HINATA
久弥直樹
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)戸惑《と まど》い
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
[#改ページ]
少年はこの場所が好きだった。
短い冬休み。
バイト帰りに、いつものように忍び込んだビルの屋上で、少年はフェンス越しに少女と出逢う。
言葉の届かない距離に立つ少女は、今日も穏やかに微笑んでいた。昨日も、そして明日も。
しかし、一度も言葉を交わすことのなかった出逢いは、ある日突然、途切れる。
やがて知ることになる少女の名前――
[#地付き]――original story "HINATA"
短い冬休みは、
それでもまだ、始まったばかりだった。
[#改ページ]
目次
はじめに
HINATA
あとがき
[#改ページ]
この物語はCork Boardのオリジナルストーリーであり、本編に登場する人物、団体等は、すべて架空のものです。
作中の事件事故もすべて創作であり、実在のものとは一切関係ありません。
[#改ページ]
プロローグ
……不意に、自分が知らない場所に放り出されたような気がして、俺は軽い戸惑《と まど》いを感じた。
だけど、すぐにそこが見慣れた場所だということに思い当たって、俺は安堵の息を漏らした。
いつもの場所。
この街で、空に一番近い場所。
安心できる場所。
好きだった場所。
いつもバイト帰りに立ち寄った場所。
その時、夜の闇の中に人の姿を見たような気がした。
それは、女の子だった。
どこかの学校の制服を着た女の子が、風に揺れていた。
女の子は、向かいのマンションの屋上にたっていた。
名前は分からない。
言葉を交わすこともできない。
ただ、夜空と街の光を隔《へだ》てて、顔を見合わせただけだった。
いや、そう思っているのは自分だけで、向こうは気づいていないのかもしれない。
その証拠に、女の子の視線は足下に注がれていた。
そこには、夜の街があった。
たった一歩を踏み出すだけで、遠くの街はすぐ目の前に現れる。
じっとその場から動かなかった女の子は、やがて何かを決心したように、唇を噛んだ。
一歩を、踏み出したように見えた。
俺は、慌てて声を出した。
声は音にならなかった。
届かなかった。
しかし、やがて女の子はその足を戻した。
そして、後ろを向いて、そのままどこかへと立ち去った。
最後まで、俺の存在に気づくことはなかった。
それが、『ひなた』との最初の出逢いだった。
[#改ページ]
第一章
今日は、いつにも増して風の冷たい夜だった。
まだ二学期とはいえ、ずっと期末のテスト休みが続いていたので、気分はすでに冬休みだった。
後は今月の給料が入れば、それで冬支度は完璧だ。
「お先に失礼します」
「はい、お疲れさま。明日は学校だっけ?」
タイムカードを押す俺の背中に、店長が声をかける。
「そうっすよ。学校といっても、終業式だけなんで、午前中で終わりますけど」
「だったら、昼から入れる?」
振り向くと、そこに店長の笑顔があった。
「えっと……ちょっと予定があるんで、いつも通り夕方からにしてもらえませんか?」
本当は予定が決まっているわけではないのだが、おそらく明日は終業式の後に、クラスの連中と近くの大きな街まで遊びに行くことになるような気がして、とりあえずそう言っておいた。
「予定があるのなら、仕方ないか」
残念そうに、それでも笑顔のまま、店長は頷いていた。
いつもにこにこしている店長は、年齢不詳だった。
二十代のようにも見えるが、時々四十代のような気もする。本人が口を閉ざしているので、正解は未だに闇の中だった。
俺は帰り支度を整えて、そのまま店を出た。
すでに、商店街の他の店もシャッターをおろしている。
駅から少し離れているため、この時間になると商店街のアーケードにはあまり人影がなかった。
店の看板も、すでにシャッターの中に仕舞われている。
俺がバイトをしているこの店は、クレープやワッフルがお勧めの、それなりに有名な甘味処だった。俺がバイトを始める前のことだが、テレビで紹介されたこともあるらしい。確か、どんなことでもチャンピオンを決めたがる、夜の長寿番組だったはずだ。
そのせいか、夕方頃になるといつも人手不足になる。
おかげで店長自身も店番に立って、一番混む時間帯は、まさに総力戦という様相を呈していた。
常に他のスタッフと同じ目線で、率先して仕事をする店長は、バイト連中の評判も良かった。
俺が、学校から離れている(学校は、別の駅にある)この店でのバイトを続けているのは、そういう理由もあった。
ただ、普段は理想的な店長なのだが、時々、試作品と称して変なモノを作るという困った癖があった。
そのメニューは、何というか、妙に甘かったり辛かったりちょっと食べ物じゃなかったりという危険な香りのする料理であることがほとんどで、しかも、試作品のはずが、スタッフの誰の評判も良くなかったはずなのに、勝手に新製品として店のメニューに加えられていたりもする。
もっとも、時々そんな新製品を楽しみに来るお客さんもいて、その時は人の味覚もそれぞれだなと、ただ感心するしかなかった。
そういえば、毎日のように店に来る常連さんの一人が、その妙に甘い新製品をいつも大量に買って行っていた。
確か、長い髪のおさげの女の子だった。
そういえば、一度、何気なく辛い方も勧《すす》めてみたら、一口食べて、その後一週間ほど店に来なくなった……。
そんなことを思い出しながら歩いていると、いつの間にか商店街の端にさしかかった。
俺の住んでいるマンションまでは、ここからさらに歩いて十七分くらいかかる。
バスを使うほどではないが、歩くにはそれなりの距離だった。
自転車があれば一番いいのだが、何となく買いそびれたままになっている。
高校が電車通学というのもあるのだが、他にももうひとつ、徒歩の方が都合のいい理由があった。
アーケードを抜けて、空を見上げる。
陽は、もう何時間も前に、どこか他の国へ行ってしまっていた。
真っ黒な空だった。
雲ひとつない、星を見るには、まさに理想的な夜だった。
いつになく冷たい風が気にはなったが、そのぶん空気が澄んでいるという証拠だ。
「寒いのは、我慢だな……」
呟いた言葉は、闇の中に白く浮かんでいた。
俺は、家へと帰る道を少しそれて、今夜もあの場所へと向かった。
こんな時、身軽な徒歩の方が、都合が良かった。
§
いつからだろう、バイト帰りにこの場所に立ち寄ることが、俺にとって日常になっていたのは。
街の中心から、少し外れたところに立つ背の高いマンション。俺が住んでいるマンション(と呼ぶほど立派ではないが)の倍くらいの高さがある。
そのレンガ色の壁が、エントランスの照明を受けて、闇の中にぼうっと浮かび上がっていた。
夜間でも住民のために開けっ放しになっている正門を抜けて、まるで飛行場の滑走路の様にライトアップされたエントランスを歩く。
時間が遅いこともあって、規則正しく並んだ部屋の灯りは、すでにその半分くらいが消えていた。
ロビーへ通じるガラスの扉を押し開けて中に入ると、今は無人の管理人室が目の前にあった。この時間は管理人は帰っているらしく、一度も管理人と顔を合わせたことはない。
その隣に、こちらは横にスライドするタイプのガラスの扉があった。
一見オートロックの様に見えるが、実はただの自動ドアだ。
監視カメラも設置されてはいるが、これと同じ形の偽物の防犯カメラを東急ハンズで見たことがあるから、もしかするとこれも見かけだけのダミーカメラなのかもしれない。
もっとも、本物のカメラだとしても、最初からあまり気にしていなかった。
ちょっとあの場所に立ち寄るだけだ。
もちろん、不法侵入には変わりないので、誉められたことではないのだが……。
マンションの中に入ると、いつものように非常階段へと向かった。
鉄でできた非常口は、非常時でも通るなと言わんばかりの、仰々しい作りの重そうな扉だった
ドアノブに手をかけて、さすがに近所迷惑にならないようにゆっくりとドアを開ける。
開けた途端、隙間から一段と冷たい空気が流れ込んでくる。手袋をしているから分からないが、ドアノブ自体も相当冷たくなっているに違いない。
これはきっと、外は凄いことになっているだろうと思い、少しだけため息をついた。ため息は、白くなる間もなく 隙間風に運ばれていく。
さすがに人に見られるとまずいので、小さく開いた隙間に体を滑り込ませるようにして非常階段に出た。
非常階段は、マンションの外壁に面していた。
つまりは、外と一緒だった。
冬が寒いという当たり前のことを実感しながら、階段を登っていく。
このマンションは、十階建てだった。
俺の目指す場所は、十一階。
つまり、屋上だった。
§
冷たい風。
それこそ、地上とは比べものにならないくらいの冬の風が、そこにはあった。
凍った空気が渦を巻いていた。
むき出しの顔を、耳を、コートの裾《すそ》を、切るような突風が吹き抜けていく。
「寒い……」
思わずうわずった声が口をついて出てしまうような、そんな寒さだった。
無意識のうちに、手袋をはめている手で、真っ赤になっているに違いない両耳を覆った。
時折気まぐれで風が弱くなるが、それでも寒いことには変わりない。
そしてまたすぐに、屋上を駆け抜ける風が、遠慮なしに俺の周りを吹き抜けては、どこかに去っていく。
俺は、風に流されるように屋上を歩いた。
そして、転落防止のフェンスにとりつく。
ガシャン、とフェンスが鳴った。
ゆっくりと、視線を外に向ける。
そこには、期待通りの光景が待っていた。
もう見慣れたはずの街が、全く別の顔をしていた。
車のライトに照らされた道路がオレンジ色に光り、裏路地の水銀灯がぼんやりと闇を照らす。黒いはずの空は、地上からの光で白く霞《かすみ》がかかり、それでも時折見える星の光が、今が真夜中であることを静かに主張していた。
夜空が好きだった。
この風景が好きだった。
だから、この場所が好きだった。
普段は絶対に見ることのできない、街の、もうひとつの表情。
いつの間にか、寒さも忘れて、俺はフェンスにもたれかかるように空を見上げた。
風は強いが、相変わらず雲はなかった。
星に、また少し近づいたような気がした。
ふと、最初にこの場所に来たときのことを思い出した。
あの日は、一人暮らしを初めて、一週間ほど過ぎた、確か高校三年に進学してすぐの時だった。
一人暮らしをして初めて、実家から一本の電話がかかってきた。
内容は、予想通りのものだった。
そのまま、俺は夜の街を歩いた。
だけど、その時の俺には、街の喧噪《けんそう》は賑《にぎ》やか過ぎるような気がして、気がついたときには、ひとりこの場所から街を見下ろしていた。
静かだった。
街が、足下にあった。
だけど、その時はまだ気づいていなかった、ここから見える景色がこんなにも綺麗だということに。
そのことに初めて気づいたのは、その景色を間近に見たときだった。
高校に進学したときは、両親と共に暮らしていた。
三年に進級してすぐに、一人暮らしをしたいと両親に打ち明けた。
両親を説得するのは、それほど難しいことではなかった。
俺が一人暮らしを望んだのは、ひとりっ子の俺の存在が、この家族の中で重荷になってるような気がしていたからだ。
俺は、居ない方がいいのだと思った。
そして、俺が一人暮らしを初めてすぐに、両親は離婚した。
実家からかかってきた電話は、そのことを簡潔に告げるものだった。
わかっていたことだった。
わかっていたことだった、はずなのに……。
そして、一瞬だけ、この街の本当の姿に気づいたような気がした。
だけど、そのことは、今ではよく思い出せなかった。
「そろそろ、帰るか……」
ぐっと体を起こして、もう一度街を見下ろす。
さすがにこの時間になると、道路を走る車の数も随分と減ってきた。どこかで工事でもしているのか、時折、大型のトラックがたっぷりと荷物を積んで走り抜けていく。
「……ん?」
思わず、声が出た。
一瞬、人影を見たような気がしたからだ。
地上を歩く人ではない。
もっと、近くに……。
視線を巡らせると、その人影はすぐに見つかった。
それは、隣の(といっても道路を挟んでいるのでそれなりの距離はあるのだが)マンションの屋上だった。
視線は、ややこちらの方が上。
それでも、この場所でほぼ同じ高さに人の姿を見るのは、珍しいことだった。
女の子だった。
年齢はたぶん俺と同じくらいで、こんな時間なのに、なぜか学生服を着ている。
白かもしくは少しピンクがかったブラウスに、えんじ系の上着を着ている。スカートも同色系の様だった。大きなカラーが特徴的な、変わったデザインだったが、そんな制服の学校に、少なくとも俺は、覚えがなかった。
バイト先の店に来る女子高生の中にも、こんな制服の学生は居なかったような気がする。
もっとも、いちいち制服を覚えているわけではないので、もしかすると、忘れているだけかもしれない。
女の子の髪は長く、夜風に弄《もてあそ》ばれるままに宙を舞っていた。
時折《ときおり》赤く見えるのは、おそらく髪留めのリボンだろう。大きめのリボンは、同じく夜風に揺れている。
表情は分からない。
目に見えない何かを見つめるように、じっと自分の足下に視線を落としている。
その先には、街があった。
しかし、女の子の視線は、何もない中空を漂っているようだった。
その姿は、まるで……。
その時、ガシャン、という音に、女の子がびっくりしたように顔を上げた。
俺が、フェンスを揺らしたからだ。
女の子の視線が、隣のマンションの屋上に、俺の姿をとらえる。
こんなところに人が居るわけないと思っていたのか、驚いたような表情をしている。
俺は、その女の子に向かって手を振った。
反応はない。
そのまま、気まずそうに俯《うつむ》いてしまった。
俺は、女の子のそんな様子も気にせず、今度は両手をぶんぶんと振ってみた。
我ながら何をしているんだろうとは思ったが、その姿を見て、女の子は少し顔を上げた。
しかし、その表情は相変わらず硬い。
今度は、ジャンプしながら手を振ってみた。
女の子はさすがにびっくりしたような表情をしていたが、少し落ち着いたのか、遠慮がちではあるが、手を振り返してくれた。
少し、笑ったような気がしたが、それはどう見ても作り笑いだった。
夜空に浮かび上がる少女は、それでもどこか神秘的な雰囲気があった。
[#改ページ]
第二章
翌朝。
俺は久しぶりに制服に袖を通して、電車に揺られていた。
歩いていけるところにも高校はあるのだが、俺は各停で二駅隣の学校を選んだ。条件付きならバイトも可だったからだ。
電車の中で、何気なく昨日の女の子が着ていた制服を探したが、やはり見つからなかった。
あの女の子は、あの後、姿を消した。
最初はそのマンションに住んでいるのかとも思ったが、一階の出入り口から立ち去る姿を屋上から発見したので、どうやらそこの住人というわけではないようだった。
そんなことを考えていると、すぐに電車は目的の駅で止まった。
俺は思考を中断して、改札を抜け、そして学校へと足を向けた。
§
振り替え休日の関係で、今年の終業式は去年より少し早かった。
長かった二学期の締めくくりとしてはあっけないくらいあっさりと、終業式はものの数分で、そして体育館から教室に戻ったあとも、ほんの小一時間ほどで、今日のすべての予定が終了した。
俺も、他の生徒も、もちろん短い分には大歓迎だった。
そして、昨日の予想通り、仲のいいクラスメート数人と近くの街までこれから遊びにいくことが、いつの間にか決まっていた。待ち合わせ場所と時間を確認してから、俺は校門を出て駅へと向かった。
時間があるので、一度家に帰るつもりだった。
私服に着替えたかったという理由もあるけど、それ以上に、鞄を置いてとりあえず身軽になりたかったというほうが大きかった。
駅に向かう途中で、俺は名前を呼ばれたような気がして、立ち止まった。
振り返ると、そこに居たのは見知った顔の女子生徒だった。
「これからバイト?」
「いや、バイトは夕方から」
「そっか、今からお店に行こうと思ってたんだけど。残念、またおまけしてもらえるかと思ったのに」
そんな、いつもと変わらない会話を交わしながら、駅に向かう。
こいつとは、一年の時から一緒のクラスだったのだが、ちょっと変わったところのある奴で、普段まじめに授業を受けているかと思えば、突然、まだ学校が終わってもいないのにどこかへ行ってしまうこともあった。
それでも以外と成績は悪くなかったりするから不思議だ。
「そういえば、今年はちゃんと終業式に出てたな」
「毎年出てるよ」
「うそつけ。去年、いなかっただろ」
「そう?」
「確か、担任にどこへ行ってたか訊かれて、他の学校の終業式に出てました、とか、そんな意味不明なこと言ってただろ」
「そういえばそうだったね。うん、ちょっと友達に会いにね」
「あれって本当だったのか……?」
「嘘はつかないよ。あたしは」
「でも、授業はよくさぼるだろ」
「だから、友達に会いに行ってるんだって。あと、ちっちゃい子がいるの」
そう言って、嬉しそうに目を細めた。
いくつか日本語として必要な単語をとばしているような気もするが、さすがに三年も同じクラスだと慣れてきていた。
「かわいい子なのよ。ひとつ下なんだけど、こんなにちっちゃいの」
そう言って、地面から一メートルくらいの場所に手をかざす。それはいくら何でも小さすぎるような気もするのだが……。
「あ、そうだ」
俺は、声に出して呟いた。
「ついでに、ちょっと訊きたいんだけど」
「うん?」
「他の学校の制服とか詳しい? 制服の形で、どこの学校か分かったりしないか?」
「うーん……。知ってるところならね」
本当は、ずっと気になっていた。
終業式の時も、そのあと、教室に戻った時も。
他のクラスメートと、遊びにいく計画を立てていた時でさえも。
昨日出会った、あの女の子。
同じなのかもしれないと……。
もしかすると、どこかが自分と同じなのかもしれないと……。
「とりあえず言ってみて。どんな制服?」
俺は、覚えている特徴をできるだけ細かく説明した。
「……あと、ボタンがふたつ付いていて……それと、赤いリボン……は、制服とは関係ないか……」
「うーん」
説明を聴き終えて、じっと考え込んでいる。
「その特徴を全部踏まえると……ナコルル?」
「赤いリボンしか踏まえてないどろ」
しかも、制服とも学校とも関係ない。
「他には?」
「他は、心当たりないかなぁ」
全然申し訳なさそうではない表情で、あっさりと言い切った。
それから、一言付け加える。
「変わった制服だから、近くの学校だったら覚えてると思うんだけど」
ちなみに、うちの学校の制服も少し変わっていて、チェックのスカートが、巻きスカート仕様になっている。
「友達が他の高校にいるとか言ってただろ?」
「少なくとも、そこの制服じゃないよ」
「そうか……。悪かったな、変なこと訊いて」
「どういてしまして」
結局、何の手がかりもなかった。
「そうだ、良かったら、これから遊びに行かない?」
そう切り出されたのは、駅で別れる直前だった。
「悪い、先約があるんだ」
「そっか……。ちょっと残念」
本当に残念そうに呟いて、
「それじゃ、また新学期にね」
それでもいつもと変わらない調子で、手を振っていた。
「ああ……。新学期に」
[#改ページ]
第三章
遠くに聞こえるサイレンの音で、ふと自分が道を歩いていることに気がついた。
うわのそらで歩いていた自分に気づいて、少し慌てた。
急がないといけないはずだったのに。
思い出したように腕時計を見る。
「あれ……?」
何かがおかしいような気がした。
そして、すぐにその違和感の正体に気が付いた。
時計が、止まっていた。
その事実に気づいて、慌てて近くのコンビニに飛び込む。
店内の時計を確認すると、その針は、とても余裕があるとは言えないような時間をさしていた。もちろん、秒針も規則正しく動いている。
(後で電池、替えないとな……)
このコンビニで買ってもいいのだが、今はそんな余裕すらなかった。
いつか、電気屋にでも持っていこう。
今はとりあえず、走る。
商店街は人が多いので、少し遠回りにはなるが、人の少ない裏道を選んだ。
空は、すでに陽が落ちていた。
さっきまでは確かに明るかったのに、ほんのちょっと目を離した隙に、すっかり夜になっていた。
終業式が終わったあと、予定通り一度家に戻ってから、待ち合わせ場所に向かった。
そして、電車で近くの大きな街まで繰り出して、映画を見て、無責任な感想を言い合って、そのままゲーセンに流れ込んで、対戦台で遠慮なく叩きのめされて、そして、また同じ電車に乗ってこの街に帰ってきた時は、確かまだ、冬の太陽は街に吸い込まれることを拒むように、空に浮かんでいたはずだ。
友人連中は手前の駅で降りていた。俺も同じ駅で降りたのだが、それは各停に乗り換えるためだった。
「じゃあな」
「またな」
軽く手を挙げて、出口へ向かう階段を登る友人達を見送った。
俺は、反対側のホームでひとり電車を待った。
不意に、空の色が視界を覆った。
赤。
鮮やかを通り越して、どこか不安をかき立てるような、そんな赤だった。
電車がホームに滑り込み、俺を含めた何人かが同じ扉から車内に乗り込んだ。
広告が張り巡らされた窓から覗く空も、赤。
扉にもたれかかるように背を預けて、そのまま目を閉じた。
定期を改札機に入れて外に出た時、辺りはすでに薄暗かった。
慌てて駅前の時計で時間を確認する。
(まだ、5時半か……)
その時は、まだ余裕があった。
しかし、さっきコンビニで確認した時は、バイトが始まる六時まで、あと数分しかなかった。
走りながら、もう一度腕時計に視線を落とす。
時計は、やはりでたらめな時間で止まっていた。
§
息を切らせながらバイト先の店にたどり着くと、なぜか店長が満面の笑顔で出迎えてくれた。
その笑顔の訳を知ることになるのに、時間はかからなかった。
何でも、この時間帯にシフトされている人が急にこられなくなったらしい。
「しかも、ふたりも」
タイムカードを押していると、店長が、そう付け加えた。
ひとりは、風邪をこじらせたとかで病院へ。
もうひとりは、突然急用ができたらしい。
「というわけで、ふたり分、がんばって」
「まじっすか?」
「期待してるよ」
最後の台詞と共に見せた表情は、いつにも増してさらにいい笑顔だった。
「まじっすか……」
時計の故障といい、今日はついてないような気がした。
それでも、仕事は仕事。
俺は作業用の服に着替えて、とっとと支度《し たく》を始めた。
§
「お先に失礼します……」
いつにも増しての激戦を終えて、タイムカードを押す手にも力が入らなかった。
「今日はご苦労様。助かったよ」
「バイトの人数、もうちょっと増やしてくださいね……」
「考えとくよ」
「店長いつも考えるだけじゃないですか……」
俺はため息をついた。
いつまでもそんなやりとりをしていても仕方ないので、「失礼します」ともう一度挨拶をしてから、店を後にした。
時間は、昨日と同じくらいだった。
風は、すこし穏やかなような気がした。
頭がぼーっとしていたので、冬の冷たさがどこか心地よかった。
気がつくと、目の前にいつものレンガ色のマンションがあった。
どうやって歩いてきたのか思い出せなかったが、いつもの道なので大して気にならなかった。
何気なく見上げると、空に人が立っているのが見えた。
それは昨日、女の子が居たマンションの屋上だった。
すぐに、あの女の子だと気づいた。
向こうも、路上に立つこちらのことに気がついたらしく、なにやら慌てるように姿を隠した。
そして、すぐに姿を見せる。
(……?)
その様子がおかしかったので、俺は首をひねった。
その後、女の子は手招きするような仕草をした。
(……来いってことなんだろうか?)
少し躊躇《ちゅうちょ》した後、俺は女の子の立つ、白い壁のマンションに足を向けた。
§
屋上にたどり着くと、そこには誰の姿もなかった。
マンションは違っても、屋上の形はどこも同じようなものだった。
共用アンテナが建ち、貯水タンクが置かれている。
その他は、何もない。
何もない、はずなのだが……。
(何だあれ……?)
屋上の真ん中に、大学ノートのような物が置かれていた。
そして、その上には、何故かカップのインスタントラーメンが置かれている。
行列のできるラーメン屋、と書かれていた。
あからさまに不自然な光景だった。
とりあえず、そのノートに近づいてみる。
間近で見ても、やはり普通のノートとカップ麺だった。しかも、よく見ると値札が貼られたままだった。
俺は、ノートを手にとって何気なく開いてみた。
白紙かと思ったのだが、予想に反して、そこには文字が書かれていた。
『うらめしや』
見開きページをまるまる使って、その五文字だけがあるだけだった。
一瞬、訳が分からなかった。
文面(というほどではないけど)だけ見ると、呪いの言葉っぽいのだが、女の子が書いたような丸っこい文字で書かれているため、全く説得力がなかった。
しかも、インクは蛍光ピンクだった。
カップ麺の意味も分からない。
俺がどうリアクションをしていいのか分からず立ちつくしていると、急に背後から声がした。
「わっ!」
緊張感のない声に振り返ると、目の前に女の子が立っていた。
両手を、メガフォンのように口元に当てている。
そして、その手にはコンビニの袋があった。
「わっ!」
俺が無反応でいると、女の子はもう一度声を出した。
どうやら、驚かせたいようだった。
「わっ! わっ! わっ! ……はぁ、はぁ、……わっ!」
何故か必死だった。
「近所迷惑だから、その辺でいいよ」
やんわりと諭《さと》すと、女の子の表情が険しくなった。
「どうして驚かないのっ!」
どうしてって言われてもな……」
ちなみに、ある意味では驚いている。
間近で見ても、間違いなく昨日と同じ女の子なのだが、おとなしそうな外見とその行動に大きなギャップがあった。
「だいたい、これ何?」
俺は、手に持ったままのノートを、女の子に突き出した。
「演出」
「演出……?」
意味が分からず、女の子の言葉を、そのまま疑問系で返してみた。
女の子の表情が、少し影を帯びた。
そして、小さく呟いた。
「……わたし、幽霊」
予想外の言葉に、一瞬、言葉を失った。
突っ込んでいいのか、それとも笑った方がいいのだろうか……。
「……ちなみに、この文字は?」
俺は、蛍光ピンクで書かれたノートの文字を指さした。
「呪いのメッセージ」
何を当たり前のことを訊くのだろう、と言わんばかりの表情だった。
「どうして蛍光ピンクなんだ?」
「本当は赤のペンキが良かったんだけど、コンビニで売ってなくて」
「そうか、幽霊って呪いのメッセージを残すとき、自腹で書く物まで用意しないといけなかったのか……」
幽霊も大変なんだな、と思った。
「で、書いてある言葉がやけに時代遅れというかすでに死語っぽいのはどうしてだ?」
「え? これって定番のメッセージじゃないの?」
女の子が、驚いたように俺の顔を見る。
なるほど、ただ単にこの子のセンスが遅れてるだけ、と。
「あと、この和歌山ラーメンは?」
「風で、ノートが飛ばないように……」
手頃な物がなかったらしい。
「他に何か主張は?」
「水を撒いてみました」
「水?」
「うん。幽霊が消えたあとは、水で濡れてるっていうのが定番だから」
そう言って指さした先のコンクリートは、確かに水で濡れているようだった。
「というか、すでに凍ってるっぽいんだけど……」
この季節、しかも屋上に水を撒けばこうなるのは当然といえば当然の結果だった。
「奮発してミネラルウォーターまで買ったのに……」
心底悔しがる女の子。
俺は心の中で、この子に対する第一印象を書き留めた辞書から『神秘的』という単語をそっと削除した。
「でも、これで信じてくれた? 幽霊だって」
期待を込めたまなざし。
「信じるわけないだろ」
俺の言葉に、一瞬だけ怒ったような顔をしたが、すぐに諦めたような表情に変わった。
「そうだよね……」
言葉は、どこか思い。
「何やってるんだろ、わたし……」
その表情を見て、さっきまでの明るさはどこか無理をしていたのではないかと思った。
「昨日も、一昨日《お と と い》も、結局……」
独り言のように呟いたその言葉は、風に晒されて最後まで聞き取ることができなかった。
昨日、屋上で見た彼女の、思い詰めた表情。
そして、一昨日も……。
「……一昨日?」
自分の言葉に違和感を感じて、思わず言葉に出して呟いていた。
彼女を見たのは、昨日が初めてのはずだ。
「とにかく、そろそろ帰った方がいいんじゃないか? もうこんな時間なんだから」
「……やだ」
小さく、それでもはっきりと拒絶した。
「やだ、って言われてもな。だったらどうするんだ?」
「ファミレスで時間|潰《つぶ》すから」
昨日と同じ制服の女の子……。
「もしかして、昨日も帰ってないとか……?」
「……うん」
頷いたあと、二十四時間営業の漫画喫茶で時間を潰したと付け加えた。
「それって、もしかして家出じゃないのか?」
「……うん」
頷いて、そのままじっと下を向く。
俺が干渉しても仕方ないような気もしたが、かといって放っておくのも心配だった。
家に帰れ、とも言えなかった。
俺も、家を出た人間だから。
「良かったら、ウチに来るか?」
「……やだ」
「食い物もあるけど」
「食べ物だったら、ここにあるもん」
そう言って、カップラーメンを指さす。
「お湯は?」
「…………」
ちなみに、コンビニはお湯をサービスで置いているところが結構あるのだが、そのことは知らないようだった。
「……でも、家の人に迷惑かからない?」
「俺、一人暮らしだから。誰もいない」
「誰もいないのは、ちょっとやだな……」
「自称幽霊なんだろ?」
「うん……あ、自称じゃないもん」
「なんなら、ひとりで使っていいよ。俺はどっか友達の家に泊まるから」
「いいよ。そこまでしなくて」
慌てて、手を振る。
そして、しばらくの後、
「……おじゃまします……」
遠慮がちに、呟いた。
「いいよ、気にしなくて。あ、そういえば……名前は?」
そして、自称幽霊の家出娘、『ひなた』は、成り行きでウチに転がり込むことになった。
[#改ページ]
第四章
「わぁ。ここにひとりで住んでるんだ」
ひなたが、感心したように声を上げた。
俺が暮らすマンションまでは、あの場所から徒歩で十分くらいかかる。
その間、会話らしい会話はほとんどなかった。
ひとつだけ、どうして見ず知らずの男に簡単についていこうと思ったのかを訊ねると、
「悪いことができなさそうなタイプだったから」
と、嬉しくもない答えが返ってきた。
ひなたは、それ以外の道すがらずっと何か考え込んでいるようだったが、着いた途端、急に声を出したので、僕の方がびっくりした。
「家賃とかどうしてるの?」
ひなたが、興味本位といった感じで訊ねてきた。
「家賃は、実家の方から振り込まれてる。生活費も、半分は仕送りだな」
半分とは言ったが、実はバイトをしなくても生活できるくらいの仕送りはあった。だけど、たとえそれが形だけのものだとしても、少しでも自立したかった。
だから、ずっとバイトを続けていた。
「ふーん」と頷くひなたを促して、マンションの中へと入った。
§
「適当に座っていいから」
「うん」
部屋に入ったひなたは、珍しそうに部屋を隅から隅まで見渡している。
手には、まだコンビニの袋を持ったままだった。
「何というか……」
感心したような、呆れた様な声で続ける。
「殺風景だね……」
確かにひなたの言うとおり、部屋の中には必要最小限の物があるだけで、本棚やステレオや机などのなくてもとりあえず困らない品は、ほとんどなかった。
「綺麗でいいと言えばいいのかもしれないけど、どこか寂しい部屋」
そう総評して、フローリングの床に座った。
余計なお世話だった。
「俺、ちょっと出かけてくる」
「どうしたの?」
「夕飯の材料を買ってくる」
飯もあると約束したものの、冷蔵庫には使える物が何も入っていなかった。
「いいよ、これで」
そう言って差し出したコンビニの袋には、おもしになっていたカップ麺が入っていた。
「お湯だけちょうだい。キミにもひとつあげるから」
「分かった」
やかんに水を入れて火にかけながら、ついでに暖房のスイッチを入れた。
エアコンが、大きな音を立ててゆっくりと動き始める。
「けほけほ……ほこりっぽい……」
ひなたが、咳き込みながら口を押さえている。
「おかしいな……毎日使ってるんだけど」
壊れているのかと思ったが、そんな兆候もなかったような気がする。
仕方ないので、もう一度スイッチを押して電源を切った。
カップ麺にお湯を入れている間も、ひなたはきょろきょろと部屋を見回している。
「あ。こたつ発見」
嬉しそうに声を弾ませる。
その視線の先には、実家から持ってきたひとり用の小さなこたつが立てかけてあった。
もっとも、小さいとはいえそれなりにスペースを使うので、まだ一度も使ったことがなかった。こたつ布団に関しては、ビニール袋から出してさえいない。
「使ってもいい?」
俺が頷くと、そんなにこたつが珍しいのか、嬉しそうに組み立て始めた。
やがて、こたつが完成すると、最初はにこにこして布団に潜り込んでいたのだが、すぐに何かに気づいたように立ち上がった。
「ちょっと出かけてくるね」
「ラーメンは?」
「すぐに帰ってくるから。あ、とんこつは残しといてね」
それだけを言い残すと、本当に出ていってしまった。
しばらくして戻ってきたとき、ひなたの手には、大量のミカンの袋があった。
§
「こたつと言ったらミカン」
説明を求めた俺に返ってきた答えは、それだけだった。
今、小さなこたつの上には、カップ麺がふたつと、ミカンが数えるのも嫌になるくらい大量に並んでいた。
「うまうま」
心底おいしそうに、ひなたがミカンを食べていた。
ひなたと俺は向かい合ってこたつに入っている。
この部屋にふたつしかない娯楽アイテムのひとつテレビが、海外の通販番組を放送していた。
ちなみに、もうひとつの娯楽アイテム『UNO』は、枚数を数えたところ何枚か足りないことが発覚、そのまま今は燃えるゴミの袋に入っている。
ひなたは、それが残念そうだった。
いつの間にか五つほどミカンを食べ終えたひなたが、うっとりとした表情で、ドイツ製洗剤の驚きの白さに見入っていた。
そのまま、ゆっくりと時間が流れていた。
ほとんど、会話はなかった。
大量にあったミカンは、随分と数を減らしたが、それでもまだ大量といえるくらいは残っていた。
「理由とか、訊かないの?」
突然、ひなたが口を開いた。
顔はまだテレビのブラウン管の方を向いたままだったが、その視線は画面を見てはいなかった。
どうしてあんなところにいたのか。
何をしようとしていたのか。
そして、どうして家を出たのか。
「興味ない」
「そんな言い方しなくても」
ひなたが、俺の方に視線を向ける。
言葉とは裏腹に、非難するような表情ではなかった。
「まぁ、興味がないって言うのは冗談だけど」
「だけど?」
ひなたが、言葉の先を促す。
「話したくないんだったら訊いても仕方ないし、逆に話したいと思ってるんだったら、訊かなくても話してくれるだろ?」
「そうだね……」
いつの間にか、ひなたは手に携帯電話を持っていた。
「わたしは、どっちなんだろう……」
まるで携帯電話に話しかけるように、視線を落とす。
クマをかたどったストラップの人形が、ひなたの心の葛藤《かっとう》を示すかのように、小さく揺れていた。
[#改ページ]
第五章
朝。
少し体のだるさを感じて、俺は目を覚ました。
そして、まず目の飛び込んできたものは、山のように積まれたミカンだった。
「……ミカン?」
呟いてから体を動かそうとすると、背中に痛みがあった。首もどこかだるい。
ひなたとテレビを見ていたところまでは覚えているのだが、その後の記憶が曖昧だった。
どうやら、そのままこたつで寝てしまったらしい。
「ういっす」
後ろから、突然明るい声で聞こえたかと思うと、後頭部に鈍い痛みが走った。
頭を押さえて後ろを向くと、鉄製のおたまを持ったひなたが、そこに立っていた。
「おはよう」
「お……おはよう……」
「起きた?」
そう言って、おたまを振り回す。
「少なくとも、頭を殴られた時はもう起きてた……」
「あ。それはごめんね。てっきり、まだ寝てるんだと思ったから」
「ミカン、って喋ってただろ……」
「寝言だと思った」
悪びれた様子もなく、にこっと笑った。
笑顔は、始めてみたような気がした。
やはり、どこかぎこちなかったけど。
「それで、朝から何を……?」
「料理」
その言葉通り、台所からは美味しそうな香りが漂っていた。
「泊めてもらってるんだから、これくらいはしないと」
そう言って、台所から次々と食器を運んでくる。
程なくして、朝食の準備が完了した。
「……で、この炊き込みご飯の具がないようなのは?」
俺は、茶碗に盛られたご飯を指さした。
よく見ると、所々に麺のような物が覗いているという、ある意味独創的な外見の料理だった。
「これは、チキンラーメンとご飯を一緒に炊いたもので、炊き込みチキンラーメンご飯。本当は昔のチキンラーメンを使った方がおいしいんだけど。最近のは、ごま油の香りが強すぎてあんまり合わないかも」
合わないんだったら、作らないでほしい。
「それと、この真っ白いスープみたいなのは……?」
よく見ると、細かいネギのようなものが浮かんでいた。
「こっちは、サッポロ一番を牛乳で煮込んだ、サッポロ一番クリーム風味。お好みでバターを入れるとおいしいよ」
「胸焼けしそうだ……」
「朝ご飯にしてはちょっと重い?」
朝じゃなくても重い。
しかし、俺のそんな気持ちを余所に、ひなたは並んだ料理を美味しそうに食べていた。
そうなると、俺も食べないわけにいかない。
もそもそと口に放り込む。
「おいしい?」
「まずくはない」
確かに見た目ほどまずくはないのだが……。
一口食べる度に、胃が悲鳴を上げているようだった。
「久しぶりかも」
ひなたが、箸を止めて呟いた。
「ん?」
「朝ご飯を、誰かと食べるなんて」
「俺もそうだ」
一人暮らしを初めて、誰かと食卓を囲むことなんてなかった。
いや、家族と住んでいたときでさえ、食事はいつもひとりだった。
それ以前に、あれはもう家族とは呼べなかったのかもしれない。
「いいよね、こういうの」
「そうだな」
俺は、素直に頷いた。
「おかわりは?」
「……いらない」
一瞬、場の雰囲気に流されかけたが、これ以上はどう考えても、胃が受けつけなかった。
§
ひなたに留守番を任せて、俺はマンションを後にした。
今日から冬休みなので学校はないが、その分バイトのシフトが大幅に変わって、午後よりも午前に配置される日が多くなっていた。
今日も、そのうちの一日だった。
この時間の商店街は、まだ開いている店の方が少ない。
ほとんどの店が、シャッターの裏で慌ただしく開店準備をしているはずだ。
人通りのあまりない道をひとり歩きながら、気がつくと、ひなたのことを考えている自分に気がついた。
あの場所で出逢った。
フェンスを挟んで、屋上で向かい合った。
あの時の彼女は……多分、飛び降りるつもりだったと思う。
俺も同じ気持ちになったことがあった。だから、分かった。
余計なお世話かもしれないけど、放っておけない気がした。
次の日。
屋上で再会した。
その時は、言葉を交わした。
彼女は、自分のことを幽霊だと言った。
どうしてそんなことを言ったのかは分からない。
彼女は、『ひなた』と名乗った。
そして今、ひなたは俺の部屋にいる。
まだ、何かを抱え込んだまま……。
だけど……。
それでも、今朝の笑顔が完全に作り物だとは、思いたくはなかった。
§
店の前まで来たとき、ちょうどゴミを出していた店長と偶然顔を合わせた。
「おはようございます」
いつものように、普通に話しかけた。
ところが、
「……え?」
店長は、一瞬首を傾げた。
「どうしたんですか? 店長」
「え? いや、今日シフト入ってたかな、と思って」
「何言ってるんですか、今日は午前からですよ」
そのことは、昨日帰りにシフト表を見て確認している。
「ああ、そうだったか……。どうも勘違いしていたようだ」
「しっかりしてくださいよ店長。店長あってのこの店なんですから」
「そうだなぁ。でも……うーん」
冗談半分の会話に、店長はそれでもしきりに首を傾げていた。
とはいえ、そこまで言われると自信がなくなってきた。
「それでは、お先に」
店長より先に店に入って、スタッフルームに貼られているシフト表を確認する。
二十三日の、午前。
しかし、そこには店長が言うように、俺の名前はなかった。
「あれ……?」
今度は俺が首を傾げる番だった。
昨日見たときは、確かにあったと思ったのに……。
「他の日と勘違いしたのかな……」
一応納得はしたものの、それはそれで困ったことになった。
このあとどうしよう……。
「せっかく来たんだから」
事情を説明すると、店長はにこにこと俺の肩に手を置いた。
離さないぞ、という構えだった。
「え、でも……」
「人手も足りないし」
「でも……」
「というわけで、シフト表に名前、入れとくから」
この状態ではさすがに嫌とも言えず、結局昼過ぎまで店を手伝うことになった。
もっとも、最初からそのつもりだったので、それはそれで構わないのだが……。
§
いつものようにタイムカードを押してから、店を後にする。
まだ早いんだからもうちょっと手伝って行かないか、という店長の誘いは、丁重にお断りした。
店長の言うとおり、いつもより早い時間なので、商店街の各店はまだ開いていた。
いつにも増して活気のある商店街。
その理由に、今更のように気がついた。
おもちゃ屋が、今年最後のかきいれどきを逃すまいと、道行く人に、プレゼント用のおもちゃを熱心に売り込んでいる。
ケーキ屋が、限定ケーキをディスプレイに飾っている。
商店街のところどころにあるスピーカーからは、代表的なクリスマスソングが、メドレーで流れている。
赤い電飾。
赤い看板。
いつの間にか、すっかりクリスマス一色だった。
そんな商店街には、親子連れの姿も目立っていた。
子供が、早く早くと母親の手をひいている。
確かその先には、おもちゃ屋があった。
(クリスマスプレゼントか……)
クリスマスに両親からプレゼントをもらった記憶は、ほとんどなかった。
だから、クリスマスが特別な日という認識は、俺の中にはなかった。
何となく居心地が悪くて、俺は足早に商店街を抜けた。
そして気がつくと、あの場所がすぐ近くにあった。
レンガ色の壁は、陽の光の下では、それほど綺麗だとは思えなかった。
道路を挟んで反対側にある白い壁のマンションも、よく見ると白と言うよりは灰色に近かった。
さすがにこの時間は、管理人も居るだろう。
本当にそれだけの理由なのかは自分でも分からなかったが、今は、屋上に登る気がしなかった。
「帰るか……」
家には、ひなたが居る。
そう考えると、すぐにでもあの部屋に戻りたかった。
俺は、ふたつのマンションから視線を逸《そ》らせて、道路の方に踵《きびす》を返した。
その時。
一瞬だけ、そこにあったものが見えた。
それが何か、分からなかった。
だけど、それは大切なもののような気がした。
目を逸らしてはいけないという気持ちが、心のどこかにあった。
そして、それとは正反対の心も……。
「あれ?」
その時、女の子の声が俺を現実に引き戻した。
声の主は、ひなただった。
「どしたの?」
いや、何でもない。
そう言ったはずが、言葉にはならなかった。
のどがカラカラに乾いていることに気がついた。
「いや、何でもない……」
もう一度同じ言葉を繰り返した。
「そう?」
「ひなたこそ、どうしたんだ?」
「お買い物」
ほらっ、とビニール袋を差し出す。
中には、様々な食材が詰め込まれていた。もっとも、その大半はカップラーメンだった。
「さらに」
じゃん、と自信ありげに何かを取り出す。
それは、ポケットティッシュだった。
「商店街の福引きで、げっと」
「それ、ハズレなんじゃないのか……?」
「いいのいいの」
まぁ、本人がいいと行ってるんだから、深くは突っ込まないが。
「そういえば……ここでキミと逢ったんだよね」
ひなたが、眩《まぶ》しそうに顔を上げる。
「そうだな」
同じように、俺も空を見上げる。
「そういや、幽霊なのに昼間うろうろしてていいのか?」
「あ……しまった」
今、初めてそのことに思い当たったように、肩をすぼめる。
「そういえば、全然驚いてくれなかったのは、ちょっとショックだったよ」
「あんなので驚けるか」
「ひどいな」
そう言って、口を尖らせる。
「でも……」
一度、言葉を句切った。
ひなたの長い髪が、風に揺れていた。
「……よかったかな、ってちょっと思う」
「そうか」
今は、その言葉だけで充分だった。
§
部屋に戻ると、ひなたは早速こたつに潜り込んでいた。
いつの間にか、少なくなっていたはずのミカンも、すっかり補充されていた。
俺もこたつに入って、テレビを眺めながら、ひなたと一緒の時間を過ごした。
夕飯は、作りたいというひなたの申し出を断って、俺が用意した。
ごく普通の料理だったが、ひなたはおいしいといって食べていた。
その後は、またテレビを見ながら過ごした。
時折、テレビに映っていたタレントについての、くだらない話をした。
明日の朝もご飯を作るから、とひなたが言った。
絶対にひなたより早く起きよう、と心に誓った。
ひなたが隣の部屋で寝て、俺がこたつで寝ることになった。
おやすみ、と隣の部屋のひなたが言った。
おやすみ、と俺が言った。
時間は、ゆっくりと流れていた。
[#改ページ]
第六章
その日も、朝からバイトが入っていた。
ひなたに見送られて、部屋を後にする。
バイト先の店まで、歩いて約十七分。ずっと通っていた道だ。
朝の街は、まだ人通りはまばらで、昼間の喧噪と比べると、まだまだ夢の中と言った雰囲気だった。
歩道をまっすぐ歩いていくと、やがて商店街の入口が見えてくる。
大きな街の専門店には及ばないが、それでも大抵のものはここで手に入った。
近くに学校もあり、平日の放課後は学生服姿の高校生で賑わうことになる。
道路に面して、様々な店舗が連なっている。
その中には、よく通っていた店や、昔から馴染みのある店も少なくなかった。
もちろん、全く知らない店や、一度も入ったことのない店もまだまだたくさんある。
やがて、バイト先の看板が見えてきた。
今日は、店の前に店長の姿はなかった。
スタッフ用の通用口から中に入って、タイムカードを押す。
その時、おかしなことに気づいた。
タイムカードには、出勤の記録が書かれているのだが、それが消えてしまっていた。
それも、全部消えるのではなく、ここ数日の記録は残っている。
しかし、それ以外の十二月の記録はすべて消えてしまっていた。
普通に考えて、消えることなんてあるわけがない。
もしかすると、店長が何かの理由で新しいタイムカードに取り替えたのかもしれない。
それなら、特に問題はないのだが……。
一応は納得したものの、それでもどこかに違和感を感じて、俺は首をひねった。
とりあえず後で店長に確認するつもりで、その場は店の開店準備を始めた。
今日も忙しくなりそうな気がした。
そして、その予想は的中した。
結局、タイムカードのことは忙殺された。最後まで確認できなかった。
§
仕事が終わり、商店街に出ると、街はいつになく人で溢れていた。
私服姿の学生が並んで歩き、自転車に乗った小学生がその横を通り抜ける。
部活帰りらしく、時折制服姿の学生も見かける。
寄り道をするつもりもなかったので、俺はまっすぐ家に向かった。
その途中、ふと思いだって、もう一度商店街まで引き戻した。
ケーキでも買って帰ろうかと思ったのだ。
手頃な店を探してディスプレイをのぞき込むと、その大半はクリスマス向けの大きなケーキだった。
さすがにホールを買うつもりもなく、適当にピースでいくつか選んだ。
ひなたの好みははっきり言ってよく分からないが、ケーキはとりあえず無難なのを見繕った。
クリスマス用の包装は断った。
サービスのサンタのろうそくは、一応買っておいた。
§
「ただいま」
部屋に戻ると、こたつに入っているひなたの姿が見えた。
ひなたの携帯電話が床に落ちていた。
ひなたは、こたつのテーブルに頬をつけて、目を閉じていた。
眠っているようだった。
時折、安らかな寝息が聞こえる。
長い髪の上には、ちょこんと赤いリボンが載っている。
俺は、音を立てないように注意して部屋に入ると、携帯をテーブルの上に戻してから、ひなたの向かいに座った。
そっと、ケーキをひなたの横に置く。
さすがにこたつに入ると起こしてしまいそうなので、そのまま壁にもたれかかった。
ひなたの寝息は、規則正しく空気を揺らしている。
俺も目を閉じて、訪れる闇に体を預けた。
街の喧噪も、部屋の中までは届かない。こうしていると、時間が止まっているようにも思える。
だけど、そんなことはなくて……。
時間は今も流れている。
少しずつ、何かが崩れているような気がした。
それが何か考える間もなく、俺の意識は混濁の中へと吸い込まれていった。
§
「……あっ。ケーキ発見」
そんな声が聞こえてきて、俺は目を覚ました。体のだるさはあまりないので、それほど長時間は寝ていないようだった。
時間を確認しようと腕時計に視線を落として、すぐに止まっていることを思い出した。
このままだとさすがに不便なので、早めにどこかの電気屋で、電池を交換しないといけないと思った。
「これってケーキだよね?」
眠気を振り払うように頭を降っていると、目の前にひなたの無邪気な顔があった。
期待に満ちたまなざしで、俺の顔と、こたつの上の白い箱とを交互に見つめている。
「そうだよ」
「食べてもいい?」
「そのために買ったんだから」
「嬉しいな。お皿、取ってくるね」
言葉通りの表情で、台所に消える。
そして、すぐに皿とフォークを持ってくる。
「ケーキ皿なかったから、ちょっと大きいけど」
いつの間にか、どこに何があるのかすっかり把握しているようだった。
「でも、どうして突然ケーキなの?」
「食べたくなったから」
クリスマスだから、とは何となく言えなかった。
ひなたは、てきぱきとケーキを取り分けていった。もっとも、自分の食べたいものを先に選んでいるだけのようだったが。
その途中で箱の中のサンタのろうそくを見つけて、嬉しそうにテーブルに置いた。
「火、つけないのか?」
「つけたら、なくなっちゃう」
そういうものなのかと納得して、俺はテーブルの上のサンタの顔を眺めていた。
「いただきます」
準備が整い、ひなたが手をそろえる。
早速、生クリームを口にほおばりながら、ひなたは満足そうだった。
「……おいしいね」
「そうだな」
俺もケーキを口に運びながら、頷く。
「……おいしい……ほんとに……」
「ひなた?」
「…………」
ひなたの様子がおかしいことに気づいて、俺は顔を上げた。
フォークが、力無くケーキに刺さっていた。
ひなたは俯いていて、表情は前髪に隠れて見えない。
「わたしね……」
力のない声。
途中から、言葉になっていなかった。
ひなたはゆっくりと顔を上げて、俺を正面から見つめた。
瞳には、涙が溜まっていた。
そして、もう一度、言葉にならなかった声をもう一度繰り返す。
「わたしね……お母さんに、殺されかけたの」
押し込めた声は、まだ小さく震えていた。
だけど、その中には確かな決意があった。
「話したくなければ、話さなくてもいいよ」
「ううん。聞いて欲しい」
ひなたは、首を横に振った。
そして、ゆっくりと、ひとつひとつ自分でも確認するように、言葉を紡いだ。
§
ひなたは、両親と一緒に暮らしていた。
他に姉妹はいなかった。
どこにでもある、普通の家庭だとずっと信じていた。
そのことを疑ったことなんてなかった。
だけど、実際は違っていた。
日常が薄っぺらいメッキでできていたことに気づいたのは、母親が何か宗教のようなものを始めてからだった。
それから、少しずつ母親が変わっていったような気がした。
だけど、ひなたはそのことに気づかないふりをしていた。
そしてある日、父親が姿を消した。
それから、母親の様子は今までに増しておかしくなっていった。
それでもひなたは、それが普通の家庭であると信じ続けた。
現実には、目を背《そむ》けた。
そしてある夜。
眠っていたひなたは、腹部に鋭い痛みを感じて目を覚ました。
ナイフのような物が、自分の体に刺さっていた。
それが普段から使っている包丁だと気づいたとき、同時に、そこに立っている自分の顔を見てしまった。
母親だった。
包丁を両手で持ち、覆い被さるように、闇の中にいた。
ひなたが目を覚ましたことを知ると、母親は包丁を握った手にさらに力を込めた。
声を出すことはできたのかもしれない。
抵抗することもできたのかもしれない。
だけど、ひなたは、それが母親の望みのような気がして、母親の望みを叶えてあげたいと思って、押しのける手の力を、弱めた。
ひなたの抵抗がなくなると、母親はとまどったように手を離した。
そして、飛び降りた。五階の窓から。
§
「それから、お母さんの意識は、まだ戻らない」
ひなたが、ゆっくりと深呼吸するように息を吐く。
「お母さんは、わたしと一緒に死のうとしたんだと思う」
ケーキには、フォークが刺さったままだった。
「でも、わたしは死ななかった」
フォークの重みに耐えられなくなり、ケーキが崩れた。
「治療が終わって、ひとりで退院した時も、まだお母さんはベッドの上だった。
それから思うようになった。
わたしは、あのとき死んだ方が良かったのかな……って」
俺が口を開きかけるのを、ひなたが制した。
「お母さんが望んでいるんだったら、お母さんがそれを喜んでくれるんだったら……」
一息で喋ったあと、
「昔の、優しかったお母さんに戻ってくれるんだったら……」
最後にそう付け加えた。
「だからわたしは、お母さんの望みを叶えようとした。あの日、屋上で。
でも、ダメだった。勇気がなかった。
次の日、フェンスの向こうにキミの姿が見えた。どうしてか分からないけど、安心できた。
その次の日も、キミに出逢った。
わたしは、お母さんに殺された。
だから、今のわたしは幽霊なんだって、そう思った……。思いこもうとした」
「でも、生きてる」
「……うん」
俺の言葉に、ひなたが俯く。
「だったら、それで良かったんだ。ひなたは、飛び降りなかったんだから」
「…………」
「本当は、飛び降りない方が勇気がいるんだ」
「…………」
ひなたは、無言のまま。
それでも、ゆっくりと顔を上げる。
「……お母さんの意識、戻るよね?」
「戻るよ」
「……そうだよね」
無理にでも笑おうとしていた。
たとえ作り笑いでも、笑えば少しは心が軽くなる。
「あ……せっかくのケーキ、こんなになっちゃった」
もう一度フォークを持って、崩れてしまったケーキを残念そうにつつく。
「俺のケーキ、食うか?」
「……食う」
また少しだけ、笑った。
[#改ページ]
第七章
冬の日が、ゆっくりと流れていく。
昨日が終わり、今日が終わり、明日も終わる。
今年から来年へと移り変わっても、ひなたはまだこの部屋に居た。
「もう少ししたら、一度帰ろうかと思う。あ、ウノ」
新しく買い直したUNOカードをこたつの上に並べて、ひなたがそう言った。
あれから何日かが過ぎて、ひなたの心境にも変化があったようだった。
「ああ。それがいいよ」
たとえ今は誰もいない場所でも、帰るところがあるのなら帰った方がいいと思った。
俺は、どうなんだろう、と自分に問いかけた。
「楽しかったよ。はい、勝ち」
しかし、自分自身の答えはまだ見つからない。
「また、遊びに来るよ」
「楽しみに待ってるよ」
「ほんとに?」
「多分」
ミカンを一個、ひなたの方に置く。
これで、手元のミカンは全部なくなった。
「いいよ、勝手に来るから。鍵の隠し場所、知ってるもん」
短い冬は、それでももう少しだけ続く。
まだ時間は残っている。
あと少しだけでも、日常がここにあればいいなと思った。
だけど……。
何かが崩れる音は、俺の中で少しずつ大きくなっていく。
「もう一回、勝負」
「俺、もうかけるものないよ」
あとほんのわずかな時間だけでも。
この世界が続けばいいと思った。
その音に、耳を塞ぎながら。
[#改ページ]
第八章
その異変に気づいたのは、止まってしまった腕時計の電池を交換しようと思い立ち、街に出た時のことだった。
ついて行くというひなたを、すぐに帰ってくるからと部屋に残し、商店街の中でも一番近くにある電気屋に立ち寄った。
「これは、ちょっと修理は無理だよ」
店の主人は、腕時計を見るなり顔をしかめた。
「え? 電池が切れただけじゃないんですか?」
まさか壊れているとは思わなかったので、驚いて訊ね返す。
「そんなわけないじゃないか」
怒ったように時計を突き返す店主の表情は、冗談を言っているようには見えなかった。
「いったい、どうやったらこんなになるんだ?」
突き返された腕時計は、確かに俺がずっとつけていたものだった。
しかし、その時計は、まるで文字盤をハンマーか何かで叩きつけたように、無惨な姿になっていた。
ガラスが、文字盤ごと粉々に砕けていた。
長針と短針が、まるで縁日《えんにち》の飴《あめ》細工のように曲がっていた。
何かが、音をたてて崩れていくのを感じた。
気がつくと、俺は店を飛び出していた。
混乱していた。
何が起こったのか分からなかった。
今からでも店の店主が追いかけてきて、冗談だよと言って笑ってくれることを期待していた。
だけど、混乱する頭は、それでも確実にひとつの結論にたどり着こうとしていた。
時計は、最初からこの状態だった。
ただ、俺がそのことに気づかなかっただけ。
いや、正確には、時計が壊れたことを忘れようとしていただけだった。
今思えば、その兆候は少しずつあったのかもしれない。
だけど、それはあまりに些細なことで、俺はその兆《きざ》しに気づくことはなかった。
いや、もしかしたら、本当はとっくに気づいていたのかもしれない。
ただ、気づいていないふりをしていただけ。
ひなたに逢いたい。
心から、そう思った。
ひなたを、あの少女を守りたかった。
あの時、屋上で向かい合った少女。
自分と同じ傷を持つ少女。
しかし……。
部屋に戻った時、そこにひなたの姿はなかった。
靴も、なくなっていた。
(少し、出かけてるだけだ……)
こたつの上に、ひなたの携帯電話が残されていた。
(俺の帰りが遅いから、心配して迎えに行ってるんだ……)
携帯電話のディスプレイには、受信メールがそのまま表示されていた。
(だから、すぐに帰ってくる……)
そのメールは、母親の死を伝えるものだった。
§
街は、すでに夜に包まれていた。
陽は落ちて、替わりに街の所々で人工の灯りがともる。
道行く車はヘッドライトを点灯させて、灰色の道路を照らしている。
商店街では街灯が光り、ショーケースのガラスがその光を反射してきらきらと輝いていた。
しかし、この場所だけは、街から隔離されたかのように、闇に包まれていた。
まるで、街の上に建つ四角いステージのようだった。
その場所には、あの日のようにひとりの少女の姿があった。
場違いな制服姿で、じっとたたずんでいた。
腰まである長い髪が、夜風に流れていた。
赤いリボンが、闇に溶けることなくその場所に存在していた。
少女の姿が、まるで下からのスポットライトに照らし出されるように、闇の中に浮かんでいた。
スポットライトは、街の灯り。
闇に浮かぶステージは、屋上のアスファルト。
そして、そこに立つ少女の名は……ひなた。
ひなたを初めてこの場所で見たのは、もう二週間近く前のことだった。
その時のひなたは、そこにいた俺の存在には気がつかなかった。
当たり前だ。
なぜなら……。
「お母さん、死んじゃった」
ひなたが、口を開いた。
「どうしたらいいんだろうね、わたし」
口調は、拍子抜けするくらい淡泊だった。
だけど、その表情は、初めてひなたを見たときと同じく、深い絶望に固く閉ざされていた。
「これでもう、お母さんが何を望んでいたのか、分からなくなっちゃった」
ひなたと初めて出逢った日。
俺が闇の中からひなたの存在に気がついたとき。
この少女を守りたいと思った。
きっと、あの時の自分と同じ目をしているであろう少女を、守りたいと心から思った。
だから、俺は再び偽りの日常へと戻ってきた。
「今なら、飛べるかな」
ひなたの足下には、深い闇があった。
街の灯りも、そこから見える景色も、今のひなたには存在しなかった。
見えているのは、ただ、漆黒の闇。
すべてをなかったことにしてくれる、どこまでも広がる闇。
「飛び降りない勇気、もう、ないかもしれない」
「だったら、どうして俺が来るまで待ってたんだ」
屋上に足を踏み入れたとき、ひなたは驚いた様子もなく、ゆっくりと俺の方を向いた。
飛び降りるつもりなら、その機会はいくらでもあったはずだ。
「ひなたは、飛び降りなかった。一度躊躇した人間は、もう飛ぶことはできない」
それは、まだ現実と向き合う勇気があったから。
だから、飛び降りなかった。
「だけど……」
だけど……。
「俺は……飛び降りたんだ」
「…………」
ひなたの表情が、こわばる。
「俺は、勇気がなかったから」
それは、一人暮らしを初めて、すぐのことだった。
俺がいないことを、両親が望んでいると思った。存在しなくてもいいんだと、そう思った。
だから、一歩を踏み出した。
夜の街が綺麗だと気づいたのは、その時だった。
街の景色がすぐ近くにあった。
だけど、それはほんの一瞬だけだった。
その先には、真っ黒な地面があった。
その時、固いアスファルトにぶつかって、時計が壊れた。
最後に、まるでろうそくの炎が消える時のように、一瞬だけ大きな感情のうねりがあって、そして完全に消えた。
それは、激しい後悔だったような気がする。
「……幽霊は、わたしじゃなかったんだ」
どこか自嘲気味な言葉だった。
「ほんというとね、キミのこと、なんとなく気づいてた」
「そうか……」
「だって、あの部屋、もう何ヶ月も使ってないみたいに埃《ほこり》が溜まってたし、それに賞味期限が切れた食品がいくつも出てきたし……。それに……」
言いづらそうに、その後の言葉を飲み込んだ。
だけど、それもわずかな時間だった。
「それに……昼間、見つけたの。このマンションの裏通りで」
バイトが早く終わって、ひなたと偶然出逢ったあの時。
「小さな供養碑《く ようひ 》。キミの名前が彫られてた」
俺はあの時、事実から目を逸らした。
何も見なかった。
そう……信じたかった。
「なんてね。……いつまで冗談を続けてるのよ」
ひなたが、すぐ目の前に立っていた。
「そんな子供だましで驚かないからね」
言葉とは裏腹に、涙で滲んでいた。
「わたしが驚かそうとしたから、その仕返し?」
感情が溢れ出て、その声がうわずっていた。
涙を隠そうともせずに、詰め寄る。
「嘘だよね? 冗談だよね? 何とか言ってよ……」
「俺が死んだ後……父さんと母さんが、泣いてたんだ」
いやいやをするように、ひなたが何度も首を横に振る。
俺は、そんなひなたから目を逸らさず続けた。
「俺のことなんてどうでもよかったはずのふたりが、供養碑の前で、揃って泣いていた」
「分かったよ……分かったから……」
「俺は、その姿を、閉ざされた闇の中で見ていることしかできなかった」
だから……。
「だから、ひなたのお母さんも、きっと……」
「分かったから……分かってたから……だから、これ以上喋らないで……」
ひなたは泣いていた。
ずっと泣き続けていた。
腕の中に、ひなたの温もりがあった。
§
いつの間にか、夜が明けていた。
それはまるで、闇が朝の光に洗い流されていくようだった。
隣には、寄り添うようにひなたがいた。
「……今日、帰るよ」
ひなたが、そう呟いた。
「……キミは?」
「俺も、そろそろ時間だな」
日常のほころびは、限界にあった。
もう、学校へ行っても、バイトに顔を出しても、俺の居場所はないだろう。
「でも、ひなたを家に送っていくくらいの時間はある」
「よかった」
「そうだな」
「何、その生返事は?」
「何と言われても……」
「大体ね、キミは何も分かってない!」
ひなたが、顔を寄せる。
「キミは全然分かってないみたいだから言うけど、わたしは、キミが居なくなるのも悲しいんだからね!」
「そうなんだ」
俺の言葉に、やれやれとため息をつく。
「まだ分かってない」
俺が反論しようと顔を向けると、唇に温かな感触があった。
「……光栄に思え」
顔を離して、ひなたが照れたような笑顔で呟いた。
「ああ」
それは、俺が知っている中で、一番の笑顔だった。
[#改ページ]
エピローグ
そこは、新学期の教室だった。
短い髪の女の子が、肩にかかった後ろ髪を気にしていた。
窓が開いていた。
前髪が、風に揺れていた。
ふと、一番後ろの机に目が留まった。
誰もいない机。
いつからか、そこにあった机。
まるで、誰かがそこを使っていたかのように、その場所に存在していた。
女の子は、ふと首を傾げた。
何か、大切なことを忘れているような気がした。
新学期になったら、冬休みが明けたら、伝えようと思っていた言葉があったような気がした。
だけど、どうしても思い出せなかった。
誰に伝える言葉だったのかさえ、思い出せない。
もう一度、風が吹いた。
いい天気だった。
窓枠の影が、くっきりとその机に落ちていた。
一瞬だけ、何かを思いだしたような気がした。
少し、幸せだった。
そこは、人のたくさん集まる場所だった。
風に揺られて、甘い香りが店の前まで漂っていた。
順番を待つ列の中に、おさげ髪の女の子の姿があった。
時々背伸びをしながら、一生懸命メニューを見ていた。
その店の中では、店長が、アルバイトのシフト表を眺めながら、しきりに首を傾げていた。
もうひとりくらい、アルバイトが居たような気がした。
だけど、すぐに自分の勘違いだと思い直した。
そして、近くにあった求人雑誌に電話をかけて、求人広告の掲載を依頼した。
誰かに、バイトを増やすように言われたような気がしたからだ。
そこは、マンションの一室だった。
少し前まで、ひとりの少年が住んでいた。
少年がいなくなったあとも、両親の希望で部屋は新たに貸し出されることもなく、そのままの姿で時を刻んでいた。
部屋の中には、小さなこたつが敷かれていた。
まるで、今も誰かが生活をしているようにも見えた。
こたつの上には、ミカンが山のように積んであった。
その横には、サンタクロースのろうそくが置かれていた。
ろうそくの芯は、新しいままだった。
その表情は、まるで、火をつけられなかったことを、ほっとしているようにも見えた。
そこは、路地の裏にあった。
背の高いマンションの下に、ひっそりと花が添えられていた。
当時はたくさんの花で埋め尽くされていたその場所も、今ではすっかり忘れ去られていた。
女の子が立っていた。
赤いリボンの女の子が、手を合わせていた。
真新しい線香の煙が、細い路地に流れていった。
顔を上げて、女の子が言葉を紡いだ。
やがて、女の子はゆっくりとその場所から立ち去った。
そこには、一冊のノートが置かれていた。
あの、初めて言葉を交わした時の大学ノートと、同じものだった。
風が、吹いていた。
穏やかな風が、ノートのページをめくった。
同じノート。
そして、同じ蛍光ペンの文字が覗いた。
丸い文字で書かれていた。
すべてが、あのときと同じだった。
でも、たったひとつ、そこに記された言葉だけが違っていた。
そこには、たった一言だけ、
『ありがとう』 ――と。
[#地付き]original story "HINATA" −Fin.−
[#改ページ]
あとがき
「みさきです」
「雪見です」
「というわけで、あとがきです」
「もう、どうしてわたしたちがあとがきに出てくるのか合理的な説明は何もなしですが、気にしないでください。お約束ということで」
「お約束だったんだ……」
「言ったもの勝ちよ、こういうのは」
「というわけで、今回の『HINATA』なんだけど……どう? 雪ちゃん?」
「薄っ」
「雪ちゃん……ここで解説始めて一年半になるんだから、そろそろ、もうちょっと解説らしいこと言おうよ……」
「反対側が透けて見えるわ」
「さすがに、そんなに薄くはないよ」
「それにしても、当初の予定よりはかなり短くなったんじゃないの? ポプルスの石川さんも大わらわよ」
「……消えたからね」
「何が?」
「……データ」
「……また? 確か、二年前の『おねめも』の時も、ハードディスクから突然火花が出て、データが全部消えちゃったんじゃなかった?」
「あの時は、締め切りまで余裕があったから、同人誌の原稿に関してはそれほど深刻ではなかったんだけど……」
「今回は深刻だった、と?」
「かなりね……」
「ぶっちゃけた話、今回、この状態でよく本が出たわね」
「しかも、ぎりぎりまで何度もプロットを変更したり、内容を修正してたりしてたからね……。時間ないのにね」
「だから、カバーのあらすじが本編と微妙に違うのね」
「雪ちゃん、それは黙ってたら分からないのに」
「分かるって」
「今度こそ、内容についてなんだけど?」
「Cork Board初のオリジナルってことなんだけど、所々にあの作品とかあの作品とか昔懐かしいあの作品とかの世界観が混じってるわね。あ……あの作品は入ってないか」
「そうだね。混じってるといっても、隠しキャラとか隠し設定みたいな感じで、知らなくても読む分には何の問題もないけど」
「そうね。元のゲームを知らなくても読めるのは、Cork Boardの同人誌の中で、初めてじゃないかな」
「今後も、そうなるのかな?」
「うーん、どうかな……」
「雪ちゃん、他に何かある?」
「余談なんだけど、本編でひなたが作ってた料理は、どれも実際にテレビの料理番組で紹介されていたものだそうです」
「そうなんだ」
「といっても、かなり前の話で、しかも関西ローカル局だったから、知ってる人はほとんどいないと思うけど。ちなみに、もし実際に作ってみて、まずかったりその後の体調に異変があったりしても、一切責任を負いませんので……」
「でも、おいしそうだったよね?」
「……うそ?」
「最後に、次回予告なんだけど」
「次こそは、『MOON.』を書きたいらしいよ」
「そういえば、毎回申込書の販売予定に、『MOON.』って書いてるよね」
「一度も実現してないけどね」
「あくまでも、予定だから」
「じゃあ、この予告も予定ってことで」
「弱気だね、雪ちゃん」
「まだ、年内いっぱいは厄年だから……」
「……誰が?」
「それでは最後に、本書を手に取っていただいたみなさんと、お忙しい中イラストを描いてくださったBRAIN SOFTの雨音響様、そして、毎度毎度思いつく限りのご迷惑をおかけしてもはや合わせる顔がないポプルス印刷様に心からの感謝をしつつ、あとがきを終えさせていただきます」
「それではまた」
「次の冬コミでお会いしましょう」
「雪ちゃん、コミケって夏もあるんだけど……」
[#地付き]某月某日某所にて
[#地付き]本文 久弥直樹《ひさや なおき 》
[#地付き]表紙 雨音響《あまねひびき》
[#地付き]サークル「Cork Board」発行
[#地付き]同人誌「HINATA」所収(2001.12.30)