SEVEN PIECE 〜『ONE 〜輝く季節へ〜』『Kanon』より〜
久弥直樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
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この作品は、株式会社ネクストン/タクティクスより発売されています、『ONE 〜輝く季節へ〜』の設定及び、株式会社ビジュアルアーツ/KEYより発売されています、『Kanon』の設定を使用しています。
なお、本作品内における、ゲーム中にはオリジナルの設定及び登場人物は、オフィシャルなものではありません。
純粋に、たくさんの方が発表されています『ONE』『Kanon』のサイドストーリーのひとつとして、楽しんでいただけると幸いです。
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目次
はじめに
first snow
first snow II
ユキの流れ落ちた街で
夏日
Four Rain
SEVEN PIECE "first snow III"
あとがきにかえて
[#地付き]カバーイラスト 篤見唯子(薄荷屋)
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はじめに
初めまして、もしくはお久しぶりです。
久弥直樹です。
去年の冬コミ以来約半年ぶりの新刊は、何とか予告通りONE、Kanon短編集をお届けすることができました。
今回もいつものように、時間との戦い(しかも分単位)となってしまいましたが、とりあえず完成にこぎ着けることができました。
でも、もうあらかじめ次回作の予告は絶対にしません……。
さて、今回は先に書いた通り、多分短編集です(ちょっと変ですが)。
というわけで、最後の『あとがきにかえて』以外は、どこから読んでも楽しめるようになっています。
通勤通学途中の電車の中や、歯医者の待ち時間等、暇つぶしの材料として役立てていただければ、苦労して文庫本の装丁にこだわった甲斐もあります。
ただ、相変わらず僕の力不足で、原作を知らないとほとんど楽しめない内容になってしまいます(そういえば、『ONE's MEMORY』を全然ゲームは知らないけど読みました、という感想を頂きました。嬉しいような嬉しくないような、複雑な心境です)。
それと、これは冬コミで発行した折り本、『first snow』のあとがきで書いたのですが、僕はできるだけゲームの主人公を登場させたくないという考えでサイドストーリーを書いています。 ユーザーの方々ひとりひとりに主人公が存在するでしょうし、名前も様々だと|思《おも》ったからです。
でも、主人公不在の書き方がだんだん辛くなってきたので、いつか挫折して、ひょっこり登場させるかもしれません……と予告したのですが……。
いきなり挫折しました。
今回、あっさり登場しています。
相沢祐一君です。
「誰、それ?」
と思う方もいらっしゃると思いますが、Kanonの主人公です。
以後、お見知り置きを……。
本編の内容に関しては、『あとがきにかえて』で色々と書いていますので、ここで多くは触れませんが、今回も、相変わらず何だか奥歯に物の挟まったような曖昧《あいまい》な場面が多数出てきます。
あまり明確に『答え』を示したくない為に、そういった表現に留まっているのですが、そこはみなさんの想像力にお任せします……(いい加減で申し訳ないです)。
あと、あまり意味はないですが、最初の六本は全て時間軸通りの順番に並んでいます。
最後になりましたが、忙しい中カバーイラストを描いてくださいました、篤見唯子さん、本当にお世話になりました。
当日、レヴォの会場ではもっとお世話になるかもしれませんが、そのときは宜しくお願いします。
そして、例によって無茶なスケジュールを| 快 《こころよ》く(?)了承してくださいました、ポプルス印刷様有り難うございました。
そして、最後になりましたが、本書を手に取って頂いたみなさんに、感謝の念を抱きながら、この場をしめたいと思います。
では、本編でお会いできると幸いです。
[#地付き]二〇〇〇年五月某日
[#地付き]久弥直樹
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first snow
[#地から5字上げ]『Kanon』より
1999.1.6 pm 2:05
雪が降っていた。
灰色の空を埋め尽くすように、真っ白な結晶が小さな体を揺らしながら、雪の街に舞い降りていた。
どこまでも広がる雪景色がガラス張りの駅ビルに映り込んで、それこそ永遠に続くかと思うほどの雪の螺旋を形作っていた。
「……寒いよ」
わたしは見上げた空から視線を逸らして、白い吐息と共に呟《つぶや》いた。
もう、どれくらいの時間、流れる雪を見ているのだろう……。
制服に積もった雪の結晶は、白く姿を変えて、わたしをそのまま覆い隠すように、その存在を増している。
白い傘を差す人の影は、雪が強くなると共にその姿を少なくしていた。
「……何をしてるのかな、わたし」
部活を早退して、雪に埋もれながらベンチに座っている。
ただ、それだけ。
雪が落ちると共に、時間も流れていく。
「……約束の時間、とっくに過ぎてるよね。怒ってるよね、きっと」
白く雪の積もった腕時計に視線を落とす。お母さんから聞いていた時間は、既に一時間以上も過去の出来事になってしまっていた。
待ち合わせの場所は、駅前のベンチ。
わたしが今座っている場所も、駅前のベンチ。
だけど、その距離は離れていて、ここからでは、あの人の姿を確認することもできない。
たった一言でいいのに。
久しぶりだね、って声をかけるだけでいいのに。
どうして、そんな簡単なことがわたしにはできないんだろう……。
それは、いつか見た風景。
どんなに忘れようとしても、あの時の、思い出と呼ぶには辛すぎる記憶がわたしを苛《さいな》む。
最後にたった一言、さよならさえも言えなかったあの遠い日。
泣きながらベンチに座っていたわたしを見付けてくれたのは、優しい手で雪を払ってくれたのは……あの人ではなかった。
悲しくて、でもどうしようもなくて。
そのことを忘れたくて、それでも忘れられなくて。
だけど、七年という歳月は、わたしの中からあの人の存在を削り取っていた。
本当に少しずつだけど、それでも確実に……。
だから、昨日お母さんからあの話を聞かされた時、わたしは曖昧に頷《うなず》くだけだった。
そして、今、あの人は、わたしのすぐ近くにいる。
わたしの座っているベンチから少しだけ離れた場所で、いつまで経っても現れない迎えのことを、きっと怒っていると思う。
それなのに……。
「……ほんとに、何してるんだろう、わたし」
もう、あの時とは違うのに。
わたしも随分《ずいぶん》と変わったと思うし、遠くから見たあの人も、小学生のころの面影はほとんどなかった。
もしかしたら、もうわたしのことなんて覚えていないかもしれない……。
変わってしまったわたしに、気づかないかもしれない……。
あの日のプレゼントのことも、わたしの言葉も、そして、わたし自身のことさえも……。
全部、あの遠い日に置き忘れたままかもしれない……。
「……寒いよ、ほんとに」
雪が、空に積もっている。
さっきよりも、ずっと。
時間だけが、通り過ぎる。
ベンチに座った、わたしの隣を……。
「わたしは……」
わたしは、怯《おび》えていた。
心が、得体の知れない何かを、怖がっている。
あの人がわたしを覚えていないことと、覚えていることの、どちらに怯《おび》えているのか……。
今のわたしには、まだ分からなかった。
1999.1.5 pm 5:46
「思ってたより、面白かったわね」
体をほぐすように背伸びをしながら、香里《かおり 》がすっかり暗くなった空を見上げる。
この季節の日没は本当に早くて、映画館に入った時の明るさが嘘のように、駅前はすっかり闇と街灯の光に包まれていた。
家を出る前に見た天気予報では、夜から雪になっていたけど、今のところ、その予報はハズレのようだった。
「この前の映画なんか、前評判の割にいまいちだったものね。やっぱり、実際に見ないと映画は分からないわね。そう思うよね、名雪《な ゆき》?」
「……思わないもん」
嬉しそうに訊ねる香里に、わたしは一言だけ返す。
少し頭痛がする……。
あと、首も少し痛いかもしれない……。
「そう?」
香里はわざとらしく不思議そうに首を傾げながら、言葉を続ける。
「今日の映画なんて、ラストシーンが良かったと思わない? まぁ、ちょっとありがちな展開と言えば、そうなんだけど」
「……見てないから分からないもん」
「どうしたの、名雪? ご|機嫌《き げん》斜めね」
「最初のシーンしか覚えてないよ〜」
「そうでしょうね。熟睡してたみたいだし」
「香里のいじわる〜。気づいてたんだったら、起こしてよ〜」
「そう思ったんだけど、名雪があんまり気持ちよさそうに、くーって寝てたから」
「映画、わたしも見たかったよ……」
冬休みに入る前から、ずっと楽しみにしていた映画だったのに……。
やっと、部活が休みになったのに……。
「最近の映画は、すぐにビデオでレンタルされるから、また見られるわよ」
香里が、おかしそうに笑う。
言葉では同情しているふうだけど、実際は、からかっているだけのようだった。
それでもあまり腹が立たないのは、香里の人柄のせいかもしれない。
「映画館の大音響がいいの」
「その大音響で熟睡できるんだから、凄いよね、名雪って」
「……嬉しくないよ」
「だって、誉めてないもの」
「香里……黄色いジャム、好き?」
「ご、ごめん、名雪。今度はちゃんと起こすから」
慌てて手を振るクラスメートの姿に、わたしは笑顔を返す。
「それだったら、また一緒に見に来ようよ」
鮮やかにライトアップされた映画の看板を見上げながら、わたしは冷たい空気をゆっくりと吸い込んだ。
お腹の中に冬の空気が入り込んで、やっと目が覚めたような気分だった。
「また、同じの見るつもりなの?」
「うん。まただよ」
「暗くなると間違いなく寝るでしょ、あなたは」
「そんなことないもん。今度は一生懸命見るもん」
「……まぁ、いいけどね」
「うんっ」
頷《うなず》くわたしに、小さくため息をついた香里の表情が、すぐに破顔する。
「その代わり、今度は名雪のおごりね」
「わ。それはちょっと……」
「冗談よ」
鮮やかにライトアップされた駅前を抜けて、わたしと香里は、ゆっくりと家路についていた。
時刻はまだ夕方だけど、空はすっかり夜のとばりが下りきっていた。
まばらに並ぶ街灯の先には、商店街の灯りがぼんやりと闇を照らしていた。
「ねぇ、名雪。商店街寄っていこうか?」
「今から?」
「そろそろお腹も空いてきたし、何か食べて行かない?」
「うーん、そうだね……」
袖《そで》をちょっとまくって、時間を確認する。
まだ、大丈夫そうだ。
「それなら、百花屋さん」
「また?」
「またじゃないよ。まだ今年になってから、一度も食べてないんだから」
新しい年が始まって、もうすぐで一週間。
短かった冬休みが終わって、あっという間に三学期。
そして、気がつけば桜に囲まれた新しい季節が顔を覗かせる。
何も変わらない生活だけど、それでも充実している毎日がそこにはあった。
今までも、そして、これからも……。
§
「いつも思うんだけど……」
メニューをウエイトレスさんに手渡してから、香里が小声で呟《つぶや》く。
「メニューにある、ジャンボミックスパフェデラックスって、頼む人いるの?」
「多分、いるんじゃないかな? わたしは一度も見たことないけど」
綺麗《き れい》に装飾された喫茶店の中で、わたしと香里は二人がけのテーブルに向かい合って座っていた。
時間が中途半端なので、お客さんの姿はまばらだった。
だけど、あと三十分もすれば、軽い夕食を求めて、店内は満員になる。
「大体、値段が普通じゃないわよ。どうして、三千五百円もするの」
「イチゴサンデーが四つも食べられるね」
久しぶりに注文したイチゴサンデーを待ちわびながら、水を口に含む。
「きっと、たくさんイチゴが入ってるんだね」
「どうして、あなたの食べ物に対する判断基準はいつもイチゴなの」
呆《あき》れたような、そんな香里の口調だった。
「もし、宝くじで一等が当たったら、わたしはジャンボミックスパフェデラックスを食べるよ。それがわたしの夢なんだ」
「簡単に叶いそうな夢でいいわね、名雪は」
「香里は?」
そう問い返したところで、注文していたメニューがテーブルに届く。
わたしがイチゴサンデーで、香里がミックスジュースだった。
香里が、ストローを袋から出して、
「あたしの夢……」
その袋を指先で丸めながら、独り言のように呟《つぶや》く。
「……あたしの夢も、名雪と一緒よ。くだらなくて、バカバカしくて……」
「香里、さりげなく酷《ひど》いこと言ってない……?」
冗談交じりに返したわたしの言葉だった。
だけど、香里は真剣な眼差《まなざ 》しで、窓の外の風景に視線を送っていた。
「……本当なら、簡単に叶ってしまうような……。簡単すぎて、それが願いであることすら気づかないような……。そんな、ありふれた夢よ」
「香里……?」
クラスメートの|雰囲気《ふんい き 》がいつもと違うことに気づいて、わたしはスプーンを動かす手を止めた。
そんなわたしの様子に気づいたのか、香里も手を止めてわたしを見る。
「今の、ちょっと格好良かった?」
「何言ってるのか分からなかったよ……」
「だったらいいわ。気にしないで」
そこには、いつも通りの香里の姿があった。
「うん……」
そして、そのことに安心すると同時に、何か、もやもやとした形のない不安がわたしを捕らえる。
「きっと、凄く大きいのね」
「え?」
不意に、香里の声がわたしに届く。
「……聞いてなかったの?」
「うー。ごめん」
「ジャパの話よ」
「……なに、ジャパって?」
「ジャンボミックスパフェデラックスの略よ。今つけたの」
「……ダメだよー、勝手に変な愛称つけたら。きっとお店の人が聞いたら怒るよ」
「失礼ね」
きっぱりと言い切る表情は、わたしも良く知っている、いつもの美坂《み さか》香里に間違いなかった。
「あ。今度みんなで少しずつお金を出して注文してみようよ」
「みんなって?」
「北川君とか……」
「あたしは、パス」
「どうして?」
「名雪の夢なんだから、他人には頼らずにひとりの力で叶えなさい。今度、当たると評判の宝くじ売り場紹介してあげるから」
「香里、何か誤魔化《ごまか》してるよ〜」
「誤魔化してない」
「誤魔化してるよっ。それに、わたしの本当の願いは、別にあるんだから……」
「本当の願い?」
「わ。そうじゃなくて……」
思わず口をついて出た自分の言葉に、わたし自身が戸惑っていた。
「気になるわね」
「全然気にならないよ〜」
「だったら、どうしてあからさまに動揺してるの」
「あ。雪が降ってきたよ」
「名雪、誤魔化してる」
「誤魔化してないもんっ」
半透明にわたしの顔が映った窓ガラス。
ちょうどその時、その先を、確かに白い粒が通り過ぎていった。
「あ、ほんとだ」
香里も、その姿を見つけて小さく声を上げる。
「傘持ってきてないし、そろそろ帰った方がよさそうね」
そう言って、ガラスの中の香里が、わたしの方を向く。
わたしのイチゴサンデーは、まだ半分くらい残ったままだった。
「そうだね……。たくさん降ってくる前に、帰ろう」
イチゴサンデーを残したまま、わたしは先に席を立って、香里を促《うなが》す。
その間にも、ガラスの雪はその姿を増やしていた。
「うわ……。本格的に降ってきたわね」
困り顔の香里が、ガラスに映る。
気がつくと、街を覆う闇さえも隠してしまうくらいの、一面の白。
突然の大雪。
まるで、あの日のように……。
「名雪、どうしたの?」
「……うん。ちょっと雪を見てただけ」
「雪なんて、珍しくもないでしょ」
「そうだよね……。どうしてだろう……」
どうして、突然あの人のことが浮かんだのだろう。
もう、思い出せないくらい昔のことなのに……。
思い出せない、はずだったのに……。
「おかしいよね……」
そう言って微笑むわたしの姿も、喫茶店のガラス窓に映り込んでいた。
その笑顔は、どこか悲しそうで、無理しているように見えて……。
やがて、天気予報通りの雪が街に煌めき、明日の朝には全てを真っ白に塗り替える。
そして、まっさらの一日が始まる。
平和だけど、幸せな日常。
何も変わらない。
だって……。
わたしの本当の願いは……。
「さ、帰ろう」
「そうね」
あの遠い雪の日に、消えてしまったんだから。
§
「お帰りなさい、名雪。映画はどうだった?」
雪を払いながら玄関に上がるわたしを、お母さんがタオルを持って迎えてくれた。
「えーっと……。ラストシーンが良かったかな……」
答えながら、受け取ったタオルで髪の毛に積もった雪を拭き取る。
「晩ご飯の準備、できてるわよ」
濡れたタオルを受け取って、お母さんが優しく微笑む。
「あ。ちょっと食べてきたから、晩ご飯はあんまり食べられないかも……」
「大丈夫よ。そう思って今日の晩ご飯は少しだけにしたから。温かいシチューもあるから、早く着替えてらっしゃい」
「うん……」
頷《うなず》いてから部屋に戻って、わたしは湿った服を脱いでハンガーにかける。
タンスの中から服を出して、簡単に髪を乾かしてから、お母さんの待つキッチンに向かった。
「ちょうど温まったところよ」
湯気の立ちのぼるシチュー鍋を持って、お母さんがキッチンから顔を出す。
そして、いつものようにお母さんとふたりっきりの食事。
ずっと、そうだった。
何年も、そうだった。
冬だけの、小さな例外を除いて……。
「名雪、あとでジャムの味見をして欲しいんだけど」
「うん、いいよ」
一度|頷《うなず》いてから、念の為に確認する。
「……でも、普通のジャムだよね?」
「もちろんよ」
|頬《ほお》に手を当てて、首を傾げる。
「普通ではないジャムなんて、お母さんは作れないわよ」
「……お母さん、一度訊きたかったんだけど、あの黄色いジャムの材料って……」
「企業秘密よ」
「やっぱり気になるよー」
「じゃあ、ヒントだけね」
お母さんが、自分の胸に手を当てる。
「材料のひとつは、名前が『ぴょ』から始まるのよ」
「……ぴょ……?」
「それ以上は、秘密ね」
「ぴょ……」
聞かなければ良かったような気がした。
「お母さん、嘘ついてない……?」
「どうかしらね」
肯定も否定もしないまま、お母さんが空いているお皿を持って、キッチンに戻る。
「ぴょ……」
結局は、そのまま誤魔化《ごまか》されたような気分だった。
「あ。ひとつだけ言い忘れていたんだけど」
お皿を持ったまま、お母さんが顔を覗かせる。
「ぴょ……?」
首を傾げるわたしに、お母さんがそのまま言葉を続ける。
「あのね……」
それはいつもと変わらない、ゆっくりとした口調だった。
それこそ、ジャムの話をする時と同じように……。
「いとこの男の子、覚えてるわよね」
「……え?」
「昔は、何度も家に遊びに来てたものね」
不意に投げかけられたその言葉は、わたしの心を捕らえた。
わたしは、ただお母さんの顔を見つめるだけ。
言葉が、繋がらない。
「ご家族が海外転勤になってしまって、その子だけ残ることになったのよ。それで、高校を卒業するまでは家に泊まって貰おうと思うんだけど……」
お母さんから聞かされた話。
それは、わたしの日常に大きな変化を与える言葉でもあった。
雪に埋もれて消えてしまったはずの記憶が、ゆっくりとよみがえる。
思い出の中のわたしは、小さな女の子で……。
編んだお下げを風に揺らしながら、今もなお、その場所に座っている。
怯《おび》えるうさぎのような瞳で、小さな女の子は、何を待っているんだろう……。
そして、何を望んでいたんだろう……。
1999.1.6 pm 2:58
雪が降っていた。
わたしの思い出の中に、しんしんと降り積もっていた。
それは、絶えることのない、真っ白な雨のようだった。
だけど、思い出の中の雪は、溶けることも流れることもなくて……。
今もなお、わたしの中に降り続いている。
「わたしは仕事があるから、名雪が駅まで迎えに行ってあげてね」
お母さんのその言葉に頷《うなず》いて、わたしはこの場所まで来た。
昔、一緒に歩いた道さえも忘れてしまった、幼なじみのいとこを迎えに行く為に……。
たった一言、声をかけるだけなのに……。
その一言が言えなくて、わたしは待ち合わせの時間が過ぎても、少し離れた場所で、ただ雪に打たれているだけだった。
変わってしまった自分。
そして、変わっていなかった心。
七年という歳月の向こうにある、色あせることのない思い出。
雪が、ますます強く降っていた……。
「名雪」
俯《うつむ》いていたわたしは、自分の名前を呼ばれたような気がして、顔を上げた。
「雪、積もってるわよ」
心配そうな顔で、すぐ側でわたしを見つめる優しい瞳があった。
「……お母……さん……?」
「そんな格好していると、風邪ひくわよ」
「……お母さん……」
あの時も、そうだった。
七年前のあの日。
泣いているわたしを最初に見つけてくれたのは、お母さんだった。
「仕事が終わって家に帰っても、誰もいなかったから……」
そう言って、わたしの髪に積もった雪を、ぱたぱたと払いのける。
昔と何も変わらない、優しい手だった。
「……お母さん、わたし……」
どうしていいのか、分からないよ……。
自分の心が、分からないよ……。
「一緒に、帰ってきなさい。家で体の温まるものを作って、待っているから」
「……お母さん」
「お願いできる?」
「……うん」
お母さんの、短い言葉。
いつも、そうだった。
わたしは、その言葉に、いつも背中を押されてきたんだから。
「お母さん」
「なに?」
「わたし、大丈夫だよね? いつも通りのわたしで、いられるよね?」
「名雪、雪は好き?」
「うん……。大好きだよ」
雪も、この街も、わたしは……。
「だったら、大丈夫よ」
小さく微笑《ほ ほ え》みながら、ゆっくりと頷《うなず》く。
「でも、少しは変わってくれた方がいいわね。朝、早起きできるようになるとか、ね」
「それは、自信ないけど……」
でも……。
「すぐに、帰るよ」
頷《うなず》くわたしに、お母さんはただ微笑んだだけだった。
「良かったわ。これで、ジャムを味見してくれる人が増えそうね」
それだけを言い残して、お母さんは先に家路につく。
ひとり残されたわたしも、積もった雪を払いながら立ち上がった。
突然よみがえった思い出に押し潰されそうになって、でもそれが新しい日常の始まりであることに気づいて……。
だから、わたしはあの人の前でも、今まで通りのわたしでいられるかもしれない。
「わたしは……」
今まで通りのわたしで、いたいよ。
もう一度、一緒に遊びたいよ。
笑いながら、雪の街を歩きたいよ。
だって……。
まだ、きっと、大切な人だから。
真っ直ぐに向かった足をふと止めて、わたしは駅前の自動販売機で温かいコーヒーを買った。
かじかんだ手が溶けるように、缶の温もりが手のひらを伝わって、その熱いくらいの温かさが心地よかった。
一度深呼吸をして、もう一度歩き出す。
あの人と、再会する為に。
そして、どうしても訊ねたいことがあったから、だから……。
「ふぁいとっ、だよ」
小さく呟《つぶや》いてから、ベンチでふてくされている、あの人の前に立つ。
あの人は昔と変わらない、意地悪でぶっきらぼうなままで……。
「わたしの名前、まだ覚えてる?」
わたしの名前、覚えていてくれて……。
そして、雪を払い落としながら、この街に文句を言うあの人に、わたしは笑いながら答える。
今年の雪は、まだ始まったばかりだよ……。
[#地付き]END of "first snow" to be "Kanon"
[#改ページ]
first snow II
[#地から5字上げ]『Kanon』より
雪が降っていた。
一年に一度だけ、ホワイトクリスマスと呼ばれる、特別な雪。
その特別な日に、妹は姉に真実を求めた。
そして、姉は妹に真実を伝えた。
言葉にすると、本当に些細な出来事。
だけど、それは大きな運命の第一歩。
そして、ゆっくりと夜が明ける……。
1998.12.25 am 7:28 姉
雨が落ちていた。
そのことに気がついたのは、目が覚めてからたっぷりと時間を置いたあとだった。
窓ガラスをノックする雨粒の音が珍しかった。
この季節に、雨は滅多に降らない。
雪雲から流れ出た雨は、地面に|辿《たど》り着く前に、その殆どが白い結晶に姿を変える。
だから、雨が雨と呼ばれる姿のまま、窓を叩くことは本当に希だった。
それが、この街の常識……。
「……いいお天気」
クリスマスと呼ばれる日。
最初に口をついて出た言葉が、それだった。
本当にいいお天気だった。
風の音が、静かな部屋を揺らしている。
昨日までは雪だったはずの雫《しずく》は、一層その強さを増して、まるで時季はずれの梅雨《つゆ》のように、絶え間なく降り続いている。
窓の外は薄暗く、この時間になっても、全く夜明けを感じさせない。
まるで、昨日のホワイトクリスマスが嘘のように……。
「……ほんと、いいお天気」
自嘲気味に、もう一度|呟《つぶや》く。
|相応《ふ さ わ》しい、という意味では、これ以上ないシチュエーションだと思った。
わたしはベッドから体を起こす。
体が重たく感じた。
全く眠ったような気がしなかった。
実際、本当に眠ることができたのか、自分でも分からない。
永遠に続くかと思われた夜の闇に身を任せ、わたしはただ、じっと見慣れたはずの天井を眺めていた。
何も考えたくなかった。
何も思い出したくなかった。
全ての思い出を拒絶して、時間が止まってしまったかのような、長い夜を過ごした。
だけど、もちろん時間が止まることなんてなくて、あんなに長かった夜は、もう跡形も残ってはいない。
あるのは、新しい朝の訪れと、夜と同じくらい暗澹《あんたん》とした闇。
「部活、行かなきゃ……」
無理に言葉にしてから、ハンガーに掛かっている制服を手に取る。
着慣れた制服に袖《そで》を通し、いつものように赤いリボンを結ぶ。
そして、いつもと同じように、髪を整える為に鏡の前に座る。
それは、雨の音を除けば、いつもの光景と何も変わらない朝の訪れだった。
何日も、何ヶ月も繰り返してきた、どこにでも落ちている日常という名のパズルのひとかけら。
だけど、それは幻だということを、わたしは知っている。
日常の中の、大切なピースをひとつ、失ってしまったから……。
昨日の、クリスマスイブの夜に……。
永遠に……。
「ひどい顔……」
鏡に映っているのは、無理に感情を押し込めようとしている、わたし自身の姿。
自分の言葉に後悔はしていない。
そして、もう、あの子のことは考えないつもりだった。
最初から、妹なんていなかった……。
だから、悲しくない……。
悲しくないから、傷つかない……。
「…………」
それに……。
もう、あの子はわたしのことを、お姉ちゃんとは呼んでくれないだろうから……。
1998.12.25 am 8:11 妹
雨が、降っている。
だけど、それはどうでもいいこと。
私の前にあるものは、一冊の日記だけ。
毎日書いていた日記。
昨日のページは、白紙のまま。
「…………」
もう、どれくらい泣いたか分からない。
あと、どれくらい涙を流せるのかも分からない。
何かを探し求めるように、私は白い日記帳に視線を落とす。
まだ、答えは見つからない……。
1998.12.25 am 8:27 姉
「おはよ、名雪」
声をかけると共に、背中をぽんっと押す。
傘に蓄えられた雨粒が勢いよく流れ出て、水溜まりに新たな波紋を形作る。
「おは……」
わたしの姿を確認したクラスメートが、相変わらずの眠そうな顔で、中途半端に挨拶《あいさつ》を返す。
「何、小学生みたいな挨拶《あいさつ》してるのよ」
「眠いんだよ……」
言葉通りの口調で、拗《す》ねたような返事をする。
「でも、今日は遅刻しなかったみたいね。珍しいじゃない」
「雨の音で目が覚めたんだよ……。それに、さすがに冬休みの部活初日から遅刻はできないもん……」
「ホント、珍しいわね」
「しみじみと言わないで……」
「名雪が早起きしたことじゃないわよ」
恨めしそうに非難する名雪に、苦笑を返す。
「雨?」
「そう、雨……」
「確かに、珍しいよね。わたし、嬉しくて新しい傘おろしたもん」
雨が嬉しいかどうかはともかく、珍しいことは間違いない。
「でも、昨日が雨じゃなくて良かったね」
名雪が、傘を斜めに差しながら、何気なく空を見上げる。
雨は相変わらずの勢いで空を覆い、雲は墨《すみ》を含んだように黒く染まっている。
「せっかくのクリスマスだもん」
「でも、ホワイトクリスマスなんて、冬休み初日から学校に通ってるわたしたちには関係ないけどね」
「そんなこと言ってると、北川君が泣くよ」
名雪が、|無邪気《む じゃき 》に笑いながらわたしの方を向く。
「ほら、早くしないと陸上部の練習始まるわよ」
「香里、話逸らしてるー」
名雪の|台詞《せ り ふ》を無視して、言葉を続ける。
「そう言えば、名雪。陸上部って、雨でも練習あるの?」
「……あ」
名雪が、足を止める。
そして、数秒の間。
「これだけ降れば、グラウンド水溜まりだらけだと思うけど」
「…………」
「名雪?」
「わたし、帰る……。帰って、思いっきり寝る……」
雨天中止だったらしい。
「せっかく来たんだから、あたしの部活につき合いなさいよ」
「でも、きっと迷惑だよ」
「大丈夫よ、どうせ初日から真面目《まじめ》に来てる部員なんて、あたしだけなんだから」
「そうなの?」
名雪が考え込むように首を傾げる。
それは、迷っているときの名雪の仕草だった。
「だから遠慮することなんてないわよ。それに人手も欲しかったし」
「部活の手伝いは嫌だよ」
「帰りにイチゴサンデーおごるから」
「何でも手伝うよ」
手のひらを返したようだった。
「相変わらず、安っぽい価値観で生きてるわね」
「うー」
名雪が口をとがらせる。
「誉めてるのよ、あたしは」
「そうは聞こえないよー」
いつもの、何気ない朝の風景がここにもあった。
でもそれは、名雪がいてくれたからかもしれない。
「わたし、泣くもん」
名雪が、更に拗《す》ねる。
「あたしなんて、名雪に声かける前まで泣いてたわよ」
「嘘つきー」
いつもと変わらない、名雪の声。
それが嬉しくて、そして平然と日常を歩いている自分自身が許せなくて……。
それでも、日常を歩いていたくて……。
「それで、名雪は一緒に来てくれるの?」
名雪と一緒にいれば、日常に留まることができるような気がして……。
「うん、いいよ。今から家に帰っても、お母さんに笑われるだけだもん」
でも、本当は……。
「だったら、決まりね」
「うんっ」
ひとりっきりに、なりたくなかっただけなのかもしれない……。
1999.1.8 pm4:09 妹
それは、真新しい生地《きじ》の香りがした。
鼻をくすぐる、新しい服の独特な空気があった。
ちょっとごわごわした生地が新鮮で、私はいつまでもその感触を楽しんでいた。
「いつまでそうやってるつもり?」
「あと五分」
呆《あき》れたようなお姉ちゃんの声に、私は制服を抱きしめたまま答えた。
「遅刻するわよ」
「大丈夫、その為に早起きしたんだから」
本当は、嬉しくて眠れなかったんだけど、言うとお姉ちゃんに馬鹿にされそうなので、そのことは秘密だった。
ずっと憧れていた制服。
そして、お姉ちゃんと一緒の学校に行けることが、何より嬉しかった。
「我ながら、変な妹持っちゃったわね」
「私だって、好きでお姉ちゃんの妹してるわけじゃないよー」
拗《す》ねたようにお姉ちゃんを見上げる。
お姉ちゃんはもう、自分の制服を着込んでいた。
既に身支度も終えたらしく、長い髪は綺麗《き れい》に整えられている。
私とは違う、赤いリボンのついた制服……。
学年ごとに色が違うらしい制服のリボン。私は、緑色だった。
本当はお姉ちゃんと同じ赤が良かったけど、それはどうやっても叶わない願い。
でも、同じ学校の制服を着られるだけで私は満足だった。
「お姉ちゃん、一年生を二回する気、ない?」
「……え?」
「冗談だよ」
怪訝《け げん》な表情のお姉ちゃんに、笑顔を返す。
「ほんと、変な妹……」
「ごめんね、こんな妹で」
「別に、いいけどね」
どちらからともなく、笑いが漏れる。
「さて、たっぷり|余韻《よ いん》も楽しんだし、そろそろ着ようかな」
服屋さんでするように、自分の体に制服を|宛《あて》がう。
「というわけで、お姉ちゃんは部屋を出て行ってね」
「別にいたっていいじゃない」
「妹の着替えを見たって、いいことないよ、お姉ちゃん」
「姉として、妹がどれくらい成長したか見てあげようと思ったんだけど」
「見なくていいから、出て行って」
両手で、お姉ちゃんを部屋の外に押し出す。
「大体、ひとりで着れるの? 初めてなんでしょ、この制服着るの」
「大丈夫、イメージトレーニングしてたから」
自信たっぷりに頷《うなず》きを返す。
「覗かないでね」
そして、ドアを閉める。
「ふぅ……」
息を吐いて、改めて制服と向かい合う。
入学式の、朝。
ずっと待ち望んでいた瞬間が、目の前にある。
ゆっくりとボタンを外してから、パジャマの上下を脱ぎ捨てる。
この季節だと、まだ空気は冷たい。
それでも、真新しい服独特の香りと肌触りを感じながら、私はゆっくりと制服に袖《そで》を通した。
「……少し大きいかも」
ぴんと腕を伸ばしても、まだ袖《そで》が余っていた。
でも、小さいよりはいいかなとも思う。
たぶん……。
長い袖《そで》を気にしながらボタンを全部留めて、一度鏡の前で自分の姿を見てみる。
「……うーん」
正直、似合っているのかどうか微妙なところだった。
「……ケープつけたら似合うもん」
悔し紛《まぎ》れに呟《つぶや》いてから、付属のケープを巻いて、リボンを結ぶ。
「うしょ……」
リボンの結びが、意外と上手くいかない。
それでも何とか結び終えて、改めて鏡の前へ。
「……うーん」
やっぱり、あまり似合っているような気がしない。
「毎日着てたら、いつか似合うようになる! うん!」
自分自身に、そう納得させる。
半ば、強引にだけど……。
「どう? ちゃんとひとりで着られた?」
部屋の外から、お姉ちゃんが呼んでいた。
もう入ってきてもいいよ、と声を返して、部屋の中に招き入れる。
「思ってた以上に、似合ってないわね」
私の制服姿を見て、表情をほころばせながら、真っ先に言った言葉がそれだった。
「お姉ちゃん、ひどいよーっ」
似合ってるかな?
……と訊こうとした矢先の、お姉ちゃんの言葉だった。
「まだ、訊いてもいないのに……」
「それくらい、似合ってないってことね」
私と同じ制服に身を包んだお姉ちゃんが、納得顔で頷《うなず》く。
「毎日、少しずつ似合ってくるもん」
突っかかる私の頭に、ぽんぽんと手を置く。
「髪の毛伸ばしたら、もしかしたら似合うかもしれないわよ」
そう言って、嬉しそうに笑うお姉ちゃんが、すぐ側にいる。
今までも、そして、これからもずっと……。
「お姉ちゃん……もしかして、冷やかす為に待っててくれたの?」
「あたしはただ、姉として|可愛《か わ い》い妹の記念すべき日を見守ってやろうと|想《おも》っただけよ。別に、似合ってない制服姿を笑おうとか、全然考えてないわ」
とても嘘っぽかった。
「……こんな時、普通は嘘でもいいから、似合ってるよとか言うものだと思うっ」
「あたしは、嘘はつかないことにしてるのよ」
まるで、子猫の相手をするように私の頭を撫でながら、お姉ちゃんがいつものように、優しく微笑む。
「それに、よく見たらリボン曲がってるわよ」
「え?」
慌てて鏡で確認する。
確かに、形がちょっとおかしいかもしれない……。
「不器用ね」
「ほっといて」
「ほら、貸してみなさい」
お姉ちゃんが、一度ほどいてから私のリボンを結び直す。
すぐ目の前に、綺麗《き れい》に整えられた、ピンク色のリボンが揺れている。
「はい、できあがり。どう?」
「ちょっと曲がってるかな」
「負け惜しみはいいから、早く行くわよ」
「負け惜しみじゃないよー」
「はいはい」
軽くあしらうように、私の髪を撫でる。
「お姉ちゃん、大っ嫌いっ」
ぷいっと横を向いて……。
大好きなお姉ちゃんの、笑い声を遠くに聞いて……。
手のひらの感触も、遠ざかって……。
お姉ちゃんの姿が、どこにもなくて……。
私は、暗闇の中、ひとりぼっちで……。
そして……。
それが、全て夢だったことに気づいて……。
私は、現実に引き戻される。
「…………」
本当は、途中から気づいてた。
夢を見ていること。
懐《なつ》かしくて、辛くて……。
もう、思い出したくないあの日のこと。
幸せが一瞬であることに、気づきもしないで浮かれていた、私自身の姿を見るのが辛いから……。
「……お姉ちゃん」
机に座ったまま、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
時計の音が、静かに耳に届いていた。
誰もいない部屋。
閉ざされたカーテンの向こう側には、いつも通りの白銀の世界。
日常という名の寂しい空間にひとり取り残されたように、私はただじっとそこに存在する。
そのまま机に伏して、何をするわけでもなく、ただ時間の流れに身を任せていた。
整頓したばかりの机はどこか寂しそうに|佇《たたず》み、座り慣れた机は小さな軋みをあげる。
「…………」
いつまでも、このままでいたい。
だけど、もう、答えは出たから。
あのクリスマスの夜から、ずっと考えていた、答え……。
「…………」
私は、伏せていた顔を静かに上げる。
ずっと一緒だった、私の部屋。
多分、同じ年の、他の女の子の誰よりも、私は部屋にいることが多かった。
私は、普通の女の子とは違っていた。
あのクリスマスの日、私はそのことを思い知らされた。
そして、手探りでひとつの答えを探し求めた。
「……やっと」
乾いた唇。
久しぶりに言葉を発したような気がする。
「……見つかったよ、お姉ちゃん」
もう、涙は出ない。
あの日から、涙が涸《か》れてしまったかのように、私は泣かなくなった。
そして、見つかった私の答え。
耳鳴りがするくらいの静寂。
どこか、心地いい。
「……そろそろ行かないと、お店、閉まっちゃうよ……」
まだ、夢の残滓《ざんし 》が心に影を落としている。
どうして、あんな夢、見てしまったんだろう……。
私は、無理に体を起こす。そして、淡々と服を着替えた。
ストールを|羽織《はお》って、部屋のドアを開ける。まだ、お気に入りと言えるほどストールを着ることができなかったのが、少しだけ残念だった。
「…………」
部屋には、まだあの制服があった。
たった一度しか袖《そで》を通すことのなかった、真新しいままの制服。
リボンの色は違うけど、お姉ちゃんと着ている制服と同じであることが、何より嬉しかった……。
嬉しかった、はずだったのに……。
「…………」
私は、そのまま部屋の扉を閉ざした。
外に出ると、そこにはいつもの雪景色があった。
西日を浴びた雪の上に、自分の足跡を刻み込む。
「行ってきます、お姉ちゃん」
それが、私にとって本当に大切な日になる、最初の一歩だったことに、私はまだ気づいていない……。
[#地から5字上げ]END of "first snow II" to be ......
[#ここから5字下げ]
「……大丈夫か?」
「どうしたの……?」
「どうやら、雪の固まりが降ってきたみたいだな……」
それは、小さな偶然の出会いでした。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
ユキの流れ落ちた街で
[#地から5字上げ]『Kanon』より
雨。
雨が降っていた。
オレンジ色の傘が、風に吹かれて頼りなく揺れていた。
朝から降り始めた雨は、時間と共にその勢いを増して、舗装された地面を激しく打ちつけていた。
水溜まりはまるで鏡のように、灰色の空を映し出し、駅ビルの壁一面に張られた本当の鏡は、雨の中立ちつくすボクの姿を写し取っている。
いつも通りなら、約束の場所になっているはずの木のベンチは、雨のカーテンに遮られ、ここからではその姿を視界にとどめることはできなくなっていた。
「……やっぱり遅刻」
ため息と共に呟《つぶや》いて、空を見上げる。
七月に入ってから、毎日のようにこんな雨が続いていた。
梅雨《つゆ》と呼ばれる季節を、素足にかかる雫で実感することができる。
「うぐぅ……冷たいよ……」
雨の日に、この格好は失敗だったかもしれない……。
キュロットから出た両足が、いつの間にか泥だらけになってしまった靴に伸びている。
泥と共に雨をたっぷりと吸い込んだ靴は、重く湿っていた。
「……はぁ」
約束の場所に立ってから、何度目かのため息をついて、視線を地面に落とす。
水溜まりを覆い尽くす波紋に浮かぶ木の葉が、力無く左右に揺れていた。
「また、笑われるかな……」
スカートは苦手だった。
昔はそうでもなかったけど、今ではほとんど履くことがなくなっていた。
そして、決まってあの人に女の子らしくないと言われて、からかわれることになる。
「だって、似合わないもん……」
傘を揺らして、ビニールに浮かんだ水滴を払い落とす。
風に押されて、黒い雲が流れ、代わりに、もっと黒い雲が空を覆い尽くす。
そんな天気だった。
今の心の中を映し出したような空模様が恨めしくて、ボクは何度も空を見上げた。
「はぁ……」
また、ため息が口をついて出る。
「……遅いよ」
約束の時間は、既に過ぎ去っていた。
日曜日の昼下がり。
いつもの場所で、あいつが来るのを待っている。
それは、あの遠い日から永遠に続いた、ひとりぼっちのボクの姿にどこか似ていて、急に不安にかられることがある。
だけど、絶望と不安しかなかった、あの頃とは違う。
あの人は、少し遅刻することはあっても、間違いなく約束の場所に来てくれる。
春の訪れと共に、そんな時間が、ずっと続いていたはずだった。
少なくとも、昨日まではそうだった。
だけど、今日は違っていた。
「……やっぱり、まだ怒ってるのかな」
|喧嘩《けんか 》の原因は、些細なことだった。
それこそ、思い出せないくらい些細な出来事……。
「……ボク、悪くないもん」
だけど、それっきり。
相変わらずの雨は、露となって街並みをぼんやりと覆い隠す。
まるで、思い出の中に、ひとりで取り残されてしまったような、そんな孤独な時間が流れていた。
ひとりぼっちの自分が惨めで、悲しくて……。
心の奥から雨雲が湧き出るように、瞳の奥から、もやもやとした何かが溢れ出てくる。
「うぐぅ……」
俯《うつむ》くと、雨粒のように涙がこぼれ落ちそうで、無理に空を見上げて笑おうとする。
だけど、雨はまだまだ消える気配さえなくて、灰色の雲は、空にどっかりと居座っていた。
「ふぁいとっ、だよ」
空を見上げて、ふと呟《つぶや》く。
親友の口|癖《くせ》を真似てみて、ほんのちょっとだけ笑えたような気がした。
あいつが来たら、まず、待たされた文句を言おう。
それから、商店街でたい焼きを買って貰う。
あれだけボクのことからかったんだから、それくらい当然だ。
そう考えると、少しだけ元気も出てきたような気がした。
……すぐに、雨と共に流されてしまいそうな、そんな小さな元気だけど。
§
「…………」
時間が、過ぎ去っていく。
バラバラと傘を叩く音が、雨音に混じって聞こえる。
ボクのすぐ上から、そして、すぐ横からも……。
「……ん?」
気がつくと、すぐ側に小さな女の子が立っていた。
ボクと同じオレンジ色の傘を斜めに差して、どこか不安げに空を見上げていた。
寂しそうで、悲しそうで、そして、小さな希望に縋るような表情で…… 。
「どうしたの?」
雨粒越しに、声をかける。
「…………」
重い空を見ていた時と全く同じ表情で、ボクの顔を見上げる女の子。
知らない子だった。
「どうしたの? こんなところで?」
だけど、雨の落ちる駅前に|佇《たたず》むその姿が、どこか場違いな気がして、ボクはもう一度声をかけた。
「…………」
表情を変えることなく、女の子がボクをじっと見つめる。
支えきれずに傾いた傘から、雨の線が流れる。
小さな手で傘を持って、もう片方の手で、ぎゅっと何かの包みを抱きかかえている。
「誰かを待ってるの?」
「…………」
こくん、と首を縦に動かす。
「だったら、ボクと同じだね」
「……ボク?」
少女が、首を傾げる。
「えっと、ボクって言ってるけど、女の子だからね」
「…………」
怪訝そうな表情で、ボクを見上げる。
「あんまり女の子っぽくないかもしれないけど、それでも女の子だからね」
「…………」
余計なことを説明している自分が、ちょっと惨めだった。
「やっぱり、おかしいかな……?」
「…………」
ふるふると、小さな体ごと首を横に振る。
一緒に揺れる傘が、どこか微笑ましかった。
「そう言って貰えると、ボクも嬉しいよ」
「…………」
「子供っぽいって言われて、いっつもからかわれてたからね」
そういえば、昨日の|喧嘩《けんか 》の原因も、きっかけはこんなつまらないことだったような気がする。
最初は些細なことで、結局はその後の意地の張り合い。
そして、そのままうやむやの内に、お互い電話の受話器を置いてしまった。
一言も、謝ることができないまま……。
「……えっと、ごめんね。変な話しちゃって」
「…………」
更に余計なことを言ってるような気もしたけど、女の子は|微《かす》かに表情を綻ばせていた。
「……|喧嘩《けんか 》したの?」
そして、ぽつりと呟《つぶや》く。
それは、女の子が最初に口にした言葉だった。
「うーん、ちょっとね」
予想していなかった女の子の問いかけに、ボクは苦笑しながら答える。
「キミは?」
「……|喧嘩《けんか 》したの」
|微《かす》かに覗かせた笑顔をしまい込んで、女の子が顔を隠すように傘を被る。
雨の音にかき消されそうなその声は、力のない呟《つぶや》きだった。
「一緒だね、ボクと」
「……うん」
それっきり無言で、じっと雨の音と、遠くから届く街の雑踏に耳を傾けていた。
§
時間が、雨のように流れる。
永遠に……。
そして、規則正しく……。
「……クッキー、好き?」
雨音に混じって、すぐ横からそんな声が聞こえる。
いつの間にか、女の子が顔を上げていた。
手には、ずっと大事そうに抱えていた袋があった。
「ボクは、食べ物だったら何でも好きだよ」
正直に答える。
「……これ、あげる」
その袋を、ボクに差し出す。
「クッキー? キミが焼いたの?」
「……うん」
小さく頷《うなず》く。
そして、袋の口を縛っていたラッピングのテープを|紐《ひも》解く。
袋の中には、数枚のクッキーが入っていた。
形はどこか歪んでいて、市販の物でないことはすぐに分かった。
「…………」
上目遣いで、ボクにそっとクッキーの袋を差し出す。
その仕草が少し恥ずかしそうで、そして初々しくて。
どこか、懐《なつ》かしい|雰囲気《ふんい き 》があって。
「それなら、一枚だけ貰うね」
「…………」
「いただきます」
一番小さなクッキーをつまんで、口に放り込む。
「…………」
女の子が、じっとボクの顔を見ている。
「……おいしい?」
「うん。おいしいよ」
雨に濡れたクッキーは、少し苦かったけど、それでもボクが作るよりはずっとずっと上手だった。
だから、ボクは正直に頷《うなず》いた。
ちょっとだけ、悔しいけど。
「……全部、あげるの」
女の子が、袋ごとボクに差し出す。
「嬉しいけど、でも、ボクの為に作ったんじゃないよね?」
「…………」
「だったら、これ以上ボクが食べるわけにはいかないよ」
クッキーの入った包み紙を、小さな手に握らせる。
女の子は、俯《うつむ》いて黙っていた。
「きっと、来てくれるよ」
「……え?」
「来てくれるって信じてるから、待ってるんだよね?」
「…………」
頷《うなず》いたような、ただ俯《うつむ》いただけのような、そんな小さな動作で女の子が下を向く。
それでも、ボクには分かったような気がした。
「だったら大丈夫。絶対に来てくれるよ」
「……うん」
今までで一番はっきりと、女の子が頷《うなず》いていた。
胸元で、クッキーの入った包みを大事そうに抱きしめながら……。
雨は、まだ降り続いている。
§
「……あの……」
時計の針が、回っていた。
ゆっくりと、同じ間隔で……。
「……お姉ちゃん……」
不意に呼ばれたような気がして、ボクは横を向いた。
その視線の先には、さっきと全く同じ場所に立っている、女の子の姿があった。
そして、さっきまでとは違って、少女は真っ直ぐにボクの顔を見上げていた。
「お姉ちゃん……」
遠慮がちに、それでも今度ははっきりと聞き取れるくらいの声で、ボクのことを呼んだ。
「どうしたの?」
お姉ちゃんと呼ばれたことが嬉しくて、ボクはかがみ込むようにして、少女に顔を近づけた。
「……訊いてもいい?」
「うん、いいよ」
「お姉ちゃん……どうして待ってるの?」
「え?」
「|喧嘩《けんか 》したのに、どうして待ってるの?」
「それは……」
それは、あいつに文句を言うため。
そして、たい焼きを買って貰うため。
「あいつに……」
あいつが悪いんだから、それくらい当然だ。
「…………」
そのはず、だったのに……。
「…………」
言葉が繋がらないまま、また時計の針が進んでいく。
§
再び、無言の時間が流れていた。
お互い、その場所を動くこともなく、時間と雨粒だけが過ぎていく。
そして……。
「……あ」
女の子が、小さく声を漏らす。
静寂の時間に落ちる、少女の声。
代わり映えしない梅雨のありふれた景色に、いつの間にか三本目の傘の花が咲いていた。
水色の傘。
小さな傘。
「…………」
女の子の表情が、笑っているような、泣いているような、そんな複雑な感情で満たされる。
それは、女の子と同じくらいの年の男の子だった。
息を切らせて、本当に傘を差しているのかどうか分からないような、そんなずぶ濡れの格好で、照れたようにぎこちなく笑っていた。
思い出の引き出しの中から蘇る、|微《かす》かな記憶の断片。
時間が止まることを、|無邪気《む じゃき 》に願っていた、あの幼い日のかけら……。
女の子は、水溜まりに波紋を残しながら、男の子の元に駆け寄っていた。
§
ぺこっとお辞儀をするふたりに手を振って、ボクはまたひとりぼっちになった。
雨の音が、少し大きくなったような気がした。
時間が流れていた。
ずっとずっと、立ち止まることなく……。
時々、後ろを振り返ることはあっても、後戻りは決してできない。
過ぎ去った時間が大切な思い出になって、新しい時間が、思い出を彩《いろど》る大切な瞬間に変わる。
変わらない風景なんてないことを、ボクは知っているから。
だから、今の時間が嬉しかった。
雨の向こう側に、傘も差さずにあいつが立っていた。
あいつが来たら、まず、待たされた文句を言おう。
それから、商店街でたい焼きを買って貰う。
ずっと待っていたんだから、言いたいことだってたくさんある。
子供っぽいなんて言って散々笑った、昨日の言葉だって取り消して貰わないと……。
「……うぐぅ……」
他にも、たくさん、たくさん……。
言いたいこと、あったはずなのに……。
それなのに……。
あいつの顔を見ると、何も言葉が出てこなかった。
時間は流れている。
二度と止まることなく。
差し出した傘を受け取ったあの人の手は、思い出の中よりも、ずっとずっと大きくて温かくて……。
止まらない時間が、嬉しくて……。
「うぐぅ……遅いよぉっ」
あいつの元に駆け寄ったボクは、ただ一言|呟《つぶや》いてから、あいつの頭をぽんと叩くだけだった。
[#改ページ]
夏日《か じつ》
[#地から5字上げ]『Kanon』より
[#ここから2字下げ]
それは、電話の音だった。
突然の呼び出しのベルに、わたしの浅い眠りは中断された。
それがまるで夢の続きのように感じて、わたしはすぐに体を起こすことができなかった。
さっきまで見ていた夢なんて、覚えてもいないのに……。
電話のベルが、催促《さいそく》するように鳴り続ける。
だけど、その音がまるで遠い国の出来事のようで、わたしは天井を見つめているだけだった。
ベルは、鳴り止まない。
この家には、今、わたししかいない。
そして、これからもわたしひとりだけ……。
「……ひとり……」
一瞬よぎった自分の言葉に、わたしは自己|嫌悪《けんお 》に陥る。
ひとりなんかじゃないのに……。
深く息をついて、そして、そのため息に引きずられるように、なおさら暗澹《あんたん》とした感情に押し潰されそうになって……。
「……電話」
ふと思い出したように、わたしは立ち上がる。
少しだけ目立ってきたお腹を、無意識に|庇《かば》いながら。
[#ここで字下げ終わり]
月宮《つきみや》あゆ T
「うぐぅ……分かんない」
「分からない時でも、すぐ諦めない。ちゃんと考える」
ボクの言葉に、香里さんがノートから顔を上げる。
真っ白なままのボクと違って、香里さんのノートは、既に難しそうな数式で埋まっていた。
「ちゃんと考えたもん」
「一生懸命考える」
「一生懸命考えたもん」
それこそ、頭が痛くなるくらいは考えたつもりだった。
全然進んでないけど……。
「はー……。仕方ないわね、どこが分からないの?」
冷房の良く効いた部屋で、ボクを含めて三人が、長方形のテーブルを囲んで座っていた。
クーラーの音が、セミの鳴き声と街の雑踏に混じって|微《かす》かに空気を揺らす。
季節は夏。
白い街の、一番短い季節。
「えっと……ここと、ここと、ここと、ここ」
問題の書いてあるプリントを香里さんの方に向けながら、まだできてない問題をひとつずつ指指す。
「……殆ど全部じゃない」
「そんなことないよ」
ボクの言葉にもう一度ため息をついた香里さんが、それでも親切にその問題の解き方を教えてくれる。
香里さんの教え方は、丁寧で分かりやすかった。
「……というわけ。分かった?」
「うん」
「香里、次わたし」
ボクと同じように考え込んでいた名雪さんが、香里さんに両手を合わせて、お願いするようなポーズでノートを差し出す。
「一問につき、イチゴサンデーひとつね」
「う……」
少しの間。
「自分でやるもん……」
悲しそうだった。
「冗談よ。ほら、見せてみなさい」
「う、うん」
こんなやりとりが、今日で四日間毎日続いていた。
みんなで夏休みの宿題を持ち寄っての勉強会。
その実は、三年生になっても学年トップの成績を保っている香里さんを、みんなで頼っているだけのようだった。
……ボクも含めてだけど。
「いつもごめんね、香里」
名雪さんが、申し訳なさそうに言うと、
「いいわよ。あたしもこうでもしないと、宿題後回しにしちゃうから」
と、言葉を返す。
本当はあとひとり、男の子が参加しているのだけど、今日は学校の補習授業に出ていて欠席だった。
「で、どこが分からないの?」
「全部」
「名雪……」
香里さんの今日三度目のため息に、ボクは自然に笑みが漏れた。
たくさんの人に囲まれて、雪解けの街を笑顔で駆け抜ける。
そんなありふれた日常の中に、ボクは立っている。
それは、切望してやまなかった、ボクの本当の願い。
雪に閉ざされた思い出の殻を抜け出して、ボクは、今という時間を二本の足でしっかりと歩いている。
今なら、笑顔で胸を張って言うことができる。
幸せであるということを……。
「うぐぅ……ちゃんと考えたもん」
「名雪さん、真似しないでっ」
「うぐぅ」
「香里さんまで、ひどいよ!」
「冗談よ」
「ごめんね、あゆちゃん」
あまり申し訳なさそうではない表情で、二人の親友が笑顔を覗かせる。
「うぐぅ……二人とも、嫌い……」
大好きな人たちに囲まれて、ボクは今、くすぐったいような、ありふれた日常の中にいます。
*
[#ここから2字下げ]
電話はまだ鳴り続いている。
そのベルの音が、わたしを不安にさせる。
電話は、嫌いだった。
電話は、悪い知らせを運んでくるものだから。
あんなに幸せだったはずの日常を、一瞬で壊してしまうものだから。
「もしもし……?」
それでも、わたしはゆっくりと受話器を耳元に近づけた。
「久しぶりね! 秋子っ!」
電話は嫌い。
でも、この時は、少し違っていた。
「元気だった? そっち、もう雪降ってる? って、いくら何でも雪はまだ早いか」
重たい空気を振り払うように、受話器の向こう側から明るい声が届く。
「え……」
「あたしのこと、分かる?」
思わぬ声に、わたしが言い淀《よど》んでいると、畳みかけるように電話の主が言葉を繋げる。
「あー、やっぱり声だけじゃ分からないか。高校卒業してから、一度も会ってなかったものね」
「あ……」
懐《なつ》かしい声。
そのしゃべり方も、昔のまま。
「もしかして……」
わたしは、小さく声を漏らす。
「やっと思い出したみたいね」
それは、高校を卒業するまでずっと一緒だった、大切な幼なじみからの、久しぶりの電話だった。
[#ここで字下げ終わり]
水瀬名雪 T
「うー。暑いよー」
一歩部屋を出ると、そこは間違いなく真夏だった。
それほど湿気はなく、からっとした暑さではあったけど、元々暑さに弱いわたしにとっては、どちらでもさほど大差なかった。
ドアの隙間《すきま 》から漏れるクーラーの風を|名残《な ごり》惜しみながら、わたしは自分の部屋の前を離れた。
外は相変わらずの晴天で、|廊下《ろうか 》に落ちた窓枠の影は、くっきりと四角く浮き出ている。
天気予報では、間違いなく晴れ。
しかも、当分は雨どころか曇りさえも期待できないらしい。
「これは、八十度くらいあるよね。きっと……」
最高温度は、怖いから見ていなかった。
「雪、降らないかな……」
自分でも無茶なことだと分かっているけど、それでも、そんな天変地異を期待したくなるような、夏の一日だった。
「髪、切ろうかな……」
汗ばむ服を気にしながら、少しくらいなら髪を短くしてもいいかな、とも思う。
「去年も、同じこと言ってたけど……」
そして、毎年同じことを考えては、結局切らずに夏が終わってしまう。
それくらい、この街の夏は短い。
夏は、一年の中でも、今だけのもの。
そう考えると、少しは暑いのも許せるような気がした。
本当に、少しだけど。
「名雪」
考え事をしながら階段を下りると、ちょうど一階の|廊下《ろうか 》を歩いてきたお母さんに呼び止められる。
「なに? お母さん」
「ちょうど良かったわ」
「ごめん、わたし急用があるから……!」
「買い物なんて頼まないわよ」
「え?」
慌てて階段を上ろうとしたわたしは、そのままの体勢で立ち止まる。
「でも……そうね、お使いみたいなものね」
「お使い?」
「お母さん、今から出かけるんだけど……」
一度言葉を句切って、そして|頬《ほお》に手を当てながら、同じ口調で続ける。
「名雪にも、一緒に来て欲しいの」
「……でも、今は」
視線を、二階に送る。
わたしの部屋では、まだあゆちゃんと香里が夏休みの宿題と格闘している。
「大丈夫よ」
ゆっくりと、わたしと同じように二階を見上げる。
「もうすぐ祐一さんも学校から帰ってくるから」
わたしのいとこであり、同居人でもある少年の名前を告げて、お母さんはにっこりと微笑む。
「留守は、祐一さんにお願いしましょう」
「でも、お使いって……?」
「それはまだ、秘密よ」
結局、お母さんの笑顔に押し切られる形で、わたしは急いで出かける準備をすることになってしまった。
行き先も、目的も知らされないまま……。
やがて、祐一が帰ってきて、入れ替わるようにわたしとお母さんは、文字通り突き刺すような日差しの中、商店街の方角に向かって歩き始める。
「お母さん、どこに行くの?」
まだ行き先を教えてくれないお母さんの背中に、わたしは疑問を投げかける。
「それはね……」
そんなわたしの問いかけに、手のひらで日差しを|遮《さえぎ》りながら、空を仰ぎ見て……。
そして、やっぱりいつもと変わらない口調で言葉を続ける。
「お墓参りよ」
お母さんの声は、いつものようにのんびりとしていて、それこそ特別なことなんて、少しも感じさせなかった。
見上げた空は、どこまで行ってもだた青くて……。
まるで、青い天井が広がっているようだった。
*
[#ここから2字下げ]
物心ついた時から、わたしにはいつも側にいてくれる幼なじみがいた。
高校を卒業してからは、仕事の関係で離ればなれになってしまって、それ以来会うこともなくなり、いつの間にか疎遠になってしまっていたけど、それでも、その声を、存在を、忘れるはずはなかった。
学生の頃はそれこそ、くだらない話を、延々と夜通ししていたんだから。
「……え? 子供?」
他愛ない学生生活の思い出話に始まって、卒業してからの出来事。
そして、近況にまで話が及んだ時、電話の向こうから聞こえてきた言葉は、わたしを驚かせるには充分だった。
「うん。予定は十二月」
「随分《ずいぶん》、急な話ね……」
わたしは、自分のお腹に手を当てる。
「結婚したことも、秋子には内緒にしてたからね」
悪びれた様子もなく、受話器の声が弾む。
「普通、親友だったら内緒になんてしないでしょ」
「でも、式も挙げてないし、それに、子供が産まれてから突然親子で秋子の家に押し掛けて、驚かせようと|想《おも》ったのよ」
らしいと言えば、その通りだ。
結婚しても、そういうところは学生時代と、わたしの良く知っている頃と何も変わっていない。
「もう、名前も決まってるの」
「まだ、男の子か女の子かも分からないのに?」
「もちろん、女の子よ。決まってるじゃない」
何が決まってるのかは分からないけど、彼女なら本当に宣言通り、元気な女の子を産みそうな気がした。
「それで、どんな名前なの?」
「名雪」
「……なゆき?」
「名前の名に、私たちが産まれ育った街の象徴である、雪の文字。……どう? 秋子も、良い名前だと思うでしょ?」
「うん、そう思う」
「良かった。これでも、何日もかけて考えた名前なんだから。これで安心して親子揃って挨拶《あいさつ》に行けるわ」
「でも、驚かすつもりだったら、どうしてこんな中途半端な時期に電話をかけたの?」
それでも、驚かされたことに変わりはなかったけど。
「|我慢《が まん》できなくなったのよ。言いたくて言いたくてうずうずしてたもん」
それも、彼女らしい。
「……というのは、嘘なんだけどね」
「え?」
「本当はね、秋子のことを知り合い経由で聞いたから」
「…………」
わたしは、言葉を失う。
「……知ってたの?……」
「うん。ごめんね」
本当に申し訳なさそうに、声を落とす。
「…………」
幸せだった。
少なくとも、少し前までわたしは幸せなつもりでいた。
だけど、その幸せは簡単に崩れ落ちた。
幸せが、こんなにも脆《もろ》いものであることを、わたしは知らなかった。
残されたものは、まだ誕生していない小さな命だけだった。
[#ここで字下げ終わり]
月宮あゆ U
「あ。お帰り、祐一君」
「……とりあえず……麦茶くれ……」
出かけて行ったふたりと入れ替わるようにして帰ってきた祐一君が、そのまま玄関で倒れていた。
「秋子さんも名雪さんも、いないよ」
「ああ……そうだったな」
思いっきり汗を吸い込んだ制服の胸元に、手のひらでぱたぱたと風を送り込みながら、祐一君が思い出したように呟《つぶや》く。
「さっき、ふたりで出掛けて行ったんだったな」
「うん。暑いのに大変だね」
「だったら、あゆでいいや……。頼む、俺によく冷えた麦茶を……」
息も絶え絶えの演技で、手を伸ばす。
「……マジで、倒れそう……」
もしかしたら、演技じゃないのかも……。
「外、暑かった?」
「……当たり前だ。夏なんだから」
「そうだよね、当たり前だよね」
祐一君の言葉に頷《うなず》く。
だけどボクは、そんな当たり前のことが一番嬉しいよ……。
「だから、麦茶……。もう、水でいいから」
「でも、いいのかな? ボクが勝手に冷蔵庫開けて……」
「今更何言ってんだ。お前は家族みたいなもんだろ」
「……うん。ありがとう」
そう言って貰えることが、ボクには嬉しかった。
だから、みんなの言葉に甘えるように、ボクは週末になると、いつもこの家に遊びに来る。
本当の家より、ボクはこの場所が好きだった。
ボクの本当の居場所に帰ってしまうと、そこでボクはひとりぼっちになってしまう。
だって……。
ボクの家族は、もうずっとずっと昔に……。
「だから、早く麦茶を持ってきてくれ……」
「あ、ごめん。ちょっと待っててね」
「氷たっぷりな」
祐一君の言葉に押されるように、|廊下《ろうか 》を急ぐ。
「麦茶、麦茶……」
台所の食器棚から、祐一君がいつも使ってるガラスのコップを取り出して、まず冷凍庫の扉を開ける。
製氷皿から氷を出して、溢れるくらいコップの中に放り込む。
「これくらい入れたら、充分だよね」
確か、同じくらい大量の氷を入れて麦茶を飲んでいる祐一君を、見たことがあったような気がしたから……。
そのコップに、ぎりぎりまで麦茶を注いで、こぼさないように玄関まで運ぶ。
「お待たせ、祐一君」
そのまま、コップを渡す。
「ふぅ……」
中の液体を3秒で飲み干して、やっと一息ついたようだった。
「おかわり」
「落ち着いたんだったら、自分で入れてきてよ」
「それもそうだな」
玄関で寝転んでいた祐一君が、やっと重い腰を上げる。
「しかし、お前は夏でも変わらないよな」
「うん。ボク暑いの好きだよ」
「……鈍感なんだな、きっと」
「……聞こえてるよ、祐一君」
「まぁ、冗談はこれくらいにして」
「……本当に、冗談?」
「しかし、名雪がこの特別暑い日にわざわざ出かけるとは、珍しいこともあるもんだな」
「名雪さん、暑いの苦手そうだからね」
「あいつはな、暑いと溶けるらしい」
「……溶けるの?」
「この前、いつものように眠りながら|廊下《ろうか 》を彷徨《さ ま よ》っていた時、『あついよー、とけるよー』って言ってたからな。間違いない」
「……いつも彷徨ってるの?」
「夏は寝苦しいらしくて、特に顕著《けんちょ》だな」
「そうなんだ……」
何となく、名雪さんらしいような気がした。
「でも、本当にどこに行ったのかな?」
「買い物じゃないか? 商店街の方に歩いて行ったみたいだから」
台所に移動しながら、祐一君がその光景を思い出したように説明する。
「買い物だったら、ボクがついて行くのに」
「確かに、名雪が熱で溶けるってことは、秋子さんだって充分承知のはずだからな。実際、いつもならお前がついて行ってるみたいだしな」
「うん」
平日は分からないけど、ボクが来ることのできる週末は、秋子さんと一緒に商店街に買い物に行くことが、いつの間にか決まりごとのようになっていた。
「……しかし、毎週毎週遊びに来てるんだったら、いっそ俺みたいに、ここに居候《いそうろう》したらいいのに」
「祐一君は、その方が嬉しい?」
「……嫌ではないな」
ボクの問いかけにぶっきらぼうに答えてから、冷蔵庫を開ける。
「ボクも、その方が嬉しいよ」
「誰も、嬉しいとは言ってないが……。でも、まぁそれだったら問題なしじゃないか」
よく冷えた麦茶のボトルを傾けて、コップにおかわりを注ぐ。
「でも、決めるのは秋子さんだから……」
コップの麦茶を飲み干してから、
「そうだよなぁ……」
と、顎に手を当てる。
「確かに、あの人の性格と過去の実績を考えたら、すぐにでもあゆを引き取るって言いそうだけどな……」
「もしかして、ボク、嫌われてるのかな……?」
「何か、嫌われるようなことしたのか?」
「……勧められたジャム、食べなかった」
「色は?」
「鮮やかなオレンジ」
「だったら無罪だろ」
「……そうだよね」
ため息をつく。
「そんなこと、気にするなって」
大きな手が、ボクの頭をぽんぽんと叩く。
「あの人のことだから、何か考えがあってのことだとは思うけどな」
「うん……」
台所の窓から、セミの鳴き声が聞こえる。
いくつもの音が混ざり合って、それは不思議なメロディを奏でる。
それも、この季節だけのもの。
「まだまだ、暑そうだね」
窓から差し込む光を浴びながら、ボクは夏の日差しを望む。
外はまだ、良いお天気のようだった。
*
[#ここから2字下げ]
「本当は、あんまり詮索するつもりはなかったんだけど……」
「……ううん、いいよ。もう、吹っ切ったから」
自分でもおかしくなってしまうくらいの、下手な嘘だった。
「予定日はいつなの?」
「……十二月」
「だったら、私と殆ど一緒ね」
「…………」
「同じ学年だから、きっと親友になれるよ。私たちみたいに」
「…………」
「……秋子?」
「……ごめん……電話、切っていいかな……」
親友がわたしのことを心配して電話をかけて来てくれたことは、痛いほど良く分かっているし、何より、本当に嬉しかった。
だけど……。
「……秋子、もしかして……」
「…………」
「……産むつもり、ないの……?」
「…………」
その言葉に、わたしは言葉を返すことができなかった。
「それは……許さないからね、秋子!」
「…………」
「そんなことしたら、今からそっち行って、本気で殴るからね!」
電話の声は、間違いなく真剣に怒っていた。
わたしの為に、怒ってくれている。
だけど、わたしの答えは……。
「……ごめんね……」
それは、誰に対する謝罪の言葉なんだろう……。
「秋子……」
「わたしひとりで幸せにできる自信が、ないから……」
「…………」
その言葉を最後に、会話は途切れた。
[#ここで字下げ終わり]
水瀬名雪 U
「涼しい……」
電車に揺られながら、やっと人心地《ひとごこち》ついたような気分だった。
空気をかき混ぜる、冷房の風が気持ちよかった。
「…………」
わたしの隣では、さっき商店街で買った花を、無言のままで見つめているお母さんの姿があった。
商店街では、花屋さんに立ち寄っただけで、わたしたちはすぐに駅へと向かった。
普段、あまり利用することのない電車に乗って、どこかわたしの知らない場所に向かっているようだった。
お母さんが買ってきた切符の額面から考えると、片道一時間以上はかかりそうな道のりに思えた。
お母さんは、何か考え込んでいるようで、あまり話をしてくれない。
分かっていることは、お墓参りに行くということだけ。
「お母さん」
空いている電車の車内で、わたしは隣に座っているお母さんの方を向いた。
「どうしたの、名雪?」
お母さんは、不思議そうにわたしの顔を見つめ返す。
「あと、どれくらいかかるの?」
わたしは、分かっているはずのことを訊いた。
「そうね、電車で五十分、それから徒歩で二十分くらいかしら……」
「遠いんだね」
「昔は路線も少なかったから、もっと時間がかかったのよ」
「……お母さん、訊いていい?」
「お母さんの、親友だった人のお墓よ」
「え?」
「それが、訊きたかったんでしょ?」
「……うん」
電車が、揺れている。
がたごとと、枕木の上を走る音がする。
「あなたを連れてきたのはね、どうしてもその親友に、成長したあなたの姿を見せたかったから」
「わたしの?」
「そう、あなたの」
やがて、電車は目的の駅に|辿《たど》り着く。
そこは、あまり大きな駅ではなかった。
降りる人も乗る人も、他の駅に比べてまばらだった。
わたしたちは、そのまばらな乗降客に混じって、駅に降り立つ。
「……暑いよ〜」
分かってはいたけれど、どうしてもその言葉が口をついて出る。
ずっと冷房車の中に居たせいで、外の日差しが特にきつく感じた。
「できるだけ、日陰の多い場所を歩きましょう」
こんな日差しの中でも、お母さんはいつものお母さんで、あまり暑さを気にした様子もなく、同じペースで歩き続ける。
「さっきの話の続きだけど……」
駅を出たところで、ふと思い出したように、お母さんが言葉を続ける。
「お母さんの親友だった人のこと? でも、お母さんが話したくないのなら、無理に訊かないよ」
「…………」
一瞬の間。そして、
「……歩きながらで、いい?」
不意に話し始めたその内容は、ずっとずっと昔の、お母さんの親友だった人との、大切な思い出の欠片《か け ら》だった。
どうして突然そのことを話してくれたのか、わたしには分からない。
だけど、もしかすると、最初からその話をする為に、わたしを連れて行ってくれたような気がしていた。
日差しは相変わらずだったけど、不思議と暑さは気にならなくなっていた。
水瀬名雪 V
「……その時の電話は、そこで途切れたわ。かけ直そうにも、その子の家の番号は昔と変わっていたし、わたしにはその後どうすることもできなかった」
そこまで話し終えたところで、お母さんはひとつ息をついた。
それは、わたしが産まれる前の話。
そして、もしかすると、わたしは産まれていなかったかもしれないという、そんな話だった……。
「その後、どうなったの?」
だけどわたしは、今、この場所に立っている。
だからなのかもしれないけど、話の中にわたしの名前が出てきても、それはあまりにも突飛すぎて、実感は湧かなかった……。
「本当に、殴りに来たのよ」
「え?」
くすっと声を漏らしながら、お母さんが続ける。
「本当は自分だって動いてはいけないような体なのに、わざわざ何時間もかけて、わたしの家まで押しかけてきたのよ」
「……優しい人だったんだね。お母さんの友達」
わたしの言葉に、お母さんはただ無言で、頷《うなず》いただけだった。
「それで、そのまま三日くらい泊まっていったの」
「誰かに似てるね」
お母さんが、そうね、と頷《うなず》く。
「もうひとつ、訊いていい?」
お母さんが、いつもの優しい瞳で、先を促す。
「どうして、わたしの名前が『名雪』なの?」
「名前を、交換したのよ」
「交換?」
「あの人が考えた名前を、わたしの娘につけて、代わりにわたしがあの人の娘に名前をつける……」
「だから、わたしが名雪……?」
「ええ。お互い、必ず自分の子供を幸せにしようって……」
一度言葉を句切って、そして顔を上げる。
「ここよ」
お母さんが立ち止まる。その先には、小さな霊園があった。
ちょうど、お盆にあたるこの時期は、訪れる人も多いらしくて、敷地内にはお供え物の花が色とりどりに咲いていた。
「お母さん、先に行ってるから、水を汲んできてくれる?」
「うん」
わたしは、言われた通り、備えつけのバケツに水を張る。
水道の蛇口から落ちた水が、飛沫になって乾いた地面に染みを作る。
素足にかかった水か冷たくて、心地良かった。
半分くらいまで水が溜まったところで水道を止めて、お母さんの姿を探して歩き始める。
墓石の立ち並ぶその場所の先に、お母さんの姿があった。
商店街で買ってきた花束を持ったまま、お母さんは、お墓の前に立っていた。
まるで、何かを語りかけるように……。
「お母さん……」
「ありがとう、名雪」
お母さんが、顔を上げる。
それは、水を汲んできたことに対するお礼だったのか、それとも……。
「ね、お母さん」
「どうしたの?」
水で清めたお墓に、買ってきたばかりの花を差して……。
「その人の子供に、お母さんはどんな名前をつけたの?」
「それは……」
家から持ってきていた、お線香と果物をお墓に供えて……。
「企業秘密よ」
会ったこともない、その人のお墓の前で、わたしは両手を合わせる。
だけど、何となく分かったような気がした。
お母さんが、その人の子供に、どんな名前をつけたか。
それは、きっと、わたしの良く知っている名前……。
そして、心の中でわたしは、そっと呟《つぶや》く。
お母さんが交わした、十八年前の約束に答えるように。
わたしは今、幸せです……と。
[#改ページ]
Four Rain
[#地から5字上げ]『ONE 〜輝く季節へ〜』より
私は、夢を見ている。
それは、日常の夢。
夢の中の私も、現実の私と同じ制服に身を包み、雨の落ちる遊歩道を小走りに歩いている。
お気に入りのピンクの傘を差して、水溜まりを避けるように歩いているのは、紛《まぎ》れもなく現実と同じ私の姿だった。
夢の雨が、一層その強さを増す。
夢の中の私は、長い髪と通学|鞄《かばん》を|庇《かば》いながら、何度も腕時計に視線を落とす。
歩く速度が、少し速くなる。
チャイムが鳴るまで、後少し。
遅刻しない為に、夢の中の私は、一生懸命走っている。
それは、昨日の夜、お弁当の下ごしらえで夜更かしをしたから。
だから、朝、ちゃんと時間通り起きられなかったから。
それ以外の理由は、何もない。
夢の中の私は、雨の音に怯《おび》えない。
不安の中で、目が覚めることはない。
不安の中にある、本当に消えてしまいそうなくらい|微《かす》かな希望にすがることもない。
夢の中の私は、雨が嫌いではない。
ただちょっと通学が|憂鬱《ゆううつ》に感じるだけの、どこにでもいる、普通の女の子。
昇降口に飛び込んで、同じようにチャイムと競争している顔なじみの女の子と苦笑しながら挨拶《あいさつ》を交わす。
傘を畳んで、代わりにハンカチを広げる。
チャイムの音が、雨をかき消す。
夢の中の私にとって、雨は特別なものではない。
クラスメートと、心から笑い合って……。
みんなで一緒にお弁当を広げて……。
お弁当の中身を、交換して……。
昨日見たテレビの話題に、好きな男の子の話だってする。
わざわざ他校から遊びに来てくれた、幼なじみの女の子と一緒に、夕暮れの商店街を歩いて……。
大好きなワッフルを、たくさん買って……。
近くの公園で、焼きたてを広げて……。
ふと、雨上がりの空を何気なく見上げて……。
そこには、特別な感情なんてなくて……。
ただ、真っ赤に染まる夕焼けの空が眩《まぶ》しいだけで……。
一日が終わって、また新しい日常が始まって……。
新しい一日も、またそんなことの繰り返しで……。
そして、やがて私のことをずっと好きでいてくれたという、クラスメートの男の子に告白されて……。
少しだけ|躊躇《ちゅうちょ》したけど、それでもその思いを受け入れることに何の戸惑いもなくて……。
それは、高校生らしい、本当に普通の恋愛で……。
普通であることが本当の幸せであることにさえ気づかないくらい、夢の中の私はどこにでもいるありふれた女の子で……。
流れる日常を、少し退屈に感じながらも、それでも充実した毎日を送っている。
……それが、夢の中の私。
笑顔の絶えない、幻の私。
だけど、それは決して届かない夢ではない。
私が望めば、夢は現実に変わる。
そう、それは簡単なこと。
それは……。
あいつとの思い出を、そっと手放すだけ。
消えゆく記憶をつなぎ止める努力を、ただ放棄するだけ。
簡単なこと……。
簡単すぎて、そして後戻りできないこと。
だけど、その先には間違いなく普通の女の子としての生活が待っている。
雨の日に、惨めな思いをすることもない。
叶わない希望に、いつまでもすがることもない。
そう、それは簡単なこと。
怖いくらい簡単なこと。
それだけで、夢の中の私は、現実の私の姿になる。
だけど。
……その笑顔が、本当の笑顔であると言える自信は、私にはなかった。
§
ジリリリリリリリリ……。
「…………」
それは、目覚ましの音だった。
あの日から、毎日のように聞いている、そのけたたましい音は、自分で選んだにも拘わらず、未だに慣れることはなかった。
私は、けだるい体を起こして、目覚ましのスイッチをオフにする。
一瞬の静寂。
そして、その静寂は、すぐに別の音に取って代わられる。
それは、夢の中でも降り続いていた雨。
目覚めた私を追いかけるように、雨音はその存在を一生懸命主張しているようだった。
昨日の天気予報では、今日は晴れ。
「……嘘つきです」
私の声に応えるように、雨音がその強さを増す。
「……大嘘つきです」
恨み言を呟《つぶや》いてから、ベッドを振り返る。
よほど寝苦しくて何度も寝返りを打ったらしく、シーツは中途半端に|皺《しわ》になっていた。
まるで、悪夢にうなされていたかのようだった。
「…………」
自分の胸に手を当てて、そっと息を吐く。
確かに、悪夢には違いなかった。
弱い心が見せた、|刹那《せつな 》の幻。
私は深呼吸をするように息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
その息は、まだ白くはなかった。
だけど、あいつと出会ったあの冬まで、もう少し……。
私は、雨の音を耳に残したまま、シーツと同じように|皺《しわ》のできているパジャマのボタンに手をかける。
あいつのことを忘れようとしている自分がいる。
そして、あいつのことを忘れることのできない自分がいる。
雨の音が、強くなった。
きっと、時間が答えを出してくれる。
それがどんな答えになるかは、私にも分からない。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
「私は……」
まだ、あなたのこと覚えています。
あなたの約束、信じてます。
「だけど……」
いつまで、覚えていたらいいのですか?
いつまで信じていたら、あの頃の笑顔を取り戻すことができるのですか?
「…………」
私は、ゆっくりと視線を動かす。
その先には、さっきまでけたたましい音を張り上げていた、目覚まし時計の姿があった。
「誕生日プレゼントを捨てるなんて、ひどいですよね……」
§
着替えを済ませた私は、髪を整えてから家を出た。
お気に入りのピンクの傘を広げて、雨の降りしきる街をゆっくりと歩く。
夢と同じ風景。
だけど、私は夢の中のように笑うことはできない。
そして、向かう先も学校ではなかった。
私は、夢の中の私ではないから。
現実の私にとって、雨は特別なものだから。
だから、私はあの場所に向かう。
馬鹿みたいに立っている為に。いつまでも、待っている為に。
夢の中で降り始めた雨は、未だ止むことはない。
濡れたアスファルトを叩く雨粒が、商店街から漏れた明かりを受けて、鏡のように鮮やかな色彩を湛《たた》えていた。
真っ赤な紅葉が、ジグソーパズルのピースのように潤った地面を覆う。
秋には少し遅くて、冬にはまだ届かない時間。
今という季節は、この一瞬だけのもの。
それは、一年の中で私が一番好きな季節。
だけど……。
いつの間にか街を覆った雨は、今もなお、大好きだった時間を灰色に染めている。
四つの雨に打たれながら、私は街を歩く。
お気に入りの傘を、斜めに差しながら……。
夢と同じように、長く伸びた髪を、流れる雫から|庇《かば》いながら……。
あの場所へと私は向かう。
そして、私はその場所で足を止める。
「…………」
それは、いつもの光景ではなかった。
今、自分の見ているものが信じられなくて、何度もその景色を見上げる。
荒れ放題だった雑草は綺麗《き れい》に刈られて、足跡で歪んでいたむき出しの地面は、灰色のコンクリートで平らに舗装されている。
そこは、かつて空き地と呼ばれた場所。
だけど、その場所はもう残ってはいなかった。
私の存在を拒むように、その場所には有刺鉄線が張られ、場違いなくらい大きな、工事中の看板が立てかけられている。
雨雲にそのまま溶け込んでしまいそうな、灰色のコンクリートで覆われた空間。
知らない場所が、そこにぽっかりと口を開けていた。
私の知っている場所は、もうここにはなかった。
|瞼《まぶた》の奥から込み上げる感情を必死で押さえつけながら、私はただ視線を下に向けるだけだった。
ここは、私がいてはいけない場所。
それは、大嫌いな場所と思い出の場所を同時に失うことだった。
「あいつが、もうここには来るなって……」
そう言っているように、私には思えた。
だけど、聞こえてくるものは、激しく地面を打つ雨音だけ。
「分かりました……」
自分の声が、震えているのが分かった。
「もう、ここには来ません……」
雨音に応えるように、私は呟《つぶや》く。
それは、あいつの望んでいたこと。
私に押しつけた、勝手なあいつの願い。
だから、私はもうこの場所には来ない。
でも……。
「もう、あの頃みたいには、笑えないです……」
雨の音が、私の心を覆い尽くしていた。
いつまでも、いつまでも……。
あいつの誕生日だった、あの日の冷たい雨のように。
§
その日も、朝から雨が落ちていた。
季節はゆっくりと冬に傾いて、空から舞い落ちる雫も、その冷たさを増していた。
私は、その日もひとりぼっちだった。
目的もなく、商店街に並んだショーケースを眺めながら、流れる時間に身を任せていた。
ポケベルの呼び出し音が鳴ったのは、雨が少しだけ小降りになった夕方頃だった。
ポケットから小さな機械を取り出して、液晶のディスプレイに表示された番号を確認する。
でも、本当は確認するまでもなかった。私の番号を知っている人は、まだひとりしかいない。
|想《おも》った通り、雨粒の浮かんだ液晶画面に表示されていたのは、嫌がる私にポケベルを持たせた張本人の、携帯電話の番号だった。
私はため息をひとつついてから、電話ボックスを探した。
幸い、それはすぐに見つかった。
ピンク色の傘を畳んで、慌てて雨を避けるように箱の中に体を滑り込ませる。
暗記している携帯の番号を押してから、受話器を耳に|宛《あ》てた。
「茜《あかね》っ!」
ガラスの向こう側から聞こえる雨音と、受話器の向こう側から聞こえる断続的な呼び出し音がしばらく続いた後、私は不意に名前を呼ばれた。
「……はい」
私は、受話器に向かって、こくんと頷《うなず》く。
でも、もし電話をかけたのが私以外だったら、どうしたんだろう……? と、余計なことを考えてしまう。
「久しぶりね、茜」
「……そうでもないです」
「元気だった?」
「……そうでもないです」
「それでね、突然なんだけど……」
「……嫌です」
「ちょっと会わない間に、冷たくなったね、茜」
「あなたは変わらないですね。詩子《しいこ 》」
「そんなことないよ。色々と成長してるよ」
受話器の向こうから、幼なじみの笑い声。
でも、私は無表情のまま、電話ボックスのガラス越しに、雨の音を聞いていた。
「ね、茜。今、公衆電話でしょ?」
「……はい」
「やっぱり、ポケベルだけじゃ不便だよ」
いつもと変わらない口調で、電話の相手が言葉を続ける。
「……そんなことないです」
「今時、ポケベル持ってる人なんて珍しいよ。携帯に買い換えようよ。最近は、基本使用料も通話料も安くなったし、各種サービスも充実してるし、それにメールだって……」
「どこかの回し者ですか?」
「あたしはただ、いつでも幼なじみの茜と連絡と取りたいだけだよ」
……幼なじみ。
詩子の口からその言葉を聞くと、今でも胸の奥が痛む。
それは、誰にも気づかれることのない、私の中の悲しみ。
誰も気づかないから、誰も癒してくれない。
だけど、たったひとりだけ……。
「今日なんて、ちょうどいい区切りだと思うけど?」
……区切り?
詩子の言葉に、|微《かす》かに怪訝な表情を浮かべる私の姿が、ガラスの中に映っていた。
「……茜?」
私が黙り込んでいるので、詩子が心配そうに声をかける。
「何でもないです」
「それならいいんだけど……」
まだ少し心配そうに、声を落とす。
「でも、いい機会だから、やっぱり携帯に買い換えようよ」
そして、すぐいつもの口調に戻っていた。
「……どんな機会なんですか?」
「そんな細かいこと気にしたらダメだよ」
「……詩子は細かいことを気にしなさ過ぎます」
「それが良いところなのよ」
都合良く完結して、受話器の向こうから屈託のない笑い声が聞こえてきた。
柚木《ゆずき 》詩子。
私の幼なじみで、大切な親友……。
「そうだ、あたしが茜に携帯電話プレゼントするよ」
「……要りません」
「でも、通話料と基本使用料はちゃんと茜が払ってね」
「……どうして、私が詩子に何か貰わないといけないんですか?」
「だって……」
言いかけて、ふと詩子の言葉が止まる。
「茜、今から一時間後に商店街の喫茶店に来て欲しいんだけど」
「……嫌です」
「最近の茜、やっぱり変わったよ」
責めている口調ではなかった。
だけど、悲しそうだった。
私は、どうして人との繋がりを避けているのだろう……。
私は、何を恐れているのだろう……。
もう、失うものなんて、何もないのに……。
失いたくないものは、もう全て失ったのに……。
「茜」
詩子が、私を呼ぶ。
それは、今までに聞いたことがないくらいの、真剣な声だった。
その声に、私の思考は中断され、不意に現実の光景が視界に飛び込んできた。
雨。
ガラス。
ガラスを流れる雫。
電話。
そして、電話の向こう側にいてくれる、大切な親友。
「……来てくれないと、中学の修学旅行で撮った、茜の恥ずかしい写真を学校で配っちゃうからね」
「……絶対に嫌です」
「だったら、来てくれるよね?」
「…………」
数秒の間をおいて、私はゆっくりと頷《うなず》いた。
詩子が私を本気で心配してくれていることを、私は痛いほど知っていたから……。
§
電話を終えてから、ちょうど一時間後。
私は、指定された喫茶店の前に立っていた。
そこは、何度か詩子に連れられて来たことのあるお店だった。
この街の商店街にはアーケードがないため、店先のガラスケースは、斜めに降った雨の雫で濡れていた。
雨のせいか、どこか閑散とした|雰囲気《ふんい き 》を感じる。
店の中の様子が、ガラスが曇って見えないことも、そう感じた原因の一つかもしれない。
私は、商店街の時計でもう一度時間を確認した。
腕時計はしないことにしている。
私にとって、過去は常に向き合っていなければならないことだから。
だから、その記憶がどんどん遠くに行ってしまいそうで、私は腕時計が苦手だった。
「…………」
店の中には、もう詩子が来ているのかもしれない。
私は、木目調のドアを、そっと押し開けた。
扉が開くと共に、真上からドアベルの音が降る。
雨音とベルと、そして店内にかかっている有線の音楽が、一瞬だけ混ざりあって、そして、ドアが閉まると同時に、私の耳に飛び込んでくる音は、今流行らしい音楽のメロディだけになった。
その音楽を、私はメロディしか知らない。
多分、詩子に無理矢理押しつけられたCDの中に入っていた曲だったと思う。
でも、誰が歌っているのかも、何という名前の曲なのかも、私には分からないし、興味もなかった。
嫌いなメロディでは、ないのだけど……。
「…………」
閉じた傘を、鍵つきの傘立てにしまってから、ふと、泥にまみれた自分の足下に気づく。
白かったはずの靴は泥で汚れ、吸い込んだ雨は靴下まで湿らせている。
こんなになるまで、私は何をやってるんだろう……。
答えの出ない問いかけ。
その答えはあまりにも明確すぎて、私はずっと知らないふりを続けるしかなかった。
喫茶店のガラスに、私の、里村《さとむら》茜の顔が映っている。
まるで、笑い方を忘れてしまった人が必死でそれを思い出そうとしているような、そんな表情の私が、じっと自分の顔を見つめている。
それが、あいつの望んでいる表情とはかけ離れていることを、私は知っている。
だけど、もう、ひとりではどうすることもできない……。
「茜っ! こっちこっち!」
ガラスに映ったテーブルのひとつ。
幼なじみが、立ち上がって手を振っていた。
「……詩子」
私は、わざとため息をついてから、|無邪気《む じゃき 》に手を振る親友の元に歩いて行った。
泥だらけの靴は、不思議と気にならなかった。
いつの間にか、知らない曲が静かな店内をゆっくりと流れていた。さっきまでかかっていた曲は、どうやら終わってしまったようだった。
それが、少しだけ残念に思えた。
§
「良かった、来てくれたんだ」
「……仕方なく、です」
「そんな、心にもないことを」
都合良く解釈して、詩子が私に席を勧める。
「私は、脅迫されたから来たんです」
ため息混じりに呟《つぶや》き、詩子に勧められた席に座る。
そして、私の席とは別に、二つの水の入ったコップが置かれていることに気づいた。
どうやら、詩子の他にも誰か同席しているようだった。
「あ、そこは澪《みお》ちゃんの席だから」
私が怪訝に|想《おも》っていると、詩子が自分の席に座りながら、さもそれが当然であるかのように説明する。
「……上月《こうづき》さん?」
思わず、訊き返す。
「そう、上月さん」
それは、全く予想していなかった名前だった。
そして、懐《なつ》かしい名前でもあった。
「今ちょっと席を外してるけど」
「でも、どうして……?」
上月さんが……?
「偶然だよ。さっき、たまたま商店街で会ったの。それで、せっかくだから誘ったの」
「…………」
詩子の意図が分からなくて、私は口を挟むことができなかった。
「澪ちゃんも茜に会いたがってたからね。スペシャルゲストってとこかな?」
詩子の言葉に合わせるように、お店の奥からひとりの女の子が、満面の笑みを浮かべながら駆け寄ってきた。
それは、懐《なつ》かしい女の子の姿だった。
胸元で抱えるように持っているスケッチブックには、『スペシャルなの』
と、黒のサインペンで書かれていた。
そして、小柄な女の子は、挨拶《あいさつ》をするようにリボンの乗った頭を下げてから、私の隣の席に座った。
水色の大きなリボンと、ころころと変わる表情が印象的な、私や詩子よりもひとつ年下の女の子。
それが、上月さんだった。
『こんにちは』
スケッチブックを一枚めくって、もう一度ぺこんとお辞儀をする。
「……こんにちは」
上月さんは、言葉を話すことができない。
そして、そんな上月さんと知り合うことになったきっかけも、あいつだった。
「……詩子」
「うん? どうしたの、茜?」
コーラに口をつけながら、詩子が首を傾げる。
「用件を教えてください」
「うーんと」
詩子が、自分の口元に指を当てる。
『うーんと』
横を見ると、上月さんも同じような仕草で考え込んでいた。
「特に用事なんてないよ。ただ、茜と一緒にケーキが食べたかっただけ」
『そうなの』
「…………」
「ダメかな?」
詩子が、困ったように上目遣いで呟《つぶや》く。
「詩子、嘘ついてます」
「そんなことないよ。あたしは、茜と一緒にいると楽しいよ」
「……私は、静かな方が好きです」
「それこそ嘘だよ」
真っ直ぐに、幼なじみが私を見る。
真剣な瞳で。
「…………」
私は、何も言い返せなかった。
「本当はね、瑞佳《みずか 》さんも呼ぼうと|想《おも》ったんだけど、よく考えたら連絡先知らないんだよね、あたし。茜、知ってる?」
言いながら、携帯電話を取り出す。
「……知らないです」
「そっか、残念」
取り出した携帯電話を、|名残《な ごり》惜しそうにもう一度しまい込む。
「ご注文はお決まりですか?」
そして、待ちかまえていたかのように、店員さんが遅れてきた私に声をかける。
私は、備えつけのメニューを広げ、ドリンクのページを探した。
「今日はあたしのおごりだから、何でも好きなの注文していいよ」
「……自分で払います」
ソーダフロートを注文して、メニューをテーブルに戻す。
「茜、ホントに今日が何の日か忘れてるみたいね」
詩子が、ストローでくるくるとコーラをかき混ぜる。
上月さんは、コーラの上のフロートをすくい取ろうとして、何度も失敗していた。
そして、そんな姿が微笑ましかった。
「今日が何日なのかも興味ないです」
私にとって、時間は意味のないもの。
私の中で、時間はあの雨の日に止まってしまったままだから。
「…………」
まだ降り続いている雨。
ふと、窓に視線を送る。
そこには、ガラスに映った自分が、現実の自分を見つめていた。
詩子には、今の私の表情はどう映っているんだろう……。
「茜」
幼なじみが、私の顔を|覗《のぞ》き込む。
「やっぱり、茜は笑ってる時の方が|可愛《か わ い》いと思うよ」
「……え?」
|無邪気《む じゃき 》に屈託なく笑うことができる詩子を、羨ましいと思うことがある。
私は、笑えないから。
だけど……。
「茜が、大切なことを忘れるくらい悩んでる理由は分からないけど、あたしも、澪ちゃんも、茜の親友のつもりだからね」
「……大切なこと?」
うんうん、と上月さんが隣で相槌を打つ。
そして、不意に思い出す。
詩子が何を言いたかったのか。
今日が、私にとってどんな日なのか。
どうして、忘れていたんだろう……。
「……馬鹿ですよね、本当に」
そして、こんなことを忘れていた自分が、おかしくて……。
「ほら、やっぱり」
詩子が、言葉を弾ませる。
「何が、やっぱりなんですか?」
「|想《おも》った通り、笑ってる方が|可愛《か わ い》いよ」
ガラスに映った、私の顔。
それは、さっきまでの表情と、何も変わっていないような気がした。
笑っていたんだろうか、本当に?
「これは、誕生日パーティーだったんですね……?」
私の言葉に、詩子と上月さんが、にっこりと頷《うなず》く。
「ダメだよ、茜。自分の誕生日忘れたら」
からかうように、詩子が目を細める。
私は、ひとりなんかじゃなかった。
ここにも、私のことを|想《おも》ってくれる人がいる。
ちょっと不器用で、強引だけど。
「あとで、特製ケーキも用意してるからね。ここのケーキって、おいしいんだよ」
でも、私の同じくらい不器用だから……。
『とくせいなの』
私の誕生日。
ずっと、忘れていた。
そんなこと、考える余裕すら私にはなかった。
「お誕生日おめでとう、茜」
『おめでとうなの』
笑い方なんて、忘れたと|想《おも》ってた。
笑うことなんて、二度とないと|想《おも》ってた。
でも、本当は……。
笑い方を忘れようとしていただけ。
二度と笑うことはないって、思い込もうとしていただけ。
「……ありがとう」
感謝の言葉が、笑顔と共にあった。
そして、忘れかけていた、あいつの最後の言葉……。
『分かった、それなら君の誕生日に何かプレゼントする』
あいつ、約束したから……。
私は、その約束を信じているから……。
「ふたりに、お願いがあります」
「うん?」
「私の誕生日が今日だということを、みんなには内緒にしてください」
「え? どうして?」
詩子と上月さんが、同時に首を傾げる。
「私の誕生日に、プレゼントを買ってくれるって約束した人がいるんです」
今は、側にいないけど……。
「今日は、もうダメかもしれないですけど……」
いつか、絶対に帰ってきてくれるから。
あの日の約束を、守って貰わないといけないから。
これだけ、私を困らせたんだから……。
「もう、一年も待ちたくないですから……」
だから、あいつが戻ってきたら……。
ふたりで一緒に見た、あのショーケースのぬいぐるみは、まだ残っているから……。
「その時は、今日が誕生日ですって嘘をついて、すぐにプレゼントを買って貰います」
その時が、ずっと待ち続けていた、私の誕生日になる。
[#改ページ]
SEVEN PIECE "first snow III".
[#地から5字上げ]『ONE 〜輝く季節へ〜』『Kanon』より
episode:01
「……寒い……よ」
目が覚めた時、少女は無意識に布団を目深に被った。
その分、布団から出た足を|庇《かば》うように、そのまま丸くなる。
すっぽりと布団を被って、そのまま微睡みに意識を任せる。
「……うぐぅ……」
布団の暖かさが気持ち良かった。
もう一度、意識が夢の中に滑り込んでいく……。
夢。
(そうだ……。夢を見ていたんだ……)
目が覚めるまで、少女は確かに夢を見ていた。
だけど、意識が目覚めると共に、夢は遠ざかっていく。
確かにさっきまで見ていたはずの光景が、思い出せない。
思い出そうとすればするほど、夢は遠くに逃げていく。
それが、夢。
だけど、思い出せなくていいのかもしれない……。
ふと、そう思うことがある。
昔の夢は、いつまでも過去を縛りつけるものだから。
「……やっぱり……寒い……」
布団の隙間《すきま 》から、冷たい空気が流れ込んでくるようで、いつの間にか目が覚めてしまっていた。
「……うぐ」
布団から、顔を出す。
そこは、昨日布団に潜り込んだ時と、同じ部屋。
今年の夏からずっとお世話になっている、知り合いの家。
少女にとって、ここは間違いなく、大切な家族と暮らす場所だった。
優しいお母さんがいる。
大切な親友がいる。
意地悪で口は悪いけど、だけど、大好きな人がいる。
ここは、そんな家族の集う場所。
「……もう、朝……?」
口に出して言ってみたものの、手元に時計がなくて、時間は分からなかった。
布団の中から手を伸ばして、借り物の目覚まし時計を探す。
そして、目覚ましの代わりに、開いたままの本を探し当てた。
それは確か、昨日の夜に読もうと|想《おも》っていた文庫本だった。
どうやら、布団の中で読んでいるうちに、そのまま眠ってしまったらしい。
「……電気、消さないと」
よく見ると、蛍光灯の明かりも昨夜のままだった。
一度ため息をついてから、もそもそと布団から這い出て、蛍光灯のスイッチをオフにする。
「……あれ?」
と同時に、部屋が闇に戻る。
真っ暗ではなかったけど、朝とは思えないくらい、部屋の空気は薄暗かった。
「雨、降ってるのかな……?」
少し大きめのパジャマを引きずりながら、カーテンの側まで移動する。
窓の近くは、心持ち寒さが増しているように感じた。
「雨だったら、嫌だな……」
雨だけは、嫌い。
そういえば、先週もお休みの日に雨が降って、結局家から出られなかった……。
その時も、口の悪い同居人は、ボクの日頃の行いのせいにしてたっけ……。
今日もせっかくのお休み。だから、雨は嫌だった。
少女は、暗澹とした気持ちを振り払いながら、水色のカーテンを片側だけ引いた。
「……わ」
思わず、嘆息を漏らす。
雨は降っていなかった。
「……もう、そんな季節なんだ」
だけど、日頃の行いがいいかどうかは、ちょっと微妙なところだった。
「道理で、寒いわけだよ」
白く流れる雫。
まだ灰色のままの街に、白い衣が舞い降りている。
何かを描くように、冷たい結晶が空を埋め尽くす。
少女は、しばらくの間、その光景に目を奪われていた。
「本当に、久しぶりだね……」
それがこの街の、今年の初雪だった。
episode:02
「よう、美坂」
通学途中に、知り合いの背中を見つけて、北川潤は後ろから声をかけた。
本当なら今日は休みの日なので、他に生徒の姿はない。
「おはよう」
ひとりで通学路を歩いていた美坂香里は、北川の姿を見ても特に表情を変えなかった。
「おはよう」
挨拶《あいさつ》を返す北川には、それが少し不満だった。
「ひさしぶりね」
「毎日学校でか顔合わせてるだろ」
「そうだった?」
「それどころか、隣席だろ」
「そうかも」
悪びれた様子もなく、美坂が先に歩き出す。
アスファルトの道を心持ち早足で歩くその後ろ姿は、どこか自分を避けているようにも見えて、北川は苦笑するしかなかった。
どんな縁かは分からないけど、北川潤と美坂香里はこの学校に入学してから、今年で三年連続同じクラスだった。
このまま半年後に揃って卒業できた場合、ずっと同じクラスだったということになる。
北川は純粋に喜んでいたが、美坂はどこか鬱陶《うっとう》しく思っているような気がして、そのことを口に出して言ったことはまだ一度もなかった。
「北川君、昨日出た数学の宿題、終わらせた?」
「とりあえずは終わらせたけど」
「明日、問四見せてね。ちょっと答え合わせしたいから」
その間も、美坂は北川の方を向かない。
真っ直ぐに前を向いて、淡々と言葉を続けている。
元々、どこか冷たい|雰囲気《ふんい き 》があって、二年まで一緒のクラスだった水瀬名雪以外の生徒とは、それほど仲良くなっているようには見えなかった。
もちろん、表面上のつき合いはある。
だけど、心のどこかでは、常に全く別のことを気にかけているような……。
北川には、そう思えてならなかった。
「なぁ、美坂。来年の進路はどうするんだ?」
「何も考えてないわ。だから、こんな休みの日を返上してまで、学校に進路相談に来てるんじゃない」
「お互いに、な」
「そうね」
「でも、大学に行くんじゃないのか? 美坂の成績だったら、問題なしだろ」
「特に、興味ないから」
「オレは、大学行くつもりだけどな」
その為に、毎晩遅くまで勉強している。
「北川君の成績だったら、大丈夫よ」
「香里が言うと、嫌みに聞こえるぞ」
「香里?」
「……いや、悪い。美坂」
「雪、降ってきたね」
「え?」
「初雪」
いつの間にか立ち止まっていた美坂が、視線を斜め上に向ける。
北川が家を出る時までは薄曇りだったはずの空は、灰色から黒に近づいていた。
そして、その空には、|微《かす》かに白い点が浮かんでいる。
「初雪か……」
北川は美坂の横で立ち止まり、同じ空を見上げる。
いつもの通学路の風景に、視界を通り過ぎる雪の姿があった。
それは、時間と共にその数を増し、今ではその風景全体を、白い粒が埋め尽くしていた。
一年ぶりの初雪。
今年は、少し早いかもしれない……。
「もう、一年も経つのね……」
美坂が、ふと雪の中で呟《つぶや》く。
去年の初雪から、もう一年。
「一年……長かったわね」
「そうだな」
「色々、あったわね」
「そうだな」
「ねぇ、北川君」
「何だ?」
「あたしも、大学行こうかな……」
「どうしたんだ? 急に」
「いつものことじゃない。気まぐれは」
「それもそうか」
二人で見上げる同じ空からは、今もなお、初雪という名の結晶が、ゆったりと舞い降りていた。
episode:03
「わっ」
「どうしたの? みさき?」
遊歩道の手すりに掴まりながら、公園を散策していた川名《かわな 》みさきが、突然声を上げた。
一緒に歩いていた深山《み やま》雪見《ゆきみ 》が、慌てて駆け寄る。
みさきは、どこか怪訝な表情で、自分の鼻を押さえていた。
とりあえず、心配するようなことではないようだった。
「なんか今、鼻の頭がひやっとしたよ」
「……ひや?」
「よく分からないけど、冷たかった」
「……雨?」
雪見が、空を見上げる。
確かに、いつ雨が落ちてきてもおかしくないような、そんな空模様だった。
雪見の言葉に、みさきが首を横に振る。
「何となくだけど、雪のような気がする」
「雪?」
「でも、雪なんて降るわけないよね」
「それは、分からないわよ……」
もう一度見上げた空は、雨雲と言うよりは、雪雲に近いような気がした。
「今日は、全国的に冷え込むらしいわよ」
出かける前にチェックした天気予報を思い出して、雪見がつけ加える。
「確かに、今日の寒さはちょっと異常だよね」
家を出る時に引っ張り出してきた真冬用のコートを|羽織《は おり》りなおしながら、みさきも見えない空を見上げる。
「とりあえず、今は降ってないみたいだけど、本格的に降ってくる前に帰った方がよさそうね」
「嫌だよ」
「嫌だよ、じゃないわよ」
呆《あき》れたように呟《つぶや》く。
「せっかくのお休みなんだから」
「来週もお休みでしょ」
「でも、雪ちゃんのお休みは、しばらく先だよね?」
「それは、そうだけど……」
雪見は、休日でも舞台練習のあることがほとんどだった。
だから、今日という日をずっと望んでいたのは、雪見も同じだった。
「久しぶりに会えたんだから、もうちょっと一緒にいたいよ」
「そういう、知らない人が聞いたら誤解するような|台詞《せ り ふ》を言わないで」
「うん?」
みさきが、首を傾げる。
「……とりあえず、傘くらい調達した方がいいわね」
「私、雪は好きだよ」
「知ってるわよ」
「あれ? そんな話した?」
「あなたは、子供が好きそうなものは|大概《たいがい》好きでしょ」
「それもそっか」
「……否定しなさいよ」
ため息混じりに呟《つぶや》いて、みさきの手を取る。
「とりあえず、コンビニで傘を買って、これからのことはその後考えましょう」
「うん」
頷《うなず》きながら、雪見の手を握る。
「でも、私の気のせいかもしれないよ。だって、雪なんて滅多に降らないし……」
その声を|遮《さえぎ》るように、雪見が空を見上げる。
「……どうやら、気のせいじゃないみたいよ」
見上げた空からは、堰を切ったように、白い雪が溢れ出ていた。
ゆっくりと。
地上へ向かって。
episode:04
雪の足音が、商店街を駆け抜けていた。
この街でこれだけの雪は珍しくて、少女は何度も足を止めて、空を見上げていた。
ついさっき突然降り出した雪は、いつの間にか空全体を覆っていた。
突然の雪を予想できた人はいなかったらしくて、誰もがその空を物珍しそうに眺めていた。
「…………」
白い吐息を吐き出しながら、少女がまた商店街を走る。
さすがに人通りの多い場所に雪が積もることはなかったけど、それでも服やリボンにまとわりつく雪は、決して気持ちのいい物ではなかった。
特に、何時間も道に迷って、今にも泣き出しそうな少女にとっては……。
「あの、ちょっとよろしいですか?」
そんな少女を呼び止めるような声がかかったのは、今日四度目の、ワッフル屋の前を通り過ぎすぎてしまった時だった。
目的の場所にはいつまで経っても|辿《たど》り着けないのに、用事のない場所には何度も|辿《たど》り着いてしまう。
典型的な、方向音痴だった。
「…………」
その声に少女は立ち止まり、ちょこんと首を傾げる。
いつも年齢より幼く見られるその少女には、そんな仕草が似合っていた。
「道を、お訊ねしたいのですけど」
それは、二十代半ばくらいの女性だった。
落ち着いた色のロングスカートを履いて、上は、これもあまり派手ではない色のコートを|羽織《はお》っている。
服装は地味だけど、整った顔立ちの綺麗《き れい》な女性だった。
そして、何より目を引くのは、その長い髪だった。
腰の辺りか、もしかするともっと下の方まで伸びているストレートの髪。
「あの……」
「…………」
その言葉に、少女は無言のまま何度も頷《うなず》く。
そして、小脇に抱えていたスケッチブックらしき物を取り出して、ページをめくる。
『こんにちはなの』
そのページには、黒のサインペンでそう書かれていた。
「こんにちは……」
多少面食らったように、少女に声をかけた女性は挨拶《あいさつ》を返した。
少女は、どこか満足そうに、何度も頷《うなず》いている。
「道を、お訊ねしたいのですけど……」
もう一度、繰り返す。
少女はまた頷《うなず》きを返す。
言葉は、ない。
「もしかして、声が……?」
その様子から何かを察したらしく、女性が申し訳なさそうに問う。
『大丈夫なの』
また、サインペンの文字。
「そうですか……」
女性は、納得したように頷《うなず》く。
「私も、少し普通の人とは違いますから」
「?」
少女が、首を傾げる。
「いえ、気にしないでください……」
そう言って、どこか愁《うれ》いを帯びた表情を覗かせる。
だけど、それも一瞬のこと。すぐに、さっきまでの落ち着いた|雰囲気《ふんい き 》に戻っていた。
「それで、道なんですけど……」
三度目の問いかけに、少女は少し長めの言葉を返す。
『場所は分かるけど、ここがどこか分からないの』
「…………」
「…………」
「……迷子、ですか?」
その言葉に、ぶんぶんと首を振る。
『違うの』
何が違うのか、自分でも分からなかったけど、さすがに高校生になってまで迷子扱いは嫌だった。
『大丈夫なの』
さっきのページの、使い回しだった。
「そうですか……」
女性は、納得したように続ける。
「ゲームセンター、ご存じですか?」
女性の外見から、その言葉はどこか不釣り合いだった。
「この商店街にあると聞いたのですが、場所が分からなくて……」
そう言って、形の整った眉を寄せる。
『場所は分かるけど、ここがどこか分からないの』
これも、さっきの使い回しだった。
だけど、意味は通じる。
「困りましたね……」
それはお互い様だった。
少女も、行きたい場所があったのに、未だに|辿《たど》り着けないでいる。
そして、深刻そうな表情で、うんうんと首を動かしている。
それでも、あまり真剣に困っているようには見えないけれど……。
「それでは、とりあえず一緒に探しましょうか?」
女性が、片手を差し出す。
その手には、手袋があった。
今日はこんな天気だけど、この季節に手袋は少し珍しくて、少女は首を傾げた。
でも、それも一瞬のことで、少女はすぐに大きく頷《うなず》いた。
『探すの』
満面の、笑顔と共に……。
いつの間にか、あれだけ降っていた雪は止んでいた。
それが今年の初雪であることを、少女が気づかないままに……。
episode:05
天気予報では、雨のはずだった。
「…………」
しかし、ピンクの傘を斜めにして、見上げた空から落ちてくる雫は、雨ではなかった。
「……最近、当たらないですね」
行く|宛《あ》てもなく街を彷徨いながら、里村茜《さとむらあかね》は、その不思議な雪景色の中に立っていた。
「……こんなことは、初めて」
中空にかざした手のひらに、小さな雪のかけらが舞い降りる。
そして、僅《わず》かな|余韻《よ いん》だけを残して、水滴へと姿を変える。
雪なんて、何年ぶりだろう。
もしかしたら、去年も一昨年も、街のどこかで降っていたのかもしれないけど、茜の記憶の中に、その風景はなかった。
見上げると、螺旋を描くように、雪が空を舞っている。
灰色の空に、白い結晶。
どこか幻想的で、そして何より、綺麗《き れい》だと感じた。
しかし、そんな時間も長くは続かない。
滅多に雪の降らない街で、しかもまだ完全に冬と呼べる季節ではない今の時間に、この光景は、元々場違いな物だった。
空一面を隙間《すきま 》なく覆っていた雪は、見る見る間にその数を減らしていく。
街が、一時の幻想から解き放たれて、元の姿を取り戻す。
それだけのことだった。
……だけど。
「…………」
茜は、ふと思い立って、親友に持たされたままのポケベルを取り出した。
ポケベルの液晶画面には、時計が内蔵されているので、普段はこんなふうに取り出して見ることはない。
「……詩子《しいこ 》」
呟《つぶや》いてから、公衆電話を探す。
ポケベルに着信メッセージはない。
あの詩子のことだから、雪を見たら放っておくはずがない。
きっと、茜のポケベルにメッセージを入れる。
それがないということは、きっと気づいていないに違いない。
この、一瞬の光景に。
「…………」
だったら、伝えないと……。
いつの間にか、雪は殆ど残っていなかった。
今年の初雪は、あと少しで消えてしまう。
しばらく走った後、商店街の一角に公衆電話を見つけた。
普段、何気なく歩いている時は簡単に見つかるのに、いざ必要な時は、なかなか見つからないものらしい。
茜はすぐに、親友の携帯の番号を押した。
雪は、まばらではあるけど、まだかろうじて残っている。
「……もしもし、詩子ですか?」
どうして、伝えたくなったのか、自分でも分からない。
ただ、どうしてもこの雪景色を、一緒に見て欲しかった。
きっと、難しい理由なんて何もない。
「……雪、降ってますよ」
あるとすれば、茜の中に残っている|微《かす》かな雪の記憶が、三人一緒だった頃の思い出だったこと……。
茜と、詩子と、もうひとり……。
「……それと、詩子に訊きたいことがあります」
久しぶりの雪に、受話器の向こうで、はしゃぐ詩子の声があった。
まるで、雪と泥まみれになって、|無邪気《む じゃき 》に遊んでいた、あの幼い頃のように。
茜は、言葉を続ける。
「……携帯電話って、どこに売っているんですか?」
episode:06
朝から降り始めた雪が、商店街を覆っていた。
それでも、夕暮れの街は、いつもと変わらない活気があった。
「水瀬《みなせ 》さん、お買い物ですか?」
商店街のコンビニに立ち寄った秋子に、顔見知りの男性店員が声をかける。
「こんにちは」
秋子も、丁寧に言葉を返す。
「珍しいですね、コンビニで買い物なんて」
「今日はちょっと、特別です」
秋子は、滅多にコンビニで買い物をすることがなかった。
|大概《たいがい》の料理は手作りで済ませる水瀬家にとって、コンビニは殆ど縁のない場所だった。
顔なじみの店員とも、家が近所というだけで、コンビニで顔を会わせたのはこれが初めてかもしれない。
「水瀬さんのことだから、食べ物じゃないですよね。コンビニの弁当は、うまくないですからね」
店員にあるまじき発言のような気もしたが、秋子は特に気にした様子もなかった。
「それにしても、嫌な季節になりましたね」
ガラスのドアから外を見上げて、店員が呟《つぶや》く。
「雪ですか?」
「ええ、これから半年近くも雪とのつき合いが続くんですから、嫌にもなりますよ」
忌々《いまいま》しく灰色の空を見上げる店員に、
「そう、捨てたものでもないですよ」
秋子が、穏やかに微笑んだ。
「そうですか?」
店員が、不思議そうに首を傾げる。
「雪の日は……不思議なことが起こるんですよ」
「不思議なこと、ですか?」
「ええ、不思議なこと」
秋子の言葉が不可解で、店員は聞き返した。
「例えば……」
秋子は、店員と同じ空を見上げ、いつもと変わらない口調で言葉を|紡《つむ》ぐ。
「例えば、奇跡」
「……奇跡、ですか?」
その曖昧な答えに、店員は更に首を傾げた。
「例えば、ですよ」
「まぁ、確かに水瀬さんがウチに買い物に来るってのも、不思議なことと言えなくもないですからね」
「今度から、一週間に一度は来るようにします」
「それは確かに、奇跡かもしれませんね」
秋子の見ていた視線の先には、更にたくさんの雪が、空中を舞っていた。
灰色の中で、白い粒がまるで生き物のように飛び交っている。
確かに、そのどこか現実離れした幻想的な光景を見ていると、どこか不思議なことが起こってもおかしくないような気がした。
episode:07
雪が降っていた。
夜という闇の中で、人知れず白い衣を重ねる街が、そこにはあった。
「……雪、積もるかな」
そんな街並みを、水瀬名雪は窓ガラス越しに見つめていた。
半透明に映った自分の姿と、絶え間なく落ち続ける雪の姿と……。
こうしていると、自分が雪の中に立っているようで、名雪は複雑な心持ちだった。
雪は好き。
それは間違いない。
だけど、闇の中、街灯と共に浮かび上がるその景色は、どこか不安をかき立てる。
絶え間なく夜を浸食する雪。
朝方はまだ少なかった雪も、太陽の光と雑踏のない夜では、その存在を消し去ることはない。
みんなが寝静まっている間に、街はあの姿を取り戻す。
「……外、寒いかな」
名雪は窓の鍵を外して、自分の部屋からベランダに出る。
そこは、雪の真ん中。
名雪の周りを、雪が駆け抜ける。
ベランダにまで吹き込んだ雪が、夜の寒さで溶けることなく、既にベランダにうっすらと絨毯を敷いている。
「……やっぱり、寒い」
パジャマの上から|羽織《はお》った半纏《はんてん》を、ぎゅっと抱きしめる。
間違いなく寒いけど、だけどどこか心地よい冷たさだった。
ベランダの手すりから、光の浮かぶ街並みを眺める。
一望、とまではいかないけど、それでもここから望む雪が、名雪は好きだった。
「……寒いんだったら、出てくるな」
不意に、声。
雪のベランダには、名雪の他にもうひとり立っていた。
「祐一?」
名雪のいとこであり同居人でもある少年が、本当に寒そうに体を震わせながら、ベランダに出てきていた。
「どうしたの?」
「それは、こっちの|台詞《せ り ふ》だろう、この場合……」
「わたしは、雪を見てただけだよ」
「部屋の中で見たらいいだろ」
「最初は、そのつもりだったんだけどね……」
雪をすくい取るように、名雪が手を伸ばす。
「何となく、祐一も来てくれるような気がして」
「そりゃ、こんな寒い日に突然ベランダに出て雪と戯《たわむ》れてる奴がいたら、気になって飛び出してもくるさ」
「あはは……そうだね」
「はぁ……。今年も、相変わらず脳天気そうで良かったよ」
吐いた息が、白く染まる。
「わたし、脳天気じゃないよ。色々と考えてるもん」
「例えば?」
「……例えば……」
いつの間にか、積もった雪。
時間の流れと共に、その数は確実に増えていく。
「やっぱり秘密」
「……殴る」
「わ。冗談だよっ」
名雪が、自分の頭を|庇《かば》うように両手を上げる。
知らない間に、袖《そで》に積もっていたらしい粉雪が、ぱらぱらと空中を舞った。
「そろそろ戻らないと、風邪ひいて洒落《し ゃ れ》じゃすまなくなるぞ」
「大丈夫だよ」
「俺は戻る」
言い残して、|踵《きびす》を返す。
「あ、ちょっとだけ待って、祐一。ひとつだけ……」
その言葉に、サンダルを履いた足を止める。
「もうすぐ、卒業だよね」
「もうすぐじゃないだろ。あと半年ある」
もう一度名雪の方をふり返って、祐一が答える。
「祐一は、卒業したらどうするの? やっぱり、この家を出て行くの?」
「出て行けと言われたら出て行くが……」
「わ。出て行けなんて言わないよ〜」
「でも、言われなくても出て行くかもしれない」
「……祐一」
「元々、卒業までの約束でお世話になってるんだからな」
「……そっか、そうだよね……」
どこか無理な笑顔で、祐一の顔を見上げる。
「祐一がこの家に来てから、一年……。色々なこと、あったよね」
「そうだな」
ぶっきらぼうに答えながらも、どこか懐《なつ》かしい風景を見ているかのように、祐一は空を仰いだ。
「なんか、すっかりこの景色にも慣れたな……。いつの間にか」
「うん。似合ってるよ、雪」
名雪が、笑顔を覗かせる。それは、屈託ない笑顔で……。
「嬉しくないって」
「あはは」
ふたりの声が、白い吐息に変わって、舞い落ちる雪と共に、夜風に流されていく……。
今年の雪が、どんな思い出を運んでくるのか……。
今の二人には、まだ分からなかった。
「……くしゅん!」
「ほら見ろ、言わんこっちゃない」
そして、今年の初雪は、静かに幕を下ろす。
灰色の街から雪の街へと、舞台を変えながら。
[#改ページ]
あとがきにかえて
※これは、本編の解説ページです。
基本的にネタバレはありませんが、本編をまだ読んでいない方は、先に本編を読まれることをお勧めします。
某月某日。
川名みさき宅にて。
「それで、今回は何の用なの?」
例によって呼び出されている深山雪見が、いつものように手っ取り早く話を進める為に、前ふりの|台詞《せ り ふ》を入れる。
もはや、手慣れたものだった。
「ちょっと、一言では言えないんだけど……」
お茶菓子をテーブルに置きながら、みさきが困ったように説明を始める。
「何でも、短編を六本揃えた段階でネタと時間がなくなって、仕方ないから、あとがきに私たちを登場させて、それで本編の解説とか適当にさせて、それを強引に七本目だって言い張って、そのままお茶を濁すらしいんだよ」
「……いきなり身も蓋もないわね」
「事実だからね」
「余計、たちが悪いわ」
「そうだよね。カバーの折り返しに『ショートストーリー七本を一冊に集めた〜』とか書いてたのに、恥ずかしいよね」
「そもそも、先にこんな『SEVEN PIECE』なんてタイトルつけるから、絶対に七本短編を書かないと示しがつかなくなって、後で自分の首を絞めるんじゃない」
「後先考えてないからね」
二人は、容赦《ようしゃ》なかった。
「そういえば、また締め切り延ばしたらしいね。泣いてたよ、印刷屋の人」
「いつか、相互リンク切られるわね」
「それに、どうして『SEVEN』なのにその後の『PIECE』が単数形なのかな? 何か、深い意味があるのかな」
「英語弱いだけじゃないの?」
「なんだ、そうなんだ。何か重要な意味があるのかもって、真剣に考えちゃったよ」
「……それはいいんだけど、結局どうするの?」
「何が?」
「解説よ。わたしは、やってもいいわよ」
「ほんと?」
「どうせ、やらないと話が進まないんでしょ?」
「雪ちゃんも、身も蓋もないよ……」
「それに、本編でほとんど出番なくて暇だったからね」
「そうだよね、私も表紙出られなかったし」
「とりあえず、手っ取り早く終わらせましょう」
「うん、そうだね」
●first snow
「……えーっと、最初は『fist snow』だね」
「これって、去年の冬コミで発表したコピー誌の再録でしょ?」
「少しだけ、加筆修正してるらしいよ。それと、みんなコピー誌だって言ってるけど、本当はオフセットだよ」
「そうなの?」
「一応」
「……一応、って」
「それで、今回、ふたつの理由から再録という形で再び発表ってことになりました」
「ふたつの理由って?」
「ひとつは、再販希望が多かったから」
「うん」
「もうひとつは……感想が一通しか来なかったから……」
「…………」
「…………」
「……一通だけ?」
「泣けるよね。しかも、その一通も知り合いからのメールだけで、それ以外の感想メールはひとつもなかったんだよ」
「『おねめも(ONE's MEMORY)』の感想は結構来たんでしょ?」
「でも、『first snow』は一通だけ……」
「泣けるわね」
「うん」
「まぁ、わたしたちにとってはどうでもいいことだけど」
「うん」
「というわけで、一本目終わり」
「でも、これって全然作品の解説じゃなかったね」
「気にしない。次」
●first snow II
「二本目は、『first snow II』」
「どうして『II』なの?」
「一応、『first snow』と同じコンセプトで書かれた作品だからだよ」
「そもそも『fist snow』のコンセプトって何?」
「簡単に説明すると、『Kanon』の始まる前のお話を書こうってことみたいだよ」
「それって確か、某雑誌の依頼で、マスターアップ直前の死ぬほど忙しい時期に書かされた短編と同じようなコンセプトよね?」
「そっちの方は、短編と言っても、五十行くらいの本当に短いお話だけど」
「で、それと『fist snow』って何か関係あるの?」
「その短編の前後の話、みたいな感じで書いてるらしいよ。それと、雑誌掲載時は『Kanon』発売前だったから、ネタバレに繋がるようなことは全く書けなかったけど、今回は当然発売後だから、その辺りも色々とやりたいことを詰め込んでるらしいよ」
「見比べると面白いかもしれないわね。もし、見比べて面白くなくてもわたしは責任取らないけど」
「で、その美坂姉妹編が『first snow II』というわけだよ」
「なるほどね。やっと解説らしくなってきたわね」
「私だって、やる時はやるよ」
●ユキの流れ落ちた街で
「次、『ユキの流れ落ちた街で』」
「これは、『Kanon』発売直後の気力も体力も尽き果てた時期に、無理矢理書かされた作品の加筆修正版だそうです」
「……なんか、無理矢理ばっかりね」
「そうでもしないと、書かないからね」
「難儀な性格ね……」
「これって、一応は既に発表されてる作品なんだけど、知らない人が多いみたいだね」
「媒体がマイナーだからね」
「……怒られるよ、雪ちゃん」
「雑誌がマイナーなんて言ってないわよ。ただ、こういう雑誌付録にさりげなくついてるようなのは、知名度が低いってこと」
「そうかもしれないけど」
「その証拠に、『ユキの流れ落ちた街で』の感想なんて見たことないわよ。発売当初、本当に掲載されているのか不安になったくらいなんだから」
「うーん……」
「あと、月刊誌だから本屋に並ぶのは一ヶ月だけでしょ? 今から買おうと|想《おも》っても手に入らないし」
「そうだよね」
「それで、これってどんな話なの?」
「えっと、『Kanon』で嫌って言うほど『雪』を使ったから、全く雪が出てこない話を書きたかったらしいよ」
「だから、脈絡なく梅雨なのね」
「脈絡はあるよ。発売された当時はちょうど七月だったんだから」
「ゲームは、ちっとも実際の季節と重ならないのにね……」
「……そうだね」
「この作品に関しては、それだけ?」
「えっと、あとひとつだけ。これを書く時、かなり苦労したらしくて、その分思い入れはあるみたいだよ」
「いつも苦労してるじゃない」
「特に、だよ。元々、雑誌掲載時はもっと短い話だったんだけど、その短い話を書く為に一週間くらいかかったらしいよ」
「……ただ、さぼってただけじゃないの?」
「否定はしないけど」
●夏日
「これは、秋子さんと名雪ちゃんのお話だね」
「あと、あゆちゃんもね」
「シリーズ最大の謎、秋子さんの秘密が少しだけ分かるかもしれないという感じの内容になってます」
「この段階で、まだ書き上がってないけどね」
「……雪ちゃん、バラしたらダメだよ」
「何と言うか、今回の短編集の中では、ちょっと異色の作品だと思うけど」
「一応、そのつもりで書いたみたい」
「おかげで、未だに書き上がらずに苦労してるみたいだけど」
「あんまり、サイドストーリーではオリジナルのキャラを出したくないらしくて、その辺りの葛藤があるらしいよ」
「そうなの?」
「だから、次の夏コミでは今までに発表してきたサイドストーリーとは違ったタイプの話を書こうと|想《おも》ってるらしいよ」
「例えば?」
「つまり、もっとオリジナルっぽい話」
「よく分からないけど……」
「多分、まだ漠然としたイメージしかないからだよ」
「とりあえず、期待してるわ。夏コミってことは、実際に出るのは早くても冬だと思うけど」
「うう。やっぱり否定できないよ……」
●Four Rain
「初コミケ、初イベント参加作品です」
「去年の夏コミで販売した、コピー誌ね」
「やっぱり、同人はまずコピー誌から入らないとダメだよね」
「ただ単に、出すつもりだった『おねめも』が落ちただけだけどね」
「…………」
「それに、これってホームページにもテキスト掲載してなかった?」
「うん、してたよ」
「それを再録って、ただの手抜きじゃない」
「でも、文庫本で手軽に読みたい、って人もいるかもしれないよ」
「いないわね。そんな奇特な人」
「そうだよね。いるわけないよね」
……フォローは、皆無だった。
「でも、一応この文庫本に収録したものが、完全版らしいよ」
「ということは、夏コミでは不完全な物を売ってたわけね」
「……う。あれは、仕方なかったんだよ〜。時間もなかったし〜」
「確か、東京に旅立つ当日の朝まで書いてたのよね」
「うん。午前十時に新大阪駅で知り合いと待ち合わせだったのに、その一時間前までパソコンの前でテキスト打ってたらしいよ」
「でも、それだけだったら編集作業とかは?」
「そんな時間、もちろんなくて、とりあえずテキストをただプリントアウトしただけの状態で鞄《かばん》に詰めて、そのまま新幹線へ」
「で、ホテルで編集作業?」
「うん。夏コミ一日目は、午後からずっとホテルで切ったり貼ったりしてたらしいよ」
「だから、あんなに装丁が雑なのね。それから、コピーは?」
「もちろん、ホテルの近くのコンビニだよ。二日目は、ずっとこの作業」
「しかも、一緒にコミケに参加してた会社の同僚をこき使ってね」
「極悪人だよね」
「うん」
「それでね、その時、あんまり長時間コピーを使ってたから、コンビニのお兄さんに、もしかしてコミケに参加される方ですか? とか訊かれたらいいよ」
「最悪ね」
「ほんと、救いようがないよね」
●SEVEN PIECE "first snow III"
「最後のお話。単体で楽しめる物語が、この中にも七本入ってます」
「どうして、『first snow III』ってサブタイトルがついてるの?」
「何となくつけただけらしいよ」
「……何となく、って……」
「あと、そのまんま初雪の季節を舞台にした物語だからね」
「安易ね……」
「あと、中に入ってるそれぞれのお話が短いから、一駅とか二駅の通勤通学に便利だよ」
「別に、無理して電車の中で読まなくても……」
「でも、送って頂いた感想見てると、おねめもを電車の中で読んだって人、結構いたよ」
「確かに、そういういかにも普通の文庫本みたいに、気軽に読んで欲しくて、こんな装丁にしてるんだから」
「本当は、もっと懲りたいんだけど……。帯とか、しおりとか」
「少なくとも、最終締め切り四十五分前まで原稿書いてる内は、そんなところに凝るのは到底無理でしょうね」
「そうだよね」
●あとがきにかえて
「緊急穴埋め企画でした。以上」
「雪ちゃん、説明が簡単過ぎるよ……」
「でも、他に表現のしようがないでしょ」
「困ったね」
「……困るだけで、否定はしないのね」
§
「さて、駆け足で、解説だか何だか分からないことをお送りしてきました」
「わたし、たまにみさきの方がよっぽど酷《ひど》いこと言ってるような気がして、ならないんだけど……」
「本当は、次回予告で終わりたいんだけど、それをしてしまうと、また自分の首を絞めるだけだからね」
「確かにね」
「そんなわけで、次回、何かで会いましょう」
「何かって……」
[#地付き]サークル「Cork Board」発行
[#地付き]同人誌「SEVEN PIECE」(2000.05.14)
[#地付き]底本 2000.06.18 第二版