ロング・ドッグ・バイ
霞 流一
[#表紙1(img/_01_000.jpg)]
[#表紙2(img/_01_000b.jpg)]
【おもな登場人物】[#「【おもな登場人物】」はゴシック体]
●宇郷真平《うざとしんぺい》・紗織《さおり》[#「●宇郷真平・紗織」はゴシック体]
藤森アローの飼い主夫婦。おっとり屋の夫は翻訳家、
しっかり者の妻はグラフィック・デザイナー。
●笹賀英明《ささがひであき》[#「●笹賀英明」はゴシック体]
プロのカメラマン。クールでハンサム、そして皮肉屋。
●平泉宏次《ひらいずみこうじ》[#「●平泉宏次」はゴシック体]
自称「アーティスト」で、町のヒーロー犬レノの銅像も手がけた。口は悪いが、言葉や行動のはしばしに犬好きがにじみ出ている。
●桐塚史郎《きちづかしろう》・久子《ひさこ》[#「●桐塚史郎・久子」はゴシック体]
犬を飼うことを検討している夫婦。夫が重度な優柔不断のため、犬種がなかなかきまらない。
●久保勉《くぼつとむ》[#「●久保勉」はゴシック体]
顔立ちも性格も暑苦しい、独身貴族の税理士。レノの飼い主の孫。
●南条克人《なんじょうかつひと》[#「●南条克人」はゴシック体]
気のいい整体師。ボンタの飼い主。
●野々宮良典《いなもとのぶゆき》[#「●野々宮良典」はゴシック体]
カフェ「バスカビル」のオーナー。小太りでタヌキを連想させる。大の犬好き。
●野々宮良典《ののみやよしのり》[#「●野々宮良典」はゴシック体]
ペットショップ「アニマール」の神経質でネクラな店員。
営業マン兼広報兼配達員。
[#挿絵(img/01_003.jpg)]
[#挿絵(img/01_004.jpg)]
[#挿絵(img/01_005.jpg)]
【登場犬】[#「【登場犬】」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
アロー[#「アロー」はゴシック体]
・本書の語り手である探偵犬。
・柴犬と洋犬の雑種。
・赤茶の体に、鼻から頭部、背中の真ん中あたりまで矢《アロー》のような白い模様が入っている。
ボンタ[#「ボンタ」はゴシック体]
・アローの依頼犬。
・純血種の柴犬。
・飼い主は整体師で、「Bone(骨)」が強くなるようにと「ボンタ」と名づけられる。ちなみに血統書用の正式名は、「竜雅連星号《りゅうがれんせいごう》」。
レノ[#「レノ」はゴシック体]
・真っ白な柴犬。
・人命救助、泥棒逮捕など数々の武勇伝を持つ忠犬で、その死後銅像に。
浮羅田町《ふだらちょう》のシンボル的存在。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
【登場犬】[#「【登場犬】」はゴシック体]
(GOOD8)のメンバー[#「(GOOD8)のメンバー」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
メビウス[#「メビウス」はゴシック体]
・穴フェチのミニチュアダックスフント。
・トンネル掘りの名手。
エドワード二世[#「エドワード二世」はゴシック体]
・凡帳面なウェルシュ・コーギー。
・物資調達のプロ。
デューク[#「デューク」はゴシック体]
・職人肌のブルドッグ。
・錠開けの天才。
スヌーパー[#「スヌーパー」はゴシック体]
・スヌーピーと同じ犬種であるビーグル犬。
・ガラクタを改造して、便利品を作り出すのが得意。
グレイ[#「グレイ」はゴシック体]
・クールなシベリアンハスキー。
・力仕事担当。
ジャイスケ[#「ジャイスケ」はゴシック体]
・ひょうひょうとしたゴールデンレトリーバー。
・オリジナルの鼻歌のセンスは秀逸。グレイとコンビの秘技も持つ。
ポーリー[#「ポーリー」はゴシック体]
・愛くるしい(見た目は……)白いチワワ。
・誰もが恐れる男まさりの性格で、変装の名人。
シンチー[#「シンチー」はゴシック体]
・カンフーならぬワンフーの名手のチャウチャウ。
・警備役。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
1
ミステリーの始まりは……ゴボウ。
そう、あの細長くて茶色い野菜である。
ゴボウが謎だった。
ここは浮藤田《ふらだ》公園。
十一月二十五日、午前七時過ぎ。柔《やわ》らかい朝の日差しが注ぐ。
秋もこの頃《ころ》になると、人間たちは肌寒《はださむ》いのだろう。ブルゾンやセーターをまとっている者が多い。
俺は二重被毛《にじゅうひもう》のおかげで、何ともない。
クソ暑い夏なんかよりはるかに快適だ。
なぜって、俺は犬だから。
名は、アロー。
柴犬《しばいぬ》と何かの洋犬の雑種。最近は、mixとか、しゃれた言い方もあるらしい。照《て》れ臭《くさ》いよ。ましてや、ハーフなんて呼ばれたら穴にもぐりたくなる。俺なんかは雑種で充分《じゅうぶん》だ。
俺の場合、母親の血のほうが濃いようだ。見た目は日本犬である。全身は赤茶。
ただ、鼻から頭部、背中の真ん中あたりまで白い筋の模様《もよう》が入っている。親父からの遺伝《いでん》だろう。
模様の形が、矢に似ている。
それで、アローと名づけられた。
走ると、白い矢が飛んでいるように見えるらしい。
他の犬たちからそう言われたことがある。悪い気はしないな。
で、今、俺は走っている。
白い矢に見えるほどのスピードではないが。ちょいと小走りってところだろう。
ブルーの首輪から黒いリードがピンッと後ろに伸びているのを感じる。
その先っぽには、飼い主がついている。
俺に引っ張られて、
「おいおい、こらこら」
なんて言いながら、懸命《けんめい》に走っていた。
この飼い主は宇郷真平《うごうしんぺい》さん。
四十代半ば。やせぎすで、細面《ほそおもて》。短く刈《か》った髪には白髪《しらが》が混じりはじめている。シルバーフレームの眼鏡《めがね》の奥に、温和で人のよさそうな目があった。
職業は翻訳《ほんやく》家。主に欧米《おうべい》のロマンス小説を手掛《てが》けている。かといって、女性読者が期待するほどのイケメンではないだろう。
日頃の運動不足がたたって、今、息せいている。足がもつれそうになりながら、懸命に走っている。いや、走らされていた。
真平さんが健康を保っているのは、毎日、俺と一緒《いっしょ》に散歩しているからだろう。たまには、こうしてダッシュを仕掛けるのも、なまった筋力を鍛《きた》えるのにいいはず。
ゴールは、つつじの潅木《かんぼく》の端《はし》。
四、五人の人間が集まっている。
犬たちもいる。
彼らは銅像《どうぞう》の前に固まっていた。何やら賑《にぎ》やかに語り合っている。
銅像とは犬をかたどったもの。
レノという名の柴犬のほぼ実物大の像である。
いわゆるオスワリのポーズで、御影石《みかげいし》の台座の上に載《の》っていた。
地面から尖《とが》った耳の先端《せんたん》まで、高さ二メートルくらい。
俺が二本足で寄りかかっても、頭のてっぺんまでは目が届かない。だから、見たことがない。けれど、人間たちの話によれば、耳の先っぽまで実物とよく似ているともっぱらの評判だった。
今、問題なのはそんな上のほうではない。
下も下、地面である。
台座のすぐ前に、ゴボウが生えていた。
四本の泥《どろ》まみれのゴボウが等間隔《とうかんかく》で並んでいるのだ。
二十センチくらい、ニョッキリと顔を出している。
もっとも太いところで、直径一センチほど。なかなか、大きなものらしい。土中にはかなりの長さが伸びているのだろう。
それにしても、謎だ。
なんせ、いきなり生えてきたんだから。
昨日まではなかった。
いったい、どうして、こんなところに突然《とつぜん》、ゴボウが出現したのか?
まさか、超常現象《ちょうじょうげんしょう》なんてことはあるまい。そんなこと言いだすのは、まず人間だ。俺たち犬はそこまで単純じゃないさ。
俺より先に来ていた犬は三匹。
奴らは固まって井戸端会議《いどばたかいぎ》をやっている。
俺もそれに加わる。こういうところは人間と変わりない。恥じることでもない。
ビーグル犬のスヌーパーが、
「よっ」
と陽気に声をかけてくる。
ビーグル犬とは、あの世界的な人気コミックのスヌーピーと同じ犬種だ。
そう、熱狂的《ねっきょうてき》なファンである飼い主は、スーパー・スヌーピーを略して、奴にスヌーパーと命名したのだった。
そのせいか、妙《みょう》なところが似ている。スヌーパーは犬小屋の上で昼寝《ひるね》をするのが大好きなのだ。コミックでおなじみのシーンである。
もともと、小屋は三角屋根だったが、奴は囓《かじ》って平らに削《けず》ってしまった。快適な寝場所《ねばしょ》に改造したのだ。
他にも、ソフトボールを半分に割って顎用《あごよう》の枕《まくら》を作ったり、カマボコ板の表面に段々刻んで、背中の痒《かゆい》いところを掻《か》いたり、いろいろと生活用品を開発している。スヌーパーはガラクタを材料に、新たなグッズを創造するのが趣味《しゅみ》であった。
そんな生活の知恵を宿した目がゴボウを見つめている。
「珍妙《ちんみょう》なことになってるなあ」
顔を左右に振《ふ》る。茶褐色《ちゃかっしょく》のタレ耳がかすかに揺《ゆ》れた。
俺は鼻を蠢《うごめ》かしながら、
「ホント、怪《あや》しいことがあったもんだ」
「まあ、いきなり生えてきたわけじゃあるまい」
「やっぱ、そうだよな」
「ああ、誰かが埋《う》めたんだろう」
これには同意見である。他に解釈《かいしゃく》のしょうがない。
俺は目で相槌《あいづち》をうって、
「うん、埋めたんだよな。おそらく、人間が、さ」
「ああ、俺ら犬が、こんな意味のないことするはずがない」
「そう、埋めるんなら、きっちり全部埋めて隠《うめ》すのが、俺たち」
「それが犬の流儀《りゅうぎ》」
と言って、スヌーパーは軽く尻尾《しっぽ》を振ってみせた。
ちなみに、ここまでの会話は、お互《たが》いに吠《ほ》えているわけではない。
それじゃ、うるさくて仕方ない。
犬には、犬だけの言語と、発声方法がある。
口の隙間《すきま》や、鼻の穴から、息を発する。
それによって言葉を形作っているのである。
高周波の音だから、人間の聴覚《ちょうかく》で捉《とら》えられる範囲《はんい》を超《こ》えている。いわば、人間たちが使う犬笛の原理と同じようなものだ。
この俺ら犬たち独特《どくとく》の発声を、ボイスならぬ「バウス」と呼んでいる。
つまり、これまで、「言った」と表している箇所《かしょ》は、厳密には「バウスを発した」が正しい。あるいは、「バウスを放つ」とか。
だが、この物語では、スムーズな語呂《ごろ》を心掛けて、「言った」「言う」などと表現する場合もあるので、あらかじめ了承《りょうしょう》してほしい。
また、当然ながら、人間たちはまだ誰も、この「バウス」の存在に気づいていない。
万が一、発見すれば、ノーベル賞は鉄板だろう。
そして、いつか、俺たち犬族が語り伝えるこのドラマを、人間たちも耳にする日が来るかもしれない。
その時のためにも、詳細《しょうさい》に伝説を残しておくとしよう。神話になるくらい遠い未来かもしれないが。
話を現場に戻《もど》す。
俺たちは四匹でバウスを交し合っていた。つまり、話し合っていた。
「誰かが埋めたってことは、穴を掘《ほ》ったってことだよな」
そう言ったのは、ミニチュアダックスフントのメビウス。
こいつ、やたらと狭《せま》いところに入る癖《くせ》がある。落ち着くらしい。そのため、穴を掘るのが大好きなのだ。ほとんどフェチである。
まあ、もともと、犬とは穴掘りの好きな生き物である。その中でも、度が過ぎている奴らがいる。彼らは、お互いに、土の具合や地面の固さなど情報を交換《こうかん》し合っていた。一種のクラブで、その名も「穴と夢」。
代表はもちろん、メビウスだ。
この公園でも、散歩の最中、しょっちゅう穴を掘っては、潜《もぐ》り込《こ》んでいる。
メビウスは今もそうしている。
細長い身体を隠して、首だけ出している光景は、まるで、ゲームセンターのモグラ叩《たた》きだ。
全身が黒くて、ところどころに焦《こ》げ茶色が混じっている。いわゆるブラック&タン。それでいて、胴長ときているから、なんだか、目の前のゴボウに手足をつけたみたいだ。
俺は笑みを噛《か》み殺して、
「やっぱし、穴のことだと気になるみたいだな」
メビウスはゴボウを凝視《ぎょうし》して、
「ああ、これだけ細い穴だと、どんな気分だろう? 身体にフィットして、かなり気持ちいいかも。エロティックですらある」
「入ってみたいか?」
「俺が入ったら、まるでゴボウじゃんか、って、お前、今、思ったろ」
「いや、別に」
「いいよ、俺が、真っ先にそう思ったくらいだから」
「やっぱり?」
「ああ、ゴボウになってみてえ、気持ちよさそうだなあ」
「いい湯かげん、じゃなくって、土かげん」
「んなとこ」
メビウスは恍惚《こうこつ》とした表情で答える。
俺はこいつのフェティシズムに気圧《けお》されながら、
「それにしても、結構、人間も器用に掘るもんだな」
「うーん、この場合、掘り方よりも埋め方だろうな」
そう言って、黒い口吻《こうふん》で地面を示しながら、
「ほら、広い範囲で土が乱れているだろ。これは、まとめてガッポリ掘った形跡《けいせき》だよ」
「なるほど、ゴボウ一本につき一つずつ穴を掘ったわけじゃないってことか」
「そう、まとめて掘って、まとめて四本植えて、しっかり土を固めていった、そんな工程だよ」
「なるほど、マニアはよく見てる」
「プロって言えよ」
「何が、プロだよ。それで食ってるわけでもねえのに」
「食《く》い扶持《ぶち》の話はお互い様だろ」
まあ、飼い犬であるかぎり、あまり大きなことは言えない。確かにお互い様だ。
俺は謎のゴボウを改めて見つめると、
「それにしても、いったい、どうしてゴボウなんて植えたんだろう」
メビウスは神妙《しんみょう》な表情を浮かべ、
「さあな。それが最大の謎なんだよな」
「プロでもわからんか? プロでも」
「嫌味《いやみ》な言い方するね、お前。相変わらず、減らず口が減らねえな。そのぶん、ダチ、減るぜ」
「多すざるから」
「けっ、食えねえ奴」
俺は舌を一瞬《いっしゅん》出して、
「ところで、ゴボウ、って食ったことあるか?」
「ないね。評判よくねえよな。随分《ずいぶん》とエグい味らしいぜ。あっ、お前みてえ」
「返しやがって、ガキかよ」
「どっちが」
とメビウスは皮肉《ひにく》な笑みを浮かべる。
俺は鼻に皺《しわ》を寄せて、笑みを返した。
そこに、鋭《するど》いバウスが割り込んでくる。
「ったく、どうして、いつまでも、男ってガキんちょなのかしらね。呆《あき》れるわ」
チワワのポーリーである。
白く柔らかい毛に包まれた姿は玩具《おもちゃ》のヌイグルミのようだ。三角の耳と、ぱっちりとした目がチャームポイント。ラグビーボールほどの小型犬である。
だからといって、ポーリーをナメてはならない。そこいらの男なんかよりは、よっぽどハードな気性《きしょう》の持ち主。鼻《はな》っ柱《ぱしら》の強さは町内でも指折りだ。
ポーリーはフンッと勢いよく鼻息を吐《は》き、
「何くだらない話してるの。今、問題なのは、ゴボウの味じゃなくって、どうしてここに生えているかって謎でしょ」
そう言って、大きな目で睨《にら》む。
仰《おお》せのとおりです。俺とメビウスはたちまちおとなしくなる。
もう一匹の牡《おす》、スヌーパーが助け船を出すように、口を挟んできて、
「うん、今、こいつらも謎のこと、検討してたじゃんか。ここにゴボウを植えた理由について」
そう、その話をしていたのだ。ナイスフォロー。
ポーリーは厳しい表情を崩《くず》さず、
「それと、もうひとつ。誰がゴボウを植えたのか? その謎もセットで考えなきゃね」
「なるほど、そりゃそうだ」
と俺は素直に同意し、
「どっちかひとつの謎が解ければ、もう一方も解けるかもしれんし」
「そう簡単にいくかどうかはわからないけど、でも、誰が? どうして? ふたつが密接に結びついてるのは確実だと、あたしは思うな」
「うん、こんな奇妙《きみょう》なことする奴って、それなりの事情を抱《かか》えているだろうから」
「人目を忍《しの》んでの行為《こうい》だし」
「ああ、夜中、こっそりとやったんだろうな。昨日の夕方、五時半頃、散歩していたけど、俺、こんなもん見なかったもの」
当時の光景を思い起こしながら、言った。
スヌーパー、メビウスは、それぞれ六時、六時半頃、散歩したらしいが、やはり、二匹とも、ここにゴボウはなかったときっぱり証言した。
「じゃ、この中じゃ、あたしがいちばん遅《おそ》い証人っていうか証犬ね」
とポーリーが得意げにクルンッと大きな目を動かす。
「えっ、ふだんは四時半頃じゃなかったっけ?」
と俺が問うと、彼女は不機嫌《ふきげん》そうに、
「四時半の散歩はいつもどおりだったのよ。それとは別口。夜に、お出かけに付き合わされたのよ」
そう言って、ちらっと飼い主のほうを一瞥《いちべつ》する。
五十過ぎの小太りのオバサンである。白髪隠しの茶髪パーマに、ラフなジャージ姿だった。
ポーリーはうんざりした面持《おもも》ちで、
「カラオケパーティーに連れていかれたのよ。家にマシーンを装備した主婦仲間がいてね」
「うへっ、カラオケか、ありゃ、たまらんな」
「どうして、人間って、あんなうるさい集まりが好きなのかしら。あの異様なテンション。歌の上手い下手も関係ないって」
「うんうん、同感だね。あの騒々《そうぞう》しさは保健所の犬舎《けんしゃ》を思い出させる。それに、ふだんまともだと思ってた人間でも、マイク握《にぎ》ったら陶酔《とうすい》しちゃって、何かワルいものにとり憑《つ》かれたみたいで不気味《ぶきみ》だし」
と俺は言いながら耳がムズムズするのを覚えた。
スヌーパーとメビウスもうなずいて同意を示す。
ポーリーは口調《くちょう》をとがらせ、
「そんな集まりに、夜の十時半まで付き合わされたのよ」
俺は鼻に皺を寄せ、
「そりゃキツい」
「昨日なんか、まだマシなほう。このあいだなんか、ばっちり防音機能の部屋だからって、深夜二時まで付き合わされたんだから」
「拷問《ごうもん》だね」
俺は耳を垂らしたくなった。
ポーリーは口端《こうたん》に苦笑いを浮かべ、
「でも、昨夜は、天気予報だと雨が降《ふ》るっていうから、それでお開きになったの。自転車だし」
「ああ、君の場合、前カゴにのれるもんな」
「あれもね、慣れるまでは、何度も酔《よ》ったもんよ」
「やっぱし」
「今じゃ快適だけどね」
「昨日は夜風が気持ちよかったろうな」
「カラオケ監禁《かんきん》地獄《じごく》の後だから、余計にね。ホント、雨の予報のおかげで、早く解放されて助かったわ」
バウスが安堵感《あんどかん》に満ちていた。
俺は記憶《きおく》をたぐり
「でも、結局、降らなかったよな」
「もっと東のほうじゃ降ったみたい」
「風で、雨雲があっち行っちゃったようだな。最近、よく外れるよ、天気予報」
「しょせん、人間の考えることだもの。まあ、とにかく、結果オーライ。気象予報士さんに感謝しなきゃ」
「で、帰り道、ここを通ったわけか」
「そう、近道だからね。十時半過ぎ、ほとんど十一時だったんじゃないかしら。その時間でも、まだ、ゴボウなんか生えてなかった」
「つまり、誰かがゴボウを植えたのは、十一時|以降《いこう》ということになるわけか」
「そして、今朝の五時半までの間」
「ん、五時半に、誰かが見つけたわけか?」
「ゲートボール場に向かうお婆《ばあ》さんふたり連れがね。変なことがあるもんだって、チームの連中、その話ばっか、してたみたいね。老人って時間もてあましてるし。うちの爺《じい》ちゃんが朝のジョギングから帰ってきて言ってた」
「そうか、昨夜の十一時から、今朝の五時半の間に、誰かがここにゴボウを植えた……うーん、いったい、どんな変人なんだ? まったく見当つかねえ。手掛かりがなさすぎる」
「悪かったわね、あたしの情報、役に立たなくて」
ポーリーは目つきを尖らせる。
俺は慌《あわ》てて、
「あっ、イチャモンつけたんじゃないよ、そんな気、ないない、真っ白な肉球くらいありえない」
と取り繕《つく》ってから、
「ふと思ったんだよ。なんで、夜中、こっそり人目を避《さ》けてこんなことしたのか、それが謎だったよな。同時に、場所も問題、どうして、ここなんだろう?」
「ここって、レノの銅像の前?」
「うん、なぜ、レノの銅像の前を選んだんだろう?」
四匹で黒い鼻先を突《つ》き合わせる。
そこに、五匹目の大きな鼻が上から降りてきて、
「お供えなんじゃないのお」
と呑気《のんき》な声で言った。
見上げると、図体《ずうたい》のでかい奴がいる。
ゴールデンレトリーバーのジャイスケだった。麦畑のような毛並みが陽光に映えている。
ジャイスケはのほほんとした調子で続けて、
「ゴボウはレノへのお供え物なんじゃないかなあ」
そう言って、箒《ほうき》のように尻尾をゆらゆらと振った。
俺は口吻《こうふん》を上げ、
「人間が花を墓に供えるようなものか?」
ジャイスケは柔和《にゅうわ》な顔を縦に振る。毛糸のミトンのような耳が揺れる。
「そうそう。それと似たようなもん。レノの墓の代わりに、銅像にお供えしたんだよお」
と言って、目を細めた。
そして、鼻歌を奏でる。
こいつのオリジナル曲、たしか、「ビーフジャーキーのブーケ」だっけな。
眠《ねむ》くなるような呑気な曲調。この男にふさわしい。
ただ、人間には、フォンフォンという無意味な鼻息にしか聞こえまい。
ポーリーが目をぱちくりさせて、
「なるほど。そうよね。レノの一周忌《いっしゅうき》が近いもん」
「もう、そろそろだよなあ」
「うん、十一月二十九日。土曜よ」
ジャイスケは口をモゴモゴ蠢かしてから、
「レノってさ、時々、オヤツにキャベツの切れ端を美味そうに食っていたよお」
「うんうん、そうよね。散歩の途中、ベンチで飼い主さんにもらっていたっけ」
とポーリーはしきりとうなずく。
「俺もたまたまご相伴《しょうばん》にあずかったことあるよお」
「たまたまじゃないでしょ。あんたみたいな食いしん坊《ぼう》は」
「まあ、好奇心《こうきしん》ってやつさあ。でもさ、キャベツって、あんまり俺の口に合わなかったなあ。やっぱし、洋犬の俺は断然の肉派」
ぺろりと舌を出して、口の周りを舐《な》める。
俺は首を傾《かし》げて、
「おいおい、今の話だけど、レノはキャベツが好きだった、それは俺も知ってるさ。有名な話だよ。だったら、ここに供えるのは、キャベツのはずだろ」
「キャベツがなかったからじゃないのお」
とジャイスケはあっさりと答える。
「それで、ゴボウか?」
「うん。同じく野菜ってことで」
「いや、そりゃ、おかしいだろ。いくら夜中でも、コンビニ行けば、キャベツくらい置いてあるさ。ガラス戸|越《ご》しに見たことあるよ。丸ごとなくっても、サラダになっているやつとかさ」
俺の意見に、ポーリーも同意してきて、
「そうよね、誰かは謎だけど、その人が本心からレノヘのお供えをするなら、きっと、キャベツにするはずよ」
「うん、その本心ってやつが中途半端《ちゅうとはんぱ》で、薄《うす》っぺらなんだよな。お供えという解釈はいいセンなんだけどさ」
「何か裏がありそうね」
「臭《にお》うんだ」
俺は鼻の穴をヒクヒクしてみせる。
ジャイスケは大きく瞬《まばた》きすると、
「うーん、いろいろ記憶を辿《たど》ってみても、確かに、君らの言うとおりかもなあ。レノがゴボウを食っていたなんて、見たことも聞いたこともないし。だいたい、奴は野菜といえばキャベツ一筋だったもの。でも、ホント、たいして美味くなかったよお。あいつはしきりに薦《すす》めてくれたんだけどさあ。自分の分をちぎって分けてくれたんだ……ホント、いい奴だったなあ」
遠い目をする。うっすらと潤《うる》んでいた。
2
レノが逝《い》って、およそ一年になる。
時がたつのは早いものだ。
レノはヒーロー的な存在であった。
犬種は柴犬《しばいぬ》。
ピンッと立った耳に、巻き尾、典型的な中型の日本犬の姿である。
全身が白くて、携帯電話のCMで人気の犬によく似ていた。
ヒーロー視されていたのは、もちろん、相応《そうおう》の伝説の持ち主だからだ。
子犬の頃《ころ》、警察と消防署に表彰《ひょうしょう》された輝《かがや》かしい経歴《けいれき》。
こんな大手柄《おおてがら》を立てたのだ。隣家《りんか》に下着|泥棒《どろぼう》が忍《しの》び入った時|偶然《ぐうぜん》にも、放火魔《ほうかま》も侵入《しんにゅう》していた。両者が鉢合《はちあ》わせをした、まさにその絶妙《ぜつみょう》なタイミングで、レノは吠《ほ》え立てたのだ。泥棒が盗《ぬす》んだばかりの大量の下着に、放火魔のライターの火が燃え移り、ふたりの現行犯はパニックの狂乱《きょうらん》。その騒《さわ》ぎに気づいた住人たちが、110番と119番に通報し、ふたりとも逮捕《たいほ》されたという顛末《てんまつ》であった。
これだけでも、レノはヒーローとして永遠に記憶《きおく》されよう。
さらに伝説は重ねられる。
レノがたしか、七歳か、八歳の成犬の頃である。
坂道を転がってくるベビーカーにでくわした。赤ん坊《ぼう》が乗ったままだ。路上の空《あ》き缶《かん》に足を取られ転倒《てんとう》した母親が、うっかり、手を離してしまったのだ。
坂道を暴走《ぼうそう》するベビーカー。
その先には、バス通りが横切る交差点。
危ない!
散歩中だったレノは、飼い主のリードを振《ふ》り切って、猛然《もうぜん》とダッシュ。驚異《きょうい》のスピードで疾駆《しっく》する。
交差点まであと数メートルのところで、レノは大きくジャンプ。そして、ベビーカーのハンドルに食らいついた。足の爪《つめ》を引きずって、ブレーキをかける。
バス通りの手前、一メートルたらずのところで止まった。
何が起きたかわからない赤ん坊はキャッキャッと笑っていたらしい。
翌日、レノのもとに、その母親がペットショップの商品券を持って、お礼に訪れた。
そして、伝説はもうひとつ。
三年前のことだ。
大雨に見舞《みま》われて、町内の川が増水していた。
レノの飼い主である、美濃和仁《みのわひとし》さんは川の様子を見に行った。齢《よわい》七十四の爺《じい》さんなのだから、そんな余計な危険は避けるべきだった。
案《あん》の定《じょう》、災厄《さいやく》に見舞われた。
足元を滑《すべ》らせて、川に落ちてしまったのだ。泥水《どろみず》の激流に呑《の》み込《こ》まれていく。
たまたま、散歩の代わりと称《しょう》して、レノが連れてこられていた。
これが幸いした。
レノは勇敢《ゆうかん》にも激流に飛び込み、美濃和さんを追った。そして、襟首《えりくび》をしっかり咥《くわ》えると、必死に犬掻《いぬかき》きで川を泳ぎ、岸辺に辿《たど》り着いたのだった。
美濃和さんは、ショックが大きかったが、水はほとんど飲んでいなかった。意識もしっかりしていた。すぐに救急車で運ばれ、翌日には元気に帰宅していた。
この時、レノは十四歳。人間ならば、七十くらい。飼い主の美濃和さんとほぼ同じである。そんな老齢《ろうれい》にもかかわらぬ活躍《かつやく》ぶりが、さらに人気をあげた。
追記《ついき》のエピソード。
美濃和さんが川で溺《おぼ》れた二日後に、孫の息子、つまり曾孫《ひまご》が生まれた。レノに救出されたおかげで、初めての曾孫の顔を見ることができたわけである。どれほど幸運であったことか。
美濃和さんが、安らかな顔で逝去《せいきょ》したのは、それから二年後である。
飼い主の後を追うように、まもなく、レノも天に旅立った。昨年の十一月二十九日のことである。享年《きょうねん》十六歳。
最後までレノの面倒《めんどう》を見ていた美濃和さんの妻・実佳《みか》さんは息子夫婦の家に移った。
現在、美濃和さん夫婦とレノが住んでいた家は消え、小さな駐車場《ちゅうしゃじょう》と化している。
昨年、レノが死んだ時、彼の名大ぶりを称えて、浮羅田《ふらだ》公園に銅像《どうぞう》が建てられた。
それが、今、目の前にあるものだ。
犬好きの有志たちの提案で、商工会が実行委員会を立ち上げてカンパを募《つの》り、町内在住のアーティストが造形を手掛《てが》けた。
完成された銅像が、ここに設置されたのは、クリスマスの日であった。
そのお披露目《ひろめ》の模様《もよう》は、地元のケーブルテレビでもオンエアされた。
もともと、レノの像を建てるにあたって、委員会サイドには町興《まちおこ》しの一環《いっかん》という思惑《おもわく》もあったようだ。
この町は、東京都の西に位置し、武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を随所《ずいしょ》に残しているらしい。らしい、というのは、昔の武蔵野のことなど俺は知らないからだ。ただ、人間たちがそう語っているのをよく耳にする。だから、そういうことなのだろう。
閑静《かんせい》な住宅街が広がり、その中に忽然《こつぜん》として畑が顔を出す。古びた一戸建《いっこだて》てと小ぶりなアパートに混じって、ニョッキリと新しい高層マンションが伸《の》び上がっていた。
緑地も多い。この公園の中心には、大きな池が広がり、川へと続いている。土手、川原、林など、散歩道に事欠かない。
そのため、犬を飼っている家が多い。
そして、町名である。
浮羅田町。
商工会は、この語呂《ごろ》から、「東京のフランダース」と呼ばせて、アピールしたがっているのだ。
人間たちにあの物語はすこぶる人気がある。理由は、泣ける、から。涙を流すことが快感で仕方ないらしい。つくづく不思議《ふしぎ》な生き物である。たぶん、自分のハートが綺麗《きれい》なのを確認したいんだろう。それだけ、人間は後ろめたい存在ということか。
あの『フランダースの犬』って、人間に付き合わされて、犬が凍死《とうし》するんだよな。迷惑《めいわく》な話だ。そもそも、たっぷり毛皮があるのに、人間を暖《あたた》めて救ってやれないなんて、まるで、無能じゃないか。リアリティにも欠ける。こっちこそ、泣きたくなってくる。
で、東京のフランダースのシンボルが、レノの銅像というわけだ。心なしか、レノの顔が引きつって見える。
そして、今、このシンボルの前に、なぜだか、ゴボウが生えていた。
人間たちも、俺たち犬と同じような会話に花を咲かせていた。レノの思い出と、ゴボウの謎について。
銅像を挟《はさ》んで、右側に俺ら犬たちとその飼い主の群れが固まっている。
反対の左側に、犬連れでない人間たちのグループがあった。
そっちの側に、デジカメのシャッターを切っている男がいた。レノの銅像とゴボウの風景を数パターン撮《と》っている。
笹賀英明《ささがひであき》というプロのカメラマンだ。
雑誌やウェブで活動しているらしい。専門ジャンルは特にないようだ。要するに便利屋のカメラマンである。
三十代半ば、切れ長の目をして、端正《たんせい》な顔立ち。しかし、どこか生気が薄《うす》くて、マネキンを連想させた。
冷たい笑みを浮《う》かべ、
「ああ、こんなもんでも、穴埋《あなう》めで買ってくれるかもしれないからな」
と言い訳めいたことをつぶやきながら、シャッターを切る。
「こんなもんで悪かったなぁ!」
と声を荒《あら》らげたのは、レノの銅像を造形した町内のゲージュツ家であった。
平泉宏次《ひらいずみこうじ》。六十代後半だろう。頭が薄く、どこかナスのヌカ漬《づ》けみたいな顔をしている。
尖《とが》った目つきで、笹賀を睨《にら》みつけていた。
笹賀はカメラから顔を上げ、
「いや、別に、銅像のことを言ったんじゃないですよ」
「じゃ、こんなもん、って言い草は何だ?」
「ゴボウですよ。場違《ばち》いな風景ってことを言ったんです。最近、変な写真がウケてるんですよ。廃墟《はいきょ》のマニアがいたり、団地愛好家とか、工場|萌《も》えとか」
「ゴボウ・マニアなんかいるのか?」
「いえ、これは、町で見かけた奇妙《きみょう》な光景ってジャンルですね」
「バカ画像とかってやつだな」
「ええ、そんな感じ、よく知ってますね」
平泉は険《けわ》しい顔をして、
「庭に置いてた俺の作品、無断で雑誌に掲載《けいさい》されたことがある」
「あ、僕じゃないですよ」
「ホントか?」
「ええ、気持ちわかりますもん。以前、うちの兄貴の工務店が手掛けた物件も、バカ画像の本に載《の》ってましたから」
「怒ってたろ」
「ええ、僕、めちゃくちゃ叱《しか》られました」
平泉はぐっと顔を突《つ》き出し、
「やっぱし、おメエが撮ったんかっ」
「だから、今回のテーマはあくまでも、ゴボウが主体ですってば」
舌をもつれさせながら、笹賀は頬《ほお》を引きつらせた。
平泉は口をひん曲げ、
「ゴボウか。ホントに、ゴボウ・マニアがいるのかもしんねえな。せっかくの俺のケッ作によけいなことしやがってよお。ゴボウなんざ植えて、美的センスってもんがねえのかな。せめて、花くらい供えてくれりゃ、絵になるのに」
そう言って、眉間《みけん》に深々と皺《しわ》を刻《きざ》む。
この平泉という男、アーティストを自称《じしょう》しているが、それだけで食ってるわけではない。いや、食えない。もともと婿養子《むこようし》であり、女房がやっているアパート経営が主な財源である。
それでも見栄《みえ》を張るように、作務衣《さむえ》なんかを着て風流をきどっていた。晩秋の空気が冷えるらしく、ダウンとスニーカーを身に着けているのが情けない。
平泉の憤《いきどお》りに同調するように、初老の男が頷《うなず》き、
「そうですね。それに、レノちゃんはキャベツが好きだったんだから、やっぱり、お供えなら、キャベツにすべきですよね」
この男は、桐塚史郎《きりづかしろう》という。今年の春、定年退職してセカンドライフを楽しむ身分。
しかし、よっぽど激務の社員生活だったのか、病人のように痩《や》せ細り、頬がこけていた。声も蚊《か》のように弱々しい。ただ、奥目がちの瞳《ひとみ》は優しそうだった。
傍《かたわ》らには、女房の久子《ひさこ》が付き添《そ》っていた。目が細く、色白で、老けた雛人形《ひなにんぎょう》を連想させる。
桐塚の言葉に、アーティストの平泉は肩《かた》をすくめ、
「ああ、キャベツのグリーンなら、配色がまだマシだな」
「ええ、きっと、銅像も喜ぶはず」
「まったく、ゴボウじゃ、線香の代わりにもなんねえ。せっかく、苦労して作ったってのによぉ」
「生前のレノちゃんの特徴《とくちょう》をよく捉《とら》えていますよね、力作です」
平泉は鼻に皺を寄せて、
「けっ、こちとら、ふだんは仏サマヤ神サマを彫ってんだよ。なのに、たかが、犬っころの像なんか作らせやがって」
「でも、ただで引き受けたそうじゃないですか」
「どうせ、たいしたギャラなんざ期待できないってわかってたからだよ。せいぜい、材料費になるかどうかってくらいじゃ、もらったって仕方ねえだろ」
「意気というものですね」
「プライドってやつだよ。なんせ、たかが、犬っころの像だもんな」
「そんなこと言って、平泉さん、レノちゃんのこと、とても可愛がっていたじゃないですか」
「知るかよ」
「知ってますよ。いつかなんか、この公園で、散歩してるレノちゃんに、キャベツの切れっ端《ぱし》をあげてたじゃないですか。あれ、わざわざ家から持ってきたんでしょ」
桐塚がそう言うと、夫人の久子も、
「あら、私も見ましたよ」
と色白の顔をほころばせる。
平泉は不機嫌《ふきげん》そうに、そっぽを向いて、
「ああ、ちょうど女房とケンカしてよ、犬もくわねえ夫婦喧嘩って洒落《しゃれ》のキャベツで……うるせぇってんだ」
わけのわかんないことを言って、照れくさいのをごまかしていた。
桐塚はレノの像に視線を移し、
「本当にかわいい犬だったなぁ」
「おりこうさんでしたしね」
夫人が細い目をさらに細める。
「それに、勇敢な犬だった。やっぱり、飼うならこういう日本犬がいいかなあ」
桐塚夫妻は近々、犬を飼うつもりらしい。
特に、亭主《ていしゅ》のたっての希望のようだ。それで、どんな犬種がいいのか迷っているところであった。いろいろな人に訊《たず》ねて回って、情報を集めていた。
夫人はため息をついて、
「昨日は、ディズニーのアニメにもなったダルメシアンがいいと言ってたし、一昨日は朝のテレビで見たフォックステリアが気に入ってらしたじゃないの」
「うーん、迷うんだよな」
「ホント、昔から優柔不断《ゆうじゅうふだん》なのは変わらないんだから」
「いいじゃないか。リタイアして時間はたっぷりあるんだから」
「じゃ、お好きなだけ悩《なや》みなさい。悩むのはあなたの趣味《しゅみ》のようなものなんだから」
馴《な》れた口ぶりで、軽くあしらう。
亭主の桐塚は額に手を当て、
「そう言われてしまうと、迷うのが辛《つら》くなってくる」
「勝手なんだから」
「やっぱし、レノちゃんみたいな日本犬かな。ちょうど、家の前にこの銅像があるのも何かの縁《えん》だし」
そう、公園の塀《へい》のすぐ向こうに桐塚夫妻の自宅があった。窓を開けると、レノの頭が間近に見えるロケーション。庭付きの二階建てで、ふたりだけで住むにはちょっと広いかもしれない。
「そりゃ、レノみたいな優秀な番犬を飼うのが、安心ですよ」
そうアドバイスしたのは、二十代後半の若い男だった。
久保勉《くぼつとむ》。
彼はレノの飼い主であった美濃和さんの孫に当たる。三人の孫のうちもっとも年下で、唯一《ゆいいつ》の気楽な独身。純和風の顔立ちだった美濃和さんにはほとんど似ていない。色黒で、目がギョロつと大きい。失敗したラテン系という感じ。暑苦しい雰囲気《ふんいき》を漂《ただよ》わせている。
口ぶりもやけに力んでいて、
「犬も人と同じく働いてこそ、存在価値があるというものです。きっと、彼らもそう望んでいるはず。レノはまさにその典型でした」
桐塚は気圧《けお》され気味に、
「はあ、そういうものでしょうか?」
いぶかしげに瞬《まばた》きを繰《く》り返す。
久保は毅然《きぜん》とした口調《くちょう》で、
「はいっ、そういうものなんです、断然に。犬は仕事をして、その功績《こうせき》を、人間に認めてもらうのが何よりも幸せなんです。人と犬の関係は一万年も前からそうだったし、そうであり、そうありつづけるべきなんです。レノは実によく働いていました。老犬になってからは室内飼いでしたが、それでも番犬の仕事をちゃんと果たしていたし」
「レノちゃんはホントに立派でしたね。私ら人間が学ばなきゃならないくらいに」
「犬もまた、それを飼い主に求めています。自分にふさわしい主人であれ、と」
「なるほど、それが、あなたのお爺様とレノちゃんの絆《きずな》だったんですね」
「犬は飼い主に似ると言います。つまり、犬は飼い主の鏡と言えるでしょう。その逆もまた然《しか》り。お互《たが》いに尊敬しあう仲でなければなりません」
若いほうが説教している、妙《みょう》な光景であった。
桐塚夫人が口を挟んで、
「久保さん、あなたは、犬、飼わないの?」
「飼いません。飼ったこともありません。鏡の中の自分を見たくありませんから」
「ああ、犬は飼い主の鏡ね」
「ええ、私は税理士《ぜいりし》です。税理士みたいな犬は嫌《いや》でしょう」
「え、まあ……」
返答につまる。
亭主のほうが首を傾げて、
「税理士、お嫌《いや》なんですか?」
「仕方なくやってるだけです」
と、久保はきっぱり答え、
「私にだって、なりたいものがありました」
「え、何に?」
「本当はバックダンサーになるのが夢だったんです。いろいろトライしてみましたが、才能のなさを悟《さと》りました」
「それで、税理士に」
「挫折《ざせつ》の結果です。だから、よけいに税理士のような犬を見るのが辛い、ああ」
失った夢を追うように、その場でステップを踏《ふ》んでみせた。
税理士のダンスを、桐塚は呆然《ぼうぜん》と見ながら、
「私は文具メーカーの総務部長だった。すると、やはり、総務のような犬……」
「ええ、総務なら福利厚生《ふくりこうせい》や、備品の管理、社屋のセキュリティなどが仕事、ですね?」
「はあ、そうですが、いろいろとあって……。総務のような犬って、どんな犬になってしまうんだろう?」
困惑《こんわく》の表情を浮かべる。今にも頭を抱《かか》えて、その場に蹲《うずくま》りそうだった。悩みをこじらせたらしい。
久保は塀の向こうを指して、
「あそこ、桐塚さんちのふたつ隣《となり》の家、泥棒に入られたことあるでしょ」
「ええ、浜谷《はまや》さんの家、今年の正月明け早々にね。奥に土蔵《どぞう》があって、ふたり組の泥棒が押し入ろうとしたところを、見つかって、逮捕されたんでしたっけ」
「土蔵の中にいろいろと高価な美術品があったとか。たしか、事件の三日後、浜谷さん、引《ひ》っ越《こ》しされたんですよね」
「はい、当初からその予定だったんですよ。かなりのお歳で、息子さん夫婦の家に同居することになっていましてね」
「土蔵の中のお宝も持っていくことになってたんでしょ?」
「ええ、だから、その前に、泥棒が狙《ねら》ったわけですよ。奴らには運の悪いことに、犯行の夜、息子さん夫婦が泊《と》まりに来ていたんです」
「引っ越しの荷造りの手伝いですね」
「そう。古い家なので整理が大変だったらしくて」
「たしか、息子さん夫婦、犬を連れてきていたでしょ」
「そうなんですよ。秋田犬《あきたけん》を。それで、泥棒は吠え立てられたんですよ」
久保は人差し指を突き出し、
「ほら、やはり、番犬がいると安心でしょ」
「ええ、そのことも、犬を飼おうと思った動機のひとつで」
そう言うと、レノの銅像を憧憬《しょうけい》の眼差《まなざ》しで見つめた。
すると、横から、自称アーティストの平泉が、
「まあ、これくらいの犬ともなると、そのぶん世話が焼けるもんだぜ。いろいろと面倒くさいしな」
「飼ってらしたんですか?」
桐塚が問うた。
「ああ、昔な。柴犬を」
「やっぱし、平泉さん、なんやかんや言いながら、犬が好きなんですね」
「女房がどこからか勝手にもらってきただけだよ」
「でも、面倒くさいって、それは、平泉さんが可愛がってらしたからでしょ」
「創作活動の気分|転換《てんかん》にちょうどよかったんだよ」
「そのワンちゃんが忘れられないから、今は飼っていないんですね?」
「面倒くせえから、二度と飼わねえんだったら」
心なしか目が潤《うる》んでいた。それをごまかすように声を荒らげて、
「柴犬みたいな中型犬クラスでも、一日二回の散歩、けっこう体力がいるぜ」
「朝と晩ですか」
「雨の日も雪の日も、毎日な」
桐塚は自分の細い腕《うで》に目をやり、
「……うーん」
自信なさそうに唸《うな》る。
平泉はフンッと鼻を鳴らし、見下した顔になる。
そこに、笹賀がクールな口調で、
「ほら、だから、こないだもお勧《すす》めしたでしょ。カメラマン仲間で、ポメラニアンを飼ってる奴がいて、近々、子犬が産まれるんですよ。だから、話をしておきますったら」
そう言って、そよ風のように微笑《ほほえ》みを送る。
すると、若い久保が突風《とっぷう》のような口調で割り込み、
「ポメラニアンもそうだけど、マルチーズとかチワワとか、ちつこいのじゃ番犬としてたよ頼《たよ》りにならんでしょ。他のことでも、たいして役に立ちそうにもないし」
鋭い舌鋒《ぜっぽう》で反駁《はんばく》した。
ふと、俺は耳のそばに殺気を感じる。
チワワのポーリーが久保勉に矢のような視線を飛ばしていた。
3
朝の散歩から戻《もど》り、水で喉《のど》を潤《うる》おす。
この一杯《いっぱい》がたまらない。
アルマイトの碗《わん》に舌を入れて、水をかっこむのだ。
渇《かわ》きを癒《いや》すだけではない。犬は汗《あせ》をかかないので、こうして、散歩で暑くなった身体をクールダウンさせるのだ。
むさぼるように飲む。
ちなみに、スコップで土を掘《ほ》るように、舌の上に水をのせて、口に送り込むのではない。
よく見ているがいい。
舌の裏側で水をかいて、口に入れているのだ。
これが俺たちの飲み方だ。
たいていの人間たちは誤解したままである。
うちの宇郷真平《うごうしんぺい》さんも、たぶん、そうだろう。
妻の紗織《さおり》さんも、だ。
ふたりは、小さな木造の一戸建《いっこだて》てに住んでいる。二階と狭《せま》い庭があるが、貸家だ。
その狭い庭の玄関|脇《わき》に、俺の住居の小屋が置かれていた。
ふだん、コンクリート敷《じ》きに打たれた鉄輪に、俺はつながれている。それでも、長めのリードのおかげで不自由は感じない。狭い庭だし、充分《じゅうぶん》に隅々《すみずみ》まで届いてしまうのだ。これ以上リードが長くても絡《から》まって困るだけだろう。
そうした状態で、番犬の任についている。
まあ、盗《ぬす》まれるほどの財産はないようだが。
さっきも言ったように、真平さんは翻訳家《ほんやくか》である。だから、たいてい家に籠《こ》もっている。
奥さんの紗織さんも仕事を持っていた。
商品のパッケージやウェブサイトを手掛《てが》けるデザイナーである。真平さんと同じく四十代半ば。
彼らには、一男一女の子供がいるが、すでに社会人となって独立していた。
ということは、わりと若い時分に結婚したわけだ。たしか、紗織さんが短大を卒業した時には、お腹に長女がいて、それで、すぐに夫婦の籍《せき》を入れたという。
ずいぶんと慌《あわただ》しく二十代、三十代を駆けぬけたようだ。今、ふたりがのんびりと暮らしているのは、きっと、その反動である。
俺の里親となったのも、そうした背景があったからだろう。
散歩から戻った時、ちょうど、紗織さんは門のそばのプランターに如雨露《じょうろ》の水を注いでいた。オオバとミツバとパセリ、いずれ食卓にのぼるものだ。しっかり者の奥さんである。
ショートカットの髪が似合う丸顔で、少年のように溌剌《はつらつ》としている。しゃべると大きな笑窪《えくぼ》ができる。怒ってもできる。とても愛嬌《あいきょう》に満ちた顔立ちだった。橙色《だいだいいろ》のスウェットにジーンズの上から、グリーンのエプロンをしている。
如雨露を傾《かたむ》けながら、
「あ、さっき、南条《なんじょう》さんから電話あったわよ」
「南条さんって、南条先生のこと?」
「そう。整体の」
整体師の南条克人《なんじょうかつひと》のことらしい。町内の友人であった。
以前、真平さんが、運動不足がたたってギックリ腰《ごし》になった際に、世話になって以来の付き合いである。
「何だろう?」
真平さんが首を傾《かし》げる。
紗織さんが答える。
「万年筆よ」
「え、何?」
「あなた、覚えがないの?」
と呆《あき》れ顔をして、
「万年筆、なくしたでしょ」
「えっ? あ、そういえば」
右の耳に手をやり、
「ないっ」
「今頃《いまごろ》、気づいたの?」
「う、うん……どうしたんだろ……、朝、起きてから、ちょっとゲラを見て、使ったんだから」
原稿《げんこう》を校正する際に、いつも、赤インクの万年筆を愛用していた。
「そうよ。そして、朝食の時には、耳にさしていたわね」
それが癖《くせ》だった。真平さんは頭に手をやり、黒目を上に向けると、
「じゃ、なくしたのは、その後……というと、ワン歩《ぽ》」
犬と散歩することを、この夫婦は、ワン歩と呼んでいる。
紗織さんは頷《うなず》いて、
「アローとワン歩に行ったでしょ。その時に、公園で落としたのよ、きっと」
「そうなのか?」
「んもう、自分のことじゃないの」
「そうだよな」
「で、万年筆を、偶然《ぐうぜん》、南条さんが見つけて、拾ってくださったの。ネームが彫りこんであるから、きっと、あなたのだろうって」
「さっきの電話って、その件?」
「もちろんよ。もう少ししたら、戻ってきますって伝えておいたわ」
「じゃ、受け取りに伺《うかが》わなきゃ」
「南条さん、後でこちらに寄ってくださるって」
「ああ、先生もワン歩の途中《とちゅう》か……。あの人、携帯」
「持ち歩かないでしょ、ワン歩の時はね。落ち着かないからって。あなたと同じよね。だから、公衆電話《こうしゅうでんわ》からかけたんでしょ」
「そうか。じゃ、仕方ないな。待ってるとしようか」
と言って、あくびを漏《も》らす。
「待ってる間に、玄関《げんかん》の掃除《そうじ》でもしたら」
ほぼ命令形で、紗織さんがアドバイス。もっともなご意見である。俺も賛成。
やがて、竹箒《たけぼうき》の音が軽やかな音をたてて、落ち葉が集められてゆく。
イチョウとカエデが混じってカラフルだ。
犬は色彩《しきさい》が判別できないという説があったが、あれは誤解もはなはだしい。最近、ようやく、根拠《こんきょ》のない俗説《ぞくせつ》であると、人間たちにも浸透《しんとう》しているようだ。
十五分ほどして、門の隅に落ち葉の山ができた頃、待ち人がやってきた。
「なんだか、出迎《でむか》えてくださったみたいで、照れますね」
そう言って、南条先生は陽気な笑みを浮かべた。
五十代半ばで、大柄《おおがら》な体躯《たいく》をしている。さすがに姿勢がいい。よすぎるくらいだ。
全体に四角っぽい印象である。畳《たたみ》のような身体に、下駄《げた》みたいな顔を乗っけた感じだった。
「これがなければ、仕事にならんでしょ」
そう言って、ジャケットのポケットから万年筆を取り出した。
長年使い込んで、シルバーの表面が褪《あ》せていた。パーカーというメーカーのものらしい。ホルダー部分が矢の形をしている。ここにも、アロー、だ。
真平さんは深々と頭を下げて、
「いや、本当にありがとうございます。助かりましたよ。しかも、わざわざ持ってきていたいただいてしまって、恐縮《きょうしゅく》の至《いた》りです」
礼の言葉を連《つら》ねる。感謝の気持ちが川の流れのように抑《おさ》えきれないらしい。
そして、両手を差し出すと、恭《うやうや》しく万年筆を受け取った。何かの表彰式《ひょうしょうしき》みたいだ。
あまりの歓待《かんたい》ぶりに、南条先生のほうがかえって困惑《こんわく》していた。四角い顔を赤らめながら、
「いえいえ、そんなご丁寧《ていねい》に、恐縮です。正直申し上げれば、それ見つけたのは私じゃないんですから」
「え?」
「実際に見つけたのは、こいつです」
そう言って、足元を指差した。
先生には連れがいた。
犬である。
俺の顔見知りだ。
純血の柴犬《しばいぬ》。
名前はボンタ。骨(Bone)が強くなるようにと名づけられたらしい。飼い主が整体師だけある。
ボンタは、まだ子犬だった。九カ月と聞いている。人間の年齢《ねんれい》に直せば、十四歳くらい。青春真っ盛りといったところ。
俺よりちょっと小柄だが、数カ月で追いつくはずだ。筆のように滑《なめ》らかな巻き尾、ピンッと立った耳、全身は赤茶色でつやつやしている。口吻《こうふん》のあたりだけ、まだ黒い毛が残っているが、まもなく消えるだろう。
初めてうちに来たせいか、好奇心《こうきしん》で目がキラキラしていた。
そんなボンタを見下ろして、真平さんが、
「そうか、君が万年筆を見つけてくれたのかい。ありがとう。イイ子だね。よしっ、お礼に」
と、ブルゾンのポケットから、ビーフジャーキーを取り出した。散歩中の俺のオヤツである。
ボンタは黒く濡《ぬ》れた鼻をひくひくとさせると、すぐさまオスワリした。尻尾《しっぽ》がスウィングしている。右に小さく、左に大きく。
「あ、お利口だね」
真平さんがビーフジャーキーを差し出す。
ボンタは首を伸《の》ばし、ペロリと舌ですくいとって口に入れた。夢中で咀嚼《そしゃく》する。幸福に表情を輝《かがや》かせていた。
うっかり、俺は涎《よだれ》を垂らす。仕方ないだろ。本能というやつなんだから。
こっちに気づいて、紗織さんが真平さんのポケットに手を入れる。
俺もオスワリのポーズをして、紗織さんの手からビーフジャーキーをもらった。
まあ、ボンタの相伴《しょうばん》にあずかったわけだ。何であれ、美味いものは美味い。腹の底から歓喜《かんき》がこみあげてくる。
真平さんと紗織さんが、
「あがって、お茶でも」
と勧《すす》めると、南条先生は手を振《ふ》って、
「いや、もうここで」
「まあまあ」
「いえいえ」
こんなやりとりを繰《く》り返す。
挙句《あげく》、延々と玄関前で立ち話に花が咲くのであった。
人間の作法というのはややこしい。
こちら、犬も暇《ひま》なので、俺とボンタは世間話《せわばなし》なんぞを交わす。正確に表現すれば、バウスを交わし合っていた、ということ。
「アローさんも、柴犬?」
「半分くらいは、な。いわゆる雑種。柴犬はおふくろのほうの血だ」
「お母さんは、どこにいるの?」
「さあな」
生まれてまもない頃、三匹の兄弟犬とともに、甲府《こうふ》の山中で、おふくろの帰りを待っていた。おふくろは餌《えさ》を採取に出かけたのだった。夏の日の夕方で、激しい雷雨《らいう》に見舞《みま》われた。俺たち子犬はパニック状態。でたらめな方角へと駆けていった。あっちこっち山の中を走り回り、道を失う。結局、迷子になってしまった。以来、おふくろに会うことは二度となかった。
翌朝になって、俺たち兄弟が里に降《お》りていったところを、地元の住人に保護されたのである。
そして、その家から、四匹はそれぞれ里親にもらわれていった。
俺は東京の真平さん夫婦のもとに引き取られたわけである。
そんな経緯《けいい》を聞かせてやると、ボンタはすまなそうに頭を垂れて、
「ごめんなさい。辛《つら》いことを思い出させちゃったね」
「なーに、今さらってことよ。親父の顔なんか一度も見たことないし。おふくろも詳《くわ》しい話はしちゃくれなかった」
「その白い模様《もよう》」
「ああ、これが、親父の形見のようなもんだろう。純血の柴犬にはないからな。お前には、こんなふうな模様は出てこないはずだ。血統書《けっとうしょ》付きだから」
「血統書って、何だか重荷《おもに》だよ」
「まあ、犬にとってはどうでもいいことだからな。人間たちだけだよな、ありがたがるのは」
「ありがた迷惑《めいわく》、って言うのかな、こういうのも。名前がもうひとつあって、ややこしいし」
「らしいな。血統書用に、正式名ってのがあるらしいな。お前は?」
「竜雅連星号《りゅうがれんせいごう》」
「なんか、大仰《おおぎょう》だな」
「でも、そんな名前で呼ばれたこと、一度もない。いつも、ボンタだよ」
「極端《きょくたん》に違うよな」
「うん、血統書付きのボンタ、って何かキマらない」
「言えてる。ギャップが大きくて、ほとんどギャグだな」
「笑わないでよ。ウケ狙いじゃないんだからさ。それに、血筋にふさわしくって意識すると疲れちゃうし」
「ああ、由緒《ゆいしょ》ある日本犬らしく、ってか」
「そんな感じ。今朝だってさ……」
憤然《しょうぜん》と下を向く。いじけたふうに鼻がクゥンと鳴る。巻き尾が垂れてゆく。
俺は促《うなが》すように、
「今朝、何かあったのか?」
「う、うん」
と小さく頷くと、躊躇《ためら》いがちに、
「あのさ、アローさん、お願いがあるんだよ。助けてほしいんだ」
「ん、なんだ? 唐突《とうとつ》に言われても、何をどう助けていいか、わかんねえな」
「ゴボウのことなんだよ」
「ゴボウ? ゴボウといや、あれか、レノの銅像《どうぞう》の前に生えていたやつ?」
「そう。あのゴボウさ。どうやら、うちの畑から引っこ抜《ぬ》いてきたものみたいなんだ。昨日の夜、誰かが盗んで、公園に持っていって、あそこに植えた」
「ゴボウ泥棒か。それにしても、わけのわかんないことする盗《ぬす》っ人《と》だな」
「そう。うちの南条先生も首をひねっていた」
立ち話の表中の飼い主にちらっと目をやり、
「朝、畑の手入れをしていた時、引っこ抜かれていることに気づいたらしい。そして、さっき、散歩してたら、公園でゴボウ騒《さわ》ぎ」
「なるほど、お前んち、公園まで数分の距離《きょり》だもんな。ゴボウ泥棒に狙《ねら》われたわけか」
「犯行目的はわかんないけど」
「ん、お前んち、庭の真ん前に畑があるんだよな」
「う、うん」
「で、たしか、お前の犬小屋は、畑が見える位置にあったな」
「……うん」
「お前、泥棒の顔、見えるはずだよな?」
「そ、そうなんだけど……」
「見なかったんだな」
「……うん」
「ひょっとして、気づかなかったのか?」
ボンタはうなだれるようにして頷いた。俺は鼻からため息混じりに、
「あのな、柴犬といえば番犬だろ。外飼いなら、なおさらそうだ」
「う、うん、わかってる。だから、自分が情けなくってさ。僕の務めなのに」
「務め、っていうもんじゃないよ。感謝さ」
「感謝?」
「そう。たとえば、俺もこうして番犬やってる。それは、真平さん夫婦に一宿一飯《いっしゅくいっぱん》の恩義《おんぎ》があるからさ。恩義がずっと毎日、続いている。それで、生きてこられた。だったら、感謝する。返礼だよ」
「番犬とは返礼?」
「そう、犬の種類によって、それぞれ感謝の形は違う。孤独《こどく》な人の話を聞いてやったり、子供の遊び相手になったりとか、犬によりけりさ」
「みんな、感謝を表現しているんだね」
「それが筋《すじ》ってもんだろ」
「じゃ、僕も筋を通したいよ」
「そうあるべきだな、それが犬の道ってものだ」
「汚名《おめい》を返上したい」
「汚名って、ゴボウ泥棒の件な。あ、盗みの現場、見逃《みのが》したのは、寝てたからか?」
「ううん、違う」
「起きてた? ほう、なのに、どうして?」
ボンタは恥《は》ずかしげに、
「興奮してたんだよ」
「ん、女か。見かけによらず早いな」
「ち、違うよ。サイレンだよ」
「サイレン?」
「うん、僕さ、サイレンの音を聞くと、なんか不安が高まってきて、パニックになっちゃうんだ。で、我を忘れたみたいに、飛んだり跳《は》ねたり走り回ったりする」
「まあ、苦手な音ってあるよな」
俺たち犬は聴覚《ちょうかく》が敏感《びんかん》なぶん、そういうふうに生まれついている。雷《かみなり》はほとんどの犬が苦手だ。俺も例外ではない。あと、犬によっては、バイクとか、スケボーとか、いろいろ苦手なものがある。
ふうんと俺は頷き、
「そうか、お前の場合はサイレンか」
「うん、昨日の深夜、街道のほうで事故があったみたい。それで、サイレンがたくさん鳴り響《ひび》いていた」
「で、お前、パニックになっちまったか」
「うん、庭を走ったり跳ねたり、頭ん中、爆発《ばくはつ》してるみたいな感じだった」
「そうか、ちょうど、そんな時に、畑からゴボウが持っていかれたのか」
「う、うん……。しかも、あとで庭にキャンディが落ちてるの見つけた。犯人が投げ込んだみたい」
「ゴボウを盗むのに、お前の気をそらすためか。それにも気づかなかった」
「……うん」
「よっぽどパニクってたんだな。で、そのキャンディ、後で、食ったのか?」
「う、うん、甘いミルク味だった……。情けないよ、自分が」
か細いバウスとともに、ボンタはうなだれた。
俺は半分呆れながらも、
「まあ、運が悪かったな」
「また笑われちゃうよ。前にも、サイレンで興奮して暴《あば》れているの、見られて笑われたことあるんだ」
「犬にも意地の悪い奴っているもんさ」
「そいつらったら、僕のこと、まるでホットプレートの上で熱くて暴れてるみたいだ、って言ってさ、ホットドッグなんて呼ぶ」
「食えねえホットドッグだ」
「悔《くや》しいよ。だ、だから、汚名を返上したいんだよ」
「なるほどな」
「だからさ、アローさん、お願いだから、協力してよ」
「ん、協力って?」
「ゴボウ泥棒を見つけて、仕返ししてやるんだ」
「探偵の真似事《まねごと》か」
「僕、聞いたよ、アローさんのこと。前に、神社の密室ハトポッポ事件とか、商工会のダルマ破裂事件の解決に貢献《こうけん》したって」
「余計なこと知ってやがる」
「シェパードのウォッチ爺《じい》さんや、バセットハウンドのリキューさんに、さっきアドバスされたよ。アローさんに事件を依頼《いらい》したらいいってさ」
「おせっかいなやっちゃ」
「だからさ、協力してくれるよね」
俺は舌を伸ばして、口の端《はし》で舌打ちすると、
「なんで、お前の汚名返上のために、俺が面倒《めんど》くさいことしなきゃなんないんだよ。ホットドッグって言われたくらいで、ウジウジしやがってさ。そんな世間体《せけんてい》なんか気にすんなよ。悪口なんて、ほっときゃ、いいんだよ」
「時間がないんだ」
「時間が?」
「うん、もうじき、僕んち、引《ひ》っ越《こ》すんだよ。南条先生の仕事の都合でさ」
そういえば、さっき、人間たちの立ち話でもそのことに触れていたっけ。
水戸《みと》という遠い町に、整体師の養育センターができて、南条先生は指導員を引き受けることになったらしい。
「だからさ、僕もまもなく、この町を去らなきゃいけない。でも、ホットドッグって言われたままじゃ嫌《いや》だよ。泥棒に気づかなかった、そんな情けない犬ってみんなに思われたままじゃ」
「まあ、気持ちはわからないでもないけどな」
俺は心が揺《ゆ》らぐのを感じていた。
ボンタは訴《うった》えるように、また、ちょっぴり悪戯気《いたずらげ》に、
「あのさ、アローさんの飼い主さん、すごく喜んでいたよね。万年筆のこと」
おっ、そうきたか。
俺は思わず笑みがこぼれる。
「なるほどな、突《つ》いてきやがったな。真平さんの感謝は、俺の感謝か」
「アローさん、言ってたよね。返礼は大切だって」
「ああ、恩義には応えるものだ」
「それが、筋だよね」
俺は鼻からフッと息を吐いて、
「けっ、見かけによらず、ちゃっかりしてやがる。仕方ねえな」
「えっ、じゃ、引き受けてくれるの。やったあ!」
ボンタは口を開いて、舌をひらめかせる。喜びに顔を輝かせていた。濡れた鼻が黒々と艶《つや》を帯びる。
尻尾をさかんに振っていた。右に小さく、左に大きく。こいつの癖らしい。
俺は眼差《まなざ》しを固くして、
「おい、そんなに何度も何度も尻尾を振るな。安く見られるぜ」
「え、そ、そうなの?」
意外そうに瞬《まばた》きする。
俺は強いトーンのバウスを飛ばして、語った。
「犬の掟《おきて》、知らねえようだな」
「掟?」
「俺たちがこの世の中で、犬としての誇《ほこ》りを持って生きていくための心掛けみたいなもんさ。犬法《けんぽう》って呼ぶ奴もいる」
「犬の掟か。むやみに尻尾を振らない、今のがひとつだよね」
「ああ、そうだ。ついでに、尻尾のことで」
「何?」
「犬の掟。ひとつ、自分の尻尾を追っかけるな」
「くるくる回っちゃうことってあるよね」
「ありゃ、みっともない。それに、隙《すき》だらけになる」
「わかったよ」
素直に頷いた。
俺はもうひとつ言っておく。
「あとな、ビーフジャーキーもらう時、オスワリしたよな」
「えっ、いけないの?」
「いや、いいんだ。ああいう時は、オスワリをするもんだ。それはいい。ただし」
「ただし?」
「オスワリしても、もっと胸を張れよ」
「それも、掟?」
「ああ。犬の猫背はみっともないぜ」
4
俺の散歩は、一日に二回。
朝と夕方。たいてい、いつも、真平《しんぺい》さんと一緒だ。
時々、紗織《さおり》さんもついてくる。
ごくたまに、真平さんが仕事等で都合の悪い場合は、紗織さんが担当する。
本日の夕刻は通常どおり。人も犬も、野郎だけの散歩。
季節によって、若干《じゃっかん》、時間帯が違《ちが》う。
十一月二十五日、今の時期は、五時|頃《ごろ》だ。西に陽が沈《しず》みかける時間帯を選んでいる。
今日は一日中、晴れていたので、夕暮れの風景も鮮《あざ》やかだった。イワシ雲がシルエットで浮《う》かび上がり、その輪郭《りんかく》が茜色《あかねいろ》に彩《いろど》られている。ゆっくりと夕闇《ゆうやみ》が降《お》りて、黄昏《たそがれ》の空にカーテンを引くようだった。
夕方の散歩コースは朝と異なる。距離《きょり》も少し短い。
そして、今日は、寄り道をした。
カフェ「バスカビル」。
商店街のメインストリートから折れた路地にその店はあった。
日中は喫茶店《きっさてん》、夜はパブハウスとして営業している。
ここは、犬を連れて入れるのが、大きな特徴《とくちょう》であった。愛犬家たちに重宝《ちょうほう》されている。
板張りの床《ゆか》に、煉瓦《れんが》模様《もよう》の壁《かべ》。イングランドの田舎《いなか》の居酒屋を意識した内装らしい。鈎型《かぎがた》のカウンターと、五つのテーブル席が設けられている。入り口側はすべてガラス張りで、日没《にちぼつ》の町並みが浮かび上がって見えた。
入り口のドアを開けると、吊《つ》るされたカウベルが鳴る。
中途半端《ちゅうとはんぱ》な時間のせいか、三割ほどの客入りだった。
犬の先客は二匹。
お互《たが》いに目礼を交し合う。
真平さんはテーブル席につくと、ショルダーバッグからゲラの束を取り出して、広げる。時々、こうして仕事場に利用するのだった。落ち着くらしい。
オーダーしたアイリッシュティーを、店主の稲元信行《いなもとのぶゆき》がそっと置く。
真平さんは原稿《げんこう》に目を向けたまま、左手をカップに伸《の》ばす。右手は万年筆を動かし、赤字を入れていた。
見慣れた光景。
稲元は髭面《ひげづら》に柔《やわ》らかい笑みを浮かべた。
このマスター、小太りで、信楽焼《しがらきやき》のタヌキを連想させる。三十代半ば。エプロンの丸い腹は店の英国ビールの賜物《たまもの》だろう。
また、料理の腕前《うでまえ》も評判がいい。自分でも美味《うま》いと言いながら食っているのを何度も見かけた。今に樽《たる》のようになって店の一部に同化するのだろう。
俺の前にはプラスティックの容器が置かれた。オーダーしてもらったミルク。俺はオスワリの姿勢で、ありがたく頂戴《ちょうだいい》する。
いつものように、マスターの稲元は俺の頭をクシャクシャと撫《な》でた。犬好きであることが伝わる優しい感触《かんしょく》だ。
ミルクはアルコール抜《ぬ》き。
まあ、俺はほとんどアルコール類を口にしないが。たまに、酔《よ》っ払《ぱら》った真平さんの手のひらからビールをもらう。あれはわりと好きだ。美味いというのではなく、刺激《しげき》が楽しい。鼻がくすぐったくて、クシャミが気持ちいいのだ。夏なんか涼《すず》しい。
しかし、今はミルク。
俺はストイックに舌を白くする。
う、美味い。美味すぎる。至福《しふく》のひととき。
容器の底には犬の足跡《あしあと》の模様が描《か》かれていた。
顔を上げ、あらためて店内を見渡《みわた》す。
カウンター席に、桐塚史郎《きりづかしろう》の姿を認めた。
今朝、どんな犬を飼おうかと迷いに迷っていた初老の男だ。定年退職すると、よっぽど暇《ひま》らしい。
また、同じ話題を繰り返している。
どんな犬種がいいんだろう?
カウンター越しに、マスター稲元に相談している。なるほど、稲元なら犬好きであり、こうした店を経営しているのだから、詳《くわ》しいはずだ。
「なあに、住めば都というように、飼えば我が子ですったら。どんな犬でも、面倒《めんどう》見るようになれば可愛いもんです」
と稲元は大らかな口調《くちょう》で語る。
「はあ、そういうもんですか」
と桐塚は頷《うなず》きながらも、
「けど、特にお勧《すす》めってあるでしょ?」
「ないっすね」
あっさりと答えた。
「ない?」
「ええ、何でもいいんじゃないっすか。どのワンちゃんも可愛いし」
「ええ、まあ。だけど、その中でも、マスターが個人的に好きな犬種は?」
「全部ですよ」
また、あっさりと答える。
「全部?」
「そう。どんな犬でもいい。どれか、って言われても選べない。だから、自分じゃ飼えないっすよ」
「やっぱり、迷いますよね」
「そう、そんなだから、俺は飼ってない。迷うばかり」
「で、この店を?」
「そういうことっす。いろんな犬に会えるようにね。幸せな迷い方を続けているわけ」
マスター稲元はそう言って、静かに笑う。
桐塚は両のこめかみに拳《こぶし》をグリグリ当てながら、
「迷うのも楽しみのひとつか……。でも、飼いたい、迷えば飼えない、ああ、なんだか、迷いがこんがらがっていくようだ」
子犬が多すぎて、オツパイの数の足りない母犬のような困惑顔《こんわくがお》になっていた。
対照的に、マスター稲元は軽い口ぶりで、
「まあ、何でもいいじゃないっすか。選べないんだったら、ワンちゃんの雑誌でもパラパラってめくって、目えつむったまま、指さしてみりゃいいでしょ」
「その犬を飼う?」
「はい」
「いやあ、それじゃ、あまりにも……。なんか、理由がほしい……」
「ったく、だから、団塊《だんかい》の世代は理屈《りくつ》っぽいって言われるんですよ。じゃ、理由とはいかないまでも縁《えん》とかだったら、どうっす?」
「縁って?」
「ええ、ここの常連さんのひとり、南口に住んでる人なんですけど、もう少ししたら、コリーの子が生まれますよ。話、しておきましょうか?」
南口のコリーで、妊娠中といえば、たぶん、エルザのことだ。もう、そんなにお腹が大きくなっていたのか。そろそろ、お祝いを考えなくつちゃ。
マスター稲元は続けて、
「純血の交配らしいから、きれいな子犬が生まれるはずですよ」
「ふーん、コリーね。コリーといえば、名犬ラッシーかあ、いいなあ」
と、桐塚は天井《てんじょう》を仰《あお》ぐ。表情が緩《ゆる》んでいる。昔見たドラマでも思い出しているのだろう。
しかし、急に真顔に戻《もど》り、眉《まゆ》を寄せると、
「コリーって、毛の手入れが大変なんですよね?」
「どうせ、暇でしょ」
「いや、まあ、そうだけど、面倒なのはどうかなと」
「だから、飼えば我が子ですってば」
面倒くさそうにマスターは背を向けると、棚《たな》のグラスを磨《みが》きはじめた。
カウンターに近いテーブル席から立ち上がる背広姿の男がいた。
何度もぺこぺこと頭を下げながら、桐塚に近寄り、話しかける。中肉中背で、へっびり腰《ごし》のような姿勢。愛想笑いなのに、泣いているように見える顔。
この男は、野々宮良典《ののみやよしのり》。
街道沿いのペットショップ「アニマール」の店員だ。営業マンであり、宣伝担当であり、配達員でもある。二十代後半だが、妙《みょう》に老《ふ》けて見える。頭髪もやや薄《うす》い。
カフェ「バスカビル」は、その「アニマール」から食品を仕入れていた。さっき、俺が飲んでいたミルクも、野々宮が配達してきたものだ。
野々宮はこの店を、愛犬家たちの情報収集の場としても利用している。
聞き耳を立てて、さっそく桐塚にセールスを仕掛《しか》けてきたのだった。
そのわりに、自信が感じられない。おどおどしているのだ。いつも、何かに追われて焦《あせ》っているふうに見える。
ぎこちない口調で、テーブル席に桐塚を誘《さそ》って、カタログらしきものを広げてみせた。セールストークの声が上擦《うわず》っている。
聞いている桐塚は不安そうだった。
野々宮はペットショップで購入《こうにゅう》する特典を強調する。
「初めて犬を飼うなら、ちゃんとしたアフターケアが必要になりますよ。わからないこと、心配なこと、いろいろと出てくるはずですから」
「やっぱり、犬を飼うって大変ですよね」
「そう、病気のこととか」
「注射もいろんな種類を打たなきゃなんないんでしょ」
「そうそう、狂犬病《きょうけんびょう》予防とか三種混合ワクチンとか、そういう時期が来たら、当店からちゃんと連絡しますし」
「それに従えばいいんですね」
「ええ、だいたい。あと、夏場は蚊《か》に注意しなきゃならないし」
「フィラリアって病気でしたっけ」
「そう、あれが怖《こわ》い。ちゃんと薬を飲ませなきゃ、子犬のうちに死んじゃいます」
「恐《おそ》ろしいですね」
「ええ、かなりの数が死んでる、って聞いてますよ、たしか、たぶん」
この男のぎこちない口調だと、不安感が増してくる。ひとつの才能かもしれない。
桐塚は重苦しいため息をついて、
「はあ、やっぱり健康のことが何よりも心配です。自分もこの歳でやはり実感しますし。食べ物のこととか」
「そうそう、ドッグフードもいろいろと種類がありますから。犬によってはデリケートな体質なのもいますしね。アレルギーやアトピーを患《わずら》ったら、それに応じてドッグフードも変えなきゃいけないし」
「はあ、いろいろ気疲《きづか》れしますな」
「あと、トリミングのことも」
「ああ、毛の手入れ」
「季節に応じて、ちゃんとしてやらないと、犬は汗《あせ》をかかないから、温度調節が難しいんですよ。それに、トリマーも人によりけりで、ワンちゃんとの相性もありますし」
「考えなきゃならんことが多いですね」
「他にも、鳴き癖《ぐせ》やカミ癖とか、しつけ教室も……」
野々宮のセールスは続けられる。
桐塚の顔に暗鬱《あんうつ》な陰《かげ》が増してゆく。
俺にとっては退屈《たいくつ》な話ばかりであった。生まれてすぐに野山を駆《か》け回っていたから、そんな細かいこと、ピンとこないのだ。大きな欠伸《あくび》が漏《も》れてくる。
近くで居眠《いねむ》りしていた犬が目を覚ました。
アフガンハウンドのマレーナだ。
大型犬の雌《めす》で、俺より大きい。そして、目を見張るほど優雅《ゆうが》で、ビジュアル系といった容姿である。
絹糸《きぬいと》のようにサラサラとした長い毛に覆《おお》われ、艶《つや》やかなクリーム色が眩《まばゆ》い。体のわりに顔が小さく、人間ならば八頭身あたりか。垂れた耳、利発そうな黒目、突《つ》き出た口吻《こうふん》は鼻筋がすうっと通っている。まるで、おしゃれな帽子《ぼうし》をかぶったように、頭部から首筋にかけて、長い毛に飾《かざ》られていた。
そんなマレーナは威厳《いげん》を感じさせた。
この町じゃ、姉御的《あねごてき》な存在であった。
女性の歳を語るのは失礼だが、八歳くらいだろう。人間|年齢《ねんれい》に直すと……それはやめておく。
オトナの女の魅力《みりょく》に富み、酸《す》いも甘いも噛《か》み分けた貫禄《かんろく》に満ち溢《あふ》れていた。
俺は探るように、
「あ、マレーナのあねさん、起こしちゃったかな? 悪かったね」
「いいのよ、さっきから目が覚めてたわ」
そう言って、ちらっと視線を上にやる。
飼い主のオバサンがもうひとりのオバサンと声高にしゃべっていた。
俺はフンッと鼻息をついて、
「なるほど、耳に響《ひび》くね」
「そう。人間の女同士はどうして、こうもオシャベリ好きなのかしら。私のような雌犬にはありえない。面倒くさいし」
「でも、あねさん、よく若い娘《こ》たちの相談にのってるよね」
「仕方ないでしょ。でも、無駄口《むだぐち》はしないわよ。ビシッと言ってやるだけ」
「それで、信頼《しんらい》厚いんだよね。たまに、泣いてるコも見かけるけど」
「よけいなお世話よ。ねえ、あんたこそ、相談事を引き受けたみたいじゃないの」
「よく知ってるね。あねさん、さすが耳が早い」
「耳年増《みみどしま》なんて言いたそうね」
「んな、恐れ多い。意味違うし」
「犬は口よりも耳」
「そして、何よりも鼻を信じるべし」
「そんな犬の掟《おきて》に従って、また、探偵の真似事《まねごと》ね」
「まっ、事情があってさ」
「子犬の手助けらしいわね。ふふふ、なーんか、似合わない。ヤクザが赤い羽の共同|募金《ぼきん》するみたい」
「ふんっ、自分でもわかってら」
依頼《いらい》を引き受けた経緯《いきさつ》を簡単に説明した。
マレーナは頷くと、目にかかったクリーム色の長毛を前脚《まえあし》でかきあげ、
「しがらみってとこね。まあ、あんた、義理堅《ぎりがた》いから」
納得した様子だった。それ以上は突っ込んでこない。目を細めて、感慨深《かんがいぶか》げに、
「ゴボウの謎か。それに、レノの銅像《どうぞう》ね」
「うん。生前、レノはキャベツをよく食っていたよね。ゴボウはどうだったかな?」
「見たことないわね。レノがゴボウを好きなんて言うのも聞いたことないし。ゴボウってアクの強い匂《にお》いがするでしょ。レノが食べていたら、わかるはずよ」
「そうか。やっぱし、詳《くわ》しいね。噂《うわ》あったもんな、あねさんとレノは」
「昔のことよ」
と、マレーナは遠くを見るような眼差しで宙を眺《なが》めながら、
「いいとこばっかりじゃないけどさ、レノは男の中の男だった」
「今さら、ノロケかよ」
「今だから言えるんじゃない」
「なるほどね、あねさん、意地っ張りだから」
「レノもそうだった」
「だよね。尻尾を振るの見たことないくらいだもの。あねさんも同じだ」
「そんなとこだけ、お互い似すぎていたのよね。だから、結局、うまくいかなかった」
「後悔してる?」
「しょうがないでしょ。向かい合う風は吹《ふ》かない、それだけのことだったのよ」
フッと黒い鼻を鳴らす。首を振って、垂れ耳を後ろにやると、
「レノに夢中になっているコは多かったわよ」
「ファンは女だけじゃないよ。リスペクトしている男は多かったし、今も、それは変わらない」
「そうね。死んでからも、みんなファンのままよね。伝説のスターみたいなものか。そこらへんは人間と同じかもね」
「レノの銅像を見上げて、語りかける奴もいる」
「なんかナルシストね、ちょっと勘弁《かんべん》」
「けど、あの像、よくできてるよね」
「それは言えるわ。あの自称アーティストの平泉にしては珍しい」
「まったく同感。あと、建っている場所もいい。顔が南に向いていて、朝陽と夕陽の当たり具合でスポットライトみたいに映えるし。街灯の作る陰影《いんえいい》も絵画みたいに印象的だ」
「あの場所で良かったわよ。最初の予定だと、違うところだったんだから」
「えっ、そうなの? どこ?」
「東側に大きな桜が並んでいるでしょ。そのすぐ手前よ」
「ああ、あそこ、原っぱのあたりだな」
俺は風景を思い起こす。
浮羅田《ふらだ》公園は、うねうねと複雑にカーブした輪郭で、ちょうど、☆型を曲線で描いた形に似ている。東側が、☆型の突出部分のひとつだった。そして、そこは広場になっていて、原っぱと桜の木立があった。
「へえ、あそこに銅像が建てられる予定だったのか。春なんか、桜の花が背景でいいけど」
「風景だけならいいのよ。困るのは人間」
「人間が?」
マレーナは苦々《にがにが》しそうに口の端を歪《ゆが》めて、
「花見よ」
「なるほど。酔っ払いの群れか。ありゃ、ひでえ。見ていて恥《は》ずかしいぜ。不思議《ふしぎ》な習慣だよな。どうして、人間って、桜を見ると、あんなに酔っ払いたくなるんだ? どうしたって理解できねえ」
「言えてる。そんな真《ま》っ只中《ただなか》に、レノの銅像を置いたら、どうなるか目に見えてるじゃないの?」
俺はシーンを思い浮かべ、
「酔っ払ったバカが乗っかるな」
「他にもいろいろとやらかしそうだし」
「許せねえ」
「でしょ。だから、その最初の予定を変えさせたのよ」
「えっ、あねさんが?」
「というか、レノのファンのコたち」
「つまり、あねさんが指揮《しき》したってことね」
マレーナは意味深《いみしん》な笑顔で、
「ふふふ、みんなよくやってくれたわ。十二月最初の一週間、集中的に桜の木の周りを汚《よご》してやった」
「悪いやっちゃな」
「花見時の人間どもよりはマシよ」
「雌犬たちでいろいろと撒《ま》き散らしたのか」
「ええ、抜け毛とか、散歩道で拾ってきた空き缶《かん》なんかのゴミやネズミの死体とか」
「それに小の用」
「大も、ね」
「やるな」
「レノのためよ。だから。みんな、一生懸命《いっしょうけんめい》にふんばったものよ。飼い主さんたちは後始末に苦労してたわ」
「恐るべきレディーたち」
「おかげで、こんな場所には建てられないって、銅像の造形を手掛けた平泉が言いだした」
「あのオッサン、言いだしたら、聞かないからな」
「でしょ。それで、実行委員会の連中が話し合って、今のあの場所に急遽《きゅうきょ》、変更《へんこう》になったというわけ。いいとこになって運がよかったわ」
「いや、あねさんたちの努力のおかげだよ」
「まっ、ふんばりが効いたってことね」
「あねさんはさすがに……大はしなかったよね」
「失礼ね」
マレーナが鼻に皺《しわ》を寄せる。
俺はちょこっと舌を出し、
「ゴメン、訊《き》くだけ野暮《やぼ》だった。やっぱし、しないよね」
「したわよ。若いコたちに模範《もはん》を示さなきゃ。私を誰だと思ってんの。人間みたいなヘタレ女と一緒《いっしょ》にしないでよ」
「ああ、そういう主義ね」
「犬の掟、ひとつ、犬は用を堂々と、でしょ」
「そして、飼い主はしっかり後始末、だったね。失礼」
マレーナのあねさんにかかると、いつもこんな調子。圧倒《あっとう》される一方だった。
カウベルが鳴り、ドアが開いた。
整体師の南条《なんじょう》さんが入ってきた。
柴犬《しばいぬ》のボンタも一緒だ。
南条さんはこっちのテーブルに歩み寄ってきて、
「あれれ、遅刻《ちこく》しちゃったかな」
四角い顔を傾《かし》げる。
真平さんが手を振って、
「いえいえ、僕が早かったんです。片づけなきゃいけない仕事があったんでね。ここだと落ち着いて、すいすいと進むんですよ」
「そうでしたか。じゃ、お仕事の途中《とちゅう》では?」
「ちょうど、キリのいいページで、終わらせたところなんです。さあ、始めましょう。おかけくださいな」
ゲラの束を片づける。
向かいの席に南条さんは腰を降ろした。背筋が伸びて姿勢がいい。さすが整体師。
今朝の万年筆の件のお礼にと、真平さんがビールを奢《おご》る約束をしていたのだ。
夕飯前の一杯《いっぱい》は美味いらしい。ふたりとも顔がほころんでいる。
さっそく、ビールのジョッキが運ばれてくる。そして、乾杯《かんぱい》。
ボンタの前にはミルク。
もちろん、これも真平さんの奢りだ。実際に万年筆を見つけたのはこいつなんだから。
ボンタは目を輝《かがや》かせて、ミルクを見つめている。口の端に涎《よだれ》が光る。
オスワリの姿勢。でも、堂々と胸を張っていた。今朝、教えたとおりだ。
南条さんの「ヨシッ」の合図で、ボンタは皿に口吻を近づけ、舌でピチゃピチャと飲みはじめた。美味そうに目が恍惚《こうこつ》としている。無邪気《むじゃき》な表情。やはり、まだ少年だ。
ミルクがはねて、白い滴《しずく》が黒い鼻についていた。
その様子を見ていたマレーナが微笑《ほほえ》みながら、
「あら、このコ、さっきの話に出た子犬ちゃんかしら」
「そう、ボンタ」
「探偵アローの依頼主ね」
「まあな」
俺は、早々とミルクを飲み干したボンタを、マレーナに紹介した。
ボンタは、熟女《じゅくじょ》の色気に戸惑《とまど》っている様子だった。口ごもりながら挨拶《あいさつ》する。
マレーナはボンタをしげしげと見つめると、
「あら、なかなかイケメンじゃないの。イイ男になるわよ、レノみたいに。私が若かったらほっとかないのに」
と、顔を近づけ、フウッと息を吹きつける。
ボンタは反応に困り、うつむく。人間だったら顔を赤くしているところだろう。汗をかく代わりに、口からちょこっと舌を覗《のぞ》かせる。
俺は苦笑いしながら、
「あねさん、むやみにからかっちゃいけないよ」
「あらら、まだ、そんな子供なの。じゃ、オシッコも座ったままかしら」
すると、ボンタは顔をあげ、睨《にら》むような目つきで、
「ち、違うよっ! ちゃんと片脚あげて、やってらい!」
懸命に反駁《はんばく》する。
マレーナは悠然《ゆうぜん》と目を細めると、
「まあ、そうなの。ごめんなさいね。もう、すっかり、たくましい男なのね」
そう言って、舌を長く伸ばすと、ボンタの鼻についたミルクをペロリと舐めてやった。
ボンタは目を大きく見開く。どぎまぎしていた。
ちょいと刺激が強かったらしい。
5
朝の散歩は、たいてい、七時から八時の時間帯に出発する。
そう、スタートのタイミングに一時間くらいの幅があるのだ。
これには、ひとつに、真平さんの都合がある。
仕事の進行や体調によって、起床時間が微妙にズレるからだ。
また、紗織さんに要因があるケース。彼女も仕事を持っているので、やはり、真平さんと条件は同じだ。そして、朝食を担当しているため、真平さんと俺もそれに合わせるようになる。
そして、もうひとつ。
俺の都合だ。
朝食を食べた後、無性に眠くなることがある。番犬仕事の疲労が出た時などだ。それで、つい、うたた寝してしまう。たいてい、三、四十分もすれば目が覚めて、スッキリする。
俺がそんな二度寝をしている時、真平さんはそっとしておいてくれる。親切な人だ。ありがたい。しばらくすれば、目を覚ますことがわかっているからだろう。
いや、それよりも、自分の身に置き換えて考えているのだろう。真平さんも朝の二度寝の愛好家だ。そのせいで、こっちが待たされることもあるのだった。
で、今朝は俺の都合。
しかし、本当に眠かったわけではない。
ある目的があったからだ。それで、犬のタヌキ寝入り。
四十分ほど稼《かせ》いでから、ムクッと起き上がる。前足を突き出し、尻尾を上げ、全身を弓なりに曲げて伸びをする。鼻から大きく息を吹く。いかにも今、起きましたというキツネのような演技力。我ながら見事だ。
サッシ越しに、室内を窺《うかが》う。
テレビがつけっぱなしだった。俺にとっては、人間世界の知識を深める貴重な情報源である。ワイドショーが星座占いをやっていた。犬には関係ないだろう。
牡牛《おうし》座生まれの真平さんは新聞を広げたまま、居眠りしていた。
脱力。俺はオスワリの姿勢で、サッシを右の前足で軽くノックする。
二回、三回……、四回目で、真平さんではなく、キッチンの紗織さんが気づいてくれた。
俺はワンッと吠えて、散歩の催促《さいそく》。
紗織さんが、真平さんの肩を揺さぶって、
「ほら、ワン歩の時間よ。アローが待ってるわよ」
「おお、そうか。んじゃ、行くか」
真平さん、日を覚ますと、ボーッとした表情で、首をぐるぐる回す。そして、大きく欠伸《あくび》を放つ。
俺もつられたのか、本当に眠くなってきた。ヒャオーンッと欠伸の声をあげる。
紗織さんが呆《あき》れ顔で、
「犬は飼い主に似るって、ホントね」
肩をすくめ、キッチンの洗い物に戻《もど》っていった。
そして、真平さんと俺、男どもは家を出る。
八時近かった。晴れ渡った秋日和《あきびより》。
このタイミングで散歩するために、タヌキ寝入りで時間調節したわけである。
それは、会いたい奴がいるからだった。
探偵仕事に着手する前に、ちょいと話をつけておきたいのだ。
浮羅田公園に着いて、池の端《はた》でさっそく見つけた。
シェパードのウォッチ。
ウォッチさんと呼ぶべきなのだろう。だが、親しい間柄《あいだがら》のせいで、つい呼び捨てにする。それどころか、「ウォッチのおやっさん」なんてタメ口になってしまう。
人間ならば爺さんの年齢である。それでも矍鑠《かくしゃく》として、元気だった。
朝の散歩はいつも、この時間帯と決まっていた。
飼い主が医師なので、きちんとした性格だからだろう。そのおかげで、ウォッチは健康を維持していられるのかもしれない。
獣医ではなく、人間相手の心療内科《しんりょうないか》医で、以前、真平さんが珍しく不眠症になった時、お世話になったらしい。
オハヨーの挨拶を交わして、立ち話を始めていた。
俺も当初の目的どおり、ウォッチと会話を交わす。
話題はもちろん探偵業の件。
俺は鼻息を強めに吐いて、
「ったく、ボンタの小僧を俺のとこに寄越しやがって」
「ほう、やっぱし、お前に依頼しに行ったか」
「ほう、じゃないだろ。ウォッチのおやっさん、あんたが余計な入れ知恵するからさ」
ウォッチは目尻に小皺《こじわ》を作って笑い、
「そりゃ、お前が打ってつけだからさ。優秀な探偵だって誉《ほ》めてやったのに、憎まれ口を叩《たた》くとはな」
「何が、打ってつけだよ。おやっさんなんか、本業だったくせして」
「だからこそ、お前の才能がわかる」
「年寄りは屁理屈《へりくつ》が上手いよな。自分は捜査しないくせして」
「仕方なかろう。とっくに引退して、実践《じっせん》のカンは鈍っておる。野球のピッチャーだって引退したら、マウンドに立たんだろ」
「監督かコーチきどりか」
「いやいや、そんなたいしたもんじゃない。解説者程度だよ」
そう言って、ペロッと舌を出した。
ウォッチはかつて警察犬だった。
さすが純血のシェパードである。
硬めの直毛に覆《おお》われた大柄な体躯《たいく》は見るからに頼もしい。アーモンド型の目、ピンッとした立ち耳、長い口吻。犬の中でももっとも狼に近いフォルムだろう。
茶褐色と黒の被毛《ひもう》、いわゆるブラック&タンの体毛が秋の陽光をたっぷり吸い込んで暖かそうだ。老犬のため、やや色がくすんでいるが、それはそれで、いぶし銀の貫禄《かんろく》を感じさせる。
ウォッチは苦笑いしながら、
「ボンタの奴、どこで聞いたのか、元警察犬と知って、最初、わしのところに依頼に来たのさ」
「断ったんだろ」
「ああ、もちろん」
「で、俺か」
「まあ、捜査を体験することは、いい社会勉強になるもんだよ、お前にとってもな。そして、そんなお前から、ボンタはたくさん学べることがあるだろう」
俺は前足で地面を浅く掘りながら、
「ふっ、おやっさんときたら、相変わらず社会派だぜ。染みついてしまってるんだな。一生直らねえだろうよ」
「もう少ししたら、一生も終わるし」
「そこまでは言ってねえよ」
「なーに、あっという間さ。お前も、まあ、元気なうちに社会を見ておくがいい」
「それが、探偵業の報酬《ほうしゅう》ってとこか?」
「大きな財産になるぞ。ふだん、わしら犬はリードでつながれているからな。その気にならんと、見聞《けんぶん》は広まらん。いいか、のんびり安楽椅子《あんらくいす》に座って頭だけで謎を解こうなんて考えるんじゃないぞ」
尻上がりに強い口調になった。
俺はため息混じりに、
「安楽椅子なんてうちにないし」
ウォッチはバウスをさらに強め、
「とにかく足で稼げ。耳をすませ。そして、鼻を使え。コツコツと根気よく進める地取り捜査こそが、犬の生来の特技なんだから」
「おやっさんに言わせれば、根っから、犬は社会派ってことか。ふーん、それで、刑事のことをイヌって呼ぶのかい」
「まあ、ひとつの因果《いんが》かもしれんな。我々の生態が生態だけに、犬が捜査すれば、その成果は、人間以上に社会派と言えよう。世の中の隅々に鼻を突っ込み、耳を傾け、人が捉《とら》えることのできない生活の匂いを嗅ぎ、音声を聞き分けるんだからな」
「まあ、人間が感じるよりも、社会に対して敏感ではあるよな」
「そもそも、『人』という字に点と線を加えると『犬』の字になるだろ」
「なるほど、人よりも『点と線』が多いのが犬か」
「なつ、象徴的だろ。だから、社会派らしく足を使え、聞き込みを重ねろ、そして、鼻を鋭くして正しい手掛かりを嗅ぎ分けるんだ。解決の道はその先にある」
「はいはい、毎度ながら、親身のアドバイス、ありがとさん。で、ウォッチのおやっさんさあ、ちょいと相談だが……」
と、ここからは下手《したて》に出ておく。
元警察犬の意見を拝聴《はいちょう》するのだ。
ゴボウ事件の謎に関して、どこに着眼点を置けばよいのか。その核心へとアプローチするには、どの方面に聞き込みをすべきか。そうした捜査方針をアドバイスしてもらった。
わざわざ、ウォッチに会いに来たのだから、捜査の元プロを利用しなきゃ。
前説は長かったものの、さすがに得るところは多かった。
俺の頭の中で捜査の段取りが見えてきた。
ウォッチは尖《とが》った耳をアンテナのように動かしてみせて、
「また、疑問が出たら、いつでも聞きに来りゃいいさ」
「ああ、そうさせてもらうよ、おやっさん」
俺は礼を言って、別れた。
次回は説教抜きでな、と胸の中で呟《つぶや》きながら。
6
涼しい秋風を受けて、池を回る。
気持ちよくて、捜査なんぞ放り出したくなる。
レノの銅像の前まで来た。
ゴボウは昨日のままだった。謎は厳然《げんぜん》として俺の前に立ち塞《ふさ》がっている。挑戦を受けているような心持ちだ。気を引き締め直す。
ウォッチからアドバイスされたことはいろいろとあった。
そのひとつが、「教授」のレクチャーに耳を傾けること。
予想どおりだった。なので、この時間帯の散歩は実に効率がいい。
池を半分以上回ったところで、「教授」に会うことができた。彼にとって、この時間の散歩は、いつもどおりのスケジュールらしい。
彼は、スコティッシュ・テリア。
名は、ハリソン。
またの名を「教授」と呼ばれていた。
博覧強記《はくらんきょうき》なうえに、情報収集に長《た》けている。何事にも研究熱心で、おまけに、教えるのが趣味ときていた。
まさしく、「教授」!
飼い主さん自身が、大学で生物学を専攻している教授だった。
やはり、ハリソンはその影響を受けたのだろう。犬は飼い主に似る典型だ。
また、その逆も然り。
飼い主さんは、白髪《しらが》交じりの口髭《くちひげ》と顎髭《あごひげ》をたくわえ、スコティッシュ・テリアを彷彿《ほうふつ》とさせる顔をしていた。
ハリソンは全身が灰色の剛毛に被《おお》われている。
腹部から下がった毛は地面につきそうだった。鋭角の立ち耳に、好奇心に輝く瞳。眉《まゆ》と顎髭が長い。そのせいか、年寄りに見えるが、実際は、俺とさほど変わらない。せいぜいふたつか三つ上くらいだろう。
小型犬ながら、威厳に満ちている。実際、なかなか頑固《がんこ》な性格だった。
このハリソン教授自身から聞いたのだが、アメリカのフランクリン・ルーズベルトという人は大統領に就任した際に、愛犬のスコティッシュ・テリアを伴って、ホワイトハウス入りしたらしい。
もともと攻撃的で血気《けっき》盛んな犬種だから、なるほど、大統領になるような人間とは共通点が多いのだろう。
ハリソンもまた自尊心の強い男だ。
俺は一応、丁重《ていちょう》に頭を下げて、上目遣《うわめづか》いに挨拶する。耳も翼のように寝かせておく。
ハリソンはフツと鼻息を吐いて、軽く頷くだけだ。
まあ、いつものこと。別に腹は立たない。人間の学校のように、生徒が先生に接する心構えになればいい。
真平さんも、ハリソンの飼い主である大学教授に丁寧《ていねい》に挨拶していた。
以前、ある小説の翻訳を手掛けた際、本文中の生物学の専門用語について、解説を指導してもらった。その恩があって、どうしても、真平さんのほうが低姿勢にならざるをえない。まあ、もともと腰の低い人だけど。
俺はハリソンに捜査の経緯《けいい》を話し、ゴボウについて質問していた。
ハリソンは長い眉毛を額に寄せて、表情をしかめると、
「こら、他犬《イヌ》にものを教えてもらう時には、ちゃんとオスワリをするのが礼儀だ」
厳しい口調で言った。
俺は尻を地面に着け、前足をしっかりと伸ばして、姿勢を整える。
ハリソンはもう一言。
「尻尾を垂らさない!」
すぐさま、俺は巻き尾をピンッと立てる。
ハリソンは「ヨシ」と満足げに、自分もオスワリのポーズをとり、背筋を伸ばした。凛々《りり》しく毅然《きぜん》とした姿勢。顎髭が微風《そよかぜ》に揺れる。
確かに教授の名にふさわしい威厳があった。
背丈は俺の胸元までしかないのに。
ちょっとシャクに障《さわ》る。
俺は気後《きおく》れしないように、顎のあたりを引き締めてから、質問に移る。
「生前、レノはキャベツが大好きで、よく食べていたけど、ゴボウって味が似てるのかな?」
「ぜんぜん」
「まったく?」
「ああ。後学のために、家のキッチンにあったゴボウの端っこを囓《かじ》ったことがある。苦くて、硬くて、キャベツとはまったく違ったよ。あんなに繊維質の多いもんは食べたことがない」
「悪食《あくじき》の教授にそこまで言わすか」
ハリソンは首を突き出し、
「なんだ、悪食とは。フィールドワークの一環と言いなさい」
はいわかりました、と素直に認めてから、
「俺も含めてだけど、犬族は、野菜というか、草や葉っぱを食うことってあるよね」
「ああ、散歩の途中などにな。文字どおりの道草だ」
「その道草、たいして美味いって感じないんだけどさ、時々、無性に食いてぇ、て衝動に駆られるのは、なぜなんだろ?」
「ふむ、その問題については諸説あって、はっきりした答えは見つかってないんだが、我々もある程度は食物繊維が必要な体質だということらしい。だから、ドッグフードでは足りないと体が感じた時に、それを補うために、草を食べたくなるのだそうだ。また、別のケースとして、空腹などで胃酸が出すぎた時にそれを緩和《かんわ》するための、本能的な対応とも言われている」
「なるほどね。以前、俺の場合、腹が減った時に食べたんだけど、すぐにゲロっちゃったことあるよ。でも、そしたら、妙にスッキリ感があったっけな」
「胃酸を出したからだ。草がそのキッカケを作ったのさ」
「そうか、人間の酔っ払いがわざと指を口に入れて吐くようなものか」
「ああいう醜態《しゅうたい》とは一緒にするんじゃない」
顔をしかめる。今までになく不快そうだった。
俺は笑いを飲み込み、
「レノがキャベツを食べたのは、やはり、食物繊維の補給のため?」
「いや、単に食感が好きだったらしい」
「歯ざわりってやつか」
「そんなとこだ。犬によって、タオルとかテニスボールとか好きな歯ごたえがあって、夢中になって囓ることがあるだろう。それと似たようなものだ」
「ペットショップで売られている犬用のガムとかビスケットの代わり?」
「そう、嗜好品《しこうひん》といっていい。犬によってその対象はさまざまだな。レノは飼い主に経済的負担をかけないためにも、キャベツの切れ端だったのかもしれんな」
「まったく、レノの奴め、どこまでナイスガイなんだよ。カッコつけやがって」
ちょっぴりウエットな想いが胸をよぎった。
ハリソンはわざとらしく大仰《おうぎょう》に瞬きをすると、
「しかし、問題のゴボウだが、キャベツと抜本的に違うのは根菜ということだ。つまり、地面に埋まった根っこや茎を食用とする野菜なんだよ」
「そうか、それに対して、キャベツで食うのは葉の部分だ」
「レノの銅像のもとに植えられていたゴボウは、あの小僧っこの犬、ええっと」
「ボンタ」
「うむ、ボンタのとこの畑のゴボウだったんだろ。ついこないだ、散歩の途中に見たことがあるが、あそこのゴボウはなかなか成育がいい」
「長いってことだね」
「ふむ、つまり、比例して、かなりの部分が土の中に埋まっているはずだ」
「となると、引っこ抜くのがかなり面倒ってことだな」
「そう、ちょっとした重労働だ。何本もの細かい根が四方に伸びて、土に絡《から》んでいるだろうし。一気に抜くというより、周りから掘り進めて、ズルズルと少しずつ引き抜くという作業だな」
「確かに面倒だ」
「さらに、レノの銅像のもとにまた埋めるのも面倒だったはずだ。頭を出していたのは二十センチくらいだったな」
俺は記憶をたぐり、
「そう、それくらい。じゃ、土の中に埋まっている部分は?」
「一メートルはあるはずだ」
「えっ、わざわざ、一メートルも掘って、埋めたのか」
「ご苦労なことだな。誰だか知らんが」
「なんで、そんなクソめんどくさいことしたんだろ?」
ハリソンは顎を突き出し、
「きみは、それを調べてるんだろ」
「あ、そりゃそうだ。何かヒントになることってないかな?」
「ヒントな……。なぜ、ゴボウを選んだのかという疑問がひとつのポイントになるかもしれんぞ。なぜならば、あのボンタのとこの畑、ゴボウだけじゃない。他に、白菜、ほうれん草、カブなんかも栽培されている」
「キャベツは?」
「残念ながら、それはなかった」
「じゃ、やっぱり、犯人はキャベツの代わりにゴボウを選んだということ?」
「可能性はある」
「でも、なんで、ほうれん草や白菜ではなく、ゴボウを選んだんだろ? ほうれん草や白菜のほうが楽に盗めるのに」
「そこなんだ」
とハリソンは耳を左右に振り、
「もし、根菜にこだわるなら、カブのほうが簡単に掘り出せるのにな」
「わざわざ面倒なゴボウを選んだ犯人の目的って?」
「何かのメッセージかもしれん」
「ゴボウのメッセージ?」
「ああ。ゴボウの持つ特性によって表現されたメッセージだよ。暗号みたいなものだ。あるいは見立てと言ってもいいかもしれん。ほれ、人間が油揚《あぶらあ》げに酢飯《すめし》を詰めて、お稲荷《いなり》さんと呼ぶように」
「油揚げといえばキツネ、それでお稲荷さんか。じゃ、ゴボウの特性って?」
「たとえば、そうだな、ゴボウといえば……漢方薬として用いられることがある」
「効能は?」
「解毒《げどく》、喉《のど》の痛み、便秘薬《べんぴやく》」
得意げに答える。
俺は期待した分、脱力感を覚え、
「あのさ、どれも、レノとほとんど関係ないような気がするけど。快食快便だったし」
「私も同感。まあ、ひとつの仮説にすぎん。いちいち、揚《あ》げ足を取るな」
「いえいえ、すんません、そのつもりは」
機嫌《きげん》を損ねるのも都合悪いので、素直に詫《わ》びておく。
ハリソンは目を瞑《つむ》って俯《うつむ》いている。考え込んでいる様子だ。やはり、教授の名に恥じない卓見《たっけん》を披露《ひろう》しようと懸命らしい。
二分ほどして顔を上げ、目を開けると、
「メッセージというより、呪文《じゅもん》かもな」
「ゴボウで呪《のろ》いを?」
予想外の意見に、ベローンと舌が飛び出た。すぐに引っ込める。
ハリソンは講義のような硬い口調で、
「たとえば、人間の世界では、丑《うし》の刻参《こくまい》りというのがある。丑の刻と呼ばれる深夜の時間帯に、人目を避けて、木に藁人形《わらにんぎょう》を釘で打ちつけ、憎悪《ぞうお》する相手を呪い殺す、という儀式だ」
「ふーん、深夜に人目を避けて、ってとこは同じだ。あと、釘じゃなくてゴボウだけど、刺すという行為が、植えるのと似てるって言えば似てるか」
「銅像に刺せない、その代替策《だいたいさく》として地面に、という理由なのかもしれん」
「でもさ、根本的なとこでおかしいのは、呪い殺すといったって、レノはすでに死んでるじゃないか」
「うむ、この呪文は逆なのだよ」
「逆って?」
「殺すのではなく、蘇《よみがえ》らせる」
「この世に呼び戻す呪文ということ?」
「ゴボウの効能について、さっき触れただろ」
「便秘予防」
「それではなくて、別の薬効だ。解毒だよ」
「解毒、つまり、毒から解放することか」
「そうだ。ゴボウの持つ解毒作用、毒からの解放、それを蘇生《そせい》の象徴とした呪文なのだよ」
俺は意外な仮説に困惑《こんわく》しながら、
「レノを蘇らせるっていうわけ? で、でも、レノは火葬されて灰になってるけど」
「肉体ではなく、霊だけ蘇らせるのだ」
「つまり、レノの幽霊を呼ぶわけ?」
「降霊《こうれい》というものだ。最近、妙な噂を耳にしたんだよ」
「どんな?」
「レノが生き返った、という」
そう語るハリソンの目は真剣だった。
俺は今の言葉を頭の中で反芻《はんすう》してから、
「えっ、さっき言ってたように、それは、つまり、霊が蘇ったということ?」
「詳しいことは、まだ調べていない。しかし、レノが生き返って歩き回っているらしい。そんな噂話が広まっているのは事実だ」
「誰か霊を目撃したの?」
「直接見たわけではなく、痕跡《こんせき》があったというんだ。レノが生き返ったとしか思えないような痕跡が」
「いつ頃?」
「私が知ったのは先週末だった」
「あれれ、ゴボウの呪文は昨夜だよ。それより前ってことになるよ。順番が逆じゃないの?」
「まあ、人間には、お百度参《ひゃくどまい》りというのがあるように、呪術には幾《いく》つもの段階を踏むことがあるからな」
「じゃ、すでに、ずっと前から何らかの呪術《じゅじゅつ》が行なわれていたということ? ゴボウはそれの仕上げだったりして」
「それに、宗教によっては、霊の形にも段階があるらしいからな。風のようなユラユラしたあいまいな形から次第に生前の姿へと化身《けしん》するといったふうに」
「先週あたり、レノは風みたいな霊だったってこと?」
「近いかもしれんな」
俺は目をパチクリさせて、
「なんか、さっきから、教授らしくないんだけど……。もっと科学的なキャラだと思っていたのにさ」
「あくまでも私は科学の徒《と》だ」
ハリソンは毅然として答えた。その態度にブレは感じられない。
俺はツッコミを入れるように、
「じゃ、教授は呪術なんて信じてないはずだろ?」
「まあ、心霊現象はおおかた何らかの錯覚《さっかく》や勘違《かんちが》いがほとんどだが、科学的に説明のつかないものもある」
「そもそも、犬の心霊現象なんてあるのかな?」
「その手の学会に報告例はあるようだ」
「それ、どんな学会だよぉ。それに、どんな犬の霊なのさ?」
ハリソンは記憶の引き出しを開けているらしい。
ランプのような淡い光の眼差《まなざ》しを宙に向けると、
「古くから、もっとも言及されているのは黒い犬の霊のようだな。これは、欧米で多くの目撃談が記録されている。突如《とつじょ》、見たこともない黒い犬が部屋の中にいたり、ベッドの病人の上に乗っていて、誰か人に目撃されると、やはり突如として消えてしまう。そして、その黒い犬が出現した時には、目撃した人の家族や知人が死ぬと言われている」
「死神みたいな犬か」
「ふむ、GODを逆さにすれば、DOGだしな」
「レノは白い犬だったよ」
「その報告例もある。イギリスのサフォークという地域の海岸で白い犬の霊がしばしば目撃されるらしい。その霊は感心にも、死んだ飼い主の霊が出現するのを待っていると言われている」
「霊犬ハチ公、ってとこか」
「他に、姿の見えない現象もある。飼っていた犬の死体を庭に埋葬《まいそう》したら、夜中、その犬の鳴き声が聞こえ、一カ月くらい続いたとかな。あと、やはり、飼い犬の死後、ある冬の朝、降り積もった雪の庭に、犬の足跡が小屋まで続いていたけど、中には、何もいなかったとか」
「そりゃ、雪密室テーマみたいだ」
そう言って、俺は首を傾げながら、
「それで、肝心《かんじん》のレノの霊はどんな?」
ハリソンは改まった口調で、
「レノの心霊現象に関しては、私は噂の伝聞《でんぶん》しか得ていないものでな。誤解があったらいかん。直接、その現象に接した犬に訊《き》いてみるがいい」
そして、何匹かの名前を教えてくれた。
俺は頭の中にメモする。
そのうちの一匹にはすぐに会えそうだった。
「で、教授はさ、さっき挙げたいろんな報告例も含めて、こういった心霊現象を信じているわけ?」
「いや、私は否定派だよ。科学的に説明のつかない超常現象もあるにはあるが、それはきっとデータが不足していることに要因があるのだろう」
「データ不足ね、穴の足りないユルユルの首輪みたいなものか」
「締まりがないと落ち着きが悪いもんだ。調べがいがありそうだな。頼んだぞ」
「えっ、それって、俺にそれ調べろって言ってる?」
「依頼された仕事と関係ありそうじゃないか。もののついでだろうが」
「気軽に言ってくれるよ」
ハリソンは悪びれた様子もなく、
「何か新事実がわかったら、気軽に報告してくれたまえ」
相変わらず威張った口調だ。
「おいおい、かえって、仕事が増えちまったじゃんかよ」
俺は鼻の穴を大きくして、太いため息をついた。
日と耳を上に向けると、人間たちの会話も一段落したらしい。
いい頃合《ころあい》だ。
俺はハリソン教授に別れを告げ、その場を去った。
7
池を一周してから、公園を出た。
帰宅途中の道沿いの一軒に、目的の犬がいる。
シベリアンハスキーのグレイ。
以前、獣医大学を舞台にした漫画のヒットで、シベリアンハスキーは一躍《いちやく》ブームになったものだ。
今もかなり人気があり、散歩していると熱い注目を浴びるらしい。
鬱陶《うっとう》しい、とグレイ自身はボヤいていた。照れではなく本心だった。そういう奴なのである。
しかし、注目されて当然のビジュアルだ。
雪原で橇《そり》を引く犬種だけに、大きな体躯《たいく》で、筋肉も発達している。全身を彩《いろど》る白と灰色のシンメトリックな模様も美しい。顔部分は歌舞伎メイクを連想させる。
宝石のように澄んだ目が角度によって、ブルー、茶褐色、グリーンなどに変化するのも神秘的だった。
グレイはコンクリート敷きの車寄せに伏《ふ》せていた。
鉄の門に、大きな身体を密着し、寄りかかるような格好だった。ちょっと斜《しゃ》に構えたポーズである。
静かでよそよそしい印象。どこか、とっつきにくいオーラを発している。
確かにそんな性格かもしれない。いつも仮面のように無表情。クールな奴だ。笑っているのを見たことがない。死ぬまでに三回くらいしか笑わないのだろう。
まあ、とっくにこっちは慣れっこだ。
なので、俺のほうから声をかける。
グレイは冷然と目を向け、耳をピクッと動かすだけだ。これがいつもの挨拶だった。
真平さんは、俺たち犬同士が交流している時、いつも、放っておいてくれる。今もそうだ。
グレイの飼い主は理容師、つまり床屋さん。駅前に店を持っている。理容師の腕前のせいか、この家の植木はどれも手入れがいい。
それもあって、真平さんはカエデの紅葉《こうよう》を観賞して、時間をつぶしていた。
こうした心遣《こころづか》いを無駄《むだ》にしてはいけない。礼節というものだ。
俺は、グレイに、探偵をやってる経緯《いきさつ》をごく簡単に告げてから、
「聞きたいことがあってな」
「何?」
グレイは興味なさそうに、それだけ言った。
俺はハリソン教授から聞いたことに触れ、
「幽霊の話だよ。レノの霊のこと。レノがあの世から蘇って歩き回っている、そんな噂ばなし話を聞いたんだ。その情報によると、お前が、心霊現象を体験したそうじゃないか」
「そのことか」
「どんな現象を目にした」
「目じゃない。鼻」
「鼻って?」
「匂《にお》いだよ」
「匂いってレノの?」
「他にあるか」
「まあ、レノの幽霊の話、してんだもんな。で、匂いはどこにあった?」
「公園の東から北にかけて。特に池のすぐほとり」
そこらへんは俺がふだん、通らないところだ。もっと大回りして池を一周するのが散歩コースである。
少し残念に思いながら、
「なるほど、池のすぐほとりか。生前、レノは公園のあっちこっちにマーキングしてたから、縄張《なわば》りは広かったもんな。しかし、レノが死んで一年も経つのに、匂いがするなんて、そりゃ奇妙だな」
「先週までは臭《にお》わなかった」
「臭うはずないよな。なんせ、もう少しで一周忌《いっしゅうき》を迎えるくらいなんだから」
「しかし、最近、奴がつけたとしか思えない」
「レノの幽霊がマーキングか」
「他に考えられるか?」
「犬は霊になっても、マーキングするのか。律儀《りちぎ》というか不気味というか」
「マヌケともいえる」
「しかし、初めて匂いに気づいた時、さすがにゾッとしたろ」
「別に」
「そ、そうか?」
「さむけは感じない体質なんでな」
「まあ、シベリアンハスキーだからな」
「ああ。雪もあったかいくらいだ」
グレイは淡々《たんたん》とそう言った。
俺は質問を続け、
「昨日とか今日とかは、匂いはどうだった?」
「先週より薄くなったようだ」
「そうか。幽霊は別のところへマーキングしに行ったのかな。なんせ、縄張りが広いから」
「幽霊も忙しいな」
「しかし、匂いだけの幽霊なんて、やっぱり犬ならではの現象なのかな? 縄張りをしっかり確保してから、実体化するつもりなのかもしれん」
「どうだか。オカルトには興味ないんでな」
「ふーん、寒い地域にもオカルト話はあるぜ。雪女の話とか」
「こちとら、凍死に縁がねえし」
「そりゃ、そうだよな。じゃ、雪男の話って知ってるか?」
「ヒマラヤだろ。シベリアは関係ねえ」
「うん、そうなんだけど、不思議なのはさ、雪女と雪男って違いすぎる、そう思わないか?」
「考えたこともねえ」
「雪女は人の格好、しかも綺麗な女の姿。それに比べて、雪男って、要するにサルだぜ。よりによって、サルだよ、俺たちの大っ嫌いなさ。なんで、そうなるんだろ?」
長年抱えていた疑問をぶつけてみた。
グレイはうざったそうにため息をつき、
「なあ、探偵、へらず口は他でやってくれ。ハードボイルドは軽めより、シリアスなのが好みなんでな」
そう言って、そっぽを向いてしまった。
まあ、必要な情報を得たからよしとしよう。
つい口数が多くなってしまう。たまの探偵業だからな。ハードボイルドの俺はひとまずこの場を退場。
8
夕方の散歩は、悪夢だった。
予兆《よちょう》はあった。
四時半に出発。ふだんよりも、ずいぶんと早い時間だ。しかも、コースが違う。
たまにそういうことがある。初詣《はつもうで》とか、商店街のイベントに出かけたり、真平さんの用事で誰かの家に寄ったり、用件はいろいろ。
目先が変わって好奇心が刺激される。なので、最初のうちワクワクしたものだが、途中から、もしやと思いはじめる。
見覚えのある四つ角を曲がったあたりで、胸騒《むなさわ》ぎが激しくなった。
そして、不安が的中した。
着いたところは、街道沿いのビルの一階。
動物病院だった……。
背筋が凍る。鼻の穴がヒクヒクと伸縮を繰り返すのがわかった。
今まで何度も来ているのに、これだけは、どうしても慣れない。
俺は覚悟を決めて、真平さんに連れられ、中に入った。
本日の検診は何だろう?
どこも体調は悪くない。
真平さんが受付のお姉さんに診察券を渡している。
その会話から察すると、三種混合ワクチン。
注射だっ。
全身を戦慄《せんりつ》が駆《か》け抜ける。
悪夢が早く終わることを祈るしかなかった。
院内は受付を真ん中にして、左側が猫の診察室、右が犬専用と分かれている。どちら側の空気も張り詰めていた。
左のソファで待っている飼い主の膝《ひざ》で、バスケットから猫の細い声が漏れてくる。まるで、この世の終わりのように震えていた。
それが緊張感を増幅させる。
右の犬サイドでは、先客というのか、すでに順番待ちの犬が四匹いた。
どいつも、顔見知りだ。
ボクサー犬のガッツ、ウェルシュ・コーギーのエドワード二世、ブルドッグのデューク、そして、紅一点《こういってん》のプードルのコロネ。
四匹とも、飼い主の足元で縮こまっていた。みんな、大なり小なり恐怖におののいているのだ。
特に、ボクサー犬のガッツが悲痛だ。まるで、座薬《ざやく》と間違えて、肛門《こうもん》に爆竹《ばくちく》を差し込まれたような脅《おび》え方だ。ソファの下から首だけ出している。強面《こわもて》のする顔が引きつり、ヤスリをかけられた狛犬《こまいぬ》さんを思わせる。尖った立ち耳も寝た状態だ。
全身の茶褐色の毛先までピリピリ緊張しているらしい。額から鼻、顎《あご》へと続く白いラインがふだんならダンディーな印象なのに、今は花粉症のマスクのようにしか見えない。
真平さんは、飼い主たちに会釈《えしゃく》すると、ソファの端に腰掛け、順番を待つ。
俺は、リードを伸ばして、四匹の前に座っていた。
バウスを飛ばして、話しかける。
もちろん、調査中の事件のことである。
こんな話をしていれば、奴らも少しは気が紛《まぎ》れるかもしれない。それは、俺も同様。
ひとつ、ラッキーなことがあった。
ウェルシュ・コーギーのエドワード二世がいたこと。
今朝、ハリソン教授から、会うように言われた一匹である。
彼もまた心霊現象を体験した一匹であったからだ。
「なあ、エドワード二世、お前の噂《うわさ》、聞いたよ。最近、レノに関することで、不思議なことがあったらしいね」
さっそく、俺は水を向けてみた。
エドワード二世は小首を傾《かし》げて、
「ええっ、聞きたいの? 役に立つかなぁ、俺の話なんか?」
「ああ、聞いてみなきゃ、何とも言えんけどな」
「それに、どこまで信じてくれるか」
「一応、信じるったら。じゃないと、何も始まらんだろ」
「謎としても、心霊現象の領域に入るかどうか、悩むところだし」
そう言って、床のリノリウムの四角い模様を右の足先でなぞっていた。
こいつには妙に几帳面《きちょうめん》なところがあった。
おそらく血筋だろう。もともと、ウェルシュ・コーギーは牧畜犬として活躍した犬種である。きちんと家畜たちを先導し、団体行動を仕切らなければならない。一頭も列からはぐれさせてはならない。責任重大な仕事を担う犬種なのだ。
胴長で足が短いのは、素早く牛や羊たちの足元を駆け抜ける必要があるからだ。尻尾が極端に短いのも踏まれるのを避けるためかもしれない。茶と白の毛はグリーンの牧場に美しく映えるだろう。
また、一方で、英国王室に寵愛《ちょうあい》されるロイヤル犬としても有名であった。なるほど、大きく立った耳と、くりくりとした丸い目はどこか気品を感じさせる。
そんな犬種だから、エドワード二世なんて大仰《おおぎょう》な名をつけられたらしい。いつも恥ずかしそうにしている。
「いいから、話してくれよ、エドワード二世」
と俺はわざと言ってやる。
エドワード二世は照れたふうな上目遣《うわめづか》いで、
「だから、いちいち、しっかり名前言わないでくれよ。エドでいいんだよ」
「お前が、とっとと話を聞かせてくれないからだろ、エドワード二世」
「ああわかったわかった、嫌味《いやみ》なやっちゃな」
鼻息を強く吹いた。
期待感が高まる。話に聞き入っている他の三匹も耳をアンテナにしている。
俺はエドワード二世の顔を覗《のぞ》き込むように、首を伸ばし、
「で、レノがどんなふうに現れたっていうんだ?」
「毛だよ」
「けっ?」
「うん、被毛《ひもう》、みんな全身に生えてるだろ、あの毛」
「レノの毛?」
「ああ、先週の金曜の朝、散歩してたら、浮羅田公園でレノの毛を見つけたんだよ。それも、数カ所で」
「レノが死んで一年にもなるのに、毛が落ちてるなんて」
「気味悪いだろ」
「ああ、とっくに風に飛ばされたり、雨水に流されているはずだもんな」
「どれも教本ずつの固まりで、まあ自然に抜けたって感じの状態だったな。俺が見つけたかぎりでは、そんな固まりが計九つ。大中小で分類すると、ネコジャラシの先っぽくらいのがふたつ、筆ペン細書き用くらいのがふたつ、ささくれた爪楊枝《つまようじ》くらいのが五つといったところか」
「数カ所で見つけたって言ったよな?」
むすっとして、
「これから言おうとしてたんだ」
「頼む」
「まず、池の北側のほとりに、爪楊枝サイズが三つと筆ペンサイズがひとつとネコジャラシサイズがひとつ、北側の潅木《かんぼく》のそばにネコジャラシサイズひとつと爪楊枝サイズふたつ、駐車場側の入り口近くに筆ペンサイズひとつ、以上」
俺はフウッと鼻から息を出して、
「なるほど、散らばってるな。それにしても、いつもながら緻密《ちみつ》な観察力に感心させられるよ」
「力というよりクセだ。どこに何があるか把握《はあく》しておかないと、気がすまないたちでな」
「たいしたもんだよ。これだけ詳細なデータを掴《つか》んでるんだから」
「しかし、あくまでも、俺の散歩コースの範囲内だからな。公園内でも他を当たれば、もっと見つけられたかもしれない」
「サンプルとして毛を持って帰った?」
「残念だな。生活に役立ちそうなものしか拾わない主義でな。誤解しないでくれよ、俺、オタクじゃないんだから」
「ああ、わかってら。お前がオタクだったら、とんでもないコレクターになりそうだ」
「とっくに小屋の中が満杯になって、俺、入れなくなるだろうよ。それが自分でも怖いんだ」
こいつ、穴の空いたゴムポールを始め、ハタキの柄《え》やら、ロープの切れ端、靴の片方、欠けた洗面器など、いろんなガラクタを見つけては、咥《くわ》えて帰る趣味があるのだ。
それらが、生活にどう役立つのか疑問だが、彼なりに使い道を考えているらしい。犬仲間では、リサイクルショップと呼ばれている。
俺は質問を続ける。
「今、それらの毛はどうなってるんだ?」
「なくなったよ。ほら、一昨日、公園の大掃除があったろ」
「そうか、落ち葉がずいぶん積もってるから、大がかりな回収作業やってったけ。それで、毛もすっかり」
「そういうこと。昨日も今日も、新たに毛は落ちてなかったし」
「レノの毛を見つけたのは先週の金曜って言ったよな」
「ああ」
「匂いはどうだった?」
シベリアンハスキーのグレイがレノの匂いを嗅いだのも先週末だった。そのことに言及する。
エドワード二世は神妙な面持ちで、
「俺も同様だ。確かにレノのマーキングの匂いを感じた。毛の落ちているあたりにも匂いが漂っていたよ」
「そうか。なんか、やっぱり、レノが蘇《よみがえ》って、徘徊《はいかい》しているように思えてくるぜ」
心霊現象の謎が深まるばかりだった。
すると、ソファの下から首だけ出していたボクサー犬のガッツが、
「おいおい、勘弁してくれよ」
と下顎をカクカクと震わせる。
「なんだ、町内で唯一、雷も花火も怖がらないって評判のくせして」
「いやぁ、たいていのことは大丈夫なんだけどよ。その手の話と病院だけは、どうにも我慢ならねえんだよ」
声が萎《な》えている。
対照的に、紅一点のコロネはちょっと舌っ足らずなバウスで、
「ああ、もっと早く知ってれば、コロネも匂いを嗅ぎにいったのにぃ」
「お、おめえ、怖くないのか?」
「どしてよ? そうねぇ、こんな話を闘いたことあんわよ。エルビス・プレスリーって歌手がいたの知ってる?」
「ああ、大スターだったらしいな」
「らしいの。死んじゃってからだいぶ経つのよね。でもね、生前住んでいた屋敷を訪れるファンが今も絶えないんだってさ。でさ、その屋敷の記念写真を撮ると、プレスリーっぽい姿が写っていることが時々あんだってね」
「お、おい、心霊写真ってやつかよ。勘弁してほしいよな」
「逆よ。みーんな、プレスリーが写っていると大喜びすんのよ」
「ええっ」
「幽霊が怖くて、ファンやってらんないってことね」
「そういうもんなのか」
「んなもんよ。わかるな、プレスリーファンの気持ち。コロネも会いたいもん、幽霊でもいいからレノ様に」
ガッツは首をブルッと震わせ、
「理解できねえ。さっきっから、俺、さむけがしてしょうがねえよ。もし、お前みたいに、全身をそんなにトリミングされてたら、俺、きっと鳥肌《とりはだ》が立っちまうぜ、犬なのに」
「んもぉ、これは、プードルの伝統的なたしなみってもんよ」
「風船細工《ふうせんざいく》みてえだぜ」
「失礼ねえ。これにはちゃんと由緒ある歴史の裏づけがあんのよ」
「えっ、ずっと前から、お前らはそんなだったのか?」
「昔、コロネたちプードル族は人間の狩猟《しゅりょう》を手伝っていたのよ。集団で狩りに出掛けて、飼い主さんが獲物を撃ち落とすと、その人のプードルが拾いに行くの。でさ、遠くからでも、誰のプードルか見分けがつくように、それぞれ違う形に毛をカットされていたのよ」
「目印みたいなものか」
「紋章《もんしょう》みたいな、って言ってよ」
つんっと口吻を上げてみせた。
そこに、ソース壜《びん》の絵柄でよく見かける顔がヌッと突き出される。
ブルドッグのデュークだ。
つぶれた鼻、垂れた頬《ほお》。小さな耳の先が折れて頭に着いている。いかついけど愛嬌《あいきょう》があり、どこか哲学的な面構《つらがまえ》えだ。
茶褐色の身体は後部よりも前部のほうが大きい。この微妙なバランスを、がに股《また》気味の脚《あし》が踏ん張るように支えていた。
今まで、デュークはみんなの会話を聞きながら、何やらトレーニングしていた。
ソファの脚に噛《かじ》りついていたのだ。
ブルドッグは下顎が発達しているため、下の鋭い牙が前に出ている。デュークはそのじまん自慢の牙で、ソファの脚部に付いているボルトとナットをいじくっていたのである。右に左に回転させて、緩《ゆる》めたり締《し》めたりしている。顔に似合わず、器用な奴だった。
そんな妙な作業にも飽《あ》きたらしい。
いや、何か話があるようだ。
デュークは肉厚の頬を興奮気味に震わせながら、
「なあ、あれもレノの幽霊だったのかもしれない」
眠そうな目で宙の一点を睨《にら》んだ。
「またかよ、カンベンしてくれよ」
と、ボクサーのガッツは床に顎をぺったりと着ける。
プードルのコロネは期待に目を輝かせている。
ウェルシュ・コーギーのエドワード二世は白い眉《まゆ》の模様を寄せて、
「アレとはどれ? 日時、場所、現象、の順で説明してほしい」
と前足で三度、床を叩いた。
俺は身を乗り出し、
「どんなことでもいい。気になることがあったら、聞かせてくれ」
と先を促《うなが》した。
デュークは頷《うなず》くと、
「一言で言うと、それは、見えない犬だった」
静寂《せいじゃく》が降りる。
皆、キョトンとしてデュークを見つめるだけだった。
代表質問のように、俺が、
「もう少し、詳しく教えてくれ。見えない犬を見たのか、いや、見てないから、見えない犬か、ええい、ややこしいな。とにかく、具体的に説明しろよ」
「日時、場所、現象」
エドワード二世が三度、床を叩く。
デュークは数回|瞬《まばた》きして、顔の皺《しわ》を波打たせると、
「そうだな、あれは、先週の中頃、うん、水曜だったよ。うちの飼い主がイヤホンしてラジオ聞いていたから。いつも、水曜の晩なんだ、誰か落語家の番組らしい。突然、ひとりで笑いだして気味悪いったらない」
ちらっと、上目遣いに、不動産屋を営む飼い主を一瞥《いちべつ》して、
「夜の八時頃、いつもどおりに浮羅田公園を散歩していた。東側の広場にベンチがあるだろ。そこにうちの飼い主さんが座って一休みして、ケラケラ笑ってた。俺は、ちょうどジュースの空き缶を見つけたんで、プルトップをいかに綺麗に取り外せるか、試してたんだ」
「相変わらず研究熱心だな」
「たいてい、プルトップは丸い取っ手部分だけ折れちまうんだ。けど、その晩は、ベロ形の蓋《ふた》部分と一緒に丸ごと上手く取り外せそうだった。でも、あと少しってところで、邪魔《じゃま》が入ったんだよ」
「邪魔って?」
俺が口を挟《はさ》むと、デュークは頷き、
「うん、音がしたんだよ。ザワザワって葉のこすれる音だった。目の前の潅木が揺れていた」
「潅木って、アオキの?」
とエドワード二世。
「いや、低いほうだよ。『公園内は自転車を降りて』と注意書きの立て札があるだろ、あのあたり」
「ああ、ツツジの潅木な」
「そう、それだ。ツツジの茂みが揺れていたんだよ。五秒くらいだっけな。でも、風は吹いていない。それで、俺、誰かいるんじゃないかって、リードの許すかぎり、近づいて、潅木の中を探してみた。けれども、誰もいなかったんだよ。犬の姿もなければ、猫一匹いない。ネズミもカラスも」
俺は訊いた。
「地震の可能性は?」
「ないね。揺れていたのはツツジの一帯だけで、その周囲はピクリともしてなかった。足元に何も感じなかったし」
「あの場所って、たしか、レノの縄張りのひとつだったような気がする」
「そうそう!」
と素早くコロネが反応し、
「確かに縄張りだったわ。よく、立て札にマーキングしているレノ様を見かけたもん。カッコよくて、コロネ、うっとりガン見しちったわん」
そう言って、目を潤《うる》ませる。
デュークはつぶれた鼻をひくつかせながら、
「俺もさ、レノのことを思い出したんだよ。で、さっきから、みんなが話題にしていた幽霊のことと結びついたのさ」
俺は、ハァと口から息を漏らすと、
「見えない犬が通った、か。なるほど、レノの幽霊が生前の縄張りだった茂みをうろついていた……」
冷たい静寂がたちこめていた。
時計の針の音が聞こえる。
カチャリと、奥のドアが開いた。
診察室から、飼い主に連れられて、白いグレイハウンド犬が出てきた。世界一足の速いと言われる大型犬が憔悴《しょうすい》して、のぼり坂のリヤカーのようにノロノロと歩いていた。精悍《せいかん》でスリムな体形も、痩《や》せこけて見えるだけだった。
そして、女性の獣医が次の順番を告げた。
「ガッツちゃん、お待たせしましたー」
死刑宣告に聞こえただろう。
呼ばれたボクサー犬のガッツは氷のように固まってしまった。
診察室のドアの傍《かたわ》らに、もうひとりの人間が立っていた。背広姿の若い男。
ペットショップ「アニマール」の営業マン、野々宮だった。
薄ら寒い頭に、いつものように泣きそうな作り笑いを張りつかせている。
ペット用ビスケットを振ってみせて、
「はい、いらっちゃーい。いいコにしてると、美味しいもの、あげるからねー」
試供品のモニター調査をさせてもらっているらしい。
そんなちんけなどスケットくらいで、この恐怖をしのげるはずないだろ。
俺の番になったら、憂《う》さ晴らしに、手か足に噛みついてやろうか。
ガッツはそんな気勢も削《そ》がれてしまっている様子だった。飼い主に引きずられるようにして、診察室に連れていかれる。
物干のストッキングのように、すっかり尻尾が垂れていた。
奴だけではない。俺も含め、みんな垂れていた。
9
朝、いつものように浮羅田公園に行ってみると、ちょっとした騒ぎになっていた。
ゴボウの時よりも人だかりが多い。
レノの銅像から十数メートル離れたところに大きなケヤキが生えている。
樹齢百年近くもあると言われ、公園ができる前から自生していた。高さは二十メートールを超え、秋晴れの青空を支えるようにそびえる。この季節、葉は残り少ない。幹の太さは大の男が抱えても、両手が届かないだろう。
そんな大樹を囲んでギャラリーができている。三十人くらいはいるだろう。
また、犬の姿も十匹ほどあった。
人も犬も、ケヤキを見上げている。
だいたい地上七、八メートルの高さだろう、幹が二股になったところに、大きな赤い垂れ幕のようなものが引っかかっている。
どうやら絨毯《じゅうたん》の類《たぐい》らしい。
およそ幅一メートル半、長さ四メートル。全体が真っ赤。幹に沿ってダランと下がっていた。
まるで、ケヤキが舌を出して、アッカンベエをしているふうに見える。
異様な光景であった。
真平さんと俺がギャラリーに加わった時、ちょうど、撤去《てっきょ》作業が行なわれる最中だった。
公園の管理人たちが、梯子《はしご》をケヤキにかけて、まずひとりがのぼる。そして、赤い絨毯を幹から外した。
大樹《たいじゅ》の下では、別の管理人が人よけをして、スペースが作られていた。
ドサッと大きな音をたてて、絨毯は地面に落下してきた。わりと重いようだ。ふたつ折りになって、Xの形に伸びていた。
厚みもある。裏は黒くてラバーが張られていた。
玄関マットの大きいやつであった。おそらく業務用だろう。
フリーカメラマンの笹賀英明《ささがひであき》が、ゴボウの時と同様、シャッターを切っている。皮肉めいた微笑を口端《こうたん》に浮かべ、
「こんな写真、売れるとしても、木に引っかかっていたシーンだろうな。でも、まあ、一応」
と地面の絨毯にレンズを向けていた。
カメラから目を離した笹賀に、近くにいた真平さんが、
「いったい、何があったんですか?」
「なんか、よくわからないよ。俺も明け方からいるほど暇《ひま》じゃないからね」
と不機嫌そうに頬を歪《ゆが》め、
「最初に見つけたのは、どっかの爺さんらしい。早朝の六時頃、ウォーキングと乾布摩擦《かんぷまさつ》をやりにきて、仰天したって聞いてるよ」
「さっきみたいに、ケヤキに玄関マットが垂れ下がっていたのを見つけたんですね?」
「そう。異様な光景なもんだから、ウォーキングも乾布摩擦も忘れて、家に電話したらしい。携帯を持ち歩いているんだな、ちゃんとGPS付きの」
「お年寄りはそのほうがいい」
「うん。で、起こされた家族は迷惑だけど、珍しいもの見たさにノコノコやってきた。で、その間にも、朝の散歩をしていた連中が集まってきた」
「あなたも」
「そう。今のあんたみたいに」
「はあ」
「それで、やがて、誰かが公園事務所に連絡して、こうして管理人が撤去作業をやってるってわけさ」
と、また、笹賀はカメラを構える。
管理人がふたりがかりで、マットをいったんまっすぐに広げてから、丸めはじめた。
「ありゃ、レッドカーペットだな」
と口を挟んできたのは、カフェ「バスカビル」のマスター、稲元信行《いなもとのぶゆき》。
「なに、それ?」
と真平さんが問い返す。
丸顔の顎髭をしごきながら、マスター稲元は、
「どこかで見たことのある玄関マットだと思ったら、あそこのだ。中華料理の『西太郷《せいたいごう》』に入ったところに敷いてあったやつだ」
「ああ、街道沿いのマンションの一階にある店ですね。上海《しゃんはい》料理だっけ」
「そのくせ、調理人のチーフは四川《しせん》の専門ときている、変な店。ほら、あれに見覚えがあるよ」
と指差す。
丸められて小さくなる赤いマットの端に、波のような曲線が白く描かれている。
真平さんが頷く。
「ああ、確かに。でも、何のマークでしょ」
「龍の髭だよ。マットを発注する際に、店主が縁起《えんぎ》かつぎに描いてもらったって言ってた」
「高級店っぽく見せる演出ですね。つけ麺《めん》の特盛なんかあるくせに」
「しかも、あの玄関マットのこと、レッドカーペットなんて、ふざけたこと吐《ぬ》かしてんだからな」
「あ、先週、ランチ食べに行ったんですよ」
「一一〇〇円の」
「いえ、ひとつ下、九五〇円のほう。その時、たしか、レッドカーペットじゃなかった」
「紫色だったんじゃない?」
「そうそう」
「こないだ、新しいのに取り替えたんだよ。で、古くなったレッドカーペットを処分したんだろう」
「まさか、あそこの店主がこの木にぶら下げた、なんてことは?」
「それはないだろ。いくら、あの店主でも、こんな変なことは。それに、不法投棄《ふほうとうき》だし、ここまでバレバレなことするわけがない」
とマスター稲元は首を振り、
「ちゃんと粗大ゴミとして処分したはずだよ」
「ああ、租大ゴミは指定日がありますからね。それが、今日だったわけか」
「ええ。おそらく、昨晩のうちに、回収場所に出しておいたんだろう」
「ホントは、当日の朝じゃなきゃいけないのに。あの店、けっこう常習犯ですよね。前にも何度か捨ててたし」
「そうなんだよな。で、またも、夜中に出しちゃった。そして、誰かがこのレッドカーペットを持ち去り、公園に運びこんで、こんな妙なことをしでかした。さっき、管理人が言ってたけど、夜の十一時に見回りに来た時には、この木には何も異常はなかったらしい」
「十一時から、今日の未明にかけての、犯行って言うのかな、まあ、誰かの仕業ってことになりますね」
「それにしても、なんで、こんなことしたんだろう? 何の意味があるっていうんだ? オブジェか何かのパフォーマンスかな?」
とマスター稲元は首を傾げる。
すると、隣で、腕組みをしていたアーティストの平泉が舌鋒《ぜっぽう》鋭く、
「こんなもん、オブジェって言えるかってんだ!」
ナスの古漬《ふるづ》けのような顔をしかめる。
真平さんはなだめる感じの口調で、
「まあまあ、オブジェと決まったわけじゃないですから」
「当ったりめえだ。こんな安直なもん、誰が認めるかってんだ。せいぜい、逆立ちして赤フンが垂れ下がってるにしか見えねえ」
「なるほど、言われてみれば、二股の幹から垂れ下がってますものね」
「品がなさすざら。だいたい、『西太郷』って店、入っていきなりこんな真っ赤なカーペット敷いてあって、品ってもんがねえぜ」
「今は紫色のカーペットですが?」
「ああ、見たよ。最低だな。坊主が食中毒で倒れて、袈裟《けさ》が広がってるみてえだ。あそこの店主、美的センスってもんがねえのかよ。なんか店全体がだらしねえし」
「まあ、夜中に粗大ゴミ、出しちゃいますしね。それで、こんなふうに誰かに悪戯《いたずら》されちゃった」
「うんうん、十日くらい前にもあったよ。店の間仕切りに使っていたアクリル板、夜中に捨ててやがった。一メートル四方はあってよ、うっかりつまずきそうになった」
「危ないですね。だから、粗大ゴミは朝出すのがルール」
「そういうこった。明け方近くまで飲んでた帰りなのに酔いが覚めちまった。しかも、よーく見りゃ『粗大ゴミ』ってシールが逆さ。そんなとこからしてだらしねえんだよな。俺がちゃんとアクリル板を引っくり返してやったよ」
「平泉さんだったら、気になりますよね、そういうところ。さすがアーティスト」
真平さんは子供をあやすように誉《ほ》めてやった。
平泉は満更《まんざら》でもなさそうに、薄い頭をかきながら、ケヤキを見上げ、
「しかしな、さっきのレッドカーペット、意味わからねえよな。どう見てもオブジェじゃないし、いったい何なんだろうな。どこのどいつが、何のために、こんなくだらねえことしくさったんだろう?」
そう言って、口をひん曲げた。
10
管理人が丸めたレッドカーペットを一匹の犬が熱心に嗅いでいた。
ボンタである。
早いうちに来ていたのだろう。ギャラリーの最前列にいた。
ゴボウ事件との関連を考えて、自分なりに調査しているらしい。なかなか感心な奴である。後で、報告してもらうとしよう。
「ああ、やっぱし、純血種の柴犬がいいかなぁ」
と後ろで聞き覚えのある声がした。
純血種じゃなくて悪かったなあ、と俺はバウスを囁《ささや》きながら、振り返る。
桐塚史郎《きりづかしろう》が突っ立っていた。ボンタの様子に目を細めている。
どんな犬を飼うか、まだ悩んでいる様子だ。ボンタを眺《なが》めながらも、ちらちらと他の犬に目をやり、比べている。手をこめかみに当て、俯《うつむ》いてしまった。
いつまでも悩んでなさい。
隣で奥さんがそんな表情で呆れていた。
丸めたレッドカーペットを管理人たちがロープで縛り、ふたりがかりで担《かつ》ぎ上げた。いったん、事務所で預かるのだろう。
ボンタはようやくその場から離れた。
人間たちと同様、もちろん、犬たちも奇妙な光景に関心を抱いていた。
ウェルシュ・コーギーのエドワード二世が歩み寄ってきた。
「やあ、昨日はお疲れさん」
「おお、そちらこそ」
病院のことである。
お互い、注射された後ろ足の具合を確かめ合った。幸いにも、痛みはない。エドワード二世はケヤキの木を鼻先で指して、
「奇妙な光景だったな。誰が、何のために、あんなことやったんだろ? それにどうやって?」
「ん? やっぱり、梯子を使って、だろうよ」
「いや、その可能性はない」
と、きっぱり否定し、
「梯子じゃない。梯子の類を使ったならば地面に跡《あと》が残る。ほら、今、管理人たちがのぼったみたいにな。しかし、さっき調べたけど、木の周囲、半径一メートル以内に、梯子の脚部《きゃくぶ》、つまり、平行するふたつの四角なり円形なりの凹みは見つからなかった。また、踏み消した様子もない。地面は自然のまんまだ。それに、あそこの地面は硬いんだよ。足跡がないだろ」
「確かに。なるほど。長い梯子と人間の重量が加わって、やっと、凹みができるのか」
「うん。それに、人間の靴底に比べ、梯子の脚部の底は小さい。その二点、あるいは、四点に重量がかかるから、地面に凹みができるんだよ。しかし、木の周りにそんな痕跡《こんせき》はない」
「几帳面なお前が調べたんだから、確かだな」
「俺がここに来たの二番目だったし。まだ、地面は荒らされてなかったよ」
「そりゃ、鉄板で確かだな。つまり、梯子は使われなかったってことか」
「そういうことだ」
「じゃ、じゃあ、どうやって、あんな高いところにレッドカーペットを引っ掛けることができたんだ?」
「それが最大の謎なんだ」
とエドワード二世は神経質そうに瞬きを繰り返す。
妙なリズムの声が聞こえてきた。
人間の声ではない。
グフグフと空気の抜けるような音。
ゴールデンレトリーバーのジャイスケが鼻歌を唸《うな》りながらヌウッと大きな顔を突き出してきたのだ。
奇妙な光景を目にしたせいか、興奮している様子だった。こいつの場合、陽気な方向で表れる。
つい、鼻歌が漏《も》れてしまうらしい。
たしか、この曲は、やはりジャイスケのオリジナル、「空まで届け、電信柱」。
作詞までしている。
なんだか、有名な黒人シンガーみたいなしわがれ声で、
♪電柱でござる
レッツマーキング
ぐんぐん伸びろ
俺たちのランドマーク……
などとわけのわからない歌詞だった。
俺とエドワード二世が睨《にら》みつける。
それで、ジャイスケは歌をやめると、急に真面目な顔になって、
「心霊現象の噂、広まってるよ。レノが蘇るんだってえ?」
声が少し震え気味だった。
期待しているのか怖がってるのか、こいつの場合、その能天気な表情からはよめない。
俺は小さく頷き、
「本当にレノの幽霊かどうかはわからないよ。ただ、不思議な現象が続発しているのは事実だけどな」
「うん、いろいろと話は耳にしているよ。まだ、霊は実体化していないんだろお?」
「ああ、見えない犬ってとこかな」
ジャイスケはケヤキを見上げ、
「さっきのレッドカーペット、あれが、天から降臨するレノを迎えるための儀式だったのかもしれないなあ。DOGが逆さになってGODとして降臨する」
そう言って、拝むように目を瞑《つむ》る。
ケヤキの大樹にかけられたレッドカーペット、そこに天から白い犬が降りてくるイメージを見ているのだろう。
11
レッドカーペットが運び去られ、ケヤキの周囲の人の輪が解けてゆく。
俺と真平さんも散歩を再開した。
池を半周したあたりで、ボンタが追いついてきた。
歩調を合わせる。
それぞれの飼い主たちも会話をしながら散歩を続けていた。
整体師の南条《なんじょう》さんは、真平さんの腰痛が再発しないようにアドバイスしているようだ。自分でできるマッサージの方法や、毎日の軽い運動のメニューなど。また、いざという時に頼りになる通院先もいくつか教えている。
そう、二日後には南条さん一家は引っ越してしまうのだ。
それは、また、ボンタにとってもタイムリミットを意味していた。
なので、当然、話題は例の捜査のこと。
ゴボウに続いてレッドカーペット、そして、レノの幽霊話の数々、短期間にこれだけ公園内で珍事件が続発すれば、関連性を考えずにはいられない。
ボンタは黒い鼻をヒクヒクさせながら、
「さっき、エドワード二世さんと話していたよね」
「ああ、レッドカーペットをケヤキにかける方法のことだよ。どうやら、梯子は使われなかったようだ」
「人間たちは梯子でのぼったと思ってる」
「ああ、知るわけがないよな。エドワード二世ほどの観察力だからこそ、わかったんだ。警察でも乗り出せば、現場検証で気づいただろうけどな」
「それほどの事件じゃないもんね」
「ああ、人間でも吊るされてれば、な」
「趣味がいいね、アローさんは」
「よく言われる」
と俺は軽く舌を出し、
「それにしても、梯子じゃなきゃ、どうやったんだろうな?」
ボンタは地面に目を落とし、
「うーん、たとえば、投げた、とか」
「いや、そりゃ、ないだろう。あのカーペット、かなりの重量だぜ。なんせ、管理人がふたりがかりで担《かつ》いで運んでたんだから」
「そうだよね。木から下ろす時も落としていたし。ズーンって重い音がした」
耳をラジコン飛行機の尾翼《びよく》のように左右に動かしてみせた。
俺は花壇《かだん》に巡《めぐ》らされた杭《くい》と鎖の柵《さく》を眺《なが》めやりながら、
「ロープを使ったとか、考えられねえかな」
「二股の幹をまたぐようにして?」
「そうそう、ロープの一方の端にカーペットをつないで、もう一方の端を誰かが引っぱるというメカニズムだ」
「テレビの時代劇に出てくる井戸みたいな原理だね」
「そう、それ」
しかし、ボンタはすまなそうに首を振り、
「それ、可能性、ないと思う」
きっぱりとしたバウスだった。
俺はムツとして、
「どうしてだ?」
ボンタはちょっとひるんだけど、すぐに胸を張って、
「さっきさ、僕、ケヤキの匂いを嗅いでいたんだ」
「おお、見てたよ。熱心に調査して感心なもんだな」
「ありがと。でさ、ロープであのカーペットを吊り上げたならば、木の幹にカーペットの匂いがつくよね」
「ふむ、カーペットは必ず触れるから、確かに匂いはつくはずだな。微量だけど、俺たち犬の嗅覚だったら感知できる」
「けど、幹にカーペットの匂いはなかったんだ」
じっとこっちを凝視する。思い詰めたような真剣な眼差しだった。
俺はニヤッと口端で笑い、
「そうか。よく気づいたな」
「匂いは大事だよね。迷った時は嗅覚を信じろって聞いたことがある。そして、何よりも鼻を大切にしろ、と」
「ああ、そうだ。犬の掟《おきて》、ひとつ、鼻は第二の心臓なり」
「うん、肝《きも》に銘《めい》じておくよ」
「しっかりな」
ボンタは大きく頷く。そして、報告を続ける。
「で、匂いなんだけどさ、あとひとつ、地面にもカーペットの匂いはなかった」
「地面って?」
「ケヤキの周り、そうだな、半径三メートルくらいの範囲を嗅いでみたんだ」
「匂いはなかったか?」
「うん」
俺は数回、頷いて、
「そりゃ、つまり、ケヤキの近くの地面に、カーペットは置かれなかった、ということか」
「そういうことになると恩うんだ」
「なるほど。となると、ロープで吊り上げた可能性はますます考えられないな」
納得の返事をしてやる。
ボンタは眦《まなじり》を下げて、
「困っちゃうよね」
「片っ端から仮説が潰《つぶ》されちまったもんな。梯子を使ったんじゃないし、放り投げたのでもないし、ロープで吊り上げたのでもない」
「いったい、どんな方法でカーペットを木にぶら下げたんだろ? その方法が見当つかないよ」
「あーあ、とんでもない謎にぶつかっちまった」
鼻の穴が広がり、ため息が漏れてくる。
ボンタは声を震わせ、
「なんか、冗談でなく、本当に、天からカーペットが降りてきて木にかけられた、そんなふうに考えたくなっちゃうよ」
「レノの降臨を迎えるためにか? そりゃ、やっぱし、信じがたいぜ」
ハフッと息を吐《は》き捨てる。
ボンタは困惑《こんわく》気味に、
「人間たちはこの不可思議な状況に気づいていないんだよね。梯子を使ったと思い込んでいるからさ」
「そう、奴らにとって、『どうやって』は謎じゃないんだ」
「僕らにとっては不可能状況なのに」
「そう、犬だけが気づいている密室状態なんだよ」
「そうか、一種の密室だよね」
「いわば、犬密室だ」
確かに、謎はとんでもない方向に進んでいるようだ。
ボンタは鼻に皺を寄せ、
「何だか、謎が多いね」
「ああ、俺らにとって大きな謎は三つ。誰が? なぜ? そして、どうやって?」
「人間が気づいているより謎がひとつ多いって、なんか変な気分だ」
「犬であるが故《ゆえ》の悩みだな」
「お気楽な人間が羨《うらや》ましいよ」
ボンタは飼い主たちを恨めしげに見上げた。
12
帰り道の途中なので、おやっさんのとこに顔を出すことにした。
おやっさんとは、もちろん、シェパードのウォッチ、元警察犬である。
彼は心療内科医院の裏庭に小屋を構えている。飼い主である由比《ゆい》先生の住居《すまい》の門前である。
午前の診療は十時から。なので、由比先生は仕事前の平和なひとときを庭で過ごしていた。花壇に水をやっている。芝生の綺麗な小ぶりの庭だった。
ちょうど、整体師の南条さんも立ち寄るつもりだったらしい。二日後に引っ越しするので、その挨拶のためである。
ふたりとも病の治療に当たる仕事なので、共通の話題も多かったことだろう。健全な精神は健全な身体に宿る、という言葉を思い出す。
うちの真平さんは患者の立場として、会話に加わっていた。
長引きそうだ。
おかげで、こっちはゆっくりと話ができる。
まず、俺は捜査の途中経過を詳細に報告した。
時折、ボンタが口を挟む。自分なりに調べたことを一生懸命に説明するのだった。
そんな健気《けなげ》な姿に、ウォッチは目を細める。まるで、孫の話を聞いているお爺ちゃんという感じだ。
ひととおり報告を済《す》ませると、今後の方針について話し合った。
ウォッチは慎重《しんちょう》な口ぶりで、
「散歩ついでの捜査では手に負えない状況になってきているようだな」
ここまで事件が奇妙な展開になるとは、まったく予測していなかったろう。
さすがの元警察犬も苦渋《くじゅう》の表情を隠しきれない。白毛《はくもう》の増えた眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せていた。
俺は報告したことを振り返り、
「妙なことが多すぎるぜ。植えられたゴボウの謎を追っていたのに、いつのまにか、一連のレノの幽霊騒ぎに直面している。マーキングの匂い、落ちていた毛、見えない犬、超常現象もバラエティに富んでるよ。そして、今朝は、レノの降臨《こうりん》を告げるように、天からのレッドカーペットときたもんだ。しかも、犬密室なんてとんでもない状況だし」
「確かに不思議なことが多い。しかも、人間よりも、わしら犬たちのほうが、はるかにショックが大きい」
そう言って、呑気《のんき》に談笑の中の飼い主たちを一瞥《いちべつ》すると、舌を伸ばして、重いため息を吐いた。
俺も同意して、
「そうなんだよ。実際、最近、町内の犬たちに落ち着きがない」
「ピリピリとした雰囲気が漂って、ちょっとしたことで騒がしくなるようだな。飼い主たちも不思議に思いはじめている」
俺はウォッチを見据《みす》え、
「なあ、おやっさん、やっぱり、これらの謎はすべて繋《つな》がっていると考えたほうがいいのかな?」
「そのセンが強いだろう。短期間でこれだけのことが起きているんだからな」
「このままじゃ、ホントにレノの霊を信じて、レノの復活を待ち望む連中が増殖するんじゃないか? そうなったら、ファンやグルーピーの次元じゃなくなるぜ」
「ふむ、人間たちで言うところの信仰に発展するやもしれんな」
「つまり、レノが神さまに、って犬神?」
ウォッチが口端《こうたん》を歪《ゆが》め、苦笑いし、
「もし、そうなった場合、心配なのは、レノの復活の噂を利用して、悪質なカルト教団を作る犬どもが現れるかもしれんことだ」
「犬の教祖が出現して、犬のカルト教団を作るってこと?」
「そのとおり」
「ええっ、じゃ、信者の犬たちに、いろいろと寄進させるようになるのか」
「ふむ、ビスケットやビーフジャーキーなんかをな」
「搾《しぼ》り取るだけ搾り取るわけだな。そいつは許せねえ」
俺は牙《きば》を剥《む》く。
ウォッチは目を鋭くし、
「ああ、そういう事態は阻止《そし》せねばならんな。実際、レノの幽霊の存在を信じている奴は確実に増えているようだし」
不安そうに言って、眉間に皺を寄せた。
すると、ボンタが躊躇《ためら》いがちに、首を伸ばしてきて、
「あ、あのさ」
「何だ?」
俺は訊いた。
「このタイミングで言いにくいんだけどさ、いいかな?」
「他にいいタイミングはありそうか?」
「ちょっと思いつかない」
「じゃ、言ってみろ」
じれったくなって声を荒らげる。
ボンタは震え気味の声で、
「あ、あのさ、霊が夢に現れるとか、よくそういう話ってあるよね」
「ん、まさか、お前」
ボンタは躊躇いがちに、
「う、うん、夢の中にレノさんの霊が現れたんだ」
そう言って、巻き尾を垂らした。
俺はねじこむように睨んで、
「いつ頃だ?」
「二週間くらい前」
「どんなふうに?」
矢継《やつ》ぎ早に問う。
ウォッチが口を挟んできて、
「まあまあ、自分の言葉で順を迫って話してみるがいい」
穏やかにそう言った。
ボンタは安堵《あんど》の息を漏らすと、
「あ、はい。ええっと、正確に日にちは覚えていないけど、二週間くらい前だったよ。寝ていたから夜中のはず、夢の中でもかなりの深夜だったんだ。僕を呼ぶ声がする。人間じゃなくて、犬だよ。バウスで僕を呼ぶんだ、『ボンタ、ボンタ』って。僕、何だかボーッとしながら、バウスの聞こえる方向を見たんだ」
俺はイメージを掴《つか》もうと、
「夢の中ではお前はどこにいたんだ?」
「家の庭だった。そして、バウスは隣の神社から聞こえてくるんだ」
「ああ、小さな神社があったな。八幡様《はちまんさま》だっけ。お前ん家は、たしか、境内裏《けいだいうら》に面していたな」
「そう。そして、神社の木立《こだ》ち、柚子《ゆず》の木が並んでいるところに、それはいたんだ……。白い犬が……」
「ん? 神社の柚子の木というと、ああ、庭の間近か?」
「そうだよ。石塀《いしべい》のすぐ近く、柚子の木の間に、その白い犬がいたんだよ……。オスワリの姿勢で宙に浮かんで……」
俺は口吻を突き出し、
「なにっ、白い犬がオスワリしたまま空中浮遊していただって……。そりゃ、また、シュールな夢だな」
「立ち耳の白い日本犬で、僕をじっと見下ろしていたんだ。身体の周りには何だか霧かもや靄《もや》みたいなものがゆらゆら漂っていた」
「そりゃ、ますます幽霊じみてるな。で、その不気味な犬がレノだったのか?」
「そのはず」
「そのはずって……ああ、お前、生身のレノに会ったことないもんな」
「そうなんだ。でも、あの例の銅像によく似ていたし、自分でも『俺はレノだ』って名乗ったんだよ」
「ふうーん、どんなバウスだった?」
「なんだかザラザラしていて低いトーン、そして、震えた感じの声だった」
「そりゃまた不気味なバウスだな。夢に出てくる霊だから、そんなムーディな声なのかもしれねえな。幽霊の典型的なイメージってやつか」
「あとさ、変な匂いがしてた」
「嗅覚《きゅうかく》も働いたか。まあ、犬の見る夢だもんな。よくあることだよ。で、どんな匂いだ」
「ビールみたいな匂い」
俺は思わずウォッチのほうに目をやる。
おやっさんも同じようにこっちに視線をくれていた。
頷き合ってから、俺はボンタに向き直り、
「そりゃ、驚いたな。レノは、時々、飼い主さんにねだってビールをもらってたけど、一度、調子に乗って飲みすぎちゃったことがあるんだよ。で、酔っ払って、一時間くらいジャンプしながら吠えていたことがある。ありゃ結構な見モノだったな」
ボンタは目を丸くして、
「ええっ、そんなことあったの。じゃ、やっぱり、レノさんだったんだ」
「不思議な体験をしたもんだな」
「うん、とにかく不気味だったから、夢の中で、僕は怖くて固まってたよ。凍《こお》ったように座ったままでさ、それこそ、銅像みたいに」
「ちびったか?」
「そんなことないよっ!」
毛を逆立て、鼻に皺を寄せた。
「まあ、ムキになるなって。それで、夢の続きは?」
ボンタは興奮気味に鼻をひくひくと震わせてから、
「霊が僕に語りかけてくるんだよ、『お前は誇《ほこ》り高き日本犬なんだから、もっと自信を持て』と」
「ふーん、それって、お前がサイレンを聞くと我を忘れてパニックになる、ってことを指摘してるのかな」
「うん、僕はそう思った。励ましてくれているように聞こえた」
「そういうところは、レノっぽいな」
「そしてさ、レノさんは『お前には俺がついているから大丈夫だ』って言ってくれたんだ」
「守護霊かよ」
と俺は首を傾げる。
横からウォッチが、
「あるいは、レノが復活することを告げているようにも取れるぞ」
「降臨の予言か」
「それで、ここ最近の心霊現象の騒動や、今朝のレッドカーペット事件」
「まるで予知夢じゃねえか」
なんだか気味悪さと腹立たしさが頭ン中でごっちゃになっていた。
ボンタは不安の色を濃くして、
「う、うん、そうなんだよ、予知夢みたいに思えてきたから、こうして話すことにしたんだ。自分でも気味悪いよ」
「で、夢はそこで終わったのかい?」
「うん、レノさんはそれだけ言うと、姿がぼやけていって、霜の中に消えちゃった。僕、よほどショックだったのかボーッとして、意識が朦朧《もうろう》とした感じで、ふと目が覚めたら、もう、朝だったよ」
語り終えると、疲れが押し寄せたのか、顔つきが茫洋《ぼうよう》としていた。
俺は瞬きすると、
「なるほどな、そうだったのか。そんな夢を見たもんだから、ゴボウの件で躍起《やっき》になって、俺んとこに調査の依頼にきたわけか」
「うん、実はそういう理由もあったんだよ。あの夢が大きなキッカケになった。すごく気になってさ」
「しかも、調査を始めたら、次々と不可思議な謎にぶつかるんだものな」
「本当に、予知夢とか霊の存在を信じたくなるよ」
「そこらへん、俺もはっきりさせてえな」
喉《のど》に骨付きビーフの破片が刺さっているような気分だった。
13
すると、ウォッチは表情をほころばせて、言った。
「ほう、やっぱり、お前らしいな」
「どういう意味だ?」
俺は訊《き》く。
「アロー、お前って、不思議な謎にぶつかると目が輝くんだよ。面白がってる」
「けっ、最初っから、そういう俺の弱点、見越してるから、また、探偵役を押し付けてきたんだろが。老獪《ろうかい》だよな、おやっさんは」
「あんがい、自分の性格、知ってるもんだな」
そう言って、ウォッチは含み笑いをすると、ボンタのほうを向いて、
「なあ、坊主、このアローって男、時々、サッカーボールに乗っかるんだ」
「えっ、玉乗りの特技があるの?」
意外そうに目をパチクリさせる。
「いや、こいつの場合は、そうじゃない。ただ、乗っかるだけ」
「転ばない?」
「転ぶさ。そのために、乗るんだよ」
ウォッチはこっちを向き直り、
「なっ、アロー」
「けっ、つまらねえこと知ってら。ああ、犬って滅多《めった》に転ばないからな。たまには転んでみるもんだ」
「ボールだから、どっちに転ぶかわからん。それがいいんだろ?」
「ふっ、頭からなんて、ふだんはありえないからな。どうせなら、なるべく面白いほうに転ぶのがいい」
「そういうふうに、無駄な好奇心の塊《かたまり》なんだよな、お前って奴は」
「その無駄を利用してんのが、おやっさんだろ」
「探偵役は有意義だろ」
「有意義な調査にしたいもんだな」
と俺は皮肉な笑みを浮かべる。
ウォッチは慎重《しんちょう》な口ぶりになると、
「そのとおりだ。どうやら、現場によっては徹底的な調査が必要なポイントがあるようだな」
「やっぱし、おやっさん、あれを発動させてもらうしかねえな」
「うむ、わしもそれを考えていたところだ。異論はない。指令を出す時が来たようだ」
目の奥に堅《かた》い決意が見えた。
すると、ボンタは下顎《したあご》を突き出すようにして、
「ね、ねえ、さっきから、指令とか、発動とかって何なの?」
不思議そうに問うた。
ウォッチは答えた。
「G8だ」
「ジー・エイト? 何、それ?」
「正確には|GOOD8《グッド・エイト》、またの名を、八犬団《はっけんだん》。いわば、特殊部隊のようなものだ」
「えっ、SWATみたいな存在?」
「まあ、いろんな意味でスペシャリストの集団だな。それぞれ特技を持つ八匹の犬で構成されているのさ」
「じゃ、その八匹のメンバーの中に、ウォッチさんも参加しているの? だって、元警察犬、捜査のプロだものね」
期待感に満ちた表情をする。
しかし、ウォッチはあっさりと、
「いやあ、わしはメンバーじゃない。いつものようにアドバイザーにすぎんさ」
「ねえ、ウォッチさん、毎日、散歩できるくらい丈夫なんだから、捜査に参加してくれたっていいのに」
不服そうに額に皺を作る。
「わしは現場を離れた犬だから」
「あのさ、他の犬たちから聞いたことあるけど、ウォッチさんって、ずいぶんと早いうちに警察犬を引退しちゃったんだって」
口調が棘《とげ》を含んでいた。
俺はボンタを睨みつけ、
「おいっ、口の悪い奴らの言うことなんかに耳を傾けるな」
「でも、ホントなんだろ」
「おいっ、口がすぎるぞ」
上顎の端をまくりあげた。
ウォッチが間に入るようにして、
「いやいや、いいってことさ、事実なんだから。警察犬としては実働三年ちょっとだった」
と穏やかに語る。
ボンタは少し驚いた様子で、
「えっ、やっぱり。なんで?」
「わしにはな、弱点があったのさ」
「何か病気?」
「いや、後天的なものだよ。警察犬として捜査に参加するようになって、二年目のある事件の時だった。わしが追い詰めた容疑者が、埠頭《ふとう》の端から足を滑らせ、テトラポッドに落下して、死亡してしまったんだ。そのことが、わしにとって一種のトラウマのようになってな、それ以来、捜査現場で腰が引けるようになってしまったんだよ。とんだ腰抜けさ」
「で、でも、ウォッチさん、わざと怠《なま》けたわけじゃないでしょ」
「現実は現実だ。捜査に全力を注げないようでは、もはや警察犬としてプロではない。失格の烙印《らくいん》を押されたのさ」
淡々と語った。ほんのわずか寂しさが滲《にじ》んだ。
俺が口を挟む。
「おやっさんは、優しすぎたんだよ」
「立場によっては、それを臆病《おくびょう》という」
皮肉な目をして、そう返すおやっさん。
ボンタは困惑顔で、
「ええっ、そんな……」
「仕方がないさ」
とウォッチは微笑み、
「弱点を克服《こくふく》しようと努力はしたが、どうしてもできなかった。しかしな、克服できなければ、付き合えばいいことに気づいたのさ」
「付き合う?」
「ああ、弱点と付き合えばいいんだよ。また、いい出会いもあった。わしの資質を見抜いた警察犬の訓練士さんが、福島県の知人に預けた。そこで、わしは新たな仕事を得たのさ。山のガイド犬だよ。霧の中、道を失いそうな登山者を誘導したり、雨が降れば、ほら穴や大樹のもとに案内したりな。それに、もちろん、遭難者が出れば救助隊に随行《ずいこう》した」
「警察犬の時と同じ能力でも、使い方が違うわけか。弱点≠ェ活きてるし」
「こっちのほうが性《しょう》に合ってたんだろうよ。でもな、歳には勝てん。六年ほどやっていたけど、山道がきつくなってな。ちょうど、その頃、飼い主も爺さんでな、老人ホームに入ることになり、わしを手放さなければならなくなったんだ。そして、また、新天地へとわしは赴《おもむ》くことになった。それが、ここさ」
ふーつと鼻息をゆっくりと吐いた。
ボンタは芝生の庭から白い診療所へと目をやり、
「そんな経緯《いきさつ》があって、由比先生のとこに」
「ああ、今じゃ、時折、先生を手伝ったりしているよ。ドッグセラピーという仕事だ。患者さんが犬と接して、精神をいやす治療法があるのさ」
俺が口を挟む。
「心根の優しい犬じゃないと勤まらない仕事だよ」
「ウォッチさんにぴったりだ」
「そうだろ」
ボンタは俯《うつむ》くと、しおらしい声で、
「ゴメンナサイ。ろくにウォッチさんのことも知らないのに、変なツッコミ入れて悪かったよ」
両耳は横になり、尻尾は垂れていた。
ウォッチは温和な面持ちで言った。
「なあに、若いうちは疑問を持ったら何でも口に出してみるもんさ。特権だと思えばいい」
「でも、いろんな生き方があるんだね。それに考え方次第で方法が見つかる。弱点を克服できなきゃ、付き合っちゃえばいいのか」
「そう。方法なぞ、探せばいくらでもあるものさ」
そんなウォッチの言葉を受けて、俺は言った。
「俺たちの道と同じだよ」
「道?」
ボンタは首を傾げた。
俺は続ける。
「人間は道を歩く。それが奴らにとっての道だ。しかし、犬は歩いたところが道なんだよ。地面さえ踏みしめれば、草むらだって、ぬかるみだって、どこにだって俺たちは足を進めるだろ」
「そうか、どこにでも道があるんだ……」
「風みたいなもんだよ」
ボンタは小首を傾げて、
「えっ、風?」
「風って、風が吹くところ、それが風の道だろ」
「うん、なるほど、風の道は風だね」
「犬も同じさ。俺たちが歩くところ、いる場所、それが道だ。いつだって、どこだって、鼻から尻尾まで、それが道になるんだよ」
「そうか、犬が進むところ、どこにでも道があるんだ……」
「犬の掟《おきて》。ひとつ。風のように、俺たちが俺たちの道になる」
「僕の道は、僕自身がなるわけか」
自分に言い聞かせるように、ボンタは呟《つぶや》いた。
ウォッチが大きく頷き、
「お前の弱点にだって何か解答があるさ。そう、道があるはずだ。弱点を道にしてしまえばいい。恐れずに、ゆっくりと探すことさ」
諭《さと》すように言った。
俺は苦笑いを浮かべ、
「そういや、G8もクセの強い奴ばっかしだよな。欠点の塊みてえな奴らで構成されてる」
苦笑いが伝染したようにウォッチが口元をほころばせ、
「うん、メンバーはみんな、そのクセがあるからこそ、活動できる。いい見本だから、ボンタ君も行動を共にするがいい」
「う、うん、何かよくわからないけど、ワクワクしてきたよ」
そう言って、ボンタは目を輝かせる。
話は決まったようだ。
俺はウォッチに言った。
「じゃ、八匹のメンバーへの連絡は、おやっさんにまかせていいね」
「ああ、いつものとおりだ。G8の連中をお前の指揮下《しきか》につくよう手配するとしよう。作戦の決行は今晩、それでいいな」
「もちろん」
俺は強いバウスで即答した。
ウォッチは大きく頷く。
「それじゃ、まずは」
と、背筋を伸ばし、顔を上げる。黒い鼻先が天をまっすぐ向いた。
口をわずかに開き、牙の間から、深々と息を吸い込む。
そして、ウォッチは遠吠《とおぼ》えを放った。
ウォォォーーーン! ウォォォーーーン!
高らかな咆哮《ほうこう》が青い空に響き渡った。
14
深夜の二時過ぎ。
俺はまだ起きている。目はばっちり冴《さ》え渡っていた。
夜空に、雲が走る。三日月が見え隠れしていた。
地面がザザザと小さな音をたてる。
目の前で、土がゆっくりと盛り上がる。
亀裂《きれつ》が四方に伸びた。
土が割れて、山が崩《くず》れる。
穴が出現した。
その穴から、影が持ち上がる。
月明かりに浮かび上がったのは犬の顔。
ミニチュアダックスフントのメビウスであった。
両の前足を踏《ふ》ん張り、這《は》い上がってくる。そして、長い身体を引っこ抜くようにして、穴から出てきた。
ブルブルンュと全身を震わせる。付着していた土が周囲に飛び散った。
それでも、まだ、鼻先と頭の上は泥にまみれていた。
メビウスはトンネルを掘って、うちの庭に侵入してきたのである。
得意げに鼻の穴を膨らませながら、バウスを放つ。
「よお、待たせたな」
「相変わらず、見事な腕だ」
俺は心から感嘆のバウスを放った。
うちはブロックと鉄柵《てつさく》の塀《へい》で囲まれ、表も裏もアスファルトの地面に接していた。
しかし、西側の隣家《りんか》との間にわずかな抜け道がある。幅は一メートル弱。ふだん、使われることはない。竹箒《たけぼうき》やバケツなどが無造作《むぞうさ》に置かれているだけだ。
そして、舗装《ほそう》されていない。
土が剥《む》き出しであった。
ここから、メビウスは穴を掘って、塀の下をくぐり、庭へと貫通させたのである。
彼こそはトンネル掘りの名手であった。
フェチが高じた結果である。穴掘りが大好きで、しょっちゅう庭をデコボコにして飼主を呆れさせていた。
ゴボウ事件の朝、公園で出くわした時も、こいつは穴を掘っていたっけ。
とにかく穴の中にいると心地よくて仕方ないらしい。俺には理解できない趣味だ。
しかし、そんな特技があるから、こうしてミッションに参加しているわけだ。
そう、予定どおりに、作戦は進行している。
トンネルから、もう一匹、姿を現した。
ブルドッグのデューク。
こいつがいないと、ミッションは先に進まない。大事な役目を担《にな》っているのだ。
デュークは近寄ってくると、
「お楽しみはこれからだ、ってとこか」
そう言って、俺の首に顔を近づける。
フゴフゴと音のする鼻息がくすぐったい。
こいつ、別に牡犬《おすいぬ》に妙な趣味があるわけじゃない。もちろん、俺も。
「動くな。ちょいとじっとしてろよ」
と、デュークが口を寄せてきた。
カチャリと金属音がする。
俺の首輪からリードが外れて、地面に落ちた。
デュークの匠《たくみ》の技である。
突き出した下顎の牙を器用に操《あやつ》って、リードの金具を外したのである。
こいつは錠開けの天才であった。
そして、自分の技術については頑固なまでの職人肌。日頃から練習を怠らない。
空き缶のプルトップを取り外したり、キイホルダーを開閉させたり、昨日は、動物病院でソファの脚部《きゃくぶ》のボルトを回していた。
俺は狭い庭を一周して、自由になった身を確認する。
「お前さんたち、相変わらずの見事な手際だよ、さすがだ」
メビウスとデュークへの賞賛の言葉を惜《お》しまない。
彼らこそ、例の「G8」のメンバーであった。
鮮やかな特技を誇るプロフェッショナルたちによって構成された特殊部隊。
あと六匹で、勢揃《せいぞろ》いする。
それには綿密な段取りが組まれていた。
まず、ここにいる二匹が先発隊として出動していた。
最初に、メビウスが家を脱出する。
彼は室内犬として飼われていた。家の中ではリードを外されて、自由に活動できる。
夜中、家人が寝静まったのを見計らって、メビウスはある部屋に入り込む。ふだんは使用されていない四畳半。雑多なものがしまわれた物置のような場所だった。
彼はキッチンから拝借してきたフライ返しを畳の隙間に差し込む。そして、柄に食らいついたまま全体重を乗せて、ぶら下がる。
テコの原理で、半畳の畳を持ち上げるのだ。
フライ返しを揺さぶり、浮き上がった畳を横にずらす。
メビウスがフライ返しを離すと、ずれた畳はそのまま床に落ちる。
畳と畳の間に三角形の穴が開かれたわけだ。
メビウスはその穴に潜入《せんにゅう》する。
そこは、下張りの板が組まれているが、ところどころに隙間がある。そこからさらに降りると、家の床下に出る。
土の地面が広がっている。
匍匐《ほふく》前進する必要もないのが、ミニチュアダックスフントならではの便利な体形。
闇の中、慣れた足どりで、スムーズに駆け抜ける。
明かりが見える。縁側の下の換気口。古くなった木製の格子が一本取れた箇所から、ウナギのように抜け出て、庭を横切った。
そして、フェンスの下、土をちょっと掘って、くぐり、家の外へと脱出に成功。
これくらい、彼にとっては、準備体操レベルであった。
メビウスは次の場所へと走る。
デュークの家。
すでに、デュークは庭に待機している。ふだんは犬小屋につながれているが、自由の身になっていた。
もちろん例の得意技。コンクリートに打たれた鉄のフックから、器用に牙を使って、リードの先端の輪を外したのである。毎度のことなのでお手の物だ。
リードを引きずらないように、首に巻きつけてある。マフラーみたいで、なかなかお洒落《しゃれ》だった。
ブロック塀の外周には花壇が設けられていた。
道行く人々の目を楽しませようという家人の心遣《こころづか》い、あるいは見栄《みえ》である。
メビウスは、花壇の土を掘って、ブロック塀の下をくぐり、穴を貫通させた。
このトンネルから、デュークは脱出。
そして、二匹は、今こうして俺んちの庭にいるのだった。
「ちょっと狭いかもしれんが、我慢してくれよ」
とメビウスは後ろ足で土を蹴り上げ、トンネルの入り口を広げてくれる。
俺は前足を伸ばし、背を逸《そ》らせて、準備体操をする。
そして、メビウス、デュークの後に続いて、トンネルの中へと入っていった。
ちょっと狭いが、匍匐前進すれば、スムーズに通れる。俺の体型と、作業効率とを考えた広さなのだろう。さすが、メビウスの職人芸だ。
闇の中、黙々と進む。腹に感じるのは土の冷たさ。
真上に三日月が顔を出した。夜風が耳をくすぐる。
無事、外に出た。
俺んちの塀と、隣家との間の狭い通路。バケツやゴミ箱などを乗り越えて、アスファルトの道へと出る。
次の目的地へとひた走った。
真夜中なので、人通りはない。
途中で、デュークは三十センチくらいの針金を拾った。電柱の立て看板から外れ、落ちていた一本。それを口に咥《くわ》えたまま走っていた。人間のつまようじを連想させる。いったい、どんな目的があるのだろう?
俺たちは、三分ほど走りつづけて、洋風の酒落た感じの屋敷に着いた。やはり英国調の造りを意識しているのかもしれない。
ウェルシュ・コーギーのエドワード二世が住んでいる。
赤茶色の煉瓦塀《れんがべい》に囲まれていた。入り口には、堅牢《けんろう》な鉄の門が閉ざされている。
そして、外周の地面はいずれもアスファルトだった。
これでは、どれだけの名犬技をもってしても掘りようがない。
メビウスは鼻を軽く突き出し、
「とりあえず、主役の座は譲《ゆず》るよ」
「まかせろ」
とデューク。
道路にはマンホールの丸い鉄蓋が嵌《は》められていた。煉瓦塀から一メートルちょっとの位置。
デュークは首をブルンブルンと回した。
すると、マフラーのように巻いていたリードが解かれ、地面に伸びた。
マンホールの蓋の隅には幾つかの小さな穴がある。そのひとつに、デュークはリードを入れた。
それから、近くの別の穴に顔を近づける。彼の口端には針金が咥えられていた。ここに来る途中で拾ったアレだ。いつの間にか、先を「し」の字に折り曲げてあった。
デュークは針金を穴に差し込むと、首を前後左右に細かく動かす。三十秒ほどで顔をそっと上げる。
針金にはリードの先端の輪が引っ掛けられていた。
なんて器用な奴なんだ!
デュークは針金をいったん道路に置くと、リードの先端をしっかりと咥える。もう一方の先端は首輪につながっている状態だ。
こちらに向かって、顎を突き出し、
「おい、手を、いや、歯を貸せ」
と口端からバウスを飛ばした。
メビウスと俺はそれぞれリードの途中に噛みつく。
まるで、テレビで見た漁師の地引《じび》き網《あみ》の体勢に似ている。
デュークの指揮《しき》に従い、三匹でリードを引っ張った。前足を踏ん張るようにして、後ろに下がる。なかなかの歯ごたえ。
ズザザザと鈍い音がして、蓋が持ち上がった。アスファルトをゆっくりと滑ってゆく。
三日月の形の隙間ができた。もっとも広い真ん中が幅三十センチくらい。
デュークは蓋からリードを外す。
そのリードの先端を俺はしっかりと咥えた。
そして、デュークは尻から穴に入ってゆく。
首輪のリードにぶら下がっているわけだ。
なんだか、吊るされている干し柿を思わせた。
俺は少しずつ、歩を進め、口に咥えたリードを穴の中へと伸ばしてゆく。
デュークはだんだん降下する。
リードの長さがいっぱいになった。およそ一メートル半。
そこで、こんどは、メビウスが口と前足でリードに掴《つか》まり、スルスルと滑り降りてゆく。さらに、先端のデュークの背を伝い、尻尾を軽く咥える。
そして、メビウスは口を離して、マンホールの中の横穴に入り込んだ。
この横穴の壁面は、部分的にコンクリートがはがれているらしい。そこから、メビウスはトンネルを掘り進み、塀の下を越え、邸内《ていない》へと侵入するわけである。
一方、いつも、エドワード二世は芝生の庭で自由の身であった。さすが、英国王室の犬にふさわしい。優雅なものである。
トンネルさえ貫通すれば外との行き来も可能だった。
自由への扉が開かれた。
およそ十五分後、メビウスに誘導されるようにして、エドワード二世が横穴から顔をかがや見せた。悪戯気な表情を輝かせている。
まず、メビウスがデュークの臀部《でんぶ》に飛びつき、横穴との間にブリッジを作る。
さらに、メビウスの腎部にはエドワード二世が掴まる。
地上から、俺とリードとデュークがつながり、その先に、メビウス、エドワード二世と連なっているという状態だ。
俺は足に力を込めて、リードを引っ張る。
デュークも前足をアスファルトにかけて、這い上がってくる。
二匹の力を合わせて、犬の干し柿は上昇。
メビウスとエドワード二世が地上に到着した。
四匹とも舌を出して、ハァハァと息を整えていた。
だが、後始末を忘れない。四匹で力を合わせ、マンホールの蓋を鼻先で押して、ちゃんと元に戻しておいたのだ。
そして、すぐさま、次なる場所へ。
角をふたつ曲がった先にボンタの家があった。
鉄格子《てつごうし》とブロックの塀に囲まれている。
北側は畑に面していた。例のゴボウなどが栽培されている農地だ。もちろん、土の地面。
メビウスは迷わず掘り進んだ。
その後を、デュークが続き、土を後ろ足でかき出してゆく。
スプリンクラーのように土が跳ね上がっていた。実に息のあった作業ぶりだ。俺とエドワード二世は、散らばった土を足でかき集めておく。後で、穴を埋め、脱走の痕跡《こんせき》を消去するための下準備である。
トンネルが開通したようだ。
俺はブロック塀に前足をかけ、鉄柵越しに庭の中を覗《のぞ》きこむ。
メビウスとデュークが穴から飛び出すと、全身を震わせて、土を散らした。
犬小屋の脇で、ボンタは目を丸くしている。興奮のあまり激しく尻尾を振りながら、
「す、すごーい! 本当にミッションが遂行《すいこう》されているんだ!」
感動のバウスを放つのだった。クーンクーンと実際に鳴き声も混じっていた。
デュークが悠然《ゆうぜん》と歩み寄り、
「じっとしてな」
と、口を突き出し、ボンタの首輪のフックに牙をあてる。
カチャカチャと金属音がして、十五秒ほどでリードが外された。
ボンタは舌を出して、
「わーい」
と今にも飛び跳ねそうに、全身の筋肉がみなぎる。
すると、デュークが素早く、
「待ちな」
と言うや、瞬く間に、リードのフックと首輪を元どおりにつないでしまった。
ボンタは呆然《ぼうぜん》として呟《つぶや》く。
「な、なんで? せっかく、外したのに」
「どうも、気に食わない」
とデュークは気難しそうに答える。首をひねりながら、
「ちょっと時間がかかりすぎた」
「えっ、あんなに早く外したじゃん」
「いや、手際が悪かった。俺としたことが、情けない。もう一度、やり直す」
「か、完全主義っ!」
「黙って、じっとしてな」
再び、デュークはボンタの首輪に口を近づける。そして、牙をフックに当てて、器用に操る。
金属音が響き、フックからリードが外れた。
デュークは小さく頷き、
「ま、これくらいなら良しとしよう。今度は一〇秒切ったからな」
フウッと鼻息を吐く。
ボンタは驚いて口を半開きにしている。言葉が見当たらないらしい。だらしなく舌を出しているだけだった。
鉄柵のこちら側で、俺はボヤく。
「ったく、デュークの野郎、どこまで頑固職人なんだよ」
「職人じゃない、職犬だ」
隣でエドワード二世が訂正する。こいつも細かい。
庭では、メビウス、デューク、ボンタの順番にトンネルの中へと消えていった。
すぐさま、こちらの脱出口に、メビウスの頭が見えた。
しかし、そのままじっとして、止まっていた。一〇秒くらい過ぎても動かない。
俺は不安に駆られて、
「おいっ、メビウス! 大丈夫か! 酸欠《さんけつ》か? しっかりしろ!」
いざとなったら救出に向かおうと、首を穴に突っ込みかけた。
すると、メビウスがこちらを見上げ、ニンマリと微笑《ほほえ》む。うっとりした口調で、
「いやぁ、ここの土はいいよお。やっぱし、畑って土の質が違うんだなあ。これだけ、心地いい穴はそうはない」
と、温泉気分で答える。ようやく、ノソノソと足を動かして、
「いやぁ、すまんすまん。あんまり、いい土加減だったから、つい、浸ってしまったよん」
ボーッとした表情でトンネルから出てきた。
俺は呆れて、
「この穴フェチが……」
脱力感を覚えていた。
メビウスに続いて、デュークが穴から出てくると、
「おい、後ろが詰まってるんだからな、いい加減にしろってんだ。だから、マニアってえのは……」
ぶつぶつと文句をたれる。こいつ、自分の頑固ぶりを軽く棚に上げている。
最後に首を出したボンタは驚きの連続で、口が開きっぱなしである。舌も出したままだ。土にまみれた顔が実にマヌケっぽい。
メビウスは、ボンタの首輪を咥え、引っ張り上げるようにして、穴から出るのを手伝ってやる。
「あ、ありがとう」
前足で頭の土を払いながら礼を言うボンタ。
メビウスはまるで聞こえなかったように、庭のほうを見やりながら、
「あのワゴン車、屋根にサンルーフが付いてるんだよな」
と塀の向こう側を鼻先で指し示した。
ボンタの飼い主、南条さんのブルーのワゴン車が見える。
「うん、屋根にサンルーフがあるけど、それが何か?」
そう言って、ボンタは首を傾《かし》げる。
メビウスは目を細め、
「走行中、サンルーフを開けて、顔を出すと気持ちいいよな。風が刺激的でさ。サンルーフってのも穴の最高|傑作《けっさく》のひとつだな」
とろけそうな表情をしていた。どこまでもフェチ野郎め。
対照的に、ボンタは強張《こわば》った表情をして、
「ぼ、僕、それ、苦手、サンルーフって駄目《だめ》なんだ。サイレン連想しちゃって」
「ああ、お前、サイレン恐怖症だもんな」
とメビウスは鼻をひくつかせ、
「でも、なんで連想しちゃう?」
「サンルーフから首出すとさ、なんか、自分がパトカーや消防車の赤ランプになったみたいで」
恥ずかしげに答える。
「そいつは重症だなあ」
メビウスは大きくため息を漏《も》らした。
俺は横から口を挟んで、
「おいおい、重症なのはお前の穴フェチも、だろが」
メビウスは目をパチクリさせると、ばつが悪いのをごまかすように、
「さあ、とっととミッションを進めようぜ。早いとこ、全員集合しねえと」
仲間の顔を見渡すのだった。
これで、俺とボンタを除いて、メビウス、デューク、エドワード二世と、G8のうち三匹が揃った。
さらに仲間を増やすため、夜の街を走る。
15
ビーグル犬のスヌーパーの住居は、児童公園の隣だった。コンクリート塀によって仕切られている。
公園の地面は学校のグラウンドなどと同じ材質が敷《し》かれていた。
さて、どうやって突破するのか?
ここに来る途中で、花屋の脇に置かれていたロープの輪をエドワード二世が拝借してきていた。植木鉢《うえきばち》を重ねてくくる荒縄《あらなわ》状のものである。
エドワード二世はこのように道具を調達するプロであった。
ウェルシュ・コーギーの持つ牧羊犬のDNAが力を発揮する。エドワード二世の観察力は抜群であった。つい、先日も、浮羅田公園に落ちていたレノの毛について詳細なデータを教えてくれた。そして、日頃から、さまざまな物の在《あ》り処《か》を把握《はあく》している。
今、口にしているロープもそのひとつだ。
伸ばすと五メートルくらいになる。
エドワード二世はロープを咥えたまま、公園の滑り台の鉄階段をのぼった。てっぺんの手すりの間から首を出す。
ロープが地面に垂れ下がる。
滑り台の下では俺が待機している。オスワリの姿勢。
公園の端から、ブルドッグのデュークが勢いよく走ってきた。俺の背中を踏み台にして、ジャンプする。
そして、ロープに食らいついた。
滑り台のてっぺんでエドワード二世が首を上下に振り回す。
デュークもロープにぶら下がった状態で、前後に身体をスウィングさせる。
さながら、ブランコのよう。
振り子の軌道《きどう》が大きくなってゆく。
そして、デュークは口を離した。
空飛ぶブルドッグ。
人間が見たら、腰を抜かすだろう。
緩《ゆる》やかな弧を描いてデュークは宙を舞い、コンクリート塀を越え、スヌーパーの家の庭に降り立った。
また、振り子の勢いで、ロープも飛んで、庭の潅木《かんぼく》に引っ掛かった。
「よっ、お迎え、ご苦労さん!」
とスヌーパーの気さくな挨拶が聞こえてきた。
「おめえ、何、小屋の上で寝そべってんだよ」
デュークが不機嫌そうに文句をたれる。
スヌーパーは、漫画のスヌーピーのような格好で呑気《のんき》に待機していたらしい。
首輪からリードのフックが外される金属音が夜風にまぎれ、かすかに聞こえた。
宙を斜めに横切るロープがクイクイと引かれる。脱出の合図だ。
滑り台の上でエドワード二世が足を踏ん張り、身構える。しっかりとロープを咥える。
俺はボンタの尻を前足で突っつき、
「ほら、ボサッとしてないで手伝え」
「う、うん」
ボンタは慌てて、滑り台に駆け上がる。緊張しながらも、表情が生き生きとしている。参加していることに喜びを感じているようだ。
エドワード二世の脇から、ボンタは首を伸ばして、ロープを咥えた。腰を屈め、足を突っ張る。
二匹は力を合わせて、ロープを引いた。
コンクリート塀の向こうから、デューク、スヌーパーの順で姿を現す。ロープに口でぶら下がった二匹は、まるで串団子《くしだんご》だ。
二匹は塀を越えて宙を舞う。その軌跡《きせき》は、侵入の時より緩やかである。
ロープから離れ、滑り台の足元に、二匹は同時に着地した。
「よっ、皆さん、お揃《そろ》いで」
とスヌーパーはいつもどおりの陽気な挨拶。緊張感のない奴だ。
するとエドワード二世が固い口調で、
「まだ、お揃いじゃない。G8フルメンバーまで、あと四匹だ」
常に正確さを重んじている。
勢揃いさせるために、俺たちは急いだ。
G8のメンバー五番目の脱出は、シベリアンハスキーのグレイ。
大型犬にふさわしい広々とした家屋だった。
磁器《じき》タイル張りのきれいな塀に囲まれている。
高さは約二メートル。東西南北、四面の外周の地面は、いずれもアスファルトだった。
トンネルは掘れない。
マンホールの蓋も見当たらない。
しかし、誰一匹として慌てている様子はなかった。
エドワード二世がこちらを向いて言った。
「今夜は、彼らがいるから、助かるよ。これだけの身長があれば」
道中、計画は聞いていた。
まず、俺が後ろ足で立ち、前足を塀に当て、よりかかる。
次に、ボンタが勢いつけて俺の背中をのぼり、さらに、頭の上に乗り、後ろ足で立つ。前足は塀にもたせかける。
俺たち二匹が肩車《かたぐるま》の状態で、立っているわけだ。
梯子《はしご》の代わりである。
そして、助走をつけて、ブルドッグのデュークが犬梯子を一気に駆け上がった。ボンタの頭を踏み台にしてジャンプ。塀を乗り越えて、邸内に入った。
ボンタは俺の頭から下りて、
「失礼しました」
「仕事だ。よけいな気遣いはするな」
そう言いながら、俺は頭を振って、首筋の筋肉をほぐした。
邸内からカチリと金属音が聞こえた。俺たち犬だからこそ捉《とら》えられる微《かす》かな音。
デュークがグレイのリードを外したようだ。
続いて、ザザザザーと何か引きずる音がする。カタンっと塀に何かが当だった。脱出の準備が整えられている。
俺たちは塀の上方を見上げていた。
突如《とつじょ》、夜空の三日月がさえぎられる。
宙を飛翔《ひしょう》する影。
一瞬のことだった。
グレイが塀を飛び越えて、アスファルトに着地していた。
背中にはデュークが乗っている。ひょいっと降りると、
「今夜は、ガレージに置いてあったサーフボードを塀に立てかけて、ジャンプ台にした」
「俺が、な」
グレイは冷然と補足した。
次の家へ赴《おもむ》く前に、エドワード二世のナビゲートで、工事現場に立ち寄った。
解体中の酒屋の店舗《てんぽ》であった。いずれ、コンビニに建て直すらしい。深夜なので作業員の姿はない。
ところどころ青いビニールシートがかけられている。隅のほうに、取り外された資材が置かれていた。廃棄《はいき》処分されるものらしい。
その中から、エドワード二世は右の前足で、
「これとこれ」
二枚の板を指し示した。
もとは棚の一部だったのだろう。二メートル×五十センチほどの大きさだった。厚みは一センチくらい。丈夫そうな板である。
あらかじめ、エドワード二世が目をつけていたようだ。さすが、調達屋のプロ。
グレイが足音もなく近寄り、
「俺の仕事」
無表情でそれだけ呟《つぶや》くと、一枚の板に口吻《こうふん》を寄せる。しっかりと真ん中あたりに食らいつくと、ゆっくりと持ち上げた。
わりと重量はあるはずだ。
シベリアンハスキーのような大型犬の力が必要なのであった。
エドワード二世はしかつめらしく、
「もう一枚は、後であいつに運んでもらわないと」
先を急ごうと皆を促《うなが》した。
あいつ、とはゴールデンレトリーバーのジャイスケのことであった。
こいつの家は二階建てのこぢんまりとした造りだった。
大型犬には狭苦しいだろう。しかも古くて、雑然としている。自転車や植木や掃除用具やガラクタが散らばっていた。
その分、飼い主はジャイスケの運動不足を心配しているのか、散歩の時間は長く、回数も多かった。
敷地はコンクリートの土台に鉄柵が巡らされていた。
狭苦しい庭で、大きな図体のジャイスケが柵から鼻を突き出している光景はほのぼのとしていた。
ここも外周はアスファルトの地面だった。
トンネル屋のメビウスの出番はない。少し不機嫌そうだった。
調達屋のエドワード二世が庭のジャイスケに、
「おい、例のもの、忘れてないだろうな」
「おお、そっか、忘れるところだった」
のほほんとジャイスケは答える。
何だか楽しそうに笑みさえ浮かべていた。相変わらず能天気な奴だ。
ジャイスケは、リードをいっぱいまで伸ばして、家屋の脇に行くと、ガラクタの中から、何かを咥えて戻ってきた。
棒状のもの。かなり長い。
三メートル以上ある。
物干《ものほ》し竿《ざお》だった。
これが、「例のもの」らしい。
ジャイスケは物干し竿を柵の隙間《すきま》から、外へと押し出した。
その両端《りょうはし》を、エドワード二世と、スヌーパーがそれぞれ咥えた。彼ら二匹で運ぶ段取りらしい。
「おおい、俺を忘れないでくれよなあ」
とジャイスケが大きな顔を柵に押しつけていた。鉄格子の隙間に挟まれて、額や鼻に皺《しわ》が寄っている。こいつ、笑わすつもりか。
また、呑気に鼻歌なんぞ唸《うな》っている。
奴のオリジナル曲で、タイトルは「犬脱走」。時折、牙をこすったり、舌を打って、キリキリとか、チャーンとか、妙な効果音を発し、リズムを作っていた。
グレイが工事現場から運んできた板をいったん地面に下ろし、縦《たて》にする。それから、柵にもたせかけた。
この板のブリッジを、ブルドッグのデュークが一気に駆けのぼり、ジャンプして、柵を越えた。
庭に下りると、素早く、ジャイスケの首輪からリードのフックを外した。あっという間だった。
俺は思わず、
「早っ! 新記録?」
「いや」
とデュークは口の端を吊《つ》り上げ、
「フックが古くて緩んでいた。正式な記録とは認めたくない」
自嘲《じちょう》まじりに言った。
ジャイスケは鼻歌を唸りながら、庭に散らばっていたビールケースを集めて、積み上げた。
手前にふたつ、外寄りに四つ。即興《そっきょう》の階段ができ上がる。
デュークを背中に乗せると、ジャイスケはビールケースを駆け上がり、鉄柵を越える。
テーマ曲どおり、見事、脱出に成功した。
G8のフルメンバーまであと二匹。
ジャイスケの奏でる「犬脱走」をBGMに、俺たちは走る。
G8メンバーの紅一点《こういってん》はチワワのポーリーだった。
彼女は四階建てマンションの二階に住んでいた。築十年くらい経っているだろう。元はクリーム色だった壁面が灰色にくすんでいる。
二階の左端、小さな窓が横に滑る。
レースのカーテンが揺れると、ポーリーが顔を出した。
デュークが見上げながら、
「あそこはトイレ。窓は、ロックを下に倒せば、開けられる構造だぜ」
開錠《かいじょう》のプロがあらかじめ、伝授《でんじゅ》したらしい。
トイレのドアを開けるには、細長いレバー状のノブに食らいつき、壁を蹴《け》って、手前に引けばいい、とデュークは解説を加える。
ポーリーは大きな目を輝かせ、
「ハーイ! こっちはいつでも準備OKよ!」
ジャイスケが鼻歌を止め、
「すげえなあ、女とは思えねえ」
「え、なんか言った?」
「い、いや、スタンバイOKってこと」
目を逸《そ》らして、首を突き出す。
ジャイスケの前には、エドワード二世とスヌーパーが待機していた。
物干し竿の両端を咥えて。
彼ら二匹が運んできたのである。
持ち主であるジャイスケにおずおずと差し出す。
ジャイスケはスヌーパー側の端を噛み締め、受け取る。バトンタッチ。エドワード二世とスヌーパーは口を離す。ジャイスケはしっかりと牙を立て、物干し竿を咥え込んだ。
そして、マンションの壁に前足をかけて、後ろ足で立つ。首をひねるようにして、物干し竿を真っ直ぐに立てた。小学校のグラウンドにあるのぼり棒のようだ。
ジャイスケはゆっくりと首を動かす。
物干し竿の先端が少しずつ横に移動し、ついにトイレの窓に届いた。
ポーリーが身を乗り出す。そして、物干し竿に食らいついた。
ジャイスケは壁の前足を地面へと下ろしてゆく。
物干し竿は巨大な秒針のようにゆっくりと降りてくる。
その先端にはポーリーがしっかりと掴まっていた。
そして、巨大な秒針は真横になった。物干し竿が地面に着地。ポーリーが口を離して、アスファルトに降り立った。
「サンキュ!」
「お見事」
「女とは思えねえ、でしょ?」
「聞こえてたかあ」
と、ジャイスケは太い首をすくめた。
物干し竿はその場に置いておく。ポーリーの帰還の際に、また使うためだ。
最後のメンバーのもとへ俺たちは走った。
ボンタが並走しながら問う。
「あと一匹って誰?」
「シンチーだよ」
「シンチーって?」
「ああ、お前、会ったことないか。ふだんの散歩エリアが違うもんな。チャウチャウ犬のシンチーって奴で、チャウシンチーって呼ばれてる」
シンチーの飼い主は空手の師範代《しはんだい》。
そのため、住居に隣接して道場があった。敷地全体には高さ二メートルほどの石塀が巡らされている。
再び、シベリアンハスキーのグレイが例の板を、塀に立てかけた。
そして、デュークが勢いをつけて駆けのぼり、庭に侵入。数秒後、かすかな金属音。シンチーがリードから解放されたようだ。
陶器がぶつかり合うような音が繰り返される。
まず、デュークが塀の上に姿を現し、アスファルトの道路へと降り立った。
「瓦《かわら》割り用の瓦が積んであるんだ」
それをよじのぼって塀を越えた、とデュークは説明する。さっきの陶器の音がそれだ。
庭で瓦がカタタンと鳴った。
すると、毛むくじゃらの茶色い塊がサッカーボールのように飛んできた。
「アチョーッ!」
奇怪なバウスを発しながら、塀を越えて、着地した。
こいつが、チャウシンチーこと、チャウチャウ犬のシンチーだ。
全身がもっこりとした毛に包まれている。
背中まで伸びている長い尻尾。くしゃっとした顔は愛嬌《あいきょう》たっぷりだ。奥まった目はいつも眠そうで、見てると、つい欠伸《あくび》を誘われる。
シンチーは物々しい口調で、
「押忍《おす》。お役に立てること、幸いと存ずる次第」
そう言って、丁寧《ていねい》に首をたれる。
シンチーは道場で生徒たちに混じって稽古《けいこ》に励《はげ》んでいた。
そのため、犬なりの技を身につけている。
カンフーならぬワンフーという武術。
また、飼い主が小林氏なので、小林犬《しょうりんけん》と自ら名乗っていた。
そんなワンフーの腕を活かして、彼はSPのような役割を担《にな》う、警備のプロであった。
さて、これで、全員が勢揃いした。
ミニチュアダックフントのメビウス。
ブルドッグのデューク。
ウェルシュ・コーギーのエドワード二世。
ビーグル犬のスヌーパー。
シベリアンハスキーのグレイ。
ゴールデンレトリーバーのジャイスケ。
チワワのポーリー。
チャウチャウのシンチー。
この八匹が「G8」のフルメンバーであった。
彼らは横一列に並んで、夜の道を疾走《しっそう》する。
ジャイスケが鼻歌を響かせる。曲は「エイトワン」。たしか、詞もついていたはずだ。
♪光る耳、
光る尾っぽ、
光る黒鼻……。
西の空から三日月がスポットライトを落としていた。そして、彼らを導くように、俺が先頭を走り、ボンタが続いていた。ミッションは予定どおりに進行している。
16
深夜の浮羅田《ふらた》公園。俺たち十匹の他に誰もいない。
静寂《せいじゃく》が横たわっていた。晩秋の冷たい空気が地面にも染みている。
池が黒々と広がり、雲が影を落としているようだった。アシやスイレンなどの水生植物の茂みが点々と闇《やみ》を膨《ふく》らませていた。時折、風になぶられ波が滑《すべ》る。水面に映る街灯の明かりが揺れて散る。
木々や草のざわめきが静けさを際立たせた。
月が見え隠れしている。
雲の流れが速い。
さらに、風が強くなりそうだった。
匂いが薄くならないうちに、手際よく調査を進めなければならない。
もっとも重要な現場は、ケヤキの木だった。
もちろん、今朝、レッドカーペットが垂れ下がっていたあのケヤキだ。
実に不可解《ふかかい》な状況であった。
いったい、誰が、何のために、あんな奇妙な行為に及んだのか?
あるいは、たとえ偶発的な出来事だとしても、本来の目的は何だったのか?
そして、人間たちが気づいていない謎。
どうやって、カーペットを木にぶら下げたのか?
匂いや地面の痕跡《こんせき》などから推察して、梯子《はしご》の使用や、ロープで引き上げた方法は、否定されたのだ。また、投げるには重すぎる。
いわば、不可能状況であった。
忽然《こつぜん》と宙にレッドカーペットが出現して、ケヤキの幹に敷かれたとしか考えられない。
天から舞い戻るレノの霊を迎えるために。
復活を称えるレッドカーペット。
DOGの転生、GODの降臨を祝福するかのようだった。
G8のメンバーは、こうしたミステリー的状況を、あらかじめシェパードのウォッチから伝達されていた。また、ここに到る道中で、俺が詳細を説明した。
皆、ケヤキを見上げている。
サーチライトのような鋭い視線。
樹上の手掛《てがか》かりを求めているのだった。
俺はケヤキの問題の箇所《かしょ》を鼻先で示して、言った。
「七、八メートルはあるぜ」
幹が二股になった位置である。そこからレッドカーペットが下がっていたのだ。
デュークがつぶれた鼻をフンッと鳴らして、
「俺たちはG8だ。不可能を可能にするために、リードから放たれたんじゃねえか」
メビウスが尻尾を一振りして、相槌《あいづち》を打ち、
「そうそう。何のために、トンネルを掘ったと思ってんだよ」
そう言って、鼻についていた土を前足で落とした。
速やかに段取りが進められてゆく。
二枚の板が地面に置かれていた。
いずれも、エドワード二世が酒屋の解体工事の現場で見つけたものだ。
一枚はシベリアンハスキーのグレイが運び、途中で、脱出用のブリッジとして用いた。
もう一枚は、やはり大型犬であるゴールデンレトリーバーのジャイスケが咥えて、運んできた。
これら二枚の板をスヌーパーが凝視《ぎょうし》する。時折、視線をケヤキに向け、それから、グレイとジャイスケヘと移す。
そして、首を下げると、牙を剥《む》いて、板に噛《かじ》りついた。
ガッガッガッと掘削音《くっさくおん》をたて、木《こ》っ端《ぱ》を散らした。
板の先端近くに五百円玉くらいの穴が穿《うが》たれた。貫通はしていない。五ミリ強の深さだった。
再び、牙を板に食い込ませて、彫《ほ》る。
約三十センチの幅を置いて、ふたつの穴が並んだ。
こんどは、それらの位置から約五十センチ下方に、また、二つの穴を開けた。
同様の作業を続けてゆく。
二枚の板には、それぞれ、穴が二列に、五十センチ間隔で四つ並んでいた。
スヌーパーの精巧な作業。
彼の役割は工作屋であった。
なんせ、自分の犬小屋の屋根を改造して、ベッド代わりに仕立てた腕前である。
その技術をもって、板に細工《さいく》を施《ほどこ》し、捜査に必要な道具をこしらえていた。
その間に、エドワード二世がどこからか壜《びん》ビールの蓋を拾ってきた。
表に星のマークが描かれている。
エドワード二世はそれを口端《こうたん》に咥えたまま、
「どっち?」と問いかける。グレイとジャイスケに対してだった。二匹が目を合わせる。
「お前から」グレイが言う。ジャイスケは数秒ほど夜空に目をやり、
「んじゃ、表」
「裏」グレイが言った。
エドワード二世は蓋を口に含むと宙を仰ぐ。
そして、シュッと息を吹いた。
蓋が飛んだ。
二メートルほど舞い上がり、回転しながら落下する。土の地面に二度バウンドして静止した。
星のマークが外灯に煌《きらめ》いた。
表。
ジャイスケが頬の肉をダブつかせて、笑みを浮かべ、
「やったね。ついでに、骨ガムも賭《か》けりゃ、よかったよお」
呑気《のんき》なことを口走る。対照的に、グレイは無表情なまま、
「ツキがねえ」
とだけ呟《つぶや》く。澄んだ瞳が冷たく底光りした。
そして、黙々と作業を開始する。
例の板を一枚、口に咥えてケヤキに歩み寄った。
首を上げる。
板の先端が幹に触れた。
グレイは一歩ずつ足を踏み出す。
ギリギリまで近寄ると、前足をケヤキに当てた。
後ろ足で少しずつ立ち上がってゆく。
それにつれて、口に咥えた板が、幹に沿って、上がってゆく。
そう、犬と板による梯子を築いているのだった。
後ろ足のかかとの肉球が覗《のぞ》いていた。
そこから板の先端まで、およそ三メートル半くらいだろう。
その高さのまま静止する。
続いて、ジャイスケが、
「んっしょ」
と板を咥えて、ケヤキに歩み寄る。
ひょいと後ろ足で立ち、数歩、前進。前足をグレイの背中に置いた。
グレイは梯子と化して微動だにしない。
ジャイスケは咥えている板をケヤキの太い幹に当てると、口端から、
「んじゃ、失敬」
とバウスを発す。
そして、グレイの背中をのぼりはじめた。
足の爪を、灰色の毛に引っかけるようにして、一歩ずつ進む。
ゴールデンレトリーバー丸ごと一匹と、二メートルの板、かなりの重量のはずだ。
それをしっかりと支えるグレイはまさに梯子そのものだった。
ジャイスケは鼻歌を唸りながらのぼる。この曲は、「ミッション・ワンポッシブル」。
「いい気なもんだ」
梯子のグレイがボヤく。一瞬、鼻に皺を寄せた。
そのグレイの首筋に、ジャイスケは後ろ足をかけると、一気に、頭の上に乗った。
スピーディで軽やかな動き。
ジャイスケは、グレイの頭の上に立っていた。
相変わらず、鼻歌を奏でている。
さらに、ジャイスケは、グレイの咥えている板に、のぼりはじめた。
ここで、例の穴が役に立つ。
そう、工作屋のスヌーパーが穿った穴である。
これは足がかりのためであった。
二列に並ぶ穴に、順に足を引っかけて、のぼってゆく。
またたくまに登頂すると、ジャイスケは板のてっぺんに後ろ足を乗せた。
背筋をすうっと伸ばす。前足で抱《かか》え込むようにして、幹に掴《つか》まる。
板の端に立った状態である。
顔は夜空に向けられていた。
その口に咥えている板を、ケヤキに差し掛けていた。
上から順にこんな構成。
板・ジャイスケ・板・グレイ。
梯子が完成した。およそ七メートルもの高さ。
奇妙にして壮麗《そうれい》なアクロバット。
皆、ため息を漏らして、見惚《みと》れている。
雲が割れて、月光が差した。
ジャイスケが黄金色《こがねいろ》に、そして、グレイの背が銀色に、それぞれ輝く。地面に梯子の影が長く伸びた。スヌーパーが俺を見て、言った。
「さてと、この芸術的な梯子にのぼってもらうのは」
「俺」
「だな、アロー」
「ああ。最初からそのつもりだよ」
「なんせ、探偵だもんな」
「本格推理かと思ってたら、アクション系の展開になっちまったぜ」
俺は首を下げ、尻尾を上げて、全身を弓なりに伸ばした。軽い柔軟体操である。
犬梯子に歩み寄る。
後ろ足で立つと、前足を下段のグレイにかけた。
「失礼するぜ。体重は十二キロくらいだ、一応、申告しとく」グレイは冷然と、
「無駄口《むだぐち》はいらねえ。とっととのぼれ」
視線を空に向けたまま言った。
俺はグレイの背にのぼりはじめる。前足に力を入れて、後ろ足を地面から離す。全体重がグレイに乗っている。それでも、まったく揺れない。
俺は、足の爪をグレイの毛に引っかけるようにして、よじのぼった。豊かな灰色の直毛が暖かい。やはり、寒い国の犬である。吹雪《ふぶき》に負けない強さを感じる。
余計かと思ったが、
「失礼」
と言ってから、頭を踏んだ。
グレイは何も言わない。
俺はグレイの咥えている板へと進んだ。
スヌーパーが穿《うが》ってくれた穴に、爪先がフィットする。左右の足を交互に動かし、スムーズにのぼった。
鼻歌の「ミッション・ワンポッシブル」が近くなってきた。
垂れ下がっている尻尾を軽く噛んで、命綱《いのちづな》がわりにする。そして、ジャイスケの背中へと移ってゆく。
黄金色の長い毛はウェイブしていて、足の爪を引っ掛けやすい。すいすいとのぼる。
風が吹くと、毛が鼻先を撫《な》でて、くすぐったかった。
やはり、一応、
「失礼」
と断ってから、ジャイスケの頭にのぼった。
一瞬だけ、鼻歌の音程が外れた。
俺は最後の段である板をよじのぼる。
枝葉の影が濃くなってゆく。
梯子のてっぺんに辿《たど》り着いた。
板の先端に後ろ足を乗せて、前足の爪を幹に引っ掛けながら、そろそろと立ち上がった。
バランスを整えると、大きく息を吸う。
下を見たら、一瞬、クラツとした。
しっかりと幹を抱え込むようにして、身体を支える。
俺の鼻先は地上八メートルくらいの高さにあった。
そう、あのレッドカーペットがかかっていたあたりである。
十センチほど上に、幹が二股《ふたまた》に分かれている。
その狭間《はざま》にカーペットの端が引っかけられていたのだ。
俺は下から上へと鼻先を動かす。
匂いの痕跡を調べていた。
まだ新しいものが幾つかある。
今朝、空気中に漂《ただよ》っていたレッドカーペットと同じ匂いが確かに付着している。
ゴム臭。これは、カーペットの裏面だ。
俺は慎重に後ろ足を伸ばし、幹の二股へと鼻を近づけていった。
奇妙な匂いを捉《とら》えた。
ワックスのようなツンとした匂い。
どこかで嗅いだことがある。記憶を辿った。
そうだ。あれだ。
町内には何軒かのアンティークショップが点在していた。その中で、家具を扱っている四軒に行ったことがある。
正確に言えば、店先まで、だ。犬は入れない。真平さん夫婦が中にいる間、店の前につながれていた。
その際に、嗅いだものだ。店内から漂ってきた匂いである。
あれらと同類の匂いが、このケヤキの幹に付いているのだ。
不思議だ。
木の本来の匂いとはまったく異なる。
薬品系の臭気であった。
どうして、こんなところに付いているのだろう?
さらに、上へと匂いを探る。
首と足を、めいっぱいに伸ばして、ようやく、幹の二股部分に鼻先が触れそうになる。
これが高さの限界だ。
幹に鼻をこすりつけるようにして匂いを追及する。
全神経を嗅覚に集中させるのだ。
すると、またも、不可解な匂いを捉えた。
こんな場所ではありえない匂い。
ローションだ。
ぶーんと石鹸《せっけん》に似た芳香《ほうこう》を発している。
人間にとってはいい匂いだろう。俺はあまり好きではない。シャワーや風呂が嫌いなくらいだから。
誰かローションをたっぷりつけた奴がここまでのぼってきたのだろうか?
風呂上がりに木登り? いったい、どういう趣味だ?
幹の表面に目を凝らす。幾つか滴《しずく》が付着している。ローションが散って、固まったものだった。
不可解である。
いったい、どういう状況なのだ?
まさか、レノがローションで身体を洗い清めてから、降臨してきたのではあるまい。
頭の中が混乱してくる。
ケヤキの枝がザワザワと揺れた。葉が幾つかちぎれて宙に舞う。
風が強くなってきた。足元がぐらついた。前足の爪を幹に立て、身を支える。下に声をかけた。
「大丈夫か」
ジャイスケがこちらを見上げて、
「心配すんなって。そっちこそ、ビビんなよお」
とウインクを送ってきた。
心なしか笑みが硬かった。
強がってはいるが、そろそろ限界だろう。
風になぶられ、ケヤキの上のほうが悲鳴のような音をあげて、しなる。
俺も掴まっているのがやっとだった。
何よりも、一番下で支えているグレイの負担が大きすぎる。
それに、どうにか調査すべきことは終えたつもりだ。降りようと判断した。
「ここは撤収《てっしゅう》だ」
俺は下に合図した。すると、
「待て! そのままじっとしてろ」
シンチーが放ったバウスだ。
彼は警備担当として、周囲を見張っていた。
言われたとおり、俺は彫像《ちょうぞう》のようにじっとする。
皆、息をひそめた。
十メートルほど離れた公園の入り口のほうから足音が聞こえる。
リズムが乱れている。おぼつかない歩き方。
これは、人間の酔っ払い特有のものである。ひとりらしい。
乱れた足音は、こっちに近づいてきた。ろれつの回らない声。何やら独り言を放っていた。
「……クショー……犬洗いなんか……死に損ないめ……」
意味不明の言葉が途切れ途切れに聞こえる。
この声には、どこか聞き覚えがあった。
口調は乱れているが、音質と周波数で特定できる。
そうだ、あいつだ。
税理士の久保勉《くぼつとむ》。
あの色黒でギョロ目の若い男。
レノの飼い主だった美濃和《みのわ》さんの孫に当たる。
仕事柄、ふだんは堅物《かたぶつ》のくせして、酔うとこんなふうにグタグタに崩《くず》れる奴だったとは。
性癖《せいへき》なのか。それとも、何か嫌なことがあったのか。いずれにしろ、荒れ模様だ。
久保は右に左にふらつきながらも、確実にこちらへ近づいてくる。
下にいる犬たちは、地面に伏せていた。じっとして微動だにしない。
風が強く吹いた。
梢《こずえ》がざわめき、茂みが波打つ。
踏んでいた板が揺れ、足元がぐらついた。視界が眩《くら》む。真下で地面がバウンドしているように映る。
俺は反射的に、幹に噛みつき、牙を食い込ませた。かろうじて、しのいだ。落下を免れる。
人間ならどっと汗をかいたところだろう。
犬には汗腺《かんせん》がない。舌を出して、体の中の熟を冷ます。
足元を見る。
下段を支えているグレイとジャイスケは懸命《けんめい》に幹を抱え込んでいた。
酔っ払いの千鳥足《ちどりあし》が迫ってきた。
もう、三メートルも離れていない。
久保のギョロ目を確認できるほどだ。
突然、椿《つばき》の木立がザワザワッと激しく揺れると、
「アチョーッ」
奇怪なバウスが響いた。
もちろん人間には聞こえない声。
枝葉の擦れ合う音に久保が振り向く。
木立から黒い影が飛んできた。
毛の生えたクッションのような不気味なもの。警備犬のシンチーであった。全身を丸めて、宙をかっ飛んでゆく。
そして、久保の顔面を直撃した。
何が起きたのか、久保には理解できまい。
「ふしゃーっ!」
自転車のパンクみたいな驚愕《きょうがく》の声をあげて、久保はのけぞった。
足が数センチ、浮いている。
そして、地面に肩から倒れていった。シンチーは宙で一回転すると、全身を伸ばす。真一文字のシルエット。
そして、前足でブレーキをかけながら、滑り込むように着地した。
これぞ、チャウチャウ犬シンチーの真骨頂《しんこっちょう》。
小林犬《しょうりんけん》の異名どおりのカンフーならぬワンフーの絶技だった。
久保は呆然《ぼうぜん》としたまま倒れている。
ワンフーアタックの衝撃で相当なダメージを受けたようだ。
それにアルコールのせいで思うように身動きできない。
シンチーが全員に号令する。
「よし、今のうちに逃げろ!」
伏せていた犬たちが起き上がる。
ケヤキでは、俺が梯子を降りようとした。
風に流れる雲が割れて、三日月が現れた。夜空が煌く。
月光が地上に降り注ぐ。
その時、倒れていた久保はバネのように跳ね起きた。顔が恐怖に引きつっている。ギョロ目をさらに大きくしている。
その視線はこちらに向けられていた。
「バ、バケモノ……」
かすれ声を絞《しぼ》り出す。
奇怪な情景が目に入ったようだ。
月光に反射して、俺とジャイスケとグレイの目が闇の中で輝いたのだ。
六つの目を持つ巨大な怪物の影。
そんなふうに、久保には見えたのだろう。
シューッ、シューッと声にならず、息を震わせている。両手で漕《こ》ぐようにして這いながら、地面に尻をこすり、後退《あとずさ》りする。
背中がベンチに触れる。それを支えにして、フラフラッと立ち上がった。
そして、足をもつれさせて、後ろ向きに一歩、二歩と進む。三歩目で踵《きびす》を返すと、よろめきながら走り去っていった。
酔いと痛みよりも、恐怖のほうが上回ったらしい。
俺たちは逃げずにすんで、もうけた気分だった。
ただ、一匹、シンチーだけが沈んだ目をしている。
「無念だ。あ奴、あんなに簡単に回復するとは、俺の見込み違いだった。まだまだ修行が足りん。志に技が追いついておらぬわい」
悔しそうに、後ろ足で地面を蹴っていた。
17
酔っ払いのほうが遂げ去ったので、俺たちは落ち着いて梯子《はしご》の撤収《てっしゅう》作業をすることができた。
まず、俺が後ろ向きに降りてゆく。登頂の時の工程をそのまま逆に辿《たど》る。
ビデオの巻き戻《もど》し映像のような光景のはずだ。
ただ、視界がきかないので、手探りならぬ足探りである。それでも、スヌーパーが板に穿《うが》った穴のおかげで、無事に降下することができた。
次の段階。ジャイスケが首を振って、咥えていた板を放る。ケヤキから数メートル離れた地面に落下した。
それから、身軽になったジャイスケ自身が後ろ向きに板を降りる。もちろん、「ミッション・ワンポッシブル」を唸りながら。グレイの頭まで来ると、ひょいっと飛び降りた。無事、着地。
最後に、グレイが板を口から離し、ケヤキに当てていた前足を下ろした。
「降りる時は、頭、踏むな」
とジャイスケを睨《にら》みつける。
「おっと、失敬。気づかなかったよお。丈夫な頭蓋骨《ずがいこつ》をお持ちで」
鼻歌交じりにジャイスケは謝る。すっとぼけたふうに夜空を見上げ、ニヤニヤ笑っていた。
こうして、梯子は解体された。
重労働を終え、さすがに、グレイもジャイスケも呼吸が荒い。舌を出して、ハッハッと白い息を吐いていた。
特に、一番下で土台となっていたグレイの疲労は大きいはずだ。
「大丈夫か」
俺はねぎらいの言葉をかけた。
グレイは舌を引っ込め、
「任務だから」
超然《ちょうぜん》と言った。
G8の誇《ほこ》りだった。
初めて彼らの活躍ぶりを目にしたボンタはずっと驚きを隠せないでいた。そして、瞳には憧憬《しょうけい》の輝きが満ちている。
その場にいる全員に、俺はケヤキの上で調査した結果をひととおり、報告した。
せっかく、手掛かりを求め、みんなで数々の苦労を乗り越えたのに、謎が増えてしまった感が強い。申し訳ない。
ちょっと、皆の目がうらめしそうに見えたのは気のせいか?
その中で、チワワのポーリーが大きな目をさらに大きくして、表情を一変させる。
「えっ、ワックスみたいな匂い? もしかして、あれと同じ匂いかしら」
「アレって?」
俺が問い返すと、ポーリーは首を後ろに向けて、
「レノの銅像の匂いよ」
鼻先で銅像を示した。
十メートほど離れた場所にある。
俺は瞬きをして、
「えっ、そんな匂いがするのか?」
「ふだんはしないけど」
「今日だけ?」
「今日の朝からよ。なんか、シンナーみたいなニスみたいなツンとした匂いがしてたの」
「よく気がついたな」
「そりゃ、あたし、レノのファンだもの」
「ああ、なるほど」
ポーリーがレノの銅像をペロリと舐《な》めたのを見たことがある。
チワワなのでもちろん背が届かない。飼い主に抱っこしてもらうと、銅像の胸元ほどの高さになる。そこに口吻《こうふん》を当てていたのだ。
「あれ、毎日の習慣だったのか?」
「ベ、別にいいでしょ」
珍しく、女っぽい。
人間なら、頬《ほお》を赤らめているところだろう。
ポーリーは舌を出して、火照《ほて》りを冷ましている。
彼女をからかうのは後の楽しみにして、俺はさっそく、レノの銅像に駆《か》け寄った。
ピョンと後ろ足で立ち、御影石《みかげいし》の台座に前足をついて身を支える。
鼻先が銅像の足に触れる。この位置でも充分だった。
確かに、ワックスのような匂いがする。さっき、ケヤキで嗅いだのと同じもののようだ。
「おい、これ使え」
グレイが板を咥ええてきて、銅像の台座に立てかけてくれたのだ。
「ああ、その手があったか。慌てて、うっかりしていた。サンキュ」
俺は礼を言って、板を駆けのぼる。
目の前にレノの顔があった。
ここにもワックスの匂いが付着していた。
さらに、俺は鼻を移動させる。
オスワリの姿勢をしているレノの至るところにその匂いを嗅ぎ取ることができた。
板を降りて、俺はそのことを皆に報告した。
入れ替わりに、エドワード二世、デューク、スヌーパー、ボンタの順で、台座にのぼり、鼻を蠢《うごめ》かしていた。
ボンタは降りてくると、
「この匂い、たしか、レッドカーペットにも付いていたよ」
「ほう、それは興味深い。ケヤキ、レッドカーペット、レノの銅像、三つに共通しているってわけか。いったい、どうしてだろ?」
俺は首をひねる。
「あとさ、レノさんの銅像はレッドカーペットの匂いもする」
「おっ、お前も気づいたか」
「うん、僕、朝の騒ぎの時、カーペットに鼻をうーんと近づけて嗅いだから、よく覚えているもの」
「うん、そうだったよな。熱心に嗅いでいたかいがあったな。しかし、ホント、どんなふうに匂いが伝染したのか、それが問題だ」
ボンタはおずおずと、
「も、もしかして、レノさんが匂いを運んだんじゃないの?」
「レノが? どういう意味だ?」
「やっぱり、神に化身《けしん》したレノさんは、天から降臨《こうりん》してきたんだ」
「ケヤキのレッドカーペットを踏んで地上に降り立った、そう言いたいんだな?」
「う、うん。で、ケヤキに付着していたワックスとカーペットの匂いがレノさんに移った。そして、そのまま、レノさんは銅像の中に宿った、そういう展開だよ」
「じゃ、今、ここには神様が宿ってるっていうのか」
俺は銅像を見上げ、鼻をフンッと鳴らすと、
「マーキングしてみよっか?」
「えっ」
「ホントに神様が宿ってるなら、罰《ばち》が当たるはず」
そう言って、俺は片足をあげてみせる。
ボンタは慌てて、銅像と俺の間に割り込んできて、
「ダ、ダメだよ。そ、そんなことしちゃ」
「おい、どけ、お前にかかっちゃうぞ」
「う、うわっ、い、いいよ。ぼ、僕が身代わりになるっ」
前足の間に顔をうずめて、背をこちらに向ける。本当に覚悟しているらしい。
「おめえ、変態かよ」
と、俺はクシャミのような息を吐き出して笑い、
「冗談《じょうだん》だよ、マーキングなんてしねえから」
ボンタは前足の間からそろそろと顔を上げ、
「お、おどかさないでよ」
「マジになるなって。レノの銅像を汚《よご》す真似《まね》なんざ、するわけねえだろ」
「そ、そうだよね」
「あ、だからって、祟《たた》りとか呪《のろ》いとかその類《たぐい》のもんを信じてるわけじゃねえぞ。純然たる道徳の問題だ」
そう言って、後ろ足を下ろした。
「おおい」
と、茂みのほうからエドワード二世が声をかけてきて、
「ちょいと妙だぞ。こんなに落ちているなんて」
何か発見したらしい。
さすが、調達のプロ。
行ってみると、小さな銀色の玉が落ちていた。ドライ系のドッグフードくらいの金属の玉。
それも、あっちこっちに散らばっている。
俺は右に左に視線を這《は》わせながら、
「ずいぶんとあるな。十や二十じゃすまないぞ」
「ああ、こんなに散らばってるとはな。実は朝も、あっちにふたつばかし落ちていたのを見つけたんだよ」
エドワード二世は十メートルほど離れた桜の木のあたりを鼻で示した。
こいつの散歩ルートだ。
俺は鼻を金属玉に近づけて、
「これらは、いったい何だ?」
「パチンコの玉だよ」
「ああ、人間どもがじっと座って夢中になってるやつね。あれ、いったい、どこが面白いんだ?」
エドワード二世は大きく頷き、
「同感。玉は走って追いかけてナンボのものなのにな」
「で、どうして、パチンコ玉なんかがこんなに散らばってるんだ?」
「さあ、それがわからない。公園にパチンコ台なんてないし」
「わざわざ持ってきた人間がいるってことだな。それで、うっかり落とした」
「うん、この散らばり方を見ると、慌てていたみたいな感じがする」
「問題は、何の目的で、パチンコ玉を持ってきたか? そして、その目的は達成されたのか? どう思う?」
と俺は意見を求める。
エドワード二世は困惑《こんわく》した面持ちで、
「俺の顔をじっと見るな。そこまではわからんよ。俺は物を見つけるのが仕事。真相を見つけるのはお前だろ、探偵アローさん」
「きっちり几帳面《きちょうめん》に役割を分担《ぶんたん》してやがる。実にお前らしいぜ、調達屋のエドワード二世さん」
俺は捜査の前途に暗雲を見ていた。
どっぷり疲労感に包まれ、気づくと、だらしなく舌が出ていた。
そんな時、甲高《かんだか》いバウスはやけに耳に響く。ポーリーが呼んでいた。彼女は銅像から五メートルほど離れた地面を嗅ぎまわりながら、
「ねえ、ねえ、見てよ、見てよ、ほら、ここにも、あそこにもあるわよ」
俺は重い足どりで歩み寄り、
「え、何が?」
「ほら、これよ、それと、こっちも、あっちも、あそこも」
鼻で地面のあちこちを指し示す。とりあえず、俺は一カ所に口吻を近づけ、
「ん? これはもしかしてアレじゃないか」
「そうよ、これはアレよ」
「そうだよな、ワックスだ」
ケヤキの幹とレノの銅像に付着していたのと同じ匂いだった。
何か容器からこぼれたと推測される。
地面に滴が点々と染み込んだのだ。
間隔は不規則だが、ほぼ、一直線に並んでいた。
俺はこの匂いを辿ってゆく。
どうやら、公園の入り口のほうまで続いているようだ。
しかし、この地取り捜査は中断された。
シンチーが警告を発した。
「おい、隠れろ! 誰か来る!」
全員がアンテナのように耳を立てた。
入り口のほうから、足音が近づいていた。人間のものだ。
懐中電灯の光がだんだん大きくなる。
俺たちはひとまず茂みに身を隠した。
男の声が、
「バケモンなんかいるわきゃ、ねえだろ。しょせん酔っ払いの錯覚《さっかく》だ」
大きな独り言を口走る。
自分を説得しているような口調《くちょう》だった。
さっきの久保勉の話を聞いて、誰かがやってきたらしい。大声をあげて呟《つぶや》いているのは、ちょっとは怖いからだろう。
その男はケヤキの周りを探索していた。何もないと納得したらしい。
今度はレノの銅像のほうに向かってきた。前つばの付いた帽子がシルエットで浮かびあがる。
俺たちの目と鼻の先にいる。
銅像にはスポットのように街灯の明かりが当たっていた。
突如、ガサガサと茂みの一部がざわついた。
隠れていたボンタが大きく身震いしたのだ。目を大きく剥《む》き、舌をいっぱいに出している。何やら興奮している様子だ。
俺は睨みつけ、
「バッキャロー。静かにしろ」
きついバウスを放った。
近くにいたスヌーパーとエドワード二世が前足でボンタを押さえ込む。
男は茂みの音に感づいていた。こちらに歩み寄り、懐中電灯を向けた。
その瞬間、茂みから怪鳥《かいちょう》のようなバウス。
「アチョーッ!」
シンチーが飛び出した。
宙で半回転。
後ろ足で男の右手をキック。
懐中電灯を叩き落とした。
さらに、相手の腕を踏み台にジャンプ。全身を丸め、高々と舞い上がると、宙でいったん静止。
そして、流れ星のように落下してきて、男の顔にワンフーアタック!
しかし、男はかろうじて身をかわす。バランスを崩して、背中から倒れそうになる。
が、男は後方にジャンプする。地面に両手をついて、バック転を一回、二回。
まっすぐに立ち上がった。
腰をすーっと落とし、両腕を前に出し、身構える。格闘技の姿勢。
シンチーのワンフー拳《けん》を防御《ぼうぎょ》するとは……。
男は声を荒らげて、
「怪しげな飛び道具なんぞ使いやがって。さあ、出てきやがれ!」
相手を人間だと思い込んでいる。
シンチーは向こうの花壇《かだん》に着地していた。リンドウの群れに身を隠したまま、
「逃げろー! 警官だ!」
緊急避難のバウスを放った。
俺たちは茂みの陰を全速力で駆ける。
枝葉がこすれる音がするが、もはや気にしない。とにかく走る。
「待てーッ! 待てっていうのが、聞こえねえのか!」
警官が追ってくる。まだ、人間だと思い込んでいるようだ。
こちとら犬だ。足なら負けない。
「犬の掟。ひとつ。人間に足で負けるべからず」
俺は隣で走っているボンタに教育する。
「ご、ごめんなさい。うっかり、興奮して」
ボンタは息を切らしながら謝る。悲痛な目をして、
「警官だとわかったら、じっとしてられなくて……」
「そうか、そうだよな。サイレンを連想しちまったんだな」
「自分が情けないよ」
悔《くや》しさに顔を歪《ゆが》めながら、懸命に走っていた。
背後で、グレイとジャイスケの交し合うバウスが聞こえた。
二匹ともスピードを緩《ゆる》めている。
ジャイスケが訊《き》く。
「なあ、作戦、どれにするのさ?」
こんな非常事態でも呑気《のんき》な口ぶり。
グレイは氷柱《つらら》のように鋭くクールに、
「コードネーム『ゴースト・ライダー』で」
「だよなあ」
二匹は二手に分かれる。
感心するのは、どちらも例の梯子ボードを咥えたまま走ってること。しかも、そのまま口端《こうたん》から強いバウスを飛ばしている。やっぱり、並みのパワーではない。
俺は少しスピードを緩めて、後ろを見ながら走っている。
隣でボンタも歩調を合わせる。
「ねえ、あの二匹、何をするの?」
好奇心に満ちた丸い眼をパチクリさせる。
「陽動作戦だ。警官の注意を引きつけてくれるんだ」
「僕ら他の犬たちを守るために?」
「ああ、そうだ」
「そ、そんな自分の身を危険にさらして」
「黙ってろ。任せりゃいい。奴らはプロなんだ」
後ろに目をやったまま、走る足を止めない。
ボンタも俺に倣《なら》う。
俺たちのアングルからだと、作戦の全貌《ぜんぼう》を見て取ることができる。
およそ、二十メートル背後に、グレイとジャイスケがいた。
さらに十メートル後ろを警官が走っている。
ジャイスケはいったん立ち止まり、草むらに大きな身を伏せた。絨緞《じゅうたん》のように這いつくばって、隠れる。
一方、グレイは池の岸辺を走っている。ヒイラギの植え込みが続き、大きな体がこすれてザワザワと葉ずれの音をたてた。どうやら、わざとやっているらしい。
警官はそっちの方向へと突進して行く。
二匹の仕掛けが運動する。
草むらに身を伏せて潜んでいるジャイスケ。彼は、顔をあげると、口から妙な声を発した。
キーコ、キーコ、キーコ……。
耳障りな響き。よく道路で聞こえてくる嫌な音。
これは、手入れの悪い自転車だ。
ジャイスケは牙をこすり合わせ、独自の歌唱法により、こんな擬音《ぎおん》を作り出しているのだった。鼻歌の効果音の応用である。
池の岸辺では、植え込みの陰をグレイが走り、ヒイラギの葉が揺れる。
音とシーンが結びつく。
迫っている警官にしてみれば、錯覚を起こしているはずだ。
誰かが池のそばを自転車で逃走している、と。
敵は人間だ、その確信に疑いを挟まない。
これが、陽動作戦のトリック。
警官は植え込みに走り寄る。
グレイが次の技を仕掛ける。
咥えていた梯子ボードを池にそっと下ろした。水面に浮かべたのだ。
そして、さらに、グレイ自身がボードに右の前足をおろす。続いて左の前足。後ろ足の二本。全身が降り立った。
グレイはボードに乗っている。池に浮かんでいる。梯子ボードはサーフボードに変貌《へんぼ》したのだ。シベリアンハスキーのサーファー!
見えない自転車、奇蹟《きせき》のサーフィン、不可思議《ふかしぎ》なライダーたち。そう、だから、作戦のコードネームが「ゴースト・ライダー」。
このタイミングで、草むらのジャイスケは擬音をストップする。キーコ、キーコの響きが消えた。
警官は、植え込みをかき分けて、池の沿道に目をやる。
どこにも自転車に乗った逃走犯の姿はない。
しきりに首を傾《かし》げている様子だ。
池の水面では、犬のサーファーがボードに腹ばいになっている。アシの茂みの陰に隠れていた。
警官は気づかない。
サーフボードは秘めやかに、しかも、スムーズに進んでいる。冷たい水の中に入れた前足が、静かに犬掻《いぬか》きをしているのだ。
警官は両手で頭を抱えていた。彼にとっては不可思議な消失と映ったはずだ。一種の密室状況でもある。
今回は、こっちが仕掛けた密室トリックと言えよう。
警官は、その場にじっと立ち尽くして、呆然と夜空を見上げていた。すっかりキツネにつままれた気分だろう。相手が犬とは知らずに。
ヒイラギの植え込みが遮蔽物となり、警官の目からは死角になった草むら。
そこに、じっと伏せていたジャイスケが悠然《ゆうぜん》と立ち上がり、再び走りはじめる。陽動作戦の任務は完了。あとは逃げるだけだ。
池では、グレイが颯爽《さっそう》とボードを漕《こ》いでいる。向こう岸から上がり、逃走するはずだ。
作戦の開始からここまで、ほんの三分くらいの出来事であった。
俺は顔を前に向けると、足を速める。
折角、ジャイスケとグレイが警官の注意を逸《そ》らしてくれたのだ。無駄にしてはもったいない。
ひた走る。
ボンタも慌てて続いた。
公園の南口を出て、住宅街に入り、角を三つほど曲がる。
完全に警官の追跡は振り切ったようだ。
駐車場に次々と集結していた。
これも緊急時の打ち合わせどおりである。
ちょっと遅れて、シンチーが駆けつける。
そして、最後に、ジャイスケ、グレイの順に到着した。
全員、無事に逃走に成功して、顔を揃えていた。
18
さすがに、息が荒い。
皆、舌を出して、白い息を上げている。まるで、ガキの頃、前の飼い主に連れていってもらった山の温泉場のようだ。
ボンタがそろそろと後退り、ちょっと離れると、全員を見回し、
「みんな、ゴメンナサイ」
震え声で謝って、うなだれる。
しかし、誰一匹としてボンタに責めの言葉をぶつける犬はなかった。
何かあったっけ、という感じ。
皆、とぼけたフリをしている。むしろ、目に暖かい光を宿していた。
そういう奴らなのである。
真のプロはどんな場合でも、責任は自らに負わせる。彼らのプライドでもあった。
ジャイスケなどはもう呑気に鼻歌を唸《うな》っていた。
曲は、たしか、「世界にひとつだけの骨」。
スヌーパーは陽気な口ぶりで、
「久しぶりにスリリングで面白かったぜ。ここんとこ、ああいうアトラクションがなかったからな」
心底から楽しげである。
エドワード二世も目をパチクリさせて、
「うん、危機的状況における観察力と判断力が試されるんだよな。牧童犬《ぼくどうけん》としての勘が取り戻せて、いい特訓になったよ」
さらに調達屋としての技が磨かれるだろう。
シンチーは静かな口調で、
「我ながら不甲斐《ふがい》ない戦いだった」
無念そうに目を細める。
俺はさっきのシンチーと警官とのバトルを思い起こし、
「手強《てご》い奴だったな。かなりの使い手と見たが」
「そりゃそうだ。隣町の道場の門下生だ。時々、うちの飼い主が特別|師範《しはん》として招かれてる」
「お前、一緒に連れていってもらったことがあるんだな」
「ああ。その時、初めて見たのさ。相当な腕だったよ。まさか、あいつが来るとは」
「相手が悪かったな」
「いや、俺の未熱さの故《ゆえ》だ。まだ、志に技が追いつかない。修行が足りん。しかし、そのことを確認できただけでも、収穫だった」
そう言って、キリッと口を結ぶ。悟《さと》りの表情を浮かべていた。
その顔をボンタに向け、
「故に、君には感謝している。礼を言わせてもらうよ」
両の前足の肉球をくっつけ、合掌《がっしょう》のポーズをし、丁重《ていちょう》に頭を下げた。
ボンタのほうが戸惑《とまど》って、
「え、いや、そ、そんな……」
返す言葉が見つからない。慌てて、同じように頭を下げる。尻尾も下げる。
シンチーは姿勢を直し、オスワリの状態で、
「押忍《おす》!」
前足を脇腹《わきばら》につけ、胸を張った。
ボンタもつられるように、
「あ、お、押忍、です」
背筋を伸ばした。
それから、ボンタはジャイスケのほうを向いて、
「す、すごかったです、ゴースト・ライダー作戦。歌だけじゃなくて、あんな声というか音、出せるなんて」
思い出して目を輝かせている。
ジャイスケはすっとぼけた顔をして、
「腹ん中に、ラジオ、入ってるんだよ。俺、食いしん坊だから、うっかりしてさあ」
「えっ、そ、そうなのっ?」
「んなわけねーだろーん」
そう言うと、上下の牙をこすり合わせ、キーコキーコと発声してみせた。
目をまん丸にするボンタ。その視線をこんどはグレイに向けて、
「サーフィン、できるんですね」
「種族だから」
「えっ、シベリアンハスキーのこと?」
「ああ、橇《そり》を引く種族。サーフィンも滑《すべ》ることには変わりない」
「池、冷たかったでしょ」
「雪原ほどじゃねえ」
そう言って、グレイは細く笑った。
一瞬、冷たい北風が駆け抜けた。
ボンタはクシュッとくしゃみをする。恥ずかしげに鼻を蠢《うごめ》かせた。
そして、ボンタは周囲をひとわたり見回して、
「み、みんな、ホントに、あ、ありがとう」
ちょっぴり声がつまっていた。
東の空が白みはじめていた。雲がシルエットで浮かぶ。その流れが早かった。
烏のさえずりが聞こえてくる。
俺は町並みの稜線《りょうせん》を眺めて言った。
「ぼちぼち、新聞配達が動きだすかな」
「ああ。そうだな」
エドワード二世が頷き、
「あの空の色、もうまもなく五時だろう。そろそろ、タイムリミットだけど、どうだ?」
「うん。充分だ」
「撤収とするか」
「ああ、夜の犬捜査線、ここで解散としよう」
そう言って、終了を告げると、俺はG8の面々に目をやり、
「おかげで、有意義な調査ができたよ。みんなには心から礼を言うよ」
「意外だね。礼なんて」
とエドワード二世。
「おい、どんな目で俺を見てたんだ」
「あれ、俺の観察眼には一目置いてるんじゃなかったのか」
憎まれ口を叩いて、悪戯気《いたずらげ》に微笑《ほほえ》む。
俺はフンッと鼻を鳴らした。
それから、紅一点に目を向けて、
「頼みたいことがある」
尻尾を一回だけ振った。
チワワのポーリーが、待ってました、とばかりに、
「うん、わかってるわよ。あたしの出番よね」
大きな目を輝かせる。俺は鼻先を下げて、
「嬉《うれ》しいね、呑《の》み込みが早くて。そう、日中、残りの調査を片づけてほしい」
「まかせといて。ポイントはワックスの匂いでしょ。公園の外まで続いてるみたいね」
「ああ、その行き先を突き止めてほしい」
「了解よ。なるべく早いほうがいいわね。風が強くて、匂いが消えそうだし」
「午後イチくらいで、どうだ」
「何、言ってんのよ」
ポーリーは目を険《けわ》しくする。
「そうか。いくら何でも早すぎるか」
「ナメないでよ。逆よ」
「ん?」
「午前中にはカタをつけてる、ってこと」
「おっ、さすが」
「両耳|揃《そろ》えて結論だしてあげるから」
「首輪、洗って待ってりゃいいんだな」
「そういうこと」
ポーリーは自信たっぷりに小さな顎《あご》をくいっと上げてみせた。
すると、ボンタが不思議そうに、
「あのさ、ポーリーさんはどうやって捜査するの? 日中、犬が外を自由に歩き回っていたら、保健所に通報されるじゃないか」
「通報されないようにすりゃ、いいだけのことよ」
「えっ、そんなの無理だよ」
「そうね、|犬だったらね《ヽヽヽヽヽヽ》」
ポーリーはフェンスのほうに行った。
土の地面の駐車場なので、隅には雑草が生えている。
ポーリーはそれらの草を食べはじめた。むしゃむしゃ貪《むさぼ》るように、勢いよく口に運んでいる。
しかし、飲み込んではいなかった。
口に含んでいるのだ。
次第に頬《ほお》が膨《ふく》らんでくる。これ以上入らないという限界まで挑んでいるようにも見える。
顔が丸みを帯びてきた。
それから、フェンスに身体を押し当てる。ブラッシングするように何度もこすりつけていた。首から背中にかけて、体毛がボリュームを増す。首筋のあたりは逆立っていた。
メイクをしているのだった。
前足を額に当て、撫《な》で下ろす。白い毛が垂れて、大きな目を半分くらい隠した。
こちらに背中を向ける。全身を丸め、首を下げる。右の前足を舐《な》めては、顔、耳、胸元を整えている。メイクの仕上げだった。
しばらく、じっとしている。
精神を統一しているらしい。
そして、足を伸ばして、跳ね上がる。
こちらを向いた。
「ウヤーオン」
とスウィートな鳴き声をあげた。
ボンタは日を丸くして、驚嘆《きょうたん》の声をあげた。
「猫だ!」
ワォン! と大きな声になっていた。
ポーリーは背中をブリッジのように丸めると、シューッと唸り、一メートルほど跳ねて見せた。首のあたりの毛が逆立っている。
そして、口元がふっくらとして、顔は丸みを帯び、大きな目は白い毛で縁どられている。オリーブのようなライン。キャッツアイだった。
空気を孕《はら》んだ毛並みが波打ち、全身が柔軟そうな外観を見せていた。
周囲を軽くランニングする。優雅《ゆうが》な歩き方。機敏《きびん》そうな足どり。二度ほど、軽やかにジャンプした。
まさに、猫である。
こうして動いていると、チワワとは思えない。
そう、ポーリーは変装と物真似《ものまね》の名手だったのだ。
彼女の至芸《しげい》を初めて見たボンタは、
「す、すげえ! 追っかけたくなってくる」
と身震いしながら、口をあんぐりと開けていた。
ポーリーは尻尾を立て、しゃなりしゃなりとキャットウォークで周囲を回り、
「生まれてしばらくの間、前の飼い主の家で、あたしは猫と一緒に暮らしていたのよ。そのせいで、自然と真似するようになっていたわけ。なんせ、生後三カ月くらいまで、自分が猫だと思い込んでいたくらいだから」
「そういうの、種のバイリンガルっていうのかな?」
「どうだか。鳴き真似の仕方だけは、後で、ジャイスケ君からレクチャーしてもらったんだけどね。発声法のプロだから」
「なんであれ、凄《すご》いよ。これなら、日中でも活動できるってわけか」
ボンタは感動に目を輝かせて、興奮の言葉を連ねた。
19
東の空に赤みが差してきた。
鳥の声が重なり合う。
撤収《てっしゅう》の時間だ。
俺は、ブルドッグのデュークに言った。
「アレを仕込《しこ》んでくれないか」
「ん、やっぱり、必要だな」
「ああ」
「くれぐれも気をつけろよ」
そう言って、デュークは俺の首輪に顔を近づけた。
前足で留め金の枠《わく》を押さえる。
首輪の端を噛み、軽く引き上げる。
留め金が、首輪の穴から抜けた。
そして、ひとつ外側の穴に、留め金を通した。
首輪を緩めたのである。
デュークは口を離すと、
「お前の飼い主さんは、今まで気づいたことないよな」
「うん、おっとりした人なんだよ」
「たいてい、シャンプーするのに、首輪を外す時、おやっ、て思うもんだけどな」
「俺がシャンプー嫌いだから、そういう機会があまりないんだよ。それにしても、洗い終わってから、首輪を付ける時は、ちゃんといつもの穴に通してるから、感心なもんだよ」
「気づかずにそうしてるんだな。きっと、いい人なんだろうな」
「ああ、いい人すぎて困るくらいだよ」
妙な飼い主自慢をしていた。
俺は前足を当て、首輪の具合を確かめる。大丈夫だ。スムーズに動く。俺自身も太っていないし。
これで、必要な時に、首輪を外すことができるのだ。
鍵《かぎ》開けのプロ、デュークの匠《たくみ》の技のおかげである。
「ぼ、僕の首輪も、お願いします。捜査を手伝いたいんだ」
ボンタが言った。
その目は真剣だった。
デュークは数秒、睨むように見つめると、
「お前の飼い主、たしか、整体師だったな」
「う、うん」
「身体に関わることには敏感なはずだ。近いうち、きっと、首輪の変化に気づくぜ」
「僕んち、明日、引っ越しちゃうんだよ。それまで、もてばいい」
「なるほどな。まあ、お前自身がうまく立ち回れば、二日間くらいはごまかせるか」
「頑張る。大丈夫だったら」
全身に強い決意がみなぎっている。
俺が口を挟《はさ》み、
「こいつ、俺にプレッシャーかけてきやがった。早く、解決しろってこったな。おもしれえじゃねえか」
鼻をフッと鳴らして苦笑いする。
ボンタは俺を見て、
「だ、だって、どうせなら面白いほうに転ぶもんだ、って言ったよ」
「言うんじゃなかった」
「何でも手伝うからさ、出動の時には、一緒に連れていってよ。お願いだから」
「まあ、タイムリミットは目の前だしな。仕方ねえ」
俺は鼻に皺を寄せたまま、OKする。
そして、デュークのほうを向いて、頷いた。
「頼む」
鍵開け屋は小さく微笑んで、
「たいしたガキだな。この際、アロー探偵の白毛、増やしてやれよ」
俺の頭部から背中にかけての白い矢の模様を顎で指した。
「大根の模様くらいにな」
すばやそう言ってから、ボンタの首輪を素早《すばや》く緩めた。
「どうも、ありがとう!」
ボンタはデュークに礼を言うと、次に俺に向かって、
「よろしくお願いしまーす。ネギくらいで止めますから」
「真っ白な灰になりそうだぜ」
俺は重いため息を吐《つ》いた。
刻々と空が白んできていた。
皆、帰還《きかん》の道を急ぐ。
まだ人通りはない。
しかし、耳を立て、鼻を利かせ、全身に神経を張り詰めて、疾駆《しっく》する。
全員そろって帰路を辿《たど》り、一匹ずつ順に抜けてゆく。
距離と段取り、双方においてもっとも効率的なルートがすでに決められていた。
まず、エドワード二世の自宅。
煉瓦塀《れんがべい》にあの板がかけられた。
そう、ケヤキにのぼるのに使った梯子《はしご》ボード。
ずっと、ジャイスケが咥《くわ》えていた。さっきの逃走と陽動作戦の際にも忘れなかったことに改めて感嘆する。さすがプロである。
そのことは、やはり、同じく板を口にしているグレイにも言えた。しかも、サーフボードにも仕立てたし。
脱出作戦の時と違って、帰還は最初から梯子ボードを使えるので楽だった。運び手のジャイスケとグレイがスタート段階から随行《ずいこう》しているおかげである。
エドワード二世はボードをのぼると、塀《へい》の上でいったん振り返り、
「お先に。全員の無事と帰還を祈る」
と言って、ジャンプし、邸内《ていない》に消えた。
ちなみに、ジャイスケは帰路の間、ずっと「犬脱走」のテーマをスローバラードにアレンジし、鼻歌で奏でている。
次は、石塀に囲まれた家。道場のある小林家だ。
グレイが梯子ボードを塀に立てかける。
シンチーが助走をつけて、
「アチョーツ」
一気に駆けのぼり、飛んでいった。
バウスが聞こえたらしい。鳥の群れが木々から一斉に羽ばたいた。
その後、デュークがとことことボードをのぼり、敷地内に入る。
小さな金属音。
シンチーの首輪とリードをつないでから、デュークは外に戻ってきた。
小林家から角をふたつ曲がると、児童公園に至る。
その隣がスヌーパーの家。
やはり、梯子ボードで塀を越える。その際に脱出に使ったロープの端を口にしていた。公園に残しておいたのである。
「おい、ポーリー、渡したいものがある」
そう言って、スヌーパーはいったん庭に消えた。
しばらくして、塀にかけられていたロープがピクッピクッと動く。
俺はサインを察してやる。ロープの途中を咥えると、力いっぱい引っ張る。疲労のせいか、意外と重く感じられた。
ロープに吊《つ》るされて、スヌーパーが顔を出し、塀の上に立った。
何か白いものを咥えている。
それを放った。
ポーリーが口でキャッチ。地面に置いて、しげしげと眺める。
クッションを破壊したものだった。
木綿のカバーが毛羽立《けばだ》っている。ところどころが裂かれて、ほとんど原型を留めていない。
ポーリーが目を丸くして、
「ウーンッ、いい出来じゃないの! さっすがぁ!」
感嘆の声をあげた。
ボンタが戸惑った面持ちで、
「何、それ?」
「わかんないの?」
ポーリーが意外そうに反応する。
「う、うん、ボロキレにしか見えないけど」
「失礼ね。これ、あたしの身代わりよ」
「えっ、身代わりって?」
「あのね、こうして」
ポーリーは前足を使って、そのボロボロのクッションを丁寧《ていねい》に広げ、
「こうすると……見て。ほら。あたし」
「う、うわっ」
ボンタがビクッと身じろぎする。
ボロクッションは、二本の後ろ足と尻尾が生えていた。
まるで、ポーリーの身体の後ろ半分のように見えた。
ボンタが興奮気味に、
「そ、そうか、こ、これ、脱走中の身代わりってことか」
「そう。日中、こっそりお出かけするからね。ハウスの中に入れておくの。飼い主さんの目に入るようにね。あたし、昼寝してる時、起こされるとすごく機嫌《きげん》悪いってことになってるから」
フフフンとポーリーは鼻で笑った。
塀の上で、スヌーパーが胸を張って、
「うーん、我ながら、いい仕事してるなあ」
陽気な口調で自讃《じさん》する。
ポーリーは上目遣いにニンマリして、
「見事な細工ね、腰のラインなんてセクシーじゃん。このスケベ」
「リアリティの追求だ」
「おっ、口が上手なのは、工作だけじゃないのね」
「素材自体もよかったんだよ。エドワード二世が注文どおりのもの、調達してくれたから」
「どこで見つけたのかしら?」
「知れたら、飼い主さんに叱られるらしいぜ」
「なるほど。ものがいいはずね」
「あと、エドワード二世から、これも、渡してくれって」
チリンと音をさせて、小さなものを口で放った。
宙で銀色の軌跡《きせき》をキラキラ描く。
チリリンとポーリーの口で鳴った。
キャッチしたのは鈴だった。
キイホルダーか何かの切れ端だろう。小さなリングにぶら下がっている。
スヌーパーが言った。
「単独行動の際、使うといいって。鈴の音をさせて走ってれば、ますます猫だと思われる」
「ふうん、こんなものなくても、自信あるけどね」
とポーリーは鼻に皺を寄せるが、
「でもまあ、せっかくだからね。ありがたく頂戴《ちょうだい》しとくわ」
ウインクして見せた。
スヌーパーもウインクを返したが、両目を瞑《つむ》ってしまった。器用なのは口と足だけらしい。
そのまま落ちるように塀の向こうに姿を消した。
もちろん、デュークがアフターケア。梯子ボードで塀を越え、スヌーパーをリードにつないでやる。そして、俺の引っ張るロープで戻ってきた。ご苦労さん。
次はポーリーのマンション。
脱出の際に用いた物干し竿を再び使う。
自転車置き場の裏に転がしておいたのを、ジャイスケが咥える。
その竿の先端に、ポーリーが食らいつく。四本の足で抱え込むような体制をとった。前足には、スヌーパー作の下半身のヌイグルミを挟んでいる。
ジャイスケがしっかりと竿を噛み締める。そして、首を曲げ、身体をひねる。前足をマンションの壁に当てる。
竿がまっすぐに立てられ、二階に届いた。
ポーリーは、開けておいたトイレの窓に飛び移るようにして入った。
レースのカーテンの端から、ポーリーが顔を覗《のぞ》かせた。
「じゃね」
「頼んだぞ」
俺が声をかける。日中の捜査の件だ。
「いちいち言われなくても、わかってるわよ。まかせといて」
ウインクを投げて、ポーリーはトイレの窓を閉めた。
物干し竿を運ぶのは、俺とボンタの役割だった。わりと重量のあるものだ。これを自在に操るジャイスケはさすが大型犬のゴールデンレトリーバーである。
そのジャイスケの家。
物干し竿を鉄柵の隙間から庭に差し入れた。
俺とボンタはここまで運んで息があがっていた。
ジャイスケは咥えていた例の梯子ボードを塀に立てかける。
鼻歌まじりに駆けのぼると、
「別れ際に、何かリクエスト曲は?」
「とっとと入れ」
グレイが言った。
ジャイスケは笑みを浮かべて、
「こんど、デュエット曲、作っておくよ。一緒に歌おうぜえ」
そう言ってから、梯子ボードを口に咥え、庭に降りた。
グレイは敢然《かんぜん》と無視。
もちろん、こうしたやりとりの間に、ブルドッグのデュークはジャイスケと一緒に庭に入り、首輪とリードをつなぐ作業をちゃんとこなすのだった。
出てくる時は、内側からボードを立てかけてもらい、塀を越えて、飛び降りてくる。黙々と自分の任務をこなす。まさに仕事師だった。
使用済みの梯子ボードは、ジャイスケが庭のガラクタの中に紛《まぎ》れ込ませるらしい。
ボンタは感心した様子で、
「わざわざ、持ち帰ってくるんだあ」
俺が頷き、
「もとあった場所に戻すのは遠回りになるからな。いずれ廃棄されるものだし。ジャイスケの庭に置いときゃ、ちょうど、年末の大掃除で処分されるだろよ」
「じゃ、庭でなくても、どこか道の隅にでもテキトーに捨てちゃってもいいじゃん」
「そんなのは、人間のすることだ。真似るんじゃない。さっき使ったロープも、ここに来る途中、ちゃんと、俺、花屋の脇に戻しておいたろ。後片付けは大切なんだ」
「それも、掟?」
「ああ。ひとつ。見通しのいい道を心掛けるべし」
「そうか、人間よりも、犬のほうが、視点が低いからね」
「誇りは高い。そうあるべきだ」
俺はボンタと自分に言い聞かせる。
もう一枚、梯子ボードがある。
グレイはそれを使って煉瓦塀をのぼる。
続いて、デュークも伝い、ピョンとジャンプして、グレイの隣に並んだ。
俺とボンタとメビウスは梯子ボードの下部を咥える。せーのっ、と三匹がかりで持ち上げた。重い。
塀の上から、グレイが首を伸ばしてきて、ボードの端を咥え受け取る。そして、釣り竿のように引き上げると、庭にそっと落とした。
飼い主は日曜大工が趣味なので、その廃材の中に混ぜておくつもりのようだ。
さすがパワーが違う。まったく息が乱れていない。
塀の上から、グレイは悠然《ゆうぜん》と見下ろして、
「成功、祈ってるぜ」
その涼しい眼差《まなざし》しはボンタに向けられていた。
もちろん、ここでも、デュークはグレイの首輪とリードをつなぐ。そして、庭側から立てかけてもらった梯子ボードで塀によじのぼり、脱出するのだった。
残るは、俺を含め四匹になっていた。
ちょっぴり寂しい気分が胸をよぎる。
次はボンタが抜ける番だった。
脱出と同じく、トンネルを使う。
掘ったメビウスがアドバイスを忘れない。
「庭の穴の入り口には、段ボールでも載《の》せて、土を被《かぶ》せておくんだぞ。どうせ、すぐ使うつもりだろ」
「うん、そうする。最後までありがとう」
ボンタは穴に消える。巻き尾が生き物のようにスルスルと吸い込まれた。
続いて、デュークがボンタの首輪をつなぐ作業のために、トンネルを往復してくる。
畑にはカラスに囓《かじ》られたらしい白菜の残骸《ざんがい》が転がっていた。
メビウスはそれを転がして、トンネルの入り口を隠した。
その周りに、俺が後ろ足で土をかけておく。
残るは三匹。
俺の番だった。
隣家との隙間に掘ってもらったトンネルを通って、無事に帰還した。
「ご苦労さん、デューク」
「次は、もう少し難しい留金のリードにしてくれないかな」
冗談交じりに言った。
いや、ほとんど本気だったかもしれん。
あっさりと首輪とリードをつなぐと、穴に姿を消した。
外の穴には、メビウスが錆《さ》びたバケツを被せておいてくれるはずだ。底に亀裂があるので人間どもは手に取りもしない。
最後に残ったメビウスとデュークも帰路を急いでいることだろう。
デュークがトンネルから庭に入る。
塀の外周の花壇に掘った出入り口を、メビウスが土をかけて隠すはずだ。
デュークはもちろん自分でリードを小屋につなぐことができる。
そして、着後の一匹。
メビウスは、フェンスの下をくぐって、自宅に戻る。縁の下に入り、床下を潜り、ズラしておいた畳の隙間から、屋内に帰還する。畳を押して、出入り口を隠して、知らん顔をしていればよい。
これで、今回のミッションは終了。
皆、疲れた身体を休め、眠りについていることだろう。
東の空に淡い陽光が広がっていた。
20
さすがに、「夜の犬捜査線」で疲労が蓄積されていた。
朝の散歩の、足どりの重かったことよ。
眠くて朦朧《もうろう》としていた。
帰宅して、朝飯を腹に詰め込むと、小屋に潜り込み、二度寝する。犬小屋にもドアが欲しいところだ。
哀しいのは番犬の習性。耳は常に敏感である。
十一時過ぎ、訪問者の音で目が覚めてしまった。
それでも、二時間くらい眠ったことになる。
体調はいつもの半分くらいといった感じ。
やってきたのは、南条さんだった。
そう、ボンタの飼い主の、整体師である。
明日、いよいよ、引っ越すので挨拶まわりをしているという。
ボンタも連れていた。
そして、南条さんはショルダーバッグから太い鉛筆のようなものを取り出した。年季が入っていて、木目が艶《つや》やかだ。
これはツボ押し棒であった。
「腰を大切に」
と南条さんがうちの真平さんに手渡した。
別れの記念品のようなものらしい。
真平さんと紗織さんはすっかり恐縮して、家に上がるように勧める。
が、この後、他にも挨拶まわり先が控えているので、と南条さんは丁重《ていちょう》に断った。
それでいながら、玄関前で長々と立ち話をしてしまう。いつもながら、人間たちの不思議な習性である。
おかげで、俺はボンタとゆっくり打ち合わせをすることができた。
晩秋の空に、白い雲が走っている。やはり、風の強い日となった。
落ち葉がアスファルトを滑り、乾いた音をたてる。踊るように跳《は》ねて、タップを踏んでいた。
今朝は、可燃ゴミを出す日だった。
落ち葉の舞う風景は綺麗だが、時折、ゴミも飛んでいる。
カラスのせいである。
エサを求めて、東京都|推奨《すいしょう》のゴミ袋を突き破るのだった。そして、中身を引っ掻《か》き出す。それらが路上に散乱しているので、風の強い日は大変なことになる。
スナックの包装紙や、レジ袋や、段ボールの切れ端など、軽量のゴミが飛ばされ、宙に舞い、アスファルトを転がっていた。
たまに、危険も待ち受けている。
ボンタが鼻を蠢《うごめ》かすと、
「あ、いただきー!」
と門柱のもとに首を伸ばした。
骨が落ちていた。煙草くらいの大きさ。まだ新しい。カラスが落としたものだ。肉の部分だけ、こそげてなくなっている。
それでも、骨はいい匂いがする。
すばや俺は素早く割り込んで、
「やめろ!」
鋭いバウスを放ち、前足で骨を払った。
骨は道路に飛んで転がり、排水溝《はいすいこう》の穴に消えた。ボンタはリードの長さギリギリまで身を乗り出して、
「な、なにすんだよーっ! せっかくの骨、もったいないじゃんか!」
「あぶねえよ」
「えっ! ぼ、僕の歯はとっくに大人の歯だよ。バカにしないでくれよ!」
「問題は歯じゃねえ。骨だ」
「え、どういう意味?」
「さっきのは、鶏《とり》の骨だ。フライドチキンの残りだろうよ。あれは縦《たて》に割れるんだ。だから、小さい破片でも先端が尖《とが》っている」
「飲み込むと、痛そう……」
「痛いだけで済むならまだマシだよ。突き刺さることがある。喉や、場合によっては、腹ン中にな。動物病院行きだ」
ボンタは丸く目を見開いて、
「そ、そうだったんだ。ご、ごめんなさい。知らなかったから、ついキレちゃって」
「覚えとくことだ」
「鶏の骨を口にするな、だね」
「ああ。犬の掟。ひとつ。生ゴミの日は気をつけろ」
大切なことなので、今のうちに教えておく。
こいつは、明日、この町を出ていくのだから。
できるかぎりのことは学ばせてやりたい。
それにしてもボンタは元気だった。
朝の散歩もちゃんといつもどおり出かけたらしい。やはり、若さである。
そして、今、こうやって南条さんと一緒に挨拶まわり。ボンタのことを可愛がってくれた人も多かったので、そのお礼であった。
「さっき、公園で犬のコンテストみたいなこと、やってたんだよ」
「お前、参加したのか?」
「まさか。僕が行った時には、もう終わってたよ」
「で、そりゃ、いったい、どんなコンテストだ?」
「桐塚《きりづか》さんのためだって」
「ああ、まだ、迷ってるわけだな」
そう、定年退職し、セカンドライフの友として、犬を飼いたがっている、あの桐塚史郎のことだった。
もともと優柔不断な性格らしく、どの犬種にしようか、ずっと頭を悩ませている。もう半年くらい迷っているだろう。
その間、友人知人に相談したという。しかし、あれこれと推薦《すいせん》され、却《かえ》って悩みをこじらせていた。
そんな迷路から脱出するために、
「カフェ『バスカビル』のマスター、あのちょっとメタボなおっさん」
「稲元《いなもと》か、髭面《ひげづら》の」
「そうそう、稲元さんが提案したらしいんだ。草むらに隠したオブジェをどの犬が見つけるかって、ふざけたゲームだよ」
「オブジェって、やっぱり、自称アーティストのあいつか」
「うん、平泉さん。ブロンズ製のオブジェを提供してくれたらしいよ。初期の試作品のひとつ、って本人のコメントだとか。現物を見た奴に聞いたら、カマボコくらいの大きさのウサギの像なんだけど、妙に細長くて、なんだか耳のついたサンマみたいで、薄気味《うすきみ》悪かったって」
「参加させられた犬は災難だな」
「あらかじめ、前日のうちに、稲元さんが平泉さんからそのサンマウサギを預かって、犬たちに匂いを嗅がせたみたい」
「なるほど、店に来てもらったんだな」
稲元のカフェ「バスカビル」は犬同伴で入れる。愛犬家の溜まり場だ。
「そして、浮羅田公園の東側の広場、あそこ、草むらが多いよね」
「桜の樹が並んでる裏あたりか、春先は花見客でうるさい場所だな」
「そうそう。今朝、その中にサンマウサギを隠しておいて、十時から十時半の間に、みんなに来てもらったらしいんだ」
「みんなって、犬と飼い主?」
「うん。広場に来てもらって、犬がサンマウサギを見つけるかどうか、その様子を見物するんだよ」
「フーン、日常の能力を見るって寸法か」
「犬をむやみに緊張させないように、って稲元さんの意見だって」
「よけいなことに気が回るね。マスター稲元と桐塚、あと、オブジェを提供した平泉が審査員みたいなものか?」
「あと、三人いたよ」
カメラマンの笹賀英明《ささがひであき》。
レノの飼い主だった美濃和《みのわ》さんの孫、久保勉《くぼつとむ》。
ペットショップ「アニマール」の野々宮良典《ののみやよしのり》。
ユニークな面子《めんつ》が揃《そろ》ったもんだ。
「なんで、あいつらが?」
「それぞれが推薦している犬種があるんだ」
「ああ、連中、こないだ、公園で話してたっけ。なるほどね。たしか、久保は番犬向きの日本犬がいいなんて言ってたっけな」
「うん、北海道犬を推薦してた」
俺は思い出して、
「あ、そうそう、久保っていえば、昨夜、酔っ払って、公園に来やがったな」
「ヒヤヒヤさせられたよね。あれさ、レノさんの銅像を磨きに来たらしいよ」
「ふーん、命日が近いからか」
「うん、明日でしょ。でさ、久保のお祖母さんが今日、浮羅田町についでがあるんで、公園に見に来るんだってさ」
「レノの飼い主の未亡人だからな。そうか、ちゃんと綺麗にしてあるかチェックするためだな」
「そうそう。久保は、前から言われてたらしいんだけど、ずっと忘れてて、昨日の深夜、突然、思い出したみたい。で、何かの飲み会の帰りに、酔っ払った勢いで公園に来ちゃったんだってさ。お祖母さんの言いつけが気になったんだろうね。面倒くさいって、さっき、うちの南条さんに愚痴《ぐち》っていた」
「深夜、化け物を見た話は?」
「省略してた」
「久保の奴、だいぶ酔っていたよな、どこまで現実と認識してんだろうな」
「どうかなあ? 銅像を磨こうと思ってたそうなんだけど、酔ってて危ないから、お巡さんに止められたって話に変えてた。で、今朝、改めてカラ拭《ぶ》きしてきたんだってさ」
「まあ、化け物の話なんか、誰も信じねえしな」
「でもさ、さっき、また不思議なことを体験して、久保の奴、目を白黒させてたよ」
「ん、不思議なこと?」
俺は鼻がヒクヒク動くのを覚えた。ここ数日、その手の話にすっかりハマってしまったような気がする。激しく興味をかき立てられるのだ。
ボンタはそれを察し、慎重《しんちょう》な口ぶりで、
「うん、その不思議なことなんだけどさ、犬のコンテストに関わってるんだ」
「おお、コンテストだかコンペの話の途中だったな。ええっと、久保は北海道大を推薦した。そこまで聞いたっけ。で、他の奴らは?」
「それから、笹賀さんはポメラニアン。友人の飼ってる雌が近々、出産するらしい」
「その貰《もら》い手を探してんだな」
「うん。あと、野々宮さんはシーズーとバセンジー」
「けっ、営業だけに欲ばったな。きっと、その二種が『アニマール』のセールの目玉なんだろうよ」
「そうみたい。しきりにフードの配達やトリマーのこととか、アフターサービスについて桐塚さんに宣伝してたし」
俺は話を総括《そうかつ》して、
「じゃ、ぜんぶで四種の犬か」
「あと、マスター稲元さんも。コリーを推薦」
「へえ、コンペを仕切ってる胴元《どうもと》もね。で、参加した五匹とも成犬か?」
「うん。条件を同じにするためにね。三歳から五歳くらいの牡《おす》だったらしい。北海道犬とポメラニアンとコリーは、『バスカビル』の常連さんだって」
「マスターの稲元が飼い主たちに頼んだんだな」
「一杯、おごるってね。飼い主も犬も」
名前を聞いたら、俺の知ってる犬たちだった。「バスカビル」の美味いミルクにありついたわけか、あいつらめ。ちょっと羨《うらや》ましい。
俺は舌で涎《よだれ》を隠して、
「あと残る二匹は、推薦した野々宮が自分で手配したのか?」
「うん。いつもの営業の車に乗せて連れてきたらしいよ」
と、ボンタは答え、
「『アニマール』の系列のペットホテルで預かっていたシーズーとバセンジーを借りてきたんだって」
犬たちの名前を聞いたが、知らない奴らだった。あのホテルは隣町だし。
俺は確認する。
「じゃ、そいつら二匹の飼い主たちは?」
「来なかった。ホテルで預かってるわけだから」
「そりゃそうだな。じゃ、野々宮が二匹を」
「うん、さんざん振り回されてた。僕が見に行った時、まだいたけど、全身|泥《どろ》まみれで、ズボンの尻《しり》ポケットがベロベロの垂れ耳みたいになってたし」
俺は鼻で笑い、
「そりゃ、コンペで勝ち目ないな」
「うん、そうなんだけど、勝ち目どころか、勝った犬は一匹もいなかったんだってさ」
「みんな、アホらしくて、付き合ってられなかったんだな」
「それもあると思うけど」
「サンマウサギが気味悪すぎた?」
ボンタは神妙《しんみょう》な口調で、
「それが問題なんだよ」
「やっぱり」
「いや、意味が違う。気味悪いのは別のこと」
そう言って、目の奥をキラリと光らせる。
俺は前半身を乗り出し、
「それが、さっき言ってた不思議なこと、ってやつだな。何があったんだ?」
「サンマウサギのオブジェが消えちゃったんだよ」
「えっ、消えたって」
「なくなったんだ。九時五十分頃、マスター稲元さんが草むらにオブジェを隠した。それは審査員みんなが確認しているんだって。そして、十時から十時半の間に、犬たちがやってきたんだけど」
「どいつもオブジェを見つけられなかったんだな」
「うん。なかったっていうんだ。審査員たちはその草むらを見ていたのに、いつのまにかオブジェが消えてしまってた」
「犬を連れてきた飼い主たちの誰かがそっと拾って、別の場所に隠したなんてことは」
「絶対ないって、さ。首輪につなぐリードで、伸び縮みするのがあるよね」
「ああ、スヌーパーやエドワード二世なんかが散歩の時、装着している、あのタイプのリードか。フレキシリードってやつな。あれだと、七、八メートルは伸びるよな」
「そう。犬たちはあのリードの範囲で自由に動いて、飼い主は草むらの中に入らないようなルールにしたらしいんだ」
「ほう、人の助けを借りられないようにか。そんなもん最初からアテにしてないってのに。ナメてやがんな」
「同感。そして、オブジェは草むらの陰に隠されていたわけだけど、その一帯は常に審査員たちの視界に入っていたって主張してる。誰かがそのエリアに入るようなことがあれば気づくって」
「あの草むらって、広さは、テニスコートくらいあるよな。じっと観察してたっていうけど、どれくらいの距離からなんだ?」
「池の側にベンチが三つ並んでるよね。そこが審査員席」
「じゃ、十メートルもないな。それなら、いくら、あいつらでも、見逃すはずないだろう」
「うん、同感」
「なるほど。九時五十分から十時半の間に、人間ども六人が監視している真《ま》っ只中《ただなか》で、オブジェが消失しちまったってわけか。そりゃ、確かに気味悪い」
「うん、気味悪いサンマウサギだし、よけいに、気味悪いんだよ」
おぞましそうに目を細める。
俺は虚空《こくう》を見据《みす》え、
「いったい、どうなっちまったんだろ? 何かしら、カラクリってもんがあるはずだぜ」
「そう思いたいけど」
「思えよ」
「でも、具体的に……」
心細そうに言葉を濁《にご》す。
俺は空を見上げる。しばらく雲の動きを追う。
一瞬、頭の中で閃《ひらめ》いた。
「おい、そうだ。カラスはどうなんだ? それこそ、カラスがエサの魚と間違えて、さっと飛んできて、かっさらったとか?」
「その意見、うちの飼い主さんが言ったよ」
と南条さんを見上げてから、
「でも、カラスも、池のカルガモも現場には来なかったって、みんな証言してた」
「ハトは?」
「同じ。だいたい、ハトじゃオブジェ持っていけないよ。カマポコ丸々一個分くらいの大きさだったんだから。それに、とにかく、問題の時間帯、草むらのエリアに入った生き物は、コンペの犬たちだけだって、稲元さんたちみんなが口を揃えて言ってたし」
「と、なると、そのオブジェのほうが問題かもしれんな」
「ひょっとして、サンマウサギが生きてた、なんて言うの?」
「似たようなもんかもしれん」
「そんなことないよ」
「もののたとえだ」
と俺は苦笑いし、
「言いたいのはだな、つまり、オブジェが風で動いて、どこかへ行ってしまったんじゃないかってこと。吹き飛ばされたのさ。草むらの陰を転がって、視界から消えた。ほら、今朝は風が強いから」
ボンタは耳をピクリとさせて、
「なるほど。でもさ、オブジェはブロンズ製だから、そんなに軽くないよ」
「草むらに隠したのはレプリカだったのさ」
「レプリカって贋物《にせもの》のこと?」
「ああ。紙製の張りぼてとかだった」
「え、でも、何のために?」
「うん、そこらへんのことは、今は置いといて、可能性としてはアリだろ。草むらに隠したのはマスター稲元だっけ」
「うん」
「じゃ、奴がどこかですり替えたのき」
「うーん、そうか……」
とボンタは歯切れの悪い返事をして、
「いや、でも、ちょっと待って……。あっ、それはない」
「どうしてだ?」
「だって、言ってたよ。六人で隠し場所を決めてから、その場で、稲元さん、みんなにチェックさせたんだって。ちゃんと公正かどうか、ひとりずつオブジェを順に持たせてさ。そして、最後に、稲元さんがみんなの見ている前で地面に置いた、これも、みんな口を揃えて言ってた」
「バックコーラスかよ」
「犬を連れてきた飼い主たちに、オブジェをちゃんと置いたということを説明してたんだよ。いろいろと文句、言われたから」
「そりゃな、わざわざ来てやったのに、問題のブツがないんじゃな」
「だからさ、みんなが手に触れてチェックした後、監視している中で、置いたんだから、オブジェが張りぼてなんてありえないよ」
残念そうに説明した。
俺は重い鼻息を漏《も》らして、
「そっか。こりゃ、またもや、難問にぶつかっちまったな」
ボンタは相槌《あいづち》を打って、
「人間どもも、今度は、不思議がってたよ」
「ああ、レッドカーペットの時と違って、人間どもにとっても密室か」
「うん。ちょうど、僕が行った時には、審査員の六人が懸命《けんめい》に草むらで探してた」
「ところで、お前、何しに行ったんだ?」
「僕というよりも」
とボンタは飼い主の南条さんを見上げ、
「カフェ『バスカビル』に挨拶に行ったら、マスター稲元さんは公園にいるって奥さんが言ってたから」
「ついでに、他の五人にもまとめて挨拶できたんだな。それで、聞かされたのが、サンマウサギの消失の謎ってわけか」
「みんなムキになって、草むら探してたよ。地面に顔を近づけちゃってさ」
「まるで、ビーフジャーキー落とした犬みてえだな」
「ちょっぴり親しみ覚えたよ。野々宮なんて額も泥だらけだし」
「地面と一体化したみてえだな」
「うんうん。そんな感じ。マスター稲元さんなんかあっちこっち草むしりしてるし、笹賀さんは大きな石を持ち上げたり、久保さんはペットボトルや生ゴミを拾ったりさ」
「公園の掃除してくれたんだ。連中もたまには社会に貢献するんだな」
「それでも、見つからなくって、結局、あきらめて引き上げていったよ」
「ご苦労なこった」
と、俺は苦笑いする。そして、頭ン中に雲がかかったような気分で、
「しかし、不思議だな。どこに、サンマウサギは消えたんだろうな」
鼻息混じりに呟《つぶ》く。
ボンタはブルッと首輪の周りを震わせ、
「なんか、また、あっち方面の想像しちゃうよ」
「どんな想像?」
黒い鼻を空に向け、
「降臨《こうりん》したレノさんの神霊《しんれい》がさ、オブジェを持っていっちゃったのかなと」
そう言って、ボンタは不安そうに黒い目を泳がせていた。
21
ボンタと南条さんが帰ってから、三十分くらいして、ポーリーがやってきた。
合図の鈴の音が地面から聞こえる。
俺は人目がないのを確認して、OKのバウスを放つ。
庭の隅の地面が微《かす》かに動く。
トンネルの出入り口を隠していた蓋《ふた》だ。
段ボールの切れ端に土を被《かぶ》せておいたものである。
蓋を少しだけずらし、穴の端からポーリーが顔を出した。
チワワの小柄《こがら》な身体には、ほんのわずかな隙間《すきま》さえあればいい。こんな時、実に便利である。いとも簡単に飛び出してきた。
丸みを帯びた顔、オリーブのような目、しなやかな体つき。
猫に変装した状態だった。
柔らかく、そして、機敏《きびん》な足どりもすっかり板についている。
ポーリーはウニャーと声色を放ってから、
「約束、守ったでしょ」
「ああ、さすがだ。正午|前《まえ》だよ」
時刻は十一時五十分くらい。
予告どおり、午前中に調査を終えて、報告しに来たのだった。
まず、俺は素朴《そぼく》な質問をした。
「どうやって、今朝、マンションから脱出した?」
「今日、生ゴミの日よ。ポリバケツに潜り込んだのよ。で、飼い主さんがゴミ置き場まで運んでくれた」
「残飯の匂いを我慢して」
「昨日の夕食、ビーフシチューだったから、むしろ心地よかったくらいよ。出るのが惜《お》しかったもの」
「そのままだと清掃車行きだぞ」
「だから、後《うし》ろ尾《お》ひかれる思いで出てきたわよ。うちのポリバケツ、蓋を回せば、外れるタイプのものだから、内部から前足でズラしたの。それで、押し開けて、ちょっと隙間を作って、人気《ひとけ》のないのを確認して、素早く脱出よ。あとは猫のフリ」
「身代わりとして、あのダミーのぬいぐるみを部屋に残してきた」
「そう、やっぱり、スヌーパーの腕はたいしたものよ。ハウスに入れておくと超リアル」
感動が蘇《よみが》ったのだろう。全身を震わせるのだった。
鈴が鳴った。
これもスヌーパーから渡されたアイテムだ。
キイホルダーの一部らしい。ポーリーは、革のリング部分を首輪に挟《はさ》んで、使っていた。
明け方聞いた時よりも、鈍い音色《ねいろ》だった。
目を凝らすと、鈴が少し凹《へこ》んでいる。
小さな歯型。何かの拍子に強く噛んだらしい。
ポーリーは俺の視線に気づき、
「鈴も役に立ったわよ。場所によっては鳴らないほうが都合いいところもあって、そういう時は口に入れておくの」
「なるほど。いたずらに人目を引く必要もないからな」
「そういうこと」
「で、どこまで行った?」
「業務連絡ね。じゃ、報告するわよ」
「よろしく」
俺は耳をぴんっと立てる。
ポーリーは胴回《どうまわり》りをブルンッと震わせる。猫の丸みを解き、犬らしく背筋を伸ばして、座る。
そして、報告を始めた。
「例の匂いね。レノの銅像に付着していたワックスみたいな匂い。地面にも散っていたけど、やっぱり、公園の外へと続いていたわ。それを追跡したの」
「何か入れ物から漏れていたんだな」
「というより、雑巾とかブラシに付いていたのが滴《したた》り落ちたんだと思う。だんだん、公園から遠ざかるにつれて、落ちている量が少なくなっていったから」
「じゃ、大変だったろ」
「次第に匂いが途切れる距離が長くなってたからね。二度ばかり見失いかけて、周囲をあっちこっち回って、ちょっと苦労もしたけど、どうにか最後まで辿《たど》ることができたわよ」
「さすが、プロ。ゴールを突き止めたな」
ポーリーはちょっぴり悪戯気《いたずらげ》に微笑《ほほえ》んで、
「で、どこに行き当たったでしょう?」
「うーん、犬なら、棒に当たる、か。焦《じ》らさないで教えろよ」
と俺は鼻息を漏らす。
「棒ね、微妙に近いかも」
「えっ?」
「うん、確かにボウよね。ボウはボウでも、工房《こうぼう》なのよ」
「それ、もしかして」
「そう、当たりよ。街道のふたつ手前の通り沿い。アーティストの自宅よ。そこの離れの工房。アトリエと称《しょう》してるらしいけど」
「自称アーティストの平泉《ひらいずみ》のとこだな」
「そう。でかい物置みたいなアトリエに、問題の匂いの源《みなもと》があった。缶に入った液体。やっぱし、一種のワックスみたいなもの」
「磨《みが》くのに使うのか」
「うん、自作のオブジェとかをそれで磨いて綺麗にしてるみたいね」
「なるほど。じゃ、平泉がレノの銅像を磨いたということか」
「あの銅像の作者だしね」
「そういや、今朝、久保がカラ拭《ぶ》きしてたらしい」
ボンタから聞いた話を伝えた。
ポーリーは目をかすかに潤《うる》ませ、
「明日、レノの一周忌《いっしゅうき》だからね」
「それで、きっと、平泉もワックスで磨いたんだろうな。でも、タイミング的に、ちょっと早い感じがする。だって、ワックスの匂いが銅像に付着していたのは昨日の朝だったんだろ」
「うん、その前の日は臭わなかった」
「じゃ、つまり、平泉が銅像にワックスがけをして磨いたのは、一昨日の夜から昨日の未明にかけて、ということになる」
「で、レノの命日は明日。うん、確かにちょっと早い感じなのよね。あたしも気になって、あの近辺の犬たちに訊《き》いたのよ」
「へえ、何かわかったことが?」
「平泉の奥さん、その夜、家にいなかったんだって。町内の友達連中と、一泊二日で温泉に行ってたらしいわ」
「ん、その夜を狙《ねら》って、平泉はこっそり銅像を磨きに出かけたということか?」
「そうよ、外出を知られたくなかったのよ。考えてみれば、実にあのオッサンらしいじゃないの。ほら、レノの銅像を作る時も、しぶしぶ引き受けるフリしてさ」
「ああ、レノのこと可愛《かわい》がっていたくせに、そのことを言われるの、恥ずかしがってたしな」
「そう。カッコつけるうえに、照れ屋なのよね。以前に柴犬《しばいぬ》を飼ったことあるけど、その話でうっかり涙ぐみそうになってたのごまかしてたじゃん」
「そっか。そもそも、平泉はレノの銅像を磨いたことを誰にも言ってない。夜中こっそりと行なっている」
「奥さんから何か言われるのも、すごく嫌だったのよ。それで、旅行で奥さんがいない夜、これ幸いってわけだった」
「平泉のキャラらしい。なんだか微笑ましいじゃないか。夜中、人目を避けてワックスがけなんて」
と俺はその光景を想像する。それから、銅像をリアルに思い起こし、
「しかし、平泉がそうやって磨いたわりには、たいして綺麓になっていなかったな。ん、あの夜はレッドカーペットの不思議現象も起きている。それと関わりあるのか?」
「さあ、どうなんだろ?」
「さあ? って、どう思う?」
ポーリーは不機嫌《ふきげん》そうに目をきつくして、
「そこまでは、あたしの担当じゃないでしょ」
そう言うと、わざとらしく、つんと鼻を上に向けた。
俺は首を垂れると、柔らかなバウスで、
「まっ、そりゃそうだ。いや、助かったよ。本当にご苦労さん」
「任務だもの」
「でも、単独捜査だから疲れたろ」
「いろいろ楽しかったわよ。四丁目に黒ネコいるでしょ。牡の」
「アランのこと?」
「うん、アランがさ、ノッちゃって、しばらく一緒に併走《へいそう》してくれたのよ」
「ナイスなカムフラージュだ。ますます猫っぽい」
「しかも、白と黒の二匹でしょ。人間どもにとっては縁起悪いイメージだから、人が近寄ってこないの。向こうから避けるくらい」
「うまい手だな。アラン、ポーリーのお通りだいってか」
「うん、どんどん道が空くから気分いいのよ」
「救急車みたいだな」
「でも、調子こいて、あたしが救急車の厄介になるとこだった」
「最近は、犬用のがあるのか?」
「欲しいってこと」
「あっそ。で?」
「うん。三丁目にある米屋の裏庭の倉庫、あそこ、足がかりがあったんで屋根にのぼって、歩いてみたのよ」
「完璧《かんぺき》に猫だ」
ポーリーは急に神妙《しんみょう》な口調になって、
「そのつもりがさ、ちょうど、運悪く、すごい震動で危うく落ちそうになって、ヒヤッとしたの」
「ン、地震なんかあったか?」
「トラックよ。表側の道路を、すごいトラックが通ったの。コンクリートの電柱を積んでんのよ。十メートルくらいの電柱を」
「えっ、電柱! 我らが犬のシンボルタワー、電柱を丸々一本か?」
「そうよ。まっすぐ寝かして、載せてるの。すごい迫力」
俺はそのシーンを思い描いて、
「へえ、見たかったな、何時ごろ?」
「十時をちょっと回った頃ね」
「ああ、寝てた」
「あたしが命の危機にさらされている時に。ふーん?」
「いや、まあ、これからの調査のために英気を養ってたってこと。でさ、その電柱のトラック、どっち方面へ?」
「あの道は、公園の東側の通りに続くはずよ。そのまま、隣町の図書館前の方向ね」
「電柱を載せたままじゃ曲がれないもんな」
「うん。図書館まで大きな曲がり角ないし。ほんと、あんなトラックじゃ、まっすぐ進むしかできないんじゃないかしら」
「すごい震動なわけだ」
「すごいのなんのって、屋根を滑《すべ》っちゃって、ホント死ぬかと思ったわよ」
と身震いしてみせる。
俺はその動作を真似《まね》て、
「こっちも、ある意味、ゾッとする話がある」
「何よ、寝てたくせに。幽体離脱《ゆうたいりだつ》でも体験したとか」
「ああ、惜しい。確かに心霊現象って見方もある」
俺は、今朝行なわれたという犬のコンペの話を聞かせた。
ポーリーは大きな目をさらに大きく開いて、
「ふーん、また、レノの幽霊か。どうして、あたしのとこに出現してくれないの」
「さっき屋根から落ちてれば、君も」
「なーにぃ? もう一回、言ってくれる?」
「いや、とにかく不気味な現象がまた起こったってこと」
「そのサンマウサギからして、不気味そうじゃないの。丸い尾をスクリューにして泳ぐのかしら?」
「ウサギって泳ぐっけ?」
「エドワード二世なら知ってるかもね。イギリスじゃ、ウサギ狩りやキツネ狩りの習慣があるらしいから、先祖代々、その手の話を伝えられてるかもよ」
「泳ぐとしたら、サンマウサギじゃ、海か」
「どうだか。案外、池にいるかもよ」
悪戯気なウィンクをしてみせる。
俺はポーリーのその目をしばらく見つめた。
頭の中でさまざまなシーンがめまぐるしく展開される。それらが、意味をなしてつながっていくのを感じはじめていた。
ポーリーは目を逸《そ》らす。そして、大きく欠伸《あくび》して、
「さあ帰って寝よ」
数回|瞬《まばた》きする。
俺は訊いた。
「帰宅の時は、どうやって入る?」
「簡単よ。飛び跳ねて、インタフォンのボタン押すの」
「飼い主さんがドアを開ける」
「あらかじめ、ドアの前にこれを落としておく」
鈴を咥《くわ》えて見せ、
「ドアが触れてチリンって鳴るでしょ。その音のほうに目が向いてる隙に、あたしは中に素早く入る」
得意げに、黒く光った鼻を突き出した。
俺は言った。
「なあ、頼みがある」
「何?」
「帰る途中、ボンタのとこに寄ってほしい」
そして、伝言をポーリーに託《たく》した
22
淡い月光が、ゆっくりと流れる雲の輪郭《りんかく》を浮かび上がらせる。深夜は〇時を回った。
俺は立ち上がると、リードいっぱいに後退《あとずさ》りする。
首を左右にくねらす。それから、前足を踏ん張り、身を後方に引いた。
両耳が一瞬倒れる。
くすぐったいような感覚が喉《のど》から顎《あご》に走る。
そして、すっぽりと首輪が抜けた。
ちょっと勢い余って、尻餅をつきそうになる。
首輪はリードにつながったまま、犬小屋の近くに落ちていた。
俺はまったくの自由の身となった。
錠《じょう》外しのプロ、デュークが首輪を緩めておいてくれたおかげである。さすが、匠《たくみ》の技。鮮やかな仕込《しこ》みであった。
家の様子を窺《うかが》う。
真平さんはもう寝たらしい。
紗織さんの仕事部屋にだけ明かりが点っている。忙しいようだ。
すでに雨戸は閉められているから、庭には降りてこないだろう。
俺の不在に気づくことはあるまい。
音をたてないように注意して、ブロック塀のほうへ移動する。土を被せたダンボールの蓋を前足でずらすと、入り口の穴が現れた。
俺はトンネルをくぐり抜け、バケツの蓋をどけて、脱出した。
嗅覚《きゅうかく》、聴覚、視覚、すべてを鋭くして道路を疾駆《しっく》する。時折、人の姿があるので、油断ならない。隅に身を寄せ、物陰に隠れながら走った。
七、八分で畑に到着した。
計画どおりの進行だ。
白菜が動く。
横にズレて、穴が現れた。トンネルの出入り口。
そこから、ピンッと立ったふたつの耳が見え、ボンタが顔を出した。周囲を見渡し、俺と目が合うと、
「飼い主さんたちはもう寝てる。引っ越しの準備で疲れたみたい」
そう言って、穴から出てくる。
全身をブルブルンと震わせ、土を飛ばした。
それでも、鼻先に泥が残っていた。
俺は言った。
「引っ越しは明日だもんな、いやすでに今日か」
「午前中みたい」
「そっか。ギリギリ間に合いそうだぜ」
「ホントに! いろんな謎が山積みだけど、真相わかったの?」
興奮気味に、ボンタは目を輝かせる。
「ある程度までは、な。俺の推理が見当違いでなければ、今晩中にすべてがわかるはずだ。そのためには、最後の確認が必要だ。そして、お前にやってもらわなきゃならないことがある」
「えっ、僕が?」
「ああ。しなきゃならないことがある」
「何をすればいいの? 何でもやるよ」
「よし。じゃ、現場へ急ごう」
鼻先を北の方角へと向ける。
そして、俺とボンタは深夜の町を駆け抜けた。
月が見守るようにずっとついてくる。
晩秋の夜風が耳と尾をくすぐる。ひんやりと冬を含んでいた。
まもなく現場に到着した。
浮羅田公園の東側の広場。
桜の樹々を背景に草むらがあった。
そう、ここは、今朝、犬のコンペが行なわれた場所である。
そして、不可思議な現象が起きたミステリースポット。
人間たちが監視しているのに、サンマウサギのオブジェが消失したのだった。
レノの幽霊が咥《くわ》えて持ち去った……そんな噂が犬たちの間に広がっていた。
俺は言った。
「なあ、お前がここに来た時、審査員の人間どもはオブジェを探していたんだろ」
「うん、みんな懸命だったよ」
「そのみんなの匂い、お前は覚えているよな」
「もちろん。うちの南条さんがひとりひとりに挨拶して回っていたから」
「お前も一緒だもんな」
「だから、審査員の六人全員の匂いは覚えているさ」
きっぱりと言って、ボンタは黒い鼻を突き出した。
俺は周囲を鼻先で示し、
「よし。じゃあ、石の匂いを嗅いでくれ」
「石って、この草むらに落ちてる石ころ?」
「そうだ。なるべく大きい石がいい。複数、嗅いでみてくれ。そして、誰の匂いが付着しているか調べてほしいんだ。見当はついている。念のため、確認がほしいんだ。それが、推理の裏づけになるから」
「何だか、重要なことなんだね」
「ああ、重要だ。それによって、今夜の捜査方針が決定されるんだから。お前にとっては、ラストチャンスだぞ」
「う、うん。わかったよ」
ボンタは顎を引いて、目に力強い光を宿した。
そして、鼻をこすりつけんばかりに地面を探索する。石を見つけるたびに、鼻腔《びこう》を収し縮させて、匂いを確認していた。
十五分くらいして、俺は声をかけた。
「そろそろ、いいだろ」
「一応、草むら全体を一回りした。まだ細かい石とか残ってるけど」
「ある程度、サンプルがあればいいさ。どんな具合だ?」
「大きいのは四つほど」
ボンタは鼻先を土で茶色にしたまま、案内する。
なるほど、いずれの石も屋根瓦《やねがわら》くらいの大きさだった。
「で、誰の匂いがする?」
俺が問う。
ひとりの男の名をボンタは告げた。
「どれも、あいつの匂いばっかしだったよ」
「よし、裏づけがとれた。これからの行動が決まった」
「どうするの?」
ボンタは舌を出して、息を荒くし、
「えっ、なんか、わくわくする」
「遊びじゃないぞ」
「わかってるよ」
「きつと、あいつは今夜、動くはずだ」
「そ、そうなの?」
「まあな。じゃ、次の現場に行くぞ」
俺は巻き尾を立てると、走りはじめた。
ボンタもすぐさま続く。
町の明かりは少なかった。
通りを行き交う音もあまりしない。
俺たちは沈黙と静寂《せいじゃく》に身を包み、風景に溶け込むようにして走った。
目的の場所は、その男の住居《すまい》だった。
「コーポ・ノースフラグ」という小ぶりな三階建てマンション。十五世帯のいずれも1DKだろう。
男の部屋は一階の中ほど。まだ、明かりがついていた。時折、グレイのカーテン越しに影が動く。
どうやら間に合ったようだ。
マンションの近くの植え込みに、俺とボンタは身を潜《ひそ》め、窓をじっと見つめる。
張り込みである。
「あいつが出てきたら、尾行するんだね?」
ボンタが囁《ささや》く。
「ああ、突き止めなきゃならない場所がある。それを確認できれば、すべての謎は解けるはずだ」
「もう、夜も遅いのに、あいつ、なかなか出てこないよ」
「慎重を期しているんだろう。不安なはずだから、今夜中には動くさ」
「賭《か》けてもいい?」
「祈ろう」
「ええっ、その程度の確率?」
「人間がよく言うだろ。犬も歩けばナントヤラって」
俺は鼻息混じりに笑った。
じっとしていると、寒さが滲みてくる。
時折、その場で前足を突っ張り、腰を引いて屈伸運動を行なう。
酔っ払いが通れば、アスファルトに身を伏《ふ》せた。
祈りが通じたのは一時間半くらい経ってからだった。宵《よい》っ張《ぱ》りの神様らしい。
ドアの開閉する音が聞こえた。
まもなくエントランスに人影が現れる。
街灯の明かりがその顔を浮かび上がらせた。
待っていた男。
手にはスポーツバッグのようなものを持っていた。
俺とボンタは立ち上がる。
時刻は深夜の二時を回っていた。
男はマンションの前の小さな物置のような場所に歩み寄る。
そして、自転車を取り出した。
これは予想外だった。
男は自転車に乗り、ペダルを踏み、走り去る。
その後ろ姿を見つめながら、ボンタは言った。
「犬の掟。ひとつ。走りでは、人に負けるべからず。アローさん、そう言ったよね」
「ああ、言った。バイク未満まで、だ。ゆえに自転車の場合は当てはまる。急げ!」
俺とボンタは慌《あわ》てて後を追った。
区画を三つすぎたあたりで、スピードを調整する。十メートルくらいの距離をキープして、走った。
いきなり振り向かれても、見つからないように、道の隅を進む。
電柱の陰に身を隠し、安全を確認して素早く次の電柱へと移動する。
俺たちは走る影と化していた。
男が自転車を降りた。
そこは、古びたアパートだった。小さな二階建てのモルタル造り。
いずれの窓にも明かりはない。夜の中に黒くうずくまっている。
墓場のように静まり返っていた。
実際、アパートの死骸《しがい》であった。すでに誰も住んでいない。取り壊されるのを待っているだけの存在。
いわゆる廃墟《はいきょ》である。
浮羅田公園が目と鼻の先だった。
屋根の向こうに、桜の木立が見える。東側の広場の近くだろう。およそ二時間前、俺たちが探索したあの草むらである。
アパートは錆《さび》ついたフェンス塀に囲まれている。しかし、大きな穴が数カ所に空いていた。木製の片開きの門にも錠《じょう》がかかっていない。
以前、子供たちが侵入したのを目撃したことがある。たまにそういうことがあるらい。
だが、何もない退屈な場所なので、すぐに出てきてしまうようだ。病院の廃墟などと違って、肝試《きもだめ》しの対象にならないのだろう。
男は道の左右に目を配る。
俺とボンタは電柱の陰から見張っていた。
男は自転車を押して、静かに素早く門を通り抜け、中に入った。
数秒して、金属音が微かに聞こえる。ドアを開閉したのだろう。
俺たちは電柱から離れる。
アパートに忍び寄り、フェンス越しに敷地内を見渡した。
23
コンクリートの地面はひびだらけだった。隅に男の自転車が置かれている。
一階の奥の窓にぼんやりと薄明かりが浮かび上がっていた。カーテンか何かで窓を覆《おお》っているようだ。室内の明かりが微《かす》かに漏《も》れているのだ。
俺は木製の門扉に近寄る。
後ろ足で立ち上がり、前足をドアにつけて身を支える。
大きく口を開いて、金属製の丸いノブを咥《くわ》えると、首をひねり、左右に回した。そして、身を引く。
簡単に、ドアはこちら側に開いた。
錆《さ》びた蝶番《ちょうつがい》がきしんで、ちょっぴり音をたてる。
三分の一くらい開いた状態で、隙間《すきま》から、アパート内に侵入した。
後ろから、ボンタも続く。
まっすぐにコンクリートの外廊下《そとろうか》が伸びている。
左側に部屋のドアが五つ並んでいた。
俺たちは足音を忍ばせて、いちばん奥へと進む。
その部屋から糸のように細く明かりが漏れていた。
ドアは壊《こわ》れている。上の蝶番が外れかけているのだ。
俺は隙間に前足の爪を差し込み、こちら側に引いた。淡い光が漏れてくる。広がった隙間に、こんどは鼻先を入れて、そっとドアを外側に開いた。
明かりがさらに太くなる。
中を覗《のぞ》きこんだ。
六畳の殺風景な部屋だった。
土とカビの匂いが立ち込めている。
手前に玄関、右側に戸の外れた押入れ、左には小さな炊事場《すいじば》があるだけ。
壁に穴が幾つか穿《うが》たれている。カサカサと音がした。ネズミが出入りする穴のようだ。
天井の蛍光灯は外されていた。
光源は床にあった。
キャンプ等に使うカンテラ。
釣鐘《つりがね》のような形をして、ガラスの中で火が点っている。
部屋の隅のポリタンクにはその燃料が入っているようだ。
あの男の姿がない。
持ってきたスポーツバッグが放り出されていた。その脇に、ジャケットとズボンが置かれている。さっき、男が着ていたものだ。
バッグの中に着替えが入っていたのだろう。
ささくれた畳が一枚はずされ、ポッカリと長方形の穴が空いていた。
そこからも、明かりが微かに漏れていた。
男は穴の中にいるらしい。
身動きする音が聞こえる。しかし、かなり小さい音だった。
俺とボンタはそっと室内に入ると、その穴を覗き込んだ。
穴は深かった。地面が掘削《くっさく》され、土の壁と底が見えた。
深さ三メートルくらいあるだろう。
男はいない。
穴の底の片側から光が漏れていた。
横穴がある。広さは一メートル四方くらい。
そう、このアパートの一室から、トンネルが掘られていたのだ。
男は今、トンネル内で何かしている。
ボンタは日を丸くして、囁く。
「うわっ、人間もトンネル掘るんだ」
「バカ、世の中は、人間の作ったトンネルのほうが多いんだ」
「あ、そっか」
「かなり長いトンネルみたいだな」
「メビウスさんに見せてあげたい」
「あれこれ、うるさいだろうよ」
俺は鼻先で笑った。
穴の底まで、木の梯子《はしご》が立てかけてあった。
急角度だがどうにか対応できそうだ。
俺はボンタに言った。
「ここで、待ってな」
「ええっ」
「見張りが必要だろ」
「う、うん、わかったよ」
不服そうに頷いた。尻尾《しっぽ》が垂れ気味である。
俺は梯子に右の前足をかけ、揺れないのを確かめると、一気に駆け下りた。
穴の底は空気が冷たい。肉球にひんやりとした土の感触があった。
トンネルはまっすぐに続いていた。
吸い込まれそうな闇《やみ》の先に、光が蠢《うごめ》いている。
二十メートルくらいの距離だろう。
そこに人影を浮かび上がらせていた。
あいつだ。
狭い空間なので、両手と両膝をつき、這《は》って進んでいる。
犬と同じ。
俺は緊張しながらも、笑いがこみあげるのを懸命に抑《おさ》えた。
時折、まばゆい光が炸裂《さくれつ》する。
デジカメのフラッシュだ。
その度に、男の顔がさまざまな角度から浮かび上がった。
犬のような大きな耳をつけてみたくなる。
想像すると、かなりマヌケだ。色白で切れ長の目をした端正なマスクなので、よけいに滑稽《こっけい》だろうよ。ふだん、クールに気取ってるし。
男は、笹賀英明《ささがひであき》。
あの雑用カメラマンである。
狭いトンネルを這いずりながら、しきりに、天井部分をチェックしている。気になるところはデジカメで撮影していた。
ブルーの上下のジャージは土にまみれていた。そのための着替えであった。
右手に握っているのはスコップ。邪魔な土の固まりを脇《わき》にどけている。天井から崩《くず》れて来たのだろう。苛立《いらだ》たしそうに何度も舌打ちしながら、スコップを動かしていた。
俺はそっと後をつける。ゴールは闇の向こうだった。
トンネルの先はずっと奥まで続いている。
いきなり、背後で大きな音が響いた。
ガチャッ、カラカラ、ガッシャーン!
何かが倒れ、ガラスの類《たぐい》が砕《くだ》ける響き。
前後して、ハタハタと走る足音、それに、チーッチーッとネズミの鳴き声。
俺は振り向き、
「どうしたんだっ!」
空気を裂くように鋭いバウスを放った。
すぐさま、ボンタが返す。
「ネズミが脅《おび》えたらしい。カンテラを倒して、逃げていった」
壁穴のネズミが犬の匂いに驚いたのだろう。そして、カンテラは穴に落ちたようだ。
トンネルの入り口の向こうで炎が上がっている。こぼれた灯油に引火したのだ。やばい。
24
「誰だ!」
トンネルの中に笹賀の声が響いた。
いきなり、ライトが突き刺さってくる。
懐中電灯《かいちゅうでんとう》をこちらに向けてきた。
俺の姿を見て、恐怖と驚愕《きょうがく》の入り混じった顔をしていた。
そりゃそうだろう。まさか、犬がいるなんて、これっぽっちも想像しないはずだ。
驚愕から、怒りへと表情が変わると、笹賀はこちらに向き直り、猛然と追ってきた。
腕と膝《ひざ》をトカゲのように動かして、かなりの速度で走る。人間もやはり動物なのだろう、あなどれない。
俺は用便を済ました時のように、後ろ足で土を蹴りあげる。くぼみを作っておいた。ちょっとした罠《わな》。
そして、トンネルの入り口を目指して、逃走する。
煙が侵入してきて、鼻がツンとする。呼吸が苦しいが、スピードは緩《ゆる》めない。
トンネルを飛び出し、穴の底に辿《たど》り着いた。
灯油が広がり、みるみる炎が大きくなっていた。
それでも、まだ火に侵されていない場所が点在する。
そこにジャンプして、梯子に飛び移れば……。
しかし、梯子が燃えていた……。
背後には、猛獣のように両手両足で疾駆《しっく》する笹賀が迫ってきている。その凶暴《きょうぼう》な顔つきには殺意がみなぎっていた。
ボンタが穴の淵《ふち》から首を突き出している。焦《あせ》りと恐怖の色を浮かべながらも、救出の足を伸ばそうと懸命だった。
炎はボンタの周囲にも上がっていた。火勢が激しい。燃料の入ったポリタンクに引火したようだ。かなり危険な状況だ。
ボンタの首の周りの毛がちりちりと焦《こげ》げている。
そして、その口には長い布切れを咥《くわ》えていた。
ズボンである。
笹賀が履《は》いてきたものだ。
片方の裾《すそ》をしっかりと噛み締め、反対側の裾の先を穴の中に垂らしている。長さは充分ではない。
俺はそこに食らいつこうと、ジャンプを試みた。三度続けたが、届かない。
ボンタが大きく身を乗り出す。穴の淵に腹があった。
俺は足に力を込めて、跳《と》んだ。
歯ごたえがあった。ズボンの先端に食らいついたのだ。俺は土の壁に前足の爪を立てて、引っかくようにして懸命に動かす。
頭上では、ボンタが懸命にズボンを引っ張り上げていた。目を剥《む》いて、前足を突っ張り、全身を後方にそらす。
俺の体がじりじりと上がってゆく。
もう少しで、前足が穴の淵に届きそうな瞬間、無情にも、火がズボンに燃え移った。
瞬《またた》く間に炎が走る。
ズボンは黒煙を上げて、股《また》から裂ける。
土の壁を前足で引っかきながら、俺は穴の底に落下していった。
かろうじて、火のない場所を狙《ねら》って着地する。それでも、肉球が真夏のマンホールに触れたように熱い。
息を整える間もなく、俺は叫んだ。
「ボンタ! 放水だ!」
「目標は?」
「梯子!」
「ラジャー」
ボンタは俺の頭上で右の後ろ足を高々と上げる。そして、股間《こかん》のまだピンクの可愛いホースからシャワーを放った。
俺も目いっぱい片足を上げて、放水する。
まだまだ、勢いだけなら、若い奴《やつ》に負けない。
梯子は上下の放水により、鎮火《ちんか》されてゆく。
黒い煙が弱まり、白い霧状へと化す。わずかな炎の影から、梯子の輪郭が現れた。くすぶりつづけている。
俺はジャンプした。一気に梯子を駆けのぼる。
ところが、真ん中あたりで、後ろ足が宙に浮いた。
梯子の下半分が崩れ落ちたのだ。
足がかりを失う。
俺は前足だけを引っかけ、かろうじて残った梯子に宙吊《ちゅうづ》りになっていた。
背後に危険な気配が迫っていた。
振り返る。
笹賀がもう間近に立っていた。足元から上る黒煙と火花の中、血走った目をして俺を睨《にら》みつけていた。
そして、鼻血を垂らし、額は土にまみれている。
罠にかかってくれたようだ。俺が逃げ出す間際《まぎわ》に、後ろ足で掘っておいたくぼみ。そこにつまずき、顔面から土に突っ込んだのだろう。ザマミロ。
その分、俺は逃走時間を稼《かせ》げたわけだ。
だが、もうすでに猶予《ゆうよ》はなかった。
笹賀はスコップを振り上げた。
鋼鉄の鈍い輝き。
この一撃で俺のはかない犬生は終わるだろう……。
防御《ぼうぎょ》も反撃もできる体制ではない。
むざむざと最期を迎えるだけ。
犬死に、だ。
ゲームセットを告げるサイレンが聞こえるようだ。
いや、実際に聞こえていた。
次第に近づいている。
そうか、アパートの失火を発見した誰かが通報したのだ。
穴の淵で、ボンタが震えていた。
何やら悪霊《あくりょう》にでも憑《つ》かれたように大きく目を剥《む》いていた。
そうだ、こいつは、サイレンを耳にすると、我を失うのだ。パニックに陥り、狂気の寸前まで追い込まれてしまう。
今、ボンタは内なる恐怖に苛《さいな》まれていた。
同時に、炎に包まれる中、犯人の襲撃に直面している。
災厄《さいやく》の板ばさみ。
しかし、見開いた目の奥に強い光があった。俺を救おうとする意志の光が。
このギリギリの危機の渦中《かちゅう》で、突破口を捜し求めている。
全身を苛むパニックの衝動と、窮地《きゅうち》に真正面から立ち向かおうとする気勢と、ふたつの力が桔《きっこう》抗している。
そして、それらが化学反応を起こしたように、信じがたい行動へと昇華《しょうか》した。
これも火事場の馬鹿力というのか。
ガウァーッ! と激しい咆哮《ほうこう》を放つと、ボンタは跳んだ。そして、笹賀に襲いかかり、肩に噛みついたのだ。
まるで、狼の野性を宿したように、凶暴で敏捷《びんしょう》だった。
ギョーッ! と声にならない悲鳴を漏らして、笹賀は後ろへ倒れこむ。
手からシャベルが離れて飛んだ。
宙で半回転。
シャベルは柄から落下すると、土の壁にもたれて立った。
そこに、笹賀は倒れこむ。シャベルの金属部に後頭部を強打した。
重く鈍い音。
白目を剥き、腰が落ち、そのまま倒れてしまった。
胸部が小さく上下しているので、呼吸はあるようだ。失神したらしい。
ボンタは穴の底で呆然《ぼうぜん》としていた。
いつのまにか狼の野性は抜けている。
舌をダランと出して、大きく瞬きを繰り返す。
自分が何をしたのか理解していないようだった。
俺は前足に力を込めて、身を引き上げる。梯子の段を伝い、ようやく穴から脱出した。
燃えさかる炎の及んでいない隅に、ジャケットが落ちていた。笹賀が着ていたものだ。
俺はそれを咥えて、前足で押さえ込む。襟首《えりくび》から背中のギリギリまで牙で裂いた。右袖をしっかり噛み締めて、穴から降ろした。
長いボロ切れと化したジャケット。
左袖がボンタの頭上に垂れ下がる。
俺は目で合図した。
早くしろ!
ボンタはやっと我に返ったように、
「う、うん!」
力いっぱい跳躍《ちょうやく》して、ジャケットの左袖に食らいついた。
俺はそれを一気に引き上げた。
ボンタは畳の端に前足を引っかける。そして、力をこめて無事に這い上がってきた。
表にはサイレンがすぐ間近まで迫っていた。
ボンタは反応しない。
目の前の危機のほうが大きかった。
室内は黒煙に巻かれ、天井まで火柱が上がっているのだ。
呼吸が苦しい。入り口のドアは燃え盛っている。危険だ。
煙の向こうに視線を動かす。
あそこしかない。窓が炎に当てられ、ヒビが大きく入っていた。
俺とボンタは頷《うなず》き合うと、同時に挑んだ。
大きな音が響いて、窓が割れた。
ガラスの破片が噴水のように散った。
そして、着地すると、裏のほうへと走る。
フェンスの穴を見つけ、そこから脱出した。
走りながら一瞬振り返る。
背後の夜が赤く染まっていた。
25
俺は呼吸を整えていた。
全速力で走ってきたので、さすがにこたえる。舌を出して、沸騰したやかんみたいに、ハッハッと白い息を吐いていた。
背中が大きく上下するのを感じる。
ボンタも息が上がっている。しかし、呼吸のリズムは俺よりはるかにスローテンポだった。背もさほど波打っていない。やはり、若さだろう。
ここは畑。
ボンタの家の前であった。そう、事件の発端《ほったん》となったゴボウが盗まれた場所だ。
腹ばいになって休憩していた。
土のひんやりとした感触が心地よかった。
公園の向こう側では、まだ、消火作業が続いているようだ。
晩秋の夜風に煙の匂いが混じっていた。
俺は大きく息を吐くと、
「よお、さっきは助かったぜ。ありがとな」
「あんまり、よく覚えてないよ、夢中だったから」
ボンタは恥ずかしそうに、舌で口端《こうたん》を舐《な》める。俺は言った。
「でも、お前、弱点との付き合い方、ヒントを掴《つか》んだみたいだな」
「うーん、ああいうふうに追い詰《つ》められないと」
「あれだけの修羅場《しゅらば》はなかなかないぜ」
「またあったら、思い出すかも」
「楽しみにしてやんの」
「うん、なんだか」
「ぬかしやがって。でもよ、お前、もう、ただのホットドッグじゃねえ」
「激辛《げきから》のマスタードつき。うっかり舐めると火傷《やけど》するぜー」
嬉しそうにおどけてみせた。尻尾がスウィングする。右に小さく、左に大きく。何度も。ずいぶんと照れている様子だ。
それをごまかすように事件の話をふってくる。
いや、好奇心が勝ったのだろう。
そういう奴になってきた、こいつめ。
「トンネルがあったんだね」
と、ボンタは目を輝かせた。
俺はさっきの遠い闇を思い出し、
「ああ、かなり長いトンネルだったよ」
「あれって、いったい、目的は?」
「今年の初め、公園のそばの家で泥棒が逮捕されたろ。土蔵に押し入って、中のものを盗もうとして失敗した」
「ああ、浜谷さんの家でしょ。引っ越しの三日前くらいだったよね」
「そうそう。きっと、あの浜谷さんの家まで、トンネルは掘られる計画だったんだろう。当初は、床に穴を開けて、あの土蔵に侵入する計画だったはずだ」
「じゃ、トンネルを掘ったのは、その泥棒たち?」
「そういうことだ」
と、俺は頷いてから、
「しかし、トンネルによる計画は頓挫《とんざ》した。それは、レノの銅像が原因だった」
「えっ、どうして?」
「トンネルは、廃墟《はいきょ》のアパートからまっすぐ伸びている。途中、浮羅田公園の東側の地下を通るんだ」
「公園の輪郭は☆型みたいにカーブしてて、出っ張りがあるからね」
「その東の出っ張り部分に、桜の木立があるよな。そのすぐ近くの原っぱは、花見時ににぎ賑わう。レノの銅像は、最初、あのへんに建てられる予定だった」
「それを泥棒が耳にしたんだね」
「そうだ。寝耳に水だったろう。掘ってる最中のトンネルは、その原っぱの下を通っている。つまり、銅像が建てられる候補《こうほ》場所は、トンネルのルートとぶつかる可能性が高かったのさ」
「まずいよね。銅像を建てるということは地面に土台を埋めること」
「そう、トンネルの存在がバレちまうかもしれない。泥棒たちは慌てて、トンネルの存在を隠そうとした。全部を元どおりにする時間はないはず。少なくとも、銅像の建つ広場の下には土を入れて埋め直そうとした」
「すぐにでも建てられそうだったから、急がなきゃならなかったろうね」
「そう。でも、もしかしたら、上手くトンネルの位置からズレて建つかもしれない」
「しかし、それを期待するのは危険だ」
「とりあえずは埋めておく必要がある。銅像の正確な位置が決定してから、従来のルートを復活させるか、または、土台を迂回《うかい》して掘るのか、判断するつもりだったろう」
「面倒だね。なんか同情したくなる」
ボンタはSっぽい笑いを口の端に浮かべた。
俺もつられて微笑《ほほえ》みながら、
「しかも、トンネルは狭《せま》いから、作業がはかどらない。内部の土を掘って持ってくるのは時間がかかるのさ。それに、結局それは穴を広げることで逆効果だしな」
「じゃ、土はどこから?」
「浮羅田公園だよ。あの廃墟のアパートの近くで、もっとも土が豊富なのは公園だよ」
「うん、裏からすぐだったね」
「きっと、夜中、公園から土を運んできたのさ。その土を問題の場所に積んで、トンネルを塞ぐ作業を進めた。そして、その土の中には、レノがマーキングした箇所のものもふく含まれていた。それから、毛もな」
「死んで間もない時期だったし」
「レノは若いうちは外飼いだったけど、老犬になってからは室内で過ごした。その分、気温の変化に鈍感になって、毛の生え代わりが遅くなっていた」
「普通は、秋の初めには脱毛するよね」
「けど、レノは十一月末頃だった。それで、浮羅田公園に毛が残っていて、泥棒たちの運んだ土に混じっていた」
「レノはいろんなところにマーキングしてたんだよね」
「泥棒たちが使った土は、やはり、人間たちの目の届きにくい場所から運んだのだろうよ。潅木《かんぼく》の陰とかな」
ボンタは額に小皺《こじわ》を寄せ、
「でも、犬たちの間で、おかしいぞって噂《うわさ》にならなかったのは、不思議だ。泥棒たちは、よっぽど、広く浅く、目立たないように土を掘ったのかな?」
「いや、それよりも、俺ら犬たちは、いつものことだと思ったのさ」
「いつものこと?」
「ああ、メビウスたち、穴掘りマニアの奴らが遊んだ跡だと思い込んだのさ」
「ああっ、『穴と夢』グループの活動だと……。それで、みんな気に留めなかったのか」
「あのグループの連中同士も、な」
「一種の盲点だったのか」
「俺たちならでは、の」
「犬限定か」
「そういうこと。で、泥棒たちは必死にトンネルを埋める作業に精を出した。しかし、かわいそうに、まったくの徒労《とろう》だった」
「レノの銅像が建つ予定地がまるっきり変わったんだね」
俺は吐息《といき》をつき、
「ああ、レディーたちの活動でな。あんな、花見で賑《にぎ》わう場所じゃ、人間の酔っ払いたちに銅像が悪戯《いたずら》される、って最初っから反対だったんだ」
「それで、アフガンハウンドのマレーナ姉御《あねご》が指揮をとって、レディーたちはテロ活動に出たんだね。ゴミを持ってきたり、わざとフンをしたり」
「そう、あの場所の評判を落とした。その成果が実って、急遽《きゅうきょ》、人間たちは銅像の設置場所を変更することにした」
「今、建ってる場所だね」
「そう。そして、レディーたちのテロに振り回されたのが、泥棒たちだった。せっかく面倒なことをしてたのに、まったく違う場所に変更になっちまった」
「さすがに嫌気《いやけ》がさしたろうな。それで、また掘り直す気力もなくなった」
「うん、そんな脱力感も覚えたろうよ。でも、何よりも物理的な問題だった。場所のことで揉《も》めているうちに、どんどん時間が経っていったんだ。そして、標的である浜谷さんが引っ越す日が迫っていた。トンネルなんか掘り直す時間はない」
「それで、強攻策《きょうこうさく》に出たわけか」
「うん、単純に地上から泥棒に入った」
「そしたら、見つかり、現行犯逮捕。マヌケというか哀れだね」
「しかも、またもや、犬のせいだった」
「ああ、息子さん夫婦が引っ越しの手伝いに来てたんだね。飼い犬を連れて」
「そう、ふだんはいないはずの番犬に阻《はば》まれたんだ」
ボンタは鼻先で笑い、
「前世でよっぽど犬に恨まれるようなことしたのかもね」
「つくづく犬運の悪い泥棒さんたちだ」
「彼らはトンネルのことは警察にしゃべらなかったんだね」
「ああ、罪状《ざいじょう》が重くなると思って、余計なことは言わないようにしたのさ」
「それで、結局、トンネルは使われないまま残されたのか」
俺はクシャミをひとつしてから、
「そして、そのトンネルを偶然、見つけたのが、カメラマンの笹賀英明だったのき。おそらく、写真を撮ろうとアパートの廃墟に入ったんだろう」
「廃墟の写真は商売になる、そう言ってたらしいね」
「でも、あんまり面白みのある場所じゃなかったから、あれこれとネタを探して、それで、畳をはがした」
「すると、大当たり」
「トンネルを見つけた。そして、あいつには工務店を経営している兄貴がいた。以前から話があったんだろうな。悪質なリフォーム詐欺《さぎ》の計画」
「ん、どういうこと?」
「こういう話を聞いたことあるかい? 建築業者が、年寄りや無知な素人《しろうと》を騙《だま》して、不必要な補強工事をして、過剰《かじょう》なリフォーム代を取り立てる、って悪徳商売」
「ああ、飼い主さんたちの立ち話で聞いたことがあるよ。床下の柱が破損しているから補強しないと家が崩れるとか脅《おど》かすんでしょ」
「それそれ。で、笹賀は兄貴と新手のリフォーム詐欺を企てたんだ。本当に、床下の柱や壁や土台などを傷つけて、ホンモノの破損状態をでっちあげる」
「そうか、そのためにトンネルを利用しようとしたんだね」
「トンネルから床下に潜入して、あれこれ傷つける。できるかぎりリアルに、自然に見えるようにな。シロアリを放って、そのせいにするくらいのことは平気でやるつもりだったかもしれない」
「なるほどねー」
ボンタは半開きになった口をいったん閉じてから、
「で、狙われた家は?」
「桐塚さんのとこだよ。ちょうど、トンネルはその近くまで来ていた。笹賀はトンネルを掘り直したんだ。泥棒たちがいったん埋めた土を掘り返し、再び、トンネルを貫通させ、さらに掘り進めた」
「桐塚さんの家って、けっこう大きいわりに古いもんね」
「それに金がある」
「退職金というやつか」
「そうそう。それに初老の夫婦ふたりだけの暮らしだし」
「攻め易くて、利益も大きく狙えるか」
「まず、この一軒を確実に成功させてから、トンネルのルート上にある他の家も標的にするつもりだったんだろうよ」
「トンネルにさらに横穴を掘って広げる手もあるかも」
俺はちょっと感心して、
「なるほど、お前、才能あるかも」
「嬉しくないってば」
「とにかく、まずは、桐塚さんの家を攻め落とすことが第一目標だった。そのために、トンネルを掘り返した。おそらく、部分的にトンネルの天井近くまで土が積まれたまま放置されていたんだろう。その土を崩して、外に運び、捨てた」
「捨てた場所が浮羅田公園だったんだね」
「そう、アパートの近辺だと注意を引く。また、アパートの室内でも、子供たちが入ってきて発見する恐れがあるからな。それで、公園に運び、池に捨てた」
「なるほど、水の底なら安心だ」
「ただ、途中で、多少の土がこぼれた」
と、俺はいったん間を置いてから、一言ずつはっきり、
「その中に、レノがマーキングした土も混じっていたのさ」
「そ、そういうことか、それが、レノの幽霊の正体だった」
「うん。約一年前に泥棒がトンネルを埋めるために公園から運びこんだ土さ。それが、密閉されたトンネルの中に保存されていたってわけだな」
「風雨にさらされてないから匂いが残る」
「そうだ。その土がまた公園に戻《もど》され、それによって、匂いが放たれた。一年前に死んだレノが蘇《よみがえ》ったのさ」
「毛も同様だね」
ボンタが目を輝かせる。
「ああ、土に混じっていた毛が公園に戻ってきたんだ」
「レノの幽霊が徘徊《はいかい》しているって超常現象はそうやって生まれたのか」
「それと、見えない犬の謎、もな」
先日、動物病院で、ブルドッグのデュークから聞かされた怪談である。
夜の浮羅田公園で、ツツジの茂みがカサカサと音をたてた。風もないのに。
デュークが茂みの中を覗きこんだが、何もいなかったという。
レノの幽霊か……。
そんなことはない。
俺は種明かしをする。
「あの茂みには、立て札があったろ」
「うん、『公園内は自転車を降りて』という注意書き」
「ちょうど、その立て札の地下あたりにトンネルが通っていて、笹賀が何かの作業の最中だったのき」
「そうか、それで立て札が震動して、茂みも揺れたのか」
「上のほうほど振幅が大きいものだ。デュークはあの時、もっと上を見ていたら、立て札の先が大きく揺れているのに気づいたかもしれんのにな」
「なるほど、そして、震源が立て札にあると知る」
「そこから地下へと疑惑《ぎわく》の目を向けただろうに」
「でも、ちょうど、デュークさんは落ちていた空き缶のプルトップをいじっている最中だった。視界が低かったんだね。もともと、ブルドッグは背が低いし。それで上のほうに目がいかなかったんだ」
「そういうこと。ちゃんとカラクリが解けたろ」
「納得したよ」
大きく安堵《あんど》の息を吐いた。
俺は呼吸を整え、
「で、笹賀の計画だけど、ひとつの壁が立ちはだかった」
「何?」
「それは、犬のこと」
「ああ、桐塚さんが犬を飼おうとしていることだね」
「そう。犬がいては、トンネルから床下の破壊作業がやりにくい。気づかれてしまう」
「犬なら気づくさ」
「だから、時間|稼《かせ》ぎを企てたのさ。幸いにも、桐塚さんは優柔不断でどんな犬種にしようかとあれこれ迷っていた」
「笹賀もよけいな意見をして、さらに迷わせようとしてた。知人の家でポメラニアンの子犬が生まれるからと勧《すす》めて」
「おそらく、それは本当だろう。そして、念のため、なるべく番犬の能力が低いと思われる犬種を推薦《すいせん》した」
「勝手な思い込みだよね。ポメラニアンだって立派に番犬になるさ」
「ああ、ナメてやがる。人間の浅知恵ってもんだぜ」
吐き捨てるように言った。
ボンタも口調を荒らげながら、
「笹賀は、そうやって、時間を稼いでおいて、トンネルを完成させたわけか」
「さらに、もうひとつ、やるべきことがあった」
「何、それ?」
「床下の破壊作業はどうしてもある程度は音が出る。それを桐塚さんに気づかせないような仕掛けが必要だ」
「なるほどね。その作戦とは?」
「近くで別の工事があればいい。その音でカムフラージュする」
「そんな都合よく近くで工事なんか期待できないよ」
「だったら、やらせればいい。桐塚さんの家は公園に面していて、すぐ近くに、レノの銅像が見える」
「あっ、レノの銅像に何かを?」
ボンタは首を突き出す。
俺は口調を強めて、
「そう、銅像を倒すつもりだったのさ。いや、正確に言えば、引っこ抜く、か」
「ひでえこと考える」
「ああ、許せねえよな。とにかく、銅像を根こそぎにして、地中の工事をやらせたかったはずだ」
「そうすればカムフラージュになる。床下の破壊作業の音や振動をごまかすのが目的なんだから」
「ああ、だから、笹賀は、レノの銅像を引っこ抜く計画を進めたんだ。そうすれば、もっとしっかりと土台を作り直す補修工事が行なわれるはずだ」
「きっと、工事中は、ずいぶんと音が出るだろうね」
「また、笹賀は銅像の抜けた穴には、パチンコ玉を大量に入れておくつもりだった。それを掘り出すだけでも、かなりの音が出るはず、ジャラッジャラッて」
「ああっ」
ボンタは大きく驚嘆のバウスを漏らし、
「現場にパチンコ玉が落ちていたのは、そのためだったのか!」
「おそらく、こんな計画だったんだろう。まず、パチンコ玉は袋詰めにして分けておく。それらを運んで、穴の底に置く。そして、ナイフで袋を裂くと、パチンコ玉が穴の中に広がる」
「なるほど、それなら静かに穴にまけるものね」
「で、運んでる途中、袋のひとつに小さな破れ目ができて、パチンコ玉がこぼれちゃったんだろうな」
「納得!」
とボンタは眼を輝かせた。
俺は頭の中で要点を整理してから、
「で、銅像を引っこ抜くために、その土台がどの程度のものか、あらかじめ知る必要があった。それで、笹賀は、周囲の地面の一部を掘ってみたのさ。コンクリートで囲めたようなガッチリとした土台ではないことがわかったんだろう」
「わりと簡単な造りだったんだね」
「そのとおり。商工会の連中が、経費をケチって、チャッチャッと作らせたものだった。なんせ、銅像そのものをあの自称アーティストの平泉に依頼するくらいだからな」
「で、笹賀は土台の埋まり具合を調べた……あ、あのゴボウって、それと関係が?」
「ああ、あるさ。その夜、雨が降ると天気予報は告げてたけど、雲が行っちゃって、降りそうもなかった。本来は、土を掘って調べた痕跡《こんせき》を雨でごまかせるはずだった」
「でも、予報が外れて、できなくなった。それで」
「掘った目的をカムフラージュするために、ゴボウを植えたのき。大切なのは、深く掘ったことの意味をごまかすこと」
「深く掘る……それで、ゴボウか」
畑のゴボウを感慨深そうに見つめる。
俺も同じく視線をやり、
「うん、白菜やカブじゃなくて、ゴボウだったのは、その『深さ』という一点のためだった」
「レノさんはキャベツが好きなのにって、みんなは不思議がってたよね」
「でも、野菜という共通点のせいで、人間たちは大して気に留めなかった」
「所詮《しょせん》、犬の好みだから」
「そう、ナメてやがる。でも、ナメていたから、笹賀は人間たちをごまかせたんだ」
「でも、犬はごまかせない」
「ああ、それで、奴は痛い目にあったのさ。自業自得さ。犬をナメんなよ」
「ナメていいのは、僕ら犬のほうだけだ」
「いいこと言うな」
ボンタは照れ笑いをかき消して、
「でも、どうやって、笹賀は銅像を引っこ抜こうとしたの?」
「素手じゃ困難だよな。だから、おそらく自動車を使ったんだろう。ロープを銅像に巻きつけて、あのケヤキの木の股にわたした。そして、ロープの反対側を車に結わえる。ケヤキから、公園の入り口まで、約十メートル。そのすぐ外に車をスタンバイしておいたのさ」
「なるほど、アレだね、テレビの時代劇とかに出てくる井戸のカラクリみたいなもの」
「まっ、そうだな。お前ん家《ち》の飼い主さん、時代劇、好きなのか」
「鍼《はり》で悪い奴を殺すドラマが好きみたい」
「ああ、整体師だもんな」
「あ、それでかな。ま、どうでもいいや、それより、銅像の話の続き」
「うむ。で、車を発進させると、井戸のつるべの原理で、ケヤキの股にかかったロープが上方向に動いて、その力で、銅像を引っこ抜く、というメカニズムだった」
「なかなか、大がかりだね」
「ああ、きっと、笹賀の単独犯じゃない。兄貴か誰かと協力したんだろうな」
「段取りよくやらないとね」
「いろんな工夫が施してあったしな。ケヤキの股をロープがスムーズに滑るように、摩擦を減らす必要があった。それで、ロープの一部にはローションを塗っておいた」
「それでか、ケヤキにローションの匂いが残っていたのは」
「あと、銅像は、あのレッドカーペットでくるんでから、その上からロープを巻きつけて、縛《しば》った」
「何のために?」
「ふたつの目的があった。ひとつは、滑り止めだよ。あのレッドカーペット、裏面はゴムだろ。もともと滑り止めのために、そういう造りになっている」
「そっか。もうひとつは?」
「クッションの役目。ロープで銅像が引き抜かれた際に、ケヤキや、近くのベンチとか塀にぶつかっても、できるだけ大きな音をたてないようにするためさ。深夜の作業だったからな」
「人を起こさないようにか。ホント、いろいろ工夫してあったんだね」
「でもな、予想外のことが起きて、失敗した」
ボンタが黒い鼻先を蠢《うごめ》かして、
「それを聞きたかったんだ。何が原因だったの?」
「いつもより、銅像が滑りやすかったのさ」
「どうして?」
「自称アーティストの平泉のせいだよ。こっそり、自分の作品である銅像を綺麗に磨いた」
「ワックスか!」
「そうだ。笹賀はそんなこと知るわけない。で、レッドカーペットを巻きつけたんだけど、いざ、車でロープを引っ張っても、滑り止めの役目を果たさなかった」
「じゃ、レッドカーペットは?」
「銅像から、すっぽ抜けてしまったんだよ。車の発進力が働いている分、勢いよく、な」
「そ、それで?」
「それで、レッドカーペットだけロープに引っ張られて、すっ飛んでいった。宙を舞ったのさ。ぐるぐるに巻いたロープに連れていかれる状態だな。そう、ちょうど、正月のたこ凧みたいな光景だったろうよ。そして、ロープはケヤキの股を通っている。そこまで、飛ばされたカーペットはケヤキに引っかかってしまった。ロープから外れたんだよ。それで、高さ八メートルものケヤキの股部分から、クルクルッとカーペットは垂れ下がる状況になったんだ」
「……天国からのレッドカーペットはそうやって出現したのか」
そう言って、大きく目を見開く。
俺は皮肉まじりに、
「ある意味、本当に天から降臨したってわけだな」
「いろんなことがわかってきたよ。銅像は、ワックスで綺麗に磨かれたはずなのに汚れていたのは、カーペットが巻かれて、また汚されてしまったからなんだね。夜中だったから、犯人の笹賀は磨かれていたことに気づかなかった」
「そうそう。そのせいで、結局、笹賀たちは失敗してしまった。あれこれ、苦労したのにな」
「笹賀たちは、いちいち梯子を使わず、ロープを投げるようにして、ケヤキの股に渡したんだね。だから、土の地面に梯子の痕跡もなかった」
「そう」
「あと、レッドカーペットは銅像の位置から飛んできて、ケヤキの股部分に直接、引っ掛かった。だから、木の周囲の地面や、幹の低い位置にカーペットの匂いもしない」
「そんなこんなが重なって、密室が、それも人間たちは気づかない、俺たちだけの密室、いわば犬密室が、できあがっちまったんだよ」
ボンタは長く長く鼻息を吐く。それから、口端をほころばせ、
「その夜、笹賀たちは失敗して、諦《あきら》めて引き上げたんだね」
「予想外のことに混乱して、時間を食ってしまったんだろう。人の気配があったか、お巡りさんが警邏《けいら》に来たか、再びやり直す時間がなくなったのさ」
「気持ち的にも余裕がない」
「うん、狼狽《ろうばい》してたろうよ。それに失敗の原因もわからなかったんだろう」
「まさか、銅像が磨かれているとはね」
「それで、結局、退散したのさ。そして、別の機会を窺《うかが》うつもりだったんだろう」
もう、そんなチャンスはない。
俺は静かに微笑んだ。
26
ボンタは喜びに目を輝かせていた。
「ああ、天国からのレッドカーペットの謎が解けて、すっきりしたよ。やっぱり、ケヤキを調べてよかったね」
「ああ、G8のおかげだよ。さすが、プロの集団だ」
「でも、アローさんもすごいよ。アローさん、よく笹賀が犯人ってわかったね。それは、どうしてなの?」
「それは、広場の密室と関わっている」
「えっ、あの犬のコンペが行なわれた原っぱのこと? サンマウサギのオブジェが消失した不思議現象の?」
「そうだ。お前が原っぱに行った時、審査員のアホどもがオブジェを探していたんだろ。その状況を俺に報告してくれたよな」
「うん。えっ、その中にヒントがあったの?」
「ああ。あいつら、草をむしったり、スナックの包み紙とかのゴミを拾って、懸命に探してたんだろ。そうした中で、ひとりだけ、おかしな行動をしてる奴がいた。笹賀だ。笹賀は石を持ち上げていた、と、お前は言ったな」
「うん、覚えているよ」
「持ち上げて、というのは、わりと大きな石を表現している。で、オブジェはカマボコくらいの大きさだろ。そんなオブジェが石の下に隠れる状況ってどういう展開だよ。まず、そういうこと想定するか?」
「……普通、考えないよね」
「だろ。しかし、笹賀は別だった。あいつは、オブジェがトンネルの中に落ちて埋もれしまったのかもしれない、と考えたんだ。地震のような事態があって、地面のごく一部が陥没《かんぼつ》した。その際に、オブジェが穴に入ってしまった。同時に、地面の窪《くぼ》みに、震動で石が滑り込んで、穴を塞《ふさ》いでしまった。笹賓はそう推理したのさ。そうでなければ、石を持ち上げるなんて行動はとらないだろう」
「うん、いくつも持ち上げていたし」
「そうだったな。念のため、つい、二時間前に確認したもんな、お前の鼻で」
「確かに」
「つまり、笹賀はトンネルの存在を知っていたことになる。だから、犯人だとわかったんだ。そして、トンネルが崩れた状況が気になるだろう。笹賀は今夜、調べに行く、俺はそう考えて張り込みを仕掛けたわけさ」
ボンタはちょっと不審げに口先を突き出すと、
「でも、今朝、地震なんてあったかな」
「地震のような事態と言ったんだ。地震のように地面が揺れたじゃないか」
「あっ、トラック! 電柱を積んだトラックか! 夕方の散歩で、噂に聞いたよ。すごい震動だったんだってね」
「そうだよ。猫に変装したポーリーなんか、屋根から落ちそうになったらしいもんな」
「トラックが地震と同じ役割を果たしたのか」
と何度も瞬きを繰り返し、
「じゃ、今、オブジェはトンネル内にあるんだね?」
「いや、違う。ほら、原っぱに穴なんてなかったろ。それに、トンネル内でも天井にそんな穴の空いている様子はなかった。実際に、オブジェは落ちていなかったし」
「じゃ、オブジェは?」
「おそらく、池の中」
「えっ、どうして知ってんの?」
「盗んだ奴がそう暗示してたからさ。サンマは池で泳ぐかも、って意味深なこと抜かしやがった。大胆《だいたん》な女だぜ」
「えっ、それって、まさか」
口が開いたままだ。
俺は言った。
「ああ、そうだ、ポーリーだよ。オブジェの消失は、ポーリーの仕業《しわざ》さ」
「ええっ! でも、でも、そんなはずないよ。問題の時間帯は、九時五十分から十時半の間だよ、その間に、あの原っぱに入ったのはコンペの犬たちだけだよ」
「その犬たちが来たのは十時からだろ」
「うん、それがコンペ開始の時間」
「きっと、ポーリーは九時五十分から十時の間に来た。コンペの犬が来る前にな。気づかれないように、さ」
「だから、その十分間も問題の時間帯のうちじゃないか。審査員たちは監視していたんだからさ。とにかく、九時五十分から十時半の間は、コンペの犬しか、問題のエリアに入ってないんだってば」
ムキになって主張する。
俺は平然と、
「わかってるよ」
「あ、こう言いたいんだね。ポーリーは猫に変装してたから、犬と思われなかったって。忘れちゃ困るよ。とにかく、犬であれ、猫であれ、カラスであれ、生き物は入ってこなかったんだから」
「生き物の格好《かっこう》してなかったんだよ、ポーリーは」
「えっ、生き物じゃないって?」
目が点になるとは、こういう目つきだろう。
俺は解説してやる。
「ほら、今朝は風が強かったろ。しかも、生ゴミの回収日、カラスの被害も多かった。それで、ゴミが飛ばされてた」
「う、うん、そうだけど……」
「いろんな袋類のゴミも飛ばされていたはずだ。で、ちょっと大き目の袋が、あの原っぱに転がってきても、不思議とは思われなかっただろうよ」
「えっ、じゃ、そうした袋の中に」
「ああ、ポーリーが入って、走ってたんだよ。ほら、ハムスターが車輪の玩具《がんぐ》を回すのと同じ原理さ」
「ポーリーは中で走って、袋を転がしたわけか……」
「そう、風が強く吹いたタイミングに合わせてな。人間どもの目からは、中が見えないようなアングルで転がった。そして、反対側は袋の口だった。転がりながら、そこから首を突き出すと、オブジェを咥えてピックアップして、転がり去っていったんだよ。人の目が届かないところまで逃走して、ようやく袋から出たのさ」
「風に転がるゴミ袋か……」
呆然とした表情になる。
「盲点だろ」
「見えない犬だ」
「いや、単独捜査の最中だったから、ポーリーは猫だった」
「犬で、猫で、袋か……。なんて凝った変装なんだよ」
参った、というふうにうなだれる。どこかのレコード会社の犬のマークを思わせた。
俺は付け加えて、
「オブジェはブロンズ製でわりと重量があるから、ポーリーはしっかりと咥えなきゃならなかった。その際に、口の中に入れて鳴らないようにしていた鈴も奥歯でグッと噛んでしまった。だから、後で、俺と会った時、鈴がつぶれかけて、音が鈍かったんだよ」
「それで、アローさんは気づいたんだね」
「ああ、だから、訊《き》いたのさ。サンマが泳ぐのは海だけか、って」
「そしたら、池でも泳ぐかも、って答えたんだね」
「で、俺が気づいた、ってポーリーも知ったんだ。いわば、自白してくれたってこと。嬉《うれ》しそうにナ」
あの時の意味深な眼差《まなざ》しを思い起こした。
ボンタは不思議そうに、
「なんで、ポーリーはオブジェを盗んだの?」
「審査員の中に、久保がいたろ。久保は以前に、チワワなんて役に立たないと言った」
「ああ、桐塚さんに意見したらしいね。そうか、それで、ポーリーはカチンときたのか」
「ああ、その復讐《ふくしゅう》だよ」
「女って怖《こわ》いね」
細い息を漏らした。
俺は笑いながら、
「よく覚えとけよ」
「でも、ポーリーの復讐のおかげで、みんながオブジェを探した、それだから、笹賀の妙な行動という尻尾を掴むことができた」
「ああ、ポーリーの悪戯のおかげさ。結果としてだけどな。しかし、さすが、G8のメンバーだ」
素直な感想だった。
涼しい風がよぎった。耳に染み入ると、冷たいくらいだった。
冬の訪れを告げている。
ボンタは目を細めると言った。
「いろいろと教わったよ。感謝の気持ちでいっぱいさ。G8のみんなにも、もちろん、アローさんにも」
「いいってことよ。とにかく、間に合って、よかったな。引っ越しする前に、片がついて」
正直、俺自身が、かなりホッとしていた。
ボンタは思いつめたふうな目をしていた。籠もった口調になり、
「なんか、この町を出ていきたくないよ。みんなとまた冒険がしたいよ。もっと、いろんなことを教わりたいよ」
「きっと、引っ越し先でも、また、いろいろ面白いことはあるさ。お前なら見つけるだろうさ。もう退屈なんかしっこないよ」
「そうかな」
「何か疑問にぶつかったら、俺たちと過ごした日々を思い出せ。それで充分なはず。自分でヒントを見つけられるさ。お前は、もう、お前なんだから」
「僕が僕?」
「そうだ。最初からお前に生まれたんじゃない。お前になってゆくんだ。だから、俺はお前を誇りに思う。それで、仲間でいられるんだ」
「僕が僕だから?」
「他の誰でもない。みんな一匹ずつ違う。それでいいんだってお互いに思えるから、俺もみんなも自分らしくできるんだ」
「僕が僕らしくなる、それがみんなにとってふさわしい存在なの?」
「そうさ。だから、仲間でいられる。お前がお前になるために、俺たちがいる。俺が俺になるために、お前たちがいるのさ」
「僕は一匹だけど、一匹じゃないんだね」
「ああ。仲間っていうのはつるむものじゃない。向き合うものなんだ。俺たちは一匹狼の群れなのさ」
ボンタは声を震わせて、
「もっと、いろいろと教えてほしいよ。掟のこととか」
「いつでも会いに来ればいいさ」
「遠いよ」
心細げに言う。
俺は敢えてそれをはね除けるように、
「でも、道はあるだろ。どこに行っても道はあるって教えたろ。ほら、G8は高いケヤキにだって道を築いたし、ポーリーなんか袋のふりして透明の道を走ってみせたじゃないか。そして、思い出せ、あの深夜の行進を。リードから離れ、家を脱出し、俺たちが俺たちの道を走ったことを」
ボンタは大きく頷く。
そして、キッと強い眼差しを潤《うる》ませながら、
「犬の掟。ひとつ。風のように、僕たちが僕たちの道になる」
「わかってるじゃないか」
「忘れないよ」
噛み締めるように言った。
雲が割れ、白んだ空が見えてきた。
地面に俺たちの影が伸びる。
涼やかな風が鼻腔《びこう》をくすぐる。俺は遠くに目をやり、
「おっ、ぼちぼち、お日様が出てくるぞ。もう、行けよ」
「うん……。僕のこと忘れないでよ」
「ああ、まだそこまでボケちゃいないよ」
ボンタは大きく息を吸って、一瞬止めてから、言った。硬いバウスだった。
「さよなら」
「違う」
俺は首を振る。
「えっ?」
と、ボンタは戸惑《とま》った。
「さよなら、とは言わない」
「じゃ、何て?」俺は答えた。
「ワンモア」
ボンタは小首を傾げ、
「ワンモア?」
「ああ、One more」
「……えっと、おかわり?」
「出会いのな」
と俺は笑みを漏らし、
「またな、ってこと」
そう言って、右の前足をちょっと上げてみせた。
ボンタはつぶらな黒目を輝かせ、
「ワンモア、また会おう……。ねえ、それも、掟?」
「ああ、そうだ。ずっと昔から、世界中どこでも、な。俺ら犬族の共通語だ。まあ、合言葉やまじないみたいなものさ。犬の掟。ひとつ」
「お別れの言葉は……、ワンモア」
「それでいい」
俺は頷いた。ボンタは声を震わせながら、
「うん……。じゃ、アローさん……、ワンモア」
「ああ、ワンモア」
俺は背中を向けた。数歩、歩いて、一瞬、振り返る。ボンタの巻尾がスルッと穴に消えるところだった。
27
朝から晴れ渡り、透き通った空が広がっている。
落ち葉の感触が心地いい。踏むたびにパリパリと乾いた音をたてていた。
浮羅田公園で、ウォッチに会った。
のんびりと日向《ひなた》ぼっこをしていた。シェパードが横たわると、ソファのように見える。
よりかかって居眠りしたくなる。
ウォッチの傍《かたわ》らでは、飼い主さんが、切り株に座り、池の水鳥たちを眺めていた。
うちの真平さんが挨拶し、近くのベンチに腰を降ろした。
天気の話なんかをしている。空を見ればわかることなのに、いちいち言葉にするのが、人間のおかしな習慣だ。
のどかな日和《ひより》で、誰もが一休みしたくなる。
人も犬も変わりない。
至るところで長い影が止まっていた。
俺も腰を下ろしていた。
ウォッチが眠そうな日で、
「大変だったようだな」
「ああ、でも、どうにか片がついたよ」
「二日間、あまり寝てないだろ。そのわりには元気そうだな」
「あれだけのことがあると、すっかり眠気が抜けちまうさ」
実際、今日の未明に帰ってからも寝ていない。目が冴《さ》えてしまっているのだ。
ウォッチは火事の起きたアパートのほうを見て、
「笹賀は病院で、警察の取調べを受けているそうだ」
「トンネルが見つかったからな」
「そうそう、工務店を経営している兄貴も警察に出頭させられているらしい」
「弟はしゃべったんだな」
「うん、ひとりで隠しきれるタイプじゃないだろうよ。あ、それと、狼みたいな犬がいたってしきりに訴えているらしい」
「随分と持ち上げてくれたもんだ」
「相当、脅《おび》えているそうだぞ。興奮のあまり、ニホンオオカミなんて、口走ったとか」
「ボンタの奴、肩に食らわしたからな」
「あいつもやるじゃないか」
「思った以上にね」
「お前も教え甲斐《がい》があったってもんだな」
「なーに、おやっさんのおかげだよ。ここで、おやっさんに食らった説教がかなりこたえていたみたいだ」
「わしのはただの年寄りのたわごとだ。それこそ買いかぶりだ」
そう言って、そっぽを向く。
俺はこぼれる笑みを飲み込んで、
「G8の件は、助かったよ。あれがなきゃ、解決の目処《めど》はつかなかった」
「あいつらは一癖《ひとくせ》も二癖《ふたくせ》もあるが、プロだからな」
「そんな連中を発動してくれたのは、おやっさんのおかげだよ。これは買いかぶりじゃないだろ。素直に感謝するよ。ありがとう」
「わしは言っただけだって」
「ボンタの分も、ありがとう」
「お前が、強引に頼んできたくせに」
「あんな難題なのに、おやっさんは、ちゃんと聞いてくれたじゃないか」
「もういい、ってことだ」
鼻に皺《しわ》を寄せ、わざと不機嫌そうな表情をして見せた。
風がそよぐ。
池の水面が小さく波打つ。陽光を撥《は》ね返し、きらめいた。
俺は言った。
「でも、頼まれていないことも、やるんだな。その心意気が嬉しいよ」
一瞬、間があった。
ウォッチが向き直り、
「ん、何の話だ?」
「とぼけて」
「どうせ、わしはボケ老犬じゃ」
ふざけているのに、口調が少し硬かった。
俺は相手をまっすぐに見据えると、
「二週間くらい前だっけ。ボンタが見た夢に、レノが現れたってさ」
「おお、何か、そういうようなこと、あの坊主、言っておったな」
「あいつの話によれば、夢の中で、レノが語りかけてきたんだよな、『俺がついているから大丈夫だ』って。勇気づけてくれた、と」
「ふむ、サイレンの音で興奮する癖があるからって、他の犬にバカにされたらしいな」
「ホットドッグ、と」
「ボンタの奴はそのことをひどく気にしておったっけ」
「そんな折に、レノが夢に現れた。ボンタは会ったこともないのに。ちょいとタイミングがよすぎるように思うんだが」
「たまには、そうした不思議なこともあるもんさ」
「しかし、予想以上に、不思議になってしまったんじゃないかな。レノの匂いや、毛が出現してさ。幽霊騒ぎが大きくなっていった。それは、もちろん、トンネル事件の絡《から》みだけど、それはまったくの想定外だった」
「ほう、面白いことを言うじゃないか」
「ああ、面白くなりすぎそうだったから、俺を探偵役として担《かつ》ぎ出したんじゃないか?」
ウォッチは目を細めて、
「何が言いたい?」
「ボンタの会ったレノは夢ではなかった」
俺はキッパリと言った。
「ほう、では、やはり幽霊だった?」
と覗き込むような目をしてウォッチは問う。
「いや、ボンタだ」
「ボンタだと? わけのわからんことを」
「おやっさん、そっちこそ、トボけるの、いいかげんにしなよ。あれはトリックだったんだろ。G8による仕掛け」
「G8の仕掛け?」
「おやっさんの差し金だろ。あの八匹のメンバーの全員か一部かは、わからないけど、トリックを仕掛けた」
「どんな仕掛けだ?」
「深夜、ボンタの家の前で、アクリル板を掲げたんだ。塀《へい》があるから、何か、梯子代わりのものにのぼったんだろうな。そんなもの見つけるのは、エドワード二世が得意だし、運ぶのはジャイスケとグレイといった力自慢がいる。あ、そうそう、アクリル板は、ちょうど、あの頃、中華料理屋の『西太郷』が粗大ゴミとして捨てたらしいじゃないか」
「おお、レッドカーペットを捨てた店な。よく覚えていたな」
「本当は朝捨てなきゃいけないのに、前の晩から置いてあった、それをG8が利用したんだ。で、塀の上にアクリル板を掲げる。ボンタは物音に寝ぼけまなこで起きたんだろう。口はいっちょ前のこと言うけど、まだガキだ。寝ぼけ半分だったろう」
「で、ボンタはアクリル板を見たんだな」
「ああ、そこには自分が映っていた。柴犬のボンタ、自分自身がな。あそこの家、庭は室内灯が漏れて明るいけど、塀の外は暗い。隣の神社の木立ちは特にな。だから、アクリル板は鏡の役を果たしたんだ」
「映った自分のことを、レノだと勘違いしたのか」
「勘違いさせた、が正確だ。もちろん、G8のメンバーが、な。アクリル板の前で、メンバーたちはしきりに息を吐《は》いていた。白い息を、な。この季節、夜はめっきり冷え込んで、息は白くなる。特に、俺たち犬は汗腺《かんせん》がほとんどなくて、温度調節は、口から舌を出してハァハァとやっている。ほんと、苦労させられるぜ。その分、体内の熱は息から放射されて、よけいに白くなるんだ。そうだよな」
「それは、そのとおりだ」
「だから、アクリル板に映ったボンタは白い息の向こうだ。奴はこう言ってたじゃないか、白い靄《もや》の中に、白い犬が浮かんでいた、と」
「なるほど、全身も白だと思い込んだ」
「ボンタは赤毛だ。だから、自分とは思わない。さらに、念を押すようにして、『俺はレノだ』なんて声色を使う奴がいた」
「器用な奴だな」
「きっと、ジャイスケの仕業だな。発声法のプロだから。それに、レノに似てなくても構《かま》わない。ボンタはレノの声を知らないんだから。また、匂いをごまかすために、缶ビールを持ってきていた。どこかのゴミ捨て場から拾ってきたんだろう」
「ほう、レノはビールで酔っ払ったことがある」
「その伝説を自分たちの匂い消しに利用し、同時に、レノの存在感を強めたのさ」
「なるほどな、そんなトリックを用いて、レノを出現させた、そう考えることも可能だってことか」
「可能って、実際、そうだったくせに」
「知らんな」
「さっきも言ったように、笹賀たちによるトンネル事件の余波で、幽霊騒ぎが予想外の展開をしていった。それで、おやっさん、あんたも、G8の面々も、戸惑《とまど》いと焦《あせ》りを覚えた。そこで、ボンタに吹き込んで、俺に探偵の依頼をさせた、そんな展開じゃないのか」
と相手を見据えたまま、頬《ほお》を緩《ゆる》めて、
「でもよ、誤解しないでくれよ。俺は文句を言ってるわけじゃないんだぜ。むしろ、参加させてくれたことに感謝してるくらいだ」
「優しいことを言ってくれるじゃないか」
「優しいのは、おやっさんたちのほうだよ。ボンタがホットドッグってバカにされて気に病んでた時に、頼まれもしないのに、レノの夢を仕掛けて、あいつを勇気づけたなんてさ」
「ああ、話としては面白いかもな」
そう言って、空を仰ぐと、ウォッチは大きな欠伸《あくび》を放った。
「けっ、どこまでもシラを切るつもりでやんの。カッコつけやがって」
俺は勢いよく鼻息を吐いた。
今日はレノの一周忌だった。
犬たちは、銅像の前に来て、「ワムォー!」と大きく吠《ほ》えたり、尻尾を振ったり、それぞれのやり方で追悼《ついとう》の意を表していた。
雌犬の中には抱きつくようにして、しばらく離れないものもいる。
律儀《りちぎ》に、家からキャベツの葉を咥えてきて、供える犬もいた。
こうした儀式は今日一日、続くだろう。
ウォッチは銅像のほうを眺めながら、
「まあ、いずれにしろ、レノの存在はそれだけ大きいということだな」
「そりゃそうだ。でもな、どっちが真相か、それで、意味は真逆になるんだよな」
俺は皮肉な笑みをこぼした。
「そんなに違うか?」
「本当に夢にレノが現れたのなら、それは降臨に等しい。神の領域だよ。でも、G8たちのトリックだったのなら犬の領域だ」
「なるほど、GODとDOGか」
「もろに逆だろ」
ウォッチは大きく息をつくと、
「なるほどな。しかし、いずれにしろ、ただの可能性の次元だがな」
「ああ、G8の仕業なのか、それともレノなのか、今さらどっちでもいいけどよ」
「なら、時期が時期、一周忌なんだから、レノってことでいいんじゃないか」
「ふふん、まあ、アリか。でも、レノ、カツコよすぎだな。そんなことまでしやがって。出会ったこともない小僧っ子のボンタのために優しすぎるぜ」
すると、ウォッチは遠い眼差しをして、
「出会いはなくても、つながりがあったりしてな」
ぽつり、そう言った。
俺はしばらく意味を追い、
「つながり、って……もしかして、血の?」
「早い話が、な」
「ええっ」
と俺は鼻に皺《しわ》を寄せて、
「ないない、父親だったなんてありえないだろ。時期的なつじつまが合わない。レノだって、かなりの爺さんだったんだし」
「だからさ、爺さん、ってことさ。レノほどの男、あっちこっちに子供が多かったんだし」
「つまり、孫も多い、ってことか。うーん、ボンタはレノの孫?」
ウォッチは目を細めて、
「なら、レノがわざわざ夢に出てきた理由がわかる。ボンタへの想いがな」
「レノはボンタに勇気を教えようとした」
「そのために、レノは、ボンタを冒険に導いてやろうとしたのさ」
「ん、そういや、ボンタも自分で言ってたっけ。あの時の夢が、俺らに会いに来る大きなキッカケになったと」
「そして、こうなった」
「最初から仕組まれていたってことかい」
「ふむ、わしらは皆、レノの肉球の上にあったのかもな」
そう呟《つぶ》いてウォッチは小さく笑う。
俺も笑みが漏れ、
「しかし、悪い気はしねえな」
「ああ、わしもそうだ。つまりな、あの夢は、レノ爺ちゃんから孫のボンタへの贈り物だったのさ。冒険への扉、という名のな」
「贈り物は、冒険への扉か」
「ただ、その扉を開けるかどうかは、ボンタの意志にゆだねられていた」
「ボンタは開けたんだ」
「ああ、それが大事なんだよ」
「確かに」
と、そう言って頷いてから、俺は鼻に皺を寄せ、
「けどな、いま話したことって、やっぱし、あくまでも可能性の問題だろ」
「もちろん、そうだがな。もしかして、の話にすぎん」
「だよな、憶測のひとつで、何の確証もないぜ」
「まあ、そうだ。裏づけ捜査はやろうとすればできんことはないがな」
こちらを覗き込むような目をする。
俺は嫌な予感を覚え、
「おいおい、何期待してんだよ」
「レノとボンタのつながりについては、あっちこっち聞き込みを重ねてルーツを辿《たど》るか、あるいは、何かキッカケをこしらえて、人間たちに血統書を調べさせるように仕向ければ、わかるはず」
「んな面倒な探偵ごっこ、俺はゴメンだぜ」
「だろうな」
「当然」
「だからな、あくまでも、可能性ってことでいいじゃないか。あの夢については」
「さっきも言ったろ、俺。どう考えようといいって」
大きくため息をつく。
ウォッチは黒い鼻を上げて、
「ああ、どの解釈でも構わんさ。尻尾が上がろうと下がろうと、どっちを指そうとも、鼻が向いたほうに前進する、それが、わしらなんだから」
「うん。犬の掟。ひとつ。むやみに尻尾を追いかけるな、か」
そう言って、俺は小さく頷《うなず》いた。
突如、遠くで、近くで、数々の咆哮《ほうこう》が放たれた。
犬たちが遠吠えをあげている。
ワムォォォーーー! ワムォォォーーー!
澄み切った大空にこだまするように響き渡る。
池の向こう側。公園に沿った道を、一台のワゴン車が通り過ぎていく。
引っ越しする南条さんの車だ。
枯葉色《かれはいろ》の木々を背景に、日差しをあびてブルーが映えている。
遠い町へと旅立つボンタが乗っているワゴン車。
ボンタのために、みんなが遠吠えを送って、別れを告げているのだ。
ワムォォォーーー! ワムォォォーーー!
ワムォォォーーー! ワムォォォーーー!
ウォッチも立ち上がると、長く長く吠えた。
ワムォォォォォーーーーーー!
俺も空に顔を上げて、大きく咆哮を放った。
ワムォォォーーーーー!
じゃあな、ボンタ、また会おう。
すると、ワゴン車の屋根から、ピョコっと小さな丸いものが現れた。
ボンタの頭だ。
サンルーフが開けられ、ボンタが顔を出している。
きっと暴《あば》れて、ねだって、家族の人たちに開けてもらったのだろう。
前はあんなに怖がっていたくせに。
サイレンの赤ランプを連想するって脅えていたくせに、ボンタの奴……。
ワゴン車は走り去ってゆく。
サンルーフから、ボンタがさらに首を伸ばす。そして、空を仰ぎ、咆哮をあげた。
ワンモア、と。
ワムォォォーーー! ワムォォォーーー!
その声が遠ざかってゆく。
声が走っている。
ボンタは風の道になった。
ワゴン車はどんどん小さくなる。
おぼろな青い影……。
やがて、遠くの角を曲がり、もう見えない。
それでも、あっちこっち咆哮が放たれている。
幾つもの声が空で重なりあう。
みんなが、ワンモアと吠えていた。
人間にだって聞こえている。ただ、その意味に気づいていないだけ。
昔から、いつも、どこかで、誰かが呼んでいるのに。
だけど、いつか、きっと気づいてくれるだろう。そのための合言葉なんだから。
町並みをなぞるように、空の向こうの向こうまでワンモアの声が連なってゆく。
仲間の数だけ道ができる。
そして、どこまでも道は続いている。
俺のすぐ背後でも、咆哮が上がった。
聞き覚えのある声。
ハッとして振り返る。
誰もいない。
レノの銅像があるだけ。
一瞬、その尻尾が揺れているように見えた。右に小さく、左に大きく。
[#地付き][One more]
[#改ページ]
[#地付き]|霞 流 八《かすみりゅうはち》(番犬)
吾輩は犬である。名は、ハチ。
と始めてみたものの、日頃、「吾輩」なんて自分を呼んだことないので、何だか緊張して鼻が乾いてきそうです。
ここは、やっぱり、ふだんどおり、「俺」でいこうか、いや、それじゃ、どんどんタメ口になっちゃいそうで失敬だし、なら、「私」にしようか、うーん、それはそれで俺にしてはお行儀よすぎて、どうもくすぐったい感じ。
ならば、あいだを取って(?)、「僕」くらいにしておくかな。うん、そんなところでしょう。いつまで悩んでもキリないし。この場は、「僕」でいかせていただきます。よろしいですか、よろしいですね、って誰に言ってるんだよ、俺、いや、僕。
はい、改めまして、僕は犬のハチです。
牡の柴犬で、いま九歳。毛は赤茶。職業、番犬。隣家のセコムより勝ってると自信あります、ええ、絶対に。
そして、ペンネームが霞流八。
僕の飼い主さんが霞流一という名前だから、折角なので、それから採りました。
で、その御主人さんが、いや、「御主人」ってほどでもないな。だって、三の倍数どころか二十四時間いつもアホやってるんだもの。
うん、「愚主人《ぐしゅじん》」ってとこだね。
でも、呼び捨ては可哀そうなので、さん付けは残しておこう。
で、愚主人さんが、この度、新作を書きました。本書です。
主人公たちは犬。
総勢およそ二十匹もの個性的な犬たちが登場します。どいつもこいつも、ユニークな趣味や特技を持ったクセモノぞろい。そんな彼らが、冒険に、謎解きに、大活躍するのです。
不可思議な密室、徘徊する犬の幽霊、立ちはだかる難関をあの手この手で突破するアクションの数々など、愉快なアイデア満載のエンターテインメント。
黒鼻が輝き、肉球が弾み、尻尾が舞う、そんな元気と勇気いっぱいのドギー・ミステリーをお楽しみください。
うちの愚主人さん、渾身《こんしん》の力を注いで、この作品に取り組んでいました。なんせ、犬の物語だから。
この人、小さい頃から大の犬好き。僕ら犬族に対しては、とても優しくしてくれます。それだけは誉めてあげたいと思っています。他に何もないし。
犬を飼っていない時期も、毎日、少なくともぶっ続けで三十分は、犬について妄想していたと聞いてます。
それで、他人《ひと》にも、「貴方は一日にどれくらい犬のことを考えています?」って、唐突に質問して、気味悪がられていたようです。
でも、まれに似たような人っているみたいですね。三歳の時まで自分が犬だと思い込んで部屋の中をワンワン走り回っていた方と、愚主人さんは知り合いだそうです。ミステリー業界の方だそうで、やっぱり、ミステリーいろいろ人生いろいろなようです。あ、でも、その人、今はちゃんと自分が人間だと自覚しているそうです。ホッとしました。
そして、愚主人さんはいろんな犬たちに話しかけます。朝夕の散歩道では、家の前や窓辺にいる犬たちに元気よく挨拶の言葉をかけています。わりと大きな声です。すれ違う人が振り向き、足早に去っていくのを幾度も目撃しましたっけ。また、散歩の間中は、ずっと僕に語りかけています。
あまり友達がいないのかもしれません。
夜になると、徳利と杯《さかずき》を手に、僕の小屋のほうにやってきます。晩酌《ばんしゃく》の相手になってほしいんでしょうね。まあ、仕方ないやと思うんですが、でも、僕はお酒の匂いはあまり好きではありません。
いつかなんか、あんまりしつこいので、エイヤっと前足で徳利を倒してやりました。
お酒がすっかりこぼれちゃって、愚主人さんの慌てっぶりったら、地面に口つけてすすったり、犬みたいで、今、思い出しても、可笑しくて、ああ愉快愉快。
でも、おかげで、小屋の周りもお酒臭くなっちゃって、しばらく、僕はくしゃみが止まりませんでした。その仕返しに、後で、軽く足に噛みついてやりました。もちろん、出血しない程度にですよ。
まあ、そんな僕ら犬たちとの日々の触れ合いが、今、こうして小説に活かされたので、とてもよかったと思います。
この本を書かなかったら、ただのアブナい人に見えますものね。世間の人たちも、ああ、犬に大声で話しかけていたのは、このためだったのか、と納得してくれるでしょうし。
友達も少しできるといいし。
それにしても、こんな愚主人さんを見捨てずに、ずっと看病いや面倒見てきた奥さんの裕子さんには、心からご苦労様と言いたいです。これからも、この人をよろしくお願いしますね。
さて、僕は本書の創作過程を近くで見てきました。
愚主人さんは、次のような本を熱心に読んでいましたっけ。参考資料とさせていただいたようです。
『この犬が一番!』(宮澤勝/草思社)
『イヌの力』(今泉忠明/平凡社新書)
『世界の犬』(監修・中澤秀幸、写真・中島眞理/成美堂出版)
『月刊Shi−Ba』(辰巳出版)
『のら犬ローヴァー町を行く』(マイクル・Z・リユーイン、訳・田口俊樹/早川書房)
『名犬ランドルフ、謎を解く』(J・F・イングラート、訳・立石光子/ランダムハウス講談社文庫)
『心とろかすような』(宮部みゆき/創元経理文庫)
何度も感心して、唸《うな》ったり、叫んだり、敬意と感謝を彼なりに表現しておりました。
そうした日々の中、愚主人さんが散歩道で僕にずっと語っていたのが、この物語のことだったわけです。僕も協力できたみたいで、さっき、お礼としてビスケットを大盛りでくれました。やったー!
あ、ビスケットを食べる前に。
今回、忘れてはいけない人、とてもお世話になったのが編集の光森優子さん。この企画を立案して、よくぞ僕の愚主人さんを導いてくれました。尻尾を振って、深く御礼申し上げます。
それから、可愛いイラストを描いてくださった坂崎千春さん、素敵な装丁を手がけてくださった守先正さん、この「ミステリーYA!」を牽引する頼もしき小宮山民人さん、本当にありがとうございました。
そして、本書を手にとってくださった皆様方に心より感謝申し上げます。
最後に。すべての動物好きの方たちへ。いつまでも、その優しい気持ちを大切にしていてください。傍ら全種族からの願いです。
寒風に巻き尾が揺れる
二〇〇八年もあとわずか
関東労務荘ケンネルにて
(パキッパキッ←ビスケットの音)
[#改ページ]
霞流一(かすみ・りゅういち)1959年、岡山県生まれ。映画会社に在職時、1994年、『おなじ墓のムジナ』で第14回横澤正史ミステリ大賞に佳作人選し、作家としてデビューする。以後、本格的な謎ときを核に据え、動物や列車、映画などさまざまなモチーフと蘊蓄を絡めた、ユニークなミステリーを発表しつづけている。遊び心に満ちた設定、オリジナリティあふれる造語で、読む者を惹きつけてはなさない。主な作品に、『スティームタイガーの死走』『首断ち六地蔵』『おさかな棺』『夕陽はかえる』『死写室』などがある。
著者による公式サイト:http://www.kurenaimon.com