ONE's Memory
久弥直樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)上|機嫌《き げん》な
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流れる時間を知っていますか?
温もりをさらう風のように、ゆっくりと心を流れる渓流を知っていますか?
思い出を流れに任せて、すべてを運び去って欲しいと願ったことがありますか?
それでも、希望という言葉にすがったことがありますか?
人を、本当に信じたことがありますか?
プロローグ [川名]
私は、目が見えない。
だから、もし、大切な人がすぐ目の前で、慌てている私の姿を笑いながら見ていたとしても、私がその他愛ないいたずらに気づくことはない。
|賑《にぎ》やかに活気づく商店街も、鮮やかに色づく桜並木の公園も、私にはたったひとつの風景でしかない。
永遠の、闇。
それが、あの遠い日に私に架せられた、重たく冷たい鎖の名前。
解けない鎖に心を繋がれたまま、私は、生き続けるという選択肢を選んだ。
たくさんの分岐の中で、大勢の人に励まされて、私は生きている。
だから、出会うことができた。
大切な人。
心から愛おしいと思える人。
夕焼けという闇の中で出会って、学校という闇の中で日々を過ごした。
他愛ない冗談に、何気ない会話。
繋いだ手の温もりに、|微《かす》かに触れた唇の柔らかさ。
そのどれもが、言葉と温もりでしか現実を感じることのできない私にとっては、あの人と過ごしたかけがえのない証明でもあった。
だけど……。
「オレが、ずっと側にいるから」
それなのに……。
「冗談……だよね……?」
突然の、雨だった。
暖かかった日差しは、それがまるで幻であったかのように、空から落ちてくる雫に洗い流されていた。
既に溶けはじめていたアイスクリームは、私の両手を伝い、おろしたてのスカートを汚していた。
コーンについた紙が雨でふやけて、手のひらに貼りつく。
それでも私はベンチに座って、馬鹿みたいに待っていることしかできなかった。
雨が、ひときわその勢いを増した。
思い出の中の温もりと、言葉と……。
そして、私の中の大切な光をすべて奪い去るように……。
闇という名の雨は、私をただひたすらに打ちのめした。
「……天気予報、外れちゃったね」
無理に笑顔の形に表情を変えて、私は話しかける。
自分の笑顔なんて、分からないのに……。
それでも、あの人が好きでいてくれた表情を、必死で取り|繕《つくろ》う。
体が、冷たい。
凍えてしまいそうなくらい、雨の冷たさが私を苛《さいな》む。
さっきまでの日差しが、さっきまでの言葉が、現実という名の冷たい闇に包まれる。
「どう……しよう……」
震える唇で、それでも私は言葉をつぶやき続ける。
「買ったばっかりの服だったのに……」
だって、あなたは私のすぐ目の前にいるのだから……。
「あなたが、気に入ってくれた服だったのに……」
ひとり怯《おび》える私を、からかっているだけなんだから……。
「汚れちゃった……ね……」
そんな私を見て、笑っているだけなんだから……。
「そう……だよね……?」
込み上げる感情が、涙となって私の笑顔を|遮《さえぎ》る。無理な笑顔が、崩れていた。
「そうなんだよね……?」
誰に対しての言葉なのかさえ、分からないまま……。
「私のこと、からかってるだけなんだよね?」
手の中で崩れ落ちたアイスクリームの残滓《ざんし 》を握りしめながら……。
「この前、酷《ひど》いことした私を、怒ってるんだよね?」
仕返し、なんだよね?
「そうじゃなかったら……」
懸命な言葉が、鳴咽と雨音に押し潰される。
「そうじゃなかったら、私……」
笑顔を保つことさえできずに……。
「もう……誰も信じられなくなっちゃうよ……?」
私は……。
「誰の言葉も信じられない、嫌な人間になっちゃうよ……?」
ただ……。
「誰も……もう、誰の言葉も……」
両手で顔を覆い、その場所で崩れ落ちることしか、できなかった。
冷たい闇に打たれて、戻ることのない温もりを抱きしめて、私は嗚咽《お え つ》の声を漏らす。
流れるものは涙。あの遠い日に、もう流し尽くしたと思っていた、悲しみの雫。
「……みさき!」
不意に、闇の中に声が届く。暖かくて、そして懐《なつ》かしい声。
「何やってるの、こんな雨の中で傘も差さずに!」
ばしゃばしゃと、水たまりの上を跳ねるような音が近づく。
「ゆき……ちゃん……?」
「雪ちゃん、じゃないわよっ! こんなところにいたら、みさきだって風邪ひくよっ」
遠くの声は、今、すぐ目の前にあった。いつも私の側で、私を勇気づけてくれた、あの声。
「だって、は余計だよ……」
どうしてだろう……。不思議と、泣き笑いのような声になる……。
悲しいはずなのに……。笑い方なんて、忘れてしまったはずだったのに……。
私を打ちのめしていた雨が、突然遮られる。そして、ビニールの傘を叩く雨の音が、すぐ上から聞こえる。
「……それで、みさき。あなた、何やってるの?」
優しい口調だった。
私に傘を着せてくれた幼なじみが、すぐ目の前にいる。
「見て、分からないかな……」
顔を上げて、まだ震える声で。
それでも、はっきりと。
「デート……だよ……」
それが、闇に流されかけていた、私の中の現実。
冷たい雨が現実であるように、さっきまでの温もりも間違いなく現実の風景だった。
それを私が手放してしまったら、あの人の存在まで否定してしまう。
あの人の言葉さえ、闇に消えてしまう。
「そう」
雪ちゃんは私の言葉を受けて、真剣な声で頷《うなず》く。
「でも、私は置いて行かれちゃったみたいだよ……」
辛い言葉のはずなのに、ずっと一緒だった幼なじみを前にすると、不思議と心の苦しみが軽くなる。
昔から、そうだった。
あの日だって、そうだった。
「それで、そのみさきを置いて行った人は、帰って来るって約束してくれたの?」
「ずっと、私の側にいてくれるって……」
あの日、あの星空の下で……。
私を、私の存在を真正面から受け止めてくれた、暖かな瞳があった。
私は目が見えないけど、確かにそこにはあったんだよね?
そう、だよね?
「約束、してくれたよ……」
「だったら、信じるしかないわね」
「……でも」
「みさきが選んだ人なんでしょ?」
「……うん」
「だったら、信じなさい」
雪ちゃんの言葉は、優しかった。私が知っている、どの言葉よりも。
「あなたは、食い意地が張ってるし、子供っぽいいたずらが好きだし、|掃除《そうじ 》もすぐにさぼるし、わたしに迷惑ばっかりかけるけど……」
冷たくなった私の手に、暖かな手が重なる。
「人を見る目は、あるんだから」
「ゆき……ちゃん……」
幼なじみの言葉が、嬉しかった。嬉しくて、暖かくて、声が出なくて……。
さっきまでとは違う涙が|頬《ほお》を伝って……。
信じることができるような気がして……。
笑顔で待ち続けることができるような気がして……。
いつまでもあの人のことを覚えていることができるような気がして……
「雪ちゃん……」
幼なじみの瞳を真っ直ぐに見つめて、濡れたままの顔を拭って……。
「なに?」
「さっきの、いくら何でも言い過ぎだと思うよ……」
「言い足りないくらいよ」
「うー……」
自然に笑みがこぼれることが、嬉しくて。
「雪ちゃん、ひどいよ……」
「わたしが描いた夏休みの宿題に、勝手にちょび髭つけ足すよりはましよ」
「あ……やっぱり覚えてたんだ……」
「思い出したのよ、わたしたちが小学生だった頃のこと。泣いてるみさきを見てるとね」
「うん……」
「そんなことよりも、わたしはみさきのお|眼鏡《め が ね》にかなった人のことを知りたいわね。どんな人なの?」
からかうような雪ちゃんの口調。私は慌ててそっぽを向く。
「い、今はだめ……。まだ、内緒……」
「いいじゃない、隠さなくても」
「ダメ、今は……」
私には、まだたくさんの人が側にいてくれる。
私の闇を、照らし続けてくれる大切な友人がいる。
いつかまた、あなたがいないことで涙を流す日が来ると思う。
悲しみの奥で、見えない瞳を濡らすことがあると思う。
でも、約束したから。
帰って来て、くれるんだよね?
私は、その時まであなたの存在をこの胸に刻み込む。
そうじゃないと……あの言葉、嘘になるから……。
あの言葉、嘘になったら、もう、誰の言葉も信じられなくなるから……。
一緒に、いてくれるんだよね?
私の、側に……。
いつも……。
「だから……」
信じるよ……あなたの言葉、全部。
プロローグ [深山]
雨上がりの空は眩《まぶ》しかった。
|綺麗《き れい》に舗装《ほ そう》されたばかりの歩道に、大きさのまばらな銀色の水たまりが浮かんでいた。
通い慣れた道をゆっくりと歩きながら、水たまりを避けるように飛び越える。それは、どこか素朴で、懐《なつ》かしさを覚える行為でもあった。
(この場所を歩くのは、何ヶ月ぶりかな……》
自分自身に問い掛けて、改めて流れた時間の大きさに気づく。
高校を卒業してから、もうすぐで一年になる。
大学での新しい生活は、新鮮で、そして慌ただしくて……。
わたしに、後ろを振り返る時間さえ与えてはくれなかった。
だけど、それは自分で望んだ道。
子供の頃から切望してやまなかった、細くて険しい道。
わたしは今、その道の上を確かに歩いている。
そのことが今の自分にとっては、目に見える現実の全てであり、そして胸を張ることのできる誇りでもあった。
わたしは、一度大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと空を仰ぎ見た。
本当に、いいお天気だ。
(明日もこれくらいの晴天だといいけど……》
水たまりに映る雲は、白くて、青い地面を静かに流れている。
それこそ、時間が流れるように、規則正しく。
ゆったりと、ゆっくりと……。
まるで、時間が止まっているかのように、変わらない風景がそこにあった。
本当に、あの頃と同じ。
後ろに流れる街並みを視線で追いながら、風景写真のように記憶の中に焼きついた街がすぐ目の前に展開していることに、わたしは小さく微笑んでいた。
今、自分が置かれている理不尽な状況とは裏腹に、どこか上|機嫌《き げん》な自分の心を見つけて、わたしはもう一度笑顔をこぼした。
そういえば、あの子に会うのも久しぶりだ。
突然電話をかけて来て、一方的に用件だけを伝えて切ってしまった、傍迷惑《はためいわく》な幼なじみの顔を思い出していた。
いつも自分勝手で、わがままで……。
わたしに迷惑ばっかりかけて……。
そんな、かけがえのない大切な親友。
電話では時々話をしていたけど、お互いが違う大学に進学してからは、わたしがなかなか自由な時間を持てなかったこともあって、気軽に顔を合わせる機会が必然的に少なくなっていた。
だから、今日の電話は本心では嬉しかったのかもしれない。
迷惑半分。懐《なつ》かしさも半分。
それに、そうとでも考えないと、大切な用事を断ってまであの子のわがままにつき合おうとしている自分の行動が説明できなかった。
「……ほんと、変わってない」
声に出して、|微《かす》かにため息をつく。
あの子も。
そして、わたしも。
まだ高校生だった頃から……。
もしかすると、小学生の頃から……。
出会った時から、ずっと、ずっと……。
楽しそうな笑い声が聞こえる。
それは、現実から響く声。
わたしは、過去に遡《さかのぼ》っていた思考を中断して、鮮明に浮かび上がる現実の風景に目を凝らした。フェンスと植木に囲まれたその場所から、もう一度歓声のようなざわめきが上がる。
地面に網目の影を落とすフェンスは、昨夜の雨を受けて、銀色に光を反射していた。
その向こう側。
そこは、学校のグラウンドだった。体操服姿の生徒たちが、ストップウォッチを持った先生の周りに集まっている。
新記録でも出たのかもしれない。
あの体操服の色は、新一年生のはずだ。わたしたちが、去年まで使っていた色。もう三学期も半ばを過ぎているので、新という言葉は適当ではないかもしれないけど……。
体操服姿の生徒を見ていると、あの幼なじみの走る姿が思い浮かぶ。
あの子は、走ることが好きだった。長い髪に感じる風が好きなんだと言って笑っていた。
その笑顔は、本当に屈託がないという言葉が一番似合っていた。
逆に、わたしは走ることが苦手だった。
だから、その言葉が少しだけ羨ましかった。
そっとふくらはぎに手を当てて、懐《なつ》かしい校庭の様子を眺める。
色々なことがあった。
散らばる思い出。たくさんの記憶の欠片《か け ら》。
そして、そんな思い出の風景に、必ず顔を出してくるひとりの女の子。
「……こういうのを、腐れ縁って言うのかな」
わたしは、フェンスからそっと離れて、再び歩き出した。
この季節にしては眩《まぶ》しく降り注ぐ陽の光を手のひらで|遮《さえぎ》りながら、左手の手首に視線を落とす。
小さな文字盤には、二本の針が体を寄せ合うように並んでいた。
お昼には、まだ少し早かった。
約束の時間までは、しばらく余裕がある。
だけど、目的の場所は学校のすぐ側にあった。ここから、一分もかからない。
予想以上に早く着いてしまったことになる。
どこかで時間を潰そうかとも考えたが、すぐに思い直した。
いきなり人を電話一本で呼び出した仕返しだ。少しはわたしの都合にもつき合って貰わないと……。
少し早足で目的の場所に立ち、そしてわたしはゆっくりと指を伸ばした。
後ろには、学校の校門。前には、川名と書かれた表札と、呼び出し用のインターフォン。
わたしは、少し空気を吸い込んだ後に、そのボタンを押した。
§
「いらっしゃい、雪ちゃん」
玄関に入ってしばらく待っていると、バタバタと慌ただしい足音が走り寄ってきた。
「でも、まだお昼まで時間があるよ」
水色のスリッパを鳴らしながら、幼なじみがほっとしたような笑顔を覗かせる。
スリッパと同じ色のエプロンが、ふわふわと揺れていた。
「遅いよりは早いほうがいいでしょ?」
「うん。雪ちゃんらしいよ」
力一杯|頷《うなず》く。
久しぶりに顔を合わせる親友は、少なくとも元気そうではあった。
「でも、本当に久しぶりだね。雪ちゃん」
「そうね」
数ヶ月ぶりに顔を合わせる幼なじみが、昔とほとんど変わっていないことを知って、不思議と|安堵《あんど 》のため息をついている自分がいた。
「来てくれないかと思ったから、嬉しいよ」
長いスカートにクリーム色のセーター、そして何故かエプロン姿のみさきが、胸元に手を当てて、ほっと息を吐く。
どちらかというと地味な服装だけど、この子にはよく似合っている。長い髪も昔と同じだった。大人しくしていると、おしとやかに見えるかもしれない、というところも昔のまま。
「わたしも、来ないつもりだったわよ」
「うー、ごめんね」
しおらしく俯《うつむ》きながら、上目遣いにわたしの顔を|覗《のぞ》き込む。
僅《わず》かに首を傾けて、とりあえず表情だけは申し訳なさそうだった。
「謝るくらいだったら、もっと余裕を持って電話してね」
ため息をつくように、下を向いた。吐き出した息は、もう白くはなかった。
「本当に急用だったんだよ〜」
口元に手を当てて、悲しそうな声を出す。
「今まで、みさきの急用が本当に急用だったことなんて一度もなかったでしょ」
「ひどいよ……、そんなことないよ」
今度は拗《す》ねたような声だった。
「私は、いつだって真剣勝負だよ……」
川名みさき。
それが、腐れ縁の幼なじみの名前だった。
「雪ちゃん、無視しないでよ〜」
見た目は大人しそうな女の子だが、十秒も話をすれば、そんな第一印象はあっという間に崩れ去ることになる。
もっとも、本人に猫を被《かぶ》るつもりが全くないので、当然といえば当然の結果なのだが。
「雪ちゃん、もしかして怒ってる?」
「怒るか怒らないかは、今日呼ばれた理由を聞いてから判断するわ」
構ってあげないと拗《す》ねるので、仕方なく返事をする。
そんなところも昔のままだった。
「えっと……」
その言葉を聞いて、みさきの表情が曇る。
明らかに困っている。
そのことが、まるで蛍光塗料で書いたように、とても分かりやすく顔に出ていた。
みさきの表情は、本当に分かりやすい。昔から、隠しごとの下手な子だった。
「雪ちゃん、私たち、親友だよね?」
「それも、今日呼ばれた理由を聞いてから判断するわ」
「ひどいよー。親友だと思ってたのにー」
「分かったから、早く続けて」
「えーっと……あのね……」
困ったような、それでいて照れたような複雑な表情で、みさきがぽつぽつと言葉を続ける。
「雪ちゃんを見込んで、どうしても手伝って欲しいことがあるんだよ」
両手を視線の高さで合わせて、お願いのポーズ。
「何を手伝えばいいの?」
「チョコレート」
「……チョコレート?」
思わず問い返す。おそらく、|怪訝《け げん》な表情だったはずだ。
「二月と言えば、チョコレートだよ」
「……それは、極論だと思うけど」
「私ひとりだと、何度やってもダメなんだよ」
手を合わせたまま、拝むように食い下がる。
「お願い雪ちゃん! 手伝って!」
「……」
「お母さんも仕事だから、もう、頼める人は雪ちゃんだけなんだよ」
「……みさき」
「何?」
「お邪魔しました」
「わっ、何事もなかったように出ていかないでっ」
ドアノブに手をかけるわたしを、両手を振りながら慌てて引き留める。
「あのね……。どうしてわたしがみさきのバレンタインチョコを手伝ってあげないといけないの……」
「……バレンタインチョコとは言ってないよ」
恥ずかしそうに顔を赤くして否定する。
今日は二月十四日。
一年で最も大量にチョコレートが消費される日だ。
「……普通、前日のうちに用意しておくものだと思うけど?」
昨日は日曜日。そして、今日は月曜日。
何も、わざわざ平日でなくても……。
「大体、今日の講義は? わたしは何も入ってなかったからいいけど……」
「……自主休講」
「ただのさぼりじゃない」
「今日だけだから……ね?」
さっきからずっと両手を合わせているみさきが、お願いするように手を挙げる。
「……私なりに、一生懸命頑張ってはみたんだよ」
「それで、現状は?」
「……一応、チョコレートらしきものはできたんだよ」
「それで?」
「……食べたら、苦かった」
悲しそうに、板張りの|廊下《ろうか 》に視線を落とす。
「いいんじゃないの? 苦くても、愛情がこもってたら」
「それは、ただの嫌がらせだと思うよ……」
よっぽど不味かったらしい。
「でも……」
わたしは、チョコレートひとつでここまで落ち込むことのできるみさきを、微笑ましく思った。
そして、少し羨ましかった。
「みさきの話を聞いてると、やっぱりバレンタインチョコみたいね」
「……あっ!」
慌てて口を塞ぐ。
「ひ、ひどいよ、雪ちゃん!」
「本当にひどいのは、平日にいきなり親友を呼び出して、チョコレート作りを手伝わせることだと思うけど」
「雪ちゃんだけが頼りなんだよ〜」
わざとらしく潤んだ瞳で、真っ直ぐにわたしの表情を捕らえる。
その瞳は、わたしをじっと見つめる。
本当の闇を映したような、漆黒《しっこく》の色。
だけど、その冷たい瞳の中にわたしの姿はない。
「雪ちゃん、一生のお願い!」
「……はぁ」
自然とため息が漏れる。これで、何度目の一生のお願いだろう。
少なくとも、二桁は下らない。そして、三桁までもう少し……といったところだろうか。
この子と一緒にいると、いつもこんな感じだった。
本当に、気苦労が絶えることはない。
小学校……いや、幼稚園で同じ組だった頃から、ずっとこの子に振り回されてきたような気がする。
そして、そんな時のわたしの返事は、いつも決まっていた。
「分かったわ」
「……え?」
「こうなったら、食べるのがもったいなくなるくらい豪華なバレンタインチョコを作るわよ」
そう宣言して、靴を脱いで玄関に上がる。
「ゆ、雪ちゃん?」
そして、みさきをおいて、さっさと台所に向かう。
場所は分かっている。
子供の頃に、何度も遊びに来た家だ。まさに、勝手知ったる他人の家だった。
「雪ちゃん、いきなり気合入ってるよ〜」
「やるからには、ベストを尽くすっていうのが、わたしの|座右《ざ ゆう》の|銘《めい》だからね」
「そんなの、今初めて聞いたよ」
ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、慌てて後ろからみさきが駆け寄って来る。
今日は、自分でも驚くくらい|機嫌《き げん》が良かったようだった。
それに、わたしの知る限り、ほとんど料理をしたことのない不器用なみさきが、急に手作りチョコを作ると言い出したことに興味があった。
みさきのお相手のことを、わたしは何も知らない。
みさきも、話したがらないし……
少なくとも、高校生の頃に、そんな相手はいなかったはずだ。
(……いなかった?)
ふと、自分の言葉に違和感を感じて、立ち止まる。
「わっ!」
べちっ、と背中に何かが当たる。
「ひどいよ、雪ちゃん……」
振り返ると、赤くなった鼻を押さえたみさきが、非難の視線で見上げていた。
「あ……ごめん、みさき」
「う〜。鼻が痛いよ〜」
涙目で怒っているみさきをなだめて、改めて台所に移動する。
その時には、さっき感じた|微《かす》かな違和感は、既に記憶の彼方に消え去ったあとだった。
§
「深山《み やま》雪見《ゆきみ 》」
みさきの質問に答えながら、蛇口を捻って鍋に水を注ぎ込む。
もしかしたらとは思っていたが、この世間知らずの幼なじみは、湯煎《ゆ せん》も知らなかったらしい。
おかげで、白いクロスの敷かれたテーブルの上には、底の焦げついた鍋が散乱する結果になっていた。被害が鍋だけで済んでいたのは、幸いかもしれない。
「それって、本名と一緒だよ」
鍋の底を打つ水の音に聞き耳を立てながら、みさきが|可笑《おか》しそうに笑う。
「わたしは、ずっと本名でいくつもりよ」
「そうなんだ。てっきり、もっと格好いい名前にするのかと思ったよ」
「悪かったわね、本名が格好悪くて」
きゅっ、と蛇口を閉める。
最後の滴が、揺れる水面に波紋を重ねる。
「でも、せっかくの舞台なんだから……」
わたしと同じエプロン姿のみさきが、残念そうに首を傾げる。
「マッハ雪見とか、どうかな?」
「あなたは、大切な幼なじみに舞台でそんな恥ずかしい名前を名乗って欲しいって本気で思ってる?」
「冗談だよ」
そう言って、目を細めて嬉しそうに微笑む。
本当に、何も変わっていない。一緒に高校に通っていた頃と、何も。
「でも、マッハ雪見って、ちょっと格好いいよね?」
「全然」
そして、そんな笑顔の幼なじみが、わたしにとっては誇りでもあった。
幼い日に、絶望という言葉を目の前に突きつけられて、それでも最後には笑っていることのできた少女。
「うー、そんな即答で否定しないでよー」
「みさき、センスがあの子に似てきたわね……」
小さく|呟《つぶや》いてから、その自分の言葉に鍋を持った手が止まる。
あの子って、誰だろう……?
ほんの一瞬だけ、確かにわたしは誰かの顔を、仕草を、言葉遣いを思い浮かべていた。
なくしたはずの違和感が、再び顔を覗かせる。
何かを忘れている。
そして、忘れていることさえ、思い出せない。
得体の知れない不安。
何だろう……この感覚は……?
「でも、本当に凄いよ、雪ちゃん。今のうちに、サインしてもらおうかな……」
「だったら、サインペン持ってきなさい。顔に書いてあげるから」
「えーっと、顔はちょっと……」
困ったように、一歩後ずさる。
「だったら、余計なこと言ってないで、みさきも少しは手伝いなさい。あなたの為に作ってるんだから」
「う、うん」
こくりと頷《うなず》いて、慌てて冷蔵庫を開ける。そして、中からチョコレートの材料を取り出す。
「雪ちゃん。次の公演っていつ?」
テーブルの上に新しい材料を並べながら、みさきがさっきまでの話題を続ける。
「明日」
「……え?」
「ちなみに、舞台の準備は今日」
「……えーっと」
「だから、忙しいって言ったでしょ?」
わざとらしく、ため息をつく。
「……えーっと」
さすがのみさきも、本当に申し訳なさそうに視線を逸らす。
「ごめんなさい」
そして、しょぼんとした表情で謝る。
基本的にわがままだけど、こんな時は素直な言葉が自然に出る。
みさきのそんな純粋なところが、わたしは好きだった。
そして、気がつけば、もう十年以上の歳月を一緒に過ごしていた。
「大丈夫よ、わたしは今回それほど忙しくはないから」
少しだけかわいそうに思って、助け船を出す。
「ちゃんと先輩に断って来たから、今日は最後までみさきにつき合うわよ」
「……なんて言って来たの?」
「同窓会」
みさきが、表情を綻《ほころ》ばせる。
「嘘ではないよね」
「ふたりだけどね」
一度顔を見合わせて、そして、どちらからともなく吹き出すように笑う。
「でも、雪ちゃんはやっぱり凄いよ……」
笑って滲んだ涙を指ですくい取りながら、みさきが言葉を続ける。
「本当に、女優さんになっちゃったんだから」
「まだ、ただの駆け出しよ」
「でも、真っ直ぐに夢を追いかけてる」
「それは、みさきだって一緒でしょ?」
「うん……」
わたしの言葉を受けて、|微《かす》かにみさきの表情が曇っていた。
「……私は、どうかな」
視線を、ゆっくりと逸らす。
「大学は楽しい?」
「……うん」
「学食はおいしい?」
「……おいしいけど、ちょっと高い」
「この際だから、少しは食べる量を減らしたら?」
この子は、見た目に反して、信じられないくらいの量を平気で食べる。
それは、どう考えても物理的に不可能な量だ。
そして、その謎は未だに解明されていない。
「大丈夫だよ。キャンパスの近くに、バイキングのお店を見つけたから」
そのお店、潰れるような気がする……
「他にも、安くて美味しい店をいっぱい見つけたから、大丈夫だよ」
「だったら、何が不満なの?」
「……新しい生活が忙しすぎて、あの人のことを考える時間がなくなっちゃったこと……かな」
「誰? あの人って」
「……秘密」
口元に手を当てて、小さく微笑んだみさきの表情は、どこか寂しそうに見えた。
「手伝ってるんだから、それくらい正直に答えなさい。その人に、チョコレートあげるんでしょ?」
「パス、一回」
「パスはダメ」
「だったら、黙秘」
そう言って、両手で口元を塞ぐ。
「分かったわよ。今は訊かない」
ため息混じりに微笑んで、チョコレートを溶かす作業に集中する。
「……いつか、話せる時が来たら、雪ちゃんにも紹介するね」
一年くらい前にも、同じ言葉をみさきの口から聞いたような気がする。
それは、確か……。
突然の、雨の日。
みさきが、新しい世界に一歩を踏み出した、あの日。
「だったら、いつか絶対に話してね。期待してるよ」
「あんまり期待されても困るけど……」
そう言って微笑んだみさきの顔は、どこか辛そうに見えた。
深い悲しみに耐えている……。そんな表情。
「あ……。今言ったこと、気にしないでね」
無理に笑顔を作っているような……そんな違和感があった。
だけど、それも一瞬のこと。すぐに、いつもの屈託ない笑顔に戻る。
「チョコレート、美味しそうだね。いい香りがするよ」
「だから、みさきも少しは手伝いなさいよ」
隠し味にリキュールを数滴たらしながら、しゃもじでゆっくりとかき混ぜる。
わたしもチョコレート作りは久しぶりだったけど、今のところ順調だった。
でも、さっきからほとんどわたしが作っているようなものだ。これでは、誰の手作りなのか分からないような気がする。
「私だって、ちゃんと準備してるよ……」
テーブルに並べたチョコレートの材料を、手探りで確認していたみさきの手が、ふと止まる。
「どうしたの?」
片手で鍋の中身をかき混ぜながら、みさきの方を振り返る。
「ホワイトチョコが、なくなってるような気がする……」
顔を上げて、情けない表情でわたしの顔を見る。
「……確かに、ないわね」
みさきが並べた材料を確認して、わたしが断言する。
最後のトッピング用に使おうと思っていたホワイトチョコの袋は、空っぽになっていた。
「昨日で、全部使っちゃったんだ……」
「みさきのことだから、味見しててそのまま全部食べちゃったんじゃないの?」
「そ、そんなこと全然ないよっ」
「……ふーん」
「濡れ衣だよっ。人権侵害だよっ」
「おいしかった?」
「ちょっと甘みが足りなかったかな」
最後まで言い終わってから、しまったという表情で俯《うつむ》く。
「ごめんなさい……。嘘ついてました……」
「……みさきって、分かりやすすぎるわ」
「根が素直でいい子だからね」
「はいはい……」
軽く手であしらって、不満そうなみさきを、とりあえず黙らせる。
「でも、食べたのは本当にちょっとだけだったんだよ」
「みさきのちょっとは、ちょっとじゃないでしょ?」
「そんなことないと思うけど……」
「何にしても、今から買って来ないとダメね」
言って、エプロンの|紐《ひも》をほどく。
「いいよ、私が買って来るから。雪ちゃんは、留守番してて」
先にエプロンを外して、|椅子《いす》の背もたれにかける。
「……ひとりで大丈夫?」
「うん」
にこっと頷《うなず》いて、|財布《さいふ 》を鞄《かばん》に入れる。
「やっぱり、わたしも一緒に行くわ」
コンロの火を消して、わたしもエプロンを外す。
「本当にひとりで大丈夫だよ」
「今日は、いいお天気だから」
「いいお天気?」
みさきが、不思議そうに首を傾げる。
「腐れ縁の幼なじみと散歩っていうのも、たまにはいいかなって思ったのよ」
みさきと一緒に出かけることなんて、高校時代はほとんどなかった。
ほとんど……どころか、一度もなかったような気がする。
そして、それには理由があった。
「散歩しながら、みさきのお相手のことを、しっかりと聞かせて貰うからね」
「う〜、まだ内緒だよ〜」
みさきにとって、外の世界は恐怖の対象でしかなかった。
七年前のあの日を境に、みさきの中の世界は、時間を止めた。
知らない場所が、怖かった。
知っている場所でしか、安らぎを得ることができなかった。
わたしには、どうしてあげることもできなかった。
それは、みさき自身が自分の意志で踏み出さなければいけないことだったから。
たった一歩、前に。
高校を卒業と同時に、みさきはずっと|躊躇《ちゅうちょ》していたその一歩を踏み出した。
背中を、乱暴に押してくれた人がいる。
眩《まぶ》しい太陽の光を浴びて、みさきがそう|呟《つぶや》いたことがあった。
その時のみさきの表情を、わたしは一生忘れないと思う。
わたしは、その人の名前を知らなかった。
だけど、会ったこともないみさきの恩人に、わたしは心から感謝している。
みさきに、新しい世界を見せてくれたことに……。
小さな勇気を与えてくれたことに……。
「ほんと、いいお天気だね」
玄関を出て、吹き抜ける風に|綺麗《き れい》な髪をなびかせて、みさきが満面の笑顔でわたしを見ていた。
冷たく澄んだ瞳で。
闇以外を映すことのない、その瞳で……。
みさきは、目が見えない。
あの遠い日から、ずっと……。
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幸せの意味を、考えたことはありますか?
何気ない平穏な毎日が、本当の幸せであることに気づいていますか?
手放して初めて気づく、日常の大切さを知っていますか?
穏やかで平穏な日々に突然流れ込む、小さな運命のざわめきを知っていますか?
闇という名の絶望を、知っていますか?
T [里村]
ホームルームの終了を告げるチャイムの音に、私はふと顔を上げた。
|廊下《ろうか 》につけられたスピーカーから、お世辞にも良質とは言えないチャイムの音が響いていた。
|廊下《ろうか 》には、私の他には誰の姿もない。
ただ、遠くから聞こえてくる喧騒を、私はひとりで聞いているだけだった。
「急がないと……」
自分に言い聞かせるように、私は持っていた家庭科の教科書をぎゅっと抱きしめた。
家庭科室に教科書を忘れていたことに気づいたのが、ホームルームが始まるちょっと前。
そして、担任の先生に許可をもらって、ひとり小走りに|廊下《ろうか 》を急いだ。
予想通り家庭科室にぽつんと残されていた教科書を手にとって、それが私の教科書であることを確認して、すぐに教室に戻ろうと|廊下《ろうか 》に出たのと同時に、チャイムの音が|廊下《ろうか 》に鳴り響いた。
急いで、五年の教室に戻らないといけない。
|廊下《ろうか 》は寂しくて、そして何より寒かった。
今年はまだ雪は見ていないけど、それでも窓をカタカタと揺らす風は、間違いなく冬の足音だった。
日に日に早くなる日没に、冷たくなる空気。
既に、朝の息は真っ白に染まっている。
冬の到来。
そして、二学期の終わり。
年が明けると、三学期。
短い三学期が終わると、私たちは六年生に進級する。
この前、五年生になったばかりだと思っていたのに、あっという間に最上級生になってしまう。そして、中学校に進学することになる。
三人揃っての進学。
だから、きっと今までと何も変わることはない。
「まだ、先の話ですよね……」
|廊下《ろうか 》を早足で歩きながら、今からそんなことを考えている自分が、少しおかしくて、私は口に出して|呟《つぶや》いた。
階段をとんとんと上がる途中で、数人の生徒とすれ違う。
何人かでグループを作って、楽しそうに放課後の予定を話し合っている。
今日は、これからクラブ活動がある日だから、今すれ違ったのは、きっとまだクラブに所属していない下級生だ。
「やっぱり、急がないと……」
私も上級生だから、もちろんクラブに所属している。
好きで入ったクラブではなかったけど、今ではそんなことも忘れて、同じクラブの友達と楽しく過ごしていた。
あの二人と同じクラブに入ることができなかったのが、ちょっと残念だけど。
「あっ! 茜《あかね》っ!」
教室の前まで戻って来ると、ちょうどドアから顔を出した詩子《しいこ 》が声をかけてきた。
「遅かったね、茜。もう、ホームルーム終わっちゃったよ」
「そうみたいですね」
|廊下《ろうか 》の途中で、クラスメートともすれ違っていた。これからクラブなので、私ひとりの為にホームルームを長引かせることもできなかったのだと思う。
「詩子は、まだ移動しないのですか?」
私は、まだ教室に残っていた詩子に訊ねながら、教室の中に入った。
クラスメートのほとんどは既に教室を出たあとらしくて、教室の中には詩子を含めて数人の生徒が残っているだけだった。
「あたしは、茜と一緒に行こうと思って」
そう言って幼なじみの少女は、屈託なく笑った。
「それで、教科書は見つかった?」
「見ての通りです」
私は、持っていた教科書を詩子に見せてから、自分の席に戻った。
「やっぱり、家庭科室に忘れていたみたいです」
「そっか、見つかって良かったね」
詩子が、まるで自分のことのように嬉しそうに笑う。
「……はい」
そんな幼なじみの姿を、私は少し羨《うらや》ましく思うことがある。
詩子と違って、私は笑顔が苦手だから。
まるで、私の分まで笑ってくれているような、そんな詩子の存在は、私たち三人の中でもかけがえのないものだった。
「でもさ、よく考えたら、あたしこの後クラブで家庭科室に行くんだから、その時に茜の教科書を取っておいてあげたら良かったんだよね」
「……詩子」
「ね? そう思わない?」
「……そういうことは、もっと早く言ってください」
「今気づいたんだよ」
悪びれた様子もなく、にこっと笑う。
「……そういうことは、もっと早く気づいてください」
「今度から、そうするね」
「……はい」
ため息を吐くように頷《うなず》いて、鞄《かばん》の中に教科書や筆記用具をしまう。
そして、ふと教室の中にあいつの姿がないことに気がついた。
自然と、視線が教室の中を探す。
教室の中にも、教室から見える|廊下《ろうか 》にも、あいつの姿はなかった。
「さっきまで一緒に待ってたんだけど、茜がなかなか戻って来ないから、先に行くって言って教室を出て行ったよ」
教室の中に視線を向けていた私に気づいて、質問するより先に詩子が答える。
「薄情です」
「あたしたちと違って運動部だから仕方ないよ。着替えとか、準備とかあるしね」
「そうですね……」
それでも、ちょっと薄情です。
最後の言葉は、心の中で|呟《つぶや》いた。
悪いのは、忘れ物をした私なんだから……
「あたしたちも急いだ方がいいよ。もう、あんまり時間ないみたいだから」
「はい……。急ぎましょう」
先に自分の鞄《かばん》を持って待っていた詩子に続いて、私も自分の荷物を持って教室を後にする。
そして、どちらからともなく一緒に歩き始める。
所属しているクラブが違うので、途中までだけど……。
「詩子。今日は、何を作るんですか?」
「うーんと、何だったかなぁ……」
唇に指を当てて、記憶を|辿《たど》るように上を向く。
「確か、ワッフルを焼くって……」
「詩子、替わりましょう」
「え?」
「私が、詩子に変装して料理クラブに行きます」
「無理だと思うよ。あたし、茜ほど髪長くないもん」
「残念です……」
「茜って、時々変なこと言うよね」
詩子が嬉しそうに笑顔を覗かせる。
「私も料理クラブが良かったです……」
「希望者が多かったから、仕方ないよ」
同じクラブの希望者が多い場合は、くじ引きで所属を決めることになっていた。
そして、くじの結果、詩子は料理クラブで、私は別のクラブになってしまった。
「茜が一緒じゃないのなら……」といって当選を辞退しようとした詩子の言葉を、好意だけ受け取って、私はひとりで別のクラブに入った。
「でも、茜の茶道部って、結構似合ってると思うよ」
「似合ってないです」
「そうかな? あたしはお似合いだと思うよ。だって、茜そんな|雰囲気《ふんい き 》あるもん」
「全然お似合いじゃないです。あんな苦いもの、飲みたくないです」
「あはは……確かに」
「最初飲んだ時、嫌がらせだと思いました」
「あはは」
いつも側に、二人の幼なじみがいた。
「ちゃんと、茜の分のワッフルは残しておくね」
「期待しています」
「でも、びっくりするくらい食べる先輩がいるから、もしかしたら残らないかもしれないけど……」
明るく元気で、屈託なく笑う少女がいた。
いじわるでいつも|喧嘩《けんか 》ばかりするけど、本当は優しく見守ってくれている少年がいた。
「あと一年したら、卒業も間近ですね」
「うーん、そうだね。まだちょっと実感ないけど」
私と詩子と、そして……。
「でも、やっぱり中学校に進級したらクラスとかバラバラになっちゃうのかな?」
「……私は、いつまでもこのままがいいです」
ずっと、三人で……。
「そうだね、ずっと一緒がいいよね」
ずっと、一緒に……。
「……はい」
そして、それは、決して叶えられない願いではないと……。
その時の私は、ただ純粋に信じていました。
詩子の笑顔を……。
あいつの笑顔を……。
そして、私自身の笑顔を……|無邪気《む じゃき 》に信じていました。
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U [深山]
チャイムの音が、静かだった教室に響き渡っていた。
それがまるで何かのスイッチでもあるかのように、音のなかった教室が喧騒《けんそう》で溢れる。
藁半紙のプリントが鞄《かばん》の中でこすれて、乱暴にしまわれたシャーペンが、筆箱の中で悲鳴を上げる。
|廊下《ろうか 》側に座っている数人の生徒が、|椅子《いす》を勢いよく床に打ちつけて、我先にと|廊下《ろうか 》に飛び出していく。
それは、どこにでもある放課後の風景。
毎日繰り返されている、日常の端々。
今までも、そしてこれからも……。
「雪ちゃん、雪ちゃん、雪ちゃん!」
前の席に座っているみさきが、後ろを向いて、楽しそうにわたしの名前を呼ぶ。
「そんなに元気よく呼ばなくても、聞こえてるって。すぐ前の席なんだから」
正確には、名前ではなくあだ名だった。
このあだ名は、初対面の時に、いきなりこの子につけられたものだ。それ以来、わたしはずっとこの子に雪ちゃんと呼ばれ続けている。それは、この小学校に入学する以前から続いてることだった。
卒業式を目前に控えた今でも、ずっと……。
「雪ちゃん、放課後だよ。クラブだよ」
「それも分かってる」
教科書を鞄《かばん》にしまいながら、顔を上げる。
すぐ前に、みさきの楽しそうな表情があった。
瞳を輝かせて、真っ直ぐにわたしの顔を|覗《のぞ》き込んでいる。
「今日はワッフルだよ〜。楽しみだね〜」
みさきは、既に鞄《かばん》を持っている。
いつの間にか、すっかり準備は万端だった。
「ね、みさき。ちょっと相談なんだけど」
「うん?」
みさきが、ちょこんと首を傾げる。
どんな縁なのかは分からないけど、この六年間、ずっとみさきとはクラスメートだった。
そして、来年は揃って同じ中学校に進学することになる。
さすがに、中学に行ってまでまた同じクラスになるとは思っていないけど……。
「その、雪ちゃんって呼び方、そろそろやめにしない?」
「どうして?」
さらに首を傾げる。
瞳には、わたしの姿が映っている。
「来年から、わたしたちも中学生なのよ」
「給食、なくなっちゃうね」
見当違いのことを言っているみさきは、真剣に悲しそうだった。
「中学生になったら、冷凍みかんも食べられないね」
「あんな固い物、食べなくていいから……」
「自分で作ってみようかな……。うん、今度チャレンジしよっと」
「分かったから、冷凍みかんはとりあえず横に置いといて」
ため息混じりに、話を元に戻す。
いつもながら、みさきはマイペースだった。
「えっと……雪ちゃん、何の話だったかな?」
「雪ちゃんって呼び方、やめてって話」
「どうして、雪ちゃん?」
「ちょっと恥ずかしいから」
「|可愛《か わ い》いのに……」
みさきは、心底残念そうに表情を曇らせる。
「それに、似合ってるよ、雪ちゃんに」
本人は誉め言葉のつもりらしかった。
「はぁ……」
最初から期待していなかったけど……。
「分かったわよ、好きに呼んでいいから」
ため息混じりの言葉に、みさきの表情がぱっと明るくなる。
きっと、そのうちに別の呼び方に変わるだろう……
そんな淡い期待で自分を納得させながら、鞄《かばん》に教科書を詰める。
みさきも言っていたけど、今日はこれからクラブがある日なので、今から鞄《かばん》を持って教室を移動しないといけない。
「雪ちゃん、早く早く」
急かすみさきと一緒に、教室を出る。
|廊下《ろうか 》は、既にたくさんの生徒で溢れていた。
「みさき、今日はやけに気合い入ってるわね」
「だって、ワッフル楽しみだよ」
「あくまでも、作るのが目的なんだからね。料理クラブなんだから」
「分かってるよ」
わたしとみさきは、偶然同じクラブに所属していた。
当然、目的の教室も同じなので、いつものように一緒に家庭科室に向かう。
「でも、食べるのも楽しみのひとつだよ。いっぱい作って、いっぱい食べようね」
「いっぱい食べるのだけは、やめた方がいいと思うわ。他の人に迷惑だから」
「……うー。雪ちゃんがひどいこと言ってる……」
こうして、いつもと変わらない日常の風景は過ぎて行った。
そして、そんな何気ない日常が、どれだけ大切なものであったのか……。
どれだけ、かけがえのないものであったのか……。
過ぎ去ってみて、初めてわかる幸せがあることに、わたしもみさきも、まだ気づいていなかった。
§
「おいしかったねー。やっぱり、冬はワッフルだよ」
昇降口で靴を履き替えて、わたしとみさきは夕焼けの世界に足を踏み入れていた。
既に暮れかけた太陽は、赤く光り、その姿を半分以上街並みの中に隠している。
「みさき、食べ過ぎ」
確実に短くなっていく日没の風景に目を細めながら、わたしとみさきは夕暮れの街をゆっくりと歩いていた。
「今日はあんまり食べてないよ。だって、これから商店街に行くんだから」
「……まさか、今日も?」
みさきと一緒だから一応覚悟はしていたけど、思わず問い返してしまう。
「うん。もちろん」
こともなげに頷《うなず》くみさき。
最近オープンした屋台のたい焼き屋で、焼きたてのたい焼きを買って帰ることが、最近では放課後の日課になっていた。
「だから、今日のワッフルはあんまり食べなかったんだよ」
「あんまり……ね」
二桁食べてあんまりと言うのであれば、わたしにはそれ以上何も言うことはなかった。
「大体、みさきが食べたワッフルって、ほとんどわたしが焼いたのじゃない」
おかげで、わたしはほとんど食べていない。
だから、帰りにたい焼きを食べることに、わたしは賛成だった。
「でも、代わりに私が焼いたワッフルを雪ちゃんにあげたよ」
「焦げてたけどね」
「あれは、ちょっとした失敗だよ。でも、次からは大丈夫。こつを掴んだから」
「だといいけど……」
そっと、ため息。
どうも、こんな関係はこれからもずっと続くような気がしてならなかった。
「|綺麗《き れい》な夕焼け……」
横を歩くみさきが、ふと立ち止まる。六年間通い続けた風景の先に、目的の商店街が見えていた。
夕焼けの光に照らし出されたその風景を見つめながら、みさきが感嘆の声をあげる。
「確かに|綺麗《き れい》だけど、でもそんなに珍しいものでもないでしょ?」
「そうだけど、でも……」
長い髪を風に揺らしながら、みさきは赤く染まったその風景を、ただじっと見つめていた。
まるで、夕焼けの赤を、記憶の中に刻み込むかのように……。
「早く行かないと、夕焼けどころか真っ暗になるわよ」
「うん……」
頷《うなず》くみさきを促して、もう一度歩き始める。
舗装された地面に落ちた二本の影が、持ち主の姿を追いかけるように、赤い地面を泳いでいた。
確かに、どこか不思議な光景ではあった。
§
「やっぱり、冬はたい焼きだよね」
陽の落ちかけた街を歩きながら、みさきが満足げに白い息を吐く。
今度こそたくさん食べたみさきは、やっと人心地《ひとご こ ち》ついた様子だった。
「さっきは、ワッフルだって言ってなかった?」
「両方だよ」
「だったら、今度から自分のお金で食べてね」
「う……」
みさきが、誤魔化《ごまか》すように横を向く。
「ちゃんと、明日返すよ……」
「期待してるからね」
「うん。任せてよ」
頷《うなず》いて、そして笑い合う二人。
毎日のように繰り返される、そんな他愛のない会話。
「でも、やっぱり冬のたい焼きはおいしいよね」
「そうね」
「うぐぅ、って感じだよね」
「それは……よく分からないけど……」
静かに、それでも確実に、夕焼けが闇に変わる……。
「でも、相変わらず、信じられない食べ方するわね……」
「育ち盛りだからね」
「どうして、それだけ食べても太らないの……」
白く染まった言葉は、冬の風に押されて一瞬だけその姿を覗かせたあとに、溶けるように姿を隠す。
もうすぐ、壁にかかったカレンダーからは、すべての暦《こよみ》が消える。
そして、真新しいカレンダーの一ページ目をめくる。
冷たい風は、さらにその強さを増す。
確かな存在感のある冬の本番が、すぐそこで手を振っていた。
「たい焼きといったら、冬の風物詩だからね」
寒そうに上着に手を当てて、みさきが答えになっているのかなっていないのか分からないことを|呟《つぶや》く。
「みさきの場合、食べ物だったらなんだって風物詩になるでしょ」
「まるで、私が食べることしか考えてないみたいだよ」
みさきが、不満そうに口を尖らせる。
「紛《まぎ》れもない事実だからね」
うんうんと頷《うなず》いたわたしの言葉に、ますますみさきが不機嫌《ふ き げん》そうな表情になる。
「みさきの趣味は、食べることでしょ?」
からかうように、みさきの顔を見る。
「私だって、他に趣味とかあるよ」
「ふーん」
「雪ちゃん、絶対に信じてないよね?」
笑いながら気のない返事をするわたしを、みさきが悲しそうに見つめ返す。拗《す》ねた表情が、夕焼けの中で赤く染まっていた。
わたしは笑いをこらえながら、みさきの口元を指さす。
「口にあんこつけながらそんなこと言ったって、全然|信憑性《しんぴょうせい》ないわよ」
「え?」
わたしの言葉に、みさきが慌てて口元を拭う。
「と、取れた?」
「うん、|綺麗《き れい》になった」
「雪ちゃん、いつから気づいてたの……?」
真っ赤な顔のみさきが、非難するようにわたしの方を向く。
「みさきが八匹目のたい焼きを食べた時、かな」
「ううっ、ひどいよ……。知ってたんだったら、もっと早く教えてよ……」
ますます赤くなった顔で、涙を浮かべてすんすんと鼻を鳴らしている。
「それで、さっき言ってたみさきの趣味ってなんなの?」
自分の影を追い越すように歩きながら、みさきの非難の視線を無視して質問を続ける。
わたしは、みさきが趣味らしいことをしているのを、一度も見たことがなかったし、そんな話を聞いたこともなかった。
だから、みさきの言うところの『他の趣味』に興味があった。
「えっーと……」
あからさまに困ったような表情で、すっかり視線を落として地面を見つめてしまう。
言いたくないらしい。
「やっぱり嘘なんだ」
わたしは、冗談交じりに言葉を投げかける。
「そ、そんなこと……ないよ……」
みさきは、慌てて手を振る。だけど、嘘をついているような感じではなかった。
「だったら、教えてよ」
「……うーん」
言っていいものかどうか悩んでいる。そんな仕草だった。
「雪ちゃん……」
しばらくの間があった。
そして、意を決したように、みさきが顔を上げる。
「笑わない?」
真剣な眼差《まなざ 》しで、わたしを真正面に見据える。
「笑わないよ」
「うん、約束だよ……」
また少しだけ間があってから、みさきが恥ずかしそうに言葉を続ける。
「私ね、お話を書くのが好きなんだよ……」
「お話って……漫画とか?」
「ううん。絵は下手だから、お話だけ」
「知らなかった……」
それは、全く想像していなかった意外な答えだった。
息を吐くように、みさきを見て|呟《つぶや》く。
「恥ずかしかったから、ずっと黙ってたんだよ……」
今でも恥ずかしいんだけどね……、とつけ加えてから、言葉を続ける。
「このことを話したの、雪ちゃんだけだからね。絶対に、みんなには内緒だよ」
口元に、人差し指を当てる仕草。
「うん、分かった。約束ね」
わたしが頷《うなず》くと、みさきがほっとしたように息を吐く。
「だから、今度みさきが書いた話、読ませてよ」
「絶対に、嫌」
きっぱりと断言する。
「でも、誰かに見せる為に書いたんでしょ?」
「そうだけど……今はまだダメ」
「いつだったらいいの?」
「もっともっと上手になったら……。そうだね、十年後くらいかな」
「分かったわ。楽しみにしてる」
「うん」
いつの間にか、商店街を抜けていた。そして、目の前には住宅街が広がっている。
この街の商店街にはアーケードがないので、空の色は変わらない。
だけど、流れる風が違っていた。
商店街の風は穏やかで、住宅街の風は優しい……。
何となく、そんな感じがした。
本当に、何となくだけど……。
「風が、気持ちいいね」
すぐ横を歩くみさきが、風に運ばれる髪を手のひらで押さえつけるような仕草で、声を漏らす。
「もう少ししたら、もっと寒くなってそんなこと言ってられなくなるよ」
みさきの方を向いて、わたしも髪を押さえたまま微笑む。
「そうだね。だったら、今のうちにもっと風を堪能《たんのう》しておかないとダメだね」
「もっとたい焼きも食べないとね?」
「雪ちゃんのいじわる……」
今年も、あともう少し……。
新しい年も、新しい生活も、すぐ目の前に……。
小学校を卒業して、中学校に入学して……。
そして……。
「それじゃあ、わたしはこっちだから」
小さな十字路に立って、わたしは足を止める。
ここからは、みさきとは帰る道が違う。
突然、ひときわ冷たい風が吹き抜けて、わたしは体をすくませた。思っていたよりも、冬は駆け足で近づいているようだった。
みさきは何か物思うような表情で、中空を漂う長い髪を撫でつけている。そして、そんな仕草が今のみさきにはよく似合っていた。
「今日は、嬉しかった」
わたしは、そうつけ加える。
「いつも通りだと思うけど……」
わたしの言葉に、みさきが不思議そうに首を傾げる。
「何となく、ね」
「変な雪ちゃん……」
やっぱり首を傾げたまま、みさきがわたしに聞こえないように小声で囁《ささや》く。
みさきの声はしっかり聞こえていたけど、敢えて聞こえなかったふりをする。
嬉しかったのは、本当だった。
親友の、今まで知らなかった一面を|垣間《かいま 》見ることができた……。
そんな些細なことが、本当に心から嬉しかった。
「じゃあね、みさき」
片手を挙げて、自分の家の方向に歩き出す。
オレンジ色に染まる太陽は、屋根のすぐ上にあった。
「雪ちゃん、もうちょっと遊ぼうよ」
「みさき……」
つまらなさそうに引き留めるみさきの言葉に、わたしがため息を返す。
「あれだけ食べて、まだ遊ぶ元気が残ってるの?」
「いっぱい食べたから、適度に運動もしないと」
そう言って、にこっと微笑《ほ ほ え》む。地面に伸びたみさきの影が、赤い地面に長く伸びていた。
「わたしは、パス……」
まだ時間はあるけど、もうすぐ日が暮れることは間違いなかった。
「残念だよ」
がっかり、といったふうに肩を落とす。
「また、今度ね」
「うんっ」
真っ赤な姿のみさきが、頷《うなず》く。
「でも、今からどこで遊ぶつもりなの?」
ふと、気になったことを訊ねる。
この住宅街を抜けると、そこはすぐにみさきの家のはずだ。
「学校、だよ」
まるでそれが当然のことでもあるかのように、みさきが頷《うなず》きながら答える。
「学校って……みさきの家の前にある高校のこと?」
わたしの疑問に、みさきがもう一度首を縦に振る。
みさきの家のすぐ前には、高校が建っている。
そして、みさきがその高校に出入りしていることは、以前から何度となく聞かされていた。
当然不法侵入だが、あまりにもみさきがしつこく通っているので、最近では大目に見てもらえるらしい。
大目に見てもらっている、というよりは、呆《あき》れられているといった方が正解のような気がする。
将来は、絶対にこの高校に入学するんだって、みさきは真剣な表情でそう断言したことがあった。その時は、雪ちゃんも一緒だよ、ともつけ加えていた。
「その学校の、どこがそんなに気に入ったの?」
一度、そう訊ねたことがあった。
「カツカレー、かな」
その時、みさきは真剣そうな表情でそう答えた。
みさきらしいといえば、その通りだった。
「また、明日学校で会おうね」
現実のみさきが、手を振っている。
その瞳も、夕焼けを映し込んで赤く光っている。
「ばいばい、みさき」
「うん、またね。雪ちゃん」
嬉しそうに目を閉じて、一際笑顔で手を振る。
「みさき……」
「うん?」
何気なく|呟《つぶや》いた、幼なじみの名前。
みさきが、首を傾げる。
夕焼けの赤は、ますますその存在を増している。
その光はわたしには眩《まぶ》しすぎて、少し目が痛い。
「雪ちゃん、どうしたの?」
「ごめん、何でもない……」
「やっぱり、変な雪ちゃん」
「みさきよりはましよ」
「うー。私は変じゃないよー」
予想通りのみさきの反応に微笑《ほ ほ え》みながら、わたしはもう一度小さく手を挙げた。
「それじゃあ、また明日ね」
「また、明日だよ」
にこっと手を振り返したみさきの言葉を最後に、わたしはみさきと別れた。
みさきの姿が、住宅街の奥に消える。
「……また、明日だよ」
みさきの言葉を口の中で小さく繰り返して、わたしも夕暮れの街に姿を隠した。
一面の赤。
長く伸びた影法師も、赤く染まる。
それは、いつもの光景。
真っ赤な舞台で繰り広げられる、放課後の一幕。
そして、夜の訪れと共に、一度幕が下りて……。
夢という名の幕間を挟んで、再び陽の光と共に幕が上がる。
舞台は、まっさらに衣を変えて、そして、また朝の風景が動き出す。
目が覚めて、朝ご飯を食べて……。
服を着替えて、身支度を整えて……。
陽の差す通学路を、早足で歩いて……。
クラスメートと、挨拶《あいさつ》を交わして……。
昇降口で靴を履き替えて、冷たい|廊下《ろうか 》を歩いて……。
教室に入って、自分の席に鞄《かばん》を置いて……。
そして、昨日交わした言葉の通り、笑顔のみさきが後ろを振り向く。
「おはよう、雪ちゃん」
それが、日常。
ずっと繰り返されてきた、舞台の始まり。
だけど……。
次の日の朝。
わたしの席の前には、誰の姿もなかった。
そこに、ぽっかりと隙間《すきま 》があった。
日常に割り込んだ、小さな空間。
それは、ほんの些細な違和感。
時間と共に修復される、|微《かす》かな傷……。
明日からは、また元通りになる。
そんな傷、最初からなかったかのように、何気ない日常が、また戻って来る。
その時のわたしは、そう信じて疑わなかった。
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|無邪気《む じゃき 》さの罪を知っていますか?
目の前の現実を、抱擁することができますか?
日常の壊れる音を、聞いたことがありますか?
その音から、耳を塞ぎたいと思ったことはありますか?
涙の意味を、知っていますか?
V [川名]
闇。
闇の中にいる。
|微《かす》かな光さえも届かない、漆黒《しっこく》の闇の中に私はいる。
私は、走り続ける。
ここは、どこなんだろう?
どうして、真っ暗なんだろう?
なぜ、私はこんなところにいるんだろう?
早く、帰らないと……。
早く、家に帰らないと……。
あんまり遅くまで遊んでいると、またお母さんに怒られるから……。
家に帰って、明日の準備をして……。
そして、学校に行かないと……。
約束したんだから……。
また明日って、約束したんだから……。
私は、走り続ける。
どこまでも、どこまでも走り続ける。
その先に、光があることを信じて。
永遠に続く闇を見つめながら、ただひたすらに光を求めて……。
まるで、砂漠の中で一滴の水を求めるように……。
それなのに、闇はどこまで行っても闇で、
すべてが、闇に覆われて、
永遠に、闇の中で、
私は……いつまでもひとりぼっちだった。
何もない世界。
すべてが、闇という一色に塗り替えられる世界。
お父さんも、
お母さんも、
先生も、
クラスのみんなも、
雪ちゃんも、
そして、私自身さえも。
……。
恐怖。
私の心を鷲掴《わしづか》みにする、拭い去ることのできない恐怖。
そして、気づく。
これは、夢なんだ。
毎晩見る、他愛ない夢のひとつなんだ。
永遠の闇なんて、あるはずない。
朝が来れば、闇は光に払われて、私の悪夢も終わりを告げる。
朝が来れば、学校にだって行けるし、雪ちゃんの笑顔だって見ることができる。
やがて、砂時計の砂のようにバラバラだった意識の欠片《か け ら》が、一ヶ所に集まって来る。
夢が、覚める。
ゆっくりと、意識が覚醒する。
その時……。
私は、突然襲った激痛に顔をしかめた。
頭を強く叩かれたような、そんな痛みだった。
痛みに引っ張られるように、混濁していた意識は、強引に現実に戻される。
「……注射」
注射の、臭いだ……。
それが、夢から覚めた私が最初に発した言葉。
まるで自分の声ではないかのような、しわがれた声だった。
喉が、からからに渇いている。
唇がくっついて、ひび割れているようだった。
水が飲みたいな……。
私は、無意識に手を伸ばした。
自由に動くこともできなかった夢の中とは違って、手は動かすことができるようだった。
頭痛のような痛みはまだ続いている。
そして、不思議と|瞼《まぶた》を開けることができなかった。
|瞼《まぶた》を、何かで押さえつけられているような感触。
私は慎重に手を伸ばして、恐る恐る自分の|瞼《まぶた》にそっと指を触れた。
手に伝わって来る感触。それは、包帯のようだった。
後頭部から目隠しをするように、幾重にも包帯が巻かれていた。
また、頭痛のような痛みが私を苛《さいな》む。
私は、包帯の上からそっと|瞼《まぶた》に触れる。
痺れたような感触。
痛みはなかった。
ただ、きつく巻かれた包帯が蒸し暑くて、少し嫌だった。
また、意識が遠くなる……。
そうか……。
これもまだ、悪夢の続きなんだ……。
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W [深山]
みさきが学校を休んでから、三日という時間が過ぎていた。
それでも、何事もなかったかのように、時は同じ速度で流れている。
時間は、止まらない。
後ろに流れることもない。
それは、誰が望んでも決して叶うことのない願い。
「……何やってるのよ、みさき」
元気だけが取り柄のみさきが、学校を休むこと自体、珍しいことだった。
「元気だけ、じゃないよ……」
「ひどいよ、雪ちゃん……」
悲しそうに振り返るみさきの姿は、今はなかった。
わたしの前の席は、ぽっかりと空いている。
理由は、分からない。
担任の先生は、何も教えてはくれなかった。
家に帰ってから、みさきの家に電話をかけてみたが、ずっと留守番電話のままだった。
みさきはもちろん、家族とも連絡を取ることができない……。
そんな状態が、三日間続いている。
「……嘘つき」
ため息と共に|呟《つぶや》いて、わたしは机に伏せた。
また明日、って言ったのに……。
心配してるんだから、連絡くらいしなさいよ……。
みさき……。
「……」
机に顔を伏せたまま、ころんと横を向く。
窓があった。
白く曇った、教室の窓。
本格的な冬の到来を告げる風に、かたかたと小さく震えていた。
わたしは体を起こして、窓の曇りを手で拭う。
その僅《わず》かな隙間《すきま 》から、窓の外が見える。
そこには、風景があった。
それは、わたしたちの住む街並み。
時間と共に移ろいゆく光景。
水滴の浮いたガラス越しに、じっと何かを見つめている半透明の自分の姿がそこにあった。
何を見ているのか、自分でも分からない。
もしかすると、何も見ていないのかもしれない。
こんな時、人間の瞳はどんな役割を担っているのだろう。
窓に映った、自分の瞳。
真っ直ぐに、自分の瞳を映している。
北風に晒されるため息のように、思考が横に流れていく……。
ガシャン!
何か大きな音がして、わたしの意識は現実に引き戻された。
そこは、学校。
よく知っている、わたしの机だった。
「それじゃ、よろしくね。雪見」
誰かが、ぽんとわたしの背中を叩く。
顔を上げると、すぐ横にクラスメートでクラス委員長の姿があった。
「……何が?」
「何が、じゃないでしょ」
委員長が、困ったように机の上を指さす。
「……」
その指の先。
わたしの机の上は、ちょっとした不思議な光景だった。
数十枚の百円玉が、文字通り山のように積まれてる。
「……何、これ?」
もう一度、委員長の方を向いて訊ねる。
「知らないの? 日本の通貨よ」
「それは知ってる」
「……もしかして、寝てる?」
「ちゃんと起きてるわよ」
そのことを証明するように、数回|瞬《まばた》きをする。
「みさきが入院したらしい、って話は聞いたでしょ?」
「聞いたけど……」
みさきが、街の病院に入院しているらしい。
その|噂《うわさ》をわたしが知ったのは、ついさっきのことだった。
放課後。ホームルームを終えて先生が教室を出たところで、入れ替わるように他のクラスの生徒が入ってきた。
そして、帰りかけたクラスメートを引き止めてから、その子が話した内容が、みさきの入院だった。
職員室で、偶然先生達が話しているのを聞いたらしい。
「それで、このお金は一体何なの?」
いつの間にか、机の上に置かれたお金の山。
話が見えて来ない。わたしは、首を傾げる仕草で、もう一度訊ねる。
「窓の外を見てたそがれてると思ったら……。やっぱり、ぼーっとして聞いてなかったのね、雪見」
やれやれ、と言わんばかりに手を広げる。
その仕草に、少し腹が立って反論する。
「ぼーっとなんかしてないわよ……」
むきになって反論する自分の姿が、ガラスに映っていた。
「みさきが心配なのは分かるけど、そんなに思い詰めても仕方ないよ」
「別に思い詰めてなんかないけど……」
それに、わたしはみさきが入院した理由も知らない。
それ以前に、入院自体ただの|噂《うわさ》だって可能性も十分ある。正直なところ、あのみさきが入院するなんて、にわかには信じられなかった。
「だから、それを確かめるのよ」
わたしが思っていることを口にすると、まるでその言葉を待ちかまえていたかのように、さらっと言ってのける。
「誰が?」
わたしの口から出たのは、当然の疑問。
「あなた」
さも当然そうに、わたしを指さす。
見ると、他のクラスメートも一斉にわたしの方を向いていた。
「それは、委員長の役目でしょ」
「私はそうしたいんだけど、残念ながら今日は大切な用事があるのよ」
みさきのことは大切じゃないのだろうか……とも思ったが、それは言わないでおいた。
いつもクラスをまとめている委員長が、そんな薄情な女の子でないことは、わたしもよく知っている。
わたしに任せると言うからには、何か考えがあるのだろう。
「と言うわけだから、お願いね、雪見」
一方的に任命して、そして、眉をひそめるわたしを片手で制して説明を続ける。
「これは、クラスのみんなから集めたお金。みさきの為に、みんながなけなしの百円を出してくれたのよ」
「いつの間に……」
「雪見がぼーっとしてる間に、よ」
ひとり百円とすると、目の前にあるお金は確かにちょうどそれくらいだ。
そして、どうやら音頭《おんど 》を取ったのは委員長のようだ。
「というわけだから、クラスの代表として、あとはお願いね。雪見」
「……お願いね、って言われても」
わたしは、もう一度眉をひそめる。
「それと、これはみさきが入院してる病院の地図。何と私の直筆よ」
そう言って、これも一方的にノートの切れ端らしき紙を手渡される。
それには、確かに地図らしきものが描かれていた。
そして、病院の名前。
それは、知らない名前だった。
わたしは、ため息をつく。
「紙飛行機にして、窓から飛ばしてもいい?」
「あなたは、私の二時間の苦労を窓から投げるの?」
わざとらしく悲しそうな表情をする。
「昼から、何やってたのよ……」
机に|頬杖《ほおづえ》をついた体勢で、そっと息を吐く。
「一生懸命、精魂込めて地図を描いてたのよ」
「そう……」
悪びれた様子のない委員長の言葉に、ため息にも似た返事をする。
でも、わたしはそんな委員長が嫌いではなかった。
「分かったわ。行けばいいんでしょ」
「お願いね。雪見」
「一度言い出したらきかないってところは、みさきに似てるわね……」
鞄《かばん》を持って、席を立つ。
でも、そうは言ったものの、正直、クラスのみんなのみさきを心配する好意は嬉しかった。
それに、わたし自身みさきのことが気がかりだった。
突然の休学。
そして、入院の|噂《うわさ》。
みさきからは、何の連絡もない。
わたしが心配していることは、分かっているはずなのに……。
「がんばれ〜」
にこにこと、無責任に委員長が手を振っている。
わたしは、机の上の百円玉を片っ端から|財布《さいふ 》に入れた。
|財布《さいふ 》が、はち切れそうなくらい丸く膨れる。
それでも入りきらなかった百円玉を、仕方なく鞄《かばん》の中に詰めた。
「お金持ちになった気分ね……。嬉しくないけど……」
教室の時計を見る。時間は、まだ十分にあった。
今から商店街に寄って、このお金でお見舞いの品を買って、そして病院を……訪ねる。
時間的には何とかなりそうだ。
「そうだ……。ひとつだけ質問させて」
教室を出る前に、委員長の方を振り返る。
「うん?」
「どうして、わたしに頼んだの?」
みさきと仲のいい友達は、クラスにもたくさんいる。
みさきは、みんなに好かれていた。それは、間違いない事実だ。
「別に、わたしでなくても……」
その疑問に、委員長が微笑《ほ ほ え》みながら答える。
「あなたが、一番心配そうな顔をしていたからよ」
空が、赤から紫に変わっていた。
夕暮れから、夕闇へ。
地面に落ちた細長い影が、溶けるように闇に覆われていた。
枯れた街路樹の枝が、細い歩道を覆い被さるように塞いでいる。
本格的な冬の到来を予感させる風は冷たくて、枯れ葉を運ぶように小さく舞っていた。
人通りのない寂しい道。聞こえて来るのは、わたしの足音だけ。
何かに追いかけられているような錯覚を覚えて、自然と早足になる。
得体の知れない恐怖と不安。そんな感情が、闇の中に浮かんでいた。
「この先の角を、右……」
わたしは、心細くなる感情を払拭するように、わざと声に出してメモに書かれた文字を確認した。申し訳程度に並んだ街灯は、まだ光を灯してはいなかった。
吐いた息は白い。
手が、小さく震えている。
「寒い……」
今更のようにその事実に気づいて、持っていた花束をぎゅっと抱きしめる。
買って間もない花束が、闇の中でくすんで見えた。
闇は恐怖だった。
それは、物心ついた時からわたしの中に宿っている感情だった。
闇の中でひとりたたずんでいると、あの日のことが脳裏をよぎる。
それは、わたしがまだ小学校に入学する前のこと。
お母さんと一緒に歩いた、遊園地の石畳……。
たくさんの人。
人の流れ。
わたしは、懸命にお母さんの暖かな手を握っていた。
だけど、わたしの小さな体は、為すすべもなく人垣に流されて……。
お母さんの手は、あんなに遠くにあって……。
子供の力では、どうしようもなくて……。
気がついた時、わたしは知らない場所でひとりぼっちだった。
温もりが、消える。
お母さんの暖かさが、奪い去られる。
そして、わたしは今更のように冬の冷たさと、夜の闇を知る。
知らない場所が怖かった。
永遠の闇が恐怖だった。
振り向いても、何も見えない。
見えないから、離れた手を掴むことができない。
わたしは、泣いていた。
泣いていることしかできなかった。
だから、わたしは闇が嫌いだった。
それは、もうすぐで中学生になる今でも変わらない。
地面を這うように流れる冬の風に押されて、自然と早足になる。自分の残した足音が、後ろからわたしを追いかける。
地図で確認した角を右に曲がると、急に大きな通りに出た。
|安堵《あんど 》のため息が自然と漏れる。
寂しかった風景が、人の流れに覆われる。
この道には、既に外灯が灯っていた。
明るく照らされる歩道を、たくさんの人が歩いている。
買い物帰りの人。
学校帰りの人。
もしかすると、わたしと同じように病院に向かっている人もいるかもしれない。
息を整えて、ゆっくりと歩幅を揃えると、どうして自分がこんなにも不安な気持ちになってしまっていたのか不思議なくらい、そこはどこにでもある日常の中だった。
突然の、みさきの入院。
先生は、何も教えてはくれなかった。
どうして……?
どうして内緒だったのだろう……?
わたしたちに心配をかけさせたくないから……?
それが、一番可能性が高いと思った。
どうせ、大した理由ではないんだ。だから、逆に心配させないようにと思って、連絡しなかったんだ。
自分の考えに納得して、大きく頷《うなず》く。
そう……。
それだけのことだ。
あの日、わたしはみさきと一緒に放課後の街にいた。
一緒に商店街に寄って、いつものたい焼きを|頬《ほお》ばった。
他愛ないやり取りに表情を綻ばせながら、みさきをからかっていた。
それは、毎日のように繰り返される、いつもと何も変わらない光景だった。
別れた時、みさきは笑顔だった。
「また、明日」
澄んだ瞳で、真っ直ぐにわたしの顔を見つめて、そして、いつものように笑いながら手を振っていた。
そして、次の日。
みさきの席には、誰の姿もなかった。
「……嘘つき」
病院の門を目の前にして、わたしは足を止める。
闇間に浮かぶその建物は、どこか不思議な違和感があった。
場違い、という言葉が正しいのかもしれない。
いつも羨ましくなるくらい元気なみさきと、今、目の前に寂しくたたずむ白い病院の姿とが、どうしてもひとつに重ならなかった。
もう一度、メモを確認する。場所も、病院の名前も一致している。
わたしは、意を決して歩き出した。
どうして、たかがお見舞いにそんなに緊張してるんだろう……。
少しだけそんな自分が可笑しかった。
病院の中は、空気が違っていた。
図書館の|雰囲気《ふんい き 》と似ている。何故かわたしはそう感じた。
そこに流れる空気自体に音を消す作用があるかのように、その空間は静まり返っている。
そして、わたしはその空気に馴染《なじ》むことはできそうになかった。それは、今まで病院と無縁の生活を送ってきたからかもしれない。
人の溢れる待合室。建物の外観の印象よりは狭く見えた。
わたしと同じように、入院患者のお見舞いに訪れた人。
不安げな表情で、自分の順番を待つ外来患者。
そして、忙しそうに行き交う、白衣を着た人たち。
そんな人の流れをかき分けて、わたしは階段を探す。
元々、それほど大きな病院ではない。案内板を見ると、入院患者の病室は二階にしかなかった。受付でみさきの病室を訊ねるまでもないと思い、わたしは花束を持ったまま、階段を上る。
(花束より、食べ物の方が良かったかな……》
ふと、そんなことを考えながら、わたしは一歩ずつ階段を踏みしめる。
コツコツ……と、わたしの足音がわたしの後ろをついて来る。
(でも、病気なんだから、食べ物は控えた方がいいかもしれないし……》
階段を上りきったところで、一度立ち止まる。
そういえば、病気かどうかも分からないんだった。
事故かもしれない。どこかを|怪我《けが》して入院している可能性だってある。
でも、|怪我《けが》も病気も、みさきには不似合いだった。
どちらかというと、食べ過ぎでお腹を壊して病院に運び込まれた、といった方が余程しっくりとくる。
みさきは、怒るだろうけど……。
みさきが怒る様を思い浮かべて、少しだけ笑いがこみ上げてきた。
あの子は、すぐに表情に出るので、からかうと見ていて面白い。
「三日前に入院してきた女の子……」
不意に、背中から声が聞こえる。
思わず、振り返る。
ちょうど階段途中の踊り場に、看護婦さんの姿があった。そして、その後ろにもうひとりの看護婦さんが見えた。
さっきの声は、当然わたしに向けられた言葉ではなかった。
だけど……。
三日前に、入院してきた女の子。
その言葉が気にかかった。
わたしの知っている限り、みさきは女の子で、そして学校を休み始めたのは三日前のはずだ。
自然と、階段の下に意識が集中する。
「……もう、二度と見えるようにはならないらしいわ……」
何の前触れもなく、そんな言葉がわたしの心を捕らえる。
専門的な単語が幾つも並び、その言葉が何を意味しているのか、わたしには分からなかった。二人の間で、しばらくそんなやり取りが続いたあとに出てきた言葉……。
それは、壊れたスピーカーが突然正常な機能を取り戻したように、無防備なわたしに、何の警告もなしに飛び込んできた。
だから、その言葉の意味が分からなかった。
(二度と見えるようにはならない……)
心が、その意味をわたしに確認するように、言葉を反芻《はんすう》する。
(見えるようにはならない……)
心臓の鼓動が聞こえる。
無意味に、自分の左胸に手のひらを当てる。
汗をかいている。
少し息苦しい。
「みさき……」
そして、わたしはその場所を離れた。
みさきに会いたい。そして、確認するんだ。
みさきの笑顔を……。
いつものように、|綺麗《き れい》な瞳で屈託なく笑うみさきの姿を……。
わたしは、|廊下《ろうか 》を走った。
ただ、|闇雲《やみくも》に走っていた。
夜の闇のように絡みつく、得体の知れない感情を振り払うように。
川名みさき。
クリーム色の壁に、真新しいプレートがかかっていた。それは、何年も前からずっと同じ時間を歩んできた幼なじみの名前。
その左右には、同じようにプレートを引っかけることのできるスペースがあった。
だけど、今そこにあるのは、いつも笑顔を絶やすことのない幼なじみの名前だけだった。
このドアの先に、みさきがいる。
今までだって、そうだった。すぐ側に、いつもみさきがいた。
何も臆することなんてない……。
わたしは花束を左手に持ち替えて、右手を視線の高さまで上げる。
そして……。
ゆっくりと、二回。
ドアを、ノックした。
「はーい」
想像していた以上に、明るい声が返って来る。
少しくぐもって聞こえるのは、|分厚《ぶ あつ》いドア越しだったからだろう。
でも、それは間違いなく幼なじみの声。聞き間違えるはずなんてない。
それこそ、嫌というくらい聞いている声なんだから……。
「はーい。みさきでーす」
ノックの主がなかなか返事をしないので、みさきがもう一度、なぜか名前つきで声を上げる。いつもの声。いつものみさきの声。
人違いだったんだ。
わたしは、ドアに向かって息を吐く。
ただの思い違い……。
「どちらさまですか?」
不思議そうに、みさきが問いかける。
「みさき……。わたし」
他の病室に遠慮して、できるだけ押さえた声でドアの向こうに呼びかける。
「もしかして、雪ちゃん?」
「そうよ」
みさきの声が、ぱっと明るくなる。
「お見舞いに来てくれたんだ。私、ずっとひとりで寂しかったよ」
「入ってもいいの?」
「うんっ、もちろんだよ」
みさきの満面の笑顔が浮かぶような、そんな声。
わたしは、ドアのノブを掴む。
そして、ゆっくりと回す。
ドアが開く。
白い部屋。
同色のカーテンが|微《かす》かに揺れている。
部屋の中央。五つ並んだベッドは、ひとつを除いてすべて|綺麗《き れい》にシーツが畳まれていた。
でも、真新しいという|雰囲気《ふんい き 》はない。
最後の仕事を終えたあとのような、そんなどこか寂しいたたずまいだった。
「雪ちゃん……。会いたかったよ」
規則正しく並ぶベッドに囲まれて、そこにみさきの姿があった。
水色のパジャマに身を包んで、ベッドの上で体を起こしていた。
小学校に入学した時からずっと伸ばしている長い髪は、白いシーツに散らばっている。
そして、口元を綻ばせて真っ直ぐにわたしの方を向いていた。
「雪ちゃん、もちろんお見舞いは食べ物だよね?」
ごちそうを前にして|無邪気《む じゃき 》に喜ぶ子供のように、みさきが両手をぶんぶんと振る。
「病院のご飯って、あんまり食べた気がしないんだよ」
いつも、わたしを真っ直ぐに見つめていた……。
「味も薄いし、量も少ないし……」
羨ましいくらい純粋な瞳だった。
「もう少ししっかり食べないと、治るものも治らないって私は思うんだよ」
ずっと、ずっと、そうだった。
そして、これからも……。
「今なら、バナナ一房は楽勝だよ」
だけど……。
「雪ちゃん……?」
不思議そうに首を傾げたみさきの瞳は、白くくすんだ包帯に包まれていた。
「あっ、そっか」
ぽんっ、と手を打つ。
「ごめんね、包帯に驚いたんだよね」
そう言って、本来なら瞳のあるはずの場所に、そっと手のひらを当てる。
「ちょっと、まだ包帯は取れないんだよ」
幾重《いくえ 》にも巻かれた白い布。
「もう、痛くないから取ってもいいと思うんだけどね」
つまらなさそうに、もう一度首を傾げる。
「冬で良かったよ。夏だったらもっと暑くて大変……」
「みさき……」
|遮《さえぎ》るように、言葉を滑り込ませる。
みさきの明るい声を、これ以上聞いていることが辛かった。
「雪ちゃん、やっと喋《しゃべ》ってくれたね」
口元が笑っていた。
「今日の雪ちゃん、ちょっと無口だね」
「わたしは、みさきみたいにお喋《しゃべ》りじゃないわ……」
いつもと何も変わらないやり取り。
それは、わたしの精一杯の虚勢だった。
「私だって、実はおしとやかだよ」
笑いながら反論するみさきに、わたしの言葉は続かない。
みさきの姿を、見ていることができない。
わたしは、無意識にみさきから視線を逸らして、備え付けの白いテーブルにずっと持っていた花束を置いた。
ビニールのラッピングが、小さく音を立てる。
「食べ物?」
期待のこもった声。
「残念でした。花束よ」
わたしは、微笑む。
それは、自分でも信じられないくらい、いつもと変わらない声だった。
感情が麻痺しているのかもしれない……。
「クラスのみんなで、百円ずつ出し合って買った花束よ」
そういえば、わたしはお金を出してないな……。
そんな、どうでもいいことを考えている自分が不思議だった。
「おなか空いてるから、花だって食べられるよ」
「クラスのみんなの気持ちを食べないで」
「冗談だよ」
みさきが笑う。
「今度は、ちゃんと食べ物買って来るから、これは食べないでね」
「だから、冗談だよ」
困ったように首を傾げる。
「みさきの場合、冗談に聞こえないから」
「病人に向かって、それはひどすぎるよ。ショックだよ」
「はいはい……」
備えつけの|花瓶《か びん》に、花を移し替える。
みさきと話をしている自分。
それは、感情を押し殺したわたし。
「これでも、花屋さんでずいぶん悩んだのよ」
「そうなんだ……。だったら、やっぱり食べるわけにはいかないね」
みさきが、わたしの方を向いて僅《わず》かに首を傾げる。
微笑んだのかもしれない。
でも、いつもわたしを見ていた|綺麗《き れい》な瞳は、真っ白な包帯の向こう側にあった。
「でも、せっかくのお花なのに、見えないね……」
包帯越しに、|花瓶《か びん》に移し替えられた花を見る。
「……そう……ね」
わたしは、頷《うなず》く。
声が、震えていた。
「ね、みさき……。その包帯、どうしたの?」
みさきの方を見ることなく、そっと訊ねる。
「これ? うーん、私はあんまり覚えてないんだけど、|怪我《けが》しちゃったみたいなんだよ」
「……ひどいの?」
「それが、よく分からないんだよ。お医者さんも、看護婦さんも、何も教えてくれないんだよ」
「……」
「ただ、いいって言うまで、絶対に包帯を取ったらダメだって……。でも、このままだとせっかく雪ちゃんが選んで持って来てくれたお花、見えないね」
その言葉で、私は気づく……。
みさきは、何も知らない……。
「だから、包帯が取れた時の楽しみに残しておくよ」
小学生の少女には、まだ何も知らされていない……。
「本当に楽しみだよ……。早く、取れないかな?」
今、目の前にある闇が、永遠のものであることを……。
「……うん。そうだね」
わたしは、無責任に頷《うなず》くことしかできなかった。
「本当はね、もう全然痛くないんだよ」
包帯越しに、そっと自分の|瞼《まぶた》に触れる。
「でも、先生はまだいいって言ってくれないんだよ……。お医者さんの言うことは、ちゃんと聞かないとね」
「みさきの、嘘つき……」
「え?」
思わず自分の口から出た言葉に、わたし自身が驚いていた。
「どうしたの、雪ちゃん?」
「また明日って、約束したのに……」
だけど、言葉は止まらない。
「そうだね、嘘ついちゃったね」
「本当に……心配してしたんだから……」
口をついて出た言葉が、震えていた。
「……雪……ちゃん?」
みさきの包帯を見た時から、ずっと心に押し込んでいた感情が、瞳の奥から溢れてくる。
「……雪ちゃん、どうしたの?」
みさきが、ベッドから体を起こして、わたしの方に向き直る。
優しげに微笑んだその表情は、包帯に覆われていた。
「雪ちゃん?」
何も知らない|無邪気《む じゃき 》さに、胸が締めつけられる。
「みさき……」
「うん?」
わたしの様子に、みさきが不思議そうに首を傾げる。
「包帯……取ろうか……」
「えっ?」
これ以上、何も知らないみさきと向かい合っていることができなかった。
「だ、ダメだよ。お医者さんに取ったらダメって言われてるんだから」
「でも、もう痛くないんでしょ……」
「そう……だけど……」
わたしは、知っている……。
「だったら、そんな包帯、取ろうよ……」
その包帯が、既に何の意味もないことに。
「いつもの、みさきが見たいよ……」
「雪ちゃん……もしかして、泣いてるの?」
「泣いてなんかないわよっ!」
「でも……」
「泣いてなんか……」
言葉が、続かない。
涙が、止めどなく溢れ出る。
「分かったよ、雪ちゃん。包帯、取ってもいいよ」
「うん……」
「本当はね、包帯なんて嫌だったんだ。だから、取ってもいいよ。でも、私は目が塞がれてるから、雪ちゃんが取ってくれる?」
みさきの言葉に、わたしはベッドの側まで近づく。
「みさき……。今、取るからね……」
震える手で、みさきの目を覆っている真っ白な包帯に触れる。
「これで、やっと雪ちゃんの顔が見られるよ」
みさきが、口元を綻ばせる。
わたしは、包帯を解く。
何重にも巻かれた布が、取り去られる。
その下に、わたしがよく知っているみさきの顔があった。
最後にみさきと会ったあの日と、何も変わらない姿で、わたしを見つめていた。
ただひとつ……。
「あれ……?」
その瞳が、暗く濁っていることを除いて。
「雪ちゃん、包帯取らなかったの?」
黒い瞳で中空を見つめたまま、みさきが不思議そうに首を傾げる。
「まだ、見えないよ」
わたしを見つめていたはずの視線が、何かを探すように宙をさまよう。
「まだ、真っ暗なままだよ」
あんなに|綺麗《き れい》だったみさきの瞳は、そこにはなかった。
「まだ、雪ちゃんの持って来てくれたお花、見えないよ」
現実が、悲しくて。
どうしようもなく、悲しくて。
「雪ちゃん……?」
わたしは、幼なじみの姿を抱きしめていた。
「ど、どうしたの、雪ちゃん?」
みさきが、戸惑いの声をあげる。
「……みさき……わたしの顔、覚えてる……?」
「覚えてるよ、もちろん。だって、三日前に会ったばかりだよ?」
「忘れないで……」
その時、みさきの中の時計は、時間を刻むことをやめていた。
「絶対……わたしの顔、忘れないで……」
アルバムに残った写真のように、止まった風景だけしか、みさきには残されなかった。
「忘れるわけないよ。私が、雪ちゃんの顔を忘れるわけないよ」
どうすることもできない無力感。
あんなに一緒にいたのに、
いつも、一緒だったのに、
どうして、わたしには何もしてあげることができないんだろう。
「雪ちゃん……」
すぐ側で聞こえる、みさきの声。
力のない、声。
「もしかして……」
わたしが、みさきの為にできること……。
それさえも分からないまま……。
「私の目……もう、見えないのかな……」
みさきの体を抱きしめて、今はただ、泣くことしかできなかった。
[#改ページ]
絶望という言葉の、本当の意味を知っていますか?
涸《か》れるまで、涙を流したことがありますか?
心が壊れるまで、叫んだことがありますか?
最後の命綱を、自分の意志で手放したいと思ったことがありますか?
自分の中に流れる、血の暖かさを知ったことがありますか?
X [上月]
重たいガラスの扉を押し開けてフロントに入ると同時に、病院特有の臭いが私の鼻をついた。
もう、今月に入ってから毎週のように通い続けているのに、未だにこの空気に慣れる気配はなかった。
|財布《さいふ 》の中から診察券を取り出して、一度後ろを振り返る。
ちゃんとついて来ていることを確認してから、私は受付のカウンターに足を向けた。
黒い長椅子《ながい す 》に、白いマスクが見え隠れしている。
季節柄、私たちと同じ風邪の患者が多いようだった。
たくさんの外来患者で溢れているロビーを抜けて、窓口に診察券を入れる。
ガラスの向こう側で、受付の女性が診察券を受け取る。
いつの間にか、受付の人の顔も覚えてしまっていた。
もっとも、これだけ定期的に足を運んでいるのだから、知らない顔を探す方が難しい。
「上月《こうづき》さん、まだ良くなりませんか?」
係の女の人が、私の顔を確認して微笑む。
向こうも、私のことを覚えていたらしかった。
「大変ですね、ずっと通っていらして」
そう言って、必要事項を書き込む用紙をガラスの向こう側から差し出す。
私は曖昧《あいまい》に微笑んで、受け取った用紙に備えつけのペンを走らせた。
もう、何回も繰り返していることだ。
書く内容も、それほどは変わらない。
家を出る前に計ってきた体温と、最近の体調を簡単に記してから、ボールペンを置いた。
「はい。それでは、しばらくお待ちください」
私は小さく|会釈《えしゃく》をしてから、空いている席を探してロビーに戻った。
そして、さっきまで後ろをついていたはずのあの子の姿がないことに気づく。
私はため息をついてから、ロビーを見渡した。
あの子のことだから、きっとどこかで遊んでいるのだろう。
心配じゃないわけではないけど、あの子ももう上級生だから……。
本当に、いつの間にあんなに大きくなったのだろう。
ほんのちょっと前までは、まだまだ小さかったのに。
そして何より、生まれつきのハンデを背負いながら、そんな様子を|微塵《み じん》も感じさせないくらい明るく育ってくれたことが一番の喜びであり、私にとって心からの誇りでもあった。
あの子が産まれた時。
あの子が言葉を話すことができないと聞かされた時。
私はあの子を抱きしめて、涙を流しながら謝罪の言葉を続けた。
どうして、普通じゃなかったんだろう……。
どうして、普通の人と同じじゃなかったんだろう……。
私が望んでいたのは、そんな当たり前の幸せだったのに……。
私のせいだ……。
生んでしまった、私のせいなんだ……。
何度も何度もあの子に謝罪した。
その時の私には、それだけがあの子にしてやれる唯一のことだと信じていたから。
そして……。
あの子は、そんな私の心を読み取ったかのように、どこか人と距離を置いたような子供に育っていた。
だけど、そんなある日……。
あの子は、突然明るくなった。
いや……明るくなった、というのは少し違うのかもしれない。
自分を表現する手段の分からなかったあの子が、あの日をきっかけにその手段を見つけただけなのかもしれない。
公園に遊びに行ったあの子の手には、一冊のスケッチブックと青いクレヨンが握られていた。
その時のスケッチブックを、あの子は今でも大切に持っている。
知らない人に借りたというスケッチブック。
そのスケッチブックを持ち主に返すまで、あの子はその時つけていた大きなリボンをずっと身につけるつもりでいる。
目印だから。
その人との大切な絆《きずな》だから。
そういって、あの子は笑っていた。
あの子に、大切なきっかけを与えてくれた人に、私は心から感謝していると同時に、複雑な心境でもあった。
本当は、私がそのきっかけを与えなければならなかったのに……。
たった一人の、母親として……。
「澪《みお》……」
そこで、思考は途切れた。
何の前触れもなく、不意に現実の風景が飛び込んでくる。
私は、腕時計で時間を確認した。
そろそろ、順番がまわってくるかもしれない。
一度席を立って、視界に入る範囲を見渡す。
その中に、まだあの子の姿はなかった。
あの子のことだから、きっと好奇心に駆られてその辺りを歩き回っているに違いない。
私は手提げの鞄《かばん》を持って、コートを|羽織《はお》った。
そして、あの子の姿を探す為に、リノリウムで覆われた病院の床を、静かに歩き始めた。
[#改ページ]
Y [川名]
「それじゃ、みさき。お母さん、一度家に帰るから」
まだ、注射の嫌な臭いがする。
どれだけ時間が経っても、私はこの臭いに慣れることができなかった。
「みさき、聞いてる?」
「うん……」
闇の中に、衣擦《きぬず 》れの音が聞こえる。お母さんが、上着を着ている音。
だけど、それは聴覚だけの想像の世界。
私の前にある映像は、壊れたビデオのように、何も映してはいない。
「すぐに戻って来るから、大人しくしてるのよ?」
「うん……」
頷《うなず》いたものの、お母さんの言葉は滑稽《こっけい》に聞こえた。
こんな状態で、どうすれば大人しくしないことができるんだろう……。
誰もいない病室。
ベッドに寝かされている私は、大切な体の一部を奪われた抜け殻のような存在。
もう、失うものなんて何もないような、そんな諦めにも似た虚脱感に覆われていた。
「みさき、何か欲しいものある?」
「ううん……」
曖昧に首を振る。
「そう……」
お母さんの悲しそうな声を聞きながら、私は全く違うことを考えていた。
私は、目が見えない。
そのことを理解したとき、私はお母さんを激しく問いつめた。
お母さんから、言葉はなかった。
ただ、むせび泣くようなお母さんの声が聞こえただけだった。
でも、私はそんなお母さんの様子で、すべてを理解した。
私の目は、もう二度と光を取り戻すことはないって……。
私にとって、闇は永遠のものなんだって……。
「お母さん……」
「なに? みさき」
帰り支度をしたお母さんが、足を止めて振り返る。
「私……」
「どうしたの?」
「……ううん、何でもない」
言いかけた言葉。
ずっと考えていた言葉。
私は、その言葉を飲み込んだ。
「もし何かあったら、看護婦さんを呼ぶのよ。枕元に、ボタンがあるから」
「……」
無言の私に、辛そうにため息をついたお母さんは、そのまま病室を後にした。
「お母さん……」
本当に、誰もいなくなった病室。
あの日以来、ずっと私につきまとう、ひとつの選択肢があった。
もう、それを選ぶしかないような気がしていた。
それが、一番辛くない選択だから……。
「お母さん……私……」
最後に言いかけた言葉を、そっと|呟《つぶや》く。
「私、死んでもいいかな……」
§
足音に気づいたのは、その直後だった。
ドアの向こう側で、コツコツと病院の床特有の足音が聞こえていた。
その足音は、まるで何かを探しているかのように、|廊下《ろうか 》を行ったり来たりしているようだった。
他の入院患者の人だろうか?
それとも、先生か看護婦さん……。
しばらく様子を窺ってみても、足音は相変わらず|廊下《ろうか 》をうろうろしているようだった。
何かを探しているというよりは、まるで子供が病院内を探索しているようにも思えた。
あの高校の中の私も、そんな感じだったから……。
「……誰?」
私は、思わずドアの向こうに問いかけていた。
足音が、止まる。
「もしかして……」
一瞬、闇の中に浮かんだ姿。
「もしかして、雪ちゃん?」
しかし、返事はない。
「お母さん?」
もちろん、返事はない。
「看護婦さん? 先生?」
呼びかけても、返って来るのは静寂だけだった。
「幽霊……とかじゃないよね?」
しばらく待っても、何の反応もなかった。
あっても困るけど……。
「……」
お互い無言のまま、時間だけが流れた。
足音もしない。
ということは、|廊下《ろうか 》でじっとしているのだろうか……?
寒く、ないのかな……?
「……そんな所にいると、風邪をひくよ?」
そんな心配をしている私が、滑稽だった。
そんなことを考える余裕なんて、私にはないはずなのに……。
「……もし寒いんだったら、入って来てもいいよ」
不思議と、そんな言葉が口をついて出た。
「大丈夫だよ、この部屋には私しかいないから。エアコンがついてる分、|廊下《ろうか 》よりは温かいと思うよ」
そこまで言って、しばらく相手の反応を待つ。
すると、ゆっくりと扉が開く音がした。
ひんやりとした外の空気が、床を這うように流れて来る。
「こんにちは」
足音の主に対して、私は声をかける。
そのときの私の表情は、どんなだっただろう……。
笑顔なんて忘れてしまった私の顔は、他の人にはどう映っただろう……。
やがて、遠慮するように足音が部屋に入って来る。
「無口な人だね」
まだ一度も言葉を発しない足音の主。
これは結構怖いシチュエーションなのではないだろうか……、と場違いなことを考えながら、私はそんなことを考えている自分に心の中で苦笑した。
さっきまでは、死ぬことばかり考えていたのに。
それとも、どうせ死んでしまうのだから、怖いものなんて何もなくなっているのかもしれない。
「……こんな所にいたの?」
そのとき、|廊下《ろうか 》の方から別の人の声が投げかけられた。
足音が、慌てるように振り返る。
「探したのよ。もうすぐ順番だから、戻ってらっしゃい」
少し年配の、女の人の声だった。
「ごめんなさいね。娘が迷惑をかけて……」
その女の人が、申し訳なさそうに言葉を続ける。
それは、私に対しての言葉。
「大丈夫です……。まだ、何もされていませんから……。それに、一言も喋《しゃべ》っていませんし」
いつの間にかいなくなってしまった娘を捜しに来た母親……。
そんな様子だったし、多分その想像は間違っていないような気がした。
好奇心|旺盛《おうせい》な小さな女の子の姿と、その娘を心配する優しそうなお母さんの姿。
何も映さないはずのスクリーンに、そんな風景が浮かび上がっていた。
「ごめんなさいね、気分を悪くされたんじゃないですか?」
「そんなことないですよ」
「この子ね……、実は喋《しゃべ》ることができないんです」
「……え?」
母親の言葉に、思わず問い返す。
「生まれつき、言葉を話すことができないんです。この子は……」
「……」
母親のその言葉に、私は何も返すことができなかった。
「さぁ、そろそろ順番だから、戻りましょうね」
その言葉のあとに、何か紙の擦れるような音がした。
もしかしたら、筆談をしているのかもしれない。
「困ったわね……。もう少しだけ、ここにいたいみたい……」
「私は構いませんよ。誰もいませんから」
「でも……」
「それに、せっかく知り合えたのに、全然お話していないですから」
私の言葉に、母親がしばらく考え込んでいるようだった。
「そうね。この子もあなたのこと気に入ったみたいだし。もう少しだけ、お願いしてもいいかしら?」
「はい」
「あ、でも……。この子、風邪をひいてるから、うつると悪いわ」
「大丈夫です。私も……風邪で入院してるんですから……」
「そうなの……?」
「はい……」
やがて、もう一度紙の擦れる音。
女の子が、自分の言葉を伝える為に、一生懸命文字を走らせている。
闇の中に、そんな光景があった。
「……分かったわ。じゃあ、あとで迎えに来るからね」
母親はそれで納得したのか、もう一度私の方を向く。
「それでは、申し訳ないですけど、もう少しこの子の遊び相手になってもらえますか?」
私は頷《うなず》く。
「お願いします」
最後にそれだけを言い残して、母親は病室を後にした。
あとに残ったのは、私と女の子の二人だけ。
「何して遊ぼうか……? えっと、あ、そういえば、まだ名前きいてなかったね」
すぐさま、画用紙をめくるような音が病室に響く。
自分の名前を書いているようだった。
「……ごめんね。私、本当は目が見えないんだ……」
だから、書いてもらっても分からないんだよ……。
その時、私の手に何かが触れる感触があった。
柔らかくて小さな、それは女の子の手のひらだった。
そして、私の手のひらを指先でなぞるような仕草を見せる。
「くすぐったいよ……」
手のひらに書いた、それは文字のようだった。
これは……。
「み……?」
少女の指が止まる。
そして、今度は別の文字を書く。
「これは……お、かな?」
答えた瞬間、少女が私の手を握る。
「みお、ちゃん?」
今度は、握った手を上下に振る。まるで、喜んでいるみたいだった。
「こんにちは、みおちゃん。私は、川名みさきだよ」
自己紹介が終わって、私たちはたくさんの話をした。
一文字一文字、ゆっくりと言葉を刻みながら。
色々なことが分かった。
みおちゃんが、私よりふたつ下だということ。
風邪をひいて、学校を休んでいるということ。
そして、いつも一冊のスケッチブックを大切に持っているということも……。
やがて、みおちゃんの母親が迎えに来て、みおちゃんは私に何かを手渡した。
それは、一枚の画用紙だった。
端が歪んでいたので、もしかするとスケッチブックを一枚だけちぎったのかもしれない。
「これは……?」
何かが書かれていることは間違いないと思う。
だけど、私にはそれが何なのか知る術《すべ》がなかった。
『プレゼントなの』
最後にそう言い残して、みおちゃんは病室を後にした。
§
病室に、静寂が戻っていた。
少し冷え込んだ空気が、夜の訪れを告げている。
「……」
私は、ベッドに体を起こしたままの姿勢で、ついさっき知り合ったばかりの少女から貰った画用紙を、ただじっと見つめていた。
帰る前に、みおちゃんは何かを一生懸命書いていたようだった。
だけど、私には分からない。
画用紙に書かれていることも、そして、私がこの先どうなってしまうのかも。
私は、どんな選択肢を選ぶんだろう……。
どんな結果を求めているんだろう……。
闇の中で生きること。
笑顔を忘れて生きること。
「……生きること」
それは、一番辛い選択のような気がした。
私は、弱い人間だから。
だから……。
コンコン……。
思考を中断させる、ノックの音。
そして、扉が開く。
「ただいま、みさき」
「お母さん……?」
「ごめんね、遅くなって」
コートを脱ぎながら、お母さんが入って来る。
「外は、もうすっかり冬ね」
「……雪、降ってる?」
「今はまだ降ってないけど、もしかしたら降るかもしれないわね」
「……そっか」
「みさき、寒くない? 寒かったら、エアコン強くするけど」
「ううん、私は大丈夫……。でも、お母さんが寒かったら、強くしてもいいよ」
「だったら、少し強くするわね」
病室を揺らしていたエアコンの振動が、|微《かす》かにその強さを増す。
天井から、暖かな風が降り注ぐ。
「お母さん……。私ね、お友達ができたんだよ」
「お友達?」
「うん。さっきまでその子と遊んでたんだ」
「そう……」
「それでね、その子にこれを貰ったんだけど……。何が書いてあるのかな?」
ずっと持っていた画用紙を、お母さんに手渡す。
紙の擦れる音がして、画用紙が私の手を離れる。
「これは……」
しばらくして、お母さんが言葉を続ける。
「似顔絵よ。みさき、あなたの」
「私の……似顔絵……」
「クレヨンで一生懸命描いているわね。上手に描けてるわよ」
「そう……」
それでも、私はその似顔絵を見ることはできない。
あの女の子が、どんなに一生懸命描いてくれた物だとしても、どんなに心がこもっているプレゼントだとしても、私にはその心が見えない。
「そんな顔しないで、みさき」
「……」
私はベッドで体を起こしたまま、唇を噛むように下を向く。もう、自分がどんな表情をしているのかさえ、私には分からない。
渇いてた唇が切れて、口の中に鉄の味が広がる。
悲しいのか、悔しいのかさえ分からない。
自分のことが、一番分からない……。
「みさき」
お母さんの声が、すぐ近くに聞こえる。
お母さんの暖かな手が、私の手に重なる。
「ほら、画用紙を触ってみて」
「……」
お母さんの手に導かれるように、私の指が画用紙に触れる。
「お母さん……?」
意図が分からなくて、闇の中でお母さんの顔を見上げる。
「ゆっくり、指の先で画用紙をなぞってみて」
「……指で……」
言われるままに、そっと画用紙に触れる。
「あ……」
「分かるでしょ?」
クレヨンで描かれた線が、|微《かす》かなでこぼこを形作っていた。
指先に伝わる、小さな感触。
「そこは、あなたの鼻よ」
「私の鼻……」
指の先を伝わって、三角の鼻が確かにそこにはあった。
「私の鼻……三角じゃないもん……」
「本人より美人かも」
「お母さん、ひどい……」
私の指が、画用紙に描かれた絵を読みとっていく。
口があって、鼻があって、目があって……。
そこには、確かに私の顔があった。
私には見ることはできないけど、でも、確かに存在する風景。
「お母さん……」
「なに?」
「画用紙の中の私……どんな表情してる……?」
画用紙から指を離して、お母さんの顔を見つめる。
「笑ってるわね」
「笑ってる……?」
「ええ。楽しそうに、笑ってるわ」
「そっ……か……」
ずっと|我慢《が まん》していた感情がこみ上げて来る。
「私……笑ってるんだ……」
もう、笑えないと思ってたのに……。
笑うことなんて、できないと思ってたのに……。
「私……まだ、笑うことができるんだ……」
絶望という闇の中に、小さな小さな光を見つけることができるんだ……。
「笑っても……いいんだ……」
悲しいわけでもないのに、瞳の奥から暖かい雫が溢れて来る……。
溢れた雫が、|頬《ほお》を伝って流れ落ちる……。
「みさき……」
「まだ、涙も流せるんだ……私……」
受け取った画用紙を、ぎゅっと胸元で抱きしめて、私は鳴咽を続けた。
いつまでも、いつまでも……。
「私……」
私はまだ、私が分からないから……。
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風の姿を知っていますか?
風の香りを知っていますか?
満開の桜で満たされた、風の風景を知っていますか?
思い出の中にある、春という季節を覚えていますか?
春の訪れを、待ち続けたことがありますか?
幕間 [柚木]
「あー。では、今日はここまで」
チャイムの音で時間を確認して、担任の先生が教科書を閉じる。
その声に、教室内が五十分ぶりの喧噪に包まれる。
早速、という感じで席を立った数人の生徒が、一斉に教室を出ていく。
他にも、お弁当の包みを持った女の子が、グループになって教室をあとにしていた。
あたしは、窓際の席に座って、そんなどこにでもある昼休みの風景を眺めていた。
「あれ? 柚木《ゆずき 》さんはお昼食べないの?」
他の生徒にまじって教室を出ていこうとしていた端佳《みずか 》さんが、ひとり机に座ったままのあたしの姿を見つけて、声をかける。
その手には、ハンカチで包まれたお弁当箱と、いつものように家から持ってきたという牛乳のパックがあった。
一度その牛乳について訊いたことがあった。
わざわざ家から持って来るのは、|銘《めい》柄《がら》に対するこだわりらしい。
「うん。あたしは自分の学校に戻る途中で食べるから」
「そうなんだ、一緒に食べると思ったのに」
「そうなんだ……じゃないです」
「あ。茜」
あたしたちのやりとりを聞いていた幼なじみが、同じようにピンクのハンカチで包まれたお弁当箱を持って現れる。
「……詩子、学校は大丈夫なんですか?」
「あたしひとりいなくても、学校は問題ないよ」
「……心配してるのは、詩子のことです」
「あたしは、大丈夫」
「……それなら、いいですけど」
納得したのかどうかは分からないけど、茜はそれだけを言い残して自分の席に戻ってしまった。
「里村さん、三年になってから、元気になったよね」
そんな後ろ姿を見送って、端佳さんがぽつりと|呟《つぶや》く。
それは、あたしも少し感じていた。三年になってから、茜は変わった。
でも、それは元気になったとは少し違うような気がしていた。
どちらかというと、何かが吹っ切れたように、あたしは思えた。
「全て……忘れることにしました……」
いつか、そう言って微笑んでいたことがあった。
「それが、あの人の望んでいることのような気がしたから……」
あんな、茜の表情を見たのは初めてだった……。
「私にできるかどうかは、分からないですけど……」
あんな辛そうな笑顔は、初めてだった……。
「きっと、柚木さんのおかげだね」
「あたしは何もしてないよ……。時々遊びに来てるだけ」
「幼なじみの柚木さんが、自分のことを心配して訪ねて来てくれるだけで嬉しいんだよ。きっと」
本当に、そうなのかな……。
あたしには、他に理由があるように思えてならなかった。
そう考えるとき、いつも誰かの後ろ姿を見たような気がするのだった。
それは、よく知っている人のような、全く知らない人のような……。
そんなとらえどころのない影が、記憶の片隅をよぎるのだった。
「ねぇ、端佳さん」
あたしは、一度訊ねたことがある。
「誰か、転校とかしなかった?」
茜と端佳さん、それに七瀬《ななせ 》さんたちクラスメートが、三年になっても全員一緒のクラスになったとき……。
三年になって初めて遊びに行った教室で、あたしはふと違和感を覚えた。
誰かが、いないような気がした。
「七瀬さんのこと?」
「そうじゃなくて、この学校から誰かが転校していかなかったかな、って思って」
「うん、ひとりいたよ。二年生の時の話なんだけど、二学期の終わりくらいに、どこか寒いところに引っ越して行った男の子が……。あ、でもその時のことだったら、知らないよね。柚木さんが遊びに来る前の話だから」
「男の子? 名前は?」
あたしは、端佳さんにその人の名前を聞いた。だけど、全く知らない名前だった。
そのことに関しては、それっきりだった。
「……ところで、みんな|廊下《ろうか 》で待ってるみたいだけど、いいの?」
「あ」
あたしの言葉に、端佳さんが慌てて振り向く。
|廊下《ろうか 》では、七瀬さんたちが恨めしそうにこっちを見ていた。
「ごめんね、柚木さん。わたし、行かないと」
「うん。あたしは大丈夫だから」
「それじゃあね、柚木さん。また遊びに来てね……って言ったら、やっぱりダメなのかな?」
「でも、言われなくても遊びに来るよ。きっと」
「うん、そうだね」
「それに、あと一ヶ月もしたら夏休みだから、そのときはクラスのみんなでどこかに遊びに行こうよ」
「あ。それいいね」
端佳さんが、子供のように声を弾ませる。
「泊まりがけとかだと、楽しそうだね」
「だったら、あたしの家の別荘に遊びに来てよ」
「別荘……?」
端佳さんが、意外な言葉を聞いたかのように反芻する。
「そんな大したものじゃないけどね。でも、知らないところを借りるよりは、気兼ねなく遊べると思うよ」
「もしかして……。柚木さんって、お|嬢様《じょうさま》……?」
「そう見えるかな?」
「見えないけど……」
「だったら、違うんだよ」
「うーん……」
端佳さんは、困ったように曖昧に返事をした。
「夏休み、待ってるからね」
「……うん、これからみんなで話してみるね。あ、それじゃあ、本当にこれで」
そう言い残して、|廊下《ろうか 》で待ってるクラスメートに手を振る。
そして慌てて教室を出ていく端佳さんの後ろ姿を見送ってから、腕時計で時間を確認した。
すっかり話し込んでしまって、昼休みも半ばにさしかかっていた。
「あたしも、帰ろっかな……」
誰に言うでもなく|呟《つぶや》いて、あたしは席を立った。
「ごめんね、南君。席、使わせてもらって」
今日は夏風邪で休んでいるという、この机の本当の持ち主にお礼を言ってから、あたしは|廊下《ろうか 》に出た。
幼なじみの姿は、いつの間にか教室から消えていた。
§
昇降口で靴を履き替えて、強くなる一方の日差しに目を細めながら、開け放しの扉から外に出る。
今は、こんなにいい天気だけど、あと少しで|憂鬱《ゆううつ》な梅雨《つゆ》の季節になってしまう。
どちらかというと正反対なところのあるあたしと茜だけど、雨が嫌いであることは一緒だった。
今のうちに青空を満喫《まんきつ》するように、あたしは大きく背伸びしながら、広い空を仰ぎ見た。
校舎の窓が太陽の光を反射して、まるで鏡張りのビルのようだった。
「あれ……?」
そんな校舎のずっと上。
青空に張られた網のようにも見える、屋上のフェンスの向こう側。
そこに、人影があった。
逆光で良くは分からないけど、服装はここの学校の制服ではなかった。私服のようにも見える。
あたしよりもずっと長い髪を押さえながら、風の中で何かを見つめている。
そしてあたしは、その姿から目を離せなくなっていた。
「……」
教室を出るときに見た時計を、もう一度確認する。
もう、急いでも五時間目の授業には間に合わないかもしれない。
「これだけ遅刻したら、一緒かな……」
あたしは、日差しを手のひらで|遮《さえぎ》りながら、もう一度校舎の中に戻った。
そして、不思議そうにあたしの姿を振り返る生徒の横を抜けて、階段を上って行った。
§
『立入禁止』
屋上に通じる扉には、そんなありきたりな言葉が書かれている看板があった。
「不法侵入も立入禁止も、一緒だよね……」
重たそうな鉄の扉に手をかけて、ゆっくりとノブを回した。
そこは、空の世界だった。
一面の青が、手を伸ばせば届きそうな場所にある。
地上よりずっと強い風が、雲と一緒に空の中を舞っていた。
そして、その先に、その人の姿はあった。
さっきまで見ていた姿と全く同じ姿勢で、空の青さを望んでいる。
白っぽいワンピース姿で、思った通りの長い髪を風に揺らしていた。
「あの……」
一瞬|躊躇《ちゅうちょ》したあと、あたしはその後ろ姿に声をかけた。
すると、その声が届いたのか、屋上の女性が静かに振り返る。
「こんにちは、かな?」
そして、にこっと笑顔で、|微《かす》かに首を傾げる仕草。
「こんにちは」
あたしは、つられるように挨拶《あいさつ》を返していた。
「ごめんね、勝手に屋上に入って。今からお弁当かな?」
あたしのことを、この学校の生徒だと勘違いしているようだった。
「あたし、この学校の生徒じゃないんです」
さすがに、不法侵入しているとは言えなかった。
「そうなんだ。だったら、私と同じだね」
穏やかに応じながら、言葉を続ける。
「だから、私がここにいることは、先生には内緒だよ」
冗談交じりの言葉に、表情を弛《ゆる》める。
それは、最初に感じた|雰囲気《ふんい き 》とは明らかに違う表情だった。
「それで、あなたはどうして屋上に来たのかな?」
そのままの笑顔で、まるでずっと友達だったかのように、屈託なく問いかける。
「帰ろうとしたら、屋上に人影が見えたから……」
あたしは、正直に答えた。
「大丈夫だよ。飛び降りたりしないから」
「そうじゃなくて……」
「?」
要領を得ないあたしの言葉に、首を傾げる。
「あたしに、茜っていう幼なじみがいるんです」
「うん」
「その幼なじみに、似ていたんです」
「私が?」
「それで気になって、授業をさぼって来ちゃったんです」
「そんなに似てるのかな……?」
「外見は、全然似てないですけど……」
自分が、何を言っているのか分からないけど……。
「何というか、|雰囲気《ふんい き 》が似ていたんです……」
茜も、この人も、大切な何かを背負っているような気がした。
大切な何かを背負って、生きているような、そんな気がした。
「その子、美人かな?」
予想していなかった質問。
思わず、答えてしまう。
「じゃあ、それでだね」
笑うように、言葉を|紡《つむ》ぐ。
「あ。冗談だからね」
やっぱり、最初の印象とは随分《ずいぶん》違う。
「自己紹介がまだだったね。私は、川名みさき。あなたは?」
「あたしは、柚木詩子……」
言いかけた言葉が、ふと蘇った思い出に遮られる。
かわな……みさき……。
「あの、もしかして……」
その問いかけに、川名さんも表情を変える。
「小学校の時、料理クラブだった川名さんですか?」
「ということは、あの詩子ちゃん?」
お互いしばらく顔を見合わせてから、どちらからともなく笑みをこぼした。
「全然気づかなかったです」
小学校の時に入っていたクラブの、一年上の先輩。
「それは、お互い様だよ」
あたしが最後に川名さんに会ったのは、もう七年くらい前になるのかな……。
とにかく、信じられないくらいよく食べる先輩がいた。
それが、一番最初の印象だった。
確か、一緒の班になってカレーを作ったとき、平気な顔で十杯のカレーを完食していたという、今でも信じられない思い出がある。
茜に言っても、信じてもらえなかったけど……。
それ以来、同じ班になることが多くて、いつの間にかクラブの中ではよく話をする間柄になっていた。
でも、ある日を境に、川名さんはクラブに来なくなった。
川名さんが突然入院したという|噂《うわさ》を聞いたのは、その直後だった。
心配で、何度か川名さんの家に電話をしたけど、ずっと留守電のままだった。
「詩子ちゃん、覚えてる? 私が入院したときのこと」
「あの時はびっくりしましたよ……。ずっと学校を休んでるみたいだし、同じクラスの深山さんに訊いても、入院しているとしか教えてくれなかったですし」
「……うん、ごめんね。心配かけちゃったよね」
「確か、風邪だったんですよね?」
「……ちょっと、こじらせちゃったんだよ」
そう言って、ごほごほと咳のまねをする。今そんなことをしても、仕方ないと思うけど……。
「あの時は、電話ありがとう。嬉しかったよ」
そう。
確か、一度だけ電話が繋がったことがあった。
その日に退院したのだと、川名さんは言っていた。
「電話の内容、覚えてる?」
「えっと……」
確か、ドラマの話だったような気はするけど、具体的には思い出せない。
でも、他愛ない会話だったと思う。
「私はね、全部覚えているよ。その時の詩子ちゃんの言葉、全部」
「そうですか……?」
川名さんの言葉に、首をひねる。
そんな大した話はしなかったと思うけど……。
「だって、本当に嬉しかったんだよ。私のことを心配してくれた、詩子ちゃんの言葉」
「あんまり、分からないですけど……」
「うん。分からなくてもいいよ。でもね、私は今までに出会うことのできた、全ての人に感謝してるんだ」
空を見るように一度上を向いて、そして言葉を続ける。
「本当に偶然の出会いばかりだったけど、そのどれかひとつでも欠けていたら、私は強く生きられなかったかもしれない……。そう考えると、感謝の言葉は当然だよ。だから、ちょっと変なこと言ってるかもしれないけど、大目に見てくれると嬉しいよ」
一気に言葉を繋げてから、七年前と何も変わらない笑顔を覗かせる。
川名さんの言葉の意味は、あたしにはまだ分からなかったけど、でも、この人が言うと、不思議と言葉に重みがあった。
性格も全然違うけど、そんなところは、本当に茜に似てるかもしれない……。
「今日は、詩子ちゃんに会えて良かったよ」
小学校の頃の話題でひとしきり盛り上がったあと、川名さんはそう言い残して屋上から去って行った。
「本当は別の人を待ってたんだけど、今日は詩子ちゃんに会えたから、これで帰るよ。そんなに欲張ったら、ダメだからね」
ひとり屋上に残されて、あたしは何気なくフェンスに体を預けた。
そして、あたしはふと疑問に思う。
屋上で顔を合わせた時、他校の制服を着ていたはずなのに、どうして川名さんはあたしをこの学校の生徒だと勘違いしたんだろう……。
あたしは、さっきまで川名さんが見ていた風景を知りたくて、しばらくそのままで屋上に|佇《たたず》んでいた。
[#改ページ]
笑顔の意味を、知っていますか?
背中を押してくれた人の温もりを、覚えていますか?
生き続けている理由を、考えたことがありますか?
勇気を貰った言葉を、覚えていますか?
大切な人が、いますか?
Z [深山]
雲が流れていた。
赤い空に、もっと赤い雲がぷかぷかと浮かんでいる。
規則正しく。
同じゴールに向かって。
ゆっくりと、ゆっくりと。
「雪ちゃん、大きくなったら何になるの?」
小さな女の子が立っている。
雲のように揺れている。
「内緒」
わたしが立っている。
雲のように揺れている。
「教えてよ、雪ちゃん」
小さな女の子が赤いほっぺたを膨らませて、お母さんにおもちゃをせがむように、わたしの服を引っ張る。
「秘密」
でも、本当は……。
大きくなった時のことなんて、考えてもいなかった。
でも、それを正直に言うことが恥ずかしいような気がして……。
「みさきはおしゃべりだから、秘密」
「雪ちゃんのけち」
「それだったら、みさきも教えてよ」
「……そ、それはダメだよ」
小さな女の子が、慌てて手を振る。
その手は、本当に小さくて……。
「それなら、わたしが教えたら、みさきも教えてくれる?」
「……えーっと」
「指切りできる?」
差し出したわたしの手も小さくて……。
「……うん、分かったよ。約束する」
「本当に本当?」
「うん。本当に本当」
「本当に本当に本当?」
「うん。本当に本当に本当だよ」
「あのね……」
「うん」
「わたしはね……」
雲が流れている。
どこまでも、どこまでも……。
ずっと遠くまで……。
「女優さんになりたいの」
小さなわたしは、そんな言葉を口にする。
その場で適当についた、嘘だった。
「わ。雪ちゃん、かっこいい」
でも、そんな嘘に、小さな女の子はまるで自分のことのように、|無邪気《む じゃき 》にはしゃいでいる。
少し、胸が痛んだ。
「……それで、みさきは?」
「え?」
「えじゃなくて、みさきは将来、何になりたいの?」
「……えーっと」
恥ずかしそうに、ゆっくりと後ろに下がる。
「ごめん、やっぱり内緒!」
そして、走っていく。
小さかった少女の姿が、もっと小さくなっていく……。
「みさきの嘘つき! 指切りしたのに!」
「まだ指切りしてないもん!」
女の子の姿が、遠くに見える。
風に流された雲のように、遠くで形を変えている。
それは、見覚えのある形。
大切な幼なじみの姿。
わたしがよく知っている、みさきの笑顔。
「雪ちゃん……」
恥ずかしそうに、みさきが顔を上げる。
いつの間にか、たくさんの時間がふたりの間を通り過ぎていた。
もう、少女の手は小さくはなかった。
わたしの手も、同じだった。
それは、夕焼けの商店街。
あの日の、記憶。
忘れられない、悲しい思い出。
「笑わない……?」
真剣な瞳……。
「笑わないよ」
「うん、約束だよ……」
真っ直ぐにわたしを見た、|綺麗《き れい》な瞳……。
「私ね、お話を書くのが好きなんだよ……」
「お話って……漫画とか?」
「ううん。絵は下手だから、お話だけ」
みさきの、真剣な言葉が辛かった……。
「知らなかった……」
ずっと知らなかった、みさきの夢……。
だけど……。
「恥ずかしかったから、黙ってたんだよ……」
本当に恥ずかしそうに、夕焼けの中でも分かるくらい、顔を赤くする。
「このことを話したの、雪ちゃんだけだからね。絶対に、みんなには内緒だよ」
口元に、人差し指を当てる仕草。
「うん、分かった。約束ね」
みさきの夢。
だけど、わたしは知っている。
その日常の先に待ちかまえている、悲しい結末を。
みさきの夢は、もう……。
だって、みさきの目は……。
「また、明日だよ」
そこで、夢は途切れた。
§
それが目覚ましの音であることに気づいたのは、体を起こしてから、たっぷりと時間をおいたあとだった。
静寂の空気をかき混ぜるように、規則正しい電子音が、部屋の中を揺らしていた。
薄いカーテン越しに差し込む光は、眩《まぶ》しくて、そして暖かかった。
水色の影が、シーツの上に波のような|不可思議《ふかしぎ》な形を作り出している。
わたしは、しばらくの間ベッドで横になったまま、そんな朝の空気の中でまどろんでいた。
「良かった……いいお天気……」
やがて、意識が夢の中から戻ると同時に、わたしは今日がどんな日であるかを思い出して、ベッドの中でひとり|呟《つぶや》いていた。
「本当に、良かった……」
今日は、卒業式だから……。
暖かくて、いいお天気で……。
六年間通った学校に別れを告げるには、申し分のない日和《ひ よ り》だった。
「……」
だけど……。
何かが、心の奥にわだかまりとして残っている。
心が、晴れない。
わたしは、体を起こしてカーテンを片側だけ開いた。
「こんなに、いいお天気なのに……」
ガラスに反射する紅色の光がきらきらと輝き、時折、空を舞う桜の花びらが、確かな春の存在を主張していた。
それなのに……。
それなのに、わたしの心は窓の外の風景のように澄みわたってはいなかった。
そして、その理由に、わたし自身気づいていた。
「みさき……」
あの事故から、もう数ヶ月が過ぎていた。
残り少なかった小学校での生活は、本当にあっという間に、残された時間を消化して行った。
立ち止まることも、後戻りすることもできないまま、卒業式という六年間で最後の一日を迎えていた。
ひとりの大切なクラスメートを、失ったまま。
「みさき……今日は、来てくれるよね?」
|呟《つぶや》いた言葉は、もう白くはなかった。春は、間違いなくすぐ側にあった。
あの事故から昨日まで、みさきが教室に来ることは一度もなかった。
それどころか、あの子は退院してから全く家の外に出ることがなくなっていた。
闇に対する恐怖。
それが、みさきから外の世界を奪い去った。
あんなに風を感じることの好きだったみさきを、部屋という檻に閉じ込めてしまった闇。
たった一歩さえも、今のみさきには果てしなく長い距離だった。
たった、一歩……。
今は、それだけでいいのに……。
「ねぇ、みさき……」
ガラス越しの風景に、わたしの顔が重なる。
「わたしには、どうすることもできないのかな……」
ずっとみさきの親友だと思っていたわたしは、こんなにも無力だったのかな……。
ガラスに映った、自分の顔。
この数ヶ月で、わたしの髪型はずいぶんと変わった。
でも、みさきの中のわたしは、今でもあの時のわたしのまま。
そして、それは永遠に変わることはない。
一年経っても、十年経っても、みさきの中の風景は、まるで永遠の世界に放り出されたように、凍りついたまま。
「本当に……もう、戻れないのかな……」
悔しくて、悲しくて、寂しくて……。
親友の為に何もできない自分が、どうしようもなく嫌で……。
「あ……」
そんなわたしの思考を中断させたのは、聞き慣れた電子音だった。
まだ目覚ましのベルを止めていなかったことに気づいて、わたしは慌ててベッドから飛び出した。そして、ずっと鳴り続けていた目覚ましのボタンを、ぽんっと右手で叩く。
「ふぅ……」
鳴り止んだ目覚ましを、ため息と共に見つめる。
「何やってるんだろ……わたし……」
ひとりで悩んでるなんて、深山雪見らしくない。
「そろそろ、準備しないと……」
卒業を目前に控えて、感傷的になっている自分にもう一度ため息をついて、わたしはパジャマのボタンに指をかけた。
§
準備を整えて、ゆっくりと朝食をとる。
そして時計を見ると、まだ家を出るには少しの余裕があった。
わたしはふと思い立って、電話を取った。そして、今までに何度も何度もかけてすっかり暗記してしまった番号を押した。
数回の呼び出し音を経て、電話は繋がった。
わたしは、相手に自分の名前を告げて、電話を取り次いでもらう。
しばらくして、遠慮がちな幼なじみの声が、受話器の向こうから聞こえた。
『雪ちゃん……?』
「おはよう、みさき」
『うん。おはよう……』
いつも通りの当たり障りのない会話。心なしか、普段より元気がないようだった。
みさきが退院してから、わたしは毎日のようにみさきに電話をかけていた。
その日の出来事や、クラスメートの話。そして、それとなくみさきを外に連れ出そうと、休みの日に一緒に遊びに行こうと誘ってみたりもした。
最初は曖昧に返事をするだけだったみさきも、最近ではわたしの他愛ない話に笑いながら応じてくれるまでになっていた。
それでも、まだ自分の家から出る決心はできないのだという。
昔のようには、戻れないのだと……。
一歩が、踏み出せないのだと……。
「みさき、今日が卒業式なのは知ってるよね?」
『……うん』
「みんな、待ってるよ」
『……』
「クラスのみんなも、わたしも、みさきのこと待ってるから」
『……うん』
「来て、くれるよね?」
『……』
電話の向こうから、言葉が途切れる。
長い沈黙。そして……。
『……うん、分かったよ』
消え入りそうな小さな声。
「じゃあ、待ってるからね」
『……うん』
話が終わって、受話器を置いて、わたしは家を出た。
せめて、今日という日が、みさきにとってのきっかけになってくれれば……。
そんな思いを、心から願いながら。
§
卒業式。
その場所に、みさきの姿はなかった。
幼なじみの少女は、最後まで卒業式に姿を見せることはなかった。
ひとつだけぽっかりと空いたスチール|椅子《いす》。
一枚だけ残った卒業証書。
やがて、あっけないくらい簡単に卒業式は終わりを告げ、わたしたちは今日、六年間通ってきた学校を、卒業した。
§
「……」
受話器を持ったところで、手が止まる。
何度もかけた電話番号。
だけど……。
がしゃん、と音を立てて受話器を置く。
どうしても、電話をすることができなかった。
みさきの声を聞くことが、怖かった。
どんな話をしていいのか、分からなかった。
「……」
途中まで番号を押しては受話器を置くという動作を、何度も何度も繰り返していた。
やがて……。
プルルルルル……。
着信のランプが赤く点灯して、電話が受信したことを知らせる。
わたしは、そっと受話器をあげた。
「もしもし……?」
しかし、言葉は返って来ない。
「もしかして……みさき?」
電話を取る前から、予感のようなものはあった。
『うん……』
|微《かす》かな音でも消えてしまいそうなくらいの、小さな声。
『……ダメ……だった』
悲痛な声が、受話器の向こうから響く。
『でも、約束したから……。このままだと、ずっと勇気を持てないから……。私、死ぬことはできないから……。生きていくしか、ないから……。』
「……」
みさきにかけてあげられる言葉も思い浮かばないまま、わたしはただ受話器をぎゅっと握りしめていた。
『だから、今から行くね……』
「……え?」
『もう、卒業式は終わっちゃったけど、でも……。私、今から行くから……』
「……みさきっ!」
その言葉を最後に、一方的に電話は途切れた。
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[ [川名]
受話器を置いて、私はゆっくりと玄関に向かった。
壁に片手をついて、|辿《たど》るように歩く。
|微《かす》かな光さえも通さない闇の中で、ほんの一歩先さえも分からないまま、私は玄関で靴を履き替える。
何度も何度も失敗して、その都度泣きたくなって……。
それでも、勇気を持って……。
「もう、中学生なんだから……」
自分を励ますように|呟《つぶや》いて、私は玄関から外に出る。
「……」
開いたドアから、夜の風が流れ込む。
昼間は暖かかった気候も、太陽が沈むと、まるで冬に逆戻りしてしまったかのような錯覚を覚える。
「いつまでも、甘えているわけにはいかないから……」
私を支えてくれたたくさんの人。
だけど、ドアに掴まった私の手は、離れることを嫌って、一層強く握りしめる。
怖い。
理屈ではない恐怖の感情が、私を支配する。
何度も、死のうと思った。
絶望の感情に負けて、一番楽な道を選ぼうと思った。
苦しみから、逃げたかった。
だけど、私は今、生きている。
たくさんの人に出会って、たくさんの勇気を貰った。
お母さんに、お父さん。
病院の先生に、看護婦さん。
クラスのみんなに、担任の先生。
偶然病室で出会った、女の子。
私のことを心配して、電話をかけてくれた同じクラブの女の子。
そして、いつも側で頼りない私を支えてくれた、幼なじみ。
私は、一歩を踏み出していた。
たくさんの人に優しく背中を押されて、私は歩く。
何度も足を取られながら、それでも確実に歩を進める。
やがて、柵のような物に手が触れた。
ここは、確か……。
「何やってるのよ、あなたは……」
それは、呆《あき》れたような、怒ったような、そんな声だった。
「卒業式に来なくて、高校に来てどうするのよ……」
そう、ここは私が良く知っている学校の校門。
そして、今、私の目の前にいるのは、かけがえのない大切な幼なじみ……。
「あはは……ごめんね、雪ちゃん。やっぱり、ひとりでこれ以上はまだ無理みたい……」
「本当に……わがままで、子供っぽくて、迷惑ばっかりかけて、人の気持ちも考えなくて……」
「……雪ちゃん、ちょっと言い過ぎだよ」
「何言ってるの、まだ、言い足りないくらいよ……」
雪ちゃんの声が、すぐ近くにあること。
「言いたいこと……いっぱいあったんだから……。もっともっと言いたいこと……あった……のに……」
「雪ちゃん……もしかして、泣いてるの?」
「泣いてなんかないわよ……わたしは……怒ってるんだから……」
そう言った声が、|嗚咽《お え つ》に変わる。
そして、今更のように気づく。
私にとって、雪ちゃんがどれだけ大きな存在であるかということに……。
「みさき……」
鼻をすすりながら、雪ちゃんが言う。
「卒業式は間に合わなかったけど、代わりに入学式、しようか……」
「……入学式?」
「みさき、前に言ったよね? いつか、絶対にこの高校に入学するんだ、って」
私の手を取って、どこかに誘導するように動かす。
指先が、何か冷たい石のようなものに触れた。
「だから、先に入学式をするのよ。わたしたちだけで」
それは、大好きだった学校の名前が彫られたプレート。
「ちょっと早いけど、いいよね?」
「早すぎるよ。まだ、三年もあるよ」
「わがまま言わない。わたしもつき合って入学してあげるんだから、もっと喜びなさい」
「あはは。あんまり嬉しくないよ」
「今度、みさきのご飯に全部らっきょ入れるわ……」
「それだけは嫌っ」
六年間、雪ちゃんと一緒に通い続けた学校の、最後の一日が過ぎていく。
私と雪ちゃんの、笑顔を残して……。
もう、死のうなんて考えない。
私は、今の精一杯で生きていく。
だって……。
もう、入学式をしてしまったんだから。
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新しい季節のはじまりを、知っていますか?
エピローグ [深山]
青い天井までかけ登った太陽が、ゆっくりと下りの階段に足を置いていた。
真上の太陽に少しの間だけ姿を隠していた影法師が、ひょっこりと顔を覗かせて、アスファルトの地面を歩いている。
二月とは思えないくらい、今日は暖かかった。
何より、日差しが心地良い。
それでも風は、まだ今が冬であることを主張して、空に浮かぶ太陽と張り合っているようだった。
だけど、今日の日差しの下では、それさえも心地良い冷たさだった。
切らした材料を商店街で調達して、わたしとみさきは、来た道を逆に|辿《たど》っている。
全く同じ道のはずなのに、行きと帰りでは、目の前に広がる風景が違っていた。
最初に通りかかった時は、まだ準備中だったたい焼きの屋台が、帰りにはもう香ばしいかおりを立ちのぼらせている。
たったそれだけの、些細な違い。
だけど、それも確かな時間の流れだった。
「美味しそうだね」
みさきが、嬉しそうに屋台を振り返る。
「今度、たい焼き買って舞台の応援に行くね」
「だったら、わたしの応援よりも上月さんの応援に行ってあげて」
「澪ちゃん?」
わたしは、演劇部の後輩にあたる小さな部員の姿を思い浮かべていた。
そういえば、最近は演劇部の後輩達にも会っていない。
大きなリボンとスケッチブック。そして、満面の笑顔が印象的な、小柄な女の子にも……。
「澪ちゃんだったら、今でも時々会ってるよ」
同じくらいの笑顔で、みさきが微笑む。
「そっか……」
忙しさにかまけていたのは、わたしだけのようだ。
「みさき、今度一緒に高校の演劇部に差し入れ持って行こっか」
「そうだね。たい焼き、たくさん持って行こうね」
「でも、みさきは食べたらダメだからね」
「うー。どうして?」
「みさきが食べたら、差し入れの意味がないでしょ」
ほとんど、みさきひとりで食べてしまうんだから。
「ちょっと残念……」
悲しそうに俯《うつむ》くみさき。そしてどちらからともなく笑い出す。
大切な幼なじみと過ごすその時間を祝福するように、空はどこまでも広くて……。
ただひたすらに青くて……。
「雪ちゃん?」
そして、それを最初に見つけたのは、みさきだった。
「どうしたの、みさき?」
もぞもぞと鼻を動かしながら、みさきが困ったようにわたしの顔を見上げる。
「鼻に、何かとまってる……」
両手に買い物袋を持ったみさきが、ふるふると顔を左右に振っていた。
「……みさき、何やってるの?」
呆《あき》れるように|呟《つぶや》く。
「うー、鼻に何かくっついてるんだよ」
頭を振るだけでは飽き足らず、その場でくるくると回っていた。
両手が買い物袋で塞がっているので、それがみさきにできる最善策らしかった。
「分かったわよ、取ってあげるから……」
「早く、早く」
「だから、じっとしなさい」
本当に、この子といるとため息が途切れることがない。
だけどそんな気持ちとは裏腹に、自然と笑みがこぼれる。
「大体、どうしてホワイトチョコを買いに出ただけのはずなのに、両手が塞がるくらい豪快な荷物を持ってるのよ」
「大根が安かったんだよ……」
「いくら安くても、それだけ大量に買ったら意味ないでしょ」
「ホワイトチョコも大根も、どっちも白いし……」
「だから?」
「それだけ……」
「はぁ……」
「ごめん、雪ちゃん……」
「謝るくらいだったら、最初から言わない」
「雪ちゃん、大根好き?」
「大嫌い」
「雪ちゃん、ちょっと会わない間に冷たくなったね……」
「みさきは、しばらく会わなかったけど何も変わってないわね」
「それって、誉め言葉かな?」
「微妙なところね」
そして、また顔を見合わせて笑う。
「大体、そんなに大量の大根、どうやって食べるの?」
「色々あるよ。かつらむきとか」
「できないでしょ。かつらむきなんて」
「私はできるよ。だって、小学校の時にクラブで習ったもん」
「どうして、かつらむきできる人が、チョコレートを作れないの……ってそれ以前に、どうして何度も習ったはずの湯煎を覚えてないの、みさきは」
「うーん、やっぱり、洋風と和風の違いじゃないかな?」
「だったら、らっきょも食べなさい」
「それは、ちょっと……」
真剣に困っているその姿がおかしくて、わたしはまた笑った。
「大体、かつらむきは料理じゃないでしょ。その後、どうやって食べるの」
「うーん……そこまでは考えてなかったよ……」
神妙な表情で、考え込む。
そんなみさきの鼻の上には、まだ何か白い物がくっついていた。
「ところでみさき、それはもう取らなくていいの?」
「あ……」
完全に忘れていたらしい。
ひとつのことに集中すると、他が頭に入って来ないのも昔のままだった。
「似合ってるから、そのまま鼻につけててもいいかもしれないわね」
「嫌だよ〜。早く取って欲しいよ〜」
「はいはい。分かったから、じっとしなさい」
みさきの鼻にくっついているもの。
それは、白っぽい小さな欠片《か け ら》。
「花びらみたいね」
「もしかして、桜かな?」
「いくら今日が暖かいっていっても、桜の時期はまだ……」
言いかけたところで、白い花びらがふわっと宙に舞う。
それは、暖かな風に運ばれて、高く高く青い空に吸い込まれる。
今はまだ、冬だけど……。
あと少しで、間違いなく本当の春が訪れる。
あんなに長かった冬も、過ぎ去ってしまえば。その存在がまるで幻であったかのように、姿を隠す。
時間の流れに逆らうことなんて、できないのだから。
永遠なんて、ないのだから。
「雪ちゃん、ひとつだけ訊きたいことがあるんだけど、いいかな……?」
飛んで行った花びらを見上げるように、みさきが空を仰ぐ。
「みさきがチョコレートをあげる人のことを教えてくれたら、いいよ」
「雪ちゃんって、思ったより腹黒かったんだね……。今まで知らなかったよ……」
わざとらしく拗《す》ねてみせる。
「冗談よ。……それで、訊きたいことって、なに?」
放っておくといつまでも拗《す》ねているので、先を促す。
「ずっと前から訊きたかったんだけど……」
みさきの瞳が、真っ直ぐにわたしをとらえる。
「雪ちゃんは、どうして女優さんになりたいと思ったの?」
「みさきは、どうしてそんなことを知りたいの?」
予想していなかった突然の質問に、わたしは逆に問い返した。
「女優さんになるのって、大変だよね?」
「そうね……。簡単じゃないわね」
「雪ちゃん、中学校も高校もずっと演劇部で毎日遅くまで頑張ってたし、大学に入ってからは、本格的に舞台の勉強をしてるんだよね?」
「そうだけど……」
「私、雪ちゃんがどうしてそんなに一生懸命なのか、知りたいんだよ……。どうして、そんな大変な思いをしてまで、ずっと頑張ってこられたのか……」
真剣な表情で、わたしの顔をじっと見つめる。
そして、最後にこうつけ加えた。
「私も、頑張りたいことがあるから」
その言葉に、わたしは笑顔を返す。
「……最初はね、わたしも本当に女優になりたかったわけじゃないのよ」
「え? でも、雪ちゃん確か小学校で新しいクラスになった時、自己紹介のアンケートに、将来なりたい職業は、女優だって……」
「あれを書いたのは、みさきでしょ。あんなに、内緒って約束したのに」
「え……? あ……」
みさきが、声を詰まらせる。
どうやら、思い出したらしい。
「わたしは空欄で出したのに、みさきが勝手に人の用紙に女優って書いたんじゃない」
「ごめん、雪ちゃん……」
「そのことで、わたしはずっとクラスのみんなにからかわれたんだからね」
「悪気はなかったんだよ……。ただ、雪ちゃんだったら似合うかな……って」
きっかけは、みさきの他愛ないいたずらだった。
だから、いたずらはいたずらのまま、嘘は嘘のまま終わるはずだった。
だけど……。
「それでね、クラスのみんなにからかわれた時、わたし思ったの。だったら、本当に女優を目指してやろうって。そして、あの時わたしのことをからかった人たちを、見返してやろうって……」
そう心に決めたのは、中学校に入学した時だった。
「信じれば、諦めなければ、どんなことでも叶うんだって、言ってあげたかったから……」
あの時、わたしのことをからかった、クラスのみんなに……。
何より、希望を失いかけていた、ひとりの少女に……。
それが、わたしにできる精一杯だから。
「今はもちろん、本心から女優になりたいって思ってるわよ」
本当に、険しい道だけど……。
まだ、歩き始めたばかりだけど……。
「上月さんも頑張ってるんだから、わたしも負けないようにしないとね」
あの子も、あの子の精一杯で困難な道を歩いているんだから。
そして、みさきも……。
「私は、雪ちゃんのこと応援してるよ」
「本当に?」
「うん。だって……」
みさきが、一度言葉を区切る。
「いつか、私が書いたお話を、雪ちゃんに演じてもらうんだから……」
それは、あの日みさきから聞いた言葉。
まだ、失っていなかったんだ……。あの時の、言葉を。
「それが、私の夢なんだから……」
照れたような表情のまま、みさきが言葉を続ける。
「私も頑張って、いつか絶対に叶えるからね」
高校を卒業して、もうすぐ一年になる。
今、わたしたちふたりは、それぞれの道に立っている。
季節が移り変わるようにゆっくりと、お互いが助け合いながら歩いていく。
「だったら、みさきが書いた話、見せてよ」
「ま、また今度ね」
慌てて走り出す。
「いつだったらいいの、みさき?」
「あと十年後っ」
「延びてるよ、昔よりも」
「そんなことよりも、早く帰って、かつらむき作らないとっ」
「バレンタインチョコでしょ」
「そうとも言うよっ」
みさきの笑顔を見ていると、ふと思うことがある。
もしかすると、励まされているのはわたしの方かもしれないな……と。
何にしても……。
「早く行こうよっ、雪ちゃん」
幼なじみとの腐れ縁は、まだしばらく続きそうだった。
[#改ページ]
エピローグ [川名]
コトコトコト……。
蒸気で持ち上がった鍋の蓋が、規則正しく音をたてる。
遠くからは、笑い声のような喧噪が聞こえる。
暖かな空気に、桜の甘い香り。
もう、本当に春だね……。
「みさきっ!、鍋!」
「え?」
雪ちゃんの言葉に、慌てて手を伸ばす。
……じゅっ。
「……熱いよ〜」
「それは熱いでしょうね……。煮立ってる鍋の横を触ったら……」
水道の水で指を冷やす私に、雪ちゃんが呆《あき》れたような声を投げかける。
「みさき、やっぱり向いてないわ……」
「それは……私も薄々気づいてるけど……」
昔から、器用な方ではなかったけど……。
「でも、せめてカレーライスくらいは自分で作れるようになりたいんだよ」
「だったら、休まない」
雪ちゃんの厳しい声に追い立てられるように、もう一度鍋の様子を窺《うかが》う。
「料理は、スピードが勝負なんだからね」
「仕方ないよ。慣れてないんだから……」
まだひりひりする指先をふーふー吹きながら、とりあえず反論する。
「厳しくって言ったのは、みさきだからね」
「う……。そうだけど……」
まるで、演劇部の部長を務めていた頃の雪ちゃんのようだった。
「えっと、こんな時って、火を弱めた方がいいんだよね?」
助けを求めるように、雪ちゃんの方を向く。
「……もう消えてるけどね」
「え? それって、もしかすると大変なんじゃないかな……」
「そう思うんだったら、早くガスを止める」
「う、うん」
……じゅっ。
「う……。また、鍋だった……」
「やっぱり、向いてないわ」
しみじみとした口調で、雪ちゃんが言う。
水道の音を聞きながら、私は、ちょっと泣きそうだった。
「料理を覚えるのは諦めて、素直にチョコレート作りくらいにとどめておいたら?」
「でも……」
「チョコレートは、作れるようになったんでしょ?」
「うん。もう完璧」
「指を冷やしながら言っても、全然説得力ないけどね」
雪ちゃんが、冷静に突っ込みを入れる。
「本当だよ〜。チョコレートだったら、幅広く作れるようになったんだから」
「例えば?」
「ココア味から、コーヒー風味まで」
「全然幅広くないじゃない……。そんなの、溶かしたチョコレートにココアの素とインスタントのコーヒーを入れるだけでしょ?」
隠し味に蜂蜜だって入れるよ。
言っても、馬鹿にされるだけだけど……。
「大切なのは、バリエーションより手作りってところなんだよ」
「それで、手作りチョコレートは、渡せたの?」
「まだ……」
まだ……、あの人は帰って来ない。
だけど、その瞬間はもうすぐのような気がしていた。
その間に、チョコレートも上手に作れるようになった。
ひとりで、旅行にだって行けるようになった。
「ほんと、薄情だよね。こんなに健気《けなげ 》でか弱い女の子を、ひとり残して」
それでも、行きたい場所はまだまだたくさん残っているんだよ。
あの時よりも、もっともっと増えたんだよ。
「……外、|賑《にぎ》やかね」
雪ちゃんが、窓の外から聞こえる喧噪に耳を傾けていた。
「そうだね、学校で何かやってるのかな?」
「窓、開けてみよっか……」
そう言って、雪ちゃんが台所の小窓を開ける。
窓の外から、ブラスバンドの演奏が聞こえる。
それは、明日の予行演習の風景だった。
一年に一度の、大切な日。
「そっか、明日はもう卒業式ね」
雪ちゃんが、一年前を懐《なつ》かしむように|呟《つぶや》く。
「もう、一年経つんだね……」
あの、突然の雨の日から……。
「この一年、みさきはどうだった?」
「私は……」
幸せは、ほんの一瞬で、
悲しみの雨に打たれて、
思い出が遠くにあって、
手が届かないくらい、遠くにあって、
それでも、あの人の言葉を思い出して、
信じることができて、
今でも信じることができて、
待ち続けることができて、
ずっと、あの人のことを思い続けて、
温もりを、言葉を、ずっと抱き続けて……。
「私は、嫌な一年だったかな」
だから……。
「でも、その割には嬉しそうよ、みさき」
今でも、笑顔でいることができる。
あの人を、笑顔で迎えることができる。
窓の外からは、今年卒業する生徒たちの、|賑《にぎ》やかな声が聞こえる。
あの人の大切な日、もうすぐ。
誰も送り出してくれないかもしれないけど、私は違うから。
今は、間違いなく春。
桜の舞う季節、再び。
暖かな場所で繰り返される、日常という日溜まりの中で……。
私は、待ち続ける。
「だから、信じるよ。あなたの言葉、全部」
絶望の中にある希望を知っていますか?
「ダメ……だよ……」
「挨拶《あいさつ》は……ちゃんと……大きな声で……」
私は……。
「お帰りなさい……」
今、その希望の中に立っています。
[#改ページ]
あとがき
初めまして、もしくはお久しぶりです。
久弥直樹です。
夏のコピー誌以来、二度目の同人誌にして初のオフセット本『ONE's MEMORY』をお届けすることが、ようやくできました。
本当は夏コミで発行する予定だったのですが、大方の予想通り、冬までずれ込んでしまいました……(汗)
遅れてしまった分、充実した内容……になっているかどうかは分かりませんが、本書を手に取って頂けたことに、心からお礼を申し上げます。
さて、本書は一九九八年の五月にタクティクスより発売された『ONE 〜輝く季節へ〜』を題材としたサイドストーリーになっています。
残念ながら、ゲームを未プレイの方が本書を読んでも、おそらく、あまり楽しめないのでは……、と思います。
原作を知らない人でも楽しめる……ように書くのが理想なのかもしれませんが、こればっかりは力不足で申し訳ありません。
もし、本書を手に取って頂いた方で、『ONE 〜輝く季節へ〜』という作品は未プレイだけど、何となく興味がある……という方は、是非一度プレイして見てください。
もちろん、プレステ版でもOKです(笑)
本書を書くきっかけについて、少し書こうと思うのですが、その為にはまず『川名みさき』というキャラクターを作ったきっかけについて書かなければなりません。
当時、タクティクス内で次回は恋愛物を作ろうという動きがありました。
その理由は、その時作っていたゲームがシリアスで暗めな話だったので、次回作は明るく恋愛物で行こう、という極めて単純な理由だったのですが、ゲーム作りの動機なんて実際はこんなものだったりします(笑)
そして、当時タクティクスでシナリオを担当していた僕は三人のヒロインの設定と脚本を担当することになり、そして、最初に決定したヒロインが、川名みさきでした。(ちなみに、二番目が里村茜で、三番目が上月澪です)
つまり、みさき先輩は、僕がひとりで担当したキャラクターとしては、一番最初のヒロインになります。
当然、それだけ思い入れも、発売前の不安もありました。(幸い、好評を頂けたようで、ほっとしていました)
そして何より、書いていて楽しかったキャラクターでもありました。(僕は、思い入れでシナリオを書く人間なので、書いていて楽しいかどうかは結構重要な要素だったりします)
そんな理由もあって、その当時から、みさき先輩のサイドストーリーをどこかで発表したいと考えてはいました。
しかし、残念ながらその機会はなく、今回、同人誌という形で日の目を見ることになったわけです。
長々と書きましたが、つまりは自分自身が「書いてみたかった」という単純な理由に他ならないわけですが、それは同人の世界では極当たり前のことで、そう考えると、こういう形で本書を発表できたのは良かったのでは、とも思います。
ただ、テンションが上がりきらないまま書き終わってしまった感もあり、個人的にはちょっと消化不良気味だったりします。
その点も含めて、今回は(今回も?)色々と勉強になりました。この経験は、是非、春頃に別の形で生かしたいと考えています。
『ONE 〜輝く季節へ〜』の発表から一年半。そして次回作『Kanon』の発売からも半年が経ちました。色々と書きたい話もありますので、本業の合間を縫って、これから少しずつ発表していくつもりです。
次回は、『ONE』と『Kanon』の各ヒロインを主役にしての短編集を計画しています。早ければ来年の二月くらいには発表できるかも、と思うのですが、きっと誰も信用してないですよね……(汗)
最後になりましたが、忙しい中、カバーイラストを描いてくださいました、スタジオ夢魂の邪琅明さん。本当にありがとうございました。下巻、期待しています(謎)
度重なる締め切り破りにも暖かく(?)対応してくださいました、ポプルス印刷様。本当にご迷惑をおかけしました。次回こそ、小説原稿最下位の汚名を返上したいと思います(謎)
そして、ここまでおつき合いくださいましたみなさん、本当にありがとうございました。
先にあとがきを読んだみなさん。期待しないで本編も読んでみてください。
では、次回。
ONE、Kanon短編集『SEVEN PIECE』でお会いできると幸いです。
[#地付き]一九九九年十二月七日
[#地付き]久弥直樹