聖戦のレギオスT
雨水シュウスケ
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)墓標群《グレイブ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)筋|弛緩《し かん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
-------------------------------------------------------
[#ここから3字下げ]
目次
[#ここで字下げ終わり]
悪女と強欲I
第一章――悪徳の興亡――
悪女と強欲U
第二章――獣と鎖――
悪女と強欲V
第三章――塔――
悪女と強欲W
第四章――眠りなき墓標群《グレイブ》――
接章――壱――
接章――弐――
悪女と強欲X
[#ここから3字下げ]
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#地付き]装丁大橋一毅(DK)
[#地付き]装画      深遊
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
聖戦のレギオスI眠りなき墓標群《グレイブ》
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
強欲と悪女T
[#ここで字下げ終わり]
放浪バスが進む。
自動運転に切り替わったバスは多脚を操って荒野を進む。硬く荒れ、平坦《へいたん》な場所の少ない大地ではゴムのタイヤは|心許《こころもと》ない。
バスの窓から早朝の陽光が飛び込んでくる。それを嫌うように遮光フィルターが自動的に窓を覆った。
薄暗くなった車内で、運転席から離れたニルフィリアが俺の前に立った。
長い黒髪、喪服のようなドレス。鋭い目は年齢に不釣合いの色気を宿し、どこか他人を侮っている節がある。
見ているだけで背筋が震えてくる。そんな俺を察したのか、真紅の唇を薄く延ばし、ニルフィリアが笑う。冷笑。彼女にはそれがとてもよく似合う。
「まったく、なにがどうなってるのやら」
俺は精一杯の虚勢を張って、そう|呟《つぶや》いた。
実際、なにがどうなっているのか、おれには理解できなかった。
ただ一つのことを除けば、おれは理解できないままに巻き込まれ、そしてここにいる。
「知ることになんの意味があるのかしら?」
夜色の少女は客席に腰を下ろした。背もたれを倒し、体を横たえる。
「自分の人生に意味があるかどうかなんて、誰もわかってはいないわ。わかっていたとしても、それは誰にでも理解できるものでもない。他人のために生きることに意味を求める人のことを、自分だけ良い目にあいたい人に理解できるわけもない。あなたが理解したいことをわたしが教えられるわけもない。それに、あなたはもうわたしの犬なんだもの。わたしが望むことをわたしが望む時にすれば良いだけの話でしょ」
「意味なんて知るか」
おれは吐き捨てた。そうだ。他人に理解される必要はない。おれが求めているのは、他人に理解を求めるための意味ではない。
「やるべきことはもうわかっている。おまえはいつか噛《か》み殺す」
「それは楽しみ」
少女は笑う。笑って目を閉じる。薄暗い車内の中、彼女の周りだけが濃い闇に包まれていくように思えた。
「月が見下ろすこの世界であなたにはなにができるのかしら?」
目を閉じたまま、ニルフィリアが問いかけてくる。
「あるいは、できたその時から壊されようとしているこの世界で、真正のこの世界の住人ではないあなたは、なにをしようとするつもりなのか。なにがしたいのか、なにができるのか」
おれは、なにをするつもりなのか。
決まっている。
「復讐だ」
「そう。ならわたしはその|牙《きば》を、猟犬として扱うだけ」
獲物を定め、追い立て、追い詰め、その|喉元《のどもと》に牙を食い込ませる。
その役目をおれに押し付けようとしている。
獲物はなんだ?
どこにいる?
ニルフィリアの言う獲物と、おれの復讐の相手は同じなのか、どうか?
おれが知りたいのは、そのことだ。
「それは、追ってみればわかる話ではないかしら?」
目を閉じたまま、ニルフィリアが答える。
「あなたが取り返したいもの。あなたが滅ぼし尽くしたいもの。そういうものは全て、あなたの中にしかないのだから。わたしがとやかく言うことではないわ」
まったくの正論だ。おれは言葉をなくした。
「あなたの話をしてよ」
ニルフィリアが呟いた。腹の上で手を重ね、足は揃え、表情は動かさない。目を閉じたまま、唇だけがおれの肌身を震わせる音色で奏でる。
「あなたの話。あなたがどうしてあなたなのか。あなたはどうして、あんな場所にいたのか。あなたはどうして、そんなにも飢えているのか。そういう話よ」
「なんでお前に……」
「寝物語には、良いかと思って」
おれは笑った。
いいだろう。聞かせてやる。
満たされない強欲がどういうものか、この悪女に教えてやろう。
そうして、もどかしい悪夢の中で身悶《みもだ》えればいいのだ。
それは、ニルフィリアとは似て非なる月夜色の少女を連れた、隻眼の男と出会う少し前からの話だ。
このおれ、ディクセリオ・マスケインの物語だ。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
第一章――悪徳の興亡――
[#ここで字下げ終わり]
おれという人間を他人が評価するとすれば、ただ一言で済む。
クズ≠サれで十分だ。
権力はある。くそったれの権力だ。都市警察強硬警備部隊。親父が与えてくれた権力だ。都市の治安を守るという名目で。現政府を守るために、他人から金をむしり取るのが仕事だ。富を持ちすぎた奴らから奪うのだ。上にいるのは都市警察長官。親父の息子。つまりはおれの兄貴。おれに与えられた自己裁量権を保証してくれる存在。もっと稼げと、おれとおまえの財布をもっと太らせろと、せっついてくる。だから金を持ってそうな奴ら、持ちすぎちまった奴らのところに武器を振り回して殴り込むのがおれの仕事だ。適当に作った書類を慌てふためくそいつの額に張り付けて、ゲラゲラ笑いながらそいつの家をひっかきまわし、金になりそうなもの、金そのもの、全てという全てをかっぱらう。
それがこの都市、強欲都市ヴェルゼンハイムの現状。悪徳すらも許さない。金を持っているべきなのはおれたちだけ、富を持っているのはおれたちだけ、特権を持っているのはおれたちだけ。
金も酒も女も権力も、良いものは全ておれたちのもの。
おれたち以外の何者も欲を満足させることを許さない。
強欲都市という名すらも、おれたちの一族がこの都市を奪った時から名付けられたものだ。
「いずれ滅ぶぞ」
おれに踏まれながら男がそう吐きだす。額と口の端から血が滲《にじ》みだしている。目には憎悪が光っていた。おれはちょっとだけ記憶を掘り返した。たしか、他所の都市からやってきた企業のエージェントだ。都市間経済を支えているのは情報と希少金属だ。この男は、そういう情報を扱うためにやってきた。
おれは手にした武器、この世界の力の象徴、|錬金鋼《ダイト》から変化した|鉄鞭《てつべん》を、男の、床に投げ出された手に押し当てた。男が|苦悶《くもん》の表情を浮かべる。鉄鞭の先から骨の砕ける感触が伝わってきた。
「こんなものが、まともな都市の状態だと思っているのか? そうやって何もかも奪い取って、それで誰がこの都市をまともに動かすのだ。誰が汚染獣からこの都市を守るんだ。いずれ滅びる。お前たちが滅ぼす」
痛みを乗り越えるための憎悪がわめき散らされる。
おれに浴びせかけてくる。怒りもなにも湧かない。憎悪は生まれた時から注がれた感情だ。母親の乳を飲むのと同じぐらいに注がれてきた。
「そんなことは、知ってんだよ」
おれは呟いた。男の手の甲が完全に砕けた。足をどけると、男は床の上をのたうちまわった。
「汚染獣の十や二十ならおれたちが倒してやるよ。そういう契約だからな。だが、それ以外のことなら……知ったことか」
男が信じられないという顔をしておれを見た。おれはもう、男から興味を失っていた。部下たちが家探しを終えて、持てるだけのものを抱えてやってきたからだ。
「ヴェルゼンハイムのマスケイン一家ってのは、そういうもんだ。よく覚えとけ」
部下に撤収を命じて、おれもまた去る。
いや、途中で足を止めた。
「やっぱ、他所で言いふらされても困るから、死ね」
鉄鞭を振る。男の首が飛んで噴き出した血が床を汚す。おれは、それを確かめることもなく今度こそ、男の部屋から出た。
血の噴き出す音が細く長く続く。外で待っていた部下たちがおれを恐ろしげに見つめる。いつ、自分たちにその運命が来るかと恐れている。気まぐれな主人の心が自分に向けられるのを恐れている。だから、おれが現れるとすぐに目を伏せる。自分たちという存在がそこにいることを気づかれないように。
うなだれた人々。それは部下たちに限らない。街路を行き交っていた連中も同じだ。おれが出てきたことに気づいて、目を伏せ、足早に立ち去ろうとする。
自分たちが迎え入れた化け物を恐れて、しかしどうしようもないという顔で過ぎ去っていく。
マスケイン一家は傭兵としてこの都市にやってきた。汚染獣という化け物が都市の外にはうろついている。都市はその足で自由にうろつきまわって汚染獣から逃げているが、時に見つかり、襲いかかられる。人よりも強く、硬く、巨大で|貪欲《どんよく》、そんな化け物どもに対処するために、おれたちみたいな武芸者という、普通の人間よりも少しだけ強い奴らがいる。|剄《けい》というエネルギーを生産する器官を持ち、錬金鋼による武器を振り回し、そいつらと戦う。
この都市にはあまり質のいい武芸者がいなかった。そして運の悪いことに汚染獣によく襲われた。質が悪くとも武芸者がそれなりに揃っているときはなんとかなっていたが、質が悪いからよく死んだ。数は減り、危機感が都市を暗く押し包んでいた。
そんな時に、おれのじいさんが流れ着いた。じいさんは腕利きの武芸者で、この都市に雇われた。汚染獣との戦いだけでなく、都市のエネルギー源であるセルニウムを産出する鉱山をかけての都市同士の争い、戦争にも活躍し、英雄となった。
親父と兄貴も活躍して、マスケイン家は英雄となった。
英雄となり、この都市を支配した。
おれが、生まれる前後のことだ。
じいさんはすでに引退して、親父に都市長の座を譲っている。離れた場所に屋敷を持ち、そこで暮らしている。
おれも、そこにいた。
外縁部に近い、都市の足がよく見える場所だ。巨大な柱がゆっくりと左右に動き、外の景色がそれに合わせて動く。円を形作る都市地上部の外周にはこういった足があり、それが都市そのものを動かしている。
誰も、都市の移動には口出しできない。どれだけ強欲に身を焦がしても、それだけは叶わない。
生身で外に出ることはかなわない。大気に混入した物質が生物を焼く。それに耐えることができるのは汚染獣だけだ。
自律型移動都市《レギオス》。汚染獣。それがおれたちの生きる世界だ。
屋敷には、じいさんとおれの他にも人はいる。だが、男はおれとじいさんしかいない。七十を越えているはずだが、男として枯れてはいない。屋敷の練武場から音がしない。ということは自分の部屋に女を引き込んでいるのだろう。戦いと女にしか興味がない。親父は権力に興味があった。兄貴は金に興味があった。そういう家族だ。母親はいない。物心ついた時にはいなかった。そういうものなんだと思っている。そういう家族であり、そういうものの一員である。おれはじいさんの居場所にそれ以上興味もなく、練武場に入り、錬金鋼を復元した。重量が腕にかかる。
構える。振り上げる。振り下ろす。
この動作だけを繰り返す。愚かなる一撃。鉄の塊のような武器を持っていて技巧に走ったところで意味はない。走る、振り下ろす。跳ぶ、振り下ろす。繰り返す。繰り返し続けて、投入する。
おれの中で熱い奔流が駆け巡る。それが剄の力だ。武芸者の持つ破壊のエネルギーだ。そして破壊しかできない愚かな生物だ。
その流れに身をまかす。激流がおれをどこかへ持ち去ろうとする。体外へと吐き出される汗が剄で弾《はじ》け散る。その音が心地よく耳に響く。筋肉を揺さぶる。もっと自覚ゆろと剄ががなりたてているかのようだ。どれだけ剄が強力だろうと、生身の肉体がそれを御せなければなんの意味もない。熱いエネルギーの駆け抜ける剄路が神経を震わせる。筋肉を奮い起こす。張りつめた筋肉が表皮を圧迫する。汗がにじみ出る。脂が溶け出す。剄がそれらを弾き散らす。
やがて、剄を残して全てが入れ替わるような境地となる。生まれ変わるかのような心地になる。
全ての細胞がなにかと入れ替わる。
この瞬間だけは、自分は何者でもない。マスケイン家の一員でもなく、ヴェルゼンハイムの全ての憎悪を受け止める呪われた子でもない。
ただの武芸者であり、ただの剄だ。どこまでも高く飛び、どこまでも力強く駆ける。破壊的エネルギーの申し子にして破壊の意思そのものになる。獣だ。愚かなる獣だ。獲物を見定めた肉食獣の気持ちになる。
だが、獲物などどこにいる?
足を止める。動きを止める。練武場の真ん中に立ち、息を吐き、吸う。体が重く感じる。剄の余韻が失われていく。背中が熱く痒《うず》く。心臓の他に、もう一つの鼓動。武芸者の力の源、剄脈。それが落ち着いていく。
汗が服を重く濡《ぬ》らしていた。その重さは、捨てされなかったものとなっておれを縛る。現実へと引き戻す。マスケイン家の鬼人、ディクセリオという名を押し付けてくる。
練武場を出ると渡し廊下に女が立っていた。タオルを持っている。おれはそれをひったくり首に回す。
風呂《ふろ》の用意ができている。女が体を洗う手伝いをする。振り切れなかった|苛立《いらだ 》ちを、この女で慰める。
いつもの一日。いつものくそったれな一日。
女の顔には強者《つわもの》に媚《こ》びる表情もなければ、おれに心を寄せようと努力する様子すらも見られない。嫌悪もない。心が死んでいるのか。あるいは凶暴な獣の飼育員にでもなっているつもりか。
凶暴な獣。いいだろう、どうせおれなど、そんなものだ。
ベッドの上でされるがままに表情を揺らめかせる女を、おれは淡々と見下ろす。吐き出しきれないものを吐き出し続ける。底などない。ここに、ヴェルゼンハイムに、ディクセリオという名で、マスケイン家の一族でいるかぎり、在り続けるものだ。
浮かんだ汗が淡い照明の中で女の肌を別の生き物のように照らす。それを見つめる。組み伏せる己を映す鏡。唯々諾々と存在し続ける己がそこにいる。声もなく、心もなく、叫ぶ怒りもなく、ただ在り続けるだけの自分がここにいる。
ほら見ろ、これがお前の姿だ。じいさんや親父、そして兄貴にケツを差し出している自分を想像してみろ、それがこれだ。そしておまえは、そんなものなのだ。ただ、あいつらがお前のケツに用がないだけだ。
女が体をのけぞらせて気を失う。それでおれは、ベッドから離れた。
ズボンだけを穿いてベランダに出る。夜空に巨大な足が浮いている。都市の足はいつでも変わらず動き続ける。
月が、今夜は大きく空にのしかかっていた。見つめていると気が重くなる。なぜか、月は嫌いだ。夜をかき分けて覗《のぞ》き見る巨大な目のように思える時がある。
肌に浮いていた汗が引くと、部屋に戻る。女はベッドから動いていない。おれは|錬金鋼《ダイト》の整備を始めた。機器に通し、状態を確かめ、今日の訓練で修正したくなったところを直していく。整備の仕方はガキの頃に親父とじいさんに習った。誰に託してもならないと教えられた。この錬金鋼も、自分で最初から素材を吟味してここまで仕上げた。重量の配分を修正し、機器から外す。
復元し、手ごたえを確かめる。小さな違和感。その正体を確かめ、再び機器に繋げる。
冷たい視線が背中に刺さった。
振り返ると、女がおれを見ていた。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
じいさんの胸には傷がある。胸から腹にかけて、何か太いものが突き抜けたような斜めの傷だ。
そして、腹にはでかい穴の痕《あと》がある。腹の傷は、まだ銃創だとわかる。だが、胸の傷がなにによってできたものなのか、おれには理解できなかった。傷は、背中にまで達している。あの形なら背骨を砕き、肺を裂き、心臓を破っていることだろう。そんな傷を受けながら良く生き残っていたものだと思う。脳と剄脈が壊れていないのだ。即座に病院に運ばれていれば助かる傷ではある。だが、こんなクズの代表を死ぬまで見届けずに病院にまで運んだ善人というのは、どんな愚か者なのだろうと考えてしまうのだ。
あるいは、この時のじいさんは他人に自分がクズであることを知らしめていなかったのかもしれない。
じいさんの長く伸びた体毛が、その傷の部分だけ避けている。
練武場で、おれとじいさんは|対峙《たいじ》していた。女を抱いた後なのだろう。それらしき生ぐさい臭気を漂わせて、じいさんはおれに圧力をかけてくる。全身から発散される剄がおれを押しつぶそうとしている。おれはそれに耐えながら、ただ一撃を加える機会をうかがっている。
「なにを迷っている?」
おれと同じような巨大な鉄鞭を肩に担ぎ、じいさんがおれを見下ろしている。いや、身長はおれの方が高い。腹も突き出し、老いがその肉体に付きまとっている。だが、その体に贅肉《ぜいにく》はない。突き出た腹さえも割れている。
「ただ一歩踏み出せばいいだけだ。それで全てが決まる。その結果を恐れてどうする? 恐れた場所には何もない」
じいさんは酒に焼けた声で話しかけてくる。その間でさえも圧力がおれを押しつぶそうとしている。剄が、そしてじいさんの中にある長い戦いを経た風格が、そうしてくる。
おれは歯をかみしめ、じっとこらえる。
これまで、じいさんに打ち込めたことは一度もない。ガキの頃は無邪気に突っ込むことができた。いまはできない。賢《さか》しくなったからだとあざ笑われる日々。
腐臭が鼻を突く。女の匂いが抜け、浮き出した汗を剄が弾き、それが臭いを散らせる。じいさんの臭いだ。いつから気付いたか、じいさんには腐臭が張り付いている。いや、じいさん自身がそれを放っている。クズにふさわしい臭いだ。
対峙は長い間続いた。
じいさんが錬金鋼を肩からおろし、練武場から離れた時、時計は一時間が過ぎたことを教えてくれた。
「|鬱憤《うっぷん》は外で晴らせ」
じいさんには不可解な部分が二つある。一つは胸の傷。
そしてなぜか、汚染獣の接近を感知できることだ。
前に敵、背後に敵。
全身を包む都市外用の戦闘衣を着て、おれは外縁部に立つ。背後には通常の戦闘衣を着た武芸者たち。外縁部に汚染獣が到達した場合、背後のこいつらが相手をすることになる。
背中に突き刺さる視線に、心の声が聞こえてきそうだ。
死ね、死ね、死ね。
そう言っている。間違いなく。できるなら汚染獣に殺されろと思っているだろう。
迫ってくるのは、汚染獣の中でも雄性体と呼ばれる種類だ。全長十メルトル、翼長三十メルトルほどか、このでかさだと成体になってからそれほど経ってはいないだろう。個体としては強いが、数に頼る生まれたての幼生体どもよりは対処が簡単だ。
たったの一体だ。だが、後ろの武芸者連中は迷っている。後ろから襲いかかっておれを殺すか、それとも汚染獣に殺させるか。
自分たちで汚染獣と戦おうという気がない。戦ったとしても、おれが痛めつけて弱ったところで戦いたいと思っている。ばかな考えだ。汚染獣の体力は無尽蔵だ。体力が尽きるのを待つのではなく、的確に命を断たなければならないということが分かっていない。
それほど、こいつらは戦いを経験していないということだ。
じいさんたちがこいつらを戦わせないようにし、そうなるように仕向けたという話だ。こいつらに最初から骨がなかったのか、あるいはじいさんたちに骨抜きにされたのか、そんなことに正直興味はない。ただ事実としてこいつらは戦う能力があるのに戦えない腰抜けだというだけだ。
汚染獣がきた。翅《はね》が空を打ちトカゲじみた巨体を風に乗せ、こちらに向けて滑り降りてくる。
吠える。都市の内と外を明確にさえぎる透明な境界線、エアフィルターに波紋を走らせ接近してくる。
頃合いだ。おれは跳んだ。外縁部の端からプールにでも飛び込むかのように跳んだ。放物線は高く長く引かれたはずだ。風を切る音がヘルメットを包む。全身に風の抵抗を感じる。汚染獣の長い顔が迫る。ヘルメットのバイザー部分に|砂塵《さじん》が張り付く。岩のような鱗に包まれた目から感情など読めるはずもなく、開かれた|顎《あご》の中でたっぷりと糸を引く唾液《だえき》と牙の列が雄弁に物語っているように感じられた。
腹が減った。そういうことだろう。
復元。錬金鋼の重い感触。風の抵抗が変化し、おれの体が右に流れる。顎が思い切り閉じられる。おれの横で。唾液が跳ね、おれに散りかかる。
鉄鞭を振り回し、空中で姿勢を変える。背中には上下に力強く動く翅。左手で、翅の骨の部分を掴《つか》む。握りされる太さではない。指に力を込める。皮膜を破り、骨に指を突き立てる。翅は下から上に。おれを跳ね上げる。背中に着地する。
汚染獣からの|咆哮《ほうこう》。追い払おうと体をくねらせる。
羽虫にたかられた家畜。おれは羽虫の気分でしぶとく背中に居座った。汚染獣がさらに暴れる。
軌道が変わり、都市から離れていく。これで、都市に落下することはない。
あとは頭を|潰《つぶ》せばおしまいだ。
そう思っていた。
痛みが走った。それは小さな違和感だ。だがその違和感は、瞬時に針を通されたような激痛に変わり、そして引火した炎となって全身に広がった。
「がっ」
苦痛の呻きが口から勝手に|溢《あふ》れ出す。波を打つ背中に弾き飛ばされ、宙を舞う。足下で巨大な胴体が通り過ぎていく。|尻尾《しっぽ 》が来た。羽虫を叩《たた》き落とさんとしなる。とっさの判断。体をひねり鉄鞭を振り、尾に当てる。位置が一瞬で逆転し、おれは尾の戻る力を利用して再び汚染獣の背中に舞い戻った。
「……やってくれる」
激痛はいまも体を支配している。
誰が考えた。武芸者どもか? いいや違う。奴らにそんな根性はない。奴らが狙うとすれば汚染獣と戦い、勝ち、満身創痍《そうい》になった時だ。奴らはその時を待っている。できるなら一族全員が揃ってそうなる時が来ればいいと思っている。そんな時は来やしない。つまり奴らにはなにもできない。
やったのは、技術者どもだ。戦闘衣に仕掛けを施した? いいや違う。手を抜いたのだ。武芸者の剄によって強化された肉体。その高速運動に耐えされない服を作りやがつたのだ。そうして破れた戦闘衣に大気に混入している汚染物質が染み込み、肌を焼いているのだ。
錬金鋼は自分で修理も組み立てもできる。しかし戦闘衣はできない。くそっ、やられた。
「……一般人の方が骨があるってな。やってくれる」
おれは痛みを怒りにすり替え、立ち上がった。汚染獣が再びおれを追い払おうと暴れている。
おれの手はそこら中にある突起を掴み、飛ばされまいとしている。
一撃で、終わらせる。
汚染物質が肌を焼く。痛みは奥深くに食い込み、肉を焼き、神経を切断し、骨に達する。
時間はない。
汚染獣が|吠《ほ》える。おれも吠える。痛みを怒りに、怒りは剄に変える。全身から熱が|迸《ほとばし》る。肉体が活性化する。破壊のエネルギーが全身を駆け巡る。神経が研ぎ澄まされ、痛みも鋭くなる。
吠える。激痛は脳髄を刺激する。命に届こうとしている。命を焼きつくそうとしている。死が隣に立つ。それは甘い誘惑だ。なにもかもから解放されるということだ。
だが、ここは強欲都市だ。そしておれは、この都市の名を強欲と変えさせた一族、マスケイン家の狂児、ディクセリオなのだ。
死に方すらも自らの強欲に浸さねば気が済まない。
ああ、そうだ。おれはディクセリオ・マスケインだ。吐き気がするほどに嫌いなこの名に縛られている。燃え上がるように、燃え尽くすように全てを手に入れるのだ。死に方すらも自分で決めるのだ。そしてそれをまだ決めていない。ならばそれは死なないということだ。貪欲に、強欲に、自らの命に齧《かじ》りつくのだ。
鉄鞭を振り上げる。足を踏み出す。じいさんの姿が脳裏に浮かぶ。戦闘衣の内部に流入した汚染物質が鼻の粘膜を破る。鼻血で満たされた鼻腔《びこう》に、腐臭がよみがえる。じいさんの巨大な姿。
それに比べれば、こんな汚染獣などどうということもない。
走る。駆ける。目指すのは汚染獣の頭部。一瞬で|辿《たど》り着く。おれの駆け抜けた後に雷光が生じる。それだけの速度を生み出す。迷いなき一撃。愚者の一撃。雷鳴を纏いながら鉄鞭を振り下ろす。
手応《て ごた》えすらもなく、汚染獣の岩のような頭が四散する。放射された剄の熱で消滅する。
生命活動の停止。背中の翅が数度空を打って停止した。傾く。落ちていく。都市は? やや離れている。跳べるか? 届くか? 結果を推測するまでもなく跳んだ。おれの体は再び放物線を描き、外縁部に落下した。地面を転がる。激痛が深みを増すことはなくなった。エアフィルターがおれの体に張り付いた汚染物質を排除したのだ。
だが、痛みは残っている。
立て。おれは己に命じる。外縁部で待機していた武芸者たちはおれを遠巻きに見ている。すぐに立たなければ、やがて取り囲み、病院に連れて行く振りをして殺すだろう。そんな死に方はごめんだ。だから立たねばならない。
立つ。歩く。視界は赤く染まっている。ぼやける。バイザーが砂塵で汚れているからか? 違うだろう。立っているか? 歩いているか? それさえもわからなくなりそうだ。だが、わからなくなってはだめだ。
辿り着くのだ。病院に。
しかしそこでも死は待っているかもしれない。医者が裏切るかもしれない。その可能性はある。
だが、行くべき場所はそこしかない。
歩け、歩け、足を叱咤する。弱っているなどと思われてはならない。|毅然《き ぜん》と、いつものように歩かなければならない。
歩いて、歩いて、そして歩くのだ。
外縁部を抜ける。武芸者たちの視線を感じる。死ぬのか? 死ね。そんな声が聞こえてきそうだ。奴らも緊張している。死んでほしい。だが、死んだらどうする? 自分たちであの汚染獣と戦うのか? 戦えるのか? くだらない|葛藤《かっとう》だ。賢しらに生きようとして惨めさをさらしている。
自分たちがどれだけ情けなく惨めか、奴らは理解していない。おれは理解している。自分がどれだけ惨めかを理解している。だからできるのだ。汚染獣と戦えるのだ。死地に立てるのだ。他人の命に価値などない。あるのは自分の命だけだ。その自分の命を満足に使い切るために使いつぶすために戦うのだ。武芸者かどうかなど関係ない。その証拠に、おれの命はいま、武芸者でも何でもない、戦闘衣を作る名もない技師の手で殺されようとしているではないか。
都市部に入る。シェルターから出てきた人々が、おれを見て目をそらす。そらして、戻す。気づいたか? おれが死にかけていることに。本当に死ぬか、死に損なうか、その境界線上に立っていることに気づくか? 気づいただろう。だが、全員がまたおれから目をそらす。復讐を恐れている。むしろ足早に立ち去ろうとしている。死ねばいいと思っている。だが、自分たちの前では死んでくれるなと思っている。じいさんたちが復讐をするかもしれないと思っているのだ。なんともみっともない。おれはいま、この場にいないじいさんたちの威光を笠《かさ》にきて命をつないでいるのだ。屈辱だ。なんてことだ。武芸者たちの前を歩いた時よりも、おれはより惨めな気持ちになった。
なにかがヘルメットに当たった。
二度目に当たったとき、それが石だとわかった。街路樹のあたりに落ちていそうな小さな石だ。
子供がそれを掴んでおれに投げていた。他の連中はその子供を遠巻きに眺めている。より足早になってこの場から去ろうとしている。なぜ、誰もあの子を守ろうとしない? 親はいないのか? 親さえも逃げたのか?
「死ね」
子供はそう叫んだ。男だ。小さかろうが、ガキだろうが、立派な男だ。おれは、そう思った。
足の向きをそのガキに向ける。歩きながらヘルメットを脱いだ。晒された額に小石が当たった。
ガキは逃げない。その場に立ち尽くし、こぶしを握りしめ、しっかりとおれを睨みつけている。
「死ね。死んでしまえ?」
どなり続けている。
「……良い根性だ」
おれは、そのガキの頭に手を置いた。
生きる気力がふつふつと湧いてくる。まっすぐな憎悪。これこそがおれを生かすのだ。奪われたものの目だ。そして奪ったのがおれだ。じいさんでも親父でも兄貴でもない。おれこそが奪うのだ。このガキから奪ったのだ。死を恐れない憎悪こそが、おれをいま殺そうとしている。そしてそれに打ち勝つことこそが、おれの強欲なのだ。
おれはガキの髪を掴み、その場に引き倒し、そしてガキの体をまたいで歩いて行った。
病院だ。病院に行かなければならない。おれは、足により力をこめて進んだ。視界がさっきよりも鮮明になった。
あのガキにもっと憎まれるために、おれは生き続けなければならないのだ。
そして、おれは生き残った。
おれの重体に血相を変えたのは、親父でもじいさんでもない。兄貴だった。
「誰にも、お前に手は出させん」
力強く請け負う兄貴の顔が鬱陶しい。昔からおれを甘やかすのは兄貴だ。おれに一通りのものを仕込むなり家を追い出した親父に代わっておれを引き取ろうとしたのも兄貴だった。だがおれは兄貴よりもじいさんの方が強いとわかっていたのでじいさんのところに行った。その後、金を儲ける手段をやると言って、自らの権力の中におれを組み入れた。
兄貴がなにをしたのかしらないが、重篤者の入る治療ポッドにも、それから出た後の点滴にも、食事にも毒が混じるようなことはなかった。寝ているところにメスを隠し持った医者や看護師が来ることもなかった。
三日でおれの体は動けるようになった。完治ではない。汚染物質は内臓にまで至り、そして四肢の筋組織にも深い傷を与えていた。動けるようになっただけだ。それでも、兄貴の庇護にあるというのが耐えられず、おれは病院を出た。
出れば、やることがある。
おれの足は工業区画に向かっていた。都市内で使われる工業製品はこの場所で作られる。武芸者の戦闘衣も同様だ。
戦闘衣に異常があったことはすでに親父や兄貴たちにも知られている。責任者の首は、すでに現実的に胴体から離れているに違いない。だが、おれはそんな、不幸な犠牲者に用はない。
病院に入っている間に部下に調べさせていた。戦闘衣は最終的に工場のラインに乗る。首を切られたのも、その工場の責任者だ。だが、戦闘衣に使われる、汚染物質遮断繊維を開発した技術者にまでは断頭台の刃は届いていない。おれが向かったのは、繊維を作る開発室だ。足を踏み入れる。すでに研究員の名簿にある人物たちの身元は調べている。その交友関係も。誰もかれもが一族に恨みを持っていておかしくない。だが、おれ個人を恨んでいるだろう人物はただ一人だ。
「よう」
おれが現れたことで開発室の空気は凍りついていた。工場長の首が飛んだことはすでに知っているだろう。そこで当の被害者が戦闘衣の開発室に来ているのだ。凍りつかない方がおかしいのかもしれない。
おれは、そんな空気を肌に感じながらその男の前に立った。
「逃げてるかと思ったが」
男はおれを睨《にら》んでいた。恐れている様子はない。恐れよりも憎悪が勝っていた。病院に行く途中のあのガキを思い出す。
「よく考えたよな。汚染物質に反応して時間差で融解するなんて。おかげで関係ない工場長の首が飛んだ」
「……あいつも共犯だ」
「へぇ、それはどっちの? おれを殺そうとした共犯か? それともメイリンをおれにあてがった共犯か?」
男の目がより深く、暗く、鋭くなる。わかっていたが、後者の方だ。
メイリン。おれの世話をする女。おれを慰める女。
あれは、この男のものだったようだ。
こんなことがなければ、あの女の名前さえ知ることはなかっただろう。
「一緒に死ねば良かったんだ」
工場長の顔など覚えていない。それよりも、あの男に女をあてがわれた記憶もない。だが、周りの奴らに教えられて、おれはあの女を見物に行き、そして奪っていった。言ってきた誰かに工場長が耳打ちしたのかもしれない。そんなところまでは興味がない。
「悪いな、死ぬ時は自分で決める」
男はなにも言わない。憎悪だけは絶やさない男に、それ以上言いたいことはなにもなかった。
「……どういうつもりだ?」
背を向けたおれに、男が叫ぶ。
「殺されるのがお前の望みだろ? そんなもんはやれんよ」
「ふざけるな」
「だが、そこでまた同じもんを作られても困る。ここからは出ていけ」
部下たちが入ってくる。男を掴み、外へと運び出す。
「殺せ」
暴れ、叫ぶ。おれはそれを無視した。殺すのは簡単だ。殺してほしいと思っている。復讐の結末を望んでいる。そんなものはやらない。苦しめばいいと思っているわけではない。
「いや、思っているか」
まあどうでもいい。本命はこっちではない。
おれは、その足で家に帰った。
部屋にはあの女が待っていた。メイリンだ。いつものようになんの感情もその目にはない。風呂に入り、体を洗わせる。たった三日だ。だが、活性化した新陳代謝によってできた垢がごっそりと落ち、水に流されて排水溝へと消えていく。
頭を洗わせる。泡まみれになって顔に流れてくる。おれは目を閉じた。メイリンの細い指が頭皮を強く揉《も》み、髪を|掻《か》きまわす。
「ダッグだったか? お前の男」
女の指が止まった。そういえば、おれはこの女がちゃんと話すのを聞いたこともない。この家に来た時にはすでにこんな状態だった。
「あぶなかった。危うく死ぬところだったぞ」
指が、再び頭を掻きまわす。泡が口に入り込み、苦い味が舌を痺れさせた。
「お前を奪われたのが、許せなかったみたいだな。見上げた男じゃないか」
「……違います」
熱い感触。シャワーが泡を流し始める。流れる水の音が、メイリンの声を不明瞭に届ける。
「あの男とは、関係がありました。でも、決して幸せだったわけではありません」
今回のことでメイリンの経歴も知った。女は開発室近くにある図書館の司書だった。錬金関係の施設が多いだけに、図書館内部のデータもそれが多く、そして司書もそういったことに詳しい。
メイリンが司書であり、ダッグが開発のために資料を調べに来る立場だった。そこで出会い、そして関係を持つようになった。
「物事に打ち込める人って、目標に達してしまうとそれで満足してしまうんでしょうぬ。開発ならすぐに次の目標ができる。でも、あの人は、男女の仲でもそれを追求しようとして……」
「他人の夜に興味はない」
女が黙り込む。手は止まらない。泡を流し終わり、おれたちは風呂に浸《つ》かった。風呂は、二人が入ってもスペースに余裕がある。女は、おれのすぐそばに浸かる。傷口はすでにない。だが、新しい皮膚が熱い揚に痺れるような小さな痛みを感じている。
メイリンの顔を見つめる。かすかにうつむいたその顔はいつもの人形に戻っているようだった。
軽い失望が全身をやや重くした気がする。おれは揚船の縁に頭を乗せ、体から力を抜いた。天井を眺める。メイリンの後頭部が視界の端にある。女はおれの体を揉んでいた。
「なんだ、じゃあ、生かしておいても意味はなかったな」
女の反応が見たかった。女を奪った男を殺そうとするまで愛された女の反応をだ。しかしそれは、男の一方的な思い込みでしかなかった。
水の跳ねるかすかな音。女が肩を震わせたようだ。
「……生きているのですか?」
「お前の反応が見たかつたからな」
犯人の正体がわかってすぐに、メイリンに情報が流れるように仕向けた。女は知らず、ただ男が暴走しただけかもしれない。それでは、女はなにも知らないままに終わってしまうかもしれないではないか。
それでは面白くない。さっきまではそう思っていた。
足を揉んでいた手が腕に回される。揉みやすいように女の揃えた太ももの上に背中を乗せる。
メイリンの面《おもて》がすぐそばにある。
「開発室からは追い出した。財産も没収してな」
仕事を手にいれようにも、まともなものは見つかるまい。すでにあの男がおれに|喧嘩《けんか 》を売ったことは周知の事実だ。都市民たちも、内心では暗殺しようとしたダッグに喝采を送りたいだろうが、だからといってあいつを守っておれに睨まれることとは別の問題にするに違いない。そういう骨のある奴がいれば面白いとは思うが。とにかく、あいつはおれを殺すために燃やした憎悪やプライドや独占欲に後悔しながら、みじめに死んでいくだろう。
「あいつの死にざまをお前に見せたかったんだがな」
呟いた時、おれは異様な倦怠《けんたい》感に気づいた。体が重い。腕も、足も。退院してすぐではこんなものか? いや、それとはなにかが違うような。
「おい、あがるぞ」
そう言おうとした。だが、舌がうまく回らなかった。今頃になって頭に危険の文字が浮かぶ。
手が、首にかかった。
長い爪が首の皮を引っ掻く。
女の、普段なら無視できる体重がのしかかる。背中は女の太ももの上、こらえられる体勢ではない。跳ね返す力がわき上がらない。おれの体は滑り、揚船の底に押し付けられた。
視界が|歪《ゆが》む。揚の中に入ったのだ。耳が奇妙な音を届けてくる。
女の手は首にかかっている。だが、絞められてはいない。女の体がおれの上に乗る。だがそれも、体重をかけているだけのようだ。
筋|弛緩《し かん》。空気を遮断されて苦しい中でその単語が浮かんできた。風呂の水に筋弛緩系の薬を混ぜた? 女もその薬の効果の中にある? もろとも死ぬ気か?
嘘。さっきの言葉は嘘か。おれを油断させるための。いつからこれを狙っていたのか。最初からか、それともダッグがおれを殺すのに失敗した時からか。メイリンが薬を手に入れられるタイミングがそうあったとは思えない。ならば共謀しているのか? 失敗しても次を用意していたか。
まあ、どうでもいいことか。
死がそこにある。汚染獣に、そして汚染物質に侵されても生き残ったおれがこんなところで死ぬ。女に殺される。
どこにだって死は潜んでいる。マスケインの一族は強欲の限りを尽くしている。それだけに誰よりも多く死が潜んでいる。負の感情の結晶がそこら中に、目に見えるほどに転がっている。
この女もその一つだ。
おれは笑った。息ができないながらも笑った。女の顔がすぐそこにある。筋弛緩の薬効が女の体からも自由を奪った。首からも手が離れる。おれにのしかかる。そしておれは、この女を払いのけるだけの筋力がない。
なんておれらしい死に方だと思った。男のやり方は戦いの中でおれを殺そうとするものだった。
だが、この女はおれを戦いで殺そうとはしなかった。武芸者であるおれに戦いでの死を許さなかったのだ。
それは女の戦い方だ。そして男に戦うことを許さない。戦いの中で死ぬだろうと漠然と考えていたものを否定したのだ。
湯の中で歪む視界に、女の目が飛び込んできた。鼻先が触れ合う。すぐそこにメイリンがいる。
その目。燃えるような憎悪でおれを見つめるその目。おれの心に強烈にそれを焼き付けさせる。
奪われた怒り。晒《さら》された怒り。弄《もてあそ》ばれた怒り。奥底に秘めさせていた全ての憎悪がいま目の前にある。おれにそれを焼き付けさせる。
なにがそこまでこの女に執着させたのか。あの男にはそれほどの価値があったのか。
死を共にするほどの価値があったのか。
あるいはあの男への仕打ちを聞いて初めてこの女は怒りを露《あら》わにしたのか。
おれがいままで手に入れてきたものなど、しょせんその程度だということか。憎悪しか手に入れられないおれは、しょせんその程度ということか。
水の中で燃え上がる憎悪を宿した目に、おれは死神の到来を予感した。
死がすぐ近くにまで迫っている。形のない死神を見るときが来たと思った。
だが、寸前で死神の手がおれを掴み損ねた。
水には浮力がある。弛緩した女の体がその浮力に従っておれの上から滑り、ずれる。重石《おもし》をどけられた形となり、おれの体も浮こうとする。手は? 少しだが動く。腕が勝手に動き、浴槽の緑を求めた。掴んだ。体をそちらに引き寄せる。持ち上げる。それだけで重労働だ。だが、やり遂げた。やり遂げてしまった。
顔があがる。空気をむさぼる。その時を惜しんで、おれは水に浮かぶ女に手を伸ばした。腕を 掴み、顔を引き出した。おれを掴み損ねた死神が女を代わりに持っていくことは許せなかった。
筋弛緩剤がどれだけ風呂に仕込まれているか分からない。このままいけば心臓まで止まるか、それともそれほどの効果はなく、溺死《できし》を免れた時点で助かるか。わからない。わからないからおれは必死になって風呂から女ごと抜け出した。
激しくせき込む。女も、そしておれも。飲み込んだお湯を吐き出す。いくらでも出てきそうだ。
だが、そのうち止まる。息ができたことで剄を使える。体内に剄を巡らせ、不純物質を吐き出していく。いやな汗が全身から吹きあがる。おれは、しばらく四つん|這《ば》いでその感覚に耐えた。
「どうして、殺してくれないのよ」
メイリンが呟いた。
「殺してよ。あの人と一緒に、わたしも殺してよ」
メイリンの呟きをおれは無視する。
逃げられた死神について考えた。
それを手に入れることに、おれは、おれの強欲を費やすことができるか? そのことを体が動くようになるまで何度も何度も考えた。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
かつて、人が生きることができない地上に都市を築こうとした着たちがいた。
その残滓《ざんし 》を、時に目にすることがある。都市の進路上に現れたそれを、外縁部から眺める。時と風と砂に埋もれ、汚染獣に荒らされ、そして時には都市の巨大な足が粉砕していく。そうやって大地は均《なら》され、やがて昔の人々の努力はすべて消え失せていくのだろう。
だが、まだここには残っている。
外縁部に立つおれの視線の先、まだはるか彼方《か な た》だが、その影を見ることができる。野心のある者たちがそれを掘り出しに向かう。この汚染された大地で自律型移動都市に頼らずに生きようとした者たちが生み出した技術、そして、ここで生きるだけであるなら不必要な技術。そういったものが眠っている可能性もある。あの頃とは時代が違う。当時は不必要と判断されたものが、今は必要であるかもしれない。そしてなにより、その場所に存在する資材を回収するというだけでも、十分な価値がある。
なぜか、ヴェルゼンハイムの放浪する場所ではそれをよく見かける。他の都市でもそうなのだろうか。ここで生まれ育ったおれにはわからない。だが、兄貴やじいさんの話を聞く限り、他の都市では、こういうことは滅多になかったらしい。
都市外輸送用に開発された装甲トラックが何台もその場所に向かっていくのは、ヴェルゼンハイムならではの光景だろう。
都市外発掘に関する権利は親父が握っている。
親父は、合理的な強欲を宗《むね》としていた。たとえば今回のことでやったことは、臨時収入による税を高くし、資源再生工場の占有権を手に入れていることだ。取り込んだ資材の買い取り値段と売却値段を自由にすることができた親父は、それで利益を上げている。その他の住民に対しても生かさず殺さずでやっている。兄貴のやり方がじいさんを継承したものであるのに対して、親父は派手さを廃し、地味にしかし確実に搾取している。兄貴の派手さに隠れているが、やり方は親父の方があくどい。そしてそのあくどさに気づかないのか、都市民たちの何割かは、親父がいずれ、おれや兄貴、はてはじいさんまでも追放して善政を行うと信じている者までいる始末だ。そして親父も時に兄貴とわかりやすい対立をして見せたりする。その度に演技の加減を知らない兄貴が荒れる。それに付き会わされるおれはいい迷惑だ。そしてそんな対立を見て、都市民は親父への信頼を確認している。
都市民たちはわかっていない。最後の一滴まで搾りとってやろうという親父の強欲を理解できていない。おれや兄貴にある|刹那《せつな》的な部分がないだけの話でしかないのだが。
親父に呼び出されたのは、廃都市をヴェルゼンハイムが通り抜けて十日ほど経った頃だった。
ここ最近、おれは屋敷を出てなかった。
あの女、メイリンが何度も自殺を図るからだ。その度に止め、間に合わなければ治療をする。
病院に運ぶのも面倒なので医者を屋敷に呼んだ。「殺してくれ、放っておいてくれ」と何度も叫ぶあの女の懇願をおれはその度に拒否した。
「おれが拾った命だ。生かすも殺すもおれの自由だ」
むせび泣く女におれは数え切れないほどそう言い続けた。
おれもやや疲れていたのだろう。医者に自殺をさせない方法を聞いた。
「脳の一部を切除して思考させないようにするか、記憶そのものを消去するしかありません」
非友好的な医者の言葉は冷たい。
「ただ、その場合には私以外の医者を呼んでいただきたい。私はお断りです」
女医だった。すでにメイリンの経緯を知っているのだろう。おれへの態度は最悪だ。その内、 自殺の|幇助《ほうじょ》でもするかもしれない。だが、その時には女医にメイリンと同じ運命が待っていると告げておいた。返事は蔑《さげす》みをこめた目だった。失いたくないものがある目だ。そしてそういうものがある人間の方が扱いやすい。
記憶を失わせる方法を、おれは持っている。じいさんに授けられた。コソ泥の技だと笑っていたが、そういうものを必要としていた時代があったということでもあるだろう。そしてそれは、やはりこの一族は救いようがないという確信を深めるだけのものでしかない。
それを使うことを何度か考えた。だが、障害なくそれを行えるのは直近の記憶だけだ。メイリンからおれへの憎悪を切り取ろうとすれば、それにまつわる記憶も削除しなければならない。それはほぼ廃人になるのと同じことだ。脳の一部を削り取ることとなにも変わりはない。
それをする気にはなれなかった。
都市庁へと足を踏み入れる。おれが出て行った後、親父は屋敷を引き払い、都市庁内にプライベートルームを作ってそこに住みだした。おれはビルの裏側に隠されるようにしてある専用エレベーターに入り、パスワードを打ち込んで目的の階とは別の場所を押す。ボタンが光る。指紋と剄紋の認証が行われ、エレベーターが上昇を開始する。
親父は用心深い。おそらくおれや兄貴と違って、そこら中に転がっている死の結晶を感じることが嫌なのだろう。そしておそらく、おれたち以上にそれを感じることができるのだろう。おれなどは、あるとわかるだけでそれがどこにあるかまではわかりはしない。しかし、そんなものではないだろうか。なにもしなくても恨みを買うことだってあるだろう。そんなものまでわかりはしない。むしろ、だからこそおれは、メイリンやその恋人のようなわかりやすい憎悪を歓迎するのかもしれない。
考えている時間はそれほどない。エレベーターは七十階を表示し、ドアが開いた。
そこからさらに廊下を進み、豪奢《ごうしゃ》な扉にたどり着く。警備の人間の姿はない。肝心のところで誰にも頼らないのは、マスケインの血なのだろう。
「来たか」
扉を開ける。親父は広い空間の隅に隔離された執務室にいた。そちらは庁舎の表側からも入ることができる。そちら側から行かなかったのは、親父の指示だったからだ。
「なんか用か?」
「……じいさんはどうしている?」
その質問に、おれは顔をしかめた。親父が無駄な会話をしようとしているように思えたのだ。
親父は、そういうことを好まない。口数の少ない男のはずだ。
「知らね。おれは別に、老人介護をするためにあっちに行ったわけじゃないぜ」
ここ最近はメイリンに集中していたので、じいさんがどうしていたかなど考えたこともない。
「そうか」
親父はうなずくと、もうそのことに関しては何も言わなかった。
「で、用ってなによ? それで終わりか?」
「お前に一人、殺して欲しい男がいる」
「は?」
親父がそんなことを言うとは珍しい。
いや、それよりも、この都市にまだ殺さなければならないような骨のある奴がいるとは思えなかった。
親父が机に写真と書類を投げ出す。おれはそれを手にとって見た。覚えのない男だ。だが、自分たち以外の武芸者に興味がないのも、また事実であるから覚えていないのも当然かもしれない。
「この間の資材回収で大金をつかんでいる。それを奪いに行って殺した。お前ならそれで済む」
「都合よく使いやがる」
「お前たちに、それ以外でどんな使い道がある?」
おれと兄貴のことを言っているのだろう。肩をすくめるだけで済ませた。他人などまだ使えるゴミかそうでないか。親父の考え方だが、おれたちとてたいして違わない考えでもあるのだ。息子というのはさぞ使い回しの利くゴミなのだろう。
「殺すだけでいいのか?」
「いや、一つ、買い取りを拒否した品がある。それを奪ってこい。奪って殺せ」
「それは」
「見ればわかる」
親父はそれしか言わなかった。そしてもうおれの存在など忘れたかのように手元の書類に集中し始めた。背後でノックの音が響く。秘書でもやってきたか。おれと親父が顔を合わせているところなど見られるのはまずいのだろう。おれは兄貴の側だと見られているし、親父と兄貴は対立していることになっている。ペンを握った手が横に振られた。
おれは先ほどの道を連に辿り、エレベーターで降下した。
エレベーターの中で、おれは親父の依頼内容について考えてみた。奪って欲しい物。見ればわかる。一目でわかるほどのお宝でも拾ったのか。しかし、親父はそういう、わかりやすい財宝に興味はない。そちらに興味があるのは、むしろ兄貴の方だ。
奇妙な話だ。そして奇妙だという以外になにもわかりはしない。おれは|諦《あきら》めて都市警察本庁に行くべきだろうと考えた。部下を集め、男の元へ行く。金を奪うという体裁を取るなら、一応は書類も作らなくてはならない。なんの役にも立たない書類だが、体裁は重要だ。獣だって着飾るのだ。書類と下調べには時間をかけよう。むしろ時間がかかりすぎたっていい。できれば都市外に逃走していて欲しいものだと考え、考えているうちにエレベーターが停止した。
外へと出た時に、ふと思った。
どうして親父は、じいさんのことを気にしたのだろうか?
親子の情? まさか。
都市警察で部下に資料を渡すと、おれは屋敷に戻った。
メイリンは生きていた。今度こそ魂の抜けた人形のようになってベッドの端に座り、じっと壁を見つめている。自殺は諦めたか。だが、食事を摂らなくなり、わずか十日ほどでかなり痩《や》せた。
餓死でもねらっているのか。いまは高濃度の栄養剤を日に数度注射することで生きている。点滴の方がいいのだが、一度、その針で喉を突こうとしたのでそれもできなくなった。
「あなたは、彼女をどうして生かしておきたいのですか?」
質問に、おれは女医を見た。メガネの奥の理知的な|瞳《ひとみ》がおれを冷たく見定めている。この女をめちゃめちゃにしたいと思った。メイリンのように。愛する者がいるのであれば引き離し、|陵辱《りょうじょく》し、そして彼らの憎悪を弄びたい、そんな欲に駆られた。だが、その欲に従えばメイリンへの注意が怠り、彼女に死ぬ機会を与えることになる。だから、想像のうちで遊ぶだけにとどめた。
「あれの命は、おれのものだ」
おれのものとなった以上、勝手に死ぬことは許さない。どんなことになろうとも生かし続ける。
女医は乾燥した息を吐いた。長いまつ毛がメガネのレンズを撫《な》でる。おれの欲情をそそり立たせる。だが、こらえる。こらえる自分が、なんとなくだが気に入った。
「死なせるなよ」
「医者です。ですが、医者にも不可能はあります。あなたと同じように」
職業倫理とその限界を簡潔に答える。無駄のないところがこの女の良いところでもあり、悪いところでもあるだろう。
不可能はある。おれにも、医者にも。
「できないことが多いからこそ、人は強欲になる」
そう返すと、女医は黙り込んだ。
練武場で時間を過ごす。だが、訓練に身が入らない。剄の疾走の中に投入しようとするとメイリンの顔が頭に浮かび、集中できなくなる。鉄鞭が手から抜けそうになる。腑抜《ふぬ》けた自分に、嫌気がさした。
無為に時間が流れ、夜になる。女医たちは隣の部屋に待機し、おれは自分の部屋に戻る。そこにはメイリンがいる。彼女の病室が、すなわちおれの部屋だ。
おれを見る目に憎悪はなく、恐怖しかなかった。ベッドの中で震える女の横に潜り込む。
乱暴な気持ちになる。同時に、そうではない時があるのかと自問したくなる。おれたちはヴェルゼンハイムという都市に君臨する暴虐の徒だ。荒ぶっていない時はない。そうでないと他人が感じている時は、ただ他の連中が害を被っていないというだけだ。おれたちはいつも、内側から際限なくわき上がる欲求に荒れ狂っている。
足りない、まだ足りない、と。
おれの中のなにかがわめき立て、おれはそれに突き動かされる。時に、肉体なんてものは、おれという存在は、その欲求に操られているだけの|木偶《でく》なのではないかと思う。
そしてだからこそ、おれは死に対して危険な欲求を時に覚え、そしてどうしようもなく、自分と同じように操られているだけに見えるじいさんたちを殺したくてたまらなくなるのだろう。
だがいまは、伸ばした手をそっと彼女の肩に置いた。震えが届く。こちらに向けた背中が、さらに丸く縮こまる。
かける言葉は思いつかない。ただ、震える肩からの彼女の感触を確かめた。そのまま腕をなぞり、浮き上がった癌《こぶ》のような肘を撫で、胸の前で組み合わされた指に触れる。乾ききったその手をおれの手で包み込む。美しかったメイリンの面影はそこになく、生気も|艶《つや》も抜け、乾ききっていた。生きるための全てが彼女の体からこぼれ落ちてしまっている。鼻先を髪の中に埋める。腐葉土に包まれた気持ちになる。
乾ききって死ぬだろう彼女を、おれが細い糸でつなぎ止めている。それに対する満足はない。
義務的な気持ちとはまた違うだろう。メイリン以前にも女はいた。そして彼女たちは皆、絶望して死ぬか、あるいは媚びようとしておれが捨てた。媚びることもなく、かといって絶望することもなく、自らに与えられた役割であるかのように淡々と居続けたのはメイリン一人だ。
その彼女が、心の中になにを抱いていたのかを、おれが考えたことはない。不可思議な女だとは思った。そしてそれだけで終わった。愛した男のもとに戻ることを|一途《いちず 》に考え、そしてその方法を模索し続けていたのだとは考えもしなかった。
それはつまり、おれはこの女に興味がなかったということだろう。女であれば、肉であればなんでもよかったということだろう。
ではなぜ、おれはいまこんなにもこの女に執着しているのか。
おれを殺そうとした時の、あの目を思い出す。
あの時の激情はどこに行ったのだろう? すでに失せたのか、あるいはこの乾ききった肉体の奥で|熾火《おきび》のように存在しているのか、勢いを得る時を待ち続けているのか。
ダッグを殺すべきかもしれない。
彼女の中にある熱を探りながら、おれはそう考え、そしていつのまにか眠っていた。
翌日、おれはじいさんのところに行った。
「できないことが多いからこそ、人は強欲になる」
昨日、女医に言った言葉。そういえば、これはじいさんの言葉だ。
長い廊下を抜けて部屋へと辿り着く。
異臭には廊下にいた時から気付いていた。
扉を開ける。
腐臭に、おれは顔をしかめた。
「なんだこりゃ?」
じいさんはベッドにいた。ベッドにいて、酒を飲んでいた。瓶を掴み、そのまま|呷《あお》っている。
口からあふれた酒が髭《ひげ》を濡らし、顎に線を引く。腐臭の中心はそのベッドにあった。
「ちょうどいいところにきた」
煙のような息を吐く。酒に焼け、そして剄を混じらせた息だった。じいさんの体からはまるで戦っている時のように剄が溢れていた。だからおれは開け放った扉から奥へと足を入れる気にはなれなかった。
おれの足元には空になった酒瓶が床を埋めるほどに転がっていた。
そして女も転がっていた。酒瓶と女が同じ扱いで転がっている。瓶の中身が空であるように、女たちも死んでいた。魂の抜け殻が転がっている。
「酒が切れた。持ってこい」
「ぼけ老人の介護をしたいわけじゃないが?」
軽口を叩いているが、おれは戸惑っていた。じいさんには、確かに自分以外のものを消耗品として考えている節がある。おれのように一つのものにこだわりはしない。酒であろうと女であろうと、そして他のものであろうと、楽しむだけ楽しめば後は捨てるだけだ。こんな風に女が抱き殺され、その死体が転がる様を見るのも一度や二度のことではない。
だが今回はどうだ? 広い寝室を埋め尽くしそうな勢いで女と酒瓶が転がっている。積み重なっている。中央のベッドに裸で鎮座するじいさんは、さしずめ死者の山に君臨する魔王のようだ。
ここまでのものは、見たことがない。
そしてこの腐臭。零《こぼ》れた酒の匂いだけではない。死体が腐敗を始めたにしては、見渡す限り、どこにもそれほど時間の経ったものはないように思える。
腐臭は、じいさんから放たれている。放射される剄に混ざって振り撤《ま》かれている。そう考えるべきだろう。
この臭いは練武場でじいさんと対峙しているときに何度も嗅《か》いだ。それを何倍にも濃縮させたかのように、強烈に鼻を刺激してくる。頭痛がしてくる。息をするのさえ、できればやめてしまいたいほどだ。
親父がじいさんを気にしていた意味がわかった気がする。
だが、どうして親父はじいさんのこの状態を知っていた?
「酒だ、ディクセリオ」
「女は?」
「お前の目などあてにならん」
おれは諦めて酒蔵に向かった。幸いなことに酒蔵にはまだまだ酒が残っていた。業者に酒蔵の中身を補充するように連絡し、おれは何箱もじいさんの部屋に運び込む。じいさんの剄は収まっていない。おれは、丸裸で体中に肉をぶら下げて野獣の|檻《おり》に入ったような気分で、箱をじいさんのそばにいくつも重ねた。死体の山の上に積まれた酒瓶の箱から、じいさんは乱暴に酒を掴み、栓を抜き、飲み始めた。
「ここ、おれに片づけさせようと思ってるんなら、勘弁してくれよ」
「焼けば終わる」
酒臭い息を吐きながらじいさんは言った。屋敷ごとという意味だろう。ということは、新しい寝床が必要になるということだ。おれはなるべく息を吸いたくなかったので、ため息をこらえた。
「おまえは、なにも感じないのか?」
酒で|淀《よど》んだ眼がおれを見た。
「なにを?」
「…………わからんのなら、いい」
じいさんの様子がおかしいことなら、すでにわかっている。だが、これはどうだろう? 親父が知っていた。だとすれば、親父に頼まれたことはじいさんにも関係しているということなのだろうか。だからこそ親父はじいさんの様子を気にし、そしてじいさんはなにやら荒れている。
見ればわかる?
「まあ、焼きたくなったら早めに言ってくれよ。引越しの準備があるからな」
「手に入れた時点で満足しろ。あとは、捨てる時が来るだけだ」
「手に入れてないから、持っているんだよ」
メイリンのなにかを、おれはまだ手に入れたいと思っている。女医には命と言った。だが、生殺与奪はすでにおれの手にあると言ってもいい。ならばそこで満足していてもおかしくはない。
だが、そうではない。
なにかが、おれにそれだけでは満足させてくれない。
「くだらん」
じいさんは、それがなにかわかっているのか、吐き捨てると再び酒を飲み始めた。すでに三本が空になった。積み上げた箱が空になるのにそれほどの時間は必要なさそうだ。酒蔵が補充されるのが先か、じいさんが飲み干すのが先か。
止まる様子のないじいさんを見守るのに飽きた。そしてじいさんも、もうおれには興味がないようだった。
おれは、部屋を出た。
親父とじいさんは、共通してなにかを気にかけている。それがなにか気になる。だがそれよりも、じいさんは、おれが求めているものの正体を本当に理解しているのだろうか? そちらの方が気になった。
何度も足を止め、それを確認しに行きたい誘惑にかられる。だがこらえる。己の手で見つけだすことこそと考え、そしてそう定めて廊下を抜けた。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
二日後には男の居場所が判明した。部下たちは良い仕事をした。余計な良い仕事でもある。手を抜けとは言わなかったのだからしかたがないことではあるのだが。
男の名は、ジャスパーと言った。写真を見る限り四十をいくつか越えたぐらいか。無精髭とどこか汚らしい雰囲気が年の嵩《かさ》を増やしているようにも見える。油断のない目をしていた。再生工場に届けられた書類の住所にはいなかった。当たり前だ。そうでなければ部下たちに探させた意味がない。親父も「あそこに行って殺してこい」と言ったはずだ。
そして、わざわざ殺させに行かせるのだから武芸者なのだろう。
経歴までも、部下たちは調べてきた。
ジャスパーはヴェルゼンハイムの生まれではない。|傭兵《ようへい》として各地を転々とし、そしてヴェルゼンハイムに辿りついた。普通なら、こんな都市から逃げ出していてもおかしくないだろう。傭兵であるなら、都市の外に出るということに抵抗はないはずだ。知識の集積地である学園都市群に行くように、戻ってくることが前提の移住ではない。放浪に放浪を重ねるのが傭兵だという話だ。それならば、なんの愛着もないこの都市に居座る理由もないはずだ。
だが、ジャスパーはいたくこの都市を気に入ったという話だ。廃都市の探索作業が男を熱中させたという。男は同士を集めて会社を作った。廃都市探索の時だけ機能する会社だ。そしてジャスパー自身は、傭兵時代にかなりの財をため込んだのか、廃都市探索以外ではなにもしない。都市庁にも移住手続きだけを済ませ、武芸者登録を行っていない。
そんなやつを、おれは今まで知らなかった。この間のエージェントのようにいかにも金を持っていますという感じではない。普段住んでいるところも安アハートだという。下町の安酒場にしか赴かない。派手なところは何一つない。探索で大金を手に入れた時だけ、仲間たちと少々騒がしく酒を飲むだけで、それもやはり安酒場に限っている。そしてその大金も、税という形で半分近く親父に巻き上げられている。安酒場で豪遊するような金など、たいしたものではないと、兄貴などは思うだろう。おれ自身、金にそれほど執心していないから廃都市探索の連中までは目を向けていない。
そんなやつのところにわざわざ出向かなければならない。しかも、殺して奪うために。その奪うものさえもなんなのかよくわからない。
親父に派遣された交渉人は、それを買い取るためにけっこうな値を付けたそうだ。だが、ジャスパーは首を縦には振らなかった。おれの部下が交渉人に直接聞き取りに行ったそうだが、手応えとしては値のつり上げを求めていたと言う。どこまで上がるかを確かめたいという欲が見え隠れしていた。
だが、次の日には、すでにジャスパーには売る気が一切なくなっていた。交渉人が法外な……交渉人自身があり得ないと感じるほどの額を提示したというのに、奴は売らないの一点張りだったそうだ。
そして奴は、会社からもアパートからも姿を消した。
まったく、おかしな話だ。
倉庫街にたどり着いた。部下は連れてきたが、倉庫の外に待たせた。殺して物を持ち帰るだけなら一人でも十分だと思った。物がでかすざると思えば、後から呼びつけて運ばせればいい。
目的の倉庫の錆《さ》びたシャッターを力任せに押しあける。|埃《ほこり》と機械油の臭いに、濃いアルコール臭が混じっていた。
「またか」
おれはうんざりとした。ここ数日で、じいさんの飲む酒の匂いが屋敷中に広がりつつあった。
そこに腐敗を始めた死体の臭いも混じっている。近づくのすら嫌だが、誰かが酒を補充しに行かなければならない。その役目はおれに回ってくる。家には男手はおれとじいさんしかいない。じいさんの世話をしていた女たちはみんな死んだ。おれの周りにいる女、メイリンと女医、そして女医の連れてきた看護師にじいさんの部屋の前に出来上がった酒瓶の山をかき分けながら運ぶなどということができるはずもない。させる気もない。おれがやるしかなく、だからこそうんざりとする。
そしてここでも、酒の匂いだ。
倉庫の奥にはゴミ捨て場から拾ってきたような事務机がある。その周辺に同じようなイスと、そしてシミだらけのソファが乱雑に並んでいる。男たちがいて、その足元には空き缶が乱雑に散らばっている。
倉庫の天井から裸の大型電球が|吊《つ》るされ、男たちの辺りだけを照らしている。
「ジャスパーってのはどいつだ」
おれが声をかけると、男たちはのろのろとした動作で酒からおれに視線を向けた。焦点がゆっくりと定まり、おれを認める。
「ああ、やっときたのか」
事務机に足を乗せている男が言った。ジャスパーだ。酒で淀んだ目はじいさんと同じだった。
「まったく、どれほど待たせるのかと思った。こちとら大変なんだ。はやいところ済ませて楽になりたいんだ」
呟きながら、男は再び酒を飲み始めた。
「なんかいいもん手に入れたんだってな」
酔っぱらいの妄言をまともに聞く気にはなれない。ただでさえ親父もじいさんもわけのわからないことを言っているのだ。戯言《ざれごと》はもう、食傷気味だ。
とりあえず、殺すか。
「よこせ」
錬金鋼《ダイト》を復元するまでもない。瞬時にジャスパーのそばに移動し、剄をこめた手刀で首を飛ばした。ジャスパーの顔が酒に酔いどれたまま飛んでいく。
「おいおい、ひでぇじゃねぇか」
首が飛んでいる。手刀で飛ばされたその勢いの中で、首だけのジャスパーがゲタグタと笑った。
地面に落ちる。転がる。止まる。
その間、首が下品な笑い声を上げ続けている。
「いきなりかよ。だが間に合わなかった。お前はおれを殺せなかった。残念だなあ」
幻覚剤か、麻薬の類でも食わされたか? この間の風呂と同じように空気中に撒かれていたか? だが、首だけのジャスパーが笑っている以外でおかしなところが見いだせない。体内で剄を走らせて代謝を上げたが、薬の効果が強まることも、不純物質が吐き出される嫌な汗も湧いてこない。
「ははは、不思議か? 不思議だよなあ。だけどな、しかたねぇ。そういうもんなんだよ。そういう風になっちまってんだよ。お前のじいさんがここに現れた時から、いつかこうなっちまうって決まってたんだよ」
「わけがわかんねぇ」
幻覚にしろそうでないにしろ、おれは戸惑う自分が許せなかった。ソファで他の男たちが笑っている。いまだに酒をかっくらっている。その日が血走っている。アルコールのせいかと思ったが、なにか、そうでないもののようにも思えた。
あるいはこれも、おれが混乱しているからそう思うだけかもしれない。
床に落ちたジャスパーの首を踏む。骨のきしむ感触が靴越しに届く。
「ははっ、そうだ。うまく殺してくれよ。お前ならできるんだろ? 世界の外側の血筋だ。お前が、お前だけがそれを可能にすると聞いたぞ。時間軸の崩壊したお前だけが、お前たち一族だけが………」
「もう喋《しゃべ》んな」
「おれは無関係だ! 早く殺せ!」
奇妙な絶叫を聞きながら、踏みつぶす。
血が撒かれる。|脳漿《のうしょう》が靴の周りに広がる。男たちの笑い声が響く。
一刻も早く出ていきたい。だが、親父に言われたものは回収できていない。
見ればわかる。
そう言われた。だがあるのはあふれるほどの空き缶、アルコールの臭い、男たちの笑い声、安っぽくて汚い事務机とソファばかり。
事務机の空き缶を薙《な》ぎ払い、床に散乱したものを足で払う。
それがあった。
「なんだこりゃ?」
一見、それは小型の端末機のようにも見えた。だが、ヴェルゼンハイムでは見ない形だ。なによりも、どこか古びているようにも見える。外装は傷だらけでまともに動きそうにも見えない。
この場所に、これだけが違和感を覚えさせる。
男たちの笑い声が、いっそう激しくなる。
「もっていけ、はやくもっていけ」
そう離《はや》し立てている。
「強欲の果ての滅びを見せてみろ」
そう喚《わめ》きたてている。酒に酔い、笑い狂いながら叫んでいる。それなのに血走った目は笑っていない。
おれは端末機を取ると倉庫を出た。男たちは最後まで笑い続けていた。
倉庫を出て太陽の光を浴びると、おれはひどく疲れていることを自覚した。思い出しても目まいがする。ジャスパー、お前は一体なんだったんだ? 無意味な問いかけとわかっていでも、それをしてしまう。無関係を叫びながら死を願う。どういうことなのか? おれにしか殺せないという意味もわからない。
まるで都市に舞い降りた汚染獣に食われる最初の犠牲者のように思えてならない。それはつまり、不幸の始まり。ただそれだけを告げる役回り。そこにあるもの悲しさだけが強調され、それから逃げるためにアルコールの世界に飛び込んだのか。
自分が、不幸を告げる鐘でしかないとわかっていたのか。
おれは、なにを考えている? 不幸? なにが始まるっていうんだ。
手には小型の端末機がある。夢でも幻でもなかった証拠なのだろうか? だが、倉庫に戻ってそれを確認する気にはなれなかった。
疲れていた。ひどく、疲れていた。最初から気力などわかない仕事だったが、この端末機を手にしたとたんに全てが|億劫《おっくう》になってしまった。
親父のところにこれを運ぶのを躊躇した。帰り道に庁舎はあるというのに、そこに向かうのがひどく面倒な作業に思えた。倉庫街から外縁部に出て、外周道の路面電車に乗れば余計なものに出会うことなく屋敷に戻れるだろう。そうするべきだと、体が訴えている。
部下たちになにかの指示を出したかどうかさえ覚えていない。気がつけば、一人で歩いていた。
眠ろう。帰って眠るのだ。壊れたメイリンを抱いて眠れば、この疲れは|癒《いや》せるに違いない。メイリンの拒否、|怯《おび》えた姿、女医の蔑んだ目、看護師たちの恐れの視線、それらがおれをいつものディクセリオ・マスケインに戻してくれる。現実を取り返してくれる。
強欲に身悶え、その炎に身を灼《や》いているというのに、焼き切れないいつもの愚か者が戻ってくるに違いない。
親父にこれを渡すのは、明日でもかまわないはずだ。
外縁部に向けておれは歩きだした。頭の中にはメイリンのことしかなかった。朽木のような細い体のことを思い出した。かつての健康的な柔肌のことなど頭に浮かびもしなかった。あの頃のメイリンはダッグのものだったのだ。そんなものは必要ない。だが、いまは完全におれのものだ。
おれが女医に命じていなければ命を繋ぐことさえできない。
そんな彼女を抱いて眠りたい。それ以外に考えることはできない。
女医が驚いた顔でおれを出迎えた。
「とてもひどい顔よ」
「寝る」
「待ちなさい。そんな顔をして」
「うるさい」
「私は医者よ。放っておけないわ」
「寝かせてくれ」
意識はもうろうとしていた。どうしてこんなにも疲れているのかわからない。ただただ眠りたいと体が訴えている。立ちはだかる女医が鬱陶しい。だが、力ずくでどうにかしてやろうという気にはなれなかった。懇願している自分にみっともなさを感じる余裕さえもない。
「なら、せめてこの薬だけでも飲みなさい」
女医が差し出した手にはカプセルの薬が二つあった。
「眠れるならなんでもいい」
その薬を取った。口の中に放り込む。カプセルがのどに引っかかる。唾液で強引に押しこむ。
女医を押しのける。今度は抵抗しなかった。眠気がさらに増したように思えた。体が自分のものでないようだ。ベッドまでの道が、遠い。
長い廊下を進んでいるうちに、おれの意識は暗転した。
夢さえも見なかった。世界はただ暗く、そしてその暗さを感じ続けていた。
暗闇の中で、おれはずっと腐臭の中にいた。じいさんの体から放たれる腐臭。その周りに築き上げられた様々なもの、女の死体や床に散乱した酒や、そして形のない栄光のようなもの、じいさんの全てが腐って溶けていく臭いがおれの周りを取り囲んでいた。
臭いに包囲されたおれは、身動きができない。眠っているからだと思った。起きなければならない。だが、体は動かない。眠りを求めてこうしているのだ。だから眠り続けているのだ。体がそう訴えている。気だるさに支配されている。頭では危機感がずっと明滅している。なにもかもを失うぞと理由のない焦りがおれを急《せ》き立てる。なにを失う? 失うほどに大事なものが、果たしておれにあっただろうか?
眠りの中で腐臭に取り巻かれ、おれは、おれであることに自信を持てなくなっていた。強欲に取り憑かれた一族、マスケイン。その子として生まれたディクセリオは、生まれた時から憎悪を浴びて育った。自分でも説明のつかない飢餓感に|翻弄《ほんろう》されながら生きてきた。それが一族の血の宿命に違いないと思ってきた。強欲であること。ただそれだけが自分が自分であると認識できるただ一つの手段であった。なにもかもを手に入れるのだ。武力も権力も財力もありとあらゆるチカラを手に入れて、初めて自分は自分であると思えると、そう信じてきた。
そしていま、おれの周りにあるのは腐臭だけだ。全てが腐って溶けたなれの果てだ。強欲のなれの果てだ。あらゆるものを手にいれ、そして腐らせてきた結果だ。
マスケインという一族も、こうして腐り溶けて、やがてはすべて消え失せていくに違いない。
いや、すでにもう、そうなり始めているのか?
目が覚めた。ひどく悪い目覚めだった。頭が重い。辺りが暗い。しかしこの暗さは夜になっているためだった。廊下に明かりが点《つ》いていない。
ベッドにたどり着くこともなく、おれはここで眠ってしまったらしい。立ちあがる、頭がくらみ、視界がはっきりとしない。足もとが|覚束《おぼつか》ない。女医はどうした? どうしておれは、ここで
眠っている? 女医は、おれをベッドまで運ばなかったのか? 医者であると言いながら、気分の悪いおれをここに放置していくか。
そこまで考えて、おれは冷たい予感に襲われた。
医者の倫理? ばかな、あの女医がおれにそんな感情を抱くはずがない。そんな倫理をおれに通用させるはずがない。
寝室へと急ぐ。メイリンがいる部屋だ。そこで彼女は眠っているはずだ。骨と皮だけのようになって。落ちくぼんだ暗い目で、全てに絶望してそこにいるはずだ。
そうでなければならない。
ドアを押しあける。残滓だけが虚《むな》しく部屋を満たしている。電源の落とされた医療機器。脱ぎ捨てられた寝間着。冷えた空気に漂う彼女の匂い。
メイリンがいないという事実。それだけを、この部屋の寒々しさが物語っている。
心に去来するものを見定めようとして、おれは立ち尽くした。怒りか、悲しみか、それとも憎悪か、|嫉妬《しっと 》か、悔しさか。なにもないわけではない。だが、こうだとはっきり言い表すことができない。失ったのだ。走り、屋敷の外へと飛び出し、メイリンを取り戻すために何かをしなければならない。だが、足は動かない。はっきりとわかったのは喪失感だ。この部屋に、もうメイリンが戻ることはないという確信だけだ。死んだか、男のところに行ったか、女医の手引きで逃げ出したか、放浪バスのスケジュールはどうなっていたか。外縁部の停留所にもういるのかもしれない。発車寸前なのかもしれない。しかし足は動かない。喪失感だけが、おれを支配している。
腐臭が、背後に立った。
「ディクセリオ」
じいさんがおれを呼ぶ。振り返った。何も着ていないというのに、そこには威厳があった。強い剄がおれの体を打った。吹き荒れていた。だが喪失感の中にいるおれは、じいさんの姿に恐れを抱くことはなかった。
「これは、どうした?」
じいさんの手には、あの端末機が握られていた。忘れていた。女医の薬で倒れたときに廊下に放置したのだろう。じいさんは、それを拾ったのか。
答える気になれなかった。喪失感がおれを支配している。
「答えろ、ディクセリオ。どうしてこれがここにある?」
じいさんの声には焦燥があった。怒りがあった。そして、信じられないことだが恐れがあった。
端末機を握る手が震えている。だが、落とすことも壊すこともしなかった。じいさんの体から噴き出し、荒れ狂う剄が周囲の壁や床を破壊している。浸食している。だというのに、その端末機にはなにも起きない。剄さえも端末機を恐れ、避けているかのように思えた。
「ないはずのものがどうしてここにある? あってはならないものだ。月と眠り姫と闇の守護のもと、全てはここから廃絶されているはずだ。それなのに、どうしてこれがここにある?」
じいさんが何かを呟いている。おれには理解ができなかった。月と眠り姫と闇。聞いたこともない。なにかの暗号なのか。だが、それがなにかと考える気力がおれにはなかった。メイリンがいない。おれのものが、ここにあるべきおれの所有物が存在しない。その事実がおれの心を乱れさせ、消沈させている。気力の全てを奪い去っていた。
「やはり、そういうことなのか。ここに我らが存在する。その矛盾を修正するためには、どうしてもこれが必要なのか。虚像を生むための投影機はこれなのか」
呟き続ける。
おれは、立ち尽くしている。
なにかが、起こった。
それがなにかを、おれはすぐには理解できなかった。剄は変わらずその場で荒れ狂っている。
じいさんの放つ威厳や威圧は変わらずこの場に存在している。
だが、じいさんの姿が薄れていく。
なにかに、置き換わっていく。
それは、見たこともない男だった。スーツを着た初老の男だ。企業の人間のように見えた。その服から、地位が高そうには見えた。企業人であるならば、長や幹部といったところだろう。
そして、その男は腹に大きな傷を負っていた。スーツは破れ、白いシャツは赤い血に塗れていた。
そしてなぜか、あの端末機を胸に生やしていた。スーツと、おそらくはその下のシャツにまで癒着し、一体と化していた。
男は死んでいるように思えた。目の焦点があっていない。顔はおれに向いているが、目はどこともしれない場所に向けられていた。
「なぜだ。この場にあるならば、わたしの死はないものとなるはずだ。それなのに、どうして……」
死者が喋っている。
じいさんの声で喋っている。
「なぜだ。なぜ、おまえには、なにも起きない。死が現れたというのに、終わりが訪れたというのに」
問いが放たれる。おれに答えられようはずもない。この場で起こっていることの、なに一つとして理解できていないおれに、なにかが答えられるはずもない。
じいさんの姿が消え、じいさんの声で喋る死者はそれ以上なにを喋ることもなく、小さな、うめきのようなものを放ち続けた。剄はもう途切れている。その姿は時間を追うごとに薄れていく。
実像を失い、虚像となっていく。そして虚像が消えようとしている。
端末機だけが、はっきりとした色と形と存在感を残している。
「そうか、お前は……」
なにかを言いかけ、そして男の姿は完全に消えた。端末機だけが残った。乾いた音を立てて床に落ち、そして寒々しい空気の中に、おれは一人残された。
取り残された。
なぜだろう。おれはその時、はっきりとそう感じた。親父と兄貴も消えたと感じた。
マスケインという一族がこの世から消滅したのを感じた。おれだけが、なぜか残った。残されたのだ。なぜ? なにか、大きな手の感触を抱いていた。|人智《じんち》を超えたなにかによっておれの存在は掴まれ、とりこまれ、そして残された。
なんのために?
なにによって?
なにもわからない。だが、わからないことに恐怖はない。怒りもない。喪失感だけがある。メイリン、お前はどこに……? 死にかけの女がおれを捕らえている。おれは囚《とら》われている。自分が手にしたものに囚われ、放せなくなっている。己の強欲ゆえなのか、それとも別の原因なのか、それがわからない。
落ちた端末機をおれは拾った。それは考えなしのごく自然の行動だった。メイリンを取り戻さなくては。たとえ元通りにはならなくとも、おれには、あの女が必要なのだ。あの女がいることで、おれはなにかを手に入れることができるのだ。メイリンという形をしたものの中にある、おれのなにかを手に入れることができるのだ。
拾った端末機がかすかにうなりを上げていた。それを微細な振動として感じた。
振動がおれになにかを注ぎ込む。端末機の排気口から吐き出されるなにかが、おれに染みこんでくる。おれを侵す。
ある事実をおれに示す。
それを感じながら、おれは屋敷を出た。
おれたちは、この世界の住人ではない。いや、本来ならば生きてすらいない。どこの誰とも知らない、それはおそらく、じいさんと入れ替わったあのスーツの男だろうが、その男の死に際の願いによって生まれた存在。願望。何者にも支配されないことを望み、その願いを来世に託した。
死に瀕《ひん》した中で、死に怯えるのではなく、死後の救済を願った。この都市と同じ、ヴェルゼンハイムという名の都市でそれを願った。
その末がおれたちだ。誰にも支配されない強者としてじいさんを、支配するものとして親父を、そして金銭的な欲望を満たすために兄貴を、男の願いはそれぞれに分割して形をなした。
では、おれは?
おれはなんだ?
おれはなんのためにここにいる? 男の願いの中で、おれはなんなのだ? なんの形をなしているのだ。
おれは、本当に親父の子として生まれたのか?
わからない。物心ついたときには母親はいなかった。まして、その母親が本当におれを生んだのかもわからない。ただの乳母であるだけかもしれない。
わからない。
願望。マスケインという一族がただの願望の塊であるということを信じるべきなのか。疲労したおれが、ただそういう幻覚を、悪夢を見ているだけなのか。
なにが事実なのか。
事実は、一つだ。メイリンがいない。それだけだ。
おれは歩く。屋敷を出、歩く。メイリンはどこにいった? まずは女医のいた病院へ行くべきか。女医の家か。それとも本当に放浪バスに乗り込もうとしているのか。
おれは、どこへ行くべきなのか。
端末機を手に、おれは進む。
なにかが、おれに染みこんでくる。端末機はなにかを吐き出している。そのなにかがおれに染みこむ。染みこまないものが大気に拡散される。
それはおれだけでなく、なにかをこの空間に染みこませている。ここにはないものを、ここにはなかったはずのものを。この世界での存在を許されなかったものを、吐き出し、攪拌し、溶け込ませようとしている。
この世界を浸食しようとしている。
そして、それが現れた。
無数の顔が現れた。
なんの感情も表さない平面な顔が、支えのない宙に無秩序に並んでいる。
仮面。おれは、それをそう思った。
その一つが、おれの顔に覆い|被《かぶ》さった。
全てを包まれた。あるかどうかもわからない意識を、思考を、なにもかもを覆い尽くして、そして支配した。おれの内部を掘り返し、暴き立てた。
メイリンの姿が頭に浮かぶ。骨と皮ばかりの女を、おれは抱いている。荒い息の中でも冷たい目がおれを見つめている。檻の向こうから観察する目。凶暴な獣を見る瞳。
おれの存在は、メイリンにとってそういうものでしかないという事実。
獣。
おれたちは、ただの獣だ。誰ともしれない人間の虚像ではない。来世ではない。愚かで無様な獣だ。
メイリンにとって、それがおれなのだ。そしておれは、それでいい。
仮面の支配が緩む。おれの中の凶暴な獣が支配されることを許さなかった。暴れたて奮い立った。密着していた仮面がわずかに隙間を作った。その隙間の中で小さな黒い手が無数に、襞《ひだ》のようにおれに向けて伸びていた。掴むために、ひきずりこもうとするかのように。
おれは|剥《は》がれかけた仮面の中で蠢《うごめ》く手を見つめながら歩いた。
悪夢の中におれはいる。だが、こんな悪夢よりも、おれはメイリンがいないことの方に気持ちが注がれている。そう思うことでおれはこの悪夢から身を守ろうとしているのか。そうではない。
メイリンがいないことの方が重要なのだ。じいさんがいないことよりも、親父がいないことよりも、兄貴がいないことよりも。
それこそが、この気持ちこそが、おれの強欲なのだ。
端末機からはなにかが吐き出され続ける。それらは次々と無数の仮面に変わり、どこかへと飛んでいく。この都市に仮面が満ちていく。おれはメイリンを探すのを急いだ。仮面は彼女までも支配しようとするのだろう。それを防がなくては。
探した。病院へ行き、女医の自宅へ赴き、そして放浪バスの停留所を目指した。そこら中に仮面をつけた都市民たちがいた。全ての人々は無気力にその場に立ち尽くし、あるいは座り込み、あるいは倒れて痙攣《けいれん》していた。
空には七色の光によってできた垂れ幕が下がっていた。それはヴェルゼンハイムの空を覆い尽くし、ヴェルゼンハイムそのものをなにかに置き換えようとしているかのように思えた。
おれは、歩いた。歩き続けた。
見つけた。
それは、放浪バスの停留所、その待合室の中にいた。旅用の|鞄《かばん》が足下に置かれ、二人は木製のベンチに並んで座っていた。メイリンと、そしてダッグだ。二人の顔にも仮面が彼らされていた。
物言わぬ彫像のようにその場に座ったまま動かない。分厚いコートから覗く彼女の手は細く、枯れていた。だが、その手がダッグと繋がれている。右と左の手が絡み合うように繋がっている。
メイリンの弱々しい手に、ダッグの、技術者の荒れていない、しかし男らしい大きな手が重なっている。ぬくもりを分け合っている。繋がり合っている。
やはり、ダッグは殺すべきだったのだ。どうしてあの時、あのまま眠りに落ちるのではなく、おのれの衝動に従って殺しに行かなかったのか。
そうすれば、こんなことにはならなかった。
そうすれば、メイリンの絶望は決定的となり、おれが掴み損ねた熾火が燃え上がることもなく消え去り、おれの腕の中に居続けたというのに。
そうすれば、おれはいつか手に入れたかもしれないというのに。メイリンの中にあるはずの、おれが本当に欲しいものが手に入ったかもしれないのに。
おれは判断を誤った。
そして、そのただ一度の失敗で、おれはその機会を永遠に失ったのだ。
それはもう、おれの手には入らないのだ。
おれは、吠えた。
凶暴な獣が檻から解き放たれた。そんな気分だ。おれの中でなにかが荒れ狂う。剥がれかけた仮面の裏、無数に存在する手がおれの顔を掴む。おれの獣を引きずり出す。侵食するものが侵食され、お互いの形を変えようとする。無数の虚無が、飢餓がおれの中に入り込み、そしておれの虚無が、飢餓がこいつ……こいつらの中に入り込む。おれたちは二つで一つになり、一つで多数となった。その奥に誰かがいた。無数の顔を背負った誰ともしれないものがいた。取り込みすぎて何者にもなれなくなった者がいた。これが強欲の果てだと言っているように、おれには思えた。
だが、その皮肉げな訴えは、声は、おれにはどうでもよかった。解き放たれた獣がおれの中の衝動を代弁する。手には錬金鋼があった。復元していた。巨大な鉄鞭。この世界の力の象徴。それをおれは振り上げ、そして振り下ろした。愚者の一撃はメイリンとダッグに降り注ぎ、打ち砕いた。仮面が変化し、奇妙な動物を表しているように思えたが、どうでもよかった。その仮面が吹き飛び、宙を舞うのを見つめていた。砕ける様を眺めていた。
待合室は崩壊し、おれは、破壊の中心に一人で立っていた。メイリンとダッグの悲惨な結末はそこに存在していなかった。どこかに消え去ってしまった。
悪夢が続いている。
こんなはずはないと、こんなはずではないと、おれの中の獣が吠えている。惨劇の跡がない。
ならばこれは悪夢なのだと。だが、すでにして己の存在自体が、マスケインという一族そのものが、一人の人間が生み出した、死からの逃亡への妄想かもしれない。
ならばここには、実を持つものは何一つとしてなく、虚に満ちているのかもしれない。己も、己の一族も、ヴェルゼンハイムも、そしてメイリンも。
メイリンは死んだ。だから虚は虚として、跡形も残さずに消え去ってしまったのかもしれない。
しかし、だからといって諦められる訳もない。獣が納得するはずもない。
もはや、ディクセリオ・マスケインという名は、この獣によって奪われた。おれはただの名もない傍観者であり、仮面の中で虚しく手を伸ばす、力なきものの一つでしかなかった。二つは一つ、そして一つは多数だ。
その中でディクセリオ・マスケインという獣は、求めるものを失ったヴェルゼンハイムを放浪した。さまよった。メイリンを求め、そして行き場を失った怒りを向ける場所を求めて。
求め、多くのものを破壊した。そして食らった。仮面が仮面を食らい、そしてその度に殺された人々の姿はどこかに消えてしまった。強欲に身を焦がした獣が破壊の残滓すらも残すことを許さなかった。
ならば、メイリンはすでに、この獣の中にいるのだろうか? しかし、獣はそれを認めることができないのだろうか? |彷徨《さまよ》い、放浪する。行き場はない。時間すらもどこかに置き忘れた。端末機はどこかに行ってしまった。
やり直しを、おれは求めていた。
どこからやり直せばいいのか、わからなかった。
放浪し、迷い続ける中で、おれはそれと出会った。
隻眼の男と、少女。
暗い夜からさまよい出たような、それは死神の姿であったのかもしれない。
そしてそれこそが、ヴェルゼンハイムという存在の|完璧《かんぺき》な|終焉《しゅうえん》、その始まりの夜だった。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
悪女と強欲U
[#ここで字下げ終わり]
「愛していたの?」
目と閉じたまま、ニルフィリアは問いかけてきた。
「なんだって?」
悪女の周りでははっきりと闇が濃くなっていた。それは少女を包み、服を埋没させ、髪を溶かし、白い肌をより際立たせている。
「そのメイリンという女よ。取り返したいのでしょう? 愛しているからではないの」
笑った。この女からそんな単純な言葉が出てくるとは思わなかった。
「あれはおれのものだ。おれは、おれのものを奪われたまま我慢できるようなできの良い人間じゃないんでな」
「そう」
ニルフィリアは細く目を開け、おれを見上げる
「では、あなたは、本当のところ、彼女のなにが欲しかったのでしょうね」
おれは沈黙した。返す言葉がなにも思いつかなかった。
彼女の、メイリンの、女の中に秘められたものの中から、おれはなにを求めているのか。
なにを取り返したいと思っているのか。
少女の唇が冷笑を形作る。
物語の続きを彼女はせがんだ。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
第二章――獣と鎖――
[#ここで字下げ終わり]
隻眼の死神が端末機を持ち去った。
おれは戦いの中にあった。全てを破壊したその原因、仮面たちと戦っていた。おれはなぜか仮面と引き離され、そして仮面と戦っていた。身を焼く憎悪の全てを叩《たた》きつけた。
だが、わかっている。身を焼く憎悪を本当に向ける先は、おれ自身だとわかっている。おれの中の獣がそうしていたのだとわかる。だが、それすらも言い訳だ。死神におれは、なんと名乗った? ディックだ。ディクセリオではなく、ディックと呼んでくれと言った。ディクセリオという名は獣にとられたと、おれはもうディクセリオではないと、そんなつまらない言い訳をしてしまったのだ。
獣の形をした仮面。おれは、こいつらに名を奪われたのだ。
そう思えば、燃え上がるものがある。全てを忘れることができる。なにかを奪われた。その奪われたものの詳細を忘れ、奪われたという事実に怒りと|復讐《ふくしゅう》を誓うことができる。
なにを奪われたかは忘れたい。そして事実、おれはなにかを忘れていた。ただ、怒りに身を任せた。己の獣と|対峙《たいじ》した。愚者の一撃を繰り返した。
ヴェルゼンハイムは、その中で崩壊した。
暴走するセルニウムのエネルギー光の中で、おれはなにかを見た。それはこの都市の意思である電子精霊だったように思えた。雄々しい獣と人の融合物だった。おれはそのすぐ隣で戦っていた。電子精霊が吹えていた。おれも吠えていた。仮面も吠えていた。仮面に操られる人々がおれの|鉄鞭《てつべん》で次々と消滅していく。
だが、数は減らない。数万の都市民たちの憎悪が形を変えておれに迫っていた。襲いかかっていた。命を捨てて向かってくる都市民たちの前で、おれの一撃は湖面に生まれる波を叩くように無意味なものだった。ただ一体の雄性体よりも、幼生体の群よりも恐ろしい。それこそが数の暴力だった。おれは無力なまま、その波に飲み込まれた。電子精霊も飲まれた。獣の形をした仮面がおれに噛《か》みつく。
噛み裂かれ。
噛み砕かれた。
おれは死んだ。
そのはずだ。
では、ここにいるおれは、はたして誰なのか。
「……………」
声もなく、おれはそこに座っていた。
なにも言えなかった。驚きは叫ぶよりも|呆然《ぼうぜん》とする方を選ばせた。先ほどまであった激しさの中で散っていった己の残滓《ざんし 》をどこか遠くに置き去りにされたような、そんな気分だった。
広い座席におれは一人座っている。窓の向こうには荒れ果てた光景が流れていた。それは少しだけ縦にも揺れていた。高台から遠くを見渡すように光景を眺めることができた。空気には清浄機では処理しきれないにおいがこもっている。人のにおいだ。
ここは放浪バスの中だった。
客は少数だ。押し込めば三十人ぐらいは乗れそうだが、乗っているのは十人を少し超えるぐらいか。車内を支配するのは放浪バスを運ぶ足の音だ。道なき道を進むにはゴムのタイヤでは|心許《こころもと》ない。なによりタイヤ交換を行うためにうかつに外に出ることさえできない。外気には生物を焼く汚染物質が混入し、その中で生きることのできる凶暴な汚染獣が潜んでいる。より丈夫な機械の足で道を定めながら進むに限る。
そしてこの放浪バスを都市から都市に導くのは交通都市ヨルテムにいる電子精霊だ。|人智《じんち》の及ばないネットワークによって都市周は繋がり、その位置情報のみが放浪バスに届けられる。
ヴェルゼンハイムにも、いくつもの放浪バスが訪れた。
だが、おれが放浪バスに乗ったことはない。
なぜ、おれはここにいる。無言のまま、おれは驚きの中でその疑問について考えた。
放浪バスという単語が、おれのどこかに小さな痛みを走らせた。その痛みは鋭く深く、おれの内部に居座り続ける。
どうしておれはここにいる?
呆然としたまま、おれは放浪バスの揺れに身をゆだね、目を閉じた。夢かもしれない。死を間近にした、あるいは、死の直前に見ている夢なのかもしれない。ならばこんな夢の中にいるべきではない。おれは死神をその手に掴《つか》むのだ。それが、おれが死ぬ時に望む強欲のはずだ。こんな夢の中でまどろんでいる場合ではない。
だが、眠りから覚めても、おれは放浪バスの揺れの中にいた。
ならばこれは、夢ではないのかもしれない。
強い混乱が、座ったままのおれに襲いかかった。身動きひとつしなかったが、おれは|狼狽《ろうばい》していた。どうしてここにいるのか、論理だった説明はなにひとつできない。おれの身になにが起きたのか、説明してくれるもの、理解を得るきっかけになるものがなにもない。足下には革製の肩掛けバッグが転がっている。腰には剣帯が巻かれ、|錬金鋼《ダイト》が収まっている。
おれは旅をしている。
しかしこれは、どこへ|辿《たど》り着く旅なのか。
窓の向こうに確の姿が見えた。
車内に満ちる安堵と喜びの声。放浪バスがゆっくりと車の向きをその都市に向けた。
放浪バスが都市の足の内側に入り込む。足が地面を打つ重苦しい音は旅の終わり、あるいは休憩が近づく、最後の緊張する段階になったことを告げる。窓の向こうでゆっくりと振り下ろされる、都市という巨大な質量を支える足。その揺れが激しくバスを揺する。
|牽引《けんいん》索が都市の外縁部から降りてくる。索とともに都市外活動用の分厚いスーツを着た人間が一緒に降りてきてバスの屋上に着地すると索を取り付けた。
持ち上げられ、バスは揺れる。都市は、バスの到着だからといって容赦はしてくれない。激しい揺れの末、外縁部にまで辿り着く。緩衝グレードに一度、車体が激しくぶつかり、そして停止した。
バスのあちこちから圧の抜ける音がする。それに合わせて車内の人々も息を吐いた。乗降口の扉が開く。荷物を担いで次々に出て行く乗客たちの群におれも混ざった。
都市の名は白炎《はくえん》都市といった。白炎都市メルニスク。
放浪バスからの外来者の移動を区切る壁の向こうには、名を顕《あらわ》しているのだろう白亜の建物が高さを競うように乱立していた。確かにそれは、遠くから見れば白い炎が燃え上がっているかのように見える。中央付近にある、おそらくメルニスク政府の建物だろうそれは、エアフィルターを突き抜けそうなほどに高くそびえている。そしてなお、その頂上部分は完成してなく、いくつものクレーンが設置され、資材を運んでいた。
高さに挑戦している都市だった。
建物の群に見下ろされながら、おれは人の流れに乗って歩いていく。向かう先は外来者を受け入れる宿泊施設だった。宿に入る。寝泊まりは自由。ただし食事他、寝室以外の施設は有料となっていた。
割り当てられた部屋に入り、おれはバッグの中を確かめる。いくらかの希少金属が袋の中にまとめられていた。おれはその中のいくつかを換金するためにズボンのポケットに押し込んだ。
どうしてここにという疑問が消えたわけではない。だが、混乱は静まっている。根の深い疲れが体の奥で凝り固まっていた。ベッドに身を投げ出すと動くのが|億劫《おっくう》になる。
なにもかもがどうでもいいという気持ちになる。どうしてここにいるのか。ヴェルゼンハイムはどうなったのか。
そしておれは、なにを失ったのか。
眠りが訪れる。虚無が顔を覗《のぞ》かせていた。失われたものがそこにある。奪われたものがそこにある。だが、おれは、その奥にあるものを見通すことができない。
覗き込もうとすると、なにかがおれを遮る。
後ろから、そっと目をふさぐものがある。乾いたなにかだ。細く、薄く、もろいなにかだ。払おうと思えば払えるかもしれない。だが、おれはどうしてもそれを払う気にはなれなかった。目を覆うその感触が手放しがたく思えた。
そうしておれは、その感触に包まれて眠りに落ちていく。
感触は手だった。目を覆い、|眉《まゆ》を撫《な》で、鼻に触れる。細木のような指が唇に触れる。
ベッドにあるはずの後頭部に、うなじに、耳の裏に吐息がかかる。
「殺してほしい人がいるの」
手の主……彼女[#「彼女」に傍点]はそう言った。その声に、おれは震えた。
「いいだろう」
そう言った。眠りの中で、おれは本当に声に出してそう言ったのだと認識していた。
細い笑い声がおれを包む。目が覚めるまで、おれは|恍惚《こうこつ》の中にいた。
起き上がる。時計を見れば早朝だった。起きて、シャワーを浴びて部屋を出る。宿泊施設を出、
外来区の受付所で希少金属を換金して貨幣カードを受け取ると、戻って食事を摂ることにした。
焼けたパンの上で溶けるバターを見つめながら、昨夜の夢ともつかないものについて考える。
殺してほしい。
誰をだ?
宿泊施設にいる人間を見る。食堂にはまばらにしか人の姿はなかった。そのほとんどが放浪バスにいた連中だ。それ以外にも何人かいる。それでも、広い食堂を閑散とさせる程度でしかない。
この中に、いるのか?
いいだろうと、おれは請け負った。だが、その相手が誰なのか、おれはまだ知らない。行く当てのない殺意が、握るフォークの中に鈍くこもっていた。
「怖い顔」
その声に、おれは顔を上げた。
女が、おれの前に座っていた。笑みを浮かべていた。美しい女だった。活動的で陽気な雰囲気を持っている。見つめ返したおれに、無邪気な笑みを送ってきた。
「同じバスだったよね」
「どうかな」
「やだな。二週間もあんな狭いとこにいたのに、同乗者の顔も覚えられなかったわけ?」
女が笑う。現実はどうだか知らないが、おれの意識がそれを認識したのは到着の前夜だ。乗客の顔など|曖昧《あいまい》にしか覚えていない。
「あたしはジャニス。ジャニス・コートバック。あなたは?」
「………」
言いかけて、おれは口を噤《つぐ》んだ。
「……ん?」
「……ディック。ディックだ」
「そう、よろしくね」
握手を求めてくる。おれはそれに応じる。女だというのに硬い手をしていた。武芸者の手ではない。指先が特に硬い。腕一本、指だけで自分の重量を支え続けていたかのような硬さだ。
「高いところで作業するのが好きなのよ」
「ふうん」
興味が続かず、おれは手を離した。
「この都市はおもしろいわよね」
食堂の片面を支配するガラス窓から都市の風景を見ることができる。連なる高層建築物がおれたちを見下ろしている。
「あの都市庁なんて、エアフィルターを突き抜けることが目標らしいわよ。エアフィルターを抜け、空を抜けたいって」
「そんなことしてなにが楽しいんだ」
「空の果てが見たいんじゃないの? そういうロマン、好きよ」
「どうでもいいな」
「武芸者って、変に現実的よね」
皿に目を戻したおれに、ジャニスは言った。
「考え方が枯れているのね。せっかく人を超えた能力を持ってるのに、なにが不満なの?」
「……武芸者ってカテゴリーに期待されるものはなんだ?」
「戦い」
「つまり、それ以外はなんにもするなってことさ」
戦い以外に興味を持てばろくなことにはならない。じいさんがそうだ。親父や兄貴がそうだ。
そして、おれもそうだ。おれたちは異常な代表例だろう。だが、他の連中だってたいした違いがあるとは思えない。夢や希望とか、そんなものは一般人が抱けばいいのだ。
武芸者は、ただ戦っていればいいのだ。
「ひねくれた考え方ね」
「武芸者が一斉に、戦いよりもやりたいことがあるんだと主張したらどうする?」
「困るわね」
そう言って、ジャニスは肩をすくめた。
食事の間中、ジャニスはそうやって話しかけてきた。おれはそれに適当に答えながら時間を潰していく。やりたいことはなにもない。どちらにしろ、いまは検疫期間中だ。数日しなければ都市の中に入ることもできない。同じ放浪バスに乗った連中は皆そうで、そして食堂に残っている連中は一人で時間を潰すこともできずに話し相手を求めている。ジャニスもそうなのだろう。
そしておれは、誰かを待っていた。
殺せばいいのは、誰だ。
ここで待っていれば、それを見つけることができるような気がしていた。
ジャニスは普通の人間だった。そんなことは一目でわかる。だが、どこかの企業で働いているわけではない。情報の売買のために放浪バスに乗っているわけではないという。
ただ、旅がしたいからしているという。
それは、珍しいことのように思えた。
「なんでそんなことしてるんだ?」
おれは興味を覚えてそう尋ねた。
「え? 冒険って心躍らない?」
「あー、どうなんだろうな」
「君、本当に枯れてるね、若く見えるけど実はおっさんなんじゃないの」
「はっ、そいつはベッドに行けばわかる話だ」
「しかもガキのくせに擦れてるし。あれね、君、お坊ちゃんで甘やかされて育ったでしょ?」
「そういうお前は武芸者への接し方をママに教わらなかったのか?」
「あたしはね、武芸者なんて怖くないから」
確かに、ジャニスの様子は相手が武芸者だからと特に気負った様子もない。下手に出るでもなく、かといって無理に強気になるでもない。自然体で接してくる。
こんな人間に、そういえば出会ったことがない。そしてここはヴェルゼンハイムではない。他の都市ではこんなものなのだろうか? いや、ヴェルゼンハイムでしかそうできないというのであれば、ジャニスの言うとおり、おれは甘やかされたお坊ちゃんでしかないのだろう。
「違いない」
そう考えると、自分がひどく滑稽《こっけい》な存在のように思えて笑えた。
「君がお坊ちゃんで甘やかされていようとも、べつにあたしはどうでもいいんだけどぬ。それよりも君、ちょっとでも冒険って言葉に心|惹《ひ》かれるなら手伝ってほしいことがあるんだけど」
「ないな」
「そう言わずに」
手を合わせるジャニスの姿からおれは視線をそらした。
そこにいた。
まず感じたのは煙草の臭いだ。濃い紫煙を伴って、そいつはこちらに近づいてきていた。片手には皿に載った朝食。片手はくたびれた黒のスラックスのポケットに収められている。同じように皺のついた白のシャツ。髪は癖が強く、鋭角的な|顎《あご》には無精|髭《ひげ》が散っている。
陰気な目は、まるでここではないどこかで敵と対峙しているかのようだった。
「あ」
ジャニスが男に気づいて手を振る。男がこちらを見た。陰気な目がかすかに形を変え、そしておれたちのテーブルを通り過ぎようとした。
「逃げなくてもいいじゃない。道連れ」
ジャニスが座ったままで体を傾け、腕を伸ばして男のシャツを掴む。
「お前の道連れであの世には行きたくない」
「いやね、旅は道連れの方よ」
「お前に情けがあったか?」
「情けは別の誰かがくれるわよ、きっと」
顔見知りのようだ。冗談のようなやりとりの後に男は紫煙を深く長く吐き出してジャニスの隣に座った。
「あ、紹介するわ。こっちは、なんだか知らないけどいつも目的地が同じになる腐れ縁のリンテンス」
「お前がそれを言うか」
男、リンテンスは苦い顔を浮かべて煙草を灰皿に押しっけた。
「それで、こっちがディック。さっき知り合ったの。小生意気なのがチャームポイント」
「…………」
無言で目を合わせる。
立ち姿を見ただけでわかった。武芸者だ。
それも尋常ではない実力を持つ武芸者だ。歩くだけで剄《けい》が零《こぼ》れ出すというわけではない。むしろ、剄は完全に隠れている。その目や身長や格好からくる威圧感はあるが、そんなものは一般人にしか通用しない。そしてそれ以上のものはない。感じられない。
だが、この男は、リンテンスは間違いなく実力者だ。おれよりも強い。おそらくはじいさんよりも強い。この世の誰よりも強いのではないか、そう思わせるものが、この男にはある。
こいつを、殺すのか。
うなじに吐息がかかる。肯定するように微細な笑いが|刹那《せつな》、耳をくすぐった。
殺すのだ。
「それで、こんどはなんの悪巧みだ」
リンテンスが朝食にフォークを突き刺しながら尋ねる。
「あの都庁、登ってみたくない?」
ジャニスが窓の向こうに見える建築途中の都庁を目で示した。
「また、馬鹿なことを」
「高いところからの景色っていいものよ。あれを見て、久しぶりに思い出したわ」
そう言って目を細めるジャニスの横顔に、おれは引き込まれた。見た様子では二十歳をいくつか越えたぐらいにしか思えない。
だが、その言葉、その横顔に宿る雰囲気には深さがあった。おれが見たどんな女にもない、説明のつかない、深さとしか表現できないなにかがあった。
「あんた、実は若返り整形とかしてるだろ?」
「君、小生意気も度を過ぎると命をなくすわよ」
ジャニスの笑顔にこめられた悪気を受け流し、おれは都市庁を見る。
何度見ても、高い。
「あれはもう、エアフィルターを抜けている」
リンテンスが小さく|呟《つぶや》いた。
「見えるのか?」
「見えないのか?」
問い返され、おれは視力に剄をこめた。視力が増幅される。挑発に乗った。それはわかっている。だが、あの男をそれとなく観察しているというのに、剄を走らせた様子はなかったのだ。
それなのに、あの男は見た。見えていた。こちらが気づかない間に剄を走らせ、都庁を観察したのだ。それは一瞬のことだったのだろう。だが、武芸者の戦いは速度の世界で行われる。その一瞬が生死を分ける。
見えた。都市を覆うエアフィルターの境を示す、ややぼやけた景色。そしてクレーンを操る者、鉄筋の骨組みの上を歩き回る作業員の姿も。彼らは都市外用の、武芸者用とは異なる分厚い作業用スーツを着ている。リンテンスはこれを見たのだろう。一瞬で、全てを観察し終えたのだろう。
この男を、殺す。
それはとてつもなく高い壁に挑む行為のように思えた。
「いくら君たちが武芸者でも、エアフィルターの頂点より高い景色なんて、のんびり見たことないでしょう」
ジャニスの楽しげな言葉が続く。
おれは答えられなかった。
リンテンスも答えなかった。
「だから見たいんじゃない」
ジャニスの言葉は理不尽だ。だが、言いしれない力があった。
自室に戻ったおれは、やることもなくベッドに転がった。
ジャニス・コートバック。不思議な女だ。なんの力もないただの一般人だというのに、おれは引き込まれそうになっていた。いや、引き込まれていたのだろう。結局、あの女の頼みを受け入れる形になっていた。
それはおれだけではなく、あのリンテンスという男もだ。
宿泊施設にあった都市のパンフレットにはこう書いてあった。
『白炎都市メルニスク。高さに挑戦する都市。
汚染獣によって空の支配権を奪われる以前、人類は空を飛んで移動していたという。いま、空は人類のものではない。故に我らは空を目指す。自律型移動都市という動く拠点の中で天高く要塞《ようさい》を築く。汚染獣たちを引きつけ、なぎ払い。そして空を目指す。空の彼方《か な た》に、本当に過去の文献通りの宇宙が存在するのか、それを見定める。
学者たちの試算によって、都市の移動に支障を及ぼさない高度は三千メルトル。現在の都庁の高さは八百メルトル。それが完成するとき、この都市は一つの巨大な、動く塔となるだろう』
何ともばからしい挑戦だ。そんな資材などどこにあるのかと言いたくなる。
だが、こんなばかなことでも人の欲だ。
強欲だ。
そして、こんな間抜けな強欲を持つ者に支配されているというのだから、ここの人間もずいぶんとひどい目に遭っていることだろう。
知ったことではないが。
「どうせ次のバスまで一月くらいはあると思うから、それまでになるべく高くしてもらいましようよ」
ジャニスは悠然と話を進める。
「なんで、次のバスまでの時間がわかる?」
都市は動く。その法則は汚染獣から逃げる、保有するセルニウム鉱山を中心としたテリトリーから出ることは希《まれ》である、という以外にはない。二つのルールだけを守って、後は好き勝手に動いているとも言える。
そのため、放浪バスの到着は不定期だ。ヴェルゼンハイムでは、来ないときには年単位で来なかったこともある。
どうして、次の放浪バスの到着時期がわかる。
「勘よ、旅行者の勘。それだけよ」
笑みを絶やさないジャニスに、おれは初めて不信感を覚えた。
だが、そんな不信感になんの意味があるだろう。定住しない連中なんてそんなものだ。そしてこのおれもそうだ。おれですらおれがわからないほどに、おれはなにも定まっていない。
どうしてここにいるのか?
どうしてあの男を殺さなくてはならないのか。
そして……
「そういえば、この間は最悪だったわね。お互い」
「ん?」
「ヴェルゼンハイムよ」
「ああ」
「なんだ、お前ら、ヴェルゼンハイムに行ったのか?」
「あら、君も知ってるの? もう最悪だったわよ。あの辺りに残されてるっていう廃都市群を見たかったっていうのにそれどころじゃなくて」
「へぇ……」
「噂だけを当てにしてたらだめよね。まさかヴェルゼンハイムが三十年も前に滅んでたなんて。
いまじゃあ汚染獣の|巣窟《そうくつ》になってるって話で、他の都市も近づきやしない。無駄足だったわ」
おれはいったい、何処にいるんだ?
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
深い霧の中を|彷徨《さまよ》っているようだ。
自分が立っている場所がどこなのかまるでわからない。都市の外に出るなんて初めてのことだ。
ヴェルゼンハイムから外が、荒れた大地によって続いているなんて考えたこともない。じいさんたちは外の都市からやってきたというが、それすらもいまは疑わしい。
ヴェルゼンハイム……おれの知っている強欲都市が本当に存在していたのかどうかすら。
そしてここは、本当におれが生きてきた世界なのか。
全てが霧の中にある。その霧の中で、おれはなにをするべきなのか、なにをすればいいのか。
リンテンス。
あの男を殺せばいいのか。
そうすれば、おれの前に広がるこの霧は晴れるのか?
おれの前には、なにか、しっかりとおれの存在を確かめることができるものが現れるのか?
おれが一体どうなっているのか、ヴェルゼンハイムの後になにが起こったのか、全てを知ることができるのか?
「できるわ」
耳元で声がささやく。霧の中からその声が聞こえる。それこそがおれの全て。いまのおれに唯一はっきりとしたもの。
それこそが、おれの求めるもの。
霧が晴れれば、お前を見ることができるのか。触れることができるのか? 誰なのか知ることができるのか?
「できるわ」
ならば殺そう。
霧の中にいるのだ。前も後ろも、生きているのか死んでいるのか、自分が果たして正しく存在しているのか、それすらもはっきりとしないというのなら、ただ一つはっきりとしているものを掴み取るしかない。
奴の命を取る。
それだけが、おれをおれたらしめる。
宿泊施設を出た。外縁部のなにもない空間をぶらりと進む。放浪バスの停留所を除けば外縁部にはほとんどなにもない。都市間戦争での主戦場であり、汚染獣との最終防衛戦ともなるこの場所には不必要なものはなにも置かれない。
夜だ。月は厚い雲に隠れていた。外縁部には疎《まば》らにしか明かりがない。だが、都市部に連なる摩天楼から零れる明かりは予想以上に強く、武芸者にとってみればそれだけでも十分に視界を確保できる。
最初から、そこにいることがわかっていた。
進む先に赤い点が浮いている。それは緩やかに上昇し、そして止まり、赤い点が強さを増す。
長い癖毛に包まれた陰気な顔がそこに浮かび上がった。
薄汚れたコートを纏《まと》って、リンテンスがそこに立っていた。
姿を見たときからおれはこいつを殺すのだとわかった。
そして目を合わせたときにはおれの殺意はこいつに伝わっていた。
「剥《む》き出しだな、お前は」
煙草を吸いながらリンテンスが呟く。
「なんで、とか。気にならねぇのか?」
「知ることでなにかが変わるのか?」
「違いない」
おれは笑った。笑いながら、剣帯から錬金鋼《ダイト》を取り出す。リンテンスは変わらない。煙草を銜《くわ》えたままそこに立っている。
復元。鉄鞭の重みがおれの腕を支配する。一体化する。そして安堵する。おれがおれである証《あかし》がここに一つ、あるような気がした。
リンテンスは煙草に視線を落としている。だいぶ短くなっている。捨てるかまだ吸うか、そんなことに思考を費やしているような、そんな態度だ。
勝てない。
それでも、おれはこいつに勝てる気がしない。
じいさんと対峙しているような威圧感はない。剄も放たれていない。だというのに、おれはリンテンスを相手に勝てる気がしない。
圧倒的な実力差を、おれはその時感じていた。
だが、体は動く。枯れた指先がおれの錬金鋼を握る手に被《かぶ》さる。背後の者。おれを誘う意思。 それに従って、おれはリンテンスに向かう。鉄鞭を振り上げる。奴の頭を叩き潰す。そのことだけを考える。
剄が体を走る。いつもの感覚だ。全身を満たし、そして肉体を散華させそうなほどに迸る。いいぞ、このまま砕け散れ。なにもかも。なにもかもだ。おれも、そしてリンテンスも。過去も未来も不確かな現在も。全てを巻き込んで破壊しろ。そのために駆け抜けろ。そのために走る。一陣の風となり、刹那の光となり、轟《とどろ》きを従えた雷光となって駆け抜けろ。無意味なるエネルギーの消費。その象徴、雷となってそして瞬間に潤えていけ。
奴の頭に、愚者の一撃を。
だが、届かなかった。
「なるほど、死地の境涯か」
リンテンスは新しい煙草に火をつけ、深く吸い込んでいた。
「いつでも死ぬ覚悟があるのならば、多少の実力差など恐ろしくはないと思っていたか?」
その手は変わらず自由だ。錬金鋼は握られていない。
だが、なにかがおれの動きを遮っている。振り上げた鉄鞭は振り下ろされ、リンテンスの頭上、寸前で止まっている。おれの動きは中途のままで止まり、剄だけが体を突き抜け、そして拡散していた。
驚きはある。
だがそれよりも、なにがどうなっているのか。それを理解することが先決か。
いや、答えは漠然とおれの周りにある。鉄鞭がどうして止まっているのか。止められている感触を確かめれば、それははっきりとする。
なにか、細いもの。
糸だ。
「切らせなかったのは、見事だがな」
おれは跳び下がった。鉄鞭が金属を擦る音を上げ、火花を散らせる。
どこだ?
どこから、糸が放たれている。
手ではない。そこに錬金鋼らしきものはなにもない。
だが、糸はどこからかリンテンスに操られている。剄はどう動いている? 腕によるもの、肉体の中でもっとも微細な動きを可能とする手指でなければ、剄が発生した際に生じる微細な波紋を利用し動かしているに違いない。
それを辿ることに挑戦する。だが読めない。おれの見ている前では、リンテンスの剄は静まりかえり、動いている様子はない。
「終わりか?」
リンテンスがなにごともない顔で尋ねてくる。
「お前が死ぬまで、終わらないがな」
「なら、お前が死ぬだけだ」
剄の動きは読めなかった。だが、おれは本能的に動いた。下から怖気《おぞけ》が襲ってきた。左半身が|麻痺《まひ》したと思ったのは一瞬。その時には動いていた。
殺意はすぐ隣を駆け上がっていった。
そしておれは再び駆けた。
愚者の一撃。おれにはそれしかない。愚直な行為のみしか繰り返してこなかった。いついかなる時でもそれだけを磨き続けてきた。
駆け、振り上げ、振り下ろす。鉄鞭の質量が、そして駆け抜ける剄が、いつでもおれを貫き通した。ヴェルゼンハイムの憎悪を、汚染獣の|牙《きば》を、おれはただの愚か者としてそれを貫き通した。
賢《さか》しらに生きるなどできるはずもない。そんな生き方など考えたこともない。己を突き上げる強欲に身を任せ、そしてそれに身を灼《や》いてきた。
そうであることこそが、おれなのだ。
それが届かないのであれば、それこそが死ぬときだ。
おれの体は血に塗れていた。何度も繰り返し、その度に防がれた。襲いかかる糸を本能のみで避け続けたように思う。だが、避け切れたわけではない。こうしておれの体は何度も切り裂かれ、血が噴き出している。
左の耳がかすかに震える。吐息を感じる。背後の者が笑っている。
「もう少し、もう少し」と呟いている。もう少しで届くのか。おれはそう解釈した。暗い笑いの中に宿るなにかが肯定している。笑いながら肯定している。枯れた手の感触が肩に乗る。首を撫でる。顎を撫でる。
静かな興奮。血が抜け続けることによる寒気が達のいていく。痛みが消える。リンテンスしか見えなくなる。おれは進む。前へと。この一撃を奴に叩き込むために。
リンテンスの顔には変化はなかった。ただ、吸いきった煙草を地面に放り投げた。途中で裂ける。散った火の粉が暗い中で曲線を描いて地に落ちた。
駆け抜ける。雷光を伴い、奴の頭を鉄鞭で破壊し、脳髄をまき散らす。剄の余波がそれを粉砕する。
その姿を夢想し、その結末だけを求め、おれは駆け続ける。接近する。腕を振るう。いつもの通り、一部の変化もなく、寸余の奇策を織り交ぜることもなく、愚直に一撃を叩きおろす。
糸の感触。抵抗の予感。叩き潰せ。全てを貫き通せ。糸を破り、奴の頭に|轟雷《ごうらい》の一撃を。
だが、糸は|強靭《きょうじん》だった。雷を弾《はじ》き、剛撃を受け止め、そして反撃に転じる。糸がおれに向かう。
死が込められた先端が、研ぎ澄まされた糸断がおれに迫る。
止まるな。止まれば同じだ。繰り返しだ。
鉄鞭を受け止めた糸がたわむのを感じた。おれは力任せに止まった足を前に進めた。中途で止まった鉄鞭に剄を流し込んだ。
糸が体に食い込む。左腕を切断する。右腕にも迫る。足にも、胴にも、首にも。それよりも早く鉄鞭を叩き込め。それだけをすればいい。
錬金鋼に注ぎ込まれた剄が糸を焼き切る。勢いが復活する。鉄鞭が走る。
それでいい。駆け抜けろ。
その瞬間、おれの中で剄がいつもよりも激しく迸っているのを感じた。おれを灼く。全てを灼く。目の前が光に包まれ、許容量を超えた剄が視神経を混乱させた。だがかまわない。すでに鉄鞭は、多少の誤差などものともしない場所にある。
振り抜いた。
手応《て ごた》えはなかった。実感はなかった。
おれは駆け抜ける。止まることができず、無様に血を滑る。転がる。跳ねる。顔を強く打った。
それだけだ、他の場所の痛みは、動きが急すぎるためか、感じる余裕がないのか、麻痺してしまっている。地面から感じる荒々しい抵抗が頬を削る。舗装された外縁部の地面ではない。おれたちの戦いが周辺を破壊していたか。だが、地面を跳ね、そして落ちるまでの時間を考えれば、戦闘領域と化していた場所は通り過ぎていてもよかったはずだ。
止まった。だが、結果を確認するどころか、おれの目はなにも映していなかった。
瞬間的に増加した剄によって視神経はいまだ混乱している。手放すことのなかった錬金鋼の感 触を確かめ、握りしめる。
リンテンスを殺すことができたのか? 応えたのはリンテンスではない。
感覚が戻ってくる。血の臭いが満ちている。リンテンスのものか? それともおれのものか? 強い風のうなり声が聞こえてくる。外縁部に当たり前にある、エアフィルターと外気流とのぶつかり合いの音とは違う。
いや、覚えのある音だ。
この音を、おれは知っている。
他の音も聞こえてくる。おかしいのは視覚だけのはずだ。だが、視界が元に戻るのに会わせて徐々に他の感覚に次の事実が届けられていく。
まるで、おれの存在が少しずつ現実に合わせていくかのようだ。
そして事実、おれはいままでいた場所とは違う現実にいた。
違う場所にいた。
おれの目は、なにかの映写装置に置き換えられているのではないか、そう考えた。壊れていて、なにかの度に映し出されているものが変わるのだ。ヴェルゼンハイムで死んだと思った瞬間にバスの中にいた。そしていまもリンテンスを死と引き替えに殺した瞬間に、別の光景が広がる。
ここはどこだ?
戦いの最中にいた。
無数の汚染獣が空を支配していた。夜が、昇る火の粉によって赤銅色に染められていた。
翅《はね》を生やした汚染獣。雄性体だ。それが十……いや、それはおれの頭上にいる数だけだ。外縁部からさらに奥、都市部にはすでに二十はいるだろう。それらが建築物をなぎ倒し、食い物を求めて|咆哮《ほうこう》している。
ここはどこだ?
すくなくとも、メルニスクではない。燃えさかる建物が白亜ではない。夜だから見間違えているということではなさそうだ。多少欠けたり燃えていたりするとはいえ、建物の高さや形がそう簡単に変わるとは思えない。
ここは、メルニスクとは違う都市だ。
ではどこだ?
そして、どうしておれはここにいる?
「なんだこれは?」
すぐそばにリンテンスが立っていた。
「お前まで生きている。首を飛ばしたはずなのにな」
おれは自分の首に手を伸ばした。そして首に触れた手が左腕であることに気付く。首はわからない。だが、左腕は切断された。その感覚は覚えている。それどころか、体中にあった傷の全てがなにもなかったかのように消えていた。
「それで、これはなんの茶番劇だ?」
「……おれが知るか」
リンテンスの興味は、すでにおれから外れている。だが同じように、おれの中からもこいつに対する殺意が抜けていることに気付いた。
背後からの笑い声は聞こえてこない。
殺さなければと思っていた気持ちが驚くほどきれいに霧散している。あの声が聞こえることに喜びを感じていた。それは確かだし、いまもその声が聞こえることを望んでもいる。
だが、もうリンテンスを殺したいとは思わない。
おれは操られていたのか。
誰に?
なんのために?
そしてどうして、この男を殺さなければならない。
いや、これだけの強さを持つ男だ。殺される理由はいろいろとあるのかもしれない。
「お前って、殺されるほどの恨み買ったことあるか?」
「知らんな。興味もない」
「ああ、そうかい」
徒労を感じて、おれは立ち上がった。鉄鞭の重さ。とりあえず、これだけがあればいい。
「とにかく、ここがどこかとかそういう疑問は後回しにするにしても、目の前にある状況はなんとかしないとだめだろう」
おれは呟き、辺りを見回す。
すでに、この都市は死にかけている。
大量の汚染獣が都市の上空を飛び回り、地上へと降りようとしているというのに、それを防ごうとする武芸者の姿が見あたらない。
外縁部の端から外を覗き見れば、荒野にいくつかの汚染獣の死体が転がっていた。すぐそばにある都市の足は関節部分を破壊され、それでも動こうと耳障りな音をあげている。だが動きはしない。他の足もそうなのだろう。
この都市は動いていない。
汚染獣の脅威から逃れるために、人は大地を捨て、自律型移動都市《レギオス》で生きている。
その都市が動いていない。こんな危機的状況の中で、まさか都市の意思を司る電子精霊が眠っているだけということはないだろう。
ならばそれは、都市が死んだということだ。
「放浪バスが無事ならいいが」
おれは外縁部沿いのどこかにあるだろう停留所のことを考えた。地上部に係留されているものはもうだめかもしれない。だが、メンテナンスの工場が地下にあるならば無事なものが残っている可能性もある。
「まずは停留所か」
おれが呟き、それを探すために動く。
だが、リンテンスはその場に立ち尽くしたままで、動こうとはしない。
「逃げないのか?」
「汚染獣がいる。そして武芸者がここにいる。やることはなんだ?」
「おれの都市じゃない」
「ではお前の都市とはどこだ?」
苦い言葉に、おれはなにも答えられなかった。
「放浪バスでふらつく者におのれの都市などあるものか。ならば出会う汚染獣は全て滅ぼす。それが武芸者のやることだ」
「勝手にしてくれよ」
「そうか。死に場所を選ばない男かと思ったが。それとも、いまさら生に未練ができたか」
「てめぇ」
「一度離れた首だ。失ってわかる大切さというものだな、大事にしておけ」
挑発だ。そんなことはわかる。
だが、その挑発をおれは見逃せない。
精神がふらついているのだ。なにを軸に立てばいいかがわからない。だから、自分の感情に従うべきかどうかもわからない。
この怒りに乗ることがよいことかどうかもわからない。
まったく、ここがどこだとか、そんなことはどうだっていい。
おれは一体、どうなっちまったんだ。
「いいぜ、やってやるよ」
「ならばやってもらうことがある」
平然とした態度を腹立たしく思いながら、同時に疑問も覚えた。
どうしてこの男は、この状況の変化に戸惑わない。
いきなり場所が変わったのだ。そして大量の雄性体がいる。こんな急激な変化に、どうしてこの男は戸惑わないのか。
「で、おれになにをしろって?」
「仕込みに時間がかかる。お前は時間稼ぎだ。走り回れ」
「なんだと?」
「お前に求めるのはそれだけだ。この都市にいる汚染獣に、シェルターへ興味を持たせるな」
「無茶言いやがる」
吐き捨てながらも、おれは走り出した。外縁部から都市の中央部に向かって走る。
剄をまき散らし、存在を誇示しながら走る。
外縁部を漂っていた汚染獣たちがまず気付いた。おれに向かって吹え、そして追いかけてくる。
乗りやすい連中だ。おれは笑いながら走った。頬が引きつるような笑いだ。雄性体の一体や二体に臆《おく》するつもりはないが、さすがに十体はきつい。倒すことだけを考えれば不可能ではないだろうが、しかしきつい。
しかも走る先にはさらに二十体ほどの雄性体がいる。
勝機は薄い。
だが、勝機という点でならリンテンスに挑んだこともまた同じだ。あれと同じ気分で戦えばいいだけの話だ。ここは都市内だ。都市の足がやられているということはエアフィルターに不全が出ているかもしれないが、それでも都市外で戦うよりは大丈夫のはずだ。
いっそやるか?
リンテンスは走り回れと言った。そうして、注意を引けと。それに従うことに、反発する気持ちもある。逃げなかった自分を責める気持ちもある。
汚染獣に食われて死ぬことを考えればぞっとしない。だが、逃げ回った未に食われるぐらいならば、戦いの果てに力尽きたい。
どうする?
背後から汚染獣の咆哮。降下してきた一体が大顎を広げて迫ってくる。前に突き出した長い口が開かれ、長く無数の牙と分厚い舌が覗いている。おれは跳び、牙をかわす。その頭に着地し、鉄鞭を振り上げる。
だが、すでに別の数体……いや、外縁部から追いかけていた残りの九体全てがおれめがけて降下していた。
再び跳ぶ。今度は前に。
十体分の巨大質量が通りの一角を|蹂躙《じゅうりん》する。舗装された地面を砕き、建物を倒壊させる。粉煙が炎上によって生まれた上昇気流に乗り、都市の上空を埋めていく。
飛び交う|残骸《ざんがい》から逃げるようにして、おれは走る。
リンテンスの指示に従ったわけではない。汚染獣の、仲間を気遣わない連携の凄まじさを知ったからだ。
「幼生体の群なら知ってるが……」
そういえばあの連中も、仲間や味方の概念が存在しないのではないかと思うほど、無茶な突っ込み方をしていた。
呟き、再び跳ぶ。立ち直った連中がまたも無防備な突撃をしてきたからだ。周囲の建物を、まるで存在しないがごとくに破壊しながら突き進んでくる。おれは斜めに傾いた摩天楼の屋根に立ち、そして再び跳んだ。
都市部にいた雄性体たちが、おれの存在に気付いた。
都庁を中心に旋回していた連中が、まずおれにめがけて進路を変える。一斉の突撃に、倒壊途中の摩天楼が粉砕された。
宙にいるおれの周り、そのどこを見回しても汚染獣が週を広げて跳んでいる。気分は養殖潮に潜水して巨大魚の群に囲まれたときのようだ。会わせて三十体の汚染獣。それらの翅が大気を打ち、気流は嵐のように乱れ、空中にいるおれは思うように体を動かせない。自由に動ける奴らは、動きのままならないおれに向けて急いで狙いを定めようとしている。
他の奴らに先を越されないように。
ああ、くそ。こいつらが連携などするはずがない。ただ、飢餓を解消したいだけだ。餓えを凌ぎたいだけだ。
いざとなればここにいる同類を食ってでもそうしたいだけだ。
そうするよりも簡単だろう人間がそばにいたからそうしないだけだ。
汚染獣が迫る。
落下を始めたおれの周囲を埋め尽くすようにして迫る。視界はあっという間にこいつらの岩のような体躯《たいく》によって埋め尽くされた。
その時、おれは一つ思い出した。
ヴェルゼンハイムの最後を思い出した。
暴走するセルニウムのエネルギー光の中にいながら、おれは群がる仮面に取り憑《つ》かれた都市民たちと戦っていた。死を恐れない人間の渡に飲まれようとしていた。
その時、おれは電子精霊を見たのだ。人と獣を混ぜ会わせたような姿をしたあれが、電子精霊なのだろう。おれと同じように電子精霊はなにかに抗《あらが》っていた。仮面の都市民たちではない。それはおれにしか向かってこない。
だが、おれが抗いきれなかった人間の波と同じように、電子精霊も抗いされないなにかと戦っていた。それがなにかを理解することはできなかったが、抗いきれないとわかっていながら抗い続けていた。
おれと電子精霊は、お互いに抗い、そして押され続け、一つの場所に押し込められ、押し包まれた。電子精霊の姿は、人と獣の融会した姿だったが、徐々にその比率が獣の方へと傾いているのをおれは接近したことで知った。
そして……そして、意識を失い、気がつけばバスの中にいた。
思い出しきれない。その後、なにがあった。バスの中で我に返るまでの間、なにがあった。
三十年という月日を、おれはどうやって過ごしていた。
なにも変化しないままで。
なぜ、おれはそれをいま、思い出した?
見たからだ。
汚染獣によって視界が埋め尽くされる寸前、偶然に見えた都庁の屋上にその姿を見た。
不可解な獣を見た。
汚染獣かと思ったが、それにしては小さい。成人した男をやや上回る程度の大きさだろうか、汚染獣と比べれば、小さい。
犬のような形をしていた。だが、目は人間のそれだ。四肢の先にある長い指も人間に近い。
人間に理解できる知性を、そいつは宿しているに違いない。
あれは、電子精霊だ。
獣の形をした電子精霊だ。
どうしてあんなところにいる? 都市がもう動かないからか。だから機関部から出てきたのか。
出てきて、そしてなにをする気だ?
なにをする気なのか。しかしそれを埋め尽くす汚染獣の体が邪魔で見ることができない。
このまま死ぬのか?
リンテンスは間に合わなかったのか。
なにをする気なのかも、わからなかったが。
いや、わかった。
最後の抵抗のために鉄鞭に剄を注ぎ込んでいた。だが、それを放つ前に全てが決した。
目の前で汚染獣が縦に裂けた。頭頂部から尾に至るまで、全てが均等に分かれる。左と右がずれ、落ちていく。一体だけでなく、おれの周囲を埋め尽くした汚染獣の全てが同じ末路を辿っていく。縦に割れ、横に裂け、そして粉微塵《こなみじん》に変化していく。
糸だ。
この周囲にリンテンスの糸が張り巡らされたのだ。
仕込みとはこのことか。都市中に、あいつはあの糸を張り巡らせ、一瞬で全てに決着をつけようとしていたのか。
「はっ、たいしたもんだ」
おれはその結果を見ながら落下していた。重力には逆らえない。おれの体は地面に引きずり落とされていく。
そして汚染獣の死体も。
「おいおい、勘弁してくれよ」
三十体分の汚染獣の死体の細切れ、その質量がおれの上から追いかけてくる。冗談じゃない。
あいつ、こうなることがわかっていたのか。
鉄鞭に込めた剄を解き放つ。衝撃波が荒れ狂い、頭上に迫っていた死体の一部を弾き散らす。
その反動でおれは落下の方向を変え、からくも死体の重量で潰されるという惨めな死に様から逃れることができた。
「ああ、生きていたか」
着地した先にリンテンスがいた。
「おまえ、殺す気か」
「死なんだろう。首を落としても生きていたんだ」
「そんな特異体質は持ってねぇ」
リンテンスは一瞬だけおれを見た。疑わしげな目だ。
たしかに、おれだって自分で自分が信じられない。
おれはリンテンスの視線を追った。
都庁の屋上に立つ獣。
あれを見ている。
「電子精霊だよな」
「あれがそうか」
電子精霊なんてそう見るものではないだろう。おれもあの時しか見ていない。
都庁の屋上。高みから都市を|睥睨《へいげい》する電子精霊は、動きらしい動きを見せない。
汚染獣はいなくなった。それなのに、なぜ、動きを見せない。
「どうやら間に合わなかったようだな」
リンテンスの言葉を、おれは理解した。
「全滅か?」
「糸をのばしている最中に感知した。シェルターの一部が破壊されている」
リンテンスのその言葉だけで事態がなんとなくだが理解できた。実際にそんな場面に立ちあったことはないが、汚染獣と何度かやり合っていればそういう可能性について考えてしまうときぐらいはある。
「そうか」
どうやらおれたちは、残飯|漁《あさ》りをしている連中を処分しただけのようだ。
「この都市は滅んでたってのか。無駄手間だったな」
この都市には何万人の人間が生きていたのだろうか。知りはしない。だが、そんな数の人間がさつきまでいた汚染獣どもの腹に収まってしまったのだ。たかが、三十体。滅んだときにはもっといたのかもしれない。だが、百や二百の汚染獣がいたとは考えられない。
ならば、そう数の誤差はないだろう。
数万の人間が、たかが二、三十の化け物どもに食われてしまうのだ。
「めんどうな世界で生きているな、まったく」
いやになる。だが、他に生きる場所などおれたちにはない。別の世界なんてものは夢物語だ。
「…………っ」
頭痛がして、おれは額に手をやった。
じいさん、親父、兄貴……端末機を胸に埋めて現れた見知らぬ男。願望。来世。ほんとうに、おれたちはそんなものの形……虚像なのか。
あの男は、こことは違う場所から来たのか。来世という言葉。時を超えたとだけ考えることもできるヴェルゼンハイムという名が重なる。男はそこにいた。
それはおれの知るヴェルゼンハイムなのか、それとも違うのか。
別の世界に、その名があったというのか。
では、その都市と、おれの都市とには、なにか関係があるのか?
別の世界というものが本当にあるのか?
あるとすれば、そこには汚染獣はいないのか。おれたちよりも楽に生きているのか?
いいや。
たとえ、別の世界なんてものがあったとしても、そこが幸せだとは限りやしない。あの男は、不幸だったからこそ違う場所に願望を託したのだ。いや、たとえ幸せであっても、人の心は満足しきらないということなのか。
強欲なのだ、誰も彼もが。
気付いているか、いないか、気付いていたとしても、それを律するか、奔放に解き放つか。
その違いでしかないだろう。
電子精霊はしばらくそこにいた。
リンテンスは、じっと毛の長い四足の獣と視線を合わせていた。おれはすぐに興味が失せた。
体にも相当するだろう都市が破壊されて、その後の電子精霊がどうなるのか、そんなものに興味はなかった。都市の再生に尽力するのか、あるいは動くこともままならず、セルニウムというエネルギーの供給源を失い、ゆるやかに消滅していくのか。再生するにしてもしばらくは人間が生きていける状況ではない。
脱出する手段を考える方が先だ。
「おい、行くぜ、おれは」
声をかけた。だが、リンテンスは電子精霊を見上げ続けている。
獣の隣にこの都市の旗が掲げられていた。見るともなく見た。旗は半ば焼け落ち、紋章の完全な形を知ることはできなかった。
なにがどうなっているのかわからない。リンテンスを殺そうとして、そして殺された。それなのになぜか傷一つなく生きていて、奴とともに名前も知らない都市の最後の姿を見ることになっている。
なにもかもをわかっている奴が存在するのなら、探しだし、引っ張り出し、説明させたい。だが、そんな奴はどこにいるのだろう。
とにかく、脱出だ。おれは外縁部に戻るために周囲を見渡した。どちらに向かってもそこには辿り着く。だが、放浪バスがあるだろう場所は一ヵ所だ。標識を探して視線を彷徨わせている間も、リンテンスは電子精霊を見ていた。
「おい?」
呼びかけた。
それは、ほぼ同時だっただろう。
電子精霊が消えた。
いや、全てが消えた。おれとリンテンスを除いた全てが消滅し、周囲は闇に満ちた。
「なにが……」
と、声を上げる余裕もなかった。リンテンスの後ろ姿は微動だにしなかった。そうする暇もなく、おれの意識もまた暗い中に落ちていった。
目覚めれば、そこは覚えのある場所だった。
メルニスクの宿泊施設。そのベッドの上。見えているのは、部屋の天井だ。
「夢……?」
常識的に考えれば、そうだ。ならばどこからが夢だ? リンテンスを殺そうと思ったところからか、リンテンスに殺されたところからか、その間か。
部屋の時計は朝を示していた。空腹はどんなときにもやってくる。おれはズボンの中に入れておいた貨幣カードを確かめ、食堂に向かった。
「や、おはよう」
先に食堂に来ていたジャニスが手を振る。おれは彼女の前に座った。
ほどなく、リンテンスも姿を現す。同じように呼ばれ、彼女の隣に座る。
常にどこか不機嫌なあいつの顔から、変化を見いだすことはできない。直接聞けばいいだけの話なのかもしれないが、夢だった場合を考えると、間抜けな自分を想像できて嫌になる。
ジャニスだけが暢気《のんき》に話をしている。リンテンスの様子は昨日と変わらない。
だが、動かしたのはリンテンスだ。
「調べて欲しいことがある」
そう言って、リンテンスはジャニスの前に紙切れを滑らせた。それは施設の部屋にあるメモ帳だ。紙にはペンで、なにかの絵が描かれている。
それを見て、おれは、あれが夢ではなかったのだと確信した。
紋章だ。最後にリンテンスが見ていた電子精霊の隣にあった都市旗に描かれていた紋章。メモ帳に描かれているそれは、おれが見たとおりに焼け落ちた部分が描かれていなかった。
「これが、どこの都市の旗だか調べておけ」
「なんであたしが」
ジャニスは不満顔だ。それは納得できる態度ではある。
「やらんのなら、お前のわがままももう聞かん」
「わかったわよ」
だが、おれも知りたい。
都市の名前なんてどうでもいい。あの都市が実在したのか、あるいはしていないのか、滅んだのか滅んでいないのか、それを知ることができれば、なにか道が開くかもしれない。
「検疫期間も終わったし。ここの郵便局とか図書館とか回ればわかると思うわよ」
食事は終わっていた。ジャニスが立ち上がり自分の部屋へと戻っていく。リンテンスは食後の煙草に火をつけた。おれは、健康的なジャニスの背中をなんとなく眺めた。窓の前を歩いてジャニスが食堂を出て行く。
途中で、彼女を追いかける視線が止まった。
窓の外、それに目がいった。
そういえば、ジャニスはいま、なんて言った?
検疫期間が終わった?
外来者が疫病をもっていないかを確認するための期間が終了しただなんて聞いていない。それらしい仕事なんてしていなかったとは言っても、おれもヴェルゼンハイムでは都市警察にいた。
外来者に対する扱い方も一応知っている。検疫期間は最低でも一週間は取るはずだ。
一週間もここにいた覚えはない。
気がつくことは他にもある。
食堂に顔を知った奴がいない。メルニスクに入る前に放浪バスにいた顔がいない。全員の顔を覚えているわけではない。あのバスで意識を取り戻し、おれは混乱していた。顔を覚えている余裕はなかったかもしれない。
それでも、前日に食堂にいた連中には、なんとなくでも顔に覚えがあるような気がしたじゃないか。いまはそれがない。誰も彼も、このテーブルにいたリンテンスとジャニス以外で、見たことがあると思える顔は、食堂で働いている連中に数人という程度だ。
客……外来者に該当する人間がいない。
「おい、変なことになってないか」
おれはリンテンスに声をかけた。
「気にするな」
こいつは気付いている。気付いているというのに、動揺した様子がない。
「おれはいま、楽しみが一つできている。それだけがあれば、十分だ」
リンテンスの唇が|歪《ゆが》んだ。細く|微《かす》かに、しかし強烈に笑ったのだ。
強欲に身を浸した者の笑みだった。
おれの強欲はどこへ行った。
リンテンスを見て、おれは思った。そして、それへと目を向けた。
メルニスクの都庁。八百メルトルに到達したとパンフレットに書いてあったその都庁が、いまはその倍にまで高さを積み上げているように見えた。
都市の地面にある、都庁の根幹部分は太くなっている。周囲にあったはずのいくつもの建物を潰し、基礎を強くしたのだろう。都市の数区画を丸呑《まるの》みにして、天へ挑む姿勢を固めている。それは普通の高層建築物のように直線を描くのではなく、緩やかな曲線を描いている。巨大な樹木のようだった。違いは、枝がないということぐらいだろう。
都庁によって貫かれたエアフィルターが、どこか歪んでいるようにおれには思えた。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
ジャニスの調べた結果は夕食の時に聞くことができた。
「すっごい苦労したわよ」
なにやら恨み言を呟いていたが、そんなものはリンテンスの耳には届いていないようだった。
おれも結果が気になった。ジャニスの苦労は、この際どうでもいい。
「それで?」
黙って促す。ジャニスはため息一つで自分の感情にけりを付け、話し始めた。
「結論から言うと、この都市はもう存在してないわよ」
予想はしていた。
「最初に調べに行ったのが郵便局。あそこは放浪バス内で更新された交通都市ヨルテムの最新情報を知る場所だからね。紋章から都市の名前を調べてもらったけど、結果は出てこなかった。局員に開いてみたけど、郵便局内のデータバンクには現有が確認されている都市の名前と紋章しか登録されてない。確認されていないものも十年ぐらいは保持しているそうだけど、あとは図書館の都市名簿にデータの保存は任せてしまうみたいね」
郵便局は生きた都市のことしか考えない。合理的だ。
「それで、図書館に行って、都市名簿を見てきたわよ。そこからが大変よ。紋章はなんか欠けてるし、名前もわからない。候補を何回も絞り直したりしたわよ」
感情にけりはついてなかったようだ。零れ出た苦労話に、しかしおれもリンテンスも同情しなかった。
「名は?」
リンテンスが先を促す。
ジャニスが再びため息を吐いた。
「グレンダン、よ」
「……聞いたことがある名前だな」
おれは呟いた。放浪バスで訪れる旅人たちからの噂でその名前は聞いたことがある。
「それはきっと、別のグレンダンよ。同名の都市というのは珍しいと思うけど」
「なんで違うってわかるんだ」
「あのね、あたしは紋章を調べて、それから名前に辿り着いたのよ。現存しているグレンダンの紋章は形が違う。だから、ずっと以前に滅んだこのグレンダンといまのグレンダンは別物なの」
ずっと以前。ジャニスはいま、そう言った。
「どれぐらい以前なんだ?」
「百年以上、そこから先はまとめられてるからわからなかったわ。世界規模の暦も存在しないし、統合した歴史書を作るなんて無茶な作業だから、百年も昔の紋章が残ってるだけでも奇跡みたいなものじゃないかな」
「そうか」
ジャニスの話を聞いて、リンテンスが口にした感想はそれだけだった。
百年以上。
おれたちがいたのは、その百年以上も昔ということなのか?
ヴェルゼンハイムは三十年以上前に滅んだという。
時計の針を進めただけならともかく、巻き戻し、そしてまた進められたのだ。塔の高さがそれを証明している。
もうこうなったら、時間の流れなんてないようなものだ。
おれは窓の向こうを見た。都市の中央部で存在感を誇示する巨大な塔は斜めに傾ぐ夕日を浴び、日陰側が完全に夜の様相を呈している。暮らしにくそうだとは思ったが、それ以上の感想はない。
「その、いまあるグレンダンというのは、どんな都市だ?」
リンテンスが尋ねた。
「さあ、あたしは聞いたことがないな。あ、でも有名な|傭兵《ようへい》集団がいて、それの中心はグレンダンの出身者って聞いたことがあったかも」
ジャニスが答え、おれを見る。おれにもなにか知っていることはないかと、目が聞いている。
「汚染獣とよく遭遇する変な都市だって聞いたことがあるな」
ただそれだけだ。汚染獣から逃げるために動く都市という大地で生きているというのに、その都市は頻繁に汚染獣と戦闘状態に入る。都市の行動範囲内が汚染獣の巣窟だという可能性があるが、それならばその行動範囲を変更すればいい話だ。いくつかのセルニウム鉱山を破棄しなければならないことになるだろうが、失ったものは都市間戦争で奪い取ればいいだけの話だ。
だが、グレンダンはその場所にとどまり続けているらしい。噂で一度聞いただけだ。もしかしたらすでに居場所を変えているかもしれない。あるいは人知れず滅んでいるかもしれない。
ヴェルゼンハイムのように。
「グレンダンか」
リンテンスが呟き、後は沈黙した。そこに向かう気なのだろうか。
なんのためにそこに向かうのか。
あの、滅びた都市の電子精霊になにを感じたのか。
話はそれ以上進展することはなかった。リンテンスは押し黙り、ジャニスばかりが話をする。
あの塔を登る話ばかりをする。その計画をおれたちに伝える。いかにして警護の目を欺き、ジャニスの目標を達成させるか、そんな話だ。
おれもリンテンスも興味なく、ただ聞き流した。リンテンスは自分の考えに浸り、そしておれも同じようなものだ。そしておれの考えには答えのとっかかりがない。ヴェルゼンハイムの崩壊からそしていままで、果たしてそのことになにか意味があるのかないのか。なにか大きな意思がおれにそうさせているのか。そしてそれは、あの端末機を体に埋めた死者と関係があるのか、それともないのか。
あるいは、なんの意味もないからこそおれはこんなことになっているのか。
誰もが持っているはずの生きる意味をおれが持っていないからこそこうなるのか。
だが、こんな思考には意味がないだろう。自分がどうなったかということを考えたとしても、では、リンテンスがどうして同じことになったのかという問いの答えにはならない。
なにかがおかしいのだ。だが、そのおかしさがおれの常識なのか世界の法則なのか、それとも他のなにかなのかがわからない。
そして、おれがそれを解決したいのかどうかさえ、わからない。
ただ、新しい環境になじめていないだけのようにも思えてしまうことがある。
食事を終えて、リンテンスが食堂を出て行った。ジャニスは残っている。その手には缶の酒が握られている。
ジャニスには聞きたいことがあった。
「なあ、お前って隠し事してるだろ」
「え? なにが?」
酒気の混じった目がおれを見る。
「時間、だ」
ジャニスの目は、どこかでおれの言葉を楽しみにしている節がある。おもしろい話が開けると思っているわけではないだろう。
では、どういう目だ?
「検疫期間は過ぎたって言ったな。だが、あの都庁のできっぷりは、そんな単語じゃすまんだろう。倍の高さになってんだ。一年、二年の話じゃない。十年経ってたっておかしくない」
「驚異の建築術よ。何しろこのメルニスクは、あんなばかげた高さを作ろうなんて思ってるんだから」
「それなら、あと一週間も待てば八百メルトルは高さが増すことになるな」
「わからないわよ。もしかしたらあの高さがこの都市の建築技術の限界かもしれないし」
「それなら、一度ぶっ壊しちまうか。それから、千六百メルトルの建物を造るのに二週間ですませられるかがわかる」
「そんな大事故、後片付けで時間がかかるじゃない」
無意味なやりとりが続く。おれは|苛立《いらだ 》ち、そしてそれを飲み込んだ。相手のペースに乗ってはだめだ。いや、乗ったっていい。だが、こちらが冷静さを失っては元も子もない。
「時間に意味なんてあると思う?」
返す言葉を考えていると、ジャニスが口を開いた。
「都市から都市に流れていくだけの人に、時間の概念なんて意味があるのかしら? つなげているのは放浪バスだけ。歴史は全ての都市のことを語れない。情報は細い線の中でだけしか行き来できない。そんな世界で、定住の場所を持たない人に時間の概念なんて必要なのかしら? 時間を共有する誰かがいなければ、本当にそれは、無意味なものでしかないと思わない?」
「言葉遊びだ」
「そうね。そうかもしれない。だけど、時間の概念がなければうまくいく人もいるんじゃないかしら。例えば、リンテンスなんてそうでしょうね。強すぎて、その強さを存分に発揮できる場所がなくて、それを求めている。そんな人が、なんの手がかりもなく都市から都市をふらつくよりは、時間を無視してでも手がかりを与えた方がいいとは思わない?」
「お前の仕業か」
「彼に関してはね。あなたは知らないわ」
ジャニスは武芸者ではない。
だが、一般人でもなかったようだ。
「君は別の力が動いている。この世界が望むものとは、ちょっと違う力で動いている。リンテンスの背を押したあたしが、再生とか維持だとすれば、君の背を押すのは、破壊か破滅ね」
「ろくなもんじゃないな」
「実際、君は何者なんだろうね。あたしと同じにおいもするし、でも違う気もする」
「同じにおい?」
「この世界の住人ではないということ」
その答えに、おれは返す言葉を失った。この世界の住人ではない。それは、この世界とは別の場所が存在しているということだ。
あのスーツの男の存在を証明するということだ。
「冗談だろう?」
「さあ、どうなんでしょうね」
「おい」
「君は、あたしとは違ってまだまだ慣れてないみたいね。いや、慣れるとかそんなものじゃないかな。あたしの時はそんな余裕なんてなかったし。ということはあたしとは成り立ちからして違うのか」
「なに言ってんだ?」
「わからないならいいわ。参考書が役に立つ話でもないし」
「わかる言葉を使ってくれよ」
「なるようになるということよ。なにもしなくてもね。でも、自分がなにかわかったときにまでなにもしなければ、あなたはただ流されるだけで終わるでしょうね」
ジャニスの言葉は最後までわからないが、それは核心を突かないからだということだけはわかっている。
不吉な予感だけが積み重なっていく。
「言えることは、あたしが力になれることはなにもないということ。それぐらいね」
その言葉におれは落胆した。なにか手がかりのようなものが手に入る。それどころではなく、全てを知ることができるかもしれないとさえ思っていた。
伸ばした手は空回りした。
では、次はどこを掴めばいい。
どこに手を伸ばせば、この、落下を止めることができる。
「けっきょく、お前はなんなんだ?」
「ふふふ、なんだと思う?」
「魔女だな、いまのところ」
「ひどいこと言うわね」
「違うのか。おれには、あいつを悪いところに導こうとしてるように見えるぜ」
「彼にとっては悪くないわよ。それにあたし自身はいろんなものが見たいだけの好奇心の強い女。ただそれだけよ。ただいまは、ちょっと事情があるから、この世界の手伝いのようなことをしているけど」
「事情?」
「それを知ることができれば、もしかしたらあなたも自分自身を知ることができるかもね」
「なら、教えろよ」
「他人に教えてもらっても意味はないわ。知るときが来れば知ることができる。あなたが本当にそうなのならば、なにもかもが間に合わないというときよりも早く知ることができるでしょうね」
「だから、それじゃあ、わけがわからない」
おれの中の苛立ちを、焦りを、どうやって伝えればいい? ヴェルゼンハイムからいままで、おれの理解は事態に置いていかれている。あの端末機が現れてから、全てが壊れた。壊れたまま全てが進んでいる。おれをどこかに運び去ろうとしている。
いっそおれはすでに死んでいて、これは心臓が止まりきるまでに見ている夢だとでも言われた方がマジだ。
「人に教わるよりも体で覚えた方が早い時もある。あなたの事態はそういうことのはずよ」
空になった缶の縁を指でなぞりながら、ジャニスは言う。おれの目は、その指に注がれた。その指の向こうにある彼女の唇に注がれた。彼女の顎に注がれた。日に焼けた細い首に注がれた。
胸元にある、日焼けとその境界線に落ちた。
「あなたはあなたとして一つの苦難を乗り越えることができた。だからあなたはここにいる。身を燃やし、心を燃やし、それでも燃え尽きないものがあったから、あなたはここにいる。あなたがしなければならないことがあるとすれば、それはあなたがあなたでいることを止めないこと」
強欲都市のディクセリオ・マスケインであることを止めないこと。
そういうことか。
マスケイン家の鬼人であることを止めるなというのか。
それによって、マスケイン一族の強欲によって、ヴェルゼンハイムが失われたかもしれないというのに、それを捨てるなというのか。
鉄鞭を握れば心が落ち着く。それは自分の中のディクセリオを確認することができるからだろう。それを封じ、ディックと名乗った。その行為が無意味だというのか。
おれは、どこまでいってもディクセリオ・マスケインでしかないということか。
いいだろう。
「それなら、欲しいものが一つある」
ならばいてやろう。
「なに?」
ディクセリオ・マスケインでいてやろう。
誰もが憎悪した。強欲の王子となってやろう。
「お前だ」
他人の意思など、知ったことではない。
「いいわよ」
そう言ったかもしれない。おれの言葉の後、ジャニスはすぐに口を開こうとした。顔に驚きはなかったように思う。たかが缶一杯の酒。アルコールに惑っていたわけではないだろう。
だが、答えなどどうでもよかった。
おれの手はテーブル越しに彼女の首の裏を突き、痛みもなく気絶させた。そしてそのまま酔っぱらいを部屋に運ぶようにして自分のベッドの上に置いた。動きを怪しまれた様子はない。たとえそうであっても力尽くで解決すればいい。
ただ、この瞬間に邪魔が入らなければいい。そのための|些細《さ さい》な努力。それがジャニスを気絶させることだった。
ベッドの上で目を閉じたまま動かないジャニスの頬に触れる。唇に触れる。髪を撫でる。手に伝わる女特有の柔らかさ。おれの獣性がゆっくりと身をもたげる。上衣《うわぎ》を脱がせ、シャツをめくりあげる。上へと女の腕が伸びる。手首の辺りでシャツをねじる。下着を剥ぐ。おれの下で晒《さら》された乳房が明かりを受けて|艶《つや》のある張りを見せつける。
ブーツとズボンを脱がせ、最後の一枚もろともに足首から抜き取る。薄い下生えが露わになる。
その体に舌を這わせながら、おれは、内側でゆっくりと目覚めようとする獣を感じた。肉体に現れた獣性に呼応するかのように、それが目を開ける。毛皮を震わせる。四肢の爪が飛び出す。
そういうものを感じていた。
重いまぶたの下から現れた目が慎重に周囲を確かめているような、自分の体を確認しているかのような、身動きしないままに獲物にとびかかる力をため込んでいるような、そんな緊迫がおれの身を包む。乳房を弄《もてあそ》ぶおれの背にのしかかる。
この獣が、おれの強欲か。
おれは女の顔を見た。目を閉じたままの女の顔に違和感を覚えた。獣と考えた時、おれは女の顔を見ずにはいられなかった。
なにかが違うと感じている。
感じているのは、獣か、おれか。
どちらにしろ、違う。だが、体は止まらない。女の足を抱える動きは止まらない。女の感触が肌に染みる。柔らかい腿《もも》の奥にある、しっかりとした筋肉の手応え。素肌同士が触れ合う一瞬の冷たさ。男を全身で飲み込むような柔らかさ。
違う。
牙を立て、噛みついた感触、引き裂いた感触、刻まれた|痕跡《こんせき》を求めて手を這わせる。
征服したという証。それがない。
これからそれを行うのだ。ないのは当然だ。
わかっている。わかっているのだ。
おれは一体、誰と比べている?
ここにいる女と、それ以外、誰と比べている?
背後の女か。いまは感じない、リンテンスを殺せと|囁《ささや》いた声か。
あれはどこへ行った。いまはいない。それだけしかわからない。
女の中へ進入する。生理現象がおれの獣性を受け入れる準備を済ませていた。ただの肉体。気絶したこの女に、おれを受け入れる意思はない。それでいい。おれの強欲とはそういうものだ。心はいらない。征服した事実をくれ。
女が微かな反応を零した。閉じていた唇が微かに開き、音色を漏らす。だが足りない。そんなものでは足りない。なにかが足りない。なにが足りない?
わからない。
ヴェルゼンハイムが崩壊した時、おれはなにかを失った。物質的に全てを失い、そして心的になにかを失った。それが思い出せない。思い出せないから、おれは満足できない。
女の声が激しくなる。
だが、おれは満たされない。下半身を突き上げるものがない。
内側で獣がうなりを上げている。満たされないと不満をにじみ出している。噛み砕くに値しないと、動かない。
獣を縛り付ける鎖をおれは感じた。こんなものがいつの間にあったのか。だからこそおれは満たされないのか。おれを満たすための行動に投入できないのか。
その鎖とはなんなのか。失ったはずの、思い出せないなにかと関係しているのか。
女の目が開いた。おれを見た。声は止まなかった。体を支配した熱に身を任せ、おれの動きに身を任せた。ねじったシャツから腕を抜き、おれの首に手を回した。
抱き寄せられる。
女の胸に顔を埋める。
おれは動きを止めていた。
熱い液体が胸の谷間に流れ込み、そこにあった汗と混ざり合い、頬を濡《ぬ》らした。
おれは、泣いていた。
女の、熱の残滓を伴った息が長く吐き出され、おれの髪を揺らした。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
裏切り者と囁かれる。
枯れた声、枯れた手、枯れた感触。
水気を失ったその存在におれは縛られている。おれの首に手がかかっている。締め上げる。だが、おれの首を絞めるには、呼吸を止めるには、その手にかかる力は弱すぎる。
怨嗟《えんさ 》の声がおれに降り注ぐ。
裏切り者と囁き続ける。
強欲の限りを尽くし、なにもかもを奪ったというのに、憎悪は無視するのか、恨みは無視するのか、死の願いは無視するのか。
そう訴えている。
首を絞めるその顔を、おれは見る。細く枯れた、枝のような手だけがおれの目に映る。瘤のように膨らんだ|肘《ひじ》が映る。尖《とが》った指が喉に刺さる。
だが、顔は見えない。手しか見えない。
熱い水の感触がおれを包む。息ができない。だが、おれは死なない。死ぬことはできなかった。
だからここでも死なない。
これは夢だ。
夢であることがわかっていた。おれはおれの首を絞めるその手を眺めた。記憶を辿る。だがその先には、眼前にあるような闇しかなかった。そこにあるべきものがぽっかりと抜け落ちている。その闇がおれを包んでいる。
その向こうにあるはずなのだ。
だが、おれの手は届かない。どれだけ伸ばしても、おれの首を絞めるそいつには届かない。問いかけることもできない。名前を呼ぶこともできない。切実におれはこいつを望んでいるのに、おれの手は届かない。
落下を続ける。
どこまでも落下を続ける。
掴むものはなにもない。おれは落ち続ける。どこに落ちるのか。辿り着く場所はあるのか。辿り着いた時、おれは死ぬのか。
首を絞める手に触れる。張りを失ったその手が、おれは愛《いと》おしい。
これこそが欲しかったものだ。おれの強欲が狙いを定めたものはこれだ。噛みつけ、食らいつけ、こいつの憎悪ごと、全てを手に入れろ。
獣よ、目覚めろ。
だが、手しか見えないではないか。
それでは足りないのだ。
全てが欲しいのだ。
全てが……
夢だ。
目覚めた時、おれは女の腕の中にいた。ジャニスだ。彼女の寝息が額に当たる。おれは動くことなく、いままで見ていた夢にっいて考えようとした。
だが、それは答えのでない問いだ。いままで、ずっとそのことについて考えてきた。それなのになにも出てこない。
なら、それは考えても仕方のないことなのかもしれない。
そう割り切ろうとする。だができない。しかし考えることも不毛だ。
すればいいことが思いつかない。おれはジャニスの腕の中で、その感触に沈もうとする。それも許されない。意識はすでに|覚醒《かくせい》し、眠りはどこかに去っていた。彼女の腕から、ベッドから抜け出し、冷たい空気に素肌を晒す。服を着ておれは部屋を抜け出た。
早朝にはまだ早い時間だ。外は暗かった。宿泊施設に人の気配はなく、フロントにわずかにいるばかりだ。しかし、その奥ではなにやら人の動く気配がある。朝に向けて活動を開始した施設の職員たちの動きがそれとなく感じられる。朝が近いのだと、その静かな活動が告げている。
外縁部を歩く。空気が冷たい。ゆっくりと、しかし大きな一歩を踏む都市の足の動きを目で追いながら歩く。
届かないものについて考えるのは止めよう。
歩きながら、おれは結論を導き出した。
いまは。いまのところは。
それを手に入れるためには、おれにはなにかが足りないのだ。欠損部分ばかりが目につくが、それを取り戻すためには一足飛びでは無理だ。問いに答えが出せないということはそういうことなのだ。
割り切らなければならない。思い起こせば飢餓感が湧く。だが、すぐには手が届かない。足りないものを手に入れるための、さらになにかが足りないのだ。時間か、手順か。
とりあえず、おれの身になにが起きているのか、それを知ることこそ重要だろう。時間の流れに置いていかれている。そのことについてもっと真剣に考えなければならない。
ジャニスでは提示できない答えを手に入れなければ。
だが、そうするにはなにをすればいいのか。ジャニスはおれを動かす力と呼んでいた。おれは、なにかによってこうなるように仕向けられているのか。
それを見つけ出すにはどうすれば。
答えは簡単だ。
ことが起こった時を見定めろ。リンテンスを殺さなければならないと思った時、滅んだ都市に流された時、そういう、常識では考えられない状態になった時にその力は動いているはずだ。
おれを操り、そして飼い慣らそうとする意思が、そこにあるはずだ。
それを捕らえる。
一度や二度ではだめかもしれない。だが、何度もそれが起こればいずれきっかけを掴めるに違いない。力の正体に辿り着くに違いない。
その時のために、牙を磨くのだ。
そしてその時にはかかった時間に比例した復讐を与えよう。
おれから奪ったのだ。生きる場所を、じいさんを、親父を、兄貴を、おれがいずれ殺すつもりであった者たちを、奪うはずであったものたちを、都市民たちがこれからも放つはずであった憎悪の刃を、そして、思い出せないなにかを奪っていったのだ。
対価は決して安くないということを、教えてやらなければならない。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
悪女と強欲V
[#ここで字下げ終わり]
「結局、あなたは今も昔も飼い犬ということね」
「言ってくれるじゃないか」
「噛《か》みつく噛みつくと言いながら、噛みつけない。それはどうしてなのかしら」
おれはなにも答えられない。ただ、怒りが蓄積していく。
だが、この怒りを無意味に吐き出すことこそ、おれの敗北を意味している。
そして、現状、その通りなのだ。
おれはなにかに操られ、そして操られ続けている。
噛みつく言葉も虚《むな》しく、おれは沈黙する。
しかし少女は、沈黙を許さない。
続きを請われ、おれは口を開く。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
第三章――塔――
[#ここで字下げ終わり]
十日が過ぎた。
都庁の高さは変わらない。
「いつやる気だ」
食堂でリンテンスが|呟《つぶや》いた。おれとジャニスとリンテンス。食事時にはいつも同じテーブルにいた。申し合わせたわけではないが、いつの間にかそういう流れになっていた。
言葉は、ジャニスの都庁への侵入を意味している。
「そう焦らなくても、次の放浪バスはまだ来てないんだし」
ジャニスが苦笑気味に笑う。
窓の向こうに都庁の巨大な姿を見ることができる。頂上部分がどのように工事されているのか、ここからでは見えない。だが、基礎部分の拡張工事と、最上部に資材を運ぶ動きは眺めることができる。
高さは今なお増し続けているのだろう。あんな大工事を延々とやり続け、よく都市の行政が持つものだと思う。いや、そもそもあんな大量の資材、どこからわき出しているのか。
「なにを待っている?」
おれは会話に参加していない。じっと、都庁の工事を眺めていた。都市の足が生み出す騒音に比べれば、工事の音はささやかなものだ。そしてその足音に生まれた時から慣れ親しんだ都市民にとって、工事の音という慢性的な騒音はないに等しいに違いない。だが、ヴェルゼンハイムにはなかったものだ。おれはそれを聞きながら、二人のやりとりを反対側の耳で聞いていた。
「待つって、それほど意味はないわよ。でも、ばれて追いかけられた時のこと考えたら、放浪バスがいる時の方がいいでしょ」
ジャニスの言い分はおれにはもっともをものに聞こえる。
「違うな」
だが、リンテンスはそれを否定した。今日のこいつはいつもより不機嫌だ。そんな気がする。
おれとジャニスが同じ部屋から出てきたのを見た時には、表情一つ、声色一つ変えなかったというのに。一体、なにがこいつを不機嫌にしたのだろうか。
「もう少し我慢しなさいよ」
ジャニスがそう言った。
「あなたの綱糸を存分に使う戦いを提供できると思うわよ」
聞いている側からすれば、話が違う場所に飛躍したように思えた。おれの目が窓から二人に向けられた。リンテンスの不機嫌な目が、疑わしげに細められていた。
「そして、きっと、この都市から出て行き着いたところで、あなたの旅は終わる。あなたはいままで見たこともないような強者《つわもの》に出会うし、あなたがいままで体験したことのないような戦いもできる」
「聞いたぞ」
「約束はしないけどね」
リンテンスが席を立つ。その背を眺める。いつだって、先に席を立つのはリンテンスだ。
「なんの話だ?」
おれが尋ねる番だ。
「あれはね、女よりも酒よりもお金よりも、他のどんなものよりも戦いが好きなのよ。自分の技を磨き上げることが好きなの。だから、不満がたまってるのよ。戦いがないから」
「ああ」
不機嫌の理由はそれなのか。
だが、この間のグレンダンとかいう都市での戦いから、まだ十日しか経っていない。そんな短い期間で不満を溜《た》められては都市としてはたまらないだろう。
|呆《あき》れるしかない話だ。だが、強者というものはそういうものなのかもしれない。戦いに特化した者は、戦いがなければ生きていけない。
そんなものに違いない。
「あいつなら、どんな都市だって土下座して定住してくださいつて言いそうだがな」
「でも、彼は富には目もくれない。どんな美人にだってなびかない。彼を引き留めることができるのは戦い。ただそれだけ。そして、戦い好きの都市なんて普通に考えたらありはしない」
「あるのか?」
さきほどのジャニスの言い分はそれがあることを保証していたとしか思えない。
「あるわよ。だから彼に見せたんじゃない。グレンダンを」
「ただ名前が同じ、というわけではなかったんだな」
「当然よ」
ジャニスが少しだけ得意な顔をする。おれは、そんな彼女を見てもなにも感じないことを自分の内側で確認した。
あれから、何度かこの女を抱いた。
だが、無様を|晒《さら》した一度目以外ではなにも感じない。普通の女を抱いた感慨しかない。
健康的な美しさを持つ女。抱けば、それだけなのだ。
しかし、この女は普通の女ではない。魔女だ。おれにはそうとしか思えない。
この女が何者なのか。おれはもう尋ねることをやめていた。おれにとって必要なことならばすでに教えているはずだ。わざと教えないのであれば、それを無理に聞く方法がおれにはない。武芸者の脅しなどものともしないだろう。あるいは死すら、拷問すら恐れないかもしれない。
それに、拷問は趣味ではない。
「それにしても、次の放浪バスっていつ来るんだ?」
気になることと言えばそれだけだ。あるいはジャニスはこの都市でなにかが起こるのを待っているのかもしれない。いや、おそらくはそうだろう。なにかが起こるのだ。そしてそこには戦いがある。リンテンスに供するための戦いがあるに違いない。
それは、どんな戦いなのか。
「飽きたの? ここから出ないからよ。観光でもすれば少しは気が紛れるんじゃないの」
ジャニスはおれの考えなど見通しているだろうにそんなことを言う。
「あのどでかいの以外でこの都市に見るものなんてあるのか?」
それに、あの塔のおかげで常に都市の半分が目陰に沈んでいる。外来区という都市の外側から確認しただけでも、陰気な町並みを想像できてしまう。
「それは、人それぞれというものでしょ」
ジャニスの言葉には含みがあるように思えた。
その含みの意味を知りたくなり、おれは街に出た。手続きは面倒ではないが、厄介ではある。
外来区の門で宿泊施設の発行した身分証を渡し、そして武芸者であれば|錬金鋼《ダイト》を預けなければならない。都市内部に保証人がいれば別らしいが、そんな者はいない。一度外来区に戻って壁を越えることを考えたが、それも|億劫《おっくう》になって素直に錬金鋼を渡した。
騒音がより近くなった。そこら中で工事をしている。資材運搬の車両だけでなく、交通の生命線である路面電車まで貨物車両を常に引いていた。どこからそれほどの資源を手に入れているのやら。セルニウム鉱山はその他の金属資源も掘り出すことができるが、年に数回の補給だけでこれだけの量の資材を手に入れられるとは思えない。
「なんかおかしいよな、この都市は」
知っている都市はヴェルゼンハイムしかない。しかしこれでも、都市の行政に近い場所にいた。
これだけの資源が簡単に手に入るはずがないことぐらいはわかる。
最初から当てはない。おれは外来区の門から続く大通りを歩き、そこに並ぶ商店を眺めるともなく眺めた。
都市には、意外に活気があった。どこを見ても資材運搬車と拡張工事のために解体作業に入った建物とそれを行う作業機械が目につく。その隙間を縫うようにしてある商店とそこを行き交う人々には|憂鬱《ゆううつ》さは見受けられなかった。
ヴェルゼンハイムとは違う。
おれの顔を見れば下を向いていた連中とは違う。
思いつき、おれは図書館に向かった。身分証を提示すると限定付きで中に入ることができた。
個人用に区分けされた端末の群れの中から空きを見つけ滑り込む。端末機に身分証を差し込み、起動。
調べたいのは、都市名簿だ。ジャニスが調べ、グレンダンに行き着いた名簿。おれは検索欄にヴェルゼンハイムの名を打ち込んだ。
答えはすぐに返ってきた。一件。礫砂《れきさ》都市ヴェルゼンハイム。強欲の文字などどこにもない。
だが、おそらくはこれがおれの生きてきた都市の名だろう。そうか、礫砂都市という名前だったのか。おれは素直な感動を覚えた。廃都市群があるところから付けられた呼び名だろう。マスケインの一族が現れたことでその名は消え、強欲都市となった。だが、そのことを外へと伝える者はいなかったようだ。
そしてヴェルゼンハイムの名は、一つしかない。この事実はどちらの意味を持つのだろうか? スーツの老人。じいさんと重なるようにして現れた死者。あの男の願望がおれたちに形を与えたのだとすれば、そもそもあの死者はどこにいたのか? 別の世界か、それと礫砂都市と呼ばれていた頃のヴェルゼンハイムにいたのか? 後者と考えるのが普通だ。だが、おれはどうしてもその答えに納得できない。
そうであってほしいという願望か? まさか。おれはいま、なによりもはっきりとした事実と現実を求めているというのに。
『三十七年前より、放浪バスのナビゲーションシステムから消失』
ただこれだけの文章が礫砂都市の全てだった。おれの知る強欲都市を共有できるものはデータの中には一つとしてない。
ジャニスは三十年以上前と言っていた。それが三十七年前という正確な数字に変わった。
これは収穫か、それとも無意味か?
おれは|諦《あきら》めて、図書館を出た。
大通りに戻る。再び、当てもない散策を始めるしかない。やることなど他に思いつかない。どこに立っても塔の存在がおれに重くのしかかってくる。ひどい重圧感だ。こんなものに見下ろされて、この都市の連中はよく普通に暮らしていけるものだ。都市の足と同じように、慣れればないと同じように扱えるのか? なんとなく、おれは辺りを観察した。
買い物途中で知り合いに出くわしたらしき主婦たちが明るく話している。映画館の前には屋台が並び、片方に子供の手を、片方に屋台で買った菓子とジュースを持って中に入っていく親子連れがいる。遊技場の前には少年たちがたむろし、入っていく。学生らしい連中がカフェのオープンテラスで議論している。恋人たちは笑い会い、工事現場のガードマンが笑顔で通行人たちを危険な場所に近づけないようにしている。
笑顔がそこら中に散らばっている。大安売りだ。そしてヴェルゼンハイムでは決してみられない光景だ。
少なくとも、おれの前ではけっして展開しない光景だ。
驚きだ。
この都市が意外に平和で活気があるなんて想像すらしていなかった。この塔は都市の支配者の顕示欲としか思えない。だが、都市民たちはそう感じていないのだろう。時に空を見上げ塔を見る。その巨大さを見る時、どこか誇らしさが浮かんでいるように思えてならない。天気を確認するような気分で、塔を見上げ、語り合っている。
目の錯覚か。きっと、そうではない。
都市民たちは、本当にこの塔のことを誇らしく思っているに違いない。
おれは、急に興味が湧いた。
この都市の支配者に会ってみたい。
唐突にそう思ったのだ。
見て、それでどうするつもりなのだろう。じいさんと比べるか、親父と比べるか。そんなものには意味がないとわかっている。
だが、下衆を見抜く目はあるつもりだ。
この都市の支配者が都市民を|騙《だま》す詐欺師か、それとも都市に希望をもたらす正しい者なのか、それを知りたい。
下衆なら、これ以上見る必要はない。
だがおれは、正真の善人という者を見たことがない。
いるのならば、見てみたい。
急にそんな気分になった。そしてその気分におれは疑問を持った。
だが、とにかく塔だ。
侵入して、都市長の面を眺めるのもいいだろう。
そのまま都市内部で夜まで待ちたかったが、この都市は外来者のチェックが厳しい。おれは一度戻り、それから一日かけて外来区を歩き回った。抜け出すのに適当な場所を見つけるためだ。
夜になり、食事をし、部屋に戻る。ジャニスがやってきて、おれは受け入れた。
「おもしろいことがあった?」
ベッドでジャニスが尋ねてきた。
天井を見上げるおれを覗《のぞ》き見てくる。裸身を隠すこともしない。この女には甘えがない。抱いた後も態度に変化はない。この女にとって性とは、男とはそれぐらいの意味しかないのだろう。
「なんで、あの塔に登りたいんだ?」
同じ質問を最初の頃にした気がする。だが、確かめてみたくなった。
「言わなかったかしら? 珍しい景色が好きなの。できれば、誰も見たことのないようなものを見たい。それは、あたしにとって世界を独り占めしたにも等しいことなの」
「世界ね」
「あたしはただそれだけのために生きてるわ。そして一度は達成した。誰も見たことのない。そして、あたし以外の誰も見ることのできない景色を手に入れることができた」
でも……と続く。その先にどんな言葉があるのか、おれには簡単に想像できた。
「次が見たくなった」
「そう。それに、結局それは、あたしのためにあたし自身が用意したものでしかない。ということに、すぐ気付いたしね。それは確かに感動を与えてくれたけど、結局、あたしの想像力を越えることはなかった。あたしは、あたしが想像できないものが見たいのよ」
「じゃあこれは、それまでの暇つぶしか」
「暇つぶしでもあるわね」
「それ以外になんだ?」
「音なじみにちょっとした恩着せかな」
|微《かす》かな笑みを浮かべるジャニスを見て、おれは彼女の昔なじみというものについて考えた。
魔女の昔なじみとはどんなものなのだろう。
もちろん、答えなど出るはずもない。
夜が明け、そして再び日が落ちるのをおれは待ち、施設を出た、施設そのものを抜け出すのは簡単だ。さらに外来区内部にある監視カメラの位置も確認している。機械的な視線を避け、おれは壁を飛び越えた。
飛び越えれば後は簡単だ。大通りを都市民の振りをして進み、塔の前に立つ。大通り周辺の警備状況は観光をした時に確かめている。人の目はどうとでもごまかせる。問題の監視カメラの位置も内部に侵入するまでならばどうにかなると判断した。
マスケインの一族は泥棒の家系だ。じいさんはヴェルゼンハイムという都市を盗んだ。一族に伝わる武芸者としての技も、こういう隠密《おんみつ》行動を取るためのものが多数ある。おれはそれらを駆使して塔の内部に侵入した。
内部で、堂々と案内板を読む。都市警察本署を例外とすれば、地上一階から二十階ほどまでは基礎部分の拡張工事でのみ込まれた各種企業や商店のためのスペースとなっていた。二十階以上に行政施設が集まっている。
それでも機能しているのは三十階までだ。現在で千六百メルトルあるのならば、一つの階の高さを五メルトルとしでも単純な計算で三百階以上という数となる。現在使われているのは三十階ほど、残り一一百七十階は無意味な空間となっている。将来的に一二千メルトルの高さに達したら、都市民の全てを塔の中に受け入れるのだとしでも、空間は十分に余ってしまいそうだ。
「なんで、こんなもの作ってんだ?」
おれは単純な疑問に改めて首を傾げた。
人間が常に合理的であるはずがないのはおれ自身を省みればわかることだ。しかしこいつは規模が大きすぎる。おれの強欲など羽虫のようなものだとあざ笑っているかのようだ。
なにが人にこんなものを作らせるのか。
都市民たちはどうしてこんなものを作ることを受け入れ、誇らしげにしているのか。
まるで理解できない。
一つの偉業ではあるが、偉業で腹が膨れるわけではない。この塔ができればなにかが解消されるのか。例えば、汚染獣に|怯《おび》えることのない生活。まさか、逆に汚染獣が寄ってきそうだ。
案内板を読み終わる。ここにあるのは各階層の大まかな説明。五階までの細かい説明。そして一階全体図と近隣区画の詳細図だ。それらを全て見て居住区はまだ存在していないということが判明した。
なら、やはり問題は監視カメラか。
階を上がるためにはエレベーターか階段ということになる。そのどちらにも監視カメラはあるだろう。カメラを統括する部屋へと行き、それらを停止させるなり偽造のデータを流し込むなりするのはそれほど難しい作業ではない。
それをするか?
少し考える。だが、それとてやはり|痕跡《こんせき》が残る。
なら、残る方法は一つだ。
これほどの建物だ。|剄《けい》を感知する監視装置もあるかもしれない。武芸者の隠密移動の基本、殺到をどこまで維持できるか……考えながら、それを実行した。
見つかったとしたら、その時はその時だ。
おれは階段を選んだ。エレベーターではどうしても移動の痕跡を残すことになる。
やり方も、頭に浮かんだ。
殺剄とは、人間のみならず動植物が、自己が存在していることをそれとなく周囲に放射する存在感を消すということだ。決して肉体的に他者の知覚から消えるわけではない。ただ、存在感がないものを人は見たとしでも気にすることはない。知覚されたものは、無意識のうちに脳内で処理される。興味の対象、あるいは危険の対象、知覚したものにとってそれらがなんらかの対象となりえるものにしか目は行かない。視界の端で不可解な動きをするものがあれば確かめずにはいられないのは、それが自分にとってどういうものなのかを再確認するためのごく自然な行動だ。
殺到はその存在感を打ち消す。そうしている間はたとえ密室に二人きりでいたとしても、最初にいることを知られていなければ気付かれることはない。
与もちろん、穴はある。道に落ちている、たとえそれに足が当たったとしでも躓くことはないだろう小石だとしても、そこにあると認識されてしまえば、殺剄の意味はなくなる。密室で二人きりならば、たとえ最初に気付かれなかったとしてもいずれはばれる。
戦闘でならば、その、認識されるまでのわずかな誤差は有利に動く要因となる。しかし、日常生活での活動となれば、そんな|些細《さ さい》な認識のずれにどれほどの意味もない。
特に、動き回るとなれば殺剄の維持はかなり難しくなる。道に落ちた小石が勝手に動いていれば目がいってしまうのと同じようなものだ。
だが、石は石だ。そして、名は体を表すように、これは武芸者が戦闘状態にある時の剄の発散を抑える効能もある。激しく動けばそれだけ殺剄の維持が難しくなるのは、むしろこのためだ。
剄そのものを見たり感じたりできる武芸者は、それほど多くはない。しかしそれでも、剄というのはエネルギーの一つだ。無形・不可視で放たれたものとはいえ、それを察知することは武芸者でなくとも、生物に宿した本能によって可能だ。
武芸者は、誰よりも気配を強く放つ生物であると言える。
おれは、殺剄という名そのもの。剄を殺すという部分が必要だった。
階段はすぐに見つかった。
予想通りに踊り場付近に一つ監視カメラがある。剄を感知できるものかどうかまでは、この位置からではわからない。
カメラに見えない位置で深く息を吸う。体内で剄を練り上げ、肉体を強化する。同時進行で体外に余剰分として放たれる剄を、殺剄の技術で抑え込む。
後は、速度とタイミングだ。
そして一回目は、完全に運に頼るしかない。
覚悟を決めて、飛び出す。階段を駆け上がり、踊り場で向きを変え、再び駆け上がる。二階の監視カメラの届かない場所にまで一気に移動し、それから息を殺した。
警報装置が作動した様子はない。
警備員が様子を見に来るということもなさそうだ。
うまくいった。おれは確信した。
監視カメラは映像を記録するものだが、決して、絶え間なくカメラの向こうの光景を記録しているわけではない。一秒間を何百、何千という絵として切り分けて記録しているのだ。そうなれば当然、切り分けられて記録されない瞬間というものが存在する。何百、何千分の一という常人なら知覚不可能な時間だが、存在はする。
それを利用した。踊り場まで一気に駆けてカメラの死角に移動し、そしてまた階段を駆け上がる。そういう作業を行ったのだ。
武芸者の速度があってこそ可能な行動だ。
だが、普通であれば体外に排出されるはずの剄までも殺剄でとどめておかなければならない。
体に負荷のかかる方法でもある。
「これを、もしかしたら三百階までか、きちい」
自分で考えたことながらも愚痴がこぼれ出る。
おれは、次の階目指して大きく息を吸った。
まず目指したのは都市庁の執務室だ。都市庁の顔を見るだけならばそいつの屋敷に潜入すればいいだけの話だが、むしろそちらの方が警備が厳しいだろうという思いもある。無人の塔の方がたやすい。そう考えた、別に行政施設内にある重要情報を盗もうというのではないのだ。そういう場所に触れないのであれば、この方法が一番手っ取り早い。
そして、この塔を見るということもまた目的の一つとなっていた。
ジャニスのように千六百メルトルの高みから見下ろす光景に期待しているわけではない。
塔に挑戦すれば、これが作られた意味を知ることができるような気がしたのだ。
執務室には誰もいなかった。三十階にその部屋はあった。警備員の気配を何度か感じたが、その数は少ない。都市庁という最重要人物が控えている警備体制とはとても思えない。
いない。
執務室にまで入り込んだわけではないが、そう見当を付けた。
親父のように塔内部にプライベートルームを作っている様子もない。
では、次の目的を完遂させるか。
少しだけ荒くなっていた呼吸を整え、おれは最上階を目指し始めた。
無意味な行動だと感じたのは五十階に達してからだった。一度、長い休憩を取った。三十階を超えてからは警備員の姿もなく、機械的な警備網も四十階を過ぎた辺りから惰弱になった気がする。これ以上は殺到での隠密行動に意味はないのかもしれない。しかし止める気にもなれない。
奇妙な意地がおれを支配していた。自分がどこまでできるのかどこまでやれるのか、それを確かめずにはおれないような、そんな気分になってしまった。
千六百メルトルの塔。
馬鹿げた数字を体現した天を突く柱。
それを誰にも知られることなく踏破する。そんな、どうでもいいことに熱中しつつある自分に気付いた。ガキのようだと思った。誰に褒められるわけでもない。誰に誇るつもりもない。ただやり遂げたという達成感だけを欲して塔を登り詰めようとしている。
ジャニスの気持ちが少しだけわかるような気がした。
それと同じように、おれの中で、なにかが
「登れ」と|囁《ささや》いていた。
来た。そう思った。だがおれは息を潜め、いまは塔に登ることにガキのように熱中していなければならない。
休憩を終え、おれはまた登り始める。
殺剄を使ったまま階段を駆け上がっていく。体内に排出できない剄が溜まっていく。胸焼けのような気分の悪さが全身を巡る。体の中でそんな剄が|淀《よど》みを生み、足を重くさせる。止まる。休む。淀んだ剄をゆっくりと体外に排出する。
繰り返すごとにばかばかしさと虚しさが堆積《たいせき》していく。それは吐き出しきれなかった淀んだ剄のようにおれの気持ちを重くしていく。殺剄を解いて一気に駆け上がってやろうかとも思う。あるいはエレベーターを使ってやるか。ばれたところでかまうものか、邪魔する者全てをなぎ払い、力尽くで頂上に達してやる。
その方が、おれらしいのではないか。
登れ登れ、早く登れ。方法なんて何でもいいではないか。もっと早く、もっと迅速にこの塔を登り詰めろと囁き声が聞こえてくる。あの声だ。おれを操ろうとするモノの声だ。そうに違いない。この塔に登らせたがっている。なぜだ? この上になにがある? 登れ登れと囁いている。どんな方法だって登ったことには変わりない。頂上から見る景色に変わりはない。もう、遮るものはなにもない。お前を遮ることのできる者は誰もいない。一気に駆け上がってしまえ。それぐらいは簡単なことだろう。
囁き声がはっきりと聞こえてくる。
疲労が積み重なったいまのおれには甘い誘惑に思えた。
同じぐらいに、一度始めた方法に徹するべきだという気持ちもある。意地だ。やり始めたことを、その方法を、邪魔が入ったというわけでもないのに変えるということが敗北に|繋《つな》がるように思えた。目的のために手段があるのか、手段のために目的があるのか、その境が|曖昧《あいまい》になっているのだ。都市の長はいなかった。当初の目的は失っている。登ることに意味はない。隠密にそれをなすことの意味は失われている。
いまは、この囁き声の正体を確かめるために登っている。だがその囁き声が本当におれを操るモノの声なのか、それともただの惰弱な心の声なのか、自信はない。
百階に|辿《たど》り着いた時、岐路に立ったと感じた。
もはや同じ方法を使う以外で上を目指すことをおれの意地が許さなかった。それ以外では心が折れたということだ。素直にエレベーターを使って降りるか、それとも窓から跳び出して塔の外壁を全力疾走するかを選ぶ方がまだ建設的だ。
「ここまで来てなにもなしで帰るのは、さすがにかっこわるいだろう」
呟きが誰もいない空間に響く。この辺りの空間は外壁と柱以外にはなく、注意する必要もないほどに人の気配はなかった。出来たてのビルのような粉っぽい臭いが漂い、電気系統の工事が建築速度に追いついていない。殺到をする必要もない。
だが、上を目指すのならば同じ方法でなければ許されない。囁き声の甘い誘惑は続く。首に、あの乾燥した手が触れているような気がする。それを感じることは|恍惚《こうこつ》と忘我の縁におれを立たせる。だが、そこから戻る。
その腕を掴《つか》んで抱きしめたい。だが、それは即ち、囁き声に従うということだ。
おれの心は、それを許さない。
一つの修行のようでもある。ようではなく、すでにその境地に達していた。ヴェルゼンハイムの練武場で無心に|鉄鞭《てつべん》を振るっていた時となにもかわらない。殺到の修行をしているのだ。殺剄を維持したままでの高速移動をどれだけ行えるか……速度と持久力を鍛えている。
そう考えなければやっていられない。
続けるか、止めるか。頭の中で天秤《てんびん》が揺れている。そして一度片方に傾けば、もう後戻りは許されない。誰が許そうとも自分自身が許さない。そう考えながら、呼吸を整える過程で揺れる天秤を眺めている。
「行くか」
立ち上がった。その時には、傾ききった天秤を頭の中から追い払った。
もう、後戻りは許されない。
体がかなりきつくなっている。だが、もう登り切ると決めたのだ。それならば行くしかない。
殺剄の維持。駆け上がる。ひたすらに駆け上がる。
速度をあえて上げた。二十階ごとに休憩を取る。だが、座り込むようなことはしない。そうすれば立てなくなる気がしたのだ。休憩時間もなるべく短くする。体の重さに速度が引きずられないように気をつける。一定の速度を維持する。一つ一つの行動が粗くならないように気をつける。
精密的な作業。それは愚者の一撃を信条とするおれにとって正反対に位置するような作業のように思われた。不似合いであり、やるべきではないことのようにさえ思えた。
囁き声がそれに賛同する。悪人がなにを言っていると、嘲笑《あぎわら》ってもいた。
そんな考えの全てを敗者の呼び声と決めつけて、登り続ける。止める時はあったのだ。自らに選択の機会を与えたのだ。その時に決めた。ならば駆け上がるしかないのだ。
走り続け、登り続ける。
滲《にじ》み出る汗に嫌な臭いが混じっているような気がした。
その臭いがじいさんと同じように思えた。
腐臭。
おのれの内部に潜んでいる、じいさんや親父たちの中にあったものが今頃になって姿を現したか。あの時、なぜじいさんたちだけが消え、おれは残ったのか。疑問は絶えない。
囁きを無視するおれに、業を煮やしたか?
だが、それ以上は考えない。
走るのだ。そしてそのことしか考えるな。
思い返せば、ここまで自分が没入することがヴェルゼンハイム以来あっただろうか? ここにとどまるようになって武芸の修行は行っていない。リンテンスとの、そして過去のグレンダンでの戦いでは常に疑問があった。
それら全てを追い出して、こうして走る。剄に身を任せる。己の身から生み出される剄の流れに身を浸す。そんなことさえもしていなかった気がする。
休憩に入る。全身から染みだした汗から、はっきりと腐臭を感じた。吐き気さえ覚える。止まればこの臭いを嗅《か》ぐことになる。それが、おれに恐怖を感じさせた。じいさんとおれが、同じになっていくような気がした。なにか、はっきりとした形を得て、おれを掴もうとしているかのように感じられた。
もう、休むことさえできない。
残りは百六十階ほどか。休みなく走ることを決める。剄脈の限界について考えた。だが、それは一瞬だ。臭いが、腐臭が、おれの体内から滲み出してきたものが形を得、追いかけてきているような気がした。振り払わなくてはならないと考えた。嗅げば、それに囚《とら》われる。うちから吐き出されるものを全て疾走の果てに置いていかなくてはならない。
足を止めれば、それに捕まえられる。
二度と、戻ってこられなくなる。
どこにだ? じいさんたちと同じ場所に連れて行かれるのか? それとも、ジャニスの言う後戻りのできない場所か、その二つに違いはあるのか? どちらであろうと、自分の望む場所ではなさそうだ。
だからこそ、走るしかない。
走り続けるおれの背後になにかが生まれようとしている。濃密な腐臭が固体化し、おれに手を伸ばそうとしている。それから逃れるために走る。いや、関係ない。おれは頂上を目指すのだ。
汗は次々と生まれる。いつもならば体内から放射される剄に弾《はじ》き散らされる。高速移動がその代わりをしてくれるが、|完璧《かんぺき》ではない。汗とともに滲み出した脂質が汗の成分を体に残す。腐臭に包まれる。吐き気がする。しかし止まらない。止まってはならない。
走り続ける。そうすれば臭いはおれの背後にいる。前に出てくることはない。おれを掴むことはない。置き去りにできるのか、できないのか。その疑問が頭をよぎり、そしてその疑問すらも背後に投げやって走り続ける。
背後をなにかが圧迫する。それは現実として形を得ているのか、それともただの妄想か。暗い塊となり、亡者の気となり、死者の妄執となっておれに手を伸ばす。掴もうとする。望むのはなんだ? おれの命か? それとも世界の外側とかいう不可思議な道理か? 何を望む? なにをなしたい? かなわぬはずの願望か? 異なる世界で果たせなかったものをこの世界で実現させたいのか? この世界と向こうの世界。なにが違う。向こうでなせないものがここでは果たせるのか? それほどに世界というのは違うものなのか。同じ人間がいるというのに、同じ形をして同じ性を持ち、同じ感覚を持っている人間たちで構成されている社会で、違う世界ということに意味があるのか?
そうだろう? そうでなければ、願望さえも違うはずだ。おれには理解できない。この世界の人間には理解できない願望を持っているはずだ。
金、酒、女、権力、暴力……おれたちの強欲はそんなものでしかなかった。お前はそれで満足していたのだろう? どうしてそれを、お前の世界で果たせない? お前の願望を、お前の世界で実現させなかった? お前の世界で、マスケインの一族は生まれなかった? 背後のモノはなにも答えない。ただ、圧力だけがおれの背を押す。おれを掴もうとしている。
それはもう、おれの愛《ぃと》しい、あの枯れた手ではなかった。別のなにかだ。
不快感しかない。それは幽鬼の執着だ。
すり替わったのか、それとも本性を現したのか。腐臭とともに現れたモノと、おれの愛しい腕は別の存在なのか。そうであって欲しい。関わりがあったとしでも別のモノであって欲しい。
おれは、走り続ける。
逃げているのか、目指しているのか、わからなくなる。
それでも走る。体が|軋《きし》む音がする。剄脈の鼓動だけが体を揺らしているような気分になる。
走る。その事実しか残されない。
もう怠惰を進める甘い誘惑は聞こえない。おれは疾走の中に投入し、その行為に投入した。
おれの体の中からなにもかもが吐き出される。鼓動が剄を生み出す。体の中身がすり替わっていく感覚。練武場でいつも感じていたあの感覚。そして止まった時にはいつもの現実しか残されていなかった。
現実は変わらない。
しかし、今度は現実の方が先に壊れた。ヴェルゼンハイムは崩壊した。じいさんも親父も兄貴も消え去った。
走り続ける。
いまこそ、剄と同一に、そのものになれる気がした。
そして、辿り着いた。
『300』と壁に文字が打ち込まれている。そして途切れていた。
強風が体を打った。力の尽きたおれの足は支えることを放棄し、そして強風に流されて転んだ。
汚染物質。そのことが頭に浮かんだ。エアフィルターの頂点はすでに飛び越えている。ここは人類にとって、汚染獣以外にとっての危険地帯。
軽率だったか。だが、体に痛みが走ることはない。
|怪訝《け げん》に思いながら周囲を確かめる。
月が近い。蒼《あお》い光が周囲を照らす。太いケーブルが辺りを這い回り、なにかの巨大な機材に繋がっている。エネルギーバイパス。そして強風の中で別の音も聞こえてくる。
ビルの端々で動くものを、おれは、見たことがある。
「疑似エアフィルター」
ヴェルゼンハイムでのみ見られる廃都群の中で発見される機材。荒廃した大地で生活し、そしてその再生を試みようとする者たちにしか意味のない機械。その情報がヴェルゼンハイムから発し、このメルニスクに辿り着いていたということか。
「そうです」
声は、中央付近からした。そこにも様々な機材が集まっている。それによってできあがった小さな山の中央に声の主はいた。
髪の長い、線の細い女だ。
その髪が、青く淡く光っているのを見た。
「念威繰者《ねんいそうしゃ》か」
情報収集に特化した、武芸者とはまた違う人類。それが念威繰者だ。念威端子と呼ばれるものを飛ばし、そこから得た情報を他の武芸者たちに伝達する。そうすることで戦場を把握し、効率よく戦う。そのために欠かせない人材だ。
それだけに、ヴェルゼンハイムには存在しなかった人材。
念威繰者の情報収集能力は、武芸者と同じように個人差こそあれ、脅威だ。汚染獣との戦闘、都市間戦争だけでなく、マスケイン一族に仇《あだ》なそうとする抵抗勢力にも力を与える。余計な弱点を見つけ出される可能性がある。
だから、殺した。
滅ぼした。
じいさんにとっては外の脅威と戦うよりも内側での戦いを厄介と考えていたのだろう。
そういうわけで、おれは念威繰者という生き物を初めて見た。
「よく、こんなところまで来ましたね」
淡々と、感情のない声でその女は言った。生気の抜けた顔をしている。念威繰者というのは、総じて感情の表現に乏しいという噂は本当のようだ。
「あんなやり方で。疲れるとは思わなかったのですか?」
「ばれてたのか」
「この塔そのものが、私の体内のようなものです」
「なんだって?」
「塔の建材の一部に念威繰者用の錬金鋼《ダイト》を使用していますので」
「つまりおまえが、この塔の防衛装置そのものってことか」
「そういうことです。この塔は来るべきものと戦うために作られていますから」
女は空を見上げた。女の髪は長い。その全身を覆うほどまでに長い。そのために気付かなかったが、女はかなり若く見えた。おれと同じか、少し上ぐらいのものだろう。少女とはもう呼べそうにない。それぐらいの年齢のはずだ。
無駄な苦労をした。だが、徒労感はなかった。疲労しきってはいるが、妙に体が軽い。やり遂げたという達成感がそうさせているのか。
「知っていたなら、どうして誰も呼ばなかった」
それとも、すでに呼んでここに来ている途中か。
「あなたに勝てる武芸者はここにはいません。騒ぎになって、外縁部にいるお仲間を呼ばれればさらに」
リンテンスのことか。
「仲間ではないけどな。しかし、助けを呼ばなくて、それでどうするつもりだ」
「なにもする気はないでしょう?」
聞き返してきた時、こちらを見た。湖面のように深い知性を宿した目がおれを映している。もしかしたら笑っているのかもしれない。そう思った。
「汚染獣と戦うつもりなら、こんな塔は無意味だ。呼び寄せるだけだろう」
「汚染獣など、相手にしていません」
「笑えるな、おれに勝てる武芸者がいないって言ったばかりだぜ?」
それなのに、汚染獣を相手にしないとは、どういうことなのか。
「この塔が完成すれば、その必要はありません。この都市が動く必要すらもなくなります。そうすればセルニウム鉱山も必要としなくなり、都市間での戦争もなくなります」
「自信だな」
「ええ、私がいますから」
女が立ち上がった。長い髪は女の身長よりも長く、コンクリートを打っただけの床で渦を巻いている。髪の一筋一筋、根本から先までまんべんなく念威の光に包まれた女はこの世の生き物ではないように思えた。
「あなたは、恐ろしすぎます」
風に木の葉が押されたように、それはどこからか流れてきた。蝶《ちょう》に似た形をした発光体。これが念威端子なのだろう。念威繰者が、その念威をより効率的に運用し、そしてより広域の情報収集を行うための触殊。念威繰者のための錬金鋼。それが、これなのだろう。
それが、一つ二つと女を守るように現れ、そしておれを取り囲むように現れる。
「もしかしたら、あなたが来るべきものですか?」
「なんだって?」
「普通の人には見えないでしょう。感じることもできないでしょう。ですが、この空を見上げ続けてきた私にはわかります。見えます。あなたは、恐ろしいものを引き連れ、そして取り憑かれている」
この女はなにを言っている。
「あなたには感じないのですか。あなた自身のことなのに」
女の目が険しげに細く引き絞られた。
「だから、なんの話だ?」
嫌な予感があった。念威繰者。情報を収集する特殊能力者。人間とも、武芸者とも違う生物。
だが、身体能力は人間並みであり、戦闘能力が高いわけではない。攻撃手段はあるが、それは護身用程度のものでしかない。武芸者が、目の前にいる念威繰者を恐れる理由はない。
そのはずだ。そう聞いている。
だが、嫌な予感は消えない。
「あなたの背後にいるモノ。あなたを縛り付け、そして操ろうとしているモノ。それが、あなたには見えないのですが?」
女の声に震えがあることに、おれは気付いた。
恐れている。
この女はそれが見えている。そしてそれを恐れている。
なにが見えている? おれの周囲はこの女の念威の光で満たされ、月光が押しのけられていた。水の中にいるような錯覚がおれを襲う。
おれは、振り返った。
いまなら見える、そんな気がした。
この女の念威がそれを可能にするような気がした。
この女の視覚が手に入れた情報が、この光の中に満ちている気がしたのだ。
念威の中に込められた情報をおれは受け取れる気がしたのだ。
それはただの錯覚か。
だが、事実、それはおれの背後にいた。
声を出すことはできなかった。息をのんだ。
こんなものがあったのかと、おれは立ち尽くした。
手が、伸びていた。おれに、おれの首に向かって。細く長い、枯れた腕が伸びている。|肘《ひじ》が際だつほどにやせ細った腕。おれの首に触れる指。細く長い、枯れた指。その先にある|艶《つや》を失った長い爪。
この腕に覚えがある。この手には覚えがある。この指先、この爪。全てに覚えがある。これはおれのものだ。おれのものであるはずだ。
それなのに、どうしてこんなものに付いている。
腕の先にあるもの。おれがずっとみたいと思っていたもの。見定めたいと思っていたもの。それがある。
だが、これではない。これであるはずがない。
そこにあるものは、顔、仮面、それら無数のもの、連なり重なり群がったもの。三つの切れ込みによって顔を現しただけの仮面が集合した奇怪なる…………
柱。
天へ。空へ。夜へ。そして月へと吸い込まれるように高く高く積み上げられた仮面の先に、おれのものであるはずの腕がある。
その中にいるのか。
どこまでもおれに、顔を見せないつもりか。
これが、ジャニスの言っていた、おれを操ろうとする力か。
こんなものが。
「こいつがなんだか、おまえにはわかるのか?」
首にかかる手に手を重ね会わせる。感触はない。すり抜け、届くのは自分の首の感触だけだ。
幻だと決めつけることはできる。この女が見せる何らかの詐術だと。
だがそれならば、どうしてこの手なのか。
「空から、その向こうから来るモノたちです。それ以上のことは私にもわかりません」
「空から?」
「この世界とそれ以外を区別する境界がそこに存在するのです」
「それが、おれになんの関係がある」
「私にわかるはずがありません」
女の言葉が素っ気なく響く。
「ですが、空の向こうから降り注ぐものは悪意です。そしてそれは、すでに一つの形として、この世界に満ちている。世界そのものへの憎悪として、この世界を枯れ果てさせようとしている」
おれの頭に一つの単語が浮かんだ。
「汚染物質」
女はうなずいた。
「それと戦うつもりか? この塔でなにができる?」
「できるのは強大な一撃。それだけです」
淡々とした言葉では、そこにどんな感情が込められているのかわからない。絶対の自信か。それともその程度しかできないという割り切りか。諦めか。
それでもなお立ち向かわなければならないという絶壁の境地か。
「あなたがどちらに傾くのか、私にはわかりません」
おれを取り囲む念威の光が濃度を増す。おれは|眩《まぶ》しさに目を細めた。
「あなたは不思議な人間。入ってきた時には向こう側の気配を漂わせていた」
「わかるのか?」
「この空を見続けていればわかるようになります。私ほど見続けた人間はこの世にそういないとは思いますが」
自信の言葉だろうか、やはりわかりにくい。
「ですが、私の前にいるあなたがどちらなのか、わからなくなってしまいました。そんなものを背負いながら、あなたからはそれと同じにおいがしなくなった。ここに来るまでに、なにがあったのです?」
わからないのか。それが。おれの侵入を察知したその念威でも。
「走ったのさ。いい汗をかいた」
おれがやったことは、それだけだ。
いつもは限界を見定めて止めていた。練武場での訓練ではそういうことができる。実戦では、おれに限界以上を強いるような敵は現れなかった。
だが、ここにはあった。
千六百メルトルという常軌を逸した建物が。それに挑戦するという状況が、おれのいままでの限界を超えさせた。剄脈の限界に挑戦させ、おれの肉体を活性化させた。活発化した新陳代謝がおれの中からなにかを吐き出した。吐き出しきったのだ。
吐き出しきったあの腐臭はどこへ行ったのか。いまだに塔を登り続け、おれを追いかけているのか、それとも、別の形でも得ようとしているのか。
ここに現れる気配はない。
「肉体に潜んでいた因子を、全て吐き出したと?」
「全部かどうかは知らないが、気分はいいな。あいかわらず、わけがわからないことだらけなのは変わらないが」
「そうですか」
女がうなずいた。納得したのか、周囲の念威端子が退いていく。
「では、もう少しの間だけ、あなたを信じてみましよう」
やはり、殺すつもりだったのか。背筋が冷たかった。念威繰者になにができるのか、おれは知らない。だが、たとえ護身用の武器でもこれだけ巨大なら威力は護身用では済まされないだろう。
そう思いながら、おれは踏みつけている床を思った。おれをこの高みに立たせている塔のことを考えた。
「こいつらは、放置するのか?」
おれは、背後の仮面の群を親指で示した。
「それらはまだ、現実の形を得ていません。……それは、あなたの心の中にいる」
「なんだと?」
「いえ、正確には違うでしょう。あなたの中にある向こう側と繋がる因子に食い込んでいると言った方が正しいのだとは思います」
因子。それがなんなのかと考えた時、おれの頭の中に浮かんだのはあの隻眼の死神のことだ。
ヴェルゼンハイムの崩壊を導き、マスケイン一族の化けの皮を剥いだ小型の端末機。その形をしたなにか。月夜色の少女を引き連れた隻眼の銃使いは、それを持ってどこかに消えた。持って行けと叫んだのはおれだ。あいつなら、なんとかすると思った。いや、あいつらは最初からあれを探しにヴェルゼンハイムにやってきていた。
あいつらはどこへ消えた? そしてあの小型端末機はどこへ消えた。
どこかでまだ存在し、おれを縛っているのか。あの死者はまだ存在し、おれたちという存在の夢を見ているのか。
考えればぞっとする。おれは首を振った。
「それはつまり、おれはまだ抜けきってないってことじゃないのか?」
「判断はできかねます。ですが、塔に入った時と、いまのあなたは違います。推測としては内部に潜在する因子が肉体に侵食していたものを新陳代謝で排除したということではないかと」
「ぼうっとしてるとまたおかしくなっちまうってことか」
おれは天を仰いだ。仮面の柱は夜へと伸び、月に根を張るように消えている。
あるいは、この群の仲間入りをしてしまうかもしれない。
冗談ではない。
が、まあいい。とりあえず、これは新たな一歩だ。
復警《ふくしゅう》のための。そして奪還のための。
防ぐ手立てはある。
考えるのは次の一歩だ。
こいつを、どうやってぶん殴る?
物理的にこいつに触れることができるようになれば、この腕を、その先にあるものを奪い返すことができる。
「……あなたは、どうしてそんな顔ができるのですか?」
女の問いに、おれはそちらを見た。
「そんなものを背負っているのに、どうしてそんな顔ができるのです?」
「どんな顔をしていた」
「笑っていました。とても楽しそうに」
「そうか」
笑っていたつもりはない。だが、気分が高揚しているのは確かだ。放浪バスの中で目覚めてからいままで、気分はずっと暗いままだった。それがこの塔を登り詰めてから変わっている。肉体がすり替わったからか。それもあるだろう。
塔の上から見る世界。ジャニスの気持ちもわかる。
月が、こんなにも近い。
手を伸ばせば届くなどとは思わないが、のしかかるようなこの圧迫感は、おれになにかを思わせる。不思議なことだが、おれはこの感覚をどこかで知っているような気がするのだ。
ジャニスが欲しがっている感慨とは、やや違うかもしれない。覚えがあると思っている時点で、そうだろう。
だが、悪い気分ではないのだ。
いまは、それで満足するべきだ。
なにより、自分の敵をはっきりと確認することができた。
「こいつをぶっ|潰《つぶ》せばいいんだろう。それがわかった。礼を言う」
女は沈黙している。
「それで、お前の敵は、いつ来るかわかっているのか?」
「もうすぐ、来ます」
「なんだと?」
「おそらく、あなた方とともにいる魔女とともに」
魔女と呼んだ。
ジャニスのことだ。
理解できているとは思えないが、あいつもこの世界の住人ではないようなことを言っていた。
この、夜の向こうから、あいつもやってきたのか。
仮面の柱と同じように、向こう側から。いや、言っていたのだ。おれの出会ったスーツの男、妄執の死者と同じように、別の世界から来たと。はっきり言ったわけではなかったかもしれない。
だが、そうとしか思えないことを言った。
それを信じた。いや、信じたふりをして、考えていなかっただけか。
あいつが何者なのか? そのことを考えようとしていなかった。
「……よっ」
そんな声が聞こえてくるまで、気がつかなかった。
塔の端に手が見えた。外側から、こちらに向けてかけられた指。その指が持ち主の体をおれたちの立つ床に運ぶのに、それほど時間はかからなかった。
「お前……」
「や、先駆けなんてずるいじゃない、ディック」
ジャニスだ。
「お前、どうやって」
「外壁を登つたのよ。ロッククライミングがあたしの特技だから」
両手の指先をひらひらとさせてジャニスが笑う。ロッククライミングなんて聞いたことがない。
しかし、どんなものだろうと一般人がこんな千六百メルトルもある塔の外壁を短時間で登り詰めるのは不可能のはずだ。
「やっぱりお前、人間じゃないな」
「経験の差よ」
平然とした顔で言ってのける。
だが、人間ではないという部分を否定したことにはならない。
そして、おれもまたそのことを理解しているつもりだ。こいつが人間ではないところを見たわけではない。だが、おれやリンテンスの状態を一目で見抜いた部分は常人の|範疇《はんちゅう》ではかれることではない。
「台無しよ。誰かがやった後を追いかけるなんて間抜けもいいところじゃない」
「いや、おれは外壁を登ってはいないぜ? それに、一番乗りって意味なら………」
この女もいたし、それにこの塔を建設している連中はどうなる?
「人工物に挑戦するんだから、関係者のことまで考えてられないわ」
その通りなのだが、それならおれのことも除外していて欲しいものだ。いや、冗談だろう。ジャニスの顔は怒っているようには見えない。
女を見て、微笑んだ。
「あなたが、魔女ですか」
「なんで魔女って言われるのかな、すごい心外なんだけど」
「あなたのことはわかります。この人よりもはっきりとわかる。あなたは向こう側の人です」
女の言葉に、ジャニスは曖昧な笑みを浮かべたまま答えることはない。
「なにをするためにここにいるのですか? この世界はこの世界として成り立っているというのに、どうして干渉しようとするのですか?」
「そうね。でも、完全な世界なんてものはないんじゃないかな。あたしの元の場所、その元となる世界だっていろいろあって壊れちゃったわけだし、あたしがいた場所もそうやって壊れていった。この世界はこの世界で、いろいろと不具合があるでしょ」
おれには理解できないことを、ジャニスが呟く。
「私たちは、それに対処できています」
「だけどそれは、問題が必ずしも解決するというわけじゃない。問題を後回しにできたとしても、解決できるわけじゃない。そしてこの問題は、あなたたちだけの問題でもない」
「どういうことですか?」
「この世界があるから不都合だと考える人がたくさんいるということ。そしてその一人に、あたしも入っているということ」
「この世界に消えて欲しいと思っている人ということですか」
「あなたは本当に、どこまで知っているのかな?」
「この空を、月を見ていればわかります」
女はそう言う。だがおれは、空を見ていでも月を見ていでもなにもわからない。すっきりとしているのは走ったからだ。仮面の柱が見えたのは、女の念威のおかげのはずだ。
おれには、空も月もなにも囁きかけては来ない。
ジャニスが月を見上げた。
「そうね、あなたたち武芸者や念威繰者はあれに繋がっているものね。特にあなたみたいな人なら、あれの声も聞こえるのかもしれない」
「あれ?」
「いずれわかるようになるんじゃないかな? あなたの天秤がきちんと傾いたら」
ジャニスは曖昧に済ませると、再び女と向かい合った。
「元々、この世界は|人智《じんち》の及ばない存在によって生まれた訳じゃない。宇宙の偶然でもなければ自然の奇跡でもない。あなたたちにだって理解できる感情によって生まれているのよ。なら、その感情が敵とするもの、その感情に反発するもの、それが理解できるもの、色々いてもしかたないんじゃないかな」
「個人の感情で、私たちは生かされているのですか?」
「それはなにか、悪いことなのかな?」
女の言葉には感情がない。だが、不快がそこにあるのはおれにだってわかる。いや、もしかしたらそれは、おれが不快に思ったからなのかもしれない。
「あなたたちにとっては、生まれた世界のここしか知らないでしょうけれど、あたしがいたせ界だってそれほど違いはなかった。そもそも、元々の、それこそ宇宙の偶然によってできたはずの世界をだめにしたのは人間だし。そのだめになった場所から逃げ出してできた、その一つがあたしたちの世界。そこもだめになってそれでできたものがここ。そういうこと。これは、一つの大きな話の続きなのよ」
「それがどうかしたのか?」
おれの不快はいまも続いている。
「世界が続いているからどうかしたのか。それで、他人に操られているおれの怒りはどうなる?」
「それは個人で解決することよ」
ジャニスは冷たく切って捨てた。
「世界がどうであるかなんて問いかけに意味はないわ。生まれた環境を選べるわけじゃないもの。 そうでしょう? 水槽で飼われてる観賞魚と養殖湖で増やされている食用魚の幸せの違いが、あなたたちに詳しく説明できるの? 人間と魚に違いがあるとすれば自由意思が存在すること。そしてそれを発露できるところにあるんじゃないかな。それ以上を語る人間なんて無意味に時間を潰しているだけにしか思えない」
反論の言葉が出てこなかった。ジャニスの言葉が正しいと思っている。世界がどういう成り立ちであろうと関係ない。人は、おのれの心に従うべきだ。それが敵を作るものであれば反撃にあうだろう。多くの敵を生むか、それとも敵よりも味方を多く作るか、どちらを望み、そのために心の奔放さを抑えなければならないこともある。そういう話だ。マスケインの一族が奔放に生き、そして都市民たちに死を望まれたように。
そしておれを利用して誰かがなにかをしようとしている。ジャニスはそれを超常的な存在ではないと言ったのだ。力はそうだろうとも、それを使う心はそうでないと言った。
おれにも理解できるということだ。
この、仮面の柱の中に、おれに理解できるものが濁るということだ。
敵の存在がさらに近づいた気がした。
「いいでしょう」
女が呟いた。
「納得はできませんが、しかしそれでいまの問題が消えてなくなるわけでもありません」
「そういうこと」
ジャニスが微笑んだ。
「そして、この上で展開することは、こちら側の人間の意識が改変されようがどうしょうが、なんの関係もなく進行していくのよ」
上。
ジャニスはそう言った。
そして、念威繰者の女は、ジャニスが来ることでなにかが始まると言った。
なにが、始まる?
「あなた、あたしが来ることでなにかが始まるって言ってたわね」
「ええ。あなたという存在の力が及ぼす影響はこの世界に|歪《ゆが》みを及ぼします。その歪みはこのメルニスク周辺に|亀裂《きれつ》を呼ぶ。触れれば割れるシャボン玉のように、この空はもろくなっています」
「その指がいまここにいるあたし、ということね。それにしても、あなたよくそんなことがわかるわね。この空を見続けたというだけではない。あなたの念威繰者としての能力が、それほど強大だということかしら。この世界の全体を見渡せるということなのかしら?」
「世界の全体を見るほど強力ではありません。ですが、私が見ることのできる世界を参考の数値として試算と推測を重ねることは可能です」
「それって、本来なら机上の空論もいいところじゃない。それでも外れていない。たいしたものよ。あなたは」
ジャニスが笑みの奥でなにかを考えている。だが、なにを考えているのかはわからない。この女が何者なのか、正確なところをなにも理解していないおれに、その考えがわかるはずもない。
そして、おれは聞いた。
はっきりと耳にした。
空が割れる音を聞いたのだ。
甲高く、それは響いた。
ガラスが割れるほどに不愉快ではなかった。
もっと透明で、切なく、しかしどこか有機的にも思えた。
無残な気持ちにさせた。
心が引き裂けるような痛みを感じた。
それが幻と知りながら、おれは胸を押さえた。
得体の知れない圧力がおれの胸からせり上がってくる。
喉《のど》が渇き、目の奥が熱くなった。
しかしそれは、おれの感情か?
違う。
では、誰のものだ。
誰が泣いている?
誰が、この痛みに吠《ほ》え声を放っている?
だが、その正体を確かめる術はなかった。
時間はなかった。
空が割れたのだ。
おれの周囲を新たな光が取り囲んでいた。これはなんだ? 七色に揺れる光の幕、それがおれを、おれたちを、この塔を包んでいた。
月の姿が消えた。月光に変わって、七色の光がこの都市を、おれたちを照らす。
「世界が近づいた」
ジャニスがそう言った。
おれは周囲で揺れる光の幕を無視して、上を見た。ジャニスも女も、そこを見ていた。
夜ではない黒が、そこにある。
奥行きのない、平坦《へいたん》な、絵の具で画用紙を塗りつぶしたような黒がそこに広がっていた。その黒を縁取るように七色の光が垂れ下がっている。
ジャニスに視線を下ろした。彼女がどんな顔をしているのか気になった。魔女はこれを望んでいたのか、いないのか。
女を再び念威の光が包んでいた。地上の連中に連絡を取っているのか。塔の下でサイレンが鳴り響いている。
ジャニスは、平坦な顔をしていた。この事態を見ても、なんの感情も動いていないように見えた。ひどく覚めた顔をしていたといっても良い。
「まあ、こんなものよね。あたしがいる程度では」
そう呟いた。
「眠り姫は目覚めやしない。闇は震えたかしら? 月は黙っている。そう、|所詮《しょせん》これはイレギュラー。月が墜《お》ちていない以上、本格的な動きになるはずもない」
空を見ながら呟き続ける。
「なら、まだ大丈夫。あたしは、もう無理かもしれないけれど」
ジャニスの言っていることを問いただす気にはなれなかった。理解することが不可能という気がした。同じ姿で、同じように考え、そして抱ける。同じ人間だ。世界が違うのかもしれない。
だが同じ。そのはずだ。
だが、どこかで違う。知っていることの違いか、それとも考え方の根本部分で決定的な違いが存在するのか。
「後は……」
ジャニスはなにかを言おうとした。だが、なにも言えなかった。言葉は途中で途切れた。その先にどんな意味があったのか、それを聞くことはできなかった。
ジャニスの前に、もう一人、ジャニスが現れた。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
いつ現れた? 幻か? だが、現れたもう一人のジャニスは、おれの知っている彼女のようなラフな服装ではない。武芸者の着る戦闘衣に近いものを着ている。
そして、念威繰者の女のような、感情のない顔をしていた。
「やあ、君がレヴァンティン?」
ジャニスが朗らかに話しかけた。
「それでは、あなたがジャニス・コートバックですか?」
声色も同じだった。だが、念威繰者の女のように感情が声に宿っていない。
「あたしに会いたかったんだってね? 会った感想を聞きたいね。これで、ソーホ君を喜ばせてあげられるでしょ?」
「マスターは月におられます」
「あら、それは残念」
「そして私も、レヴァンティンの分体に過ぎません。月へのアクセスが不可能な以上、私が収集したデータを送ることは不可能です」
「そう。是非とも感想を聞きたかったんだけど」
「こちらか質問しても?」
「どうぞ」
ジャニスとジャニスが会話をしている。その奇妙さに目が行く。だが、変化はこれだけか。こんな大仰なことが起きて、目に現れた変化はジャニスのそっくりさんが出てきただけなのか?
「どうして、あなたにマスターは執心しているのでしょう?」
「そんなことは本人に聞いてよ」
「では、どうしてあなたは、マスターの心にお応《こた》えにならなかったのですか?」
「子供の付き合いをするよりも大切なことがあったし、大人の遊びをするには純真すぎたから。 機械人形にわかるかしら?」
「わかりません」
「でしょうね」
「では、あなたを捕らえてマスターと再会する機を待つとします」
「いや、彼とは別に再会したいわけじゃないから」
ジャニスの言葉は無視された。おれは動いた。二人に距離を詰めると同時に錬金鋼を復元。無表情なジャニス……レヴァンティンというのか? に鉄鞭を叩《たた》きつける。
レヴァンティンは、ジャニスにただ手を伸ばしただけに見えた。その手が軌道を変え、鉄鞭を受け止める。鉄を打ったように錬金鋼に込めた剄が散る。だが、おれの手には綿を打ったような
感触が伝わった。
「これが、この世界の戦力ですか」
レヴァンティンの声は念威繰者の女よりも淡々として機械的だ。ジャニスが機械人形と言ったが、あれは|揶揄《やゆ》ではなく本当にそうなのか。
「邪魔をしないでください。数少ないこの機会を逃したくはありませんので」
「なんの機会が知らんが……」
鉄鞭は握られたままだ。おれはそこに剄を叩き込んだ。外に放射された剄は破壊的エネルギーとなる。鉄鞭を中心に放射され、それがレヴァンティンの細腕を破壊した。
血か、本当に機械ならば金属の破片が飛ぶ。そう思った。だが、そうはならなかった。
女の腕は、粉を収めた袋が破裂したかのように、白いものを辺りに放射した。
「お前の事情を考慮してやる理由はおれにはないよ」
腕を破壊した。それでもレヴァンティンの表情に変化はない。痛みを感じる機能はないか、それとも感情を表現する機能力ないのか。どちらにしても機械なら必要のないものか。
かまわず鉄鞭を振るう。レヴァンティンの頭部を粉砕する。抵抗すらもなく、女の上半身が爆砕した。
弱い。そう思った。同時に、このあっけなさが不気味でもある。
なにかを隠している気がした。あるいはなにかを勘違いしているのか。
「死んでない」
ジャニスが叫んだ。
警戒を解いたつもりはない。しかし、レヴァンティンがどんな攻撃をしてくるか予測が付かない。まだなにも見ていないのだ。そして目の前には、上半身を失ったのに倒れもせず、彫像のようにある下半身が白い断面を露《あら》わにしているのみ。
動きは背後でした。おれは身をのけぞらせた。脇腹のそばをなにかが駆け抜けていく。手だ。
鋭い女の貫手《ぬきて》がすり抜け、空気を破裂させた。確かめれば、女の上半身がそこに浮いていた。細く白い糸のようなものが上半身の切れ目から出て、それが下半身と繋がっている。剄のようなものは感じなかった。ただ腕に込められた|膂力《りょりょく》だけで空気が破裂したのだ。下半身の支えのない、上半身だけ、腕だけの膂力でそれができたのか。だとしたら異常な筋力を持っているということになる。
緊張感が改めて身を引き締める。レヴァンティンはなにごともなかったかのように上半身と下半身をつなぎ会わせ、離れた場所に移動したジャニスに体を向けた。
歩いていく。
おれを無視して、そこに行こうとしている。
「……いい度胸だ」
全身が燃え上がる。剄脈の鼓動が跳ね上がる。おれを高みへと昇らせる。
ばらばらになっていたのに生きていた。いや、動いていたという表現が正しいのか。どちらにしろ、殺せなかった。その事実を確認したということだ。
なら、死ぬまで、動かなくなるまで壊し続けるのみだ。
再生力が異常に強い汚染獣を相手にしているのだと思えばいい。サイズ以外ではその考えで対応できる。
愚者の一撃。
後先を考えないということは、相手がなにものであるかも考えないということだ。
背後から一撃を加える。剄が爆発し、光が散る。
白いものがおれの視界を覆った。煙幕。違う。これこそが、レヴァンティンを構成するものか。
白い粉末状のものは囲散したと感じた瞬間に、おれの前で再構成していた。女の白い背中。平然と歩き続けるレヴァンティン。あくまでもおれを無視するつもりか。
続けざまにさらに一撃。だが、今度は爆発さえもしなかった。
鉄鞭は、レヴァンティンの体をすり抜けた。わずかな、水に入ったような抵抗を感じさせて、すり抜けた。
レヴァンティンは歩き続ける。ジャニスは下がり、縁にまで追い込まれていく。おれは鉄鞭をさらに繰り出す。─殴り、殴り、殴る。
無意味な結果しか残さない。おれの鉄鞭からの一撃はことごとく無視され、白い女の体をすり抜けていく。人形的な無表情を維持し、おれを無視して、ジャニスへと進んでいく。
おれの心になにかが湧く。湧き続ける。レヴァンティンへの恐れか。敵《かな》わない存在への恐怖か。
いいや、違う。
怒りだ。おれを無視し続けるその態度だ。
強者の余裕。そういうものか。
闘志も膨れあがる。
いいだろう。
マスケインの一族は、そしておれは、手に入らないものがあることなど認めはしない。許しはしない。
剄を走らせる。塔を登ったことを思い出せ。限界を突き抜けたときのことを思い出せ。
背後で、あの仮面の柱がざわめくのを感じた。あの腕は、いまだにおれの首にかかっている。
どれだけ早く動こうが関係ない。物理的に存在している訳ではないからか、それは常におれの首にかかっている。
おれの首を絞める機会を常にうかがっている。
それが、おれの剄に呼応するかのように動き始めている。
おれは|雄叫《おたけ》びをあげる。剄の奔流が体を満たす。|溢《あふ》れ出す。|錬金鋼《ダイト》になだれ込む。満たす。氾濫する。
叩き込む。
レヴァンティンが初めて振り返った。手が伸びる。止めようというのか。
関係あるか。
鉄鞭にこめられた剄はその手を破壊する。
こちらを見つめるその顔を破壊する。その胴体を破壊する。突き抜けて下半身までも。
白いものが視界を覆う。その広がりに剄の雷紋が刻まれる。さらに拡散し、おれを通り抜け、背後で再集結する。
無傷か。
「なるほど、厄介ですね」
成果はあったようだ。レヴァンティンはもう無視をしなかった。その場で立ち止まり、ジャニスとの問に立ちはだかる形になったおれを見る。
「異民の亜種ということですか? 月にあった器官がさらに変異したと? ただのオーロラ粒子変換炉ではないのですね」
「あたしは知らないわ。月に行って聞いてみたら? 生きてるんじゃないの」
「いえ、その必要はありません」
レヴァンティンの歩みが再開する。今度はおれに向けてだ。ジャニスを捕まえてどうするかしらないが、それをするための障害としておれを認識したようだ。
おれの全身は剄に満ちている。まだまだ行けそうだ。剄脈の鼓動はまだまだ早くなる。吐き出される剄がおれの周囲を駆け巡る。制御されないままに破壊をまき散らす。レヴァンティンのつま先で火花に変わる。全身を襲う。しかし白い女は歩みを止めない。
「ディック!」
ジャニスが叫んだ。
おれは一歩踏み出した。
振り下ろす。かつて体験したことがないような痺《しび》れがおれの全身を駆け抜けた。剄力が上昇を続けている。ヴェルゼンハイムにいた頃のおれを|凌駕《りょうが》した剄力だということだ。おれの体がかつてなれた感覚を凌駕したものに驚き、痺れたのだ。
だが、体の動きが止まったわけではない。
鉄鞭は遅滞なくレヴァンティンの頭に落ちる。白い女は両腕を交差させて受け止めた。今度は弾けない。白い粉のようなものになって散り飛ぶことはなく、その身をもって受け止めた。
周囲の地面が圧力で吹き飛ぶ。
陥没する。
落下する。
おれとレヴァンティンは下の階に落ち、さらに次の階に落ち、また落ちる。
落ち続けた未に止まる。
受けきられたか。おれの体から吹き出す剄の勢いは止まらない。だが、レヴァンティンの足下の床が砕ける様子はない。
上から、遅れて破砕した|残骸《ざんがい》が落ちてくる。飛び離れる。レヴァンティンは動かない。落下してきた|瓦礫《が れき》の雨を頭から|被《かぶ》る。
死ぬはずもないが、どういうつもりか? 答えはすぐにやってきた。
落下していた瓦礫の一部が突如として方向を変える。おれに向けてだ。豪速で迫る瓦礫の群れをおれは鉄鞭でなぎ払う。
レヴァンティンの手が高速で動いている。おれよりも巨大な瓦礫だろうと関係がなく投げつけてくる。怪力のなせる技だ。避けた瓦礫が背後で砕ける。爆発するような音。外壁の砕ける嫌な音がしている。一つでも当たればおれの体など簡単に破裂するだろう。冷たい緊張感とそれを超える愉悦。おれは震えながら前に出た。見据える。見極める。跳び出す。|迂回《うかい》するなどという真似はしない。真っ向から突き抜ける。高速で走る瓦礫から瓦礫に跳躍し、レヴァンティンに一撃を加える。投石機と化して回転していた腕の片方に受け止められる。瓦礫の|投擲《とうてき》が収まる。
蹴りが来た。身をねじらせて回転。女の頭上を跳び越える。背後に回り込んで横薙《よこな》ぎの一打。
脇腹に食らいつく。女が跳び、外壁に衝突する。爆音。粉煙が全てを隠した。
視界を覆い、荒れた気流に流されて奇怪な紋様を描こうとする粉煙に、穴が開く。
跳び出してきたのは、レヴァンティン。突き出された貫手をすんででかわす。レヴァンティンの手は気体を切り分けた。瞬間生まれた真空が鼓膜に痛みを走らせる。破裂の音。鼓膜が裂けたか。かまわず、がら空きの体に鉄鞭を落とす。落下の軌道が変わり地面にぶつかり、跳ね転がった。勢いは死なない。白い体が床を削って再び粉煙をあげる。
音は、聞こえる。だが、頬に長い傷が刻まれた。
溢れる血にかまってはいられない。剄里口固める。奴が立ち上がるよりも早く。反撃をしかけてくるよりも早く。
粉煙の中からレヴァンティンが立ち上がる。こんな中だというのに美しい顔に汚れ一つない。
ジャニスと同じ顔。だが、感情の有無がここまでも印象を変えるかと、おれは寒気を覚えた。
ジャニスと同じ顔。
だが、違う。
おれは踏み出した。
目の前にいるのは敵だ。
奴の筋力は脅威だ。だが、それを恐れていては前には進めない。
巧緻を知らず、愚味《ぐまい》に進むを知る。
鉄鞭を振り上げろ。巨大な打撃武器を突き上げろ。
これが、おれの武器だ。
|疾走《しっそう》る。
踏み込む。
叩きつける。
壊れろ。
おれの疾走に光が付き従う。
レヴァンティンが両腕を交差させる。受けるつもりか。
受けされるつもりか。
光を従えた鉄鞭と腕がぶつかり会う。剄脈の鼓動は激しくおれを振動させる。おれという存在を振動させる。放散する剄が鋭角におれを内部から削っていく。
剄の強さに肉体が追いつかないのか。全身の汗腺《かんせん》から赤い霧が吹き出す。
血だ。
血霧を巻いて、おれはレヴァンティンと衝突する。
一瞬で決した。
レヴァンティンの交差した腕が消失する。
屋上での戦いと同じ結末かに見える。
しかし、白い粉末状のものは広がらない。機械人形の肉体を構成するものが散開するよりも早く、錬金鋼の衝撃が、剄の破壊が食らいつく。
牙《きば》をたてろ。
噛み砕け。
おれの中にいる獣。獣と称されたもの。
それはおれの強欲を指したものか。おれの強さを指したものか。
冷たい|瞳《ひとみ》が、おれの中から浮かび上がる。しかしそれは記憶が掴み取るよりも早く消失した。
首にかけられた仮面の手が、少し、おれを強く締め付けた気がした。
凶暴な獣。
その目が、おれをそう見ていた。
見られていたからおれは獣なのか。それとも獣であったからそう見られていただけなのか。
だが、獣だ。
ここに牙がある。
ここに奴にかける牙がある。
ここに、こいつを噛み砕く、牙がある。
振るいあげ、振り下ろした錬金鋼がある。
頭部を砕き。
胴を飲み込み。
足を引き裂け。
衝撃波と剄の混ざり合った嵐がレヴァンティンの姿を完全に飲み込む。消失させる。おれはその嵐を駆け抜け、伴う光がその嵐を砕いた。
乱れた気流が粉煙を天井へと導いていく。
足から力が失われ、おれは滑りながら床に転がった。
倒した。そのはずだ。
その感触は、この手にある。
血のにおいが周囲に漂っている。おれの血だ。おれは立ち上がることもできずに、地面に倒れている。念威繰者の見せた仮面の柱は、もう見えない。首にかかった手が強くなった気がしたが、それをこの目で確かめることはできなかった。
このまま、この手がおれの首を絞め続けたらどうなるのか? なにかあるごとにおれの首にかかる手に力がこもっていくのであれば、おれはいつかこの手に殺されるのか? そのことで、心が動くことがない。
自分でも驚くほど、平穏な気持ちだった。
それよりも、いまは曖昧なままとなっている結果だ。
レヴァンティンを殺せたのか。
倒せたのか。
穴の開いた外壁の向こうからサイレンの音が聞こえてくる。
だが、それ以外の音が聞き取りにくい。頭の中が血管を走る血のうねりで満たされている。破れていないかにみえたが、鼓膜に損傷ぐらいはあったかもしれない。
立ち上がる。足が頼りない。変化がないのなら、ジャニスたちのところに戻らなくては。
なにかが、体に触れた。そう感じた。
いきなり、おれの体が持ち上げられた。
声を上げる暇もない。目の前の光景はめまぐるしく変わり、満天の夜が姿を現した。月の消えた七色の空がおれを迎える。
床に投げ出されたおれのまえに、ジャニスと念威繰者の女がいる。
そして……
「楽しそうなことになっているな」
リンテンスだ。唇が細く引き延ばされ、目が笑っている。楽しそうだ。
「どうなった?」
おれは念威繰者の女を見た。長い髪を淡く輝かせる女は、ゆっくりと首を振った。
「レヴァンティンの分体、という個は倒したわよ」
ジャニスが口を挟んだ。
「でも、ナノセルロイド……まあ、敵そのものということ、それは倒せてない」
「どういう意味だ?」
尋ねた。だが、意味はともかく、状況は理解できそうだ。
リンテンスが笑っている。
戦いがないと不機嫌になっていたリンテンスが笑っているのだ。
それは戦いが終わっていないということであり、こいつの技量に見合う戦場が存在しているということに違いない。
「なにが起こってるんだ? わかりやすい言葉で教えてくれ」
「次が来たと思ってください」
念威繰者の言葉は簡潔だ。
「敵は微粒子の存在で上空の穴からこの世界に侵入。周囲の無機物、汚染物質を吸収して質量を増大させようとしています」
「すまん。理解できん」
「これからわらわらと湧いてくるってことよ」
ジャニスの苦笑気味の言葉におれは鉄鞭を握り直した。
敵が多数で攻めてくる。
戦いはまだ続く。
この一言で済む請じゃないか。
「わかった」
どこから湧いてくるのか知らないが、それはこれから見定めればいい。おれは塔の縁に立って空と地上を順に見渡した。
七色の光は変わらずこの都市を囲んでいる。この異変が終わるまで、これが消え去ることはないのか。
「微粒子はエアフィルターによって都市内部への直接侵入は行えていません。都市外部で質量を増大させています。敵性体がこちらに向かうであろう予測時間は三十秒後」
「早いな」
「汚染物質はあいつらにとって好物でしょうからぬ。この世界にとどまって生物になることを選んだ汚染獣よりも効率はいいんじゃないかしら」
三人の会話を聞きながら、おれは剄を走らせて怪我の治療に勤しむ。時間はあまりない。さすがに、いまの状態が万全だとは胸を張れない。
「みなさんは塔外に退避してください」
念威繰者がいきなりそんなことを言った。
「どういうことだ?」
「これより、塔本来の機能を解放します。私以外のものは邪魔となります」
塔の機能力どういうものか、おれはわかっていない。
「ま、ここにいてもしかたないがな」
ここは千六百メルトルの高さがある。おれの戦い方ではこの位置で都市の外から来る敵を迎え撃てはしない。
移動することはなんの問題もない。
いや、三十秒と言ったのだ。敵はすでにこの都市に向かってきている。
リンテンスが先んじて塔の外へと降りていく。千六百メルトルの高さを恐れない平然とした落下だ。
「あ、あたしも連れて行ってよ」
ジャニスが先に行ったリンテンスに不満を漏らし、おれを見てくる。しかたなく、おれはジャニスを抱えて塔を飛び降りた。
千六百メルトルからの降下。剄によって応急処置的に傷が埋まっただけの耳と頬の傷にはきつい。おれは顔をしかめ、全身を叩く風を受け止め、落下位置を見定める。
遠い。地上までがどこまでも遠い。平坦な場所などどこにもなく、どこに降りればいいのか、一瞬わからなくなった。針の先に向けて落ちているような気分だ。
リンテンスはどこにいる? すぐにその場所はわからなかった。視界を巡らせて、やっと見つけることができる。奴はただ落下するのではなく、斜めに体を滑らせるようにして直接、外縁部方面に向かっている。ただの落下でそんなことができるのか? おそらくは奴の武器である糸を使っているのだろう。すでに落下しているおれには、そんな大胆な軌道修正はできない。落ちていくしかない。
針の先のように見えた高層建築物の屋上が少しは平らに見えてきた。体を動かし、全身を打つ風を利用して微調整する。
ジャニスが歓声を上げている。その顔に恐怖はない。この状況を喜んでいる。たいしたものだが、緊張感を削《そ》ぎもする。感心はするが、歓迎したいものでもない。
どこかのビルの屋上におれは着地した。膝を思い切り曲げて衝撃を吸収する。
塔の上にいた時よりもサイレンの音はより強く耳に響く。避難の喧噪《けんそう》がまだ地上で続いていた。
「さて、どこに向かうか?」
地上を見渡しながらおれは考えた。念威繰者の言い方は、群れに都市が囲まれているという状況で考えた方がいい。それなら、リンテンスと同じ場所に行ってもしかたがない。あいつはあいつでうまくやるだろう。いや、おれよりもうまく敵を片付けるに違いない。
幼生体に襲われた時と同じように考えればいいのだ。戦力を集中させれば、他方に穴が開く。
メルニスクにも武芸者はいる。その数は知らないし、実力も知らない。だが念威繰者の言い方ではおれやリンテンスほどの実力者はいないようだった。
そいつらの援護に回る……のは性に合わない。
「どうしたものかな?」
「あたしに聞かないでよ」
おれの腕から降りたジャニスは呆れている。
「集団戦はあまりやったことがないからな」
幼生体などの群れに襲われた場合、ヴェルゼンハイムでは一族全員で守備に立ち、その穴を他の武芸者に埋めさせていた。その指揮は親父が執っていたし、そういうときのおれは個人として戦っていた。
「配置もわからなけりゃ、動きようもないな」
そんなことを言っている間に、サイレンと地上の喧噪の向こう側から、別の音が届いた。
剄が起こす爆音だ。連続の爆発音はリンテンスのものではないだろう。あいつは、もっと|静謐《せいひつ》に戦いを進めていくに違いない。
「とにかく行くか」
「行くの?」
飛び出そうとしたところで、ジャニスの声がして、足を止めさせられた。
「なんだ?」
勢いを削がれた気分で、おれは振り返る。
「いや、あなたが戦う理由って、特にないなと思ったから。ほら、怪我もしてるし。さっきの戦いは場の雰囲気みたいなものだと思うけど、いまもそうなの?」
「それ、改めて聞かれるとやりづらいな」
確かにおれが戦う理由はない。この都市を守らなければならない理由はない。リンテンスと行ったグレンダンでは逃げようとした。その方がおれらしいのかもしれない。
あの時からおれの性格が変わったわけではない。博愛主義に転向した覚えもない。メルニスクの連中がどうなろうと知ったことではない。
「んん……あれだ。世界の危機じゃないのか?」
「この時間の流れで生きていくつもりなら、あなたの寿命が尽きるまでは平和だと思うわよ。ここで立ち止まれば、ちょっと刺激はあるけど、そこそこ平穏な人生が送れる」
「予言者みたいなことを言うな」
「予言じゃなくて、助言。あなたには確かに付きまとうものがある。それはさっきの彼女に見せてもらえたわね。でもそれも、あなたがあれに関わる理由にはならない。あなたの背後にあるものといまここで起こっているしのは、根の部分では同じ。だけど、あなたの事情は根の部分にまでは届いていない。ちょっとしたイレギュラー。それぐらいのものよ」
「前々からそうだが、おまえの言葉はわからんよ」
「まあ聞きなさい」
外縁部では戦いが始まっている。その音が、おれをじりじりとさせる。だが、ジャニスを無視してまで行こうとは思えない。
ジャニスは、おれの前に分岐を置こうとしている。
右へ行くか、左へ行くか。
どうするかをおれに決めさせようとしている。そう感じたから、おれは動けなかった。
「イレギェラーはあくまでイレギュラーなのよ。こちらの世界でも、そしてあいつらにとっても。予定の範疇に入っていない。無視できるかもしれないけど、もしかしたら違うかもしれないという、微妙な立ち位置にいるのがあなた。無理に関わろうとすればより深みにはまることになる。よく考えなさい。あなたはしなくてもいいことをしようとしている」
建物の倒壊音が聞こえた。都市の中央に鎮座する塔のせいで全体を見渡すことができない。見渡す限りなにも見えないのだから、塔の向こう側からだろう。
防衛線が破られたか。
同じように、別の音も聞こえ始めた。それは得も言われぬ圧力を伴った音でもある。
塔からの音だ。
ジャニスの背後に塔はある。それが、ゆっくりと発光しようとしていた。照明器具のため、というわけではない。
建材に念威繰者用の錬金鋼が使われていると、あの女は言っていた。
そしておれを取り囲み、仮面の柱を見せたあの光と、塔を包もうとしているものは同じ光に見える。
あの女の念威が塔全体を包み込もうとしているのか。
それほどに、あの女は強力な念威繰者だというのか。
だが、念威繰者はあくまでも情報収集の能力を持つだけのはずだ。
ジャニスも光に気づき、振り返る。ことの成り行きを見守っている。
おれは、女の淡々とした殺意に包まれたときの音を思い出した。
念威繰者にも戦う能力はある。それは護身用程度の、武芸者にとっては問題にならないような程度のものだと聞いている。だが、おれはあの蝶型の端子に囲まれ、青い光に包まれたとき、死ぬのではないかと感じたではないか。
もしかしたら、あの塔を錬金鋼そのものとし、あの塔を増幅装置そのものとして、その護身用の能力を使えば、それはどんな威力を見せる? 考えた時には、光が走った。
夜を引き裂き、それは天を突く。
塔が伸びたように見えた。|遥《はる》か高く、七色の光幕に囲まれた黒円を貫くために伸びる。
伸びて、その一部が突如として直角に曲がった。巨大な光柱から枝分かれした幾本もの細い光は方向を転じる、上昇から下降になり、そして光の両となって降り注いだ。
無数の光の球体が外縁部の向こうで花開いた。
これか。
あの女は、『この塔があればなにも必要ない』と言っていた。
あの女の能力も|凄《すさ》まじいに違いない。だが、その能力だけがあれを可能にしているわけではないだろう。この塔はやはり念威を増幅する。武芸者にもこういう武器がある。集団の剄を一つにまとめ、撃ち出す、剄羅砲《けいらほう》というものがある。
だが、あれよりも遥かに高性能だ。剄羅砲はまっすぐにしか飛ばせない。砲そのものも重く、あまり使い勝手の良いものとは言えない。
しかし、この塔はどういう手段か知らないが、攻撃をねじ曲げる。さらに念威を増幅するというのならば、都市が行っていた汚染獣の探知を普通の念威繰者が代行することもできる。早期に体勢を整えることができる。そしてなにより、この塔によって超遠距離からの迎撃も可能となる。
都市が動かなくなつても良いと豪語するだけの能力がある。
「すごいわね」
ジャニスが呟く。
彼女は地上に展開される光景は見ていなかった。
空を見続けている。
おれも見た。
光柱はすでに消え、そこには元の夜空が広がろうとしていた。七色の光幕が乱れている。天上を覆っていた黒円が薄まっている。
ジャニスはその光景を見て呟いたのだ。
「大きな波を起こして界面に開いた穴を揺らぎによって埋めようという考えかな。仮のものにしか過ぎないけど、いまならば再生する地力もあるし、有効でしょうね」
でも……と続く。
不安がおれにもあった。
それを、ジャニスが口にする前に、塔が再び発光した。
光柱が再び立つ。天を突き、黒円を穿《うが》った。
それとほぼ同時に、都市そのものが大きく揺れた。
「問題なのは、その塔そのものが動けないこと、かな」
おれは跳んだ。塔に向け、その外壁に向け、そこを垂直に駆け上がるために跳んだ。
塔の下部。巨大な基礎部分が火を噴いた。一斉に、取り囲むように、内部から爆発するように、炎が溢れ出した。
それは、巨大な塔の倒壊を示していた。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
悪女と強欲W
[#ここで字下げ終わり]
「箱の中に毒入りの餌と哀れな負け犬を入れました。さて問題、負け犬は生きるでしょうか死ぬでしょうか?」
「知るか」
悪戯《いたずら》の笑みを浮かべるニルフィリアにおれは一言で返した。
問題として、ここまで仮定が曖昧《あいまい》なのはない。そもそも、いつ箱を開けるかがわからない。一時間後か、それとも一週間後か、一年後か。
時間をかけるのならば、臭いを察して餌を食べなかった犬も毒とわかりながら食べるかもしれない。その上で、生きるか死ぬか、それは毒の強さによる。そして毒に耐えたとしても、さらに時間が過ぎていればやがて衰弱して死ぬだろう。
そもそも、どうしていきなり、こんなことを言う?
「たとえば一万年後にその箱を開けたら、どうなるかしら?」
「骨も残ってないかもな」
実際にどうなるかなどわかりはしない。適当に答える。
そのときには、観察者は哀れな一匹の負け犬がいたことさえも知らないままでしょうね」
感慨深げに少女は|呟《つぶや》く。負け犬になぞらえられているに違いないおれは、気分悪く少女を見つめていた。
「外部とほとんど隔絶している都市も、その箱と同じようなものよ。どう滅んだかなんて生き残りがいなければ誰にも伝わらない。いつ滅んだかも当てずっぽうにしかわからない。ただ、どうやらなくなったらしいぐらいにしかわからない。あるいは、放浪バスさえも近づかなくなった都市なら、そんな都市があったことさえ忘れられているかもしれない。それなら、本当にあるのかどうかさえも曖昧なまま。この箱には一体、なにが入っていたのだろう? あるいは最初からなにもなかったのか? って首を傾げられて終わり。そして負け犬が入っていたことだけを知っている者は、あの箱にいた負け犬はどうしたのだろう? 負け犬らしく毒を食らって死んだのか? それともなんとか脱出してこの広大な世界のどこかで、相変わらず負け犬として生きているのだろうかって考えて、ちょっと空想的な気分になって終わるでしょうね」
「なんの話をしてるんだ?」
「負け犬の話」
「ふざけるな」
「ふざけてなんかいないわ。つまり、誰にも知られていない都市なんていつ滅んだかどうかが問題になることはないのよ。そこでなにが起ころうとも、なにが起きようとも、この世界に関わるような重大なことが起きてたって、誰にも気付かれなければ、それはなにも起きていないのと同じことなのよ。まして、時間の感覚が曖昧な観察者しかそれを見ていないのであれば、それらが起こった出来事がいつだったかなんて、関係のない話よ。時系列なんて無視して並列に並べられてしまうの」
時間の感覚が曖昧な観察者。
「それは、誰だ?」
だがおれの問いを無視し、ニルフィリアは物語の続きを望む。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
第四章――眠りなき墓標群《グレイブ》――
[#ここで字下げ終わり]
千六百メルトル。それほどの高度を持つ塔の倒壊は、非常にゆっくりとしたものに思えた。塔は倒れながら、自重によって幾重にも折れ曲がり、外壁を剥離《はくり》させ、ねじ曲がった鉄筋を晒け出しながら倒れていく。
おれは、その塔を走っていた。
なんのために走っているのか、おれ自身、よくわかっていなかった。だが、飛び出す瞬間、おれの脳裏に名前も知らない念威繰者《ねんいそうしゃ》の顔が浮かんだことだけは確かだ。誰もいない塔の頂上で、夜と機材に囲まれて一人でいる女の姿が浮かび、気がつけば走っていた。
いい女だった。
外壁から傾斜が徐々に失われていく。地上の建物が近づいてくる。背後ではすでに、他の建物を下敷きにする|轟音《ごうおん》が発され、おれの背に圧力をかけていた。周囲で連鎖するのは外壁が砕ける音、鉄筋のねじ曲がる悲鳴、そして圧壊するガラス音。
倒壊を途中で支えることのできなくなった部分が折れ、ずれる。足下が怪しくなる。走ることは止められない。おれもまた、きわどい場所にいた。ずれ落ち、そしてまた倒壊が続けられる。走るおれの足元も自重を支えられずに折れようとしている。節をつけて幾重にも曲がっていく。駆け抜ける場所が失われていく。
失われる前に走り抜けなくては。
先に地割れが生まれる。それを跳躍で飛び越える。また走る。
走る。
辿《たど》り着く。
屋上に、あの女はまだいた。斜めに傾いだ屋上で、機材を繋《つな》ぐケーブルを掴《つか》み、その体を振動によって激しく揺らめかせていた。暴れるケーブルが女を打つ。女の手が離れ、その体が宙に投げ出される。崩壊の海に突き落とされていく。
跳ぶ。女の胴に手を回し、屋上であったものの縁を蹴《け》り、再び跳ぶ。圧壊の連鎖がおれたちを追いかけている。足元にはその運命から逃れられない建物があった。女の目が大きく見開いておれを見ていた
押しつぶされていくその音と、はじけ飛ぶ建材の嵐を突きぬけ、着地した。
「あなた……」
「無事でなによりだ」
粉塵《ふんじん》が濛々《もうもう》と舞い上がり、渦を巻き、一個の巨大な生き物のように起き上がり、おれたちに向って襲いかかる。衝撃波が周囲を震動させる。ガラスの破砕する音が轟音の隙間を縫って甲高く連なっていく。爆発が連鎖し、火と煙がわき起こり、そして粉塵に飲み込まれていく。
「たすかりました」
こんな時でも、女は無表情だ。
「しかし、見事にやられたな」
女の細い体を抱いて跳び、おれは足下を見る。破壊の波はまだ止まらない。
速度を上げる。
粉塵の中で勢いを上げようとする炎の姿が見えた。倒壊の衝撃で吹き消されることなく燃え上がろうとする炎は可燃物を求めて荒れ狂っている。
「塔にあった液化セルニウムのパイプが裂けたようです」
なるほど。それは確かに、よく燃えそうだ。
「倒れた原因はそれか」
「そのようです。都市の直下から敵に侵入されました」
「死角か?」
「いえ。ですが、念威では地面を完全に透過することができません。そこを突かれたようです」
「頭が回るのか偶然か」
「わかりません。ですが、目的の半分は果たしました」
女が空を見る。
七色の光幕は消えていた。
そして黒円も。
黒円は完全に消えているが、七色の光幕は完全とはいえない。布は引きちぎれ、夜のあちこちに散乱している。
まるで目的のないモザイクのようで、見ていると|目眩《め まい》がしてきそうだ。
それを除けば残っているのは、すでにいる敵だけか。
おれはまだ、そいつらを見てはいない。
「しかし、たった一回でこの様は厳しいな」
おれの呟きに女は答えない。おれの背に回った手が、強く握りしめられている気がした。
中央では火災の勢いが増している。基礎部分から何度も巨大な火柱が上がっている。都市の動力源である液化セルニウムが噴き出しているのだろう。
この都市は長くない。
塔からかなりの距離を聞けたつもりだが、火の粉はおれたちの頭上にまで降り注いでいる。
さて、これからどうするか。
安全そうな場所まで移動して、おれは女をおろした。女は|錬金鋼《ダイト》を復元し、端子を飛ばす。蝶《ちょう》の形をした念威端子は淡い光を放ちながら、都市の各所へと散っていった。
また、名前を聞き損ねた。
無表情だが、全身から緊迫した雰囲気が放たれている。名前を聞けるような雰囲気ではない。
当たり前の話か。
生まれた場所を、育った場所を失うかもしれない場所に立たされているのだ。自分という存在を成り立たせている過去が染みついた場所がなくなるかどうかの時なのだ。
すでに失ったおれには理解できる考えのはずだ。
だが、おれには理解できない。都市そのものを失ったことに、おれはそれほど怒りも悲しみもない。いや、あるにはある。しかしそれは身を悶《もだ》えさせるほどのものでもない。
奪われた怒りはある。だがそれは、他人に滅びを奪われたからだ。
いや、そうではない。そうではない。
都市が滅ぶよりも、じいさんたちを殺す機会を奪われたことよりも、より大事なものを奪われたからだ。
奪われたものが何かという記憶を奪われたからだ。
あの手、女の手、おれの首にかかる憎悪の手。
その持ち主への記憶を奪われているからだ。
それが強いからこそ、ヴェルゼンハイムを失ったことそのものにはなにも感じないのだ。
女の気持ちは理解できない。
この都市を守ろうとする気持ちはわからない。
それを飛び越え、この世界そのものへの守護の念などわかりはしない。
ジャニスは言った。
おれが生きている間にそれが起こることはないと言った。
おれがなにかをする必要などはない。どこかの都市で、おれは再び、おれの強欲に身を浸すことはできる。
なにもかもを忘れて、第二のヴェルゼンハイムを作ることは可能だ。
「おい」
おれは、女に呼びかけた。
「どこが不利だ?」
「手伝ってくれるのですか?」
女の言葉に、意外という文字が見え隠れしているように思えた。
目の前にいる女の考えは、やはり理解できない。
だが、このまま忘れて過ごすことを選べば、二度と取り戻すことはできないだろう。
あの手を取り戻すことはできないだろう。
奪われたまま。おれの強欲がそれを許すことはない。
根が同じというジャニスの言葉を信じるなら、ここにいる連中はおれの敵ということだ。
「塔近辺に現れた敵に対処できる者がいません」
「わかった」
おれは跳び、先ほど退避した場所へと向かった。
火柱は噴水のように上がり、熱気がおれの顔をあぶる。粉塵の波はある程度落ち着いているが、周囲の景色は灰色に染まっていた。
倒壊の先に生まれた粉塵は、火柱が生む上昇気流によって空へと持ち上げられた。エアフィルターの気流がその一部を受け止め、細怖全体に散っていく。
炎の赤、そして粉塵による灰色。斑に染まった視界の中で、巨大な影が赤の中に黒を滲ませる。
巨人だ。
おれの二倍以上の大きさがある。顔の部分には隆起のようなものしかなく、そこには巨大な口があるばかり。炎を割って現れた白い肌は、レヴァンティンを思わせた。
しかし、あの機械人形のような美しさはない。あるのは異形の不気味さだけだ。戯画化されたような巨大な口がいやらしく|歪《ゆが》む。その間から覗く巨大な歯もまた汚れ一つなく白い。
汚染獣とは、その形がまったく違う。
中には煤にまみれ、煙を上げているものもいる。だが、負傷部が瞬く間に泡に包まれ、それがなくなると傷は跡形もなくなっている。|凄《すさ》まじい再生力の証拠だ。
違うが、汚染獣と同じに考えればいい。
レヴァンティンもそうだ、汚染獣もそうだ、人間であろうとそうだ。
そして、巨人であろうとそうだ。
全て、おれの前に立ちはだかるのならばただの敵。ただそれだけの事実があるだけだ。
錬金鋼を構える。
無手だった巨人の手に武器が生える。形は剣に似ているが、鋭利さはない。切るというよりも抉《えぐ》る、削るといったことを目的としているような作りだ。
巨人たち全員がその武器を握りしめ、おれに向かってくる。他に武芸者はいない。当然といえば当然か。おれの前に来たのは五体ほど。爆発の続く炎の奥からさらにいくつかの影が見え隠れしている。
時間をかけている暇はない。
いや、戦い方を変えるほどに器用ではない。
「一々こんなことを考えるとは、おれもまだまだってことか」
苦笑とともに|剄脈《けいみゃく》の鼓動を跳ね上げる。剄が|溢《あふ》れる。
巨人どもが向かってくる。
おれは吠えた。
吠え声が空気を揺さぶり、周囲の炎を押しのける。
駆ける。
|鉄鞭《てつべん》が空気を引き裂く。
光がおれに従い、爆音がさらに後方から追いかけてくる。
塊になって迫ってくる巨人たちの中心を駆け抜け、最後尾にいた一体の胴に鉄鞭を叩《たた》きつけた。
打撃の感触すら感じる間もなく、巨人の胴体に穴が開き、その周囲が刹那遅れて爆散する。背後にいた巨人たちも打撃点から生じた爆発と、疾走による衝撃波で吹き飛ばされ、数体がそのまま動きを止めた。
剄の残滓を振り払う。新たな熱が剄脈から|充填《じゅうてん》される。
おれは、自分の周囲が帯電していることに気づいた。おれの放った剄と速度が空気との摩擦によって発熱し、そして電流を生み出したのか。感覚としては常にその気分だが、ついにそれが物理的な現象として現れたということか。
理屈などどうでもいい。
いま、おれの力はヴェルゼンハイムにいた時からでは考えられないほどに上昇している。それだけでなく、塔を駆け上がり、レヴァンティンと戦った時から比べても増しているように思える。
いまの一撃はレヴァンティンとの時よりも手応《て ごた》えがよかった。だというのに、あの時のように血の汗を流すということもない。
こんなにはっきりと力が増していると感じるのは初めてだ。
だが錯覚ではない。おれはいま、急激に力を増している。
その手応えをじっくりと確かめている暇はない。倒し損ねた奴らは起き上がった時にはほとんどの傷が回復していた。そいつらにとどめを刺し。次を待つ。
炎の向こうにある影の数が増している。
火の勢いは止まることなく、火災の範囲は広がっていく。街路にある自動消火装置が発動し、熱源に向けて消火剤がばらまかれる。延焼部分はこれでどうにかなるだろうが、火元であるここは、この程度の消火剤では意味がないだろう。
熱は空気を|灸《あぶ》る。だがおれは、それを熱いとは思わなかった。やや息がしにくいことだけが不満といえば不満だ。剄脈の活動は呼吸と連動している。息をしなければうまく剄が練れない。
身内からわき上がる剄の方が、この炎よりも熱い。
どこまで燃え上がれるのか、見てみたくなる。
また爆発が起きた。
膨張する深紅の熱から吐き出されるように巨人たちが現れる。
獲物だ。おれは思った。
そして、どこかで戦っているだろうリンテンスの気持ちを、ほんのわずかだが理解したような気がした。剄の疾走に、燃焼に身を浸す悦楽を理解した気がした。
戦いそのものに興味があるのではない。この、剄の疾走がどこに辿り着くのか、どこまで行け一るのか、それを見てみたいのではないか。
違ったところで、知ったことではない。
確かなのは、おれがいま、そういう気分だということだ。
現れた巨人に、おれは迷うことなく突き進んでいった。
薙《な》ぎ払い、叩きつぶす。
それを幾度も繰り返す。敵の数も現れる頻度も変わりはしなかった。塔から放たれたあの攻撃に意味がなかったのではないかと疑いたくなる。
疲労はない。驚くほどに体力は充実している。むしろ、塔での戦いで受けた傷や痛みや疲労さえも回復していた。
いくらでも戦える。
倒した敵の数を数えていたわけではないが、百は超えたはずだ。火災はいまも続いている。空気を汚す煙が空で滞り、それ以前の粉煙も混ざって、視界の悪さが徐々に増していく。
(無事ですね)
しばらく戦っていると、巨人たちが炎の中から湧くのが止まった。打ち止めか? そう思っていると声をかけられた。
姿はない。ただ、すぐ近くに蝶の形をした端子が漂っていた。
声も、あの念威繰者の女だ。
「いまのところはな。調子も良い。それよりも来なくなったぞ。いなくなったのか?」
(いえ、地下内部で爆発が起こり、いままでルートとしていたものが塞《ふさ》がれたのです)
「じゃあ、もうここには来ないか?」
(ルートが完全に途絶えたわけではありませんので、いずれは。それよりも……)
女の声が一拍置かれた。向こうでも何かが起こっているのか。いや、なにも起こっていない場所などないか。
この都市はもう終わるだろう。
都市の動力は地下にある。都市の足を駆動させるものも、この都市が活動するための全てがこの地下にある。人間にとっては内臓のような場所だ。それがここまで破壊されているのだ。駆動部分は人の手で直すことができたとしでも、中枢であり、電子精霊が存在する機関部は、人の技術力を寄せ付けない。あそこが破壊されれば、もはや人間には手の施しようがない。
その場所に守備の手は届いているのか? 疑問は次の言葉で解かれた。
(機関部の守備隊が全滅しました)
「破壊されたか?」
(はい)
顔も見えないこの状況では、女がどんな思いを抱いているのかもわかりはしない。
(あなたに行ってもらっていれば。私の判断ミスです)
「まっ、よそ者を近づけたい場所ではないな」
おれも、目の前の戦いに夢中になって敵がどこから出てきているのかを考えもしなかった。そこに機関部が存在していることを思い出していれば、動きも違っただろう。
この女だけの責任にしても仕方がない。
(いえ、私はこの都市の長として判断を誤りました)
塔を登る最初の動機は、おれの知らない間に満たされていたようだ。いまさら気づいても、すでにどうでも良い気持ちになってはいるが。
(父から譲り受けた都市と使命を、私はどちらも守ることができませんでした)
かける言葉は思いつかない。
ここで、この女は挫《くじ》けるのか? それとも……おれはこの女の次の言葉を待った。
(残された使命は、一人でも多くの人々を都市から脱出させることです。お手伝い願えますか?)
「なにをすればいいんだ?」
(シェルターから地下にある非常用バス格納庫までの安全確保を)
「わかった」
おれは、女の指示に従って移動を始めた。
移動しながら、おれは女の気持ちにまるで共感できていないことを改めて自覚した。本当にいまさらだが、おれはヴェルゼンハイムそのものが滅んだことにはなんの感慨も抱けていないのだと思い知らされる。
じいさん、親父、兄貴、一族の死に、おれはなんの感慨も抱けない。だというのに、その都市に生きていた、顔もあいまいな連中のことで悲しめるわけがない。
それはおれの強欲故か、それともただ、人間として壊れているだけか。
死者の願望の果てに生まれた、|歪《いびつ》な人形でしかないからか?
地下に入り、通路を進む。熱がこもっている。空調は生きているが、そのことがなんの役にも立っていない。せいぜい、煙の流入を防げているぐらいのものだろう。
(その先に敵の侵入路と合流してしまう箇所があります)
都市民の直接護衛や先導するような事態を想像していた。それを考えて少しだけうんざりしていたので、これにはたすかる。
戦うだけでいいのなら、楽な鴻のだ。
「しかし、外も敵だらけだと思うが?」
(そちらは、リンテンス様にお任せしました)
なるほど、あいつならできるかもしれない。あの糸がどれくらいの距離まで届くのかは知らないが、包囲網を抜けるぐらいはできるだろう。
そこから先は運に任せるしかない。
都市民たちの運命などおれにはどうでもいい出来事だ。とにかくいまは戦いに集中したい。剄の疾走に身を浸したい。その先になにかがあるような気がするのだ。武芸者にとっての至高の境地というわけではない……はずだ。それにも辿り着けるかもしれないが、それ以外のものも感じている。
なにかがつかめるような気がする。
塔でも、レヴァンティンと戦っているときもそうだった。
剄を高めようとすればするほど、おれは、あの腕の存在を強く感じるのだ。
一時的に解放された隔壁の向こうから熱気が吹き付けてきた。おれが入ると再び隔壁が閉じる。
隔壁一つで音が遮断されていたのがよくわかる。燃える音、砕ける音、熱の変化で引き回される大気の音。そこら中に音が満ちていた。
そして、巨人たちの進む音。
角から巨人が顔を覗《のぞ》かせた。錬金鋼を振り上げ、おれは一気に距離を詰める。口ばかりの頭を叩きつぶし、胴深くまで鉄鞭をめり込ませる。大きく痙攣《けいれん》して動かなくなったそれを蹴り飛ばし、次へ。その後ろで通路いっぱいに満ちる巨人たちに躍り込む。衝撃波を振りまき、それが巨人のみならず通路までも破壊する。背後の天井が崩れて、半分ばかり埋まる。退路を失った。
構うものか、突き抜けてしまえばいいのだ。
次の敵に鉄鞭を打ち込み、そして次の敵へ。振り下ろされる巨大な武器を避け、あるいは打ち返して破壊する。あるいは素手で受け止め、握り|潰《つぶ》す。
剄脈の鼓動が全身を揺らす。
どこまでも早くなる。
剄の熱が体内に満たされる。体外へと零《こぼ》れ出る。おれの手に触れた巨人の肌が焼けた。あり得ない光景を見た気がしたが、戸惑うことはなかった。
おれの脳裏には獣の姿があった。鎖に戒められた巨大な四足獣の姿があった。突き出た口から零れだした牙。投げ出した前肢から飛び出した爪。威嚇にも似たうなり声を上げ、立ち上がろうとしている。それを邪魔する鎖のきしむ音がする。
もう少しだ。
この鎖を、もう少しで破ることができる。
破ればどうなるのか。解き放てばどうなるのか。おれにはわからない。わからないが、解放されねばならない。
剄の熱は増していく。手にした錬金鋼が煙を上げている。足下の床からも上がっている。
おれの周りが燃えている。
加速し、加熱する剄脈の鼓動が、おれの体内から飛び出して、周囲にある全てのものを振動させている。
おれはいま、世界を揺らしている。
そんな|傲慢《ごうまん》な考えさえも許容できるほど、おれは昂揚していた。
剄の熱はおれを燃やさない。
ただ、首にかかる感触がはっきりとしてくる。都市の地下にいるという位置的な意味は、月から伸びる仮面の柱にとっては意味がないようだ。この首にかかる憎悪には関係がないようだ。
強く強く、おれを締め付ける。
息の根を止めんと指を食い込ませてくる。
おれの剄は、この腕を拒否しない。おれは、この腕を拒否しない。
おれの加熱が、おれの加速がこの腕に力を与えるというのなら、この腕の存在に力を与えるというのならば、それはこの腕を掴むことができるということだ。
奔《はし》れ奔れ奔れ。
巨人たちを薙ぎ払いながら、おれは吠えた。余計なものが見えなくなる。巨人とおれだけとなり、そしておれと鉄鞭だけとなり、やがて錬金鋼も消え、おれと腕だけとなる。
体は勝手に動く。なにをしているのかよくわからない。なにもかもが自動的に感じられ、そして剄の鼓動が世界を叩いている。
その鼓動に仮面の柱が反応を見せている。虚像として現実感を欠いて存在していたものが、徐々に実像を得ているように感じる。
三つの筋を刻むだけで顔を表現していた仮面の一つ一つが隆起する。
形を変える。色を得る。
人ではなく、獣の面となる。
おれは、吠える。
目覚めろと吠える。
あの中にあるのだ。あるはずだ。
おれの獣。
そしておれの……なにかが。
おれの吠え声に仮面の柱が応えた。獣の面は、面のままその口を開くことなく振動し、大気を揺さぶる。
その内部で応えている。
おれの獣が、束縛の鎖から解き放たれ、力を取り戻している。
吠えている。
それに応え、おれも吠える。
遠吠えは共鳴し、世界を揺るがす。
仮面の柱に|亀裂《きれつ》が入る。獣の面が揺れ動き、裂け目が拡大していく。
破裂した。
仮面を空にばらまき、それが現れる。
獣が現れる。
ヴェルゼンハイム。黒い毛皮を刺々《とげとげ》しく尖《とが》らせた巨大な四足獣が姿を現した。都市を失った電子精霊が夜に向かって、砕け散った黒円に、いまだ残滓《ざんし 》の残る光幕に、そして月に吠えあげる。仮面に描かれた獣をより力動的にした顔が天に向いている。その|顎《あご》を開き、鋭利な牙を輝かせている。長い爪が空に突き立てられている。
おれが見た時にはまだ人の姿をしていた。だがいまは、完全に獣と化している。
おれ自身はメルニスクの地下にいる。だが、おれはその光景をはっきりと見ていた。位置は関係なかった。あらゆるものがおれには関係なかった。おれとヴェルゼンハイムは魂によって繋がり、それを見るべくして見ていた。
ジャニスの声が聞こえてきた。
「あたしは言ったわよ。関わらなければそれなりに平和に生きていけるって。だから、これを選んだのはあなた。この道を選んだのはあなた。もう、あなたは普通には生きていけない。普通には死ねない。この世界に、この世界を構成する力に、この世界の宿す願いに、あなたの生はかき回される」
彼女の声と共にヴェルゼンハイムの姿が消えた。
それは消滅を意味しない。
おれとヴェルゼンハイムは魂によって繋がっている。思い出した。最後までこの電子精霊と戦った。あの仮面を被った都市民たちと戦った。共に戦い。そしておれたちは一つとなっていた。
群がる仮面たちを薙ぎ払い続けた。
そしてのみ込まれたのだ。電子精霊はおれと引き離され、仮面の群の中に幽閉された。そしておれは、放浪バスの中で目覚めた。
記憶を一つ取り戻した。まだ不可解な空白や疑問が残っているが、それでも一つ取り返した。
取り返せる。どんな形であろうと、おれはヴェルゼンハイムというマスケインが支配していたものを一つ取り返した。
それこそが、重要だ。
「関係あるか」
ジャニスの姿は見えない。あの声はどこから聞こえてきた? 彼女はいまどこにいる? そして、おれの言葉は聞こえているのか? それら全てを関係ないと切り捨て、おれは答える。
「奪われたままでどうやって生きる? そんな生き方なんておれはごめんだ。強奪者から強奪するということがどういうことか。強欲に身を灼《や》く者からかすめ取ることがどういう意味を持つか、それを知らしめ、刻みつけ、そしてそいつの全てを奪い取り、はじめておれはおれとなる」
そのためなら、どんな生き方だって許容する。その中でもなお、おれはおれであるために強欲を費やせばいいだけだ。
ジャニスの返事はなかった。
おれの顔には仮面が張り付いていた。
獣を模した仮面。おれの魂と繋がった獣。
ヴェルゼンハイム。
それが、この仮面に込められている。凝縮している。
剄がさらに疾走する。駆け巡る。
全てを燃やし尽くす。
おれの目の前に生きているものは存在しなかった。巨人たちは倒れ、炭化している。
おれの体は、青い炎に包まれている。
その炎に触れたもの、全てが燃えさかる。辺りは火に埋もれていた。おれの剄が放つ熱に焼かれていた。
おれは進んだ。
念威繰者の女からはなにも連絡がない。剄の熱で端子が近づけないのか。あの女の願いでこの都市を守っているが、もはやこの熱はそんなものでは抑えられそうにない。
敵を求め、おれは進んだ。
奥に進めば巨人たちが道を塞ぐ。それらを潰しながら進む。もはや巨人たちは敵ではなかった。
おれは、違う敵を求めている。
こいつらではない。巨人ではない。
仮面たち。
ヴェルゼンハイムを束縛し、おれの記憶をかすめ取っていったもの。
獣を取り返したとたん、あの腕の感触が失われた。細く枯れた指が首に食らいつく感触が失われた。
なにかがあれを遠くに押しやったのだ。それは獣を取り返したためか。仮面の柱は獣を取り囲む檻というだけでなく、おれの記憶もやはりそこにあったのか。
では、あの腕は。どうしても思い出せないあの腕の主はどこに消えたのか。
おれは、それを探していた。
仮面の柱の崩壊とともに、それはこの都市のどこかに落ちているのかもしれない。
なら、どこにある?
地下にいた巨人たちを駆逐し、地上に上がる。
地上は崩壊の道に向けてひたむきに歩んでいた。
火災は都市のほとんどを覆い、巨人の吠え声が各地でしている。鋭敏となった感覚器官は戦いの音を拾い、そして、抵抗の|雄叫《おたけ》びがあまりにも弱々しいのを察知した。避けられない滅びを目前にした悲痛な劇がそこかしこで展開されている。
おれは、それとは関係のない場所で滅びを迎えた都市を歩いていた。どこかに散らばっていった仮面たちを求めて歩く。
ヴェルゼンハイムが解放された時、おれはもう一つ感じたものがあった。飛び散る仮面になにかが接近するのを感じた。吸い寄せられていくのを感じた。砕けた塔の残骸から、廃墟の山から、それは姿を現した。
地下にいたというのに、おれはそれを感じた。
暗く、黒い、不穏の塊だった。
その感触に覚えがある。しかも、塔から現れた。
おれが、塔に置き去りにしたもの。疾走の果てに捨てていったもの。
おれの中にあった腐臭。死者の妄念。それが仮面に這い寄っていた。
七色の光が、油膜の張った水たまりのように空のあちこちで輝いている。無秩序な輝きの群れは、たとえそのものであつても汚れた印象しか与えない。見渡す限りの空で歪んだ曲線を描き、|淀《よど》んだ光を放っている。
おれは無言で足を止め、空を眺める。獣が戻ってきたように、そのために腕の感触が失われたように、このメルニスクにもなにか、滅びの他に大きな変化が訪れているように思えた。
散発的に巨人たちと遭遇する。それらを踏み越えてあてどもなく進む。
滅びに向かう空気の中で、リンテンスの剄をおれは感じた。滅びとは関係なく、その鼓動は高く強い。|刹那《せつな》の速さで都市を駆け巡り、巨人たちに滅びをまき散らしている。
そこが激戦区なのか、おれの足はリンテンスの剄を求めて方向を変えた。あの時、バスの中で目覚めてから、おれは奴を殺さなければならないと感じていた。その理由がいまだはっきりとしていないことを思い出した。
おれを操る者たちが、どうしてリンテンスの死を願ったのかがわからない。
そして、塔にも登らせようとした。登らせてなにがしたかったのか。頂上には念威繰者の女がいた。空の向こうから来るものと戦おうとしていた女。そしてそのために、いま、この都市はこの有様となっている。
女を殺したかったのであれば、わかることもある。敵対している存在の抹殺。わかる理由だ。
だが、リンテンスにそういう意思はない。あの男は、ただ戦う場所を求めていただけだ。敵ならば、己の技量に見合う敵ならばなんでもいいとさえ思っていそうだ。
いや……あの男が満足する戦いが、そう存在するとは思えない。そうなれば行き着く先にあるのは、いまここにあるような戦いか。異世界との戦いか。
ジャニスに導かれてどこぞの都市に向かおうとしていた。
その都市になにかあるのか。奴らにとっておもしろくないことがそこにあるのか。
あの都市は……なんという名だった?
リンテンスの剄に引かれるようにして進んでいると、一人、おれの前に立ちふさがる者がいた。
おれと同じ仮面を付けている。だが、同じなのは形だけだ。そこには魂がない。熱く燃えたざる、青い|復讐《ふくしゅう》の炎がない。幽鬼と化した電子精霊の憎悪がない。だが、おれと、ヴェルゼンハイムの憎悪を受けて、無機質な仮面はこんな形になった。それには、なにか関係があるのか。
仮面を被る者の出で立ちに、おれは覚えがある。
青い炎はない。だがその代わり、暗く揺らぐ霧のようなものが男の全身から立ちのぼっていた。
覚えのある姿、そして霧にも覚えがある。
おれが、塔で置いてきたもの。マスケインの腐臭。
「親父か」
顔は見えない。だが、その立ち姿は親父そのものだ。
「久しいな」
その声は、やはり親父のものだ。
「そうか? おれとしてはそんなに時間が過ぎちやいないがな」
以前にジャニスが言ったとおりなら、ヴェルゼンハイムはもう三十年以上昔に滅んだことになる。時間の流れ通りにこの親父が存在していたのなら、その言葉は正しいだろう。
「それより、なんでおれの真似なんてしてんだ? 恥ずかしくないのか?」
「真似ではない。我々はのみ込まれたのだ。一つの、大きな力に」
「はっ、じゃあ親父は、その大きな力とやらにのみ込まれてへこへこしてるってわけだ。みっともない姿をおれに|晒《さら》してくれるなよ。殺してやりたくなる」
「元々、我らはただの|木偶《でく》だ。もう、そのことには気付いているだろう」
「あれか、親父が取ってこいっていったもの」
「そうだ。あれこそが、この世界が現れるよりもはるか以前に死んだ者の妄念をこの世界に届けた。そして形を得たものが、我らだ。我らは、死者の妄念をそれぞれ形にしたに過ぎない。暴力、女、支配、物欲、そして若さ。それらの欲が、混ざり合って生まれたのが我らだ」
「それで?」
いまさらな話だ。あの端末機にそういう意味があることは、あの時に理解した。
そしていま、新たに理解したことがある。
「おれたちがどこかの誰かの願望なんてことは、あの時に気付いていたさ。だから? それがどうかしたのか? じいさんや親父や兄貴がいつから知ってたか、誰ともわからん死者の願いだと知っていて付き合っていたのか、そんなこともどうだっていい」
おれは、この三人に潜在的に嫌悪感を抱いていた。いつか殺してやろうと本気で考えていた。
親近感はなく、親子、家族の情が存在しないことに疑問を抱くこともなかった。
それがなぜなのか、いまわかった。
「気に入らないのは、操られていることに気付いていたというのなら、どうしてその願望を無視しなかったかってことだ? なんだ? 本当はあんなことやりたくなかったとでも言うつもりか? どうせ操り人形の人生だから、いまのてめぇがそんな間抜け面でおれの前に立っていることもしかたがないことだとでも言うつもりか? おれたちに降り注ぐ憎悪を、そんな理由でなしにしてもらおうとか思ってんのか? 生ぬるいこと言ってるんじゃねぇよ」
覚悟がないのだ、こいつらには。強欲に身を浸し、他人を|蹂躙《じゅうりん》し、他人を踏みつけにし、うまい果実だけを啜《すす》ろうとしている。うまい部分だけを食らって苦い部分には無視を押しつけ、そして最後には操られていたからしかたがないと開き直るつもりか。
「富も権力も女も酒も、全て他人から奪い取った。ならそいつらの憎悪もまとめて食らってやるのがおれの強欲だ」
腐れ果てたこいつらよりも、傷ついたおれに憎悪の小石を投げつけた、あの名前も知らないガキの方が愛《いと》おしい。おれの首に手をかける、あの思い出せない腕の主の方がはるかに愛おしい。
「なんのつもりでおれの前に立っているのか知らんが、これ以上、ぬるいこと言ううなら死ね」
「お前はなにもわかっていない」
親父が首を振る。仮面の奥で吐息が震える。
「あの端末機が現れ、そして持ち去られたことで我らを作り出していた幻想は崩壊した。それなのに、どうしていまだに我らが存在しているか、その意味を考えたことが……」
ぬるい。
そう判断した。
一瞬で間合いを詰め、襟首を掴む。親父は抵抗もできずに持ち上げられた。おれの剄が親父を焼く。おれとヴェルゼンハイムの憎悪の炎にあぶられ、親父は手足をばたつかせた。
「どうして存在しているか? 生きているかって話か? さっきも言ったはずだ。知ったことか」
「待て」
待ちはしない。
腕から放った剄が爆発する。鮮烈な青い光に親父の姿が飲まれる。
この仮面は、おれを支配し、存在させていた? 強欲都市で消え去るはずだったおれを、こいつが生かした?
そして操った。
リンテンスを殺そうとさせ、そして塔へと向かわせた。
この仮面が関係している。端末機の中から現れ、ヴェルゼンハイムの都市民を支配したこの仮面が関係している。
それなら、いま被っているこの仮面にもそれは影響しているのか。
おれはまだ操られているのか?
いや……
そうなら、操られているのなら、親父が出てくることはなかったはずだ。影響が完全になくなったとは思えないが、おれを操るまでには至っていないはずだ。
それよりも、親父だ。
あれで死んだのか、それとも死んでいないのか。ヴェルゼンハイムでは見てもいないのに消えてしまったと感じた。そして今回はおれの目の前で、おれ自身の手で、しっかりと殺した。
ならば死んだだろう。
親父の言葉そのものは一考にも値しない。操り人形に甘んじ、それを平然と口にできるなど、反吐《へど》が出るほどおぞましい。
そしておれは、また一人で都市を進む。
リンテンスの剄を追いかける。激戦地がそこにある。戦いならばなんでもいいと思っているわけじゃないが、敵を求めればそこに行くしかない。
おれの敵がそこにいるかは、わからないが。
見るものもなく、おれは空を見る。無秩序に散らばる七色の光は、相変わらず汚らしい。
戦いが始まってどれほどの時間が過ぎた? まだ朝は訪れないのか?
おかしいと感じた。異常な事態の中で、おれは時間の流れについて考えていなかった。塔に登った時には深夜となっていた。それから塔に挑戦し、さらに戦いへとなだれ込んだ。
そろそろ太陽が姿を見せてもおかしくないはずだ。
だが、空は変わらず暗い。
この都市はいま、何処にいる?
正しい時間の流れの中に存在しているのか?
歩き続けていると、おれはそれを見つけた。
地面に大きな穴が開いている。街路の舗装は破砕され、地上を支える鉄骨は折れ曲がり、ケーブル類が火花を噴いている。
その下にある巨大な空間は闇に包まれている。
噴き上がってくるものがある。地下に潜《た》まっていた熱気が出口を見つけて殺到している。それに混入された臭いが、おれの鼻を打つ。
血臭だ。熱に灸られた濃密な血の臭いがそこから昇っていく。
シェルターの都市民たちがやられたか。
機関部も破壊されたと聞いた。だが、都市の足はぎこちなくではあるがまだ動いている。完全な破壊ではなかったということだろう。
しかし、そこに住む人間を失ってもまだ、都市に意味はあるのだろうか。
全滅したとは限らない。だが、この鉄分と脂の混ざり合った濃い臭いは十人二十人で済む数ではないはずだ。放浪バスに乗って脱出という一縷の望みをかけた人々が虚《むな》しく肉塊と成りはてた、その無念の臭いのはずだ。
ここにいた人々を殺した巨人たちは、まだこの中にいるのか?
おれは穴の奥の気配を探った。この穴からして、巨人たちはここを破壊して地下に侵入したはずだ。都市民たちを守る武芸者たちがいたのかどうかも知らないが、全滅しているに違いない。
巨人たちがいるのならそれを追うか。生き残りがいるのならそれを助けることに繋がる。らしくない考えのような気がしたが、明確に向かう場所がはっきりしているわけでもない。
数瞬、迷いながら穴の奥に感覚の手を伸ばしていた。密閉された空間の各所で熱気が流動する音が聞こえてくる。エネルギーケーブルが断線しているためか、人工の明かりは絶えている。月光は穴の浅い部分にまでしか視線を届かせない。時折、地下のどこかから伸びてきた炎の舌がそれらを押しのけて、ほんの一瞬だけおれに惨状を届ける。
その、瞬間瞬間の隙間。連続する映像のほんの一コマに、それがいたような気がした。
なにかを見た。そして、見たことが信じられないと思った。
「おい」
おれは呼びかけた。返事はない。ないことを確認しながら、おれは穴へと飛び降りた。着地の音には湿り気が混じっていた。
もう一度呼びかけてみても、やはり返事はない。
いるはずがない。おれの剄は落ち着いている。青い剄はいまだに全身を覆っているが、激しくはない。少なくとも、周囲に熱を振りまくほどには猛《たけ》ってはいない。だが、この剄は強力だ。質そのものが変わったかのように強力に、おれを守っている。
足下に溜まった血だまりは凝固と蒸発に向かってひた走り、泡立っている。タンパク質の焼ける臭いが空気を満たしている。
そんな中に、無事な姿の少女が立っているなど、あるはずがない。
なにより、気のせいで片付けられるようなほんの一刹那、その姿を見ただけだ。そんな短い時間で、こんなにまではっきりと顔を覚えていられるわけがない。
たとえ、忘れられないほどに全てを圧する|美貌《び ぼう》だったとしても、詳細に覚えていられるはずがない。
光線の歪み。記憶の|捏造《ねつぞう》。ただの気のせい。どうせ、そんなものだ。
おれは、穴から飛び出し、リンテンスがいるだろう外縁部に向けて、再び進み始めた。
いるはずがない。
あんな熱気の中で無事でいられる人間がいるはずがない。
たとえ武芸者であったとしでも、まだあどけなさも残っていそうな年頃の少女にそんな実力があるはずがない。
なにより、あんな美しい少女がいるはずがない。
黒髪に黒目。闇に溶けたような外見。白い肌は穴から届く光を寒々しく、そして淫靡《いんび》に照り返していた。こちらを見上げたその瞳《ひとみ》は妖艶《ようえん》な鋭さを宿し、ただ見ただけで心を掴んで離さない。
ただの、幻だ。
ここにいるはずがない。
では、どこにならばいる?
あれを、あんな連中がいることを、いたことを、おれは知らなかったではないか。いつからヴェルゼンハイムにいたのか、おれは知らなかったではないか。
隻眼の男と、男に影のように付き従う少女の存在を、おれはあの時まで知らなかったではないか。あんなに目立つ風貌の二人組だったというのに。そしてあの二人だけが仮面に支配されることなく、当たり前のように敵対していたではないか。
つまりあいつらは、そういう存在なのだ。
ジャニスと同じように、レヴァンティンと同じように、そういう、おれに理解できていない場所にいる存在だということではないのか。
では、ここにいてもおかしくはないのか。
あの穴の奥に見えた少女は、本当に、隻眼の男がつれていた少女と同じなのか?
同じように見えた。だが、違うようにも思う。隻眼の男といた少女には月光が染みるような魅力があった。だが、さっきの一瞬で見たのは、そのただ一瞬でも心を強烈に掴んで離さない、毒液のような|蠱惑《こわく》があった。
同じなのに、まるで違うと感じた。あの一瞬で、明確にそれを感じたのだ。
戻って確かめたい衝動に駆られた。しかし、もうそこにはいないだろうという思いが、なぜかおれの心を占めていた。歩みは止めない。外縁部へと向かう。
進むうちに、一つの予感がおれの中でわき上がっていく。
強欲都市が滅んでからいままで、様々なことが起きた。放浪バスで目覚め、リンテンスを殺そうとした。グレンダンという都市の滅びを目の当たりにし、そしていま、この都市の滅びを目のあたりにしている。
三つの都市の滅びの中でおれは|彷徨《さまよ》っている。
どの都市の滅びの中でも、おれはなに一つ成し遂げず、なにかを成し遂げようとも思わず、己の強欲に向かっていく。操られた末であれ、すでに手遅れであれ、そしてその操りから脱するためであれ、そこに住む数万の人間の願いを無視し、おれの中から奪われたものを取り返すことしか考えず、進んできた。
そしていま、ヴェルゼンハイムを取り返した。奪われた憎悪を胸に強欲都市の最後をともに戦った同士が戻ってきた。おれとヴェルゼンハイムが奪われたと感じたものは違うだろう。だが、その憎悪は敵を同じくしている。だからこそ、共にここにいる。
そう、取り返したのだ。
ジャニスの言葉を信じるならば、おれは深く関わった。強欲都市で滅びるだけだった一つの命に過ぎなかったはずが、そしてあるいは、親父のように仮面に操られるだけに成りはてでいたかもしれない存在が、こうして復讐のために、取り返すために牙をむいた。
おれはやっと、舞台に立ったような気がする。なんのための舞台か、世界の命運か、あるいは単なる復讐劇か。
さあ、おれはこれからどうする?
敵ははっきりとした、おれと同じ仮面を被った連中。
次はそいつらとの戦い方だ。
必要なのは奴らを追う術だ。その臭い嗅ぐ鼻、その足跡を探る目、そしてそれらを辿る足だ。
定めた獲物を|執拗《しつよう》に追い回す獣の本能だ。
それを手に入れなくてはならない。
その末にあるはずだ。おれを呪い、おれを憎しみ、おれに殺意を抱く。おれだけに感情を注がせる愛しい存在が。
あの腕の主がいるはずだ。
「素敵な狂気ね」
誰かが、おれにそう|囁《ささや》いた。
見回しても、誰もそばにはいない。空耳か。あの少女がすぐそばにいるような気がした。しかし姿はない。街灯は沈黙を保ち、周囲には闇が敷かれている。
気にしていてもしかたがない。ここはもはや尋常の場所ではない。太陽は昇らず、夜は七色に汚れている。
なんだって起こりえる。
(やっと、みつけました)
今度の声は、幻ではなかった。蝶型の端子が建物の陰から現れ、おれのそばにやってきた。
(あなた、なのですね? )
仮面を付けていることもあるだろう。だがそれよりも剄の変質に気付いたか。
「ああ。すまんね。守れなかった」
(いえ、かまいません。あなたは十分に役目を果たしてくれました)
女の声にはやはり揺らぎがない。
あらゆる感情が排除されたその声から、なにかを想像するのは難しい。この現状を、女がどう捕らえているのか、考えるのは難しい。想像はできる。何処にでもありそうな物語になぞらえることはできる。だが、おれが故郷の滅びそのものになにも感じていないように、この女もなにも感じていないかもしれない。
「放浪バスでの脱出は無理だったか」
(およそ二百名の脱出には成功しました。リンテンス様には格納庫にまで辿り着いた者たちは守っていただけました。しかし、そこから出た者の消息は不明です。)
おれが守れずリンテンスには守れた。おれが力に酔っている間、あいつは淡々とその力を行使し続けた。すでに辿り着いている者と、そうでない者との差か。
ここから感じるあいつの剄だけでもわかる。おれはやっと、あいつの境地に辿り着いた。電子精霊という同士を得て、初めてだ。
つまり、おれ個人ではまだまだあいつには届いていないということだ。戦場を渇望するあいつの強欲は、おれなどには届かないということか。
「……それで、これからどうする? 生き残りはまだいるのか?」
(いえ、もう私たち以外にはおりません)
「そうか」
感想を口にはできなかった。この広大な都市に、おれたち以外の生者が存在しない。数万人いた都市で、脱出できたのは二百人ばかし。しかもそいつらにしたところで、無事に逃げ出せたのかどうかはわからない。
ヴェルゼンハイムでは感じる暇もなかった。これがやるせないという感覚か。
「それじゃあ、次はおれたちが逃げ出す算段か?」
(はい。放浪バスはリンテンス様のおかげでまだ無事です。ディック様は、そのまま格納庫に向かってリンテンス様と脱出してください)
「ジャニスは?」
(あの方の反応はみつけられません)
死んだか? いや、あの女のことだ、死んではいないだろう。こうなることを知っていたとしか思えない態度でもあった。それなら、自力で逃げ出す方法を知っているだろう。
会えるのなら、開きたいことはいくらでもあったが。
「それで、お前は?」
足を止め、おれは問いかけた。
聞き逃すはずもない。女は、おれとリンテンスに脱出を促した。おれたち二人だけで放浪バスに乗れと言ったのだ。
(私は、残ります。この都市が滅んだのは私の責任ですから)
「意味がないな」
おれは即座に断じた。
「誰の責任だろうと、死で解消できるわけがない。せいぜい、迷惑を被った奴らが少しだけすっきりする程度だ。そいつらだって、すでに腹ん中だったり、路上にばらまかれたり、放浪バスでどっか行ったりしてるんだ。お前が死んだかどうかなんて奴らにはもうどうだっていいことだな」
(ですが……)
「おれの都市には念威繰者はいなかった。じいさんが嫌いでな。みんな殺しちまった。それでも、あんたの能力がすごいってことぐらいはわかるぜ。そんな力をこんなところで潰しちまうのは惜しいとは思うな。どうせ死ぬ気なら、リンテンスと一緒に戦場でも渡り歩いたらどうだ?」
この女の運命がどうなろうが、本来ならどうでもいいことだ。
だが、一度助けた。
助けた以上、それはおれの命だ。
そしでこれも復讐だ。おれを操るモノがリンテンスと同じようにこの女の死を願っていたのであれば、この女が生き残ることにはなにか意味があるはずだ。奴らの企みを潰せるおれの痛快さだけではなく、それ以上の意味が。
「なんなら、おれと一緒に来るか? おれもいま、鼻のきく奴は欲しいからな」
それなら、勝手に死ぬことは許さない。
(わかりました。私も向かいます)
「大丈夫か?」
(都市内にはもはや敵はいません。移動に問題はないかと)
「そうか」
端子がおれの端から去っていく。おれはそれを黙って見送った。
その言葉を信じるしかないか。行くと言ったその言葉を。
だが、もう片方は嘘だ。いや、女が意図的に嘘を吐いたわけではないだろう。
敵がおれの前にいる。
手足の短い樽のような体型だが、その全身は鉄のような筋肉で覆われている。見なくても、わかる。噴き出す剄はすさまじく、おれを威圧する。
手にしている|錬金鋼《ダイト》はおれの持つものと同じ、鉄鞭。普通のものとは規格の違う、もはや巨大な鉄の塊としか形容できないような打撃武器。
じいさんだ。
仮面を被っていてもわかる。
放たれる剄にまとわりつく腐臭を、親父などよりもはっきりとじいさんから感じた。
「よう、じいさん。あんたまで惨めに使いっ走りに格下げか」
「ぬかすな、小僧が」
じいさんは、仮面の奥で笑っているようだ。
「因業なくこの世があると思うな、わしらがあることすらも万古不易の流れの中の一つ、それに逆らう貴様こそが愚か者よ」
「言ってることは負け犬の遠吠えだ」
おれは踏み込んだ。
放たれる威圧をもう恐れはしない。剄は瞬時に高みを目指し疾走する。鉄鞭が轟音を響かせる。
錬金鋼がぶつかり合う。
「てめぇのやったことの責任を誰かに押しつけた時点で、終わってんだよおれたちは!」
「減らず口を」
応酬の言葉にも剄を込める。大気が爆発し、おれたちは距離を開ける。
小技のぶつかり合いはない。即座に剄は頂点を目指し、怒涛の衝突が起こる。周囲が爆砕し、地面が陥没する。おれたちは跳んだ。
建物から建物に跳びながら、同じことの繰り返し。ぶつかり合い、弾《はじ》け合う。剄の爆光が辺りを埋め尽くし、生き残った建物が次々と倒壊していく。
「実体なきわしらは、あの端末機がなければ生きていけぬ。生への執着こそ根源の欲。それを掘り出した愚か者、それを手放した愚か者、全てを根絶やしにする」
「はっ。やっと、らしいことを言いやがつたか」
手放した愚か者とは、おれのことか。
「そして貴様を食らえば、わしは完全なる生を得る。愚か者への懲罰。そしてわしを生かす餌となれ!」
「最初から、そう言いやがれ」
衝突は続く。青い剄は限界を知らないかのように奔り続ける。剄脈の鼓動はおれの体外に飛び出す。憎悪の炎が周囲に破壊の手を伸ばす。
かつて登り詰めた場所にまで辿り着いた。だが、じいさんとのぶつかり会いは互角のまま流れていく。
餌。完全なる生。意味はわからない。だが、じいさんの殺意が本物であることは確かだ。|貪欲《どんよく》な餓獣の牙に偽りはない。
錬金鋼が悲鳴を上げている。強度だけは人一倍ある鉄鞭がおれたちの戦いに付いていけなくなっている。じいさんの鉄鞭はどうだ? 同じように煙を上げている。
だが、剄の疾走は止まらない。もはや、止めようとして止められるものではない。ヴェルゼンハイムの遠吠えがおれの体を強引に押し上げる。体内を活性化させ、剄脈を加速させる。吐き出される剄は加熱し、透明度が増していく。
危険を感じた。だが、止まれない。止まれはしない。おれの憎悪だけではない、仮面に宿る電子精霊の憎悪もある。おれたちは同士ではあるが、目的が完全に一つではない。おれたちは息のあった同士というわけではない。ただ、目的が似通っているだけだ。倒さなければならないものが同じというだけだ。
この仮面を強欲都市にばらまいた連中を倒すという目的が同じというだけだ。
ヴェルゼンハイムにとっておれは、目的を遂行するための捨て石であるかもしれない。そうであっても責めはしない。おれも、こいつの力を利用する。ただ、おれが追いつけなくなった時、この速度に追いつけなくなったとき、こいつはおれの死を捨ててどこかに行くだろう。
同じ方向に走る直線が、わずかな角度の違いで距離を開けていく。それをおれは感じていた。
そしてその|空隙《くうげき》にはいま、錬金鋼という存在がある。それが砕けたとき、おれという線もまた消失してしまうのではないか。
だが、止まれはしない。止まれば死ぬ。じいさんは止まらないのだ。おれが止まろうと関係なく、壊れかけの錬金鋼を叩きつけてくる。
短い間に百を数えるぶつかり合いを行った。激突の余波に巻き込まれた周囲は、もはや原形さえも残していない。
七色の汚れた空だけが、おれたちを見守っている。
危険な予感が高まっていく。じいさんは止まらない。剄は激しい威圧を放ち、一個の砲弾となって襲いかかる。ためらいは死を呼ぶ。飲み込まれれば死の牙が食らいつく。止まることは許されない。条件は向こうだって同じだ。
飲まれるな。食い破れ。
吠える。
おれが、獣が。
剄を弄らせ、加速で果断を呼び、加熱で狂気を煮えたぎらせる。
錬金鋼を、牙を、振り上げ、叩きつける。
奴の牙とぶつかり合う。
いままでと違う手応えが腕に伝わった。鉄の共鳴する長い尾を引く振動は霧散し、重さが変わる。|心許《こころもと》ない軽さ。鉄鞭は根本から先が失われていた。
吠え声がする。野太く、酒精に焼けた吠え声が。
じいさんの仮面がすぐ近くにある。変化のない仮面の向こうで牙を剥《む》き出しにした顔が浮かんだ。その牙はおれに襲いかかっている。じいさんの右手で、ひびが走り熱で変形した鉄鞭の形で、おれに突き立てるべく力が溜められ、振り下ろされる。
身をひねる。頭は避ける。
胸を抉る。衝撃が全身を走り、おれの意思が手足から追い払われる。
骨の砕ける音。金属の破砕する共鳴音。
衝撃はおれの思考をも貫き、全てを白く染め上げた。
空白と化した思考に暗転の黒が入り込もうとする。気を失ってなるかとおれは意識の中で歯を食いしばる。白と黒がぶつかり会う。混ざり合って灰色になることもなく、それらは食い合い、接触点で火花が散る。
その火花の中から、それは現れた。
おれの記憶だ。
どこにあった? おれの中で眠っていたのか。それともじいさんの中にあったのか。それが叩き込まれた剄とともにおれの中に流れ込んできたのか。
記憶が再現される。
腕、おれの首を絞める指。枯れてはいない、|艶《つや》を失ってはいない。おれの全身はやや熱い湯の中にいた。おれは揚の中に押し込まれ、そして腕の主は湯面の向こうにいた。おれの首を絞めている。おれを殺そうとしている。狂おしい憎悪がおれに注がれている。おれは力を失っている。
いまのおれと同じように体を動かせない。
指から力が抜ける。そいつの顔が湯の中に入り、おれの前にやってくる。触れる鼻先。瞳が目の前にある。
そいつの顔がおれの前にある。
ああ、こいつだ。
おれはこいつを失っていたのだ。
名前も言える。
メイリン。それがお前だ。
メイリン。メイリンメイリンメイリンメイリンメイリンメイリンメイリンメイリンメイリンメイリン……何度だって言える。何度だって呼ぶことができる。それがお前の名前。それがお前の存在。それがおれの欲しいもの。
あの枯れた腕。おれのものでない全てを削《そ》ぎ落とした姿も思い出す。おれの腕に捕らえ、逃すまいとしていた、おれの愛しい憎悪。
記憶を取り戻した。
だが、実体はまだだ。
そして現実は、おれに死の幕を下ろそうとしている。
おれの体は力を失って地面に落ちた。
体内の全てのリズムが歯車から外れた感じがする。体内で行き違い、ぶつかり合うエネルギーが衝突し、不快な圧迫が心臓を絞める。同じように手足から徐々になにかが失われていく感じがする。全身が痺《しび》れている。この痺れが失われた時、おれは死ぬのか。
「ぬるいのはどっちだ?」
おれの上に、じいさんが立つ。
「わしか? お前か? 手負いの獣はしょせん手負いよ。存在の根幹に逆らってなにができる」
じいさんの嘲弄《ちょうろう》がおれを嬲《なぶ》る。身動きのできないおれは、痺れの中で剄脈に意思を注ぎ込む。奔れと吠える。しかし、体は応えない。剄脈は応えない。さっきまであった疾走感はどこかに消え、もどかしさだけがおれの脳に重くのしかかる。
仮面が砕けていることに気付いた。左目の周辺を風が触れる。それだけでなく全体がひび割れているのが、感覚でわかった。
ヴェルゼンハイムもまた、おれと同じように傷ついている。
じいさんがおれに近づく。
その体を黒い霧がうっすらと覆っている。全身が|麻痺《まひ》しているというのに、その臭いは感じることができた。腐臭だ。あの腐臭がより濃密に黒い霧の形で凝縮している。周囲に発散されることなく、その場にとどまっている。
塔の中で置き去りにしたもの。
そしてイメージで感じた、散らばる仮面に這い寄る腐臭。
もしかして、じいさんたちはおれの中にいたのか? ヴェルゼンハイムで消滅していたものがおれの中で腐臭として満っていたのか?
おれを操っていたのは、じいさんたちか? 仮面たちか?
「貴様を食らえば、わしはこの存在での主導権を得ることができる。壊れた電子精霊……廃貴族の力、そして貴様の存在力。端末機、オーロラ粒子発生器より現れたあの仮面の異民どもさえも奪い……再びわしの支配を始められるということだ。より混沌《こんとん》とした戦の中でな」
反論も抵抗も許されない。体が、指先一つ思うままにならない。
存在での主導権? じいさんたちは、おれの中にいただけか? それをおれが塔の中で置き去りにした。それで形を求めて、仮面を利用した?
じいさんたちは、仮面とは関係がない?
おれを操ろうとしていたのは、やはり仮面たちの方か。
「ここの電子精霊も食らってやろう。人を失った電子精霊の価値など、それくらいしかないわ」
じいさんの仮面が変化した。いや、仮面とじいさんが一体化しようとしているのか。それが仮面を支配するということか。顎がより飛び出し、牙が現れる。生々しい赤が口内を彩り、長い舌が蠢《うごめ》いた。
無機物であった仮面が、じいさんと溶け合い、有機物に変わろうとしている。
一つの獣になろうとしている。
食われる。
そんなことになって、たまるか。
「力を貸してあげましようか?」
その声は鈴が鳴るようにおれに降り注いだ。倒れたおれを覗き込む影がある。
状況も忘れて、おれはその影に見惚《みと》れた。
あの少女だ。
いたのか、本当に。
だが、じいさんの変化は止まらない。じいさんの態度に変化はない。気付いていない?
それともおれにしか見えていないのか。
目を離せない美しい少女が、おれを見下ろしている。
淫靡な瞳に嘲笑を浮かべて、おれを見下ろしている。
「自分が何者かも知らない惨めな、とても惨めなあなたに、力を貸してあげましようか?」
じいさんは変化していく。仮面と一つになり、全身がふくれあがり衣服を破る。元々濃い体毛に覆われていた肌が、さらに脂ぎった硬い毛に包まれていく。
獣そのものに変化していく。
その過程の中で、少女はそちらを見ないままに、おれを見ている。
時間の流れがひどくおかしい。じいさんの変貌がひどく遅く思える。動きの一つ一つが違和感のある遅さなのだ。
そんな時間の中で、少女は長い黒髪を耳に流し、深紅の唇でひっそりと笑みを作り、話しかけてくる。
「操り人形がその糸の先を変えるようなものでしかないけれど、それでもいいのなら力を貸してあげましようか?」
繰り返し、問いかけてくる。
「この愚か者が|喋《しゃべ》る一面の真実さえもわかってない哀れなあなたが、どんな獣になるか少しだけ興味があるの。でも、聞き入れないのなら別にかまわない。このまま死んで、そしてわたしに滅ぼされればいいわ」
言葉を変化させながら、問いかけてくる。
屈辱を、おれに強いてくる。たとえ敗北しようと、誰かに支配されるなどごめんだ。
「なにも得ないままに死にたいのなら、さようなら。でも、わたしは、飼い犬に手を噛まれることを恐れはしない」
同じ人間の手かと思うほどの細い指が、しなやかに振られる。いたずらに満ちた目で笑みを送ってくる。
噛んでごらんと挑発している。
死ねばそれで終わりだ。ならば受け入れるべきか。この少女が何者かもわからないというのに、受け入れるのか。隻眼の男に寄り添っていた少女とは、姿が同じでありながら明らかに違う。そんな少女を、受け入れていいのか。
なにも得ないままに死にたくはない。
それは確かだ。
「迷う暇があるのかしら? 生きるか死ぬか、それだけの問題でしょう?」
選んだ。
おれは目の前に置かれた選択肢を選んだ。じいさんか、名前も知らない少女か。選択した。痺れた口からは言葉が出ない。だが、その意思は少女に届いた。
屈辱の選択だ。
だが、この屈辱を飲み込まなければ、おれはここで死聖それだけでなく、メイリンを取り返すことさえもできない。仮面の柱の中から伸びた手。あれがメイリンだ。メイリンは仮面たちが捕らえている。それを取り返さなくては。
殺されるのなら、おれはメイリンに殺されなければならない。
あの憎悪にこそ、おれは殺されたい。
しかしそのために、おれはこの少女に屈さなければならない。
屈辱を、おれは選んだ。
おれが感じた屈辱に、少女はひどく満足した笑みを浮かべた。
「そう。それなら覚えておきなさい、飼い犬。ニルフィリア。あなたのご主人様の名前よ」
右手がおれの胸の上に、水平に伸ばされる。
その指先。一番長い中指の先から黒い液体が溢れる。それは表面張力で指先に溜まり、やがて自重に負けて落ちた。
黒い滴は、おれの胸の上。心臓を打った。
いつか、お前に食らいつく。
「できるものなら、してみなさい」
少女は笑いながら消えた。
時間の流れが元に戻った。鼓膜を荒い気流の音が包み、獣と化したじいさんの吠え声が全身を振るわせた。
動ける。
獣人となったじいさんの顎が迫る。おれはとっさに右腕を振るった。
壊れたはずの錬金鋼が握られていた。鋭い牙の列が鉄鞭に食らいつく。獣人となったじいさんの顔に不快の皺《しわ》が生まれた。噛まれたままの鉄鞭を振り回す。じいさんの体が浮き、飛び離れた。
「貴様、どうやって……」
獣人の顎では人間らしい発音はできないのだろう。聞き取りにくい声には驚きがある。
「知るか」
言い放つ。体の痛み、痺れ、もどかしさの全てがどこかに失せていた。仮面も元に戻っている。
剄も弄る。青い憎悪の炎が、おれをかき立てる復讐の熱が戻ってきている。
実際、おれにはなにも理解できない。
ようやく舞台に上がったと思っていたら、美はまだ幕も上がっていなかった。そんな気分だ。
そして、あの少女との契約。
生きるために、誰かの支配下に入ることを選んだ。
「あんたを笑えなくなったな」
ニルフィリア、そう名乗ったあの少女に生かされたのだ。己の強欲に従ってあらゆるものを奪い、その業の先にある死を恐れない。それがおれだったはずだ。
そして、それ自体は変わっていないはずだ。
死ねない。
そう思ったのだ。
この復讐を成し遂げるまでは死ねないと思ったのだ。おれから奪ったことへの対価を叩きつけてやるまでは、どんな死も受け入れることはできないと。
メイリンに殺されてやるのだ。あの枯れた体に残った全てをおれのものにして、そしてその憎悪でおれは死ぬのだ。
それが、おれの強欲だ。
そのために選んだ。いままでの自分を否定する苦渋の選択だ。
これがおれの強欲だと言うのならば、力尽くでそれを成し遂げれば良いものを……
いつか噛みついてやる。そんな言葉など、ただの負け惜しみだ。
それがわかっているから、あの少女は笑っていたのだ。
「さあ、お前を殺すために墜《お》ちてやったんだ。とことんまで付き合ってもらうぞ」
青い炎が燃え上がる。透明度が増す。活力を取り戻したヴェルゼンハイムの吠え声が、剄脈の鼓動となって空気を震わせる。
じいさんは錬金鋼を失っている。だが、その手には爪がある。長い顎には牙がある。仮面があるからそんな姿になったのか。ならばおれもいずれは、この仮面と、ヴェルゼンハイムとともに戦えば戦うほど、あの姿になるのか。
ただ一匹の、正真の獣と成りはてるか。
じいさんが向かってくる。
おれはそれを見る。まだ踏み込まない。その獣の姿を見る。おれ自身と重なる。それは、おれの未来の姿か。あのようにただ一匹の獣と成りはてるか。大きく腕を広げ、爪を突き立てんと向かってくる姿を見る。大きく顎を開き、頭から齧《かじ》り付こうとする姿を見る。
おれもいずれ、こうなるのか。
目を、思い出した。獣となったおれに組み伏せられた女の、目を。
メイリン。彼女の目を思い出した。強欲に任せて組み伏せた女の目。いまだにおれのものになりされていなかった時の女の目。
その目がおれを見ている。蹂躙するおれを、冷徹に見つめている。
ただの獣と見定めている。
ならば、いい。
獣人の姿がすぐそばにある。その爪が襲いかかるタイミングでおれは踏み込んだ。右肩を爪が貫く。熱が走る。
大きく開かれた顎と、そこに並ぶ牙が眼前にある。
左腕を差し出す。顎の奥深くにまで腕を突き入れる。顎が閉じられ、牙が肉に食い込む。かまわない。口内で自由になったおれの手は獣の舌を掴む。唾液《だえき》で滑る舌を握り潰す。その舌を引き、体を動かし、背負う形で地面に投げつける。
掲げた錬金鋼で、収束した剄が白い光を零していた。
「くたばれ」
振り下ろす。轟音と光を従えて、鉄鞭は獣人の胸を砕いた。余波が爆砕を呼び、周囲の地面が崩壊する。崩壊に巻き込まれ、獣人の体は粉微塵《こなみじん》となる。おれの左手には舌を伸ばした獣の顔がある。力なく顎を広げ、どこか愕然としているように思えた。
それも、抵抗力を失って剄の炎に灸られて消えた。
崩落が起こり、おれは地下に落ちた。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
都市の全てが軋《きし》んだ音を立てていた。地上の崩壊は地下の重要な部分にいくつもの障害を生み、そして地下自体も巨人によって荒らされている。
動いているのが奇跡のような状態なのだろう、おそらく。
あちこちのパイプが裂け、熱気が溢れている。地下に退避し、そして殺された数万人分の死臭がおれを取り囲み、そして染みこもうとしていた。
地下に着地したおれは、あやうくそこに|膝《ひざ》をつきそうになった。
ひどく、疲労しているのを自覚した。剄の弄る感覚はもうない。剄脈の鼓動は弱く、流し込んでくる力も微弱だ。
仮面がおれの顔から剥がれる。それを手に取る。水滴のようにそれは弾け、光の粒となってどこかに消えた。消滅したわけではないだろう。だが、ヴェルゼンハイムもまた疲労しているように感じた。
弱った体に気力を込め、立ち上がる。
跳躍し、崩落の穴から地上に逃げ出す。惨状はどこも変わらない。だが、地上は死臭が薄く、呼吸をするだけで|安堵《あんど 》できる気分だった。
外縁部を目指す。リンテンスたちはまだいるのか。
近づけば近づくほど、武芸者の死体を見ることになる。巨人の持っていた武器に体を縦にそざ落とされ、胴を薙ぎ払われ、あるいは巨大な口に噛み潰された死体がそこら中に転がっている。
あるいは握り潰され、あるいは壁に叩きつけられ、あるいは踏みつぶされている。巨人たちの死体はどこにもない。武芸者たちが一体も殺せなかったわけではないだろう。おれが倒した巨人の死体も気がつけば消えていた。
あの死体はどこへ消えたのか。そして仮面を付けた奴は他にはいないのか。ヴェルゼンハイムの都市民たちを支配したあの人数は、都市の崩壊と共に消えてしまったのか。
ここではもう、なにも起こらないのか。
走る力もままならないまま、おれは外縁部を目指している。崩落から脱出しただけで力を使い果たしたようだ。広大な都市を進むには、いまのおれの速度はあまりにも遅い。建物から建物に跳ぶ力もなく、|瓦礫《が れき》の散乱する地上を亀のように進むしかなかった。
辺りを照らすものはなにもない。空に変わらずある七色の微弱な光を拾い、視界を確保する。
都市は絶息に近い状態にあった。それでも巨大な足は動いている。
金属の軋む不快な音をまき散らしながら、ぎこちなく進んでいる。
それは都市の意地に思えた。おのれの使命を遂行することに全霊を賭《か》ける都市の意地だ。
だが、守る者はすでにいない。生きている者はもういないと、あの女は言った。
夜はまだ明けない。時間が壊れているのだと、おれは考えている。あの空に黒円が広がった時から、この都市は正常な時間の流れから隔離されてしまっている。おれたちが本来いるべき世界から、何歩か踏み外してしまっている。
いや、もしかしたらそれ以前から踏み外していたのか。マスケインという異端の一族がいたからこそ滅んでしまった強欲都市のように、この世界の向こう側に気づき、あんな塔を建ててしまった時から、この都市はずれてしまっているのか。
だから、いたのか。
おれや、ジャニスがいたのか。
そしてニルフィリアとかいう女が現れたのか。
「敵だけははっきりしているんだ。敵だけは」
呟きながら、おれは進む。
だが、その敵は、仮面たちはどこに消えた? 獣の形を得て、散らばり、どこへ消えた。この世界で、なにをしようとしている?
疲労が体を重くさせ、思考は同じ場所をぐるぐると回り続ける。答えのでない問いだと放置することができない。
舞台はどこにある? おれが戦うべき場所はどこにある? それを求めてさまようリンテンスのように、おれもまたさまようことになるのか? だが、奴の旅はもう終わる。放浪は終わる。
ジャニスがそう言った。それだけではなく、グレンダンという言葉に、奴は惹《ひ》かれている。それがジャニスの思惑であったとしても、奴はそこに向かうだろう。
そこにあるものは、本当に奴を満足させるのか。グレンダン。
おれも目指してみるか。そこにあるものが戦いだというのなら。自律型移動都市の本能を否定して汚染獣と戦うような都市であるのなら、他にないなにかがあるということなのかもしれない。
そこなら、仮面たちのことも探れるかもしれない。
外縁部に辿り着いた。
無人の外来区に入る。宿泊施設は全壊していた。まるで斜めに切り落としたような傷跡は、リンテンスのものかもしれない。
外縁部の破壊は一際激しい。汚染獣に侵入された場合を考えて、外縁部は広い空白地帯となっている。それだけでなく、都市間戦争時の主戦場にもなり得るこの場所には外来者の受け入れ区画や放浪バスの停留所を除けば、なにもないように作られている。
そしてなにより、頑丈に作られている。武芸者たちの武術、剄技がどれだけ放たれようとも微動だにせぬように、汚染獣たちがどれだけ暴れようとも微塵も動じぬように。
だが、破壊されている。そこら中に破砕|痕《こん》が刻まれているだけならばまだしも、地割れが走り、欠け落ちている場所もある。
都市の足が軋む音がはっきりとおれを震わせる。金属の擦れ合う悲痛な金切り声に、おれは電子精霊の執念のようなものを感じた。
それに背を押されて進んでいく。放浪バスの停留所も破壊され、|牽引《けんいん》索が力なく垂れ下がり、それを支えるクレーンも折れ曲がっている。案内のプレートだけは残っていた。放浪バスの地下格納庫。そこを目指す。
都市の足が動く音を除けば、後は静寂しかない。敵もなく、味方もいない。格納庫にまだ放浪バスが残っているのか、リンテンスたちが待っているのか、それさえもわからない。念威繰者の女からは、なにも連絡がない。辿り着いてみるまでわからない。行方の知れないジャニスはどうなったのかさえもわからない。
格納庫への地下エレベーターは残っていた。
だが、電力は死んでいる。ボタンをどれだけ押そうとも、返事はない。
壊して、飛び降りる。それしかない。それしかないのだが、その力が、もはやおれには残されていない。
膝をついた。立ち上がれる気がしなかった。いままでの疲労が一度に襲いかかってきたようだ。
塔に昇ってからずっと戦い通しだった。いままでのおれの限界をいくつ超えた? 急激な変化のツケがいま回ってきているようだった。
外縁部から出、地下シェルター越しに格納庫に回る。頭はそれを考えている。そうするべきだ。
ここで死んでは意味がない。いままでのこと、その全ての意味が失われる。ヴェルゼンハイムを取り返したことも、そして無様に生に齧り付き、じいさんとの戦いに勝ちを拾ったことも、全て意味がなくなる。
ニルフィリアに受けた屈辱を晴らさなければならない。
メイリン。彼女を取り返さなくてはならない。
仮面の連中が奪ったままの記憶を、あの手の持ち主も取り返さなくてはならない。
地面に触れた膝を眺める。そのことに意味はない。だが、意味があることを行うための気力が湧いてこない。立ち上がらなければという言葉は空回る。
光が差したのは、その時だ。濃い影がおれの視界に生まれる。背後で光るものがあるからだ。
影の外側では強い光が照りつけ、明暗がはっきりと刻印されている。
おれは振り返った。
そこに、いた。
まばゆい光を放つ存在が電子精霊だと、すぐにわかった。リンテンスと見た長毛の四足獣。そしてヴェルゼンハイム。そしていま、目の前にいる黄金の牡山羊《おやぎ》。
メルニスク。おそらくこれが、ここの都市の電子精霊だ。
振り返ったおれは|呆然《ぼうぜん》とその姿を見る。
なぜ、ここにいる?
その時、背後で音がした。ゆっくりと音量を上げるような低い起動音。そしてなにかが引き上げられる音。
金網状のシャッターがあげる騒々しい音。
エレベーターが開いていた。中からは弱々しい照明の光。動いたのだ。
電子精霊が、おれのためにエレベーターの電源を入れた?
再び振り返る。牡山羊の姿をした電子精霊はおれの上を飛び越え、都市の中央へと戻っていく。
足場のない宙に蹄《ひづめ》を当て、駆けていく。
あいつは、なんのためにおれを助ける?
「そんなこと、簡単な話でしょう?」
また、突然だ。
そして、聞き覚えのある声だ。
驚くよりも先に、おれは背を押された。こらえる力もなく、おれはエレベーターの中に入る。
その後から、声の主も入った。
エレベーターが閉まる。下降が開始する。
「この都市から生者を脱出させたいのよ。|貴賎《きせん》素性関係なく、悪人も善人も関係なしに誰も彼もを脱出させたいの。自分がもうだめだとわかっているから。電子精霊としてはもうだめだから、最後にできることをしようとしているのよ」
「お前………」
ジャニスがそこにいた。
「生きていたのか」
「残念ながら。この程度では死ねないわね。戦う力はないけれど、生き残る力は誰よりもあるから」
太陽のような笑みは、いまのおれの気分では場違いにしか思えない。
「それで、今度はなんの用だ? その言いぐさだと、逃げ遅れたなんてことじゃないだろ」
「そうね。お別れを言いに来た、かな。それと助言」
「お別れ、だって?」
「バスに乗ったら、わたしとあなたは、たぶんもう、会うことはないと思う。もしも会うことがあるとすれば…………まあ、そんなことはないと思うけれど」
「なんだ? なにが言いたい?」
「いいのよ。とにかく、お別れ。この都市を出たら、お別れ。だからその前に、ちゃんとした話を一度したいなって思っただけ。平穏な人生を捨ててまで変なことに首を突っ込んだ君とね」
「平穏なんてものがどんなもんか、おれにはわからないね。なにより、その変なことに巻き込んだのは、お前だろう」
メルニスクへ入って、最初に声をかけてきたのは、ジャニスだ。
「それは違うよ。むしろあたしたちが巻き込まれた方。気がついていたのかどうか知らないけれど、あなたはここの塔を壊すために送り込まれてきたのよ。リンテンスと戦ったのは、本当に偶然、出会ってしまったから。彼がいずれ、脅威になると思われたから、わたしが彼をどこへ導こうとしているのかわかってしまったからでしょうね」
「それで殺されてりや、世話はないな」
奴と戦った時のことを思い出す。首を切ったと言った。おれにはその感覚はない。だが、あいつなら気がつかないままに首を落とすことくらい、簡単な話だろう。
「そのおかげで、彼らの思惑からずれることができたんだから、感謝しなさいな」
「殺されてか?」
「死んでないでしょう?」
「そうだけどな」
なぜ、死んでないのかはわからない。首を切られたことはわからなかったが、死は覚悟していた。あの流れの先には死しかなかった。
「なぜ死なないのかまで説明できないわよ。わたしだって、あなたがどんな存在かよくわかってないんだから」
「その割には、わかったようなことを言う」
「わかってることを言ってるだけよ。あなたと、あの仮面たちの関係性はわかっていた。あなたの存在核を利用して、あれはこの世界に現れた。そしてヴェルゼンハイムの死とともに、彼によってあれが持ち去られたことで、本来、君は死ぬはずだった。でも死んでいない。おそらくは彼がなにかをしたせいでしょうけど、彼自身がそれを意識しておこなったかどうかは、わからないけれど」
「彼って、誰だ?」
「会ってるでしょ? 暗い奴」
思い出せるのは隻眼の銃使いだ。それぐらいしか該当しそうな奴はいない。
「あいつか………」
あいつが、おれになにをした?
「君たちの存在を利用してこの世界に現出した仮面たちだけど、出てしまえば君たちはもう用なし。そのはずだけど、君たちはまだ存在していた。だから、君たちは重なり会って存在していた。いずれは君という存在を|完璧《かんぺき》に奪い取るつもりだったようだけど」
「だから、おれが死ぬまではなにも起きないって言ってたのか」
「そうよ。でも、君は関わることを選んだ。より深く、あちら側の存在となった。そして君は気付いているかどうか知らないけれど、限定的に彼らと同一化した。そのために彼らも力を得て、分散してしまった。レヴァンティンたちが現れたことも多少は関係しているでしょうけど。やはり君の意思が大きいでしょうね」
ヴェルゼンハイムを宿したあの仮面のことか。
「じいさんたちは、やっぱりおれの中にいたのか」
「そうでしょうね。本来、君たち一族はあの仮面とは関係ないもの」
塔の中で、おれはじいさんたちを捨てた。おれの中で腐臭という、死者の妄念そのままの形でなんとか存在を繋いでいたものを捨てた。だが、それだけではない。あの囁き声は、やはり仮面たちのものだ。ジャニスのさっきの言葉はそういうことを示していた。それならあの時におれは仮面たちの精神的な支配からも脱していたということだろう。
そして、ヴェルゼンハイムを取り戻した。そういうことではないのか。
しかし、ヴェルゼンハイムはあの仮面の形のままであり、そして仮面たちはおれのそばからいなくなった。
「あいつらはなにをする気だ」
「それは、あなたがこれから調べればいい話」
簡単に、ジャニスは疑問を投げ捨てた。
「いいじゃない。これからの人生に張りができたでしょう? それに本当に知らないし、これ以上、あなたに協力できることはないでしょうし」
「それだ。お別れって言ってたが」
「旅人同士が偶然すれ違う。あたしたちの出会いはそんなものでしょう。ここでできることは全てした。彼に恩を押しつけようとしてたけど、彼女が言っていたように、あたしがいること自体は良い影響を与えない。それなら、そろそろさよならを言うべきなのよ」
あまりにもあっさりとした言いぐさは、おれに現実感を与えてくれなかった。
「そんなこと言いながら、ふらっと現れそうだけどな、お前は」
「ははは、そういうことがあったら、それはその時ということ」
こんな顔をする。だからこそ、おれは現実に思えない。
いや、おれはなにを考えている? なにを思っている?
「君は平穏を生された」
ジャニスが真顔に戻ってそう言う。
強欲者として、都市民たちから恐れられたおれに、こんなことを言う。
「だけど、きっと、平穏を知らないのが君の不幸なのでしょうね。なにかに身を燃やしていないと耐えられないような生活をしていた。だからこそ、知らないものに近づくのが怖いのよ。いまも、そんな顔をしているのに気付かないぐらいに」
「なにを言ってる?」
おれをそんな目で見る者は、いままで誰もいなかった。誰もがおれを殺そうとしていた。
それなのに、この女は、おれを生かそうとするかのように言葉を並べる。
気持ちを並べる。
どこかで突き放しながら、それでも生きろと言う。死ぬと、おれに一度も言わない。
「平穏を知りなさい。できれば、そんなことが許されるような時間があれば、それを知りなさい。そうすれば、君はいまからでも別の生き方をできるかもしれない」
おそらく、そんな人間に、おれは初めて出会った。
「だから、なにを……」
「憎悪とか復讐とか、そんなものは本当はもっと、平穏とか平和とかを知っている人が言うべきなのよ。君はただ、そういう感情に縋《すが》っていないと立っていられなかったというだけなのよ」
「おい」
「……リンテンスとあの女性は、君のことを覚えていない。思い出すこともないでしょうね。あなたがもしもやり直しを考えた時、あの二人に君の記憶があったら迷惑だろうから。だから君をあの場所には誘わない。君はもっと、己を知るべきだから」
「だから……」
言葉は止められた。ジャニスの唇がおれの言葉を抑え込んだ。
重なりはほんのわずか。ジャニスの背後でエレベーターの扉が開く。薄い照明の中で放浪バスがいくつか並んでいた。
風が吹いている。下部ゲートが開いているのだ。
「自分が泣いていることも自覚できないぐらい、君はなにも知らないのよ」
ジャニスが離れ、そしておれに向いたままエレベーターから出る。死角に消えていく。
「待て」
泣いている、だって? 追いかけて飛び出す。だがもう、ジャニスの姿はどこにもなかった。薄暗い中のどこかに隠れているのかもしれないと思ったが、探せなかった。
警笛が鳴り響いたからだ。下部ゲート側にある一台が、エンジンの低いうなりを上げておれを待っている。ライトが灯《とも》り、前方の闇を押しのけている。
いつでも動ける様子に、おれは引き寄せられた。警笛はおれを呼び寄せるために鳴らされたとしか思えない。車外から見える窓にリンテンスとあの女の姿がある。乗降口は聞いていた。おれは飛び乗る。
乗り込むなり、乗降口が閉じられた。
リンテンスたちに動きはない。疲れているのか。おれはかまわず、ジャニスの姿を探した。
その間に放浪バスが動き出す。荒れ地を進むための足が展開し、車体を持ち上げ、下部ゲートから大地の上に飛び降りる。車体の揺れはわずか。そのまま都市から離れていく。
都市もまた、放浪バスから離れるようにこちらと反対の進路を取っていた。
生者のいない都市が離れていく。
おれはジャニスの姿を探した。小型の放浪バスだ。乗客用の席を見渡すのは簡単だ。
彼女の姿はない。
泣いていると言った。顔を手で撫《な》でる。そんな感触があるようなないような。ひどく汗をかいていた。涙か汗かの区別なんてできない。
「適当なこと言いやがって」
だが、胸を突く苦しさの理由はなんだ? 泣いた。
ジャニスを初めて抱いた時、おれはどうして、泣いた?
平穏を知らない? 平和を知らない?
その通りだ。なぜならヴェルゼンハイムの平穏と平和をかき乱していたのはおれたちマスケインの一族なのだから。
そんなもの、知るはずがない。
そしてそれを、この先も知ることはない。
おれはもう、復讐を選び取り、それを始めているのだから。
「そう。あなたにはたくさん働いてもらうから」
声は、やはり唐突に響いた。
車内の前方から、おれの背後から聞こえてきた。
放浪バスは変わらぬ夜に支配された大地を進んでいる。
運転席。声は運転席からしたのだ。
客席と運転席の問には仕切りがされている。仕切りまで走って運転席を覗き込んだ。
そうだ。リンテンスも念威繰者の女も客席に座っている。
では、誰がこのバスを運転している?
答えは、目の前にいた。
美しい、夜色の少女という形で。
ニルフィリアという形で。
次なる疑問は、すぐにやってきた。
どうして、リンテンスもあの女も、この状況で一言も喋らない。
振り返った時には答えがあった。リンテンスの姿が、女の姿が何重にもぶれて見えた。リンテンスは窓枠に|肘《ひじ》を乗せて暗い目で外を見、女は|膝《ひざ》の上に手を乗せて目を閉じていた。その姿が何重にも映り、少しずつぶれている。そしてそのぶれが徐々に大きくなっていく。いや、二人だけではない。このバスそのものが幾重にも重なり合い、そしてずれようとしている。
「この夜の中で狂っていた時間軸が元に戻ろうとしている。本来なら出会うはずのない二人は、元の時間軸に。そしてあなたは、わたしに鎖を引かれて」
くすくす、と。ニルフィリアはハンドルに伸ばしていた手で口元を覆い笑っている。
ひどくおかしそうに。蠱惑的に、そして邪悪に笑っている。そして笑い声の中でぶれは決定的な決別をし、二人の姿はおれの前から消えた。車外に二台の放浪バスがいた。誰が運転しているのか。それらはおれの乗っているバスとは別の進路を取り、進んでいく。
おれとニルフィリアを残して、バスからは誰もいなくなった。
笑い声は消え今度は鼻歌が聞こえてきた。少女はひどく楽しそうにハンドルを握っている。
おれは、深く息を吸った。混乱を飲み込む。ジャニスやニルフィリア、そしてこれから起こるだろうおれの復讐劇は、きっと、こういう風に進んでいくに違いない。唐突に、なんの予兆もなく、あったとしてもそれに逆らうこともできず、なにが変化したかもわからないままに進んでいくに違いない。
その中で、おれは牙を研がなければならないのだろう。
復讐を遂げるその瞬間を見逃さないために。見つけた時には確実に噛み殺せるように。
その瞬間を待ち構えて息を殺す獣として、おれは生きる。
「現れる時は、せめて肩を叩くぐらいはして欲しいもんだ」
それでも、零す。
ニルフィリアが笑った。
気付けば、夜が明けていた。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
接章――壱――
[#ここで字下げ終わり]
その気配はバスを降りた時からしていた。
ほんのわずかな頬の一部に張り付くような痺《しび》れ。微細で繊細な、姿なき触手として触れてくる。
しかし、そこにこめられているのはあまりにも|傲慢《ごうまん》な、弱者を挑発する絶対者の優越。
バスを降りて宿泊施設で一通りの、これまで何度も有ったことのある手続きを済ませる。この都市は、比較的簡単に手続きが終わった。
夜になるのを待った。その間も、絶え間なくこの挑発は続く。常人では届かない場所からだというのに他の者には感じさせない繊細で傲慢という相反した触手が刺激してくる。
いいだろう応《こた》えてやる。そう答えを返したというのに、挑発はなおも続く。いいからすぐに出てこいと訴えている。
まるで遊びをねだる子供のようでもある。
それでも、夜まで待った。
相手は焦《じ》れている。ゆっくりと時をかけて施設を抜け出し外縁部を進む。月の明かりのみの外縁部には修復工事の追いつかない無数の傷がいくつも刻まれている。
槍殻《そうかく》都市グレンダン。汚染獣との戦いを頻繁に繰り返す、狂った都市。
その、最初の夜がこれかと、リンテンスは人気のない外縁部を進みながら思った。
どこか、覚えがあるようにも思える。
あの時は、もっとわかりやすい殺意だった。そしてリンテンスは待ち受ける側だった。
はたして、いつの話だったか?
思い出せない。いくつもの都市をまたいだ。その都市の一つでの出来事だったように思うが、記憶は答えてくれない。
まあ、いい。
過ぎたことはどうでもいい。問題なのは、このグレンダンでリンテンスの望む場所であるかどうか、ただそれだけだ。
「遅い! 待たせないでよね」
溌剌《はつらつ》とした声が、夜の静かな、そしてどこか陰鬱《いんうつ》な空気を押しのけた。
少女だ。
十代の後半に届くかどうか、そんな少女だ。黒い髪を高く上げ、飾り立てている。実用性の低い、やはり派手は服。高いヒールが外縁部の荒れた地面を甲高く叩《たた》いた。
こんな小娘が、あんなことをしたのか。リンテンスは驚きと共に少女を見つめた。
「久しぶりにいじめがいのありそうなのが来たわね」
少女は、リンテンスを前にしても恐れる様子はない。無知であるからとは、とうてい思えない。
その細くしなやかな体に隠れた実力を、リンテンスは察知した。
なるほど、楽しめそうだ。
唇が緩むのを感じながら、リンテンスは綱糸を放った。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
接章――弐――
[#ここで字下げ終わり]
その少年は外縁部に立っていた。都市の足と足の間。広々とした視界には荒野が映っている。エアフィルターに守られていない、人類が生存不可能な空間が広がっている。
少年は、その体躯《たいく》には大きすぎる弓を抱えて、荒野を見渡す。
いまは、土煙がそこを覆っていた。
汚染獣。幼生態の群だ。
少年の住む都市に向かって、幼生体は突き進んでいる。
「あれが、汚染獣か」
視界に映る荒野の八割を埋め尽くす幼生態群に、少年は小さく呟《つぶや》くと、弓を手で撫《な》でる。胃の辺りを不快にする重みに、深く息を吸い、吐いた。
少年にとって、この戦いは初陣だった。
やがて、号令がかかる。少年は弓を構え、弦を引く。鋼の糸を引き絞る。この弦を引けるようになるまで、少年は何度も自分の指を飛ばした。痛みを体に刻みながら弓の扱いを覚えた。
矢はない。弦を引く手から|剄《けい》が流れ込み、それが矢を形作る。鋼の弦を引くために剄を使っていては威力が減衰する。だからといって弓を軽いものに替えては、弓そのものの剄を受け止める器が小さくなる。
周囲の意識が自分に注がれているのを感じた。しかたがない。少年はロンスマイアという、大きな武芸者の家の出だ。その初陣だ。どんなものかと注目を浴びせられると、ここに来る前に散々に言われた。
(落ち着いてくださいませ)
不意に、言葉が耳に届いた。
視線を矢の向かう先に置いたまま、意識をそちらに向ける。蝶《ちょう》にた形をした端子がすぐ側に浮いていた。
(思うままに放てばいいのです。あなたの実力ならば、それだけで、相手は死にますから)
「そんなことは……」
わかっている。言葉の先を矢に預け、弦を離す。矢の形に凝縮された剄が直線を描いて幼生体群に飛び込んだ。
斜め下に直進していた矢は、幼生体群の鼻先に|辿《たど》り着くや大きく曲がり、大地と平行に駆ける。
先頭の一体を貫き、さらにその先へ、さらに先へ、数十体を貫通し、最後には爆発した。
手応えを感じた。そして周囲で感嘆の声も上がる。だが、それだけでは満足できない。もっとうまくやれたはずだ。そう考え、少年はまた弦を引いた。放つ。手応えを確かめる。満足いかない。弦を引く。そして放つ。
気がついた時には、幼生体の群はいなくなっていた。
初陣は瞬く間に終わった。弓は壊れていた。少年の剄に耐え切れず、一部が溶けている。おかげで後半はさらに不満足な手応えしか残してくれなかった。
(お見事でした)
そのことを考えていると、また同じ念威繰者《ねんいそうしゃ》が声をかけてくる。
「お前もご苦労だった」
少年が応じると、念威繰者が端子の向こうで笑った気がした。気恥ずかしくなり、少年は珍しい形をした端子から目を背ける。
そして思い出す。
「たしか、外から来た念威繰者だったな。たいした念威能力だと聞いている」
(恐縮です)
「名は?」
(は?)
「名を知らない。おれは、ティグリスだ。ティグリス・ロンスマイア。お前は?」
(デルボネ、と申します)
知っている念威繰者たちとはどこか違う声音に、ティグリスは大きくうなずいた。
都市の足音がどこまでも遠くに、響いていった。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
悪女と強欲X
[#ここで字下げ終わり]
「かくして負け犬は、ここで首を|繋《つな》がれ、汚れきった毛皮に哀れな目を乗せ寂しく鳴いているのでした」
「勝手に締めるな」
ニルフィリアの|呟《つぶや》きに、おれは顔をしかめた。
語り終えでも納得のできるものはなにもない。
定まらない時間の流れ。それは本当に、ニルフィリアのたとえに出てきたような存在がいるためか。ジャニスは言った。この世界を作った意思は個人的な感情によるものだと。
ニルフィリアのたとえた観察者と、ジャニスの言葉にある感情を持つ者が同一であってもおかしくはない。
「誰なんだ?」
全てを語って、おれは問いかけた。
「あなたの頭上にあるものよ」
ただそれだけしか、夜色の少女は答えなかった。
バスの上には天井しかない。
さらに上にはなにがある?
遮光フィルターの向こうは明るい。
太陽。
そういえば、ジャニスはこうも言った。じいさんも呟いた。
眠り姫、月、闇。
頭上にあるもの、それは月。
そういうことか。
「そして、観察者の見ていない隙に現れたのが、あなたの敵。あなたの仮面。あなたはその中から現れた異分子。箱の中の負け犬」
彼女を取り巻く闇がさらに濃くなったような気がする。それでも彼女の白い肌は闇を押しのけるように、あるいは闇そのものが彼女を苦《たた》えるように際だっている。
「わたしは闇夜。月の見ていないものを囲むもの。わたしは、わたしの許可のないものを、その中に入れておく気はない」
ニルフィリアの目が開く。細く、淫靡《いんび》に、そして苛烈《かれつ》に。炎と氷が同居したかのような瞳《ひとみ》におれは打たれる。
「あなたの狩るモノはそれ。あなたは負け犬? それとも猟犬? |牙《きば》は使えるのかしら?」
敵は同じ。
そういうことか。
そう解釈して、いいということだな。
ならば、それならば、答えは決まっている。
「当然だ」
おれの牙を見せつけてやろうじゃないか。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
はじめまして、あるいはこんにちは。雨木シュウスケです。
この作品は同レーベルから刊行された『レジェンド・オブ・レギオス』に続く物語であり、富士見ファンタジア文庫で刊行されている『鋼穀のレギオス』のスピンアウト作品でもあります。
強欲都市ヴェルゼンハイムの出身者ディクセリオ・マスケインを中心として起こる奇怪な運命を綴っていくことになります。『鋼殻のレギオス』からの読者様方にとってはディックと狼面衆との戦いが明らかになると思ってください。
この物語を書くにあたって、実は一つ迷いがありました。レジェンドを書き終え、この企画が決まり、書き始める直前までそれはありました。
この物語の立ち位置が自分でもよくわからなかったのです。『鋼殻のレギオス』からのスピンオフということで、謎となっている部分を明かすというだけで十分であるのかもしれませんが、それだけのために書くというのもこの作品に対しての誠実さが欠けているように思えたのです。
そこで考えました。
そしてこの『聖戦のレギオス』ができあがりました。
誠実さがここにあるかどうかは、皆様の感想にお任せします。
この作品も全三巻の予定です。
どうか、最後までおつきあぃ願えますよう、誠心誠意努力していく所存です。
[#地付き]雨木シュウスケ
底本:
入力:OzeL0e9yspfkr
校正:
作成: