久美沙織
SPEAK EASY の魚たち
目 次
第一話 ぽかえり
第二話 イントラ殺し
第三話 誰よりもやさしい彼
第四話 She sells sea shells by the seashore.
第五話 砂のタペストリ
店の名は Speak Easy.
ビールも出るが、黙ってればまず水割。ジン・ベースのカクテルは作らないこともないが、虎《とら》の巻《まき》を見ぃ見ぃになる。カラオケはなく、ジャズがかかるか演歌になるか、すべて客次第。バーと言うのかパブと呼ぶのか、そんな程度の安酒場である。
そこに、私は私にしてはずいぶんと長いこと勤めつづけていたことがある。
新宿《しんじゆく》の末広亭《すえひろてい》をご存じだろうか。あのあたりから、狭い通りをいくつか暗いほうに折れた先のちゃちな寿司屋《すしや》の二階に、それはあった。カウンターに五席、他には大テーブルがひとつきり。荷物を倉庫に預かって、ぎゅうぎゅうに詰めていただいても十五人入るかどうかというところに、彼等はよく毎週のように集まってくれていたものだ。
そして私に、名前をくれた。
カサゴちゃん、という。由来はもちろん、あのみっともない魚である。
カサゴは笠子とも書くが、ほんとうは瘡子なんだそうだ。釣をなさるかたならご存じだろう。いかにもそういう外見だ。フグだオコゼだ鮟鱇《あんこう》だと、みっともない魚にもいろいろあるが、生まれながらの姿形を病気だとまで言われるんだから、こいつのブスは筋金入りだ。
まさか鯛《たい》だの鯉《こい》だのの立派なお魚さまにたとえていただけるはずもないこの私も、瘡子の瘡の字にはさすがにめげる。だがそれを笠子としらばっくれられてもちゃんちゃらおかしい。どうせのお心遣《こころづか》いなら、わざわざ魚類図鑑を持って来てそ知らぬ顔で置いてってくれるほうがいい。彼等は、そうしてくれたのである。
うっかり忘れたのじゃあない。証拠に、ちょいとめくってみようとしたとたん、『瘡子』のページが、ぱらりと開いた。大アマゾンの半魚人《はんぎよじん》か何とかメッティの彫刻みたいな写真の横に、細かい文字が並んでいた。
ヒレだかエラだかにとんでもなく丈夫《じようぶ》なトゲがあるとか。ウロコなんてやたらに固くて、専用の道具がなければとてもじゃないがひっぱがせないとか。なんとも思い当たることばかりで笑ってしまった。
だけど。そう。最後の最後に、それは記してあったのだ。
美味。
カサゴは美味《うま》いのである。
専用のウロコひっぱがし道具まである道理だ。煮てよし揚げてよし、ぶ厚い皮に切れ目をいれればとたんにはじけるプリプリ白身、上品にして奥の深い食通好みのこの味わい。
よしよし。そうこなくっちゃ。
すっかり機嫌《きげん》を直した時に、気がついた。
美味。その二文字に、薄ぅく薄ぅくひいてあるアンダー・ライン。
私は、文房具屋で小さな消しゴムを買ってきて、はかないはかない鉛筆線を、そぉっとそぉっと消しておいた。読んだわよ。誰だか知らないけど。きっぱりそう、返事したつもりだった。返事を聞いたか聞かないか、ともあれ図鑑はくれたものらしい。いつまでたっても、誰も取りに来なかった。私にくれたのか店にくれたのか、聞こうにもどなたにお伺《うかが》いすればいいのかとんとわからなかったので、そこらに放り出しておいた。
すると、これがなかなか受けたのだ。気がつくと誰かがひとり、またはふたり三人集まって、水割嘗《な》め嘗《な》めぱらりぱらぱら、サカナの図鑑をサカナにしているといった具合。分厚くて色とりどりで、絵やら写真やらがいっぱいで、酔っぱらいの知性にぴったりだったのに違いない。ひまつぶしに、話のタネに、図鑑は実際大活躍だった。
もともと古ぼけた本だったから、一年もするうちにはすっかりぼろぼろになって装丁が解けはじめ、まずいなと思っていたら、ふっと見えなくなった。なついた野良猫が消えたようだった。死骸《しがい》は見せずに去っていく、というわけだ。まさか今更《いまさら》盗むやつもあるまいなと思いながら少々惜しくあったけれど、もともと、私のものではない。たぶん誰のものでもなかったのだ。あれだけ何十人何百人ものひとに楽しんでもらえて、図鑑もさぞかし本望だったことと思う。
カサゴもすっかりカサゴになじんだ。
カサゴでいることに悔《く》いはない。
あの時もあれからも、いろいろなことがあったけれど、おかげさまで、まだウロコまでは剥《は》がされちゃあいない。てっとり早く儲《もう》けになる道は避けてばかりで、何年たってもあいも変わらずの痩《や》せ財布ではあるのだが。
それでよかろう。
不作法《ぶさほう》なやつや馬鹿者にぶすっと刺してやるために、今後もしっかり頑丈《がんじよう》な棘《とげ》を磨いておかねばと思うカサゴの今日このごろ。
少し回ったかな。
弱いのに好きで、好きなものでメシを食っているのだから我ながら幸福なヤツだ。
さてさて。
これから書こうとしているものは、実に無責任でいい加減である。なにしろこんな酔っぱらいだ。おまけに、正直に白状するが、これは例の『フィクションであり登場する人物団体等すべて架空のもの云々《うんぬん》……』ですらない。あの店で小耳に挟んだ話のあれやこれやを、拾っては手の中で転がして、知らない部分を好きなように想像してツギハギしてみたらこうなってしまったのだ。
それだけ私は彼等が好きだったのだ。
実際に知ってたひと、話でしか知らないひと、まったくいもしないひとたちまで、みんなまとめて惚《ほ》れている。とても大切に思っている。だから脳細胞の最後の一個までアルコール漬《づ》けになってしまう前に、書き残しておこうと思う。そうすれば、あの頃《ころ》のあの店のあの雰囲気《ふんいき》を、いつでも好きな時に取り戻せる。行ったこともない海や、見たこともないお魚の夢で、いくらでも、美味《おい》しいお酒が飲めるだろう。
もう嘘《うそ》をついた。言ってしまおう。
あの店の名前はほんとうは Speak Easy ではない。そんな恥ずかしい気障《きざ》な名前じゃない。だから、探しても見つからないことは保証する。
これを思いついたのは、どこかで聞いたからだ。Speak Easy はモグリの酒場。禁酒法の頃アメリカで、ギャングたちが密造酒を売った店のことだと。
それこそ彼等にふさわしい。彼等はみんなモグリだった。ほんとのモグリ――ダイバーたち――だったのだから。
第一話 ぽかえり
1
倫子《さとこ》はまだスープを飲んでいる。
柏崎展夫《かしわざきのぶお》はため息をついて、指を組み換え、そばのリトグラフを見上げ、遠くの壁に張ってある『今月のおすすめ料理』をザッと見て、もう一度倫子を見た。
まだ飲んでいる。
口元に寄せた匙《さじ》をかすかに傾け、音もたてずに啜《すす》りこむと、皿まで下ろし、また持ち上げる。バレリーナのような優雅《ゆうが》な動きは、いつ果てるともわからない。倫子は何をするにもとてもゆっくりなのだ。
展夫はグラスを手に取ろうとして、やめておいた。こっちの水だけが、もう半分以下に減ってしまっている。
やれやれ。
もうすることがない。
いや、ないわけではない。ないどころではないのだ。言わなければ。今日こそ。
そう思ったとたんに倫子と目があい、展夫は思わずギクッとして、思わずギクッとしてしまったことにギクギクッとして、すっかりあがってしまった。何も悪いことをしようと思ったわけでもないのに、なんでこんなにビクつくんだ、と、情けなさでいっぱいだったが。
「はっ、話があるっ」
上擦《うわず》った声が出てしまったのは、混乱のあまり一瞬《いつしゆん》ブレーキが緩《ゆる》んだおかげだ。倫子はすぐに、コマ送りの画面のような動作で匙《さじ》を置いた。そっとうなずいたようにも見えた。
チャンスだ。
しかし、倫子《さとこ》のやつ。ひょっとして俺《おれ》が何か言い出すまで空のスープを飲み続けてただけなんじゃないだろうな。マサカ。
「なぁに」
「わかってるだろっ」
展夫は唇を噛《か》んだ。
倫子はぼうっと焦点のはっきりしない目を瞬《まばた》くばかりだ。
いつもこの目に負けてしまう。この目で見られているだけで、肺が苦しくなる。頭のどこかが白くなって、じんじん痺《しび》れてきて、両手を振り回してわめきだしたくなってくる。
パニックだ。
[質問10]潜水中起こしてはならない最も恐ろしいことを五つあげなさい。
最も恐ろしいことが五つもあるあたりが実に恐ろしい。
よっぽどそう書こうと思ったが、やめておいたのは、もう二年前のこと。これはオープン・ウォーター・ダイバーの認定証《にんていしよう》を受けることができるかできないかの瀬戸際《せとぎわ》の学科テストだ。ちなみに[質問11]は、『浮上中《ふじようちゆう》に最も恐ろしいことを三つあげる』であった。
パニック。[質問10]の解答欄の先頭に、展夫は自信をもってそう書いた。
テストの前日、その同じ講習の実技で伊豆《いず》海洋公園に潜《もぐ》った時、まさにそいつにでくわしたばかりだったので。
パニックの原因をたどりたどると、かの難問を手作りしてくれた熱心なイントラそのひとに到達する。彼は、講義の初めに細い目をギラリとさせて、俺《おれ》は甘くない、できない奴《やつ》はびしびし落とすからな、と宣言したのだ。さらに昼飯の時、ショップから手伝いに来ていた若いのが、○○サンはテングになってるヤツには荒療治《あらりようじ》しますからネ、とすかさずフォローしたのも効《き》いていた。
例えばね。潜水中にね、タンクのバルブを締めちゃうんだよね。後ろから近づいて、そーっとね。そこでパニックになったヤツには、カード出さない。でも、心配いりません。あわてないで、バディ(パートナー)に空気が来ないってサインすればいいんです。覚えてますか? ハンド・シグナル。そうそう、こうネ。コレが『苦しい』、コレが『空気がない』ネ。そういわれたら、すぐにオクトパス(緊急時に使うバディ用の予備の呼吸装置)を差し出してあげてくださいよ。とにかくバディと離れちゃだめです。そして絶対に、何があってもパニックを起こさないことネ。
従順《じゆうじゆん》なる生徒一行はみんなザワザワ不安な声をあげたが、よりによって展夫のバディになったヤツひとりだけが、へらへら笑っているのだった。八王子《はちおうじ》から来た太《ふと》ったヤツだ。
嘘《うそ》だって。あんなの。決まってるだろ。講習中に事故なんか起こしたら大変なんだから、バルブなんか締めるわけない。脅《おど》かしてるだけだって。ガタつくなよ。
そいつが見えない。
そのことに気がついたのは、大きな岩を迂回《うかい》しているうちに中性浮力《ちゆうせいふりよく》が取れなくなってしばらくヘドモド苦労してどうにかバランスを取りもどし、ふっと顔をあげた時だった。とたんに、何てことだ。突然、空気が来なくなったのだ。
よしてくれよ。
もう一度、思い切り吸ってみたのだが、やはり来ない。
エアがなくなったのか? それとも、締められた……!?
あわててきょろきょろ見回してみたが、見えるのはひとの尻《しり》やタンクやフィンの先ばかりでやけに遠い。視界が悪く、ウェアの色の区別ができなくて、どれが自分のバディなのか判然《はんぜん》としない。誰《だれ》ひとり、こっちを振り向こうともしてくれない。
こんな状況《じようきよう》じゃ、ハンド・シグナルなんかしたってしょうがないじゃないか。
ふりあおげば、キラキラと目映《まばゆ》い水面が広がっている。近い。このまま息を止めてでも、まだ充分《じゆうぶん》に浮上《ふじよう》できる。だが、無断でひとり浮上なんかしたら、失格になるに決まっている。
なぜ俺《おれ》なんだ、と展夫は怒った。
悪いのはあのデブだ。俺はできるだけあいつとくっついていようとしたのに、あいつ、すぐにいなくなるから。さっきも見えなくなって、あわてて探したらナマコなんか拾いあげて、お手玉にして遊んでた。ふざけたヤツだ。あんなヤツと組まされたのが不運だった。懲《こ》らしめるなら、あっちのはずだ。なぜ俺なんだ??
必死に背中に手を回してみるのだが、BCジャケット(浮力調整具=BCD)はふわふわたよりなく緩《ゆる》んで、バルブなどどこにあるやら、届かない。残圧計を確かめようとしたが、手が震えてうまくつかめない。苦しい。鼓動《こどう》が速い。これでは酸素の消費量が多くて、なおさらまずい。どんどんまずくなるばかりだ。焦《あせ》るな、パニックになるな、あわてたら水を飲む。飲んだら溺《おぼ》れる。
頭の芯《しん》がジンジンしてきて、目が飛び出しそうだった。頼む、誰《だれ》か、誰か俺《おれ》を見てくれ、苦しい、ああもう間に合わない、空気が来ない!
ガフッ。
頬《ほお》の内側を殴《なぐ》られたのかと思った。突然、まるで固形物のような空気が、歯をこじあけて逃れていったのだ。もう少しでレギュレーターを持っていかれるところだった。
思わず息を呑《の》んだら、空気が来た。
展夫は目をパチパチさせた。いつの間にかマスクに入り込んでいた潮水が、しょぼしょぼしみて痛痒《いたがゆ》かった。
そっと口先に力をこめてみると、たちまちもったいないほどの大量の泡《あわ》がボゴボゴ上っていくのが見えた。思い切って、肺を絞るようにして吐《は》いてから、もう一度吸ってみた。
空気は来た。まったく正常に。
あ……そうか。
吐くのを忘れてた。
信じられないが、そうらしい。吸って吸って吸って吸って吸って吐かなければ、それ以上吸えないに決まっているじゃないか。ただそれだけのことなんだ。誰もバルブなんか締めなかった。誰も俺を懲《こ》らしめたりしなかった。
あまりの馬鹿ばかしさに茫然《ぼうぜん》としてしまった。ようやく立ち直ってみんなに追いつこうとした時、おっかない目のイントラが、すぐ脇《わき》からこっちをのぞきこんでいることに、やっと気づいた。
どうした?
と、その目は言っている。
OK?
OK。
サインを出しながら、展夫はゆっくり吐《は》き、それから吸った。深呼吸、深呼吸。吐くと沈み、吸うと浮く。肺は天然装備の浮力調節装置なのだ。自分が自分の入れ物を確かにコントロールしていることを実感すると、鼓動《こどう》が少しずつ治《おさ》まるのがわかった。
よし、じゃあ、行くぞ。
ずいぶん離れているように見えたグループまで、フィンで三|蹴《け》りぶんの距離だった。例の太《ふと》ったバディをみつけて近寄ると、どういう意味かピースをされた。この脳天気野郎《のうてんきやろう》。
吸えないと焦《あせ》ってからここまで、ずいぶん長かったが、実際は数分もたっていないのだろう。俺《おれ》がいなくなっていたことなど、こいつは全然気がついてないのかもしれない。
ピース。
水の中でも笑うことはできるのだ。
ゴボゴボ盛大に上っていく空気を、展夫は頼もしく思った。じゃんじゃん惜しげもなく吐いて、吐いて、吐いてやった。
これが、展夫の潜水中の、たった一度のパニックである。教訓である。
おっかながることはない。つまんないことでガタガタいうのが一番まずいんだ。問うような視線を見つめ返しながら、展夫はゆっくりと長く息を吐《は》いた。少しは落ち着いたような気になった。
だから、言った。
「さとこっ。結婚してくれっ!」
「柏崎さん……」
しまった。あんまり露骨だった。単刀直入すぎた。ええい、でもこれなら逃げも隠れもできないはずだろおっ!
展夫はテーブルの下で両掌《りようて》にぐいぐい指先を食いこませながら、返事を待った。
まだ早いって言うかな。驚いたふりをするだろうか。ああ。黙って、にこっと笑ってくれたら最高なんだけど……。
だが。
倫子《さとこ》の反応は、まるで意外だった。
「ありがとう」
そう言ってから、小さく首を振ったのだ。ノン、の方向に。
「なんでさ?」
思わずこぼれたすっとんきょうな叫びを詫《わ》びる間もなく、倫子は傍《かたわ》らのハンドバッグに手を伸ばして、何かをひっぱりだし、テーブルの真中に置いて、こっちに押した。
『銚子沖《ちようしおき》でまたも死者
ダイビング中の高校生二人|溺《おぼ》れる』
『なぜ? 悲劇続くブームのダイビング』
『無謀《むぼう》ダイビング 石垣島《いしがきじま》で四人不明』
新聞記事のコピーだった。
「……へ?」
笑おうとした瞬間《しゆんかん》、倫子がにらんだ。
「な……なんだよ」
展夫はささっ、とコピーを押し返した。
倫子は受け取ろうとはしなかった。肩を上げて、下げて、それから、聞こえるか聞こえないかの限度に挑戦《ちようせん》したような声で言ったらしい。
「何か言って」
「何かったって」
バカだなぁ。俺がこんなことにはなるかよ。(ニカッ)
明るく笑っている自分を想像したが、やるには一瞬《いつしゆん》遅かった。
「……いや。あのね。俺はけして」
「だから」
倫子は唇をうっすらと開いたまま言い淀《よど》んだ。
「だから何」
「結婚は、しないほうがいいと思う」
「えーっ、じゃきみは……」
言いかけたとき、ウェイトレスが近づいてくるのが見えた。
ふたりは黙って、皿が整うのを待った。美味《おい》しそうな匂《にお》いがしたが、じわじわ潤《うる》みだした倫子の目を見てしまったのがいけない。ウェイトレスが行ってしまったのを機会にフォークを取りあげたものの、食欲はまるでなくなっている。
「こういうのを見ると、考えるの」
「…………」
展夫は観念してフォークを放り出した。
「今だって、いやなんだもの。柏崎さんが海に行ってる日。晩のニュースみて、何もなかったってわかるまで、いやなんだもの。だから……」
参ったなと口の端を引きつらせながら、どこか胸の奥のほうはじぃんと愛《いと》しさに満たされていて、実はまんざらでもない展夫であった。
「でもね、さとこ」
はい? というようにあげた顔の、キラキラ光る瞳《ひとみ》。
ああ。従順《じゆうじゆん》なやつ。
展夫の胸はぐっと詰まった。
「つまりね、だから」
はっはっは。心配いらないさ!(ニコッ)
そう言おうとしたのだが、うまく笑えそうにないので諦《あきら》めた。
「あのねー。ダイビングやってるやつって、とーっても大勢いるの。これはほんの一部。全部が全部死ぬってわけじゃないんだぜ?」
倫子の目が、しゅんとした。
ああ、何を言ってるんだ。こんなんじゃ安心できるわけないじゃないか。
展夫はあわてて、いい足した。
「とにかく。死ぬのは、そいつがバカだからだ。これはほんとだぜ。俺《おれ》たちもこういうの、すごく気にしてる。なんでそんなことになったのか、よく話題にして、研究してる。だから言うんだけど、その銚子沖《ちようしおき》のなんてさ、初心者のくせに女の子ばっかで潜《もぐ》ってたんだ。ガイドもなしに。で、早く上達しようとして、やらなくてもいいことをワザワザやったんだ。練習中の事故なんだ。八甲田山《はつこうださん》みたいなもんでさ。バディ・ブリージングって、ひとつのレギュを交代に使うやつをやって。オクトパス使えばいいのに、あるのにワザワザないつもりで、慣れてないのに危険なことやってみたもんだから、ひとりパニック起こした時にみんなに伝染して」
「わかんない」
倫子《さとこ》は目を閉じた。
「そんなこと。言われてもわかんない。柏崎さんは、きっと、このひとたちよりずっと上手なんだと思う。でも」
「でも、なにっ」
「……怒らないで聞いて」
展夫は黙って、目を逸《そ》らした。
「理屈《りくつ》じゃないの。危ないことなんて、普通に生活してたっていっぱいあるっていうのも考えた。交通事故とか、地震とか。もしかすると、でかけてるあなたじゃなくて、家で待ってるあたしのほうに、突然飛行機でも落ちてきたりするかもしれないし」
「ひこうきが?」
いったいこれは何の話だったっけ?
展夫は一瞬《いつしゆん》わけがわからなくなったのだが、倫子は、こくん、とうなずいた。
「そうよ。そんなこと思うと、とても怖《こわ》くなるの。ちょっとでも離れていること……こんなこと、柏崎さんわからないでしょうけど」
「ひこうきが」
わからん。確かにわからない。
首をひねっていると、倫子はふうっ、と肩を落とした。かすかに笑っている。
「おかしいね。自分でもそう思う。だけど怖いの。ほんとうに、あなたがどこかに出かけて行って帰ってくるまで、すごくイヤなの。どこにもいかないでいてくれればいいのにって思うけど……そんなの無理だし」
「どこにもって」
「うん。ダイビングのことだけじゃないの。だって、あなたにはお勤めがあるもの。毎朝会社に行くもの。もしも柏崎さんと結婚したら、毎朝いってらっしゃいって言わなきゃいけないんだよね。そして、帰って来てくれるまでずーっとずーっと待ってて、このまま離れ離れになっちゃうかもしれないって思いながらすごすのよ。毎日、ほんとはサヨナラかもしれないって思いながら、いってらっしゃいって言わなきゃいけないのよ。そんなの、そんなのいやだわ」
毎日サヨナラぁ?
「んなおおげさな」
「おおげさじゃないよっ」
倫子《さとこ》はくいっ、と顎《あご》をあげると、泣きべそ顔で歯を剥《む》き出した。
「やっぱりだね。わかってくれるわけないと思ってた。でも、あたし、そうなんだもの。怖《こわ》いんだもの!」
「そんなに信用できないかよ?」
「信用?」
「だから。俺《あく》悪運強いしさ、んーないきなりいなくなったりしないってば。だいたいね、ダイビングってのはね、何よりも安全ってことを考えるの。だからあれをやって来たことで俺はむしろ」
「うううん」
倫子は静かに言って、コピーを掻《か》き集めた。
「もう、いい。わかったわ。やっぱり、私、あなたのお嫁さんにはなれません」
「おいおいおいおい」
「だからもう、やさしくしないで。あなたのこと、早く嫌《きら》いになれるように。そして、ずっとずっと家にいてくれるひとのこと、そういうお仕事してるひとのこと、好きになれるように」
2
Speak Easy 唯一《ゆいいつ》の大テーブルに、一瞬《いつしゆん》完全な沈黙が訪れた。
「あんぐり」
皮切りは朱鷺子《ときこ》だった。
「……いるのねぇ、そういうひと」
「そりゃアカン。諦《あきら》めたほうがいい」
「おい、待て待て。それは、もしかすっと物凄《ものすご》いラブ・コールだよ。そこまで言われたらさ、トラバーユしてみせたらどうよ。毎日ウチにいる自由業に」
「タラはァ」
「また無責任なことを」
「だってそだろォ、世の中愛が一番大切なのよ、愛が。何か文句《もんく》あるッ」
「まぁ飲め。いいからとにかく飲め」
今日のメンバーは全部で五人。
モグリどもの紅一点は、年齢|不詳《ふしよう》のエキゾチック美女|朱鷺子《ときこ》。諦めたほうがいい、と言ったのはKIN坊で、とにかく飲め、がのっぽの大森《おおもり》である。タラは、山本《やまもと》という。見てくれも本人の話もどうも女タラシっぽいというので『タラシの山本』が『タラヤマ』になり、ついにはタラだけになってしまったのだった。
タラは、展夫《のぶお》のグラスにオールドを足しながら、でもさぁ、とすっかりおもしろがっている。
「いい子じゃないのーその子。普通の女だったら、そんだけヤダったら、そんな危ないことやめてっ! あたしを愛してるならやめてくれたっていいでしょっ、キーキーッ! って言うぜぇ。俺、ハングやってた頃《ころ》なんてひどかったのよォ、ほほほ」
「えーっタラ、ハング・グライダーまでやってたんだ」
「まかしてよ」
「ねねねね」
KIN坊が、うるさいのをシッシッ、と蹴散《けち》らすようにして展夫の注意をひいた。
「なに」
「この際、貯金はたいてでも、彼女を連れてったらどうかな。石垣《いしがき》あたりのリーフとか、浅めでキレイなとこにさ」
「……でも」
「体験ダイビングさせるんだよ。そんなに危険なものかどうかやってみろって。そしたらたぶん、状況《じようきよう》変わらない?」
「ふんふん。体験させちまえばこっちのモン。なーに、いっぺんやっちまえばヤミつきだって」
「タラが言うとスケベなんだって」
「貸すわよ、ウェアとか。あたしので合うなら」
「そりゃ、急いだほうがいいな」
大森が気軽に立ち上がった。
「今からなら、六月の最後が狙《ねら》い目だな。梅雨《つゆ》の後で、夏休みの混雑の前で。いいとこあいてるかどうか、ツアー・センターに聞いてみようか」
「だめだって」
小銭をさぐって立ち止まっていた大森に、展夫は首を振った。
「そういう子じゃないんだよ」
「どうしてー」
「だからねぇ」
その時。
「氷足りてますー?」
カサゴちゃんがカウンターから首を伸ばした。
「足りてる足りてる」
「あ。カサゴちゃんもおいでよ」
「コラコラ」
展夫が止めた時にはもう遅かった。
「相談に乗ってやって。レンアイ話だから」
「ほっほ。レンアイー?」
自分のグラスを持って、エプロンの端をちょいちょいふりながらでしゃばって来るカサゴを見て、展夫はやれやれ、とおでこをぬぐった。
これでまた、サカナにされちまう。
「さささ。なんなのよ。聞こうじゃないの。言ったんさい。どうしたの? 誰《だれ》のレンアイだって」
「ノブオ」
「うきゃぁっ! なんだよぉ、じゃあカサゴちゃんまた失恋かぁ。こいつは飲まなきゃ」
勝手にやってくれよ。
展夫はそっぽを向いたが、たちまちのうちに、みんなしてさっきの話を繰り返してしまった。
聞いているうちに、拗《す》ねているつもりの展夫も『そんなこと言ってないだろ』『そうじゃなくてだから』と、気づいた時にはしっかり参加させられてしまっているのである。
「……んでー。初体験ダイビングをおさせ申し上げたらいーんじゃないのー、ってとこまでいったのに。ノブオちゃんが、それはアカンと言うのだよ。さっ、なんでアカンのか言って言って」
「だからねぇ!」
展夫は半分やけになって声をはりあげた。馬鹿真面目な顔で聞いてくれる連中をひとわたり見回して、たっぷりと間を取る。
「彼女すっごくおとなしいわけ。スポーツとかそういうの、全然だめで」
「ふんふん」
「例えばさ。前に、あっちの女ともだちと、そのカレシとかいうのと、四人でテニス行ったことがあるんだよね」
思いだすだけで、顔が赤くなる。
テニス・ウェアなんて持ってないわ。
そう聞いた時に、うるさいクラブじゃないって言われたんだろ、運動しやすそうな恰好《かつこう》なら大丈夫《だいじようぶ》さ、なんて軽く言ってしまったのが失敗だったのだと、今ならわかるのだが。
倫子《さとこ》が持ってきたのは、正真正銘《しようしんしようめい》の体操着だった。変な緑色の古ぼけたジャージと、胸と背に『3012』なんてでっかく番号を書いたゼッケンを張ったままのシャツだったのだ。
「うわぁ。女子高校生みたい」
キャピ、と明るく喜んでみせたトモダチのカレシとやらは、マジアだかタッキーニだかのピカピカのウェアである。トモダチ本人のほうも当然、例の思い切り短いスコートからピンクのフリルのパンツをチラチラのぞかせている。うるさいクラブじゃない→ウィンブルドン的全身白の装いじゃなくていい、ということを、しっかり謳歌《おうか》しているまぶしいふたりであった。
こいつ。トモダチなら、お古のウェアでもなんでも倫子《さとこ》に貸してやりゃいいじゃねぇかよ。女ならそのくらい気ぃきかせろよな。太い足出しやがって。
いい色に灼《や》けているフトモモから視線をもぎはなしてみると、カレシとやらは、ラケットと肩と頭を使って器用にも連続ドリブルを披露してみせているのだった。
「キャー、すごーい」
「ふっふ。こーんなもんよ、あらさッ」
「すごーいひごーいまごーい」
……明るいやつら……。
ぐったり疲れてふりむけば、体育の授業からひっぱりだされたようなのがぽかんと口を開けている。アシカ流の曲芸どころか、コートやネットそのものさえ物珍しいらしく『うわー』などとつぶやきながら、きょろきょろしている。
差ぁつけられたなんて思ってない。ウェアだの、ボール芸だの、ひとがどうであろうと気にもしていないのだ。ましてひとのカレシと俺《おれ》を比べたりなんて……。
だから倫子が好きなんだ俺は、と、しみじみ思い直す展夫《のぶお》であった。
「ほんじゃ、軽く打ち合いやってみますか」
「はぁ。よろしく」
おねがいします、と頭を下げると。
「じゃあいくねぇ」
カラフル・カップルは、フットワークも軽々とコートに散ったのだが。
「おいっ。行くぞ」
「……えっと、待って」
倫子はいっしょうけんめい微笑《ほほえ》みながら、言ったのだ。
「これ、どうやって持つの?」
展夫はテニスに命をかけたことなどない。ラケットの握りかたなんて、いい加減もいいところである。
「そんな、どうだっていいんだって。こんな感じ。あ、そこ持つんじゃないの。そうそ、そっちそっち。うんうん、そのまま肘《ひじ》伸ばして」
「だって、ここじゃ……お、重い」
倫子の腕はぶるぶる震えだし、やがて、パタン、とラケットが落ちた。
「…………」
「こんなとこ持ったら支えられないよ。このへんじゃ、だめなの?」
展夫は首を振った。
「ここなら持てるのに」
「そんなのは、ないのッ!」
もう一度、グリップの一番内側をしっかりと握らせてみた。展夫がラケットの端を離してから、三秒はもった。歯を食い縛《しば》ってギュッと目をつぶってなら、五秒はいけたが、そこまでだった。
「倫子、握力いくつ」
「握力……覚えてない」
「二十キロはあるよな、二十キロは」
「たぶん」
ないな、こりゃ。
「もっと軽いの、ないかな」
倫子は小声で言ったのだが。
ラケットはちゃんとレディスだった。クラブハウスから借りた質実剛健なウッドで、最近流行の合金だかファイバーだかよりは少々重いかもしれなかったが、一番小さい手のサイズではあった。展夫の安物デカラケも持たせてみたが、グリップが太すぎてなおダメだった。
「……わかった。しょうがない。できるだけ、バックハンドでやるんだ」
「バックハンド?」
「こっち向きに持って、こう。ここで打つんだよ。これなら、左手を添えられるから。持てるだろ?」
「持てる! ああ、良かった」
あまり良くもなかった。
こんな状態では、すぐにラリーなんかできるわけがない。持ち上げるのがやっとのラケットで、どうやって飛んできたボールを打てると言うのだ。
なんとかしなきゃ。
展夫は燃えた。
今時のギャルが、テニスのひとつもできないなんてはずはない。要は練習だ!
かくして、過酷《かこく》な練習が始まった。カラフルふたり組がパコンパコンやってる横で、まずはトスをあげ、ボールがそれらしい位置に来た時ラケットのそれらしい位置に当てて打ち返す、というところから。
だが、もともと自己流の展夫がコーチをしたのがまずかった。トス・ボール三個のうち一個を返せるようになった時には、倫子《さとこ》は完全に『ボールを地面に叩きつけるように』ラケットを出すコツを、それだけを、覚えてしまっていたのであった。それも『ほとんど自分の足下の地面に』である。
それではまったくダメなのだ、と悟った時の倫子の顔。展夫は教えかたの不味《まず》さを深く恥じた。遠慮《えんりよ》をせずに、キチンと教えられたに違いないカレシ氏に頼めばよかった、とは、後知恵である。
「ごめん」
と、倫子は言った。
「もういいから、柏崎さんも、ミカやミカの彼と打ち合いして来て」
「そんなの」
冗談《じようだん》じゃない。ひとりだけ仲間はずれになんかするわけにいかないじゃないか!
展夫は半分ヤケになっていたので、倫子《さとこ》が、マメだらけになった手にこっそりハアッと息を吹きかけているのを見ても、あまり深く考えなかった。そこで、じゃあ僕らはもう着替えてあのふたりの試合でも見てよっかと言えば良かった、とは、後悔《こうかい》である。
そういうわけで。
倫子の打った玉に限り、ワン・バウンドでもネットを越えたらフェア、というとんでもないルールで、打ち合いが始まった。
倫子はボールが飛んでくると、それがどんなに右いっぱいでも、思い切り走ってバッグハンドの両手打ちをした。それが、ちっとも有効でないことに気がつくと、こんどは自分のほうにやってくるボールを全部必死で避けた。ホームランでもなんでもいいからとにかく打てと言われると、とうとうまっとうにラケットを振るようになった。たいした進歩だとみんな言ったが、なんのことはない、足のほうが参ったのだ。棒のように突っ立ったまま、腕だけブン! と動かすので、掠《かす》るどころか、自分の振ったラケットの遠心力によろめいて転びさえした。
とうとう、カレシ氏が出てきて、正しく美しい素振りのフォームを示してみせたりしたのだが、その結果、不注意な生徒が瀕死《ひんし》のバカ力で振り上げたラケットを顔面で受け止めることとなった。倫子自身も、もちろん無事ではない。二時間の予約を消化するころには、擦《す》り傷と筋肉痛と疲れたあまり変な方向についてしまった足首の捻挫《ねんざ》モドキなどなど、まさに満身|創痍《そうい》であった。
「いやー、はじめはみんな、あんなもんですよ。はっはっはっはっ」
帰りの車の中で、ピアッツァのハンドルを握ったカレシは、鼻の擦り傷にスヌーピーのバンドエイドを張った顔をちょっと振り返らせて笑った。大音響のヒューイ&ルイスも、その場の重苦しい空気を払うには少々役不足であった。
「そうよ。さとこ。今からどんどんうまくなるし、そういう時が一番おもしろいのよ」
助手席のトモダチ嬢も励ました。
「また来ようよ、ネッ」
ネッ、と言われたカレシ氏がどんな顔をしたかは見損なった。ちょうどその時、倫子が展夫の膝《ひざ》をつついて、情けない声で言ったので。
「もう、やりたくない」
そして、ぐったり小さくなって、窓の向こうに目を逸《そ》らした。
無理もない。
展夫は倫子の小さな手をそっと叩《たた》いた。
やらなくていい。もう一生テニスなんてやらなくていいからね。
「だから……わかるだろ。あいつは、運動神経も体力も、正真正銘《しようしんしようめい》最低なんだ」
「泣かせるねぇ」
とカサゴちゃんが大笑いした。
みんなはもっと優しかった。
「でもさぁ。スクーバは別なんじゃない? 変に体力でやっつけようとする器用なやつより、よっぽどうまくなると思うよ」
「うん。なんつったって、急がない、無理をしない、疲れない、が基本だからな」
「そうよ。あんなのスポーツのうちじゃないわよ。点数を争うわけでもないし、老人の散歩くらいしかカロリー消費しないんだって。のんびりとしたひとのほうが向いてると思うけど」
「いや」
「そうじゃないわよぉ」
言いかけた展夫を、カサゴのハスキー声が遮《さえぎ》った。
「そりゃ運動そのものも苦手かもしれないけどさ。基本的にやなんじゃないの、誰かとチームを組んで何かするってのが。迷惑《めいわく》かけるなって思い込んでて、悪いからいい、やらない、って思っちゃうんじゃない」
「おー」
展夫は唸《うな》った。
「そうなんだ。そういう子なんだよ!」
「でしょ」
カサゴはふん、と鼻の穴を見せびらかした。
「んだったら、ノブオちゃんが、こんだけ夢中になってるモグリなんて、なおさら気が進まないわよ。せっかくの楽しい時に、お荷物になって邪魔《じやま》するわけでしょ。グズでノロマで不器用なとこ見られるわけでしょ。そんなのやーよ。ましていっぱい人死にも出てるんだもん、おっかないわ、そりゃ。家でひとりでじーっとして、つまんない人生送ってるほうがよっぽどいいのよ、そういう子は」
「……カサゴちゃん……」
「あーら。気にさわった?」
ぐいっと干したグラスの氷、カラカラいわせると、カサゴは誰《だれ》も勧めないのに、メンバーのボトルを取ってさっさと注《つ》ぎ足した。
「そのへんまではわかんないでもないけどね。だから、旦那《だんな》までいっしょに家でジーッとしててくれるヒトじゃなきゃヤダなんてのはふざけてるね。要するにあれでしょ、そんだけつまんない人生でも、彼女、ひとりでやってけないんだ。誰かにべったりおぶさっていっしょに腐《くさ》ってもらいたいわけよ。あーヤダヤダ。一発ぶん殴《なぐ》ってやんな、そんなヤツ」
「あーあ。カサゴちゃんがまた酔ったぁ」
「こういう話題はヤバイんだってば」
「あら。……足しましょう」
黙ってしまった展夫の手から、空のグラスを奪《うば》っていったのは朱鷺子《ときこ》である。
「サンキュ」
「考えこんじゃって……」
クスッ、と朱鷺子が笑った。
「ん」
「考えちゃだめよ。好きなんでしょ? それなら、頭で考えちゃだめ」
「んーまっ。朱鷺子ちゃんのエッチィ」
「ターラ」
にらまれたタラが黙ったところに、
「めーわくってなんなのよ。めーわくのどこが悪いのよっ、うぃっく!」
「まーまー、カサゴちゃん、あっちいこ、あっち」
「誰《だれ》だってめーわくでしょうが。みんなかけあいやりあいでしょー」
「はいはい。ほんと迷惑《めいわく》なひと」
「いーじゃないよ、それが人間よン。めーわくかけたくないなんて偉そうなこと言うヤツはねぇぇ、ほんとはココロが狭いんだよココロが。自分がほんのちょっとめーわくかけられんのもヤダからそーゆーんだあ!」
タラと大森の苦労のあげく、カサゴの巨体は、ようやくカウンターに打ち上げられた。視線を戻《もど》すと、まだそっちを見送ったままの朱鷺子がそっと呟《つぶや》いた。
「そんなオンナシ」
同し、の『シ』の音が強い、唇の隙間《すきま》から漏《も》れるような声だ。
「え」
朱鷺子は、ああ、とあいまいに笑うと、早口に続けた。
「口にすることは、いろいろで反対になっちゃったりするけどね。みんなオンナシなんじゃないの、その、奥は」
「…………」
「好きだったら、コトバじゃなくて、その奥のとこ、感じてあげなきゃ」
展夫にというより、自分に言い聞かせるような平らな言いかただった。
カラカラカラ。
しばらく水割を揺《ゆ》らしてから、朱鷺子はふいに立ち上がり、まだ何かうめいているカサゴの脇《わき》からカウンターの中のマスターに小銭を渡して、タバコを受け取って来た。
「せっかくやめてたのにナ」
拗《す》ねたような笑顔で、ぱしっ、と擦《す》るマッチ。
「うわー効《き》くわぁ」
くらくら。ふざけて頭を揺すってみせる朱鷺子はこどもっぽいのに、水割もタバコも、フランス人のようなしゃべりかたも、いやによく似合うのだ。
おとなだな。朱鷺子さんは。倫子《さとこ》がこんな女だったら……。
展夫は拳骨《げんこつ》を顎《あご》に当てて考えた。
だったらいいのか。
だったら手に負えないよ。
ぼうっとおとなしい顔を思いうかべると、背中のどこかが痛くなった。
3
「素敵《すてき》だけど……飛行機|怖《こわ》いし」
あたりを憚《はばか》っているらしい声が、いっそう低くなる。
「きっと、ソバカスができちゃう」
「いーじゃないか。俺《おれ》、好きだよ、ソバカス。じゃんじゃん作れ作れッ!」
いかん。
うっかり力が入りすぎた。ササッとあたりを見回しながら、展夫は、肩と顎で受話器を挟んだ窮屈《きゆうくつ》な姿勢をいっそう縮こめた。
「飛行機がやなら船だってあるから。だからとにかくだ。あけとけよっ、六月だぞ。いいな? わかったなっ」
こんなレジの陰にコソコソ隠れながらにしちゃ、ずいぶんと威張《いば》った言いかただぜ。
自分で自分を苦笑する。
もう切り上げたほうがいいな。
「じゃ、そういうわけで」
腰を浮かしかけた時。
「でも柏崎さん潜《もぐ》るんでしょう」
倫子《さとこ》の声が重なって、あわててしゃがみ直した。
「あたしはいやよ。言っとくけど。絶対、絶対、やらないからね!」
あー。もう。
展夫はぎりっ、と歯を鳴らした。
なんでそう先回りするんだよ。ケンケン言いやがって、バカ!
「ははは。まーまー。そのへんは後から相談しよ。な、とにかく六月」
「やっぱり」
冷たい声のひとしずく。頭の中いっぱいの六月の青空に、たちまち分厚い雨雲がふくれあがった。
「やっぱりそうなの。なによ。ずるいじゃない。海に連れてってやるだなんて。どうして、ただの旅行みたいなこと言うの」
「いや、そうじゃなくて、ほんとに、とにかくまず、きれいな海をきみに」
「嘘《うそ》つきッ」
つーつーつーつー。
切れた。
展夫はのろのろ立ち上がって、受話器を戻した。
なんでこうなるんだ。
どこがまずかったんだ。やっぱ、仕事中ってのがよくなかったのかな。でも、もうそろそろ焦《あせ》らないとツアーなくなるし……。
はぁぁぁぁ。
薄暗い雨の気分に、展夫は思わずやつあたりめいたことを考えた。
それもこれも、いまいち決まったコトバがないからいけないんだ……!
無意識に握りしめていたボールペンで、展夫はそこらにあった紙に書きつけた。スクーバ。シュノーケリング。スキー。スケート。ハングだってそうだ。
こういうのを、マラソンだの体操だのテニスだのときっぱり区別することばが、なんでないんだ。球技ってのはあるけど……あとはみんなまとめて『スポーツ』。いい加減だよな。
人間は、雪深い山がうまく歩けない。だからスキーを発明した。氷の上も歩けないから、スケートを履《は》いた。空が飛べたらいいなって思い続けて、ハング・グライダーを作り上げた。生身じゃできないことでも、なんとかかんとか工夫してやっちまうんだ人間は。でもって、それを楽しんじまう。記録とか、勝負とか、体力増強とかはオマケだ。スピードや、軽さ、自分じゃないカラダを手にいれたみたいなフィーリングがイイから、やるんじゃないか。こういうのも『スポーツ』って言うんならミッドシップ・カーで高速ぶっとばすのがなんでそうじゃないのかまったく変な話だ。
スクーバは、そういうのの、ほんとのほんとにすごいやつだっていうのに。それがバシッと説明できたら、倫子《さとこ》だってきっとわかってくれるのに。
海が好きだから。魚が見れるから。珊瑚《さんご》とかキレイだから。そういう楽しみかたも、もちろんできる。でもそれだけなら、テレビでも見てりゃいい。だけど、あの感じは。前後左右上下まで、どこでも行ける自由。飛んで、旋回《せんかい》して、急反転して。夢の中でしか見たことのない鳥の視野が、現実のものになったような。うまく中性浮力《ちゆうせいふりよく》を取れば足ひとつ指一本動かさずに、ぴたりと静止できる。静かで、完全で、どんな椅子《いす》よりベッドより安らげる海の腕の中で、時間だって止まっているのかもしれなくて……。
展夫は、ボールペンのキャップを噛《か》んだ。メモはなんだかんだですっかり真黒になっている。その上にまた、いつの間にか無意識のうちに、テニス、テニス、と書いていたのだ。
あの壮絶な二時間が今更《いまさら》またしても悔《く》やまれた。たぶんそれまでにも、学校の体育の時間とかにさんざん懲《こ》りていたに違いない倫子《さとこ》。あれできっぱり、『運動なんてキライ』ってのをダメ押ししてしまったに違いない。
スクーバは、死人も出てるし……。
でも、違う。違うんだ!
三メートルでもいい、いっぺん潜《もぐ》りさえしたら、あの感じがわかる。ほんものの海を見たら、きっとやってみたくなるはずなんだ。なのに、なんで、行きもしないうちからそんなに頑固《がんこ》に絶対ヤラナイ! だなんて……。
「ちょっとー、店員さーん」
うわっ。まずい。
誰もいないのか? 近くに?
「はい、ただいま!」
あわててレジ・コーナーに飛び出すと、ふいに事務室の戸が開いて、現れた巨体と鉢合わせしそうになった。
「…………!」
「す、すみませんっ。お客さまなので」
お小言はのちほど。
頭だけフィル・コリンズに似てる巨体中年は、なんとかいうここのお偉がただった。
まずいな。名札見られたかな。本社に文句なんか言われるとコトだぜ、おい。
出向中のデパート側の上司と、もともとの就職先である某家電メーカーの上司。こんな閻魔《えんま》サマがふたりいるような境遇に、いつまで置かれつづけるのだろう。
売場の通路を駆け抜けながら、展夫はそっとため息をついた。
早く逃れる方法はわかっている。
結婚である。
社長はどうも、独身社員を一人前の社員とは思っていないらしい。チョンガーでいるかぎり一生ヒラの出向だ、などという過激なウワサもあった。あまり本気にしなかった展夫だが、同期のひとり、たいしてシゴトができるヤツとも見えなかった中田《なかた》という男が、新婚旅行から帰るなりオークランド支社に派遣されたのには少々|焦《あせ》った。次に誰《だれ》かが飛ばされるとしたら行く先は、ドイツかオーストラリアじゃないかと聞くに到《いた》って、展夫の理性は吹っ飛んだ。
オーストラリア。シドニー支社。
そこまでだけで、憧《あこが》れるやつが少なくないかもしれない。
だが。
ケアンズ。リザード。ヘロン島。こんな地名がピンとくるやつはそうそういまい。
だがダイバーなら。
グレート・バリア・リーフ!
おおお。みんなギラッと目を輝かすに決まっている。モグレないやつを行かせるなんて冗談《じようだん》じゃない。宝のもち腐《ぐさ》れだ。
コッド・ホールにナーサリー・ボミー。休暇ごとにクルーズを組んで、美味《おい》しいポイントに少しずつ潜《もぐ》れば。エイにタカサゴ、バラクーダ。スケールがけた違いなヤツばかりいる、南半球の珊瑚礁《さんごしよう》。天国にアナタ、近いどころかそのものでっせ。
ウィークデイは死にものぐるいで働いてみせる。二年いさせてくれたなら、後は一生どこに飛ばされようとも文句は言わない。
結婚しよう。結婚して、グレート・バリア・リーフに行こう!
展夫は焦《あせ》った。
だが、同期の連中はみな一様に焦っているのだ。突然身ぎれいになったヤツ、誰《だれ》かれ構わず年頃《としごろ》の妹がいないかと聞いて回るヤツ、コンピュータ見合いの申し込み書をこっそりコピーして売るヤツまで出た。やけに付き合いが悪く口数が少なくなったのがいれば、まとまりかけている話でもあるんじゃないか、ちょっと様子を見てみようと尾行の相談すらはじまる。たまの会議の後などにソープランドの話題がぷっつり途絶《とだ》えたのも、AIDS騒《さわ》ぎのためだけではあるまい。
無理もない。同期だけで五十人を越えるそこそこの大所帯だ。ここで一歩出遅れれば、今よりもなお一層厳しくなることが予想される将来のポスト争いに不利になることは確実なのだ。
なぜ、独身がいけないのか。社長の信念とやらはそれほど確固たるものなのか、デパート、スーパーその他の出向先の配偶者手当てを出さなきゃならんのはイランと言うからしかたなくなのか、はたまた出向の次はどこか地方支店への転勤というのが定石《じようせき》でそれには奥方が必要であろうという温かいご配慮から来るものなのか、そのへんの事情はわからないが、ともかく。
結婚が出向の終わりを意味し、サラリーマンとしてのステップをひとつ昇らせてくれることは、まず間違いのない事実なのであった。
だからって。
林立する冷蔵庫の谷間を駆け抜けながら、展夫は不安に痛む胸を励ました。
俺《おれ》はあいつらとは違う。誰《だれ》でもいいから早くなんてことは、考えるものか。出世がなんだ。地位がなんだ。
倫子《さとこ》がいい。俺はあの子が好きなんだ。
倫子がまだ決心つかないというなら、つくまで待っていてやらなきゃ。それが男の愛情ってもんじゃないか。
ああ、でも。
ああ、でも、グレート・バリア・リーフ……。
おっ。あれか。
やっとみつけた。
携帯用ドライヤーを三つも四つも抱えた小象のようなオバンが、電子レンジの脇《わき》できょろきょろしている。展夫を見るなり、ホッとする。だがすぐに、芝居っ気たっぷりに、困るわねぇ、といった顔をして見せた。
「たいへんお待たせいたしました」
「ほんとよ」
「あいすみません。どちらにおいでなのかわかりませんでしたもので……」
しまった。オバンがムッとする。背の低いことを言われたものと思ったらしい。
展夫は早口に話を変えた。
「ドライヤーでございますか。ご旅行用ですね?」
旅行。
チクン、と口がひきつったが、まずい。とりあえず選ばれた中に我が社の製品は見当たらないではないか。
「そう。どれが便利なのかしら? なんだかみんな似ててサッパリ。使うのは娘なんですけどね、髪を長くしてるもんで、早く乾くのがないか見てきてくれって。まったく、あんな手間ひまかかるのに、なんだって毎日頭洗わなきゃならないのかしらねぇ」
ここが出向社員の正念場である。
「お嬢さまですか。それでは、どうぞ」
ドライヤー・コーナーまで連れ戻し、
「私といたしましては、こちらの新製品をお勧めいたしますね」
「どうして」
「小型・軽量ですが、風はたっぷり。ブラッシングしながらでも持ちやすい形が研究されておりまして、長い時間ドライヤーをお使いになるかたにぴったりです。ブロー用ノズルも使いやすいのがついてますし」
「ヨーロッパで使える?」
「え」
ヨーロッパだと?
この金持めが。身につかない金持の無知。それじゃ、旅行用品売場いかなきゃだめじゃないのよ、オバサン。
展夫は迷った。
そっちには、世界中ほとんどどこでも使えるようになっているのがあるはずだ。アンペアだのコンセントの形だのがいろいろにかわっても、対応できるアタッチメントのセットがついている。でも、機能は。絶対にこっちのほうが上なんだ。ドライヤーなら多少W数が違ってもどうってことないし。
親切に教えるべきか。あくまでウチの売上を伸ばすべきか。
成績。給料。旅行の費用……。
「使えるんですか?」
「はぁ」
展夫はふうっ、と息をついた。
「使えないことはないんですが」
ああ。俺《おれ》はなんて正直者なバカなんだ。
「このままではだめです。コンセントが合いませんから。よく外国に行かれるんでしたら、専用のをお持ちになったほうが便利でしょう。それは、新館六階の旅行用品の売場にございます。おそれいりますが、そちらに行かれましてご検討ください」
「ろっかい」
オバンはうっとうしそうに頭をふると、絶対お勧めの新製品ドライヤーを展夫の手に押しつけて、あっち? と指で尋ねた。エスカレータの方角だろうと思ったので、はい、と答えると、そのままヨチヨチ去っていった。どうも、のひとこともなかった。
4
冷たい風が通ったと思ったら、
「きちったー」
と、朱鷺子《ときこ》が現れた。
「ポ」
「ぽかえり」
「ぽ」
メンバーが口々に答えた。展夫も口だけ『ポ』のかたちに丸くして、すぐにダイビング雑誌に目を落とした。読んでいるわけではない。グレート・バリア・リーフの写真を、ただぼんやり眺めていた。
なのに。
「あらー? ノブオくんたら」
樹《き》のような匂《にお》いが、隣に腰をおろした。
「ひとりでこんなとこ来て。彼女と仲直りしたのぉ?」
「こんなとこで悪かったわねっ」
ドスドスわざと足音をたててやってきたカサゴが、グレート・バリア・リーフの横にグラスと突き出しの菜の花の小鉢を置いた。
「おや。カサゴちゃん、もうできあがっちゃってんの。まだ……九時前じゃないの」
「えーえーできあがってますよ。べーだ。文句があんなら来ないでよッ」
「イだ!」
顔をあげると、カサゴに対抗して、両手で口の端を引っぱり物凄《ものすご》い顔をした朱鷺子が見えた。
展夫は黙って、目を落とした。紫がかった海の中、ナポレオン・フィッシュのヌーボーとした目のすぐ横でオージィ(オーストラリアの人)らしいダイバーがお茶目なポーズをとっている。ナポレオンはでかい。三メートルあるかもしれない。
どしたのカレ?
ほっとけよ。
朱鷺子と、KIN坊たちが目で言い交わしている気配がしたが、顔をあげなかった。
グレート・バリア・リーフわくわく冒険豪快ツアー。六泊七日、四十万二千円。
ほとんど給料三か月ぶんだ。ふたりなら八十万、冗談《じようだん》じゃない、ボーナス除けば半年分ってわけか。
連れてけるわけない。こんなとこ。
ダイビング・フィーだけなら、2ダイブで80|A$《オーストラリア・ドル》なのに。たったの一万円ぽっちで、こんな海に、こんなサカナに逢《あ》えるのに。
ああ。だまってウンって言ってくれさえしたら、倫子《さとこ》もグレート・バリア・リーフもシドニー支店から始まる出世街道も、全部全部手にはいるのに……。
と、決まったわけではないのだが。
展夫の気持ちの中ではもう、これらは完璧《かんぺき》に不可分、三位一体、三種の神器、オール・スター夢の共演番組になってしまっていた。
そして、直接働きかけることができるのは倫子だけなのだ。
なんとかして連れていかなきゃ。怖《こわ》がりの倫子でも思わずエントリーしてみたくなるような、明るくて暖かい海。エメラルド・グリーンの珊瑚礁《さんごしよう》。
白いボートを沖に止めて。ちょっと大胆な水着の倫子に、そうだ、初めはマスクとシュノーケルをつけさせてみるだけでもいい。水面で顔をつけるだけなら、いくらなんでも死ぬほどイヤだとは言わないだろう。そしたら俺《おれ》は、コーラル・フィッシュの真中に潜《もぐ》ってってみせる。マスクの中にちっちゃなミツボシクロスズメなんか紛《まぎ》れ込《こ》ませて連れて戻ったら、きっとびっくりして、感激して、きゃあきゃあって喜ぶさ。
そこで、ちょっと試しに、ってレギュをくわえさせてみる。黙って吸えば、気持ちいい冷たい空気がじゃかじゃか出てくる。えーっこんなに簡単だったの、って驚く倫子。足の下にはクマノミ城。すこんと見えてるとこまでなんか、怖《こわ》いわけあるもんか。行ってみようかな。
そうしたら、俺はとびきりやさしくエスコートするよ。しっかり手をつないで、ゆっくりでいいんだ。怖がらないで。俺を信じて。さぁ、魚たちの中へ。ふたりだけの海へ。
……えーなぁぁ……。
思い描いてみると、あまりのまぶしさに涙がにじんだ。そんな光景、そんな時間を共有できたら。ああ、もう、そのまま死んだっていいじゃないか!
しかし……。
南の島は遠いのだった。先立つものが、何としてでもいるのだった。
それも、ふたりぶん。
「……から、いいお金にはなるらしいけど、だめ?」
んむ?
半分眠っていた耳が、突然の『オカネ』の響きにダンボになった。
「でもー」
「いいよぉ、そこまでしなくても」
「そうよね」
朱鷺子《ときこ》は、ちょこん、と肩をすくめた。
「まぁ、是非って話じゃないから。いいわ、断る」
「ひょっとして、バイト!?」
展夫が言うと、みんな顔をあげた。
「そうだけど」
と、朱鷺子。
「やる!」
展夫は叫んだ。
「なんだか知らないけど、俺やる!」
誰《だれ》も何も言わない。探るような目を見交わしている。
展夫は、いやな予感がした。
「ひょっとして、あれか? 水死の……」
ボディひきあげ。
それならペイは悪くないはずだ。
でも。でも、この際。ふたりの海のためならば。水中捜索の訓練も三回くらいはやったことあるし……。
「じゃないんだけどさ」
タラが頭を掻《か》いた。
「ノブオの感じじゃないぜぇ。だって、ゴミ掃除なんだぜ。船底の」
5
こんな海には潜《もぐ》ったことがない。
単に暗くて冷たいだけなら、どうってことはない。ナイト・ダイブなら三十本はやってきた。だが。こんな。周り中に、何だかよくわからないぶよぶよした気味の悪いもの、汚らしいものばかりが漂っていて、三十センチ先もよく見えないなんて。これは海じゃない。ドブだ。こんなのは初めてだ。
最後にしよう。
潜行《せんこう》開始後一分とたたないうちに、展夫はそう思った。
これっきり、二度とやらないぞ。イイイ、きびわりぃ。おい、なんだ。あれは。まさか。まさか。なんか、雑巾《ぞうきん》に紐《ひも》がぶらさがったみたいで、どす黒くって……。
見ない見ない見ない! 考えちゃだめだ。忘れるんだ。
展夫はほとんど目を閉じて、ガイド・ロープを手探りしながら匍匐《ほふく》前進するように進んだ。まだか。まだか。まだか。
知らず知らずのうちに、ドライ・スーツの下で全身|鳥肌《とりはだ》が立っている。口の中にドブとオイルの混ざった吐《は》き気を催す味がする。こんな腐《くさ》った水飲んだら病気になる。そう思うのだが、どうしても滲《し》みこんでくるのだ。
スーツ臭くなるだろうなぁ。よーく何度も石鹸《せつけん》つけて洗わなきゃだめだなこりゃ。ああ、早く時間が過ぎればいい。エアがなくなって、あがらなきゃならなくなればいい。もうやだ。十五万くれるったって二度とやらないぞ。三十万くれたって。五十万。百万……なら考えてもいいけど……。
コーン、コーン、コーン。
鈍《にぶ》く響く音に、展夫はあわてて目を上げた。ほんの少しばかり先に、いくつものか細いライトに照らされた巨大な黒い塊《かたまり》があった。先行していたダイバーがふたり取りついて、表面の錆《さび》やフジツボや何だかわからない考えたくないものを、こそぎ落としだしている。これが目的のスクリュー、大掃除しなければならないお客さんなのだ。
展夫はもうすっかりウンザリしていたのだが、剥《は》ぎ落とされたものがどんどん落ちてくるので、しかたなくロープを離した。スクリューのあいているところにとりついて、ふくらはぎにくくりつけておいた玄翁《げんのう》のようなものを解き、作業にかかる。
ゴン。
ガッ。
ゴッ。
水は重くねばっこくて、玄翁がうまく使えない。コツがわからなくて、さっぱりはかどらない。思い切り力を込めてもふにゃんとどこかに逸《そ》らされて、イザぶつかる瞬間には憂鬱《ゆううつ》な沈鬱《ちんうつ》な頼りない感触《かんしよく》がするばかりだ。
ゴッ。
ドコッ。
ゴッ。
それでもわずかずつ崩れるものが、マスクに頭に降りかかる。ブヨブヨした何かが、頬《ほお》にへばりつく。展夫はゾッとした。
何でこんなことしようと思ったんだろう。みんな止めたのに。
コーン。
コーン。
誰《だれ》かの叩《たた》くうまいリズムが神経の先をチリチリとなぶった。なんだい。まるでお経じゃないか。こっちゃ地獄の亡者《もうじや》ってわけか。
おいおい。くじけるなよ。何が地獄だ。ほんの一時間の辛抱《しんぼう》じゃないか。すぐ終わる。こんなのは、もうじき終わる。永遠にやってなきゃならないわけじゃない。
しかし、気分はいっこうに晴れない。一分一秒ごとにムカムカ不快な落ち着かなさが募《つの》っていく。油断すると、そのまま気が遠くなりそうだった。
くそっ。くそっ。くそっ!
イライラ落ち着かない気分をスクリューにガンガン叩きつけながら、展夫は歯をくいしばった。
痛いわけじゃない。苦しいわけでもない。エアが薄いわけでもないし、拘束《こうそく》されてるわけでもない。サメだのウツボだのに囲まれてるわけでもない。汚いったって毒の中に潜ってるわけでもない。実際の害なんかない。ただ、気分の問題なんだ、気分の。
それにしても辛《つら》い。
たいしたことじゃないと思う。暗いぐらい、ちょっと汚いぐらい我慢《がまん》できるはずだと思うのに、もうとにかく一刻も早く地上の明るい空気のあるきれいなところに戻りたくて、しょうがなかった。
だが、これは仕事なのだ。途中で放りだして逃げるわけにはいかないのだ。
チキチョウ、チキチョウ、バカ野郎!
あんまり無茶くちゃにガンガンやりすぎて、息が上がった。展夫は目を閉じ、手を止めて、落ち着こうとする時いつもやるように、ゆっくり三回深呼吸をしようとした。そのついでに何気なく、ダイバーズ・ウォッチを覗《のぞ》こうとして腕を曲げた。
どこかに手がぶつかった。ハッとした時には、玄翁《げんのう》がするりと抜け落ち、あっという間に落下して行った。
……あああ!
展夫の胸を、たちまちべっとりと冷たい自己|嫌悪《けんお》が押し潰《つぶ》した。なんでちゃんと持っていなかったんだ。紐がついていたじゃないか、あれはなんのためなんだ、なんで手首に通しておかなかったんだ!
ドジ。バカ。情けない。みっともねぇ。
凄《すさ》まじい勢いで、展夫はフィンをバタつかせ、玄翁を追った。恥ずかしくて、いたたまれなくて、自棄《やけ》っぱちのバカ力だった。
たちまちマスクがよじれた。ドライ・スーツの襟《えり》ぐりからどっと臭い水が流れこみ、全身を濡らした。ざわっと背筋が寒くなった。水は食い縛《しば》っている歯の間からもぐいぐい浸透《しんとう》してきて、いくら吐《は》き捨てようとしても、じゅるじゅるレギュレータにまとわりついた。耳抜きが遅れて、頭の芯《しん》がキーンと鳴った。
……いかん。
止まれ! 潜《もぐ》りすぎだ。こんなにいきなり頭っからつっこんでくヤツがあるか。
何熱くなってるんだ。こんな小さなライトで、こんな濃《こ》い暗闇《くらやみ》に落ちていくちっぽけな玄翁《げんのう》が探せるわけがないじゃないか。あきらめよう。無理なんだ。怒鳴《どな》られたっていい。そうだよ。もうあがればいい。金はいらないって言って、もう帰してもらおう。
戻ろう。
ふり返った展夫は、ビクンと硬直《こうちよく》した。
あたりは、一面の闇だった。
考えてみれば今更《いまさら》驚くまでもない当然のことだったのだが、一旦《いつたん》縮みあがった心臓が、理屈抜きの恐怖をドクンドクンからだの中に循環《じゆんかん》させてしまっていた。
イヤな感じだった。
真黒いゴムを顔にへばりつけられそうな。鼻も口も塞《ふさ》がれ、窒息《ちつそく》させられそうな。
いや、違う。この闇は生きている。右手首のライトを向けて目をこらせば、もやもやと、たぷたぷと、薄気味悪く揺《ゆ》れる無数の不潔なものが、どこまでも果てしなくびっしりと続いている。
ただそれだけなはずなのに。
それだけではない、何かがいる。何か、目に見えない邪悪《じやあく》なもの、こういう暗くて冷たくて汚らしいところを好むものが、ばかでかい裳裾《もすそ》をあたり一面にこっそり広げながら息をひそめニタニタ笑っている気配がするのだ。何十何百という刃物の切《き》っ先《さき》をこちらに向けて、じわじわと、その輪を絞りながら、そう。たぶん、展夫の首筋あたりを、舌舐《したなめず》りしながら見つめているのだ。
展夫はウァアッ、と両腕を振り回した。
もちろん、何も刺さるわけはなかった。ただブヨブヨした重たい闇が右に左に揺れただけだ。
ははは、ははははは。もちろん。んーなものはいないさ。そうさ。暗いのはあたりまえだ。ここで海面が見えたりしたら、そのほうがよっぽど不気味だ。びびることはない。
平気だ。平気だ。いいから、もう何も考えずに早くあがるんだ。
あがると言っても。
闇《やみ》はあまりにも圧倒的で、無表情だった。どちらを向いても同じ。三百六十度、上下左右に何の区別もない。
展夫は震える手を脇《わき》に回して、ゲージを取り上げた。残圧70。深度28。よしよし。たいしたことはない。
そこまでは、冷静だったのだが。
次の瞬間、展夫はブォウ、とくぐもった声をあげた。心臓がまた喉元《のどもと》までせりあがってしまった。
コンパスが発狂していた。針は、ぐるぐるぐるぐる凄《すご》い勢いで回って回って回って、一瞬《いつしゆん》たりとも落ち着かない。ほんの一瞬見ただけなのに、ぐらっとめまいがした。
船だ。
ふくれあがる不安の隅で理性が言った。
でかい船が、でかい鉄の塊が、磁石を効《き》かなくしているんだ。これが、科学的で正しいありかたなんだ。
じゃあ……どっちに帰るんだ?
ガタガタガタッと激しい震えが走った。子供に捕まれ振り回される人形のように、意味もなく無防備に翻弄《ほんろう》されながら、展夫は、ついさっき、スクリューにしがみついていながらあんなに心細がっていた自分を、遠く懐かしく思い出した。あそこにはガイド・ロープもあったし、他のダイバーだっていたのに。なんであんなにおっかながったんだろう。ぜいたくな。
怖《こわ》さなんて理屈じゃないって、誰《だれ》かも言ってたな……。
怖さ。
とうとう、はっきりそう思い浮かべてしまったら止まらなくなった。
怖い、怖い、怖い。怖いんだ!
展夫は、ガムシャラに泳いだ。頭の中が『怖い』ではち切れそうで、全身全霊を込めて動いていないと『怖い』に押しつぶされてしまいそうで。
イヤだ。こんなのはイヤだ。帰りたい、家に帰りたい……!
ふわん。
突然、スイッチが切りかわった。
辛《つら》くて怖くてイヤでみじめだった気持ちがすっと消えた。ぼうっとして、なんだか暖かくて嬉《うれ》しくて、ご機嫌《きげん》だった。幸せの肌《はだ》を抱き締《し》めている気がした。と、同時に、はじきだされた怖さがピーンと痛い塊になって、意識の表面に必死にしがみついた。
おー。いい気分だぁ。(バカ!)
ちっぽけなちっぽけな塊は、幸福な気分の分厚い殻をガリガリとうるさくひっかいた。
うわー。最高ぉぉ。(ヤバイ! バカ、窒素《ちつそ》酔いだ。死ぬぞ!)
へー。そうか、窒素酔いってこぉんなに気持ちいいのかー。まいったなぁ。(早く、早くフィンを使うんだ。足を動かすんだ。浮上《ふじよう》しろ! このまま意識を失ったら……)
浮上ぉ? 無理無理。もう足なんか動かないよぉ。ほら、こんなに重いんだから、もういいよ。(冗談《じようだん》じゃない、こんな汚い海で死んでたまるもんか!)
いいっていいって。たいしたことじゃないよ。(手だ! 手なら動かないか?)
えーっ。(えーっじゃない! やれ、やるんだ!)
のろのろと長い時間をかけて、左手がしぶしぶ、脇腹《わきばら》のあたりまであがってきた。よしよし! これで助かる。緊急浮上《きんきゆうふじよう》用のカートリッジ。紐《ひも》を引けば破れてBCが膨《ふく》らむ。偉大にして公正なる物理法則よ。水中の物体はその物体と同体積の水のぶんだけ軽くなる。かくしてダイバーは生還する。
展夫は紐を探りあてて、引いた。
が。BCは変化しない。展夫はまだふわふわと漂っている。カートリッジがいかれていたのか? いや、違う。手の感覚がない。まだぶらぶら流されているのだ。やったと思ったのが錯覚《さつかく》なのか?
ふりだし。
もう一度。全神経を指先に集める。じりじりするほど時間がかかる。なんでこんなに思うようにならないのか。覚めない夢の中から抜け出そうともがいている時とそっくりだ。触《さわ》った。この紐だ。
思い切って引いた感触《かんしよく》が確かにあったのに、ちっとも浮かない。また空振りだ。ただ、頭の中でだけ、やったのだ。
どうにでもなれ、という気もした。根を詰めて紐を引くのにはすっかり疲れた。もう遅いのかもしれない。だったら、このまま、ぼーっとしてれば楽じゃないか……。
その時。
何かが当たって、すっかり疲れて物のようになってしまった展夫のからだが、臍《へそ》を軸にくるくる回転した。頭に血が昇って、ムッと気分が悪くなった。ぴくん、と引きつる感触が全身を貫いた。指が動いたのだ。
紐!
たちまち膨《ふく》れあがったBCに、首ねっこをつかまれた。ぐんぐん引っ張りあげられる。胸の奥がチリチリッと焼けつくように痛くなって、展夫は意識を失った。
6
「でへへへへ。どもどもどーも」
みんなあーっと顔をあげた。
「ポ」
「ぽ」
「あっ。死にそこないのノブオくんだ」
「タラはまた……」
展夫は、ははは、の凍りついたままの顔で頭を掻《か》いた。
「ぽ」
と朱鷺子《ときこ》がグラスをあげる。
「ども」
と展夫。
「心配したわよ。減圧症《ベズ》起こさなくて良かった。イッちゃったんだって?」
「はは。はじめて。気持ちよかった」
「バカね。……?」
なんで座らないの?
目で尋ねる朱鷺子に、展夫は、開けたまま押さえているドアの外のほうをちょっと見てみせた。
ははん、と朱鷺子が笑った。
「ほーんと。ベンズはおっかねーよなー。再圧チャンバー(圧縮空気を満たした気密室のこと)、一日百万だろ。窒素《ちつそ》ハイのまま死んだほうがよっぽどマシだぜ」
ちょっとタラ。朱鷺子がつつく。
やめて。今ダメ。
なんで?
いいから。
目会話は、水の中の仲間の特技である。
「んじゃ」
また来るからさ。
「あらー。飲んでかないのぉ?」
ボトルを振ってふくれるカサゴに手をあげて、展夫は Speak Easy の扉を閉める。
階段を半分降りてから、振り返った。
倫子《さとこ》は閉まった扉の前から、黙って展夫を見下ろしていたが、すぐにタタタ、と追いついた。
「どして」
「何が」
「ここでいいのに」
「だめ。ここだと飲みすぎちゃうから。まだ大事を取って」
「ふうん」
釈然《しやくぜん》としない顔の倫子。
誤解するなよ。きみを見せたくないわけじゃない。
でも今日腰を据《す》えるのはヤバい。みんな自分の死にかけた時の話、しかねないからな。
「この次ちゃんと、紹介するからサ」
ポン、と手を置いて、そのまま肩を抱き締《し》めると、倫子はウン、と小さくうなずいた。
「ほんとよ」
「何が」
「連れてきてね」
「オッ。そんなに気にいってくださいましたか、あの店が」
「だって。なんか楽しそうだった。変なひとたちね。ポ、ぽ、って、お魚みたいな口したりして」
「ああ」
誰《だれ》が言い出したのか忘れたけど、すっかり定着したんだよな、あれ。
「ぽは、ぽかえり、の略なんだ。もともとはボート・ダイブでひとり上がってくるたんびにやってたんだけど。ほら。飲み屋だから。いくら馴染《なじ》んでても、いちいち『おかえり』じゃ、なんか俺《おれ》らで占拠《せんきよ》してるみたいで他の客に悪いだろ」
実際ほとんど占拠してるけど。
考えていたら。
「ぽかえり」
倫子が急に立ち止まった。
「おかえりが『ぽ』なら……いってらっしゃいは『ぴ』かな」
「あ?」
「『ぴ』なら、毎日言ってもいいよっ」
にこっ。
なんだか痛いような笑顔で言い放つと、倫子はするっと展夫の視線をくぐり抜けて、歩きだした。
三秒空白。
そして展夫は、グレート・バリア・リーフの青い青い水の底、ムッとした顔の巨大コッドに肘《ひじ》を預けてピースしている自分と、そばに寄り添う倫子の姿を、はっきりくっきり見たのだった。
第二話 イントラ殺し
山本侍郎《やまもとじろう》のフルネームをきちんと書ける人間は、多くない。彼は『タラ』であり、せいぜいが『タラ山』である。このあだ名の由来を聞いた人間はみな、ただ、深くうなずくばかりなのであった……。
1
滑止《すべりどめ》大学文学部英文科男子学生には、『おさきまっくら』とルビをふるのが正しい。どうせまっくらなニンゲンでも、この世知辛《せちがら》い世の中を泳いで渡って楽しんでいくには、そこそこの処世術《しよせいじゆつ》を身につけなくてはならぬ。いやむしろ、だからこそ、彼等の多くは、それだけは、ただそれだけは大したものなのだった。よって、S大キャンパス五号館から三号館への半地下通路は、絢爛《けんらん》たるバイト募集張紙絵巻ギャラリーとなり、毎日|訪《と》う者の絶えぬ一大名所となっていたのである。
われらがタラこと山本侍郎が、初めてかの職安|回廊《かいろう》をうららかにそぞろ歩きしてみたのは、フレッシュ・マンズ・ウィークの喧噪《けんそう》がそう遠くならぬとある脳天気《のうてんき》な春の午後のことだった。
チラシはびっしりと並んで、いくつもの部屋の壁を占領していた。曰《いわ》く。
『ヤル気のあるキミを求む!
販売・レジ主任
時給 四二〇円から 昇給可
肉の丸満 電話○○○・○○○○』
曰《いわ》く、
『ガッツだぜ! ファイトだぜ!
明るい職場の岩浜電気
業種…組み立て・梱包《こんぽう》・配達
要普免・日給制度アリ
先輩も多く働いています』
曰く、
『女子学生急募!!!
誰《だれ》にでもできる簡単なしごと
小桜商会 委細面談』
家庭教師の募集がないな。
十列ほど鑑賞したところで、タラは気付き、少しばかり苦笑した。
そりゃ、そうか。
新入早々のタラにはまだ愛校心だの帰属感だのというものは芽生えていない。たまたま一時限ばかり空いたから、ヒマつぶしに覗《のぞ》きにきてみただけだ、といった軽いノリで見物するタラの態度はいささか不遜《ふそん》であった。いずれ何かしてみようという気がないこともないのだが、親戚《しんせき》一同からの入学祝い金も残っているし、とりあえず欲しいものもない。はじめてのひとり住まいで多少の不自由さえも面白く、休日等にもまだものめずらしい東京のあちこちをぶらぶら歩くだけでけっこう楽しめてしまう、呑気《のんき》で安上がりな性格のタラなのであった。
おお。マクドナルドだ。都会だなぁ。でもどうせなら女子の制服がスゴイと評判のアンナミラーズのほうがいいな。
おっ、英文翻訳だって。ページ三千円!? 豪勢! おそらくシチめんどくさい商業英語かなんかなんだろうが……おーおー、よく見れば端が黄ばんでるじゃないか。去年の九月のハンコだぜ。だよなぁ、こんな学校に求人するほうがどうかしてる。
ニヤニヤ鑑賞に勤《いそ》しんでいると。
「ちょっと。ちょっとあなたっ」
突然、脇《わき》の下あたりから声をかけられた。見れば化粧粉《けしようこ》の浮いた短躯《たんく》な女である。どこぞのDCコピーっぽいピンクの花柄《はながら》ニットが、あまりにも似合っていない。
タラはとりあえず『あたりさわりのない無関心の微笑』を浮かべて、返事をした。
「なんです?」
「やめてください。こういうコト」
「えっ?」
足でも踏んだのかと見たが、違う。こんだ電車の中でなら、まかり間違って触《さわ》ってしまってチカンと間違えられることもないとは言えないが、ここはあまりにもすいている。だいたい近づいてきたのは、この女のほうなのだ。なんだっていきなりこんなブスに睨《にら》まれなきゃならないんだ?
さしも穏和なタラも、ムッとした。
「俺《おれ》がなんかしましたか」
「ここは学生のためのコーナーです」
女はきっぱりと言い切った。フンッ、と顎《あご》をあげたので、三重顎がびろびろっとひろがった。
「OBのかたは、ちゃんと別のとこで探してくださいよねっ。バイトだけじゃないですよ。下宿もそう。授業中|狙《ねら》って来て、いいトコすぐにさらっちゃうんだから。学生がかわいそうでしょ? 私たちが泣きつかれるんですよっ」
そうか。
この女、職員か。なーんだ。よかった。こんなのがクラスにウジャウジャ生息してるのかと思った。
ニヤッと顔を緩《ゆる》めると、女はフムッ、と腕を組みなおした。
「わかったら、でてってください」
「でも俺《おれ》」
女の仏頂面《ぶつちようづら》を見て、タラは広げた両手を空中に止めた。胸元の定期入れをひっぱりだし、まだピカピカの学生証を見せる。
「……新入生……?」
「ええ」
生年月日も見てくださいよ。どこもダブッてやしない、普通の新入生ですぜ。
ヘドモド詫《わ》びを言いながらあわてて学務部のドアに退場していく女の背を見ながら、タラはゆっくりと定期入れを戻した。小さくため息。掲示板のガラスにぼんやりうつる三揃《みつぞろ》い姿を、眉《まゆ》をしかめて凝視《ぎようし》する。
そんなに老《ふ》けてるか、俺?
充分《じゆうぶん》老けてるさ、と鏡像が笑う。高校二年の時のこと、覚えてるだろ。同級生の女の子と歩いてたら、ミドリの羽に呼びとめられて、『あら、いいわね。素敵《すてき》なおとうさまといっしょで』って言われたの。
やれやれ。
タラは瞑目《めいもく》した。
ガッコにスーツ着てくるのはやめよう。しかし、ジーパンにTシャツってかっこが、みょーに似合わないんだよなぁ、俺は。もう少し日焼けでもしないと……。
ひきつる目蓋《まぶた》をこじ開けた時、その求人が目に入ったのだ。
『泳ぎに自信のあるキミ!
海の好きなスタッフ大募集』
うまく納まらない定期入れをまだゴソゴソさせていた手が、一瞬《いつしゆん》止まった。タラはあわてて顔を寄せた。
『ショップおよびスクールの業務全般
インストラクターを目指す二十四歳までの男性一名。履歴書・写真提出のこと。
ダイビングショップ・ウィニー
連絡先 新宿区|若葉《わかば》○○○……』
指導員《いんすとらくたー》。
それは啓示だった。燦然《さんぜん》と輝く大海原を背に笑っているたくましく日焼けした己が姿が、タラの脳裏《のうり》に浮かんだ。
実は、タラは何につけ『目指す』のが趣味なのであった。幼稚園の時カラー竹馬乗りの地区チャンピオンを目指したことに始まり、つい先月お茶の間ショッピングで『二光・その日からシリーズ』の大正琴《たいしようごと》を申し込んでしまうまで、タラの人生は、あくなき挑戦《ちようせん》の道であった。別の言い方をすれば、ひどく飽《あ》きっぽいのだ。こんな大学にしか入れなかったのも、つまりは、わずか五歳にして家庭教師までつけられて発奮し、地元の名門小学校にほぼ首席で合格してしまったのがいけなかったのだ。それ以来、すっかり勉強に飽きてしまったというわけ。
幸いというか不幸にしてというか、親もまた免許免状資格が大好きで、ペン習字だの複式|簿記《ぼき》だの次々に打ち込む我がムスコを努力家だと思いこそすれ、非難したことがない。そう、タラの家は経済的には恵まれているのにけしてほんものの豊かさを持たないあの種の家庭のひとつなのであった。
かっこいいバイト→収入+日焼け+輝かしい挑戦の日々……インストラクターを目指すのもいいけれども、とりあえず、Tシャツの似合うカラダを目指したっていいじゃないか!
タラの瞳《ひとみ》はメラメラと燃えた。
『ダイビング・ショップ』の求人メモにつかれた学務部の検印の日付は、今日だった。さっきのマメ大福はこれを張りにきたのに違いなかった。でなければ、こんな美味《おい》しそうなバイトが残っているはずもない。
タラは駆け出した。
「……お、おねえさん! おねえさま、すみませーん!! すみませぇーん!」
2
新宿通りから安売り野菜が山と積まれたスーパーの角を入ると、金魚を入れるようなビニール袋に入れられた埃塗《ほこりまみ》れの健康サンダル六八〇円がいくつも軒《のき》に吊《つ》るされた靴屋と、眉唾《まゆつば》の謳《うた》い文句がずらずら書き連ねられたテレフォン・デート・クラブの看板と、化粧品《けしようひん》とティッシュとユンケルのポスターの目立つ薬局が並んでいる。その先は、次の角が酒屋である。確かにこのあたりなはずだった。短い通りを何度か往復してみてようやく、薬屋の二階の窓ガラスに一枚一字ずつ『ウ・ィ・ニ・ー』と黄色い張り文字が出ているのに気がついた。階段は薬屋の脇《わき》の自転車置き場となり果てた暗い隅にひそかに存在していた。
だが、それでも、リボン型のピンやカラー・ゴムやヘア・ブラシのディスプレイをくるくる廻《まわ》しながら二階に上がっていくタラの心は、黄金色の希望に満ち満ちたままであった。
「いらっしゃいませ」
店内は狭く、めちゃくちゃに散らかっていた。とっつきの壁際にはピンクや黄色のダイビング用品が間の抜けた取り合わせで並んでいる。床《ゆか》は黒っぽいホースの蛇《へび》の巣《す》だった。とぐろを巻いたホースの真中に、あまり健康的とは言えない顔色の男(推定三十二歳)がしゃがみこんでなにやら銀色のものをいじくっている。しかし『いらっしゃい』と声をかけてくれたのはこの男ではない。ドアから見て左、窓からみて反対側にあたる奥のほうにカウンターがあって、もうひとり、つるりと刈った頭と短い首、地方巡業のプロレスラーといった印象のより年上っぽい男がいた。こちらのほうが偉いのだろう。きょとんとこちらを見ている眼鏡《めがね》をかけた女の相手をしていたところらしい。
どうもあまり活気のある店ではない。
タラは少々ひるんだが、いやいや、つまりそれだけ硬派の店なんだ、と拳《こぶし》を握りしめた。男のカラダを作るには、ぴったりじゃないか。
「何をお探しです」
レスラーが営業笑顔を作ると、ますます油断ならない顔になった。
「いえ、バイトの希望者です。滑止《すべりどめ》大学からお電話さし上げた山本ですが」
「ああ」
レスラーは優しげにうなずき、タラはゾクッと寒くなる背中を、期待のあまりの武者震《むしやぶる》いサ! とひそかに笑い飛ばそうとしてひきつった。
「履歴書持ってきた?」
「あ。はい、これです」
タラは能《あた》うる限り男らしくカウンターに歩み寄って、それを差し出した。
「ふうん。山本侍郎さん……口に出していうと偽名くさいなぁ」
「本名です」
手持ち無沙汰《ぶさた》に立っている(座ろうにも座るところがない)タラを、眼鏡《めがね》の女が興味深そうに見つめた。なかなかきれいな女性で、少し年上らしかった。長い髪の上のほうをきりっと後頭部で止めて、紺色のスラックスを履《は》いたストイックな恰好《かつこう》が学校の先生かなんかに見えた。つまり『あなどれない』『おっかない』感じである。ぐいぐい押してくるようなまっすぐな視線に負けて、タラは思わず目を逸《そ》らした。
雇ってもらえるかなぁ。
あんまり生っ白すぎてダメかもしれない。
落ち着かないのには、慣れない恰好をしているせいもあるのに違いなかった。今日の面接のために、タラは『サーハーっぽい』トレーナーを張り込み、めったに履かないジーパンの緩《ゆる》んだウエストを、高校の制服に使っていたベルトで締《し》め上げてきていたのである。
「免許は持ってる、と。珠算二級っていうのが泣かせるね」
「ええ」
ははは、と笑いながら、やっぱり書くんじゃなかったかな、とタラは思った。あまり空欄《くうらん》が多かったので、つい書いてしまったのだった。
「そう言えばずいぶんキレイな字だけど……これあんたの字?」
「はぁ」
普段はともかく、履歴書ともなるとつい『日ペンの美子ちゃん』字が出てしまうのであった。
いかん、このままでは、女々しいヤツだと思われる!
「親が商売してますもので……」
タラは言い淀《よど》んだ。あまり言い訳するのも男らしくない、と思ったのである。
「ふうん。真面目《まじめ》なんだ」
「ダイビングの経験は?」
突然、女が口を開いた。
来た。タラは唇を嘗《な》めた。
「スクーバは、やったことありません。でもやってみたいです。体力はあると思うし、素潜《すもぐ》りなら自信あります。子供の頃《ころ》からずっとやってますから」
「石巻《いしのまき》出身。宮城県っていうと、松島《まつしま》とか、そういうところか」
履歴書から目を上げずにレスラーが言った。
「松島も行きますが、牡鹿《おじか》半島のほうが近いですから。いろいろ島もあって結構おもしろいんですよ」
「じゃあ水温の低いのは平気ね」
女が言うと、
「どのくらい潜れた? 素潜りで」
レスラーがすかさず聞いた。
「深さですか? 測ったことないけど……七メートルくらいじゃないかな」
「いいんじゃない?」
女が首を倒して、レスラーとタラを交互に見た。
「珠算やるってことは暗算得意だろうし」
暗算? 暗算が何か関係あるのか?
この店は電卓も置いてないのか?
タラは不安になった。俺はダイビングのことなんてなんにも知らない。恰好《かつこう》のことなんか考えずに、入門書でも立ち読みしておくんだった。
「うむぅ」
レスラー氏は履歴書を返そうとして、タラがびっくりして咄嗟《とつさ》に手を出さないのに気付き、あっ、そうかそうか、と手元の引き出しに放り込んだ。
「まるきり未経験っていうのがちょっとなぁ。悪いけど、少し待てるか。他の申し込み者とね、比べさせてもらうから」
「いじわるねぇ」
女が笑った。
「なんでです」
とレスラー。
「Cカードなんてすぐ取れるじゃないの。何十本も潜ったひとじゃなきゃいらないなら、はじめからそう言ってあげればいいのに」
「…………」
「お手伝い要員って潜《もぐ》りの能力じゃないと思うわ。人柄《ひとがら》じゃない? あたし、彼、いいと思う。誠実そうだし、きっと仕事もすぐ覚えてくれるわ。女の子にウケそうだし」
おいてきぼりのまま展開していく成り行きに、タラはただ黙っていた。レスラーは額《ひたい》に皺《しわ》を寄せているが、言い返さない。
「石渡《いしわたり》さんは」
ずーっと黙ってとぐろの相手をしていたもうひとりの男が、ニヤッと笑った。
「彼みたいのがタイプだったんすか」
「バカね」
女はゆとりたっぷりに頭を振った。眼鏡《めがね》がキラッと反射した。
「……んーじゃあまぁ……」
未練たらしく語尾を濁《にご》しながら、レスラーが言った。
「とりあえず、来てみてもらうか。でも、講習は受けてもらうよ。平日は、いつがあいてる?」
「いっ、いつでもあけます!」
思わず明るく言ってしまったが、眼鏡の女が『そんなこと言って』とみつめているのに気がついた。
「まだ、どの授業取るか決める時期なんで、自由がきくんです。できるかぎり、都合合わせます」
「いつできる、講習?」
レスラーはない首を伸ばすようにしてとぐろ男に聞いた。
「いつでもいっすよ。まだ寒いから伊豆《いず》すいてるし、天気次第ですね」
「んじゃ、とにかく学校がヒマな時来てみて。やってもらうことがあったらやってもらうし、合間を見て講習する。海パンは持ってきといてくれよ。機材は……持ってるわけないか。買ってくれるといいんだが……まぁ、レンタルするか」
タラは耳を疑った。
こんなに簡単に決まってしまうとは!
「よろしくお願いします」
「ああ。私は店長の安西《あんざい》。あっちが柳田《やなぎだ》くん。とりあえず、きみが三人めだ」
今週は週末のツアーのために機材をセッティングしなきゃならないからあれこれ説明する時間がない、帰っていい、と言われた。どうもありがとうございました、と頭を下げると、石渡さんというらしい彼女もいっしょに出る、と踵《きびす》を返した。
暗い狭い階段を降り外に出てみると、なんだかやけに眩《まぶ》しかった。
「四谷《よつや》?」
と彼女。
「はい」
「じゃ、いっしょね」
大きめのバッグを肩から下げてすいすい歩きだす彼女に、タラは少し遅れた。
「あの……ありがとうございました」
「えっ」
「口添えしてくれなかったら、決まらなかった」
「ああ。そのこと。どういたしまして」
新宿通りに出ると、人が増えて、歩きにくくなった。横に離れたり縦に並んだりしながらタラは彼女をチラチラ見た。
常連かな。あのおっかなそうな店長にズケズケもの言ってたけど、一目《いちもく》置かれてるみたいだった。キレイだからかな。それも、すんごいベテランだったりして。
慣れた足取りで人混みを切り裂《さ》いていく彼女と、駅前の交差点でようやく並んだ。すると、彼女、タラを見上げて言ったのだ。
「気をつけなさいね」
と。
「は?」
「バイト、初めてなんでしょ。あんまり呑気《のんき》してると、搾取《さくしゆ》されるぞ」
サクシュ。
タラは戸惑《とまど》った。どういう意味だったか、一瞬《いつしゆん》思い出せなかった。どんな漢字を書くかなどまるで怪しい。
こんな言葉を日常会話で聞いたことがない。使う女を、見たことがなかった。
「いくら貰《もら》えるかも聞いてないでしょ」
「……あ……」
「未経験っていうのはやっぱり弱みだな。初めのひと月くらい、講習と相殺でバイト料貰えないかも。いや、レンタル料の分もあるから、逆に取られたって文句言えないかもね」
そこで信号が変わって、彼女は人垣の中でも真っ先に歩き出した。タラはあわてて追いすがった。
「あの……講習って、どんなことやるんですか」
「クルマの教習みたいなものよ。学科と実技。機材の知識とかね。まぁ安いとこでもCカード取るまでには四、五万はかかるから、バイト料くれなくてもしかたないけど」
「Cカード」
「ダイビングのこと、一応はわかってますって認定証《にんていしよう》。これがないと機材借りられないし、ツアーにも入れないの。実際は、ナシのままやってるヒトもいるけどね」
やはりこれは入門書を読んでみなきゃな、とタラは思った。
四ツ谷駅に来たのは初めてで、地下鉄|丸《まる》ノ内《うち》線の切符売場しか見当たらないのにまごついた。あわてて路線案内図に目を走らせているうちに、彼女は左側の階段のほうに向かってしまっている。新宿、という文字を見つけてそうだ紀伊國屋《きのくにや》ならわかる、とホッとしていると声をかけられた。
「あたし国鉄(現在のJR線)だから」
「国鉄もあるんですか?」
彼女が目を空に向けた。
ああ、やっぱりぴあマップかなんか熟読して、都心の交通に慣れておかなきゃ。
思った時には、もう、年上っぽい目つきで睨《にら》まれていた。
「どこ行きたいの」
「えと……新宿です。本屋に行こうかと」
「紀伊國屋? じゃあ、こっちで三丁目で降りたほうが近いと思う」
「はぁ」
「改札出てそのまま、地下街まっすぐ新宿方面に向かってけば迷わない。右手よ」
「右手」
右手を出しながらうんうん真剣にうなずくと、彼女が、ふう、と眉《まゆ》を寄せて笑った。
「危ないなぁ。その調子じゃ。食い物にされて泣いても知らないわよぉ」
「いいんです」
えっ、と彼女も驚いたが、タラ本人もびっくりした。思わず、言ってしまったのだ。
「何事も、経験ですから。授業料払わないと、何も身につきませんから」
線路に掛かる白っぽい広い歩道を、清純そうな制服の女子高校生たちが何人も連れだって歩いてくる。その向こうを流れていく車の列も、土手の向こうに見える教会のてっぺんも、ひとつだけにょっきり立った窓が沢山ある直方体の高いビル(実は上智大学の七号館であるが、タラは知らない)も、よその国の風景のようだ。この見知らぬ美しい街でこれから何が起ころうともみんな楽しめる、そんな気がした。
眼鏡の女はしばらくタラをみつめていたが、突然目を逸《そ》らして、バッグを探った。
「はい。名刺」
名刺なんてもらったことがなかったので、受け取りかたもぎこちなかった。
「それだけ覚悟決まってるのなら、おせっかいかもしれないけど。もし、何かあったら、気兼ねせずに、電話して。ダイバーの面倒《めんどう》みるのがあたしの商売だから」
バッグの口金をパチンと閉じると、彼女はじゃ、と手をあげて、左側の階段の暗がりの中に消えて行った。
NUDAダイビング・ツアー・サーヴィス
石渡 朱鷺子
名刺は横書きで、NUDAの四文字が赤い。
そういうひとだったのか。
かっこいい。
見えなくなってしまった彼女の教師めいた顔をはっきり思い出そうとして、タラは階段の先の暗がりをしばらく見つめ続けた。
3
月曜の朝九時すぎに行ってみると、『ウィニー』は閉まっていた。薄暗い階段の突き当たりのドアに『本日は終了しました』の札が下がっている。
そりゃそうか。
日差しに釣《つ》られて着てきたTシャツ一枚の恰好《かつこう》が少し寒くて、タラはとぼとぼ表に出た。
引き返しても、一時限めには間に合わない。二時限めの授業を覗《のぞ》きに行ってるうちには、開店してしまうかもしれない。『一応』つきで入れてもらったバイトとしては、熱心なところを見せなきゃと、わざわざ早起きして来たのだった。
何時から始まるかぐらい書いといてくれればいいのに。
いや、聞かなかった俺《おれ》がバカなんだ。いやいや、あれじゃうっかり早く来ちまったお客だって困るぞ。
考えながらぼんやり歩いて、しばらく迷ってから、タラは喫茶店に入った。
十時に行ってみても、同じだった。今度は十五分ばかり、階段に座ったり薬屋の軒先《のきさき》を眺めたりしながら待ってみたが、誰《だれ》も来なかった。真新しい学生手帳を破って『ルノアールにいます』とメモを書いてみたが、おしつけがましい気がしてそのままポケットに押し込んだ。
時間つぶしにぶらぶら歩いてみたら、ごく近所になにやら立派な建物を発見した。迎賓館《げいひんかん》だった。
これがそうかぁ。
白と金と緑。広い前庭の向こうに見える純洋風の玄関《げんかん》。その向こうが、どこまであるのか、どんな風になっているのか想像もつかない。どこかの国のお客が泊まっているのか、屋根に見覚えのない旗が翻《ひるがえ》っている。
ガイジンにさえ見せるくせに、俺《おれ》たちは一生縁がないなんて、なんだか悔《くや》しいな。
ぼんやり考えながら、鳥肌《とりはだ》の立った腕をこすっていると、シャッターを頼まれた。女の子ふたりは、からっぽのポリスボックスにポーズを決めた。
陽《ひ》の当たっている道を選んで戻りかけたら生垣《いけがき》の隙間《すきま》にぽっかり公園のような空間があった。十一時にはまだ間がありすぎた。ひんやり湿った石のベンチに腰を下ろして読んでおけと渡された教科書を広げていると、さっきの女の子たちがまた現れて、ハーイと手を振った。
「あら」
髪のくるくるしてるほうが、タラの手元をのぞきこんだ。
「ダイビング! やってるの?」
「やァ……」
まだやってないよ。言おうとして、曖昧《あいまい》に笑ったところに、
「あたしたちもなの!」
ねぇーっ、ぐーぜェん、と女の子たちがはしゃぎだしてしまったのだ。
「うわァうわァおどろいたァ」
「ねーねー、どこで取ったんですか? クラブかなにか? 伊豆《いず》ってまだ寒い? 大島《おおしま》も行ってみたいんですよねー」
「あたしたちはァ、この春休みにィ、サイパン行って取ったんですゥ! ねーっ、グロット最高だったねェーっ」
「ねーっ。でもそれっきりで。まだほんの初心者なんですよぉ」
「ねェーっ」
「あっ、ほらタマミ、聞いてみよっか。このへんでいいショップないか」
いや、あのね、そんな、と手を振りながら口を挟むチャンスを探して失敗し続けていたタラは、思わず、へっ、と目を見開いた。
「ショップ?」
そそそそ、と女の子たちはうなずいた。
「ほらァ、知らないトコ行くのなんとなく怖《こわ》いしィ」
まっすぐで短い髪のほうが、媚《こ》びるような上目遣《うわめづか》いをした。
「自分の機材欲しいしねー」
くるくる髪が直角に曲がったまつげをパチパチさせた。
「どこか、知りませんかァ?」
「いらっしゃい」
例によってカウンターの中から振り向いた安西が、なんだ、という顔をした。
「早いな、ずいぶん。今開けたばっかりだ」
「はぁ」
「なんだ? 入って来れば?」
「あのう……」
言い淀んでいるうちに、女の子たちは、なんなの、ちょっと通して、などと言いながらタラの脇《わき》を擦《す》り抜けて、狭い店の真中に踏《ふ》み出してしまった。
「あ、どもォ」
「コニチワッ」
明るくアイサツされて、安西は、ヘッ? とない首を伸ばした。
「ヘーッ」
「ふーん、こんな駅の近くにあるなんて知らなかったねーっ」
「ねェーっ、わかんなかったねェーっ」
「あっ、ほらコズエ、ツアーあるよォ、いろいろと」
「ほォんとだ。割と安いねェ?」
本人たちはヒソヒソ声で話しているつもりらしいのだが、タラにも安西にもしっかり聞こえてしまっている。
安西は、きょろきょろ見回る女の子たちの背中を見て、タラを見て、もう一度女の子たちを見て、それから飛び切り困惑《こんわく》した顔でタラを見た。
タラは、スミマセン、と頭を下げた。
「そこで、あったんです。ダイビング・ショップ知らないかって言われたもんで」
「…………!」
安西は凄まじい勢いでカウンターから飛び出した。
「いらっしゃいませっ!」
「……ったく、おどろいたよ」
ふたりを送り出し、二階の窓から手を振った後、安西がフッと真顔になった。
「最初は、おまえが女連れて来たんじゃないかと思った」
「女連れて来ましたけど」
「そうじゃなくて」
「?」
「…………」
安西はタラを見た。頭から爪先《つまさき》まで見下ろし、もう一度視線をせりあげて、ぽかんとしたままのタラと目が合うと露骨《ろこつ》に首をひねった。
「なんですか?」
「いや……ま、いい」
安西は手に持ったもので顔を扇《あお》ぎながらカウンターに戻りかけて、あわててそれを広げた。それは顧客ノートで、ついさっき、毎月ツアーの案内を送るからと差し出して彼女たちの名前と住所を控えたばかりなのだった。
「じゃあ……今日は特に用事がないから帰ってもいいが。在庫調べでもやるか?」
「はぁ」
褒《ほ》めてくれてもいいのに。
タラは不満だった。
彼女たち今日は何も買ってってくれなかったけど、ともかく、出勤一日目からお客を連れて来たのだ。店長、あんなに露骨に喜んでたじゃないか。ここでバイト料の話をしておこうか。いやいや、それはセコい。
あくまで呑気《のんき》なタラではあったが、そこはかとない不安を感じないでもなかった。
なんであんなに喜んだんだろう? まるで『めったにないことに』客が来た、って感じだったじゃないか。
ともかく、ここはあんまり地味《じみ》すぎるんだよな。今日中に『何時開店です』って札作って下げるようにしておこう。薬屋の階段の横にも、表通りから見えるように電飾かなんか出しておきゃいいのに……。
案の定。『ウィニー』は連日|閑古鳥《かんこどり》のコーラスだった。あのふたり以来一週間というもの、客なんてまるで来ないのだ。
時々電話が掛かって来て、店長の顔が一瞬《いつしゆん》期待に輝くのだが、どうも仕入れた機材の代金の督促《とくそく》のようだ。ある日店長が昼食に出た隙《すき》に、ツアーのためのノートが目についたのでこっそりめくってみたのだが、がっかりした。毎週末の予定が九月まであるのに、ところどころに四、五人の参加希望者が載《の》っているだけなのだ。
これじゃただの店番だぜ。Tシャツの似合うカラダになれるとも思えない。
店置きのダイビング雑誌をめくっては、パラオだグァムだモルジブだといったキラキラの写真に、ため息をつくタラだった。
こういうところに連れてってくれるんなら最高だったんだけどなー。
そうだ。せめてこういう雑誌に広告ぐらい載せなきゃ、客だって来ようがないじゃないか。だいたい、ここはなんでもいい加減なんだよな。ぼーっとしててバイトになるんだからいいようなものだけど……。
待てよ。
タラはハッとして顔をあげた。
考えてみれば、俺《おれ》が何時に来て何時までいたかなんて、誰《だれ》もチェックしてないじゃないか!!
「なぁ。帰ってもいいぞ」
あい変わらずホースとぐろをいじくっている柳田が、顔もあげずに言った。
「は?」
「ヒマもてあましてるようだからさ。学校のほう、ちゃんとやったほうがいいよ」
タラはムッとして、雑誌を閉じた。
「こんなにヒマなのに、なんでバイトなんて募集したんですか?」
「さー」
ははは、と柳田は気弱く笑った。
「店長の考えたことだからねー。でもまぁ、ツアーの時とかふたりじゃ大変だからってコトじゃないの?」
あんな程度の規模のツアーで?
『気をつけたほうがいい』
石渡さんの教師めいた顔が浮かんだ。
ひょっとすると。俺、あのひとの手前しかたなく雇われただけなんじゃないだろーか。だから、居辛《いづら》くさせて出てくの待ってるとか……そんなのヒドイじゃないか!
「俺の認定証《にんていしよう》のことですけどねっ」
柳田の肩がぴくっ、と動いた。
「確か、ヒマなうちに、教えてくれるはずじゃなかったんですかっ?」
「だってさぁ」
柳田は眉をハの字にして笑った。
「マン・ツー・マンで教えるのももったいないじゃん。誰《だれ》か、これからやりたいってお客が来たら、いっしょに教えるからサ」
4
そんなある日。
いきなり、せいいっぱいの愛想笑《あいそわら》いを浮かべた安西と、ぼーっとした顔のタラをそれぞれ挟んで写した写真が来たのである。しかも郵送ではなく手渡しで、コズエとタマミの短大の同級生でダイビングを始めたいと思っているという子五人といっしょだったものだから、狭い店はいっぱいで、甘酸《あまず》っぱい匂《にお》いにほとんど酸欠状態となった。柳田とタラが『入門コース』の受付にてんてこまいしているのを、カウンターの向こうに避難したままの安西がムッツリと見守っていた。
キャーキャー台風が去った後、サイズ合わせのためにはいてみてもらったブーツなどを片づけながら、タラはこっそり安西を見た。いくらなんでも、これで少しは見直してくれるはずだろうな、と思って。
と、目があってしまったのだ。
「山本、海パン持ってきてるか?」
ドキッとした。ずっと言われた通り持ってきていたのだが、いつまでたっても何もないので置いてきてしまったのである。
「ないのか」
「……スミマセン」
安西はムッとしたまま何秒間か考えたが、いい、わかった、というように首を振って、電話をかけ出した。
なんて間が悪いんだ。店長がせっかくその気になったのに。
「……あ、もしもし。イントラの狩野《かりの》さんおられますか。『ウィニー』の安西ですが」
ブーツの箱を積み上げ終わり、くわえてみてもらったシュノーケルのマウスピースを洗いに立ち上がった。
「……いいか?……何時までかかるかわからん……うちから持ってく……えーっ?……ないだろ、トモダチじゃないか」
じゃあじゃあ勢いよく水を出しても、やな気分は納まらなかった。海パン、どっかの隅に置かせてもらっておけば良かった。言われてたのに忘れてたなんて大マヌケさらしちまった。チッ。失敗したぜ。
でも、あの態度はないじゃないか!? 俺《おれ》が連れてきた女の子が、五人も、五人も!! また客連れてきたっていうのにーっ!
裏の干し場にシュノーケルを並べて戻ると、柳田がもの悲しい顔でメッシュ・バッグにせっせと機材を詰め込んでいる。
見てみぬふりはできなかった。
「手伝いましょう」
「んじゃ、教えてやるから自分の分やって」
「……え?」
「あんたの講習だって。これから。やれやれ。何時に帰れることか」
ずいぶんとゲンキンだ。俺も店長も。
そう思いながらも、タラはついウキウキする気分を押さえられなかった。途中で寄って買った海パンの代金を払おうとしたら、店長が出しかけたマンサツを迷い迷いひっこめたのが見えたが、それもなんだかやけに愉快な気がした。
いやー、いやー、良かった。やっとダイバー第一歩だ! それも、マン・ツー・マンならぬツー・ツー・マンでだもん、俺ってやっぱりついてるのかもしれないなー。
あくまで脳天気《のうてんき》なタラなのであった。
初めはシュノーケリングだった。つまり、シュノーケル・フィン・水中マスクの三点セットだけをつけての泳ぎ&潜《もぐ》りである。最初やたらと水を飲んでしまったが、すぐに慣れておもしろくなった。フィンをつけたのとつけないのとでは泳力が違う。バタ足とはかなり違うフォームがわかりかけ、二十五メートルが四、五キックで行けるようになるまで練習すると、今度は深さ八メートルのダイビング用プールに入れられた。最初の一回から底に落としたウエイトを拾ってこれることがわかると、今度は、マスクなし、フィン片方なし、両方なし、を試されたが、ソツなくこなした。簡単であった。得意であった。
しかし。
フル装備を身につけてのスクーバ・ダイビングのほうが、もっと楽だったのだ!
陸上では重たい機材も、水に入れば全く気にならない。ほぼ立ったままの姿勢で自分の重みで少しずつ潜行《せんこう》するのに面くらったが、なにしろ息が続くのである。頭から突っ込んで大急ぎで距離なり深度なりを稼ぐ必要はまったくない。水平移動も、あまりに簡単で笑っちゃうほどであった。フィンは水面よりも水中のほうが使いやすく、前を行く柳田の恰好《かつこう》を真似《まね》して両手を背中で握ったポーズを取っても、すいすい進んでしまう。恰好といい、リズムといい、まるで爺《じい》さまのスケートみたいだな、とタラは思った。
浮上《ふじよう》すればしたで、BCジャケットとかいう救命|胴衣《どうい》がタンクにつながったようなものにボタン一発空気を入れれば、仰向《あおむ》けにならなくても、立ち泳ぎしなくても、そのまま浮いていられる。
これはいい。これなら、すぐにでもイントラになれるに違いない。
「いやぁ、便利なものですねぇ」
ぷかぷか浮きながら思わずはしゃいだ声をあげると、近寄ってきてレギュレータを外した安西がフフンと笑った。
「まぁな。しかし今の浮上はまるでダメだ」
「は?」
「速すぎる。学科の教科書を、読んでないのか? 一秒間に三十センチのスピード、絶対に息を止めない。これを守らないと死ぬ」
タラは口まで水に漬《つ》かって、ブクブクため息をついた。
んなこと言ったら、素潜《すもぐ》りしてるヤツは全員死んでなきゃおかしいじゃないか。
「中性浮力《ちゆうせいふりよく》もまるで取れてないな。沈みがちなのをキックでごまかしてるが、それじゃすぐにへばる」
あんなのでへばるものか。
黙ってると、安西はプールの縁に上がって六個ものウエイトを通したベルトを持って来た。
「これに変えて、もいちどやって見よう。絶対にオーバー・ウエイトだから、このボタンでBCにエアを入れて、ちゃんと調整してみろ。俺《おれ》や柳田と同じような恰好《かつこう》でピタッと止まれたら、OKだ。いいか、こっちが入れるほう、こっちが抜くほうだ。入れすぎたら、抜く。足りなかったら、入れる。いいな」
「はぁ、これですか」
何度も言われなくたってわかるぜ。
と、思ったのだが。
潜行《せんこう》を開始し、BCの空気が抜け出すや、ストーンと一直線に落ちていくような感覚にタラはまごついた。体勢が整わないうちに底に達したので、尻餅《しりもち》をついてしまい、あわててうつ伏せになったはいいが重くて泳げやしない。斜め前で静かに腕組みしてウルトラマンのように立っている柳田が見えて、タラはカッと恥ずかしくなった。見上げてみると、安西が、少々前傾しフィンの先を真下に向けるきれいなフォームを微動《びどう》だにさせずに降りてくるのが、水の外の灯《あか》りに半分逆光のシルエットとなって見えた。早くなんとかしなきゃ、みっともない。
そうだ。BCだ。あのボタンを押して、エアを入れるんだった。
ところがソレがどこにあるのか、さっぱりわからないのだ。水中マスクの限られた視界を、タラは初めて実感した。自分の肩がほとんど見えないのである。水中に四散したレギュレータのホースたちを必死に掻《か》き集めてみたが、さっき潜行《せんこう》する時に排気のボタンを押したばかりであるはずのソレが、ちっとも見つからない。もがいてもがいてわからなかったので、つい、もどかしくなってマスクを外してしまった。たちまち歪《ゆが》み塩素に痛くなった目にインフレター・ホースが見え、しっかりつかんだのはいいが、今度はマスクをかけなおしても何も見えやしない。もちろん、まんべんなく水が入っているからだ。いったいどうすればいいんだ!?
とりあえず中性浮力《ちゆうせいふりよく》だ、と手探りして吸気ボタンを押した。
あれっ? おかしいな。ちっとも浮かないじゃないか。壊《こわ》れてるのかな?
タラは力いっぱいボタンを押し続けた。タラは知らなかったのだが、吸気にしろ排気にしろ、インフレター・ホースの反応にはタイム・ラグがあるものなのである。ほんの二、三秒なのだが、慣れないモノにとっては永遠のような二秒である。
不意に、からだが浮きだした。ああ、良かった、と思って手を離したが、BCは脹《ふく》らみ続けた。タラは、すぽーんと飛び上がった。店長なのか柳田なのか、素早く駆け寄った誰《だれ》かが、タラの腰をつかんでぶら下がった。タラがようやく排気ボタンを押すことを思いついたので、人間エレベータは今度はアッという間に急降下した。
ふたたび水底にへばりつき、コンクリのザラつきに両手の指を押しつけながら、タラは思った。
これはヤリ甲斐《がい》がありそうだぜ。
と。
「おめーはほんとーに筋がいい」
真赤な顔で安西が言った。
「何よりもなぁ、あれだけのことがあった後ですぐにだ、俺《おれ》たちのマスク・ブローを見て、すーぐ真似《まね》できる、そんだけ落ち着いてたってのが良い。なぁ、柳田ぁ?」
「ですねぇ。水中ですからねぇ」
「ども」
首を伸ばしながら、タラは安西の握ったままのグラスにビールを継《つ》ぎ足した。
「しかしだ」
ドン! 安西がグラスごとテーブルを叩《たた》いたので、タラはたっぷりビールの飛沫《しぶき》を浴びてしまった。
「これまであれだけ時間があったのに、自分から覚えておこう、って気持ちがない。これは許しがたーい! なぁ、柳田ぁ?」
「ですねぇ。あのへんのコトはみんな、教科書に書いてありますからねぇ」
「そうだ。こいつは、なまじ自信があるからって、全部自己流で、体力だの本能だのでやっつけちまおうとしてる。こーゆーヤツが死ぬんだ。なぁ、柳田ぁ?」
「ですねぇ」
「ノーもすヒません」
自分でもびっくりするような鼻声だった。
なんか昔こーゆーセリフを得意にしてる落語家がいたなー。うんにゃ、そんなこたぁどうでもいい。
タラは早く家に帰りたかった。
くったくたの体で、機材を洗い、片づけ、プール回りのそうじをさせられ、湯わかし機のスイッチが入っていないのか凍えるようなシャワーをザッと浴び、店長と柳田が使い終わった後のいい加減びしょびしょのタオルを使って、湿ったままの体に服を着たのである。この前|伊達《だて》の薄着をして以来やや風邪っぽかったのが、ようやく治りかけていたところだというのに。
ビールでは冷えるばかりなので、焼酎を熱いウーロン茶で割ったのを頼んだ。アルコールはあまり得意でないのに飲みやすくて、何より温まるのでとても嬉《うれ》しかったのだが……これを頼んだ時の店長のホォとからかうような顔が、鈍《にぶ》い頭痛となって遠いところで呼んでいる気配がしている。
一刻も早くアパートに帰って、熱い風呂《ふろ》に入ってアルコール気を抜いて、ぐっすり眠りたい。なのに、この酔っぱらいどもは、ついさっきまた、ほおばミソだのツクネだのタコ酢《す》だの、オーダーしてくれたばかりなのである。
アンニュイに吐息《といき》を洩《も》らし、突き出しで来たのにまだ残っているゼンマイの煮付をつついていると、ふと、視線を感じた。目を上げるとない首まで真赤になった安西が、フフフンと鼻腔《びこう》を広げて言い放った。
「……このタラシめが!」
「みたいですねぇ」
黙々とイワシをむしりながら柳田が言った。
「なんですか?」
タラはきょとん、とした。安西は黙ってにやにや笑いながらビールをあおった。
「おーい、ねぇちゃん! ここ、もう一本、いや二本ねー!」
「あーい」
「柳田さん、柳田さん」
タラは肘《ひじ》で相手をつついた。
「なんです、タラシって」
「えー」
柳田は真剣にイワシをむしりながら得意のごまかし笑いの顔をした。
「なーんだおめ、タラシも知らんのケ?」
ダルマ安西がニンニク臭い息をタラに吹きつけた。
「わーかるだろが、タラシほーだいコマシほーだいってサ」
コマス。コーマス。
『commerce a. 商業(上)の、通商の、貿易の; 営利本位の……』
ついこの間まで(一応は)悲しき受験生であったタラの脳裏《のうり》に、とっさに英和辞典の一部がパッと浮かんだりしてしまったのだが、この際は関係なかった。まして、commerce の正しい発音は、せいいっぱいカタカナで書けば『カマース』である。
教養のないタラではあったが、皮肉られていることぐらいはわかった。そしてそれが、あのキャーキャー短大生たちのことであることも。
「それはないんじゃないですか」
ウーロンハイの魔力とも知らず、ムッとしたタラは言ってしまった。
「俺《おれ》、そんなつもりじゃないですよ」
「おめーのつもりはどうであれェ」
にやにやが張りついたままの安西は、歌うように言ったのだ。
「あーいつらはどーだかー。わっからネーヨォ?」
タラはウーロンハイを飲んだ。いい加減ぬるくなっていたので、思わずガブッと多量に飲んでしまった。
「だからァ、早いとこォ、おめーを一人前にしにゃまずいでねーかっ? Cカードも持ってないヤツだなんてことがわかっちまったらァ、オトメの期待に背くだろがっ、しー? ユーアンダスターン?」
そうだったのか。だから、こんなに急に特訓みたいなことさせられたのか。
なのに、俺、あんなにうかれたりして……くそぉ、オトナなんて嫌《きら》いだ!
「……帰ります」
立ち上がったタラは、グラッ、とよろけて柳田の肩に手をついてしまった。だが、男の意地で言わずにはいられなかった。
「俺《おれ》のぶん、いくらですかっ」
安西は黙っていた。悪役プロレスラーみたいな顔で黙って睨《にら》まれて、タラの頭がスーッと覚めた。あ、やっぱ、つっぱり過ぎだったかな?
な、な、殴られたらどーしよう? 表に出ろ、とか言われたら……。
「千円、置いてけ」
思いのほか静かな声で、安西が言った。それはウーロンハイ+タラの食べぶんとしてはかなり少なかった。
「わかりました」
ホッとしたタラは、素直に財布から千円札をひっぱり出して、三分の一残ったウーロンハイの下に置いた。
「じゃあ」
飲み屋の通路を出口に向かいながら、タラはムカムカ落ち着かない気分だった。
確かに俺も情けないけど、店長もずいぶんと勝手だし、わけのわかんないヒトだ。もう、あんなトコやめちゃおうかな。今やめても、いくらかは貰《もら》えるんだろうか。……でも、せっかく潜《もぐ》らせてもらったその日にやめたりしたら、あの程度のに懲《こ》りてマイッタみたいで、みっともないし……。
その背中に、安西が店中に轟《とどろ》くような声を浴びせかけた。
「おいっ。明日も来いよぉ、タラ山ァ!」
振り向くと、安西が両手に一本ずつ持った箸《はし》をくるくる振っていた。
タラは二日酔いと鼻風邪《はなかぜ》を併発《へいはつ》し、翌日は午後遅くなってから出勤した。その頃|滑止《すべりどめ》大学文学部の掲示板に『コース登録が済んでいません、すぐ学務部に出頭のこと』とのメモが、名前入りで張り出されていることなど、知るよしもなかった。
5
プール・トレーニングと、学科講習は週末まで続いた。
中性浮力《ちゆうせいふりよく》が確保でき、水中の好きなところでピタリと静止できるようになると、機材の脱着《だつちやく》の訓練が始まった。マスクやレギュレータを外すのは全く怖《こわ》くなかったが、水中でBCを着ようとすると、ふわふわ逃げてうまくいかないのにはなかなか苦労した。だがそれも、水底で、安西・柳田と三人丸くなって、お互いの全装備を交換する方法でしつこく練習するうちに、少しずつ要領がつかめるようになった。それからようやく背負い掛けを教えてもらった。カーディガンを着るように袖《そで》を通すのではなく、目の前にまっすぐ逆さに持っておいて、頭の上を後ろに放り投げてやるのだ。このほうがずっと速くできた。
吐《は》き出すエアで、煙草《たばこ》のように『輪』を作ってみせるワザも教わった。フィンの使いかたも、ドルフィン、カエル足風などをマスターした。どうも、例のキャーキャー組の目をたっぷり意識していかにもベテランのやりそうなワザをドロナワさせられているようで、セコく思えたが、実はそーゆーのが嫌《きら》いではないタラだった。
学科試験は、落とすためではなく、どこが理解できていないかを確認して、ちゃんとわかるようにするものだ、ということだった。ナントカの法則だの窒素《ちつそ》だの酸素だの、まるで物理の時間のようだったが、覚えなくてはならないことの絶対数が多くないので、さしものタラもなんとか暗記した。Cカード認定《にんてい》の段階では必要でない空気消費料の計算も、手順を理解してしまうとスイスイ解けた。同時に、タラの暗算能力が買われた理由もわかったのだった。
試験は○×式と三択《さんたく》・四択で、タラは五十問中四十三問正解し、みごとにパスした。
しかし、海はまだ、彼方にあった。
土曜日、午前十時。
『ウィニー』は異様な熱気に包まれた。キャーキャー七人娘が、揃《そろ》ってやって来たのだ。五人ばかりか、タマミとコズエもついて来てしまったのである。
レンタル用の機材を各自に配りだすと、おおっと歓声が上がったのも束《つか》の間、そっちの色がいいの、これ破けてるのと大騒ぎ。
「いゃーん、マイコ押さないでっ」
「ケーチン、ケーチン見て見て、ほら、これくわえるとあなたもなれる『タコの口』」
「きゃはははははははは」
「こらっ」
タラは思わず怒鳴《どな》った。
「遊んでないで! 急ぎましょうねっ!!」
「はぁーい」
「先生ったら、こわーい」
「きゃはっ」
いつの間にか、先生なのである。Cカードすらもってないのに、である。
いーのかなー。タラはため息をついた。
「山本クン山本クン」
見ると、柳田が背後霊《はいごれい》のように忍び寄っていた。
「まかせるから、バッグにしまうの、説明してね」
「俺《おれ》がですか?」
「俺、声小さいから」
しょうがないなぁ。
タラはふくれたが、元来、こういう場合にはつい『先にたって』しまう性格なのである。
「あー、みんな聞いて!」
パンパン! と手を打つや、シーンと静まり返るのに、思わずいい気持ちになってしまったりもする。
「みんな、自分の機材を確認しましたね?」
「「「「「「「はーい」」」」」」」
返事も七重奏なのである。
「では、バッグに入れましょう。めちゃくちゃだと全部入らないし、壊《こわ》れたりしますからね。俺や柳田さんのをよく見て、真似《まね》してくださいねー。いーい?」
「「「「「「「はァーい」」」」」」」
「やァーん、狭ーい」
「ちょっとそれあたしのだってば」
「えーっ、あっごめんなさーい」
我がちに床《ゆか》を占拠《せんきよ》する短大生たちに、お尻《しり》でつつかれ、目の前に肘突《ひじつ》き出されて、あっちにフラフラこっちにヨロヨロ、頼りなく翻弄《ほんろう》される柳田に、タラはいやーな予感がした。
この講習会は、疲れる。
予感というよりも、もはや実感であった。
ダイビング・バッグには大きくわけて二つの種類がある。飛行機などに乗る時ではなく短距離の運搬に使うバッグは、メッシュになっているのが普通だ。軽いし、小さくたためるし、水切れもいいし、機材をまとめたまま真水に漬《つ》けるなりシャワーを浴びせるなりして使用後の砂や潮気を抜くのにも便利なのだ。
だから、最初にフィンを入れて底を作る。安定するように、万一うっかり砂地に下ろしてもとんでもないことにならないように。両サイドはブーツで整え、シュノーケルとマスクはうまく隙間《すきま》に押し込み、大事なレギュレータは、ウエット・スーツの腹に抱かせるようにして守る。
このくらいのことは、若葉マークのタラでも教えられるのである。
さて、できたかな。
「誰《だれ》か入らなかったひといるー?」
「えっとえっと……っかしーな、エイエイ」
「やーいクミののろまー」
「グズー!」
「ああ、静かに。できたひと、まだのひとを手伝ってあげてねっ! ああ、これじゃ足の踏み場もないな。こっち側のひとから表出ましょうか。下のバンのとこに店長がいますからね。ちょっと待っててね」
「えーっ? 自分で持つのォー」
「うっそォ、重いヨォ」
「ちょっとじゃないの。がんばって!」
「ぶーぶーぶー」
はい、どーぞっ!
ドアを開けると、女の子たちはぺちゃぺちゃしゃべくりながら、ゾロゾロ出て行った。
ようやく最後までモタモタしていた子も降りていくと、柳田が頭を振って立ち上がった。水でも入ったように、耳をトントンやっている。
「……すごいなぁ、女ばっかっていうのは」
「ほんとに」
「いやァ、タラ山さんは、サスガですよ」
なんだよそれはっ?
ムッとしたけれども、
「頼りにしてっから」
へにゃっ、と情けない顔で笑われてしまう。タラは、エイコラショッ、とバッグを抱えあげた。
伊豆海洋公園は、関東で入門するダイバーのメッカである。まだ肌寒《はださむ》い季節とはいえ、週末となれば、プールも、講習に使わせてもらう貸し教室も、あちこちのショップやスクールで大賑《おおにぎ》わい。海さえも、エントリーできるポイントが限られているので、並んで待って入る、という具合。
割り当てられた教室に荷物を下ろすと、女の子たちは早くもざわめきだした。
「エーッ、なんだぁ。すぐ泳ぐんじゃないんですかぁ」
「お尻《しり》痛くなっちゃった。あのバン、ボロいんだものォ」
「ネェ、日焼け止め持ってるー?」
「あー、プール使える時間まで、最初の学科やりますから。席について」
安西が言うと、女の子たちの『エーッ』はますます大きくなった。
「いきなりー」
「少し休みませんかァ」
「ねーなんか、喉《のど》乾かない?」
「そーそー! あたしもォ。なんか欲しい」
ワガママだなー。
タラはふぉわっ、と欠伸《あくび》をした。
まーいーけど。関係ないモンね。
学科なら、もう聞かなくてもいい。外に出てれば、少しは灼《や》けるなぁ、などと考えていると。
「山本っ!」
安西が怒鳴《どな》った。
「はいっ!?」
「あー、なんか、飲むもの買って来い!」
「きゃあ」
「うれぴー」
ヘーヘー。
安西の寄越した財布をポケットに入れて、タラは走った。どうにか自動販売機を見つけたが、小銭が足りない。両替をしてもらえるところを探して、タラは走った。さんざん走ると、ようやくさびれた酒屋があったので、缶コーラと缶ジュースと缶コーヒーをあわせて十本買った。タラは戻った。
教室にかけあがった時には汗だくだったが女の子たちは、あまり喜ばなかった。
「あー、あたしコーラってダメなんだよね」
「これはちょっとォ、甘いからァ」
「紅茶が良かった」
「ねーとってもぬるい」
「山本」
ムッとした顔の安西が、もう一度財布を寄越した。その目はキッパリ『ろくでもないものを買って来るんじゃないぞ!』と責めていた。
タラは走った。
ひょっとして、インストラクターになると、しょっちゅうこういうことをしなきゃいけないんだろうか。
真昼の太陽に頭が茹《ゆ》だった。
「それでは、山本先生にお手本を見せてもらいます。みなさん、マスクを水につけて、水中の動きもよく見ていてください」
「「「「「「「はーい」」」」」」」
また俺ェ? なんで?
先生とか言っちゃってサ、ちゃんと資格のあるカタガタがなさらないとマズイんじゃございませんコト?
ウンザリしながらも、水に入れるのは嬉《うれ》しかった。ひとに模範を見せるのも、実は嬉しかった。
所詮はダイビング・プールである。ボロを出さない自信はあるのである。
真剣なオトメのまなざしを意識しつつ、タラはできるかぎり優雅《ゆうが》に五、六メートル水面遊泳をしてから、華麗《かれい》なるジャック・ナイフ・エントリーで潜水《せんすい》した。例の『老人のスケーティング』ポーズで、水中を散歩するように、ことさらゆっくり大袈裟《おおげさ》にフィンを使ってみせてから、ふわっ、と水面に戻る。シュノーケルの先から、ピュッ! と水を吐《は》き出す。
決まった。
どうということはない。
「では、やってみましょう」
と柳田が声をかける。
「あっちの端まで、ところどころ潜《もぐ》りながら行って戻ってきてください。シュノーケル・クリアする時の空気を残すのを忘れないようにね、どうぞ!」
女の子たちが、一斉《いつせい》にとは言えない、かなりバラバラに泳ぎ始めた。息を調えておいて潜《もぐ》るはずなのだが、強引にできてしまう子もいれば、両手でもがいてもちっとも沈まないのもいる。
ひときわ深いところまで行けるのはと見れば、ピンクに黄色|縞《じま》の大胆な水着、タマミである。コズエのほうは、潜りはじめが今ひとつうまくない。真下に向けて入ってないし、両脚《りようあし》が水中に没しないうちに、フィンをバタつかせてしまうのが良くない。胃を引っ込ませてお辞儀《じぎ》するようなつもりでやればほぼ垂直に潜れるはずだし、フィン・ワークのことは単なるタイミングだから、ちょっと言えば治るはずだ。
後で注意してやろう、と思ってから、タラは我ながらびっくりした。本当は彼女たちよりも自分のほうが、より初心者なのだ。なんと言ったって、まだ、海に出たことがないのだから。
いい加減だよなぁ、俺《おれ》も。
ふわふわ漂っていると、ふとアップアップしている子が見えた。タラは身を翻《ひるがえ》し、全力で泳ぎついた。水中から回って、背中側に出、両脇《りようわき》を支えて持ち上げる。
「どうした?」
「ア……」
女の子はゲホッ、とシュノーケルを吐き出した。
「アシが……アシが!」
「こむらかえりか」
必死でうなずく。
「どっち? 右? 左?」
「み、右」
「フィンの先つかんで、ゆっくり伸ばして」
「で……できない、そんなこと」
「大丈夫《だいじようぶ》、支えてるから」
「い、痛い……」
タラは彼女の足をつかもうとして、右脇の手を外した。たちまちバランスを崩した女の子が、バシャバシャ水をはね、しがみつこうとする。あわてて抱きかかえる左手に、ナマの肌《はだ》がツルツル滑った。
「何やってんだっ!」
ザッ、とすぐ近くで頭が上がったと思ったら、安西だった。
「つったっていうんで、腱《けん》を……」
「んじゃ、あがればいいだろうがっ! こんなところでジタバタするなっ」
言い捨てると、安西は、またすぐ潜《もぐ》ってしまった。
ずいぶん不親切じゃないか。
と思った瞬間《しゆんかん》、タラは気付いた。抱きついて、しがみついて、ほとんどタラのからだをよじ登るようにして、ハァハァ息をついている女の子のビキニの上が完璧《かんぺき》にズレていて、タラの手は、鳥肌たった小さな乳房をしっかりと押さえつけていたのだった。
あわてて離すと、女の子はギャッ! と叫んで、沈んで行った。
ちょっと休憩を取ると、女の子たちはすぐに根を生やした。濡《ぬ》れた髪を結い直したり、サマー・ケーキのコンパクトを出してペタペタやったり、たて続けに何本も煙草《たばこ》を吹かすのもいた。灰皿のないプール・サイドに、じわっと水を吸って汚《きたな》らしく膨《ふく》れあがった吸殻が残った。
化粧品持ってるくらいなんだから、せめてティッシュかなんか出してくるめばいいのに、とタラは思った。
溺《おぼ》れかけた子は、プール・サイドまで辿《たど》りついてみると、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をしていた。そのくせ、水着がズレていることにも全然気付かないので、しかたなくボソボソ注意すると、まるでタラがいやらしいことでもしたかのような目をしてみせた。
おまけに、安西が、こんな場所で(女の子たちも聞いているのに!)『おいタラ』『こらタラ山』と呼び出したのだ。
「タラ! スクーバの装備、持ってこい」
タラは返事せずに立ち上がった。女の子たちがクスクス言っている。
まったく、冗談《じようだん》じゃないよ。
それぞれに持ってこさせりゃいいじゃないか。いくら女の子だからって、甘やかしたらどんどんつけあがるだけなんだから。
メッシュ・バッグを十個、タンクを十本。行ったり来たりしていると、
「どもォ」
「半分、使わせてくっさァい」
陽気に挨拶《あいさつ》しながら、よその団体がプール・サイドに入ってきたのだ。
こっちの女の子たちがピタッ、と黙った。
先に立って、いかにも物慣れた風に歩いてくるのは、ブロンズ色のカラダに、ぴったりした水着、完璧《かんぺき》に金色の髪をマッシュルームカットみたいにした男である。顔はどーってことないのだが、いかにも海の男! の肉体の前に、顔など問題ではなかった。彼だけではない。男たちはみな、アメリカ国旗模様だのジャングル柄《がら》だのの派手《はで》なトランクスか、ぴちぴちのビキニをはいていて、真黒に日焼けしている。教え子らしい女の子たちも、みんな、ピカピカのウエット・スーツをつけ、装備を下げている。雑誌で見た覚えのある最新式のBCがカラフルだった。
「じゃあ、このへんで、セットするよぉ」
「はーい」
あっちの団体の男たちは、てきぱき手分けすると、いきなりチャッチャとタンクを繋《つな》ぎ始めた。
こっちの女の子たちは気まずそうに黙ったままだった。表面のジャージのところどころが切れたウェアの膝《ひざ》を、そーっと抱えるのが目に入った。
こりゃ、絶対にまずい。
タラはとびきり憂鬱《ゆううつ》になりながら、タンクを運んだ。運び終わって、安西の前に戻ると、安西は視線をそらして立ち上がった。
「やるぞ」
「まず、タンクのバルブをこうやって、ちょっとだけ開けてみる」
あっちの団体の女の子たちは、男に手伝ってもらって早くもタンクを背負った。こっちの女の子たちの視線は、安西を通りこして、あっちのプール・サイドをちらちら揺《ゆ》れた。
「レギュレータのヨークのダストキャップを外す。セカンド・ステージが右側から来るように向きを整えて、セットする」
あっちの団体の男たちは、大きなアクションで背負い掛けをした。あっちの女の子たちがキャアッと叫んで手を叩《たた》いたが、こっちの女の子たちの中にも、うっかり口を開けたのがいた。
「ここは力まかせに閉めないように。次にバルブを開けるが、少しだけ、ゆっくりだ。学科でやったな。ゲージのホースはまっすぐ伸ばして、ここをひとのほうに向けないようにして、ちゃんと圧があるかどうか確かめる」
あっちの団体の女の子たちは、次々にドボンドボン派手《はで》な音をたてて、水に入る。こっちの女の子たちはすっかり無表情になってしまっている。
「さっき決めたバディ同士隣にいるか? エア・チェックをするように」
こっちの女の子たちは、のろのろと近づいて、レギュをくわえ、しゅーゴーしゅーゴー音を立てた。タラは柳田と、確かめあった。男のくわえたモノをくわえるなんて、どうしたって気味悪かった。あっちの団体は、男をふたりばかりプール・サイドに残して、既《すで》に水面で輪になっている。
「いいか? 何かわからないところがあったら、今のうちに言ってくれ」
「あのう……」
誰《だれ》かが、そっと手を上げた。みんなの視線が集まった。見ると、さっきタラが胸に触《さわ》ってしまった子だ。
「ワタシ……やめとこうかと思って」
「どうしてェ」
「クミはァ」
彼女は友達の声を無視した。泣きそうな顔で、安西を見上げた。安西は黙っていた。
「今、無理です……水、怖《こわ》くなっちゃって」
タラは息を吸った。
自分の責任だ!
何か言わなくちゃ。シュノーケリングよりこっちのほうがずっと楽だとか。こむらかえりなんて誰《だれ》でもやるんだし、コツさえわかればすぐ治るものなんだし、とか……。
タラが口を開いたその時。
安西が、にっこりと笑ったのだ。信じられないくらい、優しい顔で。
「あんたがいいなら、そうしよう」
くたびれたウエット・スーツの色のさめた胸を張って、安西は立っていた。
「やりたくなったらやるさ。ゆっくりやるさ。あんたのテンポで」
彼女は、びっくりしたように、ぎくしゃくうなずいた。
タラも驚いた。『何根性ないこと言ってやがるんだ!』ぐらいのことを怒鳴《どな》りかねないと思ったのだ。
「ほかには? よければ、背負ってみよう。バディ同士助けあってな。……ああ、そこの彼女の分は、バディ変更して。どっか三人組だったな。これで丁度いいか。ははは」
女の子たちはザワザワ顔を見合わせた。やめると言った彼女は、あわてて、脇《わき》にどいた。あっちの団体は、潜行《せんこう》しようとしていた。
ひどすぎる。『これで丁度いい』は、言い過ぎだ。
柳田のタンクを持ち上げながら、タラはチラチラ彼女を見た。ぺたんと横座りになって、顔をうつむけたまま、みんなと、ブクブク潜っていくあっちの団体をぼんやり眺めている。
今にも泣き出しそうだ。
俺《おれ》だって泣きたいよ。
ああ。あっちみたいなトコにバイトに行ってたんだったら。ずいぶんと違ってただろうに。お互い、まずい籤《くじ》引いちまったな。……いや……俺が引かせたってことも……ちょっとはあるかもしれない……。
思った瞬間《しゆんかん》、タラは彼女のそばに寄ってしゃがみこんでいた。
「ほんとに、いいの?」
顔をあげると、彼女はニッと無理っぽく笑ってみせた。
「はい」
「せっかく来たんじゃない。ここでやめちゃったら、明日までムダになっちゃうよ。いっぺんだけでもやってみれば?」
彼女は首を振った。
「でも……」
タラはことばをのみこんだ。
俺がついててあげるから。もう絶対、怖《こわ》い思いはさせないから。
言いたいけれども、タラはほんとうは、インストラクターでもなんでもないのだ。そんなこと、請《う》け合《あ》っちゃいけない立場なのだった。
「いいんです」
はっきり言いながら、彼女はレギュレータのパージ・ボタンをちょこちょこ押した。圧のかかった空気が抜ける音がした。金を払った空気がムダに捨てられる音がした。
タラの胸も萎《しぼ》んだ。『ウィニー』に対し、安西に対し、もう何の夢も持てなかった。
考えてみれば、さっき怒鳴《どな》らなかったのだって当然かもしれない。講習料は先に貰《もら》っちゃったんだし、客が勝手にやめるって言い出したんだから、返す必要はないはずだ。何も教えずに儲《もう》かっちゃうんだから、怒鳴ったりするわけはないじゃないか。
「こら」
突然、声が降りかかってきた。
「タラすなよ」
「店長」
タラは立ち上がった。
「やめてください。変なこと言うのは」
「ほ、ほ、ほーおォ?」
みんなの装備を見回りながら、安西はニヤニヤ笑った。
「こりゃ失礼」
なんとも遣《や》り切《き》れないことに、味方してくれてもよさそうな女の子たちまで、タラの視線を避けて、クスクス耳打ちなんかしあっているのだ。
これでどこがタラシなんだ!?
いいよ、百歩|譲《ゆず》ってタラシかもしれないとしよう。でも、店長は、それ武器にするように仕向けたじゃないか。イントラぶりっこができるようになんか特訓して、女の子たちの相手を俺《おれ》にばっかやらせて。そうだよ、だいたいこの子たちはみんな、俺がいたから、来てくれたお客さんじゃないか! 俺のタラシを利用してるのは、店長じゃないか!!
タラは黙って、溺《おぼ》れかかった彼女の手をひいて、立ち上がらせた。
「な、なんです?」
「あっち浅いみたいだから。背が立つと思うから、そこでやってみようよ」
「で、でも」
彼女のと自分のと、ふたりぶんのギアを抱えあげると。
「山本」
押さえてはあるが地獄の底から響くような声に、彼女が、ブルッ、と震えて立ち止まった。
「勝手なことをするんじゃない」
「でもですね」
タラは振り返った。
「ぼくの責任ですから」
「なにィ」
安西の耳がすうっと赤くなってきた。
「責任だと? きさま……何様のつもりなんだ。責任なんか取れるわけないじゃないか。そのひとはやりたくないって言うんだ。無理にやらせることが、どうして責任取ることになるんだ」
「しかし。講習引き受けたのは、ちゃんとできるようにしてあげるってことじゃないんですか。だったら、少なくともある程度チャンスをあげなきゃ。せっかくお金払ってくれたんですから、少しぐらい楽しんでもらわなきゃ申し訳ないじゃないですか。さっきのより、スクーバのほうがずっと簡単で、おもしろいし」
「だからダメなんだ」
立ち尽《つ》くしたままの彼女と、タラとを交互に見ながら、安西は恐ろしいくらい真剣な声で言った。
「一見簡単でおもしろいから、簡単に死ぬやつが出るんだ。足がつったくらいでびびるヤツは、まず水泳からミッチリやらなきゃならん。それを『せっかく来たんだから』『早く覚えさせてあげたいから』とかなんとか親切ごかしなこと言って、手間をかけようとしないから。こんなモンたいしたことない、なんとかなると思わせて、死なすんだ。きさま、それでも責任取れるか?」
「…………」
「……もう、いいです」
彼女が、小さくつぶやいて、エヘ、とタラを見上げた。
「あたし、どうせ、そんなにやりたくなくて、みんながやるっていうから来たんです。もともと鈍《にぶ》いんだし……ほんとのほんとに怖《こわ》いから、もういいんです」
「だけど……」
なんでそんなに簡単に投げ出せるんだ?
せっかく目指すことにしたのに。タンクのエア、水の中で吸ってもみないうちから。
「もったいないじゃない!」
「でも、あのひとの言うこと、ほんとだと思うし」
安西は、誰《だれ》かのBCの調節をやりなおしていて、もう聞いていなかった。
タラはふと、バッグを持ったままだったことに気がついた。下ろすと、肩から力が抜けた。
もうやだ。なんでこうなるんだ? 俺《おれ》の気持ちなんて、誰もわかってくれない。コキ使われて、いいように利用されて、揚句《あげく》の果てにバカにされて。冗談《じようだん》じゃないよ。
やめよう。
ツアーから帰ったら。給料もらって、やめちまおう。いや、何も、我慢《がまん》していることはないんだ。今、この場でやめたっていいんだ。
「店長」
声をかけたのに。安西はまるで無視しているのだ。
「俺……俺ですね」
「ムゥ」
と、唸《うな》ったが、安西はまだトンチンカンなほうを見ている。
「ねぇ! 聞いてくださいよ。店長! 安西さ……」
声を荒げかけてようやく、タラも気付いた。
「何あれ」
「うそ」
「冗談《じようだん》じゃないわ」
こっちの全員が、プールのほうを見ているのだ。タラも振り返った。
最初、何がなんだかわからなかった。プール・サイドに残っていたブロンズ男のひとりが、片脚《かたあし》を伸ばして水面をつついている。もうひとりと、ギャアギャア笑いあいながら。どっちも缶ビール片手なのだ。
踏《ふ》みつけた足の下に黒いものが見えて、タラは、アッと口を開けた。
誰《だれ》か、沈めないのだ。潜行《せんこう》できないでいるのだ。だから、あいつは、その誰かの頭を足で踏んづけて、無理に潜らせようとしているのだ。
「いっかねーなー、不器用な女!」
ガハハハハハ、と金髪が笑った。
「違うって、そっちのボタンじゃねーっつーのによ。しょーがねーなぁ、まだ気がつかねぇ。バカでー」
「はは、オイ、これけっこうおっかしーぜ。プカプカしてやんの。おまえも、やってみないー?」
足があがるたびに、水面にピンク色がチラチラ滲《にじ》む。必死にボタンを押す動作を繰り返している左手が出たり入ったりしている。
背中に何かが触れた。見ると、あの溺《おぼ》れかけた女の子が、たぶん無意識にだろう、寄り添って、タラの背に隠れるようにしているのだ。いっぱいに開いた目が、乾いていた。
もしも、自分が、ああされたら。
そう思っている目だった。
タラも一瞬《いつしゆん》想像してみて、ゾッとした。あれじゃまるで、拷問《ごうもん》だ!
掌《てのひら》に爪《つめ》を立てた瞬間《しゆんかん》、安西が駆け出した。遅れて柳田も続いた。タラも走った。
安西が怒鳴《どな》る。ブロンズ男たちの笑いと脚《あし》が止まる。パンパンに膨《ふく》れたピンクのBCが、ぷくん、と飛び上がる。ブロンズ男たちが缶ビールを投げ捨てる。ピンクのBCがきょろきょろしてから、凄《すさ》まじい勢いでこっち側めがけて泳ぎ出す。安西がブロンズの肩をつかむ。ブロンズがわめきながら腕を振り回す。こっち側の女の子の誰《だれ》かがドブンと飛び込む。もうひとりのブロンズが柳田の髪をつかんでひっぱり回す。ブロンズの肘《ひじ》が安西の鼻に当たる。一瞬《いつしゆん》止まった安西が、パンチを返す。タラが柳田を助けに駆け寄ると、鋭《するど》い蹴《け》りが胃に入ってカラダが折れた。コンクリの床《ゆか》に当たった膝《ひざ》が痺《しび》れた。ピンクのBCがコズエだかタマミだかに抱えあげられるようにして上がるのが目に入った。柳田は引きずられながら、必死で説得しようとしている。がはがは笑いながら踏《ふ》みつけようと落ちてきたブロンズ色のスネに両腕でしがみつくと、タラは、そこに、思い切り噛《か》みついた……。
*
「それで、それでっ?」
せきこんで尋ねたカサゴに、タラは物憂《ものう》い視線を投げ掛けた。いえね、と肩をすくめて水割のグラスで口を湿した。
「で、まぁ、そんなこんなで、俺《おれ》も今ではこんな色になっちまうわ、酒も強くなっちまうわでねェ。まったく光陰はヤですねー。ははははは」
「なぁによォそれはァ!」
カサゴはドカッ、と拳《こぶし》を打ちつけた。
「はしょりすぎだってば。その、喧嘩《けんか》。喧嘩はどうなったのよっ?」
「好きだなァ、暴力|沙汰《ざた》が」
おーヤダヤダ、とノブオが首をすくめた。
「勝ちですね、トーゼン」
「その悪いブロンズ男はどしたのっ? 生きてんの?」
「まさか殺すわけにもいかんでしょが」
「そうじゃなくてサ。そいつ、どっかのイントラだったんでしょ? そんなの、やってる資格ないじゃない。どこのドイツだかわかったの? 資格|剥奪《はくだつ》してやった?」
タラは朱鷺子《ときこ》を見た。朱鷺子は両眼を三日月にして笑った。
「あーっもう! ふたりの世界しないでよねっ、腹の立つ!」
カサゴはブーブー言いながら、空になったアイス・ペールを下げてカウンターに戻っていった。Speak Easy の窓に、うっすら、朝の光が滲《にじ》みだしていた。
「いるよね、やなイントラ」
大森《おおもり》が言った。
「前に小笠原《おがさわら》行く船でいっしょになったヤツなんか、何考えてんだァ? って感じだったよ。イントラやりゃモテ放題だ、カッコいいとこいっぱい見せるし、ツアーはたいがい泊まりがけだろ。女なんかよりどりみどり、毎晩違うのヤッちゃう、もう三十何人、とか自慢《じまん》してやんの」
「練習するなら絶対に自分の機材で、とか言って、派手《はで》なギア高く売るスクールもあるらしいよね」
と、ノブオ。
「そんで、そーゆーとこってろくな教え方しないから、さっきの話の子みたいにサ、カード取れないうちに怖《こわ》い思いしちゃって。二度とやりたくないって、何十万もするギア持ち腐《ぐさ》れにしてるひと、知ってる」
「でも、そういう店のほうがはやってたりしてさ。儲《もう》かるから、店キレイだし、カッコいいギア使わしてくれるし、講習は短いし、うるさいこと言わないでカード出すし……いいよね、一見」
「いいよねー。イントラはブロンズで金髪でカッコいいし」
「セイシェルとかモルジブとか、渋《しぶ》い海外、いっぱい知ってたり」
「女っつーのはサ、やっぱどこかナンパで不良っぽい男が良かったりするから」
「ナンパで、不良で、タラシな男がネ」
ノブオと大森の目が、すうっ、と寄ってきた。タラは、あのな、と首を突き出した。
「俺《おれ》はイントラじゃないっての」
「でも」
「ダイブ・マスターだもん。次は、当然、イントラ狙《ねら》いでしょ?」
イヤイヤ。
タラは黙って首を振った。
「やんな。絶対」
「なんで」
「わかった。そーゆー女の客に懲《こ》りたからだろ? まったくさァ、腹立つよなー」
「イントラ殺すにゃ刃物はいらぬ、女の七人もいればいい」
イヤイヤ。
タラは答えなかった。
『ウィニー』を辞めた時(結局三年半もいてから、やっと大学に戻ったんだけど)店長も聞いたな。なんでだ。何をこだわってるんだ? って。
なぁ。ひょっとしたら、おまえ、損してると思ってないか? ウチみたいな地味な店さんざん盛りたててやったのに、ってさ。おまえのおかげで繁盛《はんじよう》するようになったのに、俺がろくに恩に着てないって、恨んでないか? タラシのタラ山だの言われるの、ほんとはすごく腹立ってるのに、俺の顔立ててくれて、ずっと我慢《がまん》してたんじゃないか?
ナニワブシなんだよなぁ。あのひとは。
タラはそっと笑った。
そんなんじゃない。ただのつまんない理由なんですよ。
ダイビングには飽《あ》きたくない。それだけ。
青く染まった窓は、まるで深い海の底のようだ。タラは薄くなった水割をかざして、そっと揺《ゆ》らしてみた。
第三話 誰よりもやさしい彼
「……はい。最終的には、明日の現地の返事を待っての決定になります」
安酒場 Speak Easy の狭苦しい店内に、朱鷺子《ときこ》のきっぱりした受け答えが響く。カウンターの向こう端のスツールにひとりちんまり座って、電話をかけている。
マスターは黙って酒壜《さかびん》の棚を拭《ふ》いており、うるさいカサゴは昨夜|泥酔《でいすい》でもしたのか、まだ来ていない。
例によってただひとつの大テーブルに陣取った残りのメンバーたちは、なんとも珍妙《ちんみよう》な顔つきでグラスをなめている。騒《さわ》いで邪魔《じやま》をするわけにもいかず、柄《がら》にもなく行儀よくかしこまっているというわけだ。
「そうです。決行しても、現地で結局|潜《もぐ》れないかもしれませんが……は? 料金ですか。明日までにキャンセルなさいますと六十パーセント相当をお返しできます。しかし、明後日になりますと二十五パーセントということになりまして」
「……金、か」
ノブオはボラのような目をしてため息をついた。
「ったく。ハナからバクチだろーがよ」
苦そうにロックをすすって、タラがフン、と笑った。
「今頃《いまごろ》のサイパンなんつーのは、そーゆーシーズンだってハナからわかってっだろーに」
「台風」
「あー。直撃しないとしてもどうせたいして透明度《とうめいど》いいわきゃねぇ。グジャグジャ謝ってねーで、客からキャンセルしてこない限り連れてっちまえばいいんだ。海見りゃ、あきらめもつくんだから」
「まさか! 俺《おれ》やだよ、そんなの。そんなことされたら恨《うら》む。やっぱ、サーヴィス業としては……」
「もう四件めだぜぇ」
大森《おおもり》がぼやいた。
「いい加減にしてもらいたいね。なんでこんなトコまで仕事持ち込むんだろ。朱鷺子《ときこ》さんらしくもない」
「阿呆《あほ》」
ぼやぼや生やしはじめの髭《ひげ》の煙《けむ》った口元をとがらせるのに、タラがコツンと拳固《げんこ》を当てた。
「つかまんねーんだよ、女子大生サマとか。この時間でなきゃ、連絡つかねーの」
「…………」
「悲惨《ひさん》だよねー」
KIN坊がそっとうなずく。
「俺《おれ》もやらされたことあるけど。何度もかけなおして、やっとの思いでつかまえてさ。あいにく中止になりましたって言うと、なんでもっと早く教えてくれないんだとさ。嘘《うそ》だ詐欺《さぎ》だってゴネんのいるんだよな、必ず。ショップからかけるならまだいいけど、あれじゃ自腹だろ? 都内《ゼロサン》でないトコもけっこうあったりして」
「……わぁったよ」
大森はふくれっ面にグラスを押しつけた。
「悪かった。でもさー」
四人は誰《だれ》からともなく、カウンター際の赤電話を見た。
「あっ、こんばんわ。高松さんのお宅でございますか。NUDAダイビング・ツアー・サーヴィスの石渡《いしわたり》と申します。弘子《ひろこ》さん、お帰りになられましたでしょうか」
朱鷺子はこっちを見もせずに、きびきびとしゃべり続けている。どうもまだ、当分終わりそうにない。
四人はそろって浮かない顔つきのまま、そっと姿勢を戻した。
手帳を片手に脇目《わきめ》もふらず受話器に向かっている横顔は美しいけれど、無邪気《むじやき》に飲んで騒《さわ》いでいるいつもの朱鷺子とまるで違う。知らない女のように遠い。
いくら事情がわかっていても、あまり見せて欲しくない姿だった。
「だからさー。ショップとかにー」
重たい空気に真先に我慢《がまん》できなくなるのは、いつもノブオである。
「天下無敵の晴男《はれおとこ》がひとりいると、いいんだよねー。ほら、五反田《ごたんだ》の『バディ・バディ』の下村《しもむら》さんみたいな」
「あー」
「言ったっけ? 去年、五月なかばにケラマ三泊のツアーがあったんだ。絶対|梅雨入《つゆい》りするって言われててさ。十何万もムダじゃ悲しいから、俺《おれ》、一週間前にキャンセルしちゃったんだよね」
「そりゃもう五、六回聞いた話だぜ」
目もあげずにタラがつぶやいたが、ノブオは止まらない。
「二日めには那覇《なは》の降水確率九十パーセントになってるからさ、ザマミロって思ってれば、本島はじゃんじゃん降ってんのに、阿嘉《あか》も座間味《ざまみ》も、そいつらが移動するとこだけ真上がぽっかり晴れてたっつーんだぜ。朝晩はちょっとばかり湿ったけど、ナイトまで含《ふく》めてバッチリ七ダイブできちゃったとか言って、日焼けして帰って来やがんの。あーほんとにまったく、あれはシャクだった。せつなかったなぁ」
芝居がかって声を震わせても、誰《だれ》も顔をあげない。ノブオはあわてて締《し》め括《くく》った。
「下村さんはいつもそうなんだ。彼が行くツアー、降ったことないんだって。だから彼が入ったツアーはみんなすぐ埋まっちゃうんだよー。すごいだろー」
「…………」
「…………」
「得難《えがた》い天分だね。ダイバーとしちゃ」
しばらく沈黙が続いたあとで、ようやく大森がひきとってくれた。
「そういう奴《やつ》のガイド料は高くしてやるのがほんとだな」
「そそ! 晴男宣言してるクセに降らせた奴にはペナルティとかね。お天気保険」
「おまえなー結局金のことばっか」
「はれおとこ……か」
不意に、KIN坊がクスッと笑った。
「なんだ?」
「いや、ちょっとね。思い出して」
「なに」
「たいした話じゃないから」
タラと大森が両側からせっつくのに、KIN坊は勘弁《かんべん》勘弁、と手を振った。
「そう言うなよ、話せよ。言ってみろって。ウケてやるから」
「だし惜《お》しみはよくないぜ、キンちゃん」
「いやー」
ノブオは一瞬《いつしゆん》、さっきの俺《おれ》の話の時とはずいぶんみんな態度が違うじゃないか、とムッとしたが。
「なになになになにー。聞きたーい!」
すぐにひときわ大きな声をあげて、シッと睨《にら》まれた。電話口の朱鷺子《ときこ》がこっちを見て、ゴメンネというような悲しい笑顔を作る。みんなあわてて首をひっこめた。
「そら」
タラがKIN坊を小突く。
「いつまでもジラすんじゃないよ」
「ああ……」
あきらめた顔でうなずくKIN坊のグラスに、誰《だれ》かが氷を放り込み、誰かがワイルド・ローズを注《つ》ぎ、誰かが水を足す。
「んー。『はいむる』に行った時の話なんだけどさ」
指の先で浮かんだ氷のかけらをつつきながら、ようやく、KIN坊が話しはじめる。
1
西表島《いりおもてじま》の東、かのマンタ・ウェイ=ヨナラ水道を挟んですぐにポツンと浮かんだ小浜島《こはまじま》は、住所で言えば沖縄県|八重山《やえやま》郡|竹富《たけとみ》町の一部ということになる。東西の一番長い所を測ってもせいぜい三キロ少々のこの小さな島にヤマハの作った豪華なリゾート『はいむるぶし』がある。一泊一万二千円から。航空券・食事等含めての四泊五日のパックなら、約十五万。
KIN坊金子宗次《かねこそうじ》とカバジュン樺山淳司《かばやまじゆんじ》のキンカバ・コンビが、ここにでかけることにしたのは大学三年の秋、文化祭の連休を使ってのことだ。
カバジュンはそろそろ就職活動に本腰を入れる覚悟である。好きなダイビングも当分おあずけだ。バイトでもこの道で食べて行ければと呑気《のんき》に構えているKIN坊から見ると、あっけないほどの思い切りの良さだった。
何十本も組んで潜《もぐ》って、お互いのクセも好みもよくわかっている。スタミナも泳ぐスピードも無理なく合っていたし、懐具合《ふところぐあい》やらひねり出せる休暇やらの点の相性もよかった。カバジュンは魚の種類や習性に詳《くわ》しく、KIN坊はもともとカメラ小僧だ。ロケハンからトリミングまでふたりで工夫したさまざまな海の魚たちのスライド写真は、何度か雑誌に載《の》せてもらった。『アマチュア水中写真会の藤子不二雄《ふじこふじお》』とコメントされたこともある。かけがえのないバディだったが、もう、これまでのようにはいかないのだ。
普段は真鶴《まなづる》・菖蒲沢《しようぶざわ》・大瀬崎《おせざき》と、安く行ける近場を隅々まで堪能《たんのう》する質実剛健派のふたりだったが、黄金コンビの大団円にあたって思いきり贅沢《ぜいたく》をしてみようかということになった。リッチな海グッドな宿、願わくば可憐《かれん》で気立てのいいダイバー・ギャルとお知り合いになれるようなツアー……というものも、一度はやってみたい。『思いきりの贅沢《ぜいたく》』で海外のことを考えぬあたりも、阿吽《あうん》の呼吸であった。それに沖縄の海、ことに離島の回りのリーフは、世界のどんな海にも負けないダイバーズ・パラダイスなのだ。わざわざ海外に足を伸ばし余計に金をかけることもない。
はいむるぶしと言うのは、沖縄のコトバで南十字星のことだ。そのロマンチックな響きも、キンカバのひそかな好みにぴったりはまってしまったのだった。
2
那覇《なは》で南西航空に乗り換える頃《ころ》は、あまりパッとしない天気だった。だが、石垣《いしがき》島が近づき降下をはじめ雲を抜けると、眼下は突然|鮮《あざ》やかなガラス色の海になり、ふたりは歓声を上げた。グラビアやビデオでしか見たことのない本物の珊瑚礁《さんごしよう》が、キラキラと手招きをしているのだ。
石垣空港の建物は、田舎《いなか》のバス・ステーションくらいの規模である。閑散と荷物を持っているひとたちの顔ぶれもどこかしらエキゾチックで、KIN坊は少し気後れを感じた。
普段ふたりが出かける海では、バス停でも飯屋でも、いつもイヤになるくらい大勢のダイバーたちと出会うものだった。グループや団体があふれていて、お互いになんとなく無視しあったり、さりげなく観察しあってたりするものだ。それが、ここにはない。
あっちの短パンの男たち、向こうの三人組の女の子はダイバーのようにも見えるが、あとの大勢は地元のひとか、普通の観光客だろう。ゴトンゴトン鈍《にぶ》い音をたてて回ってくる荷物の中にも、ダイビング・ギアを詰めたようなものは見当たらない。
ひょっとすると、ひどく悪いシーズンだったのかな。けっこう晴れているけど、海の中はまた別だからな。
やっと出てきたバッグを取って外に出てもなんだか風が湿っぽく思えて、KIN坊は少しがっかりした。せっかく大枚叩《たいまいはた》いてこんな南の果てまで来たのだから、もっとギラギラと暴力的に夏であって欲しかったのだ。
カバジュンはどう思っているかな。
横目で見れば、まるで子供のようにキョトキョトあたりを見回すのに忙しくて、なにも心配している様子はない。KIN坊は口をつぐんで、不安を飲み込んだ。
港までタクシーを飛ばし、出発まぎわだった小さなフェリーに乗りこみ、デッキに飛び出し、ふたりは床《ゆか》の上に直接座りこんだ。
走りだした舟の蹴《け》たてる白い波の向こうに、今立っていたばかりの桟橋《さんばし》がぐんぐん遠ざかっていく。さっき空の上から見たばかりの南の海が、もう三百六十度四方に広がっているのだ。
「来たなぁ。はるばるー」
「ああ」
朝からもう何度めかのやりとりも、今回は怒鳴《どな》り声になった。エンジン音と、波しぶきと風のうなりで、そうでないと聞こえない。
確かにはるばるだったな、とKIN坊は思った。朝七時に待ち合わせて、羽田《はねだ》の最初の便に乗ったのに、今はもう夕方に近い。
カバジュンのただでさえ分厚い髪は、潮風にあおられてボサボサふくれあがっている。眉《まゆ》の濃《こ》い整った目鼻立ちなのだが、惜《お》しいことに背がない。この髪の具合ではますます頭でっかちに見えて、まるで歌舞伎《かぶき》の悪役であった。有頂天な表情を浮かべ、その顔を、わざと波のかかるところに突き出してはしゃいでいるのだから。
呑気《のんき》なやつ。
KIN坊自身はいたって地味《じみ》な作りで、口数も少ない。ふたりでいると、たいがいカバジュンのやることを見て笑う役目になる。
波のかかる場所にわざわざ移動してあぐらをかき、さっそく滝に打たれる坊さんの真似《まね》をして見せるカバジュンの姿に、KIN坊はニコノスをひっぱりだし何枚かシャッターを押した。
「おまえも何かやれよ。撮るから」
「ああ」
何かって言われたって。
とまどうKIN坊からカメラを取ると、
「あ、スーパーマン。スーパーマンいこう。ほら、そこに立って、こう。裾《すそ》出してさ」
カバジュンはポーズをつけた。
ぎこちなく飛んでいるふりをすれば、Tシャツの中を風が通ってハタハタと揺《ゆ》れる。すぐ下は珊瑚礁《さんごしよう》。どっかりとでかい空。
そうだ。来たんだ。
何も心配なんかすることはない。
「おーし。いい顔だったー」
波のかからないところに腰を下ろすと、カバジュンはすぐにゴロンと寝転んだ。
「え〜な〜。やっぱ。離島だな」
「うん」
「この具合なら、天気もちょうどいいな」
「だといいね」
確かに、カンカン照りではないが、これなら三ミリ(ウエット・スーツのネオプレーンゴムの厚み。三ミリと五ミリの種類があり、厚い方が保温性が高い)で潜《もぐ》ってあがっても、そう寒いことはないだろう。
「な、キン太郎。気付いていたか?」
「なに」
「あとの客」
カバジュンはドアの向こうに顎《あご》をしゃくってみせた。
フェリーには、ふたりの他に三組ばかりの客が乗りあわせている。みんな、おとなしくキャビンに座ったまま出て来ないようだ。もちろんあっちは空調が効《き》いているし窓もあるが、どうせ長い距離ではないのだ。せっかくの海、楽しまないなんてもったいないのに。
「乗り慣れてるのかな。地元のひと?」
「まさか。あれ、新婚じゃないか、みんな」
「え?」
言われてみれば。どの組も男女ふたりのカップルだったような気がする。
「そんなに派手《はで》には見えなかったけど」
「今どき四六時中イチャイチャしてる新婚なんかいるもんか。な、ひとり頭|剃《そ》ったのがいるだろ。背の高いの。縞《しま》のシャツの」
「ああ。いたね」
ここからでも、キャビンの中がうかがえる。通路を挟んで進行方向にキッチリならんだふたりがけの、左側の真中あたりの椅子《いす》の背から、痩《や》せた肩と涼しげなうなじがぴょこんと飛び出している。
「あれ、ぼの字だぜ」
「ぼの字?」
「坊主《ぼうず》だよ、坊主。連れてるのはお大黒《だいこく》さまってわけだ」
「……坊主の新婚旅行……?」
「神父じゃねーもん、結婚ぐらいする。新婚じゃないとしても、まぁ、お盆《ぼん》もすんだし檀家《だんか》の寄付も集まったしで出掛けてきたってとこかな。間違いない、駒桜《こまざくら》高校出身の俺が保証する」
そう言えばカバジュンの高校は、仏教系だった、と、KIN坊は思った。
「坊さんもリゾートなんてするもんか? 何しに来たんだ」
「鳥人間コンテストの常連にだって坊主がいるぞ。坊主はびょうぶに上手に何でもやるんだ。何しろ金あるんだから」
もうすっかり『坊主である』ということになってしまっている。
「案外、ダイバーだったりして」
カバジュンは、ウシシシシ、と変な笑いかたをした。
「坊主《ぼうず》潜れば海ボウズ。お、いいぜ、いいぜ、キン太!! エントリー前にしっかりお題目唱えてもらえりゃさ、万一の場合もしっかり成仏《じようぶつ》できる」
「あのな」
3
桟橋《さんばし》から、迎えのマイクロバスに乗る。海を背にして急な坂を登り、小さな村落の狭い道をちょこちょこ縫《ぬ》うと、サトウキビ畑の真中の一本道に出る。対向車もなく、後続車もなく、信号機も横断歩道も全く見当たらなかった。
運転してくれているホテルの若い男が、ここは何、あの花は何、と案内サーヴィスにこれ努めてくれていたが、カバジュンが坊主関連の話をしゃべり続けたので、さっぱり聞くことができなかった。さっさと一番後ろの席に乗りこんだものだから、ほんの一メートルばかり先にあるひょろりとたて長の青々とした頭がいやでも目に入ってしまう。
袈裟《けさ》は持ってきているだろうか。あの頭は帰りまでに伸びるか、それとも毎朝電気カミソリで剃《そ》りあげ続けるか。部屋が近かったら、お経も聞けるかもしれない。何年もたって奈良か京都か鎌倉かのお寺に観光に行くと、突然彼がなにくわぬ顔で出てきてありがたいお話をしてくれ、俺《おれ》たちはあまりの偶然に感動して思わず入信してしまうんだ……。
悪い悪いと思いつつ、KIN坊もついノッてそれからそれからと聞いてしまった。坊主氏はといえば自分の後頭部が注目の的になっていることなど知らぬげに、傍《かたわ》らの小柄《こがら》な連れと景色を楽しみ、何かしら囁《ささや》いたり指さして見せている。その一挙手一投足も即座《そくざ》にカバジュンにカモられる。
「んーやっぱ間違いない。あの、鳥ガラのような首。年寄り臭い身のこなし。妙《みよう》にご清潔で自分の女房にまでどこかしら他人行儀っぽくねーか? もう絶対に坊主であると断言できるね」
「ほんとに奥さんかな」
「おお、坊主の不倫!?」
「いやいや、娘とか」
「バカ言え、そんなに老《ふ》けてないよあいつ」
フロントのある建物で一旦《いつたん》降りてチェック・インをすませてから、案内されたのは、平たい二階だてコテージの一階で、間違ってスイートルームに案内されたんじゃないかと疑うほど広々とした部屋だった。
「……すげ〜!!」
玄関《げんかん》にバッグを放りだしたまま、カバジュンはあちこちをバタバタ開けたりのぞいたりしながら駆け回った。
庭側は前面ガラスの掃きだし窓。セミダブルくらいありそうなベッドと、たっぷり眠れそうなソファが二脚、つくりつけの大きなデスク、その他にまだ籐《とう》の応接三点セットが入っている。それでも床の半分も埋《う》まっていない。風呂場《ふろば》や化粧台《けしようだい》、洋服ダンスなどはまた別にくっついている。
「こりゃえーわ」
とうとうドタッ、とベッドにひっくり返って、あ〜、と裏返されたカエルのように伸びて見せた。
「ウチもこのくらいありゃ。こういう部屋だったら、絶対女ウケするのに。……おっ、そうだ」
せわしく立ち上がると、今度は冷蔵庫に突進する。
「お、あったあった! みろよキン太、オリオン・ビール(沖縄本島特産のビール)だぜ。乾杯しよ、乾杯」
「すぐメシなんだぞ」
カバジュンは飲みだすと止まらなくなるほうなのだ。
「そうだ。その前に、ついたらすぐガイドのひとに会って、スケジュールたてといたほうがいいって、旅行社のひとが」
「ま、ま、そういわず、一杯だけ」
カチンと音をたてて一口飲んでみると、からだ中にジワッと滲《し》みた。知らず知らずのうちにずいぶん疲れている。どんなに飛行機を使って時間を短縮しても、長い距離を動いたら動いたぶんだけ、人間はしんどくなるものなんだという説を、KIN坊は思い出した。
しみじみ見回すと、ビールといっしょに幸福な気分もじわじわ広がってくる。思っていたよりずっと立派な部屋だった。カバジュンのようにキャアキャアはしゃぎはしなくても、満足だった。
「海も、このくらい期待以上だといいな」
「あーまったくよ。明日が楽しみだ」
さっさと最初のコップを干してしまったカバジュンは、無造作に次のひと缶を取り出してトポトポ注《つ》ぎ、またグーッとあける。
一杯だけって言ってたクセに。
クスッと笑いながら、KIN坊もゴクリとやって、ふと言ってしまった。
「明日が楽しみか。好きだな、こういう時。もうすぐいいことがあるって時」
「うむむぅ」
不意にカバジュンが真面目《まじめ》な顔をした。
「あのな。土曜日がイチバンか。わかるけどさ。おまえ、日曜になると、あー明日は月曜だって思い始めてサッサと落ち込んじまうトコあるからな」
「ある」
「そりゃ、もったいなくないか」
そう言われても。
「何かツマミないかな、ツマミ」
カバジュンは、KIN坊のつぐんだ口を見て、すぐにまたふざけた調子でゴソゴソ立ち上がってしまった。
俺《おれ》はこういう性格なんだから。しょうがないよ。
そうだ。これが、最後になるんだ。
考えたくないと思っていたことが、また頭の中で膨《ふく》れ始める。
こいつと潜《もぐ》れるのも、今度きりだ。その旅行に、とうとう来てしまった。もうどんどん通り過ぎていくばかりだ。
就職先が決まっちまえばまた行けるさ、とカバジュンは言う。サラリーマンにだって週末はあるさ。有給休暇ってありがたいものだってあるんだぜ。
でも、きっと、新入社員の頃《ころ》は大変だろうし、残業とか成績とかいろんなことでクタクタになって、そうそう潜ってなんかいられなくなるに決まっている。会社のひととのつきあいだってできるだろうし。
女々しいとわかっていながら、何か大切なものを掠《かす》め取られていくような気分を拭《ぬぐ》いきれない。KIN坊は黙って窓の外を見た。
「……あれ」
カバジュンが乱暴に開け放ったままのカーテンの向こうを、濃《こ》いみどり色の影が動いていく。長い首と、丸いからだ、細い足……。
「なんだ?」
「クジャクだ!」
へっ? とカバジュンが顔を突き出した。雁首《がんくび》そろえて窓に近寄ってみると、確かに孔雀《くじやく》だった。
薄青く暮れかけた空の下、南国らしい木々を背景に、芝生《しばふ》のあちこちで立ち止まって地面をつついては、またのんびりと歩いていく。
「あ、まだいる」
見ているうちに、今度はゾロゾロ何羽ものグループが歩いて来た。全身が白いのもいる。
「驚いたな。放し飼いにしてるんだ」
「ちょうどクジャクお散歩ショーの時間かなんかなのかね? 俺《おれ》らがついた途端《とたん》にサーヴィスしてくれるとこなんざ、泣ける」
KIN坊がニコノスを出しにいくと、カバジュンは見つけたばかりの酒のツマミセットの中からピーナツの袋を選んで破っているところだった。
「やってみよう。寄ってくるかな」
窓をあけても、クジャクたちは逃げない。ピーナツを投げてやると、とたんにサーッと集まった。わざと近くに落とすと、平気で近づいて来る。
「よしこい。こい。こい。イデッ」
とうとうカバジュンの手から直接食ってしまう。
「おー怖《こわ》。ささったかと思った」
「危ないよ、手からはやめとけよ」
「魚はいろいろ餌《え》づけしたことあるけど、クジャクは初めてだ」
ズーム・レンズごしの目つきはきつく、猛禽《もうきん》類、という感じがした。
だが、落ち着いて見るとどれもあまり綺麗《きれい》ではない。長い尻尾《しつぽ》はところどころ抜けてハゲちょろけているし、頭の上のオバQのような飾り毛も今ひとつ立派ではない。
「ピース! ほらオマエもいっしょにピースしなって。……無理か」
「抜けかわる時期かな。あんまり絵にならないよ」
KIN坊は諦《あきら》めて、カメラを下ろした。
「交尾の季節じゃないんだよ。オイ、なんだよ、さっきからおまえばっか食ってんじゃねーか。シロこい、シロ」
それにしても。こんなのが平然と散歩しているのも日本なのだから、すごい。狭い狭いって言うけれど、沖縄から北海道まで、珊瑚礁《さんごしよう》からスキー場まであるんだから。いい国だ、とKIN坊は思った。
いかん。
クジャクの撮影に来たんじゃない。
「おい、俺《おれ》らのメシ! それにダイビングの計画を」
「んじゃ、行くか」
4
「九月まではずいぶん混んでたんですがね。今はすいてます。おいでになってらっしゃるかたは、ほとんど新婚さんばっかりで」
「やっぱり」
「ダイバーのかたは、少ないです」
太股《ふともも》まで真黒に焼けたインストラクターの鈴木《すずき》氏は、ふたりのログ・ブック(ダイビングの記録帳。日時、潜水場所、天候、海洋状況、タンク圧等を記入する。メモ欄をダイビング日記として使う人が多い)をザッと見てなるほど、とうなずいた。
「ベテランですね」
「いやいや」
「体験ダイビングのお客さまはけっこういらっしゃいますが、タンクもボードもこちら側のスタッフも、充分《じゆうぶん》にゆとりがあります。天気にもよりますが、どこでもご希望通りに行けますよ。たぶん、おふたりと私で、一|隻《せき》使えますから」
「やった!」
カバジュンはパチン、と指を鳴らした。
「ご希望は?」
「このへんは初めてなんで、まずはひと通り見せてください。地形とか、魚のおもしろいところを」
「では、午前一本、午後一本ということで、お泊まり中に六本はいけると思いますから……初日はガーデン・ポイント近辺にさせてください。初心者OK、シュノーケリングでも楽しめるような場所ですが、リーフの良さは充分《じゆうぶん》味わえますし。おふたりのクセを見ておきたいのです。波照間《はてるま》、仲《なか》ノ神島《かんじま》、マンタ・ウェイあたりはその後ということで」
「けっこうです」
「ナイトもなさいますか? 別料金になりますが」
「やります。明日の晩でも」
「わかりました。機材は?」
「タンクとウエイトをお願いします。あとは持って来てます」
「では……明日九時にフロントでお待ちしております。水着は着ておいてください」
「よろしく」
5
夕食は沖縄料理のバイキングだった。案内された席で、またしてもオリオン・ビールを二本頼むと、ふたりはさっそく食べ物を取りに立った。
レストラン内部も三分の一も埋《う》まっていない。そして確かに、どのテーブルもカップルばかりだ。
「良さそうなひとだったね。ガイドさん」
「ああ。頼りンなるな。なんたってふたりで一|隻《せき》ってのが豪華でいいや。……なんだろ、これ」
「イモじゃないか?」
「ま、いい。食うべ、食うべ……うっ」
「なんだ?」
カバジュンがあごをしゃくる方を見れば、皿を飾ったテーブルの向こうがわ、ヤシか何かの葉の隙間《すきま》を、剃《そ》りあげた頭がひょいひょいと動いていくのが見えた。
「また出た月が」
回りこむと、向こう側にも料理が並んでいる。坊主《ぼうず》氏(仮定)は、その妻(あくまで仮定)の差し出す皿に、豆腐の入った野菜|炒《いた》めのようなものをせっせとよそってやっている。ひょろりと痩《や》せた立ち姿を、ふたりは初めて目にして、顔を見合わせた。バミューダ・パンツから伸びた毛脛《けずね》の薄い脚が、いやに長かった。
突然、カバジュンはササッと歩いていくと、なにげなく坊主氏の背中側に立って何かをよそいつけはじめた。歩きだそうとした坊主氏が、知らずに軽くぶつかる。
「あ。失礼」
「すみません」
坊主氏たちがあっけなく向こうに行ってしまうと、カバジュンがニヤニヤ笑いながら戻って来た。
「ついに口をきいたぞ!」
「よせよ。あんなガキみたいなこと」
「ご利益をうつしてもらったんだい。坊主にさわったんだから、俺《おれ》は当分ケガない」
なんでカバジュンは、あいつにこだわるんだ。
KIN坊にはよくわからなかった。
ただ通りすがりに見かけただけの男なのに、あんなわざわざ構ったりして。クジャクだってそうだ。ふざけてばかり。
席に戻って食べ始めても、カバジュンはなんだかんだとくだらない話をしかけて来た。ウンウンとうなずいて見せながら、KIN坊はおもしろくなかった。
ひどくはぐらかされているような感じがする。ひょっとして俺はカバジュンがもう少し真面目《まじめ》に真剣に深刻になってみせてくれるのを待っているのだろうか。
待っているのだ。こいつが、就職なんかしたくないとグチをこぼすのを。ほんとうは、もっとずっと何度もいっしょに潜《もぐ》っていたいのだ、と言ってくれるのを。
女々しい。
こんなバカなこと、考えるもんじゃない。まるで、ホモじゃないか。捨てないで捨てないでってすがりつく演歌の女みたいじゃないか。
無造作にガブリとやってしまった炒《いた》めものの中にキュウリのようなものが、飛び上がりそうに苦くて、KIN坊はグッと詰まった。
「なんだ?」
「に……にがい。やたら苦かった」
「あー。ニガウリだろ。ゴーヤーとかいう。ほれ、ビール飲めビール」
ゴエモンめいた爆発頭のまま、にやにやグラスをさし出して世話をやいてくれるカバジュンの派手《はで》な目鼻から顔を逸《そ》らせば、窓の外は闇《やみ》だった。ネオンひとつ、見えはしない。
6
ガーデン・イール、別名チンアナゴ。
下品な連想をさそいがちな名前だが、犬の狆《ちん》に似た顔のアナゴ、という意味である。砂地に埋《う》まって細長い頭だけをぬっと突き出している姿も妙《みよう》だが、ひどく臆病《おくびよう》で、撮影が難しい。
深度十メートル。確かに初心者向けの流れもない静かな海だが、砂を舞い上げないようにそっと降り、近づいていくのには、いささかワザがいる。
ガイド氏、カバジュンは大丈夫《だいじようぶ》だが、問題は彼女だ。
まったく、なんということだろう。
約束のフロント前に行ってみると、鈴木氏のそばにどこかで見たことのある女が座っていたのだ。ふたりだけ連れて行けると言ったのに申し訳ないが、と鈴木氏が立ち上がる。
「今日のポイントは簡単なんで、もうおひとり入ってもかまいませんでしょう?」
「すみません。おねがいします」
女も立って、頭を下げた。
「ダイコク……」
とカバジュンが驚愕《きようがく》顔でつぶやいた。
そうか。これは坊主《ぼうず》の妻(今もって仮定)じゃないか!
「なんでまた」
思わず言うと、意味を取り違えた鈴木氏があわてて言い訳をした。
「こちらのかたと、初心者クラスのダイビングをいっしょにするはずだった女性グループが、急に西表島観光コースに変更されたんですよ。ダイビングは明日に回されまして……普段なら観光コースも毎日全コースやってるんですが、こうすいてるもんで。明日は西表ナシということになってしまいまして」
「ご迷惑《めいわく》だったでしょうか」
坊主の妻(かどうか、これで正体がわかるかもしれないぞ)は、色白の顔を申し訳なさそうにして、ふたりを見た。
「いやいや、そんな」
「かまいませんよ」
あわてて答える声が重なった。
「よかった」
坊主の妻(それにしても、坊主のほうはいったいどうしたんだ?)は、いかにも無意識に胸元で両手を合わせた。女らしいしぐさにも、坊主の妻らしい合唱にも見えた。
「大原《おおはら》といいます。まだオープン・ウォーター1ですが、なるべくご迷惑にならないようにしますので」
「大原さんには私がつきますから、おふたりはおふたりでバディを組んでください。それじゃ、まいりましょうか」
……問題は、彼女だ。
ガイド氏の片脇《かたわき》をゆっくりしたキックで泳いでいく大原夫人の蛍光ピンクのスーツのお尻《しり》あたりをチラチラ見ながら、KIN坊は不信感でいっぱいだった。
「よかったな」
舟の上でこっそりカバジュンが言ったっけ。
「早くもギャルとお知り合いになれたっつーわけだ」
「人妻もギャルか」
「ほとんど人妻しかいないじゃないか」
ご主人はどうしたんです?
あのかたはご住職では?
新婚旅行ですか?
いろんな質問があったが、さすがのカバジュンも面と向かっていきなりプライバシーに首をつっこむ気はないらしい。
普段はどのへんで潜《もぐ》ってるんですか。いえそんなめったに行けないんですけど。ええ、学生時代にちょっと。ずいぶん前にモルジブへ行ったのが最後で。沖縄は二度めです。この前は久米島《くめじま》でした。
「金持ちは間違いないな」
話の途切《とぎ》れ目に、カバジュンはなに食わぬ顔でそう囁《ささや》いた。どうやら、少しずつ探って謎《なぞ》の堀を埋めていくつもりらしい。
久しぶりと言うわりに、彼女、機材の装着はなかなかテキパキしていた。バック・ロール・エントリーも華麗に決まって、KIN坊自身より鮮《あざ》やかなんじゃないかと思えたくらいだ。なにしろこちらは、ボート・ダイブなどめったにやったことがない。重たい装備をやっこら背負って、ザバザバ波に逆らいながら長いこと歩いてでかけ、帰りは腹をこするあたりまで泳いでおいてズルズル岸に這《は》い上がるスタイルのほうが、まるで安上がりなのだから。
それでも、問題は問題だ。
イザ魚を見かけたら、キャーキャー言って邪魔《じやま》をするかもしれない。アッという間にエアを食っちまって、予定よりずっと短い時間で上がらなきゃならないことになっちまうかもしれない。あのガイド氏とカバジュンと俺《おれ》だけなら、この程度の深さなら、四、五十分はいられるのに。彼女のレギュからは、いやに景気よく泡が上がっているような気がした。
水中撮影では、予測が肝心だ。どこにどいつがどう出そうか見破り、だとしたらどういう光どういう構図を狙《ねら》うか、あらかじめ頭の中に描いておく。あとはじっと待機して、チャンスを逃さないことだ。急《せ》かされるのと、勝手なヤツにせっかくの被写体を追い回されるのが、一番腹が立つ。
でも、今回は、写真が目的じゃないんだから。
外部ライトを装置してバカでかくなったニコノスを、ゆっくりと持ち換えながら、KIN坊はせいいっぱい気分を落ち着けた。
スナップ程度で我慢《がまん》するんだ。これだけ明るければ、瞬間芸《しゆんかんげい》でもかなりの絵が撮れるはずだし。
水はなま温いほど暖かく、光にあふれている。スコーンと遠くまでよく見える。青が重なって紺《こん》や濃《こ》い緑になっていく中に、ソフト・コーラルの奇岩めいた地形が広がっている。ハナダイらしい魚が、すぐそばをちょろちょろ泳ぎ去っていく。もうじき砂地だ。
女のケツなんて眺めてないで、楽しまなきゃ。よく見なきゃ。
砂地の上で、ガイド氏が止まって、こちらを振り向いた。KIN坊はドキッとした。泳ぐよりも、止まるほうがむずかしい。彼女がバランスを失ってドサッと無様に砂地を散らすのが見える気がした。
砂は、舞い上がらなかった。
彼女は両脚《りようあし》を抱き込むようにして方向を変え、こちらに向き直りながらかすかに両手を張ってブレーキをかけた。一瞬の動作でスタビを調節すると、ピンクのヒップがふわっと持ち上がり、すぐに安定する。
静かにホバリングしている彼女は、美しかった。
軽くそらした胸、静かに流してななめになった脚。舟の上で、水着になり、ウエットスーツを着る時には、ジロジロ見るわけにもいかず気がつかなかったのだが、無駄のないきれいなプロポーションだ。水のせいで紫がかったウェアがよく似合っている。マスクのベルトの上に結んだポニー・テールの先が、ゆらゆらと揺《ゆ》れているのも素敵《すてき》だった。
相手が男なら、うまいとは思っても、きれいだなんて思わない。ぴったりしたスーツでからだの線をモロ見えにさせてるのなんか、見たくもない。どんなグッドな泳ぎかたでも、万が一にも、うっとり見惚《みと》れてしまうなんてことはない。だいたい水の中では、なんでもでかく見えるのだ。ムキムキ筋肉のついた野郎《やろう》など、うっとうしいぐらいだ。
小さくて地味《じみ》な女だと思っていたのに。
新種の魚を見つけた時のように、KIN坊の胸が高鳴った。
女のひとの潜《もぐ》ってる姿って、こんなにきれいなものなのか。それとも、彼女が特別なのだろうか。
ガイド氏の合図に従って、四人は静かに集合した。指差すほうを見ると、三メートルばかり向こうの地面に、小さな白いツクシンボのようなものがぴょこぴょこ生えている。あわててニコノスを出し、ズームにして見る。チンアナゴだ。あるかないかの水の流れに、ふらりふらり首を揺《ゆ》らしている。
おもしろいことはおもしろいけれども。
あまりに遠くて、あまりに小さくて、どうってことないじゃないか、とつい思えてしまった。
彼女のほうが美しい。
KIN坊のカメラは、左斜め後方にいるはずのピンクの人魚の引力にふらふら揺れ、なかなかシャッターが切れなかった。
次の合図で、そうっとアナゴに近づきながらも、気分は完全にそれていた。カメラをいじるふりをしてわざと遅れ、彼女のフィンを先にやる。大きくゆっくりと水をはさみつけ遠ざかっていく二本の尾鰭《おひれ》。女の脚を下から覗《のぞ》いているような恰好《かつこう》も、恥ずかしいとも思わなかった。
これはそういう趣味のエロスではない。
上がるまでに、何枚か撮らせてもらえるかな。黙って撮ったら悪いだろうか。でも、決まった写真ができたら、喜んでくれると思うし。
プクプクと上がっていく彼女の吐《は》き出すエアの粒までが、今はもう豪華な真珠の首飾りのように見えた。
7
出会って、あれこれしゃべって気が合って、ただ言葉を交わしているだけではもの足りなくなった時。もっとよく、もっと身近に相手を知りたいと思う時。男と女なら(なんなら男同士、女同士でも、一応は)からだを合わせることができる。
ダイバーには、別のかたちがある。
たった一度、いっしょに潜《もぐ》ればいい。幾晩語りあっても見えない姿が見えてくる。唇は悪意のない嘘《うそ》を洩《も》らすこともあるけれど、水の中で見つめあった視線には、ほんとうの気持ちしか現れないはずだから。
ニコノスのファインダーから覗《のぞ》く彼女はキンメモドキの女王だ。淡いピンクのベールから微《かす》かに透《す》ける金色の肌《はだ》。すっきりと流線形の胴に、しゃなりと薄いはさみ型の尾鰭《おひれ》。大きな丸い瞳《ひとみ》が愛くるしいわずか五センチの海の妖精《ようせい》たちは、何十匹もの群れになって、彼女を囲んでいる。まるで人間に生まれかわってしまった昔の仲間を、なぐさめるように。
『迷子のウフミー(沖縄の言葉でキンメモドキのこと)』
タイトルが決まった時、写真は生きる。KIN坊は夢中でシャッターを押し続けた。彼女の手の中のソーセージがぽろぽろと千切れては、ぱくりぱくりと奪《うば》われていく。一瞬《いつしゆん》一瞬が群舞《ぐんぶ》のように美しい。
単なる餌《え》づけがこんなに絵になるなんて、思ってもみないことだった。人間をいれた写真は、もともと好きではない。一ポイントに一、二枚、確かに行ったよ、という記念に撮るのがせいぜいだったのに。
気がつくと、三十六枚終わっている。
しまったという気持ちと、解放されたような気持ちの両方がした。カバジュンやガイド氏を加えた写真を一枚も撮れなかったことも、頭の隅をチラリとかすめて行った。
8
舟に上がってみると、空はぼんやり明るい程度で、海の上の風がけっこう肌《はだ》を刺した。濡《ぬ》れたスーツの上半身を剥《は》いでタオルで拭《ふ》く。よく冷えたシークワサー(沖縄特産のヒラミレモン。緑色で小型の柑橘類。グレープフルーツのような苦みのある甘さをもつ)・ジュースが、潮水にべとついた口をシュッと浄化してくれる。
暖かい海でのダイビングはちょっとしたジョギング並に汗をかくらしいのだが、どんどん水に洗われてしまうので、のぼせる感じはめったにしない。ただ、乾燥したタンクのエアを呼吸するせいもあって、やたらに喉《のど》が乾くのだ。
「うまいじゃないっすかー」
おしとやかに髪を梳《と》かし直し、ようやくクーラー・バッグに手を伸ばした彼女に、カバジュンが気安く声をかけた。
「見たよ、見ましたよ。さりげなくドルフィン・キックなんか披露《ひろう》してくれちゃって。オープン・ウォーター1だなんて言って、相当やるんでしょう」
「いえ、そんな。ただ、ついて行っただけです。みなさんお上手だから、遅れてはぐれないようにと思って、必死で。もう、くたくたです」
水着の上に、さっと薄いTシャツを羽織《はお》ってしまった彼女。舷側《げんそく》に背中をもたれて、気弱そうに首を振る姿は、さっきの華麗な舞いがウソのようだ。
「どうしましょうねぇ」
ガイドの鈴木氏は、サッサと競泳選手のようなピチピチのパンツひとつになって、どっかり座っている。さすがに裏も表も真黒のたくましいからだで、KIN坊はつい、肩にかけたタオルを生っ白い胸の上に深く合わせた。
「午後は。この感じなら、みなさん問題ありませんから、西表のほうにでも行きますか」
「いいですねー」
即座《そくざ》に調子よくカバジュンが答えたが、KIN坊はおやっ、と思った。
彼女はどうするんだろう。『みなさん』ってことは、またいっしょに行くんだろうか。
見ると彼女も、何か言いたそうな顔を鈴木氏とカバジュンにサッと走らせ、最後にKIN坊と目があうとあわてて逸《そ》らしてしまった。
「行きましょう行きましょう」
「まだ早いですね。三、四時間ゆっくり釣りでもしませんか」
「あの」
「あのう」
KIN坊と彼女の声が、ほとんど同時だった。
「なんでしょう?」
どうぞ、と彼女が臆病《おくびよう》そうに目を伏せ、頭を下げる。KIN坊は思い切って言ってみた。
「このかたはどうするんです?」
私もそれを言いたかったんです、というように彼女がコクンとうなずいた。
「ああ」
鈴木氏はぱかん、と口を開けて笑った。
「そうですね。どうしましょう。大原さん。観光コースへ行ったひとたちは夕方まで戻らないと思いますが……疲れましたか?」
「はぁ。ええと……」
「行きましょうよ、いっしょに!」
カバジュンが言った。
「あんまりハードな潜《もぐ》りかたしませんから。せっかく来たんだから、一本でも多く潜りたいでしょう?」
「でも」
やっぱり。こっちはゆっくりのんびりやってるつもりでも、男の脚力とは違うだろうからな。ついてくるだけで、しんどいのかもしれない。
思ったが。
もうこれっきりかと思うと、KIN坊はひどく残念だった。
この今のビクビクした姿は、かりそめなのだ。彼女はあのピンクのスーツを着て、水の中に入った時に一番美しい。俺《おれ》たちが拒《こば》んだら、きっと午後はあの坊主《ぼうず》のやつとホテルの敷地内の散歩でもするしかないだろう。そんな姿は、美しくないのだ。
あの坊主のやつと。
彼のことを思い出した途端カッと胸が熱くなって、KIN坊は自分でびっくりした。
なんだろう、この感じは。嫉妬《しつと》か? 俺は人妻に恋をしてしまったんだろうか?
焦《あせ》る気持ちのすぐそばから、いやいや違う、という声もする。
ただ、惜《お》しいのだ。あの、魚たちと戯れている姿、この世のものとも思われない素晴《すばら》しい彼女を知りもしないで、夫面をしているあの坊主。にょっきり背ばかり高いくせに、へなへないかにも頼りなさそうじゃないか。ひょっとしたら、カナヅチで水に顔をつけることもできないような情けないヤツなのかもしれない。
「行きましょう!」
気がついた時には、彼女の目をきっぱり覗《のぞ》きこみながらそう叫んでいた。彼女の目が丸く、キンメモドキのように真丸くキョトンとこちらを見つめかえしている。
「ご主人は放っておきなさい。どうせ別のひとたちと、一日どこかで潜《もぐ》る予定だったんでしょう? かまいませんよ」
「はぁ。それは……そうなんですけど」
彼女は濡《ぬ》れた髪のほつれ落ちてくるのを、せわしなく撫《な》でつけながら、叱《しか》られた子供のよう作り笑いを浮かべた。
「かまいませんか? 足手まといじゃないでしょうか、私」
「かまいませんとも! なぁ?」
言いながら、カバジュンの、おうよ、そうとも、と元気よく請《う》け合《あ》う声を聞きながら、KIN坊は漠然《ばくぜん》と『ああ、やっぱりな』と思っていた。
ああ、やっぱり。『ご主人』と言っても、否定されなかった。親子じゃない。兄妹でもない。やっぱり、彼女は、あの坊主野郎の妻なのだ……。
9
「すごかったなー。あのオオイソバナ!!」
レストランまでの道は、右手にテニス・コート、左手に鬱蒼《うつそう》とした森。ほんの百メートルなのだが、コートのナイター用の照明がついているだけであり、すれ違うひともなくて、やけに長い。
二本めのダイブを終え、一旦《いつたん》部屋に帰ってシャワーを浴びれば、もう夕飯の時間だ。昨日の長旅の興奮が冷《さ》めぬまま海に入ったせいか、KIN坊は妙《みよう》にずっしり肩が重かった。というのに。カバジュンはとびきりご機嫌《きげん》であたり中に響きわたるような声でしゃべり続ける。
「な、キン太おまえ、何見た? 俺《おれ》はなー、サザナミヤッコだろ、ハナゴイだろ、カミナリベラだろ、スミツキアトヒキテンジクダイもいたし、たぶんヒラアジかカイワリの仲間のやつもいたし……おいおい」
「……う?」
「なにため息ついてんだよ」
「なんでもないよ」
「……変な奴《やつ》」
カバジュンが風呂《ふろ》に入っている間に、テーブルの上に放りだされていたログ・ブックをちょっと覗かせてもらってしまった。奴の今日のダイブのページには、ポイントの地形や深度の概略図と見掛けた魚の名前がギッシリ書き込んである。バディのサインの欄《らん》には、いつもいつもキン太じゃしょうがないからな、と鈴木氏のササッとかっこいいローマ字のサインと、彼女のペン習字めいた丁《てい》寧な署名が並んでいた。
大原千佳子。
ちかこ。
KIN坊自身は、書きたかった。彼女がどんなに美しかったか。今日のダイブで一番こころに残ったことと言ったら、彼女ではないか。あのキンメモドキの場面ではないか。
だが、書けない。
何がそんなに疚《やま》しいのだろう。美しいものを美しいと思って、何が悪いのだろう。たとえ人妻だとしても。
空白のままにしておくと何かからかわれそうな気がして、KIN坊はせいいっぱい知恵を絞り、なんとか埋《う》めたのだ。
『キンメモドキがきれいだった』
あまりと言えばあまりに無骨でぞんざいな言い方だけれど、これでいいと思った。これを見ればいつでも鮮《あざ》やかに思い出すはずだ。写真だって、あるのだから。
二本めの時は気をつけて、彼女ばかり撮らないようにした。だから、なんだか落ち着かなかったけれど。
もういいのだ。もう終わった。
明日は彼女は女の子たちと行くと言っていた。遠慮《えんりよ》したのが、俺《おれ》たちに対してなのか夫に対してなのか――つまり、いくら健全なダイビングとはいえ、男ばかりのチームに坊主《ぼうず》の妻とあろうものがひとりまざるということを気にしたのかどうかということも、もうどうでもいい……。
そう言えば、彼が、ほんとうに坊主なのかどうかは、結局聞かずじまいだったな。
ぼんやりしながら歩いていたら、いつの間にかレストランの入口まで来ていた。係のひとに導かれて、窓際の席についた途端。
「おーっと。また逢《あ》ったぜ」
カバジュンが囁《ささや》いて、ハーイ、と手を振った。思わずふり向くと、案の定大原夫妻だった。彼女がコクリとお辞《じ》ぎ儀をする。うんざりしたが、これは偶然なんてものじゃないのだ。なにしろ同じ日についた同士であり、レストランの開いている時間だってそうそう長いわけではない。これからだって顔を合わせない日のほうが少ないのかもしれない。
複雑な気分で黙って会釈《えしやく》を返していると。
なんと。彼女は、坊主氏に何かを囁き料理の盆《ぼん》を下げたまま(今日もまた何かのバイキングなのだ)こちらにやって来るではないか。
「どうも……家内がお世話になりまして」
坊主氏がにこにこと言いやがる。黙ってそばにひかえている今夜の彼女は、水色のワンピースだ。まるで映えない。ピンクのウエット・スーツのほうが、ずっとずっといい。
「いえいえ、こちらこそ。おかげさまで、たいへん楽しかったです」
そつない返事をカバジュンに任せ、そっと視線をぼかした途端《とたん》。
「あそだ。奥さん、ナイトはやりませんか」
カバジュンめ、何でまたそんな余計なことを言うのだ!
「ナイト・ダイブですか」
「ええ。鈴木さんと、九時に予約してあるんですけど。行きませんか。ダツなんかがいてけっこうスリルみたいですよ」
「怖《こわ》そうね。わたし、夜は全然やったことがないんです」
「ほんとぉ? あんなにうまいのに」
「うまいんですか」
静かに微笑《ほほえ》む坊主。KIN坊の肩の凝《こ》りがズキンと脈打った。
「うまいっすよー。たいしたもんです。度胸もいいし、泳ぎかたがキマッてる」
「行って来たら」
坊主が言った。
「でも」
「なかなか海にも来れんだろ。いい機会じゃないかね」
何をこいつ、ものわかりのいいふりしてやがるんだ。夫なら夫らしく、夜の海なんかとんでもない、ぐらい言えよ。いいから、早くあっちへいっちまってくれ!
ムカムカして、そっと目で合図しているつもりなのに、カバジュンはまるでこっちを見ない。
「そーですよー。ハッキリ言って、俺《おれ》らがついてれば安心ですよ。ね、行きましょう。ダイバーになったからには、一度くらいナイトもやってみなきゃ、ね、ね」
10
「なにむくれてるんだよ」
「別に」
いくらカッチリ絞っておいたといっても水着はまだ湿っていて、やけに履《は》きにくい。どうにかひっぱり上げたが、今ひとつしっくり落ち着かない。
急がなければ。ニコノスのバッテリー・チェックもしておかなきゃいけない。ライトも変えておかなきゃ。
頭ではわかっているのだが、妙《みよう》にのろのろとしか手が動かないのだ。
「おい、キン太」
「……あー?」
「ちょっと、こっちを向け」
のっそり顔をあげると、ピカッ! といきなり鼻先から目潰《めつぶ》しを食らった。
「わはははは。大丈夫だな。電池切れてないな」
ジンと痛んだ網膜《もうまく》に、緑色のベムが踊り回った。笑うカバジュンの声に合わせて、ひとの気持ちなんかおかまいなしにウハウハ跳《は》ね回る。
「この野郎!!」
適当に突き出した手が、ドシンと重いものにぶちあたった。あっけなくふっとんで、床《ゆか》の上にぽかんと尻餅《しりもち》をついたカバジュンの上に、サイケな残像がチカチカ点滅した。
「金子」
と、カバジュンが言った。
「どーしたんだ、おまえ?」
「うるさい! チャラチャラしやがって!!」
「何が?」
「なんでそういつも調子いいんだよ。いき当たりばったりでさ。いつもいつもごまかしてるじゃないか」
「何を?」
「何でもさ! 適当で。よく平気だな。よくやってるな、それで!!」
カバジュンがのっそり立ち上がった。やれやれというように、パンパン尻《しり》をはたいている。これだけ言っても、言い返しもしないのだ。
「なんでだよ? 本気になれよ! おい、何か言えったら!!」
「……おまえ、ひょっとして、あのひとを誘《さそ》ったこと怒ってるのか?」
静かに言われて、KIN坊は思わずグッと詰まった。
「……それもあるが……そんなことは小さなことだ! 俺《おれ》はいつものおまえの態度のことを言ってるんだ。いっぺん言ってやろうと思っていた」
「ほほお」
カバジュンはベッドの縁に腰を下ろして、ガリガリ頭を掻《か》いた。
「それで」
「就職のこととかさ。いつでもそうじゃないか。なんとかなるだろって態度でさ。どーでもいいや、って感じでさ。おまえはいつもごまかしてる。自分の不安を直視する勇気がないんだ。だからそうやって、フーチャカふやけた態度ばっかり取ってるんだ」
「不安。不安は、おまえだろ」
カバジュンはまっすぐにKIN坊を見た。
「俺は別に不安なんかじゃないよ。就職のこととかは。なるよーになれって態度はホントだろうけど。それがどうしていけないんだ? だって、どーせさ。なるよーにしかならないに決まってるじゃないか」
「俺はっ」
「おまえほんとは、自分が不安なんだよ。違うか?」
ま、座れよ、というようにカバジュンが手を振る。不意にがくっと膝《ひざ》の力が抜け、KIN坊はおとなしく座ってしまう。
「就職しないっつーほーがさ、よっぽど大決心だと思うよ、俺は。なのにおまえは、まるで俺のほうが意外なことするように思ってないか。裏切ったように思ってないか。俺は、実は、不安っつーたら、それが一番の不安だったよ。わかるか?」
いや。
KIN坊は首を振った。
「だろうな。でもよ」
両手をだらんと膝の間に垂らして、カバジュンは笑った。
「おまえさ。坊主《ぼうず》の妻に、惚《ほ》れたろ」
「……なっ……」
何をいきなり!?
「まーまー、落ち着けって。隠してたつもりか? あんだけセッセとシャッター・ハントしてるの、俺が気がつかないとでも思うわけ、この俺が?」
耳の上の端が、ジンジン熱くなって来たけれども、KIN坊は何も言えなかった。
「責めてるんじゃないんだぜ。むしろ、それでやっと俺、ホッとしたんだ」
「…………?」
「だって俺。おまえ、ホモかもしれないって思ってたんだもーん!!」
ガク。
顎《あご》が落ちた。
「なん……だと?」
「だってさー。そーでしょぉ」
もはやいつもの調子に戻ってしまったカバジュンは、ひらひらと手を振ってしなを作って見せた。
「キンちゃんってばアタシとばっか遊んでるしー。ほかのヒトとぜーんぜん親しくなんないしー。この頃なんかさ、特にすごくって。時々すっごーく思いつめたような目で見つめてくれちゃうじゃなーい?」
「…………」
頭の中にかかっていた靄《もや》のようなものに、ピキピキッとひびが入っていく。
「ひょっとしてアタシのこと、そーゆー意味でスキだったりすんのかと思っちゃって、もう真青、ドッキドキよーん。そんでさ、そんでさ、今度なんかさ。こーんなムードたっぷりのお部屋で、幾晩もいっしょでしょお? ねー、ちょっと。アタシがどんなに不安だったかわかる? ホント、もーどーしょーって貞操《ていそう》の危機だったんだからねッッ!!」
ひびの入った半透明《はんとうめい》のものが、ボソリボソリ、かたまりになって剥《は》げ落ちていく。
もう何年も見ようとしたことのなかったまっさらの自分を、KIN坊ははじめてまっすぐに見たような気がした。
「あん、もう、なにボケッとしてんのよ。イケズッ!!」
「……すまん」
息で曇った水中マスク、ちょっぴり水をいれて、フーッとひと息鼻から吐《は》けば、新しい空気が満ちあふれ、あたり一面クリアーになる。何もかも今、はっきりとわかる。キラキラと輝きはじめる。靄《もや》がかかっていたように見えたのはみんな、つきつめてみれば何でもないあたりまえのことだったのだ。カバジュンのことも、大原千佳子のことも、自分自身のことも。
「カバジュンがそんなこと思ってるなんて、知らなかった」
「ったりめーだよ。知っててやってたら怒るぜ、俺は」
ようやくオカマの真似《まね》をやめたカバジュンは、ドライヤーをあててない爆発頭をひと振りして、さぁ、と立ち上がる。まるで『石川や、浜の真砂《まさご》はつきるとも』だ。
「行くべ、行くべ。彼女がお待ちだよっ」
11
ダツ(アクセントは『ツ』)という魚は、危険である。黒い銛《もり》のような形も禍々《まがまが》しいが、光っているものを見つけるといきなりとんでもない速さでつっかかってくる性質があるのだ。おまけに、テリトリーが水面近くだから、出会う確率も高い。こいつがいるところでナイト・ダイブをやる場合には、あんまりグズグズ泳いでいてはいけない。
だから。
KIN坊は言ってみたのだ。遠い星の灯《あか》りしかない真暗な海の小さな舟の上で、ありったけの勇気と無邪気《むじやき》さで、彼女に。
「もし良かったら、今度またいっしょにどこか行きませんか。潜《もぐ》りに」
と。
舟は岸に戻ろうとしており、例によってエンジンの音がかまびすしい。だから、囁《ささや》いたってしょうがない。万が一にもロマンチックな誘《さそ》いに聞こえてはいけないと、KIN坊は堂々と怒鳴《どな》ったのだ。
誰に聞かれてもかまわない。
他意はない。純粋に、光っているダイバーを見つけたダイバーとしての発言のつもりだった。だから、彼女が、さぁ、と首をかしげ、膝《ひざ》を抱きよせるようにした時、思わず、変な気持ちじゃないですよ! とつけ加えてしまった。
「わかってます!」
せいいっぱいの大声で叫びかえす彼女の白い顔が、かすかに笑ったように見えた。
「でも、だめです。私、すごく迷惑《めいわく》だから」
「そんなこと!」
「ほんとに」
「あんなにうまいのに!」
ほんとは、やっぱり。
旦那《だんな》があるから、かな。いくら向こうが気にしてないように見えたって、女ごころとしちゃ、そうそう甘えてばかりもいられないってことかもしれない。
思ったとたんに、聞こえていた。
「だめなんです! 私、主人がいないと!!」
「わっぽー」
聞いてないふりして、やっぱり聞いていたカバジュンが、向こうの舷側《げんそく》からイェイイェイとおどけてみせた。
「おのろけー。キン太ふられてやんのー」
「そうじゃないんですー!!」
あわてたように、彼女が怒鳴《どな》り返す。
「あたし、あたし……ものすごい雨女なんですものー!!」
*
Speak Easy に、なんとも言えない沈黙が訪れた。
KIN坊が、照れ臭そうな顔で、黙ってしまったのだ。
「……あのー」
おそるおそる、ノブオが手をあげた。
「ひょっとすると、今のがオチなんでしょうか?」
「そう」
KIN坊は言って、一瞬《いつしゆん》遠くを見るような目をして、ああ、と言った。
「あと、つけ加えるとしたら、例のぼの字はその彼女にも勝る史上最強の晴男なのだった、ってことくらいかな。だから、彼自身は……俺《おれ》が想像した通り、全く泳げないんだけど、彼女がどっか潜りに行く時には、なんとしてもついて来てもらわなきゃならないんだってサ。だから、そんなにしょっちゅうは行けないんだって。どっとはらい」
言いながら、KIN坊はトイレに立って行ってしまった。
残りの連中の間に、ぽっかりと時間が余った。
「……蛇足《だそく》かもしれないけどさ」
と、大森が言った。
「そーゆー彼だったから結婚した、ってヒトコトも、つけ足される可能性があるんでないか?」
「かもな」
とタラ。
「女房の趣味になんか、よく付き合うわ。偉い」
「ねーねーねーねー! で、どうなのさ? 結局その偉い彼は、ホントのホントに坊主《ぼうず》だったわけ?」
とノブオ。
「んなことどーだっていいだろがよ」
「えーっ。だって気になるじゃん」
「いーよ、そんなこと。気にすんなよ」
「えーっ、だってだってさーっ」
「何が気になるの?」
おっ、とみんながあまりに意気込んで振り向いたものだから、朱鷺子《ときこ》はウッ、と立ち止まった。
「ごめんなさいねー。やっと終わった」
「おつかれー」
「さぁ、まぁ飲んで飲んで」
「うっうっ。嬉《うれ》しい。やさしくて。もっとやさしくしてやって」
朱鷺子はグスンと顔をしかめて、そそくさ座りこんだ。
「ちきしょー。台風のバカ野郎《やろう》!」
「ヨシヨシ。かわいそうに」
「ねー。NUDAでもひとり坊主雇うこと考えたらどう?」
へっ? と朱鷺子はノブオを見た。
「なにそれ?」
「ウン。だからねー。KIN坊がまだ若かった頃の話なんだけどー」
「ハーイ、こんばんわー!!」
どがっ! と凄い音でドアがあいて、カサゴがなだれこんで来た。ちょうどトイレから出てきたところだったKIN坊に、もう少しで激突するところだった。どうもまた、出勤前から酔《よ》っぱらっているらしい。
「やっほー。みんな元気ぃ?」
カサゴはマスターにはチャッと手をあげたぐらいで、さっさとグラスを持ってこっちのテーブルに座りこみに来る。
「なんかおもしろい話なーい?」
「だから……」
「おっとノブオはいいから。KIN坊話せ」
「またァ?」
このようにして、伝説は生まれる。
第四話 She sells sea shells by the seashore.
「ジャン!」
ノブオが突き出した手首には、巨大な金色のカタマリがあった。
「わーすごい」
「をを、ロレックス」
「ひぇ〜〜、なりき〜ん!」
安酒場 Speak Easy 店内に、無邪気《むじやき》な羨望《せんぼう》の声が広がった。ノブオは鼻の穴をふくらましてにやにや笑う。そのとたん。それまで黙っていたタラがおもむろに顔を突き出し、
「は。おもちゃ」
ひとこと決めつける。
朱鷺子《ときこ》もKIN坊も大森《おおもり》も、そっと眼《め》を逸《そ》らしながら身を引いた。
もちろん彼等だって、ひとめで贋物《にせもの》だとわかっていた。近頃《ちかごろ》東南アジアに旅をする人間のほとんどがその類《たぐい》――ガワはオメガ、カルチェ、グッチ等々のコピーで、中身はシチズン・クォーツである時計――を買って帰ってくることもよーく知っていた。だが、ノブオは嬉《うれ》し恥ずかし新婚旅行帰りだ。戦利品を見せびらかし、実はほんの二千円程度のマガイでねとタネあかしをする喜びを、許してもいいと思わないこともなかっただけ。
「ちぇーっ」
ノブオは腕をひっこめながら、タラに食らいつく。
「ナデワカッチャッタヨー? トゥー・マッチ贋物クサカッタカ?」
「おまえそのガイド語やめろよな」
タラは冷たい横目で言い放ち、ひょいっと空中に放るようにして水割を飲む。
「そんな超合金みたいなの、すぐわかるに決まってるだろ。ったく、YENが強いからって、どいつもこいつも海外行きやがって。せめてこのチャンスにほんものくらい買ってこいよな、ほんものくらい」
「いけないもののヒガミ」
みんなに聞こえるようにつぶやくと、ノブオはきゃほきゃほ歓声を上げながらタラの手の届かないところまで逃げた。相手にするタラではない。仔犬《こいぬ》のじゃれつくのを無視する虎《とら》の顔つきで、ゆっくりグラスを傾ける。
ノブオは文句の言いたそうな眼をぎらりとさせながら、ひとつふたつ離れた席に戻って来た。そ知らぬ顔をしたまま黙っているその他おおぜいを眺め渡して、突然スイッチが入ったように妙《みよう》なニホンゴでしゃべりだす。
「バット、メイビー、確かにYEN高サマサマよ。トテモトテモヨカタヨー。西パンタ島なんて俺《おれ》ら貸切みたいなもんだし。毎朝コテージに、舟で朝食届けてもらうんだよ。のーんびり潜《もぐ》ったりビール飲んだりしてさ。もう天国なの。気分はヘブンよっ。そりゃ空港とかじゃ、オールウェイズ、ニポンノダンタイサン、タクサンタクサンいることあったですけれども。ショガナイヨ。旅行にでも行かなきゃ、世界に名だたる金持ニッポンって、わかんねーもんなぁ」
「いいわねぇ」
早くもうんざりしてきた場の雰囲気《ふんいき》を見てとって、朱鷺子《ときこ》がすかさずフォローする。
「そんな素敵《すてき》な思い出ができて。倫子《さとこ》さん、お幸せね」
「オフコース。シェアー」
と、請《う》け合《あ》うノブオ。
「あっあん。さとこぉ」
「んノブオさぁぁん」
KIN坊とカサゴがわざとらしく激しく抱きあってみせても、ニタニタしまらない顔のまま、
「んでね、んでね。例えばプール・サイドでお茶なんか飲んでるとするだろ」
嬉《うれ》しそうに旅行の話をやめないのだ。
タラは、そっと眼を閉じて、また開けた。ガンマンがくわえ煙草《たばこ》をするように唇にひっかけたアタリメの足をゆらゆらさせている。
ふと。
「俺《おれ》、パスポート持ってないんだ」
隣で大森が囁《ささや》くのが聞こえた。
「そんなにいいかなぁ、海外。あんまり行きたいと思ったことない。わざわざ海外まで潜《もぐ》りに行くひと多いけど、俺、よくわかんないなぁ」
へぇ、とタラが顔をあげた。
「おまえもか」
「近場にも、いいとこいろいろあるじゃないすか。パラオとかランロギアとか、きれいなの、わかってるんだけど」
大分整ってきた口髭《くちひげ》をビールの泡《あわ》にまみれさせたまま、大森は肩をすくめた。
「そこも行ったここも行ったって自慢《じまん》するヤツ、いるっしょ。あれ、むかつくんだよな。大瀬《おおせ》なら大瀬、小笠原《おがさわら》なら小笠原で、季節ごとのいろんな顔みんな違う。一回や二回潜って『知ってる』なんて言えるわけない」
「そういう奴《やつ》に限って、自分より本数の多い奴のことしか尊敬できなかったりしてな」
ふたりはなんとなく共犯者めいた顔でにやけあった。
「しかし、だ」
とタラ。
「お互いあんまり食わず嫌《ぎら》いはよくない」
「酸《す》っぱいブドウですか」
「ああ、井の中のカッパな」
「自分の井戸もないカッパよりいいっすよ」
タラは目尻《めじり》に皺《しわ》を寄せる。
つっぱってないでどこにでもどんどん行って来いよ。おまえは金あるんだから。
いいかけた言葉をゲソといっしょに噛《か》み締《し》めて、少し酒でも流しこんでおこうか。
俺《おれ》もガキだがこいつも相当だ。いつになったらオトナになるだろう。
*
彼は背が高い。通称二メートル二十はもちろん誇張《こちよう》だが、本人のひかえめな話でも百九十は越えているらしい。頭あくまで小さく首細く、肩幅や胸の厚みがもう少し立派なら彫刻めくところ。これを生かして体育会系ファシズムにでも燃えればなかなかにハマリなのだが、彼の場合異様にひょろ長い手足を持て余してでもいるような不器用な印象。つまりは『ただ単に』背が高いだけで、最近の高校生中学生にはめずらしくもないタイプなのだが、この世代ではまだ多数の同性に圧迫感を与えひそかに妬《ねた》まれるのだった。
その日のタラも、出合い頭にいきなり一本取られたような気分がした。タラ自身そう小さいほうではないつもりだったのだが、降ってくる視線の角度が斬新《ざんしん》すぎる。かくして少々|眉《まゆ》の曇っているタラに向かって、上空の彼は気弱そうにボソボソと言ったのだ。
「水、だめなんです」
場所は四谷《よつや》駅からほど近いダイビング・ショップ『ウィニー』、午後早くのヒマな時間のことだった。タラは思い出した。この男はその数日前にも一度、ふらぁっと店に現れ、あれこれ棚を見回しながらカウンター向こうのスキンヘッド安西《あんざい》店長の顔色をチラチラ窺《うかが》い、小半時《こはんどき》を費やしてとうとう一言もなく出ていってしまったのだ。その時も、ずいぶんでかい奴《やつ》だなと思っていたのだが、こうしてすぐ眼の前に立たれてみると、見上げる仰角《ぎようかく》七十度、接吻《せつぷん》を待つ乙女《おとめ》の生贄《いけにえ》の子羊のごとく従順可憐《じゆうじゆんかれん》な姿勢になってしまうところが口惜《くや》しい。だから。
「なんですって?」
タラは聞き返した。
「だめなんです、水」
声は小さかったが、カウンターで固く固く握りしめた拳《こぶし》はバカでかかった。
「頭洗う時もシャワーひねってから急いで反対向きにならないとダメだし、洗面器に顔もつけられません。こんな俺でも、ダイビングできるようになるでしょうか? いっしょうけんめいやりますけど」
眼が必死だった。こうなると、仰角七十度も俯角《ふかく》二十度くらいの気分となる。
「できます。やる気があって、充分《じゆうぶん》に時間をかければ」
タラはついつい笑っちゃいそうになる口元をどうにか引き締《し》めた。
「でも、ちょっと伺《うかが》いますが。なんでまたダイビングを?」
頭もマトモに洗えないあなたが。
イジワルな質問をしてしまった気がして、タラはかすかに反省したのだが。
「はい。いろいろ考えるところがありまして。実はつきあっている女の子がいるんですけれど、デートのたびになんだかすごくマンネリしてるような気がしてしまって」
でかいのは遥《はる》か上空でひとり自分のことばにいちいちウンウンうなずきながら、恥ずかしげもなくまくしたてた。
「喫茶店でしゃべって映画見てドライブしてって……もうコース決まっちゃってるでしょう? 俺《おれ》もおもしろくないけど、向こうだってもうアキアキしてると思うんですよ。で、何かふたりでいっしょに楽しめるものないかなっていろいろ考えて、どうもダイビングというのはおもしろそうだと。彼女も俺もとっても海、好きですし。あっ、それでここに来たのは、彼女の友達のエリカちゃんって子の紹介なんです。三橋《みつはし》エリカ」
三橋エリカは確かに常客だった。夏は潜《もぐ》りで冬はスキー、乗馬とゴルフもやりたいから今はバイトに忙しいという優雅《ゆうが》にして筋骨逞《たくま》しい十九歳である。ソレの友達だというこいつの彼女がどういう『女子大生』か、おおかた見当がついた。
こちらの反応を窺《うかが》うようにセリフが途切《とぎ》れても、タラには言うべきことばは何もなかった。しかたなくぴょこぴょこ首をふると、彼は嬉《うれ》しそうに大きくうなずき返す。
「でも、彼女はしっかり泳げるんです。だから、俺《おれ》、先に練習はじめないと、タイにつきあえないと思って。思い切って来てみたんです。ね、どのくらいかかるでしょう?」
「予算ですか?」
「時間です」
金なんかまるで問題にしていない。タラにはそう聞こえた。
改めてよく見ると、彼はタラよりは少しは年下らしく見えた。着ているモンはニチイのスポーツ・シャツ二千九百円よりは良さそうだし、持っているクラッチ・バッグにはLとVが乱舞している。
「それはやってみないことには……」
ついつい口籠《くちごも》る。
「普通のかたはプール・ワークで慣れていただけばすぐにでも海にお連れできるんですが……まったく泳げないかたとなりますと」
「やっぱり。そうでしょうね」
でかいのは深刻な顔で、せわしく首をコクコクさせた。
「俺の場合、泳げないなんてもんじゃないんです。水が怖《こわ》いんですから。まず水泳教室からでしょうか? その後で伺《うかが》わないとご迷惑《めいわく》でしょうか。どこかスイミング・スクールを紹介していただけませんか」
『ウィニー』でももちろん、カード取得のための講習はやっている。ただし人手も設備も足りないので、本人ができると言えば、いきなり海に連れてっちまう無骨な教え方だ。だからショップにプールなんて豪華なものはない。それで今までのところ事故もない。
だが。
こいつはアカン。
そう思ったので、タラは別のスクールを紹介することにした。『トリトン・クラブ』。本来なら入会金ウン十万のスポーツ・センターである。マダム相手にジャズ・ダンスだの太極拳《たいきよくけん》だのエアロビクスだののメニューを豊富に揃《そろ》えているところで、プール施設も立派に充実している。当時都内ではめずらしかったダイビング専用プールもあったのだ。
『トリトン』の所属インストラクターである狩野《かりの》氏は店長の知人だった。『ウィニー』は『特別団体会員』と称して、ちょくちょくプールを借りていた。プール講習が必要な時もなくはなかったので。タラ自身も最初に機材を背負って潜《もぐ》ったのは、実はここだったのである。
「狩野さんなら間違いはないと思います」
と、タラは言った。
「泳げるようになるまでに少々かかると思いますけれど、カード取得講習そのものにかかる費用は七、八万だと思います。入会金はウチの団体会員券でなんとかしてもらえないかどうか、ちょっと電話してみましょう」
受話器に伸ばしかけた手を、ぱっ、と押さえられてタラはびっくりして顔をあげた。
「ご親切いたみいります」
と、少年は言った。
「でもそれじゃ、あんまり申し訳なくないですか? だって、こんなに親身に心配してくださったのに、おたくはちっとも儲《もう》けにならないなんて。申し訳ないです。せっかくエリカが紹介してくれたのに。彼女の顔も立たなくないですか?」
その顔は真剣で、押さえつけられた手はぴくとも動かなかった。
こいつはいったいどこのボンだ。金持の阿呆息子《あほむすこ》かと思えば、この気の使いよう。ひょっとすると商魂たくましい中小企業の跡継《あとつ》ぎかなんかか。GIVE&TAKEの精神がどっかり根を張ってやがるとか。
「いや、いいんですよ」
言いながらタラは、店長が昼飯から戻ってくる前にはやく話をつけなきゃ、と考えた。せっかくの上客をヨソに回しちまったなんてことは、なるべくバラさないほうがいい。
「信用していただけただけでありがたいんですから。うまく覚えられて、もし機材買うことになったらその時またのぞきに来てください。どこよりも安いとは言わないけど、トリトンよりは安いはずです。ちゃんと相談に乗って、お客さんの予算や力量に合った機材を揃《そろ》えます。初心者向けツアーもいろいろやってますし」
「機材……?」
その瞬間《しゆんかん》、少年ははじめてにこぉっと笑った。少々でっぱり気味の前歯が異様に愛らしかった。
「そうか、そういうものもいるんですね。じゃあ、俺《おれ》、それ、買います。今!」
「へ」
「何と何がいるんですか? 全部ください。あっ、アメックス使えます? VISAのほうがいいかな。UCは今ちょっと限度いっぱいまで使っちゃってるんでダメなんだけど」
それが、大森|尋《ひろし》である。
*
「あれはさ、聞きようによっちゃ相当に生意気だったぜ」
アタリメの足を奥歯で噛《か》んだまま、タラは言った。
「でも、狩野さん感心してた。水に顔もつけらんないって言うからどんなひどいのが出てくるかと思ったら、全機材揃えて『よろしくおねがいします』ってデカイのが現れただろ。こりゃほんとにやる気なんだなってホッとしたって」
「いやぁ。やる気もありましたけどね」
大森はあっけらかんとうなずく。
「俺《おれ》の体格からすると、ウエット・スーツ、オーダーしなきゃダメでしょ。スーツがないと、講習受けらんないだろうなって思ってましたから」
「なら、スーツだけ買うってことだってできたろーが」
またイジメてるな、俺は。
タラは思ったが、大森は世の中にイヤミとかアテコスリとかいうものがあろうとは思ってもいないような顔で、またしてもうなずく。
「ほんとですよ。だいたい、スーツだってずいぶん先までいらなかった。ずーっと海パンでしょ。実際、時間かかりましたねぇ」
白い髭《ひげ》の端でビールの泡《あわ》がプチンと壊《こわ》れる。
「まず、水ん中で眼開けられるようになるまでが長かった。海に行ったら行ったで、塩辛いんでパニック起こしちゃったり」
「でもさ。良かったと思わないか。おまえ、一生泳げなくて、海ン中のことなんか何にも知らなかったかもしれないんだぜ。泳ぐより潜《もぐ》るほうが簡単だったろ。潜れるってことがわかると、いつの間にか泳げるようになるもんだ」
「簡単ったって」
大森は陽《ひ》に焼けた鼻の頭に皺《しわ》を寄せる。
「俺には地獄だったんっスよー。ああ、懐《なつ》かしい」
「レギュ銜《くわ》えてりゃ息できるだろーが。何が怖《こわ》いんだ」
「そういう問題じゃなかったんだってば。でも……確かに水面より水中のほうが楽だったな。なにもかもゆっくりで。クロールなんて、全身|大騒《おおさわ》ぎですからねぇ。あのけたたましい最中にどうやって息つぎするのか、昔は全然わかんなかったなぁ」
ゴッ、とどこかで鈍《にぶ》い音がする。
こいつまた、膝《ひざ》ぶつけたな、とタラは思う。痛そうな顔もせずに黙って思い出に浸っている大森の横顔には、あれから何年ぶんのトシが染み込んだことだろう。
本質はまるきり変わっちゃいない。
*
「山本《やまもと》さーん!!」
四谷|若葉町《わかばちよう》の寂《さび》しい商店街の真中で、彼は大声をあげた。
タラはちょうど窓際の棚のバッグの類をひっぱりおろして埃《ほこり》をはらい、新製品に詰物をして置き換えをしている最中だった。その様子が外から見えたのだろう。大きく手をふりかえすと、大森のひょろ長いからだがすぐに狭い階段口に消えた。
「来たんですよ、来たんですよ!」
声がまず届く。やがて首を縮めてドアを潜《くぐ》りぬけて来た大森の手には、小さなプラスチックのカードがあった。
「よぉ。やったか!」
既《すで》におなじみになっていた安西《あんざい》店長もカウンター越しに声をかけてくれた。
「やりました! オープン・ウォーター1!」
ぴかぴか新品のカードの裏には、インストラクター狩野のオフィシャル・サインと、大森自身のずいぶん緊張《きんちよう》して書いたらしいカクカクしたサインがある。
「なんだ大森、Height 書いてないじゃないか。意味わからなかったんだろう。身長だぞ身長」
「わかってますよっ」
大森はタラの手からカードをひったくって、ニタニタと頬《ほお》ずりをした。
「正確を期すために、明日学校の診療所で計ってから書くんだ」
タラと安西はやれやれ、と眼で言い合った。こいつのことだ、まだ毎月五ミリずつでも伸び続けているのかもしれない。
それにしても。
カード取得が夢というやつも多いが、こんなにも喜んでわざわざ見せに来る客なんて、見たことがない。まぁ、オープン・ウォーター如《ごと》きを取るのにこんなに時間がかかった客もいないのだが。
「わざわざ、見せに来てくれたわけ」
ニヤニヤ言うと、大森は抗議《こうぎ》するようにはぷはぷ口を開けてから、違います、と怒鳴《どな》った。
「『トリトン』でもツアーいろいろありますけど、はじめてのファン・ダイブは山本さんとこでって、決めてたんです!」
「慕われたなぁ、タラ」
安西が茶化した。男にまでモテるんだな、ぐらい言われそうな勢いだったが、タラは睨《にら》み返すのも忘れて思わずジーンとしてしまった。
トシは二歳と違わないのに、すっかり兄貴分《あにきぶん》にされてしまっていることを、ぼんやり考えた。このでかいヤツに、だ。
「よし。いつがいい。どこがいい。好きなとこに連れてってやる」
「おいおい、有給休暇なんかやらんぞ」
安西の声が遠く聞こえたが、無視した
「平日でも土日でも、おまえの都合に合わせる。一泊二日でもいいぞ」
「わぁ、じゃあ大島《おおしま》でもいいですか。野田浜《のだはま》ってとこ、行ってみたいなぁ」
「おお、任せとけ!」
「じゃ俺《おれ》」
「もう帰るのか?」
「急いでヨドバシ行って来ます。やったー! マリンパック買おうっと。るんっ」
タラの口が丸く開いた。
「マリンパック……?」
「知らないんですか?」
大森は無邪気《むじやき》にきょとんとすると、得意そうに、例によってやたらひとりでうなずきながら講釈《こうしやく》を垂れだした。
「8ミリ・ビデオの水中ハウジングですよ。四十メートルまで潜《もぐ》っても大丈夫《だいじようぶ》なんですって。せっかくの初体験だもん、バッチリ記録しなきゃあ。山本さん、俺《おれ》のことカッコよく撮ってくださいよね」
しかたなく、ああ、と言ったものの。
水中ビデオのことぐらい知らないわけではない。それを、やっとカードを取ったばかりの素人《しろうと》が『買おうっと』しちまうことに、今ひとつ納得がいかなかっただけだ。
そいつはいささか無謀《むぼう》ってもんじゃねぇかい、大森クンよ。
「それ見せたら、ウチの彼女もきっと、ダイビングって素敵《すてき》、私もやりたいって言うと思うんですよねぇ。そしたら、すぐ連れてきますからね。よろしくおねがいしますよね。あっ、彼女は俺と違ってスポーツ万能だから、すぐ上達します。ご心配なく」
せいいっぱい呆《あき》れ顔をして見せても、大森は、天井に支《つか》えそうな顔をくしゃくしゃにしてはしゃいでいるばかりだ。
しょうがねぇな。ついこの間まで、水、だめなんです、なんて神妙《しんみよう》に言ってやがったくせに。
それにしてもこいつ、どっから金が出て来るんだ?
大森に悪気がない、好意ばっかりなのはよくわかっていたが。
かわいさ余って憎さ百倍。そんな言葉も頭に浮かんだ。
民宿を押さえ、行きの船、帰りの飛行機を手配し、現地ダイビング・サーヴィスに連絡を取りつけて天候具合を確かめる。いつもやっていることだから、テキパキといった。でも、今回は仕事ではない。
ひとりで初心者を連れていくのははじめてで、タラは実は少しばかり緊張《きんちよう》していた。現地でもちろんガイドを頼むことになっているのだが、責任は重大だ。
「派遣料《はけんりよう》はやらんぞ」
言いながら、安西まで、ふたりでうまいものでも食ってきな、と餞別《せんべつ》をくれたりしてしまったりするのだ。
天気も上々、仕事のヒマを見ては一応以上の熱心さをもって機材をチェックし、ざっとパッキングし、万一の時のための繕《つくろ》いキット(工具・接着剤・Oリングの予備その他)も詰め込んで、あとは下着だの歯ブラシだのを揃《そろ》えるだけという出発前々夜。
「俺《おれ》、行けなくなりました」
大森から電話がかかって来たのだった。
その日タラは、はじめて、大森を Speak Easy に連れて来た。その時のことは、タラだけではない、常連全員が覚えているが、誰《だれ》も口にはしない。
「ほかに、好きなやつができたんです」
わざわざカウンターの端に陣取り、みんなとは離れて座ったというのに、大森のべそかき声はやけに響いた。
やっぱりな、とタラは思った。
大森の彼女というのを見たこともないくせに、もうずーっと前から、そうなるだろうと思っていたような気がした。
「でも、無理ないですよね。俺ずっと、泳ぎの練習に忙しくて、かまってやんなかったから。彼女、きっと、寂《さび》しかったんだと思うんです」
「いいから、飲め」
「何度電話しても、いないんです。彼女のお母さんの様子も、おかしいんです。だから、もしかしたらと思って、俺《おれ》たちがいつも行ってた喫茶店に行ってみたら……どんピシャであいつ……あいつ他のやつと」
「いいから、飲めよ」
ウンウンとうなずくと、大森の眼の縁のキラキラがほろっと流れだした。でへへ、と拭《ぬぐ》うと、大森はそっと歯を剥《む》き出して笑ってみせた。
「俺その場で本屋行って、旅行案内見ちゃった」
「旅行案内?」
「山にでも登って死のうかと思って」
「阿呆《あほ》」
「俺も、そう思って」
ウンウンウン。
「どうせなら、やっと海に行けることになったんだから海で死ぬほうがいいんじゃないかと思ったりしたんです。山本さんと一度はいっしょに潜《もぐ》りたかったし。でもそこで死んだらすごく迷惑《めいわく》だなって思ったから」
「ばか野郎《やろう》。あたりまえだ」
「だから、死ぬの、やめました。もう大丈夫《だいじようぶ》です」
ほら見てくださいよ、というような晴々とした笑顔を見せられて、タラはあわてて眼を逸《そ》らした。
「大丈夫なら、行こうぜ、大島」
「…………」
「なんだ。大丈夫じゃねぇじゃねぇか」
大森はカウンターに頬杖《ほおづえ》をついたまま黙って考えこんでいる。
死ぬことさえもあっけらかんと口にしてしまうけれど。本当はこいつだって、悩《なや》んでいるのだ。みんな悩んで大きくなった、ってセリフも昔あったではないか。
ここまで大きくなってきたんだ、脳天気《のうてんき》そうに見えて、実はそれだけさんざん悩んだのかもしれない。
「おまえなぁ」
タラは思わず言った。
「ヤッたんだろう、その女。それをヨソのがひきとってくれたんだぜ。また選《よ》り取り見取りだろうが。得したと思ったらどうなんだよ、得したと」
「得……かなぁ」
ひきつるように、大森は首をひねる。
「言われてみればそうかな。彼女、ばーじんだったから」
グッと喉《のど》が詰まったが、タラはどうにかカラカラ笑ってみせることができた。
「得、得! 出血大奉仕ってもんだろうが、いやぁそいつぁめでたい。だから行こう、なっ、大島行こう行こう!」
ボツになると思ってみれば、あれこれ画策したことがみなひどい労力だったように思える。おまけに安西の餞別《せんべつ》だ。あれをどう始末しろと言うのだ。
タラはドーン! と大森の肩を叩《たた》いて、行こう! と、強調した。
「でも」
深刻そうにふり向いた大森の眼がうつろだった。
「俺だって、童貞だったんです」
*
「何思い出し笑いしてんだか」
グラスに氷を足しながら、大森はブスッたれてタラをにらんだ。
時間は流れ、他人行儀な敬語は消えてしまっても、性根は変わるもんじゃない、とタラは思う。
でかい電気屋の跡取り息子《むすこ》であるこいつには自由になる金は腐《くさ》るほどあるのだが、今やその使い道にはひどく慎重だ。いくら金をかけても惜《お》しくない女がいなくなって以来、がぜんケチになりやがった。
あの名前も知らない『彼女』とやらと今でも付き合っていたら、きっと今頃《いまごろ》毎月のようにグァムだ香港《ホンコン》だシンガポールだとでかけて浮かれてやがったに違いない。
「大森」
なめされてすっかり繊維だけになってしまったアタリメの感触《かんしよく》を楽しみながら、タラは言う。
「おまえ、金ださんか。うーんと南の、普通の観光客の来る目当てなんかなーんもないような島に、行こうぜ、今度」
「潜《もぐ》りに?」
「それもあるけど。こないだ知り合いがマジュロに行って来てね。あっちって、完全な母系社会なわけよ。子供は誰《だれ》のタネだかわかんないのがあたりまえで、だから授かった子はみーんな分け隔てなくおっかさんの子として育てるんだと」
「ふんふん」
またタラのスケベ話が始まったか。大森の眼はそう言っているようだが、構わない。
「そんな島に行って、かわいい子とトモダチになってさ。例えばたった一度だけ、イタシタとするじゃない。そんで旅人は遠いハポンに帰って、いつしか彼女は遠い思い出になるわけね。そんで、十年とか二十年とかしてから、またふと偶然その島を訪れるんだ。そうするとだな。道で擦《す》れ違ったコドモが、いや二十年なら青年か。自分とそっくり同じ顔してたりするわけよ。……なぁ。これってなかなか、感動的だと思わん?」
少し酔《よ》ったかな。
思いながら顔をあげると、大森が五センチと離れていないところに酔眼《すいがん》を据《す》えている。
「な、なんだ」
「……いいですねぇ……」
「をいをい」
「いいなぁ……それは男の夢だなぁ。行きましょう、来月? さ来月でもいいスよ!!」
タラの手を握らんばかりの勢いで大森が盛り上がったとたん。
「聞こえたわよォ、フトドキな計画」
ふたりの間にドカッ! ととびきりでかいグラスが落ちてきた。氷だけしか入っていない。今日はまたど紫色のとんでもなく胸元の切れ込んだワンピースのカサゴが、くいくいくいっと尻《しり》を振りながら割って入った。
「なにさ。いくら母系社会だって言ったって子供育てるのは大変なんだからね。なーにが男の夢よ。全責任を放棄しておいて、なーにが二十年後の出会いよっ!!」
血走った眼で、タラのボトルからどぼどぼ注《つ》ぐと、ぐーっとあけた。
「カサゴちゃーん。話だよ、話」
「そうそう。そんなうまいこと大当りするかどうかわかりゃしないだろぉ」
「フン! へんなトコでへんなコトして来てビョーキにでもなったら、ウチは出入り御免にしますからねっ!!」
「妬《や》いてんだよ、カサゴちゃんは」
外野からノブオが囁《ささや》いて、すかさずカサゴに氷をぶつけられている。
「でもホントさ。文化っていろいろだから」
と、KIN坊。
「俺《おれ》サイパン行った時驚いたもん。ツアーの中に若い女の子もいたんだけど、暑いから短パンとかはいてるじゃない、そーすると、通りすがる若い男という若い男が全員マメに口笛吹いて誘《さそ》ってくわけ。でもって、メシ屋とかでみかける地元の若い女という若い女、全員腹|膨《ふく》れてんの」
「ほんとぉ?」
「ホントホント」
「そりゃできすぎだ。原因と結果が呼応しすぎてる」
全員大笑いしている中で、タラは見た。朱鷺子《ときこ》ひとり、どこかノリ切れない顔でおざなりの微笑《ほほえ》みを浮かべている。
やっぱり女から見ると、『男のロマン』=『男の身勝手』なのかな。
ふと眼が合って、乾杯するようにグラスを掲《かか》げた。あわてて自分のグラスを手探りする朱鷺子の無防備に青臭い表情を、タラはひどく愛《いと》しく思う。それはそれで、南の島の乙女《おとめ》と同じくらい愛らしいと思う。
第五話 砂のタペストリ
かろらんらん、とベルが鳴ったような気がした。
どんな話題だったかもう覚えていないけれども、ちょうど例の連中とゲラゲラ盛り上がっているところだった。笑いすぎて潤《うる》んだ目を一応ふり向けてみると、かすかに戸が開いている。隙間《すきま》に、押さえている指がちらりと見えた。
「いらっしゃいませー」
私は陽気な気分のまま椅子《いす》を滑りおり、勤務用ワンピースの裾《すそ》をささっと直しながら、遠慮《えんりよ》深い客の顔をながめに行った。
おひとりで立っていらっしゃったのは、知らない男性だった。二十五歳から三十五歳までの間のどこか。茄子紺《なすこん》色の仕立てのいい背広。こく、と下げた頭から、品のいいコロンが香る。
うちの店では、ついぞおみかけしたことのないタイプだった。
「…………」
彼の口が動いた。
「……。………、……?」
「はぁっ!?」
彼の表情はなにげない普通の会話であることを示していたけれども、私の耳にとって、それは内緒話レベルのトーンだった。一メートル近く隔てては、とても聞き取れない。マンガならまわりがギザギザになりそうな大声で怒鳴《どな》り返し、おまけにズイッと顔まで突き出してしまった。
「なんとおっしゃいまして?」
気を取りなおして、できる限り品よく問いなおすと、彼は当惑《とうわく》げに微笑《ほほえ》みながら少し大きな声で言いなおしてくださった。さっきより、だいぶ短く。
「こちらは……ダイビングの……?」
半端《はんぱ》な笑顔がこっちにまで伝染したが、腹の底では私はいい加減あきれていた。肝心なことをもズバリはっきり言わぬのは日本古来の文化伝統かもしれないけれども、わざわざ物を尋ねに来たのならもう少し積極的でいいはずだ。
もちろん、省《はぶ》かれた言葉の見当はつく。だったらどうなのさ。そっちがグズグズもったいぶってるのに、察しよくほいほい理解してやる必要がどこにある。
そう思ったので、私はとびきり間抜けそうにモジモジして見せてやった。
「あのう。どういうご用件でしょう?」
「……ですから」
そうだ。いいことを思い出したとばかりに彼は片手をあげた。どこぞのブランド物らしいクラッチ・バッグの中から、つやつや分厚い雑誌が出てくる。表紙の写真は、シャチに跨《また》がった女性のダイバーの水中ポーズ。誌名は『月刊エンジョイ・ダイビング』。
「これを見たので」
彼はせっせと笑い続け、私が鼻が冷たくなるような気分で黙っているのを見て、あわてたようにページをめくってくださる。
「ほら、ここです。この」
わかってる。わざわざこっちを向けてくれなくたって、指差してくれなくったって、わかっている。けれど私はまた、それを見てしまった。
『新宿三丁目に好ポイント発見! Speak Easy はモグリの酒場』
おどけた見出しの横に、印刷の良くない小さな写真。KIN坊は自慢《じまん》の水中スライド・アルバムを擡《もた》げてむっつり上目を使い、倫子《さとこ》を連れて来たノブオなんかよせばいいのにマスクを被《かぶ》りシュノーケルをくわえてピースサインを出している。大森《おおもり》くんとタラは気障《きざ》ったらしく斜めに構えてグラスを掲《かか》げ、私と朱鷺子《ときこ》はNUDA特製減圧表を捧《ささ》げ持ってオナラでも嗅《か》いだような顔をしかたなくカメラのほうに向けている。
典型的記念スナップ。
撮りに来たのは先月の始めだったか。ネタに困った編集部員とやらが、朱鷺子ンとこの事務所で泣きごとをいい、親切な彼女のボスの木村《きむら》氏が、じゃああそこを取り上げればと、いらぬ知恵をつけてくれてしまったのだ。
そのうち、こういうことになるんじゃないかと思った。
きっぱり迷惑《めいわく》だって顔で見上げてやったが、タイミングが悪かった。寡黙《かもく》な彼は私の肩ごしに店の中を覗《のぞ》きこんでいる。なにやら悲壮なまでに真剣な顔で一心に観察してるらしく、まるで気づいてくださらない。
そうよ。たいした店じゃないでしょ。ご期待に添えなくて、どうもすみませんでした。
確かにウチはダイバーさまがたにご贔屓《ひいき》いただいているけどね。それは常連が、たまたま潜《もぐ》りたちだったってこと。雑誌に載《の》せてもらうほどの店じゃない。だいたい記事になんかしようがないだろうって、私はちゃんと主張したんだ。
そうしたら。こともあろうに、みんなで短歌を作れと言うのだ、その編集が。そんなバカな、無理だって騒《さわ》いだら、即座《そくざ》に、じゃ俳句でもいい。などと原稿用紙とペンを配り始めやがった。冗談《じようだん》デショで逃がしてもらえる雰囲気《ふんいき》ではなかった。かくして、『いつもゴキゲンなメンバーが楽しく飲みかつ食べ、海の話題で盛り上がってる』居酒屋 Speak Easy では、『去る○月○日も、恒例のマリン句会が開かれた』という次第。
その場はヤケっぱちの陽気さでどうにかへたな句をひねりだしたものの、それが何千部も印刷されて全国に――たぶん顔見知りのダイバーたちにも――読まれてしまうのだ、ということに思い至るや、皆サーッと背筋が寒くなったらしい。タラなんかしばらく胃を壊《こわ》して、ウーロン茶しか飲めなかったほどだ。あれ以来、ウチでは『エンジョイ』も『俳句』もきっぱり禁句になったのだ。
だから、このリッチ・マンがもしも、真面目《まじめ》に俳句好きでしかもダイバーだなんて奇特なおひとであるにしても、おかど違いもいいところなのだ。
私など(賢明にも)素早く匿名《とくめい》の講評役を買って出たというだけで、ずるいの汚いのと責められている。きっと、ほんとうは、みんな私のあまりに適切な評論が気に障《さわ》ったのだ。恐ろしいことに、私はあれらを全部覚えてしまってさえいる。そんなつもりじゃなかったんだけど、いつの間にか頭にこびりついてしまった。うっかり口にしないよう、これでも必死で気をつかっているのだ。
例。
クマノミとイソギンチャクは仲良しだ
のぶ夫
――作者の子供のように純真な感性が、すがすがしい一句です。クマノミのオレンジ・ストライプと、イソギンチャクの花のような美しさが目に浮かびます。でも、季語がありませんね。川柳ではないのですから気をつけましょう。
ゆらゆらと八畳敷のマンタかな
KIN
――おおらかでてらいのない句ですが、どことなくエッチな感じがするのはなぜでしょう。
咳《せき》を すると おぼれる
タラ・山本
――自由律はともかく、真似《まね》っ子はいけません。嘘《うそ》もいけません。そのくらいで溺《おぼ》れるタラじゃないでしょ。
ふりむけば友のゲージ きらり
大森少年
――ナイト・ダイブでしょうか。ふと見失ったバディを探すと、意外に近いところにいた。ひとこともふれずに、広い海、小さな自分、一瞬《いつしゆん》の焦《あせ》りと孤独感、ホッと安心する感じをみごとに表現しています。作者のロマンチストぶりが、よくわかりますね。
ふと、雑誌が落ちそうになった。
「ニシキさん」
耳元で、朱鷺子《ときこ》の声がした。
「しばらくね」
「やっぱりいた」
彼の目が、嬉《うれ》しそうに細まった。
「逢《あ》えるんじゃないかと思ったんだ」
慣れたらしい。彼の低い声が全部ちゃんと聞き取れるようになってしまった。
私でさえそうなんだから、聞こえなかったわけはないと思う。けれど、朱鷺子は顎《あご》をあげて黙って彼を見返している。
「出ないか」
唇の端をキュッとひきしめて、返事を待つ彼。
一瞬《いつしゆん》置いて朱鷺子は震えるように首を振り、下を向いた。唇が尖《とが》って歪《ゆが》んだ。フォークをいれた途端《とたん》ほろほろ崩れはじめたケーキのように。けれど次に顔をあげた時、朱鷺子はもういつもの静かな微笑を浮かべて、もう一度改めて、きっぱりノーと首を振った。
「でも」
彼はチラッとこちらを見た。
「ここじゃ、話しにくい」
席を外そうとしたら、私の腕に何かがギュッと食い込んだ。朱鷺子の指だった。そうやって、朱鷺子は立っていたのだ。
「話なんてありません」
彼は、何か言おうとしてやめて、ぐるぐる雑誌を丸めた。朱鷺子は無関心そうに目を下ろしたけれど、ほんとうはその指を見ていたのだと思う。突然手を止めると、彼はクラッチ・バッグを抱え直した。私の腕にかかる力が、フッと抜けた。
「……じゃあ。元気で」
「元気です」
短く宣言して、朱鷺子は胸を張った。
彼はクスリと笑うと、私のほうにそっと黙礼した。そして歩きだしかけてから、ぴたっと止まって、ふりかえった。
思わず、おおッと期待したんだけれど。
「すみません。これ、捨ててください」
私にべこべこ型のついた雑誌を渡して、彼は階段を降りて行った。早くも遅くもない規則的な足音を聞きながら何気なく広げてみると、さっきのページがぱらりと開いた。手品のように、名刺が飛び出した。
それは出た時と同じように、サッと消えた。
丸めた拳《こぶし》を胸に抱き締《し》めて、朱鷺子は動かなかった。足音が聞こえなくなるまで。それから朱鷺子が私を見た。その目の中に朱鷺子のものがたりがある。
1
午後二時。いっぱいにひざしを受けたプール・サイドには、初め、誰《だれ》もいなかった。
手近なチェアに、ホテルのタオルを投げ出して、朱鷺子《ときこ》は近くの窓に目をやった。地上四階の高さから、すぐ隣の遊園地が見渡せる。ひとかげは少ない。早春のウィーク・デイ、富士|山麓《さんろく》はまだ寒い。
きちんとシャワーを浴び、スイミング・ゴーグルをはめて、水面にそっと足先をつけてみる。かすかな波が、ゆっくりと、ずっと向こう側まで広がっていく。ひとりじめ。
豪華な気分に満足して、朱鷺子は水中に躍《おど》りこむ。
ヒヤッとしたのは一瞬《いつしゆん》だった。
日向水《ひなたみず》の中は爽《さわ》やかに青かったけれども、それは内壁の塗装の色だ。せいぜい九十センチ、ちょっと潜《もぐ》ると、たちまち底に届いて胸を擦《こす》ってしまう。
平泳ぎで五回、往復した。それから、四ストロークに一呼吸のゆっくりしたクロールで三回。次第に筋肉がほぐれて来た。ピッチをあげる。フィンがないとちっとも進まない。こむらかえりを起こしそうな気配がしたので、のんびり横泳ぎに変えた。
泳げば泳ぐほど、潜《もぐ》りたくなって来る。海が恋しい。
九十センチでもまぁいいや。逆立ちするように足を立てて、きれいに沈む。シンクロナイズド・スイミングを真似《まね》て、前回りして、錐揉《きりも》みをして……。
カッとなった。すぐ目の前に、ナマ白い塊が見えたのだ。
あわてて立ち上がってみたら、何のことはない。男はずいぶん遠くで、耳に入った水を出すように頭を振っている。
水中では、何でも大きく近く見える。
朱鷺子は鼻まで水に沈めてブクブクため息をついた。光の屈折率の差。プールだっておんなじよ。忘れてたわね。
でも、驚いた。
つまんないな。せっかくひとりじめだったのに。
変なひと。オトコひとりで泳ぎに来るなんて。スイマーかな。シェイプ・アップのためかな。でもこんな平日に。学生か。声かけられたりしたらいやだな。
髪をかきあげるふりをしながら、横目でチラチラ窺《うかが》うと、男がこっちを見そうになった。朱鷺子はあわてて水中に隠れた。
一旦《いつたん》水に入ると、気持ちもほぐれた。どうでもいい。関係ない関係ない。
ぼおっと霞《かす》んだ水底のコース・ラインに沿ってぐいぐい進む。私は潜水艦《せんすいかん》。突進する魚雷。
両脇《りようわき》に流した手の先を、わざと水の抵抗《ていこう》を受けるようにすると、ちろちろした感触《かんしよく》が楽しい。顎《あご》を上下に動かすだけで、かすかながら深度が変わる。私は飛行機。顎はラダー。指先のフラップを加減して、方向転換。
もっと深ければおもしろいのに。この程度じゃ、耳抜きもいらない。せめて二メートルあれば、あれこれ楽しめるのにな。
向こう側のすれすれまで潜《もぐ》り通してから上がったつもりだったが、五十センチ足りなかった。息が続かなかったわけじゃないのに。もう一度。
今度は対角線を狙《ねら》った。真中くらいまで行ったころから見えて来た銀色の梯子《はしご》を、目標にすることにした。吐《は》き出す空気を調節しながら、足に力を込める。続けて潜ったので、さっきより少し苦しい。でも、まだ全然|大丈夫《だいじようぶ》。肺の空気を頬に呼び、プクプク呼吸の真似《まね》をして間合を計った。
そこへ、邪魔が入ったのだ。
ばっしゃん、ばっしゃん、激しく跳《は》ね返る音。白っぽいトランクスらしいものが、あわただしく上下に揺《ゆ》れているのが見えた。ドルフィン・キックの産み出す水の壁が、朱鷺子の顔にまでゆらりと届く。
バタフライなんかしている。進路が交差する。
ムッとした。もうあまり息が残っていなかったけれども、朱鷺子はそのまま両脚を抱き込み、勢いよくななめに突き出して方向を変えた。急な動作に、胸のどこかがキュッと痛んだ。あおりを食らって浮かびあがろうとする肩を無理やり下に向け、せわしなくキックして深度を維持した。
反対側の角に辿《たど》りつく頃《ころ》には、頭がガンガンしていた。ともかく当初の予定よりは長い距離|潜水《せんすい》できたから、いいようなものだけど。きれいに対角線を潜り通してみたかったのに。
ざーっと水を突き破り、懸垂《けんすい》の要領でプール・サイドにあがる。タオルを取りに歩いていく途中で、バタフライの音がやんでいるのに気付いた。朱鷺子は腿《もも》と腹を引き締《し》めた。見られているかどうかはわからなかったけれど、ぺたぺたみっともなくは歩けない。
髪を拭《ふ》きながらタオルの隙間《すきま》から覗《のぞ》くと、男は長辺を使ってひとり四種に挑戦《ちようせん》していた。力まかせだが、下手ではないようだ。背泳の途中で突然止まる。プールのど真中で仰向いて、大の字になって、のんびり漂っている。たぶん、うっとり、目を閉じている。
ずるいじゃないの。
髪を撫《な》でながら、朱鷺子は唇を尖《とが》らした。
さっきまでは、あたしのモノだったのに。
もちろん、たまたま偶然うまく空いてる時にあたっただけ。ラッキーだったんで、今がアンラッキーってわけじゃない。
でもやっぱりアンラッキーかしら。いっそカップルとかグループとか何組もいて、みんなそれぞれ勝手にやってるっていうのならいいけど。なんか変じゃない。ふたりだけっていうのは。
タオルの隙間から壁の時計を見あげ、目の焦点《しようてん》が合うまで長いこと注視してみた。どうも、三時に近いようだ。
出ようかな。けっこう泳げたし。あんまり遅くなると着替えるヒマがなくなっちゃうだろう。今度はあちらさんに、ほんとのひとりじめを楽しませてあげてもいいか。
朱鷺子は、静かだった水面のことを考えた。あたしが泳ぐまで、波ひとつなかった。あいつはあたしが立てた波の中を泳いだ。あたしから生まれた波と、あいつから生まれた波が次から次に重なって、もうプール中|小波《さざなみ》だらけ。侵略されたみたい。
おとなしく明け渡してやるもんか、と、変な闘志《とうし》がわいてきた。見てろ。あたしだってバタフライくらいできるんだから。二十五メートルがやっとだけど。
タオルを放ろうとしたら、突然ピッ、と髪がつれた。腕に嵌《は》めていたロッカーの鍵《かぎ》が、ひっかかってしまったのだ。
痛い髪をなだめなだめほぐした。やっと取れてホッとしたとたん、視線に気づいた。仰向けに漂ったままの男の顔が、こっちを向いている。朱鷺子は息を吸い込んだ。
その途端、男が動いた。初め、よくわからなかったけれども、どうもぱたぱた両手で胸を叩いているようだ。
何してるの?
朱鷺子の目と口が丸くなったのを見ると、彼は叫んだ。
「コアラ!」
一瞬、頭が白くなった。
「ラッコ」
思わず言ってしまった。
「ラッコじゃない?」
「……まちがえた……」
男は両手を胸にくっつけたまま、頭の向こうへブクブク後ろ向きに沈んでいった。
2
「うまいね、泳ぐの」
「ダイバーなんです」
「って、あの、機械背負って潜《もぐ》るの?」
「そう」
「へぇ。おもしろい? 世界中潜った?」
「いえまだ。全然初心者なんです。カード取ったばっかり。あ、カードというのは、認定証《にんていしよう》です。免許じゃないの、よく間違えられるけど」
「ふぅん」
「カード持ってないと、機材貸してもらえなかったりするんです。だから、ちゃんと学校行かなきゃいけないの。学科も、試験だってあるんですよ」
「たいへんなんだ」
「でも、それだけのことはあります」
「オジサンには無理だな」
「オジサン?」
「ぼく」
「そんな。だってあれだけ泳げるし」
「いや、試験ってのがどうも嫌《きら》いで……あ、見てたんだ」
「バタフライなんてするんだもの。せっかくの静かなプールで」
「スミマセン」
「いえ……すみません」
「ひとりで来たの?」
「…………」
「あ、警戒してる。だってさ。彼氏とデートならわかるけど。女の子ひとりで何でわざわざこんな不便なとこに。あ、もしかして家が近いのかな」
「いいえ」
「うわ、じゃあわかった。お金持のお嬢さまなんでしょう? お母様がたはお昼寝中。弟ぎみ妹ぎみは家庭教師と遊園地」
「まさか」
「雰囲気《ふんいき》だけどな。冒しがたくて」
「からかわないで。違います。結婚式なんです」
「えーっ」
「あ。わたしじゃなくて。知り合いの披露宴《ひろうえん》なんです。小さい時よく遊んでくれたお兄さんだけど。わたし、結婚式ってまだ見たことないから、来てみたかったの。でも、よく聞いたらここほんとに遠いから。どうせなら少し早く行って、そのへんを散歩でもしようかと思って早く来たんだけど」
「思わずプールに惹《ひ》かれてしまった」
「そう」
「……うーん。似てるな、性格が」
「え?」
「ぼくもね。早く来すぎちゃったんだ。イナカもんでね。富士山を近くで見たことなかったからウキウキしてさっさと来たのはいいけど。男ひとりで、なんか虚《むな》しくなってきて。遊園地にも惹かれたけど、まさかじゃない。ブラブラしてたら、売店で海パン売ってたから、やったね! と思って」
「あはは」
「ね。ひょっとしてさ。その、オサナナジミって、高脇康平《たかわきこうへい》じゃ?」
「え」
「……だよね。今日、式ってひとつしかないみたいだから」
「同じ式にいらしたんですか?」
「ねぇ。偶然」
「あの……あなたは、こうへい兄……さんの」
「同級生。高校の」
「うわー」
「ほら、オッサンでしょ」
「……でも六つしか違わない」
「六つ? わぁ、きみはティーン・エイジャーだったのか。感激!」
「ははは。もうあとちょっとだけど」
「いやー。十代のコとおともだちになれるなんて、感動です。あ、ぼくはニシキといいます。どーもはじめまして」
「ニシキさんですか。きれいな名前」
「西の木だよ。漢字にすると普通でしょ」
「ほんとだ……あ、ごめんなさい。石渡《いしわたり》です。どうぞよろしく」
「イシワタリさん。固いなぁ。ファースト・ネームも教えてくれる?」
「朱鷺子」
「トキコちゃん。どういう字?」
「鳥の朱鷺のトキ」
「天然記念物だ」
「……必ず言われるんだ」
「書けるかな。ええと」
「画数多くて面倒な名前。テストの時とか絶対損してると思いますよ。音だけ聞くとオバサンなのに」
「いいよ、さりげなくて。でも、おかしいな。今度はつまり反対ね」
「反対?」
「平凡な字でニシキなんつーのと、華麗《かれい》な字なのに音が普通っぽいのと」
「ああ」
「あとでコッソリ辞書ひいとこ」
「簡単です。朱色の朱の字と、路地の路の下に鳥」
「思い出した。その字はサギだ」
「そうなの。そこもヤなの」
「いいじゃない、天守物語だし。鷺草《さぎそう》って、品のいい花がなかったっけ?」
「白鷺ならいいけど。私、真赤なサギだし。天然記念物だし。苗字《みようじ》は石橋を叩《たた》いて渡るみたいだし」
「ははは。三題|咄《ばなし》」
「変な名前」
「そうかなぁ? 女の子ってすぐ気にするんだな。いいじゃない。嫁に行けば変わるし。本日も、おめでたくも森田由美子《もりたゆみこ》から高脇由美子になるひとがいる。あ、彼女も気にしてたんだっけ」
「名前を?」
「そう。今度なる名前がね。七文字になると、ビンボー・ダイジン・ダイダイジンで、ビンボーになるんだって。森田由美子ならダイダイジンだったのにーって、だだこねてやんの。ひょっとして自分からひどい不幸に飛び込んでしまうんじゃないかって、お決まりのマリッジ・ブルーさ」
「…………」
「あっ、うけない? 困った。今日ぼく、これしゃべるつもりなんだけど。じゃあ、落ちをつけよう。ぼくのとこに嫁に来てくれれば西木由美子でちゃんとダイダイジンのままだよって言ったのに、新婦はとんでもないって顔をしました。結局は迷信より愛を選んでいるのです」
「あたし、ダイジンだ」
「……?」
「けど、四文字のヒトのところにおヨメにいくとビンボーなんだ」
「イシワタリトキコ、そうか。何を真剣に考えこんでいるのかと思えば。あっ、だからほら。西木ならちょうどいいじゃないの」
「ははは」
「それでて僕自身は一生ビンボーなんだよ。ニシキゴウスケ、ほら」
「ははは」
「……んっ?」
「…………」
「……あ、そうか。ひょっとして……」
「違いますからねっ!」
「何が?」
「だからっ。高脇朱鷺子とか。昔々考えたことがあったけど……」
「ほをを」
「でもっ! 昔で。ホントに子供の時で。もう、ずっと長いこと逢《あ》わなかったし、忘れてたからっ。だから、取られたとか、悔《くや》しいとか、そういうんじゃないけど」
「うんうん」
「なんか……ずっと離れてて、どうしてるのかも知らなくて、お兄ちゃんたちはもうきっと、どんどん追いつけないくらいおとなになっちゃっただろうって思ってたけど。ホントは、そうでもなかったのかな」
「……なるほど」
「ユミコさんってひととあたしって、実は、そんなにすごく違わなかったんじゃないかなって……今の話聞いてるうちに、なんとなく……」
「うん」
「……変なの……」
「変じゃないさ」
3
西木|豪介《ごうすけ》は、披露宴《ひろうえん》で名前の話をしなかった。
朱鷺子は少し驚いた。気にしてくれなくても良かったのにと思ったが、少し嬉《うれ》しかった。
スピーチを終えて戻る彼にありがとうの会釈《えしやく》ぐらい送りたかったけれど、遠すぎた。こっちを見てくれないかなと思ったが、長いテーブルの向こうで、新郎の友人一同とわいわい楽しそうに騒《さわ》いでいる。一度目を離したら、どれが西木だったのかもわからなくなってしまった。
みんな、気軽そう。
会場いっぱいに、知らないひと、年上のひとたちばかり。新郎と新婦のご両親以外|誰《だれ》ひとり知らないのは自分だけかもしれない。
朱鷺子は気後れして、いたたまれない気分だった。
お祝いの手紙でも書いてすませちゃえばよかった。披露宴《ひろうえん》なんてひとりで来るもんじゃないのね。もっと厳粛で、胸がいっぱいになるほど素敵《すてき》なものかと思っていた。
変なあたし。ひとりでドラマチックになっちゃって、はぐらかされた気になってる。さっきだって、こうへい兄ちゃんのことなんてまるきり忘れてたクセに、なんで突然あんなに感傷的になってしまったんだろう。
ぼんやり考えながら、次々に出されるご馳走《ちそう》を、できるだけゆっくり、できるだけきちんと食べた。そうでもしなければ持て余してしまう。マナーのよくない子がいたとは思われたくない。緊張《きんちよう》して、時々隣のミセスが何か話しかけてくれるのにも、こわばった顔で、ええとかいいえとか、あいまいにうなずくのがせいいっぱいだった。
だから退場する招待客の列の中で、蝶《ちよう》ネクタイの誰《だれ》かに何かの紙を渡されて『是非来てくださいね、女の子は大歓迎ですよ』などと言われても、まるきり見ずにハンドバッグにしまってしまった。
もうすぐ帰れる。
順番通りに、金屏風《きんびようぶ》を背にした花嫁花婿の前に立った時には、ようやく少し元気になっていた。心からおめでとうございましたを言うことができたし、康平が愛らしい花嫁に、妹なんだよと紹介してくれたのも嬉《うれ》しかった。康平はベルボトムのGパンを愛用していた頃《ころ》とまるで変わっていない。
でも。あの頃はあんなにハンサムに見えたのに。あんなダサイズボンも、最高にカッコよく見えたのに。
やっぱり昔。ほんとうは変わったんだ、あたしも。お兄ちゃんも。
康平一家と朱鷺子の家族とで、毎年のように海に行っていたことがあった。夕暮の近づく砂浜を延々と歩いて帰る時、ふたりであれを見つけた。
波打ち際の、砂の模様。
水が退く時、小石や貝の落ちているところだけ深く抉《えぐ》れて、ゆらゆら蛇行《だこう》した溝になる。うんと引潮だったのだろう。いくつも並んだ溝がぽっかりと残されてそのまま乾いている場所があった。不思議がる朱鷺子に、康平はそれができるしくみを説明した。半分くらいしかわからなかったけれどうなずいた。
「波の忘れものなんだね」
朱鷺子が言うと、康平はそれをおもしろがり、即興《そつきよう》で歌にした。夏の家に帰る線路ぞいの長い道々、その歌を、ずっとふたりで歌っていった。
なみがわすれた ちいさなもよう
どうしてのこして いったのか
だれもしらない ちいさなもよう
朱鷺子は絵日記に、模様の図と覚えたての歌を書いた。夏休みが終わってしばらくして返してもらった帳面をみると、その日のページには、大きな花丸と担任の先生の赤いペンのコメントがあった。『トキコちゃんはし人なのね』
あれにはびっくりしたな。わけがわかんなくて、ほとんど脅《おび》えてしまったっけ。あれが『詩人』で『死人』のことじゃないんだって、ずいぶん長いこと気がつかなかった。気がついたのは……。
「二次会、でるでしょ」
突然話しかけられて、朱鷺子は顔をあげた。西木だとわかるまで、何秒かかかった。
「コピー、もらった? ぼくら若いモンは地下のバーのほうだからね。間違って、上のジジババ組のほうに行かないで」
「いえ」
朱鷺子はあわてて手を振った。
「だめです。もう、帰らないと。バスがなくなりますから」
「え。どうして? 泊まらないの?」
花嫁の親族以外、みんな遠方からの客だった。ここでそのまま一泊して、例えば家族連れや友達同士で明日遊園地なり河口湖《かわぐちこ》のほうなりに足を伸ばす計画もあるのだった。
「帰ります。明日、授業があるし」
「大学? ダイビングのほう?」
「もちろん大学。ダイビングの学校は、ちゃんと卒業しました。一応」
「ああ、そうか。でも、大学なら。マジメに出なくたって大丈夫《だいじようぶ》でしょう」
目の前いっぱいに銀色がかったグレイが広がっている。凝《こ》ったタキシードを着てる。
そういうひとだったのか。
朱鷺子はあわてて笑顔を作ったけれども、まっすぐ目を合わせることができなかった。海水パンツの時は、平気だったのに。
「あっ、西木がさっそくヌケガケしてる」
「こらこら」
「一等若いコにすかさず手ぇ出すなよ、この野郎《やろう》」
ひやかし声の白いネクタイの男たちがどんどん集まって来てしまって、朱鷺子は慌《あわ》てた。
「ほんとうに、帰ります。いろいろありがとうございました。それではさようなら」
ぺこん、とお辞儀《じぎ》をして、そのままクロークがあるんじゃないかと思えるほうに、どんどん歩いた。
「わーい、西木がふられた」
背中の向こうで男たちの歓声があがった。
4
新宿《しんじゆく》行きのバスは、夜はあまり本数がなかった。濡《ぬ》れた水着と正装用のワンピースをつめた重たいバッグをおろして一階のテラスに座ると、遊園地の灯《あか》りがひどく近く見える。宙返りコースターの軌道にともる光の列を、何度かゆっくり目で追ってみた。とても数えられない。
あきらめて座りなおすと、向かいの椅子《いす》からグレイのズボンの片足がニュッとはみ出しているのが見えた。組んだ脚の向こうに、いたずらっぽい笑い顔が見えた。
「送ろうか」
彼は言って、手の中でチャラッ、と鍵《かぎ》を鳴らした。
「でもいいです。だって二次会に」
「家はどっち」
「中《なか》野のほうですけど」
「じゃあ、中央高速ですぐじゃない。往復三時間かな。どうせみんな朝まで騒《さわ》ぐんだから。全部つきあわなくたっていいさ」
「…………」
中央フリー・ウェイ。
その歌を、朱鷺子は好きだった。けれどその道は、今日ここに来るバスでしか知らない。男のひととふたりで、走ったことなど一度もない。
遠慮《えんりよ》すると気を悪くされるだろうか。変なところに連れていかれるとか何とか、失礼なことを考えて断っていると思われてしまうだろうか。もちろん、疑ってなんかいない。康平兄さんの友達なんだし、自分のことオジサンだって言ってた。女の子がひとりでバスなんかで帰るのをかわいそうだと思って、言ってくれてるのはわかるけど。
「その眼鏡《めがね》、いいね」
朱鷺子は顔をあげた。
頬《ほお》が赤くなったような気がした。
眼鏡を外してしまえば、あたりはぼんやり霞《かす》んで見える。輪郭《りんかく》や色しかわからない相手だったから、いろんなことをうっかり話してしまったのだ。
ダイビング用の水中マスクなら度つきのを持っていたが、スイミング・ゴーグルはそうではない。おまけに、披露宴《ひろうえん》用のワンピースにはまるで似合わないので、ずっと外したままだった。
西木の顔をまともに見たのは、この時がはじめてだった。
ふんわり乾いた髪がひとふさ額《ひたい》に落ちかかっている。ちょっとふくれたような悪戯《いたずら》っぽい笑い顔が、自信満々みたいに見える。
モテそうなひと。
ラッコの芸で打ち解けさせちゃうなんて、いかにもだったんじゃない。朱鷺子はなんとなくバカにされたような気がして、悔《くや》しくなった。
「目が悪かったのか。時々顔しかめるから、気分悪くさせたかと思った」
「……すみません」
「いやいや。いい女はみんな目が悪いんだ。しかし……レンズごしなのにすごいなー。でっかい目」
「…………」
「ちょっと待ってて、車まわして来る」
「えっ、でも!」
「送らせてってば。オジサンの言うことは聞くものだよ」
きびきび歩いていく銀色のタキシードの背を、朱鷺子はほんもののしかめ面で眺めた。トイレにでも隠れたほうがいいのかどうか、しばらくのあいだ迷い続けた。
言いなりになったつもりはない。せっかくの好意だし、なかなか来ないバスよりもいいじゃないかと思った。
それでも、黙っていると変に意識してしまうので、朱鷺子は助手席でしゃべりつづけた。話題は自然に、ダイビングのことになった。カードを手にするまでにどういう講習を受けるのか、潜《もぐ》りのどこがそんなに面白いのか。
西木は時々|煙草《たばこ》を燻《くゆ》らせながら、熱心そうに聞いている。少し話が途切《とぎ》れると、低く絞ったステレオから、少し前に流行《はや》ったメロディーが聞こえた。聞くともなしに聞きながらぼんやり窓の外を見ていると、西木が短く何か尋ねる。朱鷺子はあわててまたしゃべりはじめる。話し掛けてあげるのは、眠気防止になるだろう。
夜のハイウェイは、バスで来た時とはまるで違う。空いてて、カーブひとつ曲がるにも西木が自分のリズムを楽しんでいるのがわかった。
不意に高い位置につくと、一瞬《いつしゆん》前が開ける。黒々と影になった山の間の薄明るい路面に、前を行く車の赤いテール・ランプがいくつもいくつも並び、静かに流れていくのが、ずっと先のほうまで見渡せた。
潜《もぐ》ってる時みたいだ、と朱鷺子は思った。
前を行くダイバーや景色の感じ。魚というよりは鳥のように軽やかで、ぐいぐい速度をあげて追いついていく気分。話したいことはいくらでも出てきた。
やがて街に入った。あのへんが競馬場、あっちがビール工場。左右反対だね。教えてもらって、このひとも知ってたんだと朱鷺子は思った。もちろん、有名な曲だけど。オジサンだなんていうから、ちょと意外。
いつの間にか、こだわった自分がおかしくなった。並んで座ってしまえば、顔なんて見えない。ひとりぼっちでバスで帰るより、ずっとずっと楽しかったじゃない。
高速を降り、甲州《こうしゆう》街道に出る。もうすぐ家だと思うと、なにか大切なことを話し損なったような気がしてきて、朱鷺子は早口になった。中野のほうに折れて少し行ったところで、黄色いランプが連なって、車が溜《た》まっていた。西木が急に速度を落としたのはわかったけれども、工事か何かだろうと思ってしゃべり続けていたから。
こつこつ。
警官に顔のすぐ横の窓を叩《たた》かれた時には、びっくりした。あわてて開けると、消毒薬の匂《にお》いのする管を差し出された。わけがわからなかったが、言われるままに、息を吹き込んだ。
「はい、行ってよし」
窓をしめ、ゆっくりとスタートして、しばらくの間、どちらも口を利かなかった。
「……今の……もしかすると」
やっと朱鷺子がつぶやくと、彼はくすくす笑いだした。
「検問」
「やっぱりですか」
「いやぁ。驚いたな。ねぇ。朱鷺子ちゃんって、下戸だったわけ?」
「少しは飲めますけど」
体調によるみたいで、加減がよくわからない。前にワインで乾杯しただけでひっくりかえったことがあるから、今日はやめておいたのだ、と朱鷺子は説明した。
「それで二次会も気が進まなかったんだな」
「いえ……そういうわけじゃ」
飲まなくても、楽しくやることはできる。知らないひとばかりの中でなければ。そう言いかけて、『ぼくがいるのに?』と言われそうな気がして、朱鷺子は口籠《くちごも》った。
西木は気に止めなかった。
「いやぁ。こんなことあるんだなぁ。信じられない。ポリさんたちもよっぽど疲労たまってんだろうけど」
信号で止まる頃《ころ》には、もう笑っていなかった。突然、西木は朱鷺子の肩をギュウッと抱きしめた。
「ラッキー・レディ。助かったよ」
西木の車はシトロエンで、左ハンドルだった。ただそれだけのことだ。だいたい、あたしがいなければ、送ってもらわなければ、お巡りさんに見つかっちゃ困るようなことにならなかったじゃないの。
けれど、耳が熱かった。
自分のせいで捕まっていたかもしれないのだと思うと、不安と申し訳なさで頭がいっぱいになってしまった。
おかげで、道に迷った。だいたい車で帰ったことなどなくて、勝手がわからなかったのだ。一方通行かどうか、どこがなんという名前の道なのか、なにも答えられない。毎日歩く駅からの細い路地が、こんなに見つけにくい通りだったなんて知らなかった。
考えてみれば、あそこはあんまり車が通らない。まっすぐ家に送ってもらおうなんて思わずに、どこかわかりやすい場所を言えばよかったのに。
なんとかしなきゃと焦《あせ》れば焦るほど混乱して、しまいにムカムカ気分まで悪くなってきてしまった。情けなかった。
どこだかわからない道で、西木はとうとう路肩に止まった。
「ここたぶん早稲田《わせだ》通りだと思うんだけど。見覚えない?」
「ごめんなさい……わからない……ごめんなさい」
なにがラッキー・レディなものか。
気がきかない子。何も知らない子。
膝《ひざ》の上で爪《つめ》をたてて握りしめた朱鷺子の拳《こぶし》を、西木の手がそっと包んだ。
「じゃあ、まずは何か食べない? ぼく、腹減ってきたんだよね」
「……あ……そう言えば」
いやだ。フルコースは、どこに入っちゃったのかしら。朱鷺子も笑うことができた。
「このへんにうまい洋食屋があるって友達に聞いたことがある。確か……ウン、わかると思う。この際だから、探していい?」
見つかるまで一時間もかかってしまったけれども、それは、幸いにも、朱鷺子が前に一度ランチを食べに来たことのある店だった。食事は持つと言ったのに、彼は拒《こば》んだ。ここからなら歩いて帰れるとも言ったけれど、ここまで来たからにはちゃんと無事に送り届けないと夢見が悪いからね、とやっぱり断られてしまった。
レストランの駐車場に車を置いたまま、ふたりで歩いた。十分以上ある寂《さび》しい道なのに、その日はやけに近かった。
アパートの下で、お礼とさようならを言おうとしたけれど、うまくいかなかった。
「また、お巡りさんがいたりしませんか」
朱鷺子は自分でびっくりした。なんだってそんなことを言ってしまったのだろう。
困ってるじゃない、西木さん。
タキシードが街灯を浴びて鈍《にぶ》く光っている。海の底で眠っている魚のような、銀色の塊。眼鏡をかけているのに、暗くてよく見えなかった。ちゃんとしたことを言おうと頭はめまぐるしく動いていたけれど、どこか遠いほうでこんがらがっていてうまく回らない。役にたつことはひとつも出てこない。
迷惑《めいわく》だわ、早くしなきゃ。なんてダメなんだろう、あたしは。
涙がこぼれそうになって、あわてて目をパチパチしたとたん。
唇にさっと何かが触れて、離れた。
「おやすみ。朱鷺子ちゃん」
サッと手をあげて背を向けた西木が、角を曲がって見えなくなるのを、朱鷺子はぼんやり見つめ続けた。
5
お礼状を書きたいと言うと、高脇《たかわき》の伯母はすぐに住所録を調べてくれた。けれど、書けなかった。だいたい何をどう書けばいいのかわからない。
あのくらいのことを本気にしちゃいけないと自分に言い聞かせながら、朱鷺子は三日間、メモをにらんで過ごした。横浜《よこはま》市|緑《みどり》区。数字も全部覚えてしまった。地図を見ると、西木の住むマンションはあいにく渋谷《しぶや》から電車で行けそうな場所にあった。もっと遠ければ、まさか行こうなんて思わなかったのに。
早朝、郊外に向かう電車は空いていた。地図帳を手に下り立った駅には、急ぎ足に勤めに向かうひとたちがもう途切《とぎ》れなく集まりはじめている。平和で真面目《まじめ》な光景だった。自分ひとり、何かを踏《ふ》み外してしまいそうになっているような気もした。
だんだん混みだす駅の横の小さな公園のベンチに座って、朱鷺子はぼんやり駅のほうを見つめ続けた。仕事に出かける女たちのカラフルなセーターや、薄い春コートがきれいだった。吐《は》く息は白いけれど、ムートンのコートや焦茶《こげちや》のウールの重たいスカートは薄汚れていて野暮《やぼ》ったすぎるような気がした。
こんな恰好《かつこう》は見られたくなかった。
そうだ。話さなくていい。あたしはもう一度、あのひとを見たかっただけ。遠くから見て、それで帰ろう。
彼は通らなかった。地図を見たかぎりではここを通るようにしか思えなかったけれど、ひょっとすると、もう見逃してしまったのかもしれない。もしかしたら、車で通勤しているのかもしれないじゃない。
お尻《しり》が痺《しび》れて、口が乾いて来た。駅の向こう側も、見てみたかった。ひとの流れに乗って行き、売店でガムとキャンディーを買った。煙草とライターも。彼が吸っていたのと同じ、緑色のパッケージが目に止まってしまったのだった。
結局また戻ってきたもとのベンチでこっそり試してみた。最初、ちっとも火がつかなかった。胸がドキドキして指が震えた。ようやく味がしてきた時には、舌の奥がザラザラになったような気がした。我慢《がまん》して半分までどうにか吸った煙草を地面に押しつけて消した時、足下に吸殻がたくさん溜《た》まったら、とふと考えた。
ずっと待ってたってこと、一目でわかるわね。マンガみたいに。それを彼に見せたいのか、たんなる通りすがりのひとびとにでもせつなさを知って欲しかったのかよくわからなかったけれど、朱鷺子は静かに煙草をくわえ続けた。だんだん、さまになって来たような気もした。
十本溜まるまで、二時間ほどかかった。吸殻入れに捨てにいこうと立ち上がったら、めまいがした。帰ったほうがいいな、と思った。いっしょに捨ててしまおうとした煙草のパッケージは、いやに軽かった。その軽さの示す何かが愛《いと》しくて、捨てられなかった。
改札のあたりはひどい混雑だったが、切符売場にはほとんどひとがいなかった。料金表を目で探しながら近づいていった時、ひと組のカップルが目の端にひっかかった。
見間違いではなかった。
西木は販売機から切符を取り出して、背の高い女に渡したところだった。象牙《ぞうげ》色のニットのワンピースをまとっただけの、美しい女。切符は一枚。もちろん、定期を持っていない彼女のためにだ。
避けるには近すぎた。楯《たて》になってくれるひともなかった。横を向くのが、少しだけ遅れた。
何かつぶやいて立ち止まった西木に女がぶつかってよろけるのが見えたけれど、朱鷺子は知らん顔で歩き続けた。泣かないように奥歯を食い縛《しば》った。
よく似た別の子だと思ってくれれば。
それが強がりなのか本心なのか、自分でもよくわからなかった。最初に見つけた喫茶店に入った。コーヒーを頼んで、すぐに煙草《たばこ》を出して吸ってみた。もう火をつけ損ないはしなかった。煙草はひどく美味《おい》しいような気がした。
次の日は、二箱買った。
その次の次の日には、青いガラスの灰皿といろいろな銘柄の煙草をいくつか買った。
マイルド・セブンに落ち着いた頃《ころ》、気持ちが静まったような気がして、遅い礼状を書いた。陽気で軽い文面ができた。駅に行ったことも煙草のことも何も書かない代わりに、もしもあの洋食屋さんにいらっしゃることがあったら呼んでください、今度はご馳走《ちそう》しますからと自分の電話番号を書いておいた。きっと無視されるだろうと思った。そうしたら、本当に忘れられると思った。
無視された。『今度はご馳走しますから』ということばは。
「若い子は気を遣《つか》わなくていいの」
受話器からこぼれる声は屈託がなかった。
「美味《おい》しいものが食べたくなったら、オジサンを呼びなさい」
そうして彼は電話番号を教えてくれた。自宅のも、会社のも。
喫煙《きつえん》はやめられなかった。西木からかかってくる電話を待つことも、やっぱり、やめられなかった。
6
その頃の朱鷺子は、まだそれほど熱心なダイバーではなかった。
ほんの気まぐれでいっしょにカードを取った高校の友達とすっかり離れ離れになってしまってから、一年以上どこにも行かなかったし、ひとりの重い腰をあげてでかけてみたはじめての短いツアーは悪天候とぶつかってたった一ダイブしかできなかったのだ。それが当時の朱鷺子の経験の全《すべ》てだった。
けれども、その一ダイブは素晴《すばら》しかったのだ。
はじめは確かに期待はずれだった。地形のおもしろいところほどひどく荒れるのか、楽しみにしていた有名な場所は軒並《のきな》み立ち入り禁止。たったひとつ潜《もぐ》れると言われたポイントは聞いたことのない浜辺にあった。
まぁ、あそこにも、いろいろ魚はいますけどね。ガイドのセリフも投げ遣《や》りで、あまりお勧めはしません、と聞こえた。同じ舟で着いたひとの半分はさっさとマージャン牌《パイ》を探しに行ってしまった。
波は高く、海はなま温かかった。ツルツル足をとられる岩畳の上を機材の重さによろけながらずいぶん沖まで出たところから、ようやく深くなる。波に持っていかれそうになりながらフィンをつけ、シュノーケルをくわえて、ガイドの後をもう少し沖へしばらく泳いだ。あまり縁近くで潜《もぐ》りはじめると、岩に叩《たた》きつけられる恐れがあるのだった。
ようやく、潜行開始の合図があった。
ぼんやり薄暗い水の中を、朱鷺子は不安にドキドキしながら降りていった。
そのへんは、深いところでもせいぜい十五メートル程度だったのだが。講習で潜った海が明るくてどこまでも遠くまで見通せたのに比べると、ひどく地味《じみ》で陰気な景色に見えた。潜りかたはすっかり忘れているような気がしたし、水が変にぬるいのも気味悪かった。
切りたった岩の合間を、パーティーはゆっくり進んだ。時々思いがけないほど鮮《あざ》やかな色の魚がからだのすぐ下やすぐ横を通ったが、よく見ようとするとサッと逃げてしまう。餌《え》づけされた魚たちではないようだった。
やがて、ぽっかりあいた砂地の上で、みんなが止まった。円陣の端に並んでフィンを使うのをやめた途端《とたん》にがくんとからだが重くなり、底に膝《ひざ》をついてしまった。朱鷺子はあわててホースを探り、短く二度吸気ボタンを押した。ゆっくりと、膝が離れた。
よろよろするからだをどうにか建て直し、なんとかそれらしい恰好《かつこう》で止まった。ガイドはハンド・サインで、ひとりひとりに残圧を尋ねた。みんなの数字はちっとも減っていない。朱鷺子は思わず、自分のゲージのめもりで見たものよりも十の位でひとつ上の数字を示してしまった。
いけないいけない。むしろ、切り捨てて、少なめに言わなきゃいけないのに。
パーティーが動きだした。前の誰《だれ》かが、フィンを乱してしまい、大きく砂が巻きあがった。みんな大ベテランなんじゃないかと思いはじめていたところだったので、朱鷺子は少し安心した。
砂で煙《けむ》ったところを避けたら高い位置に出すぎてしまい、ふわりと浮き上がりかけた。あわててエアを抜きながら、ふと下を見た。
そこに、タペストリが落ちていた。
朱鷺子は息をのんだ。
ちょうどその時、たまたま雲が切れたのだろう。水底の白い砂漠の上を、光の網目がゆっくりとなぞっている。遠い水の天井の波のかたちが、そのまま映って揺《ゆ》れているのだった。見回すと思いがけないところに、薄青い自分のシルエットがぽつんとあった。
それはなんとも不思議な感じだった。
よく見ると、砂自体にも模様が刻まれている。ちょうど木の年輪を大きく大きく引き伸ばしたような縞《しま》が、どこまでも続いている。その上を光が通るので、なんとも妖《あや》しいダンスになるのだ。
朱鷺子はそーっと、降下してみた。慎重《しんちよう》に、膝《ひざ》をついたりフィンをひっかけたりしないように用心しながら、砂のひと粒ひと粒が見分けられるぎりぎりのところまで、顔を近づけてみた。
光の網目に撫《な》でられながら、砂もほろほろかすかに動いていた。
……こんなこと……確か。前にも。
デ・ジャ・ヴかと思ったけれども、すぐにわかった。
『波の忘れもの』
歌のはじめの二小節が浮かんできた。少し考えると、最後まで全部まだちゃんと覚えていた。そしてあの日記の、あのページ。
ああ、そうだったのか。
あれは『詩人』だったのね。『死人』じゃなくて。
朱鷺子は笑って笑って、それから懐《なつ》かしさとほかの何かに胸がきゅうっとして、少し泣いてしまった。まぶたのくすぐったさに思わずマスクの下から指をつっこむと、たちまち、鼻も目も水の中になってしまった。
バカだわ。
クスクス笑いながらマスクをつけなおし、そっと鼻から息を吐《は》いて水を追い出した。まつげがシパシパして最初よりもっとくすぐったかったけれども、今度は我慢《がまん》した。
ふと見ると、遠くで、誰《だれ》かが怒ったように手を振っていた。ずいぶん遅れてしまっている。どうも少し、流されたようでもある。
いけない。
朱鷺子はフィンを翻《ひるがえ》し、急いでパーティーを追いかけた。
ああ、素敵《すてき》。海の底にも『忘れもの』があったんだ。そうだ。こうして、スクーバをしてなかったら、一生そんなこと気づかなかったかもしれない。きっと、あちこちの海に、いろんな模様があるんだわ。
みんな見たいな。できるだけたくさん見たいな。
7
そうは思っても、ひとりの朱鷺子には、なかなかチャンスがなかった。行こう行こうと思いながら、降ってくるチャンスを待っているようなところがあった。
西木に逢《あ》ったのが、それを変えた。
西木と逢うと、自分でも変じゃないかと思うくらい海の話ばかりしてしまう。話せば話すほど、ああ、海に行きたいと思う。
たぶん、無意識に、こういう話題ならほかの女のひとより詳《くわ》しいはずだと思っていたのだろう。そんなにおもしろいならぼくも潜《もぐ》ってみようかなと、言って欲しかったような気もする。
話すことがなくなって、ひとから聞いたことまで自分のことのようにしゃべってしまうこともあった。いつも、後でひとりになった時、ひどく恥ずかしくなった。
潜らなきゃ、と朱鷺子は思った。
口先ばかりじゃなくて、ちゃんとダイバーになってみせなきゃ。
西木はたびたび誘《さそ》ってくれたが、週の半分以上は電話に出なかった。週末にはしょっちゅう行方をくらました。ともだちにグチをこぼすと、他にも女がいるんじゃないノォ、と笑われた。
もちろん。そんなことわかっている。
他にもいるんじゃなくて、あたしのほうが、補欠のそのまた補欠なんだ。
くれるはずの電話を待って七時間も空腹を堪《こら》えたある日曜日、朱鷺子はログ・ブックを取り出した。
あの日のページの海底地図の端に『波の忘れもの』と嬉《うれ》しそうな字が並んでいるのを、懐《なつ》かしく思い出した。
海の底で、ひっそり刻まれる模様のことを考えた。誰《だれ》かが気づいてくれるとは限らないのに、あんなにきれいな模様をせっせと作っている海のことを考えた。それはどこか自分のやり方に似ているような気がした。海が待っていてくれるような気がした。
朱鷺子は遅くまで開いている本屋に飛び込んで、ダイビング雑誌を買った。試験休みの頃に、手頃《てごろ》なツアーを見つけて、翌日には申し込んだ。積極的になった自分が、気持ちよかった。
行き先は八丈島《はちじようじま》。
次の日曜。西木は先週すっぽかしたおわびにとあれ以来はじめて車で迎えに来てくれ、青山《あおやま》通りの高級そうな店で巨大なラッコのぬいぐるみを買ってくれた。飲茶《ヤムチヤ》の店で遅い昼御飯を食べながら、来月|潜《もぐ》りに行くのよと報告する時、朱鷺子は誇《ほこ》らしかった。
「ああ、それは良かったね」
と、彼は言った。
「で、誰と行くの?」
「いえ。ひとりで参加します。そうしないとなかなか行けないから。思い切って」
「ひとり?」
いぶかしそうに見つめられて、じゃあ、ぼくもいっしょに行こう、と続くような気がした。しまった、体験ダイビングをしたいひとも参加できるかどうか、問い合わせておけば良かった。悔《く》やんだけれど、気持ちは甘く、朱鷺子はにこにこ微笑んでみせた。
「でも、泊まりがけでしょ。それは、よくないんじゃない」
低く言われて、びっくりした。
「どうして。何がですか」
「いや。心配だから。危ないじゃない」
西木は急に、せっせと箸《はし》を動かした。
「大丈夫《だいじようぶ》です。上級者向けのところには近づかないし、ちゃんとインストラクターさんがついてってくれますから」
「そいつ男だろ」
あ、そうだったのか。そのことか。
そんなこと。バカバカしい。
抗議しようとして背中を起こすと、目が合った。彼の箸の間から、フカヒレ入りギョウザがつるんと落ちた。
「ラッコの真似《まね》なんかされても、簡単に気を許しちゃだめだよ」
あわてて早口に付け足す彼のジョークっぽい口調を、朱鷺子は信じなかった。けれど、せっかくの決意を翻《ひるがえ》さなくてはならないなどとは、全く思わなかった。
誰《だれ》もラッコの真似などしなかった。
例えば木村は、ただOBとして、大学のダイビング・クラブの現役部員たちを何人も引き連れて来ていただけである。気を許しはしなかった。気が合ったのだ。彼等はみんな陽気で楽しくて、でも海でだけはとても真面目《まじめ》だったから。
見知らぬ男たちの中にひとりいて、伸び伸び楽しんでいる自分に、朱鷺子はわくわくした。水着姿でも、ボートにあがる時ウエストを抱かれるような形になってしまっても、なにも意識しなかった。
好きなひとがいるから、他の男のひとのこと、いちいち気にしなくなったんだわ。
時間は、飛ぶように過ぎた。いつも近くに仲間がいる感じは幸福だったが、朱鷺子の大学には、ダイビングのクラブなどなかった。いいなぁうらやましいなぁ、と三泊四日言い続けたら、最後に住所を交換した時、木村がとうとう、ウチのクラブに入れてあげられるかどうか今の主将に話してみるよと約束してくれた。
西木は空港まで迎えに来てくれた。嬉《うれ》しかった。朱鷺子は興奮さめやらず、まずクラブのことを話した。それから、行きの舟からはじめて、順番にすべての日のすべてのエピソードを話すつもりだった。
けれど、一本めのダイビングの描写の途中で、西木がなげやりにうなずきながら何か別のことを考えているのに、気がついた。朱鷺子は黙った。
「……あれ……どうかしたの?」
二分もたってから、西木がこっちを見た。
「ごめんなさい。なんか、ちょっと疲れているみたい」
顔色を見ながら、言ってみると、
「そう」
西木は即座《そくざ》に、ステレオのヴォリュームを上げた。
あたしの話なんか聞きたくないんだ。
何を怒ってるんだろう。ひょっとして、あたしがあんまり木村さん木村さんって言ったから、機嫌《きげん》悪くしたんだろうか。そんなんじゃないのに。ともだちになったけど、でも恋愛感情なんかこれっぽっちも持たなかったわ。誰《だれ》にも。それが気持ちよかったのに。
好きになるひとは、ひとりでたくさんよ。あたしは、西木さんとは違う。
朱鷺子はふくれたが、嫉妬《しつと》されたと思うといい気分でないこともなかった。
「西木さん」
テープが最後になって、反対の面になるまでの隙間《すきま》に、朱鷺子はつぶやいた。
「そんなにやだったら、クラブ入るの、やめようか?」
スロー・バラードが始まるまで、少し間があった。
西木は何も答えなかった。
朱鷺子は目を閉じて、バラードを聞いた。愛の歌がそらぞらしい。せっかくの気分を壊《こわ》されてしまったことに、腹が立った。おとなげないと思った。
そのままどちらも、ずっと口を利かなかった。
アパートの前で朱鷺子が下りた時、西木は前を向いたまま早口に言った。
「ぼくにはきみに何かするななんていう権利はないだろ」
助手席のドアを投げつけて閉め、アパートの前で振り返ると、西木はウィンドウの向こうから、白い顔で朱鷺子を見ていた。
朱鷺子は八丈島でこんがり陽《ひ》に灼《や》けていた。空港で別れた男たちも、みんな灼けていた。
西木から、しばらく電話が来なかった。
阿彌《あみ》大学ダイビング・チームのほうも、すんなりとは行かなかった。なにしろ仏教系の大学で、学生そのものが男ばかり。よそから女を入れるなんて開闢《かいびやく》以来初めてだ、学校に、いや、他のクラブに対して、メンツが沽券《こけん》がとさんざん揉《も》めた。
だが、とりあえず参加してみたお寺合宿で、朱鷺子は認められてしまったのだった。基礎体力作りのためのロード・ワークもペースは遅かったが全部やり通したし、朝晩の座禅《ざぜん》や勤行《ごんぎよう》にもきちんと出席した。飲めないはずの酒も形ばかりなりとも付き合い、酔っぱらいの介抱《かいほう》にはすっかり慣れてしまった。
途中から合宿監督に現れた木村に、しんどかっただろうに、ただの一度もなきごとを言わなかったそうだね、と言われた時には、もう少しで涙を見せてしまいそうになった。木村はどん、と朱鷺子の背中を叩《たた》いて、俺《おれ》の顔を立ててくれてありがとよ、と言った。
褒《ほ》められる筋合の根性ではなかった。ただ西木に告げずに行方をくらましたことが胸に引っ掛かって、自棄《やけ》ぎみになっていただけなのだ。何度か電話しそうになるのを堪《た》えた。忘れるために、することがあるのがありがたかっただけなのだ。
合宿の最終日に主将からあっけなく入部を許可され、おめでとうおめでとうと大勢の拍手を浴びた時には、混乱してしまった。笑い顔がひきつった。ほんとうにここに入ったらどうなるのか、ろくに考えていなかった。
怖《こわ》い顔で黙りこくってしまう西木を見たくなかったので、手紙を書いた。
『黙って行ったのは、西木さんが怒ると思ったからです。
でも、なんにも悪いことしてないと思います。だって、私はいろんな海を見たいし、一本でも多く潜《もぐ》って早く上手になりたいし。それにはどうしても、仲間がいるんです』
返事は来なかった。
8
これっきりだな、と朱鷺子は思った。
あたしはまた『妹』になればいい。いつ鶴《つる》の切手と金色の扇のシールが張られた封筒が届いても不思議はないし。
けれど、することもなく家にいるのは恐ろしかった。迷惑《めいわく》な電話でも、かけてしまいそうだった。
朱鷺子はせっせと海にでかけ、チーム・メイトの指導で順調に上級コースの資格を取った。部費やツアー費用を稼ぐために、夏休みはずっと小笠原《おがさわら》の民宿でバイトをした。朝から晩まで忙しかったが、たまにナイト・ダイブに連れていってもらえた。
西木に逢《あ》わなければこんなにダイビングに浸りこむようにはならなかっただろうと思うとおかしかった。好きになったひとがダイバーだったから自分もという話なら、めずらしくもないだろうけれど。
もっとも、惚れた相手がダイバーだったなら、煙草《たばこ》を覚えさせたりはしないわね。
だんだん西木のことを考える時間が少なくなった。海を見ながら一服する時ふと白い顔が浮かぶこともあったが、それはいつも悪戯《いたずら》っぽく笑った顔で、ただ懐《なつ》かしかった。
懐かしい声が不意に電話して来た時には、朱鷺子は既《すで》にダイブ・マスターになっていた。
「どうしたんですか、突然」
「いや、なんとなく。元気?」
「元気です。おかげさまで」
それで、話は途切《とぎ》れた。けれど、彼は電話を切らなかった。
何かおもしろい話をしてあげられたらいいのに。思いつくのは海のことばかりで、胸が痛んだ。
目を落とすと、電話の横の小さな予定表が見えた。クラブと潜《もぐ》り関係の予定でいっぱいだ。
六月。来月は七月。
あっ、と気がついた。
「あたし、来月、誕生日なんです」
「ああ。そうなの」
西木はホッとしたようだった。
「いつ? いくつになるの」
「二十一です。日付も年も」
この前の誕生日の頃《ころ》は、時々|誘《さそ》ってくれたね。
あの時も、西木さんずっと連絡つかなくて、だいぶ後になってから教えたら、あわててお祝いしてくれた。ずっと欲しかったレノマの白いパンプス。もったいなくて、まだはいていない。
あの靴、明日はいてしまおうかな。
ぼんやり考えて、微笑《ほほえ》んでいると、西木が何か囁《ささや》いたような気がした。
「え?」
朱鷺子は受話器を耳に押しつけた。
「すみません、聞こえませんでした」
「いや。ちょうど土曜だし、あそこに行こうかって言ったんだけど」
酔ってるな、俺《おれ》、と西木は笑った。
「ごめん。うそだよ」
あそこって。
ひとつ瞬《まばた》きしたとたんに、朱鷺子にもわかった。
富士山の麓《ふもと》の、あのホテルのことだ。
「西木さん」
鼓動《こどう》が早くなった。
「うん。でも、冗談だから」
なんて勝手な、なんてずるいひとなんだろう。どうして今さら電話なんかして、どうして今さら、そんなこと。
「行きたい」
囁《ささや》いた時、受話器を持っている手が汗で滑《すべ》った。
「あたし、行きたい」
泣きそうな声になってしまった。
しばらくしてから、西木がそっと、ほんとう? と尋ねた。うなずいたけれど、見えるはずはない。
朱鷺子は言った。
「連れてって……!」
彼の胸の中ではじめて目を覚ました時、彼はもう起きていて、世界中の誰《だれ》よりもやさしくおはようと言った。
朱鷺子は幸福だった。半分|寝惚《ねぼ》けてもいたので、思わず言ってしまった。
「これでやっと、あたし、天然記念物じゃなくなったのよ」
髪の後ろで、西木の腕が一瞬《いつしゆん》動かなくなった。一拍遅れて、そっと、まるでこわごわと、抱き締められた。
西木さんたら。
責任取ってくれとでも言ったように聞こえたの? それとも、男ばかりのクラブなんかに入って、こんなに長いことほうっておいたから、とっくにそうなってるに決まってるとでも思ってたの?
なんにもわかってないのね。
あたしのことなんて、なんにも。
土曜には遊園地を堪能《たんのう》していたから、その日は富士山の途中まで行き、帰りに河口湖と山中湖《やまなかこ》を回った。最後のつもりだったから、朱鷺子にはせつない景色ばかりだった。どちらもあのプールに行こうと言い出さない――言えないことも、少し悲しかった。
けれども、西木はふいにやさしくなって、次の週も朱鷺子を誘《さそ》ってくれた。潜《もぐ》りのために断ると、次の週もその次の週も誘ってくれた。日曜がダメだとわかると、平日の夜に逢《あ》おうと言った。
西木は時々、朱鷺子の部屋に泊まるようになった。朱鷺子は合鍵《あいかぎ》を作って西木に渡した。
けれども。
彼は海の話はけして聞きたがらなかった。時々、朱鷺子のからだの水着の跡と陽《ひ》に灼《や》けた部分の境界線を、なんとも言えない目で見つめながらぼんやりとたどったりした。線はいつまでも消えなかった。どんどんはっきりと濃《こ》くなっていった。
潜りに行く朝、彼を起こさぬように、重たいキャリー・バッグを長い時間かけてゆっくりゆっくり引きずり、やっと玄関《げんかん》から出すと、朱鷺子はひどく解放されたような気持ちになった。
9
卒業が近づいた年の十二月、何人かの部の仲間といっしょにとうとうインストラクターの資格を手にした。祝いと忘年会を兼ねたコンパの席に、のっそり木村が現れた。
部員の半分が潰《つぶ》れたあと、ゆっくり話す時間ができた。
「朱鷺子、酒強くなったなぁ」
「どなたが鍛えてくださったやら」
「就職はどうしたんだ、就職は」
「あははは。それどころじゃありませんでした。イントラになりたい一心で」
辛口の吟醸酒《ぎんじようしゆ》はいい味だった。喉《のど》にキュッと滲《し》みた。
木村は肘《ひじ》を突っ張って考えこんでいたが、やがて、俺《おれ》の下に来ないか、と言った。
「今な、NUDAって新しいダイバー団体を作る準備をしてるんだ。当分は地味《じみ》な仕事が続くが、いずれあれこれイベントをぶつことになると思う。世界中の海に、連れてってやるぞ」
「世界中の……すごいですね」
「ああ」
「大勢いるんですか、スタッフ」
「全然。あと二年は、俺とおまえだけさ」
「あたしだけ?」
笑おうとしたけれど、酔《よ》いがまわっているだけに考えたことがすぐに顔に出てしまいそうになって、朱鷺子はあわてて升《ます》の角に唇を押し当てた。
大勢の、何十人もの後輩たちがいるのに、女だてらにたったひとりの部下に選んでもらえたことがどんなにありがたく光栄なことか、朱鷺子にはよくわかった。この三年、木村が妙《みよう》な気持ちなどまったくなしに、自分を気づかってくれていることも、よくわかっていた。
けれども西木は、そうは思わないだろう。あたしがもっと忙しくなって、海を仕事にするようになんかなったら。
「あたしは……」
かぶりをふりかけた時。
「おまえ、一年が騒《さわ》いでるの知ってっか」
突然、木村が声を顰《ひそ》めた。
「朱鷺子先輩は、ちょっと見えなくなったなと思うといつも、海底ぎりぎりで、釈迦無二横臥像《しやかむにおうがぞう》そっくりなかっこでぴったり静止して浮かんだまま、瞑想《めいそう》してる。それはそれは神々しくて近寄り難いお姿だとかなんとか。いったい何やっとるんだ? 昼寝か?」
「瞑想ぉ?」
朱鷺子は笑った。
「とんでもありません。ただ、砂を見てるんです」
「砂」
「ええ。砂の模様を」
木村は黙って酒をあおった。
「好きなんです」
つぶやいてみたら、どんどんことばがあふれだした。
「きれいで。なにげなくて。一見静かなようだけど、実はせっせと動いてるんですよね。ひと粒ひと粒の砂はそれぞれ勝手に転がってるようにしか見えないのに、全体はちゃんといつの間にかそれらしい模様になってしまう。いつになったらできあがるってわけでもないのに……」
あれは。
あれのことだけは、話したいのに。
西木には、うまく伝える自信がなかった。もし、例の『波の忘れもの』の話からはじめたりしたら、あたしがまだ、高脇《たかわき》のお兄さんのことを好きなんじゃないかなんて、とんでもないことを疑りかねないひとなんだもの。
「一度、見てみてください。けっこう、おもしろいんですよ」
締《し》め括《くく》ると、木村はうむうむ、とうなずいて、酒のせいで赤い目をオーバーにひっくり返してみせた。
「いやぁ。いい話を聞いた。朱鷺子がそんなことを考えていたとは知らなかったなぁ」
「ははは」
「なるほど、そりゃ、ありがたい仏像みたいに見えるわ。今度から拝観料取ることにしたらどうだ?」
「まさか」
「まじめな話。御仏《みほとけ》の御力をわがNUDAにお貸しくださらんかなー」
それは。ちょっと。
首をひねりながら、木村の視線から逃れるためにふと立ったら、急に胸がむかついた。
トイレに行ってみたら、簡単に吐《は》いてしまった。朱鷺子は驚いた。
飲みすぎたかな。あのお酒、おいしかったから。
自嘲《じちよう》的に首をふりながら洗面台の鏡をのぞきこむと、見慣れたはずの自分の顔が、どこか変だった。鏡、歪《ゆが》んでいるのかしら。
顔を近づけようとしたとたん、また吐き気がこみあげてきた。こんなことははじめてだった。
生理遅れてる。
思いあたったとたん、舌がふくれあがるようなめまいがして、トイレの壁にドシンとぶつかってしまった。
まさか……まさか……?
深い深いブルーの水のなかを、どこまでも落ちていくオウムガイが見えた。
10
雪が降っていた。アパートの階段を、おっかなびっくり上がって鍵《かぎ》を開けると、部屋の真中にあぐらをかいていた影が、ゆっくり振り返った。
「どうし……て」
まだ早いのに。会社はどうしたの。
答えは西木の膝《ひざ》の先に落ちていた。薬の袋が放り出してある。横田産婦人科と、書いてある袋が。
今朝、出しっぱなしにしたんだわ、と朱鷺子は思った。
その場に腰を落とすと、朱鷺子はどうにか膝を揃《そろ》えた。まっすぐ頭を起こしておくのが辛《つら》かった。麻酔《ますい》の名残りだ。横になって、楽になりたかった。
「なぜ、相談しなかったんだい」
遠くから、やさしい声が聞こえてきた。
言わなければならないことはたくさんたくさんあった。とてもとても聞いてほしいことばかりだった。けれどもあまりに眠かった。
「あした……話します」
音をひとつひとつ押し出すように言って、朱鷺子はせいいっぱい微笑《ほほえ》んだ。
やがて、淀《よど》んで固まってしまった空気の中を、目を逸《そ》らし、たちあがり、傷ついた顔で出ていく西木が、ひとつひとつまるでコンピュータ合成の映像のように、それぞれの動作の何秒かずつ前の輪郭《りんかく》を後にひきずりながら、目に焼きついているのがわかった。思い出してみると、ドアの閉まる音も、弱まりながら五つも聞こえたようだ。
きみは変わった。
彼の声とその意味が、ようやく頭に届きだした。
ちっとも連絡がつかないから。心配して。どうしてもっと早く。ぼくを信じられなかったの? きみだけを、今はもう、きみだけを、愛していたのに。
浅い苦しい眠りの中で、彼の非難が何度も何度もリフレインした。答えようとして、何度も失敗した。やっときちんと説明できてああ良かったと思えば、それも夢だった。夜の海からゆっくり浮上するように意識が戻って来た時、朱鷺子はひとりだった。
さっき見たのは、ほんとうかしら。あのひとがいたような気がするのも、夢なのじゃないかしら。もしも、ほんとうにいたのなら。
背中を起こすと床の真中に何かが落ちているのが見えた。たぶん、薬の袋。
無駄になってしまったかな。
鈍く痛む腹を、朱鷺子はそっと撫《な》でた。手術台でのひどい苦痛を思い出した。麻酔《ますい》はちっとも効かず、平気ですからもう帰りますからと言って出てきたら、なんと、家が近くなったとたんにぐらぐら目が回って来たのだ。
恐らく、酒に強くなりすぎたことと関係があるのに違いない。
脚はぼうっと痺《しび》れたように重く、一番ひどい生理痛のような感触《かんしよく》がする。そこには、小さなプラスティックの円盤のようなものが埋《う》まっているはずだった。万が一の時にレントゲンに写るような鉛のかけらをくっつけた円盤。これがあればもう、あんな怖《こわ》い思いをせずにすむと思ったのだった。
まる一か月もの不安な日々。
自分の明日が、自分の知らないところでカチャッと勝手に決まってしまったかのような真暗な気持ち。
妊婦は海に潜《もぐ》れない。赤ちゃんが手を離れるまでにも、長い長い時間がかかる。それを受け入れるのか。そしてなにより。海に帰れる日が来た時、西木は許してくれるだろうか。ひとりで海に行かせてくれるだろうか?
プール・サイドで出会って、おとなびた男の手管に手も足も出なかった純情な少女。はじめは、まるでハーレクイン・ロマンスだったわね。そのままなら、ふたりが結婚する時にめでたくページが終わるはずだけれど。
朱鷺子は、煙草《たばこ》を取りに立ち上がった。
そっと目を閉じて、埋められたもののことを考えた。この仕掛けの寿命は一年半だ、と医者は言った。一年半したらまたおいでと。一年半。あなたがいなければ必要のないものといっしょに。あたしはここで、待つのかしら? 二度と来ないかもしれないあなたを。
なみがわすれた ちいさなもよう
どうしてのこして いったのか
だれもしらない……
八歳の時から、あたしはみんなわかっていたのかもしれないな。なにせ『し人』だから。
膝《ひざ》を抱えて、煙草《たばこ》をくわえて、クスクスしばらく笑っていたら、やっとひと粒涙がこぼれた。
*
『水底に 知るものもなく タペストリ
朱鷺子
――海底の砂地の紋様を詠《よ》んだ、とかなんとか本人は言ってますけど。とんだご謙遜《けんそん》。実は水底に≠ヘ皆そこに≠フ掛けことば、いい女には皆きっと隠れたドラマがあるって意味だと私はにらんだ。さすが朱鷺子ちゃん。深い。』
自分の書いた物を思い出して私が複雑な気持ちになっていると、突然、ポーンと何かが上がって、落ちてきた。
名刺だ。ぐしゃっと丸まった名刺。
あわてて受け止めると、朱鷺子がニッと子供のように笑った。
「捨てて。お願い」
駆け戻っていく朱鷺子に、連中がおいおいなんなんだよ今のは、とからかい声をあげている。
「えへへ、いいでしょ」
「隠すなよ、男だったんだろぉ?」
「おーっ。呼びゃいーのに、なに遠慮《えんりよ》してんだ」
「過去の男だもーん」
「うわっ朱鷺子さんってクール!」
ゆっくりとドアを戻すと、かろらんかろらんと何度もベルが鳴った。
あとがき
子供の頃から海が大好きでした。
その時々に『これがわたしの海!』っていう海がありました。
最初は、神奈川県葉山の森戸海岸。三歳ぐらいかな。足を洗うくらいの波に腹ばいになって『ホーラ、泳げるでしょ?』と得意そうな顔をしている、あの写真は。
当時わたしは、『チロリン村』のキャラクターにちなんで、クル子ちゃんと呼ばれていました。ビニール製のクル子号という舟も持ってました。そのクル子号がひっくり返ったことがあります。森戸の沖に浮かぶ菜島という小さな島のすぐそばでした。ブクブク沈みながら、わたしはちゃんと目を開けてたらしいです。海底でうごめいている不気味な生物も確かに見ましたから。水を怖《こわ》がるようにはなりませんでしたけれども、わたしは今でも、なまこが食べられません。
二番目は、岩手県|大槌《おおつち》町|吉里吉里《きりきり》。小学校三年と四年の時かな、二夏続けて、ここで暮らしました。当時の吉里吉里はほとんどひとの来ない美しい海でした。岩手のことですから夏といっても水はけっこう冷たいのです。小さな魚やウミウシやアメフラシや、いろんな海の生物がたくさんいました。
ここでもビニール舟で遊びました。クル子号ではなくて、もっと大きなものです。わたしがひとりのんびり沖に浮かんでいるところをひっくり返されたのは、単なるジョーク、はしゃいだ気分の延長でした。もちろんその程度のことで溺《おぼ》れたりはしません。けども、海底を蹴《け》った足の痛みは冗談じゃなかった。足の裏にはウニの刺《とげ》が二本ささって折れてました。医者である叔父が、焚火《たきび》でナイフを焼いてその場で切開してくれました。もちろん麻酔なんてナシ。わたしは今でも、お寿司のウニを残します。
三番目は、沖縄の海です。
八十四年の五月、万座を、そして八十六年の十月、小浜《おばま》や西表《いりおもて》を知りました。はじめての珊瑚礁《さんごしよう》、はじめてのほんとにあったかい海。森戸も吉里吉里も、あっけなく『過去の海』になってしまいました。
それにしても、悔しい。もったいない。中学高校大学と、わたしには夏がなかった。みんな受験が悪い。試験とか成績とかレポートとかが悪いんだ。マジメな性格のわたしは、ついついセッセと勉強してしまいました。だから、これから、毎年少しずつ夏を取り返してやろうと思ってます。
それで、ダイビングをはじめました。
素晴らしいです、ダイビングは。軍関係や海底作業のプロのかたがた以外の、普通の一般のただのものかきであるわたしなどが、楽しみのために潜れるなんて、なんて良い時代に生まれあわせたんでしょう。海はものがたりの宝庫だし。あちこちで出会ったダイバーのかたがたも魅力的だし。
ダイバーたちの海を描きたい! その一心ではじめたのが、このシリーズです。機材やダイビング用語や魚の名前がどうしても出てきてしまうので、イラストはダイビングを知っているひとがいい、と、我がバディ(潜りの相棒)であるまんが家の藤臣柊子《ふじおみしゆうこ》氏に頼みました。なんかすっごく忙しい最中に頼んじゃったみたいで、ゴメンナサイ。
『Speak Easy』の常連メンバーには、一応ひとめぐりお話ができましたけれども、お気にいりのタラくんを主人公にしたお話なんか、もっと書けたらいいな。
そのためには、もう少し潜りの経験をつまなくっちゃ。
だから、行くぞー! ううっ、行くんだったら。しめきりなんかに負けるもんか。
久美 沙織
角川文庫『SPEAK EASY の魚たち』昭和63年3月25日初版刊行