Four Rain ―ONE side story―
久弥直樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)紅葉《も み じ》
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(例)[#改ページ]
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夢の中で降り始めた雨は、日が覚めても止むことはなかった。
濡れたアスファルトを叩く雨粒が、商店街から漏れた明かりを受けて、鏡のように鮮やかな色彩を湛《たた》えていた。
真っ赤な紅葉《も み じ》が、ジグソーパズルのピースのように潤《うるお》った地面を覆う。
秋には少し遅くて、冬にはまだ届かない時間。
今という季節は、この一瞬だけのもの。
それは、一年の中で私が一番好きな季節。
だけど……。
いつの間にか街を覆った雨は、今もなお、大好きだった時間を灰色に染めている。
四つの雨に打たれながら、私は街を歩く。
お気に入りの傘を、斜めに差しながら……。
長く伸びたお下げを、流れる雫《しずく》から庇いながら……。
「…………」
私は、その場所で足を止める。
そこは、かつて空き地と呼ばれた場所。
だけど、その場所はもう残っていない。
私を拒むように、純白の建物がその場所に建っていた。
空の灰色と建物の白があまりにも不釣り合いで、私は瞼《まぶた》の奥から込み上げる感情を押さえるように、地面に視線を落とした。
私の居場所は、もうここにはない。
それは、大嫌いな場所と思い出の場所を同時に失うことだった。
「あいつが、もうここには来るなって……」
そう言っているように、私には思えた。
だけど、聞こえてくるものは、激しく地面を打つ雨音だけ。
「分かりました……」
自分の声が、震えているのが分かった。
「もう、ここには来ません」
雨音に応えるように、私は呟く。それが、あいつの望んでいたこと。
私に押しつけた、勝手なあいつの願い。
だから、私はもうこの場所には来ない。
でも……。
「もう、あの頃みたいに笑える自信は、ないです……」
雨の音が、私の心を覆い尽くしていた。
いつまでも、いつまでも……。
あいつの誕生日だった、あの日の冷たい雨のように。
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その日も、朝から雨が落ちていた。
季節はゆっくりと冬に傾いて、空から舞い落ちる雫も、その冷たさを増していた。
私は、その日もひとりぼっちだった。
目的もなく、商店街に並んだショーケースを眺めながら、流れる時間に身を任せていた。
ポケベルの呼び出し音が鳴ったのは、雨が少しだけ小降りになった夕方頃だった。
ポケットから小さな機械を取り出して、液晶のディスプレイに表示された番号を確認する。
でも、本当は確認するまでもなかった。
私の番号を知っている人は、まだひとりしかいない。
思った通り、雨粒の浮かんだ液晶画面に表示されていたのは、嫌がる私にポケベルを持たせた張本人の、携帯電話の番号だった。
私はため息をひとつついてから、電話ボックスを探した。
幸い、それはすぐに見つかった。
ピンク色の傘を畳んで、慌てて雨を避けるように箱の中に体を滑り込ませる。
暗記している携帯の番号を押してから、受話器を耳に宛てた。
「茜《あかね》っ!」
ガラスの向こう側から聞こえる雨音と、受話器の向こう側から聞こえる断続的な呼び出し音がしばらく続いたあと、私は不意に名前を呼ばれた。
「……はい」
私は、受話器に向かって、こくんと頷《うなず》く。でも、もし電話をかけたのが私以外だったら、どうしたんだろう……? と、余計なことを考えてしまう。
「ね、茜。やっぱりポケベルだけじゃ不便だよ」
いつもと何も変わらない口調で、電話の相手が言葉を続ける。
「……そんなことないです」
「いい機会だから、やっぱり携帯に買い換えたら?」
「……どんな機会なんですか?
「そんな細かいこと気にしたらダメよ」
「……詩子《しいこ 》は細かいことを気にしなさ過ぎます」
「それが良いところなのよ」
都合良く完結して、受話器の向こうから屈託のない笑い声が聞こえてきた。
柚木《ゆずき 》詩子《しいこ 》。
私の幼なじみで、大切な親友……。
「茜、今から商店街の喫茶店に来て欲しいのよ」
「……嫌です」
「最近の茜、ちょっと冷たいよ」
責めている口調ではなかった。だけど、悲しそうだった。
私は、どうして人との繋がりを避けているのだろう……。
私は、何を恐れているのだろう……。
もう、失うものなんて、何もないのに……。
「来てくれないと、中学の修学旅行で撮った、茜の恥ずかしい写真を学校で配っちゃうからね」
「……絶対に嫌です」
「だったら、来てくれるよね?」
「…………」
数秒の間をおいて、私はゆっくりと頷いた。
詩子が私のことを本気で心配してくれていることを、私は痛いほど知っていたから……。
待ち合わせの喫茶店は、すぐに見つかった。
木目調《もくめちょう》のドアを開けると、真上からドアベルの音が降る。
ドアを閉めると、雨音が有線の音楽に取って代わる。
傘を、鍵つきの傘立てにしまってから、泥にまみれた自分の足下に気づく。
こんなになるまで、私は何をやってるんだろう……。
答えの出ない問いかけ。
その筈えはあまりにも明確《めいかく》過ぎて、私はずっと知らない振りを続けるしかなかった。
ガラスに、私の、里村《さとむら》茜《あかね》の顔が写っている。
まるで、笑い方を忘れてしまったかのような表情で、じっと私の顔を見つめている。
それが、あいつの望んでいる表情とはかけ離れていることを、私は知っている。
だけど、もう、ひとりではどうすることもできない……。
「茜っ! こっちこっち!」
ガラスに写ったテーブルのひとつ。
詩子が、立ち上がって手を振っていた。
わたしは、わざとため息をついてから、無邪気に手を振る親友の元に歩いていった。
泥だらけの靴は、不思議と気にならなかった。
「良かった、来てくれたんだ」
「私は、脅迫されただけです」
詩子の向かいの席に座ろうとして、その場所にさっきまで誰かがいたことに気づく。
「あ、そこは澪《みお》ちゃんの席だから、茜はその隣」
「……上月《こうづき》さん?」
予想していなかった懐かしい名前に、思わず聞き返す。
「そう、上月さん。さっき、偶然一緒になったの。スペシャルゲストってとこかな?」
『ゲストなの』
開いたスケッチブックを、胸元で抱えるように持って、小柄な女の子が詩子の向かいの席に座った。
水色の大きなリボンと、ころころと変わる表情が印象的な、私や詩子よりもひとつ年下の女の子。
それが、上月さんだった。
『こんにちは』
スケッチブックを一枚めくって、ぺこんとお辞儀をする。
「……こんにちは」
上月さんは、言葉を話すことができない。
そして、そんな上月さんと知り合うことになったきっかけも、あいつだった。
「……詩子」
「うん? どうしたの、茜?」
コーラに口をつけながら、詩子が首を傾《かし》げる。
「用件を教えてください」
「うーんと」
詩子が、自分の口元に指を宛《あ》てる。
『うーんと』
横を見ると、上月さんも同じような仕草《し ぐさ》で考え込んでいた。
「特に用事なんてないよ。ただ、茜と一緒にケーキを食べたかっただけ」
『そうなの』
「…………」
「ダメかな?」
詩子が、困ったように上目遣《うわめ づか》いで呟く。
「詩子、嘘ついてます」
「そんなことないよ。あたしは、茜と一緒にいると楽しいよ」
詩子が、ストローでくるくるとコーラをかき混ぜる。
上月さんは、フロートをすくい取ろうとして、何度も失敗していた。そして、そんな姿が微笑《ほ ほ え》ましかった。
「茜が、大切なこと忘れるくらい悩んでる理由は分からないけど、あたしも、澪ちゃんも、茜の親友のつもりだからね」
「……私は、静かな方が好きです」
「それこそ嘘だよ」
真っ直ぐに、幼なじみが私を見る。
詩子には、今の私の表情はどう写っているんだろう。
「茜」
幼なじみが、私の顔を覗き込む。
「やっぱり、茜は笑ってる時の方が可愛いよ」
「……え?」
無邪気に屈託なく笑うことができる詩子を、羨《うらや》ましいと思うことがある。
私は、笑えないから。
だけど……。
「……思い出しました」
ガラスに写った、私の顔。
「誕生日パーティーだったんですね?」
詩子と上月さんが、にっこりと頷く。
「ダメだよ、茜。自分の誕生日忘れたら。そのために、今日は澪ちゃんも来てくれたんだから。それと、あとで特製ケーキが出るからね」
『とくせいなの』
ずっと、忘れていた。
そんな些細《さ さい》なこと、考える余裕すら私にはなかった。
自分の誕生日。私は、自分のことが一番分からなかった。
「お誕生日おめでとう、茜」
『おめでとうなの』
笑い方なんて、忘れたと思ってた。
笑うことなんて、二度とないと思っていた。
でも、本当は……。
笑い方を忘れようとしていただけ。
二度と笑うことはないって、思いこもうとしていただけ。
「……ありがとう」
感謝の言葉が、笑顔と共にあった。
そして、忘れかけていた、あいつの最後の言葉……。
『分かった、それなら君の誕生日に何かプレゼントする』
あいつ、約束したから……。
「ふたりに、お願いがあります」
「うん?」
「今日が私の誕生日だということ、他の人には内緒にしてください」
「え? どうして?」
詩子と上月さんが、同時に首を傾げる。
「私の誕生日に、プレゼントを買ってくれるって約束した人がいるんです」
今は、側《そば》にはいないけど……。
「今日は、もうダメかもしれないけど……」
いつか、絶対に帰ってきてくれるから。
「もう、一年も待ちたくないですから」
だから、あいつが戻ってきたら……。
「その時は、今日が誕生日ですって嘘をついて、すぐにプレゼントを買ってもらいます」
その時が、ずっと待ち続けていた、私の誕生日になる。
[#地付き]本文 久弥直樹《ひさや なおき 》
[#地付き]表紙/挿し絵 樋上《ひのうえ》いたる
[#地付き]サークル「Cork Board」発行
[#地付き]同人誌「Four Rain」所収(1999.08.15)
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※炊者注:本テキストは初版をOCRして目視校正したものです。「Four Rain」は後に短編集「SEVEN PIECE」(同人誌)に再録され、大幅に加筆修正されました。その経緯については「SEVEN PIECE」の後書きを参照して下さい。