サイゴンのいちばん長い日
〈底 本〉文春文庫 昭和六十年四月二十五日刊
(C) Nau Kondou 2001
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顔もあれば眼もある本
[#地付き]開高 健
一九六五年から一九七五年までの十年間に、わが国でベトナムが書かれたり論じられたりしたのだけれど、その数がおびただしいわりに、“|実《み》”のあるものはごく稀れであった。
近藤さんのこの本には、一国の首都の陥落前後という決定的な時期が日を追って克明に記されている。それ自体が貴重な記録であることはいうまでもないが、登場人物たちの生彩がそれにまたとない肉や果汁や香りをつけている。それがユニークな一滴の光である。
おかしくもあれば凄烈でもあり、必死であるが悠々ともしているあの国の路上の人びとの姿態が率直、公平、柔軟にスケッチされ、簡潔さのうらにしみじみした優しさがあって、それがなければとらえるすべのないさまざまのものが収穫となっている。これは、顔もあれば眼もある本である。
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目 次
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サイゴンのいちばん長い日
一九七五年三月二十三日、私はサイゴン・タンソンニュット空港へ舞い降りた。夕暮れの空港は、七カ月前、常駐特派員としての勤めを終えてここを発った時と同じように、戦時国家のがさつな活気と、南国のおしつぶすようにものうい暑気に包まれていた。
グエン・バン・チュー大統領の「ベトナム共和国」に、突如、地殻変動のキザシが見えたのは、その五日前の三月十八日である。夕食後、東京・麻布台の自宅でテレビのスイッチを入れ、「南政府軍、中部高原諸省を全面放棄」のフラッシュを目にした時、誤報だと思った。情報が確認されたのはまる一日以上たってからだ。出社すると、外信部デスクに「現地に飛んでくれ」と、旅費と取材費の封筒をわたされた。
私はこの出張に、ベトナム人である妻を同行した。彼女がかたわらにいれば、急場の取材に何かと役立つだろう。同時に、妻にとってもまだ慣れぬ東京暮らしの疲れをいやす“里帰り”の機会だとも思った。羽田を発った時は、まだそんな気分だった。中部の地殻変動が、そのまま共和国崩壊の激震に発展するとは思ってもいなかった。到着後一週間で南ベトナムの中、北部は全滅した。あとは“津波”だった。北・革命政府軍の砲声におびえた残存諸都市は収拾のつかない内部混乱に陥り、将棋倒しに自壊した。四月二十一日、チュー大統領は辞任する。
その九日後の一九七五年四月三十日、北・革命政府軍のサイゴン無血入城。と同時に、「ベトナム共和国」は完全消滅した。“歴史的時間”を尺度にすれば、瞬間の出来事といってよかった。内部から目撃した私には、その一コマ一コマが白昼夢に思えた。
この本は、その「共和国」陥落前後の模様を一つの軸とした、私なりのサイゴン記録である。日記体の形を取ったが、全体としての記述は、私のサイゴン生活を通じての体験、見聞、感触をまとめた個人的、主観的な覚え書きとでもいったものになった。
この本の『サイゴンのいちばん長い日』というタイトルは、必ずしも適切でないかもしれない。サイゴン政権崩壊という出来事の本質は、まちがいなく“劇的”かつ“壮大”なものであったが、その瞬間あるいはその前後に生じた種々の現象は、別に“血沸き肉躍る”性格のものではなかった。
むしろ緩慢で平凡な日常生活を背景に、不可避の臨終がジワジワ進み、ある日ついに、あっけらかんと「共和国」が|亡《ほろ》びた、というのが実感であった。陥落当日に限れば、それは「長くて短い日(あるいは短くて長い日)」であった。
あえていうなら、この覚え書きにより、私は、「報道」が意識的にか、無意識的にか欠落させた部分――つまり、南ベトナムという“国”も、私たちと変わらぬ生活人の集合体であり、そこではそれなりに幸、不幸ないまぜの日常生活が営まれている、というきわめて当然の事実を自分自身あらためて見なおしてみたかった。同時にその土地に住む人の生活実態や、精神風土などを知る努力なくしては、その“国”の崩壊という歴史的事象の評価もありえまい、ということを、自分自身に再認識させたかったのだ。
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[#地付き]一九七五年四月十五日
空港での別れ
朝、タムの車で妻をタンソンニュット空港に送る。
数日前、国外脱出をはかる金持ちたちが、突然空港に殺到し、カウンター業務が完全に麻痺したと聞いた。着くまで心配だったが、ロビーの空気はふだんとほとんど変わりがない。
ベトナム航空東京便と、パンアメリカン航空サンフランシスコ便のカウンター前にそれぞれ二、三十人の乗客が集まっているだけで、職員や見送り人の態度も、思いの外のんびりしている。混乱は、単に一時的現象だったのかもしれない。
だが、注意して見ると、乗客の大部分は米国人か中国人で、ベトナム人はいつもよりずっと少ないのに気がついた。一両日前から、閣僚や将軍の家族さえも出国差しとめになっているという噂は、やはり本当らしい。
カウンターで東京便の搭乗者リストをのぞくと、三分の一近くが空席である。
「これなら何もあわてて帰ることもないのじゃない?」
「冗談じゃない。もういつ何が起こるかわからない状況なんだ」
スアンロクの攻防戦が始まって以来、私たちは何回か言い争った。私は一日も早く彼女を出国させなければ危ないと思った。北ベトナム・臨時革命政府軍の先鋒が、すでに首都を包み込んでいることは、政府軍の毎日の戦況発表からも明らかだ。ビエンホア方面の砲撃音も夜毎に近づき、タンソンニュット空港がすでに一三〇ミリ砲の射程内に入っている可能性すら濃厚だった。
滑走路に十発も撃ち込まれれば、民間機の離着陸は不可能になるだろう。もしそうなったら、ベトナム国籍の妻を国外に逃がす手段はもうない。
妻もそのことは承知していた。それでもせっかくの“里帰り”をこんなに早々と切り上げるのは、やはり心残りな様子だ。おまけに、彼女はまだ日本語が話せない。英語もほとんどだめなので、心細げだった。
「どうするのよ。羽田に着いたら、もう私はニワトリの群れに飛び込んだアヒルみたいなもんじゃないの」
「まあ、何とかうまくやってくれ」
チェック・インをすませた妻にもう一度いった。気がかりは山ほどあったが、いくらアヒルでもニワトリでも、よもや飢え死にするようなことはあるまい。
「あなたも危ないことはしないで。早く帰ってきてよ」
「大丈夫、きっと早く帰る」
「羽田の方は大丈夫ね?」
急な出発だったため、彼女は日本を出る時、再入国査証を取得する暇がなかった。たとえ日本人の配偶者でも、夫が国外にいる場合は長期滞在が認められない、という馬鹿げた法律が日本にはあるらしい。場合によっては羽田の入国手続きでゴタゴタが生じる恐れがあった。
「心配しないでいい。飛行機が出たらすぐ東京にテレックスを入れておく。本社の誰かが迎えにきてくれる」
「でも、どの人が出迎えか見わけがつかないわ」
「心配するな。“黄色いアオザイの美人をよろしく”と連絡しておくから、相手は必ず見わけがつくよ」
妻はニコリと笑った。
ベトナム語と英語のアナウンスが通関の開始を告げ、ロビーの人波が改札口へ動き出した。
「それじゃ、とにかく元気で」
「あなたもね。それから、もし浮気をしたらこれよ」
と、ナイフで突き刺すまねをした。
「馬鹿いうな。そんな余裕はとてもない。お前さんの国が亡びるか亡びないかの瀬戸際なんだぜ」
彼女は、私の最後の言葉にも特別な感情を示さなかった。おそらく、自分でも、これで当分故国の土は踏めまいということぐらいは承知しているだろう。私もそれ以上、このことに触れる気はなかった。
「行くわ」
といって、ちょっと私の頬に手をあてた。それから急にせき込んだ声で、
「私のことを考えて絶対に馬鹿はしないで。もしロケット砲撃が始まったら、すぐ家の連中に防空壕を掘るようにいって」
ささやくようにいった。
はじめて彼女の目の底がうるんでいるのに気がついた。
顔をそむけ、そのまま奥のパスポート検査場の方へ去っていった。私は、黄色いアオザイのすそをひるがえして足早に遠ざかっていくその後ろ姿を見送った。
ロビーを出て、目に流れ込む汗をぬぐいながら、滑走路の金網に沿って駐車場に戻った。
すぐ横手の滑走路を、二、三分おきにF4ジェット戦闘機が発進して行く。二機編隊で矢のように空港ビルの前を走り抜け、轟音の渦を残して離陸する。いったん空港上空で大きく弧を描き、やがて地平線に立ちのぼる黒煙のひとつに機首を定めて、雲ひとつない青空に吸いこまれて行く。
約三〇キロ離れたビエンホア空軍基地が一三〇ミリ砲撃を浴び始めてから、首都圏の空軍機はあらかたこのタンソンニュット空港に避難している。
それにしても、この機数の少なさはどうしたことなのだろう。首都をのろしのように取り囲む、あの巨大な黒煙の柱に、たかだか二機編隊で突っ込んで行っても、山野を埋めつくして進撃してくる戦車隊をくいとめられるものではあるまい。
大空にゴマ粒のように次々と消えて行く機影を目で追いながら、操縦席のパイロットたちの気持ちを思いやった。いったい何機が、またここへ戻ってこられるのか。たとえ戻ったとしても、いずれ、この空港自体が集中砲火の目標となることは、間違いあるまい。
テレックス・センターに寄って東京への連絡電を打ち込み、正午過ぎ、グエンフエ通りの支局に戻った。
午前中の軍部定例会見のひかえに目を通したが、昨夜首都西方の二、三の道路が切断されたていどで、これといった戦況の変化はない。
四月に入って、香港特派員のI記者が応援にきてくれたので、多少、仕事が楽になった。それまでは、ひどいものだった。多いところで六、七人もくり出した各社を相手に、たった一人の勝負だった。
南政府軍、突然の大潰走
三月中旬、南ベトナムの戦況がにわかに動き始め、中部高原南部の要衝バンメトートが北・革命政府軍に電撃的に制圧された。
数日後、グエン・バン・チュー大統領は、当時まだ無キズであったプレーク、コンツムを含む広大な中部高原全域から、政府側防衛軍を突然、全面撤退させた。
東京でこの情報を聞いたとき、耳を疑った。まったく素人目にも信じられない、粗雑な大バクチに思えた。七三年一月のパリ協定で米軍援助が極度に削減されて以来、南政府軍の防衛力は明らかに先細りの状態にあった。しかし、私が常駐特派員の任期を終えて日本に戻った昨年の八月の段階では、これほど思いつめた領土縮小作戦は想像もつかなかった。それ以上に危惧したのは、この突然の大撤退で政府軍の士気が総崩れになるのではないか、ということだ。下手をすると、とんでもないナダレ現象が起こるのではないか――。
私自身の現地取材の体験から知る限り、南政府軍も、勝ち|戦《いくさ》にさいしては妙に勢いづき、思わぬ戦果をあげることがある。逆に、いったん退却となると、散を乱してとどまることを知らぬという致命的な傾向をしばしばみせる。
予感は危惧したよりもはるかに壮大なスケールで的中した。
私たちがサイゴンに到着した三月二十三日、北部の旧王都ユエが陥落した。次いでクワンチが落ち、クワンガイが落ち、三月二十九日には、一カ月前まで東南アジア最強の要塞都市といわれていた南ベトナム第二の大都市ダナンまでが、あっけなく陥落した。
このあと、中部海岸諸都市は文字通りの将棋倒しだった。いずれも、戦いの末の陥落ではなく、北・革命政府軍の|威嚇《いかく》砲撃と避難民流入による内部混乱とで、連鎖的に自壊した。細長い南ベトナム国土は、北辺のクワンチ省から南端のメコンデルタ地方にかけて第一、第二、第三、第四の計四軍管区に分けられているが、国土の半分以上を占める第一、第二軍管区がこの段階ですでに完全制圧された。
当初は里帰り気分でいた妻も、各地の避難民が続々とサイゴンにたどり着き始めてから、どうやら自分の国が決定的な事態を迎えていることに感づいたようだった。妻の家にもダナン方面から逃げのびてきた遠縁の連中が何組か転がり込んできた。大部分が海路、陸路の一千キロの逃避行でボロ切れのようになり、ハダシの連中も何人かいた。そして大声で泣きながら、口々に陥落時の恐ろしい情景を語った。
とくにダナン港からの逃避は混乱と凄惨を極めた。
指揮官を失った兵士らの掠奪、暴行、同士討ち。北・革命政府軍の無差別砲火。夜、ハシケに潜んでの暗闇の海への脱走。恐怖にかられた群衆で地獄絵図と化した波止場。踏み殺され、射殺された女子供や老人――。
ある父親は、あまりあわてていたので、脱出のさい六人の子どもの一人を家に置き忘れてきた。そして本船にたどりついてからそのことに気づき発狂した。
ある母親は混乱の船中で子どもを産んだ。手当てするものもなかったので母子とも死んだ。船長は、もう一人収容するスペースをつくるために、母子の死体を海に捨てさせた――。
それでも、悲劇が遠いところで起こっている間は、いまひとつ実感がサイゴンに伝わらなかった。報道管制が厳しくて、ベトナム語紙が諸都市の陥落をほとんど伝えていないせいもあった。首都からわずか一二〇キロのブンタオ海岸の浜辺には、海路避難中に飢えと渇きで死んだ幼児たちの死体が累々と横たわっているというのに、四月第一週まで市中の日常生活は――少なくとも表面上は――なんの屈託もなく、平静に続いていた。
首都の人びとの多くは、まだ今回の北・革命政府軍の攻勢も、過去何回となく南ベトナムが体験した波状攻勢と同じ性格のものと受けとめているようすだった。
オレはこんなところで死にたくない
しかし、参謀本部はこのとき、すでに決定的な情報を得ていた。
ダナン陥落の翌々日、軍広報部に顔を出すと、
「やつらは最終作戦指令を発した。このまま一挙に南に降りてくるらしい」
知り合いの中佐が、そっと教えてくれた。
それから彼は、突然、顔をまっ赤に怒張させ、
「くそったれめ。グエン・バン・チュー(大統領)の馬鹿野郎が。なんだって、戦わずに退くような真似をしやがったんだ」
軍帽を机にたたきつけて、どなった。
情報通り、いったん北部と中部の地ならしを終えた北・革命政府軍は、そのまま息もつかず砲口を転じて、大挙、超スピードで南下を開始した。
四月九日、はやくも首都圏最後の外郭防衛拠点スアンロクへの本格攻撃が始まった。
スアンロクは、サイゴンから国道一号線沿いに北東へ七〇キロ、美しい教会を中心にしたゴム園の町である。政府側はレ・ミン・ダオ将軍|麾下《きか》の精鋭第十八師団を集めて、懸命の防戦態勢をとった。政府軍は夜のうちに数千発の集中砲火と戦車隊の突撃をくらって、いったん町の南郊に押し出された。ここで参謀本部は今攻勢始まって以来はじめての踏んばりを見せた。空挺隊をはじめ首都圏防衛に温存していた残存精鋭部隊の大半を、スアンロク戦線に送り込み、白兵戦の結果、すでに廃墟と化した町の一部を奪回した。
さらに政府空軍は、この反攻で最新型のCBU爆弾を使用したことが、後日、明らかにされた。CBUは異常な燃焼力で半径数百メートルの酸素を焼き尽くす性能を持った特殊爆弾である。政府軍機は北・革命政府軍の前線の背後にこれを二個投下し怒濤のように押し寄せていた各大隊をよろめかせた。
この思わぬ反攻で北・革命政府軍はいったん攻撃のホコ先を収めたようだ。
政府軍情報部は、“戦果誇示”のためにわざわざ現地向けの記者団用ヘリコプターを用意するようなことまでした。レ・ミン・ダオ将軍の名は“英雄”として地元紙をにぎわした。
私はこの視察に参加しなかった。たとえつかの間、食い止めたといっても大勢はもう明らかだ。無意味な“戦果”を見せていただくために、対空砲火網の上をヘリで飛ぶなどまっぴらだった。案の定、現地を見て、夕方サイゴンに戻った旧知のイタリア人の初老の記者は、テレックス・センターで顔を合わせるなり、かみつくようにどなった。
「おい、もうとてもだめだ。お前もボヤボヤするな!」
「そんなにひどいのか?」
「ひどいもなにも。勝ち戦どころか、政府軍は|十重二十重《とえはたえ》に包囲されちまってる。兵隊はもう逃げることしか考えてない。逃げるに逃げられねえからヤケッぱちで町にしがみついているだけだ」
と、彼はいった。
「兵隊どもはサイゴンに戻るオレたちのヘリコプターにまでワッと群がってきた。憲兵のいうことなんてもう誰も聞こうとしねえ。おかげでこっちは危うく兵隊たちに引きずり降ろされ、そのまま取り残されるところだったよ」
彼とは別のヘリコプターで行ったある日本の通信社記者は、兵士に席を奪われて帰るに帰れず、現地で一泊する羽目になったことをあとで知った。
「しかしスアンロクが落ちてもまだビエンホアがある。北ベトナム軍もこのまま一気には首都に攻め込めないんじゃないか」
「いいか、お前さん。よく聞けよ」
相手はマカロニとブドウ酒のつまった巨体を私の上にかがめるようにして、急に親爺のような声でいった。
「お前はまだ若いから戦争というものを知らん。オレは三十年間も戦場のドサ回りをやってきた。第二次大戦じゃ鉄砲かついで逃げ回った口だ。こう相手を勢いづかせちまっちゃ、もうどうしようもねえ。ビエンホアなどあてにするな。いいか、オレのいうことを信じろ。スアンロクが落ちれば、奴らの戦車は二時間でサイゴンに突っ込んでくる」
「それで、あんたはこれからどうするつもりなんだ」
「オレはこんなところで死にたかねえよ。こいつを送り終わったらさっさとズラかる」
といって、手にした原稿を机に叩きつけた。二日前の日曜日のことだ。
今日、夕方の定例会見で、このマカロニ記者を探したが、姿は見えなかった。昨日も一日顔を見なかったところを見ると、ほんとうに今ごろはもうバンコクあたりに飛んでしまったのかもしれない。
[#地付き]一九七五年四月十六日
のどかな下町の朝
サイゴンに来ると、しぜん早起きになる。
日中は暑すぎるので、ほとんどの人がシエスタ(昼寝)のため家に戻ってしまう。夜は早ければ九時、遅くても十二時から外出禁止になるので、ゆっくり人を訪ねられない。だから、議員連中などに会見を申し込むと、先方はたいがい「それでは朝食でもいっしょにとりながら」とくる。
寝坊な私には大変な苦痛だったが、こんども来た翌日から六時起きの習慣を取り戻さざるを得なかった。
食事係をしてくれているバー・バーに、朝食の用意をたのんでから屋上のテラスに上がる。ラジオ体操をたっぷり三十分。これもシエスタと並んで熱帯生活に欠かせぬ健康法の一つである。
妻の実家は、町の中心部の繁華街からかなり離れたファングーラオ通りの一角にある。テラスから見わたすと、周囲には似たような下町の家々が建てこみ、その屋根越しに映画館や、連れ込みホテルや、米国タバコや歯ミガキの大きな看板が見える。
家々の屋上は、同じようなテラスになっており、どのテラスも草花や鉢植えの木でこぎれいに飾られている。
こんなに殺伐な世界にありながらベトナム人は花なしでは暮らせないらしい。最初にこの国に住むようになってしばらくしてから、中部の農村地帯に旅行したことがある。たえず、政府軍と北・革命政府軍の戦火にさらされている村々だった。そんな生死のはざまの村でも、崩れかかったような貧しい家々の中に必ず新鮮な花がいくつか飾ってあった。
体操を終えると、妻の|姪《めい》のフエが、階下からコーヒーを運んできた。涼しい朝の大気の中での一杯はすばらしくおいしい。フランス人が植えていったバンメトートやバオロク産の豆である。フィルターで濃いめに落として、適当にお湯でのばして飲むのだが、以前サイゴンに来た日本のコーヒー屋の主人も「こんなのははじめて飲んだ」と感嘆していた。すでに産地が占領されてしまったからサイゴンへの入荷は絶たれただろう。当分はこれも飲めなくなりそうだ。
向かいの家のテラスでパンツ一つの若者がギターの練習を始め、その隣ではパジャマ姿の老人がまだ体操にはげんでいる。
とても首都に戦火が迫っているとは思えない日常的な朝の風景だった。
一週間余り前の四月八日、このテラスから、たぶん一生忘れられない光景を見た。
今日と同じように体操をしているさい中、突然、あたりがジェット機の低空飛行音に包まれた。F4ジェット戦闘機が、すぐ先の国家警察本部の森をかすめるように横切っていったのが見えた。
灰色の飛行服に身を包んだパイロットの姿まで間近に見てとれた。
「飛行禁止地区のはずだが」
と、思ったとたん、機が飛来してきた大統領官邸の方向からハジけるような対空砲火音がさく裂しはじめた。続いて、国警本部の森からも、すさまじい連射音が起こった。
『クーデターか!』
私は身を固くして、川向こうの空で機体を傾け、風防ガラスをきらめかせながら、再び市中心部めがけて、大きく方向を転じつつあるF4機の姿を見守った。機はずっと川上の水田の上空で直進態勢を整え、海軍司令部の上を横切って、急に高度を下げながら大統領官邸の弾幕の中へするすると突っ込んでいった。
官邸の森に続けざまに、太ったサカナの形をした二個の黒い物体を落とした。木立ちの中から巨大な茶色い煙が立ち上り、三秒ほどして鈍い爆発音が伝わってきた。町中がけたたましい対空砲火音に包まれていたが、一発も機を捉えた様子はない。地上三〇メートルほどの高度で爆弾を投下したF4機は、そのままカギの手に急上昇し、一目散に北の空へ飛び去っていった。
「ゴ・ジン・ジェムが殺される前と同じだわ」
かたわらで、妻がめずらしく興奮した声でいった。
一九六二年、空軍のパイロット二人が独裁者ジェム大統領の官邸に、命がけの爆撃を加えたことがあった。
当時官邸のそばに住んでいた彼女は、やはりアパートの窓から、その光景を目撃したという。二機のプロペラ型戦闘機が獲物を襲う蜂のように、交互に逆落としに突っ込み、執拗に爆撃した。官邸は大破したが、ジェム大統領は奇跡的に難を逃れた。しかし、彼は翌年十一月の軍部クーデターで殺された。
一九七五年四月八日、朝の空気を揺るがせて市中に響きわたった二発の轟音も、チュー時代の終幕を告げる最初の、それも恐らく決定的な|弔鐘《ちようしよう》と、聞こえた。
つい七カ月前までは、“聖域”とさえ見られていた白亜の宮殿への真っ向からの挑戦――。敢然と弾幕の中へ突っ込んでいったF4機の小気味いい姿は、かつて万全と見えた大統領権勢の復元不可能の|凋落《ちようらく》ぶりと、その背後の共和国体制の末期的混乱ぶりを、待ったなしの形で天下に示す象徴と思えた。私は呆然と、そして何か悲劇的な気持ちでこの事件の意味をかみしめた。
翌日、妻の“脱出切符”を用意した。
“幽霊長屋”に下宿する
ファングーラオ通りにある妻の実家は、隣家と壁で仕切られたいわゆる長屋造りである。ベトナムの町家は、だいたいこの形式で、しかも通りに面した一階が居間になっていることが多い。だから人々は、世界一とさえいわれるこの町の騒音公害のただ中で暮らしている。隣はパンの直売工場である。昼間の交通騒音はともかく、毎晩二時頃から、私の寝室と壁一枚隔てた仕事場でものすごい音をたてて機械が回り始めるのには、閉口した。
パン工場から進出してくるネズミやゴキブリが、睡眠中の私の顔の上を無遠慮に横切るのにも恐れをなした。引っ越してきて間もなく、家の連中にも少々衛生観念を植えつけてやろうと、ヤミ市で米軍物資の強力な殺虫剤を探し求め、台所一面にまいた。洗面器一杯ほどのゴキブリの死骸が集まった。十日ほどしてまた掃討作戦を行なったら、また同じ量の死骸が集まったので、これではきりがない、とあきらめた。
近所の連中の中には、この家を、「幽霊長屋」と呼ぶものもいた。新築後間もなく、男に捨てられた女性が首を吊ったからだそうだ。そのご一、二の入居者があったが、いずれも家族の大半が病死したり、商売に失敗して夜逃げしてしまった。女性が首を吊ったのは、そのご私が住むことになった二階の窓際の部屋である。だから、家の連中も一人ではけしてこの部屋に入ってこようとはしない。昼間、フエが掃除する時も、必ず子どもたち二、三人を部屋の入り口に立たせ、いつ何がでてもすっ飛んで逃げられるようにドアを開けたまま押えさせておく。他の姪や|従妹《いとこ》たちの中にも、姿を見たり、声を聞いたりしたものがいる。
一家の女主人も幽霊の存在を信じ、これを畏怖することでは人後に落ちなかった。しかし、彼女は信心深く霊界に造詣が深かったので、もう少し専門的に解釈していた。
ベトナムの幽霊には二種類ある。ひとつは「コン・クイ」といって、これは本物の悪霊で始末に負えない。もうひとつの「コン・マ」はだいぶ物分かりがよく、取りあつかいしだいで悪さもすれば、逆に福の神にもなるという。
この部屋で死んだ女性は、未婚だった。女主人の知識では、同じ恨みを残して死んでも、既婚の子持ちなら「コン・クイ」になるが、たとえ男を知った体でも未婚の場合は「コン・マ」ていどにしかならない。処女がはかなくなった場合は、迷わず観音さまになる。相手が「コン・マ」なら、ねんごろにつくせば何とかなろう、と、彼女は長く買い手のつかなかったこの家を、安く手に入れた。
実際、家族はときに、被害を受けたが、女主人自身は一人でこの部屋に暮らしていて一度も恐い目に遭ったことがなかった。むしろ仕事もはかどり、家も繁盛した、という。そのかわり、毎日の食事のとき、別に一膳あつらえて、「コン・マ」を招待することを欠かさなかった。
私は、一九七一年七月に、初めて特派員としてサイゴンに赴任した。この第一回目の任期は三年余り続いた。赴任当初は、支局のある市中心部のグエンフエのアパートの一室に住んだが、大家とちょっとしたことでケンカし、この幽霊長屋に引っ越すことになった。
その時はもちろん、この家にそんな薄気味悪い先住者がいたことは知らなかった。
もっとも、はじめてこの家に足を踏み入れた時、何かが自分にとりつこうとしているような気配はした。
アパートの大家とのケンカを知ったこの家の女主人が、
「それじゃ、私の家に下宿しない?」
というので、全財産のスーツケースを両手にぶらさげて、のこのこついてきた。ところが、きてみると、二階長屋の数部屋のうち、家具も整い、なんとか“知的文明人”が住むに足るスペースは、二階のこの女主人の部屋だけだった。残りの連中はそれぞれむき出しの土間や台所の片すみに、ゴザやハンモックで勝手に寝ぐらをしつらえ、ネズミ、ゴキブリ、ニワトリ、イヌなどと|雑魚寝《ざこね》をしているありさまだ。
女主人は、当然のことのような顔で私を自分の部屋に導き、
「ここならまあまあじゃない? とにかく宿無しよりましでしょう」
恐るおそる室内に足を踏み入れ、それからたちまち窓際のカーテンの向こうに、ピンクのカバーにおおわれたダブル・ベッドがでんとすえられているのを見つけ、しかも室内のどこを探しても他にはベッドらしいものがないことに気付き、これはどうも変なことになりそうだな、と思った。
――だが、結局のところ、外国人が住まないこの下町の環境が気に入り、ここに居つくことになった。
花のような笑顔
なぜこの女主人と親しくなり、とどのつまりは、こうして幽霊長屋にまで流れてくることになったのか――どうもいまだによくわからないのだが、あえていえば、彼女の笑顔にしてやられたのかもしれない。
赴任してしばらくしてから、記者仲間の一人に海水浴に誘われた。目的地のブンタオ海岸まで一〇〇キロ以上ある。
「冗談じゃない。この暑いのにあんなところまで水遊びに出かけられるか」
「まあ、そういうな。たまには早起きも健康にいい」
相手は強引だ。
「それにな、女性が一人余っているんだ」
「馬鹿、なぜ、それを早くいわないんだ」
そこで、張り切って夜明けと同時に起きた。
集合先の、彼のアパートの前までいくと、同行の女性は二人で、その一人はすでに私も顔見知りの、彼の女友達だった。余っている一人を見ると、これが生活の疲れを目の下のクマに漂わせたような中年女性で、おまけに右目のわきに大きなアバタまであった。私はカッとして、彼に食ってかかろうとしたが、その時、どういうわけか、その白いパンタロン姿の中年女性が私の方を見てニッコリと笑った。
外出禁止明けの薄暗い街路に、突然大輪の花が咲いたように見えた。私は、食ってかかるのを中止し、そのまま彼女の小型ルノーの助手席に乗り込んだ。
車は明け始めたサイゴンを出た。郊外ロンビンの大基地を囲むぶあつい鉄条網の壁を過ぎると、両側はマンゴーやヤシの茂みが点々と広がる原野の一本道である。彼女は一〇〇キロ近いスピードで軽快に飛ばした。ドライブの間、私は、窓外の景色より、ハンドルを握っている彼女の横顔に、より多くの関心を払った。もうその頃には太陽が高く上り、余り熱心に外の景色を鑑賞していると|陽炎《かげろう》で目がくらくらして、頭痛に襲われる恐れがあったからだ。
相手は私の視線を誤解したらしい。だんだん運転しづらそうになり、そのうち、とうとう道ばたから飛び出してきた仔牛に衝突してしまった。
かなり前方から気づいてスピードを落としていたのだが、「ドスン!」と、思いがけぬほど大きな音がした。牛は尻もちをついたまま十数メートル舗装道路の上をスリップし、そのまま一度へたり込んだ。
ブレーキの音に気づいた連中が左手のバナナ畑のかげの小屋から飛び出してきたが、仔牛はそのときはもう四つ足を踏んばって立ち上がり、二、三秒、ルノーの方をにらみつけてからよろよろと畑へおりていった。私はいかにも憤然としたその間抜け面を見て、思わず大声で笑った。
「まずい、逃げよう!」
と叫んで、中年女性は、いきおいよく車をスタートさせた。その驚くほど若々しい声にふりむくと、今度は彼女もまっすぐに私を見て、また花のような顔で笑った。
海水浴から帰ってすぐ、仕事で一週間ほど北部の要塞都市ダナンに旅行した。埃と鉄条網、銃器、それに異様に目が座った山岳民族の兵士らが充満するすさまじい町だった。昼間はともかく、夜はちょっと外出する度胸も出てこない。河畔の、廃屋のような大きなホテルの部屋で、ある晩ぼんやり物を考えていたら、急に、こんな国で仕事をしていく以上、多少生活にうるおいをつけてくれる道連れがいた方がよさそうだ、と思いついた。
それからいろいろ総合してみて、やはりあのマダム(仲間の記者やその女友達はそう呼んでいた)は魅力的であるという結論に達した。旅行から戻り、街で会ったその女友達に伝言を託して、マダムを中国人街チョロンの大きな料理店に招待した。
彼女は、オレンジ色のアオザイに大きな真珠の首飾りをつけてやってきて、食事の間中、大輪の花のような顔でほほえみ続けた。そこで私の方は、その晩、料理店から自分のアパートにまで彼女を招待することになった。
翌朝、彼女は「お互いに子供ではないのだから、こういう関係を堅苦しく考えるのはやめよう」と提案した。
私はいずれ日本に帰る。彼女は彼女で、老母のそばについていて、これを養わなければならない。
「ベトナム人はどんなことがあっても親元を離れる気にはならないの」
この提案に異存はなかった。
ところが下宿に移ってしばらくしたら、それまで案外元気だった女主人の老母が急に衰弱し、何週間か入院したあげく死んでしまった。どうやらこれで抜きさしならぬ羽目になったか、とちょっと考え込んだ。しかし別にあわてて決着をつけることでもなかったので、“堅苦しくない関係”をどうこうしようという話は切り出さなかった。相手も同様だった。それでも日がたつにつれ、私の方もいつのまにか亭主面をかくようになり、こうなると相手も負けずに女房然と構えるようになり、他人の目には、れっきとした夫婦と映るようになってしまった。
飛び込んできた拳銃弾
さいわい、この長屋で私は、「コン・クイ」にも「コン・マ」にも一回も出くわさなかった。ただ、あやうくこっちの方が「コン・クイ」か「コン・マ」の仲間入りをしかかったことがあった。
老母が死んだあとも、女主人は一族を養うために、仕事を続けた。
だいたい、この国では稼ぎのいいのが一人いると、縁者だ、知人だと称する連中が際限なくその周辺に群がってきて、およそ気安く食客になりすます傾向が強いようだ。だから、大黒柱の方は働けば働くほど、さらに稼がなければならないことになる。とりわけ、家長として一族扶養の義務を背負い込んだ女主人は、早朝から深夜まで追いまくられていた。日中は本業のビールの仲買いで、問屋参りや地方発送用のトラックの交渉に走り回り、日が暮れると入念に化粧をしてあでやかなアオザイに着がえ、“もう一つの仕事”に出かけた。戦況が荒れたりして、地方へのトラックが走らなくなると、夜の仕事が唯一の収入源となった。
別に非合法な稼業ではない。市内で一、二を争うナイトクラブの雇われマダムの仕事である。それでも水商売だけにいろいろなことがあるらしい。毎晩ハンドバッグの底に飛び出しナイフをしのばせて出かけるので、気が気ではなかった。そのうち勤め先で何かゴタゴタが生じた。彼女は空手の教師と称する帰休兵を三人ばかりボディーガードに雇った。三人は日中は階下の土間でビールを飲んで過ごし、夜になると女主人のルノーに乗り込んでその行き帰りを護衛した。本人の方もこのころには、ナイフのかわりに小さな婦人用ピストルを持ち歩いていた。
三週間ほどして、いざこざがおさまったところで、私は初めて、夜の仕事をやめてはどうか、と彼女にすすめた。女主人は、彼女なしでも一家のものが暮らせるようにと、階下を改装して、飲み屋にした。市役所や警察を走り回って、独特の交渉力(つまり、“コーヒー代”と称するワイロをつかませるタイミングの読み方ということになるのだが)と、恐らくその花のような微笑で、首尾よく営業許可を手に入れた。
そればかりか、地区警察の署長まで、飲み屋の“影の協力者”に巻き込んでしまった。出資金ゼロ、月々純益の三〇パーセント配当という条件で、署長は、新しい飲み屋への“全面支援”を約束した。店は帰休兵たちや彼らを目当てに群がってくる女の子たちで昼間から繁盛したが、ときおり発砲騒ぎがあり、二階の治安はだいぶ悪くなった。兵隊たちも、最初のうちはいくら酔っていても、安全なコンクリートの壁めがけて水平撃ちするていどの理性を残していた。そのうちにだんだん気性が荒くなった。
七三年一月末に「パリ協定」が発効してから、しばらくの間がいちばんひどかった。
「パリ協定」は、北ベトナムのレ・ドク・ト政治局員と米国のキッシンジャー大統領特別補佐官との間の秘密会談で成立した停戦協定である。双方ともそれぞれのパートナーである南臨時革命政府やグエン・バン・チュー政権の意向を無視し、事実上、彼らの頭越しに協定文書をまとめあげた。そして強引に四者調印にもち込んだ。誰がみても、チュー政権側におそろしく不利な協定であった。戦争の終結を約束するものでもなく、単に米国がかろうじて|面子《メンツ》を保ちながらベトナム戦争から足を洗うための体裁を整えたものに過ぎない。
現実に、米軍は、自分がかき立てた戦火も鎮めず、しかも大量の北ベトナム軍の南駐留を放置したままこの「協定」によって、南ベトナムから雲をかすみと逃げた。少なくとも多くの南ベトナム人がそう思い、この“裏切り”に激怒した。兵隊は兵隊で、一応戦争が終わったことになったのに、今まで通り戦い続け、従って、死に続けなければならないので、すっかりヤケになって日毎に気がすさんでいった。
階下で発砲の頻度が増し、しかも弾丸の行く先がめっきり乱れはじめた。
「こいつはそろそろ|剣呑《けんのん》かな」
と思いながら昼寝していたら、ある日例によって一騒動起きた。怒声、罵声が交錯したかと思うと、数発続けざまに銃声が響き、同時にベッドにコトンと軽い衝撃がきた。
ドタドタと階段をかけ上がってきたのは若い警察中尉のアンだ。姪の一人の彼氏である。
「生きてますか! 大丈夫ですか!」
「何かベッドに当たったみたいだぜ」
相手はあわてて床に這いつくばり、ごそごそやっていたが、
「あった、あった。これです。本当に運がよかった」
直径六、七ミリのコルト拳銃の銃弾を掌に転がしてみせた。ちょうどマットを支える横木の留金にぶつかり、食い込んでいたそうだ。
数日後、ソファで夕方のテレビ・ニュースを見ていると、また一発やってきた。これは部屋の隅の床を打ち抜き、そのまま天井も貫いて空へ飛んでいってしまった。
従軍中の殉職ならまだしも、昼寝中に酔っ払いの流れ弾に|田楽刺《でんがくざ》しにされて命を落としても、あまり名誉になるまい。結局、兵隊たちの気が鎮まるまでもう少し上品な地区に小さなアパートを借りて一カ月ほど避難した。
あてにならぬ「年齢」
やがて、東京転勤の話がちらつきはじめた。それまでの女主人との“堅苦しくない関係”に、なんとか決着をつけなければならなくなった。母親が死んで以来、彼女は自由な身にあったが、やはり言葉も知らぬ土地に移ることにはためらいを感じているようだった。しばらく考えたあとで、
「ちょっと考えさせてね。三日間ほど暇をくれない?」
私はひさしぶりに支局に泊まり込んだ。
四日目の朝、彼女は支局にきて、
「私の方は決心がついたわ。たぶんうまくいくだろうと思うわ」
聞いてみると、一日目は一家の菩提寺である興栄寺の和尚さんのところへ相談に行ったとか。
この和尚さんは、女主人にとって父親同然の存在で、私も顔見知りである。もとは俗人で、何かの商売をやっていたという。だから、奥さんもいた。それも、第一夫人と第二夫人と二人いた。ところが、二人の夫人の仲が悪く、年中ケンカばかりで家内がおさまらない。それで亭主の方が世をはかなみ、とうとう出家してしまった。以後、修行を積み、悟りを開いて、今は持ち寺もおおいに繁盛している。
和尚には、息子が一人あったが、これも親父の|発心《ほつしん》の巻き添えで坊主にされてしまった。長じて従軍僧になり階級は大尉である。この大尉坊主は、下宿の女主人に少なからぬ好意を寄せており、以前、軍服姿でよく彼女のご機嫌をうかがいにきた。そんな時、私に会うと、合掌ではなく、敬礼であいさつするので、はじめはとても坊主とは思わなかった。
女主人は、なにはともあれやはり人生の大事だから、この和尚さんの意見を聞きに行った。和尚さんは大賛成だった。話を聞き終わると、つくりそこないの大福モチみたいな顔をよけいくしゃくしゃにして、彼女の顔を見つめ、
「どうやらお前さんからも男難の相が去ったようだの」
と、上機嫌だったという。もっとも、そばで聞いていたものがいないのでわからない。和尚は、私の顔を思い出しながら、
「あの男にはどうも女難の相があると思っていたが、やっぱり当たったわい」
と、つぶやいたのかもしれない。
二日目、三日目はそれぞれ、レバンジュエット将軍|廟《びよう》と、郊外の|暦師《こよみし》を訪ねた。将軍廟の大道占い師も、郊外の暦師も、大研究のすえ「吉」の|卦《け》を出した。
数日後、私たちは下町の区役所に、サインをしに行った。サインをすませて、結婚証明書を受けとり、それに目を通した私は思わぬ発見をし、帰り道は、早くも第一回目の夫婦ゲンカとなった。
手にした証明書によると、女主人の、いや、マダム・コンドウの生年は一九三七年八月とある。本人はかねて、「自分はタツ年の生まれだ」といっており、もしそうなら内務大臣認定の公式年齢との間に若干のずれがある。
ベトナムも日本も十二支の配列は同じだから(ただ、ベトナム十二支にはウサギとイノシシがおらず、そのかわりにネコとブタが登場する)、タツ年なら一九四〇年生まれでないとおかしいのではないか。そう指摘すると、
「ベトナムでは戸籍上の公式年齢なんかあてにならないのよ」
マダム・コンドウは、言下に内務大臣の権威を否定した。
たしかにこの国では戸籍は必ずしも事実をつたえない。さまざまの理由で人びとが身元を隠したり偽ったりする習慣が一般化しているからである。
マダム・コンドウの場合も、本人の説明では、第二次世界大戦末期に連合軍がサイゴンの日本軍司令部を爆撃したさい、役所が類焼して、原簿が灰になってしまったそうだ。幼年時代と少女時代の大半を無戸籍で過ごしたが、未成年の場合は独自の身分証明書の所持を義務付けられていないので、不都合はなかった。
しかし、彼女は十五歳の時、個人的理由から戸籍の再登録をはかった。親友の女友達に誘われて解放戦線入りを決意したからだ。現在の彼女のノン・ポリぶりからは想像もできない話だが、当時は“ジャングル入り”が少年少女の間でア・ラ・モード(流行)だったそうだ。
サイゴンを脱け出して森にたどりつくためには、身分証明書の携帯が必須条件となる。そこで、十五歳のマダム・コンドウは、早熟な才知をめぐらした。おりよく、隣の区役所管内で十八歳の女性が死んだのを知り、さっそく出かけていって、遺族から死者の書類一式を買いとった。これをもとに三歳サバを読んだ経歴を偽造して、すまして自分の区役所に申請した。原簿焼失の強みがあったうえ、容貌、体格の方もよほど早熟だったのだろう。申請は受理され、彼女はうまうまと成人の身分を手に入れたという。
解放戦線入りの初志は、親一人子一人の母親が泣いていさめ、とうとう娘を一室に監禁してしまったため、挫折した。しかし、戸籍の方は、立派に生き残り、
「それ以来、私は二重年齢の持ち主となったの」
というのが、彼女の主張である。戸籍の再生にあたり、遺族や役人の口止め料その他で五百ピアストルかかった。当時としてはなかなかの大金だったが、
「とにかくおカネさえあれば、この国では死人でも生き返れる。私の今の名前だって、その時、死んだ女の人から借りっぱなしなのよ」
薄気味悪いことをいってケラケラと笑った。
老母はすでに死んでしまったので、この本人供述の真偽を証言できる者は誰もいない。
ただ、本人の個人的思い出話の断片を、ベトナム現代史の年代に照らし合わせていくと、タツ年生まれの自称年齢にもときに|辻褄《つじつま》の合わないところが出てくるように思えた。
たとえば、ビンスェン軍団のカジノの話である。ビンスェンは一九五〇年代前半に夜のサイゴンを支配していた私兵集団で、市内二カ所に立派なカジノを経営していた。彼女はよく、タキシードを着たクルピエ相手のルーレットや、美しい庭での夜食の思い出を語った。だが、軍団は五五年にはゴ・ジン・ジェム政権によって討伐されたはずで、もし自称年齢が正しいとしたら、十四、五歳以下の小娘が夜な夜なこんなところに出入りしていたことになる。いくら彼女が早熟でも、ビンスェンがやくざ軍団でも、こんなことがあったのだろうか。「あった。とにかく私は早熟だったのだ」と彼女はいいはる。それでもなお追及すると、肝心のカジノの思い出も自分の体験だったか、他人から聞いた情景だったか定かでなくなってしまったので、結局、私の方も引き下がらざるを得ない。
区役所に届け出た後しばらくして、日本の縁戚に結婚通知ぐらい出さなければならぬか、と考えたが、結局やめにした。相手の年齢不詳、住まいは幽霊長屋、アバタ面で、それがときどきニカッと笑い、日が暮れると飛び出しナイフを持って稼ぎに出かける――などと書いたら、とんだ誤解をまねきかねない。かといって、私自身も、妻に関してそれ以外特筆すべき知識を持っていないことに気がついたからである。
女房の年齢もわからないとは、配偶者としても困ったものだと、ときどき思う。だが、よく考えなおしてみると、これまでの実生活でそのために本当に不都合が生じたことは一度もなかった。それに、相手が人間では、誰が、いくらたんねんにその肉体構造を調べてみたところで、樹木の年輪のような動かぬ証拠はみつけられない。結局のところ、私としては、彼女がタツ年生まれでも、ブタ年生まれでもかまわないから、せめてこちらが見当をつけているより一回り上のタツ年やブタ年生まれでさえなければいい、と願うのがせいぜい、といったところになる。
[#地付き]一九七五年四月十七日
大家族制度と家長の地位
今日も、七時前に目が覚めた。
バー・バーが用意してくれた朝食のソバを食べながら、ずいぶん長くこの家に暮らしたのに、この部屋でこうして一人で食事をするのは、初めてであることに気がついた。一人でここで夜を過ごしたのも初めてだ。妻はもう無事に東京のアパートにたどりついているだろうか、と考えた。
本来は|居候《いそうろう》の形で住みついた私が、今、主人である妻の去った家でこうして家長づらをしているのも奇妙なものだ。だが、家の連中はみんな親切で、言葉がほとんど通じない私に、けんめいに気をつかってくれる。
実家といっても、妻はもうとっくに親兄弟を失っている。この家に住んでいるのはみんな、親類かその家族の連中である。なかには赤の他人もいる。
ここに住み始めた頃、何回か一家の家族構成と人口調査を試みた。しかし、流動が激しく、大家族制度の係累も複雑でとても正確な実態はつかめなかった。
戦況悪化などで町の景気が悪くなると、遠縁のまた遠縁といった連中が、いれかわりたちかわり、転がり込んでくる。見慣れぬ若者の頭数が増えたな、と思うと、その何人かは知人から託された徴兵逃れや脱走兵である。
食いつめて転がり込んだ連中は、また、何かの拍子で金や仕事が手に入ると、ふらりと姿を消してしまう。若者たちも兵隊狩り強化の気配を悟ると、より安全な場所を求めて出て行った。
脱走兵たちは、憲兵の目を恐れてほとんど家から出ようとしなかった。
一度だけ、不幸な事件が起こった。
一人が、町に用足しに出たまま戻らなかった。妻の年上の従姉妹、チー・ハイの孫に当たる空手何段かの若者である。以前から脱走の常習者だった。二十歳前後だということだったが、人一倍小柄で、子どもっぽい顔をしているので、とてもそう見えない。本人もそれを利用し、逃げたり捕まったりをくり返していた。逃亡中も案外平気で隣のパン屋の配達を手伝い、小遣いを稼いだりしていた。私のタバコ買い係りでもあった。
また捕まったんだろう、と当初は誰も気にかけなかったが、三日たっても音沙汰がない。ふつうなら調べがついた段階で、当局から照会の連絡がはいる。書類をもっていなくても、捕まればすぐ身元を白状してしまうからである。白状しないと、かえって通敵者と疑われて面倒なことになる。
四日目から、チー・ハイは血まなこで探しはじめた。サイゴン中の営倉や留置所、少年刑務所をたずね回り、一週間ほどたってから、郊外の陸軍病院の死体置場で彼を見つけた。いなくなった当日に、家から目と鼻の先で捕まったらしい。トラックで取り調べに連行される途中、飛び降りて逃げようとし、道路に頭を打って即死した、との憲兵隊の説明だった。
これら出入りの頻繁な浮動人口を除くと、一家の構成員は約十人である。
妻が「義兄」と呼んでいるチュン爺さん。六十歳代半ばのしなびた爺さんだが、私のシャツが着られないぐらい骨格は大きかった。土間のかまちにしゃがみ込み、タバコを吹かしながら一日中往来を眺めて毎日を過ごしていた。ときおり訪ねてくる日本人記者仲間が、
「あんなに愛想のない親爺は見たことないぞ」
と苦情をいうほど、無口で無表情な爺さんである。
別に気難しいわけでない。逆に並みはずれて人見知りする性格だった。私は、何時間も黙然と上がりがまちにしゃがみ込んで道路に目を漂わせている爺さんを見て、いったいこの老人に楽しい過去というものがあったのか、と考えることがあった。
私の食事の世話をするバー・バーは一族の血縁者ではない。赤の他人である。なぜここに住みつくようになったかもわからない。
インド商人の女中として、二十年ほどフランスで過ごし、何年か前、ベトナムに戻ってきた。そのくせ、一言もフランス語をしゃべらない。顔も体も仏様のように福々しく、口の悪い記者仲間も、
「あんないい顔はめったにない」
と、タイコ判を押した。
道楽は薬集めである。私から“給料”を受けとるとそのまま薬局に出かけていって手当たりしだいに薬を買い込んでくる。だから彼女が寝ぐらにしている二階の一室のすみには、もう何年分もの古い薬の山が出来ていた。とっくに有効期限の切れたビンを眺めてはニコニコしている。
薬を買ってカネがあまると、帰りに駄菓子やアイスクリームをどっさり買い込んできて、家の子供たちにふるまってしまう。翌日はもう文無しである。
妻も呆れて、説教することがあった。
「あんたも年なんだから、少しは先の事を考えたら。自分の葬式代ぐらい用意しとかないと浮かばれないよ」
相手は少しも意に介さず、
「トイ・ラクワン(わたしゃ、楽観的なんでね)」
相変わらず薬のコレクションに精を出している。
姪のフエは、ちょっと困り者である。二十何歳。背は低いのに八〇キロ近い体重の持ち主だ。一家の中で飛び抜けて色が黒いのは、幼時に死別した両親のどちらかがカンボジア系だったかららしい。妻は、自分が十四、五歳の頃から娘代わりのように育ててきたというが、その頭と動作の鈍さに根まけし、とうとう一生面倒見る気になっていた。
私が住むようになってから、彼女は私専属の女中となり、少しは家事もやるようになった。こんな娘にも虫がつくらしい。その頃、すでに三歳か四歳の女の子が一人あった。
こんど七カ月ぶりに戻ってみると、いつ、誰とどうなっていたのか、また一人、まだ髪の毛も生えそろわないようなのを抱いていた。
「いったいどういう気なの」
と、妻はタメ息をついた。
一家でいちばんのしっかりものは、義理の従姉妹のチー・バイだろう。亭主の倍以上も太った頑丈なおばさんで、いかにも苦労人らしく、世話好きである。家に出入りする近所の兵隊や若い衆からも、「お袋さん、お袋さん」と慕われていた。
常連の一族は他にも二、三人いたが、フエと子どもたちを除いて、一家の連中はみんな、妻よりずっと年上だった。しかし、妻は家系上、“家長”で、おまけにただ一人の稼ぎ手だったので、一族に対しては絶対君主のような権威をふるっていた。ときおり家族連れであいさつに来る年長の従弟・衛生軍曹のダンも、“家長”の前では見ていておかしくなるほどピリピリしていた。
幽霊も恐れぬ暴力婆さん
もう一人、別格として、ホアハオ婆さんというのがいた。
妻の叔母にあたる。絶対君主の家長である妻も、この六十歳半ばの白髪の老女には頭が上がらなかった。相手が尊族であるうえ、どうも大変な暴力婆さんで、妻も小さい頃、散々殴られた恐ろしさが、骨身にしみているらしい。
ホアハオ婆さんというのはアダ名で――実はこのアダ名は私がひそかにたてまつったのだが――彼女の信仰している宗教に由来する。
ホアハオ教は、仏植民地末期の二十世紀中頃(正確には一九三九年)メコン・デルタのホアハオ村に起こった新興仏教の一派で、信徒は一般に気性が荒いことになっている。宗派自体、戦闘的で排他的な傾向が強い。植民地主義者の弾圧の中で、救いを求める被抑圧者の宗教として出発したからだろう。発足当時は、村の道路に切り刻んだ人肉を並べ、刀を手にした信徒が他宗派の通行人をひっとらえては、
「改宗がいやならこの肉を買え。両方ともいやなら、お前もこの通りにしてやる」
と、迫ったという。
こんな強引な方法だから、たちまちメコン・デルタの一大勢力に成長し、五十年代には同じく新興宗教の「カオダイ教」、サイゴンのヤクザ集団「ビンスェン」と並ぶ強力な私兵集団になった。そのご中央集権化をはかるゴ・ジン・ジェム大統領に討伐され、軍団の頭目バークット将軍はギロチンにかけられた。
婆さんは、この狂信的宗派に、いまなお忠実な信徒である。なんでもまだ連れ合いがいた頃、その飲んだくれの連れ合いに愛想をつかして入信し、生来の気の荒さにますます磨きがかかったという。
それである日、いぜん酒グセのおさまらぬ夫を天秤棒でさんざん打ちすえ、たまげてベッドの下に逃げ込んだ相手をひきずり出してまた殴り、とうとう相手がおびえて小便をもらし始めたのをそれでもかまわず殴り続け、結局、半殺しにして表にほっぽり出し、そのまま離縁してしまった。
そのご、彼女は、いよいよ気むずかしく、凶暴になった。妻も、病気引退した母親の後を継いで十六歳で家長の座につくまで、ほぼ連日、殴られ、張り飛ばされて過ごした。今この家に同居している厚生省勤めの従弟などは、二十歳過ぎてもしばしば婆さんに荒縄でブタのように庭木に吊るされ、体中に鋭い歯の赤アリをふりかけられて、何日間も熱を出して寝込んだそうだ。
その婆さんが、まだ健在で、家中ににらみを効かせている。
一家の連中が婆さんの前であまりビクビクしているので、私にもしぜんにそれが感染し、下宿した当初は、できるだけ彼女の鋭い目にとまらないようにして過ごした。ただ、妻に念を押されていたので、朝夕の丁重なあいさつだけは欠かさなかった。一カ月以上も、婆さんは一言も私に声をかけなかった。どうやらその間、じっくりと品定めしていたらしい。
ある日、妻(というより当時はまだ私にとっては下宿の女主人だった)が、ホッとした表情でいった。
「叔母さんはどうやらあんたが気にいったらしい。“お前が連れ込んだあのグイ・ニャット(日本人)はなかなか礼儀正しくて感心である”といっていたわ」
なぜかわからぬが、本当に、私は婆さんの|御意《ぎよい》にかなったらしかった。朝、フエが私のコーヒーを入れ忘れたりすると、婆さんは、カンカンになってフエの|横面《よこつら》を張り飛ばしたりした。
幽霊をこわがらないのも婆さんだけだった。婆さんは幽霊とさし向かいで対面したことがある。この家でルーム・クーラーが快適に効いた部屋は、二階の私たちの居室だけだった。家でいちばん偉いはずの婆さんでさえ、ムシ風呂のような奥の部屋でゴロ寝しているので、私は居候の身として気がねで仕方なかった。
この家に住むようになってしばらくして、女主人と中部の避暑地ダラトに一週間ほど遊びに行った。出る前に、せめて自分たちの留守中は涼しい部屋で寝てくれるように、と婆さんに頼んだ。
旅行から帰ると、婆さんはプリプリしていた。ものは試しと、私たちのベッドに寝てみたらしい。しかし、生まれた時から硬い板の上で寝るくせがついているので、ブワブワしてとても気味悪くて寝つけない。そこで床板に横たわって眠り込もうとしたら、出たという。髪の毛の白い若い女がしきりと足を引っぱり、
「ここはお前の場所じゃない。出て行け!」と、命令したそうだ。婆さんは、
「うるさい!」
彼女(?)を蹴とばして、ゴロリと寝返りを打ち、あとはもう相手にしなかった。
そこで幽霊も戦法を変え、婆さんが眠り込みそうになると、壁や食卓をたたいて家鳴りするほどの大騒ぎをし、「出て行け! 出て行け!」とくり返した。これにはさすがの婆さんも|音《ね》を上げて退散し、
「あんな無礼な女の出てくる部屋では二度と寝んわい」
と、私たちに宣言した。
今、妻がベトナムを去り、私は言葉も通じぬこの家の中で、一人“|他所者《よそもの》”みたいな存在となった。しかし、この親切でこわいもの知らずの婆さんの後ろだてがある限り、私の“家長”としての地位は安泰だろう。
[#地付き]一九七五年四月十八日
沿岸の拠点ついに全滅
朝、支局に行き、三階でエレベーターを降りると、「コリアン・タイムズ」のA君とばったり顔を合わせた。前回の特派員時代の仲間である。他の韓国人記者らと同様、韓国軍撤退後しばらくして帰任していったが、今度また急に、出張を命じられたという。
「昨日着いたんだ。二、三日したらもう一人同僚が来る。お宅の隣に臨時支局を開設することにしたよ」
「随分、出足が遅いじゃないか」
「そんなに情勢は悪いのかね? とにかくこれから記者証をもらってくる。あとでゆっくり状況説明をしてくれよ」
張り切って出て行った。
支局のある外人向けアパートは、市中心部のグエンフエ通りに面している。徒歩五分以内にAP通信、プレス・センター、日本大使館などがあり、仕事の上でたいそう便利がいい。四階にはK通信社、五階にはN新聞も支局を構えており、今日またA君が店開きして、ますますにぎやかになった。
支局の応接室のソファで、昨夜六日分ほどたまって届いた日本の新聞に目を通す。外電面は各紙ともベトナム・オン・パレードである。われながら、過去三週間余り、よく仕事をしたものだ、と思った。四月に入って香港のI記者が来てくれるまで、息つく暇もなかった。東京を出る時、政府側が極度に苦境に立たされていくだろうとの予感はあったが、こうも急激に混乱状態に陥るとは思っていなかった。
「焦ってあまり飛ばすなよ。まあ、風呂にでも入りながら、ゆっくりと、ベトナムはどこへ行こうとしているか、その方向だけ見きわめてきてくれ」
と、外信部デスクもいった。来た翌々日、私は東京あてに、
「風呂に入ってのんびり先行きを考えている間に、ベトナムはどこかに行ってしまうだろう」
と、テレックスで報告した。
もっとも、ファングーラオ通りの妻の家には、風呂などというしゃれたものはなく、かろうじて水がしたたり落ちる古ぼけたシャワーがあるだけだ。
十時過ぎ、地元人記者向けの朝の軍部会見に出かけていた中国人助手のミセス・フンがかけ戻ってきた。まっ青な顔がひきつっている。部屋に入るなり、電話に飛びついてせわしなくダイヤルを回し始める。ようやくつかまえた何人かの相手と長い間早口で話し合い、やがて放心した表情で受話器を置いた。
「どうしたんだ。重大ニュースか」
「ファンチェットに北の戦車が入ったらしいんです」
彼女の目がまっ赤になっているのを見て驚いた。ファンチェットはサイゴンから二〇〇キロ、中部海岸最後の残存都市だが、どっちみち守り切れる拠点ではない。何を今さらうろたえているのだろう。
「姉の一家が住んでいるんです。誰のところにも連絡がない。脱出できなかったらしい」
ミセス・フンはポツリといった。
ほんのひととき停滞していた戦況がまた動き出したようだった。スアンロクの第十八師団と空挺隊はまだもっているようすだが、昨日も、中部海岸の残り少ない拠点ファンランの陥落が正式に確認された。
ファンランは、チュー大統領の生地である。もう点々と孤立した海岸諸都市が守れっこないことは誰の目にも明らかなのに、大統領は何日か前、ここに「死守部隊」を急派遣した。海路、部隊を率いて行ったのは、グエン・ビン・ギ中将だ。チュー大統領のお気に入りの一人で、第四軍管区司令官の頃、カントの司令部で会見したことがあった。知的な顔をした穏やかな軍人で、好印象を受けたが、そのご、カトリック神父らの反汚職運動の的になり、閑職に回されたと聞いていた。
正午の解放放送は、このギ将軍以下「死守部隊」の将兵が全員投降して捕虜になったことを伝えた。将官としては、初の捕虜である。
川向こうの光景
I記者は朝から米大使館に取材に出たまま戻ってこない。正午過ぎ一人で町に昼食に出た。
レストランを物色しながら、ツゾー通りをサイゴン川の方へ歩き、思いついて、河岸に面したマジェスチック・ホテルに入った。造りは古いが、町でいちばん格式の高いホテルである。六階のレストランに上がり、まっすぐ窓際の席に行って腰を降ろす。奥のテーブルに新来の新聞記者らしい連中が二、三組いるだけで、広い食堂はガランと静かだった。
いちばん簡単な定食を注文したあと、テーブルに肘をついて、窓の向こうに広がる川向こうの景色に目をやった。河岸にぎっしり密集した粗末な家々。白い教会の塔、米国製清涼飲料や日本製電気器具の、巨大な野立て看板、その背後にはてしなく広がる水田やヤシの茂み――。八年前、初めて、この光景を目にしたが、少しも変わっていない。
パリへ向かう途中の夏の朝だった。私は、この同じホテルの、同じ窓際の席から、この対岸の風景をあかずに眺めた。
つい二、三日前のことのように思い出される。
私にとって、生まれて初めての外国での朝であった。
さえぎるものもない窓の向こうの広がりは、今と同じように光とのどかな色彩にあふれている。川は木立ちの間に見え隠れしながら、銀色に朝日を照り返し、幾重にも曲がりくねって、かすみの中にとけ込んでいる。あのときは遠くの方に何隻かの大型船が浮かんでいた。川の蛇行にしたがって、別々の方向に船首を向け、皆停泊しているように見えたが、じっと見つめていると、気づかぬほどの速度で動いていることがわかった。いずれも遠くの河口から、ホテルのすぐ右手のサイゴン港へ出入りする外国船らしかった。木立ちの向こうの見えない水面にそそり立つこれら大型船の姿は、まるで水田の中に突然現れた|蜃気楼《しんきろう》のように見えた。今はもう港に出入りする船の姿はない。ブンタオの河口からサイゴン近郊に至る両岸の湿地帯やマングローブの茂みは、すでに、あらかた北・革命政府軍の制圧下にある。
あの夏の朝、私は幸福だった。かたわらには前の妻がおり、そして私たちの目の前には、二年間の外国での自由な時間があった。妻はベランダに椅子を持ち出し、長い時間をかけて、川と対岸の景色を写生した。
すぐ先の上空を絶え間なくヘリコプターが往き来し、ときおり、二、三機そろって急降下をくり返していた。演習でも、パイロットのねむけざましでもなく、茂みにひそんだ革命軍ゲリラの掃討作戦と教えられた。そんなヘリコプターの姿や動きさえ、この明るく広大な風景の中では、とるにたらない点景とみえた。
私たちはそれから長い旅行を続けた。そして妻のスケッチ・ブックがいっぱいになった頃、パリに着き、そこで暮らし始めた。
外国で育った妻は言葉に不自由しなかった。彼女は大学院に籍を置き、私はフランス語の初歩講座に通い始めた。冬はまだ星空の下を教室にかけつけなければならないような毎日だったが、私にとってはすべてが新しく、充実した生活だった。
言葉もできず、生活の勝手がわからなかったのをなかばいいことに、私は煩雑な外国暮らしの諸事をすべて妻にまかせた。論文の宿題に毎日追われている彼女にとって、それがどんなに負担であるか気がつかなかった。半年ほどして突然彼女が疲労を訴え始めた時も、大して気にしなかった。
その頃、私のフランス語はなんとか一人で日常の用が足せるぐらいまで上達していたが、雑事に時間を奪われたくなかった。自分にはまだこの町で学び、吸収することが山ほどあると思った。
妻はしだいにふさぎ始め、やがて私が本気で心配し始めた時には遅すぎた。
日本に戻り病院で二カ月を過ごし、いったん彼女は快方に向かい始めたように見えた。ある晩病室を訪れると、彼女はひさしぶりにほがらかな顔で、私が去るまで冗談をいい続けた。
翌日、妻は死んだ。
それまでの世界がすべて崩れ、崩れた上にうち建てるものはもう何もないように思われた。不可避な死であれば、いつかそれへの感情は、もの悲しく浄化されていくかもしれない。彼女の死により私の中に生まれたのは、金輪際、美化されたり浄化されたりする可能性のある感覚ではなかった。
甘えるな、と自分にいいきかせても、これはどうしようもなかった。
そして、私が生き続けようと思えば、残された手段は、人生の価値判断とでもいったものをいっさい放棄することだった。今後は、自分で自分の道を決めようなどという大それた考えを持たぬことだ。同時にそれは他人のすべてを不幸も幸福も含めて外界で生じるすべてを許容することだ。そう決めた時以来、私は、自由になった。妻の死後一年余りして、風の吹き回しで再びこのサイゴンに戻った時、妻と共に川向こうの風景を眺めたあの夏の朝は、やはり、自分とこの土地との将来の結びつきを予告する宿命的なひとときであったのか、と思った。
サイゴンに着いて何日目かの朝、一人でこの食堂に上がってみた。自分でも思いがけぬほど、いろいろな思い出がよみがえってきた。それ以来、ここへ足を向けたことはない。
今日、なぜ急に来てみたくなったのか、わからない。だが、今の私はあの朝、心広がる充足感を与えてくれたこの川向こうの悠久な風景を、むしろ無感覚に眺めている。
景色はまったく変わっていないが、そこに感じる想いはすでに八年前とはまったく異質のものだった。
前の妻に対して抱いていた愛情と、現在の妻への愛情がまったく異質のものであるのと同様に――。人間とは他愛なく、そして恐ろしく罪深いものだ、というような気がした。
[#地付き]一九七五年四月十九日
白昼機関銃を持ち出しての内紛
初めてサイゴンへ赴任したのは、一九七一年の夏だった。
タンソンニュット空港へ迎えにきてくれた前任者が、
「おい、えらいところへ飛び込んできたもんだぞ」
といったが、事実その夏のサイゴンは、火事場のような騒ぎに明け暮れた。
秋の共和国第二回目の大統領選挙をめぐって、かねて仲の悪かったグエン・バン・チュー大統領とグエン・カオ・キ副大統領が大ゲンカをおっぱじめ、白昼、町なかで両派の兵隊たちが機関銃をかまえてにらみ合うような物騒な毎日だった。大統領側を支援する米国は閉口し、在野勢力ながら人気が高いズオン・バン・ミン元将軍を選挙戦に加えて正副大統領の対決を緩和しようとはかった。元将軍は米大使館から提供された巨額の選挙資金を突き返した。かえって元将軍を支持する仏教徒や学生たちは、町の反米、反体制機運を盛り上げるために、寺院や大学の周辺で警察隊と市街戦まがいの騒乱を引き起こす手に出た。
まだ西も東もわからぬ私は、この三つ|巴《どもえ》の騒乱取材のたびに警官らの銃口に小突き回され、催涙ガスに追い散らされ、群衆といっしょに路地から路地へ逃げまどいながら、まったくひでえところへ来た、とうんざりした。
自分の目で見た町の騒ぎのルポはなんとか書けたが、たまに“本格物”の政局の分析や展望を書くと、かたはしからはずれた。あまり自分の原稿が的をはずれるので、はやばやと嫌気がさし、
「とてもサイゴン特派員の任に耐えず」
と、本社に泣きをいれたくなった。そのとき、親しくなった若い上院議員の一人が、早まるな、と慰めてくれた。
「はずれるのが当たり前なのだ。お前さんは自分の国の民主主義的発想から物事を眺め、分析し、判断している。どだい出発点が間違っているんだ。外人記者は皆、同じ間違いをする。そのくせあんたたちだって本当はこの国が民主主義の国だなんて思ってないだろう。そうさ、この国の政治メカニズムはまだ、“三国志”時代のそれだ。それをはっきり認識しないと、何年ここにいてもまともな記事は書けやせんよ」
相手はなかば自嘲的に、自分の国の今日を三国志時代に模したのだが、この忠告は一つの基礎となった。実際、チュー派やキ派などの大勢力の他に大小さまざまの宗教勢力、地域勢力、個人勢力、米国派、フランス派、国粋派などがからみ合い、ダブリ合い、これら各勢力が権力闘争の中でときには日本人的潔癖さから見れば目を剥くような、|合従連衡《がつしようれんこう》をやらかす。これではまず、自分自身を“洗脳”してかからなければダメだと、割り切ることにした。
それ以来、選挙戦の中に機関銃が持ち出されようと、字も書けない連中を警官が銃剣で投票所に追い立てようと、目クジラ立てる気持ちはなくなった。私は居直り、辞表を出す意思を撤回した。新聞記者というのは、物事の価値判断の基準として自ら信奉する何らかの信念みたいなものを持っていなければならないのかもしれない。だが、それならそれで、まずどういう価値判断がこの国に適用され得るのかを、実生活を通じてつかみ取っていくのが先決だ、と考えた。
考えてみれば、あまり律義に実生活に精を出したおかげで、年齢もわからない女房を生涯の伴侶としてかかえ込む羽目になったのかもしれない。
支局の主、中国人の女中さん
支局には中国人の女中さんがおり、彼女の存在もまた私のこの土地での生活の切り離し難い一部となった。
私が所属する社の支局開設以来、歴代特派員の面倒を見てきた四十歳位のおばさんである。赴任した私はまず前任者から、この支局の|主《ぬし》に引き合わされた。
相手は感心なことに、三年余りも前に短期間立ち寄った私の顔を見覚えていた。前任者が、
「これがアカムさん(というのが彼女の名前だった)の新しいパトロンだよ」
と告げると、
「アヤーッ、ムッシューか。とうとう来たか」
顔を輝かせて大歓迎してくれた。
自ら構築した文法体系と、独自に発明したボキャブラリーでフランス語を駆使する、創意に富んだ女性である。
アカムさんは、ひとしきり再会の喜びを示してくれたあとで、こんどは思いきりおごそかな表情で、何事かスピーチを始めた。前任者がニヤニヤ笑いながら、
「わかったかね」
何もわからなかった。彼が通訳してくれたところでは、彼女は私に、
「最初の支局長以来、私は何人ものご主人につかえてきた。なかには滞在中、ドロボウにあったり、悪い病気になったふらちなご主人もいたが、それでもみんな、無事に日本に帰っていった。日本ではそれぞれ奥さんやら、お母さんがいて、世話をしてくれるであろう。しかし、お前さんがサイゴンにいるかぎり、このアカムさんが、お前さんの母親代わりを引き受ける。お前さんもそう心得てもらいたい」
と、いいわたしたのだそうだ。
奥さんの役を代行されてはたまらないが、母親なら、どうせこっちも孝行息子ではないから、気にすることはあるまい。アカムさんがドングリまなこで私をにらみ上げるようにして、
「コンプリ?(わかったか)」
と、念を押すので、
「わかった」
と、答えた。
安請合いをして、あとでつくづく後悔することになった。
彼女は、実際口やかましい、過保護ママだった。とくに夜の外出にうるさい。仕事が終わって、ちょっと町をぶらつこうとすると、必ず追いすがってきて、「どこへ行くか」と詰問する。お前は日本人だからよく知らないだろうが、夜のサイゴンは、ドロボウと、カウボーイ(不良少年)と、悪いフィーユ(娘)の町なのだという。部屋のカギは二重にかけ、金はいつもポケットの底ににぎりしめて歩け、フィーユを部屋に連れてきたら、翌日は必ず「イタイ、イタイ」(どういうわけか、この日本語は知っていた)になり、顔中がボツボツになってしまうぞ、と手ぶり身ぶりをまじえて警告する。
「レストランで食事をしてはいけない。どこの店も外側はきれいだが、台所はネズミの死骸でいっぱいだぞ」
ともいった。
「知ってるか、ムッシュー。このあいだ、チョロンで食事をしたフランス人のムッシューとマダムが、まっ黒になって死んでしまったぞ」
本当ならゆゆしいことを、大まじめでささやいたりする。
政局の不安や、戦況の激化で世情が緊張してくると、ますます大変だった。どこのカフェに足を踏み入れてはいけない、どこの通りは近寄るな、明日はドカーン(テロ、ロケット砲撃のこと)があるから、部屋から出ることまかりならぬと、ほとんど血相を変えんばかりにして外出を引きとめる。
何代か前の特派員の統計によると、彼女のこのドカーンの予告は、十回に一度ぐらい的中したという。だが、大体は市場で仕入れてきた根も葉もないデマである。それに、三、四年前のひところは、何日かに一度の割りで、テロやロケット砲撃があったのだから、毎日同じ予告をくり返していれば、そのうち何回かは的中するのが当たり前、ということになる。
とにかく外出のたびに長い説教をきかされ、しまいに「ふん、ふん」と上の空で聞きながしたりすると、相手は怒ってよけい長々と熱弁をふるい、ようやくふり切ってドアまでたどりつくのにいつも三十分以上かかる始末だ。それも、一度支局に遊びにきたフランス人記者が、
「彼女はいったい何語を話しているんだい」
と、本気でたずねたほど、難解なフランス語で説諭されるのだから、する方も大変だったろうが、される方も並大抵の苦労ではない。
アカムさんの最大の叱責の表現は、
「クペ・ラ・テット」
である。
私が食事中、シャツにしみをつけたり、何かで浮かれて茶碗のふちをハシでたたいたりすると、
「アヤーッ・ムッシュー・アーッ・トワ・モーベ・ガルソン・クペ・ラ・テット」
とくる。
興奮すると、必ず、ムッシューの前とあとにこの「アヤーッ」「アーッ」という感嘆詞が入るのはいいとしても、直訳「汝、悪童、首を切るぞ」は、ご主人に向かって少しひどいと思う。
彼女らの階層の植民地フランス語には、「ブーブワイエ(あなた呼ばわりのていねいな用法)」は存在しないので、相手が誰だろうと「チュトワイエ(お前呼ばわり)」で通してしまう。
私は彼女の主人であるから、というよりも“息子”としての親近感から、最初から彼女に対しても「チュトワイエ」を採用したが、前任者はフェミニストであり、しかも礼節をわきまえた紳士だった。本当の紳士は、召使いに対しても丁寧な言葉遣いをするものらしく、アカムさんに対して、最後まで「ブーブワイエ」していた。主人は女中を「あなた」と呼び、女中は主人に「なんだ、お前」とやっていたわけだ。
私は、前任者の十分の一も紳士ではなかったので、前任者の十倍以上、アカムさんに首を切られた。食べすぎて下痢をしては首を切られ、食事を残したといっては首を切られ、同じズボンを二日続けてはいたといっては首を切られ(彼女によると、私たち“旦那さま”は洗濯上がりのものしか身につけてはならぬ、さもなければ女中の恥だ、というのだ)、今晩はネコのステーキを食わせろと注文しては首を切られ、何やかやで一日平均三回以上は、断首刑に処せられた。
任期中、仕事もかねてよく数日間の旅行をした。
アカムさんは、その間、ご主人の安泰を祈って「セーム・セーム・ブッダ」しなければならない。セーム・セームの語源は、ついに最後までわからなかったが、要するに仏さまに関することなら、みんなこの表現で包括してしまうらしい。仏さま自体が「セーム・セーム・ブッダ」だし、坊主も、お寺も、お祈りも、肉食を断つのも、みんな「セーム・セーム・ブッダ」で片づけてしまう。
彼女は、私の留守中、毎日、朝と夜に、仏さまに無事を祈ってくれるわけだが、私はよく、彼女にことわらずに旅行に出てしまうことがあった。もともと性格がズボラで、予定外行動が多かったせいもある。それ以上に夜遊びに出るだけで長々と押し問答しなければ許してもらえないのだから、キナくさい地方へ行くなどと知られたら、気の遠くなるほど長大な事前訓戒を覚悟しなければなるまいと恐れをなしたからである。そこで、ドロボウ猫のように姿をくらまし、何日かたってまた風来坊のように戻ってくる。
戻った私の顔を見るなり、彼女は出っ歯と出目をふだんの倍近くむき出して、息がつまるほどの剣幕で、
「クペ・ラ・テット!」
と、がなり立てる。でも、その時はもう、私の無断外出に対する怒りよりも、無事帰還に対する喜びの方がはるかに大きいから、長々と事前の説教を聞くより、よほど時間が節約できる。一度に十数回も首を切り落としたあとで、いそいそとシャワーのしたくをしてくれる時のアカムさんほど、私という人間の存在を大切に思ってくれている人間には長いこと出会わなかったような気が、そのたびにした。
そのご、私はいまの妻と結婚し、アカムさんの保護監督下から八割方脱却した。
今度の出張でも私が妻を同行したので、アカムさんはせっかくの監督権をふるえず、少々不満のようだった。今、妻が日本に帰り、私がまたチョンガーになったのを見て、彼女は再び自分の出番と心得て張り切り出した。
今日、さっそく支局で、ひさしぶりに「クペ・ラ・テット」とやられた。|無精《ぶしよう》をして、どびんの口から直接お茶を立ち飲みしたところを見つかってしまった。
[#地付き]一九七五年四月二十日
「教授」との論争
日曜日だ。夕刊がない。少しゆっくりしようと思ったが、朝八時頃「教授」に呼び出された。
教授とは、前回特派員時代からの付き合いである。
「私は君の無給助手だ」
と、よく冗談をいうが、実際のところは“師範役”をもって任じているらしい。
おそろしく顔が広く、ベトナム現代史の生き字引きみたいな人物である。自分では詳しく語りたがらないが、彼自身、その現代史の荒波にもみくちゃになり、ときにはこれを動かし、暗殺の危機や亡命の辛酸をなめつくして、これまで生きぬいてきた。もっとも、こんな人たちは、この国では掃いて捨てるほどいる。
彼の断片的思い出話からうかがい知れる教授の経歴は、反骨精神のおう盛なことで知られる北ベトナム・ゲアン省生まれ。学生時代から抗仏ゲリラ勢力ベトミンに身を投じ、一時はベトミン軍の総帥ボー・グエン・ザップ将軍の副官をつとめた。その後ホー・チ・ミン主席の共産体制に反発して、小船でハイフォン港から大海に逃げ出し、通りがかりのフランス軍艦に拾われて、サイゴンに運ばれた。旧知のゴ・ジン・ヌーに協力して、その兄ゴ・ジン・ジェム元大統領かつぎ出しにほん走したが、ジェム体制が独裁化して以来、逆に秘密警察に追われる身となった。パリ、プノンペンに十余年亡命し、ジェム体制崩壊後帰国し、ジャーナリストとなったが、こんどはグエン・カン将軍をはじめとする歴代軍人政権を片っぱしから攻撃したため、チュー時代になって、とうとう新聞の閉鎖を命じられた。以後、実業に手を出しながら舞台裏で、各種反政府運動の“企画屋”の稼業に精を出している。
五十歳半ば、いつもダンヒルのパイプを口から離さぬ、見るからに精力的な容貌、体格の人物で、実際に十四人の子持ちだった。
最初のうちは教授が妙に熱心に接近してくるので、この国によくいる外人記者相手の一種のインチキ政治屋かと警戒した。しかし、そのご知り合った高名な野党指導者たちは、いずれも彼に並々ならぬ敬意を抱いていた。いまひとつナゾめいたところはあったが、筋の通った、“真物”であることは間違いなさそうだった。教授は人前では決して私に彼の本名を呼ばせなかった。野党指導者や周囲の人びとも単に「教授」と呼んでいた。
私は教授が好きだった。ずいぶん仕事も助けてもらったが、ときにはその強引なペースに閉口することもあった。そしてその激情的で、独善的とも思えるほど自負心の強い性格から、彼と同地方出身のホー・チ・ミン故北ベトナム大統領や、ボー・グエン・ザップ将軍の人間像を想像し、こうした人物が権力を手にした場合、反対者にとっては恐るべき敵となるのではないか、と思うことがあった。
私は、いつもの会合場所であるハイバチュン通りの小さなソバ屋で朝食を共にしながら教授の状況分析を聞いた。
相手はいつになく心配げだった。
「共産側がこのまま力で共和国を消滅させようとしている兆候は、ますます濃厚だ」
元ボー・グエン・ザップ将軍の配下にあっただけに、彼の北ベトナム軍戦略の分析は、結果的にみていつもかなり正確だった。
「今日、共産側はハムタンの攻撃を始めた。彼らの当初の戦略はハムタンまで落としてサイゴン側の出方を見ることだったと思う。だがチューの馬鹿がよけいな抗戦姿勢をぶち上げているのを口実に、このまま一気にサイゴンをつぶしにかかる公算がきわめて強くなった」
ハムタンは首都北東二〇〇キロほどの小都市である。別に戦略的に重要な場所とは思えなかったが、教授は独自の情報からこの攻撃をきわめて重視していた。
話しながら、彼はだんだん興奮し、
「あの愚かな将軍(チュー大統領)が権力にしがみついている限り、共和国はこのまま滅亡する。もはや、明白だ。まちがいない!」
周囲の客の耳も構わず、叫ぶようにいった。
すべてをチュー大統領個人の責任に押しつけようとする教授の態度には同調しかねた。
「反チュー各派だってだらしないじゃないですか。穏健派、急進派、宗教各派互いに主導権を握ろうとしていがみ合ってる」
「しかし、チュー排除という点では各派の目的は一致している。あいつさえいなくなれば、まだ挙国一致体制をうち立てられる」
「どうですかね。ぼくには、やはり各派とも、結局のところは共和国自体の足を引っぱっているようにみえる」
ここ十日ほどの間に教授に連れられて次々と訪れた、反チュー各派の領袖たちの顔や言葉を思い出した。いずれも、この大攻勢への対応に大失敗した大統領の無能さを激越に非難することにだけ熱中し、自分たちの火急の行動指針については、手応えのある意見は聞かれなかった。
攻勢開始前後からにわかに宗旨変えして反体制派急先鋒に転じた元陸軍士官学校教授のチャン・フー・タン神父は、相変わらず将軍たちの腐敗ぶりを罵り、国際世論がカトリックを支持するよう、君の記事を通じて呼びかけてくれ、といった。
中立系のグエン・バン・フエン前上院議長は、自分が大統領になれば共産側との対話は可能だ、といった。だが、どんな手段で、進撃を続ける共産側に停戦交渉を呼びかけるか、についてははっきりした考えを持っていない。
共産側にもチュー体制にも|与《くみ》せぬ、いわゆる第三勢力の指導者としてかねて西側マスコミにもてはやされていたチャン・バン・ツェン議員も、
「まだチューの警察力は強い。我々もうかつには動けぬ」
と、及び腰だ。
「これじゃ、みんなまるで批評家じゃありませんか。互いに相手の悪口ばかりいっていても政治は進まないでしょう」
少々無遠慮な感想を述べると、
「それだよ。君、この国では三人集まれば四つ政党ができる。誰もが批評家だ。フランスが残していった最大の遺産だな」
ツェン議員は、他人事のようにいって、愉快そうに笑った。彼は、旧国民党に属し、国共合作時代は故ホー・チ・ミン北ベトナム大統領とも手を携えて抗仏闘争に挺身した古参の政治家である。
こうした批評家たちを、なんとか連合させようと、教授は精力的に動き回っている。その彼も、北部出身のカトリック教徒として、連合の主導権は自分たちが握るべきだ、という考えをはっきり口にしていた。
「この|期《ご》に及んで、内輪の主導権争いもないでしょう」
ソバのどんぶりを押しやり、運ばれてきたコーヒーのフィルターに湯を注いだ。
「失礼ながら、教授、あなた自身も、結局のところは共和国の足を引っ張っているように思える」
「……君にはわからん」
とだけいって、教授は黙り込んだ。その横顔はこれまでになくやつれているようにみえた。
ハムギ通りから来た手長猿
教授と別れた後、思いついて、動物園に足を運んだ。
サイゴン動物園の正門は、公園のように広々としたトンニュット通りを軸に、大統領官邸と向かい合っている。教授らにいわせると、
「だからチューは、よけい国民を動物扱いするくせがついた」
のだそうな。
園内は閑散としており、木立ちのあちこちで兵士らが土のうを積み上げたり、野営の準備をしていた。
私は小さい頃、動物園の園長になりたかった。今でもなれればなりたい。市場からサイゴン川に通じるハムギ通りのヤミ市に小さな動物市があり、以前毎日のようにそこを訪れた。
イヌ、ネコ、リス、野鳥類から、大コウモリ、ワニ、トカゲ、ニシキヘビ、ヤマネコ、時にはヒョウの子まで、いろいろなものを売っている。
トカゲや、羽をたたんでズラリと鳥カゴにぶら下がっている大コウモリは、どうみてもペットの概念からほど遠い。食用兼用らしい。買い手はカゴの中から一匹一匹つかみ出し、なれた手つきでたんねんに肉付きを調べている。
カッケーという、ヤモリとトカゲを両親とした突然変異みたいなのが、わらひもで腹をくくられ、鳥カゴの中でうごめいていた。モモンガだかムササビだかが「獲りたてホヤホヤ、大サービスで一万ピアストル」などというプラカードを首にかけられ、さらしものになっていることもあった。
カッケーは、体長一五センチほど、ぶよぶよの茶色い肌に淡い水色の斑点を散らした見るからに間抜け面のやつだ。昼間は庭の植込みや、天井裏に隠れている。ベトナム人にいわせると、
「自分の姿の醜さを恥じて」
だそうである。夜になると、名前の通りの声で鳴く。田舎にいくと、これより少し小型のカッケアというのがおり、何回か、|梢《こずえ》をよじ上っていくのを目にしたことがある。緑色の尻尾が長く、兄貴分のカッケーよりだいぶ見映えがよかった。
ラオスにはトッケーという同類がおり、ラオス人の好物だそうだ。ビエンチャンに長く住んでいた記者仲間の一人は、ホテルの風呂場にこのトッケーを大切に飼っていたが、ちょっと油断したすきにボーイにかすめ取られステーキにされてしまった、とボヤいていた。
かなりまえのある日、私はこの露天の動物市の柱に一匹の黒い手長猿が鎖でつながれ、オリの中のイヌやネコの大騒ぎを見おろしているのに出会った。容貌、体格からみて、人間でいえばハイティーンぐらいのやつで、アグラをかいたまたぐらには、マッチ棒の半分ぐらいのオチンチンなんかがのぞいている。
私とサルは十分ほど顔を見つめ合った。それから売り子の兄貴と交渉のすえ、三万二千ピアストルまで値切って引き取った。柱の上で超然と下界を眺めていた黒猿のまなざしが気に入ったから、一〇〇ドルものカネを払って引きとってやったのである。買うと同時に「哲学者」と命名した。
ところが、家に連れてかえると、この「哲学者」はまったく手におえない腕白であることが判明した。最初の二、三日はそれでも一応、遠慮していた。だが、そのうちに鎖をひっぱってテーブルは引っくり返す、仏壇の果物は盗む、雑誌は食い破る、人の髪は引っぱる――処置なしの育ちの悪さを発揮しはじめた。
当時、私の扶養家族の数は、すでにふえる一方だった。トト、ミヌ、キキ、イヌ、ネコという名前の五匹の犬と、それにほんもののネコが二、三匹いた。トトとミヌは夫婦者で、下宿に入居した時、土産がわりに女主人に進呈した。トトは、ペキニーズの血がおそらく五〇パーセントぐらいの雑種。ミヌはずっと血筋がよく、ほとんど純血のペキニーズと変わらない。なかなかの美人で、女主人のお気に入りである。亭主のトトの方が体格は二回り以上も大きいのだが、やはりベトナムでは犬も女性上位らしく、断然ミヌの方がいばっている。知能程度もミヌの方がずっと高い。
最初に生まれた子がキキである。牝だったが、一緒に生まれた仔犬の中で最も気が強かったのだろう。仲間がネズミに引かれたり、乳を飲みそこなって生後二週間たらずで次々昇天してしまったのに、一匹だけ生き残り成長した。数カ月後にミヌは二回目の出産を行ない、生き残ったのがイヌとネコだ。名付け親は、私から日本語を習いはじめた小娘のユンである。
「哲学者」の黒猿も、この小娘にあっさり「サル」と改名されてしまった。
サルは、犬たちにもものおじしなかった。年かっこうが同じキキを相手に選んだ。
キキが不用意にそばを通りかかると、エンビを伸ばしてサッと足や尻尾を引っつかみ、手元にひきずりよせてポカポカと殴り始める。キキの方も最初は薄気味悪がっていたが、そのうち、仲良しになり、暇さえあればジャレ合って過ごすようになった。
ベトナムでも、猿と犬は仲が悪いことになっている。二匹が取っ組み合いに疲れて体を寄せ合って眠ってしまうと、一家の連中は「チョイオーイ、チョイオーイ(直訳すれば、“天よ”だが、喜怒哀楽すべての感情を表出する感嘆詞として使われる)」と、大喜びだった。
キキが本気になれば、ケンカは互角である。だが、さすがに類人猿の末席を汚しているだけあって、ふだんは手長猿の方が、攻撃方法も作戦もはるかに多彩だ。歯だけでなく、四本の手足を使って、可哀相なキキをほんろうする。ときには相手の尻尾をつかんで「エイヤ、エイヤ」と階段の下り口まで引きずって行き、そのまま下に投げ捨ててしまったりした。
酒とヤキモチ
サルは酒の味を覚えた。
ある晩、来客が飲み残したビールを盗み酒したのがはじまりだった。こころみにもう少し受け皿についで与えたら、世の中にこんなうまいものがあったか、という顔で、小ビンを半分ぐらいたいらげてしまった。容積比にしたら大変な量だろう。人間でいえば大ビン半ダースぐらいに相当するかもしれない。
五分もすると、完全にぐでんぐでんになった。真っ黒な顔が赤黒く染まり、目も二重まぶたにトロンとして、人間の酔っ払いより酔っ払いらしい顔である。
よほど甘美な酔い心地だったらしく、次の晩も、また次の晩もねだる。飲ませてやらないと、鎖を引っぱり、テーブルを引っくり返して、例により家鳴震動の大騒ぎになる。
泥酔状態になると、まず下半身がいうことをきかなくなった。もともと手長猿だから上肢の方がずっと発達しているのだが、酔うとよけい、腰が定まらなくなる。そのくせ威勢だけはよくなり、私やキキに対して急に尊大な態度を取り始める。部屋中ふらふらとのし歩き、突然、カーテンに飛びつき、よじのぼったりする。いや、のぼろうとするのだが、アルコールで力が抜けているので二メートルものぼると、ストンと落ちて床に尻もちをつく。一瞬、こんなはずではないぞ、といった顔付きで上を眺め、またのぼり始める。またストンと落ちる。もうこの頃になると、自分がなにをしているのかわけがわからなくなっている。
キキは大喜びだ。四方八方から飛びかかって咬みつき、日頃の恨みを一度に晴らす。サルは反撃しようとするが、意識はもうろう、反射神経もきかなくなっているので、まちがえて自分の足にいやというほど咬みつき、一人で悲鳴を上げたりした。
飲み過ぎると、サルは人間並みにゲップを始めた。一度など胃袋の中のものを全部吐き出し、そのまま悶絶してしまった。翌日一日、ひどい|宿酔《ふつかよ》いに苦しみ、もう生きているのもいやだ、という顔で頭をかかえて唸っていた。
ある晩、部屋のビールが切れていたのでマルテルのコニャックを飲ませた。さすがに生では香りが強すぎて飲みにくそうだった。そこでコカコーラで割ってやると、大喜びで飲みほした。
この時の酔いの回りは電撃的だった。一分もたたないうちに部屋中を荒れ狂い始め、一時間たってもおさまらない。もう遅かったので私はベッドに入り、明かりを消した。しかし、サルの興奮はさめず、ベッドに飛び上がってきてロレツのまわらぬ舌で何事かからんでくる。
あまり狂躁状態が続くので私も音を上げた。一計を案じ、こんどは睡眠薬をレモネードにとかして与えた。酔ってノドが乾いていたのか、たちまち皿の底までなめてしまった。どうなるか、と観察していたら、実にたわいがなかった。なお二、三分大いばりであばれていたかと思うと、いきなりズデーンと大の字に倒れ、そのまま熟睡に落ち込んでしまった。あまりの効き目に、このまま永眠するのではないか、と心配した。
サルを飼ってみて、子どもの頃に愛読したバイコフの『動物物語』やキップリングの『ジャングル・ブック』の中の、観察や描写がいかに鋭く、正確であったかをあらためて思い知った。『ジャングル・ブック』は、この南国猿の一族を“タキ木拾い”と名付けて、オオカミ、ヒョウ、クマ、ニシキヘビなどジャングル正統派の最たる軽蔑の対象に位置づけていた。
|小賢《こざか》しく、創造性がなく、年中、集団狂躁生活をいとなみ、相手が弱いと知ると平気で食物を強奪し、ときには何かのはずみで突然、仲間同士食い殺し合うような大ゲンカを始める。そうかと思うと、物音一つで、もういままでしていたことを忘れはてて新しい物に群がる、というように、まったく支離滅裂な精神生活を送っている。
キップリングの“タキ木拾い”は明らかに、万物の霊長であるホモ・サピエンスのパロディーなのだろうが、サルを見ていると、まったくその描写通りの動物であることがわかった。以来、私は他人に対して「サル真似」「サル知恵」などという言葉をけして使用するまいと思った。これらの形容詞が、どれほど侮辱的な意味をもつものか、しみじみ悟ったからである。
また、バイコフの本にあった通り、実際に、サルは度はずれてヤキモチ焼きだった。
感心に、私に対してはハムギ通りの動物地獄から救い出してもらった恩義を感じてか(しらふである限りは)臣下のように忠実だった。困ったことに、一家の他の連中が相手となると、食いついたり、引っかいたり、どんな与太者も顔負けの暴力をふるう。
とくに、私が一族の者と親しくしているところを見ると、大変な騒ぎようである。
下宿の女主人に対しては、徹底的な敵意を示し、その声が聞こえただけでもう口をとがらせて怒りはじめる。女主人の方も一家の絶対君主である。こんな、居候のまた居候に大きな顔をされて面白かろうはずがない。そこで、わざと私のかたわらにきて親密なところを見せつける。鎖につながれたサルは、もう嫉妬のあまり発狂寸前の騒ぎを演じる。女主人は、これがすっかり気に入り、客が来るたびに、わざと私にベタついてはサルを狂乱させ、皆を楽しませた。
どうやら、サルはじっと復讐の機会を待っていたらしい。
ふだん私は、サルを部屋の奥の一番重い衣裳ダンスの取手につないでおいた。原稿を書く時は、気が散るのでテーブルから遠い入口の柱につないだ。ある時、原稿書きに夢中になっていると、それとは気付かず、女主人が何か取りに部屋に入ってきた。サルは機会を逃さなかった。ものもいわず女主人のヒザにむしゃぶりついた。彼女が悲鳴を上げてふりほどこうとしても、スッポンのようにくいついて離さない。私は慌ててかけつけ大声で叱りつけたが、余程、恨みがつもっていたのだろう、殴りつけても、蹴飛ばしても、夢中でかじりついている。
ようやくふりほどき、女主人のパンタロンをまくり上げてみると、ヒザにはエンジ色の歯がたがくいこみ、周囲の肉も紫色に腫れ上がっている。
私は恐縮して、オロオロと常備薬の箱をかきまわしたが、女主人の方も、この時はサルに負けずに猛り狂っていた。壁からハタキをはずして、所かまわず打ちすえ始めた。その牝ゴリラのような形相に、サルも、これは大変だと思ったのだろう。今までのいきおいはどこへやら、長い手で顔や頭をかばいながら、哀願の悲鳴を上げて右に左に逃げまどった。ついに私の方に両手をせいいっぱい伸ばして必死で救いを求めた。そのいじらしく、こっけいな姿に女主人も吹き出し、サルは一命を取りとめた――。
敗残兵の露営地と化した動物園内を一人歩きながら、オリの中の動物たちの運命を思った。東京に空襲が迫ったさい、上野動物園の象や猛獣たちは、いずれも毒薬や絶食で始末された。当時の飼育係の記録は哀れだ。賢明な象は毒物が入った乾草を受けつけず、二カ月近くエサをねだって芸をし続け、ついに飼育係の目前でやせ細った体を横転させ絶命したという。
ここの動物たちも近々同様に処分されるのではなかろうか。
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[#地付き]一九七五年四月二十一日
大統領の辞任説広まる
朝から「チュー辞任」の噂が記者団に流れはじめた。
午後に入ると、各通信社が「辞任確定か」と流しはじめた。私はなお半信半疑だった。反政府グループが、組織的に噂を流している可能性も十分ある。
とかく、サイゴンは噂の町だ。これらをうのみにした通信社のおかげで、日本の一部の新聞では、グエン・カオ・キ将軍がクーデター未遂で逮捕され、チャン・チェン・キエム前首相は自宅拘禁されたことになっていた。チュー大統領自身も、何日か前の通信社電では重病で入院したはずだった。その記事が東京で印刷されていた頃、当の大統領はピンピンして、サイゴンを訪れた米国要人と会見していた。
「辞任」の風評もうかつには信じられない。可能性は無視できぬが、むしろ私は、今、理屈抜きでこの噂を疑ってかかりたかった。チュー体制とその政策への好き嫌いは別として、チュー大統領が去れば、“共和国”の命脈はすでに時間の問題になる。
教授らが何といおうと、反チュー派のまとまりの悪さからみて、それはもう疑問の余地がない。大統領はたしかに国民の多くに嫌われ、憎まれ、国際世論からも各種の糾弾を浴びている。これらの嫌悪や非難に値するだけ無能であり、腐敗しているかもしれない。だが、国がこうしてドタン場まで追いつめられた今、この無能で不人気な人物が、ベトナム共和国つまり南ベトナムのすべてであることも、また客観的に間違いのない事実と思われた。皮肉なことに、彼は今初めて、ベトナム共和国を象徴している。逆にいえば、ベトナム共和国は今や大統領個人によって具象化されている。このベトナム共和国なるものが、ほんとうに「共和国」であるのか、さらにひとつの“国”と呼べる存在であるのか、も、私にはすでに別問題だった。
私にとっての「ベトナム共和国」とは自分がそこで送った日々の生活にほかならない。戦争がまき散らす人びとの不幸の中に、自分の安静と、さらに幸せを見出だすとはどういうことなのかとよく考えた。そのうしろめたさを常に感じながら、結局のところ私はここで幸せだった。
この国で暮らした三年あまり、“敵性地区”の上をヘリコプターで飛ぶたびに、路傍で腐乱した死者たちを目にするたびに、“弾圧体制”下の警官や役人に何かとワイロめあての嫌がらせをされるたびに、たしかに恐怖や、同情や、ときにはすべてを投げ出してこの地を去りたくなるような煩わしさを感じた。
だが、同時に私は、こうしたこの国での日常生活を通じ、着実に自分の中に何かがよみがえってくるのを感じ続けた。それは、けして人生へのいきごみとか、希望感とかいうものではなかったが、少なくとも、ときおり、ふと自分の軌跡を振り返ってみても、以前のような力が|萎《な》える崩壊感覚に襲われることはなくなった。
私は現在のこの“自分のための世界”を失いたくなかった。たとえ、現体制が「悪」であろうと、「カイライ」であろうと、「共和国」そのものが、その名に値しない虚構であろうと、そこで過ごした年月は、私にとってはかけがえのない実体だった。
午前中いっぱいかけて、親しい野党の議員らを電話でつかまえ、「辞任」の可能性をただした。彼らもいまひとつ確信がなさそうだ。
午後三時頃、テレックス・センターから電話が入る。東京本社からの緊急メッセージである。
「UPIデンハ、スデニ、ジニンヲカクテイアツカイ。シヨウシテヨロシイカ。ダイシキュウ、カクニンサレタシ」
朝刊早版までにはもう時間がない。I記者が米大使館に電話を入れている間に、私は大統領官邸わきのベトナム通信社に、タクシーでかけつけた。
懇意の編集局次長をつかまえて、
「おい、ほんとうに確定かね」
「わからねえ、UPIはどこでコンファームしやがったんだろう」
相手も、机の上のUPIの電ガラをにらんで首をかしげた。
「午前十一時にオレたちも待機態勢に入るよう、情報省から指示された。そのあとすぐ国営テレビの実況班が大統領官邸によばれたが、それっきりナシのつぶてだ」
次長はいかにもいらいらしたようすで編集局の中を歩き、それからホンタプトゥー通りに面した二階のテラスに出た。通りをへだてたすぐ目の下は、官邸の広い庭である。木立ちの間に百台近い黒塗りの高級車やジープが駐車し、運転手やボディーガードが方々の木陰に車座に座り込んでいる。大規模な会議が内部で行なわれていることがわかった。
「重大会議が開かれていることは確かだな」
「なに、このところ毎日このありさまさ。いったい何をやってやがんのか、ほんとうに見当がつかねえんだ。オレは泊まり明けなんだぜ。今日は早く放免してもらいたいよ」
次長はうんざりしたようすでたてつづけにタバコを吹かした。
しばらくの間、官邸の様子をうかがったが、警備兵たちの態度もふだんとそう変わらない。
「演説があるとわかったら、支局に連絡してくれよ」
次長に念を押して、編集局を出た。
待たせてあったタクシーに乗り込み、支局に帰るように命じた。すでに早版締め切りの時間は過ぎている。パスツール通りを公園のわきまできた時、国防省の角から見覚えのある黒いプジョーがゆっくり通りに出てくるのが見えた。野党の指導者の一人、チャン・バン・ツェン議員の車だ。国防省正門前にある自分の弁護士事務所からの帰りらしい。タクシーを降り、ツェン議員の車に走り寄った。
「議員、一言でいい、教えてください」
あいさつも抜きで声をかけると、
「よう」
相手は窓から身を乗り出すようにして、いつものように親しげに笑いながら手をさしのべた。
「どうなんですか? 今夜の“重大発表”は確実ですか」
「確実だよ、君。確実に辞任だ」
ニヤニヤ笑いながら、冗談ともつかぬ口調で、
「確実だ。チューもいよいよおしまいだ」
と、くり返した。そして、ちょっと私に手を振り、運転手に合図をして悠然と走り去った。
キツネにつままれたような気持ちで、議員の車を見送った。
いかにも自信ありげだった。しかし、もし今夜の辞任発表が確実なら、ツェン議員が今日一日、のんびりと事務所で依頼人の相手をしていたとはどういうわけか。大統領がやめれば、反チューの急先鋒にあったこの人たちが最も忙しくなる筈なのに――。
割り切れぬ思いで支局に戻った時、奇跡的に東京からの電話が通じた。もう何日も前から回線がふくそうして、電話はほとんど役に立たなかった。今見てきたベトナム通信社の空気やツェン議員の態度をデスクに説明し、
「今夜の辞任発表になお懐疑的」
との感触を伝えた。
「しかし、もし辞任となると本文の、テレックス送稿はとても無理だ。オペレーターが一人しかいないんだ。前文だけはなんとか割り込んで送るから、あとは送稿済みの予定稿で適当に料理してくれ」
「了解。とにかく、万一の場合は一分でも早く一報をたたき込んでくれよ」
東京も「辞任」の可能性をまだ薄くみている口調だった。
ついに辞任表明
東京との打ち合わせがすんで三十分もしないうちに、電話が入った。
「これから演説が始まる。内容はわからない」
ベトナム通信の次長からだ。
私たちはテレビのスイッチをひねって待った。放送はすぐ始まると聞いたのに、画面は十分以上も空白のままである。
やがて七時四十五分、国歌の演奏が始まった。サファリ・スーツ姿の大統領がブラウン管に登場した。硬い表情だ。マイクに身を乗り出すようにして、しゃべりはじめる。何か、怒りをぶちまけているような身ぶりと口調だった。ミセス・フンが次々とよこす要点翻訳によると、大統領は軍事援助をよこさぬ米国を強く非難している。
十五分ほどして、ようやく大統領の表情はほぐれた。ときおり、人なつっこい微笑を目に浮かべながら、くつろいだようすで続けた。演説が始まって三十分ほどしてから、ミセス・フンが結論を出した。
「辞任表明ではありません。まだ闘い続けるといっています」
たしかに、それまでの要点翻訳をみる限り、辞任をにおわせる言葉はひとつもなかった。それから十分ほどして、
「辞任です! 辞任する、と今はっきり言いました」
彼女が動転した声で叫んだ。ほとんど時を置かず、電話が鳴った。ベトナム通信の次長の声で、
「おい、聞いたろうな。辞任だ!」
「イエス、サンキュー」
相手もそれだけで受話器を置いた。
ほんのしばらく私は呆然とした。それから五分間ほどで前文をタイプし、あとをI記者らにまかせて、三〇〇メートルほど離れたテレックス・センターに、汗みどろで走った。
二、三人の外人記者がタイプを持ち込んで打っていたが、何枚か折りたたんだ紙幣をオペレーターのポケットに押し込み、“最優先送稿権”を獲得した。オペレーターが東京を呼び出し、猛烈な勢いでテープをパンチし始めたところまで見届けて、支局に戻った。
テレビ画面ではすでにチャン・バン・フォン副大統領への権限委譲式が行なわれている。老体のフォン氏は杖にすがり、チュー大統領に支えられるように壇上にのぼった。むせび泣き、ハンカチで黒メガネの奥を何回もぬぐいながら、三分たらずの就任演説を行なった。列席した閣僚、将軍、議員らが、一列に壇の前を横切り、新旧両大統領と丁重に握手をかわす。いぜん涙にくれるフォン新大統領に対し、チュー大統領は微笑をたやさず最後までくつろいだ態度だった。
私たちは何回か支局とテレックス・センターを往復しながら、朝刊の締め切りぎりぎりまで原稿を送り込んだ。外出禁止で人気のたえた通りを行き来するのは薄気味悪かった。着いてすぐ夜間通行許可書を申請したのだが、すでに役所の業務が混乱し、ナシのつぶてだ。厳密には違法外出だから、警官や自警団に発砲されても文句はいえない。銃を持ってパトロールしていた当の自警団の黒服少年二人をよびとめた。
「知ってるかい。大統領がやめたよ」
少年たちは別に興味もなさそうに肩をすくめた。
「ボクたちはプレスだ。夜間通行のボディーガードをしてくれ」
二人に千ピアストルずつ渡すと、彼らは大喜びで忠実に職務を果たした。
[#地付き]一九七五年四月二十二日
孤独の強権者
東京から注文が殺到した。
「チュー辞任の町の反応」「ポスト・チューの南新体制」「北・臨時革命政府は停戦に応じるか」などなど――。
徹夜ぼけの頭で、一日中、送稿に追われる。何人かの知識人や庶民の意見を聞いてまわったが、恐らく日本の新聞が期待している“独裁者退陣にわくサイゴン”といったような空気はどこにも見当たらなかった。
庶民の多くは、昨晩の自警団の少年と同じように肩をすくめるだけである。昨日まであれほどチュー退陣を迫り、大統領の頑固さをくそみそにいっていた野党の連中は、
「退陣は遅すぎた。もう手遅れだ。これもみんなチューのせいだ」
これまで以上の剣幕で、去った大統領を非難する。たしかに、野党のいうことは正しいだろう。退陣は遅すぎたかもしれない。だが私個人は、ベトナム戦争の悲惨と、この共和国末期の惨状が、すべてチュー氏一個人の責任とでもいいたげな野党と新聞の論調には、どうしても同感できない。
私は外国人であり、しかもチュー氏を個人的に知らないから、彼に対してこれといった好感も恨みも持っていない。恐らく、彼が為政を誤ったことは間違いない。それにしても、この土地へ赴任して以来、頭からチュー大統領を“悪玉”あつかいにする多くの西側ジャーナリズムの態度には、つねに疑問を感じ続けた。
この悪くいわれ続けた人物への、私なりの悼辞のつもりで、次のような原稿を書いた。
『「世論は私を誤解し続け、ついに和平の障害呼ばわりした――」
辞任演説の中で、今は座を去ったグエン・バン・チュー前南ベトナム大統領が口にしたこのせりふは、長年の怒りと悩みを凝縮した言葉であったろう。
よかれ悪しかれ、チュー前大統領は自らの信念にかたくななまでに忠実な“ストロング・マン”であった。世界のマスコミはこの軍人大統領にあらゆる“悪玉”のイメージを付与した。カイライ、専横者、弾圧者、腐敗した権力亡者、好戦者……。
だが率直にいって私が一九七一年夏、初めてサイゴンに赴任したとき、チュー氏の人となりについて抱いていた先入観と、実際の現地の人びとの対チュー評価の間に横たわる大きな距離に驚かされた。たしかにチュー氏は国民の多くから嫌われ恨まれていた。ベトナム人のだれもが好まぬ戦争に国を引っぱっていく国家元首への当然の感情だろう。
だが、外部評価と異なり、ベトナム人自身の対チュー嫌悪感の底には、一種の理解があった。赴任したのは、チュー氏が対立候補を締め出して強引に再選を図った“ワンマン選挙”騒動の真っ最中である。当時、対立候補に凝せられていたズオン・バン・ミン元将軍組の副大統領候補はサイゴン出身の誠実な若手野党議員ホー・バン・ミン氏である。氏は、
「チュー氏は独裁者ではない。独裁者たりうるにはあまりにきまじめな人間だ。律義すぎるために、米国がわが国の実情を無視して持ち込んだ二院制議会民主主義という重圧のもとで身動きがとれずにいる」
と、この強力な政敵を評した。
実際チュー前大統領の悲劇は、アジアのこの地区では無効のアメリカン・デモクラシーのワクにしばられ、身動きできぬ状態にありながら、その権力を背に、あまりにまじめに、あまりにしゃにむに“反共”の仕事にはげみすぎたところにあったのだろう。
米国のインドシナ本格介入のどさくさは、体質的に思考の飛躍を拒否し、専門の軍事面でもこれといった武勲のない一大佐を、あっという間に国家元首にのしあげた。六三年ゴ・ジン・ジェム打倒クーデター後の混迷期、軍人の中にはチュー大佐よりはるかに“光彩”を放つ人材がいくらもいた。グエン・カン将軍、グエン・チャン・チ将軍、グエン・カオ・キ将軍ら――。
「だがチュー氏がこれらつかの間の羽振りを誇った将軍らと違っていたのは、日々の地味な努力や体験を通じて、毎日自分を改良していくことを知っていたことだ」
――歴代軍人首相の新聞報道官をつとめたある大佐(現在外交官)はこう評価する。
世論の大統領への認識が「誤解」であったかどうかはわからない。が、大統領自身は、これを誤解と受けとめ、それを能弁に釈明するような性格ではなかったため、無言で耐える以外なかった。この耐える姿が極度の対人不信となって現れ、それがさらに国民と大統領のミゾを深めた。
そして大統領が居丈高な姿勢をとれば、冷ややかな目はこれを「小人のおごり」とみた。逆にテレビ演説などで人なつっこいほほえみをうかべると、人びとは「板に付かぬ芝居」と評した。実際に私が知る限りのチュー氏はつねに努めて|磊落《らいらく》を装いながら孤独の影に包まれていた。
もっともこうした個人的評価は別として、その硬直政策が百万を超える同胞を死傷させ、共和国の体制を現在の危機にまで|陥《おと》し入れたことについての国家元首としての責任は逃れようがあるまい。だが、さらにいえば、この“人道的”観点からの責任は北ベトナム、臨時革命政府指導者層も等しくわかち持たねばならぬものではなかろうか。北・革命政府側の“筋金入り”はまだ残っている。南のストロング・マンは、いま舞台から姿を消した――』
占いは的中した?
チュー大統領の政治家としての素質についても、さまざまの評価が可能だろう。しかし、それぞれの国にはそれぞれの政治風土、精神風土がある。こんなことは、高校生にも理解できる道理だ。その国の為政者の態度が“民主的”か“非民主的”かを、彼への評価の出発点にする態度は、あまりに小児的すぎる。
たとえば、チュー大統領は、ある時、フランス人記者の質問に対して、言下に答えた。
「大統領、あなたは占いを信じますか」
「信じるとも。占いはよく当たる」
事実、難事に出くわすと、彼は、台北から高名な占い師を呼んで、|卦《け》をたててもらう、という噂だった。軍部の最高人事についても、有名な話が伝わっている。
一九七一年、サイゴン一帯を管轄する第三軍管区のド・カオ・チ司令官がヘリコプター事故で死亡した。後任候補として二人の有力将軍が最終リストに残った。グエン・バン・ミン将軍とゴ・クワン・チュォン将軍である。おヒザもとの第三軍管区だから人選は慎重を要する。軍部内の派閥もからんで決めかねた大統領は、結局、占い師に意見を求めた。占い師は、二将軍を見て、チュォン将軍に|謀反《むほん》の星あり、と託宣、首都圏防衛の重責はミン将軍にゆだねられた――。町の人びとはこの話をけっこうまじめに信じている。
米軍がベトナム戦争に直接介入してからは、前線で米軍将校とベトナム人指揮官の間に、よく意見の対立が生じた。科学的思考を優先させる米軍は“客観情報”を総合し分析して、作戦開始の日取りをはじき出す。ベトナム人指揮官は、暦や占いを優先させる。一応の近代軍事教育を受けた指揮官らが、暦を盲信しているかどうかは別問題である。しかし、その日が「悪い日」だと、肝心の兵隊が尻込みして、士気が上がらない。こんな日に戦っても負けることはわかり切っている。
米軍司令部はいらだつ。米人記者らもベトナム人将官らの迷信深さをひやかす記事を送る。
サイゴンには、ちょっとおどろくほど書店が多い。「知・農・工・商」で、読書人を尊んだ気風の名ごりか、皆、よく本を読んでいる。書店の店頭の、かなり大きな部分が、各種占いの入門書や理論書で占められている。素朴なコックリさんから、おみくじ、トランプ占い、手相、人相、陰陽五行など――。日の吉凶をくわしく解説した暦も、毎年のベスト・セラーである。
もっとも、私たち、慣れないものが町の占い師をたずねる時は、うらぶれた格好をしていく方が無難のようだ。へたに服装を整えていったら、運勢よりも、懐具合を的確に占われ、おそろしくボラれる。
庶民層では、とくに商人が縁起をかつぐのは、日本と共通している。かれらは、自分の“星”に基づいて、暦を解読し、「良い日」「悪い日」を、たんねんにチェックする。「悪い日」にはちょっとした買物から、契約、遠出なども避ける。“星”により、時期により、その人には一カ月の半分以上が「悪い日」となる場合もある。こんな月には、デートもままならないことになる。
ことの理否はどうであれ、多くのベトナム人にとって、占い、暦、夢、虫の知らせ……などは、一種不可侵の精神宇宙を構成しているようだ。
「あの子は、悪い星のもとに生まれてきた」
「今月は悪い月だが、来月は運が回ってくる」
自分を慰めるなにかの支柱がなければ、長い戦乱の中でベトナム人全員が、すでに発狂していたかもしれない。
フランス人記者に対するチュー大統領の返事も、むしろこのベトナムの精神風土を考慮にいれての“政治的発言”と受けとめるべきだろう。ウガンダのアミン大統領が、“夢枕に立ったアラーのお告げ”で、国をまとめていくのが、それなりに、計算に基づいた「政治」であるのと同じことだ。
チュー大統領の明快な返事を冷笑し、嘲笑し去る限り、ベトナムという国と、そこに住む人びと、そこで生じている事象への理解は生まれてこないのではないか。
ところで、チュー大統領は、ネズミ年、ネズミ月、ネズミの日、ネズミの刻の生まれだった。ベトナムでは、正確な生年月日、出生時間までわかっている人はめずらしい。その点、大統領の場合は、例外的ケースといわれていた。もっともこれもおかかえ占い師の入れ知恵で、自らを特別の存在に仕立てあげるための創作だったのかもしれない。ネズミの大敵はネコだ。庶民や町の“予言屋”はネコ年(日本のウサギ年)に「大災厄」が彼を見舞う、と陰口をきいていたが、ほんとうに七五年のネコ年が命取りになった。
[#地付き]一九七五年四月二十三日
フランス、ミン将軍をかつぐ
臨時革命政府が、フォン新大統領の停戦交渉呼びかけを最終的に拒否した。
外電によると、パリでジスカールデスタン大統領が、北ベトナム大使、臨時革命政府代表を招き、事態収拾のため調停に乗り出しているという。フォン大統領を降ろし、穏健派のズオン・バン・ミン元将軍を大統領にして、なんとか北・革命政府側のサイゴン軍事制圧を思いとどまらせようという構想らしい。
ミン元将軍は、一九六三年のゴ・ジン・ジェム打倒クーデターの“英雄”である。一時、国家元首をつとめたが、そのごは、第三勢力を象徴する反チュー派の元老格である。政治的力量はないが、国民の人気は高い。実弟の一人は革命政府軍の将官である。
ズイタン広場近くの元将軍の私邸にようすを見に行くと、すぐ後から仏大使館の政治担当一等書記官が車で乗りつけ、そそくさと邸内に入っていった。
ミン元将軍の腹心、タオ大佐が左手の事務所から出てきた。
「よう、しばらくだな」
「うまくいっているのかね」
フランス側調停の成り行きを聞くと、
「少なくとも、将軍自身はやる気だ」
と、嬉しそうである。
「ミン大統領となると、いよいよ、タオ国防相の登場だね」
「いやあ、まさかそんなことは――」
大きく手をふって否定したが、顔はますます嬉しそうだ。同期生が皆、将軍に昇進しているのに、大佐は反チュー派のミン元将軍の片腕となってしまったため、軍人として長い間、冷や飯を食わされてきた。
午後、パリでの調停工作はかなり脈がある、との情報をAFP支局で聞く。サイゴンの仏大使館も、在留仏人の退去勧告は行なわないらしい。しかし、その一方では、最初からまったくの“ツナギ”とみられていたフォン新大統領が、予想外に強腰で、おいそれと大統領職をミン元将軍に譲る気はないらしい、との情報も伝わってきた。
[#地付き]一九七五年四月二十四日
脱出者、航空会社に殺到
午前中、I記者は町中かけずり回って、ようやく出国用の切符を二枚手にいれた。
すでに市内の航空会社の営業所は半数近く閉まっており、日航事務所を通じて、ようやく、彼と私の名前で二十七日のベトナム航空シンガポール便の座席を確保したという。
「おい、大変なことになってるぞ。ベトナム航空の窓口はもう、黒山の人だかりだ。とてもカウンターに近寄れない。まるで船から逃げ出すネズミの群れだ」
支局に戻ったI記者は、しきりに顔の汗をぬぐって、落ち着かない表情だった。
二十七日の予約もあてにはなるまい。市内のベトナム航空営業所は、すでに数日前から、ワイロ次第でめちゃくちゃな水増し販売に出ていた。だから、切符を持っていても積み残される客が続出し、乗客は朝暗いうちから空港に殺到しているそうだ。
昼のニュースで、グエン・バ・カン内閣の総辞職を知った。四月十四日にチュー大統領が挙国一致の名のもとに発足させた新内閣だが、顔ぶれはいずれも二流どころの親チュー派である。実際にはチュー辞任の翌日に辞表を提出していたのだから、発足以来八日間の内閣だった。これで、南ベトナムは、病弱の老人を元首とする事実上の無政府国家になった。
北・臨時革命政府はすでに“フォン体制”を「チューなきチュー体制」ときめつけ相手にしない態度を明らかにしている。つい四月初めまでは「チューさえ去れば停戦交渉に応じる」といっていたのだが……。
もっとも、フォン大統領はチュー前大統領の残した軍部、警察の支柱をそのまま受け継いだのだから、北・臨時革命政府側の言い分にも、理屈はあるかもしれない。
それにしても、ミン元将軍ら従来の反チュー勢力はいったい何をしているのだろう。ここでミン派が国の主導権を取れば、まだ国内の結束は可能かもしれないのに。口では勇ましいことをいっているカトリック強硬派の神父らと同様に、結局はミン派も“職業野党”に過ぎなかったのか――。
十日あまりもちこたえていたスアンロク戦線は、三日前、ついに完全崩壊した。北・革命政府軍は、レ・ミン・ダオ将軍|麾下《きか》の第十八師団の思わぬ抵抗ぶりに遭い、この小都市を迂回して直接首都を衝く作戦に転じた。町にこもっていた十八師団と増援の空挺隊は、後方との連絡を絶たれ、敵の大軍の中に孤立する形になった。将軍は進退きわまり、部隊を解散して、各将兵に独力で首都へ退去するよう命じた。間道やジャングルに分散した部隊の半数以上は、そのまま“消滅”してしまった。
ビエンホア基地の大部隊も同様に迂回、包囲され、自壊しつつある。ブンタオ街道もすでに切断され、サイゴンからメコン・デルタへの動脈国道四号線は、首都玄関口で頻繁な|攪乱《かくらん》攻撃にさらされている。
午後、北郊わずか十数キロのホクモン村の防衛線を視察しに行こうと思った。村の入口に妻の母の墓がある。埋葬のさい、菩提寺の和尚に交渉して私自身の墓所も予約しておいた。
「よせやい。あそこはもう戦場だぜ。今頃のこのこでかけていったら、そのままお墓入りになりかねない」
三年余り、戦地取材の相棒であった老練な運転手タムは血相を変えて同行を拒否した。
午後遅く、東京本社からの電話が通じ「即時退去」を指令してきた。
適当にあしらって、切る。私の方には、まだ退去の意志などない。
東京は、私が、大使館や各国記者の寝ぐらが集まった市中心部から遠い下町に一人で滞在していることを気にしている。私はむしろこうした状況の中では、記者仲間や他の外国人と距離を取って暮らす方が賢明、と判断していた。群れをなすと、無用な情報や憶測の渦の中に巻き込まれる。とりわけ、ダナン陥落後、米国人記者らは一種の恐慌状態に陥っている。そんな集団心理の中に身を置いたら、こちらまで無用に浮き足立ちかねない。下町で周囲のベトナム人の表情や動向を観察しつつ、事態を眺めた方が、諸事適確な判断が下せるのではないか。
もっとも、いつまでも我を張って東京を刺激する気もなかった。そろそろ、身の安全に気を配らなければならぬ日が近づいていることも確かだ。とくに、北・革命政府側のロケット砲弾が始まったら、この、妻の家があるファングーラオ通り一帯は要注意地区である。すぐ先の国家警察本部を狙った流れ弾が降ってくる危険性が少なくない。
電話を切ったあと、しばらく考え、念のため記者だまりのひとつである市中心部のホテルに移ることにした。
「君にアパートをあげよう」
カラベル・ホテルに一部屋だけ空いていたのを予約した。そのあと、夕食をとりにファングーラオ通りに戻る。
朝出るとき注文しておいた通り、フエが大きなカニをゆでておいてくれる。
とりかかろうとした時、親しい記者仲間のK君が電話をかけてきた。外食に飽きたから、家庭料理を食わせろという。引き受けて受話器を置くと、また鳴った。チャン・バン・ド元外相からだ。長年の取材相手で、個人的にも敬愛している南政界の最長老である。
「よかったら引き受けてもらいたいことがある」
ちょっとあらたまった口調で前置きし、
「私はフランスへ去ることにしたよ」
元外相はいった。
「共産側に妥協の意思がないことはもう確実だ。チュー辞任は遅すぎた。共和国はもうだめだ。サイゴンは共産主義者に占領されるだろう。新しい時代が始まる。残念だが仕方がない」
沈んだ静かなくちぶりだった。
「私がどんなにベトナムを愛しているか、君は知っている。この土地を離れたくない。しかし、私も|年齢《とし》だ。わかるだろう。新たな体制に自分を適応させていくには、もう疲れ果てているんだ」
「わかります……」
「そこで、君、よかったら私のアパートに住みなさい。家具も全部残していくから、自由に使っていい。むろん、君が維持できなかったら勝手に処分してしまってかまわない」
思いがけない申し出に、返答に迷った。古いが広びろと住みよさそうな元外相のサロンを思い浮かべて心が動いたが、今さらどうも手にあまる“贈り物”だ。自分も、もういつまでサイゴンにいられるかわからない身であることを説明して、断った。
「それでは誰か他の人を探そう。どこかでまた会えることを楽しみにしているよ」
受話器を置いたあと、思いがけず深い寂しさに襲われた。
とうとう長老も国を捨てるのか――。「もう疲れた。静かに余生を送りたい」というド元外相の言葉には、心からの同情を覚えた。教授も、神父らも、野党も、中道派も、これまでチュー打倒をめざしてそれぞれ“画策”し“奔走”してきた。しかし、真に国のためを考えて大統領に辞任をせまる一方、野党間の反目を解消するためにいちばん泥まみれの努力を続けてきたのは、この老齢の政治家だったように私には思えた。
それにしても、赤の他人からいきなり「家をあげたい。よかったら引き取ってくれないか」などと頼まれることは、この先の生涯で二度とあるまい。
K記者がやってきて、カニを半分たいらげた。
「ドさんが亡命をきめたよ」
とだけ、私は告げた。相手も親しく元外相の家に出入りしていた。
「ほんとうかい?」
カニを食べる手をとめて黙り込んでいたが、しばらくしてそのドライな性格に似合わず、
「お爺さん、気の毒だな」
と、しんみりいった。
「オレもこの家から亡命するんだ」
食後、スーツケースに身の回り品をつめた。しばらくの間、部屋のすみに立って、すでに自分の生活の属性となったさまざまの家具や、ビュッフェの上の花びんに目をやった。おそらくもう生涯二度とこの部屋に住むことはあるまい。これまでの私の生涯でこれほど住み心地のよかった住まいは他になかった。
家の連中には、別れを告げなかった。まだサイゴンを去るわけではない。これからも、できるかぎり昼食とシエスタのために、ここに戻ってくるつもりだった。
九時前、外出禁止時間の開始ぎりぎりに、K君の車でカラベル・ホテルの玄関まで運んでもらう。
[#地付き]一九七五年四月二十五日
通貨暴落、人々は|金《きん》に群がる
昼前、金の延べ板をピアストル貨に換金しに、市場裏の貴金属店に行った。
先月末、サイゴンに着いてしばらくしてから、私は手持ちのピアストルの大半を金に換えた。ピアストル貨が超スピードで低落し始めていたからである。一部銀行の取り付け騒ぎが起きてから、ますますひどかった。前の日、三百万ピアストルだったダイヤモンドが、次の日には一千万ピアストルにハネ上がっていた。
一枚十六万ピアストルの延べ板を五枚買い、そのごずっと靴の底革に入れて持ち歩いた。それから一枚ずつ売り食いで暮らしてきた。ドルはまだ幾らかあったが、いざというときのために最後まで残して置かなければなるまい。
貴金属店は相変わらずの大繁盛だ。どの店も黒山の人だかりである。金持ちたちは夢中でピアストルを放出しようとしていた。帳場に座った女主人が、数人の女店員を中国語でさしずしながら小さな天秤で目方をはかり、テキパキと延べ板を売りさばいていく。帳場には紙幣が山積みとなり、ときおり小僧がでてきてスーツケースに無造作につめ込んでは店の奥に運んでいく。それにしても、中国人たちは今頃こんなにピアストルを買いあさってどうするつもりだろう。
靴の底に残った二枚を取り出して女店員にさし出した。
「売りですか?」
相手がびっくりしてたずねた。だれもが必死で買いあさりに出ているのに、どういうつもりなのか、といわんばかりの顔だ。
「一枚二十九万ピアストルです」
と、女主人がいい張る。
耳にしていた相場の半分以下である。こんなドサクサの中でも、やはりこの町の中国商人はガメツい。女主人は私の抗議に耳もかさず、五〇〇ピアストルの札束をドサリとカウンターに置いた。
シャツのボタンをはずし、胸や腹に札束をいれて、ネズミをのんだヘビのような格好で店を出た。
支局に戻って金庫に札束をおさめる。当分はこれで間に合うだろう。このまま、サイゴンが陥落すれば、ピアストルもドルも|反古《ほご》になるかもしれないが、そのときはそのときだ。
午後の仕事が始まるまでかなり時間があった。しばらく町のようすを見て歩いた。道路を走る車やモーターバイクの運転ぶりは、数日来やたらと乱暴になっている。歩道の人びとの表情もギスギスし、何かに追われるような、そのくせどこへ行ったらいいかわからぬようなせかせかした足どりである。もう、町全体が血相を変えている。気が沈んだ。つい何日か前までは、ほんのちょっと肩が触れあっただけで、必ず「シン・ロイ(失礼しました)」と詫び言葉を交していた“礼儀”の国の人びとが、何という変わりようだろう。
路地を抜け、いくつかの大通りを渡って町の喧騒から遠ざかり、高級住宅の建ち並ぶドアンチジェム街の火炎樹の並木道に出た。
サイゴンは今、一番暑く、一番美しい季節である。仏植民地時代の面影を伝えるヴィラの白壁や植込みは、南国の花々にいっそう明るくいろどられている。ブーゲンビリア、ハイビスカス、|夾竹桃《きようちくとう》――。
通りの突き当たり近くに、ひときわ荘麗な邸宅がある。日本電気製品の代理店を経営して巨財を築いたグエン・タン・ナム氏の自宅だ。十年前の金で七千万ピアストルしたと、評判だった。現在では想像もつかぬ額である。
オレンジ色の花をいっぱいつけた火炎樹の並木道を引き返した。正面の大統領官邸の、青々としたタマリンドの梢の向こうに、巨大な入道雲がそそり立っている。立ちどまり、サングラスをはずして、盛り上がっていく雲を見上げた。
「あの輝く入道雲の白さを見るだけでも、サイゴンに行く価値があるよ」
何代か前の特派員の言葉を思い出した。まったくその通りだ。この底抜けに澄んだ青空にこうも雄大に豪壮に立ちのぼっていく輝く雲の美しさは、ほんとうに比類がない。
明るく豪華な南国の住宅街にたたずみ、私はほんのしばらく、この国が今、“終末”に直面している事実を忘れた。
ホンタプトゥー通りに戻るとすぐ現実に引き戻された。何台もの軍用トラックが、憲兵隊のジープに前後を守られて、通りすぎていった。トラックの荷台には、汚れきった軍服をまとったうつろな目の兵士が鈴なりになっていた。ビエンホア方面からの敗走兵らしかった。何人かは、私の方を見て銃をふりかざし、おどすように何か叫んだ。
夕方、教授が支局に来た。
「君、もう知ってるだろうな。フォンは今日か明日、辞任する。後任はズオン・バン・ミン元将軍だ。万事、順調にいっている」
教授一派のカトリック強硬派はつい二、三日前までミン派やそれを支援するアンクアン寺派仏教徒を容共敗北主義者あつかいし、激しく軽蔑していたはずだ。ようやく穏健派とも手を結ぶ気になったのか。
「各派ともミン元将軍でまとまったのですか」
「そうだ。副大統領にはグエン・バン・フエン前上院議長が就任する。だが、わかっているだろう。二人とも飾り物だ」
庶民に人気があるミン元将軍と穏健派南部カトリックのフエン前議長をあて馬に押したてながら、実質的な主導権は強硬派の北部カトリックが握る、というのが、“万事好調”の筋書きというわけか。
「グエン・カオ・キ派はどう出ますか」
「あいつは最大限、利用しなければならない。今軍をまとめられるのはやつだけだ。本人もやる気だ。我々も軍を彼にまかせて時間稼ぎをする」
「ほんとうですか、ほんとうにキ将軍をかつぎ出すんですか」
驚いて教授の顔を見た。
つい数日前まで、教授は同じ北出身のカトリックながら、空軍パイロットあがりのキ将軍とその一派を「南ベトナムを米国に売り渡したゴロツキ」と、口をきわめて罵っていた。北・革命政府軍側も、ここでタカ派の暴れ者キ将軍が表舞台に再浮上すれば、情容赦なくサイゴンをつぶしにかかるだろう。
「もう悠長なことはいっていられない。利用できるやつは誰でも利用しなければならない」
私は最終的に絶望した。こんな形で強硬派が実権を握れば北・革命政府側に口実を与えるだけではないか。
「万事好調だ」
落ち着きなく膝をたたきながらくり返す教授の脂の浮き上がったたくましい顔を見つめながら、断じて万事好調であってはならぬと思った。ここで強硬派カトリックさえ主導権への野心を示さなければ、ミン元将軍には、まだ仏教徒大衆層の支持を取りつけて、南をまとめる可能性が残されるのではないか。そうすれば極端に劣勢ながらも停戦交渉へ持ち込むことも絶望的ではないはずだ。将来、共和国滅亡の責任が問われるとしたら、それはチュー大統領一人ではなく、結果的にはこうして最後の最後まで“ぶちこわし”をはかろうとしている偏狭な北出身カトリックもわかちもつべきだ、と、はっきり思った。
[#地付き]一九七五年四月二十六日
集中砲撃か、自壊待ちか
本社から、二回目の退去指示がくる。
「三十日に日航脱出機が出向くが、貴兄らはよく情勢に注意し、危険と判断したら、日航機を待たず退去されたし」
I記者と私は、昨夜、ホテルで遅い夕食を取りながら、この問題を話し合った。
首都周辺の戦況をたんねんに追っていたI記者は、近日中に首都へのロケット砲撃開始は必至とみている。
スアンロクを抜いた北・革命政府軍は、いよいよ本格的な首都包囲網の確立に乗り出し、国道十五号線沿い、首都から一番近いロンタンの町もすでに戦車隊に制圧されている。
「少なくとも数個師団が、大隊規模にわかれてサイゴン至近郊外に肉薄している。ビエンホアは、もうあと一日か二日で完全に包囲される。オレの得た情報では、タンソンニュット空港も、もう確実に一三〇ミリ砲の射程内に入っているはずだ」
話している間も、三〇キロほど東北のビエンホア方面から、ときおり砲声が風に乗って聞こえてきた。
「オレは二、三日前までは、スアンロク制圧後、北・革命軍側が一息ついて部隊を再編成してから、ジワジワとサイゴンを包み込んでくると思っていた。ところが、どうもようすがおかしい。ほんとうにこのまま突っ込んでくるつもりかもしれないぞ」とI記者は続けた。
「政府側はいよいよ瀬戸際防衛というわけか。でも、いざとなれば、首都防衛の空挺隊が少しは働くだろう」
「ダメ、ダメ。空挺の主力はもうスアンロク敗戦で潰滅しちまった。サイゴンは事実上、丸腰だよ」
「問題は、連中が最後のツメをどう進めるかということだな」
「突入戦か、兵糧攻めか、それとも撹乱砲撃による自壊待ちか」
「その最後の可能性がいちばん大きいんじゃないか。もうここまで追いつめているんだから、集中砲撃や突入戦で無用な血は流すまい」
「たぶんそうだろう。ここでサイゴンをぶっこわしちまったら、連中も占領したあとで大変な負担をかかえこむことになるからな。しかし、政府側の出方しだいでは集中砲撃も辞さない構えらしいぞ」
I記者はいった。
「いちばん嫌なのは、自壊の過程で政府軍兵士が暴徒化することだな。第二のダナンだ。となると、オレたち外国人がまっさきに血祭りにあげられかねない。外人記者連中も皆それを怖れている」
「それに、タンソンニュットへの砲撃だ。あそこにひとまとめに撃ち込まれたら、君、完全に出口無しだぜ」
「うん、しかし、タンソンニュットは遅かれ早かれ必ずやられる。やはり、ほんとうにこっちも撤退の用意をしなければならないのかな」
「うーん」
彼はとっくにぬるくなったコーヒーを一口飲んで腕を組んだ。
サイゴン残留を選択
夜遅くまで話し合った末、結局、I記者は予定通り二十七日の便でいったんシンガポールに出、私はさらに数日間、ここでようすを見ることにした。数日前に、本社から緊急避難命令を受けた姉妹社フジ・テレビジョンのO記者が、私たちより五日後の五月二日のバンコク便の座席を確保していた。ホテルから電話でO記者に切符の交換を申し入れた。フジ・テレビはすでにこの戦争で二人を失っている。首都攻撃の危機が迫った今、本社は極度に神経質になっていた。その本社から連日「もたもたするな」とせかされていたO記者は即座に承知した。
今日午前中、切符の名義変更に日航事務所に出かけた。シンガポール航空が、今朝からストップし、これですべての外国航空会社がサイゴン立ち寄りを中止したことを知った。
事務所を出て、変わらぬ炎天の下をサイゴン川にそって支局の方に歩きながら私の新たな出国予定日である五月二日までタンソンニュット空港は絶対にもつまい、と奇妙な確信をいだいた。日航が日本人脱出用の専用機をさし向ける可能性はゼロに近い。すでに現時点でも、サイゴン上空の飛行は危険が多すぎる。
おそらくこれで選択の余地はなくなった。私はここに残る。結局のところ、最初から自分自身が、それを望んでいた。
途中、大使館に寄ってみた。領事部の坪井事務官が顔を見るなり、
「おい、お前も逃げるのか。日航組か」
と、どなりつけるようにたずねた。
大使館員も皆、日航機での引き揚げがきまったと聞いたが、坪井事務官は旧仏印進駐時代の日本兵の一人である。日本の敗戦と同時にいったん帰国したが、すぐベトナムに戻り、すでにこの国になかば同化している。現状では脱出を志しても、妻子がベトナム国籍なので、生き別れを覚悟しないと、日航機利用は法的に困難らしい。
「安心しろよ。坪さん、どうせ日航機はこないよ」
「いや、来るなら勝手に来い。お前らもみんなとっとと帰れ」
目を怒らせていった。それから、私に向かって腹を立てたのが自分でもおかしくなったのか、ニヤニヤ笑い出した。
支局に戻ると、いつもこの時間は解放放送の翻訳に追われているミセス・フンの姿が見えない。そういえば、今朝も出勤していなかった。
「やっぱり、彼女、行ってしまった」
O記者がいった。
ミセス・フンは、昨夜遅く支局に来て、夫と赤ん坊といっしょにメコン・デルタの海岸までバスを乗りついで行き、漁船で沖待ちの船に逃げるという計画を、打ち明けたという。
「バスでか?」
おどろいて聞きかえした。
メコン・デルタに通じる国道四号線は、もう戦場となっているはずだ。
「ボクも、かえって危険だからやめろ、とずいぶんとめたんだがなあ」
と、O記者は悲しげに首をふった。
何日か前の昼過ぎ、実家をたずねてきた見知らぬ若夫婦のことを思い出した。細君の方は、私の知り合いのベトナム人の妹だと名乗った。大使館を動かして、自分たちのために日本のパスポートを取ってくれ、と食い下がられた。とてもそんなことは無理だ。「あなたに断られたら、私たちはもう弾丸の中を車でブンタオまで走って、漁船で逃げる以外ない。お願いです。なんとかして下さい。生きるか死ぬかの問題なんです」
一時間以上も夫婦に泣かれ、ほんとうに弱った。あの夫婦も結局、生命の危険をおかして脱出したのだろうか。
町の上層階級のパニックはもう頂点に近い。他の記者仲間も、情報省の幹部や、ときには顔見知りていどのベトナム人にすがりつかれて、往生していた。
夕方、町で会ったベトナム人記者から、フォン大統領がミン元将軍への大統領権限の委譲に予想外の難色を示している、と知らされる。
「今さらどういう気だ。老いの一徹か?」
「いや、議員連中が、フォン爺さんにくっついていれば、ドタン場で米国が脱出機に乗せてくれるだろうと、爺さんの留任を強硬に主張しているらしい。今、議会は大モメだ」
いまいましげにいった。
「情けない話だ。今晩あたりロケットが降るかもしれないから注意しろよ」
いい残して、議会の方へ足早に引き返していった。
あてもなく、市場の前まで歩いた。屋台の一つに腰かけて、氷アズキにトコロテンをまぶしたような飲み物を飲んだ。名前はいつまでたっても覚えられないが、冷たく固いトコロテンの喉ざわりがよく、以前は妻と散歩のたびにここで飲んだ。妻からは東京無事到着の電報が入っただけだ。まあなんとかやっているだろう。
周囲の屋台は、いつもと変わらぬおしゃべりと食いしん坊の時間である。
人びとはまったく、ふだんの調子でソバをすすり、オヤツを物色し、悠々と談笑に興じている。一方では極度のパニック、その半面でこの平然としたひととき。なんともチグハグでわけがわからない。人間の慣性とは案外しぶといものなのか。それにしても、避けられぬ破局を目前にしてのこのあまりにも日常的な眼前の光景は、何か調和を欠いた夢の一場面のように思えた。もっとも、考えてみれば自分も今その日常的群衆の一人として、こうして悠々とトコロテンの喉ざわりを楽しんでいる。悲壮がったり深刻がったりする資格はないのかもしれない。
[#地付き]一九七五年四月二十七日
記者団、続々と出国
まっ青な空と、輝く入道雲で一日が明ける。
午前九時前。タムの車がホテルにI記者とO記者を迎えにきた。部屋を出る前、ベトナム航空事務所に電話を入れると、シンガポール便は、定刻に飛ぶとのこと。何組かの外国報道陣も同じ便で退去するらしい。ホテルの玄関先は、トランクや機材をかついだ連中でにぎやかだった。
一番陽気なのは、スペイン人の記者団だ。すぐそばのツゾー通りのベトナム民芸品店に、ウルシ細工の土産物を買いに走ったり、タバコ売りの娘をからかったり、まるで休暇先から帰るようなはしゃぎようである。
なかの、カストロひげの小男に見覚えがあった。数日前、私がテレックス・センターで東京と交信しているとき、頭から湯気を立ててどなり込んできた男である。ディエゴ・ガルシア経由で送った原稿が、一本も本社に届いていないとかで、私をオペレーターと勘違いして、無茶苦茶なフランス語で食ってかかってきた。相手をなだめ、横でニヤニヤ笑っていたほんもののオペレーターの女の子にわけを話すと、部厚いファイルの下の方から何枚かの原稿を取り出して、
「ああ、これね。まだ順番が回ってきません」
すましていった。いくら混んでいても、何日間もほっておくとはひどい。スペイン記者に同情したが、
「サイゴンからの送稿は、“コーヒー代”と忍耐力の勝負だ。君も今後彼女(オペレーター)のご機嫌を取り、送稿を自分の目で確かめるまでここでねばっていろ」
と、忠告してやった。
「そんな馬鹿なことがあるか。オレはこれでクビだ」
どうやらクビはまぬがれたらしく、今朝のカストロひげは、仲間に劣らず上機嫌だ。
「無理するなよ。危なくなったらとにかく逃げろ」
何回も心配そうに念を押して、I記者らは車に乗り込んだ。私が国を出るようになったら、落ち合う先はバンコク支局にしようと申し合わせた。
ロケット砲撃開始
二人が出発したあと、ツゾー通りのカフェに朝食をとりにいくと、河岸の方から知り合いの米国人カメラマンがやってきた。
「見たか。一発でめちゃくちゃだ」
日焼けした顔が蒼ざめている。
河畔のマジェスチック・ホテルにロケット砲弾が命中し、六階の食堂がやられたという。
「いつ落ちたんだ」
「明け方四時頃だ。なんだお前、あのものすごい音に気が付かなかったのか」
相手は呆れた顔をした。私の方は、雨期入り時に、きまって訪れる不眠症の周期に入っていた。前夜、睡眠薬を飲んで寝たので騒ぎに気付かなかったのだろう。
朝食を後まわしにして、七〇〇メートルほど先のマジェスチック・ホテルに行ってみる。フランス植民地時代からの最も格式高い堅牢なホテルである。
玄関口で警官が三人ピケをはっていたが、「バオチ(新聞)だ」と告げると、すぐ中に入れてくれた。エレベーターは動いていた。六階でおり、短い廊下を通って食堂に行き、目を疑った。広い室内は完全にぶざまなガラクタの物置きだ。川向こうから飛んできて、屋根を直撃したらしい。天井が半分ほど、内側にまくれ、広い青空がのぞいている。壁板ははがれ落ち、イスもテーブルもクズ鉄のようにひしゃげて、部屋の四隅になぎとばされていた。
床一面につもった窓ガラスやカワラの破片に気をつけながら、米国テレビの連中がカメラを回している。奥の調理場をのぞくと、ここも爆風で食器が一つ残らずこわれ、ナベやフライパンが床に飛び散り、手のつけようもないありさまだ。ロケット砲撃の被害現場には、これまでに何回も行ったが、こんなに見事な命中ぶりは初めて見た。まったくおそるべき破壊力だ。
部屋の片隅で警官が一人ポツンと現場を見張っているだけで、ボーイや支配人の姿は見当たらない。
「ガルソン(ボーイ)が一人死んだよ。運が悪かったんだな」
警官は肩をすくめた。
玄関におりると、ピケを張っていた警官の一人が、市場と国家警察本部のそばにも落ちて死人が出た、と教えてくれた。
来合わせたK社の車に同乗して、国警本部付近のコンクィン通りの現場に行く。曲がりくねった路地の奥の庶民街の一角も、息をのむ惨状ぶりだ。たった二発で二〇〇メートル四方が廃墟と化している。
「何人死者がでた?」
泣きながらガレキを押しのけ、ケガ人や家財道具をさがす人々にたずねたが、
「病院に運んだ」
「たくさん死んだ」
「寝ていたらドカーンときたんだ」
とりとめのない返事がかえってくるだけだった。
こんな凄い砲撃が十日も続けば、町中が恐怖で狂い出すのではないか――。
航空券を交換してまで、なぜ残る気になったのか。とんでもない馬鹿をしたのではないか。今朝出国した二人は、今頃まっ青なシャム湾を見下ろしながら、冷房のきいた座席で、機内食を楽しんでいるだろう。雨期入りどき特有のたえられぬムシ暑さの中で、ガレキの山を見つめながら、はじめて、生理的な恐怖感を味わった。ほんとうにもしかしたら事態を甘く見すぎたのかもしれない。だが、今さら考え込んでもはじまるまい。
支局へ戻り、タイプをたたき始めると、気が落ち着いた。
やはり、私は見たかった。今、まちがいなく一つの国の崩壊が目前に迫っている。多少の危険はあっても、絶対にそれを見とどけてやろう。
夕方、国営ベトナム通信に電話をいれ、次長をつかまえてミン元将軍へ大統領委譲問題についてたずねる。
「なんとか片がついた。議会は全員一致で将軍を大統領に推薦した」
どうせこれ以外に道はなかったのだからフォン氏はさっさと降りればよかったのだ。
「もたつきすぎたな。また今晩あたり、撃ち込まれるだろう」
「同感だ。遅すぎた」
次長も答えた。
夜、砲音がまた一段とせまる。ホテルのベッドから赤々とこげるビエンホア方面の空を見ながら「一つの国の崩壊に立ち会うことができれば、新聞記者|冥利《みようり》だ」と、何回も自分にいいきかせ、再びふくれ上がってくる不安感を押えた。
[#地付き]一九七五年四月二十八日
私たちはどうなるんですかね
きょうも快晴。雨期入りどきは、かえって空が青い。
時おり郊外から響く爆発音をのぞけば、きのうよりも静かに一日がはじまった。
早朝、ホテルに電話がかかってきた。テレックス・センターからである。オペレーターの女の子が、
「ミスター・コンドウ? 東京からメッセージが来てるわ。アージェント(緊急)よ」
“コーヒー代”さえ欠かさなければ、彼女は、私がどこに潜伏していようと必ずさがしだして連絡してくれるだろう。
メッセージは、
「三十日予定の日航機を待たずに、その他の民間機、米軍機などあらゆる方法をさがして、即時避難せよ。切符が無くても空港でキャンセル待ちを試みよ」
ごていねいに「編集局長厳命」とある。
冗談じゃない、この暑いのに空港にムダ足を踏めるものか。だいいち、日本人記者の大半はまだ残留している。これだけこの戦争について書きたい放題書いてきて、その最終段階に一人も特派員が居合わせなかったら、新聞社の恥さらしではないか。紙切れに、
「了解。万一のさいは記者団の大多数と同一歩調を取るから安心されたし」
と、ローマ字で書いて、オペレーターに東京への打電をたのんだ。
その足で、市場のそばの仕立屋に背広を取りにいった。先月の末に来てすぐ注文したのだが、すっかり忘れてしまっていた。仕立屋の親爺は、大喜びだった。てっきり私が国外退去してしまったものと思っていたらしい。支払いを済ませたあとも相手は何か話したそうだった。ソファーに腰をおろし、親爺がすすめてくれたお茶を飲んだ。
「旦那は脱出しないんですかネ。日本人もアメリカ人も殆んど出国したと聞きましたよ」
相手もお茶をすすりながらいった。
「逃げようにも、もう方法がないよ」
「日本はアメリカのように軍艦をよこさないんですかい」
「来ない。日本では憲法が軍隊を国外に送ることを禁止しているんだよ」
「へえ、憲法がねえ、そりゃまた不都合なことで。いったいどういうわけです」
「何、結構なことさ。そうしないと、また日本軍がここまで攻め込んでくるようなことになるかもしれない」
平和憲法の意味を説明したが、親爺が納得したかどうかはわからない。
「親爺さんは北出身だろ。日本軍の占領時代を覚えてるでしょう」
「ええ、まあね」
相手は言葉を濁した。一般に南の人は日本軍に対し好意的な思い出を持っているが、北の人はそうではない。日本軍占領時代に、無茶な食糧調達のおかげで、米がなくなり二百万人ともいわれる餓死者が出た恨みを忘れていないからだ。親しくしていた北出身の知識人の中には、この大量餓死事件はあながち日本軍だけの責任ではないと、いってくれるものもいたが、それでもサイゴン駐在の日本軍に比べ、ハノイにいた日本軍がはるかに、“暴政”を敷いたことは事実らしい。
「あたしたち北避難民は、共産軍が来たらどうなるんでしょうねえ」
お茶をつぎたしながら、親爺がタメ息をつく。
「外国軍に占領されるよりましだろう。まあ、そうひどいことはするまいよ」
だが、心の中では、これまで南へ逃げてうまい汁をすってきた北避難民の多くにとっては、辛い時代が始まるだろうと思った。
いつか国営ベトナム通信社のグエン・ベト・カン元編集長が、口をきわめて北避難民をののしったことを思い出した。
「南ベトナムをこんな国にした責任は北からきた連中にもありますよ。皆、気ちがいのように反共主義を唱えているが、連中はイデオロギーなんかおかまいなしなんです。ただ、楽をしたい、おいしい物を食べたいという理由で生まれ故郷を捨てた人たちです。わかるでしょう。南にきている避難民から北ベトナム人を判断してはいけませんよ、今サイゴンで羽振りをきかしている北避難民の多くは北でもクズだった連中です」
カン元編集長自身も北出身者だが、彼は避難民ではない。五四年のジュネーブ協定よりずっと以前に、ハノイのベトナム通信のサイゴン特派員として南に赴任し、そのまま居ついた組である。それだけに、北出身者への目は厳しかったのかもしれない。
何杯かお茶をごちそうになったあと、仕立屋の親爺に別れを告げた。
最後の交渉努力、望み絶たれる
午後のあいだ、ベトナム通信社で過ごす。次長はますます憂鬱そうだった。
「みてくれ。なんだってオレにこんな役を押しつけるんだ」
一枚の封筒をさしだした。
『都合により国を去る。みんなによろしく。あとはいっさい君に頼む』
簡単な走り書きで、差し出し人は、同通信社のグエン・ゴク・ビン社長だ。
「二、三日姿を見せないと思ったら、今日、使いの者がこの手紙を届けてきた。やっこさん、今頃アメリカだろう」
次長はもう一度手紙の文字に目を走らせ、それから細々に破ってテラスから捨てた。
私たちは一階の編集局に降りた。ふだんは声高の論争やタイプの音で活気にみちている広い室内は、ほとんどガランドウである。処分し切れなかった書類が床に散乱している。
三時過ぎ、窓の向こうの大統領官邸に車が集まりはじめた。国営テレビの中継車もやってきた。ミン新大統領の就任式が始まるらしい。
少し遅れて、懇意にしている若手の野党政治家ホー・バン・ミン議員が、水色の日本製小型車を運転して、目の前の通用門から官邸内に入っていった。うやうやしく鉄柵の門を開く衛兵らの態度に、あらためてこの国の“中身”の変化を感じさせられた。つい何日か前まで、これら野党政治家らは官邸警備の下士官にまで居丈高にあしらわれていた。
しかし、官邸に集まった車の大半は、チュー大統領が最後の会議をくりかえしていた頃とくらべると、めだって型式も古く、みすぼらしい。羽振りをきかせていた大物たちは、すでにビン社長同様、国外に逃げてしまったのか。いま官邸につめかけているのは、政治経験が浅い若手か、チュー体制から遠ざけられていたカビのはえたような老人たちだ。この極度の混乱の中でこうした人々が、崩壊途上の国を支えるにたる権力機構を樹立することは、はためにも至難のわざと見ていい。
就任式に先立ち、ミン新大統領は、臨時革命政府側に「就任と同時に停戦交渉に入る」ことを提案している。この呼びかけは、七三年一月のパリ協定にもとづいてタンソンニュット空軍基地内に駐留する臨時革命政府軍事代表団に対して行なわれた。協定は事実上、無効であり、その結果、南ベトナムはこうして最後のドタン場まで追いつめられたのだが、二百人余りの軍事代表団はいぜんとして敵陣のど真中に腰をすえ、場合によっては友軍の砲弾のエジキになる覚悟もきめているようだ。南政府も最後までこの二百人余りには手を出そうとしなかった。鉄条網内の宿舎にこもる代表団が、最後の直接交渉の窓口であることを知っていたからだろう。
やがて残り少ない記者のうち何人かがカメラを持って編集局を出ていった。
「遅すぎた。遅すぎたよ」
次長は、くり返しながら、落ち着かない態度で室内を歩き回っている。ときおり、窓際に立ちどまって官邸のようすをじっとうかがった。
何回目かに私たちが窓際に歩み寄った時、突然、大粒の雨が道路やテラスをたたき始めた。あっというまに黒雲と雷鳴が空を覆い、ものすごい土砂降りとなった。雨期のはしりの初めてのシャワーだ。水煙にかすむ官邸の庭で、運転手や警備の警官らが木陰を求めて右へ左へ逃げまどっている。
「うってつけの演出だな。ますます縁起でもない」
暗黒の空を縦横に切り裂いて走る稲妻を目で追いながら、次長はヤケになってタバコを踏みつぶした。
官邸に出向いた車中から電話が入った。次長がつかみ取るようにして受話器を耳に当てる。二言、三言どなった。数人の記者が忙しくダイヤルを回し、電話取材を始めた。大統領の就任式が終わったようだ。
電話をかけ終えた一人が次長に近づいて黙ってメモを渡した。目を通した次長の顔がみるみる蒼白になるのがわかった。記者の説明で、タンソンニュット基地の革命政府代表が、公式にミン新大統領の「停戦呼びかけ」を拒否したことを知った。
「万事休すだ」
と、次長がつぶやいた。
革命軍機、首都を空襲
夕立ちの晴れ間を待って、重い足取りでテレックス・センターからホテルの方へ戻った。
市役所前の噴水のそばまできた時、上空を爆音がおおった。エンジンの回転数を落とし、抑えつけたような妙な音だ。いきなり町中が対空砲火音に包まれた。一機のA37戦闘機が市役所の真上の空を市場の方へすべるように飛び去るのが見えた。続いてまた一機がグライダーのように機体を傾かせ僚機に続く。三機目は少し離れた大統領官邸上空で急旋回し、高度をさらに下げ、一直線に私たちの方へ突っ込んできた。
町はたちまち大混乱に陥った。人々は、叫び、どなり、悲鳴をあげ、四方八方へ逃げ走る。クラクションがけたたましく響き、信号も無視し猛スピードでのがれようとする車にはじき飛ばされるように、自転車やモーターバイクがおりかさなって転倒する。道路に投げ出された人々は、血相を変えてビルの入口や、手近かな並木の幹に身を隠した。
私も、人混みにもまれながら五〇メートルほど夢中で走り、手近かなカフェに飛び込んだ。
空襲――だが、いったい誰が。
目にしたのは、たしかに政府空軍の旧式戦闘機だった。グエン・カオ・キ将軍配下の空軍タカ派が、北・革命政府軍との妥協をめざすミン新大統領に対してクーデターに出たのか。キ将軍は、チュー辞任後、全権の掌握をはかったが、米大使館の支持をとりつけられず、極度にいらだっている、と聞いた。つい三日前、郊外のロクフン教会に強硬派カトリックのシンパを集めて、
「徹底抗戦以外ない。サイゴンを第二のスターリングラードにするのだ。私も諸君と留まり、最後の銃弾が尽きるまで闘う」
と、勇ましくアジったばかりだ。
辞任したチュー大統領とその側近らは、同じ日の夜、米軍機でひそかに国外に脱出した。
いずれにしろ、南部仏教徒勢力の領袖ミン新大統領の軟弱姿勢に、キ将軍一派が腹をすえかねていることは間違いない。
それにしても、こんな時期にクーデターとは――|鎧戸《よろいど》を降ろした店内にスシづめになって身をひそめながら、私は息を殺して待った。
タンソンニュット空港の方角からズシン、ズシンと鈍い爆発音が響いてくる。空軍の馬鹿共がヤケになって残存機の自爆に出ているのか。もしかしたら本気でサイゴン中心部まで廃墟の要塞にしてしまうつもりかもしれない。
五回、六回と上空をジェット機が横切る音がした。そのたびに壁ぎわに押しつけられたウエイトレスたちが、金切り声を上げる。私はいかにも薄っぺらなカフェの天井を見上げた。先日目撃した大統領官邸爆撃の光景を思い出した。急降下機の腹から、妙にゆっくりと官邸の木立ちの中に落ちていった、あの二個の黒いサカナの姿が目にはっきりとよみがえった。あの調子で、ここに一発直撃を食らったら、全員こま切れになって吹っ飛んでしまうだろう。
こんなところでやられてたまるか――恐怖、というより、むしろ目がくらむような怒りに似た感情にかられた。
周囲の連中を押しのけて入口に近づき、ボーイが何かわめくのもかまわず鎧戸を押しあけて、表に飛び出した。サイゴン川の方から小銃の乱射音が響き、弾丸が付近の建物の壁にビシッ、ビシッと当たる。
銃声の合い間を見て、すぐ向かいのキオスクに突進した。
「馬鹿! 動くな」
キオスクの壁にぴったり身を寄せてうずくまっていた二人のフランス人が、口々に怒鳴る。
こんなところにウロウロしているのはかえって危険だ。呼吸を整え、そのまま、銃声の中を二〇〇メートルほど離れたホテルめがけて一散に走った。こんな目にあうと知っていれば、暇な時に、ほふく前進の練習でもしておけばよかった。
この空襲はグエン・カオ・キ派の反乱ではなかったらしい。だいぶ後になって、北・革命政府軍によるサイゴン側への初の、“空からの警告”であったことが発表された。
発表によると、空襲を指揮したのは、先日、大統領官邸を爆撃したパイロットと同一人物だそうだ。長く政府空軍将校になりすましていた工作分子だという。その彼が、ダナン方面で捕獲した政府軍機で編隊を組み、奇襲空爆に出た。この空爆で北・革命政府軍は、タンソンニュット空港の政府軍機十数機を破壊した。
夜八時。騒ぎは静まったが、タンソンニュットの爆発音はまだ続いている。町でもときおり散発的に発砲音がした。ようやく空襲騒ぎの原稿をタイプし、テレックス・センターまで走った。
空襲と同時に布告された全面外出禁止令のため、記者は誰も来ていない。すぐ東京がつながった。東京も通信社電で入った突然の空襲騒ぎの一報に、よほど驚いたらしい。
「情勢はどうか、命に危険はないか」
と、まず打ってきた。
原稿を打ち込んだうえで、
「何がなんだかわからぬ、とにかく混乱の極。まだ爆発と発砲が続いている。サイゴンはまさに末期的症状にあり」
と打ち返した。
「三十日予定の日航脱出機の出発はあやしくなった。したがって貴兄は、現在をもってそちらの業務を停止し、脱出に万全を尽くせ。以上、絶対社命」
先日の編集局長厳命から絶対社命へ、もうひとつエスカレートしている。次はどういう表現を使う気か、と、ちょっとおかしくなったが、万一のさいは、残留記者団と同一歩調を取る、との“誓約”を重ねて打ち返した。
「とにかく小生も命あってのものだね。安全には万全を尽くすから安心されたし」
「無茶して、死ぬな」
「絶対死なぬ。かさねて安心乞う」
実際、流れ弾などに当たったら、歴史の転換をこの目で見られない。ケガなんかしてたまるか。
[#地付き]一九七五年四月二十九日
空港炎上
ホテルの窓を揺るがす爆発音に目を覚ました。ガラスが赤々と染まっている。カーテンを開くと、六キロほど先のタンソンニュット空港が炎上していた。次々と砲弾が撃ち込まれる。ロケット砲か。それにしては照準が正確すぎる。一三〇ミリ砲だろう。
とうとうきたか――。
一発落ちるたびに金色の閃光が家並みの影を浮き上がらせ、鈍く力強い爆発音が響いてくる。
ときおり、着弾と同時に巨大な炎が入道雲のように盛り上がる。格納庫か、弾薬庫に命中したのだろう。そのたびに、衝撃波で窓ガラスが不気味な音をたてる。破片にやられてはたまらぬのでいったんトイレへ避難した。だが、暗闇の中でフタをした便器に腰かけているうちに馬鹿馬鹿しくなり、また窓際に出た。どうせやられるなら、臭いところよりこうして亡びる町を見降しながら死ぬ方がましだ、などと考えた。
あらかじめぴったりと照準を合わせての集中砲撃であることは明らかだ。弾丸はいずれもトレーサーをつけていないので、どの方向から撃ち込まれているのかわからない。それがいちばん気味が悪かった。川向こうからこのホテル越しに撃ち込んでいる可能性が強いのだが、上空を巨弾が横切る物音は聞きとれなかった。
三十八発まで数えた時、激しくドアをたたく音がした。足早に近寄り、内錠を外す。黒いナイトガウンを羽織った中年の女性が飛び込んできた。いきなり、私の手をつかみ、
「来てください、早く来てください」
泣き出しそうな顔でいう。
隣室のフランス女性であることに気がついた。
「どうしたんです?」
「子供が恐がってひきつけを起こしたの。いっしょに下の防空壕に行ってください」
このホテルに防空壕があるのかどうか知らないが、少なくともここより階下の方が安全だろう。大あわてで、はだけたパジャマの上からコレスポンデント・スーツを着た。
部屋には、ナイト・ランプがともしてあった。肘掛け椅子の背に、見覚えのある、水玉もようのブラウスと白いパンタロンがかけてあった。昼間、この胸の大きく切れ込んだブラウスを着て、足早にロビーを出入りする彼女の姿は二十歳代に見えたのだが。
ベッドで四、五歳の子供が、顔をクシャクシャにして体をそっくり返していた。
「早く下へ運ばなければ。手伝って」
私は両手で子供を持ち上げた。
「心配するな、恐くないよ」
あやしながら廊下へ出た。女性はガウンの帯をしめなおし、その上に薄いピンクのレインコートを引っかけて後を追ってきた。
「エレベーターは危ない。階段を使いましょう」
案外重い子どもで、三階あたりまで来たら息が切れはじめた。
いったいこの女性は何歳ぐらいなのか、とあらためて彼女を見た。なぜ、こんな時に子どもと二人だけでここに滞在しているのだろう。ダナンが落ちて以来、地方から逃げ上ってきた連中でサイゴンのフランス人の数がめだってふえていたのは事実だが。
「国を出るのはちょっとむずかしくなりましたね。あれだけやられたら空港は使いものにならない」
「もうここにいるのはまっぴら。夜が明けたら、大使館に行きます」
彼女はコートの襟をかき合わせた。
ロビーにはもう大勢集まっていた。ほとんどがパジャマやガウン姿である。みんなつとめて快活にしゃべりながら不安をまぎらわせているようにみえた。記者連中も何人かいる。
仲よくしていた初老のボーイを見つけ、坊やを静かなところへ寝かせてやるようにいった。ひきつけはおさまっている。女性はボーイに導かれて支配人室に姿を消した。
六階の部屋に戻る。砲声は間欠的になったが、二次爆発の音はまだ絶え間なく続いている。肘掛け椅子を窓際に引っぱり出し、炎上する空港を見ながら暗い中でたて続けにタバコを吸った。さっきの集中砲撃の見事さに、あらためて舌を巻いた。これで唯一の脱出口が、封鎖された。
「完全に退路が断たれた」――と、思うとかえって気分が落ち着いた。何本目かのタバコをモミ消し、明け方まで残り少ない時間をふたたび熟睡した。
これが最後の朝食か
明け方のタンソンニュット空港の砲撃騒ぎで、本格的に眠りについたのは午前五時過ぎか。ぐっすり眠り、九時半に目を覚ました。空は今日もいやになるほど明るく、青く澄み切っている。ホテル五階の窓を開けると、ムッとするような舗装道路の照り返しが部屋の冷気を追い払う。
屋上のレストラン。客はほかに誰もいない。クロワッサン三個とハムエッグ二人前を平らげた。昨日の昼から何も食べていなかったことに気がついた。昨日の午後、ベトナム通信社でズオン・バン・ミン政権に最後の期待をかけながら過ごした数時間、北・革命政府側の「停戦交渉」拒否、正体不明機のサイゴン空襲、そして空港への猛砲撃――と、胃袋の存在など忘れるほど、あわただしく気の張りつめた十数時間だった。
しかし、この高級ホテルのレストランは、そんな外界の末期的混乱とはまったく無縁の別世界である。純白のテーブルクロスに覆われた食卓には花が飾られ、白服に黒ネクタイのボーイたちが、客もいないのにたんねんにフォークやナイフの位置を整えている。太った初老のベトナム人のボーイ長がデザートのメニューを差し出す。
「空港が壊された。もうサイゴンは袋のネズミだな」
まだ余じんくすぶるタンソンニュットの空を指さすと、
「はあ、そのようで。これで終わりですな」
平然と応じる。といって、彼は別に革命政府のシンパでもなさそうである。混乱絶えぬ世を、仏植民地時代から高級ホテルのボーイ一筋に生きぬいてきた男ならではの、したたかな|腰の座わり《ヽヽヽヽヽ》が感じられた。
たいした男だ。相手の日焼けした立派な顔から空港の黒煙に再度目を移しながら、私の方は、
「もしかしたら、これがオレの最後の朝食になるのか」
などと考える。
「アメリカの記者さんたちは、今朝になって急にあたふたとヘリコプターでおたちになりました。みなさん、昨晩まではバーでウイスキーを飲んで、はしゃいでおられたのですがネ」
にこりともせずにいった。
その口ぶりからも、彼は明らかに米国人を小馬鹿にしているようだ。この国の人々の一般的傾向でもある。
庶民層もあからさまに米国人の悪口をいうが、上流階級、あるいは上流階級との接触の多いベトナム人の対米蔑視は、彼らの対仏崇拝(彼ら自身はなかなかそれを自ら認めようとしないが)を裏返しにした感情に見受けられる。
第二次インドシナ戦争は、ベトナムから旧宗主国フランスの影を薄めたといわれるが、それはあくまで表面的な現象といっていい。フランス、米国の両国がこの国の国土と人心にしるした影響は、次元もケタも違う。
よきにつけ、悪しきにつけ、ベトナム人の“フランス志向”は、なかば体質化している。少なくとも私の目にはそう映る。米国の荒けずりな介入法が、理屈抜きで旧宗主国への郷愁を助長した面もあるだろう。
とくに、フランスへの愛着は、植民地時代に比較的“優遇”されたコーチシナ(南部)の人士(地主・地方名士)らの家族に根強い。メコン・デルタ地方の田舎を訪れた時、南宋画から抜け出してきたような枯淡な老農夫が、サビついたフランス語で、
「ワシはパリを知ってる。マロック(モロッコ)でも仏軍兵として戦ったもんだ」
と、いかにも誇らしげにいった。
米軍全盛時代の南ベトナムでも、フランス系資本は、広大なゴム園、清涼飲料、製氷、ガレージ部門をほぼ独占し、金融方面でも枝を張り続けた。巧妙に、そして忍耐強く“嵐”が去るのを待っていたフランスは、一九七三年一月のパリ協定調印後すぐ南ベトナムとの国交を正常化し、各種援助を注ぎながら、露骨なまでの経済復帰策を推し進めた。調印後もまだ戦闘が続いているにもかかわらず、ゴム園主らがいっせいに、荒廃した園に若木を植えはじめたのには驚かされた。利権確保への“息の長さ”も違うのだ。
越仏混血者のなかには、社会的に重要な地位を占めている連中も少なくない。
だが、おそらく真に重要なのは、こうした“血の混入”や、言語の普及、津々浦々にまで定着し、日常化したバゲット(棒パン)やフィルター式コーヒーなど、物理的側面ではあるまい。フランス返り咲きの最大の武器は、やはり、このベトナム人の“フランス志向”のメンタリティーだろう。
たとえば、“生きる喜び”の重視、“洗練され”、“シックであること”への志向、そして、なにかと個人主義的な発想法。いずれも、豊かな風土が形成した南ベトナム生来の国民性でもあるのだろう。同時に仏植民地統治がそれに輪をかけたことも、まちがいあるまい。
政治的には、このメンタリティーは明らかにマイナスの面を発揮している。ツェン議員が悠然と認めたように、与野党を問わず、サイゴン政界はとかく、“批評家”の集まりである。理路整然、弁舌さわやかに、政敵への批判をまくしたてる。こんな具合だから、与党も野党も各宗教勢力も、それぞれ“共産主義者”を恐れながら、最後まで力を結集できず、とうとうこうしてドタン場に追いつめられる羽目になってしまった。ドゴール以前のフランス共和国のていたらくと、似通っている。フランス人と南ベトナム人の間には、先天的に共通した側面があるように思えてならない。
サイゴンが、“東洋のパリ”と呼ばれた所以も、単にその並木道や家並みの美しさだけではあるまい。
ホテルを出ると、下界には、ボーイ長の落ち着きはなかった。“東洋のパリ”の高級商店街ツゾー通りも、庶民街並みの悪臭に包まれている。ゴミ回収車が回ってこなくなってからすでに何日たっただろう。
すえた野菜、果物、台所からはみ出してきた魚の臓物、そして独特の調味料ヌクマム――潔癖な日本人旅行者が真っ先に参る、この国の生活のにおい。慣れればこのにおいは、この町への愛着の一要素だ。
シックなツゾー通りも今、このベトナムの|生《なま》の生活のにおいに染まっている。耳が痛くなるような排気音、騒音。オートバイが、自家用車が、家具を満載したリヤカーが、われ勝ちに走りぬける。フランス直輸入のブティックはほとんどシャッターを降ろしている。スーツケースや合切袋を下げた“避難志望者”があちこちに固まっている。
その一人をつかまえて、
「どこへ行く気だい。あんた今さらどうやって逃げるつもりだ」
「米国の軍艦が沖に来ている。オレはヘリか漁船で、軍艦まで行く。あんたは外国人だな。頼む。なんとか米大使に紹介してくれ」
逆に泣きつかれた。
あっという間に十数人にとりまかれた。一人の老女がしわだらけの手を合わせ、必死の眼差しで私を拝みだした。英語もできず、金もなさそうなこの連中が国外へ逃げて、いったいどうするのか。
次々とすがりつかれ、手を合わされ、なんともやりきれない。群衆を振り切って歩きだした。足早にグエンフエ通りの支局に向かった。だが、他人事ではなかった。
「すべての残存邦人および本社から退避指示を受けた特派員諸氏は、正午までにサイゴン大学法学部前に集合されたし。米大使館にかけ合い、専用ヘリを用意した。所持品は小型バッグ一個に限る」
日本大使館からの緊急連絡が届いていた。
退避指示を受けたもの――私も該当者だ。せっかく「残留」と腹を決めたのに今さらあがきたくない。だいいち、まだ千人近く残っているという米国人の救出で、米軍ヘリ輸送は手いっぱいじゃないのか。しかし、各社に問いあわせるとフリーランサーも含めて約四十人の日本人記者の七〇パーセント近くが、この最後の機会を試みるという。物理的に不可能な場合はともかく、最後の行動は各社と歩調を合わせる――というのが、本社への“誓約”だった。
最小限度の衣類とヒゲソリ、歯ブラシをパイロット・ケースにつめ込む。一応、集合地点に出向くことにしたが、米軍のプノンペン撤収の例から判断しても、よもや米国がこのドタン場で、外国人しかもアジア人の世話など見るはずはあるまい。
もっとも、万一というケースもあり得るかもしれない、米国人道主義(?)の奇跡が起こった場合に備え、片づけておかなければならない仕事がある。妻に「国を去るさいは、実家のことを頼む」といわれていた。
流しのモーターバイクをつかまえて、ファングーラオ通りに行く。
一族の連中は、皆睡眠不足で赤い目をしていた。前夜、三〇〇メートルと離れていないところにロケット砲弾が落ちた、という。ふだんは厳格なホアハオ婆さんも、私の腕に手をかけ満足気にうなずいた。チュン爺さんに片言のベトナム語と身ぶり手ぶりで事情を説明し「みんな力を合わせて食いつないでくれ」と手持ちの金を渡す。ロケットよけに防空壕を掘るようにいい、その足で初老の義理の従姉妹チー・バイをともない、川沿いの問屋街で米を一〇〇キロ買って渡した。
問屋の前で別れるとき、いかつい顔の彼女が大声で泣き出した。
「もう帰ってこないんだね。こんな形で別れるなんて。戦争はイヤだよ」
ちょっと目がしらが熱くなった。みんなにまた会えるのはいつか。
「泣くなよ。しっかりしてくれ」
日本語で言い残して、モーター・シクロで集合所に向かう。
立て込んだ庶民街の空気はツゾー通りのパニック状態に比べ、はるかに落ち着いていた。子どもたちはくったくなく遊び興じ、屋台では人びとがのんびりソバをすすっている。この階層の人びとには、最初から、“避難”の意思も、それだけの財力も、コネもない。ロケットさえ降らなければ、“共産主義者”とでも、何とでも、いっしょに暮らしていける人びとだろう。
脱出ヘリに殺到
支局に寄って手荷物をとり、バス待ち場に指定された法学部前の広場に行く。ちょうど指定された時間(正午)だった。
泉水を囲む広場の一角には、三百人を超す人びとがつめかけている。在留邦人はそのうち半数足らずである。日本人のかたまりには、はじめのうち、どこかへ団体観光旅行にでもいくようなはしゃいだ、くつろいだ雰囲気があった。外国人は大丈夫だという安心感が心の底にあったようだ。
そのうちに、大小のトランクや折りたたみ式自転車、はては寝具のゴザまで山のような荷物に囲まれたベトナム人の家族の群れが、日本人の倍以上にふくれあがった。
広場の一角に旧米軍属宿舎がある。その鉄柵に日本大使館の若い書記官三人がしがみつき、内部の米人ガードマンになにやら懸命に頼みこんでいた。まもなく米大使館さし回しの日本人専用バスが来ることになっている。この混雑で日本人だけ選んで乗せることは不可能に近い。「なんとか安全に日本人が全部乗れるような措置をとってくれ」と、大使館員は米兵に頼んでいるようだ。アロハ姿のガードマンはケンもホロロに何事かどなりつけると、さっさと建物の中に姿を消した。
午後一時。バスはまだこない。ベトナム人の数はさらにふえた。もう、たとえバスがきても、ベトナム人と日本人とのはげしい“生存競争”になることは避けられまい。
爆音にふり向くと、宿舎の屋上に一機のUH─2型ヘリが降りた。輸送機ではなく明らかに連絡機である。ベトナム人の群れが、ワッとくずれ、建物の入り口に殺到した。鉄柵を押し倒しそうな騒ぎだ。大男のガードマンが再び姿を現した。腰のピストルに手をやり、すごい形相で怒鳴る。ヘリはまもなく飛び去った。
突然、すぐ横で二人の中年のベトナム人が派手な殴り合いを始めた。互いに胸ぐらをつかみ、片手で相手をところかまわずひっぱたきながら大声をあげる。エビ茶の粗末なアオザイ姿のおばさんが路上にべったり座り込み、両手で自分の髪をつかみ、泣きながらわめく。一方の男の細君らしい。そばの教授然とした紳士の通訳によると、この夫婦者は米軍ヘリの優先搭乗書類を整えてやると持ちかけられて、知人に全財産の四百万ピアストルを渡した。相手は金を持ち逃げしたが、その弟とばったりここで顔を合わせたという。
「この騒ぎで、どうして逃げられるのか。お前の兄はサギ師だ」と、この立ち回りになった。こんな状況の中でもベトナム人は物見高い。周囲の連中はニヤニヤ笑って熱心に見物している。「もっとやれ」とけしかける声も飛んだ。
午後三時、ベトナム人の数は五百人を超しただろう。バスはいぜんこない。
私は炎天下の泉水の縁にゴロリと横になって、青空に目をやった。脱出者を乗せた三機編隊の米海兵隊ジェット・ヘリが次々と低空をサイゴン川方面に横切って行く。米大使館は三、四日前、米人家族関係者というワクをはずし、「ヘリコプターにはだれでも乗れるだけ乗せる」と発表した。この発表で多くのベトナム人たちが浮足立ってしまった。それがよけい町の末期症状に輪をかける結果となった。
広場のまわりは火炎樹の花の明るいオレンジ色があふれていた。周囲の豪壮な邸宅の塀や壁は深紅のブーゲンビリアの花で覆われている。強烈な熱帯の花の色彩、真っ青な空、その空に高々と伸びるタマリンドの緑の巨木――いい季節だ。ベトナム人は直射日光を嫌うが私はこの肌にさし込むような雨期前の暑さと陽光が好きだ。この季節、よく市役所前広場のベンチで時間を過ごした。
三台のバスがやってきた。いずれも米国人で満員である。二台目の窓ぎわに、シカゴ・デイリー・ニュース紙のカイズ・ビーチ記者らの蒼ざめた顔が見えた。ビーチ記者は私の姿に気づきバスの中から何事か叫んだ。彼は米国報道陣の最長老格である。けさ、ヘリで脱出したと聞いたが、乗り遅れたのか。バスはちょっとスピードを落とし広場を一周した。行く先に迷っているようすだ。歓声を上げて人波が飛び出したが、運転手はすぐスピードをあげた。若者たちが追いすがり、ドアや後部バンパーに飛びつく。なかには五十年配の男もいる。バスは車体をジグザグさせ、角を曲がる時、しがみついていた何人かが路上にふり落とされた。
四時半、日本人の群れもいらだってきた。
「米大使館にだまされたのではないか。君らの責任問題だぞ」
何人かが若い館員に食ってかかった。
ひどくノドが乾く。口がネバネバしているのに、それでもむやみにタバコが吸いたかった。
空では米軍の救出ヘリが絶えまなく脱出作戦を続けている。三機あるいは六機の編隊を組み、空港方向から次々と海岸に向かう。人々をめいっぱいつめ込んでいるせいか、高度は三〇〇メートルにも満たない。突然、思いがけず近くでライフルの連射音がした。
ヘリの一機が頭の上でグラリと傾いた。機底から黒煙が噴き出し、見る間にローターの回転が鈍った。「あっ、落ちるぞ」と目をこらした。機はわずかに高度を失っただけで持ち直し、僚機を追って南の空へ消えた。北・革命政府軍の砲火にしては音が近すぎる。ヤケになった政府軍兵士がやったのだろう。もうこんな状態ではヘリの使用はかえって危険だ。――私は退去の意思を捨てた。
大使館員の一人に「オレは帰るよ」といい残して数人の記者仲間と広場を離れた。
広場の外れで黒塗りの乗用車に乗ったチャン・バン・ドン将軍とすれ違った。かけ寄って窓越しに、
「将軍、脱出ですか」
ドン将軍はつい先日まで副首相兼国防相で、最も懇意な取材上の相手の一人である。
六三年のゴ・ジン・ジェム打倒クーデターの立役者。保身遊泳術がうますぎると悪口をいう人もいるが、南部庶民には好かれている。浮沈の激しい南政界で十余年の政治生命を保ってきた。穏やかで洗練された軍人臭のない紳士である。
「やあ、君か」
めっきり増えた白髪。三カ月ぶりで会ったのだが、疲れ切った顔に胸を衝かれた。
「どこへ行かれるのです? 脱出ですか」
かさねて尋ねた。
「息子とその家族を空港まで送っていく。しかし、私は去らない。すぐ引き返してくる」
「なぜです?」
「仕事が残っている。私にできる最後の仕事だ」
「仕事? もうすべては時間切れでしょうに」
「いや、望みはある。遅くとも二日以内に停戦にもち込んで見せる。停戦だ。降伏じゃないよ」
とくり返し、そのまま去った。(将軍は翌三十日未明にマーチン米大使らとヘリで脱出した)
市中はビエンホア方面から敗走してきた政府軍兵士であふれている。外国人が単独で自宅やホテルにいるのは、もう剣呑だ。大使館に避難することにした。
大使館に籠城
日本大使館は市役所前からサイゴン川へまっすぐ通じるグエンフエ大通りの河岸近くにある。五〇メートルほど先は河畔の遊歩道路である。ふだんならこの時刻(午後六時半)には涼を求めて市民がくり出すが、さすがに今日は人影が少ない。
籠城組は、日刊紙二社、テレビ二社、通信社一社の計五社。カメラマンもいれて六人である。
大使館側も二手に分かれた。大使、参事官ら館員の半数は大使館に残り、半数は報道陣以外の日本人在留者とともに、住宅街にある大使の官邸にたてこもった。
人見大使は四月中旬赴任したばかりである。信任状を提出したとたんこの騒ぎに巻き込まれることになったが、終始落ち着いていた。館員に指示して、二階の経済室を“記者クラブ”兼仮眠所として明けわたしてくれた。
私たちは各部屋からソファやマットを持ち出し“クラブ”にかつぎ込んだ。残留ときまれば、ともかく東京への送稿が第一となる。みんな、午前中からの撤収騒ぎに追われていたが、朝刊送稿の「締め切り」を午後九時と決め、四人が暮れかけた街に取材に散った。私は手持ちの材料で百行ほどの一報を書いた。書きおえた時、“クラブ”の電話が鳴った。
「ミスター・コンドウか?」
「なんだ、君はまだ残っているのか」
驚いて聞き返した。
韓国人記者のK君だ。三年ほど前、中部高原の前線基地で知り合い、その後いったん帰国したが、こんどまたサイゴンで顔を合わせた。
昨日テレックス・センターで会った時、
「ボクは今晩中に脱出する」と、蒼い顔だった。
韓国人は北・革命政府側からも、南の兵士や民衆からもきらわれている。
「このドサクサの中でベトナム民衆の血祭りにされてたまるか。かりにそれを切り抜けても、共産側に捕まれば、北朝鮮送りだ」
「なぜ逃げなかったんだ」
受話器を握りしめて、思わず大声を出した。
「ボクたちはもうダメだ。アメリカ人に裏切られた」
韓国人約百五十人は代理大使(大使は数日前すでにサイゴンを去っていた)に連れられて、けさ早く米大使館に行った。だが、大使館はすでに救出を求めるベトナム人の群衆に取りまかれている。門はすべて閉じられていた。
警備の米海兵隊員は代理大使の嘆願に耳をかさなかった。数時間の激しいやりとりのあと、代理大使らは武装海兵隊員らに命がけの突貫を行ない、辛うじて数人が大使館内に入った。大部分は取り残され、この実力行使に激昂した海兵隊員らにライフルを胸に突きつけられて追い散らされた、という。
「まるでイヌころ扱いだった。きょうこそボクにはアメリカ人というものがわかった。やつらは白人だけが人間だと思っている」
日ごろ威勢のいい快男子のK君は電話口の向こうで泣いている。
「日本人大使館はボクらを保護してくれるだろうか」
「……気の毒だが、望み薄だ。東京の本省が在留日本人の保護だけでひどくナーバスになってる」
「そうだろうな」
「わかってくれ、大使館員のベトナム人妻子さえ見捨てるつもりなんだ。オレを恨まないでくれ」
東京本省の気の小ささが腹立たしかった。
邦人保護が最優先事項とはいえ、結局は国際法をタテにした役人の保身だ。万一、外国人を受け入れ、そのために邦人に累が及んだり、あるいは次にこの国の主人公となることが確定的な北・革命軍側新政権と面倒を引き起こしたくないのだろう。
K君に、市内の病院二カ所が国際赤十字地区に指定されていることを告げた。もっともこの混乱の中では、赤十字指定もアテにならない。
「ありがとう。ボクはすぐそこへ避難するよ。あとは運を天にまかせる」
励ますのも空々しかった。
「また、いつか必ず会おう」
「ああ、必ず会おう。グッド・ラック」
館内に入った代理大使らは、三十日朝まで屋上のヘリポートで待たされた。最後のヘリは午前七時過ぎに屋上から飛び発ったが、これは最後の海兵たちの撤収用だった。追いすがる代理大使らめがけて機内の海兵らは催涙弾を発射し、結局脱出できなかったことをあとで知った。
「私たちに降伏しろというのですか」
午後九時半、原稿を打ち終えた。
首都圏の戦況はもう完全に絶望的だ。国道一号線(北東)方面ではサイゴン中心部から一〇キロの橋をはさんで両軍の戦車が撃ち合っている。四号線(西南)方面もチョロン玄関口まで北・革命政府側大部隊が押し寄せていた。北郊の十三号線はとっくに制圧されている。
こうした中で、前日午後六時に就任したズオン・バン・ミン大統領はなお懸命に「停戦」への努力を続けていたようだ。副大統領に内命したグエン・バン・フエン前上院議長らをタンソンニュット基地内の臨時革命政府軍事代表部に派遣し、停戦条件を打診させているという。
しかし、北・革命政府に停戦を受け入れる意思がないのはすでに明白だ。
『問題はミン大統領がいつ白旗をかかげるかだ』
と、私は原稿をしめくくった。
午後十一時半、この日最後の取材電話を各方面にいれる。先刻会ったドン将軍、野党のチャン・バン・ツェン議員、リ・クイ・チュン情報相、カトリック指導者のグエン・バン・ビン議員……。知っている限りの政治家、軍人等の電話番号を次々試みたが、いっこうにつながらない。真夜中前、ようやくミン大統領によって副首相に内命されていたホー・バン・ミン議員が自宅に戻ったところをつかまえた。
「もう疲れて死にそうですよ。一分も早く眠りたいんです」
私とあまり年齢の違わないミン議員はいつものように丁重な口調で応じた。そしてミン大統領も自分自身も、ドン将軍らの停戦工作にまだ期待をつないでいる、「たとえ圧倒的にサイゴン側に不利な割合でも、なんとか連合政権に持ち込む」方針を捨てていない、とくり返した。
「ドン将軍には今日の午後、会いましたよ」
「どこで会いました? 将軍は何といっていました」
逆に、せき込んだ口調で問いかけてきた。停戦工作自体がすでに秩序も連携も失っていることがわかった。さきほどのドン将軍の言葉を伝え、しかし、将軍もすでに脱出の意を固めているようだった、との感触を告げた。
「いや、彼は残留します。将軍はフランス大使館員といっしょに数日来、死物狂いで働いている。私たちは希望を捨てていません」
私は率直に反論した。もう北・革命政府軍は事実上、サイゴンを制圧している。なぜサイゴン側の連合政権の申し入れに応じる必要があるのか。ミン大統領は一刻も早く自軍に“一方的停戦”を命じるべきではないのか。
「君、君は私たちに降伏しろというのですか」
ミン議員は声を高めた。三年以上の付き合いを通じて、彼が私に荒い声で応じたのははじめてだ。
真夜中、一時途絶えていた川向こうの砲声がにわかに身近かに聞こえはじめた。“記者クラブ”の窓ガラスが絶え間なく振動する。すべての窓のシャッターを降ろし、至近距離に着弾してもガラスの破片が飛び散らないように、幾重にもカーテンを下ろした。
ソファの背を窓側に向け、これを防御壁がわりにエビのようにちぢこまって就眠態勢に入る。
見回りにきた新任のA武官が懐中電灯の光を私たちにあて、
「結構です。皆さん、なるべく窓から離れ、今のような低い姿勢でおやすみになってください」
といった。
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[#地付き]一九七五年四月三十日午前
革命軍首都進攻始まる
砲声がわずらわしいので、昨夜は定量の二倍近くの睡眠薬を飲んだ。おかげでぐっすり眠れたが、武官の忠告で、できるだけ身を縮めて寝たため体の節々が痛い。
午前七時、ザコ寝仲間はもうとっくに起き出し、“記者クラブ”には誰もいない。同じ階の洗面所で歯をみがき、鏡をのぞき込む。たっぷり寝たりた顔に満足し、“クラブ”に戻ってひとしきり屈伸体操で体をほぐしていると、廊下からミソ汁のにおいが漂ってきた。
三階にのぼる。ふだんは大使の定例記者会見に使われる会議室に、たきだしのニギリメシが用意してあった。昨日から館内に退避しているベトナム人職員の奥さんが用意してくれたらしい。
会見用のテーブルをかこんで、もう十数人がさかんにパクついていた。
「よくおやすみで」
若い館員の一人がひやかすようにいう。
「そうとも。騒ぎが起こった時、睡眠不足じゃ逃げ遅れるかもしれないからな」
「どうやら今日一日が最大のヤマ場になりそうだな」
館員も、報道陣も、ベトナム人の運転手も、みんなセルフサービスである。
腹ごしらえを終えてトイレに行くと、大使が椀と箸を洗っていた。
「食糧は一カ月ぐらいもちますが、食器を用意するのを忘れましたなあ。まあ、使用したあとは自分で洗い、できるだけ共用ということにしましょうや」
男便所から、T社のO君がはればれした顔で出てきた。
「快便は健康の証拠」
薬のキャッチ・フレーズみたいなことをいう。
「緊張すると出なくなるっていうぜ」
「いや、まだ大丈夫だ。堂々たる奴が出た」
私もO君の残り香に閉口しながら、自分の健康の証拠を確認した。考えてみれば、丸一日半ぶりだった。生理的支障ではなく、物理的、心理的にそんな暇がなかった。熟睡し、満腹し、すべきこともすますと、あとは何でも来い、と何か悠然たる気分になった。
会議室に戻る。すぐ目の下のグエンフエ通りの光景は、ほとんどふだんと変わりがない。
絶え間なく行き来するモーターバイクや自転車、立ち食いソバ屋の拍子木の音、勤勉な屋台の売り子たち――郊外から逃げ込んできた重装備の兵士らも、銃や背のうを足元に置いてキオスクの娘たちと談笑しながらコーヒーや砂糖キビのジュースを飲んでいる。
あまりにも日常的すぎて、すべてがすでに惰性のうちに決着してしまったような錯覚にすら陥る。
どこからか、未確認情報が伝わってきた。
米軍ヘリによる救出作戦が予定通りはかどらず、米大使館が北・革命政府軍側に最後の“猶予”を要請した。北・革命政府軍側もこの期に及んで米海兵隊と事を起こすことは得策でないと判断し、総攻撃開始を手びかえているとも聞いた。
ようすがおかしくなりはじめたのは午前八時頃からだ。
人びとがどんどんサイゴン川の河岸に集まり始めた。最初は、大通りにそれと気づかないうちにどこからともなく人の流れが生じた。ついでこの流れに吸い出されるように、あちこちの路地から住民がゾロゾロと姿を現した。みんな、手に手に、いっぱいつまったスーツケースや合切袋をぶら下げ、河岸へ河岸へとやってくる。
気がつくと、朝食の間はあまり聞こえなかった郊外の砲声が、また急に高まり始めている。
「おい、来るぞ。いよいよ総攻撃開始らしい」
大使館の玄関先で群衆を取材していた記者仲間が、緊張した顔で戻ってきた。
確報はとれなかったが、砲声の高まりからも、北・臨時革命政府軍が何らかの行動を起こしたことは明らかだ。
私たちは『三十日午前八時を期して、北・革命政府軍、首都進撃開始』の一報を東京に打電した。
三十分後、通りの景観はもうすっかり変わった。辻々の屋台は姿を消し、車やモーターバイクの往来もほとんど途絶えた。河岸の遊歩道路はすでに何万人という人、人、人……。まだ、あとからあとからやってくる。街中が文字通り、サイゴン川の水際まで追いつめられ始めた感じだ。
波止場に停泊中の何隻かの貨物船の甲板も屋根も、人で埋まっている。動くあてもない船に乗り込んでどうしようというのだろう。岸壁のサンパンに勝手に乗り込み、夢中で川の中へこぎ出していく家族も多い。
方々でケンカが起こり始めた。持ち切れないほどの荷物をかかえたおかみさんたちが何やら泣き叫び、悪童たちが、その荷物をかっさらって四方に走る、もう大使館のすぐ下の通りまで、河岸めがけてつめかけてくる人びとで、手のつけようもない混乱ぶりだ。
私は窓から刻々ふくれ上がっていく群衆を見降ろした。あまりに急激なこの町の空気の変化と、突然の群衆の数に呆れ、ちょっと空恐ろしくなった。
最後まで悠々と落ち着いているように見えたのに、ドタン場にきて、何と唐突な、あわてふためきかたか。
何回かこの土地で体験した騒乱の取材を思い出した。口火を切るのはいつも、学生や、ごく少数の活動家たちである。人びとはヤジ馬気分で、連中と警官隊との小競り合いを見物している。ニヤニヤ笑っているので、本当に見物を楽しんでいるのかと思うと、突如、騒ぎが爆発する。驚くべき群集心理、そして連鎖反応――一人が石を投げると、あとはもう四方八方から投石の雨だ。つい今まで冷やかし半分だった群衆が、一瞬にして血相を変え、街中がなだれを打って騒ぎ出す。あっけにとられるほどの、極端から極端への振幅の早さである。そこに、小規模でも無視できぬこの町のデモの恐さがあった。
「成り行きまかせ。運まかせ。まあ、どうにかなるさ」の民衆気質。だから、いったん臆病風に吹かれたり、どうにもならぬとわかった時の狼狽ぶりも、また破滅的なのだ。いい年をした連中が、乗組員もいない船にわれ先によじのぼろうと、殴り合いをやらかすていたらくとなる。政府軍が、わずか一カ月あまりで、全軍大敗走のあげく潰滅したのも、無理はない。軍隊だって、結局はこうした人びとの集まりなのだから。
一時間後――。砲声はますます近づいた。さっきまでは遠雷か地鳴りのように響いていたが、もう一発一発がはっきり聞き取れる。それも、四方八方からせまってくる感じだった。
北・革命政府軍戦車隊の一部が、タンソンニュット空港をじゅうりんして、「すでに市内に進撃中」との声も群衆の間から伝わってきた。
万一にそなえて、大使館からの脱出路を検分した。恐怖に逆上した窓の下の群衆が暴徒と化せば、まっさきにやられるのは外国人だろう。
考えてみれば、私も含めてサイゴンの外国人は、やられても仕方ないほど安楽な暮らしをしてきた。私だって、もし彼らの立場に立てば、行きがけの駄賃に、大使館の一つや二つぶちこわしてやりたくなるだろう。といって、自分がその巻きぞえになるのは、まっぴらだ。とにかく、事が起こったさい、大使館などにいるのはかえって剣呑だ。
階下に降り、台所を抜けて裏の路地に面した勝手口のかんぬきを調べた。内側から厳重に南京錠がかけてあり、これを強行突破するのは不可能にみえた。だが、塀ぎわに重ねられたビールの木箱を足台にすれば、塀の上に張りわたしてある鉄条網をくぐり抜けて、なんとか路地に飛び降りられそうだ。
これ以上不穏になったら、ここから抜け出し、路地伝いにファングーラオ通りの妻の家に逃げ込もう。バッグの底には、洗たくの暇がなかったランニング・シャツと、よれよれのズボンがある。日焼けした私の顔は、ベトナム人と区別がつかない。以前はよく街頭で徴兵逃れと間違えられ、憲兵に絞られた。妻と暮らすようになってますます“ベトナム化”が進んだらしい。ときには、ほんもののベトナム人に道をたずねられるようになった。
うまく庶民に変装して実家にたどりつけば、あとはホアハオ婆さんがいる。「教祖さま」以外は恐ろしいものなしの婆さんだ。たとえ暴徒からでも、私の身を守ってくれるだろう。
「戦争は、今、終わりました」
国旗を降ろし、ヨロイ戸を閉め切った大使館の中で、緊張のひとときを過ごす。
鋭い砲声にまじって、上空をヘリコプターや戦闘機が飛びかう音が聞こえた。将校たちが最後の脱出を試みているのか。それとも空港がやられ、着陸先を失ったのに、まだ|健気《けなげ》に闘おうとしているパイロットがいるのか。
屋上にのぼってみた。
川向こうのヤシと水田の広がりは、相変わらず眠ったようにのどかだ。
左手ニューポートや正面ニャベの軍事施設から幾筋もの黒煙が立ちのぼっている。すぐ間近である。風に乗って煙がこの屋上にまでたなびいてくる。
海軍基地のすぐ向こうの町はずれのあたりから、ひときわ間近な轟音が伝わり、見るまに真っ白な煙の柱が空を覆った。何が爆破されたのだろう。あのあたりには大きな貯蔵所はなかったはずだが――。
水田上空を、大小さまざまな軍用機やヘリコプターが乱舞している。まるで寝ぐらから追い立てられた黒い鳥の群れだ。あてもなく、うろうろと旋回する巨大な輸送機や一目散に遠ざかるヘリコプターの間を、超スピードのジェット戦闘機が縦横に横切って行く。
それにしても、今こうして|この世《ヽヽヽ》では最後の戦闘が続いているのに、川向こうの自然の風景はまったく変わっていない。
私は、私自身とこの国との最初の出会いとなった何年も前の朝のひとときを、妙に物静かな気持ちで想い出しながら、戦火の連なる水田の彼方を長い間みつめた。絶え間ない銃声や砲音も耳に入らなかった。根元をさぐれば殺伐なはずの、黒煙や白煙自体も、このものうい大パノラマの中では、春がすみのように淡くおだやかなものにみえる。
その優しく穏やかな風景を舞台に、今、ひとつの世界の|終焉《しゆうえん》の最後の幕が演じられている。次々と盛り上がる黒煙、白煙、バラバラに飛び交う数知れぬ黒い鳥――。人の世は|薄《はかな》く|矮小《わいしよう》だ。そして一国の最後とは何とグロテスクなものか――身を置く場所も時も忘れてそんなことを想った。
十時十五分。館員の一人が屋上にかけのぼってきた。
「ミン大統領がこれからラジオで演説します。フランス語の翻訳を願います」
とうとう停戦か――私は暗い階段を走り降りて、二階の文書課の部屋に飛び込んだ。
ベトナム人職員のマイさんと、もう一人がメモ用紙を前に青ざめた顔で、ラジオにしがみついている。マイさんは、フランス語の達人だが、日本語、英語は話せない。大使館のベトナム語使い、フランス語使いは、みな公邸の方に出はらっていた。
“即席通訳”の私は、マイさんの傍らに陣取った。館内の全員がラジオを囲んでひしめきあった。
十時二十分、雑音まじりのラジオから、ミン大統領の重く沈んだ声が流れ始めた。窓越しに川岸の物音が伝わってきたが、それがかえって室内の静けさをきわだたせた。
ミン大統領の声だけがあたりを支配した。
ベトナム人職員の一人が必死でメモを取り、最初の一枚をマイさんがフランス語に訳してそのまま読み上げる。
「民族和解への全ベトナム人の渇望……悲劇的な同胞の血の流し合いを……私はすべての権限を委譲する。ベトナム共和国陸海空軍は即時、戦闘行為を停止する。全将兵は、いっさいの射撃行為をやめよ……」
一方的停戦宣言――。
「まちがいないね。射撃をやめよ、といったんですね」
せき込んで念を押した私に、
「そうです。一方的停戦宣言です」
マイさんは縁なし眼鏡の位置をただすようにしながら、もう一度メモを確認した。それから顔を上げ、私たち全員に向かって静かにほほえんだ。
「戦争は、今、終わりました」
館員らは奥の通信室に走り、記者仲間はワッと“パンチャー役”のF記者を囲んで文書課すみのテレックスに群がった。
大使館の通信施設を報道用に使用するのは、法的に問題があるらしい。あるいは気の小さな参事官の気の回し過ぎかもしれない。とにかく使用時間はごく限定されている。送稿は各社共通のいわゆるプール原稿である。プール原稿の作成に加わる気はなかった。停戦の事実だけ報じれば、それですべてが伝わる。はじけるようなキーの音を後に、仲間から離れ、部屋を出た。ついさっきかけ降りた階段をのぼり、一人で屋上に戻った。
ついに全面降伏――。サイゴンは崩壊した。こうなる以外ないことはわかっていたが、やはりあまりにもはかなく、あっけない結末だった。
たった二カ月前まではっきりと存在し、機能していた一個の国が、今、亡びた。
あの雑音まじりのラジオから流れた荘重な低音が、決定的にその死を宣告した。
なんということか。今さらのように呆然とし、想いもまとまらなかった。
『夢であってくれ』
そんな思いが心の一隅を|横切《よぎ》った。
ぼんやりと雲一つない空を見上げ、相変わらず河岸に黒々とうごめく大群衆を見降ろし、それから四囲の家並みに目を転じた。
いつ見ても目を慰める森や公園や並木の緑。朝の直射日光をまばゆく照り返す、白壁やレンガ色の屋根の連なり。美しい町だ、とあらためて思った。この町が、今、決定的に体質を変えようとしている。いくつかの窓に人が群がり、心配げに外を見降ろしていた。他の多くの窓はヨロイ戸を降ろし、テラスやバルコニーに取り残された鉢植えの花々が、場違いなほど明るくはなやかな色彩を発散させていた。
視界のすぐ手前下方に、何か白い物がはためくのが見えた。白旗だ。一ブロックほど先の勧業銀行の屋根のポールに、純白の大きな布片がするすると掲げられていくのが見えた。
[#地付き]一九七五年四月三十日正午
北・革命政府軍の入城
ミン大統領の「停戦宣言」を聞いたあと、三十分近く、大使館の屋上にたたずんでいた。白旗をかかげたのは勧業銀行だけだった。が、ついさっきまであらゆる建物にひるがえっていた黄色い南ベトナム国旗は、それと気づかぬうちに次々姿を消し、ついに視界から完全に姿を消した。
下の方でブレーキのきしむ音がした。
白と緑の警官隊のジープが大使館の玄関前で乱暴に止まり、数人の武装警官が飛び降りた。いきなりヘルメットを路上に投げ捨て、弾帯をはずし、肩章をむしり取る。ピストル、手投げ弾、M16ライフル銃、警棒、軍靴など、警官の身分を示すあらゆるものを路上に投げ捨て、あとも見ずに大使館わきの小路に姿を消した。
なかには迷彩服のズボンまで脱ぎかけた警官もいたが、仲間が逃げるのを見て、あわててそのあとを追った。
入れ替わりに、路地から子どもたちが現れた。捨てられた銃や手投げ弾を奪い合って拾い、それで遊びはじめた。河畔の人波からも数人の男が走ってきて、無線機やシート、修理器具ケースなどをジープから取りはずす。後から来た連中の中には、タイヤまではずして持ち去る者もいた。
「えらいことになるぞ」
と、思った。河岸通りの群衆のざわめきも全然おさまっておらず、これでは危なくて外へ出られそうもない。
市内でのすばやい武装解除ぶりに反して、戦闘部隊への停戦命令はまだ徹底していないようすだ。タンソンニュット空港、ビエンホア街道方面の砲撃戦の音は、かえって激しくなった。
午前十一時半。ようやく砲声に切れ目が出はじめた。街にいるベトナム人の記者仲間が、空港の完全陥落を電話で知らせてきた。ついで空港わきの参謀本部内の抵抗分子を掃討した北戦車隊が、市中へ通じるカクマン通りを大統領官邸に向けて進撃中との連絡が入った。
突然、街路が奇妙な静けさに包まれた。「戦車隊入城中」の情報は、河岸の群衆にもパッと伝播したようだ。
無秩序ながらもそれまで群衆をまとめ、つなぎ合わせていた何かのタガがはずれた。
人びとは、いがみ合いやどなり合いをやめ、気の抜けたような表情で、動きをとめた。なめらかに太陽を照り返すサイゴン川の流れまでが、急に停止したような錯覚を覚えた。
長いストップ・モーション――。河岸の放心状態はこのままいつまでも続くのではないかと思われた。
正午ちょうどに、北・革命政府軍の戦車隊が、正門を大きく開け放って待っていた大統領官邸の構内に突入した、との一報が外部から電話で入った。
「来た。来たぞ」
窓際にがんばっていた館員の一人が叫んだ。ふり向いた顔は緊張と興奮で蒼白だ。
三階大使室の窓にかけ寄って、目をこらす。
河岸の人びとに異様な動揺の波が伝わった。縁辺部の人波がドッと崩れ、荷物を捨てて、いっさんに逃げ出す人もいる。
「あれだ!」
人波がみるまに自然に割れ、そのまん中を、一台のジープが大使館右手の水上レストラン方向から海軍広場の方へ走り抜けていった。まぎれもない。北・革命政府側の宣伝の先遣隊だ。赤と青の革命政府旗をフロント・ガラスの前に立て、十人ほどの青年が乗っていた。服装はまちまちだった。軍服姿は一人もいないが、皆、左腕に赤い布を巻きつけている。
走り抜けながら、青年たちは、車体から身を乗り出すようにして、人びとに何事か叫びかけた。銃を持っているものもいたが、別に威嚇する風もなく、いかにも全員が意気軒昂とした態度だった。
ジープが走り抜けると同時に、雑踏の中から何人かの若者がベンチや、駐車している車のボンネットに飛び上がり、|仁王《におう》立ちで周囲を制した。どこから取り出したのか、皆、両手で赤と青の地に金星を配した真新しい革命政府旗を広げ、闘牛士のケープのように、群衆に示した。雑踏の中に、突然、点々と色あざやかな花が咲いたように見えた。群衆の中に潜入していた工作員だろう。
人びとは、大きな声もあげず、いぜん身動きもせず、ポカンと工作員らの旗を見上げている。
勝負はついた、と思った。今、わずか二十人たらずの若者たちが、この何万人という群衆を完全に支配している。人びとは恐怖というより、むしろ驚愕に金縛りになっているようだ。もう、暴動も騒乱も引き起こす気力などとても無いように見えた。
横にいたベトナム人職員のマイさんが、ハッと息を飲む気配がした。
「革命政府軍の兵士です」
目の下、わずか十数メートルの路上に、もうきていた。
AKライフル銃を腰だめに、市街戦体形を取りながらヒタヒタと波のように進出してくる。周囲にギラギラと目を配り、指揮官の合図で影のようにキオスクや建物の壁づたいに移動してくる。
くすんだ緑色の平べったいヘルメットに、同じ色のダブダブの戦闘服。皆、サンダル履きだが、動作は一糸乱れず、三階の窓にまでその磁気が伝わってくるほど、精悍な空気に包まれている。
皆、ドス黒く日焼けし、驚くほど若く見えた。その鋭い目付きが誰も同じに見え、一人一人の顔の区別もつかない。
指揮官たちはいずれも四十年輩に見えた。兵士と同様サンダル履きだが、左腕に白い細布を巻きつけているので、すぐ見分けがついた。
最初の分隊は、窓のすぐ下のキオスクまできて、全員、援護物に身を隠し、次の十人ほどの分隊が来るのを待った。二隊が合流すると、指揮官同士が何事か素早く打ち合わせた。次いで、道路沿いの建物の窓々に目を走らせた。すぐ真上の私たちとも一瞬視線があった。シワの刻まれたナメシ革のような彼らの表情には、何の感情も読みとれなかった。
「動いちゃいけません。静かに、じっとして」
マイさんが、窓わくをにぎりしめてささやくようにいう。
兵士らは明らかに狙撃を警戒しているらしい。
窓々の検分を終えた指揮官は、短く各自の分隊に命令を下し、すぐ次の行動に移った。河岸に面した家並みのはずれまでは、もう五〇メートルたらずだ。鋭く兵士に声をかけ、次々と部署を指示する。兵士らは二人一組で、身をかがめ、銃を構えて示された持ち場に、キビキビと走った。その素早い動きから見て、重い軍靴よりサンダル履きの方がはるかに市街戦には適しているようだ。
通りの向こう側に目をやると、正面の造りかけのビルの壁沿いにも十数人の分隊が三つ、四つ、いや、あとからあとから来る。市役所方向から、もう無数の兵士らが散開前進してきた。
どこからこんなに素早く、そして大量にわき出してきたのか。
最初の分隊を目にして五分後には、すでに窓から見えるすべての建物やキオスクに、武装兵士が配置されていた。
兵士らは、つい今しがたまでの戦闘の興奮で、まだ極度に緊張しているように見えた。おびえているようにさえ見えた。互いに一言も口をきかず、物音がするたびに、サッと腰をかがめて銃をその方向へ向ける。が、誰も、一発も発砲しなかった。
十二時三十分。サイゴン中心部は、全面的に北・革命政府軍の軍事制圧下に置かれた。完璧な無血入城だ。あざやか、というより、まったく白昼夢を見ているような気持ちだった。
河畔の群衆は完全に気をのまれている。
動きをとめ、もう逃げ出すものも、高い声をたてるものもいない。ときおり間近の兵士らの方にこわごわと目を向け、革命政府旗をかざした工作員らの演説に聞きいっている。
演説の声は聞こえない。工作員らの穏やかにくつろいだ表情から「もう心配はないから家へ帰りなさい」と説得しているのだろう。
ほんのひとときの呆然自失状態から気を取りなおした人びとは、つきものが落ちたような表情で、河畔から街中へ戻りはじめた。鈴なりの船の甲板からも次々降りてくる。ついさきほどまでいがみ合っていたのが、今は従順そのもののヒツジの群れだ。何万という人のかたまりは、いつのまにか消えていた。
人びとが去ったあとの河岸に、次々と兵士を満載した中国製、ソ連製のトラックが到着しはじめた。
私自身も何かつきものが落ちたような気分だった。信じられないことが、今目の前で起こったのだ。
「ベトナム共和国」はいま、物理的に姿を消した。新しい主人公は、この青年たち、まだ警戒と、おそらくある種の恐怖に神経をたかぶらせ、獣のように敏しょうに、物音に反応する青年たちだ。
チュー政権下のサイゴンしか知らない私にとって、この平たいヘルメット姿の新しい主人公は、まったく「異人」だった。自分の方が外国人であることも忘れて、私は慣れ親しんだ住まいに、突然、場違いの連中が押しかけてきたような居心地のわるさを感じた。恐怖でも、むろん見知らぬ連中への敵意でもない。ただこの新しい現実に対して、理屈抜きの違和感を感じた。自分が身を置いている世界が、そしてそのすべての属性が、こうも瞬時に変質し得ることがあるのか――そんな気持ちだった。
ぞくぞくと河畔に乗りつける北・革命政府軍の姿にみとれながら、誰かが、
「とにかくこれで一難は去ったな」といった。
「強そうだな。これじゃ、かないっこない。降伏宣言がもう少し遅かったら、オレたちもひでえ目にあったろうな」
同感だった。歴史が変わった。ついに見とどけた――つとめて何回か自分にいいきかせた。だが、“新聞記者|冥利《みようり》”などという思いは少しもわいてこない。窓際を離れ、無人の“記者クラブ”に戻ってソファに腰をおろした。ポケットからタバコを取り出そうとした時、はじめて自分の手が汗でぬるぬるになっているのに気が付いた。
[#地付き]一九七五年四月三十日午後
解放直後のサイゴン
“記者クラブ”のソファにひとり寝ころがって、私は、今の自分の気持ちを忠実にいいあらわせるようなことばを、いろいろさがしてみた。どうしても浮かんでこなかった。天井に目をやりながら、つぎつぎとタバコに火をつけた。
三十分以上もそうしていただろうか。
「なんですか、こんなところで」
館員の一人が、昼食の用意ができたことを知らせにきた。
食堂はベトナム人職員も含め、二十人ほどの人でいっぱいだ。
「今日のメニューはコンビーフのカレーです」と、炊事係の若い館員。
「カレーらしいもの、といってくれ」
スプーンを口に運んだ一人がまぜっかえす。
「あっ、塩を入れ忘れた」
と、炊事係も頭をかいた。
入城シーンに気を奪われ、味見どころではなかったのだろう。茶色くなるほどショウユをかけて食べた。緊張のヤマ場が過ぎて、みんな上機嫌だ。食事を終え、窓から見ると、北・革命政府軍の兵士らも先刻よりずっとくつろいでいるように見えた。向かいのキオスクに配置された三人は、銃をかたわらにたてかけ、日陰に座って水筒をまわし飲みしていた。
午後一時、私はカメラをもって外へ出た。
今日もまた、抜けるような青空。ギラつく太陽に目がくらむ。通りに面した大使館の扉は、開けはなしてある。ことさら“籠城”ぶりを印象づけて兵士らを刺激しないように、との大使の配慮かららしい。他の建物と異なり、大使館前には兵士らは配置されていない。それでも玄関先には参事官らがものものしい姿で突っ立ち警戒に当たっていた。まっ赤な防弾チョッキに白いヘルメット姿――これではどちらがケンカ腰かわからない、とおかしくなった。
「あまり遠くへ行かないで。ひとりで歩きまわらないでよ」
参事官の心配そうな声を背に、グエンフエ通りを、ゆっくり支局の方に向かった。まだ兵士たちの緊張が完全にとけたわけではない。ことさら目立った動きを見せて、いきなりズドンとやられてはたまらないので、のんびりと足を進めた。
きのうの朝、支局であわただしく別れたアカムさんとその家族のようすが気がかりだった。
勧業銀行の前に、それぞれ二十人ほどの兵士をのせた二台のトラックが止まっている。車体を覆う木の枝の擬装は、たった今、ジャングルからやってきたことを示している。この型式のトラックは、ずっと前、ネパールを旅行した時、ヒマラヤ山中の道路造りに活躍していたのを何回も目にした。中国製の「解放」型トラックだ。
トラックのまわりには早くも付近の商店街の人びとが集まり、傷だらけの車体や、荷台から突き出した対空機関砲、兵士らの携帯ロケット砲を、ものめずらしげに見ている。なれなれしく話しかけるヤジ馬たちに対して、兵士の方がかえって人見知りしている感じだった。
カメラを向けると、兵士たちはちょっと硬くなって、ヘルメットや軍服をただした。だが明らかに、この記念撮影を喜んでいるようすだ。数枚とり終えて「カムオン(ありがとう)」と声をかけると、いっせいに表情をほころばせた。
助手席の年配の兵士が、
「オム・グイ・ニャット(日本人かね)」
親しげに話しかけてきた。
「そう、日本の新聞記者だ。あなたたちはどこからやってきたの」
「ダナンだ。サイゴンまでちょうど二カ月かかった」
「ダナンの前はどこ?」
「ハノイ。ベンハイ川を越えてきた」
「今、何を考えてる?」
「とうとうサイゴンにきた。きれいな街だ」
残念ながら私のベトナム語の能力は、この辺までだった。
「だれかフランス語を話す人はいませんか」
とフランス語で問うと、兵士たちは当惑して首を振った。英語で試みても同じことだった。
支局のある外人向けアパートの中は、静まりかえっていた。居住者は大部分、脱出したか、各大使館に避難したらしい。アカムさんも老母の自宅へ逃げたかなと思いながら、三階にのぼり、支局のブザーを押してみた。
内部であわただしく人の動く気配がし、それからシンと静かになった。
「オレだ。コンドウさんだよ」とどなった。
何やら叫ぶ声がしてドアが開き、泣き出さんばかりの顔でアカムさんが飛び出してきた。
「ヤー、ムッシューか。無事だったか。よかったよ」
十四歳の娘のアリン、その二人の弟が衣装ダンスの中から姿を現した。
「ベトコンがきたと思ったよ。こわかった。ムッシューが戻ってきたからもう大丈夫だ」
アカムさんは字も読めない。もちろん政治も知らない。そのくせ、“ベトコン”は|疫病《やくびよう》神だと信じ込んでいる。これまで何回、
「ベトコンは貧乏な人には悪いことをしないよ。なぜこわがるんだい」
と聞いても、
「アカムさんわからん」
その唯一の日本語表現で応じるだけだ。まして今、動転している彼女に理屈を説いても無駄だろう。
「これからは“ベトコン”なんていっちゃいけないよ。ザイフォン(解放)さん、と呼びなさい。アカムさんが親切にすれば、向こうも親切にしてくれるからね」
とだけ念を押すと、神妙な顔で「ウイ・ムッシュー」と答えた。
支局の机は、いつもと変わらずきれいに整とんしてあった。資料が見つからなくなるので机には手を触れるな、といくらいっても、アカムさんには通用しない。私は受話器を取り上げ、ファングーラオ通りの実家の番号を回した。何回試みても話し中のサインだ。家の連中が電話を使うことはめったにない。
家は国警本部のそばにある。もしかしたら警察内部のタカ派が北・革命軍にタテつき、交戦があったのか。とすると、そのとばっちりで家にも被害が出たかもしれない。いずれにしろ、砲撃には慣れた連中だから、適当に避難しただろう。念のため、二、三の知人の番号も回してみたが、いずれもつながらない。本線のケーブルが何本かやられたのだろう。
五十時間ぶりにシャワーを浴び、ヒゲを剃って、(私が戻ってくるかどうかもわからなかったのに)アカムさんが洗濯しておいてくれた下着と半そでシャツに着がえた。
人心地がつくと同時に、急に疲れが出た。午後三時半、ふだんならシエスタの時間である。だが、北・革命政府軍の戦車が集結しているという大統領官邸のようすを見ておきたかった。
支局を出て市役所の方へ歩き出す。その途端、行く手に銃声が一発聞こえた。これを合図のように、突然、通り全体がはじけかえるような銃撃戦の音に包まれた。
私は立ちすくんだ。付近の建物にいた兵士たちが手に手に銃を構え、すごい眼をして四方にかけていく。サイゴン側残存兵士との市街戦が始まったのか。
のんびりムードは一瞬に消え、われにかえった私は、なにやら口々に叫びながら逃げまどう人びとといっしょに、一番近いキオスクの陰に転がり込んだ。あッという間に路上から人影が見えなくなった。小型ロケット砲を構えた兵士らのトラックが、フルスピードでレロイ通りの方へ走り抜ける。続いてまた一台。銃声が建物の壁にこだまするので、どこで発砲しているのかわからない。私はしゃがみ込んだまま、キオスクの壁に沿ってあたふたと移動した。
なるべく安全そうな方角にたえず身を動かしながら、どうしてこうたびたび、相手もわからぬ流れ弾の被害を避けて逃げまどわなければならないのか、とちょっとうんざりした。一昨日の夕方、空襲とそれが引き起こした政府軍側のめくらめっぽうの発砲騒ぎに冷や汗をかいたのも、すぐこの二、三軒先のキオスクの陰でだった。
ようやく、発砲音は、市役所裏手の国防省の方に集中していることがわかった。どうやら、国防省にとどまった一部の旧政府軍将兵が、武装解除に反対して、最後の抵抗を試みているもようだ。
最初の銃撃戦は、五分ほどで終わった。話し合いがついたのだろう。私はすっかり肝を冷やし、大統領官邸の方へ行くのをあきらめた。国防省は官邸へ行く途中にある。うっかり近づいたら、またバタバタと逃げ走ることになりかねない。
案の定、足早に大使館に引き返す途中、後方で二度目の銃撃戦の音が聞こえた。
これも、五分たらずでおさまった。
しかし、この乱射音に刺激されたのか、大使館周辺でも、散発的な銃声があちこちから聞こえ始めた。みんなライフル音だったが、どちら側が発砲しているのかわからない。河岸の兵士たちの表情は、再びけわしくなっていた。
午後六時、ラジオと広報車が全面外出禁止の布告を告げた。実際には、サイゴンは二十八日夕方の空襲直後から、全面外出禁止状態に置かれていた。昨日も今日も、このミン政権の最初で最後の布告は完全に市民に無視されていた。しかし、新たな主人の命令には、みんなが従った。
十分後、まだ明るい街路から、一般市民は完全に姿を消した。歩行者の絶えた道路を、モーターバイクの若者たちが、我が物顔に走り回っていた。多くは北・革命政府側シンパか、いっせいに正体を現した工作員たちらしい。だが、ずいぶんガラの悪そうな連中も少なくない。どうみてもにわかザイフォンとしか思えぬ与太者連中もかなり混じっているようだ。こうした連中までこれから何とか委員になりすまして住民管理をはじめるのだろうか。
静寂の中に暮れた“長い”日
大使館の電話はまだ通じた。
町には知り合いのフリーランスの記者やカメラマンが何人か“潜伏”している。
彼らの安否を気づかい何カ所かに電話を入れた。
若いカメラマンのO君は下宿にいた。
「無事だったか」
「ああ、でもすごい一日だった。生涯忘れられない日になりそうだ」
相手はまだ興奮し切っている。
北・革命政府軍の戦車隊は空港方面からでなく、首都に通じる四方の街道からほぼいっせいに突っ込んできたらしい。
O君は正午前、動物園近くのホンタプトゥー通りにいた。サイゴン橋をはさんで政府軍がなけなしの防衛線を敷いていた地点の近くだ。攻防が起これば接近してカメラに収めるつもりだったが、肝心の防衛線はもう消滅していた。
拍子抜けして大統領官邸の方へ引き返した。官邸からすぐ近くのカテドラルの裏手まできたとき、今きた後方の道で異様な騒音とどよめきが起こった。何十台ものモーターバイクが道路を埋めて猛スピードでやってくる。その後に見慣れぬ型のトラック部隊が続く。
一瞬信じられなかった。
「北・革命政府軍だ!」
と知ったとたん、
「足元の地面が崩れていくような気がしたよ。恐かった。でも、ものすごく興奮もした」
気がつくとモーターバイクや群衆にまじって、彼も走っていた。
「夢中だった。走りながら、死んでもこの機会を逃しちゃいかんと思ったね。トラックは次々と大統領官邸の方に向かう。ぼくも思い切ってその一台のステップにしがみついた」
「えらい無茶をしたもんだな。よく撃たれなかったな」
「いや、そんな雰囲気じゃなかった。ヤジ馬もみんなぶら下がっていたよ。で、気がつくともう官邸の中にいたんだ」
「官邸警備の空挺隊は発砲しなかったのかい」
「まったく無抵抗だった。だいいち、ぼくが入ったときはもう先着隊に武装解除され、上半身裸で芝生の上に一列に座らされていたよ。かえって北・革命政府軍兵士の方が拍子抜けし、何かとまどったようなようすだった。ときどき何人かが思い出したように、空にむけてライフルをぶっぱなしていた。威嚇というより祝砲のつもりじゃなかったのかな。それにしちゃ、あんまり威勢がよくなかったがね。連中もあんまり簡単に官邸を占拠できたのでまだ何も信じられないような表情だった」
しばらくしてから、本隊の戦車隊を従えて一台のジープがやってきた。指揮官らしい若い将校がつかつかと官邸に入って行った。O君らもドッとその後を追った。
ミン大統領は二階右手の執務室で、大きな机を前に端然と待っていた。左右には何人かのミン派の将校や高官がいたが、大統領の態度はひときわ堂々として貫禄があった。大統領は立ち上がって指揮官を迎えた。二人は机をはさんで直立した。
大統領の方が何かいい、指揮官が気負った口調でそれに答えた。群衆の一人がO君に通訳してくれたところでは、
大統領は、
「現在をもって、あなた方にすべての権限を委譲します」
これに対し、指揮官は、
「将軍、あなたにはもはや委譲すべき権限は何ひとつありません。われわれはすでに全土を完全解放しました」
と応じたそうだ。
このあと、指揮官はすぐ態度を変え、むしろ敬意のまじったいたわるような態度で将軍をドアに導き、どこかへ護衛していった。残された将校や高官はそのまま控え室に移されて兵士らの監視下に置かれたが、さすがに皆、悄然としていたという。
「このあとが愉快だったよ。先遣隊のトラック部隊は分散して市内要所の政府軍拠点の武装解除に向かった。ぼくもまたその一台のステップにぶら下がってついて行った。ところが驚いたね。運転手の若い兵士は全然、サイゴンの地理を知らない。ツゾー通りはどっちだ、海軍司令部はどっちだ、といちいちボクにたずねる。とうとうそのまま最後まで案内してやったよ」
住宅街の日本大使の公邸にこもっていたフリージャーナリストのK氏は、制圧後公邸付近で行なわれた掃討戦の激しさを語った。大統領官邸に行こうとした私を仰天させた銃撃戦は、この時のものだったらしい。
「公邸の建物にも、北・革命政府軍の迫撃砲弾が二発当たった。一発は二階で麻雀をしていた連中が階下に降りた直後、貫通して行った。死人が出なかったのは奇跡的だった」
と、K氏はいった。公邸籠城組のうち男連中は緊張に耐えかね、なかばやけっぱちで雀卓を囲んでいたらしい。
「でも、そのあとでもう一騒ぎあってね」
K氏は続けた。
命中騒ぎのあと、みんな気分を落ち着けるため酒を飲みはじめたそうだが、これがまずかった。緊張も手つだって一人が泥酔状態となり、
「共産側は、日の丸をねらって撃ってきたんだ。こんなところにいたら殺されちまうぞ」
と、庭に飛び出して暴れはじめた。
この物音が外にいた北・革命政府軍兵士を刺激し、たちまち一分隊ほどがバラバラと塀を乗り越えて飛び込んできた。
女性や子どもを含めた邸内約五十人の日本人は、全員ホールド・アップで庭に引きずり出された。手を頭の後ろに回してしゃがめ、と命令され、ためらったものは銃でアゴをこづかれたり、足げにされたりしたという。身体検査や家宅捜査が一時間以上も続けられた。
「最初は冗談かと思ったが、あまり相手が殺気立っているので、もうこれでてっきりやられると思った」
何回も戦争や動乱の取材をしてきたK氏が観念したのだから、本当に険悪な雰囲気だったのだろう。
「それにしても」
と、K氏は現場にいた旧海軍出身のある大使館幹部の態度を残念がった。
「それまでウィスキーをあおりながら、何事が起こっても慌てちゃいかん、オレにまかせておけ、と豪傑風を吹かしていたのに、庭に引きずり出されたら、そいつがまっ先に泣き出したんだ。へたに取り乱されたら全員の命が危ないところだったので、オレたちは必死で取り押えた」
夜に入ってようやくファングーラオ通りの妻の家と電話がつながった。
受話器を取ったのは姪のホアだ。
「おい、みんな無事か」
「全員無事よ。昼から家にこもってじっとしてるわ」
「君たちはどうしたんだ」
彼女はファングーラオの住人ではない。母親と妹二人といっしょに空港寄りのレバンジュエット通りに住んでいる。
「みんなでここへ逃げ込んできたのよ、今朝。こわかったわ。空港からレバンジュエット通りにかけて、ものすごい市街戦があったの。ベトコンのトラックがあたりかまわず射ちながらやってきたわ」
「死人はでたか」
「道の両側にゴロゴロ転がっていた。ほとんどが退却の政府軍だったけれど、シビル(一般住民)もずいぶんやられたわ。それで……」
その光景を思い出してか急に泣き声になった。
「こわかったわ。あんなの見たの初めて。みんな道の両側で血だらけで転げ回ってるのよ……。私たちも、もうダメだと思った。でもなんとか戦闘がおさまるのを待ってここへ逃げ込んできたの」
「よし、そこにいればもう大丈夫だ。あたりにも革命政府軍の兵士はたくさんいるかい」
「ええ、そこら中に」
「いいか、彼らは政府軍と違って規律正しい。絶対に逆らっちゃいけないよ。一家の連中にも必ずそう伝えてくれ」
何か障害が入って電話が切れた。
パニック状態の若い娘の報告だから、北・革命政府軍トラックが無差別射撃しながら大通りを進撃してきたという報告は、さしひいて受けとめねばなるまい。
しかし、K氏の話も合わせて、すべてがすべて気の抜けたような入城、というわけではなかったようだ。
日はすっかり暮れた。数人一組の北・革命政府軍パトロールが、河岸やグエンフエ通りを絶え間なく|徘徊《はいかい》し始めた。時おり思い出したように、遠くの方で銃声がする。
この日二度目のたきだしのニギリメシを腹につめ込んだ私は、残っていたビールをあけながら、その日の体験談、印象談に花を咲かせはじめた仲間を“クラブ”に残して、再び屋上へのぼった。
川向こうのニャベの石油貯蔵所と、背後の北方の空がまだ赤々と染まっている。石油貯蔵所の方角ではときおり、ダイダイ色の閃光がヤシ木立ちの影を浮き上がらせ、腹に響く爆発音がそのあとに続いた。どちらが火を放ったのかわからぬが、なけなしの石油を炎上させてしまうとはもったいないことだ。おそらく、北・革命政府軍も、この大貯蔵所の消火作業にまでは手が回るまい。戦闘部隊について化学消防班自体が到着しているかどうかも疑問だ。
水銀灯に照らされた目の下のグエンフエ通りは、恐ろしいほど静かだった。
建物の陰に沿って、一列縦隊の兵士らが、影のように巡視を続けている。その会話の断片や、ピタピタと地面を打つサンダルの音が、風に乗って聞こえてきた。
私は、ようやく、このサイゴンがまぎれもなく、新しい主人公の完全支配下に入ったことを実感した。
十一時過ぎ、家々の窓の明かりはほとんど消えた。通りの向こうのキオスクの横で、パトロールの一隊がタキ火を起こし、野営の準備にはいった。銃をキオスクの壁に立てかけ、背のうから毛布を取り出して、数人が車座に座り込んだ。何人かは黙々とタバコを吸っている。仲間同士、話がはずんでいるようすはなかった。湯をわかしたり、持ち物を点検する態度は、いかにも規律に慣れている感じだったが、指揮官も兵士も疲れ切っているように見えた。
海軍司令部と、その向こうニューポート方面の空に、いくつもの照明弾が浮かんでいた。そして、川向こうの空は、いつものように星がいっぱい輝いていた。
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[#地付き]一九七五年五月一日
踏みにじられる旧国旗
「占領」から一夜明けた。街には「解放」という言葉があふれていたが、早朝から街かどでひらたいヘルメットの武装兵士らの姿を見かけると「抑圧からの解放」という実感はわかない。
七時半、大統領官邸の方へ歩いてみた。ツゾー通りの突き当たりにあるカテドラルのあたりから通りに人の数が急にふえてきた。町の人たちがあちこちから官邸の方へと歩いていた。みんなも、大統領官邸がどうなったのか見ようと集まってきているようだった。
道の両側の広々としたタマリンドの木立ちの中には何台も何台ものソ連製T54型戦車、武装兵員輸送車、対空砲車、軍用トラック、ぼってりしてがんじょうそうな見なれぬ型のジープ……。車体も砲身も木の枝でカムフラージュされたままで、まるで野戦陣地のようだ。そのおびただしい数を見て、降伏直前のサイゴンが、文字通り|十重二十重《とえはたえ》に包囲されていたという情報をなるほどとあらためて納得した。
大統領官邸の正門に近づくにつれ、道路を埋める人の波はもう身動きができないほどの厚さになった。そのなかで、コカコーラや砂糖きびジュースの露店、風船屋などが早くも道ばたで店をひろげているのには驚いた。まるで縁日のようだ。
人の流れに押されて歩きながら、ふと不安を感じた。市内の政府側残存部隊の掃討は完全に終わっているのだろうか。昨夜も、銃声や郊外の砲声は一晩中続いていた。付近の建物にはまだ抵抗分子が隠れているかもしれない。自暴自棄の彼らが、この身動きも取れぬ群衆の中に手投げ弾でも投げ込んだらどうなるだろう。
二〇〇メートルほどの距離を二十分以上かけて、やっと官邸正面にたどりついた。泉水の向こうの白亜の建物には、弾こんも破壊のあともなかった。構内の芝生の庭を、多数の兵士が公園でもぶらつくように歩き回っていた。正門左側の鉄柵は、幅一〇メートルほどの部分が内側に傾いていた。昨日、戦車隊が突入したさいに押し倒したものらしい。
正門では、二十人ほどの武装兵が、あとからあとからつめかける群衆をけんめいに制している。なかにはなんとか構内に入ろうとして大声で兵士にかけ合っている人びともいたが、別にトゲトゲしい雰囲気ではない。「解放軍」の報道班がほうぼうに脚立をすえて、このありさまを撮影していた。ハノイの新聞には「解放の喜びにわくサイゴン市民」という写真説明がつけられるのだろうが、不安と物見高さの入りまじった群衆だった。
ようやく官邸前の雑踏を抜け出してパスツール通りに出た。
トラックに導かれて二百人ほどのデモ隊がやってくるのに出会った。大部分が若者である。学生らしい。プラカードの文字を見て、今日がメーデーであることに気がついた。
チュー政権時代もこの日は、官製デモが街をねり歩いたものだ。学生らは別に気勢をあげるでもなく、おとなしく歩いていた。先導のトラックの運転台の屋根に、にこやかにほほえむ故ホー・チ・ミン北ベトナム大統領のカラー写真が飾ってある。私はこの写真を前景にいれて行列をフィルムにおさめようと、歩道からカメラを構えた。それを見て、運転していた老年の兵士がわざわざトラックを停め、手で「もっと正面から撮れ」という合図をした。
車道の中央に出て露出をかえ、構図をかえながら、十枚ほどシャッターを切った。撮り終え、礼の会釈をして歩道に引きあげると、兵士は気まじめな表情を崩さず静かに車を発進させた。デモ隊もそのあとについてまたゾロゾロと歩きはじめた。
サイゴンいちの繁華街、レロイ通り。
歩道はふだんの休日にくらべると閑散とし、車やモーターバイクの量も昨日までとはうって変わって少ない。店舗もまだヨロイ戸を降ろしたままだ。こんな静かな朝の大通りを見るのははじめてだった。その代わり、ほとんどの家の屋根や窓は大小の革命政府旗で埋まっている。
入城後まっさきに出された解放軍の布告に応じたものだが、それにしても何と素早い町の変身ぶりか。みんな、こんな短時間にどうやって“新国旗”を手に入れたのだろう。
二十時間あまり前まで同じ屋根や窓にかかげられていた黄色い“旧国旗”が歩道のあちこちに散らばっている。人びとは目もくれず、ボロ切れのように、それを踏んで歩いていた。引き裂かれ泥まみれになって路上にはりついた黄色の布片をみながら、私は七二年の春、戦死した妻の甥のカンのことを思い出した。前線からトラックで運ばれてきた二十四歳の彼の遺体は、この黄色い布に包まれて、郊外の墓地に埋葬された。ちょうど今と同じ、雨期入りの時の、気が遠くなるほど暑い真昼だった。
市場もまだ閉まっていたが、果物の大道売りのおばさんたちはもう営業をはじめている。その“たくましさ”に感心したが、考えてみれば、町が“占領”されようが、“歴史が回転”しようが、果物は成熟を待ってくれないわけだ。“籠城仲間”に差し入れてやろうと赤ん坊の頭ほどのザボンを買った。
昨日までは一個二〇〇ピアストルぐらいのが五〇〇ピアストルにハネ上がっている。“解放”後最初の買い物だ。記念とご祝儀(?)を兼ね、値切りもせずに奮発して十個買った。
市場からさらに二十分ほど足をのばして妻の実家に行った。昨日、降伏の前後、高級住宅街ではかなりの略奪があった。しかし実家は庶民街のまん中にある。ホアとの電話からも、一家の無事がわかったので心配していなかった。ザボンの袋をかついでぶらぶら近づいていくと、チュン爺さんがいつもの通り、家の入り口にしゃがんで人びとの往来をながめ、その横でホアハオ婆さんがキンマの実を噛んでいるのが見えた。
日本人負傷第一号?
私の姿に気づいた爺さんが家の中をふりかえって何かどなった。“お袋さん”はじめ全員が、歓声をあげて飛び出してきた。“お袋さん”は、
「あんた、外国人だからもう殺されちまったんじゃないかと思ってたよ」と、ふとった体で私を抱きつぶさんばかりの喜び方だった。
ホアハオ婆さんはそれほど動じた風は示さなかったが、この“再会”に満足していることはわかった。フエが入れてくれたコーヒーを飲み、十分ほど家の入り口で休んでから、再びザボンの袋をかついで立ち上がった。別れぎわに婆さんは、
「しあさっては、お前の女房の亡母(つまり婆さんの姉)の法事だから、忘れずに正午にやって来い」
と、私に命じた。
まだシクロもタクシーも走っていなかった。小一時間の道のりを歩いて大使館の方へ引き返した。
正午過ぎ、そろそろたまらぬ暑さだ。ザボンの重さが肩にくい込み、なんでこんなものを買ってしまったか、と後悔しはじめた。
目に入り込んだ汗をぬぐいながら、勧業銀行の前まできた時、突然、激しい衝撃を左肩に感じた。すれすれに横を走り抜けたモーターバイクの荷台の若者が、私のカメラをがっしり握っている。カッと腹を立て踏んばったが、数メートル引きずられ、ガマガエルのように地面に引き倒された。十個のザボンが二〇メートル四方に転がった。周囲にはたくさんの兵士がいたが、一瞬のできごとで誰も気づかなかったようだ。バイクはフルスピードで河岸の方に姿を消した。一人のかみさんが遠くに転がったザボンを夢中で拾い集め、路地にかけ込んでいくのが見えた。
通行人の何人かが、残りのザボンを集め、苦笑いしながら立ち上がった私のところへ持ってきてくれた。ズボンのヒザが破け、両ヒジの擦過傷は思いのほか深かった。オメガの腕時計も同時にやられていたことに気がついた。サイゴン名物の“ホンダ・カウボーイ”だ。
大使館に戻ると、玄関先で出会った参事官が、
「どうした!」
顔色を変えた。いわれて左の顔面をぬぐうと掌は血みどろだ。転んだとき、どこか切ったらしい。
「何でもないよ。かすり傷だ」
事情を話すと、
「いや、ひどい出血だ。日本人記者重傷と本省に打電しなければ」
「冗談じゃない。みっともないからやめてくれ」
「とにかくすぐ消毒してよ。医務室に誰かいるはずだ」
「いや、ほんとうにただのかすり傷だよ」
小心だが親切な男だ。応急薬を取りに自ら医務室に飛んでいった。
この町での三年以上の生活を通じて初めての被害だった。それも“解放”第一日目にやられるとはまったく間の抜けた話だ。昨日の布告に「路上の強奪者はその場で厳罰に処す」とあったので、完全に油断していた。それにしても革命軍兵士らの目の前で、“解放”第一日に堂々とやってのけた“カウボーイ”の根性にはキズの痛さも忘れて感心した。
[#地付き]一九七五年五月二日
交信手段を絶たれる
サイゴンと外国との交信が全面的に断たれた。国外への電信電話連絡は、すでに北・革命政府軍の首都制圧直後に途絶していたが、私たち日本人記者団は、その後も大使館のテレックスで最小限度の送稿を続けていた。このため、制圧後約十時間は、東京経由で日本特派員電が独占的に、その後のサイゴンのようすを世界に伝えることになった。
シンガポールからのBBC放送でこれを知ったAP通信、ロイター通信などの特派員は、たいそうくやしがった。西側記者、とくに米人記者の多くは陥落直前に脱出したが、競争が激しい通信社は一部スタッフを縮小しながら残留している。AP臨時支局長のジョージ・エスパー記者らは、「なんとかオレたちにも短文の原稿でいいから送らせてくれ」と日本人記者団に頼み込んできた。
エスパー記者はサイゴン在住十年以上、私も何かと世話になった相手である。しかし、こればかりは“武士の情”ともいかなかった。せめて、自分たち米人記者が全員無事であることだけは、メッセージの形で東京支局へ伝えてくれ、と相手も食い下がった。これまで拒絶するわけにはいかなかった。陥落後、どこかの通信社の誤報で、「米人記者ら処刑」の噂が東京あたりにまで流れていると聞いていたからである
APもさるものだ。「全員無事、生活正常」を伝えるメッセージは、みてきたような情景描写まで加えて、長々とリライトされ大々的に世界に流された。
その晩のVOA(ボイス・オブ・アメリカ)放送でこれを聞いて、こんどは私たちが飛び上がる番だった。後の祭りだ。それにエスパー記者らは、メッセージにたくみに暗号でも含ませて、ほんとうにうまうまと送稿したのかもしれない。
二日午後には、私たちもこの唯一の送稿手段を失った。大使館テレックスの使用はまずいという東京外務省の判断からである。
「サイゴン籠城は長期化するだろう」と、私たちは話し合った。
あまりにも北・革命政府側の軍事制圧が素早かったので、行政組織の確立やその始動が追いつくまい、という判断からである。少なくとも一カ月ぐらいは国を出られまい、と私は見込みをつけた。治安はもう心配ないようにみえた。町は、信じられないほどの早さで活気を取り戻し、半数以上の店やレストランは営業を再開している。
大使館を出て、ツゾー通りのカラベル・ホテルに戻ることにした。
ボーイの案内で部屋にのぼる途中、じゅうたんが敷きつめられた各階の廊下のすみに、数人ずつの兵士が銃をかかえて、座ったりうずくまったりしているのを見た。そのあかまみれの戦闘服姿に場違いな印象を受けた。
大部分は私たちを見ても知らぬ顔をしていたが、階段ですれ違った連中の中には、ちらりと私の顔に目をやって、「チャオ・オム(こんにちは)」と、はずかしそうにつぶやいていくものもいる。突然慣れない世界に身を置いて、何か気がねをしているような態度だ。
いくつかの部屋には、将校らが滞在しているようすだった。
部屋の電気は切れておらず、浴室のお湯ももと通り出た。将校が宿泊しているためかな、と思ったが、支局や大使館でも停電はなかった。ベトナム電力公社の副社長が、革命政府側の潜伏幹部で、このため首都圏一帯への給電に支障が生じなかったことをあとで知った。
通された部屋は、下院前広場に面した五〇三号室、偶然ながら市内にロケットが降りはじめてから、不成功に終わった退去騒ぎまでの数日間を過ごしたのと同じ部屋である。
四月二十九日の明け方、この同じ窓から炎上するタンソンニュット空港の空をながめ、「退路は断たれた」と腹を決めたのだが、それが遠い昔のことのように思われた。あの晩飛び込んできた黒髪のフランス女性は今、どこでどうしているだろう。
彼女がいた隣室から、ピストルをつけた兵士がばかにかしこまって出てきた。どうやら今、北・革命政府軍の高級将校が入っているらしい。
銃殺死体
夕方、ロビーに集まってきた外人記者の一人から、市場前広場に死体がひとつさらしてある、と教えられた。
町はラッシュ・アワーだった。旧駅前のバス・ターミナルには勤め帰りの中年男やOLたちの行列が渦を巻いている。公務員への職場復帰命令がかなりいきわたっていることがわかった。
駅前に店をならべたソバ屋や揚げものの屋台も、客でいっぱいだ。エビやカニやブタ肉をふんだんに添えたベトナムうどん。夕食ではなく、食道楽のサイゴン娘にとっては、帰宅前のちょっとした腹ごしらえである。ドリアンの甘い香りが漂い、私はまたしても、このサイゴンが“解放”され、“歴史が回転”したという実感を失った。
あちこち探し歩き、半分あきらめかけた時、ようやく広場はずれのガソリン・スタンドのわきにそれらしい人垣ができているのを見つけた。人垣の中に、野戦警官の制服を着たガッシリした体格の男の死体があおむけに置いてあった。
三十歳ぐらいか、チョビヒゲをはやした短髪の、強そうな面構えだ。固く閉じた両眼や、鼻、口のあたりにコーヒー色の血がかたまり、ハエがたかっている。死体は行儀よく、手足をまっすぐ伸ばして横たえられ、腹の上に太字のフェルトペンで何事か書き記した灰色のボール紙がのせてあった。むらさき色の両足はハダシだった。ヤジ馬の一人が片言の英語で、
「このものガソリン強奪の常習者。市民から四リットル奪い、治安維持者に抵抗したため処罰を受けた」と、ボール紙の文字を翻訳してくれた。
着衣を弾丸が貫いたあとはない。それに制圧後、堂々と警官の制服姿で出歩く者がいるとも考えられない。野戦警官の制服は、効果をねらってあとから着せたのではないか。あるいは死体がそう新しくなさそうだったので、入城のさい一部の抵抗を制圧した時に出た死体を見せしめに利用したのかもしれない。
粗末なアオザイ姿の夫婦者らしい老人と老女が、かわるがわる死体の真上に身をかがめ、両手を合わせた。ヤジ馬たちの表情は暗かった。大部分のものが、人垣の後ろからちょっと死体をのぞき、ボール紙の文字に目をやっただけで、そそくさと離れていった。
かたわらのガソリン・スタンドでは子供たちが鬼ごっこに興じ、そこから一〇メートルと離れていないキオスクでは、何組かの恋人たちが肩をよせ合ってむつまじげにコカコーラを飲んでいた。
[#地付き]一九七五年五月三日
「ベトナムは生まれ故郷」と仏人女性
“失業”第一日目である。送稿手段がないと思うと急に勤労意欲もなくなった。東京もゴールデン・ウィークのまっさい中でどうせ浮かれているだろうから、こっちも骨休めをしよう。
朝十時頃まで部屋でごろごろしていると、K君が来た。いっしょに九階の食堂で朝食をとる。ここは相変わらずの別世界である。昨晩も太ったボーイ長が悠々とした物腰で客の注文を取って歩き、そのさしずのもとで白服のボーイたちがきびきびと動き回っていた。顔なじみになったマネジャーのフランス人のおばさんに聞くと、“解放”当日の夜も残留記者でにぎわい、ふだんと同じだったという。
「解放だろうが革命だろうが、食事はしなければなりませんからね」
政権の主が変わっても、彼女はサイゴンを離れる気はないらしい。五十歳なかば、もしかしたらそれ以上かもしれない。ふだん着姿なら、まったくパリの下町のカフェのかみさん、といった感じの、抜け目なく威勢のいいおばさんだ。ずっと前に夫をなくし、それ以来この食堂のマネジャーをしている、という。夫は医師で中国人とベトナム人の混血だったそうだ。
「私にとってベトナムは生まれ故郷だし祖国ですよ。今さらフランスに帰っても暮らせるあてがあるわけじゃなし、ええ、私は何が起こってもここにいますよ」
革命政権になって、将来が不安ではないか、と聞くと、
「不安に思う連中はもうとっくに本国に帰っちゃいましたよ。私は、日本軍占領時代も、ゴ・ジン・ジェム時代(ジェム政権は徹底的な反仏政策をとった)も切り抜けてきた。クーデターも何回経験したか――」
今さらこのくらいのことで驚かない、といった口ぶりである。彼女は日本軍の将校がフランス女性にいかに親切で丁重であったかを話し、それから私たちは仲良しになった。
今朝は、おばさんの姿は見えない。
窓の外は、相変わらずいやになるほど明るい太陽の下に息づくサイゴンの家並みだ。並木や官邸周辺の森の緑と、レンガ色の屋根のとりあわせが、美しい。ただ青空の下でいたるところに赤と青の革命政府旗がひるがえっているのだけが以前とちがった。
変わり身の早い中国人街
朝食後、K君とサイゴン隣接の中国人街チョロンのようすを見にいくことにした。K君は食堂から支局に電話をかけて、彼の通訳を引っぱり出した。
車をとりに市役所前のガレージにいくと、三台のバスが到着し、百五十人ほどの軍服姿がぞろぞろと市役所の建物に入っていくところだった。皆、中年以上で、兵士ではなさそうである。市の新しい中堅職員が来たのかもしれない。私たちも彼らにまじって建物の中に入った。
一階のホールは、同じような年配の軍服姿でいっぱいだ。ものめずらしげに壁や高い天井の彫刻を眺めたり、左手の控え室のソファの座り心地を試したりしている。
何人かに英語とフランス語で声をかけたが、英語はほとんど通じなかった。フランス語を話す連中は、私を新聞記者と知ると「我々は責任ある回答をできる立場にいないので、奥で幹部に聞いてください」といった。
ホール奥の一隅に、人垣ができていた。事務机を前にした白シャツ姿の青年が次々と書類にサインをしながら、何か人びとにさしずをしている。赤い腕章をつけており、その場のようすから、この青年が、一団の最高責任者であることがわかった。政治委員か何かだろう。通訳が私たちを紹介すると、椅子から立ち上がり、親しげに手をさしのべてきた。
「オハヨウゴザイマス」
「おや、日本語を話しますか」
フランス語できくと、相手は笑った。
「いいえ、この一言だけです。これから勉強しますよ」
日焼けした顔に黒ブチのメガネ。やせて背の高い、いかにもたくましいインテリ行動家といった感じの青年である。「十分間ほどインタビューの時間をもらえないか」という私たちの申し入れを、彼は「申し訳ないが、今私たちは一分間も手がはなせないほど忙しいんです。いずれゆっくり話しましょう」と、ていねいだが、きっぱりとした口調で断った。
市役所を出たあと、K君の通訳が、「彼らは皆役人です、北ベトナム人です」といった。私も発音から見当がついていた。こうした中堅官吏たちが、今後、どんどんハノイから送られてくるのだろう。
チョロンは大変なお祭り騒ぎだった。大通りも路地も、窓という窓に革命政府旗が掲げられ、“祝解放”“祝革命委員会”のタレ幕で、町全体が満艦飾である。革命政府旗とならんで、はやばやと北ベトナムの金星紅旗を掲げている家も多い。前に国府旗がひるがえっていた葬儀場横の学校のポールや門柱には、中華人民共和国の五星紅色旗までひるがえっている。
「すげえな、これは」
サイゴン地区と段違いににぎやかな旗の洪水に、K君も呆れた声を出した。
「これも一種の、白髪三千丈か」
と思った。
突然の変化にまだ人見知りしている感じのサイゴン地区の繁華街にくらべ、市場も商店街も手ばなしの活況ぶりである。レストランも道ばたの屋台も、くったくない顔の中国人たちで大にぎわいだ。
中心部のドンカン通りに入り、地区の革命委員会を訪ねた。鉄条網と土をつめたドラムかんに守られたこの一角は、「解放」前は第五区警察署の本部だった。
入口には「第五区人民革命委員会」のタレ幕が掲げられ、黒服の少年たちが次々と到着する小型トラックの荷台から、銃をかかえて内部に運び込んでいる。旧政府軍兵士らからの武器狩りだろうが、いかにもカラリと明るい作業ぶりで、厳しいムードは少しもない。入口の連中に身分と来意を告げると、すぐ中にいれてくれた。案内の黒服について中庭を抜ける。ここにも押収したM16ライフル銃や手投げ弾や実弾のつまったままの機関銃の弾帯がピラミッドのように積み上げてあった。
木造の粗末な建物の、ガランとした事務室で、人民革命委最高委員と名乗る五人の男に迎えられた。多忙なので会見は二十分間だけにしてくれ、という。
私たちがあいさつをかわしている間にも、何人かの男女が、委員らのサインを求めに書類を持って部屋に入ってきた。委員はみんな、色シャツにサンダル履きで、堅苦しいところはひとつもない。中の一人が私たちの質問を漢字でメモしているのを見て、「あなたたちは中国人ですか」ときくと、「そう、みんな中国人です」と答えた。五人とも北・革命軍といっしょにやってきたのではなくずっとチョロンの住民だった、ふだんはサラリーマンとして勤め、時々、郊外の解放区に連絡や訓練のために出入りしていた、という。
まん中の、日焼けした小ぶとりの四十歳がらみの男が委員長格らしい。他の四人にくらべると彼にはいくらか“闘士”らしい鋭さが感じられた。それでも、もし屋台で見かければ、気楽な商店の若旦那といった感じの男だ。
名をたずねると、革命委の仕事は個人でやっているわけではないので、と本名はしぶり、「私は仲間うちで、“バー・ホア”と呼ばれてます。通称“バー・ホア”としておいてください」といった。バーは数字の三だが南ベトナムでは三男ではなく次男をあらわす。ホアは「ホアビン(和平)」のホアだ。日本流にいうと、「和次郎さん」ということになる。
「第五区革命委は解放と同時に、まっ先に旗上げをしました。サイゴンのどの地区よりも、私たちの仕事はスムーズに進みました。一日目は区役所幹部や町内会の老人たちの中に若干抵抗を示すものもありましたが、私たちの説得ですぐ革命委の側につきましたよ。ええ、中国人同士の流血事件や報復など一つもありませんでした」
と、和次郎さんは一気にしゃべった。たしかにちょっと見ただけでも、この地区の人民管理は驚くべき早さで進んでいるように思われた。
「しかし人民革命委は、新政権樹立までの暫定存在にすぎません。私たちは一時的にこの地区を管理しているだけで、新政権ができれば、革命委の仕事は終わります。私ももとの一般市民に戻ることになるでしょう」
とも、和次郎さんはいった。
「チョロンは従来その財力でチュー大統領を全面支援しているように思ってました。それなのに、どうしてこう簡単にあなたたち革命側の掌握がはかどったのですか」
と、私はたずねた。
和次郎さんは、
「革命政府の政策は、私たちに対して、国籍選択の自由を認めています。ゴ・ジン・ジェムの同化政策のおかげで私たちはベトナム国籍の取得を義務づけられました。中国人の多くは、これを不満に思っています。革命政権になれば中国国籍を保持したいという私たちの望みもかなえられるでしょう。だからチョロンの人びとはずっと以前から、心の中では革命政府に好感を持っていたのです」
と説明した。
帰りがけ、大小の五星紅色旗がにぎやかに掲げられた学校の前を通りながら、私たちは「やっぱりこれはちょっと行き過ぎではないか」と話し合った。
ハノイと北京の関係は必ずしもしっくりいっていないように思えたからだ。
「オレも北ベトナムの兵士たちに随分聞いてみたが、ほとんどが、“中国はきらいだ”といっていたよ」とK君はいった。
微妙な中国人の立場
チョロンのこの不自然なまでの“祝革命”ムードを目の当たりにして、かえって今後の南ベトナム再興の過程で、人種問題とくに中国人対策は新政府にとって面倒な課題となってきそうな気がした。
東南アジア諸国はたいがいどこでもそうだが、ベトナムも単一民族国家ではない。
約千年前、北方からのベトナム人は、インドシナ半島東海岸部の先住民族であるチャム族と闘いながら「南進」を開始し、十八世紀には、インド文明の影響下にあったチャム王国を完全に滅亡させた。生き残りのチャム族は現在、サイゴン北方、メコン・デルタ、中部海岸ファンラン地方などに分散し、総数約五万人といわれる。
チャム王国を滅ぼしたベトナム人はさらに南に進み、十八世紀末には半島南端に達した。南端のメコン・デルタ国境地帯には、やはり先住のカンボジア人約四十万人が今も共存し、店の看板もベトナム語、中国語、カンボジア語と多彩である。
このほか、中部には、モイ(ベトナム語で“野蛮人”の意)と総称される多くの山岳部族が散在している。総数約七十万人といわれるが、正確な実体はつかめていないようだ。多くは山中に孤立し、焼畑農業を営み、それぞれの言語、風習を固く守っている。
山岳民族は、この戦争でひどい目にあった。一九五〇年代は、ゴ・ジン・ジェム大統領の強圧的な同化政策が、彼らの多くを解放戦線側に走らせた。米空軍が山岳地帯にナパーム弾の雨を降らせるようになってから、広大な原野に住んでいた山岳民族は、“保護”のために国道沿いに集中させられた。原始的な生活から、いきなり、機械文明と貨幣経済の中に投げ込まれた。
だが、今後の新政権の最大の難問は、百数十万人といわれる中国系人の取り扱いだろう。彼らの多くは、清朝支配から逃れてきた明の亡命者の子孫である。時にはベトナム人に「南進」の先陣として使われながら、サイゴン市内チョロン地区をはじめ、南部各地に強力な共同体を形成した。そして、他の東南アジア諸国の華僑と同様、つねに時の支配者や外国資本と密着して、地元の民族資本を窒息させつつ、独特の商活動を発展させた。現在、南ベトナムの経済活動の八〇パーセント以上は直接、間接にこれら中国系人の掌握下にあるといわれる。
南ベトナムが今後社会主義、民族主義体制の下で国の再興をめざす以上、中国人からの経済支配権の奪還は当然のプログラムとなるだろう。
しかも国造りのカジを取っていくのは明らかに北ベトナム指導層だ。ハノイ─北京の政治的関係は別として、南ベトナム人よりはるかに気性がきつく、中国人に対して歴史的に曲折した感情を持つ北ベトナム人が新生ベトナムの主人公になれば、チョロンの立場はこれまでよりずっと微妙になるだろう。
和次郎さんたちもそれを見越して、なりふりかまわず新たな主人公に|媚《こび》を売っているのだろうが、遅かれ早かれチョロンが“迫害”をこうむることは確実だろう。いずれにしても、今までの立場が異常すぎたのだ。
昼過ぎ、サイゴンに戻った。
市場の前を通りがかった時、昨日の死体がまださらしてあるのがちらりと見えた。この暑さではひどいにおいだろう。もうヤジ馬もほとんどいなかった。
その後何日かしてサイゴンとその周辺地区ジィアディンを管轄する軍事管理委員会は、市民に対し総ての外国国旗の掲揚を禁止する通達を出した。通達の目的がチョロンの五星紅色旗の追放にあることは明らかだった。
[#地付き]一九七五年五月四日
気骨を示した将軍もいた
長期籠城となると懐具合の心配もしなければならない。ホテルの朝食は高すぎる。朝は筋向かいの喫茶店ですませることにした。
店の入口の横で行商人がドリアンの山を前に客を呼んでいる。そろそろシーズンのさかりらしい。その特有の香りと、皮の割れ目からのぞくクリーム色の果肉に大いに心が動いたが、ピアストルを大切にしなければ、とあきらめた。マンゴー、マングスチンなどに比べ飛び抜けて高い。中位の大きさでも一個三千ピアストルもする。
以前はシーズンになると週に二回の割りで妻とチョロンの市場に五、六個まとめて買い出しにいった。よほど慣れていないとおいしい実が選べない。まずいのをつかまされたらとても喉を通らず、カネをドブに捨てるようなものなので、妻はいつも一時間近くかけて慎重に選んだ。
奥の席に、ロイター通信とVISニュースの記者の姿があった。私も仲間に加わった。サイゴン陥落直前に旧政府軍の将軍らはほとんど全員、国外逃亡した。ロイター記者が、これまでに確認された逃亡将軍の名前のメモを読み上げた。
最後までチュー大統領に強硬抗戦をせまり、新聞記者らから“チュー体制の五匹のトラ”といわれていたグエン・バン・トアン第三軍管区司令官、グエン・バン・ミン首都圏防衛司令官、グエン・カク・ビン国家警察長官、チュン・タン・カン海軍司令官、グエン・バ・カン首相らもみんなドタン場で逃げた。
「結局、軍よりも警察が最後までチューをやめさせなかったらしいね」
「双璧はビン国警長官とサイゴン市警長官のチャン・シ・タン将軍だ。四月はじめ以来、この二人が毎日チューに会って、留任を説得したらしい」
国警やサイゴン市警では、百人以上の佐官クラスの幹部警官が逃げ遅れ、なかの何人かはもう自殺した、という。
軍部でも、ファン・バン・フー第二軍管区司令官、グエン・コア・ナム第四軍管区司令官ら将官クラス数人が、サイゴン陥落後、自決したことが確認されている。みんな有能な野戦指揮官として、一般国民には比較的評判のいい人たちだったが、チュー大統領にはなぜかうとまれていた。
ナム将軍の場合は、一種の“憤死”だったらしい。一戦も交えずに守備範囲のメコン・デルタを、北・革命政府軍に明け渡すことに不服だったが、ミン大統領の投降命令を忠実に全軍に下達し、その直後、副司令官のレ・バン・フン将軍と共にピストル自殺した、という。
暗い話だったが、何か救われたような気もした。腐敗したサイゴン体制の中にだって、それなりに気骨のある人はいたのだ。
法事に出向く
正午、ホアハオ婆さんにいわれていたのを思い出し、ファングーラオ通りの法事に顔を出した。
さすがに“非常時”で略式にしたのか、いつもくる興栄寺の和尚さんの姿はない。その代わり、兵士住宅を追い出された衛生軍曹のダンが、女房と一族を引きつれて転がり込んできた。
年齢はもう四十五、六歳だが、妻の甥で、必要なさいはボディーガード兼荷物持ちだった。七一年、赴任して間もなく知りあった時、子供が十人いるときいて呆れたが、今はまた二人ふえ、ちょうど一ダースになっていた。
軍服を着ていると、なかなか精悍な面構えだが、女房を恐れ敬い、一ダースを食わせていくために勤務の合い間にはホンダの流しに精を出す模範的な家庭人である。
一度、レバンジュエット通りの近くの兵士住宅に招かれた。十二人(当時はまだ十一人だったかもしれない)の子供で超満員の長屋を、それでも小ぎれいに整理して住んでいた。冷蔵庫もテレビもあった。わざわざ食事時間を外して行ったのにカニやブタやアヒルの料理を所せましと並べて待っていたのにはおどろいた。家族の半月分の食いぶちではないか、と思った。ダンは大喜びで、近所の兵士やその家族を部屋に引っぱり込んでは、これは自分の叔父だ、と私を紹介した。
そのダン一家が転がり込んできたので、実家の土間はまるで幼稚園の教室のようなにぎやかさである。
二階の仏壇はきれいに灯明で飾られ、両側にピンクと白のグラジオラスがどっさりいけてある。今どきどこでこんなに花を見つけ出してきたのだろう。
まずホアハオ婆さんが、次に私が、それから子供も含めて二十数人が、一人ずつ長い線香をあげ、床に額をつけて拝んだ。
婆さんが、この場にいない妻の分も合わせて六回拝んでくれ、というので、その通りにした。
みんなで土間に集まって、ブタの煮ころがしと酢づけのモヤシを食べ、法事は終わった。
ダンは、家族にケガ人もなく、戦争が終わったことを喜んでいた。もう何カ月か戦争が続けば、長男が兵隊にいかなければならないところだった。ただ、兵士住宅の庭に大切に飼っていた三頭のブタを“ベトコン”に接収され、食われてしまった、とタメ息をついた。
私たちは、ダン大家族のこれからの生活について話し合った。彼は前から、戦争が終わったら町でタクシーの運転手をやるか、田舎にいって百姓とブタ飼いをしたい、といっていた。どちらにしても、ここ二、三カ月はムリだろう。
兵士住宅を立ち退く時、一応、めぼしい家具は持ち出した、という。それなら情勢が落ち着くまでここに居候して、ゆっくり新しい生活を考えればいい、というと、夫婦は大喜びで何回も礼をいった。働きものの女房は、明朝からさっそく市場で果物を仕入れてきて家の前で売ろう、といった。
法事に出席した私は、“革命”も“解放”もベトナム庶民の精神風土を一朝に変革できまい、と思った。「コン・クイ」や「コン・マ」がいつも家や町中を歩いているのと同様に、多くのベトナム人は先祖の霊魂と一生同居しているようだ。
ベトナムの田舎道を走って最も特徴的な点景は、田畑のいたるところにつくられた立派な墓である。
冠婚葬祭のための過重な出費は、かつて小作農を高利貸しや地主に縛りつけた。そのご、(とにかくあまりに死人が多く出過ぎたので)墓も葬儀も簡素化の方向にあるというが、それでも日本などにくらべると、まだたいそうなものだ。妻の母が死んだ時も、私は七日間の通夜に付き合わなければならなかった。
ベトナムでは、霊魂は不滅で、多くの人びとの心の中で、|輪廻《りんね》の思想が、たまゆらのように脈打っていることをつくづく感じる。先祖の霊はいつも家を見守り、あるいは監視しているらしい。「私の田舎では、村人は、ニワトリなどを盗まれても、わざわざ探しになんか行きません。盗まれたものは、翌朝、村の広場に行って、喉がかれるまでののしるんですよ、ドロボウをののしるのではなく、そのドロボウの先祖をののしる。それからさっさと家に帰ってしまう。すると、あなた、翌朝にはちゃんと、ニワトリが戻っているんです」
北ベトナム出身のある旧南政府高官が、おかしそうにいったことがある。
とりわけ、彼の出身地方の、ののしりことばは、「悪魔も顔を赤らめるほど」えげつないのだそうだ。先祖を対象にして、これを村中にわめき散らされたら、いくら盗っ人でも恐れ入ってしまうのだ、と彼はいった。
死んだ息子や娘に会いに、町の霊媒師を訪れる母親も多い。私の知っている婦人も、こうして、戦死した息子に会った。そして翌日、パジャマ一組をバッグにつめて、遠くメコン・デルタのはずれにある、連隊の戦死者墓地へ出かけていった。霊媒師が招いた息子が、
「寒くて夜眠れない。パジャマがほしい」といったからである。
そこで、いつ戦場となるかわからぬ炎天下の道路を、一日スシづめのバスに揺られていった。
彼女は、息子が成人するまで、本名で呼ばなかった。「ヒャオ(ブタ)」と口汚く呼び捨て、周囲にもそう呼ばせた。
正式の美しい名前を口にすると、悪霊がねたんで、とりつき、子供が早死にする、という言いつたえからである。
「ヒャオ」とか、「チョー(イヌ)」とか呼ばれる子はまだ運のいい方で、ひどいのになると男女性器の俗称を子どもの“幼名”にあてがう親もいる。
同じ理由から、「かわいいね」と赤ん坊をほめると、両親はイヤな顔をする。「イエ・ゲック(なんて汚らしい子どもだ)」と、赤ん坊のアゴの下を軽くこづいてけなすのが、両親への礼儀である。
こうした風習は、米国式の消費文明の洪水の中でも、なお根強く生き残った。
北と南の親たちが、いくら「ブタよ、イヌよ」と大切に育てても、戦争という悪霊が腰を落ち着けている限り、子供たちはいつかそれにとり殺される運命にあった。
少なくとも悲しい死をとげるものが無くなった今、霊媒師の不況時代が始まるかもしれない。
[#地付き]一九七五年五月五日
「|同志《ドンチ》」到来にとまどう高級官僚
“失業”が続く。
何もすることがなくなると、てきめんに体の調子が崩れ出した。胃がもたれ、食欲がなくなり、少し動くと胸や額にすぐ玉の汗が吹き出す。ひったくりにやられた時のキズの化膿を恐れ、毎日やたらと抗生物質を飲んだのも原因らしい。
それに、いよいよ金が心細くなってきた。退去騒ぎのさい、手持ちのピアストルはほとんど始末してしまっていた。ドルはあったが、交換しようにも銀行がしまったままだ。ヤミ売りはまだちょっとこわい。相場が立っているかどうかもわからない。
いざとなれば、大使館の“緊急融資”をあてにできた。だが、その前に、取材も兼ねて銀行再開の見込みを調べておこうと、五日夕方、知り合いの国立銀行幹部の自宅を訪ねた。
日の落ちた町を、シクロで走るのは気持ちがよかった。
崩壊寸前のグエン・バン・チュー政権は、このサイゴンの風物詩ともいえるのどかな乗り物を全面禁止した。車夫にまじって、共産側の工作分子が町に浸透するのを防止するとの理由からだった。たしかに私も四月に入ってから、急に新顔の車夫がふえたのに気がついた。家に帰る時、ファングーラオ通りの名を告げても見当違いの方向に走り出そうとするやつに再三出くわした。だが、全面禁止は、本物の車夫にとっては酷な措置だと思った。
「兵隊をやめたら車夫になる以外ない」と、就職難の若者たちが口にするほど、社会末端層の職業である。その日暮らしの日銭が入らなければ、車夫もその家族もすぐ干上がってしまうのではないか。
私の乗り付けシクロのクワンのおっさんも禁止以来毎日、支局の前をうろつきながら買い物客の荷物運びで急場を切り抜けようと懸命だった。会うたびに、
「腹が減った」と情け無い顔をするので、ソバを御馳走してやった。
“解放”後、シクロは自然に復活した。
車夫の多くは老人である。貧乏な年寄りがぜいぜい息を切らしながらこぐ乗り物にふんぞり返って町を行くのは、どうも“ブルジョワ的”な気がして、革命政権下では気がひけたが、北・革命政府軍の兵士らも平気で乗り回している。
クワンのおっさんも張り切って仕事を再開し、町で私を見かけるといつも、
「アローッ」(英語のハローと同意)と片手をあげてよこした。
国立銀行幹部T氏の家は、市場前を横切って、旧国家警察本部の少し先にある。少なからぬ因縁で、私とは兄弟付き合いの間柄だ。
私が知っていた旧体制の高級官僚や政治家の大部分が国外逃亡してしまったのに、彼は最後まであわてず、体制が変わっても、もと通り勤めを続けている。政治に縁のないテクノクラートは迫害されない、と思っているらしい。もともと楽観的な南部人なのだ。
相手は高級官僚にしては簡素な、古アパートの薄暗い居間で、ブタの臓物の煮込みをサカナに、一人で夕食前のコニャックをやっていた。
「早く銀行を開いてくれなければ、みんな文無しになってしまうよ」
と、煮込みをつまみながらいうと、
「オレだって、もうポケットにはタバコ銭しかないんだ。出勤はしても、やる仕事がないんで、毎日デスクで昼寝してるよ」
すでに銀行にはハノイから百五十人ほどの専門家が乗り込んできたが、
「連中が何をやろうとしているのか、さっぱりわからない。早くピアストルとドン(北ベトナム通貨)の交換レートを決めて、ドンを南に流通させろ、というやつもいたが、“むちゃいうな。準備に数カ月かかる”と抗議してやったよ」
どうも、市中銀行の早期再開は絶望的なようすだった。
「公用車も召し上げられ、この年齢で自転車通いさ。おまけに銀行に乗り込んできた二十歳そこそこの娘たちを“ドンチ”(同志)と呼ばなければならない。おかしなことになったよ」
さすがにヤケ気味で、コニャック・ソーダをガブリと飲んだ。
「こんなもの早く片付けちまわないと、にらまれるかもしれないからな」
と、ビンの首をもって残りの分量を検分していた。
帰りがけ、通りのあちこちで、ガス欠の乗用車や軍用トラックを、兵士らが押しているのを見た。
けさ会ったサイゴン病院の久保田医師が、
「せっかく戦争が終わったのに交通事故が多くてかなわない。兵隊たちが運転の仕方も交通規則も知らずにモーターバイクをぶっ飛ばすんだよ」といっていたのを思い出した。
久保田医師はベトナムに長く住み、以前はよく“解放村”にも出入りして無料で診療に当たっていた。その当時の患者たちがこんど凱旋してきて、病院にも大勢お礼に訪ねてきたという。しかし、「兵隊たちはみんな気のいいやつらだが、偉い連中は私がチューさん(大統領)も診ていたと聞いて、何かと嫌がらせをする。私にとってはみんな同じ患者なのに」とボヤいていた。
[#地付き]一九七五年五月六日
失神小説で時間つぶし
朝、大使館から五万ピアストル借りた。他にも記者仲間が何人か、SOSを求めにきていた。借用書にサインしてから、
「こんなことでもなければ、日本国政府が我々に金を貸してくださることはあるまい」とみんなで冗談をいうと、好人物の領事は、
「まあ、そうおっしゃらず。当方にストックがある限りいくらでもお貸ししますから」とまじめな顔でいった。
帰りに領事部の書棚から、目についた限りの推理小説、軟派小説を引っぱり出して、ホテルに運び込んだ。
あんまり急な出張だったので、いつもは必ず旅行に持ち歩く斎藤茂吉の『万葉秀歌』とレマルクの『凱旋門』を、日本から持ってこなかったことが悔やまれた。
異郷で読む「万葉集」は底無しの井戸だ。自分が良くも悪くも救い難く日本人であることを、したがっていくら|はす《ヽヽ》に構えようとしたところで、人は自分の土地とそこで過ごした日々と縁など切れっこないことを教えてくれる。
『凱旋門』、これは、逆に自分を直視せずに生きるための処世の書だ。甘えたくなるような言葉がたくさんある。
推理小説も失神小説もけっこう面白かった。夜中近くまで次々と読みついで、さすがに目が疲れた。
本を床に投げ出し、ベッド・ランプを消し、それから急に、前の妻が突然死んでその葬式が終わったあと、十日以上もベッドに転がってヘミングウェイを読み続けたことを思い出した。ヘミングウェイという作家がいなければ、私はそのあとサイゴンに何かを探しにくる気にもならなかっただろう。そしてとどのつまり、こうして閉じこめられながら、それでもけっこう気楽に失神小説を読んでいるようなことは起こらなかっただろう。
[#地付き]一九七五年五月七日
よそよそしい南ゲリラと北正規兵
今、首都の治安、行政、経済を管轄しているのは、「サイゴン・ジィアディン軍事管理委員会」である。だが、厳密にいえば、町内はまだ「無政策」、「無法律」状態にあった。私たち外国人がなんの法的裏付けもない存在であるのと同様に、サイゴン自体がまったく丸腰の被占領状態にあった。
北・革命政府軍の兵士たちは、外国人に対していちように丁重で、好意的でさえあった。しかし、時おり短いあいさつを交わすだけで、相手が南出身のゲリラ上がりか、北出身の正規兵かは、すぐ区別がついた。
南の兵士らの方がずっと人なつこく、これに対し多数派の北正規軍はたとえトラックやジープの上から新聞記者に親しげに手をふってよこす時も、その笑顔には何かとってつけたような硬さが去らなかった。一兵卒にいたるまで、“軍人”くさく、むろんそれだけに彼らのふるまいの方が南の兵士に比べずっと規律正しかった。
服装も装備も違う。同じ戦闘服姿でも北の連中の着こなしは折り目正しく、全体に清潔な印象を受ける。南の兵士の服はよれよれで携帯する武器も旧式なものが多く、大部分がサンダル履きだった。そして、これまで見た限り、北兵士と南兵士はいつも別々のグループで町をぶらついており、両方が本当に“仲間”らしく歓談している光景には一度もぶつからなかった。
この二つのグループのよそよそしさを見て、まだ戦争たけなわの頃、当時“解放区”といわれていたゲリラ拠点に何日間か潜入取材した仲間の記者の見聞談を思い出した。
村の農家に寝泊まりしていた彼を連日歓待してくれたのは革命政府軍の兵士だけで、少し離れた北正規軍の駐屯所には革命政府軍の兵士でさえ近寄ることを禁じられているようすだった、という。
「連中の間は少なくとも兵士レベルではしっくりいっていないようだ。革命政府の兵士らは、北正規軍はわれわれにろくな武器補給もしてくれず、そのくせいちばん危険な任務を押しつける、と不満を隠していなかった」とその記者はいった。
こうした違いは双方の兵士と、市民との“融和度”の違いとしても不自然なほど目立ち始めている。
革命政府軍の兵士は、もともと南出身者だけにサイゴンに肉親、友人を持つものが多い。最初の日からさっそく市民の間に融け込んでいった。旧体制側にいた兄弟や旧知の連中と会食したり、手をつないで町を散歩する姿も、もうすっかり板についた感じだ。北兵士と市民との間にこうした光景は見られない。
むしろ“占領”から日がたつにつれ、当初は謹慎していたサイゴン市民の緊張と恐怖感が薄れ、“外来”の北兵士らにたてつく連中もそろそろ出はじめているようだ。
カラベル・ホテルの“記者クラブ”に入った噂では、昨日もあるガソリン・スタンドで、こんな“摩擦”があった。北の兵士らがジープで乗りつけ行列の先頭に割り込んだうえ、さっさと何リットルかつめ込み、そのまま代金を払わず走り去ろうとした。気の強いスタンドのかみさんが、
「あんたらはたしかに戦争に勝った。北の連中が、みんな強くて立派なことは知ってるよ。でも、あたしら南の人間には、金も払わずに物を買っていくような習慣はないんだよ。あたしゃハノイの習慣は知らないけれど、ここはサイゴンなんだから、あんたらもあたしたちの習慣に従っておくれ」
と、大声でかみつき、その場の連中の喝采をはくしたという。
北兵士らは赤面し、こそこそ退散したが、それでも結局、ガソリン代は払わなかったそうだ。
もっとも、緊張感が去るにつれて、悪ずれした町の商人連中がはやくも素朴な北の兵士らを“カモ”にしはじめていることも事実である。
昨日の夕方、グエンフエ通りの角のヤミ市のおばさんが、若い北兵士に中古の腕時計を三万ピアストルで売りつけたのを目にした。若い兵士は、宝物を手にした子供のような顔で、仲間にそれを見せびらかしていたが、“解放”前に私がおばさんをひやかした時には、七千ピアストルまで値切れた腕時計だった。それでも品物の質からみて高すぎると思い、私は買わなかった。
こうした北兵士と革命政府軍兵士のよそよそしさ、そして彼らに対するサイゴン市民の反応ぶりは私の想念を、この国のかかえる微妙で、しかし大きな命題、つまり地域感情の問題にあらためて引き戻す。
ベトナム人は、その国土をさか立ちした竜にたとえることがある。仏植民地政策は、竜を頭部(南のコーチシナ)、胴体(中部のアンナン)、尻尾(北部のトンキン)に三分割して統治した。
そして豊かなコーチシナを直轄植民地に、グエン王朝が残っていたアンナンを保護国に、さらに土地が貧しく人々の気性も強いトンキンは、ハノイ、ハイフォンの重要二都市を除きアンナン保護国のそのまた保護領とする(重要二都市は直轄植民地扱い)という、手のこんだ分け方をし、行政差別を行なった。一般に南部コーチシナは優遇され、北部のトンキンはゴム園、炭鉱などの労働力市場として過酷に扱われた。
一九五四年のジュネーブ協定が、こんどは北緯十七度線付近で竜を両断した。
ベトナム民族が南部メコン・デルタ地方からカンボジア人を追い払って、現在の版図を確立したのはようやく十八世紀末である。そして十九世紀に入るとすでにフランス人が来始めた。だから現在の南北ベトナム全領土が、ベトナム人指導者のもとで、明確な統一国家を形づくった時期はわずかしかない。
こうした歴史と、地域ごとに画然とした自然環境の相違が、一方では強い「民族意識」「統一への希望」を生み、他方ではそれと矛盾する「地域感情」を助長したように思える。
ベトナム南、中、北部の気質の違いは、ある中部出身者の言葉を借りると――。
「メコン川の豊かな土壌に育った南の者の性格やものの考えは、一日つき合えば洗いざらいわかる。中部人を知るには二、三カ月必要。歴史や自然の厳しさと闘い続けてきた北の人間は、一生交際しても腹の底がわからない」
表面的な一例を取ると、北と南のメンタリティーの違いは、発音面にも出ている。たとえば南ではZ系統、V系統の発音をY系統に崩す。グエン・バン・チューは、グエン・ヤン・チューに、その政敵で最後の共和国大統領のズオン・バン・ミンはヨン・ヤン・ミンとなる。
外国人がこの南の発音をまねると、北出身者の中には露骨にイヤな顔をする人もいる。彼らにとっては、こんなだらしのない発音は正統ベトナム語ではない。
一般論をいうと、南は北のときには怜利すぎる気性を、ずるくて強欲、と小バカにしながら恐れ、北は南のおおらかさを|羨望《せんぼう》しながら、知的優越感を隠さない。とくにゴ・ジン・ジェム時代以降の南ベトナムでは、“少数優秀民族”つまり北避難民の異常なのし上がり方が、南の庶民層の対北感情をいっそう曲折させた。
それにこの国では、「南進」(ナムティン)の言葉が示すとおり、“侵略者”は常に北方から来たし、南部メコン・デルタは誰でも“侵略”したくなるほど豊かな土地である。だから多くの南土着人にとって「南北統一」が、北による南の「併合」と映るのも心情的には十分理解できる。
少なくとも、放置すれば、“弱肉強食”の理屈は、今後のベトナムでも生き続けるであろう。
居残ったサイゴンの“名花”
七日午前、軍事管理委員会のメンバーがようやく公衆の前に姿を現した。私たちも会場の大統領官邸に出かけた。
故ホー・チ・ミン北ベトナム大統領のどでかい肖像画が掲げられた正面二階のバルコニーに、軍服やシャツ姿の十一人が勢ぞろいしている。委員長のチャン・バン・チャ将軍(以前は南ベトナム解放軍総司令官という肩書だったが、最近の「サイゴン解放日報」によると、ベトナム南部解放軍総司令官と、ニュアンスが異なる肩書に変わっていた)が、一人ずつ紹介した。官邸の庭を埋める群衆にまじって、私もバルコニーに目をこらした。
チャ将軍を除いては、顔も名前も知らない人たちである。炎天下にメジロ押しの群衆は、メンバーの一人一人に盛んな拍手を送っていた。
チャ将軍が演説をはじめたが、通訳がいないので何もわからない。私はバルコニーの正面から離れ、芝生の庭を一巡した。
右手の植込みのそばで、日がさをさした、ひときわあでやかな一群の女性がカメラの放列を浴びているのに気がついた。ザボン色のアオザイ姿は人気女優のキム・クン、その横の厚化粧の美人はタム・トゥイ・ハン、そのほかにもテレビでおなじみの顔が何人かいる。キム・クンは私に気づいて、ニコニコと手を振ってよこした。
もう三十歳を越しているはずだが、ずば抜けた人気でサイゴンの名花といっていい。国営テレビにも月に何回か「キム・クン・アワー」というのがあった。とくに気性の強い悲劇の主人公を演ずると、言葉も筋書きもわからない私でも感動するほど、迫力のある本格派である。彼女とはだいぶ前に、ベトナム・ペン・クラブか何かのパーティーで知り合いになった。私生活は必ずしもはなやかではないらしかった。
「私にとっては二種類の男しかいない。一つは“大キム・クン”の名前を恐れて近づかない男たち、もう一つは“大キム・クン”の名前のために群がってくる男たち。だからこの歳になっても、ほんとうのボーイフレンドができないの」と寂しそうだった。その時、私には、もう“大キム・クン”よりもっと恐い伴侶ができていたので、うかうか人生相談には乗れなかった。その代わり、妻や他社の仲間といっしょに、何回か踊りや食事に誘い出したことがあった。
「おひさしぶり。奥さんはお元気?」とキム・クンはいった。
「ええ、今、東京にいます」
「よかったわね。近いうちに電話をちょうだい。ずっと家にいるの。退屈してるのよ」
電話をしてもどうしようもあるまい、と思った。私たちが踊りにいったナイト・クラブ「マクシム」は、今ではサイゴン第一区革命委本部に衣替えしている。
チャ将軍の演説が終わった。キム・クンも、あわてて笑顔をバルコニーに向け、パチパチと手をたたいた。この女優さんたちは、“宣伝効果”のためにかり出されたのだろうか、それとも進んでこの集会に参加したのだろうか。
この日から、国外向けの報道が解禁となった。ただし、英語かフランス語に限られている。
“解放”後これまでの町の情景をまとめ、午後いっぱいホテルで和文仏訳に|呻吟《しんぎん》した。夕方、コピーを二部、郵便局に持ち込んだが、担当の女性職員は、「ハノイ経由で送るのだから、いつ東京に届くかはっきりわからない」と頼りないことをいった
[#地付き]一九七五年五月八日
チャ将軍の初会見
八日、午前十一時。約三百人の地元記者、外人記者は、大統領官邸一階の大広間につめかけた。チャ将軍の初会見である。
昨日、遠くから見たチャ将軍が戦闘服姿で男女二人の通訳を従えて現れた。男は、タンソンニュット基地の臨時革命政府代表定例会見で英語の通訳をしていた若い兵士だ。いかめしい顔をしたおばさんの方は以前グエン・チ・ビン女史の秘書をしていた人で少佐だと、ベトナム人記者から教えられた。二人も軍服姿だった。ビン女史は革命政府外相としてパリ和平会談で活躍した優雅な女性闘士である。
まばゆいテレビ・ライトの中で、チャ将軍は笑顔を絶やさず、いくつかの質問に応じた。眼鏡の奥の、意志の強そうな、しかし優しそうな目、がっしりした口やアゴの感じが、俳優の故志村|喬《たかし》に似ている。一時間ほどの会見の中で、将軍は、
「軍事管理委員会はあくまで新たな政府が発足するまでの暫定機関である。私たちもできるだけ早く、軍管委がその任務を終了することを望む。しかし、とにかくわれわれは三百万人の住民を持つ大都市を解放したばかりで、解決すべき問題が山ほどある。正常な行政機構がいつ始動するか、今はっきり口にすることはできない」と率直にのべた。
午後、また仏作文に脂汗を流した。
通信も一部回復し、軍管委のフルメンバーもそろった。町は、“無法状態”ながら表面的にはおどろくべき早さで正常化し、美化運動もはじまった。各方面の基本的政策はまだ組織的には固まっていないようだが、サイゴン新体制は精力的に仕事にとりかかりはじめたようだ――という意味のことを、タイプ用紙に三枚ほど書いた。二時間ほどでフランス語に仕上げた時、ほんとうに全身が汗でビッショリだった。額に手を当てると、びっくりするほど熱かった。
夜、熱にうなされながら、めちゃくちゃに忙しく、めまぐるしかった過去一カ月半の日々を思い出した。自分はもう体力、精神力の限界にあるのではないか、と、ふと弱気になった。
[#地付き]一九七五年五月九日
あるカメラマンの死
明け方、浅い眠りの中で、はじめて東京に送り帰した妻の夢を見た。目がさめてしばらく気が滅入った。日本語が話せないので、サイゴン陥落のニュースによけい心細い思いをしているだろう。しかし、案じてみてもどうしようもない。それより早く自分の体調を立て直さなければ、と思いなおした。熱はまだほとんど下がっていない。
食堂に上がり、昼食代わりに冷たいコンソメを二杯飲んだ。ガンマ通信のベルジェス記者が一人でふらりと入ってきて入口近くのテーブルについた。それから窓際の私に気づき、移ってきた。疲れ切った顔だ。目の下にクマができ、顔中に脂が浮いていた。ふだんはエネルギーの塊みたいな男なのに。
いつかビエンチャンのホテルでばったり会った時は、単身象に乗ってパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)地区を一週間旅行してきたばかりだ、といっていた。そのあと、アマゾンの原住民のルポを書くんだ、とペルーに行った。
こんどは陥落直前の四月二十七日、サイゴンに舞い戻ってきた。陥落翌日のメーデーの日、レロイ通りでいきなり後ろから私の肩をたたき、
「どうだ。間に合ったぞ」と大得意だった。
こんなタフでも、“籠城”はこたえるのかと思って聞くと、「いや、通夜疲れだ」といった。
スアンロク戦線で行方不明になっていた同僚カメラマンミシェル・ロランの死体が確認され、昨日、グラール病院で仏人記者仲間の通夜があった、という。
「ミシェルはピューリツァー賞受賞の大ベテランだ。オレたちもてっきり北・革命政府側に捕まってるんだろう、と思っていた」
だが、数日前、スアンロク郊外で、頭と腹をやられた白人のだいぶ古い死体が収容され、結局同カメラマンの死が確認された。
「バングラデシュ独立戦争のさい、命乞いする回教徒青年をバングラデシュの将校が銃剣で刺し殺している写真があったのを覚えているか」
「もちろん覚えている。今までに見たもっともショッキングな報道写真のひとつだ」
「あれを撮ったのがミシェルだよ。ガンマのピカ一だったんだ」
刺殺写真の印象が強烈に残っていただけに衝撃を受けた。急にそのカメラマンの死が身近かなものに思われた。
ホアもいったように「無血入城」のさいにだって、市内や、とくに周辺部では兵士や住民に相当の死者が出たに違いない。これら忘れられた死者の物語は、こんごも断片的な形でしか私たちの耳に入るまい。
支局を接収される
夕方、熱ボケの体を引きずって、三〇〇メートルほど離れた支局にいった。
ようすが変だ。アパート入口が半分閉められ、銃を持った少年兵が、入ろうとする私を押しとどめた。入口にいたシクロのおっさんらの口添えでようやく入り、三階に上がると、アカムさんがあおい顔をしている。
「ムッシュー、大変だ。ベトコンがきて二十四時間以内に出ていけといってる」
接収されたらしい。そういえば「家主が逃亡した住居、建物は接収する」との軍管委布告がすでに出ていた。支局の家主一家の姿はこのところずっと見えない。
「あのアバール(ケチン坊)がいけないんだ。家賃だけ先取りして逃げたんだ」
アカムさんはカンカンだ。
彼女と大家は犬猿の仲だった。大家はことあるごとにアカムさんの子供が建物を汚すと難クセをつけ、気の強いアカムさんは、
「何をいうか、このトンキノワ(トンキン人=北出身者の蔑称)、あんた、わたしの主人ないぞ」
と、やり返す。サイゴン生まれの彼女にとってトンキノワは|他所者《よそもの》だが、当の彼女だって、ベトナムで生まれ育ちながら、十分なベトナム語は話せない。相手がトンキノワでなくても、何かとベトナム人を馬鹿にするので、ベトナム人助手の手前、私はずいぶん気を使ったものだ。
大家は五四年ジュネーブ協定のとき北ベトナムから来た避難民の一人で、そのご、身一つで財を築いた。長男も次男も旧政府軍佐官の襟章をつけていたが、まっ白にふやけた軟弱そうな兄弟だった。陥落前、多忙で気づかなかったが、先払い家賃を集金し終わったところで、いち早く米国へでも高飛びしてしまったのだろう。
それにしてもやっかいなことになった。急に追い立てを食っても、備品や資料を持ち込む先がない。
このアパートには、日本の新聞、通信社が他にも二社、支局を置いていた。この二社の支局長と協議し、「外国人財産の保証」という革命政府側公約をタテに、軍管委に|直訴《じきそ》することにした。
さっそくK社の車に乗り込んで、軍管委の報道関係窓口が設けられた旧外務省へ行った。もう遅かったので誰もいない。
その時、カメラを首から下げた背の高い将校が、兵士二人を従えて、大統領官邸の木立ちの方からやってくるのに出会った。パリ協定後、タンソンニュット基地内に駐在していた臨時革命政府軍事委代表のボー・ドン・ジァン大佐である。毎週土曜日の記者会見で顔を合わせていたので、旧知の仲である。“渡りに船”と大佐にかけ寄った。とくに親しくしていたK社の支局長が事情を説明し、助力を求めた。答えはニベもなかった。
「接収業務は私の担当ではありません。担当者にかけ合いなさい。うまくいくよう期待します」
それだけいうと、そばで待っていた黒塗りの大型米国乗用車に乗り込んで走り去った。
とりつくしまもない。タンソンニュットではしきりと外国記者に愛想をふりまいていた大佐の、この態度のヒョウ変ぶりにあっけにとられた。
[#地付き]一九七五年五月十日
律義すぎる? 革命委
朝早く、私たちはふたたび外務省へ出かけた。門前で衛兵にはばまれウロウロしているところへ、プレス担当のフン・ナム少佐が出勤してきた。事情を話すと、
「それはおかしいですね、とにかくお困りでしょう」
気軽に私たちの車に同乗してアパートに来てくれた。少佐は戸口を固めている接収担当員らと十分ほど交渉し、話はすぐついた。
少佐の話では、接収は各地区人民革命委員会の仕事で、自分には介入の権限はないが、地区革命委に私たちのケースについて「再検討」するよう申し入れたという。
「どうせ当分結論は出ないでしょう。革命委も忙しいですからね、それまであなたたちは、ここに住んでいてもかまいませんよ」
少佐はニヤリと片目をつぶってみせた。
少佐が口をきいてくれたあと、兵士らは急に愛想がよくなった。
建物の奥をのぞくと、いつも大家が金庫番をしていた事務所の扉は、はり紙で封印され、その前に机を持ち出して札束の山を前に女性委員が一人座っている。何をしているのか、ときくと、責任者らしい若い男が、
「雇い人たちが勝手に家主の財産を処分してしまったんですよ。けしからんことです」という。
大家は地階の一部を店舗にしたてて、大きな布地屋を営んでいた。ところが、大家が逃亡したあと従業員や建物の門番らが店内の布地を掠奪し、さっさと売りさばいてしまったそうだ。
「しかし、この店の商品は当然、革命委の所有に帰すべきものです。正当な権限のないものが、勝手にこんなことをするのを放置しておくわけにはいきません。我々は門番を叱りつけ、教育してやりました。彼らも反省しました」
そして、革命委は、こうして現金を用意し、門番らから反物を買っていった市民に返品を呼びかけているのだ、という。
たしかに、建物の玄関口の横に「革命委管理下の当店の公共財産を不当に入手した者は即刻返却されたし。当所で革命委が代金を払い戻す。返品を怠るものは反革命者として処罰される」という意味のものものしい告示が掲げられている。青年も女性委員もしかつめらしい顔で、二日間がんばっていたが、どうやら返品にきた市民は一人もいなかったようだ。
筋を通す、という青年の説明には納得したが、どうも“律義”すぎてこっけいな気がした。
この返品呼びかけの場合は革命委側が人手と時間のロスをしただけで済んだが、下部の接収担当者の“行き過ぎ”もすでに随所で起こり始め、市民らの反感を買っているようすだった。革命委側にも自分の“実績”を上げて点数稼ぎしようとする者がいるのは当然だろう。先日まで、強硬な反共論を唱えていた私たちの周辺の地元記者仲間にも、すでに“革命側”に改宗し、革命委内部に“就職口”がないか、とかけずり回っているものが何人もいる。
それにしても、この返品呼びかけにみられる革命委の“律義”さは、とかく“まあまあ主義”が好きで、しかも好むと好まざるにかかわらずチュー時代の“コーヒー代(ワイロ)”万能主義の中で長年暮らしてきた南の庶民らを相当とまどわせることになるだろう。
汚職はすでに南ベトナムの国家体質の一つであり、さらにいえば日々の生活運営に欠かせぬ潤滑油のようなものでさえあった。
「この国から汚吏を追放すれば、政府はからっぽになる」と、チャン・バン・フォン前大統領が首相時代にいった時、多くの南ベトナム人がこの言葉に同意した。
故ゴ・ジン・ジェム大統領は、少なくとも個人的には修道僧のような清潔な人物だったといわれる。だが、その周辺には義妹のヌー夫人らがおり、したい放題をやった。
ジェム政権が倒れると、ヌー一族に独占されていた“汚職権”は、軍人たちの手に移った。軍人の多くは、“成り上がり”で、物欲もたくましい。おりから金に糸目をつけぬ米国援助の洪水がきた。将軍たちの膨大な着服行為は、闊達の域にまで達した。
ヌー氏の秘密警察の監視がなくなり、窓口の小役人や町の警官までが平気でワイロ取りをはじめるようになった。直接日々の生活にかかわりあってくるので、庶民にとっては、この方がつらい。チュー時代末期、南ベトナムではジェム時代を懐かしむ声が起こり始めたが、それもこの辺から出ていたのかもしれない。
軍人汚職の頂点にいたのが、北出身のグエン・カオ・キ将軍(元首相・副大統領)だったといわれる。輩下の空軍将校らには、軍用機で大量の金品を国外に持ち出すことなど朝メシ前で、キ将軍自身、麻薬取引に手を染めていたことは、後に米上院でも問題になった。しかし将軍らが汚職で得た金がさまざまな形で末端に“下降配分”され、それがこの国のかなりの層の生活維持に一役買っていたことも見のがせない。
米国は、この国に「合理的」「効率的」「民主的」な政治・行政機構のワクを押しつけた。だが、植民地時代のわずらわしい法令や手続きは、まだ一掃されていない。たとえば、政府は家族計画を奨励しているのに、一方では、産児制限禁止法がまだ生き続けている。
官吏の意識改革も一朝一夕には進まず、役所の行政処理能力が「効率的」システムに追いつかない。大口の商取引の認可から、交通違反の後始末まで、結局カネで片づけないと役所はパンクしかねない。日常生活が、そしてその総和としての社会活動が収拾不能の停滞、混乱に陥ってしまうのではないか、とよく思った。
政権は変わっても、今、行政機構がまったく未確立の状態で、革命委がいたずらに“清潔な統治”を行なおうとしたら、それはかえってどこかでまた新たな汚職を羽ばたかせることになるのではないか。
[#地付き]一九七五年五月十一日
旧知のパリ代表に再会
翌十一日、支局にまたフン・ナム少佐がやってきた。ニコニコ笑いながら、
「近所に引っ越してきたので、ごあいさつにきましたよ」
近所どころか、支局のすぐ上の部屋に引っ越してきたのだ。
「昨日、あのついでに空部屋を検分してみたら、住み心地がよさそうなので、私も一部屋、接収させてもらうことにしました」
いかにも人の好さそうな少佐の笑顔に私もすっかり楽しくなった。
「それから、新しく着いた私の同僚を紹介しましょう」
少佐は外に声をかけ、廊下で待っていたシャツ姿の男を呼びいれた。その顔を見て二度びっくりした。
「ニャンさん?」
そうだ。たしかに六八年和平会談がはじまった頃、北代表の一員としてパリにきていたブイ・フー・ニャン氏だった。
当時、パリに居合わせた私もよく顔を合わせた。まだフランス語がよくわからない頃で、会見場で声明文がでるたびに、彼に“個人教授”をたのみにいった。当の相手は私の顔を覚えていないようすだったが、パリの話ですぐ打ち解けた。奇遇をとりもった少佐は、アカムさんがいれてくれたお茶をすすりながら、ごきげんだった。
[#地付き]一九七五年五月十二日
マラリアでダウン
十二日、筋向かいの喫茶店で朝食のソバを食べていたら、電撃的に高熱がぶり返した。体中から汗が吹き出し、額から血の気が引くのが自分でもわかった。居合わせたK社の連中が、「マラリアじゃないか」とおどす。
「サイゴンにハマダラ蚊なんかいるものか」と反論したが、ハシも持てないほどの震えだ。
ホテルにたどりつき、完全にダウンした。クーラーを切ろうとしたが、全館冷房なので処置なしである。バスタオルで通風口をふさぎ、窓を開けて暖かい外気を入れ、シャツを重ねて毛布にくるまって寝た。サイゴンでは聞いたことがないが、メコン・デルタや中部高原には、マラリアが多いらしい。七一年赴任したさい、米軍司令部が記者証といっしょに茶色い錠剤を何粒かくれたことを思い出した。
「地方へ従軍する場合は、必ずこいつを飲んでいってくれ」とプレス・オフィサーの大尉がいった。
パリ協定以後も、解放区で一番欠乏しているのはマラリアの予防薬だ、とよく聞いた。
二時間ほど震えていると、アスピリンが効いたのか、ようやく少し楽になる。体中の筋肉がゴリゴリに凝って、トイレに行くのもおっくうだった。やはり、ゲリラたちがジャングルから持ち込んだマラリアにやられたのだろう。
北・革命政府軍の兵士らは、よくこんな目に遭いながら戦争を続けてこられたものだ。午後、推理小説を読む気力もなく、ベッドで天井を見て過ごした。
[#地付き]一九七五年五月十三日
気が強いベトナム女性
昼前、レロイ通りの角のソバ屋でワンタンを食べる。食欲はまだなかったが、発熱以来ろくに食事をしていないので、無理をしてでも栄養を補給しなければならない。
その点、ベトナムの大衆食堂は便利だ。ワンタン一つにしても、日本のケチで貧弱な中身と異なり、肉がはち切れるほどつめられ、滋養たっぷりである。
妻が日本に来てショックを受けたのも町の食堂の食べ物のひどさだった。はじめて外食した時、注文したチャーハンの中から大苦心の末、小指の頭ほどのブタ肉のかけらをようやく探し出し、
「日本はお金持ちの文明国と聞いていたのに……」
と、悲しそうな声を出した。
歩道に面したテーブルで二杯目を食べていると、子供たちが集まってきて「ダイハンだ、ダイハンだ(大韓=韓国人)」とはやす。子供は敏感で残酷だ。サイゴンの主人公が変わり、逃げ遅れた韓国人がまったく無力な“人質”になったことを心得ている。店の親父が大声でどやしつけ、悪童たちを追い散らした。
「お客さん日本人でしょ。でも韓国人だってあたしたちと同じ人間だ。悪ガキども、調子に乗りやがって」
私に詫びながら、まだ体を震わせて怒っている。
ソバ屋を出て炎天のレロイ通りを、足ならしをかねて市場前広場まで歩く。歩道には、数え切れないほどの本屋の露店があらわれている。書店が在庫の放出に出たからだ。
軍管委が町の“整風”の手始めとして、旧体制下の腐敗出版物を全面的に販売禁止する、との情報が流れ、大手書店はアワを食って裏口から在庫を流し出した。そこで“解放”以来収入を絶たれた旧政府軍兵士のかみさんや子供たちが、二束三文でこれを引き取って大道売りを始め、町中が本であふれることになった。
まるで目方売りのようなやり方で新本を売っているのだから、露店は大繁盛である。読書好きのベトナム人にとってはとんだ“解放”の恩恵というわけか。
通りの向こう側も同じような大道売りで黒山の人だった。その人垣の中から声高に叫んでいる女性の声が聞こえた。私は近づいてのぞき込んだ。
露店のおばさんが、白シャツ姿の青年の胸ぐらをつかまんばかりにして、何事かまくしたてている。値切り交渉が白熱したあまりケンカになったのか。よく見かける光景だ。しかし、そうではなかった。かたわらにいた中年の男が、
「この青年はザイフォン(解放)地区委員だ。無許可販売は禁止すると言いがかりをつけたので、おばさんが、“あんたら私たちを飢え死にさせるつもりかい”とかみついているんだよ」
と、教えてくれた。
青年も負けずに、いい返していたが、おばさんのタンカの切り方の方がはるかに迫力がある。見物人も明らかにおばさんの側に立っているようすだ。
大声で見物人に合の手を求めながら、機関銃のようにまくしたて続けるおばさんの剣幕に、青年はしまいにすっかり当惑気味だった。結局、逃げるにしかず、と判断したのだろう。かろうじて威厳を保ちながら最後の説諭をすると、そのままこそこそと人ごみの中に消えた。
それにしても、ベトナムの女性は気が強い。とくに、ののしり言葉の使用にかけては天才的なこんなおばさん連を、これから“教育”していかなければならないのだから、革命委のインテリ青年たちも御苦労なことだ、と思った。
もっとも、市場のおばさんらに限らず、ベトナムは外部で想像されているより、はるかに女権社会、恐妻社会といっていい。
「南ベトナムではウーマン・リブなんか必要ありません。婦人はとっくに解放されてますから」といったのは、サイゴンの人気女性弁護士、ヒュイン・ゴク・アン夫人である。
妻が家の階下で、庶民相手の飲み屋をやっていた頃、空手何段を自称する地回りがおり、よく客や店のものを恐がらせているのを見た。
ある晩、このレスラーのような親分が、例によって無銭飲食のトグロを巻いているところへ、やにわにダブダブの上衣の襟を立て、帽子をまぶかにかぶった小男が踏み込んできた。物もいわずに、親分の髪をつかんで路上に引きずり出し、衆人監視の前で殴る蹴るの暴行を加えた。
小男は、亭主の不始末を腹にすえかねたその細君だった。女だてらに居酒屋などに立ち入るはしたなさをおもんぱかって、わざわざ男装してきたあたりも、これは別の意味でベトナム女性の特性を表わしている。
七三年春、海兵隊上がりの命知らずのピストル強盗の話が新聞をにぎわしたことがある。彼は、市内の銀行、宝石店を荒らし回った末、ついにチョロンの路上で警官隊に包囲され、悪運尽きた。
むかし彼の上官だった某中尉が、現場検証に立ち会った。中尉は、ハチの巣と化したかつての部下の死体を見おろして、
「かわいそうなやつよ」とつぶやいた。
部下の愛人は、“亭主”が仕事から戻ると、身体検査をして、獲物を残らず絞り取り、あげくに、「まだどこかにヘソくっているんでしょう」とピストルまで乱射して猛り狂う。亭主の方は、収穫が少ない日など、「恐くて家に帰れない」とあおざめていた、という。
この国で汚職、売官がはびこったのも、この辺の“女房の強さ”と無関係ではないようだ。
儒教道徳はこの国にも、“男尊女卑”の概念を持ち込んだが、やはりそれは表向きだけの話で、歴史のカナメカナメには、古くはチュン姉妹(西暦一世紀、中国軍に抗戦した英雄)、近くはヌー夫人(政ゴ・ジン・ジェム大統領の義妹)、ビン臨時革命政府外相など、“女傑”が顔を出している。そして、現代ベトナム女性の強さは、彼女ら本来の“葦のような”強靱性に加え、やはり、男手の大部分が、長い間、戦争という非生産的な仕事に吸収されてしまった事実によって、いやおうなしに助長されたのかもしれない。
カム・ニュンの物語り
ベトナム女性の気性を最もなまなましい形で象徴するのはカム・ニュンの物語だろう。サイゴンで、彼女のすさまじい半生の物語を知らぬ者はない。
ゴ・ジン・ジェム時代、彼女はサイゴンの一流ナイトクラブの売れっ子だった。ジェム大統領お気に入りのT大佐と恋仲になった。そのご、将軍や佐官が粗製乱造され稀少価値がなくなったが、当時は大佐といえば大変なものだったそうだ。かたや高級将校、こなた夜の名花で、市場から社交界までの話題となり、|面子《メンツ》を失った大佐夫人は狂乱した。
夫の部下に命じ、ある晩、帰宅途中の恋がたきに硫酸を浴びせかけ、文字通り、相手の顔をつぶし返した。この「カム・ニュン事件」は、当時大きな話題となり、サイゴン政権の腐敗堕落ぶりを示すものとして解放戦線側の宣伝にも大いに利用された。激怒した大統領は、T大佐を国外追放、夫人を五年間の懲役刑に処した。
哀れをとどめたのはカム・ニュンである。現在まだ三十歳代なかばだが、名花時代にたくわえた財産も失い、乞食におちぶれた。
乞食となってからの彼女の行動も、私たちの並みの神経ではちょっと追いつけないものがある。毎日、ただれた化け物のような顔をさらして、町いちばんの繁華街に、“出勤”してくるが、その胸には、美貌時代に大佐と肩を並べて撮った大きな肖像写真をぶらさげている。
その後帰国した大佐は、なんとかこの写真を買い戻そうとしたが、どんなに大金を積まれても、彼女は応じないという。自分をこのような境遇におとしいれた男の|面子《メンツ》を失わせるために、写真をかかえて、こうして繁華街にうずくまっている。
私が彼女の姿を最後に見かけたのは、“解放”の二、三日前だ。“解放”直後、一時街頭の物乞い光景は見られなかったが、最近はまた浮浪者や乞食の姿が町に復活し始めた。カム・ニュンも再びどこかで、“仕事”を始めているかもしれない。
他方、女性の側には、ベトナム特有の情の深さ、|濃《こま》やかさ、そしてそれを裏返しにした猛烈な嫉妬心がある。「カム・ニュン事件」が示す通り裏切られた女性は、往々にして並みはずれた暴力行為に出る。新聞を信用するかぎり、私の滞在中も十回以上「阿部定事件」が発生した。
ジェム時代末期に、坊さんたちの焼身自殺が頻発してからは、寝取られ亭主(または彼氏)が相手とよろしくやっている現場に踏み込み、ガソリンをかけて恋がたきごと焼き殺す方法が流行したという。
七四年夏に生じた某政府高官のケースも話題を呼んだ。
知人の車を借り出してサイゴン郊外を女友達とドライブしていたところを、車で外出中の夫人に見つかってしまった。形相すさまじくハンドルを握りしめてせまる夫人を背後に、二〇キロあまりの必死の逃走――。気の毒なことに夫人の車の性能の方がまさっていた。とうとう追い抜かれ、進路を妨害された彼は、動転のあまりか、思いあまってか、そのまま全速力で田んぼに突っ込み、“自爆”してしまった。さすがの夫人も、思わぬ結果に呆然、黒こげになった夫の死体にとりすがり、号泣した、と新聞は目撃者の談話を伝えていた。
それほど細君が恐いなら、浮気をしなければいいと思うのだが、戦争で適齢期の男性が減り、都市には精神的、生理的、物質的に寂しい女性があふれている。要領よく町に残った男連中にとっては、まさに、“買い手市場”である。
その意味でも、戦争はこの国の男女関係の“異常化”に大きな一役を買ったといえる。
もうひとつの要素、それはこの国の人びとに共通した異常なまでの「|面子《メンツ》」重視の精神だろう。
赴任した時、「北の人と付き合う時には、相手の名誉心を重んじ、南の人と付き合うさいは、相手の感情を重んじよ」といわれた。だが、北にかぎらずこの国の人びとは一般に、時に空疎と思えるほど、|面子《メンツ》問題にこだわるようだ。身近には個人的交際から、大きくは政治問題にいたるまで「|面子《メンツ》」が介入し、物事をややこしくすることがある。
戦乱で荒廃したといわれるが、ベトナムはいぜん、「礼儀の国」だとよく思う。たとえば、長幼の序は、政治活動の分野でも隠然と柱をなし、プラスにもマイナスにも作用している。
新聞記者がしかるべき人を取材するさいにも、ノーネクタイなどででかけると、きちんとしたスーツ姿の相手に出迎えられ、アワを食うことがある。
とくに、旧王都ユエでは、服装、作法がやかましいらしい。「ユエでは乞食でも、アオザイを着かえて人を迎える」とサイゴンの連中も冷やかすことがある。
旧王都の、あまり厳格なしゅうとめの教育にたえかねて、“開化”されたサイゴンに逃げ出してくる女性も少なくない。
YMCAの宮崎幸雄さんは、長年、サイゴン近郊の戦争避難民村の世話をしていた。
当初、米国からも七十人以上の専門家やボランティアが村に派遣されてきたが、結局、村人たちになじまれず、脱落していった。
「たとえば、村の会食に招かれても、最長老がハシを取るまで食べ物に手を出してはいけない。私たち日本人は最初は失敗しても、すぐこの風習に気づき、それを尊重する。だが、アメリカ人はいつも同じヘマをくり返す。アメリカ人には、長老の|面子《メンツ》の無視がどんなに重大な、村落共同体秩序の破壊行為であるか、どうしても理解できなかったようだ。脱落の原因はこの辺にあったのではないか」と宮崎さんはいっていた。
この「|面子《メンツ》」とベトナム女性特有の強烈な嫉妬心がからんだ時、カム・ニュンのすさまじい物語が生まれる。
[#地付き]一九七五年五月十四日
ハノイからきた共産側記者
「珍客がきたから部屋に遊びに来い」
十四日夜、同宿のCBS記者が誘いにきた。
三人の新顔を囲んで、CBS社の二人とロイター支局長がウイスキーで一杯やっていた。三人はタス通信、プラウダ、それに東ドイツ紙のハノイ特派員だ、と名乗った。明日の「戦勝祭」を取材するため、けさ北ベトナム機でついた、という。プラウダのスクボルツォフ記者がいちばん流暢なフランス語を話した。ソ連記者は二人とも陽気だった。
「ハノイではソーダ水など飛び切りぜいたく品だ。ビールはときどき店頭に出るが、トウモロコシからつくったものなので、飲むと二時間で下痢をする」という。
「北ベトナムの再建は急ピッチで進んでいると聞くが」
と、たずねると、
「あれだけB52の爆撃でやられれば、都市の再建には何年もかかる。それに、これまで二年間、北は南の解放に総力をあげたしね」
それだけに、よけい解放されたサイゴンが美しく、物資も豊かなのに驚いた、といった口ぶりである。
「しかし、貧しくても北の人びとの意気は盛んだ。ハノイの町は、サイゴンよりずっと気迫にあふれている」
東独記者がいうと、ソ連記者らも同意した。
三人とも、ハノイ勤務はここ一、二年だそうだ。前任者は皆B52の爆撃に悩まされたが、自分たちは爆撃も受けず、しかも歴史的なサイゴン解放を取材できて、まったくツイている、と上機嫌で、次々グラスをあけた。
真夜中、部屋を出る時、スクボルツォフ記者は最後のハイボールを飲みほし、
「物質文明に誘惑されてはならん。ホテルのそばにも娘どもがウヨウヨしている。オレたちも気をしっかりもって、身を守らにゃならぬ」
大まじめでいい、皆を笑わせた。
[#地付き]一九七五年五月十五日
戦勝祭の軍事パレード
十五日午前八時。私たちは雨あがりのパスツール通りを大統領官邸に向かった。官邸前には、派手な色彩の回廊型のサジキが設けられ、二十数人の要人が勢ぞろいしていた。
中央から向かってやや左寄り、黄色い北ベトナム将官の礼服姿のチャン・バン・チャ将軍がまっすぐ胸を張っているのがまず目についた。二人おいて右側の老人はトン・ドク・タン北ベトナム大統領である。いかにも高齢で弱々しい感じがした。他の人びとがみんな、立っている中で、大統領だけはイスに腰かけていた。その後ろから誰かが日ガサをさしのべている。大統領の向かって右にグエン・フー・ト臨時革命政府諮問評議会議長、レ・ドク・ト北政治局員、フィン・タン・ファト臨時革命政府首相が順にならんでいる。一番うれしそうで、笑顔がたえないのがファト首相である。
数人おいてヒナ壇の右端近くにピンクと白のアオザイ姿のグエン・チ・ビン女史の姿が見えた。ときどきヒナ壇後方をふりかえり、後列の人びととあいさつをかわしていたが、ちょっと疲れたような表情だった。
北側報道陣のなかのレインコート姿の小柄な人に見覚えがあった。相手も私を見て「おや?」という顔をした。パリ会談の北ベトナム代表団スポークスマン、グエン・タン・レ氏だった。
会見場では、レ氏を真ん中に、いつもニャンさんが右側に、がっしりした体格の通訳が左側に座っていた。
あらためて名を名乗り、あいさつすると、
「とうとうサイゴンで会えましたね。実にうれしい」
「ニャンさんにも会いましたよ」
「そう、彼はこんどもプレスの世話を見るために来ています。私の方はこんどはプレスの側です。ベトナム通信から、取材に派遣されました」
私の腕を取るようにしてヒナ壇の前へ進み、見知らぬ要人らの名前を教えてくれた。
大統領の向かってすぐ左側、日焼けしたゴマ塩頭のいかにも|好々爺《こうこうや》といった人物が、有名なファム・フンCOSVN(南ベトナム中央局)委員長だった。米軍が最も恐れ、憎み、その姿を追い求めていた南ベトナム解放闘争の影の最高指揮官である。私は、そのすばらしい目に見とれた。委員長の次は、レ・タン・ギ北ベトナム第一副首相、チャ将軍を置いてその左の、シャツ姿の武骨な人物がチャン・ナム・チュン臨時革命政府国防相とのことだった。
軍事パレードが始まった。直立不動の兵士らを満載した何十台ものトラックが、ヒナ壇の前を通り過ぎる。T54型戦車、各種対空砲、一三〇ミリ砲車……前評判を呼んだSAMミサイルは結局登場しなかった。七三年のパリ協定直後に南ベトナム軍がチュー大統領の前で二時間以上にわたってくりひろげた大軍事パレードにくらべると、ずっと簡素で、短時間で終わった。
パレードを終えた戦車はそのまま市中心部の大通りに分散し、午後遅くまでキャタピラの音を響かせながら走り回っていた。それに合わせるようにソ連製ミグ戦闘機の編隊が執擁に低空飛行をくりかえした。思い過ごしかもしれぬが力の誇示で住民の心理的圧迫をはかっているように思え、あまりいい気はしなかった。
食い道楽の南ベトナム
夜、ひさしぶりにまともなベトナム料理を食べたくなった。K君を誘ってサイゴン川ほとりの水上レストランへいく。ハイ・クラス向けの店なので閉鎖されたのではないか、と思っていたが、以前の通り営業していた。
店内はあいかわらず、芸能人らしい連中などでにぎわっている。革命政府軍の将校らも制服姿で何組か来ていた。「ザイフォン(解放)さんもやっぱり食い道楽なんだなあ」と、K君は感心していた。
固い甲羅ごといためたカニや、砂糖キビにまきつけたエビ肉や、トリの釜メシがとてもうまかった。
港の岸壁には、二、三日前ハノイからきた大きな貨物船が横付けになっている。ハノイからの商船の入港は一九四五年以来、と聞いた。薬品類を積んできたとのことだが、港への立ち入りは禁止されている。夜の港に黒々とそびえる大型船の影を見ながら、町の人びとが、
「あの船はサイゴンの米をハノイに運ぶためにやってきたんではないか」と、不安気にささやいていたのを思い出した。
たしかに南ベトナムはすばらしく食物が豊富でおいしい国だ。自然に恵まれ、しかも中国、フランスというその道の二大師匠の影響を受けてきたのだから、当然かもしれない。
かつて強大なパトロンだった米国人は、南の多くの人びとに嫌われ、馬鹿にされていた。理由は山ほどあるが、むずかしいことのわからない庶民層にいわせると「連中は礼儀知らずで、しかもブタのようなものを食う」からだそうだ。
以前、私の助手をしていた予備中尉のタン君に、
「兵役中、何がいちばんつらかったか」とたずねると、
「米軍支給のカンヅメの魚肉を食わされたことだ」と答えた。
サイゴンの表通りには、立派なフランス料理店がいくつもあるが、ベトナム人はあまり寄りつかない。
「値段ばかり高くて、その割りにうまくない。あれは“田舎者”用だ」という。こんな店の客は、大部分が米将兵である。たしかにG・Iたちのマナーはなっちゃいない。せっかくシェフが腕をふるったイセエビのグラタンを、殻からほじくり出し、パンを割ってハンバーガー風につめ込み、トマト・ケチャップにひたしてワシづかみにパクついたりする。白スーツに威儀をただしたベトナム人のボーイたちは、あきれはてて見ていた。
もっとも、ベトナム人だって、米国人がこれでも人間か、とキモをつぶすようなものを食べる。ヘビ、大コウモリ、カメ、メコン・デルタのネズミ――。
私はこれまで仲良しの運転手、タムの車でずいぶんデルタ地方を旅行した。|生粋《きつすい》の南部人の彼は、ひときわ口がおごっている。どんな町へ行っても、その土地でいちばんうまいものを賞味しなければ気がすまない。おかげでずいぶんゲテモノにも付き合わされたが、ネズミの肉のうまさを教えてくれたことだけでも終生彼に感謝しなければなるまい。
カントの市場で子ネコほどもある丸々と肥えたのを数匹仕入れ、タムの知っている近所の店で香草にまぶしてあぶってもらった。あんなに上品な味の肉は食べたことがない。あまり舌ざわりがいいので、胴から両断した塊を六個、都合三匹たいらげ、二時間ほど腹ごなしの昼寝をしなければならなかった。以来、私はネズミと聞いて身震いする米国人はやはり可哀相な野蛮人だと思うようになった。
はじめて出された時、ちょっと|辟易《へきえき》したのは「ビトロン」というかえりかけのアヒルの卵である。タムがすましてすすめるので、半熟卵かと思って何気なくサジで割ったら、上半身だけフ化したヒヨコの腐乱死体みたいなのが、恨めしげに半眼を閉じて、ニュッと出てきた。
舌のうるさい連中は、フ化何日前の奴、と指定して買うそうだ。抱きはじめて二週間目ぐらいになると、羽根も爪もはえそろっている。これをサジでかき出して頭からグシャグシャ食わなければならないのだからちょっといやらしい。
一説によると、夜のための精力剤で、女性同伴の時は最低三個たいらげるのが、“礼儀”なのだそうだ。たしかにこんなのを三つも食わされたら、もうヤケになって、たいがいの女なんてこわくなくなってしまうだろう。だが、これも塩、コショウや香草を加えて食べると案外奇妙な風味があり、今では好物のひとつとなった。
料理法も時にはすごい。ドロガメやカブトガニは裏返しにして、生きながら七輪にのせる。手足をうち振り、苦悶のかぎりを尽くして絶命するのを待つ。ほど合いをみてこんどは腹から火を通す。
こんがり焦げたカメの死骸は、そのまま皿に安置して客人の前に運ばれる。主人が、ヤットコのようなもので、首と四本の手足をエイヤッと引き抜き、それぞれの皿に盛る。それから甲羅を上下に開いて、中の臓物を別皿にあけ、特殊なタレにひたして食べるのだが、肉の方は生ぐさく、臓物はとてつもなくにがくて、私もこれだけは、タムの命令にもかかわらず分担量を消化できなかった。
カブトガニの場合は、丸い甲羅の縁の部分から黄色い卵だけかき出し、サラダなどにまぶして食べる。だから火あぶりになるのはメスだけだが、ベトナムのカブトガニは「カブトガニ夫婦のように仲がいい」という表現があるくらい、オスとメスがくっつき合って暮らしているらしい。メスを漁師に奪われると、オスの方も悲嘆のあまり死んでしまうのだそうだ。
金持ちにかぎらず、かなりの下層階級までが、まずいものは平気で捨ててしまうのは時に|不埒《ふらち》とも思えるほどである。
この辺は南の人の特色らしく、中部や北部出身者は、一般に粗食だそうだ。メコン川流域の豊かさに比べると、北は「貧し」く、中部は「極貧」だという。
中部でもゲアン省(北ベトナム)一帯は、とくに土地が貧しく、「木の魚の国」といわれた。ホー・チ・ミンもボー・グエン・ザップもこの地方の出身である。農民たちは昔、オカズがないので、木彫りの魚を食卓に置き、魚肉を食べているように自己暗示をかけながら、ヌクマムをかけた米をかき込んだ、といわれる。
だから、一九五四年のジュネーブ協定で大量の北避難民が南に流れ込んだ時、土地っ子の悪童たちは避難民の子供を囲んで「バッキ・アン・カー・ロー・カイ(北の奴らは木の魚を食う)」と、節をつけてはやしたてた。
中、北部の人の常食の一つに「ラオ・ムン」という植物がある。沼地に茂る、イモヅルみたいな植物で、南の人は見向きもしなかった。それで、市場でも捨て値で売られていたのが、五四年以来大量北避難民の流入で、相場がいっぺんに上がったという。
たまに、ゆがいて食べると、シャリシャリと独特の野趣があっておいしい。でも、毎日三度三度食わされたら、野趣もヘチマもなくなってしまうだろう。
同じ国に、同じ民族として生まれながら、一方では「木の魚」や、イモヅルの兄弟分を常食とし、一方では、まだ食べられるものを惜しげもなく捨ててしまう。私がベトナム人で、もしゲアン省に生まれたら、やっぱり是が非でも南北を統一したくなっただろう。
[#地付き]一九七五年五月十六日
コンチネンタル・ガール
十五日の「戦勝祭」が過ぎると、外人記者仲間で、いらいらしはじめる者が多くなった。同宿の仏国営テレビのカメラマンが一番気が短かった。ロビーや街路で顔を合わせるたびに、
「おい、何か耳よりなニュースはねえか」
赤ら顔を怒らせて声をかけてくる。
「早く国を出してもらわねえと、オレの歴史的フィルムがアルシーブ(古文書)になっちまうぜ」
「戦勝祭」取材で乗り込んだ社会主義諸国の記者が、一足早くハノイ経由で、“解放後のサイゴン”を世界に紹介してしまうのではないか、と彼はやきもきしていた。
十六日朝、いつものように、国会前広場の向こうのコンチネンタル・ホテルのテラスで朝食をとる。テラスはこのところ、“記者だまり”である。十数人の外人記者仲間が空のビールのコップを前に時間をつぶしていた。
奥のバーのかたわらに一目でそれとわかる厚化粧の美人が三人たむろしている。絹の黒アオザイを着た背の高い一人はもうおなじみの顔だ。約四年前、私が赴任してきた時からの古株である。彼女は私と視線が合うと、初めて会った時と同じように、物凄いウィンクを送ってよこした。
四年前、このウィンクを浴びた時は、大いに幻惑された。その時、私はまだサイゴンに来て日も浅く、楽しい事をする相手もなくて少々うら寂しい思いをしていた。それに、黒アオザイの彼女は、混血と思われるほど彫りの深い顔立ちと、すらりと優雅な体の線が、以前私が知っていた女性にそっくりだった。
相手はそんな私の心中を見抜いたように、そっちのテーブルへ移っていいか、と目と手ぶりで問いかけてきた。もう少しで承諾するところだったが、赴任早々から不まじめなふるまいをしてはならぬと自戒し、あやうく思いとどまった。
実際、よくぞ思いとどまった、と思う。後になって、この有名な“コンチネンタル・ガール”のうちの何人かは、男性であることを知らされた。
もっとも一般に、ベトナム男性には同性愛の傾向はないようだ。町で若者や中年男が互いに指をからませて歩いているところを見かけ、最初は薄気味悪い思いをした。やがてこれは親しい者同士では当たり前の習慣であることがわかった。ごく一部の同性愛の性向はフランス人が教えていったものらしい。そのご米国人の同好の士が、この置き土産を利用することになった。だから、“彼女”らは主として外国人が集まるこのコンチネンタル・ホテルのテラスを根城としているわけだが、その身なりや、周囲に漂わせている高級香水の香りから判断して、商売は結構繁盛しているようだ。
それにしても、“解放”わずか二週間あまりで早くも白昼堂々と営業再開に乗り出した度胸には恐れいった。おそらく、軍管委もこんな連中の取り締まりはその気になればわけないので、しばらくはこうしてほうっておくのだろう。
チュー体制下のサイゴンは外国人にとっては、“歓楽の巷”だった。魅力的な娘たちが、夜の遊び場にあふれ、その気になれば、五分で話がついた。北・臨時革命政府ならずともこの“堕落”と“頽廃”ぶりには義憤を感じたくなるほどだった。来た当初は私も、死と悲惨の上に咲いたこのアダ花の園に足を踏み入れることに抵抗感を感じた。しかしたちまち朱に染まった。
アダ花だろうが何だろうが、花はやっぱり美しく、美しい花なら摘み取りたくなるのが人情だろう。それに、堕落だ、頽廃だ、とののしっても、女性に、他にどんな生き方があっただろう。
夜の蝶の大部分は、若い戦争未亡人か、数年も前線の夫と離れて暮らしている人たちである。ほとんどが両親や子供を養っていかなければならない境遇にあった。正業の口もないのに、正業につけ、という方が無理な注文ではないか。そして、その正業の口を奪ったのは戦争であり、その戦争はチュー政権と米国だけが行なっているわけではないはずだ。
頽廃を引き起こすのに一役買っておきながら、その頽廃を糾弾する態度は、私にはやはり少々理不尽に思えた。どこかの国の進歩的知識人のように、安泰な外部に身を置いて、この頽廃を非難する態度にいたっては論外だと思った。
同じことを、一カ月あまり前の孤児輸送機墜落事件の時も感じた。四月四日、ベトナム戦災孤児を満載して米国に向かう米軍大型輸送機がサイゴン郊外で墜落し、百何人かが死亡した。米国による一連の孤児輸送作戦が始まって以来、この“人さらい行為”を「ベトナム民族に対する前代未聞の犯罪」と非難し続けていた北・革命政府側は、この事件を機にひときわ大キャンペーンに出た。
日本のジャーナリズムの大勢もこれに唱和した。実際、人の国の子供を牛馬のように空軍輸送機につめ込んで強引に連れ去ろうとし、それに失敗して大量に殺してしまったのだから、絶好の新聞材料だ。
もっとも日本の新聞はさすがに米国の行為をあからさまに“人さらい”とはきめつけなかった。もう少し|掘り下げて《ヽヽヽヽヽ》、「押しつけ善意が招いた悲劇」といった論調で事件を伝えた。だが、私にはこの事件は際限なくむずかしい背景から生じた一現象に思えた。だから一言の論評も書く勇気がなかった。米国の“善意”が押しつけであったのか、それともさらに政治的計算に基づくものであったのかは、このさいそれほど問題ではなかったのではないか。というより、もっと“素直”な見方も必要だったのではないか。
それは、荒廃と混乱の故国で人びとに見捨てられて過ごすのと、たとえ米国のおばちゃんたちの自己満足の材料とされながらでも、とにかく餓死だけはせずに生きのびるのと、どちらが当の孤児たちに将来、幸福のチャンスを、いや、むしろ不幸を軽減するチャンスを与える確率が高いか、ということだ。“押しつけ善意”への批判に焦点を絞ることで、この事件の問題性はあまりに政治化された気がした。
そして何よりも私が感じたのは、自らは観覧席にゆったり腰を降ろし、他人の行為を軽々しく偽善呼ばわりするジャーナリズムの論調こそ卑劣な偽善行為ではないのか、ということだ。その意味で、この不幸な事件の報道は、一貫して日本のベトナム報道の底流をなしてきた、いい気な思い上がりぶりを端的に象徴する一例と思えた。
出国ビザを申請
正午近く、ロイターの支局長が、「外務省が報道関係者の出国ビザ申請を受けつけているらしい」という情報を持ち込んできた。みんな半信半疑で出かけた。
たしかに入り口の黒板に「出国希望の外国報道関係者は申請されたし」と、軍管委の掲示がある。その場で四通の書式をもらい顔写真、パスポートを添えて提出した。「出国理由欄」を記入するさいちょっと迷ったが、「東京に残した家族のことが気がかりである」と、本音だけ書いた。
室内の男女職員は皆、丁重で、英仏語に堪能だった。きいてみると、サイゴン大学学生の勤労奉仕だそうだ。専用機の行き先はビエンチャンらしいという。
「あす一番機が出るそうです。午前八時に荷物をまとめてここに集合してください」
思いがけず急なことで、午後は忙しかった。ホテルの支払いを済ませて、荷物をすぐそばの支局に運び込んだ。
夕方、シクロを雇って実家や、何軒かの知人宅にあいさつに回った。みんな喜んでくれた。親しい友人や知人らは「情勢が落ち着いたら、また必ず戻ってこいよ」といった。
銀行幹部のT氏の息子には、前から彼がほしがっていた6バンドの大型トランジスタラジオをやり、妻の実家には残り少ない有り金をほとんど渡した。この先、経済活動がいつ始まるかわからないので「絶対にむだ使いするな」というと、チュン爺さんやダンは何回もうなずいた。
[#地付き]一九七五年五月十七日
モザイクの国・ベトナム
朝八時、指定された通り外務省前に行く。もう六十人ほどが、それぞれ荷物をかかえて集まっている。テレビの連中は、機材と、撮りためたフィルムのサックを山ほど運んできていた。
二時間ほど待ったが、建物の中からだれも出てこない。ようすを聞きに内部へ入ろうとする記者団と、衛兵たちの仲が険悪になった。やっと中年の男性職員が黒板をかついで現れた。
「専用機の出発は間近である。全員、座席は確保されている」とある。
正午近く、さっきの職員がまた出てきて、黒板の文字を消し、「出発はあす以降に延期された」と書き直した。
大荷物をかかえてきていたテレビの連中は「延期の理由を説明しろ」「あすは本当に出るのか」と口々に職員につめよった。相手は当惑して、
「私は知りません。とにかくあすまたきてください」の一点張りだ。
あきらめきれずに残っている何人かを残して、私たちはホテルに引き揚げた。
今、私はあらためてベトナムという国について考える。
ベトナムは、タテにもヨコにもモザイクの国だと思う。
自然環境の多様性、環境や歴史の相違が生んだ国民性の差異、大きくみても、一方では中国からの侵略に対抗し、一方では血なまぐさい「南進」に精を出し、しかも平時戦時を通じて各種内紛に明けくれたベトナム史自体が(少なくとも万世一系とやらの家族が存在する日本にくらべ)、継続性を欠き、国民の共有性を欠く。
内的次元では、仏教、儒教を基調に各種宗教、地場信仰、道徳規範が混在し、それに植民地支配がカトリックや、妙にバタくさい生活観念まで持ち込んだ。
こうした、タテ、ヨコの多様性の総和は、容易にコンピューターを受けつけない。
いろんな意味で例外的なまでにホモジェンヌの国に育ち、とかく偏狭な、処女的価値判断から脱しきれない私たち日本人には、時にこの国での現象や人びとのふるまいは矛盾に満ちて映る。
ベトナム人に、「あなたは民族主義者か」とたずねることは、侮辱にひとしい。民族主義者でなければ、彼は“非国民”だし、現に知識人も非知識人も、ベトナム人であることに、少なからぬ誇りを持っているようにみえる。時には、すべて他の国民を小馬鹿にするような、気になる傾向すら感じられることもある。
ところが、火を吐くようなナショナリズムを説き、自立を主張する口の下から、「なんといっても我が国の命運は、諸大国の意向ひとつにかかっている」と、およそ、“主体性”のない信条を平気で|披瀝《ひれき》する。威勢よく体制批判をまくしたてる野党も、この点では、歯がゆいほど、“無気力”かつ“あなたまかせ”になってしまう。
「ベトナム人が本気でその気にならなければ、ベトナムの悲劇は終わらないのではないか」と、よく反論したくなった。
しかし、たえず外部勢力の波に洗われ、踏み荒らされてきた民族に対し、この反論は冷酷なのかもしれない。不必要なまでに民族主義を口にし、民族の優秀性を自負してそれにすがりつかなければならないくらい、この国の歴史と現状は過酷であったのかもしれない。なんでも黒白をきめたがったり、矛盾を拒否したがる体質の方が、ずっと世間知らずなのだろう。
実際、口ではきわめつきのナショナリストを自負しながら、多くのベトナム人は、ある面ではしたたかなインタナショナリストでもあるように感じられた。
私が以前親しくしていたカイ氏は、サイゴン指折りの金持ちだった。一九五四年に北から無一文で来て、華僑やフランス系資本に挑戦し、捨て身の海運業で巨利を得た。彼の最大の自慢は、その財産が純粋な“民族資本”であることだ。彼は、ベトナム再建のためには、外国と密接に提携しなければならないと信じていた。
ただ、一外国との提携ではダメだ。一つの国に依存したら、その国に吸収されてしまうことは、歴史が教えている。
「どうせ主人をもつなら、一人の主人より、複数の主人の方がいい」
熱弁をふるうあまり、カイ氏は無意識に「主人」ということばを使い、それから「年上の友人」といいなおした。多数に依存すれば、そのどれにも支配されることはない。「年上の友人」たちは、互いに食い合い、けんせいし合うであろうから、ベトナムはそれを利用しながら、自国の利益を引き出していくことができる――と、自信ありげにいった。これはサイゴンではかなり共通した意見だった。この辺にうかがわれる大国操縦への自信も、ある意味では戦争を長びかせた要因であるような気がした。
北ベトナム・臨時革命政府の仕事は、私が時に無気力とさえ感じたこの国の人びとの外国へのあるいは「諸大国関係」への手ばなしの依存心を排し、この国の「主体性」を確立することだったと思う。
その仕事自体が、はた目には馬鹿馬鹿しいほど多くの血を流し、はかり知れぬ不幸をばらまいたことについては、私は沈黙する以外ない。
たしかに米国の罪は末世まで呪われるべきだ、と思う。しかし、少なくとも「民族の主体性」をかち取るという限りにおいては、それはベトナム人自身の闘いであり、そこに生じる不幸もまた結局のところは、ベトナム人自身の問題であろう。
そして、このナショナリズムの闘いを進めるにあたって、北ベトナムもまた、ソ連、中国という「年上の友人」たちを軽業師のように操縦し、非凡な、しかし、おそらく将来のこの国に必ずしも幸せをもたらさぬであろう類いのインタナショナリストぶりを発揮した。
[#地付き]一九七五年五月十八日
無為もまた人生
朝、また同じ時刻に外務省に行く。相変わらず、みんな荷物持参だ。黒板には、「出発日時は未定。今後、朝夕一回ずつようすを見にこられたし。情報確定しだい、通知する」とあった。
だいたいこんなことだろう、と覚悟していたので、別に失望もしなかった。こうなればまた持久戦だと構えて、町に戻り、国会広場前のカフェで午前中を過ごした。
ベトナムが私に教えた教訓の一つは、「無為に時間を過ごすのもまた人生」ということだ。
もっとも、何が無為で、何が有意義であるかは、その社会の生活規範によって異なるのだから、私がベトナム・ペースの時の使用法を「無為」と感じても、ベトナム人にとっては、それはまっとうな時間の使い方なのかもしれない。
[#地付き]一九七五年五月十九日
支局の少年兵たち
十九日も、黒板の文字は変わらなかった。
赤ら顔のカメラマンが怒り出した。
「人をヌカ喜びさせやがって。こんなことで何が革命だ」
私は、チュー政権時代に妻の出国査証を取るため二十回以上も内務省に足を運んだ体験を話した。
「しかし、今は革命政府なんだ」
「革命だろうが、反革命だろうが、これがベトナム特有の気の長さだ」
「たしかにお前は東洋人だよ」
相手はよけいカッカした。
だが、私も毎日、外務省参りのクギ付けには参った。仕事が手につかなくなり、日中はほとんど支局のベッドで寝て過ごした。
支局のある建物は、十人ほどの接収係の兵士に管理されている。兵士らは三階の支局の部屋に遊びにくるようになった。当初はおびえていたアカムさんもどうやら慣れたらしい。彼女が私を「パトロン(ご主人)」と紹介したので、兵士らまでがそう呼びかけてくるのには閉口した。
兵士の大部分は十六、七歳の少年兵で、アカムさんは彼らの母親気取りだった。黒シャツ姿のひよわな体つきの兵士が一番よく遊びにきた。少女のように色白のやさしい顔立ちだった。私の熱が再発した時は、解熱剤をもって何回も見舞いに来た。
一番年下のは十四歳で他の仲間と同様、孤児だった。
いつも洗いざらしたパジャマ姿で、腰のまわりにズラリと手投げ弾をぶらさげている。アカムさんの長女のアリンと同い年だが、体格のいい彼女に比べると、三つも四つも年下のように見え、腰の手投げ弾がその貧弱な体に似合わなかった。この少年兵も一日に三回は支局に上がってきた。そのたびに空の|薬莢《やつきよう》や、(多分大家の家から接収してきた)皿小鉢などをアリンにプレゼントする。どうやらアリンに惚れたらしい。
慣れてくると二人はアリンの弟たちをまじえ、よく支局の中で鬼ごっこや隠れん坊をしてはしゃぎ回った。そのたびに少年の腰の手投げ弾が破裂するのではないか、と気が気でなかった。
ある朝、この少年兵は支局に上がってくるなり応接室のソファに横になり唸り出した。熱病にやられたらしい。まっさおな額から汗がポタポタしたたり落ちていた。
ずいぶん我慢していたらしく目がトロンとして口もろくにきけないほど弱っている。アカムさんが大声で叱りつけ、少年のパジャマを脱がせ、小さな背中に吸盤をいくつもあてた。翌日もまだ青い顔をしていた。
「無理するな、大丈夫か」
「何、気候のせいだ。ジャングルではしょっちゅうこんな目に遭ってた」
と、おとなびた口調で答えた。
「ジャングルでは君は何をしていたんだ」
「補給と斥候だ。オレたちの分隊が最初の戦車隊をタンソンニュット空港に案内したんだ」
別にその手柄を自慢する風もなくいった。
六八年のテト攻勢で両親を失い、革命政府軍に収容されて、少年ゲリラになったといった。両親を失った、といった時だけ、はじめて涙を浮かべ、私の目から顔をそらせた。通訳していたアカムさんもたちまち目をまっ赤にした。
夜になるとこの少年兵は廊下のかたすみで、たった一人でエビのように身を曲げて眠った。その姿はほんとうに幼く、見るたびに悲しい気がした。
少年兵らの指揮官は、二十代半ばの青年である。彼だけはいつも軍服を着て、銃を放さなかった。
サイゴン郊外ライチュウの出身。家が貧しく高校に行けなかったので、革命に身を投じた。
十年間をジャングルで過ごしたが、最も苦しかったのは六九年だったという。北・革命政府軍全体が前年のテト攻勢失敗による戦力消耗からまだ立ち直れなかった頃だろう。米・政府軍機の空爆をさけるのが精一杯で、木の葉や地虫を食べ、土を掘って水を求め生きのびたそうだ。
「それでもわれわれは負けるとは絶対に思わなかった。死ぬほど辛い毎日だったが、士気はますますおうせいだった」
と、昂然といった。たしかにいかにもきたえ抜かれた戦士という感じだった。
彼が来るたびに食事をすすめたが、なかなかハシを取らなかった。規則、というより、むしろ、遠慮しているようすだった。アカムさんが自慢のライスカレーを作った時は、とうとう招待に応じて三杯もおかわりをした。
食事のさい中、彼は、はっきりと、自分は共産主義者だ、共産主義者はすべての国と仲良くするから、いずれあなたたち日本ともいい友達になるだろう、とのべた。
「しかし」と彼は続けた。「今はまだわれわれの国内に、やるべき仕事がたくさんある。平和は戻ったが、まだ確立はしていない。まずこれから、潜伏しているCIA(米中央情報局)の分子を追い出さなければならない」
ひかえめで、申し分なく礼儀正しい青年だった。
だが、けして笑いを見せぬその暗いまなざしには、おそらく私たちの想像を絶した十年間の過酷な過去の影が宿っていた。この暗い目の光は、何年たってもけっして消えることがないのではないか、と思われた。
[#地付き]一九七五年五月二十・二十一日
二十年ぶりの親子再会
二十日、例によって、外務省参りで一日が明けた。
相変わらず、記者専用機の出発日時はラチが明かない。おかげで、またもやカネがなくなった。昨日までは、なんとかポケットに残っていた小銭でやってきた。今日はもうタバコも買えない。
“解放”前は一箱三五〇ピアストルの国産「プレジデント」は今、一〇〇〇ピアストル。銀行閉鎖で運転資金が枯渇し、工場が閉まってしまったからである。逆に、コニャックやスコッチは“解放”前の三分の一以下に下落した。軍管委の取り締まりを恐れて商人が在庫さばきに出たためらしい。三つ星の「マルテル」が一本二五〇〇ピアストル。タバコ二箱半のバカ値だ。飲んべえの仲間は大喜びだが、アルコールのダメな私には少しもありがたくない。
それでも品物の売れ行きはよくなかった。カネづまりで、ベトナム人の購買力は極度に落ちている。むしろ、ハムギ通りのヤミ市には現金を手に入れようとする人びとが、テレビ、扇風機、古美術類などを持ち込み、品物ばかりあふれて実際に物を買っていく人は、あまり見かけなかった。
外務省からの帰り、大使館に回り、二回目の借金をした。五万ピアストルの借用証に母印を押しながら、借金先も、売り食いする物もない庶民層は、どうやってこの“過渡期”の経済活動の停止した状態を切り抜けるのだろうか、と案じた。
支局に戻ると思いがけぬ人物が待っていた。助手のタン君だ。旧政府軍中尉だが予備役に編入され、ある役所の中堅職員を務めていた。チュー政権末期には外人記者協力者への秘密警察の監視が厳しく、あまり会えなかった。それでも上司の目を盗んでいろいろ情報を提供してくれた。タン君と最後に会ったのは陥落前々日の四月二十八日だった。その時、彼は「ボクは将校で、しかも政府の役人だから、共産主義者がきたら、ひどい目に遭わされるかもしれない」
と、すっかりやつれていた。
今日は見ちがえるほど明るい顔である。
「少し時間をもらえますか。信じられない話があるんです」
あらたまった口調でいう。私たちは支局を出て、レロイ通りの静かな喫茶店に行った。イスに腰を下ろすなり彼は、
「ボクの両親が帰ってきた」
「君の両親?」
タン君は、たしか、両親とは死に別れた、といっていたはずだ。独力で妹と弟を養わなければならず、しかもその妹が病気で、いつもカネに苦労していた。彼の妹は、結婚式直前に相手の大尉が戦死し、そのショックから立ち直れない、といっていた。
「長い間、隠して心苦しかったけれど、ボクの両親はベトミン(対仏抗争勢力)だった。ジュネーブ協定の時、ハノイからの指令で北に移住したんです」
ハノイの指令は「子供は二人だけ連れて来い」ということだった。それで、五人の子供のうち当時五歳のタン君とその妹、弟は、叔母の戸籍に移され、残された。叔母の死後この秘密を知る者は本人以外だれもいなくなり、彼は政府の役人となった。
その両親がサイゴン陥落で突然戻ってきた。
「二日の夜、旅姿の初老の女性が何の前触れもなく家にきた。母だった。本当に信じられなかった」
二十一年ぶりの母親の顔をタン君は覚えていたという。五歳の時いっしょに撮った写真をハダ身離さず持っていたからだ。母親も同じ写真を持っていた。
「その晩、ボクは夢ではないかと一晩中ボーッとし、母は母で泣き明かした。妹の病気とその原因を知った時は、床に転げて嘆き悲しんだ」
数日後、父親が戻ってきたが、父の顔はもう覚えていなかった。母は革命政府軍の軍医で、父は北ベトナム政府の次官クラスに出世していた。
「いっしょにハノイにいった兄さんと姉さんは?」
「兄は今、モスクワ留学中で、姉はハノイにいるそうです。母は、早く妹をハノイに連れて帰って優秀な専門医にみせる、といっています」
こうした家族を持ちながら陥落直前、タン君がおびえ切っていたのはちょっとフに落ちなかった。
「パリのある組織を通じて、互いに生きていることだけは知っていた。でも、どんな生き方をしてるか知らなかったし、こんなに早く帰ってきてくれるとは思わなかったからです」
彼が母親から聞いたところでは、母親は一カ月前ハノイを出て四月二十六日、ロクニン(サイゴン北方の革命政府拠点)に着いた。北を出る時、ロクニンで最低六カ月はジャングル生活を覚悟せよ、といわれた。森の中で野菜を自給自足するため、袋にいっぱいタネを入れてきたが、到着後一週間で、ただちにサイゴンに入れ、と命じられた。
話を聞いて、私はサイゴン軍事制圧は、当初のハノイの予測より明らかに半年以上早かったことを改めて知った。
“再会劇”の話は、解放後何回も目にしたし耳にもした。だが、最も親しい友人からこの思いがけぬ話を聞かされ、驚きよりも一種の衝撃を受けた。タン君は体も顔つきも、女性的なほど弱々しく、いつも歯がゆいほどひかえめな青年だ。私の仲間からも“パンダちゃん”という愛称で親しまれていた。その彼が、たった一人、だれにもいえない部分を抱きながら長い年月を暮らしてきた。生死にかかわる秘密を二十年間もかかえて生きるとは、いったいどんなことなのか。
二十一日、もう一つうれしいニュースがあった。大使館気付けで妻の電報を受け取った。
「東京の生活順調。早く帰ってこい」とあった。返電は打てなかった。一般通信用の国際電報は受信はできるが発信はまだ禁止されている。しかし「生活順調」と知って、私の精神衛生状態は好転した。
昼前、グエンフエ通りで二人の銃を構えた兵士が薄汚いなりをしたハダシの若い娘をサイゴン川の方へ引き回していくのを目にする。千人を超すヤジ馬が大騒ぎであとをつけていった。
「スリの現行犯だ」という。娘は蒼白の、しかしきつい顔をまっすぐ立て、ヤジ馬に目もくれず、白昼の大通りの真ん中をスタスタと歩いていった。しばらくヤジ馬に付き合ったあと、支局に戻る。入り口で少年兵が、けさも四人のひったくりグループが街中引き回されたうえ、旧米大使館裏手の墓地の近くで公開銃殺された、という。
さっそく、記者仲間と手わけして調べたが、確認はとれなかった。だが、その午後から、街に赤い腕章をつけた北・革命政府軍の憲兵たちの姿がにわかに目立ちはじめた。カネづまりによる“治安悪化”を理由に、そろそろ、締めつけが始まるのではないか、という予感がした。
[#地付き]一九七五年五月二十二・二十三日
惨憺たる敗走の痕
スコールが夕方の空気をさわやかに洗う。
二十二日、久しぶりに熟睡して、気持ちよく目を覚ました。外務省に行くといつもの若い職員ではなく、中年の女性将校が私たちを迎えた。
「専用機出発の手はずがつきました。多分明日になると思いますが、夕方もう一度確かめにきてください」口ぶりからみて、どうやらこんどこそほんとうらしい。
もしこのまま出国ということになれば――急に水田と、緑のヤシと、広々とした空がおりなす“ほんもの”のベトナムの景色の中に身を置きたくなった。考えてみれば、三月二十三日に戻ってきて以来、一歩もサイゴンから外へ出ていない。めまぐるしい事態の変化でそれどころではなかった。それに到着早々、以前はよく戦闘地区の取材に付き合ってくれた老練なハイヤー運転手のタムに忠告された。
「わたしらさえも、危ないから外へ出ないことにしているんだ。あんたら外国人は、絶対に郊外へ行かない方がいいよ」
解放後すでに二十日以上、四方の国道は完全に開通していると聞く。
親しい記者仲間のK君に声をかけた。一時間後、彼の運転する車でサイゴンの下町を抜け、ビエンホア街道に出る。街道の出口の長距離バスの発着所は、もう以前と同じにぎやかさを取りもどしていた。
女たちが、道中の弁当用のバゲットのカゴを道端にひろげ、客を呼んでいる。ハダシの子どもたちは、何十台も並んだバスの窓から窓へ、輪切りの砂糖キビやトウモロコシを売り歩いていた。
七一年初めて赴任してしばらくしてから、記者仲間に連れられてこのビエンホア街道を走り、ブンタオ海岸へ海水浴に行ったことがある。早朝、町を出て、この発着所の屋台で朝食用のサンドイッチを買った。その時、売り子のおっさんが、ブタ肉やキュウリをつめるため、ホカホカとうまそうなフランス・パンの中身をほとんどかき出し、それをそのまま地面に捨ててしまったのには驚いた。戦時下のベトナムは、食うものにも事欠く貧しい国と聞かされてきたのに――。
今もあまり変わっていないのではないか。“解放”後のカネづまりで、人びとは「もう食っていけない」と不平をいいはじめた。そのくせ、庶民街でも、オヤツの屋台には客があふれ、簡易喫茶店もビールを楽しむ人でけっこうにぎわっている。地虫を食って生きのびた、あの、支局の暗い目の兵士は、いったいどんな気持ちで、こういう光景を見ているだろう。
十分も走ると、街道の両側はもう水田とヤシと、入道雲の柱がそそり立つ広大な空の広がりだ。革命政府旗がひるがえる木立ちの中の農家のたたずまいは、以前と変わらずのどかに見えた。
道端には擱座した旧政府軍戦車、焼けこげた軍用トラック、ひっくり返ったジープなどが点々と残骸をさらしている。破壊された戦車は砲口をサイゴン方向に向け、その他の軍用車輛も首都への逃走途上、共産軍に追いつかれ放棄されたことが明らかだ。ロンビン、ビエンホア旧米軍基地付近の兵士住宅は弾痕におおわれ、大きな建物のなかには戦車砲ですっぽり風穴をあけられているものも少なくない。
街道を走る車の数はまだ少なかった。ほとんどがバスとトラックで、乗用車は数えるほどしかない。郊外へ向かうバスはどれも満員である。客の多くは村々へ戻る避難民らしい。どのバスも屋根に雑多な家財道具を崩れ落ちそうなほど積んでいた。
虚脱した反共の村
一時間ほど走って、ホナイ村についた。人口七万人。五四年ジュネーブ協定で北から避難してきたカトリック教徒がつくり上げた狂信的な反共の村として名高い。
ごく最近まで、サイゴン住民の間では、
「ホナイ村で自動車の人身事故を起こしたら、かまわず逃げろ」というのが“合言葉”だった。怒った住民に袋だたきにあい、莫大な慰謝料をとられるか、へたをしたら命までとられかねない、という。
一九五四年のジュネーブ協定でホー・チ・ミン体制を嫌って南へ移住してきた北ベトナム人の数は、八十万人とも九十万人ともいわれる。多くはカトリック教徒だが、必ずしも人民裁判を恐れた富裕階級ばかりではなく、仏教徒庶民もいるし、村ぐるみ逃げてきた貧農もいる。
中部出身でカトリックのゴ・ジン・ジェム大統領は、南の仏教徒勢力を押えるため、政策的に北出身のカトリックのインテリを中央に登用した。北出身のグエン・カオ・キ将軍が実権を握ると、ますます軍部、政界、経済界の中枢は北派に占められた。一時、ベトナム戦争は、南を舞台にした“北ベトナム人同士の戦争”とまでいわれた。六七年以来、チュー大統領は、政敵キ将軍の勢力をそぐためにも、この“北閥”の切り崩しに、大きな努力を払った。だが、その後も北出身者は、各界に大きな力を残している。
サイゴンでもっともシックなツゾー通りには、フランス直輸入の香水や布地をならべたブティックが多い。店の所有者は多くフランス人、インド人、中国人など外人勢で、肝心のベトナム人は少数派である。その少数のベトナム人店主も大部分が北出身者である。着のみ着のままで逃げてきて、わずか二十年たらずで、“銀座通り”を押えてしまったのだから、みんながみんなまっとうな稼ぎ方をしたとは考えられない。
しかし、都市に集中したのは知識層や商人で、農民の多くは各地の未開地に入植させられた。
ホナイ村も二十年前は、ジャングルにおおわれた野獣天国だった。勤勉な北避難民は神父たちに励まされて森を開き、シカやイノシシと闘いながら、南の人が見向きもしなかった荒れ地を、首都圏でもっとも豊かな集落の一つに発展させた。
こうして北出身者が栄えれば栄えるほど、“よそ者”に対する地元民の目は冷たくなる。しぜん、村の方も内部結束を固め、排他的になった。そこで「事故を起こしたら逃げろ」というような“評価”が生まれた。
もっとも、ホナイ村がとくに繁栄したのは、隣接するビエンホア米軍基地からの“余禄”でヤミ市がにぎわったせいもある。
基地からの米軍の物資輸送隊が通過するたびに、あらかじめ村人としめし合わせた米兵が、走るトラックの上からヤミ用品を木箱ごと投げおろす、という荒っぽい“商法”だった。米軍司令部も手を焼き、この方面へのトラックにはとくに多数のMPをつけ、監視にあたらせた、といわれる。
米軍撤退後、ヤミ市はさびれた。住民たちは、北出身者お得意の家具製造で、首都圏市場を独占した。
七三年一月のパリ協定後は、新たな木材資源を求めて、さらに奥地に入植していく村民も多かった。昨年、私が最後にここを訪れた時も、村の通りには木材や製品を搬出入するトラックがあふれ、異様なまでの活気があった。
今は村全体がさびれ、虚脱した感じである。人びとは門口に座り込み、ゆっくり走り抜ける私たちの車を見ていた。
以前のにぎわいに比べ、あまりにやつれ、すさんだような村の表情に、何か空恐ろしい気持ちすら感じた。さっきから喉がかわき、屋台でコーヒーかなにか飲みたかったが、石のような村人たちの目を見ると、うかつに車を降りる気にもなれない。
村はずれのいちばん大きな教会に行ってみた。陰気な顔の三十年配の男が応対に出た。助祭だと名乗る。北・革命政府軍が来たらホナイ村は神父らの指揮で最後まで戦う決意だ、とかねがね聞かされていた。
「たしかに最初は抵抗の動きもありました。でもあんな強力な共産軍に対して何ができますか」
助祭はイスの背にぐったり身をもたれさせ、答えた。
村の内部にさえ北・革命政府の同調者が潜んでいた、という。その一人は市場の魚売りのおばさんで、今は村の人民革命委員会の委員になっているそうだ。
「あんな連中がわれわれを支配することになるんです。むろん連中はカトリックではない。五四年以前からここにいた“南部者”です」
ことさら軽蔑をこめて彼は“南部者”とくり返した。そして、自分たちは今でも共産主義者といっしょに生きていく気になれない、日本はわれわれを村ぐるみ移住させてくれないだろうか、と私たちにたずねた。
もうひとつの教会の神父は陽気だった。
「問題は、どうやって今後、共産主義者から教会の財産を守っていくかですな。私は共産主義者が南の怠惰な気風に吸収されてしまうように、祈ってますよ」
でっぷり太った体をゆすり、大声で笑った。
村から帰る車の中で、解放直後訪れたチョロンの中国人街のようすを思い出した。中国人たちの変わり身のはやさは、あっけにとられるほどだった。サイゴンの町にまだ新しい主人公への、ためらいが残っていた頃、チョロンはすでにはじきかえるような、“熱烈歓迎”ムードだった。中心部のドンカン通りも、いり組んだ路地も、“革命成功”を祝う横断幕と、目がくらむほどの数の革命政府旗におおわれていた。
まっ先に「人民革命委員会」が働き始めたのもチョロンだ。革命委は解放翌日の五月一日に、すでに華字紙「解放日報」の第一号を発行した。
まだかたくなに“共産主義”を拒否する陰気な助祭の顔と、喜々として武器押収の指揮をとっていたチョロン革命委の中国人委員らの姿を思い比べ、異邦で何世代も生きのびてきた人びとの“生存の知恵”にあらためて感じ入った。
出国へ
二十三日。ついに出国が決まる。偶然、二カ月前、私がサイゴン入りしたのと同じ日付だ。午前七時、指定された通りタンソンニュット空港のゲート前に集合した。長い間待たされ、ようやく軍管委報道係のニャンさんらに先導されて待合室に入った。すぐ近くの滑走路に青い尾翼のスンナリした型の旅客機が待機している。ソ連装イリューシン18型機。私たちの行く先は、やはりビエンチャンだと聞かされた。
待合室の片隅に特設カウンターが用意され、旧ベトナム航空のオレンジ色のアオザイ姿のグランド・ホステスらが何人かいる。私たちはそこで押し合いへし合いしながら米ドルで百二十ドルを払って、切符を買った。あとは通関だけだ。その時、ニャンさんが当惑した顔でカウンターの奥の事務室から出てきた。
「今入った連絡では、ビエンチャン上空の気象条件がきわめて悪いそうです。今日のフライトは中止されました」
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二十四日。サイゴンを去る。
ハノイから回されてきた出国記者専用機、イリューシン18型ジェット・プロペラ機は今、七十人ほどの各国記者をつめ込んで、発進の合図を待っている。
機内はまるでサウナブロだ。さっき荷物検査を待ちながら飲んだコカコーラ一本分の水分が、全身から噴き出してくる。
窓の外、右手に、旧政府軍機の残骸がいくつも転がっている。回転翼だけ残してスクラップ化したヘリコプター。脚をもがれ、ぶざまにのめり込んだ片翼のC130型輸送機。その向こうの小さな塊はF4型ジェット戦闘機か。
朝日を受けた空港ターミナルと管制塔の建物はまったく無キズのように見えた。左手は、カマボコ型のコンクリート防御壁でできた小型機の格納場。そこにも焼けただれ、ねじ曲がった鉄くず。そして|陽炎《かげろう》がたちのぼる滑走路。雑草と赤土。
これまで何回ここに離着陸したことか、と思う。国外出張、軍用機での前線取材――。
当分はこれが見おさめだろう。しばらく、いや、もしかしたら長い間、戻ってこられないかもしれない。だが、不思議と「別れ」の感慨はわいてこない。何回も「あすは出発」ときかされ、ドタン場ですっぽかされたせいもある。そのたびに、みんなに別れのあいさつに回ったので、しまいにはだれも信用しなくなった。
荷物検査に手間どっただけだった。即席税関吏の兵士らは、律義すぎるほど律義に職務を執行した。多少の混乱があったのは仕方なかった。私の荷物を担当した兵士は、書類には寛大だったが、未現像のフィルムは持ち出し禁止だといいはった。ついに勘弁してくれなかった。隣の仏人記者は分厚い取材メモをたんねんに調べられ、長い交渉の結果、ようやく取り戻した。その代わり彼は大量の他の資料を没収された。
それでも、兵士らのていねいな態度と、いっしょうけんめいな仕事ぶりはむしろ気持ちがよかった。チュー政権時代の空港検査場を私たちはいろいろな意味で“地獄の一丁目”と呼んだものだ。もっとも、地獄だから「カネ(ワイロ)しだい」で、コツを心得ればかえって簡単だった。しかしそのたびにこの国自体への心証はいちじるしくそこなわれた。
兵士らに手を振られながら搭乗。
十分、十五分とたつのにまだエンジンは始動しない。何をしているのだろう。とにかく暑い。
背後の座席の男が、肩越しに新聞紙大の故ホー・チ・ミン北大統領の肖像画を回してよこした。“解放”後、それまで米観光客相手の裸体画作りに精を出していたサイゴン中の大道絵師は、いっせいに宗旨変えした。たちまち、やさしく奇妙なほほえみを浮かべたこの老人の顔が町中にあふれた。回されてきた老人の顔は、数十のサインで囲まれていた。誰か外国人の同僚が記念に、と思いついたのだろう、ちょっと子供っぽい気がしたが、私も左ほお横の余白にK・KONDO(JAPAN)とサインをした。その上に汗がしたたり落ちた。
エンジンがうなり、窓外のプロペラが回り始める。ようやく頭上の冷風口から金属臭のする空気が吹きだした。“解放”翌日、ひったくりにやられていらい私は、腕時計なしで過ごした。通路をへだてたY社の仲間にきくと「九時二十分」と教えてくれた。
機はゆっくり動きだした。
今、私はサイゴンを去る。
このタンソンニュット空港に舞い降りて、二カ月と一日目。何年間かが凝縮されたような、長く、信じがたい日々だった。
一九七五年四月三十日、南ベトナム政権は、北ベトナム・南臨時革命政府の軍事攻勢の前に全面降伏を宣言した。一九五四年のジュネーブ協定による南北分割以来、北緯十七度線以南のベトナムの主たる支配者であったサイゴン政権は、二十一年間の歴史を終えた。
私が最初に訪れたのは一九六七年夏だった。
なかば観光者として偶然立ち寄った。その時はこの国が将来、自分と深くかかわりあいをもつことになるとは想像もしなかった。ただ、その時すでに私は、ベトナム戦争報道を通じてそれまでに自分が抱いていたこの国についての概念と、短時間かいまみた実際の南ベトナムの間に、大きな隔たりがあるような印象を受けた。
陰惨な戦争報道がもたらした先入観とは逆に、私はこの国の光あふれる風土と、悠久な人びとの生活ぶりに、むしろ心暖まる親近感を抱いたのだが、もしかしたらそれは、その時の私が自分自身を幸福と自覚できる境遇にあったからかもしれない。
四年後の七一年夏、こんどは新聞社の特派員として訪れ、前後三年あまりをこの国で過ごした。日本のそれまでの新聞社のサイゴン特派員としては、異例の長期勤務であった。
そして、滞在が長びくにつれ、またその結果必然的に、この国の生活に直接間接の関与を深めるにつれ、「報道」がつくり上げた南ベトナムの対外イメージと、この国の現実の素顔の間に、何か埋めがたい大きなズレがあることを、こんどは通りすがりの印象としてではなく、実生活の体験を通じて、日々感じずにはいられなかった。
常駐特派員としての任期を終えて、いったん東京転勤となった私は、その七カ月後の七五年三月末、再度サイゴンに出張した。そして、サイゴン政権の決定的崩壊という、壮大な、かつあっけないドラマの中で、二カ月を過ごすことになった。
“原則”を拠り所に、“歴史的観点”に立ってベトナムの問題を見る限り、この国のドラマは必然的な形で一応の幕を閉じたと思う。
しかしカイライといわれ、虚構といわれた旧サイゴン政権下の南ベトナムで暮らし、その惨憺たる陥落の過程に立ち会った一人として、私はこの国とそこで生じた現象を、フラスコの中の化学反応を観察するような目で見つめることはできなかった。
そしてまた、私が常に感じ、今なお抱き続けている疑問は、日本のベトナム報道が、一つの国の姿を過不足なく伝えるという、それなりに謙虚で、しかし同時にきわめて困難で、ただしそれ自体がまず報道の出発点となるべき作業に、ジャーナリズムとしての自己主張に費やしただけのエネルギーと誠実さをもって取り組み続けてきたか、ということだ。これは、私自身、報道者の一員として、この先反芻し続けなければならない自戒であり、自省であると思っている。
考えてみれば、この土地での特派員勤務は思ったより過酷だった。
今回の“陥落”では文字通り火事場騒ぎにまき込まれたし、前回任期中も七二年春の北・革命政府軍大攻勢、七三年一月のパリ協定調印など、つねに息の長い取材合戦が相ついだ。私は時には仕事にふりまわされ、時にはそれに没入した。
それにもかかわらず、サイゴンと私とのつながりの中で、職業的なかかわりあいは、最初から最後までほんのわずかな部分しか占めていなかったような気がする。
人びと(ここで民衆という言葉を、なぜか私は使う気になれない)の生活は、戦争、そしてそれがもたらすさまざまな悲劇、汚濁、貧困にまみれていた。その中でなお、人びとはたくましく、えげつなく、時には明るく生きていた。その|生《なま》の生活にしだいに関与しながら、私はいろいろなことを教えられた。
そして私は、現在の妻と結婚し、サイゴンは、三十歳の私が、“生まれた”町となった。その政体や国中に蔓延する各種の不正にかかわりなく、“自分の世界”がこのまま生き続けるように、いつも無意識に念じていた。
革命政府は、いつか、人びとの生活を今までよりも幸せなものに導いていくだろう。この土地にうごめく人びとの、“生きる力”も、結局のところは変わるまい。だが、汚れた世界にあったからこそ、よけいむき出しにされていた|生身《なまみ》の人間の姿は、新体制の下ではこんご必然的に日々の生活から後退していくことになろう。
イデオロギー支配、といわぬまでも、この国を国家として持ち上げていくためには、どうしても管理し、規律することが必要なのだ。
すでに、町々には、「建設」、「前進」、「自由」などのスローガンを掲げて、たくましく、明るく笑う“民衆”らのポスターが氾濫し始めた。いってみれば、サイゴンは、そしてそこに住む人びとは、賢い仮面をかぶり始めた。自己本位の感情であろうと、私が強くひかれ、そこから多くを学び、時に愛しさえしたのは、彼らの素顔だった。
たとえそれが正しく、健全で、然るべき仮面であろうと、仮面に向かって心をこめて別れを告げることは、自分自身にとって今さら、そらぞらしいことに思われた。
機は高度を上げて行く。旋回。眼下に、見なれたパノラマが、ゆっくり回転する。木立ちの間に固まったレンガ色の家々、水田、果てしなく広がる緑のジュウタン。茶色の水をにぶく光らせて、ナメクジの跡のように曲がりくねった大小の水路や河川の帯――。
これほどなれ親しんだ町だったのに、われながら不思議なくらい平静で、そっけない別れだった。
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この単行本は、サイゴン(現ホーチミン市)陥落約五カ月後の一九七五年十月初めに私の勤務先と関係が深いある版元から出版された。初刷は一万数千部だったと覚えているが、幾つかの事情から初刷発刊後、著者側から申し入れて絶版処分にしてもらった。
最大の理由は、与えられた執筆期間が極度に短く、著者としては最大限の努力はしたものの、われながらあまりの拙速ぶりに|忸怩《じくじ》としたからである。
もっとも――自分の口からいうのは変なものだが――出来上がったものへの評価は必ずしも悪くなかった。作品は、その年の第七回大宅壮一ノンフィクション賞の最終選考まで残り、授賞対象とするかどうかで、選考委員会は最後までもめた、と聞く。結局、そのときの受賞作は、深田祐介氏の「新西洋事情」一作に落ちついた。
数日後、選考委員の一人である開高健氏から、電話をいただいた。
事情はともあれ、拙速を承知で出版した著者の心掛けの“悪さ”をあの大声で厳しく叱責され「実にもったいないことをした。一生かかっても、あのテーマについて書き直しなさい。いいですか。それがあなたの義務ですぞ」と、脅迫まがいの忠告と励ましの言葉をいただいた。
冷汗三斗の思いで拝聴したが、そのごも何かとめまぐるしい新聞記者としての生活にかまけ、いまだに一生の義務は果たせないでいる。
今回、文庫収録の話があったとき、少なからず迷った。
|瑕瑾《かきん》は山ほどあるが、この作品は私にとっていわゆる処女作である。そして、十年前の単行本発刊のさい、それが何がしかの評価を得たとすれば、その理由は、サイゴン陥落というあの悲劇的な現場に身を置き、その中で右往左往し、翻弄され、時には呆然とし、時には|蕭然《しようぜん》とした者の、まだ興奮と緊張さめやらぬ目が、文章や構成は稚拙ながらも、作品をひとつの雰囲気で包んでいたからではないか、と自己診断しているからである。日常勤務のかたわら最初の一行を書きだしてから実質二週間という期間で脱稿にこぎつけることを可能にしたあの時の気分に今戻ろうとしても、それはすでに無理な注文であろう。タイトルも原題をそのまま使用する以上、内容を大きく変えることは適切でないのではないか。
考えたあげく、開高氏に課せられた宿題を果たすのはいずれのことにしてこの文庫版は最大限、単行本に近い形で出すことにした。
ただし、ここで再度の忸怩の度合いを減らすために、許容範囲内での加筆・修正は加えた。修正の焦点は文章にのみ絞った。単行本のあまりにも粗雑でまずい文章を、しかしその文体を最大限残しながら、なんとかもう少々格好をつけようと試みた。この試みは微調整に終わったようだ。基本的には、赤面するような拙文の羅列のまま文庫収録という形になってしまったが、まあこれも“処女作”の未熟ぶりを自らに示す“記念”と割り切ることにした。
加筆部分については多少、言を要する。
この面でも、改訂にあたって自ら課した基本姿勢は、単行本にできるだけ忠実に、ということであった。時間に追われて書き落とした小さな挿話を加えたり、何カ所かについては多少ディテールに踏み込むという細工を加えた。
さらに、最小限度ながら、いくつかの説明的叙述も加えた。ベトナム戦争終了後すでに十年を経過し、かつては一般読者にも説明抜きで通じた時事問題の要素がすでに読者の頭の中ではあいまいになっていることを危惧したからである。たとえば「パリ協定」という用語、あるいは南ベトナム国内の各派閥の権力闘争の図式について、である。
ただし、これら加筆・修正について以下のことは明言しておかなければなるまい。
それはこれら手直しがあくまで体裁上の修正(厳密には|修整《ヽヽ》というべきか)にとどまり、叙述内容の|訂正《ヽヽ》は一カ所もしなかった、ということである。サイゴン陥落をめぐっては、終戦後これまでに幾多の“新事実”が明らかになった。また当時すでに知られていても、|あの時点《ヽヽヽヽ》で私が気づかなかったり、自ら体験・見聞しなかった現象が山ほどあった。あの壮大なドラマを一個の人間がまんべんなく見渡すなどということはどだい不可能なことである。
本書には、私人としての生活記録あるいはかなり主観的なベトナム社会の点描と、サイゴン陥落をピークとしたその前後のルポルタージュ風あるいは解説風の叙述がないまぜになっている。後者の部分については、そのごの歴史が明らかにした新事実などを書き加えることにより、サイゴン陥落という大現象の輪郭や意味付けをもっと明らかに浮上させ、ジャーナリストの書としての重みを加えたい気持ちにときおり駆られた。しかし、本書はやはり、|あの時点《ヽヽヽヽ》での書であり、そうした態度は明らかに自らに課した今回の改訂ルールに違反する。
したがってこの改訂版も、あくまで当時の時点に視座を限定したものであり、そのごの現象、資料、取材で明らかになった新たなことがらについてはいっさい触れていない。
逆にいえば、この改訂版の中には、当時の私の思い違い、判断の誤まり、その他今からみればずいぶん見当はずれな叙述もそのまま残されている。自らの不明をあらためてさらけ出すようで多少つらいことだが、本書があくまで改訂版であり、増補版でない以上、この辺の一線を守ることは、書き手としての良心の問題と判断している。
ところで、サイゴン陥落から十年を経た現在のベトナムとインドシナ情勢について、私は今、あらためて考える。
一九七五年四月三十日のサイゴン陥落以来、人びとが最も|喧《やかま》しく議論したのは、あのソ連製戦車群による旧南ベトナム全土の制圧が「解放」であったのか「占領」であったのか、ということであろう。さらにどぎつい表現を用いるなら、北ベトナム軍の行為は「共産主義の侵略」であったのではないか、ということだ。
思い切っていってしまえば、私はこのような議論にあまり興味がない。
当時の状況を知る者なら、よほどのロマンティストでない限り、ベトナム解放の事業は「占領」によってしかなされ得なかったことは納得がいく。そして、その解放が、あの国がはまり込んだ歴史的国際情勢のしがらみの中では、共産革命の形をとらざるを得なかったことも多分に理解できる気がする。ベトナムが一個の国家である以上、北で一足早く成就された革命が南に普及した事実をもって「侵略」と呼ぶのも奇妙なことではないのか。こんな面妖なターミノロジーは、いずれためにする人びとが言い出したものであり、それが抵抗なく世論に受け入れられること自体に、あの戦争への認識の浅薄さ及びベトナムを含めたインドシナ世界ひいては東南アジア世界全般への日本人の無知さかげんを感じる。
とはいえ、私は、南ベトナムの共産化を、そしてハノイの政策を断じて歓迎し是認しているわけではない。
再び個人的なことになるが、南ベトナムの共産化により、(妙ないい方になるが)私はひどい目にあった。生活苦に|呻吟《しんぎん》する革命途上のホーチミン市には幾多の縁戚がいる。妻が一族の家長であった関係上、これら縁戚への生活援助義務は一手に私が引き受けなければならないことになった。まったくあの反骨漢の「教授」ではないが「グエン・バン・チューの低能野郎」といいたいところだ。
しかし、そうした私的感情、私的利害を別にすると、サイゴン陥落及び南全土の共産化という事態は、窮極的には南ベトナム人全体が自ら招いた悲劇と考えざるを得ない。たしかに北の背後には社会主義超大国が控えていた。そしてハノイの指導層は、解放の大義とイデオロギーを巧みにからみ合わせ(先述のようにあの状況ではこれらは表裏一体のものであったと思うが)、国家と国民のすべてを犠牲にして統一の事業をなしとげた。しかし、南もまた社会主義超大国に劣らぬ強力な味方を身につけていた。戦争中、中国やソ連の実戦部隊がベトナムの地に足を踏み入れなかったのに対し、アメリカは最盛時五十数万人の将兵をベトナムに送った。南はこの世界最強国の各種支援に甘え、自らは何一つ犠牲にしようとしなかった。南の貧乏な若者たちは、指導部に駆り立てられた北の若者たちと同様、虫ケラのように死んでいったが、これは国家あるいは国民としての主体的犠牲とは次元の異なる現象だろう。戦争中も悲惨な生活を強いられた極貧庶民のレベルにまでこの論理をあてはめるのはたいそう酷薄なことであるが、総じていえば南全体が主体的犠牲を支払うことを拒否した以上、共産化は彼ら自身が招いた結果といっていいのではないか。
私はこのことを、共産化した南ベトナムから多くのボートピープルが流出した時考えた。すべてを捨て、すべてを犠牲にして暗夜の海に命がけで乗り出す度胸があれば、あの何万人という人びとはその度胸と意思を、なぜ、戦争中に発揮しなかったのか。グエン・バン・チューだけの責任ではあるまい。日々の物質的利益を追うことに忙殺され、ある意味では安易さに甘え切っている南の多くの人びとを前に、私は、何度か心の内で「しっかりしてくれ」と悲鳴に近い叫びを上げたことを思い出す。だが、妙なものだ。半面では、私はこの南の人びとの安易で気楽で諸事についてお人よしなほど善良な気質をこよなく愛した。
さらに、私は、あのサイゴン陥落の朝を目にしながら自分の体を吹き抜けていった荒寥とした風の|重み《ヽヽ》を思い出す。南住民の絶対多数がこの解放により、長期にわたり辛苦の道を歩み続けなければならなくなることは、あの場に居合わせた者なら誰でも容易に察しがついたはずだ。いつかは青空が訪れるであろう、恐らく――。
だが、そこに至る道のりは遠く、悲惨だ。
この遠く悲惨な道を、勝った北の人びとも分かちもたなければならないことを確信し、私の心は重く沈んだ。
現実には、戦後ベトナムは南北ともに予想をはるかに上回る苦難の道を歩み続けている。
ハノイの数々の失政については、いちいちここで取り上げまい。一口で片づければ、たとえそれが新生ベトナム一国の力ではどうしようもないものであったにせよ、統一後の指導部のやり口のまずさは度が過ぎている。
おかげで、解放された国からなぜ今なおボートピープルが出るのか、という子供だましのような糾弾、あるいは自らに不要な人間を組織的に棄民として国外に駆逐するというような没義道な行為をとる政府に一国の統治資格があるのか、などという、単に|私たちの倫理観《ヽヽヽヽヽヽヽ》に抵触するに過ぎないことがらへの非難が、かつてあれほどもてはやされたハノイ指導部の国際イメージを一変させた。カンボジア進攻にしても然りだ。ハノイは、ハノイにとってやむを得ざるあの軍事作戦を、このうえなくまずいやり方で敢行した。私は基本的にはハノイのカンボジア進攻を支持する。しかし、時に方法論のまずさが本質の義を|凌駕《りようが》してしまうことだってあり得るのだ。
今、南北ベトナムの住民を苦しめている種々の事柄も、本質よりも方法論の失敗の連続によってもたらされたもの、という気がしてならない。
今後、ベトナムは立ち直れるのか。あるいは半永久的に東南アジアで最も|だらしがない《ヽヽヽヽヽヽ》国の地位に自らを置き続けざるを得ないのか。
国内的にみれば、再生のとりあえずのステップは、南北民族の真の和解の達成であろう。サイゴン陥落のあの朝あらためて感じた北と南の人びとを隔てるミゾは、十年後の今日、さして埋まっていないように見える。むしろ、南の民心は一九七五年四月三十日のあの解放の時点より、さらに北指導部から離反したのではあるまいか。
あるいは、外部の思いすごしで、時がすべてを解決するのかもしれない。時の力は北の体制にも及び、場合によっては北自身もこれまでになく体質を変化させていくかもしれない。ここまでほころび落ち込んだベトナムに対する私の期待は、結局のところこのあたりに集約されてくる。
サイゴン陥落十年目の春
[#地付き]近藤紘一
単行本
昭和五十年十月サンケイ新聞社刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
サイゴンのいちばん長い日
二〇〇一年十一月二十日 第一版
著 者 近藤紘一
発行人 堀江礼一
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