小説 ドラゴンクエストX
第2巻 魔物使い
著者 久美沙織/挿絵 いのまたむつみ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)花嫁《はなよめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)少々|薹《とう》が立ってはいる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)H[#ハート(白)、1-6-29]
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目次
登場キャラクター紹介
1 望まれしもの
2 騎士の誕生
3 出会い
4 怪物
5 墜ちた神
6 二つの指輪
7 遥かなる故郷
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登場キャラクター紹介
リュカ(主人公・青年時代)
幼いころ古代の遺跡でとらえられ、以後光の教団の奴隷として十年の歳月を過ごす。現在は父パパスの遺志をついで母を、そして勇者を捜す旅を続けている。
ヘンリー(ラインハット王子・青年時代)
ラインハット国第一王子。幼少時、リュカとともに魔物にとらえられ、以後苦しい日々を主人公と支え合って成長する。現在は、リュカと旅を続けている。
フローラ(ルドマンの娘・花嫁候補)
サラボナの大富豪、ロベルト・ルドマンの娘。最近まで海辺の修道院に預けられていた。清純で聡明な白薔薇のフローラといわれる令嬢。
ビアンカ(主人公の花嫁・青年時代)
リュカの幼なじみ。母マグダレーナは他界。アルカパの宿屋を引き払い、現在は父ダンカンと山奥の村で暮らしている。
アンディ(フローラを慕う若者)
本名アンディ・インガルス。世界有数の美術家具工房を持つ家具職人・プリー老の養子。彩色師としての確かな腕を持つ。幼いころからフローラを慕っている。
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1 望まれしもの
エルヘブンはあえかなまぼろし……ノルズム大陸の東海岸から、渦潮《うずしお》さかまく氷の海をへだてて遥《はる》かに遠く、北アイララ大陸の中央。名も知れぬ湖《みずうみ》のほとり。
幾重《いくえ》にも連《つら》なった山岳《さんがく》のあわい、年間を通してめったに晴れることもなく霧《きり》のヴェールにおおいかくされた渓《たに》のみなもと。りんご樹《じゅ》の庭《にわ》と赤石を積み重ねた風変《ふうが》わりな建物《たてもの》を有した、ごく小さな村だ。
このエルヘブンこそが、その昔《むかし》、天空城《てんくうじょう》の竜《りゅう》の神から特別な役目を与《あた》えられた民《たみ》の住まう聖《せい》なる上地であった。かれこれ数百年にわたって、この世を邪悪《じゃあく》なものたちの侵攻《しんこう》から守りつづける砦《とりで》であった。
が、時は流れ、霧は巻き、風はひとところにとどまった。ひとつ畑に繰り返し播《ま》かれる種がいつか大地の底力《そこぢから》を吸《す》いつくして疲弊《ひへい》させるように、エルヘブンの民もまた、この時代には、その比類《ひるい》なき力を消耗《しょうもう》しかけていたのである。
そんな折。
氏族《しぞく》の大巫女《おおみこ》モーリアンの子、パリラと呼《よ》ばれる花のような娘《むすめ》が、ひとりの赤子《あかご》を身ごもった。胎児《たいじ》は日増しに育ったが、パリラはしだいに衰《おとろ》えた。冬枯《ふゆが》れの森で宿《やど》り木《ぎ》だけが青々と葉を茂《しげ》らせるごとく、赤子は母の生命《いのち》をすり減らして大きくなった。
生み落としたその日、パリラは死んだ。我《わ》が子《こ》マーサを祝福《しゅくふく》しながら。なぜなら、パリラは知っていたからである。ほかでもないその子が、エルヘブン数百年の歴史上《れきしじょう》の誰《だれ》よりも優《すぐ》れた巫女《みこ》となるさだめであることを。
とある初夏《しょか》。
谷間は、何百という種類の小さな花に埋《う》めつくされた。さわやかな風が、色とりどりの草花をうねらせ、露《つゆ》を宿《やど》した新緑《しんりょく》をきらきらとさんざめかせた。高く澄《す》みきった空のどこかで夏鳥《なつどり》は可愛《かわい》らしく鳴きかわし、遥《はる》か遠くで木を伐《き》る音が、コーン、コーンとこだました。
赤石の高楼《こうろう》の屋上《おくじょう》は、まばゆい日差しでいっぱいだった。だがところどころには消え残った水たまりがあって、真《ま》っ青《さお》な空と流れゆく雲《くも》を映《うつ》して輝《かがや》いていた。と、小さな足が水の中の空に踏《ふ》みこみ、ぴしゃり、と飛沫《しぶき》を跳《は》ねあげた。
「おにょえ、あじゃじゃでたな、怪物《かいぶつ》めぇっ!」
シリンは、小さな布《ぬの》ぐるみの人形を手にしていた。真《ま》っ赤《か》なマントをひるがえし、黒木綿《くろもめん》を裂《さ》いた髪《かみ》をなびかせ、くっきりと一文字《いちもんじ》の眉《まゆ》も凛々《りり》しい、戦士さまの人形だ。張りきって頬《ほお》を真っ赤にさせながら、シリンは人形の腕《うで》をあげ、小枝《こえだ》をけずった神秘《しんぴ》の剣《けん》を振《ふ》りかざした。
「ええいっ! やぁっ」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。壺《つぼ》の悪魔《あくま》は笑《わら》ったのよ。雲をつきぬけ、天まで届《とど》くほどのおーきなおーきな怪物だから、あいにくだけど、そう簡単《かんたん》には負けないのよ」
遊《あそ》んでやっているのも、まだ幼《おさな》い女の子だ。瞳《ひとみ》ははしばみ、つややかな髪はまるで若草のヴェールでもかぶっているかのように緑がかった黒。
マーサ。七|歳《さい》である。
「ふうん。ちゅおいのか。……ね、なんてゆうの、しょの怪物?」
「ええとね。ブオーンよ。昔ひとりの英雄《えいゆう》が、聖なる壺の中に封《ふう》じこめたの」
マーサは答えた。先週、世界史の時間に習ったばかりだ。
「でも、壺のききめがきれてしまった。それで、恐《おそ》ろしいブオーンがまたこの世に現れたの。さぁ、どうする、戦士さま?」
「ううう、やっつけう!」
シリンは去年《きょねん》の冬にようやく歩きだしたばかり。ふくふくした脚《あし》をちょこまかと動かして、たどたどしく怪物に迫《せま》る。怪物は笑いながらひらりひらりと逃《に》げまわる。
「あん。待ってぇ、マーサぁ」
「マーサじゃないったら。怪物ブオーンよ。ほらほら。こっちよ、戦士シリン! あんよは上手《じょうず》……あっ、気をつけて!」
怪物が、らしくもない注意をしたとたん、戦士は足を滑《すべ》らせた。からだの割《わり》に大きすぎる頭がグラリと揺《ゆ》れる。怪物がサッと駆《か》け寄《よ》って抱《だ》きとめたので、勢いよく転《ころ》ぶのは免《まぬが》れたが、お尻《しり》が水たまりに填《は》まってしまった。シリンは、たちまち火のついたように泣《な》きだす。
「よしよし、どこが痛《いた》いの? どこ?」
マーサは、壊《こわ》れた桶《おけ》のように次から次へと涙《なみだ》をあふれさせる幼《おさ》な児《ご》をしっかりと抱きかかえた。どうやら、足首をちょっとひねっただけのようだ。
「なんでもないわ。まぁ、まぁ、そんなに泣かないの、戦士シリン」
「おいんご、おいんごっ……っ……いんごうがぁっ……っ!」
「お人形?」
転んだときの勢いで、放り出され、どこかに飛んでいってしまったらしい。マーサはあたりを見回した。露台《ろだい》の上には見当たらない。
「下まで落ちちゃったみたいね。さぁ、泣かないで。拾いにいきましょう」
しゃくりあげる幼《おさ》な児《ご》の手を引いて、マーサは外に降りた。露《つゆ》の光る芝草《しばくさ》の地面に四、五人の男の子が集まって、にやにやしている。十歳前後の、つまり、マーサより少しばかり年上の連中だ。雨があがったこの日、ようやく羽《はね》が伸《の》ばせるようになるまでは、みな狭《せま》い石造《いしづく》りの住居ですっかり退屈《たいくつ》していたのだ。なまったからだを持てあまして、何するともなく集まり浮《う》かぬ顔を見合わせていたところに、突然《とつぜん》降ってきた獲物《えもの》。
彼らの笑いに温かみはなかった。不穏《ふおん》な予感に、マーサは無言《むごん》で足を止めた。
「おいんごっ! シリンの、おいんごっ!」
シリンは無邪気《むじゃき》に喜びの声をあげた。が、少年たちの中に兄のデミアンがいるのに気づくと、はっと青ざめてマーサの後ろに隠《かく》れる。
「シリン」
と、デミアンは言った。
「また女になんかひっついているのか。このネショーベンたれ」
「ない、ない、してない!」
シリンはマーサの手をぎゅっとつかんだ。
「シリン、オネショ、してないもん」
「嘘《うそ》つけ。じゃあ、なんだ、そのケツは? びしょ濡《ぬ》れじゃねーか。はははは、あ、そうか。ネショーベンじゃなくて、起きたままショーベンか」
「ショーベン、ショーベン、ショーベン・シリン!」
少年たちがはやしたてると、シリンは目にいっぱい涙をため、真っ赤になってうつむいた。
「おい。見ろよ、この人形。ナマイキに剣まで持ってるくせに、ぱんつはいてねぇでやんの」
「はーん。きっと、モラしちまって脱《ぬ》がしたんだろう。ショーベン人形だぁ!」
「ほら、裂《さ》ける裂ける。カエルそっくりだぜ」
「カエルだ、カエルだ、股裂《またさ》きだぁ」
「いけっ、イーブ、ショーベン人形なんか、ぶちっとやっちまえっ!」
「い……いやぁっ!」
シリンの悲鳴《ひめい》に、少年たちの残酷《ざんこく》な笑いが重《かさ》なった。
「かえして」
マーサは怒《いか》りのために唇《くちびる》を震《ふる》わせながらも、きっぱりと言った。
「それはシリンのお気にいりなのよ。三日もかかったんだから、壊《こわ》さないで」
「これ、おまえが作ったのか?」
「そうよ」
マーサがうなずくと、イーブと呼《よ》ばれた少年の頬に点のような赤みがさした。彼は人形を見た。それは藁《わら》を詰《つ》め、端切《はぎ》れをつないだ素朴《そぼく》な人形だった。むろん針目《はりめ》は不器用だが、いかにも愛情をこめて、ひと目ひと目作りあげたものであることがわかる。
「小さな子のものを取ったりしないで」
マーサはささやくように言った。
「イーブ、あなたはそんなひとじゃないはず……かえして。ね、お願い」
イーブは顔をしかめた。『そんなひとじゃないはず』。きらきら輝くマーサの目が、こころの底までのぞきこむ。逆《さか》らいがたい圧力《あつりょく》に、脚《あし》はふらふらひざまずきそうになるし、指は勝手に動きだし、人形を差し出してしまいそうになる。『お願い』。マーサの声が耳の奥《おく》をこだまする。
「……なにやってんだよ、貸せよ、イーブ!」
デミアンが薄《うす》ら笑いを浮かべながら、人形をひったくろうとした。イーブの手は、とっさに人形をかばった。デミアンが目を丸くする。
「おい」
怖《こわ》い声で言われて、イーブは我《われ》に返った。……ちきしょう。変な目で見やがって。女なんかにへこまされるもんか。
「こんなもの。こうしてやる!」
イーブは人形を振り上げる。人形はひどく重く、とても投げられそうにない。だが、なんとか泥地面《どろじめん》に叩《たた》きつけて、踏《ふ》みにじってやらなければならない。そうして、女なんかの言いなりになる俺《おれ》ではないことを証明《しょうめい》しなければならないのだ!
シリンが鋭《するど》い笛《ふえ》のような声をたてると同時に、マーサが突進《とっしん》した。頭ひとつ背の高いイーブの胸《むね》にむしゃぶりつき、その腕をつかむ。マーサの手が人形の足に触《ふ》れた。イーブはあわててからだをひねり、左右に揺すぶって、マーサを振りほどこうとした。マーサのからだが宙《ちゅう》に浮き、スカートがひるがえる。ほかの少年たちは喜んで大騒《おおさわ》ぎをした。デミアンは泣《な》ざわめく弟を羽交《はが》い締《じ》めにして、口をふさぎ、大声で笑う。ソーンはマーサの靴《くつ》をつかまえ、勢いあまって尻餅《しりもち》をつく。デュアルとトッドがマーサの髪をひっぱり、服をつかむ。マーサは呻《うめ》き、足をばたつかせた。
「かえして。それはシリンのものよ!」
ふと、マーサとイーブの目があった。大宇宙をまるごと飲《の》みこんだような、マーサの瞳。
(……かえしなさいっ!)
イーブは硬直《こうちょく》した。あたりの空気が一瞬《いっしゅん》にして真空になった。からだじゅうを目に見えぬ閃光《せんこう》が走った。
死体のように倒《たお》れるイーブに、少年たちが驚《おどろ》きの声をあげる。
マーサは泥跳《どろは》ねのかかった頬を袖《そで》でぐいと拭《ふ》きながら素早く立ち上がり、人形を奪《うば》って、飛びすさった。シリンが兄の手をすり抜《ぬ》けてきてマーサの腰《こし》にしがみつく。その手に、少々|汚《よご》れてしまった人形を渡《わた》してやりながら、マーサは横たわる少年を見下ろし、小声で言った。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、イーブ。だいじょうぶ?」
イーブは瞬《まばた》きをした。呻《うめ》き、肘《ひじ》をついてからだを支える。
「なんでもない……こんぐらい……」
「ほんとう? あの、あたし……」
「いいから行け。さっさと、行けったら!」
ぴょこりとうなずき、幼いシリンの手を引いて、振り返り振り返り急ぎ足に歩き去るマーサ。彼女が建物の陰《かげ》に入って見えなくなると、残りの少年たちはようやく大きく息をつき、イーブに近づいた。
「おい、だいじょうぶか? イーブ?」
「何をやったんだ、マーサのやつ? イーブもやりかえせばよかったのに」
「女相手にか?」
イーブは起きあがった。髪から泥が落ちる。まだ頭がくらくらしている。
「へん。なんだい。あんなボロ人形に、ムキになりやがって」
「そんなに大事なもんなら、落とさなきゃいいじゃねぇか、なあ?」
「くそっ、シリンのやつ、あとで覚えてやがれ」
少年たちは口々に言いつのったが、明るさを装《よそお》ったことばの奥に怯《おび》えがにじんだ。
イーブはむっつりと押《お》し黙《だま》っていた。厳《きび》しい顔つきで、建物とは反対のほうに歩きだす。
「おい。イーブ、イーブ? どこいくのさ?」
「かまうな」
イーブは振り向いた。赤銅色《しゃくどういろ》の髪が逆立《さかだ》ち、唇《くちびる》がうなる犬のようにめくれあがった。
「みんなあっちへ行けっ!」
少年たちは顔を見合わせ、しょぼくれながら、まだ何か言おうとした。が、イーブはみなに背を向けて、りんご樹《じゅ》の並《なら》んだほうへ、どんどん歩いていってしまう。少年たちはしかたなく、誘《さそ》いあって高楼《こうろう》に戻《もど》っていった。
ひとりになるとイーブは、りんごの幹《みき》に背中《せなか》をもたれて、ぐったりと空を仰《あお》いだ。
この胸に感じたマーサの体温。馨《かぐわ》しい吐息《といき》。間近に見つめた白い顔。そして、あの瞳。内気でちっぽけな年下の少女が、まるで世界に君臨《くんりん》する女王みたいに見えた。
あの瞬間、イーブはマーサに飲まれた。イーブはマーサの一部になった。それは……はがゆく口惜《くちお》しい体験でもあったが、同時に、ことばにできぬほどの歓《よろこ》びでもあった。はるかに偉大《いだい》で尊《とうと》いものに自分をゆだねる感触《かんしょく》……自我《じが》の檻《おり》も肉体のくびきもすべて失い、深宇宙にあまねく広がる何かとつながる安らぎ……遠く去った余韻《よいん》を思いだそうとするだけで、イーブの膝《ひざ》は震《ふる》えた。
いまはまだ、デミアンやほかの少年には理解《りかい》できないだろう。マーサほどではないとしても、かなり鋭敏《えいびん》で能力の高いイーブであるからこそ、逆《ぎゃく》に、彼女の秘《ひ》めた力を感じずにいられないのだった。が、その気になって鍛練《たんれん》を積めば、やがては、彼女は、魂《たましい》を持つもののすべてと融和《ゆうわ》し、意識《いしき》を持つもののすべてを共鳴《きょうめい》させずにおかぬだろう。そして、あらゆるものが彼女の前に額《ぬか》ずくだろう……。
「……マーサ……」
イーブはつぶやいた。
「おまえは強い。おまえはすごい。……ああ、ちくしょう! 俺は、負けたくない。おまえが妬《ねた》ましい。だが、俺は……俺は、またおまえになりたい!」
「喧嘩《けんか》をしたのじゃと?」
聖堂《せいどう》の天井《てんじょう》は高く、ドーム型で、神々や英雄の聖画《せいが》に埋めつくされている。窓《まど》は乏《とぽ》しく、灯《あかり》のともされていないいま、あたりはぼんやり暗かった。階段状《かいだんじょう》にしつらえられた合唱席《がっしょうせき》のいちばん下に陣取《じんど》って、マーサは真鍮《しんちゅう》の祭具《さいぐ》を磨《みが》いていた。
「年かさの少年たち五人を相手に、ひるむこともなく戦ったと? 勇敢《ゆうかん》なことだの」
「おばあさま」
彼女は立ち上がり、年老《としお》いた女の皺《しわ》だらけの手を取って、彼女の座《すわ》るのを助けた。
「ごめんなさい……あたし。カッとして……イーブを傷《きず》つけてしまった」
老女《ろうじょ》モーリアンは両腕《りょううで》を広げて、孫娘《まごむすめ》を招《まね》いた。マーサは祖母《そぼ》のどっしりとした僧服《そうふく》の胸に顔を埋《うず》め、しばらく肩《かた》を震わせていたが、やがて、静かに身を起こした。
「腹をたてる資格《しかく》なんてなかったんだわ。弱い者いじめなのは、あたしも同じ。あたしのほうがずるい。あたしのほうが悪い。だって、あたしはシリンのために怒ってるつもりだったんだから……でも、それは嘘《うそ》なの。ごまかしなの。あたしはただ、あたしの作ったものを壊されるのがいやだったんだわ」
「力というものは」
モーリアンは横長の椅子《いす》に腰を下ろし、隣《となり》にマーサを座らせた。
「つねに責任をともなうもの。より強いものは、より慎重《しんちょう》で寛容《かんよう》でなくてはならない」
「ええ、おばあさま」
「知っていることと理解することは違う。わかっていることと、そうできることも違う」
「ほんとに、そうね」
マーサは磨き布の端《はし》を指に巻きつけ、また解《ほど》いた。その瞳に、涙がいっぱいになった。
「あたし……こわい。いつか、とりかえしのつかないことをしてしまいそうな気がするの。あたしの中に、何かとてつもない魔女《まじょ》がいて、いつも出番を待ってるみたい。そいつがふくれあがって抑《おさ》えきれなくなると、あたしはあたしじゃなくなるの。あたしが大きくなればなるほど、そいつも、もっともっと強くなっていくの……」
老女はじっと孫娘を見つめ、せわしなく布をまさぐる手に、自分の手を重ねた。
「それでよい。それでよいのだ。あるがままのそなたに惑《まど》うことはない。焦《あせ》ることはない。充分《じゅうぶん》に成長すれば、魔女は……力はそなたに従《したが》う」
「でも、おばあさま。おばあさまだって、怒ってない? おかあさまのことよ。あたしのせいで、大事なひとり娘が死んでしまったんだもの。怒って当然だわ。きらいになって当然だわ!」
「マーサ、マーサ」
モーリアンは興奮《こうふん》しかかる孫娘の肩を抱《だ》いて、あやすように揺すぶった。
「パリラはそなたを愛した。自分が、そなたを為《な》すために生まれてきたものであると知っていた。あの子は、その小さき生命《いのち》を、この世にそなたを送りだす役目に捧《ささ》げることができるのを、光栄《こうえい》とすら言っておったよ。……すべてはさだめ、さだめは流れじゃ。百年動かぬ大岩も、ひと夜の雨に突如《とつじょ》転がりはじめるもの。我《われ》らはみな小さい。『望まれし者』であるそなたとて、真に大いなる力の万分の一をも持ってはおらぬ」
マーサは静かになって、語る祖母を一心《いっしん》にみあげた。
「我らはみな、世のさだめの飾《かざ》り織《おり》の糸の一本にすぎぬ。だから、おびえることはない、恐《おそ》れることはないのだ。ただ祈《いの》りなさい、その身が、やがて来るふさわしき時とところを、けして逃《のが》さぬようにと。我らをこの世にあらしめてくださった大いなる力の望まれるとおりになるようにと」
「……それで……いいの?」
マーサは問《と》うた。
「ほんとうに、それで、いいの?」
「よい」
老婆《ろうば》は微笑《ほほえ》んだ。
「だがそれは、何の努力もしなくてよい、ということではないぞ。力のかぎり努《つと》めても実らぬものは諦《あきら》めるがいい。それはそなたにふさわしくないもの、手にいれても無駄《むだ》にしてしまうだけのものなのだから。真実そなたが必要とするものは、いつの日かきっと恵《めぐ》まれる。愉《たの》しみに待つがよい。神は贈《おく》り物《もの》をする時を選《えら》ぶ。が、間違《まちが》った者に間違った品を与えることは、けしてない……」
静かにうなずく少女の頬に老婆はそっと指を触《ふ》れた。
薄暗《うすぐら》い聖堂の天井で、絵ものがたりの竜の瞳がきらりと光った。
そして五年の歳月が流れた……。
2 騎士の誕生
リィィィィィン……ィィィン……ィィィン……ィィィン……。
暗闇《くらやみ》の底《そこ》を、澄《す》んだ鐘《かね》の音《ね》が響《ひび》きわたった。
音は、収《おさ》まりかけてはまた高まり、長い長い尾《お》を引いて、ようやく消えた。静寂《せいじゃく》は、去《さ》ったばかりの音の名残《なごり》を耳にとどめて張りつめた。息《いき》をするのもはばかられるほどの沈黙《ちんもく》が重苦《おもぐる》しく固まりはじめるころ、
リィィィィン……。
またひとつ、別の鐘が鳴《な》った。余韻《よいん》が闇《やみ》に沈《しず》むまでたっぷりと間を取って、またひとつ。そしてまたひとつ……。それから、四つの鐘がただひとときに、ひときわ大きく打ちならされた。
闇の底に黄色い灯《ひ》がともる。灯はわずかに光と煙《けむり》の尾をたなびかせながら、しずしずと進んだ。灯が通りすぎると、そのまっすぐな道筋《みちすじ》の左右に、ひとつずつ順々に新《あら》たな灯がともされた。やがて二列の光の路《みち》が生《しょう》じ、低くうずくまったひとびとを照《て》らしだした。
はじめの灯を手に進んでゆくのは、痩《や》せぎすな裸《はだか》の肩《かに》をむきだしにしたひとりの少女――マーサだ。白い布《ぬの》を筒型《つつがた》に縫《ぬ》った簡素《かんそ》な服は、本来もっとからだの大きなもののためにあつらえられていた。闇底にわだかまったおぼろな光の中で、黒髪《くろかみ》は夜の湖面《こめん》のようにつやつやと輝《かがや》き、華奢《きゃしゃ》な腕《うで》や骨《ほね》のめだつ裸足《はだし》のくるぶしが、まるでおのずから光っているもののようにくっきりと抜《ぬ》きんでて見えた。
光の列が伸び、行《ゆ》く手《て》がひときわ高く壇《だん》になっているのが見えはじめた。マーサの華奢なからだが壇に昇《のぼ》ると、壇上《だんじょう》で待っていた大小七つの人影《ひとかげ》の手にした燭台《しょくだい》がいっせいに炎《ほのお》をあげはじめた。この七人は、四人の長老《ちょうろう》たちと三つの指輪《ゆびわ》の預《あず》かり手《て》である。天然《てんねん》の岩を刻《きざ》んだ壇の正面には何百年もの間、閉ざされたままの扉《とびら》があり、扉の前には、横長の木の棺架《かんか》があった。その上に清潔《せいけつ》な布服に包《つつ》まれた老女がひとり横たわっている。
マーサは足のほうから老女の向こう側にまわり、七人と老女の間に立ち止まり、うずくまったひとびとのほうに向き直った。燭台を、棺架に預ける。
リィィィィン。
ふたたび鳴った鐘に、架上《かじょう》の老女が瞳《ひとみ》をあげた。彼女はわずかに首をかしげてマーサを見つめ、かすかに微笑《ほほえ》んだ。
「……準備は、よいか」
老女の低い声が、隅々《すみずみ》までも響きわたった。うずくまった人々はますます息を殺して沈黙《ちんもく》した。
沈黙の重みに耐《た》えかねて、マーサは目を伏《ふ》せ、頭《こうべ》を垂《た》れた。
「では。渡すぞ」
老女は皺《しわ》だらけの両手で、しかじかの印《いん》を結び、ついで、おのが胸を開くような仕種《しぐさ》をした。すると金《きん》でも銀《ぎん》でもない不思議《ふしぎ》な色合いに輝《かがや》く珠《たま》のようなものが、老女の老《お》いさらばえたからだを離れ、宙《ちゅう》に浮《う》かび上がり、すぐそばでうなだれた娘の胸に吸《す》いこまれた。老女の両手がゆっくりと降り、祈《いの》りのかたちに組みあわされ、ふっ、と力を失った。
リィィィィン。
すべての灯《ひ》が消えた。
そしてまた、四つの鐘がいちどきに鳴り、それから、完全で深い沈黙が、長く長く続いた。
……おーおおお……おーお……おおお……。
やがて、低くかすかに、うなるような嗚咽《おえつ》が流れはじめ、数を増し、さらに増し、しだいしだいに大きくなって、しまいにはすすり泣きに、泣きじゃくる声に、喉《のど》を痛《いた》めつけるような叫《さけ》びになった。ひとびとはもうじっとしてはいなかった。身をよじり、両手で床《ゆか》を打ち、隣同士ひしと抱きあって涙《なみだ》をぬぐいあった。デミアンが、シリンが、身を振《ふ》りしぼって泣いた。ソーンとトッドは食《く》い縛《しば》った歯の間から呻《うめ》きを洩《も》らした。そして。
イーブはひとり、じっと動かずに座《すわ》っていた。固く握《にぎ》りしめた両手で膝《ひざ》を抱《かか》えて。その瞳は、闇の彼方《かなた》に、うごめく人々の肩の向こうに、まっすぐに向けられていた。この密《みつ》な暗がりの中に、ただひとりの少女を、おそらく、架台《かだい》の老女にすがって泣いているのだろう幼なじみの姿《すがた》を、なんとか見極《みきわ》めようとして。
リィィィィン。……リィィィン。
やがて、ひとつ、また、ひとつ……ひそやかに鐘は鳴りはじめ、灯がともった。うずくまっていた人々が進みでた。ぞろぞろと四人ずつの列になって壇に進み、召《め》されたものへの祈りを捧《ささ》げた。いまその大役《たいやく》を果《は》たし終え、現身《うつしみ》のくびきから解放《かいほう》された前《さき》の大巫女《おおみこ》、長《おさ》の中の長《おさ》、希代《きたい》の大賢者《だいけんじゃ》老女モーリアンに、永遠《とわ》の安息《あんそく》を願《ねが》う祈りを……。
葬礼《そうれい》をすませたものたちの列は、のろのろと出口に向かった。ほこらの南側は唐突《とうとつ》に途切《とぎ》れ、ゆったりとたゆたう水に浸《ひた》っており、はるかなおもてから届《とど》く薄明《うすあ》かりに、ところどころ小波《さざなみ》だってきらめいていた。人々がいくつかもやってある細長い舟《ふね》に順に乗りこむと、衛兵《えいへい》のこしらえをした若者《わかもの》が、長い一本櫂《いっぽんかい》を漕《こ》いで舟を進めた。
最初の舟に、マーサとイーブが乗りあわせていた。実は、イーブは死んだもののために祈りはしなかった。マーサが戻《もど》るのを確かめて、素早く追ったのだ。
舟が外に近づくと、さわやかな風が吹いてきた。まだ朝だった。舟は進み、唐突に、彼らはあふれる光の中に飛びだしていた。霧《きり》にまぶされた太陽の光はそれほど強くはなかったが、長く暗闇にあった目には、あたりはひどくまばゆかった。
切り立った岩崖《いわがけ》にはさまれた深い谷間の湖《みずうみ》を、舟は霧を縫《ぬ》って進んだ。
「立派《りっぱ》な葬式《そうしき》だったな」
突然《とつぜん》、イーブが口を開いた。まぶしい目をかばうために腕をあげているので、簡素《かんそ》な衣服の胸にさげた祭礼用《さいれいよう》の宝飾品《ほうしょくひん》が、ひどく賑《にぎ》やかに輝いている。その声もまた、場違いに快活《かいかつ》だった。
「葬式なんてはじめてだから、どきどきしちまったよ」
「あたしも」
マーサはうなずいた。こちらは、あたりのおとなたちが、まだ静かな悲《かな》しみに浸《ひた》っているのを知っていたので、ごく小さな、誰《だれ》をも脅《おびや》かさぬような声だった。
「どうだ? いよいよ『望まれし者』になって」
「どうって」
「すげぇじゃねぇか。たった十二|歳《さい》で大巫女を引き継《つ》ぐなんて」
イーブの口調《くちょう》は、普通《ふつう》よりもいっそうはしゃいだ様子《ようす》だった。強《し》いられていた沈黙にたまった思いのたけをぶちまけてでもいるかのように。
「水の指輪のオルトだってずいぶん若《わか》すぎるって言われてたけど、アレを引き受けたときにや、もう十九だったろ。次に誰かに渡されるのは、生命《いのち》の指輪だな。バセルの爺《じい》さまは年だし。モーリアンさまの介抱《かいほう》で、さんざん力を使っちまったはずだ。あとを追うように、とっととくたばって、またすぐもう一度葬式が出ることになっても不思議《ふしぎ》はねぇやな」
同舟《どうしゅう》のおとなたちの何人かが、ちらちらと非難《ひなん》がましくこちらをうかがっている。マーサは小さく身をすくめ、イーブを見た。おねがい、もうやめて。目で、そう訴《うった》えたつもりだった。だが、イーブはいっこうに気にしていない顔で、なおも言い続ける。
「おまえ、どっちだと思う? 次に指輪を預かるのって。力からいって、エリーサか俺《おれ》か、たぶん、どっちかじゃねぇ? だが、エリーサはもう婆《ばば》ぁだ。前の冬にも関節《かんせつ》が痛いって寝《ね》てばっかりだった。おい、マーサ。なぁ、もし誰かに相談《そうだん》されたら俺を推《すい》…」
「……おねがい……やめて!」
マーサは激《はげ》しく首を振り、抱《かか》えた膝に顔を伏《ふ》せた。まつげの先に、涙《なみだ》が光った。それで、イーブもようやく黙《だま》った。物言いたげなおとなたちをにらみつけ、ふてくされた恰好《かっこう》で舟縁《ふなべり》にもたれる。
舟は、霧の中を、ゆっくりと進みつづけた。やがてぼんやりと向こう岸が見えはじめた。
マーサは指先で濡《ぬ》れた頬《ほお》をぬぐうと、きっ[#「きっ」に傍点]と前方を見つめたまま、唇《くちびる》を結んで、待った。舟がついた。小さな木の桟橋《さんばし》に横付けになるかならぬかのうちに、マーサは素早く立ち上がり、ぐらぐらする舳先《へさき》から、桟橋に飛んだ。そのまま、急ぎ足で歩み去る。
イーブは不機嫌《ふきげん》そうにむっつりしたまま、それを見つめた。
衛兵が手をかして、乗客たちをひとりずつ桟橋に渡した。イーブはじっと何かを考えこんでいたが、やはり唐突《とうとつ》にたちあがると、ひとりで舟を降りた。遠ざかる少女の背中に向けて、何か叫《さけ》ぼうとして、やめる。すべての客をおろした舟は、また、霧の中を漕《こ》ぎ戻っていった。
マーサはひとりでどんどん歩いた。
湖を囲む森を抜《ぬ》け、りんご樹《じゅ》のならんだ畑の間を通りすぎた。
どこも無人で、しんと静まりかえっている。磨《みが》きこまれた石の廊下《ろうか》をいくつか渡《わた》り、斜面《しゃめん》を駆《か》けのぼり駆けおり、中央に白薔薇《しろばら》の茂《しげ》みを持つ、芝草《しばくさ》の萌《も》えた秘庭《ひてい》に出る。そこには、伏《ふ》せた椀《わん》のかたちをした小さな家が、みどりと薔薇を囲むようにならんで建てられている。
マーサはその中のひとつにまっすぐに突き進み、木珠《きだま》の帳《とばり》をくぐりぬけた。もうひとつ扉を通りすぎると、奥が寝室《しんしつ》だった。床はむきだしの石、鉄枠《てつわく》の寝台《しんだい》と、堅《かた》い木製《もくせい》の椅子《いす》が一つ、椅子の座面《ざめん》と背には裂《さ》き布《ぬの》を編んだ当てものがかけられてあった。
マーサは、切《き》り窓《まど》の下の寝台に身を投げだした。素早く靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ捨《す》て、脱脂《だっし》していない羊《ひつじ》の毛を紡《つむ》いだ毛布の間に滑《すべ》りこみ、すっぽりと身をかくすと、彼女は、わっと泣き出した。
亡《な》くなった老女のかさかさと紙のような手の感触《かんしょく》、皺深《しわぶか》い頬《ほお》に頬をすり寄せたときの匂《にお》い、そのしゃがれた声、ひとを射すくめることもできるが、たとえようもなく安らがせることもできるまなざし。さまざまなものを思いだして、マーサは泣いた。そのひとがもういないこと、もう帰ってこないこと、二度と話ができないこと、何も教われないこと、ただ思いだすことでしか彼女に逢《あ》えないことを考えて、泣いた。彼女から受け渡されたものの重さに泣いた。悲しくて、せつなくて、恐ろしくて、どうしようもないほど孤独《こどく》で、泣けて泣けてしょうがなかった。肩を震わせ、胸を波打たせ、毛布を握《にぎ》りしめ、喉《のど》が痛くなるほど声を出し、涙もあふれるにまかせて、泣いて泣いて……思いきり泣くと、気が静まった。まだ少ししゃくりあげながら、マーサは暑苦《あつくる》しい毛布をめくり、からだを起こし、寝台の上に、きちんと座りなおした。
と。
「だいじょうぶ?」
すぐ近くで、ひそめた声がした。
マーサはパッと動いた。真っ赤に泣きはらした瞳《ひとみ》をあげ、窓枠《まどわく》の隅《すみ》にぽつんと乗った水色のものを見つけた。半透明《はんとうめい》の球根《きゅうこん》のようなかたちで、彼女の顔の半分ぐらいしか大きさのないその生き物は、大きな目玉を心配そうにぱちぱちさせながら、マーサを見つめている。
ばつの悪そうな顔で、マーサは微笑《ほほえ》んだ。
「来てくれたの、ピエール」
「うん。ねぇどうしたの? 夜明け前から、村のひとたち、みんなして出かけてたでしょ」
「お葬式だったのよ。おばあさまの」
「えっ。モーリアンさま、とうとう亡《な》くなったの」
「ええ。おばあさまご自身が、もう疲《つか》れたって……そろそろやすみたいとおっしゃって……ご立派なたびだちだったわ」
「そうかぁ。……人間って、寿命《じゅみょう》短いからなぁ。……あっ、いやだよ、マーサ! マーサは死んじゃいけないよっ! そんなに泣いたら、水気《みずけ》がなくなって死んじゃうじゃないか。うわぁん、頼《たの》むよ、もう泣かないでよ、ねっねっ!」
水色のものは、ぴょんと飛びだし、マーサの腕の中に着地しようとした。が、受け止めようと差し出した手は、がくりと落ちて、毛布に埋まってしまった。マーサははじめあっけにとられていたが、やがて、クスクス笑い声をあげた。
「まぁ、ピエール、あなたったら、重たくなったのねぇ。だいじょうぶ。あたしはまだまだ死なないから、そんなに心配しないで。……あら、こんなとこにおデキがある。痒《かゆ》くない? つぶしてあげましょうか」
[#挿絵(img/DQ5_2_032.jpg)入る]
女の子は、生き物の頭のてっぺんの、ほのかに赤いポッチをつっついた。
「ひどいや、ひどいや! おデキじゃないやい」
「あら、ごめんなさい。角《つの》なの?」
「うううん。ナイト」
「ないと?」
マーサはまつげをしばたたいた。
「うん。騎士《きし》の芽《め》が生《は》えてきたんだ。ぼくね、スライムナイトになるみたい」
水色の生き物は、得意気《とくいげ》に目を輝かせて、もじもじとからだを揺すった。
「ずっと前から、なりたいって思ったんだ。そしたら、今朝《けさ》ね、これができてたの。だから、急いでマーサに教えに来たんだよ」
「あらまあ。光栄ですこと。嬉《うれ》しいわ。おめでとう、って言わせて。でも、スライムナイトって、いったいなんなの?」
「うん。あのね。ぼくたちスライム一族ってね、人間とか、普通の生き物より、ずっと進化のスピードが速いんだって。その時々の必要に応《おう》じて、どんどんいろんな種族《しゅぞく》に分化していくらしいの。そうして、ぼくたちの進化にはね、偶然《ぐうぜん》や、環境《かんきょう》や、親のスライムがどういうタイプだったかももちろん関係あるんだけど、魂《たましい》が純粋《じゅんすい》な子供《こども》のうちに、将来《しょうらい》こういうスライムになりたいなぁって、強く強く思うのが一番|効《き》くんだって」
「まぁ。すごいのね。あなたたちって、なんて不思議で素敵《すてき》な生き物なんでしょう」
「でしょ」
おデキのような芽の出たばかりの未来のスライムナイトは、いかにも嬉しそうにでれでれと溶《と》けかかり、あわててまた、ピンと頭をたてた。
「だから、ぼくは、一番なりたいスライムになることにしたの。芽をだして、騎士を生やせば、その騎士が立派にそだって、やがて鎧《よろい》とか着ることができるようになるんだよ。剣《けん》や盾《たて》も持てるんだ。ぼく、将来、きっと立派な強いスライムナイトになって、マーサを守ってみせるんだっ!」
「……あたしを……?」
マーサは、急にずきりと痛みでもしたかのように胸を押さえた。
「そうだよっ! だってさ。マーサって無茶《むちゃ》なんだもの。お化けキノコでもミニデーモンでも爆弾《ばくだん》ベビーでも、みーんな友達《ともだち》にしちゃうでしょ。いつだったか、巣《す》からおっこったメイジキメラの赤ちゃんまで、苦労して育てて森に帰してやったじゃないか。優《やさ》しい気持ちはわかるけどさ、あいつら、危《あぶ》ないよ。ずうずうしいよ。おっかないんだよ! ちゃんと恩《おん》に着るどころか、油断《ゆだん》すると、裏切《うらぎ》られちゃうかもしんないし。マーサのとこ来れば可愛《かわい》がってもらえる、美味《おい》しいもんもらえるって、じゃんじゃんどんどん押しかけてきちゃったら迷惑《めいわく》でしょ。それに……あいつ。あの、憎《にく》たらしい奴《やつ》。いつも、マーサをいじめる奴がいるだろ」
「……イーブのこと?」
「ああ、そうさ、そいつさ! ぼく、知ってるよ。あいつ、生意気《なまいき》な口きくだけあって、けっこう勉強はデキるだろ。乱暴《らんぼう》な呪文《じゅもん》ばっかり得意でさ。ほかの子供と比べたら、あいつとマーサはダンチに強いもん。だから、あいつ、マーサのこと、すげぇ意識してんだ。だから、いまに、きっと、マーサにひどいことを」
「ああ、ピエール、ピエール」
マーサは両手を伸ばして、ピエールを、ぎゅっと抱きしめた。
「そんなことありっこないわ! 心配しないで」
「でもっ」
「じゃ、教えてあげる」
マーサは小さな小さな声でささやいた。
「彼はね、あたしのこと、好きなの。おとなになったら、あたしのこと、お嫁《よめ》さんにしたいみたい。だから、ほんとうにひどいことなんか、絶対にするわけがないのよ」
ピエールは真っ赤になり、でも、でも、と口ごもった。
「じゃあ、マーサはどうなの、あいつのこと、好きなの」
マーサはにっこりして、小さく首をふった。
「よかったあ! そうだよ。あんな奴だめだよ。だって、意地悪だもん。こーんな陰険《いんけん》な目しちゃってるし。誰《だれ》もみてないとこだと、小さい子にいばりちらしてさ。ゆうこときかないと、いじめたりするんだよ。あんなやつ、マーサになんか、似《に》あわないよ」
ピエールはおおげさにほっとして、それから、ふと、口をすぼめた。
「じゃあ……ねぇ、マーサは、誰を好きなの?」
「あたし? あたしはね」
マーサはちょっと困《こま》ったように視線《しせん》をさまよわせていたが、やがて、おとなびた顔つきになり、夢見《ゆめみ》るような瞳《ひとみ》をして、窓の枠《わく》に手をかけた。窓の外に広がる森と、その彼方《かなた》の青い空を、じっと見上げる。
「ずっと前から待ってるの。そのひとが来るのを。誰かは知らない。なまえも知らない。でも、逢《あ》えたら、きっと、ひと目でわかる」
「……ふ、ふうん……」
ピエールはそっぽを向いた。そういう話を聞かされる予定ではなかった。もちろん、ピエールがいちばん好きよ、と、言ってもらえるはずだった。そうしたら、ピエールは騎士ってものがどういうものなのか、自分がそれをどう育てるつもりか、面白《おもしろ》おかしくしゃべるのだ。そうして、まあ早くそうなるといいわねと、マーサに言ってほしかったのだった。
だが、マーサは彫像《ちょうぞう》のようにじっと黙《だま》って動かない。ピエールは邪魔《じゃま》をしないように少しずつ位置をずらして見あげてみた。窓に手をかけ、みずからの腕に片頬をもたせかけて、もの思わしげに遠くを見つめるマーサを。
まだ幼《おさな》さの残った白い顔だちを、柔《やわ》らかな日差しと建物の影《かげ》が、くっきりと端正《たんせい》に際立《きわだ》たせている。甘《あま》く長いまつげ、すべらかな頬、小づくりな鼻、うっとりと微笑《ほほえ》んだ唇《くちびる》。そして、遥《はる》かなどこかを見つめる聡明《そうめい》な瞳。陽《ひ》に透《す》けた部分が特別な炎《ほのお》のエメラルド色に燃えあがる漆黒《しっこく》の髪《かみ》に縁《ふち》どられて、少女はひと知れず野に咲《さ》く春の花のように汚《けが》れなく愛くるしく、いかにも『望まれし者』らしい、落ち着いた気品と神々《こうごう》しさにあふれていた。
ああ、なんてきれいなんだろう。マーサは、なんて素敵に純粋で透明《とうめい》なんだろう。
ピエールの胸はたちまちいっぱいに張りつめた。その単純《たんじゅん》で、裏表《うらおもて》のない、まさに透明なスライム一族特有のこころは、嬉《うれ》しくても悲しくても愛《いとお》しくても悔《くや》しくても、すぐに満杯《まんぱい》になり、あふれそうになってしまうのだ。
いいさ。あなたが誰を思っていても。
ぼくはきっと、必ず、強くて立派なスライムナイトになって、マーサ、あなたを、守ってみせる……!
ピエールの願いは叶《かな》わなかった。それどころか、彼はマーサに別れを言うことさえできなかったのだ。
徐々《じょじょ》に膨《ふく》らんだ騎士の芽は、やがて、真っ赤に腫《は》れ、重苦しく熱を持ち、ずくんずくんと脈打《みゃくう》って、哀《あわ》れなピエールを間断《かんだん》なく苦《くる》しめはじめた。騎士の芽はそもそもスライムのからだとは異質《いしつ》な生命体《せいめいたい》なのである。それは、スライムのからだに寄生《きせい》し、スライムの生命《いのち》を削《けず》って成長する生き物だったのだ。騎士の芽の性質とスライム本来の性質が混じりあうときに起こる劇的《げきてき》な変化は、いつ治《なお》るとも知れぬ病《やまい》との戦いに似《に》たものになった。
頭にはすさまじい重さがのしかかり、けだるい倦怠《けんたい》を伴《ともな》ってからだじゅうが痛んだ。食欲《しょくよく》もなく、動作は緩慢《かんまん》になり、意識はいつもぼんやりと濁《にご》って、ひどく眠《ねむ》くてしかたがなくなった。元来《がんらい》じょうぶで明るい性格《せいかく》のピエールも、これにはすっかり参ってしまった。やめておけばよかったと、こんなはずじゃなかったと、後悔《こうかい》せずにはいられなかった。そんなとき、彼は、マーサのことを考えた。いつか、立派な騎士を生《は》やして、マーサに逢いに行く、そのときのことを。
だが、それはまだずっと先のことであるはずだった。とりあえず、この短くないだろう忍従《にんじゅう》の区間を無事《ぶじ》に乗りきらなくては、最高の騎士を育てるどころか、ピエール自身の生命《いのち》も危《あや》うい。
単調で永続的な苦しみを、変身|途中《とちゅう》のぶかっこうな有様《ありさま》を、ピエールはマーサにはもちろん、同族《どうぞく》や近所の魔物《まもの》の誰にも見せたくなかった。だから、後《のち》に手となり足となるその枝葉《えだは》がちいさなコブのようなものとなって分かれはじめるころには、苦労《くろう》して見つけだした隠《かく》れ家《が》にひとりそっとひそんだ。
山奥の、誰も知らぬ小さな洞穴《どうけつ》に入って、泥《どろ》と石と草で入り口を固めた。騎士の芽には太陽光線が害《がい》だったらしい。ほとんど光のささぬ洞窟《どうくつ》の中で、じっとしていると、苦しみも少しは紛《まぎ》れた。他人《たにん》の目を気にせずにすむので、成長中の騎士がもがいて頭がうずくときには、大声で文句《もんく》を叫《さけ》び、泣きわめくことができたし、疲れて眠くなったなら、いつでもぐっすり眠ることができた。
こうしてピエールは騎士の芽と戦いつづけた。ほんの時おり、草をかじり、地面にたまった水をすすりながら、長い長い時間、ほとんどをただうつらうつらして、じっと、時が至《いた》るのを待ちつづけた……。
季節《きせつ》は移《うつ》り、新しい年が来て、また去った。目覚《めざ》めている時間が少なかったので、ピエールには、いったいどれほどの年月が流れたのか、うかがい知るよすがは何ひとつなかった。
長い、長い、時が流れた。
ある日、ピエールは、ぼんやり目をさまし、奇妙《きみょう》なほどからだが楽になっていることに気づいた。少しも重くなく、痛くもない。頭もすっきり冴《さ》えている。ひょっとしたら、眠っている間に騎士が死んで抜け落ちてしまったのではないか。ピエールはゾッとして、あたりを探《さぐ》ってみようとした。
手が動いた。
ピエールはびくりとして動きを止め、それから、もういちど、そろそろと同じ動作を繰《く》り返してみた。……手が動いた。
ぱぁっと明るい気分が胸いっぱいに広がった。それは確かに手だった。かつて、ただ一度も持ったことのないものではあったが、いまや、自分の思うとおりに動く。ピエールとつながった騎士のからだの持っている、手というもの。ピエールは夢中《むちゅう》でそこを動かしてみた。指を折った。手首を回した。握《にぎ》りしめ、それから開いた。そして、片一方の手で、もう片一方の手をさわってみた。それは、ぷよぷよと柔《やわ》らかく、あたたかかった。なめらかで、いかにも傷つきやすそうな手触《てざわ》りがした。
ピエールは新鮮《しんせん》な空気が吸《す》いたくなった。そう思うと、やもたてもたまらない。はじめそっと、それから夢中《むちゅう》で泥《どろ》と石と草をよけはじめ……それは手のないときに比べると、なんと楽なしごとだっただろう……まぶしい外の光の中に飛びだした。ピエール自身のまぶたも、騎士のまぶたも、あわててギュッと閉じられ、それから、そろそろと開かれた。
視界《しかい》もまた奇妙きてれつだった。ピエールは、信じられないほど高いところから世の中を見つめていた。樹木《じゅもく》も、石も、空も山も、みんなこれまでと違って、ひどくくっきりと、凹凸《おうとつ》激《はげ》しく立体的に見えた。スライムのからだの遥かに上のほうに、騎士の目はあったからである。
叢《くさむら》をかきわけて進むと、小川があった。ピエールはごくごくと水を飲み、渇《かわ》きが癒《い》えてようやく落ち着くや川面《かわも》をひたと覗《のぞ》きこんだ。
小波《さざなみ》だつ水面の上から、四つの瞳が、瞬《まばた》きもせずに、ピエールを見つめかえしていた。日陰《ひかげ》に育つ植物のようにほのかに緑がかった生《なま》っ白い色に変わってしまった半透明なスライム本来のからだの上で、生まれたての肉塊《にっかい》が前かがみになって息をひそめている。それは、手と足と、ただ一対《いっつい》の瞳だけを持ったひとがたの瘤《こぶ》のようなものだった。ふっくらと丸みを帯《お》びて柔らかそうで、無防備で、ひどくむきだしの気がした。
……やった……やったぞ! ぼくはちゃんと、騎士を生《う》んだんだ!
ふつふつと滾《たぎ》るような誇《ほこ》らしさの中に、ピエールは、戸惑《とまど》いと羞恥《しゅうち》を覚えた。なにか、とりかえしのつかないことをしてしまったような、正しいスライムの道にはずれることをしてしまったような……人目にさらしてはいけないものを持ってしまったような気がしたのだった。
風が吹き、川面が乱《みだ》れた。ピエールはくしゃみをした。いや、違う。頭の上の生まれたての騎士どのがくしゃみをしたのだった。ピエールは慌《あわ》てて、川原《かわら》を去《さ》った。この見るからに傷つきやすそうな赤子《あかご》騎士《きし》に、なにか、柔らかくて温かな布でもあてがってやらなければならないだろう。とはいえ、スライム一族に縫い物が得意なわけはない。
彼が真っ先に考えたのは、むろん、マーサのことだった。
彼だけの知っている裏手《うらて》の道から、ピエールは塀《へい》の内にもぐりこみ、マーサの住む小屋の窓に近づいた。そこはぴったりと閉ざされ、鍵《かき》がかかっていた。かつて、ただの一度も、閉まっていたことなどなかったのに。
ピエールはそっと小屋を回りこみ、芝草の内庭を覗き、どきりと止まった。
あの見慣《みな》れた美しい白薔薇の茂みはそこになかった。かわりに、赤い瓦《かわら》を方形に積んだ井戸らしいものが出現していた。滑車《かっしゃ》に回した綱《つな》はすり切れかけてあちこち繊維《せんい》が飛びだしており、坑《あな》の周囲《しゅうい》の土の上や、瓦に載《の》せた木桶《きおけ》にはびっしりと苔《こけ》が生えていた。新しいものではなかった。
寝《ね》ぼけの夢の中でけつまずいたような冷たい衝撃《しょうげき》を、ピエールは覚えた。
あれからもう何年もたったんだ。
ぼくは、そんなに長いこと、眠っていたんだ。
軋《きし》む胸に、息を吸いこみ、ピエールはあたりの様子をうかがってみた。
風は北西からで肌寒《はだざむ》く、太陽の具合《ぐあい》からすると昼過ぎであることはわかった。だが、今が、いったいどのくらい後《のち》で、どんな季節なのか、皆目《かいもく》見当もつかない。
マーサの家の戸口を見る。
あのカラカラと涼《すず》しい音をたてる木珠《きだま》の帳《とばり》はそこになかった。そこには、見るからに頑丈《がんじょう》そうな木の扉がぶっちがいにかった材木で打ちつけてあった。留守《るす》の用意にほかならない。ひとの気配はない。誰かの住んでいる気配はない。
ピエールの胸は、いまや、きっぱりとかたちになった不安に張り裂けそうになった。マーサはどこに行ったんだろう。もう、ずっと大きくなってしまったのだろうか。ひょっとしたら、もうこの村にはいないのか……あるいは、何か恐ろしい天変地異《てんべんちい》でもあって、自分の知っているひとたちは、みんな死んでしまったのでは……。
「なんか、さがしてるの?」
傍《かたわ》らの地面から声がした。ピエールがハッと振り返ると、建物の影《かげ》の中に、紫《むらさき》がかったピンク色の棘《とげ》だらけの鞠《まり》のようなものがうずくまっている。ひときわ長く伸びた二本の角《つの》をちょこちょこさせながら、あどけない様子で、こちらを見上げているのだ。爆弾《ばくだん》ベビーだ。
知っているものを目にして、ピエールは思わず微笑《ほほえ》んだ。向こうも、気安く近づいてくる。
「きみ、たしか、まあさちゃんのおともだちだよね」
「おまえ、マーサを知ってるのか?」
「うん。ずっとずっとまえにだけど」
爆弾ベビーは角をくねくねさせた。
「ぼくが、あんくるほーんにふまれて、ここんとこおっぺしょっちゃったとき、なおしてくれたの。まあさちゃんは。もう、ずっとずっとずっとずっとまえに」
爆弾ベビーは、どうやら、ずいぶん長いこと生きていて、そのくせずっと赤《あか》ん坊《ぼう》であるらしい。
「でも、まあさちゃんはもういないの。ここらにはもう、だあれもいないの」
「いない? どうして?」
「みんな、でてっちゃったんだよ」
爆弾ベビーは小さな丸い目をぱっちりと開いて、ピエールの頭上の肉塊を、じろじろ見た。
「ねぇ、それ、なあに?」
「おデキだよっ!」
ピエールは泣きたい気持ちを抑《おさ》えながら急《せ》ぎこんで尋《たず》ねた。
「な、どうして。どうしてみんなでてったんだ? どこにいったのさ? マーサは? マーサはどうなったんだ? 教えてくれよっ!」
「ぼく、わかんないよお」
「よく考えて。知ってることだけでいいからっ」
爆弾ベビーの頭は、まっすぐ筋道《すじみち》をたててものを考えるようにはできていないらしかった。何度も聞き返し、細かいところを補《おぎな》って、ようやくわかったのは、誰かよそから戦士らしい人間の男が来て、マーサを連れて去ったらしいということ。
「みんな、すごくおこって、おいかけたの。それで、ひとが、いっぱいいっぱいいなくなったの。それから、なんか、けんかになったの。それで、いっぱい、かえってこなくなったの。もう、ずっとずっとずっとずっとまえのことだよ」
その後ピエールはろくに飲み食いもせず、身じまいもしないまま、あてもなくさまよって死にかけているところを、通りすがりのソルジャーブルに拾われて、助けられた。年老いたソルジャーブルは、若いころ自分の使っていた武器《ぶき》や防具《ぼうぐ》をピエールにくれ、戦い方も教えてくれた。騎士を生《は》やすことに成功《せいこう》したほどのスライムともあろうものが、なぜか意気消沈《いきしょうちん》して死にかけているのを、見るに見かねたのでもあり、そろそろ先の見えてきた自分の跡継《あとつ》ぎが欲《ほ》しかったからでもあった。
ソルジャーブルは、老衰《ろうすい》のためになかば引退《いんたい》してはいたが、かつて、そのあたりの魔物たちを束《たば》ねる頭領《とうりょう》のようなものだった。その威信《いしん》はなおおろそかにできるものではなかった。彼は今も、種々《しゅじゅ》の魔物たちの間に争《あらそ》いが起こったときにはまとめ役を果《は》たし、天災《てんさい》のときは力をあわせて被害《ひがい》を防《ふせ》ぎ、万一よそから攻《せ》めてくる不埒《ふらち》なものがあれば、先頭に立ってこれを防ぐ覚悟《かくご》であった。
魔王の使いが人間相手の優秀《ゆうしゅう》な戦士を求めてこの地を訪《おとず》れたとき、周囲の魔物たちを率《ひき》いて立ち上がるを了承《りょうしょう》したのは、すでに成長したピエールだった。戦いの場にでかけられるようなからだでなくなっていた元頭領のソルジャーブルは、おのれにかわって男気《おとこぎ》を発揮《はっき》してくれようとする養《やしな》い子《ご》の勇姿《ゆうし》に涙《なみだ》を流して喜んだ。
ピエールは魔界への忠誠心《ちゅうせいしん》のために立ったのではない。親切なソルジャーブルがそう考えたように、彼の名代《みょうだい》として、立派な傭兵《ようへい》となることを欲《ほっ》したのでもなければ、ほかの多くの魔物がそうであったように、人間どもがたびたび隠《かく》しもっている財宝《ざいほう》の類《たぐい》に目がくらんだのでもない。正直、誰かの手先になるのは嫌《いや》だった。兵隊《へいたい》として使われるのは嫌だった。
ピエールは、じっとしていられなかっただけなのだ。何かを憎《にく》む必要があった。鬱屈《うっくつ》した気持ちを、どこかにぶつける必要があった。たとえば、人間。人間どもを相手に戦い続けていれば、いつか、マーサをどこかに連れさってしまったそのよそものの戦士とかいう奴にも出会えるかもしれない。もし会えたら。
斬《き》る……!
その願いのためにこそ、ピエールは、出会い頭《がしら》の敵《てき》を数々|屠《ほふ》り、誇りにしたくもない勝利を幾百度《いくひゃくたび》もかさねたのだった。いつしか、時は流れ、歴戦《れきせん》のつわものピエールの名は魔界に広く知られるところとなった。武勲《ぶくん》誉《ほま》れ高くとどろき、ピエールを慕《した》ってその采配《さいはい》の下《もと》に集《つど》いきたる魔物たちも、幾百を数えた。養《やしな》い親とははぐれてしまったが、その忘《わす》るるべからぬ恩に報《むく》いる必要はすでに充分《じゅうぶん》に果たしていた。
彼を動かし続けているのは、ただひとつの凶暴《きょうぼう》な感情だけだった。悲嘆《ひたん》ではなく、忿怒《ふんぬ》。喪《うしな》うことへの怒《いか》り、葬《ほうむ》りさることへの抵抗《ていこう》。彼はマーサが死んでいるとは思わなかった。もしも、死んでしまったのなら、こんなにマーサのことを思い続けている自分にそれがわからないわけはない! それは理屈《りくつ》ではなく、信念だった。
愛するものを取り戻すために。
諦《あきら》めることによって、永遠《えいえん》に失ってしまうことを避《さ》けるために。
ピエールが戦い続けずにいられぬことを、誰ひとり、知りはしなかった。
3 出会い
我《われ》らが単純《たんじゅん》に『内海』と呼《よ》ぶ多島の海域《かいいき》を、かつて世界一の美女と謳《うた》われた薄幸《はっこう》の女《おんな》部族長《ぶぞくちょう》にちなんで『ケリーの指輪《ゆびわ》』と呼んだ民《たみ》はいまはもうない。
が、そのケリーの青銀《せいぎん》の指輪を飾《かざ》る大粒《おおつぶ》の真珠《しんじゅ》とたたえられたゼンタの大島には、いまもなお『真珠姫《しんじゅひめ》』『真珠|小路《こうじ》』『真珠屋』あるいは『世界の中心の真珠』などの名称《めいしょう》が、食堂、劇場《げきじょう》、託酒飲店《たくしゅいんてん》などの老舗《しにせ》の看板《かんばん》として、多く遺《のこ》されてあるのを見ることができる。
中心とは、どの王にも属《ぞく》さず、どんな戦《いくさ》にもまきこまれぬことを示していた。島は、確かに、いまもなお、世界のほかのどの部分からも、ほぼ等しい距離《きょり》を保《たも》つようにして栄えつづけていた。
島の北部は海洋性《かいようせい》の温暖《おんだん》な気候《きこう》にめぐまれ、土地も平坦《へいたん》にして地味《ちみ》豊《ゆた》か、ながらく海上交通の要所にあたった。その昔《むかし》のケリーの砦跡《とりであと》を改造《かいぞう》して、名高い歓楽《かんらく》の都《みやこ》オラクルベリーを擁《よう》してよりは、まさに世界じゅうにその名を知られることとなった。ここはカジノの街《まち》、虚飾《きょしょく》の街、一攫千金《いっかくせんきん》を夢見《ゆめみ》るものたちの黄金郷《おうごんきょう》、まさに『真珠』と呼ぶにふさわしい、秘《ひ》められた宝物《ほうもつ》の街であった。数多《あまた》の財《ざい》と商人、美姫《びき》や戦士や芸人《げいにん》、そして重大な情報となんの根拠《こんきょ》もないうわさのほとんどが、オラクルベリーを訪《おとず》れてはまた散《さん》じた。かの地は、内海を逍遥《しょうよう》する種々の民族《みんぞく》のるつぼとして、外洋の覇者《はしゃ》王城《おうじょう》ラインハットにも比《ひ》すべき絢爛《けんらん》たる繁栄《はんえい》の絶頂《ぜっちょう》にある。
が、同じ狭《せま》い島の南部にいたれば、印象《いんしょう》は一変《いっぺん》する。
低地の湿原《しつげん》を二日あまりくだると、ハリエニシダの藪《やぶ》ばかりの生《お》い茂《しげ》る茫漠《ぼうばく》たる荒《あ》れ野《の》に達し、やがて指輪の地金《じがね》、すなわち、青き大内海につきあたる。あたりはまさに、うらさびしいさい果ての辺地《へんち》であった。
隆起《りゅうき》した海岸線は、魔王《まおう》の鎌《かま》で断《た》ち切られてもしたかのようなすさまじく切り立った断崖《だんがい》を連《つら》ねており、ごつごつとした岩棚《いわだな》を強《し》いて長い時間をかけて磯《いそ》に降りれば、干潮時《かんちょうじ》には滑《すべ》りやすい石畳《いしだたみ》と流砂《りゅうさ》の、満潮時《まんちょうじ》には、急激《きゅうげき》に、まさに、あっという間に潮位《ちょうい》を上げる激しい渦巻《うずま》き波の危険《きけん》があった。幾億《いくおく》のダイヤモンドのようにつねに荒波《あらなみ》くだけつづける波打《なみう》ち際《ぎわ》の遥《はる》か高みには、何万羽もの鵜《う》や海猫《うみねこ》が巣をかける崖縁《がけふち》が迫《せま》り、険《けわ》しい岩山に置きわすれた妖精《ようせい》のハンカチのように、ただひとつ、ゲイルローダの丘《おか》と呼ばれる牧《まき》があった。
吹きつける潮風《しおかぜ》とたまの津波《つなみ》、季節《きせつ》ごとの嵐《あらし》に蹂躙《じゅうりん》され、ゲイルローダの土地は痩《や》せこけて、樹木《じゅもく》はほとんど根を張れぬ。浅《あさ》い皿《さら》を伏せたようなかすかに丸い緑の丘に立てば、四方の縁《ふち》はみな怒濤《どとう》の海に落ちかかり、いまにも飲《の》みこまれてしまいそうにみえる。そこはいわば、世界のおしまいとでもいうべき景色《けしき》であった。そう、ゼンタには、『世界の中心』と『世界のおしまい』がともに存在《そんざい》したのである。
人は奇狂《ききょう》なるもの、この、うらびれた南の丘をこそ選《えら》び、惹《ひ》かれ集《つど》うものもまたあった。世塵《せじん》にまみれるを嫌《きら》い、俗《ぞく》な暮《く》らしを遠ざけて生きるを望んだは尼女《あま》たちである。ケリーよりもさらにいにしえの、積みかさなる時の彼方《かなた》にはや詳細《しょうさい》忘られし太古《たいこ》の女神《めがみ》をひめやかに祭《まつ》るこの女性ばかりの教団は、辺境《へんきょう》ゲイルローダに、厳粛《げんしゅく》にして清貧《せいひん》な女子|修道院《しゅうどういん》を持っていた。ここには、世を捨て聖《せい》なる存在に身を呈《てい》する修道女たちと、成年までのあやふやな日々をひとまずその預《あず》かりとなった良家《りょうけ》の娘《むすめ》たちが、伝説《でんせつ》の処女神《しょじょしん》にひそみ倣《なら》いて、愛と祈《いの》りの日々を送っていたのであった。
陸《おか》は院《いん》の南東に細長く伸びていちど果て、数多《あまた》の岩礁《がんしょう》の顔をのぞかせる危険な浅瀬《あさせ》を経《へ》て、蛮族《ばんぞく》の時代より時に忘れ去られて久《ひさ》しい秘境《ひきょう》、南ゼンタ島に続く。そのあたりは、もう、ひとの種族の領分《りょうぶん》とは言いがたい。
魔物らの一翼《いちよく》の長《おさ》となったスライムナイトのピエールは、殺伐《さつばつ》たる戦いの明け暮れのそのあげく、いつしか、そのような地に達していた。修道院の尼女たちが代々『神《かみ》の塔《とう》』と呼《よ》び習わし、尊重《そんちょう》する、いにしえの民《たみ》の廃墟《はいきょ》にさしむけられたのである。
「お頭《かしら》」
とある夕刻《ゆうこく》、進軍|途中《とちゅう》のピエールがそこらの草を枕《まくら》にうたた寝をしているところに、先物見《さきものみ》にたっていた郎党《ろうどう》の一|匹《ぴき》が血相《けっそう》を変えて知らせに来た。
「塔はすでに落ちております。宝物《たからもの》は奪《うば》われ大地や床《ゆか》に、ここかしこ、傷《きず》つき呻《うめ》く魔物やら、冥府《めいふ》にたびだったものたちが」
「……遅《おそ》かったか」
ピエールはむっくり起き上がった。魔王の命《めい》とやらでにわかに駆《か》りだされたものの、もともと何かの考えあっての参戦でもない。打ちあわずにすんだ相手の手強《てごわ》いらしいのを聞けば、わざとでないにしろ、その場に居合《いあ》わせなかった幸運《こううん》にほくそ笑《え》みも洩《も》れた。
が。
「人間どももいよいよ必死《ひっし》だな。さぞや大軍を率《ひき》いて攻《せ》めたんだろう」
それにしては、軍勢の通った跡《あと》が見当たらないのが、少々|不審《ふしん》だった。
「いえ、ほんのひとにぎりばかりの小勢《こぜい》だったと聞いております。敵の長《おさ》は、うら若《わか》い黒髪《くろかみ》の男とか」
「若い男?」
ピエールはスライム本体の目を細めた。
「そうか。それは見たいな。今、どのへんか、わかるか」
「おそらく、海ぞいを北にのぼっているのではないかと」
「よし」
ピエールはがちゃがちゃと甲冑《かっちゅう》を鳴らしながら、騎士の手足を伸ばした。
「俺《おれ》はそいつを追う。何匹かついてこい」
青色|石灰岩《せっかいがん》の崖《がけ》の途中、あるかなきかの細道を、そろそろと北に渡ってゆく人間どもを発見した。一頭の馬に引かせた幌車《ほろぐるま》を守るように、前にひとり、後ろにひとり。なるほど、多勢《たぜい》ではない。
その戦士らの剣《けん》、身を包《つつ》んだ鎧兜《よろいかぶと》なども相当の値打ちものらしく見えるが、馬車には塔から奪《うば》ったどんな宝物を積んでいるやら、いかにも大事そうに守っている様子。欲《よく》に縁《えん》のないピエールはともかく、光りもの好きな土偶戦士《どぐうせんし》、金の匂《にお》いが何よりの馳走《ちそう》と思うベビーニュートらは、ついついニヤリと笑《え》みかわした。
敵がまだ遠くにあるうちから、ピエールとその配下の魔物たちは、獲物《えもの》の匂いをかぎつけた猟犬《りょうけん》のように、ぴたりと息をとめ、殺気《さっき》を殺し、油断なく身構えたまま、岩陰《いわかげ》に散って待った。塔の探索《たんさく》に消耗《しょうもう》しているはずの敵だ。ここまで無事戻ってきたからには、ついつい安堵《あんど》もしていよう。その隙《すき》を一撃《いちげき》に叩《たた》くのだ。
岩だらけの海岸には、しおからい風がうなり、逆巻《きかま》く波がとどろいた。十いくつの波に一度くらいは、高々とあがる飛沫《しぶき》が、わずかに海面から顔を出した岩肌《いわはだ》の乏《とぼ》しい道筋《みちすじ》をもしとど濡《ぬ》らした。前後左右から一気にはさめば仕損《しそん》ずるはずはない。魔物たちは、頭《かしら》の合図にいまかいまかと目を凝《こ》らした。ピエール自身は前のひとりをやり過ごして、後ろから切りかかるつもりだった。屠《ほふ》るが目的ではない、奪《うば》われた何がしかを取り戻すのが肝心《かんじん》だ。あまり慌《あわ》てさせて海に放りこまれでもしては、もとも子もない。
が。先導《せんどう》の男の鼻歌は、ピエールが身をひそめた岩くれの間際《まぎわ》でぴたりと止まった。
……くる!
とっさに抜きはなったピエールの剣に、間髪《かんぱつ》をいれず敵の剣が振り下ろされた。ザッとあがった波|飛沫《しぶき》の中で、剣と剣が交わったままぎらりと光り、またひるがえって離れた。それが、予定とは違う味方への合図となった。
「ぎゃぁぁっ!」
「イオ!」
「……かこめ……まわりこめ! はさみ打ちだ!」
「無理です、お頭《かしら》! ……こいつら速すぎ……うわおがぁっ!」
がぁん。がぁん。刃《は》まぜの響《ひび》き、魔法《まほう》の熱気。こすれた鉄のはぎしりしたくなるような匂《にお》いに、甘苦《あまにが》い潮《しお》の香《かお》りが重なる。
逃《に》げ腰《ごし》の足をすべらせて波間《なみま》に落ち、たちまち渦潮《うずしお》に連れ去られてゆく者の悲痛《ひつう》な叫《さけ》び。
ピエールの上下左右四つの目は間近に迫《せま》った危機《きき》、おのが死の予感に思わず吊《つ》り上がった。手強《てごわ》い。思いのほか、できる。ピエールは必死に剣を振るい、盾《たて》を使って身をかばった。
切り裂《さ》かれ、あるいは気合い一閃《いっせん》放り投げられて、手下の魔物たちが次々に海に落ち、岩棚《いわだな》にたたきつけられて絶命《ぜつめい》してゆく。この足場では引いては負ける、押さねばならぬと知りながら、ピエールは対手《たいしゅ》の厳《きび》しく詰《つ》め寄る間合いをなんとかはずそうとして、思わず知らずその身を脇《わき》にずらした。あっと思ったときには、下がなかった。それでもピエールは焦《あせ》らなかった。岩くれのわずかな突起《とっき》をたどり、そのまま逃げようとした。が、次の足がかりにとあてにした岩頭《がんとう》が、ふとかき消すように波間に飲まれた。満潮。つい今さっきまで何百|尋《ひろ》も向こうまで引いていた海水が、どっと一時に押し寄せてきたのである。
浮《う》いたと思ったとたん、うなる渦にからだが横ざまにさらわれた。彼方《かなた》の崖がみるみる迫る。激突《げきとつ》する! もはやこれまでと覚悟《かくご》を決めたその刹那《せつな》、潮水《しおみず》にかすんだピエールの目の前に剣の鞘《さや》がさし伸べられた。盾も剣も放り出して、思わず両手でそれにつかまる。引っ張りあげられる。抜ける水面は壁のように固かった。ずぶ濡れで丸腰のピエールは、放心して座《すわ》りこんだ。
「……いや、驚いた。ききしにまさる潮《しお》だな、リュカ」
人間のひとりが、あきれたように言うのが聞こえた。
「ああ、ヘンリー。こいつらがつっかかってきてくれなかったら、ぼくたちはあのままのんきに歩き続けて、今ごろ、この大波に飲みこまれていたかもしれない。妙《みょう》な相手に救われたね」
「潮が引くまでは足留《あしど》めか。小一時間というところか。やれやれ」
ピエールはそろそろと顔をあげ、馬車と人間たちと自分とが、満ち潮に取り残されたわずかな岩崖の足場に窮屈《きゅうくつ》に同居しているのを知った。すぐそこは、凄《すさ》まじく沸《わ》き立った黒い海だ。見回してみると、さっき自分をすくってくれた剣鞘《けんさや》が、黒髪の男の立てた膝《ひざ》の間にもたせかけられているのがわかった。
そいつは片足を投げだして座っている。馬車の車輪《しゃりん》にあてがった腕もゆったりと力を抜いて、いかにものんびりくつろいでいるようだが、微塵《みじん》の油断もない。まださほど使いこんだものとも思われぬ鋼鉄《はがね》の甲冑のそこここは、傷やら凹《くぼ》みやらが数多《あまた》見えた。これが敵の長《おさ》か。ピエールは内心|唸《うな》った。なるほど、強い。
潮|飛沫《しぶき》がまたひとわたり飛んできて、垂《た》れかかる黒髪がひと筋、目庇《まびさし》に張りついた。男は軽く手をあげて、うっとうしげに額《ひたい》を払った。すると、はじめて、ピエールにその貌《かお》が見えた。
くっきりと濃《こ》い眉《まゆ》、ひと筋高く通った鼻、つぶらといっていいほど大きな瞳《ひとみ》。いくさやつれの黒ずみは煌《きら》めく波の反射に隠《かく》れ、顎《あご》や頬《ほお》の輪郭《りんかく》の硬《かた》さがこの角度の横顔では打ち消されたため、その顔は、あなどりがたい戦士などではなく、ひどくあどけなく、傷つきやすそうに……たとえば、清楚《せいそ》で気丈《きじょう》な美少女のように見えた。いや、そうではない。実のところピエールは、見たとたんどきりと、ただひとりの少女を思いだしたのだった。
ちょうど、この男と同じ、鳥をもあざむく黒髪の。
ピエールは思わず知らず眼《め》を凝《こ》らした。
黒髪の男は凝視《ぎょうし》を感じると、鋭《するど》くこちらを向き、にこりとした。
「おっと、だめだ。しばらくは休戦だ。いまやりあったら、どちらもただこの海に飲まれるだけだからな」
「……似《に》てる」
ピエールは口走り、声に出して言ってしまってから、自分が口をきいたのに気がついて、真《ま》っ赤《か》になった。人間に話しかけてしまった。なんて久《ひさ》しぶりに。
「ひとのことばがわかるのか」
たちまち目を見張った相手の、その声、表情。ピエールのからだじゅうを、ぶるっと、戦慄《せんりつ》が走った。
「いま、なんと言った? ぼくが、誰に、似てるって?」
「まさか手配書でも配られてるんじゃないだろうな」
もうひとり、髪が翠緑《すいりょく》の人間が舌打《したう》ちで割《わ》って入った。
「俺たちゃすっかりお尋《たず》ねものになって、賞金でもかかってたりしてさ。なぁ、リュカ、あの教団ならやりかねないと思わないか」
「や、や、やりかねない、あ、あの、きょ、教祖《きょうそ》なら」
馬車の幌《ほろ》の中から、不気味《ぶきみ》にしゃがれた笑《わら》い声がした。なにげなくそちらを向いて、ピエールの四つの目は、またしてもすべて丸くなった。腐《くさ》った死体だ。腐った死体が腐った顔を幌から出してニヤついている。魔物であるはずの腐った死体が、人間の馬車で、いったい何をやっているのか?
と。
「スミス、教祖を知ってるのか?」
緑の髪のほうがからかうように尋ねた。
「いったいどこであった? いつ?」
「し、しらない……あったことない」
腐った死体は真っ赤になってもじもじした。
「け、け、けど、や、やりかねない、だろ? スミス、まちがってない、だろ?」
「やーい、スミスの知ったかぶり!」
なんと、今度|姿《すがた》を見せたのはスライムではないか。
「いじめーにゃよ、スラリン。そいつ、脳《のう》が腐ってんだから、あたま良くなりよーがにゃーよ。しょうがにゃーよ」
ぱたぱたと羽音《はおと》高く、ドラキーまでが現れる。
「およしなさいな。肉体的|欠陥《けっかん》を指摘《してき》するなんて。ドラきちさん、意地が悪いわ」
さらには人間の女まで。いくさ慣《な》れしているとも見えぬ、倹《つま》しい修道服の娘《むすめ》が、三匹の魔物と一緒に馬車になど乗って、しかも少しも怖《こわ》がっていない。
次から次へと眼前《がんぜん》に現れた不可思議《ふかしぎ》な一行に、ピエールは、すっかり面食《めんく》らって言葉もなくした。と、ふと、スラリンと呼ばれたスライムと、視線《しせん》が交わる。
「わっ! スライムナイトじゃないか!」
スライムはおおげさに飛びのき、黒髪の男の肩口《かたぐち》に隠《かく》れる。
「リュカ、ヘンリー、気をつけて! そいつはきっと、すごく強いよ。すごく強いスライムじゃないと、スライムナイトにはなれないんだよっ」
「だろう」
緑髪の男は片手をあげ、こてをはずしてみせた。ひどい傷《きず》だ。
「痛《いた》かったぞー。さっき、バシッとやられちまったんだ」
「すみません」
ピエールは慌《あわ》てて居《い》ずまいを正《ただ》し、人間と、その仲間《なかま》であるらしい魔物たちに深々と頭をさげた。
「どうか、わたしに、ベホイミさせてください」
ピエールは相手の返事を待たずに、かつて習い覚えた呪文《じゅもん》を唱《とな》え、今さっき自分が傷つけたばかりの相手を癒《いや》してみせた。そのうえで改めて、濡《ぬ》れた岩面に這《は》いつくばうようにして頭をさげる。
「ご挨拶《あいさつ》が遅《おく》れました。どなたさまやら存《ぞん》じませんが、いきなりのご無礼《ぶれい》、まことに失礼いたしました。わたしはピエールと申すスライムナイトです。騎士《きし》の芽《め》を生《は》やし、本来|我《わ》が種族《しゅぞく》には足《た》りなき両手両足を手にいれてより、これまであなたがた人間全体をかたきと狙《ねら》って戦ってまいりました。今日は、かの塔より奪われた宝《たから》とやらを、取り戻すべく、この地に網《あみ》を張っておりました。が、あのような諍《いさか》いのさなかにも敵であるわたしを助け、また、そのように魔物であるものたちを友とされておられるあなたがたを見れば、憎《にく》むことなどできません」
人間たちは顔を見合わせた。
「そして、また」
ピエールは、あの黒髪の男をまっすぐに見つめた。
「リュカとおっしゃる、あなたさまに、ひとつお伺《うかが》いしたいことがございます」
「なんだ」
「はい。もしや、あなたさまは、お心当たりがおありではありませんか。マーサという名に」
「マーサだって?」
「はい」
この瞳《ひとみ》。この世の汚《けが》れをどんなにたくさん目にしても、けして曇《くも》ることはないかのように、ぬれぬれとどこまでも透《す》き通った美しい瞳。あの毅《つよ》く無垢《むく》な少女の瞳と、やはり、何度見直しても、よく似《に》ている。同じ色。同じ質。知らず知らずのうちに引きこまれ、こころをひらき、慕《した》わずにいられなくなる瞳。
と。黒髪の男が騎士の手を取って、きつく握《にぎ》りしめるではないか。
「それはぼくの母の名だ」
彼は低く、つぶやくように言った。
「きみは母を知っているのか。母は……いや、そのマーサは、いま、どこにいる?」
「母ですって? あのかたが、あなたの……?」
「ぼくは母の顔を知らない。もしぼくに似てるのなら、きっと、きみの知ってるひとはぼくの母なんだろうと思う」
どおん。波が寄せ、風が巻き、男の黒髪を乱して通った。
ピエールはとうとう、はらはらと涙をこぼした。
「すみません、残念《ざんねん》ながら存《ぞん》じません。わたしがマーサを知っていたのは、あのかたが、今のあなたよりも、もっとお若いころのことなのです。……ああ、なんてことだ。知らぬこととはいいながら、わたしは、あのかたの血を引くあなたをこの手で殺しかけたのか」
スライムナイトは力なく岩に伏《ふ》し、そのまま消えいりそうに身を震わせた。
「情《なさ》けあらばリュカどの、どうか、この場でわたしを切ってください。このままおめおめと生きてはゆけません」
「なにを言う」
黒髪の青年は微笑《ほほえ》んだ。
「教えてくれ、母はどんなふうだった? どこであった? 何をしていた?」
「はい。マーサはあなたにそっくりです。あんな美しいひとはほかに見たことがありません」
ピエールは語った。りんご園を持つ谷間の村、そこにひっそりと暮らす不思議な力を持つ人々のことを。小さな子供《こども》や臆病《おくびょう》な魔物をいじめっこたちから守ってくれた気丈《きじょう》な少女のことを。そして、彼女のためにと、ナイトの芽《め》を生《は》やし、長らく洞窟《どうくつ》にこもったおのれのものがたりを。
「……ですから、その間、村に何が起こったのか、わたしもやはり知らないのです。彼女は、どこかの戦士に連れ去られたと聞きました。そのとき争いがあったようです。目覚めたとき、村は見るかげもなく寂《さび》れ果てていました」
「どこかの戦士って、おまえの親父《おやじ》のことじゃないか?」
緑髪のヘンリーがリュカに言った。
「たぶんな。……いったいなんだって、そんな無茶をやらかしたんだろう? ……そのへんの事情、ベルギス王ならご存じだったかな」
「ああ。親父はきっと知ってただろうな」
人間たちは痛いような奇妙《きみょう》な目つきでお互《たが》いを眺《なが》め、小さく笑った。
「どうだ、どうやら、こいつは恋敵《こいがたき》の息子《むすこ》なんだぜ。もう一度こいつを切りたくなったんじゃないか?」
ぎこちなくなった空気を払うように、茶化《ちゃか》すヘンリー。
「いいえ……その瞳……その澄《す》んだ瞳をのぞきこめば、敵になることなんかできません。そんなところも、生《い》き写《うつ》しです。憎しみも妬《ねた》みも、臆病さからくる疑《うたが》いも、全部春の雪のように解《と》かしてしまう、それがマーサの第一の力でした。そういえばマーサは、予感していたようです。いつの日か、名も知らぬ運命《うんめい》の恋人《こいびと》がやって来るのだと……自分が村を出てゆくことも、それが騒動《そうどう》になることも、彼女はとっくに知っていたのかもしれません。……ああ、わたしは、なんて愚《おろ》かだったんだろう!」
ピエールはかぶりを振り、
「マーサが心待ちにしていたのは、ほかならぬあなたの父上だったに違いない。すべては運命だったのに違いない。……でも……さっきのお話の具合では、お母さまの顔も知らぬとか? その後マーサは、また行方《ゆくえ》知れずになったのですか?」
「そうなんだ」
「パパスが……リュカの親父が、死ぬ間際《まぎわ》に言ったんだ。母上は生きていると。捜《さが》せと。……いや、話が混乱《こんらん》する、ともかく、そもそものはじまりから説明しようか」
重く口ごもるリュカのかわりに、緑髪のヘンリーが話してきかせた。
リュカとヘンリーの幼い出会い。ラインハット王妃《おうひ》ペシュマレンドラの仕掛《しか》けた継子《ままこ》誘拐《ゆうかい》。だが彼女もまた、闇《やみ》の手の仕掛けた罠《わな》にはめられていただけだったのだと……。ピエールばかりか、スミス、スラリン、ドラきちの三匹も、しんと耳をすまして聞き入った。語るべきことがらが尽《つ》きぬうちに、わずかずつながら潮が引き、道がふたたび通れるようになった。
一行は助けあい連れ立って浅瀬を渡り、滑りやすい岩崖を登りきって、大ゼンタ島に達した。するうちに早くも日が暮れかける。とめた馬車の脇《わき》に乏《とぼ》しい枯《か》れ枝《えだ》を積んで小さな焚《た》き火《び》を起こし、つましい食事をともにした。その間も、ヘンリーの話は、あちこちに飛びながら、綿々《めんめん》と続いた。
彼らは、ラインハット王妃に化《ば》けた魔物の正体《しょうたい》をあばくために、南ゼンタ島の神の塔から『ラーの鏡』と呼ばれる宝物《たからもの》を奪《うば》ってきたところだ。神の塔の扉は、信仰《しんこう》篤《あつ》きものにしか開きはしない。それゆえ、修道院の預《あず》かりであった乙女《おとめ》マリアに同行してもらっていたのだ。
「あの塔はばけものどもでいっぱいのうえ、ようやく宝物の近くにゆくと、今度は、すっぽりと床がない。うっかり踏《ふ》みだすと、遥《はる》か下の地面までも落ちてしまいそうだった。どうにも参ってしまったが、それこそ、神の試練《しれん》だったのだな。ここにいる女性が……いつも内気で控《ひか》え目《め》なマリアが……何もない空中に歩みだしてみせたときには、俺はほんとうに胆《きも》が潰《つぶ》れたよ。いや、信仰の力というのはすごいものだ。俺みたいな、なんでもかんでも疑ってばかりの傲慢《ごうまん》な人間には、神さまだって味方する気にならないんだろうけどさ」
ヘンリーは語り疲れ、ふと黙った。
降る星空の下、人間三人魔物たち四匹の奇妙なひと群《む》れは、爆《は》ぜる炎《ほのお》のまわりに大小さまざまな影を伸ばした。どの顔もちろちろと躍《おど》る火あかりに照らされて、陰翳《いんえい》色濃《いろこ》く引き締まっていた。と。
「あの、あの、す、す、スミスも、こ、この際《さい》、ひ、ひ、ひとつ聞きたいことあるんだけど」
腐った死体がこそこそと口をきいた。
「ま、前から、し、知りたいと思ってたんだけど、りゅ、リュカたち、ど、どれ、奴隷《どれい》だったことがあるって、ほんと?」
「ああ」
と、顔をしかめるヘンリー。
「狭苦《せまくる》しい穴《あな》ぐらにとじこめられて、毎日毎日重たい石材を運ばされたよ。どでかい神殿《しんでん》を造《つく》るんだって……ざっと十年……だよな?」
リュカは肩をすくめ、長い枝《えだ》を使って焚《た》き火《び》を塩梅《あんばい》するばかり。
「……思い出したくないか。いや、無理もない。俺だって、できれば忘れてしまいたいよ。あのころのことは。だから、まあ、そこのところは端折《はしょ》ったんだ」
「で、で、でも、ど、ど、どうやって逃げ出したんだ?」
スミスはあくまで食い下がる。
「は、話してくれよ。お、おれ知りたい、知っておくと、もしかして、俺も将来奴隷になったとき、どうやって逃げればいいかわかってると、あ、あ、安心だ」
「樽《たる》に乗ったのさ」
ヘンリーが短く言って、さっさと話を変えようとしたとき。
「光の教団」
ずっと黙って耳を傾《かむけ》けるばかりだった乙女マリアが、頭をあげて、口を開いた。
「このかたがたが、捕《と》らえられていたのは、光の教団の神殿を頂《いただ》くセントベレスの高山です。わたしは、かつて、その教団の信者でした。それはそれは熱心な、敬虔《けいけん》な、信者だったのです」
よせよ、とヘンリーが目まぜをしたが、マリアは薄《うす》く微笑《ほほえ》んで首を振る。この際、胸につかえているものを吐《は》きだしてしまいたいらしい。
「『やがて、この世には、すべてをおおう闇の時代が来る。だから、光の国をつくり、光である者たちを闇から守る』。教祖さまのおことばに感動して、家も捨《す》て、親も捨て。教団のかたがたに連れられるままに、世界じゅうを歩きました。出会うひとごとに、教祖さまのおことばを告《つ》げ、寄付《きふ》を募《つの》り、ひとりでも多く仲間に入るように、ことばをつくして説得《せっとく》しました。すべては修業で、祈りであるとかたく信じて。同じ教祖さまを信じるもの同士だけが理解《りかい》しあえる。わたしたちだけが、闇の時代にも生き残るに違いない……そう思っていました。何の信仰ももたず、毎日をだらだらと自分本意に生きてるひとを見たり、そう、特に、わたしたちのお慕《した》いする教祖さまのことを、ちょっとでも悪く言うひとたちがあったりすると……もう、世界が今すぐ滅《ほろ》んでしまえばいいと思いもした。堕落《だらく》したひとたちや、悪いひとたちは、みんな闇の業火《ごうか》に焼かれ、苦しみ死ぬがいいと、そして、おおいなる粛正《しゅくせい》のあと、わたしたち、覚醒《かくせい》したものだけの世界が来る、頽廃《たいはい》からも争いからも解《と》き放たれた、素晴《すば》らしい時代が来ると……ええ、ほんとうに、こころの底から、そう思っていたんです」
おとなしく、優《やさ》しげな印象《いんしょう》だった娘の顔が、話し始めたとたん、ギラギラと燃えるような忿怒《ふんぬ》を立ちのぼらせた。質素《しっそ》な修道服、きちんとまとめた髪、紅《べに》ひとつささなくても愛くるしい、いかにも無垢《むく》で純情《じゅんじょう》な乙女《おとめ》らしいおもざしでありながら、その瞳ばかりは、地獄《じごく》を見てきたものだけの持つ、凄絶《せいぜつ》な色を帯びている。
「でも、あるとき。わたし、お山の神殿工事のお手伝いにでかけて……見たんです、鞭《むち》打たれ、鎖《くさり》につながれて働《はたら》かされている、たくさんのひとたちを。ご老人もいました、女のひともいました。幼《おさな》い子供《こども》たちは、たくさんたくさんいました……不潔《ふけつ》な、病気の匂《にお》いがして……みな、どす黒い疲れた顔をして、重たいものを運んだり、硬《かた》い岩をどこまでもどこまでも掘《ほ》ったりしているのです。いったい、このひとたちは何をしているんですかと、わたし、尋《たず》ねました。お手伝いしなくていいのか、と。すると、働いているひとたちより、何倍も健康《けんこう》そうな、力の強そうな教団のひとたちが笑って、こいつらは奴隷だと言いました。教祖さまに仇《あだ》をなしたものたちだが、死ぬまで働いてその罪を拭《ぬぐ》うありがたい機会《きかい》を与えられているのだから、ほうっておけ、と。
それから、すぐのことでした。わたし、式典用のお皿《さら》を落として割ってしまったんです。申《もう》し訳《わけ》ないことをしたと思いました、たいへんなことをしでかしてしまったと。こころから悔《く》やみましたし、誠心誠意《せいしんせいい》謝《あやま》りました。でも、正直、たった一枚のお皿が、そんなに大切だとは思わなかった。そのぐらいのことが、許《ゆる》されないなんて。そんなおこころの狭《せま》い教祖さまだなんて思わなかった。それに……ええ、もちろん、ひとを疑うのはよくないことだけど、あのとき、わたしにお皿を手渡《てわた》してくれたロリー……ついその日まで、寝起《ねお》きも共にして、ひとつのスープをわけあって、どんな姉妹《しまい》より親しく愛しあっていると思っていた信者仲間のロリーが……わざとそれを、お皿を、わたしの手の届《とど》かないところで、ぱっと、離したように見えて……」
マリアはことばを切り、両手を顔に当てた。
ヘンリーがその肩をそっと抱《だ》くと、マリアは、びくりと顔をあげ、涙《なみだ》をぬぐった。感謝《かんしゃ》をこめて、ヘンリーの手を離させると、彼女はまたゆっくりと喋《しゃべ》りだした。
「恨《うら》んではいません。たぶん、誰かが彼女にそれを命じたのでしょう。それが、教団のためだと言ったのでしょう。だって、奴隷のひとたちに同情するわたしを、教団のやりかたに疑問《ぎもん》をもってしまったわたしを……教団は、もう、けしてお山から出すわけにいかなかったんですものね。
そうして、わたしも奴隷になりました。神殿をつくる工事は遅《おく》れていて、奴隷はいくらいてもたりなかった。だから、ちょっとでも咎《とが》があれば、お皿一枚でも教団の財産《ざいさん》をだめにしてしまった愚《おろ》かな娘なんかは、真っ先に、たとえ、ついこの間まで熱心な信者だったとしても、奴隷にして……お山につないで……死ぬまで働かせるべきなのよ。素晴らしい、光の教団の神殿をつくるためなら、闇の時代に生き残るためなら、どんな犠牲《ぎせい》を払ったってかまやしない! あのひとたちは、そう考えたのに違いないんです。わたしだって……かつてのわたしだったなら、もしかすると、やっぱり、そう考えたかもしれない」
それから二年。
苛酷《かこく》な労働《ろうどう》に何千という奴隷たちが死んだ。多くのものが次々に連れてこられては弱って捨てられてゆくのだった。マリアは石切り場でたびたび一緒《いっしょ》になるヘンリーと、ことばを交《か》わすようになった。見張りの目を盗《ぬす》んでの短い会話だったが、そんな境遇《きょうぐう》にあっても明るさを失わないヘンリーに、マリアのこころも慰《なぐさ》められた。ヘンリーのともだちであるリュカとも、知りあった。リュカは、不当な命令に逆《さか》らってばかりで、働いているより、獄《ごく》につながれていることのほうが多いような少年だった。どんな恐《おそ》ろしい罰《ばつ》も責《せ》め苦《く》も、彼をくじけさせることはできず、その不敵《ふてき》な瞳でみつめられると、残忍《ざんにん》なはずの監督《かんとく》たちも、なんとなく、たじたじとなって、手荒《てあら》なことができなくなってしまうのであった。
いつの日かきっとここを出て、世界じゅうのひとたちに、ここで為《な》されたことを伝えよう、教団の欺瞞《ぎまん》を訴《うった》えよう。若い三人は希望《きぼう》を持った。が、希望の光を灯《とも》した瞳は、新しく奴隷たちの監督役となって派遣《はけん》されてきた邪悪《じゃあく》なる『鞭男《むちおとこ》』には、この上もなくいまいましいものと見えた。鞭男は功名《こうみょう》を図《はか》り、手ぬるい前任者たちのたち遅れさせた工事を素早く完成させようと、非情な決意を抱《いだ》いていた。
鞭男は、病身《びょうしん》のものや、余命《よめい》いくばくもない老人たちを、次々に使い殺しにした。奴隷たちはろくに眠《ねむ》らせず、満足な食事も与えられなくなった。反抗《はんこう》するものは、いたぶり、酷使《こくし》し、傷つけ、娘たちには狼籍《ろうぜき》を働こうとした。ヘンリー、リュカは不自由な手鎖《てぐさり》ながらマリアとほかの娘たちを守って勇敢《ゆうかん》に戦い、鞭男を半殺しの目にあわせた。が、そのために、恐ろしい毒蛇《どくへび》の住む水牢《みずろう》におしこめられてしまったのである。
万策《ばんさく》きわまったかに見えたとき、マリアは、牢番《ろうばん》を勤《つと》める教団の兵士を見て、その目を疑《うたが》った。それは、幼いころに別れたきりの兄ヨシュアだったのだ。なんという偶然《ぐうぜん》。たったひとりの妹の身の上話に動揺《どうよう》し、かねがね教団の残酷《ざんこく》さを見るに見かねていたヨシュアは、機転《きてん》をきかせて、三人を脱出《だっしゅつ》させた。死骸《しがい》を流すための樽に潜《ひそ》ませ、秘密《ひみつ》の排水路《はいすいろ》からそっと海に流したのである。その後、彼の身にどんな恐ろしい罰《ばつ》が降りかかったか、想像《そうぞう》だにできない。
「……樽が流れついたのが、ちょうどあの修道院の前の岩場。わたしたちを助けてくださったのは、いにしえの愛の女神《めがみ》に仕《つか》える尼僧《にそう》のかたがたでした。生きてあの地獄《じごく》を出ることができたのは、きっと、残りの生命《いのち》を、ほんとうの神さまにお捧《ささ》げするためにこそなのでしょう。……わたしは祈らずにはいられません」
マリアは吐息《といき》をつき、片手で奇妙《きみょう》な十字を切った。
「もう、誰も、光の教団の魔手《ましゅ》に囚《とら》われませんように。犠牲《ぎせい》になりませんように。あのイブールの巧《たく》みなことばにだまされぬようにと」
「イーブ?」
ピエールは顔をあげた。
「いま、イーブと言いましたか?」
「いいえ、イブールです。それが、あの教団の教祖の名ですわ!」
マリアは吐《は》くように言った。
「世界から闇を払うと大言壮語《たいげんそうご》し、その実、罪《つみ》もない人々を大勢奴隷にして、殺した、闇そのものともいうべき邪悪な男。ああ、女神さまは、ひとの罪を許せとお教えになります。でも、あの男は。あの男だけは。ほうっておいてはいけない。許してはいけないんだわ!」
ピエールは、焚《た》き火《び》の照りかえしにしばらくその身を黙って洗《あら》わせながら、なにやら考えこんでいたが、やがて、ぽつりと言った。
「わたしは、そいつを知っているかもしれない」
「知ってる?」
「どうして? いつ?」
口々に問いかける人間たちに、ピエールは小さく首を振った。
「確信ではありません。ひょっとしたら、そうではないかと思いついただけです。だから、今はこれ以上は何も言いますまい。けれど、もし、そのイブールがわたしの思う者であるとするならば……ああ、マーサの身に起こったことがらには、なにか、今はまだ隠された恐ろしい真相《しんそう》があるのではないだろうか……すみません、曖昧《あいまい》な言い方になるのを許してください。ほんとうを言って、わたしは真実を見つめるのが怖《こわ》い。なんだか、ひどく巨《おお》きな、ひどく陰惨《いんさん》な、ひどく狡猾《こうかつ》な何者かが、すべての背後に潜《ひそ》んでいるような気がするのです……」
苦しげにピエールは黙りこみ、吐息をついて、また尋ねた。
「そもそもなぜ、奴隷の身になどなったのです?」
ふたたびヘンリーが話者《わしゃ》となった。
古代の神殿、水牢、ゲマと呼ばれる恐ろしい魔物との対決。そして、壮絶《そうぜつ》なパパスの死。比類《ひるい》なき戦士がむごたらしくもなぶり殺しにされるさま……語りながら、ヘンリーのことばは不意に途切《とぎ》れた。しばらく、声もない。
「……俺のせいなのだ……」
火のような悔恨《かいこん》をこめ、憮然《ぶぜん》とつぶやく。
「俺のせいで、パパスは。そして、何の罪もないサンタローズの村の人々までも。王子《おうじ》誘拐《ゆうかい》の汚名《おめい》を着せられて、我《わ》がラインハットの兵隊たちに焼《や》き討《う》ちに」
「よせ」
リュカは、消えかけた焚き火に目を落としたまま、短く言った。
「もういい。自分を責めるな」
「でも、リュカ! 俺はおまえにすまなくて!」
「ぼく? ぼくのことなど、どうでもいい。忘れるなよ、ヘンリー、世界がぜんたい、危機にさらされている。ベルギス王|亡《な》きいま、おまえの国ラインハットが魔物たちの手に落ちようとしている。ぼくらが何もできずにいるうちに、時は流れ、悪は栄え続けている。過ぎたことを悔《く》やむ間に、ゲマ、ジャミ、ゴンズ、そして教祖のイブール! やつらをみんな倒す方法を考えるべきだ。そうだろ?」
リュカははじめて顔をあげた。屈託《くったく》なく笑いながら、その双眸《そうぼう》は冷たいほどの意志を宿《やど》してあかあかと燃えている。
「ぼくは、奴隷になって暮らした十年さえ、無駄《むだ》だったとは思わないよ。力仕事ばかりさせられたおかげで、からだは頑丈《がんじょう》になったし、囚《とら》われていたひとたちに、さまざまな知識やものの考え方も教えてもらった。そして、なにより、あのころのことを思えば、これから何があったって平気だ。どんなときにも生き抜いてみせる。そういう自信がついたもの」
ピエールは衝《つ》きのめされていた。確かに、この少年は、あのマーサの子だ! マーサのこころは、生命《いのち》は、ここにこうして、受け継がれ、鮮やかに息づいていたのだ。
「リュカ、ヘンリー」
ピエールは畏《かしこ》まって、ふたりを見上げた。
「どうかわたしをお伴《とも》に加えてください。わたしはかつて、マーサの役にたちたいと願って騎士を生やした。マーサと縁《えん》深《ぶか》いあなたがたの助けとなりたい。許していただけますか」
「もちろんさ!」
「頼もしい連れができたな」
「わーい! スライムの仲間が増えたっ。おいらたちもね、実は、最初は敵だったんだよ。でも、このリュカを、なぜかたまらなく好きになっちゃって、一緒に旅《たび》をしているんだ」
「す、す、スミスもうれしい。ともだち、増える、ううう、うれしい」
「きーきー! うれきー!」
がっしりと手を重ねあい笑《わら》いあう戦士たちに、マリアはひとり静かに瞬《まばた》きをしながら、彼女自身の取るべき道をしっかりと思いさだめるふうだった。
かくて、スライムナイトのピエールを新たに加えた一行は、修道院にマリアを無事に送り届け、敵の待つラインハット城《じょう》に向かったのであった。
ヘンリー誘拐《ゆうかい》以来、十年。新王デールを頂《いただ》いて一見|爛熟《らんじゅく》の城下はしかし、目に見えぬ腐敗《ふはい》と陰謀《いんぼう》にはや崩壊《ほうかい》しかけていたのであった。せんに病死した前王ベルギスの重臣《じゅうしん》、ひそかに第一王子ヘンリーを末《すえ》に頼《たの》んでいたものたち、また、現王デールとその母ペシュマレンドラにうまく取り入ったものたちの三者の間に、不信と対立、欲得《よくとく》ずくの駆《か》け引きが渦巻《うずま》き、賄賂《わいろ》や暗殺《あんさつ》が数も知れなかった。誠《まこと》をつらぬこうとするものたちは、斬殺《ざんさつ》され、あるいは流刑《るけい》になり、獄舎《ごくしゃ》につながれた。いまだ幼き新王は、争いを裁《さば》く力量もなく、真実頼みにするに足《た》る人もない。乳母《うば》役《やく》の娘たちと口先|上手《じょうず》の奸臣《かんしん》におだてられ、菓子《かし》と玩具《おもちゃ》と歌と踊《おど》りに、連日、ただ流されていたのである。
……その日。城門の警護《けいご》にあたっていた兵士のひとりトムは、ふいにまきおこった砂塵《さじん》におもざしを固くした。城を脅《おびや》かそうとするものは、なんぴとたりとも通すまいと、おのが生命《いのち》もかける覚悟《かくご》であった。
「ずいぶんと偉《えら》くなったものだな、トム。カエル一匹をあんなにおっかながっていたくせに」
からからと嘲笑《あざわら》われ、血の気《け》の引いた面《おもて》を凝《こ》らして相手を見すました。
「ヘ……ヘンリーさま! 殿下《でんか》!」
十年の感慨《かんがい》に不覚にもどっと涙あふれ、力なくその場にしゃがみこみそうになる。だが、すぐに懐《なつ》かしき主君と志《こころざし》をともにするを決心し、突入隊《とつにゅうたい》に加わった。これを見て、トムの属《ぞく》した隊の多くの若者が違《たが》えず正しいものを選びとった。
城の地下の不潔《ふけつ》な牢獄《ろうごく》には、多くの囚人《しゅうじん》がつながれていた。パパス討《う》つべしの命《めい》に異議《いぎ》をとなえて反逆《はんぎゃく》の罪《つみ》に問われ、鉄釘《てつくぎ》の鞭《むち》で打たれながらからくも生き延《の》びた無骨《ぶこつ》な傭兵《ようへい》ドゾブの色黒の顔も見えた。言うもおぞましき責め苦にあい、はかない生命《いのち》の残り火を蚤《のみ》やらねずみやらに齧《かじ》られすすられて、さしものドゾブも、あわや瀕死《ひんし》の床《とこ》にあった。が、すっかり成長したリュカの凛々《りり》しい武者姿《むしゃすがた》をみると、たちまち瞳を輝かせ、武器をとって立ち上がった。
ほかならぬ新王デールの母ペシュマレンドラもまた、この地下牢《ちかろう》に長く虜囚《りょしゅう》の憂《う》き目《め》にあっていた。我《わ》が子|可愛《かわい》さに目がくらみ、ヘンリー失脚《しっきゃく》を狙《ねら》って謀《はか》ったこのもと踊《おど》り子《こ》は、かの誘拐劇《ゆうかいげき》の影の主犯《しゅはん》ではあったが、そもそもその生まれつきの心根《こころね》の邪《よこしま》なものではない。暗雲高まる国の情勢、兄なき孤独《こどく》に捨《す》て鉢《ばち》な日々をおくるデールを見るにつけ、愚《おろ》かなペシュマもしだいにおのが無見識《むけんしき》を悟《さと》り、思い上がりを悔《く》やみ、旧悪《きゅうあく》を恥《は》じて悲痛《ひつう》なほどに憔悴《しょうすい》し果てた。かくて魔《ま》なるものたちの手駒《てごま》として役にたたなくなったため、このようにむざと捨てられ、忘れ果てられていたのである。同じ牢《ろう》にとらえられていたものたちも、ざんばら髪をおどろに乱し、痩《や》せ肉|衰《おとろ》えさらばえた貌《かお》のうちに、血走った瞳ばかりをらんらんとさせて、我《われ》こそは国王の母なるぞと夜ごと日ごとに吠《ほ》えるように叫《さけ》びつづける彼女のことは、ただ、哀《あわ》れな狂女《きょうじょ》と思うばかり。その言《げん》、まともに受け止めるもののあったはずもない。
駆けつけた兵士数十に救いだされ、手近な掛《か》け布《ぬの》をぼろ隠《かく》しにまとうと、皇太后《こうたいごう》はたちまち隈《くま》の浮いた顔を悔恨《かいこん》の涙に濡らし、つぐないのために自刃《じじん》して果てようとした。が、その手を、かつて彼女の踏《ふ》みつけにした第一王子そのひとが、優しく引き止めたのである。
「父亡き今、わたしにとって親と呼べるのはあなたひとり。この戦いに勝った暁《あかつき》には、きっと孝行《こうこう》しますゆえ、どうか浅《あさ》はかな真似《まね》をなさいますな。……みなも聞け!」
凛《りん》と響いたヘンリーの声、獅子《しし》のたてがみのごとく奮《ふる》い立った翠緑《すいりょく》の髪、長槍《ながやり》の穂先《ほこさき》に高々と翻《ひるがえ》った錦《にしき》の王旗《おうき》に、兵も囚人《しゅうじん》も臣《しん》たちも、みな水を打ったように静まりかえる。
「親が子と、兄が弟と、隣人《りんじん》が隣人と、疑《うたぐ》りあいだましあい血をすすりあう世はまっぴらだ! これまでの諍《いさか》いはすべて、今を境《さかい》に忘れ去れ! 過ぎし恩讐《おんしゅう》は水に流せ! 我らはみなラインハット、この徽《しるし》のもとにただひとつではないか!」
すべての顔が輝いた。すべての瞳が光を灯《とも》した。彼らは、みな、そのこころの底で、最も望んでいたものを見た。最も求めていたものを得たのである。
「真の敵は国母太后《こくぼたいこう》の名を騙《かた》り、我らが尊《とうと》き栄座《えいざ》を僭居《せんきょ》する魔物である! さぁ、つづけ! 悪を討《う》ち、邪《じゃ》を祓《はら》い、妄刻《もうこく》のみそぎ、今ぞ果たさん!」
王軍は、後ろをも見ぬ鉄の怒濤《どとう》となって進撃《しんげき》した。我欲《がよく》のあまりついに真実を理解しえなかった大臣《だいじん》衛士《えじ》従者《じゅうしゃ》らの幾重《いくえ》の包囲《ほうい》をくぐりぬけ、破竹《はちく》の勢いで城を奪還《だっかん》、とうとう魔《ま》魅《み》巣《す》くう王者の階《きざはし》、謁見《えっけん》の間《ま》に至った。ここに彼らは、囚《とら》われの場より救い出したペシュマレンドラとほくろひとつまつげ一本|狂《くる》いなき姿形の太后《たいこう》殿下《でんか》を見出《みいだ》した。
「なにやつ」
玉座《ぎょくざ》の太后は眉《まゆ》をとがらせて叱責《しっせき》したが、太古の民《たみ》に祭られし秘宝《ひほう》『ラーの鏡』を向けられてはたまらない。うつつにはまさに瓜《うり》二つならんだ太后ふたりが、神秘《しんぴ》の鏡の像《ぞう》の内には、きっぱりと二つに弁別《べんべつ》された。いささかやつれながらもなお前王の寵愛《ちょうあい》芳《かんば》しき美貌《びぼう》の国母と、不気味《ぶきみ》にぶよぶよと肥満《ひまん》した魔物の肉体持つ偽物《にせもの》と、はっきり見知らせたもうたのである。これを見た兵士たちはみな震撼《しんかん》した。このような醜悪《しゅうあく》な魔物を、尊い王の母ぎみと信じて、日々|敬愛《けいあい》し、持て成《な》し、仕《つか》えていたとは。おぞけも走る。忿怒《ふんぬ》はなお強い。
正体をあばかれた魔物は火の息《いき》を吐《は》いて暴《あば》れた。が、義憤《ぎふん》と正義の剣《つるぎ》の前に、いかな魔《ま》魅《み》とて勝機《しょうき》はない。苛烈《かれつ》な抵抗《ていこう》も断末魔《だんまつま》のあがき、ヘンリー王子そのひとの渾身《こんしん》の一刀《いっとう》にてあえなく屠《ほふ》られ去った。王デールは、母と兄の無事の帰還《きかん》をことのほか喜び、王位の禅譲《ぜんじょう》を望んだが、ヘンリーはかたくなにそれを拒《こば》んだ。これ以上無意味な混乱《こんらん》を重ねる必要はない、というのがその理由であったが、幼《おさな》き弟と、哀《あわ》れな太后に対する思いやりもまた、そこにはあるのに違いなかった。
ラインハット歴《れき》四百七十六年。こうして、王家|血統《けっとう》に長らくつきまとった忌《い》まわしき伝統《でんとう》、血で血を洗う相続《そうぞく》争いは大団円の決着を見たのだった……。
ある午後、王宮のテラスに、ヘンリーとリュカは、ただふたりだけで卓《たく》を囲んだ。夕闇《ゆうやみ》が新体制を祝《いわ》って賑《にぎ》やかにさんざめく城下《じょうか》の町の雑踏《ざっとう》をおおいつくそうとしている刻限《こくげん》であった。
卓の上には、料理人グレンから届《とど》いた手紙が載《の》っている。グレンは、あの混乱の時代に、ベルギス王|毒殺《どくさつ》の汚名《おめい》を着せかけられて西の大陸に逃《のが》れた。そこで、パパスの名を知るものと出会い、いつの日かリュカの手に渡ることを祈りながら、デール宛《あ》ての珍味《ちんみ》の荷《に》の中にひそかに書状を紛《まぎ》れこませていたのである。
「西か」
ヘンリーは目を細めた。
「また、旅に出るんだな」
「明日、出港するよ。ドゾブも一緒に行くそうだ。ピエールたちも」
「俺は残る」
「うん」
十年の余、運命を共にし、血命《けつめい》を預けあってきた友である。兄弟の絆《きずな》に勝《まさ》るとも劣《おと》らぬ契《ちぎ》りを持つふたりである。別れがたい思いは、わざわざ言葉にするまでもない。
だが、ラインハットはいま、ヘンリーを必要としている。
「……きみのからだの中には、王の血が流れているのだから」
「うっとうしいが、しかたがない。十年も留守《るす》にしてたんだ。少しはデールを助けてやらんと」
「親分は大変だ」
「まったくだ」
ふたりは笑いあい、盃《さかずき》を交わした。町が夜の翼《つばさ》の下に眠りこみ、空に星々が輝きはじめても、どちらもその場を離れなかった。
4 怪物
料理人の朝は早く、夜は遅《おそ》い。市《いち》でいいものを選《えら》ぶには、夜明けに戻《もど》る漁船《ぎょせん》を待ちうけなければならないし、酒場《さかば》の客ときたら真夜中《まよなか》過ぎにも空腹《くうふく》を訴《うった》えるもの。
だからグレンは、昼の余白《よはく》のひとときを、盗《ぬす》み寝《ね》にあてる習慣《しゅうかん》だった。お天道《てんとう》さまが高々とかかった明るい窓《まど》の下、世間《せけん》の人々がまさに額《ひたい》に汗《あせ》して働《はたら》いている隙《すき》に、ひとり毛布《もうふ》にくるまってうとうとするのは、少しばかり悪甘《わるあま》い楽しみだ。
その日もたっぷり午睡《ごすい》をとり、昼間の夢《ゆめ》からさわやかに目覚《めざ》めたグレンは、大あくびと伸《の》びと、寝汗《ねあせ》をかいてはだけたシャツの胸《むね》のあたりをぼりぼり引っかくのと、いちどきに三つの動作《どうさ》をなしながら部屋《へや》を出た。居室《きょしつ》の前は階下《かいか》の店や舞台《ぶたい》を見下ろす回り廊下《ろうか》となっている。
「おはよ、料理長さん」
顎《あこ》がはずれそうなほど口が開いたとたん、横ざまに言われて、あわてて胸襟《むなえり》をあわせた。
「今日のおすすめはなぁに? あんまり美味《おい》しいの作らないでね。あたし、ここに来てから、二指《ふたゆび》分《ぶん》も太ったんだから」
「クラリスか」
相手もまた、寝ぼけまなこで、にっと微笑《わら》う。しどけない化粧着《けしょうぎ》姿《すがた》のまま、乱《みだ》れ髪《がみ》をとがらした唇《くちびる》で吹《ふ》き上げながら、廊下の手すりにもたれている。
クラリスは店の舞台の呼《よ》びものである美貌《びぼう》の踊《おどり》り子《こ》のひとりだ。最近どこやらから流れてきたばかりで、はやくもひと一倍の人気を得た。こちらもばっちり目を覚ましておかなければならないのは、空に月や星の輝《かがや》くころ、昼日中《ひるひなか》はゆっくり休んで過ごす習いのご同輩《どうはい》。
「まだ早いんじゃないのかい」
「眠れないの。実はお腹《なか》がすいちゃったのよ。ゆうべけっきょく、食いっぱぐれちまってさ」
「ははは。少しは痩《や》せるだろう」
「嘘《うそ》。ちゃんと三度三度食べるほうが結局《けっきょく》おニクがつかないんだって、ダーニャが言ってたわ」
[#挿絵(img/DQ5_2_080.jpg)入る]
「わかったわかった。何か作ろう」
「わぁ。嬉《うれ》しい」
腕にしなだれかかる踊り子を連れてグレンは階下に降り、厨房《ちゅうぼう》に入った。
溶《と》き卵《たまご》に半端《はんぱ》な野菜《やさい》とパン屑《くず》を捏《こ》ねあわせて団子《だんご》をつくり、余《あま》りもののスープに浮《う》かべる。青菜《あおな》と海草を取り混ぜたサラダには残り肉を数片《すうへん》載《の》せ、殻《から》っかけの貝は熱々《あつあつ》に焼《や》いてトマト・ソースをかける。昼間の酒《さけ》は、薄《うす》めたワイン。盛《さか》んな食欲《しょくよく》を見せるクラリスにつきあって、つい二|杯《はい》三|杯《ばい》と重ねるうちに、窓外《そうがい》の雲行《くもゆ》きがなにやら怪《あや》しくなってきた。
「ひと雨来るかね」
「そうね。さっぱりするわね」
食べたら急に暑《あつ》くなったと、ただでさえ薄い寝間着《ねまき》を肩《かた》から落ちんばかりにはだけながら、クラリスは両手にスープ皿《ざら》を持ち上げた。最後のひとしずくまで飲《の》みあさり、
「昼過ぎに艀《はしけ》がたくさん出てったわ。大きな船がつくみたい。今夜あたり、きっとまた大繁盛《だいはんじょう》よ。ああ、美味《おい》しかった。お腹ぱんぱん。ごちそうさま」
ピンク色の舌《した》を見せ、猫《ねこ》のようにあくびをする。
「いい気持ち。眠《ねむ》くなってきたみたい」
踊り子はくにゃりと肩を丸めて、食卓《しょくたく》の椅子《いす》に片《かた》あぐらをひき上げた。青く静脈《じょうみゃく》の透《す》き通る腿《もも》をのぞかせているのに気づいているやらいないやら、ほんのり紅《くれない》がかった目許《めもと》を潤《うる》ませる。
「ねぇ。いっしょに、もうちょっと寝ない?」
「光栄ながら遠慮《えんりょ》する。そろそろ魚を擦《す》ったり、芋《いも》を蒸《む》したり、下ごしらえをしておかないとな。客は待たされるのは嫌《きら》いだから」
「そお」
夜ごと数多《あまた》の酔客《すいきゃく》の残酷《ざんこく》な視線《しせん》に磨《みが》きぬかれた姿態《したい》だ。咲《さ》き誇《ほこ》る花のかんばせを不服《ふふく》そうにとがらせて、クラリスはするりと立ち上がり、わざとのようにグレンのすぐそばを通った。おしろいだろうか、めずらしいよい香《かお》りが鼻をくすぐる。ゆき過ぎて、振《ふ》り向き、薄《うす》く微笑《ほほえ》む。
「……グレン……」
と、音をたてて雨が降りだした。たちまち厨房は薄暗《うすぐら》くなり、湿《しめ》った空気が吹《ふ》き抜けた。踊り子は鳥肌《とりはだ》をたて、ぶるんと震《ふる》えた。憑《つ》きものでも落ちたかのような邪気《じゃき》のない顔つきで、じゃ、オヤスミ、屈託《くったく》なく言ったかと思うと、寝間着の肩をかき合わせながら出ていってしまった。
グレンはあきれた顔でしばらくそのまま座《すわ》っていたが、やがて、ニヤニヤと照《て》れ笑《わら》いを浮《う》かべながら、食器を片付《かたづ》けはじめた。
大粒《おおつぶ》の雨が霧《きり》にかわり、港町《みなとまち》ポートセルミをすっぽりと包《つつ》みこんだ。赤、青、黄、緑に橙《だいだい》。薄闇《うすやみ》ににじむ舟灯《ふなあかり》は、色とりどりの蛍《ほたる》となってまめまめしく飛《と》び交《か》っていたが、やがて互《たが》いにひとつに寄《よ》り集まりはじめる。止まった先が、埠頭《ふとう》である。岬《みさき》や海が夕闇《ゆうやみ》に沈《しず》みこむと、町の繁華街《はんかがい》の照明《しょうめい》がいっそうさえざえと輝《かがや》きだした。
『グレイトドラゴンと踊《おど》る宝石《ほうせき》亭《てい》』は、活気あふれる通りの中でも、特に賑《にき》やかな一軒《いっけん》だった。開けっぱなしの扉《とびら》や窓から、調子《ちょうし》のいい音楽と笑い声、うまそうな料理の匂いと渦巻《うずま》く紫煙《しえん》が途切《とぎ》れもなくあふれ、濡れた石畳《いしだたみ》の街路《がいろ》を忙《せわ》しなく歩く人々の目や耳や鼻を惹《ひ》きつけた。
ぎっしり並《なら》べられたテーブル席《せき》は、ほぼ満杯《まんぱい》だ。表通りに面した風通しのいい小卓《しょうたく》は、肩が触《ふ》れるたびにまごついたように微笑《ほほえ》みあう、こんな場所にふたりきりで出かけてきたのははじめてらしい若《わか》い男女に当てがわれ、暖炉《だんろ》脇《わき》の天井《てんじょう》の低い暗がりには、ひと目を忍《しの》ぶのか暑苦しい頭《あたま》飾《かざ》りをまぶかに引き下ろした金持ちらしい婦人と、新品のナイフのようにギラギラした瞳の青二才《あおにさい》が、膝《ひざ》と膝を寄せて何やらひそひそ相談《そうだん》ごとに余念《よねん》がない。こなたでは、何十年もそこに根を生《は》やしていそうな爺《じい》さまたちが勝った負けたとカード遊びに興《きょう》じており、あちらでは、何かの祝《いわ》いごとらしい家族づれ、赤《あか》ん坊《ぼう》から年寄《としよ》りまでが、湯気《ゆげ》をたてる馳走《ちそう》をにこやかに分けあっている。カウンターのまわりでは、追加《ついか》の飲《の》み物《もの》を求めて銀貨《ぎんか》を掲《かか》げた男たちと、待ち合わせだろうか、しじゅう伸び上がってはあたりを見回す手あいが、群《む》れては離れた。
高らかにラッパが鳴り、たちまち口笛《くちぶえ》とやんやの拍手《はくしゅ》、足を踏《ふ》みならす音が、混乱の店内をひとつにまとめた。高まる音楽とまばゆい照明の中、羽根《はね》飾《かざ》りを背負《せお》った踊り子が十人ばかり、軽《かろ》やかに舞台に登場する。甘《あま》い歌声と、お待ちかね、お色気たっぷりの軽芝居《かるしばい》。これに見とれて静まった座席《ざせき》の間を、すわとばかりに給仕《きゅうじ》たちが駆《か》け抜《ぬ》ける。魚貝の揚《あ》げたのだの、季節《きせつ》のシチュウのパイ仕立てだの、鱒《ます》の香草《こうそう》焼きだの。名物料理の数々が次から次へと通りすぎ、手近な人々の食欲をさらにいっそう煽《あお》るのだ。
「ちょっと、兄ちゃん! うちのはまだかい」
「はっ。ただいま、すぐに」
「このウナギ、もっとちょうだい。それと、ウズラのなんとかってやつも追加してよ」
「この前おいしかったアレ、アレは今日はないの?」
「はて、アレとおっしゃいますのは、なんでございましたでしょう?」
厨房の入り口から細長いからだをのぞかせて客たちの様子《ようす》をうかがっていたグレンは、満足そうに、にっこりとした。今日も立派《りっぱ》に繁盛《はんじょう》している。料理の評判《ひょうばん》も上々だ。若いものたちも張りきって、実にキビキビと働いてくれている。
この店に居ついて半年。最初は、メシなんざ安いが一番、客は女の子の脚《あし》を見に来るだけなんだぞと、買いだしの費用《ひよう》にうるさいことを言った支配人のベソットも、ようよう、しぶしぶ、グレンの腕を認《みと》めてくれつつある。船乗り相手の商売はたかが知れたが、頬《ほ》っぺたが落ちるほど見事な新作料理の噂《うわさ》には、遠くから上品な客がやって来て惜《お》しげなく金を払《はら》う。良い客が増えれば、さらに上客も得られる。気難《きむずか》しい歌姫《うたひめ》も自ら望んで働きに来る。遥か海の彼方《かなた》の町に住むというこの店のオーナー自身も、近々、寄ってみるつもりだと書状を送ってきたらしい。
そしてひとが集まるところには、噂も届く。居ながらにして、世界じゅうの情勢《じょうせい》を知ることができる。たとえば、ラインハットがどうなったか、近ごろ世間を騒《さわ》がしている光の教団とやらは、そして、あの小さな頑張《がんば》り屋《や》のリュカが、どこでどうしているかさえ……。
「料理長! すみません、ちょっと来てください。ソースが煮詰《につ》まりすぎました」
「いま行く」
グレンは我《われ》に返り、仕事場に戻った。かまどや調理台の作業のすすみ具合をひとしきり確かめ、手早く指示を与え、自らも包丁《ほうちょう》をふるい、鍋《なべ》の味見《あじみ》をする。その間にも、
「ピッキーのオーブン焼き、トマトリゾット、お任《まか》せサラダ追加です」
「蟹《かに》、ふたつ、出ます!」
「にこごりのスライム風、出払いましたぁっ」
うきうきとはりきった声は一瞬《いっしゅん》たりとも途絶《とだ》えることがなかった。
最初のステージがつつがなくおわり、舞姫《まいひめ》たちがさかんに投げキッスをしながら袖《そで》にひっこむと、それを潮《しお》に勘定《かんじょう》をたのむ卓《たく》が続いた。長いこと座る場所を探《さが》していた大勢が遅《おく》れまじと身じろぎをする。堪能《たんのう》して出てゆく客や、一刻《いっこく》もはやくいい席を占領《せんりょう》しようと願うもののこころづけで、給仕たちは両手もポケットもいっぱいになってしまった。入れ替わりの混乱に、店はまたひとしきりざわついた。
そんな中、ひとに押されて奥《おく》へ奥へと詰めているうちに、たまたま偶然うまいこと、席にありついた男たちがあった。つんつるてんの上着やら、かぎざぎだらけのズボンやら、ぼさぼさ頭にのっかった揃《そろ》いの祭《まつ》り帽子《ぼうし》やらが、なんともみごとに垢抜《あかぬ》けない、田舎者《いなかもの》の三人組だ。たまたま隣《とな》りあってしまった席の婦人などは、草っぱや泥《どろ》んこのこびりついた長靴《ながぐつ》で、せっかくのよそゆきの裾《すそ》を踏まれ、露骨《ろこつ》にいやぁな顔をした。
泥靴《どろぐつ》の持ち主である頬《ほお》のこけた若造《わかぞう》は、だが、店のしつらえだの、目の前を通りすぎる料理だの、ご贔屓筋《ひいきすじ》の席に挨拶《あいさつ》にやって来る半裸《はんら》の踊り子だのに目を奪《うば》われっぱなしで気づきもしない。こらたンまげたぁ、人がいっぱいだぁ、なんたらキレイなおなごだンベぇ、と、野良《のら》で牛でも呼《よ》び集めてでもいるかのような遠慮《えんりょ》のない大声で、注目を集める。
給仕たちは、すばやく目くばせをしあった。ショウという年かさの給仕|頭《がしら》が、肩をすくめて進み出た。田舎者たちの卓に気取った足取りで近づき、なにくわぬ顔で|品書き《メニュー》を示し、この上もなく慇懃《いんぎん》に、渋《しぶ》く響《ひび》きの良い声で、ご注文《ちゅうもん》は、と尋《たず》ねる。男たちは、みるからに愚直《ぐちょく》な頬をもう真《ま》っ赤《か》に上気《じょうき》させて、気まずそうにもじもじした。
「ピッキーのオーブン焼き、蠣《かき》のチャウダーなどが、本日のお勧《すす》めでございます。名物のにこごりのスライム風は、あいにく、ついさきほど切らしてしまいましたが」
「柿《かき》の茶《ちゃ》だあぁ? すんなの、いらねぇど」
「ひぇっ。ただの南瓜《かぼちゃ》の詰《つ》め物がこんただ値段《ねだん》だか! おっかあが聞いたら、腰ぬかすだ」
「しゃあんめぇ、オダオダゆな。へいっちまったんだ、なんか食わねば。おめも腹ペコだべ」
「なぁ、どだべ、金、たりっぺか?」
日頃《ひころ》声をひそめる習慣がないらしい。内緒《ないしょ》の相談《そうだん》にしては、あたりじゅうにまる聞こえだ。ショウは落ち着き払った笑顔《えがお》のまま、ご予算を伺《うかが》わせていただけましたら、こちらで見つくろいますが、と穏《おだ》やかに言った。男たちは、パッと顔を明るくして、ぴょこぴょこうなずき、さっそくに互《たが》いの懐《ふところ》やらポケットやらをひっくりかえしはじめた。バラバラの小銭《こぜに》が卓に広げられ、ひい、ふう、みい、と数える声も騒《さわ》がしい。
遠くから見ていた手すきの給仕たちは、苦笑《くしょう》まじりにささやきあった。
「あきれたね。ひでぇ田舎《いなか》モンが紛《まき》れこんできたもんだ。さすがのショウも困ってるよ」
「払えんのかなぁ。うちは町じゃそう高いほうじゃないけど、田舎とは違うからなぁ」
「いや、ほら。……見ろよ、あれ」
田舎者のひとり、額《ひたい》の禿《は》げあがった年かさらしい男が、膝の間に抱《かか》えこんだ重たげな革《かわ》の包《つつ》みに手をつっこむと、慎重《しんちょう》に何かをつまみ出した。錆《さ》びたバラ銭の上に、真新しい十ゴールド金貨が燦然《さんぜん》と輝く。
「へぇ。あれが全部金貨だとすりゃ、ひと財産《ざいさん》はあるぜ」
「畑でも売っぱらってきたのかな」
「まさか踊り子を引き抜きに来たんじゃないだろうね」
「こら。皿《さら》がたまってるぞ」
「あ、料理長」
「すんまっせん、いま、運びます」
素早く散る給仕たちを見送り、もう一度店内を見回して、グレンはふと眉《まゆ》を曇《くも》らせた。すれ違うショウに目もとめず、緊張《きんちょう》した様子で無言のままに歩きだす。
いつのまにか、田舎者たちのど真ん中に剣呑《けんのん》な奴《やつ》が座りこんでいる。若い娘《むすめ》でもためらうほど鮮《あざ》やかな真紅《しんく》の上着の大男。港町の暗がりに巣くうゴロツキどもの一派《いっぱ》、通称《つうしょう》『山賊《さんぞく》ウルフ』の頭目《とうもく》だ。潰《つぶ》れた蟹《かに》のような扁平《へんぺい》な顔、眉と髭《ひげ》と揉《も》み上げがつながり、耳の穴《あな》も、手の甲《こう》も毛むくじゃら、人間とは思えないほどの巨漢《きょかん》である。金貨の袋《ふくろ》を持った男の肩に親しげに腕をまわし、額のつるりと禿げた部分をピシャピシャ音高く叩きながら、なにやら話しかけては、がはがはと笑っている。垢抜《あかぬ》けない三人組は茫然《ぼうぜん》と青ざめ、萎縮《いしゅく》してしまって声もない。
ほかに四、五人のチンピラが、油断《ゆだん》なくまわりを囲み、静かな脅《おど》しをかけている。棘《とげ》道具《どうぐ》をはめた手を卓についてきらめかせるもの。小さなナイフで爪《つめ》を毟《むし》るもの。隣の卓の少女のケーキを奪《うば》って、みせびらかしながらねぶってみせる奴までいる。泣きだしかけた少女の手を取って、青ざめた親が席を立った。賑《にぎ》わった店のそこだけが、奇妙にぽっかり空白になる。
立ちつくすグレンを見とがめて、声をかけたのは、真紅の上着の頭目《とうもく》だ。
「なんだ料理人。注文はすんだぞ」
「……こちらは、お連れさまで?」
グレンは頭目を無視《むし》して、その腕の中の男に話しかけた。彼は黙《だま》って唇を震《ふる》わせた。ただ、その眸《ひとみ》は、そんなはずがないだろう、なんとかしてくれと、せつせつと訴えている。
「そうなんだ。旧友《きゅうゆう》でね」
赤服の男がいけしゃあしゃあと笑ってみせた。
「このジョン作《さく》とは、かれこれ百年ぶりに逢《あ》ったのさ。せっかくだから、一緒させてもらうことにした」
「う、う、うそだっ!」
泥長靴の痩《や》せた若者が、叫《さけ》ぶように言った。例《れい》の地声の大声だ。
「こんただ奴ぁ知らねぇし、おとうの名前はジョン作じゃねぇ! カボチ村でも一番の芋掘《いもほ》り名人、モンタスっていやぁ、少しは知られた……あっ、痛たた、なにするだっ!」
「騒《さわ》ぐんじゃねぇ」
赤服が笑った。チンピラふたりが若者の腕をつかんでねじっている。ムッと怒《いか》りに顔を染《そ》めた若者が何か言いかけると、チンピラどもがすかさず足ばらいをかけた。ひどい音がした。若者は食卓に顎《あご》をぶつけ、か細い呻《うめ》きを洩《も》らした。
「ひどいことをする」
グレンはそこではじめて、頭目の瞳《ひとみ》を見すえた。
「揉《も》めごとはごめんだ。ほかのお客さまがたにも迷惑《めいわく》です。おひきとり願いたい」
「てやんでぇ。俺だって客だ。この田舎っぺどもとは違って、イチゲンでもねぇ、かねて贔屓《ひいき》にしてやってるだろう。文句《もんく》があるなら、それ、あれを呼べ、支配人の、なんとかいうのをよ!」
頭目はニヤニヤするばかりで、少しも動かない。チンピラどもはいつの間にか、グレンの背後《はいご》やら左右やら、周囲四方に散らばって、それぞれ隙《すき》なく身構えている。いつの間にか音楽もやみ、店じゅうがしんと静まりかえっている。背中にひやりとしたものを感じながらも、こうなっては、グレンも引けない。
「支配人を呼んでこい」
近くで聞いているだろう給仕の誰《だれ》にともなく言いながらも、目は頭目から離さず、
「ご懇意《こんい》にしていただくのは大変けっこうですが、お代をいただいたことは、ただの一度もないように記憶《きおく》します」
「そうだっけかな」
「支配人とどういうご関係か存《ぞん》じませんが、わたくしとしては、そのようなかたは、お客さまとは言いかねる」
「ふふん、だったら? どうする」
火打ち石同士のぶつかるように、頭目とグレンの視線《しせん》が交《まじ》わった。その刹那《せつな》。
「……あの……お酒をお持ちしましたが」
振り向くと、ショウが、酒《さけ》盃《さかずき》を満載《まんさい》した盆《ぼん》を抱《かか》えて、何食わぬ笑《え》みをとりつくろっている。グレンは咎《とが》めるようにショウを見たが、頭目はニヤリとした。
「よこせ」
偉《えら》そうに手を振る。チンピラどもがわずかに身をひいて道をあけた。進みでたショウが、突然、のめった。カボチ村の若造がこの隙に逃げようともがいたとたん、長靴でショウの脛《すね》を蹴《け》ってしまったのだった。固唾《かたず》をのんでいた店じゅうが、あっと声をあげた。
グレンはとっさに、転びかけたショウを庇《かば》おうと身を泳がせた。そのために、落ちかかる盆を押しのけ、座ったままの頭目に向けて投げ放つような恰好《かっこう》になった。がしゃがしゃと陶器《とうき》が鳴り、盆が落ちた。顔じゅうずぶぬれに酒をあびせられた頭目が、ぶるっとひとつ頭を振るうと、たまさかぶあつい鼻の頭の肉にスッポリはまりこんでいた盃が、ぽとりとはがれて落ちた。
頭目《とうもく》は、鬱蒼《うっそう》たる髭《ひげ》の隙間《すきま》から長い長い舌《した》を伸ばして、あたりを嘗《な》めまわし、ニタリとした。
「……くぉの……やろおがぁっ!」
青筋《あおすじ》たてて立ち上がる頭目が卓をひっくりかえす先から、グレンが飛びのく。ショウが盆をひろってチンピラの頭を打ちつける。ナイフが閃《ひらめ》き、椅子が叩きつけられた。グレンは殺到《さっとう》する腕《うで》をかいくぐり、向かってくる奴の肩さきを肘《ひじ》やら拳骨《げんこつ》やらでつっぱなす。が、他愛《たあい》もなくひっくりかえって、腰《こし》のあたりを痛めたか、仰向《あおむ》けにされた蛙《かえる》のようなひどい姿勢《しせい》のまま呻《うめ》く相手をよく見れば、なんと、支配人ベソット。
「ジュ、ジュリオさま、ジュリオさま!」
あわてて差し出したグレンの手を邪魔《じゃま》そうに払《はら》いのけて、支配人は叫び、床《ゆか》に手をついた。
「どうか、どうかひとつ! ここはわたくしの顔をたてて! ジュリオさま」
どうもそれがかの赤服の名前らしい。服の趣味《しゅみ》といい、名といい、なんとちぐはぐな奴だろう。思わず苦笑《くしょう》を浮《う》かべたグレンは、いきなり後ろから蹴《け》りつけられ、棘道具で頬《ほお》げたをはられて、床に倒れた。すかさず頭目、グレンの背に足をかけ、体重をかけて押さえつける。
「はははは、ざまをみろ! 俺さまに逆《さか》らうとこうだ。思い知ったか!」
グレンは起きようとした。が、頭目の巨体《きょたい》はいっかな動かない。肋骨《ろっこつ》が軋《きし》み、肺《はい》が潰《つぶ》れた。
ベソットはチラリと心外そうにそれを盗み見ただけで、ジュリオに歩みより、さかんにお追従《ついしょう》を言う。自らの手や服の袖《そで》で、酒に濡《ぬ》れた衣服をそそくさと拭《ふ》き改める。ポケットから、なにやら金色に光るものも出し、さあさあどうぞどうぞと、相手の拳《こぶし》からあふれるほどに握らせもする。
「ふん、おまえはいい。おまえにはなんにも遺恨《いこん》はないが」
ジュリオとやらは、金貨をじゃらじゃらとポケットにいれながら、グレンの背をなおぎゅうぎゅうと踏みつけにして、ふん、と鼻を鳴らした。
「この糞《くそ》生意気《なまいき》な野郎《やろう》の始末《しまつ》を、どうとるね?」
「馘首《くび》にします、もちろん、即刻《そっこく》!」
金切り声で叫んだ支配人に、静まりかえっていた客たちが、不平そうにざわりとした。ひどいわ。そりゃ可哀相《かわいそう》だ。誰とはつかぬささやきももれた。ベソットは迷《まよ》った。評判《ひょうばん》の料理人を人前で見捨《みす》ててもいいか。だが、献立《こんだて》やら料理のコツやらは、下働きのものたちも少しは覚えているだろう。ここで山賊ウルフの不興《ふきょう》を買って、夜ごとに暴れまわられたのでは、店そのものが立ちゆかぬ。
ベソットは覚悟をきめ、蕩《とろ》けるような笑顔を作って、頭目にうなずいた。
「ええ、すぐに馘首《くび》にしますとも」
「馘首《くび》か」
頭目ジュリオはぐったりしたグレンの髪をつかんで引き起こした。
「じゃあ、こやつは俺がいただいて帰るぜ。うちの破れかまどで、どんな料理を作ってくれるものか、見てやろうじゃねぇか。わっははは……おっと、そうだ」
髭だらけの顎をぬっと伸ばすのを見て、忘れているようなら黙って隠《かく》し盾《だて》となっておいてやろうと人垣《ひとがき》を作っていた給仕たちも、あわててサッと割れた。おかげで、カボチ村の三人は、互いに抱きあい、膝をすくめ、頭を両腕に抱えこんで、震えている姿をさらけだしてしまった。にたりと笑った頭目は、迷わず、名高い芋掘り名人の股《また》ぐらに、太い腕をむんずとつっこんだ。あひっ、と悲鳴が洩《も》れたが、抵抗らしい抵抗のできようはずもない。金袋の紐《ひも》は、素早く頭目の指にからめ取られた。じゃん、じゃん、と音をたてて、袋の重みを確かめたジュリオは、眉尻《まゆじり》をさげて、機嫌《きげん》のいい声を出す。
「ありがとうよ、ジョン作。また、こういうみやげ、持ってきてくれよな」
ちんぴらたちが素早く人を払って道を拓《ひら》く先を、ジュリオは床のグレンの襟髪《えりがみ》をつかまえ、乱暴に引きずりたてながら悠然《ゆうぜん》と歩きだした。息を殺し、身うごきもせず、目立たぬよう、視線をあわせぬよう、汗《あせ》をかいている店じゅうの男や女に、優雅《ゆうが》ともいえるほどの会釈《えしゃく》をして、どうもお騒《さわ》がせいたしまして、などと言い放つ。
「みなさまがた。今後とも、我ら山賊ウルフを、どうぞご贔屓《ひいき》に、へっへっへ」
「ちょいと! 待ちなっ!」
高いところから鋭い声が飛んだ。居合わせた全員がふりあおぐ二階のテラスから、ぴかぴか光る衣裳《いしょう》のままの美貌《ひぼう》の踊り子クラリスが、いまにも落ちそうなほど乗り出している。両側から、仲間の踊り子が押さえて黙らせようとしているが、止まらない。
「誰かなんとかしたらどうなのっ。ここにはほかに男はいないの! どうしてそんな無法者《むほうもの》たちをのさばらせておくのよッ!」
「綺麗《きれい》なねーちゃんよ」
ジュリオは福々《ふくふく》しいといってもいい笑い顔のまま、首をかしげ、指をたてて、ちっちっ、と振った。
「よくねーぜ、そういう態度《たいど》は。あんたにそのオッパイと同じぐらいご立派なアタマがあったらわかるだろう。このポートセルミで、俺さまに逆らうと、どういうことになるか、あーん?」
「怖《こわ》かないよ、あんたなんか」
クラリスは靴を脱いで投げた。それは、ジュリオには当たらなかったが、踊り子たちに見とれてぼーっとしていたチンピラのひとりの頭にあたって、ぽんと跳《は》ねた。はらはら見守る店じゅうに、思わず知らず失笑《しっしょう》も洩《も》れる。
「でかいずうたいしやがって、弱いもんいじめかい。人間ばなれしたその顔じゃあ、さぞふた親を恨《うら》んだろう。女にモテないからって、雑魚《ざこ》引き連れて親分気取り。へっ、山の狼《おおかみ》が聞いて呆《あき》れら、おまえなんか、山賊ブタクジラとでもいうがいい!」
「……むうっ……」
毛むくじゃらのジュリオの顔が、みるみる真っ赤になり、頭のてっぺんから声が出た。
「……あのあま……ひきずり降ろしてこいっ!」
たちまちチンピラどもが走りだし、波のように人垣が割れた、上のクラリスがあわてて身をひるがえそうとした、そのとき。
「おー、ここが噂《うわさ》の『グレドラ亭』か」
「開いててよかった。もう、お腹ぺっこぺこだよ」
店の正面口から、いとものんびり楽しげな声がし、男がふたり、ぶらりと入ってきたのである。
ひとりは、ジュリオにも負けず劣《おと》らず体格のよい裸胸《はだかむね》に、獣皮《けものがわ》のチョッキと、鋲《びょう》を打ちつけた黒皮の飾《かざ》りをまとったばかりの壮年《そうねん》。ひとりは、ターバンもマントも異国風の上品な紫紺《しこん》、痩肉《やせじし》ながら骨太《ほねぶと》の、凛々《りり》しくも美しい顔だちの若者である。船で到着したばかりなのか、それぞれの肩には大きな荷が見える。
二、三歩踏みこみかけて、ようやく、異様な雰囲気《ふんいき》に気がついた。物も言えぬまま、じろじろと、あるいは、せつなげに、ただ見つめかえすばかりのひとびと。
「ん? ……なんだぁ?」
「何かあったのか」
いぶかしげに、立ちつくす人込みを見回した若者の目が、赤服の大男を見つけ、その手に無様《ぶざま》にひきずられかけた長身の姿を見とがめ、あっ、と大きくなった。
「グレンじゃないか!?」
なかば失神《しっしん》していたグレンも、呼ばれてうつつにかえった。血のついた顔を怪訝《けげん》そうにあげ、声の主《ぬし》を見分けて、たちまち、ぱぁっと笑う。
「ど、ドゾブ! ……リュカじゃないか!」
「ははぁ」
ドゾブは荷物を落とし、あつぼったい唇を不気味な笑《え》みに剥《む》きながら、赤服の頭目に、ずかずか歩み寄った。
「察するに、おまえさんが主謀《しゅぼう》だな」
「なんだてめえは」
ジュリオは顎を引いた。いつも誰よりも頭ひとつぐらいは大きいので、ほとんど同じ高さから睨《にら》みつけられると、どうも勝手が違う。
「俺かい。俺ゃ、船漕《ふなこ》ぎドゾブってもんだが。おめえさん、ずいぶん腕がたつようだな」
「ほっときやがれ」
「それがなぁ、ほうっておけないのさ。そこの料理名人と俺とは大の親友でね」
ドゾブは鋲つきの皮帯をはめた両手をあわせて、ぽきぽきと鳴らした。かと思うと、目にもとまらぬ速さで殴《なぐ》りかかった。頭目はあっという間もなく、椅子《いす》や卓を巻きこみながら倒れふし、床に、がつん、と頭をぶつけた。
「おかしらっ」
「ジュリ……うあ」
ドゾブの背に飛びかかろうとした手下のチンピラどもは、音もなく前を横切った目映《まばゆ》い光に、ぎょっとして凍《こお》りついた。彼らの鼻先には、二本の剣《けん》がつきつけられていた。鋼鉄《はがね》も青い抜き身の剣と、鞘《さや》のままの宝剣《ほうけん》。二本で四人、ぴたりと押さえる。
「邪魔《じゃま》をするな」
若者は言った。静かな声だったが、その華奢《きゃしゃ》な全身のはなつ裂帛《れっぱく》の気合いに、チンピラどもは、手足がわなないて、まともに立ってもいられない。端からへなへなと、座りこんでしまう。若者はあどけないほどの微笑みを浮かべ、剣を納《おさ》めた。
グレンが立ち上がり、コック帽《ぼう》で顔を拭《ぬぐ》いながら歩いてくる。脚《あし》をもつれさせて、ふらっと倒れかかるのを、若者がちょうどうまいこと助けとめる。しばらく互いの目と目をじっと見交わしたかと思うと、ふたりは、物も言わず、ひし、と抱きしめあった。
「なるほどね」
二階の手すりに頬《ほお》づえをついて、クラリスはため息をついた。
「あんた、そういう趣味だったの」
そのころジュリオは、ぐらつく頭をどうにか立てなおし、両手を床について座りこんだ。べっ、と吐いた血泡《ちあわ》の中に、折《お》れた歯のかけらが混じっている。
「まだやるか」
ドゾブが笑いながら言う。山賊ウルフの頭目は、ぎゃあおっ、と人ばなれした声をあげて飛びかかった。大男ふたりの格闘《かくとう》に、卓は壊《こわ》れ、食器は割れ、クロスは裂《さ》け、酒や料理が舞い飛んだ。
客たちは最初|戸惑《とまど》っていたが、楽団《がくだん》が景気《けいき》よく浮かれた曲を演奏《えんそう》しはじめると、にわかに活気づいた。二階のテラスでは鈴《すず》なりになった踊り子たちが、紙吹雪《かみふぶき》や花を散らしてきゃあきゃあ騒ぎ、子供は肩車《かたぐるま》されるわ、おとなは手近の卓に乗っかるわ。給仕たちまで、配る予定の酒をあおって、勝《か》ち鬨《どき》をあげる。
ドゾブがジュリオを投げ飛ばす。やんやの喝采《かっさい》。振り上げた卓は、飛び蹴《げ》り一発。ファンファーレ。割《わ》れ皿《さら》の破片《はへん》を構えて突進《とっしん》する猛牛《もうぎゅう》のごときジュリオを、布を構えたドゾブが、闘牛士《とうぎゅうし》めいたポーズでサッと避《よ》ければ、ドッと歓声《かんせい》に笑い声。中でもいちばん喜んでいたのは、もちろん、カボチからやって来た、あの三人組である。ジュリオが弱ってゆくたびに、あたりかまわず抱きついて嬉《うれ》しがる。例の奥《おく》さんなど、すかさずキスまでされてしまった。
その大喜びの人々の足許《あしもと》から、四つん這《ば》いになってこそこそと逃げ出そうとするものがあった。給仕のショウが目ざとく捕《つか》まえて、グレンを呼ぶ。支配人ベソットだ。グレンを見ると、支配人は急に居丈高《いたけだか》になって、ふんぞりかえって、なにやら言いかけた。が、無言のままのグレンに腹《はら》を一発なぐられて、ひとことも口にせぬまま、あえなく昏倒《こんとう》する。ショウの、いつも何ごとにも動じぬ取りすました顔が、このとき、はじめて、赤ん坊のように本心からニッコリしてみせた。
やがて、決着の時が来た。ドゾブの鉄拳《てっけん》に低い鼻をますますもぐりこませた赤服ジュリオは、バッタリと前のめりに倒れて正体《しょうたい》をなくした。踊り子たちが、金銀のテープを投げるのに、ドゾブは、手を振って応《こた》える。チンピラたちが、促《うなが》されて、気絶《きぜつ》した頭目を抱えて逃げ去ると、給仕たちが急いで酒を配り回り、みんなそろってお祝いの乾杯《かんぱい》が二度三度。その後、誰に促されてか、楽団が蛍《ほたる》の光を演奏しはじめたので、客たちもあわてて帰り支度《じたく》をした。子供もおとなも、すっかりいい気持ちで、わざわざグレンや、ドゾブの手を握りしめ、良かった良かったと涙まじりに言ってゆくものもある。前からあいつは懲《こ》らしめてやらなきゃイカンと思っていたんだよ、などと、肩を抱いて嬉《うれ》しがる。その潮《しお》もやがて去った。
音楽が途切れ、灯《あかり》が消され、扉が静かに閉められた。急に夢から醒《さ》めたような店じゅうの混乱を、給仕や調理係たちがせっせと片付けはじめた。
そんな店の片隅《かたすみ》の、手早く用意された卓で、今宵《こよい》の英雄《えいゆう》たちは、もともとの原因となった村人たちと、ささやかに宴《うたげ》を張った。クラリスほか、二、三人の踊り子がいつの間にか着替えをすませて、くつろいだ様子で酌《しゃく》をする。みなすっかり空腹《くうふく》だったので、ありったけの料理を、次々に平《たい》らげ、酒も進んだ。一段落《いちだんらく》すると、満腹《まんぷく》にひとのよさげな顔をすっかり緩《ゆる》めた村人たちは、急に真面目顔《まじめがお》になって、互いに目を見|交《か》わし、うなずきあった。
「実は、ここに、千五百ゴールド……いや千四百九十ゴールドあるだ」
ジョン作、いや、芋掘り名人モンタスが、グレンの前に、金の袋を押しやった。
「今日のお礼ってわけでねぇ、実は、こりゃ、頼みてえ仕事の、半分の前金だんだ」
「もしか、うまくいったら……ひっく! ……あと千五百と十《じゅう》だ。な、とっつぁん」
モンタスの息子《むすこ》が、慣《な》れぬ深酒《ふかざけ》に多少|呂律《ろれつ》がまわらなくなりながら、割って入った。
「んだ。慣れねぇ金を持たされてヒヤヒヤだったが、こさ来て、あんたらに出会えたのは、まったくありがてぇ偶然だ。もーすこしで、ただあの無法者だに取られっちまうとこだったものなぁ。ほんに、ほんに、すまねがった。助かっただ」
「頼みたい仕事って、いったい何なんです?」
と、グレン。
「ばけもの退治《たいじ》だ。おっかねぇ怪物《かいぶつ》が、おらったの村のそばさ、住み着いてしまっただよ」
「いづ来るかわがねべす、畑さも出らえね。このまんまじゃカボチは、はぁ、みんなまどめて飢《う》え死にだ。ほんで、村長さんさ言われて、みんなしてあり金かき集めただ」
「港町だら人がいるだて、退治してくれそーな腕っぷしのひとを探しに来ただ。あんたらなら、ほんとに強えし、なんたって信用できる。引き受けてけろ、なっ」
リュカ、ドゾブ、グレンは顔を見合わせた。
何か言いかけたドゾブを手で制して、リュカが言った。
「怪物って、どんな奴なんです? 魔物なのかい?」
「すりゃ魔物だぁ。六本足で、火い吹《ふ》く牛だ」
「へっ牛だと? 牛なわけねーべ! ありゃ鳥だっけよ。空飛んでくるだもの」
「おら、獅子《しし》だと思ってた。金色い眼《め》ぇして、つららみてぇな牙《きば》のある」
「嘘《うそ》こけぇ、おめ何回見た。おら、もう七度は見ただぞ」
「遠くからだべっ。おれ、茅《かや》刈《か》りしてらとき、すぐそばさ来られただぞ。火の息がケツさあたって、どでんして振り返ったら、はー、こんただでっかい口がぱっくりあいててよー、生きた心地がしねがった」
「とっつぁん、とっつぁん。その話はもう三十回も聞いただよ。そんで、おっかねぇあまりうっかり屁《へ》ぇこいたら、怪物あわてて逃げてったっちゅーんだろ」
「はははは、そんだそんだ。カボチの男も大勢いるが、怪物《かいぶつ》さ屁ぇかがしたんは、このおれっちぐらいだべー」
三千ゴールドも払おうという割《わり》には、特に怪我人《けがにん》も出ていないらしいな、とリュカは考えた。ただの獰猛《どうもう》な獣《けもの》でも悪辣《あくらつ》な魔物でもなさそうだ。なぜ、なんのために、村人に近づくのだろう? 金が欲《ほ》しいわけではなかったが、もともと店がこんなになってしまった原因《げんいん》は、言っては悪いが、この村人たちだ。弁済《べんさい》費用《ひよう》に当てれば、グレンが助かるだろう。
「よし」
リュカは決心した。
「ぼくが行ってみるよ。ドゾブは残って。あの、でっかい奴がまた来るといけないから」
「それもそうだな」
「へ? あんたひとりで来るだか? たったひとりで?」
びっくりするモンタス。
「ああ。いや、ひとりじゃ行かない。……実は、外に、ほかの仲間もいるんだ。心配いりません」
「そうか。んだらいい! したら、用意っこできだら、カボチ村さ来てけでや。カボチはここから、ずーっと南だ。おらった、先にけーってるべす」
「今晩《こんばん》くらい、ここに泊《と》まっていったらどうです」
と、グレン。
「部屋《へや》なら、ありますよ」
「んにゃ、宿《やど》はもう取ってあるだ。おたくさまには、はぁ、これ以上ご迷惑《めいわく》はかけられね。村さ帰ったら、みんなによく言うだ、もしか一生のうちでもポートセルミさ行ぐこどがあっだら、何をおいてでもこの店さ寄るべしって。食ったことねぇほどうめぇもんたらふく食えるって、はぁ」
「ああ。カボチからだって言ってくだされば、きっとおもてなししますよ」
「そんじゃ。たのんます、たのんます」
何度も何度も会釈《えしゃく》しながら、三人は店を出ていった。不案内《ふあんない》な村人たちのために、ショウと踊り子たちが、宿まで送っていった。
……その少し後《のち》。
片付けられた卓の上には、燻《いぶ》した樫《かし》に銀の座金《ざがね》を打ちつけた小さな手箱《てばこ》がただひとつ開かれていた。小動物の生皮《なまかわ》らしい白いものがザッと巻いて束《たば》ねてある。
「……これが、パパスさんの置《お》き文《ぶみ》か」
グレンはリュカを見た。リュカが黙ってうなずくと、料理人は、黙礼《もくれい》し、そっと巻き皮を取りあげた。ドゾブが手燭《てあかり》を近づけてやる。
[#地から4字上げ]白鹿星座《カルメリーク》の五七年 |柔暮の月《ルテンバー》 |犬太刀の日《ヤラムーク》  父しるす
我が子リュカよ。おまえがこれを目にしたからには、儂《わし》はすでにこの世になかろう。どんな死に方をするやら計《はか》り知れるものではないが、どうせろくなことではあるまい。
おまえはいくつになったか。からだは丈夫《じょうぶ》か。満足な暮《く》らしをしているか。父は案《あん》ずる。誰《だれ》より幸福であってくれと願う。が、この文《ふみ》は、無垢《むく》なおまえを、安穏《あんのん》な日常から修羅《しゅら》の巷《ちまた》に追いやるもの。もし、いま、おまえにその覚悟《かくご》がなければ、この先は読まずに焼くを勧《すす》める。そして儂のことなど忘《わす》れてしまえ。
恥《は》じることはない。人間だれでも、その身の丈《たけ》にあった暮らしをするが正しい。おまえに戦士の魂《たましい》なくば、この先は、言うも詮《せん》なき老兵《ろうへい》の愚痴《ぐち》と読めよう。知りたくもないことを知ることになろう。父はおまえに自嘲《じちょう》や苦しみを強《し》いるものではない。
どうだ。聞くか。
……では、告《つ》げよう。
リュカよ。世界は危機《きき》に瀕《ひん》している。邪悪なるものたちが、暗黒の魔界の扉を開き、この地上を我がものにしようと企《くわだ》てている。それは、儂やおまえにも、関係のないことではない。なぜなら、その計略《けいりゃく》の内には、ほかでもない、おまえの母マーサが含《ふく》まれているからだ。
若かったころ、魔物たちとの戦いに傷つき仲間とはぐれた儂は、とある不思議な村にさまよいこみ、そなたの母に出会った。彼女は聡明《そうめい》で美しく、女鹿《めじか》のように繊細《せんさい》だったが、すでに、村で最も権威《けんい》ある巫女《みこ》の座《ざ》を与えられていた。彼女は真実を見通し、予言をした。人や野の獣《けもの》はもちろん、魔物たちとさえ心を通わせる無垢《むく》な魂の持ち主でもあった。
我々は愛しあい、彼女はおまえを身ごもった。だが、そのことが知れると、村人たちはひどく怒《おこ》り、儂を追いだそうとした。儂らは手をたずさえて逃げだした。そしておまえが生まれた。だが、幸福の時はぷつりと切り閉ざされた。ある夜、突如《とつじょ》、魔王の使者どもが、彼女をさらっていったのだ。
そのことを……闇の軍勢がその身に迫《せま》りつつあることを、彼女ははじめから知っていたのではないかと思う。実は、だからこそ、生まれた村が戦いに巻きこまれぬよう、神聖な役目持つ人々が傷つかぬよう、ひそかに身を隠《かく》す必要があったのではないかと思う。そして、この儂とて、結局は彼女の身を守りきることができぬということさえも、あらかじめ知りながら……彼女は時を稼《かせ》ぎ、邪悪のものたちの追及《ついきゅう》の手が届かぬうちに、そなたをこの世に残したのだ。
そう、リュカ、おまえだ。おまえこそ、母の、そして父の、最後の希望なのだ。
リュカよ。伝説の勇者《ゆうしゃ》を捜《さが》せ。天空の武器、防具を集めろ。その名を頂《いただ》いた不思議の装備《そうび》を使いこなすことができるもの、それが勇者だ。そして能《あた》うならば、息子よ、勇者と共に戦え。母を救いだし、邪悪のものたちを滅《ほろ》ぼせ。それが父の願いだった。けして叶《かな》わぬ願いであるのだと覚悟している。
父に果たし得なかったことがら、成《な》し遂《と》げられなかったことがらを、おまえがもし引き継いでくれるならば、儂の生涯《しょうがい》も、無駄《むだ》ではなかったことになるはずだ……。
忘れていた呼吸《こきゅう》をひとつ洩《も》らして、グレンが目をあげると、リュカが鞘《さや》のままの剣をひとふり、さしだしているのが見えた。金とも銀ともつかない、不可思議な光を帯びた金属でできている。柄《つか》には、複雑な紋章《もんしょう》の中央に、鮮やかな緑色の貴石《きせき》が飾りとめられている。
「天空の剣《つるぎ》です」
リュカは言った。
「父は、世界じゅう旅《たび》をして、ようやくこれを見つけ、サンタローズのある場所に隠したんです。その、手紙と一緒に」
グレンはうながされて、手にとってみた。
「抜けない……?」
「ぼくにも抜けなかった」
リュカはかすかに微笑みながら、目を伏《ふ》せた。
「サンタローズの村長によれば、父にも、やはり抜けなかったらしい。悔《くや》しかったでしょうね……こいつに触《ふ》れることによって、はじめて、自分が、けして伝説の勇者ではないってことを、はっきりと思い知らされてしまったのだから……」
「がっかりするない」
ドゾブはリュカの肩に手をかけた。
「おめえの伝説は、これからつくればいいじゃねぇか。パパスさんだって、ここまでやったんだ。あと、なんだ、兜《かぶと》と、盾《たて》と、鎧《よろい》だってか? たった三つだろ。見つかるって。大丈夫《だいじょうぶ》。俺たちも、できるかぎりの協力はするしよ。親父《おやじ》を踏んで越えてゆけ、それでこそ男だぞ!」
「そういえば」
グレンが口をはさんだ。
「ラインハットに送った手紙にも書きましたが、せんだって、パパスさんのお知り合いらしい親子がうちにお泊まりになりましてね」
「親子?」
「恰幅《かっぷく》のいい紳士《しんし》と、きれいな娘さんでした。なんでも、かつては、やはり宿を経営していたことがあるとか。働きもののお女将《かみ》さんが亡《な》くなってしまったので、今は鄙《ひな》びた村で静かに暮らしていると……話しこんでいるうちに、パパスさんの名が出たのです」
「ダンカンさん親子だ」
リュカは目を細めた。
「元気そうでしたか。鄙《ひな》びた村ってどこなんです」
「おふたりとも元気でしたが、おすまいのことはよく聞きませんでした。きっと、またいつか、おいでになりますよ。誰かに頼まれて伝説の勇者を捜しているという学者が来たこともあります。珍しいものを商《あきな》う商人たちはもちろんのこと。今日からは、その天空の盾などの噂《うわさ》に、よく耳をすましておきますよ! 港町には、いろんな人間が通りがかりますから、そのうちにきっと何かいい知らせが入るでしょう。……ねぇ、リュカ、そんな顔をしないで。世界の危機とやらを膚身《はだみ》に感じているものも、多くはないけれど、あちこちに確実にいる。だいじょうぶ、きみはけしてひとりぼっちじゃない」
「……そうだね」
リュカは寂《さび》しげに笑った。
「ぼくも、オラクルベリーで、不思議なお爺《じい》さんにあった。いきなり呼び止めて、おまえ気づいてるか、魔物使《まものつか》いの相《そう》が出てるぞって……思えばそれは、母のマーサの血筋《ちすじ》のしるし……あっ、そうだ。グレン、すまないけど、少し食べ物を包《つつ》んでもらえないかな」
「カボチへの旅糧《かて》ですか。少しぐらい眠ったらどうです。起きるころまでに、携帯《けいたい》に便利なもの、いろいろと用意しておきますから」
「いや、余《あま》りものでいいんだ。でも、いますぐ欲しい」
リュカはひらりと立ち上がった。
「ほかにも仲間がいるって言ったでしょう。少々変わった風体《ふうてい》の連中なんでね、こんなきちんとした店に連れて入ったら、ひと騒動《そうどう》になっちゃいそうだったから……町はずれで待ってもらってる。もう寝てるかもしれないけど、飯《めし》ぐらい届けてやりたいんだ」
「いいから連れてこいよ」
と、ニヤつくドゾブ。
「こんな夜更《よふ》け、もう誰も歩いてねぇよ。な、いいだろう、グレン。最初はギョッとするかもしれないが、リュカの連れってーのがみんな、けっこう、面白《おもしろ》い連中でよ」
「リュカのともだちなら、大歓迎《だいかんげい》です」
なにげなく言ったグレンだったが。腐った死体のスミスににっこり挨拶《あいさつ》されたときには、あえなく失神してしまったのだった。
夏を迎《むか》えて、日の出は早く、日の入りは遅かった。
賑《にぎ》やかな港町の灯《あかり》を背《せ》にして一刻も歩けば、あたりは見渡《みわた》す限《かぎ》り緩《おだ》やかな丘《おか》、低くうねりながらどこまでも続くヒースの大地となる。この大陸の北部に冠《かん》せられたいにしえの名はルラフェン、広い版図《はんと》のわりあいに、人口は乏《とぼ》しかった。東の海沿《うみぞ》いの低地一帯は、不毛な赤土層《あかつちそう》に厚《あつ》くおおわれていて耕作《こうさく》には適《てき》さない。西には峻厳《しゅんげん》な山がそびえたち、世界の水瓶《みずがめ》と呼ばれる大滝が隠《かく》されている。辺境、といってよいだろう。ただ、大きな港を持つポートセルミの町ひとつだけが、例外的《れいがいてき》に賑わっているだけなのである。
この季節はまた、うっとおしいほどに雨が多かった。朝には霧《きり》、昼には小雨《こさめ》、夕暮れともなると、渦巻いた雲の間に稲妻《いなずま》も光る。薄黒い雲がもくもくと立ちのぼれば恐ろしい竜巻《たつまき》の前兆《ぜんちょう》であり、ひとたび天候《てんこう》が荒《あ》れれば、半月もの間、太陽を拝《おが》めぬことも珍しくない。
通るものの少ない街道《かいどう》は来る日も来る日も降りしきる雨にしとど濡れそぼって底知れぬ軟泥《なんでい》の帯《おび》と化し、凹地《くぼち》という凹地は赤褐色《せきかっしょく》の不気味《ぶきみ》な水たまりとなって足を阻《はば》んだ。歩くものは一歩ごとに粘《ねば》りつく大地と戦わなければならず、馬車はたびたび轍《わだち》を取られて立往生《たちおうじょう》する。たっぷりと湿り気を帯びた空気は夜にはそよとも動かず寝苦しく、そのくせ、明け方になると、息も白くなるほどうすら寒くなる。
東のノルズム大陸では見かけぬ怪物たちも出没《しゅつぼつ》した。失った羽根《はね》の代わりに頑丈《がんじょう》な四肢《しし》を手にいれたフクロウ顔のモーザ、するどい嘴《くちばし》で人間を麻痺《まひ》させるデスパロットなどである。
慣れぬ旅人《たびびと》ならば少なくとも十日はかかっただろうみちのりを、それでも、リュカたちは、わずか四日で駆け抜けた。グレンの歓待《かんたい》についつい出立《しゅったつ》が遅れ、道が危険であればあるほど、それを乗り越えて助けを求めに来た村人たちの気持ちに、一刻もはやく応《こた》えなければならないと思ったからである。
音という音を吸い取ってしまうような小雨の降るある夕暮れ、リュカとその一行はカボチらしい灯《あかり》を目にした。
山と森に四方から囲まれた、陸の孤島《ことう》というべき寂《さび》しい村である。いまにも崩《くず》れそうな家屋《かおく》が十戸ばかり寄りそうように固まって、わずかな畑と家畜《かちく》の牧《まき》が薄闇に沈《しず》みこんでいる。あとにしてきた港町の活気が嘘《うそ》のような鄙《ひな》びた風景《ふうけい》だ。寂しい磯辺《いそべ》に打ちあげられた貝殻《かいがら》のように、不便《ふべん》な土地に流れついて住むものたちの、貧《まず》しいながらも懸命《けんめい》な暮らしをおのずとにじませる、ささやかな火灯《ひあかり》である。
「ここで休んでいてくれ」
裏山の森陰《もりかげ》に馬車を止め、リュカは言った。
「怪物とやらの居場所《いばしょ》を聞いたら、すぐ戻ってくるつもりだけど。今夜はここらで泊まってもいいからね。先に、腹でも満たしていてくれ」
「お気をつけて」
ピエールやスミスたちは手分けして馬を休ませ、馬車の手入れをし、野営《やえい》の支度《したく》をしはじめた。
ひとけのない村に、リュカはひとりで入っていった。窓という窓は閉ざされ、戸口のランプも消されているものが多い。道はぬかるみ、あたりの空気はしんしんと冷たかった。手近な戸を叩いて声をかけてみたが、応《こた》えはない。ざわり、と緊張《きんちょう》したひとの気配はするのに、である。
日暮れて訪《おとな》うものなど、滅多《めった》にないのだろう。故郷《こきょう》サンタローズの気のいい人々も見知らぬ人間に対しては、別人のようにつっけんどんになるものだった……と思いだしかけて、リュカは眉をひそめた。不幸な誤解《ごかい》に責め滅《ほろ》ぼされた故郷の村の、無惨《むざん》な姿を思い起こしてしまったからだ。
ひとがひとを疑《うたが》うことの恐《おそ》ろしさ。信じるべき道を見失った虚《むな》しさ。生きるために、家族や生活や財産を守るために、がむしゃらに腕を振るってしまう悲しさ。ひとつの戦いに生き残ったからといって、それで終わりではない。勝つものがいれば負けるものもいる。恨みと屈辱《くつじょく》のために、争いはまた繰り返される。復讐《ふくしゅう》には果てしがない。
「ぼくだって、いつの間にか、こうして剣と共に生きている」
リュカはそっと腰の剣の柄《つか》に手をかけ、見るかげもなく変わってしまったサンタローズの幻影《げんえい》を追い払った。足を速めて、また、歩きだす。
次の家からは、かすかに灯《あかり》が洩《も》れていた。叩いてみる。息をひそめるような沈黙《ちんもく》のあと、わずかに開いた戸口の隙間《すきま》から、驚きと不安に青ざめた女の顔がのぞいた。奥では、子供が何か言って、シッと黙《だま》らされている。モンタスの名を告げると、無言のまま、白い手が出て、ある方向を指さした。
その家は大きな家畜囲いに面していた。羊たちは斜面《しゃめん》のてっぺんで身を寄せあっており、粗末《そまつ》な屋根囲いの下には、痩《や》せた馬が何頭もつながれたまま眠っていた。糞《ふん》の小山が熊手《フォーク》をつきさしたまま放置してある。何度も改修したらしい跡《あと》の残る木と煉瓦《れんが》の家屋の煙突《えんとつ》からは、さかんに煙があがっている。農具や牧草《ぼくそう》を蓄《たくわ》える物置と人間の住居がひとつ屋根の下につながった構造になっているらしい。
「千五百ゴールド、肥《こえ》だめさ捨てたもおんなしでねーか!」
近づいてゆくと、隙間だらけの扉から、激昂《げっこう》した声が洩れ聞こえた。
「来るわけねぇ。すれ持って、そのまま黙ってトンズラよ。雇《やと》われものなんど、信用できね」
「んだんだ。よそものになんど、頼るこたねぇ。村のことは、村で、俺だちだけで、なんどかせねばなんねべ」
「したども、あんたなばけもん、いってぇどうやって追い払うだよ?」
「だから、みんなで力をあわせて」
「してポトキンみたく足おっぺしょるだか」
「ポトキンのは、おめ、あわてた拍子《ひょうし》に木の根さ、けつまずいただけだべ」
いつまでも立ち聞きをするつもりではなかった。会話の切れ目に、リュカはなにげなさを装《よそお》って、明るく声をかけた。
「モンタスさん、いますか? ポートセルミで雇《やと》われたものですが」
ハッとしたような沈黙《ちんもく》のあと、いきなり、扉が引き開けられた。
高い天井を持った土間である。大きなかまどがぼんぼん焚《た》かれているあたりは明るいが、周囲はうずくまったような闇に沈んでいる。扉を開けてくれたのは、驚愕《きょうがく》に間の離れた目をぽかんと見開いた白髪頭《しらがあたま》の男。ほかにも、おおぜいの男たちが……おそらく、村じゅうの男が呼び集められていたのだろう、だから家に残った女たちはことさらに臆病《おくびょう》な様子をしていたのだろう……照りかえしに赤い顔をして立ちつくしている。その中に、リュカは、まだ旅装《りょそう》も解《と》かぬままのかの芋掘り名人を見分けた。
「やぁ、モンタスさん」
「あんた! もう来てくれたか! はやがったな、はやがったな!」
モンタスは跳《と》びはねるようにやって来て、リュカの手を取り、みなに向き直った。
「ほれっ、旅の戦士のリュカさんだ。なっ、だから、おら言ったべっ、こんひとは確かに信用できるって!」
もじもじと見交わしあう男たちの中から、ひとりが前に進み出た。重たげに大きな頭をした、ごつい体格の壮年《そうねん》の男だ。村長さんだ、とモンタスがリュカの耳元でささやいた。リュカは無言のまま、かすかに頭を下げて、挨拶《あいさつ》にかえた。
「遠くまで出向いてもらって感謝《かんしゃ》するが」
村長は、にこりともせずに言った。
「ずいぶんお若い武者《むしゃ》どのだな。そんなひょろひょろ腕で、ばけものを倒《たお》せるんだったら、まったくたいしたものだ」
感情を抑《おさ》えようと努《つと》めているらしいが、隠《かく》しきれていなかった。苛立《いらだ》ちと侮蔑《ぶべつ》。
試《ため》すような冷たいまなざしを、リュカは黙って受け止めたが、ふと、傍《かたわ》らで、顔を真っ赤にしてうなだれたままのモンタスに気がついた。
(ぼくはしょせんよそもの、誰にどう思われようとかまいはしない。だが、このひとは違う。このひとは、ぼくのせいで、みなに馬鹿《ばか》にされているのだ)
「自信はある」
リュカは破顔《はがん》して、肩当てをはずし、衣《ころも》をはだけた。乏《とほ》しい火灯《ひあかり》の下、その若くつややかな肌《はだ》に何筋もの蛇《へび》がとぐろしているのが、まざまざとさらけだされた。幾多《いくた》の戦いに受け流した刀傷《かたなきず》、そしてそれらを貫《つらぬ》いて、ひときわくっきりと刻《きざ》みこまれて消えやらぬのは、奴隷《どれい》時代《じだい》の鞭《むち》の跡《あと》だ。男たちはかわるがわる伸び上がって見物し、がぜんおののいた。
「そんなに腕がたつほうではない。だが、手強《てごわ》い相手と戦っても、ご覧《らん》のとおり、生き残ってきた。何もしないうちから諦《あきら》めるのは、ぼくの流儀《りゅうぎ》ではない」
「なるほど」
村長は眉《まゆ》をぴくつかせた。
「その剣は飾り物ではないらしい。だが、リュカとやら、おまえさんが死のうと生きようと儂らに何のかかわりがある? 勝ち目のない賭《か》けにはった金ではない。見てのとおり、儂らの村は貧《まず》しい。ゴールドを貯《た》めるのは容易《ようい》なことではない。何十年もかかってこつこつ蓄《たくわ》えたものをあえて吐きだしたのは、それだけ困っているからだ。あの恐ろしい怪物を確かに退治してもらいたいからだ」
「で、その怪物は、どこにいるんです?」
リュカは尋ね、男たちを見回した。
「いつも西のほうから来るだ」
「西にゃあ何百年も昔にどっかの山賊《さんぞく》が隠れがにしてたって地下洞《ちかどう》があるだ」
「儂の若いころには、山賊のお宝が出るちゅて、何人も旅人が探しに行ってたが、誰ひとり戻ってこんかったぞな」
「今では、魔物のすみか、って呼ばれてるだ。おっかねぇ魔物が出るらしいだ」
村人たちは口々に答えた。
「では、そこに出かけてみよう」
「あれをやっつけてくれたら、もう千五百払おう」
と、村長。
「だが、証拠《しょうこ》が欲《ほ》しい。首を取ってこられるか?」
「そうしましょう。ぼくに持てるほどの首だったら」
リュカは黙礼して、踵《きびす》を返した。
「頼むぞ!」
モンタスの陽気に弾《はず》んだ声がひとつ、背中にかかった。寒々《さむざむ》しい空気にあえてまっすぐ頭をあげて、リュカは仲間のところに戻った。
ルラフェン南部に広がる山々は、どれもこれもてっぺんまで薔薇色《ばらいろ》を帯《お》びた砂色《すないろ》、または、濃淡《のうたん》さまざまな灰色《はいいろ》であった。裾野《すその》は苔《こけ》のような植物にうっすらとおおわれ、まばらに低い灌木《かんぼく》も見えるが、残りは岩と石と埃《ほこり》ばかりである。
長い年月風雨にさらされて削《けず》られた柔《やわ》らかな岩山は、丸みを帯びた円錐形《えんすいけい》の連《つら》なりだった。奇妙《きみょう》なとんがり帽子《ぼうし》のように、ひときわ高くぴょこりと残ったところもあり、いくつもいくつも緩《ゆる》やかな尾根《おね》でつながっているところあり。遠目には、それこそ雪に埋《う》もれた松の密集林か、整然と座りこんで待機した巨人の軍隊の長兜の列のようにも見える。よく晴れた青空を背景にシルエットになるときなど、あたり一面がぜんたいでひとつの城のように、たくさんの塔《とう》や見張り台を持った不可思議な民族の城塞《じょうさい》のようにも見えた。
「しょ、しょ、鍾乳洞《しょうにゅうどう》の中に似《に》てない? 似てない? 似てない?」
スミスが意外に学《がく》のあるところを見せれば、
「むしろ白蟻《しろあり》の巣《す》だにゃ。そのごっそり固まったやつ」
ドラきちが言下《げんか》に断定《だんてい》する。
「おいらには、みんな、ばかでっかくて、すんごくトンガったスライムの化石に見える。ひょっとして、ほんとにそうだったらすごいなぁ」
スラリンが丸い目をきょろきょろさせ、
「スライムって、化石になるんでしょうか?」
ピエールが首をひねる。
「わたしがもし化石になったら、けっこう不気味かもしれない……」
「みんないろんなこと考えつくんだなぁ」
リュカは苦笑《くしょう》し、あたりを見回した。
「それにしても、不思議な景色《けしき》だね。なんだか、夢の中みたいだ」
「うにゃあ、夢なら悪夢《あくむ》だにゃ。あっちの小さなアレにゃーて、ドロヌーバにそっくりにゃ」
「ほ、ほんとだ。すんごく、そ、そっくりだ」
「おいっ、待て。そっくりじゃない。動いてる!」
「ホンモノだぁ!」
「続けぇっ!!」
奇岩だらけの風景に、ドロヌーバはうまく身を隠していた。岩のひとつのふりをして、通りすぎる旅人などを襲《おそ》っては、生命《いのち》や金品を奪《うば》っていたに違いない。リュカたちの手強《てごわ》いのを知ると、ドロヌーバはあわてて大声で仲間を呼んだ。たちまち、あちこちの岩がたったいま生命《いのち》を吹きこまれでもしたかのように、おおぜいのドロヌーバになり。さらに。
「わっ、山賊《さんぞく》ウルフだ!」
三角岩の陰《かげ》から、ひらりひらりと身軽な姿を現した獣人《じゅうじん》どもを見て、リュカは剣を構えなおし、ふと、眉を寄せた。卑《いや》しい目つき、だらりと垂《た》れた舌《した》、耳と鼻のとがった毛むくじゃらの獣《けもの》の顔をしたものたちの中に、ひとり、いやに派手《はで》な赤いジャケットを窮屈《きゅうくつ》そうに身につけたものがあったのだ。リュカは目を見張った。
「あいつ……ほんとうに魔物になっちまったんだろうか」
だからといってためらう間はなかった。当の魔物と視線が交わった、と思ったとたん、ドロヌーバの一匹に足をすくわれて転びそうになった。赤服の魔物が剣をかざして襲いかかる。抜き放った剣《けん》がかろうじて間に合った。がっ、凄《すさ》まじい力に、ドロヌーバをひきずりながら地面を押し返される。鋼鉄《はがね》の剣にかかった重みがはずれ火花が散った。次の瞬間《しゅんかん》、赤服のジュリオは……いや、山賊ウルフは、ギャアッと凄まじい声をあげ、血まみれの顔を押さえながらとびすさった。
怪力《かいりき》のスミスは粘《ねば》るドロヌーバたちを地面から引きはがしては、捏《こ》ねて、丸めて、放り投げる。スラリンは最近覚えたメダパニの呪文《じゅもん》で、山賊ウルフどもを混乱させ、同士|討《う》ちさせる。ドラきちは空から敵の動きを牽制《けんせい》してみなに注意と指示を飛ばし、ピエールはあくまで淡々《たんたん》と華麗《かれい》な剣さばきを見せる。
みな、怪我《けが》らしい怪我もなく、よく戦ったが、
「だ、だ、だめだぁ、リュカ、つ、次から次から、ど、ど、どんどん出てくるドロヌーバ」
「きりも限りもないよぉ、どうしよう」
「このままこいつらにつきあってたら、日が暮れちまいますよ」
「よしっ、切り抜けよう。……あっちだ!」
しつこく絡《から》みつき、粘りつき、あるいは、物陰《ものかげ》から飛びかかってくる敵たちを薙《な》ぎ払いながら、一行はその場を逃《のが》れた。
なおも油断なく目を配りながら歩いていくと、回りこんで前方を塞《ふさ》ぐ形となっている彼方《かなた》の奇岩の一隅《いちぐう》が目をひいた。明らかにひとの手でえぐられたらしい覗《のぞ》き窓《まど》もいくつか、風にさらされてすり減っている。
「あれだな」
「も、も、もう、ち、近いと思った。ま、ま、魔物のすみかって、って、いうって、いっ、いっ、言ってたから」
「わぁ、スミちゃんってば、頭いいじゃなーい。魔物が出てきたから、魔物のすみかが近い! すっごーい。よくわかったねぇ」
「ほ、ほんと? す、す、スラリン、ほ、ほんとにそう思う? す、スミス、あ、頭、いい? いい? いい?」
「う、うわ……抱《だ》きつくなよ、バカ、苦しいっ!」
「ねへねへねへねへ。す、スミス嬉《うれ》しいH[#ハート(白)、1-6-29]」
スラリンが腐った死体の熱い抱擁《ほうよう》にもがいているうちに、馬車は駆《か》け、怪《あや》しげな洞穴《ほらあな》に到着《とうちゃく》した。なめらかな斜面の中途にぽっかりと四角い入り口が見える。一行は馬車を降り、馬をはずし、傍らの灌木《かんほく》の日陰《ひかげ》に休ませてやった。装備や薬草を互いに確認し、足を踏み入れる。
穴居《けっきょ》というのだろうか。大昔、岩塊《がんかい》をくりぬいて住居とした民《たみ》があり、また、山賊どもが砦《とりで》として使っていた、そういう噂が嘘でない証拠のように、中は案外すっきりと広く、壁も天井も、きっちり直線的に穿《うが》たれている。ところどころは、立派な部屋になっていて、古びた木の櫃《ひつ》や土器《かわらけ》のかけら、ぼろきれや何かの道具らしい棒《ぼう》、しゃれこうべなども転がっている。地中に蟻《あり》が住むごとく、岩の中で暮らした人々があったのだ。
いくら比較的《ひかくてき》柔らかい質であるといっても、岩石は岩石である。これほどの空間を掘り広げるのは、容易《ようい》なことではなかっただろう。大勢が、長い年月をかけて、ようやく成《な》し遂《と》げたことなのだろう。そんなにまでしなければ、生きていけなかったんだろうか。そんなにまでして、生き抜こうとしたんだろうか。
「人間ってすごいな」
矢尻《やじり》らしい石片《せきへん》を拾い上げて、リュカが思わずつぶやいたとたん、
「あぶないっ!」
ピエールがリュカを突き飛ばした。次の瞬間、ずん、と岩壁《いわかべ》が振動《しんどう》した。奇怪《きかい》な顔だちの石人形が、寸《すん》づまりの腕を振り上げたかっこうのまま、傍らの壁にめりこんでいる。土偶そっくりのその姿を見て、リュカは、太古の民《たみ》の守り神が蘇《よみがえ》りでもしたのかとあっけにとられたが、スミスやドラきちは、早くも鬨《とき》の声をあげ、戦いはじめている。
「ミステリドールです! マヌーサだのメダパニだの唱《とな》えますから、気をつけて!」
ピエールが言った。リュカはうなずき、素早く剣を抜いて戦列に加わった。
切り払いながら進んでゆくと、今度は嘴《くちばし》鋭いデスパロットが、ひとを嘲笑《あざわら》うエビルプラントが、ひとつ目|獣《じゅう》ビックアイが、熾烈《しれつ》な攻撃《こうげき》をしかけてくる。必死で応戦《おうせん》しながら、リュカは、なんだか気がとがめないでもなかった。これだけの岩を掘りあげた大昔の人々が安らかに眠っている場所に、泥足《どろあし》で踏みこむような真似《まね》をしている自分たちを、すまなく思う。
(そしてここは、今は魔物のすみか、こいつらの家なんだ。わけのわからないのが、挨拶《あいさつ》もなしに闖入《ちんにゅう》してきたら、そりゃ、あわてる。必死で戦うよなぁ)
「よせ!」
手負いのビックアイを隅《すみ》に追いつめて、すかさずとどめを刺そうとする仲間たちを見て、リュカは声をからした。
「手向かってこない奴はほうっておけ。ぼくたちのめあては、カボチに迷惑《めいわく》をかけている奴、ただ一匹だろう」
スミスもピエールも、ハッとしたように手をおろした。
「甘《あま》いんだからなぁ、リュカは」
言いながら、スラリンも、のしかかっていた敵のからだの上から飛びのいた。
毛むくじゃらな両腕で頭をかばってうずくまっていたビックアイが、のろのろと顔をあげた。大きな瞳《ひとみ》が恐怖《きょうふ》の涙《なみだ》をいっぱいにたたえて、リュカを見つめている。大きな耳が、臆病《おくびょう》そうにぴくぴく動く。からだは大きいが、動作はなんともあどけない。
リュカは胸の痛みを押し殺して、にこっと笑ってみせた。
「ごめんな。無断で入ってきて、びっくりしたろう。怪我《けが》はないか」
ビックアイはまっすぐリュカに向き直り、両手で膝《ひざ》をかかえて、巨大なひとつ目を愛くるしくぱちぱちさせた。
「さ、行こう」
リュカはみなを叱咤《しった》して、先に進もうとした。
「まって」
ビックアイが言った。子猫《こねこ》のような、かぼそい声だ。
「いっしょいく。れて。なかま、いれて」
リュカは振り向き、尋《たず》ねた。
「きみの名は?」
「なまえ?」
ビックアイはしばらく考えこんでいたが、やがて、ぶるぶると頭を振った。
「しらない。らない。ない」
「す、す、スミス、スミス、スミス!」
スミスが慌《あわ》てるあまりよろけながら、激しく挙手《きょしゅ》をして前に出た。
「す、スミス、つ、つけてあげる、つけてあげたい! す、す、スミス、す、スラリンに、な、名前、っつ、つけてもらった、ど、ど、ドラきちも、す、スラリンつけた。ここここ今度こそ、すすスミス、つける。つける番する、番したい!」
リュカはスラリンを見た。スラリンは、うんざりしたような顔をしたが、スミスの真剣この上ない顔つきを見て、どうぞ、と慇懃《いんぎん》に笑ってみせた。
「それで、なんて名前にするんだい?」
「が、がん、がん、ガンドフ。こ、こ、この子、ガンドフ」
スミスは嬉しさのあまり眼窩《がんか》から垂れさがってしまった目玉が顎《あご》にぶつかって跳びはねているのにもかまわず、自分で自分に激しくうなずき、ビックアイの首を抱いて、毛むくじゃらの頭をごしごし撫《な》でた。
「こ、こ、この子、が、が、ガンドフって顔してるでしょ? ひ、ひ、ひと目みたとき、が、ガンドフだって、わ、わ、わかった。だから、が、が、ガンドフ!」
「ぐあんどふ」
ガンドフは言い、くりくりと目を見張った。
「がんどーふ。なまえ。がんどふ?」
「そ、そ、そうだ! ガンドフだ、が、がん、ガンドフだ、す、スミスがつけたんだ!」
「がんどふ。がんどふ。すみすつけた。いいなまえ」
「……また足《た》りないのが仲間になったなぁ……」
[#挿絵(img/DQ5_2_126.jpg)入る]
「ス、ス、スラリン、な、な、何か言ったか?」
「いえいえっ、なんにもっ!」
「なるほど」
ピエールはリュカにささやいた。
「みんなこうやって、仲間になっていったんですね」
「うん! そうなんだ。嬉しいなぁ。新しい仲間もできたことだ、さっさとそのばけものとやらを退治して、カボチのひとたちを安心させてあげようじゃないか」
複雑に掘りつなげられた部屋や廊下《ろうか》は、やがて、一層下の階に通じた。どうやらさらに下があるらしい。この階の床はあちこちで、崩《くず》れたのか、もともとなのか、ぽっかりと巨大な穴を開けており、橋や渡り廊下が架《か》けわたされている。だが、みな、あまりに古い。あちこちで壊《こわ》れ、なかば朽《く》ち果てている。うっかり歩くと、行き止まりになる、へたをすると落ちてしまいそうだ。
ドラきちが、ぱたぱたと羽ばたいて偵察《ていさつ》に出た。仲間の中でただひとり宙を飛ぶことができるのが、得意でしょうがないような様子で、
「にゃー、にゃーにもにゃー。にゃんだか、空気がちべたかったにゃー。ぜんたいで、ひとつの大きにゃ部屋ににゃってて、ほんでも、真ん中へんに、囲いがあるにゃー」
言い終わるや、手近な天井にさかさ吊《づ》りになる。
「ふー。飛ぶのは疲れるにゃー」
「空気が冷たい? 貯蔵庫《ちょぞうこ》のような場所だったのかな」
「そ、そ、その囲いってのが、あ、怪《あや》しい」
「がんどふ」
「囲いには入れないのか、ドラきち?」
「にゃー、ほんじゃ、もっかい、確かめてくるにゃー……くらしょっと」
へろへろと情けない飛び方でドラきちが遠ざかってしまうと、一同は手持ち無沙汰《ぶさた》な顔を見合わせた。
「その、怪物というのは、いったい何者なんだろう」
ピエールがひとりごとのようにつぶやいた。
「とにかくデッカイってんだから、油断大敵だね」
と、スラリン。
「ひょっとすると、おいらたちスライム族の中でも一番強いスライム、キングスライムかもしれない」
「がんどふ。がんどふ」
「で、で、デッカイって、ねっ、ねっ、す、す、スミスより? スミスより?」
「んなことおいらに聞くなよ、知らねぇよっ」
「がんどふ!」
「はっきりとはわからないんだけれど」
リュカは誰かれかまわず激しくガンドフガンドフ言っているガンドフに、優しくうなずきかえしてやりながら、ここではないどこかに視線をさまよわせた。
「そいつって、なんだかそんなに悪い奴じゃあないような気がするんだ」
「人間の畑を荒《あ》らしてるんだろ。お腹すかした草食性の恐竜《きょうりゅう》かなんかかも」
スラリンは橋の名残《なごり》から身を乗り出して下をうかがった。
「うーん。ちょっと見えないなぁ……わっ! よせっ、来るなっ」
どれどれ、と、一緒に覗こうとしたスミスの手がなにげなくスラリンのからだにかかった。つるりと押し出されて、スラリンは消えた。続いて、めきり、と不吉《ふきつ》な音。途方《とほう》にくれたスミスの半分肉のめくれた顔がすっと沈みこんだかと思うと、橋桁《はしげた》が折れた。悲しげな呻《うめ》きが遠ざかり、やがて、どさり、と重たげな音がした。
「スミス! スラリン!」
「がんどふ!」
「大丈夫か?」
「……どけよっ、おもてーったらっ!」
暗闇の底から威勢《いせい》のいい啖呵《たんか》が聞こえてきた。
「何で押すんだよ、この考えなし! よりによって、おいらの上に落ちてくることはないだろっ、アンポンタン!」
「ご、ご、ご、ごめ」
「あっ、やだなぁ。また目玉がはずれてるじゃないか、はやくはめろよ。ぶっ千切《ちぎ》れてなくしたってしらねぇぞ!」
「う、う、うん、はめる、はめ……あれ?」
「しょうがねぇな、はいってるほうの目につっこんでるよ。……ほれっ、よくなった。いいか、スミス、おまえは頭っからつま先までぜんぶ腐っちゃあいるが、からだはでかいだろ。その体重がかかったら、あんなぶっこわれ橋、徹底的《てっていてき》に壊滅《かいめつ》だって、少し考えりゃあわかりそうなもんじゃないか? あ〜ん?」
「ご、ごめんよ、スラリン、つ、つ、つい……み、見たくて……」
「腐ってるモンには気をつけてくれよ腐ってるモンにはっ! ……あー、リュカ、すいません、おいらたちは大丈夫です、おいらがクッションになってやったから、こいつにも怪我《けが》はありません! ドラきちが飛んでくるのを待って、どうやって上がるか、相談してみます」
「そうしてくれ」
リュカとピエールは微笑みをかわしあった。口は悪いが、スラリンは、あれで案外|面倒見《めんどうみ》はいい。
そうこうするうちに、ドラきちが戻ってきた。謎《なぞ》めいた囲われ部分への降り口と思われる階段を見つけたという。だが、それは、スラリンたちの落ちてしまったあたりに行くものとは、およそ正反対の方角にある。
「じゃあ、ぼくたちはそっちに回ってみる。ドラきちは、スラリンとスミスを案内してやってくれないか」
「ふにゃ〜、いってくるにゃ〜」
少々へたばり気味の飛び方で、ドラきちは穴に消えた。
こうして一行は二手《ふたて》に分かれた。
ピエール、リュカ、それにガンドフの三人は、降り口をめざした。ビッグスロースやデススパーク、相変わらず粘っこいドロヌーバらを果敢《かかん》に退《しりぞ》けながら。慎重におんぼろ橋を渡り、互いに支えあって壁際《かべぎわ》のわずかな足場を通過しているうちに、また地下一階にさまよい出てしまった。急ぎ引き返そうとしたとたん、ぬらり、と進み出たものがある。
リュカは我が目を疑《うだが》った。行《ゆ》く手《て》を塞《ふさ》いだ大きな影は、鈍色《にびいろ》に輝くたくましいスライムと、それにまたがった屈強《くっきょう》そうな鎧武者《よろいむしゃ》だ。ピエールの三倍も大きい。
「スライムナイトか?」
「……メタルライダーです」
ピエールが喉《のど》にからまるような声でつぶやいた。
「さがっていてください、リュカ。ガンドフ。こいつは、わたしが相手をします」
相手は少しも動じていない。殺気だってさえいなかった。深々とおろした兜の目庇《まびさし》の細長い隙間《すきま》からのぞくまなざしには、にやにやとほくそ笑《え》んでいる気配がする。見るからに重たげな鋼鉄《はがね》の大剣を軽々と支えた手も、大亀《おおがめ》の甲羅《こうら》ほどもある赤紫色《あかむらさきいろ》の盾《たて》を宙空にさりげなく構えた腕も、一瞬たりとも定まりなく、ゆらゆらと動き続けている。わざと隙をつくっては消し、こちらの突進を誘《さそ》っているのだ。
そいつのまわりの空気は、なにか、ひどく異質な、ひどく禍々《まがまが》しい感じがした。言われたとおり、二歩ばかり下がって壁に寄ったリュカの背を、水のようなものが下から上へ駆け抜けた。
「……がんどふ……」
ガンドフは、大きなからだをせいいっぱい縮《ちぢ》め、リュカの肩にすがって震えている。……と。どちらから動いたのだろう。実体とその影《かげ》のようにそっくりな大小二体の魔物が、その間合いを縮めたかと見たとたん。
がしゃん! 剣と剣が交わった。ピエールは跳《は》ね返され、くるりと回転して起きなおる。その体勢の整わぬ間に、敵の剣が薪《まき》でも割るように振り下ろされる。ピエールが剣を突きだす。火花が散り、きな臭《くさ》い風が巻く。流れるようなピエールのたちさばきに対して、メタルライダーの動作は、おおぎょうで、ぎくしゃくして、どこかあやつり人形めいていた。だが、そのくせ、ひどく速く、ひどく強い。
ピエールの剣が敵の防御《ぼうぎょ》をかいくぐり、胴《どう》を薙《な》いだ。ごうん。歯の浮くような音が岩洞《がんどう》いっぱいに響きわたる。剣は弾《はじ》かれ、鎧には傷ひとつついていない。しゃっ、と蛇《へび》の飛びかかるときのような声をあげて、敵が宙高く舞い上がる。全身の重量をかけて打ちかかってくる。ピエールは盾を構えて受け止めた。が、あまりの衝撃《しょうげき》に、盾の持ち手がはずれた。ピエールは壊《こわ》れた盾を放り投げ、壁際に走った。しゃあっ。飛んでくる盾を踏み台にして、高々と飛び上がる敵。振りかざした剣が、ぎらりと光る。
ガンドフの指の短い毛だらけの手がリュカの腕をつかんだ。舌先までのぼってきた援護《えんご》の攻撃呪文を、だが、リュカは噛《か》みしめて堪《こら》えた。ここで手を出したら、たとえ勝っても恨《うら》まれる。
間一髪《かんいっぱつ》、ピエールがひらりと身をかわす。敵は、勢いあまって壁にぶちあたる。それでもひるまず、振り向こうとした刹那《せつな》、なまじ頑丈な盾ががりりと壁をえぐり、硬《かた》い岩板にぶちあたって静止する。その瞬間、さしもの怪力メタルライダーも姿勢《しせい》を崩《くず》した。ピエールは突進した。あわてて振り上げた大剣のやいばの下を疾風《しっぷう》のようにくぐりぬけ、ピエールは両手に構えた剣をつきあげた。寝かせた剣が、目庇の横長の切れ目のその隙間にぶすりと潜《もぐ》りこむ。ぎゃあっ。
くたり、と鎧兜が揺れた。銀色のスライムもまた、みるみる萎《しな》びて皺《しわ》まみれになった。メタルライダーだったものは、砂鉄《さてつ》のようなサラサラとした埃《ほこり》になって、床にこぼれた。中身のなくなった鎧や兜が、がしゃがしゃと降り注《そそ》ぐ。
「よかった、かった、かった!」
ガンドフが大喜びではしゃぐと、岩洞じゅうがずさずさと揺れた。
「……スライム本体を切ろうとしなかったね」
リュカは、荒い息をついているピエールに、革の水筒《すいとう》をさしだした。
「わざと?」
「……ええ……もう、抜《ぬ》け殻《がら》だと、知ってはいたのですが……」
「抜け殻?」
「騎士とスライムは本来別種の生命《せいめい》なのです。おのが芽生《めば》えさせた騎士に負けてしまったスライムは、魂《たましい》を乗っ取られて、抜け殻になります」
ピエールは敵の放り出した重い剣をひきずるようにして拾ってきた。渾身《こんしん》の力をこめて持ち上げ、鎧兜の降り積もった岩床《がんしょう》の脇に力いっぱい突き刺す。
「メタルスライムという種族は、本来いくさをこのむものではありません。騎士を芽生えさせたのは、きっと、このものの本意ではなかったでしょう」
「じゃあ……誰《だれ》かが、無理に?」
「おそらくは」
リュカは唇を噛んだ。戦いたくもないのに戦わされている……魔物たちの中にもそんなものがいるのなら、真の敵は、けして彼らではなく、背後に潜《ひそ》んで蠢《うごめ》くもの。小さなものたちを平気で使い殺しにしながら、じわじわと肥大化《ひだいか》してゆく巨大な闇の勢力だ。
「……くそっ……許さない……!」
「何やってんだかね、おいらたちは」
スラリンはやれやれと息をついた。真っ暗な奈落《ならく》の上を、あるかなきかの足場をたどって、ようやく渡りきったところだった。
「た、確か、か、か、怪物を、さ、捜しているんじゃなかったっけ?」
スミスの肩先からは、すっかり飛び疲れて脱力《だつりょく》したドラきちが、さかしまにぶらさがってうつらうつらしている。
「ああ、そのとおりだ。おまえさんは賢《かしこ》いよ! けどさぁ、リュカはまたなんだって、その怪物とやらを捜しているんだ?」
「か、か、カボチのひ、ひとに、た、頼まれたから」
「そうとも! けどさ、んじゃあ何かい? リュカは誰かに何か頼まれたら、そのたんびに、ニッコリ笑って、生命《いのち》がけで手伝ってやるっていうのかい?」
「…………」
「ああ、ああ、リュカはそういうひとだよ。困ってるひとを見るとほうっておけない。お願いしますって言われると、はいはい駆けつけちゃう。正義の味方ってやつですか。でもサ、おいらはちと疑問《ぎもん》に思っちゃうナ。世の中広いぜ、大きいぜ。困ってるひとなんて掃《は》いて捨てるほどいる。誰かによっかかって、ぶらさがって、自分はのんびりしていたいやつだって、ゴマンだぜ」
「うにゃ〜?」
ドラきちが片目を開けて呻《うめ》いたが、スラリンは無視《むし》した。
「その全員にいちいちかまってたら、ひでぇ手間だ。なーんもしないうちに爺《じい》さんになっちまうじゃねーか! ……ったく、リュカはお人好《ひとよ》しすぎるよ」
スラリンは、そこいらに転がっていた石を蹴りつけた。ころころ転がって止まったそれは、何かの小さなしゃれこうべだった。
「で、でも、俺、り、リュカ好きだ。り、リュカ、握手《あくしゅ》してくれた。お、俺が、仲間にしてくれないかって言ったら、す、すぐ、手を伸ばして、俺の手を取った。この腐った手……指欠けで、肉が見えてて、いやな匂いのする、俺の手を」
ぼうっとつぶやくように言うスミスは、なぜかいつものようには、ひどく舌をもつれさせることはなかった。
「おいらだって好きだよ、バカ! ああ、そうさ。それまで、人間なんて好きになったことなかったけど、リュカの目を見たとたん、なんか、ドキッとして。何かに貫《つらぬ》かれたような、それでいて、すげぇあったかいもんに包まれたみたいな感じがして……そのまま離れたくなくなっちまった。離れたら、二度と会えない。そんなの、やでさ。何か言いたくて、話しかけたくて……気がついたら、仲間にしてくれって、いっしょに行きたいって、言っちまってたんだよなぁ」
「そ、そ、そそ、そうそう! お、同じ! す、スミスもそう!」
「うーん。……だからさぁ、あんまりひとのことばっか心配してるリュカを見てると、こっちが心配になっちまうんだよなぁ。……おい、覚えてるかスミス。おまえとあった洞窟で、リュカが見つけた手紙のことを。あのとき、リュカは、何か大事なことを知らされたんだ。そうして、西のほうの、山に囲まれた村に行ったな」
「す、スミス知ってる、知ってる! あ、あ、アルカパだっ! あ、アルカパ行くと、と、途中で、こ、このドラきちが、なな仲間になったんだ!」
「そうだ。賢いぞ、スミス。アルカパで、リュカはひとり町に入ってって、いかにもがっかりした様子で出てきたよな。あのとき、リュカがなんて言ったか覚えてるか?」
「え、えっと、えっと……うんと」
スミスは頭をかき毟《むし》った。ふとみると、三束《さんたば》ほどの髪の毛が指に絡《から》まって抜けてしまっている。あわててまたもとのとおりにくっつけようとしたが、むろんどうにもならない。スミスはため息をつき、スラリンがなんともいえない目つきで自分を眺《なが》めているのに気づいて、真っ赤になった。
「……あ、わ、わかった! た、訪《たず》ねてった先に、あ、あ、相手がいなかったって。と、と、とても会いたかった、お、おさななじみが、い、いなくなってたって言ったんだ!」
「なっ?」
スラリンはひょこりと頭のとんがりを揺らした。
「……な? って? ……???」
「だから。リュカがなんで、わざわざ海を渡ったのかってことさ! ……ああ、腐ってるおまえにはわからないかもしれないが、ひとを動かすものといえば、なんといっても、愛だ」
「あ……い?」
「そーだよ。愛。LOVE。恋の情熱《じょうねつ》。間違いない。リュカはさ、そのおさななじみって子にホの字なのさ! だからその子を捜してるんだ。ああ、それなのに、それなのに。こんなとこで全然関係ない怪物なんか退治してる場合じゃないじゃないか! ってことを、つまりおいらは言いたいわけだよ」
スラリンはわけ知り顔にひとりしみじみうなずいた。が、スミスはといえば、完全に混乱してしまっている。
「あい……? ……あっ。ひょ、ひょっとして、そ、そのお、おさななじみって、す、す、すっごく、で、で、でっかい牛だったんじゃないの?」
「牛か鳥か虎《とら》か? 何がなんだかわかんない怪物だって? けっ、んなわけないじゃねーか。だいたい、おまえの頭からは因果《いんが》関係ってものが抜けてるよ。怪物を見つけることになったのはカボチのひとから頼まれたからだって、さっきおまえが言ったんじゃないか! ……いやな、そのおさななじみの子っていうのは、たしか、いかにも、可愛《かわい》い女の子だなぁって感じの名前だったと思うんだ。チラッとリュカが口走ったんだわ。なんだっけ? えと、えと、アンナでもないし、エステルでもないし……」
「……す、す、スラリンって、へ変なこと、よ、よ、よく、お、覚えてるなぁ……」
「よく覚えてない。覚えてないから思いだしたいんだ。うーっ、こらスミス! おまえも考えろ。思いだせ! 頼む! 思いだしてくれ! ああっ、なんて子だっけ? 気になるっ」
スラリンは鞠《まり》のようになって転げ回り、ぐにゃぐにゃと揺れては飛び上がり、広がっては縮まり、さんざん苛立《いらだ》ちながら、考え続けている。
「す、スラリ〜ン。ね、ねぇ、いいから、も、もう、も、戻ろうよ」
「わかってる。わかってるけど、だめだ、今はまずい、今動いたらますますわかんなくなっちまう。ちょっと待て。ここまで出てきてるんだ。……えーと、ビビアン……ババロア……んなばかな。いやいや、確か……」
「りゅ、リュカにき、聞、聞けば、い、いいじゃん。は、早く行こうよ」
「うるさいっ! 黙ってろっ。ちきしょう、悔《くや》しいっ。なぜ思いだせないっ? ペギーでもないし、チェリーでもない。バーバラ? おっ? バーバラは、ちょっと近いかな?」
あらぬかたを見つめては、ハタと手をうち、また、がっかり。目まぐるしく、スライムに可能な限りの百面相《ひゃくめんそう》をしながら、もだえ苦しむスラリン。スミスははらはら見守るばかり、ドラきちはといえば、とうに夢の国。誰ひとり、岩陰《いわかげ》からそっと見つめる目に気づかなかった。
赤味をおびた裏まぶたが、ぴくぴくする。泥《どろ》を塗《ぬ》ったような顔の中で、ぎょろ目ばかりを目立たせ、息をひそめて監視《かんし》する敵。
突撃兵《とつげきへい》どもだ。四、五人も集まっている。ひとりがひとりをつつき、みんながうなずいた。槍《やり》の先がきらりと光った。
巨大な牙《きば》がきらりと光る。続いて、銀貨《ぎんか》のように輝くふたつの瞳《ひとみ》が現れた。洞窟最深部の、烏羽玉《ぬばたま》の闇の向こうから、じりっじりっと迫りくる何か大きなものの気配に押されて、ピエールは思わず知らず後ずさりをした。
やがて重たげな闇幕《やみ》を割って、ぬっ、ひとかかえもある頭部が突きだされた。黄色の地に黒い斑《ぶち》を散らした獰猛《どうもう》きわまりない大猫族の顔。
「……そうか、キラーパンサーだったのか! なるほど。たしかに、大きい」
いったいどうやったら、こいつを牛と見間違うことができるんだろう? ピエールは、剣の柄を握り直し、リュカとガンドフに攻撃のタイミングをはかるべく合図をしようとしたのだが。
「……リュカ?」
リュカは茫然《ほうぜん》と立ちつくしている。剣も抜かず、両手をだらりと下げて、全身、隙だらけ。襲ってくださいといわんばかりだ。
どうしたんです、しっかりしてください。そう言おうとしたピエールのことばの形にならぬうちに、リュカはとうとう両手を差し伸べて、叫んだのだ。
「プックル!」
「なんと! お知りあいですか?」
「そうなんだ」
いかにも嬉しそうにリュカは答えた。
「間違いない。小さいころ、親友だったプックルだ! ……どうも、妙《みょう》な予感がしたと思ったよ。ああ、プックル! あえて嬉しいよ! きみも生き抜いていたんだね」
ふうっ、ふしゅうっ、ぐうるるる! キラーパンサーは唸《うな》った。鼻の上に、皺《しわ》が寄り、耳が後ろに寝ている。真っ赤なたてがみが、みなカッとたちあがっている。
「……こあい!」
ガンドフがピエールの後ろに隠れる。
「ひと違い……いや、猫違いでは?」
「ぼくがプックルとほかの奴を間違えるわけがないよ。はっきり面影《おもかげ》だってある。けど、大きくなったなぁ、プックル。すっかり立派なキラーパンサーだ。……どうした、ぼくがわからないのか? そりゃ、わかれわかれになってからもう……」
リュカは急に顔を曇《くも》らせてことばを切った。十年前、プックルと離れ離れになったとき、なにがあったのか思いだしてしまったのだった。
キラーパンサーはたてがみを振り、尾を揺らして、激しく威嚇《いかく》し続けている。
ピエールはため息を洩《も》らした。魔物といっても、数多《あまに》の種族、さまざまな個性《こせい》のものがいる。キラーパンサーは野性味《やせいみ》あふれる獣族《けものぞく》の中でも最も殺傷能力《さっしょうのうりょく》の高いもののひとつに数えられるが、人に懐《なつ》くとは聞いたことがない。
「犬か狼系統《おおかみけいとう》の魔物ならともかく。猫はヒトにはつかぬ、イエにつくっていいますよ」
「ガンドフ、どっち?」
「……えっ? さ、さあ……どっちでしょうねぇ?」
「プックルはただの猫じゃないよ。だいたい、ぼくたちは、お互いにほんとうに家族みたいなものだったんだから……なぁ、プックル、いったいどうしたんだ。ぼくだよ。リュカだよ。ほら、匂いを嗅《か》いでごらん」
ひとさし指一本突きだしながら、さっと踏み出したリュカの胸元が、ぶん、とばかりに横ざまに払われた。キラーパンサーの鋭い爪《つめ》に切り裂《さ》かれて、はらはらと落ちる服のきれはしに、リュカはぽかんと口を開け、それから悲しげに言った。
「こら、プックル! いたずらが過ぎるぞ!」
ふぁぁぁっ! キラーパンサーの前肢《まえあし》が閃《ひらめ》くと、リュカの右手の革手袋の上に三条《みすじ》の爪跡《つめあと》が走った。たらたらと赤いものがにじみだす。リュカはそれでもずいずいと進んだ。なおも名を呼び、相手の瞳をひたと見据《みす》えながら。
リュカには悪いが、こいつはもうダメかもしれない。ピエールは剣を抜いた。リュカを支点に、大猫とスライムナイトは、互いに点対称になる位置をぐるぐると回る。
いよいよ壁際《かべぎわ》においつめられそうになると、キラーパンサーは身をひるがえした。巨体の重みを少しも感じさせぬ身軽な動作で、四身長ほど向こうまで飛びのき、当惑《とうわく》したような顔を振り向かせる。
「プックル……何を怖《こわ》がっているんだ? いじめたりしないよ。ほら。おいでったら」
なあお……鳴きかけて、キラーパンサーはあわてて口を閉じる。真っ赤な飾り毛を持った長い尾が揺れている。何か考えこんででもいるかのように。
リュカは静かに深呼吸《しんこきゅう》をし、床に膝をついた。
「さあ。……おいで。ほら、怖くない。ぼくがわかるだろう? さぁ、プックル」
無防備に姿勢を崩《くず》し、なかば目を閉じる。
キラーパンサーはそうっと近づき、鼻をぴくぴくさせた。リュカのまわりを、用心深そうにぐるぐるまわる。
「……がんど」
「しっ!」
ピエールとガンドフは身を寄せあい、息を詰めて見守った。
キラーパンサーはリュカの頭に鼻を寄せ、匂いを嗅《か》いだ。じっと動かない背中にからだの側面を擦《こす》りつけ、急にパッと肢《あし》を止め、肩に手をかけて伸び上がる。その巨体の重さのために、リュカは少し前かがみになったが、黙ってじっと持ちこたえた。キラーパンサーは飛びのく。そっぽを向き、いかにも今やっていたことなど自分にとってはどうでもいいことなのだといわんばかりに、からだを曲げてどこやらを嘗《な》め、またなにげなく顔をあげ。
剣を構えた恰好《かっこう》のピエールを見つける。たちまち、その黄色い瞳が怒《いか》りの青に燃えあがる。背をたわめ、前肢と後ろ肢の間を詰める。威嚇《いかく》の姿勢であり、挑発《ちょうはつ》のサインだ。ガンドフががちがち歯を鳴らしている。ピエールは必死の力で目を逸《そ》らす。
「プックル」
リュカが静かに言う。
「よしなさい、プックル」
キラーパンサーは耳をぴくつかせた。迷《まよ》っている。何かを思いだそうとしている。
スラリンは思いだそうとしていた。わらわらと現れた突撃兵どもを相手に、スミスと、ドラきちが必死に戦っている間も。
力任せに体当たり、奪った槍でぶんなぐり、顔にはりつき目玉をえぐり、ついでにゴツンと鉢《はち》あわせ。やがて気配を聞きつけてやって来たデススパークやらビッグスロースやらも、千切《ちぎ》っては投げ、つついては退《しりぞ》け。次から次へと増え続ける敵を相手に、ひるまずたゆまず、せいいっぱいの防戦を繰り広げた。
――その間ずっとスラリンは、一心不乱に考え続けていたのだが、ようやく、突然、ふと、ストンと何かがどこかに填《は》まるように、ぴったりすっかり思い出したのだ。それがあまりに気持ちよく、あまりに嬉しく得意だったので、スラリンは思わず叫んだ、スライムに可能な限りの大声で。
「……そうだ。ビアンカだ。その子の名前は、ビアンカだ!」
声は洞窟じゅうの壁やら天井やらで反響を繰り返し、とんでもなく不思議な音色《ねいろ》になって轟《とどろ》きわたった。
「ビアンカだ! ビアンカだ……ビアンカだ……」
こだました声に、一同はぎょっと立ちすくんだ。リュカも、ピエールも、ガンドフも。キラーパンサーさえ、たくましい巨体をびくんと震わせて硬直《こうちょく》した。
「そうだ……!」
リュカは急いでポーチを探った。まさぐり出したのは、すっかり色褪《いろあ》せすり切れたひと筋のぼろきれ……いや、リボンか?
「プックル、思いだせ。これはビアンカのリボンだ。ぼくときみとが、片方ずつもらったろ? ヘンリーを助けに行ったね、あのときちょっと怪我《けが》をして繃帯《ほうたい》がわりに巻いた。だから、何もかも失ったときにも、これだけは奪われずに残ったんだ」
ひらりと垂《た》らしたリボンのところどころに点々と染《し》みのようなものがあるのをピエールは見た。血だ。古い血だ。それが何を意味しているのか、ピエールには知りようもなかったが、目にしたとたん、なにか、ずきんと胸に響くものを感じた。
同じ衝撃《しょうげき》が、キラーパンサーをも動かした。どんより曇《くも》ったキラーパンサーの瞳にふと何かが走り、何かが浮かんだ。キラーパンサーは吠《ほ》えた。畏《おそ》れたように、ひと声高く。そして、もはや戸惑《とまど》いなく、広げたリュカの両手に飛びこんだ。
「プックル! ああ、プックル!」
「がうああう! うにゃーん、ごろごろごろ」
青年と大猫はひしとばかりに抱き合った。のしかかられ、ザラザラの舌で舐《な》めまわされて、リュカは声をあげて笑った。ピエールとガントフも、感激《かんげき》のあまり、思わずお互いの手を握りあって、唇を噛みしめた。
それからプックルは身をひるがえすと、壁の岩の隙間に鼻面《はなづら》をつっこみ、前肢をつっこみ、何か長いものを引きずりだした。リュカはひざまずき、手に取った。ひどく大きな剣だ。鞘《さや》のまわりに、うっすら苔《こけ》がついている。
「これは……とうさんの……パパスの剣《つるぎ》……」
がるる。キラーパンサーが悲しげに鳴いた。リュカはプックルのたくましい肩に腕を回し、そのあたたかな毛皮に顔を埋めた。
と。
「ねー、リュカ? ビアンカって、どんな子?」
駆けつけたスラリンが、好奇心《こうきしん》満々、にへらとでっかい目玉を笑わせたのだった。
小鳥鳴き、森かすみ、太陽が梢《こずえ》の若緑や畑の豆苗《まえなえ》をつやつやと輝かせているうららかな昼下がり。カボチ村を、怪物の群れが襲《おそ》った。……いや襲ったわけではない。ただ、ちょっと入ってきただけなのだ。
「へーえ、これが人間の村か」
[#挿絵(img/DQ5_2_148.jpg)入る]
「ガンドフ、むら、はじめて」
「す、す、スミスも! スミスも!」
「にゃー、オレは夜になら飛んだことあるにゃー。こうまぶしいと、眠くてしようがにゃーにゃー……ぐう」
プックル、ピエール、スミスに、スラリン、ドラきち、そしてガンドフ。六匹の魔物たちに囲まれて、リュカは、村の中の小道を歩いていった。
おとなたちは、みな青ざめ、恐怖《きょうふ》のあまり声をたてることもならず、仕事道具を放り出して、物陰にかくれた。熱心に雑草《ざっそう》取《と》りをしていたため、連中に気づかず、ごくそばまで来てからやっと顔をあげた婆《ばあ》さんは、とっておきの笑顔《えがお》をつくった腐った死体にこんにちはと挨拶《あいさつ》をされ、白目《しろめ》を剥《む》いてひっくりかえった。
だが、子供たちは違った。そこらで泥《どろ》んこになって遊んでいた子供たちは、珍《めずら》しいお客さんに、みな一様《いちよう》に目をまんまるくした。でっかくて毛むくじゃらな、生きているぬいぐるみみたいなガンドフ。半透明《はんとうめい》でぷるんぷるんしているスラリン。子供たちが駆け寄ってくるのを、一行は足を止めて待った。指をくわえたまま、ただぽかんとする子。おい、さわってみようよ、ひとを押しやって先に試《ため》させようとする子。しっかり手をつなぎあいながら、じりじり近づいてくる兄弟。
「おにいちゃん」
ひとりの男の子が、リュカの服の裾《すそ》を引いた。
「こいつの背中に、乗してもらってもいいかな? いっぺん、乗ってみたかったんだ」
こいつというのは、プックルだ。プックルは、その子の頬《ほお》をぺろんと舐《な》める。どうも初めて出会ったわけではなさそうだ。
ああ、そうだったのか、とピエールは思った。黒髪で、黒い瞳、やんちゃながら賢《かしこ》そうなこの子供は、どこかしらリュカに似ている。リュカの小さいころは、こんなふうだったのに違いない。プックルは、通りすがりにこの子を見つけて、離れ離れになったままのリュカだと勘違《かんちが》いをしたのではないか。だから、何度も何度も、村に侵入《しんにゅう》したのでは。
同じことに、リュカも気がついたらしい。なんともいえない瞳で子供をみつめている。
「いいかい?」
もう一度|尋《たず》ねられて、リュカは我に返り、にっこり笑う。
「ああ。いいよ。やってごらん」
スミスとピエールが手をかして、小さな子供をプックルの背中に押し上げた。たてがみをつかみ、尻《しり》をもぞもぞさせて落ち着かせる。プックルはちょっとくすぐったそうにしたが、やがて、軽やかにジャンプして人垣《ひとがき》を飛び越え、素晴《すば》らしいスピードで走りだした。ひとまわりして、戻ってくる。まわりの子供たちの中に感動と嫉妬《しっと》と羨望《せんぼう》の叫びがあがった。
ぼくも。あたしも。おいらは、あのおじちゃんに肩車がいい! 子供たちは順番に、プックルに乗り、スミスに担《かつ》ぎあげられ、ピエールの兜《かぶと》の中を覗《のぞ》きこんだ。ドラきちを頭に止まらせ、スラリンを相手に押し相撲《ずもう》を取り、ガンドフに名前を尋ねては、それはもう嬉しそうにガンドフガンドフと覚えさせられ、一緒に声をそろえてガンドフガンドフと唱える。
だが、やがて。どこから見ていたのか、血相《けっそう》を変えた母親たちが疾風《しっぷう》となって走ってきて、それぞれの子供をひっさらった。家に飛びこみ、かんぬきをかける。もっと遊びたいよう、可愛い声に、しっ、静かにっ、と叱《しか》る声。名残惜《なごりお》しげに高窓から覗く興味津々《きょうみしんしん》の顔が、さっとひっぱり降ろされたかと思うと、ぴしゃりぴしゃりとお尻を撲《ぶ》つ音、続いて、わぁんと泣き声。
「……ガンドフ……」
「ど、どうして? に、人間、どうしていやがる? き、嫌《きら》いなの? すスミスのこと?」
「まぁね、スミちゃんの場合はね、なんたって腐ってるから」
「嫌いっていうんじゃないんだよ」
リュカは静かに言った。
「おとなたちは怖《こわ》いんだ。よく知らないもの。はじめて見たもの。自分たちがやったことのないことは、子供たちにもさせたくないんだ。危《あぶ》ない、いけないって、やめさせずにいられないんだ」
「す、す、スミス、わ、わ、悪い? こ、怖い?」
「はっきりいって、じゅうぶん怖いにゃー」
「……まぁ、しかたない。わたしたちは、魔物なんですからね」
ピエールのことばに、みなしょんぼりしてしまった。リュカは、耳まで真っ赤にして怒《おこ》っている。ピエールはリュカの肩に手をかけて、言った。
「プックルの首を見せることはできなかったのだから、こうでもしなければ、カボチのひとたちを安心させることはできなかった。そうでしょう?」
「安心だと!」
吐《は》き捨《す》てるような声に、ピエールは顔をあげた。人間の男たちがそこまで来ていた。中で、一歩前に進み出ている居丈高《いたけだか》な男が、いやな目つきでリュカを睨《にら》んでいる。
「うさん臭《くさ》い若造《わかぞう》だと思っていたが、まさか、ばけものどもとグルだったとはな!」
「……村長……ぼくは」
言いかけて、リュカは黙りこんだ。カッと燃えていたリュカの瞳が、男たちのひとりに出会って、静かに冷《さ》めてゆくのをピエールは見た。それは頭の禿《は》げた、あまり風采《ふうさい》のあがらない男だ。もじもじと指を弄《もてあそ》びながら、苦しげな顔でうなだれている。リュカは、じっと待ったが、その男は、ついに目をあげなかった。
「約束《やくそく》だから、金はやる」
村長は革袋《かわぶくろ》をリュカの足許《あしもと》にどさりと投げつけた。
「そいつを持って、さっさと出てゆけ。二度と俺たちの村に足を踏みいれるな!」
リュカは村長に目を戻した。リュカは何も言わなかった。垂《た》れた両手の拳骨《げんこつ》を握りしめて。沈黙《ちんもく》が続いた。ガンドフが怪訝《けげん》そうにリュカをみつめ、毛むくじゃらなからだをよっこらしょと折《お》り畳《たた》んでしゃがみこみ、金袋を拾い上げた。リュカは動かなかった。ガンドフは、困ったようにあたりを見回した。誰も何も言わなかった。ガンドフは、迷ったあげく、立ち上がった。村長に袋を差し出し、その見かけからは想像《そうぞう》もつかないほど可愛らしい声で、言った。
「おとした、ました。はい」
村長はカッと目を開き、何かわめきながら、横ざまに袋を払った。どこかがほどけ、真新しい十ゴールド金貨がザッと散った。吃驚《びっくり》した勢いでよろめくガンドフを、リュカが支えた。ガンドフは、撲《ぶ》たれた犬のような目で、ガンドフ、とつぶやいた。
「怪物なんて、ほんとはどこにもいないんだ」
リュカは言った。低く。
「怪物をつくりだすのは、あなたがたの心だ」
そして、まだくすんくすん鼻を鳴らしているガンドフの肩を優しく抱いて、歩きだした。
ピエールが、プックルが、スミスが続いた。ドラきちはぱたぱたと飛び、スラリンは、人間たちを見回しておいて、ふんっ! と顔をそむけてから、急いで追いかけた。
入ってきたときよりもなお冷たい空気が、肩に伸しかかっていた。が、村のはずれに来たそのとき。
「おにいちゃーん! 猫ちゃーん!」
みなは振り返り、あの子供……プックルの背に乗った子供、狭い隙間からでも無理やり逃げ出してきたのか、服が破れてなかば脱げかけている……が、大きく大きく手を振っているのを見た。
「乗してくれて、ありがとーっ! さよーならーっ!」
こわばっていたリュカの顔が、みるみる満面|笑《え》み崩《くず》れた。
「さよならぁっ! ぼうや、元気でねぇっ!」
「おにいちゃんも。みんなもねーっ!」
「み、み、みんなだって、みんなだって! ね、す、すスミスも、は、入ってる? 入ってる?」
「ちくしょう、ったりめーだろ、ちゃんと入ってるよ。ばいばーい!」
「ば、ば、ばばーい!」
「ばーい!!」
「ガンドフー!」
ポートセルミの『グレイトドラゴンと踊《おど》る宝石《ほうせき》亭《てい》』に、顔を隠した何者かによって、残金の千五百ゴールドが届けられたのは、それから半月の後《のち》だった。
5 墜ちた神
生き残《のこ》るか、破《やふ》れるか。それだけがこの十余年、ラインハットの人々の最大の関心事であった。
親は子に、嘘《うそ》をつき他人《たにん》を裏切《うらぎ》ってでも、まず我《わ》が身を守ることを教えた。盗《ぬす》む者《もの》よりも盗まれる者が、だます者よりもだまされる者が、間抜《まぬ》けな馬鹿《ばか》だと嘲笑《あざわら》われる風潮《ふうちょう》だった。その場かぎりの言いのがれや日和見的《ひよりみてき》な行いに底辺から荒廃《こうはい》した王城《おうじょう》の街《まち》は、だが、ヘンリー殿下《でんか》の帰還《きかん》を境に、いま少しずつ、その本来の健全《けんぜん》な明るさを思いだそうとしていた。
城《しろ》では、大臣《だいじん》や衛兵《えいへい》、下働《したばたら》きのものたちまで、大幅《おおはば》な人員の入れ替えが行われた。苦難《くなん》の時代に日《ひ》の目を見ることのなかった誠意《せいい》ある人々、けして人としての誇《ほこ》りを忘《わす》れることのなかった者たちが、改めて多く取りあげられた。牢獄《ろうごく》や尋問所《じんもんじょ》は廃止《はいし》され、かわりに、瓦礫《がれき》の街路《がいろ》を花で満たすための庭師《にわし》や、戦乱に親を失った子供《こども》たちを収容《しゅうよう》する施設《しせつ》の係官が雇《やと》い入れられた。剣《けん》や戦斧《せんぶ》は錆《さ》びるままに放置され、鋸《のこ》や金槌《かなづち》や鍬《くわ》が研《と》ぎなおされた。あらぬ疑《うたが》いをかけられたり、みじめな暮《く》らしに嫌気《いやけ》がさすなどしてこの街を離れていた人々が、次々に戻《もど》ってくるころには、ラインハットはふたたび、北ノルズムの薔薇《ばら》の名にふさわしい、由緒《ゆいしょ》正しき王の都《みやこ》、美しく活気あふれる街の顔を取り戻しつつあった。
混乱《こんらん》が一段落《いちだんらく》したところに、また、喜ばしい騒動《そうどう》が持ちあがった。救国の英雄《えいゆう》ヘンリー殿下が、修道女《しゅうどうじょ》マリアを妃《きさき》に迎《むか》え入れると発表したのである。
きらきらしく飾《かざ》り立てた馬車に乗った迎《むか》えの使者が、ゼンタ大島に向けて出発したのは、夏のとある午後のことだった。使節《しせつ》を務《つと》めたは兵士のトム。金糸《きんし》の縫《ぬ》い取りのある儀仗兵《ぎじょうへい》の衣裳《いしょう》に身を包《つつ》み、朴訥《ぼくとつ》な顔をせいいっぱい引き締めて南にくだる馬車隊の先頭に立った彼の勇姿《ゆうし》を、市場の人々は感慨《かんがい》をもって見物した。
「どんな花嫁《はなよめ》さんなんだろうねぇ、愉《たの》しみだ。きっときれいだろうねぇ」
「なんでも、そのひと、ヘンリー殿下の生命《いのち》を助けたことがあるんだってよ」
さんざめきささやきあう人々の前から、馬車隊の長い列がすっかり通りすぎてしまったとたん。
「……目を覚《さ》ませ……思いだせ!」
人垣《ひとがき》の後ろ側から、声がかかった。
「修羅《しゅら》の巷《ちまた》を見しものたちよ……なぜまた、享楽《きょうらく》の渦中《かちゅう》に身を持ちくずさんとするのか?」
地底から響《ひび》いてくるような、暗く低く、だが強い声だった。人々は振り向き、灰色《はいいろ》のローブに身を包《つつ》んだ幽鬼《ゆうき》のような男と、彼をとりまくようにして並《なら》んだやはりくすんだ色合《いろあ》いの男女を認《みと》めた。光の教団だよ、と誰かがささやく。あれ、あの男が教祖《きょうそ》なのさ。それで、まだそのうわさの一団を知らなかったものたちも合点《がてん》がいった。奇妙《きみょう》に張りつめた空気が漂《ただよ》った。ひとはみな、好奇心《こうきしん》と、ゾッと背筋《せすじ》の冷たくなるようないやな感じにとらわれながら、痩《や》せた男を見つめたのだった。
「もう忘《わす》れてしまおうというのか。おまえたちは、もう少しで、愛するものたちを永遠《えいえん》に失うところだったではないか。信じたものが粉々《こなごな》に砕《くだ》け散《ち》る瞬間《しゅんかん》を見せられるところだったではないか。忙《せわ》しなく過ぎてゆく日常のうちにいつしか道を踏みはずし、ふたたびあの恐《おそ》ろしい日々が来ても、かまわないのか?」
しんと静まりかえった市場の中央に、教祖は大股《おおまた》に進み出た。とりまきのひとりが、八百屋《やおや》の店先から木箱《きばこ》をかっさらって台に為《な》すと、教祖は台にのぼった。伸ばしっぱなしの髪《かみ》が、風をはらんでふわりとなびいた。するとその冷たく冴《さ》えた瞳《ひとみ》と、浅黒《あさぐろ》い肌《はだ》があらわになった。痩《や》せぎすな頬《ほお》、高い鼻、薄く引き締められた唇。毒《どく》持つ花の美のような、一種、殺気だって研《と》ぎ澄《す》まされた容貌《ようぼう》であった。ついさっき、王の使者の凛々《りり》しい儀仗兵《ぎじょうへい》姿《すがた》にうっとりと見とれた娘《むすめ》たちの中には、こちらのほうがむしろより男らしい、高貴《こうき》らしい、と考えて、甘《あま》い吐息《といき》を洩《も》らすものもなくはない。
「かつて」
彼は言い、静まりかえった群衆《ぐんしゅう》を見回した。
「わたしもまた、愛するものを奪《うば》われた。まだ、希望《きぼう》の甘い香《かお》りにうつつを抜《ぬ》かしていた少年のころのことだった。わたしは国を捨て、一族の反対を振りきって、彼女を追った。世界じゅうをめぐる必死の捜索《そうさく》にもかかわらず、彼女の行方《ゆくえ》は知れなかった。わたしは、ある場所に出向き、天空城《てんくうじょう》の竜《りゅう》の神の元に至《いた》るといわれる塔へのぼった。しかし……塔は朽《く》ち果て、魔物どもの巣《す》くう場所となっていた……そして……」
男はねじくれた樹《き》の杖《つえ》を振り上げた。
「わたしは見た! 天空城など、すでにありはしないことを! この目で確かめて、わたしは識《し》った! 竜の神は、もはやどこにもいないことを!」
馬鹿《ばか》じゃねーの。なんて罰《ばち》あたりな。狂《くる》ってるぜ……!
どよめきが走り、野次《やじ》が飛んだ。だが、男は怯《ひる》まなかった。
「見たのだ。確かに神はいない。……神は、城とともに墜《お》ちたのだ! それゆえ……見よ、世界は暗黒の闇《やみ》の時代へと、坂道を転がり落ちるように動きはじめているではないか!!」
礫《つぶて》も飛んだ。信者の男女が、さっと散らばって、邪魔《じゃま》をした者を見つけようとした。あちこちで小競《こぜ》り合《あ》いが起こり、しだいに喧嘩《けんか》の様相《ようそう》を呈《てい》してきた。薬草屋の老婆《ろうば》が進みでて、邪悪《じゃあく》を祓《はら》うしかじかの仕種《しぐさ》をし、祈りの声を張り上げた。教祖は笑った。
「気の毒だが、祈っても意味はないのだ、おっかさん。なぜなら、神はいないのだから。おまえさんの祈りを聞き入れるものはないのだから」
老婆は罵《ののし》りの声をあげ、怒《いか》りに顔を真《ま》っ赤《か》にして男に詰《つ》め寄《よ》ろうとした。教祖は動かなかった。ただ、うすら笑いを浮《う》かべ、彼女をじっと見つめただけだった。すると、老婆は突然ウッと呻《うめ》いて立ち止まり、そのまま倒れた。胸をつかみ、棒《ぼう》のようになって。
「……お、おっかさん!」
「誰か。誰か、薬をっ!」
人々が駆けつけて老婆を助け起こしたが、その顔は紙のように白い。息は浅い。
「見ろ!」
教祖は老婆を指さし、大声で叫んだ。
「あれほど信心深いものさえ、神は守ろうとはしない! これほど確かな証拠《しょうこ》があろうか?」
ざわめきが人々を揺るがした。子供が泣きだし、犬が吠《ほ》えた。
多くのものは憎しみを瞳に浮かべて教祖とその連れをにらんだが、中にはこころを動かされたものもあった。たとえば、ヘンリーなき十年の間に、ひそかに、ちょっとひとには言えぬようなことがらをしでかしてしまった思い出にいまだに苦しめられているもの。たとえば、平和な時代になろうともみなのように浮かれることのできぬほど不幸なもの。子供を亡《な》くした親、恋人を亡くした娘、家や財産や築《きず》きあげた地位を奪われたもの、年取って居場所を失ったもの、はっきりと何がどうだとは言えぬながらいつも不平や不満を抱《いだ》きつづけずにおれぬ気質《きしつ》のもの……。
そうかもしれない、と彼らは思った。神なんて、いないのだ。わたしは、俺は、そんなこと、ずっと前から知っていた。だから、生きていることは苦しみであり、どんなに努力しようとも、どんなにせいいっぱいに働こうとも、けして満たされることはない。
「……では……だとしたら……いったいどうすればいいんだ?」
誰かのささやきを、教祖はするどく聞きつけた。彼は静かにうなずき、台を降りて、両手を広げた。
「望むなら、わたしとともに来るがいい。……わたしは砦《とりで》、わたしは城だ。わたしは光の国を造る。この世が闇におおわれるときにも、我が神殿《しんでん》にて、わたしとともにあれば、闇に飲まれることはない」
この詐欺師《さぎし》! 大ぼらふき! いったい何様《なにさま》のつもりなんだ! またひとしきり、怒濤《どとう》の声があがった。人垣《ひとがき》の向こうに、紅蓮《ぐれん》の旗《はた》と、銀色の槍先が閃《ひらめ》いた。騒《さわ》ぎを聞きつけて、城から衛兵たちが駆けつけてきたのだ。それでも教祖は皮肉な薄笑いを浮かべたままだった。
「信じぬなら、それでいい。信じぬものは惨《むご》たらしく死ぬ、それだけのことだ」
教祖は足早に歩きだし、くすんだ色合いの服装《ふくそう》の男女が静かにそれに続いた。人々は嘲《あざけ》りの声をあげ、また石を投げた。と、投げられた石が男の背に当たりそうになった。誰かが悲鳴《ひめい》をあげた。すると、教祖は振り向き、石を見た。石は、彼の眼前《がんぜん》で、ジュッと蒸発《じょうはつ》するように消えてしまった。彼は小さく笑い、ローブのフードを深々とかぶると、また歩きだした。
多くの人々が我が目を疑《うたが》った。ほとんどが、その場から動くこともできなくなっていた。だが、何人かは……先のことばになにがしか興味や共鳴《きょうめい》するものを覚えたものたちや、力あるものには無条件《むじょうけん》に従ってしまうほど幼いものたちは……これをきっかけに、決心を固めた。青ざめた顔つきで、あるいは、酔《よ》ったような瞳になって、ふらふらと教祖のあとについていった。
「……あ……悪魔《あくま》! あの男は悪魔じゃ……!」
薬草屋の老婆がわなわなと震《ふる》える指を伸ばし、それから、力なくパタリと落とした。
「えっ? ……おっかさん! おっかさん、しっかりしろ!」
「おい、動かないぞ。死んだぞ」
「死んだ?」
死んだ? 死んだ? 死んだ? ざわめきが波のように人々の間を走り抜けた。あの男ににらまれると、石も消えるのか? あの男を呪《のろ》うと、老婆も死ぬのか? 人々は狼狽《うろた》えた瞳を見交わし、胸を、喉《のど》を、そっと押さえた。
「どうしたというのだ! なにがあった?」
やっと駆けつけた衛兵隊長がわめき声をあげ、誰かれの肩を揺すぶって問《と》い質《ただ》しても、まともに返事をするものは、ただのひとりもいなかった……。
6 二つの指輪
アンディ・インガルスは真剣《しんけん》この上ない顔つきで匙《さじ》を傾《かたむ》けた。黒絵の具が青絵の具の中にたらたらと混ざる。匙に半分ほどで手を止め、へらでよく混ぜ、傍《かたわ》らの木片に塗《ぬ》ってみる。まだだ。アンディは袖《そで》で顔の汗《あせ》を拭《ふ》き、匙にもう半分ばかりの黒をすくう。
いっぱいに見開いた琥珀《こはく》の瞳《ひとみ》に柄《え》の長い匙がうつる。麦藁色《むぎわらいろ》の髪《かみ》を真ん中でわけ、背《せ》に長くたらしている。肌色《はだいろ》は白く、全体にほっそりと華奢《きゃしゃ》なからだつき。やさ男といっていいほどの男前だが、銀鎖《ぎんぐさり》の額《ひたい》飾《かざ》りをさげているのは、この若《わか》さですでに一人前の職工《しょっこう》とし認《みと》められたものである印《しるし》だ。
「アンディ、来いよ。スープが冷めるぞ」
南側の窓《まど》は開け放たれていて、さんさんと降り注《そそ》ぐ陽光に、仲間《なかま》の職人たちが卓《たく》を囲んでシルエットになっている。いちご酒の瓶《びん》を振って声をかけてくれたのはガルフ、化粧箪笥《けしょうだんす》や飾り机などの大物を作らせたら、サラボナでも一番の指物師《さしものし》だ。
光に透《す》けたいちご酒が、ルビー・レッドに輝《かがや》いている。あんな冴《さ》えた赤が使いこなせたらなぁ。アンディは目を細めた。どんなに精魂《せいこん》こめて調整しても、作り物の色は自然の色にはかなわない。
急に気が抜《ぬ》け、集中力がそがれた。
「今、いく」
アンディは匙を放り出し、絵の具|缶《かん》の蓋《ふた》をしめた。傍らのぼろで両手をぬぐった。
仲間たちと昼食をすすめていると、床《ゆか》に散らばった香杉《シダー》の削《けず》りかすを押して、扉《とびら》が開かれ、
「邪魔《じゃま》するよ」
プリー老が痩《や》せてとがった顔をのぞかせた。
「ああ、おやじさん」
「どうぞ」
さっさと食べ終わっていたイツァが、素早く飛んでいって手を貸した。老人はゆったりと歩いてきて、彼専用の、いちばん頑丈《がんじょう》な椅子《いす》にゆったりと腰をおろした。ガルフがいちご酒の瓶を掲《かか》げると、もじゃもじゃの眉《まゆ》をにやりとさせてうなずいた。ゲインズもアンディも座《すわ》ったままながら礼をする。
老人は、このサラボナに世界でも有数の美術家具|工房《こうぼう》をひらいた男だった。作業場は彼の屋敷《やしき》につながっており、職人たちの毎日の食事も、料理女がそこから運んでくる。
老人はふしくれだった指で盃《さかずき》を取り、いちご酒を受け、つきだした唇《くちびる》で迎《むか》えにゆくようにして啜《すす》る。
「……具合はどうじゃ? 忙《いそが》しいのか?」
「まずまずです」
と、ガルフ。
「次の荷が届いたら、てんてこまいになるでしょうが、船の到着は早くとも来月です。それまではおかげさんで、のんびりやらせてもらってますよ」
「ならば、引き受けてもかまわぬかな」
「引き受けるとは?」
「木馬なんじゃ。ルドマンのひとり娘《むすめ》が戻《もど》ってきた。いよいよ婿《むこ》を取るらしい」
スープをすくっていたアンディの肩がぴくりと動いた。
「やがて生まれるだろう孫《まご》のために、とびきりの木馬を一頭、注文したいのだそうだ。気の早い男じゃよ、まったく……じゃが、それだけ時間をかければ、ほんとうにいいものを作ることができよう。ルドマンのことじゃ、金に糸目はつけまい。どうじゃ、みなで、腕によりをかけて、世界一の木馬を作ってくれんかね」
「そりゃあ面白《おもしろ》い。さっそく図面をひいてみましょう」
「確か倉庫に、大昔《おおひかし》にどこかの城でいらなくなった木馬が、二つ三つ埃《ほこり》をかぶっていた。あれを見本に持ってこようか」
「行きましょう」
職人たちは誘《さそ》い合って出ていった。老人と、アンディだけがとり残された。
アンディはスープ匙を置き、顔をあげた。じっと見つめられていることに、ぴくりとしたが、無言のまま会釈《えしゃく》をし、立ち上がろうとする。
「まあ、座れ。おまえまで行かぬでもよかろう」
「……おやじさん」
「白薔薇《しろばら》のフローラ、か」
アンディは顔を赤らめた。
「八年前だったかな。あの子が海辺の修道院《しゅうどういん》に送られたのは」
「…………」
「いちだんと美しゅうなっておったぞ。それはもう、匂いたつようにな」
「フローラに逢《あ》ったんですか」
「ああ。ルドマンが自慢気《じまんげ》に見せびらかしおったわ。父親ちゅうもんは、まったくどうしようもないな。赤子《あかご》のように膝《ひざ》に抱《だ》こうとして、かみさんにたしなめられておったわえ。でれでれと鼻の下をのばしおってからに……いや、まぁ、あんな愛らしい娘がおったなら、儂《わし》だってどうなっておったかわかりゃせんがの」
プリー老は自嘲的《じちょうてき》な笑みを浮かべた。
老人には家族がなかった。仕事を覚え工房を広げるのに夢中で嫁取《よめと》りが遅くなり、やっともらったその妻《つま》は、胎内《たいない》の子供《こども》と共に亡《な》くなった。次の妻を、老人は探《さが》さなかった。かわりに、死んだ妻の兄の家の七人の子供の、一番末、そのころちょうど、ものごころついたばかりのアンディを預《あず》かることにしたのだった。
夢見る瞳《ひとみ》をしたアンディは、弱虫のみそっかすだと思われていた。
兄たちはみな、腕白《わんぱく》でたくましく、時として乱暴《らんぼう》なほどの少年たちである。魚を突《つ》き兎《うきぎ》や鳥を罠《わな》にかけ、血を抜いたり皮をはいだりするのが得意。剣《けん》はさすがに持たないが、弓矢は手製の本物だ。
だが末《すえ》の弟ときたら。戦《いくさ》ごっこの途中でも、夕焼け空に放心し、蝶《ちょう》にみとれて我を忘れる。てんでのろまなやっかい者なのだ。
美しいものが好きで、小さなものや儚《はかな》いものをこよなく愛《いと》しむ心を持ったアンディを――辛抱《しんぼう》強く注意深い手を持った彼を、老人は愛した。誰《だれ》よりもよく理解し、育ててくれた。銀鎖を許されるほどの彩色師《さいしょくし》に成長した彼を、誇《ほこ》りに思い、その腕に抱いたことのない我が子のぶんまで、幸福になってほしいと願っている。
「のう、アンディ……おまえもじき二十歳《はたち》。とっくに子があっておかしくない年頃《としごろ》だ。仕事にばかり打ちこんで、儂のようになってはいけないよ」
老人の静かな凝視《ぎょうし》。アンディは頭を振って、笑顔を作る。
「急ぎの仕事はありません。午後は休みにさせてください」
「かまわんよ。ガルフにそう伝えておこう」
「ちょっと出かけてきます」
足早に歩き去る彩色師の背を見守り、老人は、やれやれとため息をつく。
「ほんとうは、お帰ししたくはなかったのですよ」
ぽうっと縁《ふち》の染《そ》まった瞳を少々|意地悪《いじわる》げに光らせて、修道女は言った。
「ご息女《そくじょ》は実に清純《せいじゅん》で聡明《そうめい》であられる。このまま我らとともに、かの海辺の修道院にて、神の花嫁の道を歩んでいただきたかった」
「そうまで言っていただけるとは光栄のしごくですなぁ……ま、どうぞどうぞ」
ロベルト・ルドマンは満面《まんめん》崩《くず》れんばかりの笑顔で、合図をした。メイドのひとりが、急いで進み出て、客の盃に酒を満たそうとした。
「いえ、もうけっこう」
シスターは白い手で盃に蓋《ふた》をする。
「いいじゃあありませんか、シスター。たまにはお過ごしなされ、どうせ今夜はお泊《と》まりいただくのですし」
「しかし」
「どうぞご遠慮《えんりょ》なく。おつきあいください、いや、私は嬉《うれ》しい。嬉しくってたまらんのです。あなたがたには、ほんとうに感謝《かんしゃ》しております。ですから、ここはひとつ、存分《ぞんぶん》に……おーい、食べ物はまだか」
ルドマンが手を叩《たた》くのを合図に、続き部屋《べや》から、山海の珍味《ちんみ》を盛りつけた大皿が三つ四つ、しずしずと運ばれてきた。ほかほかと湯気がたち、言うにいわれぬいい香《かお》りが漂《ただよ》う。
修道女は静かに座ったきりのルドマン夫人シャルロットを見つめた。夫人は無言のまま、どうぞ、とばかりにかすかに微笑《ほほえ》む。
豪華《ごうか》この上ない大広間である。
五十人の若者と五十人の娘が舞踏会《ぶとうかい》をすることができるほどに広い。薔薇色《ばらいろ》がかった大理石の円柱が支えた高天井には、氷の金管《ホルン》を鳴らす北風の長《おさ》、花びら衣を翻《ひるがえ》し葦笛《あしぶえ》を吹く南風の乙女《おとめ》、小鳥や動物たちを伴い竪琴《たてごと》を抱《かか》えた東の少年、太鼓《たいこ》を鳴らし数多《あまた》の小舟と魚たちを従えた西の翁《おきな》が、玻璃《はり》細工《ざいく》の丸窓を中心に、いかにも楽しそうに踊っている。手織りの掛け布がたっぷりと襞《ひだ》を取って飾られた細長い窓、ぴかぴかに磨《みが》きこまれた何十もの繊細《せんさい》な燭台《しょくだい》、指二本分も厚みのある絨緞《じゅうたん》。仔牛《こうし》も丸焼きにできそうな巨大なマントルピースには、香りのよい薪《たきぎ》がさかんに焚《た》かれている。
修道女と大金持ちのルドマン夫妻は、その大きな部屋の南側、美しい庭に面した明るい一角で、広大な食卓のあちらとこちらに、ずいぶんと離れて座っていたのだった。いずれも同じ衣裳《いしょう》――腰をくびれさせた茄子紺《なすこん》のドレスに、ぱりぱりに糊《のり》の効《き》いた純白のエプロン、純白の布帽子《ぬのぼうし》に、純白の絹靴《きぬぐつ》――同じほどの小柄《こがら》な体格の娘たちが、何人も現れてはひっこんで、なにくれと彼らの世話をやいた。肉を切りわけ、ソースを塩梅《あんばい》し、汚《よご》れた皿やカトラリーを下げ、新しいものを並べ、かすかに散ったパン屑《くず》すらも、どこやらから取りだした銀色の小さな塵《ちり》取《と》りとほうきでササッと集めて片付けてしまう。
あまりに甲斐甲斐《かいがい》しく何からなにまで面倒《めんどう》を見てもらって、修道女はいささか気ぶっせいな、落ち着かないものを感じた。
まるで王侯貴族《おうこうきぞく》のようだわ、と思う。かすかに苦い疼《うず》きが生じた。
質素《しっそ》な海辺の修道院でも、船を乗り継ぎ、馬車をやとっての長い旅のさなかにも、この家の娘はそれこそ小間使いのように働かなければならなかった。全員の寝床《ねどこ》を整え、年かさの修道女の着替えを手伝い、洗い物や針仕事を自ら探し、野に出て薬草を摘《つ》み、波に素足《すあし》を洗わせながら貝や海草を拾って……娘は院ではいちばん年若いものであったから、いちばん熱心に働かなければならぬものであった。小さな手をあかぎれに痛め、あおあおと豊かな髪を堅苦《かたくる》しくひっつめ、くたびれた簡素《かんそ》な服に慎《つつ》ましくその身をおおいかくして。
だが。
修道女はふたたび、夫人に視線をやった。塔《とう》のように高々と結《ゆ》い上げ、生花《せいか》を散らした髪ひとつ見ても、けしてひとりで為《な》しうるものではない。豪華な馳走《ちそう》の数々も、指図《さしず》ひとつなしに、どこか陰《かげ》のほうでその役目を負うたものが用意してくれるらしい。淑《しと》やかに、ゆっくりと、銀のナイフを使って、小鳥の餌《えさ》ほどのビスケットにチーズを塗《ぬ》るその指は、ふっくらと瑞々《みずみず》しく、紅髄玉《カーネリアン》の指輪にあわせて、美しく整えた爪《つめ》まで珊瑚《さんご》めいた赤に染めてある。
今日から、フローラは、この家の令嬢《れいじょう》として生活することになるのだ。あの娘は、もうけしてその手を、冷たい水や泥《どろ》や錆《さ》びた針で刺《さ》すことはないのだ……。
と。
うおっ、うおんっ! うううおんっ!
どこからともなく、すさまじい吠《ほ》え声がし。
「リリアン! おやめ!」
凛《りん》と高く張《は》り詰《つ》めた声が走った。
夫人がビスケットを落としてあたりを見回した。
「おや?」
ルドマンは眉《まゆ》をひそめた。だが、にんまりと微笑んだ唇はだらしなく崩れたままだ。ほかでもない、いま聞こえたのは、彼のもっとも愛しいものの声であったのだから。
真鍮《しんちゅう》の手すりが絶妙《ぜつみょう》な曲線を描《えが》いた大階段を、哀《あわ》れなメイドが血相を変えて駆け降りてくる。真っ白で毛むくじゃらの大きなものに追われているのだ。そのさらにあとを、うつくしい衣裳の裾《すそ》をからげて、つんのめりながら追いかけてくるのが、フローラであった。
まだきちんととめていない襟《えり》をひらひらさせ、髪は半分|編《あ》みこまれ、半分はふわふわと背に躍《おど》っていたままだ。彼女のあとから、何人ものメイドが、これまたドタドタと追ってくる。ピンやブラシや鏡や香水瓶《こうすいびん》や宝石など、手に手にいろいろなものを持って。どうやら支度《したく》の途中であったらしい。
「はしたない」
ルドマンは小さく言ったが、咎《とが》めの響きはなかった。むしろ、面白がっている。
逃げ惑《まど》うメイドが、料理係のメイドとぶつかりかけ、ふたり抱き合って、すてんと転ぶ。階段の途中から跳躍《ちょうやく》していた白い獣《けもの》は、なにもない空中をかぷりと噛《か》んで、床に降り立った。振り向いて牙《きば》を剥《む》き、いとも悔《くや》しげに唸《うな》る。
料理係も身支度係も、みな震《ふる》えあがり、悲鳴をあげ、てんでんばらばらに逃げ出した。ぶつかりあい、混ざりあい、机を潜《もぐ》り、柱を回り。誰かが盆《ぼん》をひっくりかえし、誰かがスカートの裾に噛みつかれて甲高《かんだか》い声をあげる。獣はますます興奮《こうふん》して、ばうばうと吠え、尾の千切《ちぎ》れそうな勢いで、部屋じゅうを走りまわった。
「こらっ、リリアン! おやめなさいったら! ……ああ、ごめんなさい、シスター、ごめんなさい、おとうさま、おかあさま」
フローラは頬《ほお》を真っ赤にし、息を弾《はず》ませながら、立ち止まって会釈《えしゃく》をした。
「あの子、あたしが苛《いじ》められると思って、怒《おこ》ってしまったんです。マチアはただ、髪を梳《す》いてくれていただけなのに……ちょっともつれて、解《と》けないところがあったものですから、痛いって言ったら、あたしがいじめられているとでも思ったらしく……あっ!」
追い回されたメイドの何人かが、とうとう扉を開けておもてに逃げ出した。白い獣はたちまち身をひるがえすようにして、それを追いかけてゆく。
「たいへん! 失礼します」
フローラは、ぺこりと頭をさげると、獣の名を呼びながら早足に部屋を出ていった。
あたりは唐突《とうとつ》に静かになった。茫然《ぼうぜん》とした顔つきを互いに見合わせたメイドたちが、あわてて立ち上がり、床や食卓の惨状《さんじょう》を片付け始める。
「……なんですかな、あれは?」
ルドマンが言った。
「野犬でした」
修道女は苦々しげに答えた。
「院の近くで傷《きず》ついて倒れていたのを、ご息女《そくじょ》が見つけて、介抱《かいほう》してやったのです。はじめはほんの小犬だったのですが、あのようにバカでか……いえ、たいへん大きく成長してしまい、彼女にしか懐《なつ》かず、彼女のあとをいつもつけまわ……いえ、慕《した》って歩くものですから、このたびしかたなく、ご息女と共に連れてきた次第でございます」
「なるほど」
大金持ちは、にやにやした。
「あれほど頼もしい騎士《きし》がついておれば、尼前《あまぜ》も道中、さぞかし、心強くあられたのでは?」
「心強く? とんでもない! あの狂犬《きょうけん》は船中で、四人の人間を噛みました。ひとりは気の毒に、手の骨が折れました。海に投げこんでやると息まく連中と、あくまで犬をかばうご息女の間にはさまれて、生きた心地《ここち》もしませんでしたわ」
ルドマンは声をあげて笑った。夫人は、低い声でたしなめたが、頓着《とんちゃく》もしない。
「それはお気の毒でした。が、その噛まれたものたちはきっと、わたしの娘に、必要以上に近づきすぎたのだ。いい話だ。あの獣には、あとで褒美《ほうび》をやりましょう」
「リリアン! リリアンったら、どこなの? 戻っていらっしゃい!」
フローラは足を止めた。御影石《みかげいし》の階段が左右に回りこむ正面に噴水《ふんすい》、続いて一段低くなった平面に樹木《じゅもく》の迷路《めいろ》。ずっと先まで、きっちりと左右対称に造られた屋敷《やしき》の庭である。よく刈《か》られた芝目《しばめ》までが、完璧《かんぺき》な縞模様《しまもよう》になって見える上を、雲の影が流れてゆく。
息を整えながら耳をすましていると、右手奥の森陰《もりかげ》の池から、ぱぁっと鴨《かも》の群れが飛び立った。エプロンもぼろぼろのメイドが何人かばたばたと走り抜け、純白の彗星《すいせい》となって犬がそれを追う。
「リリアン!」
フローラは駆けだした。着慣れないドレスは胸を締《し》めつけ、真新しい靴《くつ》は足を痛めた。たっぷりした裾《すそ》はひどくからまる。だが、彼女は、せいいっぱいに急いだ。
興奮しきった犬の走り抜ける先で、庭師ははしごから転げ落ち、野菜運びは籠《かご》をひっくりかえし、作男《さくおとこ》は熊手《フォーク》をすっ飛ばして藁山《わらやま》に飛びこんだ。豚《ぶた》はぶうぶう。家鴨《あひる》はガアガア、猫《ねこ》たちは梢《こずえ》に登って尾を膨《ふく》らます。馬房《ばぼう》につながれていた二十頭あまりの馬たちが屋根を揺《ゆ》らして激しくいななくと、父所有の優秀な猟犬《りょうけん》たちが怒濤《どとう》の一団となって走り出た。リリアンは四肢《しし》を突っ張って止まると、あわてて回れ右をし、砂埃《すなぼこり》を蹴《け》たて、門を出ていってしまう。
「……まぁ、大変!」
フローラも続いた。赤煉瓦《あかれんが》の家々が立ち並び、見通せぬ遠くで、きゃあきゃあと逃げる声がする。また、どこかで悲鳴があがり、何かがひどく壊れるような音がした。
「りり」
呼ぼうとすると、声がからんだ。めまいもした。ひとしきり咳《せ》きこんで、顔をあげると、左側に伸びた道の遥《はる》か向こう側を、誰かに被《かぶ》せられてもしたのか、洗濯物《せんたくもの》らしい布を顔にくっつけて、はたはたとなびかせながら、闇雲《やみくも》に走る白い体が目に入った。行く手に、誰かいる。紫色《むらさきいろ》のターバンをした男だ。通せんぼをするように、道の真ん中で立ち止まっている。
「……ああ、危ない! 気をつけて!」
ターバンの男が剣の鞘《さや》を使って、リリアンの目暗《めくら》ましを素早く取りのけた。急に前の見えるようになったリリアンは、ぎくりとし、迷《まよ》わず男に飛びかかった。フローラは両手を顔にあててギュッと目を閉じ、絶叫《ぜっきょう》を予想して奥歯を噛みしめた。が、叫《さけ》びはあがらなかった。
おそるおそる手をはずし、目をあけてみて、フローラは驚いた。白い犬は、盛んに尻尾《しっぽ》を振っている。後ろ肢《あし》だちになった犬は、男と同じほどの背丈《せたけ》がある。胸と肩に前肢をかけ、その顔を、ぺろぺろと舐《な》めまわしているではないか!
「よしよし、わかった、わかった」
男は優しくリリアンの耳のあたりを掻《か》いてやっている。
「どうしたんだ、おまえ? 迷子《まいご》かい? ……ああ、あのひとがご主人さまか」
リリアンは振り返り、よろめくように近づいてくるフローラを見て、わん! と吠《ほ》えた。名残惜《なごりお》しそうにもうひと舐めしてから、男のからだを離し、すっかり落ち着いた様子でフローラのそばにやって来る。
「……リリアンったら! ああ。悪い子ね」
フローラはなかば崩れるように道に座りこんで、犬の頭を抱きとめた。
「だめじゃない、あんな無茶をして! お利口にしてくれないと、追いだされちゃうから」
リリアンの冷たい鼻が、ざらついた舌《した》が、火照《ほて》った頬に気持ちよかった。フローラはようやくほんとうに安心して、どうもありがとうございました、と言いながら顔をあげ、はじめてまっすぐに男を見た。
「どういたしまして。あなたこそ、だいじょうぶですか?」
「ええ……だいじょうぶです」
見知らぬ若者だった。涼《すず》しい目をして、屈託《くったく》なく微笑んでいる。腰に剣、背に荷物。伸び放題の黒髪がターバンからあふれて額《ひたい》にかかっている。陽《ひ》に灼《け》けた肌は、長旅をしてきたしるしだろう。
「おかげさまで、助かりました」
フローラは顔を赤らめ、乱れ髪を撫《な》でつけながら立ち上がった。
「不思議だわ。この子は私以外のひとには、けして馴《な》れなかったのに」
「犬好みの匂いがしたんでしょう」
男は笑い、ずっと鞘の先にひっかけていたままの洗濯物を手に取った。
「どうしたものかな、これを」
「預かりますわ。あとで家のものに、調べさせます。ああ、そうです。よろしかったら、家にお寄りください。犬がお召しものを汚《よこ》しましたでしょう?」
「気にするほどの服ではありませんから」
男は手を振って、歩き去ろうとした。
「……あの」
「何です?」
「わたし……フローラ・ルドマンです。あなたさまは?」
「ああ! ルドマンさんのお嬢《じょう》さんですか。白薔薇のフローラというのは、あなたのことだったんですね」
男は剣を腰に戻しながら、急に真面目な顔つきになった。
「すみません、ぼくはリュカといいます。ご一緒させていただきたい。何を隠そう、ぼくはいま、お宅をお訪ねするところなのです。お父上に、お目にかかる約束《やくそく》があります」
「まぁ」
フローラは訝《いぶか》しげに長いまつげを瞬《またた》いたが、すぐ、花のほころぶように微笑んだ。
「喜んでご案内しますわ。どうぞ」
娘が誰かと一緒に帰ってきたと聞くと、ルドマンは窓辺に寄った。広大で美しい芝庭を横切って、歩いてくるふたりが見えた。何か楽しげに話をしている。あの獰猛《どうもう》な犬が、尾など振りながらおとなしげにつき従《したが》っている。
「……ノルズム大陸風の被《かぶ》り物……ふむ、黒髪の若者……おお。あの輝き。金でも銀でもない光を帯びたあの剣こそ、確かに!」
「なんですの?」
修道女が尋ねると、ルドマンはぴくりと振り向いた。
「いや。なんでもありません。……どうやら不意の客が来たようだ。少々|退屈《たいくつ》な話をしなければなりません。すまぬが、シャルロット、シスターを温室にでもご案内してお相手を務《つと》めてくれぬか」
夫人は何か問いたげに唇を開きかけたが、夫の鋭い目くばせに、黙ってうなずいた。
女たちがさがり、メイドたちが手早くあたりを片付けて引きあげるのを、ルドマンはむっつりと立ちつくして見守った。が、誰もいなくなったとたん、その表情が崩《くず》れる。
「予言《よげん》の勇者《ゆうしゃ》だ……予言の勇者だ!」
ほくほく笑いを浮かべながら、無意識《むいしき》のうちに両手を擦《す》り合わせ、うろうろと部屋じゅうを歩き回る。
「落ち着けルドマン、よく考えろ。……こいつはでかい取り引きだ……商売と同じだ。まず信用されること、欲をかきたてること……それから、向こうもこっちも損《そん》がないよう話を持ってく……」
「おとうさま? どちらです?」
フローラの声がする。ルドマンはとっさに、暖炉《だんろ》上に並べられてあるたくさんのパイプのコレクションの中から、手近なひとつを手に取った。
「おとうさま。ああ。こんなところにいらしたのね」
広間の扉をあけて、娘が入ってきた。
ルドマンはことさらゆっくりとパイプに煙草《たばこ》をつめ、目をあげた。
「おお、戻ったか。……なんだ。誰だね、その男は」
「リュカさんです。リリアンを助けてくださったの」
フローラは急いで一歩踏みだして、若者から離れた。
「おとうさまとお約束があると伺《うかが》ったので、ご案内してまいりましたわ」
「はじめまして」
と、彼は挨拶《あいさつ》のしぐさをした。
「サンタローズのリュカといいます。ポートセルミの『グレイトドラゴンと踊る宝石《ほうせき》亭《てい》』には、たいへんお世話になりました。料理人のグレンから、手紙でご紹介《しょうかい》いただいてあるかと存じますが」
「あの件か。手紙は昨日《きのう》届いたばかりだ。もう来たのか。早かったな」
ルドマンは煙草《たばこ》に火をつけた。顔は穏やかな歓迎を装《よそお》ってはいたが、その瞳は成功した商売人の抜け目なさを示して鋭く光った。頭からつま先まで、値踏《ねぶ》みするようにリュカを見る。
凛々《りり》しげな面魂《つらだましい》の若者だ。目は澄《す》んでいる。歯並びも下品ではない。物言いはハキハキしていたし、こうして無遠慮《ぶえんりょ》に見つめても、少しも動じずに微笑んでいる。身につけた衣裳は頑丈《がんじょう》なばかりの無骨《ぶこつ》なものだが、無作法というほど見苦しくはない。なにより腰に吊《つ》るした二本の長剣のうちの一本は、確かに、あの秘密の品々の特徴《とくちょう》である不可思議な金属の独特の光沢《こうたく》を帯びている。
整った顔だちをした男をルドマンはどちらかというと好きではなかった。なにか、信用のおけない、小狡《こずる》い奴のように思われるのだ。なよなよと頼りなく、女の機嫌《きげん》を取るのばかりがうまい奴のように……だが、この青年は、ぎりぎり許せないこともない気がした。この容姿は、甘い夢を見がちな娘心にも、さぞかし好ましいものに映っただろう。
[#挿絵(img/DQ5_2_180.jpg)入る]
うっかりほくそ笑みを洩《も》らしそうになる唇に、急いでパイプを押しこみ、ひとつ吹かしておいてから、わけもわからずに緊張している様子の娘に声をかけた。
「フローラ。誰かに言いつけて、このかたに何か冷たい飲み物を持ってこさせなさい。それから、おまえははやく着替えておいで。ひどい恰好《かっこう》だぞ」
「あ。はい」
娘は撲《う》たれたように頬を赤らめて、さっと姿を消した。
「さて、まぁどうぞ、リュカとやら。おかけなされ」
暖炉前の座り心地のいい椅子に、男たちは向かい合った。ルドマンがパイプをすすめ、リュカが断った。
やがてフローラが自ら飲み物を届けに来た。彼女は、ことさらゆっくりと盃を配り、飲み物を注《そそ》いだ。交わされるであろう会話の片鱗《へんりん》でも、聞けるものなら聞こうとするように。
ルドマンはちらりと娘を見たが、ひとことも発しはしなかった。リュカも考え深げに沈黙《ちんもく》を守っている。
「……失礼します……」
諦《あきら》めて立ち上がり、会釈をし、振り返り振り返り娘が去ると、ようやくルドマンは口を開いた。
「天空の、盾《たて》のことだな」
「そうです」
リュカも自然の呼吸を取り戻したようににっこりとして、盃に口をつけた。
ルドマンは海泡石《かいほうせき》のパイプを吹かした。青みがかった煙《けむり》がひと筋、ゆらりと立ちのぼる。
「確かに、儂《わし》はそう呼ばれるものを所有している。だが大事な家宝《かほう》だ。滅多《めった》な人間には見せるわけにもゆかぬ」
「グレンの書状では、信用していただけませんか」
「あれは優秀な料理人だそうだ。料理の腕は信用している」
「このたびは、厨房《ちゅうぼう》だけでなく、あの立派なお店全体をもお任せになったと聞いています。信用しておられるのは、料理の腕だけではないはず」
「店を任せてから、まだひと月にもならぬ」
かすかに怒ったような声でルドマンが言った。
「ポートセルミは遠い。グレンとやらとは、まだ面識《めんしき》もないのだ。かつて我が家におったショウというものが、悪い男ではないと保証したから、とりあえず任せたまで。信用できるかできないか、使える男なのかそうでないかは、これから決める」
「では、どうすれば、ぼくを信用していただけます?」
長い沈黙のあと、ルドマンは言った。
「この大陸のどこかに、ふたつの指輪が隠されている。炎《ほのお》の指輪、水の指輪だ。このふたつを取ってくることができたとき、そなたを信用しよう」
硝子《がらす》張りの温室には、人工の滝が虹《にじ》をつくり、せせらぎに魚たちが泳いでいる。見たこともない花が咲き乱れ、原色の鳥や蝶《ちょう》が、悠々《ゆうゆう》と飛び交い遊んでいる。紙で張った大きな傘《かさ》の梁《はり》の上を、宝石の鱗《うろこ》を持った不思議なとかげが、ゆったりと登ってゆく。
「みごとなものですわねぇ」
傘の下の椅子にかけて、修道女が言った。
「父が……先代が旅行好きでしたので」
十八|歳《さい》になる娘の母というよりは、みずからもまだ乙女《おとめ》の風貌《ふうぼう》を残したシャルロット夫人は、いとも慎ましやかに微笑んだ。
「さまざまな国で、変わったものを見つけては、片っぱしから買いつけて送らせたのです。あの鳥は砂漠《さばく》の国からつがいで連れてきて、どんどん増えたもの。あちらの変わった形の岩は、辺境の海辺から掘り出したものです。ここには、世界じゅうの美しいものが集められているんですわ。……クリームをもっと召し上がれ?」
「入りませんわ。もうたっぷりいただきました」
修道女は頭を振った。
「それにしても、お庭といい、お屋敷といい……たいへんな財産ですわね」
「そう、たいへんな財産です」
美しい眉を曇《くも》らせて、夫人はうなずいた。
「ご存じでしょうかしら。ルドマンの初代は、武器商人でした。世界じゅうを股《また》にかけて、ありとあらゆる戦いに参加し、武勲《ぶくん》を立てました。必要な場所に必要な武器を届けて財をなし、数多《あまた》の王族の信頼を勝ち取り、高名な戦士に同行しては、勝利しつづけました。時には敵の手にあった風変わりな剣や盾を略奪《りゃくだつ》しさえした、と聞いています。我が一族の財産の元が生じたのは、世に戦乱があり、人々が苦しみにあえいだ年月のおかげなのです」
「…………」
「シスター」
シャルロット夫人は、思いあまったような目をして、修道女の手を取った。
「あの……あの噂《うわさ》はほんとうなのでしょうか? サラボナは田舎《いなか》です、時の流れの遅い場所です。けれど、ささやく人々があります。世界を治めておられた竜《りゅう》の神さまがおられなくなり、闇の世界から大魔王がやって来るのだと……この世はふたたび、血なまぐさい戦乱の嵐に飲みこまれるのだと。偉大なひとりの教祖さまが、そのように予言をなさり、この世のどこかに、急ぎ光の国を造っておられるとか。ただその教えにかなったものだけが、暗黒の刻《とき》を生き延びることができるのだとか」
「おくさま!」
修道女は夫人の手を握りかえした。ひどく冷たく、震える手だった。
「邪教《じゃきょう》ですわ。わざとひとを不安に陥《おとしい》れるようなことを言って、ただ自分だけが救い主《ぬし》であるようなことを言うものに、耳を貸してはなりません」
「わたしは……わたしは」
夫人の頬に涙《なみだ》がこぼれた。
「自分のことを考えているのではありません。フローラが、娘のことが案じられてならないのです。たとえ、もうすぐこの世がおしまいになるとしても……わたしはもう充分に生きました、幸福な日々を送りました。けれど、あの娘はそうではない……もうじき、この世の終わりがきてしまうんだとしたら……なんと可哀相《かわいそう》なことでしょう! もしも、それであの子が生きながらえられるなら、この世の喜びを知る時間の余裕を与えられるのなら、わたしは、かの光の教団に、すべて差し出したいと思わずにいられないのですわ」
「馬鹿《ばか》な! そんな、とりかえしのつかないことを……」
言いかけて、修道女は急ぎ黙りこんだ。
温室の空気が動き、当のフローラが急ぎ足にやって来るのが見えたからだ。空色のドレスをまとい、頬と唇に紅《べに》をさして髪に真珠《しんじゅ》を編みこんだ、その華《はな》やかさ、愛らしさは、この宝倉《たからぐら》のような温室のどんな花をも恥《は》じ入らせるほど輝きわたっている。
「まぁ、娘や。とても素敵、よく似合うわ」
夫人は潤《うる》みかけていた目をキラキラさせ、立ち上がって、娘を抱擁《ほうよう》した。
「ああ、なんて美しいのでしょう。若いっていいわね。おお、もう一度よく見せておくれ」
夫人は娘の手を取り、腰を回して、その全身をくまなく点検した。フローラは、特に嬉しそうでもなく、かといって迷惑そうでもなく、ただぼうっと何か考えこんでいる様子だったが、ふと、せつない賛辞《さんじ》を繰り返す母親の手を突然ギュッとつかみ、急《せ》ぎこんで、尋《たず》ねた。
「あのかたは何をしにいらしたの?」
「え? 何ですって?」
「リュカさんよ。おとうさまは、あのかたにいったい何の用事がおありなの?」
夫人は眉を寄せた。
「知りません。ご商売のことじゃあないの?」
「ほんとう? ……そうかしら……なんだか変だわ……」
フローラは椅子に座った。こころここにあらずといった顔つきで、せっかくきれいに磨《みが》いてもらった爪を噛もうとするので、夫人があわてて止めさせる。
「……そんなことどうだっていいじゃないの。フローラ。笑っておくれ。ああ、ほんとうにとても可愛らしいわ。おかあさま、鼻が高いわ。やっぱりあなたには水色が似合うわね。でも、なんだか少し大きいみたい。胸の飾りも、もうちょっと派手でいいわ。そう、明日《あす》にも仕立て屋を呼びましょう、それをなおしてもらって、新しいドレスも、たくさんたくさん作りましょうね。素敵な薔薇色の布地が買ってあるし、スイセンの花の刺繍《ししゅう》をびっしり刺した黄色のガウンも」
修道女はそっとため息をついた。
この場では、娘のいるところでは、かの異教への傾倒《けいとう》を諭《さと》すチャンスはなさそうだ。だが、この家の所有する莫大《ばくだい》な財産が、かの光の教団に流れるのは、なんとしてでも阻止《そし》しておかなくてはならない。
悪名高き光の教団……その正体《しょうたい》はまだ皆目《かいもく》わからなかったが、人心はひどく惑乱《わくらん》されているらしい。この旅の道すがらにも、何度となく相談された。暗黒の魔界というのはほんとうにあるものなんでしょうか。天空城の竜の神がおられなくなったというのは事実なのでしょか、と。
光の教団に入ると書き置きをして頼りの跡取《あとと》り息子《むすこ》が消えてしまったのだと、さめざめ泣いた老人もいた。娘たちや息子たちがみな連れ立っていなくなってしまったと、大騒ぎをしている村もあった。とある村では、修道女本人に、邪教の教祖のことばを書きつけたという本を売ろうとする女まであった!
その屈辱《くつじょく》を思いだすと、修道女のからだはぶるぶると震《ふる》えた。だが、あの女には悪意のかけらもなかったのだ。たとえ、いまは別の神さまを信じていらしても、とあの女は言った。これをお読みになれば、きっと、お心が変わりますわ。真実を知っているのは、ほんとうに信じるべきなのは、ほかでもない我らが尊《とうと》い教祖さまであると。あなたにだって、きっと、おわかりになるはずよ。
修道女は本を買わなかった。邪教の主が、いったいどんなことを言って、ひとをたぶらかしているのか、どうやって、こんなに大勢の心を捉《とら》えているのか、興味はあった。だが、三千ゴールドもの高値がついているのにもあきれたし……もしも。もしも、買って、読んで。もしも、ほんとうに、そのなんとかいう教祖のことばに動かされてしまったら? 恐ろしくて、手に取ることはできなかった。そんな修道女を見ると、あの女は、こころの底から痛ましそうな顔をして、残念です、と言ったのだ。あなたは救われる機会を自ら逃《のが》してしまったんですわ。あなたを助けてあげることのできなかったわたし自身を、ほんとうに悲しく思いますわ、と。
「おくさま、フローラ」
修道女は立ち上がった。
「失礼ながら、私、しばらく下がらせていただきます……なにやら、旅の疲れが出たようで」
「まぁ。お顔が青いわ! これは気がつきませんで。どうぞ夕食まで、ゆっくりお休みくださいませ。……誰か! シスターをお部屋にご案内して」
どこからともなく現れたメイドに連れられて歩きながら、この件に関してはよくよく気をつけて対処《たいしょ》しなければならない、と修道女は考えた。急ぎ、院にかえって、みなで検討《けんとう》する必要がある。とりあえず、夫人が妙《みょう》なことをしでかさぬよう……ああ、ひょっとすると、夫人はすでに例の本を読んで、すっかりその教えに心を奪《うば》われてしまっているのでは? ……ルドマン氏にも告げておいたほうがいいかもしれない。
万一にも、世界一の大金持ちが援助《えんじょ》の手を差し伸べるなどしてしまったら、もう、その集団の力は、誰にも止められぬものになりかねない!
「……ああ……フローラ」
彩色師《さいしょくし》のアンディは苦しい吐息《といき》を洩《も》らした。庭の植えこみの隙間《すきま》から、温室の親子が見える。もっとも、彼は、盛んに何か喋《しゃべ》っているらしい母親のほうは、少しも見ていなかった。淡《あわ》い青色の優雅《ゆうが》なドレスに身を包んだ娘、わすれな草の花の精のような、可憐《かれん》で純真な乙女をのみ、瞬《またた》きする間も惜《お》しんで、食い入るように見つめていたのである。
愛らしいハート型の顔、物思わしげにさまよう瞳、接吻《せっぷん》でも乞《こ》うかのように、軽く突きだされた薔薇の唇。白い指がなにげなくひるがえり、テーブルに出ていた何かの菓子《かし》を摘《つま》んでぱくりと頬張る。そんな動作のひとつひとつ、おのおのの瞬間の腕やからだの流れ、顔の角度や唇の開きかげん、ちらりとのぞいた小さな真珠のような歯並びまでが、彼を感嘆《かんたん》させずにおかなかった。
なんて美しいのだろう。この世の奇跡《きせき》だ。なんて愛らしいのだろう。生きた宝だ。それに比べてこの身はどうだ? こんなところにコソコソ隠れ、膝を泥と草に染めながら、ただじっと見つめるばかり。
アンディは歯がみし、芸術家の繊細《せんさい》な指の傷つくもかまわず、植えこみのイバラをかき毟《むし》った。
不埒《ふらち》なのぞき魔になどなるつもりではなかった。工房を出たその足でまっすぐルドマンを訪ね、お嬢《じょう》さんにお目にかかりたいと、誠実《せいじつ》に頼むつもりだった。だが、屋敷はあまりにも大きく、立派で、正門脇の番小屋には厳《きび》しい顔つきの守衛《しゅえい》が油断なく控《ひか》えていた。無沙汰《ぶさた》の挨拶にするべき贈り物ひとつ持たず、くたびれた作業着でやって来た自分が、急に恥ずかしくなった。かえりみれば、天下のルドマン家の掌中《しょうちゅう》の珠《たま》のごとき娘に捧《ささ》げるべきほどの何物もなく、この館に招《まね》かれる客人にふさわしいよそゆきの服も持っていない。
行きくれ、迷っているうちに、思わぬ幸運が訪れた。こともあろうに、フローラ本人が屋敷から走り出てきたのである。アンディは急ぎあとをつけた。そして。見たのだ。
あの男を。よそものの戦士を。美を追求する彩色師《さいしょくし》の眼力《がんりき》は、ひとの隠れた本性《ほんしょう》も見定めずにはおかない。見ず知らずのそのよそものの人品《じんぴん》は、彼を打ちのめした。
「あいつが……あいつが婿《むこ》なんだろうか……?」
食い縛《しば》った歯の間から呻《うめ》きが洩《も》れた。
「泡《あわ》を噴《ふ》いて走ってくる犬を、少しもひるまず受け止めた、あの落ち着き……水際《みずぎわ》だったあの容姿……ああどうしよう……俺はかなわない……あんな奴にはかなわない!」
犬を中に寄りそうようにして屋敷に戻ってゆくフローラと見知らぬ男の背を、アンディは、肩で息をしながら見守ったのだった。
そのあとのことは、よく覚えていない。
気がついたら、ここにいて、そして、再び彼女を見つけたのだ。呼び止められた覚えはないから、門番はあのよそものを案内するのに持ち場を離れたのかもしれない。あるいは、こそ泥のように、裏門か、塀《へい》の破れ目をくぐったのかもしれない。夜を彩《いろど》る無数の蛾《が》が火灯《ひあかり》に焦《こ》がれて飛び集《つど》うように、彼の中の彼自身も知らない何かがフローラの気配をたどってここまで連れてきたのかもしれない。
いずれにしろ、と、彼は考えた。これはチャンスだ。いまを逃《のが》したら彼女は、もう、永遠に手の届かないところに行ってしまう。
アンディは物陰から立ち上がった。膝が震えた。だが、彼は叫んだ。
「フローラ!」
シャルロット夫人は悲鳴をあげた。だが、フローラは、美しいまつげをぱちぱちさせながら、少しも恐れげなく、アンディ、とつぶやいた。
「……婆《ばば》の名はレイラ、男の名はオルト、といった」
ルドマンは遠くを見つめる目をしながら、またひと筋、紫煙《しえん》を吐きだした。
「鳥か獣の声のような、歌うようなささやくような、奇妙《きみょう》なことばを喋《しゃべ》りおった。彼らの舟は小さく、舵《かじ》もひとつしかなかった。湖で遊ぶような小舟だよ。あんな舟で、厳寒《げんかん》のさかまく海を渡ってくるなど、正気の沙汰《さた》ではない。難破《なんぱ》するのも、まったく無理からぬことだ。だから……だから逆に、儂は彼らを信じた。そして、いま、そなたが現れた。まさに彼らの予言どおり、……その……天空の剣《つるぎ》を携《たずさ》えてな」
「予言されていた?」
リュカは顔をしかめた。
「そうとは知りませんでした。そのひとたちは、いったい何者なのです?」
「儂に聞くのか? そなたの身内ではないのか?」
ルドマンは身を起こした。
「天空の剣を持ってくるものこそ、種々《しゅじゅ》の謎《なぞ》を解き明かしてくれるものかと期待していたが」
「いいえ……レイラとオルト、ですか? あいにくどちらの名前にも心当たりはありません。指輪のことを話してください」
「うむ。そのふたりがそれぞれひとつずつ、大事に持っておったのだ。この世にふたつとない宝だといって。いや、けして高価なものではない。一見、なんのへんてつもない、古びた指輪だったよ。だが、なにがしかの力を秘めた品であったのだろう。悪い奴らに奪《うば》われたら大変なことになると……どういうことばを使ったかな、昔《むかし》のことゆえ、すっかりうろ覚えなのだが……闇の手のもの、いや、そうだ。暗黒の魔界に与《くみ》するものの手に、けして渡してはならぬゆえ、それぞれある場所に隠しに行く、そう言ったのだ。儂の譲《ゆず》った、少しはマシな舟でな」
「そして、戻ってこなかった?」
ルドマンはうなずいた。
「戻らなかった。そのような場合のことについても、彼らはぬかりなく言いおいて行ったのだ。指輪の行方《ゆくえ》はけして誰にも明かしてはならぬ、ただ、天空の剣を持つものただひとりは特別である。そのものにこそ、すべてを語りすべてを託《たく》すべし、と」
リュカが眉をひそめ、唇を開きかけた、そのとき。
「そのすべての中に、フローラも入るのですか」
廊下《ろうか》に面した戸口から、切迫《せっぱく》した様子の声がした。振り向いて、ルドマンの穏やかな顔が難《むずか》しくなった。
「アンディ・インガルス」
「覚えていてくださったとは光栄です」
「立ち聞きとは卑劣《ひれつ》な」
「なんとでも言ってください。ですが、いまのお話は聞き捨てならない」
彩色師《さいしょくし》は、ずかずかと進み出た。彼の開け放った扉のかげから、青いドレスの裾がのぞいた。ルドマンは片手を振って、いやな気分を追い払うような仕種《しぐさ》をした。
「娘や。おまえもか。そんなとこにおらんで、入ってくるがいい」
フローラがおずおずと現れた。自分の胸元に目を落としたまま、父親の視線の端のほうに、そっと回りこみ、音をたてずに腰をおろす。
「ルドマン」
アンディは言った。
「フローラが修道院に送られたその日、わたしは決心しました。きっと、いつの日か、彼女が帰ってくるまでに、立派な一人前の男になって、彼女を迎えに行こうと。わたしはいまだ、何の力も持たぬ、予言者に注目してもらえるような人間ではない。ですが、フローラが、目の前でほかの男のものになろうとするのを、黙《だま》って見過ごすことはできません」
「彩色師、アンディ」
ルドマンは、傍《かたわ》らの椅子《いす》を勧《すす》めた。アンディは苛立《いらだ》たしげに腰をおろした。憤慨《ふんがい》に全身が震えているので、椅子はかたかたと鳴った。ルドマンは肩をすくめた。
「おまえは、朋友《ほうゆう》プリーの自慢の息子だ。世界一の家具職人が、ほかでもないおまえを、跡継ぎに選んだ。この世にふたつとない、美しい色をつくるそうだな。立派なことだ。尊敬するよ」
「ええ、あなたのご注文くださった木馬を、きらびやかに飾りたてることぐらいはできるでしょう。しかし、フローラの瞳の青にまさる青をうみだすことなどできはしない……わたしは未熟者《みじゅくもの》です。そして、むろん、戦士ではない。絵筆《えふで》に慣れたこの指はやいばの技には向きはしません。……でも」
アンディは、無言のままのリュカを睨《にら》んだ。
「戦いもしないうちから、負けるつもりはない」
沈黙が落ちた。
ルドマンは、吐息《といき》をひとつつくと、パイプを置き、チョッキのポケットから折り畳《たた》んだ紙を取りだし、机上《きじょう》に広げた。
「……ふたりとも見るがいい。……よいか、ここがサラボナ、わが町だ。大陸を南東に下るな。ここが、死の火山だ。二つの指輪のひとつ、炎の指輪は、この山に隠された。溶岩《ようがん》が流れ熱風渦巻く危険な洞窟《どうくつ》の奥深くで、おそらくは、ひと知れず待っていることだろう。英雄《えいゆう》を。勇者を。予言者たちの希望を託《たく》すにたる、たったひとりの真の男をな。……アンディ・インガルス、おまえは、自分が、その男だと思うか?」
アンディは口をあけたが、また閉じた。ルドマンは、どこかが痛みでもするような笑い顔を浮かべた。
「儂は欲深い人間だ。大事なひとり娘に、より優れた男をと望むのはごくあたりまえの親ごころ。欲張りの儂は、この世で最高の男をこそ、婿に欲しいと考えた。フローラは確かに美しい。おまけに、フローラを得るものは、いずれは、我が家の莫大《ばくだい》なる財産と名誉《めいよ》を継ぐことになる。それでも。それでも!」
ルドマンはわざわざからだを回して、うなだれているフローラを見つめ、挑戦的に睨みつけ続けているアンディを見つめ、そして、リュカの腰の剣にゆっくりと視線を落とすと、いかにも満足そうな笑《え》みを浮かべた。
「予言の勇者どのには不足かもしれぬ。そのかたには、ほかに約束が、あるいは、心惹《こころひ》かれるどなたかが、すでにあるのかもしれぬ。だから、儂は、言うのだ。この世にふたりといない娘に、この世にふたつとない持参金をつけると。我が家に代々伝わる、かの秘密の品は、我が婿とならんものにのみ、譲《ゆず》るつもりだと」
リュカが返事をする前に、
「よくわかりました」
アンディが立ち上がった。
「わたしは地位や財産には興味はない。英雄になろうとも思わない。けれど、この心のあかしをたてに指輪を捜《さが》してまいりましょう」
「待って! 無茶をしないで、アンディ! 死んでしまうわ」
駆け寄ろうとするフローラの手を、ルドマンがつかんで止めた。アンディは一瞬足を止めたが、振り向きはしなかった。そのまま、退出する。
「……ああ……」
くたくたと床に座りこむフローラの傍らを、リュカがすり抜けた。フローラはハッとして、すがるような瞳でリュカを見あげた。
「どうかお願いします、あのひとを、止めてください」
「いいえ」
と、リュカは言い、ルドマンに目で合図をして、机の上の地図を取った。
「止めません。正々堂々勝負しますよ」
港の入り江の小波《さざなみ》の彼方《かなた》の大陸の山並みの陰から昇《のぼ》る月が、ゆっくりと欠け、また満ちた。幾度《いくど》か雨が降り、そのたびに、木々の緑が濃《こ》さを増した。寝苦しい夜、寝台《しんだい》の足許《あしもと》には忠実なメイドが交替に立って、羽根扇《はねおうぎ》で風を起こしてくれた。それでも、フローラは、ひと晩じゅう、満足に眠ることもできなかった。右を下にして目を閉じ、左を下にしてため息をつく。枕《まくら》を抱《だ》いて星明かりをみつめ、汗ばんだ額に白い小さな手をあてて、闇の彼方《かなた》の何かをみつめた。時は物陰を這《は》うなめくじのように、のろのろと進んだ。
何十人もの使用人が新たに雇《やと》いいれられ、館は華やかににぎわっていた。あれこれの雑用に忙殺《ぼうさつ》され、喜ばしくも忙《せわ》しない日常を送るシャルロット夫人の機嫌《きげん》はおおむね上々だったが、ある日、また新しいドレスの仮縫《かりぬ》いに現れた娘を見て、ふと曇《くも》った。
「なんだか痩《や》せたわね、娘や」
「そう」
「暑気《しょき》あたりなの? いやでも、少しは食べないと。顔色が悪くてよ」
仕立て屋のために用意されていたサンドイッチの皿を、夫人は手ずから娘に差し出した。だが、フローラは、首を振り、押しやった。夫人は眉をひそめたが、すぐに、にっこりとした。
「やさしい子、心配なのね。だいじょうぶ、きっと無事に戻りますよ。おとうさまの見込んだ若者ですもの」
「……おかあさまは、おとうさまをお好き?」
突然の問いかけに、夫人は息を飲んだ。
「わたし、よくわからないわ。好きって、どういう気持ち?」
フローラは、夫人の膝にすがりつき、熱っぽい光を宿《やど》した瞳で、まじまじと母を見上げた。仕立て屋とメイドは、大急ぎで用具をとりまとめ、後先に部屋を出ていった。
「好きってね」
シャルロット夫人は娘の頬を撫《な》でた。
「熱くて、冷たくて、どきどきするの。そのひとのことを考えるだけで、この上もなく幸せになったかと思うと、それはそれはひどく苦しくなるのよ」
「眠れない?」
「ええ、眠れなくもなるわね」
「……あたしが……ずっと、昔……子供だったころね」
フローラはぐったりと力を抜き、母の膝に頭をつけた。
「遊びあきて玩具箱《おもちゃばこ》の隅のほうに放り出していた古いお人形を、アンディが見つけたの。おかあさま、覚えていないかしら、赤ちゃんのとき、おとうさまがどこかよその国から買ってきてくれた、あの、おかしな顔の人形よ。詰め物もはみだして、片手は取れそうになっていて、顔だって、もう汚《よご》れて真っ黒だった。それを、あのひと、いらないんなら頂戴《ちょうだい》って、持ってったわ。少したつと、わたし、なんだか急に、胸が苦しくなったの。別にそんなに好きじゃなかったけど、大事じゃなかったけど、ただ、わたしのものじゃなくなったってことがたまらなくて……そのお人形のこと考えると、いてもたってもいられなくなったの。とうとう、我慢《がまん》できなくなって、やっぱり返してほしいって言ったら、アンディは困ったけれど、返してくれた。お人形は、見違えるように、魔法のように、きれいになっていた。アンディって、手先が器用でしょう。それは上手に繕《つくろ》ってくれていてね。やっぱり取り戻してよかったって、ほっとして。でも、なんだか、憎らしくて、悔《くや》しくて。ありがとうもろくに言わなかったわがままなわたしに、彼は、言ったわ。きみは、なんでもたくさん持ってるけれど、ほんとうに大切なものは、なんにも持ってないんだね、って」
「…………」
「わたし、そのお人形を、修道院に持っていったの。いちど手放してしまったとき、あんまりイヤな気分になったから……そばにないと不安で……お守りみたいに思ってね。寂《さび》しいとき話し相手にしたり、夜も、枕元に飾っておいた。そしたら、いつだったか、とても貧《まず》しい親子が旅の途中で通りがかって、院に泊まったの。冬だったわ。すごく寒い日だった。あたしも子供だったけど、その女の子は、あたしよりもっと小さかったわ。下着みたいな服を着て、裸足《はだし》だった。こんなちいさな足が、しもやけで、真っ赤になっていた。あんまり可哀相で、何かしてあげたくて……でも、何もほかになかったから、あのお人形で、一緒に遊ぼうと思ったの。差し出したら、とたんに、ひったくられた。その子、お人形をおかあさんに見せにいって、もらった、もらった、って、それはそれは嬉しそうに、得意そうに、そう言ったの。その子のおかあさんも、ありがとう、ありがとうって、にこにこした。だから、わたし、とても言えなかった。返してくれって。言えなかったの。院では、贅沢《ぜいたく》はさせてもらえなかったけれど、でも、わたしは、とても恵まれた娘でしょう。古ぼけたお人形のひとつぐらい、なくったって、不幸じゃないんだって。アンディが、あんなにきれいに直しておいてくれたから、その子がそんなに嬉しがってくれたんだからって、いっしょうけんめい、そう思って」
無理に微笑んだフローラの頬を、涙の粒《つぶ》が転がり落ちた。
「そんなこと、思いだすの。毎晩」
「……フローラ……あなた、ひょっとして」
「もう取り戻せないわ。あの子はどこかに行ってしまった」
フローラは両手を顔にあてた。
「でも、いいんだわ。これでいいんだわ。そうでしょう、おかあさま? どんなに大事なお人形だって、ほんとうに欲しがってくれるひとにもらってもらうのが、いちばんでしょう?」
娘の髪を撫《な》でてやりながら、夫人の指は震えた。
なんてことだろう。この子はアンディ・インガルスを愛している。天空の剣の持ち主ではなく!
……アンディ・インガルスが大火傷《おおやけど》をして戻ってきたのは、その晩のことだった。
「フローラ! フローラはどこだ?」
大声をあげ、屋敷じゅうをせかせかと歩き回っていたルドマンは、廊下の端に燭台《しょくだい》を掲《かか》げて立ちつくした寝間着《ねまき》姿の妻に、おお、と声をあげた。
「シャルロット。フローラはどこだ。リュカどのが戻ったのだ。炎の指輪を手にして! だがフローラの姿が見えん。もう伏せったのか。具合でも悪いのか?」
「フローラは出かけていますわ。プリーの家で、アンディ・インガルスの手当てをしています」
「なんだと?」
ルドマンは目を剥《む》き、叫んだ。
「なぜ呼び戻さん?」
「思いだしてください、あなた」
激昂《げっこう》する夫の手を、妻は、そっと取り、自らの頬にふれさせた。
「若いころ……あなたも大怪我《おおけが》をされたことがあったわ。わたくしが何気なく欲しがった果物《くだもの》を取ってくださろうとして。谷際の樹木に登られて、落ちて……あのとき、わたしは、あなたについていこうと決めたのです」
「……おお。あれか。いや、あのときは情けなかったな。だが、おまえは実に献身的《けんしんてき》に看病《かんびょう》してくれたな。何日も。何日も。夜明けに、夜中に目覚めるたび、薄闇のなかにほのかに白いおまえの微笑みがあった。いつもじっと見守っていてくれた。その顔に安心して、また眠った……」
ルドマンは、ことばを切り、静かにたたずむ妻の顔を見た。
「儂が求婚する前から、おまえが決めていた、と……そう言ったのか?」
妻はただ柔《やわ》らかに笑う。
「……リュカどのは指輪を持ってきた。約束を果たした。儂の見込んだとおり」
「あなたは、結局、果物はくださらなかったわ。あれを取ってくださることはできませんでした。でも、わたくしは……もっと大切なものをいただいたと思ったのです」
「妻よ」
ルドマンは夫人の手を包みこむように握りしめた。
「正直に答えてくれ。おまえは儂らの愛娘《まなむすめ》が、しがない彩色師の妻となることを望むのか?」
「わたくしは」
夫人は目をあげた。娘によく似た青い瞳が、燭台の炎を宿してきらきらと輝いた。
「娘が、娘を誰より愛してくれる男性《ひと》に嫁《とつ》ぐことをこそ、望みますわ」
ルドマンに貸してもらった帆船《はんせん》は、小ぶりながら最新式、高価な楽器に用いるような材木をふんだんに使った美しい船だった。雲が草原を走るように、雪橇《ゆきぞり》が斜面を滑《すべ》るように、北へと急ぐその船の、いっぱいに風をはらんだ帆《ほ》の下や甲板《かんぱん》のそこここに、さまざまに変わった姿が見えた。
ドラきち、スラリン、ガンドフなどはすでにお馴染《なじ》みだ。ほかに、いつも腹を減らしているドラゴンキッズのコドラン、無足《むそく》豸尾鳥《たいびちょう》キメラのメッキー、「め」からはじめる言葉を口にしかけるたびに周囲が無人となる爆弾岩《ばくだんいわ》のロッキーがいた。いずれも、転戦《てんせん》の間に、リュカの不思議の力に惹《ひ》かれて仲間となり、共に行動することを選んだものたちである。
リュカは船室にいた。
船机の上には古びた地図が広げてある。大陸の南側、赤く徽《しるし》づけられた山の上には、紅蓮《ぐれん》に輝く炎の指輪。深く切れこんだ内湾から北へ川を遡《さかのぼ》った先の滝壺《たきつぼ》に、青い徽。小さな船の形の遊戯駒《ゆうぎごま》は、いま、サラボナ周辺の多島な海をしめす細いリボンのような水色の筋の上に、はみださんばかりに置かれている。
「レイラと、オルト……」
リュカがつぶやく。
「どちらも『指輪の預かり手』ですね」
参謀役《さんぼうやく》のピエールが低く答える。
「あの村に指輪は三つありました。一の指輪は生命《いのち》と力強さを、二の指輪は水と定めを哀《かな》します。そして三の指輪の意味するところはといえば……」
ピエールの騎士《きし》の指が、地図上の指輪を摘《つま》み上げ、その金とも銀ともつかぬ台座の裏を見せた。くさびと円と点を組み合わせた古代の魔法文字《ルーン》が刻まれている。
「炎と勇気」
暑そうにローブをはだけた姿の魔法使いマーリン――新参《しんざん》ながら、故事来歴《こじらいれき》に詳しい――が、覗きこんで、しゃがれ声で言った。
「確かにそう彫《ほ》ってありまするじゃ」
「水の指輪が見つかったとして……もうひとつは? まだ、預かり手が持っているのかな?」
二形の魔物の顔を見回しながら、リュカは腕組みをして、深々と椅子にかけ直した。すぐ足許の床にねそべっていたプックルが、片目をあけ、わずかに身じろぎをする。
「わたしが騎士の芽《め》を生じたのが、希代《きたい》の大賢者《だいけんじゃ》大巫女《おおみこ》のモーリアンさまの葬儀《そうぎ》のその日でしたから……およそ今から二十年ほど前です」
ピエールは考え考えことばを継《つ》いだ。
「それから目覚めるまでの間に何かがあったのは確かですが……少なくとも、その当時までは、生命《いのち》の指輪の預かり手はバセルさまとおっしゃるご老体でした。バセルさまは、ほかでもない、モーリアンさまの病《やまい》を癒《いや》し、痛みをやわらげようとして力を尽《つ》くされ、ひどく弱っていらしたので、あるいは……あるいは、誰かが、それに乗じて、指輪を奪《うば》った、か」
「考えられるね。うちの親父《おやじ》が村に迷いこんだのと、それと、どっちが先なんだろうな? 親父がマーサに出会う、村から連れだす……巫女の町のひとびとは混乱するな」
「その混乱のさなか、いまだ行方の知れぬ『生命《いのち》の指輪』を手にしたものは、おそらく、残り二つの指輪をも手にいれなんと欲《ほっ》したことじゃろう。レイラとオルトは、それを恐れて、指輪を隠したと思われるの」
「何のために? こんな古い指輪が、なんの役に立つんだ?」
「えっ、御存知《ごぞんじ》なかったんですか?」
ピエールとマーリンは顔を見合わせた。
「三つの指輪がそろえば、暗黒の魔界の扉が開くのじゃ」
「この世に闇が、かつて竜の神によって退《しりぞ》けられた邪悪なものたちが、どんどんあふれだしてしまうのです」
「なんだって?」
リュカは目を見張った、そのとき。
「り、り、リュカ! ピエール!」
船室のはねあげ蓋《ふた》から、舵《かじ》取《と》りをしていたスミスが覗いた。
「ち、ち、ちょっと来てくれ。まずいもんがある」
「まずいもの?」
「し、し、しまってるんだ、川が。門で。と、と、通れない!」
サラボナは夏の盛りで蚊《か》うなりがひどく寝苦しかったが、北にのぼり山も奥まったこのあたりでは、樹木の緑がまだ初々《ういうい》しい。しっとりと湿った地面にさみどりが影落とす涼《すず》しげな道を、プックルは弾むような肢《あし》どりで、先にたって駆けてゆく。揺れない地面が、嬉しくてしょうがないらしい。
リュカは歩きながら、さきの推測《すいそく》の筋道を、なおも考え続けた。
魔界とはいったいどんなところなんだろう。もうひとつの指輪はどこにあるんだろう? 母が父に伴《ともな》われて姿を隠したのは、このままでは三つの指輪を揃《そろ》えてしまいかねない恐ろしい誰かから身を守るためだったのでは?
すべての謎《なぞ》と秘密は、おそらく、かつて母の住んでいた巫女の村、ピエールがまだただのスライムだったときに暮《く》らした村に行けば解き明かされるのだろうが……その村は、秘められた大陸アイララにあるという。アイララには、いったい、どうすれば行くことができるのか?
いや、それよりも。水の指輪を手にいれたら、どうしたらいいだろう。フローラと結婚することを承諾《しょうだく》しなければ、天空の盾は手に入らない。フローラは美しい、優しいひとだ。そしてルドマンの後ろ盾。妻としては申し分ない。だが……アンディは。
「ずっとずっと、きみだけを」
溶岩原人《ようがんげんじん》の投げつけた火焔弾《かえんだん》にひどい火傷《やけど》をおった彩色師は、熱と痛みに浮かされて、あらぬことを口走った。焼け焦《こ》げたまぶたがよく開かなかったから、あるいは、リュカをフローラと見間違えたのかもしれない。
「はじめは、なまいきで、可愛い、妹のように思っていたんだ。時には憎《にく》らしかったし、きみの贅沢《ぜいたく》さに、嫉妬《しっと》も覚えた。オセッカイや、小言《こごと》も、ついつい言った。あんまりそばにいたから、どんなに大切に思っているか、気づかなかった。でも、きみがいなくなってしまったとき……ただの幼なじみなんかじゃなかったんだって、わかったんだよ……」
しっかりしろ、とリュカがその手を握りしめると、アンディは傷ついた唇でうっすらと笑い、愛してる、とささやいた。
「愛してる。誰よりも。でも、それだけじゃ、だめだね」
と……。
「幼なじみか」
何気《なにげ》なく口にして、リュカは寂しげに微笑んだ。旅から旅に暮らしたリュカにとって、そう呼ぶことのできる人間は世界にただひとりしかいなかった。世間で普通にいう幼なじみほど長いこと一緒に過ごしたわけではなかったが……彼女も、行方《ゆくえ》が知れない。
けしてスラリンが勘《かん》ぐってからかうように、彼女を捜しているつもりではないのだが……いや、確かに、逢えるなら逢いたい、こうしてあちこち旅をしていれば、いつかは、という気持ちもどこかにはあるのかもしれない……。
プックルが振り向いて、はやく来いと言いたげに耳をぴくぴくさせた。
「わかったわかった」
リュカは足を速めた。
やがて、行く手の雑木林《ぞうきばやし》の向こうから、なにやら白い煙《けひり》があがっているのが見えてきた。死の火山から戻ったばかりのリュカは、思わず顔をしかめたが、硫黄《いおう》じみた匂いはごく薄い、どうやら、温泉でも湧《わ》いているらしい。足を速めて樹々《きぎ》の間を抜けると、緩《ゆる》やかな丘の上、鄙《ひな》びた村のたたずまいが姿を現した。
着衣の上からもほかほかと湯気を立ちのぼらせながら涼んでいた湯治《とうじ》客たちに、川を閉ざした水門のことをたずねだ。水門はやはりこの村で管理しているらしい。長《おさ》の家を探して村中の小道をたどっていると、墓所《ぼしょ》に通りかかった。
日当たりのよい平らかな土地に、芝草が敷《し》きつめられ、よく磨《みが》かれた石碑《せきひ》がいくつも並んでいる。墓地と呼ぶのがはばかられるほど、明るく、広々として、手入れの行き届いた土地だった。どの墓にも鮮《あざ》やかな色あいの花々が手向《たむ》けられ、果物や菓子や酒盃《さかずき》がそなえてある。
可愛らしい桃色《ももいろ》の花をびっしりと咲かせたあんずの樹の下に、ひとりの女性がいた。静かにひざまずいて祈りを捧《ささ》げるその背中、明るい日差しに真新しい金貨のように輝いたまとめ髪が、ふと、リュカの目を惹《ひ》いた。突然激しくときめく胸にリュカが戸惑《とまど》って目をぱちぱちさせたとたん、プックルの巨体が駆け出した。まっしぐらに、その女性に向かって。
「あっ……よせっ! 戻れ、プックル!」
時は、その歩みを鈍《にぶ》くした。プックルの気配に、ゆっくりと振り返る彼女。悲鳴はあがらない。彼女はキラーパンサーを恐れない。なぜなら。
にじむ桃色の前で、彼女の瞳がまっすぐにリュカに向く。プックルがじゃれつく。彼女が立ち上がる。手から花が落ちる。
「……ビアンカ!」
「リュカ? ……リュカなの?」
気づいたときには抱きしめていた。頬と頬がこすれ、鼻と鼻がさわる。あまりに近いところで見つめ合ってしまった瞳と瞳が、同じ瞬間《しゅんかん》にどきりとする。ビアンカの瞳。早咲きスミレの青。そこには、間抜《まぬ》け面《づら》をさらして見とれているほかならぬ自分が映って揺れている。
「……夢みたいだ。ついさっき、きみのことを考えていた」
「あたしもよ。ほんとに、いましがた」
ビアンカはリュカの胸を軽く押してからだを離した。なにげないふうを装《よそお》っていたが、いやによそよそしい。怒らせてしまったのかもしれない。急に抱きしめたりして。リュカの頬は赤くなった。そう。ビアンカはよその女の人だ。昔から可愛らしかったけれど、なんてきれいになったんだろう。気やすくさわったりしちゃいけない。ぼくたちはもう、子供じゃないんだから。
リュカがぎこちなく黙《だま》ると、ビアンカはその手を取って、足許の墓石をさし示した。
「かあさんよ。毎日、お花をあげに来るの。かあさんに話しかけるとき、いつもリュカのこと、頼んでた。黄泉《よみ》の国から守ってあげてくださいって」
リュカは地面に膝をつき、墓石の冷たい表面に手を沿わせた。小山のような体格、化粧《けしょう》してことさら大きくみえる瞳をきょろきょろさせる戯《おど》けた癖《くせ》、「いまにいい男になるよぉ」かすかにしゃがれた豪快《ごうかい》な笑い声。気《き》っ風《ぷ》のいい旅籠《はたご》のおかみのまぼろしが、白い石に反射してまぶしすぎる光の中、くっきりと浮かんで消えた。
彼女が亡《な》くなったことは聞いていた。知っていた。だが、こうしてその墓を目の前にしてしまうと、胸の底が凍《こお》るような寂しさがリュカを襲った。
「素敵な女性だった。マグダレーナ……いつ?」
「もう四年になるわ。とうさんの骨休めにここの温泉につきそって来ていて……例によってひどく飲むでしょ。ある晩、ことさらすさまじい鼾《いびき》をかいて、ウッと言って静かになって……それっきり。かあさんらしい、あっさりしたお別れだった」
「あんなに元気だったのに、旅先で……わからないものだね」
「そうなの。とうさん、すっかり気落ちしちゃってね。それきり、アルカパには帰らなかったの。店は、覚えてるかしら、ジェリコって名前の番頭さんに譲《ゆず》って……そのまま、ここで暮らすことにしたの。あら、立ち話も変だわ。来て。とうさんにあってちょうだい」
「ダンカンさんは元気なのかい」
「もう年だから。あんまり元気とはいえないけど、まずまずよ。リュカの顔を見たら、きっとすごく喜ぶわ」
ダンカンは、眉《まゆ》も髭《ひげ》も白く、ますますむく犬にそっくりになっていた。再会の喜びに、美酒と馳走《ちそう》は尽きず、話もまた途切れず、またたく間に夜明けとなった。帆船《はんせん》で待つ仲間たちのことを思い出して、あわてて辞《じ》するリュカに、ビアンカもまた立ち上がる。
「水門を開けたいんでしょう。あたしを連れていって。水の指輪を捜すの、手伝うわ」
「でも」
「約束したじゃない、また一緒に冒険しようね、って。せっかく逢《あ》えたのに、たった一夜でお別れじゃあ寂しいわ。……ねっ、ちょっと行ってきてもいいでしょう? とうさん?」
ダンカンは徹夜《てつや》明けの赤い目を細めた。
「おまえはほんとうによくしてくれたよ、ビアンカ。娘ざかりをこんな山奥で、あたしの介抱《かいほう》に無駄《むだ》にさせて。すまなかった。ああ、行くがよい、行って、幸せになるがいいともさ」
「待って、とうさん、あたしはなにも、これきり戻らないってわけじゃ」
「いや、ビアンカ。もういい。もう充分《じゅうぶん》だよ」
すがりつく娘の背を叩くと、ダンカンは息をつき、生《き》まじめな顔つきになった。
「リュカ。きみにも聞いておいてもらいたい。ビアンカよ。今日までずっと、胸に秘めていたが、実は、おまえはあたしたちの娘ではない」
「ええっ」
「もう、二十年前になるか」
ダンカンは揺《ゆ》り椅子の背にもたれた。ビアンカが、甲斐甲斐《かいがい》しく、膝掛けを整えてやる。
「あたしとマグダレーナが、まだちゃちな行商をやっていたころの話だよ。ビスタの港から荷を受け取って、街道《かいどう》を北へのぼっていくと、突然、空が真っ暗になり、大粒《おおつぶ》の雨が降りだした。せっかくの売り物を濡《ぬ》らしちゃっちゃあ大変だ、あたしらは樹の下に入って雨宿りをしようとした。すると、赤ん坊の泣き声が聞こえたのだ」
目を見張る若者たちを順に見回して、ダンカンはうなずいた。
「泣き声をたどって、楡《にれ》の古木のうろを覗くと……いや、驚いたよ。風変わりな布をまとった娘っこが、赤ん坊を抱いてうずくまっているのだ。見たこともないようなきれいな娘さんで、まるで真珠《しんじゅ》でもまぶしたような不思議な色の肌をしていた。だが、もう息がなかった。しっかりと大切そうに抱きしめた腕から、やっとのことですくいあげると、赤ん坊がまた元気よく泣いた。それを聞くと、子を成したことのないマグダレーナの乳が急に張った。たっぷり乳を飲むと、赤ん坊が笑った。それはそれは、可愛らしかったよ。気がつくと、雨は止《や》み、青空から光がさしていた。あたしらは穴《あな》を掘って娘っこを埋《う》めてやり、お天道《てんとう》さんに誓《ちか》った、この子を確かにお預かりしますと。かならず無事に育てますと……そして、もしも、この子が自分の生きる道をみつけたなら、つつしんで天命に従いますとな」
ダンカンはまだ茫然《ぼうぜん》としているビアンカを抱き寄せた。
「その娘さんの背には、小さく折り畳まれた翼《つばさ》があった。だからビアンカ、おまえはひょっとすると、天空人《てんくうびと》の子供なのかもしれない」
「天空人ですって!」
「そうだ。天空の城に住む人々の伝説は知っておろう? だからビアンカ、あたしらは、いつの日か、天から使いが来ておまえを連れてゆくのじゃないかと、そりゃあびくびくもんだったよ。……可愛いおまえは、まったく天の恵みだった。おまえを得てから、なぜか商売はどんどんうまくいって、あたしは大きな旅籠《はたご》の主人にまでなった……みんなおまえのおかげだと思っている……だが……忘れないでくれ。たとえ、あのまんま貧乏《びんぼう》な行商人のまんまだったとしても、あたしはおまえを愛した。死んだマグダレーナもな、ほんとうのおっかさんみたいだったろう?」
「ええ……ええ、とうさん」
ビアンカは、ダンカンの胸に顔を埋《うず》めた。
「あたしのとうさんは、とうさんだけ、かあさんは、死んだかあさんだけよ!」
ダンカンはビアンカの髪を撫《な》でながら、ひとしきりうなずいていたが、やがて、ことばもなく立ちつくすリュカの手を取って言った。
「リュカくん、きみに頼むよ。どうか娘を一緒に連れていってやってくれ。なにかとぶっそうな世の中だ、村を一歩出れば魔物に出会う、どこかの教団が光の国を造るためと称《しょう》して、金を集め、子供たちを大勢とりこにしているとも聞いている。何か大きな変化がはじまろうとしている。……もしビアンカがほんとうに天空の城から来たものであるならば、いつまでもこんな山奥の村に埋《う》もれていてはいけないのじゃないだろうか。きみと一緒に世界をめぐれば、この世に生まれた使命を果たすことができるのじゃないだろうか」
リュカがビアンカを連れて戻ると、帆船で待っていた魔物たちはみな熱狂した。中でもスラリンは憧《あこが》れのビアンカを見て大喜びだ。スライムナイトや腐《くさ》った死体に次々に歓迎《かんげい》の挨拶をされて、ビアンカは目をくるくるさせた。
「まぁ……リュカったら……相変わらずとっぴょうしもないおともだちばかりなのね」
聞かされたばかりの出生《しゅっしょう》の秘密に曇りがちだった瞳が、冒険の予感にきらきらと輝きを取り戻した。ビアンカはおとなになっても、まだ勇敢でお転婆《てんば》だった!
水門に達すると、すぐさまその実体を披露《ひろう》することになった。ビアンカは身をひるがえして川に飛びこみ、門を操作《そうさ》した。たちまち渦《うず》を巻いて流れ出す水をたくみに避《さ》けて潜《もぐ》り、遥《はる》か遠くにびしょ濡《ぬ》れの顔を出し、にっこり笑う。ガンドフが思わず拍手《はくしゅ》し、ロッキーが「め……でたい!」と言ってはみなに逃げられる。ぽわぽわと火を吐くコドランと、ドラきち、メッキーが、生命綱《いのちづな》を持ってはせ参じた。水門を通りぬける船の甲板に、宙から吊りさげられ、しょっぱい水を滴《したた》らせながら近づいてくるビアンカは、ブランコ遊びでもしているかのように屈託《くったく》がない。
「いやあ、さすがビアンカ」
と、スラリンはすでに旧知《きゅうち》のような口をきく。
「色っぽいなぁ……度胸もあるね」
「天空の血を引くものやもしれぬとか? あの女人《にょにん》、なるほどただものではない」
「リュカは、オクテなのかと思っていましたけれど。あんな素敵な幼なじみがいたんじゃあ、そこらの女性に興味を持てなかったのも無理ないのかもしれませんね」
「き、き、き、きれいだー……で、で、でもって、か、かっこいいー……ど、ど、どうしよう。お、お、おれ、なんか、ば、ばらばらになりそう……」
「わぁスミス、溶《と》けるな腐《くさ》るな目を落とすな! ばかばか、しゃんとしろ、舵《かじ》取《と》れ舵をっ!」
スミスはビアンカに見とれて舵がお留守《るす》になる。危《あぶ》なくてしょうがないので、最近仲間になったばかりのパペットマンのパペックに交替をした。
船は走った。リュカと、ピエール、マーリンらの頭脳班《ずのうはん》は、夜ごと船室で地図を広げ、智恵を絞《しぼ》りあう。ビアンカはガンドフやコドランに手伝ってもらって、旅籠《はたご》じこみのおいしい御馳走を作った。おおぜいの魔物たちはかわるがわる帆を操り、櫂《かい》を使い、淦《あか》を汲《く》み、時には、行く手をはばむたまて貝やしびれクラゲを撃退《げきたい》した。
とはいえ、船旅は気楽で、こころ弾むものだった。荷も負わぬ、隊列の乱れを心配することもない。岩礁《がんしょう》の浅瀬《あさせ》を通りすぎてからは、遥かに広がった鏡の海の好きなところを好きなように進めばいい。急ぎの用事のないものたちは、ぽかぽか日の当たる甲板で甲羅《こうら》干《ぼ》しをし、魚《さかな》釣《つ》りをし、あるいは、水平線を眺《なが》めては物思いにふけった。修羅《しゅら》の日々に、ぽっかりと生じたのんきな休息の時だった。
南から吹きつける風に船足はぐんぐん速まっていたが、内海の中途で、夏が追いついてきた。空は入道雲の峯《みね》を宿して青く輝き、長々としぶきを引く涼しげな余波《よは》に海鳥が集《つど》う。
とある午後、ビアンカは残飯《ざんぱん》を捨てようとして甲板にあがり、舳先《へきき》の見張り台のあたりに白い羽毛の鳥たちが何羽も集まっているのに気がついた。足音《あしおと》を殺して近づいてみると、見張り台の丸みを帯びた屋根の上にリュカがいた。横たわったプックルの腹を枕にして、とろとろとまどろんでいる。鳥たちは、船縁《ふなべり》や帆柱《ほばしら》やプックルの肩先にもとまって、かわるがわる羽根を広げ、眠るリュカの顔にまぶしい日差しが当たらぬようにしてやっているらしい。高貴な王子の寝台にめぐらされた白絹の帳《とばり》が、そよ風に揺らいで踊るように。
それは平和で、美しい、夢のような光景だった。
残飯を海に放ると、鳥たちは先を争って飛び立った。リュカは吃驚《びっくり》して顔をあげ、ビアンカを見つけて、やぁ、と笑った。
「ほんとにあいかわらずだね、リュカって」
「なにが?」
「悩みなんてひとつもないって顔しちゃってさ。これだけの魔物軍団の御大将《おんたいしょう》とも思えない、なんともあどけない寝顔だった」
「そうか」
少年の日と同じ、無邪気《むじゃき》な瞳。リュカはまるで少しも年を取らないようだ。ビアンカはちょっと落ち着かない気持ちになった。
「ねぇ、ここはあったかくて、風も吹いて、すごく気持ちがいいよ。ビアンカもおいでよ」
「い、いいよ。あたし、手が汚《きたな》いし。これ返してこないと」
「そんなのあとでいいだろ。おいでったら。話したいことがあるんだ」
ひっぱりあげてもらうと、そこはプックルの巨体でほとんどいっぱいだった。リュカと肩と肩がふれそうになりながら、プックルの後ろ肢《あし》にもたれるようにして座る。
見回せば、どこからどこまでも輝く青だった。小波《さざなみ》だつ海面を、銀色の魚が飛ぶ。水平線の彼方《かなた》に、かすかに雲がかかっている。潮風《しおかぜ》がビアンカの片流しの三つ編みをかきあげて通る。まぶしさに片手を翳《かざ》せばその掌《てのひら》の上に、さえぎるもののない太陽がじりじりとくすぐったいような口づけの雨を降らせる。
「うわぁ、ほんとにいい気持ちねぇ」
「ああ」
「毎日こんなだといいのに」
「……もう、逢えないかと思ってた」
「え?」
静かな口調に秘められた何かに、ビアンカはハッとして振り向き、キラーパンサーの腹のそこばかりやけに真っ白な毛になかば埋もれながら、空を見上げているリュカを見た。
「ね、ビアンカは、どうしてお嫁《よめ》に行かなかったの?」
「ああ!」
いい気分がたちまち消しとぶ。ビアンカは鼻を鳴らした。
「何を言うのかと思えば。悪うございましたわね。そりゃ、あたしは年増《としま》よ。売れ残りよ!」
「そんなこと言ってないだろ」
「だって! とうさんはああだし、かあさんはああだったし。ずっと、あれこれ大変だったのよ。あんな湯治場《とうじば》に、そうそう素敵な彼氏があらわれると思う? これでもあたし、けっこう理想が高いの。なんたって、気はつくし、働き者だし、そのうえかあさん似のお派手な美人でしょ、だからそうそう安売りは……」
「ビアンカは、うちの親父のこと、好きだったでしょう」
「あら」
ビアンカは口ごもった。
「そ、そうよ。確かに憧《あこが》れてたわ。パパスさんのお嫁さんになりたくって、夜も眠れないときもあった。おませだったなぁ、あたし。……でも」
「でも?」
「だって! ……いくらなんでも年が違いすぎるし。あんたみたいな変てこりんなガキのおかあさんになるの、考えものじゃないの。どんな妙な生き物、大事なおともだちだって、連れてかえってくるやらわかったもんじゃないし」
リュカは笑いだした。
「ひどいな。そんなふうに思ってたの? プックルを助けたときだって、なんとかしてあげなきゃって言い出したのは、ビアンカのほうじゃないか」
「あのときはあのときよ。でもね、いーい? 普通の女の子だったらね、あんたの趣味《しゅみ》にはつきあえないわよ。腐った死体だの爆弾岩だのと、普通話は合わないと思うわ」
「あははは。そのとおりだ。いや、きみはすごい。すごい順応力《じゅんのうりょく》だ。認めるよ。だからね、ビアンカ、ビアンカ、ふくれてないで、ちょっと真面目に聞いてくれよ。きみの生まれたときの不思議な話。あれのことを考えてたんだけど」
「……ああ。あれ」
「これを」
リュカは腰の剣を鞘《さや》ごと抜いて、ビアンカに手渡した。金でも銀でもない不思議な金属でできた、あの剣だ。
「なに? ずいぶん重いわね」
「抜ける? やってみてくれないか」
「……こう?」
ビアンカは柄《つか》と鞘をつかんで引いた。動かない。改めて持ち直して、力任せに引っ張る。
「なによっ、えいえいっ! ……だめだわ。すごく堅い」
「そうか。……残念だ」
言いながら、リュカは少しホッとしたように見えた。
「なんなの? それ」
「天空の剣《つるぎ》だよ」
「天空の剣?」
「うん……これはね」
リュカは話した。父パパスの無惨《むざん》な死。光の教団の神殿造りに、奴隷《どれい》として働かされた日々。そして、みるかげもなく変わったサンタローズの洞窟に隠されていた、父の遺言《ゆいごん》のことを。
「だから、ぼくは捜しているんだ。伝説の勇者を。この天空の剣を……そして天空の盾、兜《かぶと》、鎧《よろい》を、すべて使いこなすことができる、ただひとりの誰かを」
「ふうん……そうだったの。でも、ほんとに、そんなひとがいるのかしら」
言いながら、やっと気がついた。リュカはビアンカがその勇者なのではないかと考えたのだ。
「いてくれないと困る」
リュカは肩肘《かたひじ》をついて身を起こし、まっすぐにビアンカの目を見つめた。
「もし勇者が見つからなかったら、ぼくは、一生かけても、親父《おやじ》の敵《かたき》ひとつ討てないかもしれない」
「でも……あんたは立派な戦士だわ。こんなに大勢の頼れる仲間もいるんだし……やってみれば、なんとかなるんじゃない?」
「変わってないなぁ、ビアンカは」
リュカは笑った。
「でも、みんながいるからこそ。無茶はできないよ。みんな、ぼくを信じてくれているんだから。勇者でもないこのぼくをね」
リュカが見張り台から飛び降りると、プックルものそりと立ち上がりあとを追った。キラーパンサーの巨体が退くと、冷たい風がもろに吹きつけてきた。ビアンカは、両手で自分の肩を抱いた。
「弱虫。勇者なんて、どうだっていいじゃない! 拗《す》ねることないでしょ! 子供じゃあるまいし」
「ビアンカ」
リュカは振り向き、痛いような笑い顔で言った。
「ぼくは子供だ。今朝もおっかない夢にうなされて起きた。ぼくはね、同じひとつの夢の中で、死んだ親父になって、何度も何度もやられるんだ」
あきれた。何を言い出すのか上思えば。
ビアンカは嘲笑《わら》おうとした。だが、リュカの真剣な顔つきを見て、頬がこわばる。
「どんな夢なの?」
「戦《いくさ》の夢だよ。昔は、敵は知らない魔物だった。けれど目の前で親父が殺されたあの時から、そいつは、変わった。ゲマになった」
「ゲマ?」
リュカはこくりとうなずいた。
「もう一度そいつにあって……きっとそいつを倒すまで……ぼくは死ぬわけにはいかない。そして、だからこそ。どうしても、勇者にあいたいんだ。みつけたいんだ」
「……リュカ……」
歩き去るリュカを見送りながら、ビアンカは風に髪をなぶらせた。
「でも、リュカ。あんただって変わってないわ。昔から、幼稚《ようち》で、強情《ごうじょう》で、へんてこで……でもとっても、勇敢《ゆうかん》な子供だったわ……」
大陸の河口から険《けわ》しい崖《がけ》にはさまれた川をたどって遡《さかのぼ》ること三日。一行は滝壺に達した。
そびえたつ両岸の幅一杯に、滝は、遥かな高みからまっさかさまに、途切れることなく落ちかかっている。あまりに落差が大きいので、川面《かわも》に達するまでに、ほとんど霧《きり》になってしまう。
真っ白な水煙の冷たいヴェールの中を、船はしずしずと進んだ。川の流れがやがて緩《ゆる》やかになり、渦巻くように停滞《ていたい》し、ついで、これまでと逆になった。今度は、奥に向かって、ぐいぐい引かれてゆく。
「漕《こ》ぎかたやめ!」
「漕ぎかたやめ!」
伝令があたりに反響して何度もうわんうわんと響いた。マーリンが魔法の火を投じ、船のあちこちの角灯《ランタン》をともした。灯《あかり》が霧を透《す》かして、滝の洞窟の内部を照らしだした。乾《かわ》いた血のような色をした岩が、ぬめぬめと光り、粘《ねば》っこい水を滴《したた》らせている。
舳先《へさき》に立って目を凝《こ》らしていたビアンカは、ぞっと肩を震わせた。
「なんだかいやな色。怪物のお腹《なか》の中みたい。気味が悪いわ」
「だ、だ、だいじょうぶ。こ、こわがらないで。ぼ、ぼくがついてる」
「うへー、スミちゃんってば、キッザー……顔に似合わず」
ありがと、とビアンカが笑いかけたとたん、角灯《ランタン》のひとつが消える。たちまち、耳障《みみざわ》りな音をたててあやしい影が襲《おそ》いかかってきた。二股《ふたまた》に分かれた舌がシャッと伸び、何かを吐く。とっさにビアンカを庇《かば》って甲板に伏《ふ》したスミスが、やけつく息をかけられて、ぎゃあっと叫ぶ。
「敵襲だにゃっ! ヘビコウモリにゃっ! ガスダンゴも来た!」
ガンドフの冷たい息で動作の鈍《にぶ》くなったヘビコウモリを、プックルの牙が、ピエールの剣が、右に左に薙《な》ぎ払う。ドラきちとコドランがきりきり舞いさせたガスダンゴたちを、ビアンカのバイキルトの叫びに二人力となったリュカがまっぷたつに切り落とす。
「スミス! スミス! しっかりして!」
「も、もう、だ、だめ……び、ビアンカ、スミスのこと、わ、わ、忘れないでね……」
「なにが『もうだめ〜』だよ、バカ! ただちょっと痺《しび》れただけだろっ」
スラリンが頭を蹴飛《けと》ばすと、スミスはぎょろ目をぱちくりさせた。
水路はやがて浅くなって途切れ、行き止まりとなった。一行は船をつなぎ、あたりを探索《たんさく》した。豊かな水は岩壁の間を縫《ぬ》って縦横《じゅうおう》に走り、さらに奥へ、あるいは下へ、迷路のように続いている。
「ぬれる。つめたい」
ガンドフがつぶらなひとつ目に涙を浮かべる。たっぷりした毛皮が、水に弱いらしい。
「老骨《ろうこつ》にもこの湿気はこたえるし、パペックは関節をやられるな。リュカどの、すまんが、儂らは残って船を守っておるよ」
「わかった、マーリン。大勢で出かけていって、はぐれても厄介《やっかい》だ。水が平気なものだけついてきてくれ」
ピエール、プックル、スラリンが無言のままに進み出た。ビアンカが片手に角灯《ランタン》を持ってさっそうと加わるのを見て、スミスも大あわてで追いかける。
滝の洞窟は、複雑きわまりない天然の迷宮をなしていた。宙に伸びた天然の石橋を渡り、腰まで水につかりながら浅瀬を越え、手足も頭も縮《らぢ》めなければ通れない岩壁の隙間をくぐり、からだを横にして小滝の裏をすり抜け。一行は幾度となく行き止まりにつきあたった。さまざまな敵も現れた。ベロゴン、オークにベホマスライム、水に入れば、マーマン、オクトリーチ。
斬《き》り結び、間一髪で呪文《じゅもん》をかわし、あとからあとから現れる敵に神経を集中しているうちに、リュカは頭がぼんやりしてきた。こんなこと、前にもあったような気がする。別の場所、別の敵との、別の戦い。
恐ろしい相手がいた。絶体絶命の場面が数々あった。閃光《せんこう》を放つダークアイ、怨念《おんねん》宿したさまよう鎧。何匹もかたまって現れるガメゴン、地響き立てるダークマンモス。二本角のホースデビルに囲まれて高熱の火の玉を浴びせかけられたこともある。全身をめらめらと燃えたたせた炎の戦士に追いつめられたことも。
雪の女王のこころをも溶かしたドワーフの少年、ザイル。妹のために奴隷《どれい》の身から救ってくれた、教団の兵士ヨシュア。そのマリアの信仰にこころ打たれ、いったんは見捨てた王国に凱旋《がいせん》する勇気を得た第一王子ヘンリー。みんなみんな、いまはここにいない。
いくつもの戦い。いくつもの別れ。
「……ああ。そして、ぼくは!」
フローラは、きっと可愛らしい花嫁《はなよめ》になるだろう。ルドマン家の財産があれば、優秀な部下や兵隊を大勢|雇《やと》える。金銀宝石、真珠に珊瑚《さんご》。燦然《さんぜん》と輝く宝たち。あまりのまぶしさに目をあけてもいられないほどだ。それがほら、こんなに。こんなに。両手でざくざくすくい、頭から浴びる宝玉《ほうぎょく》のシャワー。最高の兜や鎧を身にまとい、父の剣を抜きはなち、いざ決戦に赴《おもむ》かん。正義の旗をなびかせて、数百数千の軍船《いくさぶね》を連《つら》ね、あの神殿に迫るのだ。憎い敵のゲマを討《う》ち、とらわれの母を救いだし、無慈悲《むじひ》の教祖の首級《くび》をあげ……おお、一件落着。そうだ、もう、こんな狭苦《せまくる》しい洞窟で、冷たい汗をかき、息を切らしながら戦ったりしなくていいんだ。きらめく宝石に囲まれて、のんびり暮らしていけばいいんだ……。
「なにをしてるのっ!」
ピシャリ、と激しく頬が鳴る。平手が飛んだのだ。
顔をあげ、リュカは見る。束《たば》ね髪を金色の蛇《へび》のようにのたうたせ、まなじりをキッとあげた小生意気《こなまいき》な女怪《にょかい》の顔を。角灯《ランタン》の黄色い光を針《はり》の瞳に宿し、真紅《しんく》の唇が淫《みだ》らがましく濡《ぬ》れ濡れと気をそそる。まるでばけものだ。だがかすかに面影《おもかげ》がある。ビアンカか? なぜそんな魔物になったのだ? ……そうか!
リュカはパパスの剣《つるぎ》を振り上げた。
そうか、ビアンカ、きみは敵についたんだな。裏切ったんだ。闇の亡者《もうじゃ》に魂《たましい》を売ったのか。なぜだ? まさか。……ひょっとして、ぼくがフローラを選んだからか?
引き攣《つ》る声で、リュカは笑った。そうか。そうだったのか。笑いが止まらない、狂気の発作《ほっさ》のように、あとからあとからこみあげてきて、もう息もできない。ごめんよ、ビアンカ、可哀相なビアンカ、今、楽にしてあげるからね。リュカは剣をつきつけ、青ざめたビアンカを追いつめる、逃げるビアンカの片足が水に踏みこみ、あっと言って転びかける。
とどめだ!
「ぎゃあああっ!」
血飛沫《ちしぶき》を飛ばして腕が飛ぶ。目の前を染める真紅に思わず身をひいたリュカのからだを、誰かが後ろからがっしりと羽交《はが》い締《じ》めにして、何ごとか怒鳴《どな》る。何を言っているのか、聞こえているのにわからない。
「離せっ、くそっ……うっ」
リュカは暴れたが、どうにもかなわず、頭を水につっこまれた。わめき続ける口許《くちもと》からぼこぼこと盛んに泡が立ち、耳の奥がキーンと鳴る。ひきあげられた瞬間、幾重《いくえ》にもかぶせられていた暗幕《あんまく》が一気にひき剥《は》がされたかのように、目の前の霧《もや》が消し飛んだ。
ぐったりとしたスミスをビアンカが抱き起こしている。スミスの腕のつけねから、ぼとぼとと赤黒いものが流れだし、濡れた地面を染めている。スラリンが千切《ちぎ》れた腕を拾《ひろ》ってきて、さかさまにくっつけそうになって慌てている。
「ど……どうしたんだ、ぼくは、何をしてしまったんだ……」
「混乱の呪文をかけられたのです。メダパニといいます」
「ピエール……今さっき、ぼくを正気にかえらせてくれたのはきみか」
「こいつがメダパニをかけやがったんだよっ」
スラリンとプックルが、見慣れぬ魔物を押さえこんでいる。へらへらとひとを馬鹿にしたような笑いを浮かべながら、ひと息ごとにルビーだのサファイヤだの真珠だの金貨だのを吹き上げては吸いこむ、妙な奴だ。
「そうか。踊る宝石か……おかげで、すごい幻《まぼろし》を見たよ……その中で溺《おぼ》れてしまいそうなほどたくさんの宝物……色とりどりの宝石と、金と銀と。……白い薔薇と、赤い誘惑《ゆうわく》を」
リュカは頭を振って、気を取り直すと、スミスのそばにひざまずいた。
「すまなかった、スミス。ビアンカ。大丈夫《だいじょうぶ》か」
「あたしはなんともない」
ビアンカは、肩をすくめた。
「でも、スミスがかばってくれなかったら、危なかったわ」
「す、す、スミス、もうだめ……し、死ぬ。でも、ほ、ほ、本望《ほんもう》。す、スミスは、び、び、ビアンカのためなら死ねる」
「待て待てっ、スミス、スミちゃんったら、おいっ!」
「さ、さよおなら、す、スラリン、リュカ……」
スミスは引き攣《つ》るようにまぶたを閉じ、がくっ、と頭を落とした。が、ピエールがベホイミを唱《とな》えると、その指先がぴくりと動く。
「あらよかったわね。腕、うまくくっついたみたいよ」
「れ?」
スミスは片目をあけ、両目をあけ、切れたはずの腕を動かしてみた。
「あじゃ。ほ、ほんとだ。す、すごい。す、スミス不死身。じゃーん。復活」
「けーっ! なにが『じゃーん』だよ。いっちいちおおげさに心配させるなよっ! だいたい、おまえは元から死体だろ、死体が死ぬかよ、バカっ!」
「あ。そ、そーか。でへへへ」
リュカはほーっと息をついた。
「よかった……ほんとうに。みんな、ごめん。もう絶対に油断しないよ」
「こんなにジャンジャン敵が出てくる中で油断できるなんてたいしたタマだよ、リュカは!」
「それだけ、我々を信頼してくれている証拠《しょうこ》ですよ」
「うん。信じてる」
リュカはくしゃくしゃに歪《ゆが》みそうな顔を励《はげ》まして、にっこりと笑った。
「だから、今後とも、どうぞよろしく!」
迷惑な踊る宝石は、なんと一行のあとをついてきた。何を考えているのかさっぱりわからない不真面目な顔だが、なにせ、ひと息ごとに豪華絢爛《ごうかけんらん》な宝石を飛ばす。
「この際、連れてってあげようよ。気分が明るくなっていいわ」
ビアンカがジュエルと名づけた。ジュエルは満足そうにでっかいエメラルドを吐いた。
迷宮の終点は、高い天井を持った、宮殿の内庭のような空間だった。涼しげな音をたててせせらぎは流れ、清冽《せいれつ》な滝となって落ちかかる。どこまでも青の深まる水渠《すいきょ》の底に、長い年月空気にさらされたことのない不思議な形の岩々がぼんやりと透《す》けて見えた。
遥か地上の山脈の大量の石と土とを通りぬけて磨きあげられた水は、澄《す》みきって清く、冷たく、唇に甘い。
「……きれいね」
壁際のわずかな足場にへばりつきながら、ビアンカは首を曲げてあたりを見回し、しみじみとつぶやいた。
「誰も知らない滝の底に、こんな素敵なところがあるなんて」
「世界じゅうに、いろんな秘密が隠れている」
リュカが言った。
「ぼくの中にも……魔物がいるように」
「え、リュカ? どうしちゃったの……きゃっ」
「危ない!」
ふわりと壁から離れかけたビアンカのからだを、リュカが片手に抱きとめ、引き戻した。
「気をつけて」
「ええ」
ふたつの瞳が交錯《こうさく》した。ビアンカは当惑し、頬を赤らめて目を逸《そ》らした。
ついさっき、混乱したリュカを見たときには、聞きわけのない弟にするみたいに、思いきりひっぱたいちゃったけれど。
たくましいじゃない。あたしのこと、まるで子猫みたいに軽々と抱いたりして。
リュカったら、なんだか、パパスさんに似てきたみたい。
慎重《しんちょう》に、だが、手と足を速めて進みながら、ビアンカは、胸にともった甘い疼《うず》きの正体をぼんやりと考え続けた……。
船が見えたらすぐ知らせてくれるようにと、ルドマンは港の灯台守《とうだいもり》によく頼んであった。だから、リュカたちが戻ってきたとき、もう屋敷は色とりどりの堤燈《ちょうちん》と花で飾られ、楽団が呼ばれて愉快《ゆかい》な歌曲を奏《かな》で、祝宴《しゅくえん》の酒と馳走が数々の卓を満たして山と盛られていた。
町じゅうのひとびとが呼ばれて集《つど》い、三国一の花婿《はなむこ》殿《どの》をひと目見ようと押しあいへしあいする中、遠征隊《えんせいたい》が現れた。ひとびとはたちまち驚き騒いだ。魔物だ。魔物たちがいる! だが、なにしろ、物見高い連中が、あとからあとから背伸びをし、子供を肩車して、殺到《さっとう》する。前列に連なってしまえば、なかなかとても逃げ場はない。顔をひきつらせる町の人たちの前を、スミスはビアンカと腕を組んで得意の絶頂で凱旋《がいせん》した。ガンドフは有頂天《うちょうてん》、ロッキーは照れまくって無口、パペックは物珍しげにキョロキョロし、コドランは興奮して煙を吐く。メッキーとドラきちは、やたらにばたばた飛び回り、マーリンは眼光鋭くあたりを見まわし、ジュエルはここぞとばかりに袋の中身を見せびらかし、プックルに乗ったスラリンは何くれにぶつぶつ文句《もんく》を言いながら。しんがりを務《つと》めたピエールに、いとも恭《うやうや》しく礼をされると、あまりのことに失神してしまう婦人もあった。
やがて一行は、手入れの行き届いた庭を横切り、開け放たれた広間に向かった。フローラの懸命《けんめい》な看病《かんびょう》で九死に一生を得たアンディ・インガルスも、ペリー老や職人仲間に連れられて、人込《ひとご》みの中にたたずんでいた。
ロベルト・ルドマンはぴかぴかの錦《にしき》の上着に勲章《くんしょう》を並べ、太鼓腹《たいこばら》に儀礼《ぎれい》用のサーベルまで提《さ》げてリュカを迎えた。ぞろぞろついてきた魔物たちに、目を白黒させながらも、さすがに落ち着いて何食わぬ顔をしている。傍《かたわ》らの、夫人と娘も、豪華きわまりないドレスをまとって、慎《つつ》ましやかに両膝を折り、深々と頭をさげている。
「水の指輪です」
「おお、確かにこれじゃ。まさしくそなたは、伝説の勇者! いやめでたい! これで世界は救われたぞ、みなの衆《しゅう》!」
夫人が、フローラが、顔をあげる。居並んだ町の人、使用人、すべてのひとびとが、ざわりと動き、口々に祝いのことばを叫びかけた、だが、そのとき。
「違う」
リュカの声が凛《りん》と響きわたったのだった。
「違います。ぼくは勇者ではありません。その証拠《しょうこ》に、この剣を……ほら、抜くこともできないのです」
あんぐり口を開けたルドマンの足許《あしもと》に、リュカは片膝をつき、頭《こうべ》を垂《た》れた。
「このままあなたをだまして、あの宝物をいただくことも考えました。しかし」
ピエールとスミスに両腕を取られて、アンディ・インガルスが前に出る。
「彼に負けた。ぼくは指輪は手にいれてきたかもしれない。けれど、それは、ここにいる仲間たちあってのこと。アンディはたったひとりで苦難に立ち向かった。賛辞《さんじ》なら彼に。彼の勇気をこそ、讃《たた》えてください」
「きみが助けてくれたんだ!」
アンディが叫び、両手を支えからもぎ離した。その顔と両手は、いまだ痛々しい繃帯《ほうたい》におおわれている。
「きみがいなかったら、ぼくはあそこから帰ってくることもできなかった。あのまま、焼け死んでいただろう……頼む。これ以上、情けなんてかけないでくれ!」
「おとうさま!」
フローラがつんのめるように前に出て、よろめくアンディに肩を貸す。
「おとうさま、お願いします。どうか、わたくしを勘当《かんどう》してくださいませ。いますぐ」
「なにを言う」
「このひとはわたくしのために傷ついたのです。大切な手を、恐ろしい危険にさらしたのです」
フローラは戸惑《とまど》うアンディの手を愛しそうに頬にあてた。
「このひとの手は、世にも美しい色を生む手。椅子や、机や、子供たちの玩具を作りあげ、ひとびとのささやかな喜びに奉仕《ほうし》する手です。その手が、再び、もとのとおりに戻るまで、わたくしは、このひとに尽くします」
「なんだと!」
熱《いき》り立つルドマンの腕を、シャルロット夫人がそっと押さえる。愛くるしい顔を決心にこわばらせるフローラに、母親は、優しくうなずいてみせた。フローラとアンディは顔を見合わせ、ぱぁっと笑った。
「それでは」
と、リュカも立ち上がる。
「ぼくたちもこれで失礼します。……ご家宝の天空の盾は、いつの日か、ほんとうの伝説の勇者が現れるときまで、どうか大事に守っていてください」
「……いや……待て……待ってくれ」
ルドマンは指輪でいっぱいの手をあげてリュカをとどめた。
「家宝の盾はきみにやる。きみが盾にふさわしい男であることはよくわかっている。だから、やる。やるから、ちょっと待たんか。せっかくの馳走を無駄にせんでくれ。いましばらく、我が家の客になってくれ。そして……おい、フローラ!」
「あなた?」
「儂ゃ許さん。……けっして許さんぞッ」
ルドマンは立ち上がり、青ざめるフローラとアンディに、割れんばかりの大声で怒鳴った。
「嫁入り前の娘が、約束もない男の家に入り浸《びた》ることなど許せるか! なんという破廉恥《はれんち》。そんな娘に育てた覚えはない。修道院の尼前《あまぜ》も泣くぞ。聞こえているか、アンディ・インガルス。おまえは儂の娘に恥《はじ》をかかせる気か? もろうてくれるのかくれんのか! 男なら今ここではっきり宣言せい!」
「……おとうさま……?」
「ルドマン」
アンディはうろたえて立ちつくしていたが、すぐにハッとして、繃帯の手でフローラの両手を包みこみ、
「ほんとにいいの?」
「いいのって」
「ぼくでいいの?」
「あなたさえ、それでいいなら」
「……ああ、フローラ! ぼくの気持ちなんてとっくに知っているだろう? きみはぼくの夢だ。こんなことになるなんて、信じられない。でも、夢ならせめて醒《さ》める前に言ってしまおう。好きだ。フローラ。大好きだ。どうか結婚してほしい」
「ありがとう、アンディ。ええ、あなたの妻になります」
ひしと抱き合う恋人たちに、やんやの歓声があがった。
「こら。はしたない! ほどほどにせい、ほどほどに」
[#挿絵(img/DQ5_2_238.jpg)入る]
苦々しげにわめくルドマンの腕を、シャルロット夫人がやさしく取った。
「よかったね」
ビアンカは長いまつげにいっぱいに涙を湛《たた》えたまま、リュカの手を握りしめた。
「ああ。ほんとに」
おおっぴらに涙を拭《ぬぐ》い終わったルドマンは、ふと、このふたりに目をとめた。かたくつなぎあった手と手に、その目が細まる。にやり、と笑み崩れかける顔をひきしめ、わざと、ウォッホン、と咳払《せきばら》いをする。
「あー、リュカどの、リュカどの。つかぬことを聞くが、そちらの美しい女性は?」
「あ。ビアンカです。はじめまして。ご挨拶が遅れました」
「幼なじみなんです。北の山奥の、温泉のある村で、偶然に再会したんです」
「ははぁん。幼なじみ」
ふたりはあわてて互いの手を解《ほど》き、距離を開けた。ルドマンは、ことさらいかめしい目つきになり、口髭《くちひげ》をしごいて、じろじろとねめつける。
「リュカどの、儂はそなたを見損《みそこ》なったぞ」
「え?」
「聞こえたろうに。ええか。危険きわまりない船旅に、いくらおさななじみだとはいえ、妙齢《みょうれい》の美女を伴《ともな》うとは、無鉄砲《むてっぽう》にすぎる。何かあったらどうするのだ」
リュカとビアンカは顔を見合わせ、あわてて言い募《つの》った。
「でも、リュカのせいじゃないんです。あたしが、どうしても行くってわがままを」
「ビアンカは勇敢で敏腕《びんわん》です。水の指輪を手に入れるにも、ずいぶん力を貸してくれました」
「そうか、そうか。お互いに庇《かば》っているな。しかし、そもそも、いい若者が年に不足もないのにズルズルとひとり身を続けておるのがけしからん。保護者もおらんと、ひとつ船に寝起きなどして、何か間違いがあったらどうする? ふん、いかがわしい」
「そんな。ひどいわ! あたしたち、姉弟みたいなものなんです。なんにも、その……後ろめたいようなこと、あるはずないですっ!」
「このことは、ビアンカのおとうさんも承知《しょうち》です」
「ふん、なら、ふたりとも、なぜそんなに頬を赤くしておるのじゃ?」
ふたりは黙りこむ。
「どうもあやしい。あの船は、盾ともどもそなたにやるつもりだったが、やめようかな。不道徳な奴には使ってほしくないし……そうだ。もうひとつ、教えてやることがあったのを忘れていた」
「な、なんです」
「うむ。南の砂漠《さばく》の大陸にな、テルパドールという古い国があるのだ。そこの女王がなにやら世にも貴重な兜を所有しているらしい。ひょっとして、うちの盾と揃《そろ》いになるものかもしれないから見せてくれと頼みこんだことがあるんだが、あっけなく断られた……なまじ金ならいくらでも積むと言うたが、逆鱗《げきりん》にふれたのだ。商売目的だと思われたらしくてな。しかし、あの地に出向くには、どう考えても、船がいるよなぁ……」
「ルドマンさん!」
「サラボナ商人組合の長《おさ》は儂じゃから、儂が売るなと言うたら、誰も船を売ってはくれんだろうなぁ」
「そんなのひどいわ!」
ルドマンはむっつりと唇をとがらし、そらっ恍《とぼ》けた様子で空のほうを見ていたが、とうとう我慢《がまん》できなくなって、くすくすと笑い出した。
「……ふふ。あははは。がはははは! どうだ、リュカ、胆《きも》が冷えたろう!」
あっけにとられるふたりの肩を抱き合わせ、ますます高らかに笑う。
「ふん。純情なる親ごころを傷つけた罰じゃ。あのフローラを袖《そで》にしようだなんて、まことに鼻持ちならない傲慢《ごうまん》じゃが、こちらの凛々《りり》しい娘さんに免《めん》じて許してやる。のう、リュカ。そなたら実に似合いじゃ。どうだ。儂が采配《さいはい》する。うちの娘ともども、このサラボナで誓《ちか》いの式をあげないか」
「誓いの」
「式……?」
ふたりの手を無理に重ねさせ、その上からがっしりと押さえこみ、ルドマンは言う。
「ひとに縁《えん》あり、縁に時ありじゃ。結婚せえ。結婚して、とっとと子を成せ。子は未来ぞ。みなの宝ぞ。明日に希望をつなぐ橋じゃぞ」
その声色《こわいろ》は、いつしか限りなく優しく温かく。リュカにもビアンカにも、それぞれの父の面影を思い起こさせる。
「あたしが……リュカの子供を……?」
「……ビアンカがぼくの……」
見つめ合い確かめあう瞳の奥に、ふたりは同じ幻《まぼろし》を見た。どことも知れぬ町の片隅、小さいながらも楽しい我が家、あかあかと燃える暖炉《だんろ》のそばに寝転ぶ年老いたキラーパンサーの背を滑り台にしてはしゃぐ、可愛らしい子供たち。微笑み、手を取りあいながら、それを見つめる、穏やかに年を経《へ》たふたり。
あたりまえの、どこにでもある、だが、かけがえもなく尊《とうと》い光景だ。キラーパンサーを別にすれば。部屋のこちらがわで、変わらぬ姿でにこにこしているに違いない、スライムや、ビックアイや、魔法使いたちを別にすれば。
「……そうだ。きみでなきゃ無理だ」
「あたしたち、けっこう、うまくいくかも?」
ふたりはくすりと微笑みあい、互いの手をしっかりと絡《から》め合い、握りしめた。
「ようし!」
ルドマンは躍《おど》りあがり、大声をあげる。
「それで決まり。みなの衆、婚礼《こんれい》じゃ。二組一度の結婚式じゃ! このルドマン、ご先祖さまの名にかけて、一世一代の素晴らしい宴《うたげ》にしてみせるぞ!」
7 遥かなる故郷
世界の最高峰《さいこうほう》セントベレスは、その昔《むかし》、大内海に頭を出したとるにたりない島であった。島と一体であったこの山は、あるとき凄《すさ》まじい噴火《ふんか》を起こした。大地はもくもくと膨《ふく》れあがり、雲を突《つ》き抜けて火口を開き、現在のオラクルベリーやカボチの付近にまで大量の礫弾《れきだん》を飛ばした。周囲の海底も隆起《りゅうき》し、山の南側に肥沃《ひよく》な低地を出現させた。流れだした大量の溶岩《ようがん》は冷えて固まり、竜《りゅう》の背《せ》のようなごつごつした黒い斜面となって、山をおおった。
世界のあちこちに伝わるさまざまな神話やものがたり――海神が怒《いか》り狂《くる》うと、火の雨を降らせ、世界を一年もの間|闇夜《やみよ》にしてしまう……または、天空城《てんくうじょう》の神と争って海に追い落とされた別の竜が溺《おぼ》れてここに死骸《しがい》をさらした、などなど――には、この歴史的《れきしてき》事実を示すものが少なくない。
そのセントベレス――海抜《かいばつ》三千七百身長にもなるその頂上《ちょうじょう》――世界のへそ、さかまく海流や荒《あら》くれた渦潮《うずしお》の中心、そして、このものがたりに吹く種々《しゅじゅ》の風の求心でもあり、それゆえになお颱風《たいふう》の目のように不穏《ふおん》な静けさの内にある場所――に、巨大《きょだい》な神殿《しんでん》が建設されつつあった。言わずと知れた、光の教団の本拠地《ほんきょち》である。
数多《あまた》の信者と奴隷《どれい》たちが、岩を砕《くだ》き、石を運び、漆喰《しっくい》を塗《ぬ》りかため、柱を積んだ。鞭《むち》のうなりと、荒い息。働くものたちは黙々《もくもく》とただ何も考えず、指示され命令されるままにおのが肉体を酷使《こくし》し、したたる汗《あせ》をぬぐう間もなく、ただその日がまた終わり、熟睡《じゅくすい》の恵みの内に身を休めることのできる刻限《こくげん》が来ることを待ち望んだ。
信者も奴隷も、たいして区別はなかった。いつ果てるとも知れぬこの労働|奉仕《ほうし》が祈りであることに、なんら変わりはなかった。どちらも、救いを求めているのだった。みずから進んできたものは、闇の時代が来ようともなお生き延びたいと考え、なんらかの罠《わな》にかかって連れてこられたものは、ただその日一日を無事《ぶじ》にすごしたいと願った。人はみないつか必ず死ぬものであることを思えば……たいがいの場合、当人が思うとおりには死ねぬものなれば……両者は、赤い薔薇《ばら》と白い薔薇ほどにも違ってはいないのだった。その微細《びさい》な差は、長らく従事《じゅうじ》させられている労働の内に、しだいに忘れ去られた。
だが中には……。
「なぁ。……こんな天気だと思いださねぇか」
石を引く手を止め、抜けるような空を仰《あお》いで、髭《ひげ》むじゃらの男がふとつぶやく。
「ああ。どうしておるじゃろうな、あのぼうずども」
骨と皮ばかりに痩《や》せた老人が、まぶしそうに目を細める。
「あれも、こんな日じゃったな。あいつらと、なんとかいう信者の娘が、監督官《かんとくかん》に逆《さか》らってひどく鞭《むち》打たれたのは。それきり見えなくなってしまったのは」
「うまく逃げたって噂《うわさ》、ほんとうかね。殺されちまったんじゃねぇか」
「いや……死んじゃあいない。死にはせんとも!」
老人は汗を拭《ふ》きながら、にやりと笑う。
「覚えておるじゃろう、黒髪のリュカ坊《ぼう》を。繊細《せんさい》で利発な、考え深い子供じゃった……はじめは自分の名前すら書くことができなかったが、ややこしい問答《もんどう》もけして途中で投げだしはしなかった。あの子が無茶をするわけがない。きっと機転をきかして、なんとか切り抜けたさ」
「あいつ、しまいにゃ、爺《じい》さんが面食らうような質問をしてたよな。いったい、どんな力があれば、お城《しろ》をひとつまるごと空に浮かべることができるだろうか、なんてよ」
「王の王はどこにおられるか、などともな。いやはや、さしもの儂《わし》も困った……学問好きな子供たちは大勢見たが、あれほどの瞳を持ったものは、おらなんだのう」
「俺《おれ》はヘンリーの野郎《やろう》も好きだったよ。あいつ、みんなが落ちこんでるってえと、おかしなこと言って笑わしてくれてよ。ぐったり疲れてる奴《やつ》がいると、黙《だま》ってそいつのぶんまで働きやがる。自分より大きい奴まで、かばうんだよな」
拳《こぶし》を固めると、髭むじゃらの男の腕に逞《たくま》しく筋肉が浮いた。
「俺もたくさんのガキどもを兵隊に仕立てあげて戦場に送りこんだことがあるが。腕力や剣技はしこめても、胆《きも》っ玉は変えられねぇ。その点、ヘンリーは生まれついての大将だ。人の上に立つ器《うつわ》を持ってる奴だったぜ……まったく、たいしたガキどもだった。いったいどんな親がいたやら。あんないい子たちが行方《ゆくえ》知れずになったってのに、捜《さが》しにも来ねえとは」
「おや」
老人は悪戯《いたずら》っぽく目を光らせた。
「おまえさん、ひょっとして、気づいてなかったのかね?」
「何が」
「だから。あの子たちは、たぶん、どこかの王家の……」
「こらそこ! 遅《おく》れてるぞ!」
ふたりは首をすくめて作業に戻った。
重たい石がころ[#「ころ」に傍点]の上を進み、綱《つな》をかけられる。十いくつもの手が取りつき、滑車《かっしゃ》を操《あやつ》って宙《ちゅう》に上げる。上で待っているものたちの合図に従って、方向を決め、静かに降ろす。もうもうと埃《ほこり》が立ち、誰《だれ》かが石の角に背中をえぐられて小さな呻《うめ》き声をあげる。そして、神殿の柱が、またひとつ、完成するのだ。
「……水の指輪も……そやつの手に渡ったのか?」
その神殿の地下深く、天然の岩をくりぬいた暗い一角で、ひとりの男が低くつぶやいた。灼《や》けた肌《はだ》、乱れた壮髪《そうはつ》、鋭《するど》い眼光。嫁迎《よめむか》えの行列に沸《わ》くラインハットで騒動《そうどう》を引き起こしたあの男、すなわち、光の教団《きょうだん》の教祖イブールである。
イブールの見つめる先の岩壁には、薄気味《うすきみ》の悪い影《かげ》のようなものが浮《う》かんでいた。赤紫色《あかむらさきいろ》のローブをまとった、異様なほど背の高い人型の魔物……ゲマだ。だが、果たしてほんとうにそこにいるやらいないやら、輪郭《りんかく》は闇に滲《にじ》むようにぼんやりと溶け、その足の踏みしめる先にはどんな支えもない。目深《まぶか》におろした頭布《フード》の陰《かげ》で、三日月刀の形をした唇《くちびる》がうっすら笑ったように見えた。ゲマは嗄《しゃが》れた声で答えた。
「さよう。滝の洞窟《どうくつ》と呼ばれる場所にて見つけだされました。オクトリーチもマーマンも、情《なさ》けないことこの上もありませんでしたな」
教祖は黒ずんだ頬をぴくりとさせた。
「……取り戻せ!」
「その必要はございますまい」
赤紫のローブが、ありもしない風に裾《すそ》をはためかせた。
「指輪は三つ揃《そろ》わなければただのガラクタ。そう言ったのは、あなたではありませんか。一の指輪をそうしてあなたが持っておられる限り、何の心配がありましょう?」
イブールは手を握りしめた。節《ふし》くれだって土気色《つちけいろ》をした指に、金でも銀でもない無骨《ぶこつ》な金属の指輪が光る。
「……残り二つがあれば、このわたしが扉を開くこともできたのだ……」
唸《うな》るように、イブールは言った。
「闇の太主《たいしゅ》の復活を、早めることもできたのだぞ!」
「いいえ。いまはまだその時ではありません。我らが神をお迎《むか》えする準備が、まだ整っていないのです。……ひとの子よ、祈りなさい。我らが神に捧《きさ》げる人魂《ひとだま》を、もっとたくさん集めなさい。そうして、無事、神殿が完成した暁《あかつき》には、きっと救いがおとずれましょう」
「だが、あとふたつの指輪があれば、わたしはマーサを迎《むか》えに」
「マーサ! なるほど、そうでしたね。ええ、いずれお返ししますとも。でも、あなたは契約《けいやく》したはず」
ゲマが大蜘蛛《おおぐも》の脚《あし》のような指をひらめかせると、不気味に輝く霧《きり》が湧《わ》いた。霧はさらに何か言い返そうとしたイブールのからだを包《つつ》みこみ、ちかちかと明滅《めいめつ》しながら漂《ただよ》った。
「お忘れなきよう、教祖さま。天空の城は堕《お》ち、先の神は死んだのです……ゆえに、あなたは、新しい神と新しい契約を結ばれた。いま、祈りを捧げられるべき相手はただひとり……やがて来る時代に君臨《くんりん》する闇の太主、我らが魔王……あなたのつとめは?」
「……い……祈ること……」
イブールはあえいだ。霧が、鼻腔《びこう》に、口に、肺の中にまで侵入《しんにゅう》した。全身が、ぶるぶる震え、瞳は赤い炎を灯《とも》した。顔や手のむきだしの肌は、すぐ下にたくさんの虫でも這《は》っているかのようにぴくぴくと蠢《うごめ》き、引き攣《つ》った。が、つぶやく声は恍惚《こうこつ》と甘《あま》い。
「祈りを束《たば》ね、強めること……それがエルヘブンの宿命、神に従い、草の民《たみ》に奉仕《ほうし》し……世界を破滅《はめつ》と頽廃《たいはい》から守ること……」
「さよう。あなたにはそれができる。それだけの力がある。ゆえに、わたしはあなたが大好きなのですよ」
ゲマが両手を隠すと、イブールは夢から覚《さ》めたようにハッと身を起こした。
「では、これにておいとまを」
「……待て、ゲマ……いまひとつ教えてくれ。マーサは、マーサは、どうしているんだ?」
「ご無事ですよ。しかしまだ、強情にだだをこねておられる」
イブールは顔をしかめた。だが、それは、うっかり微笑《ほほえ》んでしまうのを押し殺すようなしかめかただった。ゲマはわずかにことばを切ったが、そ知らぬふりで、静かに続ける。
「彼女はあなたやわたしの高邁《こうまい》な思想になかなか共鳴《きょうめい》してくださらない。神がいなくなったということを、ちっとも信じてくださらないのです。……あのかたの堅固《けんご》な意志を枉《ま》げるには、さらになんらかの手立てを講《こう》じなければならぬかと存《ぞん》じておりまする。そう、たとえば……」
影の中で、ゲマの瞳が光った。
「人質」
「人質? ……なぜだ……もう充分ではないか。おまえたちはもはやこれほどの信者を得た。マーサに、このものたちを見捨てることができるとは思えない」
「おまえ[#「おまえ」に傍点]たち? よそでは間違えないでくださいよ、あなた[#「あなた」に傍点]が教祖さま、でしょう」
ゲマは、冷たく言い放つ。
「そう……信者を見捨てはしない。しかし、まだあなたに帰依《きえ》していない世界の大多数の人々も、むろん見捨てることができないのですよ、あのひとは。となれば、彼女を動揺《どうよう》させ混乱《こんらん》させ、無理にでもわれらの頼《たの》みごとをきいていただくための誰かを、手にいれたいところ」
無言でうつむくイブールの瞳に浮かんだ痛ましげな色を、ゲマは見|逃《のが》さなかった。ゲマは三日月型の唇に侮蔑的《ぶべつてき》な薄笑いを浮かべ、ひとりごとをつぶやくように言った。
「あなたも彼女も、所詮《しょせん》は人間ですからね……では、さらば」
魔物の去った暗がりに、教祖はそのままじっと座り続けていた。
神が死んだと知ったとき、彼は先の名を捨てた。新しい神に、新しい名を受けた。だが、この世でもっとも素晴らしいと思う女への愛は、まだ捨てることができなかった。
「……マーサ……」
彼はつぶやいた。
「マーサ……俺《おれ》は正しいと思うことをやった……正しいと思うことをやり通そうとしている……だがなぜ? なぜ、おまえは別の道をゆく? おまえは俺を許さない? われらが手を取って進めば、人は伸び、人は育ち、神なき世も平《たい》らかに暮らしてゆけるものを……ああ、俺はどこか間違っているのか? 教えてくれ……マーサ……!」
かき毟《むし》る頭髪の合間に、金でも銀でもない指輪が、鈍く光っている。
……さらさら……さらさら……。
指の間を零《こぼ》れ落ちてゆく砂《すな》を、ビアンカは見つめるともなく見つめていた。
大陸の北縁の岩だらけの岸に上陸して半日。女王の城とやらは、まだ見つからない。なにしろこの国のほとんどが、途方《とほう》もない量の白砂におおいつくされた砂漠《さばく》なのだ。昼間の砂は焼いた鉄板のように熱く、どこまでも真っ白で目を開けているのもつらく、手がかりらしきものは皆目《かいもく》得られなかった。まだしも過ごしやすくなった日没《にちぼつ》から、リュカとその仲間たちは、水と道を求めに散っている。
のんびりやるさ。リュカは笑って、彼女の頬に指でふれた。
なんだか顔色が悪いね。暑さにやられたのかな。いいから、少し休んでおいでよ。
そして例によってスミスが、ビアンカの警護役《けいごやく》を買って出たのだった。
さらさら……さらさらさらさら。
ビアンカは長いまつげを伏《ふ》せ、砂を零《こぼ》す。いつまでも飽《あ》きることなく。手の中の砂がなくなれば、また無意識のうちにすくって、また零す。
落ちかかる砂粒《すなつぶ》のひとつひとつが、幸福であり、不安だった。過ぎた日の婚礼の華《はな》やかな祝いの席の、晴れがましい花嫁姿《はなよめすがた》の自分。十字に誓《ちか》った永遠の絆《きずな》、祝福《しゅくふく》のことば、甘い口づけ……輪になって踊るひとびとの真ん中で、頬を染めて夫なるひとを見上げたそのときから、今にいたるもまだ、なにか、ずっと夢をみてでもいるかのようで……さらさら、さらさら……。
ビアンカは恋をしていた。美しい若い娘《むすめ》は恋をするものだし、ビアンカは二十歳《はたち》、世間の標準からすれば少々|薹《とう》が立ってはいるものの、まだ充分に美しい若い娘だ。そして、なんとも罪のないことに、彼女がいま、生まれてはじめて、恋をしてしまったと自覚した相手は、ほかでもない彼女の夫だった。
リュカの瞳、リュカの声、リュカの微笑《ほほえ》み……ふと腰かけたときの背中の線から、眠っているときうっすら開く唇の形まで、リュカのすべてが新鮮《しんせん》で、慕《した》わしく、愛《いとお》しい。毎日のさまざまな瞬間を、すべて切り取ってしまっておきたくなる……思いがけない表情や、なにげなくかけてくれる言葉のひとつひとつに、動悸《どうき》が増し、血潮《ちしお》が騒ぎ、からだじゅうが火照《ほて》る……そうして、ビアンカは途方にくれるのだ。
……金燭台《きんしょくだい》に飾られた何千本の蝋燭《ろうそく》の炎の輝きの前に共に立った……頬を染めて花嫁の冠《かんむり》を頂《いただ》いた……あれはついさっきのことのようなのに……。
ざっ。
両手で砂を叩《たた》きつけて、ビアンカはひとつ大きく息をする。
「……ん……の、の、のおかひたた、み、み、みあんか?」
焚《た》き火《び》の向こう側に横たわったスミスが、敏感《びんかん》にも片目をあけ、いつもよりさらにまわらない舌でたずねる。ビアンカはあわてて笑い顔をつくり、優しく言う。
「なんでもない。ごめんなさい」
「……ん……そー。じゃ、す、スミス、寝る……おあすみ……ぐがぁお」
規則正しい寝息が聞こえはじめ、ふと気がつくと、ビアンカはまた無意識のうちに砂をすくいあげている。さらさら。さらさらさらさら。意味などないこの仕種《しぐさ》を、なぜか止《と》めることができない、止めるきっかけが何かあれば……。
……と。目の隅《すみ》を、何かが横切った。何か小さな、光るもの。
動作を止めた指の間を、静かに砂が落ちてゆく。
また動いた。ビアンカは素早く身をひるがえし、全身を緊張《きんちょう》させて向き直った。
射すくめられたように見開いたふたつの瞳が真正面からビアンカを見つめかえしている。
……メタルスライム……!
ビアンカは片目をすがめ、低く緊迫《きんぱく》した声を発した。
「……スミス、起きて! スミス!」
「……んが?」
「敵」
「……ええっ!!」
だが、スミスが熟睡《じゅくすい》のあまり半分ずり落ちた目玉を擦《こす》り擦りあわてて身を起こしたときには、そこにはもう何もいない。目を離したつもりはないのに、かき消すようにいなくなってしまった。
「……ごめんなさい……メタルスライムが出たんだけど、逃げちゃったみたい」
「ん……じ、じゃ、また、寝る……ぐう」
スミスはたちまち高鼾《たかいびき》をかきだし、ビアンカは四方に目を配った。
錯覚《さっかく》だったんだろうか。
顔をしかめながら座りなおしたそのとたんに。
……また出た!
今度は迷《まよ》わず駆《か》けた。毒針《どくばり》を持っていることを思い出したので、懐《ふところ》にそれを探《さぐ》りながら。だが、メタルスライムは狩《か》り立てられた野兎《のうさぎ》のように、砂の隆起《りゅうき》にたくみに身をかくしながら、なおもどんどん遠ざかってゆく。また、消えた。ビアンカは立ち止まった。
あたりは一面の砂、地平線は、天鵞絨《ビロード》の黒《くろ》天蓋《てんがい》に切り取られ、なだらかな起伏《きふく》を見せている。
……どこ?
ビアンカは、狩人《かりゅうど》の注意深い視線であたり一帯を探索《たんさく》した。彼女自身の足跡《あしあと》から、わずかの砂が零れ、あるかなきかの風に飛ばされて、音もなく流れ散る。満天の星明かり、月はない、世界はおぼろに薄ら青い。
見失ったわね。
ビアンカは、スミスのところに戻ろうとした。
すると、小さな砂の隆起のかげから、彼女を見上げている視線にぶちあたった。そいつの目は春の草を思わせる明るい緑色だった。円盤《えんばん》のようにまるく、平らかで、奥に何かがちらちらしていた。単純であけっぴろげな獣《けもの》の目だ。
「……誘ってるの……あたしを?」
メタルスライムはゆっくりと瞬《まばた》きをし、ぴょん、と飛んだ。
静かに、ビアンカは砂坂を下った。メタルスライムは一度振り向き、ビアンカがついてくるのを確かめると、また一定の距離を保《たも》って進みはじめた。
案内してくれるの? ……どこへ?
砂は柔《やわ》らかく、ひと足ごとに膝までも潜《もぐ》りこんだ。遠ざかり続ける銀青色のものをじっと見つめながら、ビアンカは辛抱《しんぼう》強《づよ》く歩き続けた。毒針は懐《ふところ》にしまった。両手を使えるようにしておいたほうがいい。
丘を乗りきると、メタルスライムがまた、消えた。
ビアンカは吐息《といき》をひとつ洩《も》らして、立ち止まった。星明かりの砂丘《さきゅう》に、彼女のつけた足跡《あしあと》のひとつひとつが、いかにもはかなげな小さな丸い凹《くぼ》みになって続いている。肩のあたりに、寒さを覚えた。
何かの音でない音を聞いたような気がして、振り返ると、メタルスライムだ。ひとつ先の丘の上で、じっとこちらを見つめている。
「わかったわ。……行くわよ。行けばいいんでしょう」
恐ろしいと思うより、好奇心《こうきしん》のほうが強かった。何も知らずに眠っているスミスのことも、ちらりと考えたが、すぐに、それどころではなくなった。
薄青い星明かりの砂丘を、いくつも越えた。砂は脆《もろ》く、からだは重く、ところどころでは、あまりにも傾斜《けいしゃ》がきつかった。小一刻《こいっとき》もするとビアンカは、へばって満足に足が上がらなくなってきた。のぼり坂では、時おり膝もついた。いつしか両手も、砂にまみれた。ひんやりと冷たい砂の粒が爪《つめ》の間にはいりこみ、掌《てのひら》に食いこんで、かすかな警戒《けいかい》の痛みをもたらしていたが、戻ることはおろか、立ち止まることも問題外だ。この寡黙《かもく》な追跡行《ついせきこう》の先にいったい何が待っているのか、それを確かめなくては。
喉《のど》が渇《かわ》いてせばまり、ぜいぜいといやな音をたてはじめた。引き返したほうがいいかもしれない。でも、戻る道はわかるのかしら? どうしてあんな魔物を信用してしまったんだろう……。
すると、それがはじまった。
めまいかと思った。からだが震《ふる》えているのかと思った。が、それは音のない地鳴りだ。砂の下に、隠されている途方もなく巨大ななにものかが出現しようとしているのがいまやはっきりと予感できた。ビアンカは凍《こお》りついた。……罠《わな》だったの? じっと座っていることもできないほど、揺《ゆ》れが強まり、思わずしがみつく指の間で、砂が躍《おど》った。
「……あ……あああ……!」
城だ。黒大理石の。いや、くろがねの。いや、見たこともない材質の。古代遺跡《こだいいせき》の規模《きぼ》と外観を持つ影そのもののように黒い城は、まるで、くじらが海面を割って宙に伸び上がるように、砂の上に全身をさらけだし、そこにとどまった。
黒々とした城が目前を圧《あっ》して立ち塞《ふさ》がった。無骨《ぶこつ》なまでに垂直な壁、やや先細りな四角い塔《とう》、矢眼《やがん》を切ったテラス、水道橋《すいどうきょう》、不可思議《ふかしぎ》な動物の像を左右に並べた正面階段……そのすべてから砂が落ち、砂が去り、砂が飛んでゆく。そしてついに砂雨がやむ。
恐ろしいほどの静寂《せいじゃく》。さらさらと、わずかな砂が舞《ま》った。
ビアンカが我に返ってよろよろと立ち上がるのを、まるで待ってでもいたかのように、正面の階段奥の巨大な厚い壁に小さな入り口が音もなくひとりでに口を開く。メタルスライムが器用に跳《は》ねながら階段をのぼりかけ……どうしたの? とでも言いたげに、ビアンカを振り向いた。
「……おはいりなさいな、異国のお嬢《じょう》さん」
ビアンカはいっぱいに目を開いた。
「だれ?」
メタルスライムではない。まさか城そのものが口をきいたのでは。悲鳴のようになってしまった叫びに頬を赤らめるビアンカに、声はなめらかに、優しく、歌うように告げる。
「わたしはテルパドールの女王アイシス……心配はいりません。ここにはあなたに、害をなすものはありません……さぁ、おはいりなさい」
挑戦《ちょうせん》とあらば受けてたたずにいられないのが、子供のころからビアンカの癖《くせ》だった。
月明かりに銀色にかがやく黒の階段を、ビアンカはのぼった。傍《かたわ》らで、獅子《しし》でも犬でもない獣《けもの》の彫像《ちょうぞう》の吠《ほ》える形の頭の上から、ひとにぎりの砂が宙に舞った。メタルスライムが門に飛びこんだ。わずかに遅れて、ビアンカも続いた。
門の内部は暗かった。空気の中にかすかな芳香《ほうこう》がかんじられ、知らず知らずのうちに鳥肌《とりはだ》だっていた腕がほっとなごむほどに温かい。ビアンカはいったん足を止め、目が慣《な》れるのを待った。静かだった。何もない静けさではなく、息をひそめた沈黙……闇の彼方《かなた》にかすかな青い光る帯のようなものを見て、ゆっくりと歩き出してみる。思ったより広い空間らしい。静寂の底に葉ずれのような音がする……と、前に伸ばした指に薄いヴェールのようなものが触《ふ》れた。思わず手をひっこめると、ヴェールがサッとあがり、眼前が満月夜ほどに明るくなった。
オアシスだ。
光る帯は川、花|咲《さ》き乱れる泉からあふれだし流れる小さなせせらぎ。右手にわだかまったひときわ濃《こ》い闇は熱帯性の濃緑の樹木《じゅもく》の林であり、ヴェールのようなものは、蔦《つた》に似た見知らぬ植物だった。足許《あしもと》の床さえも、いつの間にか、あの黒大理石のような堅い石ではなく、ぼろぼろした赤褐色《せきかっしょく》の土に変わっている。
泉のほとりに、緑と金の照りかえしを受けてきらきらと燃えるような黒髪を顎《あご》を隠すほどに斜めに切りそろえた華奢《きゃしゃ》な美女が腰をおろしている。身にまとっているのは、片方の肩だけでとめつけたローブのようなもので、からだの線を隠すより露《あらわ》にするのが目的のような代物《しろもの》である。
「アイシス……?」
ビアンカが呼ぶと、美女は白い腕を伸ばしてさし招いた。
だまされやしないから……! ビアンカは唇を噛んだが、なにくわぬ顔で美女に近づいた。剣の柄《つか》にいつでも手をかけられるよう、腕の力を抜き、両足を開いて立った。美女はこの上もなく愛くるしい、どこかしら悲しげな横顔をかすかにうつむかせた。
「声を殺して泣いていたわけを教えて」
きれいな歌うような声が、ビアンカを面食らわせた。みかけの若々しさに反して、それは母親の言いぐさだった。
「あいにくですけど」
ビアンカはせいいっぱい上品に言い返した。
「何かのお間違いじゃありません? 泣いてなんかいないわ」
アイシスはゆっくりとビアンカに向き直り、憂《うれ》いを含《ふく》んだ微笑《びしょう》のかたちに唇を開いた。
「わたしは千五百年生きている砂漠の女王。あなたが涙《なみだ》のかわりに零した砂はわたしのからだの一部。隠しごとは無駄《むだ》よ、お嬢《じょう》さん」
「あたしお嬢さんじゃないわ。人妻だわ」
「そうかしら?」
ビアンカはぎくりとした。なるほど誓《ちか》いは交わしたけれど、豪華な宴《うたげ》はなされたけれど、ビアンカの意識もからだもなお処女《おとめ》の潔癖《けっぺき》のうちにあった。かたくなに抵抗《ていこう》したわけではない、だが、どこにそんな機会があったか? 宴のその日は食べて飲んで騒いで、気がついたら朝だったし、船に乗ってからはかわるがわる不寝番《ふしんばん》についているか、仲間の魔物の誰かれがそれと知らずに邪魔《じゃま》をしているかどちらかだった……いや、何度かそんな時が巡《めぐ》りきそうになったことはある、確かに彼女は、なかば無意識のうちにそれらを避《さ》けてきたかもしれない……横たわる顔をリュカがじっと見つめているのを感じながらあわてて寝息をたててみせたことも、突然手をつかまえられ何か訴《うった》えようと口を開かれそうになってあわてて関係ない話題を持ち出したことも。だが……。
頬が熱かった。この砂漠の女王とやらに何もかも見通され、責められているような気がしたのだ。
「あなたは天空の兜《かぶと》を持っていますね」
ビアンカは言った。なんとか話を逸《そ》らそうとして言ったのだが、口にしてみると、それこそが、自分をここに駆り立てた原動力なのであると思った。
「リュカは――夫は、それを捜しています。そのために、あなたに会いに来るはずだった」
「知っています。けれど、今はまだ時ではない。やがていつかお目にかかることになるでしょう。けれど、今わたしはあなたに、あなただけにあいたかったの、お嬢さん」
「お嬢さんじゃないったら!」
アイシスは海面に小さな波が生ずるときのようにするりと音もなく立ち上がり、硬直《こうちょく》したビアンカの両手を取ってあやすように揺《ゆ》すった。
「リュカは、あなたが天から落ちてきた娘だから、その血統を貴重《きちょう》な馬のように思っているのでもないし、もちろん哀《あわ》れんでいるのでもありません。あなたがビアンカだから、たったひとりのビアンカだから、永遠に共に暮らすことを、結ばれることを望んだのです」
[#挿絵(img/DQ5_2_262.jpg)入る]
「……そんなこと、あなたにどうしてわかるの?」
「あなたも彼も、砂を踏んだからよ」
アイシスは手を離し、そのままゆっくりと後退《あとずさ》った。
「怖《こわ》がることなんか何もないのよ、お嬢さん。愛することのできるひとにめぐりあい、恋したひとと結ばれる幸せを、いつの日かあなたはただ感謝《かんしゃ》のうちに思い出すでしょう……そう、わたしはもうテルパドールに千五百年生きてきた……さまざまなひとと思いが通りすぎていった……そう、遠い昔には恋をしたこともある……けして受け入れてもらえない、口にすることもできない恋だったけれど、幸せだった……あなたより、ほんの少し不幸せだっただけ……わたしは彼を忘れない。わたしの永遠の思い人、隣国《りんごく》グランバニアの若き戦士パパスを」
「パパスですって!?」
「グランバニアにお行きなさい」
驚愕《きょうがく》に、意地もとまどいも吹き飛んだビアンカが、はじめてほんとうに心を開いてそのことばを聞こうとしたそのとたん、アイシスの姿は蜃気楼《しんきろう》のように霞《かす》みはじめる。
「この砂漠の北からまっすぐ東に船を出せば、やがてアイララの大陸が、峻厳《しゅんげん》なるヴォミーサの大山脈が見えてくるはずです……その山塊《さんかい》をも越えて東へ向かいなさい……そこがグランバニア」
「待って! アイシス待って。そのパパスさんってあのパパスさんなの?」
叫ぶ声にほのかに笑いかけながらアイシスの姿は透《す》き通り、遠ざかり、同時にこの人工的な楽園も霧《きり》におおわれるように煙《けむ》ってゆく。追いかけようとして、踏み出した地面がぐにゃりと揺れる、ビアンカはよろけ、倒れた。……行きなさい、グランバニアへ……昏《くら》くぼやけてゆく意識の片隅で、冷たい砂の抱擁《ほうよう》を歓迎する。……隣国の戦士パパス……憧《あこが》れのパパスおじさまの顔を思い浮かべようとしても、ビアンカは、もうはっきりとは覚えていなかった。かわりに浮かんだのは、いとも無邪気《むじゃき》に笑う子供のころのリュカの顔。ああ。あのころから。あたしは愛していた、彼の純粋《じゅんすい》、彼の無垢《むく》、彼のあの優しい微笑み……。
急速に膨《ふく》れあがった思いに、ビアンカもまた八|歳《さい》の少女に戻る。おとうさん。おかあさん。懐《なつ》かしいアルカパの我が家。大好きだったひとたち。幸福だった毎日。世界じゅうが宝物を隠してきらきら輝いていた、夢はどこまでも膨《ふく》らんだ。おとなになったらきっと! もっともっといいことがあるんだと、そう、何の疑いも恐れもなく、そう信じていたあの日々……思いは奔流《ほんりゅう》となってからだじゅうを駆けめぐり、つっぷした顔の下、さらさら、さらさら……砂は流れ、あふれる涙を受け止めて……さらさら、さらさら……なおも流れる……
「ガンドフー、スラリーン、おーい」
ようやく見つけた水をいっぱいに入れた革袋を背負《せお》って、リュカは砂漠を彷徨《さまよ》っていた。ついさっきまでは、すぐそこに仲間たちがいた。ふと見上げた空に流れ星が走り、思わず行方《ゆくえ》を見届けようとして目を見張った。それは確かだ。だが、ほんのひと呼吸かふた呼吸するわずかの間のこと。目を戻すと、いかなる不思議か、この砂の中に、ただひとり取り残されていたのである。仲間たちはみな足跡ひとつ残さずに消えてしまった。そういえば、リュカ自身がここまでたどってきたはずの跡さえ、たったのひとつも見当たらない。
……どういうことだろう……。
リュカは荷をおろし、砂丘に座った。自然と見上げる形になる星空に、またひとつ、星が流れた。いたずらっぽく笑うようにきらめきながら。
何かが起こるだろうことはわかっていたので、砂を踏むかすかな足音が聞こえだしたときには、すぐにじっと耳をすました。大勢ではない。気配を殺して忍《しの》び寄る敵ではない。とても軽い、二本足で駆ける生き物の足音だ。
息をひそめて待つうちに、足音はあっけなく近づいてきた。星明かりに青味を帯びた金色の髪がまず目を射た。……ビアンカ……? すぐ目の下を軽やかに走り過ぎてゆく。
「ここだ、ビアンカ!」
立ち上がったリュカに、それが振り向いた。いつも結《ゆ》っているはずの髪が解《ほど》けて半分顔を隠し、残りの半分をかえって際立《きわだ》たせていた。ビアンカじゃ、ない……? 瞬時《しゅんじ》に見分けて、リュカは驚き、不快になった。その目。悲しげにぽっかりと開かれた虚無《きょむ》への窓。人間に似せた、だが、人間でありえない生き物。だが、その卵型の輪郭《りんかく》も唇も肩や手脚《てあし》のからだつきもあまりにも似すぎている。まるでビアンカの中に何か別のまがまがしいものが入りこんだような。
一瞬の静止の直後、生き物はまたありえないほどの勢《いきお》いで走り出した。リュカは追った。すぐに疑惑《ぎわく》が兆《きざ》した。そいつの走り方はあまりにも奇妙《きみょう》だった。その立てている規則正しい音に反して、少しも脚を動かしていないように見えるのだ。ふらふらと力なく立ち上がった形のまま、糸にでも引かれるように遠ざかってゆく。そうだ。砂の上に、足跡をひとつも残していない。
こいつはなんだ。いったい、何があった、ビアンカ?
どうして置いてきてしまったのだろう。わざわざ離れてしまったのだろう。いや、理由はリュカにはよくわかっている。このところ、お互いに何か変なのだ。ぎくしゃくして、気持ちが通じない。……後悔《こうかい》しているんだろうか……リュカは唇を噛む。ほんとうは、ぼくのこと、そんなに好きじゃなかったのに、ルドマンの手前いやいや承諾《しょうだく》しただけだったのじゃあ。
逃げてゆく生き物のぐったりとしたからだに風が吹きつけた。白い顎《あご》が力なくのけぞり、金色の髪が夜空を背景になびいて広がった。微風《びふう》に揺さぶられる谷間の小さな花のように、いとも弱々しく、儚《はかな》げに……あやしいまでのその美しさに、リュカは身の毛がよだった。あいつが魔物だとしたら、なんて恐ろしい魔物だろう!
砂を蹴《け》たて、知らず知らず唸《うな》り声を発しながら、リュカはがむしゃらに足を速めた。なんとしても捕まえて、正体を見なければならなかった。
生き物は丘の麓《ふもと》に倒れていた。つっぷして、まるで泣いてでもいるかのように。
リュカは無言で飛びかかった。抱きしめたというよりも、全身の重みをかけて砂に押さえつけたのだった。生き物は、ハッとして腕をあげ、抵抗しようとした。リュカはそいつの手首を捕《と》らまえた。古びた革手袋ごしにも伝わった、そのしなやかさが、小ささが、からだじゅうの血潮《ちしお》を頭にのぼらせた。ばたつく脚を足首でひっかけ、組み敷《し》くと、生き物は啜《すす》り泣くように身ぶるいをした。身動きできなくなった相手の顔を、リュカは改めて間近に見下ろし、驚愕《きょうがく》した。
「……ビアンカ!?」
青空色の目がぱちりと開かれた。
「りゅ……リュカじゃないの」
「いったい」
「ここで何をして?」
言いかけて、ふたりとも唐突《とうとつ》に黙りこんだ。瞳と瞳、対鏡《ついかがみ》の無限回廊《むげんかいろう》の中にふたりは閉じこめられていた。ただひとつの想いの燠《おき》が、新しい風を受け、静かに炎をあげ、永《なが》のくびきから解放されるのが見えた。
リュカがまだ握りしめていた手首を離すと、ビアンカは赤黒く跡のついた腕を恋人の首に回した。抱き合ったまま身を起こし、唇を重ね、静かに互いの服に手をかけた。恋人の肩や背にくっきりと刻みこまれた古い傷跡をさぐりあてたとき、ビアンカはびくりとしたが、長くは指を止めなかった。青ざめた星明かりの下に生まれたままの姿で再び横たえられたとき、知らず握りしめた拳《こぶし》の中には、砂漠の砂があった。
……遠い昔には恋をしたこともあるの……寂しげに微笑《ほほえ》んだ美貌《びぼう》の女王アイシスのその慈《いつく》しみと導きの下《もと》に、ふたりがとうとうこの時を迎えたことを、けして忘れはしまいと思いながら、ゆっくりとビアンカの拳があがり、静かにほころびてゆく指の隙間から砂が零れ落ちた……さらさら、さらさら……さらさら。
「グランバニアに行く」
リュカはきっぱりと言った。
「どうやら、それが、父の故郷であるらしいことがわかったんだ」
東へ。一路東へ。
毎日晴れて暑く、昼間の日差しは強烈《きょうれつ》で、うっかり甲板《かんぱん》に長居をすると、頭がくらくらしてくるほどだった。海はどこまでも広がった鮮《あざ》やかな紺青《こんじょう》の絹《きぬ》、雲は空の高みにわずかに浮かんでいるばかり。月の明るい夜には、天も海面のいずれもが宝石を散らした天鵞絨《ビロード》になった。時おり微風が吹き、時おり止んだ。リュカは急ごうとしなかったから、櫂《かい》を使うことはなかった。船は飽《あ》きるほどのろのろと進んだ。魔物たちは暇《ひま》をもてあましてぐったりするほどだった。
ある夜、甲板に出てあてもなく水面を見つめていたスラリンのそばに、この数日に腐《くさ》った顔の皮膚《ひふ》が陽に灼《や》けてますます凄絶《そうぜつ》な印象《いんしょう》となったスミスがにじり寄ってきた。
「す、す、スラリ〜ン。ね、ね、な、なんだっけ、お、俺たちのめざしてる国」
「グランバニアだろ」
「ぐ、グランバニア……い、いい名前だ……び、ビアンカが言うと、特にいい名前なんだ」
「そう思うんなら」
うっとりするスミスを横目でみてスラリンは言った。
「いい加減《かげん》覚えろよ。今朝《けさ》からだけでも、もう二十何回めだぜ、おまえにそれ聞かれたの」
「だ、だ、だってさ」
スミスはぼろ服の裾《すそ》を指に巻きつけてもじもじした。
「わ、忘れちまうんだ……わ、わ、忘れてると、び、ビアンカと、は、話すとき、こ、困るから……でも、わ、忘れちゃうんだ。す、す、スミス、脳《のう》が腐ってるからさぁ……」
「ちぇっ、自分で言ってりゃ世話ねーや」
「よっ、でこぼこコンビ。何をじゃれあっているんだい」
「あ、ピエール。こんばんは」
「ん、んーばんわ。えへ、へ、す、スミスたち、えと、ぐ、ぐ、グランマニエの話してたんだ!」
「かーっ、グランバニアだってばっ! なんでそう簡単に忘れるんだよっ」
「グランバニアか」
ピエールは月明かりに金色に輝く騎士の目庇《まびさし》にちょっと手をやった。
「懐《なつ》かしい響《ひび》きだ」
「えっ、ピエール、グランバニアを知ってるのかい?」
「知ってるもなにも。俺はもともと北アイララの生まれなんだ。グランバニアは広い国土を持っているから、いってみれば、すぐ南隣さ。あそこの城は堅牢《けんろう》だが、時にはヴォミーサの山塊《さんかい》や森を通る人間どももいる。ソルジャーブルのオヤジに連れられて、よくからかいに行ったものさ……あ、いや」
潤《うる》んだジト目で見るスミスに、あわてて手を振り、
「もうやらん。あんな悪さは、けしてやらんぞ。心配するな」
「ぴ、ぴ、ピエールは、あ、頭がいいんだ」
スミスはため息をついた。
「い、い、いいなぁ。あ、頭いいと、いい、いいなぁ! あ、アイタタだの、ご、ゴミの山だの、う、うんと昔のことでも、なんでもよくお、お、覚えてられるんだよねぇ……ぐすっ、す、す、スミスは、だ、だ、だめなんだ……の、の脳のここんとこに、あ、穴があいてるからさぁ……お、覚えておきたいことが、どんどん零《こぼ》れちゃってさぁ、き、きのうのこともあさってのことも、す、す、すぐ忘れる」
「あさってじゃないでしょ。おとといでしょ」
スラリンの茶々《ちゃちゃ》も耳に入らない様子で、スミスはぽろりと涙を零す。そのあまりの大粒《おおつぶ》の涙に押されて、ついでに目玉もぶらんとさがる。
「す、す、スミスは、ば、ばかだ。や、や、やく立たずなんだ。す、す、スミスなんて、し、し、死んだほうがましなんだっ……」
「あはは、ばーかでー。もうとっくに死んでるって……あわわ」
スラリンはピエールのスライムの目と騎士の目の四つににらまれて、口をつぐみ、ちぇっちぇっ、といじけて、横のほうに行ってしまった。
「泣くなよ、スミス」
大きな肩を丸めて啜《すす》り泣くスミスの、その背を抱いて、ピエールは騎士の顔を寄せた。
「スミスは力持ちだし、勇敢《ゆうかん》だし、なにより、誰よりこころがあったかいじゃないか。あの重たいロッキーが船に乗れたのも、スミスが抱えて運んでやったからだし、ダークマンモスとの戦いでパペックがばらばらになっちゃったときだって、スミスが忘れずに全部指さし確認して拾って持ってかえってきてやったろ? あれ、誰かがやってなかったら、パペックきっと、もとどおりにはならなかったぞ」
「で、で、でも、でもっ……!」
スミスはただでさえ歪《ゆが》んでいる顔をなおさらぐちゃぐちゃにしてピエールを見た。
「す、す、スミス、き、き、きっと何かど、ど、ドジ踏んだんだ。だ、だから、だから、び、び、ビアンカ、スミスのこと、き、き、嫌いになったんだ」
「ビアンカ?」
「な、な、なんか、き、き、気を悪くするようなこと、し、したんだ。そんで、そんで、そんで、す、スミス、ばかだから、きっと、そのこと、す、す、すっかり、忘れちゃった。だ、だ、だからビアンカ、ま、ま、前みたいに、口をきいてくれないんだよおっ! ……うう、す、す、スミスがなにいっても、し、し、知らんぷりする。わ、笑わせようと思って変な顔しても、わ、わ、笑ってくれないのっ……ぐすっ……そ、そ、それもこれも……ああ、きっと、す、す、スミスがばかだからだ!」
「……なるほど。そんなことを悩んでいたのか」
ピエールはにっこり笑った。
「それは違う。スミスのせいじゃないよ。ビアンカはね、いま、リュカ以外目に入らないんだ」
「……目に? ……あっ!」
スミスはあわてて、おっこちかけていた目玉をはめた。
「だからさ。スミスがビアンカを好きなように、ビアンカはリュカのことを、好きになったんだよ。そうして、リュカもね、ビアンカのこと大好きなんだ。好きになると、ずっとそばにいたいだろ。それがふたりともだから、ふたりだけでいると、時間も忘れる。ほかのひとのことも忘れる。スミスだけじゃない。いま、あのふたりのそばにいて邪魔《じゃま》にならないのは、プックルぐらいのもんだよ。ほら、あいつは特別長いつきあいだからね。……だから、まぁ、こんなふうに船でのんびりしているときぐらい、そっとしておいてやろうよ」
「び、び、ビアンカがりゅ、りゅ、リュカを、す、す、好きなのと同じくらい、りゅ、リュカも、び、び、ビアンカのことを好きになったのか? ……」
「ああ。相思相愛《そうしそうあい》ってやつさ」
「へぇ、そ、そおーしそあい……つまり、お、お、同じくらいかい?」
「ああ。ちょうど同じくらいね」
「そーかー」
スミスは腕組みをし、天のいと高いところを眺《なが》めやって、せいいっぱい考えこんだ。と、やがて、何かに思い至って、ハッと口を開ける。
「ぴ、ぴ、ピエール、それって、す、すごくいいことじゃない?」
「ああ。いいことだと思うよ」
「そ、そ、そう、そうかぁっ!」
スミスはぱぁっと笑い、興奮《こうふん》して両手を振り回した。
「い、いいことだ。そ、そうだ、そうだよね? す、スミスだってさ、も、もしか、び、ビアンカが、す、スミスがビアンカのこと好きなのと、ちょ、ちょうど同じくらいに、す、す、スミスのこと好きになってくれたら、す、すげぇ嬉《うれ》しいもんなぁっ! りゅ、リュカがビアンカのこと好きで、び、び、ビアンカも、り、り、リュカのこと好きで、そ、そんで、そんで、ちょうど同じっ! うわぁっ、すごいねっ。ど、どっちも、き、きっとすごく嬉しいよね。す、好きなひとが嬉しいと嬉しいから、そうすると、ま、ま、ますます余計に、う、う、嬉しいよね? ね?」
「あ、ああ。そりゃ嬉しいだろうな」
「やったぁっ! す、す、すごいっ! す、す、すごくいいことなんだ。ビアンカに、すごくいいことがあった。う、う、嬉しい! わぁ、わぁあい! スミスも嬉しい! ふ、ふたりぶん嬉しいっ!」
ピエールはあっけにとられて、はしゃぐスミスを見つめた。
マーサのことを考える。マーサのことを考えていたときの自分のことを考える。誰かも知らぬ相手にマーサを取られてしまったと知ったとき、抑《おさ》えきれないほどの怒りに我を忘れたことも。それは遥かに遠く過ぎ去った日々であったけれども、思い出せば今なお口の中が苦くなるような思いだった。
だが、いま、スミスの喜びには一点の曇りもない。大好きなビアンカの幸福を、ほんとうに心の底から祝っているのだ。
良かった良かった、わぁいわぁい。
大声で叫び続けるスミスに驚いて、仲間たちが出てくる。甲板は魔物たちでいっぱいになった。なにをそんなに騒いでいるのか問い質《ただ》してみても、感激にふだんよりいっそう言語|不明瞭《ふめいりょう》になったスミスの説明では訳《わけ》もわからない。ただ大きな喜びの気分ばかりが伝染《でんせん》して、みななんだかわけもわからないまま、ついついニコニコ顔になってしまう。誰かが酒樽《さかだる》を持ち出し、誰かが歌を歌い出す。手拍子《てびょうし》が沸《わ》き上がり、笑い声が星空までもとどろかした。
あまりの騒ぎに、とうとう、リュカとビアンカとプックルも覗《のぞ》きに来た。いったいなにをそんなに浮かれているんだい? きょとんと問い質すリュカにスミスは猛然《もうぜん》と抱きつき、有無をいわせず接吻《せっぷん》した。熱狂したドラきちとガンドフが思わず洩《も》らしたまぶしい光に、ジュエルとパペックが不思議な踊りを踊りだせば、みんながつられて踊り出す。魔物たちも、恋人たちも、からだの膨《ふく》れあがる幸福ガスでも吸いこんだかのよう、互いに互いの踊る恰好《かっこう》を見て笑い転げながら、興奮はますます高まってとどまるところを知らない。賑《にぎ》やかで朗《ほが》らかな場の雰囲気《ふんいき》に、誰もが再び婚礼《こんれい》の宴《うたげ》のあの感激を思い出した。
輪の中心でうっとりと微笑んだスミスの、喜びのあまりでれでれとまたいっそう溶け出した横顔を眺めながら、ピエールはひとり船縁《ふなべり》にもたれ、奇妙に厳粛《げんしゅく》な苦笑いを洩《も》らした。ふと思う。こんなになる前は、あいつ、いったいどんな奴だったんだろう、と。爛《ただ》れ崩《くず》れて骨もむきだしになった醜《みにく》い顔の奥に、ピエールは、かつてのスミスの、神々《こうごう》しいほどに清らかなおもかげを見つけたような気がした……。
おおむね、このようにして、船は進んだ。
砂漠大陸北岸から、アイララと呼ばれる見知らぬ大陸までおよそひと月。港を求めて彷徨《さまよ》うこと、さらに半月。岩礁《がんしょう》だらけの海岸線に結局ただ一|箇所《かしょ》、接岸できそうなところを見出《みいだ》した。波打ち際《ぎわ》がわずかに陸に切りこみ、すぐに砂州《さす》の浜につきあたる干満の差のあまりない天然の入り江だ。この湾ともいえないちいさな水たまりに、船はしずしずと漕《こ》ぎ寄せられ、錨《いかり》を下ろした。
あたりの天候《てんこう》には誰も知識がなく、季節がこれからどのように移り変わるものかの予測も難《むずか》しかった。北大陸の常識でいうならば、秋の雨はしばしば颱風《たいふう》となる。もし、このあたりに激しい嵐でも来るようなことがあれば、無人にして放り出す船は失われる可能性もあった。慎重《しんちょう》な討議《とうぎ》が重ねられたが、残ることを望むものがないのでは選択《せんたく》の余地はない。どうせひとりやふたりでは、非常時に無事|操艇《そうてい》できるものとも思われないし、なにより……あの狂乱の夜を境になおいっそう……もはや、離れがたいほどひとつこころの仲間となった一行である。
一|艘《そう》きりのボートを何度も往復させて、全員が上陸した。
陸路に入って十日。道らしき道はなく、原野は寂しく荒れ果てて、出会う魔物は手強《てごわ》かった。ドラゴンマッドとケムケムベスが、魔法じじいとパオームが、しつこいほどに行く手をはばんだ。遥《はる》かにそびえるヴォミーサ大山脈の内懐《うちふところ》に次第次第に近づいてゆく一行の先々に、まるで何者かが次から次へ手を伸ばしてでもいるかのような、なんとしても邪魔だてしようと決心してでもいるかのような、そんな気配さえあった。
が、誰ひとり怖《お》じけるものもなく、進むことに疑問を持ちもしなかった。
グランバニア! グランバニア!
その名が唱えられるとき、すべての瞳が輝いた。
さぁ。あの山を越えて、グランバニアへ!
まだ見ぬ国の名の、どこにそんな力があったろう。なぜみな、見たこともない国にそれほど憧れ、駆り立てられたのだろう?
やがて、彼らの行く手に、どこまでも草におおわれた平らかな土地が現れた。平原を西から東へ一直線につっきるうちに、小さな川沿いの街道《かいどう》らしきものが見つかった。遡《さかのぼ》ること、二日。広大な山の裾野《すその》の原始林の一角が、ぽつんと切り開かれ、何十台もの馬車がとめられるほどの場所がならしてあるのが見えてきた。あまりに静かなので、無人なのかとも思われたが、近寄ると、宿場《しゅくば》小屋の煙突《えんとつ》からつましい煙が立ちのぼっている。
「ああ、グランバニアなら、確かにその峠《とうげ》の向こうだ。だが、ひどい道だよ」
ネッドという宿場の主《あるじ》は、人間と人間でない者たちが仲よく連れ立ってやってきたのに胆《きも》を潰《つぶ》した。だが、人里離れたこのような場所で、おとなしい女房《にょうぼう》とふたり宿場番をひきうけ、もう二十年も旅の者たちを補佐《ほさ》しつづけてきた男だ。ネッド本人もどちらかといえば人間社会の変わりもの、はみだしものである。山の掟《おきて》にそむくような行いにはうるさいが、そのほかの流儀《りゅうぎ》や習慣の違い、客が好きでやることがらに、いちいち口をはさむような不粋《ぶすい》さはない。だいたい近ごろは、その客がとんと少ないのだ。
「泊《と》まらせてもらえるだろうか」
リュカがおずおず尋ねたのには、
「あたりまえだ。うちゃ、そのためにあるんだ」
むっつり顔のまま、答える。誰であれ、訪《たず》ねてくるものは歓迎《かんげい》する、それが、山の宿場のさだめであった。
ネッドは妻に言いつけて庫《くら》の麦を挽《ひ》かせ、練《ね》りパンを作らせた。ありったけの野菜を刻み、干し魚や釣《つ》ったばかりの魚をたくさん炙《あぶ》った。まだ年若いきれいな娘さんまでが、旅やつれし埃《ほこり》だらけでいるのを気の毒に思い、薪《まき》ストーブにたっぷり湯を沸《わ》かして、風呂《ふろ》をたててやりもした。
夕暮れ、香《こう》ばしい湯気に満ちた食事の席に、こざっぱりとくつろいだ様子の客たちが集《つど》うと、ネッドも妻も甲斐甲斐《かいがい》しく世話をやいた。魔物のほとんどは、人間の食事を美味《おい》しそうに食べた。そうでないものでも、近くにいて、ひとの話に耳を傾けて満足そうだった。
「こんな街道でも、昔ゃあずいぶん大勢が行き来したもんだ」
請《こ》われて、ネッドは語りだした。
「西の国々からグランバニアを訪ねに来るお客人は、みんな、まぁなんとかしてあの峠《とうげ》を越えなくちゃあならない。ここで二、三泊して、ヴォミーサの機嫌《きげん》……天気やら、冬なら凍結《とうけつ》の具合やら……をうかがうのさ。中腹まであがれば道はほとんど大昔に誰かの掘った隧道《トンネル》の中になる。そこまで行けば、風雨にゃ当たらないし、寝泊まりする場所にもことかかない。脚のいいものなら山頂《さんちょう》までざっと二日というところだ。こんなにばけものどもが出るようになる前はな……おっと」
なにげない失言にネッドは内心|慌《あわ》てたが、
「そんなにひどいんですか」
ネッドの目にはまさにばけものにしか見えないスライムナイトが、いかにも憤慨《ふんがい》したように言う。
「ああ。魔物は昔から多少は出たが。こんなに狂暴《きょうぼう》になりゃあがったのは、ごく最近のこったな」
ネッドは賢《かしこ》そうにうなずくスライムナイトの盃《さかずき》に酒を注《つ》いでやった。
「頂上にゃあチゾットという村があって、女房《こいつ》の弟が番小屋を仕切っている。近ごろぁどうしているやら、さっぱり降りてこないが」
「何ぞことづけがあったら、届けぬではありませんぞ」
苔緑《こけみどり》色のローブをずるずると引きずった恰好《かっこう》の、三百にはなっているんじゃないかと見える老人(魔法使いじゃ、と自己紹介した)が盃を出す。
「そいつはありがてぇ。だが、頼まれた中には魚の塩漬《しおづ》けの樽《たる》もあるんだよ。ひどく重いんで、弟のやつが降りてくるのを待っていたんだが、このままじゃ腐《くさ》っちまう。台車でもあればいいんだがなぁ」
「す、す、スミス持つ!」
腐る、のところでギクリと顔をあげた、柄《がら》の大きいのが言った。さすがのネッドもちょっと直視しがたい不気味な様子の魔物だが、ひと(?)はいいらしい。
「す、す、スミス持つ。す、スミス、ち、力あるから。ま、まかせて!」
「……あ、あの……」
女房《にょうぼう》がそっと袖《そで》を引く。
「……あんた……ね、あれ……」
夫婦には三つになる息子《ひすこ》のナサニエルがいた。頑固親父《がんこおやじ》とものしずかな母親以外の『おとな』を久《ひさ》しぶりに見て、興味はあるのだが、どうふるまったらいいのかわからない。親指を口につっこんで黙りこくったまま、おっかなびっくり柱の陰からのぞいていたのだが、でかいひとつ目のおばけが、そのナサニエルに気づいたらしい。おいでおいでと片手を振ったのに、女房、慌てたのだった。
止める間もなく素直に出てきた子供を、おばけは毛むくじゃらの膝に抱き上げ、顎《あご》の下をこちょこちょくすぐり、激しく揺すって笑わせる。
ネッドが思わず腰を浮かせかけると、
「だいじょうぶですよ」
リュカが笑って引き止めた。
「ガンドフは小さい子供が大好きなんです。子供さんもきっと、ガンドフが大好きになりますよ」
そのとおりだった。翌朝《よくちょう》、客たちが出発しようとしたとき、ナサニエルはひとつ目モンスターの巨大な鉤爪《かぎつめ》のついた手を握りしめ、結んだ唇をへの字にして、いまにも泣きそうな顔つきだった。ナサニエルはひと晩じゅう、ガンドフを離さなかった。自分の部屋に、寝台に連れてゆき、そのぬいぐるみめいたぬくぬくの毛皮にくるまるようにして眠ったのだ。
ナサニエルは前に山頂の叔父《おじ》さんに小犬をもらった。たいそう喜んで、くる日もくる日も野山を走りまわり、自分の飯《めし》を分けてやって可愛がった。だが、そいつは、来てひと月と経《た》たぬ間に姿が見えなくなった。たぶん、うろちょろ遊んで迷いこんだ隙《すき》に何かの魔物に取られたのだろう、とネッドは思ったが、山頂が恋しくなって戻っちまったんだろう、と言ってきかせてある。
聞きわけのいいナサニエルは、新しい小犬を欲しがりはしなかった。ただ、ひとり寝の夜、時おり、ひどく何かに怯《おび》えたように、声もなく泣きむせぶだけだった。
ビックアイなら、いい子守《こもり》になるだろう。こいつとくっつきあって眠る夜は、もう、うなされることもないに違いない……ネッドにも子供時代はあった。ひとりぼっちのナサニエルが不憫《ふびん》でもあった。ガンドフの大きな手の端のほうを、関節《かんせつ》が白くなるほど握りしめ、引き離されまいと願う息子の無言の訴《うった》えはよくわかった。
だからネッドは何も言わなかった。彼の立場で、何が言えただろう? リュカも何も言わなかった。リュカはただ、ナサニエルの必死の顔つきを見つめて、小さくうなずき、じゃあ、サヨナラ、と歩き出したのだった。
みなが行ってしまうと、ガンドフは落ち着かなげに、もぞもぞと足を踏みかえた。ナサニエルと、遠ざかる大小さまざまな背中を見比べてた。やがて、ガンドフは小さくため息をつくと、からだをかがめ、ナサニエルに笑いかけ、その指を、優しく一本ずつ開いてはがした。
「……ばい?」
ガンドフがにっこり笑った顔のままひとつ目をぱちくりさせると、ナサニエルは怒ったようにくるりと背を向け、おふくろさんに飛びつき、エプロンの腹に顔を埋《うず》めて、声をたてずに泣いた。ガンドフはちょっと目を瞬いていたが、やがて、誰にともなくちょこりと頭をさげ、急ぎ足に仲間たちを追いかけた。
ネッドはため息をつき(ホッとしたのか、残念だと思ったのか、自分でもよくわからない)、はなを啜《すす》るナサニエルの頭を撫《な》でながら言った。
「……いやぁ……少々毛色は変わっちゃいたが、なかなか気持ちのいい連中だったな。リュカといったっけ、あのぼうず、まだ若いのによくみんなをまとめていた。眉の濃《こ》いあの顔だち、なんとなく高貴な感じのするあの喋《しゃべ》りかた……どっかの誰かに似てるような気もするんだが……おまえ、心当たりがないかい?」
「あたしはあの娘さんのほうが気になるよ」
女房は息子をはばかって声をひそめた。
「……たぶん……本人はまだ気がついていないんじゃあ……」
「なにが?」
「なにって、あんた……」
女房は真っ赤になってうつむいた。子供はいやいやをするように頭を振りながら、ますます声をはりあげている。
ネッドとその家族の見守る先で、風変わりな連中は、みるみる小さくなってゆく。
急勾配《きゅうこうばい》の山肌を、古い街道は、曲がりくねりながら上へ上へと続いていた。途中までは、ところどころに、岩をくりぬき精緻《せいち》なモザイク模様を彫《ほ》りこんだ擁壁《ようへき》が見られたし、古い崖崩《がけくず》れを起こしやすそうな地盤《じばん》の一部には、石垣《いしがき》を積み上げて補修《ほしゅう》した形跡《けいせき》もあった。グランバニアまであと七ノナム。消えかけた古代文字の標識をマーリンが読んだ。が、ノナムがどれほどの単位であるのか、誰も知らなかった。
ダックカイトにリントブルム。長槍オークと魔法じじい。『狂暴になりゃあがった』魔物たちは、たまの旅人を見逃さない。集団で藪《やぶ》や崖上に隠れ、逃げ場のない狭い山道の前後からはさむようにして執拗《しつよう》に襲《おそ》ってくる。迎えうつこちらも大半はほかならぬ魔物仲間、なんとか無益《むえき》な殺生《せっしょう》はさけようと語りかけてもみるのだが、聞く耳を持つものはほとんどない。血|濡《ぬ》れた欲望に目をぎらつかせて、有無をいわさず飛びかかってくるばかり。なまじやりすごしても、また先で待《ま》ち伏《ぶ》せされては厄介《やっかい》だ。
「かわいそうだが、こんなところで何度も足留《あしど》めを食っているわけにはいかないな」
「人の肉に味をしめた連中です。正気とは思われない」
リュカのつぶやきに、ピエールも同意した。
「情けは無用ですが、せめて、ひと思いに楽にさせてやりましょう」
彼らは手ごろな地形の場所を見つけてそっと散り、誘いだされてくる敵を取り囲んだ。わらわらと出現する血に飢《う》えたやつらを、ロッキーが眼光するどくにらみつけ、プックルが凄《すさ》まじいおたけびをあげて、釘付けにする。コドランが火炎の息を吐き、マーリンは熱風で包みこみ、ビアンカはメラミの火の珠《たま》を投げつける。ピエールとリュカは逃げ去ろうとするものたちに、無言のままに剣を振るった。素早いメッキーはうっかり怪我《けが》をした仲間たちに回復の呪文を惜《お》しまない。
やがて静かになった山道に魔物の死骸《しがい》が積み重なった。見た目も匂いもあまりにむごたらしい。ビアンカが思わず唇を押さえて叢《くさむら》に駆けこむ。
「麓《ふもと》からこれじゃあ、先が思いやられるな」
「ね、ね、ねー。こ、ここ、か、か、片付けようよ。こ、これがみんなここで腐ったら、あ、あ、あとから来るひと、き、き、気分悪くするよ」
「あら、スミちゃんったら、きれいずきだこと」
「腐るもんには親近感があるのかにゃー」
「なにせ憧れのグランバニアの入り口じゃものな。ここは誠意《せいい》を尽《つ》くさねば」
魔物たちは、手分けをして、戦いの跡をきれいに清掃《せいそう》した。敵であったものたちの死出の旅路《たびじ》の安らかであることを、みなで祈る。
戦いや葬送《そうそう》の様子をうかがってでもいたのか、幸い、そこから先は敵の出現が少なく、手間取るほどのこともなかった。
二刻ほど登り続けると、樹木がとぎれ、視野が開けた。大山脈の内懐《うちふところ》から見る風景は、高く低く遥か地平までも緩《ゆる》やかに波うって連なる地の海原《うなばら》だ。奇岩《きがん》頂く隣山《りんざん》の頂上、何の花か鮮やかな赤をきらめかせた斜面もある。下を見れば谷間には霧《きり》が乳色《ちちいろ》のスープのようになって湛《たた》えられている。上を見れば行く手の道筋が、残雪のためにところどころまぶしく光った。
「みる」
目のいいガンドフが指さす先、空の高いところに、猛禽《もうきん》がふたつ飛んでいた。たっぷりと羽根を広げ、高空の王者らしく堂々と舞うシルエットを見わければ、ミヤマワシの夫婦であるらしい。あたたかな日差しに生じた上昇気流を使って、幾度《いくど》も幾度も降りては上がり、滑《すべ》っては回る、求愛のダンスを踊《おど》っている。無限にひろがる蒼穹《そうきゅう》を住みかとし庭とする鳥の、なんとも平和な、気持ちよさそうな、地上の修羅《しゅら》など知らぬげな姿に、一行はみな、ほうっと見とれた。……かと思うと。
「ちぇっ、ちぇっ!」
スラリンはいじけて舌打ちをするのだった。
「飛べる奴はいーよなー。おい、ドラきち、さっさと先いったっていいんだぞ」
「にゃー、オレはあんにゃ高いとこ飛べにゃーにゃー。だいたい、こんなあっつい日中は苦手にゃのにゃ……ふー、もうへとへと」
「コドランは?」
ドラゴンキッズは爆弾岩のロッキーに腰をおろして、あへあへと頼りなげな息をついている。からだじゅうをおおったぶあつい皮が重いらしい。
「メッキー」
キメラはなにしろ足がないので、手近な樹の枝に虫の胴《どう》のような腹をひっかけ、ぶらぶら揺れながら休んでいる。こちらもあまり長時間飛ぶのは得意ではないようだ。
怪力《かいりき》スミスも魚樽《うおだる》をおろし、汗を拭《ふ》くついでにまたしても目玉をこぼしてしまって慌てている。一見元気に見えるジュエルも、なにせふだんから目をまわしているような顔だちだから変化がないだけで、宙に投げ上げ受け止める宝石の勢いがイマイチ鈍《にぶ》い。いずれ歴戦のつわものであるはずのほかのどの魔物たちも、なんとなし、けだるげな調子のあがらない様子である。
「そうか……空気が薄いんだ」
ピエールもいつになく重そうに甲冑《かっちゅう》の肩を揺すり上げた。
「登れば、登るほど、ますますもっと息苦しくなるだろう……ビアンカ、だいじょうぶですか?」
「ほんとだ。真っ青だ」
ビアンカは木陰《こかげ》に膝をかかえ、眉根に皺《しわ》を寄せて、顔を曇らせていたのだった。プックルが傍らで心配そうに尻尾を揺すっている。
「どうした、疲れたかい?」
リュカの声を聞きわけると、ビアンカは、ハッとしたように顔をあげ、なんでもない、と微笑んでみせる。
「無理するなよ」
「うん……平気。ごめんね、心配かけて」
ミヤマワシたちが見えなくなるまで休憩《きゅうけい》を取って、一行はまた山尾根を登りはじめた。ゆくほどに道はますます狭《せば》まり、傾斜《けいしゃ》し、つるつると滑りやすい岩棚《いわだな》になった。時おり突然吹きつけてくる風の強さに、からだの軽いものは飛ばされてしまいそうだ。互いにかたまりあい、かばいあい、地面にしがみつくようにしてじりじり進むと、やがて、ネッドの言っていたとおり、街道そのものが薄暗《うすぐら》い洞窟に飲みこまれた。
確かに風は防げる。が、ひんやり湿った空気が澱《よど》む、陰鬱《いんうつ》な隧道《トンネル》だった。黴臭《かびくさ》い薄闇に、不穏《ふおん》な殺気がこもっているかと思いきや、案の定、不気味な死霊《しりょう》どもがわらわらと現れる。
いずこの時代にか戦《いくさ》に破れて死んだ兵士が、手厚く葬《ほうむ》ってくれるものもないまま、もののけとなり、土に返れず、魂《たましい》も解放《かいほう》されず、生きながら死に、死にながら死にきれず……みずからをも含めて世にありとあらゆるすべてのものを呪《のろ》い憎《にく》まずにいられなくなってしまったのが、死神兵《しにがみへい》だ。どす黒い狂気を毒にして塗りこめた槍《やり》で突かれれば、注ぎこまれる悲哀《ひあい》と邪悪《じゃあく》に生きとし生けるものはみな、絶望し麻痺《まひ》させられずにはいられない。あわれな死霊《しりょう》たちの親玉は、無惨《むざん》なしゃれこうべになってもなお重たげな王冠《おうかん》を得意そうに頂いたデッドエンペラー。いかずちの杖に寄りすがり、生前のおのが軍勢を全滅させたに違いないのに、なお将であろうとするのか、威張《いば》りくさった様子で兵士たちを統率《とうそつ》する。
「亡者《もうじゃ》どもを浄化《じょうか》してやれるは、やはり炎じゃ」
マーリンの指摘《してき》に、火を使えるものたちは素早く散開して円陣《えんじん》をなした。四方八方から火炎放射をあびせられれば、死霊たちもたまったものではない。燻《くすぶ》り、燃えながら、なおも呪詛《じゅそ》の声をあげ槍をつきだし、杖をふるって抵抗したが、やがてはみなひと握りの清い灰《はい》になり崩れ落ちる。
「安らげよ」
魔法使いは灰を摘《つま》み上げ、天と地に散らして祈りを捧《ささ》げた。
どうやら道しるべを、誰かわざと狂わせていたらしい。複雑な階層をなす洞窟をあちこちさまよい、左右上下にくまなくたどり、ようやく出口にたどりつけば、そこは尾根の上だった。天然の露台《ろだい》をなして張り出した平岩は、大小さまざまな影をなんとかみな載せるだけの広さがあった。眼下は崖。いっぱいに裾を広げ波打ちながら続く山塊の彼方《かなた》、遥か地平線をおおう厚い雲に沈んでゆく陽が赤い。
「あ、あ、あんな下から、の、登ってきたのか」
「ひ〜〜、押すなよ、スミスっ! まっさかさまだー。ううっ、ケツがモゾモゾする」
「……スラリン……つかぬことを聞くが、そなたの場合、どこらへんからケツなのじゃ?」
ひう、と頬を切り裂く風が渡る。冷たいながらこの上もなく新鮮な空気に、みな思わず胸いっぱいに息をすいこんだ。
ここがヴォミーサの背骨、ここまでが西斜面。岩くれだらけのわずかの道を登れば、もうすぐ東側が見えるだろう。いよいよ憧れのグランバニアの城が拝《おが》めるかもしれない。
「……行くか」
「行こう!」
「ガンドフ!」
ドラきちとガンドフがまず真っ先に飛びだした。意外にお茶目な根性を見せてごろごろと転がりあがるロッキーのあとを、章駄天《いだてん》のごとく駆け抜けたは、プックルと、ちゃっかりその尾をくわえこんで楽をするスラリン。メッキーが、コドランが、飛ぶものの意地を見せてぱたぱたと続く。樽《たる》を抱えたスミスの背中をえっちらおっちら押してやるのは無口なパペック、ジュエルは相変わらず何を考えているやら、えへらえへらと笑うばかり。
「いやはや。若いのぉ」
「のんびりいきましょ、ご同輩」
マーリンとピエールの熟年《じゅくねん》頭脳派チームが苦笑まじりにてくてくと歩き出すのを見て、リュカも立ち上がった。動かない、すぐ隣の恋人に、優しく声をかけて。
「さぁ、ビアンカ、あとひと息だ。がんばろう。登りは、もうじき終わるから」
「ん」
リュカのさしだす手につかまろうとして、ビアンカは、突如《とつじょ》がくりと膝を折った。
「どうした?」
「……ご、ごめん。ちょっと変……」
その声のしゃがれ加減に、リュカはまじまじとビアンカを見た。ビアンカの顔には血の気がなかった。かさかさに乾《かわ》いた唇が、釣り上げられた魚のように、小さなあえぎを洩《も》らしている。リュカは思わず両手を伸ばして、彼女の肩をつかんだ。熱っぽく潤《うる》んだ瞳がのろのろとあがる。
「ビアンカ?」
「……あ……あは。ご、ごめんね……なんでもない。高いとこって苦手なの。悔《くや》しいけど。あんまり高くて、ちょっとめまいがしただけ。だいじょ・お……」
カッと見開いた瞳に紗《しゃ》がかかった。次の瞬間、斧《おの》を入れられた樹のようにまっさかさまに倒れこむ彼女を、リュカは慌てて抱きとめた。
「ビアンカ、ビアンカ、しっかりしろ! おいっ」
「リュカー! 村だ! すぐそこに村がある! お城も見えるよお!」
最後の瞬間にプックルの頭を飛び越し、見事かけくらべに勝って嬉しいスラリンが、ぴょんぴょん跳ねながら叫んでいる。
「そうか、村が。……よかった」
リュカは汗ではりついたビアンカの髪を分け、その額に短くくちづけをすると、ぐったりと意識のない彼女を抱き上げ、大股《おおまた》に坂道を登りはじめた。
「とんだ災難《さいなん》だったなぁ、お嬢《じょう》さん」
ネッドの義弟《おとうと》ラハンガは一言ごとに、もしやもしゃと銅色《あかがねいろ》の口髭《くちひげ》をうごめかした。口髭も顎髭《あごひげ》ももみあげも髪も、手の指の毛もはだけたシャツからのぞく胸毛も、すべてみごとな赤毛である。あの内気なおかみさんの兄弟とはちょっと信じがたいような大男で、椅子に手足をちぢめ背中を丸めて腰をおろしたところは、なんだかよくなついた熊か何かのようだ。
「えれえべっぴんさんだから、山のカミさまに妬《ねた》まれなすったんだろう。けど、まぁ、熱もないみてぇだし、脈《みゃく》もしゃんとしてる。朝までぐっすり眠りゃあ、また歩けるようになるだろうさ」
「ありがとうございます」
ビアンカは、薄目《うすめ》をあけて青空色の瞳をのぞかせ、痛いような微笑みを見せた。
「ごめんね、リュカ。心配かけちゃって。あたし、少し眠るね」
「うん」
「ほんじゃ、あかりは、ここに置く。飲み水はそれだ。なんかほかのもんが欲しくなったら、そのベルを鳴らしなせえ」
ビアンカは弱々しくうなずいて素直にまつげを伏せた。リュカはふとんを叩《たた》いて立ち上がった。ラハンガに続いて部屋を出、そっと扉をしめる。
「すみません。いきなりお世話になって」
「おいおい。よしてくれよ」
リュカが頭を下げると、ラハンガは、手を横に振る。
「困ったときにゃお互いさまだ。兄貴《あにき》の手紙も届けてくれたし、クソ重たい樽《たる》も運んでもらったし。遠慮なく飲み食いしてってくんなよ」
山頂の村チゾットには、少しずつ建て増ししたらしい大きな丸太小屋がただ一軒《いっけん》あるのみだ。斜面が急なので、床《ゆか》はなかば宙に浮き、なかば地中にもぐったかっこうになっている。長い柱を立てた下は土間のまま、雨天《うてん》でも作業ができるようにしつらえてある。
羚羊《かもしか》の剥製《はくせい》の飾《かざ》られた食堂で、一行は山男の豪快《ごうかい》な料理に舌《した》つづみを打った。
「しかし、山越えのお客さんはとんと久しぶりだな。グランバニアに、いまごろいったい何しに行くんだい?」
「いまごろ?」
リュカが敏感《びんかん》に聞きとがめると、
「なにせ、前《さき》の国王|陛下《へいか》が失踪《しっそう》したっきりだ」
ラハンガがものうげに肩をすくめる。
「なんでも、さらわれた王妃《おうひ》さまを助けるためだそうだが。王さまが国を捨てるようじゃ、言っちゃ悪いが、あそこも長かねーんじゃねぇかな」
マーリンが、食事の手をとめ、リュカを見た。スラリンが目と口をいっぱいに開いて何か叫びかけたとたん、どさりと椅子からずり落ちた。卓《たく》の下で、ピエールが激しくつっついたのだった。のしかかられたロッキーが「め……いわく!」とうなったものだから、コドラン、ガンドフ、プックルほか、ラハンガまでも、脱兎《だっと》の勢いで壁にはりつく。
さらわれた王妃……?
リュカは顔から血の引くのを感じた。
王が、失踪したきりだって?
「……ふう、あの岩ころ、脅《おど》かしやがるぜ。なんだ、若いの、どうかしたのかい? そら、ぐっといけや」
ラハンガに酒をすすめられて、あわてて顔をつくろい、盃《さかずき》をさしだす。だが、頭の中には、きれぎれの思いが渦巻いていて、飲み物の味もわからない。
思いはみんな、父の顔をしている。パパスの顔をしている。ヘンリーの父、ラインハット王ベルギスと、妙《みょう》に親しげだった父。いつも何かを探して、世界じゅうを訪《たず》ね歩いていた父。たくましく陽《ひ》に焼けたその笑顔、そしてあの、いわくありげな傷。
そういえば……と、リュカは考えた。父は……パパスは、いったい、どんな仕事をしていたんだろう?
農夫ではなかった。商人でもなかった。本はよく読んでいたが、学者や僧侶《そうりょ》ではむろんない。戦うことは知っていたが、戦士でさえ……誰《だれ》かの傭兵《ようへい》でさえあったはずはない。だが、蓄《たくわ》えが尽《つ》きたことはない、食べるに困ったことはない。
そして。
サンタローズには忠実なサンチョがいた。父を旦那《だんな》さまと呼び、リュカをぼっちゃんと呼んだサンチョ。
小さなころはあたりまえで、疑問《ぎもん》に思ったこともなかったが……サンチョはまるで、殿《との》さまにつかえる小姓《こしょう》のように振る舞ってはいなかったか?
ふと。誰かが何かを言った。リュカが顔をあげると、ラハンガがにやにやしながら、スミスに何かを手渡しているところだった。
奇妙《きみょう》な剣だ。真鍮《しんちゅう》のような明るい金色の刀身《とうしん》がぐるぐると何重にも渦を巻いており、見定めようとすると、目がチカチカする。
「ほれ。持ってみな。そう、そこんとこだ」
スミスは腐った手で、おそるおそる剣をつかんだ。
「お、おもい。……す、す、スミス、け、剣なんて持ったの、は、は、はじめて」
「何か切ってみるかい?」
「う、う、うん。やってみる。や、やってみたい!」
ラハンガが天井から下がっていた干《ほ》しとうもろこしをひとつ千切《ちぎ》りとり、空いた椅子に載《の》せた。スミスは慎重《しんちょう》に狙《ねら》いを定め、腐った死体に可能なかぎり真剣な顔つきになって、干しとうもろこしをにらんだ。
部屋じゅうが息を飲むなか、スミスは剣を振りかぶり――薪《まき》割《わ》りじゃあるまいし、あんな向こうまで振りあげちゃあマトに当たるもんか、スラリンが茶化《ちゃか》してぶつぶつ言った――振り下ろした。
ごおぅん!
ばかでかい音がして、干しとうもろこしばかりか椅子までも、まっぷたつに、いや、それぞれ五つ六つにスパリと切れて飛び散った!
「ひゃぁっ、驚れえたな。おみごと! いやぁ、あんた、筋いいじゃねぇ」
「で、でへへへ、ど、どーも、どーも」
スミスはぺこぺこあたりじゅうに頭をさげる。
「そうか。となりゃあ、そりゃもう、あんたにやるしかないな」
ラハンガは口髭をひねった。
「そいつはまどろみの剣《けん》というんだが、なにせ鞘《さや》がないのだ。そんな形じゃあ鞘は作れねぇし、鞘なしじゃあ危なくってしょうがねぇから、実は刃《は》をつけてない。普通の剣のように、研《と》ぐことができないのだ。よほど気合いをこめにゃ、切れるもんじゃねぇ……よし。腐ったスミスさんよ。魚樽を運んでもらった礼だ、そいつを持ってっておくんな」
「……え……え、ほ、ほんと?」
「ああ。その渦巻きをうまいこと使えば、敵さんはグースカ眠りこけちまうらしいぜ」
茫然《ぼうぜん》と、ラハンガを見、手の中の剣を見つめるスミスに。
「ほらほら、スミちゃん、ありがとうは」
スラリンが忠告をする。
「あ、あ、あ、ありがと! あ、あんがとざいますっ! す、す、スミス、だ、だ、大事にするよ!」
「よかったな、スミス。ありがとう、ラハンガ」
リュカも丁寧《ていねい》に礼を言った。
胸にきざした疑問は消えていなかった。失踪したという王の名前を、ラハンガに尋《たず》ねてみたかった。だが、もしも、もしも、そうだったら。いや、そうでなかったら。
どきどきと脈打つ頚筋《くびすじ》をこわばらせながら、リュカは渇《かわ》いた喉《のど》にまた酒を流しこんだ。
山を降りればグランバニアだ。すべては、そこで判明《はんめい》するに違いない。
「なんで止めたのさっ」
夜更《よふ》け、あてがわれた一室でごそごそと毛布をひっかぶりながら、スラリンはピエールに文句《もんく》を言った。
「あれ、パパスとマーサのことじゃないの? なんで確かめなかったのさ!」
「しっ! 大声を出すな。だとすれば、リュカは世継《よつ》ぎの資格を持つ王子さまにほかならんことになる」
騎士《きし》の兜《かぶと》や甲冑《かっちゅう》をはずし、素裸《すはだか》にして乾布《かんぷ》摩擦《まさつ》をしながら、ピエールはささやく。
「だよね、やっぱり! うひゃあ、すげーなぁ、リュカってタダモンじゃないって、ずっと思ってたよー。でも、ピエール、それをどうして内緒《ないしょ》にしとこうとするのさ?」
「長らく留守《るす》をした王の息子《むすこ》の帰還《きかん》だぞ。国状によっては歓迎《かんげい》されるとは限るまい」
ピエールはますますひそめた声で言った。
「ラインハットの騒《さわ》ぎを覚えているだろう? グランバニアに入りこんで様子《ようす》をうかがうまでは、めったなことは言わないほうがいい。なまじ他人に知られてうわさにでもなるとややこしい」
「そんなもんかねぇ?」
傍《かたわ》らで、スミスは、人間用ベッドを三つ並べたものに寝ころがり、ぐるぐる渦巻きのまどろみの剣を抱きしめて、はやなにか幸福な夢を見てでもいるのか、くすくす、うひひ、と寝ごとを洩《もも》らしている。
――同じころ。
三つばかり隔《へだ》たった部屋では、リュカが裸になって眠りにつこうとしていた。掛《か》け布に手をかけ、灯《あかり》を吹き消そうとしたとき、じっと見上げているビアンカの目に出会った。
「ああ。起こしちゃった? ごめん」
リュカはそっと近づき、ビアンカの額《ひたい》に手をあてた。冷たい。
「具合は?」
「うん。だいじょうぶ。ぐっすり眠れたから、もう元気が出たわ。明日には、パパスさんの国が……リュカのふるさとが見られるんだもんね。愉《たの》しみ!」
優《やさ》しく微笑《ほほえ》む瞳が胸に痛いほどだった。リュカはビアンカの手に唇をつけ、おやすみ、と言って、ふとんの中にしまわせた。
確かなことはまだ何もわからないのだ。ただでさえ具合の悪いビアンカには、変に考えこんでしまうようなことは、言わないほうがいい……。
そう決めて、口をつぐんでしまったのだが。愛《いと》しい妻に隠しごとをする感触《かんしょく》は、滑《すべ》りこんだ寝台《しんだい》のシーツよりもなお、リュカの背中をひんやりさせた。
翌朝《よくちょう》には、ビアンカもいつものように身軽に起き上がって、てきぱきと身のまわりを片付けた。あれほど飲んでも宿酔《ふつかよ》いの気配も見えないラハンガにつき添《そ》われて、みなで尾根に登る。
崖っぷちの一角から、隣《となり》の山の頂《いただき》まで細い木の橋が渡してある。宙に伸びた細い道からの一望は、まさに絶景《ぜっけい》、造化《ぞうか》の妙《みょう》であった。ひとの歴史がはじまる前に大噴火《だいふんか》を起こしたといわれるヴォミーサの大火口原が、取り残された山脈を盆《ぼん》の縁《ふち》にして、どこまでもどこまでも平らかに続く。満々と水を湛《たた》えた湖水の際《きわ》に、緑|濃《こ》き森、高々と育った樹木《じゅもく》の枝《えだ》の隙間《すきま》から、赤い屋根の尖塔《せんとう》がかすかにのぞく。
「わ、わぁっ。あ、あ、あれが、ぐ、グラダニオン?」
「かーっ! グランバニアだっつーのに、いい加減覚えろ! 剣士スミスさんよっ」
「ねへねへねへ。ね、ねぇ、み、見える? こ、ここんとこ。す、す、スミス、かっこいい? 似合う?」
「すごくかっこいいわ。とっても強そうよ、スミス」
「ガンドフ」
はしゃぎながら渡った橋の終点に、やっとひとひとりくぐれるほどの洞門《どうもん》があいている。峠《とうげ》の東斜面《ひがししゃめん》もまた、あまりに風が強く、切り立っていて、山肌を通ってゆくことはできないらしい。
「あちこち足場がなくなってるらしいから気をつけろよ。ま、お城に行くんなら、どうせ二、三度は落ちる覚悟だな」
ラハンガはリュカや仲間たちと握手《あくしゅ》をし、意気揚々《いきようよう》と引きあげていった。
一行は峠の東を下りはじめた……。
「けったいな天気だ」
男の視線を追って、年老いた修道女は顔をあげ、空を見た。
空は発光する大理石。一面|濃密《のうみつ》な雲に埋《う》もれながらまばゆく不均等《ふきんとう》な輝《かがや》きに満ち、降るようでもあり、晴れているようでもあり。盛《さか》んに湯気をあげる大鍋《おおなべ》をのぞきこんでいるような気持ちがして、修道女は我知らず肩をすぼめ、膝に抱いたオレンジ縞《しま》の猫《ねこ》の毛並《けな》みに乾《かわ》いた指をはわせた。ぱちぱちっ! たちまち小さな放電がはじけた。猫はパッと尾を膨らませ、いかにも迷惑《めいわく》そうに修道女の顔を見上げたが、その習慣的な、我も彼も慰《なぐさ》めるような愛撫《あいぶ》に、すぐうっとりとまぶたを閉じる。
「……また、暑くなるのでしょうかしら」
彼女はつぶやいた。
丸太を組み合わせた小屋は、城の外壁《がいへき》と内壁のはざまにあった。緑したたる梢《こずえ》が天幕《てんまく》のように影をつくる中、ふたりは屋根つきのポーチに籐《とう》編《あ》みの椅子を並べて涼《すず》みに出ていたのだが、風はほとんどない。
大気は重く、どんよりとしている。雲の白と空の白とが溶け合って、遠い山々の輪郭《りんかく》を隠している。ただぐるりと輪を描いて連《つら》なった高さのほぼ同じ黒いシルエットが、天然の屏風《びょうぶ》のように、城を、この場所を、世界のほかのどこからもひどくはっきりと遠ざけている。
「こんな日にはよくスイカを食べた」
まつげを伏《ふ》せたまま、男は言った。
ざんぎり頭はほとんど完全な銀色で、襟足《えりあし》や耳のあたりからかすかに赤毛がのぞいている。よく陽《ひ》に灼《け》けた頬《ほお》ははちきれそうに丸く、力をこめると、きゅっと凹《くぼ》んだ。ぽちゃぽちゃした腕を肘掛《ひじか》けに載せて、しょんぼりと肩の力を抜いている。そうしていると、いまにもボーイ・ソプラノで歌い出しそうな、純真無垢《じゅんしんむく》な子供のような顔つきだったが、彼ににらまれたことのあるものは、鋼鉄《はがね》色に油断なくきらめく鋭《するど》い瞳を忘れることはできないだろう。
「スイカ、ですか」
「ええ、スイカです。……毎日ひとつずつ井戸で冷やして。ナイフをいれると自然にぱきっと割れるようなやつですよ。小さく切れば食べやすいんだが、ぼっちゃんはただの半割りがお好きでね」
彼はいかにも柔《やわ》らかそうな赤白まだらの口髭の下で、にっ、と唇の端を持ち上げた。
「ご自分の頭の何倍もあるスイカの中に、顔をまるごと埋めるようにして召し上がるんです。最初は匙《さじ》を使うんだが、そのうち汁《しる》がたまるでしょう、それをジュルジュル吸いこむのに便利だと、ついついお口をつけてしまう。いったん頬《ほ》っぺやお鼻がびしょびしょになったら、もうあとはおかまいなしです。むせてしまうんじゃないかって勢いで、両手で持って、直接むしゃぶりつく。しゃくしゃく、しゃくしゃく、それはそれはいい音をさせながらね」
足音をたてずに近づいてくる影に、修道女の猫が耳をたちあげ、きょとんとした。
修道女はまぶしそうに目を細めて、影を見た。影は優しげに挨拶《あいさつ》の仕種《しぐさ》をする。
修道女は手を伸ばし、椅子の肘掛けにかかったままの男の手に触れた。男はまだ影に気づいていない。顎《あご》を胸につけて、ますます目を瞑《つぶ》る。
「そうして、きれいに皮だけになると、ホーラ、もう食べちゃった! って、まぁ得意そうにお見せになるんだ。どこにも穴があいてないから、今日のぼくのごはんは、この器《うつわ》に盛《も》って、なんてね。犬じゃあるまいしって、あたしはいつも言ったんですよ。お行儀《ぎょうぎ》よくしないなら、もう食べさせませんよって……だって、ほんとうのご身分のことを考えると、ハラハラするじゃあないですか。お城におかえりになってから、恥《は》ずかしい思いをなさっちゃいけないと、心配になるじゃないですか。だけど、それは、言っちゃあいけなかった」
「そう、秘密《ひみつ》だったね。……どうして?」
椅子が軋《きし》んだ。ぴくん、と彼は顔をあげた。
[#挿絵(img/DQ5_2_304.jpg)入る]
輝《かがや》く空を背にして、ほど近いところに見知らぬ若者がたたずんでいる。いくら喋《しゃべ》るのに夢中だったとはいえ、そんなにまで間近に迫られるまで侵入に気づかなかった自分がはがゆくて、男は、顔をしかめながら逆光《ぎゃっこう》を透《す》かし見た。
紫色《むらさきいろ》のターバン、腰にたばさんだ二本の剣。たっぷりとした黒髪をそよ吹く風がなびかせる。いたずらっぽくきらめく、黒い瞳。
修道女が指に力をこめる。見れば、彼女は、もう涙ぐんでいる。膝の猫が、なぉぉん、と甘えるような声をたてる。
「どうせ、親父《おやじ》が口止めしたんだろう」
「……ぼ……」
「ただいま、は変かな? サンチョ」
「……ぼっちゃん!」
サンチョは椅子を倒して立ち上がった。涙で、もうよく前が見えなかった。夢みるような思いの内に、うっかり、遠い昔いつもそうしていたように、腹のあたりで抱きしめようとして、わずかにはぐらかされる。子供は大きくなっていた。サンチョ自身を頭ひとつも越えるほど。
「ああ、ぼっちゃん、ぼっちゃん! 生きてなさったんですか! 生きてなさったんですか! ……まぁ、信じられない、なんと、なんと……立派におなりになって!」
「サンチョは少し痩《や》せたね」
「年取ったんですよ、あたりまえですよ。もう、十何年にもなるんだから……して、あのう……だんなさまは?」
「親父は」
リュカは小さく首を振った。
「死んだよ。ラインハットで」
「ああ……やっぱり、そうだったんですか……」
サンチョは脇《わき》を向いて目頭《めがしら》を拭《ぬぐ》い、はじめて、リュカの背に隠れるような位置に立った娘に気がついた。やたらに大きな猫の頭にもたれかかるようにして、かすかに照れたように微笑《びしょう》している。美しい娘。
「……ひょっとして……あんた、ビアンカちゃんかい?」
「あら、わかっちゃった?」
「わかるよ、その笑い顔。少しも変わっていないもの。……んじゃあ、なにかい、それが、あのドラ猫かい?」
「そうよ。プックルよ」
「ふがぁお」
プックルは真っ赤なたてがみを振り立てて、少々イヤな顔をした。かつて、いたずらをして、サンチョにお尻《しり》を撲《ぶ》たれたことがあるのを思い出したのかもしれない。
「ひゃあ、驚《おどろ》いた、驚きましたよ……いやぁ、今日はなんて日だろう、……まあ、ビアンカちゃん、あんたは、昔からお人形さんのようだったけど、こりゃまた、とんでもない美人さんにおだんだすっで……うう、おっと、待《ま》ってください、ちょっと失礼」
虚《むな》しくポケットを探るサンチョに、リュカは自分の手布を差し出して、
「ぼくたち、結婚《けっこん》したんだ。ついこの間。グランバニアのこと教えておいてくれたら、もっと早く来たのに……サンチョにぐらい、出席してもらいたかったのに」
「結婚」
サンチョは丸い目をしばしばさせ、何かしみじみ考えこみ、ぐしゃぐしゃに顔を歪《ゆが》ませては、また大急ぎでひとしきりはなをかんだ。
修道女の猫は膝を滑りおりて、プックルとやらの匂《にお》いを嗅《か》ぎにゆく。そのあまりにも大きな前肢《まえあし》の爪《つめ》に鼻をつけ、横腹をこすりつけ、ひと抱《かか》えはたっぷりある顔の真下で、丸い目を見開く。大猫が頭を下げると、あごの白い毛が子猫の頭にさわりそうになった。あわてて二、三歩後退した子猫の顔いっぱいに、熱い鼻息がふりかかる。みゃー。子猫が小さな牙《きば》を見せてか細い声で抗議《こうぎ》すると、大猫が、があう、と腹に響くような声で答えた。子猫は大猫の鼻に猫パンチを浴《あ》びせた。大猫はサーベルのような牙を見せて笑い、天鵞絨《ビロード》のような舌で、子猫をそっと嘗《な》めた。そっとだったが、子猫はひっくりかえされて目をぱちくりさせた。
ビアンカが声をあげて笑った。
修道女も微笑んだ。
「いやすみません、ごめんなさい、つい、みっともないところを」
ようやく一段落したサンチョは、ぴしりと姿勢を正し、改めて恭《うやうや》しく地面にひざまずいた。
「ようこそ、ようこそお戻りなされませ。世継ぎのきみ、リュカ殿下《でんか》。またその妃《きさき》であられる、ビアンカさま」
「え? ちょ……ちょっと、サンチョさん? なに? どうしたの」
ビアンカは吃驚《びっくり》して、思わずリュカの腕を取った。サンチョと、はじかれたように椅子から立ち上がり裾をつまんで深々と会釈《えしゃく》をする修道女を順繰《じゅんぐ》りに見回す。リュカは瞬時《しゅんじ》に表情をかえて、だいじょうぶだよ、というように彼女の手にわずかに触《ふ》れた。
「すでに陛下《へいか》にはお目通りでしょうか」
「陛下? 誰のことだ。城内にはまだ入っていない。門がしまっていた」
「はい。現在グランバニアの国王は、あなたさまの御父《おんちち》、グランバニア第十三代国王パパスさまことデュムパポスさまの弟、オジロン閣下《かっか》にあらせられます。パパスさまが長らくお戻りにならぬので、王座をお預かりになっておられるのです」
「……国王? ……」
ビアンカはまつげを瞬《またた》いた。
「なんのこと……ちょっと、リュカ、あなた、知ってたの? ……この話」
「うすうす感づいてはいた」
「うすうす」
ビアンカは咎《とが》めるように眉《まゆ》を揚《あ》げ何か言いたげに口を開いたが、サンチョと修道女のじっと垂《た》れたままの頭を見て、そのまま飲みこむ。
「されば、何をおいてもまず、オジロンさまにおあいなさるがよろしゅうございます。さぞやお喜びになられましょう!」
「ああ。ときに、連れも呼んでいいだろうか」
「お連れさまがほかにも? ご家来《けらい》衆《しゅう》ですか」
「……いや……」
リュカは笑った。
「家来じゃない。大切な仲間たちなんだけどね、ちょっとばかり変わってるからなぁ」
先ぶれに走っていった修道女によって、城門は大きく開け放たれ、衛兵《えいへい》らはみな槍《やり》を並べて整列した。掲揚台《けいようだい》には紫と緑の紋章《もんしょう》の王家の旗《はた》が高々と翻《ひるがえ》り、教会の鐘《かね》は嬉しげに間も置かずに鳴り響き、物見《ものみ》の塔にはラッパ手が駆けのぼって、壮麗《そうれい》なファンファーレを奏《かな》であげた。
城塞《じょうさい》国家グランバニアの、いずれも同じ砂岩の切り石を積み上げて造った数多《あまた》の建物を、壁を、壁に囲まれた赤茶けた石畳《いしだたみ》の街路《がいろ》を、ざわめきは駆けぬけ、反響し、増幅して響きわたった。どんな細い路地にも、入り組んだ小道の暗がりにも、その届かぬところはなかった。
ひとびとは、いったい何がはじまったのかと我先《われさき》に表に出て、町から王宮に続く表通りを、誇《ほこ》らしげに胸を張った重鎮《じゅうちん》サンチョのあとに続いて歩いてゆく、少々|戸惑《とまど》ったような顔つきの若者に目を見張った。
「……あの瞳……あの黒髪……見たかい、おまえさん」
「ああ。ああ。夢のようだよ。まるで生きうつしじゃないかぁ!」
「俺、チラッとだけど目があったんだ、そうしたら俺に笑いかけてくださったぞ!」
「かあちゃん、あれ、だぁれ?」
「あれはね、あれは……」
若者の隣《となり》には、金髪《きんぱつ》の美しい娘がいた。
すぐ後ろには、真っ赤なたてがみと尾を持つ、巨大な猫科の動物がいた。
そして、そのさらに後ろには……。
「間違いない」
にこにこ手を振る腐った死体に、凍りついたような笑い顔をつくって見せながら、町の長老は、唸《うな》るようにつぶやいた。
「間違いないね」
みなの視線を集めて、いかにも得意気に、ひょっこりひょっこり弾《はず》んでゆくスライムを眺《なが》めやりながら、兵隊たちがうなずきあう。
「うわぁ。踊る宝石や爆弾岩《ばくだんいわ》までいる」
どこかの塔の上の部屋で、スライムが目を見張った。
「確かに、王子さまだ。あのときの赤ちゃんだ」
確かに。確かに。
確かにそうだ!
十年以上前を覚えているものたちは、みなこっくりとうなずかずにいられなかった。あの風変わりなお連れさまがたこそ、血筋のあかし。
間違いない。あのかたは、我らがマーサさまのお子だ……!
石畳の街路を、ひと色に統一された町並みを、リュカはいくぶん緊張《きんちょう》ぎみに見回した。覚えがあるかと問われれば、見たこともない場所だといわざるを得ない。道をはさんで建物と建物が宙でつながっているさまや、黒鉄《くろがね》の茎《くき》にガラスの花の咲《さ》いたような街灯《まちあかり》の形、薄暗い敷石《しきいし》の回廊《かいろう》に囲まれたきちんと刈《か》りこまれた明るい芝庭《しばにわ》など、世界のほかのどこでも見たことのない類《たぐい》の風景が続く。どんな狭苦しい街路にもゴミやがらくたが見苦しく積み重ねられたりしていないし、道端で座りこんでいるものも、病気のために横たわって死ぬのを待っているものも見当たらない。
世界じゅうのこのぐらいの規模《きぼ》の町となれば……城を頂《いただ》く町であれ、港町や歓楽街《かんらくがい》であれ……どこかにはなんとなし、近づきがたいような、目をそむけたくなるような、ないものにしておきたいような光景が見あたるものだ。成功から見離された人々があてもなく酒をあおっていたり、盗まれたものとボロばかりを集めたうさん臭《くさ》げな露店《ろてん》を張っていたり、親のない子供たちが飢《う》えた犬のような目で道ゆくひとを眺《なが》めやったりしているものだ。
だが、ここでは町じゅうが、まるで僧院《そういん》の中庭のように、まるごと几帳面《きちょうめん》に整えられている。塵《ちり》や埃《ほこり》くらいは舞っていないでもないが、紙屑《かみくず》も食べ物|滓《かす》も落ちていない。男たちはきりりと力のこもったまなざしをし、女たちは老若《ろうにゃく》を問わず華《はな》やかに装《よそお》って美しい。
そんなあれやこれやを、リュカは感嘆《かんたん》の瞳で観察した。思わず、町それ自体に、敬愛《けいあい》の念《ねん》を抱《いだ》かせられる。ここをこのようにあらしめているひとびとに感心させられる。と、同時に……誇らしさが、胸を高鳴らせた。
これがグランバニア。この美しく、古めかしい町が!
錯覚《さっかく》なのかもしれないが、この雰囲気《ふんいき》に、この生《き》まじめでありながら窮屈《きゅうくつ》ではない空気に、おぼろげな郷愁《きょうしゅう》を覚えずにいられない。郷愁――そう、ここは、建物や樹木《じゅもく》の具合はまったく違うのだが、あの故郷《こきょう》の村サンタローズの持っていた気配と、どこかしら共通する匂《にお》いを有している。
それは、父の匂いだったのではないか。生まれ育った町に染《そ》まった、父自身の匂いだったのではないか。
亡き父が、この道を、いつかきっと歩いたに違いないだろうことを考えると、リュカは眩惑《げんわく》のような感覚にとらえられた。
道はいよいよ石門をくぐり、宮殿《きゅうでん》への階段にさしかかった。ビアンカがリュカの腕にかけた手に、ギュッと力をこめる。リュカは振り返り、不安そうに青い瞳を曇《くも》らせた彼女の逆卵型の小さな白い顔を見て、不憫《ふびん》に思った。石の階段は暗く、サンチョは振り向く気配もなかった。リュカはサッと首をかがめて、短くキスをし、
「心配しないで」
小さく優しくささやいた。
階段は町家の上空をめぐり、やがて空の下に続いた。リュカは、この壮大《そうだい》な建造物を抱きしめるように鬱蒼《うっそう》と広がる森と、その森の彼方《かなた》に青く輝く湖《みずうみ》を見た。外壁に寄って見下ろせば、サンチョの暮らす丸太小屋の屋根も見えた。
いかめしい鋼鉄《こうてつ》張《ば》りの門扉《もんぴ》の前には、鏡のように磨《みが》かれた甲冑《かっちゅう》の儀仗兵《ぎじょうへい》がふたり、緑と紫の紋章の旗徽《はたじるし》を下げた重たげな槍《やり》を交差させている。サンチョは足をとめ、うんざりしたような笑顔を肩ごしにリュカたちに向けると、吐息《といき》まじりに言った。
「先王パパスさまが配下、セヴァンテスのサンチョ。重大なご報告ゆえ、オジロン陛下にお目通り願いたい」
見ればわかりそうなことをわざわざ告げるのが、宮廷式《きゅうていしき》の礼儀《れいぎ》らしい。
「セヴァンテスのサンチョ、ご苦労」
「陛下よりお預かりした権限により、開門します」
「開門!」
「開門!」
高鳴るファンファーレの中、勇壮《ゆうそう》にして華麗《かれい》な――そのあまり、いらいらするほどのろ臭《くさ》い――様式にしたがって槍があがり、かんぬきがはずされた。ぎぎい、と重たげな音をたてて、内側に門が開かれる。真っ赤な絨緞《じゅうたん》が目を射《い》る。ふたたびファンファーレ。正面には、同じぴかぴかの甲冑の兵隊《へいたい》が二十人あまりも隊列を組んで畏《かしこ》まっている。
ビアンカは唇をおののかせて、リュカの腕にしがみついた。だいじょうぶだって。リュカは目で言う。……そういえば、ビアンカはラインハットのお城にも行ったことがないんだ。あそこは、もっとでっかくて、もっと絢爛豪華《けんらんごうか》だったぞ。
赤絨緞を踏んで進み出ると、儀仗兵たちがザッと陣形《じんけい》を変えた。左右にわかれて、道を拓《ひら》く。すると、広間の中央を走った絨緞の先に、十段ばかり高まった壇《だん》があり、あの王家の紋章の垂《た》れ幕《まく》を背にして壮年《そうねん》の男が立ち上がっているのが見えた。黒い髪、黒い髭、あさ黒い肌。リュカは息を飲みこんだ。がっしりと背の高い体格は、ハッとするほど若き日の父に似ていた。
「……おお。リュカか!」
王の威厳《いげん》もあらばこそ、男はマントを翻《ひるがえ》し、早足に階《きざはし》を駆《か》け降りてきた。サンチョが恭《うやうや》しく膝をついた前を素通りしてさっそくにリュカの手を握りしめる。
「シスターから聞いた。余がオジロンだ、覚えておるか? いや、そなたは赤子《あかご》であったから、記憶にはないだろうが……おお、なるほど……ほんに、あの美しいマーサどのに瓜《うり》ふたつ! じゃが、この見るからに頑丈《がんじょう》そうな骨柄は、まさに兄パパスにそっくりだな!」
「歓迎《かんげい》、痛みいります」
王のあまりの親しげな様子に戸惑いながら、リュカはことばを探《さが》した。
「すみません、覚えていないのですが。ぼくは、前にもお目にかかったことがあるんですか。この城にいたことがあるのですか?」
「あたりまえだ! そなたはここで生まれたんだぞ。その上の部屋だ、今もあのときのままになっている」
オジロンは泣き笑いのような顔をして、玉座《ぎょくざ》の脇《わき》の上《のぼ》り階段をしめした。
「あのとき?」
「マーサどのがさらわれたときだ。そなたの生まれた夜。兄上がその日来、かの部屋を閉ざした。そして……」
オジロンは潤《うる》みかけた瞳を頭を振ってごまかし、その動きで、頂いた冠《かんむり》が揺《ゆ》れるのに気がついた。これはしたり、と慌《あわ》てて王冠《おうかん》を胸に抱《かか》えると、止める間もなくリュカの足許《あしもと》にひざまずく。
「あまりの急な喜びに心惑《しんわく》動転《どうてん》、うっかり完《まっとう》なる臣下《しんか》の礼《れい》を取りそこねたことをば、お許《ゆる》しくだされませ! 殿下《でんか》のご無事なご帰還《きかん》を、オジロン、この十数年、ずっと、城下の誰にもまして、衷心《ちゅうしん》より祈りおりました。生きてこの慶賀《けいが》の日に巡《めぐ》りあえたからには、即刻《そっこく》、貧臣《ひんしん》の身にあまる玉の座より退《しりぞ》き、兄デュムパポス、姉マーサの正当なる血を継《つ》がれし、王子殿下、いや、リュケイロム・エル・ケル・グランバニア国王陛下の、竜政《りゅうせい》天地《てんち》に轟《とどろ》きわたり、明君《めいくん》闇《やみ》をも払《はら》うに違いなきをお扶《たす》けするべく、粉骨砕身《ふんこつさいしん》お仕《つか》え申し上げる覚悟《かくご》」
「……?」
リュカは目を白黒させ、ビアンカの耳にささやいた。
「なんて言ってるの?」
ビアンカはあっけにとられたように口を開き、それから小さく笑った。こちこちに緊張していた顔が、ようやくほころんだのだった。
「バカね。王位を譲《ゆず》りたいっておっしゃってるんじゃないの。リュカったら、あいかわらずちょっと難しいコトバだと真面目《まじめ》に聞きもしな……あ……」
ことばの途中で、ビアンカはふいに口ごもり、一瞬《いっしゅん》、痛いほどの力でリュカの肩に爪《つめ》を立てた。
「……どうした……ビアンカ!?」
オジロンが、サンチョが、兵隊たちが、魔物たちが、みないっせいにビアンカを見た。
ビアンカの強気《つよき》な微笑《びしょう》を、当惑《とうわく》と恥《は》じらいと恐怖《きょうふ》の影が流れ過ぎた。野苺色《のいちごいろ》の唇が何かを訴《うった》えるように開かれ、くねる腕が抱きしめようとするリュカの胸を弱々しく突《つ》きのけた。が、やがて抵抗は止《や》み、は、とひと息だけ苦しげな音を洩《も》らしたかと思うと、彼女は目をつむり、静かに頽《くずお》れた。
「ビアンカぁっ!」
「あんなからだでチゾットの悪路《あくろ》を越《こ》えてこられるなんて」
その日まで、長らく開《あ》かずの間だった部屋から、しずしずと降りてくると、シスターは言った。
「そんなに、悪いのですか」
心衰《しんすい》のあまりどす黒い顔色になったリュカがのろのろと顔をあげると、シスターはとがめるような表情を緩《ゆる》め、にっこり微笑んだ。
「ご懐妊《かいにん》です。お后《きさき》さまもお腹《なか》のお子さまも、別状《べつじょう》ありません」
やがてグランバニアの城に、いや、大ヴォミーサの内輪《ないりん》平地《へいち》いっぱいに、本日三度めのファンファーレがいっそう力強く鳴り響いた。
奇妙な雲の隙間《すきま》にのぞいたごく淡い昼間の月が、静かにそれを見下ろしていた。
月は三日月型の唇を開き、ニッと笑った……。
[#地付き]――つづく――
〈この小説は一九九三年八月に発行された『小説ドラゴンクエストX 2』を文庫化したものです〉
[#改ページ]
底本:「小説 ドラゴンクエストX 2」エニックス文庫、エニックス
1994(平成6)年10月19日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年月日作成