サイゴンから来た妻と娘
〈底 本〉文春文庫 昭和五十六年七月二十五日刊
(C) Nau Kondou 2001
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目  次
サイゴンからの子連れ妻
ベトナム式子育て法
わが家の性教育
妻は食いしん坊
夫婦そろって動物好き
いくらしたかね?
ミーユンの思春期
ベトナム難民の涙
ベトナムからの手紙
あ と が き
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サイゴンから来た妻と娘

サイゴンからの子連れ妻
テレックス・センターを出て、ホテルの方に歩き出したとき、妙な爆音を耳にした。鈍く押さえつけたような音だった。
「エンジン・トラブルかな?」
足を|停《と》め、空を見上げたとたん、いきなり町中が対空砲火音に包まれた。
一機のA37戦闘爆撃機が、市役所の|尖塔《せんとう》をかすめ、家並みの向こうへ飛び去るのが見えた。
機体を斜めにすべらせるようにして、二機目が続く。三機目は、大統領官邸の上あたりで急に方向を転じ、そのまま私たちの方へ突っ込んできた。
街路はハチの巣をつついたような騒ぎに包まれた。悲鳴、|怒号《どごう》、狂ったようなクラクションの響き――。人も車もなだれを打って逃げまどう。自転車やモーターバイクがぶつかり合って転倒し、道路に投げ出された人々は、そのまま後も見ずに建物や街路樹のかげに身を隠した。
私も何十メートルかを夢中で走り、市役所前広場のカフェに逃げ込んだ。周囲の建物の壁にビシッ、ビシッと弾丸が当たる音がした。
グエン・カオ・キ将軍配下の空軍タカ派が、ハト派、ズォン・バン・ミン新大統領に対しクーデターに出たのか、と思った。キ将軍は前日、シンパを集めて「サイゴンをスターリングラードにしよう」とぶち上げたばかりだ。
タンソンニュット空港の方角から、ズシン、ズシンという爆発音が響いてきた。残存機を自爆させているのか。もしかしたら、キ派は本気でこのサイゴンをぶちこわしてしまう気かもしれない。
ヨロイ戸をおろした店内にスシづめになって身をひそめながら、私は息をころして待った。三回、四回と、すぐ上空をジェット機が横切る音が聞こえた。そのたびに店内の女性たちが金切り声をあげる。私は、ベニヤ板まがいのカフェの天井を見上げ、一発直撃を食らえば自分の体はコマ切れになって吹っ飛んでしまうだろう、と思った。
こんなところでやられてたまるか――。
周囲の連中を押しわけて入口に近づき、ヨロイ戸を押し上げて表に出た。右手のサイゴン河の方で盛んに撃っている。呼吸を整え、銃声の合い間をみて、一気にホテルまで走った。
ロビーは、部屋から避難してきた宿泊客でごったがえしていた。顔見知りの外人記者たちに尋ねたが、何も情報は得られなかった。
「誰かキ将軍の事務所に電話をしてみろ」
「だめだ。今朝から居所がつかめない」
「クーデターじゃない。総攻撃の前触れらしいぞ」
私は階段づたいに七階に上がった。食堂を横切り、テラスに出て思わず息をのんだ。すぐ目の先、サイゴン河対岸に、幾筋もの黒煙や白煙が立ちのぼっている。その煙を縫うようにして、何機ものヘリコプターや輸送機が乱舞していた。四方八方から自動小銃や機関銃の乱射音が聞こえた。海軍基地のすぐ向こうの町はずれのあたりから、ひときわ間近な|轟音《ごうおん》が伝わり、見るまに真っ白な煙の柱が空を覆った。上空を逃げまどっていたヘリコプターの一機が、ローターをはじき飛ばされ、煙の中に墜落していくのが見えた。
一時間ほどで騒ぎは静まった。遠くではまだ断続的に二次爆発の音が響いていたが、町の銃声はほとんどやんだ。ロビーに降りると、何人かの記者がフロントの電話にしがみついていた。軍情報部や空港の応答はいぜん混乱しているようだった。
だが、事態はもう明白に思えた。クーデターにしろ、北ベトナム・革命政府軍総攻撃の前触れにしろ、とにかく町は一瞬にしてあの騒ぎだ。もう何が起こっても、サイゴン側には、それに対処する機能や余裕は一片も無い――。
私は部屋に戻り、そのままタイプライターの前に腰を下ろした。
《四月二十八日夕 サイゴン発――》
クレジットを打ったあと、しぜんに文章が出た。
《サイゴンはいま、音をたてて崩壊しつつある。つい二カ月、いや一カ月前まではっきりと存在し、機能していた一つの国が、いま地図から姿を消そうとしている。信じられないことだ……》
南ベトナムの戦況がにわかに動きだしたのは、その年(一九七五年)の三月中旬だった。
中部高原の|要衝《ようしよう》バンメトートの町が、ひそかに接近した北ベトナム正規軍の電撃攻撃を受け、一夜で陥落した。サイゴンはこの不意打ちにあわてふためいた。数日後、グエン・バン・チュー大統領は、当時まだ無傷であったプレーク、コンツム二都市を含む中部高原全域から、政府側防衛軍を一気に海岸線まで撤退させた。これまでもたびたびインドシナ戦争の|趨勢《すうせい》を決定してきた中部の戦略拠点を全面的に放棄するという、思い切った作戦だった。
当時、私は三年にわたる常駐特派員の仕事をいったん切り上げ、サイゴン生まれの妻と娘を連れて東京に戻っていた。テレビの速報でこのニュースを聞いたとき、耳を疑った。薄く広く配置された政府軍を平野部に縮小集結し、首都を含む人口|稠密《ちゆうみつ》地帯の|防《まも》りを固めよう、という戦法らしかった。が、半年ほど現地を離れていた私には、両軍の兵力バランスがそれほどサイゴン政府側にせっぱつまったものになっているとは思いもよらなかった。それ以上に驚いたのは、この決定の唐突さだ。政府軍はもともと、退却の|下手《へた》な軍隊にみえた。空軍の全面支援下の攻撃では妙に調子づくことがあるが、いったん退き始めるとたちまち|臆病《おくびよう》風に吹かれ、全軍算を乱しての|潰走《かいそう》に|陥《おちい》るという致命的傾向を何回も示した。しかも、これほど大規模な撤退作戦はこれまで経験がないはずだった。場合によっては、士気が総崩れになり、とんでもないナダレ現象が起こるのではないか、という予感がした。私は妻を連れてすぐ羽田を飛び立った。
予感は、|危惧《きぐ》したよりはるかに超スピードで、しかも壮大な規模で、的中した。山から海へ撤退する政府軍は、各所で北・革命側の集中砲火を浴び、たちまち戦闘集団としての機能を失った。敗残兵と、恐怖にかられた避難民が命からがら沿岸諸都市になだれ込み、町々は収拾のつかない混乱の中で、将棋倒しに自壊した。
サイゴンに戻った私は、刻一刻赤く塗りつぶされていく参謀本部の地図を、|呆然《ぼうぜん》として眺めた。
政府軍を追撃して中部海岸に押し出した北ベトナム軍主力は、三月下旬、いったん北上して北部諸都市|掃討《そうとう》を行った。
三月二十三日、旧王都ユエが陥落した。
三月二十九日には、一カ月前まで不落の|要塞《ようさい》都市といわれていたダナンも|凄絶《せいぜつ》な混乱の中で自壊した。
同時にハノイの北ベトナム軍司令部は、全軍に、サイゴン総攻撃の号令を下した。各部隊が津波のように南下を開始した。当時、中部海岸を取材に行って逃げ遅れ、北ベトナム軍に捕えられていた日本人記者の一人は、後にこのときの国道一号線(ベトナム縦断国道)の情景を、
「鉄の塊が南へ、南へと降りていった」と、語った。
四月八日、首都サイゴンも最初の崩壊のきざしに見舞われた。北・革命政府側に内通していた一空軍将校が、単機、町の中心部にある大統領官邸に爆撃を加えた。
そして翌四月九日、首都圏最後の防衛拠点スアンロクの攻防戦が始まった。国道一号線沿いに、首都から七〇キロたらずのゴム園の町だ。
現地の戦況をヘリコプターで見てきた旧知のイタリア人老記者は、夕方、テレックス・センターで私と顔を合わせるなり、
「おい、もうとてもダメだ。お前もボヤボヤするな」
と、どなった。
「しかし、スアンロクが落ちてもまだビエンホアがある。北ベトナム軍も一気には攻め込んで来られないんじゃないか?」
「よく聞けよ。お前はまだ若いから戦争というものを知らん」
相手は急に|親爺《おやじ》のような口調でいった。
「戦争っていうのは|はずみ《ヽヽヽ》なんだ。こう勢いづかせちゃ処置なしだ。もう向こうの司令部だって進撃を押さえ切れない。いいか。ビエンホアも停戦もあてにするな。スアンロクが落ちれば、奴らの戦車は二時間でサイゴンに突っ込んでくる」
オレはこんなところで死にたくない、明朝一番機でさっさと逃げ出すぞ、と言い残して、彼はそそくさと姿を消した。
その晩、私は妻を一人先に出国させることを決心した。彼女は最後の数日間通訳兼助手としてずいぶん役に立った。最後までそばに置いておいた方が便利だったが、もうそんな|悠長《ゆうちよう》な場合ではなさそうだった。空港に二、三発ロケット弾を撃ち込まれれば、民間機の離着陸は不可能になる。そうなったら、ベトナム国籍の彼女を逃がす手段はもうなかった。
妻を送り出した後も、私は、下町の市場の近くにある彼女の実家で寝泊まりを続けた。記者仲間は、私がこんな、言葉もろくに通じぬ庶民街に住むのを見て、物好きだといわんばかりの顔をしたが、私にとっては、三年余りのサイゴン生活の本拠だ。
ベトナムの町家は、だいたい通りに面した長屋造りになっている。だから人々は、一日中、モーターバイクやランブレッタ(イタリア製の軽三輪)の排気音につつまれて暮らしている。実際この町に住む人々の、さまざまの|強靱《きようじん》さは、この騒音に鍛えられて育ったものではないか、と思えるほどだった。
近所の連中は、この家を「幽霊長屋」と呼んでいた。ずっと以前、その後私たちの居室になった二階の窓際の部屋で、失恋した女性が首を吊ったからだそうだ。私は、妻の従姉のチー・ハイという愉快な婆さんが、部屋におしゃべりにきてもけっして奥の方に入らず、いつも入口近くに控えて、ときおり不安そうな目を壁や天井に走らせるのに気づき、初めてこの話を知った。彼女だけでなく、他の連中も一人ではこの部屋に入ってこようとしなかった。皆、一度か二度は幽霊の姿を見たり、声を聞いたりしており、義理の従姉のマウ・バーなどは、おかげで階段から転げ落ちて前歯を何本か折ってしまった。
ベトナムの幽霊には二種類あるという。
一つは「コン・クイ」といい、これは本物の悪霊で、赤子をかどわかして食ったり、人を|呪《のろ》い殺したりするという。もう一つの「コン・マ」は、悪さもするかわりに、親切にしてやれば向こうも人助けをしてくれるそうだ。
この部屋で死んだ女性は、未婚だった。信心深い妻の知識では、たとえ男を知った体でも妊娠を経験せずに死んだものは「コン・マ」ていどにしかなれないはずだった。相手が「コン・マ」なら、ねんごろにつくせばなんとかなろう、と、長く買い手のつかなかったこの家を割安で手に入れたという。
さいわい、私が住んでいる間、「コン・クイ」も「コン・マ」も一度も出なかった。
もっとも、階下からピストルの弾丸が飛んできて、あやうくこっちが|冥界《めいかい》の仲間入りをしそうになったことはあった。
妻は一族の家長で、たいそうな働きものだった。大家族制の名ごりを残すこの国では、一般に家長依存の風習が強い。しかも、相手の稼ぎがいいとなると、遠縁とか昔なじみと称する連中が次から次へ群がって、およそ|気易《きやす》く|食客《しよつかく》になりすます傾向があるようだった。持てるものが持たざるものを助けるのは当たり前、という、仏教上の通念も作用しているのだろう。別に金持ちに限らず、求められればそれぞれが分に応じた範囲内で、自分より持たざるものを援助する。安月給の荒くれた兵隊でも、|物乞《ものご》いの老婆がくれば驚くほど自然な態度で|施《ほどこ》しをするのをよく見かけた。施された方もそれほど丁重にはありがたがらないが、これも、施されて当たり前と思っているからなのだろう。
この辺の感覚はこの国の外交態度にも表れていたようだった。サイゴンもハノイもそれぞれ諸外国からしこたま援助をもらいながら、めったに「ありがとう」といわない。サイゴンの西側外交官は皆こうした態度をこぼしていた。ハノイの東側外交官もその点ではひとしく頭にきていると、たびたび聞いた。
たしかに、たかる方は気楽でも、たかられる方は|辛《つら》かろうと思う。しぜん、大黒柱は働けば働くほどさらに稼がなければならないことになり、私が出会った頃の妻もまるで馬車馬だった。日中はビールや清涼飲料の仲買いや地方発送用のトラックの交渉に走り回り、日が暮れると美しいアオザイに着かえて、市内のナイトクラブに出かけた。サイゴンのクラブは、支配人の下に何人かの雇われマダムがおり、客にホステスを割り当てたり、歩合を集計する仕事を取りしきっている。彼女はこの|稼業《かぎよう》をしていた。
戦況が荒れて道路の治安が乱れ、地方へビールを運ぶトラックが走らなくなると、夜の仕事が唯一の収入源となる。どこの国でもこの世界は女性同士の|嫉妬《しつと》や対立が激しいらしく、年中、マダム仲間でいさかいがあった。それで彼女もこの仕事を始める前、柔道と空手を習ったそうだが、それでも安心できず、いつも飛び出しナイフを持ち歩いていた。ときには小型ピストルまでハンドバッグにしのばせて出かけるので、私は気が気でなかった。
さいわい一九七二年の北・革命軍春季攻勢で町の治安取締りが強化され、盛り場の灯が消えた。
仕事にあぶれた彼女は、階下の土間を改装して飲み屋にした。市役所や警察署を走り回って営業許可証を手に入れ、ついでに地区警察の次長も陰の協力者に巻き込んだ。毎月純益の三〇パーセントを“顧問料”として受け取ることを条件に、次長は新しい飲み屋への全面支援を約束したそうだった。
おかげで店は手入れも余り受けず、チンピラ警官のタカリも少なく、結構|繁昌《はんじよう》した。そのかわり、ときおり酔った兵隊が発砲し、二階の治安はめっきり悪化した。各地の戦闘が激化するたびに、帰休兵らの気もすさんだ。
階下でピストルをぶっぱなしたり、椅子を投げ合ったりする頻度が増し、これはそろそろ危ないかな、と思いながらある日昼寝をしていると、本当に一発飛んできた。銃声と同時に、ベッドにコトンと衝撃を感じたので、下にもぐり込んで調べてみたら、コルトの弾丸がマットを支える留め金に食い込んでいた。数日してまた一発やってきたが、これは|肘掛《ひじか》け椅子のわきの床を撃ち抜き、天井も貫通してどこかへ飛んで行ってしまった。天井にポツンとあいたまん丸い穴から青空を見上げながら、私は、早く戦況が静まってくれぬものか、と願った。
なぜ私がこの「幽霊長屋」に住みつくことになったか、その辺の解釈は当事者の間でもまだ一致していない。
妻は「お|釈迦《しやか》さまが、きめたことなのでしょう」という。
私はやはり、あの朝、薄暗い路上で不意にあのダリヤのような笑顔を浴びせられたのが人生の|岐路《きろ》(?)になってしまったのではないか、と思う。
サイゴンに赴任してまもなく、記者仲間の一人から海水浴に誘われた。目的地のブンタオ海岸まで車で二時間以上かかる。帰りが遅くなると道が危ないから早朝出発だ、と聞いてひるんだが、「女性同伴だ。君の分もちゃんと用意してある」というので、頑張って夜明けと同時に起きた。
集合場所の、仲間のアパートへ行くと、相手はたしかに二人用意して待っていた。
一人は一目で越仏混血とわかる美人だった。私は彼がいつ私の趣味を見抜いたのかと、大いに感謝した。
「あわてるな、彼女はオレのサイゴン・ワイフだ」
彼は、ぬけぬけといった。
もう一人を見ると、これがあきれたことに、もう何世紀も前に花の盛りを過ぎたような年|恰好《かつこう》の、何かデンと重みのある女性で、おまけに右目のわきに大きなアバタがあった。
仲間はたちまち私の心中を察したらしく、
「まあ、まあ。あれ、彼女の車なんだ」
|猫撫《ねこな》で声でいって、道の反対側に停めてある年代物の小型ルノーを指さした。つまり、私はハイヤー代を節約するためのダシだったらしい。
私はムカッ腹を立て、抗議しかけた。
ところが、このとき、その年齢不詳の女性がまっすぐ私の顔を見すえ、どういうわけか、不意にニコッと笑ったのだ。外出禁止時間明けのまだほの暗く乾いた街路に、突然、大輪の花が咲いたように見えた。なぜ彼女があのとき、あんな顔をして笑ったのか、いまだにわからない。とにかく、私のそれまでの人生で、こんな底抜けに自然な笑顔は一度も見たことがないような気がした。
私はびっくりして、相手の顔を見返した。そして、自分もせいいっぱいの笑顔を、彼女に返した。
車は明け始めた町を出て、ヤシやマンゴーの茂みが点々と広がる原野の一本道を、時速一〇〇キロ近いスピードで走った。助手席の私は窓の外の景色よりも、ハンドルを握っている彼女の横顔に、より多くの関心を払った。
ベトナムの車は左ハンドルだ。だから助手席の側からは、相手の右の横顔が見えた。しぜん目のわきのアバタが目につく。ちらりちらりとその直径三センチほどの|凹凸《おうとつ》面を観察しながら、私は、月の表面はきっとこんなものなんだろう、などと(当時はまだ|他人事《ひとごと》だったので)気楽な想像をめぐらせた。
彼女はそんな私の視線を、大いに気にしたようだった。ときおり右手で髪をなで下ろし、欠陥を|隠蔽《いんぺい》しようとするのだが、窓から吹き込む風がすぐ正体を暴露する。
そのうちにだんだん運転しづらそうになり、とうとう、道ばたから出てきた仔牛に衝突してしまった。一度ボンネットにハネ上げられた仔牛は、そのまますっ飛んで、一〇メートルほど向こうに尻もちをついた。
私は衝撃で車が分解するのではないかと|肝《きも》をつぶし、彼女は彼女で「ヤイ、ヤイ、ヤーイ」と奇声をあげた。
だが、フランス製の車もベトナム生まれの牛もよほど丈夫にできているらしかった。仔牛はよろよろと立ち上がり、憤然と私たちをにらみつけてから、畑におりていった。入れかわりに、畑で口を開いて一部始終を見ていた牛の持ち主がもっと憤然とした顔で道路に飛び出してきた。
「まずい! 逃げろ!」
彼女は叫んで、勢いよく車をスタートさせた。思いがけず若々しいその笑顔にふり向くと、彼女も私を見て、またダリヤのような顔で笑った。
この小さな事故をきっかけに、私たちはうちとけた会話を交すようになった。
彼女は、どうやらわかるていどのフランス語を話した。
「あなたは、女性にしてはたいへん運転がうまい」とほめると、
「ありがとう」とまた|嬉《うれ》しそうに笑った。
実際、私は、間に合わぬとみて無理に避けようとせず、バックミラーにすばやく目を走らせて二段ブレーキで速度を殺し、牛に体当たりした冷静な判断と技術に感心したのだった。
「二回目の失敗だ。以前この道でヒョウをひき殺したことがある」
と彼女はいった。
いまはもうこんなに開けてしまったが、昔はこの道はジャングルの中の一本道だった。当時はゲリラも親切で、夜中でも平気で走れた。ある土曜日の晩、|甥《おい》を乗せて走っていたら、ヒョウのこどもが道に迷い出してきた。避けるヒマなくはねとばした。死体は道から少し入ったヤブの中に落ちた。どうしてもその毛皮が欲しかったが、仔ヒョウのそばには必ず親ヒョウがいると聞いていたので、こわくて車から降りられなかった。翌朝早くブンタオのホテルから引き返し、死体を探したが見つからなかった。もう誰かに拾われてしまったらしかった。あれは大変、惜しいことをした。今思い出しても惜しくてしようがない。でも、母ヒョウはひどくメシャン(意地悪)なので、本当にこわかったのだ――。
苦労して単語を探しながら、こんな話をした。
「それはいつの話か」と聞くと、
「ゴ・ジン・ジェムの時代。まだ私が若かった頃よ」
いってから私の方を見てニヤニヤ笑った。
途中、村の屋台で一休みしたとき、私は記者仲間に、
「あのマダムはいったい幾つぐらいなんだい」
と聞いた。相手は、
「さあね。ベトナムの女性は化け物だからな」
と肩をすくめた。そして、
「まあ、二十五歳と五十歳の間とみておけば間違いないだろう」
ずいぶんおおざっぱなことをいった。
海水浴から帰ってしばらくして、大家と|喧嘩《けんか》をした。
赴任以来、私は市中心部のグエン・フエ通りに面した外国人向けのアパートに住んでいた。同じ建物の中に支局があり、情報省、テレックス・センター、日本大使館などにも徒歩五分以内の距離だったので、仕事の面では、たいそう都合がよかった。
しかし大家が|因業《いんごう》な男で、新参の日本人とみて法外な家賃を請求するのが|癪《しやく》にさわった。いくら慣れない土地でも、五日も取材すれば市内の家賃相場ぐらいは見当がつく。それなのに大家は月末になると部屋に来て、
「こんなに安く貸してはもとも取れない。今月は税金も電気代も上がったのでもう赤字だ」
などと、さかんに嘘八百を並べる。
理不尽な要求に応じるのもいやだが、足元を見られるのはもっといやだ。|頑《がん》として相手にしないでいると、翌月も、またその翌月もやってきて、赤字だ、赤字だ、といった。何度目かにやってきたとき、
「あんたみたいな強情な人は見たことがない。これでは私はこうしなければならない」
と、|白眼《しろめ》を|剥《む》いて顔をのけぞらせ、首を吊る真似をした。
「吊りたければ勝手に吊れ」
とやり返したのがもとで、同席していた気の強い大家の長女と、シャモの|蹴合《けあ》いみたいな大口論になった。
とどのつまりは、その日のうちに荷物をまとめて部屋を飛び出す始末になった。
威勢よく飛び出したものの、いざとなると恰好の寝ぐらはなかなか見つからない。重いスーツケースを両手にぶら下げて、さすがにうんざりしながら炎天下の通りを行ったり来たりしていると、偶然、彼女に出会った。
大家とのてんまつを聞いて、相手は、
「あんたもこの国で暮らすつもりなら、もう少し修行しなければいけない」
と、説教じみたことをいった。
なんでも、この国で生きていくための|金科玉 条《きんかぎよくじよう》は、腹を立てても得にならないとわかっているときは、絶対に腹を立てないことなのだ、という。たしかに長い間波乱の歴史にふりまわされ、現在も戦争のおかげで乱暴な権力や金力が幅をきかせているこの国では、少々のことに腹を立てていては下々のものはとてもやっていけないということを、その後の生活を通じてだんだん知るようになった。
説教したあとで相手は汗みどろの私の姿をおかしそうに眺めた。そして多少の同情を催したのか、
「よかったら、私の家に下宿しない?」といった。
暑さでボーッとなっていた私は、一も二もなくこの申し出を受け入れた。
彼女の家は、市場前広場から鉄道線路沿いに十分ほど行った、ファン・グー・ラオ通りの一角にあった。
二階長屋の数部屋のうち、一応家具調度もととのい、ルームクーラーが効いているのは一部屋だけだった。一家の女主人である彼女の部屋だ。他の家人はそれぞれ蒸し風呂のような土間や台所の片すみに、ゴザやハンモックで勝手に寝ぐらをしつらえ、イヌ、ニワトリ、ゴキブリなどと共寝しているありさまだった。
彼女は私を自分の部屋に連れ込み、
「ここならなんとか住めるでしょう、とにかく宿無しよりはましでしょう?」といった。
でもここはあんたの部屋じゃないのか、と念を押すと、
「そうよ。いっしょに住めばいいじゃない」
ケロリとした顔だった。
これは|厄介《やつかい》な“下宿”になった、と私はあらためて彼女の顔をみた。いちばん厄介なのは相手が幾つぐらいなのか、いぜんとして見当もつかないことだった。たしかに、あどけなく笑うと二十歳代にも見えたし、生活の疲れみたいなものがふと目の回りに漂うと五十歳ぐらいにも見えたのだ。万一この後者の推定の方が当たっていたら、目もあてられないことになる、と私は思った。
厄介なことは他にもあった。
“下宿”して三日目か四日目の夜中過ぎ、私は階下から響いてくるときならぬ物音に目を覚ました。何者かがけたたましく、ヨロイ戸を乱打している。土間で寝ていた一家の婆さんたちが起き出し、錠をガチャつかせる音がした。次いで、土間から台所の方まで踏み込んでくる靴音が聞こえた。
「ポリス・チェックだ」
妻(ともう言っていいものかどうか)が、面倒くさそうにベッドに身を起こした。
婆さんと|闖入者《ちんにゆうしや》らは階段の下でしきりとやり合っていたが、そのうちドカドカと上ってきた。
妻はガウンを羽織り、|灯《あか》りをつけた。いきなりドアが押しあけられ、完全武装の憲兵とM16ライフル銃を構えた野戦警官七、八人が部屋になだれ込んできたのには、たまげた。この町では武器捜索やスパイ狩りのために夜中にしばしば臨検があるという話は聞いていたが、これほど殺気立ったものとは知らなかった。
それでも、いちばんあとから入ってきた若い男は、
「シン・ロイ(失礼しますよ)」
と声をかけ、一応挙手の礼をした。
警察中尉の肩章をつけており、隊長らしかった。憲兵たちはソファーの下や|衣裳《いしよう》ダンスの中をのぞき回って武器の有無を確かめた。
一人が、カーテンの陰のベッドに転がっている私を見つけ、びっくりして隊長を呼んだ。
私がこの地区への居住許可証を持っていないということで、ひと|悶着《もんちやく》起きた。
「すぐ着物を着ろ、とにかくモンキー・ボックスへ来てもらおう」
という。モンキー・ボックスとはその語感からして留置場のことらしかった。
妻が隊長をなだめにかかり、三十分近く押し問答が続いた。サルマタ一つで床に突っ立ち、野戦警官のM16ライフルの銃口に身をさらしているのは、まったく気持ちのいいものではなかった。
やがて妻と隊長の交渉が妥結し、私の身柄は三千ピアストルのコーヒー代(ワイロ)で、即時保釈となった。
数日たって、またやってきた。こんどの隊長は欲の深い奴で、どうしても五千ピアストルよこせ、という。いやなら、モンキー・ボックスだ、と威張った。
あそこの家にカモがいると思ったのだろう。毎晩、入れかわりたちかわりやってきた。とても眠れたものではない。居住許可証が手に入れば問題ないのだが、この国では外国人記者に長期滞在ビザを発給しない。お望みならいつでも国外退去を申しつけるぞ、という無言の圧力なのだ。長期ビザがなければ居住許可が出ないので、私の方は処置なしだった。
妻も度々の来襲には音を上げた。とうとう、日頃懇意の地区警察の次長のところに相談に行った。臨検はたいがい国家警察の仕事である。その国家警察と地区警察は馬鹿に仲が悪い。互いに繩張り根性を出して相手の仕事を邪魔しようとする。数日後、彼女は次長の入れ知恵で奇妙な書類を手に入れた。私と彼女の顔写真をはりつけた|便箋《びんせん》大の用紙に何やらいかめしいサインがいくつも並んでいる。タイトルを見ると、英文で、
「AUTHORIZATION OF COHABITATION」(|同棲《どうせい》許可証)
とあった。
次長が彼女に説明したところでは、もともとこの国には、
「街頭その他で外国人とみだりに親しくしているベトナム人女性は、逮捕・処罰の対象となる」
という、法律だか、政令だか、布告だかがあるそうだった。ゴ・ジン・ジェム時代、戦争の進め方をめぐって米国政府と南ベトナム政府の仲が険悪になったとき、南政府が米兵たちに嫌がらせをするため考え出した規則だという。ジェム政権が|潰《つぶ》れて以来、この規則は有名無実になった。それにもかかわらず公式廃止の手続きは取られたようすがない。この辺がこの国の奇妙なところだ。死文化したとはいえ正式に廃法となっていない以上、米兵もおちおち楽しんでいられない。他の外国人も同様だ。警官たちの虫の居所や|懐《ふところ》具合で突如復活したりすることがあるので、ある意味ではよけい始末が悪い。そこで、米大使館などの要求により、この「同棲許可証」が誕生したのだそうだった。
居住許可証がなくても、同棲許可証があれば大丈夫、という理屈は理解できなかったが、たしかにこの書類の霊験はあらたかだった。その後臨検のたびにこれを突きつけると、警官らは恐縮して引き下がった。当の外国人でさえ知らないくらいだから、若い警官はこんな|古文書《こもんじよ》的書類など見たこともなく、それでよけい権威あるものに見えたのかもしれない。
それにしても、ずいぶん不道徳な許可証があるものだ、と感心した。
ところが、その後聞いてみると、ベトナム人の多くもこれに似た書類の世話になっていることがわかった。
むろんこの国は自由主義国家だから、成年に達すれば男女は自由に結婚できる。しかし男が軍人あるいは公務員の場合(つまり、この国の“勤め人”の大半がそうなのだが)、参謀本部か、勤務先の役所の結婚許可証を手に入れなければならない。国家の仕事に|携《たずさ》わるものに思想不健全な女房をもらわれては困るからだ。この結婚許可証を入手するまでにずいぶん時間がかかる。とくに軍人の場合は結婚相手の思想調査、|係累《けいるい》調査がやかましい。一説によれば三代|溯《さかのぼ》って交友関係まで調べるとかで、三年、四年はたちまちたってしまう。若い二人はそんなにのんびり待っていられないから、私たちの同棲許可証と同質の書類を手に入れ、早々といっしょに暮らし始めてしまう。
私の支局に勤める男女二人の助手は、いずれも既婚で、それぞれ二児、三児の親だったが、問いただしてみると、
「いや、実は私たちもまだ同棲の段階で――」
と、いった。
私の目には、ベトナム人は規則や形式よりもとかく物事の本質を重んじる精神の持ち主に見えた。それは一面、こうした馬鹿げた規則や|煩雑《はんざつ》な手続きがはびこりすぎていたからなのかもしれない。
長屋にはいつも、わけのわからぬ|居候《いそうろう》や、知人から|托《たく》された脱走兵、徴兵逃れの若者がごろごろしていた。脱走兵らは憲兵の目をはばかってほとんど外へ出ようとしなかった。兵隊狩りが厳しくなるといつのまにか数が少なくなる。捕まって原隊に連れ戻されたり、要領のいいのはもっと安全なところへ逃げ出していったりした。食いつめて転がり込んだ居候も、何かの拍子でカネや仕事が手に入ると、ふらりと姿を消してしまう。
こうした準構成員を除くと、一族のメンバーは十人前後だった。私が住み始めた頃は、兵隊稼業をしている二十歳代の若者が二人いた。妻の甥だったが、両方とも一九七二年春の大攻勢で戦死してしまった。一人はダナンの兵営にロケット砲の直撃を食らい、右腕だけがサイゴンに戻ってきた。もう一人はメコン・デルタの森で対人地雷にみけんを割られた。
残る男は、妻が“義兄”と呼んでいたチュン爺さんと、病弱の従弟の二人だけで、あとはたいがい婆さんたちだった。
おしゃべりで働き者のチー・ハイは妻のずっと年上の従姉。しっかり者のマウ・バーは義理の従姉。私の食事係のバー・バーは一家とは赤の他人で、いつ、どうしてこの家に住みつくようになったかもわからない。姪のフエは二十何歳、両親のどちらかがカンボジア系だったそうで、一家の中では飛び抜けて色が黒かった。いくら|怒鳴《どな》られてもニヤニヤ笑ってまたヘマをくり返し、暇を盗んでは食べて寝る名人だった。
常連メンバーは他にも数人いたが、フエと、物の数にも入れてもらえぬ子供たちを除いて、皆、妻よりずっと年上だった。だが、彼女は家系上、“家長”で、稼ぎからいっても断然一家の支柱だった。だからこれらの連中に対しては、絶対君主のような権力をふるっていた。ときどき家族連れで挨拶にくる年上の従兄のダン衛生軍曹も、“家長”に対しては従僕のように忠実だった。
しかし、絶対君主の妻も頭の上がらぬ、別格婆さんが一人だけいた。叔母のホアハオ婆さんだ。相手が叔母だから、というだけでなく、話を聞くとどうも大変な暴力婆さんで、幼時からいっしょに暮らしてきた妻にもそのおそろしさが身にしみているらしかった。子供の頃は、口のきき方が悪いなどささいなことでほとんど毎日のように息がつまるほど殴られ、一度などはナタを投げつけられたとかで、今も足にキズ跡が残っている。
ホアハオ婆さんというアダ名は、彼女が信仰しているホアハオ教からきている。
ホアハオ教は、仏植民地時代末期の一九三九年、メコン・デルタの村に起こった新興宗教で、その教義の複雑怪奇さ、支離滅裂さはノーベル賞級の頭脳でも手に負えないといわれる。信徒は一般に排他的で気性が悪いことになっているが、これは貧農の社会運動的色彩もあったからなのだろう。旗揚げ当時は、村の道路に切り刻んだ人肉を並べ、刀を手にした信徒が他宗派の通行人を捕えては、
「改宗がいやならこれを買え。両方ともいやなら、お前もこの通りにしてやる」
と、迫ったという。
一九五〇年代前半には、メコン・デルタを支配する私兵集団となった。
当時、ベトナム南部には“国内国”が三つあった。首都の警察権を握るビンスエン軍団、サイゴン北方を支配するカオダイ教団、それにこのホアハオ教団である。いずれも中央政府に何人もの閣僚を送り込み、自らの軍備を持って、したい放題にふるまっていた。
一九五四年にゴ・ジン・ジェムが首相になったとき、まず手をつけたのは、この前近代的な軍閥退治だった。ジェムは巧みな手腕でまずカオダイとビンスエンの頭目たちを反目させて相討ちにさせ、ついで残兵を政府軍に吸収してメコン・デルタに攻め込み、ホアハオの猛将バークット将軍を捕えてギロチンにかけた。まるで中世的な物語だが、日本の年代でいえばサンフランシスコ講和条約が調印された三年後の話である。パリに逃げたビンスエンの親玉が客死したのは、私がサイゴン在任中だった。ギロチンにかけられたバークット将軍の未亡人は、市場の近くの小さなヴィラ(邸宅)でまだかくしゃくと暮らしていた。
ホアハオ婆さんは、この狂信的宗教にいまなお忠実な信徒だ。なんでも若い頃、飲んだくれの夫に愛想を尽かして入信し、その結果生来の気の荒さにますますみがきがかかったという。それである日、いぜん酒グセのおさまらぬ亭主を|天秤棒《てんびんぼう》でさんざん打ちのめし、たまげてベッドの下に逃げ込んだ相手をひきずり出してまた殴り、結局半殺しにして表にほっぽり出し、そのまま離縁してしまったそうだ。
家人たちによるとこの婆さんも六十歳を過ぎてからはめっきり丸みが出て、余り暴力をふるわなくなったという話だった。それでも、法事の後などはよく荒れた。
長屋には、二、三カ月に一度の割りで、一家の|菩提寺《ぼだいじ》の|和尚《おしよう》さんが、小坊主らを引き連れてお経をあげにきた。菩提寺は少し離れた同じような下町の大通りにあり、コンクリートの山門に「興栄寺」という漢字の額がかかっていた。法事の日は朝から精進料理を用意し、先祖の祭壇を清め、一家全員が二階に集まってお経を拝聴する。
婆さんは面白くない。ホアハオ教も仏さまを奉じているが、戦闘的な宗派だから、他宗の和尚など少しもありがたくないのだ。もともと、彼女の宗派には、寺院とか僧侶とかいった虚礼的なものは存在しない。それでも先祖への礼は欠かすわけにいかないので、|仏頂面《ぶつちようづら》で法事に出席する。
長いお経が終ると、妻が丁重に和尚らに礼を述べ、盛大な精進料理をふるまう。婆さんはますます不機嫌になる。いくら勧められても食卓につこうとせず、部屋のすみに坐り込んで、スネをぼりぼり|掻《か》きながら、小坊主らがむさぼり食うありさまを、軽蔑しきった顔で見ている。実際、小坊主らの食べ方ときたら、あきれるほどだった。和尚の目を盗んでは|縦横無尽《じゆうおうむじん》に箸を伸ばし、タケノコの煮込みだろうが、イモのてんぷらだろうがろくに|噛《か》みもしないで目を白黒させながら飲み下す。一度数えていたら、ご飯を十四杯もお代わりした奴がいた。
一同たらふく食って引き上げたあとで、婆さんの怒りが爆発する。
皆がまだありがたいお経の余韻にうっとりとして、めずらしくなごやかに|団欒《だんらん》しているところへ乗り込んできて、
「なんじゃい、あのがっつきようは」
と、いった調子で始まる。
チー・ハイらが抗議すると、ますます腹を立てる。
「だいたい、あの和尚のドッキン(|読経《どきよう》)は上の空じゃ。|木魚《もくぎよ》をたたきながら、お|布施《ふせ》の額を胸算用しとるんじゃ」
わざわざ台所からナベとスリコギを持ち出し、「パク、パク、パク」と木魚をたたく真似をしながら、あざ笑う。
「ほれ、こうして一回たたけば十ピアストル、二回たたけば二十ピアストル――。あいつは自分が何回たたいたか数えとるだけじゃ。お経なんてちっとも読んでおらんわい」
信心深いチー・ハイはあまりのおそれおおさに言葉もでなくなる。
婆さんは勝ちほこっていっそう高らかに「パク、パク、パク」とナベをたたく。突然、義理の従姉のマウ・バーが、金切り声で食ってかかる。
「そんなこといったって、叔母さん、あんたのホアハオだって人殺しじゃないか」
マウ・バーには、痛恨の思い出がある。彼女はメコン・デルタのサデックという村のちょっとした農家に生まれた。が、子供の頃、ホアハオ教の暴徒に家を焼かれ、親兄弟を殺された。彼女と幼い妹はその日偶然家に居合わせず、難を免れた。夕方、村に戻って事件を知った姉妹は村人たちに教えられて川沿いを探し歩き、ずっと下流の|橋杭《はしぐい》にひっかかっていた母親の首を拾って理葬したそうだ。
マウ・バーは苦労人だからふだんはもうこんなことは愚痴らない。それに一家の血縁の家族でないので、婆さんにはひときわ気兼ねしている。
それでも、こうして婆さんが余り他宗への|敵愾心《てきがいしん》を示すと、過去の恨みがドッと吹き出してしまうらしい。
人殺し呼ばわりされた婆さんは気違いのように|猛《たけ》り狂う。マウ・バーも母親の首を思い出して|号泣《ごうきゆう》しながらかきくどき、チー・ハイはチー・ハイでキーキーとわけのわからぬ合の手を入れ、大変な騒ぎがくり広げられる。
とどのつまりは、妻がヒステリーを起こす。
「みんな家族じゃないの! 叔母さんももういい加減にしたらどうなの!」
雷のような|大喝《だいかつ》に、さすがの婆さんも毒気を抜かれ、ぷりぷりしながら退散する。それでも、姪にどやされてびっくりしたのが我ながら癪にさわるのか、いきがけの|駄賃《だちん》にのろまのフエの|横面《よこづら》を思いきり張り飛ばしていったりする。
はじめてこの婆さんたちの騒ぎを見たとき、私は、えらいところに来たもんだ、と思った。
どういうわけか、私はこのホアハオ婆さんに気に入られたようだった。私がときおり熱病で|唸《うな》ったりすると、彼女はよく、あやしげなせんじ薬を運んできてくれたりした。長屋の生活を通じて、私が|他所者《よそもの》ながら、家長あるいはそれと同格の権威を保持できたのは、このこわいもの知らずで親切な婆さんの|後楯《うしろだて》があったからだろう、と思う。
こうした一族のメンメンやその暮らしぶりを見ていると、この一家がごく中層の庶民階層に属することはすぐわかった。
妻自身も下町の出で、その断片的な思い出話を総合すると、結構気苦労な半生を生きてさたように推察できた。亡母に女手一つで育てられ、十三、四歳の頃から稼ぎ始めなければならなかったそうだ。
「でも私には母親譲りの商才があった」から、河岸で野菜やサカナの仲買いをしたり、トラックを雇って運送業を手がけたり、大衆食堂や一杯飲み屋を開いたり、二十歳代前半までにすでに一人前の仕事をいくつもこなしたという。
若い頃はたいへんなバクチきちがいだった。本人によるとバクチが嫌いなベトナム人なんてニセ物だそうだが、そういえば、解放区の村々でもゲリラの戦士たちが青筋立ててベトナム式花札を引いているところを目撃した友人がいた。一度イカサマ師に引っかかり、一晩で家もトラックも失ったが、万策尽きかけたとき、空軍将校を抱き込み、医薬品の密輸でなんとか切り抜けた。「それ以来大きなカルタはしなくなった。ベトナム人にしては利口になった」とは本人の弁だ。
最初の夫と十年近く暮らしたが、いろいろ事情があって、二、三年前別れたという。娘が一人いたが、これはベトナムの風習に従い、離婚のさい、断固自分が引取った。夫と別れてからはまた自分の腕一本で一族を養い始めた。
「働いておカネを稼ぐのは本当に楽しい。でもいつまでこうして家族のために稼がなければならないのかと思うと、うんざりして死んでしまいたくなることもあるのよ」
と、そう深刻な風もなく愚痴った。
夢は、戦争が終ったら、いなかの川のほとりに小さな家を買い、娘と二人で暮らすことだそうだった。
「いなかなら、塩とヌクマム(しょう油の一種)さえあれば、そうおカネがなくても暮らせるでしょ。アヒルも飼えるし、釣りもできるし――」
ベトナム人はもう何十年も戦争の中で暮らし、もう戦争を生活の一部としているように見えた。彼女自身の思い出話のどの断片をとっても、それは戦争と結びついていた。日本軍の戦争、フランス軍の戦争、ベトミンの戦争、ゴ・ジン・ジェムの内戦、そして今の戦争――。こんな世界で浮き沈み激しく、しぶとく生きてきた人間も、「戦争が終る日」を待ち、川のほとりでの静かな生活を夢みていると知って、何か新鮮な風に触れた気がした。
前の夫と称する人物は、私が住むようになってからも、よく長屋に遊びにきた。そら豆のような|愛嬌《あいきよう》のある顔付きの、ずんぐりした中年男だった。大蔵省の局長ということだったが、階下で婆さんらが「ちょいと、誰か水をくむのを手伝っておくれ」と呼ばわると、きりきり舞いして階段をかけ下りていくような人物だった。
訪ねてくるたびに、コニャック・ソーダのコップをせわしなく口に運びながら、私を相手に、南仏なまりの早口のフランス語で、口をきわめてグエン・バン・チュー大統領の低能ぶりを|罵《ののし》った。
私と彼は、初対面のときから妙にウマがあった。
そのうちに、妻が留守中でも二階で話し込んでいくようになった。あるとき、
「お前さん、彼女と結婚するのか」と、私に聞いた。
当時私は、そのことを、まださしせまった問題として考えたことがなかった。
「あいつはいい女だ。あんなに性格のいい女はめったにいない」
彼は急に真面目な声でいった。
「それじゃ、あんたたち、どうして別れてしまったんだ」
と聞き返すと、相手は「|面目《めんぼく》ない」と、コニャック・ソーダをガブリと飲み、
「見てくれ、オレが悪かったんだ」
左手の甲を私に示した。長さ二センチほどの、キズ跡があった。
自分は元来浮気者で、四十歳を過ぎてもどうしてもその虫がおさまらなかった、という。しばしば家中の皿やコップがぜんぶ壊れてしまうような騒ぎがあったが、それでもこりずに続けた。あるとき、どうかぎつけられたか、文字通りの現場に踏み込まれてしまった。相手の女はキャッと叫んで素っ裸のままトイレに逃げ込んだが、彼の方は動転の余り逃げ遅れた。とりあえずズボンをはいて女房をかたわらのテーブルに導き、夢中でいい訳を始めたのだが、相手は物もいわず、いきなり果物ナイフをつかんで、彼の手をそのままテーブルに|釘刺《くぎざ》しにしてしまったのだ、という。
「オレと彼女は生まれも育ちも違った。だけどそんなことは問題じゃなかった。実にいい女房だったんだ。でもしようがないよな。浮気は、ベトナム男の|甲斐性《かいしよう》だもの」
と、彼はタメ息をついた。
あとで、彼女にこの話の真偽を確かめると、
「あのおしゃべり、そんなこと話したの」
と、笑い出した。
「それだけじゃすまなかったのよ。家へ連れ戻してもまだ気がすまなかったから、いちばん大きな花びんで思いきり頭を殴りつけてやったわ。翌日、あの馬鹿、左手はほうたいでグルグル巻きにし、おでこには大きなバンソコはって、片手で車を運転して役所に行ったのよ。おかしいったらありゃしない」
思い出してもよほど痛快だったのか、話しながら、娘のような声でコロコロ笑った。
だが、彼女の方も、こんなことを続けていたら、本当に相手を殺すか、自分の方がきちがいになるかどっちかだと思い始めたという。そこで、二人で話し合った結果、長年の夫婦暮らしを解消した。別れたあとはさすがに悲しく、一年近く、毎晩泣き明かしたそうだ。それを忘れるために夢中で働いていたら、いつの間にかおカネができて、なんとかまた現在の暮らしができるようになった、とのことだった。
その後は「私もお釈迦さまじゃないから」多少の事はあったが、少なくともいまはごらんのようにれっきとした独身である、といった。
「あの人とはいまも仲良しだけど、以前のことはもう忘れたのよ」
過去は過去だからね、と、この辺は実にさっぱりと割り切っているように見えた。
ずっと後になって、私たちがそろそろ本気で先行きを思案しなければならなくなったとき、私は彼女に、日本で死別した前の妻のことを話した。彼女は黙って聞いたあとで、
「いまでも思い出す?」
と聞いた。
「うん。毎日、思い出すよ」
「そうでしょうね」
気になるか、というと、
「どうして? 過去は過去じゃない」
この時も、むしろ不思議そうに聞き返した。
私たちは二年余り、同棲許可証の世話になって暮らした。そろそろ私の転勤話がちらつき始め、互いになんとか身分の決着をつけなくてはならなくなったとき、彼女は、
「三日間、時間をちょうだい」
といった。私はひさしぶりで支局に泊まり込んだ。
四日目の朝、彼女は支局にきて、
「私の方は決心がついたわ。日本へ行ってもうまくやっていけるだろうと思うの」
といった。
一日目は、興栄寺の和尚さんのところへ相談に行ったそうだ。二日目、三日目はそれぞれ、レ・バン・ジュエット将軍|廟《びよう》と、郊外の|暦師《れきし》を訪ねたという。皆、“吉”の|卦《け》を出したという。
私の方もその頃には決心がついていた。
そこで私たちは、階下の土間の|関羽《かんう》さまの祭壇にニワトリを供えて報告し、数日後、下町の区役所に正式に結婚届を提出した。
「もしあのとき、お釈迦さまが、“凶”の卦を出したらどうするつもりだったんだ」と私はときどき妻に問う。
彼女は少し考えて、
「でも、お釈迦さまは何でもよく知っているからそんな意地の悪いことをいわないわ」
「じゃ、占い師や暦の先生は?」
「だいじょうぶ。たくさんお礼を払いますって先にいっておいたから」
結婚当夜の食事には、前の夫もやってきた。コニャック・ソーダをふだんよりよけいに飲んで、
「ベトナムの女は世界一優しいんだ。そして世界一気性が激しいんだ。お前さんも忘れるなよな」
と、手の甲のキズを私に差し出した。
別れぎわ彼は少々しんみりし、
「オレのことを忘れないでくれよな。奇妙な|因縁《いんねん》で知り合ったが、あんたは本当にいい友達だった」とくり返した。
ホアハオ婆さんはそれまでにないような柔和な眼で姪を見つめた。
「お前も、日本くんだりまで行っちまうんだねえ」
と、タメ息をついた。
「住みにくけりゃ、すぐ帰ってくるんだよ」
それから私の方を向いて、
「あんたもだよ、あんたも帰っておいで」
といった。
ホテルの窓を揺るがす爆発音に目を覚ました。ガラスが赤々と染まっている。カーテンを開くと、数キロ先のタンソンニュット空港が炎上していた。
次々と砲弾が撃ち込まれる。ロケット砲か――。いや、それにしては照準が正確すぎる。おそらく一三〇ミリ砲だろう。一発撃ち込まれるたびに金色の|閃光《せんこう》がほとばしり、しばらくして鈍く力強い爆発音が伝わってくる。ときおり、着弾と同時に、巨大な炎が入道雲のように盛り上がる。格納庫か、地上の飛行機に命中したのだろう。
とうとう来たか――と思った。
FM放送にダイヤルを合わせて床につけ放しにしたラジオから、GI英語のあわただしい交信が流れていた。
「ウイスキー・ジョー、ウイスキー・ジョー、感度ありや?」
「こちら感度あり」
「火の海だ! 何もかも火に包まれている! おい、ウイスキー・ジョー、聞こえるのか?」
GI英語が、着弾で死亡した二人の海兵隊員の死体の処置について指示を仰いでいるのを聞いて、ウイスキー・ジョーは米大使館の|符牒《ふちよう》であることを知った。当のGIはいま、目の先で炎上している空港内DAO(米武官事務所)の要員だろう。
弾丸がどの方角から撃ち込まれているかわからないのが、いちばん気味が悪かった。このまま市街地にまで集中砲火を浴びせるつもりだろうか。
チュー政権は、私たち外来者の目からみれば、ずいぶん|滅茶苦茶《めちやくちや》な政権だった。町の人々も、チューなど大嫌いだ、といっていた。だが、つきつめて話してみると、白昼ビンスエンの兵士が親分の|妾《めかけ》にするために町なかで娘狩りをしていた時代より、まだゴ・ジン・ジェム時代の方が、さらに秘密警察下に押さえつけられていたジェム時代より、まだ現在の方が、結局のところましだ、というのが大方の本心のように私には思えた。
ベトコン(北ベトナム、革命政府の別なく人々はこう呼んでいた)が、新たな進歩と改革をめざしているという理屈は、多くの庶民も、あるていどはわきまえているようだった。
それでも、|苛酷《かこく》な歴史にふり回されながらなんとか生きのび、まだ「まし」な現在にあるこれらの人々が、「もう疲れた。静かに生きたい」と口にするとき、そこにはやはり耳を傾けなくてはならない響きがあるように、私には思えた。
いま、私が三年余りを生き、多くを知り多くを教えられたこの町の最後は、目の先に迫っている。北軍の砲火と戦車がこの町を新生させたとき、目の澄んだ革命の闘士たちがおしゃべりのチー・ハイやぐうたらのフエを目覚めさせに乗り込んできたとき、人々の生活はまたしてもどのような変革にもまれるのだろう。少なくともこれまでの世界は完全に過去のものとなり、それがその不幸と悲しみと、そしてそれなりの幸せと喜びをもって再び息づくことは絶対ありえまい、ということは確かな気がした。
窓際に肘掛け椅子を持ち出し、暗い中で、空港炎上のさまを見ながら、私は、私自身の一つの時期にも別れを告げた。
一九七五年四月三十日。
南ベトナム最後の朝を、私は、サイゴン河畔の日本大使館で迎えた。
北ベトナム軍は、前日未明のタンソンニュット空港砲撃から約三十時間の|猶予《ゆうよ》を、ヘリコプターで脱出をはかる米人らに与えた。パニック、としか呼びようのない三十時間だった。町中に、敗走兵や、スーツケース、合財袋をぶら下げた脱出志望者があふれた。それを押しわけて家財道具を満載した自家用車やモーターバイクが走り回った。米大使館は、ヘリコプターで沖の米戦艦にたどりつこうとするベトナム人の大群衆に取り巻かれた。
追いすがる人々を残し、最後のヘリは三十日午前七時、大使館屋上から離れた。
サイゴン河畔の遊歩道路は、まだ何万人という人で埋めつくされていた。碇泊中の貨物船の甲板によじのぼるもの、先を争って殴り合う中年男、小舟でやみくもに漕ぎ出して行く家族もあった。砲弾の中を一〇〇キロも離れた河口まで下るつもりなのか。文字通り、町中が水際に追いつめられた感じだった。
八時頃、一時静まっていた郊外の砲音がにわかに高まり始めた。
「いよいよ総攻撃開始らしいぞ」
記者仲間が緊張した顔で部屋に戻ってきた。ついさっきまでは、地鳴りか|遠雷《えんらい》のように響いていた砲音が、もう一発一発はっきり聞き取れる。それも四方八方から迫ってくる感じだった。
北ベトナム軍先遣隊がすでに空港を制圧し、敷地続きの参謀本部の残存部隊と交戦中との情報も町にいるベトナム人記者から電話でもたらされた。
午前十時二十分、ズォン・バン・ミン大統領は、ラジオを通じて無条件降伏を宣言し、自軍に武装解除を命じた。
北ベトナム軍は降伏を受け入れなかった。戦車を先頭に進撃を続け、やがて四方の街道からサイゴンになだれ込んだ。
突然、街路も河畔も奇妙な静けさに包まれたように思えた。
「来た! 来たぞ!」
館内の誰かが、叫んだ。
私は窓際にかけよった。
目の下、わずか十数メートルのところに、もう武装兵士らがきていた。身をかがめ、AKライフルを構えて、刺すような目を周囲に配りながら、影のように壁づたいに進んでくる。
通りの向こう側にも、十数人の分隊が三つ四つ、いや、あとからあとからくる。どこからこんなに素早く、そして大量にわき出してきたのか――。
オリーブ色の平たいヘルメットに、同じ色のダブダブの戦闘服。皆、サンダル|履《ば》きだが、ドス黒く日焼けし、驚くほど若く、|精悍《せいかん》に見えた。その鋭い目つきが同じに見え、一人一人の顔の区別もつかないほどだった。
十二時三十分、サイゴン中心部は、完全に北ベトナム軍の軍事制圧下に置かれた。
南ベトナムは、物理的にこの世から姿を消した。
新しい主人公は、この青年たち、まだ警戒と、おそらくある種の恐怖に神経をたかぶらせ、獣のように|敏捷《びんしよう》に物音に反応する青年たちだ。
チュー政権下のサイゴンしか知らぬ私にとって、この平たいヘルメット姿の新しい主人公は、まったくの「異人」だった。自分の方が外国人であることも忘れて、私は、慣れ親しんだ住まいに、突如、場違いの連中が押しかけてきたような、居心地の悪さを感じた。恐怖でもない。むろん見知らぬ連中への敵意でもない。ただ、この新しい現実に対して、理屈抜きの違和感を感じた。
一カ月後、私は、出国記者団用の特別機でこの住み慣れた土地を去った。北ベトナム軍の兵士たちは、外国人に対していちように礼儀正しかった。友好的でさえあった。
軍政下の町は、当惑と、ものものしさと、同時に何か|弛緩《しかん》したようなにぎわいに包まれていた。感動的な肉親の再会風景があちこちに見られ、路地や住宅街では、さっさと革命側に宗旨変えした若者たちが、逃亡家族や旧体制高官らの家々から家財を運び出していた。旧政府軍の兵士らは兵営を追い出され、家族や親戚の家に転がり込んだ。だが、人々はまだ呆然自失の状態から覚め切っていないようだった。陥落当初の恐怖と|狼狽《ろうばい》が去り、総じてこの時ならぬ“休暇”に上機嫌のようにも見えた。
羽田空港で私は、一カ月半ぶりに妻に会った。彼女は自分の国が亡び去ったことについて、格段、動揺した様子はなかった。ただ、陥落と同時にサイゴンからのニュースが|途絶《とだ》えたので、一時は私も他の外国人とともに殺されたものと思い込んだという。二、三日たて続けに泣いたら、胃から血を吐いた、といった。
私たちは本格的に東京での生活を始めた。妻は、私よりもむしろ平然と、この大都会の生活になじんでいった。
その後何カ月かして、日本国籍を取った。
ベトナム国籍を離脱するにさいしての心境を聞いたら、
「書類の国名が変っても、私自身が永久にベトナム人であることに変りはないでしょう」
と、特別の感慨を示さなかった。
だがその頃、彼女は、しきりと、
「ここ(日本)では、どうして皆、こんなにメランコリックな顔をしているの?」 といった。
彼女のフランス語では、メランコリックという言葉は、「|憂鬱《ゆううつ》な」の他に「とげとげした」「しかつめらしい」「消耗した」などの意味を包括する。私自身の目から見れば無事平穏な日本とは比較にならないほど消耗的な世の中を生きてきた人間が、こういう言葉で日本を評するのを、私は面白いと思った。
市場の近くの長屋は、私が出国して間もなく、新政権に没収され、人民革命軍の地区哨所となった。所有者である妻が国外に出たため、“反革命分子”の財産として取り扱われたらしい。ホアハオ婆さんをはじめ一族はそれぞれツテを求めて分散した。その後日本に戻った私の記者仲間からこの話を聞いたとき、妻はめずらしく心穏やかならぬ様子で、数日間を過ごした。
「私たちは何もボードイ(北・革命軍)に対して悪いことをしなかった。汚職でもうけた連中の物を取り上げるのはわかるけれど、なぜ、貧乏な年寄りを追い出したりしなくてはならないのかしら」
女手一つ、ときには命がけでなんとかこれまで築いてきたものを一朝で失ったことは、やはりそれなりの衝撃だったようだ。
それ以上に彼女が気に病んだのは、家も収入も失った一族が先祖の祭りもろくにできなくなったのではないか、ということだった。日本に移り住むに当たって彼女が私に要求した条件も、年に一度、墓参りに帰国させろ、ということだった。それも物理的に不可能になった。
そこで、彼女は浅草の観音様を、「私のお寺」に選んだ。亡母が周期的に夢枕に現れはじめると、私に救いを求める。
「アシタアサクサイコウナ」
観音様の前で、観光客にもまれながら、額に線香をかざし、ひとしきり母親と語り合うと、彼女の気は晴れる。
帰りは、|仲見世《なかみせ》や、上野のアメ横の|雑駁《ざつぱく》なにぎわいに、サイゴン市場の面影を求める。ろくに言葉も通じぬ売り子を相手に、ハイヒールやハンドバッグの値切り交渉を始めるときの妻は、もう気楽で抜け目のない、サイゴン下町育ちの本領を取り戻している。
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ベトナム式子育て法
ファン・グー・ラオの長屋には、たくさん子供がいた。どれもこれもあっぱれに汚れはて、年齢に似合わぬ抜けめのなさといい、家人からの取り扱われ方といい、まさにジャリといった感じだった。
とくに男の子連中はすばしこく、皆あまりすばしこいので定かな頭数もつかめなかった。年かさの何人かは、婆さんたちの目をかすめては、よく私のところにタバコをせびりにきた。
女の子の方はまだだいぶまともだった。年齢がいっていなかったせいもあるのだろう。
ベエとボムはいずれも五、六歳、その|姉《あね》さん株にユンというのがいた。三人はイヌやニワトリを仲間に、土間でよくままごと遊びや学校ごっこをしていた。
ユンは、当時は妻の娘だった。今では私の娘でもある。
はじめてベエとボムを引きつれて部屋にあいさつにきたとき、彼女は私の顔をしげしげと観察し、やがて大発見でもしたように、何か叫んだ。すかさず婆さんたちにどやしつけられ、三人でキャッキャと笑いながら逃げ出していった。そのあとで、母親も婆さんたちも笑い転げた。
私の鼻筋は中ほどまではかなり|溌刺《はつらつ》と張り出している。それがなぜか後半にわかに減退気味だ。だから横から見ると直線とはいいがたい。ユンにはその辺の造形がよほど印象的だったらしい。
「あっ、このおじさんの鼻は、コン・ケット(オウム)の鼻だ」
と口にしたそうだ。
おかげで、その後私は一家の子供たちから、「オム・ケット(オウムのおじさん)」と呼ばれるようになった。
このしかえしは、ずっと後になってしてやった。
日本にきて一年ほどしてから、ユンは急激に成長した。あっという間に頭一つほど伸び、体重もたちまち母親に追いついた。このころからときおり鏡をにらんで過ごすようになった。だいたいの造りはいいのだが、彼女もやはり中心部に難点がある。横幅はともかく、隆起の度合いがいま一歩たりない。他の部分があまり|野放図《のほうず》に成長したので、自分だけはせめて、と遠慮したのかもしれない。だが、本人はやはり、我ながら感心しないといった思い入れで、鏡相手にしきりと思案している。顔の角度を工夫したり、指でつまんでひっぱり出そうとけんめいだ。おかげで、ひところは鼻の頭がまっ赤になってしまった。
「ほれみろ」
と、私はさとしてやった。
「お前、パパの鼻を笑った罰だぞ。いくらつまんでも、もうこれ以上のびっこないからな」
ユンも最初の日のことを覚えていたらしい。
「うえーっ、かんにん、かんにん」
と、首をすくめ、ペロリと舌を出した。
サイゴンにいた頃から、ユンは学校が大好きだった。当時サイゴンの小、中学校はほとんど二部授業だった。政府は民主主義の成果を内外に示すためにしきりと児童の就学を奨励していた。そのくせ過重な国防予算をかかえ、文教予算などはいつも後回しだ。だから教員数も教室数もひどく不足していた。カトリック財団などが運営する一部のエリート校以外は、どこも午前と午後の二回にわけて授業を行わなければ生徒を収容しきれなかった。
午前中の授業がある日、ユンは待ち切れずに六時に起きた。午後の日は、もういいかげん遊び疲れたあとで、それでも張り切って、二時頃出かけていく。帰りは暗くなる。町でテロなどが起こりはじめると、母親はたいそう気をもんだ。よく家人にモーターバイクで迎えに行かせた。
私はときおり、彼女の成績表をのぞいてみた。だいたいクラスの中ほどにいた。しかし、やはり戦時国家の教育だから、クラス自体の水準が、お話にならないほど低い。
二部授業だけですでに変則だが、それさえも、戦況や政局が荒れるとしばしば中断される。ひどいときには学期の三分の一近くが学級閉鎖になる。めずらしく正常な登校が続いても、避難訓練や|防空壕《ぼうくうごう》掘りに多くの時間がさかれてしまうようだった。
母親は娘を、他の子供たちとまったく同様にあつかっていた。それでも、娘の成績には、それなりに気をつかっているようすだった。夏休みには週に二、三回、塾にも通わせた。そのくせ、母親自身はみごとなほど無学だった。
ときどき、大まじめで、
「海と空と、どっちが大きいの?」とか、「地球の中心に火があるって本当?」などと、たずねる。一度、軽い気持ちで、
「お前さん、本当に物を知らないんだな」
とからかうと、
「ママンが厳しくて、学校を続けさせてくれなかった」
と、急に涙ぐんだ。
彼女がまだユンの年頃だったころ、この国の中層庶民の家庭では、「女の子が読み書きなど」という通念が一般的だった。むしろ、それが美風であり、然るべき教育だったそうだ。
彼女の場合は、近所のフランス人の尼さんが母親を説得し、なんとか小学校にはいかせてもらえた。しかし、娘が十歳を過ぎると、母親は、もうこのくらいで十分だ、と教科書やノートをぜんぶカマドにほうり込んで燃してしまったそうだ。それでも、尼さんたちに助けられ内緒で何カ月か通い続けていたら、母親と叔母にさんざん殴られ、家に閉じ込められてしまった、という。
はたからその生きざまを見ると、彼女は、多少の「知識」よりはるかに本質的な「知恵」を身に備えているように思えた。それでも、やはり、この「学の無さ」はその後急速に変化し近代化した世の中を、一家を支えて生きるうえでハンディキャップともなり、多くのくやしい思い出のタネともなったらしかった。
めずらしく浮かべた涙を見て、いま彼女がそれなりに娘の学校教育に力をいれる気持ちが、わかる気がした。
日本に連れて戻ったとき、ユンをどの学校に入れるか、ずいぶん頭を痛めた。
当時彼女は十三歳たった。年齢的には、一応基礎教育課程を終えていた。しかし、いまさらどうがんばったところで、世界に冠たるつめこみ教育を受けてきた日本の同年輩の連中には追いつけまい、と思った。こんな状態で同じ土俵に投げ込むのは、彼女にとってむしろ不幸のもとになりかねない気がした。
妻も同意見だった。いろいろ考えたすえ、私たちは娘を外国系の学校にやることにした。娘を外国人に仕立て上げる気はなかったが、こうして祖国を離れ、デラシネになってしまった以上、せめて言葉を身につけてくれれば、将来道を切り開く武器になるだろう、と思った。
「英語か、フランス語か、それとも他の言葉か? 何語がいい?」
と聞くと、当のユンは迷わず、
「フランス語がいい」
と答えた。
彼女の年頃でも、ベトナム人にとって憧れの外国はやはり旧宗主国のフランスらしい。サイゴンの小学校でわずかながら初歩をやっていたので、無難な選択に思えた。
私はフレンチ・スクールを探した。
知人が、東京・九段に「リセ・フランコ・ジャポネ(日仏中高等学校)」というのがある、と教えてくれた。
フランス語諸国から日本にきている外交官、駐在員などの子供、あるいはこれらの国々から戻ってきた日本人の子供を対象に、フランス政府が日本政府の協力を得て運営している学校である。授業はフランス語で行われる。教科内容もそっくりフランス式だ。週に何回かは日本語の時間もある。それにここを最後までやれば、フランス本国はじめ欧州の一部の大学の入学資格試験に臨めるのも都合がよかった。
ユンにはこの最後の点がとくに気にいったらしい。それまでの家庭環境では、大学はやはり別世界の人々のものだった。
私は知人に紹介状を書いてもらい、ユンをリセに連れていった。
校長は五十歳半ばの、きさくな人物だった。事情を話すと快く引き受けてくれた。明日からでも通わせなさい、という。
余り簡単に引き受けられたのでかえって心配になった。
当時、娘のフランス語の能力は、 動詞(英語でいえば 動詞)のいちばん簡単な変化がやっといえるていどだった。
「それでもかまいませんか」
と念を押すと、校長は「どれどれ」とメガネをずり上げてユンの方に向き直り、いきなり大声で、
「ボンジュール・マドモワゼル・コマン・タレ・ブー?(今日は、お嬢さん。ごきげんいかが?)」と聞いた。
彼女はびっくりして椅子から飛び上がった。が、すぐ、
「トレ・ビアン・メルシー、エ・ブー・メーム?(とても元気です。ありがとう。で、あなたは?)」
と、型通りに答えた。
校長は|微笑《ほほえ》み、「日本は好きかね? サイゴンではどんな学校にいっていたの? 何年生までやったの?」と、やつぎばやにきいた。ユンはたちまち閉口して、私に救いを求めた。
「サ・バ、サ・バ(だいじょうぶ、だいじょうぶ)、すぐわかるようになるよ」
校長は笑った。
翌日、ユンは六時に起きた。長い時間かけて髪をとかし、新品のカバンの中味を何回も点検した。
アパートからリセまでは、徒歩と地下鉄で四十分以上かかった。しかも途中、かなり複雑な乗り換えがあった。少なくとも一週間ぐらいは行き帰りをエスコートしてやらねばなるまい、と私は思った。だが、妻は「一日だけで十分。ここはロケットやテロがあるわけじゃあるまいし」と冷淡なものだ。
最初の朝私たちが出かけるとき、彼女は娘に、
「いいかい。ちゃんと一回で道を覚えてくるんだよ。どうせ覚えなければならないんだからね」
と、くり返し命じた。
道々、ユンは悲壮な顔で私が指さす目印の建物やプラットホームの指示標識をにらみつけていた。
次の日から、いわれた通り一人で通いはじめた。つい十日ほど前までは地下鉄もエスカレーターも知らず、顔中パパイヤの汁だらけにしてドブ板の上を飛び回っていたのだから、物理的にも心理的にも相当ドラスチックな環境変化だったはずだ。出足で適応しそこなったら面倒なことになる、と私は内心注意していた。
しかし、本人は案外ケロリとしていた。妻も最初の二、三日、早起きに付き合っただけだった。あとはもう「子供のために早起きする親があるものか。そんなの話が逆だ」と、いっさいかまおうとしない。
ユンは、目覚まし時計を二つ抱いて眠り、六時に起きる。勝手に戸ダナをかきまわして即席ラーメンやパンやユデ卵の朝食をたいらげ、七時過ぎにはもう家を出ていく。そして、夕方四時か五時頃、またケロリとした顔で帰ってくる。
「もう、エスカレーターこわくなくなったか?」
「モーチロン」
「学校おもしろいか」
「モーチロン」
と、聞きかじりの日本語で答えた。
二カ月もすると、親しい仲間も増えたようだった。心配したフランス語も、友達と電話でおしゃべりできるていどに上達した。しかし、学業の方はさっぱりいけなかった。
年齢より一、二年下のクラスに編入してもらったのだが、やはり基礎教育の欠落は歴然としていた。それに、仲間との意思はなんとか通じても、教室で先生が話す正確なフランス語はほんのわずかしか聞き取れないらしかった。
そのくせ本人は、
「だいじょぶ、だいじょぶ」
とひとごとみたいにいう。
やはり、だいじょぶではなかった。翌年六月の学期末には、「進級に適さず」というコメント入りの通信簿をもらって帰ってきた。そればかりか、「ユンは努力している。家でももう少し勉強をみてやって頂きたい」という、校長先生の丁重なメッセージまでもって帰ってきた。
私は大いに恐縮し、娘の予習、復習の|督励《とくれい》をはじめた。
ところが、これが手に余る仕事だった。
たかが小学校五、六年生といっても、理科や歴史の教科書にはけっこう一人前の専門用語が並んでいる。辞書を引っくり返して、ようやく、
「SCOLOPENDRE(コタニワタリ科のシダ)」
「AMBULATOIRE(教会の後陣にある回廊)」
などという単語の意味がわかっても、こんどは肝心の知識の方がサビついてしまっているので、とてもそれが何であるか、かみくだいて説明するどころではない。
とくに人文科学系の教科書は、内容がヨーロッパ中心なので、よけい歯が立たなかった。ゴート族の族長の名前やその生活慣習など、大学の仏文科でも|詳《くわ》しく習った覚えはない。
数学なら|与《くみ》しやすかろう、とホコ先を転じると、これもまた勝手が違った。どうやら、日本とフランスでは、数学教育の発想自体に大きな違いがあるらしい。日本の場合は、計算など実用的な練習から入り、これを積み重ねて理論や概念に触れていく方法がとられている。少なくとも私自身の小、中学校時代の記憶ではそうだ。しかし、フランス式はむしろ、いきなり理論や概念を攻略するのが常道らしい。やはり、|明晰《めいせき》な合理精神を尊ぶデカルトの国なのだろう。といっても、相手は子供なので、なまの言葉では説明しない。さまざまの身近な、同時に|迂遠《うえん》な例を提示し、最後に「以上からどのような結論が得られるか」というような設問がある。
集合とか確率などは、日本語で説明するのだって容易ではない。それを、なじみのない発想から、なじみのない方法で、しかも他人の国の言葉で説明しようというのだから、私の方もてきめんにしどろもどろになる。かくてはならじと悪戦苦闘するうちに、しだいに声のオクターブは上がり、ついには頼りのフランス語も麻のように乱れはじめる。自分でも何を言っているのかわからない始末だから、聞いているユンにわかるはずがない。だが、こうなると、キョトンと私を見すえている相手の顔がますます|癪《しやく》にさわってくる。「こいつ、|魯鈍《ろどん》じゃないのか」などと思う。とどのつまりは、逆上し、我を忘れ、やたら|怒鳴《どな》りつける以外なくなる。
当然ユンはおびえる。最初のうちは父親の凶悪な顔にポカンとしているが、やがて本当に|肝《きも》を冷やし、ちぢみ上がる。ちょっと指で突いたらそのままイスごと引っくり返ってしまいそうなくらい硬直してしまう。
彼女にとってもずいぶんいい迷惑だったろうと思う。それでも、私にしてみれば怒鳴る以外、父親の権威を守る手段がないので、毎回しょうこりもなく続けた。
知識とか概念などに限らず、ユンは単純な計算にもからきし弱かった。
ある晩、時間のたし算、引き算に|難渋《なんじゆう》した。
「いいか、一時間は六十分だぞ。知ってるか?」
「うん、知ってる」
「それじゃ、五時間十分から二時間四十分を引くとどうなる?」
たちまち考え込んだ。あげくが、
「……三時間三十分?」
「違うよ。一時間は六十分しかないんだよ」と、私の方はまだ|辛《かろ》うじて平静だ。
「もう一度、よく考えてごらん」
また長いこと思案し、
「ああ、わかった」
「そうか。何時間何分だ?」
「二時間七十分」
私はほとんど無意識に、
「恥を知れ!」
と怒鳴った。正確には覚えていないが、
「こんな計算は、日本人なら幼稚園の子供だってできるぞ。お前、いったい幾つだ。恥を知れ、恥を!」といった調子で毒づいたらしい。
これが思いがけぬ反応を呼んだ。
それまで|蒼《あお》くなって震えていた彼女は、突然、顔を紅潮させた。歯をくいしばって私をにらみつけ、両眼から無念の涙をはらはらと流した。そして、ついぞ見たこともないような|形相《ぎようそう》で、猛然と問題に取り組みはじめた。
私はこの|豹変《ひようへん》ぶりに、ちょっとあっけにとられた。
小娘とはいえ、ユンもやはりベトナム人なのだ。サイゴンに住みはじめたころ、親しくなった知識人から、この国での付き合いの鉄則として、
「常に相手の名誉心を重んじよ」といわれた。
その後の生活体験からも、この国の人々がときには異常に思えるほど「メンツ」にこだわり、現実にそれへの配慮が日々の身の|持《じ》し方の一基盤をなしていることをしばしば実感した。単に個人の行動や対人関係に限らず、ときには政治問題、外交問題にいたるまで「メンツ」が介入し、それがこの国自体の生きざまを、はた目にはよけいややこしくしているのではないか、と思われることさえあった。
幼稚園児(しかも日本の)を引き合いに|貶《おとし》められ、ユンの中でもこの父祖伝来の血がカッと逆流したらしかった。
それ以来、私は娘の泣き所をつかんだ。
進退|窮《きわ》まると悪趣味とは承知のうえで、この奥の手を使うことにした。
最近、相手もしだいに|図太《ずぶと》くなり、たいがいの|罵詈雑言《ばりぞうごん》には動じなくなった。しかし、この「恥を知れ!」は、いつになってもこたえるらしい。いわれるたびに彼女はカッとなり、落涙する。が、同時に、見ていて気の毒なくらい発奮もするのである。
もっとも、それがそのまま成績に結びつくかとなると、話はまた別なのだが――。
ユンを怒鳴り過ぎたあとは、いつも後味が悪い。叱っても怒るな、などという言葉を思い出して、オレはだめだな、と考え込む。相手がベッドに入ってからもまだすすり泣いたりしているのに気づいたときなどは、彼女の境遇を思い、猛烈に反省する。
しかし、そんな私の気分を察すると、妻は腹をたてる。
怒鳴ったあとでクヨクヨするのは最低だという。だいたい、泣き寝入りされたぐらいで弱気になるのは、まだ怒鳴る方の気合いがたりないからだ、という。実際、彼女は疲れを知らぬ怒鳴り手である。おまけに徹底した体罰主義者だ。それも多分に、“ムリへんにゲンコツ”型だ。
サイゴンにいた頃、私は、妻が一族の身内や目下の家人に対して余り頻繁に暴力をふるうのを目にして、しばしば|愕然《がくぜん》としたものだった。ふだんはこわいもの知らずの悪童たちも、いい年をした従姉や|姪《めい》も、妻が荒れ出すときりきり舞いをしていた。
カンという陸軍軍曹がいた。妻の|甥《おい》だ。一家直系の若い者の中では最後まで生き残っていた。高校卒業後入隊し、もう七年間もメコン・デルタの前線を転々としていた。妻は何とか後方勤務に回してもらおうと、何回か長距離バスに乗って一日がかりで師団司令部に出かけていった。隊長が法外なカネを吹っかけるとかでうまく話が進まなかった。カンは休暇で年に二、三回、サイゴンに戻ってきた。|精悍《せいかん》な表情と、礼儀正しい物腰を備えた好青年だった。かたことの英語ができたので、私はよく彼と出歩いた。
妻もこの未来の大黒柱をあるていど他の家人とは別格に扱い、いつも私たちの部屋でいっしょに食事をさせていた。
ある日、昼食のさいちゅう、めずらしく二人が口論をはじめた。というより、妻が一方的に声を荒げ、カンはあわてて何か抗弁しているようだった。後で聞いてみると、彼のちょっとした言葉遣いが、妻の|逆鱗《げきりん》に触れたらしかった。妻はひとしきりまくしたて、やがていきなり、
「ナム・スン!(そこに寝なさい!)」
と大喝した。
カンは毒気を抜かれて立ち上がった。少々照れくさそうに私を見たが、そのままおとなしく軍服の上衣を脱いで、床に|腹這《はらば》いになった。
その背中を、妻はハタキの柄でイヤというほど打ちすえた。相手は子供のように悲鳴をあげながら、それでも最後まで神妙に叔母の|折檻《せつかん》を受けた。日頃、分隊を指揮して生死の接点に身をさらしているものの姿とは、とても思えなかった。その一年ほど後に、彼はデルタ南端部で戦死した。
とにかくベトナムの家庭のしつけは日本よりもはるかに厳しいようだった。
子供にたいしては、徹底した性悪論でのぞむ。大多数の親は、子供は動物と同じ、と割り切っている。「子供には自分で物事の|善《よ》し|悪《あ》しを判断する能力などない。だから外側からそれをたたき込んでいくのが親の仕事」というのが、この国の子育てのひとつの基本らしかった。
この辺の考え方は、中層、下層にかぎらず、フランスの|薫陶《くんとう》を受けた旧上流階級にも共通しているようにみえた。
親しい知人に、十四人の子供を持つ中年の教授がいた。初めてこの十四人が挨拶に出てきたときは壮観だった。横一列に並ぶとまるで階段だ。私は連中をひとまとめに「十四階段」と名付けた。教授はフランス本国の教授資格を持ち、私がこの国で付き合った最高の知識人の一人だった。私はよく彼のアパートに朝食に招かれた。家の中はいつも静まり返り、「十四階段」が存在している気配もなかった。
私がそのことをいうと、教授は、
「さいわい、いまのところ私のコントロールは完璧です」
と笑った。
「客人があるときは、ドアの外まで届くような声を出してはならん、といいわたしてあるんですよ」
テーブルにつくと、教授は台所に向かって何か号令をかける。夫妻と私のところへうやうやしく朝食を運んでくるのは、いつも、二十歳の長男と、十八歳の次男の役だった。
教授は猛烈な反仏論者でかたときも旧宗主国への憎しみを隠さなかった。しかし、子供のしつけに関してだけは、「彼ら(フランス人)と我々は分かり合える」といった。
ずっと後になってユンをリセに入れたとき、私は、娘があまりリベラルな空気になじむと母親との間がうまくいかなくなるのではないか、と少し気にかけた。フレンチ・スクールなどという以上、クラスの雰囲気は日本の学校よりはるかに|いまよう《ヽヽヽヽ》で奔放なのだろうと思ったからだ。実際には、先生や生徒監の干渉は想像以上に厳しかった。そして、ときどき家に遊びにくる娘の同級生たちの態度や口ぶりから、彼女たちの家庭が日本の一般家庭よりむしろ厳しいらしいことも知った。
ベトナム式子育て法のもう一つの基本は、何よりも「強い子」を作りあげることのようにみえた。
たしかに、学問や教養はともかくとして、強靱で、世知にたけ、したたかな人格でなければ、戦乱続きの国を生き抜いていけない。別にこれは|今次《こんじ》の戦争にかぎらず、国家形成以来、たえず外国勢力の侵略や内乱にもまれ続けたベトナムの歴史自体のセチ辛さ、悲しさがつちかった規範なのだろう。
だから、サイゴンの子供たちは一般に驚くほど行儀がよく、そのくせスミに置けないところを身につけていた。街には手に負えない悪童が山ほどいたが、|騙《かた》ったり、かっぱらったりはかれらにとっても|たつき《ヽヽヽ》の道で、これは話が別だろう。この連中だって一対一になると思いのほか礼儀正しく、人なつっこい。よくもわるくも人扱いがうまいのかもしれない。それでも、なぜか変にひねていないところは|可愛《かわい》らしい。
人前で物をねだってしつこくむずかったり、他人迷惑に泣き騒ぐ子供もほとんど見かけなかった。
この辺は親のメンツの問題でもあるようだった。しつけの悪さはなによりも親の恥なのだ。親はメンツを失いたくないから、子供が泣き出しそうな気配を見てとると先手を打って張り飛ばす。びっくりして泣きだしたら、また二、三発張り飛ばす。何回かこの調子でくり返せば、しまいには子供の方があきれ、次からは泣きべそをかきたくても我慢するようになる。
日本に来た頃、妻は、街路や乗り物の中で泣く子のごきげんを取っている母親の姿を見るたびに、ショックを受けた。「親の恥も知らない」と、彼女は憤慨した。
ユンもこうして体中アザだらけにして育った。
だから母親に対する恐怖心は大変なものだ。私に対してはときどきなれなれしくふるまうことがあるが、母親には文句なしの絶対服従である。
掃除、洗濯、買い物、炊事、後片付け、その他雑用全般……これでは母親が人殺しを命じたら本当にやっちまうんじゃなかろうか、と思えるくらい、よくいうことを聞く。母親も、よくこれほど使えると感心するほど、次から次へと娘をこき使う。
あまり娘が母親の顔色をうかがうので、私はときどき、こうこわがらせては性格がいじけるのではないか、と心配になる。親しい友人の中にも同様の感想を述べる者がいた。
妻はいっこうに気にしない。
「このていどでいじけてしまうようなら、それはもともとできそこないの証拠。そんな子ならちっとも惜しくない」
とうそぶき、|言下《げんか》にこの忠告をしりぞけた。
それどころか、これだけ怒鳴り、これだけこきつかっても、まだしごきたりないと判断したらしい。
一年ほど前、ようやく授業になれたユンは、先生から何か課外活動をはじめるよう勧められた。ダンス、バレーボール、柔道、それに演劇などいくつかのサークルがあり、いずれもリセが校外の専門家に指導を委託していた。
妻は即座に、柔道の稽古に通うよう命じた。
彼女自身も若い頃、空手をならい、これがその後の世渡りにたいそう役に立ったとよくいう。
「お前だって、これからどんなことがあるかわからないからね。まず役に立つものをならっておおき。ダンスはいつでも覚えられるからね」
痛いことの大嫌いなユンは泣きそうになった。だが、何よりもこわい母親の命令である。次の週から稽古着をかついで通いだした。どうせ長続きするまい、と私は思った。
念のため、何回目かに様子を見にいってみた。案の定、初心者の中でもひときわへっぴり腰だ。
デングリ返しもろくにできず、黒帯姿の女の先生を手こずらせている。
「でも、ずいぶんよくなったんです。最初の日はユンちゃん泣き出しちゃって」
と若い先生は娘の|頬《ほお》を|小突《こづ》いた。
帰りの車の中で、
「ユン、泣いちゃったか」とからかうと、
「そうさ、だってほとんど死にかけるところだったもの」
おおげさな顔でいった。そのあとで、
「ママンにはいわないで」
と、拝むまねをした。
ところが、その後しばらくして、彼女はすっかり熱心になった。家で母親に小突き回されるより、道場で先生に投げつけられる方がまだまし、と思ったのかもしれない。先生にも気に入られたもようで、|嬉々《きき》として稽古に精勤した。夏の講道館の合宿にもすすんで参加した。
そして、まったく驚いたことに、半年ほどで最初の進級試験に合格した。
その日、大得意で帰ってきた娘を、妻はめずらしくほめた。
「そう、その調子で続けるんだよ。もう少し強くなったら、こんどはママンが空手を教えてあげるからね」
ユンはあわてて、
「もうけっこう、もうけっこう」と、辞退した。
柔道をならいはじめてから、ユンの体格は目に見えてたくましくなった。それまでの彼女は、外見はむしろひよわだった。性格もすっとぼけているようでいながら妙にニュアンスの濃すぎるところがあった。彼女が幼年時代、母親は多忙だった。ユンはずっと祖母や年寄りたちに育てられた。それから祖母が死に、いきなり、人一倍厳しい母親の手もとに戻った。そして二、三年たって日本にきた。こうしたことは皆、彼女の内側でいろいろ作用しているだろうと思う。
だが、この頃から彼女の顔付きはずいぶん陽性になった。気性も目立って強くなったように思えた。対象への好き嫌いを表に出し、|癪《しやく》にさわる相手には向かっていく姿勢が出てきた。
そのせいか、最近、私にはまた新たな心配のタネがでてきた。
あまり頭ごなしにやられると、母親に対しても多少曲折した反応を示すようになってきたのだ。むろん、相手の目の前ではそんなそぶりは見せない。ひとしきりカミナリを落とされたあと、ドアのかげなどに隠れて、一人で|鬱憤《うつぷん》を晴らす。
注意してうかがっていると、目を宙にすえ、
「またママン、自分で置き忘れたくせにユンのせいにした。いつもこうだ。いつでもこうなんだ」
などと恨みの言葉を吐きながら、涙ぐんでいる。その口調や目付きには、ちょっとたじろぐほどの真情がこもっている。
たしかに妻のガミガミを聞いていると、十回のうち三回ぐらいは、八ツ当たりの無理難題なのだ。私はときおり、たまりかねて妻をたしなめる。
「もういい加減にしないか。ユンだっていつまでも赤ん坊じゃない。今に本当にクーデターを起こすかもしれないぞ」
妻は相変らず気にかけない。
「勝手にふくれさせておけばいいの。だいいち、わかるでしょ。あれだけ理不尽な怒られ方をして腹が立たないようなら、それこそあの子、見込みなしよ」
と、平然としている。
怒鳴りたいだけ怒鳴っておいて、いじければできそこない、おそれいれば見込みなし、では、ユンも辛かろうと思う。
もっともこの辺は、そ知らぬふりをして怒鳴りながら、妻もけっこう真剣に娘の心を観察しているのかもしれない。
ときどき妻はユンに、
「お前がちゃんと一人で物を考え、一人でおカネをかせげるようになったら、一〇〇パーセントのリベルテ(自由)をあげる。でも、それまではパパとママンがお前を完全にコントロール(統御)するんだからね。ママンはまだ怒鳴り疲れないよ」
と念を押す。
三年後、五年後、ユンがどんな娘になっているか、わからない。
多くのベトナムの若者がそうであったように案外シンの強い性格に育っていきそうな気もするし、また一方で、自分はいま父親としてずいぶん無責任な過ちをしでかしつつあるのではないか、という不安感も去らない。
だが、結局のところ私としては、
「ユンはベトナム人なのだから、私の流儀で育てさせろ」
という妻の主張を最大限尊重する以外ない。
それはやはり、彼女のこの一見乱暴で硬質な子育て法の中に、育てる側のなみなみならぬ気苦労が感じ取れるからでもある。
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わが家の性教育
「ユン」は娘の日本名である。
本名は、「ミーユン」という。
日本国籍にきりかえるとき、本名のまま申請したら、
「こんな名前、日本人として通用しません」
と、法務局の事務官に突き返された。
その場でユンと改めて、書類一式を書きなおした。
「これも、そうない名前だなあ」
相手はまだだいぶ渋い顔をしたが、結局受け付けてくれた。
当の本人は、無断で自分の名前をチョン切られたのがよほど不本意だったらしい。もともと呼称はユンだったのに、それ以後は意地になって自分をミーユンと呼ぶようになった。人に名前をたずねられると、
「わたしは、ミーユン・コンドウです」
と、胸を張って答える。
学校でも「ミーユン」で通っている。
もっとも、はじめのうちは苦労したらしい。ミーユンをベトナム式につづると、MY-DUNGとなる。
たいがいの先生は、ちょっと頭をひねり、それから「マイ・ドゥング」あるいは「ミー・ドゥング」と呼ぶ。
「きょうもマット(数学)の先生、ミーユンちゃんのこと、マイ・ドゥングなんていった」
リセから戻ると、よくこんなことをいってこぼしていた。
だが、実はこの「ドゥング」も、彼女にとってはまだ許せる方なのだ。
正調ベトナム語、つまり、ハノイを中心とする北ベトナム地方のベトナム語では、「D」という文字は、英語の「Z」と同じ発音になる。だから彼女の名前も、正確に発音すると、「ズン」となる。しかし、なにかと洗練され、優雅であることを好む南部の人々は、「Z」の発音を嫌う。こんな音は田舎っぽく、耳ざわりで、とても口にできないという。そこで、勝手に濁点を取り、やわらかい発音にくずしてしまう。「トゥーゾー(自由)」は「トゥーヨー」となり、「ザア(ハイ、というあいづち)」は「ヤア」となる。
ユンにも、南部生まれの血が脈打っている。たとえその方が正確でも、自分の名前を田舎っぽく発音されることはどうにも我慢がならないらしい。
ときどき、私がふざけて、
「おい、ズン」と呼ぶと、
「そんなお名前の人、うちにいない。」と腹を立てる。
はじめてユンに会ったとき、彼女は八歳か九歳だった。その頃私は今の妻と結婚することになるとは、まだ思っていなかった。だから当初のユンへの印象もごくおぼろなものでしかない。
彼女の方は、かなり早い時期から、私を「パパ」と呼びはじめた。自分からそう呼ぶ気になったのか、家の婆さんたちが面白がってけしかけたのか、はわからない。そう呼ばれてドキリとした覚えも別にないから、私の方もその頃には彼女を然るべき目で見ていたのかもしれない。
その後、私は、ときおり彼女を学校に迎えに行ったり、短い散歩に連れ出すようになった。校内で私の姿を見つけると、ユンはサッと顔を輝かせ、周囲かまわぬ声で「パパーッ」と叫んで駆け寄ってくる。だが、二人だけになると、心なしか態度が固くなる。それでいて同時に、おずおずと寄り添ってくるようなそぶりをみせることがあった。ほんの子供が一瞬、もの思う娘に変身したように感じられ、私の方もちょっと不意を|衝《つ》かれる。「こいつが、どうやらオレの不労所得になるのか」と、あらためて感慨を覚えるのもそんなときだった。
東京に移り住むにあたっては、だいぶ考えた。
新聞社に入って以来、私は地方暮らしや外国暮らしが長かった。東京には住まいはもとより、気楽にものを頼める知人もほとんどなかった。自分自身ももうなじみを失っている土地へ、いきなり、言葉もできぬ妻子を連れて戻るのは、我ながら無謀に思えた。
しかし、南ベトナム政府は、ベトナム国籍者の出国を厳しく制限していた。私が妻子を同伴して出国すれば問題はなかったが、別々では難題が起きる可能性があった。結局、私が一足先に帰って受け入れ態勢を整えて、妻とユンを呼び寄せる、といういちばん無理のない方法はあきらめざるをえなかった。
このため彼女たちにとっても、かなりあわただしい出発になった。
出発の日取りがきまると、妻はユンを二階に呼び上げ、
「日本に行くことになったよ」
と、申し渡した。
ユンには、母親から物を言いつけられるとちょっと姿勢をただし、妙におとなびた口調で、尻上がりに「ヤア」と返事をするクセがある。そのときも、同じ調子で「ヤア」と答えた。
外国へ行くと聞かされても、別にうきうきした風はなかった。むしろ迷惑そうな様子さえ感じられた。
しばらく考えていたが、
「トントン(おじさん)もいっしょに行くの?」
「トントンは行かない。パパとママンとユンだけ」
と妻はいった。ユンはまた、
「ヤア」
といって、部屋を出ていった。トントンというのは、妻の義兄のチュン爺さんのことだ。
六十年輩の、とびきり無口で、無愛想な爺さんだった。若い頃、女房に死に別れ、他に身寄りもないのでその後もずっと一家に|留《とど》まっていた。
母親が多忙だったので、ユンはほとんどこの爺さんに育てられた。だからふだんも母親にはあまり寄りつかず、寝るときも食べるときも、爺さんといっしょだった。
爺さんも、彼女を|掌 中《しようちゆう》の玉のように扱っていた。
ユンは学校から帰ると、よく土間の片隅のテーブルにノートを広げ、爺さん相手に、その日習ってきたことを講義して聞かせた。まるでおとなのような態度で語りかけ、ときおり「わかったの?」という風に相手の頬を指で|小突《こづ》いたりする。爺さんはブスッとした顔で安タバコをくゆらせ、それでも全身で愛情を表しながら、小娘の講義を拝聴していた。
ユンが思案深げに「ヤア」といって部屋を去ったあと、私と妻は顔を見合わせた。
いずれ、|愁嘆場《しゆうたんば》を覚悟せねばなるまい、と思った。
「|可哀相《かわいそう》だけどしようがない」
と、妻もタメ息をついた。
ところがユンは、思いのほかケロリとしていた。
荷造りが進み、家の中がせわしなく、同時にしんみりなりはじめても、平気な顔で仲間と飛び回っていた。
爺さんは出発の日が迫ると、急におろおろしはじめた。彼は極端な世間嫌いでそれまで墓参り以外はほとんど家から出たこともなかった。それが空港に見送りに行くといい出した。
私は、ユンにあまりなまなましい思い出を作らせたくなかった。妻や婆さんたちも「なにもわざわざ辛い思いをしに――」と、彼をいさめた。
爺さんはきかなかった。
子供たちといっしょにランブレッタに乗り、タンソンニュット空港にやってきた。
一族との別れは一騒ぎだった。ユンは婆さんたちや学校仲間の相手に忙しく、ほとんど爺さんに注意を払わなかった。
爺さんは、人垣の後に立ち、いつもの|仏頂面《ぶつちようづら》でそんな騒ぎを見ていた。
しかし、私たちがアナウンスに促されて通関所に向かいかけたとき、突然、突拍子もない大声で、
「ユン! ユン!」と叫び出した。
ユンは少しも動じなかった。必死の|形相《ぎようそう》で叫んでいる爺さんをふり返り、
「トントン、バイ、バーイ」と、元気いっぱい手を振った。
こいつ、もしかしたら、少し鈍いんじゃないかな、と私は思った。
東京に着いた私たちは、ひとまず都心の小さなホテルに荷を解いた。
翌日から、アパート探しをはじめた。
夏のさかりだった。
毎朝、ホテルのそばの喫茶店で食事をすませると、そのまま、不動産屋の看板を求めて町に出動する。格安美麗の口車に乗せられて、夕方遅くまで路地裏や線路わきをさまよい回った。
うんざりするような毎日だった。
だが、妻は観光気分だった。ユンも、生まれてはじめて履いた皮靴をののしりながら、毎日張り切ってついてきた。
サイゴンとはケタ違いの車の洪水や、高層ビルや、豪華なショーウィンドウには、予想外なほど、驚きを示さなかった。
ただ、路上の、清涼飲料の自動販売機にはひどく感銘を受けたようすだった。日に何回となく、私に小銭をねだっては、真剣な顔で機械に歩み寄る。硬貨を入れ、こわごわとボタンを押し、望みのカンがガチャン、ゴロゴロと落ちてくると、
「出てきた、出てきた」
と、手を|拍《う》って喜んだ。
「サイゴンにもあると便利だな。でも、一晩でみんな壊され、おカネもジュースも盗まれてしまうかな」
と、母親を相手に所見を述べたりしていた。
喫茶店の朝の食事にも満足した。ベトナムのパンは、みな、フランス風のバゲット(棒パン)だ。だから、四角い食パンがものめずらしく、|御馳走《ごちそう》に思えたらしい。毎朝、部厚いツナ・サンドを大喜びで食べ、ときには二人前も平らげた。食べ終ると待ち切れぬ様子で、
「早く、おうち探しに行こう」
と、私をせかした。
とにかく、拍子抜けするほど、あっけらかんと、新しい世界に滑り込んだ。「子供とはこんなものなのか」と、あらためて、私は思った。
やはりユンも彼女なりに頑張っていたらしい。
着いて、四日目か五日目だったと思う。
その晩、私は、夜中近くに一度目を覚ました。はかどらぬアパート探しや、こんご生活を軌道に乗せるまでまだ山ほど待ち受けている|諸煩瑣事《しよはんさじ》に思いをめぐらし、しぜん頭がさえた。そのとき、隣のベッドでユンがしきりと妙な鼻息を立てているのに気がついた。最初は、風邪にやられたな、と思った。サイゴンも年中暑い土地だが、東京の夏のようにムシ暑くはない。慣れぬ湿度が鼻にきたのだろう、と思った。
それにしては、クスン、クスンがどうも規則的だ。しばらく聞き耳を立て、ようやく、彼女が泣いているのに気がついた。
ときどき、ホーッ、ホーッと、低く、フクロウのような吐息をつきながら、彼女は一人で実に切なそうに泣いていた。
私は長い間、身動きもせず、彼女のすすり泣く声を聞いた。
昼間の快活さがきわだっていただけに、よけいに胸を|衝《つ》かれた。
一時間ほどして、クスン、クスンは|間遠《まどお》になり、やがて吐息もやみ、健康そうな寝息に変った。
暗い中で私は、自分という人間の存在が、この娘の人生に決定的に関与した事実を、あらためて、というより、おそらくはじめて、ズシリとした重みをともなって実感した。
ユンが本当に「私の娘」になったのは、この晩ではなかったか、と思う。
その後数日して、私たちはアパートを見つけ、なんとか新しい生活をスタートさせた。
その頃になっても、ユンはまだときどき夜中に泣いた。ある晩、とうとう妻が気付いた。妻はふとんを蹴って起き上がり、隣室のユンのベッドに行った。しばらくの間、えらい剣幕で|怒鳴《どな》りつけていた。
ユンは|肝《きも》をつぶし、それ以来、泣かなくなった。
半年もたたないうちに、彼女は日本が大好きになった。チュン爺さんのこともすっかり口にしなくなった。
最近では、
「ユン、パパは東京の生活に疲れたぞ。そろそろベトナムへ帰ろうか」と挑発すると、
「いやだ、ユンは東京にいる」
と、大騒ぎになる。
「なぜ、東京がそんなにいいんだ」
「だって、ギンザがあるじゃないか。チカテツもあるし、きれいなものもたくさん売ってる」
「パパは、銀座も地下鉄も大嫌いだ。きれいなものはサイゴンにだってあるじゃないか」
「じょーだん(冗談いうな、の略語だ)。東京の方がずっときれいだ。サイゴン、おもしろくない」
「よし、ユンはパパより東京の方が好きなんだな。わかってるよ。前からそう思ってたんだ。パパは一人で帰る」
「そうじゃないったら。だってパパはパパでしょ。東京は東京でしょ。人と物とは違うじゃないか。ユンはパパといっしょに東京にいるっていってるの」
それでも私が、サイゴンに帰る、といいはると、
「いま帰ったら、パパ、自由がないよ。森へ行って働かなければいけないよ」
と、|利《き》いたふうなことをいう。
「いいよ、パパは働くよ。お前だって働かなければダメだよ。ベトナム人がベトナムのために働くのはあたり前だからな」
「いやだ、やっぱりユンはギンザの方がいい」
すでに手に負えぬ堕落ぶりではないのかと、ときどき思う。
日本に来たとき、ユンは十三歳だった。
同年輩の日本の女の子にくらべ、ずっと小柄で子供っぽく見えた。ヨーロッパや南米から来ているリセの仲間にまじると、よけい貧弱さが目立った。
もともと、ベトナムの娘は、体つきがきゃしゃなのだ。とくにユンの場合は、小さい頃、祖母やチュン爺さんに甘やかされ、偏食したのも影響しているらしかった。
十四歳近くになっても初潮がなかった。グズだ、グズだ、と、妻はこぼした。
「私が子供の頃は、十三、十四でお嫁にいく娘がいくらでもいた」
という。
「お前さん自身はどうだったんだ」
と私は聞いた。
「私はこんなに発育不全じゃなかった。もう、りっぱな娘だったわよ」
「そうか、何人ぐらい男がいた?」
「さあね。それは秘密」
こんな両親のやりとりを、ユンは面白くもなさそうに聞いている。
「なあ、ユン。ママン、心配してるぜ。お前せめて毛ぐらい生えはじめたか」
「あったりまえ、ミーユンちゃんだってちゃんと生えてる」
憤然と答えた。
「よし、見せてみろ」
「ダメだよおーッ」
ユンはびっくりした。
「どれ、それじゃ、ママンが調べてあげる」
ユンはたまげて隣室に逃げ込んだ。妻は部屋中追い回してひっ捕え、壁ぎわのソファーに押さえつけた。
「いやだよーッ、パパ、助けてえ、早く助けてくれーッ」
と、ユンは必死だ。が、難なく、半ズボンもパンツも脱がされてしまった。妻は|仔細《しさい》に観察した。
「なんだ、これっぽっちじゃないか」
呼ばれてのぞきに行くと、見えるか見えないかのウブ毛が、ようやく出かかったばかりだった。それでも妻は、自分の目で確かめて、ひとまず満足したらしい。
「よし、お前、これからもごはんをいっぱい食べて、ちゃんと育てなさい」
説諭して、解放した。
ユンは泣きべそをかいた。だがその半面、めずらしく母親に親しげに扱われ、|満更《まんざら》でもなさそうだった。
「パパ、なぜ見たか」
半ズボンをはきながら、私をにらみつけた。
それから二、三カ月後――。
勤めから戻ると、ユンは待ちかまえていたように、
「パパ、ミーユンちゃんにも赤いのあったぞ」と報告した。
大得意だ。グズだ、グズだといわれてやはり肩身が狭かったらしい。
「そうか、お前もとうとう小娘から娘になったか」
「わたし、前から小娘じゃないッ」
と、また腹を立てた。
長い間、彼女は、自分が小娘だと思い込んでいた。サイゴンで日本語の単語を習いはじめた頃、私が「コン・ガイ(女の子)は日本語ではコムスメというんだよ」と教え込んでおいたからだ。
日本に来てからも、人に紹介されると、
「わたしは、コンドウのコムスメです」と名乗っていた。
ときどき、「そう、君、小娘なの?」とおかしそうに聞き返す相手もいたが、それでも大真面目に、
「はい、コムスメです」と答えた。
そのうち、やっとクラスの日本人仲間か、日本語の先生に、小娘という単語のニュアンスを教えられたらしい。
ある日、リセから戻ると、
「パパ、ひどいよ。コムスメっていうのは悪い言い方じゃないか」
と抗議した。
「そうか、悪い言い方だったか。それじゃいい言い方はなんていうんだ」
「ムスメ、でいいんでしょう」
「うん、でも、パパは|可愛《かわい》い娘だと小娘って呼びたくなるんだ。ユンは可愛い娘だからな」
「でもみんな笑うんだよ」
「お前、パパの日本語、信用しないのか。パパは新聞記者なんだよ」
ユンは困った顔をした。しばらく疑わしそうに私を見たあとで、
「やっぱり、コムスメって呼ばないでください」
ちょっとあらたまって念を押した。
そこへいくと、妻は|他愛《たわい》がない。彼女は、ユンにくらべ日本人や日本語と接触する機会がずっと少ない。だから、最初に教えられた知識を|律義《りちぎ》に守り続けている。
日本に来た頃、私は、夫は「旦那さま」、妻は「奥さん」というのだ、と教えておいた。だから、いまでも、
「わたし、コンドウのオクサンです。わたしのダンナサマ、いますか」
などと、社に電話をかけてくる。
ともかく、待ちかねた赤いものが来て、ユンはめでたく小娘から娘になった。その晩、妻は娘をトイレに連れ込んで、たんねんに手入れの仕方を指南していた。
「これからは、ふだんも毎日よく洗うんだよ。汚くしておくとボーイフレンドができないからね」
などと教えている。
「メンスがきたら、ちゃんとママンにいわなくちゃダメよ。その間は、お寺さんに行ったり、仏壇に線香をあげたりできないんだからね。供え物もあげちゃいけないよ」
とも、いった。
この頃から、妻は、彼女なりの方法で、娘の性教育(?)に精を出しはじめた。はたから見ていると、どうも乱暴なものだった。
教材は、テレビだ。夜十一時過ぎ、民放にチャンネルを合わせると、たいがいどこもきわどいものをやっている。裸の女の子が出てきて踊ったり、うめいたり、ときには私でも目を|剥《む》くような迫真のからみが登場する。
妻はこんなのが大好きだ。それまでも毎晩一人で見ていたが、ユンに赤いのがきてからは、彼女をかたわらに呼びつけ、「お前も見なさい」と強制するようになった。
ユンは興味がなかった。オカマや女風呂が出てくると、面白がってケラケラ笑い出すがたちまち退屈してしまう。ときどき、
「バーカみたい」
とののしりながら、うんざりした顔で、ブラウン管に目をやっている。だいいち、毎朝六時起きだから、もう眠くてしようがないのだ。
あまりなまなましい場面やうめき声が続くと、さすがに私も気になってくる。
「おい、もう寝かしてやれよ。こんなドギツいの見せたら、こいつ、考え込んじまうかもしれないぞ」
と、妻を突っつく。
「ダメよ、この子、幼稚すぎるから、早く鍛えないと」
妻は聞かない。
「それに、いまのうちにうんと見せて慣れさせてしまえば、あとで変な好奇心を持ったり、何かあったとき親に隠したりしないでしょう」
と、番組が終るまでユンを釈放しない。
そのうちユンもあきらめたらしい。しまいに、夜十一時を過ぎると、
「ママン、セクシーの時間だよ」
と、自分からチャンネルを回して、母親を呼びよせるようになった。
入れかわり立ちかわりブラウン管に登場するヌードダンサーを検分しながら、妻は大真面目で解説する。
「ほら見てごらん。この人のおっぱい、きれいだろ。お前もこういう風にならなきゃだめだよ」
「これは大きすぎる。デレーンとしてる。いいかい、怠けて体を動かさないでいるとこんなになっちゃうんだよ」
ユンも仕方なく神妙に|相槌《あいづち》を打ったりしている。
ベトナムの俗語で、「スケベ」のことを「バー・ムイ・ラム」という。三十五、という意味だ。
なぜ、三十五がスケベなのか、最初は|合点《がてん》がいかなかった。男も女も、この年頃がいちばんあつかましく、好色になるということなのか、などとも考えた。
その後聞いてみると、ベトナムでさかんな、中国伝来のカルタが出典(?)らしかった。このカルタで、三十五という数字はヤギを表す|符牒《ふちよう》だそうだ。
昔、中国の皇帝は、|後宮《こうきゆう》何百人か何千人かをかかえていたという。一人でさえもてあます身としては、気違い|沙汰《ざた》としか思えないのだが、なにしろ血なまぐさい時代だったからせっせと世継ぎを製造しておかなければ安心できなかったのだろう。だが、その頃から女性はヤキモチ焼きだった。だから、夜ごとの選択がむずかしい。そこで、ヤギに責任を押しつけた。日が暮れると皇帝は、ヒモにつないだヤギを露払いに、女性の部屋の前を一巡する。ヤギが歩き疲れたり、あるいはその日の気まぐれで足をとめた部屋の主が、その晩、皇帝を所有できる。
なかには、ヤギより頭のいい女性もいた。毎日、夕方になると、部屋の前に相手が大好きな塩を出しておく。ヤギは必ずここで足をとめる。れっきとした買収だが、いったん規則を定めた以上、皇帝もみだりにそれを破るわけにはいかない。連夜、彼女のお相手をつとめなければならなかった――そうだ。
日本でもときおり小料理屋の玄関口などに塩が盛ってあるのを見かけるが、これもこの辺の故事からきたのかもしれない(?)
とにかく、こんなことから、ヤギは色事を連想させる動物となり、その符牒の三十五が「スケベ」の代名詞となったそうだ。
ベトナム人は男女のことがらに関して、ことのほか熱心で、かつエネルギッシュな国民性の持ち主に見えた。一般に南国の人々は、セックスについて開放的といわれるが、ベトナム人も明らかにその点では日本人より自然に近いところに身を置いているように思われた。|語弊《ごへい》を恐れずにいえば、大変、バー・ムイ・ラムな民族といえるかもしれない。だが妙な抑圧がないから、そういやらしくない。むしろ、性への知識や関心が隠微の域にまで|歪曲《わいきよく》され|尖鋭《せんえい》化された“文明国”から出かけていった者の目には、さわやかでさえあった。ベトナムに限らず、東南アジアの多くの観光地が、“セックス・アニマル”の天国として喧伝される裏には、こうした感覚の違いも働いているのだろう。“セックス・アニマル”というと一〇〇パーセント聞こえが悪いが、やはり多くの旅行者は、これら旅先での一夜に自国ではもうなかなか拾えない一種の真情を、いってみれば、人間としての本然的な郷愁に結びつく真情を、味わっているのではないかと思う。
もっともベトナムの場合、儒教の影響も強いので、性に対する精神的規制観念は少なくないはずだ。事実、古風な家族では、「七歳にして席を同じゅうせず」式の規範が生き残っている。それでも、南国のなまなましい自然環境と、圧倒的な仏教の浸透が、これを|凌駕《りようが》するおおらかさを人々の体質に植えつけたのだろう。
東京に来て間もない頃、妻は、ポルノ映画に連れて行ってくれ、とせがんだ。街角で目にしたおどろおどろしい看板に、いたく好奇心を刺激されたらしい。ある午後、私たちは銀座裏の薄汚い小屋に出かけた。|全篇《ぜんぺん》色気違いみたいな西独産二本立てで、彼女は「ホーッ」と歓声ともタメ息ともつかぬ声をもらしながら大いに満足して鑑賞した。
|幕間《まくあい》の休憩になり、館内に明りがついた。客席を見回した彼女は「ヤイ、ヤイ、ヤイ」と、さすがに恥ずかしそうな声をあげた。五十人ほどの観客は皆、孤独の影を背負ったような男ばかりで、自分が文字通りの紅一点であることに気づいたからだ。
「こんな映画、夫婦や恋人同士で見るから面白いので、一人で隠れて見たって馬鹿らしいだけじゃないの」
と、あきれた声で言った。
近世以降のベトナム社会には、男女のことに寛容なフランス的価値観も大きな影響を与えたようだ。その典型的な表れは、|嫉妬《しつと》の犯罪に対する制裁が比較的ゆるやかなことだという。
それかあらぬか、この類の|刃傷沙汰《にんじようざた》は驚くほど多い。妻が日本に来て最初に慨嘆したのは、「何て殺人事件の多い国なの」ということだった。金銭のもつれ、強盗くずれ、傷害致死、ロッカー殺人、それに一家心中――とりわけ年末になると、この類のニュースが連日、テレビや新聞に登場する。
「なぜ日本人はこう気やすく人を殺せるの?」と、彼女は首をひねった。戦争の国から来た人間にも、これには合点がいかないらしかった。事実、あれだけ銃器の|氾濫《はんらん》した国で、直接人命にまで及ぶ犯罪はきわめて|稀《まれ》だった。いやがる子を無理やり道連れにする一家心中などは、私が知る限り、三年余りの在任中、絶無だった。この辺も間違いなく仏教の影響だろうと思う。
しかしその一方で、色恋がらみの刃傷沙汰は実に頻繁にベトナム各紙の社会面を彩っていた。しかもその激しさたるや、私たちの常識を遠く上回っている。花びんで頭を殴ったり、ナイフで手の甲を剌したりするのはほんの序の口で、ひところのア・ラ・モード(流行)は、裏切った相手や|恋仇《こいがたき》にガソリンを浴びせて焼き殺すという方法だった。日本で「愛のコリーダ」が話題になったとき、妻は、「なんでこんな話が映画になるの?」と不思議そうな顔をした。これも彼女の国では不実な男性を懲らしめるごく一般的な方法らしかった。私の在任中も少なくとも十回はベトナム版|阿部定《あべさだ》事件が新聞に伝えられ、市場のかみさんたちを喜ばせた。
極端な血狂いに走るのは、だいたい女性の方だ。男性がこのような|血腥 《ちなまぐさ》い行為におよぶのはあまり聞いたことがない。たしかにこの方面にかけてはベトナム女性は人一倍気性が激しく、かつ嫉妬深いのではないかと、私としてもつくづく思うことがある。
それに、あまり知られていないが、ベトナムは、亭主関白などという言葉を口にしただけでこの世から|抹殺《まつさつ》されかねないような女権社会、恐妻社会なのだ。
上は閣僚や大学教授から下は町のゴロツキまで、女房には絶対に頭が上がらない。どうしてこんなていたらくになってしまったのかよくわからないのだが、とにかく女房を前にしたときの男どもの|戦々兢 々《せんせんきようきよう》ぶりは、はたで見ていても正気の沙汰とも思えない。
グエン・カオ・キという、威勢のいい将軍がいた。一介の戦闘機乗りから身を起こし、一九六〇年代中葉、配下の空軍を率いて|彗星《すいせい》のように頭角を現した。三十五歳で首相(後に副大統領)に就任し、一時は“風雲児”として世界中のマスコミにもてはやされた人物である。自ら|操縦桿《そうじゆうかん》を握って北ベトナム上空に出撃する一方、国内の政敵が四の五の抜かすと、「黙れ、お前も空から一発見舞われたいか」と脅しつけ、気にくわぬ中国系商人を戦時利得者として公開銃殺するかたわら、自分は部下のパイロットを使って堂々と密輸や麻薬販売で巨利をあげるなど、|傍若無人《ぼうじやくぶじん》の権勢をふるった。
将軍にはたいそう美人の奥さんがいた。もともと美人ぞろいのベトナム航空スチュワーデスの出身だが、首相夫人になってからひそかに来日し、東京の某整形病院でその美しさに|画竜点睛《がりようてんせい》を施した。
将軍はまだ空軍総司令官時代、バンコク公式訪問の機中で彼女を見染めた。その場でデートを申し込んだが、あっさり断られた。当時はまだ良家の子女にとって軍人などは育ちの悪い成り上がりものとしか映らなかったらしい。将軍もこのくらいのことではひるまなかった。翌朝、彼女のホテルをつきとめ、ボーイを手なずけて仕着せを借り、すまして部屋に朝食を運んだ。この機転と熱心さで求愛は成功した。
当時、将軍にはフランス人の夫人がいた。あいにくカトリックなのでおいそれと離婚できない。将軍はこれにもひるまず、サイゴン大司教のもとへ日参して圧力をかけた。大司教は窮して、ついにバチカンから将軍の離婚を認める特別許可を取りつけた。このとき将軍は喜びの余り、ジェット機の編隊を率いてサイゴン市街の上を超低空で乱舞飛行したという。
苦心の末手に入れた新夫人を将軍は熱愛した。でも、そこは名うてのプレーボーイだから、浮気の虫もおさまらない。スネに傷持てば、よけい夫人がこわい。
私がサイゴンにいた当時、将軍はもう失脚し、昔日の権勢を失っていた。しかし彼の恐妻ぶりを伝えるエピソードはいくつも町に残っていた。
たとえば――。
首相時代、夫婦そろって外遊の途中、香港へ立ち寄った。ある日、夫人に付き合って買い物に出ると、向こうからすごい中国美人がやってきた。夫人がショーウィンドウに夢中になっているのを幸い、将軍は、ニッコリ笑いかけて優雅に会釈を送り、通り過ぎた後姿を陶然と見送った。しかし、夫人はウィンドウを鏡に夫の挙動を見ていた。そしてふり返りざま物も言わずにその|横面《よこつら》を数発張り飛ばした。一発ですまぬところが、ベトナム女性のベトナム女性たる|所以《ゆえん》なのだ。通行人は、まさか路上で女房に張り飛ばされている間抜けが、今をときめく南ベトナムの若き独裁者とは思わなかった。おかげで一件は新聞沙汰にならずにすんだが、その後、おしゃべりのボディガードの口からサイゴンの下町に広まった。
ダラトの一件も語り草だった。
ダラトは日本でいえば軽井沢にあたる高級避暑地である。よくサイゴン人士らのおしのびに利用される。将軍もある日、公用と偽って恋人とともにここへ飛んだが、おせっかいな奴がおり、夫人にご注進した。逆上した夫人はただちにサイゴン・タンソンニュット空港に車を走らせ、民間機に飛び乗って後を追った。|蒼《あお》くなったのは空港長だ。親分の一大事とばかりダラトのおしのび先へ急報――。将軍の方はもっと蒼くなって飛び上がった。着衣の間ももどかしく恋人とともにジープに転がり込み、ダラト空港に駆け戻った。時すでに遅かった。夫人を乗せてサイゴンから来た民間機はもう上空で着陸態勢にある。絶体絶命の将軍は、やにわにジープの無線電話機をひっつかむと、管制塔にどなった。
「俺は首相のグエン・カオ・キだ。ただ今入進中の民間機の着陸を禁止せよ!」
にわかに高度を取りなおし旋回を始めた機内で夫人が|歯噛《はが》みしている間に、将軍は部下が用意したヘリコプターで舞い上がり、一目散にサイゴンに逃げ戻った。
当初、私はこれらの話を信じなかった。
一世を|風靡《ふうび》した“風雲児”の|挿話《そうわ》としては、あまりにも出来過ぎかつ漫画的ではないか。しかし、その後あるていど見聞を広め、また自らも多少の体験を積むに及んで、現在では右の話の|信憑《しんぴよう》性を八割方、信じざるを得ない。
グエン・カオ・キ将軍は現在、米国ロサンゼルス効外で酒屋を経営している。夫人とともにカウンターの内側に立って客に愛想をふりまくかたわら、『二十年間と二十日間』なる回想録を発表した。“風雲児”必ずしも著述の人ではないらしく、たいそう内容の薄いものであったが、一カ所だけ読んで思わずニヤリとさせられた。
グエン・カオ・キ、グエン・バン・チューなどの青年将校らが老将たちを追放して南ベトナムの実権を握ったさい、誰が首相を買って出るかで大もめになった。威勢よくクーデターはやってのけたものの、誰も大役を引き受けて泥をかぶりたがらない。結局、リーダー格のキ将軍しかないと衆議一決し、将軍も「お国のためなら」と引き受ける。そのとき仲間に言い渡した唯一の条件が、
「ただしこれから帰って、女房に聞いてくる。もし女房の許可が得られれば(英語の原文では、"her authorization"となっている)、首相に就任しよう」
よろずこの調子だから、こんごのベトナム国政に女性が果たす直接間接の役割りもゆめゆめ無視できないのではないかと思う。
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妻は食いしん坊
結婚後に本人の口から聞いたことだが、妻は純血のベトナム人ではないそうだった。幼時に別れた父親が中国人とベトナム人の混血だったとかで、自分の中にも四分の一は中国人の血が流れているはずだという。
そういえば、彼女の|容貌《ようぼう》や体格は、概して彫り深できゃしゃな典型的ベトナム女性とは多少違うようだ。肌も並みより色白で、見た目は日本人と区別がつかない。
「なんだ、お前さん、四分の一あいのこなのか」というと、
「そうらしいのよ。いやになっちゃう」と、ボヤいた。
といっても別に混血であること自体が「いやになっちゃう」わけではないらしい。ベトナム(とくに南部)では、先住のカンボジア人、中国人それにフランス人などの血の混入がかなり進んでいる。だから混血といっても別にめずらしいことではない。むしろ世界中どこでもそれは同様で、“純血”の発想から民族をとらえるような人種は、日本人ぐらいしかいないのではないかと思う。
ただ、妻の場合は、混血の片棒が中国人であったことがいささか不本意のようだった。
ベトナムは、中国の支配圈に育った国である。建国以前からたびたび侵略をこうむってきた。中国人の将軍や役人に直接統治された歴史も長い。安倍仲麻呂などという日本人も、中国宮廷に遣わされて現在のハノイ付近で大守を勤めたことがある。それだけに社会機構の整備の上でも、文化思想の面でも中国の恩恵を十分に受け、おかげでインドシナ半島では図抜けた強国になった。それでも、ベトナム人にしてみればやはり、中国にはさんざん痛めつけられてきた、という歴史感覚の方が濃厚に残っているらしい。とくに国境を接する北部(旧北ベトナム)の人々の反中国、反中国人感情は、はたで見ていてもあっけにとられるほど強い。この辺はベトナム人からひどい目にあわされてきたカンボジア人が、今もベトナム人に対して強烈な含みを抱き続けているのと同じだ。政治やイデオロギーとは別の要素なのだろう。
中国は戦争中、北ベトナムの「大きな兄弟国」であり、軍事・経済援助もふんだんに行った。しかし戦後の北ベトナムはたちまちソ連寄りとなり、北京とはむしろ険悪な仲になった。共産カンボジアの場合は、昨日までの“盟友”であった共産ベトナムとほんものの戦争まで始めた。こうしたことの背景も、この歴史的な民族感情を抜きにしては説明がつくまい。
北ベトナムと異り、南ベトナムは、直接中国軍に踏み荒らされた経験は少ない。それに南部人の気質は北にくらべておっとりし、開放的な面が強い。だから北部人ほどは中国人に対して含みを持っていないようだ。サイゴンにはチョロンという大きな中国人街がある。旧チュー政権のもとではここの旦那衆が国の経済の大半を思いのままにあやつっていた。その意味では、現代に入ってからは南部の方がむしろ中国人にひどい目にあわされていたのだが、のんきな南部人は気にもせず中国人の親方の下で働いていた。商才、蓄財にかけては、中国人にはかなわない、とはじめから勝負を投げている感じもあった。
ただ、南部ベトナム人には、何かにつけシックであり、趣味や物腰が洗練されていることを尊ぶ気性が強い。そんなベトナム人(とくに女性)の目からみると、チョロンの中国人たちは服装の趣味も行儀も悪く、デリカシーに欠け、手のつけられない田舎者に見えるらしかった。いい年をしたおとなが人前でツバを飛ばしてわけのわからぬ言葉でわめき合う。レストランでもガツガツむさぼって平気で口の中のものを床に吐き散らす。「あんな連中といっしょにされてはたまらぬ」というのが、妻の心境らしかった。
中国人はたいそう食いしん坊な民族といわれる。だが、ベトナム人はもしかしたらそれ以上に食い意地の張った人々の集まりではないかと思う。
主食はコメである。食事をすることを「アン・コム」という。「アン」は「食べる」、「コム」は「コメ」という意味だ。日本でも「ご飯を食べる」といい、タイでも挨拶代わりに「キン・カウ?」(もうコメを食べたか?)という習慣があるが、この辺は稲作文化圏共通の発想なのだろう。
それにしても、ベトナム人の大飯食らいぶりはちょっとあきれるほどだ。都会では、朝は皆、屋台で外食する習慣がある。二十歳前の娘さんが、通勤前、大皿に山盛りのコメをぺろりと平らげて行く。
もともと、|瑞穂《みずほ》の国なのだ。とくにサイゴン以南のメコン・デルタ地方は世界有数の穀倉地帯とされている。戦争が終り、デルタ全域を有効に活用できるようになれば、二毛作、三毛作で年間一億人分のコメがとれるはず、と試算されていた。いま、ベトナムの総人口は五千万人ほどだから、この地域だけで全国民を養ってまだ一年分近いおつりがくることになる。
水と気候に恵まれているから、農民の仕事ぶりものんびりしている。水牛にスキを引かせ、田植えさえすれば、あとは稲の方が勝手に実ってくれる。
それでもベトナム人は勤勉だから「コメを育てる」という。同じ瑞穂の国でも隣のカンボジアでは「コメが育つのを眺める」、ラオスに行くと「コメが育つ音を聞く」だけで暮らしていけるそうだ。
これは土地の豊かさの比較より、この地方の各国民の対労働姿勢を戯画化したたとえらしいが、こんな表現がさしてオーバーなものに思えぬほど、ベトナムをはじめとするインドシナの国々の自然、風土は豊かなものに、私には見えた。
この辺が、かつて日本で花ざかりであったベトナム論、あるいはベトナム戦争論の共通の盲点だったのではないか、とも思う。
とりわけ、日本は資源貧乏国だ。中年以上の人々は「米粒は百姓の魂」といい聞かされて育った。おまけに太平洋戦争があり、人々は、戦争と|飢餓《きが》が表裏一体のものであることを身をもって知った。終戦直後に形成期を過した私自身にも、ある日一個のジャガイモをめぐって弟と、文字通り流血の争奪戦を演じた思い出が、痛恨の原体験として残っている。
|僅《わず》か数年の戦争であのていたらくだったのだから、四半世紀も戦乱の中にあるベトナム庶民はさぞ食うや食わずの生活を余儀なくされているだろう――。貧乏国の民として、この辺はもっともな発想といえよう。
私もそんな想像をしながら、一九七一年、当時まだ戦火たけなわの南ベトナムに|赴任《ふにん》した。
赴任してずいぶん面食らった。
南ベトナムの人々は、イモの取り合いで殴り合いなどしていなかった。都市でも地方でも、市場にはコメ、肉、サカナ、野菜、果物が山ほどあり、相当な貧乏人でも少しまずいと、まだ食べられるものを平気で捨てていた。どう見たところで、この国では、戦争と飢餓とは、少なくとも私が勝手にそう思い込んでいたほど、二人三脚の道連れではなさそうだった。むしろ、食い物がこれほど豊富だったからこそ、こうも長い間国を戦乱の中に投げ込んで、なおまだドンパチ続けていられるのではないか、という気がした。
となると、庶民の貧困への同情や義憤だけを基調に、この国の戦争を眺めたら、いずれ|辻褄《つじつま》の合わないことが出てくるのではないか、と、そのとき思った。
その後南ベトナムは「解放」された。だが、まっさきに「解放」の恩恵をこうむって然るべき庶民は、必ずしも満足していないという。以前にくらべはるかに生活が苦しくなったからだ。もちろん、それだけを取り上げて「解放」の意味を|云々《うんぬん》するのは性急すぎるかもしれない。ただ南ベトナムの「解放」によって、この地域の大多数の住民が以前よりもひどく貧しくなったことは、事実としてはっきりわきまえておいた方がよさそうだ。
統一ベトナムの国造りの意義と目標は、いろいろな事情で南に|偏《かたよ》っていた物質上の富を南北均質化することにあったのだから、「解放」が南の貧困化を招いたのはある意味では当然のことなのだ。そして南が、北による「併合」を嫌がった理由もそこにあった。この事実を押さえておかなければ、現在の南の民衆の不満、それに対するハノイ政権の苦慮、ひいては内政、外政両面でのベトナム国家の身の処し方にもいろいろわからないことがでてくるのではないかと思う。
ともかく、メコン・デルタの自然の恵みは圧倒的だった。サイゴンへ赴任した頃、親しくなったベトナム人記者が、
「オレの村では釣らなくてもサカナがとれる。果物も昼寝をしていればしぜんに降ってくる」
としきりに|吹聴《ふいちよう》した。
最初はお国自慢の誇張だと思った。相手があまりくり返すので、あるときこの目で確かめにいった。
彼の村は、デルタの集散地カントの町から五〇キロほど離れた間道わきにあった。
コンクリート造りの家が何軒か目立つていどで、残りは板とニッパヤシの葉を組み合わせた、見かけはむしろ貧しげな村だった。村内には、バナナやパパイヤの茂みを縫って何本もの水路が張りめぐらされていた。いずれも村はずれを横切る幅二〇メートルほどの運河に通じている。ゆったりした水の流れは、運河の中央に埋め込んだ竹の|柵《さく》で左右に分かれ、その落ち口に子供の背丈ほどのビクが入口を流れに向けて沈めてあった。対岸のバナナ畑のハンモックで、村の若い衆が昼寝をしていた。
「見てろよ」
と相棒がいうので、私たちも木陰に車を乗り捨てて土手に|坐《すわ》り込んだ。
しばらくすると、若い衆がむっくり起き上がり、のそのそと水の中へ降りてきた。水中からビクをかつぎ上げる。流れに乗ってきたナマズや小ザカナ、エビ、カエルなどが底にたまっている。中味を|無造作《むぞうさ》に土手にあけ、そのまままたビクを沈める。竹の柵につかまりながらこちら側へ渡ってきて、もう一つのビクからも獲物を取り出す。
三十分|毎《ごと》にこんなことをくり返す。日が傾くころには両側の土手に、どっさりとオカズの山ができた。
|獲《と》る方も昼寝半分だが、獲られる方もどうやら居眠り半分のようだ。|夢見心地《ゆめみごこち》で流されてきて、おや、これはワナに落ちたな、と悟っても、いまさら逃げ出す努力もしないらしかった。
働かなくても十分食える、という自然状況はたしかに私たち日本のサラリーマンの想像を絶している。逆にいえば、こうした状況の中で生まれ育った人間には、私たちの物の考え方や価値観もなかなか通じないことがあるのだろう。
私の目には|羨《うらや》ましいほど結構な地の|幸《さち》、水の幸に取り囲まれながら、それでも南ベトナムの人々は、口を開けば、
「オレたちは貧しい。苦しくてとてもやっていけない」
と、不平を鳴らしていた。
日本の一般家庭よりもむしろうまく、栄養たっぷりのものを食い残しながら、
「なぜ、金持ちの日本はもっと私たちを援助してくれないのか」
などと、議論を吹っかけてきた。これは少々、|不埒《ふらち》な心根に思えた。
しかし、この辺はやはり、勤倹とか質素とかを美徳に仕立て上げ、あくせくやってこなければ生きてこられなかった日本人と、途方もない自然の富に恵まれてしまったこの国の人々との間の、豊かさ(あるいは貧しさ)の概念の違いなのだろう。この概念の違いは、日本からベトナムを(おそらくベトナムに限らず、似たような自然環境にある東南アジアの他の国々を)眺め、そこの人々の生きざまや、そこで生じる諸現象を理解したり判断したりするうえで、ずいぶん大きな意味を持つようにも思える。
早い話が、美徳もまた生きるための便法なのではないか。働かなくても食える境遇の中では、労働は美徳ではなくなる。怠惰は悪徳ではなくなる。節約、進取、協調、団結、向上などといった概念への評価も当然、変ってくるだろう。実際に、協調とか団結というと何やら聞こえがいいが、これが愚かさや、自主性のなさの表れである場合だって往々にしてある。
いずれにしろ、これらの言葉に日本的価値判断を含ませて、それで他国の人々を評価しようとしたら、とんでもない思い違いが生じるのではないか。
よく東南アジア駐在の日本人は、
「現地人はだらしがなく、怠けものだ」という。
しかし、地域的にみても、人口的にみてもむしろ日本人の方がアジアの少数派であり、その価値判断も例外的に余裕がなく、かつ貧乏性なのだ、ということは、|肝《きも》に銘じておいた方がいいのではないか――馬鹿らしいほどのメコン・デルタの豊かさを目にして、よくそう思った。
ところでベトナムのコメだが、日本の種類と異り、細長くて白味の濃い、いわゆる外米である。|炊《た》き方は日本と変らないが、パサパサしており、茶わんに盛っても、ハシですくって口に運ぶまでに、半分ぐらい脱落してしまう。
だから、食卓のマナーも日本とは逆だ。
日本では、茶わんに直接口をつけてかき込むのは行儀が悪いが、ベトナムの場合はこうしないと行儀が悪い。子どもたちが茶わんを口から離し、ハシで少量ずつ口に運んだりすると、
「この怠けものめ!」と、両親の雷が落ちる。
当初、私にはこのパサパサしたご飯がなんとも味気なかった。終戦後に食わされた外米に対する偏見もあった。しかし、半年もするとすっかり慣れた。そして、慣れてみると、これはこれでたいへんおいしいことがわかった。
軽いので、いくら食べても胃にこたえない。外米特有のツンとくるにおいも、暑い気候の中ではむしろ香ばしく、食欲をそそる。都会に出回るコメには最高級の純白米から、ブタの飼料にするアズキ色の下等米まで、六等級か七等級あるそうだ。
日本に来た当初、妻もこのコメの質の違いにかなりとまどっていた。
彼女にとって東京の八月は、生まれてはじめてのムシ暑さだった。だからよけい日本のコメの重さが胃にこたえたらしかった。こういうとき、常人なら食べる分量を加減するものなのだろうが、そこは「アン・コム」の国の生まれだから、毎食腹一杯食べなければやはり生きている気がしないらしかった。
三度三度、大盛りの茶わんに三杯ずつ食べ、食事と食事のあい間は、お|腹《なか》をさすりながら、「ああ苦しい」とタメ息をついていた。とうとう、
「ここ(日本)には、ほんもののおコメはないの」
と、悲鳴をあげた。そこで、私は坂の下のコメ屋に探しに行った。店の|親爺《おやじ》は、
「何? いまどき外米かね?」と、大いに軽蔑の|態《てい》だった。
それでも奥の方から、ほこりをかぶったようなのを一袋引っぱり出してきた。たしかに、細長くてみるからに水気の少なそうな南方産のコメだ。袋にも「高級外米」と印刷してある。
値段を聞いて、「しめしめ」と思った。当時、内地米は中級でも一〇キロ当たり三千円近くした。この「高級外米」はたった千三百円だ。とんだもうけものをした思いで、さっそく二袋買い込み、両肩にかついでアパートに戻った。
その晩、妻は久しぶりに満足した。
「これなら、五杯でも六杯でも食べられるわ」
というので、私はあわてて、「よせ」といった。
そのうち、朝夕冷え込みはじめ、やがてほんものの秋がきた。気候が寒くなるにつれ、彼女は、「どうもおかしい」と、首をかしげはじめた。
毎食、腹一杯つめ込んでいるのに、なぜか夜中になると体の力が抜けてしまうのだ、という。別に疲れが出はじめたわけでもない。体重も減っていない。それでも体の中心がスカスカになった感じでどうしても頼りない。いろいろ考えていたが、やがて、
「おコメのせいじゃないかしら」
といいだした。
「コメよりも、お前さんの水加減のせいじゃないか」
と、私はとぼけた。
なにしろ、内地米は秋に入ってまた値上がりし、一〇キロ四千円近くになっていたのだ。
「そうかしら」
と、妻は疑わしげな目で私を見た。それでもなお一週間ほど、水の分量を増やしたり減らしたりしてコメに腰をつけようと苦心していた。
結局、私の下心は通用しなかった。ある日、彼女は私の留守中、坂の下のコメ店に出かけて行き、勝手に内地米を仕入れてきた。水気たっぷりに炊きあげた日本の丸いコメを二、三日試し、
「やっぱり、わたし、こっちにする」
と宣言した。人間の|嗜好《しこう》や体の要求は、どうやら想像以上に正直に、土地の気候に左右されるものらしい。
妻は日本の食生活に簡単になじんだ。
この辺は食いしん坊の便利なところかもしれない。これも後から白状したことだが、私と結婚する気になった最初の動機も、日本に行けばブドウとリンゴをふんだんに食べられると聞いたからだそうだった。ブドウもリンゴも南国ベトナムでは最高級の果物である。彼女が子供の頃は病気で死にかけたとき以外、口にさせてもらえなかったという。
東京に来て、彼女は首尾よくこの目的を果たした。その年の秋から冬にかけて、冬眠前の熊さながらの勢いで、連日、国光やネオマスカットを胃の|腑《ふ》へ押し込んだ。半年近く食べ続け、ようやく飽食して、
「ああ、これで気がすんだ。もうサイゴンへ帰ってもいいわ」といった。
気の毒なことに、その頃すでに、彼女にパスポートを発給した南ベトナム政府はこの地上から消滅し、帰ろうにも帰る場所がなくなっていた。
一般庶民の家庭料理は、日本もベトナムもそう変らない。ただ、ベトナムの方が素材の幅が広いので、日々の食生活もそれだけ変化に富んでいる。たとえば肉類にしても、日本ではふつう、ウシ、ブタ、トリていどしか食べない。ベトナムでは、この他イノシシ、シカなどの野獣類、アヒル、カモ、ハト、ウサギ、ウズラ、それにシギやシャコなど各種野鳥が豊富に食卓に登場する。多少高級だがトカゲ、オオコウモリ、アルマジロ、カメ、メコン・デルタ地方のネズミなどもかなり一般的に口にする。料理法も土地のベトナム料理のほか、中国料理、フランス料理などが本場そこのけに普及している。
ふつうの家庭ではサカナの煮つけなどを日本と同様によく食べる。煮ものの味付けは日本よりもだいぶ濃い。激しい気候がそれだけ塩分の補給を必要とするせいだろう。同時に、主食のコメをできるだけたくさん、おいしく食べるための配慮らしい。だから、貧乏人の子だくさんの家庭になればなるほどおかずの味は濃くなる。
ダシには、この国独特のヌクマムという調味料を使う。生ザカナに塩を加えて圧縮発酵させたしぼり汁で、漢字では「魚露」とか「魚醤」などと書く。日本でも北陸地方にいくと、これとそっくりの「ショッツル」という調味料があるそうだ。ベトナム人はほとんど|総《すべ》ての料理にこれを使う。食卓の調味料としても欠かせない。生のヌクマムはにおいに多少クセがあり、慣れない人は閉口するらしい。だが、ダシとして使うぶんにはそれほどショウユと変らない。
ヌクマムは日本では余り知られていないが、インドシナ体験の長いフランス人などは、食前にコニャックグラスであおるぐらい|惚《ほ》れ込んでいる。この地上でベトナム人のいる所には必ず、この民族的調味料の独特のにおいがつきまとう、といわれる。
それほどベトナム人は、ヌクマムの味付けと、それを基調とした少々得体の知れない漬物類などに固執する。ヌクマムは、東京の中国食料品店で|広東《カントン》産が簡単に手に入る。妻もたいていのものはこれにひたして煮たり焼いたりし、ふるさとの味に仕立ててしまう。
|厄介《やつかい》なのは漬物類だ。パパイヤの切り干しとナマズの肉の合わせ漬けとか、小魚の腐り漬け(?)とか、小ナスの塩漬けとか、値段にすれば二束三文の庶民のオカズが日本では手に入らない。だが、彼女は不屈の執念をもってこれらなじみの食い物を追及する。各方面のツテを求め、あるいはベトナムに入国する観光団に依頼したり、世界各地に散らばった直接間接の知人に手紙を書いたりして取り寄せる。幸い最近は、米国各地に、その名も「サイゴン・マーケット」などと称するベトナム食品店が店開きしている。経営者も客も、避難民だ。タイから類似品を輸入して手を加えたり、原料を仕入れて漬けたりしているらしい。妻はこの「マーケット」の存在を突きとめ、その一つからカタログを取り寄せた。一晩がかりで慣れない手紙を書き、ドルを同封して注文する。
バンコクから一度米国へ渡り、また太平洋を越えて舞い戻ってくるのだから、漬物一つでもたいそう高いものにつく。それでも彼女には、これなくして何のこの人生、ということらしい。こんな執念を見ていると、ベトナム人とはなんと|頑固《がんこ》で濃厚な食生活文化を持った民族か、と思う。
日本の食べ物の中で、どうしても妻の手に負えないものも幾つかある。
根がカラリとした南国気質のせいか、執念深い相手は苦手らしい。モチと納豆はいずれも一回試しただけで、以後「こわい」といって手を出さない。
とくに、はじめてモチを口にしたときは、漱石の猫まがいの騒ぎを演じた。下歯にくっついたのをなんとか舌でひきはがしたら、こんどは上歯にへばりついたのでよほど|驚愕《きようがく》したらしい。
「サ・コル! サ・コル!(こいつ、はりついた! はりついた!)」
と、必死の|形相《ぎようそう》で叫んだ。
いまでも彼女は、
「日本人はどうしてこんないやらしいものが食べられるのか」
と首を|傾《かし》げる。テレビに電気モチつき器のコマーシャルなどが登場すると、軽蔑しきった顔で見ている。
生卵にも手を出そうとしない。卵を生で食べる習慣も日本独特のものなのかもしれない。私はむろん生卵が好きだ。夜中に腹が減ると納豆と生卵で一杯かき込むことがよくある。妻は身震いしながら見ている。そして、
「ああ、とんでもない野蛮人と結婚してしまった」と、嘆く。
そのくせ、彼女自身は、「ビトロン」と称する、途方もない食べ物が大好物なのだ。|孵化《ふか》一週間ぐらい前のアヒルの卵を殻ごとセイロで蒸したものである。はじめてサイゴンですすめられたとき、半熟卵かと思って何気なくサジで割った。なかば固形化し、なかばまだドロドロのヒナがニュッと顔を出したので、椅子から転げ落ちんばかりに驚いた。
ベトナム人は、男女年齢の別なく、このキテレツなオヤツが大好きなようだった。夕暮れどき、市場が混み合うころになると、|天秤棒《てんびんぼう》の両端に湯気のたつセイロをぶらさげたビトロン売りの娘たちが集まってくる。買い物を終えた奥さん連や、学校帰りの女高生らが群がり、三つ四つと買い込んでは路上の小さな丸椅子に腰かけ、楽しそうに食べる。殼のてっぺんを割り、そこから塩、コショウ、香菜などを加え、さじでかき出して、グシャグシャたいらげる。人によって好みの食べ頃があるらしく、わざわざ孵化何日前のもの、と指定して買う客もいる。
卵の中のヒナというのは、上半身から形が整っていくらしい。だから、てっぺんを割ると必ず、恨めしげに半眼を閉じた顔が出てくるのだが、孵化三日前ぐらいのになると顔だけでなく、羽根も|蹴爪《けづめ》もほとんど生えそろっている。たいがいの食べ物には尻込みしなかったフランス人の植民地主義者たちも、これには降参したという。その後人から聞いたところでは、フィリピンの一部にもこのかえりかけの卵を食べる習慣があるそうだ。
もっとも、見かけはグロテスクだが、思い切って何回か賞味すれば、けっこうおいしく食べられるようになる。もともと卵の中のヒナをそのまま半蒸しにしてしまうわけだから、公害無縁の自然食だ。とくに底にたまった透明の純正スープには、人工の味付けでは得られないコクと風味がある。
日本に来てしばらくの間、妻はしきりとこの「ビトロン」を恋しがった。アヒルにかぎらず、ニワトリのかえりかけだって十分おいしいのだという。
「|養鶏場《ようけいじよう》に連れていってよ」
と、何回か私にせがんだ。アメリカやフランスに住むベトナム人は、「ビトロン」を食べたくなると、「子供の理科の教材に必要だから」と養鶏場の人をだまくらかして、手に入れてくるのだが、こればかりは私も御免こうむった。
万一、食用とばれたら、いかにも体裁が悪い。同胞からも野蛮人扱いされかねないではないか。
最近は彼女もようやく「ビトロン」のことを余り口にしなくなった。多少は日本化が進んだのかもしれない。
サシミも「こわい」ものの一つだった。これはどうやら食わずぎらいだったようだ。
日本にきてだいぶたってから、知人に、伊豆海岸の磯料理に招待されたことがあった。それ以来、病みつきになった。
とくに、ワサビのうまさにしびれたらしい。もともと、辛いものや、香りの高いものは大好きなのだ。
生まれてはじめて、この日本特産の香辛料を口にしたとき、彼女は、「うえーっ」と叫んで、天を仰いだ。額をピシャピシャたたきながら、大粒の涙をポロポロとこぼした。観察していた私は、腹をかかえて笑った。国籍や体験の有無を問わず、ワサビの刺激が人体に引き起こす所作、反応は共通であることがわかった。
とにかく、その日から彼女はサシミきちがいになった。ちょうど地下鉄の乗り継ぎ法を覚えはじめた頃だった。毎日、一人で銀座のデパートへ出かけ、二皿ずつ買ってくる。娘のユンもすっかりサシミ党になった。二人で、「うえーっ」と大騒ぎしながら、毎晩、盛大にトロやハマチの切れ端を口に運ぶ。
私は内心穏やかでなかった。だいたい、サシミなんて、たかが生ザカナの分際で|破廉恥《はれんち》に高い。
もっとも、サシミだけならまだよかった。妻は、栄養学などとは無縁にみえながら、案外、滋養やカロリーに気を配る。私が昼メシをザルそば一杯ですませたなどと知ると、本気で腹を立てる。激しい気候に向かい合って生きている人々には理屈抜きで栄養への配慮が身につくのだろう。
だから、サシミも彼女にとっては、ほんの口よごしかオードブルていどにしか映らない。たっぷり一人前たいらげたあとで、メイン・ディッシュにとりかかる。それも、ぶあついビフテキを食べる。
ベトナムでは牛肉は下等扱いだ。値段も、トリやブタにくらべてはるかに安い。別に宗教的に牛を食べることを嫌う習慣はないから、たんに好みの問題なのだろう。需要が少ないので、農家も肉牛生産には力をいれない。市場に出回るのは、ときおり将軍たちが小遣いかせぎにヘリコプターでカンボジアから密輸入するヤセ牛か、一生涯田んぼでスキをひき、天命をまっとうする直前、ようやく|屠殺場《とさつじよう》送りとなった|役牛《えきぎゆう》の肉ばかりで、たしかに、お世辞にもおいしいとはいえない。
それでも、私はサイゴンにいた頃、しきりと牛肉を食べた。味とかかわりなく、ステーキというと何となく高価なもののような気がしたからだ。週に二回は必ずステーキを注文するので、炊事係の婆さんにすっかり軽蔑された。
だから、妻もユンもけっしてステーキなど口にしようとしなかった。それが日本へ来て、松阪肉、神戸肉のうまさに驚嘆した。母娘、意気投合して、連日、サシミとステーキのコースが続いた。
「えらいことになった」と、私は思った。
だが、二人が余り|嬉々《きき》として食べているのを見ると、苦情をいいかねた。日本に来るなり急にケチになったとカンぐられるのも|癪《しやく》だった。
当時、妻はまだ日本の物価や通貨感覚に慣れ切っていなかった。そこで、私たちはとくに月々の予算を立てず、彼女の財布が|空《から》になると、私が随時|補填《ほてん》していく方法を取っていた。
しばらくの間、彼女は好きなだけ、サシミとステーキを食い続けた。一カ月ほどして、食費を計算しなおした。そして、「うえーっ」と|唸《うな》った。はじめてワサビを口にしたときより、はるかに深刻かつ沈痛な音色で唸った。その月の一家三人の食費は二十万円近くかかっていた。
それ以来、サシミは彼女にとってまた、「こわい」ものに逆戻りした。
ステーキにいたっては、わが家の食卓からプッツリ姿を消してしまった。
こうして大赤字を出したあと、彼女は家計簿をつけはじめた。
そして、こんどは、
「切りつめたら幾らで暮らせるか試してみようか」といった。
当時、彼女は電車に乗って横浜の中華街へ遠征するすべを覚えた。一人では言葉が頼りないので、土曜日に娘を連れて買い出しに行く。
中華街の食料品店には、広東のヌクマムをはじめ、彼女のなじみの食品や調味料がかなり豊富にそろっている。「チャオ」と称する発酵させた豆腐、「マムトム」という小エビのペースト、キクラゲ、干ダラ、フカのヒレ、各種のトウガラシ――。大部分は中華人民共和国輸出公司製で、見た目は余りきれいではない。しかし、値段は安い。妻はこれら、輸出公司製のものを「|毛沢東さんの贈り物《カドー・ド・マオ・ツートン》」と称して愛好した。
行きつけの肉屋もできた。東京の肉屋では、ブタもトリもみなきれいに仕上げて売っているが、中華街の路地の店はずっと大まかだ。彼女は店の親爺にわたりをつけ、ブタの胃袋や足、牛のスネ肉、トリの手羽などをどっさり仕入れてくる。トリの手羽やスナギモはベトナムではむしろごちそうだ。ササ身やモモ肉などよりずっと高いそうだが、日本ではむしろ安く買える。
胃袋や足や|尻尾《しつぽ》や|臓物《ぞうもつ》は、ヌクマムで一晩煮込み、こってりした南国料理に仕立てる。スネ肉も薄く細切りにして、ゆでたりいためたりしてサラダなどにまぶす。多少固いがもともと骨付きの部分だから味は悪くない。
ブタの耳も、料理法を心得ていれば気のきいた食べ方ができる。案外大きいもので、一枚買えばたっぷり三人家族の一食分になる。ゆでたのをせん切りにして、酢づけのキャベツにあえたり、そのままサラダ菜に包んで、トウガラシをきかせたマムトムにひたして食べる。歯ざわりがこりこりし、軽く食べられるが、実際にはかなりボリュームがある。滋養分も豊かなようだ。
難点は、毛を抜くのが面倒なことだ。需要の多い南国では、店先に出す前に、肉屋が熱湯を通し毛をそぎ落としておいてくれる。横浜の中華街ではそこまでサービスしない。妻も、店の調理場の床に転がっている生首から、うまそうなのを何枚か選んで、その場で切り落としてもらってくる。
家に持ち帰ってから自分で毛を抜かなければならない。何日間か冷凍庫で過した後の耳の毛は熱湯で処理しても半分ぐらいしか落ちないので、残りはピンセットで一本一本抜き取らねばならない。
「日本の肉屋さんは怠けものねえ」
彼女は文句をいいながら、テラスの日だまりに洗面器を持ち出してピンセットをふるう。三、四枚片付けようとするとたっぷり半日仕事になるが、|悠長《ゆうちよう》な南国育ちにとってはこれも生活のうちらしい。
「やっぱり、おいしいものを食べようと思ったらそれだけ働かなければならないんだからね」
ときどき腰をたたきながら、自分にいい聞かせている。
耳や足で味をしめた妻は、一度、ブタの皮を手に入れたがった。これも、彼女の国では常食の一つである。すきとおるまでよくゆでてミジン切りにし、ご飯にまぶしたりヒキ肉にまぜてダンゴにしたりする。だが、さすがに中華街の親爺もそこまでは付き合ってくれなかった。
「ブタの皮はね、奥さん、日本じゃ靴屋やカバン屋に売るもんなんだよ」
とさとしてくれたそうだ。
ベトナム料理にはドクダミ、ハッカ、タデなどの香菜が付きものだ。いずれも生のまま、ソバに浮かしたり、肉やサカナに添える。妻は日比谷公園に出かけていってドクダミを二、三株掘ってきた。他の草も郊外で見つけたり、知り合いのベトナム人から手に入れた。そして、テラスに発泡スチロールの箱を並べて栽培した。
上野の|不忍《しのばずの》|池《いけ》にはハスがたくさんある。花が散ったあと、茎のてっぺんの皿に実が残るのだが、誰も取ろうとしない。動物園の帰りに池のほとりを通るたびに、妻は惜しそうな顔で見ていた。ミドリ色の実が大好物なのだ。
私は、たとえ水に落ちて皆腐ってしまうにしても、この池のハスは公共財産だから、盗み食いしてはならぬといいきかせておいた。
しかし、節約を志した彼女は、私が勤めに出ている間に、犯行に及んだ。その日、私が社から戻ると、「どうだ」とザル一杯のミドリ色の実を示した。
「これで二週間はオヤツがいらない」とご満悦だった。
池の柵につかまって、岸に近いハスの茎を一本一本、コウモリガサの柄でたぐり寄せ、一時間近くかけて集めたそうだ。
さらに節約を励行するために、彼女は週に一度、「アン・チャイの日」というのも設けた。菜食の日、つまり、肉やサカナ類をいっさい口にしない日である。これも彼女らにとってはごく一般的な風習である。回教のラマダンやカトリックの金曜日のように、皆が同時に断食や菜食を行うのではなく、それぞれが暦に従い、あるいは信心の度合いに応じて一日ないし数日間、肉、サカナ類を断つ。家によっては、先祖を祭る立場にある家長が一家を代表して「アン・チャイ」をつとめれば、それで仏さまも大目に見てくださるそうだった。妻は家長だったので十日か二週間に一度、|律義《りちぎ》に肉食を断っていた。
東京での「アン・チャイ」は暦の命令ではなく財布の要求だから、当然私も娘も参加を求められた。この日はヌクマムも使えない。大皿に盛ったキャベツの葉と、腐り豆腐のチャオ、それに茶色くなるまでショウユで煮しめたインゲンやニンジンなどが食卓に並ぶ。チャオも野菜の煮しめも口がひん曲るほど辛い。これをオカズに、ときおり生キャベツをバリバリかじって口を中和しながら、ひたすらご飯をかき込む。
妙なもので習慣がつくと、週に一度のこの菜食は苦にならない。むしろ胃腸がすっきりして体の調子もよくなるような気がする。暑い国で断食や菜食が行われるのは、やはり、気候に対抗して生きるための風土的習慣でもあるのだろう。
もっとも、食いざかりのユンは「アン・チャイ」と聞くとゲンナリした顔をする。そのたびに母親に、
「これは仏さまがきめたことなんだよ」とドヤされる。
ユンにとって都合の悪いことに「アン・チャイ」の曜日はきまっていない。夕方、買い物に出たときの妻の気分しだい、あるいはそのときの財布の重さしだいだ。
ユンの方も近頃はだいぶ第六感が発達してきた。今夜あたり危ないな、とカンづくと、早手回しにリセで給食を二食分たいらげてくるようになった。だからクラスの仲間たちの間で、彼女は“大食らい”として通っているそうだ。
いずれにしろ、妻はこんな具合に、ベトナム式耐乏生活(?)を試した。
一カ月余り続けてから、
「どうだ」と家計簿を示した。
「なるほど」と、こんどは私も唸った。
その月の食費は、五万円たらずですんだ。
「あんたさえ我慢できれば、もっともっと安く暮らせるよ」
と、彼女は心強いことを言った。
とにかく粗食が美徳である(あった?)国に生まれ育った者の目には、ベトナム人の食いしん坊ぶり、美食家ぶりはしばしばあきれるほどだった。自然の恵みがケタ外れに豊かで、しかも長年にわたり中国、フランスというその道の二大師匠の|薫陶《くんとう》を受けてきたのだから、当然なのかもしれない。しかし、同様の条件下にあったカンボジア、ラオスなどには見るべき料理もなく、人々がそれほど美食家だという話も聞かない。やはりベトナム民族そのものに、天性の食いしん坊の血が流れているのではないかと思う。
サイゴンに赴任したての頃、ある会食で米軍大尉と同席したことがあった。四十歳がらみの童顔の飲んべえで、軍人としては余りものの役に立ちそうもない人物にみえたが、なかなかの座談の達人だった。
彼から、こんな話を聞いた。
――南ベトナム政府軍が、当時まだベトコンといわれていた解放戦線ゲリラの村へ|夜襲《やしゆう》をかける。政府側の兵隊にはもともと戦意がないから、いつも情報は相手に筒抜けである。だから、ワッと踏み込んでも、村はたいがい、も抜けのからだ。で、兵士たちはお定まり通り、出陣のボーナス集めにとりかかる。農家や|納屋《なや》をシラミつぶしに|掃討《そうとう》し、ニワトリやアヒルを|捕虜《ほりよ》にする。要するに|掠奪《りやくだつ》だが、これはとめるわけにはいかない。兵士たちにとってはニワトリなんてごちそうがトサカをつけて歩いているようなものだ。
部隊は首尾よく掃討を終え、戦利品を小脇に|凱旋《がいせん》の途につく。その帰り途が一苦労だ。
相手は夜襲を予知して身を隠したのだから、どこかで待ち伏せしているかもしれない。ただでさえ、夜の農村地帯は解放戦線側の世界なのだ。兵士らは、息をひそめ、靴音を殺して、一団となってアゼ道を歩く。小脇のニワトリやアヒルはそんな兵士らの気持ちにお構いない。何かのはずみで一羽が鳴きだすと、仲間もいっせいに「ガーガー、ケコケコ」と騒ぎ出す。夢中で黙らせようとしても、なかなか静まらない。まっさきに指揮官が頭にくる。
「敵に感づかれる。早く殺してしまえ」
指揮官は日頃、結構なものを食っているから、ニワトリぐらいで命を落とすのはまっぴらだ。
兵士たちだって待ち伏せにあうのは嫌だ。だが、トリを絞めてしまうのはもっと嫌だ。
「いま殺したら、陣地に帰って料理するまでに味が落ちてしまう」
必ず強硬に反対する者がおり、指揮官との間でしばしば大|悶着《もんちやく》が起こる。
「これだからとても戦争にならんのですよ」
と、米人大尉は騒々しく嘆いた。
同様の話を、「ニューヨーク・タイムズ」のサイゴン特派員だったハルバースタムという記者も書いていた。彼の記事では指揮官の心胆を寒からしめたのはニワトリではなく仔ブタだった。兵士たちはキーキー騒ぐ仔ブタにさるぐつわをはめたり目隠しをしたりして苦心|惨憺《さんたん》陣地に持ち帰る。そこへ中隊長が出てきて、
「お前たちは共産側のブタを捕虜にした。あっぱれである」
と労をねぎらい、さっそくその捕虜を将校専用食堂に運ばせてしまう、というオチがついていた。
ベトナムにカー・ロックという、ナマズの弟分みたいなサカナがいる。そこいらへんの水たまりにバチャバチャしており、生きたカエルを丸ごと|餌《えさ》にして釣る。釣り上げても灰色の体を「の」の字型にくねらせてのたうつ姿が実にあさましいのだが、食べるとたいそううまい。
油で揚げて、トウガラシをきかせたヌクマムにつけたり、丸焼きにしてホカホカの身をサラダ菜にくるみ、パイナップルの汁でとかした小エビのペーストにひたして食べる。ほぐしてカユにまぜることも多い。姿に似合わず白身の肉はよく引き締って上品なコクがある。値段も、海のサカナやトリ肉などにくらべてずっと高かった。
日本にきて一年以上もたった頃、妻は突然、このカー・ロックの夢を見はじめた。朝起きるなり、ツバを飲み込んで、
「ああ、一度食べにサイゴンに戻りたい」
などと口走るようになった。彼女がホームシックの症状に陥るのは概してこの種の散文的欲望に起因することが多いのである。故郷の美味というのは、一度食べたいと思うと、ますます思いがつのるものらしい。以後、カー・ロックの丸焼きは周期的に彼女の夢に登場するようになった。余り夢見にうなされるので本人も少々閉口した。各種のサカナを買い込んできては似た味のがないかと試した。どれもだめだった。
早く日本とベトナムの往来が正常化してくれぬものか、と私は願った。それからだいぶたったある日曜日、私たちは久しぶりに横浜へドライブした。中華街表通りの人混みを避け、ふだん足を向けぬ路地沿いにぶらついていると、間口一軒ほどの目立たぬサカナ屋があった。何気なく店先に目をやった妻は、
「あっ、いた!」
と、向こうの角まで届きそうな大声をあげた。
「カー・ロックいた、カー・ロックいた」
子供のようなはしゃぎ方だ。
店先の|水槽《すいそう》の底に、何やら奇体なミドリ色のサカナが渦巻いている。かがみ込んで観察すると、何のことはない、ライギョだ。
子供の頃、よく縁日で釣ったことがある。口に針を引っかけて、暴れる奴を首尾よく引っぱり出せば、コイや金魚ととりかえてくれる。だが、おそろしく無神経なサカナで、何回も引っかけられて口がボロボロになっても、平気で糸を食いちぎってしまう。
子供心にも、いやな奴だ、と慨嘆した思い出が残っている。
「落ち着け」
と、私は妻をたしなめた。
「こいつはカー・ロックなんかじゃない。ライギョといって、日本ではサカナのうちにも入れてもらえないほど下等な奴なんだ」
妻は間違いなくカー・ロックだといいはる。いっしょにいた妻の友人のベトナム女性も、色や模様はふつうのカー・ロックと多少違うが、形態、|容貌《ようぼう》からみてカー・ロックの仲間に違いない、と断定した。
「そう。カー・ロック・ボム(花もようのカー・ロック)といって、テト(旧正月)の頃出回る種類よ。ふつうのカー・ロックよりもおいしいの」
と、どうやら目に狂いはないらしい。いわれてみると、たしかに、市場のタライの中でのたうっていた連中に似ているような気がしてきた。
実はサイゴンにいた頃は、余りどこにでもいるので、とくに注意して観察したことはなかった。まさかあのいやらしいライギョだなどとは思いもよらなかったのでなおさらだった。
あらためて水槽の中をしげしげと眺め、「うーん」と唸った。間違いなくこいつらだ。それにしても、こうして見ると何という醜悪な|面構《つらがま》えだ。丸みを帯びた鈍重なヒレといい、|扁平《へんぺい》な背中を彩る毒々しい|斑紋《はんもん》といい、サカナというよりは|爬虫類《はちゆうるい》に近い。知らずとはいえ、これほどえげつない奴を食わされていたのか、と思うと、今さらながらゲンナリしてしまった。
妻は|有頂天《うちようてん》で、かたわらの玉アミを取って水槽の中をかきまわし、底の方から肉付きのよさそうなのを一匹すくいだした。
「これ、ください」
と、店のおばさんにさし出した。
一匹七百円だった。おばさんは慣れた手つきで、ビニールの袋に入れてくれた。
欲ばって丸々肥えたのを選んでしまったので、ズシリと重い。それが腹を立てて袋の中でしきりと暴れた。何十メートルか歩いて大通りに出たところで、とうとう袋が破れた。ライギョはぬるりと地面に落ち、派手にのたうち回った。
たちまち人垣ができた。足元を襲われた女性は悲鳴を上げて逃げまどい、子供たちは「うわぁー、大蛇だ、大蛇だ」と叫びたてる。私は大いに|狼狽《ろうばい》した。追いすがって取り押さえようとしたが、ヌルヌル滑るので処置なしだった。ライギョの歯は鋭いと聞いていたので、よけい手に負えない。
白昼の大通りでとんだ見世物を演じ、進退窮まった。ついに頭に来て、かたわらの石をふりかざしたたき殺そうとすると、
「ダメ! 味が落ちる!」
妻は金切り声をあげた。
彼女自身さすがに人だかりにうろたえて顔を赤らめていたが、それでもとっさに出たせりふが、これだった。
大汗をかいて路地奥のサカナ屋にかけ戻り、ビニール袋を新たに数枚もらってきて、ようやく取り押さえた。身動きできぬようにぐるぐる巻きにして、車のトランクに放り込んだ。
買い物をしたり、港に船を見に行ったりして、家に帰りついたのはそれから五時間ほどあとだった。さすがに、ライギョはぐったりしていた。息絶えているように見えた。
「やけになって包むから、窒息しちゃったじゃないの」
と、妻は腹を立てた。
念のため、流しに水をはり、死骸を投げ込んでおいた。居間でテレビを見ていると、一時間ほどして台所でものすごい水音がした。何事かと飛んでいくと、息を吹き返したライギョが床にはね出し、大暴れしていた。信じられないほどしぶとい生命力だ。
何回流しにもどしてもすぐバシャンとはね出す。台所は洪水だが、妻は|頑《がん》として殺そうとしない。浴槽に水を張ってサカナを移し、ふたに重しをした。おかげで私はその晩はシャワーで我慢しなければならなかった。
翌日、勤め先から電話を入れて様子を聞くと、
「まだピンピンして泳ぎ回っているわ」
といかにも|嬉《うれ》しそうだった。
夕方帰宅すると、ライギョはガスオーブンの中で焼けぼっくいのようになり、こんどは本当に昇天していた。
サラダ菜やドクダミを添え、ホカホカ湯気の立つ肉をむしって食べた。
間違いなく、サイゴンの長屋で何回となく賞味したカー・ロックの味だった。
サイゴンの市場のおばさんたちは、買い手がサカナを選ぶとスリコギのようなコン棒で力まかせに脳天をドヤしつけ、一撃で|屠《ほふ》っていた。わが家には適当なえものがなかったので、妻はコカ・コーラの大ビンを逆手にかざし、殴りつけてやったという。ビンぐらいでは相手もなかなか参らず、二、三十回めった打ちにしてようやく動きが鈍ったところを、出刃包丁で一気に頭を切り落とし、|引導《いんどう》を渡してやったそうだ。
「ほんとうに|図々《ずうずう》しく暴れるんだから。おかげでお腹が|空《す》いちゃった。だからよけいおいしかったわ」
妻は腹をなでながら、満ち足りた声でいった。
彼女が男に生まれていたら、やはり敵前で命がけでニワトリや仔ブタの鮮度を守るクチだっただろう。
といっても、ベトナム人の美食にはとりたてて珍奇、高価なものを求めるという傾向は少ない。私たちの目から見れば、ビトロンや、カブトガニのたまごや、アヒルの水かきなどずいぶんイカもの、ゲテものに執着するように見えるがこれは単なる食習慣の違いだろう。むしろ、ベトナム人の美食感覚の特質は、通常の食品を対象に、いかにその食べ頃を選び、いかにそれを自分の好みに合わせて料理・調味するかという点に向けられるようだ。
この点では実に|他人目《ひとめ》かまわず、かつ、妥協を知らぬ人々の集まりに見えた。相当な金持ちでも、ロースを買わず、|ガラ《ヽヽ》まがいの骨付きのくず肉を買う。骨付きの方が味がいいからだという。だからこの国では、レストランも屋台も、店構えやよけいなサービスなどではやっていけない。逆に味さえよければ、どんな庶民街の大衆食堂にでも、閣僚が家族連れでやってくる。
それでもなおかつ、あてがいぶちの味にはなかなか満足しない。屋台でソバ一つ食べるさいにも、出されたものをそのままかきこまず、目の前に並んだ何種類もの調味料、香辛料、香菜を丹念に調合し、驚くほど長い時間かけて自分の舌に合った味に仕立て上げてから、ゆっくりと味わう。
「俺たちは舌で食う。あんたたち日本人は胃袋で食うんだね」
と、私はよく屋台の|相客《あいきやく》にからかわれた。
結局、この美味への追求心は、馬鹿らしいほどの自然の豊かさと、与えられた状況をいかに利用し、いかにこの世を楽しく生きるかという、この国の人々の現実主義との融和から生まれ育ったものなのではないか、と思う。ある意味では、発展と向上と、より高度な文化を求めるこの国の人々の一側面を表しているようにも思う。こうした目で、ベトナムと、ラオス、カンボジアの食生活の“較差”を見直すと、国自体の素質(というか、あるいはさまざまな面でエネルギーというか)の差異がそのまま表れているような気がすることもあった。
もっとも南ベトナムの場合は、多分に“食い倒れ”気味だったかもしれない。せめてあの、ソバの味を調合するさいの半分ぐらいの真剣さで戦争をしていれば、南ベトナム軍ももう少しなんとかなったのではないか、とときどき思う。
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夫婦そろって動物好き
子供の頃、私は動物園の園長になりたかった。
いまでも、仕事で海外に出て、飛行機の乗り継ぎなどで時間が余ると、たいがい、その土地の動物園に車を飛ばす。そしてサル山や水鳥のオリの前にたたずみ、「やっぱり道を誤ったかな」などと思いにふけることがある。
だいぶ前だが、カルカッタの動物園でこうして時間をつぶしていたとき、放し飼いのゾウガメが木陰でさかんに芝を食べているのを見つけた。あまり熱心に食べているのですっかり感心し、とうとうカトマンズ行きの飛行機に乗り遅れた。
こんな私が顔負けするほど、妻も動物が好きだ。
はじめて会ったとき、彼女は体長三メートル以上もあるニシキヘビを飼っていた。
何年か前のテト(旧正月)に、メコン・デルタ地方の知人から贈られたとかで、最初は小指ほどの太さしかなかったという。それが毎週、ヒヨコやネズミを|呑《の》み込んでぬくぬく成長し、私が対面したときには、れっきとしたウワバミになり、長屋の二階に放し飼いにされていた。ふだんは、家人の使わぬシャワー室を自分の寝ぐらに決めこみ、タイルの上にへたり込んでいた。夕方になると元気を取り戻し、勝手に|這《は》い出してきて、あたりをうろつきまわった。
それも、どういうわけか、窓際の私の部屋がことのほかお気に入りだった。留守中、しのび込んでは、ことわりもなく人のベッドを占領する。おかげで、私の方は、暑さでもうろうとなって支局から戻り、不用意にひと休みしようとするたびに、魂がけし飛ぶような思いをしたものだった。
ベトナムの森のどこにでもいる種類で、順調に育てば七、八メートルにもなるそうだった。森にひそむゲリラたちの、貴重な蛋白源であることも、その後知った。
性格は思いのほか従順で、臆病だった。一家の赤ん坊やイヌにもけっして手だしをしなかった。
妻にはとくになついていた。彼女の気配を察すると、昼でも寝ぐらから這い出してくることがあった。彼女の方も、気がむくとよくシャワー室で|横着《おうちやく》をきめ込んでいる相手を引きずり出してくる。そして、|鼻面《はなづら》をはじいて気合いを入れたり、ふうふういいながら両肩にかつぎ、首飾り代わりにしてからかったりしていた。
妻は、一週間か十日ごとに、市場から格安で仕入れてきた死にぞこないのニワトリをヘビにあてがった。一度その現場を見たことがあった。立ちすくむ相手を太い胴で一撃して一気に締め上げ、十分以上もかけて苦しそうに呑み込んでいく光景は、やはり気持ちのいいものではなかった。
さいわい、このニシキヘビは、私が長屋に住むようになってまもなく、自ら|未曾有《みぞう》の不始末をしでかし、家から追放された。部屋を横切ったネズミを追撃して壁のスキ間伝いに隣家に越境し、さらに進攻を続けてついに数軒先の屋根裏を不法占拠してしまったのだ。
近隣はパニックに陥った。妻もこれには|狼狽《ろうばい》した。一家の子供や婆さんたちを次々に走らせた。だが、ヘビの方も自分の引き起こした騒ぎに度を失い、暗みに姿をひそめてしまったので手のつけようがない。とうとう、野戦警官や憲兵隊のジープまで出動しての大捕り物となった。
結局、警官らも及び腰で小田原|評 定《ひようじよう》をくり返しているところへ、妻の急報を受けた甥のダン軍曹がモーターバイクで兵営からかけつけ、決死の|形相《ぎようそう》で屋根裏に這い上がり取り押さえてきた。
妻は、憲兵隊長からさんざん油を絞られた。そして翌日、この騒ぎの張本人をおんぼろルノーの後部座席につめ込み、サイゴン動物園に運んで行った。
市場前広場からサイゴン川の河岸に通じる大通りを、ハムギ通りといった。十九世紀末、抗仏闘争のゲキを飛ばし、捕えられて、アルジェリアに流されたグエン王朝の皇帝の名前である。
道の両側には、大小の銀行、証券取引所、商社、代理店などが軒を並べ、土地のビジネスマンらは「南ベトナムのウォール・ストリート」などとも呼んでいた。
河岸近くに、密輸品やPX流れを扱う露店市があった。ここで手に入らないものは、東南アジアのどこを探しても手に入らぬ、といわれていた。このヤミ市の中ほどに、動物を売る店が二、三十軒、固まっていた。
私は、イヌやネコやウサギやシャモが炎天下一つのオリに閉じ込められ、クソにまみれてふて寝したり、互いの不幸を慰めあったり、まだあきらめ切れず声をかぎりに泣き叫んでいるこの一角が好きで、よく出かけて行った。
日本の小鳥屋やぺット屋でおなじみの顔ぶれは、ひととおりそろっていた。他にも南国ならではの連中がいろいろいた。トカゲ、ワニ、ヘビ、大コウモリ、ヤマネコ、マレー熊、ヒョウの仔、アルマジロ……。
コン・チェオと呼ばれる、ウサギより小型のシカや、白と黒のぶちがある南国ギツネのチョン・モップも、オリの常連だった。直訳するとチョン・モップは「ヘチマギツネ」だが、飼うと家の中のにおいがよくなるというので、ジャコウネコの仲間だったのかもしれない。
カッケーという、トカゲとカメレオンのあいのこみたいなのが、ワラヒモで|尻尾《しつぽ》をくくられて、カゴの中で取っ組み合いをしていた。モモンガだかムササビだかが、「|獲《と》りたてホヤホヤ、出血サービスで一万ピアストル」などという札を首にかけられて、面目なげにうずくまっていることもあった。
カッケーは、長さ二〇〜三〇センチの茶色いぶよぶよの体に水色の斑点を散らした、見るからにとんきょうな顔の奴だ。昼間は庭や公園の木立ちに隠れており、夜になると軒下などにきて、「カッケーッ、カッケーッ」と見かけに似合わず澄んだ声で鳴く。ベトナム人はカッケーの姿を目にすると、|縁起《えんぎ》が悪いと嫌う。だが、その声は逆に福を告げるらしい。夜、集まって花札カルタなどしているとき、庭で「カッケーッ、カッケーッ」とはじまると、皆、期待をこめて耳を澄ませる。七回鳴けば大吉のしるしで、その日は必ず勝てるという。「もっと鳴け、もっと鳴け」と声援する。でも、なにしろ暑い国なので、カッケーだってそうはサービスしない。だいたい、五回か六回でへたばり、黙り込んでしまう。
もっとも、バクチをしているときに七回鳴いてくれても、皆にひとしく勝ち運がついてしまうのだから、結局は同じことだろうと思うのだが――。
ベトナムの連中は皆、動物を見たり、育てたりするのがひどく好きらしかった。
ハムギの動物市は、いつ行っても黒山の人だった。おとなも子供も、日盛りの暑さや、オリやカゴからのにおいにめげず、押し合いへし合いのぞき込んでいる。いい年をした坊さんや偉そうな軍人が小鳥の値段をめぐって売り子の少年と口角アワを飛ばし合っている光景もよくみかけた。
前線にも、動物の姿はあった。
|野砲《やほう》の音に包まれた陣地で、兵士たちは必ずイヌやサルを飼っていた。はじめて訪れた中部山岳の陣地でこんなイヌの姿を見たときは、|偵察《ていさつ》用か、夜襲にそなえての番犬かと思った。その後観察していると、とてもそんな気の|利《き》いた|代物《しろもの》ではないことがわかった。
だいたい、熱帯のイヌほどみじめったらしい動物は、この世にいないのではないか、と思う。毛穴がないので、暑さにからきし|意気地《いくじ》がない。いくら舌を出してハアハアやってもとても間に合わず、どいつもこいつも消化不良で|雑巾《ぞうきん》のようにやせこけて、あげくが目の中まで皮膚病にやられ、もう暑いもかゆいも通り越した顔でゲッソリ地面にアゴを投げ出しているのが関の山なのだ。
おまけに陣地のイヌは、絶え間なしの銃声、砲音におびえはて、物もろくろく食う度胸がない。|夜番《よばん》に立つどころか、昼間でもスキさえあれば|塹壕《ざんごう》の奥の特等席にもぐり込んでさっさとタヌキ寝入り(?)してしまう恥知らずがほとんどだった。
こんな役立たずのイヌたちを、兵士たちはそれでも実に大切そうに取り扱っていた。飯どきにはかたわらに招いて、うまそうなところをわけてやる。食事が終ると、ヒザに抱き上げて、たんねんに皮膚病の進みぐあいを調べる。わがことのようにタメ息をついて、悲しげに首を振る。
移動や行軍のさいも必ず連れ歩いていた。なかには、銃や|擲弾《てきだん》砲を仲間に預け、両手で|後生《ごしよう》大事にイヌを抱いて行く兵士もいた。
そんな光景を見ていると、もともとこの国の人々は戦争などには不向きに生まれついているのではないか、と思えることがよくあった。
もっとも、ベトナム人の動物に対する意識、感覚は、日本人のそれとは質的にかなり異っているように思えた。
日本人(少なくとも現代の都会の)にとって、イヌ、ネコは、結局のところ飼育、|愛玩《あいがん》の対象だ。要するに「ぺット」である。どんなに|可愛《かわい》くても、相手は自分とは一線を画する客体、それも生き物として数段劣った客体に過ぎない。そして「ぺット」を飼うことは、厳密な意味での生活それ自体ではない。むしろ、生活にうるおいをもたらすための便法だ。だからこそよけい相手をいとおしみ、ときにはネコ可愛がりもする。
これに対し、ベトナム人の場合、動物を対象あるいは客体とみなす感覚は、はるかに|稀薄《きはく》に思えた。それどころか、自分とかなり等価値の「仲間」と心得ているふしがしばしば感じられた。
何よりもそれを感じさせるのは、婆さんと|野良《のら》イヌのケンカだ。
横丁の婆さんたちが棒をふりかざして泥棒イヌを追い回し、こらしめているありさまを見ていると腹をかかえて笑いたくなるほどおかしかった。
イヌの方も、もちろん死にものぐるいだが、近隣かまわずののしりながら、血相変えて追いすがる婆さんたちも、負けず劣らず大真面目である。運よく相手を追いつめ、ひっ捕えようものなら、いよいよ歯止めがきかない。殺しちまうんじゃなかろうか、と思えるほどの剣幕で、徹底的にたたきのめす。叱るとか、罰するとかいう感じはまるでなく、完全にケンカだ。青筋立てて対決し、相手が命からがら姿をくらましたあとも、しばらくは興奮がさめない。誰かれなくつかまえては、イヌの所業を憎々しげにまくしたてる。
相手を自分と等価値のものとみなす感覚がなければ、いくら年を取って怒りっぽくなっていても、こう臆面なく興奮できまいと思う。
ふだんのイヌ、ネコの取り扱いを見ていても、そこには「ぺット」相手の甘さや情状|酌 量《しやくりよう》は感じられない。ちょっと見ると、邪険でそっけなくさえみえる。やはりこれも、仲間意識の一側面なのだろう。
実際に、よけいな世話は焼かないかわりに、必要な場合は人間とわけへだてないほど面倒も見ている。
いずれにしろ、人間にも動物にも、飼ったり、飼われたり、という意識はあまりないらしい。互いにおのれの位置を占めながら共同生活しているといった感が強い。そのせいか、ベトナムのイヌ、ネコは、日本の同族にくらべて、ずいぶん横着な顔つきをしているようにみえた。
恐らく、この、動物に対する仲間意識、等価値意識は、この国の人々の自然観、生命観からきているのではないか、と思う。
南国の自然は、圧倒的だ。
西洋人は自然を征服し、日本人は自然と調和しながらこれを利用する、といわれる。たしかに、庭ひとつとっても、幾何学的なフランス庭園と、枯山水との間には対極的な体質、発想の違いがあるように思える。狩猟民族と、農耕民族との間には、それほど、自然というものの受けとめ方に差があったのだろう。少なくとも農耕民族の日本人にとっては、自然対人間の力関係は圧倒的に自然に有利であった。邪魔な木なら切り倒せ、という積極的発想は長い間生まれなかった。むしろその木の姿を歌におり込んで、風流に転じた。
それでも、自然を客体とし、風流の対象として眺めるだけの余裕はあった。それだけ、まだ相手がおとなしかったからだ。これにくらべると、熱帯の自然はケタ違いに|仮借《かしやく》がない。まったく、あの、いっさいのニュアンスを許さぬ光を、暑さを、豊かな水を、|伐《き》られても焼かれてもみるみる再生してあたりを緑に覆いつくす森の生命力をなんと表現したらいいか、と思う。
この途方もない自然を前にしたら、よほど|素頓狂《すつとんきよう》なものでないかぎり、相手との調和をはかったり、相手を風流の源泉にしようなどという発想は生まれてきそうもない。ハエが手をすり足をするさまに感心していたらその間に相手はワッと繁殖し、家中まっ黒になってしまいかねない環境なのだ。
南国の人々にしばしば感じられる、激しさ、そっけなさ、そしてある意味では酷薄な身の|持《じ》し方も、この待ったなしの環境につちかわれたのではないか、と思う。人々はこの、あまりにも優勢な自然に対立することの無意味さを、温室の人間より何倍も身にしみて知っている。中途|半端《はんぱ》が許されぬ以上、人間もこの仮借なく、かつ|豊饒《ほうじよう》な自然を中心に|据《す》え、自らこれに帰順し、同化して生きる以外ない。少々もっともらしくいえば、自然に対する主体性の放棄であり、アイデンティティーの返還だ。当然、他の自然物との距離感は少なくなる。自然という支配者の下では、自分も、イヌも、あるいは草花さえも、均質の存在なのだ。
加えて、|輪廻《りんね》転生の宗教感覚も作用しているのだろう。
たとえ相手がニシキヘビの衣をまとっていようと、その内にある霊魂は、自分自身のそれと変りがない。ヘビの生命は来世で人間の中に引っ越していくかもしれず、逆に自分の生命がヘビに引き継がれるかもしれない。ここでも相手は対等の仲間だ。だから、ヘビをいつくしむ行為も、私たちが受け取るほど、この国の人々の間ではゲテモノ趣味ではないのではないか、と思う。
いずれにしろ、ベトナムでは(他の東南アジア諸国もそうなのだろうが)、自然が圧倒的な支配者であることを、つくづく感じた。だから、これを保護するというような発想は、ほとんどの人が持っていなかった。
あるとき、フランスの雑誌で、長年の戦乱によりインドシナの野生動物が激減しているという記事を読んだ。私は二、三の人に当たってみた。
皆、然るべき地位にあるインテリだったが、まったくといっていいほどこの話題には興味を示さなかった。海にサカナはつきもの、森にシカやイノシシはつきもの、だから、海や森がなくならないかぎり、サカナや動物は減らない、とでも考えているようだった。
「しかし、現にその森が枯葉剤や爆撃で荒されているじゃないですか」というと、
「それは森を知らない人のいうことだ。ちっぽけな飛行機からいくら爆弾を落としても、まったくタカが知れている」と、農林省の局長はいった。
戦争で以前よりハンターが減ったから、かえって野生動物は増えている、と断言する人もいた。
結局、野生動物の実態は何一つわからなかった。常識的に考えれば、やはり相当の被害をこうむっていると思うのだが、あれだけの量の爆弾をたたき込みながら、米国が敗れた理由の一つはやはり、この国の自然の底知れぬ生命力、復元力を正確に計算に入れていなかったからではないか、と思う。
あるとき私は、プロ・ハンターのフイ氏と知り合いになった。国中ドンパチやっている中で、ずいぶん物騒な生計の道だと思ったが、同業者はまだ少なくないという話だ。
金ブチ|眼鏡《めがね》の奥に茶目っけたっぷりの目を光らせた、五十年輩の|退役《たいえき》大尉で、もとは相当いい家の出らしかった。後見人の何とかいう将軍が失脚したため、|一蓮托生《いちれんたくしよう》で軍をほっぽり出され、若い頃の道楽を生かして猟師になった、という。
シカやイノシシの肉はいくらでもサイゴンの肉屋、レストランで引き取ってくれる。ゾウなどは珍重され、一頭倒せば|象牙《ぞうげ》代だけで百万ピアストル(百万円・当時)にはなる。まあ、このご時世、そう悪い商売ではない。
フイ氏はふだんサイゴンに住み、大きな獲物が寄ってきたという情報が入ると、中部山岳ダラトへかけつける。
ダラト周辺は、解放戦線ゲリラの根拠地としても有名だ。うっかり踏み込むと、自分の方が獲物にされかねない。そこで獲物の来そうな場所に見当をつけると、その土地の守備隊長を買収して、昼の間に数キロ四方を|掃討《そうとう》してもらう。そして夜になってからジープで入り込み、ゾウや野牛と対決するそうだった。
ゾウを追うときは、付近の山岳民族を|勢子《せこ》に使う。一頭仕留めても、フイ氏が欲しいのは、象牙と鼻と足だけだ。足は、中の肉をくり抜いて|土産《みやげ》用にアメリカ人に売る。鼻の肉はコクがあるので、サイゴンの高級レストランでステーキ用やスープ種として人気がある。
金目のものはこれくらいで、他の大部分はその場に捨ててくる。これが山岳民族にとっては何よりの報酬となる。
「とにかく連中のすばやいこと。寄ってたかって肉を切り取り、一時間もすれば、ガラしか残っていませんや」
ダラト周辺の山岳民族は皆礼儀正しく、気のいい連中だという。昔、フランス人の神父が教えていったので、おもだった連中はフランス語を話す。
「しかしあなた、森の中でカエルに出会ったら、もういけません」
と、フイ氏は苦笑した。
森の沼や湿地にはガマガエルがたくさんいる。ふだんは離ればなれに暮らしているらしいが、ときどき月に誘われて一堂に会し、盛大な乱交パーティーを開く。山岳民族はガマガエルの蒸し焼きにも目がない。だから勢子の連中もこんなパーティーに出くわすと、キャーキャー大喜びでカエルを追い回しはじめ、かんじんのゾウ狩りの方はおじゃんになってしまうのだという。
ある日、私たちはハムギ通りの動物市で一匹の黒毛の手長ザルが柱の上にあぐらをかいて、オリの中のイヌやネコの騒ぎを超然と見下しているのを見つけた。
売り子の兄貴はたいした商売人だった。
「こいつは、最近まで近くのゴム園で家族といっしょに平和に暮らしていた。それが突然、B52の爆撃に|遭《あ》って父親も母親も失っちまったんだ。|可哀想《かわいそう》な戦災孤児だから四万五千ピアストル(四万五千円・当時)はずんでくれ」といった。
私も二万ピアストルから出発してねばり、結局、三万二千ピアストルで手を打った。
手長ザルというのは、ちょっと見るとたいそう思慮深げな目をしており、姿かたちもこの手の同族の中ではけっこう高等に見える。ところがこれがとんだ見かけ倒しで、人間にいいようにだまされ、おかげで世界各地で乱獲の憂き目に遭っていると聞いたことがあった。
実際、飼ってみると、実に間抜けな動物であることがわかった。なまじしかつめらしい顔をしているので、よけいやることなすことあさはかに見える。
長屋の土間には常時、十数羽のメンドリ、中ビナ、アヒルがいた。一家の食用である。十日に一度ほど、炊事担当の婆さんが市場で五羽、六羽とまとめて仕入れてくる。それをこうして家の中に放し飼いにしておき、毎日一羽ずつつぶしていく。
トリたちにとっては、午後三時頃が魔の時間だ。献立を決めた婆さんが「それっ」と号令をかけると、子供たちがいっせいに飛び込み、土間中追い回して片はしからひっとらえてくる。婆さんは、慣れた手つきで首や胸の肉付きを調べ、「きょうはこいつ、そっちの茶色いのは明日にしようかね」と、刑執行の日取りを決定する。運悪くその日の料理にほどよい肉付きと見込まれたトリの翼と頭をひとまとめにつかんで、そり返らしたノドをエイヤと出刃包丁でかき切るのは、姪のフエの仕事だ。
黒ザルは、毎日夕方くり返されるこの捕り物が大いに気に入ったらしかった。最初の二、三日はおとなしく見物していたが、やがて我慢ができなくなり、自分も仲間に加わった。
そのうちに、婆さんの号令がなくても、勝手に土間に入り込んではトリを追いまわすようになった。一週間もすると、ようやく生えそろったばかりの中ビナの尾羽根はみな抜かれてしまった。
トリの方もおちおちエサをついばんでいられない。
とうとうある日、気の強い親ドリが反撃に出た。例によって黒ザルがおとなしい中ビナをつかまえて夢中でいたぶっているところを見すまし、突然襲いかかって、血が出るほど脳天を|小突《こづ》いた。このときの黒ザルの恐怖、驚愕ぶりは、見ていて気の毒なほどだった。二、三回、土間をぐるぐる走り回って、ようやくカサにかかった親ドリの追撃をふり切り、心臓が顔から飛び出しそうな形相で居間へ逃げてきた。そして、私の胸にヒルのようにしがみついて三十分近くもヒーヒー悲鳴を上げ続けた。
サルとトリとの力関係は、この日から逆転した。トリはもうすっかり自信をつけ、いつでもこい、といった様子で待っている。サルにはそれがわからない。というより、これほど痛いめに遭いながら、やはりいたずら心は押さえられないのだ。|性《しよう》こりもなく出かけて行っては、またイヤというほど脳天を小突かれる。そのたびに死にもの狂いで逃げまどうくせに、何時間かたつとまたちょっかいを出しに行く。
この調子では乱獲され、一族滅亡の危機に立たされるのも無理はない、と私は思った。
もっとも、生活の伴侶としては、このうえなく愉快な奴だった。あるとき客が飲み残していったビールを盗み酒したのがきっかけで、酒の味を覚えた。以後、毎晩、私のところへきてねだる。飲ませてやらないと、花ビンを引っくり返したり、部屋中に雑誌を投げ散らしたりして怒る。酔うと人間並みに威勢がよくなり、仔イヌたち相手にしきりとクダを巻いた。翌日、苦しがってもどしたりした。
妻は黒ザルをチビと名付けた。例によって対等の付き合いだった。
チビのいたずらが過ぎると、見ていてびっくりするほど手ひどく|折檻《せつかん》する。そのかわり、毎日一時間以上かけてノミを退治し、相手が食中毒を起こしたときなどは二晩も三晩も寝ずに看病した。チビが入浴を好むことを知ると、一日置きに大釜で湯をわかし、ビショ濡れになりながら三助の役を果たした。外出のさいは必ずルノーの助手席に乗せて行った。
しだいにチビは私を離れ、やがて一方的に彼女になついた。私がふざけて妻を手荒に扱うと、歯を|剥《む》き出して飛びかかってきたりした。あまり妻が黒ザルと親密にするので、私は、
「せめて、その半分でも夫を優しく取り扱ったらどうか」と、ときどき苦情をいった。
「動物は口がきけない。だからその分だけ親切にしてやらなければいけないの」と、彼女は取りあわなかった。
ベトナムの歴史があれほど急激に変らなければ、黒ザルはいまも妻の愛情を独占し続けていたかもしれない。
サイゴン陥落の二週間ほど前、妻はあわただしく、国を去った。
数日後、東京に落ち着いた彼女から、最後の回線を利用して長屋に国際電話が入った。
「危ないことをしないで、早く帰ってきてよ」
さすがに心配そうな声が、ノイズの合間にようやく聞き取れた。それでも、まだ、事態がどのていどせっぱつまっているか、実感を持っていない様子だった。
「逃げるとき、チビを忘れちゃダメよ。必ずいっしょに連れてきてね」
などといった。
彼女を心配させたくなかったので、私も、
「OK、OK、必ず連れて帰るよ」
と、|怒鳴《どな》り返した。
しかしそのときの私は、すでに自分自身の命の心配をするのがせいいっぱいの心境だった。
サイゴンは二日来、北・革命軍のロケット砲撃や空襲をくらいはじめ、街路は夜になっても敗走兵や脱出口を求める人々で極度に殺気立っていた。
やがて北ベトナム軍が入城し、世界が変った。もうサルどころではなかった。一カ月後、私は小型スーツケース一つで東京に戻った。
それから半年ほどして、日本と新ベトナムの郵便物の交換が再開された。サイゴンの家人から届いた第一便で、チビが物を食べなくなり、衰弱して死んだことを知った。手紙を読みながら、妻は子供のように声をあげて泣いた。
東京でも私たちは、よく動物園に行く。
住みはじめた当初は、ほとんど休みのたびごとに出かけた。あまり両親が熱心なので、娘のユンが|音《ね》を上げ、「日曜日はギンザの方がいい」といいだした。
そこで、妻は最近、週日に一人で出かけて行く。ときどき、社の私に、
「イマ、ウエノ、イルヨ」
などと電話をかけてくる。
園内での彼女のコースは、もうだいたいきまっている。
前半は順路に沿って、パンダ、ヒョウ、トラ、オランウータンなど、もうなじみの顔にひととおり挨拶して回る。小鳥や|爬虫類《はちゆうるい》の一角は素通りし、サル舎のはずれの手長ザルの住まいまで来て、はじめて足をとめる。
世界の手長ザル資源が|涸渇《こかつ》しつつあるというのはやはり本当らしい。上野にも最近は一匹しかいない。サイゴンのチビよりずっと大柄で、顔もふてぶてしい。アゴにはもう白毛が生えそろい、そろそろあの世行きの年|恰好《かつこう》にみえる。だが、妻は、はじめて上野でこのチビの同類に再会したときは、涙を浮かべんばかりの喜びようだった。その後行くたびに、オリに手をのばして相手の腕や肩を一時間以上もなでてやる。サルも彼女の姿をみとめると、目ヤニだらけの目を輝かせて飛んでくるようになった。
手長ザルをなで終ると、二〇メートルほど先の巻尾ザルの小舎に立ち寄る。これは悪態をつくためだ。巻尾ザルはやはり南国産の、しかし手長ザルよりはだいぶ下等な形態のサルである。五、六匹追い込んであり、いつ行っても全員が短い四肢をせわしなく動かして縦横十文字にオリの中を駆け回っている。
ボスは下町の|因業親爺《いんごうおやじ》そっくりの顔をしている。はじめてきたとき、こいつが、妻のアオザイ姿に驚き、いきなりビスケットのかけらを投げつけた。妻は憤慨し、その後行くたびに、
「お前はメシャン(意地悪)だ。早く心をいれかえないと、ろくなことにならないよ」
と、オリの外から憎まれ口をたたく。
サル舎のあとは、まっすぐアシカ池に向かう。
なぜか、彼女は水に住む動物がひときわ好きだ。イルカやペンギンはともかくとしても、カバやトドみたいな|無細工《ぶさいく》な連中を見ても「可愛いーッ」と叫ぶのはどういう了見かと思う。サイゴン動物園でも、いつもまっ先にカワウソのオリにかけつけた。
サイゴン動物園にアシカの類はいなかった。だから、上野ではじめて目にしたとき、よけい夢中になった。彼らのすばらしい泳ぎっぷりや、優雅な体の線に驚嘆しきって見とれていた。そのくせ、こまかい区別はいまもつかない。アシカも、アザラシも、オットセイもみな「フレール・ド・コン・ライ(カワウソの兄さん)」で片づけてしまう。
彼女があまりアシカたちに|惚《ほ》れ込んだので、私は一度、|湘南《しようなん》海岸の海獣公園に連れて行った。
コンクリートで固められた|凹地《くぼち》に大小何種類も放し飼いにしてあった。妻は、三匹百円のサバをバケツ一杯買い込み、大盤振舞いした。
プールのはずれに、小山のようなのが一匹うずくまっていた。とてつもなく|図体《ずうたい》の大きい、ミナミゾウアザラシというのだった。成獣は六トンにも達する、と説明書きにあった。
この途方もないのが、のっそりのっそり体を運んできた。そして、突然風呂オケほどもある顔をヌーッと妻の鼻先に突き出し、大口あけてサバをねだった。彼女はたまげて、バケツを取り落としそうになった。あやうくこらえ、相手のコケだらけの顔をまじまじとみつめた。そして、さすがにあきれはてた声で「ヘンなの、これ」といった。
彼女はよく生き物を相手に話をする。
ただ声をかけるというのではなく、はたで見ていると、目や体全体で話し合っているように見える。
日本の|賃貸《ちんたい》アパートではイヌ、ネコが飼えないことを知り、彼女は腹を立て、そしてひどくしょげた。相手が単なるペットでない以上、これは彼女にとって基本的生活権の侵害ともうつったらしかった。
やがて気をとり直し、埋め合わせに、ろくに身動きもできないほどのテラスを“畑”に仕立てた。
毎晩、坂の下のサカナ屋に出かけて行って十数個の発泡スチロールの容器を失敬してきた。これを植木鉢がわりに、ヘチマとインゲンの種子をまいた。近所を歩いて棒切れや針金を拾い集め、手すりからひさしに、網のようにタナを張った。
二週間ほどして芽が出はじめると、子供のように喜んだ。暇さえあると、テラスにうずくまり、一つ一つの鉢のぐあいを調べた。しまいに一本一本の苗の葉の数や、ツルのクセまで覚えた。
水をやるのが一仕事だった。朝と昼と晩、|如露《じよろ》で台所から運んで、鉢にまく。昼間は彼女が自分でするが、朝と晩、水を運ぶのは私の仕事だ。彼女は、一つの鉢に三杯ずつやらなければ気がすまない。だから私も一回につき、蛇口とテラスを四十ぺん近く往復しなければならない。ずいぶん時間がかかる。しまいに馬鹿らしくなって、
「昼間に一回やれば十分じゃないか」というと、
「あんたは一日に何回水を飲む?」と、腹を立てた。
水をやり終えると、そのまましゃがみ込んで、また見つめはじめる。ときおり、指で葉の位置を直したり、ツルの先を針金に巻きつけたりしながら、二時間も三時間も目を輝かせて見つめている。一日も欠かさず、そんな調子だった。
「そうやってじっと見ていると、それだけ早く、芽が伸びるのかい」ときくと、
「もちろんよ」といった。
ベトナム人は国際性の豊かな民族といわれる。「私たちは、どこへ行っても生きていかれる」とベトナム人自身がよく口にする。どの国へ行ってもその土地に順応し、しかし同時に自分たちのライフ・スタイルもしぶとく守り抜いていく。
たぶん、こうした能力は、何度も外国勢力を支配者として受け入れたこの国の歴史がつちかったものなのだろう。
同時に、こうしてヘチマの芽に熱中しながら毎日何時間も過ごす妻の姿を見ていると、このしたたかさの背後にはもっと本来的なものも作用しているように思えた。かりに彼女が一生涯、独房で暮らさなければならないような運命に見舞われても、|格子《こうし》の外に一本の雑草が見えれば、それで何とか耐えていけるかもしれない。むろん、これは比喩だ。しかし、現に多くのベトナム人が、この戦争に耐えた。北の人々も、南の人々も、ともに、私たちの神経や常識ではとうてい支えきれないような苦痛や|惨《みじ》めさや悲劇を体験しつつ、なお耐え抜いた。
この、それ自体驚嘆すべきたくましさは、やはり、小さな自然物を相手に何時間でも飽きずに過ごし得る、というこの国の人の素質(あるいは体質的姿勢、というべきか)と関係があるのではないか、と思う。
ヘチマは無事に実り、妻も東京の町を多少は一人歩きできるようになった。
それからまもなくして、彼女は、とうとう私に無断で仔ウサギを二匹買ってきた。
銀座のデパートの屋上で、一匹二千円で売っているのを見つけ、毎日行って、しゃがみ込んで見ていたという。行くたびに「タカイネー、タカイネー」を連発していたら、何日目かにとうとう売り子が根負けし、結局、半値におまけしてくれたそうだ。
二匹とも、まだ手のひらに乗るほどの大きさだった。おとなしい方をナンバー1、きかん気らしい顔をしたのをナンバー2と名付け、部屋の中で飼いはじめた。
私は、家主や管理人に見つからぬかと、気をもんだ。
妻は|嬉々《きき》として、毎日近所の八百屋を回り、大根の葉をもらってきた。夜になると、湯タンポをタオルにくるんで、寝床を用意した。
二匹はどんどん大きくなった。食欲も旺盛になり、八百屋の大根の葉ではまに合わなくなった。私は、夜、管理人室の|灯《あか》りが消えるのを待って、アパートの裏手の土手に出動し、草を集めた。
妻は、二匹が大喜びで新鮮な野草を食べるありさまを二、三日じっと観察していた。そして、野草の中に何本か混っていたアザミをとりだし、
「コン・ト(ウサギ)は、これがいちばん好きだ。いつもこれを選び出していちばん先に食べる」
と結論した。
翌晩から私は、懐中電灯の光を頼りに土手を這い回り、アザミだけを選んで刈ってこなければならなくなった。土手のアザミはすぐ刈りつくした。近所の公園を探し回ったが、ほんの一、二回分しか集まらなかった。
妻は、他の草ではダメだという。そこで、私たちは日曜日ごとに、車で郊外にアザミを取りに行った。ときには、|逗子《ずし》、鎌倉の裏山まで出かけた。
目ぼしい場所に来ると車をとめ、ヤブに踏み込み、トゲにやられぬよう軍手をはめて、せっせと刈り取る。雨の日などは難儀な仕事だった。
帰りは、後部座席もトランクもアザミでいっぱいだ。何回にもわけて七階の部屋に運び上げる。妻は、山のようなアザミをいったん浴槽にひたして洗い、一日分ずつにわけてビニール袋に入れて冷蔵庫にしまう。冷蔵庫はアザミ専用となった。
ナンバー1もナンバー2も大いに満足げだった。
この頃にはもうすっかり妻を母親と心得、彼女の後を追って部屋中、飛び回って過ごした。そのまた後を追って、フンや小便を始末して回るのが、私の新たな日課となった。
そのうちに、ナンバー2が本領を発揮しはじめた。
背中にかみついたり、突然後足で蹴りつけたりして、おとなしいナンバー1をいじめる。それだけならいいが、イスの足をかじったり、ジュータンを爪でほぐしたりしだした。叱りつけると横っ飛びに逃げるくせに、目を離すとすぐくり返す。
ある日、妻が洗濯物を干している間に、居間のタタミの縁を三分の一ほど食ってしまった。
妻はかんかんになって怒った。ソファーの下に逃げ込んだ相手を引きずり出し、ヒザの上にひきすえて、長いこと怒鳴りつけた。それからやや気を静め、何事かいいきかせている。しきりに、
「マイ・ヒュー、マイ・ヒュー・ニェ(わかったかい。わかったんだろうね)」
と、念を押している。聞いてみると、
「こんど馬鹿な真似をしたら、皮を|剥《は》いで、アブって食べてしまうよ」
と、いい渡したのだそうだ。ナンバー2も|悔悛《かいしゆん》の色を表したので、放免された。
しばらくは、謹慎していたようだ。しかし、数日してまたやった。こんどは、テレビのアンテナ・コードを食いちぎった。
ゴールデン・アワーに久しぶりの「美空ひばりショー」が組まれていた日だったのもナンバー2にとっては運が悪かった。美空ひばりは妻にとって、神様みたいな存在だ。朝から楽しみにしていたのに、台無しになった。
翌日昼頃、社に電話があった。
「今夜、何が食べたい? ソテ(いためもの)がいい? グリエ(焼きもの)がいい?」
と、彼女は聞いた。
晩の献立についてこういう電話をかけてくることはそれまでもたびたびあった。しかもちょうど夕刊の締め切りまぎわで私は気がせいていた。
「どっちでもいいよ。そう、グリエにしようか」
適当に答えて、書きかけの原稿に戻った。
夕方、アパートへの坂道を上り切り、いつものようにまず七階のはずれの部屋の窓に目をやって、たそがれのテラスに何か白い物を見たときも、最初はまだ気づかなかった。エレベーターに乗ってからはじめて、
「待てよ」と思い出した。
前夜、お化けのようなブラウン管の美空ひばりと、ナンバー2を等分に見くらべながら、妻はたしか、
「ジェ・デシデ(私は決心した)」などとつぶやいていた。
やや足早に廊下を突っ切り、突き当たりの部屋のドアをあけた。
テラスは血の海だった。
物干しには、けさまでナンバー2だったものの本体がぶら下がり、その下に切り取られた頭や、足の先や、裏返しになった毛皮が散乱している。
「やったか」
と、私はさすがに|呆《あき》れた。
ちょうど一奮闘終えたところらしかった。ドアに背を向けてしゃがみ込んでいた妻は、血染めの出刃包丁を片手に、ふりかえり、
「そう。でも、ちゃんとあれだけいい聞かせておいたんだから」
と、ニッコリ笑った。
後足をつかんで宙にふりかざし、そのままエイヤッと背中と後頭部をテラスの床にたたきつけ、一息に|引導《いんどう》を渡したそうだ。
「でも、ナンバー2、可哀相なのよ。私が足をつかんでぶら下げたら、殺されると気づいて、ピーッ、ピーッって泣き出したの」
私は、まだ温かい頭や足や毛皮をひとまとめにし、厳重に新聞紙にくるんで、管理人に気づかれぬように焼却炉の奥に投げ込んだ。
妻は、久しぶりのウサギ料理に、うきうきと包丁をふるった。
そこへいくと娘のユンはもう|他愛《たわい》なく日本化している。学校から戻り、マナ板の上の肉塊の正体を知ると、
「うえーん、可哀相じゃないか」
と、カニのような顔で泣き出した。
「お前、馬鹿だよ。ウサギはもともと人間に食べられるために生まれてきたんだからね。生きてる間は親切にしなければいけないけれど、いつかはこうしなきゃならないんだよ。幾つになったら、そんなことがわかるんだい」
と、妻は娘を叱り飛ばした。
たしかに香草をまぶして焼き上げたナンバー2の味は、絶品だった。アザミで|肥《ふと》らせたかいあって、親子三人で食べ切れないほど肉付きもよかった。
そこで、ナンバー1も肉が固くなり過ぎないうちに仲間の後を追う羽目になった。
もっとも、このときは、前夜、ナンバー1が妻の夢に現れ、自らさいそくしたそうだ。
「やつ(ナンバー2)と違って、オレは家具もかじらず、こうして素直にふるまって一生懸命あんたらに尽くしている。それなのに、やつは早ばやと|成仏《じようぶつ》させてもらって、オレにはまだ人間に生まれ変る機会を与えてくれない。不公平じゃないか。お|釈迦《しやか》さまがこんなことをお許しになっていいものか」
と、ナンバー1はボヤいたという。
いま、我が家には、三匹目の仔ウサギがいる。妻は例によって、すっかり彼の味方だ。私が尻尾を引っぱったり、耳をつかんで持ち上げたりすると、本気で腹を立てる。そのくせ、自分は相手の背中を優しく|撫《な》でながら、
「お前、そろそろおいしそうになってきたねえ」などと話しかけている。
お釈迦さまを敬い、輪廻転生を自明のことわりとして受けとめる以上、彼女はこんごも動物を自らと等価値のものとして親身に遇し、かつ、必要とあれば彼らを平然と|殺戮《さつりく》し続けるだろう。これは、感情や感覚の問題ではなさそうだ。彼女の国の風土と文化に裏打ちされた、然るべき行為であり、父祖伝来の生活の規範なのだろう。日本人とベトナム人の間の、よろずものごとへの「構え」の違い、さまざまの価値観の違いは、つきつめれば、このあたりに帰納されてくるのかもしれない。
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いくらしたかね?
サイゴンに住み始めた頃、ずいぶん気になったのは、この国の人々がやたらと他人の持ち物の値段に興味を示すことだった。
赴任して間もなく、テト(旧正月)の季節がきた。ベトナムの人々にとっては、一年中でいちばん楽しく、にぎやかな季節だ。大通りにいっせいに露店が開く。町の空気も人々の表情もガラリと晴れやかなものになる。
支局のあるグエン・フエ通りのはずれにも、盛大な花市が開かれた。人々がつめかけ、|縁起《えんぎ》物の鉢植えのキンカンや、つぼみをふくらませた黄梅や桃の枝を買う。
私も、歳末気分に浮かれて、出かけた。面白半分、手頃な黄梅の枝を買い込み、肩にかついでぶらぶら戻ってくると、行き合う人の半数近くに、
「バオ・ニュー?(いくらしたかね?)」
と、声をかけられた。
買い値を告げると、周囲のヒマ人らも集まってきて、なれなれしげに人の枝を品定めし、高いの安いのと議論を始める。余り、皆が気やすいので、テトの花の値を話題にするのは礼儀のうちなのか、と思った。
だが、しばらく住んでみて、すぐ、そうではないことに気がついた。
ふだんでも、ちょっと目新しい物を持って町を歩いていると、必ず何人かに値段を尋ねられる。議員や閣僚の事務所に取材に行っても、たちまち、商売道具のカメラやテープレコーダーの値段を取材されてしまう。
別に外国人相手というわけではなく、ベトナム人同士のやりとりの中でも、実に頻繁に、この、「バオ・ニュー?」が飛び交っていた。
どうも、はしたない国へ来たものだ、と思った。
しかし、少し土地の生活になじむと、なぜベトナム人がこう物の値段を聞くのか、納得できる気がした。
直接の背景は、案外簡単なことだった。
東南アジアの他の国々と同様、ここでも人々の日常生活の中枢は市場だ。
地方の集落や村は市場を中心にできている。大きな町でも各地区に大小の市場があった。表通りには立派な小売り店、専門店が軒を並べているが、庶民の大部分はもっぱら市場を利用する。
市場の品物には正札がない。
野菜、サカナ、日用雑貨、衣料、電気製品――たいがいの品物は、売り手と買い手のかけ合いで取り引きされる。
一見、昔ながらの|悠長《ゆうちよう》な方法だが、このかけ合いをやるためには、買い手の方にも相応の知識がいる。品物の相場や品質について心得ていないと、抜け目ない売り手にだまされてとんだ馬鹿をみる。つまり、市場形態の経済を|生き抜く《ヽヽヽヽ》うえでは、手持ちの情報量、知識量がキメ手となるわけだが、これを収集する手段はかぎられている。
定価がないくらいだから、JISマークその他の、制度化された目安はない。「暮しの手帖」式の手引き書もない。結局は、自分で目を光らせ、耳をそばだてて、直接間接の情報を集め、判断力を養っておく以外ない。多少はしたなくても、機会あるごとに、
「バオ・ニュー?」
とやって知識を補充しておくに越したことはないのだろう。
日本に来た当初、妻もいかんなく、このベトナム人の習い性を発揮した。当時、彼女は、生活の伴侶に仔犬を飼いたがった。東京のアパートではイヌ、ネコは飼えないのだ、といくら説明しても納得しない。
「大家さんがいけないっていうんなら、内緒で飼えばいいじゃないの」
と、これも多分にベトナム式発想だった。
散歩に出て、プードルやポメラニアンをかかえた御婦人の姿を目にするたびに、彼女は、
「カワイイネエ カワイイネエ」
と、ノコノコ近づいていく。そして、相手のイヌの頭や背中を無遠慮に撫でながら、
「イクラデスカ」
と、たどたどしい発音で聞く。たいがいの相手はビックリする。なかには「何よ、この人」といわんばかりの顔で足を早めて行ってしまう人もいる。妻は妻で、
「なぜ、あんなに不親切なのかしら」
ビックリして首をかしげていた。
私はいまでも、サイゴン市場にみなぎっていた、あの、およそ飾り気なく、えげつなく、同時に心にしみ込むような人間くささを、一種の驚嘆をもって思い出す。
市場文明圏――などという言葉があるかどうか知らないが、とにかく、あの世界は、すでにスーパーマーケットやデパートに|制覇《せいは》された私たちの生活環境とは、異質の世界であるように思える。
多くの観光客が旅先の市場をのぞいてみたくなるのも、単に並べられた品物へのものめずらしさだけではなく、市場全体に渦巻くあの人間くささに引かれるからだろう。
どこの市場でも、売り手の多くは干上がりかけたような、かみさん連だ。
|人相風体《にんそうふうてい》みるからに学問や教養などとはかかわりなく、それが一日中、声をからして客を呼び、仲間同士|罵《ののし》り合い、抜け目なく客をだましては手を|拍《う》って笑い転げ、もっと抜け目ない客にだまされては「おお、天よ、地よ」と目に涙を浮かべ、いかにも毎日毎日を精一杯生きている。
それにしても、サイゴン市場の庶民らの、神をも恐れぬ、あの|図々《ずうずう》しさはいったい何事か、といまでも思う。
毎年、雨期の直前になると、うまそうなマンゴーが出回った。
「一個、幾らだい?」
「そうさね、旦那なら二千ピアストル(二千円・当時)にしておくよ」
シレッとした顔で答える。
「高えなあ、おばさん。千八百ピアストルに負けとけよ」
などと遠慮がちにもちかけるのは、よほどの田舎者か、善良な日本人特派員ぐらいで、これではさしもの特派員の高給も三年ともたない。
妻と暮らすようになってから、私はよく、彼女の買い物に付き合った。
ベトナム人が相手だと、さすがのかみさんも、そうは法外なことをいわない。ついさきほど私に二千ピアストルと吹っかけた同一人物が、
「どうだね、奥さん、千ピアストルにしておくよ」
その現金さもさることながら、
「馬鹿にしないでよ。そんなおカネ持ってやしないわ」
「それじゃ、幾らなら買うかね?」
「一個、二百ピアストルにしなさい」
と、いきなり五分の一に値切る妻のあつかましさにもあきれる。
「そんな、あんた――」
と、相手が渋れば、妻はさっさと背を向け、次の売り場に向かうふりをする。
「ちょっと、お待ちよ。じゃ、九百ピアストルにしておくよ」
「ダメ、二百五十ピアストル」
「しようがない。八百ピアストルでどうかね」
「だってこんなにキズがあるじゃないの。三百ピアストルでどう?」
「けさ、畑でもいできたばかりだよ。七百五十ピアストルまで負けとこう」
この辺から、ようやく交渉が本格化する。あとは互いの売り気と買い気をそらさぬように注意しながら、世間話もはさんで二十分でも三十分でも|丁 々《ちようちよう》|発止《はつし》。品物を|仔細《しさい》に調べてケチをつけたり、ホメ上げたり、また立ち去るふりをしたり、呼び戻したり。ドタン場で決裂すればまた隣のマンゴー婆さん相手にこれを最初からくり返さなくてはならない。だから、市場を一巡してその日の買い物をすませるまでには、ずいぶん時間がかかる。
荷物をかかえて待つ身の辛さは並み大抵ではない。どうせなら、最初からもっと正直な言い値を出し合って、時間を節約したら、と思う。そう思うこと自体が、そもそも、せわしないスーパーマーケット文明圏の発想なのだろう。市場文明圏では、この、私たちの目には消耗的でもあり、ムダにもみえる日々のかけ合いそのものが、生活の実質らしい。こんなところへ、「時はカネなり」などという異文化の価値観を持ち込んだら、たちまち足元を見られかねない。
はためには悠長に見えても、この毎度ながらのかけ合いは、けっして形式でもセレモニーでもない。互いに生活をかけての真剣勝負だ。それも、片やぬけぬけと相場の二倍、三倍を吹っかけ、片や平然とそれを五分の一に値切るような手合いだから、ともにかたときも油断がならない。
サイゴン生まれ、サイゴン育ちの妻は、たいがいの市場のかみさんとは、二十年来、三十年来の付き合いだ。単に昔なじみの売り手、買い手の間柄ではなく、かみさんらの何人かは、彼女の師匠格だ、という。まだ七歳か八歳の頃、家で繁殖させたモルモットの仔を唐揚げにして、初めて小遣いかせぎに市場に出たとき、この師匠格らが、品物の並べ方や掛け声の出し方、それに客をだまくらかして、できるだけ高く売りつける|手練手管《てれんてくだ》を、手取り足取り教えてくれたそうだ。
しかし、いったん品物を中にして向かい合うと、売り手も日頃のよしみでまけるわけにいかない。買い手も過去の恩義で不当な値をのむわけにいかない。互いに親の|仇《かたき》、とまではいかないにせよ、目付きも顔つきも油断なく身構え、義理人情抜きの、キツネとタヌキになる。この辺の割り切り方は、私たち日本人の感覚では少々首を|傾《かし》げたくなるほど、そっけないものに見えた。
義理人情はいうまでもなく、人間関係の潤滑油だろう。能力一本やりのぶつかり合いでは息苦しくてたまらないので、人々は、とかくこの潤滑油を持ち出す。市場の世界にはこれがない。あっても、現実の利害関係のぶつかり合いの前では、その効力は|稀薄《きはく》だ。
そこで、しばしば交渉が過熱してケンカが起こる。
向こうで二、三回、金切り声が交錯したと恩うと、周囲のかみさんや客がワッと駆け出す。人垣のまん中では、もう当事者たちが髪をつかみ合い、地面に転がり合い、男でも顔を赤らめるような最下等の悪態を吐きながら組んずほぐれつ大変な騒ぎだ。やってる方はもとより、見物人の方も、なりふりかまわない。他人のケンカほど面白いものはないから、|有頂天《うちようてん》で声援を送る。
さいわいなことに、妻がこの類の立ち回りに及んだことは、少なくとも私の面前では一度もなかった。
「そこが、利口と馬鹿の違いなの」
と、彼女はうそぶく。
「いくら強い調子で物をいっても、私はちゃんと相手の顔色を見ながらいってる。それが交渉なの。これ以上いったら相手が傷つき、怒り出すな、と思ったら、いったん引いてお世辞の一つや二つ並べるものなのよ。馬鹿にはこの辺の呼吸がわからない」
市場にはときおり外国人の女性も買い物にきた。
その買い物ぶりを観察していると、ベトナム人に負けず劣らず長々とかけ引きするのはフランス人だ。やはりこの土地に慣れているせいかもしれない。米国人の主婦らも、ドルをしこたま持っているはずなのに、案外しぶとくねばる。
日本人の奥さん方には、二つのタイプがあった。一つは、売り手の言い値の八〇パーセントぐらいで妥協してしまう「あっさり型」、もう一つは、絶対に自分の言い値を譲ろうとせず、しまいにプンプン怒って引き上げていく、「|頑固《がんこ》型」。私たちの血に、かけ引きを拒否する気弱さ(見方によっては潔さ?)があるというのは、やはり本当らしい。
たしかに交渉上手とは、ある意味では、相手の顔色を読み、必要に応じてはあえて卑屈になることをおそれぬしたたかさをいうのだろう。となるとこれは顔色をうかがったり、|愛想笑《あいそわら》いすることをさげすむ価値観とは|相容《あいい》れない才能なのだろう。
その点、ベトナム人の交渉上手は、外交面でもすでに定評がある。早い話が、「パリ交渉」だ。ベトナム停戦をめざして、一九六八年から一九七二年まで続けられたこのマラソン交渉で、北ベトナム側は、常に米国の足元を見ながら、ある時はこわもてに原則をふりかざし、ある時は相手の肩をたたかんばかりに歩み寄り、が、基調としてはニコニコ笑って平然と嘘を押し通し、|稀有《けう》の忍耐力で結局は一〇〇パーセント自己に有利な協定をまとめ上げた。「パリ交渉」のテーブルでベトナム人が示したこの並はずれたかけ引きの才能と感覚は、やはり市場文明のえげつなさに鍛え抜かれた民族の血なのではないか、と思う。
この、|雑駁《ざつぱく》な、そして生きる力にあふれた市場の光景を眺めながら、私はしばしば、自由という言葉の意味についても考えた。
それは、当時私がすでに、ベトナム人が思いのほか自由な発想を身につけ、自由な生きざまを志向する人々であることを実感し、一種新鮮な感銘を受けていたからかもしれない。
サイゴンに赴任するまで、私は、ベトナムの人々について何も知らなかった。あえていえば、「どうせ後進国だから、“民度”は低かろう」といったぐらいの感覚で、この土地へ来た。しかし、現実にベトナム人の生活に触れ、私自身いろいろな形でその生活との交渉を深めるにつれ、このいい気な先入感を修正せざるを得なかった。
たしかに、末端の人々の政治参画意識、国民としての権利、義務感は稀薄だった。
しかし、その半面、総体としてこの国の人々は、日本人よりむしろしたたかに自由な精神の持ち主であるように思えた。
住み始めて一年ほどたった頃、南部のメコン・デルタ地方の農村で、簡単な意識調査を試みたことがあった。ベトナム人の協力者といっしょに数カ村を回り、村人たちに、
「あなたは、いま、何をいちばん望むか」と尋ねてみた。
むろん、全員が、平和を望む、と答えた。
「では、なぜ、平和を望むのか」と理由を聞いた。
「家族が皆いっしょに暮らせる」「畑が荒らされないですむ」などという常識的な答えのほかに、「誰からもコントロールされない生活がしたいからだ」という回答が半数近くあった。
これは、私にとって思いがけぬ型の答えだった。ものを読んだこともないような連中にしては、少々でき過ぎた発想のように思えた。そのたびに通訳者に念を押させたが、やはり農民らは、コントロールされない生活(むろん個々の表現に違いはあったが)がしたいのだ、とくり返した。
日本で同様の質問をしたら、こういう型の答えは返ってこないのではないか、と思った。
「日本人はすでに自由に生きている。ベトナムの貧しい農民らが自由を求めるのは、彼らが自由を持っていないからだろう」という反論があるかもしれない。
だが、こうした見方はやはり教条的なものに思える。仮りに、江戸時代の水|呑《の》み百姓がこういう質問を受けたとしたら、彼らは堂々とこうした発想の答えをしたかどうか。「コントロールされない生活」を求める精神とは、結局のところ、外部の権威を拒否する体質なのではないか。そして、こうしたベトナム農民の体質は、いま考えてみると、むしろ当然のものであったのではないかとも思える。
東南アジアの社会は一般に「軟構造」の社会だといわれる。近代国家の実質をなす各種の制度や秩序が、まだ末端の日常生活を管理しきっていないということだろう。当然、そこでは、人々の生活や行動は、画一化されていない。人々は、勝手にふるまえる状況にある。少なくとも、制度や秩序のスキ間を自分の裁量で埋めていくだけの、余地がある。しかも南部ベトナムは他人の力を借りなくても楽に暮らしていけるだけ豊かな土地柄だ。社会機構の面からも、風土の面からも、自由な精神(あるいは個人主義といいかえてもいい)が、比較的、|肩肘《かたひじ》張らずに市民権を主張できる環境なのだろう。
近代国家を支える制度とか秩序とかいったものは、本来、個々の人間にとって窮屈なものであるはずだ。私たちは、全体を守り、それによって個々の人間を守るという理屈で、これら窮屈なものを受け入れている。そして、現にこの理屈にのっとり、各種の制度は人々の行動様式に一定のレールを敷き、秩序や権威は価値体系を定めて人々の選択、判断を指導する。
このあたりから、一種の逆転現象も起こる。人々は、制度や秩序を、非の打ちどころない基準とし、これらを参考に生きることに慣らされてしまう。いってみれば、よりかかって生きるようになる。本来は便法であった、これら窮屈なものが、次第に絶対化され、独自の生命力、支配力を持ち始める。この結果、組織はそれによって、表面的にはダイナミズムを発揮するだろう。モーレツが美徳になれば、国民はそれが実際に自己の人生にどれほど利するかは考えず、やみくもに働く。GNPは伸び、輸出は増進し、国は経済大国になるかもしれない。そして、便法が一人歩きするのに比例して、もともとはその便法の主人であったはずの人間の自由な心は発露の場を失い、|萎《な》えていく。
皆といっしょに右向け右をしていれば、世間も人並みに扱ってくれる。余りうるさく異論を唱えるものがいたら、衆をたのんで押しつぶしてしまえばいい。しかも人々は、自分を自由だと感じることができる。権威は自らの存在にとって無害の自由に対しては寛容だからだ。
自由を享楽し、保護され、しかも自ら判断、選択を下す必要はないのだから、これはこれで気楽な状況だろうと思う。私たちがはたからみればファッショとしかいいようのないような、がんじがらめの組織社会、管理社会に生きながら、結構、満足して日々を送っているのは、この気楽さを好む習性からなのかもしれない。
ベトナムの社会には、こうした制度、秩序がまだ行きわたっていなかった。この「軟構造」の中で、人々は、基本的には日本人よりはるかに自由に生きているように見えた。人々のしたたかな気質がそれを志向しているようにも見えた。
同時に、もしそうなら、自由とは案外しんどいものなのだな、というようなことをたびたび感じた。
自由の一定義は、あてがいぶちの権威を拒否する(あるいはそういうものが存在しない)ということだろう。
おそらく、多くのベトナム庶民にとって絶対的な存在は、お|釈迦《しやか》さまと、先祖の霊だけではないか、と思う。この二つが偉大すぎるから、政府も大統領もあるいはその他諸々の有形無形の権威も、あまり偉く見えないのかもしれない。たしかにお釈迦さまも先祖の霊も、ベトナム人の内面生活を、そして日々の生き方を広範に規制している。しかし、これらは、いずれも個々の内面から生まれた価値観だ。外側から画一的に押しつけられた価値観ではない。たとえば、仏教徒の場合、信心の方法、度合いはまちまちで、信徒の一人一人がそれぞれ、自分のお釈迦さまと向かい合っている。だからいくら坊さんが旗を振っても、南部の仏教徒は強固な政治勢力、社会勢力として結集できず、一九五四年のジュネーブ協定で北部から避難してきた少数派のカトリック勢力に押さえられていた。この点、南ベトナムでは宗教も個人主義的だったといえるだろう。
それに、お釈迦さまにしろ、先祖の霊にしろ、私たちの世界よりはるかに濃密に市民権を持っているとはいえ、結局のところこれらは、根本の指針であり、やはり抽象的な規範である。現実の生活で彼らがすべてを案内し、肩代わりしてくれるわけではない。結局は、自分でいろいろ決めなければならない。「軟構造」の中では、これはずいぶん辛かろうと思う。
市場の例は卑近すぎるかもしれない。
しかし、これもやはり、|自由であるがために《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、気苦労な状況だろうと思う。スーパーマーケットでは、客は正札をにらんで判断する。「高いな」と思ったら買わないし、それでも欲しい場合は、多少腹を立てながらもおとなしく払う。定価販売、あるいは正札という、できあいの制度によりかかり、ともかくその権威を認めてしまっているからだ。一方的に値を押しつけられているのかもしれないが、いちいちの買い物でそこまで詮索していたら、とても|煩《わずら》わしくてこの世を生きていけまい。
ところが、市場にはこの、よりかかるべき権威も基準もない。自由な状況の中で、高く買って損をするか、安く買って得をするかは、自分の能力一つだ。「バオ・ニュー?」と聞き歩いて情報を収集する能力(|面《つら》の皮の厚さ?)、それらを総合、分析して相場の見当をつける能力、品物のよしあしを識別する能力、自分自身の価値観と基準を育て上げていく能力、そしてあの手この手の舌先の技でできるかぎり自分の言い分を通す能力――。相手も能力をあげてぶつかってくるわけだから、ずいぶん気の許せない世界でもあるわけだ。
ときおり私は、五ピアストル、十ピアストルの違いにこだわって、いつまでもねばり続ける妻にしびれをきらした。そのたびに彼女は、
「金額だけじゃないの」
と強く反論した。
「馬鹿にされないためなのよ。もし私が一ピアストルでも無駄に使ったら、あいつはおカネの価値を知らない、馬鹿だ、と思われる。だから面倒臭くても筋を通しておかなくてはならないの」
いったん馬鹿だという評価が広がれば、次からは寄ってたかってカモにされ、買い物がしにくくなる。毎日の買い物だから、小さな損が積り積って大損になり、下手をすると家屋敷までむしり取られることになりかねない。そんな世界だそうだった。
そういえば、サイゴンではどんな実力者もいったん失脚すると二度と浮上できないというのが通例だった。ヒゲのグエン・カオ・キ将軍(元首相、副大統領)がそのいい例だろう。空軍を背景に若き独裁者として一時は飛ぶ鳥を落とす権勢を誇ったが、いったんグエン・バン・チュー将軍(元大統領)との政争につまずくと、ツルベ落としに|凋落《ちようらく》した。ひとたび落ち目になると皆がいっせいに離反し、寄ってたかってさらに深みに|蹴落《けお》とす。離反する方にしてみればそれは勝者に取り入り、ひいては自分の首を守るための必然の行動でもあるのだろう。こうした風土の中では、たとえ実力者でも制度によって身分や生命を保証されていない。したがって、いったん権力を握った者が、ときにははた目には|苛酷《かこく》、理不尽なまでに非同調者の弾圧、封じ込めに出るのも、あるていど当然の力学現象といえよう。必ずしも、人権や民主主義の理念だけでは割り切れぬ重さと|辛《から》さを持った政治、社会風土に見える。そしてその酷薄さは、下々の日常の生存競争でも同様なのだろうと思う。
この、奔放でもあれば苛酷でもあり、悠長そうに見えながら実はまったく気の許せない、自由の状況に耐えていくには、何よりも、自前の価値観を固めておかなければならない。そのせいか、ベトナムの主婦は一般にしつこいほど丹念に品物を選ぶ。妻もまたその習性が抜けない。
同じ棚のリンゴを一つ一つ手に取って調べ、店員に文句をいわれたりしている。彼女にしてみれば、なぜ店がやたらとリンゴを磨きたて、「お手を触れないで下さい」なのか|合点《がてん》がいかない。
「目で食べるわけじゃあるまいし、どうして日本の女の人はもっと自分で品物を選ばないの?」
物が高いと文句をいいながら、ろくに選びもせずに買う態度が、不思議でならないらしい。電気製品などを買うときは徹底的に各製品を点検し、性能、価格を比較検討する。その熱心さには感心するが、秋葉原に二日、三日と付き合う方は実に骨だ。
もっとも、デパートへ行ってもピエール・カルダンなどのマークにはいささかの関心も示さず、さっさと地下の特売場に直行してくれる点は私にとっても都合がいい。
「フランス人がデザインした柄やモードが、体型も肌の色も違う私たちに似合うわけないじゃないの。値段と名前につられてあんなのを買うのは馬鹿か田舎者よ」
ベトナム人はどんな金持ちでもそんなサル真似はしない、とうそぶく。まあ、この辺は私の安月給への思いやりなのかもしれないが――。
結局のところ、ベトナム人の価値観のドンづまりは、「その日を生きのびるためのことなら、すべては善」ということだったのではないか、と、ときどき思うこともある。そうでなければ生きてこられぬような歴史であり現世であったのではないか。
したがって、自分や他人の、多少の|有為《うい》転変には、案外無感動だ。政界の実力者が、突然落ちぶれて町の大衆食堂の|親爺《おやじ》になる。日本人だったらなかなか耐えられないことだろうが当の本人は案外平気だ。これも生きるための便法だから、周囲もとりたてて好奇や同情の目でみない。生きる、という本質を貫くために腹を|据《す》えれば、たいがいのことは耐えられるのだろう。妙なことにこの辺は、あれほどベトナム人がこだわるメンツの精神とさえ競合しないらしい。となると、メンツを口にすること自体もまた、より有利にこの世を生きるための現実的な手段に過ぎないのかもしれない。
さきのサイゴン陥落により、旧体制の実力者らは大部分、米国などへ逃亡した。酒屋の店主や、ガレージの給油係りに転身した元将軍や閣僚クラスの政治家の写真がときおり日本のマスコミでも紹介される。落ちぶれた姿をカメラにさらす、といった|惨《みじ》めさは不思議なほど感じられない。こういう神経の強靱さはやはりこの民族の持ち前であり、おそろしさでもあるような気がする。
サイゴンから、隣国ラオスの首都ビエンチャンに旅行したとき、土地のフランス人と知り合いになった。旧仏植民地軍の下士官で、その後居ついた組だ。
この人物が、ある夕方、ホテルのバーで昔話を|披露《ひろう》しながら、急に、
「ボー・グエン・ザップはおそろしい男だ。あいつは人間じゃない」とボヤきだした。
ボー・グエン・ザップ将軍は、いうまでもなくベトナム人民解放軍の総大将で、現ハノイ政権の副首相兼国防相である。すでに伝説的な戦略家として、世界中の軍事専門家らから尊敬されている。
将軍の名を一躍世界に広めたのは、史上名高いディエン・ビエン・フーの戦いだった。一九五四年春、将軍は当時の仏植民地軍精鋭をラオス国境に近いディエン・ビエン・フーの盆地に誘い込み、周囲の山から意表を|衝《つ》く集中砲撃を加えて、一挙に|潰滅《かいめつ》させた。
私が会った元下士官は、この戦いの生き残りの一人だった。
彼の話では、仏軍部隊が|十重二十重《とえはたえ》に包囲され、弾薬、糧食尽き果ててにっちもさっちもいかなくなったとき、ザップ将軍|麾下《きか》の包囲軍(当時はベトミンといわれていた)からラウドスピーカーで呼びかけがあった。「明朝をもって一斉砲撃を開始する」という最後通告だ。同時に、「勝敗すでに明らかな以上、無用の|殺生《せつしよう》は避けたい。ついては無砲撃地区を設定するから、命の惜しいものは即刻そこへ避難せよ」という、将軍のメッセージも伝えられた。
泣きべそをかいていた仏軍の一部は、ワラにすがる思いで、指定された地区に避難した。ところが、ベトミン側はあらかじめそこに照準を合わせていた。翌日、その地区が真っ先にツルベ撃ちを浴び、何百人かの仏将兵が一瞬にして吹っ飛んだ――という。
飲んだくれの植民地ゴロくずれから聞いた話だから、真偽は保証できない。念のため、サイゴンに戻ってから、ある物識りのベトナム人に確かめてみたが、彼もこのエピソードは知らなかった。
だが、そのとき印象深かったのは、むしろそのベトナム人が、この話に対して示した反応だった。彼は、猛烈な反共主義者で、日頃はザップ将軍らハノイの指導者らを、一から十まであしざまにいう人物だった。
それが、このときは、少しも乗ってこなかった。むしろ、なぜそんなことにこだわるんだ、といいたげな顔だった。
私は、敵に塩を贈った日本の戦国武将の美談を紹介した。
相手ははじめ、話の筋が飲み込めぬようだった。二、三回聞き返して、私のフランス語に誤りがないと知ると、
「そんな馬鹿な……」
困惑し切った顔で私を見た。
「……でも、万一、その塩で元気を取り戻した敵に逆襲され、負けてしまったら、ジェネラル・ケンシンとやらはどういってご先祖に申し開きするつもりだったんだ?」
その口調が余りに|直截《ちよくせつ》であっただけに、私の方が少々たじろいだ。そして、
「これは、たいへんな連中が二手に分かれて戦っているものだ」と、思った。
むろん、ベトナムの修身の教科書(そんなものがあったら、の話だが)は、塩を贈るとみせかけて弾丸をぶち込め、とは教えていないだろう。
しかし、考えてみると、実際にこの国の歴史の苛酷さは、島国の温室に育った私たちの想像を絶したものだった。
ベトナムの各都市の街路には、建国以来の愛国者、殉国者、烈士烈女、救国の英雄らの名前が冠されている。道が何本できても付ける名前にこと欠かぬほどの愛国者、殉国者を数限りなく生んだ歴史なのだ。
何世紀にもわたって反覆された中国軍の侵略と支配、十三世紀の蒙古軍の来襲、近代以降は仏植民地支配、日本軍の進駐、そして今次の戦争――。直接外国軍の圧力がないときは、国内が分裂して内乱が相ついだ。むろん、ベトナム人の少々|怜利《れいり》すぎる体質が、こうした歴史を自ら作り上げたともいえるのだろうが、それにしても、この環境を生き抜くのは、並み大抵のことでなかったのではないかと、つくづく思う。
そのときそのときの御主人が、白い物を指さし、「これは黒いな」といえば、「へえ、まっ黒で」と調子を合わせなければ、下々の命は危ない。といって、御主人はいつ他の御主人に追い払われるかわからないから、調子を合わせ過ぎても危ない。他愛なく他人を信用したり、好意に甘えたり、節操にこだわったりしたら、皆、首が幾つあっても足りなかったのではないか。
「ベトナムにも決死隊という言葉はある。しかし、特攻隊の発想はこの国にはない」
旧日本軍を現地除隊してこの土地に居残った元日本兵の一人がいったことがある。当然だろう。ベトナム人が特攻隊などというこらえ性のないものを思いつくような|素頓狂《すつとんきよう》な民族だったら、今ごろ一人残らず死滅していたに違いない。
ベトナムに限らず、東南アジアの国々は、とくに近代に入ってから、日本にくらべてはるかに辛く悲しい歴史を体験してきた。私たちには世界唯一の原爆被災国という妙な被害者意識があり、そこにまた危険な甘えもあるように思えるのだが、各国が一世紀、二世紀にわたって体験した植民地主義は二発の原爆とはケタ違いの傷を、物心両面にわたりこの地域に刻み込んだ。現実にほとんどの国々が過重な植民地時代の|残滓《ざんし》を今もかかえ、そこから抜け出そうと必死の努力を続けている。こうした状況に生きる人々の価値観や身の処し方が、温室内のそれと変ってくるのは当然のことだろう。
それにもかかわらず、私たちは、とかく自らの価値観や美学に照らしてこの地域を判断しようとしがちだ。
相手の仕事のペースの遅さや、ささいな違約(いかにして今日を生き抜くかという第一義にくらべて、という意味でだ)をあげつらって、「だから現地人はあてにならない」ときめつける。一人よがりの親切に対して型通りの反応が得られないと、「人の善意に感謝するすべも知らない」と目クジラ立てる。この辺の身勝手さから脱却しないと、これからも東南アジアの国々やそこに住む人々との付きあいはうまくいかないのではないか、と思う。
ベトナム人の現実主義的な生きざまは、インドシナ半島の国々の中でこの地域だけが濃厚な中国文化圏に育ったことにより、いっそうきわだって見えるのかもしれない。
インドシナ、という呼び名は、この半島地域がインドと中国の中間地帯にあるところから来たが、さらにきめ細かく見るとこの二つの文化は、半島内部で均質に交わっていない。むしろ、多様性に目を向けるべきだろう。
大ざっぱにいうと、半島東寄りを|縦走《じゆうそう》する|安南《あんなん》山脈が文化、民族の|分水嶺《ぶんすいれい》をなしている。
東から来た中国の影響力は、山脈の壁に突き当たりその東側のベトナムにとどまった。西から来たインド文化も山脈にさえぎられ、西側のタイ、カンボジア、ラオスにおちついた。
人種、言語の系統も著しく異る。言語系統についての学説はまだ定まっていないらしいが、視覚的にみても山脈西側のカンボジア人が色黒く、表情も素朴、|精悍《せいかん》でいかにも“南洋系”の面影を伝えるのに対し、東側のベトナム人は色白、|痩身《そうしん》で非常に日本人に似ている。
ベトナムでは|科挙《かきよ》の制度や儒教の道徳規律が取り入れられ、歌舞、建築、絵画なども中国風だ。仏教も日本と同様、大乗仏教だし、仏植民地時代まで知識層は漢字を使っていた。身近な例では、人々はハシを使って物を食べる。
これに対し、アンコール・ワットや、タイの寺院の建築様式、手や腰をうねらせるあのセクシーなダンスなど、山脈西側の世界は日本人にとっても異質だ。諸国の仏教は小乗だし、人々は手やスプーンを用いて食べる。
|瞑想《めいそう》的で非戦闘的なインド文化の下に育った人々は、とかく思考も動作も習慣的だという。
たとえば、カンボジア人は、雨が降っても庭木に水をやる、という。プノンペンの町で輪タクを拾うと、車夫は行き先も聞かずに走り出す。客が黙っているとそのまま一時間でも二時間でも道路をまっすぐ走っていくともいわれた。いずれも笑い話だが、これに近い体験は私も何回かした。
ベトナム人の車夫は、むろん行き先を聞く。そして客が地理にうといとみてとると、できるだけ遠回りして|酒手《さかて》をせびる。これは、たびたび体験した。逆に客が道を知っているなと知ると自分もできるだけ近道をして、労力と時間を節約しようとする。
たしかに現実主義的な中国文化に鍛えられたベトナム人は、半島内の他の仲間にくらべ、行動にさいしてその目的をすばやく|掴《つか》み取り、抜け目なく身を処すことにたけているようだ。
――日本人も中国文化の中に育った。だから日本とベトナムの間には、文化や生活慣習の面でずいぶんと共通点や類似点がある。だが、日本の温室の歴史が学び切れなかったのは、中国文化のひとつの本質をなすこの現実主義だろう。生きのびる、という目的のために平然と|合従連衡《がつしようれんこう》、遠交近攻をやってのける感覚や神経は、私たちの内部ではやはり血肉として育ってはいないように思える。
歴史と文化によって幾重にも鍛えられたベトナム人の現実主義は、こんごのこの国の身の処し方をさまざまの形で左右していくのではないか。
旧チュー体制下の南ベトナムは、「カネが|総《すべ》て」の世の中といわれた。人々のなりふり構わぬ現実主義が|凡庸《ぼんよう》な国家指導者の下で行きついたのは、結局は「カネ」だった。
新しいベトナムの主人公たちは、「独立」あるいは「民族の尊厳」という理念を掲げて、旧体制下の人々の価値観を変革しようとしている。ベトナム革命が人間改造だといわれるのは、なによりもそのことなのだ。
ところが、この変革を志す新主人公らにも、やはり、私たちの目には新鮮なまでの現実主義的体質が感じられる。
少なくとも、ベトナムの共産主義者たちは、物欲をさげすんだり、押し隠したりはしない。
それを最も端的なかたちで感じたのは、一九七五年四月、北ベトナム戦車隊がサイゴンに入城してきたときだった。このとき、町のヤミ市は、ただならぬにぎわいを示した。戦車から降りた革命の戦士らがワッとヤミ市に群がり、私たち外国報道陣がたまげるほどの勢いで、時計や衣料などを買いあさった。そんな光景を見ながら、ここでは、革命のピューリタニズムと物欲は立派に両立し得るのだということをつくづく感じた。これは別に勝利に羽目をはずした兵士らによる一時的現象ではなかった。その後公式にベトナム再統一が宣言され、南北の交通が開けた。南のサイゴンから、北のハノイへ向かう列車や長距離バスは、いまだに、戦争中に米国が洪水のように注ぎ込んでいった、南の消費物資を満載しているという。
ハノイ政府の指導者らの態度もまた、すぐれて現実主義的にみえる。
戦争中のハノイ政府は、中国とソ連の両方に、“等距離”に身をよせ、相対立する両大国を|牽制《けんせい》しながら巧みに自国の利を引き出した。中国が援助を渋ると、ソ連に傾斜するそぶりを示し、ソ連が渋るとその逆のポーズを取って両大国をいわば手玉に取った。
米国に対する戦いに勝利したあと、にわかに中国を離れ、ソ連側に身を寄せたのは、遠交近攻の外交理念からだろう。しかし、完全にソ連の影響下に組み込まれたら、何のために三十年来|凄絶《せいぜつ》な独立解放闘争を続けてきたか、わからなくなる。そこで、統一後のハノイは、ソ連が嫌な顔をしたにもかかわらず、独自の対西側接近外交を展開した。国家再建の援助を求めていちはやくIMF(国際金融機構)、アジア銀行など、資本主義世界の機構に加盟した。昨日までの敵であった米国との国交樹立にもひとかたならぬ熱意をみせている。
この辺の、平衡感覚は、民族の血に裏づけられたものであり、それがこんごこの国を導いていくベトナム共産党の|よさ《ヽヽ》でもあり、また近隣諸国にとっては、底知れぬおそろしさでもあるのだろう。
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ミーユンの思春期
子供というのは、ある時期になると突然、タケノコのように成長するものなのだろうか。
日本に来て半年あまりした頃から、ユンは急速に伸びはじめた。
まず目についたのは足だ。ついこの間まで、針金のように貧弱だった。ある日気づくと、目を疑うほど肉が付き、長さも伸びて、すでに脚線と呼べるようなものを形成していた。
「うえーっ、お前、大きくなったんだなあ」と、思わず口に出た。
それ以後、彼女はみるみる大きくなった。
毎日見ていてもその発育のスピードが感じられるくらいだったから、ときたま家に遊びに来る私の友人たちは皆驚嘆した。とくに小娘時代のユンを知るサイゴン特派員仲間は、「環境が変ると、こうもホルモン分泌が刺激されるものなのかなあ」と、妙な感心の仕方をした。
おそらくユンは、私が知らないうちに一つの|甲殻《こうかく》を落とし終っていたのだろう。それにしてもなぜああも突然に、かつ無遠慮に、|背丈《せたけ》や手足が伸長したのかと思う。本当に、リセの栄養たっぷりの給食や、豊富な体育の時間など、新たな生活条件が、たまたま発育期の彼女の細胞増殖をひときわ|促《うなが》したのかもしれなかった。
この頃、私は、子供の成長を見る親の楽しさというものが本当にこの世に存在することをはじめて知った。楽しさ、というより、それはむしろ私にとっては一種の所有感覚の、日ごとの再確認であったかもしれない。
針金時代のユンも、心情的にはすでに我が子だった。それでも造形的にはやはり、私のあずかり知らぬ製品だった。こうして甲殻を破ってからの彼女は、視覚的にもすでにはじめて出会った頃の彼女とは別人だった。その別人は、もう明らかに「私のもの」だった。ユンの方は、そんな私の感慨には無感覚だ。
「大きくなったなあ。また大きくなったなあ、ユン」
あまり私が頻繁にくり返すので、
「パパ、おかしいよ。昨日もそういったばかりじゃないか」
うるさそうな顔をした。
妻も別にこの急激な成長ぶりに動じた風はなかった。
「あなたは知らないでしょうけどね、ベトナムの娘は、ふつう、ある日、一足飛びに子供の体からおとなの体になるの」
と、どうやら非科学的なことをいった。
そして、そんなことより、という顔で、娘のラインづくりに精を出しはじめた。
「いまがいちばん大切なときなんだからね。いま怠けていたら、一生涯、体の線はできないんだよ」と、彼女は娘にいった。
妻の目標は、ユンが将来、「アオザイを着られるような」ボディー・ラインを備えることである。
アオザイ(南部言葉ではアオヤイ)は、ベトナム女性の民族|衣裳《いしよう》だ。造り自体は、日本のキモノ、朝鮮のチマチョコリなどにくらべると、格段に簡素なワンピースである。上半身は体にぴったり合わせて仕立て、下は|裾《すそ》からワキ腹まで切れ込みを入れる。ベトナム女性はスカートを|履《は》かない。白か黒のパンタロンを用い、素肌にこのアオザイをまとって、前後の裾をひるがえしながら歩く。足早に歩いたり、裾をはらってイスに腰を下ろしたりするとき、ワキ腹の小麦色の肌がほどよく見え、なんともいえず強烈な色気がある。
だが、造りが簡素でごまかしがきかないだけに、これをうまく着こなすのは、けっこうむずかしいらしい。
サイゴンにいた頃、よく筋骨たくましい米国の婦人が面白がって着用しているのを見た。ゴリラがじゅばんを羽織っているようで、とても見られたものではない。最大の|要諦《ようてい》は腰のくびれらしいが、いくらコントラバスでも|鳩胸《はとむね》|出《で》っ|尻《ちり》ではダメなのだ。逆に、胸や腰が薄すぎても、かえって体の貧弱さが強調され、さまにならない。
チャイナ・ドレス姿の中国女性は私たちの目にはたいそう柳腰でスラリと見事なプロポーションの持ち主に見える。この中国美人らも、誇り高きベトナム娘らには、「アオザイも着られぬ、|不恰好《ぶかつこう》な体付き」と相手にされない。「お尻が長く」て、後の裾がデレンと重くなってしまうからだそうだ。
要するに背は高からず低からず、肩はほどほどにやさしく、おっぱいも大きからず小さからず、腰はキュッとくびれて、尻は丸く高く、さらに裾からのぞくくるぶしはカモシカのように軽快に――等々というのが、アオザイを優雅に着るための諸条件であるらしい。
ユンも、母親からの至上命令でこの諸条件を満たさなければならなくなった。
妻はまず娘の睡眠時間を厳しく管理した。
ユンは、毎朝六時半には起きて学校に行く。だから、夜は十時を過ぎるともう眠くてふらふらになってしまう。それでも、母親は十二時になるまでは寝かさない。夕方、ユンが疲れはて、顔面|蒼白《そうはく》で学校から帰ってきても、けっして横になることを許さない。ほとんどカバンを置く間も与えず、買い物や炊事の手伝いを矢つぎばやにいいつける。
見かねて私が「せめて一息つかせてやれ」というと、
「六時間ぐっすり寝れば十分。この年齢でダラダラ休ませたり、昼寝のクセをつけたりしたら、肉がぶくぶくになってしまう」
ユンに対してはもっと即物的に、
「お前、プレ・アメリカン(アメリカのニワトリ、つまりブロイラー)、知ってるだろう。あれは運動もせず毎日ぐうたらぐうたら食べている。だからあんな水気の多い、まずい肉になってしまうんだよ。ベトナムの、プレ・ド・カンパーニュ(いなかのニワトリ)の方がずっとおいしくて値段も高い。ヒナの頃から一日中、庭や畑を動き回って自分でエサを探しているからなんだよ。お前だって、怠けたりせずに、いつも体を動かしてないと、肉が締まらないから体のラインができないよ」と教えさとした。
ユンは、コーラ気違いだ。
サイゴンにいた頃から、ヤシ汁や砂糖キビジュースなど栄養たっぷりの民族飲料には目もくれず、日に三本はこの米国製化学飲料を飲んでいた。日本にきてからも季節を問わず、水代りにコーラの|栓《せん》を抜く。
これも全面的に禁止された。炭酸で胃袋が大きくなったら大変、というわけだ。
「女のお|腹《なか》が大きくなるのは、赤ちゃんを生むときだけでいいんだよ」
とくにお腹は一度出たらなかなか引っ込まない、こわいねえ、と妻は実感をこめてつけ加えたが、これはどうやら、そろそろ中年現象の目立ちはじめたわが身をかえりみての述懐らしかった。
ユンは、コーラの代りに牛乳を一日一リットルの割りで飲まされることになった。
彼女は牛乳なんか大嫌いだ。
最初命じられてコップ一杯を飲み下したときは息も絶えだえの表情で、「コーラがいけないならせめて、ただの水を飲ましてほしい」と請願した。むろん即座に却下された。毎日学校から帰ると、付近のスーパーマーケットに一カートンずつ買いにやらされる。
そのくせ、妻自身は牛乳など口をつけたこともない。やはり大のコーラ党なのである。夜、|喉《のど》が乾くと、「ユン、ママンに冷たいコーラを持っといで」と、あてつけのように運んでこさせる。
「お前も牛乳を持ってきて、ここでいっしょに飲みなさい」
ユンは、母親がコーラをうまそうに飲むのを目前に、この世は闇か、といった顔でチビリチビリ、牛乳を喉へ流し込む。
もっとも、味覚の世界でも、力の理論は通用するらしい。母親の|叱咤督励《しつたとくれい》の効あって、その後ユンもすっかり牛乳が好きになった。最近は、逆に妻がトウガラシの食べ過ぎによる胃のただれを医師に指摘され、一日コップ一杯の割りで牛乳を飲むよう命じられた。毎晩、母娘テーブルに対座して、ユンは威勢よく、妻はうんざりした顔で、牛乳のコップを傾けている。
夕食のメニューにも顕著な傾向があらわれた。妻はもともと、ベトナム風の、あっさりした素材を好んだ。軽い素材に濃いめの味付けでコクを出す。日本に来てからも、サカナは白身以外用いず、肉類もウシ、ブタよりもトリを多く使っていた。
ユンのラインづくりにかかってから、素材自体が濃厚になった。ウシ、ブタの料理がめだってふえた。とりわけブタのバラ肉が頻繁に登場するようになった。一度に五キロから八キロぐらいの塊を買ってくる。小松菜をそえて、ねっとり中国風の角煮にしたり、一晩ヌクマムで煮込んだり、週に半分は、バラ肉料理のオンパレードだ。
コメもさかんに食べさせた。ユンが毎食二杯以上お代りをしないと承知しない。二杯といっても、わが家の茶わんは、ちょっとしたどんぶりくらいの容量がある。コメ好きの私でも二杯目の後半はもてあますほどだから、いくら食べ盛りといえ、十五、六の娘には辛かろうと思う。
こうして、夜る間も切りつめてこき使い、その合間に牛乳、バラ肉、どんぶりメシをいやというほどつめ込んでやったおかげで、ユンはますますたくましくなった。|面構《つらがま》えも目に見えてふてぶてしくなった。
背丈はまだ一五五センチ前後だが、体重ははるかに母親を|凌駕《りようが》した。
この調子で発育が続けば、アオザイどころではなくなるのではないか、と私はときおり心配になる。
「大丈夫。いまは伸び盛りだから、できるだけ体をつくっておいた方がいい。よけいなところは後で|削《そ》ぎ落とせばいいんだから」
まるで彫刻あつかいだ。
ただ、背丈については、余り伸び過ぎると女としての|可愛《かわい》さが失われるとかで、すでに許容量が定められている。
「お前が将来日本やベトナムで暮らすつもりなら、一六〇センチまで。もしヨーロッパやアメリカに住む気なら、一六五センチまで認めてあげる。それ以上伸びたらリディキュル(滑稽)になってしまうよ。もし、そんなことになったら、ママンは毎日、カナヅチでお前の頭をたたいて縮めてやるからね」
この母親なら本当にやりかねないと思ったのだろう。そう申し渡されて以来、ユンは毎週のように玄関の柱に寄りかかって、一生懸命、巻尺で自分の背丈をはかりはじめた。いまのところ、はかるたびに、
「まだ大丈夫だな」
|安堵《あんど》のタメ息をついている。
もっともこの急激な発育が、それに見合った脳細胞の進化を伴ったものであるかどうかは、見ていて少々心もとない。
彼女の勉強部屋は、台所だ。
一度進級にしくじって以来いわれなくても自分で予習や復習をやるようになった。
夕食後の皿洗いがすむと、そのまま一人台所に居残り、調理台にノートや教科書を広げる。辞書を引っくり返し、額をたたき、まずは一人前の真剣さである。
ある晩、居間でテレビを見ながらそれとなく観察していたら、目を宙に|据《す》え、しきりと何事かつぶやいている。「おや」と聞き耳を立てると、
「MATURI(成熟)」……「OVAIRE(卵巣)」……「SPERMATOZ(精子)」……はては「STIMULATION(興奮)」「ACULATION(射精)」などと、ゆゆしい単語を口走っている。
「おいおい、お前、何が興奮して射精するんだ」
と、アワを食ってのぞきにいくと、
「ユン、大変なんだよ、明日、シアンス・ナチュレル(理科)のテストがあるんだ」
貝の生殖器官図を私に示し、また、
「FEMELLE(女)が成熟すると……(男)の精子が……」と、お経のようにくり返しはじめた。
「なるほど、これは貝だな」
「そう、でもサカナも習ったよ。人間だって同じなんだろ」
「うん、そりゃ、まあそうだ」
あらためて小娘の横顔を見直し、「やれやれ」と居間に引き下がった。
テストは無事に通過したらしい。一週間後、
「どうだ」と、八十点の答案を持って帰ってきたが、その晩、
「パパ、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「なんだ? 教えてやるぞ」
「サカナや虫は卵から出てくるけれど、人間のベベはどこから生まれるの?」
大真面目で聞く。
「どこからって、そりゃ、お前、コンチムにきまってるじゃないか」
コンチムは小鳥という意味だが、男女のあからさまにいえない部分をさす代名詞として使われる。
ユンは目を丸くして、
「ええっ? ウソだよォ、あんな小さいところから出てこられないじゃないか」と信じない。
「そうか、ユンのコンチム、そんなに小さいか」
「あったりまえ。このくらいしかないよ。ベベなんかとても出られない」と、人指し指を突き出して反論した。
「おい、教えてやってくれ」
妻に救いを求めたが、
「この子、バカ」
ニヤニヤ笑って相手にしない。
娘はまだ首をかしげている。
「なるほど、そんなに小さかったら出てこられないな。そうそう、パパ、思い違いしていたよ。本当はコンチムじゃないんだ」
「それじゃ、どこ?」
「赤んぼの生まれ方はね、国によって違うんだよ。キャベツの中から生まれてくる国もあるし、コウノトリが運んでくる国もある。パパは畑のミゾの中に落ちていたのをパパのママが見つけ、拾ってくれたんだ」
「またァ、ミーユンちゃんまじめなんだよ。パパもまじめに話せよ」
「だから、コンチムだっていってるじゃないか」
「ウソだァ、痛いじゃないか、そんなの」
「うん、ちょっと痛いかもしれないけれどな。でも安心しろ、大きすぎて出られなければほかにも出口があるんだ」
「お腹、切っちゃうのかい?」
「違う。コンチムから出られない子はお尻の穴から出てくる。もっと大きいのは口から出てくるんだ。コンチムから出てきた子はスケベエになる。口から生まれた子はおしゃべりになる。お尻から生まれた子は、大きくなってもオナラばかりしてるんだ」
「いいよ、パパ、もう聞かないッ」
憤然と台所へ引き上げていった。
「おい、あいつ、本当に知らないのかい」
と、私は妻に聞いた。
「どうかしらね。でも、こんなことは、放っといてもいいじゃない。自分で子供を生むときになればイヤでもわかるんだから」
この調子では、妻の性教育(?)の成果もあやしいものではないか、と思う。
このところ、ユンは急速に男嫌いになった。然るべき|羞恥《しゆうち》心が芽ばえてきたのだろう。
半年ほど前までは私や妻がふざけて浴室の戸をあけてもへっちゃらだった。上機嫌でシャワーを浴びながら、
「もうこんなに伸びたぞ」と、コンチムの毛を見せびらかしたりした。
最近は着替え片手に修道院の尼さんのように疑い深い目で私たちをうかがい、すばやく浴室に入ると、内側からしっかりドアをロックしてしまう。私の方も、以前ほど気軽にからかえない。
他の部分が人並みに成長した割りには、ユンの胸のふくらみ方は遅い。ここ二、三カ月、ようやく隆起が目につくようになったが、それでもまだ肥満児の小学生ていどだ。本人は別に気にしているようすはなく、母親に、「そろそろ、スーチアン・ゴルジュ(ブラジャー)をするクセをつけなさい」
と命じられても、四の五のいって逃げ回っている。そのくせ、私が、
「なんだ、お前、まだおっぱいもないじゃないか」というと、少々本気でムッとする。
以前は、同じようにからかっても、
「パパ、急ぐなよ。いまに出てくるから」などと、|利《き》いた風な口調で受け流していたのだ。
ある夕方、顔色を変えて学校から帰ってきた。下校途中の地下鉄の中で、|痴漢《ちかん》に出くわしたらしい。
「イヤーッな奴、固くなったチンチン、ミーユンちゃんに押しつけたんだ」
額に筋を立てて怒っている。
あまりカンカンになっているので、妻は笑い出した。
「こんどやられたら、ギュッと握って、“この人、スケベッ”て叫んでおやり」
「いやだぁ、こわいよ」
サイゴンにも痴漢はいたが、だいたいが露出狂で、なんとなく|愛嬌《あいきよう》があった。
地下鉄の痴漢はユンがおびえたように、陰湿な面があるのだろう。うっかり握って騒いだりしたら、グサリとやられかねないのではないかという気がして、
「おい、余計なことを教えるなよ」と、私は妻をたしなめた。
別にこの事件が拍車をかけたわけではなさそうだが、とにかくユンはとめどなく男嫌いになった。
「目が青くて、鼻が細くて、とってもボー・ガルソン(美男子)」と夢中になっていた同級生の男の子の名前も、ばったり口にしなくなった。
どうやらこの年頃の女の子の共通現象でもあるらしい。毎晩のようにクラスの女の子たちと長電話のやりとりがある。ひそひそ話すのを聞いていると、だいたい男の子の悪口だ。
「知ってる? あいつ今日、わざと私たちの方にボールを投げて、スカートの中、見にきたの。イ・レ・フー(気違い)よ」
「こんどきた子、もう一生懸命、イレーヌの姉さんのごきげん取ってるの。勉強もできないくせにナッマイキー、イ・レ・ブレマン・コン(本当に|下司《げす》野郎)」
意気投合し、片っぱしからクソミソにやっつけている。
「おい、でも、お前のボー・ガルソンはどうなったんだ?」と聞くと、
「あんなのボー・ガルソンじゃない。大っ嫌い。もうミーユンちゃん、口もきいてやらないんだ」
身震いして憎々しげに顔をしかめた。
とうとう、「私は結婚なんか絶対にしない」といいだした。
「だってお前、結婚しなければウェディング・ドレスを着られないぜ」
「ウェディング・ドレスは着る。だけど結婚はしないんだ」
「なぜ男の子が嫌いになっちゃったんだ」
「嫌いだから嫌い。あいつら皆、汚くてくさい」
手の施しようがない。
「なるほど、わかった。ユンはきっと女の子が好きなんだな。男の子より女の子がいいんだ。変態なんだ」
「ヘンタイ?」
「そう、お前は変態だ。パパ、わかったよ」
「ヘンタイってどういうこと?」
「だからユンみたいなのだよ」
「?」
翌日、学校で日本語のできる仲間にヘンタイの意味をたずねたらしい。帰ってくるなり、
「パパッ、ユンはヘンタイじゃないぞッ」
と|怒鳴《どな》った。
ユンがこんなに男嫌いになった原因は、もっぱら私と妻にあるそうだ。
そうきめつけたのはあるオシャモジおばさんだ。彼女は、私の大学時代の同級生の細君である。だから、私と同年輩か、あるいは少し年下のはずなのだが、過去十年来、なぜか私の顔を見ると説教をたれるクセがある。
何カ月か前、彼らが大阪の郊外に家を新築したので、家族三人泊まりがけで遊びにいった。広い洋風の居間を中心に数部屋そろった、豪壮な邸宅だった。
他人の家に行ってもユンは、母親の命令で炊事、配膳の手伝いをしなくてはならない。一家の主婦がユンを助手に夕食の仕度をしている間、私たちは、植えたての庭木などを感心して検分した。それからりっぱな居間に戻って、ソファーの上でジャレた。この点、妻は南国生まれだから、多少慎みがない。家にいるときも、道を歩いているときも、気が向くと、「ベタベタベターッ」といいながら、平気でまつわりついてくる。私も「ベタベタベターッ」は嫌いではないので、暇さえあればジャレ合うことになる。むろん、ジャレ合うだけで、その場でどうということはない。しかもそのときは、他人の家だったので、私たちにしてみればごくあっさりしたものだった。だが、翌朝、私は一家の主婦に、奥の間に呼び出された。
「あなたたち、昨日の夕方、サロンで何をしていました」
こわい顔で|詰問《きつもん》する。
「サロンで? ああ、ベタベタベターッのことですか」
「ベタベタベターッですみますか。何ですか、あれは。私はいいのよ、私は。あのくらい見せつけられてもどうっていうことありません。だけど、ユンちゃん、とっても怒ってましたよ」
「いや、あいつはもう見慣れてるから」
「そんなことありませんッ」
と、|一喝《いつかつ》された。
「パパとママはおうちでもいつもああなんだ、と怒ってました」
「なるほど、怒ってましたか。あいつ、この頃、妙な具合に色気づいちゃったからな」
「妙な具合ってどんなぐあい?」
「急に男が嫌いになってきた」
「当たり前です。みんなあなたたちの責任です。毎日あの調子でやられたら、誰でもうんざりします。あなたももう年頃の女の子の父親なのよ。少しは考えたらどう? あれじゃ、ユンちゃんが可哀相です」
ほうほうの|態《てい》で退散し、妻に、
「おい、怒られちゃったぞ」というと、
「あら、ヘンなの。ベトナムではどんなに仲の悪い夫婦も子供の前では恋人のようにふるまうものなのよ。子供にとっていちばん悲しいのは、自分の両親の仲が悪いことなんだから」
彼女は合点のいかぬ顔をした。
大阪のオシャモジおばさんによると、女の子の十六、七歳は、私などには想像もできないほど深遠かつ微妙な年頃なのだそうだ。この二、三年間の心理的、情緒的環境は、後々に決定的な影響を残しかねない、という。
ユンの言動を観察していると、まだとても人間並みに心理だの情緒だのを|云々《うんぬん》できる段階ではないように見える。それに、何もこの年齢にかぎらず、二歳でも八十歳でも、女性は深遠、微妙の塊なのではないか、とも思う。
それでも、あまりこっぴどく説教されたので、私も「以後、気をつけます」と誓わざるをえなかった。
もっとも、妻の方は、さすがに同性としてユンの年頃の微妙さを心得、それなりに気づかっているらしい。
ときおり、娘をかたわらに呼び寄せ妙に真面目に訓戒をたれることがある。そんなときはユンの方もいつになくおとなびた顔付きでうけたまわっている。
ベトナム語のやりとりなので、こまかい内容はわからない。だが、一度、妻に聞くと、
「この子ももうベベが生める体だから」と、いった。
お前、いまは小生意気に男嫌いなんていってるけど、そのうちに必ずベタベタベターッてしたくなる相手ができるんだよ。それはもうお前が生まれるずっと前に、お|釈迦《しやか》さまがお決めになったことなんだからね。だから、お前に男ができてもママンはちっともかまわない。だけど隠しちゃいけないよ。男の子と寝たら、ちゃんと、パパとママンにそういうんだよ。ベベはいいけれど、病気には気をつけないといけない。たちの悪いのを放っておくと一生涯治らないからね。お前の子供や孫まで病気になってしまう。気がついたとき、すぐ言えばママンがちゃんと病院に連れていって治してあげるからね――。
だいたいこんな主旨の訓戒をくり返しているのだそうだ。
「病気も困るけど、ベベもありがたくないぞ。オレはお前さんとユンだけでもう精一杯だ。これ以上とても食わせられない」
と、私は物言いをつけた。だいいち四十歳前に孫を持つような事態はやはり奇抜に思えた。
「授かり物だからしようがないじゃないの。どうしてもいやなら、|堕《お》ろせばいい。でも、そのうちになるべくベベができないような方法をユンに教えておくわ」
ユンが避妊法の伝授をもう受けたかどうかは、まだ確かめていない。
一年ほど前まで、ユンはよく自分と私との間の、体格上の類似点を求めた。しきりと私の手足や顔を、自分のと比較検討しては、
「パパの手と、ユンの手は同じ」
「パパの耳と、ユンの耳は同じ」
勝手にきめ込んで、
「ねっ、そうだね」と、私の同意を求める。
気の毒なことに、体のどの部分を取ってもあまり似ていない。だが、そこは私も政治家になったつもりで、
「あっ、ほんとうだ。そっくりだな」
と答える。すると彼女は大喜びで、台所の母親に、
「見て、見て、ほら、ユンの耳、パパの耳とそっくりだよ」
と報告にいく。たぶん、その頃、クラス仲間の間で、自分は父親似か、母親似か、などという論議がさかんだったのではないか、と思う。
とにかく、「ねっ、そうだね」と迫られるたびに、私は|往生《おうじよう》した。
いずれはユンもものごとを悟り、かつ納得するだろう、と思った。それでも相手があまり|嬉《うれ》しそうに、「そっくりだ、そっくりだ」と自分にいい聞かせている姿を見ると、「はてどうしたものか」と、多少、考え込まずにはいられない。しまいに気がさしてきて、
「もちろんだよ。パパとユンはそっくりだ。二人とも目は二つ、鼻と口は一つずつ。手の指もちゃんと五本ずつある。まったく同じだ」
と、かわすことが多くなった。
いつごろからか、ユンはあまり類似点を求めなくなった。やはり、そんな芝居のはかなさに気がついたのだろう。あるいは、スラリと伸びつつある自分の脚線と、いかにも日本男子らしく|歪曲《わいきよく》した私の毛ズネを見くらべ、こんなのに似たら大変だ、と思い直したのかもしれない。
いずれにしろ、
「ねっ、似てるだろ」
といわれなくなって、私は内心ホッとした。どうやらこれで微妙な一山が過ぎたか、と思った。
ところが、油断をしていたら、その後一度、正面から不意を|衝《つ》かれた。二、三カ月前の日曜日の朝だ。
隣室で寝具を片づけていた妻が、ふと思い出したように、
「そうそう、昨日の晩、おもしろい夢を見たよ」といった。
「私に赤ちゃんが生まれたのよ」
居間のテレビの前に陣取っていたユンは、
「ほんと? ママン?」
と、目を輝かせた。
「ほんと。赤ちゃんができたのよ」
「男の子だった? 女の子だった?」
「女の子。でもね、すぐホン・タプ・ツー通りのお婆ちゃんに取り上げられちゃった」
ホン・タプ・ツー通りのお婆ちゃん、は妻の亡母、つまりユンの祖母だ。彼女らの国では、しばしば老人が自分の娘の授かりものを横取りしてしまう習慣がある。ユンも|乳飲《ちの》み|児《ご》の頃、この祖母に取られ、長い間手放してもらえなかった。
「それでどうだったの? 可愛い子だった?」
「とっても可愛い子だった。だからお婆ちゃん、さっさと家に連れて帰って、返してくれないのよ」
「ふうん」
と、ユンは興味深げに聞いていた。
だが、そのあとで、突然ただならぬ剣幕で立ち上がり、台所へ行ってしまった。物もいわず、猛然と蛇口をひねって食器を洗いはじめた。台所といっても六畳・四畳半の二DKアパートだから、居間から様子はまる見えだ。水音荒々しく洗いながら、顔をくしゃくしゃにして泣いているのがわかった。
その日一日、ユンは口数少なかった。私たちに隠れて玄関の暗がりで泣きべそをかいたりしていた。
妻は何も気づかぬ様子だった。
私は夕方、タバコ買いにかこつけて、ユンを部屋から連れ出した。ふだんなら私が誘うと大喜びでついてくる。
だが、そのときは|仏頂面《ぶつちようづら》で運動靴を履き、一人で階段を降りてさっさと先に行ってしまった。アパートから一〇〇メートルほどの坂の下で、
「おい、待てよ、ユン」と、私は呼びとめた。
「なぜ、そんなにメソメソ泣いてるんだ?」
「泣いてなんかいないよ」と、そっぽを向いていう。
「ウソつけ、パパちゃんと知ってるぞ。朝から泣いてるじゃないか」
「泣いてない」
「ママンがベベ生んだって聞いたら、悲しくなっちゃったのか?」
ユンは歩きながら急に声をあげて泣き出した。「そうだ」という風にうなずく。
「なぜベベができたら悲しいんだ」
「だって、パパとママンに新しいベベができたらミーユンちゃん、どうなるんだ」
ポロポロ涙をこぼしながらいう。あまり飾り気なく問いかけられて、私も少なからずたじろいだ。同時に少々おかしくもあった。
「馬鹿だな、お前、ママンは夢を見たっていっただけじゃないか」
「でも、夢を見たら本当に生まれるんだろ?」
「ベトナムじゃそうかもしれないが、日本じゃそう簡単にいかないんだ。とにかく、あれはただの夢の話だ。ベベなんて生まれやしないから安心しろ」
「本当?」
と、もう五割方、元気を取り戻した。
「ああ、本当だよ。いまさらお前、パパとママンにベベができてたまるか」
「パパは欲しくないの?」
「あたり前だ。パパはな、もうオム・ギャー(爺さん)なんだ。四九キロのママンを左肩に乗せ、五二キロのお前を右肩に背負い、へとへとなんだ。これ以上、一人でも増えたら、毎朝五時まで働いたって養っていけない。ベベなんてとんでもない話だ」
「そうか。パパ、可哀想なんだねえ」
たちまちおとなびた口調で同情してくれた。
「とにかく、パパにはママンとお前がいちばん大切なんだ。お前、これからいろんなこと考えるかもしれないけど、いまパパがいったことを忘れちゃダメだぞ。もうよけいなこと考えるな」
「本当だね」
と念を押し、しばらく考えていたが、
「それじゃパパ、ママンとユンとどっちが大切か」
「そりゃ、お前、あたり前じゃないか、ママンだよ。夫婦っていうのはそういうもんなんだ。お前だっていまに好きな男の子ができればわかる。子供はいつか結婚して親を離れていくけど、夫婦はお墓に入るまでいっしょなんだ。だからパパにとってもママンがいちばん大切なんだ。その次がほんの少しの差でユンだな」
「ユンは二番目かい」
「うん、でも一番目と二番目はほとんど同じだ。三番目以下は皆クズだ。そんなのはパパにはどうでもいいんだ」
|不承不承《ふしようぶしよう》ながら、ユンもこの順列を了解した様子だった。とにかく、赤ん坊が生まれないことを知ったので、朝以来の彼女の|憂鬱《ゆううつ》は解消した。それでもまだ多少気になったらしい。帰り|途《みち》、彼女は、
「ねえ、もしかして、ママンに新しい赤ちゃんができたらどうするの」
と、ダメを押してきた。
「そうだな、もしできちゃったらか」
「そう、もォしかしてできちゃったら」
「そのときは――。そうだ、お前も知ってるだろ。日本じゃ、駅のロッカーに入れてくるっていう手があるんだ」
「可哀相じゃないか、そんなのおッ」
彼女は私をにらみつけた。
その晩、ユンが眠り込んだあとで、私は妻に、散歩中のユンとのやりとりを話した。そしてやはり不用意な話題、発言は当分慎んだ方が無難なのではないか、と提言した。
「あの子、バカ」
と彼女はいった。それからちょっと涙ぐんだ。
ユンにはひどく幼稚なところがある一方、妙におとなびた一面もあるようだ。まだ一個の人格と呼ぶにはあまりにちぐはぐな存在に見え、ついつい私も小娘扱いしてしまうことが多い。この微妙な振幅は彼女自身の生まれつきの性格であると同時に、やはり、過去、現在の境遇の|然《しか》らしめるところなのだろう。いつごろ、どんな形でこれが整理されていくのか、とときどき思う。
リセでも、案外気が強く、ときどきうるさい男の子をド突いたりするらしい。馬鹿に面倒見のいいところもある。グループ作業の工作の宿題などを一人で背負い込んでしまい、夜中過ぎまでうなったりしている。お人好しで甘く見られているのかもしれない。
リセはふつうの学校にくらべて、同級生の出入りが激しい。年齢もまちまちだ。ユンはクラス内では年長組だが、もっと年上のも二、三人いる。落第制度があるので、前学期まで上級生だったヒゲ|面《づら》が、新学期から同級生になったりする。六月から三カ月間のグランド・バカンス(夏休み)が始まると、多くの仲間が国へ帰ってしまう。毎年そのうち何人かは帰ってこない。
夏休みの間、ユンは航空便でのおしゃべりに忙しい。香港、フランス、ブラジル、ブルガリアなど宛先はバラエティーに富んでいる。もうクラスでは古株の方なので、かなりの顔なのだろう。休みが終りに近づくと、毎晩のようにパリから電話をかけてくる仲間もいる。
「早く帰っておいでよ、おみやげ忘れないでね」などとやっている。
長い休みが終ると、またいそいそと学校に通いはじめる。父親の|横暴《おうぼう》と母親の圧制から解放され、いかにもホッとしたという顔つきになる。
とくに最初の二、三週間は大張り切りだ。必ず五、六人はいる新入生の世話役を買って出るらしい。
「ミーユンちゃん、オネガイシマス」
という、聞き慣れぬ声の電話が毎晩、二、三本かかってくる。土曜、日曜の休みには、近所に住む新入生に付き合って、デパートの文房具売り場めぐりなどをしている。
「今日もまたヌーボー・ブニュー(新入生)のお友だち、六人ともミーユンちゃんのテーブルでお昼ごはん食べたがったよ」
などと、得意気に報告する。あまりメロメロなので、これでは将来、人格に|凄《すご》みが出ないのではないか、と私は気を回す。
「おい、お前、あんまり親切にすると、新入生になめられるぞ」
「なめられる?」
ユンには意味がわからない。
「そう、甘くみられて、馬鹿にされるっていうことだ」
「そんなことないよ。皆、何も知らないんだから親切にしてやればいいじゃないか」
「だめだ、なめられる。お前、人になめられたらこの世の中、渡っていけないんだぞ、相手をこわがらせろ」
「どうすればいいんだい?」
「殴れ。いくら相手が強くても、最初はおずおずしているもんだからな。その間に殴っちまえ。そしたらずっと子分にしておけるんだ」
「向こうが何も悪いことしないのにかい?」
「そうだ。かまわないから殴っちまえ。明日の朝、リセへ行ったらな、新入生を一人ずつ校庭のすみに呼び出し、こてんぱんに殴っておけ」
「可哀相じゃないか、そんなの。ミーユンちゃん、できないよ」
「馬鹿だなあ、お前、本当に最初がかんじんなんだ。いま押さえつけておかないと、後でひどい目にあうぞ。パパとママンを見ればわかるだろ」
「?」
「なんだ、なんだ」と妻が裁縫の手を休めて割り込んでくる。私とユンとの会話はもうほとんど、日本語なので、妻にはわからないはずなのだ。それがどういうわけか、耳に入れたくないところはわかってしまうらしい。
ユンは他愛なく逐一、会話内容を白状する。
「そう、パパとママンを見ればわかる、ってパパはいったのね?」
「うん、パパそういったよ」
「ねえ、それどういうこと?」
と、にわかにホコ先が私に及ぶ。
「いや、いや、どういうことでもない。ただ、ものごとは最初が大切だ、っていうことを教えただけだ」
「それだけなのね」
「そうだ。本当にそれだけだよ。なあ、ユン」
ユンはもう局外中立をきめ込み、
「知らないよ、パパ」
その実「ほれ見ろ」といった顔だ。
どうやら、私自身も彼女に甘く見られているらしい。母親がおそろしいので、そのぶん彼女はよけいに私にジャレついてくる。私としても、立場上(あるいは、それこそ娘の情緒上)最大限にこの甘えを受けとめてやらなければならないという意識がどうしても消えない。
だが、私たちがあまりなれなれしくふるまいあったりすると、妻の雷が落ちる。
最初の一発は、ユンを直撃する。
「お前、忘れてるんじゃないだろうね! パパはお前の親なんだよ。親と子は仲間じゃないんだからね!」
二発目はやや|迂回《うかい》して私の身辺ではぜる。
「あんたがあまり甘やかすから、私の苦労が台無しになっちゃうじゃないの。子供っていうのはバカだから、甘やかすとすぐ図に乗るものなの。それをチェックするのが親の仕事なんですからね」
実際、この辺は妻も案外本気で心穏やかならないのかもしれない。彼女は、厳しい自分に対しユンがさまざまの含みを持っていることを十分承知している。ときどき、
「あの子には私の気持ちがわからない。私はいくら厳しくされても自分のママンを嫌ったり、避けたりしたことはなかったのに……」
と、|愚痴《ぐち》をこぼす。
「いつわかることやら。まあ、わかってくれなければ、もともとバカとあきらめるしかないんだけれど……」
妙に深刻に愚痴る妻の言葉を聞いていると、やはりスパルタ教育(?)とは自分自身の寂しさとの闘いでもあるのか、と思えてくることがある。
それでも、結局のところ、ユンは、ドタン場で選択を迫られれば、甘い私よりも、厳しい母親を選ぶに違いない。この辺は、親子の情愛などという高尚なものではなく、やはり、常日頃、肌身で知らされた力の理論が物をいうだろう。
私とユンは、よく勉強机、つまり台所の調理台の取り合いをする。私は締め切り寸前の原稿をかかえて、
「おい、ユン、お前は今晩は居間のソファーで勉強しろ」と、追い出しにかかる。
「ダメだよ、ミーユンちゃんだって、明日までにこんなにトラバイユ(宿題)があるんだから」相手もけんめいに抵抗する。
「馬鹿、パパはこの仕事でおカネを稼いでるんだ。お前はそのおカネでリセへ遊びに行ってるんだ。どっちが大切かよォく考えてみろ」
「遊びに行ってない。勉強しに行ってるんだ」
「だから、勉強を続けたければ、この場所をパパによこせ、といってるんだ」
「ダメだよ。パパこそ向こうでやれよ」
とどのつまりは私も実力で指揮権行使に踏み切る以外なくなる。妻の裁縫用の、五〇センチの竹製物指しを片手にふりかざし、
「よし、五つ数えるうちに答えろ。いったい誰がこの家のシェフ(親分)なんだ?」
物指しにはユンも弱い。
「二つ、三つ、四つ」
かけ声とともにぶんぶんふり回してやると、カメのように身を縮め、最後の瞬間、
「わあ、パパだ、パパだ、パパがシェフだ」
ようやく事実を認めて、一目散に居間へ逃げ出す。ところが、どういうわけか、この最後のくだりがまた必ず妻の耳に入る。妻は居間のソファーに陣取り、手ではミシンをかけ、目ではテレビのサムライ・ポリシエ(捕り物帳)の筋を追い、あまつさえ口ではかたわらのブドウの房などたいらげている。そのくせ、耳ではちゃんと、聞かなくてもいいことをキャッチしているのだから恐れ入るほかない。逃げ込んできたユンをひっ捕え、
「パパがこの家のシェフだって? それじゃ、ママンは何なの?」
と、すごい剣幕で一喝浴びせる。ユンは|蒼《あお》くなって飛び上がる。
「ママンは……。わかった、ママンはシェフのシェフ(親分の親分)だ」
やはり、臨機応変、|巧言令色《こうげんれいしよく》は、歴史に痛めつけられてきた民族の一特性なのかもしれない。妻はこのユンの定義にニンマリ満足する。私が、
「ユン、お前なんだ」
と、物指しをかざして追いすがると、
「可愛い娘に何をするか」
と、ヒナをかばう親鳥と化す。絶対安全な翼の下に隠れて、ユンはへらへら笑っている。
私は、柔いつか剛を制す、をモットーに、数年来、彼女らとの共同生活を築いてきたつもりだった。しかし、惜しむらくは、この種の博愛主義は、相手も同質の発想を身につけていないかぎり、永遠に実効を発揮しないのではないか、と最近、思いなおすようになった。どうやらそれに気がつくのが、遅すぎたようだ。おかげで、こうして力の理論と巧言令色がガッチリ結託したような母娘を前に、手出しもならず、わが家の少数民族の悲哀をかみしめる羽目になったのだろう。
[#改ページ]

ベトナム難民の涙
「わあ、ベトナムに帰ったみたい――」
砂糖キビ畑の中の滑走路に降りたとたん、妻が歓声を上げた。
重くしみ込むような暑さ、海と空の青、山腹を覆うバナナ、コバデーサ、ガジュマル――。
東京を発つ前、知り合いのカメラマンに、「日本離れしたところ」といわれたが、本当に島の自然はもう熱帯調だ。
「そう、冬場でも気温が二十度を下回る日はそうないですよ。十八度になれば、わたしら震えます」
空港で一台だけ客待ちをしていたタクシーの運転手がいう。外気が十度を割ると、磯のサカナがてきめんに“凍死”するそうだ。
「西側の浜へ行ってごらんなさい。すぐ先に台湾が見えますよ。むしろ北の方角に見えます」
五分も走ると、島の中心集落、|祖納《そない》の家並みに入った。昼食時だからか、あるいはいつもこうなのか、しんと静まりかえって、人影もない。セミの声、波の音――暑さだけが聞こえる。
ハイビスカスの生け垣や、パパイヤの実る庭先を左右に、がたがた道を二分たらずいくと、そこがもう目的地だった。
小さな広場に面して、右手にスーパーマーケット、電気器具店、ローカル航空の営業所が軒を並べている。ここも昼休み中と見え、ドアはしまったままだ。左手には、古めかしいコンクリート造りの建物がどっしり構えている。
「ここが公民館です。ほら、ごらんなさい。あんなにいるでしょう」
二階のテラスや、外側から通じる階段に、十数人のやせた色黒の男女が|坐《すわ》り込んでいた。タクシーから降りる私たちを物めずらしげに見降している。シャツをデレンと着こなした独特の|風体《ふうてい》から、一目でベトナム人と見分けがついた。
「マンニョイ(こんにちは)」
と、妻が下から声をかける。「おやっ?」と驚いているところへ、二言、三言続けると、皆、サッと顔を輝かせて立ち上がった。
「グイ・ヴィエト?(ベトナム人なのね?)」
口々にいって、階段をかけ降りてきた。たちまち取りかこまれて大騒ぎになった。ひとしきり、「チョーイオーイ」「チョーイダコーイ」(直訳すれば「天よ」「地よ」――あらゆる種類の喜怒哀楽を表す感嘆詞として頻繁に使われる)が飛びかい、
「なんてベトナム語のうまい日本人かと思ったよ」
いかにも下町のかみさんといった感じのほつれ髪の女性が、手を拍って笑い転げている。男連中は、私が日本人と知ると、「オハヨゴザイマス」と、次々に手をさし出した。
沖縄県八重山群島・|与那国《よなぐに》島は、東京から約二四〇〇キロ、沖縄本島からも小型飛行機を乗りついで約一時間半の、日本最西南端の離島だ。世帯数六百余り。住民の多くは、夏場は沿岸でカジキマグロを追い、漁期が終ると砂糖キビ畑で汗を流す。
八十六人のベトナム難民が漂着したのは九月四日(一九七七年)の未明だった。
島の西端、|久部良《くぶら》集落の住民が、防波堤の向こうの浜でタキ火をかこんで坐り込んでいた一行を見つけた。
その日は、ちょうど年に一度の島内運動会の日だった。まったくといっていいほど娯楽のない島では、最大の行事の一つだ。そこへ八十六人が降ってわいた。
島はハチの巣をつついた騒ぎになった。
町長はじめ役場のおもだった連中は、運動会の進行を町内会の人たちにまかせ、難民らの収容、病人の手当てなどの陣頭指揮を取った。町の主婦らはタキ出しに動員され、島で二人の中学校の英語の先生にも非常招集がかけられた。広報車が各集落を回り、運動会場でも衣料、寝具、日用品などのカンパを呼びかけるアナウンスが一時間ごとにくり返された。
八十六人は、トラックで島の反対側の祖納に運ばれ、公民館の二階に収容された。|那覇《なは》の入国管理事務所や沖縄県警から、何人かの係官がきた。数日間の取り調べがすむと、係官らは、
「当分よろしく頼む」
といい置いて帰っていった。
島も難民も、本土のマスコミからすぐ忘れられた。
私たちが訪れたのは、九月の終りだった。
テラスの連中を妻にまかせて、二階の講堂に入った。天井で六個の送風器が回っている。
壁ぎわにズラリとゴザを並べ、数十人のおとなや子供がゴロ寝していた。
騒ぎを聞きつけて、奥の方から顔も体もメガネもまん丸の五十年輩の人がでてきた。役場の職員らしい。来意を告げると、
「それは、それは、わたくしこの方たちのお世話をいいつかっております」
と、ずいぶんていねいな物腰、言葉遣いだ。手渡された名刺は「与那国町消防団長」「民生児童福祉委員」という肩書きだ。
若い頃、短期間、仏印にいたことがあり、その経歴を買われて世話役を「おおせつかった」そうだった。
一行のリーダー格は、グエン・バン・タン博士という小柄でがっしりした四十歳がらみの皮膚科のお医者さんだった。
私たちがはじめて公民館を訪れたとき、タン博士は少し遅れて奥の洗面所の方から姿を現した。
南ベトナムのエリート・インテリにときどきある、硬い肌ざわりの人物だった。
妻の顔をじっと眺め、
「私、サイゴンであなたの顔を見たことがありますよ」
といった。妻の方は見覚えがないようすだった。
「あなた、ビンザン病院にきたことがありますか」
と、相手は市内でいちばん大きい病院の名を上げた。妻は家人らが病気になると、よくこの病院に連れていっていた。
「そうでしょう、私はビンザン病院に勤めていました。きっと廊下ですれ違ったんだな」
他の難民と異り、懐しそうな表情はほとんど示さなかった。くるりと私の方をふり向き、
「さあ、どうぞ。何をお話ししましょうか。できたらフランス語で話してください」
冷静、というよりむしろ|傲岸《ごうがん》な感じさえあった。
博士は、共産政権下の生活の苦しみ、みじめさ、馬鹿らしさについて、長い間話した。
再教育キャンプでの|苛酷《かこく》な取り扱い。銃剣の下で幹部らの便所掃除をする辛さ、四十|面《づら》さげて「ホーおじさんを|讃《たた》える歌」の合唱練習をやらされるくやしさ。ようやく仮釈放され町に戻れば、極度の品不足と物価高。一カ月分の給料はタバコ五箱で消えてしまう。コメも前政権時代の五分の一ぐらいしか手に入らない。それも怠惰でいばりくさった地区委員会にお百度踏んで配給券にサインしてもらわなければならない。引っ越し、旅行、家族の集まり、何から何まで許可がいる。あらゆる生活が干渉され、監視され、一日中、密告と投獄の恐怖がつきまとう。そして何よりも耐えられないのは、ことごとに“|半端《はんぱ》もの”扱いされること。「旧政権下に暮らした|おとな《ヽヽヽ》はもう、救いようも、鍛えようもない。見込みがあるのは十五歳以下の子供だけだ」――。ことあるごとに、こういわれるという。
博士の物語は、大体がこれまでにいくつかの難民収容所で耳にした話と同様だった。
昨秋、日本にたどりついたレ・キム・ガン教授は、サイゴンの仏教系大学の学長だった。一九七五年四月の解放直前、友人の共産党員に、「国家を再建するためには、あなたの知識と頭脳が必要だ」といわれ、国にとどまったが、十カ月後にはすっかり風向きが変った。
「君のような知識人は、それだけ深く、腐敗した思想と価値観に染まっている。他人より長く再教育キャンプに行ってもらわなければならない」といわれ、脱出を決意した。
教授らは夜の港から漁船で逃げ出したとき、水上警備のパトロールに見つかった。用意しておいた金の延べ板をさし出すと、隊長は目をつぶってくれたという。
多少の誇張はあっても、これら難民の話は一つ一つが事実なのだろう。
だが、ここで、これら具体的事実をくわしく紹介しようとは思わない。
私には難民問題をダシに他人の国の政治を語る気はないし、さらにいえば、たとえこれらの話が事実であったにしても、それらは当然予測された事実であり、また、ある意味では然るべき事実であるように思えるからだ。
予測できなかったのは、「歴史」「民族」「独立」などという美しい言葉の|言霊《ことだま》に酔い、他国の「解放」を熱烈に支援し、祝賀した気楽な外部の世論だけではなかったのか。
いずれにしろ、「正義」が勝利したこの国はいま、多くの人々を然るべき混乱と苦痛と不幸に陥れながら、なお国として然るべき道を歩んでいるように思える。
私は、口をきわめて共産体制を|罵《ののし》るタン博士にあえて聞いてみた。
「しかし、ベトナムとベトナム人が将来、より公平で、より高度の幸せを築いていくためには、現在のような方法を取る以外ないんじゃないですか?」
「そう、あなたは第三者だからおそらく正しい。しかし、私も生身の人間です。人生は短い。共産主義者は私が非党員としての過去を持つかぎり、一生私を信用しません。いくら国のため党のために働いても、ご用済みとなったら、捨てられることはわかっています。短い人生を、捨てられるために犠牲にするにはしのびません。最初は私も、ベトナム人によるベトナム人の政府ということで、現政権に希望を持ちました。でも、私がこの二年間で知ったことは共産主義者もまた人間だ、ということです。自分では、汚職、役得、怠業、およそ人間的なことをしたい放題しながら、他人の人間味をすべて無自覚による悪ときめつける。結局、絶望したのです」
と博士はいった。
私は沈黙する以外ない。
私だって生身の人間なのだ。自分がこれまでに学び、ながい間信じてきた知識や価値観をすべて「害毒」ときめつけられたり、たまに好きなものを食べたらその動機や入手方法をとことん追及されて「この非常時に」と自己批判させられるような世界に投げ込まれたら、やはり脱出を考えるだろうと思う。少なくとも自由を求める精神にとって、右にせよ左にせよ全体主義社会とはいかに住みにくいものか、ということだけは想像がつく。たとえその全体主義が国家百年の計のためにやむを得ないものであることが納得できても、だ。
こうして難民の中に入ると、私はいつも、あの、陥落直前のサイゴンを襲った形容しがたいパニックの情景を思い出す。
多くの人々が動転し、|形相《ぎようそう》を変え、なりふり捨てて逃げようとした。突き飛ばし、押しのけながら、米大使館の|塀《へい》に一歩でも近づこうとしていた群衆。両岸の砲声と機関銃の音の中を小舟でサイゴン河を下っていった家族。日頃、火を吐くような弁舌で反チュー、反米、民族和解をぶちまくっていた行動派のインテリまでが、ほとんど私の|袖《そで》を握りしめんばかりにして、
「俺たちはどうなるんだ。どうしてくれるんだ。日本大使館にかけ合って、俺と家族のパスポートを取ってくれ」
と叫んだ。
このせっぱつまった町の空気は、何か|滑稽《こつけい》でもあり、また、ふと足をとめて思いに沈むと耐え難く悲しく|凄絶《せいぜつ》でもあった。
一国が亡びるとはこういうことなのか、と私は思った。単にそれは、国の上ずみが吹き飛ばされ交代したのではない。明らかに人々の心のレベルで何かが崩れ、従来の日常が取り返しのつかぬ過去になったのだ。
あのきついドラマの中で、数日間もみくちゃにされ、かつ|呆然《ぼうぜん》と過ごして以来、私の感性もまためっきり|減殺《げんさい》されてしまった気がする。周囲はハイジャックや日本シリーズの結果について、ひとしくにぎやかに議論する。今日の円相場。最近安くてうまい店。なになに? と身を乗り出しかけて、夫や子供とはぐれ米大使館の|門扉《もんぴ》にすがって泣き叫んでいたあの若い母親の顔を思い出し、私は話の輪から無意識に遠ざかる。
それから、戦車がなだれ込んできた。
町中が、勝利に輝く涼しく若々しい顔であふれた。人々はこれら勝利者を、あるいは上機嫌で、あるいはこわごわと、あるいは身を守るために|愛想笑《あいそわら》いしながら迎えた。
そしてその後も、小舟に命を|托《たく》して暗夜の大海へ逃げる人々が相ついだ。何人がこうして、生まれ変った父祖の地を後にしたかはわからない。むろん何人がそのまま海の底へ沈んでいったかもわからない。
これまで日本には、漂流中を外航船に救われ、約千二百人がたどりついた。
厳しい監視の中で、彼らがどのように脱出の手順をつけ、実行するのか、その辺について難民らの口は固かった。
「私たちは八月十八日にベトナム中部海岸のニャチャンを出て九月四日にここに着きました。それ以上は聞かないでください。いま南ベトナムの九〇パーセントの住民は機会さえあれば国を出たがっているのです。同胞の機会を妨害する恐れのあることは、私もいっさいいえないのです」
と、八十六人のリーダー、タン博士もいった。だが、彼らの入国経路については、その後、大体の見当がついた。
一行は八月十八日深夜、長さ一七メートルの漁船でニャチャンの北約二〇キロの海岸から出発した。大半が地元ニャチャンの住人、タン博士ら三、四家族がサイゴンの住人だった。サイゴンからの人々はいずれも一人当たり二〇〇ドン(一ドンは約一七〇円・革命後の統一呼称)の袖の下を使って出港地までの旅行許可書を手に入れた。家族がまとまって旅をすると怪しまれるので、皆別々に出発地点に集合したという。
三つのエンジンをフルに使って、二日後には五〇〇〜六〇〇キロの沖合いに出た。ここでベネズエラ船籍のタンカー「クライスラー・モンロビア号」に出会った。白旗を振って救助を求めた。タンカーは一度行き過ぎたが、やがて船首を転じて戻ってきた。甲板からフィリピン人船員らしいのが拡声器で、
「何をしているんだ?」と聞いてきた。
が、食料、飲料水、それに海図などをくれただけで、救い上げてはもらえなかった。
南シナ海上を漂う、新生ベトナムからの必死の脱出者らは、すでに多くの外航船にとってとんだ|厄介者《やつかいもの》なのである。たとえ救助しても、寄港する先々で引き取りを拒否される。受け取り先を求めて港から港へ連れ回れば、その間の燃料、諸経費、時間の無駄も馬鹿にならない。海の国際法は水難者の救助を義務づけているが、見殺しにしても証拠は残らない。それにベトナム難民は亡命者でも海難者でもなく、|安逸《あんいつ》な生活を求めて故国を捨てた密出国者だ、という見方も日本の一部世論にはある。日本の幾つかの船会社は、持ち船に対し「難民を見つけても救助するな」という指示を出しているという。
それでも八十六人の場合はまだ運がよかった。
さらに三日後の朝六時頃、前方をパナマ船籍の「TAPENG 1号」が通過していった。これもいったん行き過ぎたが、やがて気づいて戻ってきた。台湾人の船長がすぐ|救助艇《きゆうじよてい》をさし向け、全員収容してくれた。病人の治療もしてくれた。
ところがその晩七時頃、同船を所有する台湾のTALAI会社から船長あてに、「救助地点に引き返し、難民らを放棄せよ」との指示がとどいた。
船長は激怒した。
「そんな真似ができるか」といって、そのまま台湾へ向けて航行を続けた。
八月二十五日の朝三時、台湾南端の沖合一キロに来た。
ここで船ごと足止めを食った。いったんは|種痘《しゆとう》も受けて上陸許可の運びとなりかかったが、なぜか話がこじれた。
台湾政府、船会社、船長、難民の間で長い交渉がはじまった。九日間沖合いに|碇泊《ていはく》した。
結局、台湾政府から、ベトナム送還を前提として入国を許可する。ただし、このまま第三国へ行きたいなら、手段を提供する――どちらでもいい方を選べ、という最後|通牒《つうちよう》がきた。
最後まで難民の肩を持っていた船長も、これで進退窮した。難民らの間では意見が別れた。
船長は「第三国へ行くなら日本がいい。日本人は親切だから必ず受け入れてくれる。私が付き合う」といった。徹夜の議論のあと、賛成多数で台湾を去ることになった。二|隻《せき》のエンジン付きの救命ボートをもらった。
九月二日午後八時「1号」は難民と救命ボートをのせて出発した。一昼夜ゆっくり航海して、三日夜遅く、与那国島の沖合い二十数キロにきた。
午後十一時頃、救命ボートが降ろされた。
船長は最後の贈り物に八十六人がまる二日は食いつなげるだけの即席ラーメン、飲料水、|罐《かん》入りビールなどをくれた。
島の|灯《あか》りを指して、
「あれが入江の灯だ。その他は|断崖《だんがい》だから、灯めざして真っすぐ行きなさい。心配しないでいい。あの島の人はとくに親切だから、きっとあなたたちを沖縄に連れていってくれる。沖縄に行けば、方々の国の大使館の出先もあるから、もう大丈夫だ」
と、念入りに助言してくれた。
暗夜の海を、島めがけて走り出した。しばらくして一隻のエンジンが故障した。
|曳航《えいこう》してしばらくいくと、こんどはそっちのエンジンが故障した。幸い一行の中には漁民が多かったので、最初に故障した方が復調していた。波と風にもまれながらロープの位置をつけかえ、また曳航をはじめた。二隻目はオールをつかって曳航船を助けた。
島の西端、久部良集落の横手のナーマ浜の入江に入ったのは四日午前四時前だった。
入江に入ったあとは、
「いつ撃たれるか」
それだけが心配だった。
おそらくベトナム人の常識では、警備兵のいない国境の島など考えられなかったのだろう。
船ごと浜に乗り上げてしまえば、日本兵がきてもおいそれと押し戻せまい。とにかく、全速力で砂浜にかけのぼり、一団となって坐り込もう。射ち殺されても、また海上に追い戻されるよりましだ、と思ったという。
エンジンとオールの音を殺して、波打際から一〇〇メートルまで来た。
それから一気にエンジンを全開にした。二隻目も力いっぱい|漕《こ》いだ。船を乗り上げると同時に、バラバラと飛び降りた。
「ワアーッ」と声を上げ、全員一団となって走った。父親は赤ん坊をかかえ、母親は幼児らの手を引き、夢中でかけのぼった。
弾丸は飛んでこなかった。銃声も、呼び子も、|誰何《すいか》の声もなかった。
助かった、とわかったとき、女連中は、砂をすくって顔に押しつけ、泣いたという。
一行の副リーダー格は、フィン・バン・ロンさん。額のはげ上がった長身の人だった。最年長の四十三歳。そのせいか、何となく他のインテリにくらべて風格があった。日中、公民館をのぞくと、たいがい、アンダーシャツにサルマタ一枚で講堂内をひょうひょうと歩き回っている。
かと思うと、夕方、そのまま六本木あたりへ出してもおかしくないようなスポーツ・シャツ姿(むろんカンパで差し入れられた衣料なのだろうが)で、「涼みにいきませんか」と、宿の私を誘いにきたりした。
彼は実に美しいフランス語を話した。
若い頃一年間フランスへ留学し、帰国後九年間の軍務ののち、中部山岳地方の町ダラトの大学で教育学の先生になった。その後エッソに勤め、サイゴン陥落当時はかなりいい地位にいたという。
陥落によりエッソがつぶれたので失職し、やがて新政権下で復刊を許された「チンサン」紙の記者になった。
「チンサン」紙の編集長ホー・ゴク・ニュアン氏とは私も旧知の仲だ。サイゴン特派員時代、ウイスキーのビンをぶらさげてよく編集室へ遊びにいった。猛烈な反チュー政権派で、よく握りこぶしを差し出しては、
「グエン・バン・チュー大統領の脳ミソはこれぐらいの大きさしかない。このままでは我が国は必ず共産主義者に占領される」といっていた。
とうとうチュー政権により廃刊を命じられた。共産政権下で復刊が許されたのはあの握りこぶしが効いたのかもしれない。
だが、私が知る限り、これはむしろ例外的な厚遇といっていい。
ニュアン氏はいわゆる“第三勢力”の先鋭的活動家だった。チュー大統領のサイゴン政権にも|与《くみ》せず、北ベトナム・解放戦線の共産主義路線にも与せず、多くの民衆の支持を受けながら、最後まで独特の立場を守ったグループだ。日本のマスコミでは“民主勢力”“平和勢力”あるいは“南ベトナムの勇気と良識”としてつねにもてはやされた。
北・革命政府側が停戦交渉に応じることを確信して、ドタン場で南ベトナム最後の大統領を買って出たズォン・バン・ミン元将軍も、このグループの象徴だ。サイゴン側の必死の停戦要請にもかかわらず、北・革命軍が首都への進撃を開始したとき、ミン元将軍は呆然と涙にくれたという。新政権の下で、この“第三勢力”は、厚遇されてもいいはずだった。何といっても民衆の信望を得た“良識”であり“勇気”だった。反チュー、反米の実績も少なくなかった。
しかし実際には、陥落後のサイゴンではこの人々がいちばん沈痛な顔をしていた。
国を出る直前、私は、このグループの指導者の一人で、個人的にもいろいろ世話になっていたチャン・バン・ツェン元副首相のもとに挨拶にいった。かつてはホー・チ・ミンとも手を携えて反仏抗争に|挺身《ていしん》した、古参の政治家である。
「チューと米国が去り、これでようやく“第三勢力”にも陽が当たるのではないですか」
「馬鹿をいっちゃいかんよ、君」
と|微笑《ほほえ》んだ。
「我々はこれでお|終《しま》いだ」
「なぜ?」
「なぜって、私たちはベトナム人に人気があった。今でもある。だから共産主義者にとっては最も|手強《てごわ》い存在だ。チュー派の連中は人気もなければ信念もない。一発脅かされればわけなく改宗する。我々はそうはいかんということを、共産主義者は知ってる。だから、真っ先に我々がやられるんだ」
「|粛清《しゆくせい》? 処刑ですか」
「ベトナムの共産主義者は、大量粛清とか処刑とか、そんな子供みたいなまずいことはやらない。長い時間かけてジワリジワリとくるのさ。わざわざ処刑しなくても、事故死、病死という手だってある」
論より証拠、この俺がどうなるか、君、日本に帰ってからも気をつけて見ていたまえ、とツェン氏はいった。
事実、ニュアン氏らごく少数の左派分子を除いて、“第三勢力”の議員や活動家たちはほとんど表舞台から姿を消した。反チュー平和勢力の|牙城《がじよう》といわれた統一仏教会アンクワン寺派も、CIAの手先ということで徹底的に取り締まられ、崩壊した。
ツェン氏は私が別れて三、四カ月後に再教育キャンプに送られた。そこで北軍兵士の若い教官に向かって、
「君がホー・チ・ミンなら、俺も耳を傾けよう。しかし、俺と彼が血みどろでフランスと戦っていたとき、君などまだお袋さんの腹の中にもいなかったじゃないか。俺に物を教える資格があると思うか」
と、“暴言”を吐いた、という。
結局、中部山岳かどこかの最も条件の悪い長期キャンプへ転送され、そのまま消息を絶った。
くり返すようだが、私はここで共産主義を非難したり、ハノイ政権のやり口を批判しているわけではない。ただ、革命とは、ときに私たちの目には“良識”と映る中間勢力の存在をも|仮借《かしやく》なく|抹殺《まつさつ》していかなければ|成就《じようじゆ》されない事業であることだけは、こんごも|肝《きも》に銘じておこうと思う。
「ところでどうですか、ニュアンさんは新政権に満足してますか」
「うまくやってるようです。しかし彼も結局はインテリのブルジョワですからね」
ロンさんは、これから先はどうなるか、といった口ぶりだった。
彼はタン博士と異り、こちらが水を向けないかぎり、余り現政権の悪口をいわなかった。
しかし、ベトナム共産党の内部にもやはりレ・ジュアン書記長ら親ソ派と、チュオン・チン国会議長ら親中国派があり、必ずしも外部が想像するほど党の結束は強固でないらしいこと、隣国カンボジアとの国境紛争が思いのほか激しく、国境地帯の町には一日数百発もの砲弾がカンボジア側から撃ち込まれていることなど、政治・外向面の問題についてはよく話した。
私は、いつも穏やかな空気と奇妙な落ち着きを漂わせたこの人の人柄にとくに好意を感じた。彼と話していると、人間とはこうした状況の中でもマイペースの生き方が続けられるものらしいな、といったようなことを感じたのだ。
それだけに、彼が妻と四人の子供をサイゴンに残し、こんどの脱出に単身参加したという事実を知ったときは、少々驚いた。
「カネがなかったんです。一人当たりの脱出費として五〇〇ドルかかります。一家六人となると三千ドルでしょう。とても今の私にはそんなカネは|工面《くめん》できません」
そこで自分が一人先に逃げ、国連あるいは国際赤十字の助けを借りて残した家族を亡命先に呼び寄せることにし、細君もこれを了解したそうだ。途方もない計画に思えたが、すでにこの方法で家族との国外合流に成功したものが何人かいる、という。
「心配ではないんですか、寂しくはないんですか」
ロンさんは答えなかった。しばらくして言った。
「とにかく国連のことだけを考えているんですよ」
かたわらでこの会話を聞いていた妻は、その晩、
「なぜ“寂しくないか”などと馬鹿なことを聞いたのか」
と私をなじった。
ここには寂しくない人なんて一人もいない。それぞれがけんめいに耐えているときに、はたからよけいなことをいうのはイポクリット(偽善)だ。あんたがベトナム人なら絶対にあんなことは|訊《き》かないだろう、と彼女は怒った。
国内のどの難民仮収容所へ行っても驚かされるのは、子供の頭数がやたら多いことだ。
与那国島の場合も例外ではなかった。八十六人のうち、十三歳以下が三十三人いた。最年少は生後五カ月、ほかに五カ月から六カ月の妊婦が三人いた。
最初の頃、私は妊婦や、乳飲み児をかかえた母親が、夜の荒海に小船で乗り出してくる気持ちがなかなかわからなかった。無謀、というより、何か残酷なことのように思えた。
だが、多くの親は逆に、
「子供の将来を思えばこそ、逃げた」
という。
サイゴン陥落のさいも、自分は老母がいるので国を去れぬから、と、幼児二人を知人に托して、ヘリコプターで沖の米戦艦に逃がした親が私のごく周囲にいた。
もっと当惑したのは支局の助手をしていたクワン君の場合だ。陥落直前のある夜、夫人といっしょにホテルをたずねてきて、生後三カ月の長男を、私の腕に押しつけた。
「僕たちはもうどうなってもいい。でも、この子にだけは、自由の世界で生きるチャンスを試させてやってくれ。あなたは外国人だからまだ出国できる。スーツケースの中に隠してでもいいから連れ出してやってくれ」
落ち着いてくれ、そんなことはとても無理だ、と私はいった。
「いや、絶対に恨まない。将来もし僕たちが再会できたら、そのとき返してくれればいい。もし会えなかったら、頼むからあなたの子として育ててくれ」
夫婦から口々にくどかれて、私はたいそう|往生《おうじよう》してしまった。もしかしたら、ベトナムの親の、子に対する義務感は、日本の親のそれとは質的に異るのかもしれない。
難民取材の際いちばん知りたいことの一つは、逃げてきた人々がどんな階層の、どのていどの暮らしをしていた人々なのか、ということだが、この辺の識別はどうもむずかしい。庶民に身をやつした金持ちがいるかもしれないし、カネがありそうでも権力と縁がなかった人もいるかもしれない。
八十六人のうち、英語が話せる人は五人、この人々はインテリで、物質的にもそう悪くない暮らしをしていたようだ。他の家族は一見して、いかにも庶民タイプだ。
知識層、支配層、あるいは庶民というわけ方自体がたいへんおおざっぱなわけ方なのだが、とにかくこの辺のかぎ分けは、同国人である妻の鼻を信用する以外ない。
公民館の二十家族としばらく付き合った後、彼女は、
「博士や他の三、四家族は、お金持ち。その他の人はおカネにも権力にも余り縁がなかった人たちみたい」
と、彼女なりの結論を出した。
そんな人たちは妻に、
「どこの国がいちばん簡単に、私たちに入国ビザをくれるの」
と相談をもちかけた。
何家族かは、
「何とかこの島にとどまり、砂糖キビ工場あたりで働かせてもらえないだろうか」と、町への口添えを頼んだりしていた。
私は妻に、彼女自身と同階層の難民一人か二人とジックリ話し合い、言葉もわからずカネも知人もない異国にこうして決死で逃げ出してきた人々の、心のヒダをさぐってもらいたかった。はっきりいえば、「しまった」と、後悔している人もいるのではないか、と思ったのだ。あるいは一部にいわれているように“反動機関”などの甘言にだまされて逃げ出してきた人もいないとは限らないのではないか。
それを探るのは、同国人の妻にとっても、むずかしい仕事だった。公民館へ行くと彼女はいつも大勢の人々に囲まれ、取材どころか逆に取材されてしまう始末だ。
何か機会を作った方がよさそうだった。難民を余りおおっぴらに公民館から誘い出すわけにはいかなかった。彼らはあくまで不法入域者で、法常識上は犯罪人なのだ。
といって八十六人を暑い公民館の中に閉じ込めておくわけにもいかない。だから彼らが建物の周囲をちょっと歩いたり、ときには浜に出たりするのを、島の人たちは見て見ぬふりをしていた。
そこで、私は一計を案じた。
ある夕方、
「おい、明日、釣りに行こうよ」と、妻にもちかけた。
「本当?」と、彼女は手を拍って喜んだ。釣りきちがいなのだ。妻にかぎらずベトナム人は男も女もなみはずれた釣り好きだ。
私たちは公民館に行き、何人かの連中にあした釣りにいくことを、それとなくいいふらした。
翌朝、早起きし、道具を何組か用意して磯に行った。
妻は器用にリールをあやつり、たちまち二、三匹釣り上げた。私は釣りには余り興味がない。一時間ほど付き合ったあと、一人で宿に帰った。十時頃、ちょっとようすを見にいくと、|案《あん》の|定《じよう》だった。公民館を抜け出してきた三、四人が、夢中になって|竿《さお》をあやつっていた。皆、人が変ったように生き生きした目付きで真剣に磯ザカナと取り組んでいる。
妻のかたわらに坐った、二十歳ぐらいの青年が飛び抜けてうまかった。他の者が一匹釣り上げる間に二、三匹のペースでベラやオコゼを釣り上げた。
「うまいなあ」感心していうと、妻は、
「この人、本職だもの」と、ちょっぴりくやしそうにいった。
ニャチャンの漁師の息子で、ド・バン・クイ君といった。両親と八人の兄弟姉妹を残して逃げてきた。親のすすめだった。両親は一家で逃げたかったが、その場合、船でも沈めば一度に九人の子供を失ってしまう。九人失うより一人だけ失った方がいいから、お前、逃げたければ一人でお逃げ、といわれて脱出に参加したそうだ。
妻と難民の“磯辺の休日”は昼過ぎに終った。
「漁師の人たちだって逃げ出してきたことを別に後悔なんかしていない」と、妻はいった。
「ただ、今日、磯にきた中でとても|可哀相《かわいそう》な子が一人いたの」
仲間からクックと呼ばれていた、十二歳の少年だ。
この少年は釣りの間中、妻のそばにくっついてエサをつけたり、釣れたサカナを針からはずしたりかいがいしく助手をつとめていた。
そして問わずがたりに自分の身の上を話した。
少年は一行が脱出用に使った漁船で下働きをしていた。漁師といっしょに乗り込んでエサを用意したり、炊事をしたりする仕事だ。一行が出発した日もまさか難民を積み込んでいるとは知らず、たまたま乗り込んでいただけだった。しかし彼を下船させると密告されてダ捕されるかもしれない。そこで難民一行はそのまま少年を連れてきてしまったそうだった。
「毎晩、母親の夢をみて泣くんだ」と少年は妻にいったという。
ひどい話だ、と私は思った。
実際に難民の心の内側をのぞくことが容易でないことを、私はそのあとでも知った。
妻が、リーダーのタン博士の身の上を聞き込んできたときだ。
タン博士と私は、最初に会ったときずいぶん長い間話した。
私は彼の個人的経歴や家族数などについて質問した。彼は、「妻と四人の子供があります」といったはずだった。そして「私たちは六人で逃げてきました」ともいった。だから、当然、奥さんもいっしょなのだろう、と思っていた。
ところが、妻が他の難民から聞いたところでは、タン博士は出港のさい奥さんとはぐれ、子供四人だけを連れて逃げてきたのだという。彼と奥さんは、治安当局の目をさけるため、別々のルートでサイゴンからニャチャン近郊の出港地点に向かった。先に人に托して送り出した子供たちは無事着いていたが、奥さんはとうとうこなかった。何かの手違いか、あるいは当局の監視網に引っかかったらしかった。船は彼女を残して出発した。二、三日の間、博士は気違いのようだった、という。
「おかしいな、彼は自分では家族六人で逃げてきた、といったよ」
「そう。でも六人目は義弟のフー博士のことよ」
「なぜ、脱出のとき奥さんを失ったことをボクに話さなかったのだろう」
「それはあなたが訊かなかったからでしょう。ベトナム人は話してももう仕方のないことは余りしゃべらない」
チン・バン・コン元空軍中尉は、おしゃれで調子がいい。声をかけると、必ず「イエス・サー」と答える。
サイゴン陥落当日、彼は中隊のC119輸送機でタンソンニュット空港から脱出をはかった。離陸後まもなく、郊外フーラムの通信基地付近で北ベトナム軍の対空砲火につかまり、パラシュートで脱出した。
三カ月間、再教育キャンプで過した。出所後、中部海岸のニャチャンに移った。サイゴン付近の海岸は警備が厳しくなり、中部の方が脱出の機会が多いと知らされたからだ。シクロ(輪タク)の運転手をしながら、機会を待った。その間、地元で知り合った女性と結婚した。難民中の身重の女性が彼の細君だ。
以前、米国で二年間、パイロットの訓練を受けた。
だから、向こうにはたくさん知り合いがいる。イランやインドネシアやニジェールの空軍にも同級生がいる。パイロットの口を探してもらうんだ、といった。
コン元空軍中尉は、フィン・クワン・ロク元陸軍兵卒と仲がいい。ロク元兵卒は、二十七、八歳。最初、公民館で会ったとき、私は「|凄《すご》い目をした男だ」と思った。
暗く底光りのする異常に鋭い目だった。ベトナムにいた頃、私はよく、これに似た目を海兵隊や|空挺隊《くうていたい》の前進基地で見た。「こいつ、これまでに何人ぐらい殺してるんだろう」と思わせるような目だった。
ロク元兵卒は、海兵、空挺など最も悪名高い殺し屋部隊の出身ではなかった。が、これに準じた特殊部隊に属していたという。ふつうの兵隊では手に負えない作戦に投入されたり、奇襲、救援を専門とする部隊だ。
だから、二隻の救命ボートでこの島に“敵前上陸”をかけたときも、彼は至極落ち着き、皆から頼りにされたという。
サイゴン陥落後、彼もシクロの運転手として一家六人を養った。シクロにはよく勝利者の北・解放軍の兵士たちが乗った。彼らからカネを受け取るたびに、ロク元兵卒は、「心臓が震えた。いつもその場でそいつを殺してやりたかった」そうだ。
二年間、共産軍の兵士を殺すことだけを考えて過した。
今でも考えている。
脱出に加わったのは、妻子を安全な米国に移すためだという。家族を米国まで送ったら、自分はタイに戻り、仲間といっしょにベトナムに再潜入して共産軍を殺すんだ、とどうやら本気の|沙汰《さた》だ。
お調子ものの元中尉に、
「だって、お前、あんなに強い共産軍に勝てるわけないじゃないか。ムダなことを考えるのはよせ」と、からかわれても|頑《がん》として引き下がらない。
自分と同じように考えているものはたくさんいるから、やれば必ず共産軍に勝てる、といい張っている。いつも元中尉の方が、
「まったくお前はGI(兵隊)だ。手に負えないGIだ。頭の中が|空《から》っぽなんだ」
と、サジを投げていた。
ロク元兵卒は旧政府軍の将軍たちの名を次々にあげて、私にその消息を求めた。
「戦争をするためには、星のある奴を親分にすえなければならない」という。
大半は私が知らない名前か、知っていても消息不明の連中の名前だった。
が、彼がひときわ尊敬していた元副大統領のグエン・カオ・キ将軍と、旧南政府軍随一の名将といわれたゴ・クワン・チュオン将軍の近況は、日本でも確認されている。キ将軍は米ロサンゼルス郊外に酒類販売店を買い取り、美人の奥さんといっしょにカウンターに立っている。チュオン将軍は、旧参謀総長のカオ・バン・ビエン将軍ともどもサラリーマンに転身し、米国防総省の下|請《う》け会社で働いている。
これらのニュースを知ったとき、ロク元兵卒は、
「えっ? 本当か」
|愕然《がくぜん》とし、やがて頭をかかえて考え込んだ。
「ほら見ろ、だから星のある奴なんか信用するな、と俺はあれほどいったじゃないか」
コン元中尉は腹をかかえて笑った。
ベトナム難民に対する日本政府の冷たさはすでに国際的に定評がある。
米国はすでに十数万人を受け入れ、仏、オーストラリア、カナダなどもそれぞれ数千人から一万数千人を引き取っている。タイをはじめとする東南アジアの国々も、計十万人以上をかかえ込んでいる。
これに対して、日本の門戸は極度に固い。政府は定住どころか、難民そのものの存在も認めていない。外国船や日本船に拾われて港に持ち込まれた分については、国連難民高等弁務官事務所が滞在費などを保証したものに限り水難救助者扱いで一時的に上陸許可を出す、というその場しのぎに終始している。そして外務省は、米大使館などに足を運んで、ひたすら国内仮滞在中の難民の引き取りを頼み込んでいる。
定住や公式滞在を認めない理由はいろいろあげられている。
公式筋が口にするのは、日本には従来、難民や亡命者の取り扱いを規定した法律がない。かりにベトナム難民の滞在を認めれば、他の東アジアや東南アジアの強権国家からもドッと人々がつめかけ、ただでさえ人口の多い日本が大変な問題をかかえこむことになるかもしれない。日本は古来、単一民族、単一文化の特殊な国なので、たとえ難民を受け入れても彼らは社会に|融《と》け込めず、かえって不幸になるかもしれない――などだ。
いずれも愚にもつかぬ|詭弁《きべん》だが、とりわけ単一民族|云々《うんぬん》ほど子供っぽい、自分勝手の言い分はあるまいと思う。現在私たちが享楽している輸入文化の多くは、多民族社会の種々異る文化や価値観の血みどろの戦いの中から生まれ、|培《つちか》われた。自由にしろ、民主主義にしろ、そうだ。命をかけた|切磋琢磨《せつさたくま》の中で多くの血が流れ、多くの生命が失われ、これらを養分にして自由や民主主義の概念も育った。そして私たちはこの上ずみだけを輸入し、近代国家(あるいは先進国)を名乗っている。他国の動乱や後進性に乗じて経済を富ませた。そして必要とあれば子供たちに「国際人になれ」と教え、その一方で単一民族、単一文化の“特殊性”を口にするのは、「私たちはこの世界からおいしいところはいただきますが、苦しいこと、辛いことは分担いたしません」と公言するに等しい。あるいは「私たちは特殊学級の児童ですので、この世に自分のと|異《ことな》った価値観や発想や風俗習慣があるということを理解いたしません。理解しようとも思いません」と、自らの未熟を宣伝するに等しい。
日本の世論はベトナム戦争中、熱烈に他国の解放闘争を支持し、その反面、武器の部品やモーターバイクや電気製品をしこたま輸出して得た繁栄を直接間接に享楽することに、何ら疑問を感じなかった。おまけに戦争が終ればすべてを米国と旧政権の腐敗ぶりに押しつけ、「わたしたちは単一文化国家ですから他人のことは知りません」では、諸外国もあきれて物が言えぬだろう。
こうした難民への冷たさ、無関心さは、為政者や政府の役人だけの責任ではあるまい。国民は自分のレベル以上の政府を持てない、という。逆にいえばそれ以下の政府だって持てないのだ。となると日本政府のいい気な言い分は、私たち一人一人のいい気な発想を反映したものではないのか。この辺に感じられる、私たち一人一人の、無意識の心の貧しさを、私はときおり空おそろしく思う。
なぜ解放された国から難民が出るのか。それを理解しようとしないのも、基本的にはこの心の貧しさからだろう。最初から理解しようという気持ちを放棄して、もっともらしく|辻褄《つじつま》だけ合わせようとするから、|短絡《たんらく》な解答しか見出せない。
進歩的人士は難民が|僅《わず》かばかりのドルや金の延べ板を持っているのを見つけ、
「ほれ見ろ、奴らは旧政権時代の金持ちだ。支配階級だ。以前人民の敵だったから、旧悪暴露をおそれて逃げてきたんだ」という。
保守的人士は逆に、難民らの伝える“残酷物語”の尻馬に乗り、
「だからいわんこっちゃない。もともと共産主義とは非人間的なものなのだ」とぶつ。
支配階級扱いされては漁師のクイ君もたまるまい。非人間呼ばわりされては、いま死に物狂いで国造りをしているハノイの指導者たちも心外だろう。
政治やイデオロギーを|拠《よ》り所にする限り、難民問題への理解や解決は永久に生まれまいと思う。
なぜ人々は生命の危険を|冒《おか》して夜の海へ逃げるのか。生まれ育った地に断腸の思いを残しながら、なお難民という、日常の想像力の|埒外《らちがい》の境遇を自ら選ぶのか。
|畢竟《ひつきよう》それは、心の問題ではないのか。
それが正しかったか正しくなかったかは別として、旧南ベトナムの多くの人々は、それなりに自由な境遇の中で、その自由を享楽し、かつ、その重さに苦しみながら、したたかに自らの価値観に従って生きてきた。いま、そうした自由はすべて“偽りの自由”である、ときめつけられる。てんでんばらばらの発想や生き方は反革命行為として最も厳しく|糾弾《きゆうだん》される。朝は六時に起きて体を鍛えろ、ホー・チ・ミンの名前を口にするときは必ず「ヴィーダイ(偉大な)」という形容詞をつけろ、何? 隣の県へ旅行したい? 何の目的で、誰に会いに?――。
自由な人生を生きてきたものにとって、この価値観の強制転換ほど辛いことはあるまい。やはり人々は、その辛さ、苦しさも含めて、自由の味を知っていたから逃げたのではないか。だからこそ、精神の自由を知らず、自前の価値観を持たぬ人々には、なぜ彼らが逃げたのか理解できぬのではないかと思う。
同時に私には、いまなお難民を生むことの悲しみに最も心を痛めているのは、ハノイの指導者たちではないのか、と思えてならない。
ハノイはいま、すべての手段に訴えて、国家再建のために正しいと信じた方針を実施し、根付かせていかなければならない。戦場での戦いと同じように、外部の価値判断など超越した手段で人々を教育し、駆り立て、改造して大きな流れに巻き込んでいかなければならない。ベトナム共産党にとって、これは戦場とまったく同様の、生きるか死ぬかの、そしてこんどはベトナム全体がつぶれるかつぶれないかの、死に物狂いの戦いなのだ。これにうち勝つためには、当然、タガを締め、無数の汚い方便にも訴えざるを得まい。力でおどし、心理でおどし、必要なら非同調者を|容赦《ようしや》なく抹殺していくような真似だってやらざるを得ないだろう。
しかし、汚職したり弾圧したりすることが旧チュー体制の本質でも目的でもなかったと同様に、取り締まったり、自由を制限したり、耐乏を強いたりすることは、ハノイの本質でもあるまい。むろん、これら悲しむべき現象がいまのベトナムに幾多存在する事実ははっきり認識しておく必要がある。しかし、ハノイもまた、これらが悲しむべきことであることを知りつくしながら、結局はベトナムとベトナム人が幸福に近づくためにはこうする以外ない、と思ってやっていることは、常に頭にたたき込んでおいた方がいいと思う。
こうしたハノイの立場を政治的に思いやることと、現実の難民を人間として処遇することは、明らかに次元の異る行為なのだ。
サイゴンで暮らした三年余り、私の視点はたえず揺れ続けた。
一方には、この戦争の意味を見失うまいとする意識があり、他の一方には、日々の生活を通じて|否応《いやおう》なしに肌身に受ける、この国の現実の重みがあった。自分自身納得のいく態度とは、多くの場合互いに反発し合うこの二種類の価値判断の融和点をさぐり出し、そこを自らの報道の出発点にすることと思えたが、これは突きつめていけばいくほど、困難な仕事だった。
現在も同じだ。
北ベトナム戦車隊の入城は「解放」であったのか、「占領」であったのか。「占領」と名付けることは明らかに誤りだろうが、それならば、陥落前のサイゴン住民を支配したあの必死の空気は何だったのか、また、あのおびただしい数のソ連製の戦車群を目にしたときに私自身の全身を包んだ、あの、何か|荒寥《こうりよう》とした感覚は何だったのか、と私は問い続ける。こんごもベトナムを思うとき、私はこの一種の原体験感覚を捨て切れまいと思う。
同時に私は、北・革命政府側の「戦勝祭」のさい、壇上に居ならぶ要人らの背後に掲げられた、
「独立と自由ほど尊いものはない」
というスローガンを目にしたときの、新たな感慨を思い出す。私はそのとき、あらためて(というより、おそらくはじめて)、この有名な故ホー・チ・ミン大統領の言葉の語順が「独立と自由」であり、断じて「自由と独立」ではなかったことの意味を、実感として認識した、と思った。
絶対の一義は「独立」であった。これにくらべたら、「自由」も二の次なのだ。日本には「ベ平連」という名の団体があったが、当のハノイは一度として、「平和ほど尊いものはない」などという、腰の抜けたことはいわなかったことも、あわせて思い出した。
「独立と自由」――一見さりげないこの語順が意味することのおそろしさを感じると同時に、想像を絶した苛酷な歴史の中から、ぎりぎりの拠り所として否応なしにこの価値の序列を選ばなければならなかった、ハノイの指導者の悲痛をしみじみと思った。そして私自身、あらためて深い悲しみに襲われた。
ハノイは明らかに「パリ協定」に違反した。ときには白を黒といい通し、たてまえと現実の政策をえげつないまでに巧妙に使いわけた。「話し合い解決」を約束した協定に調印した一方で、ただちに「大攻勢」の準備に入った。そして瀬戸際に追いつめられ必死に和を|請《こ》うサイゴンを徹底的にたたきつぶし、勝利を手にした。
従来ハノイに肩入れしていた西側記者の中にも、「これはひどすぎる。いずれハノイは国際社会から報復されるだろう」と予言するものがいた。現実に、この予言はあるていど的中している。三年前、ハノイの勝利をわがことのように祝福した世論や言論は、いま、自由や人権をかざして新ベトナムに物言いをつけはじめている。
だが、あの「戦勝祭」の朝、雨上がりの広場で「独立と自由」のスローガンを見ながら、私はやはりハノイには総てが許されたのではないか、と思った。そして、この気持ちは結局のところ、いまも基本的には変らない。
それにしても、過去三年来のインドシナ半島の激変ぶりは目をみはるものがある。このドラスチックな半島全域の共産化が、果たして三十年前のインドシナ解放闘争開始時のハノイの意図をそのまま反映したものであったのか、どうか。かりにそうであったとしたら、三十年にわたる米国の介入はまったく物の役に立たずに終った。いや、それどころか、三十年間に及ぶ人と国土の荒廃を生み、それにより二つの陣営に属する同胞間の距離をさらに増幅し、将来にはかりしれぬ後遺症を残したに過ぎない。
実際に、ベトナム人にとって、この、失われた三十年間とは何であったのか、と思う。
単に歴史が三十年前のふり出しに戻っただけではない。それは、三十年前にはけっして存在しなかった不幸の付加価値を生み出してしまったのだ。
西側大国の度重なる無理解によって、ベトナム革命勢力は年とともに硬化し、その後の苦闘を通じて鉄の集団になった。
当初からホー・チ・ミンは共産主義者であったかもしれない。しかし、イデオロギーを国民の幸福に優先させる類の、妥協を知らぬ共産主義者ではなかったことは、幾多の|挿話《そうわ》が証拠だてている。
現在のベトナム革命の進行ぶりは、カンボジアなどにくらべるとはるかに|穏便《おんびん》なものではあっても、本質的にはやはり仮借のないものであるように見える。仮借ない政策を取らなければならないほど、国は荒れ、立場を異にした人々の心は相離れてしまっているのだ。失われた三十年の歳月が、この悲劇的な状況をもち込んでしまった。そして、今、この悲劇のツケを支払わされているのは、不幸にしてノン・ポリであった南の大多数の庶民層であることを考えると、何ともいいようのない気持ちになってくる。
軽率な仮定は慎むべきだが、仮りに、この失われた三十年が存在しなかった場合、つまり一九四〇年代半ばにベトナム革命が達成され、労働党が現在と同じ形で国の主権を握っていたら、今日のベトナムはどうなっていたであろうか、と私はよく考える。
超プラグマチックなベトナム人の体質、国土の豊かさ、そして厳しい歴史を生き抜いた民族的英知などから推してみても、ソ連、中国、ましてや北朝鮮のような硬直した社会主義国家にはならなかったのではなかろうか。これは大変|僭越《せんえつ》かもしれないが、私が自らの体験として得たベトナムの人と心への知覚にもとづく個人的確信でもある。場合によっては、ベトナムは社会主義国の看板は守りながらも、お得意のたてまえと本音を巧みに使いわけて、その主義を|換骨奪胎《かんこつだつたい》し、修正主義どころか実質資本主義国家として、日本をしのぐアジアの主力国家になっていたかもしれない。
今、新ベトナムの将来を展望するさいも、私は同様の発想にとらわれる。
失われた三十年はたしかにハノイの体質を測定不能なほど硬化させた。しかも戦後の、当然の苦境を切り抜けるためにハノイはまだ最大限に強権をふるい、国民に耐乏精神を注入していかなければならない。
それにもかかわらずハノイ首脳の言明や報告のはしばしには、いかにも非オーソドックスな、いわばベトナム型の現実主義的な発想がしばしば顔を出す。たとえば、さきの第四回党大会の報告でファン・バン・ドン首相は、「五年後には各家庭が電気冷蔵庫や、テレビを持てる生活を」と説いた。
毛沢東の「能力に応じて働き必要に応じて生産を分配する」思想ではなく、「労働に応じて分配を得」、しかも人間の物欲を労働の刺激剤として是認する考えが明確に述べられている。民族解放の文句は、すでにそれが達成された今、国民をふるい立たせる大義としての響きを失った。その辺を敏感に察して、すかさず“人間らしい”物欲の是認を持ち出す点など、やはりイデオロギーごりごりというより、生きた政治ぶりというべきなのだろう。
これらだけを取り上げれば、すでにベトナムの修正主義は始まっているといっていいかもしれない。
となると、こんご日本をふくめた外部世界がこのインドシナ半島の国に対して取るべき姿勢はおのずと決まってくるように思える。それは平凡なようだがやはり、当面の体制の違いにこだわらず、可能なかぎりこの国の再建に手を貸すこと以外にあるまい。
それが、失われた三十年の残した教訓であり、同時に、その三十年のツケを今支払っている多数のこの国の庶民らの苦しみを軽減するいちばんの早道なのではないか、と思う。
島を去る日の朝、私たちは、公民館に別れのあいさつに行った。妻と難民たちは、
「また、どこかで会おうよ」
「東京へおいでよ。島の千倍もたくさん車が走っているよ」
屈託なく、むしろ元気にあいさつを交した。主婦たちは私たちが来島したさい|土産《みやげ》にさし入れたベトナム食品がどれほどおいしかったかをくり返して、もう一度礼を述べ、漁師のクイ君らは、
「またいっしょに釣りをしたいねえ」といった。
飛行場へ向かう時間が近づき、そろそろ腰を上げようとしたとき、長身のロンさんが、
「一つ頼みがあります。皆の頼みなんですが――」
とためらいがちにいった。
「皆、手紙を書いたんです。だけど切手を買うカネがない。投函してくれませんか」
「いいですよ」
私は軽い気持ちでうなずいた。
ロンさんが|嬉《うれ》しそうに礼をいい、皆に声をかけた。ワッとそれぞれのゴザにかけ戻り、手に手に航空便の束をもってきた。
「うえーっ」と思わず声が出た。
大部分がベトナム宛だ。国の知人や親戚に、とにかく「生きている」ことを知らせるたよりなのだろう。数えたら、ぜんぶで百八通あった。
皆と最後のあいさつを交し終えたとき、ちょっとしたハプニングがあった。
例の、いや応なく連れてこられた漁船の下働きの少年だ。
妻の腰にすがりつくようにして、
「オレ、このおばちゃんといっしょにいく」と、泣き出した。
皆、一瞬、沈黙した。
妻はかがみ込み、涙を流しながら、
「ここの国の許可がなければ、あんたに何もしてあげられないの」と、いいきかせた。
やがて少年は妻の側を離れ、一人でテラスのすみに行き、わきを向いて坐り込んだ。
私はロンさんの顔をみた。
彼は私を見返した。
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ベトナムからの手紙
旧南ベトナム各地と日本との間の郵便物交換は、サイゴン解放約半年後に再開された。手紙や小包がどんな経路で行き来しているのかはよくわからない。が、どうやらサイゴン(現ホーチミン市)で投函された手紙はいったんハノイに集められ、そこからモスクワ、北京、あるいはラオスのビエンチャンなど自由諸国の定期便が乗り入れている諸都市へ送られ、転送されて来るらしい。だから、たどり着くまでに要する時間はまちまちだ。早いときは十日ぐらいで着く。一カ月以上かかることも少なくない。航空便のスタンプを押した手紙が、投函二カ月以上もたってから、ソ連船で横浜に上陸するというご|愛嬌《あいきよう》も、二、三度あった。
どの手紙も、封筒の表には差出人の筆跡で、「独立と自由ほど尊いものはない」という、故ホー・チ・ミン大統領の言葉が書きつけてある。外国宛(もしかしたら国内宛も?)郵便物には、すべてこの標語を明記すべし、という政府のお達しらしい。これも教育の一環とみえるが、庶民にとってみれば、切手代りみたいなものなのだろう。
|検閲《けんえつ》が厳しいと見えて、どの手紙も私的な近況報告か、時候の挨拶ていどだ。だが、注意して読むと、たいがい、さりげない文面の中に無心が含まれている。
ひところはしきりと、「山へ仕事に出ることになった。夜は寒い土地だと聞くが、セーターが高いので困っている」というような内容の手紙が舞い込んだ。差出人の大部分は、旧体制の下級官吏や警察官だった。「山へ仕事に出る」とは、つまり奥地の再教育キャンプ送りが決まったか、政府の“下放政策”により地方の開拓地へ行かなければならないことになった、という意味だ。旧体制分子を都市部から|駆逐《くちく》する政策が着実に回転していることがわかる。遠い外国の知人を頼ってたどたどしく無心の手紙を書く下町仲間の心情を思いながら、私は何回かデパートの特売場に足を運んだ。
ファン・グー・ラオ通りの長屋を追い出された妻の一族は、今、市の内外数カ所に分散して住んでいる。どうやってこの連中を食わせていくか、が、家長である妻の最大の悩みだ。働かざるもの食うべからず、の革命は成就されたものの、現実に今の新ベトナムに無学な老人や病弱者を自活させるだけの職場はない。それでも、一族の老人が路頭に迷えば、ご先祖の怒りは革命をなしとげた現政府ではなく、やはり家長の上に向けられることになる。
そこで彼女は家計をやりくりしては、二カ月か三カ月に一回の割りで老人たちにカネを送る。カネを送れば、少なくとも医師も薬もない開拓地に送り出される危険性は軽減されるそうだ。新ベトナムは今、極度の外貨不足に悩んでいる。一口一口は少額でも、三十万人をこえる国外在住者(その半数以上は今回の解放による避難民だが)からの送金も、けっして馬鹿にならないドル収入だ。だから、定期的に海外からカネを受けとれる立場にある者は、“生産人口”扱いで、優先的に都市在住が認められるという。むろん、はっきりとそんなきまりが成文化されているわけではあるまいが、いかにもベトナム的で、|ありそう《ヽヽヽヽ》なことに思える。現実に、多くの避難民が、国に残した家族や親戚を救うため、つまり、“下放”から免れさせてやるために、食うものも切りつめて送金している。そういうきまりがあるという風評を海外に|流布《るふ》させただけで政府にとっては効果があったわけだ。
送ったカネは|律義《りちぎ》なまでに確実に、受取人の手に届く。一度、試しに、|地番《ちばん》もあやしげな細民街に住む一族数人に、二十ドルずつ送ってみた。時間はかかったが、例外なく届いた。この辺の、現体制の事務処理能力の|緻密《ちみつ》さ、清廉さはやはりたいしたものだと感心した。
だが、妻は「当たり前じゃないの」と、ここでもまた純ベトナム風のコメントを述べた。
「ベトナム人は、おカネのことには厳しい。たとえ一回でも送金が届かなかったり、ごまかされたりしたら、次からはもうけっして送らない。そんなことになったら、政府だってドルが入ってこなくなるから困るでしょ。ハノイの偉い人たちだってベトナム人だからそのくらいは十分知ってるはずよ」
だから、こと送金の伝達についてはひとかたならぬ神経を|遣《つか》っているはずだ、という。
外貨不足で輸入が途絶え、国内生産はまだ軌道に乗っていないので、町の物価高は、信じられぬほどらしい。
とくに古着と医薬品の注文が多い。相手は皆、年だけ食って根は子供みたいな連中だから、特定の者に偏って送ると、たちまち一族の仲間割れが起こる。東京から送った金品の分配をめぐって生じたいさかいの裁定を綿々と手紙でまた東京に頼んできたりする。
「どこまで私に世話を焼かせるつもりなんだろう」
と、妻は頭にきて四、五日寝付きが悪くなる。ときには、
「やっぱり私が戻ってみんなをまとめていかなければダメかな」
などと、なかば本気で思いつめる。そんな彼女を見ていると、ベトナム人にとって「家族」が持つ意味は、私たちの想像以上に重く濃密なのだということをつくづく感じずにいられない。
半年ほど前、|姪《めい》の夫婦から奇妙な注文がきた。
「政府の食糧増産計画で、家の囲りにキャベツを植えることになった。こちらではいいタネが手に入らないので、東京で買って二キロばかり送ってくれ」
という。熱帯向けのしかじかの品種に限る、と製造元、銘柄まで指定してある。どこに植えるのか知らぬが、二キロはちょっと多すぎるような気もした。それにしても、長屋にいた頃の二人は夫婦そろってのらくら者でとても畑いじりなどしそうな奴らではなかった。新政権の教育よろしくあの怠け者どもも額に汗して働く気になったかと、おかしくもあり、気の毒でもあり、さっそく「おやすいご用だ」と返事を書いた。
電話帳で神田のタネ屋をさがしあて、妻と二人で出かけた。手紙で指定通りの|罐詰《かんづ》めのタネがあった。
「二キロ分ほしいんだ」
というと、店員は、
「えっ、二キロもですか?」
びっくりして私たちの顔を見た。
値段を聞いてこんどは私たちが飛び上がった。たかがキャベツのタネぐらい、高くてもせいぜい三、四千円だろうと思っていたら、二キロで八万円だという。ほうほうの|態《てい》でひきさがった。
妻は二晩考えた。三日目の朝になって、
「|可哀相《かわいそう》だからやっぱり送ってやろうよ」
といった。私はその日銀行に寄ってからタネ屋に行った。
二十数個のカンを仕入れて家に戻ると、また、「独立と自由ほど尊いものはない」と麗々しく大書した姪夫婦の手紙が舞い込んでいた。
「シーズンが過ぎてしまうから早く送ってくれ。船便では間に合わないから航空便で頼む」
とある。おまけに、関税を分散させるため包みを二つにわけてくれ、とあったので、送料でまた四万円近くかかった。
その後しばらくして、十二万円のキャベツがどんなに実ったか、妻に手紙で確かめさせたが、|音沙汰《おとさた》がない。向こうの税関で没収されたのか、とあきらめかけた頃、礼状が届いた。
実は|昨今《さつこん》、キャベツのタネが完全に品切れになり、良質のものは文字通り金の粒なのだ、という。政府も困っているが、カネがないのでとても十分な輸入はできない。そこで他の品物に対してはときに三〇〇パーセント、五〇〇パーセントと課す関税を実質的に免除して、暗にこの手の“自家調達”を奨励している。むろんタネは自分で植えるためではなく、|闇市《やみいち》で一稼ぎする目的だった。政府も食糧増産上、タネの闇販売は見て見ぬふりをしているので、まんまと商売|繁昌《はんじよう》し、百万ピアストル(彼らは旧呼称をいまだに使っている)近く|儲《もう》けた。まことにかたじけない。こんごもご協力たのむ――という内容だった。
現在の百万ピアストルにどのくらいの実価値があるかわからないが、これで当分送金は無用、とあったところをみると、やはり相当ボロい商売だったのだろう。
妻はカッとなってすぐ手紙を書いた。
「稼いだおカネの一部でご先祖の法事をしなさい。残りは一族の者で公平に分けなさい。他の者からちゃんと分け前を受け取ったという連絡がくるまで、お前たちにはもう何も送りません」
年が明けてから、他の家族から「分け前、受け取った」の連絡が続々と届いた。
最近、姪夫婦はまた妙なものに目をつけた。
「モーターバイクのタイヤを小さく折りたたんで箱につめて送ってください。バイクはハノイの役人にも大好評ですが皆タイヤがすり切れかかって弱ってます。一本七十万ピアストルで売れます」
私たちは近所の自転車屋に買いに行った。新品が一本三千円だった。
妻は連夜、裁縫に追われている。一族扶養の悩みは姪夫婦の悪知恵で半分ほど軽減されたが、ホアハオ婆さんやチュン爺さんの、着た切りすずめの一枚がすり切れ始めた。キャベツのタネやタイヤの|余禄《よろく》にあずかっても、衣料や布地はもうとても高くて、庶民の手には届かないらしい。こちらから新品の衣料や布地を送るとべらぼうな税金を取られるので、受取人の手に負えない。だいいちこっちもそういろいろ引き受けては苦しい。
そこで彼女は安売り日をねらって出かけ、黒地の布を二束三文で仕入れてくる。ときには一度に五〇メートルあまりも買ってくる。それを何枚にも切って、ベトナムの農夫や年寄りが好んで着る、アオババというパジャマ風のシャツと筒ズボンに仕立てる。
「これがトントン(チュン爺さん)の分、これはジー・バイ(ホアハオ婆さん)の分、チー・ハイのズボンはあしたにしよう」
一人で|呟《つぶや》きながら、毎晩夜中近くまでミシンと向かい合う。老人たちの分が終れば姪や従姉たちに花模様のブラウス、それがすめば子供たちのジーンズ――と、一族公平に行きわたらせるには無限の仕事がある。
出来あがったアオババやズボンは、家で二、三回洗濯して“古着”にしてから段ボールの箱につめる。すき間が余ると、即席うどんを買ってきてつめる。
「皆、おコメの配給をちゃんと受けているかしら。お|腹《なか》が空いたら可哀相――」
同じ送るならもう少し気の|利《き》いたものにすればよさそうなものだが、断固として毎回即席うどんだ。
「高いものを送ったら、こんどは私たちがお腹をすかせなければならないでしょ」
ときおり、
「きっともうトントンにもジー・バイにも会えないわね。チー・ハイには会えるかもしれないな。チー・ハイはまだ六十歳前だから」
荷造りの手をとめて、ふと口にしたりする。
この三年間で、一族の老人はもう二人死んだ。生活の激変の中ではやはり、体力と順応力の乏しい者が先に|淘汰《とうた》されていくらしい。
現在の妻は日本人だから、短期旅行者として国を訪れることも不可能ではない。しかしこれまでの旅行者の例をみても、まだ現地での単独行動、自由行動はほとんど認められず、一般住民との接触も極度に厳しく制限されている。
「帰ってもどうせ家族に会えないんだから、帰らない方がましだわ」
と、妻もその辺は割り切っている。
ある日、客がきて、
「奥さん、日本好きですか? 寂しくありませんか」と聞いた。
「日本大好き。とても便利。でも、ちょっと寂しい」
彼女は妙にはにかみながら答えた。この辺は正直な心境なのだろう。
ユンは少しも寂しくない。はたで見ていても情ないほど、ベトナムへの未練も関心もない。ある部分はずいぶん|すくすく《ヽヽヽヽ》と日本化したように思える。同時に、フレンチ・スクールへ通わせたため、無統一に多国籍化(つまりは無国籍化?)したのかもしれない。将来は日本かヨーロッパのどちらかに住むんだ、と、もう自分できめている。その望みを|叶《かな》えられるような|伴侶《はんりよ》を、ここ数年のうちに見つけてくれるようにと願う以外ない。
誰とどこに住んでも、ある日ふとデラシネの|寂 寥《じやくりよう》に触れる日がくるだろう。その日、押さえがたく父祖の地への帰心が芽ばえるのか、あるいは案外さらりとそれをかわせるのか、今の私には見当もつかない。さいわい私と彼女とは、肌の色も目の色も同じだ。人にささやかれたり、日々、視覚を通じて自分と父親との間柄を無用に思い|煩《わずら》うていどは少なくてすむのではないかと思う。だが彼女だってもう子供ではない。やはり、心の中に何か整理のつかぬ部分を抱きながら、毎日ケロリと学校に通っているに違いない。まかりまちがって、その、落ちつかぬ部分が“空洞”になってしまったとき、彼女の境遇はそれなりに地獄だろうと思う。土地に根をはやしてきたならともかく、そのときの彼女はもう、感覚的にも生活形態の上からもかつての同国人とは異質だろう。といって完全に日本人でもなければ、フランス人でもない。物思う年頃で自らの帰属を考え始めたらどういう心情に陥るか、と思う。直接彼女の運命に手を下した身としては、まだまだ先は油断ならぬぞと、ときおり腹を|据《す》えなおして彼女の顔を眺めずにはいられない。
その辺はいずれ、彼女が本当に小娘から娘になった頃を見はからって、喫茶店にでも連れ出し、少しずつ話していかなければなるまいと思う。
ユンは、私よりも早く、テレビのコマーシャルの文句や、流行語を覚える。最近はどこで拾ってきたのか、何かというと、
「パパ、ハートだよ。ハートでいこうな」と言う。
流行語の「ハート」の意味は私によくわからないのだが、本当に彼女が、何よりも「心」を重んじる人間に育ってくれればいいと思う。物事の本質を重んじ、書類とか、住む土地とか、自分が話す言語とか、そういった二義的な(としか、私としては彼女に対して言いようがないわけだが)ことはあまり気にかけぬ人格を養ってくれればいいと思う。多少虫がいいのかもしれないが、さしあたりはその方向に誘導していく以外あるまい。それがその通りになるか、何かのはずみで|破綻《はたん》するか、このあたりは彼女の民族の根性(?)に望みを|托《たく》しつつ、同時に万一の場合は私自身もツケを払うだけの覚悟をしつつ、待つ以外ないのだろう。
「死ぬときはベトナムで死にたいか」
と私はときどき妻に聞く。
「そうねえ。でも、いったいどっちが先に死ぬの?」
「そりゃこっちだ。もう働き過ぎて消耗しかかっている」
「笑わせないでよ」
「こっちが先に死んだら、どうする?」
「わからないわ。後追い自殺でもしようか。その頃はユンも自分の生活を持っているでしょうからね。でも、生命保険だけはたくさんかけておいてよ」
「幾らぐらい?」
「そうね、少なくとも三千万円ぐらいはかけておいて」
案外、真面目な顔でいう。
「とにかく、おカネを手にしてから、後を追うか追わないか考えるから」
まだ三千万円の保険には入っていないので、私も死に切れない。
だが、やはり妻はいつかベトナムに戻りたいのではないか、と思う。かりに私自身があの土地に生まれ育ったら、時の政治体制や社会形態にかかわりなく、世界のどこを放浪してもやはりあの地域の地表にたちこめた、自然と人間の濃密な生命力に対して郷愁を抱き続けるだろう。年を取り、娘が巣立ち、ふと立ちどまって心の底にしんと冷える風を感じたとき、妻もやはりあの茶色い水をたたえたメコン河の、優しく|悠久《ゆうきゆう》な、そして広大すぎて少々間の抜けたような流れを思い浮かべるのではないか、と思う。それは私自身が長い外国の旅行に「万葉集」を持ち歩いたり、帰国してからふと京都を訪れたくなったり、箱庭のような|枯山水《かれさんすい》に心のなごみを覚えるのと同じことだろう。
この辺の本音を、彼女はときおり、テレビの天気予報を見ながら無意識にもらす。毎晩熱心にチャンネルを回して「明日の天気」を調べる。雲や|傘《かさ》の絵が出ると気の毒なほどしょげかえる。彼女の感覚では、空は陽光にあふれた真っ青なもの、雨はひととき車軸落としに降りそそいでまたカラリと晴れるもの、と相場がきまっているからだ。
四、五日|曇天《どんてん》が続くと、朝カーテンをあけ、
「また今日も空がない。寂しいねえ」と嘆く。
今のところはまだ「ヘンな国、これじゃ洗濯物も乾かない」と冗談半分だが、いつか一心に空を見続ける日がくるのではないかと思う。
国際結婚を長もちさせる鉄則(?)は、夫の国ではなく、妻の国の方に住むことだ、と聞いたことがある。男の心が比較的、「動」に耐えられるのに対し、女性の心情はやはり「静」を求めるからだという。むろんこれは一般論だろう。だがもしそれが正しいとしたら、私自身もこの鉄則を尊重する以外あるまい――。他のことはともかく、サイゴンで、|同棲《どうせい》許可証から結婚証明書を持つ身に昇格したさい、それだけはしかと自分に言いきかせたつもりだった。私自身も結局は異国であるあの土地で一人老け込めば、まちがいなく「もう一度、富士山を見たい」という心の声を聞くことになるだろう。だからその辺は、一つの踏んぎりでもあった。
事情が変って、今や帰れなくなったのは妻の方だ。しかしこの踏んぎりはその後私自身がこうしてまた東京で生活するようになってからも変らない。それが可能になり、また妻がそれを望んだとき、私は彼女言うところの「空の青い国」へ戻るだろう、と思う。そのとき、「やれやれ」と思うか、あるいは逆に何かしらホッとした気になるかは、今のところ予測がつかない。一つの社会の片すみに、それとはいろいろな面で異る発想や価値観に彩られた相手と共同体を築いて生きると、ときにしんどいこともある。そのしんどさを自らはた目に眺められるうちはまだなんとかやっていけるのかもしれない。
妻は、深刻好みの日本人の心情とは無縁だから、私がこうして、さまざま思いをめぐらしていることなど、気づいてもいないのではないか、と思う。実際、私の方は、いくら彼女が長屋の家長で生活力にたけていたからといって、今、夫にポックリいかれたら完全にお手上げだろう、とたえず気にしているのだ。おかげで、最近は、地下鉄のプラットホームではけっして白線の前へ出ず、道路は前線と心得て歩く習慣がついてしまった。
「まあ、どこで誰がいつ死ぬかなんて、そんなこと今から考えるのやめましょう。どっちみち、お釈迦さまが決めることなんだから」
妻はそんな私の気も知らぬげに腰をたたいて、再びミシンの前へ戻る。
信じられるものを持つことは、やはりこの世を平然と生きるうえで、結構なことなのだろう。
それにしても、と、私は、むしろ楽しげに国へ送るアオババの仕上げに取り組む妻の横顔を見ながらときどき考える。もとは少なくとも対等のパートナーとして出発したはずの相手が、解放ゲリラさながらの巧みさでじわりじわりと自己の支配分野を拡大し、気がついてみたら押しも押されぬわが家の主権者になりすましていたのは、いったいどういうお釈迦さまの導きであったのか、と――。
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あ と が き
私は一九七一年夏から一九七五年五月まで、サンケイ新聞のサイゴン特派員として勤務した。途中、数カ月間任地をあけたことはあったが、日本の新聞社の“|戦地 特派員《ウオー・コレスポンデント》”としては異例といえるほどの長期勤務となった。その間、何回か転勤の打診を受けたが、あるときはためらいながら、あるときはためらわず任期延長を申し出た。現地で家庭を持ったという事情はあったにしても、結局は私自身がこの土地とそこに住む人々の生きざまに深く|惹《ひ》かれたからだろうと思う。
疲れて気の|滅入《めい》ったときなど、この特殊な土地での特派員暮らしは予想外にきつかった。新聞記者など人間のうちと思わぬ|傲岸《ごうがん》な役人や、か弱い外国人とみればあの手この手の嫌がらせに熱意を示す憲兵や警官たちに|小突《こづ》き回され、情なく、腹立たしく、ときにはこわい思いをすることさえあった。自ら希望して任期を延長しながら、その一方では晴れて勤めを終えてタンソンニュット空港を飛び立つ日を、心の底から夢見たことも少なくなかった。
そんなとき、私はよく下町を歩いた。制服に肩章を光らせれば手に負えない警官らも、くたびれたシャツに着がえて屋台のベンチに腰を下ろすと、それぞれの年輪を両肩に背負いながら精一杯に生きている人々だった。その年輪のどれ一つをとっても、「平和」や「人権」に保障されてレールを歩み、帰りの航空券をポケットにしてこの土地に足だけ引っかけている私自身のそれよりは、はるかに悲痛で|凄絶《せいぜつ》なものであるはずだった。そんな人々からふと気恥ずかしげに|微笑《ほほえ》みかけられたり、思いがけぬ気遣いを受けたりするたびに、私は、そのために生きるに値するものをかいま見るような気がした。生き抜くためのしたたかな|甲皮《こうひ》に覆われてはいても、心の隅は無類に優しく、悲しみを知る人々の集まりに見えた。私に半年刻みで離任を延ばさせたものも、結局は日々の下町の生活でいくらも拾えるこうした心のかけらの温かさだったのではないか、と思う。
一九七五年四月三十日、サイゴンは陥落した。町に乗り込んできた北ベトナム・臨時革命政府の人たちは、出国希望記者のために特別便を出すと約束してくれた。当時、妻と娘は東京にいた。言葉もできぬ二人を放っておけないので、私は国を出ることにした。特別便の手配はなかなかつかなかった。空港と支局とを往復しているうちに所持金が切れた。長年支局で働いていたアカムさんという女中さんが、「心配するな、私が食わせてやる」といった。
だが、彼女もこれから世の中がどうなるかわからないので、できるだけ節約しなければならなかった。毎日、市場でニワトリの頭と|蹴爪《けづめ》を拾ってきて、ヌクマムで煮込んだ。トリのトサカや目だまは案外おいしく、蹴爪もかみしめていればしだいにほぐれて胃の|腑《ふ》におさまることを初めて知った。
トサカと蹴爪を食べあきたころ、ようやく特別便の用意ができた。羽田で対面したとき、妻は、「わあ、ヤセちゃったねえ」と情ない声を出した。
東京に帰って半年ほどしてから、私は『サイゴンのいちばん長い日』(サンケイ出版局)という本を書いた。一国の滅亡というドラマに立ち会ったものの、個人的な記録であり体験記であったが、同時に、私自身の南ベトナムでの生活や、それなしにはあの国を語れぬ、下町の人々の姿や喜怒哀楽のスケッチにかなりの部分をさいた。
「あれの続編みたいなものを書いてみないか」と文藝春秋の新井信さんにいわれたのは、昨年の秋口だった。
私がサイゴンで泣いたり、笑ったり、腹を立てたりしたのと同様、ベトナム人である妻と娘が東京で暮らせばいろいろなとまどいや、驚きや、あるいはそれなりの喜びがあろう。広義でいえば、日本人と、近いようでいながら遠い東南アジアの人々との間の、思いがけぬ共通点や、逆に画然としたカルチャー・ギャップ(?)も、日々の家庭生活をさまざまに彩っているのではないか。その辺を、ただし大げさに意識せず生活|点描《てんびよう》の形で書いてみては、ということだった。
私も『サイゴンのいちばん長い日』で触れた妻や娘との生活の部分を書き続けるつもりで書いた。|灼熱《しやくねつ》と銃声の世界から背広のサラリーマンとスモッグの世界へ舞台を移しての、“あれから三年”の記録でもある。ただ、いきなり“あれから三年”では大方の読者には唐突だろうと思われたので、書き出しのあたりには、多少前に書いた本をなぞり直した部分がある。
身辺雑事の点描を通じて、アジアの他の国の人々を、さらにはその国の姿を――という壮大かつ奥深い趣旨にどれほどこたえられたか、心もとない。ただ私としては日常の会話や順次手渡していった原稿から、書き手の気持ちのヒダを驚くほど的確、綿密に読みとり、ともすれば軌道をはずれがちな私を、ともかく脱稿まで励まし誘導してくれた名デスクに出会えたことは何よりの幸せだったと思う。出来上がりはともかくとして、過去数カ月の共同作業は(少なくとも私にとっては)充実し、楽しいものであった。
最後に私事をもう二言、三言――。
妻はいぜんとしてカタコト以上の日本語を覚えない。アパート住まいで近所付き合いがないせいもあるが、とどのつまりは私の腰が定まらぬからだという。
「最終的にどこの国へ住むのかそろそろ決めてちょうだい。東南アジアでも、南米でも、アフリカでもいい。もちろん日本でもいい。はっきりと落ち着く国が決まったら、そこの国の言葉を覚えるわ。私ももう年だから脳ミソを節約しなければならないからね」
困ったものだと思うが、いわれてみれば私もテレビなどで赤道に近い国々の集落などを見るたびに、「オレはあそこに住むぞ」と宣言するクセがいまだに抜けないので、彼女の言い分ももっともかもしれない。
男嫌いのユンは、最近また宗旨がえした。雲つくような同級生の男の子と映画を見に行く。私もますます軽口をつつしまなければならなくなった。習い性でついついくだらぬ冗談の度が過ぎると、彼女は、「だいじょぶかい、パパ。少し熱があるんじゃないか」となかばうんざりした、なかば|憐憫《れんびん》をこめた目で私の顔を眺める。
最近、サイゴン(現ホーチミン市)から届いた手紙で、残念なニュースを一つ知った。
興栄寺の|和尚《おしよう》さんにお布施をはずんで郊外に予約してあった私の墓所が、新政府の区画整理か耕地拡張計画にひっかかり、ブルドーザーで処分されてしまったそうだ。長屋は接収され、墓は処分され、これではますます落ち着きどころが減ってしまったではないか、と少々ユーウツになった。
一九七八年三月二十日
東京・渋谷のアパートで
[#地付き]近藤紘一 
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「サイゴンから来た妻と娘」は昭和五十三年五月文藝春秋より刊行された。
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文春ウェブ文庫版
サイゴンから来た妻と娘
二〇〇一年十一月二十日 第一版
著 者 近藤紘一
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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bb011104