MOTHER
著者 久美 沙織
1 白夜の村
2 戦士たち
3 幽霊屋敷
4 砂漠にて
5 クィーンマリーの贈りもの
6 不良の町バレンタイン
7 家へ
8 秘密の湖
9 最後の戦い
10 そして次の旅へ
あとがき
1 白夜の村
スノーマンを探すなら、北極のまわりをぐるっとたどってごらんなさい。気のきいた地図か地球儀なら、きっと載っています。小さな小さな村だけど、なにしろ、ほら、あの、白夜で有名ですからね。
このあたりの地方では、夏ならば、日没後も日の出前も長いこと、電灯なしで新聞が読めます。もしあなたが旅行に来ていて、夜中にトイレに起きたついでに窓の外を見たなら、思わずオハヨウを言ってしまうくらいに明るいはずです。つまり、普通に言うところの昼間が、一日の半分よりも、ずっとずっと、信じられないほど長いわけです。
けれど、今は冬。一年で一番厳しい季節。一日の大半が夜なようなものです。朝は遅く、夕暮れは速く、昼は一面薄闇となります。正午にさえ、太陽は、地平線のほんの申し訳ばかり上のあたりに、ぼんやり情けなく見えるだけ。夜明け前などは、これ以上の暗さはおそらく世界じゅうのどこにもそうはあるまいと言えるほどの、正真正銘の真っ暗闇、という具合です。
その深い濃い闇のかなた、一年じゅう雪の消えない険しい山々のどこかから、ふと、一陣の風が吹いて来ました。
風は、小さな村の全体をくまなく渡ってゆきました。
まるで何かを探しているかのようです。屋根の雪化粧を踊らせ、古ぼけた鎧戸《よろいど》をそっと揺すり、冬枯れの木立を震わせて、どこもかしこも訪ねて歩きました。ひともけものもまだ眠っている時刻です。だから風は、ずいぶん遠慮がちで、でもどこかしらせっぱつまった調子でした。さがしものがみつからないまま、がっくりと山に戻りかけた時、風は立ち止まりました。
……ここよ。あたしはここよ。
山のふもとの狭い土地に、注意していないと見落してしまいそうな小さな小さな教会が危なっかしくへばりついています。そのどこかから、返事が戻って来たのです。
……来たのね? とうとう、来たのね? あなたね?
あたしよ。
あたしはアナ。
ずっと知ってたわ。待ってたのよ。あなたのこと。あなたはあたしのことちゃんと知ってた?
教えて。
あなたっていったいどういうひと? どこの誰なの?
風はその問には答えずに、嬉しげに渦を巻いて、そのまま消えてしまいました。
後には、悪い夢の中に自分を半分置いてきてしまったような瞳の少女が残されました。
アナはしばらくの間、じっと動かずに待っていました。金縛りにあった時のように仰向けのままからだをこわ張らせて、どんな気配も見逃さないように、眼と耳と心をすましていました。
けれどそれきり、何にもありませんでした。
……また、行ってしまったのね。
ほうっと息をはいて、アナはからだの力を抜きました。
夢か錯覚か、それとも、ほんとうに何かの合図だったのか、よくわかりません。とにかく、今はまだ、その時ではないらしいと思いました。
安心のあまりちょっと油断したら、頭の中を、たちまち、いつものあのとぎれとぎれのイメージが流れました。
牙を剥きだして襲って来る電気スタンドやゾンビ。奇妙な機械のような敵たち。廃墟《はいきょ》になった動物園では、虎や象やワニと闘いました。何度か大怪我もしたし、いつだってクタクタでボロボロです。そんな場面のひとつひとつが、いやにリアルに見えて、いいえ、体験できてしまうのです。何度も何度も感じたので、もう自分の思い出と言ってもいいくらいです。
どのくらい前からか、毎晩見る夢でした。夜だけではありません。昼間でも、ふいに気が遠くなるような感じがして、ここではない世界に放り込まれてしまうことがありました。
いいえ、夢と呼ぶのは、きっと正しくないのです。夢のようでありながら、夢ではない、それは夢とはまったく別なものなはずです。
アナには、もともと、不思議な力がありました。ひとの考えていることがわかってしまったり、軽い怪我は撫でているだけで治ってしまったりするのです。小さな頃は、つい癇癪《かんしゃく》を起こしては近くにあるガラスやお茶碗を壊してしまうので、さんざん注意されたものです。鳥や動物に話しかけてみたり、さわらずものを持ち上げる練習をして、なんとかそういった力をコントロールできるようにはなりましたけれども、今でも時々自分で自分が怖ろしくなります。カッとなると、どうやら眼に見えない稲妻《いなづま》のようなものが走って何かを攻撃せずにいられないらしいのです。
遠くで起こっていることを知る力だって、あるのかもしれません。
そんな力が、あの、夢のようなものを見せているのではないでしょうか。
けれど、好きなように使えるわけではないのです。何でも全部わかるわけではないし、どこにでも行けるわけではありません。そうなら、すぐにしたいことがあります。切実に願っています。不都合にもその力は、必ずしもアナの自由にはならないのでした。
どうも誰か特別の相手がいるらしいと気がついたのは、ようやく最近になってからでした。この力が働くのは、特定の誰かについてだけ、らしいのです。
誰かたぶんアナと同じような力を持ったひとがいて、送っているのではないかと思います。自分の経験していることを、アナの心に。
拒みたくても、無視したくても、どうにもなりません。おまけに、こっちから話しかけようとしても届かないのだから不便です。まるで、そっちが放送局[#「放送局」に傍点]で、こっちが周波数を合わせるダイヤルのついていないラヂオのようなものです。憎らしいけど、わけがわからないけれど、しょうがありません。
そうして、たったひとりの相手なら、特別な相手に決っています。
でも、それは、いったいどこの誰なんでしょう?
飛んで来たたくさんのイメージから、その誰かのことが、少しはわかるようになって来ています。
たぶん、アナ自身と同じくらいの年頃の男の子です。勇敢《ゆうかん》で元気で、いやな奴じゃなさそうだけど、乱暴だしいい加減だし、デリカシーに欠けているところもあって、時々アナはついついふくれっ面になってしまいます。
例えば、あの、ニッと照れ臭そうに笑った赤毛の少女。ぴかぴか光るバッヂを差し出された時、アナの心はチクッと痛くなりました。ぶっきらぼうな手付きに彼女(ピッピ)のせつなさ、別れの寂しさがはっきりと読み取れるのに、この放送局[#「放送局」に傍点]ときたら、まるで何にも感じてないのです。大切な宝物をもらっても全然たいしたことだと思っていないみたい。ただもう旅の続きのことで頭がいっぱいなのです。
いい匂いの空気に満たされたピンク一色の広場に行った時には、もっと警戒心を持ったってよさそうなものなのに、不思議な懐かしさを覚えていました。女王さまとかいう怪しい女に逢った時なんて、ぼうっと唇を半開きにして、やたらに瞬《まばた》きをしていました。単純で子供っぽい奴みたいです。あんまり頭は良くないかもしれません。
けれど、彼の気持ちにぴったり寄り添ってしまう時もありました。
例えば、スチール・ドアを開いた途端、ぱあっと広がった青空を見た時のあの感動。あれはどこかの学校の屋上ではないでしょうか。そこには、もうひとりの少年がいました。放送局[#「放送局」に傍点]の、そしてアナの唇が動きました。
「やぁロイド! さがしたよ。ぼくはケン。きみに是非、協力して欲しいことがあるんだ」
そう。どうやら、放送局[#「放送局」に傍点]は、ケンという名前なようです。
そうして、彼らはこのごろずっと、分厚い眼鏡のロイドといっしょに行動しているらしいのです。
このロイドというのがまたひょろひょろの弱虫で、さっぱり役に立ちません。ナマイキそうなことばかり言って、敵が出てくるとギャアギャア両手を振り回すばかり。あんまり強そうな相手の時は、頭を抱えて座りこんでしまっていたりさえするのです。足手まといだ、ひとりだった時よりよっぽど闘いにくい、とアナは思うのですが、ケンはどうやらそうじゃない。大事にかばって守っています。ひとりならもっとどんどん行けるという時にも、ロイドのために高いお金を払って休息したりしています。まったく甘いったらありません。
一番気に入らないのは、どっちも揃ってマザコンなところです。
「あああ。ママ、どうしてるかなぁ」
眠れないロイドがつぶやく時、ケンの眉も曇ってしまいます。それでいて、強がって、わはは、なんてわざと大声で笑ってみせるのです。
「バーカ。笑わせるぜ。なんだい、まだ乳離れしてないのかい。大丈夫だって。ご近所のオバンどもがちゃんちゃんめんど見てくれてるさ。あんだけ金も置いてきたしな。どーせ、おまえがついてたって、どうしようもないんだし」
「そんな言い方はないだろ」
ロイドはむくむく起き上がって、眼鏡をかけます。
「きみだって、時々夜中にうなされてるぜ、かあさん、とか、ミミー、とか、ミニーとかってさ。汗びっしょりかいて、叫び声あげて、眼さましたこと、あるだろ。それをぼくが、笑ったか? え、いっぺんでも笑ったことがあるか?」
「ちぇっ。……つっこむなよ」
「じゃあ、ぼくをバカにするのはやめてくれ。だいたい、きみのおかあさんは病気でもなんでもないじゃないか。ぼくの、ぼくのママは……カンノンの花がみつからないと……ああ、春が来るまえに死んでしまうかもしれない……」
「あのな」
ケンは頭を掻きながら、ベッドに坐ります。
「いっとくが、生命《いのち》が危ないのは、なにもおたくのオフクロだけじゃないんだ。はっきりいって、人類全体に春が来ないかもしれないんだぜ。なにせ地球の危機だからな」
「そんなことわかってる」
「んじゃ、ママ・ママ言ってないで、とっとと寝な! 明日は山越えだ。いい加減、体力つけてくれよな。頼むぜ、天才少年科学者さんよ」
この時の放送[#「放送」に傍点]は、枕が飛んで来るところで途切れました。
まったく、その場にいたら文句言っちゃうところだわ、とアナは思います。
ケンのおかあさんは単に遠く離れた故郷の家にいるようだし、ロイドのおかあさんは治らない病気に苦しめられているのはお気の毒だけれども、とりあえずやっぱりちゃんと家にいるのです。逢いたくなったら、逢えないわけじゃないのです。
なのに男の子たちときたら。自分で決めて、自分から進んで出かけてきたくせに、いつまでも恋しがってるなんて。
「ぜいたくよ!」
声に出して言ってみると、のどがかすれていました。
アナはそっとベッドを降りて、スリッパを履《は》きました。台所に行って、水を飲むつもりでした。
けれど、部屋の扉をあけたとたんに気付きました。礼拝堂《れいはいどう》から灯《あか》りがもれています。おとうさんも起きているようです。あんまり眠れなかったのでしょうか。そう言えば、そろそろ夜明けなのかもしれません。
アナは小さくため息をついて、そっと礼拝堂に入ってゆきました。
「……主よ、あわれみたまえ。恵み深き父よ、汝《なんじ》の子ら満ちみてるこの星に、再び平安を与えたまえ」
おとうさんは、十字架の前にひざまずき、頭を垂れて、低いいい声で祈りのことばを唱えていました。アナは寝間着の裾を持ち上げて、後のほうの祈とう席にそっと腰を下ろし、両手を組合わせました。
「わたしたちは待ちのぞんでいます。われらの助け、われらの盾《たて》を」
……ほんとうに、お願いします。どうか助けてください。
アナは唇を結んだまま、心だけで祈りました。
教えてください。おかあさんは今どうしているのですか。まだ生きているのですか。いつか、無事に帰ってくるのですか。
教えてください。あたしたちは、どうすればいいのか。
「直《すぐ》なひとびとのために光を闇の中に輝かせる主よ。まどうわれらに、今こそ、正しい者を送ってください」
アナのおかあさんは、実はもう一ケ月も行方がわからないのです。イースターの街に教会の仕事ででかけて行ったきり、帰って来ないのです。
普通の事情なわけはありません。ちょうどその日、イースターから、おとなたちがみんな消えてしまったのでした。ひとびとは噂をしています。宇宙人がさらってホーリー・ローリー・マウンテンに連れて行ったのだと。これもつまりは、今地球全体に起こっている混乱のひとつでしかないのだと。
「その人は汚れなく、悪い知らせを恐れず、光と闇とを正しく見分けます」
アナもおとうさんも、他所《よそ》のことはあまりよく知りません。
このごろ、新聞や放送をにぎわしている事件、世界じゅうに起こっている忌《い》まわしいできごとや、変な噂、不穏《ふおん》な空気のことは、もちろん、一応知ってはいました。けれど、なにしろスノーマンは雪深い静かな山村です。都会ではじまった流行もすっかり色褪せるまではけして届くことがない田舎です。そんな場所で生れて育って来たアナには、大変なことはみんな、自分とは関係ないところではじまって終るような感じがします。
『地球の危機』なんてことばには、とても現実感は持てません。
だからこそ、あの本気の少年たちの青臭さが憎らしい気にもなるのですが……。
おとうさんの祈りは続いています。
「その心は堅固《けんこ》で、どんな困難にあってもくじけることはなく、行く手に聳《そび》える高き山々も、必ず越えてゆくでしょう」
おとうさんだって苦しんでいるのです。おかあさんをとてもとても愛して、心配しているのですから。
おかあさんはたったひとりしかいない。そのおかあさんがいなくなってしまった、どうやらさらわれてしまったらしい(宇宙人になのか、悪魔になのか、それともイースターの都会の誰かになのかはわからないけれど)なんてことを、『混乱のひとつ』だからといって、片付けることができるでしょうか?
でも、おとうさんは牧師さまです。家族のことだってもちろんほんとうに大切なのだけれど、まず、神さまから与えられた仕事のことを、第一番めに考えなければなりません。
牧師さまともあろうものが、落ち着きをなくしていい加減なお祈りをしてしまったり、ましてや、村を捨てておくさんを探しにでかけて行ってしまったりしたら、村のひとびとはどうなるでしょう。それでなくとも、イヤな噂が広がっています。世界がもうすぐ、滅びてしまう、という噂が。
だからおとうさんは、今でもちゃんと、いつも通り、あんまりたくさんはない髪の毛をキチンとなでつけ、髭《ひげ》を剃り、ガウンの胸を少しだけ張って、穏やかな微笑みを浮かべています。不安におびえて訪ねてくるひとびとの肩にやさしく手を置いて、大丈夫だから心を鎮めてするべきことをするように、と、深みのある声ではげまします。
今でもちゃんと。いつも通り。
でも、こんな夜明けのまだ誰もやって来ない時間には、こんな風にひとりでこっそり御聖堂《おみどう》に来て、一心にお祈りをしているのです。
自分は行けないから、それは自分の役目ではないから。
誰か、その役目を持ったひとを寄越してください。
そう祈る以外、おとうさんには、どうすることもできないのです。
ひざまずいているおとうさんのその黒い背中が、変に小さく見えて、アナは唇を噛みました。
長いまつげを瞬くと、涙の粒が散りました。
……きっと、あたしが、行かなくっちゃいけないんだ。
おかあさんを探しに。そうして、世界じゅうのひとびとの助けになるために。いつ帰って来れるのか、ほんとうに帰って来ることができるかどうかもわからない闘いの旅に。
あの夢のようなものは、きっとその予告編なのです。あの子たちが迎えに来た時にはすぐでかけられるように、ほんの少しも迷ったりいやがったりしないように、心の準備をしておくように、送りつけられたものに違いありません。
でも、ほんとうに? ほんとうに、そうなのでしょうか。次の誕生日が来てやっと十三になる少女なんかに、神さまは、そんな大変な決心を迫っていらっしゃるのでしょうか。そんな大役を負わせるのでしょうか?
「照らしてください。正しき者が道に迷わぬよう、この闇夜に、あなたのともしびを掲げてください。そしてもしも、彼が力つき倒れた時には、どうか安らかなる休息の時をお与えください。われらは旅人を歓迎します。義のために進む者を、血をわけた兄弟の誰にたいするよりも親切にもてなし、彼のために祈ります」
……みこころならば……!
眼のあたりを拭って、アナはぎゅっと頬に力をこめました。
神さま、あたしのこの生命を使ってください。
怖いけど、がんばります。家を離れるなんてはじめてで、すごく不安だけど。
あたし、闘います!
「いつの日かきっと、その剣は栄光のうちに掲げられ、その唇は主をほめたたえる歌を歌うでしょう、そして地には再び……」
「ごめんくださぁい!!」
「……たび……びと?」
振り向いたおとうさんの顔が、驚きと期待に震えました。
いきなり、教会の扉が大きく開かれます。途端に、まぶしい朝の光がぱぁっとさしこんで来ます。その中には、あまり大きくない影がふたつ、堂々と立っているのです。
「すみません、ちょっとした遺失物届けなんだけどね」
祈りを中断させたことをわびるどころか、ずかずかと入って来るのは、野球チームの帽子をはすかいにかぶった少年です。リュックサックを背負い、金色に輝く立派なバットを軽々と左肩にかついでいます。
「誰か、この村の女の子が、レインディアの駅に帽子を落としてったんですとさ。教会に置いときゃ取りにくるでしょ。ったく、地球の危機だってーのに、なんでこんな週番みたいな真似をしなきゃならないんだか」
アナは急いで立ちあがり、歩みよりました。
「それ、あたしのです」
「えっ」
男の子の青い眼が、ソバカスだらけの鼻のあたりがニカッとしました。
「そりゃ〜良かった。どこの間抜けなバカ娘だろう、まったくいい迷惑だぜ、って言わないうちにわかって」
アナは無視して、言いました。
「ケンでしょ。あなたはケン。そして、そちらはロイドね」
「なにッ?」
「どうして……」
雪で反射した強い光の中、一瞬、時が静止しました。
少年たちもおとうさんも、その場で『だるまさんがころんだ』みたいに固まってしまっています。みんなわけがわかっていないのです。できごとのすべてをちゃんと理解しているのは、アナひとりだけなのです。
少しばかり得意な気持ちになってしまっても、あたりまえですよね。
アナは凛々《りり》しく背筋を伸し、戸惑い顔の少年たちと次々に握手をしました。
やっと逢えたわね。きょうが、その日なのね。
彼等の手がうんと歩いてきた後らしく火照っていてちょっぴり泥んこなことも、いっそ好ましいような気がしました。
「あたしはアナ。あなたがたと、いっしょに行きます」
言いながら、アナはケンの胸に向って思いを飛ばしました。
女の子だからってバカにしないで。ちゃんと役に立つわ。
だから、一番はじめに、あたしのおかあさんを助けだすのに力を貸してよ……!
「お、おい……アナ? 行くって、どこに?」
答えが返って来る前に、おとうさんが、おそろしそうに尋ねました。
「決ってるじゃありませんか、地球を救いにですよ」
ロイドが両手を腰に当てて返事をします。
「ぼくら、これでも、最強の地球防衛軍なんですよ! もういくつも事件を解決しちゃったんだから」
「ぼーえーぐん?」
おとうさんの顎はだらりと落ちました。
「ええ、そうですとも。どうもはじめまして、よろしく、アナさん。お眼にかかれて嬉しい。仲よくやりましょう」
「ええ、そうね」
「それにしても、ぼくは大変疑問なんですけれども、どうしてぼくらのことを知ってらしたんですか」
「後で話すわ。機会はこれから、いくらでもあるんだから」
「それもそうですね。たいへん合理的です」
「おい、待て待て!」
おとうさんが、ガウンの裾につまずきそうになりながら、割って入って来ました。
「ちょっと待ちなさい。いったいなんの話をしているんだ。きみらが地球を救うだって? まさか。そんな。こどもたちだけでか?」
『やーれやれ。すぐこれなんだ』
ケンのいらだちが、ふいに無防備にアナの心に飛びこんで来ました。
『どこ行っても、こどもだこどもだってバカにされるばっか。そのくせ、こどもだって利用できる限り利用しようと思ってる奴らばっか。まったくこんな地球じゃあ、いっぺん全とっかえ[#「全とっかえ」に傍点]したほうがマシかもしれないってもんだよなぁ』
……まあ。この子って、わりとグレてるのね。
思った途端に、ケンの眼がアナの眼に出合い、眉がぴくぴくっとしました。
『なんだか知らんが、良かった。この子がそんなにブスじゃなくて。でへへへ、なかなか色っぽいぜ、寝間着姿も』
「まぁっ!」
ぱぁん!
赤くなった頬を押えながら、ケンは完璧に驚いた顔をしました。どうやら、思っていることが伝わってしまうことに、まだ気がついていないようです。やっぱり、ケンは放送局[#「放送局」に傍点]で、アナはラヂオで、反対方向にはならないみたいです。
「あたしは着替えて来ますから、きみたちは食事でもしてて!」
冷たく言って立ち去りながら、アナはふんっ、と息をはきました。
ああ、おかあさん。
こんな調子じゃ、先が思いやられるわ。
2 戦士たち
「おっと待て」
スノーマンの駅に向う近道を半分ほど来たところです。ケンは右手を真横に伸し、左手で油断なくバットを構え直しながら、立ち止まりました。
「なぁに?」
アナが振り返ってみると、ケンはなにやら深刻そうな顔つきで耳をすましています。
けれども、アナはあんまりうんざりしていたので、その真剣な様子を勘違いしてしまいました。
男の子たちをお風呂にいれ、ありったけのご馳走を食べさせ、お昼寝をさせ、その間に涙ぐむおとうさんをこんこんと説得して、やっと出かけて来たのです。山肌を縫う森の中の道は誰も通った跡がない雪で覆われていて、ひと足ごとに膝まで埋《うずま》ってしまいます。慣れているアナだって、そんなに早くは歩けません。おまけに空模様がどうもよくありません。夕暮れ前に駅にたどりつくには、もう、どんどん進むしかないのです。
なのにケンと来たら、急に立ち止まったっきり、その理由を説明してもくれないありさま。
冒険はまだはじまったばかりなのに、こんなんじゃ、なんだかさっそく疲れてしまいます。アナは腕組みをして、そっと言ってみました。
「まさか。きみ、うちに何か忘れ物でもしたって言うんじゃ」
「……出やがったぜ。どいてな!」
言われると同時に、アナはいきなり腕を捕まれてグイッと引っ張られました。背中側にかばわれたことはわかりましたが、あまり突然だったので、足がもつれて転んでしまいました。柔らかい雪の上だったからいいようなものの、もうちょっとで、モミの木の太い枝に激突してしまうところでした。乱暴はやめて、と、開きかけた口が、たちまちそのまま悲鳴をあげそうになりました。
何か巨大な白い獰猛《どうもう》なものが、すさまじい雪煙の煙幕を張りながら、四方から襲ってきたのです!
たちまち戦闘がはじまりました。ケンのバットがひるがえり、ロイドのブーメランがうなると、白い塊《かたまり》どもはザアッと雪を蹴散らして飛び散ります。けれどホッとする間もなく、すぐにまた思いがけない方向から飛びかかって来るのです。上からも、横からも、右から左から、そして後からも。
あまりの目まぐるしさに、アナには何が起こっているのか見当もつきませんでした。雪の上に座ったまま、できるだけからだを縮め、顔を覆った両手の指から眼だけを出して、びゅんびゅん動き回るすべてのものからなんとか身をかわしておくのがせいいっぱいです。それだけでも胸が痛いほどドキドキして、のどがからからになりました。ギャン、と何かがあげた悲鳴が、いつまでも耳の奥にこだまします。遠近感がおかしくなって、眼の前で起こっていることが、嘘みたいに映画みたいに見えてしまいます。いっそ気絶してしまいたいくらいだけれど、こんなところでぼんやりしていたら、ひどく邪魔です。ケンのバットにだってひっぱたかれてしまうかもしれません。
とにかく、木の陰にでも隠れよう。
おへその下に力をこめて、立ち上がろうとしたとたん。
はっはっはっはっ。
生臭い息が白い煙になってアナの顔のまわりを踊りました。不意に、目の前に、いやらしくとんがった鼻面がつきだされました。ナイフのような牙の合間から、黒味がかったピンク色の舌が、信じられないほど長くのぞいて、ひらひら揺れています。獲物をみつけた喜びにギラギラ濡れたように光った眼にあまりにも近くから射すくめられて、アナはからだじゅうから力が抜けてしまいました。とても立ち上がれません。
だって、オオカミです!
それも、一度に四匹も!
「き……きゃああああっ!」
とうとう声が洩れてしまいました。たちまち突き出された前足はサッと伏せてなんとか避けたものの、オオカミの鋭い爪に、逃げ遅れた左側の三つ編みが先のほうでぶっつりと切られました。サラサラした長い黒髪が半分だけ、ぱぁっとひろがりました。顔にかかる髪の隙間から見えたのは、雪の上にどさりと落ちた三つ編みの端っこ。さっきまで生きていたものが、今はもうただの物質。アナは鼻の頭が冷たくなるほどぞうっとしました。
「なぁんだ」
着地するやいなやふっとんで戻って来た憎らしいオオカミの鼻面にゴインと一発、三塁打くらいのスイングを決めながら、ケンと来たら、へらへら笑っています。
「はねっかえり娘かと思ったけど、フツーの怖がりなんだ」
言い返したくても、顔がカチコチでのどが塞がっていて、とても声になりません。
「そのほうがいい。女の子はね。願わくば、もうちょっと手強い敵の時にもあんまり足をひっぱらないでくれる程度には、鍛えてほしいもんだが。ま、おいおいっちゅーことで……おっと! そらよっ」
また一発。息も乱さず気楽そうにおしゃべりをしながらでも、ケンのバットはびしばし決ります。どうやら、暴力は得意のほうのひとのようです。ロイドも背中側でけっこうがんばっていて、あたりはだんだん静かになりました。オオカミたちが次々に雪の上に伸びてしまったからです。みんな、四肢をつっぱらせてぴくぴく震えてたかと思うと、何か憑きものでも落ちたような顔つきになって、耳を垂らし、尻尾をまるめ、すごすご森の奥にひっこんでゆきました。
「ま、こんなもんさ」
乱れた金髪をバサバサッと振って軽く整えると、ケンは帽子をかぶりなおしました。
「じゃ、行こか。こっちでいいな?」
先頭に立って歩きはじめながら、もう鼻歌なんか歌っています。
……くやしい!
でも、まだしびれたみたいに足が動きません。ひとこと言ってやることさえできません。
アナは手袋を外して、雪の上についた両手をギュッと握りしめました。それから、雪を掴んだまま、顔に当てました。冷たくて、いい気持ちでした。
「立てますか?」
そばに膝をついて、アナの顔をのぞきこんだのはロイドです。
「髪、お気のどくです」
「なんでもないわ、こんなの」
いいながら、アナは右側の三つ編みのゴムをほどいて、頭を振りました。
ずうっと前から伸していた髪です。やっと腰のあたりまで長くなっていたのです。切られたのは、ほんの十センチほどだったけれども、全体でひとつの三つ編みにするにもどうにも左右の長さが違いすぎました。しかたなくポニー・テールにしてみましたけれども、やっぱりきっと、みっともないだろうと思います。
どこかではさみを見つけて、ちゃんとそろえなきゃ。
いつもきれいに整えてくれていたおかあさんは、今はいないのです。なんとか自分でじょうずに切らなくってはなりません。
ずいぶん短くなっちゃうだろうな。
ふくれっ面を隠せないまま横目で見ると、ロイドは心配そうにこちらの様子をうかがっています。額の汗の玉、眼鏡が鼻の頭までずり落ちて、とてもこどもっぽい顔ですけれど、言うことはしっかりしていました。
「怪我はしてませんね? 薬ならありますから。遠慮なく言ってください」
「だいじょうぶ」
アナはグッと眼をつぶって、髪のことは考えないことにしました。
「ありがとう。もう歩けるわ」
「無理しないで。つかまってください」
ロイドは男の子としては大きいほうじゃありませんでしたけれども、思いがけないほどしっかりした力で、アナを支えてくれました。
「あのう。気にしないでくださいね」
「何を?」
「ケンのこと」
ロイドはしばらく黙って唇を噛んでいましたが、アナがじっと待っていると、急に早口に言いだしました。
「あいつって、口は悪いけど悪気はないんです。スポーツ少年ですからね、体力とか運動神経とか、あるのがあたりまえだと思ってるんですよ。おまけにあれでゼンソク持ちでね、時々発作を起こすんです。自分が病気を克服してがんばってるんだから、こっちががんばれないわけないって思っちまってるんだ。ぼくだってねぇ、あいつといっしょに歩きはじめた頃は、ものすごく文句ばっか言われました。確かに、多少の迷惑をかけはしましたけれどね。少なくとも頭脳労働はこっちの担当だったわけですから。ぼくがいなければ通れなかった道だってあったんですから。それとそれとでプラマイ・ゼロ、対等な関係ってものでしょう? まぁ、ぼくとしては、そんな風に思ってるわけなんだけど、時々、自分で自分によく言いきかせなきゃなりませんよ。なにしろひどいことばっかり言われますからね。それでも、腹たてちゃいかん、許してやらにゃいかん、あのバカはまだ『無知の知』の境地に至ってなんかいないんだ、ってね、いっしょうけんめい思って、そんなこんなえ、なんとかこのへんまで同行してきたわけです。あいつだって、実際、ひとりで行くよりか、仲間がいるほうが絶対嬉しいはずでしょ。なのに、けしてそうは言わないんですからね。ほんといって、ちゃんと感じてもいないんじゃないかな。つまり、情動の一部が欠損しているというわけですが。だから、あなたが、いっしょに行ってくれることになって、ぼくは大変に嬉しく思っているんです。なにかと辛い道のりでしょうが、いろいろと苦労がありましょうが、少なくとも最初からペースについて来れなくったって、気に病む必要なんか全然ありませんからね。女の子でいらっしゃるんですし、地球防衛軍としても若葉マークでしょう、大手を振って甘えてくださっていいんです。それで、ぼくもあいつも、少しは人間的に成長するかもしれないってもんじゃあありませんか。ねぇ?」
「…………」
アナがぽかんとしていると、ロイドは急に眼をくるくるさせ、頬から首まで真っ赤になりました。
「だっ、だからっ、つまりそのっ」
「うん。ありがとう。はげましてくれたんでしょう。元気出たわ」
「いっ、いえっ、そんなっ。すみませんっ。さしでがましいことをっ。あの、ぼ、ぼくって、ぼくって……やっぱ、おしゃべりすぎます?」
そんなことないわよ。
アナはゆっくり首を振りました。
ケンの考えてることなら読めるけれど、あなたの心はそうじゃないから。いっぱい話してくれたほうがいい。そのほうがちゃんとわかる。
だって、たった三人きりの仲間なんですものね。
仲よくしていきたいもの。
アナがハンカチを出して見せると、ロイドは怪訝《けげん》そうに眉をひそめました。
「汗。すごいから。風邪ひいちゃう」
「え? あ、あ、匂いました? こりゃどうも……うわ」
ロイドは受け取ろうと出した手を、サッとひっこめました。丈夫そうな皮手袋は、長い旅路にものすごく汚れていて、ぴっちりとアイロンのかかったアナのハンカチにはとても触れなかったのです。
あわてて袖で拭こうとするロイドを押えると、アナは無言でつまたてをして、ハンカチを使ってあげました。前髪をあげてみると、さすがに賢い少年、なかなかに立派なおでこでした。
「も、申し訳ない」
「いいの」
仲間でしょう?
アナが鼻に皺《しわ》を寄せてとびきりの笑い顔をしてみせると、ロイドもギクシャク不器用そうに笑い返してくれましたけれども、ほとんどべそと区別のつかないような表情でした。
「……おまえらなぁっ!」
ふと、顔をあげると、ケンのソバカス顔がすぐ横で怒りに燃えていました。
「何ヒマなことやってんだ。根っこでも生えたのかよ。俺はもう五百メートルも向こうまで行って戻って来たんだぞ。立てるなら歩け、歩けるなら急げよな、バカッ!」
そうして言いたいだけ言うと、ガッパガッパと雪を飛ばしながら、走って行ってしまいます。
あの調子なんです、いつも。
と、ロイドの眼が言いました。
でも、悪気はない、んだったわね?
と、アナの眼が答えました。
そうなはずなんですけど。
……やれやれ。じゃあ、まぁ、行きましょうか。
スノーマンの駅にたどりついたのはまだ日の高いうちでしたけれども、雪でダイヤが乱れていて、列車は、ハロウィーンという名前のほんの隣の町までしか走ってくれないのでした。
それを聞いたとたんに、ケンはますます不機嫌になってしまいました。
待合室でも、ふたりとはうーんと離れた椅子に座ってずっと何か考えこんでいましたし、列車に乗ってからと来たら、車内が空いているのをいいことに、ひじかけに汚いブーツの足を乗せてでーんと寝ころび、どこからか拾って来たらしい小枝を楊枝みたいにくわえたりして、窓の外を見たっきり。まったくガラが悪いったらありません。
憂鬱《ゆううつ》なので、心のラヂオを働かせようとしてみましたけれど、どういうわけかうまくゆきません。何を考えているのか、わかりません。
アナはこっそり、ロイドに尋ねました。
「彼、なんで怒ってるんだと思う?」
「うーん。怒ってるっていうより、イラついているんじゃないですか」
ロイドは網棚から拾った新聞の経済欄から顔をあげて答えました。
「一刻も早く地球を救わなきゃならないっていうのに、おとなたちと来たら、鉄道ひとつ満足に運営しててくれないんですからねぇ。まったく困ったもんですよね」
「あたしたち、ほんとうはどこまで行くはずだったの?」
「さぁ。あいつの考えてることはよくわからないけど。……とりあえずサンクスギビングかな。物資を調達するには、一番便利ですし」
「大都会だものね」
「あ。行ったこと、ないんですか?」
うなずくアナを見て、ロイドは目尻に笑い皺を寄せました。
「そんなに大した街じゃあありませんよ。ゴミゴミしてて。暴走トラックはいるし、物価は高いし。空気が悪くって、ケンなんかすぐゼンソクを起こしちゃって大変でした。昼間にこどもだけで出歩いてると、学校をサボッてるんじゃないかってすぐ叱られますしね」
「ひょっとして、あなた、サンクスギビングのひとなんだ」
「そ、そうですけど」
照れたようにロイドは口をぱくぱくさせました。
「ケンの家だってそう遠くはないですよ! あそこからなら、歩いてもいけます」
へぇ。
じゃあ、ふたりとも、けっこう都会っ子なんだ。
アナは思いましたが、もうひとつの気になっていたことのほうを口にしました。
「サンクスギビングにはきっと、あなたの学校があるわね。屋上から、遠く地平線まで、山と空が広がってるのが三百六十度見える学校が。そこで、あなた、ケンにはじめて逢ったでしょう」
ロイドがとび色の瞳を大きくしてまっすぐにぶつけて来るので、大当たりだったことがわかりました。やっぱりあれはただの夢じゃあないのです。ほんとうのことを、遠くから、感じていたのです。
そうだろうとは思っていましたけれども、確かめることができて、やっぱりずいぶん安心になりました。
「あのね」
唇を舌でしめして、アナはしゃべります。
「実は、あたしね、あなたたちがこれまで体験してたことを……」
「おくつろぎ中のところ悪いんだが」
振り向くと、ケンがまたいつの間にか背後に立っているのでした。威圧するように椅子の背に腕をかけて、アナの顔を見降ろしていました。
「なぁ、教会のお嬢さんよ。いろいろ考えたけど、やっぱ、あんた、帰ったほうがいいぜ」
なんて唐突な!
「でも……!」
「オヤジさんも心配してたしさ。はっきり言って、足手まといなんだわ」
ケンの口の端のくわえたまんまの枝が、しゃべるたびにクイクイ揺れました。
「悪いこと言わねぇから、駅ついたら、戻る電車を待ちな。なんなら、下りが来るまで、見送っててやってもいい。べんとーも持たせてやるからさ」
「待って、ケン。あたしはね」
「ききわけの悪い女はモテないぜぇ」
「真面目に聞いてよっ。ちゃんと説明するから。あのね、あたしはね、ずっと夢を見ていたの、あなたたちが」
「地球を救う夢を見てたって?」
フフン、と笑って、プッ!! と息を吐くと、枝は列車の壁にしっかりと刺さってしまいました。
「オーケ、じゃあこっちもマジに言おう。ハロウィーンは、どうもキナ臭い。怪我しないじゃあ、すまされないかもしれないぜ」
「町が占領されてるとでも?」
ロイドが言うと、ケンは眉をかかげて肩をすくめ、声をひそめました。
「気づいてねぇか。駅員も車掌も、どーもおかしい。眼がな。変に据わってんだ。制服もブカブカだったりしてよ。おまけに、こいつはハロウィーンまでしか行かないって言うだろ。来た時ゃ順調でハッピーだったのに。ひょっとしたら、あいつら、本物の駅員じゃないかもしれないとは思わないか? ハロウィーンから乗って来た何か悪いモンが、ほんものとすり変って、俺たちを罠にひきずりこもうとしているのかもしれないとは?」
アナとロイドは青い顔を見合わせました。
世界は、ほんとうに、もうそんなにメチャクチャになってしまっているのでしょうか。
ふたりが揃って見上げると、ケンはニカリと笑いました。
「ま、考えすぎならいいがな」
「戻る便がないぃ? なんでっ」
もう夜も更けたハロウィーン駅に、ケンの怒鳴り声がキンキン響きました。すごんでみてもまだボーイ・ソプラノだったりするあたりが、なかなか情けありませんでした。
「ついさっき雪崩があったんだ。復旧に二・三日はかかるそうだ」
「なんでそんなに遅いんだよ」
「あれこれあって手が足りないんだ。しょうがないだろ」
「くそ!」
「あーこら、おまえ切符は!」
「そらっ。キセルじゃねぇぜ」
「……くそガキめ……親の顔が見たい」
ブツブツ言う駅員さんにガンを飛ばし、拳骨《げんこつ》を噛みながら、ケンがこっちにやって来ました。アナとロイドは先に改札を抜けて、外の風に当っていたのです。
「くそっ。だめだ。当分電車は走らない。こんな町で、どうしろって言うんだ」
「そうカッカしないで」
ロイドがなだめようとしても、腕を振ってふりはらいます。相当に頭に来ているみたいです。
「嘘つきどもっ。嘘だ。絶対に嘘に決ってる。雪崩になりそうな崖なんかどこにもなかったじゃねぇか! 誰も彼も宇宙人のスパイかよっ!」
「だったら、そんなこと大声で言わないほうがいいんじゃない?」
すごい目つきでにらまれてしまいましたけど、アナも負けてはいません。
「それと。あなたは気に入らないだろうけどね。こうなったら、ほんとうにまったく申し訳ないけれど、あたしも、おふたりといっしょに行動させてもらいたいわ。そんなスパイのひとたちばかりの中に、たったひとりで残されたりしたら怖いもの」
「わぁってる!」
「怒鳴らなくても聞こえます」
耳を塞ぎながら、アナはため息をつきました。
あたしだって喜んで来たわけじゃないのよ。でも、お互いに気が進まなくったって、やっぱりいっしょに行かなきゃならない運命なのよ。神さまが、そう、導いてくださっているんだもの。しょうがないじゃあないの。
いつまでもグズグズ言うなんて、男らしくないわ。
「とにかく、まず、宿を探そう」
ロイドが言いました。
「ここらには雪はもうないけれど、まだけっこう寒い。明け方にはもっと冷えこみが予想される。アナさんもいるし、敵がうようよいるかもしれない中で、野宿はどうかと思う。体力の浪費はつつしみたい。金銭的なゆとりはまだあるんだろう?」
「ああ。賢いおまえの言う通りだよ。できたら、公衆電話も見つけたい。そろそろ、オヤジに連絡とっとかないとな」
あ〜ら。まぁ。
パパに連絡ですって? 里ごころついちゃって。可愛いこと。
思わずクスッと笑ってしまったアナを鋭く見とがめると、ケンの額に巨大な『む』の字が浮びました。
「違うぞ! そんなんじゃないっ!!」
「なにが」
「だって……おまえ誤解したろっ! 違うんだぞ。オヤジはNBS国際ネットの人間なんだ。今ずっと、政治のほーの偉いさんとかといっしょにつめてる。あんまりヤバいネタが流れちまうと国じゅうがパニックになるし、マスコミを乗っ取られでもしたら最悪だからな。あっちはあっちで最前線にいる。世界じゅうのほんものの情報がナマで入ってるのは、あそこだけなんだ」
「……へぇ……」
親子そろって放送局か。
ちょっぴりおかしかったけど、胸が痛くもありました。
政府のひとといっしょに仕事をしているなんて、ケンのパパはきっと、放送局でもうーんと偉いほうのひとなのに違いありません。職業に貴賤《きせん》はないとは言え、マスコミのバリバリのエリートと来たら、やっぱり相当にカッコ良いです。ど田舎の、今にも潰れそうな教会の、貧乏ったらしい牧師の家とは、全然違った暮しをして来ているのかもしれません。
思えば、金髪でブルー・アイズで野球が得意、だなんて、ガサツそうでいても実は、立派におぼっちゃまなケンだったりします。
そんなだから、ゼンソクなんて軟弱な病気になるんだわ。
いじわるく考えてみても、胸のチクチクはあんまりおさまりませんでした。
「だから、時々電話してみるんだよ。電話線だって、いつまで使えるかわかりゃあしないしな。最新情報を手にいれられるのはオヤジなんだ。だからなんだ。変な勘繰りはやめてくれ。さぁ。わかったら、いいから、歩いた歩いたっ!」
んもう。いちいち怒鳴らなくったってわかるったら。
はいはい、と、おざなりに手を振って歩きだすアナの変な気分を察したのか、やさしいロイドは、なんとなくそばに寄って来てくれました。
「疲れませんか? 何か持ちましょうか?」
「だいじょうぶ」
ほんとうにジェントルマンなロイドです。
「あなただっていっぱい荷物があるでしょう。あたしは、自分で持っていけるくらいしか持ってないから。そんなに甘やかさないで。……ねぇ?」
「なんです」
「そう言えば、ロイドの家は? パパって何をなさってらっしゃるの?」
言ったとたんに後悔しました。ロイドのまだ中性めいて華奢な横顔に、フッとおとなっぽい翳《かげ》が浮んだのです。
「離婚、したんです、両親」
「…………」
「ははは。そんな顔しないでください。よくある話です」
でも、アナは知っていました。
ロイドのママは、とても大変な病気で寝たきりになっているひとなはずです。ロイドのパパは、そんな可哀想なひとを捨てて出ていってしまったのでしょうか。そんなひどいひとだったのでしょうか。
そんなひとのことを、思いださせてしまったのでしょうか?
アナがいつまでも黙っていると、ロイドはちょっと頭を掻いて、話しだしました。
「父は電子工学者です。ケンのオヤジさんとは分野が違うけど、そっち方面じゃあ最先端なんですよ。ただ、だからこそ、どうしても忙しくってね、母には不満だったんだろうけど。ぼくには、最高にいい父でした。こどもの頃から、アップルやアタリやニンテンドーのコンピュータをいっぱい買ってくれたし。ぼくがゲームに飽きて、分解したりプログラムをいじったりするほうに興味を持ってからは、キットもいろいろ与えてくれてね。仕事柄、ちょっと古くなっちゃったハードがいくらでも手に入りますから、別れてからも、そこらへんだけは繋がってて。サンクスギビングのぼくの部屋なんか、床から壁から全部コンピュータですよ。全部稼働すれば、そこらのスパコンに負けないくらいのメモリになる」
「それで、あなたも、機械類に強いひとになったのね」
すごいわ、と言ったつもりなのに、ロイドの眉は、なぜかますます曇ってしまいました。
アナはあわてて、つけくわえました。
「羨ましいわ。あたしコンピュータなんて全然わからないの。小さい時から、英才教育を受けることができたなんて、ラッキーだったわね。就職にも有利よね」
「けど、だめなんです!」
ロイドはギュッと拳を固め、眼鏡の下のまぶたを力いっぱい閉じてしまいました。
「人間は機械じゃない。コンピュータなんかじゃ救えない。ああ、ぼくも、医学か、せめて生物学を勉強しておくんだった。幸い知能指数は低くないんだし……」
ロイドの声は震えていて泣きたいのを我慢しているみたいでした。もしかすると、ほんとうはもっといっぱいもっと詳しく話したいことがあるのに、これ以上は平気では言えなかったのかもしれません。
……おかあさまのこと、か。
気がついて、アナは口をつぐみました。
ロイドは、おとうさまを尊敬してる。そうして、たぶん、おとうさまに似てる。でも、だからこそ、ちょっぴり対抗意識、あるかもしれない。
おとうさまがお忙しくって、人間のお世話はあんまり得意じゃないひとだったりした分を、ロイドは自分が代りに埋めなきゃって思っているんじゃあないかしら。そういうところまで、おとうさまにそっくり似ちゃうのが怖いから……だから、すごくおおげさなくらいフェミニストなんじゃないかしら。よく知らないあたしにも、うんと丁寧で紳士的にふるまってくれて。
そうしてもちろん、ほんとうに大切なのはおかあさま。
有名なエディプス・コンプレックス。
おとうさまがしてあげられなかったことをおかあさまにしてあげるために、カンノンの花を手にいれておかあさまの病気を治してあげることに、生命《いのち》を賭けずにいられない、とか?
横目でうかがうと、ロイドは、ずうっと前を行くケンの背中を見つめていました。目を赤くして、頬を青ざめさせて、ふらふら歩きながら、頭だけはしゃんとあげてうんと前をにらんでいたのです。
まるで、大切な仲間であるケンを、ずっとたったひとりのともだちだったはずのケンを、どこかほんとうには許せないでいるみたいです。競争心、ライバル意識でしょうか。憎らしいと、悔しいと、思っているみたいでした。
「……同じね、あたしたち」
手の中にそっと指をすべりこませると、ロイドの緊張が解け、びくんと震えました。
「ケンは立派よね、世界を救うためにわざわざお家を出て来たんだもの。でも、あたしたちは違う。同じように選ばれてこんなことになったって言っても、あたしたちが来たのは直接の動機は、自分たちのおかあさまのことでしょう。ね? ちょっと、情けないね」
逃げようとするロイドの手を、アナはそっと握りしめました。
「でも、それはそれでいいんじゃない? 母を尋ねて三千里して、ほんのついでで地球の危機救っちゃうなんて、オシャレじゃない?」
「……アナ……」
ロイドの手に力が籠《こも》り、アナは思わず顔をしかめました。
「あっ、すみません、痛かった?」
「うん、ちょっとね」
「すみません、すみません」
「謝ることないわ。自慢していいじゃないの」
「自慢?」
「そうよ」
ポニー・テールがぴょこんと揺れるほど、アナはうなずきます。
「ねぇロイド。あなたは、たぶん、町にいた頃はただの眼鏡の秀才だったんだろうけど。今はもう立派な戦士よ。力だって、こんなに強い」
赤くなった手をひらひらと翳《かざ》して見せると、ロイドはしばらく黙ってアナの顔と、手と、左の瞳と右の瞳とを、ゆっくり順番に見つめました。そうしてそれから、急にまだ空中にあるアナの手を掴み、グイッと引き寄せて、自分の唇に押しあてました。
冷たいような熱いような、ひどく短いキスでした。
「ありがとう」
うううん。首を振りながら、アナの胸も高鳴りだしてしまっています。いきなりこんなことをされるなんて、仲間なはずのロイドがやけに大人っぽい目つきになって自分を見るなんて、まったくショックです。
「とても嬉しい。どうしてだろう、なんだかすごく幸せだ。すごく勇気がわいて来た。ぼくらが戦士なのならば、あなたは戦いの女神なのかもしれない……いいや、やっぱり女戦士なんだろうか。アナ、ぼくはあなたに誓います。ぼくはこのぼくにできる限り、あなたを守る。ぼくの生命を賭けてでも、守ってみせる。だから、あの考えなしのケンの奴が何をどう言っても、どうかずっといっしょに行ってくださいね」
「あのね」
早鐘の胸を隠して、アナはいたずらっぽく笑いました。
「とっても光栄だし、嬉しいし、ありがたいけど。そんな愛の告白みたいなこと言っちゃだめよ。おかあさまにカンノンの花を届けるまでは、あなた、あたしごとき踏んづけてでも、生き残らなくっちゃ、でしょ?」
「……カンノン……?」
ロイドの顎がさがります。
「なぜそれを? ぼく、まだ、そんなことあなたに教えてはいないはずなのに」
「だからね。つまり、あたしは」
「お・の・れ・らぁぁぁ……」
またしてもです。
アナが、自分の特別な能力についてちゃんと説明しようとしたとたん、ケンが茹でエビみたいなかっこうでこちらをにらんで立っていたりして、それどころではなくなってしまうのです。確かに、いつの間にか、どんどん歩くのが遅くなって、どんどんケンと離れてしまったのは、悪いと言えば悪いのですが。
「よくもまぁこんな時にイチャつこうなんて気を起こせるもんだな。ったくどういう神経なんだよ。TPOってもんを教わってこなかったのかよ。ひとが緊張して警戒して、真剣に必死に宿探してるっつーのによ。そういう態度はないだろ、そういう態度はっ!」
「いや、誤解だ、ケン」
「そうよ。あたしたちは何も」
「ああ、ああ、うるせぇな。言い訳なんかいらねぇ。いーよいーよ、めんどうなことはみんな俺任せにして、にゃんにゃんしててくれてもいいよ。好きなだけやらかしてくれ。ただしだ」
いからせていた肩からふうっと力を抜くと、ケンはギラリと眼を光らせました。
「敵さんが団体さんで出ちまった時くらいは、マジホンで協力してくださいよネ。たのんまっせ、おふたりさん」
「団体さん? って……うわぁっ!」
街灯が暗くて、わからなかったのです。でも、気がついてみると、こどもたちは、もとい、戦士たちは、いくつもの赤く光る瞳にぐるりを囲まれてしまっています。ふらふらと揺れながら輪を縮めて来るのは、どうやら、この町のおとなたち。オーバーオールのおじさんもいれば、買物袋をさげたおばさんもいます。『ヒッピー』の時代からタイムスリップして来たみたいなおにいさんもいます。その他おおぜい、まずはどこの町でもよく見かけるようなフツーのひとびとが、みんな、正気とは思えない足取りで、じりじりと三人に近付いてくるのです。
「これはどうしたことだ。いったい、どうなってるんだ?」
ロイドは不意に、ケンの両腕を後から羽交い締めにしました。
「おいっ、おまえ、何か、このひとたちを怒らせるようなことでも言ったんじゃないのか? 味噌煮こみウドンとか、もみじ饅頭とか、ザザムシの佃煮とか、聞き手の感性次第ではサベツ的ブジョク的と受け取ることができないこともないような発言を、ついついしてしまったんじゃあないのか?」
「んなことするわけないだろ! 離せよ、俺はただ、ホテルの場所を尋ねようと思っただけでい」
「ほんとか?」
「ほんとだよ、離せったら」
ロイドのホールドから逃れ、さっそく金色バットを『スター・ウォーズ』で覚えたニッポン式ケンドーの下段のかたちに構えながら、ケンはブツブツつぶやきました。
「したらよー。なんかなー、幽霊屋敷がどうのこうのって噂してんだわ、こいつらが。幽霊屋敷だぜ、幽霊屋敷! いかにもなんかありそうだろ。だから、つい、聞き耳立てるだろ。したら、誰もいない館の中から、ピアノの音が聞こえて来るって言うじゃねぇか」
「ピアノ。なるほど」
ロイドが顔をあげ、ケンがうなずきました。アナには何がなんなのか、さっぱりわかりません。
「だろ。だから、もっとよく聞きたいと思ってちょこーっと近付いてったらばさ。いきなりなんだよな、『なんだおまえは』『どこの学校だ』畳みかけるようによぉ、『こんな遅くに外を歩いていて、おとうさんおかあさんは心配しないのか』なんちゅーから、思わず……」
「思わず?」
「何をしたんです」
「『関係ねーだろ』って言っただけだよォ!」
アナは眼を覆いました。よりによって、おとなを怒らせたい時最高に効果的なセリフを使ってしまうなんて。ケンって、やっぱり、あまりにも頭が悪いのか、要領が悪いのか、正真正銘グレているか、どれかなのに違いありません。どれにしても、とてもじゃないけど、地球防衛軍のリーダーにふさわしい資質とは言えないような気がしてしまうじゃあありませんか。
こんな奴を頼っていたのでは、生命がいくつあっても足りないじゃあありませんか。
「夜遊びは非行のしるしだ、一歩めだ!」
突然に、おじさんの攻撃がはじまりました。ケンもロイドも、もうさんざんいろいろな町で言われなれてしまったのか、たいして動じませんでしたが、教会育ちのアナは不意に耳に飛び込んで来た『非行』のひとことで、いきなりヒット・ポイントの三分の一近くをもぎ取られてしまい、あわてて両手で耳に蓋をしました。
「よその子も、見て見ぬふりはよしましょう。みんなうちの子世界の子、みどりの地球の大事な子」
おばさんはカルチャー・スクールのテキストをメガホンにしてすごい声をあげました。
「うがぁ!」
なにかがツボにはまってしまったようです。ロイドは痒《かゆ》がってのたうちまわります。
「そんなに若いうちから不純異性交遊なんてナマイキだぞぉ。おまえのおかあさんは泣いているぞぉ」
おにいさんはテケテケと昔懐かしいエレキ・ギターのBGMつきでニヤニヤ言いましたが。
「へん。そういうあんたのかあさんだって、さんざん泣いたろ?」
ケンに怒鳴り返されて、ギクリと立ち止まりました。
「今だ。例のものを使え!」
ケンはその他おおぜいをニッポン・ケンドーのかたのさまざまで威嚇《いかく》しながら、声をかけましたが、なにしろ全身ポリポリ掻きながら転げまわるのに忙しいロイドです。リュックを肩から外そうとしてはいるのですが、たびたびすさまじい痒みに襲われるらしく、ひくひく悶えて、うまくいきません。手伝ってあげたくても、ケンは手が離せません。アナは両耳を塞ぐのをあきらめて、リュックに突進しました。その間に、第二段の攻撃が、押し寄せてきました。
「不良、不良、不良!」
「学生の本分は勉強だ!」
「こどもは勉強してりゃあいいんだ。勉強しろ。勉強しろ。勉強しろ」
たいへんです、ケンの耳にも巨大なタコが発生して八本足をくねらせながら窒息攻撃をしかけてきます。倒れたままのロイドやアナの上にも、熱々《あつあつ》のタコ焼きが雨あられと降り注いでくるではありませんか。このままでは、全員絶望です。負けてしまいます。
「ケーン、例のものって何?」
青のりや紅ショウガをふりはらいながら、なんとかかんとかリュックのベルトを外すのに成功したアナが、叫びました。
「スプレーだ! 強モカ・スプレーって書いてある奴がないか? まさか、全部使っちまってないと思うんだが」
「え? スプレーって缶よね? フロン使ってないでしょうね。……あ、これ違う。エビアンじゃないの。やーね、ロイドったらお肌に気を配ってたりするのかしら。わぁん、ないない。鞄の中身くらい整頓しておいてよぉ。あ……さわって……それっぽい……あった!」
「よぉし、ぶちかませ!」
ぶしゅーっ!!
アナがノズルを押し、あたりに霧がたちこめると、すさまじい効果がありました。タコもタコ焼きもあっという間に消え去ってしまいます。おじさんもおばさんもおにいさんもその他おおぜいのみなさんも、いっせいにハッと我に返って、眼をぱちぱちさせだします。そうして、とたんにみんな、それぞれの用事を思いだして、そそくさと立ち去ってしまいました。
「ほえっえ、のーゆーぬぬに(これって、どういうクスリ)?」
まだ漂っている霧を吸い込まないように片手で鼻をつまみながら、恐る恐るアナがつぶやくと、ケンはホッとして微笑みながら、バットを下ろしました。
「だいじょうぶ、毒じゃない。吸いこんでも、だいたい、俺たち力いっぱい若いもんにはあんまり効かない」
「?」
「そいつは、めざましなんだ。完徹続きでも仰天するほど眼がさめる。だるい頭がシャッキリ冴える。服用後かっきり三時間は羽根ぶとんにくるまったって眠れなくなるくらいなんだとさ。締切前のプログラマーだの小説書きだの、くたびれ果てたおとなどもがよく使うんだと。ロイドは、よく知ってるんだ」
「それで……けほけほっ……あのひとたちの眼をさまさせたってわけ?」
毒じゃないと言われても、霧はなんだかのどに沁みました。
「そうだ。あいつら、集団催眠にかかってるからな。人間ならまだいいんだが、俺は前に動物園でひでぇ目にあったよ。催眠術にかかったゴリラってのは、催眠術にかかった皇帝ペンギンの百倍やっかいだったが……やれやれ。なんだなんだ。しょうがねぇなぁ、天才さんは」
ケンは痒さのあまり失神しているロイドの脇にしゃがみこみ、その額のあたりに片手を翳しました。アナは思わずアッと叫びそうになりました。ケンのてのひらが突然ぼうっと鈍く発光しはじめ、ロイドがもがいたからです。
……サイコ・ヒーリング……!
それは、アナもよく知っている技でした。実は、ケンよりももっと上手に、強力に、できないこともない、例の『不思議な力』の一種と、まったく同じものの、初心者タイプでした。
けれど。アナは何も言いませんでした。緑がかった光に照らされているケンの真剣な横顔を、もう少し見つめていたいような気持ちがしたからです。そこには、普段の乱暴で下品な感じは、まったくありませんでした。神聖で敬虔《けいけん》で、奇跡を行なうことを許された者だけの、静かで落ち着いた表情でした。
緑色に燃えるてのひらは、ゆっくりと、慣れた感じに、ロイドのからだじゅうを、上から下へ下から上へたどって行きます。からだから数センチほど離れた位置を、撫でるようにして。アナならば、そんな悠長な面倒なことはしません。うんと離れたところでも、相手が見えてさえいれば、エイッ、と気合いひとつで、一瞬のうちにすんでしまう治療でした。
けれど。
アナは邪魔をしたくありませんでした。
やっぱりケンも力を持っていたのです。なんだかワクワクするじゃありませんか。だって、そりゃあ本人にも自覚はないかもしれないけれど、きっと、その力で、ずっとアナを呼んでいた、求めていたんですから。口でいくらひどいことを言われたって、たましいの叫びを否定することなんかできっこないのです。
元気が出てきました。自信がわいてきました。
これだったら、いっしょにやって行けるかな、と思いました。
ただし。ケンはなにしろこの性格です。
あたしはあなたよりも上手にできるのよ、なんて変に横から口出しをしたら、また耳鳴りがするほど怒鳴られてしまうかもしれません。
ガミガミ言われるのも、まぁ、それほど、悪くはない。もう慣れっこになっちゃいましたから、ケンがもしあんまり親切だったりおとなしかったりしたら、どこか具合でも悪いんじゃないかって不気味になってしまいそうです。不機嫌たらしく、ブツブツ言われるのも、なんとなく、絶対にいやだってわけじゃあないような気がして、アナは自分で自分が不思議でした。
それにしても、ロイドったら。だめねぇ。必ずきみを守る、とかなんとか。言ってくれたばっかりだって言うのに。今回なんか、あなたよりあたしのほうが、ちょっぴり役にたっちゃったみたいよ。どうする?
アナが思わずウフフと笑いを洩らした頃。
「……うーん……」
そのロイドも気がついたようです。
ケンはホッとため息をついて、立ち上がりました。もう、あの聖人めいた顔ではなく、いつものやんちゃ坊主に戻ってしまっています。まだ寝惚けているみたいなロイドの衿首をネコでも運ぶようにつまみあげて、ガクガク揺すぶっています。
「おいっ、行くぞっ。しっかりしろ」
「あ……ああ? あ、悪い」
「ほれ。歩けるか。歩くぞ」
これだものねぇ。
どんどん歩きだしてしまった少年たちの背中を見つめながら、アナはそっと首を振りました。
治療が必要な人間はもうひとり[#「もうひとり」に傍点]いるって言うのに。もうフラフラのクタクタなのに。まるで気がついていないのです。動けないほどの大怪我をするか完全に気絶してしまうかでもしない限り、面倒を見てもらうわけにはいかないようです。口がきけるうちは、痛いなら痛いと自分で申告するのが当たり前だろうとでも思っているのかもしれません。
いいわよ、いいわよ。
ケンが振り向かないのをいいことに、カッと気[#「気」に傍点]を集中させてたちまちのうちに自分で自分を治してしまいながら、アナはまた、ちょっぴり胸が痛いのに気がつきましたけれども、なにしろうかうかしていると置いてきぼりにされてしまいます。
走りはば飛びをする時のように、スタート・ラインでちょこんと景気付けのジャンプして、走りだしました。男の子たちときたら、雪がなくなった途端に、まったく、歩くのが早すぎるのです。
3 幽霊屋敷
『これより私有地・危険につき立入禁止』
『超自然! ほんものの迫力!
あなたはまだこの恐怖を知らない。
幽霊屋敷
(正義の味方若干名募集中 ゆうぐうす)』
『売り主直売 中古別荘 公開中
美麗内装済み・優良物件・事務所店舗可
マクシミリアン・ド・ローズウォーターまでご連絡ください
Tel 09―666―13―4242』
三つ並んだ看板の向うには、いかにもそれらしく古めかしい館が、ツタとバラの鬱蒼たる茂みの中に見え隠れしています。月もおぼろに叢雲《むらくも》の、変に生ぬるい柔風《そよかぜ》の、じっとりと肌にまといつく湿り気の、いかにもそれらしい夜でもありました。絹を裂くような美女の悲鳴が聞こえても、吸血鬼だのオオカミ男だのが登場してくれても、全く違和感がない風情です。
この看板たちを、別にすれば。
「いったい、どれが本気なんだ?」
ケンがつぶやきました。
「たぶん、全部本気なんでしょうが……全部冗談かもしれませんね」
ロイドが答えました。
「いっそ、そのローズウォーターさんに電話して聞いてみたらぁ? うまくすれば泊めてくれたりするかもよ。それってお得じゃない?」
あくび混じりにアナが言うと、男の子ふたりがジト目を集めました。『女ってのはこれだから……』とどちらの顔にも書いてあるような気がして、アナはあわてて続けました。
「だって。あなたたちはウチでたっぷりお昼寝したでしょう。あたしは夜明け前から起きてたし、そのまんまずーっと起きっぱなしよ。もう眠くて眠くてまぶたがくっついちゃいそうだわ。なのに、どうして今あわてて幽霊屋敷なの? こんなとこに来なきゃならなかったの? ちょっと寄り道をしようってつもりなら、募集されちゃっているからこの際元気に腕試ししてみようとかなんとかいうことなのならば、あたしは悪いけど降りるからね。そんなの。バカバカしい。帰ってぐっすり眠るほうがマシだわ」
「……この、ワガママ女っ……」
ケンは苦々しげに言い捨てました。ロイドにまぁまぁと肩を抱かれても、そっぽを向いてしまいます。男同士はしばらく顔をくっつけ合わせるようにして相談していましたが、どうやら考えはまとまらないみたいです。それにしても、どうしてこうすぐに仲間外れにされてしまうのでしょう。二対一、みたいになってしまうのでしょう。
アナがぷうっとふくれっ面をしていると、気配りロイドは今度はこちらにやって来て、アナの腕を宥《なだ》めるようにぽんぽん叩きました。
「説明が遅れて申し訳ない。つまりは、ピアノ、なんですよ」
「ピアノって……誰もいないのに聞こえて来るってあれ?」
「そうです。その情報がなかったら、ぼくらだって、何もこんなに急いでわざわざお化け屋敷になんか入ろうとは思いません。けれど、もしもそのピアノが歌っているのが、ぼくらの探しているメロディのひとつだとしたら、どんなに困難だって、行って、ちゃんと聞かなくっちゃあならないんです。それが、この一見行き当たりばったりの旅の目的なんです」
アナのほっぺたはみるみるうちにしぼみました。
そう言えばそうです。地球の危機を救いに行くんだってことはちゃんと知っていましたけれども、アナは、そのための方法については、何にも知らされていません。特に考えてみたことがありませんでした。
ただ、どこかに何かすこぶる強い奴がいて、そいつを、例えばケンの例の金色のバットでゴインと打って打って打ちまくって降参させればそれでいいような気がしていましたが。思えば、そんなことで参ってしまうような相手ならば、おとなたちがこんなに苦労をしているわけがないではありませんか。
「……はじめから話して」
落ち着いた声で、アナは言いました。
「あたし、なんでも知っていると思っていたけれど、そうじゃあなかったみたい。ちゃんと覚悟を決めるために、全部知りたい。ちゃんと話して」
ロイドはうなずくと、まだあさっての方角を向いていたケンの腕を取って、そっとアナの正面にひっぱって来、その耳に何ごとか囁きました。ゆらりと肩を揺らすようにして仁王立ちになったケンは、ぶっきらぼうな口調で途切れ途切れに、自分のこと、世界のこと、これまでにあったことを話し始めました(ケンのことばづかいはところどころにあまりにも乱暴でしたし、やたらに長くなってしまうので、ここでは要約して書いておきます)。
――ケンがある日いつものように眼を覚ますと、家じゅうに邪悪な空気が満ちていた。生命のない物たちが悪魔にでも操られているかのように暴れ狂い、母やふたごの妹たちを脅かした。少年野球で鍛えたからだでがんばって、なんとか秩序を取り戻したものの、わけがわからない。電話を取って、いやに長い出張にでかけたきりだった父親に、何か困ったことがあった時にだけ連絡しろと言われた番号をまわすと、父ははじめてほんとうのことを教えてくれた。
地球はいま危機に瀕している、謎の宇宙人がこっそりと侵略を開始していて、各地が異常な事態にみまわれている、だからこそなかなか家に帰ることもできずに仕事に没頭していると言うのだ。
「実はな、ケン。うちは特に、その宇宙人と妙な因縁がありそうなのだ。ひいばあさんのマリアが行方不明になった話は知っているだろう。ひいじいさんのジョージのほうも、いっしょに神隠しにあいながら、何故かひとり戻って来て、それからの人生を全部PSIの研究につぎこんでしまったことも。そうして、ケン、おまえはひいじいさんととてもよく似ているんだよ。物置に行ってみろ。ひいじいさんの残したものを調べてみてくれ」
ケンが驚いて何も言えずにいると、父はしばらく口ごもってから、さらに続けて告白をした。
「それにおまえには、PSIとしか呼ぶことのできないような力があるはずだ。覚えていないか。赤ん坊のころ、おまえは野山の鳥やけものと話し、ちっちゃなすり傷をいくらこしらえても夢中で遊んでいるうちに治してしまった。そんな力は、アルファベットを書き取れるようになって左利きを矯正した途端に消えてしまったが。……実はな、ひいじいさんはほとんど文盲でおまけにギッチョだったのだ。それも、右手じゃあケツも拭けないほどの徹底した左利きだった」
物置に降りて、ケンは、ひいおじいさんのほとんどエジプト文字のようなもので書かれた日記を発見した。それは、たとえば父にはまったく理解できなかったに違いないけれども、ケンにはなぜかすらすら読むことができたのだった。そこには魔法の国マジカントにたどりつくための秘密のあいことばが隠されていたのだった……!
「……え? ちょっと待ってよ」
ケンが息つぎをした隙に、アナはつい口を挟んでしまいました。
「マジカントって何? これってSFじゃあなかったの。なんでいきなりファンタシーになるのよ?」
「ファンタシーだってSFの一部だろ」
疲れたようにケンがつぶやくと、
「違う違う。SFがファンタシーの一種なんです!」
ロイドが反論しました。
「すべてのものがたりはつまりはファンタシーなんですからね。狭義のファンタシーは確かに、『剣と魔法』のジャンルのことを言い、SFの枠の中で語られることが少なくありませんが」
「ははぁん。そうなの。ごめんごめん。ブンガク談義なんかどうでもいいわ。それで、それから?」
――あいことばはわかったものの、マジカントへの道は楽ではなかった。さまざまな敵と闘い、事件を解決しながら、ケンは少しずつ、幼い頃に持っていた力を取り戻し、強めていった。その間に、世界じゅうの秩序がどんどん乱れていくのも目撃した。そうしてやっとの思いでマジカントにたどりつくと、そこには、魔法の女王、クィーン・マリーが待っていたのだった。
その目ざめる時が昼になり眠る時が夜になると言われる強大な力を持つはずの女王だったが、今は地上世界から魔法世界にまで広がりつつある謎の侵略に対抗する手段をなくしてしまっている。それはどうも、けして思いだすことのできない古い歌と関係があるらしい。その歌を、こまぎれになって世界じゅうに散らばってしまったメロディを、すべて取り戻し思いだして再び歌うことができるようになった時、世界の母なる女王の力が蘇り、侵略者に致命的なおしおきをくわえることができるに違いないというのだ。
ゆえに、ケンは、探して回ることになった。なくしてしまった思い出の歌を拾い集めて、女王に届けるために。そうして旅は再びより広範囲にはじまり、ロイドを得、今アナを仲間に迎えたのだった。これまでに集めたメロディは三つ、三小節分。ケンの家に放り出されてあったオルゴールから、カナリヤ村のローラさんから、動物園のサルから、それぞれ一小節ずつ。七つ探して、女王がまだ覚えている最初の部分に繋げれば一曲になるらしい。八小節を集め終れば、世界を救うことができるはずなのだ……。
これまでに集めた分のメロディを、ロイドがオカリナで吹いてみてくれました。それはあまりにも短くて、半端で、まだとても『歌』とは呼べないほどのものでしたけれども、なんとなく物悲しくとても懐かしい気持ちになるような旋律でした。
「……そうだったの」
アナは深々とため息をつきました。
SFはともかく魔法と来るとどうも眉に唾をつけたくなってしまうあたりがかえって現代っ子としては古臭いタイプのアナではありましたが、なにしろ世界の滅亡が目前に控えている今日このごろです。認めるも認めないも、信じるも信じないもありません。
そういうことなら、確かに、ひとりでに鳴っているピアノは、いかにもです。
それに、はっきり言って、アナは音楽はわりと得意でした。そんな苦労をして探したメロディをただそらで覚えてるなんて、心許ない感じです。ちょっと口遊《くちずさ》んでみるのではなく、わざわざオカリナで吹いてみせてくれるあたりも、怪しいような気がします。
ひょっとしたら、男の子たちは音痴だったり、楽譜が書けなかったりするのかもしれません。最悪の場合、聴音そのものがまちがっていないとも限らないじゃあありませんか。せっかく覚えたメロディが調子っぱずれじゃあ、魔法の国の女王さまだってガックリしちゃうに決っています。でも、アナなら、絶対忘れないようにちゃんと五線譜にしておくことができるし、オルガンでなら音符が五つの和音までちゃんと聞き取れるし、すごくきれいなソプラノで正確に歌ってあげることもできます。なんといっても、ものごころつくかつかないかの頃から、聖歌隊で鍛えて来たのですから。
もしかして、あたし、そのために呼ばれたんだったりして。
……こんな想像って失礼かな?
心の中でこっそり舌を出しながら、アナは元気に言いました。
「わかったわ。じゃあ、行きましょう! 幽霊屋敷に!」
そうして、さっそく先にたって、歩きだしたのですが。
「ちょっと待った」
またです。ケンが邪魔をするのです。アナが何か肝心なことをしようとすると、いつもこれです。どうせきっと、先頭を行くのは俺だ! とかなんとか、くだらないこだわりで文句をつけたいのに違いありません。
ゆっくりと振り返ってうわ目使いににらんでやると、なんとケンはまぶたを半分にしてだらりと力なく立っているではありませんか。肩にも、腰にも、まるで力が入っていません。
「どうしたの?」
「悪い。やっぱ、後回しにしよう」
「なんで」
ひとがせっかくけなげにも決心を固めたって言うのにっ!
と、アナは思いましたが。
「腹が減った。いくさはできない」
そう言われた途端に、アナのお腹も、ぐうっと鳴ってしまったのです。
「ほーっほっほっほっ。気持ちのよろしいものでございますねぇ、お若いかたの食欲は。まぁまぁ、どうぞどうぞ、ご遠慮なく、ご遠慮なく。みなさま、育ち盛りでいらっしゃるのでございますから、ほーっほっほっほっ」
おじさんのくせにぴらぴらフリルがいっぱいのブラウスなんか着て、端から端までずらりと指輪の並んだ手で口を隠しながら笑うローズウォーターさんに見守られながらのご飯は、正直あんまり気持ちのよろしいものではございませんでしたけれども、なにしろほんとうに腹ぺこでした。三人は、普段はけっこうキライで避けてしまう食べ物(例えば、ケンはピーマン、ロイドはアンチョビー、アナは味の濃いもの全般などなど)でも、すっかり夢中で平らげてしまいました。
食事の終り頃に、銀色のお盆を掲げてミルクたっぷりのコーヒーを運んで来てくれたのは、ローズウォーターさんのひとり娘のエバンジェリンでした。
「ほら、ご挨拶をして」
おとうさんに言われても、陶磁器のような白い頬を赤くして、うつむいてしまうばかり。ひどく内気な子のようです。
ただしお洋服は、たぶんおとうさまの趣味なのでしょう、まるで童話の中のおひめさまのような、袖も裾もたっぷりとした優雅なドレスです。そうして、それがちゃんと似合ってしまう稀有《けう》なタイプの少女なのでした。
髪の毛は亜麻色のくるくる縦ロール、瞳は水晶にあるような不思議なバイオレット。長いまつげの影から、その紫色の瞳がそうっとそうっと、満腹してひっくりかえってふうふう言っている誰かさんを見つめていることに気がついたのは、ひとりアナだけではありませんでした。
「ははぁん?」
ローズウォーターさんは片方の眉をかかげました。とぼけているような眼を、娘とケンと、また娘とケンと何度も往復させると、お髭をひねって、ニタリと笑いました。アナの胸は何故か、とてもいやな感じにドキドキしはじめました。
「さて、みなさん」
気取った物ごしでいいはじめたローズウォーターさんのことばは、なんだかいやな予感がして、ひとことも聞きたくないような気がしましたけれども、そういうわけにはいきません。
「お申し出いただきました件につきまして、わたくしから、ひとつご相談がございます。かの屋敷を幽霊どもに乗っ取られてより、当方がたいへん困惑いたしておりますことはすでにご承知おきと存じます。かの館が無事化け物どもの手から取り返され、またもとのように美しい別宅として使えるようになることは、心の底よりのわたくしの願いでもございます。そのようなたいへんなお願いを聞き入れてくださるとおっしゃる奇特《きとく》なかたがたには、こちらから今さら、何も申し上げる筋合ではございますまい。しかし」
意味深な間を取って、順繰りに三人を見まわしてから、ローズウォーターさんは、まっすぐにケンに視線をぶつけました。ぼんやり椅子にもたれていたケンが思わず姿勢を正し、まぶたをぱちぱちさせてしまうほど、強く光る瞳でした。
「実はですな。かの屋敷は、このエバンジェリンに与えるつもりのもの。いつの日かめでたくどなたかに嫁ぐ時まで、清く正しく美しく暮すはずの館。本来、かの地には、父であるわたくし以外の男は許さぬ、汚れなきこどもらと女性のみの立入りをしか認めぬことになっておりましたのでございます。基礎工事を行なう時に、わたくし、ご先祖さまに、そのように誓いまして、それを守ることによって、わが娘の純潔と幸福を賜わるよう願をかけてしまったので」
「ぐぇぇっぷ!」
ケンがものすごくお行儀の悪いことをしました。みんな思わずシーンとしてしまいましたが、最初に気を取り直したのはローズウォーターさんでした。レースの縫取りのあるハンカチを出して額や頬を拭いながら、なに食わぬ顔で続けました。
「もちろん、もちろん、わたくしとて理解はしております。今さら、『汚れがうんぬん』などと申したところで、なにしろあれだけ長いこと化け物に占拠されていた場所、とんちんかんであることはわかっております。けれど、これが愚かな父ごころと言うものなのでございましょうか。かの地に正義の光が取り戻されるその瞬間にこそ、そこには、わが娘に無関係な男性には、けして存在していて欲しくなかったりしてしまうのでございますよ、はなはだ勝手ではございますけれども、ご理解をたまわれましたでしょうか?」
「それじゃ、つまり、怪物どもを退治しなければ[#「しなければ」に傍点]いいんでしょう?」
ロイドが言いました。
「ぼくらに邪魔な分だけはうっかりやっつけちゃうかもしれないけど、けして根こそぎ駆除したりしなければ、何も問題はないんじゃないですか? そうすれば、お嬢さんに関係のない男はどうのこうのなんて配慮をする必要はなくなるはずだし。ぼくらは要するに、ピアノが鳴らしているっていう曲を聞きたいだけなんですから」
普通の口調でなにげない顔つきでしたけれども、力いっぱいイヤミなロイドでした。それも、こんな見るからにお金持ちそうなおとなに向って、素晴らしいご馳走をたっぷり食べさせてくれた恩人に向ってです。立派にやりあっているのです。
都会っ子って根性座ってるな、と、アナは思いました。
「わかりましたとも。ちゃんと気をつけて、幽霊さんたちはできるだけ傷つけないようにしますから、鍵貸してください」
けれども、ローズウォーターさんだって、だてに年は取っていなかったみたいです。
「ほーっほっほっ。またまた。ご冗談がお上手でらっしゃる」
せっかくの慇懃《いんぎん》無礼なセリフも、ころころと笑ってうっちゃってしまいました。ロイドの眼鏡がぴくんと動きました。
「じゃ、勝手に押し込みますからね。扉の一枚や二枚、破損するかもしれませんが、ご承知おきください」
「それは、あなた、不法侵入というものになりますでしょう」
「あのですねぇ。法とおっしゃいますけれども、そんなものがいつまで通用するかもわからない、世界の危機なんですよ。なのに、どうして、そんなつまらないゴネかたをするんです。そんなに、幽霊屋敷が大事なんですか? なぁ、おい、ケン、きみも何か言ってくれよ」
ロイドがらしくもなく憤慨して、口添えを求めたというのに。
「ぐー」
ケンと来たら、いつの間にか、椅子の背にがっくりもたれてすっかり眠りこんでしまっているではありませんか。
「お眼鏡さん、お眼鏡さん」
思わずガックリするロイドに、ローズウォーターさんがどことなく下品な感じに手招きをしました。
「だからね。そうは言ってないでしょ。あのね、ものは相談ですけども。……ちょっとお耳、お耳を貸してちょうだいな」
ロイドはおっくうそうに立ち上がり、ローズウォーターさんの赤い唇に横っ面を近づけました。ご亭主がなにごとか囁くと、その眼がまんまるになりました。すぐに何か言いかえそうとして制止され、また何か言われ、説得されつづけ、とうとう、何かヒソヒソ共犯者めいた相談がはじまってしまったのですが。
アナはそういった全てを聞くともなくぼんやりと聞き流してしまいました。内緒話の仲間外れにされたことを不快に思うよりも、すぐ横の椅子で、太平楽に居眠りをしている『世界を救うはずの少年』の、伏せたまつげの影の長さから、目を離すことがどうしてもできなかったのでした。
この呑気さはどうでしょう。
お腹がいっぱいになったら眠くなる、ちょっと気にいらないとわめき散らす、ほとんど自分のことしか考えてないみたいに見える。ケンときたら、まるで赤ん坊です。でもその両肩には、地球がまるごと一個乗っかっているのです。
信じられないわ。
と、アナは思います。
彼がそんな重要人物だということも。その彼と、自分が、いっしょに旅する仲間であるということも。みんな夢の中のできごとのようで、頬をつねってみたくなるくらいです。
そうして、部屋の隅っこのほうからは、お館の内気な美少女の紫色の濡れた瞳が、いびきをかいて眠りこけるヒーローにいつまでもうっとりと注がれているのです。それは傍《はた》で見ていて胸が痛くなるほど、あまりにも強烈な憧れでした。
知らないわよ、あたしは。
アナは思いました。
あの子の目にケンは、きっと天使長ガブリエルさまみたいに素敵にカッコよく凛々しく見えているんだわ。そんな彼がおとなたちも尻込みするようなお化け屋敷を奪還して来てみせたりしたら、もう完全に熱が冷めなくなっちゃうじゃあないの。
得意なような、不安なような、奇妙な気持ちでした。
こんな時にぐうぐう眠っちゃうなんて、あなたが悪いのよ。どうなったって、知らないから。自分のことは自分で責任取りなさいよ!
翌朝アナは、みんなより早く眼を覚ましました。
町はずれの丘の上のローズウォーターさんのご本宅では、誰も彼もまだぐっすり眠っているようです。でももう窓の鎧戸《よろいど》の隙間が横縞に、ぱあっと明るくなっています。いつも朝のミサの準備のために起きる時間は、もうとっくに回ってしまったのかもしれません。そう言えば、あのスノーマンの教会の小さな部屋以外の場所で眼を覚ましたのは、生れてはじめてなのでした。
アナはそっと身を起こすと、窓を開けに行きました。太陽はまだ低く、春まだ遠い丘の斜面には枯れた草がうっすらと広がり、流れる靄《もや》に静かに撫でられて寒そうに震えています。けれども視線を回すと、町に降りる道の近くにはもう何かの花が咲いているのが見えました。赤や黄色、ピンクのもあります。
ハロウィーンは、隣駅とはいっても、あの山裾の雪深い故郷の村よりはずっとずっと暖かい、暮しやすそうな町なのでした。
お花を見に行こうかな、とアナは思いました。
すごくたくさん咲いていたら、少しくらい摘んでもいいかしら。
ゆうべ、あのご飯の後で、こちらでエバンジェリンの家庭教師をしているというおっかなそうな中年のおばさんに切りそろえてもらった髪が、なんだか軽くて頼りないのです。揃えるだけにしてくださいねと何度も念を押して頼んだのに、家庭教師さんはへたくそで、なかなか裾がまっすぐにならなくて、そのくせ強情で完璧主義で、もういいと言っても自分の納得が行くまで止める気配がなく、気がついた時には三十センチも短くなってしまっていたのです。もう肩胛骨《けんこうこつ》にさわるかさわらないかのところ。編んでしまうと、なんだか小さい子みたいな変な髪型になってしまいました。
思わず涙ぐむと、家庭教師さんに言われました。冒険をしようなんて女の子は、すっきり短く思い切りボーイッシュな、ショート・カットにしてしまったほうが便利なんじゃあありませんか。
まぶたの裏に、フランス人形のようなエバンジェリンの巻毛が浮びます。おとぎ話の王女さまのようなドレスを、あの子はきっと、何枚も何枚も持っているでしょう。紫水晶の瞳にベールを被せるように伏せたまつげや、きゅっと小さくオチョボ口にしたっきりただの一度も開かれなかった赤い唇が浮びます。泥んこになったり、オオカミに襲撃されてスッパリ半分だけ髪が短くなったりするようなことは、あの子にはきっと一生起こらないのに違いありません。
同じくらいの年頃の女の子同士なのに、アナとエバンジェリンは、お陽さまとお月さまほども違っているみたいです。
そこのところを考えると、なんとなく、胸がチクチクします。こんなに幼稚っぽくなってしまった髪に、せめて、小さな花のいくつかくらいオトメチックに飾りたい。そんな風に思わずにいられないのです。
でも。
なにしろ、今は地球の危機なのです。そうでなくても、すべての生命が滅亡の危機に瀕しているのです。わざわざ今、きれいに咲いているものを、摘んで殺して弄ぶなんて。ずいぶん残酷じゃないでしょうか。
小さな名もない野の花だからこそ、光や土の恵みを、雨や風や虫たちのダンスを、せめてそのはかない寿命いっぱい、楽しませてあげたい。
そんなことも考えます。
いつの間にか祈りのかたちに組んでしまっていた両手に頭を伏せて、アナがさまざまなもの思いにひたっていると。
「こんやくだぁ?!」
隣の部屋からすごいわめき声が聞こえました。あれはケンです。
アナは急いで寝間着を脱いで旅の服を羽織り、廊下に出ました。わめき声は続いていますが、ぶあつい扉が邪魔でよく聞こえません。
「開けていい? あたしよ!」
声が止み、アナがノックをしていた手を下ろした途端に、内側から扉が開かれました。お眠《やす》み用の三角帽子をかぶったままのケンが、例のすさまじい目つきをして、すぐ近くからアナをにらみました。
「どうせおまえもグルだったんだろう!! なんてことをしてくれたんだよ!」
「なにが?」
ドキドキしながら、アナはきっぱりと首を振りました。
「何のことよ。どうして朝からそんなに機嫌が悪いの。何を喧嘩しているの。あたし、何も知らないわ!」
「ほんとか」
「ほんとよ。さっきの声、なに? 婚約、って聞こえたけど」
「ああ。……まぁ、入れよ」
一歩足を進めると、ケンがバタンと扉を閉めました。窓を閉めたままの部屋が真っ暗になって、あっち側のベッドに起き上がったロイドの表情を読むことができなくなりました。
「いったい、どうしたっていうの?」
できるだけ静かな声でアナが尋ねているのに、ロイドは答えません。どうやら横を向いたままのようです。ケンがずかずか前に出ながら、憎々しげに言いました。
「こいつ、ひとを、勝手に、知らない女の婚約者にしちまいやがった! 代理人ってことで、契約のサインをしちまったと言うんだ!」
めまいがして、アナの頭は真っ白になりましたけれども、すぐに話はわかりました。
つまり、ローズウォーターさんはシャイでひっこみ思案な娘のつつましい憧れを、さっそく叶えてやることにしたのです。エバンジェリンをケンのお嫁さんに迎えることを条件にしてくれるなら、鍵を貸してやるとでも言ったのに違いありません。
「ったく、油断も隙もありゃしねぇ。アナ、知ってるか? そのエバなんとかいう女。どうせひどいブズだろう?」
「そんなことないわ。すごく可愛らしい、今どきめずらしいくらいおしとやかなひとだったじゃないの。見てなかったの?」
笑い顔を作ってはみたものの、自分のことばが、のどを唇を内側からチクチクと刺しました。
「見てねぇよ、ブタの丸焼きだのエビ・フライだののご尊顔は心ゆくまで拝ませてもらったけど。じゃあなんだ、そいつ、ひょっとして大年増のオールド・ミスか?」
「ローティーンだと思うわ。ほんといって、八つくらいかもしれない」
「そんなガキがなんで今からツバつけられたがるんだ」
「上流階級だからじゃないの?」
「まさかホラー・タイプじゃないだろうな。夜中に天井まで首が伸びるとか、人体使っての日曜大工が得意だとか、主食がゴキブリだとか」
「気持ち悪いこと言わないでよっ!」
「じゃあ、なんで、行きずりの俺なんかと婚約しなきゃならないんだ?」
あなたに恋をしたからじゃないの!
言えないセリフがアナの胸の奥でイガイガしました。
「あのね。あそこは男子禁制なんだって。エバンジェリンの大切なひとでなければ、入れてもらうわけにいかないんですって。だから、ロイドも、困った果ての選択だったんだろうけど……」
ベッドの上のシルエットが、小さく何度もうなずいたように見えました。
「けっ! 狂ってるぜ」
ケンは前髪を掻き上げようとしてナイト・キャップに触れ、それを床に投げつけました。
「冗談じゃねぇ。そんな方便なら、なんでロイド、おまえ自身がを引き受けなかったんだ? だいたい、おまえはどうなんだ。俺らが化け物ととっくみあってる間じゅう、ここんちでのんびり骨やすめでもするつもりか」
「……婚約者の親友なら……同行してもいいって……」
途切れ途切れにロイドがつぶやきましたが、
「しんゆうぅぅっ?!」
ケンに胸倉を掴み上げられて弱々しく口ごもりました。
「そいつぁいったい、どこのどいつのことだい? えっ、まさか、俺が今この世で一番鼻持ちならねぇと思ってる眼鏡野郎のことじゃあねぇだろうなっ!」
「やめてよ、ケン。大声出さないで。みんな起きちゃうじゃあないの」
「あ、そーかいそーかい」
ロイドをつき離すと、ケンは改めてアナに向き直りました。筋肉のついた肩が、ぜいぜいと上下しています。こんなに興奮するとゼンソクの発作を起こすんじゃないかしら、とアナは心配になりました。
「なーるほど。そうか。おまえもやっぱりグルだったんだ。このバカがバカなことしでかすの見てたのに、止めようって気を起こさなかったわけだ」
「逆恨みよ! あんな時、さっさと眠っちゃったケンが悪いんでしょ。あなたのマナー違反がもともとの」
「マナーだぁ? じゃあおまえらのやったことはお作法通りだとでも言うのか」
「そんな揚足取らなくったって」
「あー、わかったわかった」
ケンは憎らしい目つきをして、へらへらと手を振りました。
「無理ない。確かに、あんたもそのほうが便利だもんな。俺に可愛い彼女ができれば、今後ずっと、心おきなく、こいつと仲良しこよしができるってもんだ。あ〜こりゃ、悪うございましたね。何もそんな、俺ごときに気ぃ使ってくれなくってよかったんですがね。なんなら次の宿からは、おたくらふたり同じ部屋にしな。もともと、俺は、ひとりっきりのほうが性にあって……」
ぱち・ぱっちーん!
ケンの頬っぺたが、右も左もぷっくりと腫れあがりました。どちらかというと向って左側のほうがより痛そうに赤くなりました。アナはテニスでもバック・ハンドのほうが得意です。
しばらくの間、火花が散るような視線がぶつかりあいましたけれども、ケンもアナも、どちらもなんにも言いませんでした。
アナは眉を怒らせたまま、心の中ではそっと力のラヂオのアンテナを伸しチューナーをいじってみました。けれども、ケンが何を考えているのかを知ることは、やっぱりできませんでした。ケンの放送局[#「放送局」に傍点]も、アナのラヂオも、顔を逢わせるまではあんなによく働いてくれていたくせに、思えば仲間らしくなってからこっち、いっしょにいるようになってからと言うものは、急に調子が悪くなってしまったみたいです。手を伸せば触れるところにいる今なのに、口をきいたこともなかった頃のほうが、心がうんと近かったみたいだなんて、まったく皮肉なことでした。
無駄な時が流れました。
アナはそっと視線をそらし、ケンに背中を向けて歩きだしました。止められるかもしれないと思ったので、かえって、スタスタものすごい早足でした。
声はかかりませんでした。
誰もいない廊下に出て、扉を閉めて。三歩歩いてさっき出て来たばかりの自分の泊った部屋に戻って、反対側から扉を閉めて。
その扉にもたれたまま、アナはしばらくの間、ただじっと動かずに、天井や窓の外をながめました。頭の中を、何かがいったりきたり暴れていましたけれども、そいつはたぶん、自由にしてやったらひどくややこしい事態になりそうな、醜い子鬼のようなものでした。だからアナは心に鉄格子をつけて、考えごと一切を封じ込めました。しばらくは唇がわななきチリチリと首筋の毛が逆立ちましたが、やがてそれもおさまりました。
外は明るくて、気持ちがよさそうでした。
とても地球の危機になんか見えない、まだ早春とも言えないくらいの、やさしく穏やかな朝でした。
それでもやっぱり、地球の危機なのでした。
ちょっとした仲間割れなんかで進軍を止めてしまうわけにいかないことくらい、三人ともよくわかっていました。
だから、いまいち気分がスッキリしないまま、ローズウォーターさんと無口な娘にハンカチを振って見送られて町を横切り、問題の幽霊屋敷に、またやって来たのです。
すったもんだのあげく借りだした鍵は、もちろんちゃんと扉に合いました。錆びついた鍵穴がギギィといやな悲鳴をあげて、重たい樫の戸が開きます。通り抜けると、自動ドアみたいにすぐにバタンと閉ってしまいました。
入ってすぐが、大きな広間でした。カビ臭いようなひんやり冷たいような、気分の悪い空気で満たされています。窓がみな外から釘を打たれているので、昼間のおもてを歩いてきた目には、そこは、いやに完全に真っ暗でした。
目が慣れるまでは動くと危ないので、三人は、しばらく黙って立っていました。何か口をきくことが憚《はばか》られるような雰囲気でした。古いマントルピースから、無雑作に置かれた中国製の壺から、埃まみれの天鵞絨《ビロード》のカーテンの陰から、今にも何かが出てきそうです。高い丸天井の隅のほうは特に闇が濃く、禍々《まがまが》しいものたちがじっと息をひそめて、こちらの様子をうかがっているような気配がしてなりません。
不安と後悔とせつなさと。アナは、心がむしゃくしゃして、わめきだしたいような気持ちでした。このままいつまでも永遠に、じっとしていなければならないような、そうだったらまちがいなく気が変になってしまいそうな、そんな気分です。ケンとでもロイドとでもいい、何かくだらない冗談でも言い交わして笑いあいたい、もとの元気な雰囲気に戻したいと思いますけれども、もしも誰かが声をかけてくれたとしても、変に拗ねてまた喧嘩を売ってしまいそうな気もするのです。
いっそのこと、さっさとお化けが出てくれればいいのに!
わぁっと大声をあげて、思い切り自棄っぱちの大暴れをすれば、気が晴れるのじゃないでしょうか?
キーッ。
どこか遠くでドアが閉るような音がして、アナの心臓はのど元まで飛び上がりました。
「……ど、どうします?」
たまりかねたように、ロイドが言いました。
「どっちに行くんですか?」
「知るか」
短くケンがつぶやきました。
「でも、行かなきゃ。ピアノを探さなきゃ」
「好きに決めればいいだろう。俺は自分のことさえ自分で決めることができない男なんだからな」
ケンの声に、自嘲の苦笑がまじりました。
「……そんな言い方はないだろう」
ロイドの声もとても低くて、自信なさげでした。アナは、ケンがまた何か怒鳴り返すのではないかと思いましたけれども、返事はありませんでした。そのほうが、なおさらよくありませんでした。
「キヒヒッ、キーッキッキッキッ!」
不意に、三人の足元に、金属のこすれるような声がありました。
見ると、一匹のネズミが、両目を三日月型にして、ピンと立てた髭を揺すぶりながら、ニヤニヤ笑っているのです。アナはあわてて心のモードを切り替えました。すると、とたんに、ネズミのことばがわかったのです。
「こりゃあ面白い。珍しい。まったく麗しい光景だねぇ、人間が三匹も連れ立ってやって来てわざわざ喧嘩をしているよ。キヒッキヒッキヒッ」
「ネズミさん!」
アナは心とことばで言いました。
「どうか教えてちょうだいな。弾き手もいないのに鳴るピアノって、どっちにあるの? どっちに行けばいいの?」
「ピアノ? ピアノってのは、あれかい? いっぱい穴が開いていて、滋養豊富な食べ物かい」
「それはチーズ」
「じゃあ、びちびち跳ねて、水っぽくって、ガブッとやるとちょっぴり苦い骨のあるあいつかい」
「それはお魚でしょう。食べ物じゃないの。ピアノっていうのはね、ほら、白い板と黒い板がいっぱい並んでいて、叩くと音の出るものよ」
「ああ、あれか。そんなの自分で探しな。知ったこっちゃないね。キヒヒッ」
からだじゅうを揺すって笑ったかと思うと、ネズミはぴょんとジャンプをして、アナの肩にはいあがりました。
「でも。おねーさん可愛いから、こっそりいいこと教えてやろうか」
「なぁに? 教えて、教えて!」
「だからねぇ」
ネズミが声をひそめたので、思わず耳を傾けたとたんに。
ガブリッ!
「きゃあっ!」
耳朶《みみたぶ》を噛まれてしまいました。
「ひとを頼りにするんじゃないよ。知らない相手を信用するなんて大間違い! この館にゃあ、あいにく善玉キャラなんか一匹だって登場しない。ひとたび中に入ったら二度と生きては帰れない、地獄の幽霊屋敷さっ! 甘い考えは捨てるこったね、キヒヒヒヒッ!」
アナが払い除けようとするよりもだいぶ前にネズミはするりと逃げ、素速く背中側に回ってへばりついてしまいました。そうして、大事な髪に食いついて体重をかけてぶらさがり、引き毟《むし》ろうとするかのようにひっぱるのです。
「あああっ」
思わずのけぞったアナの白いのどを狙いすまして、第二・第三のネズミが長四角型の前歯を剥いて飛びついて来ました!
「危ねぇっ!」
ケンのバットがなぎ払ってくれなかったら、食い千切られてしまうところでした。思わず両手でのどを押えるアナの髪にくっついていたネズミはすぐにロイドがナイフでこらしめてくれましたけれども、そのロイド自身の背中には一ダースものネズミが取りついているのです。棒倒しでもするように、ネズミの背中にまたネズミが乗るようにして、どんどん高いところまで駆け登って来ます。もう頭のてっぺんに到着して、長い尻尾でロイドの眼鏡のつるをからめて奪い取ろうとしている憎らしい奴までいます……!
気がつけば、キィキィチュウチュウ、そこらじゅうものすごい騒ぎです。あたり一面のネズミ、まるでネズミの絨毯《じゅうたん》のよう。床いっぱいのネズミが、次々に押し寄せ襲いかかります。丈夫な前歯でカリカリと、どこにでも噛みつこうとするのです。
長袖の上着に長めのスカート、膝まであるブーツを履いて手袋をして、からだじゅうほとんど覆い隠すようなかっこうをしていたのが、まだしもの幸いでした。けれども、ネズミたちも心得たものです。からだ中に取りつき、揺さぶりをかけてきりきり舞いをさせてフェイントをかけておいて、顔や首の素肌が剥きだしの柔らかい部分をきっちり狙って来ます。スカートの中にまでもぐりこんで暴れようとするエッチなネズミもいたりするので、まっすぐ立っていることさえ容易ではありません。
顔をかばい、スカートをかばい、必死でネズミたちを振り払っているうちに、アナはどんどん疲れてきました。もう今にも目が回りそうです。息が切れて、ぼうっとしても、休む暇もない。あたりの様子をはっきり見ることもできません。ケンがバットを振りまわす音が聞こえます。ロイドの振るうナイフにキィッと小さな悲鳴があがります。男の子たちは負けてばかりはいないみたいです。でも、敵は、なにしろ数が多すぎます。避けても避けても、逃げても逃げても、次々に新手が現れます。まったくきりがありません。始末に負えません。
白いの黒いの、灰色の。指の隙間から見えたネズミたちは、みんなとても痩せていて、殺気だっています。よっぽど空腹なのでしょうか。自分よりも何倍も何十倍もからだの大きな人間のこどもを、上等のご馳走だとでも思っているのでしょうか。もしかして、リュックの中にある非常用食糧を分けてあげたら、許してくれはしないかしら、とアナが考えはじめた時。
「……あっ!」
どこからか肩に飛びついて来た憎らしいドブネズミの長い尻尾が、鞭のようにぴしりとしなって、アナの両眼を打ちました。すぐに秘技・平手打ちでひっぱたき落として仕返しをしてやりましたが、焼けるように痛くてとても眼を開けることができません。それでなくとも床じゅうをちょろちょろされて、足元が不安定でならなかったのです。頭では敵だとわかっているのですが、アナには、わざと踏むことなんてとてもできません。眼が見えなくなった今、もうただの一歩も歩けません。思わずグラリとからだが揺れたところに、またしても何匹ものネズミに飛びかかられて、たちまち、バランスを失って倒れてしまいました。下敷になったネズミたちが哀れっぽくキュウキュウ鳴きましたが、仲間のはずのネズミたちはもう興奮して今だとばかりにザァッと駆け登って来ました。立ち上がるヒマもありません。たくさんの小さなものがキイキイ鳴きながら、脚を腕を肩を頭を這い回ります。ぴくぴくよく動く髭のくすぐったさ、からみつく尻尾の気持ち悪さ。顔はのどは、まだなんとかかばっていますけれども、カリカリ囓《かじ》る歯がもう服を破ってしまいそうです。お腹にでも噛みつかれたら、きっとものすごく痛いに決っています。アナは気が遠くなって……。
……気がつくと、上体を乱暴に引き起こされたところでした。腕を掴んで膝立ちにされ、からだじゅうをバシバシ叩かれて、ショックのあまりまた失神してしまいそうになりましたが、それが、しぶといネズミたちを引きはがすためだったのがわかって、ほうっと力が抜けました。
「しっかりするんだ。掴まって! 腕をかけて、つないで」
跳ね上げられた腕と腕がさわりました。アナは夢中で両手を組合せ、指をからめてしっかりとつなぎました。膝の裏と肩の後を支点にして、グンとからだが横抱きに持ち上げられたかと思うと、そのまま風を切って運ばれました。
「……こっちだ……!」
向うでロイドの声がします。じゃあ走ってくれているのは、ケンなのでしょうか。この腕が掴まっているのは、ケンの首なのでしょうか。さっきまで、あんなに機嫌の悪かったケンが、ちゃんと助けてくれたのでしょうか?
まだ頭が朦朧《もうろう》としています。船酔いでもしたように気分が悪く、からだじゅうどこにも力が入りません。もう少しじっとおとなしくしていれば、元気になるでしょうか。
いくつかの扉が開かれ、いくつかの部屋が駆け抜けられました。階段や、坂道みたいなところもありました。いつの間にか、あんなにうるさかったネズミたちの声が遠ざかり、代りに、はぁはぁとぜいぜいと乱れた呼吸の音ばかりが耳につくようになりました。他人の呼吸をこんなに近くで聞いたのははじめてでした。苦しそうでした。重いでしょう、下ろしてちょうだいと言おうとしたのに、声になりません。悪いなと思いながら、アナは、ただ祈り続けることしかできませんでした。早く一刻も早く、この場から逃れられますように、と。
少年たちは、ほとんど立ち止まりもせずに、いつまでもどこまでも走り続けました。時々、何かが襲って来ては、ロイドのナイフやスタン・ガンで、ケンの脚蹴りや頭突きで、押し退けられているのがわかりました。
ガクガク揺れて、落っことされそうになる時も少なくありませんでした。回した腕に必死に力をこめてしがみつくと、ごわごわした布地にぴったりと顔が張りついてしまいました。まるで、ケンの胸に寄り添ってるみたい、と思ったとたん、頬が燃え、からだじゅうに心臓が出張したかのように、どこもかしこもドクンドクンと脈打ちはじめました。しかもなにしろ、こんなにしっかりくっついているのです、そのことがみんな、ケンにわかってしまいそうです。
それが悔しいのか嬉しいのか、得意なのか恥かしいのか、今自分がイヤでたまらないのかけっこう気持ちいいと思っているのか、アナには全くわかりませんでした。そんなことを分析したり深く考えたりするヒマはまるでなかったのです。吐き気を堪え、痛む眼を我慢しているだけで、せいいっぱいでした。すべては知らないうちに、回りを通り過ぎて行きます。いっしょに戦うべき仲間なのに、こんな面倒をかけてしまっているのです。なんて情けないんでしょう。
目尻から耳に流れこむ熱い涙は、だんだん、ただ痛みのためだけではなくなって来ました。
ここを無事に出ることができたら、あたしは、もう家に帰ろう。
そんなことも思いましたけれども、ほんとうに、もう一度お陽さまの下に立つことができるのかどうか、わかったものではありません。
戦士たちはどうやら迷子になったらしいのです。なんだか同じようなところを、ぐるぐる回っているみたいです。ピアノのある部屋どころか、出口の方角だって、もうチンプンカンプンなんじゃあないでしょうか。いったりきたり、登ったり降りたり、道に迷ってしまった人間がやりがちの行動パターンが、ここのところずっと繰りかえされているのです。忙《せわ》しないのに単調な、いやな時間が流れました。
「……違う! ここも行き止まりだ!」
先のほうで、怒ったようにロイドが言う声がしました。ケンはものも言わずに踵《きびす》を返して、今降りて来た階段を登りはじめ、途端にギクリと足を止めました。
「……どうしたの……?」
擦《かす》れた声をようやく絞り出すと、ケンの胸が揺れました。薄くあけた眼に、眉から眼にかけてはとても真剣なのに、口許《くちもと》がはげますように笑っている、不思議なケンの表情が、ななめになってアナを見降ろしていました。
「立てる?」
声も静かでゆっくりで、いやにやさしい感じでした。
「うん」
「じゃあ。下ろすよ」
膝をかがめて、そうっとつま先をつけて、それからゆっくり起こしてくれたのですけれども。長い事絶叫マシーンに乗りっぱなしだったみたいなアナのからだはやはりふらふらで、どの方向が地面に対して垂直であるのかを自力では決めかねました。よろけるアナの肩をあわてて押えながら、ケンは、さっきのいつもよりだいぶやさしい声のまま、そっと言いました。
「退《さが》っていて」
まだ痛んでしかたのない眼をごくごく薄くだけ開けてみて、アナは見ました。階段の向うから、鈍く輝く鎧姿の騎士がふたりも、ゆっくりゆっくりと降りて来るところだったのです!
そう言えば、ガシャン、ガシャン、と重たいものがぶつかるような気味の悪い音が、ずっと聞こえていたのでした。だんだん近付いて来ていたのでした。
叫ぼうとして振り向くと、ロイドはロイドで、見るからに幽霊らしいふわふわと空中を漂うものと無言でにらみあっているではありませんか!
じりり、じりり、とケンが下がって来ました。
もそり、もそり、とロイドが上がって来ました。
三人は階段の途中で、上と下からなんとも強そうな敵たちに挟まれて、少しずつ少しずつ追い詰められているのでした。
これがあの有名な、絶体絶命というものではないでしょうか。
「アナ」
ケンが向うを向いたままつぶやきました。
「なぁに」
「短いつきあいだったな。けっこう楽しかった。イヤミばっか、言ってごめんな」
アナはのどが詰って返事ができませんでしたけれども。
「やめてくれよ。縁起でもない」
ロイドが、少々無理っぽい声で笑いました。
「諦めるのはまだ早い。知らないか、正義は必ず勝つんだぜ! ……行くぞぉぉぉぉ……やぁぁっ!!」
凄《すさま》じい気合いが走ったかと思うと、ロイドが幽霊にブーメランを投げつけました! たちまち敵は白熱したかのようにふくれあがり、アナは思わず、やった! と叫びそうになりましたが、爆発する瞬間そいつは調子っぱずれのベルのようなとんでもない悲鳴をあげたのです。
びりりりりりりりりり〜〜ん!!
するとどうでしょう。あっちの壁から、こっちの床から、天井や柱やかけられた肖像画の中からさえ、全く同じかたちの幽霊たちがわんさか出てくるじゃあありませんか!
「なんてこった。増えちまった! ははぁん、こいつは一種のめざまし時計なんだな。やられる一歩手前になると、アラーム音を発して仲間を呼び寄せる習性があるらしいぞ。ううむ、手強い。そうだ、アラーム・ゴーストと命名しよう」
こんな時だというのに。ロイドもほんとうに学究肌ですね。
その頃、反対側では。
「メーンッ! ドウッ! ……コテぇぇッ!!」
ケンが騎士たちにバットで殴りかかっておりました。なかなか筋は悪くないのですが、何しろ敵はふたりです。どちらもギクシャクと動きこそ鈍いのですが、すごい力で槍《やり》や剣を繰り出して来ます。ケンはちょこまかすばしこく動き、せいいっぱい機敏に攻撃を繰り返していましたが、なにしろ身長が大違い。あっちは二メートルもあるんですからね。リーチにハンディがありすぎます。そのうちにとうとう、騎士のひとりが振り下ろした槍で肩に強烈な一撃を食らい、思わずバットを落としてしまいました。
「ううう、まずい! し、しびれて、腕がしびれて、バットが持てな……ごほっごほごほっ!」
ガシャン。ガチャリンリン。ガシャン。シャリシャリ。上側は上側で騎士たちがすぐそこまで近付いて来ていて、今では、一足ごとに鎧の継ぎ目が擦り合わされる音までが、聞こえてしまうくらいです。なのに、ケンときたらこんな時に突然発作をおこして咳こんで苦しんでいるばかりなのです!
「こっちも……うわぁ、こっちも、もうとても……ええーいっ!! わぁ、また増殖してしまった! どうしよう」
びりりりり! びりりりり! 一匹やっつけるごとに、四・五匹の幽霊が増えるのです。刻一刻と増え続け、今では階段の下側はほとんどお化けの寿司詰め、幽霊のラッシュ・アワーといったありさまになってしまっているではありませんか。
アナは階段の隅にうずくまっていました。
寒くなんかないのに、汗をかいているくらいなのに、からだの芯からガクガクと震えが走って止りません。見ているものがブレるくらいの、頬がぶるぶる揺れてしまうくらいの、押えようとしても押えられない震えです。首をすくめ、指をくわえ、アナは拗ねていじけた幼稚園のこどものようにきつくきつく膝を抱えこみました。
「……いや……いや」
あとからあとから涙があふれ、意識していないのに頭がブンブン横に振られました。男の子たちが今にもやられてしまいそうなことはわかっているのに、何かほんのちょっとでも手伝ってあげられることがあったらとほんとのほんとに思っているのに、恐ろしくて、信じられなくて、たまらないのです。
逃げ出したい。ここからいなくなりたい。
誰か、こんなこと、悪い夢だと言って……!
「うわぁっ!!」
とうとうロイドが倒れました。アナのつま先の向う側、下り階段に這いつくばるようにうつぶせて、眼鏡のずれた苦しそうな顔で、何か言っています。こちらのほうにぎこちなく手を伸して、何かを掴もうとしているかのようです。何か頼んでいるようでもあります。
けれども、アナはなぜか思わず、もう少しで触られそうになったつま先をひっこめてしまったのです。頭の中では、大切な仲間なんだ、助けてあげなきゃいけないんだとわかっているのに、動けないのです。どうすることもできないのです。
なんて自分勝手な、ひどい仲間でしょう。こんな覚悟で、地球の危機を救いに行くんだなんて、なんて思い上がっていたのでしょう。
アナの眼に、ドッと熱い涙があふれました。
すると。
その瞬間。うっすらと、ロイドが、笑ったのです。
まるで、『いいよ、それでも』と言うように。
女の子は戦いになんか向いていないんだ。だから、それでいい。しかたないんだ。恨みはしない。それより、きみのことをちゃんと守ってあげられなかった力のないぼくを、どうか許しておくれよね?
ロイドの心を、読んだような気がしました。
濡れて、揺れて、ずっと不自然なくらい大きく見開かれすぎていたアナの瞳が、不意に静かに澄みきりました。同時に、からだじゅうの震えが、ぴたりと止りました。
立ち上がると、アナは、両脇に垂らした拳を軽く握り、息を止めて、眼を伏せました。
アンテナのような、避雷針《ひらいしん》のような物になった自分を想像します。宇宙を巡るエネルギーの厖大《ぼうだい》で自由でパワフルな流れが、自分の中に呼ばれ、集まり、蓄えられて行くのを感じます。そうしてそれがいっぱいいっぱいに張り詰めた時、アナはまだ赤い瞳をカッと開いて、唇から声にならない気合いをほとばしらせました。
「…………!!」
光です……!
明るすぎて、真っ白すぎて、しばらくは何も見えなくなるほどの強い強い一点の光が音もなく出現し、たちまち破裂するように広がりました……!
傷ついた戦士たちの網膜が、やがて視力を取り戻した時、あたり一帯には、彼等以外何ひとつ動くものはありませんでした。化け物どもは、あの強い光に押し潰され浸食されなぎ払われるようにして、消え去ってしまったのです。
「……な、何が起こったんだ……?」
のろのろと立ち上がりながら、ロイドが言いました。
「まるで超新星の爆発みたいだった。はたまた、あれが噂のホワイト・ホールってものなのだろうか?」
「ううう。ひでぇじゃねぇかよ、アナ」
唸《うな》るようにケンが言い、まだぼんやりしているアナの肩を揺すぶりました。どうやら発作はおさまったみたいです。
「水臭ぇぜ。あんなとっときの大技があるのに、なにもったいぶってたんだ。サッサとやってくれりゃあ、苦労しないのによ」
「えっ、アナが? やっつけちゃったんですか、あれを全部?」
「だろ? このひとは、俺なんかよりよっぽど強力なPSIだったらしいな。まぁ可愛い顔しちゃって、おっかないおねーさんだこと」
からかうようにケンに顎を撫でられて、アナはやっとハッと正気に帰りました。
「さわらないでっ!」
「た、たんまっ! わかったわかった」
ケンは手をひっこめながら、ニカニカしました。
「おー怖い怖い。頼むぜ。癇癪《かんしゃく》のあまり、俺らを消し飛ばさないでくれよぉ」
「…………」
「やれやれ。まいったな。それにしても信じられないねぇ。さっきなんか、こーんなちいちゃなネズミどもにちょっと甘えられたくらいで今にも死にそうな顔してたのにさぁ。俺ごときの胸元にギュウッとしっかり抱きついてくれたりしてたのになぁ。どうでしょ、この豹変《ひょうへん》。女にゃまったく適わないねぇ……おっと!」
三度めの平手打ちは、手首を掴んで止められてしまいました。アナが睨むと、ケンはもう一方の手のひとさし指を立てて、ちっちっちっ、と揺らしてから、やっと離してくれました。
「……そうかぁ、すっごいなぁ……すっごいんだ、アナって……」
ロイドはしきりに感心してくれましたが、アナはなんとなく気分が晴れません。
ほぉらね、これで見直してくれた?
ニッコリ笑って、冗談めかしてそう言いたいのに、なぜか胸を張ることができません。
意識して、あの恐ろしい力を『破壊すること』に使ったのは、はじめてでした。そりゃあこれまでにも、発作的にお茶碗やガラス窓を割ってしまったことはあります。でも、何かをほんとうに『殺してやりたい』『木端微塵《こっぱみじん》にしてやりたい』『跡形もなく滅ぼしてやりたい』と思ったことなんて、ただの一度だってなかったのです。
これまでは。
でも今、非情ないくさの旅の途上にある今となっては、何度も、何度でも、全身全霊を賭けて戦わなければなりません。それが戦士というものです。自分を、仲間たちを、世界を守るためには、中途半端な甘い覚悟ではとてもやっていけそうにありません。いろんなものを殺したり、叩き壊したりして行かなければ、道はできないのです。旅の終点に、届かないのです。
アナの心の中をひゅうひゅうと冷たい風が渡って行きました。なんだか、広い広い野原の中に、たったひとりぼっち取り残されてしまったような、心細い感じがしました。
その気になってみたら、あたしの力は、恐ろしいほど強かった。バットよりブーメランより、ずっと強かった。
じゃあ、あたしって、ケンより、ロイドより、強いってこと……?
もう止らない、この戦い。
そうしてあたしは、守ってもらう側じゃなく、守ってあげる側に、進んで戦う側に立たなければならなくなってしまったんだ。この恐ろしい力も、神さまが与えてくださったものならば、無駄にするわけにはいかない。ちゃんと考えて、自分の責任で、自分から進んで、使っていかなくっちゃならないんだ。
肩も手足も、心も、この素晴らしい力も、アナにはあまりにも重たすぎました。
ぶるぶるっ、と武者震いが走りました。
「……アナ……?」
のぞきこむケンの心配そうな顔に、無理をして唇の端っこだけ微笑んで見せましたけど、それがかえってよくありませんでした。強がった眉が細かく揺れたかと思うと、おおきな涙の粒がひとつ、ころん、とこぼれてしまいました。
「ど、どうした? どっか痛いの?」
ああ、もう。男の子って、なんてバカなんでしょう。鈍感なんでしょう。
そんなんじゃないわよ!
イヤイヤするように首を振っているうちに、ほんとうにすっかりダメになって、アナはわぁわぁ泣きだしてしまいました。驚くケンの首っ玉にいきなりしがみつき、埃臭いジャケットに鼻も頬っぺたもグシグシ擦りつけながら、吠えるように思い切り声をあげました。そうして、ケンの手が、腕が、さんざん戸惑ったあげく、やっとそっと背中を抱きしめてくれた時にはじめて、やっとほんの少し気がおさまったのでした。それでもまだ惜しくって、しばらくクスンクスン鼻をならしながら、甘えたりもしてしまったのですけれども。
「……幼稚なやつ……」
そうっとうわ目使いに見上げると、ケンはサッと知らん顔をしました。天井の関係ない方角を見つめたっきり、鼻の穴を広げ、唇をねじまげ、怒っているような照れているような妙ちきりんな表情にソバカス顔をこわ張らせて、緊張しているのでした。
アナは思わず、吹きだしてしまいました。
『幼稚なやつ』はどっちでしょう。口先や意識の表層では、エッチなことやおとなびたことを言ったり思ったりするくせに、まだまだてんで純情なケンなのでした。
「ごめん。ありがと」
アナがからだを離すと、ケンはたちまち全身の力を抜きました。あんまりあからさまにホッとされたのには少々むかつきましたけれども、なにしろ相手はケンです。複雑怪奇なおとめごころとその結果の衝動的な行動について、ちゃんと理解してフォローして欲しいなんて、要求するほうが、どだい無理なのかもしれません。
そっとため息をついた時。
「おーい、こっちこっち。来て来て!」
階段の上の部屋から、ロイドが顔をのぞかせました。
「驚いたよ。さっき気づかなかった扉があるんだ。そのくせ、何度も通らされた廊下がどこにもなくなっていたりしてね。あの光は、迷路を作っていたニセモノのドアも消してしまったのかもしれないな」
「よおし!」
ケンはすぐさま、駆け出しました。
行こう、と声をかけてくれさえせずに。
アナはもう一度ため息をつくと、急いでふたりを追いかけました。
邪悪な者たちが作りあげた幻の回廊が消え失せてしまえば、館じゅうを探検するのはわけのないことでした。三人はやがて、おおきなピアノのある部屋に立つことができたのです。
「……きれい……」
それは、ちょうどエバンジェリンの瞳のような深い紫色の、グランド・ピアノでした。アナが歩みよって鍵盤の蓋をあけると、とたんに不思議なメロディが流れました。
こうして幽霊屋敷探検の目的は、みごと達成されたのです。
しかし。
この時はじめて、三人は思いだしました。ローズウォーター邸に戻れば、もうひとつ難問が控えているのです。
「……なー。このまま、逃げちゃわねぇ?」
気弱そうな作り笑いを浮かべながら、ケンが言いました。
「鍵はどうするんですか。返さないんですか?」
ロイドが、だめだめ、と首を振りました。
「それはあんまり正義の味方らしくないと思いませんか?」
アナは何にも言いませんでした。口を開いた時、どんなことばが出てくるのか、自分でもさっぱり予想がつかなかったからです。
その頃。
ローズウォーター邸の二階の、エバンジェリンの部屋の鏡という鏡が、突然、全部いっせいに割れて砕けて散りました。戦士のマントに紫色の糸で『E』の飾り文字を丁寧に刺しゅうしていたエバンジェリンは、あんまりびっくりしたので、うっかり指を刺してしまいました。
真っ白い指先にゆっくりと滲《にじ》んでくる血を、エバンジェリンは、しばらく黙って見つめていましたが、やがて蒼白《そうはく》な顔つきに固い決心をみなぎらせて、おとうさまのところに行きました。彼女にしてはせいいっぱいの全速力で、走って行ったのです。
「どうもどうも、ほんとうにありがとうございました。みなさんは真の勇者です、正義の戦士です! どうかたっぷり食べて、ゆっくりおやすみになってください、どうぞどうぞ、ご遠慮なく。あ、ですが、実はですな」
また違うデザインの、でもやっぱりフリルひらひらのブラウスの袖口のレースをすり合わせるようにして揉み手をしながら、ローズウォーターさんがまた、いかにも意味深な間を取りました。
三人は思わず顔を見合せました。誰も彼もなんとも暗い表情でした。もしも、ケンはもうエバンジェリンのフィアンセなんだからこのままこの町に残ってくれなければ困る、などと言いだされたら、いったいどうすればいいのでしょう? こんな、海千山千の、口八丁手八丁の、たたき上げの(?)おじさんを相手に、ちゃんとうまく言い訳をして、言い逃れをして、説得をすることができるのでしょうか。それとも、世界を救うための旅は、こんなところで挫折してしまうのでしょうか。
「例の……そのう、婚約の件ですが」
あああ。三人は三人とも、ギュッと眼をつぶってしまいました。
ところが。
「なし、に、していただけませんか。いやはやはなはだ勝手なことを申し上げてまったく心苦しくはあるのですが」
と、言われたではありませんか。
「え」
「ええっ?!」
「ほんとにぃ?」
三人の声には、ついつい元気があふれてしまいます。
「いやはや、ほんとうに面目ないことなのですが。実はでございますよ、こんなこと申し上げるのはたいへん心苦しいのでございますけれどもですね。うちの愚娘が申しますには、『結婚の約束をした相手に思いをこめて縫い物編み物刺しゅうなどの手芸をしている最中に、もしもあなたの愛用の櫛や鏡が壊れたら、その結婚はあまりにも不吉ですから、すぐに中止しましょうね♪』と、権威ある占い・おまじないブックに明記されているのだそうでございますんですわ。それがまぁ、驚きました。本日さきほど、娘の部屋中の鏡が、そりゃもうみごとに」
「割れちゃったんですか?」
「はぁ、全部」
思わず青空のような笑顔を浮かべたケンは、アナに肘でつつかれて、あわてて口許をひきしめました。
「それはあいにくでした。じゃあ、あの契約書っていうやつも返してもらえますね?」
「はい、こちらです」
たぶん、あの白い光が影響したのでしょう。ハロウィーンの町のひとびとも、すっかり正常に戻っていました。
だから。
駅までの道をおおはしゃぎで行進しながら、紙ふぶきを撒いていた三人が『ゴミを散らかしてはいけません!』って叱られてしまったのは、なにも宇宙人のせいじゃあなかったんですよ。
4 砂漠にて
砂、砂、砂、砂、砂……。
どこまでも単調で変化にとぼしい、絵に描いたような殺風景。さっき見た景色と、ちょっと前に見た景色と、ずっと前に見た景色と、もうどれがどれやらわかりません。まるで悪夢の中を歩いているみたい。
行く手に砂丘、右に砂原、左は巨大なお砂場です。空気までが、砂塵《さじん》に黄色く煙っています。あえて言えば、振り返って見る後側だけがほんの少しはマシかもしれません。たった今こしらえた自分たちの足跡が、よろよろとふらふらと伸びていますから。でも、そのたったひとつのアクセントさえ、からだで感じることができないほどのささやかな風にゆっくりと埋められて、いつの間にかどんどん消えていってしまうのです。
時々登り坂にさしかかります。この丘陵のてっぺんに立てば、今度こそ、何か変ったものが見えるかと知らず知らずのうちに胸を高鳴らせても、いざたどりついて見れば、またしても良く似た光景。どこまでも果てしなく続く砂と砂と砂ばかり。
三人は、へとへとで、うんざりで、すっかり退屈しておりました。
いったい、どのくらい歩き続けたのでしょう。
やめようと言いだす勇気(?)は、誰にもありませんでした。引き返すのとこのまま行くのと、どちらが長いものかわかったもんじゃあない。だいたいこんな途中で諦めてしまったら、心がくじけてしまいます。くじけた心を慰めるお散歩には、あまりにもむなしいコースでした。
ちなみに、このアドベント砂漠に関して、例のベストセラー『冒険好きな少年たちのためのハイキング・ガイド・ブック ――きみも自然とふれあいを!――』の紹介文をちょっと引用してみます。
『危険で陰険で広大。詳細な地図はない。前大戦の際A国とB国が衝突した現場であり、英霊のたたりがあるとか莫大な財宝が埋められているとか、まことしやかな噂多々あり。北部山岳地帯にはイエティ型怪物およびオフロード・バイク暴走族が出没するとも言われている。超弩級マゾヒスト向き。厳重で周到な装備をし、保護者同伴のこと。さもなきゃ地獄へまっしぐらだぜ! お勧め度・マイナス一〇〇(髑髏マーク)』
誰ひとりこれを読んでいなかったのが、三人の不幸でした。『こどもは風の子』と言いますが、やっぱり時々は本屋さんに行って欲しいものだと思います。
非読書家ぞろいの地球防衛軍は、まさか、そんなに大変な場所とも知らず、軽い気持ちで踏みこんで、そのまま深みにはまってしまったのでした。なにせ正義の味方ですから、そんじょそこらの苦労は苦労とも思わないような強がりを、つい、お互いにしてしまったりもするのでした。
ただし。まだ少なくとも、道には迷っていないはずです。ロイドが、すごくいい腕時計をしていたからです。昔おとうさんがお別れの時にくれたお手製のその時計は、標高八千メートル級の山地でも水深百メートルほどの海中でも、正確な時を刻み続けるはずです(フツーの人間は、時計が壊れるよりもだいぶ前に天国ですが)。ストップ・ウォッチと計算機と万歩計と脈拍計と血圧計と消費カロリー表示機能と簡単なテレビ・ゲームがついていて、さらに、短針を太陽の方向に合わせると二重ディスクの内側の表示がズバリ北を示してくれるのでした。
東へ東へ、できるだけ一直線に向っているので、午後を回りはじめてしばらくたった今、日差しは、戦士たちの背中側から照りつけているのでした。このままどんどん進んで行けば、そのうちにはあのホーリー・ローリー・マウンテンが見えてくるはずなのです。
そう! あのにっくきホーリー・ローリー・マウンテンが……!
ほんのチラッとでも見えさえしてくれれば、わりと元気にがんばれそうなものなのですけれどもねぇ。
直射日光はきついし、荷物は重いし。一歩踏み出すごとにくるぶしのあたりまで細かい柔らかい砂の中に埋りこんでしまうのですからたまりません。淡々とコツコツと辛抱強く歩くだけでも、まったく重労働でした。
中でも一番へばっているのは、ロイドです。めったに読書こそしませんが完全な書斎派、アウトドア活動は大の苦手なのですから。コンピュータは熱や埃に弱いので、特に清浄に一定に空調の効いた部屋に置いておかなければなりません。これまでロイドの人生の大半は、そんな部屋の中で過ぎて来たのです。そういうカラダになってしまっていても、無理のないことではありました。
帽子の後半分にハンカチを挟んで垂らしたあんまりみっともよくないかっこうで汗と首の日焼けを防いではいるロイドでしたが、たちまち体力がなくなって来ました。へろへろよたよた、情けない歩きかたしかできません。最初のうちこそ、靴に入った砂を神経質に嫌がってしょっちゅう立ち止まったり紐を締めなおしたりわざわざブーツを脱いでさかさにしてポンポン叩いたりしていたのですが、今ではもうすっかり諦めて、自棄っぱちのように、ドサッドサッと、全体重をかけた歩きかたになりました。ひとりあたま三缶も持ってきたスポーツドリンクも、どんどんガブガブ開けて飲んでしまったので、あとのふたりよりは多少装備が軽いはずなのですけれども。
「……なーぁ、そろそろぉ、やすまない、かぁぁ!!」
しゃべりかたも、聞いてるほうの力が抜けるほどすっかりダレてしまっているのでした。
「こんなとこでか?」
ケンはシャツの胸元をパタパタさせて中に風を送りながら、苦笑しました。
「もう少しがんばれよ。きっと、そのうち、オアシスか何かがあるさ」
「むっ。……こら、いかん、それはまずいぞっ!」
ロイドは急に怖い顔になってそっくり返りました。
「『オアシス』というのは商標なのだ。正確には、ワード・プロセッサーと言わなければならないのだぞっ!」
声を出した分ますます力がなくなって、ふにゃふにゃふにゃ揺れながら、ロイドはあきれるふたりに講義でもするように言い続けます。
「『バンドエイド』は救急バンソーコーだし、『セロテープ』は粘着テープ、『エレクトーン』は電子オルガンなのだ。ではここで質問です。『ホチキス』は、何と言うのが正しいでしょうかぁっ?」
「はい」
「アナさんの手が早かった。答えは?」
「ステープラー」
「ぴんぽぉん! せーかいです!」
ニッコリ笑って片手を宙につきあげたとたん、ロイドの目玉がくるっとひっくり返って白くなり、顔色もガミラスになりました。そうして木が切り倒される時のようにゆっくりと傾きはじめ、砂を蹴たててデーンと倒れ、そのまま動かなくなってしまいました。
「……やれやれ。しょうがない。休むか」
ケンは、自分の影が少しでもたくさん気絶したロイドの上に落ちるような位置を選んで腰を下ろすと、背中のリュックを開けて、ポカリスエットを、おっと失礼、某スポーツドリンクの缶を、二つ取りだしました。
「ほら」
そのうちのひとつをアナに放ってくれるのです。
「いいわよ、あたしもまだ三つあるし」
「じゃあ寄越しな。俺が背負う」
アナは瞬《まばた》きをせずにケンを見つめました。
「なんだよ。取りゃしねぇよ。ちゃんと返すって」
「そうじゃなくって」
笑ってみると、乾ききった唇がちょっぴりひきつれました。
「じゃあ、これは、ロイドにあげましょうよ。そっちをひと口わけてちょうだい」
ケンは黙って肩をすくめると、プシュッといい音をさせて缶を開けました。乾いたのどが思わずゴクンとなってしまうような音でした。
顔を上に向けて、高いところで缶を傾けると、スポーツドリンクはちゃんとこぼれもせずにまっすぐにケンののどに注ぎこまれました。陽に灼けて赤く、汗の流れの上に砂埃がはりついているのがまるでアマゾンの地図みたいなのどでした。
「……ふうっ。あと、やる」
渡された缶は、まだ半分以上入っているみたいでした。それはともかく。
間接キス、そんなにやなわけ? 失礼しちゃうわ。
と思ったりしたので、アナのほうもやっぱり黙って肩をすくめました。
しっかり口をつけて、ゆっくりゆっくり啜《すす》りこんで味わいます。スポーツドリンクはもう相当に温かったけれど、からだじゅうに沁みわたる感じがしました。うんとたっぷり時間をかけて大切に飲んで、ふと視線を感じて顔をあげると、ケンはあわててそっぽを向きながら、うっかりのどボトケを動かしてしまいました。そしてそれをごまかすかのように、急いで言いだしました。
「ちくしょお……鉄道さえ生きてりゃなぁ!」
「そうね」
返そうかな。でも、そんなことしたら、怒るかな。
たぶん怒るな。
アナは何にも考えなかったようなふりで、ゆっくりゆっくり飲み続けます。
「鉄道さえオッケイだったら、こんなくそかったるいとこはさ、涼しい車内にるんるん座ったまんま、コーラでもバカスカ飲みながら横目で見て通れてたのにさ。キャアーッ、うっそぉ、イヤーン砂漠よぉ、かあいー♪ なーんつって、ピースでも出して順番に記念写真でも撮って、最後に俺が写ろうとした途端に通過しきっちまってガーン、ガッカリ、だったりしたんだろーに」
「…………」
ああ、もう最後だ。
最後のひと口分をアナはそうっとハンカチに注ぎ、それで、まだ伸びているロイドの顔や首を丁寧に拭いてやりました。後からちょっとベタベタするかもしれないけれど、取り敢えず涼しくはなるはずです。
あんなにきれいだったハンカチが、いつの間にかすっかりボロボロの雑巾みたいになってしまっていました。軽く絞ったその雑巾ハンカチをロイドの立派なおでこに乗せてやって、ふと見ると、ケンは膝を抱えて、砂漠のかなた、これから歩いて行こうとしている地平線のほうを見つめていました。つい今バカ話をした奴とも思えない表情です。軽々しく声をかけることができないほど、真剣に一心不乱に、何かを考えている横顔でした。
しかたなくアナもきちんと体育座りをして、ぼんやり砂漠をながめてみました。
光と影と、砂だけ。
ゆるやかな丘とゆるやかな谷、遠近感がおかしくなって来るような、あくまでも単純で退屈な風景。
それでもずっとじぃっと見ていると、かすかにかすかに砂が動いているような気がしました。まるで人間とはうーんと尺度の違う時間を生きている巨大な生物のように。星だって、生れたり死んだりするんですもの。砂漠だってもちろん、誕生し、育ち、滅びてゆきます。今あるこの砂漠は、砂漠の生涯のいったいいつ頃にあたるのでしょう。老人か、青年か、それとも赤ちゃんか。
……赤ちゃん……?
アナは眼をあげ、あたりを見回しました。両手を当てて、耳をそばだてました。
「どうした」
ケンが敏感にこっちを向いて尋ねます。
答えずに、アナはしばらくじっと肩に力を入れ眼を閉じて意識を集中しましたが、ダメでした。
「……気のせいだったみたい」
ふうっと力を抜くと、じんわり汗がにじみました。
「なにが」
「赤ちゃんの声が聞こえたの。そんな気がしたの」
「赤ちゃん?」
「うん」
「山猫かなんかじゃねーのか?」
「……そうかもしれない」
素直にうなずいたアナでしたが、ほんとうは、絶対に猫なんかじゃあないと思いました。だって、それは、ただの泣き声じゃありませんでした。アナの名前を叫んでいたのです。まるでおかあさんを呼ぶ時のように、強く、激しく。
『アナーッ、アナーッ、来て、はやく来てください、私はここです、ここですよぉ!』
でも、そんなの、やっぱり、気のせいかもしれません。なにしろ考えごとをするには暑すぎます。どんな幻や錯覚が訪れたって不思議はありません。
アナがほうっとため息をついた途端。
「うっ……なんだあれは!」
ケンが指差す空の一画に、陽光を反射して時々キラリと光る何かがいくつもいくつも見えたのです!
それらはジグザグ飛びながら、幾何学的な図形に隊列を組んでゆきます。演習をしているようにも、班ごとに集合しているようにも、点呼を取っているようにも見えます。しばらくじっと眼をこらすと、どれもみな同じ、だいたいお皿をひっくり返したような形の金属っぽい物体であることがはっきりとわかりました。十も二十も、いいえ、もっともっとたくさんいます。どんどん数が増えてゆきます!
「フライング・ソーサー!!」
ケンは青い眼をカッと開きました。
「UFOなのね! あれ、敵の宇宙人?」
「知らん。たぶんそうだろう。えーいくそ、どのくらい距離があるかわからないと、いったいどのくらいでかいかもわからないな……うっ、まずい。こっちに来る! 隠れるんだ!」
「うん!」
ふたりはロイドのからだを両脇から支えて、ザァッと斜面を滑りおり、円盤から影になるほうに身を伏せました。
飛んだ砂でもかかったのでしょう。
「うわぁ、ぺっぺっ。なんだなんだ!」
やっとロイドが目を覚ましました。
「しっ!」
ケンが唇に指をたてました。
「伏せてろっ。なんなら砂かぶれ。潜っちまえ」
「敵か?」
「円盤だ」
「円盤だとっ? 見たいっ」
「こら顔を出すんじゃない、バカッ! おいロイドッ!」
ケンが腕を伸して押える間もなく、犬かきをするような四つん這いのかっこうでアッと言うまに砂を登りかけたロイドでしたが。
「動かないでっ!」
アナの剣幕に、さすがにぴたりと止りました。
「そのまま! そうっと、じっとしてて。サソリがいる」
「さっ、サソリぃっ?!」
半分ずれた眼鏡の下で、ロイドはたちまち泣きべそ顔になりました。アナの眼の示している方向の砂面に、ゆっくりと、首の皮がねじれるほど無理に頭を回すと、見えました。ロイドの耳からほんの三・四センチほどのところで、狂暴そうな赤いものが、頭部を低くし、長い尾部をピクピク苛立たしそうにうごめかしながら、攻撃のタイミングを計っているのです。
うへっ、とロイドは眼を閉じました。
「な、な、なんとかしてくれェ」
「わかってる。動かないで!」
厳しく言うと、アナはまぶたを半分にして意識を集中し、サソリの心にそうっと心の手を伸しました。
「だいじょうぶ。だいじょうぶよ。いい子ね。こわがらないで」
アナはつぶやきます。
サソリはとまどっています。空気に撫でられているような、妙な感触です。
「そのひとを刺したって何の得にもならないでしょ。めんどうな思いをするだけ。あなたのほうが強い。あなたはだいじょうぶ。だから力を誇示しないで」
サソリのシッポのピクピク・リズムがほんの少し鈍ります。
「ごめんね。悪かったわ。びっくりさせて。あたしたち、あなたのテリトリーを侵すつもりじゃあなかったの。ただ、知らなかっただけ。ウッカリしただけ。もうすぐ行くから。いなくなるから。だから、このまま、ほうっておいて。ね?」
サソリは動きをとめて、首をかしげます。知らない誰かに話しかけられたことなんかこれまで一度だってなかったのです。まして、そうっとそうっと慰めるように撫でられたりなんて。
普段なら、ちょっとでも自分の気に障った奴には、すぐにブッスリ毒をお見舞いしてやるのですが。
こんな時ってどうしたもんだろう?
サソリは困ってしまいました。困ってしまうと、からだから力が抜けました。
アナは、片手で額の汗を拭きながら、かすかに微笑みました。
「いいわ! 今ならだいじょうぶ。ロイド、ゆっくり下がって。ゆっくりよ。絶対にその子を驚かせないように」
「ああ……こっち?」
「ええ。そのまま、そうっと降りて」
大きなものが動きました。自分の上に落ちていた大きなものの影がすうっと引いてゆきました。
サソリはビクッと尾部を震わせましたが、あのやさしい空気のようなものが、すかさず背中と言わず足といわずあちこちを撫でて慰めてくれるので、ついついうっとりしてしまって、思わずタイミングを逃してしまったのでした。
「ありがとう」
空気のようなものが言いました。
「あなたがほんものの勇気を持ったサソリさんで良かったわ。どうもありがとう。元気でね。さよなら」
空気のようなものが、サソリの眉間を、チョコンとつついて消えようとした時。
「でやぁあああっ!!」
避《よ》ける暇も止める間《ま》もなんにもありませんでした。突然、電光掲示板につきささるほどのホームラン・ボールとなって、サソリの赤いちいさなからだは、遙かかなたまですっ飛んで行ってしまいました。
「なっ……なんてことするのよぉっ!」
両手の拳骨で背中を連打されて、ケンは、びっくりしました。
「イテイテイテテ、やめろよ、おいおい?」
からだをすくめながら、アナに向き直りました。
「なんだよ、なに興奮してんだよ?」
「バカっ! ケンのバカっ!」
アナは砂を掴んで投げました。眼つぶしを食らわすつもりだったのに、敏捷なケンになんなく避けられてしまい、今度は両手をシャベルにしてガッパガッパとひっかけてやりました。抵抗をあきらめたケンは頭っから砂だらけになって、茫然と眼をぱちぱちさせました。
「あの子はあんなにおとなしかったのに。聞き分けよくしてくれたのに。攻撃されたんならともかく、なんにも、なんにも、悪いことなんかしなかったのに、なんであんなことしたのっ! バカッ! 乱暴者っ、暴力主義者っ!」
「だ、だって……サソリだぜ?」
「敵じゃないでしょっ!」
「でも」
ああ、なんてこと。
アナは思います。
宇宙人に操られておかしくなった動物たちとは違うでしょ。生命。同じこの地球の仲間。こんな広い、こんな茫漠たる砂漠の中で、たまたま偶然出会った、唯一の生き物。
たがいに距離を守ってさえいればそれでいいのに、共存できるのに。危険だから、邪魔になるから、うっとうしいから、嫌っちゃうの? いなくなったって別にどうでもいいって、絶滅させちゃおうとでも言うの?
いきなりバットでぶっ飛ばしちゃうなんて。とてもじゃないけど、正義の味方のやることとは言えないじゃないのっ!
「いじめっこ! 卑怯者っ! 渋谷税務署っ!」
「またわけのわからないことを」
ケンは鼻の穴を膨らませました。
「てめーなぁ。舐めるんじゃねーぞ。どーせ例の、女の感性だかなんだかってわけのわからねーやつで盛り上がってんだろーがな、こっちゃそれどころじゃねぇつんだ。妙な言いがかりはいい加減にしろよ」
「言いがかりですって?」
「ああ、そうさ! そーでなくても暑くて退屈で頭が変になりそーだ。ピーチクパーチク黄色い声でわめくのはよしにしてくれ。だいたいな、世の中はおまえを中心にまわってるわけじゃーない。PSIとしてレベルが高いのは確かかもしれねーがな、そいつばっかりは認めてやるが。いつでも何でもおまえの判断が正しいわけじゃあないはずだぜ。俺だって、しまいにゃあ怒る。いつでもやさしい男だと思うなよ」
「誰が? やさしいですって?」
アナは天を仰ぎました。
「おお、主よ。どうかこの少年をお許しください。彼はなんにもわかってないんです」
「……てめぇ……俺がいつ、俺のためにお祈りしてくれって頼んだよっ!」
「ちょっとちょっとふたりともっ! 敵が動きだしました。見つかりますよ、早く隠れて」
「しまった」
「そうだったわ」
あわてて砂丘にからだを伏せ、ケンからじりじり離れながら、アナは見ました。
円盤はついに全員集合したみたいです。渡り鳥のように整然と並んで飛んで行きます。時々、まるでウインクでもするみたいにキラッと光ったりもします。
いったいどこに? あんなにいっぱい揃って、何をしに行くと言うのでしょう。
うーんとうーんとあっち方面に行くと、確か、サンクスギビングのあたりに出るはずじゃあないかしら? そこにはケンとロイドの家がある。
まさか、あの大都市を攻撃するつもりじゃあ……。
アナは思いましたけれども、口にはしませんでした。
仰向いた少年少女の顔の上に次々に影を落としながら、円盤たちは通過しました。眼下に、宿命の敵・正義の味方三人組がひそんでいることになど、気付きもしません。それとも、あるいは、ちゃんとわかっていて無視しているのでしょうか。まるで頓着してないだけかもしれません。こんなこどもを相手にしている暇はないとか、それだけ重要な任務に急いでいるとかいう事情があるのかもしれません。だとしたら、ずいぶんとバカにされた話ですが。
今の三人には所詮どうすることもできませんでした。
アナは、そっと両手を押して、左側にいるロイドの上着の肘と、右側にいるケンのシャツの裾を掴みました。
それでも、男の子たちはどちらも身動きひとつしませんでした。まなじりを決し、キリリと唇を結んで、空高いところをのんびり(のように見えましたが、ほんとうはすごく速いのに違いありません)移動していく敵の団体をにらんだまま、長い長いこと、ずーっと黙っているのでした。
どちらの横顔にも、きっぱりゴチック文字で『悔しい!!』と書いてありました。
『チクショウ!』『バカヤロー!!』『今にみていやがれ』etc.etc.……ここには表記できないようなことも、実はさりげなく書いてあったりしました。
今、戦わずにすんだことに、どうしても『良かった』とホッとせずにはいられなかったアナは、少しばかり恥かしく思い、少しばかり呆れ、少しばかり羨ましくなりました。まったく、男の子たちって単純なんですもの。生きてくの、絶対楽ですよね。女の子より。
そんな風に、それぞれにそれぞれの思いを抱えて放心していたので、しばらく誰も気がつかなかったのですが。
「うっ、なんだ?」
最初に発見して、思わず立ち上がってしまったのは、またしてもケンでした。ほとんど遠視ぎみなほど視力が高いのです。
「みろ! 列の最後を!」
言われてみれば、確かに、円盤の大群の後に黒いちいちゃな点のような鳥のようなシルエットが見えます。あたかも、カルガモの親子の後を何を勘違いしたのかくっついて歩いてるスズメ、クジラと競争するアジの稚魚、いえいえ、クィーン・エリザベス号にミーハーしている手漕ぎボートみたいです。余裕しゃくしゃく巡航していく連中の後を、たったひとり息もたえだえになってやっとなんとかついて行っている、という感じです。
「……飛行機みたい」
アナがつぶやくと、
「DP44型戦略戦闘爆撃輸送機だぁっ!!」
ケンは大量の唾を飛ばしながらわめき散らしました。
「そこらの二束三文のグライダーみたいに言うんじゃねぇ、ううっ、この眼が信じられねぇ、なんて幸運なんだ。生きて飛んでるDPを見ることができるなんて、この感動。この衝撃。俺は、もう、このまま死んでもいいっ!」
オーバーにも感涙にむせぶケンに、冗談じゃないわよとふくれながら、よくあんな点みたいなものの種類を見分けることができるものだとあきれながら、アナはそっと気持ちを隠して尋ねました。
「なにそれ?」
「だからなぁ。超低速でも超音速でも安定した飛行をし、翼が畳めるからヘリコプター並みに狭い場所に離着陸でき、慣性誘導装置やらレーダー・スコープやら積みこんでやたらめったら自動化されてて、数千発の空対空および空対地ミサイルも搭載可能、でも本業は戦闘員の輸送で、例えば高度一二〇〇フィートから五十人の完全武装兵士を五分以内に安全に確実に目的地点に落下傘降下させることができるだけのとんでもない繋鉄《ヨーク》装置を持った画期的兵器、空軍の花形、対ゲリラ戦の切札、必殺仕掛人、どんな敵もかなわない歴戦の覇者、キャッチ・フレーズ『ゴー・アヘッド・メイク・マイ・デイ』通称『ダーティ・ハリー』たぁあいつのことなのだぁぁっ!」
ひと息にしゃべりきって、まだハァハァ興奮のおさまらないケンには、ほんとうに悪いと思うのですが。
アナはつい言ってしまいました。
「……あれが?」
ロイドも言ってしまいました。
「ケンって戦争オタクだったんですね。危ないなぁ」
「……ううう……悪いかっ! ああ、それにしても、あのお姿。ああ、なんておいたわしい……とほほ」
ケンは落っことしたんじゃないかと思えるほどに深々と、首をうなだれました。DPなんとかの飛びかたは、その栄光の過去を力いっぱい裏切るほど、ヨタヨタとヨボヨボとヨロヨロとしていたのでした。
だいたい、どんなにすごいと言われても、しょせんはオールド・ファッションド・ウェポンです。
戦争が激しかったのは三人がものごころつくよりもずっと前のこと。その後の世界平和の時代に、すこぶるつきに強力な兵器の類はすべて解体されて別の何かの部品になりました。中には壊しようがないので、博物館や歴史資料館行きになったものもあります。どうやって整備すればいいのかを知っている人間がひとりもいなくなり、へたに触ると爆発するかもしれなかったりするので、超特大の粗大ゴミとなって、みんなに迷惑がられているものだってあるくらいです。
でも、思えば、だからこそ、とりあえず飛んでいるそれがとても貴重なのだと言えたりします。
そして、その骨董品が、この非常時にひとりあんな大勢の敵に敢然と挑んで戦おうとしているのだとしたら、これはもう実になんともはやとんでもない場面を目撃してるってことにならないでしょうか?
ようやく、胸がドキドキしはじめたアナが思わず両手を祈りのかたちに握りしめて見守りはじめた時……皮肉なことに、ちょうどDPなんとかの飛びかたがすっかりおかしくなってしまったのでした。高度が下がり、速度が落ちます。ぷすん、なんてオナラみたいな煙も吐きます。当然、敵には、ぐんぐん引き離されてしまいます。やがて、機首がふらふら揺れて踊ったまま止らなくなったかと思うと、翼の片方がポッキリ半分に折れ、あっと言う間にスピンがはじまりました。最後尾にいた円盤のひとつがあっけにとられたかのようにその場に立ち止まり、もがき苦しむDPをしばらく黙って眺めていましたが(きっと中では宇宙人たちが『やーいやーい』だの『何しに来たんだあいつ?』だの『ご苦労さんだったなぁ』だのと会話しているに違いない、とアナは思いました)そのうちに、前を行った誰かに寄り道するんじゃないと叱られでもしたのでしょう、あわてて追いかけて消えてしまいました。
「お、落ちるんじゃねぇぇぇっ!!」
ケンの悲愴な悲鳴が聞こえたのでしょうか。今にもそのまま墜落してぺっちゃんこになってしまいそうだったDPの翼が、不意にパタンと元に戻り、機首が立ち上がり、機体が立ち直り、高度はどうしようもないほどなくしてしまっていたものですからすかさず着陸態勢にうつり、みんなホウッと胸を撫で下ろしましたが……なんとそれは今度はまっすぐこっちに来るじゃあありませんか。きっと、この、今三人が隠れている小高い斜面に不時着するつもりなのです!
「う……うわぁっ……!」
「きゃああっ」
ロイドが、アナが、走りだしました。膝が顎にぶつかるほどの勢いで。砂はとてつもなく走りにくく、振り向けばDPの機首、なぜかまるでニッコリわらった猫の顔みたいに見えるコクピット部分が、ひとコマごとにどんどん近づきどんどん大きくなり、しまいには視界いっぱいにふくれあがりました。
あ、横に走ればいいんだ!
気がついた時にはもう勢いがついていてへたに急にコースを変更したりしたら転んでしまいそうです。おまけに、今から脇に逃れても、翼でなぎ払われるのは避けられそうにありません。金属的な轟音に耳の後がそそけだって来ます。足がもつれます。
PSIパワーを使っちゃおうか?
ケンの顔色をうかがおうと横を向いてもいないのです。驚いて、首を回して見て、アナはゾッとしました。ケンときたら、丘のてっぺんで、両足をふんばり両腕を広げているのです。まるでDPなんとかを抱き止めてみせようとでもいうように……!
「ケーン!」
必死の声は迫り来る音にかき消されます。思わず戻ってケンをどついてやろうと思ったアナに、
「伏せろっ!」
言いながら、ロイドがタックルをかけて来ました。アナは顔面から砂に激突し、そのままぎゅうっと押し倒されました。思わずカッと頭が白くなった瞬間、音が、影が、巨大な質量を持つものの気配が、ロイドのからだごし、背中の上一面に覆いかぶさって来て……。
ああ、おとうさん、おかあさん!
アナの頭にだぁっとさまざまな考えが浮びました。
こんな時、まっ先に呼べるような好きな男の子がいれば良かったのに。ケンは、ロイドは、誰を呼んでいるのかしら。それにしても、人間死ぬ時って生れてからその時までのことを全部思いだすっていうけど何にも浮ばないわね。変ね。ほんとに何にもないみたい。情けないわねぇ、あたしそんなに記憶力ないのかしらん? それにしてもまだかな。ずいぶんのんびりしてるのね。そうか。ひょっとすると、死ぬ時って一秒が一秒じゃなくなる、うーんと長くなるんだわ。やだな。いい加減サッサとしちゃって欲しい。まさか、全部ちゃんと思いだすまで死ねないなんて言うんじゃないでしょうね。いい加減な思いだしかたすると、天使さまに『こらこら、そこは違う!』ってチェックされちゃうとか……わぁん、そんなのって厳しい。死んでまでテストされるなんて絶望的よね。死んだほうがマシだわ……あらいけない。真面目に記憶蘇らせなきゃ、叱られちゃう。……天使さま? ごめんなさいね? おられます?
そうっと眼を開けると、黄色いものが見えました。
黄色い、砂が。
午後の太陽に焼かれている砂と砂と砂が。アドベント砂漠で見られる最もめずらしくない物体が、見えたのでした。
あわてて身を起こすと、ロイドが背中から転げ落ちました。可哀想に、また失神してしまっていたようです。
そうして、アナは見ました。
さっき見た姿勢のまま、まだちゃんと立っているあの大馬鹿者の背中を。砂漠を渡る風が、彼の金髪を、よごれまくったシャツの裾を、はたはたとなびかせていました。あたりはとても静かでした。
飛んでいた野球帽を拾って持って行くと、ケンもまた、意識を失っているのでした。青い眼をカッと開き、前歯をむいて幸福そうに微笑んだ、かなりマッドな表情のまま。機首は、ケンの鼻先からわずか三センチのところで止っていました。
「……バカねぇ……」
どんな怪力の持主だって、飛んでくる飛行機を抱きとめることなんてできっこないとは思わなかったのかしら? それとも、愛するDPなんとかに激突されて死んじゃうなら本望だとでも思ったのかしら?
無責任ねぇ。
地球の平和はどうするつもりだったのかしら。
パコンと野球帽をかぶせてあげると、ケンの顔がフッと変り、膝が折れて、砂漠に崩れ落ちました。
同時に、コクピットの窓というかドアというかが持ちあがって、中から誰かがゴーグルと飛行帽で武装した頭部をつき出したのです。そのひとは、心配そうな小さな声で尋ねました。
「輓《ひ》いちまったか? わし?」
「うううん」
アナは首を振りました。
「だいじょうぶです。気絶しただけ」
「あー、やれやれ。良かった。免停になるとこじゃった。ほっほっほー。どれ、よっこらしょ」
骨っぽいからだをボキボキ鳴らしながら降りてきたのは、白い眉白い髭、見るからに元飛行機乗りのかっこうをしたおじいさんだったのです。
「名前? そんなものはもう忘れてしもうた。砂漠じじいとでも呼ぶがいい」
熱いコーヒーのお代りを注《つ》いでくれながら、おじいさんは鷲のような鼻をちょっとカッコつけてピクリと蠢《うごめ》かせました。
そうです。コーヒーです。ディナーの最後のコーヒーです。
三人は、砂漠の真ん中で、たっぷりご馳走をいただいたのです。
それというのも、どこかしらおかしくなっていた飛行機のコンピュータを、失神から覚めたロイドがテキパキと直してあげたからこそ、です。DPに関する質問や賛辞を次々にぶつけて、おじいさんを困らせたり嬉しがらせたりしたケンのおかげもありました。もちろん、アナだって、可愛い女の子であるってことそれだけで、充分に招待されるだけの価値はありますけどね。
再び飛べるようになった飛行機に乗って、一気におじいさんの家までやって来てみると、そこは昔の軍の秘密基地でした。設備のほとんどは作動せず、屋根もあちこち欠けてしまっておりましたが、雨露はしのげますし、通信や交通の手段もあります。だからケンはさっそくおとうさんに連絡をとりました。大量のフライング・ソーサーの情報を伝えるとおとうさんは緊張した声で『がんばれよ』と言ったそうです。食糧や生活物資もちゃんと蓄えてあります。日が暮れてからは、カンテラを使いました。少し油臭かったけれど、火の燃えている周りに輪になってコーヒーを飲むのはなかなか素敵な雰囲気でした。滅びかけの基地の壁に、四人分の影がゆらゆらと広がりました。
「この砂漠はなぁ、昔わしの部下だった連中がずいぶんたくさん瞑《ねむ》っておる。じゃからどうしても離れがたくってな。わしはつまり、一種の墓守りなんじゃよ」
遠い眼をしてつぶやくおじいさんに、ロイドがそっと言いました。
「世界じゅうに起こっていることは、ご存じですか?」
「ああ。漠然とはな」
「あの飛行機を、しばらく貸していただくわけには行きませんか?」
「なんてことを!」
ケンは悲鳴をあげました。
「あんな貴重品をお借りしたりできるわけがないじゃあないか!」
ケンはおじいさんの前ではなんだかいつもよりずいぶんていねいです。
おじいさんは器用に片方の眉毛だけをあげたまま、上下のまつげの目立つギョロ眼を剥いて、三人の顔を順繰りにのぞきこみ、低い声で言いました。
「話してみい。おまえさんがたのほうの事情を」
そこで三人は代りばんこに物語りました。時々おじいさんが短い質問を挟み、説明がどんどん複雑になりました。身振り手振りを入れるたびに、誰かの影が長くなったり短くなったり、影同士が戦い合ったり抱き合ったりしました。
「……なるほど」
話が終ると、おじいさんは黙ってしまいました。腕を組んで、白い眉の下で皺の深い眼をぴったりと閉じたまま、あまりにも長いこと少しも動かないのです。
三人はそうっと顔を見合せました。
「眠っちゃったのかなぁ」
ロイドが小さく言いました。
「お疲れになったのよ、きっと」
アナがうなずきました。
「かもな。年寄りは早寝早起きだから……」
言い掛けた途端おじいさんがギッと睨んだので、ケンはあわてて口を閉じました。おじいさんは顎に手をあてて、身を乗り出しました。
「いや驚いた。まったく恐るべきこどもらじゃな。協力してやりたいのはやまやまじゃが、うちの可愛いハーリーを譲るわけにはゆかん。だいたい、あれはイマイチ調子が悪い。戦闘能力はほとんどないも同然じゃし、慣れぬものには操縦もできん。かと言って、わしは砂漠を離れられんしのう」
三人はしぶしぶうなずきました。
アナは、おじいさんとDPがこれからずっといっしょに行動してくれることになったら素敵だ、と思っていたので、とてもガッカリしてしまいました。そうして、こんな風に甘い考えを持っていたのは果たして自分だけだったんだろうか? と思いました。
「ただしだ。どこか、おまえたちの好きな場所まで送っていってやるのは構わぬ」
「ほんとうですか!」
「ああ」
「うひょほー、ラッキー♪」
「DPにまた乗れる……感激」
おじいさんは喜ぶ三人を微笑ましそうにながめました。
「で、どこがよい?」
「そりゃあもちろん、ホーリー・ローリー・マウンテンの……」
ケンは、言い掛けて口ごもりました。
「いけねぇ。だめだ。まだ歌が揃っていない」
「おお、そうじゃそうじゃ。そう言えば、置き忘れられた歌のかけらを探しておるとか言っとったな。実は、わしに、心当りがなくもないのだ」
「ええっ?」
「来るがいい」
カンテラを持って外に出ました。基地の裏手側に回ると、そこには温室のようなものがありました。茂りすぎた植物と枯れかけた植物がごちゃまんとしています。小さなトカゲや蜘蛛《くも》のたぐいが、光と足音に驚いてちょろちょろ走り回りました。もともとは食糧自給のための設備だったのでしょう。トマトのようなものやきゅうりのようなものは、今でも真面目に手入れされているようです。人工的なものであることはまちがいがないのに、小さなともしびで見る限りでは、なんとも不思議な異次元の森のような場所でした。
慣れた足取りでジャングルのようにからみあった植物を掻き分けて進むおじいさんについてゆくと、突然、ぽっかりと広い空間に出ました。
「……まぁ……」
アナは感動してしまいました。
女神の像が甕《かめ》をかかげる形の壊れかけた噴水の周りに、たくさんの花が競い合うように咲き乱れておりました。大きなものもあれば、小さなものもあります。吹きだす炎にそっくりなもの、ころりと丸い鞠のようなもの、アカンベをしているひとの顔のようなもの。たったひとつだけポーンと咲いているものもあれば、たくさんいっしょに温室の天井近くから床までずっと滝のようになだれ落ちているものもあります。どれもこれも鮮やかで派手な熱帯らしい色と形をしていました。雪国に生れ育ったアナは、写真やテレビでしか見たことがない種類ばかりなのでした。
「……すごい……きれい……」
「うむ。なかなか豪華絢爛《ごうかけんらん》じゃろう」
カンテラを女神の足元に置きながら、おじいさんが得意そうにお髭をひねりました。
「こいつらがおるのでな、わしも無聊《ぶりょう》が慰むというものよ。ほっほっほっ。……おっといかん。そうじゃそうじゃ。あれはどこにいきおったのかの、歌うサボテンは」
「歌うサボテンですって?」
「そうなんじゃ。遺跡のそばに咲いとったんじゃ」
「遺跡ぃ?」
びっくりするようなことばかり言うおじいさんです。
「おお。あるんじゃよ、そういうものが。なーに観光にゃあ向いとらんよ。迷路みたいな廃墟じゃし、うるさいサルどもがいおってな。まー、是非とも見たいというならば遊覧飛行をしてやってもよいが……こっから南東にほんの二十分じゃし」
しゃべりながらおじいさんは花壇の中に踏みこんで、葉っぱをどけたり巨大な鉢を動かしたりしてさかんに何かを探しているようです。でも、なかなか見つからないみたいです。三人も手伝うことにしました。散らばって、花のひとつひとつをよく観察してみました。
「まーわしもヒマだでな。何度か行ってるうちにそいつを見つけて……鉢植えにして持ってきたはずなんじゃが……ふーむ、どこ行ったかのう? まったく、しょうがないな。少しは剪定《せんてい》してやらねば」
「あ! 痛っ!」
ロイドが声をあげました。
「どうした」
「だいじょうぶ、ちょっと棘をさしただけです……うわわわっ! な、何だ? こいつしゃべってるっ?!」
「えええっ」
「見て見てっ」
ロイドが小さな鉢を持ち上げました。鉢の中の花は、ちゅぱちゅぱ唇のような形のはなびらを鳴らしてロイドの刺してしまった指をしゃぶります。ロイドがあわてて指を離すと、せつなそうに身悶えしながら言いました。
「フィード・ミー……」
「あー」
おじいさんが手を振りました。
「あいにくじゃが、違うんじゃそれは。かまうな」
「餌くれっていってますけど?」
「悪いこと言わんから、ほっときなさい」
「はぁ」
鉢を置くと、花はロイドにさかんに媚びを売り、投げキッスみたいなこともしました。なんだかやたらになついてしまったみたいです。ほだされて、名残り惜しそうにじーっと見ているロイドに、アナは声をかけました。
「ここにはないかしら。カンノンの花は」
ロイドはハッと顔をあげてアナを見ました。
「そうだった。あるかな」
「どんな花か、知っている?」
「知ってる。伝説だけど。カンノンの花には七枚のはなびらがあるんだ。ガラスみたいに薄くて透明っぽい弱々しいはなびらだけど、よく見るとひとつひとつ色が違ってて、虹の七色に対応しているはずだ。その七枚を調合すると、どんな病気でも治る薬になるんだって」
「そう。そんな儚《はかな》げな花は、ここにはないみたいね。残念だけど」
「……うん。熱帯の花じゃないと思う。どっちかっていうと、高山植物っぽいような気がするんだ」
ふたりが話している間にケンが気を利かせて、あの食いしん坊の花の鉢をどこかに隠してしまいました。ロイドももう、あんなもののことは忘れ、自分の使命をちゃんと思いだしていたのですけれどもね。
それからしばらく、戦士たちもおじいさんも熱心に探してみたのですが、やっぱりダメでした。歌うサボテンはどこに行ってしまったやら、見あたらないのです。
「はて。面妖な。枯らしてしまったかな。それとも足でも生えて逃げ出しよったか」
「ひょっとして、遺跡に行けば……」
アナがつぶやくと、おじいさんはポンと手を打ちました。
「そうか。あそこには群生しておるのじゃった。わかった。じゃあ、明日、飛ぼうじゃないか、遺跡まで。もう今日は休むとしよう。よい子はとっくに、ねんねする時間じゃしのう。ほっほっほ」
今はもうない軍隊のマークの入った寝袋をそれぞれひとつずつ借りました。三人は、おじいさんからは少し離れた場所に、川の字の形に並びました。カンテラを消すと、まっくらでした。
「……ねぇ。場所をかえませんか?」
ロイドが言った時、ケンはもう高いびきをかいていました。
「どうして?」
ロイドったら、急に何を言いだしたのだろう。
ドキドキしながら、アナが尋ねると。
「ほら、あっち側、でっかく屋根が壊れているでしょう。あの下あたりに横になったら、きっと星が見えるんじゃないかと思ったんだけど」
「きゃあ、賛成!」
星、星、星、星、星……。
それはそれは、ほんとうにすごい星空でした。
真黒い天鵞絨を広げて、宝石をたくさんザァッとこぼしたみたいです。あんまりたくさん見えすぎて見慣れた星座がとっさにわからなかったくらいです。天の川の流れがほんとうにミルクのように見えたりもします。邪魔な灯りがないし、砂漠の夜は昼間からは信じられないくらい冷えこむものなのです。だから空気がとても透明になって、星座観察には最適なのでした。
ふたりが声もなく見つめている間に、流れ星が、ひとつ、またひとつ、流れては消えてゆきました。
「オリオンがいるから、サソリはいないな」
ロイドの声が、星灯りの薄闇の向うからそっと聞こえました。
「サソリと言えば……アナ、昼間のこと、ありがとう。ぼくのせいでケンと喧嘩させて、ごめん」
「やだ。そんなこと。気にしないでよ」
「地球上にはさ」
「え?」
「百五十万種類の生物がいて、五十億の人間がいる。だから、ぼくは自分のことを、とてもちっぽけだと思ってた。百五十万分の一の、そのまた五十億分の一にすぎない、結局は、生れても死んでもどーってことない奴なんだって、わりと冷めてて。あきらめてて。そういうほうが、カッコいいような気がしてたんだけど」
眼鏡をかけて真上を向いたままのロイドの顔を、アナはじっと見つめました。真横から見ると、なんだかけっこういい男でした。
「でもさ」
視線に気づいて、ふり向いたロイドは恥かしそうに笑って、胸の上で組んでいたアナの手にそっと指を触れました。
「むだに死にたくなくなった。ケンと、……そして、きみに逢ってから……」
「……ロイド……」
「でへへ。ちょっと、臭かったかな?」
「うううん」
「じゃ、思い切って、もうひとこと言っちゃう」
星空に向き直って、ロイドは、アナの手をさぐり、指に力をこめました。
「守ろうね。地球を……!」
アナも握り返しました。星を見つめたまま。強く。とても強く……。
あまりにもすさまじい自分のいびきに夜中に眼を覚ましたケンは、残りのふたりがそばにいないのでギョッとしました。見回してみると、なんと部屋のあっち側で並んで眠っています。
ケンは天井をにらんで、十秒ほど考えました。
そうして、ふうっとため息をつくと、ごろりとうつぶせになりました。寝袋に入ったまま両手を使ってワニ歩きをして、眠っているふたりに並ぶ位置まで移動し、もう一度寝がえりを打って、仰向けになりました。
「……あ……!」
ケンの顔に、ニカーッと笑いが広がりました。
星空に気がついたのでした。
「あれだ」
往年の最新鋭機のコクピットの窓から赤茶けた遺跡が見えます。おじいさんはゴーグルをなおしながら、姿勢を正しました。
「降下する。全員最終点検を行ない、所定の配置につけ」
「へ?」
「って言われたって」
「えーい口癖だ。気にするな。降りるぞ」
「うわぁぁぁ」
機体はいきなり空気につき刺さるように角度を変え、すさまじいGに戦士たちはみな座席にへばりついてしまいました。まるでジェット・コースターです。ロイドの髪が全部つったっています。ケンは両手を上げてバンザイをしています。アナはちょっぴり具合が悪くなりました。
右に左に踊るように旋回しながら、おじいさんは遺跡の真上ギリギリのところを飛びながら、親指をたてて得意がりました。
「どーんなもんじゃあっ。昨日は調子がでんかったがな、わしの腕もハリーのやつも、まだまだ耄碌《もうろく》しとらんで、わははははは」
やっと地上に降り立った時には、アナはふらふらで、まっすぐ立っていることができませんでした。しゃがみこんで額を支えて、貧血がもどるのを待っていると、突然に。
『アナ! ここだよ。この奥だよ!』
またあの、赤ちゃんの声が聞こえたのです。
『この奥には、マジカントに通じる秘密の通路がある。探すんだよ。必ずみつかるから。がんばって、アナ!』
「そうら、これが歌うサボテンさ」
おじいさんの声に、アナはハッと顔をあげました。
遺跡の外壁の裾近くに、真っ赤な花をつけたサボテンがいくつもいくつも並んでいます。そうしてじっと耳をすましてみると、それらはみんなそろって短いひとつのメロディをつぶやいているのでした。どこかしら、物悲しい、懐かしいようなメロディを。
クィーン・マリーに教えてあげるべきメロディの五つめがみつかったのです!
「あと、残りはたったの二つだ!」
「いやぁ、良かった良かった」
「じゃあ。でかけるか」
「そうですね、とりあえずイースターの街まで送っていただけますか」
「おお、いいとも」
「待って……!」
アナの声に、DPのステップを登りかけていた男たちはみな、怪訝《けげん》そうに振り向きました。
「この遺跡に入りましょう!」
「えーっ?」
「なんで」
「声がしたの。前にも聞いたあの赤ちゃんみたいな声。この奥に、秘密があるって、そこに行きなさいって。誰かが教えてくれたのよ!」
男たちは顔を見合わせました。
「……ひょっとして」
ケンが眉をひそめます。
「おまえ、飛行機に酔ったんじゃねぇか?」
「違うわ。そんなんじゃないわ!」
「だってよ。なんか、具合悪そうだったじゃねーか。もう乗りたくないってことなら、正直にそう言えばいいのに」
「あのなぁ、お嬢さんや」
おじいさんが飛行帽のあご紐をはずし、ゴーグルをずらして真面目な顔をアナに向けました。
「この中は複雑な迷路になっとるようだぞ。わしは一階の、それも入口の近くをちょこっとしかのぞいたことがないが、それも、もうずいぶん昔々にだが、はっきり言ってかなり不気味だったぞ」
「かまいません。それでも、行かなければならないんです」
アナの顔色はまだ青く、胸がムカムカしていて、あんまり丁寧に説明することができません。
「ケン。ロイド」
まっすぐに、見つめます。それぞれの眼に、思いをこめた視線をぶつけます。
「わかってくれるわね? そう感じるの。確かに感じるのよ。だから、そうなの。お願い。この中に、いっしょに」
「ああ……」
「そりゃまぁ、アナが言うんなら」
少年たちが次々にステップを降りて、アナのそばに来ます。おじいさんは、なんだか傷ついたような顔になってもごもご口を動かしましたが、何にも言いませんでした。
またひとりぼっちになるのが寂しいんだろうな、とは思いましたけれども、しかたがありません。彼等は戦士たちであって、ひとり暮しの老人相手のヴォランティアではないのですから。
変に名残りを惜しんでいては、余計に辛くなるばかりです。
「お世話になりました」
アナは頭をさげました。冷たく聞こえるかもしれないような声になってしまいました。
「おじいさんのことは忘れません。どうか、お元気で」
「うむ」
おじいさんは鼻の頭をつまんで、しばらく何か考えていましたが、やがてそっけなく言いました。
「なんだか知らんが、ま、がんばれ」
いったいどんな人々の建てたものなのでしょう。どんな文化や宗教の遺したものなのでしょう。
遺跡の中の通路は意地悪くねじ曲り、あっちこっちとっぴょうしもない繋がりかたをしているのでした。すぐ隣の部屋に行くのにいやになるほど大きく迂回しなければなりません。間違ったと思っても戻れない一方通行のくぐり戸もありました。柱があるのに天井がなかったり、床がななめになっていたり、部屋が三角になったりしています。階段があるのにその先になにもなかったり、ドアのようなものを開けると空中に出てしまったり。まったく悪い冗談みたいな作りです。
おまけに遺跡じゅうには、眼ばかりくるくるした小さな奴ら、こまっしゃくれたサルたちがたむろしているのです。昼寝をしている奴、あくびをしている奴、自分の手相にじっと見入ってる奴、壁のほうをむいたっきりじっと動かない奴、それに膝枕でうっとりノミを取ってもらってる奴。そんな奴らはまだよいのですが、中にはひどく活発で好奇心の強いものもいます。階段などでもかまわずに足元を走り回るので危なっかしくてしかたありません。ちょっとぼんやりしていると、いたずらをされてしまうので油断も隙もありません。髪をひっぱられたり、背中に飛び乗られたり、いつの間にかリュックサックに取りついて、中身をひっぱりだされたりしてしまうのです。追い払っても追い払っても寄って来ては、冷たい手でいきなり頬を撫でてゆきます。三人はもうすっかり疲れてしまいました。
やっと、どこまでもどこまでも地下に降りる階段を発見して、これこそ『一番の奥』だろうと喜んで進んでみれば、突然狭い狭い螺旋《らせん》階段が不意に途中から登りになって、気がついた時には青空の下に出ていました。外壁のてっぺんです。
「エッシャーだ」
ロイドが言いました。
「トマソンだ」
ケンが言いました。
アナはどっちも知りませんでしたが、前者は画家さんで後者は野球選手(ただしその名前にちなんである特殊な建築物をさししめすこともある)です。
「ごめんなさい、でも……あたし」
こんなところに出てしまうなんて、まったく予想外でした。きっとどこかで間違ったのです。勘違いしたのです。
「きゃきゃきゃきゃきゃ」
あちこちで、サルがいっせいに笑い声をあげました。
もしも、あの声がはじめから錯覚だったら?
アナは不安になってしまいました。ふといやなことを思いついて、アッと口を押えました。
もしかしたら、敵側にもPSIの力のある何者かがいて、わざとだましたのじゃあないでしょうか? アナの信じやすさのおかげで、みんな、まんまと罠に填ってしまったのではないでしょうか。
だとしたら。
おじいさんの飛行機が行ってしまった今は、ここを出てゆくのも大変です。再び砂漠を渡るしかありません。みんな、口にはしないけど、相当に弱っています。ウンザリしています。そんな時に攻撃されたら、とても怖いことになってしまうのじゃ……。
アナはそっと男の子たちに眼を走らせました。ふたりとも、心配そうな顔をしてはいますが、何にも言いません。アナの直感を信頼しているのです。アナに任せようと思っている顔です。
アナの胸はきゅうんと痛くなりました。怒鳴られたり責められたりしたほうがいっそマシです。黙って信じてもらっているのに、ダメだったら……? もう涙がにじみそうです。あわてて、そこらの壁や石をいじり、何か確信を持って探しているようなふりをしながら、アナは恐ろしさに震えました。
どうしてあたしは、あんなにはっきり確信してしまったんだろう。あんなにきっぱり言い切ってしまったのだろう。あんなに気持ちが悪かったのに、自分の判断が絶対正しいんだと思ってしまった。そういう言い方をしてしまった。みんな飛行機に乗りたかったのに、拒んでしまった。
前にケンに注意されたのに。いつでもおまえが正しいってわけじゃあないって釘を刺されていたのに。なのに、あたしは……。
暗くなってる場合じゃありません。くじけた顔をするわけにはいきません。ごめんなさいって言ったって何の解決にもならないし、この不安と後悔を白状してしまえば、ふたりはパニックしてしまうかもしれません。
ああ、どうすればいいの。何とかならないの。
もう一度、呼んでくれたら。ちゃんと、あの声と相談さえできたら……!
アナは一見確信に満ちた様子で、そのあたりを探っているふりをしながら、片手を拳に握って、こころを遠くに飛ばそうとしました。
……『赤ちゃん』さん。聞こえる? わかる? 名前をしらないあなた。もう一度話し掛けてよ。あたしに教えてよ。正しい道を。どうかお願いだから。
助けて……!
がたっ……!
「あっ」
ごごごごご。
なんと言うことでしょう。アナの手が触れた岩が、突然にひとりでに動きだしたのです。ごく軽い力で触っただけなのに、まるで思い切り叩いたみたいに壁の中にすうっとひっこんでゆきます。
ごごご……ごごご……ごごごごごごごごご!
そのあたりの壁が揺れはじめたかと思うと、たちまち、あたりじゅうにひどい振動が広がりました。もう遺跡全体が動いているみたいです。サルたちが大慌てで逃げてゆきます。中にはつぶされたり落ちたりしてしまって悲鳴をあげるものもあるようです。かわいそうですがどうしてやることもできません。
「うわわわわわわわわ、なんだっ?」
「ゆ、ゆ、揺れてますよ、地震ですよっ」
「危ないっ、アナ、こっちへっ」
「い、い、行きたいけど、こ、こ、こんなに揺れるんじゃ、……きゃあああっ!」
「うわぁっ!」
ごごごごごごごごごご、ごっ!
亀裂です! ひびわれです!
三人が立っていた回廊ががくんがくんと震えたかと思うと、突然、あちこちでガックリと割れ、深い深い地下まで届きそうな隙間が、いくつもいくつもできてしまったのです……!
「アナーッ!!」
しゃれになってますが、冗談ではありません。
立っていた場所が、前も後も割れ目に挟まれてしまったのです! アナは孤立してしまいました。ロイドやケンと、きっぱり隔てられてしまったのです!
裂け目はみるみるうちに広がって行きます。割れた端からぽろぽろこぼれ、岩が、石が、煉瓦《れんが》のようなものが、次々にはがれて、雪崩を打って落ちてゆくのです。もう一メートル五十……二メートル……ふたりとの亀裂は、どんどん広がっていってしまうのです!
「飛べぇーっ!!」
ケンが怒鳴りました。
「バッカヤロー、早く、早く飛ぶんだぁーっ!!」
いっぱいに腕を伸して叫んでいるそのケンの足元すら、後から後から崩れてゆきます。
アナはイヤイヤと首を振りました。陸上競技は得意ではありません。高いところも苦手です。足がすくんで動けません。とてもこんな大きな幅は飛び越せません。
「ちくしょおっ!!」
「え?」
ケンがリュックを放り出そうとしています。どうやら自分がこっちに来てくれるつもりみたいです。でも、そんなの、何にもならないんです。ここは、アナひとりが立っているのがやっと、それもどんどん狭くなっています。
なのに。ケンはまた。
飛行機を抱き止めようとしたように。
アナはグッと唾を飲みました。両のてのひらに爪をたてました。眼をつぶって。祈ります。
行きます。
飛びます……!
踏み切り足を蹴ったとたん、今まで立っていた狭い足場が、ガラガラと甲高い音をたてて崩れ去りました。空中で、アナは一瞬止ったように感じました。遺跡の周り三百六十度に広がった砂漠が見えます。砂まじりの風が、頬を打ちます。短くなってしまった三つ編みを後になびかせます。両手を広げて浮かんでいるアナのもうすっかり埃まみれになってしまった旅装束に、吹きつけています。
風よ……風よ……、助けて……あっち側に連れていって……!
からだが落ち始めました。だめです。足りません。距離が足りません。届きません。音もなく散った涙の粒が頬に触れます。底の底にたどりつくまできっとずっといっしょに落ちていってくれるのでしょう……。
思わずギュッとまぶたを閉じてしまったので、アナは、ケンが飛び出すところを見ていませんでした。
だから。
がくん!
「あうっ!」
肩の関節がはずれたかもしれません。でも、止ってます。落ちてません。
小石が落ちてゆく亀裂の上で、つまさきが宙に浮かんでぶらぶらしています。恐ろしい高さです。何か赤いものがひらひら落ちてゆきます。あれは、ケンの帽子……?
見上げてみて、アナは悲鳴をあげそうになりました。
リキむあまり真っ赤になったケンの顔。左手が、アナの右の手首を、血が止るほど強くつかんでいます。右手は……ああ、右手はバットを持っているのです。そうしてバットの向う側は、やっと崩壊の止った崖っぷちに座りこんだロイドが、両手で抱えしぼりこむようにして必死に押えているのです! ずずっ、ずずっ。時々さがってしまうのは、ロイドの手の中でバットが滑るからです。残りの長さが少なくなって行くからです。
「……や、やめてぇっ……!」
アナがつぶやいても、ケンは奥歯を噛みしめ左腕に力こぶを作って、アナを持ち上げようとします。
「落ちちゃう、このままじゃみんな落ちちゃうからっ、は、離してっ!」
「うるせぇ、も、もがくなぁっ……」
ふたりそろって振り子のように揺れてしまいます。ケンは足元で崖をさぐりますが、足場はありません、へたに触ると、また崩れてしまいそうです。
「四の五の言ってないで、ちゃ、ちゃんと掴まれっ、は……離れるぞっ」
しびれた右手の指を、アナは思い切ってそろそろと伸しました。筋が違いそうになった時、ようやく汗まみれのケンの腕にさわります。握れそうになります。
お互いに持ち替えようとした一瞬、ケンの手がひきつったようになりました。ずるっと滑って、どちらの背中もサアッと冷たくなりました。けれども、なんとか、危ないところで持ちこたえたのです。
ふたりはしっかりと、お互いの手首を握りました。これで、離れません。
「ふうっ」
ケンがゲッソリとして、ため息を洩らしました。
「やれやれ。まいったな」
「ごめん」
「おまえの念力で、なんとかならんか?」
「……ごめんなさい」
「ちょっとぉ、どうするんですかぁ、あああ……だめだ、もういけない、滑る、滑っちゃうよぉっ!」
ロイドの声も苦しそうです。ケンが持っているほうにはまだ握りがあるからよいのですが、バットの反対側はなにしろああです。ふたりぶんの体重がかかっているのです。ちょっと力を緩めたら、油断したら、汗で手が滑ったら?
落ちます。
まきぞえにするわけにはいかない。
アナは思います。
だって、ケンは地球を救う少年です、こんなドジな女の子たったひとりのためにムザムザ死なせてしまったら、世界は、人類は、どうなるでしょう?
新しい涙が散りました。
やっぱり、離して。あたし、ひとりで落ちる。
きっぱりと、そう言おうとしたとたん。
「ふんっ!」
いきなりケンの腕が細かく震えだしました。
「……くくくく……」
上腕二頭筋がバンプ・アップします。Tシャツの肩が盛りあがって今にもはちきれそうです。そんな力が、どこに隠れていたのでしょう。
じりじりとからだが持ち上がってゆくので、アナはびっくりしました。あわてて、空いているほうの手でつかまります。ケンの首に。胸に。
「おおーっと……来たな。よぉし。上出来っ」
ケンがアナを抱きとめます。さっきまで掴まれていた手首にもどってゆく血流が、じわり、とくすぐったく感じられました。激しくなった振り子運動が、ゆっくりと納ってゆきます。
「おまえ、軽いな。好き嫌い多いんだろ」
青い眼が、まっ白い歯が、すぐそばで、アナに笑いかけてくれています。それから、ふっと思い切り真面目になります。
「おかげでなんとかなったぜ。いいか、このまま、登れ。頭、踏んでっていいから」
「え」
「行くんだ。早く、ロイドがへばる」
「う……」
男の子たちって、なんてバカなんでしょう。なんて考えなしで、無茶なんでしょう。
なんて強くて、なんて素敵でしょう……!
「……うんっ!」
のどが詰って涙声になりそうだったのですが、こらえました。ごまかしました。瞳に思い切り力をこめて、うなずきます。
「わかった。やってみるっ」
「よし」
ケンの手が、はげますように背中を叩いてくれます。
アナはキッと顎をあげ上を向いて、まず、リュックサックを捨てました。リュックサックは落ちて落ちて、忘れたころに小さな音をたてました。
右足をそろそろと持ち上げてみます。最初の足場は、ケンの腰のベルトでしょうか。それから肩に、それから頭に足をかければいいでしょうか。失礼だなんて言ってる場合じゃありません。早く、確実に、登らなければ。そうして一刻も早くケンをひっぱりあげてあげなければ。
生きるために。戦うために。
登るのです……!
アナが、最初の一歩をどうにかこうにか進めて、激しい息を整えている、その時でした。
「なーにしとるんじゃおまえたちは」
三人は見ました。おじいさんの飛行機が、すぐ上を飛んでいます! 機体から縄ばしごが降ろされています! 助けに来てくれたのです!
あんまり必死で夢中だったので、気配にも音にも、誰ひとりまるで気がついていなかったのでした。
「はよつかまらんか、バカものどもぉっ」
はしごが届きます。アナが、ケンが、素速くつかまります。急に軽くなったバットにロイドがでーんとひっくり返って、コブを作ります。
「まーったく、なんちゅうザマじゃぁ。それでも正義の戦士か、地球防衛軍かね。ほっほっほー」
三人はあんまり息が切れていたので、拡声器に乗ったおじいさんの笑い声に、返事もできません。
「死ぬんなら、どこかよそでやっとくれ。この砂漠にまた新しい墓を作るのはごめんじゃわい」
……おじいさんったら……。
涙と汗を拭きながらほうっと息をついて、顔をあげると。
アナの眼が丸くなりました。
「ケンッ! 見てっ」
「なんだ?」
「あれ……!」
遺跡のど真ん中に、細い塔がそびえています。てっぺんに、鐘楼《しょうろう》が見えます。金色の鐘が、砂漠の太陽にキラキラと輝いているのです。
そんなもの前には見あたりませんでした。きっと、たくさんの壁で覆われ、隠されていたのでしょう。貧弱な階段が塔の周りをぐるぐる登っていますけれども、そこにたどりつくには、たぶん、謎の出入口か何かを通らなければならなかったはずです。いかにも大切に厳重に守られた、遺跡の秘密でした。
「行ってみよう!」
「うん」
ケンは片手をメガホンの形にして、飛行機の方向に怒鳴りました。
「じいさーん、おーい! 相談だぁ」
「なんじゃあ?」
「ロイドを拾ってから、あの塔に連れて行って欲しいんだぁ」
「ふんっ、勝手なことを」
口では文句を言いながらも、おじさんはすぐにロイドのほうに向ってくれました。
「いいな」
ケンが、聞きました。ふたりはうなずきました。
飛行機のおじいさんは、上空で見守ってくれます。
ぺっぺっとてのひらに唾を飛ばすと、ケンは愛用のバットを握り、腰をくいくいっとやって構えに入り、金色の鐘の横っ面を思い切りひっぱたきました。
りぃぃぃぃぃぃぃぃぃん!
鐘が鳴ります。響き渡ります。砂漠じゅうにこだまします。
鐘楼全体を包んだ不思議な光に、三人はふうっと気が遠くなりました……。
5 クィーン・マリーの贈りもの
いい匂いがします。不思議な音楽が聞こえます。暖かな気持ちのいい風がそっと吹いています。
アナがゆっくりとまぶたを開くと、あたりは柔らかなピンク色にあふれ返っていました。地面はピンクの雲のよう。空にはピンク色のベールがいくつもいくつも下がってふわふわ揺れ、ピンク一色のシャボン玉のようなものがゆったり漂っています。ピンク色のせせらぎがやがて滝になり、濃いピンク色の睡蓮《すいれん》のような花が咲き乱れる淡《うす》ピンクの池に流れこみます。並んだ建物はどれもこれも、貝殻かお菓子のような可愛らしい形で、やはりすべてパールがかったベビー・ピンクに輝いているのでした。
奇妙な形の帽子をかぶった背の小さなひとびとがおおぜい、お芝居の登場人物のような緩やかな礼儀正しい身のこなしで、たがいに挨拶をしながら行き交います。ひとびとの肌や髪や衣装も全部、もちろん念の入ったピンク色のグラデーションで構成されているのです。
……ここがマジカントなのね……!
送られて来たイメージの中で、知ってはいました。けれども、こうして実際に自分の足で立ってみても、どうにも信じられません。まるで夢の中です。おとぎ話の世界です。小さなこどもの描いた絵です。もっと意地悪な見方をすれば、ヒット曲番組の清純派アイドル用ステージみたいだと言えないこともありません。なにしろ、あまりと言えばあまりに徹底的にキレイキレイで作り物めいているのです。
すっごいもんだわねぇ。
肩をすくめながらゆるゆると視線を回して、アナはびっくりしました。
最初に見えたのは、あんぐり口をあけてぼうっと放心した顔のロイドです。その向うでは、ケンが、うっとりと眼を細めて頬を上気させているではありませんか。
ふたりとも、なんだかひどく幸福そうです。明らかに感動してます。感銘してます。その身体言語は『うわぁい』です。『やっほー』です。快感です。
……呆れた!
アナのこころにチクリと黒いインクのようなものが落ちました。じわじわ広がってゆく感じがします。あわてて擦ると、ますます汚くなってしまう類《たぐい》の染みみたいです。
男の子たちは、ほんとうにこんな世界が好きなのでしょうか。まるでこころのふるさとにでも帰って来たみたいに、ぬくぬくとほのぼのとはればれとしてしまっている。
普通、こういうのって『少女趣味』って言うけれど、あれは間違いだわ。
と、アナは思います。
あたしは立派に少女だけど、ここまでやってくれちゃったら、ほとんど悪趣味だと思うもの。『少年趣味』と言いかえたほうが適切だわ!
それにしても不思議でした。アナだって、ピンクはきらいじゃあありません。スノーマンの教会の部屋では、ベッド・カバーだってカーテンだってピンク色っぽい生地を使っていました。愛用のヘア・ブラシもピンク色だし、日記帳の表紙も淡い桜色です。お気にいりのよそ行きの靴は、トウ・シューズのような形にリボンのついたピンクのエナメル、欲しくて欲しくて、さんざんねだって、やっと買ってもらった時には嬉しくって抱いて眠ってしまったほどの宝物です。普段は全く、ピンクに抵抗はありません。
なのに、どうして今に限っていやな気持ちになってしまうのでしょう。何が気にいらないのでしょう。こんなに濫用されたのではピンクがもったいないとでも思っているのでしょうか?
「あ、ケンちゃんだ」
「ケンちゃんだ、ケンちゃんだ」
小さなひとびとの中でも特に小柄な女の子がふたり、不意にこちらに気づきました。ちょこまかとやって来て、首をかしげたおしゃまな挨拶らしい仕草をします。両側からケンの手を取って、甘えるようにひっぱります。
「またきたね、あえたね」
「あそぼーあとぼー」
「ごちそう、あるよ」
「ぷれぜんともあるよ」
「じょおうさまが、まってるよ」
「さぁさぁ、いこう、きゅうでんに」
「きゅうでんに」
「いこういこう」
「はやくはやく」
競争するように早口に言い募るのです。返事も質問も、挟む隙さえありません。
「うんうん、わかったわかった。行くよ。行くから、そんなにひっぱらないでよぉ。しょうがないなぁ。あははははは」
なぁに? 気持ち悪い声だしちゃって。鼻の下伸して。歩きかたもデレデレしてさ。
……そうよ。あたしがこんなにイライラするのは、あんたたちが、あんまりバカみたいな顔をするからだわ!
気のせいでしょうか。アナの偏見なのでしょうか。ケンもロイドも、いつもの様子ではありません。凛々しくも頼もしくもない、正義の味方の地球防衛軍らしくない。顔のかたちは別にどこも変っていないのだけれど、なんだかどこにでもいるつまらない男の子たちみたいにみえます。ひどく幼稚に、無責任に見えます。世界の危機だと言うのに、鈍感にも自分さえ今さえ楽しければそれでいいって思ってうかれてはしゃいでいるそこらのくだらない誰かさんたちみたいに見えてしまいます。そんな知らないひとびとのような顔をして、とりつく島もないのです。アナのことなど、もうすっかり頭にないみたいなのです。
ケンは馴れ馴れしい女の子たちに強引に手を引かれるままズンズン歩いて行ってしまいました。ロイドも、ああ〜んまってぇ、なんて鼻声を出して、蜜に惹かれる蝶々《ちょうちょ》のようにふらふらくっついて飛んで行ってしまいます。だいぶ遠くなってから、ようやく思いだしたようにこっちを振り向きました。でも、それは『あれ、まだいたの?』とでも言うような、冷たいよそよそしい瞳だったのです。
そう、アナのこころには聞こえてしまったのです。
『へんなの。なにをおこってるんだろ』
『こないなら、おいてっちゃうよーだ』
『おいてっちゃおうよ。うるさいよ、あのこ』
『うん。すぐがみがみいうんだよな』
『すぐつんつんすることは、もう、あそんでやらないことにしようよ』
『うん、そうしようよ』
って。
あの不思議な力なのでしょうか。それとも、ただ、そんな感じがしただけなのでしょうか。アナには区別ができませんでした。
どちらにしても、ショックです。やな感じです。
あの黒いインクの染みが、たちまちモヤモヤ胸いっぱいに広がります。内側から押しつぶされてしまいそうな、変な圧力です。
いったいどうしたって言うんでしょう。男の子たちは、急に小さなこどもみたいになってしまった。
そんなにイヤがられているのなら、邪魔者扱いされるくらいなら、このまま消えてしまいたい。どこかでしばらくひとりになれるものならば、是非ともそうしたい。
そう、思ったのですけれども。
今、彼らを見失ってしまうわけにはいきません。これっきり、はぐれてしまったら大変です。なんとか元の戦士に戻ってもらわなきゃなりません。あんな普通じゃない手段でやって来たこの国から、いったいどうやって地上に戻ればいいのかもわかりません。たった三人っきりの仲間なのに喧嘩別れなんてしてしまったら、みんなが揃って助け合い力を合わせていかなければ、宇宙人をやっつけることなんか、絶対できないじゃありませんか!
そう、今は戦争中です! いつ、どんなとんでもないことが起こるか、わかったもんじゃあないんです。
意地を張ったり、尻込みしたり、拗ねてる場合じゃありません。
アナはグッと拳骨を固めて、駆け出しました。
ピンク、ピンク、ピンク。あくまでもどこまで行ってもピンクです。
めまいがしそうでしたけれども、アナはてのひらに爪を立てて歩き続けました。
ピンクの坂道をたどり、ピンクの階段を登り、ピンクの橋を渡り、ピンクの門をくぐり、ピンク色の石畳の道をどんどん進むと、やがてピンク色の森の向う、ピンク色の水に浮んだ、巨大なカタツムリの殻のような渦巻き型の建物が見えてきました。もちろん、それも、ぼうっと透けるピンク色をしているのです。
女王陛下の宮殿でした。
ケンとロイドと女の子たちは子犬のようにじゃれあいながら、今、ピンク色のお仕着せの番兵さんたちに敬礼されて、ピンクの絨毯を敷き詰めた廊下に入って行くところです。遅れてなるものか、とアナは足を早めました。ひょっとしたら、入れてくれないかもしれないと緊張しましたけれど、大丈夫何の問題もありませんでした。
「こんにちは」
「ようこそ」
「ようこそ」
「お待ちしておりました」
ピンク色の回廊にいっぱいに並んだピンクの服の女官たちが、順番に首を傾げてお辞儀をします。まるでマス・ゲーム、波頭が崩れるような優雅な動きでしたが、アナは強情にまっすぐ前をにらんだままスタスタと進みました。油断大敵。注意一秒けが一生。張り詰めてます。神経を研ぎ澄ましています。
それにしても変です。
かなり本気で早歩きしているのに、ケンたちはあんなにふざけあっていてけして急いでいないように見えるのに、なかなか追いつくことができません。廊下を曲るたび、部屋をくぐるたびに、次の角に消えてゆく後姿がちらちら見えるだけ。思い切ってダッシュをしてみても、なぜかまるで距離が縮まらないのです。なんだか化かされているみたいです。からかわれているみたいです。
よっぽど、声をかけて待ってもらおうかとも思います。でもそれは、悔しい。それに、実は、怖くもある。
黒く染った胸がきしみます。いやな予感を囁くのです。男の子たちはほんとうにアナのことなんか見捨ててしまったのでしょうか。ひょっとしたら、呼んでも、呼んでも、ふりむいてもらえないかもしれない。例えば追いすがって肩をつかんで、しっかり見つめ合っても、
「きみ、だれ?」
「なんか、よう?」
言われてしまいそうな予感がするのです。
その時、ケンの瞳は、ロイドの瞳は、きっともうあの透き通ったブルーや思慮深いとび色ではなく、甘く濁ったピンク色をしているのではないでしょうか……?
おののく唇をギュッと噛んで、アナはまたスピードをあげました。
そうしてひときわ立派な扉を潜《くぐ》ると、そこが終点でした。
薄紅梅の絨毯がどこまでもどこまでも続いた先に、桃色真珠の玉座。そこに、ひときわあでやかな薔薇《ばら》色ドレスをまとい、つややかなストロベリー・ブロンドを床まで垂らした美しい女性が、珊瑚樹《さんごじゅ》の錫杖《しゃくじょう》のようなものを手に、威風堂々座っています。こんな遠くからでも圧倒されてしまいます。その気品、その威厳、その華麗。
クィーン・マリーです……!
「いらっしゃい、こちらへ」
静かな声なのに、響き渡ります。
思わず息を飲んで立ち止まってしまっていたアナは、震えながらつかえながら、長い絨毯の上をなんとかかんとか転ばずに進みました。両側に並んだ兵士たちが突き出している長槍の飾り紐は、ピンクというよりはもうほとんどワイン・レッドで、まるで今さっき何かを刺し殺したばかりのように恐ろしく見えました。
玉座の下の短い階段の手前に、ケンとロイドが中世の騎士のように片膝をたてて畏《かしこ》まっています。あの女の子たちは、玉座の左右に別れ、両手を組合せて控えています。
アナは眼を伏せたまま、隅のほうにひざまずき、深く頭を垂れました。悔しいけれど、いやだけど、自然とそうせずにいられませんでした。例えば許されもしないうちに、正面きって女王の顔を見上げたりしたら、首を刎《は》ねられないとも限らないではありませんか。
すると、兵士たちが槍を上げて整列しなおす、ザッザッ、という音が聞こえました。
「おかえりなさい、こどもたち」
乾いた大地に降る雨のように、女王の声があたりに沁みこみ、吸いこまれて行きます。
「かまいませんよ、顔をおあげなさい」
アナは眼をあげ、そのひとをにらもうとしました。
……できませんでした。
そばで見ると、女王さまは、ちっとも恐ろしくなどありません。穏やかなそのお顔は、少しも威圧的でも権力的でもなく、整いすぎて冷たいわけでもありません。愛らしさや無邪気さ、瑞々しさにあふれておられます。アナなんかよりは絶対に偉いかたです。身分も年齢も経験も財産も力も魔法も何もかも、だんぜん上のレベルのかたであるはずです。なのに、守ってあげたくなるような、抱きしめてかばってあげたくなるような、不思議な雰囲気を持っている。戦う前に、こっちから負けましたと言ってしまいたくなるようなかたなのでした。
これもクィーンの魔法のうちなのでしょうか?
こんなちっぽけな女の子ごときが、例えばどんなに強がって抵抗したって、きっとふうわりかわし、ピンク色のコットン・キャンディにすっぽりくるみこむようにして、なだめてしまうのではないでしょうか。
「どうかみんな、くつろいでちょうだい。ここは誰もが帰ってくる場所、無意識の底にいつも留めている永遠の時。わたくしは、あなたがたすべてのこどもたちの母、クィーン・マリーなのですから」
女王さまは順々に三人を見つめ、花のつぼみがほころぶように、いっそう大きく微笑まれました。
「わたくしは知っています。あなたがたはわたくしが頼んだ仕事を既に半分以上果たされました。苦しい旅をしましたね。何度も、もう、ダメかと思いましたね。でも、こうして無事に、みんな揃って、元気な姿を見せてくれた。とても嬉しい。とても感謝しています。さぁ、あちらへいらっしゃいな。ゆっくり休んで、たんとご馳走をめしあがれ」
「……待ってください……!」
気がついた時には、立ち上がっていました。声をあげてしまっていました。
いけないいけないと思いながら、アナは、もう我慢できなかったのです。胸の奥の黒いものがふくれてふくれて、とうとう破裂してしまったのでした。
「お話の途中割りこむ失礼を、どうかお許しください。あたしだって、お眼にかかれてとても光栄です。でも、あたし、わかりません。あたし、不安なんです!」
宮殿じゅうの眼が全部自分に、ただ自分のからだだけに、注がれている感じがします。ケンもロイドも、他のみんなと同じようにまん丸い眼を向けているようです。なんてひとりぼっちで、なんて絶望的でしょう。
けれどもアナは、勇気を出して、昂然《こうぜん》と頭をかかげ、両足を踏んばって、まっすぐにクィーン・マリーを見つめたまま、はきはきと続けました。
「だって女王さま、ここはあんまり平和すぎます。どこもかしこも甘いピンク色で、夢みたい。うっとりしてしまうほど素敵ですよね。ここにおられるみなさんは、とても幸福そうです。世界じゅうの混乱も、まるで関係がないみたいです。ほんとに羨ましい。でも、あたしたちは見ました。侵略者たちの円盤の大群が、都市のほうに向って飛んで行くのを! あたしたちは知っています。ボヤボヤしてたら、地球がまるごと滅びてしまうことを! だからあたし、だから……」
女王さまはぴくりとも動きません。少々の皮肉ではこたえないみたいです。アナは声のトーンをいっそう張り上げました。
「この平和を信じたいです。いっしょに楽しみたいです。でも、できません! だって、地球には、あたしたちの世界には、今も苦しんでいるひとたちがおおぜいいるんだもの。あなたはあたしたちの味方なんじゃあないんですか。地球を救うためにお力を貸してくださるのじゃあないんですか。なのに、どうして? 聞かせてください、なぜ呼んだりしたんですか? なぜ今、あたしたち、ここにこなきゃならなかったんですか? そんなヒマないのに、もう間に合わなくなっちゃうかもしれないのに……あたしは、あたしは……ああ、一刻も早くおかあさんを助けたいのに……!」
のどが詰って、話し続けられなくなって、アナがことばを切ると、恐ろしいほどの静けさが宮殿を支配しました。それは、ずいぶん長いこと続きました。女官たちも、兵士たちも、何十人もいるのに、誰ひとり身動きひとつしないのです。
……ああ、もうダメだ。
きっと、命令される。
アナは思いました。
こともあろうに、クィーン・マリーに楯突いて逆らうナマイキな娘を、つまみだすように、ひどい目にあわせるように、ひょっとしたら、殺してしまうようにと! 女王陛下が指を一本動かしてなにげなく命じるのを、みんな、じっと待っているんでしょうよ。
どうぞ。やってちょうだい。
眼のあたりが熱いけど、アナはこのぐらいでは、もう泣いたりしません。今さらペコペコ謝ったりするくらいなら、あんなこと言いはしません。
さっさと命令するがいいわ!
それでも、あたしは、あんたの思い通りになんかさせないから……!
「……アナ!」
気がつくと、すぐ隣にケンが立っています。ロイドもいます。
大丈夫か?
しっかりしろ。ぼくらがついているよ。
そう言ってくれるように、やさしく笑ってうなずきながら。
どちらももう、変ではありません。いっしょに戦い、傷つき、旅をしてきた仲間の眼をしています。
あの不思議なピンク色の靄《もや》の影響から、女王の謎の魔法から、やっときっぱり抜けだしてくれたのです!
安心して、安堵して、張り詰めていた気分が緩んで、思わずぐらりと揺れてしまったアナの肩を、すぐさまケンが支えてくれます。ロイドもサッと回って、反対側に立ちました。もしまわりじゅうが飛びかかって来ても、なんとしてもアナを守ってくれるつもりでいるかのように。
やっと三人が並びます。揃います。横一列に並んで立てば、信じ合うもの同士の頼もしいチームワークが蘇ります。
そうして今、六つの瞳がそれぞれまっすぐに一心に、クィーン・マリーを見つめました。
アナの発した質問の答えを、じっと待ったのです。
クィーン・マリーは、しばらくの間、小さなおとがいの下で指を組んで何か考えこんでいるようでしたけれども、やがて、どこか儚げな寂しげな微笑みを浮かべて唇を開きました。
「……そうね……確かに、もうそんなにのんびりしてはいられないのよね」
それにしては拍子抜けするほどのんびりした、女王の口調です。
「来てもらったのはね、他でもないの。贈りものをしたかったからなのです。みなさんの顔を、よく見たかったからなんですよ。悪気なんか、なかったんですけどねぇ」
「顔を?」
「どうして?」
ロイドが、ケンが、鋭く尋ねます。女王はくすくす笑い、笑いながら、ため息をつきました。
「ええ、そうね。それは、まぁ、言ってみれば、わたくしのわがままなんでしょうね。でも、申しましたでしょう。わたくしはあなたがたのおかあさんなの。地球にいらっしゃるあなたがたひとりひとりのおかあさんと、同じなのよ。そのすべてのおかあさんたちを合体させたようなものとでも言えばわかってもらえるかしら? 母がこどもたちを恋しがるのは、あたりまえでしょう? 愛して、可愛がって、尽くしてあげたがるのは当然でしょう。いたわって、甘やかして、偉そうなふりをしたいのは、無理もないと思わない? そうして……やれやれ、どんなにこっちが心をこめようとしても、必ず迷惑がられてしまうものなのよねぇ」
「…………」
「ええ、いいの、いいの。それでいいのよ」
女王は自棄っぱちみたいに手を振りました。
「誰でもおとなになれば、わたくしの元を巣立たなければ。母親の気持ちなんて、所詮こどもたちにはわからないもの。そういう定めなんですものねぇ。だいたい、そんなものがナマジわかってしまったら、誰ひとり冒険になんかでかけられない。世界が滞《とどこお》って腐ってしまうんですからねぇ」
ことばを切ると、女王は、傍らの女官になにごとか合図をしました。女官は心得顔に奥にひっこみます。
「……それにしても、とても残念よ。あなたがたに、たっくさん美味しいもの用意してたのに」
ケンのお腹が、グウッと鳴ってしまいます。
「気持ちのいいベッドと、あったかいお風呂も準備してたのに」
ロイドののどボトケが、ゴクンとします。
「うーんと甘えて、休養してもらいたかったんだけど。どんな立派な戦士にも、憩いは必要だと思ったんですけどね。……アナ、ごめんなさい。あなたは間違っていないわ。わたくしの臆病にみなさんを巻きこむ権利なんかないの。あなたがたはわたくしが思っていたより、ずっと早く、ずっとたくましくなっていたのね。もう、ひとりで歩いて行ける。わたくしの膝であやすことができるような幼いこどもたちじゃあない。でも……どうか、お願い。母の心尽くしのプレゼントくらいは、黙って受け取って欲しい」
何やら大きなお盆をささげて、女官が戻って来ました。
「ケン、来て」
玉座の上に、ケンが立ちます。
「あなたには、これが必要だと思うわ」
女王さまが差し出したのは新しい帽子です。ほんのちょっとだけピンクがかっているけれど、ケンによく似合う真っ赤な野球帽。進み出たケンの頭に、女王さまが自らかぶせてあげます。まるで戴冠式《たいかんしき》のように。
「これは力と勇気のあかし。この帽子をかぶっていれば、正しいこころを持つものは迷わずあなたに従うでしょう」
「ありがとう、クィーン・マリー」
ケンは少し頬を緊張させながら、格式ばったお辞儀をしました。
「なくさないように気をつけます」
寂しそうにうなずくと、クィーン・マリーは、さっさと次の品を手にします。
「ロイド」
「は、はいっ!」
「眼鏡を取って」
「え?」
「こちらをかけて。だいじょうぶ、ちゃんと合います」
新しい眼鏡です。丸っぽい縁はほんのちょっとピンクがかった銀色です。何故かそんなにぶ厚くありません。ロイドはしばらくぱちぱち瞬きをしていましたが、きりりとあげた顔つきは、なんだか急におとなっぽくなっています。賢さがパワー・アップした感じです。
「これは叡知《えいち》と忍耐のしるし。この眼鏡をかけていれば、どんな苦しい時にもきっとよい考えが浮び、あなたと仲間たちとを救います」
「似合う?」
振り向いたロイドに、ケンとアナが揃ってオーケー・サインを出しました。ロイドはニカッと照れ笑いをして、もう一度女王に向き直り、うやうやしく腰を折りました。
「身にあまる光栄です、女王陛下。慎んで頂戴します」
ロイドがさがります。
そうして、とうとう、アナの番になりました。
招かれるまま、おそるおそる、階段を登ります。女王の美しい指がさしあげたものは、キラキラと輝く首飾りでした。
「これは、愛と真実のしるし、わたくし自身がかつて身につけていた大切なもの」
大きなハート型のルビーがアナの胸で星になりました。
それで、どんな役にたつのですか?
ほかのふたりの時のようにはことばを続けてくれないので、思わず問いかけるように見上げたアナの瞳を見つめながら、女王な急にいやに真面目な表情になって、こころの声で語りました。
『忘れないでアナ、すべての鍵は愛、最後の武器は希望です。そうして、少年たちを惑いから覚まさせ、ほんものの男にすることができるのは、ただ女だけ、心の底から彼らを愛する娘だけなのです。賢さとやさしさと純潔な魂のすべてを賭けて戦いなさい。少年たちのために、世界のために、そして、自分のために……!』
からだじゅうが冷たくなります。首飾りがズンと重く胸を潰します。
『そんな大変なものはいただけません。持っていられません。とても責任が取れません……!』
震えるアナに、クィーン・マリーは厳しい顔で首を振りました。
『甘ったれるんじゃないわ! さっきの勇気はどこへ行ったの。よろしいですか、あなたとわたくしはある意味では、きっぱり敵なのです。そうしてその上、ある意味では、まったく同じものでもあるのです。ですから、わたくしがもう一度この手にそれを奪い返そうとする前に、さぁ、さっさとお行きなさい……』
女王は、玉座から立ち上がり、高らかに叫びました。
「戦場へ!」
たちまちごうっと風が吹き荒れます。すべてのピンクが溶けて混ざって、渦巻き状に収束しはじめます。
「うわぁぁぁ」
「ひぇっ」
「きゃあああっ!」
三人のからだは宙に舞いあげられ、ぐるぐる回され、ピンク色の台風の目の中心へ吸い込まれて行きました……。
「……だれ?」
「おとなよ」
「おとなってほどじゃないよ」
「どこのひと?」
「知らない」
「知らない」
つぶやく声がざわざわと、静かに寄せては引いて行きます。渚に落ちた貝殻になって、波が来るたびに水をかぶっているような気持ちです。
「死んでる?」
「死んでるかな」
「動かないよ」
「息してる?」
「わかんない」
「つついてごらんよ」
ウ〜ン、うるさいな。ほうっておいてよ。
アナは小さくイヤイヤをしました。
「あ、動いた!」
「動いたよっ」
「眼が開く」
「起きる」
「……ええっ?!」
あんまり急に身を起こしたので、目玉の奥がくらくらしました。くらくらしながらも見たのは、朝露に濡れた森と、半端に曇った空、ぼんやりした太陽、そして、『ヒッ!』という顔で凍りついているこどもたち。アナやケンやロイドよりもずっと幼い、小学校にもまだ上がっていないかもしれない年頃のこどもたちばかり、数人です。
「……あ……あんたたち、誰っ? ここは、どこ?」
こどもたちは幼い顔をうろうろと見合せました。何人かがじりじり下がります。残った子も次々にダメダメと手を振ります。もじゃもじゃした赤毛がとんでもなくからまってしまった鼻ペチャ顔の女の子が、前面に押しだされるようなかっこうになって、ウンザリと(そんな小さな子にしてはずいぶん慣れた感じに)ため息をつき、ツンと顎をそらして、とびきりオシャマな声で言いました。
「いーすたー、よ」
「イースター?」
それじゃあ、おかあさんが行方不明になった場所ではありませんか!
『戦場へ』なんて言いながら、あの気まぐれクィーン・マリーは、ちゃあんとアナの望む場所を知っていて、魔法の力で運んでおいてくれたのでした。
「じゃ、教会のおばさんを知ってる?」
思わず迫ってしまいます。その剣幕にビクッと震えた赤毛の子のちいさな腕を逃さないようにしっかり握って、鼻と鼻がくっつくほど顔を寄せて。
「知ってるわね? スノーマンから来た、色のうんと白いひと。背の高いひと。あんたたちにお菓子やお洋服を持って来たはずよ。見たでしょ? 知ってるでしょ? 知ってるわね?!」
「う……」
赤毛の子の、もともと整っているとはいいがたい顔が、ゆがんで、ゆがんで、鬼瓦《おにがわら》みたいになったかと思うと、
「うわぁぁぁぁぁんっ!!」
思い切り泣きだしてしまいました。
「あ……ごめん、ごめんなさい! ごめんなさい!」
「わぁぁぁぁつ、ぐっ、ぐっ、ぐあああああああ〜んっ!!」
いくら今さら抱きしめてやっても、赤毛の子は泣きやみません。どんどんひどく泣きだすばかりです。つられて、あっちでもこっちでもこどもがグズりはじめました。男の子も女の子もヒックヒック鼻をすすり、肩を震わせています。びっくりしたような顔のまま大粒の涙だけ、ぽろぽろこぼしはじめてしまった子さえいます。
「ごめんったらっ! 悪かったわ、おどかすつもりなんかなかったの。だから、ねぇ、ちょっとったら。わぁん、どうしよう。みんな、お願いだから泣き止んで、泣き止んでったら、もうっ! 静かにして!!」
「なぁにやってんだぁ?」
くさむらを分けて、片方の足をひきずりながらヨロヨロやって来たのはケンです。途方にくれたアナに『やれやれ』と首をふると、こどもたちに向きなおります。それから、急に歯茎まで剥きだしにしてニカァ〜〜ッと笑い、ドラ声で歌いながら踊りだしました。
呑気な三人組 ニールにマイクにエド
月世界旅行初体験 こいつぁ滅法ツキがいいぜ
ほんとはこっそり思ってる
着陸一号なんかより 生還一号のほうがいい
はぁ〜 たいへん たいへん たいへんだ
宇宙飛行士《アストロノーツ》も楽じゃない
アポロ・イレブン いい気分
正しいメロディ・ラインを想像することもできないほどの、ひどい音痴です。大袈裟に振り回す腕も脚もヘタクソもいいとこ、おまけにさかんに腰を振ってクネクネ回ったりもします。下品だったらありません。
アナはすっかり呆れてしまいましたが。
なんということでしょう。こどもたちはみんな次々に泣きやみ、瞳をキラキラ輝かせて、一心にケンの歌と踊りにいれこんでいるではありませんか!
陽気な三人組 ニールにマイクにエド
地球を離れて幾千里 そろそろお家が恋しいが
仲間に隠れて泣こうにも
コレクト・コールをしようにも 月光《ムーンライト》(内職)頼りにできゃしない
はぁ〜 たいへん たいへん たいへんだ
宇宙飛行士も楽じゃない
アポロ・イレブン いい気分
三度めの『はぁ〜 たいへん たいへん』には、お調子者の何人かは、思わず可愛い声をはりあげていっしょに歌ってしまいました。誰かがブリキのバケツをみつけて来て叩きだしました。そこらの草を千切って笛にして、器用にピィィッと鳴らす子もいます。ケンはおどけた顔で驚いてみせておいて、ニコニコ招きます、全員を抱きしめようとするかのように、めいっぱいに腕を広げて。こどもたちがワァッと駆けてゆきます、集ります。みんな、あのとんでもない腰振りをなんとか早くマスターしようと、真剣な顔つきで踊りだすのです。
たいへん たいへん たいへんだ
たいへん たいへん たいへんだ……
超ロングのリフレインです。ケンを真ん中にして輪になって、みんなでぐるぐる回ります。虎だったらバターになっちゃうかもしれないような、すごい勢いです。目が回ったのでしょうか、バッタリ転んでしまう子もいます。でも、すぐに自分で歯を食いしばって立ちあがり、ひょこひょこ踊り続けるのです。
もう誰ひとり泣いてません。よだれも鼻水も全開にしてギャアギャアけたたましい声をあげていた子も、ひっくひっく震えるばっかりだった暗い子も、みそっ歯がみんなのけぞるほど大声をあげ、ぼろぼろになったぱんつを剥きだしにする激しいアクションで『たいへん たいへん たいへんだ!』をやって、我を忘れて踊ります。
アナはぺたんと草の上に座りこんだまま、この奇妙な真昼の盆踊り《ボン・ダンス》を見つめ続けていました。入っていきたい気もするけれど、すくんでしまってできません。あんなバカな真似を嬉しそうにやってみせることができるほど、柔軟ではありません。
すると、あの赤毛の子が、ふとこちらを見ました。アナと眼が合うと、ははぁんと両手を腰にあてて立ち止まりなす。輪は、じゃまな彼女の背中にぶつかりながら、ゆがんだ形で回ります。『おねえさんったら、だめね!』首を振ります。あくまでとってもナマイキなのです。アナが思わず顔をそむけようとすると、肩をいからせてスタスタこっちにやって来ます。抵抗するアナの手を取って、ほら! と引っ張ります。
そうして、とうとう、アナも輪に入ってしまったのでした。最初は恥かしくて、手も足もギクシャク、ちゃんと踊れません。腰なんか全然振れません。声も出せません。でもどんどん回ってどんどん疲れてどんどん頭がぼうっとしてくると、なんだかパァッと気持ちが明るくなって来ます。心配ごとも迷ったことも、自分は結局はダメな女の子なんじゃないかと言ういじけた拗ねた気持ちも、みんなどこかに消えて、からだじゅうが伸び伸びほぐれるのです。解放感です。
長い長い踊りでした。すっかり汗をかきました。みんな芯までくたびれて、バタンと草の上に倒れます。寝転びます。
はぁはぁ弾むアナの胸に、あのクィーンのルビーがきらめきました。ドキッとしました。
あんなにはしゃいだりして。バカみたい。落としてしまったら大変だったのに。あたしったら……!
急にカァッと頬が熱くなりました。恥かしさが戻ってきました。なんだかやたらと虚しいことをしてしまったような気がしました。
眉を曇らせてそっとルビーを押えたアナの肩の上に、ふと、あたたかなものが静かに重なりました。
見ると、ケンがすぐ隣に寝転んでいます。ブルーの瞳が、からかうように笑っています。
「アナはこどもは苦手なのか?」
「……そ、そんなこともないけど」
教会に来るこどもたちは、みんなおとなしくてきちんと礼儀正しくしています。ちょっとくらい驚いても、いきなり泣きだしたりはしません。おねえさんの言うことは、みんなよくきいてくれるのです。信心深いこどもたちなのですから。
でも。
こんなの、女の子らしくないって思われちゃったかな。怒鳴ったりして、泣かせちゃって。そのあとだって、ケンが来てくれなかったらどうなったことか。
……ごめんね?……
沈んだアナをなぐさめるように、ケンはパタパタ肩を叩きます。赤ん坊をあやすようなリズムです。
「俺も、前は得意じゃなかったんだ。うち、ふたごの妹がいてさ。うるせーんだ、これが。『おにいちゃん』『おにいちゃん』『おにいちゃん』『おにいちゃん』ステレオでわめくんだぜぇ。気が狂うっつーの。んで、しょっちゅうヒステリー起こして、ついでにゼンソクも起こして、母親なんかにきっぱりケーベツの視線送られてたんだけどさぁ。去年の夏、ユニフォーム買いたくてバイトして。シッターやってね。少年野球チームでも、だんだん先輩っぽくなって来るじゃん。いるんだ、ハナタレが。どーしょーもないのが、中にはな。そーゆーのの面倒をしょうがなく見てるうちに、なんか知らんが、けっこう平気になっちまった」
「……そうなの……」
「ああ」
ケンは身を起こして、草の上を見て回ります。
疲れ果て、緊張がとけて、あどけない顔でスウスウ眠ってしまったこどもたちを、ひとりひとり見て回ります。
「要は慣れとテクニックなのよ。ガキんちょどもがパニックして収拾つかなくなった時は、あれに限る。静かにしろっていくら怒鳴ったって、絶対静かにしねぇ。でも、おもっきりわけわからない気分になるようなコトを夢中でやって見せると、びっくりして、それから、つい、つられちまうんだ。なにせ単純なんだ。こどもってな」
「ま、だいたいはね」
大の字になって寝ころんでいた赤毛の子が、いきなりパチリと眼を開いたのでした。
「やぁ、起きてたんだ」
「ふん。あたしなんか、年の割にはずいぶん長く生きちゃったって言うか、けっこうシッカリしちゃったほうだと思ってんだけど」
もつれた巻毛をバサバサ振って草っ葉を振りはらうと、彼女はほとんどセクシーと言っていいほどの仕草で肩をすくめました。
「まだまだね。どうもショックには弱いわ」
「立派なもんだよ」
「ふふん」
ほぼ完璧な流し眼をすると、赤毛の子はケンに手を差し出しました。
「ハロー。あたしはエイミー。みなしごよ」
「それでしっかりしちゃったってか」
苦笑まじりに握手をしながら、ケンはうなずきました。
「俺はケン。彼女はアナ」
「ハーイ、ハニー。さっきはごめんね?」
「は……ハーイ」
ひらひら指を振りながら、アナの口許はついこわばってしまいました。そう言わなきゃならないのはこっちなはずなのに。まったく、なんてこまっしゃくれた女の子でしょう。
「お尋ねの件だけど、なにしろ複雑でねぇ」
両足を投げだして腕組みをして、エイミーは『やれやれ』と首を振ります。
「ひとことじゃとっても説明できないってのに。あんたが焦らせるからさ。まいったわ。みっともないったらありゃしない。……ふうっ。まぁ、いいわ。いつまでもこうしてたってなんだわね。ねぇ、おにいさんたち、ちょいといっしょに来てくんない? お茶くらい、出すわよ」
「うん。……だけど」
ケンは腰をあげながら、あたりを見回します。
「実は、もうひとり、いるはずなんだ」
「知ってる。眼鏡の彼でしょ。大丈夫、保護してあるわ」
「保護……?」
「公園の桜の木の途中にひっかかっててさ。下ろすの大変だったんだからね。おまけに毛虫に刺されちゃって、こーんな顔になっちゃったから、今、ノエルが治療してるはずよ。あの子にまかせとけば安心。保証する」
ふんっ、と立ち上がってぱんつのお尻をぱんぱん叩くと、エイミーは胸を張り、短すぎるスカートの裾を優雅につまみあげて、ニッコリ笑いました。
「遅ればせながら……イースターにようこそ!」
「おとなたちが消えたのに気がついたのは、寒い寒い朝だったわ」
エイミーが語ります。
「あたしたちは……あたしたちってのは、我がタンポポ女子孤児院のこどもたちってことだけど……最初はちっとも気がつかなかったの。なにしろウチには四十人からの孤児に対しておとなはミス・ハニガンって院長ひとりっきゃいないでしょ。おまけに彼女はアル中のシンデレラ・コンプレックス患者、毎晩夜中まで悶々としてるもんだから、朝はとっても遅いのよ。あたしら、ベッド・メイクもお炊事も、自分たちでやるのあたりまえなんでね、その日もずっと何にも知らずにいつも通り過ごしてたの。……でも、窓から外をのぞいても新聞売りのオジサンがいないし、いつもキャンディをくれるやさしいお巡りさんも通りがからない。お店というお店の様子がおかしい。そんで、ジュリアとパンジーが偵察に出たら、まぁ、驚いたわ。大異変よ。町じゅうが孤児院になっちゃう日が来るなんて誰が予想したって言うのよねぇ」
もとから巨大なカフェ・オ・レ・カップです。エイミーの手の中にあると、まるでSFXの小道具みたいに見えます。
「……それから、あたしたちはがんばった。普通の子たちに、孤児として生きてくノウ・ハウを徹底的に叩きこんであげたわ。でも、他の町に親戚がいる子は地域別にグループ編成して、とっとと送りだしたの。なにしろ集団生活ってけっこう大変なんでね。むかない子がひとりでもいると規律が乱れてしょうがないし。自分のことは自分でやるって基本さえ、マスターできないバカもいないじゃないし。この時とばかりにボスになりたがる、何か勘違いしてる奴らもけっこういたしねぇ……」
「どうしたんだ、そいつら?」
口を挟んだケンの眼の前に、シュッ! と小さな拳骨が飛び出しました。
「これよ」
エイミーは横目で不敵に笑います。
「あたしの右パンチは必殺なの」
「なるほど」
「……で、おとなたちがどうなったかって話だけど……」
「ど、どうなったの?」
乗り出すアナに、エイミーは気の毒そうに首を振ってみせました。
「わからない。実のところ、まるでわからないんだわ。ニッポンからカイガイフニンで来てた子が『サキョー・コマツ』だかってひとの『オメシ』って短編がこんな話だって言うんで翻訳してもらって読んでみたけども……ニッポンジンの考えることって結局は全部『ゼン』とか『ミッキョー』なんじゃない? さっぱりわかんないってことだけが、確実にわかった」
「…………」
「ごめん。力になれなくて」
アナが肩をすぼめると、エイミーは小さな手を伸して、カップに置いたままのアナの手にさわりました。
「でも、くじけちゃだめよ、アナ。あたしだって……このあたしだって、ずっと信じてるの。いつの日かパパとママがあたしを迎えに来てくれる。ただ、今はいろいろと事情があって離れているだけなんだって。一日が過ぎて何にもなく終る時、いつも思うの。それでもとにかく、その素晴らしい日にまた一日分だけ近付いてることだけは確かだって。だからガッカリすることなんかないって。そうよ、明日はきっといいことがあるわ!」
「……エイミー……」
アナがせわしなく瞬きをしながら見つめると、エイミーの眼だってやっぱり潤んでいるのでした。ふたりの瞳がからまります。まったくどっちがおねえさんなんだか、わかったもんじゃあありませんけど。
頭を掻きながらそっと椅子をずらしたケンが、ギョッとしたように動きを止めました。
「ゆ……UFOっ……?!」
アナは急いで顔をあげました。何ともへんちくりんな物体が見えました。あわてて眼を擦りましたが、見間違いではありません。籐で編んだ籠《かご》がひとつ、支えもないのに空中に浮んでいます。ぷかぷか揺れながら、部屋を横切ってこっちに漂って来ます。確かに未確認飛行物体です。ただ、超ミニ・サイズで、しかもナチュラル嗜好だったりはするのですが。
「う、うわぁぁ、なんだなんだっ、なんだっつーんだ! まさか、宇宙人ども、金属使い果たして自然に帰れ運動でもはじめたんじゃねぇだろうなぁっ」
ケンも同じことを考えたみたいでしたが。
「アッハハハハ」
籐籠が笑ったんです!
「それは傑作ですね。最近聞いたジョークの中で一番|斬新《ざんしん》だと思います」
「意地悪言ってないで、降りといで」
エイミーが乱暴に腕をしゃくると、
「おーらい」
籠がすーっと降りて来ます。ケンとアナが抱き合わんばかりにしているところにみるみるうちに近付いて、膝の上に乗りました。
「やぁ。やっと逢えましたね!」
籠の中には、まるまる太った赤ちゃんがいるのです。こっちを見上げています。ぷくぷくした指を握ったり開いたりさせながら、まだ歯の生えていない唇をはぷはぷ開けて、笑っています。
「……あ……あなたなのね……?」
ようやくアナは気がつきました。砂漠からこっち、時々アナを呼んでは、ヒントをくれたり、励ましてくれた、あの不思議な声です。あれはやっぱりほんとうに実際に、ちゃんとした赤ちゃんだったのです!
「そう、私がノエルです」
「逢いたかったわ、ノエル!」
「こちらこそ。よしなに」
赤ちゃんと握手をするのは、なかなかに気恥かしい経験でした。なにしろ、こっちがバカみたいに大きくてぶかっこうなものに思えてならないのです。ケンもおっかなびっくり、ちいさな手に指一本握られて、なんだか赤くなっています。
「クリスマスの朝に、孤児院の玄関に捨てられていたから、こんな名前がついたのです。エイミーねえさんもこれでなかなか、ロマンチストでしてね」
こいつ! とエイミーは殴る真似をしましたが、ノエルは動じません。
「あいにくですが。さすがの必殺右パンチも私には絶対届きません」
「あーあ、どーせそーだよ」
「この子も、孤児なの?」
アナが尋ねると、エイミーはちょこんと肩をすくめました。
「そう言ってもいいんじゃないかとは思うんだけど。いまいち謎ではある。ま、とりあえず、うちでいっとー新しい、いっとーのチビさ。でも、いっとー役にたつ。あたしたちは、クリスマス・プレゼントに神さまが贈ってくれたんだと思ってる。感謝してんだぜ、これでも」
「存じております」
ノエルはバタバタ足を揺すぶります。
「役にたつって?」
「そう。この子は赤ん坊のくせに、いろいろと不思議なことができるんだ。怪我を治したり、ひとのこころを読んだり。さっきみたいに浮んだり、しゃべったり。うーんと遠い場所まで一瞬のうちに飛んでくことだってできるらしいよ」
「テレポーテーション!」
と、ケンが叫びます。
「じゃあ、ひょっとして、俺たちのことをホーリー・ローリー・マウンテンまで連れてけるか?」
「不可能ではありませんが」
ノエルはもぞもぞっと動きました。
「ただ、ひとを連れて遠くに飛ぶとすると、相当な精神力を必要といたしますので。たいへん空腹になりますし、眠気ももよおします。私のからだはこんなですからね、ミルクとベビー・フードがないと半日ともちません。それに、あなたがたは確か、もうひとつかふたつ、何か探さなければならないのではありませんでしたか?」
ケンとアナは顔を見合せました。
これはほんとうにほんものみたいです。アナよりもさらに強力なPSIなのに違いありません……!
「じゃ、じゃ、ねぇ、次の歌がどこにあるかわかるの?」
「たぶん、バレンタインの町でしょう。詳しくはわかりませんが、匂いを感じます。クィーン・マリーに所属するものの独特の匂いを、かすかに」
「バレンタインですって……」
アナは悲鳴のような声を洩らしました。それは有名な不良の町です。よい子がけして行ってはいけない、麻薬と暴力と性犯罪で名高い町なのです!
思わず見上げてしまうと、ケンが、だいじょうぶ、と言うようにうなずきました。
「行ってみたい」
「わかりました。でも、少し待ってください。あなたがたのともだちの毛虫カブレを治すのに、私は実は、もう、相当に消耗いたしております。よその町まで飛んでいくような元気はありません、ふぁ〜〜〜〜ああ」
まだ歯も生えていない赤ちゃんの大あくびでした。
「そうだわ、ありがとう。ロイドのこと」
「なんてことはありません。あ〜〜ふ。とにかく、まぁ、ちょっと眠らせてください、あなたがたも旅の仕度を整えておいてくだちゃい……んじゃおヤスミ……むにゃむにゃ」
「うわぁっ!」
途端に、籠がズシリと重たくなったのでした。ケンは満身の力をこめて、やっとそれを床に下ろしました。
「こうなったら四・五時間は起きないから、焦ってもムダだよ」
エイミーがウフフッと笑いました。
「ま、ゆっくりのんびり、お風呂にでも浸かってみたらどうかな。はっきり言ってあんたたちに所属するものもかすかに匂ってるわ。それってバラの匂いとは、ちょーっと違うみたい。ウヒヒヒヒ」
「……悪かったわね」
そういうあんたの髪の毛だって、もう少しなんとかすればいいのに。
と、アナは思います。
でも。ひょっとすると、みんなのまとめ役で必死で、そんなヒマもないのかしら。こんな小さな子なのに、うんとがんばりやさんだから。
梳かしてあげようかな。こんなにしっちゃかめっちゃかにならないように、編んであげたい。キチンと三つ編みにしたら、この子ってけっこうファニー。独特な可愛らしさがあるものね。
やっと少しおねえさんらしいところが見せられそうな気がして、アナはちょっぴり、嬉しくなりました。
「着替えは心配いらない。おとなの服とか鞄とかいくらでも余ってるから、じゃんじゃん遠慮なく使って。そうして……必ず、勝ってちょうだいよ!」
「うん」
「ありがとう!」
こどもたちしかいない町は、苦労ばかりだった旅路の中で、一番居心地のいい場所になりそうでした。
6 不良の町バレンタイン
紙屑、缶から、割れた瓶。破れたシャツのきれっ端に、引き毟られたチェーン。アスファルトには油染み、毒々しい看板、コンクリートのひびわれ。
壊れた栓からじょぷじょぷ音をたてて洩れている水が欠けたマンホールを迂回して舗道の石の隙間に吸い込まれて行きます。デコボコになったポストの下などにはちょっと詳しく形容することのできないゾル状物体があって、視角・嗅覚の両面からその存在を激しく主張してもいます。
ありとあらゆる種類のゴミが吹き寄せられ放置され集積した町。ダウン・タウン。ここは最果《さいは》て、バレンタインです。
何もかも捨てられているみたいです。いい加減に放り出された感じがします。ここに残るすべてのものは誰かの足跡、ひとの名残り。自然のままのものなんて、ほんのかけらも見当らないのです。
整理整頓とか身だしなみとか公徳心とかが徹底的に不得手なひとびとを百人ほども連れてきて、一週間ほどとじこめ、らんちき騒ぎをさせておいて突然解散させたなら、このくらいになるでしょうか。
でも、今、ここにはまったくひとかげがありません。透明な光の中で、町は、しぃんと息をひそめていました。
……おや。
アナは、汚れたピアノの毛ばたきが転がって来たのかと思いましたが、どうもガリガリに痩せこけた野良犬だったようです。犬は、道端にうなだれて、落としたまんまの形で溶けたアイスクリーム・コーンを物悲しい顔つきで長いこと舐め続けましたが、ふともっと素敵なご馳走を発見し、つい一往復半だけ尻尾を振って、勢いをつけて駆けてゆきました。向う側の路地の陰で、ぐしゃりと潰れている赤白ストライプの箱は、どこかのジャンク・フード・ショップのテイク・アウト・ボックスだったのです。
アナは、ほうっと息をつきました。
「『ノアの方舟《はこぶね》』級の大掃除が必要ね」
ロイドもケンもうなずきます。
四人は(籐籠のノエルを加えて、です)、バレンタイン大通りの端っこのほうに、ぼんやり立ち尽くしていたのでした(あ、ただしノエルはご存じの通り、浮んでいたわけです。やれやれ、まったくややこしいですね)。
アナにとって『ほんものの繁華街』は、ほんの五分前までは、空想の中にしかありませんでした。有名な不良の町・悪い子のメッカは、とても不潔で恐ろしいに違いないとは思っていましたが、もう少しにぎやかで華やかな感じではあるはずでした。頽廃的《たいはいてき》で享楽的《きょうらくてき》で、猥雑《わいざつ》で傲慢で無責任で、でもそういうのを好きである愚かで幼稚で不幸なひとびとにとっては、それなりに天国みたいな場所であるのだろうと思っていたのでした。ここは、あんまり怖くはないけれど、どんな趣味の悪いひとにとってもけして天国になど思えそうもないではありませんか。なんだか変な気持ちです。ガッカリ、と言ってしまってもいいんでしょうか。
それはどうも、年長三人組共通の気持ちだったようです。みんなの様子を察したノエルは、言い訳をするように言いました。
「夜は、こんなにさびれてはいませんよ。あんまりひとが大勢いるとこにテレポートして騒ぎを引き起こしたくなかったものですから、わざとこんな時間を選んだのです。今のこれは所詮は舞台裏、ひとが出てくればわかる。変わる。わかる。かわる。わかるかわるかるかわかるか……にゃにゃにゃ、だめだ、頭がワヤになって来た。私はもうやすませていただきます」
「え?」
「うう〜〜ん、眠い眠い。じゃあ、あとで。オヤスミ」
「うわぁ、待て待て!」
ケンが手を伸しながらすっとんで行きましたが。
籐籠はスーッと動くと、少なくともそのへん一帯では一番清潔そうな縁石の上に静かに降りて、勝手に止りました。三人がのぞきこむと、ノエルはもう、むにゃむにゃ夢の国です。
「……しかしよく寝るなぁ」
ケンは、羨ましそうに言いました。
「赤ちゃんは眠るのが仕事よ」
「困ったな。もう少し待って欲しかった。今後の方針を相談しておきたかったのに」
ロイドがしきりに首を振るので、あとのふたりは思わず眼と眼を見交わしてしまいました。いいおとな(?)がふたりもいるのに、よその赤ちゃんを頼りにするなんて。ちょっと失礼ですよね。
でも、まぁ、無理もありませんでれども。
マジカントがらみで何度か似たようなものを体験してはいましたが、時間も場所も自分たちで選択して自由にテレポートするなんてはじめてでした。どう選択し計画するのが正しいのか、わかっていたのはノエルだけだったわけです。三人とも、ゆうべからドギマギしてなんだかちゃんと眠れませんでした。はじめて飛行機に乗ってよその国に行くことになってる前の日みたいなものです。わくわくしながらも、心配でたまりません。大事なものをうっかり忘れていないか、無知のためにとんでもないドジを踏んでしまわないか、気分が悪くなったらどうしようか。考えてもしょうがないことが何度も何度も頭の中を回ります。かくして、夢を見ているのか目覚めているのかはっきりしない、長いような短いような中途半端で苦しい一晩が過ぎ、タンポポ孤児院の窓がしらじらと明けてゆき、さぁもう出発だよと言われたのでした。
「……ほんとうに、どうしたものかな」
ロイドは引き続き困っています。
「たぶん夜になるまで待てってことなのだろうけど、まだずいぶんある。一刻も無駄にしたくないじゃないか。この余剰時間をいったいどう過ごすのが合理的かつ建設的なんだろうか。きみらの意見は?」
「う、うーん……」
「ちなみに参考までに、今ぼくの脳に浮んでいる疑問および懸念を整理してみるとだな。まず、ひとつめ。こんなに誰も通りがからないんじゃ情報を得るチャンスがないが、そこらの家を叩き起こすのは問題がありそうだ。ふたつめ。ぼくらは乳飲み児づれだ。へたに公的機関に助けを求めたりすると補導されかねないのではないだろうか。みっつめ。ノエルは匂いがなんとかって言ってたそうだけど、こんな腐った町でも鼻がきくのだろうか。……つまり、まとめて言えば、目立った行動はしないにこしたことはないのだが。ここでは何をやっても目立つに決っている。かといって、何も行動しなければ何も起こらない。典型的な二律背反だ。コンフリクトだ。アンビバレンツだ。このダブル・バインド状況を打開するどのような手立てがあると言うのだろうか。ケン、アナ、何か意見は?」
ロイドはまだあのクィーンの眼鏡を使いこなせていないのではないでしょうか。ちょっと賢くなりすぎて、脳みそがオーバー・ドライブしているみたいです。ふたりには、何を言っているのかサッパリわかりません。
「……とにかく……」
恐る恐るアナが言いました。
「今のうちにちょっとそのへんを歩いてみない? こんなとこでぼうっとしてたってしょうがないでしょ。どこに何があるかを調べておくだけだって、少しはものの役に立つんじゃないかしら」
「おおお!」
ロイドはよろめくほど驚愕しました。
「これはしたり! 確かに、いったん土俵を降りなければその高さはわからないものなのだった。テーゼとアンチテーゼにはアウフヘーベンがつきものなのだった。ぼ、ぼくが愚かだった……」
「いいから、もう、行きましょうったら」
「あのさ、もしもし?」
歩きだしたアナとロイドの背中に、ケンが呼びかけました。
「これ、どーすんの?」
ノエルの籐籠を指差しています。ふたりが眉を寄せて首を振ると、ケンはやれやれと肩を落としました。
「いーよいーよ、わかってるよ。ノエルは俺がおぶってく! でも籠はどうすんだって聞いてんだよ。こんなもんごと背負うのはいくらなんだってごめんだぜ」
「あたし、持つわ」
アナは下ろしてあった持ち手をあげて、提げてみました。ちょっと大きすぎますけれども、似合わないこともありません。
「重くないわ。だいじょうぶ」
「なんだか赤ずきんちゃんみたいだな」
そう言えば、アナはちょうど、イースターの誰かの家から借りて来た真っ赤なフードつきのケープを着ているのでした。白兵戦にはあまりむかないかっこうですが、PSI担当なので、これで充分なのです。
あとのふたりのかっこうはと言いますとですね。
ケンはいっぱいワッペンのついた空軍のフライト・ジャケットのレプリカに、カーキ色のバックウォーム・パンツ。クィーン・マリーの野球帽の上から、白地に赤く太陽模様のハチマキをきりりと締めているのがなんとなく剽軽《ひょうきん》です。
ロイドはチェックのマウンテン・シャツの上からブルーのダウン・パーカー(袖やライナーが外せるタイプです)を羽織り、ジーパンを履きました。ちなみに下着はカルバン・クラインだったりするのですが、それは本人と、それを用意してくれたエイミーとのふたりだけの秘密でした。
みんな、標高の高いホーリー・ローリー・マウンテンを基準に選んだので、ここではちょっと暑苦しい感じなのでした。
ゴミ溜めのような通りをいくつか過ぎると、広い公園がありました。どのベンチの上にも、真黒な顔のおじさんが眠っています。生気がなく、髪がぼうぼうで、着ているものがボロボロだったので、何となくおじさんに見えましたが、ほんとうはけっこう若いひとだったのかもしれません。
枯れかけた楡《にれ》の木の下では、女のひとがひとりぼっちでたばこを吹かしていました。家じゅうの服を手当り次第に重ねたみたいなへんてこりんなかっこうをしていて、こどもたちと眼が合うと、猛獣みたいに唸りました。なんだか女のひとにしては低すぎる声だと思っていたら、うーんと通り過ぎてから、あのひとのどボトケがあったね、とロイドが指摘しました。三十秒考えて、アナはぶるるっと震えました。
深い藪《やぶ》の手前に華奢《きゃしゃ》なパンプスが落ちていました。金色の、パーティー用みたいな、うーんと踵の高いオシャレな靴が片方だけ。お姫さまにだって似合いそうな立派な靴です。アナが思わず手に取ってみていると、藪の向うから、不意にクスクス笑い声が聞こえました。どうも、誰かいるみたいです。よく見れば、素裸の脚が二本も三本も動いています。バラバラ死体でないとすれば、最低三人以上が潜んでいるはずでした。何を見てしまったのかはっきりはわかりませんでしたけれども、アナは知らず知らずのうちに耳まで赤くなり、藪の中にそっとパンプスを押し込みました。
そんな公園にも、動物がいました。リスやハトやカラスです。ショッピング・バッグを山のように提げたおばあさんがひとり、のんびりと動物たちに餌をやっていました。やっと、話がわかってくれそうなひとをみつけることができた! 三人が喜んでどんどん近付いていくと、おばあさんは不意に顔をあげて、ビクッと飛び上がりました。そうして、一目散に逃げ出してしまいました。放り出されたショッピング・バッグに、餌の袋に、動物たちがわぁっと群がりました。
公園を抜けると車道に出ました。車はみんな窓が真黒で、どんなひとが運転しているのか見えません。信号はいつになっても変わらず、交差点を中心に、なかなか動かない渋滞状況です。それでもみんな平気でダラダラと列になって待っています。排気ガスがひどくて、ケンはとても長いことそんなところにいられませんでした。三人はあわてて道を渡り、四角すぎて無愛想この上ない建物がいくつも並んでいる向う側を見にいきました。
そこは桟橋でした。
ざぁぁざぁぁざぁぁ。
波の寄せる音がします。
「……う、海なの……?」
アナは思わず駆けだしました。海に来たことはありませんでした。そりゃもちろん、どんなものなのかだいたい知ってはいたけれど、映画やテレビの中で見たことはあったけど、ほんものを見るなんてはじめてです。
こんなところで海に逢うことができるなんて、なんてラッキーなのかしら!
アナは思いましたが。
海は青くありませんでした。海は思っていたのとあまりにも違いました。
海はチャコール・グレイに曇って、のこぎりの歯のような細かい三角波をトゲトゲさせているのです。サーフ・ボードもヨットもビキニの美女も見当りません。ヤシの木も空飛ぶカモメも走り回るカニも見つけられません。海はひどく不幸そうに、不機嫌そうに見えました。
手すりにつかまって足元に眼を落とすと、コンクリートとテトラポットで保岸されたあたりが洗剤の泡で白く濁っているのでした。そうしてここにも、数え切れないほどのゴミが打ち寄せられているのでした。だからここには、潮の香なんてまったくしないのでした。
「……行こう?」
ノエルをおんぶしたままのケンが、隣に並んで低く言いました。
「あっちのほうに、スーパーマーケットがあるみたいなんだ。俺、そろそろオヤジに電話してみたいし。もしかして、何か役に立つものが売ってないかどうか、行ってみるだけの価値はあるって、ロイドが」
「……うん」
手すりを離す前に、アナはもう一度だけ海を見ました。
あんまりきれいじゃないけど、思ってたほど素敵じゃなかったけど。
でも、この水が世界じゅうの全部の海とつながっているんだと思うと、やっぱりすごいです。きっとどこかにはまだ、もっと素晴らしい海だってあるはず。昔の映画の中で陽に灼けた若大将たちがにぎやかに楽しんでいたような、あんな海があるはず。そうして、もしもここから船出をしてずっとずっとずっと行けば、そこにたどりつくことができるかもしれないのです。
……またね……!
バイバイと手を振って海に別れを告げ、振り向くと、ケンとロイドが立ち止まっています。少し先の、建物の角のあたりで。
なんだろう?
急いで追いついて、アナは見ました。
港の倉庫の横っちょに、何台ものバイクが集って来ているところでした。うんとトレンディーな流線型のバイクもあれば無骨な昔風のバイクもありましたが、ライダーたちはみんなほとんどお揃いみたいなかっこうをしていました。サングラスをかけ、首から足先まで全部つながった皮の服を着ているのです。なんだかウナギの大安売りみたいですが、これがたぶん、あの有名な暴走族というひとたちなのでしょう。けしてお近付きになりたい集団ではありません。
「ね、早くスーパーに行きましょうよ」
アナがそっと袖を引くのに。
「しっ!」
ケンは指をたてました。ロイドのほうに顎をしゃくります。
見れば、ロイドは、何とも言えないキラキラ輝く瞳をして、バイクに見入っているのです。
どるるるる、どるるるる。どるるるるるるる。
低く響くエンジンは、耳からと言うより、立っている地面ごしに足の裏から聞こえました。排気ガスのいやな匂いがじんわりと漂って来ます。アナはケンのゼンソクが心配ですが、ロイドは夢中で動きもしません。
天才少年でも、やっぱり男の子、こんなものには眼がないってわけなのね。
アナは腕組みをして、ため息をつきました。エイミーの癖が、いつの間にか伝染《うつ》ってしまっています。
「……ちくしょう!」
不意に、ライダーのひとりが大声を出しました。
「このアバズレめ。なんて気まぐれなんだ!」
その剣幕に、アナは思わず身をすくめてしまいましたが、どこにも女のひとなんか見えません。黒い服のひとの中に、こっそり混じっているのかとよく見ても、見当りません。
怒鳴ったのはものすごく大きくごついひとです。他のひとのと比べると相当に巨大なバイクにまたがっているのですが、まるで自転車に乗ってみせるサーカスの熊みたいに見えました。曲芸の、あれです。もじゃもじゃ顔じゅうに髭をはやし、黒いツナギの胸元からも赤茶けた胸毛があふれだしているのです。とても野性的なタイプなのでした。
あの胸毛、ジッパーに挟んじゃったりしないのかしら。
そしたら痛いだろうな、とアナは思いました。
熊のような男のひとは態度もものごしもとびきり堂々としていて、声にも威厳がありました。きっと、このひとが、頭とかリーダーとかいうものなのでしょう。
「カモンカモンカモン、ベイビー……なー俺が何かひどいことでもしたか? いい加減いい子になって、機嫌なおしてくれ。頼むぜ」
どうやら『アバズレ』は、彼のバイクのことのようです。調子が悪いのです。
他のひとたちのバイクからはみんな、ちゃんと景気良く排気ガスが出ているのに、このひとの乗っているものすごく大きくて重そうな鉄の塊からは、頼りない紫色の煙が、ぽっ・ぽっ、と出ては止り、出ては止りしているだけです。
体重制限、オーバーしているんじゃないかしら、とアナは思いました。
髭のひとは、エンジンを切ったりつけたり急に吹かしたりゆっくり吹かしたりしました。それから降りて行って、そこかしこをのぞきこみ、軽く叩いたり思い切ってコン! と蹴っとばしたりしましたが、どうにもなりません。他のライダーたちも寄って来て、かわるがわるしゃがみこんで様子をみました。みんなあれこれ試してみるのですが、バイクはちっとも直りません。しまいにはとうとう、プスンとも言わなくなってしまいました。
「どうしたんだHEY HEY ベイビー? バッテリーはびんびんだぜ。いつものように決めてぶっ飛ばそうぜ」
髭のひとは猫なで声で撫でたり頬ずりをしたりもしましたが、もちろん、バイクはすまして答えませんでした。
「ボス、ボス、ボス? こいつぁあきませんぜ、ボス」
ライダーのひとりが言いました。ひょろひょろで、髪はパサパサで、眼や頬になんだかとんでもないお化粧をしています。熊みたいなひとと並ぶと、みごとなまでに対照的です。
「お気の毒ですけど、ここがやられてまっせ」
ここ、と言う時には、自分のコメカミを差します。
「やられてるたぁどういう了簡《りょうけん》だ」
「了簡ってねぇ。だからね、ボス? ほら、こいつはホンダBLACK914の不正レプリカに、カワサキ044〒211のエンジン積んで、しかもハーレー・テクニカの違法コピーソフトで走らしてらっしゃるでしょ。普通じゃないよ。そんなんじゃ、どーしたって、電子制御系の相性に無理がでる」
「だがこいつが一等速いんだ」
髭のひとは仁王立ちのまま、ビンビン響くバスでぶつぶつ言いました。
「俺はこれそっくりの単車で、何度も何度もカップを取った」
「そらレースなら話は違いますわな。抜群のピット・クルーつきで、サーキットをたった何周、とか言うんだもの。そういった趣味のバイクは、やっぱりどうしたって、優雅なお遊び向けで……」
ドガシャーン!
いきなり、そばにあったバイクが倉庫の壁まで飛んで行きました。髭のひとが、張り手をかましたのです。両足は微動だにしていません。腕一本の力で、バイクを(そんなに大きなものではありませんが)ぶっとばしてしまったわけです。
べらべら喋りつづけていた男は、たちまち蒼白になりました。ボスがゆっくりと近付いて来るのを見て、頭から爪先までガクガク震えだします。
「趣味、だと?」
熊のボスはじりっじりっと近付きます。
「優雅なお遊びと抜かしたな。それとも、俺には耳のかわりにアスパラガスでも生えちまってるのか?」
「これは、バグですね」
アナは飛びあがりました。
ロイドです。ロイドが言ったのです。
なんということでしょう。あんな乱暴そうな男たちの真ん中に、今にも喧嘩が始まりそうだと言うのに、ロイドは平気でどんどんしゃしゃり出て行くじゃありませんか!
ライダーたちはあっけに取られたように立ち尽くしています。
「あのう、試しにカレント・ディレクトリを変更してみたらどうでしょうか? Rオプションを使って、階層ディレクトリ構造で同一レベルにある別のディレクトリに移動をしますよね、パス名をパラメータ%2に入力し、さらに拡張子のファイルのドライブを差し替えて、アスタリスク指定したすべてのファイルの文字列環境のデフォルト作業をバッチ処理するようにすれば、取りあえずは動くんじゃないかな」
ロイドがボスの前に立ち止まると、ライダーたちが音も立てずにそろそろと動き始めました。ロイドを、そして、見つかってしまったアナやケンやケンの背中のノエルさえも、見張るように、けして逃さないように、ゆっくりと大きな輪を描くように散らばり、少しずつその輪を縮めて行くのです。
「離れないで」
愛用のバットに触りながら、ケンが小声で囁きました。
「イザとなったら逃げるぞ。合図するから」
「……で、でもロイドは?」
「なんとかするんだろ。知るか」
アナはもう生きた心地がしませんが、ロイドはまるで平気みたいです。背たけだけでもきっかり倍以上あるように見える、むっつりと押し黙ったボスの眼をまっすぐに見あげながら、身振り手振りを入れて、熱心に話し続けているのです。
「ちなみに、アセンブラのソース・リストのセグメント名をCとリンクするよう書き換えることもできますね。通常のファンクション・コールでは遅すぎるから、―ZEオプションを指定したいわけです。そうするとコマンド上でワイルド・カードが使えるから、バグを回避しつつ内容はそのままで変数領域を解放し……」
「やってみろ」
低い低い地獄の底から響いてくるような声で、ボスが言いました。
「おまえ、できるんだろ?」
「え。いいんですか?」
ロイドは眼鏡がずり落ちるほどニッコリ微笑みました。
「じゃあ、いじらせてもらいますよ!」
ロイドは、腕まくりをしてコンクリートにどっかりとあぐらをかきました。熟練した手付きで、バイクの横腹のパネルを一枚だけ外します。そこには、遠目には飛行機のコクピットみたいだとしかわからない、スイッチやボタンやインジケーターやスロットやキーやジャックやその他その他がありました。眉をしかめ唇を指でなぞりながらしばらく何か考えこんでいたかと思うと、ロイドはものすごい勢いでなにやらパチパチやりはじめました。
熊ボスも、アナやケンも、さりげなく退路を塞いだライダーたちも、みんな無言で見守りました。重苦しい時間の中で、ただロイドだけが、せっせと働きました。時々フンフン鼻歌を口遊《くちずさ》みながら。
パネルを閉めて立ち上がるまで、ものの五分とかかりませんでした。
「……できたのか?」
「たぶん」
ロイドは目を細めて肩をすくめます。
熊ボスはなにやらもごもご口の中で言ったかと思うと、巨体を揺らしてバイクに近付き、ため息をひとつついて、恐る恐る跨がりました。二歩ほど下がって待っているロイドの顔をチラリと一瞥してから、セル・スイッチをオンにします。
ぶろろろろろろろをっ。
おおっ!
感動の声が広がりました。熊ボスさえも、一瞬思わず無邪気なこどものような笑顔になりかけましたが、ロイドの満足そうな微笑みに出会うと、また、むうっと顔をしかめました。
「待ってろ!」
ひと声叫んで走りだし、たちまち倉庫の間を縫って見えなくなってしまいました。
アナとケンはロイドに駆け寄ります。
「だいじょうぶなのか?」
ケンが切り込むように言いました。
「なにが?」
「あれ、ちゃんと動くようになったのか?」
ロイドは大きく口をあけて何かを言い掛け、やれやれ、と首を振って、そっと囁きました。
「見ただろ? 走ってったじゃないか」
「そりゃそうだが」
「すごいのね、ロイド。驚いたわ。オートバイに詳しいなんて知らなかったわ」
「うん。実はね」
眼鏡の真ん中を指でツイッと押しあげて、ロイドは言いました。
「こづかい稼ぎに昔、電子バイクのシステム・ソフトのコピーだの改造だのを引き受けてたことがあるんだ。親父《おやじ》がやってたのの引継ぎなんだけど。口コミで持ちこまれる奴だけでも、儲かるし。通信上でハッキングなんかをするよりずっとアシがつきにくい。おカミに眼をつけられちゃうと、大変だからね」
ロイドの家庭が離婚だの病気だのの不幸にみまわれる理由が、なんとなくわかったような気がしてしまうアナでした。教会の女の子は、どうしたって、『罪と罰』ということを考えてしまうのでした。
そうこうするうちに、熊ボスのバイクが戻って来ます。
バイクはさっきと同じ位置に、何の支障もなく停止しました。
「ゴージャスな走りだったぜ」
短く、言うと、ボスは今度こそ完全にニヤリと笑いました。人食いグリズリーが笑ったら、きっとこんなだろうと思われる笑い顔でした。
「ありがとうよ、ボーズ」
「どういたしまして」
「だがな」
チッと舌を鳴らすと熊ボスはバイクを降り、どことなく巨体を恥じているかのようなテトテトした足取りでロイドのところまでやって来て、その肩にズシン! と手を置きました。
「どんな事情があるかは知らねぇが、悪いこた言わん。早いとこ家に帰れ。ここはおまえらみたいな育ちのいいお子さまの来るとこじゃねぇ」
言いかえそうとしたロイドを、ギロリ眼で止めます。アナとケンのことも、順番に値踏みします。ここまではまったくのコワモテでしたが。
ケンの背中の赤ん坊に気がつくと熊ボスは無防備にもあんぐり口をあき、ぷくぷくした両手の指で眼をこすりました。また三人を見て、天国のほうを見て、もう一度赤ん坊を見て……眉毛を八の字にしました。
「……ったく末恐ろしい世の中になりやがったぜ……おうっ! 野郎ども、行くぞ!」
何台ものバイクがいっせいにエンジンを吹かしたので、ケンはゴホゴホ発作を起こしてしまいました。アナがノエルを引き受け、ロイドが背中をさすってやっているうちに、暴走族たちはみんなどこかに行ってしまいました。
スーパーマーケットは、全国的に有名なチェーンのバレンタイン支店で、けっこう大きな店でした。でも広い広い駐車場がまるでからっぽだったので予想した通り、さっぱりお客が入っていません。
電話をかけてみると言うケンを残して、アナとロイドは売場に入って行きました。買物カートを借りて、前のほうの高くなった部分にまだ寝ぼけ眼のノエルを座らせました。ロイドが押します。
「そうだわ。ベビー・フード買わなきゃね」
「ミルクや哺乳瓶は?」
「持って来てるわ。でもキレイなお湯を沸せないと使えない。ミネラルウォーターと、百パーセント果汁のジュースも買っておいたほうがいいかな」
「よく知ってるんだ」
「そりゃあ、そのくらい」
「アナ、なんだかおかあさんみたいだな」
「……え……」
ちょっとドキッとします。
ロイドは平気で笑っていますから、別に深い意味で言ったのではないでしょうけれども。
考えてみれば、男の子とふたりきりで赤ちゃん連れで買物カートを押してスーパーマーケットを練り歩いてる……なんて、実はかなりすごい光景だったりするのではないでしょうか。知らないひとが見たら、なんと思うでしょう。
「ひょひょひょ。なんだぁ、おまえら『フレンズ』ごっこかぁ? ひょひょひょ」
そう思うみたいです。
からかったのは、大きなゲージを引っ張って商品の入れ替えをしているおじいさんでした。手にしていた『KAPPA EBISEN』の袋をガサガサ鳴らしながら、エールを送ってくれます。
「いいねぇ、若者は。いいねぇ。やりな、やりな、がんばってやるんだぞ。『ロミオとジュリエット』だってローティーンだったんだ。ヨーロッパ人種に負けるなよぉ!」
「理解あるひとだ」
肩ごしに彼を眺めやりながら、ロイドは眼を細めました。
「大前提が誤解ではあるけれども。そう言えば確か、カール・セーガンが著書の中で言ってたな。十代前半にありがちなパッショネートな恋愛感情および思春期特有の激しい性衝動を家族や社会に不当に抑圧され、その結果自己嫌悪および罪悪感にとらわれたりすることがなければ、人間はずいぶん簡単に幸福になれるのだとかなんとか。アナ、この件に関して、きみの意見は?」
「し、知らないっ!」
「何を怒ってるのさ」
「怒ってなんかないわよっ、誰が怒ってるのよっ」
「…………」
「いいから、行きましょ!」
店の大半は食べ物です。ちょっとした洋服や日用雑貨、オモチャ、靴の修理コーナー、薬局にペット・ショップまでありました。
ぐるりとひと巡りすると、カートの半分ほどが埋ってしまいました。
熱心に爪を磨いていたレジのおねえさんは、とても迷惑そうにヤスリを置いて、ゆっくりのんびり仕事をはじめました。ひとつのバーコードに読み取り機を押しつけるごとに、約一分間が必要なようでした。
やっとなんとか会計を終えて見回すと、ケンはまだ公衆電話にしがみついています。よっぽどややこしい話をしているのかなと思いながら近付いていくと、ケンがこちらに気づきました。たちまち、イライラと受話器を置いて『アウト』のアクションをします。
「っかしーんだ。ずっと話中なんだ。こんなことなかったのに。割り込みできる回路だったはずなのに」
「それ壊れてるんじゃないの?」
「ああ。俺もそう思ったから、道の向うのガソリン・スタンドまで行ってかけてみたんだけど。そっちの奴もダメだった」
「じゃあきっと全部壊れてるのよ、だって……」
だって、こういう町なんですもの。
続きを瞳で訴えると、ケンも納得したらしくウンザリうなずきました。
「ロイドたちは?」
「あら? どこかしら」
見ると、ロイドはお掃除のおじさんと話をしているのでした。水を含みすぎたモップでびちゃびちゃ怠惰そうに床を撫で回していた黒人のおじさんとです。にこにこ笑いながら、派手な手振りを入れながら、何か熱心に話しこんでいます。人見知りをしないロイドです。
その横顔は不細工じゃあないけど……眼鏡がなかったらハンサムって言ってもいいくらいなんだけれど。
アナはなんとなくため息をついてしまったので、この際思い切って言ってみました。
「……ねぇえ、ケン?」
「なんだよ」
「さっきねぇ……あたし、からかわれちゃったんだ。ほら、ノエルを連れていたでしょう。だから、ロイドとあたしがまるで……そのう……そういうカンケイであるみたく見えたみたいで」
「ふ、ふうん」
「どういうカンケイの話か、わかった?」
「いや、わかったけどさ」
うわ目使いに見ても、ケンはわざとらしく知らん顔をしています。それでも、黙ってずっとしつこく見つめつづけていると、チラチラこっちをうかがって、とうとうしかたなさそうに、
「それで?」
と言います。
「うん。そうしたらねぇ。ロイドったらすごいの。十代前半の恋愛感情だとか、性衝動がなんだかんだって言いだして」
「せ、せーしょーどー? な、な、何を考えてるんだあいつはまったく」
ケンは耳まで真っ赤になりました。アナはなんだかとてもホッとしたのですけれども、反面ほんの少し寂しいような悔しいような、変な気持ちになりました。だから、わざと蓮っ葉な感じに電話の台にぴょんと飛びのり、肩につくまで首を傾げて、言ってみました。
「あたしも、焦っちゃった」
「そうか。良かったな」
ケンは両手をズボンのポケットにつっこんで、ロイドのほうを見たっきりです。
「良かったってどう言うこと?」
「あ、いや。違う、大変だったなってことで」
「大変ってほどでもなかったけど」
「いや、だから大変でもなかったなってことで、うう、だからつまりだな俺が言いたいのは……おっ。戻って来たぞ!」
たちまち露骨にホッとした顔になるケンに、アナはまたしてもため息をつきながら、台を降りました。
「ニュース、ニュース!」
まったく悪意のないロイドのことを、ついにらんでしまったりもします。幸いにも、ロイドは興奮していて、アナのそんな目つきになどまるで気がつきませんでしたけれども。
「いやぁ、やってみるもんだ。彼がさ、掃除しながらエルヴィスのナンバーなんか口遊んでるから、上手い上手いっておだててみたんだ。したら、本業は歌手で、掃除はバイトだって言うんだ。どこで歌ってるって聞いたら、ライブ・ハウスなんだって。んで、今晩ダウン・タウンでとびきりのギグがあるって教えてくれたんだ。な、そこで例のメロディ、拾えそうだと思わないか?」
「あっるいんだけっどお」
七色に塗り分けられたまつげの女のひとが、十センチも爪がある手をひらひら振ります。
「くわんばいんなんだわー。またきてちょんまげぇ」
完売です。完敗です。
ここが最後の頼みのプレイガイドだったのでした。
どこのチケット売場に行っても、完売なのです。当日券も前売券も、みんなみんな出払ってしまったそうです。今夜のステージは超大人気らしい。そうなると、なおのこと聞き逃したくないのですけれども、どうにもなりません。頼りのノエルはまだウトウト眠っています。
ぼやぼやしているうちにギグの時間が近付いて来ました。やむにやまれず、四人はライブ・ハウスの近くまで行ってみました。
すごいひとです。どこからこんなにひとが出て来たのかと思えるほどです。ひといきれで、あたりの空気がムンムンしています。
パンク頭のおにいさんがいます。裸みたいなかっこうのおねえさんがいます。きっちりスクエアにスーツを着たひと、サーファーっぽく陽にやけたひと、カウボーイ・ファッションのひともいます。ざわざわ聞こえる話声は英語だけではありません。スペイン語やフランス語ヘブライ語にカンボジア語、中国語や日本語らしい響きも聞こえます。なんだか世界じゅうのひとがこのライブのために駆けつけて来たみたいです。ありとあらゆる種類の人間が集っているのでした。
それでもさすがに、赤ん坊づれのこども三人組などというグループは、他には見当りません。みんながこっちを見ているような気がします。噂の種にされている感じもします。こそばゆいので、四人は少しだけひとごみを離れました。
「こんなにたくさん入るのかな」
「誰かひとりでも入れたらいいのにね」
「頼んでみようか。誰かに。券、譲ってくれって」
「無理じゃないかなぁ……この熱気じゃ」
ボソボソ相談していると、黒装束に眼鏡のいかにもうさん臭い感じのおじさんが、笑い顔のお面を張り付けたような顔で近付いてきました。
「アータたち、ひょっとして、券ないのかな?」
「え、ええ。そうなんですけど」
「んじゃ。三人分で、百五十。ど?」
「ええっ」
だってほんもののチケットはひとり二十ドルです。いくらインフレの世の中でも、いきなり二・五倍にはねあがったりするなんて驚異的です。
ダフ屋です!
ひとが欲しがるチケットをすかさず大量に購入しておいて、開演ギリギリ前に高く売りつけるという職業に従事なさっていらっしゃる紳士を、ふだ屋をサカサにしてダフ屋と申します。
「くそ……足元見やがって……」
「ひひひ。なんせこれが、アタシの商売ですから」
「百!」
自棄っぱちのように、ケンが叫びます。
「百四十五」
オジサンのお面は口にところしか動きません。
「百十!」
「百四十」
「クレジット・カード使える?」
「アメックスかダイナースなら」
「ううう、赤いカードはダメか。じゃあ思い切って全財産だ。百二十」
「んなら思い切って売りましょう」
「やった!」
ふうふう息をつきながらケンは得意気にロイドとアナを見回しました。
偉い。
アナは音を立てずに拍手をしました。
けれども、ケンがサイフを出すと、オジサンはすかさず覗きこみ、仮面を『おやまぁ』に変えました。
「なんですー、おぼっちゃま。アータもほんまにひとが悪いね。こんなに持ってるじゃないの」
「えっへっへ、作戦作戦」
「んーなセコいことしなさんなぁ。百五十だしなさいね百五十」
「だって、百二十の約束だぞっ」
「んじゃサヨナラ〜」
「わぁっ、待って待って」
「んじゃ……百と五十。ん。確かに。ほっほっほっ、まいどおーきにー」
「くそぉぉぉぉっ!」
ケンはすっかり落ち込んでしまいましたが、ともあれ、チケットは手に入ったのです!
公園に戻って、携帯燃料を燃やしてお湯を沸し、買って来たサンドイッチや果物を食べました。朝よりだいぶ増えた通行人が、時々怪訝そうにこっちを見て行きますが特に誰も咎《とが》めるわけでもないのです。
スノーマンだったらこうはいきません。
こどもたちだけで火なんか燃やしていたら、最初に通りかかったおとなが、いったい何をしているんだ、と聞きにくるはずです。よそもので、赤ちゃん連れだったりしたら、まっすぐ教会に連れてこられるに決っていました。
そんなことをぼんやり考えながら、アナの手はノエルを抱っこして、ほとんど無意識のうちに時々ゆすってあげたりなどしながら、上手にミルクを飲ませておりました。エイミーのところでたった一度練習させてもらっただけなのに、なんだかもう、ずいぶん昔からやっていたことみたいに、しっくりとできてしまうのが不思議です。細すぎるはずの腕が、ノエルのまだ柔らかい頭のかたちとちゃんとぴったり合います。重すぎるはずの赤ちゃんの体重が、ちっとも苦になりません。そりゃあもちろん、ノエルのほうが熟練してるってことだって言えるでしょうけれども。
「……そうしてると、すっかりただの赤ちゃんだなぁ……」
四個めのBLTサンドに手を伸しながら、ケンが目尻に皺を寄せました。
「でも、ノエル。ほんとは誰もいなかったらいなかったで、ちゃんとひとりで哺乳瓶空中に浮かべて飲めちまうんじゃないのかい?」
「そりゃあそうなのですが」
乳首を遠ざけてあげると、ノエルは三人にしか聞こえないくらいの声で言いました。
「スキンシップは大変重要なのです。ちゃんと愛情を持って授乳された経験を持たないと、人間、ゆがんでしまいますから……けぷっ!」
ノエルは美味しそうにミルクを飲みます。ノエルがお腹いっぱいになるまで自分の分はおあずけにしていると、サンドイッチが全部なくなってしまいそうです。アナは、それでも別にかまわないと思いました。
この腕になにもかも預けて一心にミルクを飲む、まだ小さな小さな生命。この子のためならば、なんだってできる。ありったけの力を注いであげたいと、こころの底から思ってしまうのです。他人であるノエルにでさえ、つまり、お腹をいためて生んだ子じゃなくてさえ、こうなのです。ほんとうの自分のこどもだったりしたら、どんなに強い気持ちを持つことでしょう。
世の中のおかあさんたちは、誰もかれもみんな、これを経験したのでしょうか? ケンのママも、ロイドのママも、そうしてアナ自身のおかあさんも、みんなみんな。そうして、すべてのこどもたちの母であると言うクィーン・マリーも、きっと。
おかあさんって、すごいな。
アナは思います。
昔々その昔からうーんとうんと未来まで、ずっと切れ目なく繋がってゆく生命の樹。こどもであることは、その数え切れないほどに分れた枝のうちのたったひとつの先っちょ、行き止まりの部分だと言うことです。そこで終ってしまってるということです。けれどもおかあさんは終りません。次の芽を出し、育てます。そうして生命全体の枝を、そして幹を、太く立派にしてゆくのです。
あたしもいつか、ほんもののおかあさんに、なれるかしら。
アナは思います。
なりたい。
……でも、そのためには、地球をまるごと救わなくっちゃならないんだわ……!
夕方になるとまわりはどんどん賑やかになって来ました。少しずつ少しずつ暗くなるのに対抗するかのように、さまざまなネオンがともります。海の向うに沈んでゆく夕陽なんかよりも、ずっと明るい光です。人工的な灯《あか》りが勝ち始めると、一帯の雰囲気はまるで変ってしまいました。ノエルの言う通りです。あんなにくたびれていた町が、急にイキイキ素敵に見え始めます。通りすがる誰も彼もが、すごい美人とハンサムばかりに思えます。どこかの商店がずっと垂れ流し続けていた単なる軽薄なポップスが、ここと今に最高に相応《ふさわ》しいご機嫌なBGMに変り、どちらを向いても視線の切り取る景色がそのまま青春映画の一場面になってしまうのです。
遠くを走る高速道路が、渋滞中の車のテイル・ランプが、港の古ぼけた灯台が、みな宝石のように輝きます。ここでは、誰も彼もがヒーローとヒロインです!
そうして今夜は、ひとも車もみな同じひとつの方向を目指しておりました。もちろん、あのライブ・ハウスの方角です。そう、もうあとほんのちょっとすれば、世紀のギグがはじまるはずなのです……!
四人も急いで荷物を片付け、行ってみました。
ライブ・ハウス前のひとごみは、いっそうふくれあがり、いっそうテンションを高めていました。特大のネオンは『あのハリケーン・ジョーが帰って来る! 今夜!』『最高だぜ、ベイビー!』と『愛しあおうぜ、ハニー!』が、ショッキング・ピンクとサンシャイン・オレンジとスパークリング・グリーンにウインクをしています。どこかの誰かが持ちこんだラジカセが大音響のR&R《ロックンロール》を響かせるのに合わせて、我慢できなくなったひとびとが、もう夢中で踊っています。8《エイト》ビートのリズムに乗ってとてつもない大勢が揺れています。スウィングしています。パンク頭のおにいさんも、ほとんど裸のおねえさんも、プレッピーもサーファーもアーバン・カウボーイも、靴を鳴らし腕をふりあげお尻とお尻をぶつけあってノッています。ビールが配られ、ポップコーンが宙に舞い、クラッカーが炸裂します。そこらじゅうのひとにキスして歩いてるオバサン。しっかりと抱き合って勝手にチーク・タイムしているカップル。ローラー・スケートでとびきりのステップを披露してみせてる少年チーム。すごい熱狂です。でも、これでも、まだはじまってさえいないのです!
「うひょひょー。こっりゃあかーなり期待できそうじゃーん?」
ケンが言いました。意識しているやらしていないやら、片手をぱちんぱちん鳴らしながら、もうあの妙な腰月をしてしまっています。
「ハリケーン・ジョーってひとは、たいへんなスターみたいだな。知ってる?」
言いながらロイドがいやにギクシャクと手をあげさげしていると思ったら、ロボット・ダンスが上手だったりするのでした。
「知らないわ、あたしは」
あたしがそんなひと、知ってるわけがないでしょ!
アナは面白くありません。ついふくれっ面になってしまいます。ほんといって、涙だってにじんで来そうです。
だってR&Rなんて不良の音楽なんですからね! くだらなくて軽薄で頽廃的で危険で始末におえません。歌詞なんてほとんどお手洗いの落書きです。イエスさまの教えに背くことばかり。麻薬とか暴力とか不純異性行為とかは、みんなそのへんからはじまるんです。R&Rのテープが一本発見されたら、隠れたR&Rが三十本はあると思っていい。そしてR&Rはあっという間に増殖する。地域全員が協力していっせいに駆除しようとしても、いくら大量にR&Rホイホイをしかけてもなかなか絶滅させることができない、いやらしいほどしぶといものなのです。教会の女の子はもちろんそんなもの、けして好きになってはいけません。ノッたりしてはいけないんです。
……と、いつもおとうさんに言われて、すっかりその通りに違いないと、今日の今日まで思っていたのですが。
ここのひとびとはみんな、あまりにも、楽しそうじゃありませんか。すごく陽気で、明るくて、開放的です。無邪気っぽくて、剽軽で、面白いです。そりゃ確かにとんでもなくみだらなかっこうのひとはいます。いかにも簡単に快楽に溺れてしまいそうなタイプのひとびともいます。教会になんか生れてから一度も行ったことのないひとだっているでしょう。そしてあのダフ屋さんのように、ひとの弱味につけこんでお金儲けをする、罪人を作ってしまう、許してしまうような素地が、ここにはきっと確かにあります。
でも、でも、なんだか……。
羨ましいんです!
それでもアナは踊れません。十二年と何ケ月の信心深い教育に、手も足もこころも縛られていて、動けません。とてもみんなのように自由になれません。ぱぁっと踊ってしまったら、すごく嬉しいに違いないのに。あのこどもたちと踊った時と同様、ただやってみさえすれば、できないことなんかないはずなのに。
とても悔しいです。なんだかとても悲しいです。虚しいです。
でもアナにはどうすることもできないのです。
列が動きだしました。とうとう開場したようです。まだ踊り続けながら並ぶ根性のひとびともいないではありませんが、半分以上のひとが我にかえって、チケットを確かめたりいっしょに来たともだちを探したりしはじめました。さすがに熱気も、ほんの少し納ったのです。
アナはホッとして、そうして、ホッとしてしまった自分が、やっぱり相当にミジメでした。そんなにイヤだと思っているのなら、聴かなきゃいいじゃありませんか。みんなと別行動を取ってでも、『薄汚い』R&Rなどからはうんと離れていればいいじゃありませんか。なのに、いっしょにいるなんて。
ええ、そうなんです。
実はアナだってもう半分以上覚悟を決めてしまっているのでした。生れてはじめて、ほんもののR&Rを、しかも生で、聴いてみることができるのです。とにかく、まず聴いてみなきゃわからないじゃないですか。食わず嫌いはよくありません。
さまざまな言い訳をして、実は、もうかなりワクワク・ドキドキしてしまっているのでした。
ところが。
「……おーっと待った!」
四人が止められたのは、三十分も列の中で過ごして、ようやくたどりついたカウンターです。
「こいつじゃあ、入れるわけにはいかないね」
「ど、どうしてですか?」
ケンが声を荒げても、受け付けのオジサンは眉ひとつ動かしません。
「こりゃ通用せんよ。違う」
「違うって、どこが?」
「なんだ。ボーズたち」
両手に事務用袖カバーをしたオジサンの眼が、ほんの少しだけやさしくなりました。
「バカだな。知らずに掴まされたのか。こりゃあ、ニセモノだ。ほら、日付のところが変に薄くなっているだろう? 前に印刷してあったものを削って、無理やり今日にしてるんだ。おまけに、この三枚は全部同じ整理番号じゃないか。単純に、カラー・コピーをしたらしいな。ずいぶん手抜きなダフ屋に引っ掛かったもんだなぁ」
「……引っ掛かった……?」
振り返らないケンの肩が、震えています。
「気の毒だが、お帰り。若いんだ。まだチャンスはあるさ」
茫然とする三人を小突くようにして、後から後から大勢のひとたちが次々に正規のチケットを出して、店の中に入ってゆきます。いつまでも立っていては、邪魔になってしまいます。
「……出よう」
ロイドがケンの肩を掴みます。
「ここにいてもしょうがないよ。出よう」
「お、俺……俺は」
「いいから。ほら」
「ちくしょう!」
ケンの蹴ったブリキのゴミ箱は、ライブ・ハウスの屋根のどこかに当って、ごうん、と鈍い音を立てました。
「バカヤロー! おとななんて、おとななんて……大っきらいだぁ!」
ハーバーに面した店の裏手です。やっと入れると思ったのに、最後から二番目のメロディが手に入ると思ったのに、あんなに並んだのに。最後の最後に来てダメだなんてまったく悔しいったらありません。
グレて座りこむケンを、アナはことばもなく見守りました。
とても残念です。ほんといって、かなり残念です。
でも、こうして潰れてしまうと、それはそれで運命だったような気がしてしまいます。なんとなくどことなく、やっぱり神さまがR&Rなんて聴いてはいけないんだっておっしゃっているようで、こうなったらこうなったで安心だったりするんです。もちろん、そんなこと、みんなに言ったりはしませんでしたけれども。
店の中でワァッと盛り上がる声がします。うなだれたままのケンの頭がピクンと動きます。とうとう前座の演奏がはじまったようです。
「この眼鏡をかけていれば……」
ロイドが静かに言いました。
「どんな困難に陥った時にでも何かしらいい考えが浮ぶって、クィーン・マリーが言ったよね」
「そうね」
「ぼくは、あのダフ屋に逢う前からいろいろと考えてみた。ありとあらゆる角度からこの問題について検討した。他に手はないと思う。だから、たぶん、これが一番いい考えなんだろうなぁ、きっと」
「どんな考え?」
「押しこむんだ、楽屋口から」
クィーン・マリーの眼鏡って、あんまりたいしたもんじゃないのかもしれない、とアナは思いました。
ロイドの『一番いい考え』にも、まだいくつかの問題点はあったんです。
その一。ライブ・ハウス側では、あまりのジョーの人気状況から、当然『すべての裏口の警備』を強化しようと計画していたこと。
その二。赤ん坊づれのこどもばっかりと言うチームは、あまりにも押しだしが弱く、地球防衛のためだなどというセリフにもさっぱり説得力がなかったこと。
その三。真実の敵ではない生身・丸腰の人間あいてでは(たとえ警備員のみなさんが体術が得意なひとばっかりだったとしても、やっぱり)地球防衛軍は、本来の力を発揮するわけにいかなかったこと。
それでもなんでも突進しようなんて、はっきり言って、ずいぶん自棄っぱちでした。ロイドが言うには、理屈が八方塞がりな時には、気合いと運で勝負するのが統計学的に最も合理的なのだそうですけれども。
気がついたら四人は無惨な乱闘に巻きこまれていました。なんとしてもひとりでも中に入ろうとする地球防衛軍チームと、なんとしても、ただひとりたりとも入れはすまいとするライブ・ハウス防衛軍チームの戦いです。
「ちょっとあんたっ!」
「おまえらなー、いい加減にしろよ。こどもだと思って甘えると」
「お願いですから、ちょっとだけでいいですから」
「だめだめっ! 冗談じゃないよっ!」
「みんなお金を払って見に来てるんだぞ」
「俺だって金は払ったっ」
「ほらほら、こどもはさっさと帰った帰った」
「あっ、お願い、押さないで。押さないでください。赤ちゃんが、赤ちゃんがいるんです!」
「お嬢ちゃん。ライブ・ハウスに赤ん坊連れて来るおねーちゃんがどこにいる?」
「だって、あたしたち……」
「うっるせーっ」
不意に、楽屋のドアが開きます。ひょろひょろのシルエットが現れます。
「くぉぉらっ! 頼むぜ。静かにしてくれよ。演奏前の大事な時だってーのにさ。うちのボスは、あれでもすっごくナイーブなんだぜ?」
「すみません、すみません」
警備係のおにいさんたちは、真っ青になってぺこぺこします。
「どーかジョーさんに、よくとりなしてください」
「まーいーけどよ」
「ほんとに申し訳ない。このガキどもがあんまりしつこいもんで」
「なーんだよ、あんたらガキ相手にそんなバタバタしてるわけ」
ひょろひょろのシルエットのひとが笑いながら二歩三歩、裏口に近付いて来ました。月灯りに見えた顔は、お化粧が濃く、頬がげっそりとこけていて……。
「あ〜〜〜〜〜っ」
こどもらが叫びます。
「げぇっ! どびっくりっ」
痩せシルエットがオーバーなアクションでひっくり返ったかと思うと、すっ飛んで楽屋に戻ります。
「ボス、ボス、ボス!」
キンキン声がよく響くので、外の戦士たちにもみんな聞こえました。
「オイラの給料……じゃねぇ、驚かないでくださいよ。あの子らがいるんっすよ。あのバイク修理の眼鏡野郎と、ともだちが!」
「なに?」
「思うに、修理代を取り立てに来たんじゃあ」
「あ。そりゃウッカリしたな。払ってやるか」
「です? です? じゃ、ついでにオイラの給料もあげて……」
……どがしゃーん!
すさまじい音がしたかと思うと、それっきり、ひょろひょろのひとの声は、まったく聞こえなくなりました。
やがてのっそり現れたのは、楽屋口をすっぽり塞いでしまうグリズリー・ボディです。髭だらけの顔が照れ臭そうに笑います。
「帰れって言ったのに、帰らなかったのか。しょうのないボーズどもだぜ」
そう。
ハリケーン・ジョーは、あの熊ボスだったのです!
「ヒマなんだったら、俺の歌、聴いてくか?」
それはそれは、ほんとうに素晴らしい二時間でした。
ジョーのギグはいつもとびきり熱くなるのです。バンドのメンバーたちはかっこうこそ暴走族めいていましたが、演奏の腕はたいしたものなのでした。
彼らのつむぎだすさまざまな曲に耳をすましていると、アナの頭の中には、実にさまざまな情景や場面が浮びました。北国の荒涼たる山麓を渡る一陣の風が、南の島に気だるい午後が、どしゃぶりの雨に濡れた新緑の森が、次々に見えるのです。風見鶏の下で小さく丸まって眠る子猫を、密林の沼のひとりぼっちのワニを、ガラスのケースの中から瞬きをしない眼でじっとこっちを眺めている金魚を、はっきりと感じることができるのです。
それは、おとうさんの大好きなクラシック音楽を聞いている時と、同じでした。いいえ、厳密に言うならば、もっと素敵だったかもしれません。だって、ふと気づくといつの間にか、アナのつま先は、とん、とん、とん、と、おしとやかに、彼らのリズムを刻んでしまっているのです。隣のひとやうんと向う側のひとやすっかり反対側のひとが、みんなその同じ鼓動に乗っています。まるで会場全体が一個の心臓で動くからだのあれこれの部分になったかのようです。その場の誰もかれもがひとつなのです。
それはなんだか、とても気持ちのいいことでした。とても、感動的なことでした。
いつか家に戻ったら。
と、アナは思いました。
おとうさんに話そう。あたしは、R&Rは、不良の音楽なんかじゃあないと思うって、言ってみよう。
全部で何曲かかったでしょうか。
やがて、会場が不意に静かになり、たった一本のライトだけを残して、すべての証明が消えてしまいました。
ぽろん、ぽろん。
あの大きな大きなからだに比べるとまるでこどものオモチャのように見えるアコースティック・ギターをつまびきながら、ジョーが静かに、やさしく、歌いだします。会場じゅうのひとびとがみんなさっきまでの憑かれたようなはしゃぎぶりを嘘のように消して、とびきり真面目な顔つきになりました。そうして、誰かがひとり、またひとり、ジョーに合わせて、そっと歌いだしました。
どこから来たんだ どこに行くんだ
聞かないでくれ
覚えてねぇんだ 家を出たのが
いつだったかさえも
何かを探しに出てきたはずが
それもいまいち はっきりしねぇ
時々ふっと こいつがそうだと
思う時もあるけれど
たまにはとうとう 見つけたんだと
笑う日もあるけど
醒めてみりゃみんな夢さ
また足の向くまま 行くしかねぇ
旅を続けて
旅を続けて
いつかどこかに
たどりつく
であう奴らと 別れる奴ら
いっしょに行く奴ら
ともだちだけは 星の数ほど
増やせたようだぜ
おまえも俺もどこまでも
どこまでも行くだけ
旅を続けて
旅を続けて
いつか何かを
見つけだす
あちこちに飛火した歌の炎は少しずつ少しずつ周りを飲みこみ、しまいには満員の観客ほぼ全員の大コーラスになりました。そうして、サビの部分のリフレインがゆっくりと潮が引くように消えた時、今宵のコンサートも終ったのでした。
そんな風に、ほんとうに素晴らしい二時間だったのですけれども。
四人はため息をつかずにいられません。
クィーン・マリーの忘れてしまった歌のメロディのかけららしいものは、残念ながら、見当らなかったのでした。
お礼に楽屋に立ち寄ると、ハリケーン・ジョーは三人にクリーム・ソーダをおごってくれました。ノエルはまたしても眠ってしまっています。いつ力が必要になってもいいように、たくさん寝だめをしておくに限る、というのが、その理由らしいです。
「……あれか。昔々のヒット曲さ。ボーズどもは生れてないさ」
八本めの缶ビールをぐしゃっと潰して、ジョーは、ほんの少しだけ寂しさを含めた笑い顔を作ります。
「俺もその頃はハナタレのガキだった。西も東もわからずに作ったんだが、そいつが生涯で一番いいデキだったなんて、まったく情けねぇ話だ。グレてな、たくさんバカをやった。しまいにゃ、音楽を捨てて、好きなバイクのほうで生きてこうともした。だが、そいつもやっぱり中途半端だった。金にゃならなかったんだ。だからこのトシになっても、呼んでくれる町がありゃあヘコヘコ小遣い稼ぎにでかけて来るってわけさ。ま、ここにはこいつがいるしなぁ」
バンバン肩を叩かれたのは、例のひょろひょろのお化粧のひとです。
「“シャープ”だ」
「どうも」
「本名は俺も知らん。イッパシの仕切り屋の顔をしてるが、俺にはどーゆーわけかやたらにたかりやがる。昔っからそりゃいつもゲルピンで」
「それはないでしょう、ボス」
「じゃあ、ほんとうにずうっと旅を続けてるんだ」
と、ケン。
「ああ、連中とつるんでな。まったく歌の通りさ。旅は終りゃしねぇ。終点なんかねぇ。そういうもんだ、そうだろ、ボーズ」
「でも」
ロイドは眼鏡の真ん中をツイッと押し上げます。
「ぼくたちの終点は、ホーリー・ローリー・マウンテンなんです。蓋然的《がいぜんてき》に言えば、そこは、人類全部の終点でもある可能性も高いわけで」
「あ?」
ジョーは真黒い瞳をぱちぱちさせました。
「そりゃ何の話だ?」
三人は顔を見合せました。
ジョーは立派なおとなです。経験もあるし、いろんな町にファンのひとたちがいます。おまけに、音楽のプロなのです! 味方になってもらうことができたら、なんて心強いでしょう。
「ですから」
「実は」
「あたしたち」
三人が三人とも大急ぎで言いかけた、ちょうどそのとたんでした。
ノック、ノック。
「失礼します」
「お花持ってきましたぁ」
会場係のひとたちが、たくさんの花束を抱えてやって来たのです。熱心なファンからの贈りものです。ジョーもさすがに嬉しいらしく、どっちに置けとか、あっちにやれとか、にこにこ指示をしています。今は、詳しい話ができそうにありません。
なんとなく気抜けして、ぼうっと見るともなくお花を見ていたアナの眼に、信じられないものが飛び込んできました。ピンクの鉢に、ピンクのリボンを結び、メタル・ピンクの風船もくっつけてあるその花は……。
「ロイド、見てっ!」
「え」
「あれ、カンノンの花じゃない」
「え、これか?」
ジョーが手に取って、さし上げます。
ああ、確かに伝説の通りです。ガラスのように薄く透明な花びらが七枚、どれもこれも淡い色なのですけれども、確かに七つ、色が違っています!
「み……ミスター・ジョー」
ロイドは両手を組んで、床にひれ伏します。
「お願いだ、ぼくに、その花をください! その花があれば、母の生命《いのち》が助かるんです! お願いします、お願いします!」
「ふんっ、みすたー、だと?」
ジョーは鼻を鳴らしました。気にいらないみたいです。
「ええと、スーパースターのジョーさん!」
「けっ」
「マエストロ・ジョー」
「よせ」
「ボス」
「誰がおまえのボスだ」
「うーんとうーんと……あ、そうか!」
ロイドはポン! と手を叩きました。
「ハリケーン・ジョー!」
「違う」
ジョーは重々しく首を振りました。
「正しくは、『ザ・ハリケーン・ジョー』だ。……そらよ、持ってけ、ボーズ」
「わっ。あ、ありがとうございますぅ!」
その間にアナは急いでノエルを揺すり起こしました。
「むにゃむにゃ……なんですか、そんなにあわててぇ?」
ふくれています。どうもこの子は寝起きはグズる性格のようです。
「お花がみつかったの! すぐにサンクスギビングのロイドの家に戻りたいの!」
「ふぁぁぁ、そうですか。ん〜じゃ行きますよ」
「え? あ、ちょっと、ノエル待ってよだってそんな」
……いきなり消えちゃったりしたらジョーさんがびっくりするじゃないの!
と、アナは言いたかったのですけれども。
その心配はありませんでした。少なくとも、そ・の・、心配は。
寝惚けたノエルは、ジョーも、“シャープ”も、バンドのひとたちも、その部屋にいたひとをみんなみんな、いっしょくたにテレポートさせてしまったのですから。
7 家へ
がらんと広い立派な道路。その道から、うんと引っ込んで建てられた、瀟洒《しょうしゃ》な邸宅群。一軒一軒がみんな大きくて豪華で立派です。日差しと緑と新鮮な空気にあふれ、とても清潔で健康的です。
アナはこれにそっくりな風景を見たことがあるような気がしました。そう、たぶん、とても憧れていた昔のSF映画の中で。その映画には友好的で食いしん坊な宇宙人が登場します。今地球にやって来ているやつらとは大違いの彼は、ともだちである地球の少年を、自転車ごと空に舞い上がらせてくれるのです。飛行中に見降ろした地面には、あちこちに、青々とした水を湛えたキレイなプールがありました! なんてぜいたくで、なんて羨ましかったでしょう。スノーマンでは、例えばキヨミズの舞台から飛び降りる覚悟でプールを作ってみたとしても、結局アイススケート・リンクになってしまうに違いないのですけれども。
いかにも裏手にプールのありそうな家がたくさんあるサンクスギビングのオシャレな町並みのど真ん中に、一行は唐突に出現してしまったのでした。
超能力の赤ちゃんノエルと、ご存じ三戦士と、ハリケーン・ジョーはじめ数人のおとなのミュージシャン。一番仰天してしまったのは、もちろん、超能力なんて初体験のオジサン音楽家たちでありました。
「な、な、なんじゃこりゃあ〜?!」
「夢かうつつかまぼろしか」
「不条理だ、カフカ的世界だ」
「わ〜ん、おかあちゃ〜ん、もうしません、だしてぇ」
「ひょっとして、『トワイライト・ゾーン』でもリバイバルしたのか?」
「ちがうよ、『どこでもドア』だよ」
感動してるオジサンもいれば、パニックしてしまったオジサンもいます。こどもに戻ってしまったみたいに、きゃあきゃあはしゃいでいるオジサンも。
やっと事情を悟ったノエルも、さすがに申し訳なさそうな顔にはなったのですが。
「……ごめん……申し訳ない……あとからちゃんとお帰ししますから……むにゃにゃ、だめだ、またね。ぐー」
またしてもアッという間に眠りこんでしまったのです。必要以上の質量を移動させたので力を使い果たしてしまったのでしょうが、ほんとうに燃費の悪い交通機関ですね。
さて。
そんなオジサンたちにもノエルにも見向きもせず、気付きもせず、ロイドはさっそくに駆け出していたのです。もちろん、家に向ってです。
「ママ〜〜ッ!」
あ、そんなに走ったら、大事なお花が千切れちゃう!
アナはハラハラしましたが、眠りこんでしまった腕の中のノエルが重たくて、とてもついて行けません。ケンはオジサンたちを宥めるのに懸命で、ノエルを受け取ってくれそうにはありません。
それにしても。
ロイドはずいぶん良い暮しをしていたみたいなのです。今彼が駆けこんだ、道路際にメイル・ボックスのある家は、あたりのどれと比べても負けないくらいリッチなコロニアル風二階建なのでした。こちら向きの窓のどれにも、真っ赤なゼラニウムが並んでいます。庭には、剣弁高芯《けんべんこうしん》のハイブリッド・ティー・ローズを中心に、よく手入れされたたくさんの花が咲き乱れています。車寄せには、ヨーロッパのらしいキュートで個性的な車が、なんと二台も入っているのです。
……驚いたわ。
ずり落ちるノエルを、ヨッコラショと抱きかかえ直しながら、アナは思わず小さく頭を振ってしまいました。
はっきり言って拍子抜けです。母ひとり子ひとりという話からつい想像してしまっていたのは、世界名作童話的な『貧しくて清らかな』ご家庭でした。おとうさんが出て行っちゃったっきりだと言うのですから、きっと、苦しい時も悲しい時も、母子寄り添い慰めあってどうにかこうにか倹《つま》しく暮している、というノリを想像してしまうではありませんか。欲しいものも買えない、学業にも集中できない、ともだちなどにもいつもコンプレックスを感じたりしてしまうような、不幸で困難な生活なのだろうと思うではありませんか。とどめはおかあさんのご病気。ロイドがあの不法な『儲けかた』に熟練してしまっていたりするのも、しかたのないこと、お薬代・お医者さん代にするためだからこそ、神さまもあえてお許しになっておられるだけのこと、と、アナは勝手に納得していたのですけれども。
なんだか、そういう感触ではありません。もっとずっとゆとりも潤いもある暮しぶりのようです。どうも、イメージ崩れちゃいますよね。
いや、もちろん、どんなお金持ちの暮しをしていたって、見るからに不幸じゃなくたって、不幸はやっぱりどこまでも不幸なんですけれども。
その証拠に。
「……ああ、ああ、あああ!」
ロイドがよろめき出てきます。
ひどいショックを受けています。まっすぐ立っていられません。大切なカンノンの花の鉢さえ、今にも落っことしてしまいそうです。
「どうしたの?」
「いないんだ! ママが!!」
「え?」
「ベッドも、部屋も、みんな空っぽだ。とうとう入院してしまったんだろうか。それとも、それとももっと悪いことが……せっかくの花が、間に合わなかったなんて……結局は遅かったなんて……いやいや、いや。違うっ! 絶対に違うぞ、それなら、置き手紙ひとつないなんておかしい。そうだとも。ママは死んでない。ママはまだ花を待っているんだ。花は必要だったんだ。そうだ。絶対だぁっ!!」
真っ赤な眼を狂ったように見開いて、花は花は花は花はと何度もつぶやくロイド。
アナはふと、思いだしました。サンクスギビングの方角に飛んで行った、あの大戦団を。砂漠から見上げた、圧倒的な数の、あの銀色の円盤。整然と並んで大空を横切る姿が、くっきりとまぶたに浮びました。
でも、今こんなロイドに、そんなことを指摘してみてもはじまりません。ますます気を動転させてしまうだけです。残酷です。
「ね、お隣にでも聞いてみたら? 何かわかるんじゃない?」
「あ、う、うん。そうか、そうだね! ウォーカーさぁん!!」
境目の垣根を蹴つまずきながら飛び越えて、ロイドはお隣の玄関を叩きます。
「アンディ! バーバラ! クリスにディーン、エセルっ。サムおじいさぁん! 誰かいませんか。となりのロイドです! ちょっと出てきてくれませんか」
「ロイド? ロイドだと!」
家の中ではなく、裏の畑のほうから、古いオーバーオール姿の鼻と頬の赤いおじいさんが顔をのぞかせます。
「サム!」
「ロイドっ! このバカたれ小僧が!」
おじいさんは、移植ごてを振り上げてロイドに襲いかかります。でも、一発もあたりません。どちらかの足がご不自由でいらっしゃるようです。痛そうに引きずっていて、あまり機敏に動けないので、ロイドには簡単にかわせてしまうのです。
「ええい、ちょろちょろしおって。おとなしく殴られんか、この悪ガキめ!」
おじいさんの鼻声に、ロイドはとうとうあきらめました。今だとばかりに振り下ろしたこてを、おじいさんは結局途中で放り出し、かわりにギュウッと力まかせにロイドを抱きしめて、オイオイこどものように肩を震わせました。
「どこ行ってたんだ、このバカぼん! 糞ボーズ! かあさんの大変な時にぃっ」
「どこって、大変って……いったい、どうしたんだ? 何があったの」
「おらんよ、みんなおらん!」
「どこに行ったんだ」
「知らんあい。宇宙船が飛んできた日にな、ここらじゅうの家から、母親という母親がみんな消えてしもうたんじゃっ」
「ええっ」
「そうしてな」
おじいさんの鼻は、泣いたので、ますます真っ赤になっています。
「息子どもも、隣のギリアムも、筋向いのハンクもみんなみんな行ってしもうたわい! 本屋も保険屋も犬の訓練師も。ピアノ教師のあの伊達フランクだの、修理工場の苦虫ジェイムの奴までもがな。つまり、この町の男という男がみんな、みんなじゃ。消防隊長のマーシュのとこに集まって、猟銃やらサバイバル・ナイフやら武器という武器を持ち寄って、どっかに出かけて行きよったんじゃ。戦争じゃよ、戦争!」
「…………」
「残ったのはこどもと、わしのよーな役立たずのジジイばっかりよ。ああ、情けない。いまいましい。わしだって、わしだって、血が騒ぐのにのう……こんな屈辱を受けるくらいならばとっとと死んだほうがましじゃったに、まったく!」
サムは、シャツの袖でフーン! と鼻をかみました。
「おまえまで家族の誰よりわしを最後に呼びよるし……ぶふふーんっ!!」
「ご、ごめん、でも実は」
「ふん。どーせ、アルファベット順だったとでも言うんじゃろ」
「そうなんだ」
「どうしたんだ? いったい何があった?」
ようやく落ち着いたオジサン軍団をひき連れて、ケンがそばまでやって来ました。アナはやっと、ノエルをタッチすることができて、ホッとしたのですが。
「むむっ。なんじゃおまえらはっ!!」
サムおじいさんは、家の外側にたてかけてあった庭ぼうきを取ると、たどたどしい足取りながら、敢然と彼等の前に立ち塞がります。
「止れっ! 悪党どもっ! ここはサム・ウォーカーの家じゃっ。許可なく敷地内に立ち入るんじゃないっ!」
その剣幕に全員ぴたっと止ります。こうして見ると、確かに、ミュージシャンのみなさんなど、アクション・ドラマの敵側の下っ端に見えないこともありません。お互いにお互いのかっこうのウサン臭さを改めて確認し、照れ笑いなど浮かべてしまいます。
「じーさん、じーさん」
ケンは頭を掻きました。
「勘弁してくれよ。俺らそのロイドのともだちだぜ」
「ほんとうか」
ロイドは気障《きざ》っぽく肩をすくめました。話しているうちに、やっと冷静な気持ちを取り戻してきたようです。
「そうか。ならば、よし! 怪しい奴らじゃが、全員、特に、わしの玄関をくぐり、わしの居間で、わしのとっときの紅茶を飲むことを許可してやるっ。恩に着るがいい」
「……あのな、じーさん……」
ハリケーン・ジョーが代表して何か抗議をしようとしましたが。
「気をォつけぇっ!!」
開けた玄関のドアの脇で、サムが、ザッとほうきを『捧《ささ》げ銃《つつ》』にしながら鋭い声で号令をかけたものですから、思わずきっちり直立してしまいました。
「全員、整列ぅっ!!」
ケンもミュージシャンのみなさんも、みんな大慌てで、ジョーにあわせて並びます。
「揃ったか。揃ったな。そこ。こら、その太鼓腹をひっこめろっ。では、ぜんたーい、すすめっ。……はっぷ・とぅー、はっぷ・とぅー……こらそこ、だらだらするんじゃなぁいっ!! はっぷ・とぅー、はっぷ・とぅー。よぉし、その調子だ、みんなやればできるじゃないか。はっぷ・とぅー、はっぷ・とぅー!」
オジサンたちの行進が規則正しい二拍子で玄関の中に消えると、ロイドが片手でカンノンの花の鉢を抱えたまま、もう一方の腕をうやうやしく優雅にさしだしました。アナは、ケープの裾をつまんでちょこんと挨拶をし、その腕に手を預けて、ドアを潜りました。
とっておきと言うだけあって、おじいさんの紅茶はほんとうに美味でした。りんごの甘煮をかけたそば粉のパン・ケーキと、たっぷりのホィップ・クリームで食べるもぎたての苺も、なかなかに素敵でした。
悲しいことやみじめなことや辛いことがあってどうしようもない時、とりあえず美味しいものでお腹をいっぱいにするのは、よい方法です。元気がでます。力が湧いてきます。きっと、家族の中でたったひとり残されたおじいさんは、そんな風にして、しょっちゅう自分をはげましていたのでしょう。アナやロイドが手伝いはしましたが、こんな大勢分の支度もとても手際よくしてくれてしまいました。
そうして、こんなお茶の時間を持つと、こころが落ち着きます。
熱いミルク・ティーのお代わりをしながら、こどもたちとジョーとサムおじいさんは、ようやくお互いの知っていることや持っているもの、考えていることについて、話し合うことができました。言ってみるものです。
「不思議な歌を探しておるじゃと?」
サムおじいさんはお茶のポットを片付けながら、フンと顎をしゃくりました。
「そのジューク・ボックスはどうじゃろう」
「ジューク・ボックス?」
「ああ。昔、古道具屋でみつけたんじゃがな、なにしろただの一度も鳴ったことがない天下のクズじゃ。ほっほっほー、おまえさんら、そのPSIとやらの力で、そいつを鳴らすことができたら、何か起こるんじゃないかね?」
それはあまりにも派手など・ピンクでした。古めかしくて装飾的で、あまりにもケバケバシイので、へんてこな家具か、逆にものすごく由緒ただしい骨董品か何かのように見えていたのでした。けれども。
なにげなく近付いていったケンが、ああっ、と声をあげました。
「このマーク! 昔もらったバッヂと同じだ!」
赤毛で三つ編みのピッピがくれた、友情のしるし、フランクリン・バッヂです。それは、今はもう通用していないトークンを利用したものでした。止め金の部分は、簡単に外れます。恐る恐るスロットに入れてみると。
ああ、メロディです!
確かにあの、懐かしい物悲しいメロディです。まだあまりよく事情の飲みこめていないオジサンたちまでが、思わずホロリとなってしまうような、胸の奥の誰にもさわらせたことのない場所にしまいこんでいたものを目覚めさせるような。
これで七つのうち、六つまでが揃ったのでした! もうあとひと息です。
三人がここまでの旋律をオカリナと歌で復習します。二コーラス目には、ジョーのバンドのメンバーたちが次々にきれいなサブ・パートを加えます。素晴らしいハーモニーです。そのあまりにもきれいなアカペラぶりに、調子っぱずれのオカリナはコソコソ引込んでしまいました。ジョー自身は、おじいさんに手真似で頼んで手に入れた古いギターで伴奏をつけようとしてくれたのですが、それはガットがおバカになっていてどうにもチューニングが合いません。しょうがなくジョーがあの深い声で歌いだすと、思わずみんな歌うのを止めて、じっと聞きいりました。アナの細く澄んだソプラノもなかなか捨てがたいものでしたが、おとなの男の訓練した声でゆっくりと歌われるとそのメロディは、なんとも実に、神秘的な力を持っている感じがしました。あとほんの少しだけの欠けを補えば、まさに完璧です。
「やれやれ。それにしても、あんなにさんざん苦労して探してたものが、隣の家にあったなんて」
ロイドはため息をつきました。
「バレンタインの町にあるはずだったのにね」
アナはチラリとノエルを見ました。
「うん……まぁ、あそこに行ってみなければ、ここに戻っては来なかったってこともあるだろうけどねぇ……」
「青い鳥、青い鳥。お家が一番」
にやにや笑いながら茶化したケンが、ふと我に返って青ざめます。
「家って言やぁ……じーさん、ちょっと電話かしてくれ!」
「長距離か?」
「ケチるなよ。すぐそこだ」
悪い予感はあたってしまいました。
電話に出たふたごの妹たちは、たちまちステレオで泣きだしたのです。
「おにいちゃん!」
「どこ行ってたのおにいちゃん!」
「どうした? どうかしたのか?」
「おかあさんが」
「おかあさんが」
「なにっ!」
やっぱり、ある日突然、おかあさんがいなくなってしまったと言うのです。サンクスギビングに起こったことは、ご近所のマザーズディの町でも、郊外のケンの家でも、やっぱり起こっていたのでした……!
それからの半日は大忙しでした。ケンは妹たちを迎えに行き、ジョーとバンドのオジサンたちとアナは、手分けをしてそこらじゅうの家に残っているひとびとに最新情報を聞き回りました。ロイドとおじいさんは、おかあさんが無事に帰って来た時まだちゃんと咲いていられるように、カンノンの花を、裏庭のいちばん土のよいところに移植しました。ノエルひとりは、ただただずーっと眠っていましたけれども、なにしろ赤ちゃんですからね、責めるわけにもいかないでしょう。
そうして、夜。
夕ご飯の後で、みんなはまたサムおじいさんの家の居間に集まりました。
「いよいよ最終段階がはじまったんだと思う」
ロイドはことばを切って、自分のことばの重みを自分で受け止めるように、両手を握りしめました。
「もう一刻も猶予はならない。ぼくは改めて、考えてみた。わからないことがいくつもある。例えば、なぜ、イースターの町からおとなたちが消えたのか。なぜ今また、このあたり一帯から、おかあさんたちばかりが消えたのか。侵略者たちは、いったい何を求めているんだろう。だいたい、なんだって奴らは地球にやって来たのかもさっぱりわからないわけだけど……動物や人間にやたらに催眠術をかけたりしたこともあるし……どーもさ。何かを必死で探しているって感じがするんだが。違うかな?」
誰ひとり口を挟みません。ロイドは、おとなたちと旅の仲間たちを見回して、ちょっと照れたように頭を振りました。
「そんなに暗くならないでくれよ。じゃあ、今度は、わかっていることを数えてみよう。まず、この件にはなんらかの形でクィーン・マリーが関係しているのは確かなわけだ。あと一つメロディが集まれば何かが起こるというのも、たぶん、嘘じゃあないはずだ。そして、宇宙人も連れさられたひとびとも、みな、ホーリー・ローリー・マウンテンにいるはずだ……この町の男のひとたちもたぶんあの山を目指しただろう。じゃあ、ぼくらには、何ができるんだ?」
ケンがのそりと手をあげます。ロイドが顎でさします。
「PSIはどうだ?」
「どう、とは?」
「だからさ。あのな。おれのひいじいさんはPSIの研究をしてたらしくって、そうして俺はそのじいさんに似てるって言われててな……いや、つまり。うーん。うまく言えないけど。そこらへんが、何かこう、何かとガチッとはまるんじゃねぇかな。でもって、そうすると、全部の謎がとけるような気がするんだが」
「そうよ!」
「そうよ!」
ミミーとミニーが、ステレオでわめきます。
「おにいちゃんを頼りにしろって」
「おにいちゃんだけが頼みの綱だって」
相当なブランコです。
「パパがそう言ってたもん」
「パパは何でも知ってるんだもん」
ファザコンでもあるみたいです。
「でもパパは」
「電話つながらなくなっちゃったし」
「だいじょうぶなのかしら」
「ママは? ねぇ、ママはどこに行ったの?」
「おにいちゃんもどっか行っちゃうの?」
「また行っちゃうのぉ?」
「ミミー怖いよ」
「ミニーも怖い」
「行っちゃやだ」
「やだよ。やだやだ!」
わぁぁんと泣く声もユニゾンです。
「ミミー。ミニー」
ケンは妹ふたりを抱きしめました。
「ごめんな。すまないと思ってる。おまえたちの気持ちはよくわかる。わかってるんだけどさ。おにいちゃんにもどうしようもないんだ」
「ぶー」
「ぶーぶー!」
「聞き分けなさい。ふたりとも強い子だろ。このおにいちゃんの妹じゃないか。頼むから、うんと踏ん張って、がまんしててくれ。きっと、もうちょっとの辛抱だから。みんなハッピーにサイコーに、ご機嫌に片付くんだからさ」
「ほんとに」
「ほんとに!!」
四つの瞳で真剣に見上げられて、ケンは思わず、ロイドとアナを見ました。
「行きましょう」
アナは低く言いました。
「ホーリー・ローリー・マウンテンに。もう、行ってみてもいい頃だと思うの」
「それはぼくも考えていた」
ロイドがうなずきます。
「メロディも残りはたったひとつだ。全部揃う前に、一度、敵の陣地を下見しておいたほうがいいかもしれない。できれば、最終的な戦いの前に、囚われているひとびとを解放したいし」
「そうだな……行くか。ホーリー・ローリー・マウンテンに!」
「うん」
「行こう!」
三人が眼と眼を合わせて、しっかりと決意しようとした時です。
「議長!」
ハリケーン・ジョーの丸太のような腕が挙げられました。
「あのなぁ。年寄りから、ひとつ、提案があるんだがね」
「なんですか」
「おまえは、残んな」
指差されて、えっ、とロイドの眼が丸くなります。まぁ、待て待てと動作をして、ジョーは膝の上に肘をつき大きなからだをロイドのほうに乗り出すようにして、言いました。
「いいか。例えばだ。俺らのみたいな長いツアーにゃな、クールになることが肝心なんだ。最後のステージがはねるまでは、ぶっ倒れるわけにゃあいかねぇからな。下手に途中で熱くなりすぎて、ぶちかましすぎちまうとまずいんだ。その時は盛り上がるからいいようなもんだが、後が続かねぇ。一回一回燃え尽きるのは大事だが、ほんとうに大切なことは、最後の最後までは、けしてほんとうのほんとうには燃えつきないでおく、ってことなんだ。そこらへんの匙《さじ》加減を冷静にやってのけて、ずっと全体を掌握してコントロールしておくことが、なんたって必要なわけだよ。ま、使い捨て扱いの尊い犠牲となるボ・ー・ヤ・どもも、欠かせねぇんだがな」
「……クール……」
ロイドは拳骨を唇にあてて考えこみました。
「だいたいな。どんな戦争だって、作戦本部ってもなぁ、最前線よかはうーんと下がった守りの固いとこに置いとくもんじゃねぇか、な、じーさん?」
サムおじいさんは急に呼ばれたのでビックリしたようでしたが、みんながじっと見つめていると、威張った感じに胸を張ってもったいぶってうなずきました。
「で、提案だがな。このチームの頭脳って言やぁ、おまえだろうが」
ロイドはツイッと眼鏡を押し上げます。
「だから、おまえはどこか安全な場所で、そのうるさい娘っコどもだのあの眠ってばっかの赤ん坊だのを守っていたらどうだと言うんだ。ホーリー・ローリー・マウンテンなら、バレンタインの町が一番近いぞ。あそこからなら、林道を通って、山の中腹まで、車でも登れる。普通のセダンじゃキツイが、実は“シャープ”がランクルを持ってる」
「え、ま、まさか」
飛び上がった“シャープ”はジョーに横目でにらまれて、あわてて座り直しました。
「いい車だ。テレポーテーションほど速くはないがな。そうして、おまえらガキどもにゃ、運転ができないだろうし、あんな山道じゃあ、迷っちまうに決ってる。だから」
ジョーは、ここですかさず、ニヤッと笑いました。
「俺が、行ってやるって!」
8 秘密の湖
長い長い登り坂の道を、ランドクルーザーはガタガタ弾みながら登りつづけました。意志だらけのひどい路面、もの凄いカーブを、ジョーは口笛まじりで飛ばします。あんまりすごく揺れるので、ハンドルを切るために動く肘が、横に座っているケンの頭をしょっちゅうひっぱたきそうになります。
ジョーは、実に屈強の戦士らしく見えました。なにしろこのからだです。タイガー・ストライプの迷彩柄が、ごついジャングル・ブーツが、めちゃくちゃ似合います。アーミー・グリーンのTシャツは特大のサイズなのですが、あんまりぴったりすぎて盛り上がった肩から腕にかけての筋肉をしめつけてしまうので、袖のところにちょんと切れ込みを入れてあったりします。車を降りたら、さらに、弾帯をバッテンがけにしてカービン銃を背負い、蛮刀《ばんとう》片手につき進もうというのですから、本格的です。
コーディネイトを担当したケンが、思わず惚れぼれするような、男っぷりでしたが。
アナは正直に言って、気分が良くありません。
悪路に酔いそうになっているのでもありますが、この、ふたりの『男の世界』に、入りこめない感じが面白くないのです。もともと、こんな乱暴っぽい、戦争っぽい雰囲気は好きじゃありません。たった三人で来ているのに、ひとり仲間外れみたいなのは悲しいです。
おまけに、ジョーのそばにいると、ケンがなんだか頼りなくこどもっぽく見えてしまいます。小さく細く、か弱そうに見えてしまいます。比べる相手が相手ですからしかたがないと言えばしかたがないのですけれど。
運転席を占める小山のような背中と、助手席の華奢なうなじ。
なんだか、ため息が出てしまいます。
アナは眼を窓の外に向けました。
ちょうど道が山肌を回っていたので、張り出した岩を避けたとたん、あたり一帯がパノラマになって見えました。北部ファーサイト山系の小高い山々です。鋭く落ち込んだ岩肌がむきだしの斜面の裾のほうにはスプーンですくえそうな霧がうずくまり、ゆっくりと吹き流されて行きます。標高はもう相当に高く、稜線のほとんどが、眼よりもずっと下にありました。
雪こそほとんどありませんが、この高さでは春はまだまだ遠く、木々は緑を取り戻していません。痩せて、ねじれて、厳しい環境にしがみつくようにして生えているのですけれども、枯れ木ではありません。長い寒さを辛抱して萌え出ようとする芽の、まだ隠れている生命の力が、色が、華やかな秋の紅葉とは微妙に異なる渋いニュアンスに、山肌のひとつひとつを色づけているのです。
雲の切れ間から注ぎ来る太陽の光が、靄《もや》ごしに、なにもかもを光と影とに塗り分けます。視野いっぱいを使ってもまだ全部見ることはできない、頭をぐるぐる回してようやくその大きさを掴むことができる、峻厳《しゅんげん》にして壮大な光景でした。
人工的なものばかりのあのバレンタインの町の奥に、こんな、人間の手の触れない自然が残っているわけです。いいえ、むしろ。こんな圧倒的な存在があったからこそ、人間たちは、あんな町をも作らずにいられなかったのではないでしょうか。
「……すごい景色……」
思わずつぶやくと、ジョーがバック・ミラーごしに、歯みがきのコマーシャルみたいに笑いました。
「青い顔してたが、アナ。景色に感動するゆとりがあるんならだいじょうぶみたいだなぁ」
「だ、だいじょうぶです」
「青いって? また酔ったのか?」
ケンがふりむきます。
「アナは、ほんとに乗り物に弱いな。お嬢さんなんだなぁ」
「だいじょうぶ! そんなんじゃないったら」
つい頬がふくれてしまいます。ケンは黙って肩をそびやかすと、すぐに前に向き直ってしまいます。さっさとジョーと話しこんでしまいます。何か指差したりして、楽しそうです。
……なによ。本気で心配してくれるなら、もうちょっと、何か言ってくれればいいのに。
お嬢さん、ですって? 弱いですって?
「そんなんじゃないったら」
誰にも聞こえないくらいの声でつぶやきながら、アナは、少しでも顔色がよく見えるように、こっそり両手で頬をこすりました。
峠を越えると、道はいっそうひどくなりました。おしゃべりなどしていると舌を噛んでしまいそう。だいたいエンジン音がすごいので、よほどの大声でないと聞こえません。だから、男たちの話声も、ぎゃくに響いて聞き取れるようになりました。
「これが抜け道なんだよー。このへんにな、昔、よく仲間と来たんだわぁ」
がたがたがたがた! ばうばうばうばうばうん。
「オンナの子口説くにゃあ最高のロケーションなんだぜぇ。景色はいーし、空気はうまいし。なんたって、腕ぇ見せるチャンスだしな。置いて帰るぞっておどしゃ、なんだって言うこときくわけさ。わははははは!」
「あはははは。ワッルう!」
「ワルだぁ? 上等じゃねーか。まるでワルくねぇ男なんかろくなもんじゃねーぞぉ。ケン。違うか?」
「んだかも」
「わはははははは、なに気取ってやがんでー。女ってのはな、最後の最後まではとにかく上品ぶりたいからさ、こっちが野獣のようにふるまってみせりゃ、イチコロなのよ、実は『いらっしゃいませぇ』なのよ。そーゆーものよ」
「ふーん……。ジョー、結婚したこと、あるの?」
「んがっ! い、痛てててて、舌噛んだじゃねぇかバカヤロ」
「好きな子いたんだろ。どんな子だったの? 可愛かった?」
「おめ、そりゃ、だからよ。おりゃあよ。自分がこんなだからあんまり乳のでかいよーなのはダメでよ。そりゃもう楚々《そそ》とした美人ってのがタイプだったんだが」
アナは聞こえないふりをしていましたが、胸がドキドキしてたまりませんでした。
なんかずいぶんひどい話をしてると思ったり、ほんとうにそうかもしれないと思ったり。教会のお嬢さんだって(だからこそ?)、男の子は少しワルいくらいのほうがカッコいいって、思います。真面目で清潔で規律正しいひとは、おとうさんひとりいればたくさんですものね。
好きな子。
ケンの声が耳の奥をいつまでもこだまします。
ひょっとして、これからの話はケンの好きな子のことになるんじゃないか。ケンは、いったい、どんな子が、タイプなんだろうか。
考えてもしかたのないことが、頭の中をぐるぐる回るのです。
「……それがラドクリフの学生でさ。眉なんかこーんなに太くって、おっかないのなんの。そりゃほんとの性格はけっこういじらしいんだってわかっちゃいるんだが、なにせ、言うことがきついきつい。まぁ、女なんてもんは、最後にゃあ力で押えこんでやりゃあなんとでも……おっと!」
幸いと言うか、不幸にしてと言うか。話がジョーの好きだったひとのところから出ないうちに、車を止めなくてはならなくなりました。
大きな木が横倒しになっています。雷にでも打たれたのでしょうか、雪につぶされたのでしょうか。まだ生木なのに、可哀想に、途中からベキバキへし折れて、道幅いっぱいをすっかり塞いでしまっているのです。これまでも、ちょっとした段差や張り出し過ぎている枝やなんかは無理やり押し通って来ていたのですが、これはちょっと大物すぎました。乗り越えられそうにもありません。
ジョーとケンはランクルを降りて行きます。無言で、大木のあっちとこっちに取りつき、眼で合図をして、ふむっ! と力みます。どちらの顔も真っ赤になりましたが、木はびくともしませんでした。
アナも車を降りました。地面にひっくり返ってはぁはぁ言って苦しんでいるケンのすぐ横で、ジョーはそれほどたいしたこともしていないような顔で、顎をこねくりながら考えこんでいます。
「ふーむ……このルートがいかんとなると……いやあっちはうんと遠回りだ。ガソリンがなくなる。まずいなぁ」
「ジョー」
アナは大きな大きな男のひとを見上げました。
「驚かないでね」
「あ?」
アナは黙って木に向き直り、軽く眼を閉じて集中します。
光よ。
エネルギーよ。
生命たちよ。
あたしを通って出てお行き……!
スパーク!!
「……それがあった、忘れてた」
にやにやするケンの横で、ジョーは(ちゃんと前もって注意してあげたのに)あんぐり口をあけて立ち尽くしてしまっています。アナは黙って車に戻り、なんにもなかったかのようにきちんと座って待ちましたが、ふたたび車が動きだすまでにはしばらく時間がかかりました。きっと、ジョーのこころは多少乱れたのでしょう。その後の会話にも、さきほどの勢いなど、なくなってしまったくらいですから。
大木は、もちろん、あとかたもなく消えてしまっておりました。
ランクルは山を回り、谷に降り、せせらぎを渡って、とうとうホーリー・ローリー・マウンテンの麓までやって来ました。
「よし。ここらで降りよう」
ジョーは巨大な山登り用のリュックサックを背負い(それでも普通のひとが普通のリュックを背負ったよりも、ずいぶん楽そうに見えました)、特大の懐中電灯を手にしました。ケンはリュックサックをかけて、わりと大きいほうの懐中電灯を持ちました。アナは、オイル式のランタンをただひとつ、持ってゆくことになっています。三人とも、前の部分に照明装置のあるヘルメットをかぶりました。
頂上に抜ける一番速いルートは、鍾乳洞《しょうにゅうどう》だったのです!
「ほんとに、道、わかるんですか?」
「まかせろ!」
ジョーは胸板を叩きます。
「せせらぎがあるんだ。そいつをたどってきゃいい。ガキの頃なんどもここで、トム・ソーヤごっこをやったから、よく知ってるんだ」
「そのたびに違う『ベティ』といっしょだったんでしょ」
ケンが鋭くつっこみましたが、ジョーはチラッとアナのほうを見て、オホンと咳をして、続けました。
「だいたい、ここは自然のまんまじゃねぇ。大昔、観光地化しようとしたらしくてな、ところどころに案内板がある。危ねぇ場所には足場が組んであるし、入っちゃならねぇとこには金網も張ってあった。きっと道路をひっぱって来る計画でも潰れたんだろう。迷うようなとこじゃねぇ。ただ、滑るから気をつけろ。じゃ、行くぞ」
ぽとんぽとん、ぴちょん。ぽとんぽとん……ぴちっ。
とっくに降りやんだ雨の名残りのような水音が、どこか遠くから聞こえてきます。だからかえって、鍾乳洞の中の静けさが際立つみたいです。
懐中電灯やランタンの灯りが届くと、壁と天井と地面と、あたり全部をくまなく覆っている鍾乳洞独特の奇妙な石や岩が、ぬらぬら冷たく輝きます。どこもここも、だいたいは白と言っていい種類の色ばかりなのですが、かすかに薔薇色がかっていたり、青みを帯びていたり、なかなかに微妙な具合です。小さな茸《きのこ》が並んでいるようなもの、ひとの顔に見えるもの、うずくまったカエルそっくりのもの。形も、実にさまざまです。
道は緩やかに登ったり下ったり、曲りくねってうねりながらどこまでも続きました。通れないんじゃないかと思うほど狭くなったかと思うと、天井も幅も広がって、いきなり大聖堂のホールのような場所にぽっかり出たりもしました。ところどころに、ジョーのいうとおり、朽ちかけた看板が見えましたが、字はもうほとんど読めません。ぬっとそびえている巨大な石筍《せきじゅん》が、待ち伏せをしているひとそっくりに見える場所では、三人とも思わず身構えてしまいました。が、実際には、動くものはと言えば(彼等自身の他には)遠くのほうを飛んでゆく痩せたコウモリくらいしかありませんでした。
洞窟は長く、どんどん歩いているうちに、なんだか少しずつ少しずつ魔法にかけられていくような気持ちになりました。あたりの景色はけして(例えば砂漠のように)単調ではないのですが、終点がどこにあるかわからない道は、遠く感じるもの。ぐるぐる同じところを歩いているように感じるもの。おまけに、実際の現実の普通の世界にあるのに、とてもそうとは思えない光景ばかりなんですからね。
歩きながらアナは、いつしかあのマジカントのことを思いだしていました。そして、そこに行った時陥ってしまったあの妙に寂しくこころ細い気分も、時と場所を越えて、はっきりと蘇って来たのでした。
あの時は、ケンとロイドとアナの三人組でした。今は、ケンとジョーとアナです。偶然というほど大袈裟なものじゃないけれど、またしても三人チーム。
ジンクス、感じます。
三という筋は、どうも縁起が良くないのではないでしょうか。
簡単に、ふたつとひとつに分れてしまう。そうして分れた時、かっこで括れるのはいつもアナではないふたりのほう、アナは必ずひとりぼっちになってしまうのです。どこがどうとうまくは言えないけれど、男の子たちはいつだって、アナは別、ぼくらはぼくら、って態度をしているような感じです。
でも、こんなのは、考え方次第だわ。
アナは思います。
元気、元気! 元気を出して。つまんないことでクヨクヨするのは、やめやめ!
そうそう。ロイドがいた時と今は、ずいぶん違うはずです。
だってロイドとケンは、アナの知らない冒険をいっしょに乗り越えてきた友達だったのですから、仲が良くってあたりまえ。男の子同士だし、住んでいるところも近いし、暮してきた世界が割合に似ているようです。後から加わった女の子であるアナが同等になりきれない気持ちを持つのは、しょうがないこと。
でも、ジョーはそうじゃあありません。うんとおとなだし、ついこの間逢ったばかりのひとです。ひとり別扱いになるのは、アナじゃなく、ジョーであったって、いいはずです。
同じ三イコール二たす一のジンクスでも、もしかしたら、今度は……。
「きゃっ!」
あんまり真剣に物思いに浸っていたので、もう少しで転んでしまうところでした。いつの間にか足元に、ちょろちょろと水が流れていたのです。
奥へ奥へ進むにつれて、流れは次第次第に大きくなっていきました。気をつけて歩かないと靴下を濡らしてしまいそうなくらいから、どうしたって無視できないくらいに。それから、ごうごうと音を立てるように。今では、もう流れというよりも深みです。鍾乳石が張り出しているから全部一度に見えないだけで、ずいぶん巨大な湖のようです。水は青くて、どこまでも透明でした。光のささない地底深くを流れているので、とても冷たく、とても澄んでいるのです。
美味しそうな水。
と、アナは思いました。
でも、飲めないかもしれません。飲んだりしてはいけなかもしれません。こんなに敵地に近い場所なのですから、危険です。剣呑《けんのん》です。何か毒のようなものが溶けていないとも限らないし。もともとの成分だってわかりゃしません。
「摂氏零度なんだそうだ」
それでもずっと、じっと水に見入っているアナに気付いて、ジョーが振り返って教えてくれました。ヘルメットや手元の灯りがあたりの石に反射しているせいで、顔に妙な影ができていて、ちょっと不気味な感じがします。
「氷点、つまり、水が氷になる温度だな」
なんだかロイドの代理で教養の係をしているみたいです。
「つねに流れているから、やっとこどうにか凍らないでいるわけだ。めちゃくちゃ冷たい。だからここには、魚もプランクトンも何にもいない。まぁ、ミネラルくらいは溶けてるかもしらんが、あんまりにも透明すぎる、純粋すぎる水さ。昔、調査のために潜ったダイバーたちが、ずいぶん大勢事故を起こしたらしいぜ。たぶん、寒さと、あまりの透明度で距離感がおかしくなるせいだろうな」
アナはそっとうなずきました。
「怖いのね」
「ああ」
「けど、きれいだな」
ケンは何かポケットの中にあったものを水に放り込みました。広がる波紋が、そのやはり別人めいた奇妙な顔に、ゆらゆらと青みを帯びた光の模様を投げかけました。けれど、あのブルーの瞳は、そこだけが、この地の底深く隠された湖の水の色と同じ。どこまでも透明でどこまでも深い純粋の青さだけは、まったく変っていないのでした。
きれい。
アナは改めて思い、なんだかドキドキして来ました。
そう。きれいだわ。
ケンの眼って、とっても。うううん、眼だけじゃない。いつもふざけてばかりいるからわからないけど、こんな風にじっともの思いにふけっている時のケンの顔って、ほんとうはとってもハンサムなんだわ。きっと自分でも気がついていないんだろうけれども。
「ここはなぁ」
ジョーはまだ知識を披瀝《ひれき》しています。
「確か、世界じゅうのどんな海や湖よりも、透明度が高いはずだぜ。ほら、そこいらへんなんか、全部底まで透けてるみたいに見えるだろう。だがな、たぶん、ゆうに五百フィートはあるだろう。おい、ケン、いっちょ、飛びこんでみないか? 底にタッチして来れたら、イルカ勲章をやるぜ」
「なんだそれは」
「俺のハイ・スクールじゃ、水泳のうまい奴にイルカ勲章を出したんだ」
「やだよ。こんなとこで死にたくないよ、俺」
「ひゃひゃひゃ」
そおかしら。
アナは思います。
いやかしら。なんだかとっても素敵そうじゃない?
だって、そんなに冷たい水ならば、きっと落ちたとたんに心臓マヒです。痛くも苦しくもないはずです。おまけにこんなに深くてプランクトンも何もいないというのならば、魂が抜けてしまったからだそのものは、けっこう長いこと、もしかすると、いつまでもいつまでもそのまま変ることなく残り続けるのじゃあないでしょうか。
人間はみな誰だって、いつかは必ず死ななければなりません。どんなかたちで死ぬことになるのは、ほとんどの場合は選べません。でも、もしも選べるとしたならば。
こんな場所で。
誰も知らない水の底に。
時の流れから切り離されて。
透明な純粋なブルーの中をいつまでもいつまでも永遠に漂っていくなんて素敵じゃあないかしら……?
アナは想像して、ついうっとりとなってしまいました。
眠り姫は茨《いばら》に守られたお城の奥で、百年、としをとらなかった。百年待ち続けたから、王子さまが、やっとキスをしに来てくれたんだわ。
青い青い水の宮殿はきっと茨の城なんかよりも、もっと素敵に強力だわ。そんじょそこらの王子さまじゃあ、とても太刀打ちできっこない。だから、もしかすると、百年たっても、たとえ千年待ったって、結局誰ひとりたどりついてはくれないのかもしれないけれど……。
あんまりじいっと見つめているうちに、水に吸い込まれそうになって、ほんとうにふらりと身を投げてしまいそうになって、アナはあわてて頭を振りました。力をこめて、水から眼をひきはがしました。
気がつけば、男のひとたちは、いつの間にかもうどんどん先に歩いて行ってしまっています。あんまり離れると、迷子になってしまうかもしれません。急いで追いかけなければなりません。
でも、歩けないのです。遠ざかれないのです。
二・三歩はなんとかかんとかがんばっても、すぐに足が止ってしまいます。また強く吸いよせられてしまうのです。
誰かさんの瞳の色と同じ、神秘のブルーに。
水は眼に見えない力でアナをとらえ、やんわりと引き戻しました。よろめきながら、アナはしばらくのあいだ、あくまで抵抗をしていましたが、ふと、眼についてしまったのです。少し脇、水面に近いところまで岩を伝って行けそうな場所があることに、気がついてしまったのです。
そのとたん、アナの足はぐいぐいと道をそれました。どうしても、そうせずにいられない、今そうしないと、一生後悔する。そんな気がしていました。止めようと思っても、もう足が止りませんでした。
やっぱり降りていけます。すぐそばまで。水に手が届くところまで。
岩の上に膝をつくと、アナは知らず知らずのうちにランタンを下ろし、大きすぎてぐらぐら邪魔なヘルメットを外していました。
震える手をそっと伸して、水に触れます。触れたか触れないか、ぎりぎりに、そっと。
ゆっくりと波紋が広がります。
もう一度。まず指先だけ。それから、片手をいっぱいに浸してみます。そうして、両手を差し伸べてみます。
冷たさはあまり感じませんでした。むしろ、ほてりを覚えます。水のその爽やかで鮮烈で清浄なありかたに比べて、自分は、人間は、からだは、世界は、なんと生ぬるく汗臭いのでしょう。こころは、なんと濁って重たいのでしょう。
洗礼。
清めの水。聖水……!
ついさっき、危険かもしれないと思ったばかりなのに、もうどうにも我慢できませんでした。アナの小さな両手が不器用に青をすくいます。どんどんこぼれてしまうから、うやうやしく頭を垂れて、手のほうに顔を近づけてゆかなくてはなりません。くちづけます。冷たくて柔らかな水の接吻。すすります。
……飲みます……。
きらきらとしずくが舞い散りました。
もしも月の光を飲むことができたなら、きっと、こんな味がする。
そう思ったのは、誰だったのでしょう。
冷たさは霊気のように一瞬のうちに駆け巡り、からだじゅうを満たしました。その時、アナの生命を作っているすべての細胞が、変化してしまったのです。
「……何してるんだ?」
青い瞳の少年が、少女の瞳をのぞきこみます。
「おい、しっかりしろ。どうした? 具合悪いのか? なんか変だぞ。大丈夫か?」
少年の手は乱暴に無骨に肩を揺すります。少女がそっと咎めるように、その手に指を重ねると、少年はハッとして動きを止めます。
「美味しい」
少女は、大事な秘密を教える時の口調で、そっと囁きました。
「え?」
「これ、とても、美味しいのよ」
「へ……?」
青い瞳の少年は手をひっこめます。何か恐ろしいものにうっかり触ってしまったかのように。こちらを見つめる瞳には、どこかしら、非難と不安の匂いがあります。何をいやがっているのでしょう。何を怖がり、ためらっているのでしょう。
少女は焦《じ》れて、小さくため息をつきます。
美味しいのに。こんなに素敵なのに。
「ねぇ。あなたも、飲んでみない……?」
ほら、すくってあげるから。
差し出した両手の隙間から絶え間なくこぼれて落ちていく水が、ふたりのあいだに七色の光線を散らして、ほら、なんてきれいでしょう。
少女は嬉しくってたまりません。
だって、だって、こんなにきれいなんですもの。
少年は突然、怒ったような動作で岩の先端にしゃがみこみ、乱暴にがむしゃらにヘルメットを脱ぎ捨てます。倒れるように、飛び込むように、自棄っぱちのように、水面に顔を突っ込みます。
「……ぷはっ!」
ぶるぶるぶるっ! 泳ぎ終った犬のように金色の髪を揺らした少年が、その眼をカッとひらきます。
水のしたたる唇を大きく開いてあえぎながら、探します。求めます。
いました。
もちろん。
少女は、もうずうっとずうっと前からそこにいたのですもの。いつも彼のすぐそばで、彼のことを見つめていたのですもの。
ふたつの瞳が出会います。
今、やっと。ようやく。
ほんとうの意味で。
鍾乳洞の壁の上で、離れていた影が互いに吸いよせられるように近付きあい、別々にばらばらにあったものたちがただひとつに溶け合います。ふたつ離れた水のしずくが、流れ、出会って、ひとつのしずくとなるように……。
……あたしのこと、好き? ああ。もちろん。いつから? たぶんはじめてあった時から。うそ。そんな風には見えなかったわ。そりゃね。いろいろと。じゃあ、なによ。焦らしていたのね。そんなんじゃない。素直じゃないのね。きみだって。そうかしら。なんだかお互いばかだったね。そうね。でもしょうがないわ。わたしは怖かったから。怖かった? 何が。そうね。不思議ね。いったい何が怖かったのかしら。笑われること。拒まれること。自分が変ってしまうことかな。そんなこと、ちっとも怖くなんかないのに。怖くないって知らなかったから怖かったんだ。変なの。変かな。不・思・議。そんなこともういいじゃない。こうして今は。うん。もう。おいで。いっしょね。そうだよ。好きよ。知ってる。好きだよ。知ってるわ。ああ、知ってるよ。ほら、ちゃんと知ってるって知ってる。知ってるって知ってるって知ってる。知ってるって知ってるって知ってるって知ってる? ……知ってる。きみが見える。きみはここにいる。ぼくの中に。そうしてあたしの中にあなたが。そうだよ。そうね。いっしょだ。いっしょね。もう、ぼくたちは。もう二度と。絶対、ハ・ナ・レ・ナ・イ、ハ・ナ・サ・ナ・イ……。
見えなくなった連れを探して洞窟をひとりたどって戻って来たジョーは、突然の光景にたいそう驚きました。が、さすがに人生経験豊富なひとです。
「青春だ」
ひとこと短くつぶやくとヘルメットを深々とかぶりなおして頭を振り、そのままどこかに消えてしまいました。
残されたのは。
ここにいるのは。
もう戦士たちではありません。
ただの恋人同士です。
洞窟を通り抜けてずいぶん久しぶりに青空の下に出ることができたその瞬間にも、少女の小さなこどもっぽい手は、少年の頑丈で不器用なてのひらの中に、すっぽりと包まれたままでした。
信じられないほど幸福です。
彼が手をつないでくれている。ただそれだけで。あまりにも幸福すぎて、涙が出てしまいます(もしかすると、暗闇になれた網膜につきささる太陽の光のせいかもしれませんけれども、少女はそうは思いません)。
その胸を満たしているのは激しい情熱。愛しさ。愛しさは譬《たと》えてみればガラスの針。そっと大事に守っていなければ壊れてしまうし、うっかり強く掴んだらすかさず貫かれ、ポキリと折れてしまうのです。恐ろしくて、痛くて、儚くて、そうして、とてもとてもきれいなのでした。あまりにもきれいなので、見つめ続けていたくてたまりません。冷たく、鋭く、洗練されたそのかたちと感触を、そっとそっと確かめずにはいられません。あまり撫でまわすのは危険だということが、わからないではないのに。
ついさっきまでは、ただ祈りのためにばかり使われていた手と、喧嘩のために作られたかのような手でした。今その役割はどちらも捨てられ、忘れさられています。ふたつの手は、たがいにたがいの働きを殺し、美点を縛り、自由を束縛しているのに、ふたりにとってはそんなこと、もうどうだって構わないのです。
恋より素敵なものなんて、どこにもありません。大好きなひとのそばにいるより大切なことなんて、ひとつもありません。こころとこころがひとつに、『いっしょに』なったことを実感する、『知ってる』こと以上に価値のある何か、なんて、世界じゅう、いいえ、銀河系じゅう探したって、絶対に発見できないに決っています。
たとえばたった今地球がまるごと消えてしまっても、かまわない。
ふたりはあまりにも幸福でした。
だから、道の向うの丘の上に、趣味の悪い鯖《さば》色に光るいかにも悪役らしいキャラクターが、大量のロボット兵士を連れて登場したのを見ても、ケンもアナも、まるで眉ひとつ動かしませんでした。だいたい、外界がちゃんと見えていたのかどうかすら、はなはだ怪しいくらいのものです。
「お……おまえら……おいおい、どうしたんだよいったい!」
必死に叫ぶジョーの声も、もちろん一切耳に入りません。鯖色キャラが腕をふりあげて攻撃の合図をしても、ロボット兵士たちがバラバラと繰り出し殺人光線を放ちはじめても、ジョーが大慌てで背中のXM177カービンを構え、乱射しはじめても、それでもまだ、ふたりの手は固く固く繋がれたままです。もうけして離さない。離れない。そう思っているのですから。
ふと、互いに互いの瞳を見つめあってしまえば、もう何も怖くなんかありません。だって、ふたりはピカピカの合わせ鏡、無限回廊のゆらめきの中にとじ込められて、ふたり以外の全世界と完全に関係なくなってしまったのですから。
ああ!
と、彼は思い、
ああ♪
と、彼女が答えます。
こころとこころはひとつです。ふたりはいっしょで、そして、全部です。硝煙弾雨《しょうえんだんう》のその中で、愛は永遠に不滅なのでした。
やがて光線が彼の頬をかすめ、破壊されたロボット兵の腕の一本が飛んできて彼女のスカートを揺らしました。たちつくす恋人たちの周囲一帯は、実に非ロマンチックな、戦場風景でありました。
なんだか騒がしいね。
彼の眼が、迷惑そうにちょっとしかめられます。
あ、今の表情、素敵♪
と、彼女は思います。
ね、この際、バリア、張っちゃおうか。
いやぁん。あなたって賢い♪
そう。実はふたりは、PSIだったのです。そんなふたりが一心同体になってしまった今、彼等のサイコ・バリアは、まさに無敵でした。
「ケンッ、アナーッ!!」
大歌手の必死のアリアも蚊の羽音ほどにも聞こえません。敵キャラの攻撃も全部、自動的にシャット・アウトです。となれば、無駄な弾は打たない実利主義がロボット兵士、気の毒にもジョーは、たったひとりで、集中攻撃されることになってしまったのです。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!!」
……ああん。
あああああん。あああああん。
赤ちゃんが泣いています。遠くで泣いています。
あああああん。あああああああん。
ふたりがいるのは、深い深い闇に満ちた部屋です。
あああああん。
赤ちゃんの声がするたびに、部屋を閉ざす重たい重たい樫の一枚板の扉が、ぶるっと震えます。揺れます。まるで、あちら側から、力まかせに押されているように。
あああん。あああん。
聞きたくありません。開けて欲しくありません。このまま、誰にも、邪魔をして欲しくないのです。闇の中でもかまわない、ずっとこのままここにいたい。ただ、ふたりだけで、過ごしていたい。
だからふたりは力の限り扉を押し返して、完璧な闇を守ります。
……ああん、あああぁぁあぁあああん。あぁあああぁぁああぁん……。
ぎぎ……ぎぎ……ぎィィッ!
だめです。鈍い、痛い、千切れるような音をたてて、とうとうかんぬきが壊れます。ほんの一瞬、扉がこじあけられてしまいます。ごくわずかなかすかな隙間ができただけでしたけれど、向う側の世界のまぶしい光がサアッとさしこんで、こちら側のふたりを照射したのです。
あわてて押える扉。再び訪れた深い静かな闇の中で、四つの瞳が当惑気にまばたきをします。
何? 今の?
光だった。ここでない場所からやって来た。
ここでない場所? そんなものがあったの。
ああ、あったんだ。俺もすっかり忘れてたけど。あるんだ。そうだ。他にも何か、大切なものを忘れてしまっているような……。
……大切な、もの……。
あぁぁぁぁあぁん。ああぁぁん。ああああぁぁああん。
ぎぎ。ぎぎぃ。ぎぎぎぎぎぃぃいい。
あなぁあん。ぁなぁん。なぁぁぁあぁぁぁん。
ぎぎぃ。ぎぎい、ぎい。ぎぎぃ。ぎぎぃ。ぎぎぃ……。
しつこくしつこく、扉が押されます。だんだん一定のリズムになって、何度も何度も叩き続けられます。小さな隙間が、少しずつ大きくなります。隙間ができるたびに、四つの瞳に、光が入ります。見るもののない世界の中で、ぼうっと焦点をなくしていた瞳が、ゆっくりと視力を取り戻しはじめます。
あああななななぁぁぁぁぁああん……ぁああなぁあぁぁ……。
ぎぎい。
ぎっ……ば・たぁん!
「アナぁっ!」
聞き取れたのは呼びかけ。蘇ったのは名前。
アナの瞳がカッと開かれました。
「ノエルっ?!」
たちまち吹きつけて来たのは荒野の風。視界に飛びこんで来たのは激しい戦いの痕跡。何よりも強く鋭く感じられたのは、おびただしく流された血のムッとむせかえるような生温かい匂いです。
ふたりはもう恋人たちではなく、戦士なのでした。
「じょ……ジョォォッ!!」
アナが駆けより、ケンが抱き起こします。
ぼろぼろになって倒れているジョー。あたりじゅうに散らばる、敵の残骸。
いったい、何が起こったというのでしょう? ふたりにはさっぱりわかりません。鍾乳洞を歩いていたあたりまでははっきり覚えています。その後、なにか、変に甘い夢をみていたような気がしますけれど……漠然とわかる内容は、なんだか顔が赤らむものなようですけれども、具体的には何がどうなったのかさっぱり記憶にありません。意識もろくになかったのに、どうして自分たちは無事でいられたのでしょう。ジョーはたったひとりで、ふたりを守ってくれたのでしょうか。あたりの様子は、一応勝ったようには見えますけれども、ジョー自身もひどく傷ついています。大きなおとなであるとはいえ、地球防衛軍としては最も新人、最も素人のジョーが、そんなにも立派に戦ってくれたというのに。自分たちはどうでしょう? うっとりと夢に浸って、現実逃避をしていたのでしょうか。
「どうもひでぇ罠にかかったらしいな」
ケンが自嘲的につぶやきます。
「俺たち、とんでもない間抜けだったらしいぜ」
「油断しちゃったみたいね」
「填められたな」
戦友が戦っている時に戦わなかった。戦線に出ていながら戦いを放棄した。どんな理由があろうとも、最低の行為です。最悪の裏切りです。そんな正義の味方があるでしょうか?
ケンののどがひきつっています。
アナの瞳にも悔し涙があふれます。
でもほんとうのことを言えば、アナは、今はもう形もはっきりしないさっきまでの『悪夢』を、ちょっぴり名残り惜しく思っていました。醒めてしまった夢の例にもれず、もうどんどん遠ざかっていく一方だけれど、それはせつないほど甘く、とびきり暖かく、信じられないほど幸福な時でした。そのことをただの『ひでぇ罠』と言いきってしまわれることがほんのちょっぴり不満で、アナは伏せた眼で、チラリとケンの顔をうかがいました。
厳しい顔でした。本気で後悔しているようでした。ケンには、もう何の未練もないのです。
「ジョーッ!! しっかりしろよっ!」
偉大なる歌手の顔の半分は、汗の上に土ぼこりがべっとりと張りついて黄土色になっています。苦しそうに唇をゆがめたまま、片手に銃を握ったまま、ぴくりとも動かないジョーの大きなからだは、まるで、古い遺跡から掘り出された戦士の彫刻か何かのように見えました。
悲しいけれど、寂しいけれど、今は確かに、スウィート・メモリーズにうつつを抜かしている場合ではありません。
アナも急いで頭を振って、夢の尻尾を振りはらいました。
「サイコ・ヒーリング、してみましょう」
「ああ」
ふたりはそれぞれのPSIの力の限度いっぱいを使って、ジョーの怪我や失血を治療しようとしました。PSI特有の白熱した光が生ずるたびに、ジョーの大きなからだがびくんと跳ねました。それでも、指一本、まぶた一枚、自分からは動かそうとしません。
「うそだろぉ。だめなのかぁ? 死んじまったのかよぉ」
「もう一度!」
「ああ」
PSIとて、力です。エネルギーを使います。神経をうんと集中しなければならないので、手や足や頭を使ってする行為よりも百倍くたびれるといってもいいくらいです。ふたりが、何度も何度もくりかえし、へとへとになるまで気合いをこめても、ジョーの巨体は、やっぱりぴくりとも動きませんでした。
「頼むぜ、眼を開けてくれよ。ジョーのオッサンよぉ」
ケンはもうこどものようになきべそ顔になりかけています。
「ちくしょう。これがもしも|RPG《ロールプレイング・ゲーム》だったら、リセットかけて、こんなことになるよりも前に戻っちまえるのに!」
ひらたく言えば、タイムマシンが欲しい、というところでしょうか。
ほんとうに。
と、アナも思いました。
あの『悪夢』の前まで、ほんの一時間かそこら前まで戻ることができたら。『悪夢』抜きで今を迎えることができたら。その今は、この今ではない。つかの間の夢のせいで、何もかもおおっぴらに変ってしまった。
一生のうちに、そんな時が何度来るのでしょう。時計の針を逆さに回せたらと、何度本気で思うのでしょう。けれど、悔んでも、歯噛みして地団駄を踏んでも、時はけして戻りはしない。人生にリセット・ボタンはないのです。あるのは、ただオフのスイッチだけ。それを使ってしまったら、ゲーム・オーバーです。もう一巻の終りです。どんな一瞬一瞬も、けして、やり直しは効きません。ぼうっと過ごしていてもうまくいく時もあるし、必死に考えて悩んで選択しても結果として間違ってしまう時もある。せいいっぱいがんばっても、努力しても、最後の最後は運まかせだったりもしがちです。
でも。
楽なゲームじゃないから。やり直せないから。
「だから、やっていけるんじゃない?」
うずくまるケンの背中にそっと手を当てて、アナは囁きました。
「完璧じゃなくても。意味がなくても。……うまく言えないけど……みんながみんな失敗のたんびにやり直ししてたら、世界じゅうの誰も彼もが優等生になっちゃうわ。そんなの、きっと、面白くないわよ」
「冷たい女だなっ!」
ケンはアナの手を振りはらいました。
「世界がなんだ。こんな時に、何理屈こねてんだよ」
「あ、あたしはただ」
「うるせー! 俺は、今、とにかく、ジョーに生き返って欲しいんだっ!!」
「……こーえーだぜ……」
「えっ」
不意に、彫刻の唇が震えます。まぶたが開きます。腫れて傷ついてひきつって、ちゃんと全部は開かない眼で、ジョーはのろのろとふたりを見回しました。そうして、不敵にも、ニヤリと笑ってくれたのです。
「ジョーッ!!」
「へへへ。泣かせるじゃねーか、ケン。すまんな。お楽しみのぉぉっ……じゃ、邪魔しちまって」
「何言ってんだよ」
「ジョーさん! 大丈夫?」
「あ、あんま、だいじょーぶじゃねーがよ……つつつ」
力のない顔をどうにか笑いの形にしながら、ひらひらと力なく、ジョーが手を振ります。
「頼むから俺のせーで喧嘩はするなよな。惚れあってやがるくせに」
「え」
「え」
「なんだなんだ。まーだ意地張ってんのかぁ? ひっひっひ。早く素直になりゃいーものを……まー若い頃っつーのは、そーゆーもんだがな。ああ、そうさ。オジサンはよぉく知ってるぜ。やれやれ。懐かしい青春の日々よ……ううう……胸が痛ぇぜ」
「しっかりして!」
「老兵は、死にゆくのみ、ってかぁ。もーひと花咲かせてからくたばりたかったが、どうやらこいつが、おいらの花道って奴らしいぜぇ、ぜぇぜぇぜぇ」
「なぁにが花道だよっ。ぴんぴんしてるじゃないか! バカ言ってる暇に、さっさと俺におぶされよっ!」
ケンがジョーに背中を差し出します。あまりに小さく見える背中を。
「とにかく、連れて帰るぜ。山は後回しだ」
威張っていることには変りありませんが、どことなく、これまでのケンの言い方とはパターンが違う感じです。変に静かで、変に断定的で。わざわざ大声でわめかなくったって意思が通じると確信しているというか。絶対に反論はさせないぞというか。極めて専横的だったりしないこともないのですが。
そう、思いはするのですけれど。
アナのほうはアナのほうで、いやに単純に、うなずいてしまえるのです。これは、あの、悪夢の時を経たせいなのでしょうか。
「ランクルまで戻る。ずっと見てたから、俺でも、なんとか運転できると思う」
「うん。わかったわ」
「あのな」
ジョーの左眼は半分潰れたようにふさがっているので、なんだかウインクをしているみたいです。
「気持ちは嬉しいがよ、ケン、俺の体重、知ってっか?」
「頼むから言うなよ。聞いたら絶対に背負えなくなるに決ってるからな……ッコラショッ!!」
掛声勇ましく、ケンはジョーの巨体を担ぎ上げ……たかと思ったのですが。せいいっぱい力んでもがんばっても、どうしてもジョーのつま先が地面を離れません。あまりにもあまりにも重すぎ、大きすぎるのです。
「……うーんっ!! ぐぁああああっ! とぉりゃぁっ!! ……はぁはぁはぁ」
「しっかり!」
「悪いこと言わねぇ。下ろせ」
「こなくそっ!! 負けるもんかぁっ! でやぁっ。いやぁぁぁああぁぁっ!!」
「よせってばよ。無駄だって」
ああ。こんな時に、ノエルがいてくれたら。
アナは思います。
ノエルの力で一瞬のうちに移動できれば。三人とも、すぐに助かるのに。
こんな、いつまた敵が出てくるかもわからない場所で、動けないジョーを抱えこんでしまったなんて。しかも、アナもケンももうPISパワーがほとんどゼロだなんて。絶望的です。進退極ったという奴です。いったい、どうすればいいのでしょう。今まだ、どんな手が残されているというのでしょう。
……そうです。こんな時こそ、お祈りをしなくっちゃ。
教会の女の子は、やっとこさ、それを思いだしました。
神さま!
指を組み合わせ、ひざまずいて、アナは祈ります。
どうかお願いです、助けてください。いつもいつもお願いばかりみたいでほんとうに申し訳ありませんが、今度ばかりは正真正銘の必死です。どうしてもよろしくお願いしたいんです。
もしも、助けてくださったら、あたしはあたしは……。
……えーと……。
何か賭けるだけの価値のあるものがないかと、アナは必死で考えました。身につけているものは、ほとんどみんな借物ばかり。アナ自身の思いがこもっているもの。とてもとても大切だけれど、今はもう捨ててしまっても構わないと思うのは、それは……。
ああ、神さま。あたし、捧げます。ここから三人とも無事に脱出することができたならば、あたしはこの、髪を、捧げます……!
その途端です。
……ひゅんひゅんひゅんひゅんひゅんひゅん。
振り返ったアナの眼に、レーダーを警戒しているのでしょうか、ホーリー・ローリー・マウンテンの険しく切り立った山肌をかすめるようにして低く飛んでくる銀色の円盤が見えたのです。
「て、敵よぉっ!!」
神さまはアナの髪がお嫌いだったのでしょうか。それとも、神と髪と、カミをかけたダジャレみたいになったのを、こんな時にあんまり悪い冗談すぎると、お怒りになられ、お咎めになられてしまったのでしょうか。
たちくらみのようになって、血の気のひいた唇がぶるぶる震えた時。
「ケーン! アナーっ!!」
懐かしい声が聞こえたのです。
「ろ……ロイドぉっ?!」
「今行くからーっ。待っててーっ」
ロイドです。確かにロイドの声が、敵機のほうから聞こえるのです。
でも、なぜロイドが円盤に乗っているのでしょう? 敵からぶんどったのでしょうか。それとも、あれは偽物のロイドで、これはまた、巧妙な罠なのでしょうか。でもなぜ、今、罠なんか? だって、攻撃するなら絶好のチャンスです。三人が固まっているここに、抵抗できないでいる今、さっさと爆弾のひとつも落っことせばそれでおしまいなのに。
困惑しているうちに、そら豆に目鼻をつけたような形の銀色の物体が、どんどん近付いて来ました。地上の景色が鏡面のような機体に映ります。信じていいのかいけないのか、とまどい顔の少女が逆さまにこちらを見降ろしながら、ぐんぐん大きくなって来ました。
ドキドキ鳴りはじめてしまった胸を押し殺しながら、アナは、今もう既にだいぶ短い三つ編みの端をギュッと握りしめました。
9 最後の戦い
「最初は、ぼくも疑った」
小さな声でロイドが言います。
「サムおじいさんの家のラヂオに、いきなり連絡が入った時なんて、絶対に罠だと思ったんだけれどね。なにしろ、すぐに円盤が迎えに来てくれちゃって」
「それにしても」
答えるケンも小声です。
「チビどもだけを残して来たのか。ずいぶんと思い切ったじゃないか」
「サムを忘れちゃあ悪いよ。それに。……きみたちが危ないって言われたんだ。あれこれややこしく考えている暇なんか、なかった」
「ありがとう。もうだめかと思ったわ」
アナが言うと、ロイドはホッと口許を緩めました。ケンもあわてて、友人の肩に手をかけ、ギュッと力をこめました。
「悪い。責めるつもりじゃなかった」
「わかってるよ」
連れられて来たのは、ホーリー・ローリー・マウンテンの西側の中腹の、自然の岩にうまく隠されて建てられた秘密の研究所でした。ジョーはさっそく奥の部屋で治療と検査を受けています。あんなに弱っている彼を知らないひとの手に委ねてしまうことに、アナは気が進まなかったのですけれども、ロイドが大丈夫だと言うのですから、強く反対することはできませんでした。だいたい、ひとさまのお家で、あまりついて来て欲しくなさそうな場所にどんどん入って行ったりするのは、失礼です。ましてやいかにも秘密の研究所。おとなしく座っているのが無難です。
今、その奥の部屋の扉が開き、小さな影が、ゆらり、と出てきました。
「案ずるでない」
三人の視線が集まるところで、影はニタリと笑います。
「あの男は無事だ。失血も危険なほどではないし、骨折も治癒している。もともと丈夫な性質のようだな。今は静かに眠っておる。しばらく寝かせておくがよい」
「ご紹介しましょう」
ロイドが重苦しい顔で立ちあがります。
「アナと、ケン。こちらは、湯上《ゆがみ》博士です。自己紹介の通りなら、ね」
明るい場所まで歩いて来ると、博士は名前の通り、少しデッサンの狂った感じのご容貌をしてらっしゃることがわかりました。顎まで届く半白の前髪の陰に、顔じゅうをななめに横切って走る深い傷跡が見え隠れしています。一歩ごとに、からだがどちらかに傾いでいるように見えるのは、足の長さが左右相当に食い違っているからのようです。大きすぎる白衣は薄汚れて『ねずみ衣』と言うほうが正しいくらいだし、フランネルのズボンはよれよれのつるつるてんでツギがあたっていて、健康サンダルは千切れた跡を何度もタコ糸で下手くそに縫いとめてある始末。おまけに、右手の先ときたら、ハテナマークの先の形の金属なのです。
「怖いかね、お嬢さん」
鉤爪をわざと見せびらかすようにして、博士はどす黒く笑いました。
「眼をそらさなくてもいい。構わないから、よく見るのだ。フッ。これが、裏切者の哀れな末路さ」
「そうだ。俺はあいつの高度な技術に、斬新な理論に、眼がくらみ、取り憑かれ、とりこにされた。あの圧倒的な『科学』をこの手に掴んでみせようと思った。だが、ギーグの奴は、俺より二枚も三枚も上手だったってわけさ」
「ギーグって?」
「……宇宙人の名前なんだそうだ」
アナの問い掛けに博士は答えず、かわりにロイドが苦々しげに口を挟みます。
「つまり、このひとは一度、侵略者に協力をしたひとなわけだよ。敵のもとで働いていたのさ。動物園を占領したり、おとなたちの気を変にさせたりして。世の中を騒がせて、ずいぶん得意がったみたいだよ。そうして最後の最後にようやく、自分がとんでもないことをしでかしたのに気がついて、改心して、逃げ出して来たんだね。その時に攻撃されて、そんな姿になった。そうですね?」
湯上博士は肩をすくめるだけでやっぱり口をききません。
「うーん」
「まぁ……」
ケンもアナも、どうコメントしたらいいやら、わかりません。
「七たび悔い改める者は七たび赦される、だっけ。確か聖書にあったよね、アナ? もちろん、ぼくたちは、危機一髪のところを助けてもらったんだから、文句なんか言う筋合じゃあないけどね」
すまし顔でイヤミを言うのはロイドの得意わざでした。
「アンマリ・デス!」
突然、部屋の隅から叱られてしまいました。
見ると、ロボットです。やさしい、美しい顔のロボットです。ずっと、じっとしていたので、銅像か何かのように見えていましたけれども、実は両腕を胸の前で交差させたエジプトの柩《ひつぎ》のようなかっこうで、壁にもたれているロボットだったのでした。ガラスの瞳が緑色の炎を宿して、弱々しく点滅しています。エネルギーでも足りないのでしょうか、やっとなんとか、唇の部分だけ動いているという感じです。
「テイセイ・シテ・クダサイ。ゴカイ・デス。ヒドスギ・マス。ハカセ・ハ・ソンナ・カタ・デハ・アリマセン!」
「イヴ!」
「ス、スミマセン、サシデタ・マネ・ヲ……ぴゅるぴゅる」
博士が片方の眼だけをギロリと向けると、ロボットは電話機のような音をたてて口ごもります。
「イヴ?」
ロイドの唇が皮肉っぽく震えます。
「なんてこった。うちのママと同じ名前じゃないか。そう言えば……なんだか面ざしもどこかしら似ているような……」
「ナ……ナラバ! コノサイ・オカアサマ・ニ・メンジテ・キイテ・クダサイ!」
ロボットは急に元気よく早口になりました。
「スベテ・ワタクシ・ノ・タメ・ナノ・デス。ゴラン・ノ・トオリ、ワタシ・ノ・キノウハ、イチジルシク・テイカ・シテ・イマス。コウ・ミエテモ・ワタクシ、ホントウ・ハ・セントウ・ノウリョク・モ・ジュウブン・ナ・えくせれんと・ひゅーまのいど・ナノ・デス・ケレドモ。ワタクシ・ヲ・モウイチド・カンゼン・ニ・ウゴカス・タメ・ニ・ハカセ・ハ、チョットダケ・ぎぃぐ・ニ・キョウリョク・ヲ・スル・フリ・ヲ・シテ……」
「そのへんにしとけよ」
「どこが悪いんだっ?!」
博士の低い声とロイドの甲高い声が重なります。ロイドのほうが、より大きくて、勝ってしまったことは言うまでもありません。無視されてしまった形の博士はいじけて、部屋の隅で壁に向いて座りこんでしまいました。
「ハナセバ・ナガイ・コトナガラ、キケバ・ミジカイ・カモシレナイ……」
「まさか、カンノンの花があれば治るとかなんとか、言うんじゃないだろうな」
ケンがつぶやきます。
「PSIパワーでなんとかならないのかしら?」
アナもつぶやきます。
小さな声でしたけれども、イヴの耳は優秀でした。
「イイエ・イイエ。アイニク・デスガ。ボッチャン・ジョウチャン・ホンニ・ホンニ、ゴシンセツ・ニ・アリガトウ・ゴザイマス」
からだが動かせたら、きっと、よよと泣きくずれていただろうイヴです。
「ケレドモ・ワタクシ・ノ・ビョウキ・ハ、キカイ・ノ・ビョウキ・デス。ブヒン・ノ・イチブ・ガ・レッカ・シテ、トリカエナクテハ・ナラナイ・ノ・デス。シカシ、ザンネン・ナガラ、キュウ・ハチ・ゼロ・イチ・UX・ガタ・IC・ちっぷ・ハ、セイサンチュウシ・ニ・ナッテ・ヒサシク、ナマジ・ナ・コト・デハ、トテモ・トテモ・テ・ニ・ハイラナイ・ノ・デ・ゴザイマス」
「9801UX型ICチップ?」
ロイドがうんざりしたように天井を見上げます。
「なぁんだってまた、今時そんな旧型を使ってあるんだ」
「オモイイレ・デショウ。ハカセ・ハ・のすたるじっく・ナ・まっど・さいえんてぃすと・ナノデス」
「呆れた話だ」
「ケレドモ、ぎぃぐ・ハ。ぎぃぐ・ナラバ……!!」
イヴの眼が、ちかちかとせわしなく瞬きます。
「ぎぃぐ・ハ、『キュウキョク・ノ・りせっと・ぼたん』ヲ・モッテ・イル・ノ・デス。セカイ・ゼンタイ・ヲモ、ハハオヤ・ノ・タイナイ・ニ・アル・カノヨウナ・ジョウタイ・ニ・モドシ・テ・シマウ・コト・サエ・デキル・トイウ、チョウ・キョウリョク・ナ・たいむましん・ノ・イッシュ・ヲ・モッテ・イル・ハズ・ナノ・デス!」
『究極のリセット・ボタン』。世界全体をも母親の胎内にあるかのような状態に戻してしまうことさえできる、超強力なタイムマシン!
なんて恐ろしい、なんてすばらしい機械でしょう。
アナはついさっき、ケンが『ゲームならば』と言った時に考えたことを思いだしました。そんなとんでもないものを持っている『ギーグ』。ついに、敵の名前が、正体が、明らかになりました。けれど、それはなんと恐ろしい敵でしょう。漠然と考えていたどんな怪物よりも、ずっとずっと強大です。普通の人間たちとは、いいえ、たとえPSIパワーを持っている地球防衛軍戦士チームとだって、ほとんど、生きている次元が違うと言っていい存在ではありませんか。そんな奴と、いったいどう戦うことができると言うのでしょう……?
アナは眼の前が真っ暗な気分になりましたけれども、ロイドはしきりに首をひねりながら、何か、別のことを考えているようです。
「……9801UX型ICチップ……」
左手首をさすっています。そこには、あの、すばらしい時計が、昔おとうさんからもらった、大切な腕時計が填っているのです。
「たぶん……たぶん、こいつをバラせば……」
「バラス・デスッテ? イイエ・イイエ! ソンナ。モッタイ・ナイ」
イヴはまったく地獄耳です。
「ヨシテ・クダサイ。ワタクシ・ノ・コト・ナンカ・ドウデモイイ・ノ・デス。タダ・タダ・デスネ、セッカク・ワザワザ・タスケ・ニ・イッテ・サシアゲタ・ミナサン・カラ・サエモ・ヒドイ・ゴカイ・ヲ・ウケタママ・デハ、ハカセ・ガ・アンマリ・オキノドク・ジャ・アリマセンカ。ダカラ……」
ロイドの眼が、イヴを見、隅っこでうずくまったままの博士を見、もう一度イヴを見て、泣き笑いにゆがみました。
「ダカラ・ドウカ・ハカセ・ノ・コトヲ……」
「戦闘能力も充分だと言ったね?」
ロイドのことばに、イヴはハッと一瞬黙りこみました。
「イイマシタ・ガ? タシカニ、ろぼっと・ハ・ウソ・ツキマセン・ガ?」
「いっしょに戦ってくれるか」
言いながら、ロイドはもうあの時計を外しています。
「ギーグは、きみにとっても敵なはずだな。今たとえ、ちゃんと蘇っても、どうせすぐに死んでしまうことになるかもしれないけれど。地球の平和のために、きみの力を貸してくれるか? 貸してくれるのならば」
「ボ・ボッチャン……」
「博士! さぁ。これをさしあげます」
ロイドは博士のほうを見ずに、腕だけ伸して時計を差し出しました。
「なんだそれは」
「時計です。インテリジェント・ウォッチです。分解してください」
「いいのか。大切なものじゃないのか」
「中に、たぶん。9801UX型ICが使ってあるはずだ。オヤジはあれが、どうしようもなく好きだった。旧式だとわかっていても、いつも使わずにいられなかった。だからきっと、ここにも入っているはずだ。……ぼく自身の手では、とても壊せませんから、どうか……どうか、勝手に使ってください」
「オヤジさんの形見なのか?」
「そんなようなもんです。でも、かまわない」
博士が近付いて、時計を取ろうとしました。ロイドの指は、ことばとは裏腹に、放すまいとするかのようにギュッと握りしめてしまいました。けれども、博士がバンドに手をかけたまま黙って待っていると、指はやがて、花が咲く時のようにゆるゆると開いたのです。
「ぼくは母を救えなかった……」
指を広げながら、ロイドはつぶやきます。
「だから、母と同じ名前、似た顔を持ったこのイヴの、ちゃんと生き返った姿を、せめて、見たい。見たいんです。どうか、おねがいします」
「わかった。無駄にはしない」
手の中が軽くなると、ロイドは、がくりと肩を落としました。あわててケンが駆け寄り、支えます。
「大丈夫か?」
「……ああ。いいんだ」
口許を震わせて、ロイドは笑います。
「いいよな。これでいいんだよな。オヤジだって、怒らないよな。きっと、許してくれるよな?」
「すまんが諸君。暇なら、ちょいと手を貸せ。こいつをここに乗せたい」
博士のあくまで冷静で事務的な声に、少年たちも我に返りました。指示通りに、テーブルの上に、重たいイヴの鉄のからだを横たえます。博士はまず片方の眼に望遠鏡のようなものをセットしました。そして、白衣のどこからか取りだした七つ道具を、鉤爪の右手に次々に差し替えながら、イヴの胸のあたりの鉄板をすばやく開いてみせました。中には、顕微鏡でもなければ触れないような細かさで、わけのわからないものが整然と入り組んで配線されています。いくつもいくつも並んだマッチの頭、細かい細かい格子。ぴかぴか光るフューズのようなもの。超小型の剣山同士が組み合わさっていたり、色とりどりのケーブルが走っていたり。マメツブのようなネジで止っている部分もあるし、金ぴかのハンダでくっつけてあるところもあるようです。きちんとはしているけれど、どこかしら、手作りの匂いのする、ロボットの内臓でした。博士は手術をするお医者さんの手付きで、それらを掻きわけ、切り裂き、えぐりました。こんな時こそ、特別の手が役にたつというわけです。
「すっげぇ……」
ケンがため息をつきました。
「みごとなもんだぜぇ……。お? ロイド? なんだ、どうした。顔を覆ったりして。見なくていいのか? こういうの、好きなんだろうに」
「いや。きみたちには平気だろうけど……ぼくにとっては、生体解剖みたいなものだからさ。どうも、痛ましくって」
「そんなもんか」
「だいたい、こういう時、仁義あるハッカーはちゃんと遠慮するもんなんだ。ひとのマシンの内部だの、テクニックの痕跡だのを盗み見るっていうのは、どうもな、良心が呵責して」
「かまわん。見るがいい」
博士は細かい作業に熱中しています。電気ドライバーになった右手が軽くうなり、心臓の形をした部品の最後のネジを外した途端、イヴの緑の瞳の光がすうっと消えました。アナもケンも息を呑んで見守っています。今度は、時計の番です。ロイドの大切な時計の裏蓋があっと言う間に取り除かれ、ピンセットになった博士の右手が、小さな小さなICチップをつまみ出します。今度は時計がその生命を終える番でした。
機械に対してなど感情移入をしたことのないアナも、なんだか、しんみりしてきてしまいました。
そうしてこのころには、ロイドはもう、好奇心に勝てなくなってきていたのです。覆った指の間から、チラチラ横目を使っていましたが、とうとうきっぱりこっちに向き直り、真剣な顔つきでのぞきこみ……不意に叫びました。
「……こ、これは……!」
博士は知らん顔で作業を続けます。
「ま……まさか……まさかっ」
「どうしたの?」
「だって。だって。この能率の悪い配線。ややこしい配列の癖。署名してあるのと同じ、信じられないほど不器用なハンダのやりかた」
悪かったな、とでも言うかのように、博士が普通のほうの瞳で、一瞬だけロイドをにらみます。
「ほらっ! その意地の悪い眼つき。ああ! そうだよ。そうだとも。イヴ。イヴの顔。9801への偏愛……ああ……」
ロイドの顔がぐしゃぐしゃにゆがみます。
「パパ!!」
「ええっ!」
「そうなんだろ? ねっ、そうなんだろ?」
声も表情も、ロイドは一気に五歳のこどもみたいになってしまいました。
「パパだよね、あなたは、ぼくの、ぼくの、パパなんだね?!」
「やっとわかったか」
パチリと何かを止めつけると、イヴの手術は完成しました。瞳がゆらめき、起き上がります。
「そうですとも、ロイド!」
話し方も、仕草も、今ではひときわ人間っぽく、自然です。銀色に輝いている以外は、まるで、ほんもののおかあさんみたいです。
「でなければ、あの危険にあんなに機敏に対処できたわけがないじゃありませんか。博士は、その時計を通じて、いつもあなたがたを見守っていたのです。旅のはじめから、ずーっとね」
「そ、そうだったの……?」
ロイドが熱く見つめても、湯上博士はあくまでクールに知らん顔をしていました。眼から拡大鏡を外し、ゆっくりした動作で、右手をあの鉤爪に付け直します。焦らしているような、照れているような、戸惑っているような様子です。なにしろゆがんでいらっしゃるので、その唇の形が、微笑みなのか怒りなのかさえも、ちっともわからなかったりします。
「知らなかった……わからなかった……」
ロイドは茫然自失です。
「ふん。落ち込むことはない。ここまで変っていちゃあな、無理もない」
「そっ、そうだよ。ひどいよ! そうならそうと、どうして早く教えてくれなかったのさっ」
ロイドはもう小さな子みたいにダダをこねてしまいます。
「だって、だって。パパって言えば、万年運動不足と、出前ピザと中華料理のテイク・アウトとダイエット・コーラばっかりの食生活のせいで、こーんなに太ってたじゃないか」
「人間苦労すると痩せるのだ」
「おまけにさ、いつも髭もじゃで、ぶかぶかのジーンズで、一週間もお風呂に入ってないって匂いだったぜ。仕事の邪魔になっちゃいけないからって、ゆっくり話をすることもなくて……ああ、でもちゃんと見れば、そうだ、そうだよ、パパだよ。パパの顔だ! ああ」
「わっ、こらこら」
「パパぁ!」
抱きついて甘えるロイドに、ケンもアナも、思わず顔が赤くなってしまいました。今のロイドは、とてもいっしょにあの数々の戦いをくぐりぬけてきた勇者とは思えない様子です。
うちのおとうさんは、元気でいるかしら。
あの朝、ひとけのない御聖堂《おみどう》で一心に祈っていたおとうさんの、妙に小さく見えた背中を思いだして、アナの胸はちょっぴり痛くもなりました。
「どうしてどうして、パパは、出てったりしたのさ! ママは、ほんとうに、ものすごく泣いたんだから」
「うむむぅ」
「だからね、言いましたでしょ?」
イヴがしゃしゃり出ます。
「『私』を蘇らせるためにこそ、博士は、一見裏切りに見えるような行動をお取りになったのだと。あれは、わたくしのことだけではなくて、ほんもののイヴ[#「イヴ」に傍点]、つまり、おかあさまのため、という意味もあったのですよ。博士は、いいえ、おとうさまは、奥さまを痛ましく思われるあまり、そばにいることができなかったのです。なんとかしてさしあげたいと思い詰めて、じっとしていられなかったのです」
「…………」
ロイドは黙っておとうさんを見つめました。
ああ、それじゃあ、同じなんだわ。
と、アナは思いました。
だとしたら、ロイドとおとうさんは、同じことを、とってもよく似たことをしたんだわ。
さすが、親子、と言ったところでしょうか。
「もう、よかろう」
湯上博士ことロイドのパパは、冷たい鉤爪を上手に使って、息子のからだを押しやりました。
「行け。あまり時間がない」
「時間?」
「そうだ。ギーグは、昨日から明日にかけて、嚢《のう》に入っているはずだ。もしかすると、今が、最後のチャンスかもしれない」
「嚢?」
「チャンス?」
戦士たちは眼を丸くするばかりです。
「いいか」
博士は鉤爪の先を使って、机にその生物の概略図を彫って見せました。きっと、小学校の頃には、授業中に机にいたずら彫りをするのが得意なこどもだったのでしょう。なかなか達者な線です。
「ギーグは、一種、昆虫に似た生物だ。成長の過程で、何度も、体液から作りだす専用の嚢に入って休息を取らなければならない。嚢に入るのは、人間で言えば、眠っている時にあたる。その最中だけは、力が衰える。俺は奴を観察してタイミングを計り、あの円盤を奪って、マザー・シップから逃げ出したのだ。オメガ・ソーサーどもに攻撃されたおかげでこんなからだになってしまったが……フッ。今なら、まぁ、きみたちにも、勝つ可能性があるやもしれん」
「でも、ジョーはあんなだし」
「ノエルに相談してみないと」
「クィーン・マリーの助けがなくっちゃ、とても……」
三人は顔を見合わせました。
「なんだ。怖いのか」
湯上博士は、机に腰をもたせかけ、いつの間にか小さな手鏡に換えた例の右手をのぞきこみながら、剃り残しの髭をひっこ抜きはじめました。
「ま、無理ないか。しょせんこどもなんだからな」
ケンの額に巨大な『む』の字が浮びあがります。ロイドは眉尻を下げ、どっちの味方をすればいいのかわからない顔で、黙りこくります。
「だいたい、地球の危機だなんだってのは、ま、個人の力でどーこーできるレベルの問題じゃあないよな」
アナには、博士が、悪ぶって、わざと戦士たちに勇気を出させようとしていることが、察せられました。けれども、こんな時女の子というものは、あまりしゃしゃり出てはいけないものなのだということもよくわかっていました。だから、博士がいっそのこと、もっともっとひどいことを言ってくれるよう、一刻も早くケンがその気になってくれるよう、祈ったりもしました。
まったく男の子たちって、世話が焼けますね。
「そーそー。人類の歴史だ、進歩だ発展だなんて言ったって、どーせ、大したもんじゃない。いつ果てたって、終ったって、まったく大したもんじゃない」
ぶちっ。
ひっこ抜いた白黒だんだらの髭を、博士は、うっとりと眺めました。
「う……うるせぇっ!!」
やれやれ。
やっとケンが、怒鳴りだしました。
「四の五の言うんじゃあねぇや、このスットコドッコイ! ご立派なおまえさんだって、その大したもんじゃない世の中のひとりだろうがよっ」
「……フ」
博士がちょっと名残り惜しそうに息を吐くと、関節の目立つ指の先にあったものは、どこかに飛んで行きました。
「ばかにするな。俺たちは……俺たちは諦めないっ!!」
「ほほぉ」
「これまでだって、もうだめだと思ったことも何度もあった。けれど、俺たちは、いつだって進み続けるほうだけを選んで来たっ」
「そりゃー偉い」
「もちろん、全部が全部自分たちの力だったとは言わない。いろいろと他人に助けられた。けど……だからこそ、そのひとたちのためにも、ここでくじけるわけにはいかないんだっ!!」
「そーかそーか」
もうそろそろだなと思ったので、アナは、三つ前のセリフあたりから、いつでも歩きだせるように身の回りの準備を整えて待っていました。が、ケンは拳を固め両足を踏ん張って、思いのたけをぶちまけることに熱中したままです。
「宇宙人がなんだ。究極のナントカがなんだ。ううっ、負けるもんか。俺たちは、地球防衛軍だぁっ!!」
「わかったわかった」
博士は、うんざり手を振りました。
「テーマ・ソングでもかけて欲しいのか?」
「いや、だからねパパ」
ロイドがついに、割って入ります。
「探しているメロディのことは知ってるだろ。ぼくらのテーマ・ソングは、まだ完成していないんだ。そこのところが問題なんだよ」
「問題、か」
博士は急に背筋を伸すと、ロイドの顔をまっすぐに見据え、これまでのからかうような調子を改めて言いました。
「問題というものはな、生きている間は、けして皆無にはならないものだ。最後のメロディとやらは、ここにはない。いつまでもここにいたって意味はないぞ」
「…………」
「あれがない、これがない、だからできない、行けない、か。文句が多いな」
ロイドの唇の端がぴくりと震えます。博士はそんな息子をじろじろ遠慮なくながめながら、なおも言いつのります。
「昔からできることでもやろうとしない、最後の最後で弱気になってしまう、おまえには、変に女々しいところがあったよな。かあさんに似たか?」
博士はイヤミったらしく微笑んでおいて、横を向くとまた鏡をのぞきこみ、ひとりごとのように小さくつけ加えました。
「それとも……まだ、青い、か」
眼鏡の下で、ロイドのはしばみ色の瞳が一瞬カッと開かれました。
ああ、まったく!
と、アナは思います。
男の意地だかなんだか知らないけれど。わざわざこんな時に、親子喧嘩しなくったっていいのに。
だいたい、長いこと離れ離れになっていた父と子です。はっきり言って、本人たちが自覚しているいないに関わらず、かなりそっくりなふたりです。イヤミが得意なとこなんて、きっぱり遺伝しています。どうしてこんなにいがみ合わなきゃならないのか、アナにはさっぱりわかりません。
いたたまれない気持ちのまま見つめ続けていると、ふと、ロイドの顔つきが変っていることに気がつきました。なんだか急に、やさしく、おとなびた感じになっているのです。
「乗せられたみたいなのは、悔しいけれど」
声はやさしく、瞳にももう敵意はなくただその強い光だけがそのまま、振り返ったおとうさんをまっすぐに見つめているのでした。
「おっしゃることは、よくわかりました。すみませんが、イヴをお借りしてゆきます。返せないかもしれないけど」
「……かまわん」
博士は、気のない声で返事をします。
「円盤も持っていけ。イヴが操縦できる」
「それはありがとうございます。ご恩に着ます、湯上博士」
「……おいおい」
ケンが何かを言おうとしましたけれども、ロイドは片手を上げて止めました。
「ジョーの意識が戻ったら、事情を説明してやってください。その後の判断は、彼に任せます。では。たいへんお世話になりました。お元気で。……さぁ、みんな、行こう。出発だ!」
春まだ浅い山の空はどこまでも透明に澄み切って、筆で描いたような雲を際立たせています。南側の斜面では、名残り雪のこんもり解け残った塊の脇で、気の早いウスユキソウがひと群れほの青く可憐な花を見せておりました。
そんな景色の中を、円盤は、定規で引いたような線を描いて飛んでゆきました。
まるで銀色のそら豆です。めざしているのは、もちろん、頂上。風圧に、草が、木が、波立ちます。超低空飛行のあまり、森のすぐ上を飛んでいる時など、しばしば伸びた枝を跳ねとばしてしまいます。揺れる機影がかかると、あちこちから、鳥や虫やけものたちが何十匹も逃げ出しました。まだよく飛べない若鳥たちや、まだよく走れない仔鹿たちが、いっしょうけんめい、おかあさんの後を追いかけてゆくのが、スクリーンいっぱいに見えました。
ごめんね、ごめんね、怖がらせて。
アナは両手を握りしめました。
でも。もしも、あたしたちがギーグに負けてしまったら、こんなもんじゃあないんだわ。地球が全部、めちゃくちゃになってしまう。あなたたちも、他の誰もかれも。世界じゅうのおかあさんが、罪のないこどもたちさえもが、みんなみんな、巻きこまれてしまう。
だからどうか、許してちょうだい。
きっと、守ってみせるから。勝ってみせるから……!
「まもなく標高三千メートル地点」
操縦席のイヴが鋭い声で報告しました。
「二百五十七秒後に、目的地に到着します」
「敵基地の全貌を拝めるかな?」
ロイドはコンピュータ前に陣取って、まるで船長です。
「できるだけ発見されにくい進路を取ろう。太陽を背にできるか」
「はい。では、南南西にそれます。到着時刻は百七十五秒ほど遅れますが」
「了解」
「……ねぇ、今、ちょっと、いい?」
アナはロイドの椅子に近付くと、背もたれに手をかけて、そっと顔をのぞかせました。
「なんだい」
「もう言う時がないと思うから、言っちゃうけど。あれは、あんまりだったんじゃないかと思うの。今からでも、連絡できないかしら?」
「何が」
「おとうさまよ」
眼鏡の下で、ロイドの眼が少し咎めるように細められましたが、アナは思い切って言ってしまいました。
「だって。あんな口きくなんて。おとうさまに向って。ひどいわ。あんまりよ。『博士』だなんて、イヤミったらしく他人行儀な呼びかたなんかして。冗談にしても、ほどがあるでしょ。やっと逢えたのに、……もう二度と逢えないかもしれないのに、どうして最後の最後に喧嘩別れなんて。悲しすぎるじゃないの。ねぇね、早く、無線か何かで、ごめんなさいって言って……」
「アナ」
ロイドはゆっくりと首を振ります。
「そんな心配はいらないよ。ほぉんと。だいじょうぶ」
「バーカ」
そのへんのボロきれで愛用のバットを磨きながら、ケンが言います。
「あのな。オヤジに呑まれちまうような息子が、地球を救えるわきゃねーだろーがよ。あれでいーんだ、あれでよ! オヤッサンだって、満足してたさ」
「そうなの?」
「ったく……見てりゃわかったろーが。女っつーのは、どーしてこう鈍いんだ。鈍いくせに、なんだかんだ、うるせーし」
ふくれっ面になるアナの手をそっと取って、ロイドが囁きます。
「あのね。オヤジはぼくのことを、すごく歯痒く思ってたと思うんだ。ひとりっ子で、勉強の虫っぽくて、かなり、おかあさんっ子だったからね。女々しくって、優柔不断で、勇気も根性もない奴だって。冷たい眼で見られてること、知ってたんだけど。ずっと、どうにもならなかった。だから、ようやっと男同士らしく話をすることができて、ぼくはすごく嬉しかったし。たぶん、オヤジだってそうさ。はじめて、ぼくのことを、認めてくれたんじゃないかな。だから、このまま逢えなくったって、それでかまわないんだ」
「…………」
「けど」
ロイドの瞳が、からかうような色で、アナの瞳をのぞきこみます。
「ありがとう。気にかけてくれて」
なんだか、ドキドキしてしまいます。
ロイドったら、やけに立派です。余裕しゃくしゃくです。横目で見れば、ケンはケンで、無言のまま、ただただバットを磨いています。そうすることで、精神を集中させ、最後の戦いに備えている気配がします。
アナの胸はキュッと痛くなりました。
こんな時に、なんてつまらない、くだらない、おセンチなことを言ってしまったんでしょう。まるで、受験の朝『ハンカチは持ったの?』『道順、わかるのね?』『いっしょにお弁当食べるひと、誰かいるの?』等々、しつこく聞きだす、バカな母親みたいじゃあありませんか。
……母親……!
いつかクィーン・マリーが言ったことばが、脳裏に蘇ります。『あなたとわたくしはある意味ではきっぱり敵、そうして、まったく同じものでもあるのよ』まさかと思っていたのでした。そんなはずはないと確信していました。母性本能なんて自覚したことはなかったし、例えば遠い将来に誰かのおかあさんになることがあっても、きっと理性と理解のある偉い母親になろうと、決心していたのでした。こどもを自分の所有物のように考えたり、相手のためにならないような甘やかしかたをしたり、ヒステリックに厳しくしたりは、けしてしないはずでした。息子や娘が自分のそばを巣立ってゆくその日にも、笑って、いってらっしゃい、しっかりね、と言える、強いところを持っているべきだと思っていました。
呑気にも。それが、どんなに難しいことなのか、知りもせずに。
……だって、この痛み……!
何かをなくしてしまったような、大切なものが奪われてしまったような、二度とこの手に戻ってこないような、寂しいと言ったらおおげさかもしれない。悔しいと言ったら間違っているかもしれない。けれど、痛いのです。痛みがあふれて、涙になりそうです。がらんと広い部屋の中にたったひとり取り残されたら、こんな感じでしょうか。
そうして。同時に、安心と、誇らしさ。旅の仲間の少年たちが、いつの間にか、こんなに頼もしく男らしくおとなになっていてくれたことが、嬉しくてたまらなくもあるのです。意味のないマイナー気分を全部きっぱり覆いつくし、充分に埋め合せてくれるほど、たっぷりと、力強く感じられるのです。
もしも、これが、自分のお腹を痛めたこどもの場合だったら。
こういった感情のすべてが、十倍、二十倍になるのではないでしょうか。
ケンもロイドも最初は全くの他人でした。そうして、ふたりとも、自分と同じくらい幼く、いいえ、どこか、それ以上にこどもっぽく思われていました。例えば、自分のPSIパワーの凄じさを実感した時、マジカントに行った時、ノエルからの声をひとり聞きつけて案内役のようになっていた時。そして、二対一に分裂してしまう時。アナはいつも不安と孤独を感じ、なんとかかんとかそれをごまかし、耐えて来ました。だからつい、おねえさんぶってガミガミ言ってしまったりもしました。
けれども、もう、そんなことは、できません。
巣立ってゆくこどもたちに『母親』は、うるさく干渉してはいけないのです。心配でも、気掛りでも、不安でも。彼等には彼等の道があります。ただ信じて。任せて。遠くから見ていることしか許されません。まして『母親もどき』なんか。手だしはできません。触れません。
どんなに深く思っていても、強いきずなを感じていても、ふたつはひとつにはけしてならないのです。生命はみな、ひとつがひとつ。ひとつずつ、かけがえのない、独立した存在なのですから。
それでも、クィーン・マリー!
アナは赤いハート型のペンダントをギュッと握りしめました。
あなたは、愛せよとおっしゃいました。愛こそが鍵だと、希望こそが武器だと。とてもとても、難しいことを言われたのですね。あたしは、あたしには、今もまだ、よくわからない。
教えてください。
愛って、なんですか。希望って、なんなんですか……?
「あ。しまった。敵です!!」
イヴの声が響きます。
「回避に失敗しました。七十パーセントの確立で被弾します!」
「天気予報みたいに言うなよな」
「うわぁ、みんな、掴まれっ!!」
あわてて見上げたスクリーンに、アナは見ました。青黒い巨大ロボットの凶悪な目つきと、蛇のようにくねりながら飛来する数機のミサイルとを。
ごうん!!
「でぇっ」
「きゃあああっ」
鈍い音がした途端、床がスッと消えるような感触がしました。髪が逆立ち、背中が冷たくなります。からだが座席に張りつき耳が変になるくらい急激に上昇したかと思うと、ななめに滑るように落ちながらねじれて、逆さまになってしまったりします。あっちこっちがぶつかって、アザになってしまったに違いありません。まるで、思い切り凝った絶叫ジェット・コースターみたいです。しかも、終点は来そうもないのです。
急激に変る前方スクリーンには、空や山や森の他に、時おり、滑走路のようなもの・ぴかぴか光る塔のようなもの・ドーム型のなにやら大きな建造物その他その他がめちゃくちゃな順番で映りました。これが敵の基地! とは思うのですが、なにしろ場面転換がめまぐるしすぎ、映るのがごく一部分の映像でしかなさすぎて、全体を理解しようと眼を凝らせば、たちまち酔っ払ってしまいそうです。
「うわぁあぁあ」
「もしもし、ロイド? 知ってるとは思うけどさ。落ちてるぞ」
「わかっ……っ、痛ててて! うが、舌噛んだ」
「どうする?」
「のーひひょー(どうしよう)」
「……た、頼むから、早く、ま、まっすぐにして……うぇっぷ……」
「吐くんならトイレ行って欲しいけど……無理か」
「なんとかならないのぉ? ねぇ、イヴ?!」
「だめですね。当機は、完全に、操縦不能となりました」
「ははぁ。完全に、と来ましたか」
「はい。完璧に、完全に、百パーセントですね。だめです。大阪弁で言えば、アキマヘンナ、ホンマニ、です」
「強調してくれなくてもいいのに」
アキマヘン状態になっていると言うものの、そら豆円盤はなかなかけなげでした。落ちたかと思うとまた登り、右にずれると左に戻ります。このまま落ちるもんかとがんばっている気配がします。そのおかげで中はあたかも洗濯機のごとく、ミキサーのごとく、シェイカーのごとくになってしまっているのでした。
どこからかキナ臭い匂いまでして来ます。そろそろ力尽きて来たのでしょうか、スクリーンに映る地面が、なんだかやたらに近すぎます。今度こそ、もういよいよ、ついについに掛値なし嘘っこ抜きの絶体絶命ですっ……!!
「すみません。離陸前に緊急脱出時の解説をしなきゃならないんでした。忘れてました。お手元のパンフレットをご参照ください」
「おいおいっ」
「あのねー」
操縦席を離れるイヴに、三人は眼を丸くしました。
「救命胴衣はみなさまのお座席の下に入っております。酸素マスクは自動的に降りて来る……はずだったんですけど。ま、なんとかしてください。では」
「で、では?」
「どこ行くのよっ、イヴ!!」
「もちろん」
緑の眼をウインクするように瞬かせて、イヴは非常扉前で振り返りました。
「あれと戦いに、です」
銀色の指が示しているのは、スクリーンいっぱいに不敵なガッツ・ポーズを見せつけている巨大ロボットでした。
「本気か」
「ロボットは、うそ、つきません。申し上げましたでしょ、わたくし、これでも、戦闘能力、あるんですからっ。……えーっと、レーザーのスイッチが、これでぇ、ミサイルがぁ……盾、盾、盾と……あれ? どこ行ったかな」
「……だいじょうぶかな……」
「だいじょうぶよ、きっと」
「だぶんだいじょうぶだろう……ははは」
苦笑いする三人ですが、はっきり言って自分たちこそ、あんまりだいじょうぶじゃなかったりもします。円盤は、もうきっちり、墜落しつつあるのです。それでも、イヴから、眼が離せません。
銀色のパイロットは片手に光線銃・片手に盾を持って、ニッコリ微笑み、非常口のドアを開きました。ゴウッと風が唸ります。舞い飛ぶ砂ぼこりに三人はそれぞれ顔をかばいました。イヴのからだが、陽光にきらめきます。そうして、明るい空の中へ、大きな一歩を踏み出し……。
「あ、いーっけなぁい♪ ロケット背負うの、忘れちゃったぁん♪」
戻って来ました。
「…………」
「…………」
「……誰が設計したんだったか、ようやく思いだしたぜ……」
イヴは扉前の床にきっちり正座をすると、まずゆるやかに光線銃を下ろし、四十五度回して整えました。次に、盾を両手で掲げ、裏表それぞれをゆっくりと鑑賞したあげく、優雅な手付きで傍らに立てかけ、いかにも感心した風にうなずきました。表千家流のお作法でしたが、ちなみにこの間じゅうも円盤はめちゃくちゃに揺れながら、墜落しつつあったのですから、大したものです。師範代のお免状くらい持っているのかもしれません。それからイヴは芍薬《しゃくやく》のごとくすっきりと立ちあがり、床パネルの縁を踏まずに四・五歩ばかり歩み、手近な壁の中からキラキラ輝く物体を取りだしました。下面にバーニアの並んだロケット式ランドセル型飛行装置です。背中の部分に『イヴ』とマジックで大書きしてありました。
「よぉいしょっと」
せっせとコード類をつなぎとめ、スイッチを入れ、リモコンを試し、円盤の内壁を鏡に使ってくるりと一回転、全身くまなく点検してよぉしと満足すると、イヴはやおら直立不動のポーズを取りました。両手をベルトにかけて満面に笑みをたたえた『ピッカピカの!』姿は、まずまず絵になっておりました。
それにしても、三人が拍手をして『似合ってる』『かっこいいよ』『サイコー』と誉めてあげるまで、そのままずっとじっと待っていたりしたのは、あんまり感心できたことではなかったかもしれません。
さてさて。イヴは、ふたたび扉前に戻り、もう一度正座すると……中略……片手に光線銃・片手に盾を持った凛々しい姿で、三人を振り返りました。
「では」
「……オヤジのバカ野郎……」
地獄耳のはずのイヴでしたが、この時は聞こえなかったふりをしました。
「イヴ、行きまーす!!」
ちゅどーん……!
サンシャイン・オレンジの炎を吹き出させながら、イヴは青空に飛びだして行きました。残された三人の顔はススで真黒、髪の毛はチリチリに焦げ、煙をあげておりました。
「……ねー。覚えてる? この円盤、墜落しているんだけど」
「そうだったわね」
「脱出、しようか」
「そう、しようか」
「救命胴衣、どこだっけ?」
「だから座席の……」
どがしゃか・ばーん!!
円盤は、激突しました。
せっかくの救命胴衣も酸素マスクも、役に立ちませんでした。あの凶悪な『ジェット・コースター』気分さえも心地よいゆりかごだったと思えるほどのすったもんだ騒ぎで、円盤が、弾み・転がり・崩れ・壊れる間じゅう、アナは半分失神し残りの半分で気絶していたので、何がどうなったやら、さっぱりわかりませんでした。
とにかく。
気がついた時には、ざわざわとわやわやと大勢のひとに囲まれ、覗きこまれ、からだじゅうを撫で回されていたのです。あたりの空気はむっと熱く、何かが腐ったような悪臭や、ツンと鼻や眼の奥に響くイヤな匂いもしました。
「こどもだ」
「こどもだ」
「こどもだわよ!」
「どこの子」
「誰の子」
「うちの子よ!」
狂気走ったざわめきがあたりじゅうに小波《さざなみ》のように広がります。
「さわらないで」
「邪魔するな」
「なんだよ」
「こっちへ、こっちへいらっしゃいな、ベイビーちゃん」
「離せ、離せよ、ばかっ」
「……き……きゃああっ!!」
それは、憑かれたような瞳をした大勢のおとなたちだったのでした。
みんな泥と垢にまみれ、汗と脂肪でべとべとの髪をし、ボロボロの服を着ています。男なのか女なのか若いのか年寄りなのかも、ほとんど区別がつきません。動作もせりふも変に重たく遅くもどかしく、わやわやとお互いに重なりあっていて、全体がひとつの生物みたいに見えないこともありません。まるで、映画に出てくるゾンビです。げっそりと頬がこけたひともいれば、変にむくんだ感じのひともいます。ひどい怪我をしているらしいひともあるし、この調子では、既に死んでいるひとだってこっそり混ざっているかもしれません。
ひょっとしたら、イースターからさらわれたひとたちなんじゃないかしら。
アナは思いました。
もしかしたら、サンクスギビングのひとも、マザーズデイのひともいるんじゃないかしら。ならばどこかに、うちのママがいるんじゃあないかしら。ケンのママも、ロイドのママだっているかもしれないわ……?!
「……ま……ママ!」
考えたとたん、口のほうが勝手に喋りはじめてしまいました。
「ママ、ママ、ママ! アナよ! ママ、いないのっ?!」
もがいてあがいて、なんとかひとごみを擦り抜けようとするのですが、誰ひとり遠慮をしてくれません。みんな、アナを自分のこどもだと思って、必死で捕まえようとしているのです。ひとりの手をやっと剥がしたかと思うと、別の二・三人の手がからみつきます。この調子では、とても歩けません。
アナは焦りました。泣きだしたくなりました。ここのひとたちはみんなズタボロです。知らないオジサン・オバサンにべたべたされるのは最悪です。抱きすくめられると、生理的に、ブルブルッとなってしまいます。悪いなとは思うのですが、抑えられません。
「……ごめんなさい……えいっ!」
アナは思い切って、できるだけ弱く、PSIパワーを使ってみました。
「ああっ」
「ぎゃわっ」
ほんの刹那《せつな》のかすかな光でしたけれども、やはり邪悪の世界に踏みこみかけているひとびとには、絶大な効果があります。アナに触れていたおとなたちは、たちまち、火傷でもしたかのように手を引っ込めました。
この隙に、急いで逃げ出します。潜りぬけます。
けれども、おとなたちはあとからあとから押し寄せます。まだ触っていなかったひとびとは、くじけてなんかいないのです。
「ああ、行かないで、ローラ!」
「ジョニー。可愛いジョニー」
「ビッキー。ビッキー、わたしの宝物」
「わぁん。お願い、通して。邪魔しないで。通してください! ママ、ママぁっ!!」
ママは、ほんとうに、こんなところにいるのでしょうか。ケンは、ロイドは、いったいどこに行ってしまったのでしょう?
ゆっくりちゃんと探したいのですが、ちょっと油断をすると、すぐに関係ないひとに捕まりそうになります。ひとがどんどん重なってゆくので、四方がみんな壁みたいになってしまいます。
チラリと見回した感じでは、そこはあのドームのようなものの中のようでした。半球形の屋根の一部がベキベキに壊れていたのが、きっと円盤が突っ込んだ跡です。そこから覗ける空の高いところで、青いものと銀色のものが互いに互いのそばを回るようにして飛んでいたような気もします。どちらかが、黒い煙をはいていました。あれはイヴでしょうか。ちゃんと戦えているのでしょうか。ともかく、あの怖そうなロボットにたったひとりで立ち向かっているのだとしたら、大したものです。見損っちゃあいけないな、とアナは思いました。
どこも壊されずに、戻って来て欲しい。もちろん、できるなら、敵を倒して来てくれるほうがずっとずっと嬉しいですけれども、とりあえず無事で逃げて来てくれれば充分です。
もう一度よく見て確かめようと、つい上を向き、ふと気を抜いたその瞬間。
「エリザベス! リズぅ」
ぎゅむっ!!
あたりのひとを跳ね飛ばして突進して来た、他より三十センチは高い背と三倍の横幅を持ったスモウ・レスラーのようなオバサンに、いきなり羽交い締めにされてしまったのです。揺すり上げられ、高い高いをされ、さらに放り上げられます。オバサンはとびきりの力持ちで、アナなんか、軽々と宙に浮かべてしまうのです。
「逢いたかった、逢いたかったよぉ、あたしのリズちゃん」
「きゃああ、ち、違いますったら、うわわ、いやぁん」
ぽーん、ぽーん。勢いをつけて、飛ばされます。
最初はおっかなびっくりでしたが、慣れてみると、けっこう便利です。他のひとに邪魔されず、空のほうを見る暇もできました。けれども空中戦は、移動したと見えて、イヴも青いロボットも影も形もありません。がっかりです。
となれば、いつまでも、おスモウ・オバサンのオモチャになってはいられません。
「下ろしてっ、下ろしてくださいったら」
「ほーら、高い高い高い。ママの高い高いは面白いねぇ」
「面白くないっ! あんたなんか、あんたなんか、あたしのママじゃないもんっ!」
パシッ!
PSIの光を飛ばすと、さすがのオバサンも、あうっ、と叫んで手を引っ込めました。どうして可愛いわが子から、こんな仕打ちをされなければならないのだろう。驚いたような、脅えたような、悲しんでいるような瞳からあわてて眼を背けて、アナは駆け出しました。おとなたちの群れもアナを中心にしたまま、いっせいに移動を開始します。まるでアイドルと『おっかけ』のみなさんです。
ああ。体育の時間にもっとがんばっておけば良かった。
アナは後悔しました。
バスケット部にでも入ってビシバシに練習していれば、ゾーン・ディフェンスのかわしかた、得意になってたかもしれないのに。
PSIにだって限りはあります。こんなに大勢のひとびとのひとりひとりに使っていたのでは、きりも限りもありません。疲れ果ててしまいます。
どうしよう。どうしよう。どうしたらいいの。
涙がじにんできそうな眼に、不意に、ひとりの、狂女のような姿が飛びこんで来ました。
「リリー、あたしのリリーちゃんっ!!」
「あっ、ナタリーのおばさん!」
リリーちゃんのお母さんは知り合いでした。イースターの教会でお手伝いをしているひとなので、時々、アナのおかあさんのところに遊びに来ていたのです。クッキーを焼くのが上手な、おしとやかなひとでした。おしゃまなリリーちゃんのいたずらにも、やさしく眼を細めてたしなめるくらいで、けして大声を上げたりしないひとでした。
けれども。今、おばさんの様子やかっこうはあまりにも異様でした。いつだってきれいに編みこまれていた髪はぐしゃぐしゃのざんばら、スカートも上着もずるずるで半分千切れています。お酒でも飲み過ぎたような真っ赤な顔で、潤んだ血走った瞳ばかりギラギラしていますが、それさえまるで焦点があっていません。そうして、あんまり長いことペット・ショップで育ちすぎてすっかりひねくれてしまったオウムのようないやらしい声で、ぎゃあぎゃあわめき散らすのです。
「リリー、リリーったら、どうしたの、はやくこっちにいらっしゃい!」
「いやだ……おばさんったら、なんてことなの……」
思わず立ちすくんでしまうと、おばさんは、アナの手をむんずと掴んで、すごい力で引っ張り、他の誰にも触られないようにギュッと抱きしめました。
「ナタリー、ナタリーおばさん、しっかりして。やめて!」
「おお、よしよし。ねんねなの。あんまりぐずらないでおくれ」
「おばさんったら……」
たちまちまわりじゅうに人垣ができました。
「グレーシー? グレーシーなんだろ? こっちをお向き」
「ちょっと、おばあちゃん、押さないでよ」
「おっさんなにするんや」
「ハロルド、ハリー!!」
「誰だわしの足を踏んだのは」
「ああ……もう。もう、いやっ!」
ナタリーおばさんを抱きしめ返しながら、アナは自分のおかあさんのことを考えていました。このひとがこうだとしたら、おかあさんは今頃どんなひどい姿になっているのでしょうか。心配です。恥かしいです。胸が焼けるようです。
「ママ、どこにいるの。あたしはいったい、どうすればいいの。ああ……ママ! ……ケン! ロイド。……ママぁ!!」
そこらじゅうのおとなたちが、なんとかアナに近付こうとし、黒い手を伸して我先に触ろうとするものですから、とうとう押し合いへし合いがはじまりました。あちこちで、正視できないような本気の勝負も起こっています。髪を掴み、爪を立て、噛みつき攻撃もアリ。男のひと同士は、もう露骨に血みどろの殴りっこです。
いいおとなのすることではありません。どうみても、みなさん正気ではありません。
感傷にひたっている暇などないのです。手加減をしている場合ではありません。
「リリー、リリーちゃん」
「もうやめて! お願いだから、みんな、眼を覚まして。喧嘩なんか、しないでぇっ!!」
ビシィィィッ!!
凄じい電撃です。おとなたちは外側にふっ飛んで、アナの周囲半径五メートル以内がぽっかりと開きました。
ハッと我に返ったアナは、見てしまいました。
ミイラのように干からびてしまったオジサン。ありえない方向にガクリと折れ曲った誰かの手。でく人形のように、ガックリと崩れ落ちる痩せたひとかげ。そして。びっくりしたように、信じられない裏切りにでも出会ってしまったかのように、茫然と丸く眼を見開いたまま、気絶してしまったナタリーおばさんを。
ゾンビ化したひとびとも、この光景にはさすがに恐れをなしたのか、近付いて来ません。震えながらざわざわと重なり合いながら、こっちを見守っています。その暗く寂しい、顔、顔、顔。戸惑いと不安と、悲しみの顔。
誰もがみんな、実は、普通のオジサン・オバサンです。家に帰れば、いいパパやママなのです。
まさか、今弾き飛ばしてしまった中に、ケンの、ロイドのママはいなかったでしょうか? アナ自身の大切なママはいなかったでしょうか。いいえ、いいえ。ともかく、このひとたちはみんな、どこかの誰かにとっては、かけがえのない大事な家族なのです。打ったり叩いたり、意地悪をしたりしていいはずはありません。なのに。
攻撃してしまった。
反抗してしまった。
とりかえしのつかない傷を与えてしまった。
「……あ……あ……ああ」
こんなの、もう、いやよ!
アナは両手で頭を抱えてイヤイヤをしました。思いがあふれて、スパークしてしまいそうです。なんとか我慢しようとしました。けれども、取り乱した感情を、全身を震わせる力を、抑えることができません。
いや……いや……いや。
「……いやぁあぁぁあああっ!!」
「待てぇっ!!」
「ぁうっ!」
ふくれあがり爆発しようとした気合いが、危ういところで抑えこまれます。眼に見えないその力の気配に、ああケンが止めてくれたんだわ、と思う間もなく、たちまち、すさまじい反動がやって来ました。
全身の血が泡立ち、骨が軋み、内臓という内臓がミンチになるような、恐ろしい衝撃です。全ての痛みが五重六重のエコーを引きました。からだじゅうが痺れて、もう自分のものではないようなのに、頭の中だけはいやに冴えていて、時の中をいつもの五倍十倍ものスピードでジグザグに駆け抜けるのです。音のない悲鳴を絞りだしながらあえぐのどはひとつの痙攣を幾度も繰り返し体験し、百キロも彼方にあるような指は百年もの間虚しく宙を掴もうとし続けました。
ああ、でも。でも。しかたがないんだわ。
悲しいほど、はっきりしたままの意識の中、なすすべもなく漂いながら、アナは思いました。
あたしが悪かったわ。絶対に、してはいけないことをしちゃったんだわ。
こんなとてつもない力を、ひとにぶつけてしまうところだった。こんな痛みを誰かに押しつけてしまうところだった。それだけの可能性を持ってた以上、もっと、もっと、強いこころでいなきゃいけなかったんだ。どんなに苦しくったって、我慢しなきゃならなかったんだ。なのに、ちゃんとコントロールできなかったんだから。
当然なんだわ。罰を、受けるのは。
それに。
今はじめて、あたしは、自分がひとに、どんなにひどいことをすることができるのか、実感することができた。これは、必要なこと。いい経験。試練だった。
ちゃんと、耐えなきゃならない。乗り越えなきゃいけないのよ。
痛みくらい、なによ。
死んでしまったら痛いこともわからない。この力は、ひとを殺すことだってできてしまう。でもあたしは死なない。
痛いってことは、生きてるってこと。まだ、生きてられてるってこと。その証拠。
あたしは、まだ、死んでない。死なない。この力をもう一度、ちゃんと、ひとの役に立てることができるまでは、死んだりしちゃいけないんだわ。
……ああ、神さま。どうか、どうか助けてください……。
木の枝に積った雪がそっと落ちるように静かに地面にくずおれるアナのからだを、たくましい腕が抱き止めました。
「アナ! アナ、だいじょうぶか?」
「……ケン……ロイド……」
うっすらと眼を開けば、こころ強い仲間たちの顔が見えます。永遠かと思われたあの責め苦も、どうやら、もう、おしまいになったようです。
「ああ……ありがとう。ケン、良かったわ。止めてくれて」
「俺が?」
怪訝な顔をされて、アナもびっくりしました。
ケンじゃないとしたら、誰でしょう? 今やまさに流れ出そうとするPSIの力を抑えこむ、なんて、とんでもないことができたのは。……ノエルでしょうか? でも、ノエルは遠くにいるのだし、それほどまでに強いとは思えません。ひょっとしたら、クィーン・マリー?
でも不思議です。あの時、聞こえた声は……ひょっとすると、こころで聞いただけかもしれませんけれども、『待て』と叫んだあの声は、確かに、ケンの感触を持っていたのです。少なくとも、ケンにそっくりだったのです。
「わけがわからないわ」
まだめまいがします。考えがまとまりません。
「動物園や、ハロウィーンの時と同じだ。宇宙人に、おかしくされてるんだ」
ロイドが質問の意味を取り違えて、既に気がついていることをわざわざ指摘してくれたのはもちろんわかりましたが、訂正するのもおっくうなほどだるかったので、アナはおとなしくうなずきました。
「さらわれたひとたちね。あなたのママ、いた?」
「いや。でも、あっち側に別のドームが続いている。探そう」
「うん」
「……アナ」
「なに?」
ケンが急に手を伸し、頬に触れそうになったので、アナはドキッと身をひきました。
「可哀想に……気づいてないのか」
「なにが」
「おまえの、髪」
「え?」
サラサラサラ。ケンの指が梳かすものが眼の端に見えて、アナはアッと息を呑みました。
それは白かったのです。故郷の村をかこんだ山の高い峰の雪のような、輝かしい純白になっていたのでした。
「………………?」
「さっき一瞬のうちに変ってしまったんだ。よっぽどのショックだったんだろう」
「……ああ……」
捧げると、約束をした髪でした。思い切り短く切ってしまうことになってもいいと、覚悟を決めていた髪でした。けれど、こんな風になるなんて、思ってもみませんでした。
自慢の髪だったのに。昔は、旅をはじめる前には、夜空のように漆黒《しっこく》で、たっぷり背中を覆うほどもあったのに。金髪に憧れた時もなくはないけれど、でもやっぱり、自分には、あの、まっすぐで黒くて健康的な、エキゾチックな髪が、絶対に似合うんだと思っていたのに。
短い前髪を引っ張りおろすようにして何度かためすがめつして見ても、それはやっぱり、信じられないほど真っ白なのでした。
もう、二度と、戻らないの……?
そんな場合じゃないといくら冷静になろうとしても、涙がどんどんこみあげて来ます。あのすさまじかった痛みよりも、このことのほうがずっとこたえてしまうのが、アナ自身にも不思議でした。
「泣くな。泣くことなんかないじゃないか」
「……だって……ケン」
「きれいだぜ」
しゃくりあげるアナを、ケンは、不器用に抱きしめました。
「ほんとさ。すごくきれいだよ。きれいだから。泣くな」
「そうだよ、よく磨いたメタルみたいでとってもオシャレだ。流行るかもしれない」
ロイドも真顔で保証してくれます。
「それにね。どう変ったって、アナはアナだろ?」
「……うん……うん」
がんばって、何度もギュッと眼をつぶって。
アナは身を離します。
「ほんとに、変じゃない?」
「変じゃない変じゃない」
「カッコいい! サイコー」
「……そうなら、いいけど……」
笑おうとしたら、また涙があふれてしまいました。でも、もうひと粒だけでした。
「大丈夫か? 歩けるか?」
「平気」
立ち上がろうとしたものの、膝に力が入りません。
「無理するな。おぶされ」
ケンが背中を差し出します。
「いいよ」
「遠慮するな。おまえなんか、軽いもんだ」
一瞬だけためらいましたが、結局はうなずいてしがみつかせてもらったものの、ケンの肩や背中は、なんだかやけにぶるぶる震えています。
アナは思わず、笑ってしまいました。
「やぁだ。相当疲れがたまってるんじゃない? やっぱり、降りようか」
「ち、違う。こ、こ、これは、ぢ、地震だ。地面が揺れてるんだ!」
「え?」
「う、うわぁぁぁっ!」
ごごごごごごごごっ!!
おなじみの効果音をあげて、床が崩れ、持ち上がります。何かが地中から出てくるのです! たちまち大きく傾いた足場に、ひとびとはみな将棋倒しになり、泣き叫びながら壁際まで滑り落ちて重なっていきました。三人とても例外ではありません。せめてバラバラにならぬよう、必死で互いの手を繋ぐことができたばかりです。
「見ろ! 宇宙船……マザー・シップだ……!!」
誰かの上にじょうずに着地しながら、ロイドが叫びました。
ほんとうです! 何かの映画の中で見たような、電飾もたっぷり豪華に鮮やかな貝独楽《べーごま》型巨大宇宙船が、ドームの床も壁も屋根も次々に突き破りながら、ぬうっとどこまでもどこまでも伸び上がって、高くそびえて行くのです。
「……ダれだ……? ジャまをすルのは……!!」
耳にでしょうか、頭の中になのでしょうか。キィキィと感じの悪い何かの『声』が、圧倒するように響き渡ります。
「しょウのない『バぐ』だ。まっタく『ばぐ』ばッカりだ。セッかくおもしロくなっテくると、すぐコれだ……」
「ちくしょう! ぶっ飛ばしてやる」
「待て!」
どこで手に入れたやら、パイナップル型手榴弾の安全ピンを抜こうとしたケンを、ロイドが止めます。
「よく見ろっ、下のほうを」
「ああっ……人質がいるっ!」
見れば、今はもう支えもなしに空中遥かに浮び上がった宇宙船の一番下側のガラス張りになった部分にも、おとなたちがぎっしりと乗せられているではありませんか!
「おお、ギーグ!!」
「ギーグ」
「可愛いギーグちゃん」
「わたしの坊や」
「ふフん。フはは、ははははハははハ!」
おとなたちがことに母親たちが口々に叫ぶと、気味の悪い声はひどくうつろな笑いかたをしました。マザー・シップ全体が、ゆさゆさと揺れたように見えました。
「……バかな『ばぐ』タち。ほンとおに、ショうがナい『バぐ』たちダ……おヤ?」
「ハーイ、みなさ〜ん!! お待たせしました」
オレンジ色の炎をなびかせながら、ああ、イヴが飛んで来ます! どうやら、例の巨大ロボットを倒したみたいです。
「……偉い」
ロイドがしみじみつぶやきました。
「ご安心ください。わたくしこと、正義のロボット、イヴがやって来ましたからには、もう、こ〜んな宇宙人なんてちょいちょいのちょいです」
三人は無言で顔を見合せます。ほんとうにそうならこれほど嬉しいことはありませんが。マザー・シップとイヴは、ただ大きさの点からだけ見ても、ゾウとアリンコほども違います。おまけに、向うには例のなにやらたいへんそうな兵器だってあるはずなのです。
腕時計の部品一個で直ったばかりのイヴです。おまけに、あの性格です。いったい、どんな攻撃をしようと言うのでしょう。とても楽観はできません。
「さぞ待ちかねたことであろうぞ『ギーグ』どの。やあやあ尋常に、勝負、勝負」
これですからね。
「……ナんだ、おまエ?……」
さすがのマザー・シップも動きを止め、なにやら茫然とした様子で、あちこちの窓を無意味に点滅させました。
「やーね。ちゃんと名乗ってあげたでしょ。イヴだったら」
「……あ、おもイだした。ゆガみはかセのおんぼロろぼッとだナ。かイぞうしテもラったのか……」
「やだわ。昔の名前で呼ばないで」
「……ガらくタにはよウはない。アっちにいケ……」
「あっ。きゃーっ!!」
大見栄を切ったのはどこの誰なのでしょう。巨大ロボットを倒したのは、どんな技だったのでしょう。
マザー・シップがその一千個もありそうな棘々のどれかからレーザーを一閃し、ボディからランドセル型の飛行装置までを貫くや、銀色のイヴは四肢をつっぱらせ、きりきり舞いをしながら、まっ逆さまに落っこちて来ました。附近のおとなたちがあわてて四方に散って、スペースを開けます。
「ああっ」
「そんなっ」
「イヴ――ッ!!」
三人は駆け寄りましたが、何もできません。
ぐしゃり!
床に叩きつけられてぺっしゃんこになってしまったイヴの、半分潰れた微笑に間に合っただけです。
「ああ、ぼっちゃん、じょうちゃん……ここにいたんですね」
片方だけの緑の瞳が、消える前のろうそくのように燃え上がります。
「イヴ!」
「しっかりして」
「心配するな、また直してやるから」
「いいえいいえ。わたくしはもう壊れます。やっと壊れることができそうです。どうかちゃんと耳をすまして、聞いてくださいよ」
「え?」
メロディです!
イヴは七番めのメロディを、遺言代りに置いていったのです。
「揃ったぁっ!!」
その瞬間。
世界はぼやけ、空間は溶け、時間は混ざりました。
三人は、自分たちが無限に増えてしまったかのような、すべての場所とすべての時を漂っているような奇妙な感じを覚えました。まるで多重露光した画面の中に入ってしまったみたいです。目まぐるしいジャンプの連続のようなものだとも言えます。
ほんのりピンクのベールがかかって感じられるのは、きっとマジカントが混ざっているからです。ノエルの泣き声が、砂漠のおじいさんの高笑いが、エバンジェリンの儚い微笑みが、次々に現れては薄くなり、次に来るものに場所を譲ります。そこはバレンタインの桟橋、スノーマンの雪景色、秘密の地底湖です。学校のチャイムが、教会の鐘の音が、何台ものオートバイが唸る音が聞こえます。
そして。
「ジョージ! ジョージぃ!」
「マリアぁああっ!」
……遠い遠い昔、銀河の中心のほうから巨大な宇宙船でやって来たひとりぼっちの宇宙人のこと、彼女とかかわりあったたったふたりの地球人のことも、みな、まるで、今いっせいに眼の前で起こっていることのように、はっきりとわかるのです!
「おお、ジョージ。ここはどこ?」
「たぶん、さっき見たあのバカでかい宇宙船の中だ」
「……見て! あれ。なに? なんて大きな虫……きゃあっ、尻尾があるわ!」
「傷つけはシません。あナたがたは、貴重なサンぷルです」
「ちくしょうっ。モルモットになんかされるもんかっ!!」
「おドろいた……オどろいた……こンな辺境の惑星にも、亜PSI人種が存在したノか!」
「♪るー、るーるるー、るるるーるー」
「そレはなんですか?」
「♪るーるるー……え? これ? やだ。恥かしいな。子守り歌のつもりよ」
「こモり歌……教えてくダさい。どう歌うのデすか」
「あら、宇宙人さんにも、こどもがいるの?」
「わたしタちの種族は卵で生まレるのですが……はい、います。まだ孵化《うか》していないこどもが、あの奥に。そういうあナたもなのですね、マリア?」
「ええ。もうじき生れるのよ」
「でハ、ニンゲンの産仔《さんし》を観察スることができまスね」
「やーね! ……ねぇ、じゃあ、もしかすると、あたしたち、おかあさん同士なのねぇ。なんだか不思議な気分」
「はイ。だから、わたしも覚えて歌っテやります。わたしのこどもに、子守りウたを」
「彗星が……?!」
「このままだと太平洋を直撃する?」
「あああっ」
「どウしました、マリア」
「じ……陣痛よ……生れる……あたしたちのこどもが……」
「こどモ…………」
「ああっ」
「しっかり、マリア!」
「……わかりまシた……なんトかしましょう」
「なんとかって?」
「まかせてクださい。わタしはPSIなんですから……!」
……スパーク……!!
「なんてことを!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、地球のために」
「お願イですマリア、ジョージ。この子を……こノ子を……」
「卵ね! わかったわ、ちゃんと孵《かえ》します。育てます。約束します。でも、いったい、どうすればいいの? 暖めるの?」
「そのままで……ただ、孵化すルまで、地球の年で、百五十年ほどかカります……」
「百五十年ですって?」
「ぼくらはそんなに長いことは、生きていられないぞ!」
「知っテいます。でもこの船には、PSIパワーによる一種のタイム・カプセルがあるのです……どうかうマく使ってこの子がチゃんと生れるまで、見守ってやってくだ……ごぶごぶごぶ」
「宇宙人さん、宇宙人さんたら、しっかりしてっ」
「わたシの名はギーグ。この子にも、同じ名を……」
「『ギーグ』ね」
「そウです。もっと早く教えれバ良かったのに(笑)……サようなら、ジョージ、マリア。あナたがたと出会えて楽しカった。やっぱり宇宙はひトつなんでスね。……種族が違っても、ともダちになれ……」
「ギーグぅっ!!」
「…………」
「あ、ありがとう、ギーグ。ほんとうにありがとう! 約束は、きっと守る。地球は、きみのことを、けしてけして忘れないよ……!」
それが、ジョージとマリアの、つまりは、ケンのひいおじいさんとひいおばあさんの、誰も知らない秘密でした。大切な約束でした。
そうして、おかあさんギーグに地球まるまる一個分の恩を受けてしまったふたりは、相談して、役割分担をすることに決めたのです。ジョージは生れたばかりの赤ん坊をつれて地球に戻り、高い文明を持った他の星の生物たちがまたやって来る日のために、PSIを研究すること。マリアは宇宙船に残り、タイム・カプセルに入って、ギーグの卵が孵る日に備えること。うまくPSIの研究が進めば、夫婦がふたたびいっしょに暮すことだって夢ではないかもしれない。若いふたりはそう信じ、涙をのんで、互いに離しがたい指と指とをもぎ離したのです。
けれども、不幸なことに。
乳飲み児を背負ったまま奇妙な研究に没頭したジョージは近所じゅうから白い眼で見られることになりました。その一生は、PSIの秘密を明かすには少々足りませんでした。
そして、マリアのタイム・カプセルはちゃんと働かなかったのです。人間が使おうとすること自体にもともと無理があったのか。それとも、その後、地球上をおそったさまざまな変化(大気や海の汚染、異常気象、地磁気の乱れや放射能兵器の濫用などなど。この百五十年間はそれ以前とはずいぶん違ってしまいましたから)が悪い影響を及ぼしたのでしょうか、確かなことはわかりません。ともかく。
マリアはギーグの船の強力なPSIフィールドの中で、クィーン・マリーに生れかわり、人間だった時の記憶をなくし、マジカント国を発生させてしまったのです。あの甘ったるいピンク色の、赤ちゃん部屋の国を。
そして、子ギーグは、守ってくれるものとてなしに、卵から孵ってしまったのでした……!
「思いだした!」
彼女は叫びます。
「なにもかも、はっきりと。おおジョージ……あなた。ギーグ!! あの歌も、もちろん、思いだしたわ!!」
ホーリー・ローリー・マウンテンのてっぺんに、すべてのイメージと音を圧して、クィーン・マリーの歌声が響きました。
♪るー、るーるるー、るるるーるー
るーるるー、るるるるー……。
全部でたった八小節の、とても短い歌でした。けれど、何度も何度でも繰り返します。最初は、ちゃんと確かに覚えているのかどうか、確認するかのように。それから、誇らかに高らかに、世界じゅうに聞かせるように……
いつしか、無意識のうちに、声を合わせて歌っていました。アナも、ケンも、ロイドも。
物悲しい、懐かしい、甘いメロディです。自分の唇から漏れる音にも涙が出てしまいそうな、いつかおかあさんの膝で胸で聞いたことのありそうな、そんな歌なのです。
「……な、なンだ、それは……? ヤめてクれ……!」
空を圧倒するようにそびえていたマザー・シップが、大きく揺らぎはじめます。尻尾のある巨大な宇宙人が、バタバタと赤ん坊のようにもがいている気配が伝わっているのでしょうか。
♪るー、るーるるー、るるるーるー
るるるるー、るーるるー、るるるー……。
「う、ウるさい……。よセ……ヨスんだ……ソれを、うタを……やメろぉぉぉっ!」
マザー・シップの表面にぴかぴかっと赤い稲妻のような光が走ると、急にのどが苦しくなりました。どうやらギーグの攻撃のようです。あたりの空気を薄くして、声が出せないようにしようとしているのです。
それでも、クィーンも三人も、歌をやめませんでした。てのひらに爪をたて、顔が真っ赤になるほど力をこめて。さらに強く、さらに大きく、さらにはっきりと歌います。美しい、母の愛の歌を……!
「ばっ、バぐどもっ! ばグどもめガっ!! ダマれだマれだまレうタうんじャなイぃぃいぃぃっっ!!」
いちだんと音がふくれあがります。
ああ、ここにいるおとなたちが、とらえられていたおかあさんたちが、おとうさんたちが、いっしょに歌ってくれだしたのです……!
「……ウ……うたウな、そノ……うタを……」
最初はおずおずと、次第次第に力強く。大勢のひとが加わります。もう、ドームじゅうが震えるほどの大合唱です。
ここだけではありません。世界じゅうのあちこちが、歌い始めているのです。
ジョーのいい声が、エイミーの照れ臭そうな声が、ほら、あなたにも聞こえて来ませんか。オルゴールが、歌うサルが、カナリヤ村のローラさんが、かつて自分が預っていたパートに来ると、ひときわ得意そうに声をはりあげるでしょう。ふたごのミミーとミニーが、遠くに住むともだちの赤毛のピッピが、元気よく加勢してくれますね。紫色のピアノが、不思議なサボテンが、サムおじいさんの家のジューク・ボックスが。みんなみんな肩を組んで揺れながら、ひとつの歌を歌うのです。倒れていたイヴも立ち上がり、あの最後の歌をもう一度、誇らしそうにソロします。
百五十年の昔、遠い遠い見知らぬ星から来たともだちが覚えたいと言った、あの素朴なひとつの歌が、今、地球じゅうに生命を得て、みごとに蘇ったのです……!
森や山や草原から、虫たちとけものたちの声が沸き起こり、混ざり合います。海の底で雲の上で、魚たちが鳥たちが参加します。いい声のものは堂々とリードを取り、イマイチのものもそれなりに。鳴き声を持たないものだって、こころの中ではちゃんと。みんなみんなひとつです。舞い散る粉雪も、風に揺れる花々も、空を飛ぶ雲の流れも、ほら、宇宙のあっち側で瞬いている星々さえもが、まるで、歌声に合わせてスウィングしているように見えませんか。
幼いものたちは、もうみな幸福そうにうっとりと瞳を閉じて。親なるものたちは、誰しもきっぱりと胸を張って。そばに誰かがいれば互いに手を取り、ひとり彷徨っているものたちもたいせつなひとのことをしっかりと考えながら。同じひとつのメロディに、みんなのこころがひとつに溶けます。この愛すべき世界を、次代への期待を、生命のめぐみへの感謝の祈りを、高らかに謳《うた》い上げるのです。
♪るーるーるるるー、るーるーるるるー
るーるる、るーるる、るるるるー
るーるる、るーるる、るるるるる……。
「やメろぉっっ!」
地球が歌います。
「や……」
ハミングします。
「!!!!」
マリアの、子守り歌です……!
「…………」
「なゼ ナぜ ぼクだケ ひトりぼっチなの。どウして みんなとチがうんダ。カあさん オかあさん ママ おふくロ どコ? どこニいるノ? でてキてよ。かくれテないで。だっコして。かおミせて。おかあサん? ぼクの だいジな おかあサぁぁん……?!」
「おお、よしよし。よしよし、泣かないで」
ピンクの宮殿の真ん中で、母なるマリアは、たっぷりと両腕を広げました。
「いい子ね。いい子ね。ギーグ。さびしがらせてごめんなさい」
「……まマ……?」
時も場所も、種族も越えて、マリアは尻尾のある赤ん坊を、愛しげに抱きしめてあげるのです。
ひょっとしたら、生れたばかりで手放してしまったほんとの赤ちゃんの身がわりなのかしら。
と、アナは思いました。
むしろ、罪滅ぼし? 守れなかった約束の後始末?
けれどマリアの表情は、あくまでも穏やかでやさしく、そんな勘繰りなど不必要に、無関係にも見えるのです。やっぱりマリアは『すべてのこどもたちの母』クィーン・マリーなのだとも言えるのではないでしょうか。
「ギーグ、ギーグ」
小さな白い手が、尻尾の長い昆虫のような生物の頭を、何度も何度も撫でました。
「約束を守ってなくってごめんなさい。辛かったでしょう。こころ細かったでしょう。でも、もう大丈夫よ。もうひとりじゃない。わたくしがついていてあげる。だから。さぁ、行きましょうね、ギーグ。おかあさんのところへ」
「おカあさんの? ……まマのとこ?」
「そうよ」
「知ってるの? ほんとに? ぼクのおかあサんを?」
「ええ。よぉく知ってるわ」
やさしく微笑むクィーン・マリー=マリアに、しっかりと手をつないでもらうと、子ギーグはキラキラとその表情のわからない瞳を輝かせます。はしゃいだ様子で、大きくうなずきます。
「うン! なら、ぼク、行く!」
「でもほかの子はダメよ。いっしょにはいけないの」
「ホかの子……ああ、ワかった。こいつらだね! 降ろすヨ、降ろす」
マザー・シップから不思議な色の光の帯が伸びて来ました。捕らえられていたひとびとが、ゆっくりと歩いて降りて来ます。
「……あっ……ママだっ!」
ロイドが叫びます。
「あれは……おふくろ?」
ケンがなきべそを堪えているような顔になります。
アナはたまらず、走りだしました。降りてくるひとをかきわけて、光の帯を登って登って……飛びつきます! おかあさんの胸に!
「…………!!」
無言でしがみつきます。抱きしめ合います。おかあさんです。おかあさんの手触り。おかあさんの匂い。いつもと同じ。おかあさんのぬくもり。
宇宙船の中にとじ込められていたひとびとは、ドームにいたひとたちほど悲惨にはなっていなかったのでした。
……良かった!
うちのおかあさんは、ちゃんとうちのおかあさんのままだった……!
やがて、マザー・シップは静かに浮き上がると、ぐんぐん登り、空の高いところで見えなくなりました。
最後にチカッと光った時、思い切りクィーン・マリーに甘えてじゃれている、子ギーグの幻を、アナは、見たような気がしました。
かくして、地球の危機は回避されたのです!
10 そして次の旅へ
ホーリー・ローリー・マウンテン頂上の周囲に、飛行機やヘリコプター、飛行船などがいくつもいくつも集まって来ました。食糧や衣料、救急用品などの包みが、パラシュートつきで、いくつもいくつも落とされます。これまではギーグのサイコ・バリアーに阻まれて近付くことができなかった、国連軍や各国政府、報道機関のひとたちが、さらわれていたひとびとの救出に来てくれたのでした。
後から聞いたところでは、ジョーと湯上博士が相談して呼んでおいたのだそうです。三戦士(足すことのイヴ)の勝利を、すっかり確信していたのですね。
空は青く、雲は白く、山を渡る風はあくまですがすがしく。鳥が歌い、花が咲き、蝶々が舞う。けものたちのこどもも、次々に生れて来るはずです。
季節はこれから、爛漫《らんまん》の春なのでした。
乱れた金髪がはみ出した赤い野球帽子。輝く白銀のオカッパ頭。おでこが広そうな輪郭の一部に眼鏡のつるが見える栗色のくせっ毛。小さな戦士は三人、なんとなく横一列に並んで、空の高いほうを見上げました。
「……終ったな……」
ケンがつぶやくと、ロイドが黙ってうなずきます。
アナは、何かうまいことを言いたかったのですけれども、あいにく何にも思いつきませんでした。
今になってみれば、まるで、何もかもが夢だったみたいです。結局、ギーグとは、クィーン・マリーとは、マジカントとは、いったいなんだったのでしょうか? ほんとうにいたひとたち、あったできごとなのでしょうか。だいたいこの世の中に、ほんとうにほんものだと言えるものなんかあるのでしょうか。
ずしりと重いあのルビーのペンダントが、何かの証拠のように、残されてはいるのですが。なぜかからだがスウスウします。どこか頼りないのです。
だからアナは、ただそっと両側に腕を伸して、それぞれ男の子たちの手に指先で触れてみました。ケンの手はちょっと逃げ、ロイドの手はぴくんと震えます。でも、結局どちらも、ギュッと握ってくれました。ふたりとも、未だにちょっぴり照れ屋なんです。こんな時だっていうのに、まだカッコなんかつけてるんです。
ああ、そうです。
アナは、寂しいのでした。
とてつもなくおセンチな気持ちになってしまっていて、たまらないのでした。
でも。地球防衛軍は、もう必要ありません。もうじき、解散。さようならです。永遠の友情を誓っても、これからは別々の町で暮してゆくことになります。何度も運命を共にし、生命をかけて守りあった仲間なのに……もうすぐ、お別れなのです……。
ちなみに、三人のおかあさんたちも仲良しになって、脇のほうで、もうすっかり所帯じみた世間話をしていました。どこそこの靴下は安いわりに丈夫だとか、どこの洗剤がよく落ちるとか。まったく、オバサン魂はたいしたものです。地球の危機やその回避くらいでは、そうそう動じやしないのです。
「……おーい、そこのーっ」
真上でホバリングしていた大きなヘリコプターから、野太い声が降って来ます。戦士たちは……いいえ、もと戦士たちは、思わず、手を離してしまいました。なんだか担任の先生にみつかったような気分がしたのです。別に悪いことをしてたわけじゃないんですけれどね。なんとなく、赤くなってしまったりして。
アナの眼に最初に飛び込んで来たのは、横腹にNBS国際ネットワークのマークの入ったカメラでした。ぴったりこっちを向いています。
「ケーン? ひょっとして、そこにいるのは、ケンじゃないかぁーっ?!」
「……パ……じゃねぇ、オヤジぃ!」
「いようっ! 大変だったようだなぁ。よーくやったぁ。ケンはかあさんに似て、がんばり屋だからな」
「よせやい」
「おまけにハリケーン・ジョーだのなんだの、いろいろと知り合いができたらしいじゃないか。いいドキュメンタリーができそうだ。さっそく、特番組むからな特番! よろしく頼むぜ」
「知るか、そんなもん!」
「こづかいへらすぞっ」
「き、汚ねぇっ!」
笑っているオジサンは、マイクつきのヘッド・セットをかけ、茄子型サングラスなんかも似合っていて、やっぱり相当にカッコ良いのです。操縦席のひとやカメラのひとに、テキパキ質問や指示をしている感じも、いかにもでした。
「俺はもう社に戻るんだが。なんなら乗ってくかー?」
「う……」
うんっ!
と、単純に喜びかけたのは、たぶん、飛行物体一般が好きでしょうがない性分のせいでしょうに。
途中でことばを飲みこんだケンは、くるっとこっちを振り向きます。なんとなく気遅れして、後ずさりしてしまっていたアナを、ちゃんと見つけてくれるのです。
そうして、気遣わし気に首を振り、あの素敵な青い眼を細めた表情は、はじめて逢った頃よりは、ずいぶんおとなびているのです。
「アナ。どうして逃げるのさ」
「別に」
「教会に、帰りたいか?」
「え?」
「じゃ、いっしょに、行くだろ」
「な、何の話よ。どこに行くっていうの?」
「もちろん」
ケンは拳を固め、声をひそめます。
「新しい冒険に、さ!」
『行こうよ、行こう! だって、ぼくらはもうこどもじゃない』
「……あ……!」
なんて不思議なんでしょう。ずっとだめだったケンの放送局[#「放送局」に傍点]が、アナのラヂオが、いきなり働きはじめたのです!
『今さら良い子になんか戻れるかよ。家に帰ったってつまんねーし。学校に戻ったって退屈だろ。おとなの都合に巻きこまれるのはごめんだ。育ててもらった分の恩義は、今度の旅でりっぱに返したじゃあないか。難しい理屈は抜きにして、とっととどっかに行っちまおうぜ。きみやロイドといっしょなら、行く先なんかどこだっていい。どこだってサイコーさ。今度こそ、誰のためでもない、ぼくら自身のための冒険の旅に、なぁ、みんな、早く、出発しようぜ!』
「……う……うんっ!!」
力いっぱいうなずくアナの手は無意識に、おへそのあたりを撫でました。その微笑みはどこかしら、クィーン・マリーに似ていないこともありません。
ふもとでは、もう桜だって咲いているのです。
おわり
あとがき
こんにちは。はじめまして(かな?)。
『MOTHER』の世界に、ようこそ。
あなたはもう、ファミコン・ゲームのほうの『MOTHER』をクリアできましたか。わたしはね、今これを書いている時点では、まだバレンタインの町を発見できていないのです。シナリオだの設定表だのキャラ一覧だのを参考にし、先にアガッてしまった上手なかたが作ってくださったアンチョコ(どこでどんなアイテムを手にいれておかなきゃならない、とかとか)を見ながら、着実に、ズルッこに、どんどん進めたのですけれども。完全攻略を果たすまで書かないなんていってると、絶対に原稿がおちそうだったもので。泣く泣く、途中であきらめたのでした。
それにしても。
シゴトのためにRPGをするのは、少々複雑な気分でした。
おもしろいゲームは一種の麻薬。ストレス解消のため、生命の洗濯のため、気分転換のため……とかなんとかいいながら、すっかりはまりこんでしまうもの。
「ああ、あたしってなんて意志がよわいんでしょう。グータラでノロマでダメな奴なんでしょう、しくしく」
自虐の快感にひたりつつ、長いほうの時計の針が何度ぐるぐる回っても、指はけしてコントローラを離そうとしないのであった……というのが、うれしはずかしゲーマーの普通ではないでしょうか。『ファミコンは一日一時間にしよう!』と、かのタカハシ名人もおっしゃっておられます。つまり、それだけではすまないひとが、日本じゅうに大勢おられるということだよねえ。
なのに。
今回あたしは、一日何時間でも使えるだけ使い、ご飯も外出も寝る間も犠牲にし、ただただゲームに没頭すればするほど、なんと、熱心にシゴトの準備をしていることになってしまったのでした。多少原稿のスタートがおくれても、言い訳できる。しかも、今、ゲームをやってますから、というのが、言い訳になってしまう。幸せです。ありがたいことです。でも、なんとなく、どことなく変な感じがする、ハズカシイような、調子がくるっちゃうような、どうもイマイチ不満なような気分がする……なんていったら、やっぱり罰があたるんでしょうか。
しかも。
発売前のゲームをやったのなんてはじめてでした。基板ムキダシのROMカセット、最終決定ヴァージョンとはちょっとちがっているソフトです。日本じゅうのほとんどのファミコン・ファンが、まだ知らない、手にすることのできないものを、いち早くやってしまうなんて。えっへっへっへ、やっぱり、かなり得意ですよねぇ。
もっと恵まれて(?)いたのは、ウチのカレです。ファミコンなんて持ってない、ほとんどやったこともないタイプだったのに。ちょうどわたしが、砂漠に一歩ふみこんで真っ青になっているところにアソビにきまして。他の場合ならさっさとやめるところですが、なにしろ今回ばかりはきっぱりシゴトでしょう。
「わるいけど、今手が離せないの。あ、やれやれ。大変だこと」
むずかしい顔をしつつ、しっかりちゃっかり遊び続けておりましたところ。
「ふぅ〜ん。……ねー、それって、どうやるの? ちょっと、貸して」
「お。やってみたいの?」
「うん」
「じゃ、ま、いいか。代って代って。殺さないでよ」
はまりましたね。カレ。ビギナーズ・ラックといいますか、シロートさんが夢中になるとおっかないといいますか。なんだか、やたらにどんどんすすみましたね。ひょっとすると才能があったりするのかもしれません。いやいや、この私が、へたすぎるってことかもしれませんが。
おかげさまで、砂漠ジジイにあうところとか、超能力赤ちゃんのその超能力の秘密とか、いくつかの重要ポイントを見せてもらえたのですから、まったくありがたいことでした。そうしてあたしはカレに、RPG初体験が発売前のソフトだなんてすっごいゾ、と恩をきせちゃうわけです。そんな奴めったにいないよね。イマドキまで大事にまもっていたファミコン・ヴァージンをやぶるのに、これなら、はずかしくなかったりしないかしらん。
ゲーム版の『MOTHER』がめでたく発売になったら、改めて、仲よくいっしょに戦っちゃおー、と思ってます。うふふ♪
ところで、この本の内容は、ゲームのシナリオとは、かなり違ったものであることを、きっぱりとお断りしておきます。よって、攻略本としてお使いになる場合は、充分ご注意下さい。小説に出てきた特殊アイテムをゲームの中で探しても、半分以上は、虚しいだけですからね。
どこがどう違うか興味を持たれたかたは、ぜひ、両方お楽しみくださいますよう。
それにつけても。「なんでも好きなようにやってください」とおっしゃってくださった(さすがに有名人はふとっ腹)の原作者さま。大量の資料をたびたびFAXしてくださった(わたくしめの冗談を受けて、わたくしめを『くみビューン』と呼んでもくださった)糸井重里事務所のイシイさん。二章も残して高飛びしてしまった私を笑って許してくれ続けたやさしい(でも、しっかり原稿は取り立てる)新潮社のAさん。その他でくくると申し訳ないエトセトラのみなさん。たいへんお世話になりました。すごく楽しい仕事だったです。おかげさまで三キロ痩せ、五キロ太りました。こんなに冷や汗をかいたのだから、もう夏バテなんか怖くありません。ほんとうにありがとうございました。
お買上げくださいましたあなたさまにも、感謝です。
わたくしめもまた、チャンスがあり次第、新しい冒険の旅に出たいと思っています。
もしまた機会がありましたら、どこかでお逢いしましょう(あ、言い忘れてましたけど、この本にはいろんな映画や本やなんかのパロディがいっぱいあります。ちなみに、この最後の文章も、とある女流作家の真似っこです。誰だかわかる?)……。
寝惚けマナコのくみビューンこと
久美沙織
書名:MOTHER
著者:久美沙織
初版発行:1989年8月25日
発行所:株式会社新潮社
住所:東京都新宿区矢来町71
電話:編集部(03)3266-5411 営業部(03)3266-5111
制作日:1999年1月22日
制作所:株式会社フジオンラインシステム
住所:東京都豊島区東池袋3-11-9 ヨシフジビル6F
電話:(03)3590-9460
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ISBN4-10-116611-0