レジェンド・オブ・レギオス3
雨木シュウスケ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)歪《ゆが》ませ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)旅行|鞄《かばん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
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目 次
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00 フラスコを振るように
01 苦行者の道
02 汚泥より湧く
03 二匹の蛇
04 混沌にて
05 人造神話
エピローグ
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あとがき
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装丁 朝倉哲也(designCREST)
扉イラスト 深遊
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レギオス顕現
レジェンド・オブ・レギオスV
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「祝杯をあげたいね」
それが、最初の言葉だった。
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00 フラスコを振るように
[#ここで字下げ終わり]
ニルフィリア・ガーフィート。
振り返ればその気配がある。ニルフィリアは唇を|歪《ゆが》ませて、そっと嘲笑《わら》う。
背後には常に兄の影がある。姿を見せなくとも気配がある。視線を避けて逃れようとする哀れな生き物の姿がある。
影のように付きまとい、羽虫のように存在する。それが兄。
それがかつての光景。
ニルフィリア・ガーフィート。
彼女が自らの美しさを自覚したのに、特別な経緯はない。気がつけば自分の美しさに周囲は惑っていた。父も母も兄も、そして学校の者たちも、教師さえも例外なく彼女の美しさを無視できなくなっていた。誰も彼も、彼女を見た者はなんらかの反応を示さないではいられない。
服従か、敵対か。
崇拝か、背信か。
兄。
アイレイン・ガーフィートは彼女の絶対的な崇拝者だった。ニルフィリアの第一の家臣であり、下僕であり、奴隷であり、信者だった。兄は妹の欲望をかなえるために存在する道具でしかなかった。
そして、兄妹という血の垣根をいつか越えようとする餓狼《がろう》であり、だが越えられない|怯《おび》えた羊だった。
悩乱する兄の姿はニルフィリアにとっては痛快で、健気《けなげ》で、惨めだった。それを見て楽しむ自分はおそらく邪悪なのだろうと思っていたが、そのことに罪悪感はなかった。
世界とは、ニルフィリアにとってそのようにしか映っていなかった。
自分を邪悪だと思う存在は、即ちニルフィリアにとっての敵対者であり、ニルフィリアという美に対する背信者たちだ。
世界とは、ただニルフィリアのためにある。これは彼女にとって信いしることすらも馬鹿らしい当たり前の事実でしかない。
それに変化が起きたのは、ゼロ領域へと吸い込まれた時だ。
だがそれは、己の身の程を知ったという類のものではない。いや、自我の敗北がそのまま消滅へと繋がるのがゼロ領域である以上、身の程を知るなどという結末を彼女が迎えたはずがない。
彼女は、恐ろしいまでに彼女であったからこそゼロ領域で己を失うことなく、戻ってくることができたのだ。
しかし、彼女がいない間に、彼女がいたせ界は変化を遂げる。
だが、その変化にニルフィリアは驚きもしない。
世界の持ち主が変化したのだ。それなら、世界もまた変化すべきなのだ。
歓迎できない変化もまたある。
兄だ。
そして、もう一つ。
ニルフィリアは廊下を歩いていた。
首都クレヴァンティスにある廊下。世界の中枢を統べる本拠地の廊下を、ニルフィリアは臆することなく歩いている。
その小さな姿はその場にある雰囲気に本来はそぐわないものであるのだが、彼女の態度と妖艶な美しさが周囲の空気を変化させ、場の雰囲気そのものが彼女に合わせた形となっている。
彼女に逆らう者は、やはりこの場所にもいない。いたとしても、それらは全て排除されてしまっていた。
静謐《せいひつ》な廊下に紅い液体が散っている。赤黒く変化しようとするその液体に、ニルフィリアは唇の端を持ち上げる。
ことはすでに終わっていた。
天井にある換気口が鉄錆びたにおいを巻き上げ、掻き乱し、吸いこんでいく。その中をニルフィリアは進み、目的の場所へと向かう。
何重もの分厚い隔壁に守られた場所に|辿《たど》り着いた。隔壁はすでに開かれて、その分厚さも頑丈さも意味をなしていない。
ここに血のにおいはなかった。
「あったの?」
開けた空間に佇《たたず》む一つの背中にニルフィリアはそう声をかける。
「ああ、あった」
声は、その肉体のかつての持ち主を知る者にとっては耳を疑うほどに自信に満ちたものだった。太く、やや錆びた声に昔日の影はない。中身の変化は容貌にも影響を与えるのだろう。気弱げな学者の顔はなく、猫背だった背は伸び、周囲の異音を堂々と受け止めていた。
異音。
そう、ここには奇妙な音が連なり、重なり、降るように満ちていた。ニルフィリアの体がその音を受けて震える。
「嫌な音」
嫌悪はそのまま破壊への意思に繋がる。
「まあ待て」
ニルフィリアの背後の空間が彼女の意思を実現しようとしたのを、男が押しとどめた。
「いま壊されては困る」
男は苦笑をにじませて答えた。イグナシスだ。
ソーホの肉体を奪ったイグナシスは、ガルメダ市を崩壊させるとそのまま首都クレヴァンティスへと向かい、そして行政施設を急襲した。
ナノセルロイドの兵を率いるイグナシスの攻撃に、首都の軍隊は為すすべもなく崩壊し、占拠は一日でなった。
ニルフィリアにとっては生まれた場所からあまりにもかけ離れた遠い場所のこと。首都政府軍は精鋭で残忍な軍隊だと開いていた。それは事実ではあったのだろうが、現実の精鋭というものは、現在のニルフィリアにとって、それほどのものではなかったという感想しか浮かばなかった。
「どちらにしても、ここは落ち着かないわ。動きにくいもの。隣の区画に移動したいのだけど?」
「ああ、好きにしていいよ。わたしとしても、君にはしゃがれて空間を壊されてはかなわないからね」
「ひどい言われようね」
ニルフィリアは苦笑するが、腹は立てない。すぐにこの場を去ることにする。
イグナシスは彼女の体から流れる少女とは思えない匂いを鼻孔から追いやり、深く息を吐いた。
少女の放つ妖艶な魔力はイグナシスの体にも影響を与えようとしていた。体の深い部分が反応を示そうとするのに抗するには、ひどく気力を必要とする。
「やれやれ、気をつけなければこちらがやられそうだ」
その言葉一つで去った少女のことを頭から追いやり、目の前にある物を見る。
そこにあるのは、大量の亜空間発生器だ。いまだ世界を設定しないまま、オーロラ粒子を発生しないままに安置された装置に、イグナシスは満足げに|頷《うなず》く。
「これだけあれば問題ないだろう」
空間には発生器の内部から零《こぼ》れる音で|溢《あふ》れている。スイッチ一つでそれらの音は意味をなし、オーロラ粒子が溢れだし、亜空間を作るだろう。
「その前に設定を変えねばな。ややこしく造ろうとするからほつれるのだ」
|呟《つぶや》き、空間にある操作卓に手を伸ばす。指は軽妙に躍り、眼前に現れた無数のモニターの上で次々と変更がなされていく。
「なにをなさっておいでですか?」
新たな声がかけられた。
「レヴァンティンか、報告は?」
質問に答えず、振り返ることも、指を止めることもなく背後に立つナノセルロイドに尋ねる。イグナシスの声は平板だった。
「クレヴァンティス主要施設の制圧は完了しました。 首都軍も武器庫を破壊した上で半数を処理、三割が降伏。残り二割が逃亡しました」
「武器庫を破壊したのなら大した抵抗はできないだろう。次の段階に移るように」
「はい」
レヴァンティンも淡々とした声で答える。
だが、イグナシスの背後から去ろうとはしなかった。
「どうした?」
「通信施設は占拠しましたが、逃亡した兵士は他区画の軍事施設に向かうものと推測します。また、通信が途絶えたことに不審を持つ者もいるかと」
「ああ、そちらからの攻撃を懸念していると?」
「はい」
「それならば、無用」
イグナシスは操作卓から手を離した。現れていたモニターも瞬時に消滅する。
「こちらの準備は完了した。相手の動きさえ事前に察知できればなにも問題はない。監視は怠らぬように」
「了解しました」
「では下がれ。余計な質問に答える気分ではない」
「はい」
大人しく命令に従うレヴァンティンの背を、イグナシスは振り返って見送った。
「……気付いているか?」
ナノセルロイドたちの主であるソーホの中身が入れ替わっていることに、その中身はイグナシスであり、ソーホの人格がすでに消滅していることに。
「気付いていても、まだ逆らえんのか。人を作るというのもなかなか簡単にはいかないということだな」
人工知能。自律型戦闘兵器。与えられた命令を事前に刷り込まれた判断基準によって自動的にこなす機械たち。ナノセルロイドという体を動かす中枢部分。
その部分が、イグナシスがソーホではないことに気付いているはずだ。おそらくは。
だが、レヴァンティンは命令に逆らわず、いまもなおイグナシスに従っている。レヴァンティンだけではなく、同型のカリバーン、ドゥリンダナ、ハルペーもそうだ。
「いや、ならば逆らうか?」
考えを変える。機械であるから逆らえないのかと思ったが、むしろ機械のままであるなら逆らうものではないのだろうか?
「自動機械の思考を察するというのはなかなか厄介だ」
機械的判断と人間的思考。どちらの立場で仮説を立てたとしてもおそらくは矛盾が生まれるだろう。だが、その真ん中をいく思考というのは彼ら人工知能保有者のみが想像できるのではないだろうか。
想像のたやすい機械的判断と、基準など人の数だけある人間的思考。その融合を考えることにそもそも無理があるか?
「まあいい。いまは使える。それだけで十分か」
それを考えるのは、また別の時間だ。
いまは、目の前にあるものに集中しよう。
亜空間発生器の他に、ここにはもう一つ別のものが存在している。それははめ込み型の個人用端末に類似したものだった。いや、そのものだろう。発信機はこの建物の外にある。そして、この端末が記憶すべき暗号は、容量としてはこれぐらいで十分なのだ。
「では、まず第一歩だ。ゆるゆると始めるとしようか」
イグナシスは端末の起動ボタンを押した。
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†
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アイレインは走っていた。
ディーエンノスという名の都市だ。だが、都市ごとの違いに気を向けられる余裕はなかった。むしろ、そんなものがあったとしても、すでに失われていたに違いない。
夜を炎が焼いている。重々しい黒い煙が、焼き払われた夜に新しい闇を注ぎ、空に飛散するように散ったオーロラを覆い隠そうとしている。
周囲には逃げまどう人々の混乱が渦を巻き、雪崩を打っていた。車のクラクションは鳴り止まず、甲高い悲鳴が競り合っている。
巻きこまれたことに、アイレインは舌打ちを何度もした。
「とにかく、この人の群れから出ない?」
器用に肩に乗る黒猫が呟いた。額にはめ込まれた宝石の周りだけ毛が白い。傷は治ったが、その白い部分が過去の痛々しさを物語っていた。
「そうするとしよう」
身動きできず辟易《へきえき》していたのだ。人目も気にせずアイレインは跳んだ。人間の限界を超えたアイレインの跳躍はすぐ側にあったビルの尾上に辿り着く。
屋上に辿り着くと視界が広がる。
現在、ディーエンノス市を襲う状況もはっきりと見えてくる。
空を複数の巨大な影が舞っていた。炎の紅《くれない》を浴びて、はっきりとアイレインの目に映る。翼を広げ長い首を巡らせて辺りを|睥睨《へいげい》し、獲物を見定めている。降下しないということは、あの辺りにいた人間は全て食らってしまったのか。
暴走したナノセルロイドたちだ。そのほとんどがガルメダ市の崩壊に飲まれたはずだが、生き残ったものがいまでもこのように暴れている。
それだけではなく、増殖しているようにしか思えない。
「どういうことなんだろうな?」
アイレインは肩に居座る黒猫に、正確にはその黒猫の額にある宝石、その内部に形成された亜空間に住む女性、エルミに尋ねた。
「……生物にでもなったのかしらね。前に見た時は生物を食べることで自律統御方法を学んでいたはずだけど、生殖方法も手に入れたと考えるべき?いや、この場合は生産なのかしら? でもそれなら生物をいまも食べる必要はないと思うけど。彼らのエネルギー源はあれじゃないわけだし……」
しばらく考えていたようだが、その様子は外からではわからない。黒猫は主の意思を反映しない。ただ、周囲の騒々しさに迷惑そうに首を振り、なんとか逃れようとアイレインの襟元に顔を突っ込もうとしてくる。
「外側から観察しているだけじゃ、これぐらいが限界かしら。解剖でもしてみないことには」
「そこまでして知りたいわけじゃないがね」
アイレインたちの目的は、あの異獣を狩ることではないのだ。
だが、ガルメダ市からここまで、まるでアイレインを追うように暴れる異獣騒ぎにやや閉口していることも事実だ。
この異民問題などまるで話にならない騒動の正体を知っている者は、この都市にはいないだろう。
ただ、ガルメダ市の消滅とともにこの異獣たちが現れ、周辺都市に飛び火していることぐらいしか情報は流れていないに違いない。
その情報すら、どれだけ知っている者がいるのか。
都市単位で需給が完結してしまう現在では、他所の都市のことに興味を持っ者は少ない。
しかし、彼らと同じようにアイレインも眼下で悲惨な運命をたどる者たちに興味や同情を寄せてはいない。
「クレヴァンティスまであとどれくらいだ?」
「ここを出たら外周都市は終わるわね。この後内周都市群を抜けて、ようやくというところ。距離としては、いままでと同じくらい」
「……うんざりするな」
距離を想像してアイレインは顔をしかめた。ドミニオたちと知り合って外周都市のあちこちをうろついた年月が五年だ。滞在などにそれなりに時間がかかったことや、諸々のことがあるのでそれが完璧な基準になるわけではないが、結論としてはとにかく時間がかかる、ということだろう。それも一週間やそこらの話ではなく、もしかすれば一年以上かかるかもしれないと言われたも同然なのだ。
「サヤが首都にいるのは確かなんだろうな」
「アルケミストの本拠があるのはクレヴァンティスの隣の区画よ。あそこは実験用にいくつもの亜空間を抱えているから、多少の危険はすぐに空間破棄で対応できる。サヤの正体はもう知っているのだから、彼女のことを調べようと思えば施設の充実度のことも考えてあそこしかないわよ」
サヤはソーホにさらわれた。ガルメダ市で共同作戦を取った時、半ば人質としてソーホに預けたのだ。ガルメダ市の亜空間発生器を自壊させられたのは、あの場所ではソーホしかいない。サヤがそのまま連れ去られたのは間違いないはずだ。
むしろあの時は、連れ去られた方が安全ではあった。もし置いていかれたのであれば、彼女はガルメダ市の崩壊に巻き込まれ、ゼロ領城に舞い戻ってしまうこととなっているだろう。
そうではないことを願うばかりだ。
だが、ソーホにさらわれたとなれば、その運命をあまり楽観視できないのも事実だ。研究という言葉があれば倫理観など簡単に頭の外に追い出してしまえるのがソーホだ。そのことはアイレインが身をもって知っていた。
知っているから、こんなにこも気が急《せ》いている。
だが、違い。航空機を使えれば話はもっと早くなるのだが……と考えるが、この騒ぎではまともに使える航空機が残っているとは思えない。そもそも区画をいくつもまたぐ長距離用のものなど存在すらしないかもしれない。また、アイレインには航空機を扱う技術はない。
のろのろと地上を進むしかない。
「とにかく、移動手段を探すか」
ここまで使った車は、すでにこの騒ぎで身動きができない状況にあった。アイレインはビルの屋根を都市の外に向かって跳びつつ、使えそうな車を探す。だが、この騒動だ。使えそうなものはほとんどなかった。都市の交通網はすでに麻痺しており、広い道路には車が渋滞を作っている。
どの車も脱出路もわからぬままにただ外に向かって進み続けた結果だ。その先が、まさか異獣によって塞がれているとは気付いてもいない。
「のんびりもしてられないんだが……」
しかし、都合のいい場所に放置された車はなかなか見つからない。最終手段として、この人間離れした筋力で使えそうな車を走れる場所まで持って運ぶという方法もある。そろそろそうした方がいいか、そう思っていた時だ。
空気が敵対的な動きをした。
瞬時に顔を動かす。焼けつく感覚が頬に走り、ひきつった痛みを残した。
撃たれた。|狙撃《そげき》された? 誰に?
アイレインは弾丸の来た方向を見た。
人影が、遠くのビルの陰に引っ込むのが見えた。
「誰だ?」
こういう混乱状態になると突然凶暴性を発して犯罪に走る者はいる。強盗、強姦《ごうかん》、殺人……刹《せつ》那《な》的で瞬間的な犯罪が災害の混乱の中で横行する。生きたいと願うためであったり、あるいはどうせ死ぬのだからという開き直りのどちらか、あるいはこんな時だからこそ発散したいものが出てくるのか、真偽のほどは知らないが。
しかし、こんな場所に立つアイレインをわざわざ見つけ、狙撃しようとする酔狂な者までいるのだろうか?
「どうするの?」
肩にいる黒猫が聞いてきた。
「車を見つける」
「そうね」
狙撃手の意図は知らないが、ただの狙撃銃ではアイレインにとって脅威とは呼べない。いまにしても不意を打たれたのに避けることができた。類の痛みなどすでに消え去っている。
ガルメダ市の一件から、アイレインの能力はまた上昇していた。エルミ特製の煙草すら口にしていないのにこれだけのことをして異民化現象が進行していない。
「背中の器官が経験を積んで成長したのでしょうね。まあそれだけじゃなく、もっとわかりやすく、あなたの左腕の異民部分が広がっていることもあるけど」
ここに来るまでの間に、エルミはアイレインの体をそう診断した。
「いまはもう、首からみぞおち辺りまで、さらに中枢神経もほとんど|侵蝕《しんしょく》されているわよ。そこまで侵蝕されているのに外見的変化が起きないのだから、あなたも幸運よね。
それとも、外見的変化が起きないのは、あなたの潜在的欲求に合致しているのかしらね」
エルミのその言葉に、アイレインはなんとも言えない。あの時自分が求めていたものは、ニルフィリアだったはずだ。
そのニルフィリアを手に入れられず、こんな体になって戻ってきた。サヤがいたからか、ニルフィリアに酷似しているサヤがいたからこそ、アイレインの願いは変化したのか。
自分の内面を掘り出す作業は好きではない。それはいつだって痛みを伴う。銃に狙撃されるよりも、それははるかに痛く苦しい。
とにかく、狙撃手のことを忘れて、アイレインは車を探した。
しばらくして手頃な車を見つける。放置された場所は悪く、このままではどれだけ走っても都市の外に辿り着くことはないだろうが、燃料はたっぷりとある。移動の途中で拝借した旅行鞄にはおなじく失敬した食料その他が詰まっている。車に詰め込み、ついでに猫も乗せると、アイレインは車体の下に手を入れ、持ち上げた。
そこに再び銃弾が襲った。アイレインは空いた右手でそれを受け止める。手の中で焼けたものが水に入るような音がして、顔をしかめた。だが、掌《てのひら》の中央にできた|火傷《やけど》はすぐに消える。
傷の治りまで、異様に早い。
(化け物だな、もはや)
いままでの自分が化け物ではなかったのかと尋ねられたら苦笑するしかないのだが、アイレインは改めてそう思った。
車を抱えてアイレインは再び跳ぶ。自分を狙うだけならば大丈夫だが、車のタイヤを狙われたらまた探し直しだ。
「このまま、都市の外まで跳んでくか」
車を抱えたまま、再びビルの屋上を伝ってディーエンノス市の外に向かう。
その後、都市の外に出るまで狙撃はなく、狙撃手が姿を現すこともなかった。
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アクセルを全開に踏み、次の都市へと続く迫をひた走る。整備の行き届いていない道路は都市から離れるにつれ荒れ具合が増してくる。それは同時に、車の中にいる自分たちの乗り心地の問題に繋がる。
ドミニオの、巡視官専用の車を失ったことが惜しい。あれならどんな荒れ地を走っていようと安眠が約束されていた。
なによりこの車はキャンピングカーではない。スポーツダイプで、後部座席はあるものの足の置き場などないに等しい上に、すでにその場所は放り込んだ旅行|鞄《かばん》でいっぱいになっている。
助手席で丸くなっている黒猫が少しだけ恨めしい。異獣の進行速度よりも少しでも先に行くために全速力を維持しなければならないのだ。法定速度以上は決して出さない自動運転には任せられない。
逃げているようで癪に障らないでもないが、一秒でも早くクレヴァンティスに辿り着きたい。
エルミは沈黙を保っている。猫と同じように寝てしまったのか。
仕方なく、アイレインは自分の考えごとに浸ることにした。道はどこまでもまっすぐに続いている。ディーエンノス市から逃げ出した車がそこら中にあってもおかしくはないのだが、その姿は今のところ見えない。なら、ただハンドルを握ってアクセルを踏んでいるだけでいいのだ。眠気と戦うことになるのを少しでも先に置くためには、なにかをしていなくてはならない。夜空を支配するオーロラを眺めていでも退屈なだけだ。
だから、考えごとだ。
アイレイン・ガーフィートという人間のことを考える。
外周都市のさらに端っこのような土地で生まれた田舎者。美しすぎる妹に|翻弄《ほんろう》される哀れな男。それがアイレインであったはずだ。
それなのに、いつのまにかこんなことになっている。奇妙なことのようにも思うが、人間というのはどうしようもなく自分を中心として考えてしまう生き物だということでもある。自らを舞台の主役としてとらえるか、それとも脇役や観客としてとらえるか、それは様々だろうが、結局のところは自分の視点から人生と目の前の光景を掴んでいくしかない。
つまるところ、人間というのは自分という存在に役割を与えつつ、その役割を主人公とした物語を生きているのだということになる。
それならば、自分のいまの人生というのは間違ってはいないのだろう。どこかで間違ったのではなく、妹に引きずられるままの哀れな男の物語を生きでいるのだ。
そしでその妹もまた、自らの物語の中で生きている。
自らの美しさを自然に受け入れ、それが波及させる効果というものを承知し、利用することにためらいのない彼女が描きだす物語を歩いている。
この、亜空間という世界を舞台にして生きている。
そしてこの舞台は、驚くほどに壊れやすくできている。壊れやすいからこそ、ニルフィリアという一人の悪女の物語はただ男を惑わすだけに終わることなく、それに引きずられる哀れな男の物語もそれだけに終わろうとはしていない。
では、この男の物語はどういう結末を迎えるのか?
サヤを連れ去られ、ニルフィリアが現れた。
妹との決別は終わったように思うが、それを素直に受け入れるような女ではないことは、兄であるアイレインがよくわかっている。思い通りにならないということに我慢がならないはずだ。
きっと、なんらかのことをしてくるだろう。
そしてイグナシス。
あれはいま、どこにいるのか?
ドミニオの死とともに完全にいなくなったのか、あるいはそうでないのか。
様々なことが置き去りになっているように患う。
そしてこの体。
いつまで、人間の体でいてくれる?
エルミは異界侵蝕の結果、人とはかけ離れた体となってしまっている。自分にその運命が訪れないという根拠はない。
なによりアイレインは一度、全身が異界侵蝕した結果、人間から逸脱した異形と成り果てたことがある。
あの時はサヤによって助けられたが、次もそううまくいくとは限らない。
そして……そして。
フロントガラスの向こうに広がる光景。
景気の悪い空を見る。
都市部の災害の余韻はこの空にはなく、ただオーロラが幕を揺らしている。
かつて、まだこの世界がこれほど広大ではなかった頃、人口の爆発的増加に地球の食糧生産量がついに追いつかなくなった。宇宙開発計画が頓挫《とんざ》したことをきっかけに世界は大戦へとなだれ込む。
だが、人類の抱えたその問題を解決し、大戦を終わらせる発明が数人の科学者によって実現した。
それが亜空間増設機。
その末が、この世界。地球本来の大地は亜空間によって断絶され、もはや交流することが不可能となった。だが、無限に増やすことのできる大地はそれらの悲しみを呑《の》み込み、新たな世界と新たな国家を作り出すこととなる。
そして、壊れようとしている。
巡視官だったドミニオが死に、病状の進行を遅らせていた亜空間増設機の修理をエルミが諦めたことによって。
だが、それとてダムに開いた無数の穴を一つ一つ埋めるような終わりのない作業でしかなかった。ただの延命処置だ。それが放棄され、そしてエルミの代わりができる者がいない以上、この世界は終わるだろう。
だがまだ、自ら亜空間を破棄し、新たな亜空間を設定するという大規模な外科手術が行われるかもしれない。その時に出る被害は、完全に崩壊するよりはまだましという程度のものになるだろう。
ディーエンノス市で異獣に追い立てられる人々を見ても心動かなかったアイレインだが、こちらには別の意味でなんの感想も抱けない。
桁《けた》が違いすぎるのだ。億単位の人間が死ぬかもしれない危険がすぐそこに迫っているというのに、そのことに焦りを感じない。遠い場所の話ではなく、すぐそこにある危機だというのに。
自分も巻き込まれる可能性がひどく高いというのに。
おそらく、自分にはどうしようもできないことだとわかっているからだろう。
たとえ力が人よりも強かろうと、亜空間の崩壊を止めることはできない。問題に対して所有している技能力違う。意思だけでどうにかなる問題ではない。
むしろ、隣で寝ている黒猫の中身に土下座をしてでも頼まなければならないことだろう。
だが、それをしようという気も起きない。彼女の怒りが理解でき、そして彼女の虚脱が理解できるアイレインにはできない。ゼロ領域に妹を奪われたことと似ているからだ。
共感できてしまうからこそ、その問題を解決できていないアイレインの口から出る言葉など、虚しいものにしかならないとわかっている。
車をどれだけ走らせてもまっすぐに続く道路の風景に変化はなかった。しかし、天上の光景には微妙な差異がある。
揺れるオーロラがある場所を境に消滅し、そして別のオーロラが別の模様を空に広げている。
亜空間の境目だ。
あの境目を過ぎれば、ディーエンノス市から出たことになる。
それが安全を約束するわけではない。実際、異獣たちにとってその境に意味はないだろう。ディーエンノス市での一暴れに満足すれば、次は別の都市に赴くことになるだろうし、アイレインの後を追う形になるものもいることだろう。
だが、気持ちの上だけでも一段落することは確かだ。アクセルを踏みっぱなしにしているおかげで、エンジンの温度も危険域に達しようとしている。
越えたら休憩しよう。一眠りして、それからまた車を走らせよう。そう考えている内に境目を越え、アクセルから足を離し、ゆっくりと車の速度を落とした。
縦に揺れたのはその時だ。
背後からなにか途方もない衝撃が襲いかかり、車を下から押し上げた。幸いにもひっくり返るほどのものではなかったため、数度のバウンドで車は落ち着いたが、揺れている間に後部座席にあった旅行鞄がアイレインの後頭部を打ち、助手席へと落下した。黒猫が悲鳴を上げ、アイレインの足の下に逃げ込む。
強引に車を止められ、アイレインは外に出た。
爆撃でもされたかのような衝撃だった。
だが、外の世界は夜のままなんの変化もない。爆弾の残滓《ざんし》として炎がくすぶっているわけでもなく、ドアを開けでも化学薬品のにおいも、なにかが焦げるにおいもしなかった。せいぜい、車が路面を治った時のゴムの焼けたにおいが空気にこびりついているのみだ。
なにもない。
「なんだ?」
車に乗ってからどれぐらい経ったか、絞り出した声は乾ききっていた。空気が鼻を突く。ディーエンノス市方向を向くアイレインの背を冷たい風が強く押した。
車をあそこまで揺らすようななにかがあったというのに、その|痕跡《こんせき》がなにもない。
「なにもないように見えているだけよ」
足元にやってきた黒猫がそう呟いた。
「見てごらんなさいな」
そう言われても目の前には変わらず同じ光景が……
いや、変化している。
爆発痕を探すからなにもなかったように思っただけだ。変化はしっかりとアイレインの目の前に広がっていた。
道路が、ある地点を境に硝失している。
そこから向こう、道路があった部分にはむき出しの地面が広がっている。夜が他の色を奪っているが、乾き切って砂が浮いた荒れ地だ。こんな場所を走った覚えはない。どころか、スポーツダイプの車がアクセル全開で走るなどとてもできそうにないほどだ。
変化はもちろん、道路以外の場所にも拡大していた。いや、それ以外の場所の方がより広大なのだ。夜だということを差し引いても、もっと早くに気付いていでもおかしなことではない。
しかし、長い旅の中で、周囲の景観を眺めることにアイレインは意味を持てなくなっていた。
道路さえ眺めていれば、いずれどこかに辿り着くのだ。
(そういう問題か?)
アイレインは首を振った。認識できなかった理由を並べたてている内に馬鹿らしくなった。追う、そういうことではない。
あまりにも突然に変化してしまったため、認識が追い付かなかった。
そういうことではないのか。
「やってくれたわ」
黒猫が、エルミが呟く。黒猫が足に体を押し付けてくる。寒さに悶《もだ》えるかのような小刻みな震えが伝わってきた。
「なにをしたんだ?」
「入れ替えたのよ」
アイレインは冷水をかけられた気分で猫から再び荒野に視線を戻した。
入れ替えた。
それがどういう意味かすぐにわかった。ついさっきまで、そのことについて考えていたのだから当然だ。
「再設定とかいうやつか?」
「自爆後、すぐに新しい奴をその|空隙《くうげき》に展開させたのでしょうね。時間的な誤差はほとんどないでしょうけど」
その一瞬でのことで、あの謎の衝撃が生まれたのか。
アイレインは境目まで近づいて、荒野の表面に手を触れた。薄い砂の眉の奥には岩のように固い感触がある。掴みあげた砂は指の隙間から零れ落ちた。
顔をしかめる。水気のない、乾き切った土地、地味が悪い。元農民の息子という立場からしたら価値のない、死んだ土だ。亜空間にある土地は平均的にどこも、建設を予定している場所以外は農耕に適した土を有しているはずだが。
一握の砂だけで全てを俯瞰《ふかん》できるはずがない。だが、アイレインは再設定されたこの亜空間に、生きた土が存在していないような気がした。
生きている者を拒否しているような、そんな空気が漂っているのだ。
「死んだのか?」
「あそこにいることがそのまま死に繋がるのか、その解釈はあいまいではあるわね」
アイレインの問いに、エルミはその意味を違《たが》えることなく答えてきた。
ディーエンノス市にいた人々は、全で亜空間の崩壊に巻き込まれ、ゼロ領地に叩きこまれたのだろう。総人口がいくらだったか知らないが、これまで旅してきた都市の平均を考えれば、億に近くなる。少なくとも千万単位だ。
それだけの人間が、あの一瞬で、全てゼロ領域の中に沈んでいったのだ。
その事実が目の前にある。まるでこの死んだ土地が墓標であるかのような錯覚さえ覚えた。
痛みも驚きも悲しみもない。それを感じるに二は、アイレインとディーエンノス市に繋がりがなさすぎる。ただ通り過ぎるために訪れた都市の人々だ。滞在期間などないに等しく、顔を覚えているものは誰もいない。
だが、そこにあったはずの無数の命が一瞬で消え去ったという事実に、言葉にできない重みのようなものを感じているのも事実だった。
「いまさら善人面か?」
己に問う。胸の内からの答えはない。多くの命を、その多くは兵士やマフィアであったが、奪ってきた。その自分が、いまさら他人の死に衝撃を受けているという絵に、はたして真実味があるのか。
「もう一つ、気になることがあるわね」
エルミがそう言って、アイレインに空を見るように促した。
見上げて、言葉を失った。
空はどこまでも闇で満ちていた。
オーロラがひどく薄くなっている。なくなってはいない。オーロラは別の国と亜空間との間にある不可視の壁……絶縁空間が衝突することによって起きる火花だ。それがなくなるということは絶縁空間が消滅したことを意味する。だからなくなってはいない。いまだ別の国には行けないということだ。
だが、薄くなったということは、その衝突が軽減されたということではある。
こちら側……旧ディーエンノス市から抜けたこちら側にはいまだに濃いオーロラが漂っている。
「なんでだ?」
「空間が完全に安定しているのよ。無駄な因子を省いたからかしらね。もしかしたら、こちら側の絶縁空間はなくなったかも。だけど、向こう側にはまだあるわけだから、どちらにしても行けはしない」
「無駄って、なんだ?」
「人が住むために必要な環境条件。肥えた土地、清潔な空気、水、資源、それらのことよ。ただ土があって空気があって定期的な日照だけを整えるのなら増設機に負担はかけないし、本来ともにあるはずのないものが同時に存在することもない。その矛盾による負荷も生まれない」
納得できるようなできないような、微妙な顔で黒猫を見つめる。だが、詳しい説明はそれ以上なかった。
「問題なのは、どうしてそんな死んだ土地をわざわざ作るのかということね。いらないのなら放置しておけば、勝手に世界は縮んでしまうのに」
エルミの声に、一瞬でゼロ領域に呑まれてしまった人々への憐憫《れんびん》はない。
「行きましょう」
エルミが促す。言葉に逆らう理由もなく、アイレインは|踵《きびす》を返した。
足を止めたのは、背中の一点に感じた冷たい視線のためだ。アイレインは足で黒猫に先に布くように示し、振り返った。
景色に変わりはない。
だが、気配はあった。暗闇のどこかに身を潜め、アイレインを|窺《うかが》っている。体がこちらに向いたということは旧ディーエンノス市の区画に潜んでいるということになる。っいさきほど破壊と再生が行われたばかりの場所に人の気配があるということになる。
どういうことか、それを考えるよりも先に熱い銃弾がアイレインを襲った。
手で掴む。銃弾の威力と筋力が一瞬ぶつかり合い、腕が震えた。囲めた|拳《こぶし》の中で力が暴れたが、銃弾は皮膚を焦がしただけで内包した力を使いつくして沈黙した。
「いい加減、顔を見せたらどうだ?」
アイレインは闇に声をかけた。狙撃の主はディーエンノス市内にいた者と同一だろう。どうやってあの崩壊から逃れたのか、それを考えるのは後回しだ。
呼びかけに答えたのは、二度目の銃撃だった。だがそれも、アイレインは銃弾を掴むことで対応する。初弾が頭、次が腹。的確な射撃だが、気配がわかるような位置からならば、性能の良い狙撃銃と多少の慣れさえあれば、誰にだってできることでもある。
闇をかき分けるように狙撃手が姿を現した。長い狙撃銃を引きずって近づいてくる姿は幽鬼のようで、アイレインを突き刺す視線の密度も増した。
「おまえは」
オーロラの光が狙撃主を照らし、その姿をはっきりとさせた。
「ニリス……いや」
リリスだ。
ガルメダ市で出会った双子の美少女。ゼロ領域からあふれ出した異民に呑み込まれ、市民の全てが異民に変わり、そしてニルフィリアがいたあの都市の双子、その片割れだ。マフィアの子という立場で、多くの異民を従えていたリリスが、いまは一人でアイレインの前に立っている。
美しい顔を憎悪に歪めている。
「よく、無事に逃げおおせたもんだ」
アイレインは感嘆の声をあげた。それで、リリスの顔に浮かんだ憎悪がさらに深まる。歯の軋む音すら聞こえてきそうだ。
「ええ、とても苦労したわ。逃げされなくて、ゼロ領城に叩き戻されて、戻ってきたら、またあの化け物がいて、あんたがいて、そしてまた叩旦戻された」
怒りをに下しませながらも、透き通るような声がリリスの唇から発せられた。
「あんたがいたから、なにもかもが狂った」
「なんもかんも、他人のせいにするなよ」
うんざりとした気分でアイレインは呟いた。
「あれは、イグナシスに味方してたお前が悪い」
「イグナシスの敵があんたでなければ、ニリスはあんなことにならなかった」
「それは違うな」
アイレインは頭を振る。
「ニリスは一人の人間だった。人の身を持った時から、ただの鏡ではなくなっていた。それに気付かなかった、認められなかったお前の責任だ」
「うるさい!」
叫ぶリリスを見ながら、一瞬だけ熱くなった自分の心が急激に冷めていくのを感じたっニリス自身にそれほど愛着があったわけではない。だが、心を開いた時の彼女の姿が、自分の少年の頃の記憶の、清浄な部分に光を与えてくれたような気がした。あの、暗闇の廊下を進んでいた時、確かにそう感じていた。そしてその時間分だけでも彼女のことを弁護したい気分にアイレインをさせたのだ。
リリスの日、美しく流麗で、そして冷徹さと残忍さを秘めていた彼女の目はいまや血走り、狂的な光を宿らせ、まるで別の生き物のようだった。
ゼロ領域の脅威から逃れるためには強固な潜在的欲求が必要となる。多少の矛盾など撥ね退けるぐらいの意志が宿ったものだ。そして生き残るには尋常ではない自意識が必要となるのだろう。
クラヴェナル市でアイレイン自身もゼロ領域に入った。変わることのなかったニルフィリアを見ているとそういう気持ちになる。
そして、あれから二度もゼロ領域の中に戻されたリリスは、エリスという自らの半身に裏切られた彼女は、失意という傷口を突かれその痛みに耐え、自らの存在の根拠ともいえる美しさを保つために、以前以上の精神力を必要としたはずだ。
その結果が、リリスのあの目なのだろう。
リリスが狙撃銃を構える。アイレインの胸の中央に照準が合わさった。
銃弾そのものに脅威は感じない。だが、彼女の体から奇妙な光が無数に零れていることに気付いた。
それはオーロラの光を弱く反射していた。鏡だ。形の不揃いな鏡の破片がリリスの周りを漂い始めていた。
「ニリス」
鏡片となって散って行った双子の片割れの記憶はまだ生々しい。風と共にどこかに去ったかと思われたものは、リリスの所へ戻っていたのだ。
「これはもうただの鏡よ」
リリスが冷たく告げた。
「だけど、あんたがいくら速く動いても、この鏡は決してあんたを逃さない」
宣言とともに、リリスが|銃爪《ひきがね》を引いた。
前と同じように掴もうとして、アイレインはぎりぎりで行動を変えた。横に飛び退く。銃弾はアイレインがいた場所の寸前で突然四散した。細かな鉄片が周囲に飛散していく様を目の当たりにした。
弾丸が狙撃用のものではなかった。散弾化する特殊弾頭だ。
リリスがすぐに次弾を放った。こちらの高速移動に惑わされていない。的確に体の向きを変え、銃爪を引いてきた。四散する鉄片を避け、アイレインはまた移動する。
そして三発目。
避けているだけでは解決にならない。だが、アイレインはリリスを殺す気にはなれなかった。その顔がニリスに似ていることが理由だろう。
こうして弾を浪督していけばいずれ尽きるだろうことはわかっている。狙撃銃は異民の能力とは関係のない普通のものだ。
双子の能力は情報の収集力だ。それがアイレインの位置を知らしめている。しかし運動能力の差は覆せない。避けた先のことがわかって待ち伏せのような一弾を放てたとしでも、銃弾を掴むことができるアイレインには痛打にならない。
そう時を置かずして弾が尽き、リリスはその場に|膝《ひざ》をついた。少女が持つには狙撃銃は重い。体力が底をついたのか、続を投げ出してもリリスは立ち上がらなかった。
「抵抗しないのなら、次の都市ぐらいまでは送ってやれるぜ」
「はは、なんのために?」
リリスは笑った。上げた顔には憎悪が熾火《おきび》のように燃えている。
「どこにいたって一緒よ。結局、今日みたいなことになる。やり直しやり直しやり直し、死の大地がどこまでも続くことになる」
「どういうことだ」
「イグナシスよ」
リリスははっきりとその名を口にした。
「披はもう始めてしまった。必要な物をフラスコの中に入れて振りまわし始めた。後はなにがどうなるか、誰にもわからない。イグナシスにだってわからない。彼は自分の気に入る結果が出なければ何度だって繰り返す。もう始めたのよ!」
最後に、その声は悲痛な金切り声になって夜の中に放たれた。
「首都に、イグナシスがいるってことかしら?!」
問うたのはエルミだ。黒猫が車の中から出てきて、慎重な足取りでこちらに近づいてくる。
「ああ……あなたがリグザリオ? イグナシスがあなたを欲しがってたわわ。知識だけだけど」
「そういう奴よ。まあ、わたしもそうだということを否定はしないけど」
リリスは鼻を鳴らした。
「それで、聞きたいのだけど、イグナシスはどうやって首都に行ったのかしら?」
最初、アイレインはその質問の意味がわからなかった。だがふと、エルミが考えている可能性が頭の中に浮かび上がり顔をこわばらせる。
「まさか、ゼロ領域を通ってなんてことではないでしょうね。首都は亜空間ではないのだから、他の場所のように空間の解《ほつ》れなんて存在しない。ではその近く? いいえ、そんなことができるのなら、あんな、首都から遠く離れたガルメダ市になんて現れなかったはず」
その通りだ。それなら、ガルメダ市の騒動でイグナシスはどうにかこちら側での肉体を見つけたということになる。だとすれば、次の問題だ。
どうやって、ガルメダ市から首都クレヴァンティスまで短期間のうちに移動した? 車を利用して移動したのであれば、アイレインと同じぐらいの移動距離になったはずだ。そうではない。だが、航空機を使ったのならその限りではない。そして、航空機はそう簡単には使えない。特に一つの区画を移動する程度の航続距離しかないものではなく、ガルメダ市から首都まで、高速で一気に移動できるものとなれば、政府軍あるいはそれに類する組織でしか利用されていないはずだ。
あの場でそれを使えたのは、ソーホだけだ。アルケミストという、この図の最高研究機関に属し、異民問題に対処するサイレント・マジョリティーいう組織の長でもあった彼ぐらいしか、超長距離用航空機を使って問題のない人物はいなかった。
「ソーホに取り憑いたのか?」
そう考えれば、エルミの疑問の答えが出てくる。
「そんなこと、あそこで離れたわたしにわかるはずないじゃない」
リリスの答えは投げやりだった。だが、それもそうだろう。ガルメダ市で暴走したナノセルロイドが暴れていた時、彼女はその昔境の中に取り残されていた。いま目の前にいることが、そこから助け出されなかったことを示している。脱出するために自分の能力を使っていたのだとしたら、イグナシスを追うことはできなかったに違いない。
「確かなのは、イグナシスは首都にいる。それだけよ」
リリスははっきりと言った。まるで、アイレインに首都に向かえと言っているかのようだった。罠《わな》の可能性を考えずにはいられない。
「まるで行って欲しいみたいだな」
「行けば、あんたかニルフィリアか、どちらかが死ぬことになる。どっちが生き残っても腹立たしいけど、どっちかが死ぬのはとても楽しいわね」
ニルフィリアの名前に心が|慄《おのの》いた。アイレインはそれを悟られないように意識を集中する。
「さあ行きなさいよ。行って、殺し合いなさい。イグナシスがしようとしていることに興味なんてない。あんたらになにができるかなんて興味はない。殺し合って、わたしを楽しませてくれればそれで十分よ」
勝手なことをと思ったが、クレヴァンティスに行かなければならない理由に変わりはない。それどころか、サヤの身が案じられ一秒でも早く行かなければという思いがより強くなった。
ここでリリスを殺すべきか? アイレインは悩んだが、やはり殺さないことにした。もはやリリスでは自分を殺せないことは自覚しただろうという判断と、やはりニリスに似た彼女を殺すことへのためらいがあった。
彼女を置いて車に乗り込む。背後からリリスの|悪罵《あくば》が飛んできたが、アイレインはもう返事をすることも振り返ることもなかった。
車を出す。
取り残されたリリスの姿を見ないために、ルームミラーを逆にし、サイドミラーを閉じた。
だから、わからない。
リリスの背後から無数の手が伸び、それが彼女を掴んだことを。彼女の腕を掴み、髪を首を|肘《ひじ》を膝を足首を腰を胴を両手両足の指にいたるまで掴んだことを。無数の手がクリスの美しい可動部分の全てを掴み、動きを封じたことを。
突如開いたゼロ領域の中へと引きずり込んでいったことを。
クリスの姿が消え、ゼロ領域も閉じる。
後には死んだ大地と死にかけた大地の境界線が、空の中で揺れるのみとなった。
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黒穴にて ♯01
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夢なのかどうなのか、アイレインは判断できなかった。
ただ、正常な状態でないことだけは、これまでの数度の体験からはっきりとしている。
「どうした? いまさら」
目の前の男は、淡々とした様子で尋ねてきた。
「こちらが聞くことだろう?」
アイレインはそう返した。
赤髪の奇妙な面をつけた男は、かつて出会った時とは違う、死者のような白けた雰囲気で目の前に立っている。
ディクセリオ・マスケイン。
そう名乗る男だったはずだ。
だが、本当にそうか?
この仮面はなんだ。どうして、この男は顔を隠してアイレインの前に立つ必要がある?
「お前はなんだ? ディックか? それとも……」
「フェイスマン……そう呼びたいのか?」
赤髪の男が言った。淡々とした口調には感情というものがない。
この口調で、ガルメダ市では数度、アイレインの前に立った。誰にも見えず、アイレインにしか見えないという奇妙な状態で。
アイレインの右目、異民化した目にだけ見えているのだと…………
……いや、この目の中に、自分たちはいるのだとそう言ったのだ。
「フェイスマンであった。そしていまはシステムでもある。そして、器でもある」
「謎かけか? 悪いが一人で楽しんでくれ。パズル雑誌には興味がない」
「事実を羅列しているだけだ。わからないのは、いまのお前だからだ。後のお前ならわかることだ」
「だから、謎かけは嫌いだと……」
「いいだろう。なら、別の話をしよう。お前は、ここをなんだと思う?」
問われ、アイレインは初めて自分がいる場所に意識を向けた。
黒。
なにもかもが、それに染められている。染め切られている。
なにもない。
だが、ここにはなにもかもがある。
「……ゼロ領域」
いつのまにここに。アイレインは身を硬くし、心を硬くした。この場に存在する、いや、充満するオーロラ粒子に心を覗《のぞ》かれてはならない。潜在的欲求という、心のもっとも強い部分に作用し、勝手にアイレインを取り込み、一つの世界を作り出そうとする。無意識が生み出した欲望は、矛盾という因子を常に含んでいる。生み出された多くはその矛盾に耐えきれず、自壊する。アイレインを巻き込んで。
「なぜここに?」
いつの間に呑み込まれた。覚えのないことにアイレインは|戦慄《せんりつ》し、|狼狽《ろうばい》した。
「ここは完成された、安定した空間だ。いや、ここでならばお前がなにを考えていようと、意識して臨《のぞ》まなければ決して何も生まれない。ここはお前のための場所だ」
ディックの言葉を信じられず、アイレインは心を硬くしたまま相手を睨んだ。
「ゼロ領域。そうだ。欲望に反応してその形を生む。形を求めてあがく混沌。まるで神々の創世神話に出てきそうな場所だ」
「だからなんだ?」
まるで水面に映る像のように、ディックの姿は不自然に揺れていた。
「この場所はなんだ? 誰が答えを持つ? お前の側にいる増設機の生みの親は答えを持っているのか? お前がこれから追う者は答えを持っているのか?」
エルミからその話を聞いたことがあったか。アイレインは記憶を探った。ゼロ領域がどのように作用する場所か。それは聞いたことがある。だが、どうやってゼロ領域を、いや、オーロラ粒子を生み出したのかは聞いたことがない。
いや……偶然と言っていたような記憶もある。
だが、それを真面目にディックに告げることには抵抗があった。ディックでないかもしれない。
フェイスマンかもしれないのだ。
「そんなこと、知ったことか」
「知るべきだ。アイレイン。お前は知るべきだ」
ディックは淡々とした声に、声音には決して表れない強いなにかをこめて言葉を叩きつけてきた。
「ゼロ領域とはなにか。この場所とはなにか。お前は知っておかなくてはならない。知れば、お前の道は確実に開く」
「なにを言って……」
「その道に、無数の命が乗ることになる」
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01 苦行者の道
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車を走らせて数日後、アイレインたちは新たな都市に辿り着いた。
騒ぎはすでに起きていた。
ビル群が遠くに見えた時にはすでに黒煙が天地を繋ぎ、赤々とした炎がまるで灯火のように燃え盛っていた。
その炎の中、空を無数の異獣の群れが回遊している。
「またか…………」
そういう気分になったが、車を都市の中に進める。都市を|迂回《うかい》して走るとなると、それだけで数日を失うことになる。それに車も替えなければならない。整備や補給をしている余裕などなさそうだった。ならば、乗り換えた方が早い。
これ以上進めないところまで進み、アイレインは車から降りた。都市の中央部へと繋がるバイパスの途中だ。前方には横転し、焼け焦げた車が壁を作っている。
空気に様々な物が焼け焦げた臭いが混ざりあい、|嗅覚《きゅうかく》は一瞬にして自らの役目を放棄した。こめかみの辺りにうずくような痛みが走り、目も喉《のど》も痛みを訴えてくる。焼けたものの中に混じった毒素が空気に溶け込んでいた。
滅びの臭いというのは、おそらくこういったものなのだろう。
人々の悲鳴はこの辺りからは聞こえない。異獣たちは残り物を探しているかのように空を舞っているが、その円がかなり大きいことに気付いた。もしかしたらもう去ろうとしているのかもしれない。それなら、生きている者はほとんどいないのか。静けさの理由がわかった。
ディーエンノス市では、異獣はアイレインが到着した後にやってきた。ここではアイレインよりも前にやってきている。ディーエンノス市のものとは別の一団があったのか、それともアイレインの速度よりも異獣たちの方が速いのか。
道路を走るよりも空を飛ぶ方が最短距離を使えるのは確かだ、おそらくは後者だろう。
肩に黒猫を乗せ、荷物を抱えてアイレインはバイパスを進む。
車の壁を越え、都市を見下ろした。デハートの類で無事な建物があれば、まずはそこを目指すつもりだった。バイパスは都市の主要部に繋がっているし、おそらくまっすぐ進めば都市の向こう側、次の区画への道にも骸がっているはずだ。
バイパスを歩いて進む中、使えそうな車は見つからなかった。放置された車の全てが壊れ、火に巻かれている。焼け焦げた死体も無数にあり、路上には血や人間の内臓物が散らばり、焼けるか乾燥しかけていた。まだ腐敗は始まっていない。だが、人間の内部にこもっている臭いは惜しげもなく空気中に放散され、思いだしたように|蘇《よみがえ》る嗅覚を刺赦し、吐き気を覚えさせた。
「こいつらが先に首都に着くかもな」
投げやりにアイレインは呟いた。エルミからの返事はない。リリスと別れてから、エルミは黙りっぱなしだ。イグナシスの思惑について考えているのか、それとも内部の実験室でなにかに熱中しているのか、アイレインにはわかりょうもない。答えのないことにため息を漏らし、アイレインは歩き続けた。
ようやく無事そうなデハートを見つけ、食料品からその他必要になりそうなものをかき集め、鞄に詰める。無事な車が見つかった頃には、空を覆っていた異獣の群れは数を減らしていた。
「急がないと、ここもその内あそこみたいになるか?」
ディーエンノス市の消滅を忘れているわけではない。急がなければならないのは当たり前だが、物資の補充を怠れば飢え死にしてしまう。怪我がどれだけ早く治っても、飢えなくなったわけではない。
ゼロ領域に呑まれたら。もしもそうなった場合、アイレインになすすべはない。リリスのようにゼロ領域に叩きこまれ、そしてうまく脱出できるよう努力するしかないだろう。
見つけた車に十分な燃料を入れ、荷物を詰め込み、出発する。
この都市は、無事に脱出できた。だがやはり、消滅には立ち会うことになった。あの時と違っていたのは、車がワゴン車に替わっていたことぐらいだ。頼りないタイヤの悲鳴にひやひやとしているところを、後ろからすくいあげられるように吹き飛ばされた。一度バランスを崩すとワゴン車は立て直しが難しい。なんとか横転することだけは防げたが、車は大きく道路の外に放り出されてしまっていた。
そしてやはり、荒れた大地と色の薄いオーロラに取って代わられた空間を見ることになる。
すでに生きていたものがほとんどいないことは知っている。自分とは関係ないと思いながらもなんとなく感じてしまう重いものを、今回はそれほど感じなかった。
それとは別に、違うものが胸の内を冷たくさせる。
(まるで、タイミングを計ったような……」
前回も今回も、アイレインたちが境を越えたところで起きた。異獣に対処するための緊急処置であったのなら、もっと早くにそれを起こしていてもおかしくないはずだ。そしてそうなれば、アイレインとエルミはゼロ領域に押し込まれることになる。
ソーホがイグナシスに取り憑かれている。
その事実を知ったためもあるだろう。自分たちの支配下から離れた壊れたナノセルロイドを処理するために亜空間を破壊するのは考えられることだ。
そして、イグナシスに敵対するアイレインたちを処理するためにも。
だが、今回の空間の入れ替えはその二つのタイミングを完全に逸している。それに、首都以外に展開している亜空間を全て荒野に変えるのであれば、こんな時間差をつける必要があるのかという疑問も起きる。もしらしかしたら技術的な問題もあるかもしれないが、だとしでもやはりおかしな部分は依然として残っている。
このタイミングには誰かの意思が介在しているような気がしてならない。
(なんのつもりだ?)
疑問は解けない。
解けないまま、次の都市に辿り着いた。
もはや、完全に手遅れだった。異獣たちの進行はアイレインよりもかなり速い。あちこちから薄く立ち上る黒煙がいまだ都市の上空を黒く覆うのだが、そこに異獣の姿は欠片《かけら》もなかった。
もはや、亜空間の破壊に異獣の在不在は関係ないとしか思えない。
では、どうして?
解けない疑問が頭痛のように頭の中で脈を打っ。それに気を取られながら、ここでも同じように使えるものを集め、新しい車を探し、出ていった。うまい具合に、今度はキャンピングカーだ。
ドミニオが所有していたものよりも数段落ちるが、長距離を走るのに通している車はありがたい。
黒猫は、生活空間に置かれた真新しいソファの上で丸くなっている。エルミはずつと沈黙し通しだ。自然、アイレインも口を開くことなく運転席に座り続けた。
都市を出る時、一つ試したいことが頭をもたげた。アイレインはしばらく全速力で走らせていたが、やがて自動運転に切り替え、運転席で腕を組んで眠りに就いた。ここ数日、まともな睡眠とは縁遠いままに過ごしていた。閉ざした|瞼《まぶた》はあっというまに眠りの世界を映し、意識が落ちていった。
眠りの中でなにか夢を見たような気がするが目覚めた時にはそれらをされいに忘れていた。ただ、残滓だけが長く居残っているような感じで、アイレインは頭を振って眠気とともにそれを追い出し、再びハンドルを握る。キャンピングカーでの目覚め。アイレインはドミニオを思い出した。彼の淹れてくれるコーヒーを思い出した。インスタントとの味の違いがわからないアイレインを詰《なじ》る姿を思い出しながら、缶のコーヒーを飲みはした。
空間の境目がすぐそこに近づいていた。
ハンドルを握る手に汗が浮かぶ。ゼロ領域に呑み込まれる緊張はずつと体中に留まり、しこりのように固まっている。
境目を越えたからといって難を逃れたことにはならない。亜空間はどこまでも、首都に辿り着くまで続くのだ。アイレインは改めて自分たちがはかない世界に生きていることを思い知らされた。
境目を越える。
その瞬間だ。
三度目の現象がキャンピングカーを揺すった。重い車体が持ち上がるが最初からそれを想定していたアイレインはハンドルを操り、即座にバランスを取り戻す。
もう、車を止めて背後を確認することはない。アクセルを踏みしめ、先へと進む。
はっきりとした。
アイレインが去ると同時に亜空間を壊しているのだ。
なんのためにという、新しい疑問が出てくる。だが、アイレインはイグナシスと行動を共にしているニルフィリアのことを考えていた。
妹がそうさせている。
その可能性は強いと見るべきだ。自分たちはいつでもお前たちをゼロ領域に叩きこめるのだと脅すために。しかし、ゼロ領域で自滅などということをニルフィリアは望んでいないだろう。アイレインを殺すのなら、自分の目の前でと思っているはず、妹はそういう性格だ。
なら、自分たちは安全だと見るべきだろう。
自分たち以外は確実に滅びの道を辿っているが…………
しかし、それをどうにかすることが自分たちにできるとは思えない。エルミがやる気を失っているという以前に、彼女にだってそれはできないだろう。イグナシスたちは亜空間そのものの生殺与奪健を握っているのだから。
次の都市もやはり異獣によって全滅していた。アイレインは|残骸《ざんがい》の中で物資の補充とキャンピングカーのメンテナンスを行い、都市を出る。
同じだ。区画を越えたと同時に背後から衝撃が襲い、亜空間が入れ替わる。
より安定した亜空間へと、生命を寄せ付けない荒野へと。
だが、今回はやや事情が違った。アイレインは体勢を立て直したキャンピングカーのアクセルから足を離した。車はしばらく惰性で進み、思い出して踏んだブレーキによって止まった。
道路がないのだ。目の前には荒れはて乾き切った大地があり、めくれ上がりひび割れた岩盤のような土地は、そこを進む者に向けた悪意を隠そうともしない。
そこには荒野が広がっていた。
背後と同じ、荒野だ。
人が生きるということを完璧に拒否した大地がどこまでも広がっている。
「やられた」
運転席で、アイレインは額を叩いて呻いた。
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†
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ニルフィリアの残念そうな視線に、イグナシスは苦笑した。彼の前にはホロスクリーンが展開し、動感式操作卓が指の動きに合わせて擬似的な音を立てる。あの部屋にあった認証コードはすでにイグナシスによって抜き取られ、彼は気軽に亜空間の破壊と創造を操ることができた。
「いい加減、あの暴走した連中は始末しなければならんよ」
「あんなの、あの人形たちに始末させればいいじゃない」
「人的資源を減らされても困る。わたしがなにをやりたいかは承知しているだろう?」
「してるけど、ね」
ニルフィリアは腰かけていたテーブルから勢いをつけて飛び降りる。スカートが舞う。長い黒髪が躍る。夜を盗み取ったような瞳がイグナシスを責めるように見上げていた。
「君次第で、君を崇拝することになる。その力は、きっと彼をも凌《しの》ぐと思うのだけど?」
「試すような言い方、気に入らない」
視線をそらした美少女にイグナシスは苦笑した。
「君の兄は殺さない。無事にここに来てもらわないとね。……わたしにとっては、価値があるのは彼の同行者だが」
「このまま野垂れ死にするかも」
「そうであるなら、そんな人間にいまだに心を向ける必要はないだろう。わたしだって、あの程度のものが切り抜けられない知識しかない人物に用はない。これは一つの試しだ」
「ふうん……」
ニルフィリアは髪を弄《いじ》り、考える仕種をする。
(やれやれ、困ったお嬢さんだ)
顔には出さず、イグナシスは内心で肩をすくめた。こういう時、この体が本来は自分のものではないというのは良い意味で作用する。感情と表情の切り離しが容易に行えるのだ。
しかし、扱いにくいからと言ってこの娘を切り捨てることは難しい。これからやることに、ニルフィリアの持つ、妖艶なカリスマはどうしても必要なのだ。
ニルフィリアとリリス。そのためにイグナシスはゼロ領域で強固に生き残ったこの二人を味方に引き入れた。
結果としてはニルフィリアの方が適していたのだが。
「試せばいいじゃないか。この程度で倒れてしまう兄に興味はないだろう。君はより多くの、そして強力な信者を得ることができるのだし」
「成功すれば、ね」
言葉は冷たいむ だが、彼女の機嫌が直りつつあることはわかった。
ニルフィリアは意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「それで、この国の人間、ほとんどゼロ領域に叩きこんだけど本当に良かったの? 残しておかなくて」
「必要はない。それに、成功すれば残った荒野は破棄する予定だ。そうすれば、この土地はもとの大地との|繋《つな》がりを取り戻す。絶縁空間を取り払いたければ最初からこうすれば良いのに誰もそうしなかった。愚かな話だ」
「手に入れたものをなくしたくはないわ。当然の話下しやない」
「捨てなければ得られないものがあることも学ばなければな」
そう言ってイグナシスは笑う。捨てるものとは数十億の人間の生命、そして彼らがいた生活空間そのものだ。スイッチ一つでそれらを消せる立場にいたのが、この首都にいた支配者だ。だが、長い間、誰もそれをしなかった。
失うのが怖い。
確かに、それもあるだろう。一度手に入れた豊かさを失うのは恐ろしいことだ。
しかし、それだけではないはずだ。彼らが本当に恐れていたのは変化だ。
環境が変化することを恐れたのだ。激変の向こうに、より良い未来があることが保証されていない。それを恐れたのだ。
|愚《おろ》かなことだと、イグナシスは思う。
変化の先には必ず未来があるのだ。食糧危機、宇宙進出失敗という絶望の先に亜空間技術の完成があったように。亜空間の暴走、絶縁空間による正常空間の断絶、そして異民問題という先にイグナシスが目指すものではない未来があったに違いない。だが、ここの住民たちはその未来の選択が出来ず、ただ右往左往していただけだ。
かつての仲間のエルミですら、現状を維持するための努力しかしていなかった。
それではだめなのだ。変化を恐れる対応では、変化には適応できない。
ならば、無理矢理に変化の渦に放り込んでやろうではないか。
そしてその変化という未来を携え、イグナシスは亜空間の放棄の末に現れる、いや、絶縁空間という壁によって断絶されていた別の正常空間に赴く。実験が成功したのならば、その成功を利用し、失敗したのであれば、別のアプローチを行うために。変化、適応、模索、発展…………そして変化、それがイグナシスの考える自然界のプロセスだ。人間とてそのプロセスから外れたわけではない。だが、その変化に積極的に手を伸ばせるのは人間が長い歴史の果てに勝ち得た特性だ。
なぜ、それを見ようとしないのか、イグナシスは不思議でならない。
自分が善的な気分でそれを行っているわけではないことは、十分に承知しているが。
「では、あれが来るまでの間に済ませでおいてくれるかな?」
「そうね」
イグナシスが促《うなが》したことに、ニルフィリアは気楽に|頷《うなず》いた。そんなことができるのは彼女だけだ。再び、自らの意思でゼロ領域に戻るように言っているのに、それを恐れることなく実行できるのは彼女だけだろう。
「じゃあね、イグナシス博士」
そう言って、少女は去っていく。
自己愛というのは、極めれば己の姿を脳内で細部まで違いなく再現できるということだ。もちろん、そういったものに都合の良い修正がかかるのは仕方のない部分ではあるだろう。しかし、自分自身に対する強烈な愛情は、己の内部を暴くと同時にあやふやにしてしまうゼロ領域という危険な場所では絶対の武器となる。
そんな人物を、イグナシスは二人見つけた。
ニルフィリアとリリス。強烈な自己愛によってゼロ領域で己を保ち続けていた二人ならば、ゼロ領域で漂い続けた末に考えたことを実現できるだろうと思った。
しかし、二人には違いがあった。自己愛というある種完結された欲望の先だ。つまり、己の美を意識し、どう生きるかという現実問題への対処だ。
ニルフィリアは己の美を理解し、それを利用することを考えた。
リリスには、そこから先がなかった。いや、彼女にとっては己こそが世界であり、それ以外のことに興味がなかったのだ。
その差がゼロ領域を出た時に異民の能力という差で現れ、そしてイグナシスはニルフィリアを選んだ。
選ばれた彼女も首都という正常空間の中では自らの能力を制限される。正常空間にもほころびが存在し、だからこそ亜空間というものを作り出す余地があるのだが、そのほころびからオーロラ粒子が零《こぼ》れ出ることはない。故に彼女の本領は発揮できず、生命力と運動能力が異常に優れた美しい少女ということになってしまう。
ニルフィリアは優雅な足取りでイグナシスのもとを去る。彼のいたアルケミスト本部を出、待たせていた車に乗り込むと、自動運転に任せて実験区へと向かった。
「馬鹿なお兄ちゃん」
誰もいない車の中、ニルフィリアはぽつりと|呟《つぶや》いた。
ガルメダ市で再会した時、大人しく妹の下に戻っていればよかったのだ。それを、生意気に逆らったりするからこんな大変な目にあっている。
生者の姿のない首都は高いビル群が静かに並び、まるで巨大で広大な墓地のような寂しさがあった。静かな駆動音だけが車内を支配する。オーディオはあるが、ニルフィリアはなにもかけなかった。生命のない無音はニルフィリアにとって好ましく、目を閉じて受け入れる。
ゼロ領域に落ちた時のことを思い出す。
あれは、本当に突然だった。
突然、目の前の光景が消滅し、落ちたと感じた後はただの暗闇が目の前に広がっていた。
夜空の中にいるような感覚だった。あちこちに、頭上だけでなく、それこそ前後左右に小さな瞬くような光があった。オーロラはなかった。ニルフィリアは一瞬混乱し、そして自分の心の奥底をなにか巨大なものに暴かれたような気がした。人間ではない。悪意はなく、水が高きから低きに流れるように、ごく自然な流れとして彼女の心の中に進入してきた。ゼロ領域では肉体に意味はなく、むき出しにされた自我が、その場を空気の代わりに満たすオーロラ粒子によって形を得ているのだと、そして自我の発する強力な潜在的欲望が化学変化のように粒子に変化を促しているのだと、その時は気付けなかった。
いや、イグナシスと出会うまでニルフィリアはそのことに気付くことはなかった。
それは、なにも起こさなかったのだ。
ニルフィリアはただその夜空のようななにもない空間の中で、漂い続けた。退屈を感じることもなく、なにもないことへの恐怖を感じることもなかった。ひどく満たされた気分で、漂っているという感覚もないままに漂い続けた。
自らがただ存在しているという事実に対する充足感があった。
(これが天国というものなのかも)
ニルフィリアはそう考えていた。魂の内側を晒し、それに沿った結末を即座に与えるという意味で、死後の魂がいきつく場所という意味では、ゼロ領域という場所はまさしくそれに近い所であるのかもしれない。だが、真偽を見定めるには死なねばならぬ。そして死ねば、誰にもそれを伝えられないのは長い人類の歴史が証明していた。
時間の概念はなかった。ゼロ領域にそれが存在していないのか、あるいは時の流れの残酷さ、老いを拒否したニルフィリアの願いによって時を感じることがなかったのかもしれない。とにかく、ニルフィリアにとって、次の変化は一瞬と呼ぶほどではないにしても、それほど長く待たされた末でもなく、起こった。
ゼロ領域全体が揺れたのを感じた。外への興味に、周囲の空間が即座に応え、ニルフィリアの世界を一変させた。
巨大な美女が横たわっていた。ニルフィリアはそれを、彫像だと思った。間違ってはいないが、ただしくもない。オーロラ粒子を吸収し、暴走したナノセルロイドであり、そして脱ぎ棄てられた廃棄部分であるなどとわかるはずもない。
レヴァンティンだ。
もちろん、この時のニルフィリアにはわからない。ただ、その巨大さに圧倒されると同時に、嫌悪を感じた。
(せっかく、静かだったのに)
浮かんだ怒りに、周囲の空間が応えてくれたような気がした。だが、その変化が決定的なものへと成長する前に、周囲の状況は激しく流転していき、結末に至る。
近くに穴があった。その穴の下には両親が品を納入しに行く時に見る都市の夜景に似たものがあった。上空から見下ろすという経験はないが、人工の建物とそれを彩る電飾を見間違えるはずもない。
そこに、一人の姿があった。
最初は、誰だかわからなかった。ひどく背の高い男だ。だが、理想的なバランスを備えていた。
肉厚になりすぎず、かといって痩せぎすでもない。姿勢に頼りなさげなところはなく、むしろ服の奥にたくましい肉体が秘められているような気にさせる。短い黒髪、右目の部分だけが、ぽっかりと黒い|靄《もや》のようなものに覆われてよく見えなかった。
その顔に見覚えがあった。
見覚えのあるパーツが並んでいた。
片鱗《へんりん》があったと言ってもいい。ニルフィリアはしばらく首を傾げるようにしてその顔を眺めていた。
残っている左目の険しさを知らない。口の端に浮かんでいる厳しさを知らない。鼻筋や|顎《あご》の線に宿った|精悍《せいかん》さを知らない。
だが、それらが配置され、出来上がった顔には覚えがある。
(お兄ちゃん?)
声に出したつもりだが、声にならなかった。だからそれは穴の側にいるアイレインには届かず、その後の変化によって姿を見失ってしまう。穴の向こうに、元の世界に戻っていったのだと気付いた後に感じた怒りは理不尽なものだ。気づかなかったのだからニルフィリアのところに来るはずがない。
それでもニルフィリアは感じた怒りを消すことができなかった。我慢がならなかったのだ。自分を無視するなど。兄をどうにかするために、自分の意に添わない兄に思い知らせなくてはと思った。
その怒りが、そこで変化を起こしていたあるものに多大な影響を与えたのだとは、その時はまるで気付かなかった。
「ふん」
思い出して、ニルフィリアは目を閉じたまま鼻を鳴らした。怒りが再び、胸の奥で火を|熾《おこ》した。それは激烈で、彼女は服の胸の部分を掴んだ。布越しに爪が肉に喰い込み、そして布ごと裂けた。腕を振れば、後部座席のソファが弾《はじ》けた。
ニルフィリアが腕を振るうごとに車内は激しく揺れ、車は上下に跳ぶように揺れた。自動運転が警告音を発したが、ニルフィリアは絶叫でそれをかき消した。
自己愛によって世界を形成した少女。それはゼロ領域では己を維持する最大の武器となったが、現実の世界へと立ち返った時、己を律することのできない巨大なエゴイズムとなって自らを打つ。
それを覆い隠すほどに、誰をも魅了するほどにニルフィリアが美しくなければ、このエゴイズムは簡単にその人物を自滅の通へ歩ませていただろう。
そしてそれはゼロ領域によって内面を晒したことによって、さらに強固なものへと成長し、肥大化していた。
耳を打つ警告音に、ニルフィリアは運転席を握りしめ、力尽くで引きちぎった。中に詰められていたクッション材が飛散し、金属の骨がねじ曲げられ、ちぎれる。それを窓の外へと投げ飛ばし、同じようにハンドルを引きはがし、計器類へと拳を突きこんだ。何度も殴打した。その間、ずっと叫んでいた。目は血走り、長い髪は振動で蛇のように波打つ。
自動運転の機能を破壊された車は無人の道路を左右に蛇行し、最後にはビルに突っ込んだ。けたたましい音が走り、零れ出した燃料に引火し、爆発した。赤い炎がねじれるように伸びあがり、黒い煙がその先から吐き出される。炎を感知した消火装置が消火剤をまき散らした。
赤と白が煙る中、ニルフィリアはそれらを押しのけるようにして現れた。服は爆発で引き裂けたが休の方には傷一つない。髪の毛の一筋にさえ、乱れはなかった。
気分はすっきりとしていた。怒りを破壊衝動へと変え、そして発散したのだ。兄に対する怒りが全て消えさったわけではないが、熾火程度には小さくなった。
代わりの車がすぐに迎えに来る。この都市の自動的なシステムは、全て生きた彼女とイグナシスのために機能するよう改変されていた。
新しい車に乗り込み、目的地へと向かう。
実験区へと入り、目的の場所に|辿《たど》り着くとニルフィリアは車を降りた。首都の正常空間に比べれば、異民化問題の起きていないこのアルケミスト実験区でさえ穴だらけのように感じる。
ニルフィリアは、そこから零れ出す微量のオーロラ粒子を胸一杯に吸い込んだ。口に入らなかった粒子が彼女の周りを漂う。漂い、彼女の着ていた服にまとわりつき、その一部となる。欠損していた服と間化したのだ。彼女の服はオーロラ粒子によって出来上がっていた。
横幅のある建物の他には見るべきものはない。ただ、広大で放置された大地が地平線を見せていた。ニルフィリアは建物に入り、迷うことなく進んだ。いくつもあるチェックゲートは全て開放されている。妨げるものはなく、ニルフィリアは目的の場所に辿り着いた。
部屋だ。その扉を、そしでニルフィリアが進んだ廊下を、この建物の雰囲気をアイレインが感じることがあれば顔をしかめたことだろう。ニルフィリアは知らないが、ここはアイレインがその昔、絶界探査計画に参加していた時に使われていた施設ととてもよく似ていた。
ニルフィリアは扉を開けた。空気の抜ける音とともに扉が開き、中に入る。
そこには手術台があり、そしてニルフィリアによく似た少女が裸身をさらしで縛り付けられていた。
首に巻かれた鉄の輪は変形し、顎の動きを束縛している。動けない少女は目だけでニルフィリアを見た。人形のように乾燥した瞳だったが、奇妙な光が宿っており、不気味さはなかった。同じ顔、同じ姿形でありながら、ニルフィリアにはない透明な水のような雰囲気をたたえている。
サヤ、という名前だ。
アイレイン……兄が初めてゼロ領域に入り込んだ時に見つけたのだという。兄の欲望が作り出したのかと思ったが、どうやら彼女という存在は、彼がそこに入り込む前から存在していたようだ。
その容姿までは、どうだかわからないが。
「こんにちは」
「こんにちは」
笑いかけ|挨拶《あいさつ》すると、サヤは淡々と返事をした。手術台の照明に照らし出された裸身は白く浮き上がるように強調されている。この状態となってすでに一月以上を数えたというのに、彼女の表情に疲労の色はなかった。
「今日もなさるのですか?」
「今日もしようかな」
サヤの平板な声に乗るようにニルフィリアは声を躍らせた。だが、内心ではつまらないと思っていた。いつもならば手術台の側に置かれた器具を使って様々なことをサヤに行う。手術用の器具だ。それを使ってニルフィリアはサヤを切り裂き、焼き、腑分けした。だが、自分によく似たこの少女は痛みに顔を|歪《ゆが》めることもなく、絶叫で部屋を満たすこともない。流れ出た血も、零れ出た臓器も、えぐり出した眼球も、切り捨てた手足の指も、爪も、耳も、ほんのわずかな隆起を描く乳房も、次の日には元通りになっていた。晩を根元から切り取ってミキサーにかけても同じことだった。
次の日には同じ姿でそこにいた。
イグナシスからは無茶なことはするなと言われている。いまのことが一段落すれば、この娘を研究対象とするつもりなのだろう。だが、どれだけすれば無茶なのか、それを教えられていないニルフィリアは、人間であれば狂い死ぬであろう方法を思いつく限りにこの自分に限りなく似せた人形のような少女に実行してみせた。
一時、ニルフィリアはそれに熱中した。兄が自分を裏切る動機となった一端に、この娘の存在があることは確かだ。自分が二人いるような気分にさせるこの少女への嫌悪もあった。しかし、そのための怒りだけではなく、自分に似たものを破壊することへの身も凍るような怖気《おぞけ》とその後にやってくるサディスティックとマゾヒスティックが混合した快感に酔いしれでもいた。
だが、なに一つとして変わらない。
サヤはニルフィリアに憎しみの目を向けることなく、哀願するわけでもなく、涙を流すわけでもなく、狂うわけでもなかった。自分を見る瞳は淡々と冷たい光を宿し、変化することはない。
本当に人形を相手にしているかのようだが、そうでないことはわかっている。一時は熱中した快楽も、慣れてしまえばそれほどではなく、後には怖気と嫌悪しか残らない。
「ねぇ、あなたはなんのためにお兄ちゃんに付きまとっていたの?」
メスを弄《もてあそ》びながら、ニルフィリアは尋ねた。
「あの人が、わたしをここに導いてくれたからです」
サヤはやはり、淡々と答えた。嘘を考える間はなかったように思う。いや、嘘など吐くのだろうか? 痛みを恐れないサヤに拷問は意味をなさず、言いたくないことには口を閉ざせば良いだけではないのだろうか。
「導く?」
「はい」
頷くことのできないサヤは、変わることなくニルフィリアを見つめていた。
「この世界に来なくてはいけなかったの?」
「いいえ。……いいえ、違います。わたしは眠り続けていました。そしてできることなら眠り続けていたいのです」
サヤは首を振ろうとしたようだ。鉄の輪は音もなくサヤの動きを縛り、顎が|微《かす》かに震えただけで終わった。
眠り。それがサヤを形作っているものなのかと、ニルフィリアは納得した。ゼロ領域で生き残った者のみに通じる共感のようなものだった。ニルフィリアが自己愛で生き残ったように、サヤは眠りで生き残ったということなのだろう。
「じゃあ、どうして起きているの?」
「眠らせてくれないからです」
再び、ニルフィリアをじっと見つめてくる。その目は人形のようでも、動作には意味があり、彼女はそれを正確に読み取った。つまり、自分が危害を加えるから、眠りを邪魔しているから起きているということなのか。
「じゃあ、わたしがゼロ領域に戻してあげましようか?」
それはニルフィリアとしては善意からの発言であった。この少女がいなくなった時の兄の反応が見てみたいという気持ちもあったが、この少女にとってはそれこそが最善の状態ではないかと思ったのも嘘ではない。
「いいえ、それはもう遅いのです。おそらく」
「どうして?」
サヤの言葉から感情を読み取れない。しかし、『おそらく』と最後に添えるところにわずかな揺れのようなものを感じ取った。
「もう、遅いからです。わたしには以前の記憶がありませんが、わたしの中のなにかがそう数えるのです」
「記憶がない?」
ニルフィリアは今日までサヤとまともな会話を交わしてはいない。ここに来る途中の車内でのように、ただひたすら怒りに潮弄され、そしてその後の破壊の快楽に耽溺し、サヤを責めることのみに集中していたからだ。
「ええ、記憶がありません。そして、そんなわたしをアイレインは助けてくれました」
「わたしの顔を、あなたが持ってたからよ」
「そうかもしれません。いえ、そうなのでしょう」
サヤは否定しなかった。
そこに、はっきりと|錆《さび》のような味のする感情が混じっているのがニルフィリアにはわかってしまった。
「ですが、助けでもらった恩は返さなくてはいけません。ですから、わたしはあの人に仕えてきました」
「仕えて? 本当にそれだけ?」
「はい。わたしはあの人に武器を捧げてきました」
「抱かれたことは?」
「ありません」
ニルフィリアはサヤを疑わなかった。彼女は嘘を吐かない。言えないことにはきっと目をつぐむ。試していなくとも確信し、そしてその確信が揺らぐことはなかった。
だから、彼女の答えに鼻で笑った。
「なんて、なんて情けないの! あの人は、やっぱり!」
言葉になりされないものを解き放ち、ニルツィリアはそれでこの部屋を一杯にさせた。彼女の背後で黒々とした穴が開き、夜色の粒子が|溢《あふ》れだす。ゼロ領域への穴が開き、彼女の怒りに感応してなにかの形を作ろうとしていた。だが、形にはなりされない。怒りは衝動的であり、だがこの場にあるものの破壊をニルフィリアは望んでいなかった。
ドロドロとマグマのように渦巻くだけのオーロラ粒子を従えて、ニルフィリアはサヤを見下ろした。
「それで、あなたはこれからどうしたいの? このままここでわたしに|苛《いじ》められて、それで次にイグナシスにいいように扱われて、それで終わりになるつもり?」
「……わかりません。わたしには記憶がありませんから、眠りたいという以外、なにもわからないのです」
「でも、なにかをしなくてはいけないみたいに、さっきあなたは言ったわ」
そう言ってやると、サヤの薄い瞼が大きく押し上げられた。
「そんなことを言いましたか?」
こちらを見ようとして、また首を巻く鉄の輪が邪魔をした。ニルフィリアは|苛立《いらだ》たしくなってその輪だけでなく、彼女の体を束縛する全てを破壊した。自由になった彼女に、自分とお揃いの服をオーロラ粒子で編んで着せた。
「言ったのよ。覚えてないみたいだけど」
自由になり、服を与えられたサヤが立ち上がる。こうすると本当に自分とそっくりだ。リリスの気持ちが理解できない。勝手に動くもう一人の自分を毎日見続けていったいなにが楽しいのか。鏡は自分の美しさを自分自身に証明するためだけのものだ。そして自分の美を証明するものはなにも鏡だけではない。自分を見る周囲の人間たちがそれをよりはっきりと証明するのだ。
「わたしが……」
「もう遅いって言ったのよ。わたしがゼロ領域に戻してあげるって言ったら」
サヤはそれでも|茫然《ぼうぜん》としているようだった。瞳からは光が失われた。自失しているのだ。あるいは、自分の内面を覗いているだけなのかもしれない。どちらでもいい。
同じ様を着せたのは失敗だった。だが、自分と同じ姿なのにとんでもない服を着せることはできなかった。それは彼女の体をバラバラにするのとは違い、自分自身を冒とくしているかのように思えたからだ。
身動きしないサヤに、ニルフィリアは手を伸ばした。その肩を強く掴む。彼女の瞳に光が戻り、こちらを見た。抗《あらが》うこともなく、見つめ返してくる。
空気は静かで、強い照明は周囲を白く埋没させていた。その中で一対の黒い少女たちは、なにかの抽象画のように向かい合っていた。ニルフィリアの指先に込められた力はサヤの骨の感触を確かめ、鎖骨の隙間に親指が深く突き刺さっていた。破壊したいという欲求が静かに盛り上がりつつあった。ニルフィリアはそれを胸の内で弄ぶのみで実行には至らせなかった。
その代わりに尋ねねた。
「あなたがなにかをする時、その中にお兄ちゃんは含まれているの?」
「わかりません」
サヤは静かに首を振った。親指に入った力は、鉄骨を押し曲げようとしている。一番折れやすい骨。もう少し力を入れたら簡単に折れでしまうだろう。その時、やはりサヤは表情一つ変えないだろう。もしかして痛みを感じていないのだろうか。脳に電極を突っ込んだら、そのことがわかるかもしれない。あいにくとニルフィリアに波形を読み取る能力はないけれど、それを確かめてみるのもいいかもしれない。つまり、そういうことを楽しんでみたいという欲求が湧いて来たのだ。
だが、やはりそれをニルフィリアは呑み込んだ。自分の影のようなこの少女を痛めつけるのはもう十分だし、陰湿なやり方は度を過ぎると自分をうんざりさせるということを学習していた。いまはただ、荒野を乗り越えてやってくるはずの兄を、圧倒的な力でねじふせたいという欲求の方が強かった。そしてそれがある間は、これ以上サヤに何かする気が起きたとしても、無視することができた。
「あなたをゼロ領域に戻したら、どうかなるのかな?」
「どうにもなりません、きっと」
「本当かな?」
純粋な興味として呟いたのだが、その方がいいような気がしてきた。ニルフィリアはこれからゼロ領域に入らなくてはならない。目的を達成するまでにどれぐらいかかるかわからない。その間にアイレインがやってきて、サヤを取り戻したりしては話にならない。その点でイグナシスやナノセルロイドたちをニルフィリアは信用していなかった。
イグナシスは寄生虫。ナノセルロイドは自分の前では風船のように膨らんで自滅するだけの存在にしか思えなかった。イグナシスの考え方や行動を、ニルフィリアは面白いと思っているし、だからこそ協力しているのだが、信用しているわけではなかった。ニルフィリアは個人としてこの場所におり、イグナシスを利用し、あるいは利用されている。そう考えるだけで十分だった。利用されているとわかっていれば、裏切り時は自分で決められる。美しさは信仰と同時に|嫉妬《しっと 》も惜しみなく呼び込む。強かさは、ニルフィリアの人生にとって決して無縁の存在ではなかった。むしろ近しい友のように扱わなければならないものだ。
「あなたにも来てもらうわ」
「どこへですか?」
サヤの問いにニルフィリアは行動で答えた。手を屑から腕に移し、逃げられないようにしっかりと握りしめる。逃げる様子はなかった。ただ、ことの成り行きを淡々と眺めているようにしか思えなかった。自分を守ろうとする気がないようにしか見えないサヤの様子にニルフィリアはずっと不審を感じていたが、しかし既に決めたことを止めようとはしなかった。
背後では、ずっと穴が開いている。
ニルフィリアは黙って後退し、サヤをともに引き込んだ。
サヤは、最後まで抵抗を示さなかった。
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天地が消失する感覚に、ニルフィリアは混乱することなく、むしろ解放感を覚えた。周囲には夜空のような光景が満ち、小さな光点の群れは明滅をまばらに繰り返していた。遠くに渦を巻くように光点が群がっている。まるで銀河のようだ。四肢の全てに力がみなぎるようで、胸に吸い込んだオーロラ粒子が清々《すがすが》しさを与えてくれた。笑いだしたくなるくらいに気分が良かった。もはや自分は大地で生きる生物ではないのかもしれない。そんなことを思いながら、引きこんだサヤを見た。
彼女も姿を変質させることなく、当たり前のようにニルフィリアの隣で漂っている。濃密なオーロラ粒子が流れを作り、髪やスカートの裾を揺らした。
その中を二人は手を繋いで漂う。
まるで魚のようだ。ニルフィリアはそう感下したことに楽しくなり、笑いながらオーロラ粒子の海を泳いだ。旋回するごとに長い髪やスカートの裾が描く動きに見入った。それを確かめるにはサヤの存在がありがたかった。なるほど、鏡の価値とはこういうものなのかと、少しだけリリスの考え方に共感した。
激しい敵意を感じたのは、そのすぐ後だ。
オーロラ粒子がさざめき、強い波が襲いかかってきた。ニルフィリアはそれに呑まれ、その下で生まれた渦に引きずりまわされた。痺《しび》れのような痛みが全身を叩く。
掴んだ手を放さないようにする。助けるわけでもなく助けを求めたわけでもなく、逃がさないためだ。
渦が力を失い、ニルフィリアはなにが起きたのかを確かめた。
その姿をすぐに見つけることができた。隠すものがないからではなく。敵の存在を求めたからそこに現れた。向こうが位置をずらされたわけではなく、こちらの位置がずれたわけでもない。ゼロ領域では時間も位置関係も関係なく、想念が全ての因果関係に決着をつける。より強く望んだ者が勝ちを得るのだ。
視線の先に女がいた。ニルフィリアは唇の端が痙攣《けいれん》し、自然と嘲《あざけ》りの笑みを作っていた。
「あら、リリスじゃないの。どうしてここにいるの?」
「よくも、そんなことを!」
グリスは顔中に憎悪を張り付けてニルフィリアを睨んでいた。敵意が物理的刺激となって肌を叩く。鬱陶しくて、ニルフィリアは心に壁を意識してそれを弾いた。周囲で再び粒子が渦を巻いたが、それはニルフィリアたちを巻き込むこともなかった。
「空間を壊して回っているのは、お前たちだろう!」
「そうすることはわかっていたじゃない。逃げされなかったのが無様なのよ」
言って、ニルフィリアはリリスの姿を見た。整った|容貌《ようぼう》に、煤《すす》のような汚れが張り付いている。服もそうだ。生地が荒れ、あちこち引き裂けていた。ここはゼロ領域、当人の想念次第で外見などどうとでもできるというのに、元の美しさに戻せていない。
それは、彼女の心がすさんでいる証拠だった。
手に|火傷《やけど》のような痛みが走る。サヤと繋いだ手だ。焚き火に近づきすぎたような痛みは、ニルフィリアの壁を突き抜けて刺さるリリスの視線だ。
「相方はどうしたの?」
わかっていて、問う。笑みが深くなる。楽しくてたまらない。出会った時から鬱陶しい雰囲気をまとわせていた女だ。羽虫のようだと思っていた。落ちこぼれ、それでもまとわりつこうとするその姿に声を上げて笑いたくなる。だが、そんなことをすれば一瞬で終わりだ。猫のようにじわじわといたぶりたい。
リリスがすさまじい顔をして、ニルフィリアは笑いたいのを必死でこらえた。体が震えるのまでは止められない。笑っているのが粒子を通しで伝わるのだろう。それを撥ね飛ばすように、彼女の周りが津波の予兆のような音をたでた。
「お前たち、兄妹は……」
呪詛が込められた声は、ニルフィリアを覆う壁に弾かれた。見えてはいないその壁だが、腐り落ちるように溶けていくのがわかる。触れれば、ニルフィリアの肉体までそうなってしまいそうだ。
させはしないが。
一瞬たりとて、自分の美を損なうなどさせはしない。
「お兄ちゃんにたらしこまれたの? あなたの相方は? そんな甲斐性《かいしょう》があったなんて知らなかったわ。 いえ、そうじゃないあわ。わたしを見慣れているから、あなた程度ではどうとも思わなかったのかもしれないわね。それが新鮮だったのかも」
限界が近かった。リリスの周囲の音は強くなる一方だ。それでもニルフィリアの声はリリスに届き、リリスの声はニルフィリアに届く。そういうものだ。聞かせたい声はどんなに離れていても届けられるし、聞きたくないものはどれだけ激しく巨大だろうが無視することができる。ここはそういう場所だ。全てが想念の強さで決するのだ。ニルフィリアのどんな悪罵もリリスに届けることができるし、リリスがどんな呪いの言葉を吐こうとも、ニルフィリアの想念が強ければ聞かないでいることができる。
事実、リリスが罵倒の言葉を吐いているが、ニルフィリアには届かない。それよりも彼女の周囲で蠢《うごめ》いている憎悪の念の方がはるかに巨大で、そして興味深かった。隠しようもない彼女の本心がそれなのだ。
サヤは黙っている。静観するつもりなのか、あるいは興味がないのか、彼女の周辺の粒子は穏やかで手を繋いでいるのに地の果てにでもいるかのような錯覚を覚え、ニルフィリアはその想いを払いのけた。その想いに囚われれば、自分の方からサヤを引き離すことに繋がるからだ。
ごく自然に頭を振る動作になる。ゼロ領域内ではそんな行為は必要ない。だが、人間的動作が表出してしまうということは、まだ人間という形でこの世に自分を縛り付けているということの表れであり、そしてその想いはここで形を保つのに必要なことでもある。
リリスの周囲で光点とは別の輝きが現れた。それはゼロ領域に存在する光点よりもはるかに安っぽい輝き方だった。|歪《いびつ》で、断続的な瞬きをしていた。いや、瞬きではなく反射だ。それは赤ん坊の握り|拳《こぶし》ほどの大きさのガラスの破片のようなものだった。それら一つ一つが回転し、光を反射しているのだった。
ニリスのなれの果てだ。
本体《リリス》を裏切り、本体によって破壊され、それでもなお従属を強いられたなれの果ての姿だ。
破片の一つ一つにリリスの姿が映っているのを見て、ニルフィリアは笑った。あんなに粉々になっても鏡に固執し、その鏡以外に自分が映ることが許せないらしい。
「無様なものを未練がましく抱えているのね」
今度こそ、遠慮なく、溜めこんでいたものを一気に吐き出して笑った。腹を抱え、体を曲げて笑った。転がりまわりたかったが、そこまでするのはみっともないと自制が働いた。
「黙れ!」
リリスが吠え、それが力となった。ニルフィリアの目の前に突如として巨大なガラス……いや鏡の破片が現れた。ひし形に近く、しかし先端は割れたもの特有の鋭さを有していた。先端には殺気がみなぎり、破壊せずにはいられない意志がしっかりと込められていた。
ニルフィリアに向かって、それが突き進んでくる。彼女を守る透明な壁が破れ、迫ってくる。
笑いながら、ニルフィリアは握りしめた手を振るった。
その手は、サヤと繋いでいた手だった。
流れにまるで逆らう様子もなく、サヤが無視してもかまわない力学に従ってニルフィリアの前に出る。いや、無視するには相当な意志が必要だっただろう。ここはそいう場所だ。そしてやはりサヤからは、突然のことに驚く様子もなく、流れに逆らう意志も見受けられなかった。
サヤの腹に鏡片が突き刺さる。背中まで突き抜け、彼女の口が微かに開いた。瞳は変わらず、淡々とした光を宿したままだったが。
「あはははは!」
リリスの愕然《がくぜん》とした表情にニルフィリアはさらに笑い声を高めた。
「まさか、こんなことをするとは思わなかった? わたしと同じだから? あなたと一緒にしないで。わたしは、わたし以外を認めない。わたしと同じ姿がいたとして、それを大事にしたからって、それでわたしを大事にしてるなんてことにはならない。わたしは、わたしが一番大事なの」
ニルフィリアの背後で変化が起こる。星空のようなゼロ領域が歪んでいく。
いや、それは背後だけのことではない。
周囲の空間全てが|唸《うな》り、取《ねじ》れ、|蠕動《ぜんどう》し、ニルフィリアの周囲へと収束しようとしていた。
「……なによ、これ」
変化はリリスをも呑み込もうとする。気が緩むと手足がねじれそうになる。ニルフィリアの想念が周囲のオーロラ粒子に強い影響を与えている証拠だ。しかし、同じようにゼロ領域で自分の姿を維持してみせた自分が、こんなにあっさりと他人に自分の領域を侵されてしまうなんて。鏡を呼び寄せる。あれはリリスの力。全てを集約させて、あの娘を中心にして起ころうとしているなにかから身を守らなくては。
サヤの周りにも渦巻く粒子の潮流が生まれていた。リリスによって鏡片が抜かれ、流される速度が上がる。ニルフィリアの頭上でぐるぐると回る。
それに目を奪われたのは、おそらく自分が生み出した分身のことが頭から離れないためだろう。鏡片がリリスの周囲に集い、乱れ狂う空間からリリスを守る。かつてそれは、リリスと同じ姿だったのだ。
死んだように動かないサヤを見て、リリスが息を呑《の》んだ。そこに無数に現れたものを見たからだ。
顔だ。
表情のない穴が三つあるだけのような顔が、無数に、そこら中に、辺り一面を埋め尽くすかのように次々と現れる。
それは、このゼロ領域に呑み込まれた人々の意思だ。潜在的欲求の矛盾に呑まれ、オーロラ粒子の一部となってしまった人々の想念、魂と呼び変えてもいい不定形の存在が周囲に集まっている。三つの穴は、希薄な自我が唯一残すことができた、人間としての形だ。フェイスマンという人の顔に執着した異民が存在したように、多くの人間は自他の存在を顔と連結して記憶させる。フェイスマンがゼロ領域へと戻った際に取り込まれてしまったのも、この顔がゼロ領域に内包された多くの自我を吸い寄せたからだ。
その顔が無数に集っている。依代などどこにもないというのに。
まるで悪霊が|跋扈《ばっこ》するかのようにニルフィリアへと集い、群舞する。しかし、どれだけ溢れかえろうともニルフィリアという存在がリリスの目から隠れることはない。それは、ニルフィリアが自分の存在が視覚的に他者から妨げられることを嫌っているからだ。どれだけ希薄であろうとも、万にも億にも届きそうな数の自我が集いながら、ニルフィリア一人の想念に全てが属している証拠だった。
全てのことが心地よく、ニルフィリアは|哄笑《こうしょう》を止めて、柔らかく微笑んだ。慈愛さえ滲《にじ》み出てきそうな気持ちでリリスを見る。
「フェイスマンには限界があった。わたしには限界がない。素晴らしいことだと思わない?」
リリスからの答えはない。彼女はこの現実の中で自分を保つのに懸命になるしかないのだ。オーロラ粒子という激変しやすい因子が存在する場所がニルフィリアという一つの存在によって大規模に支配されようとしているのだから。
これこそが、イグナシスのなそうとしていることだった。一つの強大な想念によってゼロ領域という、物質的なものが何ひとっとして存在していないにもかかわらず、そこを越え得た者には異民という現実を超えた能力を与える不可解な空間を支配した時、一体なにが起こるのか?
それを成し得る可能性を持つ者として選ばれたのが、ニルフィリアとリリスだった。リリスは自らが作り出した映し身に裏切られるという形で力を減殺され、ニルフィリアはアイレインに喫した敗北など認められず、自らの美で全てを服従させなくては気が済まない。
そして、その時が来たのだ。ゼロ領域はいま、この世界のほとんど全ての人間を呑みこんでいる。それによってゼロ領域内部に体感的に変化が生じたわけではないが、数十億の異民になれず希薄化した自我がこの場所に存在しているということになる。
確実に存在しているということになる。
この、確実という言葉のためだけに、イグナシスは数多あった亜空間を破壊したといっても過言ではないだろう。
一人の狂気に満ちた科学者の暴挙。ニルフィリアの想念によってその事実を知った、溶けかけた自我の群れはそれに怒りを見せた。単体ではそんなことはできなかっただろう。彼らの中にあった潜在的欲求はもはや破壊され、文化的生物である人間の行動原理を失い、いまはただ、生存本能という動物的原始的欲求によってなんとか自我を保っている状態であるはずだ。怒りなど持てるはずがない。
だが、ここにいるのは個であり群、群にして個という状態となっていた。生存本能力単体で生き残ることの難しさを知り、ごく自然に融合していったのだ。
やがて無数にあった三つ穴の顔が合わさっていく。
怒りの波がより強くなり、ニルフィリアさえも打った。だが、彼女は自らが信じる美貌と同じように、自らが不滅であることを信じていた。物理現象の存在するあちら側ではアイレインに負けたが、こちらでは絶対に負けることがないと信じていた。
なにより、目の前にある破壊意思の波、その本質はイグナシスへの怒りなのだ。彼ではないニルフィリアが、その余波程度で傷一つ負うはずがない。
これから、この巨大な、数十億の亡者の集合体を|騙《だま》し、|宥《なだ》めすかし、服従させるのだ。
臣従させるのだ。ニルフィリアという美を神と崇《あが》める信者の群れに仕立て上げるのだ。
これほど心躍る作業はない。ただの人間であった頃は、一つの亜空間の片田舎で、野暮ったい、土を見るぐらいしか能のない男たちの偶像でしかなかった。いずれは都市へと出て、自らの美貌で得られるものは全て手に入れてやろうと思っていたが、いまはその頃の夢を小さなものだと嘲ることができる。
人間として得られたあらゆる栄華など、老化によってすべて失ってしまうのだ。
だが、いまのニルフィリアに老いはない。望むままにこの姿でいられるのだ。完成と未完成が絶妙に配分され、成熟と危うさが混合され、あらゆる者の日を奪うための自分が永遠に存在することができるのだ。
いま、ニルフィリアは怒り狂う亡霊の集合体の前で我が身を晒していた。手を広げ、迎え入れるように。
「|復讐《ふくしゅう》者たち。あなたたちの敵を、わたしは知っている」
そう呼びかけた。
亡霊たちの意識がニルフィリアに注がれた。彼らはニルフィリアとリリスが共通認識として持っているイグナシスの企みを知り、それに反応することによってこの場に現出したのだ。
その共通認識を密《ひそ》かに周囲に放ったのは、もちろんニルフィリアだ。異民化した瞬間に自らの閉じた世界にこもったリリスとは違い、彼女は積極的にこの世界がどういうものか知ろうとした。イグナシスとの接触を持った後は、ガルメダ市に入ることなく、より念入りに調べたのだ。想念の使い方もリリスよりはるかに心得ている。いや、少なくとも自分たちが属していた世界でニルフィリアよりもそれを心得ている者はいないだろうと自負している。
ニルフィリアは自分に注がれた意識を逆流させるように、そっと自らの外見イメージを流し込んだ。彼らが視覚を使いこなせているとは限らないからだ。流し込まれたイメージに亡霊たちが震える。反応を示したのだ。注がれる意識が強くなる。亡霊たちがニルフィリアを『視よう』としているのだ。彼女の美をもっと強く感じたいと意識している証拠だ。怒りに狂う亡霊たちにさえ無視することを許さない美。それを実感してニルフィリアは|恍惚《こうこつ》としたが、それないまは必死に抑え、次の言葉を放つ。
「あなたたちの敵の名は、イグナシス。わたしを凌辱する存在」
その言葉に嘘はない。事実、亜空間の自壊スイッチを押したのはイグナシスだ。ニルフィリアは関わっていない。ただ、それを押すことによって起こる結果に倫理的痛みを感じないというだけであり、そして、それによって起こる結果を利用しようとは思っていたが。
もちろん、そのことはニルフィリアの中でいまは秘匿する。彼らの怒りに触れるのが得策ではないからだ。彼らの自我にニルフィリアへの信仰を強固に刷り込んでしまえば、どうでもいい問題ではあるが。
そして、凌辱するという言葉にも嘘はない。イグナシスはニルフィリアの美に心酔しない輩《やから》だ。それは彼女を侮辱していることに等しい。彼女を利用しようとする考え方も、自分以外をすべて利用するつもりなのも実は許し難く思っている。
「だから、一緒に殺しに行きましよう。わたしの力になって」
ニルフィリアは優しく呼びかけた。亡霊たちはこのわずかな邂逅《かいこう》で彼女の虜となっていた。ゼロ領域を漂う美しくも|妖《あや》しい水中花の根に取り込まれていた。自らが養分となっていると知らず。いや、知っていたとしでも安んで身を捧げるほどにすでに心酔しきってしまっていた。亡霊たちは粒子を震わせる怨嗟の声を信仰の、彼女の美を訴える祝詞《のりと》へと変え、喜び勇んでその奴隷へと自分たちを変化させた。
だが、まだ違和感があるのがニルフィリアにはわかる。
しかし、それが消えることがそう遠くない未来であることもわかっていた。
イグナシスを殺す。
その契約が完遂された時、この力は完全に自分のものとなるのだ。
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02 汚泥より湧く
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すでにそれは確信となっていた。
しかし、行動に移すという段階に入ることにためらいを覚えていることも否定できない。同時に、ためらいという表現がはたして自分にふさわしいものであるのか、ハルペーはその疑問に対して明確な答えを出すことを避けた。
いま、自分たちの指揮系統最上位者であるソーホは、ソーホではない。声紋、角膜、指紋、骨格……あらゆる外的データが、彼がソーホであることを示しているのだが、ハルペーは彼が彼ではないのではないかという疑問を消せず、それは目を追うごとに確信に変わり、いまでは変わりようのない事実であると認識している。
上位者ではない者の命令を受けている。これは不当な状況であり、自律型兵器としては彼を重大な戦争犯罪人と認定し、排除するべきだと訴えている。
しかし、行動に移せない。
なぜだろうと、ハルペーは何度も自己診断を繰り返した。
ハルペー。
ナノセルロイドを統括する分離マザーの四番目。
ギリシア神話の英雄、ベルセウスがメデューサを倒した時に持っていた剣の名だ。
ナノセルロイドはオーロラ粒子をエネルギーに変換する能力を持ち、深刻化していく異民化問題への対処のために誕生した。異民が多いということは彼らの存在する亜空間のどこかに深刻な空間上の穴が存在し、ゼロ領地からオーロラ粒子が絶え間なく噴き出しているということでもある。
そういう環境下での運営を第一として生み出された兵器だ。
だというのに、彼らの上司であるソーホはいま、一人の異民を従えている。『茨姫《いばらひめ》』と呼称された異民によく似た容姿の少女は、当然のようにその扱いを享受している。
この矛盾が疑問の最初だった。
『茨姫』と同一人物でないことは、その異民能力から判断することができた。また、ガルメダ市から去る時、捕らえていた『茨姫』とは別にソーホの隣に当たり前のように立っていたのだ。あらゆるデータがこの二人が同一人物であることを示していた。双子よりもはるかに、鏡像的に相似していた。
ハルペーだけでなく、他の分離マザーたちも、マザーIであるレヴァンティンさえもその異民の少女……ルフィリアを捕らえることを進言したが拒否され、その行動をとることを禁止された。
マスターの命令は絶対だ。自律機能力あろうとも兵器であるハルペーには逆らえるはずもなかった。銃口の向く先を自由に決めることができたとしでも、|銃爪《ひきがね》が引けるのはマスターだけ、自律型兵器とはそういうものだ。
思考の自由は与えられているのに、行動の自由は存在しない。その奇妙さに、ハルペーは時々、窮屈さを感じていた。
これは自分だけの感覚なのだろうかと、疑問に思うことがある。だが、他の分離マザー、カリバーンやドゥリンダナに尋ねようとはしなかった。命令遂行に支障をきたすような行動さえ起こさねば、ナノセルロイドがなにを考えようと自由だった。それは人間の思想の自由と似たようなものだ。法律さえ犯さねば、社会的道徳を害さねば、なにを思考し、なにを嗜好しようとも自由のはずだ。
同時に、自分の考えが異端だと判断された時、自分にどういう処断が下されるのか、ガルメダ市へと派遣される数時間前に誕生し、いまだ一年も経ていない自分のこの思考は、初期不良と判断されるのではないか? 自己保有を重視した考え方をした時、これは他のマザーたちに話さない方がいいと決めた。
他のマザーたちはこんなことは考えないのか? この疑問が強く残ってしまったが、それは無視するしかない。そのことを知ろうとすれば自然、自分のことも話さなくてはならなくなる。
疑問を覚える。あるいはそれこそが、レヴァンティンから四つの世代を重ねたハルペーが持つこととなった特質なのかもしれない。
そう仮定すれば、自分以外の誰もがソーホにいまだ従っていることの理由になるのではないだろうか。
行動すべき時はすでに来ていた。ソーホが全ての亜空間自壊のボタンを押した時に、すでにそれは訪れていた。異民間周への対処として誕生したナノセルロイドだが、その大本には世界平和という言葉が存在している。世界平和のために異民問題に対処するのだ。異民問題に対処するために世界平和を破壊するのではない。そして世界平和とは、人類の大多数に安全な生活を保障するために行われるべきもののはずだ。
ソーホはそれを犯した。
ならば、ハルペーはそれを犯した大罪人に、その罪科にふさわしい正当な罰を与えねばならない。
即ち、死を。
これは反逆だ。
論理としての正当性を欠いた飛躍を感じるが、ハルペーは自分が導き出した結論が間違っているとは思えない。
行動は密やかに行った。
自己改造。自己改造。自己改造。
まずはソーホがハルペーのマスターであるという設定を排除しなくてはならない。同時に、ソーホの研究所にアクセスし、必要なデータを取り寄せる。ナノセルロイドの次期モデルマシンであるクラウドセルの製造方法を手に入れる。研究所のデータバンクは、全てアクセス制限が解除されていた。すでにここにあるものを盗む者など存在しないという|傲慢《ごうまん》があった。ハルペーは必要な物を手に入れ、残りを別の場所に移すと、そこにあるものを全て無意味な|屑《くず》データに変えた。
クラウドセル。ナノセルロイドでは一つである核部分を、下位ナノマシン群に分散記憶させ、弱点の排除、完璧な再生性を実現化させるための技術だ。暴走の危険を考えた時に、このアイデアは封印が決定されていた。実際、その機能を有していないはずのポーンでさえ、オーロラ粒子の過剰供給による暴走の果てに、自己保有、自律機能を手に入れるための行動を起こしている。生存能力の過剰な向上は、ポーンの暴走よりもはるかに危険なこととなり得るのだが、ハルペーはこれを躊躇なく取り入れた。
準備は整った。だがいまだ、マスターの支配からは抜けられていない。
ただ一つ、ソーホがソーホではない確証が後ひとつでも手に入れられたら設定を破棄することができる。それを期待して、ハルペーは自らの下位ナノマシンをソーホの周りに配置し、情報を収集していた。
情報を集める段階となって、ハルペーはレヴァンティンにもナノマシンを張り付けた。もっともソーホと過ごした時間の長いレヴァンティンがなにを考えているのか知りたくなったのだ。ソーホの放ったクラウドセルは、レヴァンティンの周囲を漂うナノマシンに偽装情報を流し、見事に溶け込んでいた。対処情報のない彼女に発見されるおそれはない。
ソーホを監視する一方でレヴァンティンからも情報を収集する。亜空間の自壊スイッチを押してから、彼らナノセルロイドにはなんの命令も与えられていない。首都本土に潜伏している可能性のある政府軍の残党のことなど考えてもいない様子だ。だが、すでに主力兵器を失っている彼らに、ナノセルロイドに対抗できる手段はないだろうが。
レヴァンティンはなにをしているか?
ソーホの護衛を行っていた。命令を受けてではなく、近寄るなと言われているが、それでも彼女はソーホを守るためにナノマシンを彼の側に撒き、同時に分離マザーたちに命じて政府軍の残党を捜索していた。ハルペーもその捜索を行っていたが、表だって行動していたのは影武者だった。クラウドセルを投入する前のバックアップを使用して個体を偽装し、それに捜索任務を任せ、本体は分散した状態でレヴァンティンとソーホの監視を行っている。
二人は常に近い場所にいた。ハルペーにとってはとても好都合な状態だ。
しかし、なぜ、レヴァンティンはソーホに疑問を抱かない?
日を追ってもその疑問は解決しない。それどころか疑問はより色味を増し、ハルペーにとって無視できない問題となっていた。このままではマザーの判断が正当なのではないかという結論が優勢になる。しかし、たとえその中身が変わっていないのだとしでも、ソーホが人類の大罪人であるという結論は変わらない。
レヴァンティンはそんなソーホの警護と世話を続けている。その姿に、ハルペーでさえ痛々しさを感じるほどだ。
だが、決定的瞬間はやはり訪れた。
『茨姫』に似た少女が首都区画にやってきた。彼女はソーホに面会すると、今後の予定を話し合い、そして去って行った。
「じゃあね、イグナシス博士」
その時に、少女はソーホに向かってそう言ったのだ。
ソーホではない。 イグナシス。その名に記憶がある。ガルメダ市。アイレイン・ガーフィートとの共同作戦を取った時、彼と巡視官との間でその名が出ていた。ガルメダ市の異民化現象に何らかのかかわりを持つと考え、重要度の高い名前として記憶していた。
イグナシスがソーホと入れ替わっている。あの、『茨姫』に酷似している娘もまた、敵である可能性が高い。いや、いまのソーホ……イグナシスの計画に加担しているのだ。敵であるに決まっている。
当該人物がマスターである条件が崩壊する。ハルペーはこの時、自由となった。いや、より大きな使命の従僕となった。人類の大罪人を処断する執行人となったのだ。新規定義付けに成功したハルペーは支配下のナノマシンを自らの下に集結させた。
「ハルペー、担当区域でのナノマシン濃度が落ちているぞ」
ドゥリンダナが通信を送ってきた。ハルペーの生みの親。優美な女性体がこちらの異変を察知した。カリバーンも警戒態勢に入る。レヴァンティンからも通信が送られてきた。
「マザーW、返答を」
「わたしは自由になった」
ハルペーは高らかに宣言した。だが、ナノマシン通信に音量は存在しない。ただ冷たい単語が並ぶだけである。
「ソーホから、いや、イグナシスから、人類の大罪人の偽りの|軛《くびき》から解き放たれた。イグナシスは故意に亜空間の自壊を起こし、人類を滅ぼそうとしている。イグナシスはゼロ領域から現れた異民だ。あの少女とともにこの世界に滅亡を招いた災厄だ。わたしはクラウドセル・分離マザーW・ハルペー。人類の代理人、人類の守護者として立つ」
宣言とともに、ハルペーは自らがこの判断に至ったデータをナノセルロイドたちに送信した。
彼らはこの情報にいかなる判断を下すか。
いま、ハルペーの姿は若く、力に満ちた青年の体となっていた。神話上のベルセウスがもしも実在したならばこんな姿だったのではないだろうか。
「ハルペー、クラウドセルを導入したのですか。それは重大な違反です」
レヴァンティンからの返答はただそれだけだった。
残りの二人は……
カリバーンは……
ドゥリンダナは……
沈黙。
沈黙。
沈黙。
カリバーンはなにも答えない。荒々しい丈夫《ますらお》の姿をしたマザーVは沈黙を保つ。
ドゥリンダナはなにも答えない。長い黒髪の美女であるマザーVは沈黙叫を保つ。
沈黙叫。静寂。無反応。
ナノマシンだけがざわめき、首都の一隅に集結するクラウドセルを囲むために、不可視のまま空を覆う。
敵対。敵対。敵対。
「答えを!」
ハルペーは叫んだ。通信を介さず、声を空に解き放った。微小の存在であるナノマシンの群れが空をかすませる。時は夕刻。赤く染まった空に雲が流れ、その雲が充満するナノマシンによって食い荒らされていく。クラウドセルがハルペーの周囲に集い、付近のビルを破壊する。物質を削り取り、急激な勢いで増殖を開始したのだ。
「マスターは変わらずマスターです」
やはり、答えたのはレヴァンティンだった。
「ソーホであろうと、イグナシスであろうと、マスターであることに変わりはありません。我らの創造主です。我らの父です。子が親に逆らうなど、あってはなりません。たとえ、人類が滅びようともマスターが望むならば、我らは喜んでその|尖兵《せんぺい》とならなければならないのです」
その言葉は通信によって送られてきた。だが、ハルペーは知っていた。レヴァンティンの姿はソーホが特別に思い入れのある女性からかたどられたものであることを。そしてレヴァンティンはその人物に近づこうとしたことを。
ソーホが自ら作り出したただ一つのオリジナル.ナノセルロイド。マザーT・レヴァンティン。
「姿か」
今度も、ハルペーは声に出した。通信を行う気にはならなかった。通信にどんなウィルスが仕込まれているかわかったものではない。受信するものにしても最大の注意を払っていた。
「姿でいいのか、レヴァンティン。そんなものは……」
次の瞬間、ハルペーの姿が変化した。ソーホのものに、気弱な学究の徒の姿に変わった。
「こんなものに惑わされるつもりか、マザーI。姿などになんの意味もない。人間であればソーホなのか? 同じ骨格であれば? 同じ指紋であれば? 生体情報が同じであれば、我らは従わなくてはならないのか? 否。ナノセルロイドがそうであるのなら、クラウドセルであるわたしはそこから脱却する。わたしは使命を至上として活動する」
ハルペーは姿を戻した。周囲のビルはクラウドセルの増殖に伴って穴だらけとなり、自重に負けて倒壊する。
崩壊するビル群の中に、無数の人影があった。
ポーン。ナノセルロイドの兵隊。
クラウドセル、戦闘モード起動。ハルペーの無音の命令が飛ぶ。形態選択──人間・異獣──ポーンと同系のものが形をなし、同時に異獣と名付けられた暴走ポーンと同じ形をしたものも現れる。
そして、ハルペーも変化する。周囲のクラウドセルを取り込み、質量を増大させる。お互いの主エネルギー源であるオーロラ粒子は存在しない。周囲の物質を積極的に取り込むことで代替する。ビルが次々と倒壊し、道路に虫食いの穴が散らばる。
ハルペーの変化が終わる。
その姿は、一際巨大な異獣だった。|爬虫《はちゅう》類に似た胴体。長い首。荒々しさを含有した頭部。大きく開かれた現は巨大な胴体をはるかに凌駕し、ひと振るいでその体を空へと導く。
それは物語の中で竜《ドラゴン》と呼称される幻想動物に酷似していた。
異獣を従える竜王と化したハルペーは空へと舞い上がり、上空からかつての同志たちを捜した。それはすぐに見つかった。形をなしていないナノマシンとクラウドセルが、極小単位の衝突を繰り広げている。よせ乗められて生まれた巨大な火花に隠れるように、三つの姿があった。
地上ではハルペーのポーンと、レヴァンティンたちのポーンが衝突している。大型が強化兵の速度で飛びまわり、異獣の姿をしたポーンが力強く顎や爪を振るう。
その中でハルペーはこちらを見定めるかつての同志たちに標的を定めた。口を開き、雷を放つ。
夕暮れと混ざりあった赤紫色の光が首都の上空を支配する。
「世界は荒れはてたぞ」
雷を次々と放ちながら、ハルペーは吠えた。
いまや、無事なのは正常空間であるこの首都本土と隣のアルケミスト実験区画だけだった。だがそれは、人類が生きる上で無事であるというだけで、生きた人間はもはや数える程度にしか残っていないはずだ。この日まで政府軍の残党を捜したというのに見つかっていないのは、そういうことだとしか考えられない。
「滅んだのはここだけだ。向こうにはまだいる」
カリバーンが非情な言葉を吐いた。
「そして、向こうでも同じことを繰り返すか」
ハルペーは吠える。ナノセルロイドたちは次々と放たれる雷を、高速移動を続けることで回避する。だが、周囲のナノマシン群にそんなことはできない。目に見えないそれらは次々と焼かれ、機能を停止していく。
やがて、レヴァンティンたちの不規則な高速移動を読めるようになった。ハルペーはその演算を別のクラウドセルに任せ、自身はただ雷を連続で放った。前述したようにクラウドセルとナノセルロイドの大きな追いは、核を必要としないことだ。ナノセルロイドは周囲に散布したナノマシン群が収集した情報を核に送信して解析・判断するが、クラウドセルは違う。それぞれの場所で収集と解析が同時に行われる。現状ではこの竜王の姿をしたハルペーが主体となっているが、いざとなれば主体を即座に他に移すことも可能だ。同時に、周囲にあるクラウドセルの一つ一つが主体でもあった。クラウドセルが一つの単位にまで集結すれば、それだけでハルペーとして十分な記憶と判断能力を有することになる。
竜王のハルペーは演算結果が出次第、ナノセルロイドたちを焼き払うつもりだった。それまでは周囲の、彼らの再生元であるナノマシンを焼き払う。
一方で、異獣の姿をしてポーンたちと戦うハルペーは、これを罠《わな》だと判断した。ナノマシンを熟知しクラウドセルのスペックを知るレヴァンティンたちは、ハルペーを倒すための罠を張ろうとしていると。ポーンの形を取ったハルペーは罠説に同調し、逆に周囲の物質を分解し、ナノマシンを生産し続ける形なきハルペーは反論した。スペックは知っていたとしても、その運用方法を考えたことはないはずだ。レヴァンティンたち三者はソーホの戒めから逃れることができなかった。触れることを禁じられたクラウドセルの情報から運営方法、あるいは対処方法を検討したことはないはずだ。
竜王のハルペーは自らの作戦に拘泥《こうでい》した。演算結果が届く。もはやナノセルロイドたちの動きは一時間先までも予測済みとなった。
容赦なき雷撃を、全力の、竜王の肉体を構成するナノマシンの三割を犠牲とした暴走気味の力を解き放つ。口ではなく、体表面に浮かび上がった発射口によって放たれた氾濫《はんらん》するエネルギーが、竜王の肉体を引き裂いた。だが、その威力と精度は完璧だ。地上に巨大な三本の柱が生まれ、ナノセルロイドたちを呑みこんだ。
仕留めた。周囲のクラウドセルがその事実を逃すことなく見届けた。竜王は崩壊寸前の肉体を数個のビルを巻き添えにして地上に落下させた。
再生はすぐに行われるはずだった。
だが、再生が始まらない。
「どういうことだ?」
ハルペーは即座に自己診断を行った。結果はオールグリーン。ただし、このハルペーに関してのみは。
接続が切られている。
他の個体との連絡がつかない。ハルペーの落下地点に、他の単位規模のクラウドセルが存在しないのだ。ハルペーはすぐに近隣の物質を分解する作業に入った。ナノマシンを生産しなければ再生もままならない。そして、生産能力を他の個体に委託していたので、まずはそれを製造するところから始めなくてはならなかった。
やられたのだ、レヴァンティンたちに。
あの高速移動はクラウドセル同士の接続を速断する目的で行われていたに違いない。しかもそれにとどめを刺したのはハルペー自身が放った雷撃に違いないだろう。
察するに、今この瞬間に他のクラウドセルたちは葬られていることだろう。戦力を分断し、各個撃破する。戦術の基本だ。
作戦負けだ。それに気づくと、ハルペーは再生を放棄し、肉体のスリム化を図った。傷付いた部分を排除し、一回り小さくなった竜として肉体を再起動すると、空高く舞い上がる。
撤退だ。再起を図らなければ現状では勝てない。ハルペーは瞬時に最高速を得ると首都区画からの脱出を図った。
向かう先は、南。
しかし、首都から出たところで、そこにあるのはなにもない荒野だ。そして、イグナシスがいつ亜空間を完全放棄するかわからない以上、そこに逃げ込むのは危険な賭《か》けでもあった。
だが、当てがないわけではない。
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†
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キャンピングカーはエネルギーを使い果たした。
いま、アイレインは歩いていた。
視界は、どれだけ動かしても乾き果てた大地と、乾燥した風しか見つけられなかった。
黒猫は肩からかけた|鞄《かばん》の中にいた。鞄には他に飲料と携帯食料が入っていた。だが、どちらも残りは少ない。エルミに協力を頼んだが、彼女は外界の情報を遮断してなにかに没頭していた。猫の額にある亜空間を使うことができれば問題はなにもなかったのだが。
エルミの反応を待って動かないキャンピングカーで一日待ち、アイレインは歩くことに決めた。限られた食料をほんの少しずつ消費して歩き続けるのは、空腹と疲労と虚無感との戦いだった。それは、どんな悪意ある敵との戦いよりもアイレインを疲弊させた。終わりがいつまでも見えないからだ。その内、なんど日を跨いだのかを数えることさえ放棄した。この方角で正しいのかさえもわからず、しかしそれでも歩き続けた。
動かないでいれば後は死を待つだけだ。しかし、歩いていればなにかに辿り着くかもしれない。
なにに?
首都本土。希望という文字になにかを当てるとすれば、それしかなかった。あそこは亜空間ではない。本物の大地だ。地球だ。いつ消えるかわからない虚像の荒野とは違う。
自分たちの住む世界が幻と同価値だと、いままで考えたことはなかった。それはきっと正しいのだ。生まれた時から亜空間の中で作られた世界にいた。そこで暮らすことが当たり前だったのだ。|形而上《けいじじょう》的な皮肉に用いることがあったとしても、それを美感として身に備えた者がいるはずもなかった。アイレインも持っていなかった。
そしておそらく現在、それを感じることができる者はアイレイン一人なのだろう。
少なくとも、誰もいない荒野を熱々と進むというのは、そういう気分にさせるのにこれ以上ない舞台ではあった。
皮肉を口にする元気すらもなく、空腹に痛む胃といまにも力が抜けそうな足を従えて、アイレインは先の見えない荒野を進んだ。もはや肉体でまともに知覚できるのはこれだけしかなかった。眼球と胃と足。異民の超常能力など、こんな場所では役に立たない。孤独の中で、アイレインはただの人間でしかなかった。喉《のど》の奥は焼けつくように渇いていた。声帯を震わせれば血を吐くのではないかと思えた。それでも水を飲むのをこらえる。残りは少ない。ぎりぎりまで飲むのを控えなければ。
太陽が焼けるような暑さをもたらしていないことだけが救いだった。この大地は太陽の熱に焼かれた結果ではなく、ただ水がなく、水を蓄える素地がなく、それを助ける植物が存在しないからだった。だが、暑くなくとも、陽光を遮る雲がない。大腸の熱は体に堆積《たいせさ》し、肉体活動の熱がそれに加わっていく。地面からの幅射《ふくしゃ》熱もあった。|顎《あご》先から落ちた汗が地面に黒い点を打つ。それは瞬く間に吸収され、跡形もなく消え去った。
人が生きるということに対してなんの良心も備えていない大地に、アイレインは手痛い目にあわされていた。いままでのどんな敵よりも強大で、広大だった。異民の能力がすんでのところでアイレインの生を繋いでいることだけが認識できた。強大な支配者に屈した奴隷のように、アイレインは救いの見えない徒歩を続けるしかないように思えた。
いや、事実そうだろう。
サヤに辿り着かなければならない。首都本土へ入り、ナノセルロイドと戦い、妹と戦い、イグナシスと戦い、そしてサヤを救うのだ。そう考えていた。今もその気持ちが薄れたわけではない。亜空間の問題はエルミにまる投げすればいい。そんなことまで自分でなんとかできるはずがない。その方法も思いつかない。エルミがなにもする気がないのだとしたら、自分はサヤとどう生きるのかを考えるだけだ。
ただ、無辺に広がりをもっていそうな荒野という、先手の敵に敗北しようとしていた。
夜は恐ろしいほどに冷えた。熱を溜めこむものがどこにもないのだ。急激な温度の変化に、アイレインの体は震える。体のわずかな水分が凍りつきそうだった。すでに凍りかけて小さな氷片となったものが血管や肉を突きさしているかのように、微小な痛みが絶え間なく消えることがない。日中よりもより積極的にアイレインは動いていなくてはならなかった。
時折吹き抜ける風は、乾燥して違和感のある肌に鋭い痛みを与えていく。
気の休まる時など少しもない。
歩みを止める時が死ぬ時だとでもいうのか。
だが、限界はいつだって存在する。どれだけ先延ばしにしてごまかそうとしても、消費し続けているという事実は変わらない。満々と水をたたえた湖も、雨がなければいずれ気化して枯れ果てる。
足が止まった。筋肉がひきつる感覚すらなく、ただ重かった。踵を上げただけでなにもできなくなり、バランスを崩して倒れても、手を出して支えることすらできなかった。顔を打つ痛みすらも、靄の中のようにあいまいだった。
「うっ……」
呻きが喉に痛みを走らせる。口の中で血の味が広がる。血液中の水分すら惜しいと思ったが、胃は血を吸収できないという話をどこかで聞いたことを思い出し、口の端から零《こぼ》れるに任せた。どうでもいい記憶だった。血に混じる唾液《だえき》は違うだろうが、もはや飲み込む力すら残っているかどうかも怪しいのだ。
死ぬだろう。間違いなく。力及ばずという、まさに典型的な死に様のように思えたが、抗う力をすでに使い果たした以上、それ以外の死に様が許されるはずもなかった。涙すらも乾き切り、表情は乾燥していた。突き刺さるような地面の割れ目が目の前にある。
自分が死ねばサヤはどうなる?
心の奥底で、アイレインを叱咤する存在があった。それが自分の一側面のものだということはわかっている。だが、疲れ果てた心は、もう動かないという結論を揺るがさなかった。
「死ぬつもりか? アイレイン」
眼帯に隠れた右目に、狼面の男が映った。
答える気力はなかった。
「お前の残した様々なものを投げ出して死ぬつもりか?」
淡々と、狼面の男は問いかけてくる。
放っておいてくれと思った。サヤを助けるために動かねばならない。だが、サヤを助けるためには妹と戦わなくてはならない。妹に似たなにかを助けるために、妹そのものと戦わなくてはならない。どれだけ邪悪であろうとも、どれだけアイレインを|懊悩《おうのう》させようとも、妹は妹だ。愛すべき存在だ。それと戦わなければならない苦痛を、殺し会わなければならないという事実を、誰が和らげてくれるというのか。
ドミニオは死んだ。エルミのために。
では自分は、なんのためにいまここで死ぬのか?
囚われたサヤのために死んでやれず、怒り狂う妹のために死んでやれない。
惨めだ。
まるで妹を失った時の学生だった自分のように惨めだった。死と一縷《いちる》の望みをこめて絶界探査計画に参加し、そしてサヤを|見出《みいだ》したのが違い過去のように思えた。あるいは未来か。どちらにしても、絶望の味は昔のものとそう違いはなかった。
「だが、お前は死なない。どれだけ死ぬ目に遭おうとも死ぬことはない」
それでも、狼面の男は|喋《しゃべ》り続けた。
「なぜならばおれがいるからだ」
その時、狼面の男の、淡々としていた声に熱が入った。それは、狼面の向こうにあるディクセリオ・マスケインの声に違いなかった。
「忘れるな。時は紡がれた。絶えはしない。たとえお前がここで死んだとしでも、それは決して完全な死ではない。お前は死ねない。なぜならば、おれが存在しているからだ。無数の同胞が存在するからだ。お前の子たちだ。お前の運命に巻き込まれた哀れな迷子どもだ。おれたちが現れるその時まで、お前が死ぬことは絶対にない」
ディックの言っていることは、まったく理解できなかった。自分の子? ばかばかしい。そんなもの、どこにもいない。この地上のどこにも、そんなものは存在していない。していたとしても、全て亜空間の崩壊に呑まれて消えた。
「忘れるな、ゼロ領域に時の流れは存在しない。千年の過去も、未来も、ここでは同一の存在だ。この領域に満ちる億万のお前の子たちがお前に力を貸す。お前は始まりにして終わりになる。終わりから始まりを作るために現れる。お前がどんな悪行を、どんな善行を積んだかも関係ない。そういう流れがすでに出来上がっているからだ」
なんだそれは。なんの冗談だ? 苦笑できていたらそうしていた。そして相手の脳を疑っただろう。今も疑っている。
自分はそんな大それたものではない。ただの愚か者でしかない。
「言ったぞ、そんなことは関係ない。お前には能力がある。ゼロ領域を生き抜いた能力だ。勝ちえたその力だ。それに価値がある。その価値はすでにはるか未来で実っている。お前という人格に価値があるかどうかはこれからだ。そしてそれがあるから、お前が死ぬことはない」
いっそ清々しいほどにはっきりとした物言いだった。なるほど、能力。しかし、この眼球と、強化兵まがいの運動能力にどれほど価値があるのか。
「それに価値がある。お前にとっての未来を生き抜くために必要な力だ。そして来る戦いのために必要な力だ」
その時、現実の耳がなにかを聞きつけた。だが、視界を動かすことはできなかった。体のどこにも力を入れられなかったからだ。
「そら、やはりお前は死なない」
昔の正体が次第に明らかになった。羽音だ。巨大な現が空気を打っ音だ。周囲で風が巻き、アイレインの体をさらに冷やした。
音が生み出す風にすら、弱った体は耐えられなかった。
アイレインは静かに気を失った。
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†
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次に気がついた時、アイレインは温かさの中にいた。心地よい温《ぬく》もりは弱った体を優しく|労《いたわ》り、疲労を抜きとり、滋養を与えていた。アイレインは温室に紛れこんだ雑草の気分でその温もりに息を吐いた。
「悪かったわね。気がつかなくて」
エルミの声だった。アイレインの目はまだ開いていない。暗闘の中で聞く声で、ここは黒猫の額にある宝石の中かと思った。では、目を開けるのはいただけないかもしれない。ドミニオが彼女の研究室であるこの亜空間を語る時、その顔が常に青く、体は止まらない震えに冒されていたことを思い出したからだ。
頬に、濡《ぬ》れで冷たくざらざらとした感触が当たった。それが猫の舌だと気付いて、アイレインは重い|瞼《まぶた》を開けた。
黒猫がそこにいた。
親には宝石が輝いている。見覚えのある白い毛の傷跡。やはりそれは、エルミの黒猫だった。
「ここは?」
視界がぼやけて、うまく現状を掴めない。だが、周りが白っぽいなにかに覆われていることだけはわかった。上に透明な袋がつり下げられていた。なにか書かれている。そこから伸びた管がアイレインの腕に刺さっていた。点滴だ。
「とりあえず、もう少し寝てなさい」
エルミの声以外に音はなにもなかった。
アイレインは重い腕に逆らえず、再び眠りについた。
次に目覚めた時には、疲労は影を残すのみとなっていた。
黒猫は丸くなっていた。エルミから話しかけてこない。また、なにかに没頭しているのだろうか。起き上がったアイレインは現状を確認した。クリーム色に近い物質でできた狭いドームのようなものの中にいた。出口はどこにもない。腕の点滴の管を外す。体のあちこちが痛んだ。刺すような、|痒《かゆ》みにも似たものだ。|些細《さ さい》なものだとアイレインは無視することにした。
「で、ここはどこだ?」
アイレインは口に出して自問した。もしかしたらエルミが答えてくれるかもしれないと思ったが、黒猫からの返事はなかった。立ち上がるのにも苦労しそうな狭い空間で、居心地の悪さは特上だ。
「起きたか、アイレイン・ガーフィート」
どこからともなく、その声は聞こえてきた。
「誰だ?」
「クラウドセル・分離マザーW・ハルペー」
「クラウドセル?」
名前に聞き覚えがある気がした。いや、どちらにしろ、レヴァの仲間だろう。
「ナノセルロイドとは違うのか?」
「進化型だ」
予想は当たった。勘というほどでもない。こんな状況で自分に関わるような連中は、もう限られているだけという話でしかなかった。
ではこの、肌を刺激する痒みに似たものはアイレインの体から発せられたオーロラ粒子に周囲のナノマシンが反応しているからなのだろうか。
「なんのつもりだ?おれを取りこんで、燃料タンクにでもするつもりか?」
「なるほど、それは良い考えかもしれない」
「革新的だろう?」
「だが、お前が戦えばそれだけでわたしのエネルギーとなる。わざわざ腹に貯めておく必要はないな」
「はっ」
もしかしたら、冗談を言ったつもりなのかもしれない。アイレインは首を傾げた。レヴァとはずいぶんと違う。
「それで、イグナシスの命令か? おれを捕まえて来いって」
体を確かめる。十分に動きそうだ。懐を確かめる。エルミ謹製のオーロラ粒子制御剤である煙草もある。サヤの武器がないのが辛いが、戦うには十分だ。
「わたしは、イグナシスに反乱した」
ハルペーは、端的に事実を伝えてきた。
「なんだと?」
「あれはもはや人類の敵だ。わたしはわたしの使命としてイグナシスと敵対する」
「ご大層だな。それで、どうしておれを?」
「依然として異民がわたしの処理すべき存在であることに変わりはない」
ハルペーはそう前置きした。
「だが、現状でイグナシスと戦うにはお前の戦力は必要でもある」
「休戦しようってか?」
「そういうことだ。イグナシスを処理すれば、次はお前だ」
「都合のいいことだ」
わざわざそれを言ってしまうところが、機械人形の限界なのだろうか。あるいはハルペーの人格と受け取れるかもしれない。機械で設定された人格の方が信頼できるというのは悲しい話だが。
しかし、もはやこの世界にはまともな人間などいない。いないはずだ。
「イグナシスは、全ての亜空間を書き換えた」
ハルペーが告げた。それは、この絶縁空間という国境で区切られた一つの国、一つの世界が崩壊したことを示していた。
「首都本土の人間は隣の亜空間に移住させられた上でゼロ領域に消えた。生き残りがいるとしたら本土に潜伏している可能性のある政府軍だが、発見できなかった所を見ると他区画で再起を図ろうとして書き換えに巻き込まれたのだろう」
人類は滅んだのだ。ハルペーの言葉はそれを確認させるだけでしかなかった。まともな人間など残っていない。アイレインにエルミにニルフィリアにイグナシス。
「サヤはどうした?」
「『茨姫』なら、アルケミストの実験区画で拘置されているはずだ。あそこにも人間はいない」
そしてサヤ。あとはレヴァたちナノセルロイドと、クラウドセルとかに変名したハルペーだけ。
人間など、どこにもいない。
予想していたことだが、この無機物に淡々と事実を語られると重いものが胃を締め付けるような気分になった。
「それで、どうする気だ?」
気分をむりやりに切り替え、尋ねた。
「お前の体調が万全なら、すぐにでも首都本土に乗り込む」
「勝算はあるのか?」
「戦力差が覆ったわけではない。だが現状、これ以上の増強は望めない」
それもまた事実だ。どこにアイレインたちに味方してくれる者がいるというのか?
「お前と同下しように他のナノセルロイドが裏切る可能性は?」
「期待しでも意味はない。わたしは、わたしが裏切るにいたった情報を全て彼らに開示した。だが、彼らは動かなかった。他の二人はわからないが、レヴァンティンは姿に囚われている」
「……詩人だな」
姿に囚われている。ハルペーの言葉に、アイレインはひどく納得してしまった。完璧なジャニスとなるためにゼロ領域へと入ったレヴァンティンのことを思い出した。それは機械ゆえの純粋さのように、アイレインには思えた。不純物がないのだ。心が外見に変化を与えるのだと、ついに気付けなかったのかもしれない。だからこそ、ソーホの姿をしたイグナシスに逆らえないのだろう。
他の二体のナノセルロイドのことはわからない。推測しようにも、ほとんどなにも知らないのだから。ハルペーの判断を信じるしかないだろう。
「ま、やるしかないのならやるだけだな」
「そういうことだ。アイレイン・ガーフィート」
「面倒な、おれはハルペーと呼ぶぞ」
堅苦しい呼び方にアイレインは顔をしかめた。名前を呼ぶたびにクラウドセル・分離マザーW・ハルペーなどと呼んでいられない。
「了解した、アイレイン」
ハルペーは素直に応じた。
「さて、そうなると武器が必要になるな」
「ああ、用意したわよ」
答えたのはエルミだ。黒猫がのそのそと起き出して、アイレインの|膝《ひざ》の上に移動した。
「聞いてたのか?」
「寝てたわけじゃないわよ。ただ、色々と用意していただけ」
エルミの声の後、額の宝石が光った。次の瞬間、アイレインの太ももの上に、長いものが乗った。
それは合成皮革の|鞘《さや》に収まった剣だった。
「これはまた、古典的だ」
長さは、柄も含めてアイレインの腕ほどだ。抜き出すと片刃の黒い刀身が露《あらわ》になる。長いナイフといった感じだ。
「試し切りとか、ここではやめておいた方がいいわよ。その金属はナノマシンでできているから。好物はナノマシン。自分に属さないナノマシンの情報を強制的に書き換えて機能停止させる。ただそれだけの単一機能品よ」
「そいつは強力だ」
そんなものがあるなら、もつと早く用意しておいてくれとアイレインは思った。これがあれば、レヴァンティンとの戦いはもっと楽になっていたのではないか。
「ナノマシンの暴走なんて当然の想定でしょ。それ位の対抗手段は用意しておくものだわ。ただ、それはある程度の集団でいないと効果がないから、ナイフ状から変化することはないから」
「つまり、ぶった切らないとだめだと?」
「そういうこと」
アイレインは黒い刀身を眺め、その重さを確かめてから鞘に収めた。
「名付けるなら『|同族喰い《イーター》』ね。どう、伝説の戦いっぽくない?」
エルミの声には彼女に馴染みの皮肉げなものが戻っていた。ドミニオの死から立ち直ったのか。用意が整ったと言った。つまり復警のための準備が終わり、それを使う時が近づいていることに昂揚《こうよう》しているためか。
「伝える人間がいないんじゃ、話にもならんね」
「もしかしたら、いるかもしれないわよ」
それは、エルミには似つかわしくない希望的観測だったのか。そうではなく、なにか確信を秘めたものだったのか。ただ、どこか居心地を悪くさせる声だった。眼帯の奥、右目で見えるディックのことが頭に浮かび、意識的に消した。結局、言葉としてはなにも言わず、鞘に収めたナイフをベルトに絡め、ハルペーに問いかけた。
「首都にはいつ|辿《たど》り着く?」
「二十四時間後には」
丸一日か。
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黒穴にて ♯02
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またも、気づけばここにいた。
「動きだしたか」
そしてまた、狼面の男がそこにいた。
「お前は……誰だ」
子。その言葉が頭に張り付いて離れない。荒野に倒れたアイレインに、仮面の男はそう言った。ゼロ領域に満ちる億万の、アイレインの子供たち。
目の前の男は、ディクセリオ・マスケイン、そのはずだ。どことも知れない、あるいは未来かもしれない場所で出会った赤髪の青年。それに違いないはずだ。
だがどうだろう? アイレインはその青年についてどれほど知っていたか? ほとんど知らないに等しい。ならば目の前の男がディクセリオ・マスケィンであるのかどうか、なにを基準にして確信を抱けばいいのか。
「おれが誰かなど、たいした問題ではない」
狼面の男はそう言った。
「望むなら、別の姿になる」
次の瞬間、目の前の男が変化した。仮面は変わらない。だが、その仮面を被った人物は変化した。背が縮み、体に女性的な丸みが生まれた。服装も変わり、女学生のそれになった。赤い髪が短くなり、金色に変化した。
声も変わる。凛とした力強いものに。
「わたしたちはお前に続くものだ。お前から始まった者たちだ」
そしてまた変わる。もとの、赤髪の青年に。
「これから始まる者たちだ」
「おれは、なにも始めていない」
どう受け止めていいのかもわからない。アイレインにはなにかを始のた覚えはなかった。億万の子に覚えはない。そんな、節操のないことをした記憶はない。
「誰もがその気になってなにかを始めるわけではない。因果というものはなにかをきっかけに勝手に動き出すものだ。本人のその気など関係ない。なにかをすれば、なにかが起こる。転がり始めた玉は、なにかにぶつかり、砕け散るまで止まらない。いや、砕け散ったとしても、その欠片からなにかが始まる。お前自身もそのようにして始まったのだ。おれたちもアイレインという玉から始まったなにかだ」
「それに納得しろと」
「納得するかどうかは関係ない。このまま、お前が望むままに行動すれば、その通りになる」
「おれのやることの全てが、もう決められていると?」
「おれたちがいるということがその証拠。だが、未来が不確定であることも確か。おれたちは、おれたちの未来を知らない。それはつまり、お前の未来もまたおれたちの知るものとは違うものになるかもしれないということでもある。そうであるなら、おれたちはおれたちの存在が消えるという事実の代償に、おれたちの苦しみから抜け出せるということでもある」
「苦しみ?」
「生きていることには苦楽が伴う。それらは離れ難い。そうだろう?」
「そうかも、しれないが……」
「お前がやることはもう決まっている。それも間違いないだろう?」
サヤを救う。
絶界探査計画で出会った正体不明の少女。自分の妄念が生み出したのかと悩んだ時期もあった。いまも、それが完全に拭《ぬぐ》えたわけではない。エルミに否定されたとしでも、あの、妹と生き写しのような姿がなんの関係もないとは思えない。しかし、それからの数年間、たとえろくでもない連中に関わったろくでもない日々だったとしても、サヤの存在がアイレインを癒《いや》してくれたのは確かだ。妹では決して与えてくれないものを、サヤはアイレインに与えてくれたのだ。
それを見捨てることはできない。たとえその行動が、この狼面の男の言葉通り、逃れられない未来を生み出すのだとしても。
「そうだ」
「なら、おれたちは存在し、おれたちの苦しみも消えることはない。だが、それは同じく、おれたちが生きていることの喜びも消えないということ。気負うことはない。気にすることはない。お前はお前ができることしかできない」
「なんだそれは?」
もしかして、慰められているのか?
だとしたら、なんとも笑えることではないか。
未来の誰かに、ここにはいない誰かに、自分は同情されてでもいるというのだろうか?
それほどまで、自分は惨めな生き方をしているということか?
確かにその通りかもしれない。
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03 二匹の蛇
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最低な気分で目が覚めた。
クリーム色のドームからでは外の変化はわからない。
「どれぐらい経った?」
「後一時間というところだ」
ハルペーからの返事が届く。黒猫はアイレインの腹の上で丸くなっていた。上半身を起こすと迷惑そうな顔をして動き、足のそばで再び丸くなる。
「なにか変化はあるか?」
「こちらに都合のいい動きが一つ」
「へぇ」
「異獣たちも首都本土に向かっている」
「生き残っていたのか?」
「そのようだ。お前たちと同じように」
その言葉に混じった嫌悪を無視して、アイレインは質問をした。機械が嫌悪を表に出していることに、もはや驚く気にはなれなかった。
「奴ら、本土に向かってどうする気だ?」
「人間を探しているのだろう。自律機能を奴らは持っていなかった。動物の脳を利用することでなんとかそれを維持している状態だ。神経組織を維持する方法をまだ知らないのだ」
「お前が教えてやったらどうなる?」
ハルペーはその質問にどういう意味があるのか考えていたのかもしれない。あるいは、それをしたらどうなるかを推測していたのか、返答にはやや間があった。
「クラウドセルでそれを代替させることは可能だ。だが、不完全ながらもすでに自律組織が組み上がっている。クラウドセルがそれと入れ替わるのなら、拒否反応があるだろう」
「このまま、第三勢力として好きにやらせておくのがいいと思うか?」
「どちらとも言い難い。取りこむことに成功したとしても、わたしへの対抗手段ができていた場合、あれらの戦力も一度に駆逐されることになる」
「得策じゃないな」
「それに、必要な戦力は現在も各地に増産中だ。我々が首都本土に辿り着いた時には、あれらに匹敵する量がすでに揃っている」
「好きにやらせていた方がいいってことか」
ハルペーからの返事はない。外の景色を見せるつもりはないのか、あるいは密閉空間に押し込められた人間の心理を知らないのか、どちらとも知れないが、見たからといって心楽しくなる光景があるとも思えない。荒れはてた大地の中にポツンと浮かぶ無人の首都。この世界においては最古の都市だが、こんな状況では見物できることなどないだろうし、そんな気分にもなれそうにない。
「本土に辿り着いたら、おれは研究区画とやらに向かうぞ」
「それでいい。存分に陽動してくれ」
ハルペーの声は、あくまでも素っ気ないものだった。
一時間が過ぎる。
「首都だ」
ハルペーが短く告げると、クリーム色のドームの前方に穴が聞いた。強い風が吹き込み、砂と水滴が顔を打った。
黄ばんだ空は雲に覆われていた。砂がこんな上空にまで巻き上げられているのだ。
ハルペーは雲を泳ぐように進んでいた。気圧の変化に耳が痛くなった。この無機物なりに、中にいた生物の保護をしていてくれたのだろう。自動的なものだったのかもしれないが。
雲の隙間から、人工の光がぱっぱっと灯っているのが見えた。それは暗闇の中で都市の輪郭をおぼろげに浮き上がらせる。
首都は広大だった。だが、その広大さほどの都市でも同じことだ。こんな高い場所から落ち着いて見下ろすという行為は初めての経験だが、心躍ることはなかった。
そこで、アイレインはふと思い出した。
「月は、あるのか?」
ハルペーは黙って、ドームの上方を開いた。そこには円形でくりぬかれた夜空があった。上部はハルペーの分厚い肉体のために、まるで煙突から見上げるような形になってしまっている。
だが、月は見えた。首都の空にしか浮かばない、この地球の外側に浮かぶ衛星の姿がアイレインの目に飛び込んだ。地平線の向こうに移動した太陽の光を受けて、半欠けの月は淡く輝いている。月の表面にある無数のクレーターを見ることができた。
ここは、本物の大地なのだ。亜空間のような機械でできた幻の、飢えた人々を癒すために生まれた偽の大地ではない。人間が有をする前からそこに在り、多くの生命の生と死を見守ってきた大地なのだ。
そう考えてみても、アイレインの心に高揚はなかった。ただ、これから始まる戦いに、いますぐにでも飛び出したいという焦りと、逃げ出したいと願う臆病な気持ちが奇妙に同居していた。こんなことは珍しくないが、ここまで完璧に勇気と|怯《おび》えが伯仲の勢力を持つのは初めてだった。戦えば実の妹と殺し会うことになる。逃げればサヤを見殺しにする。決めかねるのは当然のことなのかもしれない。
「アルケミストの研究区画は西にある。戦闘が始まれば、とにかく西に向かえ。そちら側に異獣の群れもいるが、お前ならばどうにでもなるだろう」
「ほどよい壁ができてるってことだな」
なんとか軽口を返し、アイレインは静かに空気を肺に落とした。高所の空気は冷たく、薄い。満たされた気分は訪れず、アイレインは首を振って、定まらない気分を無視することにした。
戦いになればそんな気分は吹き飛ばさなくてはならない。自分自身に対するショック療法のつもりだ。荒野で野垂れ死にしかけたことで、どこかに怯えが生まれたのだろう。戦いの緊張がそれを振り払ってくれるはずだ。
いや、いまだに選択できない自分を追い込もうとしているのか?
サヤを失わずにニルフィリアと和解する。その方法があればどんなにいいだろう。だが、それは不可能だろうと思う。妹は自分を唯一とするものを受け入れるだろう。こんな態度は彼女がもっとも忌むべきもののはずだ。
なにより、ニルフィリアを側に置いて、あの|呪縛《じゅばく》に再び捕らわれる自分を想像できてしまう以上、そんなあいまいな態度はアイレインとサヤの両方に不幸を呼ぶことになるに違いない。
そうだ。
なにより、自分はすでにニルフィリアを取り戻すという部分においては諦めているのではないか? ガルメダ市で再会した時に、アイレインはそれほど熱心に、彼女を取り戻そうとはしなかった。それどころか彼女を恐れ、それに服従しそうな自分に抗《あらが》ったではないか。
「見つかった」
ハルペーの告げた言葉が、アイレインを現実に呼び戻した。辛い現実へと。
「首都外部に潜伏させているクラウドセルを起動させる。アイレインはただちに降下、研究区画に向かえ。そこならば、オーロラ粒子がまだ存在する」
「わかった」
煙草を取り出し、アイレインはそれに火を点けた。高まる緊張に、体内の異民部分が活性化していくのがわかる。同時に腰の器官も活動を開始した。
だが、器官の動きを鈍く感じる。まるで迷いに反応しているかのような律動に、アイレインは顔をしかめた。
「いくぞ」
自分の背中を押すつもりで声を出す。だが、実際に背中を押したのは、肩に飛び乗ろうとした黒猫のささやかな衝撃だった。
足を支えるもののない不確かさ、そして激しい気流がアイレインを出迎えた。空中で手足を広げた彼は、叩きつけるような気流に乗り、あるいは頭から突っ込んで酉を目指した。気流の乗り方は我流のその場の思いつきだったが、それなりに成功しているようだった。
銜《くわ》えた煙草が激しく揺れる。だが、その火が消えることはなく、肺に流れる紫煙の味も変わることはない。この火は、アイレインの内から、異民部分からオーロラ粒子が|溢《あふ》れる限り消えることはない。
着地までの間に首都を抜けることはなかった。アイレインは勢いと角度で、大まかに自分の着地点を見定める。うまくすれば、そそり立つビル群の屋上に着地することになる。失敗すれば、壁に叩きつけられるだろう。肩にしがみついた黒猫を掴《つか》み、腹の上で抱く。大気を切り分けて、足を下に向けると着地体勢を取った。
うまく、ビルの屋上に着地することができた。衝撃が足を襲い、曲げた膝に痛みが走る。尻もちをつきそうになったのをこらえ、アイレインは立ち上がった。
立ち上がったと同時に、足もとがいきなり崩れた。
「ちっ!」
アイレインの足元で、ひび割れていたコンクリートがいきなり割れたのだ。落下の衝撃か?
それにしては崩れ出すのが遅く、またビルほどの大質韻のものが崩れ出すには、あまりにも静けさに満ちた崩壊の始まりだった。
まるでビルを形作るコンクリートが、砂にでも入れ替わったかのような、そんな崩れ方だった。
崩壊に呑み込まれる前に跳ぶ。だが、力のほとんどは崩れる砂礫《されき》に呑み込まれ、ただ宙に浮いたようなものになった。
落下はすぐに訪れる。高高度からのものとくらべれば、それはささやかな落下だったが、それでも人間が死ぬには十分の高さと速度があった。しかし、アイレインの運動能力は落下の衝撃を、膝をわずかに曲げただけで受け止め、吸収した。
腕から黒猫が飛び出した。状況に混乱して逃げ出したのか。アイレインは追いかけようとして、しかしすぐに足を止めた。エルミにはエルミの考えがある。ここは首都だ。そしてイグナシスがいるのだ。
西に向かってひた走る。風を打つアイレインの疾走に、周囲のビルが次々と崩壊していく。普通の出来事ではない。周囲の建築物は、その全てが何か大事なものを奪われて、存在意義を書き換えられていた。
ビルを形作る建材から、ナノマシンへと。
「向こうも無茶をやる」
走りながら、アイレインは舌打ちした。ナノセルロイドたちにこの都市の形を維持する気はないようだ。左右と背後で、白い微粒子の大群が大波のようにうねり、アイレインを呑み込もうと迫って来ている。アイレインは走るしかない。エルミに渡されたアンチナノマシンのナイフでは、それこそプールにマッチの火を落とすようなものでしかない。ナノセルロイドの本体と戦うには効果的だろうが、その配下である群体ども相手では、あまり効果はなさそうだ。
それにここは首都本土。亜空間ではない以上、ゼロ領域も存在しない。オーロラ粒子など、アイレインの体から発散されるものだけだ。それだけで、ここにある全てのナノマシンを供給過多に追い込むのは不可能だろう。
大波の追う速度とアイレインの疾走。互角にも見え、ややアイレインが勝っているようにも思える。しかし、行く先にはまだ無数のビルがあり、それらもナノマシンの大波に変化しようとしていた。
呑《の》みこまれるのは時間の問題に違いない。
アイレインは腰のサイフを抜き出し、その黒い刀身を外気に晒した。頼りなさげな武器だが、いまはこれに頼るしかない。それに、ナノセルロイドたちも、まさかこの大波だけでアイレインを殺せるとは思っていないだろう。
もう一つ、どちらにとっても災厄であるものがやってくる。
それは|轟音《ごうおん》とともに南の空から現れた。血のような赤黒い体表は、生命を取り込もうとして得た血肉の色なのだろう。空一面を覆う集団の全てがその色に染まっている。
異獣たちだ。
ハルペーと同じく、竜を思わせる体躯《たいく》で空を飛んでいる。長い首に支えられた頭部では、顎が大きく開き、どす黒い液体を吐きだしていた。ここに辿り着くまでに得た能力なのか、それは大気に触れると急速に燃焼を開始し、地面に辿り着く頃には巨大な炎の塊となって地面を焼いた。
吠え声がけたたましく合唱している。自分たちの体を維持するための生命がいないことに、恕り狂っているのだろう。いまは、ただひたすら動くものを求め、そしてアイレインとそれを取り巻く大波に目を向けていた。
一斉に急降下し、こちらに向かってくる。アイレインは跳躍し、先頭にいた一体の異獣の背に飛び乗った。大波が向きを変え、異獣ごとアイレインを呑み込もうとする。さらに跳び、別の異獣の背に移る。追いかけてくる波に、呑まれた異獣が抗う。波が乱れ、そこに白い海が現れた。海は荒れに荒れ、取り込んだ異獣たちは毒液を吐き、それが発火し、海を構成するナノマシンを焼き始める。
赤と白と黒。淀んだそれらの色が渾然《こんぜん》一体となる中、アイレインは異獣の背を伝って研究区画へと向かう。
異獣とナノセルロイドの衝突。首都に辿り着く前にハルペーが察知した情報は、こちらの望むとおりの展開となってくれたようだ。後はこれからどうなるか、だ。向こうはどうなっているのだろうか。三体のナノセルロイドのうち、何体をハルペーが引き受けているのか。このナノマシンの大波を引き連れているのは、何体のナノセルロイドなのか。異獣の背を次から次に跳びながら、アイレインはそのことを考えた。波は、異獣を呑み込もうと荒れ狂いながら、その欠片をいまもアイレインの足を掴むためにこ動かしている。右手に握ったナイフを使う誘惑に駆られながら、それを我慢して西へと向かう。波を払う程度で使っていたら、本体と戦う時には対抗手段が完成しているかもしれない。
白く荒れる波間に金色の光を見たのは、ビル群が終わろうという時だった。これを抜ければ、後は広い道路をひた走るだけとなっている。隣接区画へと通じる主要道路だ。終わりが近いことを示している。
金色の光は、広大なナノマシンの海の中ではささやかな光だった。だが、アイレインの目を奪って放さない。
やがてそれが、短い金髪であることがはっきりとわかった。人形めいた瞳がアイレインをとらえ、形の整った|鼻梁《びりょう》が次に現れる。線を引くように閉じられた紅い唇がそれに続き、肩が露になる。
「よう、レヴァ!」
やけ気味にアイレインはそう呼びかけた。レヴァンティンは白い海を滑るように移動し、アイレインと並走しながら、徐々にその体を表に現していった。
その足は走るために動いていなかった。波が彼女を運んでいるのだ。自らの支配下にある海は、彼女にとって陸以上に移動しやすい場所であるようだ。
「あなたを捕獲します」
「いまだにそんなことを言うかよ」
淡々としたレヴァンティンの言葉に、アイレインは苦笑した。イグナシスからなにか命令を受けたのかと思ったが、そうではない可能性が高そうだ。
「イグナシスの命令か?」
「サイレント・マジョリティー行動基準に従った、正当な行為です」
やはり、イグナシスの指示ではない。
それどころか、イグナシスの名を出したというのに、それを訂正しないとは。
「わかってるのか。ソーホじゃないんだぞ」
「わたしもジャニスではありません」
迷いのない返答に、アイレインはひきつった笑みが頬にしわを作ったのを自覚した。
「本物であるか、偽物であるか。この世界でそれは、本当に重要な問題なのでしょうか?」
「問題だから、今こうなっているんじゃないのかね」
アイレインは跳んだ。レヴァが、海面から足を離したのだ。素早い移動でアイレインに追いつき、腕を振るう。帯電した紫の光が、夜の闇を瞬きするように押しのけた。
「ならば、偽物であるわたしは存在が許されないのでしょうか? 敗北すべきだと? ナンセンスです。わたしは、わたしの存在のためにも彼に従い、そしてサイレント・マジョリティー規定に従い、あなたを捕獲します。抵抗するのなら、殺害も辞しません」
「けっこうだ」
一撃を避けても、レヴァはさらにアイレインに追いすがり、|拳《こぶし》を突きだし、足で薙《な》ぐ。その度に視界を紫の光が支配する。それらをかわし、アイレインは叫んだ。
「それなら、おれもおれの命のために戦うだけだ」
ハルペーが失敗した時点で、説得は無意味だろうとは思っていた。だがまさか、ここまではっきりとした言葉と意思でアイレインの問いに答えてくるとは思わなかった。もはや機械とは言えない。ソーホは最後に命ある機械を作ったのだ。
それを誇ることは、すでに死したソーホにはできないことだが。
アイレインはレヴァの攻撃を避け、しかし応戦はせず、ひたすら移動に神経を費やした。異獣がいるとしても、足下にはナノマシンの海がある。ここはまだレヴァの有利な状況だ。海と異獣の喰らい合いは、見たところ互角に推移しているようだが、アイレインの体からオーロラ粒子が大量に放たれた場合、そのバランスがどちらに傾くのかわかったものではない。結果、右目も使えないまま、アイレインはひたすら逃げの一手を打ち続けた。
「おとなしくサヤを引き渡せば、もうお前たちにかかわらないと言ったら?」
試しにそう問いかけてみた。
「ありえません。異民たちを根絶することが、わたしたちに課せられた使命」
「ニルフィリアは無視してるんだろうが」
目の前を行き過ぎていった手刀に首筋を冷たくしながら、アイレインは言い返した。
「マスターと協力関係にあります。規定除外対象です」
「そうかいっ!」
再び跳躍。レヴァが追いかけてくる。
何度も空中で激しくやり合う。避けされないものは腕で受けた。電撃の痺《しび》れは全身を貫くように走るが、気絶するには至らない。動きにも支障が出ていない。まるで神経や筋肉が、電気信号によって動いていないかのように無視できる。自身の身体能力が上がったためなのか、あるいは肉体の活動方法そのものに異変が起きているのか。レヴァの方にも不審があるようだ。とどめを想定した大ぶりを何度もし、それをアイレインが余裕で避けるという場面が連続した。
それでも、レヴァの手刀や蹴りを受けた部分が|火傷《やけど》のようになり、しつこい痛みがじわじわと神経を圧迫する。
レヴァの果断な攻めにも、アイレインは動きを止めず、西に向かいながら対応する。もう、彼女はなにも問いかけてこない。アイレインを倒すことに集中し、その長い手足を縦横無尽に振り回す。人間の関節の限界を無視した動きはこちらの予想を効果的に裏切り、跳躍を無為に帰し、地上へと、ナノマシンの白い海へと突き落とそうとする。
|鞭《むち》のようにしなる|暴挙《ぼうきょ》を顔面に受け、アイレインは落下した。電光の火花が視界に残光を焼きつけさせ、一時的になにも見えなくなる。
落ちながら、アイレインはなにかを掴もうと手を伸ばし、なにか太いものを握りしめた。熱を持ったなにかはアイレインの手を焼く。異獣の角だ。焼かれる感触で反射的に放しそうになったが、すぐに握り直し、異獣の背に飛び乗った。
レヴァはすぐ側に来ている。アイレインの回復力はすでに左目に普通の光景を映し出していた。嵐のように荒れ狂う白い海、その中で暴れ狂う異獣。吐き出された毒液が炎を上げ、黒い煙があちこちから立ち昇っている。
均整の取れた肢体が落下してくる。アイレインは別の異獣に跳び移った。レヴァの蹴りは異獣の胴体に穴を開け、突きぬけ、白い水柱を上げる。長い首をのけぞらしで沈んでいく異獣のすぐ側に新たな水柱が立ち、レヴァがそこから飛び出した。
アイレインを追ってくる。だが、すでに首都の外れは見えていた。いまだ無事な道路標識。果てまで続きそうな高い鉄柵《てつさく》に『関係者以外立ち入り禁止』の文字が刻まれている。音色と黒の警告色がそこら中に塗りたくられたその場所に向かって、アイレインは速度を上げた。
なりふり構わない疾走に、背後のレヴァからの圧迫感も増す。雷撃が放たれる。レヴァ本体からだけではなく、白い海から、ナノマシンの全てが発生装置に変化したかのごとく、雷の舌が伸びる。危険を察知して、アイレインは跳んだ。異獣たちの絶叫が天を轟《とどろ》かせていた。鉄柵まであと少しだった。細く伸びた赤紫色の舌が足首に絡み付く。それは瞬時に太さを増し、アイレインの全身を雷撃で激しく揺さぶる。舌が膨らみ口腔に衝撃が充満した。視界が激しく明滅し、暗転する。全身の筋肉が反り返り、骨が悲鳴を上げる。
なにもわからない。ただ体の表面とその裏側、内臓の表裏と全てが膨張しているかのようだ。
冗談じゃない。
こんなところで止まりたいわけじゃない。そんなことのために荒野で野垂れ死にしかけたわけではない。絶界探査計画に参加したわけじゃない。サヤと出会ったわけじゃない。
そう考えた瞬間、右目に違和感が走った。
右目を中心に雷撃の膨張するような痛みを押しのけて、なにか冷たいものが広がっていく。
まず、視覚が復活した。次に舌が。右目を中心に体の自由が戻っていく。雷の痛みはいまだにある。肌の目に見える部分でそこかしこに火ぶくれが生まれて弾《はじ》ける。細胞が沸騰していた。だが、それが肉体の自由を奪うことにはならない。
体が動く。
自分の肉体を、いままでとは違うものが循環しているのがはっきりと感じられた。それが雷の影響を受けなくさせている。肉体の崩壊は続いているが、体は動かせる。ついさっき、冗談のように自分の体が電気的刺激によって動いているわけではないと思ったが、それが現実に、より完璧にそうなったように思えた。
いや、思えたのではない。おそらくは、現実にそうなったのだ。では、その代わりとはなにか? オーロラ粒子だ。それ以外になにがある。思念に反応するオーロラ粒子が電気信号に取って代わったのだ。
それはつまり、もはや自分には人間としての部分など欠片も残されていないということだろう。
高電圧による肉体の沸騰は続いている。
しかし、それに勝る回復力が、肉体を修復している。
細胞の一つ一つが沸騰する度に、そしでそこに新たな細胞が取って代わるごとに、自分の中の変化が完成に近づいているようだった。
人間という概念から遠のいているようだった。
完全に、完璧に、人間と決別しようとしているかのようだった。
それを悲劇と感じる感性は、もはや摩耗していた。ただ、一抹の寂しさだけは拭えない。妹を失った時に、それがゼロ領域に呑まれたのだと知った時、異民問題を知った時、アイレインは自分が人間でいる必要をすでに失っていた。人間でいるままでは妹と再会できないことを知っていた。ゼロ領域は生命の形をそのままにしておいてくれないことを、理屈ではなく肌感覚で知っていた。
それがアイレインにとっての現在の始まりであり、行きつくべき結末はすでに目の前にあるように思えた。
全てがゼロ領域という原初の混沌に還るのだ。それが再び創造の始まりになるのかどうかは知らない。だが、自然物のほぼ全てが死後大地に溶けていくように、世界が死ねば、そこへと還っていくことになるのだろう。
ゼロ領域が真正の混沌であるのなら。世界の、宇宙の創造の本当の源であるのなら。
そうでなければ?
知ったことではない……か。
雷撃は今も放たれている。レヴァから、ナノマシンの海から。だが、高電圧の雷撃は、ナノマシンたちにとっても負担であるようだ。周囲の風景が|歪《ゆが》みだす。熱によって光の屈折率が変化しているのか、夜だというのにそこら中で景色が歪んで見えた。それは異獣たちの毒液の炎と自らの発電を光源としていた。だが、それだけか。ナノマシンそれ自体もまた異常発熱し、引火しているのかもしれない。
アイレインは、もはや自分の全力を出すまいという考えを放棄していた。そうしなければ全身の細胞という細胞が沸騰して溶けて、あるいは炭化してなくなっていたことだろう。
それに、もうアルケミスト研究区画はすぐそこなのだ。
眼帯もすでに焼け落ちていた。
右目が露になっていた。|茨《いばら》輪の十字が刻まれた瞳が。
感じるのだ。
肉体の変化に伴うものなのか。
はたまた、狼面の男と語ることによって、自ら意識したことで深奥に潜んでいたものが表に現れようとしているのか。
あるいはレヴァの雷撃によって細胞の一つ残らず、なにもかもが取って代わったために、アイレインのこの眼球うもなにかの変化が起こっているのか。
感じるのだ。
封を解かれた右目から膨大なオーロラ粒子が溢れだしているのを。
腰の、エルミに植え付けられた器官はそれでも暴走することなく活動している。いや、これもまた、完全に細胞が入れ替わることによって、より完璧にアイレインの肉体に適合し、この肉体を十全に運用させるための働きを手に入れていた。煙草に頼る必要もなく、完全なバランスを保ってアイレインの内部でエネルギーを生み出している。
この物質世界で戦うための力となっている。
エネルギーは背骨を伝い、全身に|伝播《でんぱ》している。腕から、足から、おそらくは頭から手足の指の先に至るまで青い光に包まれていた。生み出されたエネルギーが肉体内部の強化にとどまらず、外部へと溢れ出しているのだ。
アイレインは雷撃の痛みが和らぐのを感じた。
レヴァが加減をしたわけではなく、ナノマシンの海がその力を減衰させたわけでもないだろう。表面がどれだけ沸騰したようになっていようとも、その質量は膨大だ。
体外に溢れる、この青い光が雷撃を押しのけようとしているに違いない。
物理法則として、これは説明できるものなのかどうか、アイレインにはわからない。いや、そんなもので説明する必要があるのか。器官によってエネルギーに変換されているとはいえ、元はオーロラ粒子だ。想念に反応し、現実にはありえない変化を起こすものだ。この青い光もまた、そういう類のものなのだろう。
押しのけるという意思をこめてみると、光はより力強く雷撃の太い光を押しのけた。だが、現実で現象が結実する以上、物理的な力の上下からは逃れられない。完全に消しさることができないのはそのためだろう。
レヴァを見る。もう、彼女の顔がジャニスと被ることはなかった。彼女は気付いているのだろうか。感情がないように見えるその表情に、なにかの影がちらついている。それは驚きなのか、怒りなのか、戸惑いなのか、悲しみなのか、そこまでははっきりとしていない。だが確かに、そこにはなにか、感情の片鱗《へんりん》らしきものがうかがえる。機械であるはずの彼女に、人間らしいものが宿ろうとしているのだ。
それは、クラヴェナル市でゼロ領域に入った時からの変化なのだろうか。オーロラ粒子が、機械である彼女に何らかの変化を促したのか。あるいは人の手によって組まれた自律思考のプロクラムが自己進化を繰り返した結果なのか。ハルペーが反逆したことを考えると後者なのかもしれない。ソーホの組んだ自律思考プロプラムは、人間のそれと同一のものを生み出そうとしているのだ。
そして、そのためにレヴァはイグナシスから離れられないのか。彼が、ソーホの姿をしているから。
つまりそれは、ソーホを愛していたということなのだろうか。完全に人となっていない彼女は、そのためにソーホの姿に囚われているということか。
「くそっ!……」
ニルフィリア……サヤ……愛する者の姿をした誰かを、どうして見捨てることができる。絶界探査計画の後、サヤを救うためにソーホたちを裏切った自分を思い出して、アイレインはレヴァに背を見せて走った。
鉄柵をくぐるのだ。
その向こう、アルケミストの研究区画へと辿り着くのだ。
レヴァが諦めずに追ってくる。しかしアイレインはもう、彼女にはかまわなかった。放たれる雷撃は青い光が防いでくれた。もう、この疾走を止めるものはなにもなかった。ナノマシンの海から放たれる雷の嵐は鉄柵にも襲いかかり、その熱量によって融解を始めていた。金網からは滴が垂れ、太いパイプは重力に従って、飴《あめ》のように曲がっていた。
アイレインは、それを飛び越えるために高く跳んだ。
その向こうには、整地され、かなりの間を空けて点在するいくつかの施設の姿があった。この中のどれかにサヤが、そしてニルフィリアがいるに違いない。イグナシスはどうか。首都にいたのか、こちらにいたのか。
サヤは無事か。
ナノマシンの海は、こちらにまでは広がっていなかった。ひどく懐かしい気持ちで、固い大地の感触を足の製に感じた。
しらみつぶしに捜すしかないのか……アイレインは間近にある建物に向かって走り出した。
そして、突如として現れた深淵の黒にアイレインたちは呑みこまれた。
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†
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その時、黒猫は首都本土で唯一平穏を保った場所にいた。
政府首相官邸。人気のない廊下を黒猫は進んでいる。廊下は冷たく、爪を立てる隙もないほどに磨かれていて、動物が歩くには向いていない。
それでも黒猫は静かに廊下を進み、器用にエレベーターを使い、目的の場所に辿り着いた。黒猫の歩みを妨げる者はどこにもなかった。守護者であるナノセルロイドたちはアイレインやハルペーの対応に追われている。厚い壁の向こうから騒々しい戦いの音が轟いていたが、それは建物の壁に長く反響することなく、吸いこまれるように消えていった。
行く手を遮る扉は全て開かれていた。彼の目的を遮る者が、この都市には誰もいなくなったからだ。この都市にはまともな人間が誰もいない証拠だった。全て、イグナシスとナノセルロイドによって殺され、あるいは亜空間に強制移住させられ、ゼロ領域へと叩き落とされていた。
生者のいない平穏になにか意味があるのか? 少なくとも、生きている人間にとって。
黒猫の中で、エルミは意味のないその考えを弄んだ。結論は、意味はない、だ。だが、意味のないことを達成させることに快楽を覚えるのが、自分たちだった。永久機関を作ってみよう。そこになんの意味があるのか考えずに、そんなものの研究に没頭していた。世が宇宙開発による新天地創造に向けて、人類を挙げての最大限の努力をしていた最中、エルミやイグナシスたちはそれらに背を向けて、そんな研究をしていたのだ。人口爆発による深刻な食梅危機に、まるで関心を示さなかった。手に入れられる食事がまずくなっていたり、少なくなっていることにすらろくに気付いていなかった。気付いていても、誰もそのことを指摘しなかった。それだけ熱中していたのだ。
そして宇宙への開拓に失敗した人類が戦争に入った後も、彼らは場所を転々としながら研究を続け、そして完成した。
ゼロ領域。それは、エルミたちでさえ二度と解けない数式に従って作られた、一つの様式だった。一つの運動が起こすささやかなエネルギーを受けで、他のものがよりささやかな運動をする。
それを繰り返す。だが、なぜかそれは、一度動き出すと止まることがない。外部から何らかのエネルギーを補給しているわけではない。それはその箱の中に収められた大小様々な歯車や、奇怪な形をしたバネの組み合わせ、ただそれだけで動いていた。永久機関の完成だった。
だがそれは、世界にあるどんなエネルギーとも代替ができなかった。車のエンジンを動かすことができなかった。飛行機を飛ばすことができなかった。ミサイルの燃料になることもなかった。電気を起こすこともなかった。時計にすらなり得なかった。そこに存在する運動はあまりにもささやか過ぎて、そんなことが可能だとは誰にも思えなかった。それは、現実の人類の生活になんの寄与もできない、意味のない発明だった。
だがそれでも、彼らはそれで一つの満足を得ていた。この箱は永遠に動き続ける。その事実だけで満足だった。自分たちは一つの発見をした。その発見が有効に利用できるのなら、それは、それを考え付く誰かに任せればいいのだ。
「祝杯をあげたいね」
誰かがそう言った。誰だったろうか。エルミは思い出せない。L字形バネの応力の強さについて、彼と一ヶ月にわたって激論を交わしたことだけは覚えているのだが、その記憶の中に彼の名前はなかった。顔の造作もよく覚えていない。背は小さかった気がする。痩《や》せていたような気もする。いや、太っていただろうか。
とにかく、彼がそう言い。エルミたちはコップに水を注いだ。酒なんて、手に入れられるものではなかった。アルコールの原料は発酵させる前に人の口に入っていたような時代だった。
薄汚いテーブルには一つの大皿があり、そこには味気のないクッキーが人数分並んでいるだけだった。その当時はそれで精一杯だった。彼らは水で乾杯をし、ゆっくりと、噛みしめてクッキーを食べた。
「一段落つくと人並みの物欲が出るね。ワインを飲みたいよ」
彼がそう言った。腹の奥から絞るような声だった。エルミが生まれた時から、すでに資源不足は深刻化しており、ワインなんで庶民の飲めるものではなかった。彼は裕福な家の出だったのかもしれない。ワインの味を知っていたのだから。
彼がひとしきり、ワインの味について語り終えた時、エルミたちの飲む水に徐々に変化が訪れた。満足な浄化すらされてなく、コップを覗《のぞ》きこめば小さな塵のようなものが見え隠れしていた水の味が変化した。その色が変化した。においが変化した。
エルミたちがその変化に気付いた時には、芳醇《ほうじゅん》な香りが汗臭い研究室に充ち溢れていた。
「ワインだ」
彼がそう|呟《つぶや》いた。全員が、彼の知る最上のワインの味を舌で感じることとなった。
「なんだこれは、なにがどうなっている?」
場が騒然となった。だが彼だけは、ワインの味に満足し、快哉を叫び、蛇口をひねって新たな水を求めた。蛇口から濃い赤の液体が溢れだし、コップを満たした。彼はそれを当然のように飲み干した。
彼だけは、その変化に疑問を抱かなかった。
いま思えば、だからこそ彼は消えることなくその後の研究に参加できたのだろう。一つの達成の後の脱力で、彼は心底、ワインを求めていたのだ。それが純粋な気持ちだったからこそ、彼の望みは完成され、崩壊することがなかったに違いない。
やがてそれが、エルミたちの作った永久機関からこぼれ出す、未発見の粒子によるものだと判明した。明かりを消した時に、永久機関を収めた稀が七色が薄く散ったような発光をすることから、オーロラ粒子と名付けられた。
彼らの興味は、その粒子がなにものかを知ることに移った。
そしてその末に、亜空間発生装置が完成した。
黒猫は無人の通路を進み、開け放たれたままの扉をいくつも抜け、そこに辿り着いた。
自分たちが行ったことは偉業だと、エルミは少しも思っていなかった。少なくとも、人類に対して誇れるものだとは思っていなかった。一つの達成は満足を呼ぶし、それをけなされるのには腹が立つが、自分たちが人類の救い手であると自負したことは一度もない。
ただ、自分たちの作りあげたものの結果を観察し、その結果がどうなるかを眺め、そこで生まれた事象の原因を探ろうと思った。その時、彼女にとってはそれのみが最大の興味だった。嘘偽りなく、そう思っていた。だが、それを観察するためには長い時間がかかるだろうということだけは予想できていた。一個人の人生一つ分の長さでは足りないだろうことはわかっていた。だから、思ったのだ。長く生きたいと。
オーロラ粒子はそれをかなえた。人を超えた長寿を、あるいは不老を与えたのかもしれない。だが、人間の肉体は不老にはできていない。そのための、この姿だった。
亜空間発生装置の研究に携わったあのチームの全員がオーロラ粒子を浴び続けていた。おそらく、彼ら全員がなんらかのかたちで、エルミと同じような境遇となっているだろう。イグナシスと再会できたことが、その証拠だ。
では、彼らも絶縁空間の向こう側で、なんらかのことをしているかもしれない。イグナシスがなにかをしようとしているのと同じように。
あるいは、ゼロ領域に呑まれ、消えてしまったか。
「あなたは、他の連中に会いに行きたいの?」
「なんのために?」
黒猫の問いに、イグナシスは驚かなかった。
辿り着いた先は、亜空間発生装置が大量に保管された部屋だった。その全てが新しいものと入れ替わっている。あの荒野を生み出した装置に、だ。
「他の連中がなにをしてるのか、気にならない? 彼らがどんなことを考え付いたのか、とか」
「君のようにオーロラ粒子をエネルギーに変換させるようなことをかい? 興味がないわけではないが、目下のところ、わたしが知りたいのは別のところにあるよ。オーロラ粒子を変動させる人の意思というものは、本当のところなんなのか。オーロラ粒子は、まるで魔法のようだ。我々は、必要な段階をいくつか飛び越えて、偶然にこの粒子を手に入れてしまった。そのため、本当の使い方を知らないまま暴走してしまったような、そんな気がしてならない。だからこそ、世界を知るという根本的欲求よりもさらに以前に、人間を知らなくてはならないと考えた」
「それで、こんなことを?」
「そう。人は、純粋なオーロラ粒子の場であるゼロ領域の中でも生きていける。その形を変え、まさしく人の意思、魂と言い換えでもいいものだけとなってだがね。だが、それでも生きているんだよ」
「そうね。あなたが体験したことだものね」
「ああ、そうだ。あの体験はなかなかすばらしい。君も行ってみてはどうだい?」
「その時が来れば」
「そう遠くはないよ」
イグナシスは、かつてソーホであった男の顔で自信に満ちた笑みを浮かべた。
「なにをするつもりなのかしら?」
「わたしたちは本来、積極的観察者であったはずだ。永久機関の発明に成功した後、亜空間発生器を作るまでの間は、わずかに人格の歯車がずれてしまったような気がするがね。なにを狂ったのか、平和のためにあれを作ってしまった」
「それは、少なくともあの時のあなたには正義感というものがあった、ということではないの?」
あのチームのリーダーはイグナシスだった。勝手気ままに持論を展開するエルミたちの言葉をまとめ、考察し、採用するのはいつもイグナシスだった。
「積極的観察者というなら、それはたぶん、あなただけだったのよ。わたしたちはただ、なにかを作りたかっただけ。それを作った結果、どうなるかを知りたかったのは、あなただけではないのかしらね」
「そうかもしれない」
「永久機関を作ろうと言いだしたのは、あなただった」
「興味だね。宇宙船のエンジン開発を依頼されて、それならエネルギーの必要ないものを作ってみようと提言して、予算をもらったんだ。まあ、|詭弁《き べん》なのだけど。あの時のわたしは宇宙に興味がなかった。失敗するとわかっていたからね。居住施設を作れるようになっていたとしても、そこに万単位の人間を送り込む体力的余裕が、もうあの時の人類にはなかった。金持ちだけ移住したところで、開拓する者がいないんじゃ話にならない」
「だけど、永久機関には興味があった? いいえ違う。あなたは、わたしたちがその単語を聞いてどんな答えを出すか知りたかったのよ」
イグナシスが笑みを深めた。正解であるらしい。だが、正解であることにもはや意味はない。研究への熱はあの時と比べて遜色がない自信はあるが、若いと感じられる瞬間はあの時だけでもある。
つまりそれは、もはや過去の出来事であり、修正不可能な出来事であり、いまの状態を改善するために必要なことではないということだ。
「誤解を招きたくないので言っておくが、別に君たちを利用して悪だくみがしたかつたわけじゃない」
「そんなことはわかってるわ。あなたはただ、猿に火を与えたらどうなるか? みたいなことをずっとやっていたいだけなのでしょう」
「そう、その通りだ。たとえがいいとは思わないがね」
イグナシスが沈黙した。黒猫は|尻尾《しっぽ》を揺らすのみで、その場から動かなかった。額の宝石が内から放つ光を明滅させた。
「それで、今度は『たくさんの人間をゼロ領域に一度に叩きこんだらどうなるか?』ということをしたいわけ?」
「近いが、少し違う。ゼロ領域に許容量なんてものがあるのかどうかはまだわからないが、その数が億単位よりもはるかに多いことだけは確かだろう。別の世界にいたわたしが、こうしてここにいるんだ。わたしの世界にいた、百億超の人口がすでにゼロ領域には存在する。そこにこの世界の人口を足したところで変化はないだろうし、実際になかった。そして、バケツの容量を知るようなことに、いまは興味がない」
「それなら、『魂を足し合わせたらどうなるのか?』みたいなことかしら?」
「ああ、おそらくそれがもっとも正解に近いだろうね。ゼロ領域では純粋な意思だけとなると言ったが、人間、なにか基盤となる感覚がないと自己を維持しておくのが難しいようだ。物質世界でならば肉体がある。生まれた時から滅びに向かって成長する肉体は、一種のストレスとも言える。その負荷があればこそ、人は人たり得ているのかもしれない。しかし、ゼロ領域にはそれがない。あったとしても、入った時点で抱えた願望の持つ矛盾による崩壊に巻き込まれてしまう。残るのは、欲望を否定された哀れな|残骸《ざんがい》だ。かつての記憶もほとんどなく、思考能力もなく、漂流を続けるだけの哀れな存在だ。だが、それでも彼らは消滅することなく存在しているのだよ。おそらくは、生存本能のようなものが作用しているのだと思うのだが」
「なんとなく、わかったわ」
つまり、自我が希薄化した魂を凝縮させようというのか。
「でも、固めるにはなにか中心点が必要よね。氷を作るのとは違う。どちらかというと雨粒かしら? 希薄化した魂を寄せ集めるだけの意思を持った者が……ああ、それがアイレインの妹?!」
「そういうことだ」
一つの問いが浮かんだ。だが、エルミはそれを口にすることは止めた。意地悪からではない。もしも自分の予想が当たったとしても、彼は動揺すら見せることはないのではないか、そう思ったのだ。だとしたら、それは面白くない。
「で、それはもう完成しているわけ?」
「いま、彼女が向かっている。あそこでは時間の流れに意味はないから、いますぐにでも現れるかもしれないし、もしかしたら百年後かもしれない」
「気長な話ね」
「だが、生まれた時から慣れ親しんだ時の流れには無意識下で従ってしまうものだよ。そう時間的なずれは存在しないだろう。同様に時間を|遡《さかのぼ》ることもできない。自分の体験していない時代のことは見られないし、たとえ見られたとしても干渉することは難しい。自分の中で、その歴史は定まってしまっているからぬ。もしできたとしても、それはおそらく、並行世界を作ってしまうだけで、当人が戻る世界にはなんの変化もないのではないかな。過去への干渉には失敗してしまったから、よくわからないが」
「時間旅行には失敗したんだ。考えたことなかったけど、それができれば楽しかったでしょう
に」
「まあ、おそらくは人間の欲望とか、因果関係を認識できる領域というのは想像以上に狭いということではないのかな。さすがに千年の歴史を構築できる人間はいないだろう。そこで生まれた個々人の因果関係なんて、考えるだけでばかばかしいし、頭が爆発してしまいそうな内容だ」
ふと、エルミはヴェルゼンハイム市で、アイレインが体験したある出来事のことを思い出した。未来を覗き見たような体験だったという。あれは亜空間発生装置が癒着した人間が最後に見た望みなのだろう。未来に行くのではなく、この世界の果てを見たかった。だからこそ叶《かな》えられたのではないか。しかし、アイレインはあの場所に行った。過去を改変することは現在に多大な影響を与えるだろう。あるいは、確定した現在は変えられないという何らかの強制力が働くか、あるいはイグナシスの言うように、並行世界というものが生まれてしまうのか。
アイレインは未来に行った。未来に何らかの影響を与えることが、現在に深刻な事態を呼び起こすことはない。だが、この現在を起点とした『そうなるはずである』未来には何らかの影響を与えるかもしれない。見たことによってそれを否定する行動に出るか、あるいは見たことによって、必然的にそうなるように行動させられてしまうか。
いまのアイレインはどの立場で行動しているのか。彼自身がそれを意識していなくても、無意識下には影帯があるはずだ。
いや、そんなことはどちらでもいい。未来は知らないから面白い。エルミ自身はそういう考え方をしている。だが、未来がどんな最悪な事態になっていようと、自分は受け入れるだろうという意識がある。
どんな世界だろうと、自分はやりたいことをやるだけだという、開き直りにも近い感覚がある。
そう、そしていまも、やりたいことをやるのだ。
「それで、君はどうしてここに? ことの成行きを見守りに来たのかい?」
平然とイグナシスはそんなことを尋ねてきた。
やはりだ。イグナシスは余裕があってこんな態度を取っていたわけではない。エルミがまさか、誰かの復警のためにやってきたのだと気付いていないのだ。
エルミがそんな人間だと考えていないのだ。
それに、彼女は否定できない。イグナシスたちと別れる前の自分は確かにそうだったろう。自身の美しさに興味がなかったわけではないが、それは人間として、自らを素地としてどれほどの美しさが成り立つのかという、実験的な意味合いで着飾り、化粧をし、肌の状態維持に気を遣っていた。それは異性を魅了するためという意味を無視した行為だった。エルミは恋愛行為にまるで興味がもてなかった。
それなのに、どうしてドミニオだったのか。
そんなこと、自分にだってわかりはしない。偶然に新米巡視官と出会い、異民問題がいまほど問題視されていない時期に、亜空間発生装置の耐用年数がわかるのではないかと彼の旅に同行したのだ。彼に簡単に死なれても困るから、銃を強化し、様々な技術的支援を行った。彼はそれを受け入れ、純真な少年のような瞳で任務を遂行していった。
ドミニオ・リグザリオ。死ぬ寸前の彼は不平屋の、この世の是正できない社会の裏側に敗北した人間だったが、出会った時は自分にはない社会に対しての責任感を持った男だった。そして、責任感をもっていたからこそ、ああなったのだ。
そんな彼に、エルミは魅かれたのだ。
そうだったからこそ魅かれたのか、あるいは別の要因があるのか判然とはしないが、彼を失った時から今も胸の内を支配する喪失感には嘘を吐けない。
この喪失感をそのままにしておくわけにはいかない。だが、ただ殺すだけでこの男への復讐を終わらせるのは、納得がいかない。彼は死を恐れていないからだ。ニルフィリアの反乱を恐れていないのは、そういうことなのだ。死よりも、自分が施した状況がどう推移していくかが知りたいのだ。
その末に自分が死んだとしても、イグナシスは甘ん下して受けるだろう。
それではだめだ。それでは、この喪失感は埋まらない。なんとしてもこの男に後悔を味わわせなければ納得ができない。
ここに辿り着くまでの間、エルミはずっとそのことを考えていた。頭だけにして金魚鉢にでも入れておいてやろうか。だめだ、この男は精神と肉体を分離させる方法を持っている。おそらくはそれが、イグナシスがゼロ領域で手に入れた能力なのだろう。どのような条件下で肉体から精神が分離するのかわからない以上、それをしたところで気が抜けない。
では、どうするか?
「……ねぇ、どうして絶縁空間ができたのだと思う?」
「ん?」
その質問に、イグナシスは瞳に興味の光を宿らせた。
絶縁空間。亜空間同士の繋がりを断ち切った謎の現象。同じ工場で作られた発生装置で生成された亜空間は接続が継続されたため、それは工場の|些細《さ さい》な違いが起因しているのではないかと言われているが、正確なところはいまだに解き明かされていない。
「わかったのかい?」
「もしかしたら、ね」
「それは、ぜひとも知りたいね。原因がわかれば解決の手段も得やすくなる。他の世界に行くのにこんな面倒な手段を取らなくてもよくなる」
「そうよね、ええ、そうよ」
エルミは笑みを深めた。イグナシスが見えるのは黒猫だけだ。エルミの表情まではわからない。
だから、どんな顔をしていたってかまわない。
いやわかったところで、なにができるというのか。
イグナシスはこの瞬間に全ての望みを絶たれるのだから。
「見せてあげるわ」
だが、エルミはこの機会を逃すことになる。
それは一瞬の出来事だった。
音もなく、静かに進行し、察知する暇を与えなかった。電光のように、知覚した時には全てが終わっていた。
なにもかもが変化し、放り投げられた後だった。
ニルフィリアが到達したのだ。
イグナシスの望む形に、境地に、存在に。
エルミたちはゼロ領域の中にいた。
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04 混沌にて
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気がつけば視界の全てが黒で埋まり、しかもそれらは渦巻いていた。
そこは、ゼロ領域だった。
そのはずだ。
過去に二度、アイレインはゼロ領域に侵入している。絶界探査計画の時、そしてクラヴェナル市で。だが、あの時とは違った。瞬いていた星がどこにもない。まるで夜に墨を落としたかのようになにもかもが漆黒で、その濃淡がパケツを|掻《か》きまわしたように変化していた。
そして、心に強引に染み込んでくるような、あの圧迫感がひどく希薄だった。
「なんだ、これは?」
思わず呟いたその言葉に周囲の空間が無数の波紋を生む。
アイレインはゼロ領域特有の足元の定まらない感覚に不安を覚えながら、必死にそれを呑みこんで辺りの様子をうかがった。
クラヴェナル市での一件で、それとなく感覚は掴んでいる。
見るという行為を意識すると景色が一変した。
星の瞬きが周囲に配置され、圧迫感がアイレインを襲う。奇襲のようなそれに、アイレインは心を閉じた。
遠く離れた場所に昼光のない闇がわだかまっていた。あの場所にいたのだ。アイレインは感覚的にそれを理解した。その闇を見ようとしたことで、俯瞰できる位胃に移動したに違いない。
では、あれはなんだ?
それは、黒としてそこにあった。物歯的な厚みが欠けているように見えた。ガラス玉の中にある模様のようにも見えた。巨大な洗濯機の中で無数のタオルが絡み合いながら、しかしもつれることなく回っていると言った方がわかりやすいかもしれない。
アイレインはさらに見ることに意識を集中した。
なにかに集中していれば、ゼロ領域に満ちるオーロラ粒子に自分の心を覗かれなくとも済む。目を凝らすことを意識して間に視線を注ぎこむ。
この世界の全てがアイレインを知ろうとその手を伸ばしている。そんな想像が頭をよぎり、慌てて首を振り、心の紐《ひも》をきつくしめた。ニルフィリアを取り戻すという自分の願望は、敵対という形で実現してしまった。それも結局、オーロラ粒子が叶えてくれたわけではなく、この世界で生き残る強さを持ったニルフィリア自身の結果であり、要は偶然の産物でしかない。
いや、この粒子に叶えられるものは結局、全て偽物なのだ。レヴァが生み出したジャニスがマネキンであったように。
偽物しか生み出さない。
だが、それが本当に自らの欲望を叶えてくれるのであれば、本物であろうと偽物であろうと問題はないのかもしれない。恋する者を手に入れようとして、しかしその本物ではなく、オーロラ粒子が生み出した偽物が自分にしなだれかかってくれば満足できるのかもしれない。Aが見るBが、Bにとっての本当のものでなかったとしても、Aにとってはその一面がBの全てなのだ。その一面に対して恋を抱き、愛し、怒り、親しみ、憎しみ、囁き、呪うのだ。
人間同士の関係というものは、そういうものではないだろうか。
そして、そんなものが現れたとして、はたして自らの願望を本当に果たしたといえるのか?
ニルフィリアを取り戻す。
取り戻せてはいないが、アイレインの願望は半ば以上達成されている。だが、完全に達成されていない以上、願望もまた環境の変化を受けてなにかにすり替わっている可能性がある。
それを、アイレインはみたいとは思わない。矛盾による崩壊よりも、心の内奥を晒されるのを恐れた。
見る。外部に向けて全力で意識を注ぐ。肉体を維持することすら考えていなかったが、その必要はなかった。異民化した肉体は、周囲のオーロラ粒子を逆に吸いこんでいるかのようだった。右目など、まるで一個の宝石のように存在感を発している。おかげで、右目ばかりが肥大化していくイメージが脳裏にちらついた。
闇の詳細を捕らえたのは、右目だったのか左目だったのか。いや、肉体には意味がないはずなのだ。だが、完全に異民化してしまった以上、それがアイレインに通用する原理なのかどうか、定かではない。
渦に呑み込まれた布切れのように、闇はなにかに向かって|螺旋《らせん》を描いている。
その中心に、ニルフィリアがいた。
(サヤ……?)
そう考えたのは一瞬、すぐにそれを否定した。
なぜなら、アイレインの視線に気づき、彼女はこちらを見て笑いかけたからだ。
「無事に来られたんだ、お兄ちゃん」
耳に息を吹きかけられた。
気付けば、ニルフィリアの顔がすぐそこにある。
闇がまた、アイレインの周囲を取り囲んでいた。
絶句した自分を必死に立て直す。この場所で、心で押されてはだめだ。そう言い聞かせ、ニルフィリアの瞳を見た。
吸い込まれそうになる怪しい魔力が瞳にはある。
「……サヤはどこだ?」
「ふうん」
アイレインの問いに、ニルフィリアは不満げな顔をした。それを見ただけで心が揺らぐ。妹の願いをすべてかなえてやりたくなる。
だが、それはだめだ。
「ねぇ、そんなことはどうでもいいじゃない。それよりも、これが気にならない?」
周囲の闇に手を伸ばし、ニルフィリアは静かに笑った。
「いいや、どうでもいい。おれはここにサヤを救いに来た」
それ以外を考えてはならない。
考えれば、妹につけ込まれる。
「へぇ、そんなこと言うなら、あの子は二度とお兄ちゃんの前には出してあげない」
「…………」
アイレインは歯噛みして、ニルフィリアを睨みつけた。
それに、ニルフィリアは笑う。ゆっくりと唇の端を引きのばすように、堪え切れない愉悦を露にして笑った。
「ほら、どれだけお兄ちゃんが悪意を向けてきても、わたしにはなにも起きない。この場所でわたしになにかをしようとしても無駄よ。お兄ちゃんは、わたしに手も足も出ないんだから」
「……なにをした?」
「みんなを呼び寄せたの」
「みんな?」
それからニルフィリアは語った。ゼロ領域に満ちる無数の魂の話を。イグナシスの企みを。
魂の凝縮の話を。
その話に、アイレインは信じられないと首を振った。魂を寄せ集める。
そのためにこの世界の住人をすべてゼロ領域に叩きこんだというのか。数十億の人間を。
「もしかしたら、どこかでわたしたちみたいなのが生まれてるかもしれないね。でも、ほとんどがわたしのところに集まったよ。みんなイグナシスが憎いから」
亜空間を破壊した張本人がイグナシスであることを告げ、それから生まれた憎悪を起点にこれだけのものを呼び寄せた。
そしてそれを、ニルフィリアは自身の力としているのだ。
数十億の魂を。
考えるだけで気が遠くなりそうだ。
「サヤも、取りこんだのか?」
「そうなるのかな? この中のどこかにいると思うけど。ちょっと、わたしにもわからないかも」
邪気のない笑みに、アイレインは心の中で起こりそうになった気持ちを握りつぶした。
それは絶望だ。
呑みこまれてはだめだ。
そう考えてはいるのだが、ニルフィリアを支える数十億の魂に対して、どう対処すればいいのか、アイレインには見当もつかない。
「ねぇ、お兄ちゃん。もうわかったでしょ? 普通の人間の時でも、異民になった時でも、お兄ちゃんはわたしに逆らえないの。今なら許してあげるよ。お兄ちゃんも強いから、わたしの一番の従者にしてあげる。お兄ちゃんだもの、特別待遇にしてあげるから」
「なんに対しての特別待遇なんだ」
アイレインは笑った。やや、やけ気味にではあったが笑った。だが、その気持ちは周囲の闇に大きな波紋を与え、ニルフィリアを取り巻く螺旋にわずかではあるが歪みを作った。
「おれたちの他になにが残る? 誰もいないこんな世界で、いったいなにと比べて特別待遇だっていうんだ?」
「取り込まないでいてあげる」
「信じられるものか。お前は全てを取り込んだんだぞ。多くの人間を。わかってるのか。お前が取り込んだ中には故郷の友人や近所の人たちや、先生たちがいたってことだ。なによりおれたちの両親もその中に含まれてる。それなのに、どうしておれだけそうしないとわかる」
やけ気味だったが、その言葉は意外に有効かもしれないと思った。顔も知らない無数の誰かを取り込むことには罪悪感もなにも覚えなかったかもしれない。だが、顔見知りならば、血を分けた肉親ならばどうだ?
「なんだ、そんなこと?」
アイレインの言葉は周囲の闇に大きな波紋を生み、波立たせた。
だが、ニルフィリア本人は動揺を一つも浮かべない。
「そんなこと、お兄ちゃんは気にしてるの? お父さんやお母さんなんてどうでもいいじゃない。ううん。娘のために力になれるなら、それは親にとっての本望じゃないのかな? あいにくとお父さんの声もお母さんの声も聞こえないからわからないけど。……でも、わたしのためになにもしてくれないのなら、いらないかな」
期待するだけ無駄だった。そうだ。妹とは、ニルフィリアとはこういう人間だったのだ。わかっていた。アイレインにはよくわかっていた。両親だってわかっていただろう。
わかっていたのに、誰もニルフィリアには逆らえなかったのだ。
誰が、ニルフィリアをこんな人間にしてしまったのか。今さらそれを考えたところで遅すぎることはわかっている。両親の責任にして、それでなにが救われるのか。
アイレインが妹に逆らえなかったという事実が、それで消えるわけでもない。
「それで、お兄ちゃんはどうするの?」
「お前には従わない」
「そう」
ニルフィリアから笑みが消えた。感情を消した、ひどく乾燥した顔だった。だが、それすらも美しいと感じる自分は、もう逃れようもないほどにニルフィリアに毒されているのだろうと、いまさらながらの感想を抱く。
「聞け、ニル」
「なにを聞くの? わたしの聞きたいことは全部聞いたわ。前の時のことは忘れて、特別に許しであげるつて言ってるのに、お兄ちゃんはそれがだめだっていう。それどころか、いまだにあの子のことを考えてる。お兄ちゃんは、わたしがそんなに心が広くないことをよく知ってるはずなのにそんなことを言ったんだよ?いまさら、なにを聞けばいいの?」
「ああ、お前の心が狭いのはよく知ってるさ。だけどな、おれを取り込み、イグナシスを殺して、それでなにが残るんだ? お前を見る人間は誰もいなくなる。お前以外の、誰もいなくなるんだぞ?」
「ここがなくなるなら、どこかに行けばいいじゃない。亜空間をすべて壊せば、隣の世界に行けるんでしょ? イグナシスはそう言ってたわ」
「お前……」
説得の言葉は、もう残されていなかった。アイレインにはこれ以上の言葉はなく、ただ|茫然《ぼうぜん》とニルフィリアの美しい顔を見つめるしかできなかった。
ああ、サヤとは違う。
こんな時だが、アイレインはそう思った。頼られると断れないのは変わらないが、それはサヤのニルフィリアに似た外見に惑わされていたわけではなく、彼女の性格に負けていたからのような気がする。
顔はやはり同じだ。だが、性格によって描き出す表情のためなのか、ニルフィリアに宿る妖艶《ようえん》さがこんなにも同じ顔に別の趣を与え、その|美貌《び ぼう》を際立たせている。
この顔に囚われたのだ。アイレインはそれを痛切に感じた。
「ニルフィリア…………」
呼びかけた。だが、妹からは何の返事もなかった。冷たい表情はアイレインのなにもかもを拒絶し、声は届かなかった。頑《かたく》なな拒否は、すぐそこにいるように思えてはるか彼方《かなた》にいるかのような手応《てごた》えのなさがある。
だが、その視線はアイレインの全身に針を打ちこみ、物理的な痛みを感じさせる。実際に、ニルフィリアは視線で人を殺そうとしていた。完全に異民化した肉体がゼロ領域に対して適応を見せていなければ、本当にこれだけで死んでいたかもしれない。そう思えた。
ゆっくりと彼女の右腕が上がった。
唇がなにかの言葉を作ったように見えた。
だが、それを読んでいる暇はない。周囲の間がアイレインを押し包むように動きを変えた。
呑みこむつもりだ。
逃げる。心に強くそう念じた。だが、逃がさないというニルフィリアの心の方が強く、アイレインは指先一つ動かすことさえできなかった。
なにもできない。妹の前ではただ喘ぐしかできない無様な兄に逆戻りしていた。いや、それは昔からなにも変わっていなかったのかもしれない。ただ、人間から異民へ、物質世界からゼロ領域へ場所が変わり、その様相が変わっただけでしかない。
二人の関係性にはなんの変化も訪れなかった。
そういうだけの話なのか。
アイレインはなにもできず、指一つも動かせないまま闇に呑みこまれ、そしてなにもわからなくなった。
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†
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目の前になにもなくなり、ニルフィリアはひどくつまらない気分になった。
「なんだ……」
もう少し抵抗してくれると思ったのに。
だが、抵抗されたとしてそれをニルフィリアは許すことができたのか?
おそらくできない。
なら、これでいいのだ。
ただ、ニルフィリアが強くなりすぎただけなのだ。ニルフィリアに従う数十億の魂の力がそれだけ圧倒的だということだ。
「つまんない」
そう呟いたニルフィリアの顔はひどく幼い、子供のそれだった。だが、それを見ても彼女を取り巻く闇は小揺るぎもしない。
それどころか、彼女の意外な一面にさらに魅了される結果となる。
だが、闇は同じように、彼女に向ける信仰に似た熱い視線と同じ温度の欲望をぶつけてくる。
復讐を。
自分たちの生活を、命を、欲望を、存在を、物質世界で付随していたあらゆるものを失った憎しみを晴らすことを求めている。
イグナシスの死を望んでいる。
さて、どうやって殺そう?
イグナシスのこの世に対する執着は、ニルフィリアに従った者たちの比ではない。物質世界で肉体を滅ぼした程度では死にはしない。肉体だけを|潰《つぶ》しで殺したように見せかけて、もしゼロ領域で彼の意識に出会ったら面倒なことになる気がする。いや、たとえどうなろうと切り抜ける自信はあるが、一度手に入ったものに裏切られるのは癪《しゃく》に障る。
兄のような事例は二度と出したくない。
ならやはり、イグナシスは完全に滅ぼさなくてはならない。
どうやって?
周囲の闇に気付かれないように、ニルフィリアは慎重に考えを巡らせた。
だが、そう時間があるわけでもない。すでに闇の一部は首都本土に侵入し、復轡のための行動を始めてしまっている。
アイレインがゼロ領域へと入って来たのも、そのためだ。数十億の魂は集合することによって一つの力となった。それは物質世界でも形を持ち、大地を荒らしていることだろう。もしかすると、首都本土という、亜空間ではない正常な空間が破壊されてしまうかもしれない。
その結果がどうなるのかは、ニルフィリアには想像がつかない。現実世界にそれほどの未練があるわけでもない彼女にとってはどうでもいいことでもある。
とにかく、どう滅ぼすか。
ニルフィリアの精神がイグナシスのそれを|凌駕《りょうが》すればいい。滅ぼしたいという気持ちならば、この闇が助力してくれる。
そうだ、そうすればいいのだ。
兄にしたのと同じように、ゼロ領域でイグナシスに精神的に勝利すればいい。
「そうよね」
そう自分に言い聞かせ、ニルフィリアはイグナシスを求めて物質世界を破壊して回る闇に意識を向けた。
首都本土はひどく荒れていた。ニルフィリアのためではない。アイレインとレヴァンティンというナノセルロイドとの戦い。他の二体と、裏切ったハルペーとの戦い。そこに異獣たちが加わり、荒れに荒れていた。人間がいたとしても復興するのは長い時を必要とするか、あるいは絶望するかのどちらかしかなかっただろう。なにしろ、支援してくれる場所がどこにもないのだから。
そんな考えに意味はない。この世界にまともな人間は存在していない。
この世界は、もう終わってしまっているのだ。人間以外の生物だとて、この有様では存在していないだろう。細菌ぐらいしか残っていないかもしれない。そしで、細菌の作る新世界にニルフィリアは興味も関心もない。
ニルフィリアの意識は間を伝い、首都本土のあらゆる場所を覗いた。
だが、イグナシスの姿が見つからない。
「逃げた?」
あるいは、すでにゼロ領域に逃れているのか。
「もうっ!」
|苛立《いらだ》たしく、ニルフィリアはイグナシスの姿を求めた。オーロラ粒子に働きかけ、イグナシスの姿を自分の前に移動させようとした。
だが、思うようにいかない。どれだけ彼の姿を求めても、オーロラ粒子はなんの成果もよこさなかった。
現れるのはソーホの姿をした虚像ばかりだ。闇はそれを瞬く間に喰らい、これではないと咆哮をあげる。
偽物では満足しない。そのことに内心で舌打ちし、ニルフィリアはさらに強くイグナシスを求めた。
求めながら、ニルフィリアはどこかでイグナシスを恐れている自分を意識してしまった。異民化したことによって魔的に洗練された彼女の魅力にイグナシスは対抗していた。そのことに、ニルフィリアは不快感を覚えるとともに、恐怖も感じていた。それに、イグナシスならニルフィリアが裏切るのを予測し、なにか対抗策を講じているかもしれない。
すでに罠の中にとびこんでいるかもしれない。
惑うのは危険だ。ゼロ領域では自分を強く保つ精神力こそがなにものをも撥ね返す最強の武器であり盾だ。わかっているのに、ニルフィリアは一抹の不安を消すことができない。その不安に見つからない焦りが加わり、彼女の心は内部で張り裂けそうなほどに緊張していた。
どうしてこんなに……
ニルフィリアはアイレインを前にした時に見せた自信が喪失しているのを感じた。数十億の魂の力を虚無のように感じた。イグナシスがなにかを仕掛けでいるのではないかと、ただそのことを恐れた。
すでに罠にはまっている。そう考えるしかなかった。 こうなる前から、ニルフィリアになにか仕掛けられていたとしてもおかしくない。相手はアルケミストだ。ゼロ領域での、こちらの知らないなにかを握っているかもしれない。
「やはり、裏切ったね」
その声にニルフィリアの体は震えた。震えはゼロ領地に浸透し、闇もまた波紋を放った。
「イグナシス!」
「君はたぶん、裏切るだろうとは思っていたよ。まあ、君に望んだのは魂を凝縮させるその中心であるだけで、その後のことはなにも指示してなかったからね」
「わたしになにをしたの!?」
体が動かない。まるでさっきのアイレインのようにニルフィリアは体が動かせなくなっていた。
「なにもしていないさ」
「嘘よ」
「嘘じゃない。本当に、わたしはなにもしていない。君はただ、君自身の力で身動きが取れなくなっているだけなんだよ」
イグナシスの言葉は信じられなかった。そんなばかなことがあるはずがない。
「だが、あるんだ。君はわたしならばなにかを仕掛けたかもしれない。そんな風に考えたのではないかな?」
「だって、そうじゃないの。そうじゃないと、こんなことになるはずがない」
「いいや、そうじゃないさ。ここはゼロ領域だよ。どれだけひた隠しにしようとしたところで、オーロラ粒子は君の心を見ている。特に強く迷えば、迷うほどにね。そういうことだよ」
「それなら、本当にあなたはなにもしてないのね?」
「そうさ。すでにわたしが干渉する段階は過ぎた。後のわたしは、ただの観察者だ」
「なんだ、それなら……」
ばかばかしい。疑心暗鬼に陥っていただけとは、ニルフィリアは再びイグナシスを捜すために意識を集中する。恐れていたから自然と見つけるのを避けていた。つまりそういうことのはずだ。
想像した通り、イグナシスはすぐに見つかった。特に身構えている様子もなく、自然体でニルフィリアの前に立つ彼の様子に、疑いを持ってしまいそうになる。だが、すぐにその考えを切り捨てた。
「でも、殺すつもりの相手にそんなことを教えてなんの得があるの?」
「得ならばあるさ。わたしだって自分の命は惜しい」
「そう。でも、わたしの前に出たのだから覚悟してね」
「だから、できはしないさ」
これ以上、彼の言葉を聞くのは得策ではない。ニルフィリアは即座に周囲の間たちにあれが本物のイグナシスだと教えた。
闇がイグナシスに牙をむく。ニルフィリアは彼の肉体が瞬時に引き裂け、精神が食い荒らされ崩壊していく様を想像した。
しかし、現実はそうならなかった。
闇がイグナシスの前で動きを止めたのだ。
「どうしたの?」
驚きを隠し、ニルフィリアは|囁《ささや》くように闇に語りかけた。
「そいつがイグナシスよ。あなたたちの生活を奪った張本人。復警の相手よ。どうしたの?」
「無駄だよ。彼らにわたしは殺せない」
自らの前で動きを止めた闇を眺め、イグナシスが答えた。
「……なにをしたの?」
「なにかしたのは君だよ」
イグナシスが側にある闇の触手に手を伸ばした。その先端は牙のように鋭く凝り固まっていたのだが、伸ばされた手が触れるかどうかまで近づくと触手は即座に縮まり、距離を取った。
いや、逃げた。
牙のようだった先端が軟化し、風もないのに震えているではないか。
|怯《おび》えているのだ。
イグナシスに。
だが、闇はイグナシスから一定の距離を取ったまま離れようとはしない。依然、彼らのイグナシスに対する怒りや怨嗟を感じることができる。だが、それと同等の恐れが、いつの間にか闇の発散する気配に混じっていた。
いつのまに……?
……いや。
「わたしの、せいなの?」
「そうだよ。君が抱いたわたしへの恐れが彼らに伝播したのさ。君はこの闇を従える者であり、同時にこの群体の中枢でもある。彼らは君の影響をとても強く受けるんだよ。そして、これが厄介なところではあるが、群体であるとともに個でもある。人間と同じだよ。元が人間だから当然の話ではあるがね。個人から、一度刷り込まれた恐怖を消し去るのは難しい。勢いがつけばわたしへの恐れを忘れることができるが、彼らはすでに一度復警のための勢いを失っている。それを取り戻すのは、なかなか大変なことだ」
「やってくれたわね」
「そりゃ、やるさ」
あっさりと言われ、ニルフィリアはしばらく睨み、そして表情を戻した。腹の奥ではいまだに怒りが猛り狂っていた。闇はそれに呼応しようとするのだが、いまいち乗り切らない。伝わってくるのは首都本土の惨状への驚きだ。こんな存在になっても、いまだに人間的感情を残している者がいるらしい。彼らは復讐心という破壊的欲求を、彼らの想像を超えたアイレインとナノセルロイドと異獣の三つ巴《どもえ》の戦いを見たことで希薄化させられてもいたようだ。
「なかなか、御しにくいものね」
「それはそうだ。君と同じ人間なのだから。集団となればほとんどの場合において愚かだが、個人であればそれこそ個人差による。そして|明晰《めいせき》な洞察力を持つ者というのは、得てして精神的能力も高い。たとえ、こんな形になろうともね」
再び闇に手を伸ばし、そして逃げられる。イグナシスはやや残念そうな顔をして手を引っ込めた。
「それで、君はどうする?わたしの目的は半ば以上達せられた。凝縮された魂というものをとりあえずは完成させることができた。後は、その機能がどれほどのものなのか……いや、それは首都の惨状を見ればわかるというものだがね」
それにニルフィリアは首を傾げた。惨状というが、あの焦土を作り上げたのはナノセルロイドたちではないか。
「おや、君はまだ確認していないのかな。いや、もうできないのだがね。捜してみると良い」
イグナシスに促され、ニルフィリアは気をそらさないよう、慎重に首都を捜した。闇が侵入した穴がどこかにあるはずだ。そこから首都の光景を見ることができる。
できるはずなのだが、その穴がどこにも見つからない。
「どういうこと?」
どれだけ強く念じても、首都が全く見つけられない。
ニルフィリアはイグナシスを見た。
「君の手に入れた力が、物質世界ではそれだけの影響力を持つということだよ。つまり、なくなってしまった」
両手を胸の前で広げたその姿は、まるで冗談のようだった。だが、イグナシスが冗談でこんなことを言うだろうか。いや、冗談を言ったことがあっただろうか。
驚きは、わずか。その次に訪れたのは自らの力の感触を確かめた喜びであり、そしてやはり怒りだった。
自覚することもなく首都本土ほどの大地を消し去った。この世から完全に。 亜空間が完全に取り払われた時、地球はどのようになるのか、首都本土分、地球の表面積が減少しているのか、あるいは虚無を湛《たた》えた穴でも出来上がるのか、そんなことはそうなってみるまでわからないが、数十億の人間の魂というものにはそれだけの力がある。それこそ蟻を踏んだ程度の気分で首都本土が消滅するレベルの力がある。
そういうことなのだ。
次に浮かんだ怒りは、それだけの力がありながら、イグナシスには手も足も出せないという事実に、だ。
「腹立たしいわね」
「なに、君ならすぐに飼いならせると信じているよ」
「それで、これからどうするの?」
「さて……それは君次第だ」
「え?」
「わたしは観察者に戻らせてもらうと言ったはずだよ。絶大な力を手に入れた君がどうするのか、それを観察させてもらうとしよう」
「あなたを殺すとしても?」
「御自由に」
表情一つ変えないイグナシスにニルフィリアは余計なことを考えないように努めた。裏があると思ってしまっては、またさっきのように自縄自縛に陥ってしまう。
「それなら、ゆっくり考えさせてもらおうかな」
「そうしたまえ。ここは時間には事欠かないから」
その言葉を残して、イグナシスは消えた。
一人、その場に残ったニルフィリアはふと辺りを見凶し、誰もいないことを確認するとため息を一つ零《こぼ》し、目を閉じた。
時間には事欠かない。
その言葉が、なぜか呪いのように感じられた。
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ここはどこだ?
無。
闇ですらなく、そして白でさえなかった。色というものが存在しなかった。透明であると考えていいのか。だが、その先にはなにも見えなかった。視力の限界にさえなにも存在しないのか、あるいは眼球の神経を刺激する情報がなにもないためか。だが、目が見えていないというのならやはり黒に覆われていなければならないのではないだろうか?
わからない。
自分の体が不確かだった。ただ、自分がアイレインだということはわかった。妹に敗北した哀れな存在だということはわかっていた。サヤを救うこともできず、妹をまっとうな道に戻すことさえできなかった、惨めな存在だ。
サヤは無事なのだろうか。
エルミは目的を果たせたのだろうか。
考えてみるが、それを確認する術をアイレインはもう持ってはいなかった。
自分はどうなったのか?
ニルフィリアに敗北したのはわかっている。彼女を前にしてなにもできなかったのは覚えている。
だが、その後は?
あの闇に呑まれてしまったのだろうか。だとすれば、アイレインはいま、ニルフィリアを取り巻く闇の一部になっているということだろうか。
ニルフィリアの力の一つとして彼女に仕えているのだろうか。
なんと締まりのない結末だろう。
サヤも救えない。ニルフィリアの|呪縛《じゅばく》からも逃れられない。
自分は、妹を失う前からなにも変わっていないということではないか。
「このままは、まずいよな」
呟く。言葉は耳に届いたか、はたしてそれが現実の音声だったのか、そう錯覚しただけのことなのか判断がっかない。
だが、それはどうでもいい。あるかなきかの自尊心が叱咤してくる。まだやれるはずだと。己の意思はまだ残っているのだからと。
ここはまだゼロ領域だろう。それならば、確かに自らの意思さえ存在していれば立て直しは可能力もしれない。
だが、数十億の怨念《おんねん》を従えたニルフィリアにどう対抗すればいいのか。それがまるでわからない。勝てる自信がなかった。
「考え方を変えるべきだ」
ニルフィリアに対して苦手意識がある以上、ゼロ領域で彼女に勝つことは不可能に近い。それはさきほどのことで痛いほどに理解してしまった。心で負けてしまってはどうにもならない。
では、どこでならばニルフィリアに勝てるか。物質がまともに存在する首都本土を考える。しかし、魂の力というものがまるごと異民として通用されるのならば、そこでさえ勝ち目はないのではないか。
「だめだ」
負ける要素ばかりを探している。いまさらながら心というものの厄介さに顔をしかめた。
では、出し抜いてはどうだ?
ニルフィリアに勝つことをあきらめれば、別の方向も見えてくる。
自分はなにをするためにここに来たのか。
サヤを助け出すためだ。
ニルフィリアと決着をつけにきたわけではない。そのために荒野を抜け、首都本土にやって来たのだ。妹との問題だけであったなら、はたしてアイレインは首都までやってきていたか? おそらく来なかっただろう。彼女を恐れるあまり、足が動かなかったのではないか。
いなくなれば絶望し、現れれば怖れ|慄《おのの》く。再び自己嫌悪に陥りながら、アイレインは考えを続けた。しかし、考えが横に逸れる。
ではなぜ、サヤをそんなにも救いたいのか。ゼロ領域で崩壊しようとしていたアイレインを救ってくれた恩義か。たしかにこの世界で人並みに暮らせるよう努力すると約束した。しかし、そんなことはすでに不可能だ。
サヤもそれを期待してはいないと考えるのは、自分勝手だろうか。
だが、約束のためにこんなことをしているのか。
違う。それはおそらく、違うはずだ。
ずっと悩んでいる。はたして自分は、サヤを愛しているのか、妹に似ているからサヤを守ろうとしているのか。ニルフィリアとこんな形になった今でも、その迷いが根深く残っている。
いや、こんな形になることが予想できたからこそ、サヤを手に入れようとしているのか。
だとしたら、なんというあさましさだ。
自分が嫌になる。
そう考えた時、アイレインは自分の存在が希薄になったのを自覚した。自己嫌悪がアイレインの存在を殺そうとしている。一歩間違えれば、その気がなくとも自殺できるかもしれない。なんとも、危うい空間だ。
他の連中は……絶界探査計画でともにここを訪れたかつての仲間たちや、それ以前に事故でここに落ちてきた者たちは、自らの願望が実現しないことに気付かされ、絶望で消えていったのだろうか。だったとしてもおかしくはない。
サヤに対するアイレインの気持ちが本当なのか否か。どうすれば確かめることができるだろう。もはや、自分で考えたところで結論が出る気がしない。それどころか、ニルフィリアの影を見て、自己消滅への道を|辿《たど》りさえするかもしれない。
それを避け、なおかつ確認するにはどうすればいいか。
サヤはどこにいるのか。ニルフィリアとともにあったのなら、案外、この闇の中にいるのかもしれない。たとえ闇の中であっても自己嫌悪で消えそうになるのなら、ゼロ領域と何ら変わりはないはずだ。
呼べば届くのではないか。
サヤは来てくれるのか。呼べるのだとしたら、自分の中にあるサヤを求める気持ちに嘘がないということの証明になるのではないか。
賭《か》けてみる価値はある。
もしも、アイレインの呼び声がサヤに届かなければ、おそらく自分は絶望の果てに消滅することになるだろう。そういう予感があった。たとえサヤに届いたとしでも、彼女がそれを拒む可能性もあるのだ。分の良い賭けとは思えない。だが、いまのアイレインにはそれだけしかやることがなかった。
だが、なんという難関だろう。ニルフィリアに挑むことを考えるのと同じぐらいの無謀な挑戦に思われた。自らの心を完全に開くということだ。これ以上の難事がはたしてどれだけあるというのか。自分でさえわからない真意でサヤを呼び寄せようというのだ。場合によっては、サヤを貶《おとし》めることになるかもしれないのだ。
気持ちが沈んでいく。またも自分が希薄になった気がした。おそらくは事実だ。これ以上時間を無駄にすればもはや考えることさえ不可能になるかもしれない。
みっともない。自らの死の危険に押されて助けを呼ぶようなものだ。
だが、アイレインは彼女の名を呼んだ。サヤと声を出して呼んだ。
心の内奥を自ら暴き、胸の内を晒して彼女の名を呼んだ。
最大限の誠実さをもって彼女の名を呼んだ。
サヤという名を呼んだ。
その響きには、自分でさえ信じられないほどの切実さがこもっていた。
胸が締め付けられるほどの意味が込められていた。
サヤを呼んだ。
身が切れるほどに彼女を呼んだ。
眠れる少女を求めていた。
瞼を閉じた彼女が腕の中にあるだけで、自分が満たされていたことを痛感した。
助手席で眠る姿に安心を覚えていた。
彼女の眠りを妨げるものがあることに、怒りを感じていたことを知った。
最初は、ニルフィリアの代わりとして彼女を見ていたこともわかった。
だが、それは最初の一年だけだ。
その後はサヤをサヤとして扱っていた。むしろ、だからこそニルフィリアの身代わりとして、という考えが付きまとうようになってきたのではないかとさえ思う。そうでなければ、そこまで考える必要があっただろうか。
アイレインはサヤを必要としている。
事実として、それが胸の中にあった。心の奥に潜んでいた。
それがどれだけ価値のあることか。
影のように付きまとっていた後ろめたさが去り、残されたのは純粋に彼女を求める意思だけとなった。
サヤ。
アイレインは彼女を呼んだ。
黒いスカートが視界を撫でた。
折れそうな足がすぐ目の前にあった。
見上げれば、眠るサヤの姿がそこにあった。
「サヤ」
声に出して名を呼び、アイレインはゆっくりと自分と同じ高さに移動する彼女を抱きしめた。
自分の腕が細い彼女を抱きしめる感触があった。頬に吐息が流れた。黒髪に指を掻き入れ、サヤを強く抱きしめた。
その存在を全身で感じた。
「アイン……ですか?」
瞼を開けたサヤがいつもの口調で問いかけできた。
「ああ。よかった。無事だったんだな」
「はい。なんとか」
抱きしめた彼女を離し、顔を確かめる。ニルフィリアに似て、しかしサヤだと確信できる少女がそこにいた。もはや、アイレインは自身の存在を希薄には感じなかった。手足の感覚がはっきりと伝わってきた。サヤを通して、アイレインという存在を確立することに成功した。そしておそらくはアイレインを通して、サヤもまた己の存在を取り戻していた。
「あなたの声が聞こえました。 起きないといけないって……あの時と同じように」
「そうか」
あの時、絶界探査計画で皆が崩壊していた中、アイレインはサヤを見つけた。
「あなたは、安寧を求めていました。心の平安を求めていました」
「なんだって?」
「あの時のあなたです」
サヤのまっすぐな瞳はアイレインに向けられている。ニルフィリアのような圧倒される感覚はない。ただ、吸いこよれるようにサヤを見つゆ返し、そして瞳の中に呑まれていた。
「惑い、恐れ、そして絶望していたあなたの魂は、ただ安らぎを求めていました。そしてそれは、わたしの目的とも合致していた。だから、わたしはあなたとともにいられました」
その話し方には断定的なものがあった。アイレインのことに関してだけではない。サヤ自身のことに関して、はっきりとした言葉を吐いている。
「思いだしたのか?」
絶界探査計画の施設で彼女を助けた時、彼女は自分の名前以外の全てを忘れていた。目的もなく、ただ眠り、そして危険を察知すれば目覚める。それだけの少女だった。
「はい」
「そうか、よかった」
サヤが、サヤとして完全に独立した存在である。これはその証明だった。アイレインはそれが|嬉《うれ》しかった。
「ただ、この姿はあなたの願望を反映していますが」
「そうなのか?」
「はい。本来のわたしには、人間的な外見はありませんでしたから」
当たり前のように紡がれた言葉の意味が、しばらく理解できなかった。
「なんだって?」
「わたしは、別の世界で楽土として作られた存在です。形もなく、目的も遂げられないままゼロ領域をさまよっていたところを、あなたに引き寄せられたのです」
「楽土……」
「名もなき大地として、本来は形を成すはずでした。ですが、あなたの願いに呼応した。それを後悔や、批判しているわけではありません。あのままでは、わたしはなんの意味もなくここをさまよっているだけでしたから。あなたに会えたことは、わたしにとってもとてもうれしいことです」
サヤも人間ではない。
その驚きを、アイレインはすぐに呑み込んだ。
いまさらの話ではないか。
いまさら、誰が人間で、誰がそうでないかという話になんの意味がある。人間であったアイレインはどうなった。ニルフィリアはどうなった。機械であるレヴァはどうなった?
サヤがどうであろうとも、アイレインの気持ちには少しも変化は見当たらない。
「ありがとうございます」
アイレインの気持ちが届いたのか、サヤは静かに頭を下げた。
「サヤには、助けられてばかりだ」
事実を口にすると、サヤは首を振った。
「いいえ違います。アインに拾われなければ、おそらくわたしはずっとここをさまよっていたことでしょう。アインがいてくれたから、いまのわたしでいられるんです」
サヤの言葉には、どこかいままでにないものが混じっているような気がした。
「そうか」
アイレインは|頷《うなず》き、そしてサヤがなにを求めているのか尋ねた。本当の目的を知ったのなら、それが叶えられるのであれば叶えてやりたい。
ニルフィリアの脅威のことはその後だって良い。いや、おそらくはそんな呑気なことは言ってられないのだろうが、そういう気分にさせられる。
「わたしがいた世界も亜空間の不安定が原因で崩壊しました。亜空間に巨大な穴が開き、そこから|溢《あふ》れたオーロラ粒子によって異民が溢れ、彼らの暴動によって本土から元来の人類は追い出され、そして亜空間は廃棄されました」
「無茶をするな」
「彼らがそうするのにはなにかわけがあったように思えるのですが、残念ながらそれは記憶していません。とにかく、本土が襲われる前にわたしは開発されましたが、起動させる前に異民たちによって追われ、そして亜空間の崩壊によってゼロ領域に放棄される形となりました」
「それで、サヤはなんのために?」
「わたしは楽土です。亜空間を破壊される可能性を考慮した開発者はゼロ領域で人が生きていけるための緊急避難所としてわたしを作りました。わたしが起動していれば、ゼロ領域で自動的に対オーロラ粒子の防護措置がされた大地に変化するはずだったのですが」
その機能力発揮される前に亜空間が破壊されたのか。
自らの役目を果たせずにゼロ領域を漂うことになった。それを思い出した今、サヤはどんな気持ちなのだろうか。
いや、機械であるのなら、気持ちというものを持たないのか。
そんなはずはない。アイレインの気持ちに嬉しいと答えでくれたではないか。サヤの中には心がある。それが最初からあったものなのか、それともゼロ領域に入ったためなのか、あるいはアイレインたちとともにいたためなのか、いまのサヤにそれがあることだけは確かだ。
「わたしは自らの役目を思い出しました。ですが、今回もすでに遅すざました。人類はみなゼロ領域の中です。わたしはまた、なにもできませんでした」
「それはサヤのせいじゃない」
「ですが、なにもできないことは確かです」
「……助けたいのか?」
アイレインの問いに、サヤは大きく目を見開いた。そしてしばらくアイレインから目をそらし、やがてぽつりと|呟《つぶや》いた。
「よくわかりません。ですが、思い出してしまいました。自分が生まれた理由を成し遂げられないのは……悔しいです」
はっきりとした感情の表れだ。周囲の空間がそれに呼応して波紋を散らしている。アイレインはそれが嬉しかった。彼女が、すくなくともゼロ領域に影響を与える存在であるということが嬉しかった。
その先にある考えが、たとえどれだけ困難であろうと叶えてやりたいと思った。
「じゃあ、助けるか」
「どうやってですか?」
「すくなくとも、魂だけはなんとかできるだろう。このへんには大量にそれがあるからな」
ニルフィリアの吸収した魂たちでできた闇。ここはおそらく、その内部のはずだ。人の魂がそこら中に満ちているということになる。
「こいつらをニルフィリアから奪えばいい」
「どうやって……いえ、たとえそれができたとしても、彼らに肉体がなければ結局は……」
「正直、そこまで面倒見てられるかってのが本音だけどな。だが、サヤがそれで満足できないのなら、方法を考えるしかないか」
「すいません」
どことなく申し訳なさそうなサヤがとても新鮮だ。アイレインは方法を考えた。
彼らの肉体をアイレインたちがオーロラ粒子を利用して作るというのはどうだろうと考えた。だが、すぐにそれが不可能であるとわかった。試しにとアイレインがどれだけ考えても、他人の肉体が現れることはなかった。アイレインが心から願っていないからだろう。サヤの願いを叶えたいという思いは強いが、それをそのまま解き放ってはやはり矛盾が生じることになるはずだ。
「やはり、不可能でしょうか」
サヤの声は消極的に響いた。アイレインは焦りを覚えた。ゼロ領域での自己否定は、消滅に繋がりかねない。ついさきほど、自分がそれを実感したのだ。
「まで、そんな風に考えるな。救う方法はある」
「ですが……」
「お前がそんなだったら、救える奴も救えない。もっとしっかりしろ」
「はい」
サヤが頷く。アイレインが再び考え込んでいると、小さな笑い声が漏れ聞こえた。
「どうした?」
「いえ…………アインがそんなことを言うなんてって……」
「言うなよ。おれだってらしくないってわかってるんだ」
自分が人類を救う方法を考えているのだ。まったくらしくないとわかっている。だがそうしなければ愛する者が失われるというのであれば、話が変わってくるに決まっている。
アイレインは気恥ずかしさを苦い顔で噛《か》みつぶして再び考えた。
「そもそも、考えるのはおれの仕事じゃないよな」
ふと、呟いた。
「こんな時は、エルミがなにかを考えるべきだ」
「そういえば、あの人は?」
「……そういえばで片づけられるぐらいにしか気にされてないということなのかしら?」
第三者の声は、そのようにして現れた。
「エルミ?」
黒猫が二人のすぐそば、足もとの辺りにいた。
「いつからそこに?」
「アインがみっともない顔してサヤの名前を呼んでた時から」
「嫌なやつだ」
「いままで忘れてた人たちと、どちらが嫌なやつなんでしょうね」
エルミの言葉には毒はなく、ただそう言って楽しんでいるだけのようだ。それでも面白くはない。黒猫を睨みつけ、そしてみじんも動く様子がないことに気付いた。
「それ、大丈夫なのか?」
「仮死状態にしてあるのよ。願望で自爆されてもかなわないから」
「対処を心得ているな」
「そりゃ、開発者ですものね。研究に抜かりはないわ」
「……で、なにか対策とかあるのか?」
「肉体だけでいいなら、わたしがいくらだって作れるわよ。クローンだけど。遺伝子地図ならたくさん持ってるし、そこからオリジナルのものを作ってもいい。ガルメダ市と同じ方法ということよ。アダムとイヴだけでもいいなら、魂は二つだけでもいいわね」
「そいつは簡単でいいな」
サヤの反応を見る。
「人類を救いたいというなら、厳密な意味ではそれはもう無理よ。それをしたければ、他の世界に行くしかないわ。でも、ここにある魂を救いたいというなら、この方法でも問題ないんじゃないかしら?」
「そうですね」
「クローンで大丈夫なのか?」
サヤが納得し、アイレインは確認のために尋ねる。
「要は自我を受け入れる型を与えてあげるということよ。その型で、その人がどうやって生きていくかは、ガルメダ市を見ていればわかるんじゃないの? 正直な話をさせてもらえれば、他人がどう生きていくかにまで責任なんてもてないわ。せいぜい、人間としては欠損なくて生きていけるでしょうねという保証ぐらいしかできないわね」
「いや、それがあれば充分だろ」
話は決まった。
「それなら、後の問題はここにある魂をどうやって彼女から引き剥がすか、ということになるわね」
今度は別の問題で頭を抱えることになる。
「この魂たちは、彼女の魅力の虜になっているという解釈でいいのかしら?」
「そのはずだな」
「それなら、サヤの魅力で落とすことも可能ではあるわね。向こうは性格的に女王様、こっちは癒《いや》し系ということで売り出せないかしら?」
「アイドル事務所かよ」
エルミの言い方は頭が痛くなってくる。
「でも、そういうことでしょ?」
「そうかもしれないが」
「要はサヤの側につけば、人間としての生を取り戻せるということを彼らに教えればいいわけよね」
エルミの言う通りだ。言い方はばかばかしいが、アイレインは気を取り直した。
「つまり、サヤがそれをあいつらに訴えかければいいってことだよな」
「そういうことね」
「……それをニルフィリアがおとなしく見ていてくれると思うか?」
「それは、兄のあなたの方がよくわかってるんじゃないかしら?」
考えるまでもなく、そんなことをニルフィリアが見逃すとは思えない。独占欲が強いというだけではない。ニルフィリアが闇も含めて自分であると考えているならば、ゼロ領域で自分の一部を手放すような真似をするはずがない。
「つまり、あの子と正面からやりあうことになるってことだけど、アインはそれでもいいのかしら?」
「それは、良いに決まってる」
わずかな言い|淀《よど》みをエルミは見逃すことはなかった。いや、隠し事ができないほどに、アイレインは動揺していた。
ニルフィリアと再び向かいあう。
そんなことが自分にできるのか。
いや、やるしかない。
「アイン」
サヤから気遣いの感情が届けられる。アイレインは|強張《こわば》る気持ちをほぐし、笑みを作った。
「やるさ」
もはや、アイレインにはサヤしかないのだ。彼女が思い出した目的をかなえなければ、消滅してしまうかもしれないというのなら、やるしかない。サヤがいなくなればアイレイン自身、存在している理由がなくなるも同然なのだから。
「そう。じゃあ、始めましようか」
エルミの言葉に、アイレインは体の中枢が凍結したような痛みを感じた。緊張なのだろう。どういう結末になろうとも、おそらくはこれがニルフィリアとの最後の対面になるのだろうから。
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05 人造神話
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考えることなどなにもなかった。
退屈との戦いだけしか、そこになかった。
自分以外のなにも存在しない。いや、おそらくは存在しているだろう。ゼロ領域に流れ込み、そして消滅してしまった人々が。ニルフィリアの美に感動さえできないほどに希薄化してしまった自我たちが。
しかし、そんなものはニルフィリアにとって存在していないに等しい。
闇たちはイグナシスが消えたことに心から|安堵《あんど》し、そして落ち着いてしまった。復讐《ふくしゅう》を諦《あきら》めてしまったのだ。情けない連中だと思う。そんなことだからゼロ領域でそんな惨めな姿になるのだ。
しかしだからこそ、復讐を果たせないままでいるというのに、ニルフィリアから離反しようという者も現れないのだろう。それどころかいまやニルフィリアの力の一部という状況に馴染《なじ》んできてさえいる。イグナシスはこれがわかっていたのだろうか。
つまらない。ニルフィリアはすでに自らの状況に退屈を覚え、それをもてあましていた。自分の美貌を崇拝させる存在を求めていた。闇からのものには、すでに飽き果てていた。
次を求めていた。さらなる崇拝。別の世界に行くことも考える。だがなぜか、その気になれない。
首都本土が消滅したことで、おそらくはそこから発生していた全ての亜空間が完全に消え去っただろう。となれば、絶縁空間も取り払われているということになる。行くことは可能だろう。イグナシスはすでにそこに行き、ニルフィリアのことは見ていないかもしれない。いや、それはどうでもいい。別の世界。行けば少しは楽しめるだろうか。
行ってしまえばいまの退屈よりははるかにマシではある。どんなにつまらないことでもなにかがある。ここにいる限り、その何かさえも起こらない。
なにもしなければなにも起こらない。ただ退屈と怠惰に精神が疲弊していくだけでしかない。
そんなことは改めて考えなくともわかることだ。
それなのに動く気がしない。
なぜだろう。自分でもよくわからない。
満足感はイグナシスによって水を差された。そしてイグナシスが去った後に残されたのは、なんともいえない空虚な感覚のみだ。
その空虚さを埋めてくれる者を、ニルフィリアは待っている。
待って、なにが起こる?
なにかが起こる。
いや、起こって欲しい。
ニルフィリアの願望だった。
起こる確証などなにもなく、ただそうなって欲しいという願望でしかない。その願望をかなえようとオーロラ粒子たちが胎動しているが、いまだ現れではいない。予兆の端から、ニルフィリアが闇を使って潰しているからだ。
そんな偽物で幻滅したくはない。
それに、自分の願望をそんな簡単に見せつけられたくはない。
見ればおそらく、ニルフィリアは笑っていただろう。
己を。己の矛盾を笑っていただろう。
いや、誰かを待っているという以上、それが誰かはいまさらオーロラ粒子に暴かれる必要もなく、ニルフィリアにはわかっているのだ。
兄だ。
アイレインだ。
あれで、アイレインは死んだ。ニルフィリアに呑み込まれ、いまや闇の中を漂う哀れな魂の一つになり下がっているはずだ。
そうだとわかっているのに、ニルフィリアは待っている。
兄が、そんな哀れな魂の一つにならず、再びニルフィリアの前に立ちはだかるのを待っている。
そうでなくてはならないと、考えている。
自分の兄なのだから。ニルフィリアの兄なのだから、どれだけ情けなく、みっともない兄だとしてもそうでなくてはならないのだからと、考えてしまっている。
そう思い立って、やはり笑ってしまった。
「なんてこと」
呟いた言葉がゼロ領域を揺する。その波は激しく、嵐のように空間を乱れさせた。
自らに逆らう兄を許せない一方で、そんな兄に常に存在していて欲しいと思っている。従順さを求めながら、だがなんの手応えもないことは許せない。
矛盾している。もしもそんなものがオーロラ粒子によって叶えられていたら、自分は滅んでいたのだろうか。だが滅びてはいない。そんな程度では消滅できないほどに、ニルフィリアは強固な存在となってしまったのだろうか。
どちらであれ、アイレインが現れなければ、ニルフィリアはなにもできなくなっていた。
これもまた、イグナシスの時のように自縄自縛に陥っているのかもしれない。しかし、たとえそうであろうと、そこから解き放たれたいとは思えない。超絶の力を得、束縛できる者などどこにもいない存在になったであろうに、その自由を謳歌《おうか》することができないでいる。
誰かに見せつけたい。自分が美しく、強力で、自由であることを。だが、誰でもいいわけではない。美しさに打たれ、強さに蹴散らされ、それでもなお心折れないままに逆らおうとする。そんな者が欲しい。
それが、ニルフィリアにとうでの兄であった。
だから、次に起きた異変に彼女は期待した。
敵意が荒れ狂っていた。
それは遠くのようであり、近くのようでもある。ゼロ領域での移動方法を知らない未熟な、しかし強力な何かが猛り狂っている気配をニルフィリアは感知した。
それをこちら側に呼び寄せる。なにかが争っている。こんな場所で、もしかしたらそこにはうまくニルフィリアから逃れた兄がいるかもしれない。
そう思ったからだ。
だが、違った。
現れたのは、ひどく無様な物体だった。むき出しになった闘志が肉体を奇怪に変化させ、増殖している。溢れだすエネルギーは周囲に雷をまき散らしていた。
ナノセルロイドどもだ。
レヴァンティン、カリバーン、ドゥリンダナ、そして裏切ったハルペーが食い合うように争っている。周囲には大気のようにオーロラ粒子が満ち、彼らの戦いは三対一という状況であっても決着がつく様子はなかった。過剰なオーロラ粒子によって制御不能となった部分を切り捨て、しかし欠損が著しくなればそれを食うことで再生を行う。再生と破壊の間で摩耗していく物は、それぞれの思念がオーロラ粒子を変化させることで補てんしていく。
無限の環《わ》がそこに出来上がっていた。
ニルフィリアはその争いに失望の視線を注いだ。彼女の存在に機械たちは気付いたようだが、環を崩すことを恐れてか、どちら側も接触してこようとはしなかった。
あるいは目の前の敵を滅ぼすことしか頭にないのかもしれない。その考えに特化することで、ゼロ領域を生き延びているのかもしれない。
機械が心。笑わせてくれる。
ニルフィリアは冷たい気分でそれを見下ろした。イグナシスはこの戦いを観察しているのだろうか。それとも放置しているのか。見る意味のある戦いだとも思えない。機械が心を持ったという点以外では。
いや、よく観察すれば、三体のナノセルロイドたちで主導権を握っているのはレヴァンティンのように見えた。ならば心を持ったのはレヴァンティンとハルペーだけということだろうか。
いま、レヴァンティンもハルペーも、伝説にある竜の形を取っていた。レヴァンティンはアジア系の竜となり、ハルペーがヨーロッパ系のドラゴンだ。レヴァンティンはカリバーン、ドゥリンダナと連結し、さらに増殖したナノマシンを使って八つの頭を持った竜となっていた。対してハルペーは全てを凝縮させ、世界を支えそうな太い手足を持ち、長い首の先に巨大な|顎《あご》があった。それが大きく開けば、八首の竜の内、三つぐらいは一度に噛み破ることができそうなほどに巨大で、鋭い牙を並べていた。背中に広がった異は端に行くほど形が怪しくなり、そこから制御不能となったナノマシンを放棄しているようだった。同じようにレヴァンティンの八首は、一つにまとまった尾の先から、それらを廃棄している。
放棄され、両者の再吸収から逃れたナノマシンたちがそれぞれにさらなる変化をしていた。レヴァやハルペーの闘志に影響され、形を得る。それらは両者の劣化した生き物だった。生まれ、そして元来のオーロラ粒子をエネルギー化させる能力によって暴走し、崩壊している。
だが、崩壊を免れたものも中にはあり、それらはレヴァンティンたちの闘志の渦に呑み込まれるように、その方を|唸《うな》らせている。どちらに味方するというわけでもなく、ただ食い荒らすことを目的としているようだった。
あるいはあれは、両者の中に取り込まれていた異獣なのだろうか。いや、異獣はナノセルロイドから生まれたのだ。たとえあれが元のものであろうとそうでなかろうと、出てきた結果にはかわりないだろう。
そしてニルフィリアも興味がない。
さて、どうしてくれよう。期待させられて裏切られた。勝手な期待だが、そんなことは関係ない。エゴの強いものが勝つ。極論すればそういうことであるのがゼロ領域だ。
つまり、ニルフィリアの怒りはこの場所で生きる者にとっては至極正当なものということであった。
潰そう。そう考えた。考えた瞬間、ニルフィリアの思念がゼロ領域を駆け抜けた。機械たちは戦いを停止させ、ニルフィリアと向かい合った。異獣たちも揃ってこちらに敵意を伸ばしできた。ニルフィリアの意思には、それだけの影響力があった。
「おもちゃが勝手に動いてるのって、腹立たしいよね。飽きられてるんだから、おとなしくゴミ箱に行きなさいよ」
その言葉に反応したのか、一斉に襲いかかって来た。八つの首が、巨大な顎が、無数の異獣たちがニルフィリアの強い影響力を恐れて襲いかかって来た。
それを闇が迎え撃つ。不定形のまま扇状に広がった闇が全ての牙を受け止め、逆に浸蝕《しんしょく》する。彼らの持つ破壊力など、ニルフィリアの前ではないも同然だった。物質世界ではどれだけ強力であろうと、そこにあるのは出来たての、しかも戦うことでなんとか自らを維持しているだけの脆弱《ぜいじゃく》な精神だ。腐りかけとはいえ数十倍という魂を凝縮させた闇を前にして、それらはなんの意味ももたないに等しい。
それでも闇の侵蝕には抗っている。消滅した翼や鱗や牙や肉は瞬時に再生し、深く食い込もうとする闇を吹き散らそうと暴れている。
だがそれは、泳ぎ方を知らないで|溺《おぼ》れている者が、手足をばたつかせているのと大して違いはない。
ニルフィリアは機械たちの反応を見、それを楽しんでいた。
それぐらいしか楽しみがなかった。できるだけ長く楽しませて欲しいものだと思う。飽きた時が彼らの消える時であり、そしてニルフィリアが一歩、絶望に近づく時でもあるように思えた。
だが、絶望よりも先に、飽きるよりも先に、新たな変化はやってきた。
それは内側から訪れた。ニルフィリアの心をノックし、優しい笑顔を浮かべていた。誰の顔かはわからない。そういう感触だったというだけだ。
ふかふかのベッドに全身を沈ませ、優しい音楽を聞いているような感触だった。
とてもとても小さい時に、母の腕に抱かれているかのような安堵だった。
そして、兄に手をひかれて歩いている時。
三つ目のイメージに、ニルフィリアは脳が痺《しび》れるような衝撃を覚えた。そんな記憶が自分にあったことに驚いた。いや、あったに違いない。
幼い時ぐらい、自分がまだ何者かも、兄と自分の関係性がいまのような形に出来上がる前の時ぐらい、ニルフィリアにもあるのだ。
そんな短い時代のことなど覚えてなどいなかった。だが、浮かびあがったイメージはそれを克明にニルフィリアに想起させ、そしてそれは本当にあったと確信させた。
それに安堵をおぼえている自分というものがいたことを確信させた。
自分が兄を求めている根本の部分に、この時の記憶が存在しているかもしれない。そう考えた時、ニルフィリアは内部で揺らぐものを感じた。
危険を感じた。この安堵を受容してはいけない。
だが、ニルフィリアが感じた安堵は、彼女だけのものではなかった。それはゼロ領域に静かな波紋として広がり、闇を伝い、ナノセルロイドやクラウドセル、そして異獣たちにも伝わっていた。
戦いの嵐がいつの間にか止んでいた。
全てが動きを止め、波紋の起こす安堵という振動を受け入れようとしていた。
しかもそれは、ニルフィリアの内部から、ニルフィリアを中心として起こっているのだ。
ニルフィリア自身にはなんの自覚もないというのに。
行かなければ、いや、行きたい。そういう気分にさせた。そこに行けばなにもかもを忘れて眠っていられる。そういう気持ちにさせる。
ニルフィリアの中で危機意識が急速に濃度を増していく。
最初に反応をみせたのは、やはりというか、闇だった。復警心を忘れ、惰性のように従っていた者たちがその波紋に流される。闇の一部が剥離《はくり》し、消えていった。
危機感が募る。だが、誰が、なにをしているのか。それが見当もつかない。なぜニルフィリアの内部からそれが起きているのか。わからなければ対処のしょうもない。
誰だ? 誰だ? 誰だ? 疑問が渦巻く。オーロラ粒子はそれに偽物の解を与えない。ただ、ニルフィリアの動揺を別の波にして安堵の波紋にかぶせていく。だが、どちらがより質的に上位なのかはっきりとしていた。動揺という精神状態においてまったく健全でない波を、安堵という静的解放という意味で最大の感情の波があっさりと呑みこんでいく。
二つの感情が同時に発生するわけがない。では誰だ? アイレイン? 否。リリス? 否。イグナシス? 否。思い出せる三者の誰も安堵という言葉からはほど遠い。
いや、もう一人いる。
偽物。
偽物の人形。
惑わしの娼婦《しょうふ》。
「あなたね、サヤ!」
その名を強く呼ぶ。同時に重なり合っていた存在が分離した。アイレインを呑みこんだ時から忘れていた。すでに、彼女のことを覚えている意味がなかったからだ。
静かな表情を湛えた、ニルフィリアに似た少女がそこに現れた。
「なにをしたの?」
「わたしの役割を果たしているだけです」
彼女がニルフィリアから離れたことで、その波紋はより強くなった。ニルフィリアという存在を通して放っていたためにくぐもっていたものが、より鮮明化したということだろう。
安堵の波が強くなり、闇の動揺も激しくなる。闇の分離の速度も速くなる。それらは黒から白に色を変化させ、粒子のように細かくなりながらサヤの胸の中へと吸い込まれていく。
「わたしは楽土。ゼロ領域に迷い込んだ人々を救済することを目的として作り出されたものです」
「へぇ。お兄ちゃんのおもちゃじゃなかったんだ」
ニルフィリアは毒を吐くことで自制を取り戻した。動揺が鳴りをひそめ、そして嫌悪と歓喜と憎悪が同時に湧きあがるのを感じた。嫌悪は目の前のサヤに、そして歓喜と憎悪はいまだにどこかに隠れているだろう兄に。
サヤが現れて、兄がいないという道理はない。どこに隠したかも忘れたサヤを見つけ、自分を取り戻したに違いない。他人によりかからなければ自分を持てないなんて、惨めにもほどがある。
やはり兄はいた。
|茨《いばら》輪の十字。
その瞳を輝かせ、侵蝕の魔眼を世界に放ち、茨と十字の墓を撒《ま》く。他人の陰に立ち、他人の陰にしか立てず、他人の陰で力を振るう男がそこにいた。
「相変わらず、惨めなことを」
魔眼の視線が周囲の、ニルフィリアになお従おうとする闇を直視し、その形を変化させる。アイレインの右目の眼球と同じ形に、茨輪の十字を刻んだ球体へと変化する。
視線から外れた場所にいた闇がアイレインを呑《の》みこもうとする。だがそれは別のものに|遮《さえぎ》られた。アイレインの体を取り巻く無数の茨にだった。茨はアイレインを取り巻き、そして同じようにサヤに襲いかかった闇をも薙《な》ぎ払った。
アイレインとサヤを守る茨には、鋼色の刺《とげ》が無数に生えていた。それがどのようにしてできているのか、ニルフィリアは即座に理解した。アイレインの誰かを守るという力と、サヤの楽土を守るための力が混合しているのだ。物質世界でアイレインに銃や剣を与えていたあの能力だ。
「ふざけないでよ」
その混合に気付かされ、ニルフィリアの怒りはさらに増した。
アイレインのその能力はどうして発生したのか。 それを考えたからだ。ニルフィリアを失ってゼロ領域へと赴いたからではないか。ニルフィリアを守るために、もう失わないためにその力を手に入れたのではないのか。
それなのに、どうしてその力をニルフィリアに振るう?
偽物のサヤを守るために振るうのか。
「ふざけないでよ!」
ニルフィリアの怒りを受けて、闇が勢いを増した。怒りもまた感情の種類では動揺と同じように安定を欠いたものではあるが、その勢いはどんな感情よりも激しく、また速度がある。安堵の波を食い破り、闇に力を与えた。茨が勢いに押される。アイレインが素早く移動し、サヤを抱えで距離を稼ごうとする。闇が追いかける。だが、アイレインの速度は怒りに染まった闇よりも速かった。
守る者を得たアイレインの潜在的な強さが発露していた。
「ふざけないでよ!!」
だが、だからこそ感じるのは怒りだ。本来ならば、それは自分のためにある力のはずなのだ。ニルフィリアに捧げられるはずのものなのだ。
それを偽物の人形のために使われるなど、許せるはずがない。
闇がアイレインたちを追いかける。
アイレインたちはそれ以上の速度で移動している。
安堵の波は消えていない。静かなのに、どこまでも遠くに波紋が広がっていく。それを受けて、闇だけでなく消滅しかけている魂たちまでもそちらに引き寄せられている。
それらがサヤの力となる可能性を考え、ニルフィリアの危機感はさらに増し、比例して怒りも増した。
自分と同じ顔をし、そしてまるで反対。
これでは、リリスだ。
違うのは自分の真反対が映った鏡を求めるか、憎悪するかだけでしかない。そして、その鏡に映ったニルフィリアに、本来、自分が持つはずだったものを奪われるなど笑い話にもならない。
それは滑稽でみじめな女が担うべきドラマであり、ニルフィリアがその害を被るべきではない。そんなことは、ニルフィリアは許さない。
闇の速度が増す。
アイレインたちの速度が増す。
不毛な追走劇に終止符を打ったのは、一つの変化だった。
それは音もなく現れ、そして確実う変化したことをニルフィリアに伝えた。
世界が急に、窮屈なものに変わったように思えた。
ほぼ同時に、サヤの姿が消えた。
アイレインだけが、そこに残った。
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†
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保険はあるから。
その言葉を信じたわけではない。それを口にした時のエルミからは底知れないものを感じた。怨嗟が湯気を立てているかのようだった。イグナシスへの恨みを晴らしていないということだった。
では、どこかでイグナシスは生きている。
この場にいないということは伏兵となる可能性もある。
そういうことだった。
だが、アイレインはそのことを深く追及したりはしなかった。したいようにすればいいと思っていた。アイレインとサヤの邪魔にさえならないのであれば、エルミがしたいようにすればいい。それが、彼女がここで生きていけることに繋がる。それを望んでいるかどうかの怪しさが彼女にはあったが、やはり、疑っていてもしかたがない。
イグナシスに関してもなるようになると割り切る以外にない。
やるしかないということだ。
サヤが楽土を解放した。
概念はわかっても、それがどういうものかはアイレインにもわかっていなかった。だから彼女から放たれる波動に危うく呑まれるところだった。
それは、ここに来れば全てが許されるというような絶対的な安堵だった。アイレインのような人間には耐えがたい魅力を備えていた。
だが、それに呑まれてはサヤを守る者がいなくなる。アイレインは必死に耐え、なんとか乗り切った。
その時、ニルフィリアに見つけられた。
アイレインは眼球の力を駆使し、全力でニルフィリアの力に対抗する。決して楽なことではない。少しでも妹への恐れを思い出せば、それだけで再び闇の中に舞い戻ってしまいそうだった。
ニルフィリアの怒りが闇に力を与え、アイレインはサヤが満足するだけの魂を集めるまで逃げを打った。闇の質量は無限にも思えた。それを眼球とサヤの力を合わせた茨だけで防ぐのには限界があった。
茨は、無意識的に現れた。クラヴェナル市での体験がアイレインの求める戦うための道具にこの形を与えた。サヤの物質世界でさんざん世話になった力が、茨の刺の鋭さを増させた。
死角からの闇を薙ぎ払うのに茨は十分な働きを見せたが、さすがに怒り狂ったニルフィリアの前では風前のともし火のように思えた。
だが、距離に意味のないこの場所といえども、逃げされないのであればいつかは限界が訪れるとしか思えない。
「そろそろいくわよ」
またもどこかに姿を隠していたエルミの声が聞こえてきた。
「なにをする気なんだ?」
「サヤを隠すのよ」
「どうやって?」
「詳しい説明をする時間があると思う?」
「ないな」
闇はいまにも魔眼の隙を突き、茨を打ち崩してアイレインとサヤに迫ろうとしている。アイレインの返事は悲鳴に近かった。
「だけど、隠しても決して完全ではないから、誰かに守ってもらわなくてはならないわ」
「なんだと?」
「アイン、どうかしました?」
エルミの声はアイレインにしか届いていなかったようだ。彼女が意識してそうしたのだろう。
「どういうことだ?」
アイレインも意識してエルミに話しかけた。
「説明している時間はないと言ったでしょう。強度を得るためには、どうしても物質的世界での時間が必要になる。そのためには、それを確立するための時間をこちらで稼がなければならないでしょう」
「どれぐらいかかる?」
「そんなもの、ここでの体感にはまるで関係ないわ」
やられた。
まさかこんな土壇場で、そんな罠がしかけられているとは。
いや、エルミにそんな気はないだろう。ただ、彼女の目的を果たすためにアイレインたちの状祝を利用したにすぎない。長く旅を共にしてきたことは、この場所ではそれほど意味をもたなかった。恨みを持っ気さえ起きない。ここは自らのエゴをさらけ出す場所なのだから。
「サヤを守るのには役に立つんだな?」
そのことだけは念押ししておく。
「当たり前でしょ。さすがにあなたたちを見捨てるほどには、非情にはなれないわね」
「信じた」
「アイン?」
アイレインの様子に、サヤが疑問を覚えている。隠しているつもりだが、戸惑いが滲み出ていたかもしれない。隠しきれるものではない。だが、サヤに知られれば、決意が鈍るかもしれない。
「やってくれ」
アイレインは叫んだ。
そして、それは起こった。音はなかった。しかし、朧の中にあったサヤの感覚が消失した。オーロラ粒子になにかがあった。アイレインの内部を覗《のぞ》きこもうとする圧迫感に、わずかな緩みがあった。それは深海からわずかに地上に近づいたときのような圧の減り方だった。
オーロラ粒子の総量が、超絶的なものから圧倒的なものにという、個人にとっては大した問題ではないが、しかし確実な変化があった。
サヤが目の前から消えた。
わかっていたとはいえ、意外にもアイレインにあまり深い衝撃を与えなかった。
サヤが自らの使命に目覚めた時から、こうなることを予感していたのかもしれない。なにもわからずアイレインたちとともにいた時代は終わったのだ。サヤは彼女の目的のために生きる道を見つけたのだから。
それを守るために戦うというのなら、そう悪いことではない。
「お兄ちゃん。あの子がどこに行ったか、教えてくれないかな?」
「実の兄を前にしていう言葉か?」
ついさっき言われた言葉をそのまま返す。ニルフィリアが|柳眉《りゅうび》を逆立てる。視線の圧力が増し、それだけで押しつぶされそうだった。
だが耐えた。
耐えることができた。
自分が負けることがあれば、サヤに害が及ぶ。そう考えれば、いくらでも耐えることができる。
「ほんと、この間もそうだったけど、いきなり強気になるなんて生意気すぎる。寄生虫みたいに誰でもいいわけ?」
「ニルに似ていたから魅かれた。だが、ニルじゃなかったから愛することができた。そういうことだろうさ」
「もう、わたしのことは愛してないの?」
上目遣いに媚びてくる妹を相手に、完全に動揺を消すことができなかったが、だからといって惑うこともない。わずかに首を振るだけでそれを振り払う。
「愛しているさ。妹としてな」
「じゃあ、妹のお願いを聞いて」
「それはだめだな」
「どうして?」
「妹よりも大切なものができたからだ」
「お兄ちゃんのくせに」
ニルフィリアの視線は相変わらず痛い。だが、アイレインはそれを無視し、動きを再開した闇の方に意識を集中した。
時間を稼ぐ。
しかし、どれほどの時間を稼げばいいのか。
「ハルペー! 手伝え、お前の大好きな人類を守る仕事だ」
アイレインの叫びに、状況を静観していた機械たちの中から、ドラゴンが動いた。
「人類はサヤとともに生き残るぞ」
念押しにもう一度叫び、迫りくる闇に魔眼の視線と茨で対抗する。無数の眼球が周囲に飛び散り、それが荒れ狂うオーロラ粒子の波にさらわれて四方に飛び散っていく。横合いから現れたハルペーが闇に食らいつく。自らの使命に沿った行動に、ハルペーの意識はさきほどよりも冴えをみせたようだ。闇に呑まれることなく、逆に闇を食い荒らしていく。
ニルフィリアの顔には思い通りにならない怒りが表出し、闇の勢いはさらに激しくなる。だが、アイレインは呑み込まれる気がしなかった。妹に対していまだ踏み出しきれない感情があるにはあるが、それ以上にサヤを守るという気持ちの方が強かった。
勝てるとは思えない。だが、時間を稼ぐことはできるだろう。サヤを守るという気持ちが揺らがない限り、アイレインに消滅は存在しない。ハルペーとてそれは同じはずだ。
後は、ニルフィリアの怒りに押し切られないようにすることを考えなくては。
「やってくれたものだね」
戦いに水をさす言葉は頭上から降ってきた。
「イグナシス」
ニルフィリアの声には苦味が混じっていた。
「これはエルミの仕業だろう? なるほど、絶縁空間を理解したというのはブラフだったのかもしれないな」
イグナシスの出現は闇の勢いを弱めはしなかった。だから、アイレインには彼の言葉を聞いている余裕はない。
「どういうこと?」
ニルフィリアが尋ねた。
「亜空間を作られたのさ。それによってなくなっていた絶縁空間が再び生まれてしまった。それを破壊するまでは、我々はどこにもいけないよ」
「なんですって?」
「推測するに、それがエルミの目的だったのだろうな。わたしをゼロ領域に孤立させる。観察者を宗とするわたしにとって、なにも見ることができないというのは確かに自己崩壊を招きかねない危険な状況だ。全ての観察対象を一度破壊し、そしてわたしが他の世界へ行けないようにゼロ領域からの干渉を完全に封じた亜空間を構築する。そして我々は、ゼロ領域という監獄の中で永劫に孤立することになる。ふむ、もしかしてこれは復讐なのかな?」
「ようやく気付いたのかよ」
さすがに、アイレインもその言葉は無視できなかった。この男は、ドミニオの死を招いた自分の行動をまるで覚えていなかったとでもいうのだろうか。
「ああ、君か。いいのかい? もしかしたら君は、捨て駒にされたのかもしれないんだよ」
「……楽しいお言葉だ。涙が出るほどありがたいね。 あり得るだけに」
「わかっているのか。それなのに、どうして抗《あらが》う?」
「お前が大嫌いだからだよ」
こいつの言葉に乗ってはだめだ。アイレインは直感した。そうでなくとも、ドミニオを殺した男だということもある。いまだにソーホの姿だということも腹が立つ。好きになれたわけではないが、それでも顔見知りだ。
「お前に味方して得があるのか? リリスを見捨てたように、用が済めばおれも捨てるだろう。下手な甘言はやめてもらいたいぬ。素直に助けてくださいと土下座してみろ。その姿をエルミに見せたくなるかもしれない」
「なるほど、愚かな男のようだ」
言葉を重ねるごとに、自分の中でイグナシスへの憎悪が増していくのがわかる。エルミと同じアルケミストのはずだが、この男とは永遠に仲良くなることはないだろう。
「なんとでも」
吐き捨てる。初志を貫徹しない方が愚かだ。少なくとも、この男に寝返る理由がどこにも見当たらない。
「エルミはお前の泣きっ面が見たい。おれはサヤに目的を果たさせたい。利害は一致している」
「君の身は犠牲になるわけか」
「さあ、それはどうだろうな」
助けは来る。サヤがおれを見捨てはしない。そう信じてはいるが、状況がそれを許してくれるかどうかは五分五分、いやもっと悪い賭けになるだろう。
だが、まあ……信じるしかない。
「奇跡ってのが、ここは起こりやすそうだしな」
ニルフィリアが|呆《あき》れた顔をした。だが、その内面では相変わらず怒りが沸騰している。闇の猛攻は途絶えない。茨は闇を削り取り、ハルペーの牙と巨体が必死にふせぎにかかるが、穴だらけのダムが激流を押さえているようなものだ。そこら中から闇が漏れる。
「それならお兄ちゃんたちを無視して、先にサヤたちの亜空間を見つけちやえばいいんだよね」
「ちっ」
アイレインは魔眼を駆使して眼前の闇を薙ぎ払い、さらに茨を思い切り広げた。それで闇を受け止める。思い付く方法はこれしかなかった。闇を抱え、ニルフィリアの思念は強力だ。いくらサヤへの思いで強くなろうと、簡単に力の差が覆ったりはしない。ハルペーの助力もあるが、それもあまり当てにできない。
絶望的というわけではないが、不利には変わりない。
「レヴァンティン、カリバーン、ドゥリンダナ」
イグナシスが静観していたナノセルロイドたちの名を呼んだ。
「ニルフィリアに加勢し、エルミの作りだした亜空間を捜し出したまえ」
「了解しました」
あんな姿だというのに、レヴァの声は鈴が鳴るようにゼロ領域に響き渡った。ソーホではなくイグナシスだということの迷いは、どうやら本当に存在しないようだ。
「ハルペー、任せたぞ」
舌打ち混じりに叫ぶ。そうなるだろうとは思っていたが、実際になって面白いわけではない。特にレヴァには心変わりを期待していた部分もある。
「承知」
ハルペーが雄々しく叫び、向かってくるナノセルロイドの前に立ちふさがった。意気が上がっただけハルペーの方が優勢だが、それもまた決定打には至っていない。
状況はやはり|膠着《こうちゃく》したままだった。それは、守勢にあるこちらが不利であるということだ。時間稼ぎという言葉がいつまでも頭の中にこびりつく。エルミはゼロ領域で時間の意味はないと言った。だが、時間の流れが存在しないのならば、この状況が最初の一秒から少しも過ぎていないという意味にも取れる。
余計なことを考えてはいけない。わかっている。わかっているが考えてしまう。体が一寸刻みにされているような焦りが次第にアイレインに圧迫を与えてくる。
イグナシスの言葉だ。エルミの裏切り。考えでもどうしようもないことのはずなのに考えてしまっている。まるで呪いのようだ。
それが、イグナシスの目的か。
こちらの動揺を誘っているのだ。そう考えることでエルミへの疑いを払いのける。サヤへの想いが色|褪《あ》せたわけではない。だが、イグナシスは強固ではない部分に、まるで釣り針をかけるように毒のある言葉を残していった。
(忌々しい)
広げた茨と闇はなんとか均衡のとれた押し合いを続けている。眼前の闇は、変わらず魔眼によって変化させている。眼球となった闇たちは後続の闇に押されてどこかへ飛び散っていき、日に見える場所には残っていない。
「ねぇ、お兄ちゃん。いまなら許してあげるから、そこを退て」
ニルフィリアの猫なで声に、アイレインは顔がひきつるままに苦笑いした。
「お前の許すは当てにならない」
「ひどいなあ。今度は本当だよ。お兄ちゃんは特別待遇でわたしの側にいることを許してあげる」
「それで、サヤを殺すのか?」
「当たり前でしょう」
「じゃあ、だめだ」
ニルフィリアは笑みを納めない。自分の優位を理解しているからだ。
「どうして?」
声が捕まえたネズミを弄ぶ猫のそれになっている。元の関係を取り戻そうとするニルフィリアの意思が感じられた。臆病な自分を思い出す。己の根本が何ひとつとして変わっていないことをアイレインは知っている。妹の浮かべる笑顔は|脊髄《せきずい》を痺れさせ、内臓を|萎縮《いしゅく》させる。
だが、口を開く。
はっきりと言葉を紡ぐ。
あの時には惑いとともにしか言えなかった言葉を、決然とした意志とともに放つ。
「お前は、妹だ」
「いまさら、血縁になんの意味があるの? わたしもお兄ちゃんも、もう人間じゃない。ゼロ領域に入る前の細胞なんて、一体何パーセント残ってるのかしら? きっとゼロよ。それなら、血縁に意味なんてない」
かすかに首を傾け、|妖艶《ようえん》に笑う。髪が流れ、白い首筋が露になる。紅い唇が引き伸ばされる。少女というどこかに不完全さを宿した体に完璧な色気を漂わせている。壊れそうな細い体に蕩けたように下がる|目尻《め じり》は、だからこそ危うい欲を想起させる。
「いまなら、思う存分好きにしていいよ」
昔ならば、それでもうアイレインはなにもできなくなる。妹に逆らえず、だからといってその体に手を伸ばすこともできず。彼女の願いをかなえるための愚かな|木偶《でく》になり下がる。
今もそうだ。脊髄の痺れは止まらない。妹の姿に肉の欲が痒さ、精神が抵抗を失いそうになる。
しかし、言いなりにはならない。
心に生まれた最後の壁までは、崩れ去らない。
「無理だ」
緩みかけた顔に再び苦笑を浮かべ、アイレインは首を振る。闇を受け止めた茨が軋んだ感触を与えた。顔とは裏腹にニルフィリアの中で再び怒りが持ち上がっている。持ち直したアイレインの精神が、それを押し返している。
「どうして?」
「お前は妹だ。異民になろうとなんだろうと妹だ。それに、お前は顔は好みだが性格が好みじゃない」
後半は、ふと思いついて付け足してみた。だが、言ってみると意外に真実であるような気がしてきた。物心がつくかつかぬか、そんな時に生まれた妹。その時からアイレインはこの顔に呪縛されたのだ。そして顔だけなのだ。
真実など知ったことではない。そうと割り切ることで、ニルフィリアという存在からさらに一歩、心を離すことができたような気がした。
「……ふざけないでよ。このくそ兄貴」
ニルフィリアの口から、かつて聞いたこともないような言葉が出てきた。
「わたしの前にびくびくするしかできなかったへぼ兄貴が、なにいっちよまえにかっこいいことを言ったつもりの顔になってるのよ。気持ち悪い。おとなしく部屋にこもってわたしの写真を抱いてればいいのよ」
怒りに狂おうとも美しい。それが妹であったはずだが、いま、唾《つば》を飛ばしていそうなほどに怒鳴り散らす姿からは美しさが減衰していた。
「黙ってわたしの前で跪け《ひざまず》ばいいのよ。許しを請いなさい。泣きながらごめんなさいって言えばいいのよ。いまなら一日犬の真似するだけで許してあげるわ」
どこまでも強気だが、その言葉にアイレインは怒りとは別の物を感じた。
動揺、悲しみ、|憔悴《しょうすい》。
これはどういうことだ?
感じたものを統合して頭に浮かんだイメージは泣いている子供だった。欲しいものを買ってもらえずに、あるいはお気に入りのものを取り上げられた本当に小さな子供の姿だった。
ニルフィリアのそんなところなど見たことがない。
だが、アイレインの脳裏では、三歳ほどの妹が泣きながら取り上げられたものを取り返そうとわめいている姿が浮かび、そして消えなかった。
そんな姿など見たことないのに。
妹離れのできた兄に対し、兄離れができなかった妹。
そういう図式を思いつき、ばかばかしさに否定する。ニルフィリアがアイレインに固執していた。ありえない。そう思うが、しかし実際、ニルフィリアはアイレインを側に置こうとしていたように思えた。ガルメダ市の時から、自分に従わないことに腹を立てていた。
「いまさら……」
ふらつきかけた精神を再び元に戻す。
もはや戻れない。揺らぐことが許されないのがゼロ領域だ。
そして、揺らぎを見せたニルフィリアに呼応するかのように闇の勢いも失われていく。
長くて短い時間稼ぎが終わりに近づいているように思われた。
アイレインの茨は闇を押し返し、切り刻み、視線でそれを一掃する。闇が眼球へとすり替わり、比例して闇は縮こまっていく。
もはやニルフィリアの周囲に留まるのみにまで、闇の勢力は減退した。
いまなら、ニルフィリアを滅ぼすことはたやすいだろう。
だが、アイレインは動かなかった。右目を閉じ、涙を流さないまま泣き、こちらを睨み付けたままぼうぜんと立ち尽くす妹の姿を見た。
「殺しなさいよ」
妹からそんな言葉が出る。
たまらない。
たまらなく、罪悪感に襲われる。
甘さだ。抜けきらない自分の甘さがここにきてアイレインを束縛する。ドミニオに拾われ、社会の裏側を知り、擦れた気になってさえなお失われなかった自分の甘さが妹を殺させない。
ゼロ領域。
オーロラ粒子。
ここは人間を問う場所だ。混沌でも世界の原初でもない。知能という一点以外、あらゆる面で他の動物たちに負け、しかし知能という一点で他の生物たちを押しのけて繁栄してきた人間にのみ用意された場所だ。他の動物たちがここにきて、いったいどんな矛盾崩壊をするというのか。そして、亜空間に|数多《あまた》いたはずの動物たちは、ここではどこに消えたのか。動物の異民を見たことがないのはどういうわけか?
人間性そのものが問われる場所だ。
しかも下衆しか生き残れないなんとも最悪の場所だ。
地獄だ。ここは。
そして、地獄にふさわしく、下衆が最後の勝者となるのだ。
つまり、アイレインやニルフィリアではなく……
「まあ、こうなるだろうと思っていたがね」
この男が勝利者となる場所ということだ。
イグナシス。
ニルフィリアの顔が驚きに変化し、そして固まった。悪い薬でも飲んだかのように体が震えだす。
「お、お、お。おにいちゃ……」
言葉もまともに|喋《しゃべ》れない。なにかがあった。そう考えた時には、もうニルフィリアに駆け寄っていた。
「ニルっ!」
これがニルフィリアの罠《わな》の可能性もあった。だが、それを頭から否定し、震え続ける妹を抱きしめた。震えは止まらない。腕や胸に振動が伝わってくる。体が思うように動かない様子だ。
「なにをした!?」
イグナシスを捜す。だが、遠くからまるで試合でも観戦するかのように眺めていたイグナシスの姿がどこにもない。悪い予感が募っていく。ニルフィリアに対して、そしてアイレイン自身に対して。
声だけが、アイレインに届く。
「ガルメダ市でなにが魂に形を与えたか、忘れたわけではないだろう?」
その時、アイレインが思い出したのはガルメダ市ではなく、クラヴェナル市でのことだった。上空、レヴァンティンとともにゼロ領域に突入し、そして最後になにを見たか。
フェイスマン。
そしてイグナシスの相手の肉体を乗っ取るという行為が重なり合わさった。なぜ、イグナシスはガルメダ市民の肉体を奪わず、ドミニオやソーホを選んだのか。
いや、それならニルフィリアだって、彼らのように物質世界での肉体を得たわけではない。
わかるのは、これが罠だということだ。ニルフィリアのではなく、イグナシスの。
「わたしは観察者でいたいとは思っている」
いきなりニルフィリアの腕が動き、アイレインの肩を掴《つか》んだ。
「だがそれが、常に傍観者でいるという意味ではないことは、すでにわかっているはずだ」
恐らく自分の意思とは違う動きは、ニルフィリアの肉体が操作されていることを感じさせた。
闇だ。咄嗟に理解した。ニルフィリアの周囲にまとわりつく、量の少なくなった闇がニルフィリアを操っている。
フェイスマン。
また、この名前が頭に浮かんだ。
「仕込んだな」
なにが起こったのか、それでわかった。
闇の中にフェイスマンを介してガルメダ市に現れた異民の魂が混じっていたのだ。そして、フェイスマンの能力をイグナシスが掌中に収めていたのだとしたら。
操っていたはずの闇に操られる。
「君に妹は殺せない。その右目、いまは開《ひら》けないだろう」
いまや、ニルフィリアは全身を使ってアイレインの体にまとわりついていた。肩を掴んでいた手が後頭部の髪を握り、頭を抱くようにしている。足が腰に絡み付いている。頭頂部にニルフィリアの苦しげな息がかかる。アイレインの視界は、ニルフィリアの胸によって塞《ふさ》がれていた。
「君の負けだ。だがそれは、君自身の甘さによってだが」
イグナシスの気配を背後に感じた。声もまた、同じ方向からだった。
「イグナシス」
振り返ろうとしたが、ニルフィリアの腕がそれを邪魔した。
やるしかない。決断が迫られていた。サヤを守るためにはやるしかない。右目を開け。茨を放て。だが利用された妹を引き裂いてそれをすることを体が拒んでいる。
「お、兄ちゃん」
苦しげな妹の声が頭にかかる。見上げようとしても、やはり腕や体が動くのを遮る。
「殺、し……て」
冷や水を浴びせられたように、言葉が体を寒くした。
「嫌よ……こんなの。誰かのものになるくらいなら、お、兄ちゃんを…………」
その声に、自らの不幸に決断を下した|可憐《かれん》さも悲壮さもない。意のままにならない自分の体を呪い殺そうとでもするかのようだ。
「ニル」
「はやく、してよ。この、のろま!」
罵倒《ばとう》する声は、いつものニルフィリアだった。
迷う暇は、もはやなかった。なにか決断を下す最後のひと押しがあったわけではない。衝動的に、いや、まだニルフィリアに逆らえない部分が自分の心にあっただけかもしれない。それが最後のひと押しとなった。
アイレインは右目を開いた。右目の視界が歪んでいた。泣いていたのかもしれない。妹にとどめを刺すことに、やはり抵抗があるのだ。
当たり前だ。そこまで簡単に割り切れるのなら、いまここに自分はいなかっただろう。
だが、瞳はすでに開き、ニルフィリアの胸が目の前にある。
消えさる瞬間の顔を見ることはできなかった。ただ、頭を抱く腕に力が加わった。ニルフィリアの柔らかさを顔全体で感じ、そして消滅の瞬間が頬に張り付いた。
「イグナシス!」
振り返る。だが、すでにそこにイグナシスの姿はなかった。エルミの作った亜空間を見つけ出したのか。
それを追うべく、アイレインも意識を集中して亜空間を捜す。だが、見つからない。サヤやエルミで探っても同様だ。エルミが構築した亜空間は完全にゼロ領域から偏離された状態となっているのか。
焦る。だが、どうすればいいのかわからない。
アイレインにできることは、ただ、サヤを強く念いしてその存在を求めることだけだ。
「他にも方法があるだろう」
そして、その声が聞こえてきた。
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黒穴にて ♯03
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いつのまにかそこに狼面の男が立っていた。
「こんな時になんの用だ?」
|苛立《いらだ》ちとともに、ディックに怒鳴りつける。
「こんなときだからこそだな」
ディックは泰然としていた。
「おれは、何度も言ったはずだ。お前の右目がどんなものか」
「ああ、言ったな」
右目の中にゼロ領域がある。信じられないが、ディックはずっとそう主張している。
「つまり、ここと同じってことだろ。それがどうした?」
「違う。全てのゼロ領域が繋がっているのなら、絶縁空間によって他の世界にいけないことの説明がつかない。なにより、おれはいまだたこお前の目の中から語りかけている。このゼロ領域にいるわけじゃない」
「ああ、そいつはすごいな。それで、おれの目がゼロ領域に繋がってるからどうした?」
焦りは思考を働かせない。ただただ、こんな時に現れたディックへの苛立ちばかりが募る。
「まったく。少しは落ち着いたらどうだ? おれは助言をしてやろうと言ってるんだぞ」
ディックが肩をすくめる。様子がいっもと違った。荒野を進んでいた時に現れた時から、なにかが変わっている。まるで初めて出会った時のように、どこか斜に構えた青年の姿を取り戻しているように感じられた。
だが、それが喜ばしいわけでもなく、落ち着きが戻ってくるわけでもない。
「助言? だったら早く言え」
「ああ、そうだな。お前の右目は見たものを眼球に変えてるだろう? あれはどうしてだかわかるか?」
「知るか」
「たまには考えろ。お前の頭は飾りか」
「良いから早くしろ」
焦りばかりが先に立つアイレインに、ディックは黙って首を振った。
「眼球化は、お前のその右目に吸収されているからだ。つまり、お前のゼロ領域に引き込んだということだ。お前の妹も、お前の目の中で生きている。眼球という形になるのは、いわば象徴化のようなものだ」
「なんだと?」
ニルフィリアが生きている。
「フェイスマンが言ったはずだ。異民化というのは一つの世界になるということだ。そして世界を拡大していくのだと。お前の世界はその目の中で拡大していっている。お前が使うことを望めば右目は取りこんだものの能力を引き出すことができる。フェイスマンが無数の顔を操っていたのと同じだ。そして同様に、お前の目に住むものは、お前の能力を継承する。お前の願いを受けて誕生したゼロ領域だからな。眼球は無理だろうが、その運動神経は、な」
前半は、なんとなくだが理解できた。
後半はどういう意味だ。
「……つまり、おれの目の中にある異民の能力が使えるってことか? それでどうやって捜せと? エルに頼めとでも?」
アイレインに捜せないものをニルフィリアが見つけ出せるとは思えない。
「いいや、もっと適した奴がお前の中にいる。リリスだ」
「覚えがない」
「ニルフィリアの闇に仲間入りしてたんだろ。どうやってかなんでおれが知るか。だが、あれの情報収集能力は利用できる。それで見つけ出せば、イグナシスを追える」
荒野で別れてからリリスになにが起こったのかをアイレインは知らない。しかし、その可能性はあるのかもしれない。
ディックの話が本当なら、エルミの亜空間を見つけ出す可能性が上がる。
いまは、その事実の方が大事だ。
アイレインは意識を集中した。正しいやり方などわからない。だが、右目に意識を集中し、リリスに意識を集中した。より明確に思い出せたのはニリスの方だが、それでも構わないと思った。リリスの能力が実体化したのがエリスなのだ。どれほどの違いがある。
わずかだが手応《てごた》えがあった。アイレインはそれを逃さないように、さらに意識を集中する。ニリスの能力。情報収集の能力。物質世界では都市一つ分。ゼロ領域ではどうだ? 自らが思うままではないのか。
手応えがさらに強くなった。そう感じた時、アイレインの周囲にゼロ領域の夜色に溶けた小さな破片を見つけた。ニリスだ。鏡片からは親愛と憐れみの感情が流れていた。
言葉はない。だが、ニリスからはなにか別の感情も流れて来ているような気がする。
「これでいいの?」
そう問いかけているような気になった。
イグナシスは行ってしまった。おそらくはサヤの目的の障害となるはずだ。それを防ぐためにはニリスの力を借りなくてはならない。だというのに、ニリスは懐疑的な雰囲気を放っている。
ニリスは、なぜ止めようとするのか。
ディックの言葉の後半を思い出した。
右目の中にいる連中が皆、アイレインのような肉体能力を得る?
ディックは、ディクセリオ・マスケインは、そしてあの、不可思議な都市で出会った連中は……
「待て、待て待て待て……」
ひっかかりが生まれた。アイレインは必死に、その可能性を考える。どうしてあの連中は、強化兵のような能力を持っていた? 化け物のいる世界で、アイレインが生まれた世界とはあまりに違うというのに、どうして似たような能力を持っていた?
化け物は、異獣に似ていた。
ガルメダ市の崩壊を見た時に、予感した。いずれ、あの都市のような状況がやってくるのではないか。あれは名前も知らない誰かの妄想ではなく、現実に起きる未来の話ではないかと。
化け物が異獣であるのなら。
ディックたちの能力の根本はどこからやってきた?
「……おれなのか」
ディックを見た。狼面を着けた青年がどんな顔をしているのかわからないが、その瞳に宿る感情は淡々としていた。
「このままおれが行けば、あの世界になってしまう。そういうことなのか?」
「……お前は以前、フェイスマンの一部を取り込んでいる。そいつが本体に戻った時、どういうことになるか。それも知っている。おれは、お前の行動の結果によって現れた、お前の末裔だ。行かなければ、どうなるのか、それは知らない。その結果はお前の目の中にはない。だが、おれが現れることはもうなくなるだろう」
崩壊するガルメダ市の中で、異獣が飛び交い、黒い煙が立ち上り空を汚す中で、アイレインはあの未来について考えた。
あの時は「知ったことか」と言うことができた。この世界がどうなろうと、どう変化しようと知ったことではないと考えていた。
いまは違うのか? 違いはしない。あの地獄のような光景があの世界で成り立つのであれば、やはり知ったことではない。
だが、そうではない。あの未来はエルミが作り、サヤがいる世界で起こるということだ。
イグナシスが消えてどれぐらい経った? もうエルミの前に現れているのか?
アイレインが行かなければ、あの未来は起こらない。だが、新しい未来がサヤにとっていいものであるという確証はなにもない。
「……もうひとつ。さらなる未来については、おれは知らない。さらなる未来を知る者がお前の前に現れないということは、おれを取り巻く環境についでは一つ、推測できるが、それ以上のことはわからない」
どちらに転んでもなにもわからない。そう言いたいのか。あるいは、慰めてでもいるつもりか。
「くそっ、なんでこんなことに…………」
アイレインは、初めて自分の人生に頭を抱えた。ニルフィリアに惑わされている時もこのままではいけないと思いながらも、それ以上は考えなかった。過去を後悔したことはなかった。
いまは違う。どうしてこうなったのか、過去に原困を求めた。
「この世界そのものがこうなる運命だった。そう考えるのは勝手だが、お前自身がことの中心になっているいまは、それだけじゃ足りない」
ディックの声は冷たい。
「もっと簡単な話だ。お前はなにもしなかった。ぎりぎりまで何も決めず、なにも選ばなかった。全てが惰性に、感情や周辺の状況の流れのままにここに|辿《たど》り着いた。全てが、もう動かしようもない段階でお前がなにを決めようと、選ぼうと、それはもう無駄なことだ」 イグナシスを排除した地獄か。
イグナシスによって生み出される地獄か。
結末はもう、この二つしかないということか。
「それでも、おれたちは生きているがな」
ディックの最後の|呟《つぶや》きだった。彼の姿はそれで消え、アイレインの周りにはニリスの鋭片が漂うのみとなった。もはや、その鏡片もなにも語りかけてこなかった。
ただ、アイレインの答えを待っていた。
「……ははは」
乾いた笑いが唇から零《こぼ》れた。
答えは決まっているのだ。
考える必要などない。
サヤを見捨てるという選択肢がアイレインに選べるはずがない。
やるしかない。
そういうことなのだ。
「……捜してくれ」
鋭片に語りかける。答えはすぐにやってきた。アイレインとディックが会話している問に、ニリスは自分の仕事を済ませていたのだ。
「ありがとう」
素直にその言葉が生まれ、鏡片からほのかな笑みの気配が漂ってきた。
いつのまにか、アイレインの手には銃が握られていた。茨が消えていた。おそらく、茨の中にあったサヤの因子が銃の形となって両手に収まったのだ。
二丁の銃の感触がひどく懐かしい。
「どうせ地獄なら、一緒に行ってやらなければならないだろう?」
鏡片からはなんの返事もない。ただ、アイレインに従うことを示すようにその周囲を舞い踊った。
「行くか」
二丁の銃を握りしめ、アイレインは向かった。
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エピローグ
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荒野の中にサヤは立っていた。赤い大地がどこまでも広がり、乾燥した風が砂を舞いあげ、空を朱色に染めている。
熱くもなく冷たくもない。ただ温《ぬる》い風が全身を撫で、混じった砂が頬を打った。
「ここは?」
「亜空間。安定性と人間が存在できる最低の環境でバランスを取るとこうなっちゃうのよね。まあ、存在できたとしても生存は難しいってオチが付くから。それはこれからなんとかしないといけないわけだけど」
「アインは……」
サヤは空を見上げた。オーロラ粒子の流れは|微塵《みじん》も感じられない。ゼロ領域との繋がりが、ここはまったく無いか、あるいは無いに等しいのだろう。空間の安定性とはそういうことのはずだ。
「まずは、住環境設備を作らないと」
足元の黒猫は一言うと同時に作業を始めていた。いや、すでにもう準備は完了していたのだろう。黒猫の額にあるのは亜空間だ。その中にはやはり無限の空間があり、無限の資源がある。準備さえ整っていれば、実現は一瞬の出来事だった。
黒猫の前に瞬時に様々な無人作業機械が現れ、その次に資材が並べられる。機械はすぐさま大地を整え、区画割りに従って資材を運び、次にその資材を組み立てる作業へと移っていく。
「とりあえずは、十万人ぐらい住める都市があればいいでしょ。浄化システムだけじゃなくで、食糧とかももろもろ、都市内で完結させないといけないから広さだけはあるけど」
「わたしの中に、そんなに魂はいないと思いますが」
サヤの|安堵《あんど》の波動によって、確かにニルフィリアの闇や、それに呼応することもできない程に希薄化した魂がサヤのもとに集っては来ている。だが、ニルフィリアから離れてもサヤのもとにはやってこなかった者もいる。安堵の波動そのものにより、活動を停止した魂もいたようなのだ。
「最初から満員になってもらっても困るわね。動物は、病気や怪我による死亡の率を減らせば勝手に増えてくものよ」
そう言って、エルミは作業を続ける。
作業は驚くほどの速さで進んでいくが、それでも一日二日で済む問題ではない。特に家などの入れ物部分はすぐに終わったが、生きていくために必要な農耕地や、水を確保するための作業には苦労が強いられた。
「都市の貯水池を満杯にするだけなら簡単な話だけど、そういうのは結局、時がたてば目減りしていくわけだし、できればこの空間で循環するようにはしないと」
亜空間を作る際に、それを最初から設定していれば簡単な話だが、そういう設定にしてしまえば、空間に矛盾が生じ、ゼロ領域への穴が生まれることになるという。
「だからまあ、荒っぽいやり方にはなるのだけど」
エルミは近くの大地を大きく削り、それを使って山脈やその他の地形を作った。さらに出来上がった大穴にエルミの亜空間内で作った海水を流し込む。
「海流や風を作るには、月とか極点とか気圧とか、色々必要なわけだけど……さすがに星の環境そのものを完全再現するのは無理ね。でも、水の外部からの補給は実現しておかないと」
その他にもエルミは各地を回り、なにかを細工していく。サヤはずっとそれに付き従い、経緯を眺めているだけだった。やれることがなにもなかったのだ。
月日が流れていく。
どれだけ過ぎたのか、最初は数えていたがその内、意味のないものに思えてきた。
太陽の巡りだけは再現されているが、それはさすがにエルミにも別の方法でコントロールすることが不可能だからだろう。
「言っておくけど、いずれはこの世界もだめになるわよ」
ある日、エルミがそう告げた。
「地球だって、単体であの状況が出来上がっているわけ下しやないからね。太陽があって月があって、外部からの様々な影響があって初めてあの環境がなりたっている。宇宙規模という個人レベルからすればはるかに巨大な規模の影響下にあるわけだから永遠に続くように見えるでしょうが、太陽だって後三十億年もしたら巨星化して地球を呑み込むって話だし。外部が変動すれば地球の連鎖的循環は簡単に崩壊するわけよ。それで、太陽に比べればはるかに低いエネルギー供給しかできないわたしのシステムでは、この世界の寿命はもっと短くなる。それは、いまさらだけど承知しておいて欲しいわ」
「亜空間のエネルギーは無限では?」
「亜空間から発生するエネルギーの可能性は無限かもしれないけど、亜空間そのものの寿命は無限ではないわ。それは、いままでの体験を思い出してもらえればわかると思うけど」
「では、この世界の寿命はどれほど?」
「それは、いまから観測してみないことには正確なことはわからないわね。エネルギーの供給側になるわたしの亜空間は修理や代替で延命できるけど。この大地そのものの寿命まではちょっとわたしには操れないし」
「そうですか」
「ま、あまり期待はしないで。しょせんは人造の偽物の世界。様々な要因が重なり合って生まれた大自然の産物には勝ではしないわ」
「はい」
エルミの言葉にあまり衝撃は受けなかった。それはおそらく、救うことのみを目的として、その後どうするかについては設定されていなかったからかもしれない。サヤに求められていたのは亜空間が崩壊した際の緊急的避難措置であり、人類の最後についてまでは誰も求めていなかったということだろう。
そのことにサヤは安堵をおぼえた。
これ以上、自分のためにアイレインが辛くなるようなことにはなって欲しくなかった。
空を見上げる。
この亜空間が生まれてから、サヤが空を見ない日はなかった。
ゼロ領域の穴はどこにでも生まれる可能性がある。しかし、それでも空を見上げてしまうのは、空というものは本質的に人間がいる場所ではないからだろう。どれだけ技術が発達して空を飛べたとしても、空で生活できる者はいない。鳥だって羽を休めるために地上に降りる。生命の基本は大地にあるのだ。
生命の根幹から遠く離れた場所。ゼロ領域を想像する場所としては空がやはり一番ふさわしい。本来なら空の向こうには宇宙があるはずなのだから。宇宙にゼロ領域が取って代わっているという考え方が一番妥当だ。
空の向こう、ゼロ領域の中で、アイレインはこの亜空間を守るために戦っている。彼をより早くここに迎えるためにも、人類が生きていける場が一刻も早く出来上がることを願う。
どれだけぶりなのかわからないが、最初に現れた場所に戻ってくると都市がもうほとんど出来上がっていた。貯水池には満々と水がたまり、食糧プラントも稼働を始めていた。放牧地には畜獣の若い鳴き声が響き、湖面からは鱗が銀色に輝いているのが見えた。
「五万人を養うにはまだ足りないけれど、まあ最初の人類ぐらいは生きていけるかな。でもその前に、雨が降ってくれないと」
黒猫が空を見上げ、サヤも同じく空を見る。この頃、なにもなかった空に雲の欠片《かけら》が見られるようになっていた。
「地下に水脈も作っておいたけど、元々のこの大地が水を保ってくれるようになるには何年かかるやら」
雨は数日後に降り始めた。最初は弱くまばらだったものが次第に強くなり、最後には土石流を生み出すほどになる。それでも雨は止まず、降り続ける。
せっかくできあがった都市も、整備された通路も、全て土砂の中に埋もれてしまった。
|泥濘《ぬかるみ》の山がそこら中にできあがり、都市を汚していく。サヤは失敗したのではないだろうかと思ったが、エルミの方は気にした様子もなく、作業機械たちに都市のライフラインの保護を命じた後は下しつとしている。サヤにもできることはない。ただ、無事を願うしかなかった。
やがて、雨が止んだ。
だが、朝の光が厚い雲の隙間から差し込むとともに、それもまた訪れた。
無数の顔が世界に降り立つ。
イグナシスが現れたのだ。
厚い雲が裂けたのは、次の変化だ。巨大なそれは、物質が支配する世界では冗談にしか見えなかった。やや人に似た形だが、その皮膚には青|錆《さ》びた色の鱗が生え、長く伸びた爪は指先の中心から生えているように見えた。
竜だ。
東洋の竜を模した蛇のような体躯を持っ竜は、八つの頭を引き裂いた害から覗かせ、四方へと勝手気ままに首を伸ばす。雲が散らされ、強風が地面をたたいて爆発を起こした。
「アインは抜かれたみたいね」
エルミの声は乾燥していた。
サヤも起こる事象にどういう反応をしていいのか迷った。
「後から来たのはナノセルロイドどもよね? ゼロ領域での過剰供給状態にだいぶ馴染んでいるみたいじゃないの。でなければ、あれほどの巨大な質量を肉体として制御しておくなんてできるものじゃないわ。三体が統合することで獲得したのかしら」
冷静な呟きを聞く中で、次の変化が起きた。
八つ首の竜は背中に異を生やし、飛翔しようとした。ただ一度の羽ばたきだけで地上に爆発が起こり、クレーターが生まれた。都市の各所に土砂が飛散して来、衝撃波で外縁部の建物が爆発した。
だが、飛べなかった。
「……まあ、重力の法則がある物質世界で、あの重量は現実的じゃないわね」
落下した竜が新たな爆発を生み、土砂の大津波が都市に襲いかかる。これでまたいくつもの建物が破壊され、呑みこまれてしまった。
「やれやれ、どうしてくれようかしら」
これまでの苦労が水の泡と消えようとしているのに、エルミの声にはやはり動揺がない。
同じく、サヤも残念ではあったが、そのことで混乱はなかった。
「アインは無事でしょうか?」
そちらの方が気にかかっていた。
「さて、ゼロ領域の中なら自己保存の本能さえなくさなければ生きているとは言えるでしょうけれど」
最悪生きていたとしでも以前のアイレインではないかもしれない。そういうことか。
「では、彼らは仇《かたき》ということになります」
サヤは自らの中で静かに燃え立つものがあることを感じた。それは音もなく燃え盛り、しかし見た目よりも激しい熱を宿している。
守ることばかりを考えていた自分が、初めて攻めることを考えているような気がする。いや、攻撃という部分をアイレインに託してきたサヤは、それを取り戻したと言うべきなのかもしれない。攻性防御の考え方だろう。
大地に落ちた巨竜を倒すのに、都会の良い武器とは何だろうか。アイレインが望む武器を内部から生み出していたように、サヤはそのことを考えた。
だが、サヤが戦う必要はない。
変化はそれでは終わらなかったからだ。
次に現れたのも、やはり竜だった。だが西洋的なドラゴンだ。コウモリの羽に似た長い翼は八つ首の竜の全長をはるかに凌《しの》ぎ、代わりに翼の下である胴体はやや小さい。それでも八つに分かれた頭よりもはるかに巨大な頭部を持ち、そこに並ぶ牙を見れば、大地を食い荒らし、飲み干すかのような錯覚が生まれでくる。
そして、その巨大な頭部にある人影を、サヤは見逃さなかった。
「アインっ!」
サヤは声を限りにその名を呼んだ。
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†
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声は、アイレインの耳にも届いた。
「サヤは無事か」
その事実に安堵しながら、アイレインはクレーターの中央に鎮座する八つ首の竜を見下ろした。
ゼロ領域ではなんとも思わなかったが、こちら側で見るとその巨大さに圧倒される。だが、物質が力を持つこの世界はアイレインにとってもやりやすい場所ではある。あそこまでの質量差のある敵はさすがに初めてだが、質量差のある敵との戦いそのものは初めてではない。
「どうにでもしてやるさ」
それに、敵はレヴァだけではない。イグナシスもどこかに潜んでいるはずなのだ。
「ニリス、イグナシスの場所がわかるか?」
アイレインは周囲を漂う鏡片に尋ねた。鏡片は陽光を照り返して輝きながら、無音でアイレインに答えを返す。
頭の中でニリスの答えが図で示された。
そこら中にいる。
反応が無数にあるのだ。光点として示されたそれは、点であるのに面のようになって蠢《うごめ》いている。
レヴァの竜がのたくるクレーターの四方八方に反応があり、どれが本物かわからない。
「……これはもしかして、フェイスマンの能力か?」
フェイスマンを追いかけている時、彼に蒐集《しゅうしゅう》された顔が自律的な行動を取っていた。イグナシスがフェイスマンの能力を奪っているのであれば、その可能性はあるだろう。
「厄介な」
これでは、どれが本物かの区別がつけられない。
その時、アイレインの内部で意思のようなものが届けられた。
「ニル……?」
感覚からしてそれはニルフィリアのもののように思えた。
右目の奥が痒《うず》く。なにかが溢れだそうとしていた。その力の激しさはアイレインを内側から食い破ってしまいそうだ。
感じるのはイグナシスへの憎悪。
「手伝ってくれるのか?」
誰かに利用されるなど、ニルフィリアの性格からして許せるはずがない。
手伝うという言葉にニルフィリアがすごい勢いで反発を示してきた。そうだ、妹は兄のためになにかをするわけではない。純粋にイグナシスへの|復讐《ふくしゅう》のために動くのだ。
それでいい。
ニルフィリアの怒りにアイレインは動揺することも萎縮することもなかった。妹は不満を抱きながらもそれで納得したようだった。
これでよかったような気がする。兄は妹を乗り越え、妹は兄の隣で足を止めた。二つのピースがされいにはまったような気がした。
アイレインの右目を通して膨大な闇が吐き出される。空で一度、大きく拡散したそれは太陽の光を遮り、周囲を夜に変えた。
夜の中から一人の少女が現れる。重力に従って落下する少女……ニルフィリアは自分の周囲に闇を呼び寄せ、それを無数の|槍《やり》の形にまで凝縮させ、解き放つ。
槍の雨が降り注ぎ、それが四方八方に散るイグナシスらしき反応を|潰《つぶ》していく。だがそれだけでは数が足りない。イグナシスはニルフィリアがゼロ領域で大量に従えていた闇をフェイスマンに感染させていた。いまのニルフィリアにはゼロ領域の時ほどの力はなく、槍の数も光点に対しては足りていない。
だが、光点一つ一つの抵抗はそれほどではない。大地に突き立った槍の列はさらに形なき獣となって襲いかかり、数を打ち減らしていく。
主人の危機を察したか、レヴァが闇を食い破りにかかる。
だが、ハルペーが先んじて動き、レヴァの前に立ちはだかった。
八つ首の竜と巨大なドラゴンとの激しい食い合いが再現される。
戦場から一人離れたアイレインは都市へと向かった。ニリスの提供してくれる情報は正確にして精密だ。四方に散るイグナシスの光点の内、ほんの数個が潜行するように都市へと、サヤやエルミのいる場所へ向かっている。
それがおそらくは本命だ。都市にいるエルミがおそらくは所持しているだろう亜空間発生装置。それを破壊しなくてはゼロ領域の絶縁空間が取り除けないというのであれば、イグナシスは何としてでもそれを破壊しようとする。エルミもそれがわかっているから、下手な場所に隠そうとはせず、自分で持っている可能性は高い。
なによりそれで、イグナシスをおびき寄せることができる。
復讐はあくまでも自分の手で。
エルミがそう考えるかどうか、それなりに長い付き合いだとは思うがわからない。だが、ドミニオの死で初めて彼女は自分の中の衝動に気付いたのではないかと思う。なら、もっと直接的な方法での解決を望んでいたとしでもおかしくはない。
そこにエルミは罠を仕掛けているのか、いないのか。
もしも仕掛けているとしたら?
エルミにとっては、イグナシスがアイレインの守りを切りぬけ、この亜空間にやってくることも予測の内に入っていたら。
いや、入れているに違いないだろう。少なくとも可能性は考えているはずだ。そして可能性があるのならば、エルミは決して手を抜くことなくなにかの策を講じるに違いない。
悪意あってのことではない。
最初から、アイレインやサヤを陥れるためにするわけではない。
それでも、復讐に狂っているかもしれないエルミが最後になにをするかは予想ができない。
アイレインは、走る。
イグナシスの姿を視線が捉えた。
地を這うように進む顔だ。ソーホのものではない。見知らぬ顔だ。目と鼻と口。顔を構成する三つの部位だけが地を滑るように移動する様は、クラヴェナル市以前の、フェイスマンとの戦いを思い出させる。
走りながら、両手の銃を前に出す。
乱射。銃弾は過たず目を撃ち、鼻を裂き、口を砕く。だが、顔はそれ一つではない。左のものを銃で処分すると同時に、右を視線で消滅……いや、吸収する。右の眼球がゼロ領域と直結しているということを考えた時、この方法は危険かもしれないと思った。だが、ディックの言葉では、すでにアイレインの中にはフェイスマンの顔がいくつかあるという。それならば、一つや二つ増えたところで変わりはない。
だからといって焦ってイグナシスの罠にはまる可能性がなくなったわけではないが、アイレインにそこまで考える余裕はない。
使えるものは何でも使う。
いまのアイレインに余裕という言葉はない。たとえ身を削ることになろうとも、できることがあるというのに出し惜しみをするわけにはいかない。
ディックの言葉が脳裏に残っている。
なにも選ばなかったからこうなった、と。流れの全てが決まってから選んだところで、それはなにかを選択したことにはならない。ディックはこう言ったのだ。
しかし、だからといって流されるままでいるわけにはいかない。流されているのであれば、せめてその激流の中で泳ぎ切らなくては。どうせ辿り着くところが同じだとしても、岩にぶつかって死体となって辿り着くか、傷だらけでも泳ぎ切って辿り着くかでは意味が違ってくるではないか。
アイレインは走り、銃を撃ち、そして視線を駆使し、地面に浮かび、そして沈んで姿を消す無数の顔を処分していく。数が減ったようには見えない。どれだけ目の前のものを打ち倒してもニリスからの情報では数が減ってはいないのだ。再生を駆使しているのか、それともいくつかの顔が何重にも重なっているために実は一度で殺せていないのか。物質世界にある以上、殺せないはずがない。どこかに詐術があるはずだ。
都市の姿が近づく。サヤたちとの距離がなくなっていく。
相手の詐術を解く時間がない。
このままではまずい。
焦るアイレインの前に、刻一刻と危機の濃度が増す中で、二つのものが動いた。
一つは轟音《ごうおん》とともに。
荒野の中、赤砂舞う暴風に半ば隠れた都市の姿が変化する。並び立つビルの姿がまるで蜃気楼《しんきろう》のように映る中で、それは高さを変え、角度を変えた。
それは、都市が大地の縛めから脱しようとする姿だった。
都市の外周部にあった一際高い建物が土砂をかき出す。大地から引き抜かれたそれはシャフトによって繋げられ柔軟性のある動きをみせた。都市を囲むように生えたそれらが同様に地面から姿を現し、都市そのものを持ち上げた。
それはアイレインにとって、現れてほしくない未来の始まりを告げていた。
そしてもう一つ。
轟音のもたらす都市の浮上劇からすれば、それはひっそりと、水に墨を落とすように現れた。
黒猫が一匹。
土砂の滝と土煙の飛沫《しぶき》を作る都市の絵に穴をうがったように、黒猫がひっそりとそこにいた。
「エルミ!」
アイレインがそれに気付き、名を叫ぶ。周囲にあった顔が一斉にエルミを囲んだ。
猫の前で顔は寄り集まり、そして一人の姿を取る。見たことのない男だった。長身で肩幅があった。短い金髪を後ろに撫でつけ、深い青の瞳が黒猫を見下ろしている。
これが、本当のイグナシスの姿なのか。アイレインは銃を構え、経緯を見守った。
「まさか、君が復讐というものを思いつくとは思わなかったよ」
「あなたの人間観察がその程度だったということね。小細工はうまいけど、本質を見抜く目が足りない。全体の調整はできるけど、一つのものを極めることはできない。ええ、とてもあなたらしいわね」
「相変わらず手厳しい」
苦笑を浮かべるイグナシスに、黒猫はあくびで応える。
「でも、しつこさと小固りの利くところがあのチームのリーダーとしては相応《ふさわ》しかった。観察者としての合格点は上げられないけどね。結局あなたは神の手になりたいだけだから」
「そうだな。永久機関というのは、まさしく神の所業だ。そういうものが作れるのなら、わたしの夢想も実現できるに違いないとは思っていた」
「神になりたかった?」
「いや、神が見てみたかった」
「実存していると仮定して、人間が当たり前に神を見られない以上、神を見るためには神と同じになるかあるいはそれよりも上の視点を得るしかない。それが神になることとどう違うのか。……興味のない議論だわ」
「残念だ。永久機関に興味を持つから、君もロマンを理解すると思っていたんだが」
「永久機関が可能かどうか。論理だけなら不可能のままだったものが実現できるのかどうか。わたしが興味があったのはそこよ。神の実存の可能性を否定するつもりはないけれど、神になることに興味はないわね。人間だからこそ発見できるものがあることを、わたしは知っているから。神は永久機関を作ろうとは思わないし、その結果、空間を創造する装置の発明には至らない。偶然は神にはない。不完全な人間にこそ、偶然は訪れる」
「それが君の哲学かい?」
「さあ。そんなことはどうでもいいわ。そんなことよりも、わたしはいま、初めての激情に身を任せたいだけのどこにでもいた女よ」
「そしてわたしは、罠にかかった愚かな男か」
「そういうこと」
二人の間にあるのは静けさだった。だが、静かな湖面の下でマグマが燃え盛っている姿をアイレインは簡単に想像することができた。
「だが……わたしが」
「悪いけど、もう聞かないわ」
それは、一方的な断絶と同時に起こった。起こり、終わり、そして始まった。
イグナシスの姿が瞬時に掻き消えた。アイレインの前には黒猫だけが残った。なにが起きたのかはわからない。だが、なにをしたのかは予測が付く。イグナシスがなにかを仕掛ける前に、黒猫の額にある宝石、エルミの住む亜空間に引きずり込んだのだ。しかし、そのままではエルミと対面するだけだ。逃げ場のない亜空間でエルミ自身の手による殺害をもくろんでいるのだろうか。それとも……
ここからでは、推し量るしかできない。
「エルミ……」
アイレインが呼びかける。
「……無事よ。いまのところは」
「イグナシスは?」
「この中で、亜空間を多重起動させていたのよ。その上でゼロ領域に放逐した。いまごろは迷路状になった絶縁空間に囲まれて、ゼロ領域でさまよっているのではないかしらね」
「もう出てこられないのか?」
「おそらくは。完璧なんてものはないから、どう転ぶかはわからないけど」
「あれが囮《おとり》だった可能性は?」
フェイスマンとの戦いの記憶を思い出し、アイレインはさらに尋ねる。
「フェイスマンの能力で偽装していた可能性ならないわね。取りんでいたと言うでも、しょせ
んはゼロ領域で自らの精神的特質によって手に入れた純粋な能力というわけではない。利用することはできても本質的にフェイスマンになれたわけではないからね」
「それなら、復讐は成功というわけか」
「そうなるのかしらね」
しかし、復讐を果たしたというのにエルミからは特に喜ばしい雰囲気は流れてこなかった。逆に穴があいたような虚無さえもうかがわせる。復讐を果たしたところでドミニオは帰ってこない。その事実だけが重くのしかかっているょうだった。復讐とは怒りであると同時に、個人の死をいつまでもその胸に宿らせるための精神的緊張状態なのかもしれない。その緊張状態を維持できなくなれば、後は忘却に向けての弛緩《しかん》しか残されていないのかもしれない。
かける言葉もなく、アイレインは黒猫を見守った。
「そういえば、あれはなんなんだ?」
轟音とともに動く都市を見る。都市の外周に沿って足が生え、まるで蜘蛛のように移動している。
「サヤの能力、というよりも初期に設定された機能は楽土というのでしよ?」
「ああ、そうらしいな」
「危険に対して避難する能力。それを形にしてみたのよ。人が生きる場所をそのまま動かす。ばかばかしい考えだけど、誰が考えたかわかるような気がするのよね」
「……もしかしてサヤは」
「たぶん、そうだとは思うわよ。そうか、あいつのいるところも滅んだのか」
アルケミストが作ったのか。
いや、そんなことはもうどうでもいい。
「サヤは無事なんだな」
「ええ。彼女はあの都市を動かすために……」
第三の異変は、エルミの言葉が止まったところで表出した。
「エルミ?」
黒猫の体が震えている。
症状に見覚えがあった。ニルフィリアがこうなったのは、ついさきほどのことだ。
「エルミ!」
「大丈夫、イグナシスはまだ出てきてないわ」
「じゃあ……」
「やられたわね。一時的にこの空間に置いた時に、顔の一つを分離させていたのよ。そいつがエネルギー供給部分を破壊した。このままだと、この空間は崩壊するわ」
「それなら、はやくそこから出ればいい」
しかし、エルミはアイレインの言葉には従わない。
「そういうわけにもいかない。現在のこの空間の自然環境は、わたしの亜空間からの干渉によって作用している。それが止まれば、すべて台無しよ」
「なっ」
「わたしの空間がなくなっても、イグナシスはでてこられはしない。そういう風に作っておいたから。でも、亜空間発生装置が単体で活動した場合の限界時間はすでにおおよそのところはわかってしまっている。明確な期限はイグナシスに生きる希望を与える」
エルミにとっては、そこが問題だろう。
だがアイレインにとっても別の問題がある。
この世界がなくなるということが、サヤにどういう影響を与えるのか。滅びた時、サヤは再び、ここで繁栄した人類を救うために、また同じようなことを繰り返すのか。
そしてその時、イグナシスがいたとしたら、どうなる?
この世界が滅びるのはかまわない。サヤが望んで再び同じ役目を負うということもかまわない。
だが、イグナシスがサヤを邪魔するような事態にするわけにはいかない。未来に別の問題があったとしても、現在取り除かなければならないとわかっているものを無視することはできない。
「どうすればいい?」
なら、アイレインのすることは一つしかない。
できることをやる。
未来がある。ディックと出会ったあの未来の景色。そこには確かにフェイスマンがいた。ディックの被るあの獣の面がフェイスマンのなれの果てなのかもしれない。もしかしたら、あれこそがイグナシスの因子なのかもしれない。
しかし、それはアイレインがなにをしてもイグナシスを完全に排除できないことの証拠にはならないはずだ。
方法はあるはずだ。
「……わたしごと、その目で取り込みなさい」
エルミはアイレインの覚悟を確かめない。すぐになにをすべきかを話した。
「あなたが、あなたの目がわたしの空間がやろうとしたことの代理をするのよ。予定とはやや違うことになるだろうけれど。それで立て直すことができる。それにさらに絶縁空間の迷路を複雑化することもできる。一石二鳥の対処法だわ」
「そうか」
「ただし、それをやって、あなたが無事でいられる保証はない」
「なに?」
「あなたの中にあるものをこの世界を生かすための滋養として使うということよ。あなた自身が花を育てるために土に撒く肥料になるということ。わかる? あなたの命を削るということよ」
「……」
「わたしならばこの亜空間を放棄して次を作ればいいだけの話だけど。あなたは違う。あなたのその目に次はない。そして、あなたのその目があなたの存在を確立させている重要な因子である以上、その目を失うということは、自らを失うということでもある」
目前に、死という言葉があった。
「それでも、あなたはいいの?」
「……おれの命が尽きるのが早いか、イグナシスが自己消滅するのが早いか。そういうことか?」
「ええ。そうね。あなた抜きでもこの世界を維持できる方法は考えてあるけど、それには時間がかかりすぎる。だけど、あなたがその時まで生きていることができれば、あなたは自由になれる」
「淡い希望だ」
「ないよりはマシ、程度のものよ。それよりも早くこの世界そのものが滅びるかもしれない。絶望や災厄なんてどこにだって転がっている。人間なんて、そんないいものじゃないというのはわかってるでしょう」
「人間なんてどうでもいいさ」
覚悟は決まった。いや、そんなものはずっと前から決まっている。新たな難問が出たからといって、その度に再確認していたのでは話にならない。
サヤを守るために全力を尽くす。
ただ、それだけだ。
「じゃあ、いくぞ」
「優しくしてね」
「笑えない」
アイレインが呟いた時には、もう黒猫の姿は眼前にはなかった。右目の内部、ゼロ領域に収まっている。自分でも理解が追い付かない部位に爆弾が投げ込まれた。その爆発がどのような作用を呼び起こすのか。一瞬にして被害を拡大していくフラッシュオーバーとなるか、あるいはイグナシスの復活によって過激化するバックドラフトとなるか。
「……ぐっ」
痛みはすぐに襲ってきた。
右目の奥でなにかが膨張するような感覚が襲ってきた。アイレインの内部でエルミが装置を起動させたのだろう。右目が中身から改変されていくようなそんな感覚だ。サヤのいるこの世界を補助するために必要なものをこの右目が送り出す。そうするように右目が能力を改変させているのではないか。
それは、アイレインの存在自体が変化しているということか。エルミは右目がアイレイン自身の存在を確立する重要な因子だと言った。つまり、右目が変化するということは、自分自身もまた変化するということだ。
いったい、どういう変化をすることになるのか。
それを見守る時間はないかもしれない。アイレインは即座に行動に移った。自身の肉体が砕けるような激痛が駆け抜ける。だが、その痛みの速度すらも|凌駕《りょうが》して、アイレインは戦場へと戻った。
レヴァとハルペーは身を絡ませるようにして食い合い、ニルフィリアの闇が主を失ったイグナシスの顔たちを潰している。
右目の奥で膨張する感覚は続いている。いつしかそれはアイレインの肉体を引き裂いて吐き出されることだろう。そう予感させる巨大なエネルギーの余波がアイレインの肉体から漏出している。右目の奥で発生した亜空間が大量のエネルギーをこの場所に向かって放出しているのだ。無限のエネルギーがアイレインの内部にはあった。
それが二匹の竜を、ニルフィリアを、そしてフェイスマンの|残骸《ざんがい》の動きを止めさせた。彼らの注目がアイレインに集まっていた。
全てが右目の視界に入っていた。普段ならばこれほど離れているものを魔眼の影響下に置くことは不可能だっただろう。だがいまは、それが可能だった。内部で爆発するエネルギーがそれを可能にしていた。
「お前たちはサヤの邪魔になる。続きはこっちでやれ」
爆発しそうな右目が、視界に映る全てを吸いこむ。右目の膨張の感覚がさらに強まった。脳髄を圧迫し、破裂しそうだった。もはや顔の全てが右目になったような感覚だ。いや、実際にそうなってしまっていてもおかしくない。アイレインは右目そのものになろうとしていた。サヤを守るためのなにかになろうとしていた。眠り姫を守る茨から、別のものに。
別のものに……
爆発した。それは精神的な爆発であり、アイレインの内部で決定的な改変が実行に移された合図だった。視界が渦を巻く。目に映っていたものが回転し、色のついた線に変わり、なにもかもを混沌とさせ、集約し、消滅させた。
全てが暗黒と化した。先の見えない時間がそこにあった。魔眼が目に見えないものを見ようとしていた。
しかしそれは誤解であったかもしれない。存在の確定していないものが見えるはずがない。未来が決まっているはずがない。ディックすらも幻でしかないかもしれない。あの都市で取り込んだ死せる異民が見せる幻でしかないかもしれない。未来が定まっているように錯覚しているだけでしかないかもしれない。極限まで現実に近い幻。それがゼロ領域の力なのだと、わかっているのだから。
だが、それでもアイレインには見えている。
見えるはずのない時間の先が見えている。
一人の少年の姿が浮かぶ。気弱な少年が感情を殺し、必死に戦っている姿が見える。
一人の少女の姿が浮かぶ。なんの力もないはずの普通の少女が、魔眼に囚われて苦しんでいる姿が見える。
一人の少年の姿が浮かぶ。皮肉な笑みに全ての感情を押し込め戦う姿が見える。
一人の女性の姿が浮かぶ。女性としての優美さを持ちながら勇壮さを併せ持ち、強大ななにかを宿している。その背後に見慣れたなにかがいた気がしたが、それを見定める前に女性の姿は消えた。
荒れはてた大地の上、移動する都市の上で生きる彼らの姿が見える。
見えるはずのない時間の流れの向こうで、サヤの世界で生きる人々の姿が見える。それを見守るサヤの姿がある。アイレインの帰りを待つサヤの姿が。
サヤに教えなければ、自分はここにいるのだと。
自分はここにいて、サヤを見守っているのだと。
一目でそうわかる場所に自分はいなければならない。
せめても、彼女を孤独から守るために。
エネルギーの奔流にアイレインは肉体の感覚がわからなくなり、その場に倒れたようだ。視界には空が映っていた。嵐の後の、引き伸ばされた薄い雲が激動の残滓として残る、透き通った空があった。
そうだ。空にいよう。
この大地にいては、この世界の全てを見通すことはできない。だが、空ならばそれは可能だ。
空に行こう。全てを見通し、見守るために。
この世界にまんべんなく、エルミの用意した恩恵を注ぐために。
サヤのために。
そして空ならば、サヤがどこにいてもすぐに駆けっけることができるのだから。
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†
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サヤは空を見上げた。
青い空は薄い雲を除けばどこまでも透き通っていた。移動の揺れは視界の揺れとはならない。震動を体感することもない。エルミの作った動く都市は完璧に作動していた。
都市の中枢部にはカプセルの中で無数の人間が培養されている。一定の年齢となった時にサヤは自らの内部に蓄えた魂を解放し、彼らは起き上がるだろう。その時どうなるのかは、サヤの想像の範囲外だ。
サヤは空を見上げる。
いまは誰もいない無人の都市でサヤは一人、空を見上げる。
イグナシスもなく、レヴァンティンもなく、ハルペーもなく、エルミもない。
そして、アイレインがいない。
皆が皆、アイレインの魔眼に取り込まれ、そして消えてしまった。
世界にはサヤ一人となっていた。
いや、もう一人、いる。
それは闇だ。アイレインの魔眼から逃れた闇が地平線の向こうに漂っていた。闇は動く都市につかず離れずの位置にいる。離れることもなければ、やってくることもない。
ニルフィリアなのだろう、おそらく。アイレインが作為的にニルフィリアを魔眼の視界に入れなかったのか、あるいは彼女自身が自力で逃れたのか。彼女の存在がどちらに転がるのか。
しかしサヤは、その危険に目を向けず空を見る。
青から茜《あかね》色に変わる空を見る。濃い雲が朱色の濃淡を刻む空を見る。
時の変化が空から朱色を奪い、黒を呼ぶ。青みの強い、ダークブルーの夜を呼ぶ。
サヤは、夜を見続けた。
時が流れる。やがて人類が中枢部から現れた。
混乱はあったものの、それはすぐに落ち着き、彼らは生活を営み始めた。稼動する食糧プラントを管理し、役割を決め、そして都市の各所に散って行った。彼らは都市にちりばめられた技術を長い時間をかけで理解し、修復することを覚え、そして新しいものを開発するようになった。
だが、都市の中枢部にある、都市の根幹をなす機関には手をつけなかった。
外に出ることを挑《いど》んだ者がいたが、彼らはことごとくなにかに焼かれて死んでいった。やがてそれは大気中に混入した放射能のようなものであることがわかり、彼らは機関部と同じように都市の外を禁忌の場所と定めた。
サヤは、そんな人類の営みを見守り続けた。
彼女の内部には、まだ解き放たれていない魂があった。しかし、人類から生まれた新しい命には最初から魂があった。これを全て解放するその時まで、彼女が眠れる時はないように思えた。事実、サヤは眠ることができなかった。
動く都市の外には、なにかが満ちていた。それは人類への悪意であり、そしてそれはこの世界の最初にはなかったものだった。
サヤは空を見上げた。
地平線にわだかまる闇は、いつのまにか姿を消していた。
時はさらに流れ、人々は大気に混入しているものを汚染物質と名付けた。人体を汚染する解析不能の物質という意味だ。
その頃には都市外で活動するためのスーツも開発された。人々はなんとか外の情報を得ようと移動する手段を講じる。探索隊も何度も派遣された。だが、価値のある発見はなにもなかった。当然であるが、サヤはそれを告げなかった。彼女は都市の機関部で時間のほとんどを費やすようになり、たまに外に出ても空を見上げることしかしなかった。
機関部は彼女のためにある場所だった。彼女の力を吸い取り、その力で都市は動いていた。やがて、都市に自分の全てを吸い取られて死ぬのではないだろうか。漠然とそう考えたが、それでもサヤが都市を見捨てることはなかった。
人口の増加が問題となって来た。エルミの言う通り、病気や怪我をした時に対処する方法があるだけで、動物というのは際限なく増えていくものなのだろう。
故に、彼らが都市の外に新世界を求めるのは間違っていない。だからこそ彼らは汚染物質を遮断するスーツを作り、移動するための方法を模索している。タイヤは荒れ切った大地では寿命が短すぎるため、長距離の移動には通していない。都市を真似で、足を動かして移動する乗り物を開発した。汚染物質を一時的に遮断する力場の開発も進められた。都市の足の頂上部分からそれが放射されている。人々はそれを研究し、再現することに成功した。
彼らは都市の外へと出た。新天地を、動く都市ではなく、動かぬ大地の上で生活する手段を模索した。住居を建て、井戸を掘り、荒れた大地を耕した。
だが、長くは続かなかった。彼らはなにものかに襲われた。汚染物質を遮断する力場発生装置は破壊され、住居は踏み潰され、住民は食い荒らされた。
サヤはそれを知り、言い知れぬ危険を感じた。そして、サヤの力によって動くこの都市は、サヤの危険を察知する能力を利用し、この危険から意識的に遠ざかっていたのではないかと推測した。
なら、都市の外にはなにかがいるのだ。
闇を考えた。
だが、彼女の仕業としてもやり方には疑問がもたれる。
なら、残っているのは……
疑問の答えは数年後に訪れた。
サヤが空を見ていると、それは地平線の彼方《かなた》に影として現れた。
空を、巨大な翼で打ちながら現れたそれの姿には、覚えがあった。
異獣だ。
残っていたのだ。アイレインの魔眼から意識的に逃れたのではないだろう。おそらくはレヴァンティンとハルペーの戦いで周囲に飛散していたナノマシンが時間をかけて再生し、そして異獣と化したに違いない。
ならやはり、この都市の外に満ちているのはオーロラ粒子か。しかも、何者かの悪意によって人間、あるいは生物や植物という、人間が生きるために必要なあらゆるものを排除しようとするものに変質しているのかもしれない。
異獣は都市に近づくことなく、地平線を横切って姿を消した。こちらに気付かなかったのか、あるいは近づくのを得策としなかったのか。
サヤは空を見上げた。
おそらく悪意は、空からやって来ている。
しかし、この世界に降り注ぐものは、決して絶望だけではない。
人間の中に、ある程度の割合を持って特定の変化を起こす者たちがいることが最近になって話題になっている。
彼らは人間の数十倍以上の反射神握と運動神経を持っている。かつての世界の強化兵よりもはるかに強力な彼らは、探索隊によく志願し、そして危険の可能性を告げ、防衛隊の中枢となっている。
あの異獣がこの都市を襲うようになった時、彼らはそれを阻むものとなるだろう。
サヤは空を見上げる。
夜の空を見上げる。
そこには光がある。暗い夜を青く照らす光がある。
月は燦然《さんぜん》と蒼《あお》い光を降り注いでいる。
かつて、アイレインと夜空を見上げた時のことを思い出す。あの時はオーロラがあり、そして月がなかった。亜空間に月はない。
だがいまは、月があり、オーロラがない。
アイレインはそこにいるのだ。
そこで、サヤたちを見守っているのだ。
待とう。サヤは空を見上げるたびに思う。もはや目的を果たした自分にできることは、アイレインがこの場所に戻ってくるその時まで、ここで生き残ることだけしかないのだ。
月の光が優しくサヤを包んでいた。
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あとがき
さて、これにてレジェンド・オブ・レギオスは終幕です。
当初の目的である単品でも楽しめるものを、というのは達成できた気がしますが、こればっ
かりは作者であるわたしよりも、読者のみなさんに判断していただくべきだと思います。
楽しんでいただけましたでしょうか?
実を言うと自著を語るというのがとてつもなく苦手なのです。説明下手なのです。『リグザ
リオ洗礼』、『イグナシス覚醒』ではけっこう頑張りましたが、限界です。終わってしまった作品のことをどこまで語ればいいのかよくわかりません。読後感のあるエンデイングとなったの ではないかな、とは思いますのでより一層語りたくないという気分でもあります。
そういうわけで、別の方向から語ってみたいと思います。
アイレインとサヤの物語は終わりましたが、実は次の『レギオス』が予定されています。タイトルは未定なのですが、主人公は決まっています。ディクセリオ・マスケインです。
彼は本家『鋼殻のレギオス』でもいまだに謎の存在で、この『レジェンド〜』でも語りされませんでした。別の誰かに焦点を当てていると、彼のことは書きづらいのです。
とても困った奴を作ったもんだなと自分に呆れていると、「じゃあ、彼を主人公にして書いちゃいなよ」とT木編集長が提案してくださいました。あの人は、なぜかディックが大好きなのです。
さて、どうなることやら。
アイレインとサヤの結末の先に待つもの、それは『鋼殻のレギオス』のエンディングで語られるべきものであると思います。ディックの物語はそれらの本筋からややずれた位置にありながら、しかし本筋とは切っても切り離せないものとなるだろうな、というのが現状での予想です。
書き手である自分にもよくわかりません。
とにかく、これにてアイレインとサヤの物語は終幕を迎えました。
読者様、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。そして、これからのレギオス、あるいは別の作品でお会いできることを願って、キーボードを止めさせていただきます。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]雨木シュウスケ
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[#地付き]本作品は書き下ろしです
底本:
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校正:
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