小説 ドラゴンクエストX
天空の花嫁3
著者 久美沙織/挿絵 いのまたむつみ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)伝説の勇者《ゆうしゃ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ティムアル王子|殿下《でんか》
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(例)H[#ハート(白)、1-6-29]
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目次
登場キャラクター紹介
1 王の血
2 天空の血
3 石の遍歴
4 継ぐものたち
5 水の中の城へ
6 竜の復活
7 セントベレス山の戦い
8 影を征《う》つ
あとがき
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登場キャラクター紹介
マーサ(主人公の母)
主人公の母。魔物たちと心を通わせることができる無垢な魂の持ち主。エルヘブンの最も権威ある大巫女であったが、パパスと結婚。リュカ誕生ののち、魔界へつれ去られる。
ティミー(主人公の息子)
本名ティムアル・エル・ケル・グランバニア。リュカとビアンカの間に生れた息子。ただひとり天空の武器・防具を使える者。
ポピー(主人公の娘)
本名ポピレア・エル・シ・グランバニア。リュカとビアンカの間に生れた娘。ティミーとは双子にあたる。
ビアンカ(主人公の花嫁・青年時代)
天空の血をひく乙女。山奥の村で暮らしていたが、リュカとともに旅をし、サラボナにて結婚。グランバニア王妃となる。
リュカ(主人公・青年時代)
本名リュケイロム・エル・ケル・グランバニア。グランバニアの前王、パパスことデュムパポスのひとり息子。幼なじみビアンカと結婚。即位してグランバニアの王となる。
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金鎖《きんさ》に吊《つ》られた香盒《こうごう》が振《ふ》り子《こ》のように左右に揺《ゆ》れて、赤い甘《あま》い煙《けひり》があたりに満ちる。
「なすべきことは心得おろうな、娘《むすめ》たちよ」
「存《ぞん》じております、教母マァサ」
青ざめた五つの影《かげ》が、道着の胸《むね》に両手を交差させ、頭《こうべ》を垂《た》れた。
「わたくしどもは、あなたの夫であった男の城《しろ》に行き、奉公人《ほうこうにん》となって、あなたさまの尊《とうと》い血をひく御孫子《おんまごこ》の誕生《たんじょう》を待ちます。御孫子いよいよ誕生の暁《あかつき》には、すみやかに行動し、陰謀《いんぼう》の宮廷《きゅうてい》より御孫子を奪取《だっしゅ》し、我《われ》らが偉大《いだい》なる教祖さまの御守《おまも》りになる山の砦《とりで》神殿《しんでん》にお連れいたし、我らと共に光の国を歩まれるようお尽《つ》くし申し上げます」
「……よし」
教母と呼《よ》ばれたものの爪《つめ》の長い指があがり、畏《かしこ》まったひとりの額《ひたい》に触《ふ》れた。すると、そこに、真《ま》っ赤《か》な薔薇《ばら》の徽《しるし》が浮《う》き上がった。徽はしばらく、燠《おき》のように輝《かがや》いていたが、やがて肌《はだ》に吸《す》いこまれるようにして消えた。
青ざめた唇《くちびる》が鮮《あざ》やかに赤く色づいて、ニッ、と笑《わら》った……。
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1 王の血
グランバニア城《じょう》の周囲《しゅうい》には、その日|風花《かざはな》が舞《ま》っていた。ヴォミーサの山々に積もった雪が、春を呼《よ》ぶ強い風に乗って運ばれ、ちらほらと宙《ちゅう》を飛んでいた。
ビアンカは重たい腹《はら》を揺《ゆ》すりあげ、片手で手すりにつかまりながら、ゆっくりと一歩一歩、屋上への階段《かいだん》をあがっていった。
お腹《なか》の子にも、お産を楽にするためにも、できる限りからだを動かしたほうがよい、とラズーは言う。ラズーはかつてリュカをとりあげた乳母《うば》、頑丈《がんじょう》さも体格でも雌牛《めうし》並《な》みの老女《ろうじょ》だ。シスター・カリーナとふたり、初産《ういざん》に戸惑《とまど》うビアンカをなにくれと励《はげ》まし、世話《せわ》を焼いてくれている。
もっとも、ビアンカは何事も他人任せにしたくないほうだ。腹がつかえてどうにもならなくなるまでは、下着の洗濯《せんたく》だの薪《まき》運びだの、こまごまとした用事を探《さが》してせっせと働いた。山国の王宮では現王オジロンの妻テレーズもまた、夫の服を繕《つくろ》い、倉庫の食糧《しょくりょう》の整理に心を砕《くだ》いている。
王妃《おうひ》さまっていったって、つまりは、すごく大きな旅館《りょかん》のおかみさんみたいなもんよね。
そう考えると小気味《こきみ》よかったし、そう考えなければ気がひけてしまいそうだった。なにしろ、リュカは、前王の遺児《いじ》、みんなの期待の王子さまなのだ。
「……まったくあきれちゃうわね! あいつったら、なんでそんな肝心《かんじん》なこと、このあたしにまで秘密《ひみつ》にしてたのかしら……まぁ、あたしだって、ひょっとしたらって思いながら、おめでたのこと、ずっと黙《だま》っていたんだから、おアイコかなぁ……ふう、ヨイショっと」
長い時間をかけてようやく昇《のぼ》り終わった。屋上への扉《とびら》を押し開けようとしていると、見張り役の衛士《えじ》テニアンが駆《か》けつけてきて、無骨《ぶこつ》ながら、とたくましい腕《うで》を差し出してくれた。
「今日《きょう》はたいそう風が冷とうございますよ、ビアンカさま」
「そんな冷たい風の中、おつとめご苦労《くろう》さま、テニアン」
ビアンカは見張り台の端《はし》に腰《こし》をおろして、やれやれとため息をついた。
「ああ。しんど。なんて大きな赤《あか》ん坊《ぼう》なんだろう。もう、汗《あせ》びっしょりだわ」
「リュカさまも大きな赤子でいらっしゃいました。きっと、丈夫《じょうぶ》なお子になられましょう」
「丈夫はいいけど、お腹が破裂《はれつ》してしまいそうよ。はぁ、暑《あつ》い」
テニアンはビアンカがうるさそうにはずすショールが雪まじりの風にとばされぬよう、さっと手を伸《の》ばし、ふと、遠い山のほうに視線《しせん》をさまよわせた。
「……そういえば……あれもちょうど、こんな風の吹く日でございました」
「なんのこと? リュカの誕生日《たんじょうび》……じゃないわね。彼は夏だもんね」
「はい。かつて私は、ここで毎日、パパスさまの帰りをお待ち申し上げておりました。そして、あの日、ついに、城に向かわれるサンチョどのを見つけたのです。あのときほど嬉《うれ》しかったことはありません。けれど……けれど、いくら目を凝《こ》らしてもパパスさまの背《せ》の高いお姿《すがた》がどこにもなかった。あのときほど、悲しかったことはありません」
「テニアン……」
ビアンカは老兵士の、紙のように乾《かわ》いた手に手を重ねた。
「パパスおじさまが王さまだったなんて、あたし、全然知らなかったの。でも今になると、思うの。おじさまほど、王さまらしいひとはいなかったな、って……もしかしたら、あんまり立派《りっぱ》な王さますぎたんだわ。この静かな山国ひとつじゃなくて――もちろん、グランバニアがどうなってもいいってことなんかじゃないんだけどね、グランバニアも含《ふく》めて――世界のぜんたいのために、おじさまは、きっと、旅に出ずにはいられなかったのよ。より大勢《おおぜい》のひとのために、役立とうとなさった。それはグランバニアのひとたち、誇《ほこ》りに思っていいことでしょう?」
「ええ、確かに」
テニアンはまぶたに垂《た》れさがるもしゃもしゃの眉《まゆ》をかすかに揚《あ》げた。
「そうかもしれません。必要とされる時とところに進んで身を投じ、義のためには生命《いのち》をも捨てる……それがひとの上に立つかたがた、真に王族の血と魂《たましい》を持つかたがたに与《あた》えられたさだめなのでしょう」
「王の血……」
それはつまり、リュカにも流れているってことよね。
ビアンカはかすかに眉をひそめた。
「それって、立派だけど、けっこう厄介《やっかい》かもね。本人に選べるものではないのだし……おお、寒《さむ》。暑くなったかと思えば、すぐ冷えるわ……やんなっちゃう! あ、ありがと」
震《ふる》えるビアンカの肩《かた》に、テニアンは急いでショールをかけてくれた。
微笑《ほほえ》みかけた頬《ほお》がこわばった。ビアンカは引き攣《つ》り、低くうめきながら、両手で腹をおさえ、前かがみになる。
「あっ、ビアンカさま? どうなさいました」
「……来た……」
「は?」
「は、はは、始まったみたい」
かすかにあげたビアンカの額《ひたい》に、玉の汗が浮《う》いている。
「……ら、ラズーを呼んできて……ここで……ここで待ってるから……く、くくうっ……うわーなんなのこれ、冗談《じょうだん》じゃないわ……あたたた……たた……」
――そのころ。玉座《ぎょくざ》の間《ま》に隣《とな》り合う王族の食堂では、男たちが軽食を取りながら、この数ヵ月何度も繰《く》り返された話題をまたしても蒸《む》し返していた。
「……余《よ》は王の器《うつわ》ではない」
オジロンは黒々と表情豊かな瞳《ひとみ》にひたむきな思いをこめて、リュカを見つめた。
「自分で言うのも妙《みょう》だがな、余はただ人のいいだけが取《と》り柄《え》の凡庸《ぼんよう》な男だ。王座《おうざ》の空位が余《あま》りに長く続くので、数年前に即位《そくい》はしたが、兄上が戻《もど》ってきてくれさえしたならば、すぐにも退《しりぞ》くつもりでいた。その日を心待ちにしていたのだ。秀《ひい》でし兄上の血を引くそなたがこうしてここにいる以上、こんな重荷はさっさと下ろして、好きな庭いじりでも楽しみたいのじゃ……」
「旦那《だんな》さまは、ほんとうは坊《ぼ》っちゃんをお城に残してゆかれるはずだったのですよ」
サンチョもりんごの頬を紅潮《こうちょう》させてリュカに詰《つ》め寄《よ》る。
「なにせ坊っちゃんは、まだやっと歩きはじめたところだったんですから。けれど、坊っちゃんは……いえ、リュカさまは、お父上が旅支度《たびじたく》を終えられて別れの抱擁《ほうよう》をなさりにいらしたとき、突然《とつぜん》火のついたように泣《な》き出して、きっぱりしがみついたまま、どうにも離《はな》れなかったのです」
「そうだ」
オジロンは膝《ひざ》を打った。
「思い出したぞ、サンチョ公。もとはといえばそなたが悪い! 旅立つ兄上を止めるどころか、こんなに泣かれるのでは一緒《いっしょ》に連れてゆくほかはない、赤ん坊の面倒《めんどう》ぐらい自分がみるからよろしく頼むと、進んで申し立てたんじゃないか」
「……そうです……そうでした、けれど!」
サンチョは太ったからだを揉《も》みしだくようにして、ますます真っ赤になった。
「お許《ゆる》しくださいませ。あたしは坊っちゃんが可愛《かわい》くて可愛くてならなかったのです。お産婆《さんば》さんの手から、こーんなちいちゃな坊っちゃんを預《あず》かって、抱《だ》っこさせていただいたその瞬間《しゅんかん》から、もう坊っちゃんなしでは生きていけぬと思ったものです。カタコトを話され、あんよをなさり、日に日にますますやんちゃにお利口におなりになる坊っちゃんを、なんで手放すことができましょう。……ああ、そうです。みんなサンチョのわがままです! あのときサンチョが諦《あきら》めていれば、坊っちゃんはずっとお城でお育ちになり、今ごろは立派にグランバニア国王の座《ざ》をお継《つ》ぎだったのです! まったくお詫《わ》びのしようもない。こうなったら、せめて皺腹《しわばら》かき切って……」
「皺というより段腹《だんばら》じゃろが」
サンチョのめくりあげたシャツを横目で見てオジロンはぶつぶつつぶやいた。
「しまえ、しまえ! おまえのどてっ腹《ぱら》のデベソなど見せられても嬉《うれ》しくないわ」
「苦労をかけたね、サンチョ」
リュカは小さく吐息《といき》をついて、茶器《ちゃき》を置いた。
「でも連れていってくれてよかった。もし、お城に残っていたら、ぼくは母の顔ばかりじゃなく、父の顔さえも知らない子供《こども》になったんだ。そう考えると、ゾッとする」
「でございましょう!」
「喜ぶな、ばかもの」
オジロンはサンチョの皿《さら》のサンドイッチを奪《うば》い取り、ことさら乱暴《らんぼう》に頬張《ほおば》ってみせた。
「そもそも兄上ばかりか世継《よつ》ぎの王子まで連れ出すというのを、嫌々《いやいや》ながらも認《みと》めたのは、すぐ戻ってくるだろうと踏《ふ》んだからだ。男ふたりで乳飲《ちの》み児《ご》抱《かか》えて、どうせ遠くまではいけまいと。まさか不在《ふざい》がそのまま十数年にも及《およ》ぶとは……サンチョめ、やっぱりおまえが悪いのじゃ! 男だてらに家事育児に堪能《たんのう》で? リュカ自身にまで王子であることを隠《かく》し、帝王教育を怠《おこた》ったとは。……重大なる背任《はいにん》じゃ!」
「これは心外。この先どんなことがあるかもしれぬゆえ、王子であることはけして明かしてはならぬと戒《いまし》められたのはほかでもない旦那さまです。あたしはガキのじぶんから、旦那さまの一の家来《けらい》。親に背《そむ》いても、国王さまに背いても、パパスさまに従《したが》うのがあたしの道」
「どんなことがあるかもしれぬだと? ふん! ……兄上は、もとから我《わ》が国のことなどどうでもよかったのだ。マーサどののほうが大事だったのだ」
オジロンはリュカの目を見た。
「確かに、マーサどのは美しかった。獣《けもの》も鳥も、その優《やさ》しさに、みなたちまち馴《な》れてあとを慕《した》い歩くほど。……あの兄上に真剣《しんけん》な顔つきで、この女を守らなければならない、それが俺《おれ》の使命なのだと言われて、この小心《しょうしん》のオジロンが異《い》を唱《とな》えられるわけもない。……だがのう、リュカよ。……余はもう年だ。疲れたのだ。ただ、この国を、このグランバニアを、少しでも過ごしよく、温《あたた》かく、こころ楽しいところにしておきたいと、せつに願うばかりだ。どうじゃ。これほど言っても、まだ譲位《じょうい》に応《おう》じる気になれんか」
「何がいけないんです、坊っちゃん、いや、リュケイロム殿下《でんか》」
サンチョは無言のまま茶器に手をかけたリュカのその手を握《にぎ》りしめ、大きな目にいっぱい涙《なみだ》をためて訴《うった》えた。
「どうか、お父上の跡《あと》を継《つ》いで、王さまになってください。それはあたしの望みでもあります。どうしてそんなにお嫌《いや》なんです」
「ぼくは……ただ……」
リュカは口ごもった。
そこへ。
「大変でございます! 大変でございます!」
玉座《ぎょくざ》脇《わき》の階段を、女官《にょかん》のひとりが転び落ちそうな勢いで駆《か》け降《お》りてくる。
「どうした?」
サンチョが席《せき》を蹴《け》り、オジロンが口髭《くちひげ》をゆがめる。
「び、ビアンカさまが……」
リュカが青ざめ立ち上がるのに、女官ははぁはぁと息を整え、にっこり笑《わら》った。
「いよいよ御出産《ごしゅっさん》にあらせられます!」
城塞《じょうさい》の外壁《がいへき》の柱の一本をなす砂岩《さがん》の塔《とう》の一角《いっかく》では、別の茶話会《さわかい》が行われていた。かつてマーサに連れられてグランバニアにやって来たスライムのスラッピーと仲良《なかよ》しの町の子供《こども》ピピンが、ガンドフ、ピエール、プックル、スラリン、マーリンにスミスの魔物《まもの》六|匹《ぴき》を招《まね》き、もてなしていたのである。
「さて質問《しつもん》です。半透明《はんとうめい》でぷるんぷるんしてて、ちょぴっと先がとんがってるもの、な〜んだ?」
「わい、簡単《かんたん》だい」
スラリンが得意そうに角《つの》を立てた。
「当然、おいらやスラッピーくん、つまり、スライムでしょ?」
「残念《ざんねん》でした。答えはスライム型ゼリーです、さぁどうぞ」
ピピンが掛《か》け布《ぬの》をまくりあげると、ずらりと並《なら》んだ色とりどりのゼリーがふるふるっと揺《ゆ》れた。
「うちのおっかあの手作りなんだ。スラッピーをお手本にして、鍛冶屋《かじや》の親方に、わざわざ型を作ってもらったんです。面白《おもしろ》いでしょ」
「か、か、可愛い!!」
「ガンドフ! おいし。おいし!」
「うへぇ、きれいだけど……なんだか共食《ともぐ》いみたいだなぁ」
いちご味にスモモ味。ミルク味にワイン味。甘酸《あまず》っぱいゼリーを片っぱしから味見しながら、みなで、これまで食べたことのあるどんなお菓子《かし》が美味《おい》しかったか、どんな地方のどんな料理が珍《めずら》しかったかを思い出しあい、喋《しゃべ》りあい、話がはずんでいるうちに、
「なんだ?」
ピエールは思わず四つの瞳を瞬《またた》いた。
教会の鐘《かね》が鳴りはじめた。正午でもないのに、いつまでも高らかに響《ひび》いて鳴りやまない。
「ねぇ、これってひょっとすると!」
スラリンはもう嬉《うれ》しくなって弾《はず》んでしまう。
「がるるるる!」
プックルは耳をぴんとさせて、雄叫《おたけ》びをあげた。
王宮の石の露台《ろだい》に赤い制服の楽兵が姿《すがた》を現したかと思うと、サッと一列に横並びになり、襟元《えりもと》を直し、帽子《ぼうし》をまっすぐにし、金ピカのラッパから高貴な緑青のグランバニア王旗《おうき》がきちんとなびくように塩梅《あんばい》をして。一瞬《いっしゅん》姿勢《しせい》を正《ただ》し。端《はし》っこのひとりの目配せで、高らかなファンファーレを合奏《がっそう》する。
「……生まれた!?」
裏庭《うらにわ》で洗濯板に汚《よご》れたシャツをごしごし擦《こす》りつけていたオバサンが顔をあげ、
「お生まれになったか!」
蹄鉄《ていてつ》打《う》ちは、折り曲げた馬の前肢《まえあし》を腿《もも》にはさんだまま、すっとんきょうな声をあげ、
「まぁ、素敵《すてき》」
山羊《やぎ》の乳《ちち》を搾《しぼ》っていた若妻《わかづま》が干《ほ》し草《くさ》を積み上げていた夫と微笑みを交わし、
「もったいない、もったいない」
もったいない婆《ばあ》さんは、もごもごと口遊《くちずさ》みながら頭を振《ふ》った。
「どっちだ?」
武器屋の親父《おやじ》と防具屋の親父が顔を見合わせる。実は武器屋は男の子に、防具屋は女の子に賭《か》けていたのだった。ふたりとも急いでカウンターを乗り越《こ》えて走り出した。
店から、家から、路地裏《ろじうら》から、ひとびとは王宮前広場に殺到《さっとう》した。子供たちは遊びを放り出し、おとなたちは仕事を中断《ちゅうだん》し、年寄《としよ》りは散歩のコースを変更《へんこう》して駆けつけた。ざわめくひとの渦《うず》で、広場はたちまちいっぱいになった。犬たちがみなはしゃぎ回るので、鳩《はと》が飛び、雀《すずめ》が歌い、軒《のき》で居眠《いねむ》りをしていた猫《ねこ》やらゴミ箱を漁《あさ》っていた猫やらは、びっくり仰天《ぎょうてん》して逃《に》げ回る。
やがてサンチョの太っちょのからだが、ラッパ兵たちをかきわけて前に出た。わぁっと歓声《かんせい》。口笛《くちぶえ》。鍋《なべ》は叩《たた》かれ、犬が吠《ほ》え、猫は梢《こずえ》で心細げににゃあと鳴く。だが、サンチョが手をあげると、すべての騒《さわ》ぎがぴたりと止まった。
「発表する」
みな息を飲んだ。
「敬愛《けいあい》するオジロン閣下《かっか》が王位を返還《へんかん》され、我らは新しい王を頂《いただ》くことになった。新しい国王は、みなのよく知っているとおり。勇敢《ゆうかん》なる前王デュムパポスさまのひとり息子《むすこ》、サンタローズのリュカこと、リュケイロム・エル・ケル・グランバニア陛下! 即位の儀式《ぎしき》は、今夜だ!」
どよめきが走った。驚《おどろ》きと、多少、はぐらかされたような、思惑《おもわく》をはずされた不平のこもったような響きであった。が、そのざわつきが消えぬ間に、サンチョは続けた。
「そしてまた。たった今、リュカさまの奥方《おくがた》ビアンカさまが、双子《ふたご》の赤ちゃんを産んでくださった! 男の子と女の子、王子さまと王女さまだ!」
うぉおおおお!
広場いっぱいが叫《さけ》んだ。熱気が膨《ふく》れ上がり、爆発《ばくはつ》した。ひとびとの声は厚《あつ》い音の壁《かべ》となって、さしも頑丈《がんじょう》なグランバニアの城壁をも、びりびりと揺るがした。おめでとう。おめでとう! グランバニアに栄光!
「勝った!」
とニヤリとする武器屋。
「俺《おれ》も勝ったぞ!」
と胸をつきだす防具屋。
「これこれ。こんなめでたいときだってぇのに、おまえさんたちは何を言い争っているんだい。両方とも勝たせてくださるなんて、いやぁ、憎《にく》いほどのお心遣《こころづか》いじゃないか」
「そうだ。ご隠居《いんきょ》の言うとおりだ。ったく、さすが王さまだぜ!」
「さすがはパパスさまとマーサさまの御子《みこ》だのう。リュカさま、ばんざーい」
「お生みになったのはビアンカさまよ。王妃《おうひ》さま、ばんざーい!」
「王子さまにも、それ、ばんざーい」
「王女さまにも、ばんざーい」
「ご一家にばんざーい! グランバニアばんざーい!!」
「聞こえる?」
小さく尋《たず》ねると、ビアンカはわずかにまつげを持ち上げた。
「ん。聞こえるよ」
金色の柔《やわ》らかな光に満たされた続き部屋《べや》は、王宮の最上部、西のはずれ、町の喧噪《けんそう》から最も離れた場所にあった。広場の熱狂《ねっきょう》は、遠い潮騒《しおさい》のように、高まってはおさまり、また高まる。
ビアンカは、大きな羽根枕《はねまくら》のまんなかに、小さなまだ娘《むすめ》っぽい顔つきをすっぽりと埋《う》めるようにして横たわっていた。青灰色《せいかいしょく》の巻《ま》き草《ぐさ》模様《もよう》を散らした上品な掛け布が、血の気のない顔を、いっそう青白く見せている。
リュカは手を伸《の》べて、妻の汗ばんだ額に張りついた金色の髪《かみ》のひと房《ふさ》を、そっと取りのけてやった。遠く、また、ばんざいの声が聞こえる。
ビアンカは青く隈《くま》の浮《う》いた顔で、うっすらと微笑んだ。
「みんな、すごく喜んでくれてるみたいね。嬉しい」
「誰《だれ》よりもこのぼくが一番嬉しいよ。ありがとう、ビアンカ。よくがんばったね」
「ん……正直しんどかった。まさか、ふたりも入ってたなんて……重かったわけだ」
リュカは指先で、ビアンカの唇《くちびる》に触《ふ》れた。そこは少しカサカサして、ひびわれかけていた。リュカは寝台脇の水のみを取って、ぬるくなったワインを少し含《ふく》み、ビアンカの顔に顔を伏《ふ》せた。そのとたん。ばんざーい。ばんざーい。どおん! どおん! どおん! 誰かが花火の火薬の量を間違《まちが》えたらしい。寝台《しんだい》の天蓋《てんがい》がゆさゆさ鳴り、ふたりは抱《だ》き合ったまま首をひっこめ、硬直《こうちょく》した。ようやく静かになった。
新米《しんまい》の両親は、顔を見合わせ、クスクスと笑《わら》いあった。
「王さまになること、とうとう承知《しょうち》したんだって?」
「ああ。赤ん坊の父親になる勇気《ゆうき》があるのに、なぜ国の父になろうとしないんだって、問《と》い詰《つ》められてね。言い返せなかった。……相談《そうだん》しなくってごめんよ」
「いいんだ」
ビアンカはニヤリとした。
「小さいころ、あたし、お姫《ひめ》さまになりたかったの。お話の中のお姫さまに憧《あこが》れて、なんでお姫さまに生んでくれなかったんだって、かあさんに文句《もんく》言ったこともある。……リュカが王子さまだってわかったときは、だから、びっくりしたけど、とっても嬉しかった。なのに。あっという間にお腹がふくれちゃって。子持ちのお姫さまって、なんか違わない? だから、もう、いっそ、さっさとお妃《きさき》さまになれたらいいなって思ってたんだ」
リュカは微笑み、ビアンカの手を握《にぎ》りしめた。
「今夜、さっそく戴冠式《たいかんしき》をやるんだって。出られる?」
「今夜か。残念だけど、ちょっと無理だな。ほんとにくたくたなんだ。こうしていても、眠くて眠くてしょうがない」
「延期《えんき》しようか」
「バカ。そんなわけにはいかないでしょ」
ビアンカは冷たい手で、リュカの手を握りかえした。
「もしか、ちんぷんかんぷんな小難《こむずか》しいこと言われても、知らん顔して聞き流してればいいのよ。あたしがついててあげられないからって、ぽかんと口開けてアホ面《づら》さらしちゃだめだよ」
「そんなことを心配してるんじゃ……」
リュカが思わずムッとしかけたとき、
「失礼いたします」
扉《とびら》の外に声がした。
「お支度ができました」
「赤ちゃんだ」
ビアンカは瞳を輝《かがや》かせ、肘《ひじ》をついて起き上がった。
「生んだとたんに連れてかれちゃって。やっと見せてもらえる! ……どうぞ! はやく開けて」
恭《うやうや》しく開かれた扉から、修道女カリーナ、乳母のラズー、それに王妃テレーズの三人が、しずしずと入ってきた。リュカはビアンカの背《せ》に枕をあてがい、半身を起こしてやった。
「ああ、赤ちゃん! あたしの赤ちゃん!」
父も母も、吐《は》く息をかけるのも恐《おそ》れるように緊張《きんちょう》して、赤ん坊の顔をのぞきこんだ。
ピンク色の頬。ふわふわした髪。とんがった唇。切れこみのような目の際《きわ》に、小さな小さなまつげ。そっくり同じような生まれたての赤ちゃんが、ふたり!
「どっちがどっちです?」
と、リュカ。
「こちらが坊《ぼう》やちゃん。とっても元気ですよ。お利口そうなおめめが、おとうさんにそっくり」
「こちらがお嬢《じょう》ちゃま。生まれたてから、こんなにしっかりしたお顔だちですもの。きっとおかあさん似《に》の美人さんになりますよ」
「抱っこしてもいい?」
おっかなびっくり手を伸ばすビアンカに、ラズーが男の子を手渡《てわた》した。
「こ、こうかな? こんなんでいい? 持ちかた、よくわかんないよ」
「だいじょうぶ。おててもあんよも、お首も、ちゃんと包《くる》んでありますから」
「ん……うわぁ、あったかい」
ビアンカは思わずうっとりとした。腕《うで》で抱くのでもない。手で支えるのでもない。だが、赤ん坊は、母の胸にこの上もなくびったりと寄りそった。
「泣《な》かないんですね。……すごくおとなしい子なのかな」
茫然《ぼうぜん》とリュカが言うと、
「いいえ、まだお疲《つか》れなんですよ」
と、ラズー。
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「おかあさんも大変だけれど、赤ちゃんだって、この世に出てくるには、うんとがんばらなきゃならないんですよ。ご安心ください、うぶ声は、どちらも立派にあげられましたから。さんざん泣きつかれて、ようやくひと息ついて、グッスリになったからお連れしたのです」
「いまに、いやってほど元気よく泣きだすわよ。泣いて、強くなるんですもの」
と、レディ・テレーズ。
「さ、返してください。奥さまも、お疲れなんですから、無理をしちゃいけません」
「おめめは、まだあかないの?」
ビアンカは、ちょっとがっかりしたように言いながら、頼《たの》もしいラズーの腕に王子を託《たく》す。
「そうお急ぎになっちゃあいけませんよ」
シスター・カリーナがにっこりして、女の子のほうを抱っこさせてくれる。
「これからは、毎日が戦いですよ。もちろん、素晴《すば》らしい喜びの日々でもありますけどね」
「戦いかぁ。そういえばあんた、お転婆《てんば》になりそうな顔してる。あたしに似たかな?」
「ああ。うちの娘もはやく嫁《とつ》ぎ先《さき》を見つけてくれないかしら」
レディ・テレーズはしみじみと言った。
「……でも、ドリスに赤ちゃんができたら、あたくしはお婆《ばあ》ちゃんねぇ。やれやれ」
「さぁ、もう失礼しましょう」
きっぱりと、ラズー。
「え、もう?」
「ええ、もうです。今日のところはこれぐらいになさいませ。大丈夫《だいじょうぶ》、取って食いやしません、お隣《となり》の部屋に寝《ね》かせてさしあげていますから、ゆっくりお休みくださいまし。なにか用があったら、呼《よ》び鈴《りん》をならしてくださいよ。あたしがいないときには、このものたちの誰かが、かならずおそばに控《ひか》えておりますからね」
ラズーに合図されて、子守り役の娘たちが揃《そろ》って進み出、会釈《えしゃく》をした。イヴァでございます。エドナです。アネットです。ベリルと申します。ジャディスです。見るからに気立てのよさそうな、こざっぱりとした娘たちだ。みな地味《じみ》にしつらえているが、こんな山国には珍《めずら》しいほど、ずいぶんと美人ぞろいだ。
「この日に備《そな》えて、新しく雇《やと》いいれた者たちです。城にはあまり慣《な》れておりませんけれど、お年も近いし、ビアンカさまとはきっとお話もあうかと存じます」
「ありがとう。みなさん、どうぞよろしくお願いします」
ビアンカは言った。
「素敵なエプロンね。薔薇《ばら》の刺繍《ししゅう》がお揃《そろ》いなのね」
「あら、ほんとだ」
ラズーが目を瞬《またた》く。
「どうしたの、それ?」
「はい、みんなで縫《ぬ》いました。王子さま、王女さまづき係としての、徽《しるし》が欲《ほ》しいと思いまして」
イヴァという、少し年かさの娘が、はきはきと答えた。
「薔薇は高貴《こうき》と幸福の象徴《しょうちょう》。選ばれてお城づとめをさせていただけることとなりましたわたくしどもの、誇《ほこ》りの徽でございます」
どこといって、悪いところがあるわけではない。だが、ビアンカは、答える前の一瞬、イヴァの目がぴかりといやな感じに光ったのを見たような気がした。娘たちのお仕着《しき》せの胸で、ほんの小さな薔薇の刺繍が妙にめだつ、まるで血の染《し》みみたいに忌《い》まわしくめだつ、そう感じた。
でも、きっと、気のせいだわ。お産で疲れているんだし。赤ちゃんをひとりじめできないのが、悔《くや》しいのかもしれない。若《わか》いきれいな女の子ばっかりだから、嫉妬《しっと》してるんだったりして!。ても、あたしは赤ん坊のことなんてなんにも知らないんだし、一度にふたりなんて大変。たくさんのひとに手伝ってもらわなきゃならないんだわ。ここはせいぜい、愛想《あいそ》よくしておかなきゃ。
「頼みます」
作り笑いを浮かべるビアンカに、娘たちは、また揃って会釈をした。
赤ん坊が隣の部屋にさがると、リュカは椅子《いす》にかけて、ビアンカに顔を寄せた。
「あまりきみを煩《わずら》わせちゃいけないみたいだし、夜の準備があるから、ぼくも、もう行くよ。でも、最後にひとつだけ。あの子たちの名前をどうしよう?」
ビアンカはにんまりした。
「あのね。あたし、ずいぶん前から考えてあったの」
「どんなのだい?」
「あのね。男の子だったら、ティムアル。愛称《あいしょう》は、ティミー。女の子だったら、ポピレア。ふだん呼ぶときはポピーなの。どぉ?」
「ティミーとポピー? へえ。いいな。覚えやすいし、響きも可愛い。なにか由来《ゆらい》が?」
「わからない?」
悪戯《いたずら》っぽく笑うビアンカ。リュカはちょっと考えてみた。
「ひょっとして、きみの親父さんのティムズ・ダンカンと、うちの親父に因《ちな》んだ?」
「そのとおりよ」
「ティムアル・エル・ケル・グランバニア。ポピレア・エル・シ・グランバニア」
リュカは何度か口の中でその名前を転がしてみた。
「ティミー。ポピー。……うん、いいね。ぼくにはそれ以上の名前は、ちょっと思いつけないよ。そうしよう。じゃあ、そろそろ……」
立ち上がろうとしたリュカの手を、ビアンカは、そっと押さえた。
「ねぇ。不思議《ふしぎ》だと思わない? あたし、小さいころ、おとうさんやおかあさんは、はじめからおとうさんやおかあさんなんだと思ってた」
リュカはもう一度|座《すわ》り直し、真面目《まじめ》な顔つきで話すビアンカをじっと見つめた。
「でも、違うのよね。誰だってみんなはじめは赤ちゃんで……子供で。やがて、大きくなって、出会って。恋《こい》をして、結婚《けっこん》をして。……他人《たにん》だったあなたとあたしが、こうやって、双子のおとうさんとおかあさんになった。今日生まれた赤ちゃんたちにとっては、あたしたちが、はじめから、おとうさんとおかあさん。はじめから、ふたり一緒に」
ビアンカの目が潤《うる》んで光った。
「愛してる、リュカ。……あたしたち、素敵なおとうさんとおかあさんになろうね?」
「もちろん……あのね、ビアンカ」
リュカはビアンカの手を握りしめ、真剣《しんけん》な瞳をし、秘密《ひみつ》めかしてつぶやいた。
「きみに、いつか言わなくちゃならないと思っていたことがあるんだ」
「なに?」
「うん。……実は」
「じつは?」
「きみと眠るようになってから、ぼくは、怖《こわ》い夢《ゆめ》を見なくなった」
「ゆめ……怖い夢、ですって?」
ビアンカは目を丸くし、吹《ふ》きだした。
「ああ、リュカ。ああ、リュカ。あなたって、ほんとに、いつまでたっても子供ねぇ! 明日《あす》になったら王さまなんだからね。もっとしっかりしてちょうだい!」
リュカは眉をしかめ、もうひとことなにか言いたそうとして、止めた。微笑んだ。
「では。王妃さまになる前のビアンカに、最後の」
キス。
「愛してる、ビアンカ」
いつしか部屋は、夕闇《ゆうやみ》の薄青《うすあお》い暗がりの中に沈《しず》みこんでいる。リュカは静かに立ち上がり、扉を開けて、出ていった。
冴《さ》えざえと輝く星空の下、戴冠式に出席するものたちの厳粛《げんしゅく》な沈黙《ちんもく》の列は、旗徽《はたじるし》を掲《かか》げた衛兵《えいへい》らの合図に従《したが》って王宮に進んだ。城塞の中庭の石畳《いしだたみ》に、大きな影《かげ》、小さな影、痩《や》せた影、太った影がいささかぎくしゃくと緊張《きんちょう》ぎみの様子《ようす》で流れてゆく。
そんな街角《まちかど》に、少々変わった一団が固まって小声でささやきかわしていた。
「ほんとうにいかないのか?」
「いいよ。やめたやめた」
ピエールが尋《たず》ねると、スラリンが答えた。
「大勢人間がいるとこは、どーも窮屈《きゅうくつ》でね。あとで話を聞かせてもらうからいい」
「じゃあ……でかけるのは、わたしとマーリンとプックル。たったそれだけか?」
「ああ。飛べる連中は窓から見物《けんぶつ》するっていってたし。ロッキーやパペックはもともと引っこみ思案《じあん》だし。ジュエルはあのとおりだろ」
「スミスは?」
「い、い、いい。スラリンと残る。き、き、気をつけて」
「ガンドフは?」
「ガンドフ、あかちゃ、すき」
「赤ちゃん?」
ピエールが首を捻《ひね》りかけたとき、スラリンがあわてて言った。
「ちがうちがう。ピエールはね、赤ちゃんを見に行くんじゃないんだ。リュカが王さまになるのを見に行くんだ」
「……そ?」
ガンドフはひとつきりの目をぱちぱちさせた。
「ガンドフ、あかちゃ、みる。りゅか、みない。いつも、みてる。から、いい」
「わかったよ。じゃあ、行ってくるから」
ピエールたちは流れる影にくわわり、何度か振《ふ》り返りながら、たちまち遠ざかっていった。
「す、す、スミスも、ちょ、ちょっと行きたかったな……りゅ、リュカの王さまになるとこ、み、見たかったかも……」
「わかってる」
指をくわえて嘆《なげ》くスミスに、スラリンはぷるん、とすり寄った。
「でも、ま、遠慮《えんりょ》しとけ。腐《くさ》った死体に隣だの前だのに座られた招待客《しょうたいきゃく》の気持ちになってね」
「……う、う、うん……」
「それより」
スラリンは大きな目玉をきょろきょろと動かし、小声になった。
「さっ! 行くぞ! 列の最後のほうにこっそり混ざって、お城に入ったら、適当な暗がりでサッと横道に隠《かく》れる。わかってるな?」
「す、す、スラリーン……ね、ね、ま、まずいよ、やっぱり」
「なんだよ、この期《ご》に及《およ》んでその間抜《まぬ》け面《づら》は! 赤ちゃんの顔、見たくないのか? きっと、すううっごく可愛いぞぉ、へっへっへ、ああ、はやく見たい!」
「かわい、あかちゃ!」
ガンドフがいかにも嬉しそうににこにこした。
「ガンドフ、あかちゃ、みる!」
「そうそう。行こうね、ガンドフ。かあいらしー赤ちゃん、一刻《いっこく》も早く見たいもんねぇ。……なんだよ、スミス、そのいじけた顔は。いいぜ、気がすすまないんなら、おまえは残って、岩くれだの操《あやつ》り人形だのと仲よくしてればー?」
「で、で、でもぉ。ま、まま、まずいよ、す、スラリ〜ン。あ、赤ちゃんとこ、い、い、行くのは、あしあし明日だって、ぴ、ピエールが、い、いい、言ったろ。び、び、ビアンカがつ、つ、疲れてるから、きょ、今日は、だ、だ、だめだって」
「だからこっそりチラッと覗《のぞ》かしてもらうだけだっつーの! みんなが出払《ではら》ってる今が唯一《ゆいいつ》絶好《ぜっこう》のチャンスなんだぞ……いかん、列が終わる。おいらは行くぞ」
「ガンドフ、いく!」
「ま、ま、待ってよぉ! す、スミスも行くよぉ……!」
町と王宮を隔《へだ》てる大扉は、いまはいっぱいに開かれていた。ぴかぴかボタンの儀仗兵《ぎじょうへい》たちがずらりと並び、客たちを導《みちび》いた。
ひとびとは無言のまま戸口の暗がりをくぐり、燭台《しょくだい》の並んだ狭《せま》い廊下《ろうか》をたどった。黄色っぽい蝋燭《ろうそく》あかりの中、客たちの頭や腕《うで》や胸の金や銀や宝石《ほうせき》が、ちらちらといっせいに光り輝いた。
みな胸がいっぱいで、あたりを見回す余裕《よゆう》などなかった。だから、とある暗がりで、列からサッと逸《そ》れた三|匹《びき》がいたことに気づいたものは、ただのひとりもいなかった。
空《から》の玉座を仰《あお》ぎ見る大ホールの赤絨緞《あかじゅうたん》の上に、たくさんのベンチが整然と並べられている。客たちがみな席を得るのを見届けると、衛兵や官僚《かんりょう》たちはそれぞれの持ち場に戻り、しゃちほこばって、ぴたりと静止した。
やがて、しゃらしゃらと絹《きぬ》ずれの音をたてて、女たちが現れた。レディ・テレーズとその娘ドリスの絢爛豪華《けんらんごうか》な衣裳《いしょう》に、あちこちでほう、と小さなため息が洩《も》れる。小山のような体格のラズーは、夜闇色《よるやみいろ》のマントをまとい、修道服のシスター・カリーナは、ほっそりと飾《かざ》り気もなかった。
女たちが客席に向き直って、ひと呼吸《こきゅう》が過ぎると、今度は男たちが現れた。緋色《ひいろ》のマントを長々と引き、黒髪《くろかみ》黒髭《くろひげ》も厳《きび》しい国王オジロン。ぴかぴかの刺繍《ししゅう》上着に膝《ひざ》までのキュロット、青い布帯《ぬのおび》を気障《きぎ》に垂らした恰好《かっこう》が、赤毛のおかっぱに意外に似合わないでもないサンチョ公の丸っこい姿《すがた》のあとには、大臣《だいじん》閣下《かっか》、学者|博士《はかせ》、衛士《えじ》たちの長《おさ》であるデニ将軍《しょうぐん》が続いた。男たちは女たちの間に、それぞれの位置を見つけ、静止した。
一瞬の沈黙《ちんもく》の後《のら》、正面の真っ赤な緞帳《どんちょう》がさっと左右に引かれた。
リュカがいた。まぶしそうに目を伏《ふ》せ、口許《くちもと》を引き締《し》めて、正面を向いて立っていた。
たっぷりした紫色《むらさきいろ》のマントを右肩にたくしあげるようにしてまとっている。浅黒い肌にじかに着込んだ銀白色の鎖《くさり》かたびら。漆黒《しっこく》の蓬髪《ほうはつ》を、貴石《きせき》のビーズと山鳥の尾の羽根《はね》飾《かざ》りのついた革紐《かわひも》が横切っている。腕や足に填《は》めた環《わ》も、腰にはいた先王パパスのだんびらも、王という雅《みやび》な名に恥《は》じぬだけの威厳《いげん》と輝きを放ちながら、同時に、より以上に、この若者《わかもの》の、勇《いさ》ましく力強い戦士ぶりをこそ、燦然《さんぜん》とひきたてているのであった。
「なんと、お父上によく似ておられる」
「ご立派な、そして、なんて美しいお顔だち」
客人たちの歓喜《かんき》のささやきに、コホンとひとつわざとらしく咳《せき》をすると、オジロンはリュカを招《まね》き、共に玉座の前に進みでた。
「みなのもの、よくきくように」
響く声で、言う。
「すでにふれをしたとおり、これなるは、先代パパス王の遺子リュカ、リュケイロム・エル・ケル・グランバニア。世の闇《やみ》を打ち払《はら》わんがため旅の空に散りし兄パパスの残した希望の星じゃ。これより、余はみなの前で、リュカに、王位を譲《ゆず》る! さ。リュカ。ひざまずくがよい」
リュカは膝《ひざ》をついた。女官のひとりが恭《うやうや》しく携《たずさ》え持っていた王冠《おうかん》を両手に取り上げ、リュカの頭の上に捧《ささ》げ持って、オジロンは言った。
「大地の子、天空の子、栄光のグランバニアの子にして、偉大なるデュムパポスの子リュカよ。余は神と民《たみ》からひととき与えられた権限《けんげん》によって、そなたの即位を宣言《せんげん》する……!」
「……くそっ……ううっ……」
小さな左手がいっぱいに伸び、必死《ひっし》にあたりを手探《てさぐ》りする。かすかな割《わ》れ目《め》をみつけると、爪《つめ》をたてて漆喰《しっくい》を落とし、ぎりぎりと指をねじこんだ。
「……あ、痛っ! ……」
爪の下に堅い粒《つぶ》が食いこんだ。ピピンは思わず手を離し、くわえた。埃《ほこり》っぽい味が口いっぱいに広がる。おかげで、せっかく探りあてた割れ目がまたわからなくなってしまった。
「ちぇっ、もう少しなのに!」
ピピンは戴冠式を覗《のぞ》き見《み》するつもりだった。せっかく招待されたのに、おっかぁは行かせてくれなかった。十にならない子供は夕飯《ゆうはん》のあとから家を出るもんじゃないなどと言って。
「ったく、頭固いんだからなぁ。知り合いが王様になる日なんて、滅多《めった》にあるもんじゃないよ」
ピピンは猫みたいに身軽だし、この壁も、はじめは登りやすかった。飾《かざ》り彫《ぼ》りがくっきりしていて、充分《じゅうぶん》手がかりになったのだ。だが、大人《おとな》の背丈《せたけ》を越《こ》えるかと思われるあたりから、急に模様《もよう》がまばらになり、つるつるのところがやたらに多くなった。こんなはずじゃなかった。するするっと素早く登って、あの開いてる窓《まど》からひょいっと入ってしまえばそれでいいと思ったのに。そろそろおっかなくなっている。戻ろうか。でも、降《お》りるより登るほうがまだがんばれそうだ。飛び降りるには、もうとっくに高すぎる。
痛《いた》めた指が、やっともう一度割れ目にかかった。
「……よーし、いくぞ」
今度は右足。つま先で探る端《はし》から小石が落ちる。汗《あせ》が目に入り、指が滑《すべ》りそうになる。
と。
どうん! ぱちぱちぱち。
突如《とつじょ》星もおおい隠《かく》すほどの大輪《たいりん》の花火があがった。ずず、どうん! いちどきに五つ六つ、消える間もなくまた三つ四つ、空に咲《さ》いては散り解《と》ける。城壁にとりついたピピンのからだじゅうに、音と光が降り注《そそ》いだ。
「ああ、リュカさんはいま、王さまになったんだ……! 悔《くや》しいなぁ。あとちょっと早く生まれてたら、とっくに兵隊になっていて、大広間でお祝いを見ることができたのに……おや?」
何千という流れ星の氾濫《はんらん》し洪水《こうずい》する空に、少年の曇《くも》りのない瞳は、ふと、奇妙《きみょう》なものを捉《とら》えた。
空に向かって、一直線に伸びた線。線に結ばれた、小さな短冊《たんざく》。
西の塔《とう》だ。誰かが窓から手を出して、なにか手繰《たぐ》るような動作をしている。
「仕掛《しか》け花火かな? ……ん? 待てよ、あれは」
凧《たこ》だ。凧糸だ。巨大《きょだい》な凧が、西の塔から夜空に高く揚《あ》げられている。若い娘の華奢《きゃしゃ》な腕が、糸を操って、なんとか安定させようとしている。あたりを見回し、ひと目をはばかりながら。
「変だな」
ピピンの心臓《しんぞう》はいやな感じにドクンとした。みつかってはいけない。そう思った。だから、飾り彫りの境目にからだを伏せ、もう一度目を凝《こ》らしてみた。
どおん! またひとつ花火があがり、火《ひ》の粉《こ》が散った。透《す》かし見る星空を六角形に切り取って浮かんだ真っ黒い凧の周辺に、なにか小さなものがわらわらと集まっている。蝙蝠《こりつもり》のような翼《つばさ》の輪郭《りんかく》が、おぼろにうかがえ、手に持った三つ叉《また》の鉾《ほこ》のようなものが、ぎらりと光った。
「……あれはミニデーモン? ……魔物じゃないか!」
「何してるにゃー」
「えっ……うわぁっ!」
びっくりして指を滑《すべ》らせ、ふわりと壁から浮き上がってしまったピピンの襟首《えりくび》が、素早く引っ張りあげられた。豸尾鳥《たいびちょう》メッキーが頑丈《がんじょう》な嘴《くちばし》でくわえ、支えてくれたのだ。小竜《しょうりゅう》コドランもからだの割《わり》にちゃちな翼《つばさ》をぱたぱた必死に搏《はばた》きながら、小さな尻《しり》を押し上げてくれている。
「ひゃあ、きみたちか、助かったよ……どうしてここに? 見物してたんじゃないの?」
「エライひとたちが、にゃがーいお祝いをやりだしたから、帰ろうと思ったにゃ」
ドラきちはピピンの鼻先の凹《くほ》みに、さかさまにぶら下がった。
「ピピン、腕白《わんぱく》はいーけど、こーんにゃ真っ暗なとき、壁のぼりなんて、あぶにゃすぎにゃ」
「それどころじゃないんだ! 赤ちゃんとビアンカさんが危《あぶ》ない」
「にゃん?」
「西の塔に変な奴《やつ》らが来てるんだ。早く、リュカさんに知らせなきゃ!」
火薬の匂《にお》いの風|漂《ただよ》う薄暗がりの中で、ビアンカは息を殺していた。
花火のせいで目覚《めざ》めたのではない。もっと些細《ささい》な、だが、もっと異様な何かが、ぴりりと神経《しんけい》に触《ふ》れたのだ。戦士の旅路《たびじ》に加わった者の、それは知らず知らずのうちに身についた能力だった。
扉の向こうの衣裳部屋、使うもののないはずの角部屋で、こんな夜《よる》遅《おそ》く、誰かがコソコソと歩き回っている。……変だ。おかしい。
確かめてこようか。もう少し寝たふりをしていようか。ビアンカは迷《まよ》った。お産の疲れで、からだはぐったり重かった。だが、廊下の先には、生まれたばかりの双子がいるのだ!
あたしの剣《けん》は、妖精《ようせい》の剣はどこにあったろう? 確か。確か、あれは、最初にこの部屋に案内《あんない》されたとき、壁の燭台《しょくだい》にひっかけて……あれきりあたしは剣を持たなかったのだ。もう一年近くも。なんて、なんて長いこと! 戦いを忘《わす》れていただろう?
考えのまとまらないうちに、いくつかのことがほとんど同時に起こった。
ひときわ大きな花火がすぐ近くで炸裂《さくれつ》し、部屋じゅうが黄色い閃光《せんこう》とその影に塗《ぬ》り分けられた。部屋の外に、耳を打つ搏《はばた》きが満ちた。こちらへ! はやく! 若い娘のたてる声もした。
ビアンカは跳《は》ね起き、長い寝間着《ねまき》の裾《すそ》に脚《あし》を縺《もつ》れさせながらひと飛びで壁に近づき、剣をつかみ、肩でぶつかるようにして、分厚《ぶあつ》い扉を開け放った。
「……そこで何をしている!」
闇に沈みこんだ部屋、星明かり以外には燭《ともしび》ひとつない部屋の中央で、エプロン姿の娘がふたり、慌《あわ》てたように振り向いた。それぞれの腕に抱《かか》えられている小さな布包《ぬのぐる》みは、まさか。
「急いで……もっと急いでメッキー!」
メッキーは急いだ。せいいっぱいに急いでいた。花火の灯《あかり》が時おりいなずまのように引き裂《さ》く空を、城の外壁《がいへき》にそってぐんぐんと飛んだ。
だが、子供とはいえ、人間は重い。そのうえ、メッキーには脚《あし》がない。ピピンの襟《えり》をくわえた嘴《くちばし》は、苦しい息に満足にあえぐこともできない。玉座の間の窓まで、保《も》つだろうか?
必死に搏く翼をほんの一瞬やすませて滑空《かっくう》したとき、メッキーはぎくりとした。何か来る。殺気だって、背後《はいご》の空に迫《せま》ってくる。……戦わなくてはなるまい。
「う……うわぁっっ!」
あまりの急降下《きゅうこうか》にピピンが悲鳴をあげ、ジタバタともがいて、脚のないメッキーのからだにしがみつこうとした。地面すれすれ、メッキーはピピンを落とし、鋭《するど》く翼をひるがえした。
どうん! 光と音の乱舞《らんぶ》に彩《いろど》られた空。くさび型の陣形《じんけい》を為《な》して飛んでくる五翼のホークマンに、メッキーはただ一匹向き直った。
「ね、ね、ねぇ、す、スラリーン。こ、ここ、どこさぁ?」
「おいらに聞くなよッ、くそっ、なんでこう、どこもかしこも真っ暗なんだっ」
「せつやく。たいせつ」
「グランバニアのケチっ!」
「な、な、なんか、ここ、ま、前にも見たような気がするけど……あ、行き止まりだ」
「ちくしょう。どこもここも、いやんなるぐらいそっくりに造《つく》りやがって! 『赤ちゃんはこちら』の案内板ぐらい出しておきやがれ!」
「あたしの赤ちゃん……!?」
ハッとした瞬間《しゅんかん》、娘たちの背後の窓いっぱいに、また花火があがった。あまりのまぶしさに、ビアンカもとっさに顔をしかめた。だが、真四角であるべき窓枠《まどわく》の一辺に、外壁につかまった異形《いぎょう》の輪郭《りんかく》がくっきりと浮かび上がった!
「……そこだ!」
ビアンカは壁ごしに火焔呪文《メラミ》の炎を投げつけた。ギャアッと悲鳴。はずみで部屋の中にまでばらばらと石の破片《はへん》が降り注ぎ、怪しげな娘たちはか細い悲鳴をあげながら、頭を抱えて床に伏した。ビアンカは飛びだして包みをひったくり……おわぁ、おわぁ、おわぁ! 包みが泣き声をあげる。やはり赤ん坊だ! ……両手にひとりずつ、ひしとばかりに抱きしめる。
「ガンドフ!」
「ひゃあ! ……びっくしたぁ……なんだ? 今の音は。上のほうだったぞ……まさか」
「こ、こ、こっちだ、す、す、スラリン! か、階段があるぞ!」
崩《くず》れた煉瓦《れんが》の陰《かげ》から、長い鉤爪《かぎづめ》の指が、そろそろと伸びた。鱗《うろこ》の生えた不気味な手が、壁材《へきざい》をつかむ。次の瞬間、ぶすぶすと黒煙《こくえん》をあげながら、巨大な影が、窓いっぱいをおおい隠した。
ビアンカは、歯を食い縛《しば》った。薄い寝間着が夜風《よかぜ》にはためく。
ゆらり、と踏みこんだ影は、そのまま前のめりになり倒《たお》れた。まともに立っていれば、天井《てんじょう》につかえそうな体格の鳥頭《ちょうとう》戦士《せんし》、ホークマンだ。切《き》り株《かぶ》のようになった右の肩を、左の手で押さえている。その手の下から、赤紫色の粘《ねば》りけのある液体《えきたい》がどぶどぶと流れだしている。
やっつけた! ビアンカは思わず笑った。が。
「ちっ。翼をやられたわ!」
娘のひとりが魔物にかけより、抱き起こすではないか! しかも。
「これじゃ戻れない。ミニデーモンたち、はやく、ほかのホークマンを呼んできて!」
窓の外から、大勢の鳥のようなものまで飛び立ってゆくではないか。
微笑んだままの顔から血が引いた。この娘たちは魔物使いなのか? ほかのホークマン? 魔物が大勢、やってくる? 一刻《いっこく》もはやくこの場を離れなくては!
ダッと駆《か》け出した瞬間、扉が開いた。現れたのは、残り三人の娘たち。
「今のはなんの騒……あっ」
すり抜けようとしたビアンカは、体当たりに押しとどめられた。足を払われ髪を引かれ、腕をねじられ。たちまち腕の赤ん坊を奪《うば》いとられる。赤ん坊が泣く。
「ドジ! 王妃に気づかれたのね!」
「眠り薬は? 効《き》かなかったの?」
安眠《あんみん》のためにと勧《すす》められたあれ。吐き気がして飲む気にもならなかったのは何かの予感か。
「お、おまえたち……みんなグルなのね!」
ビアンカは震える唇《くちびる》を噛《か》み、吠《ほ》えるように言った。
「はじめから、その子たちを狙《ねら》っていたのね! ……いったい全体、何者なの?」
「ガンドフ! このへや、あかちゃ、においする」
「あっ、ほんとだ。ここだ、ここだ! うわい、可愛いベッドがあるぞぉ……どれどれ。王子さま、こんばんは。ばー。スラリンちゃんですよ……あれっ?」
「いない! こ、こ、こっちも、い、い、いないよ、スラリン?」
「あかちゃ、いない! へん!」
「うーむ。ふとんはまだあったかい……いったい、どこ行ったんだ?」
三匹の魔物は星暗がりの中で顔を見合わせた。いやな予感が伝染《でんせん》した。無言のまま誰からともなく、急ぎ、廊下に出る。
そこへ。
「ビアンカぁっ、にゃいじょうぶかぁっ……あにゃっ?」
「ドラきち! コドラン!」
「スラリン! スミスに、ガンドフ? こんなところで何してるにゃっ?」
五人の娘たちはくすくす笑いながらビアンカを囲み、揃《そろ》いのエプロンを脱《ぬ》ぎ捨てた。
長くすらりとした脚《あし》、悩《なや》ましい曲線を描《えが》く胸元《むなもと》……ぴったりした黒装束《くろしょうぞく》が、細い喉首《のどくび》からつま先までを影のようにおおっている。心臓の上のあたりに、みな、真っ赤な薔薇《ばら》の徽《しるし》がある。慎《つつ》ましく結《ゆ》われていた髷《まげ》を解《と》くと、金紗《きんしゃ》のような髪が広がった。
なんなの、こいつら? ビアンカは鳥肌《とりはだ》を立てた。似すぎている。まるで、ひとつ鋳型《いがた》から作られたように、お互いにそっくり。そして、どの娘もみな不気味なほどに、美しい。
「あたしたちはマァサさまの娘」
「教母マァサさまによって、生まれかわらせていただいたもの」
「お言いつけに従って、お孫《まご》さまがたを預かりに来たの」
おわぁ、おわぁ、おわぁ。双子が泣いた。
「……そもそも臣《しん》の今日《こんにち》あるはまさに先帝《せんてい》パパスさまの御《おん》おかげ、鴻恩《こうおん》貧身《ひんしん》に溢《あふ》れ、叡慮《えいりょ》なお迷妄《めいもう》の篝《かがりび》となり、温厚《おんこう》にして篤実《とくじつ》なお人柄《ひとがら》忘れがたく、攀慕《はんぼ》の愁腸《しゅうちょう》尽《つ》くしがたく、うんぬんかんぬん、だらだらだらだら……」
第四大臣の美辞麗句《びじれいく》に満ちみちた祝辞《しゅくじ》が果てしなく続いていた。リュカは、あくびを噛み殺した。正直なところ、誰に何を言われてもほとんどわからない。やっぱりぼくには、ビアンカがついていてくれないとダメなのかもしれないなぁ、などと考えると、照れ臭《くさ》い微笑みが浮かんだ。
ビアンカはほんとになんていい奥さんなんだろう。王さまになるとかなんとかいうことより、彼女に出会えたことが、たぶん、ぼくの人生では一番素敵なことだったのかもしれない……。
と。
「大変だ、大変だぁっ!」
いやにわかりやすいセリフが耳に飛びこんできた。リュカは目をあげ、衛兵たちを引きずるようにして駆けこんできたピピン少年を見た。
双子の力強い泣き声が、ビアンカの勇気を奮《ふる》いたたせた。
「いい加減なこと言わないで。リュカのおかあさんが、なぜ、あたしたちを引き裂くのよ?」
「遠からずこの世はすべて闇に呑《の》まれる。生き残るのは、あたしたち、光の教団の信者だけ」
「お優しいマァサさまは、せめて、お孫さんぐらいは助けてあげたいと仰《おお》せになったの」
口々に嘲笑《あざわら》う娘たち。泣き続ける赤ん坊をうるさがって、いまにもひっぱたこうとするものもある。口を塞《ふさ》いじゃいなさいよ、などというものもある。
忿怒《ふんぬ》のあまりめまいを感じた。痺《しび》れたようで、からだのどこにも力が入らない。だが、ここで負けたら、赤ん坊たちに何をされるかわからない……!
「安心なさい。おまえが死んでも、この子たちはあたしたちがちゃんと育ててあげる」
「そうよ、こんな田舎城《いなかじろ》で育つよりもマァサさまの元で暮らすほうがよっぽど幸せ」
不気味にととのった顔立ちで、しゃあしゃあと言い募《つの》る娘たちをみているうちに、
「なにバカなこと言ってんのよ!」
とうとう我慢《がまん》ができなくなった。
「母親のあたしが育てたいって言ってんのに、おせっかいはやめてよ! 子供生んだこともないクセに。余計なお世話。あんたたちって、きれいはきれいだけど、人の幸せを奪《うば》おうとするなんて、つまりは、ひどい性格ブスなんじゃないのさっ!」
「ぶ、ブスですって? ブスですって?」
「マァサさまからいただいたこの完璧《かんぺき》な顔とからだを!」
「きーっ、このアマ、殺してやるっ!」
美しすぎる目をつりあげて、五人の娘が殺到《さっとう》した。大事な任務を、なかば忘れて。
ビアンカは横飛びに飛びのきざま、ひとりの鳩尾《みぞおち》に突《つ》きをくれ、ひとりに足払いをかけた。妖精の剣を拾い上げ、すばやく構える。と。
「王妃! ……じたばたすると、こうよ」
赤ん坊をつかみあげた娘が、刃物《はもの》をしこんだ爪を眠る赤ん坊につきつけた。
おわぁ! おわぁ。おわぁ!
ビアンカは肩で息をついた。その手から、剣がひったくられる。
娘たちは高笑いをした。回りこんだ娘のひとりが、腕を後ろにねじりあげ、ビアンカを床に引き倒した。髪が毟《むし》られ、頬が張られた。馬乗りになった娘が、からからと笑いながら、肘《ひじ》を引き、見せびらかすように腕をもちあげた。
「あんたのその高慢《こうまん》ちきな顔に、一生消えない傷《きず》をつけてあげるわ……!」
五本の細ナイフのような爪が、花火の灯《あかり》にギラリと光った。ビアンカの青い目がいっぱいに開き、情《なさ》け容赦《ようしゃ》もなく振り下ろされる鋼鉄《はがね》の光芒《こうぼう》が走り……灼熱《しゃくねつ》!!
「……ぎゃあっ!」
ずるりと皮のめくれかけた手首を抱《かか》えて、娘が絶叫《ぜっきょう》し、転がり落ちる。すかさずもんどり打って起き上がりながら、戸口に目をやり、ビアンカは叫《さけ》んだ。
「コドラン! ……スミス! スラリン! ガンドフに、ドラきちも! ああ、来てくれたの!」
「さぁ、赤ちゃんは取り返したよっ!」
「メッキーとピピンが、リュカたちも呼んでくるころにゃっ!」
「みんな、ありがとう! ありがとう!」
たちまち青ざめて逃げだす薔薇の娘たちの足先に、コドランは再び火炎《かえん》を吐いた。ドラきちが足元をすくい、スラリンはメダパニをかけ、スミスは抱きついて顔をべろべろ嘗《な》め回す。
「じょぶ? けが、ない?」
ガンドフのふくふくとした胸、たくましい腕にやんわりと抱かれ、安心しきって眠っている双子を見て、ビアンカは安堵《あんど》の涙《なみだ》を流しそうになったが、すぐに気を取り直し、叫《さけ》んだ。
「逃げなきゃ。魔物たちが来る。この子たちをさらいに来る!」
「ま、ま、魔物?」
「どういうことにゃ?」
「マーサさまのつかいだって、その娘たちが手引きを」
言い終わらぬうちだった。ふいに凄《すさ》まじい叫び、唸《うな》り、怒号《どごう》が沸《わ》き起こった。嵐《あらし》にひるがえる幾百《いくひゃく》の旗のような耳障《みみざわ》りな音――ホークマンたちがやってきたのだ!
「はやく! ここから出るのよ!」
ビアンカは戸口から廊下へ、あっけにとられたままのガンドフたちを押し出した。なにかにつまずきかけ、下を見ると、燃え残りの薪《まき》のようになった右手を押さえて呻《うめ》く娘と目があった。ビアンカは、ドキリとした。苦痛に歪《ゆが》み涙に濡れた彼女の顔の右の目の周囲は、どす黒く火ぶくれし、焼《や》け爛《ただ》れている。あんなにきれいな子だったのに。それだけが、自慢《じまん》みたいだったのに。助けようか。でも、敵だ! ためらいが痛みになって胸を刺《さ》した。
と。
何かが激しく爆発《ばくはつ》し、ビアンカは横ざまに吹き飛ばされた。
敵の魔物たちがドッと侵入《しんにゅう》してきた。いまだとぎれぬ花火にまぎれて、ダックカイトが、メイジキメラが、ミニデーモンが、無数の小旋風《しょうせんぷう》となって駆け抜け、手当たり次第《しだい》に暴《あば》れまわる。
いったいどれほどの援軍《えんぐん》が駆けつけてきたやら、犇《ひし》めき合い、のしかかりあうような喧噪《けんそう》。たちまちもうもうと埃《ほこり》の充満《じゅうまん》した小部屋に、さらに何者かが火を放った。敷物《しきもの》に、寝台の掛け布に、めらめらと赤い舌《しに》が走りぬけ、躍《おど》りあがり、床いっぱいに黒煙がとぐろをまいた。
「び、び、ビアンカぁっ、ど、ど、どこだぁっ! ご、ごほほっ、ごほっ」
瓦礫《がれき》と煙の向こうから、スミスの必死の声がする。
「ここよっ! でも、あたしのことより、赤ちゃんを! 赤ちゃんを守って、お願い、スミス!」
鋭《するど》い爪で肩につかみかかった何者かを、ビアンカは剣を拾って切り捨てた。熱い血飛沫《ちしぶき》が全身にかかり、そのムッとするような臭《にお》いに息が詰まった。いつの間にか三つ編みが解《ほど》け、金色の髪が汗ばんだ顔じゅうにまとわりついている。下腹が疼《うず》いた。まっすぐ立っていることもできない。妖精の剣を杖《つえ》がわりにして、よろめくように歩いた。
負けるもんか。取られるもんか。あたしの双子、あたしの赤ちゃんなんだから!
廊下では、もうもうたる煙の中、スラリンたちが、隙間《すきま》から抜けてくるホークマンやメイジキメラを必死に叩《たた》き落として善戦《ぜんせん》していた。だが、破損《はそん》は広がるばかり、払っても払っても敵が出てくる。
埒《らち》があかない。
「リュカたちはどうしたにゃ、おそいにゃっ!」
「び、び、ビアンカがいない! まだあっちだ! お、お、俺、び、ビアンカ助けに行く!」
「よし、スミス、行け! ……くそっ、敵が多すぎるな……四匹ぽっちじゃどうにもならない……」
ごうううう! また部屋から飛びだしてきた敵を、コドランが激《はげ》しい炎《ほのお》で薙《な》ぎ払う。敵も必死だ。なんとしても、赤ん坊を手にいれるまでは諦《あきら》めないらしい。
「ん? 赤ん坊」
スラリンは目をみはった。
「そうか! いいことを思いついたぞ。おい、ガンドフ、おまえはその子たちを守れ。どこか、うまいところに隠して、何があってもけしてそばを離れるな。いいな?」
「わかった。ガンドフ、かくす。はなれない」
「コドランは、ここで援護《えんご》していてくれ。さっ、ドラきち、こっちだ!」
「なんにゃ、スラリン、いいことって?」
「うん……あのね。ドラきち、ちょっと聞くけど。おまえ、おいらを乗せても飛べるよね?」
リュカは走った。西の塔の長い階段を、息をつかずに駆け昇る。
プックルが、マーリンが、城の兵士たちが、無言のままに続く。
「ビアンカーっ! ビアンカーーーっ!! ……あっ」
無惨《むざん》な部屋を無敵《むてき》の怪力《かいりき》と鉄の意志でまっしぐらに横切ったスミスは、崩《くず》れた柱にもたれてうずくまったビアンカを見つけ、あわてて抱き上げ、揺り起こした。
「……スミス! あ、赤ちゃんは?」
「だいじょうぶ。ガンドフが守ってる。さぁ、つかまって」
スミスは吃《ども》っていなかった。とても大きく、頼もしかった。にっこり笑ったスミスの顔を、ビアンカは、なんて素敵で優しいんだろうと思った。
が。その刹那《せつな》。
びしゅっっっ!
スミスのからだが硬直《こうちょく》し、ぐらり、よろける。思わず飛びだしてしまった片方の目玉をだらりとぶらさげたまま振り返るスミスに、薔薇《ばら》徽《じるし》の娘のひとりが、ヒッと喉《のど》の奥で悲鳴をあげ、手にした剣を床に落とし、つんのめるように逃げ出した。スミスは呻《うめ》き、ドッと倒れる。
「スミス! スミス!」
ビアンカはスミスを揺すった。返事はない。
「しっかりして! スミス! ……あ」
ビアンカは見た。純白《じゅんぱく》に輝く赤ん坊のおくるみをしっかりと抱えこみ、窓から飛び立ってゆく、二匹のミニデーモンを。
「……スミス……ごめん!」
ビアンカは走った。窓辺《まどべ》に駆け上がり、力の限りを振り絞《しぼ》って跳躍《ちょうやく》し、外の空中にいたホークマンの足首にしがみついた。ホークマンは暴れた。鉤爪のある手で、ビアンカのからだじゅう、いたるところをどこでもかまわず、引っ掻《か》き、傷つけ、押しのけようとした。
「ひけえっ、ひけえっ」
どこかで娘が叫んでいる。
「赤子は奪った。目的は果たした。みな、ひけえっ」
あの子も生き残ったんだわ。振り払われまいともがきながら、ビアンカはハッとした。すすで真っ黒になった腕を見た。そうだ。ひょっとしたら。
「ホークマン! 落とさないで! あたしは味方よ!」
ビアンカは、できるだけ可愛らしい声で言った。ホークマンの足掻《あが》きが止まった。うまいぐあいに風が吹き、夜目《よめ》にも鮮《あざ》やかに髪が靡《なび》いた。
あの娘たちと似ていないこともない、長い金色の髪。引き千切《ちぎ》れすすにまみれて、黒ずんだ服。
「さぁ。あたしをつれて帰って」
ホークマンは、はじめためらいがちに、やがて、力強く搏《はばた》き始めた。周囲にさまざまな魔物たちが追いついてくる。みな、ビアンカになど目をくれなかった。ただ、一心不乱に飛んでゆく。どこへ?
ビアンカは苦しい吐息《といき》を洩《も》らし、ホークマンの巨大《きょだい》な足に、形ばかりきちんと座り直した。足許《あしもと》を、グランバニアの町が、城が、森が、すさまじい勢いで飛びすぎてゆく。
どうやら、北に向かって飛んでいるようだ。
動悸《どうき》は口から飛びだしそうだったが、こんな状況《じょうきょう》だというのに、自分でも驚くほど、落ち着き払っていた。子供たちと一緒。赤ちゃんたちと一緒だもの!
よかった。
ビアンカは笑った。すすだらけの顔の中、きらきらと燃える瞳を、星が美しく彩《いろど》っていた。
「……こ……これは」
「ひどい!」
リュカたちがようやく塔の部屋に到達《とうたつ》したとき、敵はもうみな飛び去ったあとだった。瓦礫《がれき》と魔物の死骸《しがい》で床は足の踏み場もなく、血と埃と煙が交じりあって胸のむかつくような匂《にお》いがし、ところどころは、まだぶすぶすと燻《くすぶ》っていた。
廊下には力つきたコドランが、寝室《しんしつ》のまんなかには大怪我《おおけが》をしたスミスが倒れていたが、どちらもピエールが回復呪文《ベホイミ》を唱《とな》えると、なんとか意識《いしき》を取り戻した。スミスは、ビアンカのいなくなったことを聞くと、たちまち手放しにおいおいと泣きだした。
「……いったい誰がこんなことを……?」
リュカは感情の伴《ともな》わない声でつぶやいた。
「……なぜ、ぼくの家族たちを……」
「リュカさん、あれ!」
ピピンが指さす先、廊下の脇《わき》の道具入れの陰《かげ》で、ごそごそと音をたてているものがある。毛むくじゃらな足が崩《くず》れ落ちた梁《はり》からはみだして、引き攣《つ》るようにもがいている。
「ガンドフじゃないか!」
「無事か? 生きてるのか?」
大勢が力を合わせて取りつき、重たい石板を持ち上げ、どけてみると、ガンドフは確かにそこにいた。息もたえだえに、ぼろ毛布《もうふ》のようになって。
「ガンドフ! しっかりしろ!」
リュカが呼ぶと、ガンドフは、ひとつきりの瞳をぱちぱちさせて、なんともホッとしたように微笑んだ。
「……かちゃ……」
「え?」
「あかちゃ……かくした……」
ガンドフはリュカの手を借りてごろりと無雑作《むぞうさ》に仰向《あおむ》けになると、胸に抱えていた腕を、そろそろと広げた。覗《のぞ》きこんで、ピピンがアッと声を殺した。ガンドフの腹から、あのふかふかとさわりごこちのいい毛がごっそりとなくなっている。そこには、布のようなものがあてがわれてあった。いや。違う。布は、押しこまれている? そして。
おんわぁ、おんわぁ、おんわぁ……。
かすかに赤ん坊の泣き声がするではないか! 衛兵たちが、急ぎ布包みをとりあげ開いてみた。傷ひとつない、汚れひとつない、裸《はだか》ん坊《ぼう》の王子と王女。
兵士たちの間に、思わず歓声《かんせい》があがった。よかったよかった! よく守ってくれた!
だが、リュカは喜ぶどころではない。
リュカの目は、ガンドフの腹を茫然《ぼうぜん》と見つめて離れなかった。そこはぽっかりとうつろだった。ちょうど双子をぴったり抱いて隠せるほど。
「……ガンドフ……」
「うんと、だっこ。は……なれない。あんぜん」
「まさか。まさかおまえ。自分で……?」
「……ガン……ドフ、かく……した。うま、い、おもい……つき」
ガントフは無邪気《むじゃき》この上ない顔でそう言って、かすかに首をかしげた。
「う、まい、おも、い……つき。……ね?」
そして。そのまま……リュカがことばを失い、ただその大きな毛むくじゃらな手をかたくかたく握りしめている間に……ガンドフは、いつもの屈託《くったく》なく笑った顔のまま、永遠に動かなくなった。ひとつきりの目玉から、光が消えた。
「……〜〜ッ!!」
ガンドフの頭を抱いて声もなく絶叫《ぜっきょう》するリュカの肩に、やがて、そっとサンチョがふれた。
「坊《ぼ》っちゃん」
振り向くと、スラリンとドラきちが窶《やつ》れた様子で立ちつくしていた。
スラリンの前に、何か、ちいさな、木の棒《ぼう》のようなものがあった。ちょうど、手首くらいの太さで、きれいに磨《みが》きがかかっている。つやつやと、まるで、ついさっきまで、生きてでもいたかのように……霞《かすみ》のかかったようなリュカの目に、ぼんやりと理解の色が浮かび、やがて悲痛《ひつう》なまでにはっきりと確信した。
「……パペックか……?」
「一個っきりしか、拾《ひろ》ってこられなかった……」
スラリンは、うなだれた。
「ドラきちは、おいらを持つのがやっとだったから。……こういうのが、一個ずつ、ばらばらに落ちてる。北に向かって、ずっと一直線に続いている。……たぶん、パペックは、お城の異変に気がついて駆けつけてきたんだ。そのまま敵のどれかにぶらさがって、おいらたちと一緒に飛んでいったんだと思う。そして、目印《めじるし》に、自分のからだを」
「一緒に、だって?」
リュカが聞き返す。
「敵を追ったのか?」
「そうなんだ。おいらたち、お包《くる》みにくるまってじっとしてた。赤ちゃんのふり、したんだよ。案《あん》の定《じょう》、敵はひっかかった……でも、ビアンカまでが勘違《かんちが》いしちゃって! ……ああ、ごめんリュカ! 許《ゆる》して! そんなつもりじゃなかったんだ! でも、急だったから……説明する暇《ひま》がなくて! いい思いつきだと思ったんだけど。ちゃんと言っておけば、ビアンカも、パペックも、みんな無事だったのに! メッキーまで……知らないうちに……犠牲《ぎせい》に……」
リュカは力づけるようにスラリンのからだに手をかけ、立ち上がった。
「よし……追うぞ!」
「しかし、ぼっちゃ」
サンチョがいいかけ、言葉を飲んだ。
蒼白《そうはく》なリュカの顔に、かつて誰もみたことのないような表情が浮かんでいた。
それは――怒《いか》りでもなく、哀《かな》しみでもなく。
はっきりと、憎悪《ぞうお》。
「……逃《に》げられた、だと?」
アームライオン、シールドヒッポ、オークキング、そして、ホークマンや薔薇《ばら》徽《じるし》の娘《むすめ》たちがみな、一様《いちよう》に凍《こお》りついた。
「赤ん坊に羽根が生えて飛んでいっただと? ……そんなバカな話があるかっ!」
イヴァがつかえつかえ釈明《しゃくめい》した。
砦《とりで》であるこの塔《とう》にたどり着こうとした刹那《せつな》、赤子の包みを引き裂《さ》いて、突然《とつぜん》小さな吸血《きゅうけつ》蝙蝠《こうもり》ドラキーが飛びだしたかと思うと、あっけにとられたミニデーモンの手から、もうひとつの包みを奪い取って去ったのだ、と。
「……作戦が……儂《わし》の完璧《かんぺき》な作戦が……」
ジャミの馬面《うまづら》が、みるみるうちに真っ赤になる。
「なぜ破《やぶ》れた! 言ってみろ、このドジ! バカものども! あれほど手間暇《てまひま》をかけて準備をしたのは何のためか! 言ってみろ!」
びしぃぃっ! ジャミの鞭《むち》が、色を失って平伏《へいふく》する襲撃《しゅうげき》軍《ぐん》の生き残りたちの上を薙《な》ぎ払う。びしっ、びしっ、ばしっ、ずびしぁっ! 呻《うめ》き、悲鳴、血飛沫《ちしぶき》。哀《あわ》れな懇願《こんがん》。
ビアンカは耳を塞《ふさ》ぎ、唇を噛んだ。隠れていなければならないとわかっていた。だが。
「やめなさい!」
気づいたときには立ち上がっていた。恐ろしい敵の首領《しゅりょう》を、まっすぐ睨《にら》みつけていた。
生き残りの薔薇娘が、目玉をむいて、王妃《おうひ》? と叫ぶ。
弱いものいじめをする奴は大《だい》っ嫌《きら》いだ。小さなころから、勝ち目のなさそうな相手でも、悪い奴をけして黙って見過ごしにはできない性分《しょうぶん》なのだった。
「何が完璧な作戦よ。もとから無茶な、馬鹿《ばか》げた考えだったんでしょうが。うまくいかなくて当然よ。疲れた部下に、やつあたりするのは止《よ》しなさい。みっともない!」
「……ほう……ほう、ほう、ほう、ほう!」
ジャミは唖然《あぜん》としたが、だんだんにそのばかでかい顔に、嫌《いや》らしいニタニタ笑いが浮かび、泡《あわ》よだれとなってふつふつと口の端《はし》にたまった。
「これは驚いた。王妃だと? では、おまえはリュカとやらの女房《にょうぼう》か。教えてくれ、グランバニア王妃|殿下《でんか》が、こんなところで何をしている」
「それは」
ビアンカは言い澱《よど》み、思わずうっすらと苦笑《くしょう》を洩らした。
飛んでゆくドラきちに気がついたときには、驚き、呆《あき》れ、自分の粗忽《そこつ》にうんざりもした。だが、一面、とてつもなく愉快《ゆかい》でもあった。あんな混乱の中で、替え玉を作るなど、よくも智恵《ちえ》が回ったものだ。きっとスラリンに違いない。
彼らの勇気をこころにとめて、ビアンカは昂然《こうぜん》と顎《あご》をあげた。
「マーサにあわせてちょうだい。あたしは彼女の息子の妻だわ。……おっと、妙な真似《まね》はやめておくのね。あたしに害をすれば、おまえはきっと叱責《しっせき》されることになる」
「少しは事情を知っているらしいな」
ジャミは蹄《ひづめ》のついた前肢《まえあし》で不器用に口許《くちもと》を掻《か》きながらぶつぶつと言った。
「なるほど、おまえの言うとおりかもしれん。少し考えてみよう……見ればなかなかいい女だ。きれいな女は好きだ。中でも、跳《は》ねっかえりのじゃじゃ馬には目がないのさ。子供のかわりに人質になる覚悟《かくご》で来たんなら、見上げた根性《こんじょう》というべきだ……ふふふ。よし。捕らえろ!」
薔薇徽の娘たちが急いで立って、ビアンカの両手をつかんだ。だが、ビアンカが静かに見つめると、思わずおずおず力を緩《ゆる》める。
「ふん」
ジャミは嘲笑《あざわら》った。
「そのすすだらけの顔を洗《あら》わせて、まともな服でも着せてやれ。なにせ、王妃さまなんだからな。丁重《ていちょう》にするんだぞ。……さて。今宵《こよい》はごくろうだった。予定とはちがったが、ともかく収穫《しゅうかく》があったのだから、今はこれ以上叱責すまい。追って沙汰《さた》あるまで、各自からだを休めておくように」
「……行ったか……」
薄闇の玉座の傍《かたわ》らで、オジロンは深いため息をついた。
「申しひらきもございませんッ!」
オジロンの足許《あしもと》にひざまずき、サンチョは赤毛の頭《こうべ》を垂《た》れた。
「とてもお止めできませんでした! ほんとうは……ほんとは、あたしも一緒に行きたかったのです。しかし。ここは、このサンチョ、マーリンどのやロッキー、ジュエルと共に残って、幼《おさな》いティミーさまポピーさまをお守りするが役割《やくわり》、それこそがリュカさまのおためと涙を飲んで」
「誕生のその夜に妻女《さいじょ》がさらわれるとは。まるで二十年前の再来じゃ」
空《から》の玉座に手をかけて、オジロンは、うっすらと笑う。
「歴史《れきし》はくりかえすか。血は、争えん、というのかな。おそらく、これは天命なのじゃ……よかろう。儂《わし》も、また、そなたらと共に留守《るす》を守ろう」
寒空に、ひとひらひとひらまた雪が舞《ま》いはじめる下を、リュカたちは無言のまま進んでいた。
まっしぐらに、北へ。
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2 天空の血
「ジャミさまも気が知れないわね。あんな中古ブスのどこがいいのかしら」
食事の席《せき》には、六人の娘《むすめ》たちがいた。円卓《えんたく》の中央には、殺《ころ》したて同然の鹿《しか》の骨《ほね》つき肉《にく》が山と盛《も》られている。みな盛《さか》んな食欲《しょくよく》を見せた。べとつく指を嘗《な》め、ゴブレットをむんずとつかみ、要求がましく突《つ》き出して。素焼《すや》きのピッチャーから注《そそ》がれる液体《えきたい》は、どす黒いほど赤く、とろとろと粘《ねば》っている。薔薇《ばら》の洗礼《せんれい》を受けた娘たちは、普通のひとの食事とはいささか違《ちが》う趣向《しゅこう》を持つのだ。
金髪《きんぱつ》の痩《や》せぎすな青年がひとり、重たげなピッチャーをかかえて右往左往《うおうさおう》している。ほとんど裸《はだか》で、腰《こし》に派手《はで》な模様《もよう》の布《ぬの》が申《もう》し訳《わけ》に巻《ま》きつけられてあるばかりだ。静《しず》かな南洋の海岸にでも似合《にあ》いそうなくだけた恰好《かっこう》。だが彼の表情はおどおどと暗く、気弱そうな瞳《ひとみ》は伏《ふ》せられたままだ。
「ボー! こっちにも!」
呼《よ》ばれて、彼はすっ飛び上がり、ぺこぺこしながら駆《か》けつける。
「チッ、ぐずぐずすんじゃないよ」
「よしなよ、あんまりいじめると、また泣《な》いちゃうわよ」
「やつあたりは下品だよ。憎《にく》らしいのは、あの女でしょ」
「ふん、いなか領主《りょうしゅ》の腐《くさ》れ女房《にょうぼう》め! なにが王妃《おうひ》だ。威張《いば》りやがって……あ、イヴァだ」
繃帯《ほうたい》に包《つつ》まれた右腕《みぎうで》を肩《かた》から釣《つ》り、髪《かみ》を極端《きょくたん》な横わけにして顔の右半分に被《かぶ》せた娘が入ってくると、娘たちの陽気さがみるみる萎《しぼ》んだ。
「だいじょうぶ、イヴァ?」
「食べられる?」
場所をあけ椅子《いす》を勧《すす》めても、イヴァは目もあげない。娘たちは痛《いた》ましげな目くばせをしあった。
「……だめだったの?」
ひとりが、おそるおそる尋《たず》ねると、イヴァはうなずいた。
「新しい手が必要なら、アームライオンに一本|譲《ゆず》ってもらったらどうだって言われた」
垂《た》れた金髪の陰《かげ》で長いまつげが、飛び立とうとする鳥の翼《つばさ》のようにさかんに瞬《またた》く。
「あたしは……あたしは、だめにしてしまった……せっかくのからだを! マァサさまにいただいた、美しいからだを……!」
誰《だれ》かが、半分|噛《か》みくだかれた骨をそっと置いた。それきり、みんな黙《だま》りこむ。
「ねぇ。なにか言ってよ。みんな、どう思う? あんまりじゃない?」
イヴァは声を荒《あら》げ、無事《ぶじ》なほうの手で卓《たく》を叩《たた》いて立ち上がり、獅子《しし》がたてがみをふりたてるようにして髪をはらいのけ、傷《きず》ついた顔をさらけだした。顎《あご》から鼻にかけてはこの世のものとも思われぬほど美しい、だが右の目とその周囲は……。
仲間《なかま》の娘たちが堪《た》えかねて目をそらすと、イヴァは激怒《げきど》した。
「ちゃんと見な。はっきり見なさいよ、この醜《みにく》い顔を! こうなったのは、あたしじゃなかったかもしれなかった。あんたたちのうちの誰かだったかもしれなかったんだよ!」
「……イヴァは、まだいいほうじゃない」
ひとりが、たまらず、声をあげた。
「エドナとベリルは帰ってこなかった。ジャディスは、ゆうべ、死んだ」
「そうね。生命《いのち》がとられなかっただけ、幸運よね……でも、あんたたちだって知ってるでしょう。マァサさまは奇跡《きせき》をなさる。手首のひとつやふたつ、ちょっとした顔の火傷《やけど》ぐらい、あっという間に治《なお》せるのに! なぜジャミさまは取り次いでくださらないの? 生命がけでがんばったんだもの、そのくらいのお慈悲《じひ》は当然……」
「任務《にんむ》が達成できてればね」
突き放すように、アネットが言った。
「予定どおり、双子《ふたご》の赤《あか》ん坊《ぼう》が、手に入っていたのならね。でも、もうよしなさいよ。またきっと、チャンスがある。そのとき、よく働けばきっと」
「チャンス……いっそ、あの女を連れて……ジャミさまには知られぬように……」
イヴァの瞳《ひとみ》は剣《つるぎ》の先のようにきらめいた。金髪の半裸《はんら》の若者《わかもの》がおどおどとさしだしたゴブレットを無意識《むいしき》のままつかみ、つかんでから気がつき、にっこりと笑《わら》う。
「いい子ね、ボー。そのうち、おにいちゃんとやらを、捜《さが》してあげるからね」
「ほんと?」
ボーの、千切《ちぎ》れんばかりに尻尾《しっぽ》を振《ふ》る犬のような顔に、イヴァの瞳が、また氷点下に凍《こお》る。ボーはたちまち青ざめて、こそこそとほかの娘の背《せ》に隠《かく》れる。
早暁《そうぎょう》森を抜《ぬ》けたリュカたちは、すでに、領土の北方を閉《と》ざした岩山の連《つら》なりに達していた。
草もろくに生《は》えていない寂《さび》しい岩崖《いわがけ》の中途《ちゅうと》に、ドラきちが小さな木製《もくせい》の首を見つけ、プックルが身軽に走って拾《ひろ》ってきた。木偶《でく》人形めいて無気質なその顔は、いかにも高いところから落ちたようにへこみ、泥《どろ》に汚《よご》れていた。丸い空洞《くうどう》のような目が、じっと宙《ちゅう》を見つめている。
「……生き返らない?」
尋《たず》ねるリュカに、ピエールが首を振った。
「時間がたちすぎています……それに、全部が全部みつかったわけではない」
スミスが無言で、背負《せお》ってきた布包《ぬのづつ》みをおろした。ここまでの道すがら、見つけられた限りのパペックであったもののかけらたちに、いま見つけたばかりの首をあわせ、彼らは簡素《かんそ》な墓《はか》を作った。コドランが火を吹《ふ》き、弔《とむら》いの篝《かがりび》とする。ガンドフにメッキー、これで三人め。
「安らかに、パペック。……あの世でも愉《たの》しく踊《おど》っててくれよ」
スラリンは手向《たむ》けの花を散らしながら、呻《うめ》くようにそう言った。
戦士たちは頂《いただき》に登った。塔《とう》が見えた。おぞましくくすんだその色あいは、寿命《じゅみょう》を越《こ》えてまだ立ちつくしている樹木《じゅもく》のように見えた。ごつごつと節《ふし》くれだった松の巨木《きょぼく》のように、ねじくれ、二叉《ふたまた》、三つ叉に分かれながら、雲つくように伸《の》び上がっている。
「あれだにゃー! 敵どもは、あそこに向かってたにゃー」
「び、び、ビアンカ、ま、ま、まだあそこにいるかな?」
「いる」
リュカは片目をすがめた。
「必ず、無事《ぶじ》でいる。……さ。行くぞ!」
「そう見えないことは承知《しょうち》しているが」
ジャミは気取った顔を卓に伏《ふ》せ、桶《おけ》のニンジンをもしゃもしゃと頬張《ほおば》り、飲みこんだ。
「儂《わし》はこれでも菜食《さいしょく》主義者でね。肉だの血だのは、どうも生臭《なまぐさ》くていけない」
「ほかの魔物《まもの》さんたちは、そうは言わないんじゃないの?」
ビアンカは当てがわれた桶《おけ》一杯《いっぱい》のニンジンの中から、なるべく小さそうなのを一本取って、ぽきりと噛みついてみせた。
[#挿絵(img/DQ5_3_072.jpg)入る]
「そうなのだ。特にあの薔薇《ばら》の徽《しるし》の娘どもときたら……いや、そなたはどうだ? ふだんはやはり、肉を喰《く》うのか」
「食べるわよ。あぶり肉なんて、だーい好き。でも、これもけっこう美味《おい》しいわ」
そうだろうそうだろう、とばかりにうなずくと、ジャミは胸《むね》からさげた純白《じゅんぱく》のナプキンを使いながら、片前肢《かたまえあし》をあげて、桶のおかわりを持ってこさせた。五桶めのニンジンだ。
ここが塔のどのあたりにあたる部分なのかはわからない。窓《まど》はなく、白大理石の柱が八本輪を描《えが》いて立ち並《なら》んだ中に、擦《す》り切れたものとはいえずいぶん上等そうな絨緞《じゅうたん》が敷《し》かれ、食事の席がしつらえてあった。奥に壇《だん》。馬蹄型《ばていがた》に小高くなった中央に、絨緞の様式《ようしき》同様、なんとも古めかしい長椅子《ながいす》が置かれてあるのが、ジャミの玉座《ぎょくざ》のつもりなのだろうか。
それにしても。呼《よ》びだされて、いったい何をされるかと思えば、さし向かいで、生のニンジンを勧《すす》められるとは。大きな馬魔《ばま》が真面目《まじめ》くさって人間用の椅子に座《すわ》っているのを見るだけでも、ちゃんちゃら可笑《おか》しいっていうのに! ビアンカは内心ムラムラ苛立《いらだ》っていたが、顔に出さないだけの用心はあった。
「臭《くさ》いものは嫌《きら》いだ」
ジャミは言った。くちゃくちゃと、柔軟《じゅうなん》にめくれあがるばかでかい唇《くちびる》から、赤《あか》い汁《しる》まみれの恐《おそ》ろしく巨大《きょだい》な歯をのぞかせながら。
「だから、人間の男も好かぬ。血と汗《あせ》と小便を発酵《はっこう》させたような、ひどい臭《にお》いがするからな。だが、女は香《こう》ばしい……中でも美しい女は。太陽のような、朝露《あさつゆ》のような、花のような匂《にお》いがする」
ビアンカは無言のまま、のろのろと食事を進めた。
「おまえは美しい。あの人形めいた娘どもとは違《ちが》う……伸びやかな若葉《わかば》のような匂いがする。いっさい肉を喰わなくなれば、もっといい匂いがするようになるだろう……ウィヒヒヒ」
開いたり閉じたりする馬の鼻腔《びくう》、うっとりと賞賛《しょうさん》するようなジャミの目つきに、ビアンカはゾッとした。やめておいたほうがいいと思いながらも、思わず言った。
「じゃ、あんた、あたしの馬になる? あたしをマーサのところまで、乗せてってくれない?」
みるみるジャミの表情が曇《くも》り、充血《じゅうけつ》した白目をむき出しにして、フヒヒン! と鼻を鳴らした。
「嘗《な》めたような口をきくんじゃない! いつでも好きなときに殺せるのだからな」
ジャミは言い、いななくように笑った。
「おまえの処遇《しょぐう》について、イブールさまに伺《うかが》いの使者をたててある。遅《おそ》くとも夕刻《ゆうこく》までには返事が来よう。今日は、おまえにとって、この世で最後の一日となるかもしれぬ。よく見ておくがいい、山を、空を、森を。雲を、風を、太陽を。そして、美しい、馨《かぐわ》しいものをできる限りたくさんその瞳《ひとみ》に閉じこめて旅立つがいい。俺《おれ》の手で……この俺さまの手でな……ウィヒヒヒーン」
「待って! その前に、マーサにあわせてよ!」
「それは俺が決めることではない」
ジャミは立ち上がり、振り向きもせずに歩み去った。立ちつくすビアンカの後ろで、アームライオンが恭《うやうや》しく会釈《えしゃく》をする。
リュカと仲間《なかま》たちは、真正面から悪魔塔《デモンズタワー》に侵入《しんにゅう》した。オークキングを薙《な》ぎ払い、デビルダンサーを屠《ほふ》り捨《す》てて、上へ上へとおびやかす。はぐれメタルを追い散らし、シールドヒッポを打ち破り、突如《とつじょ》現れただだっ広い床を駆けぬけようとした。
が、走る鼻先から、次々に、太い針《はり》のような鋭《するど》い槍穂《やりほ》が飛びだすではないか!
「くそ、行き止まりか!」
襲来《しゅうらい》するホークマンと鋭く剣《けん》を打ち合わせながら、ピエールが呻《うめ》く。
「平気だよ。おっかないもんか、こんなの!」
するりとかわしたスラリンが、たった今まで立っていた周囲に、ベロゴンロードの吐《は》き捨てた強酸《きょうさん》の唾液《だえき》がしゅうしゅうといやな匂いの煙《けむり》をあげる。
「おいらのからだは頑丈《がんじょう》だ、伸《の》びて縮《ちぢ》んでよく弾《はず》む。おいらなら、誰《だれ》より狭《せま》いところも通りぬけられる! 走り回って槍という槍を出してしまうから、ちょっとだけ待ってて!」
いいながらひょっこりぴょっこり身軽にすり抜ける先々が、みるみる針の山になる。あわててスラリンを止めようとする呪《のろ》いのマスクどもをコドランの火炎《かえん》が焼き払《はら》う。
「よし。じゃあ、その間にぼくはちょっと戻《もど》ってみる」
腐肉《ふにく》にたかる蝿《はえ》のように飛び交うメイジキメラを右に左に切り落とすリュカが手にしているのはスネークソード。双子《ふたご》の誕生《たんじょう》祝《いわ》いにと城下《じょうか》の町の人が贈《おく》ってくれた妖《あや》かしの剣《けん》で、紅蓮《ぐれん》の珠《たま》を抱《いだ》き鎌首《かまくび》を擡《もた》げた大蛇《だいじゃ》の形、緑金色に輝《かがや》く刀身《とうしん》は何百度切りつけても研《と》ぎたての切れ味だ。
「埃《ほこり》まみれで確かじゃないが、さっき通り過ぎた脇《わき》の床に妙《みょう》な徽《しるし》が見えたんだ。あの星のような形、昔《むかし》、見た覚えがあるものと同じとすれば、たぶん、何かの仕掛《しか》けだと思う」
「わかった。気をつけて!」
「そっちこそ」
「侵入者《しんにゅうしゃ》だと?」
ホークマンの報告に、アームライオンは虹彩《こうさい》のない白瞳《しろめ》をギラリと光らせた。
「人間め、ちょこざいな。さっそく女を取り返しに来たな!」
四本の前肢《まえあし》の関節《かんせつ》をぽきぽき鳴らしながら星徽《ほしじるし》のしかけ床を踏《ふ》んで移動したそのとたん、アームライオンは紫《むらさき》ターバンの若者《わかもの》といきなりばったり出くわした。
互《たが》いにハッと飛び離《はな》れた次の刹那《せつな》、紫の布の端切《はぎ》れが散る。キラーパンサーの牙《きば》が光る。遅《おく》れて到着《とうちゃく》した二体のホークマンは、スミスのかざしたまどろみの剣に、たちまちあえなく昏倒《こんとう》した。激《はげ》しく打ち合うこと数度、尋常《じんじょう》の二倍の数の腕《うで》を持つ獅子も、リュカとプックルの息のあった戦いぶりには敵《かな》わず、とうとう首を落とされた。
その断末魔《だんまつま》の絶叫《ぜっきょう》に、小部屋の隅《すみ》の櫃《ひつ》の内から、人間の男がまろび出た。
すわ敵《てき》がたかと、たちまち色をなしたリュカたちに、
「待った! 殺さないでくれ、俺《おれ》は人間だ、ディックというケチなこそ泥《どろ》だ!」
「こそ泥だと? こんなところで何をしている」
「すごいお宝《たから》があると聞いたのさ」
男は垢《あか》だらけのシャツの襟《えり》を直し、ぼうぼうの無精髭《ぶしょうひげ》を歪《ゆが》めて、痛《いた》いような笑《え》みを見せた。
「だが、お宝を手に入れる前に、弟のボーが捕《つか》まってしまった。光の教団の信者たちに」
「侵入者だって?」
娘たちは色めきたった。骨の残りをしゃぶっていたものも、遊戯盤《ゆうぎばん》に興《きょう》じていたものも、互《たが》いに枝毛《えだげ》を探しあっていたものたちも、みないっせいに殺気《さっき》を放ってボーを見る。
「やまあらしの階が突破《とっぱ》されたんだって。アームライオンも、悪魔《あくま》のつぼもやられたよ」
ボーは小さな痩《や》せた尻《しり》をがくがくと震《ふる》わせている。
「火吹《ひふ》き竜《りゅう》の階に、シールドヒッポやダックカイトが、血相《けっそう》変えて集まってるんだ! きっとこのぼくも殺される! ねぇ、どうか、逃《に》がしてください。せめて、どこかに隠してください」
すがりつくボーを振りきって、娘たちはビアンカの部屋に駆けこんだ。
「なんの騒《さわ》ぎ?」
ビアンカは紅潮《こうちょう》した頬《ほお》を振り向かせた。戦いの気配はこの高窓にも伝わってきた。何がどうなっているのか知ろうとして、恐ろしい高さからなかば身を乗り出していたのだ。
無言のイヴァの憎々《にくにく》しげな表情に、ビアンカの胸は躍《おど》った。
「リュカが。リュカが来たのね!」
「そうとも。だが生憎《あいにく》だったね。旦那《だんな》が来たときにゃ、おまえはいない!」
「イヴァ、どうするの?」
「決まってるだろ、この女を餌《えさ》に、マァサさまに直接かけあうんだ!」
イヴァは暴《あば》れるビアンカの鳩尾《みぞおら》に、鋭《するど》い突きをくれ、失神させる。
「ジャミさまは頼りにならない、この女の色香《いろか》に惑《まど》わされているから、リュカとかいう奴《やつ》に負けてしまうかもしれない。そうなる前にこの人質を連れ出せば、手柄《てがら》になる! そうしてあたしは、もう一度、きれいな顔とからだをもらうんだ。なんならこの女そっくりにしてもらって、色男をだます囮《おとり》になってもいい」
「……なるほど」
娘たちはみな凍《こお》りついた。いつの間にやら、ジャミそのひとが部屋に出現していたのだ。
「浅《あさ》はかな考えだなイヴァ。リュカはおまえと、その女を取り違えたりなどするわけがない」
「なぜさ!」
悔《くや》しげにイヴァは叫《さけ》び、残りはどちらに味方したものか迷《まよ》って、なす術《すべ》もなく立ちつくす。
「馬鹿め……愚《おろ》かものどもめ!」
ジャミは長鞭《ちょうべん》を振るい、互いにそっくりな七人の娘たちを、ただ一撃《いちげき》のもとに打ち倒す。
「姿形《すがたかたち》を真似《まね》たとて、紛《まが》いものはしょせん紛いもの。おまえたちには美しい女の匂いがしない。……どんな濃密《のうみつ》な薔薇の香りでも、けしてごまかしきれるものではない!」
ジャミはたてがみを振るって嘲笑《あざわら》った。
「見た目ひとつにごまかされるのは、鼻のきかない阿呆《あほう》どもだけさ!」
イヴァが呻《うめ》いた。ジャミは、もう一度|鞭《むち》を振るった。なにひとつ動くもののなくなった床から、気絶《きぜつ》したままのビアンカをぐいとばかりに抱きあげて、ジャミはうっすらと笑う。
再び合流した一行をディックとやらが誘導《ゆうどう》した。星の徽《しるし》の床を踏み、壁《かべ》に隠された棒《ぼう》を倒《たお》せば、見えないどこかで装置《そうち》が動いた。隔《へだ》たった場所まで一瞬《いっしゅん》のうちに移動できたり、ありもしなかった通廊《つうろう》が出現して渡《わた》ることができたりした。どこをどう通ってきたのか、わけがわからなくなったころ、気がつけばリュカたちは塔の上端近くにあった。
「おっと、言っておくんだった」
バルーンとダックカイトの厄介《やっかい》な混成軍《こんせいぐん》を相手にじりじりと進んでいるときに、コソ泥《どろ》と自《みずか》らを呼《よ》ぶ男がすっとんきょうな声をあげた。
「用心しなせえ、ここらの壁のあちこちにゃ、とびきり妙てけれんなからくりがあって、どんなに急いで走り抜けても真っ黒|焦《こ》げの燻製《くんせい》よ!」
「防ぐ手はないのか」
「岩だ。あのお色気娘どもは、岩を使っていた。そこらにばかでかい岩くれが転がっているだろう、そいつを、壁の飾《かざ》り、竜の顔をした炎の吹き出し口のところにあてがっちまうのだ」
「よ、よし。す、す、スミス岩動かす!」
狭苦《せまくる》しい回廊《かいろう》に敵味方が入り乱れた。
プックルの牙《きば》をサッと避《よ》けたダックカイトが、勢いあまって火吹き竜の顎《あぎと》の前を通過すると、ごうっと凄《すさ》まじい炎が吹き出した。もの言う間もなく焼かれて落ちるダックカイトに、ディックが、言わんこっちゃないと肩をすくめる。シールドヒッポや呪いのマスクが、思わずたじたじと下がりかけたところを、ドラきちの爪が、コドランの火炎が、床の大穴《おおあな》に追い落とす。
さっぱりと空いた廊下《ろうか》を、スミスとディック、プックルとリュカがそれぞれ手わけして岩を押し、無事|無効《むこう》にした罠《わな》の前を火急《かきゅう》すみやかに走り抜ける。
「よぉし、その先の階段《かいだん》をあがりゃあ、娘っこどもの部屋だ! いやぁ、頼りになる仲間がいるってのはいいもんだぜ。大勢いると道もはかど……うわぁっ」
階上から空《くう》を切って二|翼《よく》のホークマンがまっ逆《さか》さまに降下してきた。腰《こし》を抜かしたディックの頭を飛び越えて、プックルが爪を、リュカが緑の剣を閃《ひらめ》かせる。
「あっ、そいつだ!」
じたばたと床に苦悶《くもん》するホークマンを見て、スラリンが叫んだ。
「ビアンカは、そのホークマンにつかまって飛んでったんだよ!」
「なに?」
リュカはホークマンに近づき、血泡《ちあわ》を吹いた嘴顔《くちばしがお》を覗《のぞ》きこむ。
「おいっ、しっかりしろ。人質はどこだ?」
「けっ、甘《あま》いねぇ」
ディックがカサにかかってホークマンを蹴《け》とばした。
「おらおら、この烏天狗《からすてんぐ》、とっとと喋《しゃべ》らねぇとその嘴もういっぺんおっぺしょ……わぁっ!」
「危ない!」
ホークマンが黄色い瞳をカッと開き、えぐるように突き上げた長剣は、あとひと息リュカが出遅《でおく》れたなら、こそ泥ディックを右と左に切り分けていただろう。が、間一髪《かんいっぱつ》、ディックを突き飛ばしたリュカ自身の顔を刃先《はさき》は擦《こす》り、つっ、と鋭く傷《きず》が走る。左頬から眉間《みけん》を掠《かす》めて額《ひたい》まで。
けひひひひ! ホークマンが嗤《わら》い、茫然《ぼうぜん》とするリュカにもう一撃をくわえようとしたところを、後ろからピエールに切り捨てられ、今度こそ、二度と動かぬ骸《むくろ》となる。
「油断《ゆだん》するな、リュカ!」
革手袋《かわてぶくろ》についた血をしみじみ眺《なが》めているリュカを、ピエールは厳《きび》しい声で叱《しか》りつけた。
「いったん手傷《てきず》を負わせた敵は、確実に息の根を止めなければ! 情《なさ》けは無用だ。さぁ手当てを」
「……いや、いい」
リュカは手をおろし、こんなときなのに、なんとも可笑《おか》しそうに微笑《ほほえ》んで見せた。
「この傷は、このままでいい。これで、ぼくも、親父《おやじ》らしくなる」
ピエールとディックが、怪訝《けげん》そうに顔を見合わせる。どちらも、パパスを知らない。パパスの顔のよぎり傷を知らない。
そして、リュカ自身も知っていたわけではない。父のあの傷が、ちょうど同じようにして生じたものであったことを。若《わか》き日の戦いで、ヘンリーの父ベルギスをかばおうとして、やはり魔物にやられた向こう傷であることを。ただ。男の顔に傷ができたのが……父そのひとと同じように、傷のある男になることが……リュカには、奇妙《きみょう》に誇《ほこ》らしく嬉《うれ》しかっただけだ。
一瞬の猶予《ゆうよ》のさなか、どたどたと足音高く金髪の若者が駆け降《お》りてくる。
「おお、ボーじゃねぇか! 無事だったのか」
「にいさん! ああ、よかった。やっと会えた!」
抱きあう兄弟《きょうだい》。
「娘っこどもはどうした?」
「殺された。王妃を連れてトンズラしようとしてるとこを見つかって、みんなジャミに」
「ジャミだって? そいつは馬の姿をしたばけものか?」
リュカが語気《ごき》するどく問い詰《つ》める。わけもわからぬまま、がくがくとうなずくボーを見ると、リュカは、たったいまボーが逃げてきた階段を物もいわずに駆け上がった。仲間の魔物たちが素早く続き、思わずつられて駆けだそうとするディックの腕《うで》をボーが押さえる。
「だめだよ、にいさん! 上にはまだ、うんと強い魔物がウジャウジャいるよ!」
「それじゃあ、とっととずらかるか……いや待て待て、なにか忘《わす》れ物《もの》をしてないか」
言いかけてディックは口ごもる。
「なんだい?」
「……そうだ。お宝だ。ちくしょう、お宝を手にいれてねぇ! このまま黙ってひきさがったんじゃあ、泥棒《どろぼう》のご先祖《せんぞ》さまに顔むけができねぇぞ!」
「お宝かい?」
ボーは青く隈《くま》の浮《う》いた顔でべそをかく。
「そんなの、もう諦《あきら》めようよ。生命《いのち》あってのモノダネだろ。せっかくやっと逃げてきたんだぜ」
「馬鹿《ばか》野郎《やろう》、それだからおまえはいつまでたっても半人前なンだ! そもそも何をしに来たんだか、忘れちまったんじゃねぇだろうな。すんばらしいお宝があるってぇあのウワサ。大勢の魔物がこんだけ気合い入れて守ってんだ、ガセなわけがねぇ! 俺ぁ行くぞ、ボー!」
「わぁん。待ってよ、にいさん!」
翡翠《ひすい》に輝くスネークソードを高々と掲《かか》げて駆け上がってくるリュカを見つけると、すでにかなり動転していた下っぱ魔物どもは、たちまち狼狽《うろた》え戦意をなくした。進むものと、逃げ惑《まど》うものたちは混じりあいぶつかりあって、押すな押すなの混乱となった。
翼《つばさ》あるものは窓から飛び立ち、飛べないものもわらわらとこぼれ、うまく仲間につかまったり、ただ小石のように落ちていったりした。何匹かは壁際《かべぎわ》にひっついて降参《こうさん》の姿勢《しせい》に頭をかかえ、何匹かは自棄《やけ》っぱちの奮闘《ふんとう》を試《こころ》みて虚《むな》しく累々《るいるい》と積み重なった。
折り重なるようにして死んでいる七人の娘たちの傍《かたわ》らを通りぬけたときも、リュカは呻《うめ》き声をあげたが、足を止めはしなかった。また階段を駆け上がると、急にまぶしい表に出た。
瞳《ひとみ》をしかめたリュカの頬に、冷たい風が吹きつけた。屋上だ。
遠い山の端《は》にまもなく落ちてゆこうとする太陽がぎらぎらとまぶしく照りつけている。屋根のない塔の最上階に、長い影《かげ》を引いて、オークが待っていた。
「たいした奴だ、おまえは」
オークは牙口《きばぐち》を笑わせ、見るからに重たげな鉄の槍を油断なく構え直した。
「よくぞここまでやってきた。だが、ここは通さぬ!」
リュカは無言のまま、傷の走った顔の正面にスネークソードをぴたりと構えた。敵の槍の穂先《ほさき》がわずかにゆらめいた。踏みこむ! と、オークの鈍重《どんじゅう》そうなからだが宙に飛んだ。槍の長柄《ながえ》を高飛びの棒《ぼう》がわりに使って巧《たく》みに位置を変えたのだ。反射的にからだを回したリュカの眼球《がんきゅう》に、鮮《あざ》やかなオレンジの陽光が矢《や》のように突《つ》き刺《さ》さった!
しまった! まぶしい。何も見えない!
のけぞるようによろめいて両目をおおい無防備になったリュカに、オークは、にやりと笑った。力いっぱい槍を振り上げ、突き立てようとした。が。そのときだ。
ラナルータ!
「な、なんだ? なにごとだ?」
突如《とつじょ》、あたりが漆黒《しっこく》の闇夜《やみよ》となったのだ。オークは驚きのあまり槍を取り落とす。からんからんと棒槍の床に弾む音の上に、ドラきちのはしゃいだ声が響《ひび》きわたる。
「さぁ、これでアイコにゃっ! いまにゃっ、リュカっ、やれっ! やるんにゃっ!」
「だ、だめだ、ドラきち。全然見えないっ!」
「ここにゃっ。オレの声の方角を狙《ねら》うんにゃっ」
「よし、どいてくれ、危《あぶ》ない!」
「だいじょうぶにゃー! オレは暗闇《くらやみ》でも見えるもの、上手《じょうず》に避《よ》けるにゃー! さぁ、ここにゃ、ここにゃ、ここを狙えっ」
オークは足を踏みならし、わめき散らし、パタパタうるさく搏《はばた》きまわるドラきちをなんとかおっぱらおうと暴れている気配だ。からからいう音が途切《とぎ》れた。槍を拾われてしまったらしい。
「はやくってば、リュカ! ここ、ここ、ここだにゃっ!」
「……よ、よしっ!」
リュカはきつく目を閉じたまま、間合いを詰《つ》め、スネークソードを突き出した。闇の中、槍の穂と剣の刃《やいば》が火花を散らし、交錯《こうさく》する。
ぎゃあああっ!
凄《すさ》まじい絶叫が轟《とどろ》きわたり、また瞬時《しゅんじ》のうちに昼夜《ちゅうや》が逆転《ぎゃくてん》した。霞《かす》む目を擦《こす》り開けて、リュカは見た。曲剣は藪《やぶ》に走りこむ草蛇《くさへび》のように分厚《ぶあつ》い皮とあばらと筋肉繊維《きんにくせんい》をすり抜けて、敵の心臓《しんぞう》を貫《つらぬ》き通していた。そこに、しっかりとしがみついていた小さな仲間のからだごと。
「……こ……この俺さまがやられるとは……」
オークの生命《いのち》の火が消えると同時に、いかなる仕掛けか、その背後の壁の一部が消失した。そこから宙に伸びた細い通廊《つうろう》は、双子塔のもういっぽうの頂上に続いている。だが。
「ドラきち! ドラきち!」
リュカは友のぼろぼろのからだを抱いて、必死に名を呼んだ。回復呪文《ベホイミ》を唱えた。だが、吸血ドラキーはひくひくと痙攣《けいれん》をするばかりだ。
「なぜ逃げなかった。なぜ避《よ》けなかった!」
「……ぜ、絶対、や……やりそこなって、欲《ほ》しくなかったにゃ……」
ドラキーはかすかに笑った。
「さよにゃら、リュカ……ずっと、一緒に旅できて愉《たの》しかっ……」
「ドラきちぃぃぃぃ!」
リュカの背に、プックルがすり寄る。スミスがおいおいともらい泣きをする。ピエールが騎士《きし》の頭《こうべ》を垂《た》れて黙祷《もくとう》を捧《ささ》げる。濡《ぬ》れた頬を隠《かく》すこともなく顔をあげ、リュカはハッとした。
生じたばかりの宙廊《ちゅうろう》を、スラリンが、コドランに乗って駆けてゆく。その先に。
「ケケケ、こいこい、みんな来い!」
牛ほどもあるメイジキメラが、百万匹の蜂《はち》のような耳障《みみざわ》りな羽音《はおと》をたてている!
「あのうまそうな女は、ジャミさまにとられてしまったからな! かわりにおまえらを全部まとめて喰《く》ってやろう!」
クワッと開いた嘴《くちばし》の中、青みがかった不気味《ぶきみ》な色あいの見るからに硬《かた》そうな舌《した》がれろれろと盛んに出入りする。と。ふいに、あたりが歪《ゆが》んだ。リュカの全身が水を浴びたようになった。
「……だ……だめだ!」
リュカは叫び、なりふりかまわず走り出した。
「よせ、逃げろ、スラリン! コドラン! ……ああっ!」
視界《しかい》いっぱいが、目くらむほどに白熱した。全身が痺《しび》れ、宙に浮いた。
メイジキメラの吐《は》いた燃え盛《さか》る火炎と、スラリンの放った灼熱《しゃくねつ》の炎《ほのお》が、まっこうからぶつかったのだ! コドランがふっ飛ばされて、塔の外側へ落ちてゆく。メイジキメラの驚愕《きょうがく》の表情と、スラリンの得意そうににやりと笑った顔が、焚《た》き火《び》に迷《まよ》いこんでしまった木《こ》の葉《は》のように一瞬の生命《いのち》を煌《きら》めかせ、輪郭《りんかく》を赤く透《す》き通らせ、そして、かき消すように散った。
針の先のような一点から凄《すさ》まじい烈風《れっぷう》が沸《わ》き起こった。熱によって生じた真空と、圧縮《あっしゅく》されて岩のようになった空気とが、交互《こうご》に層《そう》を生じ、渦《うず》を巻いて四散《しさん》したのだ。
「す……スラリーン!」
もみくちゃになって弾《はじ》き飛ばされたリュカの足首を、スミスの大きな手がすんでのところで捕まえる。ピエールが、もがきながら、吹き払われる。プックルの尾の先の赤い毛が、リュカの耳元を、流星のように飛びすぎていく。ごうごうと砂埃《すなぼこり》がまいあがり、稲妻《いなずま》を発する大気がカミソリのように鋭く服や肌《はだ》を切り裂《さ》いた。
風が消えたとき、周囲は凍《こお》りついたように静かになった。ひび割れ、いまにも崩れそうにぼろぼろになった床の向こうで、壁の一部が音もなく開いてゆく。
「……く……くそぉぉっ! なんてことをするんだ、スラリンの大馬鹿野郎っ!」
血を吐くようにわめき散らすリュカを、スミスが必死にひっぱりあげた。スミスとリュカは、つなぎあった手と足を支点にして宙廊の左右に分かれ、互いに互いを重しとしてぶらさがったまま、風圧に押しつけられて、助かったのだった。
「無茶《むちゃ》を、無茶をしやがってっ……なぜ死んだ。なぜ死に急いだ、スラリン!」
「す、す、スラリンは、は、恥《は》ずかしがってた……」
スミスが言った。腐《くさ》りかけの顔にうつろな悲《かな》しみを浮かべ、もつれた舌で、つぶやくように。
「じ、自分がい、いい思いつきだと思ったことが、う、うまくいかなかったから。か、か、かえって、みんなに、め、迷惑《めいわく》かけちゃったから。し、死にたいくらい、は、恥ずかしいって言ってた……。でさ、ど、ど、ドラきちが、りゅ、リュカを守って、か、か、かっこよく死んだから」
「かっこよく?」
リュカは潤《うる》んだ瞳をカッと見開いた。
「かっこいい死なんてあるもんか! 死んだら、死んだら……それっきりなんだぞ!」
「そのとおりだ」
思いがけず近くに聞こえた嘲笑《あざわら》うような声に、リュカはぴくりと振り向いた。
開いた壁の向こう側から、後《うし》ろ肢《あし》でたちあがった巨大な馬が――それは『死』の騎馬《きば》であるものが常にそうであると言われるとおり、青ざめた白い馬だ――ゆっくりと近づいてくるところだった。片方の前肢に長鞭を持ち、その柄《つか》で頸《くび》を絞《し》めるようにして、ビアンカを引きずっている。
「王たるもの、身内の安否《あんぴ》より、まず国のことを気遣《きづか》わねばならぬはず。なのにおまえはここに来た……その生命《いのち》を無駄《むだ》に捨てに来たのだ!」
「……ジャミ」
リュカはゆらりとからだを回した。
「やはりきさまか……よくも……よくも、大切な仲間たちを……そして父を」
「リュカ!」
ビアンカが叫ぶ。
「こんな奴、相手にしちゃだめ! ほんとうの敵は別のどこかにいるのよ! そいつが命令して、あたしたちの赤ちゃんをさらって、マーサを脅迫《きょうはく》するつもりだっ……っ」
「惜《お》しい……まことに惜しいな、ビアンカ」
ジャミが鞭柄《むちつか》の頸《くび》かせを押しつけると、ビアンカの喉《のど》がひゅうっと鳴った。
「そなたは賢《かしこ》い。よくぞ見抜いた。イブールさまの許《ゆる》しがあったなら、一度くらい、マーサにあわせてやりたかったよ」
「や、や、やい馬面! ら、ら、乱暴《らんぼう》をするなっ、び、び、ビアンカを離せっ!」
「ほう。腐った死体にまで好かれているのか? さすがだな。そなたほどの娘が、汗臭《あせくさ》い人間の男にガキを孕《はら》まされたとは、まったくおぞましい、嘆《なげ》かわしいことだ……おっと、動くな!」
ジャミがいっそう力をこめると、ビアンカの頬が真っ白になった。もう声は出せない。まつげが震え、力ない指が絞めつけられている頸の周囲をもがく。
「ふふふ……旗色《はたいろ》が悪いぞ。どうする、人間? どうやって死にたいかね? この際、親父《おやじ》と比べてみるか。どちらがより我慢《がまん》強《づよ》いかを……む?」
ジャミが、そしてリュカがスミスが眼《め》をみはった。ビアンカのからだから、ふいに色という色が抜け落ちたかと思うと、不思議《ふしぎ》な光がこぼれはじめたのだ。
「……な、なんだ?」
弱く、そして強く……かすかに瞬《またた》きながら、光は次第《しだい》に明るさを増し、やがて、小さな太陽のように煌々《こうこう》と輝きわたった。
「ぬ……ぬおおお!」
静脈《じょうみゃく》の浮いた前肢をぶるぶる震わせてジャミは抵抗《ていこう》したが、光はたえまなく溢《あふ》れだし、徐々《じよじょ》に、静かに鞭を押し上げる。とうとう光の力が勝《まさ》り、力つきたジャミが弾かれるように鞭を離す。
煌《きら》めく衣《ころも》に全身すっぽり包まれて、ビアンカはするりと抜けだした。彼女は、滑るように宙を飛んだ。光の尾をひきながら、リュカの広げた腕の中へ。
「き、きれいだ……ビアンカ……め、め、女神《めがみ》さまみたいだ!」
スミスは、祈《いの》るように膝《ひざ》をつき、ついでに目玉も零《こぼ》れ落とす。
「……その光……」
ジャミは呻《うめ》いた。
「その力……そうか。天空人《てんくうびと》か。どうりで、人間臭くなかったわけだ」
得心《とくしん》のいったジャミの瞳に、邪悪《じゃあく》な憎悪《ぞうお》の炎が躍《おど》った。
「おのれ。ならば、ますます生かしてはおけぬわ! ……かぁぁぁぁっ!」
「あ、あぶなぁいっ!」
スミスは立った。スミスは走った。スミスは踏ん張った。両腕《りょううで》を広げ、馬魔《ばま》に向きあい、リュカとビアンカを背にかばって。その無骨《ぶこつ》なほど大きなからだを、そのまま鉄壁《てっぺき》の盾《たて》として。
ジャミの放った凍《こご》える吹雪《ふぶき》が、スミスを襲《おそ》い、突き抜けた。腐った細胞《さいぼう》のひとつひとつが、ただ一瞬のうちに凍りついた。歪んだ顔が、目玉さえ流れだしたままの顔が、無私の愛に微笑んでいた。……愛するビアンカのために、愛するビアンカの愛するリュカのために。頼もしくも堂々たる氷の彫像《ちょうぞう》となって立ちはだかったのだ。
そして、ぴしり、と小さな音がしたかと思うと、凍《い》てついた肌に一条《ひとすじ》のひびが入った。たちまち広がったひびが全身にまわった瞬間、いっせいに砕《くだ》けた。スミスだったものは、数多《あまた》の透明《とうめい》な結晶《けっしょう》となって、ばらばらと音をたてて降り注ぎ降り注ぎ……最後に、ごとり、大きな塊《かたまり》が落ちる。
それは心臓《しんぞう》、スミスの心臓。なぜかただひとつだけ、壊《こわ》れることもなく、傷つくこともなく。どこまでも透明に澄《す》みきり、山の端《は》になかば落ちかかった夕陽《ゆうひ》に染《そ》まって、燃えるように赤く輝いている。きらきらと美しい光を宿すその心臓を、ビアンカは、信じられないもののように見つめ……駆け寄り、抱きしめ……ああ、スミス、スミス、スミス! ……どっと涙を溢《あふ》れさせた。ビアンカのからだを包んでいた不思議な光が薄《うす》れ、消えてゆく。
ジャミは茫然と我《われ》を忘れていた。リュカがその緑色の剣を振るってまっこうから切りつけてくるのに、前肢一本たりとも動かすことはできなかった。
ジャミの胸は、スミス以上に冷たく凍りついていたのだ。あんなに親切にしてやったのに、少しも靡《なび》かなかった女が……誰よりもいい匂いのする天空の血を引く……下っぱの見ていないところでなら、こっそり背に乗せて走ってみせてやってもいいとさえ思った、そのビアンカが。こともあろうに、腐った死体ごときのために、あんなに涙を流している! この自分が、魔界《まかい》でもその名を知られたジャミさまが、たかが腐った死体よりも、つまらない奴だったとでもいうのか?
寂《さび》しさに。悔《くや》しさに。怒りに。絶叫したくなるほどの羨《うらや》ましさに。
「……うがあぁぁああぁっ!!」
ジャミは叫んだ。胸に刺さる絶望《ぜつぼう》を、なんとか吐き出そうとでもするかのように。絶望は曲がりくねったスネークソードの形をしていた。ジャミは便利の悪い蹄足《ていそく》で、なんとかそれをはさんで抜こうとした。リュカが剣を引く。ジャミは勢いあまって、どう、と前のめりに倒れた。
「……おのれ……こんなはずでは……なぜ人間ごときにこの儂《わし》が」
ジャミは痙攣《けいれん》し、ごぼごぼと音をたてて赤黒い血泡《ちあわ》を吐いた。
リュカは剣を納《おさ》め、荒い息をついた。
敵《かたき》だった。父を斬殺《ざんさつ》し、妻をさらい、大勢の仲間たちを死に至《いた》らせた、憎んでも憎みきれない敵だ。だがそれでも。苦悶《くもん》するジャミを目《ま》のあたりにすると、憎しみはリュカの手に余った。
獣《けもの》であれ人であれ魔物であれ、尊《とうと》い生命《いのち》であることにはかわりはない。
「……もうたくさんだ」
リュカはつぶやいた。
「もうおしまいにしよう。……さぁ、答えろ、ジャミ。イブールは、そしてゲマはどこだ?」
ジャミはカッと眼を開いた。
「……な、嘗《な》めるな! ……儂《わし》は負けぬ……おまえをここから帰すものか! ええい、死ね! 死ぬがいい……これでもくらえぇぇっ!」
邪悪な殺気が瀕死《ひんし》のジャミから立ちのぼった。ビアンカが、リュカが、ハッとして身構えたその瞬間、たちまちあたりに灰色《はいいろ》の霧《きり》が沸き起こった。ふたりはそのまま硬直《こうちょく》した。たったいま、そこにあったままの姿で、ぴたりと動かなくなったのだ。
ジャミはあっけにとられた。はじめ、何が起こったのかわからなかった。やがて。
「……あは……あはははははは」
ジャミは笑いだした。狂《くる》ったように。最後の血泡をまきちらしながら。
彼は死の呪法《じゅほう》を行ったつもりだった。だが、力はたりず、憎い人間どもの生命を奪うことはできず、ただ、その肉体を石に変えるにとどまったのだった。
「なんと、なんと。好都合《こうつごう》なことよ! これでおまえたちはもう、互いに触れあうことも、ことばをかわすこともできぬ。その無様《ぶざま》な姿のまま、世界の終わりを見るがよい! あはははは……はははは……はは」
魔物の高笑いが途切れると、ちょうど夕陽が沈《しず》んだ。あたりは恐ろしいほど静かになった。
「……もう、いいかな?」
「いいんじゃないかな。待ちくたびれたよ、にいさん」
ディックとボーの兄弟は、物陰《ものかげ》からこっそりと顔を出し、動くもののなくなった塔の階段をおそるおそる昇っていった。
「ちぇっ。なんだ、もう屋上だぜ。めぼしいもんなんか、なにもなかったじゃねーかっ! ……ったく、おいしいお宝のウワサなんてのは信用できね……おや? なんだ、ありゃ?」
「石像《せきぞう》みたいだよ、にいさん!」
澱《よど》んだ雲の走り過ぎる薄暗い空の下、崩れかけの宙廊を渡っていく兄弟の足取りは、当然のことながら慎重《しんちょう》だ。二つの石像のそばには、狂った歓喜《かんき》にすさまじい笑いを浮かべた馬魔の巨大な死骸《しがい》があり、床には、凍ったものが溶けたらしい水たまりができている。
「……いってぇ何があったんだ……?」
「見てよ、にいさん。この石像、さっきのあのひとにそっくりだ! なんてうまくできた彫刻《ちょうこく》だろう。まるで生きてるみたいだよ。……ねぇ、ひょっとしてこれ、高く売れないかな」
「ああ。まったくよくできた石像だ。よし、運ぶぞ! おまえはそっちを背負え!」
「えっ、おいら、女のほうがいいよ。そっちのほうが少しは軽そう……」
「あんな目にあってもまだ女のほうがいいのか? しのごの言うなら置いてくぞ!」
「……わかったよ。こっちでいいよ……わぁ、重い。待ってよ、兄さん!」
……そのころ。
王宮の子供部屋《こどもべや》に駆けつけたサンチョは、火でも押し当てられたかのごとく激《はげ》しく泣きじゃくる双子の姿にことばを失った。
「こんなにお泣きになるなんて……はじめてのことでございます」
おろおろと、ラズー。
「もしや、リュカどの、ビアンカどのの身に、なにか恐ろしいことが起こったのでは」
「めったなことを!」
サンチョは震え声でたしなめた。
「お腹《なか》がすいたんじゃないのかい? 乳《らら》はたりているのかね?」
「はい、宿屋のピピンが、先月赤子をなしたばかりの若妻を見つけてきてくれました。健康《けんこう》な女で乳が余《あま》って余ってしょうがないそうで……さきほどおふたりとも満腹《まんぷく》なさったばかり、つい今しがたまでは、とてもよくお休みになっていらしたのです」
双子はますます声を高めて、急《せ》き立てるように泣き続けている。
「玩具《おもちゃ》は。なにか、ガラガラのようなものでも……おお、そうじゃ」
サンチョは部屋の隅《すみ》に走り、梱《こうり》を開けた。そこには、リュカの未明の出発に際《さい》し携《たずさ》えず城に残しおいたものがすべて、大切に仕舞《しま》いこまれていたのである。
「ほらほら、ティミーさま、ポピーさま。ごらんください。これが天空の剣《つるぎ》です。おじいさまからの贈《おく》り物《もの》、大切な大切な宝物《たからもの》ですよ。美しうございましょう、素晴《すば》らしうございましょう?」
双子は吃驚《びっくり》したように泣きやみ、きらきらする瞳で剣を見つめた。
「この剣を鞘《さや》から抜くことができるのは、世界じゅうにたったひとりなのですよ」
サンチョは大切な秘密《ひみつ》をささやくように言った。
「そのかたは伝説の勇者《ゆうしゃ》さまといって、この世を闇から……あっいけません、ティミーさま! 危のうござい……」
痺《しび》れるような衝撃《しょうげき》に、サンチョが、ラズーが、控《ひか》えていた女官たちが、みな言葉を飲んだ。
剣が抜かれていた。いや、赤子のあどけない手のうちに、それは、自らするりと滑《すべ》りこんだのだった。金でも銀でもない金属は、そのまだふくふくと柔らかな手の中で、まるで新しい生命を取り戻したもののように燦然《さんぜん》と輝きわたる。
ティミーはもう少しも泣いていなかった。重たいはずの宝剣《ほうけん》を、軽やかに振り回し、どこまでも澄みきったつぶらな瞳を、得意そうに輝かせて。ポピーも泣いていなかった。小さな、まだ充分《じゅうぶん》に開くこともできぬ手を打ち合わせて、きゃっきゃっとはしゃいでいるのだった。
「……このかたがたは……」
「もしや、伝説の」
「おお……! おおお!」
居合わせたものはみな、知らず知らずのうちにひざまずいた。どの目も涙を湛《たた》え、どの唇も感謝《かんしゃ》の祈りをつぶやいていた。窓の外には宵《よい》の明星《みょうじょう》が高々と輝いている。悪魔の笑う唇の形のような細い上弦《じょうげん》の月の傍らで、その月の光にも負けぬほどの光を放ちながら、星は瞬《またた》いた。双子の赤子の汚《けが》れを知らぬ笑い声に呼応《こおう》するかのように……。
「遅《おそ》いな……」
同じ空を、同じ月と星を見上げて、魔法使《まほうつか》いマーリンが低くつぶやいた。
傍らで、ロッキーがごろごろと岩らしい唸《うな》りをあげ、ジュエルはあいかわらず何を考えているのかわからない顔つきで宝石を吹き上げ続けていた。
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3 石の遍歴
とある大陸、とある町。
港の見える食堂の緑の庭の物干《ものほ》しに、若《わか》い娘《むすめ》が洗濯物《せんたくもの》を並《なら》べていた。真っ白い料理人の上っぱりや、帽子《ぼうし》、たくさんのエプロン。よく糊《のり》をきかせて、袖《そで》や裾《すそ》をパシンと音の出るほどひっぱって、皺《しわ》を取る。せっせと手際《てぎわ》よく働くのだが、しゃがんで籠《かご》の中身を拾《ひろ》おうとするたびに、突《つ》き出た腹《はら》がじゃまになる。どう見ても産《う》み月《づき》が間近だった。
化粧《けしょう》をしていない頬《ほお》はつやつやと輝《かがや》き、整えてもいない眉《まゆ》が優《やさ》しげな微笑《ほほえ》みの形を作っている。その美しさを、見るものが見れば、休業中の踊《おど》り子《こ》であると悟《さと》ることもできたかもしれない。
「やれやれ」
クラリスは……そう、それは、赤《あか》ん坊《ぼう》のできたあのクラリスなのだ……額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ふ》き、手をあてて腹の子供《こども》に話しかけた。
「ああ、こら。そう蹴《け》りつけないで。暴《あば》れないでおくれよ。いまにおもてに出してやるか。ら。あたしだって早いとこ、もとのシゴトに戻《もど》りたいんだからさぁ……おや?」
「せぇ〜きぞぉ〜い。こ〜ぉごぉしい、せっきぞぉ〜。石像《せきぞう》はいらんかえ〜〜」
奇妙《きみょう》な節《ふし》まわしの声が聞こえた。なんと、流しの石像売りらしい。
「へぇ。めっずらしい物売りがいたもんだわね」
クラリスは重い腰《こし》に手をかけ、頭を振《ふ》った。
「すんばらしいせっきぞお〜。とっても立派《りっぱ》な夫婦像《めおとぞう》だぁ〜い」
自棄《やけ》っぱちのような売り声が、だんだん嗄《しゃが》れ、かすんでゆく。
「相当長いこと売り歩いてるわね、あれは。どんな石像なんだろう……コラショッと」
なにげなく背伸《せの》びをしようとしたクラリスは、たちまち、アイタタ、と二つ折《お》りになった。
「わかった、わかった。そんなに蹴らないでったら……おー、元気だこと」
その間に売り声はどんどん遠ざかり、聞こえなくなってしまう。
とある王城《おうじょう》、とある部屋《へや》。
日差しでいっぱいの子供《こども》部屋《べや》に、小さな悲鳴《ひめい》が響《ひび》いた。子煩悩《こぼんのう》なヘンリー殿下《でんか》が、愛息《あいそく》コリンズの寝顔《ねがお》を見ようと身をかがめたとたん、元気のいい噴水《ふんすい》を浴びせられてしまったのだった。
「おいおい。不意打ちは卑怯《ひきょう》だぞ、コリンズ!」
ヘンリーは苦笑《くしょう》しながら、レースの縫《ぬ》い取りのあるハンカチで顔を拭《ぬぐ》った。
「この次は、まず高らかに宣戦布告《せんせんふこく》をしてくれよ」
「ほんとにそうだと助かるんですけれど」
妃《きさき》となってもなお慎《つつ》ましやかな服装《ふくそう》のマリアが、みずから手早く子供の寝間着《ねまき》を脱《ぬ》がすと、心得た侍女《じじょ》が素早く汚《よご》れものを持ち去り、新しい服を着せかけ、マリアの手を清《きよ》めるための香料《こうりょう》入《い》りの手水《ちょうず》を差し出した。
「だいじょうぶですか、あなたもお着替えなさいますか?」
「いや、かまわないよ。おっぱいしか飲んでないんだ。きれいなものさ」
「いいかたね」
マリアは夫の腕《うで》にほっそりとした手を滑《すべ》りこませ、幸福そうに微笑《ほほえ》んだ。
「あなたみたいなかたとめぐり合えて、わたし、ほんとうによかった」
「こちらこそ」
ヘンリーは気取った感じに会釈《えしゃく》をしてみせ、明るい窓辺《まどべ》に妻女《さいじょ》を伴《ともな》った。
「りんごは食ってみるもの、子は為《な》してみるものだ。俺《おれ》がそなたとコリンズを、このラインハット一番の宝《たから》と思うように、親父《おやじ》もきっと……」
ヘンリーはかすかに顔を曇《くも》らせた。
「見せてやりたかったなぁ。俺の自慢《じまん》の女房《にょうぼう》を。可愛《かわい》い赤ん坊を。国がこんなに平和になったところも……親父は、少しも知らないうちに死んだからな」
「きっと、見守っていてくださいますよ」
「そうだな」
ヘンリーはマリアの顎《あご》を、唇《くちびる》を、指でなぞった。マリアは輝《かがや》いていた。控《ひか》え目《め》な、もの静かな顔だちだが、瞳《ひとみ》も頬《ほお》も日々の充実《じゅうじつ》と内なる幸福に、みずみずしく光り輝いているのだった。愛《いと》しさに胸を突《つ》かれ、ヘンリーは柔《やわ》らかなため息を洩《も》らして彼女を抱きしめた。
「ああ、家族っていいな。こんな思いを、リュカの奴《やつ》は知っているだろうか」
「失礼します、ヘンリー殿下にお目通りしたいと、遠来より客人がまいっております」
子供部屋の扉《とびら》の外から生《き》まじめな声がかかる。夫婦はあわてて、からだを離《はな》した。
「何者だ」
「グランバニア国のピピンなる若《わか》き兵士にございます。……そのう、ピエールとか申《もう》す珍妙《ちんみょう》な騎士《きし》を伴っておりまする」
「ピエールだって!」
ヘンリーとマリアは顔を見合わせた。
「そのかたは俺の大事な友人だ。丁重《ていちょう》にお通ししろ。すぐ行く!」
謁見《えっけん》の間《ま》に、無類《むるい》の友が再会した。長《なが》の無沙汰《ぶさた》を詫《わ》び、互《たが》いの健康《けんこう》を祝《いわ》って盃《さかずき》を交わした後《のち》、ヘンリーは人払《ひとばら》いをした。ピエールの様子《ようす》から、なにかただならぬ知らせを持ってきたに違いないと察《さっ》したからである。
ピエールは語《かた》った。その後の旅、その後の戦《いくさ》。リュカもまた王子であったこと、ビアンカという幼《おさな》なじみと再会し、結ばれて、すでに双子《ふたご》も誕生《たんじょう》していることなどは嬉《うれ》しい驚《おどろ》きであったが。
「行方《ゆくえ》知《し》れずだと……?」
「さよう」
ピエールは低くくぐもった声で言った。
「ご存《ぞん》じのスラリン、ドラきちが勇敢《ゆうかん》にも犠牲《ぎせい》となりました。コドランは……ああ、コドランはヘンリーどのは知らぬか……まだ幼《おさな》い竜族《りゅうぞく》の魔物なのですが、やはり生死不明。最後に残ったはずのスミスも戻《もど》ってきません。悪魔塔《デモンズタワー》に出かけ、グランバニアの城《しろ》に戻ることができたのは、わずかにわたしとプックルのみ。我々《われわれ》も、手ひどい傷《きず》をおっており、こうして長旅に出てくることができるようになるまでに、ずいぶん時を無駄にしてしまいました」
「……そんなことがあったのか……」
ヘンリーは唸《うな》った。
「呼《よ》んでくれれば、いつでも加勢したのに!」
「ありがとうございます、ヘンリー。実は、お頼《たの》みしたいことがあってまいりました」
「なんだ。なんでもする。なんでも言ってくれ!」
「ぼくたち、諦《あきら》めていないんです」
ピピンが言った。
「リュカさんは……いや、王はきっとどこかで生きている。ぼくたち、そう考えて、世界じゅうを捜《さが》しているんです。けれど、グランバニアは小国で、辺境《へんきょう》です。こちら、北大陸のほうまでは、なかなか捜索《そうさく》の手が行き届《とど》きません」
「よし。では、ふれを出そう! ラインハットの全力をかけて、リュカを捜そう!」
「いや、それは困《こま》る」
ピエールの騎士が片手をかざした。
「王の不在《ふざい》が知れわたれば、なにかと不穏《ふおん》も生まれましょう。城にはいまだ幼き王子と王女がおられます。プックルや老師《ろうし》マーリン、リュカの育ての親であるサンチョという老臣《ろうしん》などが守ってはいますが、魔物どもを警戒《けいかい》するだけでも困難《こんなん》なのに、そのうえ、他国《たこく》のならず者に狙《ねら》われるようなことがあっては厄介《やっかい》です。なにぶん、このことは、ご内密《ないみつ》に」
「……そうか。わかった。では、俺の近臣《きんしん》を派遣《はけん》しよう。口の固い、優秀《ゆうしゅう》なものたちだから、安心してくれ。もし、なにか少しでも手がかりが見つかったならば、きっとそなたに知らせよう」
「かたじけない」
堅苦《かたぐる》しく会釈《えしゃく》するピエールに、ヘンリーの胸も曇《くも》った。だが、彼はわざと明るく微笑んだ。
「双子か。リュカめ、なんにも知らないような顔をして、ちゃんといつの間にか、やることはやってたわけだな! それで、いくつになる。御名《おんな》はなんという」
「はい。ティムアル王子|殿下《でんか》と、ポピレア王女殿下です」
と、ピピン。
「ふだんには、ティミーさまとポピーさまとお呼びしています。どちらも、とても元気な、それはそれは可愛らしいお子さまですよ」
「そうか。いいなぁ! 俺も女の子も欲しいと思ってはいるんだが」
ヘンリーは顎《あご》に手をあてて考えた。
「よし、そのお子たちに、ヘンリーおじさんからのお土産《みやげ》を用意させよう。……誰《だれ》か」
駆《か》けつけた小姓《こしょう》に用向きを告げると、ヘンリーは再び客たちに向き直った。
「どうか、お子たちによく言っておいてくれ、リュカはそう簡単《かんたん》にくたばっちまうような奴じゃない。十年|奴隷《どれい》をやってもへこたれなかったすげぇ男だから、きっといつか無事に帰ってくるってな。そうして、いつかきっと、親子|揃《そろ》って俺に顔を見せに来るように。そう伝えてくれ。……さ、ピエール、ピピンどの、もっと飲め飲め! あとで、うちの腕白《わんぱく》のシッコ飛ばしも見せてやる。さぁ、飲め、リュカとその美人のおくさんの話を、もっとたくさん聞かせてくれ!」
「この絹《きぬ》もひと巻《ま》き包《つつ》んでちょうだい。お嬢《じょう》ちゃまのドレスにぴったりだもの! そのちいちゃな弓矢《ゆみや》も忘《わす》れないで。太鼓《たいこ》の玩具《おもちゃ》はどこ? あっ、その馬の人形はたしか二つあったでしょ。コリンズとお揃いになるわ、それも入れて!」
城の宝物殿《ほうもつでん》ではマリアが側近《そっきん》たちと土産選びに奮闘《ふんとう》していた。
「……あらまぁ、いつのまに、こんなにたくさんに? これじゃ、かえってご迷惑《めいわく》ね。でも、誰か荷運びをおつけすればいいかしら。これを機会《きかい》に、リュカさんの国とラインハットと交流できたら素敵《すてき》……おっと、いけない。リュカさんのことは秘密《ひみつ》なんだったわ。……やれやれ、やっぱり少し減《へ》らさなくっちゃ」
「おくさま、お妃《きさき》さま」
侍女《じじょ》がひとり、小走りに駆けてきた。
「物売りが参っております。なんでも、たいへん珍《めずら》しい石像があるので、ぜひ見ていただきたいとか。素晴《すば》らしく立派《りっぱ》な品で、お城の飾《かざ》りにぴったりだそうですが」
「あら、だめよ」
マリアはかぶりを振り、額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。
「いま、全然それどころじゃないわ。このひと山の中から、いちばんいいのをいくつか選ばなくちゃならないんだもの。……でも、せっかく来てくださったのに、ただ追い返すのも気の毒だから……。そうね、なにか飲む物でも出してさしあげて。それから、市《いち》まで案内《あんない》しておあげなさい」
「はい。わかりました」
「トントンとんびのとんがらし。くるっとまわってこりゃ辛《から》い」
「かけはぎい、繕《つくろ》いぃ。ミートのお婆《ばば》に任せれば、あんたのボロも新品同様」
「えー、シブル豆にコズラ豆。えー、カボチ名産ドデカカボチャ」
市場の陽気な喧噪《けんそう》の、色とりどりの軒《のき》にはさまれた谷間のような薄暗《うすくら》がりで、赤いターバンの男と青いターバンの男がくたびれ果てて座《すわ》りこんでいる。彼らの前では、荷車の心棒《しんぼう》に結《ゆ》わえられたままの牛が、どっかり腰を落ち着けて、もぐりもぐりと口を動かしている。
「また売り損《そこ》なっちゃったね、にいさん」
青いターバンのほうが、だるそうにつぶやいた。
「世界で一番|裕福《ゆうふく》なお城だって、聞いてきたのにね」
「んなもんよ。金持ちに限ってケチなんだから……ちくしょう! 頭にきたぞ! こうなったら、投げ売りだ! 気合いを入れて売るぞ。立て、ボー、愛想《あいそ》のいい顔をしろ! そこらの女に色目を使え。……さぁて、いらはい、いらはい!」
ディックは……そう、ふたりはもちろん、あのコソ泥《どろ》兄弟《きょうだい》のディックとボーだ……真っ赤なターバンから縺《もつ》れた黒髪《くろかみ》をはみださせたまま、腕《うで》まくりをし、荷車の上の売り物にかけてあった布をサッと払いのけると、あたりの売り子に負けぬよう、大音声を張り上げた。
「よってらっしゃい、見てらっしゃい。天下一品《てんかいっぴん》の石像だぁ! どうだいみごとな細工《さいく》だろう。これだけのものは、ちょいとそこらじゃ手に入らねぇぜ。ほれ、まずこの、戦士さまのほうを、一千ゴールドから。どうだ、一千ゴールド!」
「千と百!」
「千二百!」
たちまちあちこちからせりの声がかかる。興味《きょうみ》をひかれて、足を止めるものがもう人垣《ひとがき》を作りはじめている。ディックはにやりと笑顔《えがお》を作った。
「さすがラインハット。景気《けいき》いいねぇ。さぁ、千二百が出たよ。もうひと声!」
「千二百五十!」
「千二百五十一!」
人だかりの向こう側を、山なす荷物を抱《かか》えた兵士と騎士が、急ぎ足に通り過ぎてゆく。その騎士の鎧兜《よろいかぶと》、ひょっこりぴょっこり揺《ゆ》れるような弾《はず》むような風変わりな歩きかたに見覚えがあるような気がして、ボーは一瞬《いっしゅん》、あれっ、と頭をめぐらした。が。
「なにぐずぐずしてんだよ、おまえも売りこめ!」
ディックにどつかれて、あわてて、脳天《のうてん》から黄色い声を出した。
「はーい、そこゆく美人の奥《おく》さん。お願いしますよ、もうひと声!」
「あらン、可愛い坊《ぼう》やじゃないン? じゃ千二百五十五にしちゃおうかしらン」
「二千」
突然《とつぜん》値《ね》をつりあげた声に、あたりがシンと静まった。
唐突《とうとつ》な気配の変化に、ピエールは思わず振り向いた。が、人が多く、向こう側はまったく覗《のぞ》けない。喧嘩《けんか》や争いごとの様子ではないようだ。ピエールは無言のまま、また歩きだした。
「二千でもらおう。いいかな?」
ひねり髭《ひげ》の裕福そうな商人が進みでた。もう金袋《かねぶくろ》に手をかけている。
「ちょっと安すぎるんじゃない、にいさん?」
「……えーい……この際《さい》だ。持ってけ泥棒《どろぼう》!」
商人が金袋を渡した。ディックとボーは手分けして、大急ぎで数える。
「……確かに。ほんじゃあ、これはあんたのもんだ。持ってってくれ」
「持ってけと言われても。その牛と車をつけてくれないかね」
「だめだ」
ディックはずるそうに笑った。
「牛と車は別料金だ。いっそ、女の像のほうとコミで、一万でどうだ?」
「あいにくながら、そんなには金がない」
商人が肩をすくめると、あたりから頑丈そうな若いものが数人進みでて、わずかな手間賃《てまちん》で運んでやろうと申し出た。おりあいがつき、石像は、若ものたちの肩に担《かつ》ぎ上げられた。
「うむ。みごとだ」
商人は満足そうに石像を撫《な》で、おや、と眉《まゆ》をしかめた。
「なんだか悲しそうな顔だな。もうひとつの像と別れるのが辛《つら》いのか? ……しかし、すまぬが、石の戦士どの、二体ともには買えぬのだ。怨《うら》むなよ。……さぁ、運んでくれ」
「まいどありぃ」
商人が歩き去ると、ディックは愛想笑いをぴたりと止めて、残ったほうの石像にまた布をかけた。荷車の押さえをはずし、牛を立ち上がらせる。荷車の端で、金貨の山が崩《くず》れた。何度も何度も、嬉《うれ》しそうに金を数え続けていたボーが、ひゃあ、と慌《あわ》てる。
「なんだよ、乱暴《らんぼう》だなっ! あれれ、どしたの、にいさん。そっちは売らなくっていいのかい」
「ああ。いま突然、思いついた。あてがあるのだ。まぁ、とりあえずそれだけ金ができりゃオンの字だろう。さぁて、行くとするか」
「わぁ、待ってよ、にいさん!」
暮《く》れかかる空を、はぐれ鳥が飛んでゆく。
かぁお、かぁお、かぁお。
ひどく悲しげなその声に、
宮殿《きゅうでん》の子供部屋で、ヘンリーとマリアが顔をあげ、
南下する街道《かいどう》で、ピピンとピエールが足を止め、
豪華《ごうか》な旅籠《はたご》の一室で、ほくほくの笑顔を浮かべ、掘《ほ》り出し物の石像の埃《ほこり》を払っていた黒髭《くろひげ》の商人が、ふとその手を止めた。
「……雨漏《あまも》りかな……?」
商人は天井《てんじょう》をみあげ、怪訝《けげん》そうに肩をすくめた。
像の目元にきらりと光るものが生じたからである。
同じころ、市場の酒保《しゅほ》の一角《いっかく》、祝《いわ》いの盃《さかずき》を酌《く》み交《か》わす兄弟の傍《かたわ》らで、石像にかけられた布がふと揺れた。少しの風も、なかったのに。
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――八年。
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4 継ぐものたち
シロツメクサの丸い三つ葉がいっぱいに埋《う》めつくした庭に、彼は静かに横たわっていた。
背中《せなか》には大地の、仰向《あおむ》いた顔と胸《むね》には太陽の光の、柔《やわ》らかなぬくもりがあった。無雑作《むぞうさ》に重ねたレースのような雲が太陽の丸い形を隠《かく》したりきらめかせたりしながら、スミレ色の空をゆっくりと流れてゆく。
すました耳には、そよ風がさやさやと草を揺《ゆ》する音と、かたわきの噴水盤《ふんすいばん》の水の流れと、花々に呼《よ》ばれた小さな羽虫《はむし》のたてる優《やさ》しいハミングが聞こえていた。平和な、ささやかな、愛すべき世界の音楽だ。怒号《どごう》も、悲鳴《ひめい》も、死んでゆくものたちの物悲《ものがな》しい苦痛《くつう》の声も、ここにはなかった。それらは、ここまでは届《とど》いたことがなかった……いや。
ただ一度だけ、小さな事件《じけん》があった。もうずいぶん前だ。
この家の幼《おさな》い息子《むすこ》が、黒いひねり髭《ひげ》の商人とまだ若《わか》いその妻《つま》の大事なひとつぶ種《だね》が、ある昼下がり、黒雲を連れて飛んできた翼《つばさ》あるものにどこかへ連れ去られてしまったのだ。若妻は泣《な》き、叫《さけ》び、抵抗《ていこう》した。守り神と頼《たの》む彼にすがって祈《いの》りもした。だが、彼にはどうしてやることもできず……どうすることもできぬまま、ただ立ちつくしていたのだった。やがて外出から戻《もど》ってきた商人は、彼に怒《いか》りをぶつけた。
強そうな戦士の恰好《かっこう》をして。この役立たずめ! 裏切《うらぎ》り者《もの》め!
容赦《ようしゃ》のない非難《ひなん》を浴びせかけ。それまで青草に足首まで埋《う》まりながらもまっすぐ直立していた彼を、乱暴《らんぼう》に蹴《け》りつけて、横倒《よこだお》しにしたのだった。
もうずいぶん前だ。それから長い長いこと、彼はここにこうして、仰向《あおむ》けに倒れたまま、季節《きせつ》のめぐりを眺《なが》めてきた。
雨や雪や朽《く》ち葉《ば》や花びらが、幾度《いくど》も幾度も降《ふ》り注《そそ》いだ。じりじりと照りつける日差しが、芯《しん》までも凍《こお》らせる真冬の夜明け前の冷気が、彼の硬《かた》くこわばった頬《ほお》を愛撫《あいぶ》した……蜂蜜色《はちみついろ》の髪《かみ》の少女が、遠い昔《むかし》、ほかの誰《だれ》にもありえない優しい手つきで、そうしてくれたように……。
と。
一|匹《ぴき》のテントウムシが飛んできて、彼の顎《あご》に降《お》りた。小さな手足をちょこまかと動かしながら、かたく引き結んだ唇《くちびる》の上を通り過ぎ、鼻の頭で立ち止まった。小さな頭を持ち上げ、またおろし。真《ま》っ赤《か》な鞘翅《さやばね》から透明《とうめい》な後翅《うしろばね》をちょろりとはみださせたまま、きょときょとと落ち着きなく四方を観察《かんさつ》する。鼻の稜線《りょうせん》を横切るひと筋《すじ》の傷跡《きずあと》をたどると、虫は瞳《ひとみ》の際《きわ》に出た。見開いたままの石の瞳の上をなにげなく通りぬけようとし……虫は立ち止まった。
そこは、濡《ぬ》れていた。そこにだけ、夜露《よつゆ》でも、たまっているかのように。
テントウムシはなにか考えてでもいるかのように、その微細《びさい》な触角《しょっかく》をふりたてていたが、いきなり赤い背を二つに割《わ》り、飛び立っていった。
傍《かたわ》らにゆっくりと近づいてくる足音がして、彼は虫がなぜ行ってしまったかを知った。足音の主は、彼のからだの上に大小三つの影《かげ》を投げかけたまま、じっと立ちつくしていた。
めずらしいことだ、と彼は考えた。この家には何年ものあいだ、客など訪《おとず》れたことがない。
扉《とびら》の開く音がし、ざくざくと急ぎ足に土を踏《ふ》む音がし。
「なにか御用《ごよう》ですか」
この家の主人である商人が、つっけんどんに尋《たず》ねる声が彼のずっと上のほうを通り過ぎた。
「勝手におじゃまいたしまして、どうも」
朗《ほが》らかに挨拶《あいさつ》を告《つ》げる声に、彼はぎくりとした。知った声であるような気がしたのだ。だが、勘違《かんちが》いかもしれない。必死にすませた彼の耳に、声はのんびりと続ける。
「通りすがりに、こちらの石像《せきぞう》をおみかけいたしまして、つい……いやはや、なんともみごとなものでございますね。どちらでお求めに? なぜ、このように、打ち捨《す》てたままにしていらっしゃるのです?」
「ふん、この像か!」
主人は彼の脇腹《わきばら》を靴《くつ》の先で小突《こづ》いた。
「たいしたもんじゃない、市《いち》で見つけたまがいものさ。あれは、ようやく待望《たいぼう》の息子《むすこ》が生まれた年のことだった。わたしは商売のために留守《るす》がちでね、いつも待つ身の妻子《さいし》のなぐさめに、損《そん》を覚悟《かくご》で買ったのだ。ジージョはこいつがすこぶるお気にいりでね。一時はわが家の守り神とまで思ったこともあったが……息子は魔物《まもの》にさらわれた。妻は泣き苦しみ、儂《わし》もすっかり年取ってしまった。恰好ばかり立派《りっぱ》でも、石の戦士などなんの役にも立たん! 欲《ほ》しけりゃ持ってゆくがいい、旅のひと。こんなもの、いらん。見ていると吐《は》き気《け》がする、礼などいらん、くれてやるから、サッサとどこかにやってくれ!」
「……なるほどそういうご事情だったのですか」
どう考えても聞き慣《な》れた声が、同情|溢《あふ》れる声音《こわね》でつぶやくように言った。
「では。いただくことにいたします。ありがとうございました……さ、ポピーさま」
「はーい。サンチョおじさん。この杖《つえ》を使うのね?」
ポピーだって? サンチョだって?
聞き覚えのある声と聞き覚えのある名前。彼が、その正体《しょうたい》を思いめぐらそうとした、そのとき。
世界が白く溶《と》け、熱い粒《つぶ》のような光がさんさんと降り注いだ。あたかも雨が大地に吸《す》いこまれるように、光は、彼の硬くこわばったからだに染《し》み透《とお》り、潤《うるお》し、満たした。そして、光が溢れた。
まぶしい! 彼は瞬《まばた》きをした。
「ひぇぇっ、石像が動いた!」
そう、彼は動いた。
ぼくは動いた。
彼自身が、それを自覚したそのとたん。まるで、小さな穴《あな》から堰《せき》が破れ、せきとめられていた水がドッと流れだすように、何かが奔流《ほんりゅう》となってめぐりはじめた。こわばっていた骨《ほね》と肉が、縮《ちぢ》こまっていた魂《たましい》が、固くしこりのようになっていたこころが、たちまち芽《め》ぶき、つぼみをひらき、隅々《すみずみ》まで力を得て伸《の》び伸びと広がり……全身に血が回るサワサワという音がする……そして。
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どくん
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衝撃《しょうげき》を発して鼓動《こどう》がはじまった!
もがく指があたたかな土をえぐり、首筋《くびすじ》をシロツメクサがくすぐった。誰かが何かささやきながら、彼の背中に腕《うで》をこじいれ、起きあがらせてくれた。筋肉《きんにく》がひきつれ、関節という関節がぎしぎしと軋《きし》んだ。彼は思わず呻《うめ》き声を洩《も》らし、自分で肘《ひじ》をつっぱってからだを支えようとした。
「ああ、やっぱり! 坊《ぼ》っちゃん……いや、リュカさま!」
すぐ鼻先で赤ら顔を感激《かんげき》の涙《なみだ》に濡《ぬ》らしている男の顔を、彼は……いや、リュカは! ……まじまじと見つめた。なかなか焦点《しょうてん》をあわせることができなかったけれど、見間違《みまちが》いようもない、そのおかっぱ頭。
「サンチョ!」
赤錆《あかさび》の浮《う》いた声が喉《のど》をこすった。リュカが思わずむせると、サンチョは太い腕で抱《だ》き抱《かか》えるようにして、彼の背をさすった。水筒《すいとう》をさしだし、唇を湿《しめ》してくれた。
「ああ、ようやく……ようやくみつけました……長うございました……!」
もたれかからぬわけにはいかなかった。まだ節々《ふしぶし》が痛《いた》く、全身がぼんやりと痺《しび》れたように鈍《にぶ》かった。だが、頭脳《ずのう》は素早くめぐりはじめていた。傍らにふたり並《なら》んで顔をあげ、好奇心《こうきしん》満々の瞳を輝《かがや》かせている少年少女。その視線《しせん》を感じると、リュカは思わず背筋《せすじ》を伸《の》ばそうとした。この子らの前では、情《なさ》けない恰好をするわけにはいかない。
リュカは咳払《せきばら》いをし、少しは潤《うるお》った喉をはげまして、尋《たず》ねた。
「ティミーとポピーだね?」
「はい、おとうさん!」
「そうです、おとうさん!」
子供《こども》たちは頬を紅潮《こうちょう》させて、パァッと笑《わら》った。男の子のほうは磨《みが》いた真鍮《しんちゅう》のように黄色く光る髪《かみ》を、女の子はタンポポの黄金色《こがねいろ》の髪をしていた。ぱっちりと澄《す》んだ青い眼《め》が、どちらもビアンカにそっくりだった。
おとうさん。
そう呼《よ》ばれたのは、それが、はじめてだった。当惑《とうわく》と、ふつふつ沸《わ》いてくる喜びのあまり、彼は思わず唇をへの字にした。膝《ひざ》をつき、両腕を広げて子供たちを招いた。双子《ふたご》のまだ子供らしい骨格《こっかく》を抱きしめたとき、少年の肩ごしに、華奢《きゃしゃ》な腰《こし》に重たげにさがった金でも銀でもない剣《けん》の輝きをとらえて、リュカの目は大きく開かれた。
[#挿絵(img/DQ5_3_120.jpg)入る]
「……それは……もしや!」
「あ。うん。天空の剣《つるぎ》なんだよ」
ティミーははきはきと言った。
「ほら、盾《たて》もちゃんとあるよ。この剣、おとうさんのおとうさんの形見なんだってね。でも、いまは、ぼくのなの。だって、ぼくだけに使えるんだもの! いったん鞘《さや》にはめると、サンチョにもオジロンおじいちゃんにも絶対《ぜったい》抜《ぬ》けなくなるの。でも、ぼくなら、てんで簡単《かんたん》なの!」
「あのね、ポピーにも抜けないの」
双子のかたわれが、いかにも残念《ざんねん》そうにそう言った。
「だから、ラズーやシスターは、赤ちゃんのとき、あたしたちの区別がつかなくなると、その剣を持ってきてさわらせたのよ」
「でもポピーはすごいんだよ、マーリンおじいさんの一番の生徒《せいと》なの。呪文《じゅもん》もいっぱい覚えたし、動物や魔物と話もできるんだ。おとうさんたちの身に起こったことも、ポピーがいなかったらわからなかった」
「赤ちゃんだったから、ことばで説明することができるようになるのには、時間かかっちゃったんだけど。ほんとは、うんと前から知ってたの。だって、プックルが教えてくれたもの」
リュカは、目を見張った。
「プックル? マーリンだって! 生きているのか!」
「ピエール先生もいます。とっても元気です」
「あたしたち、剣術《けんじゅつ》を教わってるの。ロッキーもジュエルも、おとうさんの帰りを待っているわ」
「……ビアンカは? おかあさんはどうなった?」
「おかあさんは……まだ」
口ごもったティミーの顔色に、リュカはもう答えを知ってしまったが。
「さあさ、そんなにいっぺんにお話しになっても、おとうさま困《こま》ってしまいますよ」
ようやく涙を拭《ふ》き終わったサンチョが、双子を引き止めた。
「早くお城に戻りましょう」
「じゃあ、行きまぁす。みなさん、忘《わす》れ物《もの》ないですね?」
ポピーは濃《こ》く長いこどもらしいまつげを茶目《ちゃめ》っ気《け》たっぷりに瞬《またた》いた。形のよい唇が秘密《ひみつ》の呪文の形に素早く動くと、彼女の正面の何もない空間に、ちいさな核《かく》が生じ、みるみる強く光りはじめる。光が充分《じゅうぶん》に集まると、ポピーは、ぽん、と軽く手をあわせた。シロツメクサが、ジージョの家が、スミレ色の空が渦《うず》を巻き、色とりどりの光の粒《つぶ》となって中心の一点に殺到《さっとう》した。
これはきっと転移呪文《ルーラ》だ……太古の昔に失われてしまったはずの、あの魔法だ!
リュカは熱い誇《ほこ》りを感じた。ぼくの娘《ひすめ》はなんとすごい魔法を知っているのだろう。まだこんなに幼いうちから、もうまるで何百年も生きた魔法使いみたいじゃないか!
やがて世界が、ぱっと解《と》けた。極上《ごくじょう》のショールが、どんなに小さく小さくたたまれていても、軽くひと振《ふ》りするだけで皺《しわ》ひとつなく広がるように。そして、いつしか足がまた硬い地面を踏《ふ》み締《し》めているのがわかった。ゆっくりと落ち着いてゆく景色《けしき》を、リュカは見分けた。
そこは天嶮《てんけん》ヴォミーサに囲まれた石の城、グランバニアだった。
出かけていったときと少しもかわらぬ若々しい様子《ようす》で戻《もど》ってきた奇跡《きせき》の青年王リュカを、山国の辛抱《しんぼう》強《づよ》い民人《たみびと》はもろ手をあげて歓迎《かんげい》した。城じゅうに喜びの声と愉《たの》しげな音楽が鳴り響き、半旗《はんき》となってしょぼくれていた紋章《もんしょう》も、山風に高々と誇らしげに翻《ひるがえ》った。
リュカは手早く着替えをし、祝賀《しゅくが》の座《ざ》に赴《おもむ》いた。黒樫《くろかし》の玉座《ぎょくざ》の傍らには、めっきり年を取ったオジロンの姿《すがた》があった。王にのみ許《ゆる》される黄金細工の盃《さかずき》に酒を注いでくれながら、
「ずるいのう、つくづく」
ぶつぶつと呻《うめ》く。
「兄上といい、そなたといい。王らしいことはろくにやっとりもせんどころか、そもそも国にもおらんのに、なぜそう、人気があるのやら」
懐《なつ》かしい小父《おじ》のぼやきに、リュカは思わず破顔《はがん》した。
「辱《かたじけ》ない。それもこれも、小父上や、サンチョや、みなさんのおかげでしょう」
オジロンは下唇をつきだしてリュカを見つめた。
「わかっとるんなら、いい。……鼻をどうした?」
「負傷《ふしょう》しました」
リュカは指先で傷《きず》に触《ふ》れた。痛みはなかったが、うすいかさぶたになっている。ほんの二、三日前に負った傷のようだ。ほんとうは、八年も前の傷だったのだが。
「そんなところまで兄上にそっくりじゃ」
オジロンは苦笑《くしょう》し、咳払《せきばら》いをひとつ、立ち上がった。
「みな、盃を揚《あ》げ、干《ほ》すがよい。我《われ》らが敬愛《けいあい》する国王リュケイロム陛下《へいか》が、再び玉座にお戻りくだされた! なんと喜ばしいことぞ! 神に感謝《かんしゃ》。グランバニアに栄光!」
唱和《しょうわ》する声が響《ひび》き、賑《にぎ》やかに祝宴《しゅくえん》がはじまった。
サンチョとラズーと子供たちが、すぐ脇《わき》の卓《たく》から、にこにことこちらを見つめている。リュカも、微笑《ほほえ》みかえした。
「オジロン閣下《かっか》。わがふたり子には……ティムアルとポピレアには、ほんとうに驚きました。あんなに立派に育てていただいて、感謝のことばもありません」
「できた子供たちだ、確かに」
オジロンはニヤリと肩をすくめた。
「素直《すなお》で利発で、行儀《ぎょうぎ》がよくて、からだは丈夫《じょうぶ》で風邪《かぜ》もひかん。ラズーだのテレーズだのときたら、いまだに赤子|扱《あつか》いの可愛《かわい》がりようじゃが、時々ふと口にすることばなどが、あんまりおとなびていてドッキリさせられる。血のなせるワザというやつかのう」
「血」
リュカは口に運びかけていた盃をおろした。
「そうか……そうだったのか!」
「なにが」
「天空の剣です。伝説の勇者《ゆうしゃ》」
リュカは言った。
「ビアンカは、天空の血を引くものだったのです。彼女の血を引いたから……だからティミ――は」
名前を聞きつけて、少年がきょとんと目を見張り、隣《となり》のポピーを肘《ひじ》でつついて、ふたり連れ立ってやって来た。
「おとうさん、おとうさん、それで、ぼくたち、いつ出発するの?」
「出発?」
「だって、おかあさんを捜《さが》しに行くんでしょう?」
「ああ」
リュカは笑顔をひきしめた。
「もちろん、捜しに行くとも」
「ぼくも行く」
「あたしも」
リュカが眉《まゆ》をよせると、双子はあわてて言いたした。
「あたしサンチョに聞いたわ。おとうさんも、うんと小さいころから、パパスおじいちゃんと一緒《いっしょ》に旅をしてたって」
「ダメだって言ってもダメだよ! 絶対行く。一緒に行く。だからぼく、剣の稽古《けいこ》だって格闘《かくとう》の稽古だって、うんとうんと、いっしょうけんめいやったんだ。早く大きく強くなるように、大っキライなピーマンだって、いつも残さず食べたんだ」
「お願いします。つれてって! 足手まといにはなりませんから」
「気持ちは嬉《うれ》しい」
リュカはゆっくりと言った。
「だが、おまえたちは知らないだろう。戦いは汚《きたな》い、恐《おそ》ろしいものだ。怪我《けが》をしたり、辛《つら》い思いをしたりするだけじゃない。戦いの中で、ひとは、憎《にく》しみや、後悔《こうかい》や、恐怖《きょうふ》や、さまざまな醜《みにく》いものに出会う。ここに」
と、彼は自分の胸を押《お》さえた。
「そいつらは隠《かく》れているんだ」
「おことばですが、陛下」
リュカは振り向いた。警護《けいご》の兵の恰好をした若者が、すぐ後ろで控えている。その灰色《はいいろ》の瞳に、覚えがあった。ちょっとしゃくれ気味《ぎみ》の顎《あご》にも。
「母がよく申しました。おまえが大きくなるまでに、世の中が平和になっていてくれればいいのだが、と。わたしは答えました、平和な時代は待っていても来ないよ、自分たちで築《きず》いていくものなのだよ、と……わたしはそのことを、あなたさまを見ていて知ったのです」
「ピピン」
リュカは言った。
「ピピンだな! お城の兵上になっていたのか」
「ええ、そうです。いまでは剣隊の小隊長《しょうたいちょう》になりました。リュカさま、いつかあなたの助けになる、それが少年のころから変わらぬわたしの夢《ゆめ》でした」
「みんな待っていたんですよ」
また別の方角から声がした。リュカは振り向き、思わず立ち上がった。懐かしい仲間たちが、ゆっくりと近づいてくる。
「ピエール」
リュカの眼《め》がたまらず潤《うる》んだ。
「プックル、マーリン、ジュエルにロッキーも! ああよかった。みな無事でなによりだった!」
「チビさんたちは、ほんとうはもっと早くでかけたがってしょうがなかったのですよ」
と、ピエールが、少しも変わらぬ声で言った。スライム族《ぞく》は、なんといっても長生きなのだ。
「けれど、わたしが許しませんでした。リュカ、あなたが戻ってきたらすぐにも、みんなで一緒にエルヘブンに行こうと、わたしが、おふたりに約束《やくそく》したのです」
「エルヘブン?」
「そう。マーサさまの故郷《ふるさと》、わたしがマーサさまとはじめてあった村です。あなたの行方《ゆくえ》を捜すうちに、わたしたちはとうとう、その場所を見つけたのです!」
「ねっねっ、だから、行こうってば!」
ぼうっとするリュカの左手を、ティミーが握りしめる。
「もう準備はすっかり整っているわ」
ポピーが右手にすがりつく。
「これ以上、待てなんて言わないで。お願い、おとうさん!」
「いくらなんでも、御馳走《ごちそう》はちゃんと食べてからにしてくださいよ」
サンチョが脇《わき》から心配そうに声をかける。
「やれやれ」
オジロンは椅子《いす》の背もたれに寄りかかって、ニヤニヤした。
「儂《わし》はまたもや留守番《るすばん》か。のう、リュカ、さかろうてもしょうがないぞ。それが血じゃ。天命というやつじゃよ。このうえは一刻《いっこく》も早くビアンカどのを発見して、一家そろって戻ってきてくれい。せめて、余が生きながらえておるうちにのう」
リュカは無言で考えこんでいたが、ふと、眼を細めた。
「……ティムアル。ついてこい」
「おとうさん?」
親子は連れ立って、部屋を出た。廊下《ろうか》は長く、天井《てんじょう》は高く、燭台《しょくだい》の灯《あかり》の届かぬ部分はずいぶん暗かった。賑《にぎ》やかな祝宴の席上から比べると、寒々しいほどに静かだった。
リュカは剣の柄《つか》に手をかけながら振り向いた。息子《むすこ》はやんちゃそうな顔をにこにこさせながら、陽気な小走りで追いかけてくる。かつて一歩の大きさがあまりに違う父パパスに遅《おく》れまいと無理に歩きつづけた幼い日の自分を見せられているようで、リュカはこそばゆかった。双子のかたわれ、プックル、ピエール、それにピピンとオジロンまで、何事かと、ぞろぞろと続いている。
ついつい微笑《びしょう》してしまいそうな頬をひきしめて、リュカは言った。
「ティムアル。抜け。おまえの腕《うで》をみせてもらう。父を納得《なっとく》させることができなかったら、城に残ってもらう」
すらりと抜き放った剣のきっ先を、リュカはぴたりと息子に向ける。
「えっ? あ、あはは、ほ、本気で?」
ティミーは笑おうとしたが、その声は慄《ふる》えていた。
「だって、ぼくのは天空の剣《つるぎ》なんだよ。いいの?」
「指南役《しなんやく》は誰だ? 真剣で戦ったことは?」
「はじめはピピン小隊長に型《かた》を教わった。プックルやピエールが稽古をつけてくれたこともある。でも天空の剣は、まだ実戦で使ってみたことはないよ」
「実戦?」
リュカは唇を枉《ま》げた。
「まともな剣で打ち合うのが実戦なのではない。生命《いのち》まで取ろうとしている相手と渡《わた》りあうのがほんとうの実戦だ……行くぞ!」
「うあぁぁぁ、ま、待ってよっ!」
軽く振りかぶった剣が届こうとする刹那《せつな》、天空の剣は、まるでみずから身をひるがえすようにして、少年の手に飛びこんだ。宝剣《ほうけん》の神々《こうごう》しいまでに輝く刀身《とうしん》が、薄暗《うすぐら》い廊下《ろうか》に完全な半円を描《えが》いた。リュカは素早く飛びのき、息子を観察《かんさつ》した。
少年はからだの割《わり》に大きすぎる剣を両手で支え、小さな肩を上下させて、荒《あら》い息をついている。汗《あせ》ですべるのか、柄《つか》ががくがくと震《ふる》えている。
リュカは無言のまま、また剣を閃《ひらめ》かせた。左手に移し、また右に。少年はいちいち大げさすぎる反応を示し、見当違いの方角に、しかも、わずかずつ遅《おく》れて剣をつきだした。父の動きに集中するあまり、顎《あご》をあげて、腰から下をがら空《あ》きにしてしまっている。
ひどい構えだ、リュカは眉をひそめた。背後になんの配慮《はいりょ》もないうえ、足の配置も悪い。だが剣は。なんてまぶしい、美しい品だろう! まるで光そのものだ。
リュカは顔に出さずに笑い、わざと足先をつまずかせて見せた。ひっかかった。
「いやぁぁぁっ!」
少年が突進《とっしん》してくる。リュカは逃《に》げると見せかけて、その足許《あしもと》を薙《な》いだ。
たたらを踏んでひっくり返りそうになる少年を、天空の剣が引っ張りあげて立ち直らせるのが目の隅で見えた。この機を逃《のが》さず、リュカは鋭《するど》く間合いを詰《つ》めた。と、天空の剣が思いもよらぬ素早さできらめき、その刀身が、ぐん、と伸びた。リュカの髪が二、三本散った。背筋《せすじ》がゾッとした。恐怖に、それとも、喜びに? 息子はともかく、天空の剣は確かにすごい。いや、この剣は、ティミーに忠実《ちゅうじつ》だ。彼にでなければ使いこなすことのできないものなのだ!
俺《おれ》の子は、ほんとうに天空の勇者なのだ……!
「くそぉっ! ええいっ」
少年のがむしゃらに突き出す剣と、打ち合うこと数度。小さな細い腕が長くたくましい剣に振り回されているのだが、その一撃《いちげき》一撃はビシリと鋭く重い。なまくらな剣なら、ただ一度ぶちあたっただけで折られてしまうだろう。長引けば、不利は明らかだった。
リュカは口の中で舌打《したう》ちをし、瞳の動きで少年を引きつけておいてその真反対に横飛びに動き、息子の、いや、天空の剣自身の、鋭くえぐるような動きを避《さ》けた。
そして伸ばした片腕《かたうで》に、はらはらしながら観戦していた双子の少女を抱きとめて、サッと向き直った。相対《あいたい》した少年が、ぽかんと口をあける。
「……ず、ずるいや! ポピーは関係ないよ!」
リュカはニヤリとした。
「そう。敵はずるい」
言い返せなくて、膨《ふく》れっ面《つら》をする少年の手の中で、金でも銀でもない輝きを持つ天下|無双《むそう》の宝剣もまた、してやられたと言わんばかりに、ちりちりと光の笑いをこぼしている。
リュカは剣を納《おさ》めた。わくわくと瞳を輝かせている少女をおろし、そのまま床に片膝《かたひざ》をついて、頭《こうべ》を垂《た》れた。
「天空の剣持つ覇者《はしゃ》、伝説の勇者ティムアル・エル・ケル・グランバニアさま。お手合わせを、ありがとうございました」
「え……お、おとうさん?」
「どこへなりともお連れしましょう。おおせのとおり、お仕えしましょう。貧士《ひんし》はながらく、御身《おんみ》をお捜しもうしあげていました」
リュカはまっすぐ顔をあげ、困惑《こんわく》する少年をじっと見据《みす》えた。笑顔になる。
「まさか、あの小さな赤《あか》ん坊《ぼう》が勇者だったなんて……考えも及《およ》ばなかったが……」
「御意《ぎょい》、御意」
オジロンが髭《ひげ》を捻《ひね》った。
「してみると、リュカ陛下、長き不在もいっそ幸運であったのやもしれぬの。なまじ手近に暮《く》らし、その手でオムツをかえでもしていたら。我《わ》が子がおのれを遥《はる》かに越《こ》えていくものであるとは、たとえ頭で知っていても、なかなか納得《なっとく》しがたいことじゃろうからのう」
「でも、でも、おとうさんはやっぱり強いわ!」
ポピーがリュカに抱きついた。
「うっとりしちゃった。おとうさんが天空の剣を持てたら、もっとよかったのにねぇ」
「ちぇーっ」
ティミーは剣をながめ、情けない顔つきになった。
「強いのはぼくじゃなくて、こいつか。こいつがなかったら、ぼくなんかダメってことか」
「御身はまだあまりにもお若い」
と、リュカ。
「これまではこの身も父らしいことをする機会に恵まれなかった。許されるならば勇者どの、いま少し、父親めいた顔をさせていただければありがたいが」
「えっ、もちろん」
ティミーはあわてて、剣をしまい、片膝をついたままの父の向かいに座りこんだ。
「どうか、いっぱい、教えてください。おとうさんのいうこと、なんでも聞きますから」
「言ったな」
リュカは笑って、立ち上がり、息子と娘の頭をぐりぐりと撫《な》でた。
「じゃあ。ふたりとも、いい子だから、もう寝《ね》なさい。明日《あす》、エルヘブンに出発しよう!」
「やったぁい!」
「きゃあ、嬉しいっ」
門出《かどで》の朝、城と町の主《おも》だったひとびとが見送りに集まった。大勢が手を振り声を涸《か》らす中、船はしずしずと岸を離れ、一直線の水尾を引いて進みはじめた。
「ようそろう。……気持ち、おも舵《かじ》ぃ……よし、そこで、ようそろう!」
操艇《そうてい》を任されているのは、ピピンとその部下たちだ。船首の物見台には、プックルと双子たちが立って、はしゃいだ声をあげている。たのもしいことこの上ない。
「……八年、か」
リュカは甲板《かんぱん》に立っていた。湖面《こめん》のきらめきに目を細めながら、つややかに磨《みが》かれた船縁《ふなべり》に手を乗せて。
「ちっともそんな気はしない。まるでよく眠《ねむ》った朝のようだ。ただちょっと目をつぶって開けたら、思いがけないほど長い時間が消え去っていて。けれど、たとえばこの船。以前にはなかっただろ? 一年や二年で建造《けんぞう》できるものじゃないことぐらいは、ぼくにもわかる。ひと目で」
「これは、ポピーの船なんですよ」
ピエールが言った。
「ポピーは計り知れないほど賢《かしこ》い子供です。よい馬が桶《おけ》何杯分もの飼《か》い葉《ば》を食べて逞《たくま》しい血肉を作るように、学問やら知識やらをむしゃむしゃ平《たい》らげて、頭の栄養にしてしまうのです」
「あの子は、宝物蔵《ほうもつぐら》に眠っていた昔《むかし》の帆船《はんせん》の図面を見つけたのじゃよ」
と、マーリン。
「うわぁ、きゃあ、と目を輝かせながら、そいつを眺《なが》めているうちに、あれこれ新しい工夫《くふう》を思いついたのじゃ。みなで木端《こっぱ》を削《けず》って、玩具《おもちゃ》の船を作った。何|隻《せき》も何隻も失敗をしたあげく、とうとうよく浮かび、よく走るのができた。それを見たオジロン殿《どの》が、どうせなら使えるのを作ってみろとおっしゃられての」
自慢の生徒の噂話《うわさばなし》に、老魔法使いの皺《しわ》深《ぶか》い顔はいかにもくすぐったそうに笑《え》み崩《くず》れた。
「小父上が。……そうか」
皮肉ばかり言うオジロンが、その実、愛情豊かに子供たちを見守っていてくれたことを思うと、リュカは胸が熱くなった。
船の名は『麗《うるわ》しのビアンカ号』。わずか三枚の帆《ほ》でどんな微風《びふう》をも捕まえることのできる外洋船で、横波にも縦波《たてなみ》にも強く、操舵性《そうだせい》にもすぐれている。朝日のような金色に塗《ぬ》られた船体は、ほっそりと上品な見かけに反して、驚くほど広い居住《きょじゅう》空間を実現しているのだった。
船はやがて運河《うんが》を抜け、大いなる東の海に乗り出した。
海は時にネーレウスを、グロンデプスを、マーマンダインを送りつけてきた。だが、リュカやピエール、プックルなど、勇猛《ゆうもう》な歴戦《れきせん》の覇者《はしゃ》たちの敵ではない。兵士と子供たちの恰好の稽古相手にされて、いずれも海の藻屑《もくず》と消え果てた。陽気で朗《ほが》らかな旅だった。
だが……。
はじめて自分の手で魔物にとどめをさした夜、王女ポピーは眠れなかった。
目を閉じると、空爆《イオ》の呪文《じゅもん》を浴びて死んだ魔物の姿がまぶたに浮かんでしまうのだ。ぶよぶよに膨《ふく》れ上がった死骸《しがい》が、のこぎり歯をした巨大《きょだい》な魚が、冷たい手をした幽霊《ゆうれい》が、怨《うら》みがましいまなざしを闇《やみ》から注ぎかけてくる。船室の低い天井の薄暗がりに、そんな奴らがじっと身をひそめて、復讐《ふくしゅう》の機会を狙《ねら》っているような気がしてならない。
掛《か》け布《ぬの》をかぶったりはいだりしているうちには、とろとろと微睡《まどろ》む瞬間《しゅんかん》もあったが、そのたびに、べっとりと冷たい汗の出るような夢《ゆめ》が現れて、あわてて目を覚《さ》ました。揺れる舷窓《げんそう》から星を眺めても、書物を開いて読んでみても、どうしても気が晴れなかった。隣《となり》の寝台《しんだい》でグースカ太平楽《たいへいらく》にいびきをかいているティミーを見れば、ホッとするどころか、憎たらしくさえなってしまう。
風にでも当たろうと甲板に出ると、父がひとりで海を見ていた。どこまでも鋼鉄《はがね》のように青黒く輝く海だった。空の端《はし》のほうが緑色に萌《も》えはじめている。夜明けが近い。
「どうした?」
父は尋ねた。
「眠れないんです」
ポピーは顎を胸につけるようにしてうなだれた。目も鼻も赤いに違いなかったから。
リュカは姿勢を低くして、娘の手を取った。
「怖《こわ》い夢を見るの?」
どうしてわかるんだろう? びっくりした拍子《ひょうし》に、ポピーの頬から、涙の粒が落ちた。すると、父は、腕をまわして、しっかりと抱きしめてくれたのである。ポピーは全身を震わせて激しく泣き、しばらくして、静かになった。
「ごめんなさい、泣いたりして」
ポピーは言った。
「怖いって思う気持ちがいけないんだって、わかってはいるの。ただのばかばかしい夢なんだから、ほんとうに危《あぶ》ないわけじゃないのに……ただ、ちょっとでも油断すると何かひどいことが起こりそうな気がしてしょうがなくって……ものすごく怖いの! 戦ってたときには、こんなに怖くなかった。ただ夢中だった。変ね」
「よくわかるよ」
ひどく優しく、ただ短くそれだけを言ってくれた父の顔を、ポピーは間近に見上げた。
父の瞳は黒曜石《こくようせき》のように真っ黒で、ぼうっとしてしまうほど美しかった。父という言葉から想像《そうぞう》していたような……グランバニア城下の町でおなじ年ごろの子供たちの父であるひとびとを見て予想していたような……誰とも父は似ていなかった。だって、全然オジンくさくないもの、とポピーは思う。
父は、王で、旅人で、戦士なのだ。褐色《かっしょく》に陽焼《ひや》けした凛々《りり》しい顔だちを、一条《ひとすじ》の傷跡《きずあと》がななめに走っている。それさえもなにか、特別なひとにだけ与《あた》えられる神聖《しんせい》な徽《しるし》のようで、ポピーの胸はどきどきした。
口をきくようになってまだ数日。気後《きおく》れがする。人見知りを覚える。
だが、父がそばにいてくれるのは、とても安心だった。小さく縮こまっていたこころが解《ほぐ》れるようで、ポピーはついついことばを重ねる。
「ねぇ、おとうさん。どうして魔物たちはあたしたちのお船をいじめるんでしょう? どうして黙って通らせてくれないの?」
「どうしてかな」
リュカは微笑んだ。
「きっと向こうは、見たこともない船が自分たちの領分を通るのが腹立《はらだた》たしいんじゃないかな」
「あたし、狼《おおかみ》や熊《くま》とは、仲良《なかよ》しなの。……あっ、ほんとよ」
父が目を見張った。嘘《うそ》つきだと思われてはいけないと、ポピーは必死に言いたした。
「メッサーラだってオークキングだって。ちっとも怖くないわ。けっこう、可愛いじゃない? サンチョさんと三人でおとうさんを捜して旅していた間に、何度もいろんな魔物に出会ったわ。でも、あたしが悪い子じゃないってわかるのかしら。目があうと、そういう魔物たち、ちょっと困《こま》ったみたいな顔して、サッといなくなっちゃったりするのよ。だから、本気でやっつけたこと、ないの。今日が、はじめてだったの……ねぇ。どうして海の生き物はだめなんだろう」
「だめじゃないかもしれない。まだ時が熟《じゅく》していないだけかもしれない」
父はポピーの頬に触れた。
「おとうさんも、小さいころから、みんなが怖がる動物や魔物が妙《みょう》に好きだったんだよ。いつも、ともだちになりたいと思ってた」
「ほんと! おとうさんも?」
「ほんとさ。おとうさんのおかあさんも、そうだったんだって」
「おばあさまも……そうなの……」
ポピーの胸は誇らしさでいっぱいになった。おとうさんと同じなら、少しも怖くない!
「ありがとう、おとうさん。なんだか眠れそう。おやすみなさい」
「おとうさんの部屋で寝るっていうのはどうかな?」
ポピーはあんぐり口をあけ、それから、ばつが悪そうに頬を赤くした。
「それって、ちょっと、赤ちゃんみたい」
「赤ちゃんのときに、そばにいてあげられなかったから」
父も少し、照れ臭《くさ》そうに笑った。
「おいで。おとうさんと眠ろう。そばにいれば、もしもポピーがまたうなされても、きっと夢の中に入っていって、助けてあげる」
翌日《よくじつ》一日、ティミーはぷんぷんだった。目覚めたら、いつだって隣にいるはずのポピーがいなくなっていて、たいそう心配したというのに。
ポピーはおとうさんの寝台で、お昼までもぐっすり眠っていたのだ。そうして、やっと起きてきたと思ったら、誰《だれ》より先におとうさんのところにいって、おはようのキスなんかしてる。しっかり背伸《せの》びして、まるで、一番大好きなひとにするみたいに。長々と。
「おはよう」
二番目に言われても、なんだか嬉しくない。
「あーあ。いっぱい寝ちゃった。お食事当番、サボッてごめんね」
ティミーは返事をしなかった。
「どうしたの? 何を怒《おこ》ってるの?」
「怒ってなんかない」
ティミーはせっせと焦《こ》げた鍋《なべ》を洗い続けた。伝説の勇者といえども、少人数の旅では順番に面倒《めんどう》な作業も分担《ぶんたん》しなければならないのだ。
「大変そうね。手伝おうか」
「いい。狭《せま》いから」
「ふうん……じゃ、あたし、プックルとあーそぼっと。またあとでね」
汚《よご》れた鍋と取り残されて、ティミーはポカンと口をあけた。
そんなはずじゃなかった。双子はいつだって、お互《たが》い、なんでも思うことをちゃんととことん話しあって、わかりあって、大きくなってきたのだ。なにか言いにくそうな様子のときには、相手が喋《しゃべ》る気になるまで、当たり障《さわ》りなくそばにいて、じっと待ったものだ。
「……ちぇっ、なんだいっ!」
ティミーはタワシを放り投げた。
「あったまきちゃうな、ポピーったらっ!」
タワシは壁《かべ》に当たってはねかえり、ティミーの頭に弾《はず》んで落ちた。タワシまでぼくをバカにしてる! 悔《くや》し涙《なみだ》が浮かんだら、遅れて悲しみがやってきた。
ふたつのうちのどちらを、より辛《つら》く感じているのか……父をポピーに取られるのがいやなのか、ポピーを父に取られるのがいやなのか……自分にもはっきりしない。
父の出現は(前もって想像していたような)単純《たんじゅん》な喜びではなかった。『天空の剣持つ覇者、伝説の勇者ティムアル・エル・ケル・グランバニアさま。お手合わせをありがとうございました』……他人行儀《たにんぎょうぎ》な挨拶《あいさつ》をされたあの瞬間から、心の奥《おく》に、ちりちり痛い棘《とげ》がある。
やっと戻ってきてくれた父は、甘《あま》えさせてくれるどころか、鼻先にぴしゃりと扉を閉めたのだ。ずっとこころの支えにしてきた柱を引っこ抜かれるだけでもショックなのに、いつのまにか、この小さな自分が世界の柱にさせられて、すさまじい重さを背負いこまされてしまったみたいだ。
でも、意地悪じゃない。そんなはずはないんだ。
ティミーは拳《こぶし》で涙を拭《ぬぐ》った。
おとうさんは、ぼくを男と見込んで、鍛《きた》えてくれるつもりなんだ。こんなことでくじけてないで、天空の剣を持つ勇者として、恥《は》ずかしくない男の子になんなきゃ。
「勇者、かぁ……」
ティミーは腰に手をやった。天空の剣の柄《つか》が吸いついた。いつでも好きなときに抜ける素晴《すば》らしい武器。ほかの誰にも、双子の妹にさえ、けして使うことのできない、天下一の宝物《たからもの》。
「でも、勇者って、なんなんだろ。そんなに、いいもんかな? ……よくわかんない。……ぼくは、生まれたときから勇者なんだもの。勇者じゃない子になんか、一度もなったこと、ないんだものなぁ……ちぇっ。めそめそするな! しっかりしろ、ティミー!」
幼い勇者はせいいっぱいに胸を張り、タワシを拾って鍋の焦げに立ち向かうのであった。
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5 水の中の城へ
船は大陸の東を北上し、とある岬《みさき》の奇怪《きかい》な洞窟《どうくつ》に入った。マザーオクトやしびれクラゲの多数|巣《す》くった水路は、天然の壁《かべ》や天井《てんじょう》を持ち、複雑《ふくざつ》に入り組んでいたが、奥《おく》まるにつれ明らかにひとの手による細工《さいく》が散見《さんけん》する。通廊《つうろう》や、階《きざはし》や、祭壇《さいだん》が、岩棚《いわだな》に刻《きざ》まれているのだ。
「海の神殿《しんでん》、とかりそめに呼《よ》んでいます」
角灯《ランタン》を回し、敵の気配に耳をすましながら、ピピン小隊長《しょうたいちょう》がリュカに説明した。
「陛下《へいか》の消息《しょうそく》を尋《たず》ねてこの海域を彷徨《さまよ》っていた際《さい》、嵐《あらし》を避《さ》けて、たまたま発見したのです」
「最初は、ただの行き止まりと思われました。が、隈《くま》なく探索《たんさく》するうちに、大陸内部に通ずる道が判明《はんめい》しました。……あ、ほら、あそこです。明るくなっているでしょう」
ピエールの騎士《きし》の指さす先に、なるほど、点のような光が見えてきた。邪魔《じゃま》だてする魔物《まもの》たちを撃退《げきたい》しながら波洗う洞窟をめぐるうちに、やがて、霧《きり》深い夜明けの空の下に出た。
険《けわ》しい断崖《だんがい》がおぼろげなシルエットとなってそびえ立つ谷間の底、穏《おだ》やかな流れに逆《さか》らって船は進んだ。霧が巻《ま》き、霧が流れ、ひんやりと頬《ほお》を撫《な》でて通り過ぎた。岸辺《きしべ》の岩や草や花に宿った数多《あまた》の色たちが、霧ごしの太陽の光を浴びて、鮮《あざ》やかな生命《いのち》を吹《ふ》き返しはじめる。
「夢《ゆめ》の中みたいな光景《こうけい》ねぇ」
「なんだか、いい匂《にお》いがする」
ポピーとティミーはうなずきあった。
マーリンは折《お》れ曲がった腰《こし》を伸《の》ばして鼻をぴくつかせた。
「ふむ。馨《かぐわ》しい。……りんごじゃの」
「……知ってる……」
リュカは吐息《といき》をつくように言った。
「ぼくは、ここを知っているぞ……!」
「ようそろう! 帆《ほ》を降《お》ろせ! 浅瀬《あさせ》に注意!」
ピピンが凛《りん》とした声で部下たちに指示を飛ばす。
ひときわ分厚《ぶあつ》い霧幕《きりまく》が、舳先《へさき》にぶつかって左右に切り分けられた。とたんに船底が流木か砂《すな》に軋《きし》んで揺れ、ジュエルがいつもどおり淡々《たんたん》と吹き上げ続けていた宝石《ほうせき》のひとつが、よろけたロッキーの岩頭《いわあたま》にあたって弾《はじ》きとばされた。ひゃん、と撲《ぶ》たれたような悲鳴《ひめい》をあげるジュエルに、ロッキーが『メ……んぼくない』と謝《あやま》ったので、一同反射的に臥《ふ》せをした。
そして起き上がってみると、行《ゆ》く手《て》の丘《おか》の緑の間に、赤石の不可思議《ふかしぎ》な建物《たてもの》が見えたのだった。リュカの腕《うで》に鳥肌《とりはだ》が立ったのは、冷たい霧靄《きりもや》のせいばかりではない。
「……やっぱり。これは、小さなころぼくがいつも夢で見た風景じゃないか」
船足が落ちた。これ以上近づけなくなるぎりぎりで、錨《いかり》をおろす。
「わぁい、上陸だ! 上陸だ!」
ピピンたちを船に残して、リュカと双子《ふたご》、仲間《なかま》の魔物《まもの》たちが岸辺に立った。
朝露《あさつゆ》に長靴《ちょうか》を湿《しめ》らせながら芝草《しばくさ》のなだらかな丘を登りつめると、霧まとう果樹庭《かじゅてい》の彼方《かなた》に風変わりな城塔《じょうとう》の全貌《ぜんぼう》が見えた。角ばった茸《きのこ》の傘《かさ》を空中でつないだような、見慣《みな》れぬ様式《ようしき》の建造物《けんぞうぶつ》。とりわけ高くそびえた塔の最上階には、四本ばかりの丸柱が、支える天井もなく並《なら》んでいる。
甘酸《あまず》っぱいりんごの香《かお》りの風が吹《ふ》く。
リュカはまつげを瞬《またた》いた。白い服の裾《すそ》を翻《ひるがえ》しながら、黒髪《くろかみ》の娘《むすめ》がいまにも駆《か》け降《お》りてきそうだ。まだ見ぬ若《わか》き日の母。いまは亡《な》き父もまた、この場にこうして立ったのだろうか……。
「よくぞまいられた」
どこからともなく、柔《やわ》らかな声が聞こえてくる。
「マーサの子リュカ、そして、その子供《こども》たちよ。エルヘブンに、ようこそ」
声は洞窟の中ででも発せられたかのように、谺《こだま》を引いて響《ひび》きわたった。瞳《ひとみ》に力をこめてつぶさに観察《かんさつ》すると、やがて人影《ひとかげ》が見えた。リュカはどきりとしたが、母ではない。あの夢とは違う。
四つのほっそりとした人影が、渦《うず》なす白霧の向こう側、紫《むらさき》がかった薔薇色《ばらいろ》の震《ふる》えるような輝《かがや》きに輪郭《りんかく》を彩《いろど》られている。
「われら四礎《しそ》なる長老」
「忘《わす》れられた民族《みんぞく》の末裔《まつえい》」
「ここは神に選ばれし地エルヘブン」
「さぁ。その階《きざはし》を昇《のぼ》っていらっしゃい」
そう言われたとたん、霧の中から、赤石の段が姿《すがた》を現した。リュカと双子たちは互《たが》いに目配せをしあい、昇りはじめたが。
「……あれ、どうしたのさ、マーリン?」
「プックル? ピエール? こないの?」
魔物たちは、芝草の地面に立ち止まったまま、寂《さび》しそうにかぶりを振った。
「何かが生じたらしき気配はわかるが、あいにく儂《わし》にはなんにも見えませんわい」
「これ以上近づけない。からだが動かないんですよ。……たぶん、何か神聖《しんせい》な守りの呪文《じゅもん》が働いているのでしょう。そこは、わたしたち魔物が立ち入ってはいけない領域《りょういき》なのですよ」
マーリン、ピエールが口々に言う。
「じゃあ、すまないけれど、ちょっと待っていてくれ。できるだけすぐ戻る」
リュカはいい、双子を促《うなが》して階を昇りきった。
四人の長老は、みなたいそうな年寄《としよ》りらしい。屋根なしの丸柱に囲まれた模様床《もようゆか》の中央に、互いに寄りそうようにして座《すわ》りこんでいる様子《ようす》は、まるで古い彫刻《ちょうこく》のようだ。
リュカが進み出て自らと子供たちを紹介《しょうかい》すると、
「ペリグリン」
「アネイタム」
「フィーレイ」
「キャリダス」
[#挿絵(img/DQ5_3_148.jpg)入る]
四人もまた、口々に名乗った。池に投げた小石の波紋《はもん》が互いに互いを打ち消しあい重なりあって複雑な波動になるように、女たちの声は吹きさらしの屋階の祭壇に眼に見えぬ力を注ぎこみ、満たし、ひとつの不可思議な響きとなって高く低くうねった。
「問うがよい。よい問いにはよい答えを、はかなき問いにははかなき答えを与えよう」
「門のことを話してください」
リュカは言った。
「太古の昔」
と、ペリグリンが話しはじめた。
「天空城《てんくうじょう》の竜《りゅう》の神が『門』をおつくりになりました。この世は大きく三つに分かれます……神自身のおられる天界、この地上、そして魔物らの封《ふう》じられた暗黒の魔界《まかい》です。地上もまた三つに分かれます。人界、獣界、妖精界《ようせいかい》です。その三つをかりそめに隔《へだ》てる門は、あってなきがごときもの。通りぬけるのはそう難《むずか》しいことではない。ひとでありながら獣《けもの》のことばを聞きわけ、妖精の姿を見ることのできるものもいるのはそのため」
「わぁ、ポピーのことだね! ね?」
「おとなしくしなさいったらっ、もう」
「……魔界に通じる門は奈落《ならく》の縁《ふち》」
フィーレイが続けた。
「それは、魔に魂《たましい》を奪《うば》われたものたちを永遠に廃棄《はいき》するべく穿《うが》たれた陥穽《かんせい》……ひとたび境界線をまたげば、神の領域からはずれることになるのです。過《あやま》って踏《ふ》みこむものがないように、その片道かぎりの門の番を命じられたのが、ほかでもない、我々《われわれ》エルヘブンの民《たみ》。水、炎《ほのお》、生命《いのち》の三つの指輪《ゆびわ》と、代々ひとりの大巫女《おおみこ》が門を守るさだめ」
「『望まれし者』」
リュカはうなずいた。
「たとえば、マーサも、そうだったのですね?」
「マーサは、生まれつき特別な子供でした」
アネイタムが言った。
「すべての門が彼女の前に、おのずから開かれてしまいました。どんな頑丈《がんじょう》な扉《とびら》も、呪文も、彼女を阻《はば》むことはできません。この世の中で、ただ彼女だけが、すべての境界線を自由に行き来することができるのです。他所《よそ》のかたがたと交わることなく数百年にわたって高められ濃《こ》くなった我が民《たみ》の血の、彼女は、純粋《じゅんすい》な結晶《けっしょう》でした……その彼女が……村を棄《す》てた」
「この世に、リュカ、そなたを送りだすために」
「そちらのふたりのお子たちを、誕生《たんじょう》させるために」
「そして、自身は魔であるものたちの手に落ちた……すべてはさだめ、さだめは招き……ともあれ、こうしてそなたたちは再び村に戻ったのです! これぞ、マーサの救い。マーサの願い」
長老たちは、順ぐりにさやさやとつぶやくようにことばをつないだ。リュカは、ちょっと考えてから、また、問うた。
「あなたがたは、ビアンカの……ぼくの妻《つま》の行方《ゆくえ》をご存《ぞん》じではありませんか。母マーサをさらったのと同じ奴《やつ》らに囚《とら》われているのではないかと疑《うたが》っているのですが」
「さだめの天秤《てんびん》は、闇《やみ》の側に傾《かたむ》こうとしている」
と、キャリダス。
「たしかに。誰かがどこかで、そなたの妻を、そして、マーサの力を悪用しようとしているのを感じる。我々の知る力を越えた場所であるゆえに、神の領域の外であると知られるどこかでな。……門は、破壊《はかい》されようとしているのだ。やがて、退《しりぞ》けられていた闇が、遠く棄却《ききゃく》されたはずのすべての邪悪と魔が、この世に吹き出してくるのかもしれない」
「でも、そうなる前に、おばあちゃんを……マーサさまを、助け出せばいいんでしょう?」
「そうして、もういっぺんちゃんと門をしめて、鍵《かぎ》をかけちゃえばいいわよね?」
「そのとおりです」
長老たちは立ち上がり、床に描《えが》かれた模様《もよう》を見せた。そこには、歳月《さいげつ》に擦《す》り切れかけた不思議な絵があった。空に二つの月がかかり、一匹の竜が懐《なつ》かしげにその月を見上げている。
「まずは、竜の神をみつけることです」
「天空の城《しろ》にお行きなさい」
「神のご加護《かご》のもとで、そなたらは生命《いのち》の指輪を見出《みいだ》すでしょう。指輪が三つそろったとき、再びこの地においでなさい」
「容易《たやす》き道ではありません。しかし、二つの指輪に選ばれたそなたらならば、必ず為《な》し遂《と》げてくれると信じています」
ティミーとポピーは互《たが》いにつつきあって、それぞれの預かっている指輪を確かめた。ティミーは水の、ポピーは炎の指輪を、銀の鎖《くさり》につるして胸におさめていたのだ。なにせ子供の指には、大きすぎて、落としてしまいそうだったので。ふたりとも、ニッコリと得意顔になって、また大切に指輪をしまいこむ。
「もうひとつ教えてください、その天空の城に行くには、どうしたらいいのですか」
キャリダスが手にした杖《つえ》をトンと床につくと、絵が一枚の地図となった。
山々と海岸線が、森と丘とひとの町が、恐《おそ》るべき精密《せいみつ》さで描き出されている。すべては立体的で、また、かすかに動いてさえいるように見えた。海には波が巻き、草原には雲が流れていたのである。高空を飛ぶ鳥の目を持つことができたとしたら、見ることができるかもしれない風景《ふうけい》だ。あるいは、神の目は、いつでもそのようにひとの世をみはるかしておられるのかもしれない。
「ここがエルヘブン。こちらがグランバニア。……そして、このあたりに……」
キャリダスは二者のちょうど中間のあたりに杖を動かした。
「ひとの眼に隠れて深き神秘《しんぴ》の湖《みずうみ》エルハートレイがある。天空の城は、この湖の底にある」
「んじゃ天空の城じゃなくって、水中の城じゃない?」
「ほんとねぇ、へんなの」
「城は、落ちたのです。かつては、その名のとおり天空に浮かぶものでしたが」
「なぜ落ちたりしたんです?」
リュカの問いに、長老たちは顔を見合わせあった。
「わかりません。ただ、大いなる力に、なんらかの不均衡《ふきんこう》が生じたことはわかっています」
「マーサの受難《じゅなん》以来、われらエルヘブンの民が何人も、竜の神の助力を求めて、天空城《てんくうじょう》に旅立ちました。が、戻ってきたものはありません」
「誰かが行って、城に何があったのか探りだしてくれれば」
「再び天に浮かべてくれれば」
「大いなる力が均衡を取り戻し、竜の神が復活《ふっかつ》されれば、すべての秘密は解《と》き明かされるでしょう。そして、世々はあらまほしき状態に向かうでしょう」
「わかりました」
リュカはうなずいた。
「その水中の、天空の城を捜しましょう」
出立《しゅったつ》にあたって、長老たちはさまざまな品を贈《おく》ってくれた。リュカにはメタルキングの剣《けん》。ティミーにはドラゴンメイル。ポピーには賢者《けんじゃ》のローブ。それぞれがみな、守りの、あるいは、攻撃《こうげき》の、力を高める品々だった。
感謝《かんしゃ》のことばを告げて、親子は階《きざはし》を降りた。降りる端《はし》から、段は霧に飲まれ、ピエールたちの待つ庭にたどり着いたときには、もうどこにあったのかわからなくなってしまった。
一行は厳粛《げんしゅく》な気持ちで船に戻った。やがて、神秘《しんぴ》の村を囲む断崖が霧の中に溶けて遠ざかり、りんごの香りを孕《はら》んで吹く風が、船を東の海へと押しやった……。
マーリンが星を読み、ピエールが舵《かじ》をつとめた。やがて船は、再び陸に近づいた。不思議の床から写し取ってきた地図どおりならば、そのあたりが、秘密の湖に最も近い海岸線のはずである。
忠実《ちゅうじつ》なピピンとその部下に船を託《たく》して、リュカたちは陸路に転じた。
草深い丘を半分登りはじめたあたりから、はやくも殺人鬼《さつじんき》エリミネーターが、甲殻竜《こうかくりゅう》デンタザウルスが、魔人《まじん》シャドーサタンが現れた。これまでの旅で出会ったこともないほど力と技《わざ》に勝《まさ》った魔物たちだ。鏘々《しょうしょう》戟々《げきげき》、苛烈《かれつ》な戦嵐《いくさあらし》に大地は踏《ふ》みしだかれ、草の葉は血潮《ちしお》に染《そ》まった。
最初の野宿をすることになった夕暮《ゆうぐ》れ、リュカは子供たちに粗朶《そだ》の組みかたを、ほくちの使いかたを、燃え上がった炎の制御《せいぎょ》のしかたを教えた。
「ビアンカがいればこんな面倒《めんどう》はないんだがな」
リュカは言った。
「おかあさんは火炎呪文《かえんじゅもん》が得意だったからね」
「魔法で火を起こす……メラの力ね。おかあさんも強かったのね」
ポピーが言い添《そ》えると、
「強かった。それでも、敵の術中《じゅっじゅう》に填《は》まってしまった。おまえたちも、自分の力を過信してはいけないよ。このあたりには、ずいぶん手強《てごわ》いやつらが多いようだからね」
「そんなに危《あぶ》ないなら、ピピン小隊長や兵隊さんたちを連れてくればよかったのに」
枯《か》れ枝《えだ》で火をつつきながら、ティミーが小声でつぶやくのを、リュカは聞き逃《のが》さなかった。
「ピピンも一緒に来たがった。だが、わたしが断《ことわ》ったのだ。これは我々にさだめられた戦いだ。普通の人々を、できるだけ、巻きこみたくない」
「えーっ、変なの。だっておとうさんは王さまなんでしょ? 王さまが命令すれば、みんな言うことを聞くよ。兵隊は王さまのためにいるんだもの」
「そうか?」
リュカは驚いたように瞬《まばた》きをした。
「王こそが、兵隊たちの、国の人々のためにいるんじゃないか? パパスも……おまえたちのおじいさんも、ほんとうは王だったけれど、いつもひとりで戦っていたものだ」
ティミーは頬を赤くした。こころのどこかは、父の言うとおりだと素直にうなずいていたのだが、彼はリュカとは育ちが違う。生まれ落ちたそのときから宮廷《きゅうてい》暮《ぐ》らし。殿下《でんか》と呼《よ》ばれ、勇者と崇《あが》められ、大勢の大人《おとな》たちにチヤホヤとかしずかれて過ごしてきたのだ。
父に、驕《おご》りを咎《とが》められたように思った。無自覚を嘲《わら》われたように思った。だから。
「へんなの!」
ティミーは枝を放り出し、毒を含《ふく》んだ笑いを浮かべた。
「王さまのくせに、ひとりぼっちだなんて。そんなのおかしいよ。おとうさんって、あんまり王さまに向いてないんじゃない?」
リュカは無言だった。静かな、だが探《さぐ》るような瞳で、ティミーを見つめるばかりだった。が、かわりにポピーが拳《こぶし》を握《にぎ》って立ち上がった。
「んまぁっ……偉《えら》そうに。おとうさんに向かって、なんてこと言うのッ!」
ポピーはサッと手を伸ばし、ティミーの剣を奪いとった。大事な天空の剣《つるぎ》だが、座《すわ》る邪魔《じゃま》になるので、鞘《さや》ごと引き抜いて傍《かたわ》らに置いてあったのだった。
「な、なにするんだ、返せよ……でぇっ!」
あわてて浮かせたティミーの臀《しり》を、ポピーは剣の鞘で、思うさまひっぱたいた。
「なにさ。勇者さまだからって、いい気になるんじゃないわっ」
ティミーはサッと青ざめた。
「そんなことしてないだろっ! 返せよっ、危ないぞっ!」
「べーだ。危なくなんかないもん。どうせ、あたしには抜けっこな……きゃあっ」
突然《とつぜん》背後から吹きつけた熱風《ねっぷう》に、ポピーは大きくよろめいた。手から離れて飛んでゆき、焚《た》き火《び》に落ちかかる天空の剣を、横ざまに飛んだプックルがその牙《きば》にすくいあげ、ティミーに放る。
「敵だ! 火喰《ひく》い鳥《どり》だ!」
ピエールは剣を抜き叫《さけ》んだ。
「固まるな、散れっ」
ぎゃあぎゃあと耳ざわりな声、紅蓮《ぐれん》に燃え盛《さか》る火炎を吐《は》いて、火喰い鳥の群《む》れが夜空を滑空《かっくう》した。その搏《はばた》きのひと打ちごとに、空気はばちばちと放電し、鼻をくすぐるような匂《にお》いを帯びる。長く引いた尾の先からは、火花が飛びだし降り注ぐ。
「派手《はで》じゃのう」
マーリンは、ニヤリとした。
「喰《く》らうほど火を好むものなら、焼き鳥にしてやろうかの、えええい、メラミッ!」
リュカはポピーを抱き上げた。
「だいじょうぶ」
ポピーは汚《よご》れた顔で笑った。
「ちょっとびっくりしただけです」
「よし。では、ジュエルの陰《かげ》で身を守っていろ」
ティミーが天空の剣を抜《ぬ》き、ロッキーが気合いをためた。
リュカは焚き火から燃えさしの一本を拾《ひろ》って走った。小高い岩に立ち、腰の革袋《かわぶくろ》を口にあてて酒を含み、かりごしらえの松明《たいまつ》に吹きかける! 青い美しい炎が高々とあがると、火喰い鳥たちはみな誘《さそ》われて寄ってきた。炎をついばみ、煙《けひり》に酔《よ》い、火の粉《こ》をあびて狂乱《きょうらん》する鳥の群れに、リュカはメタルキングの剣を抜き放った。斬《き》る、斬る斬る!
翼《つばさ》をなくし、尾を折《お》られ、悲鳴《ひめい》をあげて地に落ちた鳥は、もがきながら燃えつきた。末期《まつご》の頼《たの》みか燻《くすぶ》る焚き火に突っこんで、そのまま動かなくなるものもある。火喰い鳥の魂《たましい》を得て、焚き火は一気に火勢を上げ、天まで焦《こ》がさんと燃えあがり、さかんに黒煙をたなびかせた。
そこへ。凄《すさ》まじい地響《じひび》きが轟《とどろ》きわたった。
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ずうん!       だうん!
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跳躍中《ちょうやくちゅう》だったプックルが、揺《ゆ》れる地面に弾《はじ》きかえされ、あわててくるりと回転する。
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ずずずずうぅん!!
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べきばきと樹木《じゅもく》を薙《な》ぎ倒《たお》しながら進んでくるのは、鉱石男《ゴーレム》! 全身が岩でできた魔人である。
ロッキーは、これは自分の相手だと、ごろんごろん転がり寄っていったが、すぐさま蹴《け》りあげられ、お手玉されて、
「メガ……まわるぅ!」
「でっけー!」
思わず伏《ふ》せるのも忘れて口走ったティミーに、鉱石男《ゴーレム》が目をとめた。
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ぼすん!
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岩の拳《こぶし》が降ってきた。地面は拳骨型《げんこつがた》に、一身長ものめりこむ。
「うわっ、じょじょ冗談《じょうだん》じゃないぞっ! んなのに殴《なぐ》られたらぺっしゃん……うひぁっ!」
剣を振るうのも忘れて、ちょこまかと逃げるティミーに、
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がん!
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ごん!          どすん!
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鉱石男《ゴーレム》はしつこく拳を繰《く》り出した。それが、うっかり焚き火を直撃《ちょくげき》し、もうもうと蒸気《じょうき》をあげる。燠火《おきび》の底は、ひどく熱いのだ。
「フォワァオォ!」
のたうちまわる岩の右手は、真っ黒|焦《こ》げに焦げている。
「へっ、ざまあみろっ! よぉーし、もらったぁっ!」
ティミーが天空の剣を振り上げて打ちかかろうとした。そのときだ。
「待ってぇっ!」
ポピーが叫んだ。両手を掲《かか》げて飛びだした。
「たんま! お願い、ふたりとも、ちょっとそのまま動かないで!」
「なんだってんだよ、ポピー?」
「……ヌガ……?」
火傷《やけど》した手を痛《いた》そうに押さえたまま、思わずぴたりと動きをとめた鉱石男《ゴーレム》の脇《わき》の下へ、ポピーはするすると潜《もぐ》りこみ。腰を抜かした狐《きつね》の子供三|匹《びき》を、腕に抱えて現れる。
「どうもありがとう」
ポピーはにっこり微笑《ほほえ》んだ。岩の巨人《きょじん》の芒洋《ぼうよう》とした顔に向き直り、片足をひいて、ちょこんとおしゃまな宮廷式の会釈《えしゃく》をした。
「待ってくださらなかったら、この子たち、潰《つぶ》されちゃうとこだったわ。……さ、お逃げ」
ひゃん、ひゃん! きゅん! おろされた仔狐《こぎつね》たちは、すっ飛ぶような勢いで走り出した。
「せっかくの戦いのお邪魔をしちゃって、ごめんなさいね。もういいわ。どうぞ。続けて」
無邪気《むじゃき》にけしかけるポピーの横で、ジュエルが、あいもかわらず何を考えているのかまったくわからない顔つきで、ただえへらえらへと宝石を投げ飛ばしている。
「……ガ……」
鉱石男《ゴーレム》は、岩くれの顔を半端《はんぱ》な笑いにこわ張らせ、
「ちぇっ。もういいよ。なんだか調子《ちょうし》狂《くる》っちまったぜ」
ティミーが剣の柄《つか》で、ごりごりと頸《くび》を掻《か》くところへ、火喰い鳥どもを全滅《ぜんめつ》させたリュカたちが戻ってくる。
「おやまぁ、なんと! ずいぶん大きなおともだちができましたねぇ」
ピエールが言った。
「おともだち?」
ポピーがきょとんと見上げると、
「フンガガガ」
岩の巨人はいかなる仕組みか頬《ほお》を赤くして、きちんと座《すわ》り直した。
こうしてじっとしているところを見ても、まことに大きい。馬一頭分も肩幅《かたはば》があり、胸の厚《あつ》みがまたその幅とほとんど同じだけあるのだ。頭と顎《あご》は四角く張り出し、ごつい額《ひたい》の陰《かげ》に眼はほとんど埋《う》もれ、鼻はどこかにぶつけでもしたかのようにあくまで平たく潰《つぶ》れている。だが、よく見ると、なかなか味のある、愛敬《あいきょう》のある顔だちである。
「おや、火傷《やけど》をしてるじゃないか。治してやろう」
リュカが回復呪文《ベホイミ》を唱えた。
「岩の巨人、おまえの名は?」
「ファォフェ?」
と、鉱石男《ゴーレム》。
「アンガー、ファムフェム、フォヘフホ」
「鉱石人間ゴレムスさんっていうんだって」
ポピーが通訳《つうやく》した。
「喋《しゃべ》るのはあんまり得意じゃなくって、どうもすみません、ですって」
かくてゴレムスが仲間になった。消えかけた焚き火をかき立てて、歓迎《かんげい》の盃《さかずき》を酌《く》み交《か》わす。あたりの地勢、魔物たちの様子などを尋ねれば、ゴレムスはこれでけっこう話し好き。ばかでかい手を思い入れたっぷり振り回しながら熱心に喋るので、ポピーは通訳で大いそがしだ。
「……あの……。おとうさん?」
話のはずんでいる最中、ティミーはそっとリュカの隣に座りこんだ。
「ごめんなさい……。さっきは。へんな王さま、なんて言って……」
「なんだ。気にしていたのか、そんなことを」
リュカは微笑み、ティミーの肩に手をかけた。
「いいんだ。自分でも、あんまり王さまらしくないと思う。もともと、向いていないのかもしれない。でも、できれば、そんなことでポピーと言い争っては欲しくないな」
「うん。……あとで、ポピーにも謝《あやま》る」
ティミーは焚き火の照り返しで赤い瞳をさかんに瞬《またた》きながら、ニッと笑った。だが、笑うそばから、また頬がこわ張る。唇がひきつる。べそが鼻先までこみ上げてくる。
「どうした?」
「……ん……」
「なんだ? 言ってごらん?」
「お、おとうさんは……おとうさんは……ぼくとポピーと、どっちが好きなの?」
リュカは息子《むすこ》を見た。
いっぱいに涙をため、鼻の穴《あな》をぴくぴくさせ、小さな唇をへの字にした、伝説の勇者を。
その瞬間、リュカは悟《さと》った。勇者といっても、まだまだ子供なのだ! 甘《あま》えたい、愛されたい、無条件《むじょうけん》で抱《だ》きしめてほしい年頃《としごろ》なのだ。
リュカは胸を突かれ、吐息《といき》を洩《も》らした。強く抱きしめ、息子にささやく。
「おとうさんは、きみたちのどちらも、同じくらいに大好きだよ、ティミー。どちらも、ほんとうに大切な、世界一かけがえのない子供たちだと思っている」
「ほんとに?」
「ああ。ほんとうだとも!」
「お……おとうさぁぁん! おとうさ……ぐっ……ふえええん!」
しゃくりあげる勇者のちいさな背を抱きしめながら、リュカは、しみじみと知りはじめた。父になるとは、どういうことなのか。子供を持つとは、どういうことなのかを。
爆《は》ぜる焚き火に、父と子のひとつになった影が揺れた。地面におかれた天空の剣が、揺らめく炎を映《うつ》し、きらきらと微笑むように輝いていた……。
岩山の谷間《たにあい》を遡《さかのぼ》ること二日。神秘の湖エルハートレイに至《いた》ると思われる洞窟《どうくつ》は、分厚い石板に塞《ふさ》がれていた。苔《こけ》むした岩を動かすのに、ゴレムスはその剛腕《ごうわん》でさっそく役に立ってくれた。
天然の岩洞《がんどう》は、やがて平《たい》らにならされた傾斜面《けいしゃめん》となり、壁《かべ》につきあたって直角に折れた。さらに下へ、地の底へ、どこまでも階段が伸びている。石の階《きざはし》はひとつひとつが異様《いよう》に大きく、新しく『おともだち』になった魔物にこそちょうど具合がいいほどだ。子供たちと段の苦手《にがて》なロッキーは、ゴレムスに抱きかかえられ、ほかのものたちは両手両足を使って、慎重《しんちょう》に下っていった。
空気はひんやりと澱《よど》んで黴臭《かびくさ》い。どこまでも、果てしなく続く薄闇《うすやみ》のところどころに、ひどく大きな取っ手や釘《くぎ》、なにかの足跡《あしあと》などが見分けられた。石の摩耗《まもう》は、このばかでかい段をごくあたりまえに、大勢の何者かが頻繁《ひんぱん》に歩いた過去を暗示《あんじ》している。
「太古の民《たみ》の遺跡《いせき》じゃろうか」
松明《たいまつ》がわりの炎《ほのお》を掲《かか》げてマーリンが首を捻《ひね》る。
「あるいは、ゴレムスは、その民の生き残りなのかもしれぬの」
階段は唐突《とうとつ》に終わり、道は金棒《かなぼう》で補強を施《ほどこ》した頑丈な木の扉《とびら》に突き当たって途切《とぎ》れた。錆《さ》びた錠前《じょうまえ》が鋼鉄製《こうてつせい》の二つの環《わ》を固く結びあわせている。
ティミーが錠《じょう》を切り落とし、ゴレムスが二つの環に手をかけ、引いた。生木《なまき》を裂《さ》くような音をたてて扉の中央に刃物《はもの》一枚ほどの隙間《すきま》ができると、そのとたん……ばぁん! 緑がかった不可思議《ふかしぎ》な光が爆発《ばくはつ》するように広がり、扉は内側から左右に押し除《の》けられた。
「わぁっ!」
疾風《しっぷう》となって逃《のが》れ去る瘴気《しょうき》に、一行はみな吹き飛ばされそうになった。ティミーはしゃがんで石畳《いしだたみ》に爪《つめ》をくいこませ、ポピーはゴレムスの脚《あし》に両手を巻いて踏ん張った。
風は唸《うな》り、耳を圧《あっ》した。ろくに開けることのできない目ではなく、からだ全体で、いや、こころで。双子は感じた。荒《あ》れ狂《くる》う霧魔《むま》を、怨《うら》みを抱《いだ》いて死んだものたちの冷たい愛撫《あいぶ》を。誘《さそ》いかけるような奇妙に優しい笑いを。
頭の両側に角《つの》の生えた首だけの戦士が、醜《みにく》い大猿型《おおざるがた》の魔獣《まじゅう》が、二つ目で巨大な翼のあるものなどが、押し寄せ、飛び交い、もつれあうように渦を巻いた。脅《おど》し、けしかけ、なだめすかして、自分たちの仲間に入れと呼びかけた。だが、双子の無垢《むく》な魂が、堅固《けんご》な意志の壁をめぐらせて、どんな邪悪にもけして取り合わないと知ると、魔物たちは、みな、諦《あきら》め、しょぼくれ、すごすごと引き下がり、やがて、どこへともなく溶けていった。
はじまったときのように唐突《とうとつ》に嵐《あらし》が止み、気配が消えた。
「……ああ……ああ、びっくりした……おっかなかった」
ティミーはまだどきどきする胸に手をあてて立ち上がった。
「いったいなんなんだい、いまのおばけは?」
「おばけだって?」
リュカがあっけにとられたようにピエールを見た。ピエールも黙《だま》って首を捻《ひね》る。プックルは前肢《まえあし》を嘗《な》めて埃《ほこり》だらけになってしまったからだを撫《な》で、ゴレムスは天井に頭がつかえるので、半端《はんぱ》に膝《ひざ》を屈《かが》めて辛《つら》そうだ。ロッキーやジュエルは、目を丸くしてきょとんとしている。
「すごい風だったが……ばけものなど、おったのか?」
長らく双子の魔法の師であったマーリンが静かに問うと、
「いたわ! いました」
ポピーが言った。泣きそうな顔をして。
「棘《とげ》だらけのからだをした大きなとかげがいたわ。剣と盾《たて》を持って二本|脚《あし》で立った竜《りゅう》もいたわ。その魔物たち全部を率《ひき》いていたのは、青い肌《はだ》をして、獣《けもの》の顔をした、すごく立派《りっぱ》な戦士だったわ」
「熊《くま》か犬みたいな顔だったよね」
とティミー。
「青い肌の、戦士?」
ピエールがしゃがれた声で言った。
「魔物たちを率いていたって? それは、もしや、わたしの養《やしな》い親《おや》の、ソルジャーブルではないだろうか。……死んだものとは思っていたが……しかし、なぜ、こんなところに魂を捉《とら》えられていなければならないのだろう?」
「閉められたんだ。ある日突然」
ティミーが顔をしかめた。
「扉を閉ざして、外から鍵をかけた奴がいるんだ」
「食べる物もなくて、空気が濁《にご》って、とても苦しかったわ。仲間割れもあった。自分から生命《いのち》を断《た》ったものも。そうして、みんな、結局は、死んでしまった」
ポピーは、自分がその中のひとりででもあったかのように、ぞっと震えた。
「ひどい話だな」
リュカは顔をしかめた。
「この扉を開けてやったことで、彼らの魂が救われるのならばいいが……。それにしても、おまえたちには、死んだものの声まで聞こえるんだな」
「……中は、まだ、危険《きけん》なんでしょうか」
ピエールは剣を抜いたまま、開け放たれた扉の内側に踏みだして、あっと声をあげた。
「どうした?」
「これは……」
彼らの中の誰ひとりとして、それほどまでに奇妙な光景《こうけい》を、見たことがなかった。
鍛冶屋《かじや》のような、工房《こうぼう》のような。ばかでかい機械や道具が、手当たり次第に散らばったまま、せっせとひとりでに働き続けている。
ぴーい! ぴーい! 笛《ふえ》のような音。ぐとん、がたん! ぐごとん、がたん! 水車小屋で粉《こな》を挽《ひ》くような音。凄《すさ》まじい音をたてながら、ありとあらゆるものが勝手に動いているのである。
一行は首をすくめ、からだをこわ張らせたまま、おそるおそる歩を進めた。ひどく暑《あつ》く、湿気《しっけ》がひどい。服も髪も、たちまちぐっしょりと重くなった。
見えない手が岩を砕《くだ》き、土をえぐり、車輪《しゃりん》のついた箱《はこ》に乗せつけている場所がある。いっぱいになった箱は自分でさっさと走り出す。どこまでも打ち伸ばした金属《きんぞく》の筋《すじ》が、車輪の幅ぴったりに二本の道を作っていて、けして行く先を間違《まちが》えない仕掛《しか》けなのだ! 筋が途切れるとこまで来ると、箱はどすんと止まる。そこでまた何かの仕掛けが台車を斜《なな》めにし、中身をぶちまける。元の場所には、どこからともなく次の箱が出現して、同じことをくりかえすのだ。
ぶちまけられた岩くれは、動く帯に乗って運ばれる。ひとも飲みこんでしまいそうなばかでかい漏斗《じょうご》に注がれ、蒸気を洩《も》らしながら管《くだ》を走り、やがて、どろどろと赤く粘《ねば》ったものになって、斜《なな》めの樋《とい》に流れだす。その先では、巨人《きょじん》の卓《たく》のようなものが上下から、がしゃくん、がしゃくん、と音高くうちあわされている。融《と》けた飴《あめ》のような何かが、飼《か》い葉《ば》桶《おけ》ほどもある柄杓《ひしゃく》から二つの間に流しこまれ、じゅうじゅう熱そうな音をたて、まっ平《たい》らのつるつるした板になって、脇《わき》に滑り落ちる。
数多《あまた》並んだガラス瓶《びん》に色つき水を注いでいるところもあった。流れくる金属珠《きんぞくだま》を、ふるいにかけて、大きさごとに分けているところもあった。しゅうう、しゅうう。蛇《へび》の唸《うな》るような声をたてて激《はげ》しく湯気が立ち、天井にたまった水がしたたり落ちて、床を流れる。
「いったい、なんだ、ここは?」
リュカは呻《うめ》いた。
「きっと、あの、大きな階段を造《つく》ったひとたちの魔法なんだわ!」
ポピーが怒鳴《どな》った。大声を出さないと、誰にも聞こえない。
「みんな、こんなにずっと動いてて、くたびれちゃわないかな!」
ティミーが叫《さけ》んだ。
「あるいは、湖から力を得ておるのやも……! う、ぜほぜほぜほ……」
マーリンが負けずに声を張り上げてむせかえり、子供たちに背中を叩《たた》いてもらった。
「……すまん……ぜぇぜぇ……いや、年はとりたくないものだ……だからじゃな。粉《こな》ひき場が水車の力を借りるようにの。太古、水や風や火を使って数多《あまた》の不思議をなした民があったと聞いたことがあるが……ごほごほ。それにしても、いやはや、騒々《そうぞう》しいのう」
騒音《そうおん》と熱気と湿《しめ》り気《け》の中を、それでも一行は奥に進んだ。
海竜《かいりゅう》の首のように伸《の》び縮《ちぢ》みして、重たいものを持ち上げて運ぶ装置《そうち》があった。回り続ける円盤《えんばん》の上を、研磨《けんま》し続けている刷毛《はけ》は、すっかりすり減って柄《え》だけになっており、盛《さか》んに火花を散らしていた。そしてあの車輪つきの箱が、頭の上やすぐ脇を、幾《いく》つもごうごうと疾走《しっそう》する。
すべてがゴレムスの巨体《きょたい》に見あう大きさで、線路ひとつまたぐのも容易《ようい》なことではない。
あまりの迫力《はくりょく》と違和感《いわかん》に、大人《おとな》たちは、威圧《いあつ》され、萎縮《いしゅく》して、黙《だま》りこんだが。
「すっごいねぇ」
子供の好奇心《こうきしん》は恐怖や不安よりも強いもの。ティミーもポピーも身軽に走り回っては、きょろきょろあたりじゅうを見てまわって、大喜びだ。
「あのフイゴみたいなの、カエルそっくり。あっちの天井は、さかさまの井戸ね」
「不思議だなぁ。ひょっとすると天空の剣って、こんなところでつくられたのかもしれないなぁ」
「ほら、あんなとこに虹《にじ》が出てる。きれいね」
「ひゃあ、すげぇ。そーっくり同じ真四角がどんどん出てくるよ。何年も何年も、誰も使わない真四角ばっかり造って、いったいどうするんだか?」
「あっ、ティミー。見てっ!」
「え? ……あーっ」
双子はつま先だって目を丸くし、うなずきあった。
「……おとうさぁん!」
「おとうさん、ちょっと来てえっ!」
双子は叫んだ。だが、あたりがあんまりうるさすぎる。謎《なぞ》の機械《きかい》の二つ分ばかり遠くをおっかなびっくり歩いてゆく父は、少しも振り向かない。
ティミーは手近な床にこぼれ落ちていた巨大な捩子《ねじ》を拾って投げた。うまいこと父のそばの梁《はり》に当たって、甲高《かんだか》い音を立てた。ぎくりと振り返る父に、大きく腕を振り上げて。
「おとうさん、誰かいる! 誰か、あの箱に乗っているんだ!」
環状《かんじょう》につながった例の金属の筋《すじ》の上を、巨大な箱がぐるぐる回り続けている。その中に、ぐったりと誰か伸びているようなのだ。
あたりを調べると、床から突き出した梃子《てこ》のようなものが見つかった。箱の走る道を、つまり、金属の筋を、切ったりつないだりする仕掛けらしい。ゴレムスが力いっぱい挺子を押した。錆《さ》びついた金属が擦《こす》れて、ひどく軋《きし》んだ。嫌《いや》らしい音に、ティミーとポピーは両手で耳を押さえた。
ゴレムスがさらに力をこめる。ぽきり! 挺子が折れ、ゴレムスがなんとも悲しそうな顔をした。が、その衝撃《しょうげき》で仕掛けが吹き飛び、ぱちんと何かの留《と》めがはずれた! 回転していた箱がみるみる失速し、行き止まりの筋に入って、ごとんと止まった。みんな駆け寄った。
目をまわしていたのは巨人ではない、魔物でもない。ごくあたりまえの、少々|痩《や》せぎすな体格の人間の男だ。黒いズボンに蝶《ちょう》ネクタイ。まるで酒場《さかば》の主人のような、洒落《しゃれ》た身なりをしている。
そもそも普通の生きた人間がひとりきり、こんな謎めいた場所にとじこめられていた理由がわからないし、ひょろりと間抜《まぬ》けた色白の顔の上に、丸いガラスをふたつつなげたものをくっつけているのが、なんとも珍妙《ちんみょう》で奇《き》っ怪《かい》だ。
「いやー、まいったまいった。どこのどなたか存じませんが、ほんとにありがとうございました」
助け起こすと、男が、ちゃんとあたりまえの言葉を喋ったので、みなとりあえずホッとした。
「トロッコの中にうっかりメガネを落としちゃって、拾いに入ったら、どういう弾みか、いきなり走り出しやがって……どれほど気を失っていたのやら。やれやれ、頭が痛い」
「トロッコ? メガネ? ……それ何ですか?」
ポピーが尋ねると、男はきょとんとして、両目の前のガラスに手をかけ、
「ああ、そうか。この世界にはまだこんなものはありませんでしたね」
ますますケッタイなことを口走り、
「いやはや。そうお疑《うたが》いめさるな、愛らしいお嬢《じょう》ちゃん。申し遅れました、わたしはプサン。こう見えましても、実は、なにをかくそう! 天空の民《たみ》のひとりなのでございます」
「天空の?」
みないっせいに声をあげた。
「はーい」
プサンはメガネというらしいガラスの丸をくいっと押し上げ、得意気《とくいげ》に笑った。
「お見うけしたところ、みなさまがた、天空の城においでになろうとしているところなのではありませんか? よろしい。お礼のかわりに、ご案内《あんない》しましょう!」
「天空の民って、思ってたのとちょっと違うな」
ティミーがつぶやき、ポピーが肩をすくめた。
謎の人物プサンの勧《すす》めで、一行はトロッコに乗ることになった。そう、あの車輪つきの箱はトロッコ、金属の筋は線路というんだそうである。ゴレムスの巨体は一台分を占《し》めてしまうので、二台のトロッコを連結した。
少々揺れたが、乗り心地《ごこち》は快適《かいてき》で、風のように走った。馬よりも船よりも速く、まるで空を飛ぶように! ひとりでに動く謎の機械群の間に縦横無尽《じゅうおうむじん》に伸びた線路を、トロッコは次々に乗り換え、どんどん速度を上げた。ティミーとポピーが歓声《かんせい》をあげ、プックルは具合が悪くなって床にうずくまった。
がたこん、がたこん、がたこん!
枕木《まくらぎ》(線路の下敷《したじ》きになる板を、そういうんだそうである)を越える愉快《ゆかい》なリズムに乗せて、プサンは調子っぱずれな歌を歌った。
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アイララ ラライラ アイララライ
セントベレスに行くのなら
竜の背中に乗って行け
アイララ ラライラ アイララライ
竜は速いぞ でっかいぞ
大海原《おおうなばら》もひとっとび
アイララ ラライラ アイララライ……
[#ここで字下げ終わり]
子供たちは大喜びで唱和《しょうわ》し、トロッコの床を叩《たた》いて拍子《ひょうし》を取った。プサンはにこにこと手を振り回し、メガネを鼻の頭にずり落としてはまたクイッと持ち上げてみせた。
「なにものでしょう?」
ピエールが声をひそめてリュカに言う。
「扉が閉ざされる以前から中にいたとしか考えられませんが……ほんとに天空人なのでしょうか。だとしたら、なにをしてたんです? なぜ魔物たちのように、生命《いのち》を奪《うば》われなかったんです?」
「わからない」
リュカは肩をすくめた。
「でも、悪い奴《やつ》じゃないよ」
「そう簡単《かんたん》に信用していいのですか?」
「いいさ。だって、子供たちがあれだけ懐《なつ》いているんだから」
リュカはピエールの騎士《きし》の肩を叩いた。
「わかるんだ、彼らには。邪悪なものと、そうじゃないものが。心配いらない」
「ならいいのですが」
ピエールは小さくため息をついた。
やがて機械群がまばらになり、岩天井や壁が線路のすぐ脇《わき》まで迫《せま》った。ゴレムスは膝《ひざ》を抱え、首をすくめて、けんめいにからだを小さくする。トロッコはうねる線路をくねくねと走り抜け、高度を稼《かせ》いだ。
「アイララ、ラライラ、アイララライと! ……さぁ、もうすぐ終点ですよ。このあと、一気に下ります。危ないですから、乗り出さないで、ちゃんとつかまっていてくださいよ!」
プサンが言うが早いか、線路は頂上に達した。がたん、と大きく車体が揺れ、傾《かたむ》きを変えた。
その瞬間《しゅんかん》、どこまでもまっすぐに落ちてゆく線路が見えた。遥《はる》か下で、二本の金属の筋がひとつになって消失している。リュカの首筋《くびすじ》は、ゾッとそそけだった。
息詰《いきづ》まる停止《ていし》の後、トロッコは重心を前に移し、下り始め、たちまち、ぐんぐん加速した。風圧にティミーのおでこがむき出しになり、ポピーがふわりと浮かびかけて、あわててリュカにしがみついた。ローブがめくれ、痩せた膝《ひざ》やら腿《もも》やらがむきだしになったマーリンが顔を赤らめれば、ロッキーは『メ……の毒!』と意地悪くぼやいて全員に冷《ひ》や汗《あせ》をかかせる。ピエールのスライム部分は流線形に変形し、さすがのジュエルも宝石をなくすまいと顔を真っ赤にして袋を閉ざし、プックルは床に伏せ両前肢を眼にあてて、がたがたと震《ふる》えている。
やがて前方に光がさし、青く輝く平らな床《ゆか》のようなものが見えてきた。水だ。水面だ。あっという間に近づく! と。突然、線路がなくなった。トロッコは何もない空間を凄まじい速度で飛びすぎた。プサンが何かの呪文のようなものをつぶやいた。
[#ここから5字下げ]
ばっしゃあん!
[#ここで字下げ終わり]
ものすごい水泡《すいほう》の中を、トロッコはさらに落ちた。
水面を割《わ》った瞬間から、思わず目を閉じ頬を膨《ふく》らませて息を止めていたティミーは、苦しくなって、ぷはっと息をついた。水を飲むかと思ったが、飲まなかった。息ができた。ティミーはまぶたを開き、たちまちその目を疑《うたが》った。二台のトロッコのまわりに、いつの間にか、見えない壁のようなものが生じている。
「あっ、ポピーご覧《らん》よ! お城だ!」
「え……喋《しゃべ》れるの? 溺《おぼ》れないの? ……まぁ、ほんと!」
青一色の水の下、小さな起伏《きふく》を連《つら》ねた砂底《すなぞこ》が水面の小波《さざなみ》を映してキラキラと輝き揺れる中、城は静かにたたずんでいた。時おり小さな気泡《きほう》を立ちのぼらせながら。
「うわ、ケーキみたいだねぇ」
「ティミーったら食いしん坊ね」
たくさんの尖塔《せんとう》の間を、魚たちの群れが幾《いく》つも通りぬけてゆく。風に吹かれる木《こ》の葉《は》のように、ひらひらと落ちかかっては、またいっせいに反転して泳ぎ去る。
トロッコは次第に速度を落とし、ゆっくりと城の正門に向かった。そのままぶつかってしまうのかと、みなが緊張《きんちょう》した瞬間、トロッコはしゃぼん玉の割れるような軽い衝撃《しょうげき》と共に何かの幕《まく》をくぐりぬけ、青大理石を敷《し》き詰《つ》めたような輝く床の上に、ごとんと軽く降り立った。
恐ろしいほど静かだ。城はひそやかに眠っているようだった。ところどころは水に没《ぼっ》し、透明《とうめい》なきらめきを湛《たた》えている。ほのかに暗かったが、空気は冷たく澄《す》んでいる。緊張にこわばっていたからだをほぐしながら、一行は助けあってトロッコを降りた。
あたり一面が青かった。空の青、海の青。スミレの青、ワスレナグサの青、鰯《いわし》の青、鳩《はと》の青、瑠璃《るり》カケスの青、鋼鉄《はがね》の青、積み重なった氷の青……世の中のありとあらゆる青を集めて、モザイクにしたら、こんな感じになるだろうか。空気そのものも、互いの顔や手も、よく晴れた満月夜のように、神秘《しんぴ》の青に染《そ》まっている。
誰か別のひとのみている夢の中にでも迷《まよ》いこんでしまったかのような。時の止まった世界に踏みこんでしまったような。なんとも不思議な雰囲気《ふんいき》に、みな改めて息を飲んだ。
この床はちゃんと踏めるんだろうか? へたに動いたら、目にみえない水に溺《おぼ》れてしまうのではないか? リュカも双子も魔物たちも、次々に目まぐるしく現れる馴染《なじ》みのない世界に、くたくたのどきどきで、口を開く元気もない。
「おお、なんてことだ!」
プサンひとりは溌剌《はつらつ》としたものである。
「誰もいない。みんなどこへ行ってしまったんだろう? ここに来れば、どうして城が落ちてしまったのかもわかるだろうと思ったのに! ……おや、どうなさいました?」
プサンは黙りこんだままのみなを振り返って、ツイッとメガネを押し上げた。
「いや、そんなに固くなることありませんよ。ここには剣呑《けんのん》なものはおりませんからね! さぁ、こちらです。どうぞ、ついてきてください」
プサンは大股《おおまた》に床を横切り、立派な青扉《あおとびら》を大きく左右に開け放った。中はぼうっと明るい、広いホールになっている。柱や壁や床は信じられないほどなめらかで、淡《あわ》い光輝《こうき》を帯《お》びている。これほどツヤツヤに磨《みが》きあげられた材であれば、鏡のようにこちらの姿を映すはずなのだが、それらは何物も反射しなかった。内にこもって燃える光を、リュカは見た。星をとじこめることができたら、そんなふうに見えただろうか。光を固めることができたら、こんなものになるだろうか。
「さぁ、どうぞ、どうぞ。こっちですよ」
プサンはつるつるする床をいかにも物慣《ものな》れた様子で進み、こともあろうに、玉座《ぎょくざ》とおぼしき壇《だん》をめがけて、まっすぐあがっていった。
真紅《しんく》に輝く天鵞絨《ビロード》を張った巨大な黄金の玉座の後ろに、ひどく急な階段があった。プサンはみなが神妙《しんみょう》な顔つきで続いているのを確認《かくにん》すると、ニッコリとして、階段を降り始めた。
長い長い階段だった。おまけに、一条《ひとすじ》の階段以外、あたりはただ茫漠《ぼうばく》とした輝く闇に溶けている。足を踏みはずしたら、どこまでも無限に続く虚無《きょむ》の中にさまよい出てしまいそうだ。
リュカも、双子も、魔物たちも、わけのわからぬまま、遅れまいとして前のものについてゆくのがせいいっぱいだった。さしも長い階段がやがて終わりに近づいた。行《ゆ》く手《て》の床が見えてきた。
床の中央には、竜の紋章《もんしょう》が刻《きざ》まれている。その右手に、すべらかな台に抱かれて、鈍《にぶ》く明滅《めいめつ》する銀の珠《たま》。だが、左手の台は。
「ややや! こはいかに!」
真っ先に降り立ったプサンが、台にかけより、続いて、紋章のかたわきの床の穴を覗きこんだ。
「……なるほど……そうだったのか」
「どうしたのです?」
リュカが尋《たず》ねると、プサンは深刻《しんこく》な顔をして立ち上がった。
「ゴールドオーブがなくなっている」
「ゴールドオーブ?」
「落ちたらしい。ここの穴から。そちらの台が空になっているでしょう? あそこにはかつて、ゴールドオーブという天の宝《たから》があったのです……左手にシルバーオーブがあるように」
プサンは銀の珠を指さした。それは寂《さび》しげに輝いていた。リュカは見た。いや、それは眼の前に現れたというより、頭の中に生じた景色《けしき》だったから、感じた、というほうが正しいのかもしれない。
七色に輝く雲に包まれて、颯爽《さっそう》と空を駆けるありし日の天空の城。生命《いのち》と喜びと誇《ほこ》りに満ち、平和と希望をあふれさせながら、世をめぐり、ひとびとに光を注ぎかける。それは美そのものであり、善であり、神の輝かしい光であった。
と、突然、城が揺れ、何かが落ちた……きらきらと星屑《ほしくず》の尾を引きながら……落ちて落ちて……地上が見える。雷鳴《らいめい》轟《とどろ》く深夜の森だ。天空城のかけらは、さらに落ちて、流星のごとく落ちて落ちて……
(レヌール城だ!)
リュカは呻《うめ》いた。森の中にぽつんと立った小さな城に、確かに見覚えがあったのだ。
光るものは、城の屋根を貫《つらぬ》いて消えた。リュカは刮目《かつもく》した。リュカは思い出した。亡霊《ぼうれい》のエリック王に託《たく》された黄金《おうごん》の珠《たま》! 親分ゴーストが狙《ねら》っていたもの、生命《いのち》を賭《か》けて守れといわれた、謎の宝物。だが、だが、あれは。
「そなた、なにか不思議な宝石を持っていますね。見せてごらんなさい」
黒《くろ》蜘蛛《くも》の指が珠《たま》をつかんだ。引き裂かれるような痛みにリュカの顔は固くこわばった。
「いい子だ、いい子だ、がまん、がまん。さあ」
雷光《らいこう》炸裂《さくれつ》、黄金の珠はこな微塵《みじん》に破壊《はかい》され……
「そうか……あれが……あれが、ゴールドオーブだったのか!」
がつりと膝をつく。その痛みに、リュカは我にかえった。幻《まぼろし》は消え、青い城の最深部、ぽっかりと床に開いたうつろな穴が、すぐ目の前に見えた。
「ゴールドオーブがなければどうしようもありません」
残酷《ざんこく》なほど静かに、プサンは言った。
「あれを取り戻せない限り、天空の城は二度と飛ぶことはないでしょう。空に城があり、竜の神が目を光らせておられれば、闇の手のものたちなど恐れるまでもない。この世にこれほど、憂《うれ》いや病《やまい》や争《あらそ》いごとが増えたのは、すべて、城が落ちたせい」
「だが、あれは……」
リュカは胸を焦《こ》がす息を吐き出し、プサンを見た。
「あれはゲマに破壊されてしまった。取り戻せるはずはない」
「伝説では二つのオーブを生んだのは、妖精《ようせい》の女王ポワンであるといわれています。あるいは、女王ならば、もう一度ゴールドオーブをつくってくれるかもしれない」
「ポワンさまか!」
リュカは立った。その瞳《ひとみ》には、小さな希望が輝きはじめた。
「そのひとならば知っています。そうだ、そのひとは、いつの日か困《こま》ったことがあったなら、もう一度訪ねていらっしゃいと言ってくれた。ぼくが頼んできましょう! そして、きっとゴールドオーブを持って戻ってきます」
「待っています」
プサンはにこりともせずにうなずいた。
「手伝うよ、おとうさん」
ティミーが頬を紅潮《こうちょう》させて、父の手を取った。
「もちろんよ。さぁ、みんなで行きましょう……ともかく、いっぺん地上に戻らなくちゃね」
ポピーが言った、そのとたん。
明滅《めいめつ》するシルバーオーブが、光でできた天空の城が、突然|歪《ゆが》み、傾き、脈打《みゃくう》つように揺らぎだした。さまざまな青が渦《うず》を成《な》し、沸き返り、混然《こんぜん》と混じりあい……
「ああっ、変だわ。誰かが、あたしをひっぱってる!」
「なんだっ、ううっ、目がまわる、気持ち悪いぞっ」
「みんな離れるな! 手をつなげ!」
めくるめく魔法の力に不思議の奈落《ならく》と化《か》した青の井戸の中を、誰ひとりなすすべもなく突き落とされ、もみくちゃになりながら、ただ落ちて落ちて……
……気がつくと、リュカと双子は、砂塵《さじん》に煙《けむ》った地平に足を降ろしていた。舞い飛ぶ砂《すな》の奔流《ほんりゅう》が音もなく降り注ぎ、うずくまり、ゆっくりとおさまりはじめると、あたりは砂漠《さばく》、目の前には、黒鉄《くろがね》の城がそびえ立っている。
「おはいりなさい、子供たち」
甘《あま》やかな女の声が届く。
「わたしはテルパドールのアイシス。千五百年生きてきた砂漠の女王。無理に呼びつけてすみません。けれど、あなたがたに、お渡《わた》ししたいものがあるのです」
一行はおっかなびっくり黒鉄の城門をくぐった。若緑の草の絨緞《じゅうたん》を踏み、小さな箱庭《はこにわ》のようなオアシスを横切ると、噴水《ふんすい》の傍らに、古風な衣裳《いしょう》をまとった美しい女がたたずんでいる。夜に咲《さ》く梨《なし》の花のようなほの白い顔に、孔雀色《くじゃくいろ》の瞳が輝いている。アイシスだ。
「ティムアル・エル・ケル」
アイシスの声は歌だった。さらさらと涼《すず》やかに耳を愛撫《あいぶ》する。
「不在王デュムパポスの末裔《まつえい》、虜囚王《りょしゅうおう》リュケイロムの子。グランバニア王家の不屈《ふくつ》の戦士らの血によって再び世に蘇《よみがえ》りし、伝説の勇者よ。ここへおいでなさい」
ティミーは戸惑《とまど》って、父を、双子のかたわれを、振り向いた。ふたりとも、黙ってこくりとうなずいた。ティミーは唾《つば》を飲みこみ、進み出て、砂漠の女王の足許《あしもと》にひざまずいた。女王が両手を宙《ちゅう》にさしあげると、手の内の空中に、何かが生じた……金でも銀でもない不思議のあの金属でできた大きな兜《かぶと》!
「長い長い歳月《さいげつ》、わたしは待ちました。あなたが誕生《たんじょう》するまで、成長するまで……そして祖父《そふ》どのと父上のたどった運命の織《お》り糸《いと》を、理解《りかい》することができるほど大人《おとな》になるまで。ここに、ようやく時は至《いた》りました。あなたは、ほんとうに勇者の名にふさわしい少年になりましたね」
濃《こ》いまつげの下の切れ長の瞳《ひとみ》が、潤《うる》んだように煌《きら》めいたかと思うと、女王はティミーの頭に天空の兜をささげた。
「さぁ、大いなる父よ、天空城の竜の神よ! 砂漠の娘《むすめ》アイシス、いまこそ、預かりし物をお返しいたします。……お受けください!」
女王がゆっくりと両手を退ける。兜は宙に浮いたまま、きらきらと輝き……静かに降りて……ティミーの金髪《きんぱつ》に吸いつくように寄り添《そ》った。
ティミーは立ち上がった。兜はその小さな頭の上で、燦然《さんぜん》と輝きわたる。剣と盾、同じ天空の名を受けた品々が、光の歌声で兜との再会を祝い、勇者の使命を讃《たた》えた!
「ポピレア・エル・シ」
続いて、アイシスは言った。
「門を司《つかさど》る氏族《しぞく》マーサの末裔、天空の光の生命《いのち》を受け継ぎしビアンカの娘」
ポピーが額《ぬか》ずくと、アイシスは愛《いと》しそうにその頬に触れ、顔をあげさせた。
「そなたもまた、女たちの痛ましくも健気《けなげ》な手の紡《つむ》いできた尊《とうと》いさだめを引き継ぐもの。そなたの手は、剣を抱くには優しすぎ、血潮《ちしお》に染《そ》めるには聖《きよ》すぎます。そなたは勇者ではない。しかし、孤独《こどく》にして不羈《ふき》なる勇者に、誰より近き魂《たましい》を持ったもの。その類稀《たぐいまれ》なる賢《かしこ》さで、彼を佐《たす》け、守っておあげ」
アイシスが優雅《ゆうが》な手つきで宙に奇妙な魔法文字《ルーン》を描くと、大気の中に、淡《あわ》やかな紫色に煌《きら》めく小さな鏡のようなものが生じた。ぽかんと見とれる少女の胸に、アイシスは幻《まぼろし》の鏡を押しやった。それは少女の胸にあたり、そのまま見えなくなった。
「いま授《さず》けたのはマホカンタの呪文。使いかたはわかりますね?」
「はい……女王さま! わかります。きっと大切に使います」
アイシスは柔《やわ》らかに微笑《ほほえ》んで少女を立たせ、次に、静かに、リュカに向き直った。夜の水のようにきらきらと輝く黒髪をかすかに揺らしながら。
「リュケイロム・エル・ケル」
ゆるやかに彼女は言った。吐息のように……ささやきのように。その声は威厳《いげん》に満ち、逆《さか》らいがたいものであったが、そこには、隠すことのできない憧《あこが》れが、愛《いと》しさが……けしてその手に抱くことのできぬ我が子を呼ぶような色が……滲《にじ》んでいた。
「あなたには、もう贈《おく》り物をしました」
「……なんのことです?」
女王はこれに答えず、艶然《えんぜん》と笑《え》みを浮かべた。
「ビアンカは無事です。あなたはやがて、彼女を見出《みいだ》すでしょう。そう遠いことではない」
リュカは眼を見張った。
「ビアンカをご存じなんですか?」
「知っていますとも」
女王は片方の眉《まゆ》をかかげた。
「あなたも彼女も砂を踏んだ。わたしのからだであるこの砂漠の上で、あなたがたは愛を誓《ちか》い、愛を交《か》わした。それがわたしの贈り物……その時と場所と、最後の小さなきっかけと」
なんのことを言われたのかにようやく思い当たってリュカが頬を赤くすると、女王はクスクスと笑った。
「あなたがたは永遠の絆《きずな》に結ばれています。羨《うらや》ましいわ……あなたがたと共に行きたい……でも、わたしの役目はここまで」
アイシスのあでやかな微笑みが、砂色の帳《とばり》の内にぼんやりと薄《うす》れはじめる。
「さようなら、子供たち……わたしの永遠の思い人の、大切な子供たち……あなたがたの無事を、戦いの勝利を、行く末の明るからんことを、アイシスは全身全霊《ぜんしんぜんれい》をこめてきっと祈り続けましょう……さぁ、行きなさい。あなたがたを待つ、さだめを探しに!」
女王の憂《うれ》いを秘《ひ》めた声が耳の奥に谺《こだま》して消えゆくのに重なって、いつしか砂が沸き立ち、舞い飛び、さらさらと音をたてて流れ去り……砂の隧道《トンネル》のめくるめく輝きを通りぬけたかと思うと、三人は早くもまた別の場所に立っていた。
緑したたる、不思議の森に。
「……おお、ようやく到着《とうちゃく》された!」
「よかった! はぐれてしまったかと思いましたよ」
マーリンがピエールが駆け寄ってくる。魔物たちは、先に到着していたらしい。
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6 竜の復活
涼《すず》しげな白い樹肌《きはだ》を持った優雅《ゆうが》な木々が、互《たが》いに一定の間隔《かんかく》を置いて立ち並《なら》び、遥《はる》か天上で泡《あわ》だつように重なりあっている。流れる風に垂《に》れさがった枝《えだ》が揺《ゆ》れ、濃緑《のうりょく》の光沢《こうたく》ある表側と淡緑《たんりょく》の柔《やわ》らかな葉裏《はうら》が交互《こうご》に閃《ひらめ》いた。
足許《あしもと》はふかふかした黒土。うっすらと生《は》えた苔《こけ》の上には、さまざまな獣《けもの》の通った跡《あと》がある。清浄《せいじょう》でほのかにあたたかな、緑の大気が、胸《むね》を安らげる。
どこかで小さく鳥が鳴《な》く。栗鼠《りす》でも渡《わた》ったか、小枝《こえだ》がざわめく。
「なんてきれいなんでしょう」
ポピーは感激《かんげき》したように言い、深呼吸《しんこきゅう》をした。
「きれいだけど……ここ、どこ?」
ティミーは四方を見回して、眉《まゆ》をひそめた。
「太陽が見えないので、方角がわかりません」
と、ピエール。
「どちらに行ったものか、困《こま》っていたのです」
「ともかく、少し歩いてみよう」
リュカは言った。
「ここに羚羊《かもしか》の通り道がある。たどってみよう」
「……フガアゥ」
ゴレムスが物悲《ものがな》しげな声をたてた。一歩|踏《ふ》み出したとたんに、枝に眼《め》をぶたれたのだ。
道は細かったので、一行はリュカを先頭に一列に並んで歩いた。
枯《か》れ枝《えだ》を踏みしだき、赤紫色《あかむらさきいろ》の棘《とげ》を持ったいばらの蔓《つる》を避《よ》け。ひそやかに咲《さ》いた名も知れぬ黄色い花を見、枝を渡って鳴く小鳥の声を聞いた。
あたりは靄《もや》がかかったようで、万事がのんびりと穏《おだ》やかだ。森は永遠《とわ》の午睡《ごすい》のまどろみの中にひっそりと静まりかえっている。やがて道はゆるやかなのぼりになり、開けた丘《おか》に達した。
「少し休もう」
リュカは倒《たお》れた樹木《じゅもく》の幹《みき》に腰《こし》をおろし、甲冑《かっちゃう》の狭《せま》い襟首《えりくび》に手をつっこんで汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。ごくわずかしか歩いていないのに、ひどくだるい。
見上げれば、緑の天蓋《てんがい》がうねりながらどこまでもどこまでも続き、空は葉ずれの隙間《すきま》の小さな幾《いく》つもの煌《きら》めく点にすぎなかった。十二条に光箭《ひかりや》を広げるその点は、風に吹《ふ》かれて見る間に次々に交替し、時に六角のおぼろげな結晶柱《けっしょうちゅう》をサッと射《い》かけて、また消えた。美しかった。
「平和だなぁ」
ピエールまでが珍《めずら》しく騎士《きし》の兜《かぶと》をおろした。
「あんまり平和で、なんだかぐにゃぐにゃに溶《と》けてしまいそうだ」
「ねーえ? ぼくたち、何をしに来たんだっけねぇ?」
ティミーがぼんやりした声で言った。
「それは……あら、変ね。どうしてかしら。ティミーが二人も三人もみえる」
ポピーが小さな手でまつげを擦《こす》った。
マーリンがロッキーにもたれて舟《ふね》を漕《こ》ぎだし、ジュエルさえいつもよりゆっくり宝石《ほうせき》を投げ上げた。プックルが喉襞《のどひだ》の奥《おく》までのぞかせてあくびをし、ゴレムスが大きな音をたてて座《すわ》りこんだ。その振動《しんどう》さえ、みなの注意を引かなかった。
「へんだな。どうしてこんなにだるいんだろう……」
眼をあけているつもりだった。こころの底で、警戒《けいかい》の火が燃えていた。だが、いつしかあたりの景色《けしき》はぼんやりかすみ、からだじゅうの力が抜《ぬ》けてしまい……。
こつん。梢《こずえ》を離《はな》れた木の実がひとつ、頭に当たった。リュカはハッと飛び起き、反射的に剣《けん》を抜《ぬ》き放った! 剣は空を薙《な》いだが、柄《つか》を握《にぎ》るその感触《かんしょく》にいっそうはっきり自分を取り戻す。
「くそっ!」
ふらつく手足を叱咤《しった》して再び剣を繰《く》り出した。距離《きょり》を読み違《ちが》えていたのに気づいたのは、相手がギャッと声をたててのけぞってからだ。すぐ眼の前に迫《せま》っているのかと思ったが、実は半歩ばかり離れた場所に立っていたのだ。オーガヘッド、不気味《ぶきみ》な魔人《まじん》の白い顔は、からだに比べてあまりにも大きかった。うっかり、その無限同心円の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》きこむと、めまいがし、あたり一面が二重三重にみえはじめるのだ。
「みんなしっかりしろ! 敵だ!」
メタルキングの剣を振《ふ》り回しながら、リュカは叫《さけ》んだ。ポピーがむにゃむにゃ眼を擦《こす》り、マーリンが立ち上がろうとしてよろめいた。その瞬間《しゅんかん》、オーガヘッドがはじけ飛んだ。宙《ちゅう》を切り裂《さ》く白い剥片《はくへん》は――骨《ほね》なのか皮膚《ひふ》なのかもわからない――プックルの鼻を掠《かす》め、ロッキーの石肌《いしはだ》を鳴らし、ヨタヨタしながらも宝石を吹き上げていたジュエルの袋《ふくろ》に飛びこんだ。
「……ヌガ?」
ゴレムスが急に立ち上がり、木枝にしたたかに岩頭をぶつけた。ばらばらっ! 木の実がたくさん落ちてきた。
「きゃあっ」
「ぶにゃん!」
「イタタ! な、なんだ?」
おかげでみんな正気《しょうき》にかえった。最後までぼうっとしていたティミーさえ、水でも浴びたように飛び起きた。見れば、どこからともなく十四、五|匹《ひき》の魔物《まもの》が現れているではないか。みな、大急ぎで戦闘《せんとう》態勢《たいせい》に入った。
ねじれた短いがに股《また》のオーガヘッドが、麦藁《むぎわら》頭《あたま》をふりたててガサゴソと包囲《ほうい》の輪《わ》を縮《ちぢ》めてくるのに、ピエールが気合いをこめて剣を一閃《いっせん》させた。骸骨竜《がいこつりゅう》ドラゴンゾンビが凍《こご》える吹雪《ふぶき》を吐《は》き出したが、マーリンが霜《しも》の降《お》りた地面を蹴《け》って、火焔呪文《メラミ》の炎《ほのお》を叩《たた》きつけた。荒《あら》くれ馬人《ばじん》のラムポーンが鋼鉄《はがね》の蹄《ひづめ》を蹴り立ていななけば、プックルが炎のたてがみを振るって雄叫《おたけ》びを返す。白銀|毛皮《けがわ》の猿人《えんじん》シルバーデビルが、長い尾を利用して樹上《じゅじょう》を飛び交うのには、ティミーが天空の剣《つるぎ》で立ち向かう。ジュエルは例によって意味もなく宝石を吹き上げ、ロッキーはいっしょうけんめい気合いをためる。
高熱呪文《ベギラマ》の炎が躍《おど》った。ポピーが危《あぶ》ない! リュカが慌《あわ》てて駆《か》けつけようとした先で、火炎《かえん》球《きゅう》が次々に跳《は》ね返され、あっけにとられた猿人どもに襲《おそ》いかかる。ポピーのからだのまわりには、マホカンタの球鏡が生じていたのだ!
二本角をふりたてて突進《とっしん》してくるアンクルホーンを、ゴレムスが苔土《こけつち》に足をめりこませながら受け止めた。がっぷり両手を組み合った巨大な魔物二頭は、力の限りに押し合った。どちらも顔が真っ赤になる。両者の両腕《りょううで》が握《にぎ》り合わされたまま、上へいったり下へいったり。激《はげ》しい差し手争いのすえ、ゴレムスがアンクルホーンの胸に頭をつけた。いい恰好《かっこう》だ! アンクルホーンは焦《あせ》って翼《つばさ》をバサバサ鳴らすが、何の役にも立たないばかりか、かえって押し返されるばかり。あっ、アンクルホーンの足が樹《き》の根にかかった。あとがない! ゴレムス、押す。ゴレムス、押す。
剣のぶつかる音、風を切る唸《うな》り、重たげなドサリという音などがしばらく激しく乱れあい、やがて、ふいに静かになった。
「みんな、だいじょうぶか?」
剣を戻《もど》して見回したリュカに、プックルが得意気にすり寄り、マーリンが、ピエールが、ほかのみんなも駆《か》けつけた。子供《こども》たちは?
なんと! 双子は、まだ必死《ひっし》に押しあっている魔物たちの様子《ようす》を見物している。
「のこったのこった!」
ティミーが天空の剣を掲《かか》げて声をかけた。
「長い一番になりました。素晴《すば》らしい闘志《とうし》です。どちらにも、勝たせてあげたいですねぇ」
「ねぇ、アンクルホーンさん、いい加減にしたら?」
ポピーが同情したように言った。
「そちら側で戦ってるの、もうあなただけよ。ほかのひと、みんな逃《に》げちゃったみたいよ」
アンクルホーンが思わずぎくりと眼を逸《そ》らしたところを、さすがゴレムス見|逃《のが》さない。鋭《するど》い足払《あしばら》いで体勢を崩《くず》しておいて、すかさず上手投《うわてな》げを放ち、みごとデングリ転がした! アンクルホーンに土をつけた!
子供たちは両手を打ってはしゃいだ。ゴレムスは倒した相手に手をさし伸べ、立たせてやる。いかつい髭面《ひげづら》を悔《くや》しげに歪《ゆが》ませたまま、のっそり立ち上がるアンクルホーン。
あんまりしょげているのが気の毒になって、ポピーは思わず言った。
「みごとな角ねぇ。それに、確か、アンクルホーンさんって、呪文《じゅもん》も得意なはずなのに、あくまで力だけで勝負したでしょ。立派《りっぱ》だわ。とってもフェアな戦いかただった」
ごわ、ごわごわ。アンクルホーンは照れ臭《くさ》そうに、聞き取れないほど低く響く声で何かを言った。
「え? 何も覚えてない? 一生懸命《いっしょうけんめい》やっただけだ? まぁ。あなたって、いいひとねぇ」
かくてのんき者のアンクルホーンが仲間《なかま》になった。名前はアンクルと決まった。
あの奇妙な感覚は、どうやらオーガヘッドの幻影呪文《マヌーサ》だったらしい。元気を取り戻した一行は、アンクルホーンの案内で、森を抜《ぬ》け、丘を越え、道なき道を踏みわけて、やがて小さなせせらぎのそばに出た。
「あれ? おとうさん、誰《だれ》かいる!」
ティミーが指さした先、陽炎《かげろう》立ち、キラキラ反射する川面《かわも》に眼を凝《こ》らせば、なるほど。春霞色《はるがすみいろ》のとんがり帽子《ぼうし》をかぶった小さな影《かげ》が、どうも洗濯《せんたく》をしているらしい。
「……おーい。やっほー! こんにちはー!」
人影は、キャッと言っ。て飛び上がった。
「人間ねあんたたち! んまびっくらこ。こなとこ来てから何の用かも?」
「きみは妖精《ようせい》だね?」
リュカは静かに歩み寄った。
「ポワンさまにお目にかかりたいのだが、案内してもらえないだろうか」
「あんたリュカっぷ! 知ってよ!」
妖精は釣《つ》り上がった猫《ねこ》のような目を丸くさせた。
「うんとこ前、ベラちゅー子と一緒《いっしょ》くた春風のフルート取り戻したでしょかに! やぁや、んとこら立派な働きだってんぽ。にゃっ、握手《あくしゅ》してちょめ!」
「うちのおとうさんって、妖精にも有名なんだねぇ」
「さすが!」
空は花びら色の雲にかすみ、水はきらきらと笑《わら》いさざめく。熱すぎも寒すぎもしない風、ほっくりと柔《やわ》らかな土。若々しく瑞々《みずみず》しい永遠《とわ》の春を暮《く》らす妖精の村は、ポワンの方針《ほうしん》でさらに住人が増えたらしい。いっそう愉《たの》しげに賑《にぎ》わっていた。
ガネーシャ乗り場、ラムポーンのメリーゴーランド、ビヒーモスの的《まと》あてに、マドハンド叩《たた》き。ネクロマンサーのマジック・ショウだの、デビルダンサーのケチャ・ダンスだの。まるで遊園地《ゆうえんち》みたいに盛《も》りだくさんなのは、改心した魔物たちの趣味《しゅみ》の演芸《えんげい》コーナーだ。大勢の妖精や、妖精と仲良《なかよ》しになった人間の子供たち(本人は、夢を見ているつもりで、実は、不思議《ふしぎ》の世界にひととき遊びにきている)が、魔物の背中に乗せてもらったり、出し物を観賞《かんしょう》したりして、はしゃいだ声をあげている。
七色の歌を歌いながら流れる泉《いずみ》のまわりでは、カエルの合唱隊《がっしょうたい》が荘厳《そうごん》なアリアをおさらいしているし、鶴《つる》と亀《かめ》は算数教室を開いている。世界が恐《おそ》ろしい闇《やみ》の侵略《しんりゃく》に瀕《ひん》しているなどということを、すっかり忘れてしまいそうな光景《こうけい》ばかりが、どこまでも続いているのである。
リュカとプックルは、好奇心《こうきしん》旺盛《おうせい》なスライムと枯淡《こたん》の老人のコンビに再会をした。仲間たちを紹介《しょうかい》し、その後の冒険《ぼうけん》の話がはずんだ。心のこもったもてなしと、なかなかつきないお喋《しゃべ》り。しかたがないので、リュカひとり、いとま乞《ご》いをして水晶宮《すいしょうきゅう》に向かった。
群晶《クラスター》煌《きら》めく階《きざはし》を昇れば、懐《なつ》かしい玉座《ぎょくざ》の間《ま》に、変わることのないポワンがいた。赤い絨緞《じゅうたん》に片膝《かたひざ》をつき、再会の挨拶《あいさつ》を手短にすませると、リュカはさっそく用件をきりだした。
「ゴールドオーブ?」
鈴《すず》を鳴らすようなポワンの声がかすかに震《ふる》えた。
「困《こま》りましたね。あれは二つとできる物ではありません。生命《いのち》がどのふたつとしてけして同じではないように。あなたのふたりのお子たちが、双子であろうとも、それぞれに異なる魂《たましい》を、別々のさだめを持つように」
「できない?」
リュカは青ざめた。
「でも……でも、一度はできたものじゃありませんか。完全に同じでないまでも、天空城《てんくうじょう》を再び浮かび上がらせる力さえあればそれでいいのです。どうかもう一度つくってください」
「鷹《たか》の翼《つばさ》を鳩《はと》につけることができますか? 百合《ゆり》の茎《くき》に薔薇《ばら》を咲《さ》かせることができますか? ゴールドオーブとシルバーオーブは、あの城の翼、城の花です。この世のどんなものでも、代わりはできません」
「……そんな。くそっ……そんなに大事なものだとはじめから知っていれば! ああ。ぼくは、生命《いのち》を賭《か》けて守るようにと言われたのに!」
「あなたのせいではないわ。自分を責《せ》めてはいけません。天空城が落ちたのは、もう何百年も前のこと。不死である竜の神も、この世におられる以上、数万年に一度は眠りにつかなければなりません。邪悪《じゃあく》は、そのわずかの隙《すき》をついたのです」
リュカは奥歯を噛《か》みしめ、キッと顔をあげた。
「諦めるほかないのですか? 教えてください、何か、まだできることはないのですか? もう、どんな手も残されていないのですか?」
ポワンは猫《ねこ》のような瞳を細めて何か考えこんだ。水晶《すいしょう》の玉座を、手にした錫杖《しゃくじょう》の中を、生きている光が駆け抜けた。
「……ひとつ。ひとつだけ、方法があります……。けれど、それは、リュカ、あなたの生命《いのち》と、覚悟《かくご》を、絶対《ぜったい》の意志を、必要とする方法なのです」
「やります! なんでも、このぼくにできることなら。ポワン、どんなことでもする覚悟です!」
ポワンは無言でうなずいた。……と……。
目の前の空間に、何かの力が凝《こ》り固まりはじめた。リュカは迷《まよ》わず進み出て、それを両手に受けた。力はみるみるうちに固まって、光り輝く珠《たま》となった。遥《はる》か昔《むかし》、彼がまだ小さな子供だったころ、レヌール城の幽霊王《ゆうれいおう》から預《あず》かった宝珠《ほうじゅ》と、見間違《みまちが》えるほどにそっくりなものに!
「これは! ゴールドオーブじゃありませんか!」
「いいえ。贋作《がんさく》です。何の力も持たぬ玩具《がんぐ》です」
ポワンの声には、痛《いた》みのような響《ひび》きがあった。
「けれど、ひとはそも幻《まぼろし》、光であることを忘れ果てた儚《はかな》い生き物です。そのひとりにすぎないあなたであるからこそ、逆に、真実の間をくぐりぬけることができるかもしれない。……忘れないで、リュカ、つとめを果たしたなら、すぐに戻っていらっしゃい……必ず戻るのですよ。戻らなければ、真実はそこから綻《ほころ》び、崩《くず》れてしまいます。さぁ、わたしの息吹《いぶき》に乗って旅立ちなさい!」
色彩《しきさい》が死んだ。突然雨雲が広がったときのように。黒褐色《くろかっしょく》の濃淡《のうたん》で描きだされた風景は、海に沈《しず》む陽《ひ》、山頂《さんちょう》の黄昏《たそがれ》、いつか父とふたりで歩いた草の丘《おか》……いまはもういない仲間たちの屈託《くったく》のない笑い声が耳に届《とど》く……すべては揺らめき、いまにもかき消えそうなか細い線画となり、紙でもくしゃくしゃと丸めるように乱れて薄れ……そして、唐突に静止した。
リュカは立っていた。緑の大地に足をつけて。彼は瞬《まばた》きをした。色彩が戻っていた。彼自身の紫色《むらさきいろ》のターバンの端《はし》が風に靡《なび》くのが見えた。
どこかの田舎《いなか》の村らしい。赤煉瓦《あかれんが》の家。漆喰《しっくい》の家。板葺《いたぶ》きの家畜《かちく》小屋。贅沢《ぜいたく》ではないが、丁寧《ていねい》に修繕《しゅうぜん》され、大切に使われている建物群《たてものぐん》。
ちらほらと雪が舞《ま》い、吹く風がかすかに枝を揺すった。湿《しめ》った藁束《わらたば》の酸《す》っぱいような匂《にお》いの中に、煮焚《にた》きするあたたかな湯気が混じって漂《ただよ》ってくる。気を取り直してぼんやりと歩き出し、コテ塗《ぬ》りの壁《かべ》がなかば崩《くず》れかけた蔵《くら》に目をとめて、リュカはどきりとした。
いやに見覚えがある。ここは。もしや。
蔵の扉《とびら》が開き、前かけをした人影が現れた。重たげな甕《かめ》をひきずり、赤らんだ鼻を袖《そで》で擦《こす》る。つと目をあげて、リュカを見とがめ、顔をしかめた、そのひとは。
……テーミス!
彼は口を開きかけて、あわてて止めた。酒場《さかば》の主人は不審顔《ふしんがお》をますます強め、
「なにか用かね?」
と低く尋《たず》ねた。彼は口の中で詫《わ》びを言って、急ぎその場を離れた。
心臓《しんぞう》がごとごとと高鳴っている。テーミスは、もうあそこにはいないはずだ。たとえ戻ってきていたとしても、けして、あんなに若々しくもないはずだ。
村は、誤解《ごかい》され、焼き打ちにあって壊滅《かいめつ》したのではなかったか? ラインハットの兵隊たちによって、かれこれ二十年も前に! 寂《さび》しく見捨てられた光景を……風雨にさらされた瓦礫《がれき》、焼け焦《こ》げた梁《はり》や什器《じゅうき》、踏みしだかれた子供の玩具《がんぐ》、飢《う》えていじけた目をした捨て犬たちを……リュカははっきりと覚えていた。いくつか、手にとって、その焦げくさい匂いを嗅《か》いだ覚えさえあった。それももう何年も前だ。その後|復興《ふっこう》したのだろうか? これほどまでに、もとのままに? いったい、誰がそんなに完璧《かんぺき》な再現を……。
すれ違《ちが》いかけた婦人が、警戒《けいかい》の視線《しせん》で彼を見つめた。ジルリーの奥《おく》さんだ。よくタフィーやりんご飴《あめ》を作ってくれた、優《やさ》しい太っちょおばさん。彼女のからだじゅうから、いまも、懐《なつ》かしい甘い香りが漂いだしている。リュカはその香りを胸いっぱいに吸いこんで、苦しい笑顔《えがお》を作った。
「すみません、……あの……ここは、何という村ですか?」
「サンタローズですよ」
ジルリーの太っちょ奥さんは目を瞬《またた》いた。
「ラインハットのお城には、どう行けばいいのですか」
「ラインハット? ずうっと北よ。まだずいぶん歩かなくっちゃなりませんよ、お若いかた。宿をとるなら、あっちの方角です」
「ありがとう、ご親切に」
試《ため》しにラインハットの名を出してみたが、怯《おび》えた様子が見られない。襲撃《しゅうげき》はなかったのか? いや。……ひょっとすると、まだ、ない、のでは?
そこまで思いついたとき、リュカはハッとした。握りしめた手の中に光る珠《たま》がある。ゴールドオーブにそっくりの、光る珠が。
……そうか!
リュカは衣服のあわせ目に珠を押しこみ、汗《あせ》ばんだ手を腿《もも》に擦《こす》りつけた。珠はなお強い調子で打ちつづける心臓《しんぞう》の真上にひんやりと落ち着いた。
畑の横で立ち話をしていた男たちが、彼に気づいて道に出てきた。
「おい、そこの」
尖《とが》った声で訊《き》く。
「見かけない顔だな、そこで何をしている」
「たいそうな剣などさして……戦士か? 俺《おれ》たちの村に何の用だ?」
錠前屋《じょうまえや》のバスキス。鋳《い》かけ屋のアグル。一度ならず父のもとを訪れたことのある男たち。そんな必要はないと思いながら、顔が赤くなった。彼は思わず目を伏《ふ》せた。
「あやしいものではありません」
男たちは歯を見せた。親しげな笑いではなく、牙《きば》を剥《む》くように。
「あやしくない奴は、そんな言《い》い訳《わけ》はしない。どこに行く? 誰に用だ。言ってみろ」
「……いや、別に……」
「変な奴だな。おい。どうしよう」
「パパスさんを呼《よ》んでこようか?」
「パパスだって?」
彼は顔をあげた。
「パパスがいるのですか? いまこの村に?」
「パパスさんの知り合いか」
男たちは顔を見合わせた。アグルが肩をすくめ、バスキスが不承不承《ふしょうぶしょう》うなずく。
「いるともよ。長旅から戻ってな。案内してやろうか」
「いや……」
パパスの家なら知っている、よく知っているとも! 震える唇をリュカは引き結んだ。
「お願いします」
はるかな昔、何度もたどった家路をリュカは震える足で踏み締《し》めた。赤い煉瓦《れんが》の二階建て。リュカを庭に待たせ、バスキスは戸口から中に入った。窓《まど》の形、井戸の形、少し傾《かたむ》きかけの屋根の下の燕《つばめ》の巣《す》……食い入るように見つめる彼の視線《しせん》の熱さに、アグルは面食らいながらも黙《だま》っていてくれた。と、戸口から、のそりと大柄《おおがら》な男が現れた。
「わたしに用というのは、きみか?」
……おとうさん!
一瞬《いっしゅん》のうちにこみあげ、たちまち溢《あふ》れそうになったものを堪《こら》えるために、リュカは大きく息を吸いこんだ。だが、どうしようもなかった。唇《くちびる》が歪《ゆが》み、涙《なみだ》がまつげに宿ってあたりの景色を暈《ぼか》す。
父がいる。父がいる。ここにいる。生きている。
褐色《かっしょく》に灼《や》けた肌《はだ》、いぶかしそうにしかめた眉《まゆ》。冷静ながら、いつも何かを面白《おもしろ》がっているような父のその独特《どくとく》の……懐かしい表情! 口髭《くちひげ》も髪も豊かに黒く、肩幅《かたはば》が広い。なめし皮のチョッキも、襟首《えりくび》の広く開いたシャツも、見慣れた父の普段着《ふだんぎ》だ。
父は記憶《きおく》にあるよりもさらに堂々としていた。盛《も》り上がった筋肉《きんにく》、健康な壮年《そうねん》の男の、ゆったりと構えながらも油断《ゆだん》のない、自信に満ちたたたずまい。鋭《するど》いまなざしが、ふと柔《やわ》らかく和《なご》み、穏《おだ》やかなよく響《ひび》く声が言った。
「おはいり」
おせっかいな男たちが去るのと交替に、リュカは戸口をくぐった。飴色《あめいろ》に古びた壁の小さな部屋《へや》。父は無言で椅子《いす》をすすめ、竈口《かまどぐち》に立って、何かの甕《かめ》をかちゃかちゃいわせた。数えきれないほど食事をした覚えのある卓《たく》に、リュカは両手を滑《すべ》らせ、かすかな戸惑《とまど》いを覚えた。椅子は小さく、卓は低かった。しょっちゅう肘《ひじ》でぶらさがっては、サンチョに怒《おこ》られていたのに。
[#挿絵(img/DQ5_3_204.jpg)入る]
「どこかで、逢《あ》ったかな」
父は盃《さかずき》をさしだした。
「年を取るのはいやだね。近ごろとんと物覚えが悪い」
「ぼくは」
彼は微笑《ほほえ》もうとした。
「あなたの、息子《むすこ》です」
「ほう」
父は眉を揚《あ》げ、盃を啜《すす》った。
「冗談《じょうだん》を言っている顔つきではないな。誰かがきみにそんな嘘《うそ》をついたのかね? 悪い奴だ。生憎《あいにく》だが、わたしの息子は、あとにも先にもリュカひとりだけだ」
あとにも先にも。
こみあげた涙を誤魔化《ごまか》すために、彼は酒を含《ふく》んだ。……そうだ、これは父と飲む生涯《しょうがい》ただ一度の酒なのだ! ……胃がカッと熱くなった。喉《のど》を下る冷たい熱に、その香り高いほろ苦《にが》さに、彼は少しむせた。父は無言で酒をたしてくれた。狼狽《うろた》えているようではない。面白がっている。リュカをリュカとは思わぬとも、なにか不思議な因縁《いんねん》を感じてでもいるかのように、どこか親しげな微笑みを浮かべて、父はものおじもせず、彼を真正面から見つめている。
「おや。……きみも、顔に傷《きず》があるのか。立派な向こう疵《きず》だな」
リュカはうつろな笑いを浮かべた。
父に触れたい、その胸に顔を埋《うず》め、ひしと抱きしめたい衝動《しょうどう》のかわりに、彼は酒盃《しゅはい》を固く握りしめ、またひと息にあおった。
「ひょっとすると」
パパスは柔らかく尋ねた。
「きみは、妻《つま》の係累《けいるい》か? ひどく似ている……特にその瞳《ひとみ》が」
「マーサにはあったことはありません……まだ」
彼はつぶやき、思いきって熱い目をあげ、ひたと父を見つめた。
「グランバニア国王デュムパポス陛下《へいか》。そうお呼びすれば、信じてもらえますか?」
パパスは頬を緊張《きんちょう》させ、ささやくように尋ねた。
「何者だ?」
「あなたを知るものです。未来を知るものです。パパス……ラインハットに行ってはなりません。危険《きけん》です。ひどく危険です。あなたばかりではなく、あなたの子リュカにとっても。ですから、ベルギス王が何を頼んでこようと……けして聞きいれてはなりません!」
「なるほど。きみは、予言者か」
パパスは腕《うで》を組んだ。
「それほど澄《す》んだ瞳をしていなければ、密偵《みってい》かと疑《うたが》うところだ。ベルギスから便《たよ》りのあったことは、儂《わし》とサンチョ以外、知り得るはずのないことがらだからな。……すまぬが、若者よ、わたしは予言など信じぬ。他人《たにん》のことばによっても動かされぬ。行きたいところに行く。なすべきと信ずることをなす。友の頼みならなおさらだ」
リュカはうなずいた。父ならばそう考えるだろう。そうせざるを得ないだろう。
このまま、父のそばに残りたかった。共に暮《く》らしてゆきたかった。息子と認《みと》めてもらえぬまでも、父を助けて戦いたかった。
父と今の自分が手を携《たずさ》えたなら、ゲマにだって負けないかもしれない。父はあのような非業《ひごう》の死を遂《と》げず、サンタローズはそのささやかな幸福を失うことはない。だが……
時はけっしてそんなふうには流れなかった……ここに送られたのは、父と邂逅《かいこう》を果たすためではない。
『つとめを果たしたならば』ポワンは言った。『すぐに戻っていらっしゃい』と。
「もう、おいとましなければ」
リュカはつんのめるように立ち上がった。
「ごちそうさまでした。お逢いできて、よかった」
戸口まで進んだところで、だが、彼は我慢《がまん》できずに振り返った。
「パパス。あなたの息子は、あなたを誇《ほこ》りに思っています。永遠に追い越すことはできないだろうけれど、せめて、偉大《いだい》な父の名を汚《けが》さぬよう、けんめいに戦って……生きていきます」
パパスの顔にはじめて躊躇《ためら》いの色が走った。
リュカは戸口から走り出した。腕で顔を拭《ぬぐ》いながら走って走って……足を止めると、大きな、村で一番大きな建物がそこにあった。彼はまだ濡《ぬ》れた目を瞬《またた》いて、見上げてみた。
教会の外まわりの壁は淡青色《たんせいしょく》に彩色《さいしょく》された特別の煉瓦《れんが》で、もとは鮮《あざ》やかだっただろう色が、長い年月の間にいい具合にくすんだものだ。右手に回りこんでみる。日当たりの悪いそのあたりの壁の苔《こけ》をはがし、もろくなった煉瓦の隙間《すきま》に新しく漆喰《しっくい》を詰《つ》めて補修した箇所《かしょ》がある。彼は腰をかがめた。小さな、ぶきっちょな、力いっぱいの指の跡《あと》……彼自身の手形がそこにあった。面白くて、ついつい夢中で働いて、髪やら服やらを漆喰だらけにしては、いつもサンチョを嘆《なげ》かせたっけ……。
立ちあがるとシスターがいた。シスターのこわばった肩の向こうに、夢見るような顔つきで立っている父の姿も見えた。
彼は黙って会釈《えしゃく》をし、建物から離れた。
しなければならないことは知っていたが、急いでもしかたのないこともまたわかっていた。教会の裏手《うらて》の土手を、彼はゆっくりと登っていった。粉雪《こなゆき》が火照《ほて》った頬に触れては溶けた。それはちょうど、あの春の遅《おそ》い年だったのだ。この時の流れに生きているリュカは、まだ妖精の国を見たことがない。彼は少し笑い、手近な岩に腰かけてあたりを眺《なが》めやった。
こんもりと雪化粧《ゆきげしょう》をしたアッペアの丘、寒そうな雲に包《つつ》まれたカパルチアの山々。夕陽に染まったレッテルロン山脈。そして、慎《つつ》ましくあたたかな暮らしを営むサンタローズの村……。彼はまた立ち上がり、静かに歩き続けた。やがて、長々と伸びた木立《こだち》の影と夕映《ゆうば》えが、美しい縞模様《しまもよう》をなした部分に達した。汗にぬめる腕輪《うでわ》をずらし、足さばきの邪魔になるマントを肩ごしから背に放ったその瞬間、彼は視線を感じて顔をあげた。
ふたりのリュカは、無言で見つめあった。
少年の長いまつげと輝く瞳、あどけなく突き出された唇、ふっくらとなめらかな肌……過ぎ去った歳月、彼がくぐりぬけてきた修羅《しゅら》のさまざまを、まだ知らぬ、まだ汚《けが》れのない、幸福でいっぱいの彼自身! ……傍《かたわ》らでは、まだ子猫のようなプックルがきょとんと目を丸くしている。
愛しさと同時に、なにかをめちゃめちゃに壊《こわ》してしまいたいような衝動《しょうどう》を、彼は覚えた。いまここで、時が流れを変えれば、彼はあの逞《たくま》しい父パパスと共に、もっと満たされた少年時代を送ることができたかもしれないのだった。あるいは、この子供をどこかにさらって隠《かく》してしまえば……パパスは必死で息子を捜《さが》すだろう。ラインハットには行かないだろう。たとえヘンリーが誘拐《ゆうかい》されたとしても、それは彼ら親子のあずかり知らぬところで起こることがらであり……
太陽が黄金《おうごん》の腕をさしのべて、子供の背中側で何かを煌《きら》めかせた。何か。もちろん! ほんもののゴールドオーブだ。
『つとめを果たしたならば』
生命《いのち》と、覚悟が、意志が必要だとポワンは言った。それは、こういうことだったのだ。
どんなに熱望しようとも、為《な》されなかったことがらを為してはならない。すでに為されたことがらを、忠実《ちゅうじつ》になぞらなければならない。さもなければ、世界が壊れてしまうのだ。
「こんにちは」
リュカはできるだけ陽気に笑ってみせた。
「元気な坊《ぼう》や、後ろに持っているのは、なんだい?」
「なんでもないよ!」
あわてたリュカが隠そうとする珠《たま》が、かえってキラリと強く光った。
「素敵な宝石《ほうせき》みたいだね。ちょっと見せてくれないか」
子供のリュカが眉をひそめる。
「だめかい?」
リュカは優しく尋ねた。
夕映《ゆうば》えが正面から、全身を照らしていた。少年の目に自分がどう見えたかを、リュカは思い出した。彼は父に似ていた。その顔だち、たたずまい、全身の発する気配のすべてにおいて。当たり前だ、なぜなら少年は、父のような男になろうとして生きてゆくのだから。彼がいまさっき、永遠の別れを交《か》わしてきたあの偉大な男に、近づこう近づこうとして暮らしてゆくのだから。
「……どうぞ」
小さなリュカが珠を差し出す。リュカは瞬《まばた》きをしながら、それを手に取った。
「素晴らしい。こんな宝は、この世にふたつとないだろう」
リュカは珠を回した。珠は、陽光を反射させた。リュカは口の中でアッと呻《うめ》いて片腕をあげ、両目をとじた。その瞬間、ほんものと偽物《にせもの》のゴールドオーブがすり替わった。
「ありがとう。大事なものを。……さぁ、もうしまいなさい」
リュカが大事な珠を急いでポーチにしまうのをリュカはぼうっとした思いで見守った。
これでいい。これで、ゲマが壊すのは、偽物のほうになる。だがそのとき。この子は。
リュカはリュカに近づき、肩に手をかけた。
「坊や。いいかい。どんな辛《つら》いことがあっても、負けちゃだめだよ。くじけちゃ、だめだ。がんばれよ」
「もちろん」
リュカは怒ったように言った。
「ぼくはそう簡単《かんたん》には負けないよ。そんな弱虫じゃないからね。でも、どうして急にそんなことを言うの。あなたは誰? ひょっとして、おとうさんの、兄弟《きょうだい》?」
「いや。違う」
「でも」
子供のリュカは頬を膨《ふく》らした。焦《じ》らされて、不服そうに。
説明してやりたかった。何もかも話して、そのうえで、もっと力づけておいてやりたかった。
だが、いずれ……ほぼ二十年の後《のち》、彼はすべてを知ることになるのだ。今はまだその時ではない。
リュカは釘《くぎ》でとめつけられたような視線を少年のリュカからもぎはなし、かたちばかり手を振って、黄昏《たそがれ》の中に歩み出した。
「待って。ねぇ、ちょっと待ってよ!」
少年が追いすがってくるのを彼は知っていた。だが、けして追いつけないことも知っていた。過去は未来に追いつけない。追いついてはいけない。
夕陽に染まった雲の華《はな》やいだ輝きが、水晶の城から迎《むか》えにきた妖精たちの腕となって彼を取り巻き、彼を抱き、彼の胸突く痛みを慰《なぐさ》めようとした。時の奔流《ほんりゅう》が足をすくい、急速に膨れ上がる波に乗せて彼を彼自身の時に連れ戻していった……いまはもうない村が、平和な時が、愛しく懐かしいひとびとが、忘却《ぼうきゃく》にまぎれ、永遠《とわ》の彼方《かなた》に遠ざかってゆく……もう戻れない、二度と……彼は涙に濡《ぬ》れた顔を静かにあげて、前方のまばゆい光を見つめ続けた。
「戻ってきたのですね」
ポワンの安堵《あんど》の声が届き、リュカは無事に運命を為《な》し遂《と》げたことを知った。ほっとすると同時に、身を噛《か》む悔恨《かいこん》に打ちのめされて、彼はその場に頽《くずお》れた。双子を招かずにおいてくれたポワンの優しさを噛みしめながら。いま一度、いまだけは。
二十年前の少年を思って、彼は、泣いた……。
水中の城のあの長々しい階段《かいだん》を降りた小部屋で、あるべき座《ざ》に安置されると、ゴールドオーブはたちまち燦々《さんさん》と輝きはじめた。呼応《こおう》するように、シルバーオーブが瞬《またた》きを強める。
金と銀の光が互いに競《きそ》うように喜びの歌を高めあい、力を増し、その波動がひとつに溶けて膨《ふく》らむと、床が、柱が、階段が、壁が天井が……城全体がピカリと燃えた! じっと凍《こお》りついていた光たちが、走り回り、煌《きら》めき流れ、盛《さか》んに振動《しんどう》し、瞬《まばた》きするほどの間に、城じゅうをめぐって踊り狂った。不思議な巨大な生き物に、城に、その独特の生命が満ちた。
あまりのまぶしさにとても目をあけていられない。人間たちが思わず両手で顔をおおうと、からだにふわりと妙《みょう》な感覚が走った。床が浮上《ふじょう》しはじめたのだ! すると、光はようやく落ち着いて、眺めていられないこともない程度《ていど》に弱まった。
「行ってみよう!」
「うん!」
子供たちが駆け出した。プサンが、リュカが、魔物たちがゆっくりとあとを追いかけた。
巨大な重量のある物体が、その完全な姿を取り戻そうとしていた。ごぼごぼと泡《あわ》をたてながら水が走り、水が流れ落ちる。城は、湖の分厚《ぶあつ》い水を押し分けて上昇《じょうしょう》していた。煌《きら》めく水面がぐんぐん近づき、青一面の水の底から、まばゆく輝く白の方角へと、明るさはみるみるうちに増してゆき……貫《つらぬ》いた! 水飛沫《みずしぶき》の中を、空中に出る。風が吹きこむ。
「……うわぁ、飛んでる飛んでる!」
ティミーは窓の外に顔を突き出した。風がその頬を優しく撫《な》でた。城はまだ上昇を続けていた。小波《さざなみ》だつ湖の上に、大量の水を滴《したた》らせながら。真綿《まわた》のような雲がひとつふたつ、ティミーのしがみついた窓を掠《かす》めて飛んでゆく。冷たく新鮮《しんせん》な空気をティミーは胸いっぱいに吸いこんだ。
「うわぁ、気持ちがいーい!」
「素晴らしい眺めねぇ」
ポピーがティミーの隣に立つ。リュカが双子の肩を抱く。
岸辺の緑が、丘や岩山が、みるみる眼下《がんか》に広がってゆく。鳥たちがカオカオと鳴きながら怪訝《けげん》そうに近づいてきて、ポピーのさしだした手に止まった。その髪《かみ》をついばみ、羽ばたいて耳をくすぐる。鳥たちも祝っているのだ、空にこの城が蘇《よみがえ》ったことを……!
プックルが鳥を欲しがって唸《うな》り、ロッキーは『メ……でたい!』と言い、ジュエルはさかんに宝石を吹き上げた。マーリンとピエールは、長い苦労をふりかえって、思わず互いの手を握《にぎ》る。ゴレムスとアンクルは肩を組みあって渋い声で歌を歌う。
「おかげさまで、再びこの城は天空の城と呼ばれるにふさわしいものになりました!」
プサンが陽気に手を揉《も》みながら、一行に声をかけた。
「水もあらまし引いたようです。もしかすると、知った誰かが見つかるかもしれません。わたしはこれまで入れなかった部分を、ちょいと確かめてきます」
「ねえ、おとうさん、ぼくたちも、行ってみようよ」
「そうだ。急ぎ、竜の神さまにお目にかからねば」
リュカがうなずく。
晴れた空の澄《す》んだ明るさに慣らされた目には、光の城のすべての輝きもかえって落ち着いたものに見えた。復活《ふっかつ》の喜びを歌い続ける柱や階段を抜けて、玉座の間に戻ってみた。だが、あいかわらずそこには竜の神の姿はない。
「へんねぇ」
と、ポピー。
「誰もいないし、何の気配もしないわ」
「もしもーし」
ティミーが呼ぶ声は薄青い広間に反響《はんきょう》して長い谺《こだま》を引いた。
「誰かいませんかー」
答えは返ってこなかった。一行は煌《きら》めく床を横切って、次々に扉を開いてみた。
居心地《いごこち》のよさそうな椅子《いす》の並んだ部屋、びっしりと本や巻き物の詰まった部屋、出しっぱなしの茶碗《ちゃわん》や皿《さら》の載《の》ったままの食卓《しょくたく》が放置された部屋があった。だが、誰もいない。花の咲《さ》き乱れた内庭、大きな竈《かまど》を並べた厨房《ちゅうぼう》、何に使うやら巨大なガラス瓶《びん》のようなものがただいくつも並べられた部屋もあった。だが、そこにも誰もいない。青の濃淡《のうたん》のステンドグラスを填《は》めこみ、光が収束してまんなかの台のようなもので結ばれるよう造《つく》られた聖堂《せいどう》のような空間もあった。管《くだ》やふいごや鐘《かね》などが並び部屋がまるごとひとつの巨大な楽器《がっき》をなしているらしいところもあった。だが、やはり誰もいない……いや。火の消えた暖炉《だんろ》のある部屋の寝台の上に、誰かがいる!
老人だ。胸までの長さを持った白髭《しろひげ》の上で両手を組み、微動《びどう》だにせずに横たわっている。
ポピーがそっと手を触れようとすると、何か目に見えない障壁《しょうへき》に触れた。たどってみると、横たわったからだ全体をすっぽりとおおう、完全に透明《とうめい》な莢《さや》のようなものがあるらしい。
ティミーがリュカを振り向いた。リュカはうなずいた。ティミーは天空の剣を抜き放ち、見えない覆《おお》いに振り下ろした。ぱりん! ごく薄い氷の割れるような音がし、莢が消失し、老人がぱちりと目を開いた。
「ふぉぁぁぁ、むにゃむにゃ、朝かな……お? 城が!」
老人は驚きの声をあげた。
「壁も天井も生き返っておる! おお、そうか、やっと浮上《ふじょう》したのか!」
「いったいぜんたい、ここに何があったのです?」
リュカが言った。
「我々は竜の神を捜している。あなたが神なのですか?」
「なんともったいない、神は……アイタタタ」
老人は元気よく跳《は》ねおきようとして、腰をつっぱった。気配を聞いて駆けつけてきた魔物たちを見ると、また意識を失いそうになったが、みなでなだめて助け起こした。老人は、あちこちを伸ばしたり動かしたりしてこわ張りを解《ほぐ》し、ようやく、シャンと背を伸ばした。
「やれやれ、すまん。そなたら、ゴールドオーブを取り戻してくれたのじゃな? ありがとう、ありがとう! ……いや、あいにくじゃが、儂《わし》はむろん、神ではない。ソッポタスと申す、ただの管理人、城預《しろあず》かりの番人じゃ。竜の神はここにはおられぬ」
「いないのぉ?」
ティミーは肩を落として、おおっぴらにがっかりした。
「じゃあ、どちらにいらっしゃるんです?」
とポピー。
「ボブルの塔《とう》」
「ボブルの塔?」
「さよう。……世界の北東の端《はし》、切り立った岩崖《いわがけ》に囲まれ、いかなる船もけして近づくことのできぬ絶海《ぜっかい》の孤島《ことう》にある、秘密の塔じゃ」
老人は髭《ひげ》を捻《ひね》って話しはじめた。
「そもそも神は、永劫《えいごう》の時の内にただひとり世を統《す》べる存在《そんざい》の核《かく》なのじゃ。われら天空の民《たみ》と呼ばれるものたちの持つ光の寿命《じゅみょう》の、その何万倍もの長きを過ごしてこられた。その御骨《みほね》は山よりも古く、血潮《ちしお》は海よりも古い。が、神もまた、およそ数万年に一度、眠《ねむ》りにつかれねばならぬ……かりそめにこの世に降りられるにお使いあそばす竜体の、それが限界であるゆえに」
妖精の女王ポワンも、そう言っていたな、とリュカは思った。
「神のお眠りになる間、竜体を封《ふう》じこめておく秘珠《ひじゅ》をドラゴンオーブという。そのドラゴンオーブを預かるのが、ボブルの塔なのじゃ」
「しかし、それでは、神の魂《たましい》は? 地上が闇に飲みこまれかけ、この城が落ちたというのに。神は、まだ眠っていらっしゃるのですか」
「むう。もう目覚《めざ》められてもよい頃合《ころあい》ではあるのじゃがの」
老人はため息をついた。
「神の魂は、人間におなりになったままなのではないかと思う」
「ええっ、人間に?」
「うむ。お眠りになるその前にの。あのおかたはこの城より下界を眺められ、ふとおっしゃった。人間というものも、なかなかよいものだな、と……。地上は平和で、穏やかで、ひとびとはみな幸福そうだった。有限の時空の内に、無限である神は収まらぬ。だが、その計り知れぬ能力をオーブに封印《ふういん》し、その魂を小さなひとりの人間のからだの内に託したならば、ひとの目、ひとのこころで、世界を体験することができるからのう」
「へーえ?」
ティミーはジュエルの目つきを真似《まね》て、ぐるぐると目をまわした。神さまにしては、なんかちょっと無責任っぽいんじゃないかと思ったのだが、ポピーが睨《にら》むので、すぐにやめる。
「その隙《すき》を邪悪なものたちに狙われて、天空の城が落ちたのですね?」
「さよう。知らんうちに穴《あな》があいておっての。ゴールドオーブを失った城は、制御《せいぎょ》を失い、いまにも落ちそうになった。まともに飛ばなければボブルの塔には到達《とうたつ》できぬ。神を捜すために、大勢の天空人たちが地上に散った。が、みなそれきりじゃ。神も戻ってこられなんだ」
ソッポタス老は頭をかき毟《むし》った。
「残された儂と娘は、最後の力を振り絞《しぼ》って、城を、地上の人々の目に触れぬ湖の底に導《みちび》くことにした。いよいよ高度が下がったとき、だが、娘のオルレインも行ってしまった。生まれたばかりの孫《まご》を抱いての、この子は水に沈《しず》めるに忍《しの》びません、地上のひとに預けにゆきますと……あれも疲《つか》れきってひどく弱っていた。地上へなどの旅をすれば、二度と戻ってこられぬことはわかっていた。だが、儂には止められなんだ……そういえば」
老人は言葉を切って、子供たちを見回した。
「そなたら……なにものじゃ? ただの人間ではないな? 魂が輝いておる」
「あたしたちのおかあさんは、赤ちゃんのときに拾われたんだそうです。死んでしまった女のひとに、大切に抱っこされてたって……そのひとが、天空人だったかもしれないって」
「だから、ぼく、この剣を抜くことができるんだ。えへへっ」
「なんと! では、オルレインの孫《まご》か!」
老人の目がみるみる潤《うる》んだ。
「赤子は無事に育ったのだな。そしてそなたらは儂のひ孫! よう来た、よう来たのう」
「その、オルレインさんが、おかあさんのおかあさんなの?」
ポピーは目を瞬《しばたた》いた。
「でも、お城が落ちたのって、ずーっと前なんでしょう。あたしたちのおかあさんは、そんなにお婆《ばあ》さんなわけ、ないと思うんだけど」
「天空人は地上の人間とは生命のかたちが違うのじゃよ」
老人は目を細め、賢《かしこ》いひ孫の頭を撫《な》でた。
「孫はふさわしき養父養母の現れるまで、時を止めていたのに違いない。……して。孫はなんという? どんな娘じゃ? 幸福でおるのかね?」
「名はビアンカです」
リュカは目を伏《ふ》せた。
「ええ、幸福でした……そう思います……しかし、いまは行方《ゆくえ》が知れません。彼女を取り戻すためにも、我々は竜の神にお逢《あ》いする必要があるのです」
「行方知れずじゃと?」
そこでリュカは語った。父パパスのこと、母マーサのこと、ビアンカとの因縁《いんねん》を。王の血、戦士の質《たち》、エルヘブンの民の力と魔物使いの天分《てんぶん》、それらと天空からきた娘の性質がひとつになったとき、はじめて生まれきた、勇者とその助けとなるべき妹のことを。
長い時をひとり城を守って過ごしてきた老人にとっても、それは、驚きと感動なしには聞くことのできぬものがたりだった。世代から世代へと受け継がれた使命と能力、数々の奇縁《きえん》と偶然《ぐうぜん》、そして選択《せんたく》。語るリュカをじっと見つめたままの老人の瞳に、いつしか静かに、涙が宿った。
話が終わると、ソッポタス老は、皺深《しわぶか》い手でそっと目がしらを拭《ぬぐ》い、微笑《ほほえ》んだ。
「なるほど、神はやはり正しい……人間というものも、なかなかどうして立派じゃのう! ……われら天空人の生命は光そのもの。光は影《かげ》を為《な》さぬが、形あるものに触れれば影を生むものじゃ。生まれつき人間として形を持ちながらも、光となりうるは、最も高き魂を持つ人間のみじゃと聞く。そなた、その類稀《たぐいまれ》なる人間であったらしいの。我《わ》が孫は、まことによき男にめぐり合えたのじゃのう……いや、よかったよかった」
リュカは自重《じちょう》して顔を伏《ふ》せたが、双子は得意になってお互いをつついた。
「さすれば。頼む。ドラゴンオーブは、ボブルの竜が抱いている。それを取ってきてはくれぬか。あいにく儂はもう年じゃ、影さす地上に降りるほどの力がない。……されど、そなたにならば、きっとそれができよう。その間に儂は、なんとか人間となった神を捜しておく」
「引き受けましょう」
リュカはうなずいた。
「もうひとつ、伺《うかが》いたいことがあります。プサンというのは何者です?」
「プサン? いや、とんと知らぬな」
「我々を城に案内してくれた男です。魔界の使徒《しと》なのだろうか。それにしては、ゴールドオーブを取り戻すことを教えてくれたのですが」
「あやしいの。調べておこう」
老人はひ孫である双子たちにすがって立ち上がった。その手の中に、どこからともなく光る杖《つえ》が現れる。老人は杖を振るい、力強い声で叫んだ。
「行け! 城よ、ボブルの塔へ!」
天空城は飛んだ。北東へ……世界の端へ。
逆巻《さかま》く海が瀑布《ばくふ》となって落ちかかるその際《きわ》、峻険《しゅんけん》なる岩山の要害《ようがい》に囲まれてぽつんとわずかに開けた土地に、高々とひとつきりそびえ立った四角錐型《しかくすいがた》の石塔《せきとう》が見える。その二身長四方ばかりの頂上に、リュカは綱《つな》をたどって降《お》り立った。
「……このへんかな」
狭《せま》い足場のまんなかにリュカは膝《ひざ》をつき、敷石《しきいし》の上に積もった砂埃《すなぼこり》を払《はら》ってみた。石のひとつにかすかな徽《しるし》が刻《きざ》まれている。リュカはソッポタス老に聞いたとおりのしぐさで、その文字をまさぐった。ごとり、とどこかで仕掛けが鳴り、石が沈《しず》み、横に滑った。
続いてその隣の石が、また隣が……次々に石が動いて。すべての動きが止まると、石天井にはぽっかりと大きな穴《あな》が開いた。リュカは内部に入ってみた。四身長四方ばかりの床の片隅《かたすみ》に、言われたとおり、階下への段が切ってある。
「よろしいですか?」
上空を漂《ただよ》う天空城の、その床にこじあけた穴から、ピエールが問う。
「ああ。気をつけて」
リュカが綱の端《はし》を握って待つと、まずティミーが、続いてポピーが綱を滑りおりてきた。プックルがひらりと続き、アンクルがゴレムスを抱えて必死に搏《はばた》いた。マーリンがロッキーを抱えてローブの裾《すそ》をはためかせ、ジュエルが逆《さか》さまになって空気を孕《はら》みながら落ちた。最後にピエールが降り立つと、老人が綱をひっぱりあげた。
「なにやらひどく邪悪《じゃあく》な気配が漂っておる。用心されよ!」
言われるまでもなく、次の階層《かいそう》で、早くも敵に遭遇《そうぐう》した。
両腕を毒蛇《どくへび》になした怪《あや》しげな道士、蛇手男《へびておとこ》と、ドラゴンゾンビである。牙《きば》を剥《む》きだし喉元《のどもと》めがけて飛びついてくる大蛇《だいじゃ》に、リュカは物も言わずに剣を振るった。ピエールはドラゴンゾンビと激しく打ちあう。ロッキーは『メ……うつりしちまう!』とわめき散らし、ジュエルはただただ盛《さか》んに宝石《ほうせき》を吐《は》く。その隙にさらに下へ向かう残りの一行に、燃え盛る火炎が襲《おそ》いかかった。アンクルが角を振り立て、火を吹《ふ》くブラックドラゴンに組みついた。うるさくまとわりつくホークブリザードには、鉱石男ゴレムスが拳《こぶし》を振るう。マーリンが|超高熱の炎《ベギラゴン》で敵を薙《な》ぎ払えば、天空の剣に導かれたティミーが道を開く。ポピーは助力呪文《バイキルト》で助力する。
螺旋《らせん》を描いて下る階段を、あとになり先になりして二層ばかり走り下ると、一行はハッと足を止めた。尼僧《にそう》姿《すがた》の人影が倒れている。
「どうしました? しっかり!」
抱き起こすと、尼僧はうっすらと目を開いた。その瞳の中に金と銀の炎が弱々しく燃えている。
「天空城のひとだね!」
ティミーが手を握る。
「安心して。城がまた飛んだよ! 登っていけば、戻れるよ!」
「城が? ……おお!」
尼僧はかすかに微笑んだ。
「そういうあなたは伝説の勇者。よかった……けれど……二匹の、とてつもない怪物《かいぶつ》が竜の目を……早く奪い返さなければ……」
「しっかりして! 死んじゃだめ!」
ポピーは叫んだ。だが、尼僧は弱々しく瞬《またた》きをし、がくりとのけぞる。たちまち、そのからだが宙に溶けるようにかき消える。
「ああ……間に合わなかった」
悲しんでいる暇《ひま》はない。こころを閉ざしてさらに下ると、幅の広がった回廊《かいろう》の合間、塔の中央部の床に、何か大きなものが安置されているのが見えてきた。グレンデルを、ゴールデンゴーレムを、シルバーデビルを退《しりぞ》けながら、先を急ぐ。塔がその全体で隠していたのは、ほかでもない、巨大な一匹の竜《りゅう》ではないか! だがその肌《はだ》はうっすらと埃《ほこり》を被《かぶ》り、瞬《またた》かない瞳に光はない。身軽に跳躍《ちょうやく》するプックルの背にまたがって、ティミーが竜の顔の上に乗ってみた。
「抜《ぬ》け殻《がら》みたいだよ、おとうさん。ぜんぜん動かないし、すごく冷たい……いや、違う。これ、作りものだ。岩が刻《きざ》んであるだけだ!」
「目を。目を調べて!」
ポピーの声にうなずいたティミーは、その眼球《がんきゅう》のところまでよじ登ってみた。
「ぽっかり穴になってるよ。両方とも、目玉がなくなってるんだ!」
「さっきのひとが言ったのは、そのことだったんだわ」
「ドラゴンオーブはボブルの竜が抱いているとか。眼球を戻すと、何かが起こるんだな」
ポピーとリュカがうなずきあったところに、
「むっ、なんだ、お前たちは?」
二体のシュプリンガーを伴《ともな》って、牛頭の怪物が現れる。その手の中で鈍《にぶ》い輝きを放っている巨大な球体は、紛《まご》うことなき竜の瞳。
「ゴンズか!」
吐きだすように、リュカが言う。
「ほお、人間、俺《おれ》さまを知っているのか?」
でっぷりと肥《こ》えた牛頭の怪物は、いやらしく濡れた鼻の穴を縮めたり膨《ふく》らませたりした。
「匂《にお》う。匂うぞ。この匂いは知っている……おまえには奴隷《どれい》の匂いがする」
リュカは無言でメタルキングの剣を構え直した。
「むう、そっちのスライムナイトにも見覚えがある。おまえは確か、アイララのソルジャーブルのこせがれではないか。親子ともども、寝返《ねがえ》っていたのか」
「親父《おやじ》を知っているのか?」
ピエールは驚愕《きょうがく》した。
「寝返っただって?」
「そうとも。ソルジャーブルは竜にかぶれやがった。天空の城へ戻るとかいう男を庇《かば》って、ゲマさまに楯突《たてつ》きよったゆえ、軍勢《ぐんぜい》もろとも幽閉《ゆうへい》し皆殺《みなごろ》しにしてくれたわ……ええい、裏切《うらぎ》りものめ! それ、蹴散《けち》らしてしまえ!」
黄色いからだを閃《ひらめ》かせてシュプリンガーが突進した。その尋常《じんじょう》ならぬ剣さばきに思わずすくんだポピーの前に、アンクルがサッと立ち塞《ふさ》がり、ごつい腕で刃《やいば》を受けとめた! ポピーの悲鳴。がつり! アンクルの頑丈な腱《けん》にぶちあたって、剣が折れる音が重なる。アンクルは髯面《ひげづら》をニヤリとさせて、シュプリンガーを放り投げた。躍《おど》りかかる敵をゴレムスが巨体に物をいわせて食い止める。ティミーは雄叫《おたけ》びをあげるプックルと共に敵のまっただなかに飛び降り、剣の導くままにひらりきらりと切りつける。
そのころリュカとピエールは、丁々発止《ちょうちょうはっし》と切り結びながら、壁際《かべぎわ》にゴンズを追いつめていた。
「待て、ピエール。手を出すな。ぼくにやらせてくれ」
「いえ、わたしが! 父の仇《かたき》です!」
「ぼくにとってもそうなんだっ」
「ぬわははは、この期《ご》に及《およ》んで仲間割れなどしている馬鹿《ばか》がどこにいる」
牛頭は手にしていたでかい戦闘鎚《せんとうつち》を振り回した。ピエールが横っ面をふっとばされ、昏倒《こんとう》する。
「ピエール!」
リュカが思わず目をそらしたその瞬間、ゴンズの魔鎚《まつち》が肘《ひじ》の一点を直撃し、痺《しび》れた手が剣を取り落としてしまった!
「ぬわはははは、馬鹿め。そうだ。思い出した。思い出したぞ、奴隷の小僧《こぞう》! きさまは、その手を俺に踏《ふ》まれたことがあったろう」
ゴンズのごわごわと毛だらけの馬鹿でかい足が、倒れたリュカを蹴《け》りつけ、これ見よがしに、手を踏む背を踏む、肩口《かたぐち》に乗る。リュカは両手を床について、なんとか押し返そうとするが、重すぎる! 腱が引き攣《つ》る。あばらが軋《きし》む、肺《はい》が潰《つぶ》れる。
「あれから少しは腕をあげたのかと思いきや、いやはやなんだ、たわいのない!」
大声で笑うゴンズの声、腐肉《ふにく》のようなその口臭《こうしゅう》が、遠い記憶を呼びさました。
パパスはあのとき、ただ黙って耐《た》えたのだった。虚空《こくう》を睨《にら》んだまま、どっしりとあぐらをかいて。二匹の魔物が、力で、技で、苛烈《かれつ》な魔法で、抵抗《ていこう》をしない身を痛めつける間、父は声ひとつあげなかった……よぎり傷を真っ赤に燃やしながら、苦痛も屈辱《くつじょく》も、じっと忍《しの》んだ。息子の前で、泣《な》き言《ごと》など、けして洩《も》らさなかった。……ああ、父は、パパスは、なんて強かったんだろう!
だが。リュカもいまでは父だった。大事な双子の父だった。父は、けして、こんなところで、こんな奴に負けるわけにはいかない!
じりじりと床を這《は》っていたリュカの手がメタルキングの剣の柄《つか》をつかみ当てた。
「いやぁあああぁぁあ!」
全身をバネにしてゴンズを押し返しながら、剣を突き上げる。身をそらすゴンズを跳《は》ねのけ、もうひと太刀《たち》浴《あ》びせようとしたそのとき、ゴンズの顔から血の気が引く。
「……おのれ……こわっぱ……」
肩ごしに後ろを振り返ろうとするゴンズの背後で、ピエールがもう一度ずぶりと剣をまわし、ひっこ抜く。ゴンズは鎚《つち》を振り上げようとして膝をつき、ゴボリと血泡《ちあわ》を吹き、倒れた。白目を剥《む》いた凄《すさ》まじい形相《ぎょうそう》から、リュカは思わず顔を背《そむ》ける。
「怒《おこ》らないでください、リュカ」
ピエールは、ばけものの毛深い身体《からだ》で吹雪《ふぶき》の剣の血汚《ちよご》れを拭《ぬぐ》った。
「すっかりやられたふりをして、やつがあなたに集中する機会を待ちました。復讐《ふくしゅう》とは、こんなふうに汚《きたな》いものです。あなたには似合わない」
ピエールが足でひっくりかえしたゴンズの屍《しかばね》の下から、竜の瞳が転げ出る。
「おとうさぁん」
ポピーがシュプリンガーの手を引いてやって来る。
「このひと、おともだちになっちゃった。リンガーさんっていうんだって」
「ンガー」
シュプリンガーは赤い目を瞬《またた》かせて照れ臭そうに頭をさげる。こんな強そうな魔物まで、おともだちにしてしまうなんて! いったい誰に似たのやら……。目をぱちくりさせるリュカを見て、一同は朗《ほが》らかに笑った。
「リンガーくんによるとね、何か強いのが、もうひとつの目を持って地下に行ったんだって」
「早く追いかけないと!」
「よしっ、地下だな」
階段はいつしか暗がりに飲みこまれ、ずっと足許《あしもと》に感じていた摩滅《まめつ》した石畳《いしだたみ》も、なにやらじくじくと湿った粘土《ねんど》のような傾斜《けいしゃ》に変化した。マーリンが指先に炎を発して掲《かか》げると、肉桂色《にっけいいろ》に歪《ゆが》みながらうねうねと折れ曲がって遥かに続く隧道《トンネル》が見えた。襞壁《ひだかべ》は粘《ねば》つく液体をしたたらせ、細かな赤い筋を走らせている。まるで何かの生き物の干《ひ》からびた腸《ちょう》の中のようだ。ゴレムスが不平たらしく呻《うめ》き声をあげ、アンクルがけんめいに翼を縮めた。
「これも、塔の中なの、おとうさん?」
ティミーが尋ねた。
「ぼくたち、ひょっとして、何か違うとこに紛《まぎ》れこんじゃってない?」
「いや」
リュカは隧道《トンネル》の先を見透《みす》かして首を振った。
「分岐《ぶんき》はなかった。もう少しこのまままっすぐに行ってみよう」
「でも、ずいぶん長いこと下ってきたよ。これじゃまるで、どこにも終点なんかないみたいだ」
そのとき、
「ほほほほほほ、なぁんて、おりこぉさんなんだろうねぇ、ティミーぃ?」
おぞましいまでに甘《あま》ったるいささやき声が聞こえてきた。
「そぉぉうとも、終点なんてない。おまえはもう、どぉこにもいけない。ここから出られない。なぜなら、おまえはここで死ぬのだから」
「だ、誰だ?」
ティミーは首を振って、あたりじゅうを見回した。
「どこだ?」
「ふふふふふ、ほぉぉぉぉほほほほほほほ! どこをおさがしかえ? ここだ、ここだよ」
けたたましい声、おぞましい声、無理に女を真似《まね》た男のような声。不快《ふかい》な悪臭《あくしゅう》をかき混ぜながら、声は目まぐるしく居所を変える。
「ほほほほほ。ほほほほほほほ! どこを見ているのさ、こっちだ、こっちだったら」
見えない手で頬《ほお》を撫《な》でられて、ポピーが思わず悲鳴をあげる。
「ほほほほほ、おぉにさぁんこぉちら、てぇのなぁるほぉぉぉぉへ!」
右から左、また左から右……声は上へ下へうねるように移動する。
「よぉおぉこそ、かぁぁわいい子供たち。嬉《うれ》しいねぇ、待っていたんだよぉ……おまえたちがあそびに来てくれるのを……」
「ゲマ!」
リュカが叫《さけ》んだ。
「おまえはゲマだな!」
「ほほほほほ、覚えていてくれたね、リュカ。そう。わたくしは、ゲマ」
げま。げま。げま。忌《い》まわしい名が、襞壁《ひだかべ》を谺《こだま》して響きわたった。隧道《トンネル》全体がびりびりと振動する。ティミーの首筋の毛がそそけだった。ポピーはプックルにすがりつき、顔をあげない。
「もぉぉぉいぃぃぃかぁい?」
ゲマの声がからかうように走り抜ける。
「もぉぉいいぃかぁい? ねぇ、わたくしに捕まったら、今度はそのひとが鬼《おに》だよ、いいね? いいね? いいね? ……ゆくよ!」
「……ンガァッ!!」
ゴレムスがもがいた。粘る泥《どろ》に尻餅《しりもち》をつく。ティミーはその目を疑《うたが》った。背後の闇《やみ》から、巨大な軟体《なんたい》動物の足のような、つやつやと真珠色《しんじゅいろ》に輝く触手《しょくしゅ》が生《は》えている。触手は、石の巨人の喉《のど》を絞《し》め上げているのだ! 続いて生じた何本もの触手が、みるみるうちにゴレムスの腕を、胸を、頭を捉《とら》えて、カッと白熱する。雷《かみなり》にでも打たれたかのように、ゴレムスがぴくりと痙攣《けいれん》する。
「ほぉほほほほほ。つぅぅかまえた、つかまえた! そら、おまえが鬼だ!」
ゴレムスの目が焦点《しょうてん》を失って鈍《にぶ》く曇《くも》り、次の瞬間、黄色く燃える。触手が離れると、ゴレムスは棒《ぼう》でも飲まされたようにいきなりまっすぐに立ち上がった。その手が狂《くる》ったようにしゃにむに突き出される。ティミーを掠《かす》めて壁を撲《う》ち、ポピーを狙って床を撲ち、プックルをつかみそこなって柱を砕《くだ》く。たちまち隧道《トンネル》がねちゃねちゃした泥屑《どろくず》となって崩《くず》れだす。
「ほぉほほほほ! お次の鬼は誰かな、誰かなぁぁあ?」
床をぶち砕《くだ》いてまたしても伸びあがった触手を、リンガーが素早く剣で断ち切ると、切り離された肉片《にくへん》のひとつひとつが巨大な蛆虫《うじむし》になって、マーリンに、ロッキーに、ピエールに、飛びかかる。切っても切っても、数が増えるばかり。
ティミーは電撃呪文《ライデイン》を唱《とな》えて雷をぶつけた。蛆虫どもは、じゅっ、と音を立てて蒸発《じょうはつ》した。凄《すさ》まじい悪臭《あくしゅう》。ゴレムスはなお正気を逸《いっ》して暴《あば》れている。ポピーは|呪文封じ《マホトーン》を叫ぶが、笑い声は止まらない。アンクルがゴレムスをどうにか抱き止め、壁に叩きつけて、失神させる。
「ほーほほ。おやおや、鬼が負けてしまったようだね。さぁ、次は誰かな。だぁーれーにーしーよーぉかなぁぁあ? ふふふふふ、ほほほほほほ! ……」
笑い声が闇にすいこまれるように消えると、あたりは急に恐ろしいほど静かになった。
ティミーは耳をすました。
どこかで、ずるり、ずるり……湿った重たいものを引きずるような音がする。ずるり……ずり……ぬちょり……だんだんに近づいてくる、なにか途方《とほう》もなく大きなもの……とんでもなく恐ろしいもの……そいつが、角を曲がって……いまにも姿を現しそうだ……!
天空の剣《つるぎ》の柄《つか》にかかった手が滑《すべ》る。ティミーはあんぐり口をあけた。見えないうちから怖《こわ》かったけれど、見えたいまでもその目の見ているものを信じることができない。
ぬらぬらと輝く毛むくじゃらなもの。湿った腹鰭《はらびれ》を天井や壁にずるずると這《は》わせながら、隧道《トンネル》いっぱいを塞《ふさ》いで迫《せま》ってくる。縦長《たてなが》に切り裂《さ》かれた傷《きず》のようなものは口だろうか、めくれあがった肉襞《にくひだ》の内側に何列も何列も針状《はりじょう》の歯が続いている。そこから、肉食獣《にくしょくじゅう》の胃《い》の中の未消化物にそっくりの赤黒いひどい匂いの液体が滴《したた》って、ごぼごぼと床にあふれる。不気味な液体に足から飲みこまれ、ティミーはカッと焼かれた! メラゾーマの炎《ほのお》に包まれた!
……と、誰かがティミーをさらって飛んだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》か、しっかりしろ!」
「お、おとうさん……」
リュカはぐったりするティミーに回復呪文《ベホイミ》を唱えると、メタルキングの剣で怪物《かいぶつ》に切りつけた。怪物はいやらしい呻き声をあげ、じくじくとからだを萎《しぼ》ませて床にしみこんでゆく。
「ほぉぉほほほほほほ、そぉぉっちじゃないよぉ、こぉっちだよぉ」
ひくひくと天井の一部が振動し、思わず振り仰《あお》いだポピーの頭を掠《かす》めて、脚《あし》が出た! 逆棘《さかとげ》のびっしりと生えた巨大な蝿《はえ》の脚のようなものが次々に天井を突き破って床に刺《さ》さる! 一本! また一本! また一本……! ポピーが空爆呪文《イオラ》をぶつけると脚は折れた。緑がかった白い粘液《ねんえき》が零《こぼ》れる。折れた脚先は、切れた蜥蜴《とかげ》の尾のように、ジタバタとのたうちまわる。と、流れ出た臭《くさ》い粘液はそれ自体意志を持つもののように伸び上がって、ポピーを包みこもうとした。あやういところで生じさせたマホカンタの障壁《しょうへき》に、びちゃり。びちゃり。びちゃり! 汚《きたな》らしい粘液がニタニタ笑いの顔をなし、
「もーーぉいーーぃかぁい?」
歪《ゆが》んで潰《つぶ》れて流れ落ちる。ポピーは喉《のど》も割れよと悲鳴をあげる。
ピエールは騎士《きし》の肩をむんずとつかまれて振り向いた。灰色《はいいろ》の粘土《ねんど》のようになって蠢《うごめ》く壁に、なかば埋まりこんで苦悶《くもん》するソルジャーブルとその部下の魔物たちがいる。亡者《もうじゃ》になり果てた養父《ようふ》ソルジャーブルの、干《ひ》からびてミイラのようになった手が、うむを言わさず抱き寄せる。主のわからぬ数多《あまた》の手が、壁一面から伸びあがり、ピエールの腕や脚を捕まえ、引きずりこもうとしているのだ。
「……こっちへおいで……一緒《いっしょ》においで……おまえも儂《わし》らと共に眠ろう……」
青ざめたソルジャーブルの顔がどろりと溶け落ちて白骨《はっこつ》になる。
プックルは氷水に脅《おびや》かされていた。踏み出す一歩ごとに前肢《まえあし》を振るが、酒のような蜜《みつ》のようなどろりとした液体は足裏から離れてくれない。しとしとと酸《す》っぱい雨が降り、プックルの美しい毛皮をぐしょぬれにする。思わず走り出そうとしたとたんに、後《うし》ろ肢《あし》を何かにつかまれ水の中に引きずりこまれる。もがけどももがけども浮かび上がれない。爪《つめ》がむなしく泥《どろ》を掻《か》く。鼻面《はなづら》だけを出してなんとか息をついているが、その鼻にも雨が降りかかる、溺《おぼ》れてしまう!
アンクルは幾百万もの微細《びさい》な魔烏《まう》につつかれ、リンガーは流砂《りゅうさ》の床でもがいた。マーリンは巨大な血走った目玉と相対《あいたい》し、ロッキーは溶岩流《ようがんりゅう》に追われ、ジュエルは投げ上げる宝石が片《かた》っ端《ぱし》から何かの糞《ふん》に変わってしまうのを見て失神した。
「……ちくしょう!」
そのころ、ティミーはようやく気力を取り戻した。ずるり。ねちょり。隧道《トンネル》はまるで、ばかでかい怪物の臓腑《ぞうふ》だ。粘《ねば》っこい音をたててうねり続ける。
「ええい、負けるもんか!」
息を整え、手の震えを止め。ティミーは天空の剣を抜く。
たちまち金でも銀でもない刀身《とうしん》から、神々《こうごう》しい光があたりいっぱいに放たれた! すると。どうしたことだろう。くねる隧道《トンネル》が、殺風景《さっぷうけい》な石畳の廊下に変わってしまうではないか。
「そうか……眩術《げんじゅつ》だ、いかさまだ。みんな、ただの目くらましなんだ!」
ティミーが叫び、高々と剣を掲げた。
「ゲマは、ひとりひとりに、それぞれの一番怖いもののまぼろしをぶつけてるだけなんだ!」
ポピーの見ていた巨大な脚が、ピエールの見ていた養父の亡霊《ぼうれい》が、水が、鳥が砂が、みるみるうちに萎《しぼ》み、たわみ、蒸発し、地下廊下の敷石や壁の染みに戻ってゆく。
「ほんとだ」
「なぁんだ」
「おやおや。バレてしまいましたね」
隧道《トンネル》の片隅《かたすみ》、なにもないようにしか見えない空間から声がした。
「あのときリュカを殺しておかなかったのは、やはり大きな過《あやま》ちでした……けれど、同じ間違《まちが》いを二度はしませんよ」
なにもないはずの一点に赤紫色の布が閃《ひらめ》いた。かと思うと、樹上を滑る蛇《へび》のような動きでローブがはためき、闇影が凝《こ》り集まるようにして、ゲマの長身の姿が現れた。目深《まぶか》な頭布《フード》に、顔は見えない。ただ、にたにた笑いを浮かべた三日月形の唇《くちびる》と、粘土に指をのめりこませた跡《あと》のようなうつろなふたつの瞳だけが、煌々《こうこう》と黄色い光を発している。
「お愉《たの》しみもここまで。あのとき、ひと思いに焼き殺してきれいな灰《はい》にしてさしあげたパパスのように、おまえたちもここで、きれいな死体にしてあげましょう……ほほほほほほほ」
空気が歪《ゆが》み、激しい炎が押し寄せる。ごう、と唸《うな》るような音が遅《おく》れて届く。が、一行が熱さを感じるより早く、天空の盾《たて》がティミーの手から離れて立ち塞《ふさ》がり、熱気と炎を食い止めた。
「なに?」
ゲマは戸惑《とまど》い、サッとローブを引いた。黒く骨ばった手首が現れ、毒蜘蛛《どくぐも》の脚《あし》にそっくりな指が宝飾《ほうしょく》された鞘《さや》から刃《やいば》を……死神《しにがみ》の鎌《かま》を繰《く》り出そうとした。その刹那《せつな》、三つの剣がゲマに殺到《さっとう》した。ティミーの天空の剣、ピエールの吹雪の剣、そしてリュカのメタルキングの剣。三つの剣のきっさきがひとつに交わり、ひとつのまぶしい光の剣となった。
世界じゅうのありとあらゆる光を統《す》べる、金でも銀でもないあの輝きが、迸《ほとばし》り、充満《じゅうまん》し、ついにゲマを、その内側から引き裂いた。
「ぎゃああああ!」
仮面のようなものが二つに割れ、左右それぞれが床に落ちる。
リュカは目を瞬いた。ただ何もない闇影に見える頭布《フード》の下に、彼の剣は深々とさし入れられており……刀身《とうしん》をつたって、どくどくと赤黒いタールのようなものが滴《したた》っている。
「まさか……このわたくしが……負けるなど……」
ピエールが剣を抜いた。しゅうしゅうと、何か蒸発《じょうはつ》するような音をたてて、赤紫のローブがはためき、萎縮《いしゅく》してゆく。
「ええ口惜《くちお》しい……もう、あとほんの少しだったのに……」
ティミーも剣をひいた。死神の鎌を握ったままの黒い手首が、死んだ蜘蛛のように丸まって、ぽとりと落ちる。
「だが、おまえたちもこれまでさ……イブールはじき神殿《しんでん》を完成させる……闇を求めるものたちの声は、これまでになく高まっている……ほほほ、そうとも! 地上にいよいよ、闇の時代がやってくるのだ! わたしはしょせん、あのかた[#「あのかた」に傍点]の一部。たとえこの身が滅《ほろ》びようとも、あのかた[#「あのかた」に傍点]と一体となって、待ち受けてやるわ。来《きた》るべき喜びを。おまえたちを永遠に我《わ》が闇のうちに葬《ほうむ》りさる時をな! ……ほほ、光など、光など、大いなる闇の前には……塵《ちり》もどうぜ」
「危なぁいっ!」
ポピーの叫びにリュカが思わずぎくりと手を離した、そのとたん。
闇の残り滓《かす》のようなゲマの体液に濡れたメタルキングの剣が、虚無《きょむ》そのものにつき刺さったまま、不意にぼろぼろと崩れ去り、同時に、
「ぐわぁはぁあぁぁぁぁっ!」
ゲマが四散した!
リュカは見た。ティミーは見た。ポピーは見た。ゲマだったものが、何|億《おく》何|兆《ちょう》という小さな闇影に分散し、散り散りばらばらに逃げだすのを。
一行は身を伏《ふ》せ、盾や腕をかまえて放射する闇礫《やみつぶて》を防いだ。不気味な黒い生きた水滴《すいてき》のようなものは、ひとつひとつ、あるいは羽根《はね》を生やして飛び、あるいは爪《つめ》をなして土を掘《ほ》り、鰭足《ひれあし》を生《は》やして泳ぎ去った。闇が、黒が、しとど降る……それらは隧道《トンネル》じゅうを走り回り、岩の凹《くぼ》みや泥のたまりや何かの隙間の黒い部分を見つけるや、大急ぎでそこに飛びこんで、次々に消え去った。
リュカは中の一匹を捕まえてみた。手の中でもがいた闇は、リュカ自身を親指ほどの大きさに縮小《しゅくしょう》した姿をしていた。そいつは、バタバタと足掻《あが》いた。リュカとそいつの目があった。そいつは真っ黒な顔で、媚《こび》るように、怯《おび》えたように、おずおずとリュカに笑いかけた。
〈モグリタイ〉
リュカの胸を痛みが走った。
〈ドコカ、クライトコロヘイキタイ……カクレタイ……ココハ、マブシスギル……!!〉
おいで。いいよ。
リュカは思った。すると、そいつはリュカの手に染《し》みこむようにして見えなくなった。
すべての黒が散ってしまうと、赤紫のローブが落ちた……ローブは空だった。
「ゲマって魔物は、もともと、ひとつの生き物じゃなかったんだわ」
ポピーが苦しげに息をつく。
「世界じゅうのひとが捨てたもの……うっとおしがって、恥《は》ずかしくて。怖《こわ》くて、汚くて、悲しくて。いっさいなかったことにしようって決めて、忘却《ぼうきゃく》の闇に押しやってしまったもの。いつしか、そこに、どっさり蓄《たくわ》えられてしまったもの……そういったものの、集まりだった」
「誰かが、それをひとつにしたんだね」
ティミーもうなずいた。
「ゲマ、っていう名前を与えて、この世に送りだしたんだ。……闇の使者として」
「ぼくは、ぼくに逢《あ》ったよ」
ぼんやりと、リュカは言った。
「ゲマの中にいたぼくをつかまえて、取り戻した。……この胸に」
「この世なる魂は、すべて、みずからの内に小さな闇を秘《ひ》めるもの。みながみな、おのが内なる闇をおのれ自身で処理《しょり》する勇気を持てば、あのような魔《ま》は生じなかったのかもしれぬ」
黙りこむ一行の周囲で、地下道をおおった重たげな闇が次第に薄れ、悪鬼《あっき》の気配が遠ざかっていった。ゴレムスがようやく意識を取り戻し、起き上がる。ジュエルは再び思いきり宝石を吹き上げることができて幸せそうだ。ロッキーとアンクルとリンガーも憑《つ》きものの落ちたようなぼんやりした顔を見合わせ、プックルはまだ気持ちが悪いのか、盛んに前肢をなめて全身を掃除《そうじ》する。
冷たい石畳の床に、ぴかぴかと輝く珠《たま》がひとつ転がっているのを、リュカは見つけた。
「……もうひとつの竜の目だ……よし。これで揃《そろ》ったぞ!」
塔《とう》の中に、もはや魔物たちの姿はなかった。急ぎ上層に戻り、アンクルとゴレムスがその巨体をつないでかりそめの橋をなしたのをたどって、ティミーとポピーがひとつずつ竜の眼球を持って顔に登る。ふたりは、互いに呼吸《こきゅう》をあわせて、同時に両の目玉を填《は》めこんだ。
しかるべき場所に落ち着くと、竜の双眸《そうぼう》がきらりと光った。双子が急いで飛びのく。石の竜は低く鳴動《めいどう》した。埃《ほこり》や塵《ちり》を振るい落としながら、巨大な翡翠《ひすい》の彫像《ちょうぞう》の中で仕掛《しか》けが回り、竜が厳《おごそ》かに顎《あぎと》を開く。いっぱいに開いた顎は、さし招くように回廊《かいろう》に達した。
一行は竜の喉《のど》を下っていった。銀のはしごをたどって降りてゆくと、兜状《かぶとじょう》にしつらえられた緑柱石の台座《だいざ》の上に、きらめく宝珠《ほうじゅ》が祭《まつ》られているのが見えた。透明な蜂蜜色《はちみついろ》の輝きの中に、竜の顔が封《ふう》じこめられている。これこそ、ドラゴンオーブに違いない。
リュカは宝珠に手を差し伸べた。すると、オーブを支えていた台座が静かに四つに割れ、中から緑金色に輝くひと振《ふ》りの杖《つえ》が現れるではないか。竜の身体《からだ》を模《も》し、上部に真紅《しんく》の、下部に紺青《こんじょう》の珠《たま》を填めこんだ杖である。神聖《しんせい》な祈《いの》りを秘めた品特有の、えもいわれぬ気配を発している。
杖が倒れかかり、思わずリュカはそれを支えた。
「……ドラゴンの杖だわ!」
ポピーが目を輝かせた。
「世界のどこかに、竜神《りゅうじん》の魂を宿した杖があるって、本で読んだわ。持つものの魂を、よいこころも悪いこころもまとめて高めてしまうから、ひとの身でそれに触れて無事でいることのできるものは滅多《めった》にいないって……ね、マーリン、あれきっと、その杖よね?」
「しかり。一千の齢《よわい》、行方《ゆくえ》の知れなかった神秘の品じゃ……さしもの儂《わし》もはじめて見た」
「へぇーっ、ほんとかい? どれど……わぁっ!」
なにげなく伸ばしたティミーの手に小さな稲妻《いなずま》が飛んだ。杖の頭部の飾《かざ》り彫《ぼ》りのドラゴンの瞳が、炯々《けいけい》と光を発したのである。
「痛ぇ……」
「天空の剣には選ばれたけど、杖にはダメだったみたいね、勇者さま?」
ポピーがくすくす笑う。
「ちぇーっ」
「ちょうど剣を失ってしまったところだ」
リュカは杖を持ち替え、振ってみた。
「軽い。不思議だな。こうして持っているだけで、なんだか、力が湧《わ》いてくるようだ。……もらってもいいのだろうか」
手の中で、彫《ほ》りもののドラゴンが静かに憩《いこ》うているように思えた。リュカが杖から力を得ているのと同様、杖もまた、リュカの生命《いのち》の波動を受けて、その本来秘めている力をみるみる賦活《ふかつ》させつつあるのが感じられた。
「いいと思う。おとうさんに、すっごく似合うもん。ね、ティミー?」
「なんだか伝説の勇者よりも、もっと強そうに見えるよ……ちぇーっ」
一行は塔の頂上に戻った。深夜をとうにまわっていたので、天空城は、豪奢《ごうしゃ》な宝石でできた燭台《しょくだい》のごとく、星月の輝きも失わせて、冴《さ》えざえと漆黒《しっこく》の夜に君臨《くんりん》している。
綱《つな》を放ってもらおうと声をかけると、城を包んだ虹色《にじいろ》の雲が金でも銀でもないあの不可思議な輝きを持つきざはしとなって降り来たり、冒険者たちをさし招いた。
何かまた、変化があったのだろうか?
青い尾を引いて歌い閃《ひらめ》く生きた光の通廊《つうろう》や広間を、リュカは足早にめぐった。知らず知らずのうちに、あたりに花のような麝香《じゃこう》のような甘い芳香《ほうか》が漂い、耳には気力を奮《ふる》い立たせるような荘厳《そうごん》な楽曲《がっきょく》が響きわたっている。玉座《ぎょくざ》の間《ま》に赴《おもむ》くと、入り口近くに倒《たお》れ伏《ふ》した姿がまず目に入った。
「ご老人!」
リュカが駆け寄ると、手の中の杖がカッと燃えた。竜の顎《あぎと》から放射した神々《こうごう》しい緑の光を浴びて、ソッポタス老が薄目《うすめ》を開ける。
「……なんと、ドラゴンの杖ではないか。そなた杖に選ばれたのか!」
「そのようです。……しかし、いったいどうなさったんです?」
「いやはや。ついさきほど、城全体が突如《とつじょ》として、燃え上がるように輝いての。あまりのまぶしさ、あまりの歓喜《かんき》に、やつがれの老いぼれた心臓《しんぞう》は、耐えきらんで。つい意識を失ってしまったのだが……いかがなされた? オーブは手に入ったか?」
「はい。ここに」
ポピーが進み出て、珠《たま》を捧《ささ》げた。
すると、ドラゴンオーブは突然小さな太陽のごとくあかあかと燃えだした! 広間いっぱいに光の腕を投げかけ、城じゅうの虹色《にじいろ》の光の洪水《こうずい》をすら暗ませた。少しも熱くはなかったが、びっくりして、ポピーは思わず手を離した。珠は落ちなかった。
「それをこちらに、いただきましょう」
壇《だん》のほうから声がした。見上げれば、竜の座《ざ》すべき巨大な玉座に、痩《や》せた影ひとつ。オーブの輝きがまぶしすぎて、はっきりとは見えない。
「何者?」
またしても敵かと、一同油断なく身構えたが。
「わたしですよ」
珠が、ひとりでに近づいてゆくと、玉座に座っている者が見えた。メガネをかけた優男《やさおとこ》、何食わぬ様子で微笑んでいる。ドラゴンオーブは、彼の頭上に静止した。
「おかげさまで、無事、取り戻すことができました。いや、ご苦労さん」
「プサンさんだわ! 神さまの御座《ぎょざ》に座ってる!」
「これ! なんと罰《ばら》あたりなっ!」
ソッポタス老は憤慨《ふんがい》して、どたばたと進みでた。
「そこの人間、早く、早く降りなさい!」
「えーい、やっつけちゃえっ! ……あれ?」
ティミーが剣を抜こうとした。だが剣は鞘《さや》から出てこない。もう一度、さらに一度。なんど試《ため》しても、しっかり握ったつもりの柄から、するりと手が離れてしまう。
「くそっ、変だぞ、天空の剣がおかしいぞっ!」
ピエールが、マーリンが、不安そうにリュカを見た。が、リュカは何も言わなかった。答えることができなかった。彼は、じっと目を凝《こ》らしたまま、硬直《こうちょく》したようにたたずんでいた。
ポピーがそこにいる誰かをプサンと呼んだのは聞こえていた。だが、リュカには、それは、人間には見えなかった。かりそめに人間の姿をしているが、ほんとうは、それは……あめつち……万象《ばんしょう》……煌《きらめき》めき渦巻《うずま》く、数多《あまた》の星。爆《は》ぜるように盛《さか》んに火花を散らしながら、熱を持たぬ純粋《じゅんすい》な光そのもの。光の柱。……竜。
「……竜の神……?」
リュカがつぶやくと、プサンがにっこりした。珠が静かに降り、プサンの手に載《の》って……
「えっ、……うわっ、なんだ、まぶしいっ!」
〈ひとの子よ……こころ優しき魔物たちよ〉
〈見るがいい〉
脈打《みゃくう》つ光が、ひょろりと細いプサンの姿をかき消した。輝きは茫然《ぼうぜん》と立ちつくした人間たちにも降り注ぎ、その細胞《さいぼう》のひとつひとつ、その血潮《ちしお》の一滴《いってき》一滴までも、淡《あわ》やかな光の祝福《しゅくふく》でいっぱいにする。あたたかな海に抱《いだ》かれたような安心感、圧倒的《あっとうてき》な幸福感に、みなが陶然《とうぜん》と我を忘れそうになったとき、光が爆発《ばくはつ》した!
鮮《あざ》やかな花の色、晴れわたった空の色。樹木の緑、月の黄、太陽の橙《だいだい》、金と銀。そしてすべてを司《つかさど》り、すべてを新しくする、すべてをはじめる、純粋な白に。
〈我が名はマスタードラゴン……万物を統《す》べるものなり……〉
朗々《ろうろう》と、声が響いた。
〈我が求めによくぞ応《こた》えてくれた。礼を言おう。礼を言おう!〉
純白の光の中に、リュカも双子も魔物たちも、みなぽっかりと浮かんでいた。彼らは見た。大いなる竜が、取り戻した手足を試すように伸ばし、ゆったりと満足そうに身じろぎするのを。彼らは聞いた。天空の城が、たえなる光の調べを高らかに歌い上げ、神の復活を祝うのを。彼らは感じた。竜の息吹《いぶき》が、新しい風となって、世界じゅうに生命と希望を送りだすのを。
「プサンは、マスタードラゴンの化身《けしん》だったんだ!」
ティミーが叫び、
「いいえ、オーブこそが、眠れる神だったのよ。プサンさんは種子《しゅし》、プサンさんは鍵《かぎ》。彼は、神を蘇《よみがえ》らせることばの第一番目の音なのよ」
「城は飛び、神は目覚めた」
ソッポタス老が、感極《かんきわ》まったように呻《うめ》いた。
「おお、ありがたい! これで世界は救われる!」
〈いや、喜ぶのはまだ早い〉
と、神は言った。
〈すまぬが、今すこし手を貸してほしいのだ。生命《いのち》の指輪は、闇の傀儡《かいらい》のもとにある。光から顔を背《そむ》けるもの……我が長き眠りを、死と見誤《みあやま》った哀《あわ》れな喪神者《そうしんしゃ》イブールの懐《ふところ》に〉
「……セントベレス……」
ポピーはつぶやいた。
「光の教団の神殿《しんでん》。プサンさんは、歌ってくれたわね。『セントベレスにゆくのなら、竜の背中に乗ってゆけ』って」
〈さよう〉
神が笑った。
〈かくて我はこの竜身《りゅうしん》を取り戻した。我が力を有限である地上で振るうことはできぬとも、そなたらを運んで飛ぶことならばできる。志《こころざし》あらば、戦士よ、我が背に乗れ〉
「よし、行こう!」
リュカはドラゴンの杖を掲《かか》げ、言った。
「暗黒の魔界《まかい》への扉がこじ開けられてしまう前に、三つめの指輪を取り戻して、エルヘブンに戻らなくては!」
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7 セントベレス山の戦い
青ざめた夜明けの清澄《せいちょう》な大気の中を、竜《りゅう》は飛んだ。
星座《せいざ》を縫《ぬ》い、高峯《こうほう》をかすめ、森の梢《こずえ》を何万となく越《こ》えて飛んだ。きらめく絹《きぬ》のように広がる大海原《おおうなばら》を渡《わた》り、複雑《ふくざつ》な島や大陸の地形をはるか眼下《がんか》に見下ろして飛んだ。
雨雲の中に入りこむと、稲妻《いなずま》が走り、雷電《らいでん》が閃《ひらめ》いた。氷の礫《つぶて》が滝《たき》と降《ふ》りかかり、竜の背《せ》にうずくまった小さなものたちを打ちのめそうとした。竜は顎《あぎと》を開いて虹《にじ》の光彩《こうさい》を放ち、黒雲を退《しりぞ》けた。踊《おど》るような優雅《ゆうが》な搏《はばた》きと力強い飛翔《ひしょう》に、風も、追いつくことはできなかった。
やがて、彼方《かなた》に、黒い塊《かたまり》が見えてきた。大内海中央、小さな島の北半分を埋《う》めつくす巨大《きょだい》な山、世界のつむじ、天然の要塞《ようさい》セントベレスである。
険《けわ》しくとがった頂上《ちょうじょう》は、たなびく雲に隠《かく》されている。島の周囲の潮流《ちょうりゅう》は、日に何度も向きを変え、複雑に逆巻《さかま》いて船を寄せつけない。冷えた溶岩《ようがん》の山肌《やまはだ》は、裾野《すその》近くまで、ろくな草木を生じさせてはいない。遥《はる》かな昔《むかし》に噴火《ふんか》し隆起《りゅうき》してから、およそ人の踏《ふ》みこんだことのない領域《りょういき》だった。
竜はぐんぐん山に近づき、旋回《せんかい》し、上昇《じょうしょう》気流を捕まえた。気流は巻き、竜は頭をほぼ真上にしたまま、くるくると向きを変えた。背に乗ったものたちは、落とされまいと必死《ひっし》にしがみついた。
ごつごつした岩尾根《いわおね》、柔雪《やわゆき》を蓄《たくわ》えた谷、尖角《せんかく》の大小が間近に迫《せま》り、冷たい乳色《ちちいろ》の靄《もや》が肌《はだ》を刺《さ》した。大気は薄《うす》く、血潮《ちしお》は沸騰《ふっとう》し、心臓《しんぞう》は手の中から逃《に》げようとする小鳥のようにバタバタともがいた。寒さと静寂《せいじゃく》と低い気圧《きあつ》に、耳はありもしない音を聞き、おのが生命《いのち》の脈動《みゃくどう》の拍子《ひょうし》のままに強く弱くキィンと痛《いた》んだ。
この山に、光の教団が巣《す》くっている。リュカは唇《くちびる》を噛《か》みしめた。いまのティミーとポピーよりさらに幼《おさな》いころからおよそ十年。こころもからだも最も伸《の》びやかに育つ大切な時期に、青春の輝《かがや》きを封《ふう》じこめられた悪夢《あくむ》の神殿《しんでん》を、もうじき、再び目にすることになるのだ。
最後のひと塊《かたまり》の靄を突《つ》き抜《ぬ》けると、また視界が開けた。竜は水平飛行に移った。
リュカは目を見張った。
教団の総本山《そうほんざん》、暗黒の野望の砦《とりで》、邪悪《じゃあく》な夢《ゆめ》の牙城《がじょう》が、いま見えた。
たれこめた雲におおわれて薄暗《うすぐら》い空の下、さみどりの苔《こけ》の絨緞《じゅうたん》の上に、白亜《はくあ》の神殿は、整然といずまいを正してそびえ建っていた。峯《みね》の処女雪《しょじょゆき》の潔癖《けっぺき》にいささかも劣《おと》らぬほど、透明感《とうめいかん》を持って白い。あのような恐《おそ》ろしい奴隷《どれい》労働の結実であることがわかっているリュカの瞳《ひとみ》にさえ、それは豪奢《ごうしゃ》で壮麗《そうれい》で、とても美しく立派《りっぱ》に映《うつ》った。
竜は山頂の片隅《かたすみ》に一行を降《お》ろし、素早く去った。
神殿正面には、金まじりの白砂《しろすな》を敷《し》き詰《つ》めた道が真一文字《まいちもんじ》に伸びている。信者たちのためなのか、それとも……もしもここを訪《おとず》れるものがあるとするなら、それはいまのリュカたちのように、地上の普通の生き物にはありえぬほど高空を飛ぶものでなくてはならないはずなのだが……その特別の誰《だれ》かのために整えられたのか。塵《ちり》ひとつ、枯《か》れ葉《は》ひとつ、足跡《あしあと》ひとつなく掃《は》き清《きよ》められている。いかなる気候《きこう》の空隙《くうげき》か、雪頂《ゆきいただき》に囲まれた卓状《たくじょう》大地《だいち》の内側には、氷塊《ひょうかい》も、つららも、それらの溶けた水たまりすらもない。
この道を中に据《す》えて、城《しろ》は完璧《かんぺき》に左右|対称《たいしょう》だった。ただひとつ……白と緑のくっきりとした対比の中に、ただ一点だけ、正確な均衡《きんこう》を崩《くず》している色調《しきちょう》があり、ひどくめだつ。外壁《がいへき》の東翼《とうよく》の露台《ろだい》に掲《かか》げられた何か小さなもの。金属《きんぞく》めいたものだ。
「おとうさん、あれは天空の鎧《よろい》だ! 最後のひとつだ!」
ティミーが指さし、叫《さけ》んだ。
リュカはうなずき、決然と歩き出した。ドラゴンの杖《つえ》をつき、堂々と胸《むね》を張って、金砂《きんさ》のばらまかれた道を無雑作《むぞうさ》にざくざくと。双子《ふたご》が、魔物《まもの》たちが、勇《いさ》んで続く。
たちまちどこからともなくばらばらと覆面《ふくめん》の衛士《えじ》どもが現れ、道を塞《ふさ》いだ。
「こらこらっ、奴隷《どれい》め、人間めっ、ここでいったい何をしている!」
「せっかくきれいに掃除《そうじ》したのに、なんでドカドカ汚《よご》すんだ」
「まもなく祭礼《さいれい》だぞ。めでたい落成《らくせい》祝《いわ》いだ。なぜ参加せぬ」
「待て。おかしい。こんな風体《ふうてい》の奴隷がいたか?」
リュカは足を止め、衛士たちを見つめた。杖の頭《あたま》飾《かざ》りのドラゴンも同時にギラリと瞳《ひとみ》を燃やす。
「退《の》きたまえ」
リュカは静かに言った。
「退いてくれないなら、腕《うで》ずくで通らねばならなくなる」
「ぬぬ……なにを威張《いば》りくさって」
「魂《たましい》を抜かれているにしては逆《さか》らう奴《やつ》だな……ええいっ! やっちまえっ」
衛士たちはリュカに触《ふ》れることもできなかった。駿敏《しゅんびん》なプックルやピエールが加勢をする隙《すき》さえなかった。軽やかに振《ふ》り上げたドラゴンの杖が、目にもとまらぬ速さで衛士らを打ちすえ、弾《はじ》き飛ばしたのだ。覆面がはがれて、蛇手男《へびておとこ》の醜《みにく》い肢体《したい》が明らかになる。
双子は、素早く外翼《がいよく》に駆《か》け寄《よ》った。逞《たくま》しいゴレムスとアンクルが力まかせに台を破壊《はかい》し、鎧《よろい》をとめつけた鎖《くさり》を引き千切《ちぎ》る。自由になった天空の鎧は、ひとりでにふわりと浮き上がり、ティミーのからだを包《つつ》みこんだ。
ついに! 天空の武器防具のすべてが揃《そろ》った! 剣《つるぎ》、兜《かぶと》、盾《たて》が、長らくはぐれていた仲間《なかま》とようやくめぐり合った喜びに、いっそう燦々《さんさん》と煌《きら》めいた。
一行はまなじりを決して神殿に進んだ。外壁に開いたアーチ型の門をくぐり、幅広い階段を昇《のぼ》りはじめると、なにやらうねるようなたゆたうような騒《ざわめ》きが聞こえはじめた。
おおおおーおおーお。おおーおおーおおーお。
何十人かが唱和《しょうわ》する怪《あや》しげな祈《いの》りだ。リュカは眉《まゆ》をひそめ、足を速める。
ひとびとはいずれも同じ質素《しっそ》な生《き》なり色の貫頭衣《かんとうい》を身につけ、裸足《はだし》の足裏を真《ま》っ赤《か》に凍《こご》えさせながら、床に正座《せいざ》して歌っていた。白髪《はくはつ》の老婆《ろうば》も、まだ乳房《ちぶさ》が恋しそうな幼《おさ》な児《ご》も、無精髭《ぶしょうひげ》の男も、窶《やつ》れさらばえた娘《むすめ》も、みな陶酔《とうすい》にまぶたをなかば閉《と》じ、掲《かか》げた両手をゆらゆらと水媒花《すいばいか》のように蠢《うごめ》かしながら、高く低く意味のとれぬ歌声をあげ続けている。
かぼそい声、しゃがれた声、あどけない声、悲鳴《ひめい》のような声、潰《つぶ》れた喉《のど》で無理に叫《さけ》ぶ声……頑是《がんぜ》ない子供《こども》の声も、野太《のぶと》い男の声も、上擦《うわず》って調子《ちょうし》の狂《くる》った女の声も、すべてひとつに統合されて、ひとの海となり小波《さざなみ》だつ。
這《は》いつくばったひとびとに隙間《すきま》なく埋めつくされた床の上を、黒装束《くろしょうぞく》の娘たちが小さな籠《かご》を持って身軽に駆け回っていた。祈る衆生《しゅじょう》の頭上に、真っ赤な薔薇《ばら》の花びらを撒《ま》き散《ち》らし、あたり一面を濃厚《のうこう》な花の香りで満たしている。
おーおおーおおお!
誰もがもののけに憑《つ》かれたようで無我夢中《むがむちゅう》、おのれの声をほかの声と調和させることしか眼中《がんちゅう》にない。たとえ知らぬ顔が隣《となり》に滑りこんでも、みなと同じように両手を掲げていなくても、一緒《いっしょ》に歌っていなくても、気にとめるほどの余裕《よゆう》もない。リュカたちは無言のまま群衆《ぐんしゅう》の内に散らばり、信者たちの狂熱的《きょうねつてき》な蠢きに乗じて、じりじりと祭壇《さいだん》に近づいた。
おおーお・お・おーおおおお!
力の限りに喜び歌う声のさなか、祭壇中央の円盤《えんばん》にあぶらが注《そそ》がれた。ボッ、と炎《ほのお》があがったとたん、神殿の後ろの壁の暗がりに溶けこんで隠《かく》れていた石像《せきぞう》が見えた。
「……ビアンカ! ……」
こんなところに連れてこられていたのか! リュカは安堵《あんど》し、それから、ゾッとした。
この祝《いわ》いとやらが遂行《すいこう》されれば、なにか、途方《とほう》もなく恐《おそ》ろしいことが起こるのではないか? 彼らの奉《ほう》じる闇《やみ》の神がいよいよ地上にやってきてしまうのではないか?
一刻《いっこく》も早く、ビアンカを助けださなければならない。ポピーはどこだ? あの子はストロスの杖《つえ》を持っていただろうか?
と、壇《だん》の中央に黒衣《こくい》の女が進み出て、白い喉をのけぞらせ、空に吠《ほ》えた。掲げた両手の内側に、青紫《あおむらさき》の鬼火《おにび》が生じ、女の頭布《フード》を吹き飛ばし、豊かな黒髪《くろかみ》を翻《ひるがえ》らせた。
おおーおおおお・おー!
女が叫《さけ》ぶと、熱狂はいよいよ高まり、あまりの興奮《こうふん》に、ひととき歌声が乱れた。めらめらと揺れる青紫の炎の向こうに、女の白い貌《かお》が凄《すさ》まじいように微笑《ほほえ》んだ。ひとびとは声を限りに呼んだ。
「マァサさま! マァサさま!」
「なんだって?」
思わずリュカが叫ぶと、ドラゴンの杖の赤と青の珠《たま》が、その魂《たましい》に呼応《こおう》して、カッと鋭《するど》く発光した。あたりの信者たちがあわてて退《しりぞ》く中、リュカはすっくと立ち上がった。
「マーサ? あなたはほんとうにマーサなのか……そこで、何をしているのだ!」
歌声が途切《とぎ》れた。恐《おそ》ろしいような沈黙《ちんもく》が落ちる。
炎の女が眠《ねむ》たげに顔をしかめた。
「……そういうおまえは、誰《だれ》?」
「リュカです、母上。あなたとかつてのグランバニア王パパスの子、リュカです!」
たちまち驚《おどろ》き騒ぐ群衆を割《わ》って、
「なんだと、こいつめ、どうやって入りこんだ!」
衛士《えじ》たちが駆けつけてきた。だが、リュカの胸倉《むなぐら》に手が届かない。ドラゴンの杖の神々《こうごう》しい光を恐れて、近づくことができないのだ。
リュカは微動《びどう》だにしなかった。静かな、問いかけるようなまなざしで、壇上の女を凝視《ぎょうし》した。
確かに、そのひとは、昔よく見た夢の娘のおもかげを宿している。若かりし日の父と出会った、あのりんごの花のような娘と、とてもよく似た顔だちだ。だが、何かがおかしい……どこかが違う……いったい、どこが?
「あっ、こっちのガキめ、あの鎧を身につけているぞ!」
「勇者《ゆうしゃ》か!」
「勇者だって?」
「伝説の?」
「ゴーレムやキラーパンサーまで入りこんでるじゃないか!」
仲間たちも次々に発見された。みな、堂々と立ち上がった。
ティミーはいつでも抜けるように剣《けん》の柄《つか》に手をかけ、ポピーはひとびとに触れられぬよう、アンクルの逞《たくま》しい肩に担《かつ》ぎ上げられて。ほくほく顔のマーリン、鋭く周囲を睥睨《へいげい》するピエール、ゆっくり尾を揺らすプックル、照れ臭《くさ》そうなゴレムス、半身《はんみ》に構えていまにも見栄《みえ》をきりそうなリンガー、『メ……だってるな』照れたようにつぶやいては周辺を緊張《きんちょう》させるロッキー……そして、こんなときでもやっぱりえへらえへらと宝石《ほうせき》を吐《は》くジュエル。
黒衣の娘たちが薔薇の籠を放り出して壇上に昇り、マァサと呼ばれた女を庇《かば》うように輪《わ》をなした。奇妙《きみょう》な棘《とげ》だらけの棍棒《こんぼう》を手にした悪魔神官《あくましんかん》、大蛇《だいじゃ》をまとわりつかせたダークシャーマンらが進み出て、ビアンカの石像を隠してしまう。
ぎっしりと神殿を埋めつくした信者たちは、なにがなにやら、ただただ途方《とほう》にくれて、壇上に揃《そろ》った邪悪《じゃあく》なものたちと、侵入者《しんにゅうしゃ》たちを見比べる。
息をするのもはばかられるほど緊迫《きんぱく》した神殿に、ふと、黄金《おうごん》の鈴《すず》を鳴らすような、女の柔《やわ》らかな声が響《ひび》きわたった。
「リュカ、おお、リュカなのですね! なんと逞しく立派になったのでしょう……すっかり見違えてしまったわ」
マァサと呼ばれた女は両手を広げ、うっとりするような微笑《ほほえ》みを浮かべた。
「さあ、ここへ。わたくしのもとへ。母のところに、いらっしゃい」
安堵《あんど》と法悦《ほうえつ》が、感激《かんげき》と驚嘆《きょうたん》が、信者たちをさんざめかせた。幾十《いくじゅう》もの無辜《むこ》なる手が、なお躊躇《ためら》うリュカを無理やり運び、壇上に押しやり、押し上げる。
「逢《あ》いたかったわ、リュカ」
丈《たけ》なすもつれた黒髪の間から、彼女は両手を差し伸べた。
リュカは一歩踏み出し、母を名乗るものと、ひたと間近に見つめあった。
女は長身で、ほっそりと優雅《ゆうが》なからだつきをしていた。その肌《はだ》は白く、黒《くろ》天鵞絨《ビロード》のローブに包《つつ》まれ、輝くばかりに際立《きわだ》っている。眼窩《がんか》や鼻や顎《あご》が、青紫色の炎に煽《あお》られて妖《あや》しく美しい陰翳《いんえい》を帯《お》び、琥珀《こはく》の瞳は、磁石《じしゃく》が鉄を吸《す》い寄《よ》せるようにリュカの視線を捕らまえて離さなかった。
が。
彼女がそのしなやかな腕を両肩《りょうかた》に乗せた瞬間《しゅんかん》、なんともいえず、いやな感じがした。首筋《くびすじ》の毛がそそけだち、手の中で、ドラゴンの杖も、不服そうにぴくりと動いた。
体格に比して、彼女の力は強すぎた。ただ静かに触れているようでありながら、大岩のような重量で、リュカの動きを封《ふう》じてしまうのだ。
「それでは、そなたもいよいよ決心してくれたのですね?」
彼女はささやいた。
「この母と共に大教祖《だいきょうそ》イブールさまにお仕えすると約束《やくそく》してくれるのですね? 思えばそなたの父パパスは、本当につまらない男でした……野蛮《やばん》で粗雑《そざつ》で下劣《げれつ》な男……あんな男に、この身を汚《けが》されたことを、ずいぶん怨《うら》んだものですが、可愛《かわい》いそなたには何の罪《つみ》もないんですものね」
琥珀の瞳が、刃《やいば》の先のごとく煌《きら》めいた。
違う! リュカは叫ぼうとした。
おまえはマーサではない! 母が、父を咎《とが》めるようなことを言うはずがない!
「さぁ、一緒に祈ってあげましょう。イブールさまに許《ゆる》しを乞《こ》い、悔《く》い改めると誓《ちか》いなさい。今日はなんと嬉《うれ》しい日なのでしょう。神殿は完成し、愛《いと》しいおまえがここにいる」
リュカの舌《した》は口の中で膨《ふく》れ上がったナメクジに化《ば》け、どんな言葉も紡《つむ》ごうとしない。手の中で杖が唸《うな》り、ぶんぶんと盛《さか》んに憤《いきどお》っている。だがマァサと名乗る女の手にやわやわと揉《も》まれると、腕から肩から、力が抜け、膝《ひざ》までくだけそうになる。
「くそっ、どけよっ」
様子《ようす》がおかしいと知って、駆け寄ろうとしたティミーが山羊頭《やぎあたま》バルバロッサに阻《はば》まれ、
「いやっ、離してっ、なにすんのよっ!」
二|匹《ひき》のブラックドラゴンがアンクルと組み合い、肩からポピーをひきずりおろそうとしている。
「イブールさまにお目通りする前に、まず、この母が祝福を与《あた》えましょうね」
蜜《みつ》のように甘《あま》い声、濃厚な薔薇の香り。リュカの全身はどうしようもなく震えた。せいいっぱいに背《そむ》けた瞳が、ふと、信者席の最前列でぽかんと口を開けた幼《おさな》い少年の姿を捉《とら》えた。
少年を、リュカは知っていた。少年もまた、リュカを知っていた。知っていると感じて、だからこそせいいっぱいに見つめていた。その魂の抜けたような表情の後ろで、少年の純粋《じゅんすい》なこころが、必死に記憶《きおく》の糸をまさぐるのが、リュカにもわかった。
『……どこで逢《あ》ったんだっけ……ぼくは、このひとを好きだった……とても好きだった……でも、どこで……いつ?』
「おとうさぁん!」
ティミーが叫ぶと少年の瞳がきらめいた。
おとうさん……? そうだ。……昔むかし、おとうさんが買ってきてくれた……。
「あなたは、守り神!」
あどけない声が、忌《い》まわしい気配を破って響きわたった。
「あなたは家の庭に立っていましたね! ……石像の、戦士さまの姿で立っておられましたね! 父が、幼いぼくのために買ってきてくれた……ああ……あなたは、我《わ》が家《や》の守り神だった……!」
「チッ! ……あともう一歩だったのに!」
女が身を引くのと、リュカが力いっぱい押しのけるのとが重なった。女は、黒衣の娘たちを巻きこんで仰向《あおむ》けに倒《たお》れ、勢いあまって、なおも青火をあげ続けている円盤を足蹴《あしげ》にした。
燃えさかるあぶらが流れだし、信者席にまで飛び散った。悲鳴があがり、ドッと人垣《ひとがき》が崩れた。我《われ》がちに逃げ出し、出口に向かって殺到《さっとう》しようとして足をもつれさせたものたちが、たちまち何重にも折り重なった。
おとなたちの下敷《したじ》きになりかけたジージョ少年を、リュカはサッと横抱《よこだ》きに助け上げた。
「えーい、こいつめ。正体を現せ!」
沸《わ》き返る釜《かま》のような大混乱の中、天空の剣がひるがえる。剣から放たれた光が、マァサを名乗っていたものの真の姿を暴《あば》きだした。
「……げ、げるげるぬはははは、ばぁれぇたぁかぁぁぁ……!!」
現れ出たのは、瘤《こぶ》のように盛り上がった禿頭《はげあたま》、醜《みにく》く潰《つぶ》れた獅子鼻《ししばな》のつけねに、ひとつきりのぶよぶよとゼリー状に膨《ふく》れ上がった瞳をカッと刮《ひら》いた、不気味《ぶきみ》この上もないばけものだ。針《はり》の光彩《こうさい》は鋳鉄《ちゅうてつ》の黒。いやらしい黄色味を帯びた分厚《ぶあつ》い鱗肌《うろこはだ》。さっきまでの五倍にも膨れ上がったからだは、ぬらくらと炎を映し、神殿の高天井にいまにもぶつかりそうだ!
「うっそー! なにあれ、気持ちわるーい!」
「マァサさまって、あんな不細工《ぶさいく》な怪物《かいぶつ》だったの? いやいや!」
さしも忠実《ちゅうじつ》な黒衣の娘たちもすっかり度《ど》を失って、逃げ出そうとした。が、ピエールたちに鋭く阻《はば》まれる。娘たちは、薔薇も剣も放り出し、両手を掲げて降参《こうさん》をした。互《たが》いに抱き合い、めそめそ泣きだす。
[#挿絵(img/DQ5_3_262.jpg)入る]
「げるげるげはは! よくも邪魔《じゃま》をしてくれたげる、人間! 俺《おれ》さまは神官《しんかん》ラマダ! 我らが大教祖イブールさまの、第一の使徒《しと》げる! 大事な儀式《ぎしき》を台無《だいな》しにしおってからに……ここにいる人間たちのように、おまえらの魂も抜き取ってくれるげる!」
「儀式も教団も、もはやこれまでだ!」
リュカはドラゴンの杖を高々と構え直した。
「ばけものめ、マーサを……ほんものの母を、どこにやった!」
「げるげるげはげは! あの強情《ごうじょう》な女なら、ここにはおらん。とっくにこの世におらんげる……暗黒の魔界《まかい》へ行ったげる……げがはぁぁああっ!」
ラマダは激《はげ》しい炎を吐いた。リュカは両手で杖を構えた。頭飾りのドラゴンが顎《あぎと》を開いて、吐き出された炎を吸《す》いこみ、さらに強烈《きょうれつ》な火焔《かえん》となし、ラマダのひとつ目に向けて吐き返した! ごおおうう! 凄まじい閃光《せんこう》、肉の焼けるいやな臭《にお》い。
「……ぬおお、痛い、げるげおおお!」
ラマダは黒焦《くろこ》げになった顔を押《お》さえてのたうちまわり、美しいできたての神殿の床の上に嫌《いや》らしい赤黒い体液を擦《す》りこんだ。
「痛い痛い痛いげる……うううう、よしてくれげる、勘弁《かんべん》してくれげる、なんと恐ろしい痛みげる! まるで竜神《りゅうじん》のいかずちに打たれたようげる! ひーげるおーげる痛ぇげる……」
「教祖は。イブールはどこだ?」
リュカは静かに聞いた。
「正直に答えれば、もう痛めつけはしない」
「ふいー、ありがたげるげる。イブールさまなら、聖殿《せいでん》げる。この神殿のうんと下《した》げる」
両手で顔をおおったまま、ラマダは弱々しくわめき散らした。
「お優しいイブールさまは、生贄《いけにえ》どもを屠《ほふ》るさまを見たくないげる、弱気なことをおっしゃるげる……あのかたは、俺と違って、人間の肉を旨《うま》いと思わないらしいげる……おかげで、好きなだけ喰《く》えるげる! あはあは、喰って長生きできるげる!」
リュカは顔をしかめたが、自棄《やけ》くそのように哄笑《こうしょう》するラマダには頓着《とんちゃく》せず、石像に歩み寄った。
すらりと立った、細身のからだ。寂《さび》しげな微笑みを浮かべた、懐《なつ》かしい顔。
「やはりビアンカだ。……ポピー」
「はい!」
ポピーが進み出てストロスの杖を使った。だが、何も起こらない。
「だめだわ、おとうさん。杖の力が届かない。神殿ぜんたいに強力な呪《のろ》いがかかってるみたい」
「きっと、イブールって奴を、倒さなきゃだめなんだよっ」
ティミーが力コブを作った。
「いっちょ、さっさとやっつけようぜっ!」
「神殿の下、と言ったな」
リュカは倒れた円盤の周囲の床を調べた。
「……やはり隠し階段《かいだん》が残っている。イブールはこの先だな」
笑いすぎてげるげる荒《あら》い息を吐いていたラマダは、ぎょっとして叫んだ。
「な、なぜその秘密を知ってるげる?」
「造《つく》ったからさ」
リュカは肩をすくめ、蓋《ふた》に手をかけ、両指をわずかの隙間にこじ入れて開けようとした。ラマダに、すっかり背を向けるかっこうになる。
ラマダのひとつ目がぎらりと光った。ラマダは、その手を焼けただれた顔から離し、のたうつ長舌で空中に怪《あや》しげな紋様《もんよう》を描《えが》きながら、最後の力を振り絞《しほ》って、無防備なリュカの背に打ちかかろうとした。
「おとうさん、あぶなぁいっ!」
「この野郎《やろう》、ええいっ!」
ポピーの助力呪文《バイキルト》に二人分の力を得たティミーが、天空の剣を振り下ろす。
「ぎゃあげああっ!」
剣は銀青《ぎんせい》の閃光《せんこう》となってラマダの肩口から胸までを貫通《かんつう》した。傷《きず》は金赤の高熱を発し、立ちすくんだ怪物の顔は、鉛色《なまりいろ》に染《そ》まった。
「……い……イブールさま……お優しい教祖さま」
ラマダは横ざまに一、二歩たたらを踏んだ。
「なんでお見捨てになるげる……俺は死にたくないげる! もっと長生きして、もっと旨いものを喰いたいげる! どうか……いま一度、このラマダに、お力添えを……げるげる」
答えるものはなかった。
「……な、なぜ? ……お慈悲《じひ》を……イブ……げる」
ラマダは棒《ぼう》のように倒れた。しゅわしゅわと泡立《あわだ》つような音をたてて肉が溶け出し骨が縮《ちぢ》み、生《なま》っ白《ちろ》い腹《はら》をひくひくと引き攣《つ》らせながら、ひどい臭《にお》いの蒸気《じょうき》を発して消えてゆく。
「失敬《しっけい》にもほどがありますよね!」
悪魔神官たちを懲《こ》らしめてきたピエールが、憎らしそうにつぶやいた。
「せっかく見|逃《のが》してやろうとしたのに、不意を狙《ねら》ったりするから。そもそも、こんな不恰好《ぶかっこう》な奴に、マーサのふりをさせていたなんて……イブールのやつ、なんて悪趣味《あくしゅみ》なんだ!」
「投降《とうこう》した娘たちが言うのにはの」
と、マーリン。
「みな、このものの正体は知らなかったらしいぞ。ずっと、マーサさまそのおひとに、お仕えしていたつもりだったのじゃと。マーサさまは、かつて一度は、確かにこのものたちと共におられたのじゃ。さまざまな奇跡《きせき》を起こし、迷《まよ》えるものたちを慰《なぐさ》めたのですじゃ」
「そのとおりです。どんなにお腹《なか》が減っても、マーサさまの歌声をきくと元気が出ました」
散り散りに逃げ出した信者たちが、いつしか祭壇のそばに寄り集まり戻っていた。ひざまずき、頭《こうべ》を垂《た》れ、あるいはせつなげにリュカたちを見つめて、口々にマーサを讃《たた》えるのだった。
「マーサさまが歩くと、鳥が集まった。犬も猫《ねこ》も狐《きつね》も鹿《しか》も、魔物までもが寄ってきて、みな喧嘩《けんか》ひとつしなかった」
「だから。世界が闇になっちゃっても、このひとといれば大丈夫《だいじょうぶ》だって、そう思うよね」
「んだんだ。おらもマーサさまさ憧《あこが》れて入信しただ! あんな優しくってきれいな女のひと、ほかに見たことねぇだもの」
「あたいは生まれつき親がないの。はじめてマーサさまに逢ったとき、おかあさんってこんな感じかなって……グスッ」
「ワタシバ、今モ昔モ魔物デスガ、まぁさサマハ、トテモ優シクシテクダサッタ」
「まぁさサマニ逢ッテカラ、生キル喜ビヲ知リマシタ……言葉モ、教エテモラッタ」
バルバロッサやメタルドラゴンまで、どこからともなく現れて、そうだそうだとうなずきあう。
「でも、バカだったわね、私たち。みんな、もう少しで、生贄にされてしまうところだったのよ」
「これまでに大勢いなくなったのは、あれは……ラマダとかいう奴が喰《た》べて……ウッ」
「俺たち自身も、信者じゃないひとたちに、ずいぶんひどいことをしてしまったなぁ」
「いまごろトッツァンどうしてるだろ? おいら、有り金ぜんぶかっぱらって入信しちゃったんだ……悪かったなぁ」
「あの……お願いします、頼《たの》んますよ、マーサさまの御子《みこ》さまぁ」
信者の中から、髭《ひげ》むじゃらな男が代表となって進み出て、両手を胸に組み訴《うった》える。
「あんたさまは、えれえ強えし、ほかでもないマーサさまの御子さまだそうだ。どうか教えてくだせぇまし。俺たちゃこれから、いったい、どうしたらええんじゃ?」
元信者も魔物たちも、みな、しんとして、リュカを見た。
「ぼくが? 教える?」
リュカは戸惑《とまど》った。ひとになにかを教えるような偉い人間ではない、と、口走りそうになった。だが、母を慕《した》い、母を愛したひとびとを、見捨てることができようか?
リュカは静かに深呼吸をした。やがて、微笑み、静かに言った。
「過ぎたことを悔《く》やんで、時を無駄《むだ》にしてはいけない。ないがしろにしてしまったひとがいるのなら、そのひとたちを助けて働きなさい。過《あやま》ちなんて誰にでもある。まごころはきっと通じます。どうか、希望を捨てずに暮らしてください」
ひとびとは涙を浮かべ、真剣な顔つきでうなずき、首を垂れた。
「……そうは言っても……」
リュカは照れ臭くなって、頭を掻《か》いた。
「さて。困《こま》ったな。これほど大勢のひとびとを、どうやって山から降ろしたものだろう」
と。
ふいいいん! ドラゴンの杖が不可思議《ふかしぎ》な音色《ねいろ》をたてて光明《こうみょう》し、虹色《にじいろ》の光を吐きだした。
すると……見よ! セントベレスの山頂を、数百年にわたっておおい隠してきた分厚い霧靄《きりもや》が、吹き払われるようにもくもくと動き出し、空にまっすぐな道を拓《ひら》いたではないか!
日がさし、そよ風が吹き、ぬくもりが届いた。白亜《はくあ》の神殿に、帯なす光線が溢《あふ》れた。あたりは目を開けていられないほどまぶしくなり、薄暗い空に慣らされていたひとびとに、悲しみと関係のない涙をぼろぼろこぼさせた。
透明《とうめい》に冴《さ》えわたった青空が、みるみるうちに、霧を押しのけ、霧を払い、どこまでも伸びやかに広がった。そして、すっかり明るくなったとき、ひとびとは見た。ごつごつした溶岩の山肌を、螺旋《らせん》を描いて降りてゆく光の階段を。遥《はる》かな下方、高空の羊雲《ひつじぐも》を映してきらきらと煌《きら》めく、油のように平《たい》らかな海を。荒れ狂う波もまた、不思議な力ですっかり抑《おさ》えこまれたらしい。
階段は遥か下方の大内海まで届き、そこで、光の桟橋《さんばし》をなしている。桟橋には、ほっそりと華奢《きゃしゃ》な黄金の船が、竜の舳先《へさき》飾《かざ》りを持った美しい帆船《はんせん》が、招くようにゆったりと揺れながら停泊《ていはく》しているのだ。山頂に、驚きと喜びのどよめきが走った。
「まあ、あれは『麗《うるわ》しのビアンカ号』だわ!」
「うへっ、じゃあ、あの手を振ってるのはピピン小隊長《しょうたいちょう》かい?」
「よかった。……みなさん、あの船をめざして行ってください!」
リュカはホッとして言った。
「大丈夫《だいじょうぶ》。全員が乗れます。おひとりおひとりの行きたいところまでちゃんと案内してくれるはずです」
ひとびとは歓声《かんせい》をあげた。リュカのそばに来てせめて衣《ころも》の端《はし》にでも触《さわ》ろうとするもの、ただもう感激《かんげき》のあまり胸を叩《たた》いてわめき泣くもの。信者も、黒衣の娘も、護衛《ごえい》の蛇手男たちまでが、互いに抱きあって、喜びあった。
マーリンやピエールの案内で、ひとびとは列をなした。年を取ったもの、おさないものや、怪我《けが》をしたものから、順々に。そしてひとと魔物が助けあいながら、光の階段を降り始めた。
「守り神さま!」
頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させたジージョが駆け寄ってきた。
「さぁ、一緒に行きましょう」
「いや。すまぬが、だめなんだ」
リュカは首を振った。
「ぼくたちには、まだ、することがあるんだよ、ジージョ」
ティミーが、ポピーが、ジージョと力強く握手《あくしゅ》を交わす。
「それじゃあ、先に、戻っています。いつかきっと、きっと、もう一度、ぼくのうちに来てくださいね! かあさんととうさんと一緒に、待ってますからね!」
手を振ってジージョが列に加わると、あたりには、リュカと仲間たちだけが残された。
「さぁ……」
「行きますか」
「いよいよ、念願《ねんがん》のイブール退治《たいじ》だね!」
信者たちのたどった光の階段ではなく、神殿の隠し階段を、光あふれる世界にではなく、暗黒への回廊《かいろう》を……一行は静かに降りていった。
先頭に立ったリュカの手の杖は、その頭部のドラゴンに淡緑《たんりょく》の神聖《しんせい》な色あいの後光を生じさせ、階《きざはし》の精妙《せいみょう》に幾何学的《きかがくてき》な角や直線、廊下《ろうか》の浮《う》き彫《ほ》りや飾《かざ》り格子《ごうし》をぼんやりと照らしだした。
どの石もどの柱も、罪もなく罰《ばっ》せられ、囚《とら》われて死ぬまで働かされた男や女の、生命そのものを刻《きざ》みこんだ墓標《ぼひょう》だ。影《かげ》となって寄りそうのは、かつて共にこの道を歩んだ奴隷《どれい》仲間《なかま》の浮かばれない魂だろうか? 狭苦《せまくる》しく複雑に入り組んだ道筋。渦巻き、折れ曲がり、枝分かれを繰り返し、正しい順路を心得ていなければ永遠に堂々めぐりすることになるに違いない、地底の迷宮《めいきゅう》。
だが、歩き出してみれば、リュカの足は躊躇《ためら》いもなく道を選んだ。
どの枝道も、細道も、堂々めぐりも袋小路《ふくろこうじ》も、リュカは、全部よく知っていた。自分の手や足を知っているように、隅々《すみずみ》までも知っていた。進むにつれ、角を曲がるにつれ、いやおうなしに脳裏《のうり》に浮かぶ近道、まわり道、最短|距離《きょり》。ふと感じる風の動きさえ、遠いいつかとすっかり同じ。
……ええい、グズグズするな。せっせと働かんか!
生々しく蘇《よみがえ》る、まぼろしの声。
なんだその目は? 奴隷はもっと死んだような目をしているものだぜ?
ぴしぃっ。ぴしぃっ。
頬をそそけだたせる、革鞭《かわむち》の唸《うな》り。
リュカの背中が熱く疼《うず》く。もうとっくに消えたはずの痛み、忘れていたはずの悪夢《あくむ》。腫《は》れ上がり熱を持って、わずかに触れただけでも飛び上がるほど傷ついた肌に、容赦《ようしゃ》もなく重ねられた赤黒い鞭跡《むちあと》。
背中の傷をはじめて見せたとき、あの星屑《ほしくず》の砂漠《さばく》で、ビアンカは彼の頭を胸に抱いて、小さくからだを震わせた。ビアンカは泣いた。悲しみの、同情の涙ではなく、熱い怒《いか》りの涙を流した。傷跡《きずあと》のひとつひとつに口づけて、しゃがれた声でささやいた。
「あんたにこんなことをした奴を、あたしは絶対に許《ゆる》さないわ。絶対に、絶対に、許さない!」
だが、彼女にも、けしてわかりはしないだろう、とリュカは思う。あの苦痛《くつう》と屈辱《くつじょく》の日々の、ほんとうの恐ろしさ。わかってほしくない。知ってほしくない。
どろりと澱《よど》んだ生温《なまあたた》かい空気。病《や》んで爛《ただ》れた人間の体臭《たいしゅう》。汗《あせ》と脂《あぶら》と血に塗《まみ》れた服、縺《もつ》れ絡《から》まって撚《よ》り紐《ひも》めいた髪。おろおろ歩く肩の重荷。手鉤《てかぎ》や鶴嘴《つるはし》を握《にぎ》ったまま満足に開かなくなるあかぎれの手。仁王立《におうだ》ちになった奴隷|監督《かんとく》の油を塗《ぬ》ったような肌の色。剥《む》きだしの槍穂《やりほ》をギラギラさせながら、寡黙《かもく》にたたずむ衛兵《えいへい》たち。どこまでもどこまでも果てしのない、満足に日もささぬ地下迷宮を、来る日も来る日も掘《ほ》り抜いたあの十年……!
あの凄まじい歳月《さいげつ》を生き延《の》びることができたのは、もっぱらヘンリーのおかげだった。
ヘンリーは陽気で逞《たくま》しくて、芝居《しばい》っ気《け》たっぷりで、ちょっぴり辛口《からくち》の皮肉屋《ひにくや》で……いつも全身全霊《ぜんしんぜんれい》をかけてリュカを庇《かば》った。他人《たにん》のパンをちょろまかしてでもリュカに食べさせ、仮病《けびょう》を使ってはリュカに看病《かんびょう》させ、リュカ自身までも休ませた。
どこぞの国で学者をしていたという偏屈《へんくつ》な老人に、疎《うと》んじられても怒鳴《どな》りつけられても、すり寄るように近づいて、とうとう最後には呆《あき》れ半分気に入られ、みながみな泥《どろ》のような眠りにつくそのわずかな隙間《すきま》に、世界のなりたちと数の秘密、生き物たちの不思議や身体《からだ》の仕組みの概要《がいよう》などを、毎日こつこつ少しずつ、教えてもらうように執《と》り成《な》したのもヘンリーだ。料理係の、眉《まゆ》のひどくうすい、男なのになよなよとしなを作るくせのある中年を、ことば巧《たく》みに持ち上げては、余剰《よじょう》などほとんどない食べ物の中から奇跡《きせき》のように干《ほ》し肉《にく》を、堅《かた》パンを、野菜《やさい》屑《くず》を手にいれてみせたのもヘンリーだった。
ヘンリーは王子だった。奴隷になっても、浮浪児《ふろうじ》のようになっても、その魂は輝かずにおかなかった。彼は明るい声で歌う小鳥、迷宮の闇の底に咲《さ》いた小さくとも馨《かぐわ》しい花だった。ただひとつきりの花ゆえに、どんなに荒《あら》くれた男でも、どんなに絶望した女でも、無碍《むげ》に踏みにじることができなかった。花の隣に、リュカは名もない雑草《ざっそう》の根を張ったのだ。花が水を風を太陽を得るとき、共にそれらを享受《きょうじゅ》しながら……。
思えば、ヘンリーはもとからそういう性格だったわけではない。ただ、リュカのために……父パパスをあのような悲惨《ひさん》な状況《じょうきょう》で亡《な》くしたリュカ、彼のわがままのせいで、国の陰謀《いんぼう》に巻きこまれてしまったリュカのために……意地を捨て、おのれを殺し、智恵《ちえ》を絞《しぼ》って、あえてお道化《どけ》てみせているのを、リュカは知っていた。
もしも、ヘンリーがいなかったなら。ただひとりあんな暮らしに放り出されていたら。たぶん、ひと月とたたぬうちに病気になり、死んでしまっただろう。
ヘンリーは、いまごろどうしているだろう? ラインハットで元気にしているだろうか?
彼もまた、この迷宮を覚えているだろうか? ぼくがまた、ここにこうして戻ってきたことを知ったら、なんと言うだろう……。
あんな地獄《じごく》に自分から出かけてゆくなんて、気でも違ったのかと心配するか。……いや。たぶん。なぜ自分にもひとこと声をかけてくれなかったのか、一緒に連れていってくれなかったのかと、怒ってみせるんじゃないだろうか。あいつは、そういう男だから。
ああ、ヘンリー。すべてが無事に終わったら、真っ先にきみに逢いにゆこう。でも……ぼくは。ほんとうに、戻れるのだろうか? この地底から。もう一度、太陽輝く美しい世界に……。
リュカは頭を振って、遠くにいるかけがえのない友の顔を追いだした。
いまは悩《なや》んでいるときではない。ましてや、思い出に浸《ひた》っている場合でもない。
足を止め、燭《ともしび》を掲げて、あたりを見回す。いつの間にか、もう最下層《さいかそう》に達していた。深闇のどこか遠くで、ぴちょんと水の滴《しにた》る音がした。
「まだ、遠いの?」
ティミーが息を殺すようにして尋ねた。
「いや。もう、あと少しだ」
最後の三叉路《さんさろ》を通りぬけ、上りに見えながらからだには下りに感じる目暗《めくら》ましの階段を過ぎ越す。ちろちろと燃え続ける灯明《とうみょう》が扇型《おうぎがた》にすぼまる先、複雑に絡《から》みあった道筋がひとつに合わさる場に、どす黒く変色した銀の大扉《おおとびら》があった。十年を数える困苦《こんく》の歳月の間にも、ただの一度も、開かれているのをみたことのない扉。
練鉄《れんてつ》の鎖《くさり》が張り渡してあった。リュカは杖の先を鎖に向け、気合いを放った。頭飾りの竜が牙《きば》を剥《む》き、緑色の糸のような光条《こうじょう》を発した。鎖は灼熱《しゃくねつ》し、滴《したに》って床に小さな冠《かんひり》を描いた。ゴレムスとアンクルが左右から扉に手をかけ、引く。
「……きたな」
無骨《ぶこつ》な鉄の角灯《ランタン》がささやかな太陽のように燃える下《もと》、ひんやりとした静寂《せいじゃく》の内に、男がひとり立っていた。この世で最も高い岩山の遥か雲を突き抜けた頂《いただき》から、神殿の地下の最奥部であるこの場所まで、分厚く堆積《たいせき》した土砂《どしゃ》の重みが、闇そのものを凝縮《ぎょうしゅく》し、抽出《ちゅうしゅつ》し、ひとの姿にしたかのような男だった。
肌は青黒く、垢《あか》じみたローブの肩に振り分けられた灰色《はいいろ》の髪は、もつれて紐《ひも》のようにねじれていた。男は背が高く、骨ばった全身に疲労と倦怠《けんたい》を滲《にじ》ませていた。非常な年寄《としよ》りのように見え、同時に、青くさい若造《わかぞう》のようにも見えた。だが、濃《こ》い陰翳《いんえい》の中から注がれる錐《きり》の先のようにとがった視線には、なお底知れぬ力があった。侮《あなど》ってはならんぞ、と言わんばかりに、リュカの手の中で杖の竜が低く唸った。
堅く錠《じょう》を下ろした扉を壊《こわ》されたというのに、男は慌《あわ》てた様子でもなく、殺気だちもせず、ただ長いこと、刃物《はもの》のようなまなざしで、じっと、リュカを眺《なが》めていた。リュカは自分が隅隅まで透視《とうし》され、吟味《ぎんみ》されているのを感じた。恐ろしくはなかったが、緊張のあまり首筋が堅くなった。奥歯が軋《きし》んで、歯を食い縛《しば》っていることに気がついた。
戦いをしかけもしないうちから、飲まれてしまってどうする!
リュカが瞳に力をこめると、男の視線がつと逸《そ》れて、子供たちに、また、連れの魔物たちに順に流れた。薄い唇に、こばかにしたような笑いが浮かんだのを見て、リュカは杖をつきなおし、一歩前に進み出た。
「教祖《きょうそ》イブールか」
「いかにも」
男の声は地を這《は》い、闇を揺すった。
「かけたまえ、マーサの息子《むすこ》」
ローブを揺すって痩《や》せた手を出し、古びた木の卓《たく》と小さな二つの椅子《いす》を示す。卓の上には、切り子ガラスの盃《さかずき》がふたつ、瓶《びん》がひとつ、用意されている。イブールは腰《こし》をおろし、両手を卓に乗せて、リュカを待った。
「おまえの盃は受けない」
リュカは椅子にかけはしたが、手は伸ばさなかった。
「おまえは、善良《ぜんりょう》なひとびとに邪悪な教えを吹きこんだ。何百という生命《いのち》を犠牲《ぎせい》にして、こんな恐ろしい砦《とりで》を造り上げた。ぼくの子供たちをさらおうとして失敗すると、こんどはビアンカを人質にとった。彼女を盾にして、我が母であるマーサに、おまえの欲望《よくぼう》の手伝いをさせたのだろう!」
「なんと卑《いや》しいことを考えてくれるのだ」
イブールは酒を嘗《な》めた。
「そうではない。マーサはもうずっと前から、ここにいないよ。おまえの母は、自《みずか》らすすんで暗黒の魔界へ、大魔王《だいまおう》ミルドラースさまのもとに赴《おもむ》いたのだ」
「……なんだって? 魔王?」
「だから、あの愚《おろ》かなラマダにマーサのふりをさせておかなければならなかったんじゃないか」
イブールは深々とため息をついた。
「マーサの息子よ。いったい、どう言ったらわかってくれるだろう? わたしはマーサを愛している。そなたが生まれるよりも前から、ずっと変わらずにだ。そのマーサの子であるおまえと、できることなら、争いたくなどなかった。だから、なんとかおまえを遠ざけ、その手の届かぬところでことを為《な》し遂《と》げたかった。だが、おまえは、こんなところまでやって来てしまった! ……あのジャミという哀《あわ》れな馬魔《ばま》を覚えておろう? おまえと妻《つま》があいつの呪《のろ》いによって石くれとなり果てたとき、わたしはほんとうにホッとしたんだよ。これで、おまえを殺さずにすむと。おまえたちを石くれのまま新しい世界につれてゆけば、きっとマーサが喜ぶだろうと」
「新しい世界だと?」
リュカは目を細めた。
「それは闇の支配する世の中か? 邪教《じゃきょう》の信者だけが生き残るという世界のことか? イブール、おまえは狂っている。思い上がっている。信者だの、奴隷だの。おまえが力ずくでかきあつめたのは、自分を崇《あが》めてくれるもの、讃《たた》えてくれるものばかりだ。おまえは生まれながらの負け犬だ。だから、力あるマーサを妬《ねた》んだ。神を嫉妬《しっと》したんだ!」
「神?」
イブールは席を蹴り、怒ったように歩き回った。
「なんと。おまえはまだ神を信じているのか? ……バカめ! いいか、これまでに世界じゅうに起こったことがらは、すべて、神の責任、神の筋書《すじが》きどおりなのだぞ。いちど、落ち着いて考えてみろ! 神は世を三つに分けた。天界と地上、そして魔界だ。天界をはみだしたものは地上に堕《お》ち、地上を追い払われたものは魔界に満ちるというわけだ。おかげで天界はきれいさっぱりかたづいたが、地上ときたらこのとおり、さらに魔界は? 暗黒の魔界はどうなった?」
イブールは盃に酒を注《そそ》いだ。どぶどぶと、溢《あふ》れるままに。
「……こうだ! いずれこうなることは、わかりきっているじゃないか。全知全能の神ともあろうものが、そのぐらいのことを考えなかったはずがない!」
こぼれた酒を手で払って、イブールは肩で息をついた。
「おまえは魔物使いではないか。マーサ同様、魔物たちを、魔物であるからといって悪《あ》しざまに言うただの人間どもとは違うではないか。なぜ、魔物たちを哀《あわ》れまぬ? 魔界はさっさと満杯《まんぱい》になってしまい、多くのものが行き場を失って、しかたなく地上をうろつきまわった。地上のひとびとは困《こま》り果てた。そんなときのために、神は門をつくったはずだ。門番としての特別の人間たちを、我々エルヘブンの民《たみ》を生んだはずだ!」
イブールは卓に両手をつき、リュカを見下ろした。
「だが、ならばマーサはなんだ? 望まれしものとしてのマーサとは、いったいなんなのだ? 獣《けもの》も鳥も、魔物さえ、彼女にとっては、等しく同じだけ価値《かち》のある愛《いと》しいものなのだ。彼女が大巫女《おおみこ》の座《ざ》につけば、門などもはや、意味はない。魔界と地上はごたまぜになってしまうだろう。そんな彼女を……マーサの息子よ、教えてくれ! 神は、いったい、何のために生んだのだ?」
リュカが応《こた》えぬと、イブールはますます早口になって執拗《しつよう》に言い募《つの》った。
「終局《しゅうきょく》さ。……違うか? これはすべて、あらかじめ設定されていた終焉《しゅうえん》の筋書《すじが》きなのだ。神は、地上と魔界を混沌《こんとん》とさせ、おまえや俺を遊戯《ゆうぎ》の駒《こま》になした。天界の無事を守るため、地上と魔界を互《たが》いに相争わせて、対消滅《ついしょうめつ》させ、一から、白紙から、やり直すつもりなんだよ。……そのことに、わたしは、遥かな昔に気がついた。そなたの父がマーサを誘拐《ゆうかい》したときにな。あのときも、長老どもはただおろおろと途方にくれるばかりだった。数百年の歴史を持つエルヘブンも、いざ終末にめぐりあったときには、何をすればいいのか理解しえなかった! こうなったら、なんとかして、魔界と結託《けったく》しなければならないと、わたしは彼らに言ったよ。虐《しいた》げられた魔界の連中としっかり力をあわせれば、神と交渉《こうしょう》することができるかもしれない。地上が、人間が、このまま為《な》す術《すべ》もなく滅《ほろ》びるのを、食い止めることができるかもしれないと! すると、あの無知なものたちは、わたしを裏切り者と呼び、幽閉《ゆうへい》しようとした。閉じこめられるわけにはいかなかった。なんとかしてマーサを取り戻し、ふたりそろって、魔王に同盟《どうめい》を迫《せま》らなければならなかった! すると……ゲマが現れた! 魔王もまた、わたしを求めていたのだよ! 神がそのままの姿では地上に降り得ぬのと同様、魔王もまたその存在《そんざい》のあまりの大きさのゆえに特別の御座《ぎょざ》を必要とする。わたしは名を捨て、名を変えた。神にいただいたイーブという名を、闇の神、魔王に仕えるものイブールと改めるを誓《ちか》いとして、神殿を起こした!
誰かが教える必要があった。神ではなく魔王に仕えるための心構えを。誰かが救う必要があった。神なき世に暮らすひとびとを! わたしは努力した。だが、わたしはおのが力の限界をも知る誠実《せいじつ》な男だ。だから、わたしはマーサを求めた。彼女の大いなる力を……ああ、けしてわたし自身のためにではない。ひとびとのために! 欲《ほっ》したのだ。
たとえ、結果として、この手が血赤に染《そ》まろうと……故郷《こきょう》のひとびとを裏切り、我が神を奉《ほう》じぬ奴隷たちを、多く死に至《いた》らしめることになるとしても……わたしは、わたしのさだめをなさなければならなかった! 多いなる天数《てんすう》の前には、たかが人間一匹、逆《さか》らうことなどできはしない!
だが……。
わたしがやっとの思いでマーサの居所をつきとめ、この手に無事に取り戻したとき……彼女はすでに、リュカ、おまえを生み落としていたのだな。……ふふ……ははは……あーっはははは!」
イブールは笑いだした。卓を揺すり、まるで何か毒にでも当たったように狂笑《きょうしょう》した。
「神は、なんと巧妙《こうみょう》だったのだろう! わたしがただひとり奔走《ほんそう》してる間に、おまえたち神の走狗《そうく》は、すっかり準備を整えてしまった。とんとだまされてしまったな。神ははじめから、いなくなってなどいなかった。思いもかけぬような布石《ふせき》を投じながら、神は、ただ魔王をその隠れ場から引きずりだし、時の至るのを待っていたのだ!」
リュカの周囲に黒闇が激しく渦巻き、稲光《いなびかり》が轟《とどろ》きわたった。
「さぁ、勝負だ……マーサの息子! わたしは神を憎む。こんな茶番にひきずりこんだやつを憎む! そんな神など欲しくない、神なき世をこそ選択《せんたく》する! ……だから、おまえたちを魔界に送るわけにはいかない。大魔王ミルドラースさまの邪魔《じゃま》をさせるわけにはいかぬ! そして光の時代は終わり、闇の時代が訪れるのだ!」
言い終わらぬうちに、イブールは、ぶきみな怪物に変わった。人間の形の中に眠っていた忌《い》まわしいもの……腐《くさ》りかけたゼリーのようにてらてらし、硫黄臭《いおうくさ》い息を吐く怪物が姿を現したのだ! リュカは杖を振り上げ、打ちかかろうとした。だが、必殺の気合いがイブールに届く刹那《せつな》、太い首に載ったすでに人間とは思えぬ顔の血走った瞳に、刃物《はもの》めいた光点が現れた。リュカがハッとして飛びすさった空間の一点に、光は走り、みるみるうちに膨《ふく》れあがって爆発した!
「イオナズンか。空爆系《くうばくけい》では最高の呪文を会得《えとく》したのじゃな」
びょうびょうと吹き抜ける凄《すさ》まじい風に、頭布《フード》をふっ飛ばされて禿頭《はげあたま》をのぞかせながら、マーリンはとがった顎《あご》を撫《な》でた。
「どうやら魔法力は侮《あなど》れぬようじゃ。まぁ、教祖というぐらいなんじゃから、相当|研鑽《けんさん》を積んだのじゃろう……おお、今度は守備強化《スカラ》か。なんと、魔鏡反射《マホカンタ》も身につけておる! いや、なかなか賢《かしこ》い組み合わせ。惜《お》しい。惜しいなぁ。その智恵、正義のために使ってくれていれば」
「のんきに観賞してないで、加勢してよっ!」
ティミーが叫んだとたん、イブールは冷たく輝く息を放った。一瞬のうちにゴレムスが霜《しも》だらけになり、リンガーはかじかんで剣を落とす。ジュエルはカチンカチンに凍《こお》った宝石を飲みこんで七転八倒《しちてんばっとう》する。
リュカやピエールが重傷《じゅうしょう》を負《お》った仲間たちの治療《ちりょう》で手いっぱいな隙《すき》に、敵は素早く剛腕《ごうわん》を振るい、空爆《イオナズン》をぶつけてきた。ティミーは天空の剣で、プックルはオリハルコンの牙《きば》で、ポピーは妖精《ようせい》の剣で、それぞれ懸命《けんめい》に打ちかかるのだが、寒さのためにからだがうまく動かない、敵の守りが強すぎる。かすり傷を負わせることもできない!
「マーリンったら! 火焔呪文《メラミ》は?」
「したが……ふぁ、ふぁ、はくしょん! ……いや、老《お》いぼれは、鼻毛まで凍ってしもうた。こう寒うては舌がまあら……くしょん! とてものことに呪文は唱《とな》えられぬ。光衣《フバーハ》じゃ、王子、まずは守りを固めよ。プックル、そなたは凍《い》てつく波動じゃ!」
「わかったぁっ!」
ティミーが光衣呪文《フバーハ》を唱えると、優しい光が仲間たちを包みこんだ。光の衣が冷気を遮断《しゃだん》し、からだがふわりと楽になった! ポピーは凍《こご》えた指を素早く擦《こす》り合わせて気力を集中し、なお弱々しくクシャミをするマーリンに魔鏡反射《マホカンタ》の幻鏡を出現させる。ちょうどそのとき、イブールがイオナズンを放った。一行はまたふっ飛ばされたが、マーリンは平気だ。からだの周囲の光の壁が敵の呪文を跳《は》ね返し、最高|威力《いりょく》の空爆がイブール自身を打ちのめす。
ぐがぁああっ!
怒り狂うイブールに、プックルが吠《ほ》えた。凍てつく波動がイブールの守り呪文を吹き払う。
「いまだぁっ!」
ティミーの呼び声に、リュカが、そして、ピエールが応えた。三者は、ちょうどボブルの塔《とう》であのゲマと戦ったときと同じように、そのこころをひとつにして飛びかかった。
ぬおぉおおお!
イブールは暴れた。リュカを、そしてティミーを打ち払った。だが、中で一番小さな一本の剣だけが、怪物の執拗《しつよう》な防御《ぼうぎょ》をかいくぐり、その分厚い皮膚《ひふ》を切り裂《さ》いた! イブールは肥大《ひだい》した頭を振り立てて絶叫《ぜっきょう》した。腿《もも》に突き立った剣をつかんで抜こうとする。苦痛に歪《ゆが》んだその瞳が、抜かれまいと踏《ふ》ん張るスライムナイトにふと落ちて、まなじりも切れんばかりに見開かれる。
「お……お? おまえは……おまえは? ……」
イブールは呻《うめ》いた。怪物の口には、ひとの言葉は馴染《なじ》まぬのか、のろのろと、まるでひとりごとでも言うように。
「……し、知っているぞ! ……おまえは、確か、マーサのスライム……エルヘブンの……」
「そうだ。わたしはピエール」
両手で剣をつかんだまま、ピエールはきっぱりと胸を張った。
[#挿絵(img/DQ5_3_286.jpg)入る]
「イーブ[#「イーブ」に傍点]、おまえから、マーサを守るために。わたしは騎士《きし》の芽《め》を生《は》やした。そして、邪悪の手のものたちから、マーサを取り戻すために。ずっと、リュカと共に戦ってきたのだ!」
「騎士の……芽を? ……」
血走り乱れた瞳の中に……膨大《ぼうだい》な絶望《ぜつぼう》に闇をのみ見つめていた瞳の中に……ぽつりと小さな空隙《くうげき》が生じた。空隙はちらちら瞬《またた》く光の点。飢《う》えた暗黒に、邪悪な魔物の姿形に、なお飲みこまれずに残っているイーブ本来の生命《いのち》。涙。
「……あの小さな、踏めば潰《つぶ》れてしまうようなスライムが……マーサの……ために……こんなに……こんなに! つ、強くなったと……いう……のか? ……」
「ぃやぁああああっ!」
跳躍《ちょうやく》するキラーパンサー、その背にまたがる小さな王子、ぎらりと閃《ひらめ》く天空の剣! 茫然自失《ぼうぜんじしつ》する怪物の分厚い胸板《むないた》、心臓《しんぞう》の真上に、金でも銀でもない輝きが一直線に吸いこまれる。
苦痛の絶叫《ぜっきょう》が山を震撼《しんかん》させた。ティミーが、プックルが、ピエールが飛びすさった。竜頭の杖をなお油断なく構えたリュカの前に、イブールはごつりと膝をつく。
「……わたしは……つ……強くなりたかった……」
きらめく光の一条《ひとすじ》が、爛《ただ》れれたような頬《ほお》の上を滑り落ちる。
「マーサに……つ、強くなれるわたしを……知っ……知って……欲しかった」
蝙蝠《こうもり》の幕《まく》のような大きく垂《た》れた翼《つばさ》を痙攣《けいれん》させながら、イブールはぜいぜいと耳障《みみざわ》りな音を洩《も》らした。うつろな視線でリュカを見上げ、色を失った唇を引き攣《つ》らせる。
「……おまえは……おまえたちは、暗黒の魔界へ行くのだな。マーサに逢いに行くのだな! このわたしには……け、けして許されなかったというのに……ふ、ふふふ。こうなることが、う、運命だったのかもしれない……だがな、マーサの息子よ……おまえたちにも、もはや大魔王ミルドラースさまを……とっ、止めることはできまい!」
イブールの手が慄《ふる》えながら伸び上がった。プックルが唸《うな》り、アンクルが拳《こぶし》を固め、リンガーが剣を構えた。
「……何もかも、すべて……ミルドラースさまの予言どお……!」
イブールが手を開いた。小さな銀色の塊《かたまり》がひとつ、乾《かわ》いた音をたてて卓の上に転がり出た。
鱗指《うろこゆび》で虚空《こくう》をつかんだまま、イブールは動かなくなった。砕《くだ》けた氷のごとく煌《きら》めいていた瞳から力が失われた。淡灰色《たんかいしょく》の月長石《ムーン・ストーン》そっくりな瞳孔《どうこう》のない瞳は、生きていたときよりも、むしろ、死んだいまにこそふさわしかった。
リュカは無言のまま手を伸ばして、哀《あわ》れな狂信者《きょうしんじゃ》のまぶたを瞑《つぶ》らせ、その手から零《こぼ》れたものを取り上げた。
「……熱い」
「生命《いのち》の指輪《ゆびわ》ですじゃ!」
マーリンが覗《のぞ》きこんで、顔をしかめた。
「やはりイーブが、いや、イブールが持っていたのですね」
ピエールは吹雪《ふぶき》の剣を納《おさ》めた。
「あるいは……やつは、それこそ、同じ村に生まれた自分とマーサをつなぐ、ただひとつの絆《きずな》だと思っていたのかもしれませんね」
「やったね、おとうさん! とうとう三つの指輪が揃《そろ》ったんだね!」
ティミーが水の指輪を掲《かか》げ、きみも出してみせろよ、というようにポピーをつついた。が、ポピーは動きをとめ、どこでもないどこかを見つめている。
「……あれはなに?」
みな耳をすました。すると、四方の壁が呻《うめ》いているのがわかった。痛みを訴《うった》え、哀《あわ》れに悶《もだ》え、慈悲《じひ》を乞《こ》うような響き。いや、ひょっとすると、笑っているのかもしれない。恨《うら》み骨髄《こつずい》のイブールの死に狂喜《きょうき》して、何か目に見えないものたちが、小躍《こおど》りしているようにも聞こえる。この迷宮に血を滲《にじ》みこませた、何千という奴隷たちの亡霊《ぼうれい》だろうか?
いまや、壁が、びりびりと小刻《こきざ》みに振動しているのがはっきりわかる!
「いかん。崩れるぞ」
リュカが言ったとたん、床が波打った。ゴレムスがその巨体で双子《ふたご》をサッと庇《かば》い、ジュエルが袋の口をパッと閉じた。
天井の一部がばらばらと降り注ぎ、醜悪《しゅうあく》なイブールの骸《むくろ》が瓦礫《がれき》に飲まれて見えなくなる。何かが鬨《とき》の声をあげた。何かがけたたましく哄笑《こうしょう》した。なおもむくむくと突き上げるようにして山ぜんたいが震撼《しんかん》する!
「すぐに出よう! ポピー、呪文だ!」
「ダメよ、ティミー! だって、神殿に……おかあさんのところに戻らなくちゃ!」
「あちゃ、しまった、そうだった!」
みしみしと音をたてながら潰《つぶ》れてゆく迷宮を、一行は無我夢中で走り抜けた。倒れかかってくる柱を、リンガーが盾で押し返す。ひしゃげる天井を、アンクルが逞しい肩に支える。マーリンが|超高熱の炎《ベギラゴン》で、ピエールが剣で、リュカが|真空の渦《バギクロス》でかろうじて道を開く。だが、頂上はまだ遥か先だ! 揺れ続ける床、あとからあとから崩れてくる岩。
「これじゃ、きりがないわっ!」
立て続けに小空爆呪文《イオラ》を唱え続けたポピーは、もう息をつくのもやっとだ。
砕《くだ》け落ちる階《きざはし》をようやくのことに半分駆け上がったとき、一行は見た。大力《だいりき》ゴレムスでも抱えきれぬほどの大岩がべきばきとあたりを押しひしゃげながら落ちてくる!
「だめだぁっ」
ティミーが悲鳴をあげた。
「みんな、ぺっしゃんこにされちゃうよう!」
と。ロッキーがニヤリとして、みなを振り返った。大きな口をニヤッと曲げた、爆弾岩《ばくだんいわ》の笑い顔。勢いをつけて、ひとり大岩めがけて駆け上がりながら、ロッキーは叫んだ。
「メ……ガンテ……!」
遠い地の底のほうで連鎖的《れんさてき》に繰り返されるくぐもった音を、彼女は聞いた。振動は神殿にも伝わってきて、遥かな高梁《こうりょう》から細かな埃《ほこり》を落とした。埃は彼女の目や鼻にも容赦《ようしゃ》なく降り注いだが、拭《ぬぐ》うことはできなかった。
彼女は石像《せきぞう》だった。彼女は動けなかった。だが、彼女は満足だった。
……きっと、イブールをやっつけたんだわ、とビアンカは思った。
思いきり笑うことのできぬ唇が焦《じ》れったい。
(リュカと、魔物さんたちと、あの凛々《りり》しくも可愛《かわい》らしい双子の子供たち。間違いないわ。あの子たちは、ティミーとポピーだ! あたしとリュカの、大事な大事な赤ちゃんたちだ。運命は、最後に、あの子たちを見せてくれたのだ……!)
ゆらゆらと、ゆさゆさと、不穏《ふおん》に揺れていた神殿の柱の一本、彼女の立たされている場にほど近い一本が、一瞬、ぴたりと静止したかと思うと、まるで伸びでもするように膨《ふく》れ上がってみえた。全面に細かなひびが生じている。
(さようなら。大好きなリュカ……さようなら。あたしの可愛い子供たち!)
ビアンカはギュッと目を瞑《つぶ》った。少なくとも、そうしたつもりだった。そのとき。
やさしい光があたり一面を輝かせ、同時に、頼もしい腕が硬直《こうちょく》したままの彼女を横ざまにさらうのがわかった。
そのまま、風に乗ったように運ばれた。走り抜ける端から、ありとあらゆる梁《はり》や壁が、なだれを打って崩れ落ちる。床や天井がわなわな震え、石の破片《はへん》が飛び、ひと抱えもある円柱がばらばらになって転げ回り……やがて、ぽっかりと開けた空の下に出た。
大音響《だいおんきょう》と共に、白亜《はくあ》の神殿のぜんたいが潰《つぶ》れていくのが見えた。もうもうとわきあがった埃《ほこり》に、傾《かたむ》いた高屋根が沈《しず》んでゆく。まるで、水に飲まれる船のように。
ビアンカは瞬《まばた》きをした。それはつもり[#「つもり」に傍点]ではなかった。彼女のまぶたは、ほんとうに動いたのだ。ビアンカは顔をあげた。よろめく彼女を抱きあげて、にっこりと微笑《ほほえ》む愛しい顔。背後《はいご》に広がる、青空。
「……リュカ! ああ、リュカ!」
ビアンカはまだ棒のように感覚のない腕を、ようやくのことで彼の首に回した。
「よかった……危ないところで間に合ったね」
くちづけされた頬に血色が戻り、痺《しび》れた指があたたかく火照《ほて》る。めちゃくちゃに打ち鳴らす鐘《かね》のような心臓が、次第に落ち着きを取り戻す。
「おろして」
ビアンカがもがくと、リュカは彼女を、立たせた。崩壊《ほうかい》する巨大な建造物の断末魔《だんまつま》のあがきなのか、長いこと石になっていた脚《あし》が弱っているせいか、地面は騒《さわ》ぎ、うねるように揺れた。が、それも、やがて落ち着いた。
ビアンカは微笑むリュカを見つめたまま、胸いっぱいに息を吸い、また吐き出した。もう一度彼の手をギュッとつかんで微笑《ほほえみ》を浮かべ、それから、傍《かたわ》らの子供たちに向き直った。
恥《は》ずかしそうにもじもじしながらも、熱心に見上げている、男の子と女の子。
「ティミー。ポピー」
ビアンカは呼んだ。喜びに、震える声で。
「やっと、逢《あ》えたわね。まぁどうしよう。もう、こんなに大きくなっちゃったの!」
「おかあさん?」
「そうよ。ティミー」
ビアンカは少年の前に膝《ひざ》をつき、額《ひたい》にこぼれかかった金髪を、指で払ってやった。
「はじめまして、は変かな? 長いこと、そばにいてあげられなくて、ごめんね」
ティミーはぐしゃぐしゃに顔を歪《ゆが》めると、拳骨《げんこつ》を固め、両足を踏ん張って涙を堪《こら》えた。ビアンカはたまらなくなって、少年を抱きしめ、そのがっしりとよく締まったからだに目を見張った。
「まぁ。立派な鎧なんか着て、いっちょまえに! ……あら? ……その剣は……?」
「ティミーは、伝説の勇者なんです」
ポピーが、まだ少し人見知りをして、しゃちほこばった顔つきで言った。
「天空の剣に、選ばれたんです。双子のあたしは、選ばれなかったけど」
「まぁ、そうなの! そりゃあ残念だわね」
ビアンカは澄《す》んだ空そのままの色の目玉を、ぐるっと回してみせた。
「でも、ポピー。正直に言うとね、あたしは、ずっと、女の子が欲しかったの。あなたみたいな、見るからに賢そうで可愛らしい女の子のおかあさんになれたなんて、すっごく嬉しい。とっても鼻が高いわ!」
ポピーは真っ赤になってにっこりし、おかあさんこそ、と言った。
「こんな綺麗《きれい》なひとだなんて知らなかった。おとうさんってけっこう隅《すみ》におけないのね!」
こら。ビアンカはポピーのオデコをつつき、それから、腕いっぱいに抱きしめた。
マーリンはローブを顔にあてて高らかに鼻をかみ、ピエールはカシャンと騎士の鎧の目庇《まびさし》を降ろした。アンクルもゴレムスもリンガーも、もらい泣きの涙を拭《ぬぐ》った。ジュエルは盛んに宝石を投げ上げた。プックルは、はじめ、猫族《ねこぞく》特有のそっけない顔つきを装《よそお》っていたが、それでも、とうとう、我慢《がまん》しきれなくなって、ビアンカのからだに脇腹《わきばら》のあたりをさかんに擦《こす》りつけた。
「……ロッキー、ありがとう」
リュカは瓦礫《がれき》の山を振り向いて、小さく頭《こうべ》を垂《た》れた。
「きみは、ほんとうに光そのものだったね。きみが尊《とうと》い生命《いのち》を犠牲《ぎせい》にしてくれなかったら、ぼくらはみんなこの山で葬《ほうむ》られてしまうところだった……きみの死を無駄《むだ》にしないためにも……暗黒の魔界に行って、大魔王を倒さなければ!」
だが、そのときだ。
〈リュカ……リュカ……〉
突然、不思議な声が聞こえてきた。みな、びっくりしてあたりをを見回す。リュカは手をあげた。崩壊《ほうかい》のさなか、なくすまいととっさに指に填《は》めていた生命の指輪が……きらきらと輝きながら、声を発している。
〈わたしの名はマーサ……リュカ、私の声が聞こえますか?〉
「……マーサだって?」
双子も妻も魔物たちも、みな円になって、リュカと指輪を囲んだ。
〈リュカ。大きくなったおまえの姿を、どんなに見たいことでしょう。でも、それは、願ってはいけないこと。……リュカ。魔界に来てはいけません。あなたでも、たとえ、伝説の勇者であっても、魔界にいる大魔王ミルドラースの力には、とても敵《かな》わないでしょう。おまえにはすでに、可愛い奥さんと子供たちがいると聞きました。この母のことなど忘れて、家族仲よく暮らすのです。……母はこの生命《いのち》にかえても、ミルドラースをそちらの世界には行かせません。信じて。けして、けして、魔界に来てはいけません……〉
「……おかあさん! おかあさん……待ってください!」
リュカは夢中《むちゅう》で呼んだが、指輪の声は谺《こだま》を引きながら次第に遠ざかり、
〈……さようなら、リュカ……〉
小さな煌《きら》めきをひとつ残して、完全に沈黙《ちんもく》してしまった。
「……おかあさん……」
リュカの腕に、ビアンカがそっと触れた。わかってるよ、と言わんばかりに。
「へんだよ。おかしいよ。おばあちゃんったら、どうして、あんなこと言うのさ!」
ティミーは目を怒《いか》らせて、地団太《じだんだ》を踏んだ。
「きっと、そのミルドラースとかってやつに、無理に言わされているんだよっ。すぐ助けにいかなくっちゃ。ねっ、おとうさん?」
「三つの指輪が揃ったら戻っておいでって、エルヘブンのおばさまたちが言ってたわ」
と、ポピー。
「でも、いったんは、グランバニアに戻りませんか? おかあさんが復活したことを聞けばオジロンおじいちゃんやサンチョがきっと喜ぶし、ピピン隊長や船の人々も、心配だし」
「……そうだな。戻ろう」
リュカは無理に微笑んだ。生まれてはじめて耳にした母の哀《かな》しくやさしい声が、いまもまだ、耳の奥に谺《こだま》していた。
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8 影を征《う》つ
実りの秋の黄金《おうごん》の落ち葉の森に囲まれた故郷《こきょう》の城《しろ》は、戦士たちの帰還《きかん》に沸《わ》き返った。
麦《むぎ》も葡萄《ぶどう》も豊作《ほうさく》で、山羊《やぎ》はよく乳《ちち》を出した。魚たちは黒帯《くろおび》となって川を遡《さかのぼ》り、狩《か》りに出ればよく太った兎《うさぎ》や鴨《かも》に簡単《かんたん》に出会うことができた。
リュカたちの戻《もど》ったちょうど翌週《よくしゅう》から、収穫祭《しゅうかくさい》の市が立つことになっている。ほそぼそながら再開された航路《こうろ》を通じて、遠くノルズム大陸からも珍《めずら》しい荷が続々と集まった。菜《さい》の籠《かご》が、羊毛《ようもう》の梱《こり》が、新しい工夫のされた鋤《すき》や鍬《くわ》や鎌《かま》が、商人街《しょうにんがい》に山と積まれ、仮店《かりみせ》の屋台《やたい》を作る斧《おの》や鋸《のこ》の響《ひび》きは絶《た》えることがなかった。
華《はな》やかな祭りの準備《じゅんび》のそこここで、弾《はず》んだ声が飛び交う。
「聞いた、聞いた? 天空の城が再び空に昇《のぼ》ったんだってね」
「ほんじゃ、竜の神さまも復活なされたのかぇ?」
「どうりで。このごろってば、いつでも空いっぱいに、なんとも穏《おだ》やかな光が満ちている」
「闇《やみ》の時代なんて、こなかったね。これでもう、安心だね!」
涼《すず》しい風が働くひとびとの汗《あせ》を慰《なぐさ》め、あたたかな日差しが染《そ》め物や洗濯《せんたく》ものをパリッと乾《かわ》かした。時おり小さな羊雲《ひつじぐも》が愉《たの》しげに駆《か》け抜《ぬ》けてゆく青空の下、ひとびとの笑顔《えがお》には、かすかな曇《くも》りもないのだった。
不自由な旅の途上《とじょう》で口にしたものに比べると、宮廷《きゅうてい》の食事は、頬《ほお》が落ちるほどにおいしかった。育《そだ》ち盛《ざか》りのティミーやポピーは、どこにそんなに入るのかと思うほどに詰《つ》めこんでは、さっそく母親らしい顔をしはじめたビアンカにやさしく叱《しか》られなどしている。
リュカが幸福な微笑《ほほえ》みを浮《う》かべて、そんな家族たちを眺《なが》めていると、すかさずオジロンが身を乗り出した。
「収穫祭の客人が、多数まいっております。陛下《へいか》のご都合《つごう》がよろしければ、いずれ、彼らにも、玉顔《ぎょくがん》を拝《はい》したてまつる機会をお与《あた》えくだされませ。さぞかし喜ぶことでしょう。陛下のお戻りくだされたいま、いよいよ我《わ》が国も、大海の彼方《かなた》の国々と交易《こうえき》をはじめる頃合《ころあい》かと存《ぞん》じますれば」
そうだ。城に戻れば、一介《いっかい》の戦士ではない。王なのだ。大きな責任のある、一国の主《あるじ》なのだ。リュカはそのことをすっかり忘《わす》れていた。リュカには王の自覚はない。また、国をひとつ守るなどということには、たいして興味《きょうみ》はないのだった。世界がまるごと、滅《ほろ》んでしまうかもしれないというときに、たかが、辺境《へんきょう》の山国の王位ひとつがなんであろう?
正直もののリュカは、うまい言《い》い訳《わけ》をとりつくろう前に、そのことを……忘れていたということ、王になど別になりたくないということ……を、うっかり表情に出してしまった。
「……陛下……」
オジロンは髭《ひげ》のある唇《くちびる》を引き結んで、やはり、と言わんばかりの流し目をくれた。
「しかし……しかし、まだ、最後の敵《てき》が残っているのです」
リュカは言った。自分でも、頬が赤らんでいるだろうなと思いながら。
「ぼくは早急に暗黒《あんこく》の魔界《まかい》へ行き、母マーサを救いだし、魔王《まおう》ミルドラースを倒《たお》さなければ」
「なぜそのような? 世はなべて、これこのように平穏《へいおん》無事《ぶじ》ではありませぬか」
オジロンは灰色《はいいろ》の目をぴたりとリュカに据《す》え、叱《しか》りつけるような小声になった。
「生命《いのち》の指輪《ゆびわ》とやらの不思議《ふしぎ》のことば、このオジロンも人づてに聞き申した。御母君《おんははぎみ》が自《みずか》ら、お止めだてなされたとか。……陛下。いや、我が甥《おい》、リュカ。そなたの気持ちはわからないではない。だが頼《たの》む! このとおりだ。どうか、このまま国に留《とど》まってくれ。もうどこへも行かぬと誓《ちか》ってくれ……!」
「いいえ、それはなりませぬぞ、ぼっちゃん! もとい、陛下!」
このやりとりを小耳にはさんだサンチョが、福々しい顔をずいと出した。
「私としては、なんとしても、旦那《だんな》さま……パパスさまの遺志《いし》を継《つ》いで、マーサさまを助けていただきとうございます! それが男の道、男の意地ではございませんか?」
「かーっ! どーぉしておまえはそう、いつもいっつも邪魔《じゃま》をするのじゃっ!」
オジロンはやや乏《とぼ》しくなった髪《かみ》をかき毟《むし》った。
「せっかくひとが説得しとるのに、なんつーチャチャをいれるのじゃ。やぁっと戻ってきてくれたというに、なんでこのうえ焚《た》きつける!」
「焚きつけてなんかいません、あたしはぼっちゃんのお気持ちを代弁《だいべん》しているだけです」
「バカバカ。馬鹿《ばか》もの。不忠義《ふちゅうぎ》もの! おまえはとっくに隠居《いんきょ》の身じゃろうが。おいぼれ従者《じゅうしゃ》が、国の政《まつりごと》に口出しをするんじゃないっ!」
「不忠義? 心外な! あたしは先祖《せんぞ》伝来《でんらい》、未来《みらい》永劫《えいごう》、パパスさまご一家の味方です! オジロンさまこそ、この期《ご》に及《およ》んでまだリュカさまを信じられないのですか? 細かいことばかり言って。余計な心配ばかりして。そういうのを、年寄りの冷《ひ》や水《みず》っていうんだ」
「……にゃっ……にゃにおう!」
「コホン。おとりこみ中失礼いたします」
次の料理の皿《さら》を捧《ささ》げ持《も》って給仕役《きゅうじやく》の衛士《えじ》が近づいてきたので、いまにも互いにつかみかかりそうになっていたオジロンとサンチョも、そのふたりをなんとかしようとオタオタ腰をあげていたリュカも、あわてて居ずまいを正した。
取り分けてもらった料理に口をつけると、リュカは、ハッとして顔をあげた。
「……この味は……これは、どうしたのだ?」
「はい。収穫祭のお客人より、ぜひ、リュカさまに召《め》し上がっていただきたいと、届けられたものにございます」
「うーむ。なんともいえず美味《びみ》じゃな!」
さすがのオジロンも怒《いか》りを忘れ、サンチョともどもにっこりする。
「しかし、そんな怪《あや》しいものを我らが大事な陛下にお出しするとは不用心ではないか。毒見《どくみ》はしたのか、毒見は?」
「いたしましたとも」
「そんな必要はない」
リュカは席を蹴《け》って立ち上がった。
「グレンだ。グレンがきてくれたんだ! ……すまぬが、きみ、その人のところに案内してくれないか?」
「あいや、待たれよ! 陛下がそれではあまりに軽々《けいけい》。そのものをここに呼びなさい」
やがて、客が案内されてきた。城の高い天井《てんじょう》や豪奢《ごうしゃ》な織物《おりもの》をかけめぐらした壁《かべ》などの立派《りっぱ》なしつらえに、首をすくめてギクシャク歩いてきた異国人《いこくじん》たちは、リュカが自ら歓声《かんせい》をあげて駆け寄ると、みな、ホッとしたように笑顔になった。
「ドゾブ。グレン。それに……あなたはたしか、クラリスさん」
「いよう、ぼうず! いや、いまは陛下か。ちきしょう、すっかり偉《えら》くなりやがって」
ドゾブがあいかわらず逞《たくま》しい腕で、リュカの首を羽交《はが》い締《じ》めにするのを見て、オジロンは思わず腰を浮かしかけたが、訳《わけ》知《し》り顔のサンチョに無言でいさめられる。
「こんにちは、王さま。うちの亭主《ていしゅ》のごはん、すぐにわかったでしょ」
「わかりましたとも。スパイスの使いかたが独特《どくとく》で。でも、前よりもっと、腕をあげた?」
「|お城《ラインハット》の台所では、贅沢《ぜいたく》な材料を使わせてくれるもんでね。……ああ、そうだ。紹介《しょうかい》しよう。さぁ、隠《かく》れてないで出てきなさい。これは、うちの娘《むすめ》、リュリュです」
「名前は、リュカ陛下に因《ちな》んだのよ、もちろん」
「はじめまして、リュリュ! 美人さんだね。……それでヘンリーは元気なのか? きかせてくれ……いや、ともかく座《すわ》ってくれ。一緒《いっしょ》に食べよう」
客人たちの席が設《もう》けられ、ビアンカと双子《ふたご》たちも挨拶《あいさつ》にやってきた。女同士はたちまち意気投合《いきとうごう》し、子育て問題や流行《はやり》のお洒落《しゃれ》を語りあう。ポピーは、ヘンリーの息子《むすこ》コリンズから託されたという熱烈《ねつれつ》なラブ・レターと珍しい図版や書物を贈《おく》られて、うっとり頬を染《そ》める。踊《おど》り子《こ》の美貌《びぼう》を受け継《つ》いだおしゃまなリュリュにウインクされて、ティミーは目を白黒させた。
グレンの手配による賑《にぎ》やかな食事が長いこと続いた。子供たちが腹《はら》いっぱいになると、女たちは彼らを連れて、寝室《しんしつ》にさがった。オジロン、サンチョも席を辞《じ》し、再会を果《は》たした男三人が残った。
静かに酒《さけ》を酌《く》み交わしていると、ふと、ドゾブが言った。
「やっと、約束《やくそく》が果たせたな」
と。ひとりごとのように。
「約束?」
「あ。忘れちまったかい? ずーっと前によ、ガキのおまえに約束したろ?」
ドゾブはいかつい禿頭《はげあたま》をするりと撫《な》でて、ニヤリとした。
「いつか必ず、おまえの家に遊びにいくってさ。サンタローズじゃあなくなっちまったけど、ここだって、おまえの家にゃ違《ちが》いねぇ。いやはやまったく、たいした家だけどよ!」
「……約束……」
リュカは盃《さかずき》を置き、目をあげた。
(そうだ。ぼくは約束を守らなければならない。おとうさんに、ぼくはこころで約束したはずだ。必ず……必ず、おかあさんを助けだすと……!)
「ありがとう、グレン、ドゾブ」
リュカは年上の親友たちの手を固《かた》く握《にぎ》りしめた。
「これで決心がついた。ぼくは明日にもまた出かけることにする。……でも、今夜はとことん、飲みあかそう!」
――翌日。オジロンは泣いて懇願《こんがん》したが、リュカの決意を知ると、ビアンカも双子も、共に行くことを望《のぞ》んだ。ピエールほか、魔物《まもの》たちもまた同様である。
ひとときの安息《あんそく》に別れを告《つ》げ、三つの指輪を携《たずさ》えて、一行は再び城をあとにした。
……小舟《こぶね》がいくつか静かな湖面を渡り、なかば水に没《ぼつ》した洞窟《どうくつ》の入り口をくぐってゆく。舳先《へさき》に掲《かか》げられた角灯《ランタン》の黄色い灯《あかり》は、ゆっくり流れる霧《きり》と、次第に濃《こ》くなる闇に、ぼんやりと滲《にじ》んで、急ぎすぎて春の雪に埋《う》もれたタンポポの花のように、儚《はかな》くも弱々しく咲《さ》くのだった。
浅瀬《あさせ》に底《そこ》を軋《きし》ませて、次々に舟が止まると、大小さまざまな影が降り立って、砂を踏《ふ》んだ。
砂はすぐに尽《つ》き、平石を敷《し》き詰《つ》めた床《ゆか》となる。角灯《ランタン》を掲げると、質素《しっそ》な祭儀場《さいぎじょう》が黄色く照《て》らし出された。ひっそりと静まりかえった岩洞《がんどう》の奥に、腰高《こしだか》の壇《だん》と、石の架台《かだい》がある。さらに奥には、ほんの三段ばかりの短い階《さぎはし》が見える。階の行き止まりは、装飾《そうしょく》彫刻《ちょうこく》に見せかけた寄《よ》せ石細工《いしざいく》の壁《かべ》だ……いや、壁ではない。それは扉《とびら》だ。
数百年の間、開かれたことのない扉。三つの指輪の秘密《ひみつ》を抱《いだ》いて、じっと待ちつづけていた扉。エルヘブンの民《たみ》が代々守り続けてきた扉であった。
「……よいのじゃな?」
四人並んだ長老のひとりキャリダスが、静かに問う。
リュカは唇を結んだまま、ひとつ大きくうなずいた。
キャリダスがその骨《ほね》ばった手をかけ、わずかに押すと、重々しい音をたてて、扉が開きだした。
長老たちは静かに祈《いの》りのことばを唱《とな》え、後《あと》ずさりに退《しりぞ》いた。
亀裂《きれつ》が広がると、ざあざあと土砂降《どしゃぶ》りのような音が耳を打った。長年|降《ふ》り積《つ》もった塵《ちり》や埃《ほこり》がまいあがり、次第に大きく口を開けてゆく扉の向こう側を煙《けむ》らせる。ざあざあいう音がますます大きくなる。
扉は、地底の滝《たき》を隠《かく》していたのだ。どうどうと奔放《ほんぽう》に逆巻《さかま》きながら水は流れ、澄《す》んだ深い淵《ふち》をなして、どことは知れぬ暗がりの中に見えなくなってゆく。
リュカは、扉の中に踏みこんだ。ビアンカと双子、いまなお彼に従《したが》うことを選んだ魔物たちが、素早くこれに従った。
滝しぶきに濡《ぬ》れた岩棚《いわだな》に、三体の神像《しんぞう》が立っている。
右が最《もっと》も美しく、最もおとなびている。半裸《はんら》の姿で艶《なま》めかしい舞《ま》いを舞う女神《めがみ》である。左は、胸《むね》に捧《ささ》げた運命札《タロット》に慎《つつ》ましくまつげを伏《ふ》せた星読《ほしよ》みの巫女姫《みこひめ》。そして、中央は、あどけない少女のような顔だちを、悪鬼《あっき》を懲《こ》らしめるように凛々《りり》しく怒らせて、力強く身構えた武神像《ぶしんぞう》だ。
「……このひとがいちばん、炎《ほのお》って感じがする」
ティミーは、右の像に進みでて、その優雅《ゆうが》にひるがえされた指に炎の指輪を填《は》めた。
「水は、きっと、この女神さまね」
ポピーは、左の像の祈るように掲げられた手指に、水の指輪を填めた。
「じゃあ、生命《いのち》の指輪は、このかたに捧げましょうか」
ビアンカは、中央の像に指輪を与えた。
三つの指輪が、すべて、女神像の指に返《かえ》された。すると、瀑布《ばくふ》がしずしずと巻《ま》き上がり、招《まね》くように左右に開いた。水の後ろに隠されていた岩に、ぽっかりとうつろな穴《あな》が開いている。中は、塗《ぬ》りこめたように真っ暗だ。
「……行くぞ」
リュカは先に立って歩きだした。一行が続く。
最後のひとりが洞穴《どうけつ》に踏《ふ》みこむと、たちまち、あたり一体の空間が、よじれ、歪《ゆが》み、波立つように揺《ゆ》らめいた。ひとと魔物の大小の影《かげ》は、かき消すように見えなくなる。
そして、滝は、再び、なにごともなかったように、どうどうと音を立てて流れだした。
長老たちは誰《だれ》からともなくため息をつき、冷たい石畳《いしだたみ》に結跏《けっか》した。
「されば。おのおのがた。待つとしようか」
「待ちましょう。竜の神が復活されたいま、闇の手のものどもも、おいそれとこの世にやってこられはしないでしょうが」
「万一抜け出てこようとするものがあれば、生命をかけても押しとどめましょう」
「神のご加護《かご》のあらんことを……闇の遠ざけられんことを」
四長老の祈りの声は、低く、高く、途切《とぎ》れなく、あたりに流れ漂《ただよ》った。
魔界の大半は、底知れぬ深淵《しんえん》、タールのように重たく粘《ねば》る闇《やみ》大海《わだ》である。潮《しお》の海ではない、水と呼べるものでさえない。そこにたゆたうのは、万象《ばんしょう》の残滓《ざんし》、夢の切《き》れ端《はし》、口にされることのなかった叫《さけ》びと、生まれる間もなく押し殺された欲望《よくぼう》だ。
人の世で疎《うと》んじられ、遠ざけられ、無用になり、捨てられ……誰《だれ》ひとりかえりみるもののなくなった、ありとあらゆるものどもが、ここに集《つど》う。それらは、折《お》り重なって圧迫《あっぱく》され、発熱《はつねつ》し、爆発《ばくはつ》し、混濁《こんだく》し、溶解《ようかい》し……緩《おだ》やかな反応《はんのう》を何万回もくりかえして、ついにはひとつの黒い軟泥《なんでい》の海となる。この泥芥《どろあくた》の中から、数多《あまた》の魔物たちが生まれてくるのだ。
泥海《どろうみ》のただなかに、ぽつりとひとつ陸があった。基部《きぶ》は、みあげるほども高く、のたくる波に洗《あら》われて激《はげ》しくえぐられ、食べ終わる寸前《すんぜん》のりんごの芯《しん》のような不安定な形となっている。その危《あぶ》なっかしげな支《ささ》えの上に、重たげな大地が載《の》っている。
その大地に。生きとし生けるものの、ほとんど訪《おとず》れたこともない領域《りょういき》に。
リュカたちは唐突《とうとつ》に出現《しゅつげん》した。滝の洞穴から、不可思議《ふかしぎ》な力に導《みちび》かれて到着《とうちゃく》したのである。
狐火《きつねび》のように青白く燃える空の下、硫黄臭《いおうくさ》い闇に目が慣《な》れるまで、しばらく暇《ひま》がかかった。リュカは両目をすがめて、あたりを見回してみた。それは赤茶けた大地の小高くなった丘《おか》、円を描《えが》いて立った柱の内側、見知らぬ民族《みんぞく》の祭礼《さいれい》の場のようなところだ。遠く、かすかに、不気味《ぶきみ》にそびえ立つ山のようなものがわだかまっているらしい。あれが、魔王の牙城《がじょう》だろうか?
「『暗黒の』魔界っていうだけのことはあるわね。なんて真っ暗なんでしょう! 目が悪くなっちゃう。ラナルータ唱《とな》えちゃおうかしら?」
と、ポピー。
「ほんとに暗くて寒いね。変な匂《にお》いで、鼻《はな》がむずむずし……ックション!」
「まぁ、ティミー! もっと厚着《あつぎ》をさせてくればよかった。風邪《かぜ》をひかないでよ」
ティミーがグッタリと情《なさ》けない顔をすると、マーリンが笑った。
「ほっほっほ。伝説《でんせつ》の勇者《ゆうしゃ》どのも、母上にとっては、ただの子供なんですのう」
とりあえず、敵の気配《けはい》はない。リュカは一同を見回した。
「みんな、無事か? ……では、でかけよう。ぼくが先頭になる。しんがりは、ピエール、きみがつとめてくれ。暗いから、お互《たが》い、はぐれないように」
一行は墨《すみ》染《ぞ》めの荒野《こうや》を横切った。大気は重い湿《しめ》り気《け》を帯《お》び、剃刀《かみそり》のように希薄《きはく》になったかと思うと、ねっとりとたわんで肌《はだ》にまとわりついた。空には暗灰色《あんかいしょく》の雲が低く垂《た》れこめ、もくもくと膨《ふく》らんで数多の瘤状《こぶじょう》の突起《とっき》をなしては、雷《かみなり》を吐《は》いた。
陰気《いんき》に澱《よど》んだ沼《ぬま》を過ぎると、病《や》み枯《か》れた森に達《たっ》した。死骸《しがい》を包《つつ》む布《ぬの》きれのようなくすんで乾いた葉が、物憂《ものう》げにはためき、何か巨大な生き物の白骨《はっこつ》死体《したい》がなかば泥にうもれながら干からびかけている。雷鳴《らいめい》が轟《とどろ》き、その葉が、いっせいに、ざわめいた。
「雨になりそうだな」
リュカが眉《まゆ》をしかめて空を見上げた、そのとたん。
べしゃり。ぐしゃり。いやに大粒《おおつぶ》の雨が落ちてきた。粘《ねば》つく黒い液体に、きれい好きのプックルがひゃああんと哀《かな》しげに鳴《な》き、たちまちあたりに立ちこめた魚の腐《くさ》ったようなむかつく臭《にお》いに、ポピーがウェッと言って可愛《かわい》らしい鼻をつまんだ。
「ティミー、おかあさんの外套《がいとう》を羽織《はお》りなさい! 濡《ぬ》れるとからだによくないわ」
「だいじょうぶだよぉ、ちぇっ。おかあさんって、おせっかいだな。天空《てんくう》の鎧《よろい》があるんだから、ほっといてよ。このぐらい、へっちゃら……へっ……へっ……へくちんっ!」
「ほーらご覧《らん》なさい。だから、これを着て……きゃぁっ!」
ビアンカが外套を広げたままつっぷした。盛大《せいだい》に泥が跳《は》ね上がる。
森と雨に隠れて、敵が襲《おそ》ってきた! 不気味な紫《むらさき》毛皮《けがわ》で冷気をぶつけてくるバズズ。稲妻《いなずま》を呼ぶガメゴンロード。そして硫黄臭《いおうくさ》い邪悪《じゃあく》な炎を吐く煉獄鳥《れんごくちょう》の集団だ。
一行は素早く散らばって戦闘《せんとう》を開始した。飛び交う呪文《じゅもん》。閃《ひらめ》く剣《けん》。
「あらまぁ。うちのチビさんたちったら」
ビアンカは起き上がり、汚《よご》れを払いながら、苦笑《くしょう》まじりにつぶやいた。
「けっこうがんばるじゃないの。あんまり子供扱いしちゃいけないかなぁ」
巨大な氷柱《ひょうちゅう》が泥地面を突き上げ、凄《すさ》まじい電光《でんこう》が頭上に炸裂《さくれつ》する。天空の剣《つるぎ》が流星《りゅうせい》のように走る。なんと、ジュエルまでが不思議な踊《おど》りを踊っている! 魔界の空気が、肌にあっているらしい。
水際《みずぎわ》だった戦いぶりに、数に勝《まさ》る敵たちも次第に囲まれ、追いつめられた。端っこのほうの連中は、もう尻《しり》に帆《ほ》かけて逃げだしている。
「これなら、あたしが手を出すまでもないか……あ! ……まぁ、なんてことでしょ!」
ビアンカはダッと走りだした。走りながら、両耳を飾《かざ》っていたキラーピアスをむしり取る。
雨闇にうずくまった岩かと思われていたのは、巨大な黄金の魔竜《まりゅう》、グレイトドラゴンだったのだ。魔竜はのっそり起き上がり、目の前のポピーをみつけて鋸歯《のこぎりば》のずらりと並んだ口をニタリと恐ろしげに笑わせた。ポピーは、飛び交う煉獄鳥《れんごくちょう》たちに|眠りの歌《ラリホー》を聞かせるのに夢中《むちゅう》で、気づいていない。魔竜の爪足《つめあし》が音もなくいっぱいに開き、無防備《むぼうび》な少女の背中を、わしづかみにしようとした!
ビアンカはポピーを突《つ》き飛《と》ばした。虚《むな》しく空を切った魔竜の爪に、素早く二本のピアスを突《つ》き立てる。ぎぇえええん! グレイトドラゴンは悶《もだ》え、ビアンカをくっつけたままの前肢《まえあし》をジタバタと暴《あば》れさせた。からだの割《わり》には小さな傷《きず》だが、たまたま相当痛いところに当たったらしい。
「……ああっ、あたしが、あたしが、うっかりしたから……お……おかあさあん……!」
「ちくしょう! これじゃ、攻撃《こうげき》できない!」
「ビアンカ! ビアンカ、早く離《はな》れてくださいっ!」
ティミーやピエールが剣を構えて詰《つ》め寄るが。ぎぇえええん! 吠《ほ》えながら魔竜の放つ激《はげ》しい炎に、充分《じゅうぶん》に近づくこともできない。
そして、ビアンカは。
なぜか、激しく振り回されながら、イヤイヤをするように首をふっている。
「だめ……いじめちゃだめ! こ、この子……コドランよ。わからないの! ……きゃあ! ちょっと、じっとしてよ、コドラン。落ちちゃうじゃないの!」
「コドランですって? 悪魔塔《デモンズタワー》で別れ別れになった、あのコドラン?」
ピエールが騎士《きし》の兜《かぶと》の目庇《まびさし》をあげて、四つの目をぱちぱちさせる。
「言われてみれば。ずいぶんでっかくなりはしたが。おうい、コドラン! 儂《わし》じゃ、マーリンじゃあ! ……いかんな、興奮《こうふん》していて、聞く耳をもっとらん」
うるさくつきまとうバズズどもを懲《こ》らしめて、ようやくリュカが駆《か》けつけた。ためらいもなく、竜の鼻先に身を投げだす。両手を広げ、呼ぶ。
「コドラン!」
魔竜が、ぴくりと目をあげた。
「コドラン。久しぶりだね。ぼくだ。リュカだよ」
リュカはにっこり笑ってみせた。疑《うたが》いやこだわりの帳《とばり》を拭《ぬぐ》い去《さ》り、邪悪なこころを振り払ってしまう、やさしく温かで一点の曇りもない微笑《びしょう》。魔物使いの天性の、まごころあふれる微笑《ほほえ》みに、さしも『暗黒の』魔界も、そこばかりまばゆく輝いて見えた。
「……ぐいあう……」
魔竜が放心したように全身の緊張《きんちょう》を解《ほぐ》し、足を降ろすと、ビアンカは急いで飛び降り、キラーピアスを抜いた。
「すっかり見違えてしまったよ、コドラン。でも、無事でよかった!」
ピエールがさっそく回復呪文《ベホイミ》を唱《とな》える。
「ぎあ。げぇお、げおげお。ぎぃあう。ぐげぇお」
コドランは盛んに何か言い訳をし、牙口《きばぐち》をリュカにすり寄せて、巨大な翼《つばさ》をパタパタさせた。風圧にジュエルが宝石ごとふっ飛びかけ、アンクルにあわててつかまえてもらう。
「『リュカもみんなも、よくきてくれた。逢《あ》えて嬉《うれ》しい。コドランは、いまでは、シーザーって名前だ』って言ってるみたいよ」
通訳《つうやく》はいつものとおりポピー。
「痛くしちゃってごめんね。コドラン……ううん、シーザーだっけ?」
ビアンカはリュカの隣《となり》に立って、魔竜の鼻を撫《な》でた。
「でも、あんた、すっかり血が昇っちゃってたでしょ。あのままじゃ、ポピーが危ないと思ったの。……ね、覚えてる? この子たち。ポピーとティミーよ。赤ちゃんのときあんたも必死で守ってくれたあの双子が、こんなに大きくなったのよ」
「げっがうあ! ぐがう。げお。ぎぇあう。ぎのげのぐ、げっごー」
「『そうだったんですか! こっちこそ、スミマセン。悪魔塔《デモンズタワー》から落ちたあと、記憶《きおく》をなくして、あちこちさまよううちに、とうとう魔界に落ちちゃいました』ですって」
――かくて。グレイトドラゴンに成長した元ドラゴンキッズ、シーザーと名を変えたコドランが、なんとも頼《たの》もしい仲間になった。うっとおしい泥雨《でいう》もいつしか止み、あれほど大勢《おおぜい》いた敵どももみなどこかに消えてしまっている。
一行は、シーザーの案内で、一路エビルマウンテンをめざした。渡りを急ぐ鳥の群《む》れのように、固《かた》くひとつにまとまって。
エビルマウンテン、魔王の城。六百七十二|房《ぼう》ある小部屋のひとつ。
小さな痩《や》せた裸《はだか》の子供がひとり、冷たい床に腹這《はらば》いになって、熱心に下を覗《のぞ》きこんでいる。床は完全に透明《とうめい》で、ほとんどそこにあるようには見えず、その下には――星々と銀河《ぎんが》が広がっていた。宇宙《うちゅう》はその大半を漆黒《しっこく》の夜に抱《いだ》かれている。つやめく黒闇の中に、びいどろ玉のような天体がいくつか――恒星《こうせい》と惑星《わくせい》、霧《きり》のような星雲《せいうん》、そして時おり、蛍《ほたる》のように駆け抜けてゆく流星などなど――が、遠く近く、輝いている。
子供はついた肘《ひじ》に顎《あご》をのせ、忍《しの》び笑いを浮かべながら、熱心に星々を見つめていたが、ふと、片手を伸ばして床に降ろした。床材を貫《つらぬ》いて手首を埋《う》め、爪先《つめさき》で赤い星を弾《はじ》いて、青い星にぶつけた。音もなく二つの星が消滅《しょうめつ》し、あおりを食って近くの星々が軌道《きどう》を乱《みだ》した。落ち着いた橙色《だいだいいろ》に燃えていたどこかの太陽が、急速に縮まり、白熱したかと思うと、膨《ふく》れ上がって飛び散った。
「……あっちちち! ……」
子供はあわてて手をひっこぬき、ひらひらと振った。青白い掌《てのひら》に小さな火傷《やけど》があった。子供はそこにフッと息を吹きかけた。火傷の跡《あと》は消えた。子供はにこりとし、また全身を伸《の》ばして、星々を覗きこんだ。
「ミルドラース」
女の柔《やわ》らかな声がした。子供は目をぱちぱちさせて、身を起こした。
「マーサか。なに? 入って」
扉が開いた。
豊かなみどりの黒髪《くろかみ》を腰まで垂《た》らした女が軽やかな足取りで入ってきたが、星の散《ち》らばった床を見て、戸惑《とまど》ったようにつと立ち止まる。
「大丈夫《だいじょうぶ》。ほんものじゃないから」
子供が言い、ぱちりと指を鳴らすと、床は半透明な十字石《スタウロライト》に戻った。
「もっとも、ほんものだとしても、ぼくは気にしないけど」
「息子《むすこ》が来たわ」
彼女は切り口調にそう言った。一刻も早く用件《ようけん》をすませたいかのように。
子供は眉《まゆ》をひそめた。
「じゃあ、やっぱり、イブールはだめだったんだね? でも、リュカがこの魔界に入ってきたってことは……今なら扉が開いているってことか」
「天空の城も、竜の神も復活したわ。もう、けして、あなたは地上へいけないわ!」
子供は小さく笑い、かぶりを振った。両手を床について立ち上がったときには、もう子供ではなくなっていた。両のこめかみによじれた象牙状《ぞうげじょう》の角《つの》を生やし、黄金の蓬髪《ほうはつ》を陽灼《ひや》けした胸に豪華《ごうか》なマントのようにまといつかせ、胸から下を獣《けもの》になした、悪魔の美貌《びぼう》を持つ青年。
「それもこれも、余《よ》の計画のうち。息子とその家族どもを盾《たて》にとれば、そなたとて、余の味方をせざるを得まい?」
姿かたちが変わると同時に、声もまた変化した。低い、ものうげな、からかうような声。
「お願い。やめて。戦うのはやめて。息子たちを、このまま帰して!」
「そうはいかぬ。余は戦う。余は勝つ。それが嫌《いや》なら、協力しろ。そなたの力で、いますぐ余を地上に送りだせ!」
「……いいえ……いいえ! ……それはできない」
「ふふふふふ、そんなに地上が大事なのか。人間などという愚劣《ぐれつ》な奴《やつ》らのために、血族《けつぞく》を見捨てるのか、マーサ?」
マーサは顔を背《そむ》けた。白い歯を見せて笑うと、青年は、また変わった。こんど選ばれたのは、髭《ひげ》濃《こ》い武者顔《むしゃがお》に壮年《そうねん》の戦士……いや、はっきりとパパスそのものの姿である。これ見よがしにも血まみれの甲冑《かっちゅう》をつけている。
「おまえはかつて、俺《おれ》を見殺しにした」
声もまた、パパスのものにそっくりだ。
「おまえの力をもってすれば、知らなかったではすまされぬ。魔界から地上への斥候《せっこう》にすぎぬゲマごとき小物に俺がやられるのを、おまえはむざむざ」
「やめて!」
マーサは両手を顔に当てた。
「主人を汚《けが》すのはやめて! あのひとは……あのひとは、あたしごときに庇《かば》われることなんか、けして望まなかったわ。ほんとうに誇《ほこ》り高いひとだったもの!」
「やれやれ……マーサ、マーサ、ごめんよ」
魔王は大急ぎでもう一度こどもの姿に戻って、彼女の肩《かた》を柔《やわ》らかく抱きしめた。
「泣かないでおくれよ、頼むから。あなたが泣くと、胸が痛くなる」
「ああ……どうして? ……どうしてあるのかしら、こういうことが」
顔をおおったまま、マーサは呻《うめ》いた。
「逃《のが》れられない運命……どうしても並び立たないふたつのことがら……何かを選んで、代わりに何かを捨てなきゃならないってことが。辛《つら》いけれど、哀《かな》しいけれど、人生には必ずあるんだわ! すべての扉を無効《むこう》にするあたしも、一度に二つの扉をくぐることはできない。……それでも、それでも……できることなら。リュカは。あの子だけは、どうか……」
マーサは啜《すす》りあげながら顔をあげ、たちまち青ざめて飛びのいた。
「待てよ、マーサ。ぼくは」
魔王は彼女の手首をつかまえた。が、凄まじい怒《いか》りと憎《にく》しみに顔を蒼白《そうはく》にさせたマーサに無言のまま振り払われると、けしてそれ以上は追いかけなかった。扉はいつものとおり、なんの隔《へだ》てにもならず、閉じたまま彼女を通りぬけさせた。
誰もいなくなった部屋。誰よりもやさしい女をなだめようと片手をつきだしたままの恰好《かっこう》で、ぼんやりと立ちつくしたミルドラースは、リュカの姿を為《な》している。
蜘蛛《くも》の巣《す》が花綱《はなづな》のように垂《た》れさがる暗い森を、リュカたちは虚《むな》しく歩き続けた。エビルマウンテンの裾野《すその》は広大な迷宮《めいきゅう》。数多《あまた》の枝道《えだみち》を探《さぐ》り、数多《あまた》の行き止まりに阻《はば》まれながら、もうずいぶん長いことさまよっている。
今来た道を即座《そくざ》に後戻りをしても、同じところに帰ることができるとは限らなかった。くぐった岩の裂《さ》け目は振り向いたとたんに消え失《う》せ、同じものとしか思えない形の樹木《じゅもく》が、何度も何度も現《あらわ》れる。頂上《ちょうじょう》はずっと見えているのだが、少しも近くならないばかりか、だんだん遠ざかってゆくようでさえある。まるで、この山ぜんたいが、変化と分岐《ぶんき》を無限に繰《く》り返しながら、渦《うず》を描《えが》くように永遠に広がり続けているかのようだ。
「なんだかどこへも行けないみたい。魔王の幻術《げんじゅつ》なのかしら」
ポピーが額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》い、
「ちくしょう! 卑怯《ひきょう》だぞ! さっさと出てきて勝負しろィ!」
ティミーは天空の剣を抜いて、薄青く光る空に振り回した。もうクシャミはしていない。
リュカは無言で歩き続けていた。彼は、さっきから疑《うたが》っていたのだ。迷《まよ》わせているのは、魔王だろうか? それとも。
(おかあさん)
彼はなかば目をつぶり、こころで必死に呼びかけた。
(おいいつけに背《そむ》きました。来るなと言われたのに来てしまいました。でも、どうしても、そうしなければならなかったのです……あなたはすべての扉を開くひと。どんな迷宮も越えることのできるひとなはず。どうか無駄《むだ》に時を引き延《の》ばさず、ぼくを魔王に逢わせてください。やつと、戦わせてください!)
固く握りしめたドラゴンの杖《つえ》が、ぴくりと身もがきしたような気がした。リュカは目を開き、ハッと緊張した。すぐ前のばかでかい岩が立ち上がり、まっすぐ彼に向き直ったのだ。
「リュカとその仲間たちだな?」
岩は、分厚い胸とホルンのような角、巨大な翼を持った怪物《かいぶつ》だ。アンクルとよく似た種族らしいが、さらに大きく、さらにいかつい。
眼をぱちぱちさせるポピーや、すぐにも切りつけられるよう剣を掲《かか》げたティミーを悠揚《ゆうよう》せまらぬまなざしでゆっくりと見回すと、怪物はよく響く声でまた言った。
「俺はバトラー。マーサさまの使いだ。一緒に来てくれ」
そして、返事もきかずに歩き出す。
「罠《わな》だ、おとうさん!」
ティミーはリュカの腕をつかんだ。
バトラーは肩ごしに振り向いて、ニヤリとした。
「確かに、俺はヘルバトラーという種類の魔物だ。だが、マーサさまによってこころを入れ替えたのだ。信用してみないか?」
リュカは、膨《ふく》れっ面《つら》をするティミーの肩に手を置いて、心配しなくていい、とささやいた。
「出迎《でむか》えありがとう、バトラー。案内を、お願いする」
父は、魔物と連れ立って、どんどん先に歩いていってしまう。プックルが跳ねるような足取りでつきそい、シーザーがバキバキと樹枝を踏《ふ》み締《し》めながら追いかける。
でも。でも。ティミーは唇をとがらせた。
ほんとに大丈夫なんだろうか? あんな見るからに強そうなやつの言うことを、そのまま信じるなんて! 魔王の手先かもしれないじゃないか!
ティミーが無言で立ちつくしていると、ポピーが背中を叩《たた》き、ビアンカが肩をすくめながら、追《お》い越《こ》していった。ゴレムスが、マーリンが、リンガーが、次々に横目で見ながら歩きすぎる。最後に残ったピエールが、ティミーの前で立ち止まり、兜《かぶと》の下で微笑んだ。
「では。しんがりを守っていただけますか、伝説の勇者どの?」
ティミーはムッとしたが、こんなところに、ひとり置き去りにされては困る。ピエールさえも行ってしまうのを見ると、とうとう、いやいやながら歩きだした。
じくじくする地面を越え、嫌な匂いのせせらぎを渡ると、やがて、岩山にぽっかりと口をあけた洞窟《どうくつ》が見えてきた。バトラーが入ると、父もためらいなくあとに続いた。順々にみなが入り口をくぐり、ティミーもうんざりしながら続いた。
たちまち奇怪《きかい》な敵が襲《おそ》ってきた。大きな膨れ上がった頭にためこんだ毒を吐くやつ、鋭《すろど》い牙《きば》で喉元《のどもと》めがけて噛《か》みついてくるやつ。どちらもブヨブヨと青い肌をしている。うじゃうじゃと数限りもなく出現する醜悪《しゅうあく》な怪物たちを率《ひき》いて、棘杖を振り回しているのは、イブールの神殿でも見かけた覚えのあるひとつ目仮面の悪魔神官《あくましんかん》。リュカやピエールに一撃で切り捨てられたものたちを、せっせと復活させてしまう。
そらみたことか! やっぱり罠だったんじゃないか!
ティミーは天空の剣を振り回しながら、父に文句を言おうとした。が、よく見れば、バトラーは、太い腕《うで》を振り回し、青い怪物どもを次々に叩《たた》き潰《つぶ》しているではないか。
「邪魔《じゃま》をするな、ゴルバ、ガルバ!」
青の連中を一喝《いっかつ》すると、バトラーは早くも震《ふる》えあがった悪魔神官の胸倉《むなぐら》をつかみあげた。
「すっこんでろ。このかたがたはおまえごときの敵ではない!」
悪魔神官は蜂《はち》の唸《うな》るような音をたてて何か早口に抗議《こうぎ》しているようだったが、返事は、沈黙《ちんもく》とでかい拳《こぶし》の一撃《いちげき》だった。仮面を陥没《かんぼつ》させた悪魔神官がひっくりかえると、ゴルバだのガルバだのいうらしい剣呑《けんのん》な青怪物どもは、来たとき同様の素早さで、わらわら散らばり去ってゆく。
「お強いのねぇ、バトラーさん」
ポピーが言うと、バトラーはフン、と横を向いた。が、その頬はぽうっと赤くなっている。
悪いやつではないらしい。それはティミーにもわかったが、なんだか、そのいい魔物を自分ひとりが見極《みきわ》め損《そこ》なったようで、やっぱりどうも面白《おもしろ》くなかった。
ぬうううう。ぬううううう。
虚空《こくう》を風が渡るような音。重たく低く、だがどこかしら忙《せわ》しない、魔王の荒《あら》げた息の音。
〈……マーサ……マーサ……〉
声でない声が呼ぶ。そこに潜《ひそ》む大いなる力が、魔界の大地を揺《ゆ》さぶりかける。
〈どこだ。どこにいった……なぜこない……なぜ返事をしない……〉
冷たく暗い澱《よど》みの中、巨大な邪悪の山羊《やぎ》角《づの》が煌《きら》めき、蹄《ひづめ》のある足が苛立《いらだ》たしげに泥を掻《か》く。
黒絹《くろきぬ》の無限の奈落《ならく》を魔王は探索《たんさく》し、やがて、とある一点に、小さな光の門が浮かんでいるのを発見する。ただ輪郭《りんかく》だけの、華奢《きゃしゃ》な境界線《きょうかいせん》だ。魔王は軟泥《なんでい》を跳《は》ね散《ら》らかしながらひと思いに跳躍《ちょうやく》し、力強い手で門をつかむ。じゅう、と何かの焼けるような音がし、煙があがる。魔王は牙口を食い縛《しば》る。門のあたりに、チラチラと移動する輝く粉のようなものが見える。マーサだ。マーサは余をこんな山に閉じこめて、どこかに出かけていったのだ。
〈ぬ……ぬおおお! ……出せ……出せ……出せ……!〉
逞《たくま》しい腕に力をこめ、黄金のたてがみを振り立てて、魔王は門に頭突《ずつ》きする。
〈……ここから出せ……!〉
入り口の岩塊《がんかい》を抜けきると、煮《に》えたぎる溶岩流《ようがんりゅう》にかかった橋に出た。橋は溶岩流から頭を出した岩盤《がんばん》と岩盤をつないで、くねくね折《お》れ曲がりながら遥《はる》かな先まで続いている。万が一にも足を踏みはずさないように、一行は注意深く道を急いだ。
やがて溶岩流は谷底深く遠ざかり、道は陰気《いんき》な黒石を積み重ねた建物に飲みこまれた。ひとの顔のようなものが焼きつけられた壁際《かべぎわ》を、数匹の蛇《へび》が互いに絡《から》まりあってそのまま固まったような不気味な柱を、次々に通りぬけた。薄暗い通廊《つうろう》の遥か先のほうに、父の手にした杖の燭《ともしび》の淡緑色《たんりょくしょく》の光が揺れてゆく。ティミーは、抜き身の剣を提《さ》げたまま、あいかわらず最後尾を歩き続けた。
狭《せま》い通路が途切《とぎ》れると、ぽっかりと開けた空間に出た。ティミーは目をまん丸にした。石の箱のような舞台《ぶたい》の上に女の人が立っている。再び澱《よど》みをつくっている溶岩の照り返しで緑色に輝く長い黒髪の額を、革《かわ》の飾《かざ》り紐《ひも》が横切っている。かすかに、りんごの匂いがした。
バトラーが声をかける間もなく、そのひとは振り向き、両手を差し伸《の》べた。
「リュカ? ……リュカね! ほんとうにあたしのリュカなのね!」
そのひとは、父を抱きしめ、ひとしきり涙にむせんだ。
「なんて逞しく成長したのでしょう……あなたのことを考えない日はただの一日もなかった。こうして逢《あ》えたなんて、まるで夢のようだわ」
「おかあさん」
口にし、自分で自分の声を聞いて照れたように真っ赤になった父は、おずおずと身をひくと、傍《かたわ》らに控《ひか》えたスライムナイトを押しだした。
「……ようやく……ようやくお目にかかれました」
恭《うやうや》しく足許《あしもと》にひざまずいた騎士に瞳《ひとみ》をぱちぱちさせたマーサは、やがて、アッと小さく叫び、素早く床に座《すわ》りこんだ。
「ピエールなの? まぁ、すっかり見違えてしまったわ」
「あなたは少しもお変わりにならない」
ピエールの目が、スライム本体が、もうどうしようもなくぐにゃぐにゃに歪む。
「ああ、マーサ、マーサ! 長かった……ほんとうに、長い旅だった」
マーサは優しくピエールを抱きしめた。あのピエールが、いつも冷静なピエールが、全身を震《ふる》わせ波打たせて、赤ん坊のように泣きじゃくるのだった。
ティミーはゴツゴツ痛くなった喉《のど》を、つられてあふれそうになった涙を、あわててごくりと飲み、擦ってごまかした。
それにしても、マーサはきれいだ。おばあさんになんか、少しも見えない。ビアンカも見かけは娘っぽいが、なにせ母親ぶってやたらにうるさい。マーサのほうが、神秘的《しんぴてき》だし、もっとあどけなく、若々しく、りんごの花のように清楚《せいそ》で親しみやすい感じがした。
「ねぇ、ポピー? おとうさんは隅《すみ》におけないって、いつかポピーが言ってたけれど、おとうさんのおとうさんも」
「ええ。パパスおじいさんも相当、隅におけないみたいね」
ピエールが落ち着くと、父が双子を呼んで、マーサに紹介《しょうかい》をしてくれた。それから、魔物たちが順に挨拶《あいさつ》をした。決戦前の、奇妙《きみょう》に隠《おだ》やかなひとときだった。
ティミーはさっきまでの気分を忘れた。ひとり除《の》け者になったような気持ち、長いみちのりにイライラした気持ち、そして、実は、自分でも知らず知らずのうちにずっとこころの底にあった、魔王との決戦に抱く不安が、どこかに消えてしまっていた。
だが。ひとしきり感激《かんげき》の対面が終わると。
「ミルドラースと、戦わないで」
マーサは言ったのだ。リュカの手を握《にぎ》り締《し》めて。
「わたしはここで、生命を賭《か》けても、彼の魔力を封《ふう》じ続けます。けして地上には行かせません。だから……だから。お願いよ、リュカ。このまま、魔王に逢《あ》わずに帰ってちょうだい」
「えっ、なんで?」
思わず、ティミーは叫び、父と祖母《そぼ》の間に割って入った。
「だめだよ、そんなの! ぼくらは魔王をやっつけに来たんだ。さっさと仕事をかたづけて、マーサおばあさん、ねぇ、一緒にグランバニアに帰ろうよ!」
「勇敢《ゆうかん》なのね、ティミー」
マーサは白い顔を哀しみに曇らせて、身をかがめ、ティミーの頬に触《ふ》れた。
「……でも、魔王はね、見捨てられた子供なの。誰からもかえりみられたことのない、愛されたことのない、可哀相《かわいそう》な子供なのよ」
「愛されたことのない、子供……?」
ポピーが小さくつぶやくと、マーサはゆっくりうなずいた。
「そう。そんな哀《あわ》れな魂《たましい》が、邪悪《じゃあく》な瘴気《しょうき》に満ちあふれたこの魔界に、少しずつ集まって、積《つ》もり積もって……ミルドラースになったのよ。あなたがたはゲマに逢ったわね。ゲマは魔王の、髪のひと房《ふさ》のようなもの。見るもののこころを覗《のぞ》きこんで、さまざまなおぞましい恐ろしい姿をしてみせる力は、同じ。でも、魔王はほんとうは、ただの影なの。実体はない。魂もない。生命さえ、持っていないの。生まれる前に、もう捨《す》てられてしまったんですもの」
「実体がない?」
リュカは呻《うめ》いた。
「そんなものは、確かに、殺すことなどできないかもしれないな」
「そんな……なに弱気なこと言ってるのさ、おとうさん!」
ティミーはわめいた。
「魔王と戦わないんなら、いったい、ぼくたち、なんのためにここまで来たのさ!」
「封《ふう》じるのだ。殺すことはできないとしても……何か、ほかの方法を考えて」
「そんな。甘《あま》いよ! 竜の神さまやエルヘブンのひとたちが、ずーっと前に、ちゃんと魔界に封じたんだろ。それでも、やっぱり、力をつけちゃったんだろ? そんなやつ、すっぱりやっつけちゃわなくっちゃ、また何やるかわかんないじゃないか!」
父は顔をしかめ、何か言おうとした。が、マーサがそっと手を伸ばしてリュカに触《ふ》れ、ゆっくりと首を振る。
ティミーはカッとした。気がつくと、走りだしていた。
まさか、マーサが、魔王を庇《かば》うようなことを言うなんて。おとうさんまで、それでしょうがないような顔をするなんて。
ひどく孤独《こどく》で、ひどく不安だった。ティミーはもう覚《おぼ》えていないけれども、それは、ちょうど、父とはじめて逢ったころに抱いていた感情と同じだった。なにか、自分がひどく小さくなってしまったような……頼《たよ》りのすべてに見放されてしまったような、途方《とほう》もない心細さ。
だいたい、おとうさんは、いつだって甘いんだ、とティミーは思う。ポピーもそうさ。すぐに魔物に同情しちゃうだろ。そりゃ、魔物っていう魔物がみんな絶対に許《ゆる》せないほど悪いやつとは限らないことはわかるけれど。でも、だから、戦わなくっていいってわけじゃない! 一緒に旅してきた魔物たちだって、みんな、一度戦って負けたから、力の差を見せつけられたから、だから、言うことをきくようになったんじゃないか!
行き当たりばったりに走っているうちに、ティミーの頬を、何かがふわりと通り過ぎた。ちょうど、目に見えぬ門のようなものをくぐったかのように。闇が、ずしん、と肩に伸《の》しかかり、空気がひやりと喉《のど》を刺《さ》した。ハッとして足を止めると、そこは、がらんとした広間のような場所。
薄暗がりの中、壁も柱も天井さえも、みなねじくれうねり、狂っている。走りすぎてめまいを起こしてしまったのだろうか。さっきまで自分のたてていた足音の陰気《いんき》な谺《こだま》が、うわぁんうわぁんと破《わ》れ鐘《がね》のように鼓膜《こまく》に響《ひび》いた。はっきりと理由もわからないままに、ティミーはゾッとした。そして、確信した。
魔王がいる。近くにいる。
ティミーは天空の剣の柄《つか》を握りしめ、両足をふんばって叫んだ。
「魔王! ミルドラース! 出てこい! 姿を見せろ!」
みせろ、みせろ、みせろ!
その声がまた何度も何度も反響《はんきょう》して、
えろ、えろ、えろ、えろ……
不気味な怪物の嘲笑《あざわら》う声のように聞こえ、ティミーの奥歯を食い縛《しば》らせた。
「卑怯者《ひきょうもの》!」
ティミーは天空の剣を振りかざした。
「来いったら来い! 来ないのか。ふん、ぼくが怖《こわ》いんだろう、伝説の勇者が怖いんだろう。ばかやろうっ! やーい弱虫! フーチャカピーの腐《くさ》れスライムっ!」
と。
谺《こだま》が止まった。音が消えた。ふいにすべての反響が吸いこまれるように消失し、同時に、あたりに天鵞絨《ビロード》の緞帳《どんちょう》のような真の闇が垂《た》れこめた。ティミーは飲みこむようにして息を殺し、油断なく身構えて待った。すると、闇の彼方《かなた》に、ぼうっと何かが浮かび上がった。ティミーだ! 向こう側にもティミーがいる! 鏡か? ……いや、違う。そいつは、ひとりだけ、ニヤリといやらしく笑ったのだから。
冷水を浴びせかけられたかのようだ。『魔王はさまざまな姿をしてみせる』。マーサのことばが脳裏《のうり》を走った。では、あれはぼく自身の姿を取った、魔王ミルドラースなのか! なんて憎《にく》らしいやつだろう! ティミーはギリギリと歯を鳴らした。
「ひとりで来たのか」
偽《にせ》ティミーが、ほんものそっくりの、幼《おさな》いながら凛《りん》と張《は》り詰めた声で言った。
「ほかの連中はどうしたんだ」
「ぼくは……ぼくは勇者だ!」
ティミーは言った。できるだけ、気を落ち着かせながら。
「相手にとって不足はないだろ? さぁ来い、やっつけてやる! ……そうすれば、おばあさんもおとうさんも、きっと、喜ぶ!」
「何を強がっているんだ。バカなやつ! 自分からのこのこ罠に踏みこんできたくせに」
ミルドラースは笑った。
「マーサがおまえたちを隠すから、すっかり退屈《たいくつ》していたよ。おまえを殺せばリュカもくる。リュカが危なくなれば、マーサも結局は言いなりさ! あははははは」
魔王の笑いが破《わ》れ鐘《がね》のように轟《とどろ》き渡った。殴《なぐ》られるような音量だ。思わず両手で耳を塞《ふき》ぐティミーの足元から、地面が消えた。どこまでも果てしなく広がった星々のあわい、永遠の夜のどまんなかに、宙《ちゅう》ぶらりんに浮かんでいるのだ。
途方もなく虚《うつ》ろな、途方もなく暗い世界に、たったひとり……いや。やつ[#「やつ」に傍点]がいる。そこ[#「そこ」に傍点]にいる。前にも後ろにも、上にも下にも……万物をおおいつくさんばかりの巨大な貌《かお》。皺《しわ》深《ぶか》い黄色の肌、頭頂《とうちょう》に昆虫《こんちゅう》めいた触覚《しょっかく》を生やした、齢《よわい》も知れぬもの。ギラギラと鱗《うろこ》のように光る瞳《ひとみ》、この世のどんな生き物とも相容《あいい》れるところのないまなざしが、ティミーの視線をくぎづけにし、情《なさ》け容赦《ようしゃ》もなく貫《つらぬ》いている!
「どうしたね、ぼうず?」
その声は百万の銅鑼《どら》となって耳をつんざく。
「あの威勢《いせい》はどこへ行ったのだ?」
魔王はいきなり火球を放った! 身長の四、五倍もの巨大なそれを、天空の盾は力強く食いとめ、受け流した。あふれた熱気に顔をしかめながらティミーは|電光襲来の呪文《ギガデイン》を唱えた。星闇を引き裂いて稲妻《いなずま》が走り、にやつく魔王の二つに割れた顎《あぎと》の中心に命中する! 巨大な顔が驚愕《きょうがく》に歪《ゆが》み、邪悪な呪詛《じゅそ》と共に凍《い》てつく波動を放った。
あまりにも巨《おお》きな敵に、ちっぽけな自分。お城をひとつ素手で崩《くず》そうとしているようなものなのかも。心の隅に恐れがかすめ、ティミーはゾッと慄《ふる》えたが、奥歯を噛みしめ、胸をはった。
「……ええいっ! くそっ……負けるもんか!」
天空の剣が小さな勇者のからだに力を満たした。金でも銀でもない金属の、兜《かぶと》が鎧《よろい》が、そして盾が、新しい太陽のように輝いた。
「おまえなんか……おまえなんか怖《こわ》くない!」
呪文をぶつけ、さらに切りつける。黄色い巨大なものは、どす黒い血をしたたらせ、いやな臭《にお》いに燻《くすぶ》った。幾万《いくまん》の星の散らばる闇に、はぁはぁと荒いティミーの息づかいだけがとりのこされる。
「……勝った……?」
ティミーはつぶやき、剣をつかんだ腕をだらりとおろした。
その瞬間《しゅんかん》、
「さぁすが。伝説の勇者ね!」
とても聞き慣《な》れた声がした。
いっぱいに開いた目で、ティミーはみた。ポピーだ。信じられないほど大きいけれど、見間違いようのない。本物の何百倍もに膨れあがった、双子の妹。
「可哀相なティミー……そんなに強くなければ、そんなに勇敢でなければ、なまじあたしの本当の恐ろしさを見なくてもすんだのにね……!」
星空を隠したポピーの顔が、集束《しゅうそく》したかと思うと爆発《ばくはつ》した。世界ぜんたいが潰《つぶ》れるような凄《すさ》まじい衝撃《しょうげき》。星の雪崩《なだれ》が、闇の津波が、ティミーを浚《さら》い、弾き飛ばし、その全身を飲みこんだ。恐怖の絶叫《ぜっきょう》も吹き払われて自分の耳にさえ聞こえない。ばちばちと雷電《らいでん》が走り、焼けつく痛み、引き千切《ちぎ》られる手足。死の冷たさでべっとりすべておおってしまう闇。
――と。
「やめなさいっ!!」
ぬううう。ぬううう。生きている闇が、邪悪な大気そのものが、怯《ひる》んだように後退《あとずさ》るのをティミーは感じた。肉体の感覚が戻ってくると、耐えがたいほどの苦痛に魂がえぐられるようだ。
「ティミー!」
あたたかな光。|回復の呪文《ベホマ》がきらめく水のように手を、足を、頬を撫でる。
「しっかりして!」
肩を揺すぶられて、ようやく我に返った。ビアンカとポピーだ。心配そうなポピーの顔に、ついさっき対峙《たいじ》した魔神の面影《おもかげ》を見、ティミーは思わず怖気《おぞけ》をふるった。
「ミルドラース」
リュカは静かに言った。
「提案《ていあん》がある。ぼくと一緒に、天空城にいこう。どうすれば、おまえを救うことができるのか、ぼくにはわからない。だが、竜の神ならば、きっと知っておられる」
「神だと……竜だと……?」
のたうつ闇が星々をかきけしたかと思うと、不意に真紅《しんく》に燃え上がった。世界をまるごと飲みこんでしまいそうな業火《ごうか》を踏みしめて身をおこしたのは、ほかでもない、一匹の竜ではないか! 鎌《かま》のような翼を持ち、太い尾をくねらせた、小山のように巨大な、真紅の竜!
「竜とは俺。神と呼べるのは……ただこのミルドラースのみ!」
言うが早いか、魔王は灼熱《しゃくねつ》の炎を吹き出した。悲鳴《ひめい》をあげるビアンカをアンクルが庇《かば》った。マホカンタの呪文を唱えようとしたポピーを、竜の尾が鞭《むち》のようにふっとばす。プックルが牙《きば》を剥《む》いて唸《うな》る。ピエールが剣を振りかざす。
が、ミルドラースはにやにや笑いを崩《くず》さなかった。必勝の気合いで放った冷気呪文《ヒャダルコ》は、魔王が瞬《まばた》きをすると蒸発《じょうはつ》した。なぐりつけてありえぬ形に折れ曲げてやった醜《みにく》い首は、ただひょいと動かしただけでもとに戻った。
「こうるさい蠅《はえ》どもだ。……ぬっっ!」
魔王がその暗黒の眸《ひとみ》を閃《ひらめ》かせると、魔物たちはみな瞬時にして昏倒《こんとう》した。ビアンカが、ポピーが悲鳴をあげ、あわてて駆け寄ったが、どの魔物もひくひくと引き攣《つ》るばかりで目覚めない。
どんなにこころを清めても、魔である生まれを消し去ることはできない。魔物たちの魂の奥底に刻みこまれていた、いまなお魔に属する小さな部分は、この暗黒の王であるミルドラースの絶対の力の前にひれ伏し、とりこまれ、その自由を失ってしまったのである。
「魔界と天界は互《たが》いの鏡《かがみ》」
竜はばかでかい鼻腔《びこう》から、ふしゅふしゅと得意そうに黒煙《こくえん》を吐き出した。
「あの竜が天空城の神ならば、俺はやつの裏がえし。恐怖と暗黒の支配者、反神なのだ! そして、地上の愚鈍《ぐどん》に影響されたあの愚《おろ》か者よりも、これこのとおり、ずっと強大な力を持っている。……さぁて、覚悟《かくご》は決まったかな? おまえたちはみな俺に喰《く》らわれ、絶望と残虐《ざんぎゃく》の闇の中で永久にさまようのだ。……わぁっはははははは! ……む? な、なんだマーサ……?」
「闇は、闇の内にこそ憩《いこ》う。光は、光と共にあってこそ安らぐ」
マーサは、力なく倒れたピエールのからだをおのれの膝に抱き上げたまま、冷たくこわばった頬を魔王に向けた。
「ミルドラース、あたしは、あなたが、ほんとうは邪悪なものであるはずがないと思っていたわ。だって、そうでなかったら。なぜ、あなたは、この闇の世界で満足できないの? なぜあの扉を越えようとするの? ……それは、あなたが地上に……光に、憧《あこが》れているから。ほかのみんなのように愛されることを望んでいるからに違いないと……あたしは、そう思っていたの」
「あぁいぃ?」
魔王はゾッとしたように全身をかき毟《むし》った。
「愛だと? 誰がそんなものを欲しがった? いいから黙って見ていろ、マーサ。このミルドラースが、地上を、そして天界を、我が真の暗黒の闇に染め上げるのをな!」
「いいえ。もう、だめよ。もう、あなたのそばにいてあげられないわ」
マーサはスライムナイトのぐったりとしたからだを床に降ろすと、まっすぐに立ち上がった。哀《あわ》れみと怒りの錯綜《さくそう》する顔で、彼女は静かに、慄《ふる》える声で言った。
「ミルドラース。……あたしは、……このあたしも……あなたを捨てる!」
紅蓮《ぐれん》の竜が絶句《ぜっく》した隙《すき》に、マーサは両手を掲げ、高々と祈った。
「全知全能の神よ。愛と生命と光の主よ! マーサの願いをききいれたまえ! 我は神の子、エルヘブンの民、すべての扉を抜けいでるもの……いま生涯《しょうがい》にただ一度、一命を賭《と》してこい願う。……この哀れな獣《けもの》に、潔《いさぎよ》き死を!」
雷鳴《らいめい》が轟《とどろ》き、光と闇が交錯《こうさく》した! 魔王が叫び、大いなる闇を発した。マーサはくたくたと倒れ、動かなくなった。が、マーサの祈りが発せられたとたん、リュカが素早く飛びだしていた。
竜頭の杖の赤の珠《たま》と青の珠が、太陽のように灼熱したかと思うと、リュカそのひとの全身が、いつしか大いなる竜の神そのひとの姿に変わっている! あたかも、マスタードラゴンそのひとが降臨《こうりん》し、小さな人間のからだに、その全存在を仮託《かたく》したかのように!
[#挿絵(img/DQ5_3_336.jpg)入る]
ティミーは見た。竜と化した父の全身の放つ神々《こうごう》しい光の放射《ほうしゃ》を浴《あ》びて、魔王の巨体が、ただ一枚の薄っぺらな影となるのを。
ティミーは天空の剣に導《みちび》かれるままに闇竜《やみりゅう》に迫《せま》り、切った。切った。切った……! だが、いかに切れども、手ごたえはない。切っても切っても、魔王のからだは泥のように粘っこく、どんな傷もすぐに塞《ふさ》がってしまう!
〈影だ……影を征《う》つんだ、ティミー! 伝説の勇者!〉
父ともマスタードラゴンともつかぬ声が、頭の中に響きわたった。
光の竜は、魔王の真紅の闇竜と格闘《かくとう》し、押さえこんでいる。だが、いよいよ動きがとれなくなると、闇竜は、その泥のような身体《からだ》をぐにゃぐにゃくねらせ、変形してしまう! 闇が、冷たく忌《い》まわしい抱擁《ほうよう》の中に、父を飲みこんでしまおうとしている!
「か、かげ? お、おとうさん……教えて! 影を征つって、どういうこと?」
〈影の中の影を……闇の中の闇を……見るんだ! よく見れば、きっとわかる!〉
ティミーは必死に眼を凝《こ》らした。激しく揉《も》みあう二匹の竜、光の竜と闇の竜。闇の竜の、薄っぺらな影のからだの中に、不意に、見つけた。ただ一箇所《いっかしょ》の、影ではない部分。小さな、小さな、人間の形をした、鈍《にぶ》く光る痣《あざ》のようなもの。
「いやあぁぁあああああっ!」
全身全霊《ぜんしんぜんれい》をこめて、ティミーは剣を突《つ》きだした。ずぶり、とのめりこむ感触《かんしょく》があり、剣の柄がカッと燃えた。天空の剣が、魔王の眉間《みけん》を貫いたのだ!
「……な……」
鋭い爪を持った前肢《まえあし》がびくびくと引き攣り、剣の抜かれた眉間からどろどろと赤黒いものがあふれだしはじめる。
「……なぜ……なぜ切られた? ……なぜ、俺を……切ることができたのだ……?」
「おまえのなかに、ぼく自身がいた」
急速にもとの姿に戻りながら、屍衣《しえ》のような闇になかば埋もれながら、リュカは静かに言った。
「死んだゲマの中にみつけたぼくを、以前、ぼくは取り戻した。……ぼくの中に闇があった。ぼくの中にも、おまえはいた。そのことを、ぼくは知っていた。知っていて、でも、そいつを、大事に抱えて生きていたんだ」
このころには、魂を魔王にさらわれていた魔物たちが次々に意識を取り戻し、互いに助けあって起き上がった。
「魔王ミルドラースは捨てられた闇、実体のない影」
ポピーが言った。涙でいっぱいの頬を拭《ぬぐ》いもせず。
「疎《うと》んじられたものばかりでできた魔王のからだのその中に……ただ一箇所《いっかしょ》、おとうさんが自分で引き受けた闇があった。その部分だけは、闇の闇に、つまり、光に……なっていたんだわ!」
「いいざま。いい気味《きみ》よ!」
ビアンカが叫《さけ》んだ。眠るような顔でこときれたマーサを、そっと静かに抱き上げて。
「どんなときも、どんなやつでも、けして見捨てなかったマーサなのに。そのひとを、あんなに哀《かな》しませて。おまえは、自分で自分を、生きていることの許されないものにしたのよ」
「……マーサが……哀しんだ? ……わたしの……ために?」
闇の竜であったもの、魔王であったものは、どうっ、と崩れた。
「そんなはずはない。……そんな……そんなことを余は認めぬ!」
「さぁ。やりなおせ、ミルドラース」
リュカが言った。静かに、そっと、微笑みながら。
「時はめぐる。塵《ちり》にかえり、泥にかえり。もう一度はじめから、ゆっくりと試《こころ》みるがいい。そして、いつかきっと、光の中に生まれてこい」
「……ひ……かり……?」
沸騰《ふっとう》し、分解し、ぶつぶつ千切れて床に散る闇が、夜更《よふ》けの浜の引き潮《しお》のように、遥《はる》かなどこかに向け、遠ざかっていく。
「……そうか……はじめからか……」
最後の泡沫《ほうまつ》がぶくりと潰《くず》れた……その瞬間、山が……魔界の大地が、無限に広がる闇《やみ》大海《わだ》が、ずしりと鈍《にぶ》く揺れ動いた。
「出よう」
リュカが言った。
「魔界は変わる……はやくここを、出よう!」
裾野《すその》の森に到達すると、まるでそれを待ってでもいたかのように、エビルマウンテンの巨大な黒塊《こっかい》が消失した。一瞬のうちに、霞《かすみ》のように消えてしまったのだ。
もはや、あたりは『暗黒』の魔界ではなかった。どこからともなく溢《あふ》れてきた光が、わだかまる闇を掃《は》き、闇を拭《ぬぐ》い、薄ぼんやりとした煙《けむり》にかえて吹き払ってゆく。地面は間断なく揺れ動き、波立ち、皺《しわ》寄《よ》って、小さく縮《ちぢ》まろうとしているらしい。
みなを門に押しこめ、自ら最後に入ろうとする刹那《せつな》、リュカは振り返って魔界を見た。軟泥の闇大海の水平線、見渡す限りの彼方《かなた》から、美しい光の波が押し寄せてくる。魔界をぜんたい包みこんだ金でも銀でもない光の輪が、力強く輝きながらぐんぐんとこの陸地に迫る。海が消え、そして大地も飲まれはじめた。リュカは門に飛びこんだ。目を閉じなければならない、と思った。まぶしすぎる。神々《こうごう》しすぎる。恐れ多い。見てはいけない。もしかすると、これは人間に許された景色《けしき》ではないのだ!
が、見ずにおくことはできなかった。いっぱいに目を開いて、リュカは見た。眼球《がんきゅう》に、まぶたに、かつて見たこともないほどの光量が降り注いだ……音もなく光は集《つど》い、光は歌い、美しいひとつの球体の姿を、リュカの脳《のう》にくっきりと焼きつけた。
「……おお……おおお!」
知らず、涙があふれた。リュカはよろめき、両手で顔をおおった。
「だいじょうぶ?」
ビアンカが背を抱き、ポピーが手を取る。導かれて柔らかな霧《きり》の幕《まく》をくぐると、背後にざぁざぁと水が落ちはじめた。
「おとうさん、空だ。よく晴れてる!」
激しい滝音も押しのけて、ティミーの嬉《うれ》しげな声が響《ひび》く。リュカは薄目《うすめ》を開けた。
さざなみ寄せる湖の端、三人の女神像にきらきらと光が宿っている。四長老が立ち上がって手を差し伸べる向こうには、茸《きのこ》めいた奇妙な建物と、りんご樹の庭を持つ、静かな村。母の故郷《ふるさと》エルヘブン。
「……なにが、ありましたのじゃ?」
キャリダスが問うた。
「洞窟が……我らの神殿の屋根が、突如《とつじょ》音もなく消えてしもうた」
「魔界も消失しました」
リュカは答えた。
「暗黒の魔界は、光の球《たま》として生まれかわったようです……こちらは、あまりに門に近かったので、その影響を受けたのでしょう」
「迎《むか》えがきています……ほら」
アネイタムが指さす青空、天空の城が静かに下降してくる。
〈ありがとう、伝説の勇者とその父リュカ、そしてその一族のものたちよ〉
マスタードラゴンの声が響きわたる。
〈そなたらの働きで、闇に埋《う》もれたものたちが、光であることを取り戻した〉
〈もはや地上に喜びの歌声が途切れることはないだろう。魔の名を帯びたものたちも、この溢れんばかりの光にその身を潤《うるお》し、生命の恵みを思いだし、その魂《たましい》までも救われるだろう〉
ひとびとと魔物たちの歓声《かんせい》が、静かな谷間に谺《こだま》した。
「魔界は、魔界はどうなったのですか? あのすさまじい光の珠は?」
リュカが尋ねると、竜の神は笑った。
〈その答えは今宵《こよい》。夜空をみあげてみるがいい〉
天空の城が着水し、滑るように近づいてくる。窓から、手を振るソッポタス老の姿が見えると、ティミーが、ポピーが、そして魔物たちが駆けだした。
「終わった……」
並んでそれを見守りながら、リュカはビアンカの肩を抱き寄せた。
「これで、ほんとうに終わったんだ」
「ご苦労《くろう》さま!」
瞳と瞳がみつめあい、優しく満ちたりた微笑《ほほえ》みがふたりを共に包《つつ》みこんだ。
「約束したね。素敵な両親になろうって。ようやく、願いがかないそうだ」
「うん。そうね。……で、どっちがいい?」
と、ビアンカ。
「どっちって?」
「男の子と女の子。次の子供よ」
ビアンカは、青空色の瞳をぐるっと回した。
「だって、あたし、うちの双子に、おかあさんらしいことほとんどなんにもしてないでしょ。マーサさまの素晴らしいおかあさんぶりを見ちゃったら、もういっぺん、ちゃんと、おかあさんになりたくなっちゃった」
[#改ページ]
オジロンは、今度こそ絶対に何があっても引退するぞと言明し、さすがのリュカも了承《りょうしょう》した。のちの世に慈愛王《じあいおう》と讃《たた》えられたリュカの治世《ちせい》は、このときはじまったといえる。歴史家はこれより前の彼を虜囚王《りょしゅうおう》または探究王《たんきゅうおう》と呼んで区別するのがならいである。
グランバニアの城下では、およそ一カ月、祭りが続いた。オジロンの引退と、戦士たちの無事の帰還《きかん》を祝う舞踏会《ぶとうかい》が、毎晩《まいばん》のように行われた。
カボチ村から届けられた最高の野菜で、グレンはまたいくつも美味《びみ》な料理を発明し、城のおかかえ舞踏団を任されたクラリスは、ショーの最後には必ず自ら、熟年《じゅくねん》の魅力《みりょく》の舞《まい》で客たちを魅了《みりょう》した。
アンディ・インガルスは王宮の天井に、リュカたちの冒険の顛末《てんまつ》を素晴らしい壁画《へきが》にして描きあげることになり、愛妻《あいさい》フローラはもちろんのこと、ルドマン夫妻も絵の具だらけになってその愉《たの》しい仕事を手伝った。
泥棒《どろぼう》兄弟《きょうだい》のディックとボーがこの祝いの席でめぐり合ったジージョの父親のもとで商売の修業《しゅぎょう》をすることになったとか、オジロンの娘ドリスに口説《くど》き落とされたドゾブが気楽な船漕《ふなこ》ぎも傭兵《ようへい》もやめてグランバニアの栄光の騎士《きし》のひとりにされてしまったとか、ダンカンが山奥の村を引き払ってきてせめて孫《まご》のひとりには旅籠《はたご》を経営させたいと言いだしたとか、ヘンリーの息子コリンズとポピーが早くも婚約《こんやく》したとか……さまざまなエピソードがこのとき生まれた。
もうひとつだけ、紹介しておこう。
その輝《かがや》かしく華《はな》やいだ日々、ますますつやめく奥方ビアンカがすこぶる元気いっぱいだったのに比べて、国王陛下のリュカどのは、なぜかちょっぴりお疲れだったそうな。
そして。そういったすべてを見守ってから――。
竜の神は、地上を去った。遥かなる天界へ。
天空の城はボブルの塔の付近《ふきん》から、天のいと高きところをめざしてぐんぐん上昇した。鳥たちに迎えられ、雲を抜けると、そこには二つの月が輝いていて、神を迎《むか》えた。
金でも銀でもない光の歌を、喜ばしげに交わしながら。
それはまるで、空の結婚《けっこん》。
このときからひとびとは、はじめからあった月を婿《むこ》と見立て、新しく天に召された少し小さなもうひとつの月を、天空の花嫁《はなよめ》、と呼ぶようになったのだ。
[#地付き][―― 完 ――]
〈本書は一九九三年九月に発行された『小説ドラゴンクエストX 天空の花嫁3』を加筆訂正したものです〉
[#改ページ]
あとがき
小説ドラゴンクエストX『天空の花嫁』全三巻を、みたび、お届けいたします。
いよいよ、みんなが首を長くして待っていたゲーム版のZが発売になりましたね。バンザイ!
新書サイズの小説シリーズは、待ちにまったZをプレイしてみて(あるいはその前に)「そういえば、これまでのドラクエって、どんなお話だったっけ? どんなキャラがいたんだっけ?」と首をひねってしまったあなたのために発売されました。ハラハラどきどきの冒険の道筋や、アッと驚く謎のタネあかし、感動の涙をあふれさせてしまったあなたの大好きエピソードなどのあれこれをしみじみくわしく思い出すのに、きっと役にたつに違いありません。
ハードカバー版、文庫版と、このお話が本になるのは、もう三度目です。内容はほぼ同じですが、ほんの少しだけ変わってる部分があります。マニアのひとはどこが違うかチェックだぜ!
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
みなさんがこの本を手にする頃には、もう、シドニーオリンピックは終わってしまったでしょうか? サッカーファンのわたしと夫は代表チームの戦いをとても楽しみにしています。
アトランタの時には、日本サッカーは、決勝リーグにいけませんでした。ブラジルに1対0で勝ち、ナイジェリアに2対0で負け、予選最後のハンガリー戦では2対1で負けそうだったのを、後半44[#「44」は縦中横]分から2点立て続けに入れて、ひっくり返したのに。ちなみに最後の1点をいれたのはゾノこと前園選手です。
このハンガリー戦で4点以上の大差をつけて、または他の予選グループの2位のチームの成績がもっと悪ければ、決勝リーグに進めたのですが……。
ブラジルとナイジェリアはあの時、たしか、それぞれ優勝と準優勝です。その強豪の2チームを相手にここまでがんばったんですから、運が悪かったとしかいいようがない。
それでも負けは負け、敗退は敗退。
スポーツにはめったに引き分けはない。残酷です。でも潔い。
あれから四年の月日が流れ、代表メンバーもずいぶん入れ替わりました。その間にも、Jリーグはもちろん、アジアカップ、フランスワールドカップなど、さまざまな戦いがありました。みるみるうちに、あるいはゆっくりと、成長していく選手たち。きっと仲間同士、励ましあったり競い合ったりしたでしょう。中には怪我をしたり、所属チームが困ったことになったりして、つらい思いをしたひともいるはず。
サッカーはまず試合そのものがおもしろいですが、お気にいりの選手が活躍してくれると、もっと熱が入ります。お正月の高校選手権の時から「この選手いいじゃん!」と名前やプレイを覚えていた選手が、その後Jリーグやアンダー17[#「17」は縦中横]で活躍するのを見ると、とても嬉しい。
かれらのひとりひとりが、オーストラリアでも、悔いのない戦いを戦ってくれますように! 祈らずにはいられません。
……成長。
それはこの上なくおもしろいドラマであります。
『ドラゴンクエストX』は主人公の「成長」を主眼としたものがたりでした。
リュカこと、リュケイロム・エル・ケル・グランバニアは、はじめ、小さな無邪気な男の子として登場します。さまざまな世界に旅をして、不思議や試練に立ち向かい、少年になり青年になり恋をしてやがてパパになります。大いなる敵や大切なともだちとの出会いと別れを繰り返しながら。
残念ながら、人間の寿命や能力は無限ではありません。どんなすごい選手も、強い戦士も立派な賢者も、みないつかは年老いて現役を引退し、舞台をおりてゆきます。リュカはまず、父パパスの死という耐えがたいできごとによってそのことを知り、次に、自分には許されなかった天空のかぶとを装備できてしまう息子ティミーの姿をみることによって思い知らされるのです……いやはや、なんと深く普遍的なドラマでしょう!
一部のおとなたちは、ゲームばっかりやっているとバカになるとか、正常な人間関係が営めなくなる、とかいいます。きっと、ほんとうにおもしろいゲームを夢中になってやったことのないかわいそうなひとたちですよね。『X』をじっくり遊んでみて、それでも、もし、何も感じないとしたら。ただ、戦闘シーンで敵をやっつけて経験値とゴールドを稼ぐことばっかりにしか興味がないとしたら? そのひとは、たぶん、もう既にどこか壊れちゃっているんじゃないでしょうか。ゲームの流れに自然に身をまかせるなら(ひょっとして小説を読むことでも)あなたはきっと、『X』の世界を生きてみることになるはずです。主人公として、幼い子供から双子の父親までの人生をしみじみ味わうことになるはずです。それは間違いなく、かけがえのない経験です。
ひょっとすると、いまのあなたの現実の人生はそんなに幸福ではないのかもしれません。ゲームの中の世界の方がずっとわくわくする! 楽しい! 現実なんてキライだ! って思ってしまっているかもしれない。でも、リュカだって、奴隷になったり、石像になったりしたでしょ。
どんな勇者や英雄の人生にも、「こんなのたまんないよ、かんべんしてくれよ」な時代は、あるもんなんです。
そこでイヤになって、グレてキレて悪くなって、自分を投げ出しちゃったら、それっきりです。
人生はゲームやスポーツほどには、はっきりとした「ルール」や「筋」をもっていないし、倒すべき敵も目に見えないことが多いですけれど、それでも、共通している点はあります。
成長はあくまでゆっくりとしか起こらないこと。こつこつ少しずつやってきたことだけが、積み重なってレベルを上げてくれること。どんなにがんばっても、どうしようもない時もあること。そんな時は、あせらずじっと辛抱して、またチャンスがめぐって来た時にそれを逃さぬよう、準備しておかなければならないこと。そうしていれば、いつか、すごいことができます。生まれてきたのはなぜだったのかがきっとわかります。
いのちをかけてでもやりぬきたいと思うようなこと、みつけたいですよね。たった一度の人生だからこそ。
女子マラソンの高橋尚子選手が、テレビのインタビューに答えて、「つらい時、いつも思い出していたことば」を教えてくれました。彼女がまだ若い頃、コーチの先生にもらったことばだそうです。うろ覚えですけど(その先生や高橋さんのご許可なしに書かせていただいて申し訳ないですが)ここに、しるします。
なにも咲かない寒い日は
下へ下へと根を伸ばせ
いつか大きな花が咲く
もしかしてこれを聞いたら、リュカも「いいことばだなぁ」って言いそうだと思いませんか?
「なんていいことばなんだろう、サンチョに、ビアンカに、ヘンリーに、そうしてぼくの双子たちにももちろん、教えてあげよう!」とかって。
ドラゴンクエストを大好きであるみなさんが、みんなそろってそんな気持ちでがんばったならば、日本は、世界は、地球は、どんなに素敵な場所になるでしょう!
この素晴らしいドラゴンクエストに、深く長く関わりあいになれたラッキーを、しみじみ感じます。天空シリーズの小説版を任せていただいたことを、誇りに思います。
ありがとうDQ!
[#ここから10字下げ]
2000年9月[#地付き]久美沙織
[#ここで字下げ終わり]
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底本:「小説 ドラゴンクエストX 天空の花嫁3」ドラゴンクエストノベルズ、スクウェア・エニックス
2000(平成12)年10月20日初版第1刷発行
2004(平成16)年3月2日第2版8刷発行
入力:iW
校正:iW
2007年12月20日作成