもなくはにかんで、続きのセリフは口の中だけで言いました。くちびるの動きだけで言いました。
お・か・あ・さ・ん……。
「ああ、そっか」ネスは、ドキッとして、そのあまりにぶっきらぼうに返事をしました。
「それなら、わかる気がする」
「……でしょでしょー!」ポーラは顔じゅうをクシャクシャにして笑います。「このわたしの子供が、可愛くないわけ、ないもんねえ。きっとすっごい親バカになって、お揃いのワンピとか、いっぱい作って着ちゃうの。そんで、まぁ、素敵な親子! なんて、通りすがりのひとにいちいち言われて……」
くすくす。くすくす。ポーラはひとりで笑います。
「やればいいじゃん」ネスは膝を抱えこみました。「きっと、そうなるよ」
「うん……でも、もう、いいの」ポーラは突然笑うのをやめて、いつになく生真面目《きまじめ》な顔で、じっとネスを見ました。「わたし、一緒に行く」
「…………」
ネスは唖然として、ポーラを見ました。ポーラはこくんとうなずくと、くちびるの端っこだけをピクリと小さく震わせて、ネスの手の上に手を重ねました。
「連れてって」
「だ……だめだ、だめだよ、ポーラ! だって……これはぼくひとりの問題で、きみには関係……」
「なによ、まさか!」ポーラはギュウウウウッと、手を抓《つね》ります! 「ネス、きみは、逃げようと思ってたんじゃないだろうね! これ以上はもうごめんだ、たくさんだって、そう思ってたんじゃあ、ないでしょうねッ!」
「いて、いてててて、違う! それは違うよ!」
「じゃあ、なんでそうグズグズはっきりしないのよッ!」
「だって……」ネスは、ぶるぶるっと頭を振りました。「ああ、そうさ。ぼくはグズだ。行きますって、ロボットにしてくださいって、すぐにはっきり言うだけの勇気がなかった。まだ、もう少し、もう少し考えたいって思って……でも、いくら考えたってしょうがないんだ。早く決心しなきゃって、自分でもちゃんとわかってる……だから」
ネスが顔の向きを変えると、濡れた瞳に、湖のきらめきがキラキラ映って揺れました。
「だから、ここに来て、頭冷やして。気がすむまで見ておこうと思ったんだ。覚えておこうと思ったんだ……山や、空や、水や……すべてを」
「……ネス……」
「でも、心配いらない」ネスは振り返り、にっこり笑ってみせました。「行くよ。ぼく。決めた。やっと決めた」
「一緒に行くったら」ポーラは潤んだ目を瞬いてごまかすと、とまどうネスの胸に飛びこんで、ぴたりと頬をつけました。「……ひとりでなんか、行かせてやんない! 絶対、絶対、行かせてやんないんだからっ!」
「ふたりでも、行かせないぜ」
ふたりはハッとして飛び離れ、声のしたほうを振り向きます。ジェフが、プーが、丘を登ってやってきます。
「ぼくも行く」
「俺も」
ずんずん登ってきて、すぐそばに立ちます。
「止めたって、無駄だよ、ネス」
「行く」
「待ってくれ、みんな。そんな……そんなのだめだよ!」ネスは立ちあがり、唾を飛ばして言い張ります。「なにも無駄な犠牲になることないじゃないか!」
「親父の作った機械だからね」ジェフは肩を揺すります。「ぼくが乗って、ぼくが操縦したいんだ。悪い? ま、どうしても、是非って言うんなら、ネス、きみのことも、乗せてやってもいいけど?」
「これはさだめだ」プーは両手を袖の中に入れて、仏像みたいな顔をします。「六百六十六代めのクマリの宿命だ。ランマ王国の誇りにかけて、使命をまっとうせねばならない。それに……肉体からさまよいだした魂を、どうやって鉄のからだに送りこむのか、誰か心得でもあるのか? 俺がやらずに誰がやる」
「わたしたち、きっと勝てるよ。そしたら、わたし……わたし、みんなのおかあさんになるんだわ!」ポーラは立ちあがり、ワンピースの裾をはたいて摘むと、くるくるくるっと回ります。バレリーナみたいに、つまさき立ちになって、くるくるくるりと躍ります。空や山や湖や……樹や草や、この空気も。みんなみんな、その腕に、胸に、迎え入れるようにして。しっかりと抱きしめるようにして。「この素敵な地球の、おかあさんになる!」
ねぇ、ほら、見て、とさしだした、ポーラの手。
柔らかな緑色の小さな草。真ん中でひとつにくっついた丸い葉っぱ。
四つ葉のクローバー……。
「わかちがたき因縁《いんねん》」プーがニヤリと呟きます。
「みんなで行こう」と、ジェフ。
「………………」
ネスは黙って、仲間たちの顔を見回します。みんな、笑っています。微笑んでいます。さっぱりと決心のついた顔をして。
この気持ち、もう、誰にも、止められるわけがない! っていう顔をして……!
「……わかった……」ネスは言います。目をつぶり……目を開いて。ネスの顔も、もう青くはありません。輝いています。
「みんなで、行こう!」
クローバーをさしだしたまま、息をきらしているポーラ。その手に、三つの手が重なります。四つの手はそれぞれしっかりと握り合い、互いの鼓動をひとつにします。かけがえのないともだちの、こころとこころが繋がります……!
「そうか……決心したか」
並んで立った四人組の真剣で落ち着いた顔を見ると、アンドーナッツ博士は、わかった、とひとこと言って、椅子を回し、からだを背けました。指の間で鉛筆をもてあそびながら尋ねます。「それで、結局、誰と誰が行くことになったんだ?」
「全員です」ネスが代表して答えます。「四人とも。みんなで一緒に行きたいんです。乗れますよね?」
鉛筆がコンソールに落ちる乾いて澄んだ音が、静かなラボに響きました。
博士はしばしそのままの姿勢でじっとしていましたが、やがて、ふうっと肩で息をつきました。肘かけに腕を乗せて振り向いた顔は、いつもの通り、ひとを見下したような、ちょっと意地悪そうな、冷たく厳しい表情。
「乗れるとも。それにロボットも、四体、準備できておる。こんなこともあろうかと思って、ちゃんと作っておいたのだ。わしの計画に遺漏《いろう》はないのだ」
「ありがとうございます」ジェフが進みでます。「博士……いえ……おとうさん。ほんとうに、どうも、ありがとう」
「うん」博士は、椅子にそっくりかえったまま、大きな頭だけを偉そうに二ミリばかりうなずかせました。うなずいたかと思うと、ハッと腕の時計をのぞきこんで、「お。いかん……いかん。用事を思いだした。……では、きみたち、体調を整えておけよ」せわしなく立ちあがり、擦り切れたサンダルをばたばた鳴らしながら、部屋を出て行ってしまいました。
……その後すぐ、トイレに入りかけたネスは、個室で、ひー、ひー、と誰かが声にならない声で呻いているのを聞きました。からからやたらにトイレット・ペーパーも使っているようです。ネスは少しの間立っていました。下くちびるを噛みながら。それから、けして音をさせないように、深々と頭を下げて……そっと、扉を閉めました。
被験者四人とスタッフ全員がミーティング・ルームに集ります。なにせ前代未聞《ぜんだいみもん》、魂移植の手術なのです。全員がすべてを了解し、心得ている必要があります。
ガウス先輩とアップルキッドが、ホワイトボードの前に立って、ロボットの構造と特徴をみごとな図解で説明します。博士は、魂の抜けたあとのボディの冷凍保存について概説し、諸注意プリントを配ります。土星さんは、かわるがわる進み出て、そもそも魂というものがどんなもんであるかについて、いっしょうけんめい説明してくれたのですが、人間たちには、どーしても理解することができませんでした。かわりにプーが壇上にあがり、ランマの秘術を伝えます。
かの国では、修行の進んだ仙人は、おのが魂魄《こんぱく》を肉体から離脱させ、さまざまな他の生き物や物質に一時的に預けることができるのだそうです。預けたまま、人間だったことを忘れ果て、帰ってこれないひともあるとか。例えば、蝶になってしまったひとなんかがいるそうです。
「どのようにしてやるのかは、口では説明できない」プーは細い目で仲間三人を見回します。
「まず俺が先に幽冥界《ゆうめいかい》に行き、結界を張って待っている。落ち着いて、軌跡をたどって来て欲しい。四人揃ったら、そのロバト[#「ロバト」に傍点]とかいうものに移る」
緊張のおももちでうなずく三人に、プーはにこりと笑いました。笑うと、まるで、オシャカさまみたいです。
「心配ない。みな、なにもはじめてじゃないんだから。そんなに怖がらなくていい」
「はじめてじゃないって?」ジェフが目をぱちぱちさせました「……あ……ひょっとして……あの、賭けの時の!」
「そうだ。あの場は、俺が整えた」プーはゆっくりと瞬きをします。「心得のない魂魄には、幽鬼だの悪霊だのがたちまち寄ってくるからな。邪魔されぬよう、おどしをかけた。……だが、けして幻ではない。あの世界は本物だ。あそこで見た彼は本物だ。天明界から、ちょっと来てもらった」
「そうだったのか……」ジェフは横目を使いました。後ろのほうに座っているアンドーナッツ博士のことをちょっと意識したみたいです。「ありがとう、プー」
「じゃあ、あれが、幽冥界ってところだったのね?」ポーラが手をあげて発言します。「なんだか、わけがわからないまま、とにかくジェフやネスの後を必死でおっかけてったら、あそこについてたんだけど」
「そうだ。それでいい」プーが壇を降りかけたとたん。
「ゆーめーかい、ゆーめー、かい?」土星さんのひとりがあっけらかんと言い――どうもまだあの誰かさんの影響が抜け落ちていないようです――隣の土星さんに、マジーと見られて赤くなります。
「特に質問がなければ、これでミーティングを終わる」博士が立ちあがります。「……いいか?」
みな、一様にうなずきます。
「では。即座に、はじめよう!」
カッ! 無影灯《むえいとう》がともります。
ぬっと顔を出す何人かのひとびと。淡緑色の手術着、同じ色のキャップとマスク。丸鼻をとんがり円錐型の特別のマスクで覆ったのは土星さんです。背が届かないので、台に乗っています。みんな、薄い手袋をつけた手を、どこにもさわらないように掲げています。
しゅー……ごううう……しゅー……ごうううう。
どこかでエアが動いています。裸の胸を、冷たいアルコール綿が拭います。
笑気ガスの甘い匂い。ゆっくり深く呼吸すると、頭がぼんやりしてきます。ふわふわして、ちょっといい気持ち。
ちく。腕になにかささったのも、痛いというより『あ、ささったな』という感じです。
〈パパ、ママ、ごめん。勝手に決めて〉ネスは考えます。〈でも、なにをするつもりなのか教えたら、きっとショックを受けちゃっただろうと思う。だから……悲しまないで。傷つかないで。ぼくは、ぼくの場所を……もうひとつ残されたぼくの場所を! どうしても探しだしたいんだ〉
薄れゆく意識の中、ネスは家族の幻を見ました。パパがママが、トレーシーが、老犬チビが、あの懐かしい家の玄関のところで、いってらっしゃーいって、笑って手を振ってくれている姿を。
とじたままのまぶたの際に、涙が一粒ぷうっと膨れ、転がりだし、耳まで走ってゆきました……。
――反陽子エネルギー充填《じゅうてん》。
――反陽子エネルギー、充填完了。
――補助支柱離脱。
――補助支柱離脱完了。
――総員着座。
――総員着座しました。
「よし……」コンソールのアンドーナッツ博士は、ホッとしたように微笑んで、スピーカーのスイッチをおしました。「こちらはいつでもいいぞ!」
「こちらもオッケイです。主支柱を外してください」ちょっと電子音がかった声がします。そんな声でも、博士にはわかります。それが、ジェフの、声だってことが。
「了解。主支柱離脱」
ぐぃぃぃぃぃん。土星さん型次元時空移動機スペーストンネルの、まあるいからだの回りや土台から、支えのアームがはずれます。
「主支柱離脱完了」
「では、ただいまより、秒読みに入ります。テン…………ナイン…………」
ガラス窓のこちら側では、博士が、キッドが、アルジャーノンが、トニーがガウス先輩が、土星さんたちが、みな息をするのも忘れて見守っています。
「がんばってこいよ……」両手をお祈りのかたちに組んだトニーが、小さな声で呟きます。
「……エイト…………セブ…な、なんだ、ポーラ? なんでここに来るのさ?」
「だって見たいんだもん」
「だめだよ、ちゃんと自分の席についてくれないと、バランスが、バランスが崩れて……わぁぁっ!」
ああああっ! コンソールに悲鳴が走ります。土星さん型のスペーストンネルが、傾いて、いまにもコロンと転びそう! ああっ、幸いなんとか持ち直しました、起きあがりました、揺れています、揺れています、さかんに揺れながら、ふらふら回転しています。オキアガリコボシみたいです。まんまる型のコマみたいです。このままじゃラボの壁にぶつかるう!
「うわわわわわ!」
「ひぇぇぇぇ! なんとかしてくれよお」
どた、ばたっ、ズルッ……どっこん!
揺れまくっている機械からは、戦士たちがあっちいったりこっちきたり、ちょっとぶつかってりしてしまっているらしい声や音が、次々に聞こえてきます。
「わー、ヤバい! このままじゃもうダメだ! しょうがないからカウントダウンなしで飛ぶよ。パパもみなさんも元気でね! みんな、どっかに掴まったね? いいね……じゃ、……ええいっ! そおれ、GOだぁっ!」
「「「「行ってきまーーーーーーす!」」」」
四人みんなの声が響いたその途端。
……ふっ……。
揺れて回って、ブンブン唸っていた土星ゴマ……いえ、スペーストンネルが、見えなくなってしまいました。きれいさっぱり。跡形もなく。
「いったます……」土星さんが、呟きます。
「行っちゃった……」トニーがすとんと座ります。
「ちくしょう、言う暇がなかったから、今言うぜ!」アルジャーノンがキッドのポケットを飛びだして、コンソールの上で、お子さまランチの旗を、両手いっぱいに振り回します。「がんばれよお! きっと、きっと、帰ってこいよおおお!」
洗面器いっぱいの水に墨汁を流し落として、おハシの先で掻き回し、脇のほうからそーっとそっとお習字の紙をさしこんで、しずしず引き揚げたらそこにきっと描かれているであろうような。そんな絵を何枚も何枚も用意して、カラーコピーで複写して、次々にさしかえたり、ぐるぐる回転させたりしながら、ビデオに撮ったような……もっと簡単に言えば、つまり、ひと昔前の特撮もののタイトルバックそのものが、延々と繋がっているかのような空間を。
土星さん型の時空異動機は、ヨタヨタ飛んでゆきました。いえ、ほんと言って、飛ぶという表現はあまり正しくありません。むしろ、こちらはただただ浮かんでいて、まわりが流れてゆくようです。ばらばらと、ざあざあと、雨のようなノイズのような音をたてながら、上下左右、さらに言うならば過去未来、ありとあらゆるベクトルに、なにもかもみな遠ざかってゆくのです。
「……ん……ああ……どうなったんだ?」はじめに我に返ったのは、ネス・ロボットです。
ぐるぐる回った土星ゴマの中で、四人は、洗濯物みたいにからみあい折り重なり、床の片隅にダンゴになって倒れていたのでした。
ヨイショ、ヨイショと抜けだして、ネスRはダンゴのほうに振り向きます。
なにせ新しいからだは、前とはかなり違います。全員ほとんどお揃いの、銀ぴかメタルのドラム缶型。手足も銀のジャバラです。ネスがみんなと違うのは、オデコのあたりにひさしのようなでっぱりがついていることだけ。野球帽の名残の記念ですね。それにしても、こう全員ゴッチャになってると、どれが誰やら、ちょっと区別がつきません。
「しょうがないな」銀山の上のほうにあった胴体をコンコン叩き、ジャバラをぐいぐい引っ張ります。「おい、これ誰だ? 起きられるか?」
「でー……参ったぜ……あたたた」起きあがったのは、ジェフ・ロボットです。目印に、顔のとこに眼鏡型のアタッチメントがつけてあります。「やだなぁ、こんなからだになったのに、ぶつかりゃやっぱり痛いのか? それとも、痛いような気がするだけなのかなぁ」
「石には石の痛みあり」辮髪《べんぱつ》アンテナのプー・ロボがもぞもぞ両手で這いだします。「鉄には鉄の痛みがある。そういうものだ」
「ごめん」ポーラ・ロボットが最後に顔をあげます。あたまのてっぺんが、リボンの形になってます。「あたし、そんなに重大なことになるとは思わなかったのよ」
「無理もないけど」ジェフRはやれやれというように、肩を落とします。まだ人間の動作言語のクセが抜けてません。「体重のケタがグッと増えたんだ。慣性の法則の動き方も違ってくる。急な動きには、気をつけて欲しい」
「体重が増えた……」ポーラRは親指の爪を噛もうとして、歯がないことに気づき、あわてて手を背中に回しました。「あああ、悔しい! いきなりゼロが増えちゃうって知ってたら、クッキーもポテチもあんなに我慢しなかったのになあ」
「肉体をいくら鍛錬しても、それだけでは虚しい。魂を高めてはじめて、真の練達者と呼べるのだ」
「ジェフには悪けどさ」ネスRが言います。「このかっこって、ちょっと動きにくいんだよな。おたくの親父さんの趣味が、もうちょっと人間型に近かったら良かったんだけど」
「ウン……まぁ、あのひとは効率第一、理論優先、予算にゃとびきりケチんぼうってひとだからね」すまなそうに言いながら、コクピットに歩み寄ったジェフRは、おっ、と声をあげました。「三次元空間に出るようだぞ。座標は……AZ412の、01272、8083……どんぴしゃ、地底大陸だ!」
空中高く実体化したスペーストンネルは、見えないレールをたどるように、地底の大火山を目指しました。土星さんが、ネスの場所の特徴を分析し、残されたひとつにまっすぐ進むよう、予《あらかじ》め入力をすませておいてくれたのです。
赤熱の空、轟く大地、蛇のようにくねる溶岩流。宗教画の地獄のところに出てきてもおかしくないような壮大かつ恐ろしげな眺めを、遥か下に見下ろしながら、凄じい勢いで駆けぬけます。ネスRは、とある大地の上で、あの喋る岩がこちらを見つめていたような気がしました。そうであるかもしれない丸くて大きな岩が、ころんとひとつ見えたのです。
やがてスペーストンネルは、まさに今、盛んにマグマと熱を吐きだしている火山のてっぺんに近づきます。ためらいもなく飛びこみます。あっという間に燃えて溶けてなくなってしまっても不思議はないのに、土星さんの技術はやっぱりすごいですね! ビリビリ振動がし、がりがりいやな音がしたものの、中の空気は、ほんのちょっとあったかくなっただけでした。
泥んこに投げこまれた石のように、粥《かゆ》めいた熱泥《ねつでい》を掻きわけて、下へ、下へ。奥へ、奥へ。
するうちに、音が消え、振動が消え、コクピットのモニター画面から、真っ赤に燃える闇が消えました。そして遠くに、アメーバのようにうねうねする光の輪が見えたかと思うと、どこからともなく光の粒子があふれだし、時空移動装置のぶあつい装甲をもつらぬいて、四人のまわりを飛び交います。さわってもさわった感触がない、あたたかくも冷たくもない、甘くもなければしょっぱくもない光の粒は、鉄のからだを通りぬけ、ふわふわ柔らかな光のダンスを踊ります。
「時の裂け目だ」と、プーR。
「不思議」夢みるように呟いたのはポーラRです。「なんだか、音楽を目で見てるような気がする。匂いにさわってる気がする」
「……ああ……」ジェフRはまぶたを、いやアイシャッターを閉じ、ぼんやりからだを揺らしています。「ぼく、来てよかった。ここに来て……これを感じることができただけで……ほんとに良かった」
数多の時間流が、存在のすべての形態と可能性が、多次元宇宙のありとあらゆるディメンションが、ここに集り、ここで滅び、ここで休んで、またここから生まれる……ネスRはそんなことを思いました。ネスのことですから、難しいコトバや理屈で考えたわけじゃありません。ただ、そう知り、そう感じたのです。
そしてそれは、限りなく優しく、限りなくおおきな何者かの意志であるということも。やっぱり、実感として、悟らずにいられませんでした。
なぜなら、そこではすべてが同等で、すべてがかけがえがなく、すべてに意味があるからです。いいものも、悪いものも。強いものも、弱いものも。光も闇も、みなひとつの意志の手の中で、刹那の生命を持つたびに、光のダンスを踊るのです。戦ったり、競争したり。別れたり、出会ったり。……愛し合ったり。
〈……あ、そっか……へぇ、愛って、そういうことだったんだ……〉
ネスRはそっと微笑みます。霊感のように訪れた、その、どこまでも曇りのない理解。直感。
ネスRは、いろんなことがみんな、よくわかったような気がしました。ブンブーンの言ったことや、喋る岩の言ったことが特に。
〈ぼくは、宇宙だ。ぼくの運命は、宇宙の運命と、まったく同じ。ひとつに重なりあっているんだ……〉
そして、ついに、スペーストンネルが停止します。土星さん型の機体が地面に届くその瞬間に、自動的に脚が出、脱出口が開きます。
光の粒のシャワーの飛び交う中、光でできた階段を、ネスRは登ってゆきました。ゆっくりと、しっかりと。あとには仲良し三人が、荘厳な沈黙のうちに、続いています。
「来たか」
呼びかけられ、ネスRは立ちどまります。
限界オーバーの光量に、ロボット眼球がデジタル対応します。
光。光の源。光の泉。圧倒的な光圧が、シェイドに弱められると……見えました。
既に見た七つの場所のどれよりもまばゆく、どれよりも美しい、光の噴水のその前に、一匹の獣がいます。頭を下げて、油断も隙もなく、低くうずくまった威嚇の姿勢。
幸福でいっぱいだったネスのこころに、チラリと痛みが走りました。
犬です。大好きな、大切な、大事な老犬チビと同じ。犬なのです。
もちろん、チビみたいな毛のボサボサした運動不足のタイプではありません。引き締まった黒いからだが背後の強力な光を浴びて、最上等のびろうどのようにつややかにきらめいています。鞭《むち》めいた尾が、ゆっくりと拍子を取るように揺れています。からだもずいぶん大きい。犬をよく知らないひとだったら、これは黒豹じゃないかと勘違いしてしまいそうなやつです。
「俺さまは、カーボンドッグ」犬が牙を剥いて笑います。「どうだ? 俺を倒せるか? やってみるか、ネス?」
ネスRは無言のまま進み出ました。だらりと両手をさげたまま。どこにも力を入れぬまま。戦意などない、無雑作な、そのへんをいつも歩いているような、なにげない歩調で。
「……ぬ……」カーボンドッグはますます低くうずくまり、跳躍準備の姿勢を取ります。
ネスRは出ます。出ます。まるで、どうぞ噛みついてくれと言わんばかりです。
「ぐ……ぐぐぐるぐる……ガウぁああああッ!」
何かに弾かれたようにカーボンドッグが飛びだし、無防備なネスRの頭をがぶりとひと飲みにしてやろうとした、その時です。
――す。
ネスRの手があがります。右手のひとさし指が一本、胸のあたりに、まっすぐにたちます。気合いなんてありません。カーボンドッグを見てもいません。まるで無関心に、ただちょっと、風向きでも確かめるかのように、あげただけ。……なのに。
一瞬の後。
……きゃひんきゃひんきゃひん!
カーボンドッグは二本の前脚で鼻面を押えて転げまわりました。ふんっ、ふふふんっ、盛んに鼻を鳴らします。あまりの痛さに、腰が立たないみたいです。肢ががくがく震え、ずるっと広がってしまいます。
「ごめんね、大丈夫かい?」ネスRは手をさしのべ、撫でてやろうとしましたが、犬はひぃぃっ、と後ずさると、そのまま光階段の縁を転げ落ち、長々と悲しそうな声を引いて、どこかに消えていってしまいました。
「……どうしたんだろう、いったい……」ネスRはぼんやり呟きます。「ぼくは、何をしたんだ?」
「究めたな」腕組みをしながら、プーR。「戦おうと企図せずおのずと戦う。守ろうと苦慮せずしておのずから守る。それが、武の極意。無の境地というものだ」
「PRGの戦闘画面の、オートモードみたいなもんかな?」とジェフR。
「ちゃちゃ入れないの」と、横目でにらむポーラR。
プーRが、もしちゃちゃ入れれば、プーアル茶……ああっ、すみません! 作者にまで、ゲップーの呪いが! 呪いが……もうしません、しませんからあ!
え、えっと。こほん。
さて、ネスRは、カーボンドッグの守っていた、光に向かって進みました。
光が、ネスRを飲みこみます。聞こえてきます。どこかで絶対聞いたことがあるはずなのに、でも知らないメロディ。
ネスRのボディに組みこんであった音の石が、ファイアスプリングの音を記憶します。
光の乱舞のその中、ネスRは見ました。あまりにもまぶしすぎて、色のない画面で、ごく小さな子供になって、坂道を駆け登ってゆく自分の姿を……。
ああ、知っています。この長い坂道を全力疾走で登りつめれば、見えてくるはず、懐かしい家、パパとママと妹と、幸せの住んでいるネスの家。
花壇いっぱいにあふれんばかりに咲き誇った花々。パパが日曜ごとに芝刈りで整えている緑の絨毯《じゅうたん》。
おん!
ネスを見て、小さな弾んだ声をあげ、たちまち駆け寄ってくるむくむくした犬。ああ、チビです! 顔つきや走り方は、まだまだほんとに子犬っぽいのに、既に充分デカかった、チビ! 飛びついてくるのを抱きあげます。ぺろぺろ顔じゅう嘗められます。ギュッとだきしめた犬の毛のぬくもり……お陽さまをいっぱいあびた犬の毛のその匂い。
――わぁ、よせよ。もうベショベショだ!
でもチビは言われたぐらいじゃやめません。どうしてもとことんディープ・キスをしないと気がすまないようです。
――帰ったのー、ネスー?
まだ若々しいママの声。玄関の扉が開きます、白いサンダルをつっかけた脚が、ちらっと覗いて……。
ママの全身が見えそうになったとたんに、ぐるぐると景色が回り、世界はこねて丸められ、こんどはネスは、かたちのない、重さのない、からだのない魂の姿で、部屋の天井附近に浮かんでいるのでした。空っぽのベビーベッド。ぴかぴかの、まだ使ってないバット。赤ちゃん用の小さな靴。お馬のかっこうのタオルのぬいぐるみ。押す手もないのに、そっと揺れはじめる揺りかご。
――ネス?
呼ぶ声がします。パパです。パパの声です。
――うーん、やっぱりネスって名前がいいみたいだな。
――ネスー?
ママも言います。
――まぁ、ほんと、笑ったわ。きっと自分の名前が、わかるのよ。
――ねぇ、ちょっと、その赤い野球帽をかぶらせてごらんよ。
……アッハハハ。ぶかぶかだけど、けっこう似合うじゃないか。
――チビが赤ちゃんにヤキモチをやかないかしら?
――大丈夫。きっと、可愛がってくれるよ。弟みたいにね。
――そうね。あなたの言うとおりね。
――ああ、そうさ。
――偉いひとやお金持ちには、ならなくてもいいけど。
思いやりのある強い子になって欲しいわ……。
――なるさ、きっとなる。
――そうね。あなたの言うとおりね。
――ああ、そうさ。そうだよ……そうだよ……。
そうだよ……
〈パパ、ママ〉
ネスRは泣きたくなりました。でも、ロボットは涙を流せません。歯だって喰い縛れないのです。
鉄の指を固く固く、潰れそうなほどに握りしめ、ネスRが張り裂けそうなこころを堪えていた、その時です。
「あ〜あ。お幸せなことで」
手で触れそうな、すぐそばで、こちらをにらんでいる少年。でっぷり太ったそのからだ、しかめっ面のまま固まってしまったその顔つき。
「ポーキー……」
ネスは、ポーキーと、向い合って立っていました。
いつもの赤い野球帽をかぶった、元気な少年そのものの、あの姿をして。
大宇宙の真空の、星のまたたく空間に。
床なんかないのに、ちゃんとそこにあるように立ちつくしているふたりの周囲を、彗星《すいせい》が長い尾を引いてさぁっと駆け抜けてゆきました。
「ほんと。いいよな。おまえは。羨ましいよ。おれなんかダメさ」ポーキーはいかにもグレた子がやるように、両手をポケットにつっこんで、ありもしない小石を蹴りつけます。「何をやったって、うまくできゃしねぇ。グズでデブで性格のねじけたおれのことなんか、誰だってみんな、嫌いなんだ」
「そんなことないよ、ポーキー」ネスは言います。まごころこめて。「ぼくはきみが好きだったよ。きみのパパだって、ママだって……ピッキーだって……ひょっとしたら、他にも誰か」
ポーキーは足を止め、ジロリとネスを見上げました。
「おためごかしは止めてくれよ」
「そんなんじゃない……」
「へっ! おまえがおれを好きだったって? 嘘つけ! そんなはずがないじゃないか!」
ポーキーは頭を振り立てたかと思うと、いきなり周囲の素晴らしい銀河宇宙に、ズボリと腕をつっこみました。「見ろ!」紙のように引き裂きます。びりびり無惨に破きます。
たちまち現われいでたのは、グラマー・スクールの校庭です、ポーキーがみんなに嘲笑われながら、鉄棒の練習をしている、あの姿です! 「これでもか、ネス、えっ? これでもなのかよう!」
小さなリュックサックの肩紐を、両手で掴んで震えてる、その場に凍りついたように、ただ動けずに目を見張ってる、あの子は誰? あの男の子は? ひさしをナナメにした赤い野球帽。青と黄色の縞のシャツ。ジーンズの半ズボン。リュックサックのジッパーに結んであるファースト・グラブも真っ赤です。
「あ……ぁ……あ……」
それはネス。ネスはその子。だから。じりっ、じりっ。ネスの震えが、その子の足に伝わって。靴底が地面から離れます、思い切り蹴ります、くるりと後ろを向いたなら、けして振り向いてはいけない。けして止ってはいけない。走って走って。行かなけりゃ、早くこの場を逃れなきゃ。
「逃げた! 逃げた! 逃げた!」
ポーキーの声が四方八方から、ネスのからだをいたぶります。空一面にふくれあがった、ひどく巨大なポーキーが、片手を腰に、片手を前に、ズバズバ指さす形にして。
「そうだろう、え? ネス? とっとと逃げだしたんだろ、おまえは!」
両手で耳を覆いながら、空のポーキーから顔をそむけながら、ネスは逃げます、走ります。もっと遠くに。ずっと遠くに。何も見なかったふりで。知らなかったふりで。ああ、でもどんなに走っても、ここから離れることはできないんです。たとえズックが擦り切れ、足が血まみれになり、心臓が破れるまでも駆けたとて、けしてどこにも行けません。
デーブ、デーブ、ポーキーのデーブ。
豚デブポーキー、泥だらけ。
その証拠に、高く低く、聞こえ続けるのは、ポーキーを囃《はや》し立てる、上級生たちの声。
おい、豚がなんでそんな上等そうな服を着てんだよ。
むいちゃえ、むいちゃえ! 脱がせちゃえ!
豚デブポーキー、泥だらけ。豚デブポーキー、まるハダカ! イエイ!!
「やめろ……やめ……」ネスは耳を塞いでいた手を降ろし、グッと拳を握りしめ、振り返ります。ハァハァ、苦しい息を整え。呟きます。「やめて……やめてください」それはささやき。ほんの小さな、口の中でだけ発したことば。
それなのに。鉄棒の周囲の上級生たちが、エッと驚いたような顔をして振り向きます。
なんだ、あのチビ? おい。おまえいま、なんて言ったんだ? 中でもからだの大きな男の子が、ずいずいっと出てきます。こいつ、喧嘩を売る気かよ。え? なんて言った? もう一度、言ってみろよ!
倒れたポーキー、砂まみれのポーキー。服をむしられかかったので、ぼよぼよと何段にもなったお腹の肉が丸見えです。ソーセージみたいな指が砂をつかみ、ポーキーがのろのろと顔をあげます。ネスを見ます。ポーキーの目がギクッとします。ドキッとします。そして、弱々しく、光を失います。殺される寸前の獣のように。
「よしてよ……やめてくれよ……」ネスは頭を振ります。いやいやと。「もう、たくさんだ。いやだよ……いい加減にしてくれよ……こんなの……こんなの、もう、いやなんだったら! どうか、お願いだから、やめてください……」言います。おののく舌を励まして。よりはっきりと。よりしっかりと。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
思い切り叫んだその瞬間。
ぱあぁぁぁぁぁん!!
太陽は砕け散り、世界は揺れ、空が壊れ、上級生たちが血飛沫《ちしぶき》をあげて弾け飛びます。どろどろと不気味な黒雲が渦を巻き、煮え立つ魔女の釜の中のような空に不気味な雷鳴《らいめい》が低く高く轟き、稲妻が走り、天の鞭が、古い校舎をピシャンと乱暴に叩きつけます。窓ガラスが割れ、教室は音もなく崩れ落ち、バラバラと人が降ります。校庭じゅうの子供たちを襲ったのは、鋭い刃物のようなつむじ風。あまりにもすごい勢いで、切りつけられ、手をもがれ、足をもがれ、爆発でもしたように四散してしまう子! 悲鳴、絶叫、啜《すす》り泣き。誰か助けてと手を伸ばす、酷《むご》くも顔が半分なくなってしまった女の子。いたいよお、いたいよお! 腸のはみだしたお腹を押えて泣いている小さな男の子。瓦礫の下で動かなくなる白い腕。ぼろ雑巾のような服をまとってふらふら歩いていたかと思うと、ふいに立ちどまり、どすんと膝をつき、前倒しに倒れこみ、地面に顔をつけて弾んで、そのままぴくとも動かなくなる子……。
「な……なんだ?」ネスは茫然とします。「誰がこんな……こんなひどいことを……」ハッと気付いて、見上げます。「ポーキー、おまえだな?!」
「おいおい、ひとのせいにするなよ! おれじゃねーよ。……にしても、すげーなー! ぶったまげた。けっこうやるじゃん、ネス! あーっははははははは!」
真闇《やみ》の虚空《こくう》に轟き渡る、ポーキーの耳障《みみざわ》りな笑い声。腹を揺すって笑う姿。
「ほれ。見ろ!」その手は、あの、不気味な黄金像を掴み、これ見よがしに高々と掲げています。「いまのはな、ネス、おまえだよ。おまえがやったんだ。おまえの自慢の、サイだかゾウだか、ライオンタマリンだか、マングローブモンキーだかってぇ、ヘンテコリンな力をよ、このマニマニが、おまえのかわりにちょいと発してやっただけのこと」
「……なんだと……?」
ぎらぎらと輝く像が、ああ、なんということでしょう! 歪んで、溶けて、変ります。恐ろしい邪神の姿から、いつの間にか、にっこりと笑ったネスの姿に。にっこり? いいえ、違います。こんな恐ろしい笑い顔があるでしょうか。笑ってます。確かに元気な子供らしく、屈託もなく笑っているのに、そのくせ……どこかに、なにか、ひどく邪悪なものが、ゾッとするような冷たいものが、こっそり秘められているのです。
「だからさ。他でもないおまえが、ああ、もうこんなのヤダ、こんなの見たくないって思っただろ? だからさ、忠実なマニマニが、かわりにぶっ壊してやっただけじゃないか。いわば、ま、抑えがきかなくなったおまえそのもの、百パーセントのおまえ自身、ってやつだな」
ポーキーはにやにやと像をお手玉します。
「野球少年のおまえなら、いわゆるふだんの実力ってやつを、実戦の本番で、いつでもしっかり発揮するっつーのは、なかなかこれで難しいってこと、よーく知ってるんじゃないの? こいつは、それを確実にしてくれる装置なんだ。なかなかおもしろいオモチャだろ? けっこう立派な仕事ぶりだろう?……これ手に入れてから、おれもさ、おかげさまで、もう信じられないくらいの絶好調なんだ! 他のやつには使わせたくないところ、特に使ってやったんだぜ。滅多に見れないもん、見してやったんだから、たっぷり感謝してくれたってよさそうなもんだぜぇ?」
〈そうか。そうだったのか〉
ネスは、いま、悟ります。
欲望の無限増大機ではないだろうかと思われたマニマニは、実は、ただの、本音まるだし修正なし限度いっぱいこれっきり装置だったのです。
本音を解放すれば気持ちいいです。力の限りを尽くすことができれば気持ちいいです。打席に入るたびに毎度毎度ホームランなら、一番いい球が投げられ、打てるなら、そりゃあもちろん、カッコいい。いつもいつも、最高のマグレ当りなら、どんな試合にだって負けません。
でも……でも。
〈そんな野球じゃ、意味がない〉ネスはきっぱり思います。〈自分ばっかしぱかぱか打って。自軍ばっかしじゃんじゃん点いれて。たとえコールドゲームの最高記録を作ったところで、そんなの、ちっとも面白いもんか!〉
しかしなぜ、ポーキーはそんなものを手にいれたのでしょう? どこで見つけることができたのでしょう?
決ってます。あの夜。裏山に星が落ちた、あの時です。
だってあの時からポーキーは、信じられないようなことをしでかすやつになっちゃったのです。信じられない勢いで太りだしたのです。だってフォーサイドのハンバーガー騒動の時、壊したミニミニマニマニは、他ならぬ隕石《いんせき》のかけらだったのです。
そうして、その夜、同時にポーキーは、ギーグの種子《しゅし》を宿しました。あのブンブーンが、そう言っていました。お産、とかって、誰かも言ってました。ポーキーはギーグのおかあさんにさせられちゃう運命にあるらしい。
……とすると……。
〈マニマニは、ギーグが持ってきた〉
〈それは、ここしばらくの間自分を育ててくれることになる人間を、守るために。有利にするために〉
〈魔女がお菓子の家に子供を招いて喜ばせ、たっぷりうんと太らせて、美味しく食べようとするように……?!〉
ネスは思わず震えあがりました。
「ポーキー! よせ、それを捨てろ! それは危険だ!」
「なんだよう」ポーキーはにたにた笑います。「へへーんだ。欲しくったって、やらねーよ! これは、おれんだ! 誰にもやらねぇ」
「捨てるんだ、バカ!!」
ネスはポーキーの腕に掴みかかりました! ポーキーが不器用にもがいて、遠ざけようとしますが、マニマニの悪魔に、もうちょっとで指がかかりそうです、さわりそうです。届けば、さわりさえすればこっちのもの。ミニミニ版を潰した時と同様に、PK気合いでやっちゃいます!
思い切り伸ばしたネスの指先が、蓄えられた気合いのせいで、ぱちぱちと小さく放電しました。
「く、くすぐったい!」その放電が、ポーキーの内腕のいちばん敏感なところに、ちょうど当ったみたいです。「うひゃひゃ、うわ、よせ! さわるな! 離せ! 離せったら……離せよおおおおっ!」
……届きました……
ネスは心を凝らします。祈念《きねん》するのはただひとつのこと。
滅!!
その瞬間……。
夢は壊れ、夢は破れ、夢は砕けて飛び散ります。多元宇宙の混沌の隙間に生じたマニマニのちゃちな幻想空間は、ネスの手がそのいやらしい黄金の肌に触れ、必殺のPK気合いを放った刹那、あえなくはかなくついえ去りました。
「う……ううん……」
ネスRは目覚めます。機械のハートに電気が通います。鉄のからだは横たわっています。あの場所に、カーボンドッグと戦った、あの階段に――いまは周りじゅうを取り巻いていた光の粒も、階段自体の輝きも、みな失って、ただの黒い、黒い黒い真黒い、まるで鉛筆の芯のような、炭素の塊のようなものでできた階段に――。
「ネス! 気がついたの!」ポーラRが手をつかんで揺すぶっています。
「どうしたんだ、いったい!」ジェフRがロボットの頭の部分を開いています。「ご、ごめんよ、勝手にいじって。ショートでもしちゃったのかと思って、確かめていたんだよ」
「喪心《そうしん》していた。おまえは、ここにいなかった」プーRが呟きます。「あったのは、この、鉄人形だけだ」
「すまない、心配かけて……ぼくはどのくらい気絶してたの?」
「二十分くらいかな」とポーラR。
「うそ! 三時間はたったよ!」とジェフR。
「ひとのおよそ一生。つまり邯鄲《かんたん》の間」とプーR。
「そっか。ここでは、時間はみんなに同じようには流れないんだな」ネスRは起きあがり、人間のからだを持っていた時のくせで、頭を振ってはっきりさせようとして……ギョッとします。「な、なんだこれは?」
「え? どれどれ?」
「む?」
「わっ?! 気持ち悪いっ!」
あっけにとられて見つめます。時の裂け目の暗がりの一角を、覆いつくさんばかりに埋めている、このピンクのぶよぶよはなんでしょう? まさか? でも? ひょっとして?
四人は、ほぼ同時に、同じことを思いつき、互いに顔を見合せました。
柔らかそうで、弾力があって。日のあたらない場所で大きくなったナメクジのような、いとも不健康な色をしていて。ところどころに短い金色のウブ毛が生えていたり、皺が寄ってたり、その皺のめりこんでる部分に汗がじわっと滲んだりしているところから見て……これは肉? 肌? 余った脂肪をフリルのように、全身に飾った究極の肥満体の、そのハダカではないでしょうか?!
プーRが鉄のからだになってもなお誰よりも腰の軽いところを生かして、さっさとそいつに近づきました。嫌悪に震える指先で、目の前いっぱいに立ちはだかったピンクの壁のどこやらを、ちょん、とつつくと。それは、ぼよよよよよよんんんんんんん……、と、いついつまでも揺れました。
「……やっぱり……」とジェフR。
「ポーキー?」ささやく、ネスR。
「……うそ……うそよね? 誰かうそだと言って!」ポーラRが、恐怖に両手をよじります。
「信じられない……人間が、こんなになっちゃうなんて!」
「……ううう、なんだよ、ゴチャゴチャうるせぇな! おとなしく聞いてれば、いい気になって、言いたい放題言いやがって!」肉壁《にくへき》のどこからか、声がします。「ええい、だまれだまれ! おまえたちだって、なんだよ? そのど不細工なかっこうは? アホちゃうか、まったく!」
ぼよん、ぼよよよよん! ピンクの壁が、弾んでゆれて。
色をつけた雪だるまみたいな巨大な背中がくるりと回ると、お月さまでも飲んだようにまんまるく膨れあがったお腹が見えました。腕も足も、あまりに贅肉が充実しすぎて、関節が曲らないようです。風船でできた人形みたいに、妙にシャキッと前に伸ばしたまま。
「ポーキー……?」ネスRがおそるおそる尋ねます。「ほんとに、ポーキーなのか?」
「だったらなんだよお!……ちぇっ、それにしてもネス、おまえにゃほんとに腹が立つなぁ! 俺の宝物をぶち壊しにしやがって! せっかく、せっかく、気持ちよく夢をみてたのに……こんなんなっちゃったこと、しっかりバッチリ思いだしちゃったじゃないかよう!」
「わぁっ、なんだっ!」
「揺れる!」
「弾かれるぞ、気をつけろっ!」
ぽあん、ぱかん、どしゃん! 巨大ポーキーが曲らない腕を振り回し、まぁるいお腹を突きだすと、空間そのものが、圧迫され、歪み、振動し、ぶよんぶよんと狂いました! そして、気がつくと……ピンクの壁に囲まれています! まるで、暴れる心配のあるひとを入れておく牢屋のように……ピンクの肉壁がぐるり全部を取り巻きました! こうなってはもう、ポーキーのもの。ロボット四人組は、まるでトランポリンに乗せられたミニチュア玩具のように、いとも簡単に飛ばされ、つきあげられ、弾まされます!
「くそっ」ネスRは精神をこらします。「……P……K……気合いだぁぁぁっ!」
ほとんど同時にジェフRは、腕関節を折り、ミサイル弾頭をのぞかせました。「そおれ、発射ぁっ!」
……ところが。
SPHAAAAANG!!
GASHUIIIIINN!!!!!!
「あ・ああ〜〜〜っ!!」
「な……なんてこった、跳ね返されちまったっ!」
ネスRのPSIパワーも、ジェフRのミサイルも、肉壁に穴をあけることができません! 気合いは、ピンク内部の空間全体を震撼《しんかん》させ、中の四人の電子頭脳に激しい電気ショックのようなものを与えました。配線のいくらかが、パシーンと音をたてて焼き切れました。ミサイルも、壁から壁へ、まるでスカッシュ・ボールのように弾けて飛ぶんです! 四人は必死で伏せたり避けたり逃げ回らなくてはなりませんでした。そして結局、互いにぶつかりあって大爆発を起こしたのです! とっさに、ポーラRとプーRが、全員をひとつのところに伏せさせてPKバリアを張らなかったら、みんな、一瞬のうちにスクラップになってしまったところです!
それでも……そんなパワーや武器でさえ、この異様な姿になったポーキーをやっつけることができないなんて……!
「う……うう……冗談じゃないぞ……これは」
「なんて敵だ……」
「ずるい! 強すぎる!」
「あははははは、ざまあ見ろだ!」
ポーキーはカサにかかって……いや、かかるにしてもこれほどのカサだと、さぞかしたっぷり、かかり甲斐もあるでしょう! 全身の肉を波打たせて笑います。うねうねくねくね、壁を揺すって暴れます。けして速くはないのですが、なにしろ質量が圧倒的。体重で言って、ロボット四体をあわせたのの、少なくとも百倍はあるんではないでしょうか?
いくら戦歴の覇者《はしゃ》、四人分の魂でも、……こんな相手に、いったいどうやって、勝てるというのでしょう?
〈ああ、だから〉ネスRはいまごろ、ブンブーンのことを思いだしました。〈だから、あの時、すぐに殺してしまえって言われたんだ……〉
「ぬわはははは、どーだ、思い知ったか! ネス! おまえは結局、おれには絶対勝てないんだよ! ぎゃあはははは!」
ぶよんぶよん、ぼよよよん! ぐしゃり、ずしゃり、どべしょいっっ! ああ、そこはポーキーの中、まさにポーキーのひとり天下、ひとり舞台。
四人は、いいえ、四体は、気味悪いピンクの肉の真ん中で、ひねられ、揉まれ、振り回され、上から下へ、右から左へ、ありとあらゆる方向に振り回される一方。なにせ空間自体が、めまぐるしいまでに形をかえます。ぺちょりっとくっついてみたかと思うと、ぎゅううっと細長く伸びてぺたんこに絞めつけます!
「ああ、もう、だめ……ウック……わたし、吐きそう!」ポーラRが、なんとか立とうとしながら、叫びます。「あっ、でも、そっか……絶対絶対吐けないんだ……こんなにこんなに苦しいのに……わたしにはもう胃がなかったんだわ……わーん!」
「ひょっ、と、して、……やつ、ブラッ、クホール、なみに、重いんじゃ……わひっ!」ジェフRがプーRと衝突し、互いに、ごめんごめんと手をさしのべながら、また離れます。
「じゅ、重、力の、方、向も、あい、つが、動く、たび、くるくる、やたら、変っ……のあっ!」何の抵抗もできません。
「くそーっ、みんな、がんばれ!」ネスRが拳を振りあげます。「なにか、なにかあるはずなんだ! なにか、残された方法が!」
「はーっはははは! バカ言え、そーんなもん、あるもんか!」ポーキーがますます調子に乗って笑います。「ふん! なんだ。さんざんカッコつけやがって。てこずらせやがって。ずいぶん邪魔してくれたけど、ネス! おまえの力なんて、結局のとこ、そんなもんなんだなあ……いやいや、おいたわしや……さぁて、ひと思いに、消えてもらうかな? そろそろ目ざわりになってきたし」
「和だな」プーRが低く言いました。こんな時にも、少なくとも見た目や口調はそれほど苦しそうではありません。修行の成果でしょうか。「いま、求めるべきは和。一致だ。我等四人、捨体一和のこころをもって互いにあい通ずれば、驚天動地《きょうてんどうち》の秘策が生まれるやも……」
「なんかゴチャゴチャ言ってるみたいだけど、なにするにしても、もう遅いよーだ!」ポーキーがけらけら笑うと、ただでさえ不安定なピンクの壁が、くにゃくにゃぶにょぶにょ揺れました。「そーれ、ひねっちゃうぞー!」ぶわわわわーんと膨れた壁が、上下に長い楕円になって、それぞれの端からきりきりねじれます。その様は、まるで、そう、ピンクで柔らかなラグビーボールを雑巾みたいに絞るところを内側から見ているようです! 「……ええい、死ねえぇええええっっっ!」
内側の空間が押されて縮んで狭くなります。でもおかげで、四人は互いに近づきました。ぎゅうぎゅう、ぐう! ぐしゃぐしゃ……がしゃ! 押されて、みんな、くっつきます。鉄と鉄がこすれ、顔と顔がくっつき、腕も足も、空間の少しでも空いているほうに伸ばされて、めったやたらに絡まってしまいました。ニホンのトウキョウのヤマテセンのラッシュアワーだって、こんなにひどくなることは、まず滅多にはありません!
「くうううう……」ネスRは鉄の腕をつっぱり、鉄の意志を凝らし、全身全霊でピンクの壁と壁をつっぱっています! もし人間のふつうの姿のままだったなら、きっと顔を真っ赤にして、汗だらけにして、アドレナリンが全開になっていたでしょう。「……ううう……くそっ……もう……もうだめだ……限界だ……!」
「麻酔薬、睡眠薬、ええい、筋弛緩剤《きんしかんざい》だ!……」ジェフRは右手の指を注射器にして、ありったけの薬品を壁にぶちこんでいますが、どれもさっぱり効かないようです。「……ちくしょう、これでどうだ、強力下剤……!」
ぶるぶるぶるっ! 壁に恐ろしい振動が走りましたが、それっきり、それだけ。
「……オンアイカンダーマーサムサッパー、エイアラウンケンホンサワカ……」プーRは気魄《きはく》の籠《こも》ったお経を読みだしました。
……ずしゃっ……ずし……ぐしゃっ!
「あうっっ!」
不穏な音をたてて、ネスRの指が潰れます。手首が潰れます。腕が、くにゃりと曲りました。そこは一気に狭くなり、鉄のからだとからだが互いに押し合ってまるで接着でもしたようにぴたりとひとつにくっつきます。立体が面に、カーブが直線に。それでもまだ、ぎゅうぎゅう圧迫はやみません。もう誰も、もと通りのちゃんとした形をしていません。どこからどこまでが誰で、どこからどこまでが誰なのか……区別なんかできません。
「ああ……ああ、神さま……」ポーラRが、ささやきます。「どうか……わたしたちにお力を……力を貸してください……!」
ポーラの祈りが……そのPSIパワーの全部をかけて、訴えかけるその魂が……いまやひとつにくっついた四体のからだを震わせます。自然……知らず知らずのうちに、ネスもジェフもプーも祈っていました。ポーラのこころに寄り添って。ポーラの魂に寄り添って。ちょうど、そのからだがみな、固く固く結合して、もうたとえいま圧力がなくなっても、けして離れなくなったみたいに。
「……神……よ!」
――時の彼方、空の彼方、さだめの糸のその彼方……。
サターンバレーの土星さんたちは、いまだかつてない気持ちの高ぶりを感じました。誰からともなく集ります。広場の真ん中に固まって、互いに鼻と鼻とくっつけあい、手と手をとりあい。それから、口々に祈ります。
「ねすさん、まけん、ぐんまけん」
「かつます、いのるます、くりすます!」
「ぜったい、ぜったい、ぷぅー!」
サマーズ海岸。白い砂。
黒い海パンに黒一色のアロハ、もちろん黒メガネで、ビーチチェアに横たわって、ウトウトしていたトンズラブラザーズのラッキーは、突然、びくっ、と飛び起きました。
「おい、ナイス? 呼んだか、俺を?」
「呼ばないっす!」ナイスは首をひねります。「兄貴こそ、俺のこと、呼ばなかったっすか?」
なんと並んで寝ていたブラザーズが全員――ふだんは寝てるホテルが火事になったってそう簡単に起きるような連中じゃないと言うのに――いずれもガバチョと起きあがっています。
「あの、あのね、兄貴」おそるおそるって感じに、一番年下のグッチが言います。「俺、いま、ネスさんの夢、みてたんだけど。ネスさんが、なんか、危ない目にあってる夢だったんだけど。そんで、俺のこと、呼んでたんだけど」
「俺もだ」
「アテも」
「あちきも実は」
「そうか。そう言われてみれば」ラッキーはぱちんと指をならします。「おいらもそんな夢見てたような気がする……ただし、おいらを呼んだのは、レッド・キャップ・ボーイじゃなくって、プリティ・リトル・ガールのほうだったな」
「……あ、ずるいー……」
「さすが兄貴」
「おい、みんな、楽器を出せ」ラッキーは黒サングラスを外します。「呼ばれたからにゃあ答えなきゃ。……トンズラブラザーズ・ベェァァンド、熱狂のライヴ! 渾身のビーチ・サイド・フリー・セッション! そ〜れ、行くぞおおおっ!!」
いきなり始まったノリノリの演奏に、寝ていたひとは起きあがり、道行くひとたちは足を止め、泳いでたひとたちは急いで岸に戻ります。
きゃあきゃあわあ! 爆発的に盛りあがった歓声は、ストイック・クラブにまで聞こえます。支配人のノワールさんがグラスを洗う手を休め、女優のマリマリさんが眠そうな目をあげ、いっしょうけんめいタイプライターを叩いていた文豪トゥルーマン・アホーディが、ん? と叫んで立ちあがります。
ツーソンではハッピーハッピー教の信者さんから幼稚園のよい子たちまでが、まったく同時のある一瞬、ポーラのことを思いだし「どうしてるんだろ」「元気かなぁ」胸をドキドキさせました。モーリス校では折しも実力試験中の名門のお坊っちゃまたちが「ジェフ!」「ああ、ジェフ!」いきなり口々に叫びだし、窓に駆け寄って空の向うを見つめたので、監督官が大いにあわてました。
砂漠の発掘現場ではユンボを運転していたモッチーさんが、クルーズ中の美しい帆船の甲板では、のんびり舵輪《だりん》を操作していたモネ船長とオウムのポリーが、同じような不思議を体験し、奇妙に神聖な気持ちになって、ネスたちの無事を祈ります。
タス湖ではタッシーが、ジャングルではお猿が、グミ族が、ランマ国民が、ストーンヘンジの寡黙《かもく》ではにかみやの大男たちが……みなネスたちを思いだし、その無事で元気で幸せであることを、こころの限りに祈りました。
そして。
「博士!!」
「……ああ……驚いた。なんだろう、この胸騒ぎは? むむ、心拍が異常に昂進《こうしん》している!」
「ぼくもドキドキしてます。なんか、すっごい悲しい気持ちになりました」
「ぼく、ジェフの顔が浮かんだ……なんか、寂しそうな、いまにも倒れそうな表情の……」
「ポーラ! ポーラ!」
「まぁ、あなたったら、どうなさったの。いきなりそんなに取り乱して!」
「だって、おまえ、いま、いまな! ポーラの声が聞こえたんだ!」
「え……あなたも……? じゃ、そら耳じゃ、なかったの?」
「ママっ、ママーっ!! ちょっと来て、チビが変なの! 急に吠えだしたの! それに……あたしも……なんか、急に、ハートが、きゅーっとしたの!」
「……ええ、トレーシー……ママもなの」
「どうしたんだろう……おにいちゃん」
遥か異国の、すこぶるエキゾチックな、とあるハンバーガー・スタンドで。
「……ネス」
赤白縦縞のコック帽の店長が、いきなり、カウンターから駆けだします。ずらり並んだ民族衣装の、びっくり仰天のお客さんたちを掻きわけて。
町角を走ります。信号なんか無視です。ぶーぶークラクションをならされたって、平気です。
大海原の見える丘の上、見渡すかぎりの空の下。
叫びます。
「おーい、ネースーッ! 聞こえるか、ネスーーーーッ!!」
がんばれ、ネス! 負けるな ネス!
ポーラに、ジェフに、プー王子に。
みんなの祈りが届きます。世界じゅうの祈りが届きます。そう、もちろん、あなたの祈りだって。
ええ! ちゃんとちゃんと!
届きましたとも……!!
そして。
小さなポンコツの塊が、鉄屑みたいな塊が、四体がひとつになったロボットが。
……ちか……
しゅぼっ!
燃えます。白い白い、清らかで静かな炎をあげて。炎は光に、そして熱に、そして圧倒的なエネルギーとなって広がります! ああ、それは光の粒です……あの、うっとりするような、生命の泉です!
そしてまた、これはどうしたことでしょう? なんでもかんでも通り抜けてしまうかのように思えていたこの光の粒の奔流が、彼らを窒息寸前にさせていた肉を押しやり、肌を押しやり……そっと広げはじめるではありませんか。ねじくれ絞れていたピンクの壁が、しずかに解けて伸び始め、巻き戻って膨らみます。光は、壁に、床に天井に、静かに、静かに降り積もり……けして急激ではないながら圧倒的な力で、ぐんぐん押し退けていくではありませんか!
「……うがあぁああああ!! な、なんだ、よせ、なにをする……や、やめろおお、やめてくれええええっ!」ポーキーはお腹を押え、どたんばたんと苦しがって暴れます。「いて……いたた、痛えよ、痛えよ!……や……破れちまうよお! うわあぁあああああ!」
と。
……ぱ!
なにかがくるりと裏がえります……そう、靴下を乱暴に脱いだらば、裏がおもてになっちゃいますね? あんな感じ。あれが、空間全体におこったところを想像してみてください。
「出た」と、あっけにとられて、ネスR。
「え? あ、ほんとだ!」ポーラR。「それに、まー素敵! わたしたち、ちゃんともと通りだわ」
それは時の裂け目のその彼方、あの不可思議な多軸時空。
目の前には、お腹を抱えてしゃがみこみ、苦しげに唸っている巨大なピンクの肉塊《にくかい》。あまりに太っておりますが、ちゃんと人間に見えるポーキーです。伸縮自在の肉壁には、どう眺めても見えません。
「あれは、その身を伸ばしたり変形させたのではないようだな。我々の認識を歪めたのだろう」プーRが指摘します。
「そっか。時間も空間も相対的なものだし」ジェフRが答えます。「ここはそもそも、無限変数の枝わかれの、つまり可能性トゥリーの分岐《ぶんき》の中の一箇所にすぎないんだからね」
「わかんない話すんのやめてね!」ポーラRが両手を腰にあてます。「つまり、悪い魔法使いの術に填《はま》ってたってことなんでしょ!」
「……まー、なんなら、そう言ってもいいですけど……」
ネスRは、みあげんばかりの肉の塊に駆け寄りました。
「おい、ポーキー? ポーキー、どうした? だいじょうぶか?」
「うう、だ、だいじょぶじゃない……ぜんぜん、だいじょうぶじゃないよおおお」ポーキーはこねかけのおまんじゅうみたいな顔から、脂汗をしとど流しながら、いとも苦しげに訴えます。「痛ぇ……痛ぇ、たまらねぇ……なんか……いる……おれの腹ン中に、なんか……うぐっ!」
ポーキーは全身を波打たせて激しくえずいたかと思うと。ザバァッ! すさまじい勢いで、黄緑色の液体をはきだします。一気に、およそ、バケツ一杯ほども……そして。
「きゃああああっ!」
「げ」
「うわっ、出たっ!」
必死にしめようとする唇の内側から……太い肢《あし》が……蜘蛛の脚のような毛だらけで固そうな肢が、にい、さん、しい……計四本も姿を見せて、もぞもぞ動いているのです! 「なに、いったい、なんなの、そいつー?!」
「ギーグだ……あれが、たぶん、ギーグなんだ」ネスRは、痛ましそうにいいます。「ポーキーのからだに寄生して、少しずつ成長したギーグが、いま、孵《かえ》ろうとしているんだ……」
しかし、なんという生き物でしょう! なんという忌《い》まわしさなんでしょう!
「あぐっ……あがががが!」力任せの遠慮なしで、内側から広げられ、こじあけられた唇は、いまにもメリメリと裂けてしまわんばかりです! 「へろいを……へどえを、げぁぐ! ひああえ、おんを、いああえは、あはおくあっへはおいー!」
「ひどいよ、ぎーぐ、ほんのいままでは、仲よくやってたのに」プーRが淡々と通訳します。
「そんなこと言ったって、しょうがないと思うな」ジェフRも冷静に言います。「確かに寄生生物は、ふつう宿主に害はなさない。栄養は奪いはするけれど、宿主を殺しちゃったら、また別の宿主を探さなきゃならないから。大腸菌だとかビフィズス菌なんてのは、むしろ宿主である人間の役にたち、人間に寄与することで、自分たちをも生きながらえさせる。でも……たとえば、キセイバチの親は、毛虫とかの素敵に栄養たっぷりの餌を、しっかり麻痺させておいて、自分の卵を生みつける。殺しちゃうと、新鮮じゃなくなるからね。毛虫は、生きながら、キセイバチの幼虫に食われる。食糧兼住居として、卵が孵ってから幼虫が自分で飛べるようになるまで、長いこと、ずっと食われ続けるんだ」
「……それだったみたいね……」ポーラRは、ゾッとからだを震わせました。
「ううう! がああああ!……おおああ……ぐおえあ……おおひえくえ、おおひへくえ、はのう……えふ……!」
「殺してくれ、頼む」プーRがネスRを見ます。「おまえに、……そう言ってる。懇願《こんがん》しているぞ、ネス」
「はおう……ほえは、ほえほはははほひはふふひひ……ほいふほほ、ほへほ、ほほひへ……うおあぁぁぁっ、あぁ〜〜〜っ!!」
「頼む、おれが、おれのからだをしているうちに。こいつごと、おれを、殺してくれ……バケモンにはなりたくないと。そう言っているんだ」
「ポーキー……」ネスRはよろめくように歩き出すと、痙攣《けいれん》し、のたうつポーキーの不気味なピンクの肉体を、鉄の手で、鉄の指で、そっと優しく撫でました。
思いだすのはあの夏の日。キラキラ輝いていた、ふたりだけの川。秘密の釣り場。糸の先で、さかんに跳ねてた、あの魚。あれはほんとにでっかかった。ほんとのほんとに、でっかかったよね? 「ポーキー……ごめん……ごめんね、苦しませて……」
〈ああ。もっと早く、ぼくが決心していたら……こんな目にあわせないですんだかもしれないのに……!〉
ロボットは泣かないはずでした。涙なんて流せないはずでした。
でも、もう、ネスの目は見えません。ただ一面のまぶしい光が――あの、ふたりのせせらぎで見た夏の朝の、まぶしいばかりの光が目の前いっぱいにあふれます。
――風。風が吹いています。そよそよと、優しく頬を撫でます。
手の中で、細い竿がぐぐっとしないます。汗にグリップがすべって、いまにもすっぽぬけそうです。全体重をかけて堪えてないと、川に引っ張りこまれそうになります。
「ひけひけっ! そうだ、がんばれっ!」
「ポーキー、ポーキー、もうだめ、だめだ……もうやめようよ、いいことにしようよ」
「バカ野郎!……向うだって必死なんだ、生命《いのち》がけなんだ」
水しぶきを煌《きら》めかせて、宙に躍りあがるマス。なんて強いヒキでしょう! なんてたくましいからだでしょう。生命は、自然は、なんてなんて美しいんでしょう。
「音を吐くな。あきらめるな。手加減なんかするな。やりはじめたからには、とことんまで戦いぬくんだ! でなきゃなにもかも意味がなくなっちまう。……さぁ、頼むぜ、ネス、一発逆転ホームランだ。……おまえの力を見せてくれ!」
一発、逆転……?
そのことばを耳にしたとたん。
わあああああっ。わあああああっ。耳打つ歓声。万雷《ばんらい》の拍手。超満員のお客さん。
ああ、スタジアムです。
いつしかネスは、バッターボックスに立っているのです。
三点リードされて迎えた九回裏。既にツー・アウトですが、どの塁にも味方がいます。ファースト、俊足のプー。セカンド、頭脳派のジェフ。サード、人気最高のポーラ。ボール・カウント、ツー・スリー。最後の最後のどたんばに、たった一球残された、一発逆転サヨナラのチャンス。
……どきん……どきん……どきん……。
自分の心臓の音が聞こえます。
ネスはヘルメットを被りなおし、バットのグリップを決め、腰を振ってスタンスを固めます。
……どきん……どきん……どきん。
まぶしくて顔の見えない敵ピッチャーが、ロージンバックを手に取り、ぱふぱふと白い粉を散らします。両手を頭上に掲げ、そこで一瞬止めて。こちらを見ます。じっと見ます。ニヤッと笑った気配がします。
……どきん……どき。
マウンドの砂を蹴って脚があがる。……くる!
空の一点に生まれた光の粒が、みるみる大きくなってゆきます。針の先から米粒ほどに、豆粒に、ピンポン玉に、ぐんぐん輝きをまし、さかんなフレアを引きながら、まっすぐこちらに向かってくる。
ホームベースのど真ん中を貫く、燃える火の玉剛速球。外角高め、絶好球です……敵もまっこうから勝負に出たのです!!
昨日もない、明日もない。永遠の長い長い一瞬。
「……うぉおおおおお!!」
ネスはバットを振りはじめます。全身全霊の気合いをこめ、まっすぐ球を見つめながら。思い切り振り切る、ただそのことだけを念じながら……振って振って、振って……〈もらった!〉……ええ、もちろん! てごたえあり! 真芯《ましん》でとらえましたとも……!
絶妙のインパクトの素晴らしい感触を手に残し、球はみるみる小さくなります。消えていきます。遠く遠く、電光掲示板の彼方へ、場外へ。
世界の、外の、どこでもないどこかへ……。
「やった……」ネスはつぶやきます。「やったぞ……ぼくはやった……やったあぁぁぁぁ!!」
10 我が家へ
「ったぁああぁ…………あ?」
気がつくとネスは、どこかの家のどこかの部屋で、椅子にすわっているのでした。
目の前いっぱいの巨大なスクリーンの中、知らない選手がベースを回っています。いや……待てよ。知らない選手ではありません。知らないどころか! それは若き日のミスターじゃありませんか!
ミスターはネスが大尊敬する、世界でも最高の野球人のひとりです。太い眉、でっかい目、髭そり跡の濃い男らしい顔。ミスターは、その有名な顔を、無邪気と言ってもいいように誇らしげに微笑ませ、片手をゆっくり振って満場のお客さんたちに挨拶をしながら、ホームベースにたどりつくのです。花束が手渡され、チームメイトたちが駆け寄ってきます、歓声はもう割れんばかりです……!
だんだん事情がのみこめました。それは有名な天覧試合。ミスターが、起死回生の逆転ホームランを放ち、世界をアッと驚かせた時の映像のようです。この日から、ミスターは、華やかなスターへの道を驀進《ばくしん》するのです。それは知ってます。わかってますが……。
「……でも、変だぞ?!」
〈あれは、古い古いニュース・フィルムだ。こんなきれいなカラーじゃないし……こんな立体画面でもなかったはず〉
〈だいいち、なんでぼくはここにいる? なんでのんびり、好きなミスターの試合なんか見てたんだ……?〉
「わたしたち、冷凍になってるはずじゃなかったっけ……?」
すぐそばで、ささやくような声がしました。振り向くと、椅子がみっつ、並んでいます。いるのは、ポーラとジェフとプー! みんなもうロボットではありません。もちろん、冷凍死体でもありません。
「ここ、どこ?」
「なんか……親父のラボに、こんな部屋があったような気がするんだけど」
四人は、茫然とした顔を見合せました。
「越えた、か」プーが厳《おごそ》かに言います。「森羅万象《しんらばんしょう》の境界を。邪悪の気配が消えている。ここは、俺たちが出発してきた、あの世界ではあるまい」
「でも、ミスターがいたけど?」
「みんなも、前の通りに見えるわよ」ポーラが眉をひそめます。「やだ、わたしは? どお? 変ってない?……もしかして……前よりもっと美人になってたりしない?」
しないしない。ネスとプーが手を振ります。
「多元宇宙……平和世界」ジェフが考え考え、口を開きます。「枝分れしていく歴史……もしかしたらこうなっていたかもしれないヴァリエーションのひとつ。……新しい、別の[#「別の」に傍点]地球」
「でも、じゃあ」
「前いたとこはどうなったの? 消えちゃったの?」
「いや、そうじゃない。あれとこれは同じひとつのもので、ただいくつかの変数が少々異なるだけの……」
ザッ、ザザアアアアッ!!
すごい音に、みながハッとして振り向くと、スクリーンにノイズが出ています。色とりどりのななめの雨が降っています。
〈あ、こういうの知ってる!〉ネスはゾッとしました。〈いきなり番組がジャックされて、悪い宇宙人が宣戦布告するんだ……!〉
しかし。
「……ごめんごめん、終わっちゃってたね」バタンと戸を開けて入ってきたのは、ニコニコ目を細めた、いかにもひとのよさそうな丸い顔。凶悪な宇宙人などではありません。
「アップルキッド……?!」
「どお、気に入ってくれた?」キッドは手に持ったリモコンでスクリーンを消し、四人に紙を配ります。「じゃあ、よろしく! できるだけくわしく書いてね。ヒントにするから」
四人はみなあわてて紙に目を落としました。
***
お忙しい中、ご協力いただきましてありがとうございます。
アップルキッド最新発明、懐かしの名場面ヴァーチャル体験を可能
にした『あの感激をもう一度マシーン』、いかがでしたでしょうか?
以下の質問にお答えください。
1 見応えはありましたか? すごい! /まあまあ/つまんなかった
2 違和感はありましたか? ぜんぜん/ちょっとね/ひどかった
3 このマシーンで、今後、どんな映像を見たいと思いますか?
具体的にお願いします。
***
「……アンケート用紙……?」
「ササッと書いちゃってくれよ!」キッドの白衣のポケットから顔を出して、天才ネズミのアルジャーノンが叫びます。「もうじき、迎えが来るんだからさ!」
「迎え?」四人はまたしても不安な顔を見合せるしかありません。
代表して、おそるおそる、ネスが聞きます。「迎えって?」
「あれ? 今日じゃなかったっけ?」機械のパネルを開け、ディスク状のソフトを片付けながら、キッドは言います。「ランマ王国の飛行船が来るっていうのは? 戴冠式《たいかんしき》の準備をしなきゃならないから、早く戻ってくれって。プー王子、イースーチーさんにさんざん嘆かれていたじゃない。……楽しかった夏休みも、とうとう終りだね」
キッドは振り返り、薄い眉毛をちょっと広げて、四人の顔を眺めます。
「急に寂しくなるだろうな。みんなが、家に帰っちゃうと」
やはりそれはフォギーランド中央部のラボでした。しかし、責任者のはずのアンドーナッツ博士はそこにいません。なんと、夏休みで! でかけていると言うのです。ガウス先輩もトニーも、謎の大男のクロオさんも、どこにも姿が見えません。ただ、キッドとアルジャーノンだけが、頼まれて留守番をしながら、ラボの機械でいろんな発明をしているということでした。
やがて空飛ぶ象の形をした巨大な飛行船が到着します。ランマの左大臣イースーチーさんの他にも、武官や小姓《こしょう》、式典官、こまごまとしたことをお手伝いする係の女のひとや、王子の歩く道にいちいち花びらを撒く係の子供、それに、まだ七歳だという可愛らしいお嫁さんまでが、いそいそやってきたのでした。
キッドたちの見送る中、飛行船が飛びたちます。まず最初に、スリーク郊外のジェフのおかあさんの家に行ってみることになりました。
ここぞとばかりに熱心に面倒を見たがるひとたちに、無理に頼んで遠慮してもらって、四人で王様の居室に籠《こも》りました。全面窓の、とても見晴らしのいい、素敵な部屋です。山が丘が、海が。大都会のビルが。次々に見えては消えてゆきます。
「もう、結婚してたなんてねぇ」ポーラがやれやれと首を振ります。「なんか、ちょっと悔しい。負けた! って感じ」
「覚えがない」プーは頭を振りました。「たしかに、チャイは生まれた時から知っている、婚約者なんだが……」
「あら。やなの? 彼女って、すごくかわいいじゃない。好きなんでしょ」
プーはムッツリしたまま、耳まで真っ赤になりました。
「ねぇ、もし、もしだけどね」ジェフは、クスクス笑いながら言いました。「ネス、ポーラ。もしきみたちが、将来結婚するようなことがあったら……」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ、ジェフ!」
「なんだよ、それ!」
「なんでそんなに焦るのさ?……きみたち同士が、とは言ってないぜ! ふたりとも、一生結婚しない気かい?」
たっぷり黙らせておいてから。
ジェフは悪戯《いたずら》っぽく笑います。
「電気製品の修理は、どうか、ぼくに任してくれよね!……あ、砂漠だ……これを越えたら、もうじきだな。どうしてるかなぁ……おふくろ。ずいぶん長いこと、あってないから……ぼくがわかるかな。とっぴょうしもなく変っちゃってたら……どうしよう?」
「心配するなよ」ネスがジェフの肩を抱きます。「きっと大丈夫だよ」
「ん……そうだな……」ジェフの笑顔がだんだんひきつります。「……でも、やっぱ、よそうかな……よしとけばよかったかも。ウィンタースに行ってもらったほうがよかったかもしれない。だってね、論理的に言って……ぼくが、この制服をちゃんと着てるってことは、きっと、モーリス校はこの世界にもあるってことでしょ。寄宿舎に行けば、トニーがいる。ガウス先輩も、他のやつらもいる。もしも、もしも、知ってるやつが誰もいなかったとしても、……きっと、ぼくひとりの居場所ぐらいはなんとか……」
「いいえ。これでいい。あたしたちはみんな、まず、おかあさんのところに帰るべきなのよ」ポーラはつと立って窓辺に行き、目の下を流れてゆく広大な黄色い砂を見つめます。「ママはママよ。たとえ世界がひっくり返っても、ポーカー・ゲームのカードみたいにいきなり全とっかえになっても……自分の子供がわからなくなっちゃうおかあさんなんて、ぜったい、ぜったい、いるわけがないんだから……!」
そうこう言っているうちに、飛行船は砂漠を越えました。
とある野原の真ん中に船をつけ、四人で歩いていきました。木洩《こも》れ日の道を、青空の下を。両側に並木のある滅多に車も通らない道路。逃げ水がきらりと光ります。緩い坂を登り、角を曲り。だんだん不安に青ざめるジェフが指差したのは、煙突つきの赤い屋根の、白い木で低いフェンスをめぐらせた、童話に出てくるようなおうちでした。
手作りっぽい郵便受けの上に、トンボが止っています。もう、秋が近いのです。
三人は柵のところで立ちどまりました。万が一……そんなこと考えたくないのですが……ジェフが悲しまずにいられないような光景が出てきてしまったら、すぐに駆け寄って力づけるつもりです。なんなら、また一緒に飛行船に乗っていけばいい。そう思いながら。
振り返り、振り返り、ジェフは玄関口に進みでました。深呼吸ひとつ。思い切って、手をあげ、ノックします。
答えて出てきたひとは……なんと。お腹が大きかったのです。
「ま……ママ……?!」
「あら、お帰りなさい、ジェフ」ジェフママが言います。「ちょうどよかったわ、トニーくんから、ハガキがきてるの。こんどの新学期も同じクラスになるんですって! ガウス先輩から教えてもらったんですって。よかったわねぇ」
「って……あの、ママ……その立派なお腹は、もしや……」
「ええ、実はそうなの」お化粧もしていないのにツヤツヤ輝くような肌を、ちょっぴり薔薇色にして微笑みます。「まさかまさかって思っていたんだけど……いい年して、恥かしいからはっきりするまで、黙ってたんだけど……実はおまえに、弟ができたのよ、ジェフ!」
「おとうとお?!」ジェフはあっけにとられます。「って……って……誰が、誰がそのお腹の子のパパなの?」
「おとうさんに決ってるじゃない、やあねぇ!」ミセス・アンドーナッツは、エプロンの先で、ジェフの頬っぺたをぺちりとぶちました。
その途端、「おう、戻ったか!」奥から出てきたのは、灰色のモシャモシャ髪の。アンドーナッツ博士です! でもいつもの白衣じゃありません。いかにも家でのんびりする時らしい、ゆったりしたカーディガンなんか着ています。おまけに……ごくさりげなく、なんとも自然に、ママの腰に腕をまわすのです。「で、ラボ見学はどうだった? みんなも楽しんでくれたかね?」
「あら、おともだち? おくってきてくださったのね」ミセス・アンドーナッツは、おもてで茫然としている三人に、ハーイと手を振りました。「ネスくんたちね! うちのジェフが大変お世話になりました。どうぞどうぞ、おあがりなさいな」
「そうしてもらうといい」アンドーナッツ博士もいいます。「きみらの冒険を、世界一周の話を、ぜひ聞かせてもらわんとな」
「ちょ、ちょっと待って!」ジェフは大急ぎで駆け戻ってきました。「ど、ど、ど、どうしよう……ここでは、うちの両親、ぜんぜん離婚なんかしてなかったみたいだ!……パパもママも、とっくにはずしてたはずの結婚指輪なんかしてるんだぜ!」
「おめでただし」
「おい。ぼくたちは、夏休みを利用して世界一周旅行をしていたらしいぞ」
「なるほど。そういうことにしておけばいいのか……」
「……ね、どうする?」
「どうするもこうするも」ネスはジェフの背中を叩きました。「うまくやれよ。素敵なパパとママじゃないか。たっぷり甘えろよ。水いらずにしてやるよ」
「う、……うん」ジェフは戻り、ネスたちも、早くそれぞれの家に帰りたいそうだ、と告げました。
「そうなの。それは残念だわ」とミセス・アンドーナッツ。
「しかたないな」と、まんざらじゃなさそうなミスター・アンドーナッツ。
「あ、そうそう。そう言えば、思いだしたわ。昨日ママ、ジェフとみなさんたちの夢を見たわ! 神様が……それって、カブトムシみたいなかたちをした神様なんだけど……みんなの回りを飛びまわって、よかったよかったって言うの。それで、ママにもお告げをくださったの。お腹の子供は男の子だって。名前も教えてくれたのよ」
「……どんな……どんな名前?」
ジェフの胸は、ひどくドキドキしていました。聞かない前からわかっているような気がしました。
そしてママの唇は、はっきりこう言ったのです。
「ジャック」
ポーラスター幼稚園では、幼い子供たちが楽しいお絵かきの最中でした。絵の具だらけのジャンプスーツで、おもしろおかしく指導しているのは、すらりと痩せた芸術家タイプのおにいさん。よくみると、なんと、ハッピーハッピー教の教祖、カーペインターさんではありませんか。
大好きなポーラお姉ちゃんの到着に、みんなわぁっと駆け寄ってきます。
ママの呼びかけで、パパが奥から飛びだしてきます。
「おお、おお! おてんばめ、無事に戻ったか」パパは弾む気持ちを必死に隠しているような顔で、ポーラを抱きしめると、次に、両手でそれぞれ、ネスとプーの手を掴みます。えぐるような目で、冗談めかしてたずねます。「……で……? まさか? わたしに言えないことはしでかさなかったろうね? グループ交際のルールを守ったろうね?」
「あなた」ポーラママがギュウッと足を踏みます。「おかえりなさい、ポーラ。楽しかった?」
「ええ、もちろん」ポーラは幸福に頬を紅潮させ、金髪巻き毛をゆすって笑います。パパもママも、ちっとも変っていやしません。幼稚園も同じです。ポーラはまたポーラらしく、ポーラのままで、生きていけばいいのです。それが確かめられたいま、もう何の心配もありません。ネスとプーに向き直り、ひとこと、ひとこと、はっきり言います。「……とっても素敵な夏だったわ。ちょっと困った時もあったけど、過ぎてみるとみんないい思い出ね。カッコよくって頼りになるボーイフレンドが、いつでもどこでも一緒にいてくれたし」
「叱らないから、ほんとうのことを言いなさい」パパがポーラを緩く抱きます。「いったい、誰が本命なんだね?」
「あなた!」
「ネス」ポーラはこんどは、はっきりとネスひとりを見つめて、言いました。
「また、きっと、きっと逢おうね。……こんどは、ただじっと、待ってなんかいないから。わたしから、行く。いい?」
「うん。おいでよ」ちょっと照れましたけど。ネスもちゃんとうなずきます。「すぐ近くなんだから。いつでもおいでよ。きっと、またすぐに逢えるよ」
オネット山の頂上に、飛行船が近づきます。
「隕石がない」ネスはため息をつきました。「天文台が、ちゃんと建ってる。あれ[#「あれ」に傍点]は、起こらなかったんだ。そうか。ぼくらが過去[#「過去」に傍点]を変えたから……ギーグは、ここに来る前に[#「前に」に傍点]いなくなっちゃったんだ」
「そのようだな」と、プー。「すべては夢。目覚めれば消えてゆく夜明けの幻だ」
「でも、ぼくは忘れないよ」ネスは拳を握ります。「ぜったい、ぜったい、忘れないよ」
天文台の横に、飛行船がそっと着陸します。
一緒に行こうかと言うプーを断って、ネスはひとりタラップを降りました。何が起こるとしても、何がどうなっているとしても、ひとりで対処したかったのです。
飛び立つ象を見送ってから、まがりくねった山道をたどってゆきました。
山裾を回りこむと、二軒の家が並んでいるのが見えました。一瞬立ちどまって考えて、まず、ポーキーの家に行くことにしました。
玄関口に立って、早鐘《はやがね》の鼓動を落ち着けます。
すべてはここからはじまった……そんな気もします。
「こんにちは」そっと、そっと、ノックします。「あの……隣のネスですけど」
「はーい、なにー?」扉を開けてくれたのはピッキーです。「あ、トレーシーちゃんのおにいさん。こんにちは」
「にいさん、いる?」できるだけ、なにげなく。さりげなく。小さな声で聞きました。ポーキーはどうしてる? ほんとはそう聞きたかったんですが……その名前は、あまりにも悲しくて、口にすることができなかったのです。
しかし。
「にいさん?」ピッキーは目を丸くしました。「ぼくは、ひとりっこですけど?」
ネスはからだが、凍りついたように思いました。そうか。そうなったのか。ポーキーも、時の裂け目の向うにはるかな過去に、消えてしまったんだ……。
「なにかの間違いでしょ」ピッキーは、ちょっと生意気な感じに言い続けます。「うちのママも、よそでは子供なんて作ってないはずだけど」
「……ごめん……そんなつもりじゃないんだ。じゃあ……じゃあ、アンブラミさんは元気?」
「……あのねぇ」ピッキーは、とうとう顎に手をあてて、下手な役者さんの演ずる精神分析医みたいなポーズでロコツに首をひねります。「ネスさんも知ってるはずだけど、父は去年からずっと監獄《かんんごく》に入ったきりですよ。横領《おうりょう》と脱税《だつぜい》と詐欺《さぎ》の罪で。いま、ここには、ぼくと、かあさんと、ふたりだけ。ふたりっきりしかいません。……もし、疑うんなら、どうぞ、入って見てってくださいよ!」
〈アンブラミさんが、刑務所?〉
ネスはびっくりするあまり、よろけてしまいましたが。もし、それがほんとうだとすれば、確かめないわけにはいきません。
「じゃあ、あの……あの、何度もへんなこと聞いて悪いんだけど……ミンチ・チェーンは……スーパーマーケットは、きみのママがやってるのかい?」
ピッキーは呻き、すさまじいほどのけぞり、泣きだしそうな目でネスをにらんだきり、しばらくの間、口をきいてくれませんでした。やっと喋りだした時にも、ひどく傷ついたような、疑り深そうな口調です。「とぼけないでくださいよ。マーケットのボスは、他でもない、おたくのおとうさんでしょ。おまけに、天下のネスバーガーの社長じゃない!……この家だって、おたくに貸してもらってる。本来なら、裏切った部下の家族なんて、トットと追い出したいだろうに……長年隣同士だったよしみだって……あっ、まさか、出てってくれとかって言うんじゃないですよね?」
「違う違う! ご、ごめんよピッキー! そうじゃないんだ……ごめん! ぼく、いま、ちょっと混乱してるんだ……へんな夢見ちゃって……熱があるみたいなんだ」
「じゃ、いいですけどお」ピッキーはふうっと大きく息をして。「……あの、トレーシーによろしく言ってくださいね?」
「わかった」ネスは無理に笑いながら、ドアに手をかけました。「じゃ、サヨナラ。元気でね」
扉を閉め、よろよろ歩きだします。
すぐそこにある自分の家が、懐かしい我が家が、なんだか恐ろしい場所であるかのように見えます。
〈でも、帰らなきゃ。確かめなきゃ……なにがどう変っているか〉
〈たとえ、どんなにヘンテコになっていたとしても、ショックを受けちゃいけないぞ〉
〈少なくともトレーシーは今でもうちにいるらしい。ちゃんといる……パパもいる! いるどころか、社長だって? 知らないうちに偉くなっちゃったんだなぁ……〉
〈ああ、まさか。まさか。じゃあ、ママの身に、何かが?!〉
不安のあまり胸が痛くなりました。早く知りたいけど、でも知りたくない。怖い。
あっと言う間についてしまう、わずかな距離が恨めしいほどです。
〈……行け……思い切って、行くんだ、ネス〉
「た……ただいまあっ!!」
元気よく開けたとたんの玄関で。
ネスの心臓は、文字通り、喉のあたりまで飛びあがりました。
そこにいたのは……丸顔で、金髪で……擦り切れたジーンズのオーバーオールを着て、大きな荷物をぶらさげた……。
「……ポーキー……?」
「やあ! おかえり、ネス」ふっくらほっぺに笑窪《えくぼ》が浮かびました。「ちょうど良かった。ぼくも、いま帰ってきたところなんだ」
とっさにポーキーだと思い、そう呼んでしまいましたが、ほんとうにそうなんでしょうか? これがポーキーなんでしょうか?
確かに、似てはいますが……よく見ると全然違います。まず、第一に太りかたが違う。前のポーキーは変に色白でしまりなく不健康にブクブクしていましたが、このポーキーはこんがり陽にやけ、骨格も筋肉もガッシリしています。たとえば、ウェイトリフティングの選手みたいな感じです。顔の表情も、あの憎らしい、頭の回転のニブそうな、性格のねじけた子のそれではない。明るい、気持ちのいい笑顔です。目がキラキラ輝いています。
「帰って[#「帰って」に傍点]……きた?」つっかえ、つっかえ、ネスは言います。「帰ってきたって? どこから?」
まさか過去から。時の彼方から。
ギーグごと、戻ってきたんでは……?
その時です。
ばうっ、ばう、ばうばう!
奥のほうから声がして、老犬チビが飛んできます。嬉しそうに舌をハァハァ言わせながら、まず……なんとポーキーに! けして馴れようとしなかったポーキーに……ドサリと飛びつくじゃあありませんか。大好きなひとにするように、顔をぺろぺろ嘗めるじゃありませんか! ネスはあっけにとられました。
「わぁ、よせ、そんなに興奮するなったら」ポーキーも逃げだすどころか、暴れるチビを優しく抱きしめてやるのです。「いくら久しぶりだからって、情熱的すぎるよ、チビは!」
「まあまあ、ふたりともおかえりなさい」
「おかえり、おにいちゃんたち!」
ママとトレーシーも現われます。ふたりともエプロンをつけて、なにかいい匂いをさせています。どう見てもいつもの通り、ネスの見慣れたママと妹ですが。
「おにいちゃんたち[#「たち」に傍点]?」あっけにとられていたネスは、チビのアタックに思わず尻もちをついてしまいました。「じゃ……じゃ、ポーキーは……ポーキーは……このぼくの……兄貴なの?」
「いまさらなにをびっくりしてるの?」ママはきれいな眉をひそめます。「うちは仲良し三兄妹じゃないの」
「あたしはほんとにつまんなかった」トレーシーがふくれてみせます。「このお休みって、サイテーだった! パパもおにいちゃんたちも、ちっとも帰ってこないんだもん」
「ごめんな、トレーシー。どうしても取りたい集中講座があったんだ」ポーキーがトレーシーの頭をゴシゴシッと撫でます。「でも、大学の夏休みはまだまだあるから、これからはたっぷり遊んでやるぞ!」
「わあい♪」
「さあさ、入って入って」
ママとトレーシーとポーキーは、家の中にどんどん入っていってしまいます。ネスはひとり玄関に立ち尽くしたまま。
〈え? え? ちょっと待ってくれ……〉
〈ポーキーがうちの子で……ぼくの兄貴で……おまけに、もう、大学に行ってるって?〉
ネスのこころの奥底で、もくもくと黒い雨雲が膨れあがります。ちかちか稲妻が飛び交って、恐ろしい考えが浮かびます。
〈……これは新しい事件のはじまりなんじゃあないか? ギーグは……ギーグはまだ、あのポーキーの中にいて……隠れていて……生まれでてくる機会を待っているんじゃ……?〉
その時。
ぶぶぶぶぶ、ぶーーーーん!
一匹の小さな甲虫が……カブトムシが……いいえ、これはスカラビです! 絶滅したはずの、あの虫です!……どこからともなく飛んできて、ネスの回りを飛んだのです。
〈おめでとう! そして、お疲れさま、ネス!〉
「ブンブーン!」ネスは思わず叫んでしまい、あわてて声をひそめました。「生きてたの、ブンブーン!」
〈おかげさまでな!〉ブンブーンは得意そうに宙返りをします。〈時空のフェイズがちょこっと動き、歴史が修復された。きみらの過ごしてきた世界は、この、わたしが死ななかった世界と重なって吸収されたのだ。きみたち四人のがんばりによってな。ギーグは……あの怪物は、多元宇宙の深淵《しんえん》のどこかにスゴスゴ帰っていった。時の裂け目は閉じ、少なくとも、もう千年はけして開くことはない〉
「なにもかもうまくいったってこと?」
〈うまくいった。ここでは、かつても、今後も、彗星はけして裏山に落ちず、ギーグは種子をしこまない。未来に悲惨はないよ! 見てきたわたしが保証する〉
「……でも、じゃあ」ネスは寂しくなりました。「土星さんたちは地球にこなかったんだ。タッシーも、クロオさんも、太古の世界からやって来はしなかった……」
〈そうだ。だが〉ブンブーンはネスの目の前でホバリングします。〈逢いたければ、また逢える。ちょっと、待たなきゃいけないがな。若き天才ジェフ・アンドーナッツ博士が、お父上と共同で、より安全で快適でバッチリ生物細胞に対応した時空移動装置を作りだすんだ。今から、およそ、十年の後に〉
「十年後に?」
〈そう! だからこそ[#「だからこそ」に傍点]、そもそも、わたしがここに来ることができたわけさ!……おっと、いかん! すまんが、デートの約束があるんだ。きみも長旅に疲れたろう。またこんど、落ち着いた時にでもゆっくり逢おう。じゃあな、ネス! あとのみんなにもよろしく伝えてくれたまえ! バイ!〉
言うがはやいか。せっかちブンブーンはもう消え去ってしまいました。
ネスがぼーっとしていると、家の前に車が停まる気配がしました。振り向くと、カッコいい銀色のスポーツカーの扉を開けて、誰か降りてくるところです。
「おや、ネス! ネスじゃないか」
「パパ……!」
「やあ、ただいま! ちょうどいい、手伝ってくれ」車の後部座席には、スーツケースや書類鞄《かばん》、紙袋などがいっぱいです。どうやら出張から帰ってきたところのようです。なにか長い包みがあります。ネスはそれを取りだしました。「あ、それはおまえにだ」
「ぼくに?」
開けてみると……それはぴかぴかの野球バット。真っ赤な帽子も一緒です。その時はじめて、ネスは、時の裂け目の向う側に、愛用の品々をなくしてきたことを思いだしました。
「パパ……ありがとう……大切にするよ!」
「気に入ってくれたかい? 良かった良かった」
「きゃー、やっぱり! 声がしたと思った」
家からみんなが出てきます。
「おかえり、パパ」
「うおんっ! おんっおんっ!」
「まぁ、すっかりみんな揃ったわねえ」
「はい、これが、ママ。こっちはトレーシー。チビ、おまえにも、骨のオモチャがあるぞ。それから、これはポーキーにだ」
「ありがとう」ポーキーがにこにこしながら、プレゼントをあけてみます。「わぁ、すごい。カーボン・ロッドだね! おれ、こんなの欲しかったんだ!」
それは立派な釣り竿です。渓流でフライ・フィッシングをするのにぴったりの、素敵にカッコいい道具です。
ネスとポーキーの目が合います。
「行くか?」ポーキーが、聞きます。「一緒に?」
「……う……」ネスはちょっとためらいます。
ポーキーがおにいちゃんだなんて、ちょっとイヤかもしれない。兄貴ぶって威張られたらどうしよう? 弟なんだから、子分になれって言われたらどうしよう?
でも。でも。
この[#「この」に傍点]ポーキーは、あの[#「あの」に傍点]ポーキーとは、なんだかひとが違うみたいです。それも、かなりいいほうに違います。そして。
〈もし、この世界に、ポーキーが全然いなくなってたらって考えてみろ。……ぼくはきっと、苦しんだはずだ。見捨ててしまったと、助けてあげられなかったと、一生涯ずっと、悔んだろう……〉
「どうする? いくかい?」もう一度、ポーキーがネスに尋ねます。いかにも優しく。いかにも頼もしく。こころの通じた兄弟の、なにげない言い方で。
「……それ……あそこのことだよね?」おそるおそる尋ねながら、ネスにははっきり見えていました。あのせせらぎ。秘密の小川。きらめく陽光。どこまでも透き通ってまぶしい、少年の日の夏。少し、年はとってしまったけど、もうけして戻れないはずの場所から、取り戻せないはずの時間から、なにもかも新しくやりなおすことができるなら……!
「もち!」ポーキーがウィンクし、片手の親指を立ててみせます。「こんどこそ、あいつを釣りあげてやろうぜ」
「行く」ネスは言います。はっきりと。「よし、すぐにでも行こう! ポーキー!!」
手に手を取って駆けだせば、チビがたちまち追いついて、わんわん回りをまわります。
「マぁマぁぁぁ!」トレーシーのぐずり声がしました。「ひどい! おにいちゃんたちったら、もうっ! せっかく帰ってきたっていうのに、またっ! ずるいっ!」
「そうねぇ……でもママは、晩ごはんのメニューに素敵なお魚料理があってもいいと思うの」
「じゃあ、みんなで見物に行こうか」パパが言います。「おまえたちの釣りの腕前、パパはかねがね、ちょっと見てみたいと思ってたんだ」
「うおんっ、おんっ!」
「ほら、チビも見たいんだって」
「どうする?」ネスはポーキーを見ました。「大事な秘密のポイントだろ」
「この際連れてってあげようよ」ポーキーは言います。「家族じゃないか」
「ああ……そうだね……そうだよね……!」
ネスは笑います。
「ぼくは家《うち》に戻ってきたんだね!」
きらきら光る夏の空。
明日も、きっとまた、いい天気です……!
END
あとがき
〈MOTHERがBROTHERになってしまいました(笑)……〉
どうも、お久しぶりです。久美沙織です。
お待ちかねのMOTHER2、ノベライズ版をお届けします。
なんとかかんとか〆切に間に合いました。感無量であります。
思えば、MOTHER2がいよいよ出るらしいと噂を聞いたのは、遙か二年近くも前のことになります。私は大あわてで、新潮社に連絡しました。
「やらせて欲しい。なにがなんでもやりたい。他のひとには、書かせないで!」
既に、伊藤紅丸さんのマンガが『小学5年生』ではじまらんとしていました。ひょっとすると、こんどは「小説はいらない。マンガで充分だ」と言われてしまうんではないか。前の小説を、糸井さんやAPEのみなさまは、実はあまり気に入っていなかったんではないか。
パニック寸前の気持ちで、必死に頼み込みました。
「どうぞ、やってください」
言ってもらった時には、天にも昇らん心地でありました(この理由は後で説明します)。
打ち合わせのため、青山のAPEにお邪魔したのは、確か’93の三月です。ああ、嘘じゃなかった! 私の目の前に、あの懐かしいMOTHERの世界が――まだ、あちこちバラバラではありましたが――確かに存在していたのです。MOTHER2は、着々とでき上がりつつあるのです!
糸井重里さんの手書きのストーリー・メモ(のコピー)、理想的に流れた場合のイベント相互の関連についての書類、新しいタウンやキャラの『おひろめ』ビデオなどの資料をお借りし、同時に「なんでも好きなように書いてください」心強いおコトバも、頂戴することができました。
「ROMができ次第、テストプレイさせてくださいね」
これで、誰よりも早くMOTHER2をやることができるようにもなりました!
ただでさえウキウキだった私のところに、やがて、APEから、大きな小包が届きます。開けてみると、なんと! 特製スカジャン(サテンみたいな光沢のある生地でできている、割と薄めなジャケット)。背一面はでっかいMOTHER2のロゴの左右に二匹の龍が刺繍であしらわれているという、それはそれはシックで地味なアイテムでございます。着用すると、ガッツが一気に10ポイントもあがるんであります。
しかし私の暮らすのは静かな田舎町、そもそも人口が少ない。未《ま》だ発売さえしていない『MOTHER2』をそれと知り、そのスタッフのひとりであるらしいアイテムを着ている私を見て「わぁっ、いよいよ発売なんだ、嬉しい!」と思ってくれるようなひとを見つけるのは、超難しい。
私はすかさず新宿に出かけ、ヨドバシカメラのファミコン売り場をたむろしました。ソフトを選んでるふりをして、四方八方のお客さんたちに、わざと背中をみせびらかしました。どこの誰かは知らないけれど、いかにもその道の達人でありそうなおにいさんや、腕に覚えがあるであろう挙動に隙のない小学生が、目ン玉を丸くしているのを確認して、満足して家に帰りました。
しかし……。
肝心のROMは、それから、なかなか、届かなかったのです……。
私がMOTHER2を心待ちにした理由のひとつは、多くのゲーム・ファンのかたがたと同様、MOTHERの世界自体が大好きだからですが。
もうひとつは、極めてワタクシ的な個人的な事情のゆえであります。
前の文庫のMOTHERを書いたことが、その後の私に、実に実に大きく影響したのです。MOTHER前とMOTHER後で、久美沙織の方向が変った。MOTHERという事件によって、私は、ほとんど別人になってしまったと言ってもいいくらいです。
まず。
新潮文庫という新しい舞台にたつことができました。
それまで私は某社で少女小説と呼ばれる分野の本ばかりを書いていました。ごくたまーに、オヨソの仕事もしましたけれども、でも、あちこちに、一回こっきりのばっかり。
新潮文庫といえば、どんな田舎町の古くて小さくて地味この上ない本屋さんにでも、まずは必ず入っている大シリーズです。私自身、中学生高校生の頃、学校帰りに寄る書店で、新潮文庫の既刊や新刊の中から読みたい本、読んでおかないと恥かしそうな本を、何十冊も買って、読みふけりました。「読書が好きなひとたちが、ごく自然に手に取る率の高いジャンル」だと思います。そこに参加させていただくことができるほどのモノカキになれたことを、私はいまも、この上なく誇りに思います。
MOTHERは、私を『少女小説家』から『小説家』にしてくれたのです。
次に。
ノベライズという分野に目を開かせていただきました。
正直、最初は憤慨したのです。
「私は作家だ。原作ツキなんて、自分ではイイモノをつくりだすことができないひとがやればいいんだ。ひとのフンドシで相撲を取るなんてゴメン。私には私のオリジナリティーがある、書きたいものがいくらでもある」
傲慢にも、そんな風に思っていたのです。
ところが。SF関係のパーティーなどで顔見知りだった新潮社のAさん(今は退社されて、翻訳・執筆・オタク業でたいへん高名な大森望先生です)が、なぜか説得してくださった。
「MOTHERはなるほど糸井重里さんのものだ。原作をただなぞるだけなら、ご本人か、ずっと関わり合っていたAPEの誰かに書いてもらったほうがいい。でも、糸井さんは、それはヤダとおっしゃる」
そもそもMOTHERは、糸井さんの、RPGに対する愛からできている。ファミコンに触ったこともない作家には、絶対に任せられない。また、男性作家では、糸井さんの個性と自分の個性をすりあわせるのが難しい。女性なら、原作の持ち味を殺すことなく、小説独自のニュアンスを加えることができるのではないか。
「だから。久美さん、あなたしかいない!」
いやもう、うまいんだから。
そんなこんなで、やりだしてみたら……。
予想したよりずっと大変でした。でも、すごく楽しかった。挑戦しがいのある仕事でした。そうしてできあがったものは、悲しいことに(?)かつて自分の書いたどの作品よりもデキが良かったんです(そう思いました)。
「ひょっとすると、あたし、原作ツキ小説にちょうどいい程度の才能だったのかしら……」
落ち込みかけたところに、あのエニックスから連絡がきました。
「MOTHER読みました。とても面白かったです。そこで、ひとつ、ご相談が……」
精霊ルビスの若い頃の冒険を創作して書いてくれないか。そういうお話だったのです。
実はそれより以前に、私は某レコード会社のディレクターさんとマンガ家のめるへんめーかーに誘われて、エニックスに売り込みに行っていたことがありました。ドラクエが好きで好きでしょうがないので、ドラクエに関する同人誌みたいなのを作っちゃいけないだろうかと。これはちょっと無理で流れちゃっていたんですが……。
私は燃えに燃えて『精霊ルビス伝説』を書き、その後『ドラゴンクエストW』と『X』のノベライズを書きました。
ファミコンRPG世界の伝記作家(?)のひとりとして抜擢してもらうことができたのは、他でもない。つまりはあの時、MOTHERを書こうと決心してからこそ、なのであります。
DQシリーズとMOTHERは、私自身がプレイしたファミコンRPGの中で、最も好きなふたつであります。有名どころは他にもいろいろありますが、やったことがなかったり、やりかけたけど途中でイヤになって投げだしてしまったりしました。そーゆーのには、執着も愛着もありませんから、他の誰がノベライズしてくれたって、いっこーに構いません。でも、いったん本気で好きになってしまったRPGは、誰にもやらせん。やらせるもんか!
ええ。いまや、胸を張って言わせていただきます。
これこそライフワークだったんだ! と。
私は小説家としてはたいしたことないけど、ファミコンRPGノベライズ傭兵《ようへい》としては、かなりイイぞ。経験値も、HPもMPも、誰にも負けないほど溜め込んだ。武器もアイテムもさんざん吟味して取りそろえた。そのことに、誇りと自信を持っている!!
かのような心境ですから、MOTHER2のゲームが世に出る以上、我が生涯の大転機を与えてくれた作品に、少しはこのジャンルに慣れた身で恩返しもしなければならないと思ったし、誉れ高きMOTHER御用達ノベライズィストの地位をけして譲り渡したくなかったんですね。
そして、また、第三の影響。
ファンタシーにも手を伸ばすことができました。
剣や魔法、怪物や亡霊、王子や魔女や竜や物言う獣たちの物語りは、子供の頃から大好きでした。ずっと憧れと羨望を抱いていました。でも、私ごときには書けないと思っていたんです。神話や伝承、歴史、宗教、民族、世界の文化風習などについて、いきいきとした知識を持ち、よく考察や分析をして理解し、人間心理にも詳しくなくてはいけない。当然、古今の名作ファンタシーは全部読破して踏まえた上で、華麗で端正な文章を自由自在にあやつることもできなくては、おはなしにならない、と思っていました。ファンタシーは、高価で神秘的な宝石で、貧弱で泥んこの手では、触れてはいけないと思っていたんです。
でも……ノベライズするべき世界がファンタシーっぽいものだったでしょう。思い切って、書いてみたら、楽しかったんだよね。夢中になれちゃう。燃えちゃう。
だからもう、未熟も恥も不埒もなにもかも承知の上で、あえてトライさせていただいております。まだまだ、心底満足できるレベルではないけれど、少しずつ勉強してじょうずになりたいと思っております。おこころ広く見守ってやってください。
ちなみに、この新潮文庫に入れていただいているソーントーン・サイクルの三巻めをセッセと書いていたその折も折、MOTHER2のROMが届きました。こっちを早く本にしたかったので、あっちはまた後まわしになりました(他社とのお約束もあるので、すぐ次というわけにもいかないんです、スミマセン)。どうぞよろしくお願いします。
そんなこんなで。
待機すること一年少々。
大恩あるMOTHERの待ちこがれた新作ゲームと、遂に、いよいよ対面したわけですが。
ああ、ほんとに嬉しかったです!
人気作品の続編が「1」ほど面白くなくなることが多いのは、ご存じの通り。みんなが気に入った「1」の雰囲気を継承したまま、さらに新しいことをやろうとすると、いろいろと無理も生じます。「1」が、そのひとの持ついいもののありったけを、パワーとアイディアをせいいっぱいに凝縮して作られたものであればあるほど、「2」はスカスカの、デガラシみたいな、ただの「1」の真似っこになってしまいがちです。
でも、MOTHER2は、違った!
楽しくて、可愛くて、ハラハラで、ドキドキ。アッと驚く仕掛けがめじろおし。
中でも私が惚れこんでしまったのは「どせいさん」で、そのために新潮社さまには、余計な苦労をおかけすることにもなりました。本来ビジュアルを武器にするのはズルなノベライズですが、どうしても「どせいさんフォント」だけは欲しかったのです。みなさんだって、どせいさんのセリフは、やっぱりアレで読みたかったでしょ? ね?
ゲーム・プレイ時に感動したひとつに、遭遇時のレベルの違いによる敵キャラの反応の変化があります。
あの洞窟で「かいりきベア」が、行きの時には恐くて恐くて、きゃー、お願いこっちにこないでぇ! だったのに、帰りになると、クモの子を散らすように必死で逃げてくれちゃって。かわいそうに、袋小路につきあたって、後ろ向きのままお尻をモゾモゾしていたシーンは忘れません。もちろん、最初はぶちました。経験値を稼ぐ、なによりのチャンスですから。わざわざ追いかけて、追い詰めて、徹底的にぶちました。でも、二、三度ぶってるうちに、モジモジするクマさんのあまりの愛くるしい後ろ姿に、ハッと胸をつかれました。
「ぼくは地球を守る戦士なんじゃないか。弱いものいじめなんて、しちゃだめだ!」
そうして。もちろん! MOTHER2では、こっちを怖がって逃げていく敵まで、わざわざ追い詰めてなぶり殺しにしなくても(つまり、そうやって、無理にレベルをあげなくても)ちゃんと先に進むことができました。地球を救うことができました。
RPGの最大のポイントは、プレイヤー個々が主人公に「自分」を託したまま、見知らぬ世界をくまなく冒険することができるところだと思います。ドラマティックな演出を意図するあまり「こんなことさせられるくらいなら、死んだほうがマシだ」とプレイヤーに思わせるようなゲームは、RPGではない。そんなストーリーは、ゲーム仕立てになどせず、小説やマンガや映画などで描けばいいんじゃないでしょうか。
さあ、しかし、実際私は、ゲームをプレイした時にとても面白い物語りを、小説という、まったくルールの違う土俵にうつさなくてはなりません。
ゲーム画面で面白くても、小説にするとサッパリな部分(例・戦闘シーン)は、極力減らし、アッサリ片付けるほかありません。そのかわりに、キャラクターはふくらませました。中には、みなさんがゲームをしていた時に「こんなやつだろう」と思っていたのと、まったく違うタイプになってしまったキャラもあるでしょう。違和感があったらごめんなさい。
たとえば前作のロイド(大好き♪)とこんどのジェフ(この子も大好き♪)は、ルックスも性格設定も、とても似ていました。でも、私は、ロイドは、ロイドの時にさんざん書き込んでしまいましたから、ほとんど同じ子じゃ書くのつまんないと思ったんです。かくて、ジェフは、おそらくみなさんの誰もが予想もしなかっただろう特徴(あとがきから読んでるひとがいるかもしれないから、ここでははっきり書きません)を持つ少年にされてしまいました。けど、いま私は、自分のとっさの思いつきを気に入っています。このジェフを、好きになってくれることで、若い読者のみなさんが、彼のような境遇のひとたちに親しみを覚えてくれればいいなと思うからです。
このたびも、こんな素晴らしい原作をノベライズする許可をくださり、しかも、なにもかも私の裁量に任せてくださった寛大な糸井重里さんはじめスタッフのみなさんに、こころから感謝します。もし次があったら、また、ぜひ、ご一緒させてくださいね!
新潮文庫編集部の桜井京子さま。お互い、燃えたね。あなたの鋭いツッコミと絶え間ない励ましのおかげで、いつも気持ちよく仕事をすることができました。どうもありがとう。また美味しいもの食べにいこうね。
躁《そう》の時も鬱《うつ》の時も支えになってくれたのは、夫の波多野鷹(あ、ちなみに、一巻めのアトガキに出てくるゲームをほとんどやったことのない彼と同一人物)です。完成原稿も、細かくチェックしてもらいました。頼りにしてます。今後とも宜しく。
最後に。
前のMOTHERを好きになって、手紙をくださった読者のみなさま。2が出ると知ったとたんに「こんども書くんでしょ? きっと読みますから、がんばって早く、面白いのを書いてね!」と言ってきてくださったかたがた。ほんとうに、ほんとうに、どうもありがとうございました。この本は、まず、第一番めに、みなさんのものです。
期待にそむかないものであることを祈ります。
一九九四年十一月
久美沙織
書名:MOTHER2
著者:久美沙織
初版発行:1994年12月25日
発行所:株式会社新潮社
住所:東京都新宿区矢来町71
電話:編集部(03)3266-5411 営業部(03)3266-5111
制作日:1998年1月22日
制作所:株式会社フジオンラインシステム
住所:東京都豊島区東池袋3-11-9 ヨシフジビル6F
電話:(03)3590-9460
※本書の無断複写・複製・転載を禁じます。
ISBN4-10-116614-5