if 〜Kanon another story〜
久弥直樹
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その時|鞄《かばん》の中に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
[#ここから1字下げ]
この作品は、株式会社ビジュアルアーツ/KEYより発売されています、『Kanon』の設定及び登場人物を使用しています。
なお、本作品内における、ゲーム中には存在しないオリジナルの設定は、オフィシャルなものではありません。
純粋に、たくさんの方が発表されています『Kanon』のサイドストーリーのひとつとして、楽しんでいただけると幸いです。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
目次
if
innocent
あとがき
[#地付き]カバーイラスト ☆画野朗(漣々堂)
[#改ページ]
if
もし、ひとつだけ、私の願いが叶うのなら……
scene00: recollection T
cast: Kaori Misaka
遠慮がちなノックの音に、わたしはベッドから体を起こした。
読みかけの雑誌を、ページが分かるように開いたまま机に伏せた時、もう一度ノックの音が静かな部屋を揺らした。
「開いてるわよ」
横になっていた時に乱れた髪を整えるように撫でつけながら、わたしは|廊下《ろうか 》に向かって小さく声をかけた。
その声を待ちわびていたように、ドアノブが回る。元から、鍵なんて滅多にかけることはなかったし、その必要もなかった。
わたしは、|椅子《いす》にかけていたセーターに袖《そで》を通した。ノックの主は、確認しなくても見当がついた。こんな時間にわたしの部屋を訪れるのは、家族の中でもひとりしかいない。
「お姉ちゃん、起きてた?」
案の定、声の主は僅《わず》かに開いたドアの隙間《すきま 》から顔を覗かせていた。
わたしはセーターから顔を出して、たったひとりの妹の顔を見た。
パジャマ姿の妹が、遠慮がちに様子を伺っている。
その水色のパジャマは、去年、わたしが妹にプレゼントした物だった。
よほど気に入ったのか、妹は家で寝る時、いつもそのパジャマを着ていた。そして、一年の大半を過ごす、病院の中でも、ずっと……。
「起きてるわよ。それに、どうせ寝てたって遠慮なく起こすつもりだったでしょ?」
からかうような声に、妹は不満そうに、それでいてどこか楽しそうに、小さく微笑んでいた。
「私は、そんなことしないよー」
「そう?」
「そうだよっ。私、お姉ちゃんに迷惑かけるようなこと……たまーにしかしないもん」
「たまに、ねー」
「お姉ちゃんのいじわるー」
「分かったから、ドアを閉めて早く入ってきなさい。寒いでしょ?」
「うんっ」
今度は満面の笑顔で頷《うなず》きながら、ドアをぱたんと閉めた。
そして、
「お姉ちゃん、隣、座ってもいい?」
上目遣いに訊ねる。
珍しく遠慮がちな様子は、まるで借りてきた猫のようだった。
これでも、たったふたりだけの姉妹。
妹がそんな殊勝な態度をする時は、決まって何かわがままを言う時だ。
わたしが頷《うなず》くと、妹はぱっと破願して、ちょこんとわたしのベッドに腰掛ける。
蛍光灯に照らし出される妹の横顔。短く揃えた髪が、白い光を受けてきらきらと流れている。
いつもより顔色もいいかもしれない……。
(……)
ふと、そんなことを考えて……。
(……嫌な、姉だ)
そんなことに|安堵《あんど 》のため息をついている自分が、どうしようもなく嫌で……。
「どうしたの? お姉ちゃん」
「何でも、ないわよ」
わたしは、心の苛立ちを隠すように、無理に笑顔を向けた。
「ごめんね、お姉ちゃん……」
「なに謝ってるのよ」
「うん……。何となく……」
……どんな顔をしていいのか、分からなかった。
「それで、今度は何をおねだりするの?」
わたしは、無理に話題を戻した。
「……ひどいよお姉ちゃん。まるで私がいつもおねだりばっかりしてるみたいだよ」
不満そうに|頬《ほお》を膨らます。
「違うの?」
「うー」
不満げな声を上げる。明らかに困っている時の態度だった。
「それは……」
一瞬言い淀《よど》んで、
「……もしかしたら、違わないかもしれないけど」
拗《す》ねた表情が一瞬で崩れた。
わたしは笑った。妹も、つられるように笑った。
それは、|無邪気《む じゃき 》な笑顔だった。
そう、それは中学生らしい、心からの|無邪気《む じゃき 》な笑顔で……。
時折見せる、苦しみを隠す為の笑顔ではなかった。
「それでね……」
妹が、嬉しそうに顔を上げる。
「お姉ちゃんに、お願いがあるんだけど」
「また、買って欲しい本があるの?」
この子は、昔から本が好きだった。
病院のベッドの上で、寂しそうにテレビ画面を見つめている妹に、その時|鞄《かばん》の中に入っていた本を渡したのが、そもそものきっかけだった。
それ以来、わたしは病院に面会に行く度に、新しい本をせがまれることになってしまった。
そんな差し入れを続けているうちに、いつの間にか病院の個室は本で埋まり、看護婦さんに、
「あまり散らかさないでくださいね」と、やんわり怒られたこともあった。その時わたしは、もう苦笑するしかなかった。
読んだ本の冊数は、今では妹の方が多いかもしれない。
「本は、まだ読みかけのがあるもん……」
首を横に振ってから、改めて居ずまいを正す。
そして、言いづらそうに両手を膝の上でちょこんと揃えている。
「言わないと分からないわよ」
「えっと……」
促されて、妹が言葉を続ける。
「……明後日《あ さ っ て》は、私の誕生日だよね」
「知ってるわよ」
明後日《あ さ っ て》は二月一日。
妹の、栞《しおり》の十五歳の誕生日。
それとなく、栞の言いたいことが分かったような気がした。
「……それで、誕生日プレゼントを、先に貰ったら、ダメかな……?」
「ダメ」
「お姉ちゃんのけちー。もうちょっと考えてから答えてよー」
ぷーっと、|頬《ほお》を膨らませる。
「誕生日に貰わないと誕生日プレゼントにならないでしょ」
「そ、そんなことないよー。ちょっとくらい早くても立派に誕生日プレゼントだと私は思うよ。うん」
「あたしは思わないけど」
「けちー」
「もうすぐなんだから、|我慢《が まん》しなさい」
「……一生に一度のお願いだからっ」
一生に一度のお願い。
それは、妹の|口癖《くちぐせ》だった。
「|可愛《か わ い》い妹からのお願いっ。お姉ちゃん」
両手を合わせて、拝むようにわたしの顔を|覗《のぞ》き込む。
わたしは、そっとため息をついた。
「……分かったわよ」
そう答えるしかなかった。
「わっ。お姉ちゃん、大好き」
いつもこの子のペースだ。
そういえば、この子の一生に一度のお願いを、今までに何度聞いただろう……。
「本当に|可愛《か わ い》い妹だったら、一生に一度のお願いは一回っきりにしてよね」
「今度こそ、本当に一生に一度だから」
それも、いつもの|台詞《せ り ふ》。
「でも、どうしてそんなにすぐに欲しいの?」
何気なく訊いただけの言葉に、栞の表情が少しだけ曇る。
それは、もしかしたら、ずっと一緒だったわたしだから気づくくらいの、些細な変化かもしれないけど……。
「……外で……」
栞が、ゆっくりと言葉を繋げる。
「……外で、|羽織《はお》ってみたな、って……」
「……」
一言ずつ呟《つぶや》くように繋げたその単語の、その言葉の意味を、わたしは知っていた。
栞にとって、自由に陽の当たる場所を歩くことのできる時間は、少ない。生まれついて、体が弱い栞は、主治医の許可がなければ、外を歩くことはもちろん、家に帰ることもできない。
「私、ほら……明日、また病院に戻らないといけないから……」
明日、栞はまたあの静かな病室に戻る。静かすぎて、点滴の落ちる音まで聞こえそうなくらい、静かな四角い部屋。
そうなると、栞にとって自由に歩ける場所は、病院の中だけになってしまう。
それでも、最近は体調も持ち直してきている……。
少なくとも、わたしはお母さんからそう聞かされていた。
「だから……ほんの少しだけでもいいから……この街の中を、あのストールを|羽織《はお》って歩きたいな……って」
それは、正直な言葉だと思う。
「分かったわ……ちょっと早いけど……」
わたしは、少し考えた末にそう答えた。
立ち上がって、プレゼントを入れていた大きな包みを手に取る。
中身は、何時間もお店で悩んで選んだ、わたしもお気に入りのストールだった。
そこで、ふと気づく。
「……どうして、誕生日プレゼントがストールだって知ってるの?」
プレゼントの中身は、栞には内緒だった。
「え……」
栞の言葉と動作が止まる。
「えっと……、勘」
「そんなわけないでしょ」
呆《あき》れるようにため息をつく。
「さては、こっそり中身を見たわね」
「そ、そんなこと……」
「嘘つきにはあげないわよ」
「……ごめんなさい」
しゅん、と俯《うつむ》く。
わたしは、今日何度目かのため息をついた。
「はい、お誕生日おめでとう」
プレゼント用に綺麗《き れい》に包装されたその包みを、栞の前に差し出した。
一瞬、きょとんとしたような表情でプレゼントと向かい合った後、栞はその大きな包みを両手でぎゅっと抱きしめた。
「お姉ちゃん、大好きっ」
「開けるのは、せめて明日にしなさいね」
「うんっ。ありがとー」
包み紙がくしゃくしゃになるまで一通り抱きしめたあと、栞がもう一度わたしの顔を見上げる。
「お姉ちゃん、もうひとつ一生に一度のお願いがあるんだけど……」
「一生に一度の意味、分かってる?」
わたしは、苦笑するしかなかった。
「私ね……」
そんなことお構いなしで、言葉を続ける。
「お姉ちゃんと同じ高校に行きたい」
「……栞」
「私、本気だから」
ぐっと両手を握って、真正面からわたしを見る。
「ちゃんと勉強もしてるよ。学校でも……家でも……それに、病院でも……。今は……まだちょっと厳しいかもしれないけど、でも、頑張るよ」
「……」
「それに、私、お姉ちゃんの妹だもん。絶対に、頑張ればできるよね? お姉ちゃんと一緒に学校に通って、お姉ちゃんと一緒にお弁当食べて……。お姉ちゃんと同じ部活に入って……。お姉ちゃんと一緒に帰って……。それで、商店街に寄り道して、一緒にお母さんに怒られるの……」
一度、言葉を区切って、そして、最後に付け加えた。
「それが、私の夢」
その言葉を聞いた時、わたしは妹を抱きしめていた。
自分でも、無意識のうちに……。
「ど、どうしたの、お姉ちゃん……?」
戸惑う声を、すぐ側で聞きながら……。
わたしは……どうしてか分からないけど……。
いつの間にか、涙を流していた。
[#改ページ]
scene01: a funeral procession
cast: Kaori Misaka
その日も、朝から雪が降っていた。
|微《かす》かな吐息さえも白く染まるその世界で、重く|佇《たたず》む雲に押し潰されるその街で、冷たい雪を全身に浴びながら、わたしは、そんないつもと何も変わらない景色の真ん中に立っていた。
見渡す限りの白。
コンクリートだったはずの地面も、小豆色だったはずの屋根も、そして自分の姿さえも同じ色に変わる。
そんな真冬の街で、もう何時間も何日もこの場所に立っているような錯覚さえ覚えた。
雪が、しんしんと降りてくる。
とっくに麻痺してしまった寒さを今更のように感じて、わたしは、
「寒い」と意味のない言葉を呟《つぶや》いていた。
久しぶりに口を開いたような気がした。
カラカラに渇いた喉が痛んだ。
シャリッ、と足下の雪が声を上げた。
下を向いた。
そこにあるはずの自分の足跡は、既に新しい雪に覆われて……。
今もまだ、時間が流れていることに気づいて、不意に涙が溢れた。
考えないといけないこと、考えても答えの出ないことが多すぎて、考えたくなくて、だけど何かが止めどなく溢れてきて……。
誰かが、わたしの肩を優しく叩いた。
顔を上げることはできなかった。
まだ、雪が降っている。
真っ白なキャンバスに、黒い染みが落ちていた。
それは、黒い服を着た、人の列。
黒い人の群。
たくさんの人が、わたしの横を通り過ぎて行く。
その先には、白と黒で彩《いろど》られた場所があった。
今も、たくさんの人が飲み込まれて、そして吐き出されていく。
みんな、忙しそうに動いている。
そのうちの何人かが、わたしの方を気の毒そうに見つめている。
黒い服。
その中に、お父さんとお母さんの姿もあった。
普段は見たこともない、真っ黒な服だ。いつもと違う両親の姿。
現実味に欠ける光景だと思った。
だけど、鼻を突く真新しい服の匂いだけがいやに現実的で、わたしは自分も同じ服を着ていることを思い出した。
わたしは、顔を歪ませた。
下を向いていると涙が流れ落ちそうで、わたしは無理に顔を上げた。
その先に、妹の笑顔があった。
母親に抱かれて、四角く薄っぺらな妹が、笑っていた。
涙が、止まらなかった。
「いつまで、お姉ちゃんを困らせるのよ……」
呟《つぶや》いた声が、言葉になっていたかどうか、わたしには分からなかった。
写真の中の妹は、満面の笑みでわたしの心を苛《さいな》む。
最後にそんな笑顔を見たのは、いつだっただろう……。
「……」
歩こう、と思った。
そう考えた時、わたしはもうその場所から離れていた。
|咎《とが》める人はいなかった。
雪が流れていく。
風が吹き抜けていく。
どこに行くわけでもなかった。ただ、あの場所を少しでも離れたかった。あの黒い景色が見えなくなって消えてしまうまで、わたしは歩き続けた。
ふと立ち止まって、雪の降る空を見上げて、冷たくなった空気を吸い込んで、そして、目の間に広がるいつもの街並みを、ただぼーっと眺めた。
妹のことを考えた。
怒った顔。
拗《す》ねた顔。
泣いた顔。
誕生日プレゼントをせがんだ時の顔。
嬉しそうにストールを|羽織《はお》った時の顔。
合格が決まった時の、心からの笑顔。
真新しい制服が届いた時の、楽しそうな顔。
そして、気づく。
(……なんだ)
あの子との楽しかった思い出には、事欠かないのだということに……。
(……)
だけど……。
(……ひどい、お姉ちゃんだったなぁ)
……。
…………。
「……ごめんね……」
……。
…………。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」
……。
…………。
「……ごめん、ね……本当に、情けないお姉ちゃん……で……」
……。
…………。
「……わたし……卑怯、だったから……」
……。
…………。
「……あなたが憧れてるような……そんな、お姉ちゃんじゃないから……」
……。
…………。
「……ほら、こんなに髪は傷んでるし……」
……。
…………。
「……服だって……栞《しおり》が好きだった、制服……じゃない……し……」
……。
…………。
「……もう……」
……。
…………。
「謝っても、許してくれないよね……?」
……。
…………。
「嫌だ……」
何かが、音を立てて壊れていくような気がした。
「嫌だ……嫌だよ……栞……っ!」
わたしの周りで、次から次へと。
「どうして死んじゃったのよっ! どうしてっ! どうしてよっ!」
雪を両手でかき集めて、何度も何度も地面に叩きつけた。
「どうしてっ! どうしてよっ!」
喪服《も ふく》の裾が泥だらけになって、両手の指がぼろぼろになるまで、わたしは叫び続けた。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!」
壊れていく。
栞の笑顔が、壊れていく。
今度壊れるのは、わたしの番かな……。
§
その後のことは、あまり覚えていない。
気がつくと、あれだけ降っていた雪は既に止んでいて、積もった雪の冷たさだけがわたしの体にのしかかっていた。
不意に瞳の奥をつく真っ赤な光に、わたしは開きかけた目をもう一度細めた。
千切れる雲の隙間《すきま 》から、鮮やかなオレンジ色を湛《たた》える太陽が顔を覗かせていた。純粋に、綺麗《き れい》だと思った。
それが夕陽であることに気づくまで、暫《しばら》く時間がかかった。
わたしは、どこかのベンチに座っていた。
冷たい木の感触。雪を吸い込んだ長いベンチが、わたしの体を支えている。
逆光が眩《まぶ》しくて、場所はよく分からない。
どうしてこんな場所にいるのかさえ分からない。
一瞬、全てのことが夢であって欲しいと願った。
だけど、泥だらけのわたしの服と、鈍く痛む指先が、これが現実であると何度も何度も告げていた。
黒い喪服は、乾いた泥で、逆に白っぽく染まっている。
道行く人が、奇異《きい》の視線をわたしに投げかける。
わたしは曖昧な笑みを浮かべて、もう一度空を見上げた。
本当に、綺麗《き れい》な夕焼けだった。
流れる雲が様々な色に染まり、混ざり合っていく。
全てのことが、どうでもよく思えた。
妹のいない世界は、ぽっかりとどこかに空洞が空いてしまったようで、何もかもが空々《そらぞら》しかった。
「会いたいな……あの子に……」
呟《つぶや》いて、そして自分の言葉を遠くに感じて、どうすれば会えるのか、考えて、思い浮かんだ答えは、あまりにも簡単で、簡単すぎて、それでもいいかな、とさえ思えて……。
「夕焼け、綺麗《き れい》だよね」
声がした。
それが、最初わたしに向かってかけられた言葉だとは、気づかなかった。
夕焼けの赤を背景に、小柄な女の子が立っていた。
中学生くらいだろうか?
短く揃えた髪に、空と同じ色のカチューシャが浮かんでいた。
ダッフルコートに手袋、そして、背中には……羽が揺れていた。
「あ。ごめんね、驚かすつもりはなかったんだよ」
知らない子だった。
「全然、驚いてないんだけど……」
「うぐぅ、言葉のあやだよ」
大きな手袋を鼻に当てて、女の子は、何故か悲しそうだった。
「それに、折角《せっかく》なんだから少しくらい驚いてくれてもいいと思うよ、ボクは」
「何が折角《せっかく》なのか全然分からないんだけど……。それに、あたしに何か用?」
「隣、座ってもいいかな?」
「……それだけ?」
「うん。そうだよ」
どうやら、それを訊きたかっただけらしい。
わたしが横にずれると、羽の女の子は、背負っていたリュックを下ろしてから、ベンチに座った。
羽は、背中ではなく背負っていたリュックについている飾りだった。
「うぐぅ、冷たいよ〜」
むき出しの足が冷えるのか、太股の下に両手を挟んで座っていた。
「うぐぅ、水が染み込んで気持ち悪いよ〜」
「座らなきゃいいのに……」
「でも、座った方がゆっくり食べられるもん」
「何が?」
「もちろん、たい焼きだよっ」
心底嬉しそうに答える。
へんな子だ……。
わたしは、心の中でため息をついた。
「ボクは、あゆだよ」
それがその少女の名前であることに気づくまで、数秒の間があった。
「こう見えても十七歳、好きな食べ物はたい焼きで……」
「|口癖《くちぐせ》はうぐぅ」
「うぐぅ、そんなことないもん!」
「香里《かおり 》。美坂《み さか》香里《かおり 》よ」
「え?」
「名前よ、あたしの」
別に名乗るつもりはなかったのだけど、いつの間にか、この子のペースに巻き込まれている自分に気づいた。
「十七歳ってことは、あたしと同じね」
「わー。そうなんだ〜」
何が嬉しいのか、笑顔で何度も頷《うなず》いている。
どこか子供っぽい仕草。
この子には申し訳ないけど、あまり同い年には見えなかった。
「そうだっ!」
突然、脈絡《みゃくらく》無く声が上がる。
見ると、羽つきのリュックを開けて、ごそごそと中身を漁っている。
「たい焼きっ、たい焼きっ」
口ずさむように中から茶色の紙袋を取り出して、更にその中から|台詞《せ り ふ》通りのものを取り出す。
「はい、お裾分け」
鯛をかたどったお菓子を一匹、わたしに差し出す。
冷めてしまっているのか、湯気は出ていなかった。
「何、これ?」
「たい焼きだよ」
「それは分かるわよ」
「粒あんだよ」
「そうじゃなくて……」
こめかみを押さえるわたしに、女の子は首を傾げた。
「あ。今度はちゃんとお金払ったから大丈夫だよ」
今度は?
「そういうことを訊いてるんじゃなくて……どうして、見ず知らずのあたしに?」
それだけじゃない。
そもそも、どうして、あゆと名乗る少女は、わたしに声をかけたんだろう……。
「どうして、あたしに声をかけたの?」
わたしは、もう一度訊ねた。
「一緒に、たい焼き食べようと思って」
「……」
分からなかった。
「えっとね……」
わたしが考え込むように口を閉ざしているのを見て、あゆが慌てて続ける。
「ボクに似てるな、と思ったんだよ」
「どこが?」
「うぐぅ、外見のことじゃなくて……」
からかうと面白いタイプかもしれない。
「昔、ボクがまだ小さかった頃……あっ。今でも、まだ小さいんだけど……」
悲しそうに俯《うつむ》いている。自分の言葉でダメージを受けているようだった。
「それで?」
わたしは、先を促した。
「すごくすごく、悲しいことがあったんだよ」
陽が傾き、建物や人の影が伸びていく……。
そして、今更のようにここが駅前のベンチであることを知った。
「その時のボクと、香里さんが同じ顔をしてたから」
嘘を言っているような|雰囲気《ふんい き 》ではなかった。
だから、きっと、本当なんだろうな……と、そう思った。
「それでね、その時、ひとりの男の子が、ボクにたい焼きを買ってくれたんだ……」
「たい焼き?」
「うん、たい焼きっ。すっごく美味しくて、それに……嬉しかった」
この子は、今のわたしの姿が、その幼い頃の自分とだぶって見えたのだろう……。
だから……。
「それで、余計なお世話かもしれないと思ったけど、迷惑かもと思ったけど……だけど、つい……」
そこまで言ってから、恥ずかしそうに下を向く。
手に持っていたリュックの羽が、風に揺れていた。
「だから、はいっ。たい焼き、一緒に食べよう?」
もう一度上げた顔は笑顔で、手にはたい焼きを持っていた。
「食べたら、きっと元気になるよ。ボクが保証するよ」
「あたし、あんこダメなんだけど」
「う、うぐぅ〜。で、でもほら、お薬は苦いって言うし、ボクも薬、苦手だし……えっと、えっと」
一生懸命な姿が、どこかおかしくて……。
「うぐぅ〜」
「それに、迷惑だし、余計なお世話」
そして……。
「おかげでこっちは、さっきまで考えてたこと忘れちゃったわよ」
不思議と、嬉しかった。
「……ごめんなさい」
「それよりも、たい焼き食べるんでしょ?」
わたしの言葉に、あゆが不思議そうに見つめる。
「食べないの?」
「もちろん、食べるよっ」
今日初めて出会った女の子と、
泥だらけの喪服を着て、
沈みかけた、一番|綺麗《き れい》な夕焼けの中で、
もうすっかり冷たくなってしまったたい焼きを食べる。
たい焼きは、わたしには少し甘すぎて、あまり美味しくはなかった。
でも、笑顔でたい焼きをほおばる隣の女の子の姿を見ていると、少しずつだけど確実に、心の空洞が埋まっていくような気がした……。
「あ。ボク、そろそろ帰らないと」
空になったたい焼きの袋をくしゃっと丸めて、鞄《かばん》にもう一度放り込む。
「暗くなったら、怖いからね」
背負ったリュックの羽が、ぱたぱたと揺れる。
「バイバイ、香里さん!」
元気良く手を振るあゆに、わたしは今できる精一杯の笑顔を返した。
そして、夕焼けの空に溶けるように消えていく少女の後ろ姿を見送りながら、赤く染まる背中の羽を見つめながら……。
まだ、わたしは答えの出ない問題に、向き合い続ける……。
(栞……)
わたしは、心の中で栞に問いかけた。
あなたは、幸せでしたか?
最後まで、精一杯生きていましたか?
[#改ページ]
scene02: regret
cast: Yu-ichi Aizawa
そこは、薄暗い|廊下《ろうか 》だった。
その世界の中心に、俺は立っている。
夜。
そして、闇。
静かで、耳鳴りが聞こえるくらい、静かで。
知らない場所。知らない場所のはずだ。
だけどここに立っていることが、不思議と当たり前のように思えた。
月が動いた。
窓から見える月が、緩慢な動きで真っ黒の空を渡っていく。そして、その動きに合わせるように、窓から差し込む四角く青白い光が、|廊下《ろうか 》を進んで行く。
そんな見慣れない場所を、見慣れない窓から差し込む月明かりだけが、ぼんやりと照らし出していた。
俺は、その光に誘われるように足を動かす。
その|廊下《ろうか 》の先は、黒一色に包まれて、全く伺《うかが》い知ることができない。
だけど、足は止まらない。
長い長い|廊下《ろうか 》を、どこまでもどこまでも……。
足の感覚はない。
寒さも感じない。
恐怖も感じない。
頭痛がする。
頭が痛い。
頭の中で何かがうねっている。
頭が痛い。
ずきずきと、鈍く痛む。
頭が痛い。
俺は、耐えられなくなって、思わず額に手を当てて立ち止まった。
だけど、手は動かない。
上げたはずの手も、止まったはずの足も、俺の意志とは無関係に闇の中をゆっくりと漂っている。
歩調は変わらない。
月明かりも、同じように一定の速度で流れていく。
自分の体が自分のものではないような感覚。
ただ|廊下《ろうか 》を真っ直ぐ進んで行く。
まるで水の中を歩いているかのようにその動きは緩慢で、頭痛に苛《さいな》まれる俺を、更に苛立たせた。
ここがどこなのか?
どうしてここにいるのか?
どこに向かっているのか?
全ての疑問が俺の中を素通りしていく。
いつまでも続くその|廊下《ろうか 》は、間違いなく全く見覚えのない場所だった。
だけど、俺はそのことを疑問には感じなかった。
ただ、頭痛が早く治まらないかと……。
そんなことばかり考えていた。
ふと、名前を呼ばれたような気がした。
聞き覚えのある声のように思えた。
だけど、すぐにどうでも良くなった。
目的の場所が見えてきた。
どうしてそう思ったのか分からないが、もう考えることが嫌だった。
確信めいたものが、俺の足を動かす。
目指す場所は、その先にあった。
扉。
長くうねる|廊下《ろうか 》にぽつんと取り残されたようなドアがひとつあった。
月明かりがのったりと|廊下《ろうか 》を這い、その扉を映し出す。ドアには、小さなプレートが掛かっていた。
『栞の部屋』
レタリング調の文字がこの曖昧な空間の中で妙に不釣り合いで、そのプレートだけが不思議な存在感を示していた。
見覚えのあるプレートだった。
確か、名雪が同じ物を使っていた……。
そういえば、さっきの声は名雪だったかもしれない……。
どうでもいいことに、違いはないが。
俺は、そのドアノブに手をかけた。
|躊躇《ちゅうちょ》はなかった。
まるでそれが予め予定されていた行動にすら思えた。
ドアノブを、回したような気がした。
感触はなかった。
だけど扉は開いていく。
ゆっくりと、それでも確実に|廊下《ろうか 》と部屋の中に漂っていたもの同士が混ざり合い、そして溶け合っていく。
頭痛が酷くなった。
既に役割を果たした|廊下《ろうか 》は闇に消え、代わりに四角い部屋が俺の前に|佇《たたず》んでいた。
そこは、綺麗《き れい》に整頓された、見たことのない部屋だった。
所々に名雪の部屋や自分の部屋にもあった小物や家具が存在するのは、俺の記憶を元に構成されている架空の部屋だからかもしれない、と妙に納得していた。
何かが動いた。
寒い、と感じた。
感じたような気がした。
頭痛がまた酷くなる。
風の音が聞こえる。
闇に目が慣れていないのか、慣れていないと思い込んでいる為か、部屋の奥の様子は、はっきりとは分からなかった。
一歩、部屋に足を踏み入れる。
絨毯《じゅうたん》の感触。
自分が裸足《は だ し》であることに今更のように気づいた。
ガラスのテーブルがあった。
中身がぎっしり詰まった本棚があった。
何もない机があった。
背もたれがうしろを向いた|椅子《いす》があった。
俺の身長くらいある電気スタンドがあった。
小さなテレビがあった。
卓上のカレンダーが乗っていた。
目覚まし時計があった。
時計は止まっていた。
何の動物か分からないぬいぐるみがあった。
ふたつ、寄り添うように並んでいた。
クローゼットが開いていた。
真新しい制服があった。
緑色のリボンが風に揺れていた。
窓が開いていた。
バタバタとけたたましい音を上げて、カーテンが風に弄《もてあそ》ばれていた。
その窓の下に、ベッドがあった。
シーツに、水溜まりができていた。
その水が流れて、ぽちゃぽちゃと床に落ちていた。
水溜まりの上で、誰かが眠っていた。
猫のように丸くなって、黒く変色したストールにくるまりながら、静かに眠っていた。
表情は見えなかった。
俺は、少女の名前を呼んだ。
少女はまだ眠っている。
ベッドに近づいた。
素足に、こぼれた液体がからみついた。
ぬるっとした感触が、不快だった。
見ると、足下まで水溜まりが広がっていた。
水溜まりは、冷たかった。
今も、ぽちゃぽちゃと流れ落ちている。
カーテンが、一際大きく波打った。
閉ざされていた月明かりが、一瞬ベッドの上を撫でた。
少女の手に握られていたものが、鈍色に光った。
カッターナイフだと気づいた。
その刃は、赤く染まっていた。
シーツも、同じ色をしていることに気づいた。
赤い液体が、ベッドを中心に流れていた。
液体は、少女の手首から流れていた。
手首に、大きな傷があった。
傷口が紫色に変色して、不自然に盛り上がっていた。
少女はまだ眠っている。
目を見開いたまま、眠っていた。
飛び散った液体が、|頬《ほお》を赤黒く染めていた。
安らかな寝顔には、見えなかった。
少女は……息をしていなかった。
雪が舞っていた。
部屋の中を、くるくると雪が舞っていた。
今更のように、強烈な鉄の匂いが鼻をついた。
麻痺していた恐怖が込み上げてきた。
俺は、ありったけの声を上げた。
喉が張り裂けるまで叫び続けた。
必死で、その光景を拒絶した。
…………。
…………。
夢は、そこで途切れた。
§
「うわっあっっ!」
自分の叫び声に、俺はベッドから跳ねるように体を起こした。
「……わっ」
その声に、別の声が重なる。
どこかテンポのずれた、聞き覚えのある声。
声の主は、一瞬きょとんとしたような視線を俺に送っていたが、すぐに何事もなかったかのように、表情を和らげた。
「びっくりさせないでよ、祐一」
見慣れたいつもの部屋で、これもいつもの顔が|覗《のぞ》き込んでいた。
「……名雪?」
いとこの顔がすぐ目の前にあった。
「けろぴーもいるよ。ほら」
得意気に、カエルのぬいぐるみを俺の顔に押しつける。
「こらっ! やめろって!」
「目が覚めた?」
悪びれた様子もなく、名雪は俺が払いのけたカエルのぬいぐるみを抱きしめた。
「今日は珍しく、わたしの方が先に起きたみたいだね。やっぱり、暖かくなってきたからかな?」
その言葉に、やっと俺は悪夢が終わりを告げたことを理解した。
しかし、|安堵《あんど 》のため息は出なかった。
「ほら、わたしはもう制服だよ。祐一も早く起きないと、初日から遅刻で怒られちゃうよ。ね、けろぴー」
「……」
「祐一、無視されるのが一番恥ずかしいんだから、何か言ってよ〜」
「……」
「祐一?」
名雪が、今度は心配そうに俺の顔を|覗《のぞ》き込む。
水瀬《みなせ 》名雪《な ゆき》。
この街で再会して、いつの間にか、一緒にいることが当たり前のようになっていた、いとこの少女。
最初は馴染《なじ》めなかったこの街も、初めは一緒に暮らすことに抵抗のあったこの家も、何もなかったこの部屋も、今ではどれも当たり前の光景だった。
そして、一学年下の、白い肌の少女……。
ストールが、雪に舞う……。
「……朝」
「ん?」
カーテンの隙間《すきま 》から差し込む光はベッドに落ちて、オレンジ色の線を幾つも形作っていた。
夢の中の月明かりより、ずっと眩《まぶ》しくて、そして暖かかった。
「朝、だよな……」
俺の問いかけに、名雪が「はい」と目覚まし時計を手に取って見せる。
七時半。
もちろん、朝だ。
「祐一、まだ寝ぼけてる?」
「……」
首を傾げる名雪に、俺はベッドから体を起こしたまま、じっと視線を落としていた。
頭が痛い。
額に当てた自分の手が、汗ばんでいるのが分かった。
夢。
夢を見ていた。
最近、毎晩のように見る夢……。
「……っ」
頭痛がする。
苦しげに息をつく俺を、名雪はカエルを抱きしめたまま、心配そうに見つめている。
「苦しそうだよ、祐一……」
今までも、何度も同じような夢を見た。
見る度に、場所も内容も違う夢だが、必ずいつも共通していることがあった。
それは、ある少女が出てくること。
そして、間違いなく、悪夢であるということ。
酷《ひど》い時には、一晩で何度も何度も栞が苦しみながら死んでいく光景を、見せられたこともあった。
ある時は、窓もドアもない真っ白な病院のベッドの上で。
またある時は、学校の中庭で|無邪気《む じゃき 》に遊んでいる最中に、突然血を吐いて倒れたこともあった。
そして、そんな少女に対して、夢の中の俺は、何もすることができなかった。
ただ手を差し伸べることも、たった一言名前を呼ぶことも。
夢の中の自分は、まるで金縛りにあったかのように、その光景を見ていることしかできなかった。
それまでは、確かに自由に動けたはずなのに、|無邪気《む じゃき 》に笑い合うこともできたはずなのに、一番大切な場面では、何もすることのできない情けない自分だけが、そこには存在した。
「……」
それは、まるで……。
「祐一、顔、真っ青」
「お前なんか、緑だ」
「それは、けろぴーだよ。わたしは普通。……でも、そんなことが言えるんだったら、もう大丈夫だよね」
「最初から大丈夫だ」
気分が悪い。
夢の中で感じた頭痛が、覚めた後も俺を苛《さいな》み続ける。
「……悪い、名雪。先に行っててくれないか……」
名雪の方を見ずに、俺は汗の滲んだ手でシーツを握りしめた。
シーツは、まるでさっきの夢のように、ぐっしょりと湿っていた。
「祐一、やっぱり大丈夫じゃないよ」
心配そうな声に、俺は名雪の方を向いた。
「大丈夫だから」
笑顔を作る余裕は、なかった。
「……うん。じゃあ先に行ってるね」
それでも納得したのか、名雪はけろぴーを抱きしめて|廊下《ろうか 》に向かった。
「でも、先に行くのは玄関までだよ。そこからは、一緒に行くの。今日から三年生、せっかくの始業式なんだから」
「分かったよ」
名雪の強い口調に促されて、俺は小さく頷《うなず》いた。
「できるだけ急いで準備するから」
「うん、待ってる。朝ご飯は?」
「要らない」
「だったら、わたしも要らない」
「食わないと元気出ないぞ」
「それは祐一もだよ。ちゃんと食べるんだよ、祐一。約束だからね」
そう言い残して、パタンとドアが閉まった。
再び、朝の静寂がそこにあった。
「もう、新学期か……」
俺は、天井を見上げてひとり呟《つぶや》いた。
部屋に取り残されて、さっき夢で見た光景が思い起こされて……。
「……今、さすがに朝食は無理だろうなぁ」
俺は、両手で口を押さえて、何度も|嗚咽《お え つ》した。
[#改ページ]
scene03: recollection U
cast: Yu-ichi Aizawa
美坂栞の死を俺が知ったのは、春休みに入ってすぐのことだった。
栞の姉で、二年の時のクラスメートだった美坂香里が、名雪|宛《あて》に連絡してきたことを、俺は後で聞かされた。
名雪は栞のことを知らなかったから、それはつまり自分への香里からの伝言なんだと気づいた。
名雪に連絡があった時、栞の葬儀はもう終わっていたらしい。
もし終わっていなくても、香里は俺が参列することを|快《こころよ》く思わないだろう。それは、俺へ直接電話してこなかったことでも分かった。
それに、俺自身、参列する決心はつかなかったかもしれない。
栞の願いを、自分の弱さで否定してしまった、あの日……。
俺は、一番大切なものを、失った……。
『病名……ですか?』
栞は、重度の病に冒されていた。
『えっと……覚えてないです』
次の誕生日まで生きられないと言われていた。
『だって……病名が分かっても……どうにもならないことに違いはないですから』
それは、まだ雪深い、一月。
『私、祐一さんのこと、好きです』
二人で見つけた、夜の公園で……。
『多分、他の誰よりも祐一さんのことが好きです』
俺は、栞の悲痛な告白を聞いた。
『本当は、誰も好きになったらいけなかったんです。誰にも心を開いてはいけなかったんです』
それは、悲しいくらいの笑顔だった。
『辛くなるだけだって……分かっていたから……』
栞は、最後まで決して涙を見せなかった。
『でも、ダメでした』
いつまでも、笑顔で居続けた。
『どんなに迷惑がられても、私は祐一さんのことが好きです』
|微《かす》かに覗かせた、諦めにも似た表情。
『……本当は、こんなこと言っても……何の意味もないのに……』
だけど、すぐに笑顔に消えた。
『悲しくなるだけだって、分かってるのに……』
まるで、悲しみを、全て、笑顔の中に隠すように。
『私……馬鹿だから……』
栞は、
『……お姉ちゃんに嫌われるくらい……馬鹿だから……』
もう一度、
『ごめんなさい、祐一さん……』
いつもと同じ笑顔で、
『私、祐一さんのこと、好きです』
にこっと、笑った。
そして、栞は普通の女の子として過ごすことを選んだ。
それは一週間だけの幻。
だけど、栞にとっては、本当に大切な……。
『……それでも、本当に私を受け入れて貰えますか?』
だけど……。
『本当に、私のことを、普通の女の子として……笑って話しかけてくれますか?』
俺は、その言葉に、頷《うなず》くことができなかった。
『……そうです、よね』
そして、栞は最後まで笑顔のままで、俺の元を去っていった。
その時の笑顔が、自分の弱さが、今もなお俺を苛《さいな》む。
『今日は、会えて嬉しかったです』
きっと、栞は俺なんかより、もっともっと苦しかったんだろうな……、と。
思い浮かぶのは、元気で|無邪気《む じゃき 》で、アイスクリームが大好きで……。
少しも弱さを見せない、強い少女。
「いつか、また会えるといいな」
『そうですね。会えるといいです』
「じゃあな」
『はい。さようなら、です』
それが、栞と言葉を交わした……最後だった。
[#改ページ]
scene04: a girl
cast: Yu-ichi Aizawa
「行ってらっしゃい、祐一さん、名雪」
今までと同じように、秋子さんに見送られながら、俺達は玄関を出た。
「また、一緒に学校行けるね」
結局、名雪は朝食も食べずにずっと玄関で待っていたらしい。
最上級生としての、最初の登校日。
暦《こよみ》の上ではもう冬は過ぎ去ったはずなのに、この街ではまだ雪の残滓《ざんし 》がいつまでも居座っているような気がして、俺は身震いをした。
まだ、風は冷たい。
さすがにほとんどの雪は溶けていたが、今でもなお、道路の片隅や電柱の根本、ガードレールの下や日当たりの悪い路地、そして、誰も踏み入らないような遠くに見える森の木々には、まだまだ過ぎ去ろうとする冬を|名残《な ごり》惜しむかのように、真っ白な雪がその姿を残していた。
都心を中心とした全国放送のテレビ番組では、こぞって花見や行楽を題材にした春の特集を組んでいたが、この街に暮らす俺達にとっては、まだまだカレンダーの上でだけの春でしかなかった。
でも、そんな都会とのギャップを感じていること自体、まだまだ俺がこの街に慣れていないことの証明なのかもしれない。
「祐一、本当にもう大丈夫?」
久しぶりの通学路で、最初に口を開いたのは名雪だった。
新しく配る教科書を入れる為に持って来たという、いつもより大きな鞄《かばん》を揺らしながら俺の方を向いた。
「ああ、もう大丈夫だ」
さっきよりは、自然な表情だったと思う。
実際、名ばかりの春風に当てられて、その冷たさが、痛む頭を心地良く癒してくれていた。
それに、夢というものは、あれだけはっきりと見ていたにも拘わらず、起きてから時間が経過するにつれて、急速にその存在は薄らいでいくものだから。それが、どんなに鮮烈な悪夢であっても……。
だけど……。
「本当に本当?」
「もちろん」
半分は嘘だった。
「祐一、うなされてたと思ったら、今度は急に叫び出すんだから、びっくりだよ」
「見てたのか?」
「何度も祐一のこと呼んだんだけど、なかなか起きてくれなかったから……」
申し訳なさそうに俯《うつむ》く名雪。
余程、寝苦しい姿を見せていたのかもしれない。
そういえば、夢の中で名雪に呼ばれたような気もした……。
「まさか、わたしを驚かそうとしたわけじゃないよね?」
「……実は、お前を驚かそうとしたんだ」
「それは、嘘だよ」
即座に否定される。
「本当だ。予想以上に驚いてくれて、俺も嬉しいよ」
「祐一、変だよ」
|台詞《せ り ふ》は冗談っぽかったが、その表情は真剣だった。
名雪にしては、という注釈はつくが。
「俺は昔からこんな感じだ」
「……」
真剣な表情のままの名雪が、ふっと表情を緩める。
「うん、うん、そうだよね。祐一が変なのは、今に始まったことじゃないもん」
言い捨てるように背中を向けて、そのまますたすたと歩き出す。
「……」
納得したわけではないだろうな……。
「祐一」
不意に、名雪が振り返る。
「いつか、本当のこと話してくれる? 今じゃなくていいから、それまで、もう訊かないから……」
名雪に隠し事ができないことは、前から分かってた。
でも、人に話すには、まだ近すぎる過去だから……。
「いつになるか分からないぞ」
俺は、栞のことが好きだった。
「うんっ。気長に待ってるよ」
まだ、吹っ切ることはできない。
吹っ切ってもいいのかどうかさえ、今の俺には分からなかった。
「祐一が元気ないと、水瀬家全体が暗くなるんだから。お母さんもずっと心配してたんだからね」
その言葉を最後に、名雪はいつもの笑顔に戻って、また通学路を歩き始めた。
俺は心の中で謝罪の言葉を呟《つぶや》きながら、その背中を追いかけた。
「お。珍しいな、相沢と水瀬さんじゃないか」
呼び止める声に二人揃って振り返ると、そこには見知った顔があった。
「あ、北川君。おはよ〜」
「おはよう」
名雪の声に、俺の声が重なる。
「久しぶりだね〜。北川君」
「おはよう、水瀬さん。ついでに相沢」
同じクラスだった北川潤が、右手を振りながら俺達の後ろに追いついてきた。
二年の時は登校する時間が違っていたのか、一度も通学途中で会うことはなかったから、確かに珍しいのかもしれない。
もっとも、俺達と同じ時間に登校するような生徒は、極《ごく》少数だったが……。
「どうしたんだ、二人とも? なんか表情が硬いぞ。……あ。もしかして、|喧嘩《けんか 》か?」
「|喧嘩《けんか 》じゃないよ〜」
名雪が、ぱたぱたと手を振る。
「ほら、祐一も反論」
「|喧嘩《けんか 》じゃないかも」
「全然説得力ないよっ、祐一」
何が不満なのか、名雪がぱしぱしと俺の腕を叩く。
「なんだ、本当に|喧嘩《けんか 》じゃなかったのか」
つまらなさそうに、北川が歩き出す。
「え?」
「いつも通りだよ。ふたりとも」
振り返った表情は、にやにやと笑っていた。
「……?」
名雪は、意味が分からないらしく、頭の上に「?」を浮かべている。
「相変わらず仲がいいなぁ、水瀬さんと相沢は……ってことだよ」
「わ。そんなんじゃないよ」
やっとからかわれていることに気づいた名雪が、慌てて抗議する。
「ほら、祐一も反論」
「俺はついでじゃないぞ、北川」
「いつの会話だ、それは……」
呆《あき》れたような顔の北川。
名雪は、また「?」を大量に浮かべていた。
§
「到着〜」
何が嬉しいのか真っ先に校門をくぐる名雪に続いて、俺と北川も久しぶりに学校の中に足を踏み入れた。
数週間ぶりに見る校舎。
冬の間、あんなに積もっていた雪は、いつの間にかほとんどなくなっていた。
それは、初めてこの学校で冬以外の季節を迎える俺にとっては、どこか不思議な違和感のある光景だった。
「体育会系の部活でね、頑張って雪かきしたんだよ。もちろんわたしも頑張ったよ」
満足げに校舎を見上げながら、名雪が説明する。
「俺は雪が大好きだったのに」
「祐一、素直に誉めてよ〜」
不満げな名雪を無視して、とりあえず昇降口に向かう。
「無視〜、無視〜」
「相沢、もうちょっと相手してやれよ。一緒に住んでるんだろ?」
名雪と北川に順番に責められながら、俺は全く違うことを考えていた。
それは、美坂香里のこと。
学校が始まったんだ、また香里とは顔を会わせることになるだろう……。
その時、俺はどんな顔をして会えばいいんだろう……。
(妹を傷つけた俺を、香里は許さないだろうな……)
忘れかけていた悪夢が、また鎌首をもたげる。
「……わ。ほら、あの制服、新一年生だよ」
名雪の声。
見ると、道行く生徒を指さしている。
「わー、初々しいね」
「お。結構|可愛《か わ い》い子じゃないか。相沢も見てみろよ」
いつの間にか、北川も一緒になって騒いでいた。
「なぁ、名雪。あれって三年の制服じゃないのか?」
二人が話題にしている女生徒は、青色のリボンをしていた。
「……祐一、三年生はわたしたちだよ?」
名雪が、自分の制服のリボンを指さした。
赤いリボンだ。
「そうか、リボンの色も同じように進級するのか……」
つまり、去年の三年が使っていた色は、今年の一年というわけだ。
もっとも、男子生徒にはほとんど関係ないが。
「で、俺達三年は、今からどこに行けばいいんだ?」
「新しいクラス分けがどこかに貼り出されているはずだから、まずそれを見ないと」
「去年は体育館横だったから、今年もその辺りだろ」
俺の疑問に、この学校に関して言えば先輩である名雪と北川が、順に説明する。
「じゃ、とりあえず体育館だな」
「また、みんな一緒のクラスになれるといいね」
名雪の言葉に、北川が頷《うなず》く。
「もちろん、香里も一緒に」
もう一度、今度は力強く頷《うなず》く。
「祐一は?」
「え?」
「聞いてなかったの?」
悲しそうに眉を寄せる。
「いや、もちろん聞いてたぞ」
「だったら、会話に参加しないと」
「そうだな、|可愛《か わ い》い子だな北川」
「だから、いつの会話なんだ!」
「ずるいよ、二人だけでいつの間にか楽しそうで……」
置いてけぼりにされたと思った名雪が、拗《す》ねていた。
「……でも、祐一が笑ってるから、良かったよ」
そう付け加えた名雪の言葉で、俺は自分が笑っていることに気づいた。
たとえ表面的なものでも、笑顔でいられることが嬉しかった。
それは、自分の強さでもあったから。
(……栞)
だけど、いつかまた、俺はあの頃のように心から笑うことができるようになるのだろうか?
あの、雪のように白い肌の、少女のように……。
§
北川の予想に反して、体育館にクラス替えの発表はなかった。
「嘘つき」
「去年は間違いなくここだったんだ!」
「ふたりとも、|喧嘩《けんか 》してる場合じゃないよ」
「ここじゃないとすると、やっぱり昇降口だったのかなぁ……」
頭を掻きながら、北川が回れ右をする。
「あ。でも、ただ単にまだ貼り出してないってだけかもしれないな」
「そうだね、まだ時間早いもんね」
北川の意見に、名雪が頷《うなず》く。
「じゃあ、俺がちょっと行って昇降口の方を見てくる」
全員で待っていても仕方ない。
「ああ、頼むぞ相沢」
「頑張ってね、祐一」
二人に見送られて、俺は元《もと》来た道を引き返した。
まだ登校している者も少ないらしく、ほとんど生徒の姿はなかった。
体育館から校舎に通じる渡り|廊下《ろうか 》を横断していた時、ある人影が俺の視界を横切って、そして消えていった。
「……今の」
それは、およそこの場所には不釣り合いな後ろ姿だった。
小柄な体格の、髪の短い女の子。
ダッフルコートに、黒いリュック。
そして何より、リュックには、白い羽……。
「……まさか」
月宮あゆ。
食い逃げとたい焼きが大好きな、元気な女の子だ。
そういえば、最近商店街であゆと出会うことはなかった。
別に心配はしていなかったが。
それがまさか、こんな所で……。
「いや、そんなわけないよな」
商店街に現れないからといって、学校に来るとは思えない。
何より、一瞬しか見なかったから、人違いかもしれない。
まだこの時期は制服の上からコートを|羽織《はお》る生徒もいるかもしれないし、羽だと思ったのも、裾につけているキーホルダーか何かを、一瞬そう見間違っただけなのかもしれない。
しかし、確認しようにも、もうその女の子は校舎の影に消えていた。
「確か、あの先は……」
人影が消えた、その視界の先……。
「……中庭か」
その言葉が出た時、俺は走り出していた。
俺の足なら、追いつくことは簡単なはずだ。
(名雪に、散々|鍛《きた》えられたからな……)
名雪と一緒に走った通学路の光景を思い返しながら、俺は走る速度を上げた。雪がない分、ずっと走りやすかった。
校舎横に植えられた木々の間を抜けて、まだ雪の残っている場所に足跡を残しながら、俺は、人影を見た校舎の角を曲がった。
校舎に囲まれたその場所。
視界が、一気に広がった。
俺は、少しずつ足を止めた。
「……ここに来るのも、久しぶりだな」
中庭。
そこは、俺が知っていた場所とは、少し違っていた。
雪はほとんどなくなり、芝の上に僅《わず》かに残っている程度だった。
枯れていた木々は緑をまとい、自分の出番を待つかのように、蕾《つぼみ》が息づいている。
しかし、その場所に、ダッフルコートを着た女の子の姿は、なかった。
「……そうだよな」
もしかしたら、非常口のドアから校舎の中に入ったのかもしれないが、そこまで追求する気にはならなかった。
それに、校舎の中に入ったとしたら、それは間違いなくこの学校の生徒だろう。
「……必死に、何やってるんだろうな、俺」
何となく、馬鹿らしくなった。
乱れた呼吸を整える為に、深呼吸をする。
さすがに、準備運動もなしにいきなり全速力はきつかった。
「戻るか……」
吐いた息は、まだ白かった。
「あの、すいません」
背中からの声に、俺は慌てて振り返った。
その視界に飛び込んできたのは、制服を着た女の子だった。
制服のリボンは、青。
新入生だ。
「ちょっとお訊ねしたいことが……あるんです……けど……」
だんだん言葉が小さくなる。
「……お急ぎですか?」
俺が走っていたので、何か急ぎの用事があると勘違いしたのだろう。少女は申し訳なさそうに言葉を濁した。
「お急ぎなら、ごめんなさいです……」
「いや……大丈夫。見た目ほど、急ぎじゃないから」
「そうなんですか?」
窺《うかが》うように顔を上げる。
「ああ」
「実は、道に迷ってしまったんですけど……ここ、昇降口じゃないです、よね?」
「残念ながら、かなり違うな」
「やっぱり……」
困りました、と辺りを見回している。
「大体、こんな校舎の奥の方に昇降口があるわけないだろ」
「私も、ちょっと変だとは思ったんですけど、高校の昇降口はやっぱり中学の時とは一味違うのかなって……」
そんなわけはない。
「クラスの発表を見なければいけないのですが……」
「実は、俺もなんだ」
「あ。それは奇遇ですね」
ぽん、と両手を合わせる。
「俺も今から昇降口に向かうところだから、そこまで案内するよ」
「助かります。よろしくお願いします」
お辞儀をして、俺の横に続いて歩き始める。
「中学校の時の知り合いがほとんどいないので、心細かったんです」
昇降口に向かう途中、女の子は自分のことを幾つか話した。
俺は相槌を打ちながら、別のことを考えていた。
似ている、と思った。
外見ではなく、その内にあるものが、栞に似ているような気がしていた。
「風、強いですね」
栞より少し長い髪を、風で飛ばされないように片手で押さえながら、困ったように立ち止まる。
もう片方の手は、スカートの裾を押さえていた。
「ここは、校舎と体育館に囲まれて、吹き抜けになってるからな」
「わわ、飛ばされそうです……」
その仕草が、本当にそっくりで、
「……栞みたいだな」
思わず口に出して呟《つぶや》いていた。
「……え?」
女の子は、複雑な表情になっていた。
「どうして知ってるんですか?」
怪訝そうに眉をひそめる。
「何が?」
「名前です。私の」
一瞬、意味が分からなかった。
「……栞?」
「そうです、私の名前ですよ〜」
風は、もう吹いていなかった。
「栞」と名乗る少女は、スカートを押さえていた手を離して、不思議そうに首を傾げていた。
「それで、どうして知ってるんですか?」
純粋に不思議がっているようだった。
「……俺の知り合いにも、栞って名前のやつがいて……ちょっと似てたんだ……。それで……」
「そうなんですか? それは偶然ですね」
……偶然。
「ちなみに、私は駐車禁止の禁みたいな漢字を書きます。かなり違いますけど」
「それも一緒だ」
「わー。ほんとに偶然ですねー」
「そうだな……」
何か、釈然としない。
「きっと、一般的な名前なんですね」
目の前の少女はそれで納得した様子だが、俺は素直に頷《うなず》くことができなかった。
確かに偶然だ。
それ以外は考えられない。
「何だか不満そうですね……」
そんな気配を察したのか、申し訳なさそうに俺を見る。
「いや、悪い……ちょっと戸惑っただけだ……」
「良かったです。安心しました」
ほっと胸を撫で下ろす少女の姿を見て、そんな些細な偶然にこだわっている自分が情けなく思えた。
「でも……私、男の人に名前で呼ばれたの、久しぶりです」
嬉しそうに歩く「栞」と並んで、俺は昇降口へと向かった。
§
「遅いよ、祐一〜」
呆《あき》れ顔の名雪に出迎えられて、俺は再び体育館横に戻った。
「悪い、ちょっと迷子を送って行ってたんだ」
片手を上げて、謝罪する。
「迷子……?」
「気にするな」
「ひどいよ、祐一が言ったのに……」
「それで相沢、どうだった?」
名雪に割り込む形で、北川が入ってくる。
「ああ、やっぱり昇降口に貼ってあった」
「しまった、裏をかかれたか」
北川は、心底悔しそうだった。
「とにかく、急いだ方がいいぞ。もう他の生徒もかなり来てるからな。人だかりになると、大変だ」
「祐一、もしかしてもうクラス替え、見たの?」
「ああ」
「祐一、やっぱりひどいー。一緒に見ようと思ったのに」
「ちゃんと教えてやるから」
「いいもんっ、自分で見るから」
拗《す》ねる名雪をなだめながら、俺達は昇降口に向かった。
§
名雪とは、何故かまた同じクラスだった。
同じ家に住んでいるのだから、クラスは分けるべきだという考えは、この学校にはないらしい。
名雪は相変わらず手放しで喜んでいたから、俺も、別に構わないか……という気になっていた。
北川は別のクラスだった。
こちらは、香里とまた同じクラスになれたということで、ガッツポーズまで飛び出すくらいに喜んでいた。
結果として、香里とクラスの中で顔を会わせることはなくなった。
それがいいことなのかどうか、今の俺には分からなかった。
その日は当然授業は何もなく、昼寝をする時間もないくらいあっという間に、放課後になった。
§
「祐一、放課後だよっ」
全く知らない顔ぶれの中でも、こいつだけは何も変わっていなかった。
「もう少し遠慮とか自粛とかそういうあれはないのか、お前は……」
「?」
「いや、もういい」
早々に話を切り上げて、俺は新しい教科書の詰まった鞄《かばん》を背負った。
とりあえず、特に重い教科書は机に入れているのだが、それでもほぼ全教科詰まった鞄《かばん》は、ずっしりと肩に食い込んだ。
「祐一、これからどうするの?」
「今日は、真っ直ぐ家に帰りたい気分だ」
「そうなんだ」
「名雪は?」
「わたしは、部活だよ」
「今日からもう部活があるのか?」
「この時期は色々と大変なんだよ。勧誘のポスター作ったり、クラブ紹介のチラシを作ったり……」
指折り数える名雪。確かに、部長は大変かもしれない。
「昇降口まで一緒に行くか」
「うんっ」
頷《うなず》く名雪と一緒に、教室を後にする。
「あ、ごめん、祐一」
教室を出て、慣れない三年の|廊下《ろうか 》を歩いている途中で、名雪は職員室で部活の鍵を受け取らないといけないからと言って、そこで別れた。
職員室までつき合うという俺の申し出は、悪いからという理由で断られた。
ひとりで歩く|廊下《ろうか 》。
そして、階段を下りていく。
「えいっ!」
そんな声が聞こえたのは、ちょうど階段を下りきる手前のことだった。
直後、背中に衝撃を感じて、俺は前のめりに倒れた。
膝を押さえながら立ち上がって、後ろを向くと、
「……あ」
という表情の、今朝の女の子……栞が、階段の三段目くらいのところに立っていた。
「すみません。ちょっと体当たりをしてみました……」
両手を合わせて申し訳なさそうにしている仕草とは裏腹に、|台詞《せ り ふ》を聞いてると思いっきり確信犯だった。
えいっ、というかけ声も、聞き間違いではなかったらしい。
「悪気はなかったんです……。ただ、名前を知らなかったので、どう呼び止めて良いのか分からなくて、それで少しだけ豪快に呼び止めてみました」
ぺろっと舌を出して、首を傾げる。
ちなみに、言っている内容は、意味不明だ。
「ささやかに呼び止めて貰って構わないから、そういう時は」
「そうですね。以後、気をつけます」
変な会話だった。
「俺は、相沢祐一」
「え?」
「俺の名前だ」
毎回体当たりされたら体が保たない。
「では、祐一さんですね。先輩ですから」
祐一さん……か。
「それで、俺に何か用か?」
用もなく呼び止めるとも思えなかったので、俺の方から切り出した。
「実は、今朝のお礼を言いたかったんです。おかげさまで、平穏無事に高校生活初日を過ごすことができました。ありがとうございます」
ぺこっと頭を下げる。
ぎりぎり肩にかかっている髪が、さらさらと流れ落ちた。
栞がそのまま髪を伸ばしたら、ちょうどこんな感じになるかもしれない……。
「どうしました?」
不思議そうに目の前の栞が問いかける。
そんな表情も、どこか面影があった。
面影という言い方も、変なのかもしれないが……。
「分かりましたっ。祐一さん、お腹が空いてるんですね」
「は?」
「それで元気がないんですね」
「いや、別にそういうわけじゃないんだけど……」
俺の|台詞《せ り ふ》のどこをどう取ればそういう解釈になるのか、俺には分からなかったが、栞はお構いなしだ。
「お腹いっぱいなんですか?」
「そういうわけでも……」
「それなら、私がお昼ご飯をごちそうしますよ。ちょうど、学食にも行ってみたいと思ってたんです」
俺の意志とは無関係なところで、どんどん話が進んでいく……。
「何でも好きな物を食べてくださいね」
「……嬉しいけど、始業式の日から学食は開いてないと思うぞ」
「え? そうなんですか?」
心底意外そうだった。
「開けても誰も来ないだろうし……」
「そうですか……。奥が深いですね」
「いや、それほどでもないと思うが……」
「困りました」
言葉通りの表情で俺を見る。
「また今度、学食が始まったらおごって貰うよ」
「今日がいいです」
以外と頑固なところも似ていると思った。
「そう言われてもなぁ……。だったら、商店街にでも行くか?」
「はいっ、そうしましょう」
嬉しそうに頷《うなず》く。
これでは、どっちが誘っているのか分からないな……。
俺は、心の中で、そっとため息をついた。
§
商店街は、久々に学校帰りの生徒で溢れていた。
他に大きな商店街がないからかもしれないが、それを差し引いても、活気のある場所には違いなかった。
「わー」
そして、栞は何故かこの光景に純粋に感動していた。
「私、他の街に住んでいますから、ここの商店街は滅多に来ないんです」
俺の疑問に、そう答えた。
「私、ほとんどお店知らないので、祐一さんにお任せします」
予想通りの展開だった。
「俺も、あんまり知らないんだが……」
幾つか知っている店を回って、結局、いつもの百花屋に落ち着くところまで、予想通りの展開だった。
§
百花屋の店内は、さすが人気店らしく、既に満席の状態だった。
ちょうど昼飯時に重なったこともあって、俺達は入り口で席が空くのを待った。
「大人気ですねー」
「実際、有名な店らしいからな」
暫《しばら》くして、俺達は二人がけの席に案内された。
制服姿の二人は、それなりに目立っていたが、俺はいつも名雪と来ているせいか、あまり抵抗はなかった。
「ここって何屋さんなんですか?」
「どこから見ても喫茶店だと思うが……」
「念の為に訊いてみただけです」
そう言って、くすっと笑う。
……喫茶店以外に見えるのなら、何に見えるか是非教えて欲しい。
「祐一さん、今朝のお礼ですから、何でも好きなものをひとつだけ食べてくださいね」
「よし、そういうことなら遠慮なく食いまくるぞ……って、ひとつだけか……」
「びんぼーですから」
心底嬉しそうに笑う少女。
結局、俺はピザを、栞はチョコレートパフェを頼んだ。
注文した品が運ばれてきて、
お互いのメニューを交換して、
そして、他愛ない会話をした。
他の人から見たらくだらないような、そんなどうでもいい話。
特に、俺は学校のことを何度も訊かれて、そして知ってることを全て教えた。
学食のメニューから、部活の種類……。
栞は、どんなことでも興味を示した。
それこそ、ありったけの知識を詰め込むかのように……。
「祐一さん、この学校に、演劇部はありますか?」
「演劇部?」
「はい、演劇部です」
俺は、名雪から聞かされていた部活の情報を思い返した。
「どうだったかな……前にいた学校にはあったんだが……」
「前、ですか? 中学校?」
パフェ用の長いスプーンを口にくわえながら、「?」を浮かべる。
「ああ、俺、実は今年引っ越してきたばかりなんだ。で、去年までいた高校は演劇部があって、かなり本格的に活動してたみたいだな。年一回、体育館をまるまる使って、一般のお客さんも招待して……」
「それは、楽しそうですね……」
「この学校はどうだったかなぁ……。ちょっと思い出せない」
「私……」
スプーンをテーブルに戻して、ゆっくりと顔を上げる。
そして、俺の顔を真っ直ぐに見た。
「私、高校に入ったら、演劇部に入りたかったんです。昔から、ずっとずっと憧れていたんです。本とか、ドラマとか……大好きでしたから。そんな大好きな物語を、演じてみたかったんです」
そして、照れたように一言だけつけ加える。
「……冗談みたいな、夢ですけど」
「いい夢じゃないか」
「はい……」
「演劇部があったかどうか、今度、知り合いに訊いておいてやるよ。必要以上に部活に詳しいやつがいるんだ」
そして、その目的は俺を何か部活に入れることだったはずだが、さすがに三年になってまで勧めたりはしないだろう。
「……今度、ですか?」
「ああ、約束だ」
「嬉しいですー」
そんな何気ない会話が楽しくて、俺はその時、栞の表情の変化に気づかなかった。
些細な、本当に些細な変化……。
それが何を意味するのか、分からなかったけど……。
それから数時間、俺達はずっとこの場所に座っていた。
今度は俺のおごりで、飲み物をおかわりした。
栞は、ミックスジュースを注文した。
そして俺のブラックコーヒーを一口飲んで、苦いと言って笑っていた。
楽しかった。
もし、栞が生きていたら、きっとこんな……。
「何だか、デートみたいですね」
店を出た時、栞がそう呟《つぶや》いた。
眩《まぶ》しそうに夕焼け空を見上げて、栞は嬉しそうに目を細めた。
「祐一さん、ひとつだけ訊いてもいいですか?」
「あれだけ散々質問しておいて、今更ひとつだけも何もないと思うけどな」
冗談交じりに呟《つぶや》いて、俺も同じ空を見上げた。
『そんなこと言う人、嫌いです』
綺麗《き れい》な、赤だった。
「……どうしたんですか? 祐一さん」
不思議そうに首を傾げる。
「いや……。それで、訊きたいことって?」
先を促されて、ゆっくりと、言葉を選ぶように続ける。
「今朝、祐一さんが言っていた人……もうひとりの栞さんって、どんな人なんですか?」
「……」
「答えてください」
真剣な表情に、俺はゆっくりと口を開いた。
「俺の……一番大切な人だ」
「そう、ですか……」
栞が、小さく笑った。
だけど俺には、どこか痛みに耐えるような、そんな表情に思えた。
そして、今度はにこっと微笑《ほ ほ え》みながら、
「私……栞さんのこと、知ってますよ」
そう、言葉を紡《つむ》いだ。
「……知ってる?」
「はい、良く知ってます」
「……どうして?」
「実は病院で何度か一緒になったことがあるんです。親友なんですよ、こう見えても」
「……」
「信じてないですね?」
「……」
「いいですよ、信じなくて。でも、これだけは確かです。私は、誰よりも栞さんのこと知ってます」
何か、言おうとした。
だけど、言葉は出てこなかった。
「祐一さん、人魚姫のお話って、知ってますか?」
小声で、そう呟《つぶや》いたような気がした。
「……いえ、何でもないです」
夕焼けに霞む表情は、分からない。
「祐一さん、ついてきてください」
それだけを言い残して、栞の姿が夕焼けに霞む。
「どこに、行くんだ?」
俺の言葉に、栞が振り返る。
「思い出が、集まる場所です」
[#改ページ]
scene05: "side story" in another story
cast: Jun Kitagawa
「いたいた。おーい、水瀬さん!」
運動部の部室の前で、タイミング良く目的の人物を見つけることができて、オレは手を振りながら声をかけた。
オレの声に気づいたのか、水瀬さんも同じように手を振り返している。
「今日からもう部活なんだ」
小走りに近づく水瀬さんに、オレの方から声をかけた。
「うん。今はどこのクラブも、新入生の勧誘合戦だから」
言っている側から、どこかのクラブの人間が、ポスターらしきものを持って|廊下《ろうか 》を走って行った。
「陸上部も頑張らないと。ふぁいとっ、だよ」
どうやら気合いを入れているらしかった。
「しかし、相沢も初日からほったらかし食らってるのか。可哀想に」
「祐一は、真っ直ぐ帰るって言ってたよ」
「……相変わらず、よく分からない関係だなぁ」
「いとこ同士だよ。今も、昔も」
「つき合ってるわけじゃないのか?」
軽い冗談のつもりだった。
だけど、その答えは、意外なものだった。
「祐一は、好きな人、いるよ」
「そ、そうなのか?」
「うん」
訊いてはいけないことを訊いてしまったような気がして、オレは慌てたが、水瀬さんは歯牙《しが》にもかけていない様子だった。
「それで、どうしたの?」
「……あ、そうだ、ちょっと訊きたいことがあったんだ」
「何?」
「美坂、知らないか?」
「香里? 北川君のクラスじゃないの?」
「そうなんだけど……来てないんだ」
「お休み?」
「いや、それがどうやら無断欠席らしい」
その言葉に、水瀬さんの表情が曇る。
「香里、無断欠席なんてしたことなかったのに……」
「だろ? 学校休むこと自体、滅多にないのにな」
「うん……」
「それで、携帯に電話してみたんだけど、電源が入ってないみたいなんだ」
「……」
「様子見に行こうにも、あいつの家がどこにあるか、知らないしな」
「……そういえば、わたしも、香里の家に行ったことないよ。香里がわたしの家に来ることは、何度もあったのに……」
「まぁ、あいつのことだから、明日になれば何事もなかったように席に座ってるとは思うけど……」
そう、オレが心配していた気持ちなんて、きっとお構いなしに。
「ただ、ちょっと気になったから、水瀬さんなら何か知ってるかと思って」
「……香里……最近、電話しても元気ないから……わたしもずっと心配だったんだよ」
水瀬さんの表情が、沈む。
「……まだ、立ち直れないんだよ……きっと……」
「水瀬さん、美坂から何か聞いてるのか?」
「……うん……。本当は、あんまり言わない方がいいんだけど……」
一度、言葉を句切る。
「北川君、本当に心配そうな顔してるから」
「……」
「香里ね……最近、妹さんを病気で亡くしたんだよ……」
「妹……」
オレは、美坂に妹がいることすら知らなかった。
あいつが家族のことを話しているのを、聞いたこともない。
今思えば、意図的にそんな話題を避けていたような気さえする。
「……栞ちゃんっていって……わたしは会ったことないけど、祐一とは、仲が良かったみたいだから……」
栞。
その名前を、オレは知っていた。
まだ、それほど昔の記憶ではない……。
それは、確か……。
「……水瀬っ、美坂の家、本当に知らないのか!」
「うん……どの辺りかは聞いてるけど……」
「それでもいい! 教えてくれ!」
「えっと、確か……」
その場所は、少し街から離れた、住宅が密集している場所だった。
その辺りなら、もしかしたらしらみつぶしに探せば見つかるかもしれない……。
「オレ、今から美坂の家に行ってくる」
オレは、どうしても美坂に会わなければいけない。
それも、できるだけ早く。
「うん、それがいいよっ。わたしは、ちょっと行けないけど……。あ、でも、それだけで場所、分かるの?」
「とりあえず、その辺りに行ってみる。同じ街なんだから、もしかしたら、途中でばったり会うかもしれないし」
「うん……」
「じゃ、そういうことで」
オレは、水瀬さんにお礼を言って、|踵《きびす》を返した。
「待って、北川君」
その声に、一度立ち止まる。
「……」
「多分、わたしより北川君の方が、香里を励ましてあげられるよ」
「……」
「だから……ふぁいとっ、だよ」
「ありがと」
もう一度お礼を告げて、オレは昇降口に向かった。
§
いつの間にか、陽がすっかり傾いていた。
元よりあてのないことではあったが、さすがにこれだけ走り回っても何も収穫がないと、体力以上に精神力が落ちてくる。
空はもう、赤から黒に変わってきている。
あと数時間の内に、完全に陽が落ちるだろう。時間はあまり残っていない。
もちろん、いつにも増して鮮やかな夕焼けを楽しむ暇なんて、オレには残されていなかった。
「もう少し商店街の方にでも行ってみるか……」
あの辺りには住宅はほとんどないけど、もしかしたら……。
「どいてどいて〜!」
そんな思考をかき消すように、女の子の叫ぶ声が聞こえた。
振り返ると、そこにはたくさんの紙袋を抱えたダッフルコートの女の子が、全速力で突っ込んでくる最中だった。
「……わっ!」
そして、ぶつかる直前に、豪快につまずいていた。
「う、うぐぅ〜」
豪快に倒れた割には、それほどダメージはないようだった。
「大丈夫か?」
「ふぁいほうふ〜」
手袋で押さえた鼻が痛々しかったが、どうやら大丈夫らしい。
「じゃ、そういうことで。これからは気をつけて走れよ」
オレは、何も見なかったかのように立ち去ろうとした。
「待って!」
手袋の手が、オレの腕を掴む。
逃げられなかった。
「うぐぅ、拾うの手伝って」
見ると、紙袋が四つほど地面の上に散乱していた。
「急いで! 急いで!」
その言葉に急かされるように、女の子のリュックについている羽が慌ただしく揺れていた。
「オレ、見た目より急いでるんだけど……」
「ボクもだよっ!」
結局、オレと女の子でふたつずつ紙袋を回収した。
そして、回収が終わると同時に、女の子がオレの手を引っ張る。
「ぼーっとしてたらダメだよ! 逃げないとっ!」
「……え?」
オレが疑問に思うより早く、女の子はオレの手を掴んで走り出した。
「説明希望!」
「あとでっ!」
そんなやり取りも風に流されて、夕焼けの街を全速力で走り抜けて行く。
だけど、夕焼けに染まる街がやけに綺麗《き れい》で、何となく嫌ではなかった。
§
「それって、食い逃げじゃないのか……」
「うぐぅ。お金が足りなかったんだよ〜」
そう言って、|財布《さいふ 》を取り出す。
中身は、見事に空っぽだった。
「それは、足りない以前の問題だ」
「少しは入ってたよ。持ってた分は、ちゃんとたい焼き屋さんに置いてきたもん」
「いくら入ってたんだ?」
「……二十円」
「一匹分にも満たないじゃないか……」
「うぐぅ……」
偶然出会った食い逃げ少女は、月宮あゆと名乗った。
結局、一方的に巻き込まれる形で、気がつけば街の外れに出てしまっていた。
夕焼けの空は、一層赤く染まって、遊歩道の木々を一足先に色づかせていた。
ここは、知っている場所だった。
……ある少女と偶然出会った場所だ。
「おかげで、オレはいい迷惑だ」
「うぐぅ、たい焼き食べる?」
「食う」
奪い取るようにたい焼きを掴んで、一気に口に入れる。
少し冷めたたい焼きは、それなりに美味しかった。
「大体、どうしてそんなに買ったんだよ。袋の数が普通じゃないだろ」
一袋でもたくさん入っているのに、それが四つもだ。
「……」
あゆは、困ったように下を向いて、
「……もう、食べられなくなるかもしれないから」
と、呟《つぶや》いた。
「確かに、そろそろたい焼きの季節じゃなくなるからな」
それにしても……とため息をついたその先。
遊歩道の木々に遮られるように、人影が見えた。
「美坂……」
間違いない。
それは、紛《まぎ》れもなく美坂香里の姿だった。
「あゆ、オレは用事ができたから、これでお別れだ……」
あゆのいた場所。
そこには、もう、誰の姿もなかった。
「……あれ?」
確かに、今の今まで、そこで大量のたい焼きに埋もれていたはずだ。
「……また、逃げたのかな」
その場所は、夕焼けに染まるコンクリートだけが、その姿を晒していた。
「よく考えたら、あゆのおかげなんだよな……」
あゆのおかげで香里に会えたんだ、少しは感謝しないといけないな。
「ありがと、あゆ」
それだけ言い残して、オレは美坂の姿を追った。
伝えたいことがあった。
伝えなければならないことがあった。
きっとそれが、あの時は分からなかった答え。
あの日、あの場所で、オレは栞という名の少女と出会った……。
[#改ページ]
scene06: recollection V
cast: Jun Kitagawa
どうしてオレはあの場所にいたのだろうと、ふと思うことがある。
確か、勉強の気分転換に、少し散歩にでも行こうかと思ったのがきっかけだったような気もするが、今となっては、その明確な理由を思い出すことはできないし、思い出す必要もないような気がしていた。
そこは、街外れにある遊歩道のような場所だった。
人通りはほとんどなく、確かに散歩するにはいい場所だが、あまりにも変化のない並木道で、オレには物足りない場所だった。
時刻は昼過ぎ。
雪は止んでいて、雲さえほとんどないような、この街には珍しいくらい暖かな日だったのを覚えている。
実際、その日はオレ以外に人影はなく、何となくこの風景を独り占めしたような気分になって、帰るつもりだった時間になってもなお、遊歩道を歩き続けていた。
その時。
少しずつ、昼間の空から夕方の空に変わろうとする、ちょうどその時間。
ひとりの少女とすれ違った。
小柄で白い肌の、髪の短い女の子だった。
|羽織《はお》っていたチェックのストールにくるまりながら、少女はオレの横を通り過ぎて行った。
その時の、寂しげな表情が印象的で、オレは何となくその背中を見送っていた。
その数日後、オレはまた同じ場所を歩いていた。
陽はもう随分《ずいぶん》前にその姿を隠して、遊歩道に並ぶ街灯の明かりだけが足元を照らし出していた。
そしてオレは、また同じ少女とすれ違った。
あのストールですぐにあの時の少女だと気づいた。
少女は、泣いているような気がした。
今度は、すれ違う時に少女が会釈をしたので、オレも同じように礼を返した。
今にも泣き出しそうだった表情が、その時だけ笑顔になった。
また、オレはその背中を見送っていた。
そして、またその数日後。
そこは、同じ場所だった。
いつものように、ストールを|羽織《はお》って、そして会釈をして通り過ぎる。
だけど、その時は、いつもと少し違っていた。
少女が、突然うずくまるように倒れたのだ。
「あ。大丈夫ですから」
慌てて駆け寄るオレに、少女は何事もなかったように立ち上がって、そして、にっこりと笑った。
「ちょっと石につまづいただけです。そそっかしいんです、私」
「それなら、いいけど……」
「はい」
「そういえば、最近よくここで会うよな」
「そうですね。偶然です」
笑顔のままで、こくんと頷《うなず》く。
それから、少しだけ一緒に歩いた。
少女は、美坂栞と名乗った。
「どうしたんですか? 複雑な顔、してますけど?」
中指を口元に当てるような仕草で、ちょこんと首を傾ける。
「みさか?」
「そうですよ。変わった名前ですよね」
まるで他人事のように呟《つぶや》くその言葉がおかしくて、オレは笑った。
「わー。本当に笑うなんて失礼ですよー」
「いや、別に名前を笑ったわけじゃないって。それに、オレのクラスにも、同じ名字の生徒がいるからな」
「そうなんですか? 偶然ですね」
そう言って、笑っていた。
それから、特に時間を決めたわけでもないのに、何度かその少女……栞と出会う機会があった。
「こんなへんぴな場所で、いつも何をしてるんだ?」
いつか、そう訊いたことがあった。
「えっと、最初は、デートでした」
最初は、という言葉が気になった。
「今は、違いますけど」
「……よく分からないな」
「いいですよ、分からなくて」
「余計気になるけど」
「秘密です」
そう言って、口元に指を当てる。
「でも、そうですね、ヒントだけならいいですよ」
「じゃあ、ヒント」
「この先に、私にとって大切な場所があるんです。それで、今でも何となく来てしまうんですよ」
「……それって、ヒントじゃなくておもっきり答えなんじゃないか?」
「あ。そうですね……。では、二人の秘密ということで」
そう言って、栞はまた唇に指を当てた。
栞と最初に出会ってから、数週間が過ぎた時、栞は何故か園芸用のスコップを持って現れた。
「北川さんに手伝って頂きたいことがあるんですけど」
疑問を投げかけるオレに、栞はそう答えた。
オレが頷《うなず》くと、栞はスコップをオレに手渡した。
そして、スカートのポケットから、小さなガラスの小瓶を取り出した。
「この中に、手紙を入れるんです」
栞の言う通り、瓶の中には、折り畳まれた手紙のようなものが入っていた。
「あとは、これをこっそり埋めます。できるだけ、深い方がいいんですよ」
そして、オレには埋めるのを手伝って欲しいとのことだった。
「そして、いつか、この手紙を読んで貰いたい人の元に届くように……と、お願いするんです」
「これって、誰に|宛《あ》てた手紙なんだ?」
「私の、大切な人たちです」
そう言って、瓶の中の手紙に視線を落とした。
「これは、私が精一杯生きた証なんです」
その言葉の意味が、その時のオレには分からなかった。
「この中には、私の残したい言葉が、たくさんたくさん書いてあります。本当は、もっと他の方法で伝えてもいいのかもしれないですけど、私は、ずっとずっと考えて、この方法を選んだんです」
「オレにはよく分からないけど、直接伝えた方がいいんじゃないか?」
「直接には……言えないんですよ」
そう言って、曖昧に笑った。
その理由は、訊かなかった。
「それで、どこに埋めるんだ?」
「この先に、実はとっておきの場所があるんです。噴水の綺麗《き れい》な公園です。地元の人でも、あまり知らないと思いますけど」
そして、「私が見つけたんですよ」と、得意気に聞かせてくれた。
「でも……」
指を一本、口元に当てる。
「他の人には、秘密ですよ」
それから、俺達はそれぞれスコップとガラス瓶を持って、そのとっておきの場所に向かった。
確かに、そこはオレも知らない公園だった。
綺麗《き れい》だという噴水は、ちょうど点検工事の最中で動いていなかった。
栞は、残念そうだった。
そして、公園を取り囲む木々の中のひとつを選んで、根本にガラス瓶を埋めた。
その日は、それで別れた。
次に会った時、栞は不思議なことを口にした。
「残念ですけど、もう二度と会うことはないと思います」
オレが、どうしてと訊ねると、栞はいたずらっぽく微笑んで、いつもの指を唇に当てる仕草をした。
「私はですね、実は予知能力があるんです。凄いですね」
「……は?」
「内緒ですよ」
それが冗談で言っているのか、それとも何が意味があるのか、その時のオレには、判断できなかった。
少なくとも、その言葉の裏に隠された本当の意味に気づくことは、なかった。
「だったら、オレの未来を教えてくれよ」
「残念ながら、分かるのは私の未来だけなんですー」
「自分のことだけ?」
「しかも、すぐ近くに迫っている未来だけしか分かりません」
「なんだ、随分|融通《ゆうづう》の利かない予知能力だな」
「そうですよね」
もう一度、笑った。
「でも……自分の未来は、確実に分かるんですよ」
まだ、笑顔だった。
「何だ、折角《せっかく》、好きな子とのことを見て貰おうと思ったのに」
「北川さん、好きな人いるんですか?」
「一応、ね」
「優しい人ですか?」
「うーん……どっちかというと、優しくないなぁ」
「そうなんですか?」
「ああ、オレなんかきっと相手にされてないな」
「大丈夫ですよ。北川さん、いい人ですから」
「うーん……いい人っていうのは、あんまり嬉しくない」
「それなら、いいやつ」
「確かに、まだそっちの方がいいな」
そして、二人とも笑った。
その日を最後に、栞と出会うことはなくなった。
結果として、予言の通りになった。
オレは、もう一度だけあの公園に行った。
初めて、動いている噴水を見た。
確かに、綺麗《き れい》だと思った。
そして、その日を最後に、オレもこの場所に近づくことはなくなった。
§
オレが話している間、美坂香里は一言も口を挟まなかった。
思い出の中と同じ遊歩道で、偶然美坂と出会って、そしてオレは、オレの知っている限りの妹の話を聞かせた。
「……」
話が終わっても、美坂は無言だった。
「……行きましょうか」
「どこへ?」
不意に言葉を発した美坂につられて、問い返した。
「その公園に」
美坂が端的に答える。
「手紙を掘り起こすのか?」
「手紙は、別に見たくないわ」
素っ気なく言い放つ。
「……でも」
空を見上げて、そして呟《つぶや》く。
「その公園は、見てもいいかもしれないわね。栞が好きだった、その場所だけは」
「……」
「あたしは……」
美坂の声が、少し穏やかになったような気がした。
「あたしは、栞のことを何も知らなかった……だから、今のあたしには、それだけでも十分かもしれないから……」
[#改ページ]
scene07: place where memories gather
cast: Yu-ichi Aizawa
空が、真っ赤に染まっていた。
雲はまばらに散って、そのひとつひとつが違う色に変わっていく。
一日で、一番空が赤い瞬間を、俺達は歩いている。
「どこまで行くんだ?」
「もうすぐですよ」
そんなやり取りを何度かするうちに、俺は自分が見覚えのある場所に来ていることに気づいた。
街中の喧噪から離れたその場所は、静かな空気に包まれていた。
均等に並んだ木の足元から、何本も影が伸びている。
木々は夕陽を浴びて真っ赤に染まり、まるで、季節外れの紅葉樹の中を歩いているかのような、そんな錯覚さえ覚えた。
この場所は、確か、まだ俺がこの街に戻ってきて間もない頃……。
食い逃げ途中のあゆに巻き込まれて、そして偶然|辿《たど》り着いた場所だ。
そして、その時に……。
俺は、栞と初めて出会った。
「ここで、栞さんと初めて会ったんですよね?」
不意に、もうひとりの栞が振り向く。
「ああ、そうだ……」
「出会ったこと、後悔していますか?」
俺は、首を横に振った。
「俺が後悔するとしたら、それは栞の側に最後までいてやれなかったことだけだ」
「……」
栞は、無言だった。
表情は分からない。
また、歩き始める。
ただ、黙々と遊歩道を進んで行く。
時間が、過ぎていく。
やがて、景色が変わった。
水の流れる音がした。
まだ、雪が少しだけ残っていた。
水面に乱反射した夕焼けが、眩《まぶ》しかった。
ふと、|無邪気《む じゃき 》に笑う少女の姿が浮かんだ。
この場所には思い出があった。
栞との、思い出。
それは、いいことも、悪いことも……。
全てが、そこにあるような気がした。
「もうすぐ、ここに北川さんと香里さんが来ます……。私は、もう帰らなければいけませんけど、祐一さんは、ここでみなさんを待っていてください」
感情を殺した声だった。
「みなさんが、それぞれ、栞さんとの思い出を持って集まります……」
背中を向けたまま、栞が言葉を繋げる。
「……」
言葉が、止まった。
時間が、過ぎていく。
「祐一さん」
栞が、振り返った。
その顔が、思い出の中の栞と重なった。
「今日は楽しかったです」
どう答えていいのか、分からなかった。
「でも、もうすぐ今日は終わります。残念です」
その表情は、逆光に照らされて分からなかった。
「色々とお話しできて嬉しかったです。祐一さんが通う学校のことも、よく分かりました」
まるで、自分は生徒ではないような、そんな口振りだった。
訊きたいことは山ほどあった。
だけど、そのどの質問も、俺の口を突いて出ることはなかった。
訊いてしまったら、何かが崩れるような気がした。
「百花屋さんのパフェ、美味しかったです。また……食べたいですね」
「本当はイチゴサンデーがお勧めらしいぞ」
「そうなんですか? それは惜しいことをしました」
「今度、食べたらいいさ」
「……そうですね」
表情が、変わったような気がした。
「今度は祐一さんのおごりです。たくさん食べますー」
「そんなに食べると、太るぞ」
陽の光が、一瞬、雲に隠れた。
「……そんなこと言う人……嫌いです……」
栞は、泣いていた。
声を押し殺して、泣いていた。
「祐一……さん……」
泣き顔を隠すように、後ろを向く。
「祐一さん……。最後に、お願いがあります……」
後ろを向いたまま、
「……栞さんのこと、一番大切なんて言わないでください」
小さく肩が震えていた。
「栞は、もういないんです。忘れて欲しくはないです。でも……大切には、しないでください……」
一度言葉を詰まらせて、そして、
「きっと、栞が悲しみます」
振り返ったその顔は、涙で溢れて、
初めて、栞の涙を見たような気がして、
「さよなら、です」
「ああ、さよならだ」
その言葉が、栞と交わした最後の言葉になった。
[#改ページ]
scene08: epilogue
cast: Yu-ichi Aizawa
夢。
夢を見ていた。
ひとりの病弱な少女がいた。
少女は、最後の一瞬まで、精一杯を生きた。
そんな少女の前に、ひとりの天使が舞い降りた。
天使には、羽があった。
そして、天使はたったひとつだけ、少女の願いを聞いた。
少女は、願い事を告げた。
そしてそれは、叶えられた……。
そんな、つまらない話だった……。
『朝〜、朝だよ〜。朝ご飯食べて学校行くよ〜』
いつもの目覚ましの音にいつものように起こされて、俺はシーツを身に|纏《まと》ったまま、這い出るようにベッドから降りた。
目覚ましのスイッチを止めて、同時に俺の動きも止まる。
「……もう、朝か……」
あくび混じりに呟《つぶや》く。
あれだけ寒かった朝の空気はすっかり穏やかになって、寒さの代わりに、今度は眠気との戦いが待っていた。
「祐一、朝だよっ」
ばたん、とドアが開いて、パジャマ姿の名雪が顔を覗かせる。
「お前は元気だな……」
「うんっ、元気だよ」
名雪は逆に暖かいと調子がいいらしく、最近ではもっぱら朝の立場が逆転していた。
もっとも、秋子さんが言うには、それは今の時期だけで、これ以上暑くなるとまたあの頃の名雪に逆戻りするとのことだった。
特に夏場は冬にも増して寝起きが悪くなるから、楽しみにしていてね、という有り難い忠告つきだった。
「そうだ、祐一」
シーツを剥ぎ取りながら、名雪が思い出したように呟《つぶや》く。
「香里がね、今度みんなでお花見に行こうって言ってたよ」
「……香里が?」
「うん。北川君も来るよ」
「そうか……」
あの日、俺達はあの場所で、栞が残した手紙を掘り起こした。
『あたしは、いいわ……』
あの時、香里だけは栞の残した手紙を読まなかった。
『見なくてもあの子の気持ちくらい分かるわよ』
理由を訊ねた俺に、香里はどこか吹っ切れたような表情で、そう呟《つぶや》いた。
『だって、あの子はずっと一緒の時間を過ごしてきた、たった一人の妹なんだから』
あの手紙は、ガラス瓶に入ったまま、今は香里が大切に持っているはずだ。
栞が、精一杯生きた証が、その中に詰まっている。
「もちろん、祐一も参加するよね?」
「そうだな、たまには花見もいいかもしれないな」
窓の外に咲く、桜の木々に目を向けた。
暦の上では春。
そして、感じる季節も、春そのものだった。
「それと、もうひとつ……」
名雪が、人差し指を立てる。
「祐一に頼まれてたこと、調べたよ」
俺は、数日前に名雪に調べものを頼んだ。
「凄く、不審がられたんだからね。いくら陸上部の顧問の先生が、一年生の学年主任でも、そんなこと簡単に教えてくれないんだから」
新一年生で、名前が「栞」の生徒……。
「理由訊かれて、凄く困ったよ」
「それで、どうだったんだ?」
「いなかったよ、そんな女の子。一年生のどのクラスを探しても」
「そうか、いなかったか……」
何となく予想していた答えに、俺は小さく息をついた。
結局、今となっては、あの子が誰だったのか、俺にだって分からない。
本当に栞の友達で、栞の言葉を伝える為に、生徒のふりをしていただけなのかもしれない。
その方が、よほど現実的だ。
だけど……。
「なぁ、名雪」
「ん?」
「この学校、演劇部ってあるのか?」
「何言ってるの、祐一」
名雪が、呆《あき》れたように俺を見る。
「知らなかったの? 香里って、演劇部の部長さんだよ」
偶然、あゆに似た人影を見つけて、
偶然、栞と名乗る少女に声をかけられて、
偶然、放課後に再会して、
偶然、北川と香里もあゆと出会っていて、
偶然、あの日、あの公園に集まって……。
全てが偶然の上に成り立っていた、あの日の出来事。
確かに、偶然という言葉で片づけることはできるかもしれない。
だけど、もうひとつだけ、全てを説明できる言葉があるとするならば……
それこそが……
[#改ページ]
[#改ページ]
[#ここから2字下げ]
もし、ひとつだけ、私の願いが叶うのなら……
たった、一日だけでいいです……
私は、もう一度……
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]― Fin
[#地付き]― Kanon another story "if"
[#改ページ]
innocent
遠くに、街並みが霞んで見えていた。
それは、灰色の街。
街路に落ちる雨が、舗装されたアスファルトを叩き、濁った飛沫が朝靄《あさもや》のように街の姿を覆い隠す。
枯れた木々と風に揺れる落ち葉が寒空を思わせる季節。
それは……冬の到来を確信させるに充分な、寂しい街の表情だった。
冬の顔は、冷たい雨。
そう思えたのは、ずっとそんな街を見続けてきたのは、それは確か、まだ俺が――。
「祐一《ゆういち》っ」
「……ん」
不意に名前を呼ばれたような気がして、俺は無意織に寝返りを打った。体が痛い。まるで、授業中机に伏せて、そのまま眠ってしまった時のような……。
「祐一っ、起きて」
「うう」
自分でも返事なのかどうなのか怪しい言葉を発して、今度は反対側に体を捻る。
「祐一〜っ」
「……ん?」
重くのしかかる瞼《まぶた》を懸命にこじ開けたその先には、ぼやけた部屋と、俺をのぞき込む誰かの顔があった。
何となく、自分の部屋とは違うような気がする……。
「でも眠い……」
思考が働いたのは一瞬で、また瞼が重力に引かれて閉じていく……。
ゴンッ。
「ぐあっ!」
突然、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走り、俺の意識は急速に引き戻された。
「な、名雪《な ゆき》?」
「おはよう、祐一」
目の前には、目覚まし時計を握りしめた、いとこの少女……水瀬《み な せ》名雪の姿があった。
「祐一、おはよう」
もう一度、にこっと笑いながら朝の挨拶。
「ああ。おはよう……」
対照的に、俺は思いっきり不機嫌に挨拶を返していた。
不思議なもので、混濁していた記憶も、目が覚めると同時に簡単に思い出すことができる。
そして、入れ替わるように夢の景色が遠のいていく。
ここは名雪の部屋、そして俺たちは受験勉強の為に共同戦線を張っている最中だった。
「名雪……その手に持ってる凶器は何だ?」
「何って、どこから見ても目覚まし時計だよ?」
目覚ましにしては大きなサイズの時計を持ったまま、名雪が不思議そうに首を傾げる。
「呼んでもなかなか起きないから、目覚まし時計で勢いよく起こしたんだよ」
「起こすなっ!」
「もし勉強中に寝ちゃったら起こして、って祐一が言ったのに……」
「目覚まし時計の使い方が違うだろっ!」
「でも、起きたよ。それに手加減したからあんまり痛くなかったと思うよ」
「まあ、そうだけど……でも、手加減するんなら、他に……例えばそのカエルとか」
何故か当然のように円卓を一緒に囲んでいる巨大なカエルのぬいぐるみを指さす。
「ダメだよ、けろぴーはお気に入りなんだから」
そう言いながら、カエルのぬいぐるみ、通称けろぴーを抱きしめるように手元に寄せる。
「ふかふか」
「はあ……」
相変わらずの名雪との会話にため息をつきながら、部屋にある時計で今の時間を確認する。
名雪の部屋では、とりあえず時計にはことかかない。
時刻は、すでに午前八時を過ぎていた。
「……もうこんな時間じゃないか。何で俺、朝まで熟睡してるんだ」
最後に記憶があったのが、ちょうど日付が変わる時刻だった。つまり、勉強中にちょっとウトウトどころか、完全に眠っていたことになる。
「だから、おはようございます、だよ」
「…………」
「良かったね、冬休みで」
「……名雪」
「これが学校のある日だったら大変だったよ」
「……お前も一緒に寝てたんだろ」
「そ、そんなことないよ。言われた通り、祐一が寝たらすぐに起こしたよ……」
「名雪、涎《よだれ》の跡がついてるぞ」
「え、うそっ!」
「嘘」
バフッ。
名雪のちょっと怒ったような表情と同時に、けろぴーが顔面に向かって飛んでくる。
「お気に入りを投げるなっ!」
「祐一が変なことを首うからだよっ」
「名雪が嘘をつくからだ」
「そうだけど……。そんなことよりも、時間もないし、早く勉強の続きをしないとっ」
不自然なくらい強引に話を逸《そ》らそうとしていた。
名雪の、こういう要領の悪さは三年生になっても何も変わっていない。
「今はもういい。続きは今夜でいいだろ?」
「でも、もうあんまり日数ないよ?」
「そんなに気負《きお》っても仕方ないだろ。別に東大を受けようってわけじゃないんだからな」
「祐一は余裕かもしれないけど、わたしはギリギリなんだから」
一年ほど前も、こうして名雪と−緒に勉強していたことがあった。
あの時は学校の試験勉強。
そして今では、同じ大学を受けるための、冬休みを利用しての勉強会。
「あの頃は、互角だったのに……」
名雪が、悲しそうにシャーペンの先を見つめる。
「去年は、転校したばかりだったからな」
気がつけば、この街に引っ越して、そして新しい学校に編入して、一年が過ぎようとしていた。
本当に色々なことがあった。
「ふぁいと……」
小さく気合いを入れる名雪のうしろ。窓の外に、小さな影が映っていた。
たくさんの影。ゆっくりと、降りそそぐ。
それは、さっきまで見ていた光景――。
「雨……」
「え?」
呟いた言葉に、名雪が首を傾げる。
「この季節に、雨は降らないよ。ほら、今だって」
窓の外は、一面の白。
冬の顔は、雪。
「そうだよな……」
冬の雨は、名前と姿を変えて地上に降りてくる。
「どうも、まだ寝ぼけてるらしい」
「うん?」
「ちょっとな……。夢を見てたんだ」
「夢?」
「ああ。俺が去年の冬まで暮らしていた……」
それは、冬でも雨の降る、どこにでもある普通の街だった。
「今更、あの街のことを夢に見るとは思わなかった」
「きっと、恋しいんだよ」
「けろぴーパンチ」
「あうっ。祐一、何するのっ」
「けろぴーパンチだ」
「けろぴー振り回さないでっ」
「お前が変なこと言うからだ」
「変じゃないよ。祐一、一度くらい昔住んでた街に戻ったら?」
「帰っても、もう俺が住んでた家には入れないんだぞ。社宅だったからな」
「別に家に戻らなくても、久しぶりに仲の良かった友達に会うとか……」
「会わなくても電話で話くらいできるからな。別に遠出してまで会いたいやつも居ないし」
「祐一、寂しい」
「悪かったな、寂しくて。……あ、でも……」
あの街の風景。
雨に濡《ぬ》れる街並みを夢で見たとき、真っ先に思い出したのは、同じクラスだった少女の姿だった。
「クラスメート? その子、特別仲が良かったの?」
「いや、全然。仲がいいどころか、そいつと話をしたのは、結局二回だけだった」
文字通り、数えるほどだった。名雪は案《あん》の定《じょう》、不思議そうに、けろぴーと一緒に首を傾げている。
「何というか、不思議な子だった。俺だけじゃなくて、クラスのほとんどのやつともまともに話をしていなかったからな。俺が話をしたのは、本当に偶然だったんだ」
そして、その少女は、俺のことを自分と似ていると言った……。
俺も、その少女にどこか親近感を覚えていた。
「って、名雪には関係ない話だったな」
「関係ないけど、でも、興味はあるよ。だってわたし、祐一が暮らしてきた街のこと、何も知らないもん」
続きを訊かせて欲しいとばかりに、テーブルに身を乗り出す。
「祐一はわたしのこと知ってるのに、わたしは祐一のこと知らないなんてずるいよ。だから、ね?」
「……まぁいいか。別に、面白い話でもないけどな」
それは、冬がまだ雨だった頃の、他愛のない物語……。
その日。放課後の校舎は、夕焼けの中心にあった。
いつもより一時間少ない五時間授業だったことと、明日が休みだったことで、赤い光を浴びた廊下は、人通りのないまま、その場所にひっそりと寂しく佇《たたず》んでいた。
「まだ、教室開いてるといいけど……」
教室に置き忘れたままの鞄《かばん》を求めて、職員室のある棟から教室の方へと続く渡り廊下を急ぐ。
思ったより職員宅での話が長引いてしまったから、もしかしたら最後の生徒が、俺の鞄に気づかずに鍵を閉めてしまっているかもしれない。
職員室を出るときに、教室の鍵が戻ってきているか確認しなかったことを後悔しながら、それでも今から職員室に戻るよりはと、俺は自分の教室へと繋がる赤い廊下をひとり急いでいた。
それにしても……。
漠然と想像はしていたが、考えていた以上に編入手続きが面倒なことには、今から辟易《へきえき》する。
用意しなければいけない書類の山に、編入試験。
そして、ずっと暮らしてきたこの街を離れることと、よく知っているはずの、雪の降る街への得体《え たい》の知れない不安があった。
「……もう、覚悟はできてたはずだったのにな」
呟《つぶや》いてから、覚悟なんて大げさな表現をした自分が可笑《おか》しくなる。
ただ、昔何度か遊びに行ったことのある、思い出の街に戻るだけじゃないか……。
だけど俺は、転校することを、クラスの誰にも話していない。
入学以来、一年半|通《かよ》い続けた校舎。その、二年生の教室のある廊下。伸びた影が、先に目的の教室に辿り着く。
少し遅れて、俺の姿も廊下の窓に映る。
教室の扉は、小さく開いていた。
ほっと息を吐くと同時に、急いでいたことが気恥ずかしくなって、俺はわざとらしくゆっくりと、自分の教室に足を踏み入れた。
教室の、窓。
赤く染まる雲の、流れゆく様を見守るように、ひとりの生徒が、開いた窓越しに外を見つめていた。
「あ……」
誰も居ないと思っていた放課後の教室に、まだ残っている生徒の姿があって、俺は思わず声を漏らしていた。
「…………」
その生徒は、ゆっくりと声のした方……つまり俺の方に視線を送る。
それは、知っている生徒だった。正確には、知っているだけのクラスメート。
二年になってから、ずっと同じ教室で過ごしてきた。
「……相沢君……?」
小さく声に出してから、まるで俺の名前を呼んでしまったことを後悔するように、口をつぐむ。
話しかけられたのは初めてだった。
だから、俺の名前なんて覚えていないものとばかり思っていた。
「……ごめんなさい、何でもないです。もう、全員帰ってしまったのだと思っていたから」
感情のこもっていない、機械的な口調だった。
今の言葉も、俺が口を開きかけたのを制しただけに思えた。
「えっと、悪い。ちょっと名前覚えてないんだけど……」
「……覚えていなくていいです」
「ちょっと待て。少しだけ覚えてるような気がするし
「……気のせいです」
とりつく島もなく、睫《まつげ》を伏せる。
そして、ゆっくりと瞼《まぶた》を開けて、ただ真っ直ぐに俺の顔を見つめる。
会話を楽しむ風ではなく、だけどその場所から動こうともしない。
まるで俺が立ち去るのを待っているかのような、重たい間があった。
「……私に、何か用があるの?」
制服の上着は夕陽を受けて朱色に染まり、もとから赤だったスカートは、さらに鮮やかなオレンジに変わる。
そして、スカートまで伸びた髪が、冬の風に揺れていた。
「何で窓なんか開けてるんだ? 寒くないか?」
「……寒いのは慣れてます」
流れる髪を気にする様子もなく、夕焼けの中に立っている女の子がいる……。
「……帰ります」
最小限の言葉だけを繋いで、クラスメートが自分の鞄を両手に持った。
黙礼するように視線を逸らして、そして歩く。
何か話をしなければ、彼女はこのまま教室を立ち去ってしまう。
「俺、もうすぐこの街を出ていくんだ」
誰にも言わないはずだった言葉が、口をついて出ていた。
どんなことでもいいから、この不思議な雰囲気の少女と、会話を続けていたかった。
俺と、似ているような気がしたから。
教室ですれ違った時は、そんなこと思いもしなかったのに。
今になってどうしてそんなことを考えたのかは、分からないままだけど。
「それで、今日はそのことで担任と職員室で話をしてたんだ……って、訊いてないよな、そんなこと」
「……はい」
「そんなはっきり頷かなくても……」
「転校するんですか?」
「通《かよ》える距離じゃないからな。そうなる」
「それは、初耳です」
「今、初めて言ったからな。この話をするのは君が最初で最後だ」
「…………」
「光栄だろ?」
「……いいえ」
反応は、想像していた通り素っ気なかった。
「……どうして、最初で最後なの?」
「え?」
不意に問い返されて、思わず言葉に詰まる。まさか、彼女の方から話題に乗ってくるとは思わなかった。
「……本当は、君も含めて、クラスメートには転校の話は一切しないつもりだったんだ。もちろん、後から親しかったやつに電話くらいはしようと思ってるけど」
「……どうして?」
「嫌なんだ。そういう、もうすぐ居なくなるっていう雰囲気をずっと引きずるのが。だから、何も知らせずに、急にぱっと消えた方が、何となくいいだろ?」
「……相沢君」
女の子の、逆光で陰るその表情が険《けわ》しくなったような気がして、俺は言葉を詰まらせた。
「それは、消える人間の勝手なエゴです」
感情を出さないタイプだと思っていた。もしかしたら本当に感情をどこかに置き忘れてきてしまったのではとすら思い始めていた。
だけど、その言葉には間違いなく感情があった。
それは、悲しい表情だった。
「悪かった……」
「いえ、気にしないでください」
すでに、口調は元の彼女に戻っていた。
「ただの、独り言です」
「…………」
「もしくは、自嘲」
小さく笑ったような気がした。それは、笑顔ではなく、彼女の言葉通りの、悲しい笑みだった。
「……どちらにしても、つまらない話です」
無表情に戻って、そう締めくくる。
「どうして、いつもそんな表情してるんだ?」
「……趣味です」
「…………」
「いけませんか?」
「笑うと可愛いような気がするのに」
「笑い方なんて、ずっと昔に忘れました」
「…………」
「……私は、馬鹿ですから」
窓の外には、四角く切り取られ、赤く色づけされた街並みがあった。
遠くに聞こえる、街の喧騒《けんそう》。
その雲の向こう側に、この少女は何を見ていたんだろう。
「賭け、しないか?」
「……賭け?」
俺の言葉が分からないというように、眉をひそめる。
「いつか俺がまたこの街に戻ってきたとき……」
その時に……。
「その時までに、笑顔を思い出しているかどうか賭けるんだ」
「……やりません」
きっぱりと拒絶の意志を見せて、また歩き出す。
同じように赤く染まる廊下に向かって。
「……結果の分かっていることを、賭けの対象にしても仕方ないですから」
そう言い残して、俺の横を通り過ぎていく。
「……さよなら」
呟いたその背中から、表情は分からない。
「そうだ……。クラスメートにこんなこと訊くのもあれなんだけど……。最後に、名前、教えてくれないか?」
背中を向けたまま一瞬だけ立ち止まり、そして一言だけを呟く。
「……嫌です」
それから二学期が終わるまで、俺が彼女と話をする機会は一度も訪れなかった。
教室ですれ違っても、まるであの日のことが夢だったかのように、彼女はいつもと変わらない、たったひとりの日常を歩いていた。
結局、引っ越しのことも言えないまま、消化試合のような毎日が過ぎていった。
やがて、何事もないまま、二学期が終わった――。
その日は、朝から雨だった。
俺がこの街で過ごす最後の日。
そして、思い出の街に還っていく日。
叔母さんには昼過ぎには着くと連絡してあったので、まだ通勤途中のサラリーマンの姿さえ見えないような早朝に、俺は駅の入り口に立っていた。
ほとんどの日用品は宅配便ですでに送っているので、手持ちの荷物は少なかったが、降り続ける雨と薄暗い空が気分を重くさせる。
この分だと、向こうは雪かもしれない。
「……相沢君」
そんな、まだ誰もいない駅の入り口に、ピンク色の傘の花が咲いていた。
「随分、早起きなんだな」
「……今日は特別です」
それは、俺の旅立ちを唯一知っているクラスメートの姿だった。
「でも、どうして今日だって知ってるんだ? それに、時間だって」
「先生に訊きました」
傘から覗くその表情は相変わらずで、クラスメートの女の子は俺を真っ直ぐに見つめていた。
あの日の、放課後のように。
「わざわざ、見送りに来てくれたのか?」
「……ついで、ですから」
「ついで?」
初めて見る私服姿。だけど、その服は雨に濡れて、まるで何時間も外で立っていたかのようだった。
「それに、私しか知らないのなら、私が見送りに来るしかないですから」
淡々と、言葉を紡《つむ》ぐ。
だけどその言葉は、決して無機質ではなかった。
「それにしても、信じられないな。まさか見送りに来てくれるとは思ってもみなかった」
「……信じられないことなんて、世の中にはたくさんあるんですよ。良いことも、悪いことも」
一度、言葉を置く。
そしてゆっくりと息を吐く。
「気がついた時には、信じられない奇跡の上に立っている、なんてこともあるかもしれません……」
「…………」
「その奇跡が、あなたにとって良いことならいいですね」
少しだけ、頑《かたく》なだった表情が綻《ほころ》んだような気がした。
誰か、彼女に手を差し伸べている人が居る。
何となくそんな気がした。
「でも、どうして突然そんな話を?」
「……似てるような気がしたから。私とあなたが。根拠は、何もないですけど」
「…………」
「こんな話をしたのは、あなたが最初です。……光栄、ですか?」
「ああ、光栄だ」
「……はい」
冗談っぽく首を傾げて、小さく頷く。
「……賭け、してもいいです」
「お。勝算が出てきたのか?」
「……違います」
首を横に振る。
「突然、何の前触れもなく信じられないようなことが起きるのが未来なら……」
何かを決意したような表情で、言葉を選ぶように……。
「今度は、私が笑顔でいられるような、そんな未来があってもいいですよね?」
「そうだな、俺が保証する」
「……嬉しくないですけど」
「それで、何を賭けるんだ?」
「ワッフル」
「ワッフルって……そんなんでいいのか?」
「はい。ワッフルは好きですから」
「じゃあ、これで成立だ」
「……はい」
「じゃあ、俺そろそろ行くから」
出発の時刻が迫っていた。
「……待って」
そして、彼女の最後の言葉が雨越しに届く。
「……あなたは……」
それは、ちょうど一年前の出来事。
ひとりの少女と出会って、小さな賭をしたというだけの、つまらない話。
だけど……。
「祐一。受験が終わったら、遊びに行こうよ」
じっと話を聴いていた名雪が、不意に笑顔を見せる。
「祐一が産まれて、ずっと育ってきた、その街に」
「そうだな……それもいいかもしれないな」
今は、不思議とそう思えるのだった。
「楽しみだね」
「でも、名雪は関係ないだろ」
「う。そうだけど、でもわたしも一緒に行きたいから」
「何もない街だぞ」
「その子に会ってみたい」
「びっくりするくらい無愛想なやつだぞ」
「でも、今は分からないよ」
「そうだな……分からないな」
「だったら決まり」
「でも、受験が終わったら、じゃないぞ。二人|揃《そろ》って無事に合格できたら、だ」
その頃には、何もなかったあの街にも、満開の桜が咲いている。
「合格できたら、わたしも行っていいの?」
「そうだな……合格できたら……」
「二人揃って、ね」
「足引っ張るなよ」
「それはわたしの台詞《せ り ふ》」
「俺だろ。どう見ても」
「祐一、いじわるー」
カエルのぬいぐるみが飛び交う部屋の中で、俺はふと、彼女の最後の言葉を思い出していた。
[#地付き]「……あなたは、笑顔で居てくださいね。何があっても」
[#改ページ]
あとがき
「『ONE's MEMORY remake』に続いて三度目のあとがき登場になります。みさきです」
「雪ちゃんです」
「雪ちゃん、その紹介はさすがに変だよ……」
「いいの、この方が分かりやすいから。大体、わたしゲーム中では『雪ちゃん』って呼ばれていたせいで、発売当初は『深山雪』だと思われてたんだから」
「そういえば、ゲーム中に一度もフルネーム出なかったよね……」
「というわけで、『if』のあとがきです」
「もう全然どういうわけか分からないよ、雪ちゃん……」
「まず、『if』ね」
「久しぶりのちょっと長めのお話です」
「そして、今回もいつものように『あとがき』の段階で本編を書き上がっていません。苦しんでます。主食がタウリンです」
「雪ちゃん……」
「内容は、バッドエンドその後、といった感じですけど、いつもの如くゲームの時とは設定が多少違うような気がしますけど仕様ですので笑って許してください」
「どうして、違うの?」
「書いてる本人がゲームのシナリオを既に忘れてるからじゃないの?」
「……もう昔のことだからね」
「解説なんだけど、今回、あんまり内容は説明できないわね……」
「まだ書いてないから?」
「そうじゃなくて、ネタバレになるからよ」
「今までのサイドストーリーとは、かなり印象が違うよね」
「だから、今回はサイドストーリーじゃなくて、アナザーストーリー。本編とは、密接に関わっていません。ほんのちょっと関わっています」
「……微妙だね」
「次は、『innocent』ね」
「これは、前にコミケで出した『折り綴じ本』の文庫本再録です」
「本当は、またいつか出るかもしれない短編集に採録するつもりだったんだけど、事情により今回の収録となりました」
「事情?」
「もう『ONE』『Kanon』本は今回で最後にしたいらしいよ」
「何かあったの?」
「飽きた」
「凄く分かりやすいんだけど、ストレート過ぎてフォローできないよ、雪ちゃん」
「それは冗談としても、さすがに何冊も出してるとね……」
「あ。それと、『innocent』と『if』は全く別の話としてみてくださいね。混乱しますよ」
「書いてる方もね」
「雪ちゃん、次の予告なんだけど……」
「無理」
「そうだよね……」
「でも、さっきも言ってたけど、『ONE』『Kanon』はもうあんまり書きたくないらしいよ。いつか、思い出したようにひょっこり書くかもしれないけど」
「それ以前に、次の新刊って、いつ出るの?」
「暫《しばら》くはサークル活動縮小するから、どんなに早くても夏コミだと思うけど」
「コミケ以外のイベントは、出られないよね……」
「さすがに、来年はちょっとね」
「でも、大阪のイベントはまた出たいよ」
「余裕があればね」
「うん……」
「ところで、みさき。今、ふと思ったんだけど、今回『Kanon』本なのにわたしたちがあとがきに出てくるのって、世間的にOKなの?」
「……雪ちゃん。今更そんなこと言っても、もう手遅れだよ」
「普通のあとがきとかコメントとか雑誌インタビューとか、そういう本人が表に出るの大嫌いだからね……」
「でも、『innocent』で■ちゃんが出てたから、別に私たちがいてもいいような気が……」
「そういう問題じゃないと思うけど」
「さて、最後になりましたけど、本書を手に取って頂いたみなさんに心から感謝しつつ、あとがきをしめさせていただきます」
「それと、ポプルス印刷様。毎回毎回本当に多大なご迷惑をおかけしています……」
「もう、福生に足を向けて眠れないよね」
「ところで、ずっと気になってたんだけど、福生って何て読むの?」
「……ふくなま」
「絶対違うと思うよ、雪ちゃん」
[#地付き]某月某日某所にて
[#改ページ]
初出
『if』 書き下ろし
『innocent』 コミックマーケット58
[#地付き]サークル「Cork Board」発行
[#地付き]同人誌「if」(2000.12.30)