丸谷才一
食通知つたかぶり
目 次
序 石川淳
神戸の街で和漢洋食
長崎になほ存す幕末の味
信濃にはソバとサクラと
ヨコハマ 朝がゆ ホテルの洋食
岡山に西国一の鮨やあり
岐阜では鮎はオカズである
八十翁の京料理
伊賀と伊勢とは牛肉の国
利根の川風ウナギの匂ひ
九谷づくしで加賀料理
由緒正しい食ひ倒れ
神君以来の天ぷらの味
四国遍路はウドンで終る
裏日本随一のフランス料理
雪見としやれて長浜の鴨
春の築地の焼鳥丼
あ と が き
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隨園食譜、先天須知の條にいへるには、およそ物の性よろしからざれば、易牙これを烹るとも味なしとなん。うまいもの屋の格式は河岸の仕込にて定まること、なほ三味線の音〆にて藝者のお里の知れるがごとし。まづ材料のよしあしは料理に於て第一の吟味なり。ただし、四季の名物そろへばとて、よく味をたしなむ君子なくてはいかにせむ。先天須知のことわりはまた客に於て雅俗をわかつ所以なるべし。雅客もとより詩腸あり。豈酒腸なからんや。詩酒相俟つて、物はじめて味を生ず。昔、江戸の柏木如亭、嗜詩嗜味の二癖をほしいままに、四方を周游して至るところの佳※[#「肴+殳」、unicode6bbd]に飽き、吟詠玉を吐いて詩本草一卷を編む。もつて詩中の時珍と稱されたり。かかるためしを今の世に、ごぞんじ丸谷才一君、飲は韵事とこころえて、筆を箸に千里をめぐる。この行じつに珍羞のためにして、食へば法樂、飲めば妙境、邪念をまじへざることは深く風流の旨に叶へり。敵討にはあらねども、ねらふは一筋、杉葉立てたる門を目あてに、いそがぬ旅の氣散じは、北山の雪に醉ひ、南海の月にうそぶき、三ケ津の花に浮かれて、高樓の大盤より横町の屋臺におよび、撫斬の魚も鳥も粹を吸つて骨までしやぶらざるはなし。當節のはやりもの、文化とやらは唱へずとも、神髓凝つて腹中にあり、こころざし高く、手は速く、本懷とげし顛末は道中の卷物に記されて、すなはちこれ味の名所記、上鹽梅の筆の綾は雅俗ともによろこぶ文場の奇觀なり。書中の侯鯖、風にかをつて清福を江湖に撒きちらせば、見たか聞いたか、鷹の爪の、かくせど能はあらはれて、この一卷の知つたかぶり、酒にも歌にも缺かせぬものとて、枕上によく車上によく俎上によく、三宜の徳はまのあたり、看官いづれも舌鼓うつて、往くも還るも書肆の店頭、讀むが果報に逢坂の、せきとめかぬる賣行は、四辻の評判とはなりけらし。
乙卯仲秋
[#地付き]夷齋學人
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神戸の街で和漢洋食
神戸の人は愛郷心が強い。わたしはかねがねさう思つてゐたのだが、数年前、野坂昭如と、戦前戦後の日本風俗の移り変りをのんびりと語りあつてゐるときのやりとりで、この感想はほとんど信念と化した。
野坂は例のドスのきいた声で、しみじみと昔をなつかしみながら言つた。戦前は、町内にきつと一人か二人、白痴がゐて、ふらふらと歩きまはり、子供たちにからかはれて、それでも陽気にはしやいだり、無意味に微笑を浮べたりしてゐたものだ。近頃はさういふ存在をちつとも見かけない。一体、あの白痴といふ連中はどこへ行つてしまつたのだらう?
その口調があまり抒情的だつたせいだらう、わたしはつひつりこまれ、大きくうなづいて、
「さうだつた。ゐたねえ、薄馬鹿とか、軽い気ちがひとかで、至つて無害なのが」
と、これもすこぶる感傷的につぶやいたのだが、このとき野坂はたちまち不機嫌になつて言つたのである。
「困るなあ。ぼくの育つたのは神戸ですよ。山形県鶴岡(これはわたしの生れた町)なんてところといつしよにされちやあ」
つまり白痴さへ自慢の種なのだ。もつて愛郷心の激烈さを知るに足るであらう。これが神戸生れの神戸育ち、つまり生粋の神戸の人となると、どんなにすごいことになるか、考へただけでも恐しいくらゐである。
もつとも、あれはたしかに自慢するにふさはしい街で、わたしは昔から気に入つてゐた。山と海にはさまれた地形がいいし、開港場だけあつて萬事につけてハイカラだし、それでゐて一つの街といふ個性とまとまりを身につけてゐるし、美人が多い。つまり文句のつけやうがない結構な街で、老後は一つここで暮さうかといふ気になるくらゐである。さうさう、食ひもののことを言ひ落したが、これがまたすばらしい。和漢洋どれを取つても、うまい店に不自由しない、まるで「世界料理大系」のやうな街である。最初はどこに出かけようといふ相談のとき、神戸に一決したのはひとへにそのせいで、何も野坂昭如の愛郷心に義理を立てたわけではない。
第一、日本人はどこから来たかといふのがまだ判らないし、将来も判る見込みがなささうだから、まして日本料理がどこから来たなんて、大変な難問だが、わたしはまへまへからこのことが気になつて仕方がなかつた。これは、何も今の日本料理がそつくりどこかから到来したといふ意味ではなくて、日本料理の基本ないし原型がどの系統に属するかといふ文明論的疑問である。
だが、いろいろ本を漁つてみても、歴史家はもつぱら、耶馬台国はどこにあつたか、騎馬民族はやつて来たか来なかつたかといふやうな詮索《せんさく》に忙しくて、日本料理の原型なんかちつとも論じてゐない。わたしはやむを得ず独力で研究しようと決心し、あるいは干物と納豆と豆腐の味噌汁で朝食をしたためながら、あるいは深夜、酔つぱらつて帰つたとき、半分残つてゐる塩ジヤケでお茶漬を食べながら、まづ視覚的に点検し、次いで味覚的に分析して、いろいろと考察に耽つたのだが、収穫と言へるほどのことは何も頭に浮ばなかつた。
ところが今度、陳舜臣氏御推奨の、別館牡丹園といふ広東料理の店で食事をしてゐて、とつぜん疑問が氷解、とまではゆかないにしても、かなりのところまで判つたやうな気がしたのだから、多年の努力といふのはいつかは酬はれるものだ。つまりわたしは、ほとんど直感的に、日本料理の原型は広東料理にほかならないと考へたのである。
このへんのところは、あらゆる学問的発見の萌芽と同じやうに、霊感とでも言ふべきものだから、まだくだくだしく説明する段階ではないし、それに詳しく論証すると有難味が失せる恐れがあるけれど、あの淡泊でおだやかな味はまさしく日本料理と相通ずる。四川料理の辛さもないし、北京料理の油つこさもない。温雅で豊かで静かである。この味つけの本質をなすものが遠い昔、まだ未開野蛮な時代の日本に伝はつて、わが国の味覚の淵源をなしたに相違ないといふ気がするのだ。
と言ふと、別館牡丹園の料理は神戸の市民たちの舌に合せて調理された、つまり日本化された広東料理で、それゆゑ日本料理と共通する感じがあるのではないかと反論されさうだが、同席していただいた陳さんにたしかめたところ、やはり別館牡丹園の味は正真正銘の広東料理ださうである。主人の王熾炳氏は十四歳まで中国にゐた人で、下手な小細工など弄することの決してない、頑固な料理人だといふ。(あとで王さんと話をしたとき、この言葉はまつたく正しいといふ印象を受けた。)とすれば、広東料理の先祖のまた先祖のやうなものが雲煙萬里の彼方から渡来し、日本料理の先祖のまた先祖のやうなものになつたといふわたしの推定も、なかなかうなづけるのではないか。
といふやうな、あやふやみたいでもあるけれど、また高級なやうでもある理論を考察しながら、わたしはしきりに酒杯を重ね(紹興酒である)、料理をつついた。と、繁昌してゐる中華料理屋に特有の、にぎやかで騒々しい雰囲気なのに、頭脳はいよいよ冴えてきて(酒のせいもあるかもしれない)、この学問的発見を裏付けるいろいろなデータが頭に浮んでくる。
それはまづ、エッソ・スタンダード石油から出てゐるPR雑誌≪ENERGY≫の「食事文化」特集号でいつか見た、十五世紀における世界の主作物を示す地図であつた。その分布図では、西から言ふと、マダガスカル島の右半分、インドのボンベイ附近、セイロン島、中国大陸の下半分(台湾、ベトナム、タイ、ビルマを含む)、フィリピン、ボルネオ、スマトラ、そして朝鮮の下半分と日本(北海道を除く)が紺いろに塗られてゐるのだ。これは主作物が米であることを示すもので、この主食といふ点でも、日本料理が広東料理に近いといふわたしの理論は別に支障を生じない。
また、同じ特集号で見たもう一つの分布図――日本と朝鮮と中国の大部分が紫いろに塗りつぶされてゐる地図(これはこの部分がみな醤を使ふことを示す)も思ひ出したが、調味料といふ点でもわたしの理論は大丈夫なやうだし、それに第一、茶碗と箸といふ食事形態もまた日本と中国は共通してゐる。つまり、主食、調味料、食事形態の三つの点で、われわれは広東の食事文化とすこぶる似た文化を持つてゐる上に、何よりも、味覚的に広東菜《コントンツアイ》(と言ふらしい)が趣味嗜好に合ふ。もちろん合はない日本人もゐるかもしれないが、さういふ人はともかく、わたしは非常に気に入つたし、それにわたしは自分のことをごく普通の日本人だと思つてゐるから、結論的には、日本料理の源泉は広東料理といふことになるのだ。
そこでわたしは、相変らず杯を重ねながら、「衣は杭州に存し、食は広州に存し、住は韓州に存する」といふ名言のことを思ひ出し、これだつてわたしの学説(だんだんすごいことになつて来た)の支柱になると考へたのである。といふのは、われわれ日本人は昔から、韓州の景色にうつとりしてきたし、和服の別名が呉服であるくらゐ、杭州つまり呉の国の衣服とは関係が深いのだから、食事の面で似てゐるところがあるのも当然だといふ、すこぶる紆余曲折したやうな、しかし案外、核心に迫つてゐるやうな、理窟であつた。
このへんで具体的な報告に移れば、最初に出たのは蟹肉魚翅といふ、蟹肉入り鱶ひれのスープで、色彩もきれいだし、歯ごたへもいいし、それに何よりも清楚淡泊な味はひが何とも言ひやうがない。わたしが広州の料理に日本料理の原点(と新語を使ふけれど)を発見したのは、このスープを一口すすつたとき、頭のなかに何やらふはりと浮んだ幸福感が最初の手がかりであつたと言つてもいいかもしれない。
それにこの蟹肉魚翅にはまだ話がつづくので、
「鱶のひれがたくさんとれるんですか?」
と訊ねたところ、陳さんはじつにあつさりと、
「いや。みんな輸入ですよ。日本からゆくんぢやないかな」
と答へたのである。これにはびつくりしたが、帰つてからものの本で調べたところ、広州料理の四珍である、鮑魚、海参(ナマコの乾燥品)、魚翅、貝柱はみな日本から輸出されるらしい。とすれば、これらの貴重な原料を求めてやつて来た広東人が買付けのついでに広東料理を日本に伝へたといふ具合に空想することも可能であるが、この説にとつてちよつと都合の悪いことに、たとへば鮑魚が中国に輸出されたのはおよそ江戸中期からであつたらしい。
もちろん料理はスープだけではなくて、たとへば窩焼牛柳が出た。これは判りやすく言へば中国ふうのヒレのステーキで、鍋にきちんと蓋をし、蒸焼きに近い感じで焼いたもの。甘からの味つけがさらりとしてゐて、なかなかよろしい。広東は牛がすくない土地なので今は冷凍肉を使ふから、この料理はぜつたい神戸のほうがうまいはずだというのは、神戸つ子、陳舜臣先生の自信にみちた発言であつたし、わたしもまたきつとさうにちがひないと思つた。
花椒炒鶏といふのも出た。これはサンシヨウをあしらつた鶏料理で、ぴりりとした味が楽しい。
それから豆鼓排骨。豚肉の骨付肋肉の中国納豆煮込み、とメニューは説明してあるけれど、納豆そのままではなくて、納豆をつぶしたものが黒い粒になつてまつはりついてゐる。コリコリした硬さがたいそう快く、この調子でゆくと骨も食べられるのではないか、そして同じやうにうまいのではないかと思つたものの、近頃は歯医者も高くつくから大事を取つてやめにした。
砂鍋豆腐といふ、烏賊、海老、鶏、豆腐、葱の煮込み鍋も出たが、至つて薄味でなかなかいいし、日本の寄せ鍋に似てゐる。それから生菜包肉※[#「山/松」、unicode5d27]。これは粗くひいたひき肉をレタスの葉に包んで食べるもので、温いひき肉料理と冷たいレタスとが口中でまじるあたり、おもしろい効果を作り出す。
しかしこの別館牡丹園で随一の料理は|炒鮮※[#「女+乃」、unicode5976]《チヤウシンナイ》であつた。これはいためた鶏と海老をつぶし、その上に牛乳と卵白のまぜたものをかけ、つぶしたピーナッツをあしらつたもので、揚げたビーフンを敷いた上にのせて供する。従つて、ほとんど白一色の料理で、見た目にもきれいだが、味の上品で風流なことは言ふまでもないし、あつさりしてゐてしかもエネルギーにみちてゐる。高雅で、凜然として、艶麗なること、さながら貴女のやうな趣の一皿。
これはかつて吉田健一氏が神戸に遊んだ際、「文藝春秋」で紹介し、絶賛の辞を呈したもので、そのことはメニューの最初のページに枠入りで記してある。もつとも別館牡丹園といふ同じ名の店はほかにいくつかあるらしいから、元町駅から元町のほうへ行つて出会ふ別館牡丹園にはいらなければならない。
別館牡丹園の料理があまり気に入つたので、その夜わたしは宿に帰つてから、また広東料理のことを考へた。今度は文明論的といふよりもむしろ文学的なことで、といふのは、いつか邱永漢氏の『食は広州に在り』で読んだ、宋の大詩人、蘇東坡のことを思ひ浮べたのである。(この邱氏の本は名著である。戦後の日本で食べもののことを書いた本を三冊選ぶとすれば、これと檀一雄氏の『檀流クッキング』と吉田健一氏の新著『私の食物誌』といふことにならう。)
蘇東坡はなかなかの食通で、東坡肉(これが日本に渡来して豚の角煮になつた)、東坡菜(白菜と豚肉を蒸籠で蒸す)の二つを創作したほどだが、何しろ廉直高邁の士だから何度も流刑に処せられた。その晩年の流刑地の一つに広州があるけれども(とここまでは受売りで、このさきはわたしの推測である)、何しろ彼は四川の生れで辛い料理が口に合ふわけだから、広東料理の淡泊な味には閉口して、そのせいで謫居の憂愁はいよいよ深まつたのではなからうか。彼の詩はほんのすこししか読んだことがないのであまり大きな口はきけないけれど、広東料理がうまいといふやうな詩は見かけなかつたから、つまり傑作をものするほどの感銘は受けなかつたわけだ。しかしこれがもしわたしなら、広州に流されるのは大歓迎だといふやうな、極めて文学的なそして他愛もないことを考へてゐるうちに、わたしは眠りに落ちた。
翌日の晝食は、本当は青辰の穴子ずしにするはずだつた。これは神戸随一であるだけではなく、ただ神戸にしかない絶品を食べさせる店で、午後一時になるとかならず売切れといふし、予約してなければありつけないといふ評判が高い。そこで宿を取るとすぐ電話をかけたのに、どうしても電話が通じないし、電話局に訊ねてみると、その電話は局のほうであづかつてゐると言ふ。狐につままれたやうな思ひでゐたところ、火事を出して休業中で、十月(昭和四十七年)にはまたはじめるといふ噂を耳にした。やむを得ず、魚亭うをじまといふ活魚料理の店へゆく。
大きな生簀《いけす》に海の魚をたくさん泳がせてゐる店で、わたしは魚に対し憐憫の情をもよほすたちだから、魚を選ぶのは人に任せて、蓮の酢づけで一杯やつてゐた。この二杯酢の加減がじつにいいし、蓮の歯ごたへもよろしい。酒は剣菱で、これもまた結構であることは言ふまでもない。
鳴門鯛を一つ買つて料理してもらつたのだが、まづ生けづくりで出て来る。もともと生類に対し情深い性格ゆゑ、かはいさうで仕方がないのだけれど、やむを得ず我慢して食べると、紅葉おろしと葱とポン酢で食べる河豚づくりも、醤油にわさびで食べる普通の刺身も、鯛の皮をさつと湯がいたのもすこぶる美味で、動物愛護の精神などどこかへ行つてしまふ。それから途方もなく大きなお椀に鯛の潮汁《うしほ》が出て(ウドと三つ葉があしらつてある)、おしまひがアラ煮である。これは至つて薄味のアラ煮で酒の肴に向いてゐたが、わたしが酒を飲んでゐるのにぴたりと合せた、板前の才覚にちがひない。殊に目玉のところは舌鼓を打つといふ古風な言ひまはしを使ひたいくらゐの美味で、大海のエネルギーが味に変容して口中に襲ひかかつて来るやうな気がした。その結果わたしは、三人が鯛一尾でこれだけ楽しめるのだから、活魚料理屋といふのはやはりなかなか有意義なものだといふ感想をいだいて、魚亭うをじまを出たのである。
デザートとしては、フロイントリーブといふ洋菓子店(といふか、パン屋といふか)へ行つて、アイスクリームを買ひ、この店は喫茶部がないので、車のなかでそれを食べる。濃厚でしかもさはやかなまことに見事な味だつた。
この日の夕食は|※[#「鹿/(鹿+鹿)」、unicode9ea4]皮《あらがは》である。このビフテキの専門店は東京の田村町にも店を出してゐて、わたしも行つたことがあるし、非常に満足したのだが、いつかそのことを野坂の友達の竹本進氏に話してやんはりとたしなめられた。この神戸の紳士に言はせると、東京の※[#「鹿/(鹿+鹿)」、unicode9ea4]皮をもつて神戸の※[#「鹿/(鹿+鹿)」、unicode9ea4]皮を論じられては困るといふことになるのだ。これは、例の神戸的愛郷心の発露のやうな気もするし、本店と支店とでは違ふのが当り前といふ気もするし、いつか一度、ぜひ本家本元へ行つてみたいと思つてゐた。
東京の店もさうだけれど、神戸の※[#「鹿/(鹿+鹿)」、unicode9ea4]皮はいつそうひつそりと、人目につかない、ささやかな店がまへで、これを逆に言ふと、一流の料理屋といふ矜恃にあふれてゐる。わたしはさんざん道に迷つたあげく、やうやく探し当てて、イギリスふうの渋いつくりの店にはいつた。
店の様子で東京と違ふところは、給仕人の態度が気取つてゐないことで、その気さくな感じがくつろげるし、いかにも上方ふうである。これはお客のほうにしても同様で、わたしが食事のなかばに達したころはいつて来た、男二人の、たぶんアメリカ人のうち、片方は、空いろのワイシャツの腕まくりにギャバジンのズボンといふなりで、裸足《はだし》に雪駄《せつた》をひつかけてゐた。かういふ服装の客が、まして外国人が、田村町の※[#「鹿/(鹿+鹿)」、unicode9ea4]皮で食事してゐる光景はわたしには想像できない。
まづマルティニを頼んで、前菜はスモークト・サーモンにする。これが芳潤で濃密で、すこぶる出来がよく、添へて食べる紫蘇の葉とケッパーがまた申し分ない。ケッパーのほうは言ふまでもなく市販のものを使つてゐるわけだから、ここで褒めるのはをかしいやうに聞えるかもしれないが、つまりその味を引き立てるほどスモークト・サーモンがおいしいといふことである。「鮭をスモークすることは簡単である――理論上は」といふ台詞《せりふ》を読んだことがあるけれど、この名台詞が背後に秘めてゐる実際的な困難を具体的に克服すれば、かうして今わたしはスモークト・サーモンを楽しむことができるわけだ、などと他愛なく喜びながらマルティニを飲んだ。
葡萄酒はさんざん迷つたあげく、何しろ暑い日なので、マテウス(発音はこれでいいのかしら?)といふポルトガル産のヴァン・ローゼ(発泡性のやうである)を冷して。スープは冷たいコンソメ。淡い褐色がかつたほのかな緑いろの底に、ゼラチン質の粒々がいつぱい沈んでゐる。味はその色とまつたく同じやうな淡さで、しかしそれは口中に含んでゐると、全動植物のなかのうまい部分の粋がそれこそ粋然としてこの一皿に集まつてゐるやうな感銘を与へる。パンはフロイントリーブの一番がま。
さてその次が、いよいよサーロイン・ステーキだが、何しろ二十四オンスのキング・サイズだから、縦・横・高さがほぼ同じくらゐで、ビフテキと言ふよりもむしろ、彫刻ないし工芸品のやうな感じがするし、威風あたりを拂ふ堂々たる一皿である。そして、何しろこれだけ大きいものを、うんと生にして焼いてくれと注文したのだから当然だけれど、ほとんど速成のロースト・ビーフのやうな感じで、しかもロースト・ビーフと違つて温さがある。焼けた外側のカリカリした舌ざはりと、湿潤で滋味に富んだ赤い生肉の味とを、二つ同時に口中に入れてゆつくりと噛むとき、人間は(と話が思はず大きくなるけれども)至福とでも言ふしかない状態に達する。さういふ状態を分析するのは野暮な話だが、それをあへて分析すれば、但馬の三田《さんた》の農家に仔牛があづけられ(東京の※[#「鹿/(鹿+鹿)」、unicode9ea4]皮と同じならさういふことになるはずだ)、その仔牛が草を食べて肥り、大きくなるのはいいことであるし、神戸に※[#「鹿/(鹿+鹿)」、unicode9ea4]皮といふビフテキ屋があるのはいいことであるし、その店にポルトガルの葡萄酒があるのはいいことであるといふやうな、複雑で楽天的な感慨になるであらうか。わたしは満足しながら、二十四オンスの牛肉を食べ、銀紙のなかで口をあけてゐる馬鈴薯を食べ、つけあはせの人参とインゲンを食べ、それからトマトとレタスのサラダを食べたのだが、さすがにパンは半分ほど残したし、デザートは注文しなかつた。
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長崎になほ存す幕末の味
文芸評論家の山本健吉氏に、美人と地理の関係についての持論がある。裏日本の県はおほむねきちんきちんと一つおきに美人県だといふのである。
北からゆくと、まづ秋田県。次が新潟県(山形県の生れであるわたしとしては、どうもおもしろくないけれど、ここではおとなしく山本さんの説を紹介しておく)。次が石川県で、それから京都府。そして、ここだけは一つ飛ばさないで、すぐに兵庫県。これからはまた一つおきに戻つて島根県。次が福岡県で、おしまひは長崎県。
この山本学説で最も注目すべきは、これがたいへん自己中心的な性格のものだといふことである。第一に山本さんは長崎の生れであるし、第二にお母様は金沢の方であるし、そして第三に奥様は神戸(兵庫県!)の生れなのだ。
まあそれはともかく、山本さんのお国自慢はなかなか大したもので、野坂昭如の神戸に対する愛郷心に優るとも劣らぬくらゐだが、今度わたしははじめて長崎を訪れ、なるほどこの街なら自慢したくなるのももつともだと感じ入つた。海と山の美しさ。坂の多い街の風情(頼山陽は「官樓蠻館、家萬戸。高低山色、海光ノ間」と歌つた)。時代のついた異国情調。自動車の通行が激しくなつたせいでめつきりへつてしまつたとはいふものの、いまだに残つてゐる石だたみの趣。そのタクシーの運転手の親切なこと。山本さんに教はつた諏訪荘といふ宿屋の、おつとりとした典雅な雰囲気。さうさう、言ひ落してはならないが、たしかに美人が多いし、それに(これが本題なわけだけれど)食べものがむやみにうまかつた。
まづ最初は富貴樓の卓袱《シツポク》料理。しかしこの特殊な日本料理、あるいは、極端に日本化した中華料理については、いささかの解説が必要だらう。諸書を参照しながら、ところどころわたしの思ひつきをまじへ、知つたかぶりの講釈を試みよう。
卓袱の「卓」のほうは言ふまでもなくテーブルで(朱いろの円いもの)、「袱」はナフキンといふ説もあるし、朱卓のまはりに垂れてゐる布といふ説もある。つまりテーブルで食べる料理といふわけで、一人づつ別々のお膳で食べるのではないことが昔の人にはものすごく異国ふうに感じられたわけだ。そしてこの場合、大事なのは、その異国ふうの食事様式が何かたいへんくつろいだものとして受取られたといふことではなからうか。といふのは、雪国の町医者の息子であつたわたしは、子供のころ、看護婦や女中や運転手といつしよに、しかし別々のお膳で食べる朝食と夕食には窮屈な気持だつたのに、父母や姉たちだけといつしよにテーブル(ただし朱いろでも円くもない)で食べる晝食のときはずつと気楽な感じだつたといふ思ひ出があるからだ。その点、今にして思へば、あの子供のころのわたしの晝食や、それから現在の日本人の普通の食事形態は、卓袱料理の影響下にあると見ることもできるかもしれない。
もつともこの料理の第二の特色は、大皿に盛つてある料理をめいめい直箸《ぢかばし》で取り分けることで、これは果して現在の日本人の普通の食事形態かどうかちよつと疑はしい。漬物や佃煮の場合、つまり食事の終りころに食べるもののときは、直箸かどうかはともかく、丼や鉢から取り分けるのが当然のことだらうが、あとはせいぜい芋の煮ころがしか何かのときくらゐではないかと思はれるし、漬物や佃煮や芋の煮ころがしにしたつて、ちよつと気取った、あるいはきちんとした家では取箸を使ひさうな気がする。
そして、家庭の食事のときでなく、客人を招いての会食の際も、大きな器に盛つたものを取り分けるといふ食べ方は、江戸時代の人々にとつてすこぶる衝撃的な作法だつたやうである。『玉襷』といふ本がかういふ事情を説明して、これは外国ではお客をしたとき毒を盛ることがよくあるため、その疑ひを避けようとして生じた作法である、などともつともらしく述べてゐるのはなかなか興味深い。なほ、現代日本の代表的な直箸の料理はスキヤキだが、これはどうやらシツポクの影響を受けたものらしい。もちろん鍋料理は昔からあつたけれど、杓子や菜箸で盛り分けるか、それとも、帆立貝やサザエの貝殻を小鍋の代りにして、めいめいに一つづつ当てがつたのである。つまり、昔の日本人は、「もとこれ神州清潔の民」などと威張るだけあつて、これほど潔癖だつたといふことにもならうし、また、たいていの鍋料理を直箸で食べる近頃の作法は、スキヤキ経由でシツポクの影響を間接的に受けてゐると見てもよからう。
しかしこの料理を、単に中華料理の極端に和風になつたものと言つては、いささか不正確のそしりを免れない。長崎には唐人だけではなく、紅毛人も来往した。すなはち西洋料理もいくぶん影を落してゐるので、その点これは、日本文化を雑種文化と規定した加藤周一氏の論法にならつて言へば、雑種料理とでも言ふしかないものなのである。あるいは、最も典型的な日本料理といふことにならうか。ただし一口に雑種料理と言つてもいろいろあつて、この料理の背後には江戸時代の優雅な文明がそびえてゐるし、長崎といふ由緒正しい土地柄がそれをおつとりと保存してゐる。われわれはいはばシツポク料理によつて、江戸後期における長崎の高度な文明を味はふのである。
とすれば、シツポク料理を十全な形で賞味するためにはどうしても丸山の美形が必要である。これは文学史的にも明らかなことで、頼山陽や梁川星巌のやうな江戸後期の詩人たちも、芥川龍之介や北原白秋や齋藤茂吉のやうな大正の文士たちも、みなさうしたらしい。長崎の繁栄と贅美とは丸山をぬきにしては考へられないものなのである。この土地の漢詩人に吉村迂齋といふ人がゐて、この人の七言絶句、「三十六灣、灣、灣ニ接ス。扶桑、西ハ盡《コトゴト》ク白雲ノ間。青天萬里、國無キニ非ズ。一髪ノ晴ハ分ツ呉越ノ山」を粉本にしたのが例の山陽の名作「雲カ山カ呉カ越カ。水天髣髴、青一髪」だといふのは福地櫻痴の父、苟庵の説ださうだが、この迂齋の詩、
「石級千層、路|已《スデ》ニ|※[#「貝+余」、unicode8cd6]《ハルカ》ナリ。回リ看レバ繁華ナラザル處ナシ。綉閣綺樓、春、海ノ如シ。十里ノ絃歌、十里ノ花」
といふ七言絶句は、よく往年の繁昌を伝へてゐる。今はとても十里の絃歌といふわけにはゆかないし、それに季節は秋、それもオクンチが終つてからなので十里の花とはまつたく縁がないけれど、とにかくわれわれの座敷には、前半は舞子が一人、後半は芸者が一人ゐて興を添へてくれた。
その前半を受持つ丈《せい》の低い美少女は(近頃は祇園の舞子もすつかり丈が伸びていけないさうだが、その点、長崎はさすがに江戸の名残りをとどめてゐる)、しかし、いつこうわれわれに酒をつがうとしない。部屋の隅にひつそりと坐つて、静かにほほゑんでゐるだけである。どうしたのかな、と怪しみながら、朱卓の上に飾られた五種類の前菜を眺めてゐると、やがて大ぶりの椀が運ばれ、舞子が酌をする。つまりこの吸物によつてシツポク料理がはじまるのだ。
吸物は至つて薄味のあたたかいもので、西洋料理のスープといふ趣がほんのすこしないでもないが、松茸、葛でからめた海老、梅の花の形に切つたニンジン、カマボコの巻いたもの、鯛の切身、唐人菜などがはいつてゐる。その多様な変化を楽しみながら酒を飲んでゐると(酒は最初、地酒を頼んでみたが、甘口でよくないので剣菱に改める)、真中の底に餅が一きれはいつてゐた。これがしなやかで、ねつとりしてゐて、なかなかよろしい。わたしは長崎を訪れることによつてはじめて、餅が酒の肴に適してゐることを知つたのである。どちらも原料が米だから合ふのだらうか。
この「御鰭《おひれ》」といふ儀式的なスープ(事実、鯛の鰭がついてゐる)が終ると、前菜に当るものを小皿(一人に二枚)に取り分けて食べることになるのだが、最初は鯛と伊勢海老の刺身で、殊に新鮮な鯛の甘い味はひが何とも言へない。次は|※[#「魚+荒」]《あら》の湯びきで、エラ、腸、肝臓、胃、それからもちろん肉を湯びきしたものに、ほうれん草と赤カブが添へてあり、※[#「魚+荒」]の白とほうれん草の緑、カブの赤の取り合せがまことに効果的だけれども、味覚を楽しませることは視覚以上である。山本健吉氏の『最新俳句風土記』冬の巻によると、
「長崎の有名なあらの湯びきは鰭《はた》の一種ほうせきはたで、酢味噌で食べるとよく、肝もすこぶるうまい。」
さうだが、われわれはこれを三杯酢で食べた。エラは一見ひげのやうで、こりこりした歯ごたへと言ひ、淡泊な味と言ひ、すこぶる酒の肴に向いてゐるし、そのこりこりの加減と淡泊の加減とを微妙に変奏してゆくと、腸になつたり、肝臓になつたり、胃になつたり、肉になつたりするやうな気がした。※[#「魚+荒」]といふのは大きいのになると体長一間くらゐもある怪魚ださうだが、さすが瓊浦《けいほ》(といふのは漢詩人が長崎に与へた別称である)ともなるとずいぶん味のいい怪魚がゐるものだと感心したのである。
次は紅さしの南蛮づけと、カリフラワーを甘ずつぱく料《りよう》つたものと、それからカマボコ仕立てを海苔で巻いたもので、この一品がシツポクの料理のなかでいちばん欧風といふことになるかもしれない。紅さしといふ小魚の南蛮づけは、硬いのを噛んでゐると、そのうちとつぜん甘ずつぱい汁が泌み出てきて、やがて魚肉の豊かな味が口中にひろがるといふ仕掛けで、つまりマリネであるし、カリフラワーは言ふまでもないし、それにカマボコ仕立てのなかにもハムやグリンピースがはいつてゐるのだ。もつとも、江戸時代には果してハムやグリンピースが長崎にあつたかどうか、これはちよつと疑はしい。
次は鰆《さはら》の照焼に卵の黄味の鮨と酢ばすとを添へたもの。この黄味鮨は一見お菓子のやうだし、そしてたしかに甘い味のくせに、酒の肴としてちよつと乙でないことはない。味に変化がついて、深みが生じるやうである。酒を飲まない人のためにところどころで甘いものをあしらふのがシツポク料理の特色だと聞いてゐたが、それもあるかもしれないけれど、上戸と下戸の双方のためにこの小さな鮨は出てゐるといふ気がした。ただし、このあとに出た十六寸豆《トロクスン》の蜜煮といふやつは、どうやら下戸だけのためのやうである。
次は千代口(これは猪口《ちよく》のあて字であらう)で、たたき山芋に生うにをのせたもの。文字どほり山海の珍味を一度に味はふ小ぶりの一品で、さつぱりした感触がなかなかよろしい。ここまでで前菜は終り。
ちようどこのころ、そぼろ仕立ての茶碗蒸しが運ばれて来る。これは、普通の茶碗蒸しの倍くらゐの容器にはいつてゐる、堂々たる貫禄のもので、こちらもおのづから雄大な気分になる。なかにはいつてゐるのは細切り豚肉、タケノコ、モヤシ、椎茸、三つ葉などだが、何しろ豚肉入りだから脂肪分すこぶる濃厚で、そのくせどういふ秘法のせいか味は意外に淡泊である。その、コツテリとアツサリとの対照ないし調和ないし共存がじつに妙を得てゐて、これこそシツポク料理の精髄といふ感じがしたけれど、この性格は、次の大鉢とその次の豚の角煮においてさらに顕著になつた。
大鉢は煮ものばかりで、袋鳥と肉ダンゴと白芋と塩むし鮑と青豆だが、このなかでの尤物《ゆうぶつ》は袋鳥である。これは観音びらきにした鳥のなかに、下味をつけた糯米《もちごめ》を詰めて一度蒸し、布巾に包んで麻糸でゆはへ、もう一ペん煮たもので、葛をかけてある。一口食べても、たしかにそのくらゐ手間がかかるにちがひないと判る複雑な味で、いはば贅美を盡した豊満な料理である。かういふものを食べ、さらに牛の挽肉を甘くこつてりと煮た肉ダンゴを食べ、合の手に杯を口に運び、それから白芋や鮑や青豆をつつきながら、若宮神社の祭礼の笛の音が遙か彼方から渡つて来るのを聞いてゐると、非常にみちたりた気持になるが、料理はまだつづいて、いよいよ豚の角煮が現れる。
これは例の東坡肉で、言ふまでもなく中国伝来の代表的日本料理、その本場がこの崎陽(これもまた長崎の中国ふう別称)の地なのである。大きく切つた豚の三枚肉をいため、下味につけてゆつくりと煮るわけだが、第一に肉がよく吟味してあるし、第二に料理人の腕がいい。甘くて、脂つこくて、そのくせ奇妙に淡泊で、脂肪の層と肉の層とがいつしよに舌の上で淡雪のやうに溶ける趣であつた。ただし、ときどき外側のところに豚の毛が二三本ついてゐることがあるけれどその毛がゴソツと来るときがいちばんうまい、といふのは富貴樓のおかみの説であるが、わたしの場合にはゴソツと来なかつた。まことに遺憾なことと言はなければならない。
ここで思ひ浮ぶのは広瀬旭荘の子、林外の『崎陽雑詩』といふ七言絶句である。おそらく豚の角煮を詠じた漢詩はこの一篇以外にないはずだから(と言つても無学なわたしの臆測ゆゑあまり信用されても困るけれど)、これはやはり引用したくなる。
「商館峻※[#「山+曾」、unicode5d92]、古浦ノ隈。蠻珍洋器、燦トシテ堆ヲ成ス。歸途、好ンデ喫ス東坡肉。清客、新タニ酒肆ヲ開イテ來ル」
そして、林外先生もまた東坡肉のあとはきつと吸物だつたにちがひないのだが、この吸物は蒔絵の椀で、魚のすり身とカブとキクラゲが浮んでゐる。なかでも西山カブといふやつが柔くてしつとりしてゐて非常に味がいいし、この一椀は客が口中を洗ふといふ目的にぴたりと叶つてゐる感じだつた。もつとも、わたしはしよつちゆう剣菱で洗つてゐるわけだが。
おしまひに出て来るのは梅椀といふ汁粉で、紅白の白玉がさながら暗夜の梅花のやうに浮び、そばに桜の花の塩づけが一つ二つ、これも夜櫻といふ心意気で漂つてゐる。酒のあとの汁粉といふのはどうも気が進まなかつたけれど、酒毒を消す作用があるからとすすめられて箸をつけると、砂糖を殺して使つてあるのか、結構うまかつたし、それに、わたしが生れつき素直なたちで、暗示にかかりやすいのかもしれない、たちまち酔ひがさめてゆくやうな気がした。
長崎の南方一里、橘湾に臨む茂木といふ漁港があつて、ここの魚料理がおいしいといふ話はかねがね聞いてゐた。第一、むやみに安いといふのである。そこで二見といふ生簀料理の店にゆく。本当のことを言ふと、生きてゐる魚を眼の前につきつけるといふ仕掛けの店はあまり好まないのだが、日曜のせいでもう一軒の店の板前が休みを取ってゐたため、かういふことになつた。
わたしが案じてゐたやうに、まづ蓋つきの大鉢が運ばれて来て、蓋を取ると車海老と芝海老がなかで泳いでゐる。女中がその芝海老の頭と殻を取つて渡すので、心を痛めながらもやむを得ず醤油で食べると、ねつとりとして甘く、じつによろしい。それは何か、自分がいま眼前にひろがつてゐる橘湾の大魚となつて遊弋《ゆうよく》し、ちよいと潜つてオルドーヴルを口にしたやうな感じで、すこぶる食欲を刺戟された。そんな調子で飲みだしたせいか、吸物のあと、大皿に盛つた真鯛の生けづくり(これに伊勢海老と鮑が添へてあつて、みんな生きて動いてゐる)が出てもあまり気にならない。ただし、大きな鯛の眼の上に一刷毛さつと塗つた、当節の娘のアイシャドウのやうなコバルトいろが見る見る薄れて行つて、つひに大年増の眼の隈になつてしまつたのには、多少の感慨がないでもなかつたけれど。
この店で特によかつたのはヒラスといふ魚(ブリの小さいやつ)で、よく脂が乗つてゐて酒の肴にぴつたりである。刺身をアサツキのミジン切りであへたものが皿に盛られて出て来るのだが、これを酢醤油で食べてゐると、アサツキのさはやかさとヒラスの程のよい脂とがいづれもいつそう引立てられ、そしてそれがまた酒の味を引立てて、つまりいくらでも飲めさうな気がした。もちろん御飯のおかずにも絶好のはずで、これなら、ちようど酒が進むやうに何度も御飯をよそつてもらふことになりさうである。
わたしに富貴樓をすすめた最初の人は、佐世保生れの作家、井上光晴さんなのだが、彼はこの豪勢な店と好対照をなす店を教へることも忘れなかつた。これは社会的視野の広い井上さんの作風にふさはしいことと言はなければならないし、また、その店を紹介する際、まづ次のやうな挿話を語つてくれたのも、いかにも小説家らしかつた。
――今から十何年か前のこと、彼は一人で長崎の思案橋のへんを歩いてゐた。(本當は『地の群れ』や『乾草の車』や『象を撃つ』の文体で書けばおもしろいのだが、ここではちよつと手を抜くことにする。)と、雑沓のなかから、うらぶれた爺さんが寄つて来て、
「お兄さん、ちよつと」
「……?」
「いい店に御案内しませう」
と爺さんは小声で言つた。
ポンビキだ、と彼は反射的に考へ、女も悪くないな、とこれもまた反射的に考へた。彼は文壇三大音の随一と噂される大きな声で(参考までに言つておけば、ほかの二大音は開高健さんとわたしださうである)、
「おう、案内してくれ」
と答へ、そのせいで思案橋附近の喧騒ははなはだしいものとなつた。しかし、期待に胸をふくらませてついてゆくと、このポンビキのはずの男は横町にあるバラック建てのギョウザ屋の戸をあけ、
「ここのギョウザはうまいですよ」
とささやいた。ギョウザ屋の客引きだつたのである。
井上さんはわたしにさういふ話をしてから、店の名前は忘れたけれど、ぜひここへゆけ、小さくて円いギョウザで、値段のわりには天下の美味と称して差支へないと、殷々と轟く声で推奨したのだ。
小説家にとつて最も重要な資質の一つはフィクションの才であるし、それに井上さんが小学生のころからその才能に恵まれてゐたことは、当時、嘘つきミツちやんと呼ばれてゐた(わたしはこのことを彼の自伝的な作品のなかで知つた)ことでも見当がつく。それゆゑ、長崎ではギョウザ屋に客引きがゐるといふのはどうも怪しいとは思つたけれど、あの批評家的側面を持つ作家がこれだけ保證する以上、試食する価値はあると判断したのだが、たしかに彼の言ふやうに、小さくて円いギョウザはじつによかつた。絶品である。ただし、客引きはゐなかつたけれど。
そして、案内係がゐないのも当然のことで、二十年前に開店した雲龍亭といふその一口ギョウザの店は今すこぶる繁昌し、支店をいくつか出すほどの勢ひらしい。(今年――昭和四十七年――から東京の八王子の駅前にも支店ができた)。わたしが行つたのはその支店のほうである。
教はつた通り、焼酎とギョウザを注文する。ギョウザは焼ギョウザで、大きさはタコヤキほど。シュウマイよりほんのすこし小さい。そしてこのくらゐの、一口でひよいと食べられる大きさだと、酒の肴、いや焼酎の肴に非常にいいのである。近頃の東京、いや日本中の普通の土地の、まるで柏餅のやうな、あるひはワッフルのやうなギョウザでは、ちよいと箸で口に運ぶ気軽な趣がない。重苦しくて、酒の味が落ちてしまふ。それにひきかへ長崎は思案橋の一口ギョウザには、まさしく点心と呼ぶにふさはしい可憐な風情がある。
なかに詰めてあるのは、挽肉、タマネギ、卵、ニンニク、ニラなど、総計十一種類くらゐださうだが、これがよほど工夫を重ねたものと見えて、焼酎の味を生かすことこの上ない。殊に大事なのは、この汚れた店の円くて小さくて安い(一人前が十個で百円)ギョウザもまた、濃厚にして淡泊といふ、シツポク料理の特色を身につけてゐることだらう。漢民族の北方料理は、戦争のせいで遠くこの街に移入され、瓊浦の料理の伝統はこのささやかな一皿のなかで生きることになつた。すなはち長崎の味はまだまだ亡んでゐないのである。
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信濃にはソバとサクラと
「この名刺持参の方にヒレか股の柔かな肉を上げて下さい。小説家です。姓は丸谷、名は才一さん」
『氣違ひ部落周游紀行』のきだ・みのる氏には、まだお目にかかつたことがないけれど、わたしが馬肉の刺身をたべに信州に出かけるといふ噂を耳にして、かういふ親切にして簡潔な紹介状を書いて下さつた。伊那市八幡町の越後屋本店あてのものである。もうかなりのお年のはずなのに、体力、知力、あらゆる点で中年男をしのぐと言はれるこの先生の若さの秘訣は、どうやら若年のころフランスで覚えた馬肉の刺身、略してバサシにあるらしいのだが、そのきだ先生が推奨する店となれば、つまり日本一のサクラにありつけるわけである。
もつとも、御推奨の店は同じ信州の別の町にもう一軒あるけれど、それは料理屋ではなく肉屋なので、普通の者はここへ寄つてちよつと一杯といふわけにはいかない。きだ先生は特別の仲なので、何日もこの肉屋に泊つて、毎日毎晩バサシを食べつづけるといふうまい仕掛けなのだ。
ところで、その大先生がバサシについて書いた文章がある。雑誌「太陽」に載つたものだが、すこぶる愉快な戯文だから、ちよつと引用してみよう。
「ここ伊那谷の名物は馬肉。そしてその刺身と来たら、年齢職業を問わず、花恥ずかしき乙女から荒くれ男の別なく、馬《ば》サシと聞くと忽ち天を仰ぎ目を細め、うっとりと所謂恍惚の表情になり、まんず『ああ』とひと息、深い溜息をつき『ああ、馬サシ』とうなり『こんなうまいおいしい至味は外にないに!』といわずにはいない。そうずら? そうだに。この表情を見、この言葉を聞いた他所者《よそもの》は忽ち口中よだれの満つるのを感じながら、これは味わいのアクメ、神さま仏さまの召し上りものに違いないと思い込むばかりでなく、論理的必然から天国や極楽にも、ここの馬肉屋の越後屋の出店があるに違いないと思い込まずにはいない。馬サシが無しでどうして天国|面《づら》極楽|面《づら》が出来る? そうずら! そうだに、そうだに」
ここで改行になつて、
「私の言葉を疑う衆はこの町を歩いてみると好い。越後屋の店頭には馬が絶えずあるのに人目のつくところに馬は一匹も歩いていないから。何故か。馬は怜悧な怖《おび》えやすい動物だ。そうずら? そうだに。だから馬は県人が馬を愛することの甚だしいのをショウガやニンニクに交った同類のにおいで知り、県人を怖ろしがって外に出て来ないのだ。丁度、人類を愛すること最も甚だしい虎の野を人間が歩かないのと同じだに」
この熱弁はまだまだつづいて、馬肉が進歩的・文化的な県である長野県に極めてふさはしいといふ論旨が展開される。「馬は牛と違って人間のどんな寄生虫の中間宿主でない」から、それは文化的な食物であり、「私が馬サシを初めて食ったのはパリ、どの役所、どの公共施設の入口にも自由、平等、博愛とフランス語で国の標語が大きく記され、それの象徴の青、白、赤の三色旗がへんぽんと翻っているパリだったのだから」これは進歩的な料理に決つてゐるといふのだ。
当代随一の馬肉愛好者《ヒポタアジスト》がかう論ずるのは、言ふまでもなく、馬肉に対する偏見が世にはびこつてゐるせいである。それは何となく下等なものとして軽蔑され、嫌悪され、排斥されてゐるやうに見受けられる。日本でももちろんさうだし、フランスの肉屋では盛大に馬肉を売つてゐるといふ話を聞くけれど、これを用ゐたフランス料理なんてものはまともな店では出さないらしい。手もとにある西洋料理の本をあれこれとめくつてみても、馬肉のことはどの本にも書いてなくて、例外的にただ一冊、アンドレ・ローネイの『粋な食物』のなかに至つて短い言及があるだけだつた。ロンドンで食品輸入商をやつてゐるこのフランス系の男は、「野生の猪およびその他の獣」といふ章で、まづ猪の肉について長広舌をふるひ、それから鹿の肉、鰐の肉、熊の肉、駱駝の肉、ハギス(羊の臓物を煮て刻み、それを羊の胃袋に詰めて煮たもの)についてかなり筆を費したあと、「その他の獣肉」といふ小見出しをつけて、まことにそつけなくかう言ひ添へるのだ。
「かもしか、アルマジロ、蝙蝠《かうもり》(鼠のやうな味)、南米《コ》産河《イ》|ねずみ《ブ》、驢馬、大鹿《エルク》、象、キリン、モルモット、山羊、|大とかげ《イグアナ》、針鼠、河馬、ア|メ《ラ》リカ駱《マ》駝、猿、犀、あざらし、栗鼠猿、縞馬。それからまた、馬、猫、犬」
まさかローネイさんの店では蝙蝠や象やキリンを扱つてゐるわけではなくて、これは奇妙な嗜好といふ気持なのだらう。要するに悪食とか、いかもの食ひとかいふ、非難の口調が、行間に濛々とたちこめてゐるやうな気がする。そして、悪食の最たるものが、馬と猫と犬なのではなからうか。これはおそらく、この三つの獣が人間にとつて最も身近な、親愛感の持てる動物だからで、さういふ獣の肉を食べるのは何となく裏切るやうで後ろめたい感じがするのだらう。もし『粋な食物』の著者にブラック・ユーモアの才があれば、きつと、「それからまた、馬、猫、犬、人間」と書いてゐたにちがひない。
猫はともかく馬と犬とは狩猟にとつて必要欠くべからざるものだから、狩猟民族である紅毛人にとつて、馬肉食ひといふのは、こつそり隠れてならともかく大つぴらには困るものだといふ推論も可能なやうだが、この理窟は日本での事情を考へるとたちまちをかしくなる。われわれは狩猟民族の子孫ではないからだ。が、そこを一ひねりして、本邦で馬肉食ひが漠然と排斥されてゐるのは、遙かな昔、騎馬民族によつて征服された痕跡だと考へれば、何となく判つたやうな気もしないでもない。つまり、われわれは馬肉を食べることを後ろめたく思ふほど、それほど祖先の交通機関に義理を立ててゐるのだと考へるわけで、われわれが過去の交通機関に対してどれほど感傷的な民族かといふことは例の蒸気機関車の例を見ても納得がゆくから、この理論はなかなかうまく出来てゐるやうに見える。しかし残念なことに、今の日本で最も馬肉食が盛んなのは長野、熊本の二県であつて、北海道の牧場から続々と生きた馬が送られ、それが屠殺され、やがて老若男女の口中を楽しませることになるのである。熊本といふのは大陸に近いから、どう見ても騎馬民族の血が最も濃い土地の一つのやうだし、それから信州といふのは木曾義仲なんて、騎馬民族そのものみたいな男の国である。とすれば、わたしの理論はだいぶ話が怪しくなつて……まあ、かういふ文明論的・歴史学的考察はどうでもいい。
この際、大事なのは、当人であるわたしが馬肉にたぢろぐかどうかといふことだが、わたしは悪食の趣味はいつこうにない男で、大とかげの燻製も、縞馬のマリネも、モルモットの砂糖煮も、仔猫のシチューも、ちつとも食べたいとは思はないけれど(かもしかの肉は一ペんだけ口にしたことがある。天下の珍味と呼んで差支へない)、馬肉、殊に伊那谷のバサシには以前から憧れてゐた。それなのに今まで食べたことがないのは、単にさういふ機会がなかつたといふだけにすぎない。つまりひよつとするとわたしは騎馬民族に征服される以前の純粋な日本人の血を引いてゐるのかもしれないし、いや、このあやふやな理論はさつき見捨てたのだからもう取り上げないことにするが……やはりわたしも進歩的で文化的な人間なのかもしれないね。とにかく進歩的で文化的な一人の男は、白いもののちらちらする夜、バサシを求めて伊那におもむいたのである。
越後屋本店は暗くて寂しい町のなかにあつた。まづ目についたのはあかあかと電灯のともつてゐる、大きなガラス戸の肉屋で、これも越後屋だが、料理屋のほうはその左の奥にある。そして、この料理屋のたたずまひを見て、わたしはこれまで信州文化における馬肉の位置を(馬肉に対する偏見のまつたくないわたしですら)どうやら過小評価してゐたらしいといふことに気づいた。何となく漠然と、繩のれんに毛が生えた程度の小料理屋だらうと思つてゐたのに、むしろ|大※[#「しかばねに夏」]《たいか》高樓に近く、結婚式および結婚披露宴がおこなはれたり、芸者がはいつたりする本格的な料亭だつたのである。わたしは咄嗟に、雪の夜、伊那谷の芸者の酌でバサシを肴に一杯やるのは旅情が身にしみてまことによからうと考へたのだが、近頃はどこでも芸者衆が拂底してゐて、急に口をかけたつてきてくれるはずがない。この詩情あふるる計画は諦めるしかなかつた。
二階の座敷に通されると、まづ地酒の熱燗。このへんでは辛口のほうとのことだつたがそれでもまだ甘すぎるなどと、開高健さんのまねをして地酒批評を試みてゐるうちに、待望のバサシが出て来た。平作りにした赤黒い肉片が十八、つややかに二列に並んでゐて、形といひ色彩といひ、雄勁にして端麗、なるほどこれが名にし負ふ本場のバサシかと多大の感銘を受けたのであるが、店の人の話によると、かういふ具合に脂のちつともまじつてゐない、つまり霜降りでないヒレが刺身に最も適してゐるのださうである。
この何やら艶な趣のある赤黒い肉片を生姜醤油にちよいとひたしてから口にすると、まづひいやりとした感触が快いし、柔くておだやかでほのかに甘い味はひが舌を包み、二三度、口を動かすともうそれだけで、さながら川の流れに舞ひ落ちた牡丹雪のやうに溶けてゆく。その味をもうすこし詳しく説明すれば、牛肉と鶏肉のあひだのやうでもあるし、中トロと鰹と烏賊といふ三種の刺身(ただしいづれも最上のもの)が形づくる正三角形のちようど中心点のやうな気もするが、これはやはり極上のバサシそのものと形容するしかない。そこにはつひこのあひだまで北海道の原野を疾駆してゐた駿馬《しゆんめ》(と最大級の言葉を使ふしかない)の一部分があるだけではなく、澄んだ空気や、透明な水や、香りのいい草までが、精妙きはまる仕掛けで封じこめられてゐるやうな気がした。もちろん厭な臭ひなんかぜんぜんない。特にすばらしいのは咽喉越しのよさで、ちつとも筋がない上等のところだからこそかうなるのだが、一度くらゐしか噛まないかそれともまつたく噛まずに、つまり牡丹雪が溶けないうちに咽喉を通すと、それは絹ごし豆腐のやうな感触で優しくすべつてゆく。
かういふ結構なものを肴に飲んでゐると、酒がいささか甘いことなんか気にならないし、さらには、一体北海道では酒がまづいといふのも、すぐそばに駿馬がいつぱい走つてゐて、つまりバサシがふんだんにあるせいではなからうかといふやうな奔放な理論が頭に浮ぶ。噂によると、きだ先生はこのバサシを三人前か四人前、取り寄せて、悠然とお酒を召上るのださうで、本当はわたしもさうしたかつたけれど、この文章を書く都合があるから、次に馬のすき焼、つまりバスキをつつき、それから馬のカツレツ、すなはちバカツ、おしまひが馬のバター焼(これはババタとは言はないらしい)といふ馬づくしになる。このなかではバター焼が、柔くてしかも湿潤な馬肉を生かした料理法だとは思つたけれど、これとてもバサシにくらべれば物の数ではないし、バスキやバカツに至つては論評の限りでない。この次、出かけるときはぜひ、氣違ひ部落の大先生にならつて、バサシを三皿か四皿、前におき、ゆつたりとしかし着実に平げてゆきたいものだとわたしは考へたのである。
松本は女鳥羽川のほとりに女鳥羽そばといふ、うまいソバ屋があつて、小林秀雄さんがこの店を褒めたといふ話を耳にしたことがある。何しろ大批評家の折紙つきとなれば、たとへ文学や音楽や骨董《こつとう》でなくても何となく信用できさうだし、それにわたしは昔からソバに目がない。信州まできた以上、この店に寄らない手はなからうと考へた。
もつとも子母沢寛の聞き書、『味覚極楽』といふ本(これはなかなかの名著である)によると、昭和の初年に堀内文次郎といふ陸軍中将は、
「長野松本などもちろん駄目。辛うじてそばらしいそばを食ひ得るのは今では僅かに一茶の柏原附近ぐらゐのものである」
と語つてゐるし、その子母沢自身も、昭和三十一年に、
「信州の長野松本辺りの蕎麦では不運にしてまだうまい物に出逢はないのが残念である」
と記してゐるが、わたしはもともと楽観的なたちなので、子母沢、堀内の両家よりも、この際、小林氏のほうを信用することにしたのだ。ほかのことならともかく、食べものにかけては、ものはためしといふ積極的な態度が肝心なのである。
ところが、店にはいる前にまづ驚いた。店さきに、小学生以下の子供はほかのお客の邪魔になるからはいつてはいけないといふ通達が出てゐるではないか。たしかに食ひもの屋で赤ん坊が泣いたり、小さな子供が退屈して駈けまはつたりするのは不快なものだから、これは非常に文化的、かつ進歩的な、つまり長野県にふさはしい処置とも考えられるが、他方、何か非常に厳粛な緊張を味ははせる契機にもなつて、その緊張感は、ソバ屋で軽く一杯といふ気分とは鋭く対立する性格のものであつた。
しかし、ここまで来た以上まさか引返すわけにはゆかないから、決然としてはいつてゆくことにするならば(事実わたしはさうしたのだが)、人は店内において二度三度と驚きつづけることになるであらう。まづ品書が張り出してあつて、それには「三重ねそば」「せいろそば」と書いてある次に「冷し花巻そば」とあつて、これは小学生のためのソバで、大人のお客には出しませんと記されてゐるのだし、それからもう一つ、お酒はソバよりも前に注文してもらひたい、ソバが出来あがつてからはもう酒を出すのは断る、といふ趣旨の掲示が出てゐるのだ。厳粛感はいつそう強まる。
そこであわてて酒を注文し、三重ねそばを頼んだのだが、めつぽう寒い日なのにぬる燗の酒(地酒で甘つたるい)を飲みながら、
「せいろそばといふのはつまり、ザルなの?」
と訊ねたところ、親父はけんもほろろに、
「お客様には三重ねそばをお出しすることになつてゐます」
と答へ、つまりわたしの質問(きつと愚問なのだらう)には答へてくれなくて、その代り、
「お酒はもういいですかな?」
と言ふ。わたしは何となく、ここでもういいなんて言つたら最後、お酒は飲めなくなるといふ恐怖のとりこになつてしまつて、ほとんど衝動的に、
「もう一本つけてくれ」
と哀願(そんな感じだつたね)したのだが、親父はどうやら酒に対して悪意を持つてゐるやうで、あるいは早くソバを食べさせたくてうずうずしてゐるやうで、
「ほう、よくお飲みになりますな」
などと言ふのである。かういふことを言はれながら酒を飲むのは、何となく真剣勝負のやうである。
わたしはすこぶる辛い気持になつて、これはいかにも小林秀雄好みの店だ、あの批評家の世界においては口腹の楽しみすらも武芸に似てゐる、などと高級なことを考へたり、われ事において後悔せず、と宮本武蔵の名台詞をつぶやいたり、それからまた、この店のおかみさんは京ふうの美人ではあるけれど、この親父の前で彼女を褒めた客は今まで一人もゐないにちがひない、もし一人でもゐれば、お客はさういふ言辞を弄してはいけないといふ張紙が出てゐるであらうから、と思つたりした。こんな親父の食べさせるソバがろくなものであるはずがないと思つたことも、ついでに打明けておかうか。そして、まことに残念なことに、やがて出てきた三重ねそばはじつにうまかつたし、それにつられて注文した、せいろそばもまた、なかなかの美味だつたのである。わたしはそのいかにも昔ふうな、黒くて太目のソバに舌鼓を打つた。ああいふ本式のソバを、ごく普通のソバ屋で、つまりソバ屋である芸術家の工房においてではなく、食べることが不可能なほど、現在日本文明においてソバは衰退してゐるのであらう。われわれはこの文明を悲しまなければならない。
この女鳥羽そばの主人の芸術家的なきびしい態度は、言ふまでもなく、信州人かたぎに通じるものであらうが、それは必ずしもソバといふ日本古来の食品に対してだけ発揮されるものではない。信州のハイカラといふのはよく知られてゐるけれど、これが料理のほうに向けられるとき、松本は鯛万の洋食が出現する。わたしは数年前、黒四ダムに近いホテルに泊つてゐたとき、松本の町へ遊びに来て、何の気なしにこの店で晝飯を食べ、ヒナにはマレなレストランだと感嘆したことがあるのだ。
洋食の鯛万は同じ松本の料亭、鯛万の分家である。評論家の唐木順三氏は、旧制の松本高校にはいつたばかりのころ、この料亭でのコンパではじめて酒といふものを飲み、以後、今日まで、酒と縁を切ることができなくなつたといふ。ただし、同じ旧制松本高校でも、時代が下つて辻邦生さんや北杜夫さんとなると、何しろ食ふや食はずのころの学生生活だから、和食の鯛万も縁がなかつたらしい。洋食の鯛万が出来たのは昭和二十二年のことで、「ドクトルまんぼう」も、「皇帝ユリアヌス」も、まだ松本にゐたけれども、生存するのに精いつぱいで、とても料理屋どころではなかつたらしい。これは先日、辻にたしかめた話だから確実だらう。
そして昭和二十二年といふのは例の文化国家といふスローガンが大はやりのころだから、西洋料理屋といふのは打つてつけの狙ひだし、新宿は中村屋のカリー・ライス以来、西洋料理(まああれだつて一種の西洋料理だらう)と信州人とはゆかりがあるわけだけれど、ここでいかにも信州人らしいのは、レストラン鯛万は開店に当つて、東京の小川軒に全面的に指導を仰いだといふことである。どうやら今でも店の者を小川軒に留学させて、本式に勉強させてゐるらしい。
かういふ勉強熱心は進歩的、文化的な長野県にいかにもふさはしいし、もつと驚いたことには、この店のたいへんうまいパンは、近くにあるスヰトといふ菓子屋が三年ほど前からフランス人のパン職人を雇つて焼いてゐるのだといふ話であつた。GNPとやらの力がここまで及んだと呆れてもいいけれど、ここはやはり、さすがに教育県は違ふと感心するのがもつと正しいと思ふ。
そのフランス料理の鯛万の、室内装飾といひ調度といひすこぶる趣味のいい個室で、まづ牛舌の塩づけを肴にシェリーを飲む。これはちよつと塩つぱすぎたが、次に出て来たコンソメが上等で、さすがに小川軒直伝といふ感じがするし、その次の虹マスのホイル焼がもつといい。レモン汁をふりかけてから、ほろほろと崩れるやうなやつを口に含むと、虹マスの清新で淡泊な肉質と濃厚なバター、ネギのさはやかな刺戟と巧みにあしらはれた香料とマッシュルームが、もはや虹マスでもなければバターでもなく、ネギでも香料でもマッシュルームでもない、つまりそれらの材料とはまつたく別の、熱くて甘美で豊満な美味となつて舌と口蓋を襲ふのである。
その次がビーフ・シチュー。一体シチューものが得意といふだけあつて、これは虹マスよりももつとよく、甘いソースが決して甘すぎないのはもちろん、煮こんだ松阪牛はじゆうぶん柔いくせに、ちようど歯ごたへの分だけまことに正確に、それ以上煮こむのを残してあるやうな気がする。付け合せの野菜も申し分なくて、わたしはこの一皿をのんびりと楽しみながらサドヤの赤葡萄酒を飲んだ。あれはひよつとすると、文化と進歩と教育に敬意を表して飲んでゐたのかもしれない。そしてデザートはアサマベリーのアイスクリーム。
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ヨコハマ 朝がゆ ホテルの洋食
五木寛之さんはいま京都ずまひだが、例の休筆までは横浜に居を構へてゐて、かういふのは愛郷心ではなくて何と呼ぶべきかちよつと判らないが、とにかく横浜に対する愛着はかなりのものである。
「どういふところがいいの?」
と訊くと、
「非常に開けてゐて、そのくせ地方都市で、いいですね。好きだ」
と答へる。その地方都市性といふのは、出前制度の異常な発達によつても立証されるのださうである。たとへば午後の一時ごろ、天丼を注文する。そのときソバ屋に、
「あ、さうさう、晩ごはんがスキヤキなのよ。ですから、すみませんけど、お肉を買つて来てね。それから八百屋でネギとシラタキとヤキドウフ……」
などと、五木さんの語彙をもつてすれば配偶者、普通に言へば五木夫人が頼む。すると寝ころんで週刊誌を読んでゐる五木さんが、
「煙草も買つて来てもらへ。それからこの週刊誌、もうすぐ読んぢやふからもう三冊くらゐ……」
などと言ふ。ソバ屋の出前はかういふ注文に快く応じるのださうで、これはつまり地方都市的共同体の人情がいまだに残つてゐるのであるといふ説であつたが、わたしが考へるに、これはそのソバ屋が五木さんの愛読者だからサービスしてゐるのではないか。
もつとも、わたしもまた横浜といふ街は好きだし、たとへば今回でかけた太田なわのれんといふ牛鍋の店を出るとき、牛肉の刺身にニンニクをつけて食べたせいで口が臭いのではないかと連れと心配したところ、帳場のおかみがすかさずクロロフィルを出してくれたのには、地方都市らしい人情といふのかサービスといふのか、まあさういふものをちよいと感じ取つた。
ところでその太田なわのれんだが、たしかにこれは、一度、足を運ぶ値打のある店だつた。いま残つてゐるなかでは横浜最古の牛屋だから、何しろ話の種になるのである。ここでちよつと、由緒来歴を紹介するために店のパンフレットから引用する。文体が講談本みたいで愉快だから、飛ばし読みはなるべくしないほうがいいですよ。
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初代音吉から二代吉太郎となりましたがこの人が若死にしたので後家さんになった琴さんが京次郎を迎えこれが三代目その息竹松が四代目で昭和廿年五月横浜戦災の際伊勢佐木警防団副分団長として国土防衛に殉職致しましたので五代目の私が家業をついだ訳で御座います。(中略)
初代が横浜に来た当時は埋立やら建築やら沢山の人が入り込んでいたのでこれ目当てに最初吉田新田の堤で牛の串焼を売りました。(中略)末吉町二丁目十四番地に店を新築し商売を続けて居りましたが牛肉を焼かずに煮て食う方法を考え当時行われて居りました牡丹鍋(山猪鍋)にヒントを得て、醤油または味噌をタレにし葱で臭を消すなどの工夫を凝らし、鍋に鉄鍋を用いることを考え出してほゞ今日の牛鍋の形を備える様になり店に牛鍋の看板を出したのが明治元年との事で御座います。
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さてその太田なわのれんの二階の座敷には、横綱四人の手形を額に仕立てたものが掛けてあるので、
「なるほど、相撲取りには向くだらうな」
などと感心すると、お相撲がお客のときに困るのは、テーブルが低いため膝がつかへることだ、といふ。上にコンロをのせるため、かうしてあるのだ。もちろん、わたしの膝なんかではちつともつかへない。
その低いテーブルの上にお通しが並び、酒を飲みだしたのだが、第一に酒が甘口の銘柄一つしか置いてないし、第二に三種類のお通しが感心しない。そして次の吸物も、その次の酢の物も、あまりぞつとしない味である。わたしはこのへんでもう絶望したけれど、酒をビールにかへて飲みだすころ、牛肉の刺身が運ばれて、これはなかなかの味だつた。
やはり牛屋では牛肉を食べなくちやあ、などと喜んだり反省したりしてると、いよいよ問題の、横浜名物ぶつ切り牛鍋味噌煮、といふやつが現れる。檜の角火鉢のなかにコンロがはいつてゐて、真赤な炭火の上に鉄鍋がかけてある。ヒレとロース、二種類の牛肉も、それからネギも、大き目にぶつ切りにしてある。つまり肉は世間普通のスキヤキと違つて四角く切つてあるので、これは、初代の音吉さんが朝から酒を飲んで仕事をするたちだつたので、薄く切るのなんか面倒くさくてかうしたのだといふが、そのころはともかく、現在は厚切りとは言つても、筋を丁寧に取るので、たいへん手数がかかる由。たしかに見た目にもきれいだつた。味噌は市販のものに秘伝の細工をあれこれとほどこすのださうだが、味は鉄火味噌ふうである。
さて、煮えたところで、そのまま食べてもいいし、生卵にくぐらせてもいいし、七味唐辛子をつけてもいいし、それからこれは今の当主が最近発明(?)したのださうだが、カレー粉をつけるといふ手もある。その四種類の味を書き分けるのは凡手の及ぶところではないが、わたしとしてはアブラミのところに七味唐辛子をつけるのが一番うまかつた。味噌の甘さとアブラミのしつこさと七味唐辛子の刺戟的な感触とがいりまじりながら、舌から咽喉へとなめらかにすべつてゆくのである。それはいはゆるスキヤキとはまつたく別種の味で、豪華なやうな下品なやうな……それでゐてなかなか美味であつた。なほ、ネギや糸コンニヤクの場合には、七味唐辛子やカレー粉はあまり合はないやうな気がしたが、かういふものはすべてめいめいの好みだから、一概には言へない。
厚切りのスキヤキは、薄切りの場合と違つて、どんなに煮つめても固くならないといふのはたしかに本当で、その点、酒の、いや、ビールの肴には都合がいい。最初は肉の分量がすくないやうな気がして、これでは追加しなければなるまいなどと心配してゐたが、これは厚さを勘定に入れないせいでの誤解だつたらしく、とても全部は食べきれなかつた。
わたしはかういふ調子で大いに開化情調にひたり、横浜の古い料理屋となれば、きつと大佛次郎氏もここで牛鍋をつついたわけだなどと考へた。店の人に訊いてみると、果して、何度もお見えになりましたとのことである。そこでちよつと、大佛氏の小説から引用させていただく。
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窓の外を鉄道馬車が馬の蹄鉄の音をさせて通つて行つた。(中略)乗つてゐる客の姿は見えない。馬は痩せてゐて、暑さうに息を喘いでゐた。露地を隔てた隣りの店も料理屋らしく、下足番の客を迎へる声が、始終のやうに聞えてゐたが、それが一声高く叫んだかと思ふと、店中の人間がこれに答へて、一度に、どつと、鬨《とき》の声を揚げたので、三人は何事が初まつたのかと疑つた。
「いえ。」
と丁度、寿司の皿を搬《はこ》んできた女が、笑つて、
「下足札が百番の出る度に、あゝして景気をつけるんです。(中略)松田さんて、料理屋さんですけれど、牛鍋もお出しになるので、けふ日は、大した御繁昌なんですよ。」
女はさう説明してから、
「どちらさんも文明開化ですものね。牛《ぎう》には、かなひませんよ。」
「左様なことはない、寿司は、寿司さ。」
叔父は酒の酌を受けて、
「なるほど、牛鍋の臭ひがしてゐるから、どこかと思つたら隣りか。」
「風上ですから。……内の旦那は、いやがつてゐるんですよ。でも仕方がございませぬ。はやるものははやるのですから。」
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大佛氏の名作『幻燈』の一節である。今わたしの手もとに、辻静雄氏から拝借した『リテラリ・グルメ』といふ本があつて、これは世界文学の名作から料理と食事に関する場面をよりすぐつたものだが、日本でこの手の本を作るとすれば、スキヤキではぜつたいこの一節だらう。もつとも、実を言ふと、太田なわのれんで鞍馬天狗と杉作が食事をしてゐる情景があればもつといいのだけれど。残念である。
しかし横浜の食べものとなれば、何と言つても洋食と中華料理だが、洋食で一軒だけ選べば、衆目の見るところ、ホテル・ニュー・グランド五階のスターライト・グリルといふことになるらしい。そこでよく晴れた日の正午、(「見る船 泊れる船 宴会 クラス会 結婚披露宴」といふ看板が出てゐる)白い氷川丸を左手に見る席につく。この動かなくなつた豪華船の、白と赤と黒の煙突からは煙が出て、左のほうへ淡くなびいてゐた。
まづシェリー酒を飲んで前菜。これがフランス・スタイルとかいふ派手で豊富なやつで、ほんのすこしづつではあるが種類が多い。胡瓜のピクルズとカリフラワーと芽キャベツとセロリをそれぞれ刻んであへたもの。フォアグラ。スモークト・サーモン。小海老。キャヴィア。レバーのパイ。ゆで卵の上にイクラをのせたもの。ブルーチーズ。これだけが皿の上に目白押しにのつてゐるので、何となく嬉しくなる。スモークト・サーモンとゆで卵の二つのほかはみなまことに結構だつたが、特にレバーのパイがすばらしい。それは古い革細工のやうな色で、しかも古い革細工のやうな雅致に富んだ味であつた。
次が蛤と野菜のポタージュ。クリームいろのあたたかい液体のなかに、トマト、日本ネギ、タマネギ、ジャガイモが浮んでゐる。その、あつさりしてゐて、おだやかで、しかも脂つこい味は、この洋食屋の味ことごとくを、保證するに足りるといふ気がした。サイの目に切つた野菜の色調がパウル・クレーの水彩画を思はせたせいなのか、味もまた、紅毛人の名手が描いた水彩画の感じに似てゐる。
それから、舌平目と芝海老のチーズスフレソースかけグラタン。これは傑作であつた。本当は、この「傑作であつた」のあとに感嘆符を打ちたいくらゐなのだが、あの記号を添へると文章に気品がなくなるのでさうしないだけである。ソースもよく出来てゐたし、グラタンの加減もよく、舌平目もまた、じつにうまい具合に大海を泳いだあげく、うまい具合につかまり、そして完璧に料理されてわたしの口中にはいつたといふ感じで、食べられるほうの舌平目はともかく、食べるわたしのほうは、この上ない幸福を味はつた。かういふ至福の状態について書くだけの文才はわたしにはないから、あの豪奢に白く輝く一皿の料理の楽しさを何かになぞらへたり、あるいはその味を分析的に描写したりすることは諦めるとしよう。わたしとしてはただ、近いうちにもう一度あのホテルへ出かけて(横浜は東京から三十分のところにあるのだ)、あのグラタンを食べたいと思つてゐる。
もつとも、人間の幸福といふのは神のねたむところであつて、このときも実は、一つだけ具合の悪いことがあつた。料理人とよく相談して、辛口の白葡萄酒を注文したのに、いささか甘かつたのである。あれはまあ、逆さ柱のやうなものだとして観念することにしようか。
最後は野鴨のグリルで、これがまた、舌平目のグラタンほどではないにしてもなかなかよろしい。鳶いろの鳥の上にあざやかな黄に煮た輪切りのオレンジがのつてゐて、その周囲を、芽キャベツと、ポテトチップスと南瓜《かぼちや》が飾つてゐる、まるでブラックの油絵のやうな渋い色調の一皿だつたが、まず南瓜からゆくと、あんなに甘つたるいものをどうすればこんなに甘くなく煮ることができるのだらうかとわたしは不思議でならなかつた。もちろんこれはたいへんうまくて、これこそは男の食べる南瓜料理だといふ気がしたなどと口走れば、人は笑ふだらうか。
芽キャベツとポテトチップスもよかつたけれど、野鴨はもつとよくて、ほんのすこし土くさい風味も漂はせてゐる野鴨の肉を、オレンジの果肉であるいは鎮め、あるいはいつそう引立てながら口に運ぶと、自然と人工、野性と優雅の双方の富が二つながら、しかも同時に、わたしの舌の上にあるといふ高級な感慨に襲はれる。ただ、このときもまた神はわたしの幸福をねたんでゐたやうで、ナイフがもうすこしよく切れるものだつたらどんなによかつたらうなどと思つてゐるうちに、とつぜんわたしは満腹を感じてしまつた。
中華料理で一軒といふのはむづかしいが、広東料理で中国人の客がいちばん多くゆくのは海南飯店で、わたしは広東料理ならここがいちばんおいしいと思ふが、奇妙なことに普通の日本人はこの店の料理があまりうまくないと言ふ、と語つたのは、神奈川新聞の白神義夫氏である。
「つまり、本場の味といふのでせうか。日本人向きぢやないですな」
かうまで言はれて出かけなければ、どうかしてゐる。早速、中華街の海南飯店へ足を運んだ。そして、店の前でも店のなかでも、なるほどこざつぱりした店だと感心したのにはわけがあつて、白神さんの説によると、よく世間で言はれる、中華料理屋はきたないほどうまいといふのは断じて間違ひなのださうである。
「あれは迷信ですな」
わたしもまた迷信を排撃して、至つて清潔な海南飯店の一隅に席を占め、老酒を飲みながら待つうちに、注文した料理がどやどやと(事実さういふ感じなのである)出て来る。
最初は豆鼓排骨。と言つても判るまいから(実はわたしだつてチンプンカンプンである)注をつけると、中国味噌と骨付バラ肉煮込み。バラ肉とピーマンとネギの料理で、わりに薄味でそのくせ辛く、なるほどなかなかの美味である。噛んでゐるうちに肉がほぐれて骨が歯に当ると、何となく自分が犬になつたやうな気がして多大の感銘を受けるし、その感銘をネギの甘い味がそつとやはらげる。
炒牛双眩。牛の胃袋いため。カリフラワーとサヤエンドウが添へてある。さくさくした歯ざはりがおもしろい。
干煎蝦碌。海老の中国風蒸し焼。あつさりしてゐて、なかなかいい。老酒の味がいよいよ深まる。
蒜子※[#「火+文」、unicode7086]大※[#「虫+善」、unicode87ee]。鰻とニンニクの煮込み。見たところギラギラした感じで、何となく只事ではないといふ気がするけれども、本邦の蒲焼のほうが実は脂ぎつてゐるかもしれない。一体に清楚淡泊な、しかも中国ふうの味は広東料理の特色だが、これはさういふ業を存分にふるつてゐる一品である。つまり、ギラギラのくせに案外あつさりで、しかもそのくせ脂つこいといふ、二段がまへ三段がまへの芸になつてゐるのだ。
じつと味はつてみると、どうやら何か老酒の匂ひに似た香料を上手に使つてゐるやうで、そのせいでこの不可思議な美味が生じるのかもしれないし、また、それゆゑ老酒によく合ふやうな肴でもある、などと考へながら老酒を飲む。
清蒸鮮魚。蒸し魚。これぞ広東料理の代表である。平目と鯛があつたが、平目のほうを頼んだ。極端な薄味だが、これが魚の味を生かすゆゑんなのだらうし、事実、この調子でいくらでも食べられ、いくらでも飲めるやうな気がしてくる。
鹹蛋湯。塩卵と野菜のスープ。淡泊。しかし一匙一匙と飲んでゆくごとに、その薄味のスープが豊かな滋味と変つてゆくのは、何か中国大魔術といふ感じがしないでもない。
豆腐※[#「火+文」、unicode7086]魚。豆腐と魚の煮込み。イシモチと豆腐と椎茸とチャーシュー。ただし豆腐と言つても、三センチ角ぐらゐに切つたものの揚出しである。例のどろりとしたやつだが、奇妙にあくどくなく、つまり中国料理ばなれしてゐる。
白切鶏。蒸し鳥。文字通り白く切つた鶏肉で、それにシヨウガとネギのせんぎりが添へてある。ひいやりとした味が、いくら薄味とはいへ、これだけあれこれと中華料理を食べたあとの、ほてつた口中をさはやかにする。
といふ調子で、わたしもまた、きれいな中華料理屋のなかにこそおいしい店はあるといふ白神理論を承認したのである。ただし、わたしが食べてゐるあひだ、中国人の客はゐないやうに見受けられた。もつぱら日本人が大勢、飲食の快楽に耽つてゐたのだ。とすれば、本場の味を楽しむ日本人も近頃はかなりゐると見なければなるまい。
朝粥といふのは上方のものとばかり思つてゐたら、横浜にもあつた。中華街の安記といふ店でやつてゐて、非常においしいといふのである。
そこで、朝八時、死物狂ひの勢ひで出かけてみた。何しろ毎日、十一時か十二時にならなければ起きないし、三時ごろになつてやうやく頭の動きが人並になるといふ男にとつて、これはほとんど自殺行為に近い何か(も大げさだけれど)だつたのである。中華街で車から降り、とある一軒で掃除してゐる人に道を訊く。道は丁寧に教へてくれたが、
「こんな時間、やつてませんよ、どこも」
と言ふのでがつかりしたけれども、この人はきつと粥の愛好者ではないのだと考へることにして進んでゆくと、わたしの判断はやはり正しかつた。目ざす安記はちやんと店を開いてゐて、無愛想なをばさんが一人、ぽつねんと店番をしてゐたのである。メニューは粥だけ六、七種。
牛のモツの粥を頼んで待つてゐるうちに、一人、二人と客がはいつて来て、かういふ常連はわたしのやうな新参者と違ひ、妙に凝つた注文のし方をする。メニューにある粥に、野菜を入れてくれとか、卵を入れてくれとか頼むのである。わたしは何となくくやしい思ひで、もうすこし眠つてゐて、遅れて来れば、彼らの注文を聞いてゐて、その真似をすることができたのにと悲しんだ。もつとも、あれは早起きのせいで悲しい気持だつたのかもしれない。
牛のモツの粥が来る。ものすごく熱い。白神さんの話によると、近頃の粥の店はあまりはやるせいで、熱くない粥を出すからいけないのださうだが、これなら本格的である。つまり純正なる中国粥を食べたかつたら、惰眠をむさぼつてゐては駄目なので、わたしのやうにいさぎよく起床し、ここへかけつけなければならない。わたしはさう考へて非常に満足したものの、何しろ途方もなく熱いし、それに寝不足で食欲がないので、お義理に三匙ばかり食べたにすぎなかつた。
九時である。店のなかはもう客で一杯で、彼らはみんなフウフウいひながら、白く濁つたスープのやうな粥をうまさうにすすつてゐた。
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岡山に西国一の鮨やあり
吉行淳之介さんは、育つたのは東京だけれど、生れは岡山で、叔父さんが岡山ずまひなため、今はともかくとして以前はときどきこの生れ故郷に帰つてゐたらしい。彼とお国自慢とはどうも似合はないやうな感じがある。しかし、似合ふか似合はないかなどとこだはるのもまた吉行さんにふさはしくないわけで、あつさりと、短く、かう書きつけるのである。
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仕事が続いて疲労がひどくなると、私は東京を離れて岡山へ来て、叔父の家の居候になる。岡山という土地は、海の景色は佳く魚もうまい。そんな私をうらやんで、ある友人はこう言う。
「君には、龍宮城があるからいいなあ」
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その吉行さんに、岡山にゆかうと思ふと言つたら、言下に魚正といふ鮨やをすすめ、この店の穴子のうまさについてじつに熱心に語りつづけた。何しろあれだけの描写力を身につけた話術の名人が熱意にあふれてしやべるのだから、これはなかなかの聞きもので、魚正ひとつのためにもぜひ出かけようといふ気になる。
「ママカリは?」
と訊ねると、
「うん、もちろんうまいんだが……」
といふ前置きで、この瀬戸内海の珍味にまつはる哀話(?)を一つ披露してくれた。
吉行さんは戦争末期、兵隊に取られたのだが、入営前夜、例の叔父さんの家で、叔母さんの作つたママカリの鮨をたらふく食べた。どのくらゐたくさん食べたかは、それ以後の窮乏の時期、腹がすくといつもこのときの鮨を思ひ出したといふことでも見当がつく。つまり、それほどママカリに憧れてゐたわけだが、この時期の憧れが強烈すぎたため、ママカリを食べても何かものたりなく感じるのださうである。
「入営の前の晩に食べたのは、もつとずつとうまかつたやうな気がするんだよ」
つまりこれもまた、戦争の傷痕といふことにならうか。
そして、この鮨やはたしかに名代の店らしく、数日後、石川淳さんにお目にかかつた折り、岡山ゆきのことを口にした途端、夷齋先生はただちに魚正をすすめて、
「神戸から下関までの鮨やで随一」
と断定したのだ。話がかうなると、新幹線に乗るのも張合ひがありますねえ。
魚正といふのはたしかにいい店で、それは店の前に立つたときからもう判つた。たたずまひがすでに普通の鮨やと違つてゐて、門があり、門と店とのあひだには庭があり、庭には樹と花がある。もつとも、その門や庭にしたつて、仰々しい感じではなく、まことにさりげない。そして店のなかの造作も趣味がよくて、なるほどこれなら石川さんも吉行さんも気に入るだらうと納得した。主人のうしろにある棚には備前焼の酒器がずらりと並んでゐるし、かけてある絵は小絲源太郎の出来のいい小品。品書の字も、マッチのデザインも、主人の顔も、文句のつけようがない。もつとも、何よりも圧倒的なのは眼前に置かれた鮨種で、その形のととのひと色彩の豪奢なことは、この店の仕込みがどれほど吟味してあるかをこの上なくはつきりと示してゐた。かういふ贅美を盡した感じは、何か、人間を感奮興起させるものがある。すなはちわたしは感奮興起して、瀬戸内海の魚介へと立ち向つた。鮪なんかには見向きもしなかつたね。もちろんこれだけの店だから、鮪だつていいに決つてゐるけれど。
まづ、つきだし。ベラタといふ、穴子の稚魚を辛子味噌で和《あ》へたもの。透明で平べつたい、ごく小さな魚が、トコロテンのキシメンづくりといふ意気で、渋い色調の黄のなかで光つてゐる。そして、白魚よりもいつそう可憐で、いつそう柔く、そのくせもつと歯ごたへのあるこの魚でお多美鶴といふ地酒を飲みだしたとき、わたしはこの店が西国一の鮨やであることを確信してゐた。
次は鯛の刺身。柔くて引きしまつてゐて、ほのかに甘くて、じつによろしい。ふと、「春まつ花の櫻鯛」などと、うろおぼえの蜀山人の台詞をつぶやくほどであつた。
ベイカの塩ゆで。木の芽味噌で食べる。ベイカといふのは瀬戸内海特産の小型の烏賊で、大きさはせいぜい薬指くらゐかしら。ちようどイヒダコみたいに、いつぱい子が詰つてゐる。もちもちしたベイカの味と、木の芽味噌のさはやかな甘さとの取合せによつて、春の瀬戸内の海を眺望する春の山野が一瞬のうちに口中にひろがる。
タコ。このゆで加減が上手で、強い筋肉質の歯ごたへなのに柔く、この上なく豊かな感じを与へる。
シヤコ。絶品である。大きくて厚くて、堂々たる威容を誇ってゐるし、子がずつしりとはいつてゐる。最初はまづ、箸を使つて、醤油をちよつぴりつけて食べてみるが、ここであまりのうまさに愕然とし、次に、ごく自然に、指でつまんで何もつけずに食べることになる。魚正のシヤコは、何かさうせずにはゐられないやうな魅力をたたへてゐるのだ。かういふ肴で飲むお多美鶴がうまいことは言ふまでもあるまい。
次がママカリ。次が海老。次が平目。淡泊にしてしかも豪奢。次が海老の頭の吸物。小さな正方形のノリが浮いてゐる。まつたくの薄味で、臭を消すためワサビを入れてあるのだが、これがまた酒の肴に非常にいい。
このへんで握つてもらふことにする。飯はたぶん播州米を使つてゐるのだらうが、多すぎず、少なすぎず、まことにいい分量で、その上質の飯の味と、春の鯛の、甘くて清冽で豊満な味との調和がすばらしい。
穴子。いよいよ吉行さん絶讃激賞の尤物である。目の前の木の箱にはいつてゐるのだが、実を言ふと、さつきからその鳶いろの堂々たる姿を眺めて、わくわくしてゐたのだ。もう一ペん炙つて、それから握る。長い穴子が、|く《ヽ》の字といふよりもむしろ、|の《ヽ》の字になる中間のところに飯がはいる。つまりそのくらゐの大穴子なのである。これをちよいとつまんで口に入れると、穴子の熱さと、飯のひいやりした感触、穴子の脂つこくてねつとりした味と、飯の清楚淡泊とが一度に入りまじつて、複雑な味覚の一世界がたちまち口中に出現する。
このあとが平目のエンガハ。非常にいい。次が芽ねぎ。発芽してから一週間ほど経つた細い葱、六七本そろへて、根のところを切り、これをのせた握り鮨である。清爽にして素朴、簡浄にして優雅、彩りの美は言ふまでもないが、口中の腥《せい》をこのあたりで拭ひ取らうといふ工夫がまた楽しい。
ママカリ。コハダの鮨よりもつとあつさりした味はひ。乙である。この瀬戸内海特産の魚については江戸幕府の崩壊によつて会計副総裁を免ぜられ、三十二の若さで隠居したばかりの成島柳北が、明治二年陰暦十月、山陽に旅したときの『航薇日記』のなかにも、
[#1字下げ] 廿六日雨晴る。柳菌を食ふ、味美なり。午飯に魚を供す。其かたち鰯に似て小なり。其名を借飯魚《ままかり》と云ふ。冠堂いふ。此魚往年始めて漁船に上る、漁人これを食ふに味美なり、闔船の飯を喫し盡し、竟に隣船より飯を借て食ふ、其の味の美なるに因てなり、故に名づけしと。此魚盛んに海口に来る時は、数十艘の船に盈ると云ふ。
とある。
陰暦十月と言へばちようどママカリのいちばんうまいときのはずだ。姿のまま素焼にしたのを二杯酢で、あるいは生姜醤油で食べると、鰯よりもあつさりしてゐてこたへられない、頭から食べるのがいい、と聞いたけれど、江戸幕府の騎兵頭だつたり、外国奉行だつたりした男が、果してママカリを頭から食べたかどうか。もつとも、柳北が当時、東京(ここはぜひトウケイと読んでもらひたい)随一の伊達男で、のちに朝野新聞社長となつて明治政府をさんざんからかひ、一方『柳橋新誌』なんてしやれた本の著者になつたといふ事情を考へ合せると、きつと頭からムシヤムシヤやつたにちがひないといふ気もする。つまり、よく判らないね。しばらく後考を待ちたい。ついでだから書き添へておくと、この旅中での柳北先生の女遊びも相当なものだつたが、口腹の欲のほうもすこぶる熱心で、高砂といふところでは、「此浦にて漁人の捕りし章魚を買ひて食ふ、其の味の美なるにはほとほと驚きたり」と記して、
高砂や歌人も知らぬ蛸の味
などと、あまり上手とは言へない発句をものしてゐるし、あるいは、「舟人また比目魚《ひらめ》の尺余なるを買とり調理して供す、是も亦殊に賞玩す可し」といふ調子で、うまい、うまいと喜んでゐる。
次にアミの塩辛が出た。この店特製のもので、塩辛のくせにちつとも塩辛くなく、酒の肴としてまことにいい。ただし、本当のことを言ふと、これで御飯を食べたらどんなにうまいだらうかなどと、内心ちらりと考へながら、しかしお多美鶴を飲んでゐたのだから、人間の精神といふのはずいぶん複雑にできてゐるものだ。これは岡山附近にしかゐないアミださうで、ママカリはこれが大好きだから、つまり岡山のママカリはいいのだといふ説明であつた。
次に鰆を握つてもらふ。じつに柔いし、魚の味についてこんな言葉を使ふのはをかしいかもしれないけれど芳醇で、いかにも西国筋の鰆といふ気がする。関東者のなかにはこの柔さを嫌ふ人がゐるといふ主人の説明を聞いて、世の中には珍しい好みの人もゐるものだとわたしはむしろ呆れてゐた。
ここでおしまひに、穴子をもういちど握つてもらふ。豪快で、贅沢で、非の打ちどころがない。わたしはまさしく、「其の味の美なるにはほとほと驚きたり」といふ気持で、岡山の魚正の穴子を大いに「賞玩」してゐた。
そして、あのへんには魚正以外には目星い店がないといふのが大方の評判だつたが、これはたしかに正しいやうである。たとへば倉敷国際ホテルのグリル。別に悪口を言ふ必要はちつともないけれども、褒める気にもなれないといふ洋食だつた。これにくらべれば、珈琲館のコーヒーなんてのは絶品ですよ。それから旅館くらしきの和食にしたつて、何もここで取り上げるほどのことはない。もつとも、ここへは岡山名物のバラ鮨といふやつを食べるつもりででかけたのに、こちらの手違ひでうまくゆかなかつたのである。これは、旅館くらしきの手落ちではない。そしてこの宿屋は、調度と言ひ客あしらひと言ひ、じつに模範的だつた。
宿の下駄を借りて倉敷の街を散歩すると、家並は御存じのとほりきれいだし、ちようどお天気だし、それにもう一つ、一日目は月曜で、美術館が休館なため、人通りもわりあひすくなくて、じつにいい気持である。倉敷には月曜にゆくに限る。そのほうが段違ひに閑静で、必然的に、江戸時代の風情に近いものが味はへるのである。
二日目にまた下駄ばきで散歩しながらわたしが思つたのは、江戸時代には女性週刊誌なんてものがなかつたからな、といふことであつた。明らかに女性週刊誌の記事にあふられて倉敷見物に来たと覚しき、若い女の子の二人づれ、三人づれがむやみに多いのである。彼女らはまことに嬉しさうにおしやべりしながら白壁の家並の通りを歩き、写真を撮影しあひ、珈琲館だのエル・グレコだのといふ喫茶店にはいり……、なかには、これは連れはゐなくてたつた一人の女の子だつたけれど、川べりに赤と白のだんだらの布をひろげて、ながながと脚を伸べ(赤いペディキュアがしてあつた)、しみじみと水を眺めてゐるのもゐた。あれはきつと、女性週刊誌のカラー・グラビアにあつた通りのポーズにちがひない。一言にして言へば、若い娘も、ああ大勢ぞろぞろゐるんぢや情調が乏しいよ。
しかし意外なことに、岡山は番町にある藤原といふ飲み屋でバラ鮨にありつくことができたのだから、人生といふものは妙な具合に出来てゐる。ちようど四月三日、舊の雛まつりなのでこしらへたといふわけである。バラ鮨といふのは、本山荻舟に言はせるとチラシ鮨の代表格らしいから、一つ書きつけておかう。藤原は美貌の母子二人でやつてゐる店で、厳密に言へば家庭料理を御馳走になつたやうなものだから、ここで紹介するのはちよつとをかしいかもしれないけれど。
白酒の代りに、七福といふ濁り酒。これが人をして容易に陶然たらしめる。わたしはなかなかいい細工の、古くて大きな内裏様を陶然として眺め、雛祭といふのは、殊に一月おくれの雛祭といふのは、何といいものかと思つた。
黄ニラと豆腐の吸物。これは岡山にしか出ない特殊なニラで、しかもせいぜい四月一ぱいまでといふ。そのニラも、豆腐も、むやみに多いところが家庭的である。この吸物を飲みながら、バラ鮨を食べる。
本山荻舟によると、コケラ鮨といふのがのちのチラシ鮨の「先駆をなすもの」で、その最も発達したのが備前岡山のバラ鮨であり、なぜ発達したといふと「藩祖光政以来の倹素の風」のゆゑなのださうである。つまりこの藩では、春秋の祭礼に親類や知り合ひが集まつて親しむのは奨励すべきだけれど、奢侈はいけないといふので、饗応は鮨と甘酒、そのほかは一汁一菜と限つた。その法度のなかで奢りを盡したため、バラ鮨が豪華になつたのださうな。たしかに、出て来たものはすこぶる賑やかなもので、穴子、海老、鰆、烏賊、灰貝(藻貝)、蕗、タケノコ、エンドウ、蓮根、ゴボウ、ニンジン、卵焼と多様を極めてゐる。が、ものの本によると、これ以外に、シヒタケ、カンピヨウ、高野豆腐などの乾物類を入れてもいいらしいし、秋にはハモだの松茸だのが加はるといふ。そのバラ鮨の冷たさと黄ニラの吸物の熱さとの突然な衝突はなかなか趣が深かつた。思へば、江戸時代の質素といふのはずいぶん高級なものだつたね。
ただし魚正と違つてあまり有名ではないけれども、この地方にもう一軒、ぜつたい逸すべからざる料理屋がある。いや、料理屋と言つてはをかしいので、はつきり焼鳥屋と言ふほうが話が通じやすいが、とにかく倉敷駅前にある金平といふ店は推奨に価する。たいへん繁昌してゐて、近くに支店を出してゐるけれど、これはやはり本店のほうがいい。支店は、広くて小ぎれいで明るくて、どうも感じが出ないやうである。
つまりそれほど、狭くてきたなくて暗くて、客が十人はいれば満員といふ店だが、五十がらみのおかみが一人で店をやつてゐた。椅子に腰かけると、何も言はないうちに酒が出る。残念ながらこの酒は甘くて、水つぽくて、わたしの口には合はない。嘉美心といふ地酒である。もつとも、軒燈に、「嘉美心酒場 金平」とある以上、ほかの酒はないわけだから、我慢して飲む。飲んでゐると、依然としてこちらが何も言はないうちに(これは別に、わたしが威張つて、口をきかないわけではない。一人で忙しさうにしてゐるので、声をかけないだけである)、湯豆腐が一皿出る。ただし、箸は出て来なくて、スプーンが添へてある。この、スプーンでしやくつて食べる湯豆腐がじつによくて、途端に酒もうまくなつてきた(夏にはもちろん冷奴に変る)。ただし、スプーンで湯豆腐を食べる際のコツが一つある。秘伝といふほどのものではないから、気前よく教へてあげると、しやくふときに、左手の人さし指の腹で豆腐をちよいと押へることである。
ここで雀やきを頼む。一人前二串で、一串に三羽。当然のことながら、その三羽がみな頭がついてゐて、いささかうなだれながら串に刺され、炙られたのだが、これは仔細に眺めたから判ることで、めいめい激しい勢ひで脚を天に突き出しながら黒く炙られたのが一串に並んでゐると、新手の怪獣(?)のやうな気配がある。
この怪鳥の焼鳥がうまかつた。口のなかで頭や骨や足がパリパリ砕ける、その乾いた感じと、雀の肉の潤ひと美味との同時的共存がまづよくて、その次に、頭の中身のねつとりとした味がひろがる。わたしは、この雀たちがかつて食べた備前の米に感謝した。
次がカシハ。これも二串。鶏肉の動物性の硬さと玉ネギの植物性の柔さとの交互的な対照のせいで、どちらも塩つぱいのにその塩つぱさがまつたく違ふもののやうになる。それから手羽。これも二串で、一串に手羽が二つづつ。豪華を通り越して雄大。(ただし残念ながら一串は食べ残した。)表面は塩を吹いてゐて、えらく塩つぱいが、しかし関節の辺のねばねばをしやぶる段になると、だしぬけに、香美脆味といふ感想が襲ひかかつてくる。
吉行さんは魚正について語つたとき、
「しかしあれは後を引く店でねえ……」
と言ひ添へたが、この予言は的中した。帰る日の晝、わたしは文字どほり寸暇をさいて、この鮨やへ出かけたのである。
まづ、つきだしは鮑の肝の生。これを刻んだのに、レモン汁とワサビ醤油をまぜたものをかけてある。ひどくしやれた味である。
次が鮑の肝のゆでたやつ。重厚複雑な緑の色調。脂と滋養分の塊りのやうだと思つてゐたら、魚正の主人が、カルピスの社長は毎朝これを一つ食べたと語つた。
次が生き海老。食べ終つてしばらくしたら、海老のシツポが瑠璃《るり》いろに輝きながらぴくりと動いた。鯛。この日の鯛は殊によかつたが、この味を形容することは、もうわたしの手にはおへない。
ここで卵焼を握つてもらふ。これだけの店ならうまい卵焼にちがひないと思つてゐた、その予想を上まはる味である。
次は海老の頭の吸物。その次は鯛の皮の握り。レモン汁をかけて食べる。瀟洒《しようしや》なことこの上もない握り鮨である。穴子。今日は焼きあげたばかりだからといふので、改めて炙らないで、ちよつとひいやりしたのをそのまま握る。これもまた変つた趣向でおもしろいが、わたしの好みでは炙り直した熱い穴子のほうがちよいと上のやうな気がした。
ベイカに木の芽をあしらつて。芳烈な木の芽の香りが鼻を打つとき、ベイカの豊かな肉質と飯とが同時に口を楽しませる。
赤貝。こんなに見事な赤貝をわたしは見たことがない。大きくて華麗である。倉敷の大原別邸の緑の瓦は、戦前ドイツに注文して作らせたものださうだが、昔のドイツの名工の作つた赤い瓦が倉敷の春の雨に濡れたならば、かういふ色艶で照り輝くのではないかとわたしは思つた。
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岐阜では鮎はオカズである
現在のところ文壇的には、岐阜の特産は文芸評論家といふことになるかもしれない。まづ平野謙さんがここの生れである。篠田一士(と呼び捨てにするのは、昔からの友達だからだが)も岐阜の生れである。小島信夫さんはもちろん小説家だけれど、批評を書かせると本職ハダシだなんてよく言はれる。事実、先年この三人が揃つて大新聞の文芸時評を受持つてゐたことがあつて、あのころは、岐阜といふ土地柄と批評家といふ商売とは何か関係があるのかなどと、ほうぼうで話題になつたらしい。
ところが岐阜出身の批評家のお国自慢といふものは、えらく屈折してゐて、故郷の食べものをまともには褒めない傾向がある。篠田に言はせると、
「料理屋はいろいろあるけどね、しかし鮎なんてものは、別に料理屋に行つて食べるやうなものぢやないよ。とれたてを売りに来たのを買つて、家《うち》で食べるものでね。まあ、料理屋に行つたつていいが」
といふことになる。これが平野さんとなるともつと徹底してゐて、何かの会でお目にかかつた折り、質問を発してみると、岐阜の食べもので推賞したのは鮎の佃煮だけであつた。ここで重大なのは、かういふ素つ気ないことを言ひながら、その鮎談義にじつに情熱がこもつてゐることである。篠田は約一時間にわたつて長良川の鮎について論じつづけたし、平野さんは鮎の佃煮の最高(と平野さんの判断する)店の、住所と電話番号が書いてある紙きれをポケットからするりと出して渡してくれたのだ。つまり、一見けなすやうにして実は深い愛着を示すといふのが、岐阜の批評の方法なのかもしれないね。小島さんには機会がなくて訊ねてみなかつたが、あのヤヤコシイ批評家に岐阜の鮎を論じさせたら、どんなにヤヤコシイことになるか、ちよつと実験したいくらゐである。
もつとも篠田の言ふ、鮎は本来、料理屋でではなく、家《うち》で食べるものだといふ説には、恐るべき真実が秘められてゐるのかもしれない。わたしは岐阜の日の出町にある〔なかたに〕(かういふふうに〔□□〕のなかに店の名を入れると、池波正太郎さんみたいで、何となくカツコいいでせう)といふ小料理屋で、さう思つたのである。そして、この調子でゆけば、鮎は佃煮に限るといふ平野さんの説も、同じやうに恐るべき洞察なのかもしれない、と考へたのだ。
その〔なかたに〕へ出かけたのは、篠田の友人で、わたしも以前から親しくしてゐる、岐阜の深尾学さんにすすめられたからである。深尾さんにもいつしよに行つていただいたのだが、そばで見てゐると、彼の鮎に対する態度は、普通の日本人の鮎に対する態度とはどうも違ふ。つまり、われわれが鮎を高貴にしてかつ貴重な珍味として恭しくあがめてゐるのに反し、深尾さんはごく当り前のオカズとして把握してゐる。これはどうやら、彼が東海ラジオの役員待遇の業務局長で、口がおごつてゐるせいではなく、岐阜人一般の鮎に対する関係の、ごく自然な表現であるらしい。子供のころから鮎をふんだんに食べてゐれば、どうしてもかうなるわけだ。
この、オカズとしての鮎といふことが最もあらはなのは、最初に出て来た一品、鮎の赤煮である。一口で言つてしまへば鮎の煮つけで、天然の、しかも郡上《ぐじよう》の鮎を煮つけにするなんて勿体《もつたい》ないと思つたのだが、食べてみると途方もなくうまい。第一に柔いし、第二にたつたいま煮たばかりなので温いし、第三にその柔かさと温さのなかに、ほのかな苦さやかすかな渋さが漂ふ。刻み生姜を添へて、味醂《みりん》と、たまりと、醤油だけで煮たものださうで、これは酒の肴として絶好のものであつた。酒は地酒ではなく、酔心。
そしてこの結構なもので一杯また一杯と飲んでゐるそばで、深尾さんは、
「もうすこし煮こんだほうがいいな」
などと主人に指図し、
「これの冷えたのを何匹もムシヤムシヤ食べて、御飯を食べるのが一番うまいですな、鮎では」
とつぶやくのである。たしかにこれだけの料理なら飯にもいいにはちがひないが、しかしあれは、まるでキャヴィア茶漬けをさらさらとかきこむ話を聞くやうな感じだつた。岐阜といふのはさういふ贅沢な土地なのだ。
次が鮎の塩焼。もちろん蓼酢《たです》で食べる。これも天然の、しかも郡上の鮎で、郡上といふのは長良川の上流のほうだが、岐阜のあたりまでは鮎が動物性のプランクトンを食べるのに、郡上のへんになると植物性のプランクトンになる。そのせいで味がいつそうよくなるのださうである。この、赤煮にくらべればずつと大ぶりな、つまりそれだけたくさん植物性プランクトンを食べた鮎二匹がまたよかつた。豊かでおつとりした、こせつかない味で、典雅高秀、こちらの体のなかが清らかになるやうな気がする。事実、食べたあとの後口が爽やかで、それはちようど、
魚食うて口なまぐさし晝の雪   成美
の正反対のやうだつた。朝の雪よりももつとすがすがしい鮎の塩焼なのである。さう言へば〔なかたに〕の主人は、鮎の場合に限つて、氷詰めにした氷のかけらを口に含んでもちつともなまぐさくないなどと威張つてゐた。
次が鮎の田楽で、中くらゐのやつが二つ。横に細長い皿に、頭と尾だけはたしかに鮎で、しかし腹のあたりは一面に褐色の泥を塗りたくられた怪魚が並んでゐる。その印象はまことにグロテスクだけれど、この怪魚がどんなにうまいかといふことは、遙か昔、岐阜の篠田の家でお婆さんの手料理を御馳走になつたときに知つてゐるので、魚田《ぎよでん》は楽しみにしてゐた。
期待はいささかも裏切られることなく、京の櫻味噌の甘い味と(八丁味噌は渋くなるので避ける由)、魚肉の清冽淡泊とがまづ口中で衝突して複雑微妙な感銘を与へ、次にその二つに、ワタのところの苦さがぶつかつて、味はひがいよいよ錯綜したものになる。それは、岐阜の鮎の田楽を食べたことがない人が勝手に想像するやうな、折角の鮎に対し何といふひどいことをするのだらうとか、あのへんは味噌が名物だから、それをもう一つの名物である鮎と組合せただけさとか、つまり鮎の田楽といふのは土俗的な料理にすぎないとかいふのとはまるで違ふ、まことに上品で優雅な味なのである。そしてこれが、鮎をオカズとしてとらへたときにはじめて発明される料理であることは言ふまでもなくて、たしか二十年近く前、篠田のお婆さんの手料理で食べたときはわたしもこれで御飯を食べたやうな気がするが、いや、もつと正確に言へば、若い篠田のおつきあひをして若いわたしは何杯もおかはりしたやうな気がするが(ちなみに言ふ、この文芸評論家はおそらく日本文学史最高の健啖家である――食事にかけても、そして読書にかけても)、しかしこの小料理屋ではひたすら酔心を飲んでゐた。鮎の田楽はまた、酒の肴としてもなかなかいいのである。味噌を魚肉やワタといつしよにしたのも酒に合ふし、また、味噌だけなめても酒の味を引立てる。
それからアマゴの塩焼。つまり山女魚《やまめ》である。これは鮎にくらべれば香気は落ちるけれど、味にかけてはもう一段上で、味の仕掛けがこみいつてゐる。淡泊なくせに豊満、簡素にして贅美、淡水魚のなかの王者といふ格である。炙る前に主人は、
「はつきり申し上げますが、これは天然ぢやありません」
と正直率直に断つた。たしかに食べてみると、先年、金沢で賞味したアマゴ(これは天然のもの)とは一味違ふことが判つたが、この場合はむしろ、主人の正直率直な態度と、養殖のアマゴをこれだけうまく食べさせてくれた腕に感心すべきであらう。そして今になつてみるとしみじみ残念なのは、アマゴ二匹を塩焼にしたことで、あれはやはり、塩焼は一匹だけにして、残る一匹は味噌汁にしてもらふべきであつた。今度〔なかたに〕に行つたら、ぜひさう頼まう。あれだけうまいものを食べさせる料理屋に、もういちど出かけないといふ法はない。
次が鮎のフライ。レモンでしづめてから、ソースあるいは塩で。それから小田の唐揚げ。といふのはこの店の主人の命名で、要するに食用蛙の唐揚げである。岐阜の民謡「オババ」に、「小田のかはづが寝て聞ける」といふのがあつて、そこから取つたのださうな。この命名が気がきいてゐると同じくらゐ、この一品もおもしろいものだけれど、遺憾なことにこのへんですつかり満腹してしまつた。
そこで最後に刻み野菜。これは本来、小田の唐揚げの付け合せとして考へたものだが、むしろこちらのほうが気に入られて、これだけを注文する客が多いと主人は苦笑してゐた。玉レタス、赤キャベツ、胡瓜、青シソ、ピーマンを細かく刻み(ときにはウドやセロリもはいる)、胡麻のタレで食べる、さはやかで甘くて、すこぶる口あたりのいい一品である。和風のサラダとも言ふべきか。
岐阜の鮎と張り合ふだけの名古屋の名物は、言ふまでもなく鳥であらう。名古屋の鳥屋ははなはだ多く、電話帳には鳥なんとかといふ屋号が目白押しに並んでゐるが、うまい料理屋が多いなかを一つ選んで、伝馬橋西口の鳥孝といふ小さな店へ出かける。店の構へが小体《こてい》で、あまり立派ぢやなく、しかも味はなかなかよろしいと聞いたからである。
たしかに、最初に出て来た串は絶品だつた。濃い鳶いろの二串で、同じ色のタレが皿の上に薄く流れ、それに脂のすぢが斑らに浮いてゐるのを見ただけで、そのことはよく判つた。これは焼鳥が手羽を使ふのとは違つて、鶏の頸の肉を用ゐる。頸の肉といふのは、しよつちゆう動かすから美味なのかもしれないが、とにかく、こりつとしてゐて、しかも柔く、さりげなくて、しかも豊饒|肥甜《ひてん》な感じなのである。この口中の幸福のため、わたしがそれまで飲んでゐたビールはよしにして、酒に移つたことは言ふまでもない。銘柄は菊正宗。
ただ残念なのは、この串だけはお代りが出ないことで、つまり二串だけで我慢しなければならないのである。これは、一羽の頸の肉からせいぜい三串しか取れないだらうと素人でも見当がつくから、文句は決して言へないけれど。しかも、二串しかありつけないなどと不平を言ふのはそもそも心得ちがひなので、この一人二串にしたつて、遅く来た客にはもう出ないのださうである。
ここでついでに言つておけば、この店の鳥は、名古屋コーチンに在来種とアメリカの品種とをかけあはせた食肉用で、専属の養鶏場で飼育させてゐる。ブロイラーは早くしめてしまふが、これはずつと日にちをかけて大きくしてゐるし、従つて水つぽくないから、ブロイラーよりうまいはずだといふ触れこみだつた。わたしは、たしかにそれはさうだとうなづきながら、しかし、今度は一つ頸のへんがうんと大きい新品種を作つてもらひたいと考へてゐた。
次が、みぞれ。これは鳥肉のゆがいたのに大根おろしをあしらつた酢のもので、細切りの海苔をちらしてゐる。
それから、わさびあへ。これもゆがいたものを、白醤油(淡口醤油のことかしら?)と、わさびで食べるもので、海苔細切りが添へてある。淡泊ななかに刺戟が強く、酒の肴にすこぶるよろしい。殊に、鳥の皮のぬるりとした感触がこたへられなかった。
水たき。もつとも水たきとはいつても、実は昔のスープ煮といふやつのやうな気がする。本来の水たきなら若鶏の腿のぶつ切りしか用ゐないし、それに三、四時間は煮込むはずだからである。
要するに鳥肉(笹身、皮つき、レバー)、ネギ、焼豆腐、三つ葉、シラタキを鳥のスープで煮て、適当なところで、非常に多量の大根おろし、ほんのすこしの生姜、刻みネギ、それに醤油で食べる御存じの料理だが、大根おろしその他の冷と、鳥その他の温との取合せがまづ楽しい。その冷が温によつて冷され、しかし冷されきつてはしまはなくて、むしろ充分に温いうちに口中にはいつたとき、その冷と温が口中で改めて衝突し、たとへば、レバーの甘くて脂つこくてもちもちした印象と、大根おろしの清爽な感じとがいりまじるのである。笹身も、皮つきも、レバーも、ブロイラーではとてもかうはゆくまいなどと多大の感慨に耽りながら、わたしは菊正宗を飲んだ。
鍬焼。フライパンに醤油(たまりらしい)と油を入れ、手羽を焼いたもので、コシヨウがかけてある。これをオカズにして御飯を食べてくれといふ話だつたが、御飯は断つて酒を飲みつづけたため、酒の肴としてはすこし重苦しかつた。ただし、付け合せのキャベツはなかなかいい。
御飯を食べなかつたのは、水たき実はスープ煮のスープでキシメンといふ都合があつたせいである。せつかく名古屋まで来て、キシメンを食べないのはやはり心残りだつた。そして、名古屋コーチンのゆかりをかなりとどめてゐる鳥のスープでのキシメンがなかなかうまかつたことは、言ひ添へるまでもなからう。
今度の旅は、ここまでのところはよかつたが、これからさきがどうもいけなくなつた。もちろん、全部が全部、まづかつたわけではないけれども。
まづ羽島のなにがしといふ料理屋の鯰《なまず》の照焼。感心しなかつたねえ。直径四十七センチくらゐの大皿に、二つに開いたやつが、でんと控へてゐるのだが、それは一見、まるで鉈《なた》が一つ出て来たやうである。そしてこの鉈の照焼は、フニヤフニヤに柔くて、水つぽくて、とても食へたものではなかつた。わたしは、あれだけ年中、水のなかにゐるのだもの、水つぽくなるのも当り前だなどと、理窟に合はないことを考へながら、箸を投じたのである。
あれは焼き方が下手なため、あんなことになるのだらうか。つまり、もつと長い時間かけてゆつくり焼けば、もうすこしましな味になるのだらうか。
もつとも、鯰なんてものがおいしくないのは誰でも知つてゐることらしく、ほかの客はみな、鰻とか鮎とかばかり食べてゐた。
その点、飛騨の高山の二元町にある、ゑびす本店といふ店の手打そばはよかつた。山の光といふ地酒が甘つたるいのは困るが、そばそのものがすばらしい。真黒ではない、わりあひ白つぽいやつで、歯ごたへも、味も申し分なかつた。ついでに褒めておけば、ネギも大根おろしもよく、ツユもほどよく辛くて、これなら、そばで一杯飲むことだつてできる。
わたしはまづ、ざるを食べ、次におろしそばを頼み、どちらにもすこぶる満足した。おろしそばといふのは、大根おろしとネギ、それにシソの葉の刻んだものをのせて冷たいソバツユをかけたもので、しこしこした感触がじつに楽しい。だが、残念なことに、深尾さんがこの店を推薦した際に述べた眼目のものは、なかつたのである。彼は、今はちようど朴の葉の季節だから、ざるは、青い朴の葉にのせて出される。朴の葉の匂ひがそばにまじるのは、おそらく高山のこの店でしか味はへないはずだと力説したのだが、不思議なことにこのときは、笹の葉にのつて、ざるが出て来た。訊ねてみると、このところ店が忙しくて、朴の葉を取りにゆけなかつたと言ふ。こんなことなら、わたしの泊つた宿屋の庭に大きな朴の樹があつて、青々と葉が茂つてゐたのを、ひよいと跳びあがつて取つてくればよかつたと、後悔ほぞを噛んだ。
その次は同じ高山の、角正といふ精進料理屋。これはなかなか格式の高い店らしく、庭も座敷も堂々としてゐるが、晝しかやつてゐないし、しかも悪いことにちようど隣りの家が普請中で、やかましくて仕方がない。騒音に悩まされながら、これではどんな珍味佳肴が出ても気が散つて味はへないのではないかと心配だつた。
まず吸物。山芋をすつて、海苔を巻いて揚げたものがはいつてゐる。ほかにジユンサイと木の芽。吸物の味はまあまあといふところ。つまり、あまり感心しなかつたが、これはやはり隣家の普請のせいといふことにしよう。
といふのは、次に箸をつけた胡桃《くるみ》豆腐が非常によかつたからで、かうなると騒音などたちまち気にならなくなるから、人間といふのは現金なものである。胡桃豆腐の曇つた象牙いろの上に、柚子味噌の鉛いろがのつてゐる取り合せがまず眼を楽しませるが、味のほうはもつといい。胡桃豆腐の温雅で、そのくせひいやりした感触と、柚子味噌の甘ずつぱい味との調和が、酒によく合つてゐる。酒は地酒で、久寿玉正宗。
そのあとで、箸をつける順序としてはどうもをかしいけれど、前菜。焼おかべ、琥珀《こはく》くるみ、ぜんまい。これも三つともよかつた。小附の笹の子、つまりタケノコの小さなやつのあへものもうまい。以下かういふ調子で、豆腐にもちごめのあらびきしたものをまぶして揚げたやつとか、獅子とうがらし、南瓜の揚げものとか、椎茸ずしとか、手打そば(茹で方が柔かすぎる)とか、新じやがの胡麻あへ(乙である)とか、つまみ菜の胡桃あへ(ちよいとしやれてる)とか、青梅(シヨウチユウの味がおいしい)とか、黒豆(蜜でふつくら煮たもので、かういふものもけつこう酒の肴になるから不思議)とか、柏椀と漬物(漬けたものを塩出しして煮てある)で御飯を一ぜんとか、まあいろいろ食べたのだが、角正を出たとたん、わたしは奇怪な空腹感に襲はれたのである。いや、その異様な感じの正体が空腹感であることが判つたのは、五分か十分たつてからだつたかもしれない。それまでは、あれだけあれこれと食べたのだから、腹がすいてるはずはないと、自分に言ひ聞かせてゐたのではなかつたらうか。
一体、精進料理の最大の欠点は分量のはなはだすくないことである。動物質がないのだから、せめて分量がある程度なければ話にならないやうな気がするのだが、この特殊な料理を発明した人はさうは考へなかつたらしい。ドナルド・キーンさんはいつぞや東京のなにがしといふ精進料理屋で、一皿一皿の料理の量があまりに僅かなのに驚き、やがて、これはみんなオルドーヴルなのだと考へて安心し、食べてゐたところ、不思議なことに、オルドーヴルが終つたら料理は終りになつたといふ。キーンさんのやうな日本文化に詳しい人でさへかうなのである。ましてわたしのやうな日本文化に縁遠い人間ではどういふことになるか。
わたしは閑寂な高山の街を力なく歩いていたが、ふと、自分が何かを探していることに気がついた。しかしこの日は火曜日で、高山の商店街は休みの店がむやみに多いのである。わたしは三十分ばかりゆつくりと探し、それから三十分は眼を血走らせて歩きまはつたあげく、やうやく、とある安食堂にはいつて、大声で注文した。
「トンカツ!」
後記。平野さんのおすすめ品は鮎ではなく、イカダバエと判つた。わたしの聞き違ひである。なほイカダバエとは、ハエといふ小魚の甘煮。
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八十翁の京料理
京都のさる旦那から南一といふ料理屋をすすめられた。八十になる老主人がみづから包丁をとる小体《こてい》な店で、当今、京料理ならここにとどめを刺すのださうである。二三日して、日本中の食べもののことに詳しい人に出会つたので、京の南一を知つてゐるかと訊ねると、ただちに講義をしてくれた。先代の辻留の主人は、数の多い仕出しの注文があつたときは、今の主人、つまり辻嘉一氏を使ひに出して、この人を助つ人に頼んだといふのだ。これが昭和のはじめのことで、どうやら当時から腕がいいので有名だつたらしい。
「変なことを知つてるね」
と褒めると、すこしばかり照れて、
「うまいよ、河繁や千花もいいけれど」
そこで早速、新幹線に乗ることにした。
宿を取つてから、なにぶん忙しい人だから今夜はあいてないかもしれないとは思ひながら、念のため山崎正和さんを誘つてみると、二つ返事でつきあふと言ふ。ただし、この『世阿弥』の劇作家は、これだけ長いあひだ京都に住んでゐるのに南一なんて聞いたこともない、と詫びるやうにつぶやくので、心の暖かいわたしは、何しろ実朝は上洛したことがなかつたから、と慰めたのである。ちなみに言ふ。彼の新作『実朝出帆』は十月三十日(昭和四十八年)から十一月十一日まで東京は渋谷の西武劇場で上演される。見物料は……いや、何もそこまで宣伝してやることはなからう。
ところが驚いたことに、夕刻、河原町三条南の南一の前まで来たとき、山崎さんは、
「なーんだ、ここか」
と言つた。この店なら十年前、観世栄夫さん、寿夫さんの兄弟に御馳走になつたことがあるのださうな。
「味は?」
と訊ねると、申しわけなささうにかぶりを振つて、ちつとも覚えてないと答へる。はじめから終りまで演劇論を熱烈に語りあつて、料理のことなど関心がなかつたのださうで、この顔ぶれならたしかに無理もない話だ。一種の美談と言つてもいいかもしれないね。
南一は三人でやつてゐる店で、まづ娘さん。と言つたつて、何しろ八十になる人の娘だから、まさか二十代といふわけではない。それから手伝ひの青年、ジーパンをはいてゐる。やや遅れて主人が現れたが、これが十か十五は若く見える感じで、すこぶる元気がいい。今こそ肌にしみが多いが、昔はずいぶん粋な京男だつたらうと思はれる。
酒は菊正。そして言ひ忘れないうちにここで言つておくが、総じて器がなかなか趣味がよかつた。
まづ、ずいきの白和へ。充分に甘いけれども、そのくせちつともしつこくない。さくさくした歯ざはりが爽快で、なかなか楽しい。
次は数の子。わたしは数の子が大の好物で、そのことだけでも北方領土の問題に関心があるのだが、これだけたちのいいやつに出会つたのは久しぶりである。新鮮で、みづみづしく、歯ごたへはこりこりしてゐて、しかも固からず柔かからず、いやちよつと固めで、その度合が嬉しい。材料がどれほど吟味してある店かは、この数の子だけでよく判る。そしてこのつきだしで飲む菊正宗がうまいことは言ふまでもない。
鯛の刺身。わたしは近頃、一般に刺身といふものに愛想をつかしてゐて、あんなものはもう食べなくてもいいやと自分に寂しく言ひ聞かせてゐるけれど、それでも、いや、それだけになほさら、かういふ店の刺身となれば心がはずむ。そして箸をつけてみると、この瀬戸内海の鯛は期待にたがはずすばらしかつたのである。こつてりと甘くて、身がしまつてゐる。これこそは海魚の王の味で、豊満にして清楚、もともと材料がうんといいには決つてゐるが、しかし包丁もじつに冴えてゐる。それは何となく、醤油まで特別あつらへのもののやうな気がしてくるくらゐであつた。わたしはすつかり堪能して、京都といふ土地のゆかりのせいかしら、
京極為兼
あま人や鯛つるらしも鳴海潟
おきつ浪間に袖かへるみゆ
なんて、お公卿さんの歌を思ひ出してみたり、何かの本で読んだ、西洋人のうちで好んで鯛を食べるのはユダヤ人だけであるといふ話を思ひ浮べて、やはりどうも日本人とユダヤ人とは関係があるらしいな、などと、ヤン・デンマン、ではなかつたイザヤ・ベンダサンふうの文明論的考察を断片的におこなつたりした。しかしもちろん、かういふ高尚な思索に耽りながらも、相変らず酒は飲んでゐるのである。
次が鮎の焼物。これは丹波の和知の鮎で、われわれが南一へ行つたのは九月の中旬だから、鮎ももうおしまひですなといふころであつた。もつとも、南一の娘さんが説明してくれる分にはすらすらとよく判るのに、主人の話はどうも聞きとれなくて、山崎さんの通訳をわづらはすしかなかつた。一つには八十翁の歯の具合のせいだが、何よりも、わたしは昔から京都の男の言葉は苦手なのである。
和知の鮎は、大ぶりで肥つてゐて、よく脂が乗つてゐた。言ふまでもなく天然もので、炙るのは炭火。こんなに肥つてゐて味は大丈夫かしらといささか心配だつたけれど、豊饒にして脆美、まことによろしい。それは極めて淡泊でありながら、しかも同時にこの上なく豪奢な感じの、いはば奇蹟的な一品になつてゐた。
間鴨《あひがも》の蒸しもの。詳しく言へば間鴨を味醂と醤油に入れて蒸したもので、脂身のつややかな灰白色に縁どられた斑らな桃いろの肉が美しく、それにチシヤのみどりが添へられていつそう眼を楽しませる仕掛けになつてゐる。あらゆる肉類のなかで一番おいしいのは間鴨の肉、といふのはドナルド・キーンさんの説で、さう言へばドナルド・ダックといふのがあった、といふのは吉田健一さんの説(?)であるが、とにかくこのダックは申し分なかつた。主人が、この料理はビールの肴に向くと言ふので(これくらゐなら通訳は要らない)、菊正は一時打切つてビールを飲んでみると、たしかにその通りで、鴨とキリンが、名優二人の舞台のやうに互ひに相手を引立てる。
次が、ぐじの酒蒸し。このぐじ、すなはち尼鯛こそは京都の魚の代表であつて、口の悪い奴に言はせると、普通の京都の人間が生涯に食べる魚は、ぐじ、鯖、かれひ、そしてチリメンジヤコの四種類に限られてゐる、と言ふことになる。もちろん京都の魚と言つたつて、みなよそから来るわけで、たとへばこのぐじは若狭。
若狭のぐじの酒蒸しそのものもよかつたが、わたしが特に強調したいのは、ぐじを食べたあとに残つた汁のうまさである。これを飲まなかつたら、サラダのあとのドレッシングを捨てるやうなもので、大変な損と言ふしかない。どちらの場合も、残りの汁のなかに天と地のあひだのエネルギーが充満してゐるのである。吾人は(と、つい話が勇ましくなるけれど)そのエネルギーを取つて生きなければならない。いや、何もそんなに力まなくたつて、ぐじの酒蒸しに舌鼓を打つて一杯やれば、ごく自然にさうすることになるのである。
おしまひの一品は、一口食べてみてさつぱり見当がつかなかつた。まことにしやれのめした味で、うまいことはうまいのだが、何をどう料つたものなのか、さつぱり判らないのだ。訊いてみるとこれが鶉《うずら》饅頭とやらで、どうやら南一自慢の料理らしく、三人ともじつに嬉しさうな表情で、われわれが小首をかしげるのを見てゐる。
説明によれば、普通の饅頭の餡に当るのが鶉の挽肉で、皮に当るのが、つくね芋とジャガ芋。これに卵を塗つてから、白焼のカキモチを粉にしたものをまぶし、油でさつとあげ、葛の餡をかけるといふ、凝つた料理である。これぢやあ素人にはとても判らないやね。わたしなんか、カキモチの粉を、胡桃《くるみ》にしてはじつにあつさりしてゐるなんて感心したくらゐであつた。
それから御飯をほんのすこし。このときに出た自家製の塩昆布が絶品。
東京では今どき、仲秋の名月だなんて騒ぐことはないが、さすがは京都で、その日は朝からみんなが心配してゐた。その夜わたしは、なかなかいい月見をした。創業天明八年と自慢する木屋町四条南の鳥弥三で、浅く流れる鴨川の上の満月を眺めたのである。向ふ岸をときどき京阪電車が騒がしく走り抜け、そのたびごとに信号の音が鳴りつづけるのだが、車窓の灯りは月よりは明度が落ちるやうに感じられる。もちろん気のせいだらう。そして、電車が通るたびに、月の光で明るい川水はいつそう明るくなつた。
それはいはば、
殷富門院大輔
つくづくと眺むる月に浮雲の
さわたるほどに夜は成りにけり
といふ具合の夜だつた。といふのは、ちぎれ雲が月をかすめてはあわただしく去つてゆき、そしてまたすぐ別の雲が訪れる、いはば隈ある月の連続だつたからである。いや、それよりむしろ、ここで引くのは、
藤原定家
とこの上の光に月のむすびきて
館さえゆく秋の手枕
のほうがいいかもしれない。もちろんわたしは手枕なんて乙なことはしないで、端然と、ただし胡座《あぐら》をかいてゐたけれど、しかしわたしがゐたのは鳥弥三の座敷ではなく、あの鴨川の床、川原へ張り出した板敷の装置だつたからである。
鳥弥三は、いつぞや大阪の辻静雄氏からすすめられたのだが、もちろん辻料理学校の校長が推賞するのだから当然の話だけれど、つきだしに出た鳥の肝の甘煮を一口食べて、これは大した店だと感心してしまつた。ほのかでそのくせコクのある甘さがすばらしいのである。こんなことを言ふと、人は大げさな話と取るに決つてゐるが、それはいはば鳥の肝でこしらへたキントンであつた。そしてその品のいい甘さを、添へてある小芋二つがすがすがしく鎮める。小芋はもちろん、不思議なことにキントンのほうまで、酒によく合つた。酒は白鷹。
すつかり味をしめて、肝やきといふやつを注文したら、これもまことによかつた。鳥弥三に客となつた人は、絶対これを逸してはならない。
次は鳥のおつくり。ワサビで食べる。小さな雪洞《ぼんぼり》状の電気スタンドがそばにあるのだが、薄くらがりのなかで見る桃いろの五きれほどがまことに可憐で、そのくせ口に入れると一種淫猥な感じに変る。ねつとりした、淡泊な、それでゐて甘い味が舌に触れるとき、粘膜と粘膜の接触といふ具合になるのである。しかしこれ以上露骨詳細に書くと、刑法百七十五条(だつたかしら)に触れるといけないから、話をはしよることにする。読者はよろしく想像力を働かせていただきたい。
ここで水たきの鍋が運ばれてきて、まづスープを飲むことになる。上方ふうの白く濁つたスープで、鶉の卵を落すから、白く黄いろく濁つた液体の触感は、さながらドブロクのやうに濃い。しかし濃いのは触感のほうだけで、味のほうは、味があるやうな、ないやうな具合で、しかしそれがじつにいい。このスープに酒を盃に一つと食塩をほんのすこし入れると、味が急にさはやかになつて、普通のスープとこのスープとを交互に飲んでゐると、いくらでも飲めさうな感じになるが、あとのことを考へてよす。何しろ、水たきを食べなければならないのである。
水たきにはいつてゐるのは、湯葉、白菜、菊菜、椎茸、豆腐、餅、そしてもちろん鳥。これを、刻みネギ、大根おろし、ポン酢、一味トウガラシを加へたつけ汁で食べるわけだが、わたしが特に気に入つたものをあげれば――
湯葉。すこし固目の感じなのが、妙に歯ごたへがあつて、口のなかでころがしてゐるとじつに楽しい。
菊菜。柔くて、しかも歯でさくさく分れる
椎茸。よく肥つてゐて、肉が厚い。何か細工を施した特別の椎茸ではないかと疑ひたくなつてくる。もちろん細工は調理場でしてあるわけだけれど。
それから鳥。これはブツ切りにしてあるのだが、なかんづく、皮身だけのものが脂つこくて、ぬるぬるして、殊にわたしを喜ばせた。ちなみに、この店の鳥は大垣で飼つてゐる名古屋コーチンで、生れて三ヶ月のものを用ゐる由。
木下謙次郎の『美味求眞』は、今さら言ふまでもない名著であるが、全三巻のうちどれが最も読みごたへがあるかと問はれれば、誰だつて第一巻(大正十四年刊)と答へるだらう。若いうちに書いたから気力が充実してゐるし、それに他の二巻が口語体なのにこれだけは文語体で、すこぶる調子がいいのである。もちろん、これだけの文語文が書ける以上、口語文だつて一応しつかりしたものだけれど。
その第一巻のうち白眉の箇所はどこかといふことになると、人さまざまに意見が分れるにちがひないが、わたしはスツポンのくだりを最も好んでゐる。この政客は、故郷、九州は豊前の安心院《あじむ》郷が「良鼈の産地」であることを至つて無邪気に自慢したあげく、文政のころ、大儒、帆足萬里がしばしば彼の父祖の家を訪ね、スツポンを食べては詩を作つたといふ話を紹介する。いはく、
双溪合スルトコロ平川ヲ※[#「害+谷」、unicode8c41]ス。
沃野※[#「月+無」、unicode81b4]々、千頃ノ田。
誰カ山樊ニ向ツテ精舎ヲ築ク。
書ヲ讀ミ、鼈ヲ|※[#「手へん+蜀」、unicode64c9]《さ》シテ餘年ヲ送ル。
そしてこのさきの名調子は、ぜひ引用しなければならない。
[#この行1字下げ] 僅々二十有八字を以て、百年前に於ける著者の家の生活の全部と安心院村の真景を写し得て余す所なしと云ふべし。著者は此の家に生れ、此の地に人となれり。魚鼈に関する因縁浅からざるものありしなり。少々家道に背き、書を読まず又鼈を※[#「手へん+蜀」、unicode64c9]さず。江湖に放浪し、徒らに風塵の間に漂泊す。遊子故郷を思ふ毎に此の詩を誦し、此の詩を誦する毎に魚鼈を思はざるなし。老大時に故郷に帰れば、田園徒らに荒蕪し、前庭の辺り松菊の存するものすらなし。三径既に荒れ盡して当年の精舎今いづくにかある。長剣空しく意を得ず憮然として独り自ら憐むのみ。家の破れたる如何がすべき、行きて渓水のほとりに魚鼈を尋ねんとすれば、見よ潺涓《せんけん》たる二水、或は人為によつて流域を変じ、或は洪水の為めに河身を動かし、出合ケ淵の上に築かれたる長蛇の如き偃堤は※[#「玄+玄」、unicode7386]に魚鼈の遡上を遮断せり。実に当年の淵は瀬となり、瀬は丘となり、桑田と変ず。今や此の地の魚鼈は著者と同じく棲むに其の家なからんとす。真に是人世の滄桑ならずんばあらず。
わたしが下長者町千本西入ルの大市で食べたスツポンは、もちろん九州は安心院郷の天然のやつではなく、浜松で養殖された代物である。木下謙次郎ならば「下等品」ときめつけるだらうが、大正末年でも天然ものはほとんどないと書いてあるのだから、これは諦めるしかない。そして、すくなくともわたしにはこのスツポンがすこぶるうまかつたのである。ああ、憮然として独り自ら憐れむのみ。
黒い大きな土鍋にシユンシユン煮えたぎつてゐるやつを運んで来る。(コークスで千度以上、十分くらゐ熱するのださうで、鍋の底は真赤になつてゐる。)小皿は骨つきのスツポンの身を、そば猪口にスープを、それぞれよそふ。身のほうもいいが、ほのかに鳶いろをしてゐるスープがすばらしい。殊に、酒を入れると、にはかに味が澄んでしかも甘みが増す。古風な座敷で、かういふものを肴にして白鹿をのんびりと飲むのはなかなか楽しかつた。
一般にスツポン料理といふのは、脂つこいはずのものがじつにあつさりした料理に仕立てられてゐるのが味噌で、その最も典型的なのは、淡い色調の肝が、見かけと違つて意外に淡泊なことである。いや、話はむしろ逆で、淡泊な感じなのに実は思ひがけなく濃厚、と取るのが正しいのかもしれない。スツポンが精がつくといふのは、どうもさういふことのやうな気がする。とにかくこれは単純なやうで瀟洒な味の料理で、その印象は雑炊において極点に達する。そしてこの雑炊は不思議なことに、あれだけかきまはしてあるくせに、部分部分によつて味がずいぶん違ふのである。わたしは、雑炊の場合でも、酒の味の濃いところがいちばんうまくて、従つて何となく精がつくやうに感じたのだが、これはやはり気のせいだらうか。
高い店ばかりではいけないから、安いところを一軒。祇園の権兵衛のウドン。
この店の狐ウドンに二通りあつて、一つは「甘いの」であり、もう一つは「きざみ」である。前者はアブラゲを甘く煮たやつがはいつてゐて、後者はアブラゲをただ切つて入れたもの。これはつまり、コーヒーを、砂糖を入れてのむのと、ブラックで飲むのとの相違のやうなものであらう。前者の甘膩《かんじ》と後者の爽々とはまさしく一対をなすもので、つまり(と言つたのでは話がいささか乱暴だが)わたしの考へでは一度に両方を食べるのがいいやうな気がする。すくなくともわたしはさうせざるを得ないほど、権兵衛の狐ウドンに感心したのである。
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伊賀と伊勢とは牛肉の国
伊賀の上野へゆかうと思ひ立つたのは池波正太郎さんのせいである。と言つたつて、別に親しくおつきあひ願つてゐるわけではなく、何かのパーティの折りに紹介されたことがある程度なのだが、池波さんの『食卓の情景』といふ本を読んで、伊賀上野の牛肉屋〔金谷〕(といふ調子のホチキス型のカツコの使ひ方は、みなさんよく御存じでせう)のくだりに興奮したのだ。ちよいと引用してみようか。
[#ここから1字下げ]
古びた、落ちついた二階座敷へあがると、道をへだてた向うに黒い瓦屋根がつらなり、道を通る自動車の音すらきこえない。
牛肉が、はこばれてきた。
赤い肉の色に、うすく靄《もや》がかかっている。
鮮烈な松阪牛の赤い色とはちがう。
松阪の牛肉が丹精をこめて飼育された処女なら、こちらの伊賀牛は|こってり《ヽヽヽヽ》とあぶらが乗った年増女である。
牛の脂身とバターとで、まず〔バター焼〕を食べた。
「むう……こりゃあ……」
と、味にうるさい風間完画伯。牛肉をほおばってうなり声をあげ、
「こりゃあ、いい」
と、のたまう。
さらに、たっぷりと松茸をあしらい、ネギやキャベツを加えて三人が、息もつかずに三人前を、たちまちにたいらげた。
もちろん、これではすまない。
バター焼のあとで〔すき焼〕をやらなくてはならぬ。
[#ここで字下げ終わり]
このおしまひの「やらなくてはならぬ」がわたしはむやみに気に入つてしまひ、これはぜひとも金谷のバター焼とすき焼をやらなくてはならぬと決意したのだ。今年からは日記をつけようなんて決心と違つて、かういふ決心は堅いですよ。計画はたちまち実現されることになつて、秋深い一夜、わたしは金谷の二階の座敷で、水月といふ地酒を飲んでゐた。これが辛口でなかなかよろしい。
バター焼に使ふのはずいぶん厚く切つたヒレ肉だが、ヒレと言つても、同じ金谷の店頭でガラスのケースに入れて売つてゐるヒレとは違ふ。つまり最上等のところは座敷に上つて食べるしかないのである。一人前二百グラム。わたしは青と白の大皿の、「うすく靄がかかっている」めつぽう美しい赤い肉をじつとみつめ、なるほど最上の年増女とはかういふものであるかなどと勉学に励んでゐた。
しかし、かいでみるよりするが一番。大ぶりの肉片があつさりと焼かれたのを、大きな小鉢のなかの大根おろし(これに醤油とガーリックと唐辛子と味の素をかける)にちよいとひたして口にしたとき、わたしは、ねつとりと柔くてしかも腰の強い感触にうつとりしてゐた。そのとき頭にきらめいたのは「柔媚」といふ漢語だつたが、もちろんこの柔媚な味をいつそう助けるものとしては、牛肉の熱さと大根おろしの冷たさ、バターおよび脂身でいためた肉のしつこさと大根おろしの爽涼といふ、二重の衝突のかもしだす複雑な効果があつて、わたしはさながら年上の女の手練手管《てれんてくだ》に翻弄される少年のやうにのぼせあがつたのである。
これはもちろん肉の味もいいに決つてゐるが、一つにはじつに景気よく、つまり厚く切つた肉であるせいも大きいにちがひない。五ミリと言ふよりはむしろ一センチくらゐの厚さがものを言ふのである。わたしは大体、薄く切つた牛肉が嫌ひで、例のしやぶしやぶなる代物を歓迎しないのもそのせいだが、牛肉といふ折角の美味を味はふには、やはりこのくらゐ豪華にやらないと、火と肉との関係がうまくゆかない。
まづ肉を食べ、次に野菜、そしてまた肉といふ順序なのだが、野菜のほうもすこぶるよかつた。殊にすばらしいのはキャベツとネギで、ぱりんとした豪勢な感じのキャベツと、みづみづしくてしなやかな、何か凜然とした趣のあるネギは、軽くいためてわたしの口中にはいるために作られたとしか思へないくらゐうまかつた。そして玉ネギ、椎茸、松茸。この松茸も、もう季節が遅いのになかなかいい。それはまるで伊賀の自然全体が、牛肉のためにあるやうな印象を与へる。
次はいよいよ、すき焼だが、今度の肉はロースで、これも店のほうでは売つてゐないし、「東京へもゆかない」といふ逸品である。なるほど、フランス製のマーブル紙のやうな緋と白のまだらの肉には、充分それくらゐの貫禄があつた。肉の厚さは約五ミリ。これもまたじつに豪勢である。
見てゐると、びつくりするほどたくさん砂糖を入れるのだが、不思議なことに、その砂糖に負けないくらゐ肉の味がいい。そして、もつと不思議なのは、松茸までも濃い砂糖味にたぢろがないことで、醤油と砂糖で煮られ、それに牛肉の匂ひがほのかにまつはりついてゐる松茸をゆつくりと味はつてゐると、伊賀の自然についてのわたしの考察はいよいよ正しいやうな気がしてくる。もつとも、ここでちよいと小声で言へば、もうすこし砂糖を控へ目にしてあのロースを食べてみたかつたね。これを逆に言へば、今度、金谷へ行つたときには、すき焼はよしにしてバター焼のほうを二人前食べようと思つたり、いや、さうは言つてもあのすき焼はなかなかのものだから、やはりこの次もバター焼とすき焼の両方にしようなどと考へ直したりするのが、現在のわたしの心境なのである。かういふ微妙に錯綜した心理は、伊賀上野は農人町の金谷に行つたことのない人にはとても判らないだらうと思ふ。
ところで、この町を訪れる前からわたしが知つてゐた店は、金谷のほかにもう一軒ある。中村真一郎さんに教へていただいて、前からときどき目録で注文してゐた、和書漢籍専門の沖森書店である。当然、これは一つ立ち寄らなければならない。そして、この店でお茶をすすりながら世間話をして、すこし本を買ひ、さて立ち去らうとしたとき、入口の横の壁にかけてある額に気がついた。
『剣法名与侠客倚人鑑』といふ木版刷の番付で、後見は、柳生流剣法柳生十兵衛、諸芸兵法由井民部之助正雪、一刀流剣法伊東一刀齋の三人、行司の六人ははぶくことにするが、勧進元は大石内藏之助、差添人は織田大炊。東西の力士をそれぞれ最上段だけ紹介すれば、まづ東方は――
大関 柳生流一刀 荒木又右衛門
関脇 神影流剣法 斑鳩華右衛門
小結 卜伝流剣術 塚原卜伝
前頭 八重垣流ノリベリ 吉岡憲法
前頭 山鹿流軍学 山鹿甚五右衛門
前頭 丸橋流鎗術 丸橋忠弥
前頭 山鹿流軍学 千坂兵部
前頭 五十四郡忠臣 伊達安藝
前頭 一刀流剣術 堀部安兵衛
前頭 肥後浪人剣術 千々輪五良右衛門
そして西方は――
大関 神免二刀流 宮本武藏
関脇 一刀流剣術 神子上典膳
小結 一刀流剣術 石川群東齋
前頭 關口流柔術 關口弥太郎
前頭 天草浪人軍学 芦塚忠右衛門
前頭 仙台奸臣 原田甲斐
前頭 越後浪人剣術 佐原重兵衛
前頭 黒田忠臣 栗山大膳
前頭 仙台大勇 松前鐵之助
前頭 出羽浪人軍学 柴田三郎兵衛
愉快なのは、東の大関が荒木又右衛門であることで、これは江戸時代の又右衛門さんの人気からすれば当然かもしれないが、地酒の名も「水月」である土地の書肆を飾るにいかにもふさはしい。ちなみに言ふ。渡辺數馬は東の前頭三十七枚目で、天草四郎時貞の次。河合又五郎は西の前頭二十三枚目に頑張つてゐる。
そこでごく自然に、伊賀越の敵討で名高い鍵屋の辻へ向つたのだけれど、実を言ふと、主たる目的はそのあとで、近くの〔わかや〕といふ店で田楽を食べることにあつた。荒木さんや渡辺さんや河合さんには悪いみたいだが、まあ、仕方がない。これは前の晩、なにがしといふバーですすめられた名物で、バーの勘定は、心理的には銀座のバーをしのぐくらゐ高かつたけれど、この情報はそれをつぐなつて余りある貴重なものだつた。
〔わかや〕は、十人かせいぜい十二人の客しかはいれない、小さくてそのくせがらんとした殺風景な店だが、翁といふいささか水つぽい地酒を飲みながら待つてゐるうちに、やがて豆腐の田楽が出て来たとき(コンニヤクとか、野菜とか、あるいは魚田《ぎよでん》といふやうな末流の代物はなく、豆腐の田楽一種類だけといふ正統派なのである)、わたしは、この殺風景な店の作りに秘められた緻密な計算に舌を巻いた。一センチ五ミリ四方×五センチの豆腐の田楽十六箇が、横に細長い朱塗りの箱にずらりと並んでゐて、その華麗な箱からは匂やかな青竹の串が、ライン・ダンスの踊り子さながらに整然と脚を投げ出してゐる。このとき店内のがらんとした感じは、朱塗りの箱によつてたちまち生き生きしたものに変るのである。
しかしこの箱はいはば大皿であつて、伊賀焼の小皿が一つ前に置かれる。これはちようど田楽の大きさに合せてある小皿で、うぐひす色の地に朱の斑らがほのかにまじつてゐる、まるで正倉院御物のやうな感じの品である。灰皿にすれば絶好と思はれる小皿なので、持ち帰る(つまり、かつぱらふ)人もゐるかもしれないと気がかりだつたが、わたしは厳格な家庭に育つたから、もちろんさういふことはしない。これを持ち帰つて灰皿にしてゐるであらう連中のことを漠然と羨望しながら、この小皿に四串の田楽を移し、一つ食べては酒を飲み、また一つ食べては酒を飲み、といふ調子のことをしてゐた。といふのはつまり田楽がなかなかうまかつたといふことで、柚子味噌とほのかな山椒《さんしよう》の香りと、それから炭火とが豆腐に対して与へる効果は、驚嘆すべきものがあつた。はじめのうちは柚子味噌がいささか甘くて、金谷のすき焼と言ひ、ここの田楽と言ひ、どうも伊賀の人は甘いのが好きだ、この調子でゆけば芭蕉もまたむやみに砂糖を入れたがつて、江戸の門人たちを閉口させたにちがひない、当時、すき焼といふ料理がなかつたのは、其角その他にとつて大変しあはせな話だつた、などと文学史的なことを考へたのだが、不思議なもので、三串か四串食べてゐるとあまり気にならなくなり、やがて翁(この地酒の名が芭蕉さんにちなむことは言ふまでもない)の水つぽさまで快く感じられてきたのである。殊に田楽の焼けこげのところは、酒の肴として推奨に価する。
ちようどこのころ、七十くらゐの爺さんが、六十五くらゐの婆さんを二人連れて店にはいつてきて、婆さんたちは田楽一箱半づつで大もりの丼飯、爺さんはちよいと恰好をつけて、一箱の田楽で一合の酒を飲む。横目を使つて見てゐると、爺さんは一度に二串づつ口に入れるので、なるほど田楽の通はああいふ具合に食べるのかと感嘆し、その真似をしたい一心でもう一箱注文したけれど、わたしは口が小さいせいかしら、やはり一串づつ食べるほうがうまいやうな気がした。まあ、かういふことには、いろいろ個人差があるよね。
なほ、細長い朱塗りの箱は、お代りをすれば次第に積みあげてゆく仕掛けになつてゐて、さながら艶麗な建物を層々と築いてゆくやうな楽しさが加はる。それに眼を遊ばせながら、一串づつ食べるのがいいか、二串づつがいいかと実験してゐると、勘定をすませた爺さんが嬉しさうにして、
「うまいだらう」
とわたしに話しかけ、
「味が濃いからね、酒よりも飯に合ふ」
と教へてくれた。そこで、もう一箱取つて御飯にしようかとも思つたのだが、とても食べられさうもない。いのちなりけり伊賀のでんがく、といふことになつたときは、ぜひ飯のほうも試してみよう。
英虞《あご》湾の賢島にある、志摩観光ホテルのレストランの評判は前々から耳にしてゐたが、今度はじめて出かけて、それが過褒ではないことを知つた。景色がいいのは当り前としても、サービスも料理もそれに劣らずすばらしいのである。
ドライ・シェリー(サンデマン)を飲んでゐるうちに、オルドーヴルの生牡蠣が運ばれて来る。そこで白葡萄酒を抜いたのだが、この年号なしのグラーヴがむやみにうまく感じられたのは、やはり的矢の牡蠣の手柄だらう。新鮮にして清楚な白いものが、ぬるぬると咽喉をすべり落ちてゆくとき、極めてほのかに漂ふごく自然な甘さは、何とも名状しやうがない。もつともこの自然な甘さは、半ダースの牡蠣のうち五つ目くらゐのところから判つてくるので、それまでの四つでは、ただ清爽にして滋養に富んだ印象があるだけである。とにかくわたしは、かういふ結構なものを肴にして、よく冷えた辛口の白葡萄酒を飲み、殻にくつついてちよつと残るのはどう考へても惜しいことだ、これが残らないやうにする方法を発明した人は人類文化に貢献したことになるからノーベル賞ものだ、などと高級な冥想に耽り、やがてもう一皿、つまりもう半ダースの生牡蠣を注文した。そして、かういふことをするに当つては、充分な歴史的根拠がある。
M・F・K・フィシャーなる食通の書いた『食事といふ芸術』によると、ヴォルテールやポープやスウィフトの時代、つまり十八世紀においては、牡蠣は食物としてよりはむしろアペリチフとして考へられてゐたから、十八世紀人は宴会をはじめるに当つて、めいめい十ダースないし十二ダースの生牡蠣を食べたと言ふ。チュルゴーといふ老将軍は、朝食(!)の前に百箇の牡蠣を食べて食欲を増進したのださうな。とすれば、末世のわたしが夕食の際、十二箇の牡蠣を食べるくらゐは当然のことではないか。ましてわたしは今、的矢湾に極めて近いところにゐるのである。
伊勢海老のクリーム・スープ。これが牡蠣以上の絶品だつた。伊勢海老と小海老を殻ごと数時間、煮こんでから裏ごしして、クリーム・スープとコーンを合せて煮たものださうだが、おだやかな味の温い液体を口に運んでゐるうち、思ひがけないとき、伊勢海老の匂ひが芳烈に立ちのぼる。わたしはそのたびごとに、かういふクリーム・スープを出す店が東京にあればどんなに楽しいだらうと思つた。
そして、このスープの外見がクリームいろの地に鳶いろの墨ながしであるとすれば、次の鮑のステーキは、油絵でなければぜつたい描けないやうな偉容を誇つてゐた。まづ鉛いろの大きな貝があつて、濃い褐色の鮑(鮑を殻ごと、大根その他の野菜といつしよに長いこと煮て、殻をはづしてソテーしたもの)がでんと控へ、その上には淡く黄いろいパン粉がのせてある。ソースをかけ(このソースがちよいと凝つてゐる)、レモン汁をしぼつて食べるのだが、パン粉のしやりしやりした口あたりと、魚でもなければ肉でもない、強ひて言へば章魚《たこ》に近い肉質の歯ごたへとが口中で入りまじつて、まことに珍しい美味の世界を作り出すのだ。わたしはこれを肴にして相変らず白葡萄酒を飲みながら、もし章魚のステーキといふものが世にあれば、きつとすばらしいにちがひないなどと夢想に耽つてゐた。
さて、年増もいいが処女もいいといふのは当り前の話である。わたしは今から十年以上も前、野坂昭如と語りあつてゐて、二十六歳以下の女には関心がないなどとついうつかり口走つたため、何といふ幼稚な段階だらうと呆れられたことがあるが、もちろん今ではさういふ幼さはとうに卒業してゐて……どうも話がをかしな方角へ行つてしまつたけれど、とにかくさういふわけで、池波正太郎さんのいはゆる処女の味、松阪牛のほうも食べようとして、松阪は魚町へ出かけたのだ。
これはにぎやかな大通りからちよいとはづれた静かな横町で、落ちついた家並が一方ならず奥床しい。と、果して、本居宣長宅跡なんて史蹟がじつにさりげなくあつて、白い台石が秋の風に吹かれてゐる。この由緒のある横町に、和田金と並んで有名な牛銀本店の、古風で貫禄のある建物があつて、ここでも別棟の一階では牛肉を売つてゐるが、もちろん一番よい肉にありつくには二階の座敷にあがらなければならない。
まづ、酒は高砂鶴といふ地酒。これで一杯やりながら牛肉の刺身を食べる。内腿のあたりの、脂のあまりないところで、きりりとしまつてゐる。それがよく冷えてゐて口あたりがなかなかよろしい。言ふまでもなく、この冷たさが大事なので、あたたまつてくると味が落ちる由。さう聞いて、いくぶんあわて気味に食べる。何しろ、円いテーブルの中央部である火鉢には、炭が真赤におこつてゐるのだ。醤油は刺身だまりといふ濃いやつで、生姜が添へてある。
次は網やき。これはヒレのところで、見たところ伊賀牛と大差ないやうだが、じつとみつめてゐるうちに、わたしが暗示にかかりやすいたちなのかしら、なるほど処女とはかういふものだといふ気がしてくる。あつさりと焼けたところを、大根おろし、ネギのさらしたやつ、ガーリック、唐辛子、それに秘伝のタレで食べる仕組みで、このタレはちよいとすつぱく、ソースを思はせないでもない。この網やきがうまかつたね。世界に冠たる松阪牛の柔かさと滋味と深さとが、炭火のエネルギーを奪ひ取つて、こたへられない味となるのだ。
そして、今わたしが世界に冠たると書いたのはでたらめでは決してない。たとへば先程あげたM・F・K・フィシャーの、『ナイフとフォークで大胆に』といふ別の本に、かういふ台詞がある。
[#この行1字下げ] 牛肉それ自体について言へば、すくなくとも、人間が彼らの食事に必要と考へるだけの赤い肉を供給するに足る牛を、充分に飼ふことができる限り、松阪牛であらうと、あるいはおそらくネヴァダ州ガードナーヴィル産のものであらうと、牛肉はセックスであり、政治であり、一種の宗教であり……まあこのへんでよしておかう。
それゆゑ、松阪牛を本場で食べることは最上のセックスであり(かういふ言ひまはしは何となく大江健三郎さんみたいだね)、最上の政治であり、そして最上の宗教といふことになるのだが、とにかくわたしはそれらすべてを、歯で、舌の上で、咽喉のあたりで、存分に楽しんだのである。なほ、牛肉のあひまには椎茸が焼かれて、この焼きたての、ぬるぬるした温いやつもすこぶるよかつた。
次はすき焼で、今度の肉はロースである。そしてこの場合は、伊賀牛との差異がわたしにもよく判つた。まだらに散つてゐる白い部分、つまり脂が桃いろがかつてゐて、白と赤との対照が伊賀牛ほどきつくないのだ。このすき焼ももちろん極めて結構なもので、ネヴァダの牛でもどこの牛でも、とてもかうはゆくまいと愛国的な心情になるくらゐ堪能《たんのう》したし、第一、炭火でのすき焼といふのは酒を飲みながらつつくのにまことに好適だけれど、欲を言へば、ここでもまたもうすこし砂糖を控へ目にして食べてみたかつた。ただしこの甘い味が、シラタキやネギなどといつしよに入れたゴボウに及ぼす効果は絶大で、すき焼にぴつたり合ふゴボウなんてものが出来るあたり、伊勢もまた伊賀と同様、自然全体が牛肉に奉仕してゐると言つて差支へない。
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利根の川風ウナギの匂ひ
東京ならまづ鰻。鮨よりも天ぷらよりも鰻だらう。蜀山人も詠んでゐる。
あなうなぎ何処《いづく》の山の妹《いも》と背を
さかれて後にみをこがすとは
鰻の蒲焼こそは江戸のものだといふお国自慢が烈々と示されてゐる一首で、恋歌くづしの妹と背(つまり男と女)に、ちやんと山の芋まで詠み込んだあたり、恐しいほどの芸である。蜀山の傑作の一つではなからうか。そしてこの江戸つ子は長崎へ行つたとき、しきりに蒲焼をなつかしんだ様子で、
[#この行1字下げ] |鰻※[#「魚+麗」、unicode9c7a]《うなぎ》に酢は毒なりと関東にては云ふに、長崎にては、浦上のうなぎを、酢味噌にあへて喰ふもをかし。うなぎを一斤二斤とて、死《しに》うなぎを提げて来るを見しなり。
なんて書き留めてゐる。鰻の酢味噌で一杯やるのもちよつとうまさうだが、やはり蒲焼にはかなはないだらうね。東京の料理法で全国を席捲《せつけん》したものの随一は、これではなからうか。
そこで、東京ならまづ鰻。鰻なら……赤坂の重箱もいいけれど、老舗《しにせ》のなかの老舗《しにせ》に敬意を表して野田岩へゆく。飯倉の歩道橋を渡ると、もうそのあたりから蒲焼の匂ひが景気よく立ちこめてゐて、すこぶる嬉しい。
今夜のお客は芥川比呂志さん。代表的な東京の人といふこともあるけれど、芥川さんがたいそう鰻が好きで、上方で宿を取るときも竹葉亭が店を出してゐるホテルを選ぶ、といふ噂を小耳にはさんだせいもある。このホテルの選び方は、もし四方赤良が現代に生きてゐたら、わが意を得たと喜ぶのぢやないかしら。
芥川さんのこの日のいでたちは、濃い茶いろの替上衣に、グレイ一色の、うんと太編みに編んだタートル・ネック・セーター。グレイの地に白い模様のポケットチーフを、TVホールドにしてちらりとのぞかせたのが、まことに粋である。男のおしやれの模範のやうなものであつた。
まづビール。銘柄はキリン。次いで酒。これは菊正宗。芥川さんもほんのすこしつきあつて下さる。つきだしはこの店自慢の鰻の佃煮《つくだに》で、サンシヨウの香りがうまく生かしてある。鰻屋に来た以上、長く待たされるのは覚悟の前だから、この佃煮を肴にゆるゆると飲むのである。
となれば、鰻の話になるのは当然のことだが、ヨーロッパの鰻が大きくて大味であることをめぐつての動物学的考察に耽つてゐるうちに、芥川さんが新説を披露した。あれは何も、ヨーロッパには大きな鰻しかゐないのではなからう。ただ彼らはなにぶん無器用だから、よほど大きくなつた、つまり大味になつた、鰻しかつかまへられないのだらう、といふのである。
何しろ考へてみたこともない意見なので、素直なわたしがすつかり感心してゐると、芥川さんはつづけていはく。フランスのテレビ・ドラマの稽古に立会つたことがあるが、カメラマンの動作が緩慢なため、動いてゐる役者を撮るとき映像がなかなかきまらない(その代り、一旦きまつてしまへばこはいくらゐで、かならず画面の中央にぴしりと位置を占める)、そのため一つのリハーサルに一週間もかかるし、その間、ディレクターとカメラマンは喧嘩のし通しである。
「あの調子では、普通の鰻にはあつさり逃げられてしまひますね。むやみに大きくなつたものでないと」
「ははあ」
「でもこれは、学問的な根拠はありませんから、信用なさらないで下さい」
従つて読者もあまり真に受けないほうがよろしい。
肝焼が来た。鰻は利根川のもの。
この肝焼がすこぶる豪勢で、串一本きりとは言へ、途方もなく有難味がある。つまりずいぶん大きな肝で、分量が多いのである。まるで動物のエネルギーのかたまりを食べるやうなものだが、激しい火と年期を経たタレとでうまく処理してあつて、贅沢この上ない酒の肴になつてゐる。わたしは熱くて脂ぎつた、さながら動物性の茸のやうなものをすこしづつ口にしては、あるいは微量のほろ苦さが口中にひろがるのを楽しみ、あるいはちよつと焼け焦げてカリカリした部分の舌ざはりを喜んだ。そして、かういふ結構なもので一杯やつてゐると、おのづから頭に浮ぶのは強壮剤としての鰻といふことで、さう言へば古人が、山芋変じて鰻と化す(蜀山人の狂歌がこれを踏まへてゐることは言ふまでもない)と信じたのも、山芋は精がつくと噂が高いせいでの連想だらうし、また紅毛人が、馬の毛が変じて鰻となると信じたのも、馬がそのほうにかけては大したものだといふ評判のせいではないか、などといふ、これもまた決して学問的な根拠はない学説をふと思ひつく。
次は白焼。
中串よりもちよつと大きい、中アラといふやつで、鰻はこれも利根川のもの。塗箱にはいつてゐる。もちろんワサビ醤油で食べるわけだ。一切れづつ小皿に取つて、さめないやう、塗箱のほうはすぐに蓋をするのである。わたしは一体、白焼が好物で、蒲焼よりも好きなくらゐだが、野田岩の白焼はさすがによかつた。あたたかくて淡泊で、口中でほろりと崩れ、可憐な風情で溶けてゆくのだ。芥川さんが、
「上塩梅だ」
とつぶやいたのも無理はない。
本山荻舟の本によると、白焼といふのは鰻屋で刺身がはりに出すものださうで、だからこれのおかはりをすると心ある店では断られると書き添へてあつたが、これならたしかにもう一つ食べたくなるのも無理はない。殊に、これで白焼茶漬(わたしはウナ茶よりもこつちのほうが好きだ)をやつたら天下の珍味だらうとは思つたけれど、何しろ野田岩ともなればそんな食べ方はさせてくれないかもしれないね。今度行つたら、恐る恐る訊いてみようか。
さて、いよいよ蒲焼である。二重底になつて、下にお湯を入れてある特製の塗箱に、これは中アラなのか大串なのか、無学なわたしには判らないが、炭はさだめし備長《びんちよう》の極上を用ゐ、焦がさず燥《から》さずこんがりと念入りに焼きあげた茶いろいものが、所せましとばかり四切れ、いい匂ひをぷんぷんさせて横たはつてゐる。
獲れたところは、これも同じく利根の川風|袂《たもと》に入れるあたり。もともと東京では、中秋から早春にかけての時期は利根川下りが上品とされるのださうだから、肝焼も白焼も蒲焼も利根川づくしなのは、この店としては当然のことだらう。
さて、この蒲焼だが、まことにおだやかな円満な味で、間然するところがない。わたしはまづ温柔といふ言葉を思ひ出し、次いで、それだけではこの蒲焼の、とろりと舌をとろけさす高度に官能的な趣、芥川さんの台詞を借りて言へば「上塩梅」を形容するに足りないなと思ひ直してゐるうちに、探せばやはりあるものですね、つひに、|嬌 柔《きようじゆう》といふぴつたりの言葉が心に浮んだ。このなまめかしくてしかも気品のある四切れのうち、二切れは粉山椒を振りかけただけで酒の肴にし、残る二切れのときは粉山椒を振りかけてからタレをかけて飯にしたのだが、かういふもので食べる、つやつやした御飯はまた格別である。米はササニシキ。
東京の洋食屋で一軒選ぶとすればどこがいいか。これはまことにむづかしい問題で、おそらく何日論じつづけても結論が出ないだらうが、石油危機の折柄(と変なところで石油を持ち出すのが最近の流行である)話をはしよつて、帝国ホテル十四階のフォンテンブローへゆく。
ロビーのあたりの人ごみにくらべると別世界のやうに森閑としてゐる一区域で、調度その他、贅美を盡してゐることは言ふまでもない。が、気に入つたのは、これだけ豪奢な店なのに給仕人がたいへん親切なことである。まことに率直丁寧に、かつ礼儀正しく、相談に乗つてくれるのだ。本当の一流店といふのはかうでなくちやいけない。
何ページもつづく荘重典雅なメニューを読み、さんざん迷つたり、給仕人に相談したりしてからやうやく決めると、まづドライ・シェリーを飲む。銘柄はティオ・ぺぺ。その堂々としてゐて爽やかな味を楽しみ、もう一杯飲まうかどうしようかと思案したり、しかしもうすぐこれを飲めるわけだと考へながら、栓を抜いて置いてある赤葡萄酒のびん――ロマネ・サン・ヴィヴァンの一九六六年を眺めたりしてゐるうちに、オルドーヴルが運ばれて来る。エスカルゴのマッシュルーム添へである。黒といふより鳶いろのお団子が六つのつてゐるその皿は、何かしんと静まり返つてゐる感じで、浜口陽三氏あたりの銅版画の画材に好適なやうな、特異な雰囲気をたたへてゐる。このカタツムリのお団子を口に入れると、まづニンニクの匂ひがほのかに漂つて、わたしをうつとりさせるし、次にシコシコした軽快な歯ざはりが嬉しく、そして最後に奥行きのある濃密な味がゆつくりと口中にひろがる。その三段がまへを楽しみながらロマネ・サン・ヴィヴァンを飲むと、重くてまつたりした、ちよつと渋い味が、エスカルゴになかなかよく合ふ。(カタツムリ料理のとき、食事のはじめのほうなら白、主な料理としてなら赤と、ものの本で読んだ記憶があるけれど、なーに、教条主義に陥る必要はない。)それは八年前のフランスの葡萄園で存分に日の光を浴びた葡萄が、八年間かかつて魅惑に富んだ液体となつたあげく、わたしの体内の有害なものをことごとく消し取るやうな感じであつた。そしてかうなると話の順序は逆かもしれないが、その赤葡萄酒の味を引立てるために、カタツムリがあり、マッシュルームがあり、ニンニクがある。
次は海亀のポタージュ。これが絶品。
ギリシアの海亀がフランスに輸出され、そこでコンソメにされて日本にはるばるやつて来るわけだが、海亀の身はほんのすこし申しわけのやうにはいつてゐる。
調理法としてはシェリー酒の入れ方がコツらしいが、味は濃厚で緻密で豊饒で、海亀とシェリー酒といふ南欧の二つの富を衝突させることを思ひついた男は、誰か知らないけれどとにかく天才にちがひない。はなはだ非論理的な(そしてグロテスクかもしれない)話だが、わたしはこのスープを惜しみ惜しみ飲みながら、自分が一匹の大海亀と化して悠々と海を泳ぎ、これからどこかの島に這ひあがつて産卵しようとしてゐるやうな気になつてきた。そして言ふまでもなく、その海は葡萄酒いろをしてゐる。
小鴨の蒸焼。
これは給仕人が特に推薦したもので、実を言ふと横浜グランド・ホテルのときも鴨を食べたから重なるなとは思つたけれど、無性に食べたくなつて注文したのである。殊に彼が、近頃は牛肉なんかはむやみに高くなつたから召上らないほうがよろしい、料理屋にいらしたら、値段が張らないでおいしい、そして珍しい、鴨とか雉子とか兎とかがよろしいのぢやないでせうか、と言つたのが気に入つた。かういふところまで心配してくれるのが、立派な給仕人なのである。
茶いろい鴨が四切れに、派手な黄いろのオレンジ十片ばかりと、赤い櫻んぼが一つ添へてある。オレンジや櫻んぼだけならともかく、鴨もあるとなれば銅版画では調子が出ないから、油絵でゆくしかあるまいが、画家としては誰がいいか。ブラックでも、マチスでも、かういふ極端な色彩の調和はむづかしいのではないか、などと考へながら、一口、味はつてみると、小鴨のほんのすこし土くさい風味を程よく生かしてゐて、じつにうまい。殊にこころもち固めにローストした皮のところのカリカリした味と、肉それ自体の充分に柔いくせに歯ごたへのある感触との変化が楽しい。わたしは鴨を食べ、赤葡萄酒を飲み、オレンジを食べ、野の風を自由に吸つてゐるやうないい気持になつて、ついうつかり、櫻んぼを食べ残してしまつた。それゆゑ、今かうして回想に耽つてゐると、仄暗い皿のなかの真紅の小さなものが、ちようど灯がともるやうにして心に浮んでくるのである。
デザートは苺のパイ。たつぷりと使つたカスタード・クリームがよかつた。
人は渋谷駅に降り立つと、不意に刺身や焼魚で一杯やりたくなるのだらうか。この盛り場は魚料理のうまい店がむやみに多いのである。中に就いて(と、これは石川淳氏の口まねだけれど)狭くて殺風景で客が立てこんでゐる、つまり安くてうまい店を恋文横町近くの玉久とする。
わたしは十年くらゐ前まで、渋谷にある大学に勤めてゐたから、ときどき出かけはしたが、五回に一回くらゐしかはいれなかつた。今の半分しかない狭さで、十五人もはいればもう満員だからである。店をあけるのは四時半か五時のはずだが、行列して待つてゐるのだから始末が悪い。教授会におしまひまでゐたりしては、とても玉久の酒肴にはありつけなかつた。
もちろん名声はとどろいてゐる店で、たとへば福田蘭童氏の随筆にも、この店のことを志賀直哉氏に話したら、翌日か翌々日、早速出かけて気に入つてゐた、といふ話があつた。なるほど志賀邸からあそこまでなら散歩の道のりとして手ごろだらうが、高雅な気品をもつて知られる文豪とこの店との取り合せには、人をして微笑させるものがある。
さて、文豪でもなければ渋谷に住んでゐるわけでもない男は(つまり、わたしのことである)、タクシーに乗つて、五時前に玉久に到着、無事にカウンターの席を占めることができた。そして、しばらくすると立てこんできて、席があくのを待つて立つてゐる客を横目に見ながら、いい気持になつたのである。酒は忠勇の特級。つきだしは蕪と胡瓜の浅漬けで、これがひどくうまい。
まづブリの刺身。じつに景気よく切つてあることに驚く。
次が鱈の白子。ゆでたやつを、ポン酢とアサツキと大根おろしで食べるのだが、冷たくて爽かで非常によろしい。それはアンコウの肝をもつと清楚にしたやうな味で、白子だから言ふのではないが、二枚目の持つてゐる男性的エネルギーを食べものにすればかうなる、といふ感じだつた。
いかの塩辛。もちろん自家製で、御飯のおかずのためではなく、酒の肴のためだけにこしらへた甘口のもの。これを合の手に飲んでゐると、忠勇といふのはこんなにうまい酒だつたかといふ感想が湧いて来る。
次が柳かれひ。魚もいいが、焼き方も上手である。
げそ焼。この焼き方がまた絶妙。豊満な白いものにたつぷり含まれてゐる滋養に富んだ水分と、景気のいい火との衝突が、程よいところでぴたりと止めてある。全体としては焼きすぎず、ごくあつさりと炙つてゐながら、それでゐてところどころには充分に火をきかせてあつて、その焼け焦げた僅かの部分が、烏賊の脚の激しい運動のエネルギーを最上の酒の肴に変じてゐる。
東京のうまいものとなれば、蕎麦を逸してはいけないだらう。これは古来、文人の好んだもので、たとへば越前の儒者、鳥山宗成は、
蕎麦 嘗《カツ》テ聞ク 信陽ヨリ出ヅト
濃ナラズ淡ナラズ最モ良ト稱ス
(途中はむづかしいからちよいと省略すれば)
或イハ蒸シ或イハ煮テ各※[#二の字点、unicode303b]好ミニ從フ
玉碗 盛リ來リ客ニ勧メテ嘗メシム
と詠じたし、新井白石の蕎麦の詩には、
鸞刀揮フ處 遊絲 亂レ
翼釜 烹《に》ル時 疊浪 堆シ
なんて句がある。そして現今においても文人のこの嗜好はいささかも衰へることなく、たとへば「文藝」二月号(昭和四十九年)に安岡章太郎氏が寄せた文章によると、
[#この行1字下げ] つかぬことだが先日、私は(中略)、大江健三郎と一緒に神田のそば屋で天ぷらそば(海老天二匹入)、わさび芋、それに、そばがきを二つ食つて大いに満腹した。そばがきといふのは、私は子供の頃から何となく貧乏臭い気がして好きではなかつたが、大江氏が食ひたいといふので、附き合つて食つてみると、これがじつにウマかつた。
といふことになる。「天ぷらそば(海老天二匹入り)」なんて書き方は、ものを食べる喜びがあふれてゐて嬉しくなるではないか。
さう言へばわたしも、安岡さんといつしよに連雀町(淡路町)の藪へ行つたことがあつた。神田のホテルで仕事をしてゐると、同じホテルに入れられてゐる彼が部屋の戸をあけ、
「ええ、小生はこれから蕎麦屋へ行つて一杯やりますが、お忙しいことでせうから別に誘ひません」
などと、奇妙な誘ひ方をするのである。何しろ子供のときからの蕎麦好きだから我慢できないし、それに、日本文学の伝統といふものがある。白石先生への義理を立てるためにも、連雀町の藪の、味噌だの、あひやきだので、軽く飲むことになるのだ。
といふわけで今回もわたしは(このへんの論理はいささか飛躍があるが、さつきの石油危機と同断と思つて下さい)、左右に竹藪を植ゑた清雅な構への、そしてすこぶる活気のある、しかし決して騒しくない店内で、菊正を飲んでゐた。一体に老舗《しにせ》の蕎麦屋といふものは保守的な感じで、客の空気がよどみ、いはば店のなかが死んでゐるのに、ここはさういふことがなくて気持がいい。本式の蕎麦屋が今の東京に生きてゐるといふ味はひなのである。
まづ、あひやき。間鴨のぶつ切りが四きればかりと、ネギのぶつ切りが四つか五つ。あつあつのところが運ばれる。これがうまい。間鴨のいため方もよく味を生かしてゐるし、ネギも吟味してある。真中の甘くて黄いろい芯が大きいから、たぶん下仁田のネギぢやないかと思ふが、この店の冬のあひやきは、東京の酒の肴のうち最高のものの一つだらう。
次が天たね。つまり海老のかきあげだが、外側はカラリと揚げてあるのに、なかはほろりと柔く、といふよりもむしろ、ぐにやぐにやで、この加減が何とも言へない。三つ葉とユズが添へてある。
次は、わさび芋。これは感心しないね。腰がなくて粉っぽい。訊いてみたら、ミキサーでやつてるとのことだつた。代表的な東京の蕎麦屋なんだから、昔風にきちんとやつてもらへないものかしら。(ここで安岡さんに電話をかけてみると、引用した文章の「神田のそば屋」といふのは別の店であつた。)
次が、せいろそば。これがこの店の眼目である。平淡にして優雅、眺めてもまた口にしても涼を招く。蕎麦つゆの加減がまたすばらしく、しよつぱさの具合が何とも言へない。たかが備荒食品にすぎないものを洗練させてかういふ凝つた食べものを作りあげたあたり、江戸の文明といふのはまつたく高級なものであつた。
次が、鴨なんばん。次が、天ぷらそば。次が、……
とかう書くと、人はわたしが恐しい大食漢であるかのやうに誤解するかもしれないが、実はこの店の分量はちよつぴりづつで、大したことがないのである。
[#改ページ]
九谷づくしで加賀料理
中野重治さんに言はせると、金沢の食べものを本当に味はふには、半年、金沢に住まはなければならないさうである。しかもその半年は、冬を含む半年でも、含まない半年でもかまはないさうである。中野さん一流の、鋭いやうな、有難いやうな、そして晦渋なやうな意見だ。
ちなみに言へば、中野さんは旧制四高で二度落第して、本来なら五年間かかるはずのところ、折悪しく学制改革のせいで四年半しか金沢にゐられなかつた。ひよつとするとこの短縮された半年がシヤクの種となつて心に鬱積し、もう六ヶ月、金沢にゐたかつたなと思ひつづけてゐるうちに、金沢の食べものを本当に楽しむには半年、といふ持論になつたのではなからうか。どうもそんな気がする。
しかし中野さんだつてその後、文学や革命に忙しくて、とてもそんな閑はなかつたし、こちらにしても、革命のほうはともかく文学のほうはちよいと忙しく、まさか半年も犀川のほとりでぶらぶらしてゐるゆとりなんかありやしない。そこでごくまれにほんの数日、金沢へゆく。最初のときは正月で、今度は早春だが、嬉しいことに春雪霏々として降りしきり、すこぶる情調に富んでゐた。はだら雪に飾られた華麗な街を、三野裕さんと西村稔さんの作つて下さつた日程に従つて食べ歩くのである。三野さんはこの前のときは金沢観光協会の事務局長だつたが、今は天下りして、某工務店の専務である。しかしこんなことを言ふよりも、吉田健一さんの長篇小説『金沢』に出てくる、主人公がこの街を訪ねると萬事呑込んで世話してくれる骨董屋のモデル(とすくなくとも金沢の人々は考へてゐる)と紹介するほうが、話は早いかもしれない。そして西村さんは、商工会議所の観光課長補佐。
さて、前回と同様、つば甚に宿を取つて、千代女の軸のかけてある部屋で雪見酒としやれてから、大友樓へゆく。加賀料理の老舗《しにせ》で、家の造りも昔のまま、古風で大様で頑丈である。つまり、すこぶる気持がいい。
主人の説によると、いつたい加賀料理といふのは、田舎料理をうんと洗練し、豪奢にしたものなのださうで、それゆゑ、一品一品の分量が多くなければいけないと言ふ。ちよつぴりづつ気取つて食べるのは京料理なのださうである。さういふふうに京都と張合はうといふ基本方針だから、この夜の料理は贅沢にして豊富、さながら京と金沢とをいつしよにして、双方の長を採り短を捨てたくらゐにぎやかだつた。
金屏風をめぐらした広間で、日栄といふなかなかいける地酒を飲みながらまづ味はふのは生口子《なまくちこ》で、干口子つまり生子の卵巣の干したやつだつて滅多にありつけないのに、それの生《なま》となれば珍味のなかの珍味である。これを、二杯酢に紅葉おろしと微塵《みじん》に刻んだワケギで食べると、しやりつとした口あたりが快く、脂ぎつてゐてしかも清冽、まことに楽しい。わたしは、まるで銭屋五兵衛になつたやうないい気持で、さう言へばこの日栄といふのは五木寛之さん絶讃の酒だつたなと、あの秀麗な風貌を思ひ浮べてゐた。美酒と佳肴に恵まれてさへゐれば、われわれはゆつたりとした心境で海内無双の美男のことを思ひやることができるのである。
その次が甘えびと梅貝《ばいがひ》と車鯛を散らし盛りにしてある一皿。殊に、今がちようどシユンの、車鯛の刺身がよかつた。淡泊な味で柔く、しかもほのかに磯の香りを漂はせてゐて俳味がある。金沢の茶人が最も好む魚と聞いて、なるほどとうなづいた。
このへんで鴨の吸物。まるで人形の髪のやうに細い芽ネギと、真中を抜いたゴボウをあしらつてある。かくし生姜の使ひ方がしやれてゐて、温柔にして瀟洒、絶好の酒の肴だつた。
それから、胡桃豆腐。胡桃で作つた水羊羹とでも形容するしかない、精妙を極めた典雅な味である。吉田健一氏お気に入りの一品と聞いたのに、例の名著『私の食物誌』のなかに「金沢の胡桃豆腐」といふ章がないのは、ついうつかり書き落したのだらう(「金沢の胡桃餅」といふ章はある)。
器は最初からずつと九谷づくしで、さすがにいいものばかり使つてゐると感心してゐたが、この胡桃豆腐の青九谷には特に心が惹かれて、底を見たくなつた。しかし、汁がはいつてゐては引つくり返すわけにゆかないので、飲むことにしたところ、この薄口の味加減がすばらしい。もつとたくさん飲めないのが残念だつたくらゐである。そして青九谷の底には「九谷庄三」の銘があつた。言ふまでもなく九谷焼中興の祖の庄三《しようざ》で、彼が九谷姓を名のるのは明治にはいつてからゆゑ、大友樓の器が明治の中期までに揃へたもので、百人の客の分を毎日替へても四五日はもつといふ話と符節を合する。
次は輪島塗の蒔絵の小蓋盆にのせて、口取り。黒塗りに金ぶちの盆が、添へてある白梅のつぼみの一枚を引立て、そしてその可憐な白梅が、ドゼウの蒲焼二串、ユベシ、百合の根、菜の花の辛子あへ、河豚の一塩をさはやかに見せてゐる。菜の花もよかつたし、自家製のユベシもうまかつたけれど、いちばん気に入つたのはドゼウの蒲焼である。これは金沢独特の食べもので、生きてゐるドゼウを一匹づつ開き、強い火でカリカリに炙る。昔は初夏のころ屋台で売つてゐた下賤なものださうだが、二センチばかりに切つたやつが三つ刺してある一串を片手に持つて飲んでゐると、日栄の味がいちだんとよくなる。
鮒の煮びたし。食籠《じきろう》といふのか蓋物といふのか蓋付小鉢といふのか、そのへんは無学なわたしには判らないが、とにかく蓋つきの九谷に大きな鮒がはいつてゐて、尻尾が景気よく器からはみ出してゐる。これは本来、家庭料理で、加賀の正月の尾頭はこれなのださうな。骨を柔くするため番茶で煮るといふ話で、その味はひは野暮なやうな粋なやうな、つまり百万石の日常といふのはたしかにかういふ、素朴でしかも洗練されたものだつたらうと感心したくなる一品だつた。ほのかな番茶の匂ひとごくあつさりした味つけとが見事に調和して、鮒の味を生かしてゐるのである。これをおかずにして御飯を食べたらさぞ食が進むことだらうと考へながら、しかしもちろん杯を重ねる。
そして、一体に加賀藩が食べものに熱心だつたことは、前田家十六代の殿様、前田|利為《としなり》(ボルネオ方面最高指揮官として戦死した大将)の逸話でも察しられる。彼は、第一次大戦でドイツが敗れたとき陸軍少佐で、平和条約実施委員としてドイツへおもむいた。ドイツ領の一部がデンマークに分たれることになり、新しい海上境界線が引かれたが、ドイツはこれに関して異議を申し立てた。この海上境界線では、貴重な牡蠣《かき》畑がデンマーク領になつてしまふといふのである。各国の委員は相談して、ドイツ政府の言ふとほり網を引いてみたところ、牡蠣がちつともかからないので、ドイツ側の要求は拒否されさうになつた。このとき前田利為はただ一人、もういちど網を引くことを主張し、その意見が通つてやつてみたところたくさんの牡蠣が取れたので、ドイツ側の希望どほり海上線が修正された。後日、ハンブルク全市の料理屋は、牡蠣料理の大恩人、前田侯爵に厚く感謝した、といふのである。つまり加賀藩といふのはこれくらゐ食べることに執着してゐたわけで、鮒の煮びたしも、それから次に出て来た鯛の唐蒸しなどといふ凝つた料理も、さういふ事情がなければ生れなかつたに相違ない。
これは、キクラゲ、麻の実、ゴボウ、ニンジン、蓮根、銀杏を油でいため、それをオカラにまぜたものを、一塩した鯛に入れて蒸しあげた料理である。明らかに和漢洋混淆の趣があつて、しかもそれがちつとも無理な感じではなく、三要素が渾然として融和してゐる。おそらく長崎あたりの影響ではないかといふ話だつたが、大船がしきりに往来してゐたわけだから、これはたしかにあり得ることである。あとで出て来る、じぶ煮の場合にも思つたことだけれど、加賀料理のある種のものには卓袱《シツポク》料理との共通性がほのかに、しかし確実にたどれるやうな気がする。
次がズワイ蟹。二杯酢と蟹味噌の酢とで食べる。取れたての生きてゐるやつを、今朝、この店でゆでたものださうで、甘くて新鮮でさはやかで、もちろん大変な美味だが、器がまたすばらしい。直径三十センチもある色九谷の大皿に盛つてある蟹を、彩色金襴手の九谷の、舟型の取り皿に取り分けるのである。このとき蟹の脚の紅《くれなゐ》はさながら琳派の屏風のやうな皿のなかでいささかもたぢろぐことなくいよいよ映え、北の海の豊饒と金沢の富とはがつぷりと四つに組んでゐた。
次がじぶ煮。卓袱ふうの鴨の煮物で、豆腐、ナメコ、芹が添へてある。甘い味なのにちつとも甘つたるくなく、これがまた酒によく合ふ。
と、このへんまで来て、すつかり満腹してしまつた。何しろ皿数が多いし、それに一品一品の分量が大したものなのである。そこで、オニエ寿しといふ押しずし三切れは、残念ながら箸をつけない。ただし次の若竹の吸物はじつくりと味はつた。清雅淡泊。春の香りのせいだらう、「梅花ヲ催促シテ春小サク動ク」といふ、大窪詩佛が金沢で作つた詩の一句がふと思ひ出される。おしまひの抹茶も辞退。本当のことを言ふと、抹茶はともかく、これも自家製のお菓子だけは、ちよつぴりでいいから食べたかつたが仕方がない。干柿のまんなかに山の芋を入れたものである。
太郎といふ鍋料理の店は、五木寛之さん推奨の料理屋である。五木さんに言はせると、東京から来た人々は値段の高い料理屋へゆくだけで、かういふ、安くてうまい店を知らないから困る、あれは金沢の人々が気楽に飲み食ひするための店で、あそこへゆかなければあの町の本当のよさは判らない、とのことだつた。もうすこし受売りをつづけると、ここの女主人は数十年前に東の廓《くるわ》かそれとも西の廓《くるわ》かで鳴らした名妓、太郎で、芸者をやめるとき旦那衆に奉加帳をまはしたらたちまち集つた金で、この店をはじめた。あなたがゆけばきつと挨拶に出るやうにしておくといふことだつたが、雪と冷えこみのせいで、その数十年前ないし半世紀前の美女は風邪をこじらせ、寝こんでゐた。
そして五木さんの言葉の真実であることはすぐに判つた。わたしの斜め向ひの座敷が、どうやら三十五六と覚しき奥様方数十人の同級会のやうで、その絶えることないおしやべりの騒音が店内を覆つてゐるのである。安くてうまい店でなければ、とてもあれだけ存分におしやべりができるものではなからう。
さて、つきだしは烏賊の白胡麻和へで、刻んだ三つ葉がほんのすこし散らしてある。酢の使ひ方が上手で、上々の味加減だつた。これを肴に、地酒の福正宗をちびりちびりやつてゐると、眼前の真赤におこつた炭火に大きな土鍋がかけられる。
この鍋に入れる品数がむやみに多い。繁を厭はず列挙すれば、芹、白菜、カハハギ、筍、アンコウ、鱈、牡蠣、焼豆腐、生椎茸、鯛、大根、榎茸、フカシ、キビ餅、糸コンニヤク、銀杏。
かういふ種々様々のものを、極めて薄味の下地で煮るのだが、特に気に入つたものについて一口批評を試みれば、まづ白菜。たつぷり水気を含んだ柔かな味に感服。この白菜ひとつだけでも、金沢がいいところだといふのが判る。鯛。平凡なやうだが、やはり魚のなかではこれが一番うまい。フカシ。ハンペンによく似てゐるが、そしてわたしはハンペンといふやつがどうも気にくはなくて、つまりはつきり言へば嫌ひなのだが、恐る恐る食べてみると、このフカシはちよいといけた。キビ餅。白い餅と違つてくどくなく、まことによろしい。これなら餅もまた酒の肴になる。糸コンニヤク。集中の白眉である。(まるで詩集のなかの詩を論じるみたいになつてしまひました。)金沢のコンニヤクを褒めた人のあることを知らないが、糸コンニヤクそのものもきつといいのだらう。しかしそれだけではなく、糸コンニヤクのもつれの、モニヤモニヤしたところに、ごく薄味の下地がほんのすこし濃くなつて溜つてゐる具合がじつにいい。つまり、この店の下地がうまいのだといふ話に落ちつくかもしれないけれど。
さて、すつかり平らげてしまつたところで、鍋に御飯を入れて雑炊を作る。蓋をするとやがて煮えてきて、白いねばねばの湯気が、何かしきりにつぶやきながら蓋の小さな孔から吹き出す。
この雑炊はうまかつたね。下地の色に淡く染まつた加賀米の熱さと、切り漬(キャベツと胡瓜と白菜)の冷たさとの取り合せがこたへられないのである。このときだけは、わたしも福正宗のことを忘れてゐた。そして、この雑炊の効果を生かすためには、なるほど太郎は七月のはじめから九月の半ばまで店を休むしかないわけだと納得が行つた。
石川郡は鶴来《つるぎ》町、手取川の上流、白山の麓に、川魚山菜料理の和田屋がある。吉田健一さんの『金沢』に、
[#この行1字下げ] この時も内山はその鶴来という町かそこの料理か、或はその両方に惹かれて骨董屋に教えられた通りにして車で或る日鶴来に向った。その日の青空には思い出すものが多かった。それが既に春なのにそのように澄んでいるのは鶴来の町がある山地の空気のせいとも考えられたが山はこの日本海側に続く人を寄せつけない気色のものでそれは牧場でも芝生でもなくてまだ雪が斑に残った峯の列であり、杉に蔽われた麓、又水が川原の石を押して流れる川だった。(中略)併し骨董屋が言った山菜料理を食べさせる所は番地は鶴来の町でもその外れとも考え難い山の中で車は川を離れて次第に山の方へ登って行った。そしてどうかすると又川に来て吊り橋になった橋を渡ったりしてその辺は川のかなり上流と思われた。
といふ、弓の名人である猟師のやつてゐる料理屋は、どうやらこの和田屋に暗示を受けて書かれたもののやうである。事実、これは人里はなれた山の中の閑寂な店で、金沢の旦那衆が美食に飽きて風変りなものを食べたくなつたとき、ぶらりとやつて来る料理屋らしい。
まづ蕎麦むし萬頭でお茶。織部の器にはいつてゐるこのお菓子が、俳味にみちてゐて、長い道のりの疲れを取り、さあ飲むぞといふ気を起させる。酒は鶴来の酒で、萬歳楽。清冽、泉のごとき美酒で、わたしはこれを飲むたびに養老の滝の話を思ひ出す。銭奈《せんな》(ワサビの葉)の白味噌あへといふ、乙でしかも温雅なものに箸をつけながら萬歳楽を飲んでゐると、わたしもまた『金沢』の登場人物のやうに、仙人に近くなるやうな気がした。
次が五種盛りで、山芋のワサビ漬(三杯酢にワサビをすりこんで山芋を漬けたもの。瀟洒な風味)、笹寿司、アサツキぬた(おつとりとして上品)、ごりの佃煮、蕗の佃煮。
次が、うぐひの洗ひ。
それから熊の刺身。冷凍にしたもので、ちつとも臭くはなく、ほのぼのと甘い。洗ひネギと新生姜で。肉の刺身と脂身の刺身と二種類あるのだが、これを別々に食べるほうがいいのか、それとも肉の上に脂をのせるほうがいいのか、何度も試してみる。後者の、カナッペのやうな食べ方のほうが複雑な味でいいやうな気がするが、結論はこの次に和田屋へ行つたときに出さう。
岩魚《いはな》のこつ酒。岩魚の炙つたやつに熱燗を注ぎ、火をつけてアルコール分を飛ばした酒である。朱と緑と白の豪勢な九谷大鉢に、存分に育つた岩魚がはいつてゐるのを、青竹の箸で押へて、まはし飲みする。途中でちよつと身をほぐすのもおもしろい。このまはし飲みといふ作法はお茶から来たものだらうが、いつやつてみても景気がよくて、豪快で、まるで戦国大名になつたやうな気がする。
ごりの吸物。白味噌仕立てで笹がきごぼうを添へる。ついさつきまで手取川を泳いでゐた小魚の歯ごたへを、白味噌のおだやかな味が生かしてゐて、野趣に富みながらしかも都会趣味の極致といふ感じがする。
岩魚の塩焼。さすがに手取川の岩魚となれば違ふと言ひたくなるくらゐ、こくのある深い味で、かういふ岩魚はさぞかしうまいものを食つてゐるのだらうと思ふが、焼き方もよいにちがひない。
山芋とろろ。ワサビと酢で。
じぶ煮。山鳥を使つてゐる。この山鳥の味が、深山幽谷を自在に飛んでゐるせいかしら、まるで水のやうに淡泊で、しかも噛むにつれてぐんぐん複雑な味に変つてゆくのには驚いた。もちろん、椎茸や笹の子や芹がはいつてゐて、それらさまざまの山のものが山鳥の風味を引き立てる。
深山あげ、つまり天ぷらだが、ほのかに塩の味のする塩づけの山うど、蕗の薹、山芋の薄切り、ヌカゴ(山芋の実)、秋の香りをたたへた胡桃、などを揚げたものもいいが、何と言つても、ゴリのから揚げがすばらしい。ゴリと言つたつて、佃煮にするゴリなんかとは違ふ大ぶりのやつですよ。よく肥つた、可憐な、小さな川魚が、まことに程よく揚げられて食膳に供せられ、尻尾や鰭のかりかりした具合と胴体の湿潤柔媚な加減とを同時に味はつてくれと頼んでゐるのである。いや、厳密に言へば何も向うが頼んでゐるわけではないが、まるでもう頼まれてゐるやうな気がするのである。義を見てせざるは勇なきなり。これを一つ二つ三つと口に運びながら合の手に杯をあげれば、加賀の山と川とにみなぎる滋味と滋養とが、じわじわと、そして確実に、手のさき足のさきまで達するやうな気配であつた。
そしておしまひが狸汁。生姜を上手にあしらつてあるせいか、ちつとも臭くない。脂つこくて、しつこくて、しかも同時に至つて爽やかな味である。それはむしろ、豚汁の極限の姿と言つてもいいかもしれない。となれば、これが酒の肴にふさはしいことは誰だつて納得のゆくところで、実を言ふとこのあと、なめこ雑炊があつたけれど、わたしはそんなものに見向きもしないで萬歳楽を飲んでゐた。今になつて考へてみれば、あの雑炊もまたなかなかのものに相違ないのだが。
五木寛之さんに金沢の食べものについて訊ねたとき、彼が最も力説したのは、一体このへんのところが五木さんの泣かせるところなのだが、金沢のおでんがじつにうまい、どこのおでん屋へ行つたつてうまい、といふことであつた。それはわたしが、ひよつとすると五木さんの岳父である金沢市長の最大の票田は全市のおでん屋かもしれないと疑ふほど、情熱のこもつた態度だつたのである。
が、ものはためし、高砂といふおでん屋にはいつてみて、わたしはすつかり感心した。五木さんの言に寸毫の誇張もなく、これは推奨するに足るおでんだつたのである。この店はわたしの好む上方ふうの薄味ではなく、わりあひ関東ふうの濃い味つけで、それはちよいと残念だつたけれど、しかし金沢全市のおでん屋の味の高級さは、これをもつて卜するに足る。絶品はスヂといふやつで、これは判りやすく言へば牛と豚の腱である。おそらく金沢独特のはずの、このおでん種は、くどくて癖のあるところを生姜とネギで殺し、しかも殺し切れない加減が、まことによかつた。
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由緒正しい食ひ倒れ
昔の大阪の人では大江丸が好きである。寛政のころ、島屋といふ飛脚問屋の主人だつた人で、俳諧をよくした。達者で、長生きして、艶つぽい句を作つたから、俊成卿を俗に崩した趣があると言つてもよからう。たとへば、
玉東江戸下りに申しつかはす。みつけ番に
しかられな。うす雲高尾に長じりすな。
行くはるや江戸は牡丹に|杜 若《かきつばた》
しのぶ恋といふ事を
吉田屋の蚊に喰はれけり伊左衛門
ある妓家にて星合を
七夕の今宵大ぼし力弥かな
などとまことに粋である。「大星」には言ふまでもなく「逢ふ星」が隠してあるのだ。かういふ人だから、
すみよしや粉浜《こはま》の蜆《しじみ》赤みそに
売り声はとほ山どりか櫻だひ
花の京かまくらの夏はつ鰹
ならの宿にて
鱠《なます》うつ宿の外面《とのも》や鹿の声
などと、すこぶる食ひ意地が張つてゐて、これもわたしの好みに合ふ。(念のため言ひ添へておけば、「売り声は」の句は、『新古今』、後鳥羽院、「さくら咲くとほ山どりのしだり尾のながながし日もあかぬ色かな」を踏まへてゐる。)
つまり今の大阪の贅沢な都会生活は天明寛政のころに淵源を持つわけだが、しかしかう言へば島屋の御隠居はきつと、いや、もつとずつと昔からわれわれは食べもののことに熱心だつたと反論して、例の税金を三年免除した仁徳天皇の(と伝へられる)「高き屋にのぼりて見れば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり」を引くに相違ない。すなはちあの古歌は、税務署をまんまとあざむきながら家々が競争でうまいものを炊いてゐる、むやみに景気のいい話に変るのである。事実、さういふ気持がなければ、
高き屋にけふは栗むす煙みむ    大江丸
なんて発句は口をついて出るはずがない。
その煙の立ち具合、食ひ倒れの調子を実地に眺めようとして、ホテル・プラザに宿を取る。このホテルは、部屋がほんのすこし狭苦しいのが難だけれど、サーヴィスはわりあひよくて推奨するに足る。第一、ロビーでぼんやり腰かけてゐても、お客になかなか美人が多いやうな気がした。大江丸爺さんなら大喜びしたに相違ない。もつとも、かういふのはやはりその日その日の風まかせだから、わたしは決して責任は取りませんよ。
まづ吉兆。そしてこの夜のお客は調理士学校の校長の辻静雄さん。もうぢきフランスに出かけるとかで、旅さきでは商売の参考にするため、毎日二食、否でも応でも本式のフランス料理を食べなければならない。食べつづけなければならない。それに何しろ、出かけるさきのレストランの料理人はみんな友達だから、ほんのちよつとでも食べ残すと大変なことになる。しかも因果なことに、辻さんは洋食よりは和食のほうが好きだから、まつたく辛い旅行になるわけだが、そんなわけで、このお招きをたいへん喜んで下さつた。
部屋は人形の間。なるほど、大きな御所人形が金屏風の前で車を曳いてゐる。掛軸は季節に合せて一鳳の鍾馗《しようき》。そして酒は大関だが、これも菖蒲酒で、菖蒲の赤い根を漬け込んだもの。
八寸は、八幡巻、川海老、菖蒲刀(菖蒲の葉の鞘《さや》を抜くと、銀いろのサヨリが秋水のやうにきらめく)、卵カマボコ、焼酎に漬けた山桃(緋に近い紫の鮮麗な彩りが美しいし、味もその色調を裏切らない)、ウニの煮こごり(柔くて舌にとろける美味、これがほんのちよつぴりしかないのが残念)、の六つが八橋にあしらつて魯山人の皿にのせてある。この淡いみどりの皿は見事だつた。辻さんに言はせると、いい器をたくさん持つてゐる大阪の料理屋はいくつかあるが、たいてい出し惜しみをして使はないのに、吉兆だけは別で、景気よく使ふのださうである。その特色をいきなりぶつけるといふ趣向なわけだ。
この器のよさはもちろんおしまひまでつづくわけで、たとへば次の煮物の江島椀にしても、がつちりしてゐて優しくてじつに気持のよい、大ぶりの椀が使つてある。これは胡麻豆腐と鮑に、三度豆の皮を薄く細長く切つたものを五六本、彩りに添へてあるもので、葛仕立てにしぼり生姜をあしらつてある。淡い塩加減がまことに絶妙で、といふのは、単なる曲のない薄味ではなく、最初ほんの僅かばかり塩つぱいかなと疑はれる味なのに、二口目から白湯《さゆ》のやうに変るのだ。しぼり生姜の細工に芸を秘めてゐるのかもしれない。
その次は、
行く春や鰺にうつろふ鯛の味    大江丸
にぴつたりの、鯛と縞鰺の刺身で、船底型の皿に盛りつけ、菖蒲の葉をにぎやかに、しかし涼しくあしらつてある。辻さんは、
「かういふ飾りものの歴史を調べた人がゐないんですよね。誰かやればいいのに」
といかにも調理士学校の校長らしく残念がつてゐた。
「視覚的な美を重んじるのは日本料理だけだなんてよく言はれますけど、でも、西洋料理でも氷細工があるぢやありませんか」
とわたしが言ふと、
「あれは今はヨーロッパではやつてゐませんね。一八八〇年代が盛りで、今世紀にはいるともう終つてしまつたんです」
とのことだつた。つまりあれはごく大まかな意味での世紀末芸術なわけで、それが日本にはいつて来て、そのまま定着し、例のホテルのパーティでの大きなペンギンとか白鳥とかになつて、われわれに親しまれてゐるわけだ。しかし、近頃の西洋は何かにつけて世紀末趣味の復活を心がけてゐるやうで、たとへばビアズレーばやりなどすこぶる目につくから、案外これも一つといふことになつて、日本に習ひに来るかもしれない。
間肴は焼肉だが、ちよつと凝つた仕掛けになつてゐて、黒ずんだ皿のなかに、もつと黒い、さしわたし十五センチばかりの焼石がごろりとはいつてゐる。この上に牛肉や椎茸をのせて炙るのである。牛肉は神戸の肉で、ヒレ。脂がのりすぎてゐない、味の深いところを吟味してあつて、いくらでも食べられるやうな気がする。さう言ふと、追加を出してくれたが、わたしは最後まで全部、食べなければならない身なので、一切れだけでよす。
端午の節句づくしだから、きつと粽《ちまき》が出て来るだらうと思つてゐたら、点心がそれだつた。しかしもちろん、ただの粽ではなく、粽仕立てのなれ鮨で、藺草と笹の葉をほどくと鯛鮨が現れる。これが、飯の炊き方が上手で、じつによくなれてゐる。その鯛皮を幽庵漬(なんてことがわたしに判るはずはないので、これは辻校長に教へてもらつてのカンニングなのだが、あまりよく聞いてゐなかつたので、幽庵漬とは何かといふことは書けない)にしたのが、ごく小さな山椒の実や生姜といつしょに、端にちよいと添へてある。鮨のほうにも感心したが、この幽庵漬と山椒の実と生姜もよかつた。これで口中がさつぱりして、大関の味がまた一段と冴える。
焼物はアブラメ、つまりアイナメで、表側は大まかに、裏側は至つて密に、骨切りがしてあるから食べやすい。添へてあるのは、生の山椒と味噌と胡瓜もみ。
次の煮物。これは傑作であつた。まづ器がすばらしい。みどり、金、空いろ、茶、朱の線がひよいひよいと引いてある小ぶりの茶椀で、白地を大きく残してある。それはまるで八百屋お七の(と言つたのでは江戸になつてしまふけれど、とにかく誰か大阪の小町娘の)衣裳のやうに花やかで可憐だつた。わたしはまづ上から蓋の彩りを楽しみ、次いで横から眺めてまた大いに満足してから、蓋を持ちあげた。と、そこには器量自慢の町娘さながらに、空豆と筍とがひつそりと控へてゐて、そのかたはらには針生姜がつつましく並んでゐる。空豆のみどりと筍の白と針生姜の黄との調和がすばらしいことは言ふまでもない。
わたしがうつとり見とれてゐるうちに辻さんは箸をつけて、
「楚々としたいい味ですな」
とつぶやいたが、たしかに味加減も色彩美と同じで、最初の一口はこれもほんの僅かばかり甘すぎるかなと案じられたが、あとはただ清楚で可憐で、まことに結構なものだつた。そして最初の、ほんのちよつと甘すぎるといふ印象にしても、これが大阪の料理の基本とすれば、文句を言ふ筋合では決してない。汁をすつかり飲んで裏を引つくり返してみると、半七とあつた。
それから鯛御飯を、オクラが浮いてゐる味噌椀で食べる。おしまひが自家製の水ようかんだが、これは柔かで、甘さは至つてほのかで、しかも小豆の匂ひを存分に残してある絶品だつた。それは何か、夢のなかで食べた水ようかんの後味に似たものを現《うつつ》に口にしてゐるやうな気持である。
大阪の洋食なら、何と言つても朝日新聞の上のアラスカださうである。そこで早速、ここで晝飯を食べることにする。
シャブリの七一年を抜いて待つてゐると、まづ牛の髄の焼いたやつ、ベイクト・ボウン・マロウが出て来る。牛の後ろ脚の骨で、髄のところをスプーンでしやくつて食べるのである。これはアラスカ系の店の自慢の料理のやうで、とろりと脂つこいのと、塩つぱいのとが、白葡萄酒によく合ふ。
それからコンソメで、その次がコルネ・ロッシーニ。牛のヒレの炭焼きでフォアグラがのせてある。付け合せの野菜はニンジン、ジャガイモ、マッシュルーム、インゲン。フォアグラだけを肴に白葡萄酒を飲み、いい気持になつてゐるうちに、フォアグラが牛肉の熱のせいでどんどん溶けてゆく。そこでフォアグラとヒレとをいつしよに口に運んで、ときどき合の手にパンを食べると(このパンがちよいとよろしい)、豊饒微妙な宇宙がたちまち舌の上に出現して、しばし消えることなく、シャブリの七一年がいよいようまくなる。サラダはレタスとセロリとニンジンとオレンジ。
しかしアラスカで最も感銘を受けたのは、デザートに出て来たクレープ・アラスカといふお菓子である。グレナディン・シロップとシナモン・シュガーを使つてあるのださうだが、とにかくクレープでくるりと巻かれて、薄桃いろが艶麗に、しかし少女のやうにはにかんでゐる。この味が淡泊にして色つぽく、清楚にしてエロチック、健気《けなげ》でしかも淫蕩……まことによろしい。そこでわたしは考へましたね。吉兆の水ようかんと言ひ、この店のクレープ・アラスカと言ひ、こんなに高度な完成を示してゐるところを見ると、ひよつとすると食ひ倒れの伝統は今、大阪のお菓子のなかに最も脈々と息づいてゐるのではなからうか、と。これは何となく大発見といふ気がしたから、そこでとりあへず高麗橋の菊屋へゆき、生菓子を買ふ。
七つか八つ種類があるなかでわたしが選んだのは、ほととぎす、薯蕷《じようよう》、きんとん、わらび餅の四つ。これをホテル・プラザの部屋で、「週刊朝日」の巻頭グラビア、パンダのポルノなんかを眺めながらつまむと、菜の花をちよつと褪せさせたやうな色のほととぎすも、白いジヨウヨウも、薄みどりのきんとんも、みな、なかなかいいが、鳶いろのてつぺんに黄粉を散らしたわらび餅がとりわけ気に入つた。黒餡を包んでゐるわらび餅のゼリー質の薄さが、じつに程よく出来てゐて、嘆賞を禁じ得ないのである。
ところでわたしの知り合ひには、辻さんのほかにもう一人、大阪の食べものに詳しい人がゐる。かの文豪、と言ふか、それとも食豪と呼ぶべきか、いや、両方を兼ねてゐる開高健さんであつて、出発前、彼に相談したところ、まづ第一に推薦したのは道頓堀のたこ梅であつた。何しろ博識を早口でにぎやかに披露する点では日本で一二を争ふ人だから、おでん屋一つすすめるにしても、フランス大統領選挙の話あり、マフィアの性生活についての独自の仮説あり、西洋美術史におけるゴヤの位置についての考察あり、エスキモーと日本人との文化人類学的比較研究ありで、このうち最後の話だけが当面の問題と関係があるのだ。つまり開高さんに言はせると、鯨の肉を食べるのは人類のなかでエスキモーと日本人だけだが、その日本人のうち舌の肉まで食べるのは大阪だけではないか、これが珍味である、ぜひ試食せられたし、とのことであつた。
そこで道頓堀のたこ梅におもむき、錫のコップに錫の大徳利から酒(白鹿)をついでもらつて飲んでゐると、しよつぱなからこのさへづり、すなはち鯨の舌が出て来る。舌と言つたつて何しろあれだけ大きいやつの舌だから、柔いところと硬いところと二種類あるやうで、後者は噛みきれなくて苦労したが、前者はとろりとしてゐて非常にうまい。それは何か猥褻な印象を与へる、しやれた食べものであつた。
次は章魚。極めて柔かに、しかし柔かすぎはしない程度に煮てある章魚の脚で、大ぶりに切つてある。酒の肴として絶好。
コンニヤクとボーテン。コンニヤクのほうは説明が要らないはずだが、ボーテンといふのはゴボウ巻のゴボウ抜き、あるいはサツマ揚げの棒状のもの。白味噌と酢をすこし入れてある辛子を塗つて、かういふものを食べてゐると、必然的に酒がいくらでも飲めるやうな気になる。飯蛸《いひだこ》。これがまたうまい。
飯だこや朝むらさきのひとしぼり    大江丸
を思ひ出しながら、また白鹿をついでもらつて飲む。きりがないから、青柳以下は省略するとしませうか。
そして、大阪ではこんな具合に気楽な店にうまい店が多いといふのは定評のあるところだが、板前割烹といふのかしら、腰掛けで飲む店の代表としては角田町の民家《たみや》を選んだ。雑然たる雰囲気のなかで、しかもきちんとしてゐる、いい店である。これなら大丈夫だと思つて、何を食べるかは主人に全部まかせることにした。
酒は菊正。これをチシヤトウ、小芋、アハビの、気のきいた突き出しで飲んでゐるうちに、トロロが出て来る。腰の強いこと中年増のごとし。ちよつと塩つぱいかな?
次が刺身で、白い大皿に、メイタ(淡泊にして滋味に富む)、アカヲ、鯛、アハビ、アハビの肝(これがすばらしい)、タチイカ、鯛の昆布じめ、鯛の皮、アカヲの皮が、無造作なやうで実は花やかに盛り付けられてゐる。
これでチビリチビリやつてゐると、主人が大きな烏賊に、まるで若秩父のやうに景気よく塩を振つて、金串で炙るのが目にはいつた。見るからにうまさうである。これは楽しみだぞ、と当てにして待つてゐると、そのうち半分をよそのお客に出し、残りのうち大部分を別の丼に入れておかみさんに渡し(つまり晩飯のおかずなのである)、わたしには(わたしの目つきを哀れに思つたのだらうか)二切ればかりすすめてくれたのだが――これがむやみにうまかつた。もつとくれと言つたのでは店の人のおかずがなくなると思つて、我慢したけど、今でも、あの遠慮をちよいと悔んでゐる。
もちろんこのあひだに、民家の主人はわたしの焼魚を用意してくれてゐる。鯛の頭の塩焼で、焼きあがると深皿によそひ、じつに威勢よく熱湯をかけ、さらにレモンをたつぷりとしぼつてかけて、そのまま差出す。まづ目玉のところから箸をつけたが、そこだけに限らず、火加減がまことに具合がよい。焼け焦げた皮のすぐ裏の、ヌルリとしたところが、熱湯とレモンのせいでさつぱりした感じになつて、口当りがいいのである。夏になるとアラダキではしつこいから、と言ふことだつたが、たしかにこれは脱帽に価する工夫で、わたしは、
行く春や堺の浦のさくら鯛    大江丸
を思ひ浮べながら、せつせと箸でほじくつたり、骨をしやぶつたりして、もうすぐ訪れる夏のエネルギーをいちはやく体内に取入れたやうな気分になつてゐた。
次が、コノワタの干したものを烏賊ではさんで粕に漬けたもので、おしまひが、自家製のなれ鮨(真鰺と穴子)をつまみながら、ハモの味噌汁。鮨(特に真鰺)のほうも、飯と昆布と魚の具合が三位一体と言ひたいくらゐよく出来てゐたが、味噌汁はそれ以上にうまかつた。至つて薄味なくせに中身は濃く、上品でしかも充実してゐるのである。わたしはこの味噌汁にすつかり堪能して、季節が違ふとは心得ながらも、
鱧《はも》たたく音は隣りか菊の花    大江丸
を思ひ浮べてゐたのだが、あれは浮べてあつたミヨウガを菊の香りと錯覚しての心の迷ひかもしれない。
大阪で鮨と言へばなれ鮨。当り前の話で、何もわざわざ上方へ出て握りを食べる馬鹿はゐないやうな気がするだらうが、日本橋の福喜鮨だけは別である。これは岡山の魚正と並ぶくらゐの店で、そのことは店に一歩はいつたときに判るし(ゆつたりと落ちついてゐて気持がせいせいするのである)、白雪を飲みながらつきだしを一口食べると、もつとよく判る。このときはハモの湯引きを梅肉醤油で。
まづ刺身。鰹。もちろん外側はちよいと炙つてある。ポン酢で。ぬるりとした感じがじつによろしい。大江丸の発句はもうよしませうね。ヒラメ。縁側のところ。コリコリとしまつてゐる。赤貝のヒモ。レモンをしたたらせ、醤油をつけてから、もみ海苔にまぶして食べる。レモンとワサビと醤油と海苔の複雑で精妙な調和。鯛の白子。白くてほのあたたかくて柔媚なものを、大根おろしとネギと生姜と七味と酢醤油で。鯛。特別の感想はないが、しかしうまい。烏賊。紀州の烏賊の由。一口二口、噛んでゐると、だしぬけに甘みが訪れて、それにうつとりしてゐると、いつの間にやら烏賊が口中から去り、しかも甘みは残る。
ここから握つてもらふ。米は肥後米で、酢はミツカンの白菊。
スズキ。流麗といふ言葉が何となく頭に浮ぶ。平目。シヤコ。子がびつしりとはいつてゐるそのエネルギーが、体のふしぶしまでたちまち伝はつて来るやうだ。湯がいた海老。生の海老。これはレモンと食塩で。穴子。炙りたての温いやつで、充実の極致である。天地正大の気からファシズムを除けば、かうなるだらうといふ気がする。海老の頭の炙つたやつ。うまい。肉がすこしついてゐる胴に近いほうの半分がすでに充分にうまく、純粋な頭のほうはその上をゆく。卵焼。さながらマナイタのやうに、途方もなく大きいやつである。優雅端正。
次が鯛の潮。
ここで白瓜がひよいと出て来て、口のなかをさはやかにしてから、鉄火。アハビの肝。もちもちしたアハビの肝と、しつこいタレとの重苦しい調和が、何か贅美を盡した感じのものになる。
そして次は……
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神君以来の天ぷらの味
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丸の中に三の字を染抜いた紺暖簾の、裾長くかれこれ地面まで引いた陰から、ぬツと首だけ突込んで、
「今晩は」
「おや三好さん、お珍らしい……」
檜造りに、ちよいと手間を掛けた屋台の奥に、磨き込んだ銅の大鍋を控へて、丸三の女房は、二重のキヨロリとした眼もとに愛嬌皺をよせ、無造作に束ねた縮れツ毛の額で軽く会釈しながら、
「まあどうぞ、……ずつとお通ンなすつてください」
「あいてる、あいてる。珍らしいな」
(中略)
ほんの屋台のおでん屋ながら、商売熱心の上に凝り性な女房が、どこで誰に教《なら》つたともなく覚えて来ては、まるきり碌な食物屋のないこの四谷通りに、材料だけでも下町の一流どころにをさ/\劣らないほどの、おやツと思ふやうな料理を食はせてゐる丸三だつた。
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里見※[#「弓+享」、unicode5f34]氏の名作『多情佛心』の一節である。この丸三は丸梅を写したものらしく、丸梅はこれですつかり有名になつたといふ。はじめて四谷に店を開いたのが大正十二年で、『多情佛心』の時事新報連載は大正十一年十二月から翌十二月まで、そして十三年に二冊本として刊行されたのだから、たしかにこれは大変な宣伝だつたにちがひない。
「二重のキヨロリとした眼もと」の女房に当る井上梅さんは、戦後、本塩町に現在の小さな店を開いて、座敷が一つしかない以上当り前かもしれないけれど、一日に一組の客だけといふ方式でたいそう繁昌した。(例の北大路魯山人が、味覚の天才は今の日本の料理人のなかに十人とはゐないと述べて、筆頭に新富ずしの主人、次に丸梅の女将をあげ、それからあとは別に名前を記さなかつたのは、昭和六年のことである。)その梅さんは去年(昭和四十八年)の春、九十一といふ高齢で亡くなつたが、娘さんがあとをついで、四人で店をやつてゐる。とにかく東京名物になつてゐるから、この店を逸する手はなからうと考へた。
お客様は石川淳さん。夷齋先生は藍の結城の着ながしに結城の帯、白足袋で現れ、いきなり、
「野坂君は惜しかつた」
と世間話になつた。言ふまでもなく野坂昭如五十数万票で落選の件である。こちらは裁判のほうが専門で、参議院にはいつこう関係がないけれど、残念といふ気持には変りがない。そこで、時事問題と鯛の刺身を肴に酒を酌むことになる。先生いはく、
「もう櫻鯛ではないから、葉鯛だな」
酒は多聞。辛口でなかなかよろしい。藏元からぢかに送つて来る特別のやつださうで、それは大いに結構だけれど、一人にお銚子一本といふのがこの店のきまりである。一つにはかういふ上等の酒で、ふんだんに入手できないため、さらには、あまり飲んでは料理の味が判らなくなると案じてのことだらうか。このときは六人の一座だつたが、まづ運ばれて来たのは二本で、日ごろ独酌で飲む文士の酒に慣れてゐるものだから、面倒くさくて仕方がないし、それに、残りは四本しかないと考へると、まるで配給制度のやうで、何となく寂しさが身にしみる。
と思つてゐたら、やはり文士の酒に慣れてゐる先生が、一人に一本づつを主張し、
「ただしこの二本は別。これはお座つきの都々逸のやうなもの」
と給仕の女の人を笑はせて、あつさり版図拡大に成功してしまつた。何しろ向うは戦争前からの酒で、長いいくさのあひだ秘術を盡して飲んだのだから、腕が違ひます。
次が海老の吸物で、蓴菜《じゆんさい》をあしらつてゐる。豊饒で濃密でしかもおだやかで、これをちよいとすすつては多聞を飲んでゐると、何か天下泰平といふ感じがしてくる。つまり、酒の心配がいちおうなくなつたので、ゆとりが生じたのかもしれない。普通のお銚子と違つて一合以上ははいつてゐるし、それに六人のうち飲めないのが一人ゐるし、もうこれで安心だらうと踏んだのだ。
野菜の胡麻味噌和へ。これが絶品だつた。味噌が今どき珍しい昔ながらの味なので、訊いてみると果して自家製の由。多いときは十種類以上の野菜がはいつてゐるさうだが、このときはサヤエンドウ、インゲン、アサツキ、ズイキ、タラノメ、ヤマブキ、キクの七つ。そして、サヤエンドウにしてもインゲンにしても、一つ一つの上半分しか使つてゐない。下半分は味が落ちるからである。といふ講釈を聞いて、なるほど、これは味覚の天才がサヤエンドウをじつと噛みしめて、差違を発見したわけだな、などと思つてゐると、このとき夷齋先生いはく、
「すると、お酒が一本づつなのは、樽底は使はないからですか」
まだこだはつてゐる。
この胡麻味噌和へも取りまはしだつたが、次のアハビの煮物も同じ。それから湯葉。ごく薄味で、熱くておいしいが、他愛もないと言へば他愛もない。次が青柳と胡瓜とウドの酢のもので、酢のものと言ふよりサラダ仕立てと形容すべきか。今度は一転して甘い味加減。青柳が固くなるのを恐れて、お早くお早くとせき立てる。
本当は鮎を出したかつたのに、今年の長梅雨で岐阜から鮎が来ない、まことに残念といふ話だつたが、これはまあ仕方がない。そこでおしまひは鶉で御飯。ほかに胡瓜の漬物、インゲンの佃煮風、汁。
この胡瓜(二本)もよく吟味したものを上手に漬けてあつたし、インゲンの佃煮風もしやれてゐた。そして味噌をさつと通しただけの蜆汁も瀟洒なもので、それに言ふまでもなく鶉はすこぶる結構だつたが、わたしがいちばん興奮したのは御飯である。米は新潟のコシヒカリで、しかも自然乾燥させたもの。これを薪で炊いてゐる。なるほどこれが昔の飯だ、たしかに昔の飯はかういふ味がした、などと考へながら食べてゐると、
「おこげもございますから、よろしかつたらどうぞ」
と言ふではないか、飯は一ぜんだけといふ禁(?)を破つて、ほんのすこしよそつてもらひ、少年のころを思ひ浮べて感傷にひたる。夷齋先生もまた、わたしと同様、ごく少量のおこげを賞味してゐた。
デザートはマロン・シャンティ丸梅ふうといふ名物で、栗とメロンと生クリームのほのかな趣がじつにいい。すつかり堪能してゐると、先生がわたしのメモに発句を書きつけた。そこで、当然、脇を付ける。
なかんづく米の飯よし夏料理       夷齋
あの八月を思ひ出す酒         才一
先生はさすがに、八月ぢやあ秋になつて季移りぢやないかなんて野暮なことは言はないで、
「なるほど、あの八月。焼跡か。野坂君の世界ですね」
とつぶやいた。
うまい中華料理店は東京に数多い。どれを選んでもすぐに異論が出ようが、それを覚悟の前で、敢へて赤坂四川飯店に出かけたのには理由がある。その理由を言ふためには、わたしの友人である批評家、篠田一士が、どんなに親切な男かといふことからはじめなければならない。
何しろ篠田は朝鮮の漢詩にさへ関心があるくらゐ古今東西の文学に詳しい男で、日ごろさういふ知識の蒐集《しゆうしゆう》を怠らず、そのごく一部として、和洋の(これはさすがに和漢洋ではないらしい)新聞雑誌をむやみに読む。そこまでなら、単なる商売熱心、ないし趣味と実益を兼ねる行為にすぎないが、読んでゐる新聞雑誌のうち、他人に関係がありさうな記事があると、切抜いて送るといふ奇癖、いや、親切心がある。その結果ある日わたしのところへ、ジャパン・タイムス一九七二年十二月十七日号所載、マーク・フライ氏の、『トウキョウ・ア・ラ・カルト』の切抜きが、風に運ばれる木の葉のやうに舞ひ込んだのだ。
これは、東京の料理屋のうち、フライさんが気に入つたものを一軒づつ紹介してゐるコラムらしいが、この日は赤坂の四川飯店で、そのなかに一つ、まことに重大なことが書いてある。「われわれはまた、マオ・ツェ・トゥンの個人的料理人が――マオ氏は最上の料理人を指名する位置にある――数年前、彼〔チェン・チン・ミン氏〕の下働きの一人として四川料理の知識を学んだ、といふことを発見した」
チェン・チン・ミン氏といふのはすなはち陳健民さんで、赤坂四川飯店の社長兼料理人である。とすれば、われわれはこの店へゆきさへすれば、毛沢東が食べるのと同じ、いや、それよりずつと上の、四川料理を食べられるわけではないか。何しろ師匠と弟子となれば、格が違ふはずだ。
さて、そこで毛さんが食べる以上の料理だが……とりあへずマオタイ酒といふ強烈な酒を飲みながら大皿の前菜。本式に言へば、彩鳳聯盆。一体、四川料理の前菜は、孔雀とか、鶴とか、鳳凰《ほうおう》とか、鳥をかたどるのが好きださうだが、これは鶏肉、卵黄、ハム、卵白、蟹チーズ、豚のハツ、豚の舌などで作つた鷲が、クラゲ、マナガツヲの唐揚げ、アヒルの卵などで出来てゐる地面を低く見て、悠々と飛び翔けてゐる趣向だ。かういふ凝つた図柄を惜しみ惜しみ崩しながら、マオタイ酒を飲み、珍味佳肴を待つてゐると、まるで大国の要人の気楽な部分ばかり引受けたやうな、いい気持である。
次は花籃双絲。ソバ(もちろん中華ソバ)で花籠を作り、なかに、ウナギ、鶏肉、ピーマン、タケノコなどをいためたものを入れた料理。これが傑作である。形も華麗だが、きつと香料の使ひ方にコツがあるのだらう、味もまたすばらしい。それに、甘くて、豊かで、複雑なイタメモノと、花籃の部分の、つまりヤキソバのパリンパリンした硬い口あたりとの対照が、よく出来てゐる。われわれは、つい、貴ノ花はかういふものを大いに食べて、肥らなくちやいけない、なんてことを論じながら、マオタイ酒を飲んだ。何しろ、国際政治の次に相撲だから忙しいよね。
フカのヒレ。紅焼排翅。姿煮になつてゐて、醤油味である。菜心(中国の菜つぱ)を添へる。フカのヒレの茶いろと、菜心の淡いみどりとの調和が眼に楽しい。
次が鴨。樟茶※[#「火+考」、unicode70e4]鴨。まるごと一羽を蒸して揚げたもので、ほんのすこし砂糖味をつけてあるが、奇妙なことに絶好の酒の肴である。
海参鍋※[#「米+巴」]といふおこげ料理。これは中国の汁かけ飯、あるいはお茶づけである。炊いた飯をさましてから、ボウルにぬりつけ、乾かして、それを揚げる。その上に、タケノコ、長ネギ、枝豆、ナマコ、鶏肉、ハムなどのスープをかけて食べるのだが、スープの味にこくがあつてなかなかよかつた。
このへんでマオタイ酒をラオチュウにかへて、エビの煮もの、すなはち干焼明蝦。次が鳥の肝のスープ、清湯肝膏。しこしこしておいしいし、第一、一つづつ目さきを変へて、気分を一新してくれる趣向がすばらしい。毛さんもこれに近いものを食べてゐるなら幸福だといふのがわたしの感想だつたが、ただし、デザートに出たバナナの水あめ煮、抜絲香蕉はどうも感心しなかつた。バナナを使つたあたり、陳さんはここで一つ、蒋さんに義理を立ててゐるのだらうか。
東京の楽しみの一つは、ゐながらにして口腹の世界一周ができることである。つまり、フランスやドイツは言はずもがな、ギリシア料理だらうと、スペイン料理だらうと、スカンジナヴィアだらうと、インドだらうと、何でも食べられるのだ。かういふ都のくせに、イギリス料理とうたつた店が一軒もないところを見ると、われわれの国ではよほど、イギリスは料理のまづい国といふ宣伝がゆきとどいてゐるに相違ない。
閑話休題。さういふ諸国料理の店のうち、どこを選べばよからうかと考へてゐたところ、ロシア文学の原卓也さんが、高田馬場に文流といふ南欧料理の店があつて、安くてうまいと教へてくれた。早速ふらりと出かけてみると、若い客(殊に女の子)の多い、生き生きした店で、なるほど感じがいい。
給仕人のすすめに従つて、ポルトガルの赤葡萄酒ドム・シルヴァーノを飲みながら、注文した料理を待つ。これはこの店の社長がポルトガルに行つたときに、すつかり気に入つて買つてきた酒ださうだが、千円ちよつとでこれだけの葡萄酒を楽しめるのは、ちよつと珍しいかもしれない。ちなみに、ここの社長は洋書の輸入、つまり文化交流が本職で、その文化交流から店の名前、文流が出て来たのださうである。わたしは、
「なーんだ、イタリア語かスペイン語か、なんて考へて、損をした」
と笑ひながら、緋いろのドム・シルヴァーノを飲む。
前菜は二つ取つた。一つは豚の頭のサラミ。コンソメのゼリー(?)がついてゐて、レモンをかけて食べる。充実してゐるくせにあつさりした風味で、生命力にみちてゐるくせに優雅。なかなかよろしい。赤葡萄酒がいよいようまくなることは言ふまでもない。
が、もう一つの前菜、海の幸サラダのほうは、これをさらに上まはる見事なものだつた。エビ、イカ、タコ、ムール貝のサラダなのだが、味つけが小粋で、清楚淡泊、そのくせじつに奥行きが深い感じなのである。これは絶品と呼んでもいいし、ましてこの店の値段の安さを考慮に入れれば、もつと褒めてもかまはないといふ気がする。すこし酔つてきたかな?
次はあたたかい野菜スープ。ニンジン、タマネギ、キャベツ、ジャガイモ。パセリ、セロリ。それにニンニクとトマトソースを入れてある由。これはまあ、うんとハイカラなお惣菜料理といふ程度。
小牛と生ハムのソテー。グリンピースとジャガイモが添へてある。これも値段を考へれば上出来。デザートはイタリアの菊のお茶を飲んで、文化交流の一端を果したやうないい気持になつて店を出た。これは中年者がちよいと若返るには絶好の店である。などと言つては、あの、永遠の若さを誇る原卓也さんに悪いだらうか。
天ぷらといふのは、何しろ徳川家康が鯛の天ぷらを食べすぎて頓死したくらゐで、典型的な東京料理である。従つて有名店が多く、必然的に気が散る。どこへゆかうかな、と迷つてゐると、編集部が、食べものと洋服にかけての大家、古波藏保好さんに訊ねてくれた。古波藏さんに言はせると、お座敷天ぷらなら「天政」、小体な店なら日本橋室町の「はやし」なのださうである。そこで、お座敷天ぷらはちよつと気が張る感じなので、「はやし」を選ぶ。
なるほど、小ぢんまりして上品な、落ちついた店で、わたしは咄嗟に、これは古波藏さんの洋服の着こなしのやうな店だな、と思つた。日生劇場のロビーなんかで見かけて、ずいぶんおしやれな人もゐるものだとかねがね感心してゐたのだ。
「はやし」で特筆大書しなければならないのは、どういふ工夫のせいか、あの天ぷら屋独特の脂ぎつた感じ、油の匂ひがまつたくしないことである。これは、はいつてから出るまで変らなかつた。従つて、胸が一杯になんかならないで、いつまでも天ぷらを食べつづけることができる。
さういふ清潔簡浄な印象は、一つには、上等の器を惜しげもなく使ふことによる。わたしはまづ、手燭にかたどつた小さな銅の灰皿(合田富康氏作)に感嘆し、次に、折つた白紙がのせてある伊萬里の小皿、食塩で食べるための扇形の染付にびつくりした。この日はちようど、当年七十七歳の、ちよいと鴈治郎を思はせる主人が揚げてくれる日だつたが、器を褒めるとすつかり喜んで、戦争のとき藤沢へ四千点疎開させたのがよかつた、と自慢してゐた。
まづ、お通しが三品。穴子のしぐれ煮。これを四角い小皿にのせて。ちよいとしつこく、こころもち品のない味加減なのが、いかにも穴子らしくてよろしい。次が海老の活き造り。ワサビで。それから、海老の脚を丹念に炙つたやつを、朱泥の円い小皿にのせて。美味。このお通し三つの、対照の妙を見て、これはすみずみまで神経のゆきとどいてゐる、間違ひのない店だぞとわたしは改めて安心し、菊正宗をちびりちびりと飲みながら天ぷらを待つ。
最初はアスパラガス。主人の揚げ方を見てゐると、まことに静かなもので、何か茶の湯の一種みたいな気がして来るが、このアスパラガスの天ぷらはまさしく静寂の極といふべき味はひだつた。わたしはこれを塩で食べたのだが、これはわれながら賢かつたと思ふ。がしかし、この次はぜひ、あれを天つゆで食べてみたいとも思ふのである。
海老。これは天つゆとおろしで。椎茸。塩で。いづれも、選びぬいた材料の味を充分に生かしてゐて、まことに優雅である。殊に椎茸が絶品。
烏賊。紋甲烏賊である。厚くて大きいやつを四角く切つてある。まるで餅を景気よく切つたやうに。噛んでみると、なかのほうはまつたく生で、揚げた烏賊と生の烏賊との変化対照の妙がまた楽しい。
鮎。これは椎茸以上の傑作である。もちろん天つゆで。伊豆の狩野川の鮎ださうだが、わたしはこれこそ本当の鮎の天ぷらだといふ気がした。淡泊なくせに豊満、豪奢なくせに清楚。非の打ちどころのない味である。かういふ温くておいしいものを口にして噛んでゐると、今の東京でも、至福といふ言葉を思ひ出すことができる。
次はオクラ。天つゆで。その次が海老。塩で。どちらも非常によろしい。
ここでマタタビの酢漬けが出て来る。一ひねりした凝つた味だが、明かそれとも李朝のしやれた小皿が味をいつそう引き立てる。
ここからまた天ぷらになつて、穴子。こちらが天つゆに大根おろしを入れて待つてゐるところへ、主人が、
「よござんすか。よござんすか」
と声をかけてから、揚げ立ての熱いやつをジユツとつけてくれる。それを大急ぎで食べてゐると、今の東京でも至福といふ言葉が……あ、これは前に書いた文句だが、しかし、まさしくさう形容するしかないやうな心境であつた。
それから、カキアゲ。小ぶりの巻海老が三つくらゐはいつてゐる。柔くて、おだやかで、安らぎがある。世の中にかういふ品格の高いカキアゲがあることを、わたしは今まで知らなかつた。
これで一通り終つたのだが、
「お好みは何か?」
と訊ねられて、穴子(鮎はもう品切れ)。脂がのつてゐて、しかも脂つこくない、奇蹟的な風情である。それは、油によつて、そして「はやし」の主人の芸によつて、「金沢八景のもつとずつとさき」の穴子がすがすがしく浄められてゐる趣であつた。
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四国遍路はウドンで終る
朝日新聞の美術記者、小川正隆さんが、四国でうまいものを食べようと思つたら、流政之さんに教はるに限る、と言つた。なるほど、流さんなら、東京とニューヨークの都塵を避けて瀬戸内海を眺めながら制作に打ち込んでゐる彫刻家(彫刻家といふんでせうね、やはり)だから、さぞかしいい店を知つてゐるにちがひない。よいことを伝授してもらつた。そこで、空気のよく澄んだたそがれどき、屋島に近い宏壮にして閑寂なアトリエを訪れて、水割りのグラスを片手に庭をぶらぶら歩いたり、庭のここかしこに据ゑてある巨大な作品と借景の海とが刻々と色調を変へるのを楽しんだり、景気よく焚いた炉の火を眺めながら美しい流夫人とおしやべりしたり(もちろんこの場合も水割りを飲むことを忘れない)したあげく、流さんといつしよに、高松市は田町の、おとと、といふ店へ行つた。
のれんは大漁旗の部分、壁の色はちよいとピンクがかつた赤で、いづれも流さんの指定のもの。彫刻家は壁を指さして、
「女郎屋みたいでせう」
と自慢(?)した。が、店内の空気は、ずいぶん繁昌してゐるくせに決して猥雑ではなく、むしろ極めて上品である。
酒は地酒で、男山。これが辛口でなかなかよろしい。わたしはすつかり気に入りましたね。瀬戸内海の魚で一杯やるならこれに限るやうな美酒である。もつと知られていい銘柄ではなからうか。
まづ栗のうま煮。上手に煮たやつがイガにはいつて出て来るといふ趣向である。甘いものはどうも苦手で、などと内心思ひながら、ためしに食べてみたところ、秋の匂ひをこつてりと煮ふくめたやうな傑作で、流さんのお宅で飲んだ水割りの酔ひとよく合ふ。栗からしたたつた透明な甘い汁がイガの底に溜つてゐるのをすすりたいくらゐであつたが、これは諦めた。イガが邪魔になるからである。
次が、アヂの一塩の干物と、ハマチの味噌漬と、鳴門ワカメ。ワカメもハマチもおいしいが、干物がじつにすばらしい。太陽のエネルギーが海のエネルギーと調和してゐて、しかもまさしく調和の瞬間に両者は分離されたといふ感じなのである。アヂのとれた場所もいいのだらうが、干し方も特別にちがひないと、口に入れたとたん察しがついた。聞くところによれば、もちろん当店自製で、よく晴れた日にしか作らない由。わたしはその日の好天に感謝した。
ちようど、岐阜では鮎がオカズであるやうに、いや、それよりももつと、アナゴは高松ではオカズであつて、こんな安い魚は料理屋では出さないらしいが、わたしの希望でアナゴを炙つてもらふ。照り焼が一匹と塩焼が一匹。そして、この二匹はどちらも長いまま、まるごとなのだが、このあとで刻んだやつが出て来た。まるごとではなく、かういふふうにして、御飯にかけて食べるのが土地の流儀ださうである。この食べ方はすこぶる気に入つた。塩焼のほうも、照り焼のほうも、刻んだアナゴを皿から手でつまんで食べると、地酒の味がいつそうひき立つのだ。郷に入つては郷に従へ。もつとも、手づかみでアナゴを食べるのは、おそらくわたしの発明であつて、礼儀正しい高松の人々はそんなことはしないやうである。
次は天ぷら――高松の言葉で言へば揚げものであることは、一見ただちに判るけれど、何を揚げたのかは、一口食べても判らなかつた。二口くらゐでやうやく、章魚だと見当がついたのである。一つには章魚があまりにも新鮮なせいだし、それに、章魚の天ぷらといふ思ひつきが破格なためだらう。果せるかな、これは料理史的に言へばごく最近に発明された料理であつて、流さんが今を去る十五年前に、天才的直感によつて案出したものといふ。そしてこれは、もし料理大賞なんてものがあるなら、今年度はこれに決めてもいいと思ふくらゐの発明であつた。新鮮で硬い章魚の肉片が、豊かな油と激しい熱をくぐつて、しなやかで歯ごたへのある、奇妙にバタくさい料理となつて現れるのである。もつとも、わたしは歯があまり丈夫ぢやないせいか、大きいやつは噛みきれなくて閉口したが、脚のわりあひ細いところを選ぶと、筋肉質を噛んでゐるうちに、ほのかに甘いものが口中にひろがるあたり、形容を絶する風味である。もちろんわたしはこれも手づかみで食べた。礼節を重んじないのではない。酔ひがまはつて箸をあやつれないのでもない。触覚までも動員して瀬戸内の美味を全的に味ははうといふ真摯《しんし》な態度なのである。
章魚の揚げもので汚れた指をおしぼりで拭いてゐると、入り子めしが現れた。ジヤコと椎茸がはいつてゐる薄い醤油味の御飯である。これがはなはだよろしい。一見、素朴さうに見えて、じつは斜に構へた、洗練の極といふ味で、讃岐の米の味はひを見事に生かしてある。思はず、
「うまい」
とつぶやくと、流さんは得意になつて、
「さうでせう。流政之デザイン」
と名のる。と言つても、何のことはない、在来の入り子めしは、ジヤコでダシを取るだけで、ジヤコを捨ててゐたのを、勿体ないからこれも食べようと提案した、といふだけの話なのだ。
添へてあるハモの吸物(コンブの生かし方がなかなかよろしい)に、スダチをしぼるのだが、わたしは飯の上にもちよいとしぼってみた。と、たちまち、入り子めしはその風味をさらに増して、讃岐一国の秋の富は一碗のうちにみなぎる。すなはち、丸谷才一デザイン。
次は刺身。サハラ、マナガツヲ。チヌ、アハビ、アハビの肝。このうちわたしは特に、マナガツヲの清凜豊饒とアハビの甘美肥甜を好んだ。そしてアハビの肝に至つては、さながら、活力のかたまりそのものが袋入りになってゐるやうな具合である。
ここで特筆に価するのは、讃岐もろみ醤油といふ醤油であつて、これは流さんのスタッフの一人に醤油屋の出の方がゐるのを指導して、流さんが営々努力の末にこしらへたものだといふ。醤油びんのデザインが凝つているのはお手のもので、何の不思議もないが、中身のほうも、なるほど昔の醤油の味でなかなかよろしい。しかしそれにつけても、料理のデサインをしたり、醤油のデザインをしたり、ずいぶん多方面に活躍するデザイナーもゐるものだと感心した。なほ、流さんは近ごろ天丼に打込んでゐるさうで、彼がこのことに見事成功したならば、ぜひ出かけなければなるまいとわたしは思ってゐる。
生の胡瓜。これにつけるモロミもまた、讃岐もろみ醤油の兄弟分である。次が小芋と蕪の煮物。このへんからわたしは急速に酔つぱらつてきたが、最後に、高松の正月にはぜつたい欠かせないといふ餡入り雑煮。白味噌仕立てで、餅のなかに餡がはいつてゐる。転勤して来た人がこれを食べられるまでには三年かかつて、やうやく慣れた時分には次の任地へゆくことになる、といふ話を聞きながら、恐る恐る食べてみると、じつによろしい。もつとも、酒客の舌に合せて、正月に食べるのとは比較にならない、小ぶりの餅が入れてあるのだが。
新常盤は割烹旅館で、高松随一の格の高い料理屋らしい。「吉田首相もお泊りになりました。どんなに恐しい方かと思つてゐましたら、とても気さくな、優しい方で、そのお話のおもしろいことと言つたら……」といふ、おかみの思ひ出話だつた。さすがに四国では、日本の総理大臣はいまだに吉田茂なのである。さう言へば、高知の城西館といふ宿屋のロビー正面には、彼の胸像が飾つてあつた。
そこでわたしは、政治家のほうではない、批評家のほうの吉田さんに敬意を表して、彼の流儀で、まづビールからはじめる。通しはウルカ。もちろんスダチをしたたらせて。ちよいとした美味である。これがなかなかうまいので、かういふものを肴にビールを飲むのは勿体ないから、大急ぎで酒に切り替へる。酒は土佐の司牡丹。この酒の名声はすでに高いから、改めて褒めそやすことはしないけれども、わたしは昔から気に入つてゐる。まあこのくらゐの甘さなら我慢できるのだ。なほ、四国を旅行してゐると、道路に出てゐる司牡丹の大きな広告で、司葉子がにつこり笑つてゐるのにしよつちゆう出会ふ。なるほど、考へましたねえ。
鯛とスズキの刺身。これがいづれも絶品であつた。どちらも新鮮この上ないことは言ふまでもないが、鯛のおだやかでおつとりしてゐて甘い風味も、スズキのとろりとした、それでゐて爽やかな趣も、いづれも、じつに久しぶりに鯛とスズキの刺身を食べたといふ気にさせてくれる。わたしはこの刺身も惜しみ惜しみ口に運びながら、もちろんその合の手に司牡丹を飲み、司葉子からの連想かしら、乙姫様の宮殿で舞ひ踊るのが鯛とヒラメで、鯛とスズキではないことをいぶかしく思つてゐた。
次がハモの吸物で、その次がメバルの煮物。小芋とズイキを添へる。
それから出て来たヌタ(ヒラメとワケギとニンジン)が、いかにも一流の料亭にふさはしい出色のものだつた。これでまた司牡丹がぐんとうまくなる。ほんのすこし甘いかな?
鯛の塩焼。栗を添へてある。スダチをしぼつて、生姜醤油で食べる。これがどんなによかつたかといふことを形容するためには、反古焼《ほごやき》といふ料理法を説明しなければならない。本山荻舟の本によると、日本紙の反古で鯛を包み、塩水を刷いて蒸焼にすると、「墨気が作用して風味一段」といふことだが、新常盤の板前はまさかさういふ古法はほどこしてはゐなかつたらしいけれど、しかしそれにもかかはらず、ひよつとするとさうしたのではないかと思はれる極上の味はひだつたのである。しかも、これで飲むと司牡丹が一際ひきたつあたり、その反古には案外、李白あたりの詩が書いてあるのかもしれない。もちろん、讃岐の侠客詩人、日柳燕石の作が記してあつたと勝手に想像するのもおもしろいけれども。
カレヒの空揚げ。紅葉おろしとワケギを入れて、天つゆで。これがちつとも脂つこくないのには感心した。
スズキの赤だしと漬物で飯。しかしわたしは飯は食べないで飲みつづける。漬物はタクアンと瓜と花ラツキヨウだが、この、花ラツキヨウをシソで巻いたやつが風変りでうまかつた。これがまた意外なことに、酒の肴になるのである。
高知と言へば皿鉢料理である。この「皿鉢」は発音がむやみに多くて、サワチ、サハチ、サラハチ、サーチ、サラチ、いづれも正しいが、土地で最もおこなはれるのはどうやらサーチらしい(どうです、実證的でせう)。これを土佐の特殊料理と見るのは浅見で、正しくは、「大きな島台または大皿などに料理を盛つてすすめ、めいめいに取分けて食した」、古式本膳の略式、いはゆる「京の膳」の余風にすぎないとは、これもまた本山荻舟の説くところ。そして高松あたりでは、「あれはつまりオセチ料理みたいなものですが、ああいふ具合ににぎやかに盛合はせれば、急にお客がふえても平気で、都合がいいですよね。みんなが遠慮して、適当に食べてくれますから」などと馬鹿にする。しかし、これだけ有名になれば、食べないわけにはゆかない。
そのサーチだが、高知の得月楼本店で、覆つてある紙がぱつと除かれたとき、まるで浅黄幕が切つて落されたやうに、豪華絢爛、思はず息を呑んだことはたしかである。そのときわたしの眼前に出現したのは――
鰹のたたき。尼鯛の姿ずし。トコブシ。蟹(エガニといふむやみに爪の大きい蟹)。カマボコ。ウメイロ(鯛のやうな、シマアヂのやうな魚)。バイ貝。栗の甘煮の空揚げとギンナンの空揚げ。イカの黄味やき。枝豆。イカの握りずし。マグロの握り。アナゴの握り。トマト。海藻。タデ。ウド。
客のなかに女子供がまじるときは、このほかに、素麺、酢豚、ゼンザイ、水ようかん、蜜豆まではいるといふから、何のことはない、巨大な皿のなかにデパートの食堂が全部はいつてるやうなもので、わたしはむしろ、なぜここにはシュウマイやギョウザはないのか、コロッケはないのか一口カツはないのか、そしてミニッツ・ステーキはないのかと怪しんでゐたやうな気がする。
日本文化の包括性をよく示すものとして風呂敷をあげるのは近時の常識だが、ここにもう一つ、その風呂敷と堂々と張り合へるものとして土佐のサーチ料理を発見したことは、わたしの喜びであつた。あれはとにかく一見に価する料理である。
この一大料理全集のうちの秀逸をあげるならば、やはり鰹のたたきだらう。ニンニクの切身といつしよに食べるのだが、柔くてうまいし、食べ終つてしばらくするとニンニクの香りが口中にゆつくりとひろがるのも楽しい。九月でこの味なら、五月の鰹と同じくらゐうまいと言はれる十月にはどんなにすばらしいかと思つた。やはり本場といふのは大したものである。
しかし、せつかく高知まで出かけた以上、サーチ料理だけで引返す手はない。得月楼本店のやうな格の高い料亭もいいが、もつと安あがりの店で一杯やつてこそ、高知の真髄を味はふことができるのである。そこで、タマテといふ小料理屋へゆく。
まづドロメといふ高知名物。これは、湯がいて干せばチリメンジヤコになるもので、つまり生だから、鮮度がものを言ふ。本当は海岸へ行つて、獲れたのを分けてもらつて食べるのが一番いいらしい。
酢醤油で食べるのと、酢味噌で食べるのと二通りあるとのことだつたから、両方注文すると、半透明な小さな魚たちが、ぎつしりと、うづたかく濡れて出て来る。清爽淡泊にして奥行きの深い珍味で、ちつとも腹にたまらないから、いくらでも食べられる感じだつた。ときどきビールで口中を洗つて、酢醤油のほうから酢味噌のほうへ移り、また、その逆のことをするのである。私見によれば、酢醤油で食べるドロメのほうはリアリズム小説のやうな調子だつたし、酢味噌で食べるドロメのほうは何となく童話のやうな口あたりであつた。
次は鯨のたたき。
これがドロメに優るとも劣らぬ傑作である。鰹の代りに鯨が使つてあるわけだが、ミヨウガ、生姜の薄切り《ガリ》、胡瓜、ニンニク、青草《せいそ》をあしらひ、全体に、佛手柑でこしらへた酢の、甘ずつぱい汁がかけてある。鯨肉のまはりのほうの焦げた味と、なかのほうの柔い部分との調和、ないし衝突がまことに結構で、さながら名人の焼いたメディアムレアのビフテキのやう。噛みしめてゐると、海中の王者の精力が歯茎のあたりからわたしの体内へしみこんでゆくのがはつきりと判る。わたしはすつかり満足して、やはり土佐へ来てよかつたと思つたのだが、しかし今になつて考へてみると、あれは連日連夜、魚を食べたあげく、やうやく哺乳類の肉にありついて、すつかり喜んでゐたのかもしれない。が、その点を割引きしてみても、あれはやはり大した美味である。鯨はおそらく冷凍のはずだから、料理の腕とそれから佛手柑の酢がものを言つてゐるのだらう。つまり、伝統のしからしむるところといふことになる。
戦後二大ネーミングといふものがある。サツポロ・ラーメンと讃岐うどんがそれで、あれがもし、北海道ラーメンと高松うどんだったら、今日のやうに天下を制圧することは不可能であつたらう。ラーメンの片仮名に合せてサツポロとこれも片仮名(この場合、サツポロ・ビールが微妙に作用してゐる)で行つたからよかつたし、平安初期以来、讃岐米がうまいといふ評判があるせいで、それなら、うどんもまたいいにちがひないと考へてしまふわけなのだ。
さて、今の日本に八千軒あるといふ讃岐うどんの原点(といふ言葉をわたしは好まないが)を究めようとすれば、残念ながら高松市内のうどん屋へ行つたつて駄目である。高松で聞いたところでは、市中のうどん屋はみな関西ふうになつてゐる、あれでは本式の味が判らないといふのだ。そこで、讃岐うどんの原点を求めて、まづ、琴平は東吉野の長田うどんといふ、目茶苦茶に値段の安い店へゆく。
これは噂によると、昔はうどんの玉を売つてゐたのがどうしても売れ残るので、それを近所の人に食べてもらはうとしてはじめた店で、もともとさういふ発祥だから、何につけてもすこぶる愛想がない。今はさすがに違ふが、ついこのあひだまで、客はめいめい丼を手にして、大釜の横に並ぶといふ、徹底したセルフ・サーヴィス方式だつた由。そして、これは今でも同じだが、つけ汁は貧乏徳利にはいつて、テーブルの上に置いてある。客は自分でそれを器に注ぐのだ。隅のほうのテーブルには、その貧乏徳利もなくて、マルオ醤油のびんにつけ汁が入れてあつた。
このつけ汁が、入り子とサバブシ(カツヲブシではないし、おそらくハラワタのところを除いてゐない)を醤油にぶちこんでぐらぐらさせただけのものらしく、苦いやうな渋いやうなきつい味で、しかも、増築する前はもつと塩つぱくて、もつと無愛想な味だつたらしい。ところが、このつけ汁にネギとシヨウガを入れたやつに、白くて長くて熱いものをほんのちよいとひたして、ちようど通が蕎麦を食べるやうにすすると、なるほど、これこそは本当のうどんだ、これを食べずしてうどんを語るのは、『古事記』『萬葉』を読まずして日本文学論を一席ぶつやうなものだといふ気がしてくる。店内には、労務者だのトラックの運転手だの、うどん通があふれてゐた。
しかし、うどんの研究といふのは非常に複雑なもので、長田うどんは要するに農民派のうどんの原点にすぎないといふ説もある。本来、うどんは僧院のものであつて、そつちの流儀の原点は、現時点においてもなほ挫折することなく、大いに繁昌してゐるといふのだ。そこで、もう一つの淵源を探るため、今度は徳島に近い大窪寺の八十八庵《やそばあん》へゆく。東奔西走、大変である。
この大窪寺といふのは四国八十八ヶ所を巡る遍路の終点、八十八番結願所であつて、バスで乗りつけた大勢の遍路の衆が、いかにも、やれやれこれでおしまひだといふ風情で、うどんをすすつてゐる。そしておもしろいのは、これらの善男善女を引率してゐる坊さんが、まことに兇悪な人相をしてゐることで……しかしこれはまあ、うどんの話とは関係がないね。
この八十八庵もまた、今のやうに藁ぶき屋根になる前はもつと古風な味のうどんを食はせたし、もつとうまかつたさうだが、しかしそれでもわたしは、最初の釜上げうどんを一口食べてすつかり感心した。うどんの上にシヨウガ、胡麻、海苔、ネギをのせ、ちよつと見ただけでは判らないくらゐほんのちよつぴり醤油(生醤油)がかけてあるきりなのだが、白くて腰のある柔いものが、これらの薬味と入りまじり、生醤油がそれを引立て、清楚可憐、まことに瞠目すべき味なのである。
次は団藏うどん。以前はざるうどんと呼んでゐたが、団藏が入水数日前にこれを食べて絶讃してくれたのでかう名づけたとのこと。薬味はネギと海苔とワサビと胡麻。細麺をつけ汁にちよいとひたして食べる。いかにも東京の歌舞伎役者にふさはしい、粋で冷艶な感触だつた。
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裏日本随一のフランス料理
何かの会で開高健さんといつしよになつたとき、この声の大きな男が普段よりももつと殷々《いんいん》と鳴り響く声で、
「すばらしいフランス料理屋を見つけた、酒田で」
と言つたのには驚いた。
「酒田つて、山形県の酒田かい?」
と思はず問ひ返したのは、彼ほどの食通を満足させるフランス料理屋があの町にあるはずはないと、反射的に考へたからである。わたしは酒田のちよつと南にある鶴岡の生れなので、大阪やパリやサイゴンならともかく、あの東北の港町にかけては、彼よりもずつと詳しいといふ自信があつた。そしてわたしが知つてゐる酒田の料理屋といふのは相馬屋ただ一軒で、第一、あの町にはフランス料理の料理人はおろか、お客だつてゐるはずはないといふ気がしたのだ。それなのに、大げさに褒めちぎるなんて。わたしは、ああ食豪開高健の舌もつひに衰へたかと嘆き、人生の哀愁にひたりながら、しかし、ものはためし、酒田の清水屋デパートの五階にある、ル・ポットフーへ出かけた。
ところで、話はちよつと変るが、開高さんにすすめられて試み、さすがは開高健だと非常に感謝してゐる秘法が一つある。
これは、近頃の日本酒は甘くてよくないといふ彼の持論から出たものだが、日本料理のときに白葡萄酒を飲むといふ手なのだ。料理屋ではかういふことはできないが、家で夕食のときには、程よく冷した白葡萄酒で白身の魚の刺身なんて、なかなかしやれてますよ。
そして、ル・ポットフーの趣向は、まさしくこの開高的方法の逆であつた。昭和四十一年製の秘藏初孫といふ極上の日本酒の肴として、フランス料理を食べさせようといふのである。
が、ここでわたしは、痛くもない腹をさぐられないやうに、敢へて一言しておかなければならない。実は初孫の今の主人の娘がわたしの甥の妻で、つまりこの酒とわたしは人脈でつながつてゐるのである。しかし、たとへさうであらうと、うまい酒はやはりうまいのだから仕方がないし、その銘柄のなかでも一段格が上のものとなると、もう文句のつけやうがない。わたしは程よく冷えた辛口の秘藏初孫をちびりちびりと飲みながら、まづ、そば粉のクレープでキャヴィアを食べた。と、たちまち、出羽のひなびた穀物の味とさながら凝脂《ぎようし》のやうなカスピ海の魚卵とは、贅美を盡した別天地をわたしの口中に合成する。わたしはここに至つてまことに他愛もなく前言を取り消し、さすがにあの男は目が高い、かつて芭蕉は酒田に遊んで初真桑をくらひ、いま開高は裏日本随一のフランス料理屋を発見した、などと感心してゐた。素直なたちなのである。
次はガサエビのマリエール。ガサエビといふのは見てくれのよくないせいで、つい最近までは漁師しか食べなかつたといふ。これを裏返せば、漁師が捨てないほどの珍味といふわけで、事実、たしかにその通り。スープを飲んだり、手づかみでガサエビを食べたり、フランス土俗料埋めいた味はひをすつかり満喫した。
ここでおしぼりで丁寧に指を拭いてから、アカエヒの黒バターかけ。フレンチ・ケパーが添へてある。アカエヒといふのはもともとわたしの好物だが、しかしそれにもかかはらず、この魚がこんなにおいしいことを今まで知らなかつたやうな気がする。ゼラチン質の多い、しつこい味が、ワイン・ヴィネガーによつていつそうあくどくなり、しかも同時にしつこさを拭ひ取られ(理窟に合はないかもしれないが、そんな感じだつた)、秘藏初孫をいつそう引立てる。当然のことだがわたしはまづアカエヒの表側を食べ、それからのんびりと酒を飲み、次いで裏側に移らうとして、給仕人に止められた。品数がまだたくさんあるから、これはこのくらゐでよしたほうがいいといふのである。わたしはちよつぴり怨めしく思ひながら、しかし、彼の親切に感謝した。
ここで赤葡萄酒に移る。サドヤのシャトーブリアン。最上川の鴨のステーキを食べるためである。鴨の脂で焼いたもので、青粒コシヨウを添へてゐる。ナイフを入れると、うんと生にしてくれと頼んだ注文どほりに、血のくれなゐが淡い褐色のソースのなかににじんでゆく。このソースの、洗練された典雅な味はひと、鴨の土くささとの衝突がまことによろしい。絶品であつた。
次は赤川よりの砂丘でとれた雉のパテ。赤川といふのは鶴岡のそばを流れてゐる川で、わたしはこの川で水泳といふものを教はつた。そのせいかしら、一切れ切つて口に運ぶとき、ほのかな水の香り、砂の匂ひが、ふと心に浮ぶ。そして、皿にちらばる、きれいに澄んだ琥珀《こはく》いろのゼリーのなかには、東北の晩秋の気配が漂つてゐる。
おしまひはチョコレートのスフレ。
ところで、せつかく酒田に来た以上、相馬屋へゆかないといふ手はない。そんなことをしたのでは、帰つてから吉田健一さんにあはせる顔がないし(吉田さんは、旅館ではないこの店が泊めるたつた一人の客なのだ)、それに第一、わたしとしても心残りである。そこで、晩飯は相馬屋といふことにして、古びた、貫禄のある店の、ギシギシいふ黒い廊下を歩いて、座敷に坐り、まづキリン・ビールを飲んでから、初孫に移る。以下、初孫の宣伝はもうしないけれど、大いに満足して大いに飲んでゐると思つて下さい。
まづ、生のサザエと昆布。塩と酒が振りかけてある。小さな鉢のなかの五きれほどのサザエが、それぞれ、硬いところと柔いところとで感触が違ひ、味が違つて楽しいし、その合間合間に、酒に濡れた昆布がぬるぬるとぬめりながら独特の気合を入れる。その複合によつて生じるものは、ちつともなまぐさくない海の菓子にほかならない。
鱈汁。味噌椀で、豆腐が入れてある。肝のところがじつにいいが、これは一つには自家製の味噌がよいせいらしい。信州味噌、仙台味噌系統でありながら、塩辛くないのである。
エゴ。テングサのなかにエゴをまぜ、洋辛子を入れて固めたもので、辛子醤油で食べる。家庭では一人が丼に一つくらゐ平らげるのだが、ここでは料理屋の酒の肴だから、上品に三きればかり。龍宮のプディングのやう。
鯛と平目の刺身。鯛はうんと小ぶりのやつで、小味である。わたしは、なるほどこれこそは日本海の鯛だ、といふよりも子供のころにわたしが食べた鯛だ、と思ひながら、興奮して箸をあやつつた。それは、さはやかで軽くて、ちよいと気取つた味である。そして平目のほうは、鯛よりももつと淡泊で、もつと軽い。
次は焼魚で、クチボソガレヒ。これは別に褒めることはない一品だつたが、その次のアハビのヌタはすばらしかつた。細かいおろし金でアハビをすり、うらごしをかけたもののなかに、鶉の卵が落してあつて、さながら、濃い卵いろの雲のなかに小さな満月が昇つたやうな、童話的な眺めなのである。その満月を箸で砕くと、黄味と白味の分だけ、縁がこころもち淡くなるわけだが、上質のバターをゆるやかに溶いたやうなその味はひには、海のエネルギーの精髄がこもつてゐると感じられた。
カラゲ(といふのはアカエヒの干物である)と大根の煮物。柔くもどし、柔く煮てあつて、本来なら惣菜料理のはずのものが、気取つた料理屋で出してちつともをかしくない、気のきいた酒の肴になつてゐる。もちろん醤油味である。
と、ここまで書いてきた分で、すでに見当はついてゐると思ふが、出てきたものはたいていわたしにとつて懐しい、幼少のころの味、生れ故郷の食べものである。そして、子供の時分わたしが大好きであつただけではなく、今もなほ日本一の下魚だと信じて疑はない荘内(といふのは鶴岡・酒田を含む一地方の謂)の魚をハタハタとする。ここでちよつと本音を吐いておけば、わたしはまづ何よりもこれが食べたくて酒田へ行つたのだ。これは何しろ崩れやすく傷みやすい魚なので、本場へゆかなければ口にすることができないのである。
そのハタハタが出て来た。まづ最初は田楽。次が白焼。次が塩焼。いづれも二匹づつ、ぺろりと平らげる。そしておしまひは湯揚げ。これはさつと湯がいたもので、この店では刻みネギとモミヂオロシとポン酢で食べるやうにと言はれたけれど、断つて、醤油をかけて食べる。私見によれば、これこそは、ハタハタの脂ぎつてゐてしかも涼然、濃厚にしてかつ清楚、平俗でしかも雅淡な趣を味はふ最上の方法にほかならないのである。(どうです、熱がはいつてゐるでせう。)これは五匹。
さうさう、幾皿かのハタハタの途中に、むきそばが出て来たことを書き落してはいけない。これは、そばの実をむいて茹でたものにダシをかけて食べる一品で、ノリ、ネギ、鶏のひき肉をあしらふ。いつぞやわたしが、荘内にしかない(はずの)この料理のことを自慢して、まるで江戸座の俳諧のやうな味だと説明したら、そばで聞いてゐた瀬戸内晴美さんが、それなら徳島にもある、
「昔とつても美人だつたお婆さんみたいな味ね」
と見事な形容をしたことがあつた。さすがは寂聴尼であります。
新潟はわたしが旧制高校の生徒として三年暮した町だが、何しろ昭和十九年から二十二年までだから、食べるものなんか何もなかつた。もちろん料理屋になんか足を踏み込んだこともない。これは、一級上の綱淵謙錠さんだつて似たやうなものだらう。わたしの知つてゐるのは、さういふ荒涼たる記憶のなかの新潟と、それから寺門静軒が『新潟繁昌記』のなかで書いてゐる、江戸後期の優雅豪奢な新潟だけなのである。名著『江戸繁昌記』のせいで都落ちした静軒は、この港町へ逃げて、半年ばかりぶらぶらしてゐたのだ。その一節にいはく。
[#この行1字下げ] 寺坊ノ西、村アリ。寄居トイフ。農人、圃ヲ開キ四時ノ蔬ヲ種《ウ》ウ。毎朝搬ヒ來リ市ニ入ル。圃ノ北、松樹、林ヲナス。外面幽邃、無人ノ境ニ似テ、酒店、林中ニ住ム。行形亭トイフ。數※[#「木+射」、unicode69ad]ヲ塔起シ、遊客ヲ待ツ。客、妓ヲ携ヘテ至ル。松韻、糸聲ニ和シ、空翠、紅衣ニ滴ル。此ニ舞曲ヲ度シ、彼ニ|※[#「害+谷」、unicode8c41]拳《ケン》ヲ戰ハス。(もと漢文)
そこで、寺門静軒に敬意を表してまづ行形《いきなり》亭へゆき、なるほど噂に聞いた通りのいい庭だ、額は巌谷小波の「麗らかや鶴に餌をやる酒の間」で掛軸は寺崎広業か、明治で統一してある、などと感心してから、炬燵《こたつ》の上で酒を酌む。酒は地酒で、朝日山。
まづ烏賊の塩辛の石焼。これが三きれか四きれしかないので(当り前である)うんと生焼きにするとおいしいといふことが判つたときには、もうおしまひになる。
菊のおひたし。東京で食べる菊とは違ふ臙脂《えんじ》いろの菊で、味もこのほうが一段上のやうな気がする。ほとんど仙人のサラダのごとく、何となく体内が急にさはやかになる。種なし葡萄の汁をしぼり入れるのがこの店独特の工夫といふことだつたが、その加減がなかなかよろしい。
蟹の甲羅仕立て。焼豆腐と大根の千本切りが入れてある吸物。味噌仕立てだが、味噌を通しただけの薄味なのが憎い。
南蛮エビの刺身。これは静軒先生の触れてゐない食べものだが、当時の人はこんなものは口にしなかつたのだらうか。冷たくて、甘くてうまいから、ぜひ食べさせたかつたと思ふ。それに、薄くれなゐの華麗で可憐な風情は、漢文で書くのに持つて来いなのに、惜しいことをした、などと文学的なことを考へながら酒を飲む。
次が雛の味噌漬を油であげたもので、ほのかに味噌の味がする程度の漬け方もいいが、揚げ方もよろしい。何なのか判らないが香料が使つてあるやうで、とても普通の雛とは思へない。さだめし何のなにがしと由緒のある鶏の子孫だらうと考へたくなるくらゐ、結構な味だつた。料理の傑作と呼んでいいのではなからうか。
鮭の白焼。カマのところで、大きくて柔くてうまい。この鮭のことは静軒先生も力こぶを入れてゐて、「新潟、魚蝦ニ富ム、モトヨリ知ルベシ。シコウシテ春鰮秋※[#「魚+生」、unicode9b8f]、コレヲ最大ノ漁トナス」(※[#「魚+生」、unicode9b8f]は鮭に同じ)とか、「※[#「魚+生」、unicode9b8f]魚ハジメテ漁舟ニ上ル。先ヲ爭ツテ客、妓ヲ載セ來ル。鱗マサニ網ニ跳ンデ、銀早ク嚢ヨリ迸ル。鱗銀交易シテ、膾トナシ、羹トナス。各口一味、傑ヲ叫バザルナシ」とか書いてゐる。
次が鮭のスツポン煮で、つまり、スツポンのスープでこつてりと煮た一品だが、殊に鮭の頭のヒズのあたり、目の下のへんなどは、「一味、傑ヲ叫バ」ずにはゐられなかつた。わたしは、スツポンと鮭といふ贅沢な取合せを発明した男に感謝したり、いや、それよりもまづスツポンと鮭に感謝したりして、しきりに朝日山を飲んだのである。
次がノツペ汁。ヒズなます。そしてタラバ蟹。これは三杯酢で。
もつとも、行形亭ほどは古くないけれど、今の新潟を代表する料理屋はむしろ鍋茶屋のほうと考へられてゐるふしもあるから、こつちにもちよいと行つてみる。と、額は梅逸の白梅園で、これもなかなかのものだけれど、掛軸が、文晁が揚羽の蝶を描き、それを見てゐる白猫は抱一といふ合作なのには驚いた。なるほど、と感心して飲んでゐると(酒は朝日山)、杉蓋の塗箱の上に白菊を一枝のせたかたちで、前菜が運ばれる。杉蓋をあげると、そこに現れるのは――楓の枝にさしたナメコ、甘酸つぱく漬けたワサビの芯(これがまことに瀟洒な味)、小さな籠に入れたギンナン、車エビ二きれ(ただし、なかにイクラを巻き込んだほうよりもシツポだけのもののほうがうまい)、卵の黄味の味噌づけ(木の実にかたどつてある)、昆布、塩引き鮭のヘギ、と景気よく並んでゐる。最後のヘギといふやつは、ちよつと説明を要するだらう。これは、塩鮭を昆布で巻いて調理場の上に吊して置いて出来た燻製で、ごく薄く切つて、軽く炙つたもの。当店自慢の一品ださうで、ちよいと塩つ辛いが酒が進むことはたしかである。
カシハとナメコの吸物の次に扇形の小さな器に入れて、鮭のセワタといふやつが出てきた。ちようどウルカのやうに黒くて塩つぱいものを、薄切りした大根にのせて食べるのだが、もちろん一匹からほんのすこししか取れないわけで、しかしそんな問題とは別にすこぶる珍味である。セワタの濃密でしかも粛然たる気配を大根で清らかにおつとりとしづめる仕掛けがいいのかもしれない。そのへんのところを突き詰めて探求しようとしてゐたら、もうなくなつてしまつてゐた。
菊のおひたしと、南蛮エビの刺身、および鯛のあらひはあまり感心しなかつたが、尼鯛のコモ塩には嘆賞を禁じ得なかつた。これは、塩のコモのなかに尼鯛を入れておいたせいで、偶然に発見された料理ださうで、塩をしておいた尼鯛を、水を出し流しにして洗つてから焼くのだといふ。京都のグジの場合と違ひ、箸でほろりと身が取れて、非常にいい気持だし、おだやかで淡泊で味に奥ゆきがある。わたしは、軟美といふ形容が最もふさはしいのではないかと考へながら、しきりに箸をあやつり、かつ杯をあげた。
それから、佐渡の鴨の酒煮(本州の鴨より優る由)とか、鮭の子の味噌づけ(一夜づけ)とか、南蛮エビの粕あへとか、トトマメ(鮭の子である)と鶏肉とか、いろいろ出て来たが、かういふものの前に鯛のカブト蒸しといふ大物があつたので、ほんのちよつとづつ口にしたにすぎない。しかしその代り、鯛の頭はすつかり平らげた。さうせずにはゐられないほどの秀逸だつたのである。殊に、目玉のあたりのどろりとしたうまさなど、肥鮮の大魚を景気よく料つたときにはじめて得られる脆味であつて、わたしはこれを口に運ぶ際、つけ汁(スダチとレモンを半々にしぼつたものに醤油を加へ、モミヂオロシとアサツキを入れる)の助けを借りなかつた。大海の香りをぢかに楽しむためである。
鍋茶屋もいいし行形亭もいいけれど、しかしわたしが新潟でいちばん気に入つたのは県庁裏の小体《こてい》な店、瓢亭である。本当か嘘か知らないが、町の噂によると、ここの主人は以前、鍋茶屋と同じくらゐの格のうんと大きな店を張つてゐたのに、博打に凝つて、それを手ばなしてしまひ、やむを得ずかういふところへ引越したのださうである。話半分としてもおもしろい。そして、わたしの聞いた範囲では、新潟の食通がまづすすめるのはこの瓢亭であつたし、それに、今の場合に限つてはわたしの知つたことではないけれど、勘定もわりあひ安いといふ。そこで、晝はウナギだけといふのを無理に頼んで、県庁裏へと足を運び、入れこみの座敷の炬燵の上で、まづ白鶴を飲む。
やがて、箕《み》の形をした器に、稲穂、松葉、櫻の葉をあしらつて、通しが出る。盛つてあるのは、八幡巻(ゴボウとウナギはこれほど調和するものかと感服)、アサツキの芯(粋である)、栗、小エビ、チシヤ、草バウキの実(塩つぱくて爽やかである。シヨウガをうまく使つてあるのかしら)。かういふものをつつきながら杯を口に運び、ここの料理はいいらしいぞと期待に胸をはづませる、人生の幸福ですねえ。
次が蟹の甲羅仕立て。小さなコンロにのせたまま運んで来る。冷えないやうにといふ心づかひで、たしかにかうすると、いつまでもなまぐさくならない。もつとも、ぼんやりしてゐると、むやみに熱くなる。
南蛮エビの刺身。ガラスの器に入れ、氷塊の上に飾つてある。よく肥つた、新鮮この上ないもので、今朝、日本海からすくひあげられたばかりといふ様子である。言ふまでもなく、かういふものが舌をとろかす珍味でないはずはない。
焼物は柳カレヒの干物。青唐辛子を添へてある。このカレヒは、五つくらゐに切つて骨を除いてあるところが眼目で、当然のことながら、自分でむしる喜びはないけれど、わたしのやうな無器用な男にはすこぶる食べやすい。そして、干物といつても一夜干しだから、充分にみづみづしく、殊に卵の多いところやエンガハのへんなど、火が激しく当つた箇所は、ほんのすこし焦げてゐて、魚の豊かな味と火との衝突の成果が、わたしの口中におだやかでまるみのある一世界を作り出す。
霰ずし。鮭の卵をあしらつた蒸しずしで、橙いろの魚卵と白い飯との色彩効果がすこぶる艶麗である。茶事のあとにほんのちよつぴり出すわけですな、とのことだつたが、こちらは茶人ではないから、その逆をゆく。第一、米がうまくて、ほんのちよつぴり程度ではやめられないのである。聞くところによると、このコシヒカリは、昔と同じやうに天日で乾燥させたもので、それを電気で強引にやるのが、われわれのところへ米屋が届ける普通の米ださうである。
ここまでのところで一応は終りなのだが、店が気に入つたし、それに炬燵から出たくないので、もう一品、マイカの刺身を頼む。これをシヨウガ醤油で食べながらこがらしの音を聞くともなしに聞いてゐると、甘くて硬くて生きのいい白いものは、なかなか終りさうもないわたしの晝酒の、絶好の合の手になるのだつた。
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雪見としやれて長浜の鴨
冬の京都へゆかうと思ひ立つて、三条河原町西の大文字屋に宿をとつた。
最初は宿から近い河繁で、お客様は司馬遼太郎氏。黒地に鳶いろの荒いウィンドウ・ペインの替上衣で、飄々と現れた。ポケットチーフはオレンジいろ。淡褐色に白の縦筋のはいつたタートル・ネック。ズボンは……グレイだつたやうに思ふが、残念ながらこれはメモに控へてない。挨拶もそこそこに、京都の食べものについての史譚がはじまり、しかもそれがじつにおもしろかつたのである。
粋な服装の、そして言ふまでもなく銀髪の司馬さんは、すがすがしくて小体な店の一間しかない座敷に坐つたとたん、壬生は菜、桂は煮ものその他に使ふ大根、聖護院は漬物用の長い大根といふ具合に、京の郊外の野菜が地域地域によつて違ふのは、一種の都市計画によるものだといふ説をなした。さう言はれてみれば、たしかに、ああいふ整然たる分化と専門化は偶然の結果とは思へない。なるほど、とうなづいてゐると、豊臣秀吉がこれを大阪で真似ようとしたがあまりうまくゆかなかつた、といふ話になる。そこで質問。
「とすると、秀吉ですらできないほどの都市計画をやつたのは藤原氏でせうか?」
「きつとさうでせうね。藤原氏のことがもつと詳しく判ればおもしろいんですが」
といふわけで話はおのづから、藤原氏の政治能力が在来言はれてゐるよりはずつと高かつたといふことに移り、気がついてみるとテーブルの上にはすでにして、通しとヌタと吸物が並んでゐた。そこで菊正宗を飲みながら(司馬さんはオン・ザ・ロック、わたしは燗酒)日本史を論じ(正しく言へばほとんど聴講し)、箸をあやつり、味はひ、メモを取るのだから、じつに忙しい。名店中の名店の料理には申しわけないが、この店の紹介は手を抜いたものになるしかない。たとへば、生ウニに醤油とポン酢をかけた通し(おだやかな味)にしても、ワケギと赤貝のヌタにしても、菜の花の吸物(清楚優雅)にしても、非常に結構でしたとしか言ひやうがないのである。
それにしても司馬さんの歴史好きといふのは舌を巻くしかないもので、属目《しよくもく》の品ことごとく歴史論議のきつかけとなる。刺身が出て来ると(三つ盛り合せたうち、鯛がぷりぷりと弾力があつてまことによろしく、イカもまたすばらしい)、鯛とイカとをちよいと褒めてから、嬉しさうに鮪を見て、関西ではこれをコシビといふ、マグロの古名シビが現代に残つてゐるのはこの言葉一つだけぢやなからうか、などと感慨に耽つて、それからおもむろにそのコシビを食べるのだ。つまりこの人の場合、歴史小説を書くのは趣味と実益が一致してゐるどころではなく、さらにおつりが来るやうな状態なわけで、幸福なことこの上もない話だとわたしは羨んだ。
若竹の吸物が出て来ると、
「関西の代表的な家庭料理ですよ」
と説明してから、山崎の竹藪《たけやぶ》が人工の極致と言ひたいくらゐ手がかかつてゐる、まるでお座敷のやうだ、といふ話になり、一転して、孟宗竹が京都に伝はつたのは江戸初期である、それまでは真竹はあつたが孟宗竹はなかつた、つまり明智光秀が竹藪で殺されたといふ話は疑はしいといふ、歴史好きなら誰でも唸らずにはゐられない考證になる。ついでに記しておけば、ここで司馬さんはじつにさはやかな口調で、
「ぼくも竹藪と書いたけど、あやしいな」
と付け加へた。必然的に、わたしは若竹の吸物を味はひながら実は若竹の吸物どころではなくなり、遠く戦国のころに思ひをはせ、さうすると明智光秀はもちろん織田信長もタケノコを食べたことがなかつたわけだな、もつともかういふものはあの人の好みには合はなかつたかもしれない、もつとこつてりした、滋養のあるものしか好まなかつたのぢやなからうか、などと考へたり、第一、信長が健在ならば、ちつとも栄養にならないこの食品を嫌つたらうから、そのせいでタケノコは今ほどもてはやされなかつたかもしれない、などと空想に耽ることになつた。
次が琵琶湖名物のモロコの飴炊きで、カブとシヨウガが添へてある。小魚のくせに内容がたつぷりある感じで、滋味あふれるばかり。その持ち味をさりげなく、しかしじつにうまく生かしてゐる。われわれはこれを肴に、京都の魚の話をした。某君の説によると、京都の人は魚と言へばグジとサバとチリメンジヤコしか知らないさうですが、と水を向けたのである。司馬さんは笑つて、
「それとニシンでせうね。ニシンそばがあるから。それから、あとは干魚でせう」
と言つた。そして、沢庵の煮物(沢庵を水でもどして、チリメンジヤコでことことと煮る)とニシンそばといふのは、京都特有の変な食べもので「京大阪十三里」と言はれるけれど、わづか五十キロ離れた大阪には沢庵の煮物もニシンそばもなかつた、大阪は京都と違つて物の豊かな土地なのである、といふお国自慢になる。どうやら、大阪人の眼で京を見る、つまり五十キロ離れて都を客観的にとらへるといふのは、司馬さんの方法の根本にあるものではなからうか。孝明天皇が晝食に出た塩鮭を半分残して、これは晩酌の肴にしようと侍従に言つた、といふ話は、司馬さんの力によつて、今や孝明天皇と聞けば日本人が誰でも思ひ出す、つまりワシントンなら櫻の樹、ニュートンなら林檎といふくらゐの逸話になつたけれども、京都の人にとつては、天皇家にまつはるこの種の貧乏話はごく当り前のことだから別に注目する必要はないだらうし、遠隔の地の者には、もちろん耳にはいるはずがなかつた。この話を聞き出し、そして注意を拂つたのは、やはり大阪人の位置と意識と態度を示すものだといふ気がしてならないのである。そして司馬さんは、実を言ふと、沢庵の煮物におぞけをふるふやうにして近代日本史のある部分を忌み嫌つてゐるやうに見受けられるのだが、そのことを見すごしてゐる読者が案外多いらしい。
焼魚。マナガツヲを荒味噌(これを一ひきすると味噌になるとやら)に一日半漬けたものださうで、打明けて言へば迂闊なわたしはグジ(つまり尼鯛)の西京漬かと思つた。白くて艶があつて、こつてりしてゐて、ほのかな甘味に奥行きがあるのだ。絶品である。これを食べてゐるときだけは、主客ともに沈黙して、日本史を語ることがなかつた。われわれは沈黙によつて京都文化への礼讃を表現してゐた。
が、次にスグキが出て来たとき、客はたちまちつぶやいたのである。
「さうさう、スグキは加茂。これも藤原氏の都市計画です」
長浜の鳥新といふ店の鴨は名高いが、道路の両側に残雪のあざやかな快晴の日、つまり鴨すきをつつくには持つて来いの日に、この古びた料理屋の前に立つのはじつにいい気分だつた。それを判りやすく言へば、三人前や四人前は軽く平らげられさうな感じといふことにならうか。わたしは二階の座敷で、まづ、寒鮒の子つき(刺身である)を肴に地酒の竹生島をちびりちびりと飲みながら(辛口でちよいといけます)、おつとりと軒をめぐる雪どけのしづくの音に耳を澄ませた。どの屋根もみな、瓦の凹凸が眼でたどれるくらゐ薄く雪が積つて、明るい日ざしを浴びてゐる。
敷いてゐる座蒲団は鴨の羽根を入れたものだと聞いても、そして、背後の違ひ棚には鴨の剥製が二つ飾つてあつても、かはいさうなどといふ気にはちつともならない。このときわたしは、人間は昔からこのやうにして鳥獣を喰らひ、もつて文明に貢献してきたのだといふやうな、人類史的見地に立つてゐたのである。
さて、やがて運ばれた鳥鍋は、まづタタキ(背骨その他、軟骨のところを何千回と叩いたものにサンシヨウを入れる)を、細かくちぎつて底にこすりつけ、その上にダシ(トリガラとコブダシ)を注いで火にかける。それから入れるのが、ネギ、シラタキ、焼豆腐(すこぶる上質。近くの豆腐屋のもので、炭火で焼いてゐるとやら)、白菜、芹、菊菜、湯葉で、その上につやつやと赤い鴨の肉片をのせる。肝心なのは、この店もまた伊賀の牛屋同様、砂糖を入れすぎるといふ評判のあることで、わたしはかねてこのことを知つてゐたゆゑ、制止して事なきを得た。もつとも、わたしのやうな好みの客はほかにもゐるらしく、あらかじめ電話で頼んでおけば好みの下地を用意しておいてくれる由。
鴨は、まだ赤いくらゐが柔くておいしい。緋いろのにじむ熱いやつを卵にくぐらせて口に入れると、それはほのかに土の香りを漂はせながら、滋養に富んだ肉の味を口蓋に、舌に、歯茎にしみこませ、やがて、もつとほのかに、ごく微量の灰の味を口中に残す。そのとき人間は(つまりこの場合はわたしのことです)この鴨がかつて踏んだ土地の精気と彼が飛び翔けた空の風の匂ひとを体内に取り入れるのである。
いや、わたしが摂取したのはそれだけではなく、京の近くのさまざまの野菜もまた鴨の味に染められながらわたしの味覚を喜ばせてくれた。殊にいいのは、鳥鍋に餅を入れて食べたあとに出て来た赤蕪の漬物で、きりりとひきしまつた風味がこたへられない。わたしはこの漬物を肴にして、店の主人が特に出してくれた浜正宗の原酒を楽しんだ。
なほ、はなはだ申しわけない話だが、鴨は二人前しか食べられませんでした。年のせいもすこしはあるけれど、もともと鴨といふのは、あつさりしてゐるやうでずいぶん実質があるのです。
しかし、せつかく京都へ来た以上、千花へゆかないといふ手はない。そこで、南座の近くの小ぎれいな店へ足を運ぶ。
酒は、普段は松竹梅なのだが、白鹿を出してもらふ。最初になますが出た。
ところが、このなますが林檎に盛つてある。と言つたのでは判らないから詳しく説明すると、スターキングを梅の花がたに刳《く》り貫いたなかへ、せんぎりにした大根、柿、にんじんを入れ、三杯酢をかけ、上に胡麻をかけたものが現れたのだ。鬼面人を驚かす新工夫のやうだが、これが思ひがけなくよかつた。酒にもけつこう合ふし、なますを一通り食べてから、ほかの料理の合間に林檎をスプーンで崩してすこしづつ食べると、果物と酢に口中が洗はれて快いのである。これをむづかしく言へば、どうやら河繁は古典的なスタイルのやうで、一方、千花はいくぶん前衛的なやうに見受けられる。新奇な工夫を重んじ、またそれを誇つてゐるのだ。
次がオコゼの真子の塩辛。もちろんほんのちよつぴり、凝つた器にはいつてゐる。これで飲んでゐると、ずいぶん待たせてからあたり湯葉が出た。この卵いろの一品が傑作である。朝一番に膜の張つたいいところを取つておいてもらひ、スリコギでするのださうだが、あるかなきかの塩加減がまことによく出来てゐて、さながら、ごく上質のチーズからあの臭味をきれいに除き去つたやうな珍味だつた。
鯛の縦塩つくり。鯛の刺身を並べてから、マナイタを立てて塩をふり、水気を切つたもので、ほのかな塩味は海そのものの味をしのばせる。徹宵の仕事を終へた漁師は、夜明け、舟を潮流に乗せてきちんと帰ることができるやうに操作すると、早速、持参の包丁で刺身を作り、一杯やると聞いたが、そのとき醤油の代りに海の水を用ゐるとすれば、およそかういふことになるのではないか。さういふ野趣を人工性で追ひつめたあげくの洗練が、この縦塩つくりにはあつた。
兎ずし。親指ほどの鯛のすしで、赤い目は梅肉。
ここで吸物。「ちようど雪が降りましたので雪ごもりといふ恰好に致しました」と主人は言つたが、シンジヨのすり身の上に餅、その上にニンジンと木の芽、その上に薄切りのカブをのせた様子は、明り障子の向うに佳人がちらちらする塩梅である。このすり身の、固さの具合、あるいは柔かさの具合がなかなかいい。唇の感触では、ちよつと固いかな、と思はれるのが、舌と歯にとつてはまさしくこれでしかあり得ない柔かさなのである。
オコゼの薄づくり。
何しろなにがしといふ役者がフグに中つた数日後のことである。主人がこの薄づくりを着々と皿に盛りつけるのを見てゐて(板前割烹だから手に取るやうに見えるのである)、わたしは戦慄しましたね。天を呪ひ、地を呪ひ、わが職業を呪つた。肝までちやんと添へてあるのだから、これは当然である。一縷《いちる》の望みは、あの事件の記憶がまだ新しいうちに、まさかフグは出さないだらうといふ、千花の主人の良識への信頼であつたが、さいはひにしてこの見当は正しかった。
「ほう、これはなーに?」
などと、できるだけさりげなく訊ねると、主人は、オコゼだと教へてくれて、オコゼの肝のうまいもののほうがフグの肝よりちよつと上である、それゆゑ、安全でうまいのだから、オコゼを食べるに限る、と理路整然と説明したのだ。なるほど、さう言へば、オコゼの薄づくりのことは、大変な珍味だと以前誰かに聞いたことがある。わたしは喜び勇んで箸をつけた。これがすばらしかつた。殊によかつたのはやはり肝で、淡い枯葉いろの塊りを口に入れると、濃厚でしかもこの上なく優しい味が舌の上でそつとひろがる。わたしは何となく、これは平安朝のフォアグラだらうといふ見立てをおこなひ、惜しみ惜しみすこしづつ食べ、その合間に、刺身のほうの淡泊な趣を楽しみ、それからまた肝に戻り、もちろん白鹿を飲み……絶対オコゼに限る、フグはいけないと考へた。さらにまた、フォアグラの罐詰がある以上、オコゼの肝の罐詰を作らないのは大変な片手落ちではないか、と考へた。
焼魚。鯛の中落ちである。
下地は別の小皿に入れてあるが、もともと塩味がついてゐるので、つけないで食べてもよいとのことだつた。それで、熱いうちは下地をつけずに、すこし冷えて来てからは下地の酢の力を借りて、チユウチユウとしやぶつて、まるで猫のやうに食べる。しやぶつてゐると、鯛の骨が透いて来るが、それをわたしはいつまでも未練さうになめてゐたはずである。
百合の根。梅肉醤油をかけて。
次に出て来たのは焼いた鮪で、ヤマトイモをおろして油で揚げたものが並び、双方の上に大根おろしと醤油をかけた一品である。何といふのかしら。むやみに手の込んだお惣菜料理といふ感じだが、ほどよいところにかういふものがはいるのも、気が変つておもしろい。
鯛の皮の湯引き。野菜が添へてあつて、その大部分はウド、ごく一部分は花丸キウリである。
横の小皿には下地がはいつてゐる。醤油を加へながら胡麻をすつたもので、これに鯛の皮や野菜をちよいとつけて食べるのだ。これは要するに胡麻を食べる料理だが、執拗にしてかつ渾沌たる味のひろがりに妙趣がある。
南禅寺蒸し。カブと葛で、カブの下に、ギンナン、キクラゲ、アナゴ、ネギ。あたたかい汁の清冽な味がよい。中華料理のスープと同性格のものを、ただし純粋に日本的な原理で作ればかうなると思はれた。
ここで御飯になるが、糯米《もちごめ》を蒸しあげたものに柴づけと青ジソをあしらつてある。一品一品の分量はすくないやうな気がしたが、何しろ品数が多いので、ここに至つて完全に満腹した。
河久といふ洋食屋(?)のことを教へられたのは谷崎松子さんからである。文豪の未亡人は、京都の料理屋のことをあれこれと語つたあとで、この、日本洋食(看板には「欧風料理」とある)の店をすすめたのだ。夜もやつてゐるけれど、なるべくなら晝食のときに出かけるのがいい、本当のことを言へばここで弁当を作らせて新幹線で食べるのが一番いい、とのことだつた。
奥様の話によると、お孫さんが、この店は若い男ばかりが威勢よく働いてゐるのでとてもきれいな感じがすると喜ぶのださうで、この審美的な青春讃美はいかにも大谷崎の孫にふさはしい。家風といふのは争へないものだと感心したことが忘れられない。
それ以来わたしは、京都へゆけば一度はかならずここで晝食を食べるやうにしてゐるし、時間の具合がうまくゆけば、この店の弁当を新幹線のなかで開くやうにしてゐる。河久の弁当はすこぶる豪華なもので、それは、どんな些細なことでも贅沢な行事にしてしまふあの『細雪』の雰囲気をしのばせてくれるのである。
ところが、今度京都へ行つてみたら、河久の晝食は食べられなくなつてゐた。人手不足のため晝は休むといふのである。が、そのくせ弁当なら晝でも作るとのことなので、これを持つていそいそと新幹線に乗り込み、発車とほとんど同時に包みをあける。
その内容は、湯葉のからあげ、ギンナン、モロコ(それともアマゴかな?)のからあげ、牛肉の串刺し、春巻(何かの挽肉がはいつてゐる)、カブ、トマト、貝柱のフライ、うづら、セロリにのせたイクラ、エビ、カボチャの煮物、きれいに皮をむいたオレンジ二きれ、キウリ、コブで、それからもちろん幕の内。彩りの花やかなこと、驚くばかりで、さながら四季の景物が一時に押し寄せたやう。わたしはしばらく眼を楽しませてから、やがて割箸をパシツと割つた。
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春の築地の焼鳥丼
わたしの友人には、文学の菅野昭正、清水徹、哲学の中村雄二郎、音楽の平島正郎、医学の加賀乙彦(昔は医者であつた)その他、フランス留学生がむやみに多いが、かういふフランス学系の俊秀と食事をする機会が度かさなるうち、一つの共通項に気がつく羽目になつた。彼らはみな、はじめから終りまで赤葡萄酒で通すのである。鳥や魚も赤葡萄酒で食べる。そして、ここのところが大事なのだが、何となくそれがいかにもフランス帰りらしい粋な感じに見えるのだ。
いつぞや菅野に、あれはどういふわけかと訊ねたところ、彼は笑つて、第一に留学生は金がないから紅白一本づつなんてわけにはゆかないし、第二に留学生がはいる程度の食堂ではフランス人もみなさうしてゐるし、第三にフランスではやはり赤葡萄酒のほうがうまくて安いし……と答へた。以来わたしは、これを留学生スタイルと命名して、ときどき真似をしてゐる。
六本木にレジァンスといふフランス料理屋が出来て、なかなか評判がいいのだが、辻邦生をここに迎へたときもこの方式の飲み方になつた。まづ、ラウンジといふのかバーといふのかサロンといふのか、とにかく豪華な空間でシェリーを飲みながら、「アンアン」と「ノンノ」(いずれも若い女の子の雑誌)の比較論をおこなひ(『背教者ユリアヌス』の作家に言はせると、食べものの写真は「ノンノ」が優れ、星占ひは「アンアン」のほうがよく当るさうである)、それから食堂に移つて、二人とも古典を読むときのやうな敬虔《けいけん》な態度でじつくりとメニューを読み、料理を注文し、そして葡萄酒を決めることになつたのだが、彼の提案が果して留学生スタイル、つまり赤葡萄酒で通すやり方だつた。彼は重めのブルゴーニュを好むさうで、結局、ニュイ・サン・ジョルジュの一九七〇年。
「メニューを読んだり、ソムリエがやつて来たり、主人が試し飲みしてからうなづいたり、かういふことが大事なんだよ。儀式だからね。儀式といふのは必要なものなんだ」
といふのが辻の意見であつたが、わたしもこれにはまつたく同感である。ただ食べたり飲んだりだけぢやあつまらない。そしてその楽しい儀式の一部分としては、抜いた葡萄酒の栓を鹿爪らしく嗅ぐことまではいつてゐる。
まづ子ビラメの温製ムース。
ツナギに卵の黄身を使つてゐるから当り前と言へば当り前だけれど、ヒラメの肉でこしらへた卵焼のやうな味はひで、まことによろしい。彩りに使つたパセリもいいが、何よりもソースがすばらしいのである。塩味がよくきいてゐるくせに、しかし決して塩つぱくないところが、いかにも本物のフランス料理といふ気がした。一体わたしの説では、薄味のフランス料理といふのはいけないので、そのくせ、塩つ辛くてはもちろん駄目といふむづかしい料理がフランス料理なのだ。(ここでちよつと脱線。フランスから来たある料理人は、毎晩、店をしまふと一杯屋へ行つて、タラコを肴に日本酒を飲むのを無上の楽しみとしたさうだが、その際、彼は、タラコに醤油をかけたといふ。もつて、彼らがいかに塩味を好むかが判らう。)
この温製ムースの閑雅と充実をときどき口に運びながら、それがなくなるとドンクのパンをちぎつてはソースにつけて食べながら、合の手に、ニュイ・サン・ジョルジュの一九七〇年を飲み、そしてさらに辻と閑談に耽るのは、まことにいい気持だつた。たとへば彼は、わたしが子ビラメのムースを喜んでゐると、
「フランスの魚は見た目が悪くてね。グロテスクでいけないよ。その点、日本の魚は美人だなあ」
と語つて、そこから話はおのづと、女と魚についてのまことに微妙な議論に移つたのである。もつとも彼の前菜は魚ではなく、自家製のフォアグラ。
スープは二人とも同じもので、コンソメ。
次は子牛の腎臓の赤葡萄酒煮。一体わたしは内臓料理に目がないのだが、それが腎臓となると文学的因縁もからんで、メニューにこれがあると、つい注文することになる。わたしにとつて大事な小説、ジョイスの『ユリシーズ』のはじめのほうに、主人公ブルーム氏が羊の腎臓を食べるところがあるせいだ。ちよつと引用してみようか。
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――焦げた匂いがするわ、と彼女〔ブルーム夫人〕は言った。何か火にかけたままにして来たんじゃない?
――腎臓だ! と、とつぜん彼は叫んだ。
彼は本を乱暴に内ポケットに押し込み、こわれた便器に爪さきをぶつけながら部屋を出て、匂いのほうへと急ぎ、あわてた水鳥のような足どりで階段をおりた。鼻をつく煙が鍋の片側から猛然と吹きあげていた。フォークのさきを腎臓の下に挿しこんで鍋底から剥がし、ごろりと裏返した。ほんのすこし焦げただけだ。彼はそれを鍋から皿の上にほうりだし、わずかしかない茶いろの|肉 汁《グレイヴイー》をそそぎかけた。
さあお茶だ。彼は腰をおろし、パンを一きれ切ってバターを塗った。腎臓の焦げたところを切りとって猫に投げてやった。それからフォークで一きれを口に入れ、歯ごたえのあるしなやかな肉をよく味わいながら噛んだ。ちょうどいい焼け具合だ。お茶を一口。それから彼はパンを賽《さい》の目に切り、その一つを肉汁にひたしてから口に入れた。(丸谷・永川・高松訳)
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どうです、うまさうでせう。わたしはブルーム氏の朝食をしのびながら、もちろん焦げてなんかゐない子牛の腎臓を味はつた。それはこりこりした口当りで、噛めば、あたたかくてうまい肉汁が奥のほうからしみ出て来るのである。まづマッシュルーム入りのソース、次に腎臓の口当り、第三に肉汁といふ具合に、わたしは三段がまへで料理を楽しんだ。いや、正確には四段がまへ五段がまへと言ひ直すべきかもしれない。といふのは、オヴンで焼いたジャガイモのつけ合せがよかつたし、さらに、赤葡萄酒がまだ残つてゐるからである。
辻が食べてゐたのは兎のクリーム煮で、これを注文するに当つては、留学時代の思ひ出をなつかしむといふ目的があつたらしい。一九五七年、フランスゆきの船のなかで知り合つたフランス青年の家に招かれてゐると、彼の母親に、トライコトリイといふ日本の文学者を知つてゐるか、と訊ねられた。つまり、郡虎彦である。銀髪のフランス婦人はかつて、郡虎彦、山本鼎、島崎藤村といふ三人の日本人と知合ひで、なかんづく郡からは求婚されたことがあつたのださうである。(ただし、彼女が最も好感をいだいたのは島崎藤村だつたのではないかと辻は見てゐる。)かういふ話を聞いた夜、その家で御馳走になつたのが兎のクリーム煮だつたのだ。そして、藤村や虎彦から見れば子の世代に当る留学生は、うまいうまいとその手料理を平らげたあとで、それが兎と聞いてかなりの衝撃を受けたさうである。
といふやうな話が終つたあと、デザートに移る。林檎とキューイのコンポート。どちらも甘くてさはやかで、しかももとの果物の味を生かしてゐる。そのことは、いまの若い女の読者に最も人気があると言はれてゐる作家が、キューイのシロップ煮を食べながら、
「南の果物つて媚薬のやうだね」
と言ったことでも判るだらう。
しかし、フランス料理といふ名の、つまり本当の洋食もいいけれど、実は何を隠さう、日本洋食といふ妙なものもわたしは大好きである。誰かの説によると、トンカツとカレーライスとそれから何かもう一つが日本三大洋食なのださうだが、そこまで徹底しなくても、たとへば神楽坂の田原屋の洋食なんてじつにうまい。あの手の店はどういふわけか花柳界にあるやうだが、赤坂の津つ井の洋食がいいことは、いつぞや、誰かに招かれた席で、赤坂の芸者衆に教へてもらつたことがある。お稽古の帰りかなんかに寄ると、しみじみと生き甲斐を感ずるといふ、色気があるやうなないやうな話であつた。
そこで津つ井へゆく。入口にもマッチにも「につぽんの洋食」と書いてある店で、いきなり箸が出て来る。もちろん特に頼めばナイフやフォークも出してくれるのだらうが、ここでそんなことを口にしては場ちがひである、ちようどマキシムで箸を頼むと同じやうに。
メニューを見ると、ビフテキ丼、舶来きじ焼丼、醍醐弁当、赤坂弁当、すきやき弁当、煮物弁当、合の子弁当の松、竹、梅などといふ、名前だけでもすつかり嬉しくなるものまであつて、どうも気が散つて仕方がないが、さんざん迷つたあげく、帆立貝津つ井風といふのと、ビーフシチューを注文する。
ビールを飲みながら待つうちに(ビールはサツポロだつたかしら)、帆立貝とシチューが同時に(この同時性も日本洋食の特徴)出て来る。まづ前者はパンのなかを刳り貫いて揚げたものに帆立貝のコキールがはいつてゐる料理で、ジャガイモのサラダ、トマト、キャベツ、レタスが添へてある。コキールのどろりとした感じがまさしく日本洋食の最良の型で、それがパンの天ぷら(と書きたくなる)と出会つての複雑な味は、じつに景気がいい。
次のビーフシチューは、黒砂糖の味のきつい、土俗的な感じのもので、しかしその土俗性がさすがに赤坂らしく洗練されてゐる。わたしはその半分を肴にビールを飲みつづけ、残る半分で飯を食べた。パンなんか持つて来させる気はちつとも起らなかつたのである。
数年前、オーストラリアへ行つたとき、シドニーでスモーガスボードの店に案内され、すつかり気に入つた。ヴァイキング料理なんか、と馬鹿にしてはいつたのだが、そんなものとはまつたく違ふ、贅沢で高級な料理屋なのである。
日本にも、いはゆるヴァイキングではない、つまり安いものが喰ひ放題のではない、本当のスモーガスボードはないものかしらと思つてゐたところ、六本木にそれがあつて、しかもなかなか評判がいいらしい。そこでぶらりと出かけることにする。スウェーデン・センターとやらの地下にあるストックホルムがそれなのだが、店の作りがなかなかしやれてゐて、華麗なくせにしかも堅実な感じの趣味。シドニーの店よりもう一段上のやうな気がする。わたしはまづ、渋い煉瓦の壁に囲まれたバー(ないしラウンジ、ないしサロン)で黒い深い椅子に腰かけ、シェリーを飲みながら、食堂のほうの、空いろに白の模様の壁、空いろの絨緞、白いピアノを横目で見て、この店の料理はきつといいにちがひないと、内心いささか興奮してゐた。
シェリーが終ると、食堂へ移つて、まづアクァヴィート(生命の水)。これはジャガイモが原料の酒、つまり芋焼酎で、うんと冷して飲む。いろいろのもので味をつけるらしいが、わたしの飲んだのはカロウェイで香りをつけたもの。このアクァヴィートの合の手に飲むチェイサーとしては、カールスベルグ・ビアといふデンマークのビールを頼んだ。何しろ猛烈なアルコール度なので、一口すすつてはビールといふふうにしないと飲めないのだ。
さて、このアクァヴィートで、「スコール!」とやつてから、席から立ちあがり、いよいよスモーガスボードを食べることになるのだが、まづここで、この言葉の説明からはじめようか。
スウェーデン語ではスメルゴスブールドといふのが正しいらしく、スメルゴスはパンとバター、ブールドは食卓の意ださうである。それが英語にはいつて、スモーガスボードになつたわけだ。このうちスメルゴスないしスモーガスの、パンとバターといふのは謙遜にすぎないので、実はパンとバターどころではない、多種多様の御馳走が並ぶ。それを大別して、(一)[#底本では○に一、以下同様]鰊料理、(二)あたたかいもの、(三)サラダ、(四)冷たいもの、この四つが、(五)肉その他を囲んで部類ごとにまとめて、目白押しに並び、その五種類の三方に、チーズとケーキとフルーツが置かれる。これを種類の順序に従つて食べてゆくのだが、何しろ鰊料理だけでも大変な種類だから、スモーガスボードを食べるに当つてはよほど頭を働かせないと悔いを千載に残す(つまりほんのすこしの種類しか食べられない)ことになつてしまふ。鰊の部にどんなものがあるかを列挙すれば、パプリカとディールであへたもの。オールドスパイス。シェリースパイス。カレー。トマト。オレンジ。マスタード。トマトとサワークリーム。ロールモップ。罐詰鰊のトマトあへ(ほかの鰊は北海道産で、これだけはスウェーデンもの)。といふ調子なのだ。もつて全体の偉容を察すべきで、つまり、一わたり全部食べようとなんかしたら、翌日はたちまち入院といふことになるのぢやないかしら。
以下、わたしが食べたものを記せば――
ロールモップ。鰊の酢づけのピクルズ巻である。海苔巻のカツパ巻のやうに、鰊でピクルズを巻いてゐる。西洋ふうの、しかし洒脱な味。アクァヴィートの肴に絶好。一見しただけでうまさうで、いくつも食べたいところだが、二つだけ皿に取つて我慢した。賢明であつた。あるいは、これでも賢明さが足りなかつた。
ストロミング。コハダに似た魚で、これをフライにして、酢、砂糖、タマネギ、粒コシヨウで味つけしてある。油と酢の形づくる不思議な魅惑。珍味と呼ぶに足る。
ウナギの燻製。いり卵を添へる。
鰊の酢づけ。何かの香料を使つてゐるのだが、わたしの舌ではうまく分析できない。
鱈の卵を固めたパテ。サワークリームに酢その他を添へる。ちよいと乙な味。
鰊を酢でしめてパプリカソース。
同じくマスタードソース。これが傑作である。魚の肉質の厚みをよく生かしてゐて、口のなかに入れたときすでに充実感がひろがり、噛めばいよいよその充実感がよく体験できる。
罐詰の鰊。塩コシヨウしてある。本場ものだけあつて、何となく有難味があるし、とろりとした口当りはさすがに申し分ないが、えらく塩辛い。あわててアクァヴィートをすすり、ビールを飲む。いや、実を言へば、この前にも何度もさうしてゐるのだが。
何かの煮こごり。何かのなどと書くと、心許ないかもしれないが、もうこのころになると、よく判らなくなつてくる。大きめの賽《さい》の目に切つて、上の面の、赤みがかつた褐色のなかに渦巻の模様が白く浮んでゐる。冷たいくせに、味はあたたかい。その対照の楽しさ。
鳥のレバーのパテ。酒と香料を用ゐてゐるが、惜しげもなく酒が使つてある感じで、実質がありながらさはやかな口当り。たいへんよろしい。
カレー味で処理したマカロニサラダ。
いろんな肉を合せてのソーセージ。
タン。軽くて気がきいてゐて、滋味に富む。もうちよつと塩つぽくないと、もつといいな。
豚の骨つき。
ローストビーフ。ホースラディッシュを添へて。
カマンベールチーズ。
パイナップル。新鮮でみづみづしい。
パパイヤ。
パンチ。
これで十九種。すっかり堪能したが、ストックホルムが当夜用意してゐた品数は、菓子を除いて五十ださうだから、まつたく、宝の山に入りながら何もしないで帰つて来たやうなものである。わたしとしては、実を言へば、スウェーデン産のアマエビを海水でゆでたものにも、鮭のマリネにも、子牛に豚肉をすこしまぜてのミートボールに野イチゴのジャムを添へて食べる料理にも、山羊のチーズにも、その他いろいろさまざまのものに心は残つたが、残念ながらもう満腹してしまつてゐたのだ。そのうちぜひ、もう一度出かけよう。第一、店の雰囲気も、給仕人のサーヴィスも、すつかり気に入つたのだから、さういふ店をひいきにしない手はない。
築地四丁目に、ととやといふ名題の焼鳥屋がある。作りはごくありふれた店だが、安くてうまくてじつにすばらしい。わたしは今度はじめて出かけてみて、世評がまつたく正しいことを確認した。本当は、ここに書きたくないのだが(なぜなら、あまりはやると、行列をしなくちやならなくなるし、味だつて落ちるかもしれない)、仕方がないから書く。
まづビールを頼むと(ビールはヱビスビール)、鳥の煮こごりのつきだしが出た。醤油とシヨウガで味をつけたものの薄切りが二つはいつてゐて、まさしく東京ふうのちよつと濃い味加減だが、ビールの肴にまことによろしい。それは、ヱビスビールのちよつと濃密な感触とぴつたり合つてゐた。
まづ鳥さし。三つ葉、海苔、ワサビ、それにレモンをしぼつて。これが思ひがけず瀟洒な味で、殊に海苔の香りがいい。まるで早春の香りを食べるやうな一品。三つ葉と、海苔と、ワサビも、レモンも、そして鳥はもちろん、よほど吟味してあるにちがひない。
次は焼鳥(平焼)。タレの具合が上乗である。上品すぎはせず、かと言つて決して下品ではなく、甘つたるくもなく、塩つぱすぎもせず、間然するところがないし、鳥の焼き方も柔くて、鳥肉の味を最上に生かしてゐる。これだけの焼鳥を食べたのはずいぶん久しぶりだつた。
さていよいよ、焼鳥丼。これを常連はヤキドンと呼ぶやうだ。彼らは気楽にはいってきて、「ヤキドンとスープ」と言ふのである。わたしもまたこれを真似て、この二つを注文した。
やがて出て来たのは、あまり多くない御飯の上に濃い褐色の焼鳥がびつしりと豪勢に並んでゐるやつと、脂の浮いた白いスープ(鶉の卵と鳥のツクネ入り)で、御飯といつしよに食べると、焼鳥の味はビールのときよりもいつそう引き立つし、スープは濃密で清楚、なかなか都会的な味はひで、白い一滴一滴にエネルギーがこもつてゐる気配がある。そして、いつしよに出て来る漬物(白菜、キャベツ、胡瓜、タクアン、奈良漬)がまたよかつた。
わたしはすつかり満足して、土産に焼鳥弁当を一つ買ひ、よく晴れた日の築地をぶらぶらと歩きだしたのだが、そのときわたしは、何しろ近頃の芝居小屋の食堂はちつとも感心しないから、芝居見物のときはこの焼鳥弁当を買つてゆかうと考へて、すこぶる幸福な気持だつたのだ。赤坂の芸者衆に言はせれば、これもまた生き甲斐といふことになるだらうか。
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あ と が き
湯島天神下のなにがしといふ小料理屋で、石川淳先生と飲んでゐた。
「今度『文藝春秋』で食べものの話を連載するんです。いろんな店を食べて歩きまして……」
「ほう、それは結構」
「でも、題に困りましてね。以前『太陽』に書いたときは、植草甚一さんの『オフ・ブロードウェイ知ったかぶり』といふ題の真似をして、『食ひ道楽知つたかぶり』とやりましたけど……」
「『知つたかぶり』はいいが、『食ひ道楽』はいけませんね」
「はあ」
「あれは明治になつてはやつた言葉です。江戸は食通。『食通知つたかぶり』がいいでせう」
「しかし、食通つて柄ぢやありません」
とわたしが半分は本音、半分は謙遜で答へたとき、夷齋先生、一杯機嫌でいはく。
「なーに、かまふもんか」
言はれてみればたしかに舞文曲筆は文士の習ひ、なーにかまふもんか、である。これでたちまち題が決つたのだが、わたしはついでに題簽《だいせん》をお願ひして快諾を得、あまつさへ序文までせしめてしまつた。どうやらあの日はむやみにツイてゐたらしい。
『食通知つたかぶり』は何よりもまづ文章の練習として書かれた。昔、與謝野晶子は弟子たちに、食べものの味のことを歌に詠むのはむづかしいからおよしなさいと教へたさうだが、散文で書くのだつてけつこう芸が要る。そのへんの塩梅をこれはおもしろいとおもしろがつて、食べてはせつせと書き、書いてはせつせと食べた結果がすなはちこの一冊にほかならない。ところどころ文壇交遊録のやうになつたり、珍味佳肴をめぐる詞華集の趣を呈したりしたけれど、主たる関心はあくまでも言葉によつてどれだけものの味を追へるかといふことにあつた。
しかしそんなことはもちろん当方の事情にすぎないので、読者はこれを今の日本の料理屋評判記と受取つて差支へない。わたしはおほよそこれに倍する店を訪ね、しかも平然として半ばを捨てた。あるいは、「文藝春秋」はそのことを嫌はなかつたと言ふべきか。そして、自慢するわけではないがこの評判記はわりによく出来てゐます。活眼をもつてこれを見れば、どの店では何を注文しないほうがいいかといふことまで、はつきり判るはずである。
この本が出るに当つてわたしは数多くの人に感謝しなければならない。まづ石川淳先生である。次いで、多忙のなかを一夕つきあつて下さつた方々である。「文藝春秋」編集長、田中健五氏と、当時の「文藝春秋」編集部の竹内修司、白川浩司の両氏、および現在の同誌の松坂博氏である。そして最後になるが、文藝春秋出版部の箱根裕泰氏である。いや、この本に登場する古今東西の食通たちにもまたここで恭しく挨拶しておくべきであらうか。
一九七五年秋
名物の筍は駄目になつたが秋刀魚はまだうまい目黒にて
[#地付き]丸谷才一 しるす
初出掲載誌一覧
神戸の街で和漢洋食        文藝春秋 昭和47年10月号
長崎になほ存す幕末の味      文藝春秋 昭和47年12月号
信濃にはソバとサクラと      文藝春秋 昭和48年2月号
ヨコハマ 朝がゆ ホテルの洋食  文藝春秋 昭和48年4月号
岡山に西国一の鮨やあり      文藝春秋 昭和48年6月号
岐阜では鮎はオカズである     文藝春秋 昭和48年8月号
八十翁の京料理          文藝春秋 昭和48年11月号
伊賀と伊勢とは牛肉の国      文藝春秋 昭和49年1月号
利根の川風ウナギの匂ひ      文藝春秋 昭和49年3月号
九谷づくしで加賀料理       文藝春秋 昭和49年5月号
由緒正しい食ひ倒れ        文藝春秋 昭和49年7月号
神君以来の天ぷらの味       文藝春秋 昭和49年9月号
四国遍路はウドンで終る      文藝春秋 昭和49年11月号
裏日本随一のフランス料理     文藝春秋 昭和50年1月号
雪見としやれて長浜の鴨      文藝春秋 昭和50年3月号
春の築地の焼鳥丼         文藝春秋 昭和50年5月号
〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年十二月二十五日刊