MOON.anecdote
久弥直樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
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(例)言葉を|呟《つぶや》いた
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(例)[#改ページ]
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一章 『赤い月』だけを、ずっと
二章 ガラス一枚隔てた先に、今もまだ満月が
三章 ピクルス、好きですか?
四章 明日は、今日よりまた少しだけ笑顔に
五章 いつから変わったんでしょうね
六章 闇の中で、ただ穏やかに
あとがき
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[#地付き]――― 一章
『赤い月』が浮かんでいた。
そこは、コンクリートで囲まれた、窓さえない四角い部屋。見上げた先にあるものは、人が生活するために最低限の光のみを供給する、味気ない白熱灯のみ。
しかし、そこには確かに『月』が存在していた。
そして、一部始終をじっと見つめていた。
母親の両手が、娘の首に延びていた。娘の表情が驚愕のそれに変わり、同時に、鈍い音が室内に響く。
灰色の部屋が、赤く濁る。
母親がずるりと、娘の体にすがるように崩れ落ちる。
娘の簡素な服が、ペンキを塗ったように、鮮やかに染まる。
その時、母親の口が最後の言葉を紡いだのを、しかし娘は聞くことができなかった。
別の『声』が娘の意識に割り込んでいた。
それは、たしかに『声』だった。
しかし、部屋の中は、母親と娘以外には誰もいない。
ただ、『月』が見ているだけ。
「おめでとう、鹿沼《か ぬま》葉子《ようこ 》」
『声』は、娘の名前を呼んだ。
この施設に来てから、誰にも呼ばれたことのない名前。母親にすら、呼ばれることのなかった名前。呼んで欲しかった、名前。
娘の足下には、今もなお、額から赤い液体を流し続ける母親の姿があった。
母親は、もう動かない。
その側には、小さな置き時計がひとつ。
娘が用意した、母親へのプレゼント。ついさっきまで、娘の手の中にあったもの。母親の喜ぶ顔だけが見たくて、何時間もかけて選んだ、誕生日のプレゼント。
盤面には蜘蛛の巣のようにヒビが入り、秒針がカタカタと不規則に揺れている。
流れる赤が、割れたプラスチックの中に浸食する。
赤く染まる、壊れてしまった置き時計。
『声』が、言葉を続ける。
鹿沼葉子は、『月』を見ていた。
そこにある、『赤い月』だけを、ずっと、ずっと……。
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[#地付き]――― 二章
目が覚めたとき、それがいつもの夢であることに、鹿沼葉子は息を吐いた。
そして、今がまだ真夜中と呼ばれる時間であることに、再びため息をついた。
白を基調とした部屋には、窓も、そしてもちろんカーテンもある。少しずつ必要な家具も揃ってきて、小さいながら機能的にもデザイン的にも、一人暮らしとしては悪くない部屋だった。ただ、残念ながら葉子自身のセンスで選んだ訳ではないことが、本人としては少し不満だったが、自分にそういったセンスがないことを自覚していたので、口には出さなかった。
ここは、外の世界。
窓も、何もない施設の中とは違う。伸びていく髪でしか時間の流れを知ることのできないような、あの場所とは違う。
もう、『赤い月』は存在しない。
凍りついた時間は、あの日、ひとりの少女によって解放された。
だけど――
左手に鈍い痛みを覚え、無意識に視線を落とす。
普段は、手袋をつけている左手。
今は、何もつけていないその手の甲には、まだはっきりと赤い刻印が浮かんでいる。
『A−9』
それが、かつての自分の名前。自分を識別する番号。
おそらく、一生背負うことになるその刻印は、今も葉子の心を蝕む。
シーツを掴んだ手は、まだその時のことを記憶している。
あの時の、感触を。
時計の重み。
我を忘れて、思わず振り上げた手。
固い感触。
何かにぶつかり、痺れる両手。
そして、殻が潰れるような音と、崩れ落ちる母親の姿。
生ぬるい液体が、左手の刻印を覆うように流れる。
葉子の体にすがりつくように崩れる母親の顔が、すぐ近くにあった。
表情は、見えない。
だけど、その時確かに、母親の口が何か言葉を|呟《つぶや》いたような気がした。しかし、弱くか細い言葉は、別の強い言葉にかき消される。
『月』がそこにあった。
まるで、たった今、母親の血液を吸い取ったかのように、真っ赤に染まっていた。
それからは、葉子にとって『月』の言葉が全てになった。
なにも考える必要がなかった。
今のこと、明日のこと、明後日《あ さ っ て》のこと。
全てが、四角いコンクリートに閉じこめられていた。
最後の、母親の言葉さえも。
四角い部屋から解放された今もなお、母親の言葉が思い出せない。
確かに、耳に届いた|筈《はず》の言葉。葉子は、それが知りたかった。例えそれが、母親の意思に応えることのできなかった娘に対する、恨みの言葉であっても――。
もう、『赤い月』は存在しない。
だけど、半分だけ開かれたカーテンのその向こう側。
ガラス一枚隔てた先に、今もまだ満月が浮かんでいた。
葉子には、それが母親の血で赤く染まっているように思えた。
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[#地付き]――― 三章
「晴香《はるか 》さん、ピクルス好きですか?」
学校帰りの学生で賑わう、ハンバーカーショップの二階席。その窓際の席に、制服姿の少女がふたり、向かい合って座っていた。そんな、とくに珍しくもない光景の中で、あえて特筆するとすれば、ふたりの制服が違う学校のものということくらいかもしれない。
「は?」
晴香と呼ばれた方の少女は、口に入れたポテトをそのままに、眉をしかめていた。
呆《あき》れるような視線の先では、頭の上に大きなリボンをちょこんとのせた少女が、ハンバーガーの包みを全部開けて、中身を器用に分解していた。
「由依《ゆい》、あんた何やってるの?」
「見て分かりませんか?」
「残念ながら、ね」
リボンの少女――由依の|不可思議《ふかしぎ》な行動には慣れているのか、晴香はすぐに興味なさげに次のポテトを口に運んだ。
「わたし、何を隠そうピクルス嫌いなんですよ!」
「だったら、他のにすれば良かったのに……」
「ハンバーガーは、好きなんです」
そう言うと、呆《あき》れる晴香を余所に分解したハンバーガーの中からピクルスだけを取り除いていく。
その手が、一瞬止まる。
晴香の手が、由依の頭をはたいていた。
「いたっ! 晴香さん、何をするんですかぁ!」
「それはこっちの|台詞《せ り ふ》よ」
「お裾分けで、トッピングしてあげただけですよぉ」
「あんたは、ホットケーキにピクルスが合うとでも?」
「うん」
「うん、じゃないわよ……」
深くため息をつきながら、ひとつ年下の少女の表情を窺《うかが》う。
そこには、いつもの通りの、にこにこと屈託無く笑う少女の姿があった。
由依と最初に出会った時も、そうだった。
彼女と、あの場所で、ひとり場違いな笑顔を振りまいていた。
だけど――。
「ほら、ピクルスくらい、自分で食べなさいよ」
「苦くて酸っぱいからやですよぉ」
「好き嫌い言ってるから、ちっちゃいままなのよ」
「ちっちゃい言わないでくださいよ〜。それにピクルス食べたって大きくならないです」
「大きくなるわよ。みのさんも言ってた」
「ほんとですか?」
「嘘なんて言わないわよ」
嘘だけど。
心の中で付け加えて、|頬杖《ほおづえ》をつきながら由依のころころ変わる表情を眺める。
由依が、半信半疑のまま、一番小さいピクルスを口に運ぶ。
しばらくもごもごとさせていたが、やがて口を開く。
「……美味しくないです」
拗《す》ねた表情で、晴香を非難するように見つめる由依。
「美味しいとは言ってないじゃない」
「そうですけど、なんとなく騙された気分です」
「ねぇ、由依」
由依には、笑顔で居て欲しいと思う。
「何ですか?」
そして、小さな少女の中には、どんな時でも笑顔で居ることのできる強さがあることを、晴香は知っている。
「もう一切れ、食べてみない?」
「晴香さん、どうしてそういうことを笑顔で言うんですか」
「楽しいから」
「あっ、やっぱりわたしからかわれてる……」
「由依には感謝してるのよ」
「どこが感謝ですか。すぐにぽかぽか殴るじゃないですか」
「ほんとだって」
「晴香さんのうそつき〜。わたしだって、もう騙されませんよ〜」
由依には感謝している。
由依の笑顔があったから。
だから、私も乗り越えられる。
「ほんとだって」
本当に……。
「晴香さん、嫌い〜」
「じゃ、私も由依のこと嫌い」
「う……」
じたばたと子供っぽく手を振る由依の左手。
そして、子供をなだめるように、由依の頭に優しく置かれた晴香の左手。
今は隠されているふたりの手の甲には、刻印がある。
あの日、同じ時に刻まれた赤い刻印。
その刻印を見るたびに、晴香は思い出す。
施設でのこと。
そして、施設を抜け出したあの日のことを――。
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[#地付き]――― 四章
喧騒《けんそう》が遠くにあった。
施設の中で、何か大変なことが起こっている、それだけは理解できた。
晴香は、走っていた。
施設の外は、まったく知らない場所だった。
山道のような場所。陽は落ち、灯《あか》りは何もない。
ぼろぼろの服を引きずりながら、それ以上にぼろぼろの心を抱えて、巳間《みま》晴香《はるか 》は走っていた。
唯一、道を照らす光は、闇に浮かんだ満月だけ。
晴香は後ろを振り向くことなく、一心不乱に体を前に進めていた。とうに限界を越えた体で、まるで背中に見える満月から逃れるように。
このまま、意識を失うまで走り続けるつもりだった。
そして、二度と目を覚まさなければいいと思っていた。
目を覚ましたとき、そこにはもう辛い記憶しか残されていない。
明日も、明後日《あ さ っ て》も、夜が明けるたびに絶望する自分の心を支える自信が、晴香にはなかった。
「晴香……さん?」
呼び止める声が聞こえたのは、意識が混濁の中に埋もれようとした矢先のことだった。
「ゆ……い?」
「そうですよ、名倉由依です……って、晴香さん、ぼろぼろじゃないですか!」
「あなただって……」
「わたしは、見た目ほどじゃないですよ。意外と元気です」
「……そう」
どさっ、という音と共に、晴香の体が崩れ落ちる。
剥き出しの地面に肌が突き刺さり、所々に擦り傷ができていた。
その痛みが、晴香の意識を辛うじてつなぎ止めていた。
それと、もうひとつ、
「晴香さんっ! 晴香さんっ!」
小柄な少女の必死の声が、晴香の途切れかけた心を揺らしていた。
「……耳元で大声出さないで」
「晴香さんっ! よかった、返事してくれました」
「……由依、無事だったのね」
「ぴんぴんしてますよ」
そう言って、にっこりと笑った顔は、由依自身の憔悴《しょうすい》の表情を隠し切れてはいなかった。
「……なに言ってるの、泥だらけじゃない」
「あ。これは……」
思い出したように、泥だらけになっている自分の姿を見てから、別の場所に視線を送る。
山道から少し離れた場所。
そこに、まるで小さな山のように、土が積まれていた。
その一番てっぺんには、大きめの木の枝が刺さっていた。
「……これ、由依が作ったの?」
「そうですよ。頑張りましたよ」
「頑張ったのは分かったけど……これ、なに?」
「ちょこのお墓です」
「ちょこ?」
「犬の名前ですよ。死んじゃいましたけど」
「最近?」
「違いますよ。もう、ずっとずっと昔のことです。わたしが今よりもっともっとちっちゃい頃です」
「どうして……?」
「お墓、作って無かったんです。わたしが、我が儘いったから……」
由依の表情が、満月に照らされて、闇に浮かび上がる。
どこか泣き笑いのような、それでいて何かを吹っ切ったような表情の由依が、そこに立っていた。
「わたし、馬鹿だったから、ちょこは生き返ると思ってたんです。死んでも、お姉ちゃんがなんとかしてくれるって、そう思ってたんです」
「…………」
「でも、生き返ることなんて絶対にないんですよね」
「……そうね。死んだら、それっきりだから」
だから、悲しみを背負って今日を、明日を過ごすことが、晴香には耐えられなかった。耐えられるとは、思えなかった。
「だから、わたし決めたんです。今日は、昨日より少しだけ笑顔でいます。明日は、今日よりまた少しだけ笑顔になります。そうすれば、いつかきっと、また昔みたいに笑えるようになりますよね?」
「…………」
「……えっと、そう思いませんか?」
「単純すぎ」
「……う」
「しかも、馬鹿」
「……そ、そこまで言わなくても」
「ついでに、貧乳」
「そんなの関係ないじゃないですかぁ!」
「でも……」
私より、ずっと強い。
「でも、なんですか?」
「何でもないわよ」
「気になるじゃないですか」
「気にしなくていいから」
でも……。
この子と一緒なら、できるかもしれない。
少しずつ、少しずつ。
今日より、明日。明日より、明後日《あ さ っ て》。
心から笑顔になれる日が、来るかもしれない。
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[#地付き]――― 五章
二度目の眠りから覚めたとき、鹿沼葉子の中にはひとつの決心があった。
答えを見つけないといけない。
夢は、記憶の残滓《ざんし 》。
だけど、夢よりも、もっと奥深くにある記憶を手探りで探しださないといけない。思いつく手段は、一つだけだった。
服を着替え、少し短くはしたものの、まだ長い髪を整えて外に出る。
いつもの公園の横を、通り過ぎる。
まだ時間が早いのか、公園には誰の姿もなかった。
いつもなら、この公園で朝の時間を過ごすことが、葉子にとって日課になっていた。
葉子と、そして、もうひとり。
その相手は、いつも葉子が座っているベンチにあとから現れる。
決まって、読みかけの本のページを開いた時に、
「隣、いい?」
少女の声。
「どうぞ」
軽く視線を上げて、|瞼《まぶた》を伏せるように会釈する。
「葉子さん、朝ご飯は食べた?」
「まだですけど」
「それなら、これ一緒に食べようよ。葉子さんの分も買ってきたんだ」
「あんパンですか?」
「うん、ここの美味しいよ。あ、飲み物もあるから」
そう言って、少女が手に持っていた紙袋から、ビニールに入ったままのあんパンと、缶コーヒーをベンチの上に広げる。
「遠慮しないでね」
「……はい」
それは、日常の光景。ふたりで、並んで食事をする。
最初にこの少女と出逢った時も、確か……。
「美味しいでしょ?」
「……分からないです」
葉子が、首を振る。
「あまり、食べたことないですから」
「そういえば、あんパンとかハンバーガーとか、そんなメニュー、一度も出なかったよね」
「そうですね」
「妙に手が込んでたよね。味も、まぁまぁだったかな」
「……分からないです」
「そっか……葉子さん、ずっとだったものね。飽きるよね、さすがに」
「昔……」
「ん?」
葉子が、小さいサイズの缶コーヒーを手に取る。
「この部分、外れましたよね?」
飲み口の部分を、手袋をしたままの手でゆっくりと撫でる。
「言われてみれば……」
「いつから変わったんでしょうね」
他愛ない会話。
その為の時間。
本も、同じページを開いたまま。だから、もってくる本は、いつも同じだった。
そんな時間を過ごせることを、最初は戸惑い、そして今では何よりも大切に思える。
でも、だからこそ……。
「今日のはどうかな? かなりお薦めなんだけど?」
「……美味しいような気がします」
「良かった」
そう言って、笑った少女。
「郁未《いくみ 》さん、いろんなお店知ってますね」
「うん。由依に教えて貰ったんだ」
だからこそ……。
あのときの母の言葉を確かめたかった。
たとえ、どんなに自分の心が傷ついても……。
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[#地付き]――― 六章
何時間歩いたか見当もつかない。
道と呼ぶにはあまりにお粗末な山道を、葉子はひとり歩いていた。
太陽は頭上を通り越し、その姿を山間に隠すのも時間の問題だった。
それまでには、たどり着きたい。
あの場所へ。
もう二度と足を踏み入れることがないと思っていた、あの施設へ。
やがて、その場所は心の|暗澹《あんたん》と共に、葉子の前に姿を現す。窓のない、コンクリートだけで覆われた、四角い建物。時折見えるシャッターは、半開きの状態で固定されていた。
建物に、人の気配はなかった。
葉子は、|躊躇《ちゅうちょ》することなく中に足を踏み入れた。
中は、外より深い闇。
僅《わず》かな光を提供していた|筈《はず》の照明は完全にその機能を停止し、時折点滅する非常灯だけが、葉子の歩みを支えていた。
狭い|廊下《ろうか 》には、異臭が漂っていた。
手探りで進む壁には、所々に亀裂ができていた。
聞こえるのは、葉子自身の足音だけ。
そこに、生き物の気配は、まったく残っていなかった。
あの日、『月』が消滅した日。葉子の凍りついた時間が再び動き始めた日。施設は完全にその機能を停止していた。それから月日が流れて、今、この施設がどうなっているのか、葉子には分からない。だけど、今の葉子にはあの場所が必要だった。
――『MINMES』
この部屋は、そう呼ばれていた。
毎日『MINMES』に入ることが、その時の葉子にとっては、疑問が挟まる余地のない日常であり日課だった。修行という名目の研究対象。それがこの部屋の、そしてこの組織に置ける葉子の立場だった。
もう一度、『MINMES』に行けば。あの機械の中に入れば、答えが見つかるかもしれない。
母親の最後の言葉を聞くことができるかもしれない。
そんな一縷《いちる 》の望みを託して、今、葉子は再び『MINMES』の前に立っている。
葉子の意志の力に反応して、機械が再び動き始める。|微《かす》かな振動。
魔法陣のような造形の機械が、淡い光を発する。
「光が、弱い……」
本来ならば部屋を満たすはずの青い光は、明らかに衰えていた。
それでも葉子は、浮かび上がった魔法陣の中央へと、歩みを進める。
意識が、不意に別の空間に飛ばされたような感覚。何百回と繰り返してきたその感触に、眉一つ動かすことなく、葉子は体を預けた。
母親が立っていた。
引きつった笑みを浮かべて、自分のほうへと歩いてくる。
右手には、固い感触があった。
母親を喜ばせようと思って用意したプレゼント。
母の細い両手が、葉子の首に伸びる。
喉を締め付けられる感触。
あの時の感触。
葉子の、自分の手が、苦しみから逃れるために闇雲《やみくも》に動く。
いったい何が起きたのか、その時の葉子には分からなかった。
ただ、苦しくて、だから逃げるように手を動かした。
その手には、母親へのプレゼントが握られたままだった。
鈍い音と共に、母の腕から力が抜ける。
葉子に倒れ掛かるように、崩れ落ちる。
母親の手が、葉子の体を包み込む。
それはまるで……。
「あ……」
崩れた母親の体が、葉子の体を通り抜ける。
まるで靄でもかかったように、母親の体が、そして全ての景色が消滅していた。
次に気がついたとき、そこはもとの部屋だった。
魔法陣に光はなく、すでに沈黙していた。
『MINMES』は動かない。
「ごめんね……葉子」
不意に、そんな言葉が静寂の中に響く。
それは、母親の声ではなかった。
もっと若い、少女の声。よく知っている声。
「郁未……?」
「そう言いたかったんじゃないかな、お母さん」
天沢郁未が、闇の中に立っていた。
「どうして、ここへ……?」
「葉子さんの考えてることが、何となく分かったから。あの時以来かな」
「それは……」
闇の中で手を伸ばすと、そこに郁未の姿があった。
さっきまでお母さんがいた場所。
「それは……プライバシーの侵害です」
「葉子さん、そんなこと言わな……あ」
郁未の体を抱き締めるように、葉子が手を伸ばす。
郁未も、葉子の体を抱き締める。
あのとき、できなかったこと。
娘も、そして母親も。
聞くことのできなかった、母親の言葉も、多分……。
「不思議ですね……本当にお母さんみたいです」
「こう見えても、母親なんだけど」
「そうでしたね」
施設の中には、もう何も残されていなかった。
ただ、コンクリートの外では、夜空に、鮮やかな満月が浮かんでいた。
闇の中で、ただ穏やかに。
[#改ページ]
あとがき
初めまして、もしくはお久しぶりです。
久弥直樹です。
やってしまいました。『MOON.』本です。
元々、むーんネタはいつか長編でやりたかったのですか、改めてゲームのテキストを読み返してみて、これはどんな話を付け足しても蛇足《だ そく》にしかならないのでは、と思い直し、蛇足ならできるだけ短くシンプルにしよう、ということで今回の形に落ち着きました。
内容は、未プレイの方へのフォローなしという不親切で分かりづらいお話になっています。ただ、極力ネタバレもなしで書いていますので、いつか機会とお暇があれば、プレイしてみてください。
最後になりましたが、偶然昼飯が一緒の店になってしまったばかりに「月ください」と絡まれることになってしまった、Kさん。お忙しい中、本当にありがとうございました。
そして、大変ご迷惑をおかけしてしまいました、緑陽社さま。夜遅くまでありがとうございます(進行形?)
そして、本書を手にとってくださいましたみなさんに心から感謝しつつ、これであとがきをしめたいと思います。
それでは、また別の機会にお会いできれば幸いです。
[#地付き]二〇〇二年某月
[#地付き]久弥直樹
[#地付き]サークル「Cork Board」発行(2002.08.11 初版)