レジェンド・オブ・レギオス
雨木シュウスケ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)|類似《るいじ 》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数度|呻《うめ》き
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
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目次
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00銃弾の夜
01目覚めの時間
02思考する日々
03本能なき者たち
04錬金術師はかく語り
05死出血路
06生命と炎
エピローグ
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あとがき
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装丁 朝倉哲也(design CREST)
扉イラスト 深遊
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イグナシス覚醒
レジェンド・オブ・レギオスU
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00 銃弾の夜
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地響きのように、それは響き渡った。
それは現実の音ではない。全身を駆け巡った衝撃を音に|類似《るいじ 》したなにかとして、震動として感じ取ったにすぎない。
|余韻《よ いん》もなく過ぎ去ったものの後にあるのは、ただ、激痛。
腹部に走る熱。漏れ出す熱。焼けつく痛み。供給と消費のバランスは完全に崩壊し、空虚と寒気が広がっていく。
「があ、あぁぁ……」
絞り出す声は言葉にならない。なぜ? と問いたかった。
誰に?
目の前にいる人物ではない。
その背後。遠くビルの屋上から自分を撃った誰かに。
銃声がなかったのは消音器のためか。
腹部に走る小さな穴。背中からはより大きな穴が|虚《うつ》ろを主張して、立っていることすらできなくなる。
倒れたことを認識できたのは血色に|歪《ゆが》む視界が空を映したからだ。
ビル群に削られた夜空には、オーロラが輝いている。
この世界を無限たらしめた偉大なる現象。
この世界を箱庭たらしめた呪うべき現象。
一つの救済が次なる平穏を約束しないことの証《あかし》。
オーロラ・フィールド。
自分は死ぬ。
なぜ? という問いすらももはやどうでもいいことになりつつあった。急速に自分の中からなにかが失われていく。肉体という形からは血が、意識という不定形からは生きることに対する欲が抜けていく。
ああ、そうか。おれは、それほど生きたいと思っていたわけではないのか。
死の直前の啓示にどれほど意味があるのか? それは誰にもわからない。
ただ、その問題に答えを出すことができるものが一つだけある。
それは限定的なものであり、全般的な答えではない。ただ一人、いま死に瀕《ひん》するこの男のための答えでしかない。
だがこの時、死を目の前にした男は生きている最中に生じる様々な欲を次々と消滅させていた。
人生を走馬灯のように流すことで自らを再認し、自らの人生の中で生まれた欲望の軽重を知らぬ間に量り、消すことのできない欲望を晒《さら》そうとしていた。
生きていることはこの男にとって、重要な欲望ではなかった。
では、この男の欲とはなにか? 逃れられぬ死を目前にして、その死を恐れるわけでもないこの男が叶《かな》えたいと願うものとはなにか?
夜空で揺らぐオーロラだけが、その声なき声を聞いた。
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†
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影法師が二つ、地面に伸びている。
生んでいるのは一つの街灯だ。斜めに傾いでもなお役目を全うしようとする健気《けなげ》な街灯は、夜の中に細長い光の輪を地面に刻んでいる。
影法師は、その中にあった。伸びた中にも長短がある。影は二つ、寄り添うように伸びている。
「さて、どうしたもんかな?」
長い方の影法師が|呟《つぶや》いた。それほど言葉に迷いはない。言葉通りの困惑が混ざっているが、型通りに言ってみただけという風にも感じられる。
右目は眼帯で覆われている。左目のみで周囲を|睥睨《へいげい》する。
取り囲まれていた。
囲んでいるのは、奇妙な連中だ。
顔に面のようなものを被《かぶ》っている。平面の板に目と口の部分に切り込みを入れただけのような面だ。
街灯の描く光の輪を避けるように、その外側から影法師を囲んでいる。
手には武器がある。
銃のように気の利いた武器ではない。そこら辺の不良少年でも持っていそうな、折り畳み式のナイフだ。
対して、影法師は無手だ。
しかももう一人、短い影法師の持ち主は少女だった。
美しい少女だ。
長い髪は街灯を受けて生まれる濃淡の影に溶け込むように黒く、その肌は逆に驚くほど白い。
大きな瞳は目じりが鋭く、紅い唇は丸みを残した幼い顔に|妖《あや》しい魅力を孕《はら》ませていた。
「困ったことに、金はないんだ」
そんな少女の肩に手をかけ守るように引き寄せてから、長い影法師は低い声で面を被った連中に話しかける。
面たちは、その言葉を聞いていたのかいないのか、返事をすることもなければ、武器を収めることもない。
顔を見合わせて相談する様子もない。
ただ、影法師に襲いかかる|隙《すき》を窺《うかが》っている。
初撃をかわされたことを警戒している。街灯が斜めに傾いでいるのは、面たちの一人が蹴ったためだ。
並大抵の膂力《りょりょく》ではない。
常人ですらないかもしれない。
強化兵か? と影法師、アイレインは考えた。追われる覚えのある身としては、政府軍の主力歩兵である可能性も考えなければならない。
しかし、とりあえずは物盗《ものと》りではない。そのことだけを確認するにとどめた。それ以外の可能性を考えたところで詮《せん》もない。
「退《ど》いてくれないなら、押し迫るまでなんだがね?」
語りかけるが、やはり返事がない。
アイレインは寄り添う影法師の肩にかけた手を外した。
「サヤ」
呼びかけると、サヤはその細い両手を前に差し出した。
その手にはいつの問にか大きな銃が載せられている。長い銃身を交差させるようにして、二丁。
|捧《ささ》げられるかのように出された二丁の銃をアイレインは手にした。面たちが動く。
アイレインは銃爪《ひきがね》を引いた。銃声は夜陰を震わせ、銃弾は面たちの一人を打った。
もんどりうって倒れたその一人を乗り越え、アイレインに迫る。背後左右からもタイミングを合わせて押し包もうとしてくる。その手にあるのは折り畳みナイフというささやかな武器だが、街灯を曲げた膂力を考えれば、突進そのものが脅威だとわかる。
アイレインはサヤの腰に手を回し、跳躍した。
先頭を切っていた数人が、アイレインのいた場所で衝突した。そんなことなど気にもしていないというぶつかり方だ。衝突音は肉がぶつかり合ったとは思えないほどで、その中に骨の砕ける音が高々と混ざっていた。
ぶつかり合ったまま崩れ落ちるそれらの背後にいた者たちが、仲間の背を足場にアイレインを追って跳躍してくる。
アイレインはそのうちの二人を銃で撃ち殺し、残りは蹴り飛ばし、その勢いを利用してさらに高く跳ぶ。
空中で身を| 翻 《ひるがえ》して逆さまになる。サヤも心得ていた。腰に回った腕から抜け出し、一瞬自由になった自分の体を宙で滑らせ、アイレインの背後に出るとその首に腕を巻き付けた。
両腕が自由になる。二つの銃火が花開き、夜気に硝煙の残光を刻んだ。
降り注いだ銃弾の雨に、追いかけて跳躍しようとした面たちは次々と撃ち落とされた。
アイレインが着地する。
その周囲には死体が……転がっていない。
「……………?」
アイレインは首を傾げた。
「なあ、おれっていま………」
「ええ、たくさん撃ち殺しました」
隣に下ろしたサヤが、アイレインの疑問に端的に答えてくれた。
それに渋面を作る。
「女の子なんだから、もう少し奥ゆかしさが欲しいね」
だが、サヤも見ているということは幻覚だったということはないだろう。それとも、サヤも巻き込んだ幻覚で、この周囲にはそういう薬でも撒《ま》かれているのか? だが、それならばサヤが寄せ付けないのではないだろうか。少女にはそういう能力がある。
それでは……?
「ま、あいつに聞けばいいか」
一人だけ、消えていなかった。
生きている。そのことにアイレインは驚きを隠せない。
外したつもりはない。
うつ伏せに倒れているその一人を足で裏返すと、面が半分に欠けている。落下した時に頭を打ったのか額から血が流れているが、それだけだ。ぎりぎりで銃弾を避け、その衝撃波で気絶した、そんなところだろうか。
アイレインは面を|剥《は》ぎ取った。
若い男だ。
赤髪の、生意気そうな顔をした男だ。成人したばかりのようで、少年の|名残《な ごり》がある。
「おい」
つま先で、横腹を軽く蹴る。男は数度|呻《うめ》き、そのたびにつま先で揺すってゃっと意識を取り戻した。
「あ、あ……?」
前後の事情がよく呑《の》み込めていない顔でアイレインを見、辺りを見回す。俊敏な動きで起き上がったが、頭痛のためか、頭を押さえた。
「なんだ、あんた……」
「それはこっちが聞きたい」
顔をしかめて、男を見た。
アイレインたちがこの都市、ヴェルゼンハイムへとやってきたのは一昨日のことだ。いつものように豪勢なホテルに泊まり、マフィアの供応を受けるドミニオのボディガードをし、エルミは亜空間増設機を探して姿を消した。
マフィアのことで調査をする必要もなく、異民化問題がそれほど深刻なわけでもなく、アイレインの出番があるとも思えなかった。
ほとんどの都市はこういうものだ。フェイスマンとの戦いは異常な事態であったにすぎない。
一日目、二日目を事もなく過ごし、そして今日。
サヤが目を覚ました。
「なにかが起きます」
ひどく不吉な言葉だが、眠りに就いているサヤを起こすのは、たいてい近い未来に起こる危険だ。それ以外は眠り続ける。
アイレインたちを追うソーホの組織は、サヤのことを『|茨姫《いばらひめ》』と呼んだ。|茨《いばら》に守られ、百年の眠りに就く童話の美女。まさしくその通りだと思う。
アイレインは、その|茨《いばら》だ。眠りを妨げるあらゆるものを墓標の下に封じ込める。そうであれと自分に課している。
サヤの外れることのない危機感知に、ドミニオは調査を命じた。
もっとも、サヤは危険を感知することができても、それがどんなものかまではわからない。すぐに訪れるような簡単な危険ならばいいが、そうでなければ気長にそれが起きるのを待つしかないという側面もある。
仕方なく、アイレインはサヤを伴って夜の街に繰り出した。
そして、この男たちに襲われたのだ。
どこかに大きな工場があるのか、ずっと機械の作動する重苦しい音が聞こえてくる。規則的で力強い、一歩一歩、なにかを確認するかのように続いている。
「うっとうしい」
まるで、この世界全てを覆い尽くしているかのような音だ。
サヤが空を見上げている。身動きを止め、まるで彫像のようにそうしている少女の姿に、男の視線が|釘付《くぎづ 》けになっていた。
「おい」
|怪我《けが》をしているのにも構わず、アイレインは男を小突いた。
男は予想以上に驚いた顔をして、こちらを見る。
「で、なんでだ?」
「だから、なにが?」
額の血のことなど忘れた顔で、男は戸惑っている。
「なんで、おれたちを襲った」
「そもそも、なんでおれはここにいるんだ?」
「知るか」
襲ったという事実に驚いている様子はない。
「金目当てか?」
「あー、そうなのかもな」
「なんだそりゃ?」
「ここは強欲な都市だからな、そういうこともあるかもな。……おれを操るような怪しい薬だってどっかに売ってるかもしれんし」
「いい加減だな」
「だから、そういう都市なんだよ。悪徳を代表してるのさ。そんなことも知らないなんて、あんたは旅人かなにかか?」
「ま、そうだけどな」
「じゃ、気をつけな」
男のあっけらかんとした様子に、アイレインは|呆《あき》れた。
悪びれた様子など少しもない。
先ほどの動きからして強化手術を受けているはずなのに、軍隊的なにおいは|欠片《か け ら》も感じさせない。
戦い方を思い出せば、統率は取れていたが、ああいう曲芸的で自己犠牲性の強い戦い方を軍隊が教えているとは考えにくい。
(変な奴だ)
アイレインは思った。
「しかし、金もってそうには見えないけどな。そっちの女の子目当てか?」
男はアイレインを遠慮なく見、そしてサヤに視線を移した。空を見ることをやめた少女は、男を見返している。なんの感情もない平板な視線に男は気を呑まれたようで、その後の言葉はなにもなかった。
「……変な気を起こすなよ」
「そっちの趣味はないつもりなんだけどな」
言いながらも、男は渇いているかのように喉《のど》を上下させた。
それも仕方がない。サヤの美しさは太陽よりも月の下でこそ映える。薄闇に溶けるような黒髪、淡い光を吸い取るかのような肌、その|美貌《び ぼう》の中にあって闇をため込んだかのような瞳がアイレインたちを見ている。
まるで、夜の夢が落ちてきたかのようだ。
「それにしても、なんのつもりだったんだ?」
アイレインは自分が手にしている面を見ようとして、指先に伝わる感触に驚いた。
面がなくなっているのだ。
同時に、周囲に不穏な空気が漂い始めたのにも、気付いた。
「……なあ、こいつらってなんなわけ?」
男もその気配に気付いている。視界にはまだ入っていないが、なにかに取り囲まれようとしている。
その感じが、先ほどとまるで同じだ。
「お仲間じゃないのか?」
「冗談、こんな知り合いはいないな」
軽口をたたきつつ、男が腰に手を伸ばす。
ファッションのつもりなのか、腰から斜めにベルトを下げている。その先にはケースが付いている。
指でケースを開け、その中から棒状のものを取り出した。
男の手の中にされいに収まる棒状のものは護身用の打撃武器としてはあまりにも小さい。また、握りこんで人を殴るには大きすぎる。そんな半端な塊だった。
暗闇を裂くようにして面を被った集団が現れた時だ。
その手には、先はどのような陳腐なナイフではなく剣や|槍《やり》などが握られている。銃を持つ者がいないのはどうしたことなのか。
まるで、原始時代にでも逆行したかのような気分だ。
それを、隣の男がさらに決定づけた。
「レストレーション」
男がそんな単語を|呟《つぶや》いた。
その言葉になんの意味があるのか……それは、すぐにわかった。
男の手の中で、爆発が起こった。光の爆発だ。それは小さな、マグネシウムが燃えたような程度のものだったが、確かに光った。
だが、男の手の中で起こった変化は、その程度ではすまない。
塊は、そのサイズを劇的に変化させていた。太く、長く、肩に載せるために動かしただけで空気が叩《たた》き|潰《つぶ》されたかのように|唸《うな》る。
赤髪の、優男のような|雰囲気《ふんい き 》を持つこの男には相応《ふ さ わ》しくない。
それはデザインからそう呼ぶには憚《はぱか》られるが、機能としては打撃武器であり、言ってしまえば金棒だ。
「そういえばさ、おれはあんたの名前を知らねぇな」
「アイレインだ」
「そっちは?」
「くたばれ」
「はっ」
包囲の輪は縮んでいく。それなのに、男は余裕をもってサヤに色目を遣っている。
男の名は、ディクセリオ・マスケインと言った。
「ディックって呼んでくれ」
そんな長い付き合いにはならない。空返事の裏側にそんな言葉を置いて、アイレインはディクセリオ……ディックの後を追って面たちに向かっていった。
ディックは、速かった。
(へぇ)
思わず、感嘆の声を漏らしそうになるほど、だ。この速度で最初から襲ってきていれば、アイレインはさきほどの戦いで、あそこまで楽に勝つことはできなかっただろう。
普通の強化兵にこの速度は出せない。あんな速度を実現させながら余計な衝撃波がさほど起きていないのも奇妙だった。
ディックの金棒が縦横無尽に振り回される。振り回す勢いに手加減というものはなく、また、そういうことができそうな重量感ではなかった。
面たちは、その重量の犠牲になっていく。自分のように誰かが操られている可能性というものを考慮しているようには思えなかった。
奇妙なことが起こってもいる。ディックの金棒に叩き潰された面たちは、渦を巻き、まるで面に吸い取られていくかのように消えていく。
「どうしたよ?」
面たちに囲まれながら、ディックがこちらに声をかけてくる。
「おれをぶん殴ったのはまぐれか?」
アイレインの銃弾は面たちに命中していなかった。
先ほどとは違い、速度が付いているのだ。ディックに及ばないにしても速く、なにより銃弾の速度に対応できる反射神経がある。
「蝿でも撃ってる気分だな」
銃で戦うのは、|諦《あきら》めた。
「仕方ねぇな」
距離をとることで攻撃をかわし、銃をベルトに挟み込む。内ポケットのシグレットケースから|煙草《た ば こ》を一本抜きとり、火を点《つ》けた。
「休むな、おっさん!」
ディックの声は非難の悲鳴のようでもあったが、余裕はまだある。
肺に深く煙を落とし、アイレインは告げた。
「どいてろ」
その言葉に従おうが従うまいが、どうでもいい。
面たちが押し潰さんばかりに迫ってくる。
その面に変化が起きていることに、アイレインは気付いた。平板な、目と口に切れ目を入れただけのようだった面に膨らみができている。口元が突き上げるように盛り上がり、左右に裂け広がる。目蓋《まぶた》ができあがる。盛り上がった口の先に鼻が生まれた。
獣だ。
その変化にどんな意味があるのか。
「壊れれば、全て同じだ」
腕を振るった。
風が荒れ狂う。腰の、エルミによって移植された臓器が回転しているのを感じ、膨大なエネルギーを放出しているのを感じる。
溢《あふ》れ出した膂力が高速運動を可能にし、それに耐えうる肉体へと変じさせ、無秩序に放出される衝撃波へと転じる。
破壊の暴風は迫っていた獣面たちを吹き飛ばし、四肢を無残に引き裂く。その範囲は拡大していき、やがてその周囲にいた全ての獣面たちを覆い、無形の牙によって噛み裂いた。
「ま、こんなもんか」
血を沸かすような熱が急激に冷えていく。紫煙混じりの息が熱い。
「無茶するなよ」
アイレインの隣に着地したディックが非難がましい顔をしてくる。衝撃波を放つ寸前に上空に挑んで逃げたのだ。
(たいした反射神経だ)
口には出さない。
「……に、しても、なんだこいつら?」
金棒を肩にやり、ディックが戦場となった場所を見渡す。
「だから、お前のお仲間だろ?」
「だから、知らんて」
死体は、やはりどこにも転がっていない。今度はディックのように生き残っている者もなく、周囲には破壊の|余韻《よ いん》だけが残されていた。
「ここのところ変なこと続きだけど、これはとびきりだな」
ディックがため息混じりに言った。
「へぇ、どんなことだ?」
「ああ……、都市が変な所に迷い込んでるくさいんだよな。採掘団の奴らが変なもん掘り出したせいでこうなったってもっぱらの|噂《うわさ》だが……」
「はっ?」
「ああ、採掘団てのがわかんねぇかな? たまに地上に出て穴掘る連中だ。たまに、遺物なんかを見つけて、それが大金に化ける時があるから、やる奴らが後を絶たないっていう……」
「いや、そういうことではなくて………」
アイレインの疑問を、ディックは理解していないようだ。
こちらが異常だと感じた言葉を、ディックは異常だと思っていない。
そのこと自体がすでに異常なことだ。
(どういうことだ?)
都市が変な所に迷い込んでいる。その言葉がおかしい。だが、どういう意味なのか、それを想像することさえアイレインにはできない。
「あー……、サヤ?」
アイレインはサヤに意見を求めた。もしかしたら、自分には理解のできない状態になっているのかもしれない。
ディックが精神に異常をきたしているというのでさえなければ。
「わたしにもわかりかねます。ただ……」
サヤはかすかに首を振り、そしてアイレインを促して空を見上げた。
つられて、見る。
「あ?」
そこにもまた理解できない事態があった。
夜空がある。千切れた綿のような雲が青白く浮き上がって疎《まば》らに流れている。その上には星々が瞬いている。
月が、雲で着飾っている。
夜の色はあくまで蒼《あお》く、暗い。そこにそれ以上の色は存在しない。空全体に薄い膜が張られたような奇妙な感覚があるが、それ以外ではなにもない。
「なんでだ?」
オーロラがないのだ。
亜空間の象徴である七色の垂れ幕が存在しない。
「首都に近かったっけか?」
「そんなことはありません」
オーロラが見えない場所としては、亜空間ではなく現実の空間に都市を構える首都が唯一だろうが、アイレインたちが向かい、そして到着している都市は首都ではない。それどころか、首都を中心に円を描くようにある都市群の中では外円部分、はるか遠い場所にあるはずだ。
オーロラは、亜空間が別の亜空間と接触する際に発する火花であると言われている。そしてオーロラがあるからこそ、世界は隔絶してしまったのであると……
それが、ない。
これは、どういうことだ?
「なに|唸《うな》ってんだ?」
ディックが|怪訝《け げん》な顔で空を見上げる二人に声をかけてくる。オーロラがないことに違和感を覚えてすらいない。その反応を見るに、オーロラがないことが当然だということがわかる。
そうでなければ、アイレインたちの反応を見て、そのことに対してなんらかの説明をしてくれるのが普通ではないだろうか。
途方に暮れた。
悪い夢を見ているのか、それとも悪い夢を見ていたのか。
前者で今いる状況を否定しても、後者で自分の記憶を否定しても、どちらにもたいした意味がないように思いながら、しかしどちらかに決めなければ居心地の悪いままだというどっちつかずの状況に、アイレインは途方に暮れる。
「お、なんだい?」
サヤがディックの前に移動した。
「その、採掘団という人たちが拾った物とはなんですか?」
「サヤ?」
「なにかがあるとすれば、それではないでしょうか?」
「まあ、それぐらいしか手がかりはないなぁ。おい、案内しろ」
「偉そうに言いやがる」
「いいから行け」
尻《しり》を蹴られ、渋々ながらもディックが歩き出す。
「まあちょうどよかった」
暗い街路を歩く。人の姿はほとんどなく、街は完全な眠りについていた。ディックの話では盛り場に行けばこの連で、一日中馬鹿騒ぎだという。
「なにが?」
先を行くディックの言葉に、アイレインは|尋《たず》ね返す。
「ちょうどおれも、そこに用があったんだよ」
「へぇ」
「さっきも言ったろ? ここが変な所に迷い込んでるのは遺物のせいかもしれんて。そいつを奪って来いって言われててな。ま、あんまり|物騒《ぶっそう》なことは好きじゃないし、どうしたもんかと思ってたと土なんだよ」
「よく言う」
|物騒《ぶっそう》なことが嫌いな奴が、あんな凶悪な武器を使うものか。殺すだけなら銃で事足りる。金棒なんて武器を使う奴はぶん殴ってぶん殴ってぶん殴ることが大好きな戦闘狂だけだ。
そういう趣旨のことを端的に言ってやった。
「サディストのくせに」
「ああ? ああ武器のことか? ちげぇよ。あれなら馬鹿みたいに硬い鱗《うろこ》を無視して衝撃を通せるじゃねぇか」
またわからないことを言う。鱗? ワニと戦っているとでも? だとしたらそれは、とんでもなくでかかったりするのだろう。
「あんたの銃こそ現実的じゃねぇな。下手っくそに撃ちやがって。当たれば痛そうだけどな」
射撃の腕でここまで酷評されたのは訓練を受けていた時だけだ。
「力は強《つ》えんだから、普通の武器にしたらどうだ?」
「じゃあそれよこせ」
「嫌だね。オーダーメードで高いんだ」
そんな会話をしているうちに目的の場所に|辿《たど》り着いた。
向かったのは倉庫の建ち並んだ区画だ。そこら中にコンテナが積み上がり、乾いた空気が流れている。
そんな空気にドラムとベース音ばかりが強調された音楽が、どこからか漏れ聞こえて来る。
そこに向かっていた。
あの重苦しい工場の音はここでも聞こえてくる。音楽はまるで、この音に対抗するためにかけられているかのようだ。
「うるさいな」
「そうか?」
だが、ふぇディックは気にしている様子はない。慣れているのだろう。
半開きになったシャッターを、長身のディックはさらに押し上げてくぐる。倉庫の奥に明かりがあり、十人程度の集団がいる。オイルの足りていないシャッターのがなり声に気付かないわけもなく、音楽が止まった。
「なんだ、次男坊か」
年嵩《としかさ》の、リーダー格らしい男がそう言った。気の荒そうな男だ。若い者たちの流す音楽に興味もなさそうで、少し離れた場所にあった事務デスクに足を乗せ、酒を飲んでいる。デスクには空き缶が山を作り、一部が崩れて床に散らばっている。
次男坊と呼ばれ、ディックは苦笑を浮かべている。
「やっと買う気になったか? 次男坊」
「まさか、うちの親父はそういうもんには興味ないって言ったろ?」
「言ったな。だが、気が変わるってこともある。特にいまのこの状況が、本当にこいつのせいならな」
「そうだよな。本当にそいつのせいだって確証が掴《つか》めたらうちの連中がわんさとやってくることになるぜ?」
「はっ、ヴェルゼンハイムを支配するハイランダーどもがおれのところに押し寄せるか? 面白いな」
酒焼けした声で笑い、男はデスクの上、山をなすビール缶の隣に置かれた薄い端末機械に手を乗せた。
「アイン」
「ああ、ぼいな」
サヤの声にアイレインは|頷《うなず》く。
一度だけ、エルミからサンプルを見せてもらったことがある。薄い板のような、ノート型の旧式携帯端末に似た形。それが亜空間増設機のコアユニットだ。
だが、あの内部にあるのは集積回路が取り付けられた基板などではない。幾万というマイクロサイズの歯車やバネによって構成されたゼンマイ仕掛けだ。
この亜空間時代の中心にあるのが、デジタルでもなくその先に進んだものでもなく、前時代に戻ったアナログな道具なのだ。
だが、ただのアナログな道具というわけではないのは、その結果を見れば明らかだ。
難しい理屈はよく覚えていない。そもそも、現代の知識の最高峰にあるアルケミストの科学者たちが理解できないものを、アイレインが理解できるはずもない。
時間の流れを受け止めてゼンマイが力を溜めこみ、その力が時空を構成するためのなんらかの応力となって各部品を巡り、部品はその形とその単純運動そのものになんらかの法則性を発現させ、それを次の部品へと|繋《つな》いでいく。
その先に生まれるのが亜空間の基本構成物質であるオーロラ粒子だ。端末の排気口がそれを吐き出し、別の機械がそれを定義された空間へと形作る。
あれは、いまでも稼働してオーロラ粒子を吐き出しているのか。
そうでなければ、この空間そのものが崩壊しているか。
だが、それなら空間を固定する部位はどこにある?
ディックと男の交渉が続いている。
「そうなる前にそいつをおれに渡す方が利口だと思うぜ?」
「金が先だ」
「市民なら都市の平和も考慮しようぜ?」
「支配者なら、市民の生活の保障ぐらいするんだな」
哀しいまでの平行線だ。出来上がった|隙間《すきま 》に金という単語でも放り込めば、それだけで解決しそうなところが物悲しさをより強めている。
そして、その単語をディックが決して口にしないところにも、だ。
強欲だと言っていた理由がとてもよく理解できた。
「なあ、もういいか?」
アイレインはうんざりとした。交渉結構。決裂結構。力尽く結構。結論は早い方がいい。
ディックを抜いて、アイレインは男の前に立った。見慣れない眼帯の人物に、男が|怪訝《け げん》な顔をする。
「人間のまま死にたければ、さっさとそれをよこせ」
「脅してんのか?」
「アルコール漬けの脳みそでもわかるように言ってやるよ。おれはぶん殴ってそれを手に入れる」
「はは、確かにわかりやすい」
笑っている間に、ぶん殴った。男がデスクから吹き飛ぶ。足が空き缶の山に当たり、崩れる。コンクリートむき出しの床に散らばり、乾いた音が響き連なる。
床に転がる男には目もくれず、端末の形をしたコアユニットを手に持つ。軽い手応《て ごた》えの中に複雑な振動が込められていた。幾万の歯車が動く音がこんな小さな箱の中に収められている証拠だ。
だが……
「ん?」
それが正しいのか正しくないのか、よくはわからない。だが、それがおかしいと感じてしまった。
薄い側面にある排気口があまりに静かだ。オーロラ粒子の存在を感じることができない。そこから放出されているのは濃密なオーロラ粒子のはずだ。なぜなら、これはコアユニットだ。これが亜空間を作るのだから。
(そうだ、ここにゼロ領域が現れてもおかしくないくらいの)
だが、なにもない。
「それは、お前が手に入れるべきものではないぞ。アイレイン」
男が、そう言って立ち上がる。
「どうして、おれの名を?」
その顔が、いつの間にか面に覆われていた。他の連中もだ。
「おいおい……」
背後でディックが身構えたのを感じた。光が薄暗い倉庫で存在を主張した。さっきの武器を出したのだろう。
他の連中の面は、獣となっていた。
だが、立ち上がった男の面は、違う。
人の顔だ。眼球の部分が切り抜かれ、盛り上がった唇の狭間《はざま》に切れ込みのような穴があいているが、それ以外はまるで本物の人の顔を張り付けているかのように精巧な面を被っている。
どこかで見たことのある顔だ。
だが、それが誰だか思い出せない。つい最近出会ったような気がするのだが、思い出せない。
声まで変わっていないからわからないのか……
「こんな所にお前が現れる。それはつまり、お前もこの流れに乗っているからか?」
「なんだって?」
「どうしようもない流れだ。残酷な流れだ。これを運命と呼ぶのなら、運命とは疫病のようなものだ。だからこそ……」
面が、表情を作った。そう見えただけか、倉庫の中にある光と影の交錯が見せただけの幻覚か。
だが、アイレインはその時、怒りと絶望とともに言葉を吐き出す面の表情を見た。
「わたしはこれを拡散し、撒《ま》き散らす」
「知るかよ」
アイレインは言葉に惑わされることを止めた。状況の確認ができないことに戸惑うことを止めた。謎と解決の関係性を考慮することを止めた。背後にはサヤがいる。ここで驚き惑っていることは許されない。
なぜならば、アイレインは眠り姫を守る|茨《いばら》だからだ。
「とりあえず、死ね」
眼帯を外す。その下にある眼球が露《あらわ》になる。|茨《いばら》輪の十字が刻まれた眼球が世界を見る。
世界を|侵蝕《しんしょく》する目が、面の男を見る。
その瞬間、男は弾けるように仰《の》け反《ぞ》り、そのまま倒れた。
足元に、なにかが転がる。アイレインの目に収まっている眼球と同じものが転がっている。|茨《いばら》輪の十字を刻んだ眼球が。
面だけを侵蝕したのだ。眼帯は手の中にある。アイレインは右目を閉じて状況を見守った。
「その程度は無駄な行為だと、すでに君は知っていると思うのだけどね」
男はゆっくりと起き上がった。その顔には別の面が被せられている。
今度は、他のものと同じ獣面だ。
「この都市はもはや手遅れだ。君にどうにかできる部分は、もうない」
面の奥で視線が動いた。背後のディックを見たのだ。
「君も、すでに手遅れだ」
「なんだ、それ?」
表情を面に隠された視線は感情を察しにくい、まるでガラスにでも見られているかのような気持ち悪さがあり、ディックはそれに呑まれた。
「忘れているようだから思い出させてあげるが、君は今夜、すでに一度ここに来ているのだよ。多くの部下を連れて、それを破壊するために」
「…………」
「その時になにがあったか、君は本当に思い出せないのかな? そして君がどうなったかを」
おそらく、ディックよりも先にアイレインがその事実を推測した。アイレインを襲った面たち。
その中で消えずに正気を取り戻したディック。
つまり、そういうことだ。
「まさか……」
そのことにディックも考えが至った様子だ。いや、思い出したのかもしれない。武器を落とし、顔を押さえ、その場にうずくまる。
アイレインはサヤの前まで戻った。
「ぐぐ……」
そんな声を出して、|呻《うめ》き続ける。なにか、耐えているような声にも聞こえる。
ディックが顔を上げる。
その顔には獣面が被せられていた。
「おい」
だが、アイレインも黙ってそれを見ているつむりはない。まだ立つのもおぼつかない様子のディックの前に素早く移動すると面に手をかけ、剥ぎ取った。
悲鳴が、倉庫内に充満する。
「いちいち操られてんなよ」
「うる……せぇ」
再び顔を押さえて|呻《うめ》くディックだが、指の間から覗《のぞ》く目には怒りがあった。
「ああ……くそっ、思い出した。全部、思い出した」
落とした武器を拾い、ディックはわめき散らしながら、いまだにその場から動かない面たちを睨《にら》みつけた。
「そうだよな、お前ら。親父も、兄貴も、なんもかんも同じようにしてくれたんだっけな」
「使えるものを取り込むようにと、言われていたのでね。だが、優良なものは君の手によって全て壊されてしまったよ。残念だ」
「はっ、人を道具扱いして、二人をおれにやらせたのか?」
「君が大人しく我々の側になれば、そんな悲劇は起こらなかった」
「言ってくれる……な!」
ディックが飛び出した。
「お前らをぶっ潰さないとおれの気は収まりそうもないぜ」
戦闘が始まる。
轟々《ごうごう》と荒れ狂う衝撃波の嵐に、アイレインは仲間入りしようとは思わなかった。手にはコアユニットがある。不規則なリズムを伝えてくるこれを手にしたまま、なるべく戦いたくはなかった。
なにより、ディックの方が優勢に見える。
戦う理由も特に見当たらない。
もはやこれは、この都市に住む人間の問題でしかないのかもしれない、ということもある。
「アイン?」
「これを、エルミに届けないとまずいだろ?」
背後の轟音がこれ以上の会話を許さない。戦闘の激しさが、倉庫を崩そうと揺り動かす。天井から粉が降り注ぎ、建材の揺らぐ金属の悲鳴が聞こえてきて、アイレインたちは急いで脱出した。
「そいつをぶっ壊せ!」
背後でディックの声がした。そいつとは、アイレインの手にあるコアユニットのことだろう。
だが、これを壊すことは許されない。これはいまの世界を形作るために必要なものの一つ。これが失われるということはその空間に住む何千万もの人間の命が失われるということ。
殺戮《さつりく》狂でもなければ手が出せるものではない。
工場の音がまるで|蘇《よみがえ》ったかのようにアイレインの全身を揺する。
|眩《まぶ》しい光は、夜が明けたことを知らせていた。
建物の隙間を縫って、まるで煩を張るように飛び込んできた|曙光《しょこう》に、アイレインは目を細め、そちらを見た。
そこに、あった。
「…………」
言葉は出なかった。隣のサヤも声もなくその光景を見つめている。
見つめるしかできなかった。
天を衝《つ》く巨大な柱が、はるか向こうにある。それが、ただそうとしてあるだけならそれほど驚きもしなかっただろう。
だがそれは、動いている。アイレインの視界の右端へと行き、そして左端へと流れていく。
ゆっくりと、とてもゆっくりと。
それは一つだけではない。首を左右に巡らせば、遠くにも同じようなものがある。膨大な距離をまたいで、それは等間隔に続いている。
同じように動き続けている。
まるで、都市を円で区切っているかのように。
しかも、その柱は天を衝くだけでなく、地を裂いて動いているように見える。
全ての動きを見ることができれば、それは蜘蛛《くも》が地を|這《は》っているように見えるのではないだろうか。
地を這っているというのならば……
「サヤ、行くぞ」
サヤの答えを待たず、アイレインは少女の腰に腕を回し、走り出した。無数の建物の|隙間《すきま 》を抜け、無人の街を行く。人がいないのは先ほどの仮面の言葉通りなのか、全ての人間を自分の思う通りに操っているのか。
その行為に既視感を覚えながらも、目の前の疑問を解消するために走る。
限界はすぐにやってきた。
まっすぐに走ることのできない限界。見渡す限りに張り巡らされた、先に進むことを拒む堤防を乗り越え、それを見る。
その先にあるのが、本物の限界。
地の果て。
ジャニス・コートバック。彼女の名前が突然頭に浮かんだ。
彼女がこれを見たら、なんと言うだろう。見たことのない場所を求めて絶界探査計画に参加した彼女が、無謀な冒険心の果てにゼロ領域に消えた彼女が見たら。
「ここは、どこだ?」
地平線まで続くむき出しの大地は、草木一つ見つからないほどに荒れ果てている。
生者がいるようには思えない。なにもかもが死に絶えたような大地の中心に、足を持つ都市が存在している。
どこかへと向かっている。
それはどこなのか、目的地はあるのか。
どこへ|辿《たど》り着こうというのか。
答えをまるで想像させないほどに、そこには荒廃という文字しかない。
「これが、病だ」
背後からの声に振り返ると、そこに顔だけがあった。宿主もなく、薄っぺらい顔の皮が風に揺れることもなく宙に浮いている。
「なんなんだ、お前は?」
「忘れられるほどの時が経ったかね? 君がいたがためにこうなったというのに」
「あ?」
「そして、そのために世界はこうなったというのに」
顔の背後で変化が起きた。光の柱が突然|屹立《きつりつ》したのだ。爆発音はその規模の割に静かで、巨大な足音に呑み込まれた。
その柱の上ほどになにかがいる。ディックかと思った。だが違う。ディックはその柱の下部で群がるものに呑み込まれそうになりながら戦っている。
そこにいるのは光そのものを物質化させたような奇妙な生き物のように見えた。人のようでもあり、獣のようでもある。人間の四肢があり、体毛のようなものがあり、長い|尻尾《しっぽ 》があり、そして勇壮な一本の角がある。
彫刻家のインスピレーションから生まれたような半獣半人のなにかは、群がるものをその全身から放たれる光で押しのけようとしている。
ものとは、無数の顔だった。
まさか。
そばにはまだ、顔が残っている。
「フェイスマン……か?」
呼びかけると、その顔が笑った。唇をいっぱいに引いて、邪悪な肯定をするかのように。
「なにをしているの?」
|茫然《ぼうぜん》としているしかなかったアイレインの耳に、第三者の声が突然に入ってきた。
|刹那《せつな》の間、我を忘れていたようだ。いつ世界が変じたのかがわからない。
眼前に広がる光景は荒野ではなく、そこに荒廃はない。
顔も、ない。
だが、それを見つめ続けたためなのか空虚の感覚だけはずっと体に張り付いている。
隣に、サヤもいた。
無口な少女も、状況の変化に戸惑いを感じているのか、しきりに辺りを見回している。
「ねぇ、どうしてここにいるのかしら?」
その声は足元でしていた。
「エルミ、か?」
「それ以外の誰に見えるの? こう言ってはなんだけど、わたしほど個性的な女がいるとは思えないけれど?」
素知らぬ顔であくびをする黒猫がアイレインの足元にいる。声はそこからしている。
正確には、猫の額にある青い宝石から。
「ここは?」
「わたしがいる場所。つまりはそういう場所」
迂遠《う えん》な言い方にアイレインは顔をしかめる。
だが、理解は及ぶ。
亜空間増設機のある場所。
ここは、地の果てではなかった。天を衝く巨大な足が都市を運んではいない。オーロラのない空ではなかった。
ディックたちの戦いの音も聞こえてこない。重苦しく永遠に続くだろう、あの機械的な音も聞こえてこない。
光の柱もなければ半獣半人と群がる顔の戦いもない。
だがこの場所は、最初に面たちと出会った、あの公園にひどく似ている。
すぐ背後に街灯があり、目の前の状況を|煌々《こうこう》と照らしている。他は闇。ぽつぽつと広い公囲の各所にある街灯の明かりが、逆に闇の存在を濃厚にしている。
まるで劇場のスポットライトのように、そこだけを明確に照射してしまうから、他はなにも見えない。見えないように思ってしまう。
だからこそアイレインは、もしかしたらこの闇の向こうに面たちが潜み、再びあの戦いを繰り返すことになるのではないかと考えてしまう。その中には、面で顔を隠したディックも交ざっているのではないかと、思ってしまう。
黒猫が街灯の輪から出ないように、その円に沿うように歩く。
あるいはスポットライトの中心で眠る、ある男を全周囲から観察するために、歩く。
「まったく、なんでこんなところにあるのかしらね。設置場所からずれてしまったのかしら?」
「知るかよ」
状況に付いていけないアイレインは投げやりな言葉を返す。
男が、そこで死んでいる。遠くからの|狙撃《そげき》だろう。腹に大穴をあけている。死因は狙撃によるショック死か、失血死か……そんなところだろう。死の直前を保存した表情は、|驚愕《きょうがく》であり、苦悶《もん》は微量でしかないように思える。自分の血の海でもがき苦しんだ様子はないから、比較的すぐに死んだことだろう。
その死体に、なにかの塊が同化していた。
癒着ではないだろうし、こんなものが生前からこの男の体にあったとすればさぞ普通に生活することに苦労したことだろう。なにより、肉体にだけではなく、その体を覆う上等そうなスーツとも同化していることを考えれば、死後にこうなったと考えるのが妥当に違いない。
男の胸には薄い金属の塊が埋め込まれ、飛び出ている。
「やっとコアユニットにアクセスするのに成功したところよ。そうしたら突然、あなたたちがここに出てきたんだけど。どういうこと? まさかゼロ領域にいたとか言うんじゃないでしょうね?」
「そっちの方が説明しやすかっただろうさ」
アイレインは途切れ途切れに、さきほどまでのことを説明した。
「ふうん」
返ってきたのは、簡素な反応だ。
「わかるのか?」
「さて、可能性は二つ……かな? 小さいのまで挙げるとキリがないけど、大きいので言えば二つ」
黒猫は死体の周りをうろつきながら、話し続ける。その間にもなにかの作業が行われているのか、男の死体と同化したコアユニットが複雑な音を、まるでなにかの曲を奏でているかのように変化させる。
あの中で手に持っていたコアユニットはいつの間にか失われている。もしかしたら……と考えてしまう。あの男の胸に埋まっているのが、あの時自分が手にしていたものと同一のものかもしれない、と。
「根本原因はこの男の願望、あるいは妄想なんだけど、一つは妄想の方。全て、この男がそうであればいいという世界をアインたちが体験したということ」
「まさか」
思わず言ってしまった。それは亜空間を創造したということになる。それだけでなく、そこに暮らす人々までも。
そんなことができた人間がいるのか?
「そもそも、こいつはもう死んでいる」
「死んでいるけど、影響を与えているから苦労しているわけよ、いま。わかる?」
そう言われてしまうと身も蓋もない。
「もう一つは願望の方ね。こいつがなにを望んでいるのか知らないけど、それが未来に関わるものだとしたら」
「なぜ、未来?」
「過去だと思ったの? すでに確定している過去を知りたいなら、史料を読めばそれで終わる。そして想像力を減退させられる。文化やら社会の形態やらが確定してしまうからよ。その枠の中でならいくらでも想像するけど、その枠の外には出られなくなる。それほど事実から外れたものにならないわ。なにより、過去を知りたがる人間が、手近にその欲を解消させられる史料に手を伸ばさないはずがないし。
それなら未来。簡単な帰結でしょ」
「確かにそうだけどな」
なら、アイレインが見たあれは、いつかはわからないが未来ということになる。
世界は荒れ果て、都市が|彷徨《さまよ》う世界。
正直、そうであって欲しくはないと思う。自分が死んだ後のことなど知ったことではないはずだが、やはり、見てしまえば気にもなる。
「この男の願望が、時間を渡るエネルギーへとオーロラ粒子を変質させ、あなたたちはそれを見た。あるいは体験した。でも、完全な時間旅行ならあなたたちが戻ってこられるはずがない。なぜならエネルギーは時間を先に進めるという流れでしかないから、その流れとは逆である、過去に戻るエネルギーというものが必要になる」
エルミはそう決めつけた。
だが、そう決めつけたことがアイレインの想像に羽を付ける。
採掘団が見つけたというコアユニット。男の胸と同化しているものと同じにしか見えないもの。
遣物と呼ばれた物。過去からの漂流物。
オーロラ粒子を流さないまま動き続けていた機械。
あれが、現在のコアユニットと相互通信のような状態になっていたのだとしたら? あそこから流れ出していたものが、単純なオーロラ粒子ではなく、時を逆巻きにするエネルギーなのだとしたら、アイレインが知覚できなかったとしてもおかしくはない。
まして、そうでなければこの男はどうやって現在の、死者である自分に未来のことを教えようとしていたのか。
「ま、なかなか一考に値する未来観測ではあるかもしれないわね」
エルミの感想はそれだけであり、その言葉が作業の終了を告げていた。
「アイン、この男を消してちょうだい。それでここの増設機は元通りの仕事をしてくれる」
それはこの男の願いを消すということでもある。
未来への道を閉ざすということでもある。
だが、エルミはそれに重きを感じていない。
「未来というのは確定していないから面白いのよ。無限の想像を許す、無限の発想を許す。だからこそ、人は新しいものを作り出すことができる。あなたたちが持ち帰った情報が本当に未来のものだとするなら、それはわたしにとっては有害な情報以外のなにものでもないわ。そうさせてはならないなんて正義感、わたしに似合う?」
「なるほど、正論だ」
アイレインは眼帯を外した。
|茨《いばら》輪の十字。
その日で、死者を見る。
墓一つ。眼球一つ。
足元に転がったそれを、アイレインは拾い上げた。
左の手で、異界に侵蝕された手で。
「未来が見たいなら、おれに付いてこい。もしかしたら、百年先ぐらいには行けるかもしれないぜ?……」
手の中の眼球に語りかけると、それは形を失って掌の中に消えた。
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01目覚めの時間
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長い道のりというのは退屈との闘いでもある。特に車で旅をするというのは、そういうものなのだろう。
だからいつしか、どんなものでも変化を喜んでしまう。顔では面倒だと表現していでも、心はそれによって繰り返される行動の輪から外れることができるのを喜んでしまう。
サヤが目を覚ました。
これは、そういう変化だ。
「おはようございます」
淡々としたその声が、運転席で擦り切れた雑誌に目を落としていたアイレインの背にかかる。
移動に使っているキャンピングカーは自動運転中だ。たまにナビゲーションのモニターを確認する以外にはハンドルを握る必要もない。
アイレインは振り返った。
「起きたのか?」
「はい。何日ぶりでしょうか?」
「おおよそ一月ぐらいかな」
眠り姫はその日数にどれほどの意味を感じているのか、かすかに首を傾げた以外はたいした反応を見せない。
「そうですか」
そう返しただけで、エルミが見立てたレースがひらひらとしたスカートを揺らして助手席に座る。
「……なんか、ありそうか?」
「わかりません」
サヤはアイレインが絶界探査計画に参加していた時、ゼロ領域の中で見つけ出した異民だ。
生きているのかと疑ってしまいそうなほどに白い肌。茫洋と前を見つめる瞳は黒く、少女を飾る髪は黒い。
その横顔に、アイレインはかつて失った妹を重ねていた。いまはそうではないのかと問われると、そうではないと口では言える。
だが、心の底からそうだとは言えない。
ゼロ領域の向こうに消えた妹と、サヤは同一人物ではないと言い切るだけの自信がない。
サヤにはゼロ領域にいた頃、そしてそれ以前の記憶がない。なぜ自分がそこにいたのかという説明ができない。
そのことがアイレインに可能性を持たせてしまう。
絶界探査計画は、アイレインにサヤという存在と自らを半異民化させるという結果を与えた。
オーロラ・フィールドから漏れるゼロ領域の混沌《こんとん》、オーロラ粒子の|漏洩《ろうえい》は、人体に異界侵蝕を起こさせ、異民化させる。それは異民化問題として社会的に認知されている。
異民化した者は常人にはない特殊な能力を得るが、それよりも問題とされるのはその外見が人間離れしてしまうことが多々あるからだろう。幸いにもアイレインとサヤの二人はすぐにわかるほどの外見的異常はない。だが、人間的ではない部分を二人ともが持っている。アイレインの場合は右目がそうであり、サヤにとってはその全身がそうだ。彼女の体は一見すれば美しい少女であるが、それは見た目だけのことでしかない。
そして能力。
アイレインの眼帯に隠された右目……その目で見たものを眼球に変えてしまう能力。そして左腕の常人を超えた筋力が、異民化によって得た能力だ。
そしてサヤ。彼女は自分を中心とした一定の距離を自らの領土とし、その場所に自らを現象の法則とした世界を構築することができる。やろうと思えば、おそらくサヤは自分の領土内にいるもの、有機無機を問わずあらゆるものを……人や物に制限されることなく、自らの意思で作り変えることができるだろう、とエルミは語っていた。
実際、アイレインが使う武器はサヤの手の中から現れる。
だが、サヤは自分の能力を、アイレインに武器を提供する以外、攻撃的なことには使用しない。
なぜなら、彼女が望むのは眠りだからだ。
そんな彼女が眠りから覚める時、それは自らの眠りを妨げる危険が現れると予知したためだ。
しかしサヤ自身、これからなにが起こるかまではわからない。
だから、その答えは当たり前のものではある。
「そうか」
それでも聞いてしまうのは、サヤが自分に迫る危険に対してどれだけの認識を持っているのか確認したいためだろう。
サヤは危険を察知する。だが、だからそこには行くな、関わるな、逃げろなどという助言めいたことは言わない。
一度だけその理由を|尋《たず》ねた。
「本当にわからないからです。その危険がこれから行く場所にあるのか、それともそこに行かなくてもやってくる類《たぐい》のものなのか」
危険がどんな類のものかさえわからないから、逃げることさえ無意味であるとサヤは言う。
それは諦めなのか、それともどんな危険が来ようと自分を害することができないと思っているのか。
後者ではないはずだ。実際に、サヤは戦闘で負傷したこともある。
しかし、危険だからといって進まないという選択肢は、アイレインにはない。いや、選択させではくれない。
アイレインは雇われ者であり、雇用主であるリグザリオ夫妻は次の目的地に向かうことを求めているからだ。
「ま、被雇用者の悲しい性《さが》だな」
辞めるという手段もある。だが、この二人……特にエルミ以外に、アイレインのような|厄介《やっかい》者を使おうと思う酔狂な者はいないだろう。
アイレインはナビモニターに描かれた地図を拡大し、目的地を確かめる。
都市の名はガルメダ。
それが、次に|辿《たど》り着く街の名前だ。
アイレインはキャンピングカーを停めた。
都市に入る前にサヤが目覚めるようなことがあれば、運転を止めて二人に報告をする。これはサヤの能力が判明した時に、ドミニオによって決められた取り決めだ。
その取り決めに従って、アイレインは仮眠中のドミニオを起こし、報告する。
「事前に仕入れた情報では、おれがやるべきことは特にないな」
胸の上に丸くなった黒猫を乗せていたためか、悪夢にうなされていたドミニオは、脂汗を拭《ぬぐ》いつつ寝起きのコーヒーを求めてコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
「マフィアどもはほどよい勢力分布で、ほどよく殺し合っている。おれの仕事はない。やることがあるとすれば、その情報が正しいかどうかの確認作業くらいのものだ」
「残念ながら、わたしの方はあるのよね」
行きたくないと言外に訴えている夫を無視して、黒猫は専用のクッションの上に移動してあくびをした。
「上空に無数の穴がいくつもあいているのよ。故障から来た空間の綻《ほころ》びにしては少しおかしなところもあるし、修復だけじゃなく調査もしたいところ」
エルミの言葉に、ドミニオはあからさまに|眉間《み けん》にしわを寄せた。
「譲歩しても、修復だけはしないとね」
穴、亜空間の境界面に|綻《ほころ》びが生まれ、そこからオーロラ粒子が漏れているということだ。放っておけば異民を増やすことになり、最終的にはその亜空間そのものを、最悪その区画に住む何千万という住民もろとも廃棄するということになりかねない。
ドミニオはマフィアの敵である巡視官という立場でありながら、マフィアからの供応を黙って受け取る不浄役人ではあるが、何千万という人間の命を無視することができるほど悪人でもない。
そして、亜空間増設機を修復できるのが、自分の妻だけであるということも十分に承知している。
「……それなら、おれが先行して偵察に行けばいいんじゃね?」
全員がアイレインを見た。
「食料は足りてるだろ? 水も電力もその他も。それならあんたらはここで待機して、おれ一人が、あー……ガルメダか、そこに行って様子を見ればいい」
普通のキャンピングカーなら都市から都市に移動する間に物資が不足してくるだろうが、このキャンピングカーは違う。巡視官が各都市を巡るために作られたものだ、外装は|要塞《ようさい》並みの強度を誇り、積載量、自己発電力、浄水能力にも優れている。その政府支給のキャンピングカーに、エルミがアルケミストの技術を使ってさらなる改造を施しているのだ。
本物の要塞に匹敵する能力を持っている。
ここにいる限り、他の連中の安全は保障される。
「いいの?」
「こういうのは雇われ人の仕事だろう? それに、これが適材適所でもある」
宣言すると、アイレインは早速支度にとりかかる。ここからガルメダまで、歩いていくとなると一日はかかると考えておかないといけない。背負い袋に必要なものを詰め込んでいく。
と、アイレインの隣でサヤまでが背負い袋を置いて荷物を詰め出した。
「おい?」
「わたしも行きます」
「いや、それじゃあ意味が」
「わたしが向かった方がより確実に危険の所在がわかると思いますが」
「それは、まあ……」
確かに、危険を察知しているのはサヤなのだ。サヤが車から離れたことで眠りにつくことができるなら、危険なのはこの車だということになる。その逆で、都市にいても眠くならなければ、都市が危険ということになる。
「ここに危険がないのならこのままで良いでしょうけれど、そうでないのならアインがここから離れるのは、逆にエルミたちを危険の中に取り残すことになります」
自分が、とは言わないのは曲がりなりにも自分の能力に自信があるからだろう。それにエルミに関してならば、危険の中にあっても平気でいそうな気もする。
一番危ないのは、この中では常識人でありまともな経歴を持つドミニオだけということになる。
そして自分たちがこうやって都市から都市へとなんの問題もなく移動できるのも、ドミニオの後ろ盾があってこそのものだ。彼の安全は最優先しなければならない。
そのためにも、危険の所在ははっきりしておかなければならないというのはわかる話ではあるのだが……
「アイン」
渋るアイレインを、サヤはじっと見つめてくる。瞳の底の深い黒がまるでアイレインの意思を呑み込もうとしているかのようだ。思わず視線を外してしまいそうになったが、そうすれば自分が負けるということはわかっている。
見つめ返していると、普通は逆にサヤの方が|怯《ひる》むものではないだろうか? そんなサヤを想像することはできないが、そうなるのであれば見てみたいと思う自分を無理やりに揺り動かす。
だが、この戦いは援軍の登場によって終わりを迎えた。
「連れて行きなさいな」
横から、エルミが口を出したのだ。
「おいおい」
「サヤの言葉には聞く価値があるわ。問題が都市にあるのなら、ドミニオはここに置いて、わたしもガルメダに向かえばいいんだし。なにより、サヤになにかあった時、自分がそばにいた方がいいでしょう?」
そう言われてしまえば、アイレインには言葉もない。
「アイン」
淡々としたサヤの|懇願《こんがん》に、ついに折れた。
「わかった。好きにしてくれ」
アイレインは降参の意を示して両手を上げた。
その時、サヤの表情にほんのわずかな変化が起こったような気がしたが、確認することはできなかった。
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†
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星空の下に二人でいると出会った時のことを思い出す。
「あの時は散歩気分にはなれなかったけどな」
携帯燃料に火をつけ、湯を作る。その中にインスタント食品を入れれば、それでスープの出来上がりだ。出来上がったものをカッブに入れ、サヤに渡した。
「そうですね」
サヤの顔は携帯燃料の火を映し、オレンジ色に染まっている。受け取ったカップの熱さを確かめる指の動き、スープを見つめる瞳、湯気に息を吹きかける口元……
「どうしました?」
サヤが顔を上げてアイレインを見た。
「ああ、いや……」
思わず顔をそらし、スープに口を付ける。熱さに顔をしかめた。
サヤはカップを膝元《ひざもと》まで下げると、夜空を見上げた。アイレインもそれにつられて上を見る。
雲一つない夜空には星が広がり、オーロラが揺れている。
五年前は、ゆったりとした状態では見上げられなかった。逃亡中だったこともある。食べ物もなかった。
なにより、アイレインは死にかけていた。
異界侵蝕によって体の半分が変化したために肉体のバランスを失っていたのだ。エルミたちに拾われ処置を受けなければ、本当に死んでいたのだろう。
………あるいは、異民の能力に引きずられて理性を失っていたか。
「聞きましたか?」
「なにを?」
空から目を離し、アイレインはスープに口を付けた。
「いえ」
言葉を濁したサヤもまた、空から目を離してスープに怖々《おずおず》と口を付ける。
なにが言いたかったのか、本当ならそれを聞くべきなのだろう。だが、アイレインは嘘を吐いている。吐いてしまったのだ。だからこそ、なにも言えなかった。
そして、そのことはサヤにも伝わってしまったのだろう。だから、サヤもなにも語ろうとはしない。
サヤがニルフィリアではない、ということをだ。
それはガルメダに向かう途中に、エルミに告げられた。
「サヤがあなたの妹である確率だけど、限りなくゼロだって判明したわ」
情緒も前置きもなく、結果をまず先に言うのが研究者というものなのだろうか。
「なんだ、いきなり?」
今日と同じようにアイレインは運転席にいた。
「前に、サヤが|怪我《けが》をしてわたしが治療したでしょう?」
「ああ、フェイスマンにやられた時か?」
「そう。あなたもそうだけど、異民化したといっても元が人間なら、基本的に内臓とかの人間的諸機能に大きな違いは出ないのよ。薬の効きめとかが悪くなることはあっても、普通の医者にも治療することは可能ではあるのよ」
可能ではあるだろうが、本来なら科学者であるはずのエルミが医療行為もできるということの方が凄いことではないだろうか。
(ああ、でもソーホの奴も医師資格持ってたか)
人体強化手術を行うのだから、アルケミストが医師の真似事ができたとしてもおかしくはない。
そう考えなおして、エルミの次の言葉を促した。
「それで?」
「で、サヤちゃんなんだけど、実はわたし、なにも治療していないのよ」
「はあ?」
「あの子はね、ものの数分もしないうちに|怪我《けが》を自己治療してしまえるのよ。完全に、後遺症もなくね。もしかしたら死すらもないかもしれない。少なくともナノセルロイド並みのしぶとさがあると、わたしは見ているのだけれどね」
「……嫌な言い方をするな」
わざわざナノセルロイドを譬《たと》えに出すことにエルミなりの含みがあるような気がして、アイレインは|眉《まゆ》を寄せた。
「あいつがニルフィリアじゃないことくらい、とっくに覚悟している。なんでいまさらそんなことを言う?」
「言葉じゃどうとでも言えるからね。この際だから未練にはとどめを刺しておくべきじゃない」
「それは、世間じゃ余計なお世話っていうと思うぜ?」
「そうかもしれないけど、いずれくるかもしれないことが予想できるから、覚悟を促しておくのも優しさってものじゃないかしら?」
「だから、覚悟はしてると……」
「そういうことじゃなくて、まさか、わからないふりをしてるんじゃないでしょうね?」
エルミのどこか責めるような言葉に、アイレインは本気でわからない顔をした。
「なにが?」
ため息の音が流れ、黒猫はアイレインを見放したように助手席で丸くなった。
「あの子は妹じゃない。それだけはきちんと理解しておきなさい」
「理解してるさ」
もう一度そう答えるが、エルミはなにも返してはこなかった。
食事を終え、アイレインは仮眠を取ることにした。
サヤは眠らない。
強盗の類がこんな場所に来ることはないだろうが、野生の獣の危険はある。野放しとなった大地は広大であり、そこで凶暴化した元家畜は無数にいる。獣|除《よ》けの仕掛けを施してから、アイレインは地面に横になった。
携帯燃料の炎だけが辺りをオレンジ色に染め、熱を放射している。
「見張りはわたしがします」
「心配してない、サヤがいる限り安全だ」
「はい」
やはり、表情に変化があるようには見えない。
だが、耳に届いた声が|嬉《うれ》しそうに聞こえたのは気のせいでは甘いだろう。
フェイスマンの一件からサヤは確実に変化の兆しを見せ、そしてそれを育てている。機械的に淡々とした言動をしていたというのに、そこに時折、人間味のあるものを混ぜるようになった。
サヤがそんな兆候を見せるようになったのは、やはりフェイスマンのあの時からに違いない。
アイレインがフェイスマンとの戦いで暴走し、その─全身を異民化させてしまった時だ。全身が|茨《いばら》と化し、増殖し続けるフェイスマンの顔と食い合いと潰し合いを続けていた。本来なら、もはやアイレインはいまの姿に戻ることさえも叶《かな》わなかったはずだ。
しかし、戦場に駆け付けたサヤによって、その規定した領域を自在に変化させることができる能力によって、アイレインは元の姿に戻ることができた。
あの空間は一種のゼロ領域なのだろう。そこに満ちた混沌がサヤのみが望む形に固定する。
サヤはアイレインに元の姿に戻って欲しいと願ったに違いない。
そこにどれだけの強さがあったのか。本来のゼロ領域の中では、多くのものが一瞬だけ願いを叶え、そして呑み込まれていったというのに。
それがサヤの持つ特殊性だと言ってしまえばそれで終わりになるのだが……
「アイン、寝ましたか?」
「………いや」
沈黙を避けるように、サヤが口を開いた。
「寝ている時と、起きている時の違いとはなんだと思いますか?」
「意識があるかないか、じゃないか?」
目を開けず、アイレインは答える。
「そうですね。では、わたしは死にたかったのでしょうか?」
突拍子もない言葉に、アイレインは目を開けざるを得なかった。
サヤは風で揺れる炎を見つめている。白い肌がオレンジ色に揺らめいて濃淡の|翳《かげ》を生み、少女の顔に表情めいたものを作る。
それは憂いを含んでいるようであり、諦めきっているようでもある。
「あの世界に入った時、なにを望んでいたのか、わたしはそれがとても気になります」
サヤはあの世界、ゼロ領域にどういう経緯で迷い込むことになったのか。アイレインのように望んで侵入したのか。ニルフィリアのようになにかの拍子で取り込まれたのか。それともフェイスマンのように自分の暮らしていた世界が崩壊し、呑み込まれたのか。
記憶のないサヤには、それさえもわからない。
そのことをサヤが不安に思っていることは知っている。
「死にたかったなら、死んでるだろ?」
投げやりに聞こえるかもしれない。そう|危惧《きぐ》しながらもアイレインはそう言う。
「死ぬことと、寝ることは違うはずだ」
死んだことのない者が死の結果を語ることは間違っているかもしれないが、死は意識の完全な消滅であり、眠りは心と体の休息だ。
眠りが短期的な意識の隔絶であることから死の仮想体験だと語る者もいるようだが、生への回帰が約束されている眠りは決して死ではない。
「死にたがりってのは確かにいるが、心の底から死にたがってる奴は黙ってやるもんだろ?」
そう言って、アイレインはこめかみに人差し指を当て、銃の真似をする。
絶界探査計画に志願したダイバーたちも、死に対してひどく鈍感な感性の持ち主たちだったが、その最後は自らの潜在的欲望に呑まれての消滅だった。決して死に向かって死んだわけではないはずだ。
ゼロ領域の中で眠るサヤに目を奪われていたアイレインだ。全員の末路がそうだったと断言することは、できはしない。が、それが間違っているとも思わない。
「それに、サヤは眠りから覚める」
それも危機に対して、防衛本能のように目を覚ます。
「それはつまり、生きていたいって考えているってことじゃないのか?」
危機を回避しようとするサヤの本能力そうさせるのだとしか考えられない。
「きっと、サヤは寝るのがなによりも大好きなグークラだったんだろ?」
「……ひどいです」
冷たい視線がアイレインの額に突き刺さった。
サヤがすぐ側にまで来ていた。
「寝るのは嫌いか?」
「……嫌いでは、ないですけど」
「おれも嫌いじゃない」
ベッドに転がりこみ、そのまま意識がなくなるまでのぼんやりとした感覚は嫌いじゃない。温もってきたシーツと同化するような感覚は、心地よい。
「ずっと寝ていられるなら、人生は本当に最高なんだけどな」
眠りを望むサヤでさえも、目覚めてしまう。
そんな世の中は、こうなっていようとそうでなかろうときっと変わりはないのだろうな。
考えているうちにアイレインの意識は薄らぎ、眠りの世界に落ちていった。
寝ている間に、夢を見た。
足の生えた都市の夢だ。あれ以来、しばしばこの夢を見る。蜘蛛のように大地を這う都市。そんな所に住む連中はずいぶんと震動に苦労していることだろうと思う。
実際にいた時には、最動なんて感じもしなかったが。
はたしてあれが銃弾で倒れた男の見た夢なのか。心の底に願望を秘めた男の、未来ぐらいにしか希望《きぼう》を見出《みいだ》せなかった男の妄想なのか、真実は測りかねる。
が、あそこで感じたことが、夢や幻にも思えない。証拠は何一つとして、体に傷一つとして持ち帰ってはいないというのに、夢とは思えない。
ならあれは、本当に未来の話なのだろうか。オーロラのない空。亜空間は失われたのか。それとも亜空間同士の接合が|完璧《かんぺき》さを手に入れたのか。
どちらにしろ、空からオーロラがなくなった時、世界はああならざるを得ないのか。世界の果てのような荒野を都市が彷徨う世界に。
来るとすれば、それはいつ?
エルミが亜空間増設機の修理をしなくてもよくなった時か。
あるいはその逆で、修理を放棄した時か。
(笑えるな)
靴底を裂きそうなほどに鋭利な大地に立ち、轟《とどろ》きを残して去っていく都市を見送る。そんな夢を見ながら、アイレインはそう思った。
(ならおれは、世界を救う手助けをしてるっていうのか?)
前にもエルミとこんな会話をした。だがその時、アイレインはそれほど本気には考えていなかった。エルミのやっていることの意味ではなく、自分がそんな立場にいるのだということを。
そしていまも、そのことをそれほど深く、考えはしなかった。
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†
[#ここで字下げ終わり]
ガルメダ市に到着したのは翌日の昼を迎えた頃だった。
入った瞬間から異変がわかってしまえばそれに越したことはないが、そんなものがある様子もにぎない。車道に沿って歩き続け、交通量が多くなったところでタクシーを拾い、賑わいのある場所へと|辿《たど》り着いた時には、夕方となっていた。
「さて、とりあえずどうするか?」
ガードレールに腰を下ろし、行き交う人々を観察しながら考える。ドミニオから軍資金は受け取っている。カードだ。額を確認したが、いつものように高級ホテルに泊まることだって不可能ではない。
「どっかを足場に探すしかないわけだが……」
なにしろ、都市というものはとんでもなく広い。ドミニオに聞いたところだと、ガルメダ市には三千万からの人間が住んでいるということだ。これで、都市としては人口が少ない方なのだ。
多いところでは億に届く。無数に区画分離された中からサヤが感じた異変を探し出すのは砂漠の中で真珠を探すのに等しい行為のように思えてくる。
だが、異変があり、それがサヤにとって危険な存在であることは変わりない。
隣では、アイレインと同じようにガードレールに腰をかけたサヤが前を見つめている。眼帯の男に美しい少女の取り合わせは、三千万も人間がいたとしても奇妙な取り合わせであるらしい。行き交う人々が視線を投げかけてくる。
サヤはまるで眠る様子を見せない。
「ま、ほっといても向こうからやってくるか?」
「そうかもしれません」
サヤが|頷《うなず》き、アイレインは気が楽になった。実際、なにがどう危険なのかヒントすらもないような状態なのだ。下手に探りまわるよりも起きたことに反応する方が、危険ではあるが簡単でもある。
「それなら、どっかで汗を流して食事にでも行くか」
手に入れた無料ガイドマップで近くの公衆浴場を探し当てると早速そこで汗を流す。汗を流している間にカウンターでクリーニングを頼めば、出てきた時には服も清潔になっているという寸法だ。
シャワーを浴びるだけでも十分だったのだが、クリーニングが終わるのも待たなくてはいけない。野宿の汚れを落としたアイレインはサヴナへと入った。
五人ほどが座れる板張りの空間には、熱気が充満している。少し座っているだけで、すぐに体中から汗が出てくるのがわかった。
じっと座って噴き出してくる汗を感じていると、先客のいなかった空間に二人、入ってきた。
眼帯をしたままのアイレインに奇異の|眼差《まなざ 》しを向けてくる。
その二人の男にしても、体のあちこちに銃創らしき痕《あと》があった。
左右に挟むようにして座った男たちを無視して、アイレインは流れる汗に集中する。ここに来るまでに広いとはいえ車内で生活していたことで溜《た》まっていた窮屈さが汗とともに抜けていっていた。
「あんた、どこの区から来た?」
右の男が聞いてきた。
「どこでもいいだろう」
「そういうわけにはいかんな。あんた、ここがいまどうなっているか知ってるだろう?」
「知らないな、そんなこと」
目を閉じていでも、二人がはっきりと緊張を見せたのがわかった。
(失敗したか?)
アイレインをマフィアの類だと思って接触してきたのだろうことは想像が付く。よそ者が自分たちの縄張りにいるだけで気に入らないと、|喧嘩《けんか 》を売られたのは過去に何度もあった。
今回もその類だと思ったのだが。
(違ったか?)
よそ者に警戒したというのは間違いないはずだ。だが、そうではないということは、この区画でなにか大きな問題でも起きているのか?
だとしたら、それはなんだ? ドミニオから聞いていないということは、外に漏れることを防いでいる誰かがいるか、それともつい最近のことということか。
これが、サヤの感知した危険か?
(それなら、願ったりなんだがな)
ドミニオは来たがっていなかったが、エルミはガルメダ市にある亜空間増設機を調査したがっていた。危険がこちらにあるというのなら、それがどんなものかを調べなければならない。サヤを戻さなかったことから、危険はドミニオたちのいるキャンピングカーではなく、このガルメダ市にあるとエルミたちはすでに判断しているだろう。その場合でも一週間待ってからエルミのみがここに来ることになっている。
できれば、その間に危険とやらは潰しておきたい。
(積極的に突《つつ》いた方がいいな)
「まあ、流れ者なのは事実だけどな」
筋肉を張りつめさせ、いまにも殴りかかって来そうな二人にそう言って、アイレインは目を開けた。
口元だけは、笑みの形を作る。
「雇い主を探してるんだよ。これでも腕にはそれなりに自信がある。どうだい? そっちのボスはそういうの欲しがってないかい?」
結局、やることはいつもの通り。マフィアに入り込んで情報をもらうだけだ。
「……ちっ」
舌打ちを残し、いきなり男たちは立ち上がるとサヴナルームから出ていった。
「……どうやら、外れか?」
わざわざアイレインの前にマフィアが出てきたということは、マフィア同士の抗争かと思ったのだが。当てが外れたということか、それともアイレインの言葉を信じていないのか。
「ま、目を付けられたのは確かだ。またなにかあるだろう」
気楽にそう結論付けると、再び流れる汗に集中した。
そのなにか、がこんなに早くに来るとは思わなかった。
「申し訳ございません」
クリーニングの終わった服を着たアイレインとサヤの前で店員が頭を下げている。
「……確かに、前払いだったからあんたらの腹は痛まんだろうがね」
下げられた頭を|呆《あき》れて見下ろし、アイレインはため息を零《こぼ》した。
荷物は脱衣場内にあるカウンターで預けることになっていた。そこで服のクリーニングの依頼もした。
その荷物が盗まれたというのだ。
「あの中にはカードもあったんだ。こっちは明日の生活がかかってるわけだけど?」
案内された別室のソファに座り、アイレインは店長らしき男を|睨《にら》みつける。
「こちらでもできる限りのことはいたします。荷物に関しましてもこちらで探しまして、必ずご返却いたします。ですから、どうか。もちろん先ほどいただいた代金は返させていただきますし、今夜は当店の施設は全て無料でご使用いただいて結構です」
そう言って、店長がテーブルに封筒を差し出す。
「ふうん」
中身を確認して、アイレインは暖味《あいまい》に|頷《うなず》いた。中には入浴料以上の金額が収められている。
詫《わ》び代としては、まあこんなところなのだろう。
「ま、そっちが荷物を探してくれるっていうならこれ以上なにか言っても仕方がないな」
封筒を懐に収め、アイレインは店長を見た。
「じゃ、お言葉に甘えて|贅沢《ぜいたく》をさせてもらおうか」
この施設には浴場だけでなく、マッサージから酒場、さらには宿泊所まである。マッサージは遠慮するとして、アイレインは酒場で大いに飲み食いして、店を後にした。
「ツテがありますので、どうかこちらでご一泊してくださいませ」
そう言う店長を追い払って、アイレインは繁華街へと出る。
「よかったのですか?」
「いい、いい。それより、持ってるだろ?」
「はい」
隣を歩くサヤが手を出す。
そこにドミニオに渡され、盗まれたはずのクレジットカードがあった。
他の荷物なんて、ここに来るまでに使った野営用の道具ばかりだ。盗まれても痛くも痒《かゆ》くもない。最も貴重なクレジットカードは店に預けるなどせず、サヤの影響下においた空間に隠し持たせていた。
これ以上安全な場所なんて他にはない。
「これがあればなくしたものは揃えられる」
「しかし、なにも|騙《だま》さなくても」
サヤは哀れに謝罪していた店長のことを気にしているようだ。
「なに、どうせあの店はグルだろうしな」
「え?」
「ああいうところは信用が第一だ。セキュリティは万全にしているはずだし、なによりおれの預けた荷物、一目見て金目の物がありそうに見えるか?」
「いいえ、それは確かに」
「他の客の物が盗まれた様子もないし、それなら警察|沙汰《さた》にまでなったはずだ。盗まれたって気付いた後の対応、店長が出てきて個室に案内したタイミングも早すぎる。盗まれたんじゃなくて、引き渡したのだろうさ。あの店の後ろにいる連中に」
「なんのために?」
アイレインはサヴナルームでのことを話した。
「そのマフィアの人たちに怪しまれたんですか?」
「そうだろうな。なにかが起きてるんだろうが、秘密にしていた。その秘密にしていることに関係してるのかどうなのか」
ただの抗争なら捨て駒にでも戦力は欲しいだろうが、アイレインの申し出には興味の|欠片《か け ら》も示さなかった。
「ま、中身見てなにもないって気付けば、またちょっかい出してくるだろ。それまでのんびり遊んでいようぜ。どこか行きたいところはあるか?」
「いえ、別に」
眠りこそが最大の望みであろうサヤはそういう嗜好《しこう》的部分での欲がない。一日中、人形のように座っていることさえ苦ではないのだろう。
しかし、そういう部分で趣味がないのはアイレインも同じだ。
だが、暇を|潰《つぶ》すということに関して、アイレインはあまり上手とはいえない。
「とりあえずホテルを決めて、それから時間を潰すか」
そう決めて、二人は新しく手に入れたガイドマップを開く。
「良いホテルならルームサービスも充実してるし、お前さんをうろつかせないですむんだけどな」
「別に、歩きまわるのは嫌いではありませんけど」
「かといって、夜中に連れまわしてると警察がうるさい」
サヤはどう|贔屓目《ひいきめ》に見ても成人女性と見られるわけもない。ガルメダ市の倫理観がどれくらいのものかはわからないが、補導員に捕まる可能性のあるサヤを|無暗《むやみ》に連れまわすのは得策ではない。
「それはそうですが……」
どこか不満な様子を見せるサヤを横目に、アイレインはガイドマップでホテルを決めるとタクシーを止めようと道路に目を向けた。
「おや………?」
アイレインの目の前を、一台の高級車が走り抜けていった。マフィアの好みそうな黒塗りの高級車はその前後をクラスの落ちる車に固めさせている。
「ふうん」
その光景だけならアイレインは無視をした。その証拠にすぐにそのことを忘れてタクシーを探し始めた。
だが、その後に|剣呑《けんのん》な空気を漂わせた車を見つけては話が変わってくる。
「サヤ、ここで待っているのと付いてくるのと、どっちがいい?」
「付いていきます」
「そうかい」
サヤが答えるや、その腰に手を回し抱えあげる。少女を肩に乗せた眼帯の男に通りかかった人たちの視線が集まる。アイレインはその視線を無視して車道に飛び出し、走り出した。
最初は常人並みに、そして徐々に速度を上げて。
その疾走はやがて二人の服の色を溶かし、黒い疾風となってはるか向こうに行ってしまった。
目的の車を視界に捉《とら》えた。
尾行していると思われる車の背後まで|辿《たど》り着くと、アイレインは音もなくその屋根に着地する。
「周りからおれたちを消せるか?」
「わかりました」
サヤが答える。アイレインには認識できないが、車を中心とした周囲一メートルほどの空間がサヤの影響下に置かれ、二人の姿を隠した。
車は変わらず、何台かを挟んで前にいる高級車を追いかけて走り続ける。ただの尾行であるなら、数台で分担して尾行をするなど、方法もあるはずなのにそれをしない。屋根に耳を当てて中の音を拾う。どこかと連絡を取り合っているような声はするが、正確な内容までは聞き取ることができない。
乗っているのは五人。それだけの人間を乗せ、聞こえてくるのは助手席辺りからの独り言のような声……電話で連絡を取っている者の声しかしない。
「この事がなにか?……」
「騒動のにおいがしないか?」
「さあ……」
サヤは首を傾げるが、アイレインには確信がある。五年以上もの長い間、ドミニオの指示のもとでマフィアや異民たちが起こす|厄介《やっかい》事に首を突っ込み続けたのだ。独特の|嗅覚《きゅうかく》がアイレインには備わっていた。
「こいつらはなにかを起こす気だ。もしかしたら、おれを探ろうとしたこととなにか関係があるかもしれないぜ」
「そうでしょうか?」
サヤは懐疑的だ。アイレインも関連性についてはそれほど期待しているわけではない。だが、その都市のことを知るのに最も手近な方法は、マフィアと接近することだ。広大な都市に|跋扈《ばっこ》するマフィアの勢力によって経済は動き、市政も左右されている現状、これ以上に有効な手段はない。
秘密を作るのもマフィアだということもある。
サヤのいう危険にもマフィアが関わっている可能性は高い。
「巣穴をほじくり返してみないと、|蟻《あり》の数もわからないしな」
乱暴なやり方だが、サヤはそのことには異論をさし挟まなかった。危険を察知しても、決してそれを避けるような行為をしないサヤだ。アイレインのやり方で決定的に意見が対立したことはない。
車はやがて区を分けるバイパスへと入ろうとしていた。周囲から建物がなくなり、人気《ひとけ》も絶える。
動くなら、そろそろだろう。
予想通りに動いた。
二車線のバイパスで左側を走っていた高級車に突然、二台の車が猛スピードで追い上げてきた。
二台の車は追い付いたと同時に前後を固めていた車の間に割り込む。
強引な割り込みにバンパー同士がぶつかり合う。衝突音が撥《は》ねるように空気を揺さぶり、ブレーキを踏まれたダイヤが軋《きし》んだ悲鳴を上げ、火花が舞う。
それに会わせて、アイレインたちを乗せた車もスピードを上げた。前後を押さえられた高級車は右側に逃げようとしたが、それをこの車が押さえる。弾《はじ》き返された高級車はバイパスを|遮《さえぎ》る壁に一度車体を|擦《こす》りつけ、持ち直した。
ガードしていた前後の車が車窓を開け、ボディガードらしき男たちが軽機関銃や大口径の|拳銃《けんじゅう》を片手に身を乗り出してくる。
それを新たな前後の車が同様に銃を取り出して迎え撃つ。
銃撃戦が展開される中、アイレインを乗せた車がプレッシャーをかけ、分岐点で無理やり車をバイパスからおろした。
前後を押さえた者たちは、そのままボディガードたちが追いかけてこないように分岐点を車で塞《ふさ》ぐ。
降りた先でさらに三台の車が待ち受け、高級車は完全に自由を奪われ、誘導されるがままに車を進めた。
車を停めたのは、それほど遠くではない。開発途中なのか、それとも開発が放棄されたのかよくわからない建設現場の中へ入った。
建設現場には、さらにもう一台の高級車が待っていた。
四方を固めた車から、まず男たちが一斉に降りて銃を構える。
「出てきてもらおうか、使者殿」
待ち受けていた高級車から出てきた男が声を上げる。
幹部と見るにはまだ若い面立ちだ。三十代に入ったばかりか。だが、その目には暴力に慣れているだけではない、冷たい現実感が宿っている。
「これはいったい、どういうことですか?」
ドアが開き、そこから響いた声にアイレインは驚いた。
「女?」
しかも、目の前にいる幹部よりもはるかに若い。学生と見てもいい年格好だ。
思わず声が零れたが、気付かれた様子はない。サヤの力の|賜物《たまもの》だ。
「協定違反でしょう? いまがどういう状況か、わかっているんですか?」
|仕種《しぐさ》からして、アイレインの見立ては間違っていなさそうだ。口調からも男を責める視線からも若々しさが感じられる。
サヤとはまた違う、美しい少女だ。
長い髪は後ろで|纏《まと》められ、柔らかいうなじが露出している。陶器のような肌は、いまは興奮のためか紅潮していた。
服装は淡い色合いのワンピースで、お金持ちのお|嬢様《じょうさま》という|雰囲気《ふんい き 》を裏切らない。
「いま、を理解していないのはどちらかな?」
男は余裕を持って答えた。
「銃を構えているのはこちらであり、逃げ場がないのはそちらだよ」
「……巡視官が近づいているいま、抗争を始めるというのですか?」
「その巡視官も殺してしまえばいい。その次に誰かが来るのであれば、そいつもだ。お前たちはおびえすぎている」
「知られては因るからだと、あなただってわかっているでしょう」
「わかっているが、納得していないんだよ」
男が目線で合図を送る。
「アイン」
「わかってるよ」
銃爪《ひきがね》が、一斉に引かれた。その寸前に、車内にいたボディガードたちが少女の周囲を固める。
ボディガードたちの胸辺りまでしかない少女は完全に隠れ、銃弾が降り注ぐ。
ボディガードたちは、服に防弾用のプレートを仕込んでいた。だが、四方を囲まれた状態での銃弾の雨は、プレートの機能を超えている。
ボディガードたちは次々と倒れる。
少女の姿が、再び男たちの前に晒《さら》される。
銃弾が少女の体を引き裂くのは数秒とかからずに必ず訪れる運命であったに違いない。
だが、突然の惨劇に|茫然《ぼうぜん》となったその姿を、再び黒い影と突然の暴風、そして砂煙が覆った。
砂煙を、連続する銃火が内側から引き裂く。
連続して放たれた銃声は死者という結果を生み、少女を囲む男たちにその威力で次々と大穴をあけていく。
「あー、悪い。出るタイミングが遅すぎた」
砂煙が落ち着きを見せようかという頃、アイレインは背中に隠した少女にそう話しかけた。
「………あなたは?」
「正義のヒーロー?」
不真面目《ふまじめ》な答えに少女は|唖然《あ ぜん》とした顔をし、次に顔をしかめた。
アイレインが銃弾の盾に使ったボディガードを地面に投げ捨てたのだ。自分一人を守るためならばこんなものは必要もないが、背中の少女も守ることを考えればこうする以外に手はない。
「なにか異論でも?」
少女の表情に気付いて、アイレインはわざとらしく|尋《たず》ねる。
「いいえ、ありがとうございます」
頭を一度振るだけで、少女は思考を切り替えたらしい。背後を振り返ると、ただ一人残った男と向き直った。
突然の事態の変化に付いていけていないのは、この男だけだろう。
少女は倒れたボディガードから拳銃を拾い上げ、男に向ける。
「待てっ! おれを撃てば、抗争になるぞ」
「仕掛けてきたのはあなたからです。バイパスの防犯カメラが証拠になるでしょう」
少女はひどく落ち着いた声で拳銃を構えている。力まず、少女の非力で片手で構えるという愚を行わず、両手でしっかりと照準を定めている。一通りの訓練は受けているらしい、安定した構え方だ。
しかし……
男の顔に張り付いた恐怖が緩んだ。
「なにをっ!?」
アイレインが少女の構える拳銃を上から押さえ、下げさせた。
「殺すことはないだろう」
「しかし、この男はわたしたちのファミリーを。ファミリーの血は、血をもって贖《あがな》う。それがマフィアのやり方なのでしょう?」
「そうらしいな。だけど……」
アイレインの空いていた手、右手が閃《ひらめ》く。少女の肩越しから伸ばした手の先には、サヤの力によって生まれた拳銃が握られている。
無限に弾数を持つ、アイレインにしか使うことが許されない銃。
銃爪が引かれた。
乾いた音は静けさを取り戻そうとしていた夜を、|余韻《よ いん》を持って走り抜ける。
|唖然《あ ぜん》とした顔のまま、男は胸にあいた大穴を見つめて仰向《あおむ》けに倒れた。
少女の息を呑《の》む音が、胸元でする。
「女の子が殺しをするのは、情操教育としてよくないと思うんだ」
しかし、目の前で展開されたものを見ないわけにもいかない。
「……あなたは、ひどい人ですね」
少女は、目の前の死の衝撃から脱しきれない顔で責めてくる。
アイレインは肩をすくめるだけで、なにも言わなかった。
[#ここから3字下げ]
†
[#ここで字下げ終わり]
少女はニリスと名乗った。
マフィアの名は、ティルティスというらしい。
そのニリスは一人で帰っていってしまった。
安全運転をするだけならナビゲーションに目的地をセットするだけですむ。
「お礼は必ず」
そう言い残し高級車を出発させる。
「当てが外れましたか?」
背中に声をかけられ、アイレインは振り返って苦笑を浮かべた。
「ま、そうだな」
このままニリスが所属しているだろうマフィアに雇ってもらおうかと思っていたのだが、どうやら彼女はアイレインのやり方が気に入らなかったようだ。
「思った以上に根が|真面目《まじめ》だったみたいだな」
「マフィアらしくない方でした。以前の方とは違いますね」
「ママ・パパスと比べたら、ほとんどの女性が淑女になるさ」
サヤにしてはジョークが利いていると思った。
「…………」
が、どうやら違ったらしい。
無言でサヤが背中を向け、歩いていく
「おい、どこに行くんだ?」
返事はない。普段よりもやや早足で進むサヤに、アイレインは前に回りづらい気持ちになった。
この感覚を、遠い昔に感じた気がする。
誰と?
それを考えた時、答えが出た。
「もしかして、怒っているのか?」
「…………」
まさか、と思った。
サヤからの返事はかなり間をおいてやってきた。「あの人には、とてもよくしていただきました」
「悪かった。本気で言ったわけじゃない」
サヤがそこまでママ・パパスに好感を持っていたというのも驚きだが、それ以上に怒るという感情を表現していることの方に、アイレインは驚愕を覚えた。
しばらく、アイレインは驚愕と|狼狽《ろうばい》に踊らされてサヤの後ろを追いかけていただけだったのだが、ある瞬間から思考が切り替わった。
「……どうしました?」
いきなり後ろから抱きあげられ、肩に乗せられたというのにサヤは動じない。
「よく考えたらさ。喜ぶべきことなんだよな」
感情の|欠片《か け ら》らしきものは所々で見せていたサヤだが、こんなにもはっきりと怒りを露にしたのは初めてのことなのだ。
「これはなにか、お祝いを考えないといけないよな」
「そんなことは、別に……」
「まあまあ、記念っていうのは大事なもんさ」
「|誤魔化《ごまか》されている気がします」
肩の上でサヤが再び、そっぽを向く。だがアイレインは足取り軽く、目的地もなく進み出した。
「これから、どうするのですか?……」
沈黙に耐えられなくなったのか、サヤが口を開いた。
「とりあえず、顔見せはできたんだ。あっちの……名前も知らないところは、まあ口封じしちまったから無理だろうが、ティルティスとかいうのからは接触があっても良さそうじゃないか? なければこちらから行くし」
「抗争が起きますか?」
「さぁて……」
ティルティスのあの少女、ニリスは抗争を避けるために動いていたように見えた。それも巡視官……ドミニオがここに来るのを知ったからだというのが理由だ。
ドミニオに探られたくないなにかが、ティルティスともう一つのマフィアの間にあるに違いない。
だが、結果的にニリスは殺されそうになり、そして襲ってきた連中をアイレインが皆殺しにした。
この事実が判明すれば、普通であれば抗争が起きる。
しかし、抗争する気のなかったティルティスはどう動くか、それはアイレインにはわからない。
「どうなるんだろうな。まっ、それよりもいまはサヤの祝いを考えないといけないよな。どっかでぱあっと騒ぐか?」
「それよりもいい加減、泊まるところを考えましよう」
元のサヤに戻っているようにも見えるが、それよりも恥ずかしがっていると考えた方が前向きだ。
アイレインは久しぶりに浮かれた気分になっているのを感じながら、明かりが見える方へと進む。
そこに見慣れた高級車がアイレインたちの隣を行き過ぎ、そして停まった。
静かな停車に、アイレインも足を止める。
後部ドアが開き、出てきたのはニリスだ。
「ん? なにか用か?」
違和感を覚えて、アイレインは近づかなかった。静かな|雰囲気《ふんい き 》を漂わせていたのがニリスだったはずだが、そこに立っている彼女は、さきほどとは|雰囲気《ふんい き 》も違えば服装も違う。短いスカートに丈の短い革のジャケット。ジャラつく鎖のアクセサリーと、ファッションセンスからして|真逆《まぎゃく》にいる。
挑戦的な瞳が、アイレインたちを見ていた。
「あんたたちでしょ、ニリスを助けてくれたのは?」
そう言うと、その少女は美しい唇を粗野にねじ曲げて笑った。
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02 思考する日々
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カチリ、カチリと、歯車が噛《か》み合わさるような音がずっと鳴り続けていた。
白く、広い空間だ。隅というものはない。そこは完全な球形の内面となっており、そして無重力でもあった。必要な機材は壁面を覆う緩衝材の奥に隠され、部屋の主の望みに応じて姿を現すようになっている。
部屋の中央には無数のホロモニターと一つの動感式コンソールという虚像の光が、白い空間の中で別の色を主張している。
ホロモニターに囲まれ、部屋の|主《あるじ》は沈思していた。
ソーホが目を閉じて、考え事に没頭していた。
首都のすぐ隣の区に、アルケミストの専用区画がある。いかなる研究をすることも許された、アルケミストたちのためだけの空間。実験の失敗による多大な被害は、空間の破棄によってゼロに戻される。失敗の傷跡は消され、その教訓だけが残されるようになっている。
ここはソーホのために与えられた研究施設であった。
すでに半日以上、ソーホは思考の海の中に沈潜している。
ソーホの脳内はある報告で満たされ、そこから得られる推測、さらにその推測を母体とした推論が展開し、それについての検討がなされている。
いままで無数に列挙されてきた推論は全て却下してきた。
結論と呼ぶにふさわしいものは、いまだ生まれていない。
カチリ、カチリ………
歯車式の時計のような音が止む。ソーホは目を聞けた。
「マザーWの制御思考、構築完了しました」
「ご苦労」
緩衝材に隠されたスピーカーからの声に、ソーホは|頷《うなず》いた。
「ナノマシンの生産を開始、身体組成が完了したらまた連絡を」
「了解しました」
スピーカーからの声は、ソーホの開発したナノセルロイドの三体目、ドゥリンダナのものだ。
「そうだ、ドゥリンダナ。マザーWの個体名は君が考えてくれ」
「すでに考えています。ハルペーはどうでしょうか?」
「それでいいよ。一応、根拠を聞かせてくれるかな?」
「はい。私の名前はマザーUカリバーンによって与えられたものであり、その名の由来は過去世界での創作物に使われた著名な武器の名です。同様にマザーTレヴァンティンの名前もそうであることから、そのネーミング傾向に従い、ハルペーとしました」
ハルペー……ペルセウスがメデューサを倒すためにヘルメスによって授けられた剣のはずだ。
レヴァンティンの名前を決める際、ソーホは武器の名前をずいぶんと調べたから覚えている。
武器の名前にしようとしたのはどうしてだったか?
思い出して、ソーホは顔をしかめた。
冒険を愛していた女性、ジャニス。ソーホの愛した女性でもある。ナノセルロイドの一号機に彼女の似姿を与えた時、自分が戦いのための道具に彼女の容姿を与えたことに激しい後悔を覚えた。だが、基礎容姿となっているジャニスを消すということは、一号機の制御思考を一から作り直すことでもある。
結果を待たれていたソーホに、そんなことをする時間的余裕はなかった。
そのために、彼女とはまるで正反対のイメージを持つ、武器の名前を与えたのだ。
レヴァンティン。正確にはレーヴァティン。破滅の|杖《つえ》という名を。
そのレヴァが生んだマザーUカリバーン。アーサー主が騎士道に反する行為をしたために折れた、エクスカリバーの前身。
カリバーンの生んだマザーVドゥリンダナ。英雄ローランの持つ剣。
そして、ドゥリンダナの生んだマザーWハルペー。
(まだまだ、残っているな)
レヴァンティンに宿ったソーホの後悔の|残滓《ざんし 》が、ナノセルロイド・マザーシリーズには残っている。それがどれほどの意味を持つのか、すぐにはわからない。だが、わかった時には遅いのかもしれない。
まだまだ生産を続けるべきか?
機械によって機械を生み、その機械によって機械を生み、その機械によって機械を……
繰り返すことによって原初の創造者の|想《おも》いは打ち消され、ゼロ領域に影響されない完璧な機械が生まれるはずだ。
「よろしいでしょうか、マスター? だめでしたら再考いたしますが……」
「いや、それでいいよ。身体組成を進めてくれ」
「了解しました」
スピーカーのスイッチが切れ、再びカチリ、カチリとゆるやかなリズムのメトロノームが復活する。
ソーホは目を閉じ、リズムに誘われて思考の海へと戻る。
報告……レヴァの報告。クラヴェナル市で絶縁空間に触れ、ゼロ領域に突入したレヴァの指令コアから抽出した報告書だ。
ジャニスを求めたレヴァの行動が|綴《つづ》られた報告書は、ソーホに痛みを与え続ける。
ソーホの求めたジャニスの影が、レヴァの行動原理にここまで影響を与えていたということになるのだ。機械であるレヴァがここまで自主的な行動をしたことを喜ぶのが研究者として正しいのかもしれないが、ソーホはただ痛みを感じるしかできなかった。
レヴァの中からジャニスの写真データは抜き出した。
あの時、アイレインがレヴァを追ってゼロ領域に入ってくれなければ戻ってくることはなかったもの。
どうして、アイレインは自分のためにあんな危険なことをしてくれたのか、ソーホにはわからない。彼は絶界探査計画のために異民となり、そしてソーホはその異民を排除するサイレント・マジョリティーいう組織の長に納まっている。
もはや敵対の関係にあり、そして計画の時に育《はぐく》まれていた友情はこの関係が生まれた時に崩壊してしまったと思っているし、それは間違いではないはずだ。
五年前とは違うと、再会した時にアイレインにも言われた。
それなのに、なぜ……?
「いま、考えることじゃないか?」
それではいつ考えるという反問が湧いてくるが、黙殺する。
いま考えるべきことは、ただ一つ。サイレント・マジョリティー長として、現在を作り出したアルケミストたちの知識の末裔《まつえい》にしてその一員として、この世界を救う方法を考えなければならない。
現アルケミストたちがそれぞれの方法でアプローチを行っている異民化問題への対処を、ソーホも考えなくてはならない。
そもそも、絶縁空間とは、ゼロ領域とはなにか?
増設され続けた亜空間の境界線。終戦当時には行き来できたはずの亜空間に絶縁地帯が生まれ、この星は空間的断絶に見舞われることとなった。それが絶縁空間であり、その空間内に存在するのがゼロ領域だ。
なぜ、そうなった?
不明だ。
では、絶縁空間の中にあるゼロ領域とはなにか?
亜空間がいまだ空間として固定されていない状態で放置された、いわば世界創造の前の混沌。
その世界にひとたび人間が入り込むようなことになれば、その者が持つ潜在的欲望が宇宙を創造するビッグバンのように激烈な反応を見せ、世界を創造する。
「夢物語だ」
亜空間増設機がもたらした現代を知らなければ、ソーホだってこう言うことだろう。どこに論理的な説明がある? 原理は? なぜ、人の潜在的欲望でなければならない? 人の心にそれほどの価値があるか? いまのソーホのように迷い惑い、後悔に打ちのめされ、思索の邪魔となる痛みを生む人の心にどれだけの価値が?
「横道に逸《そ》れたね」
口に出していまの思考を放棄し、本筋に戻す。
増えすぎた亜空間によって、本来の土地は接していながら二度と通い合うことが不可能な状態となった。その断絶の壁である絶縁空間に|綻《ほころ》びが生まれ、ゼロ領域の混沌が漏れ出している。それも多量に。
それがいまの異民化問題だ。
設計図はあっても修復することのできない亜空間増設機に、その問題の根幹があることはわかっている。ほとんどのアルケミストたちは亜空間増設機の解明にとりかかっている。だがそれは、アルケミストが研究者チームから組織の名前へと|変貌《へんぼう》して以来、つまり初代アルケミストたちが去って後の、最大の課題として残り続けていたものだ。
だが、それを解明することができれば、この異民化問題に応急的な処置を加えることができる。
しかし、ソーホはそこには加わらず、異民化問題に対する対症療法的な組織を率いることとなった。
そのことに不満がないといえば嘘になるが、そのおかげでアルケミストの資料室に残されていたナノセルロイドを再現させることができた。
ジャニスを奪ったゼロ領域に挑むこともできる。
そのゼロ領域の謎について、ソーホはずっと考察し続けていた。
「もしかしたら、こういうことなのかな?」
人工的に作られた無重力空間の中で、ソーホは新たな推測を立てた。
すなわち絶縁化とは、亜空間と亜空間の間に絶縁空間という空間移動が不可能となる障壁が生まれたのではなく、その先にあったはずの亜空間が消滅したために起きたのではないか、と。
そう仮定して推論を組み立てていく。
それは完全な崩壊ではなく、仮想された空間という枠は維持したまま、その内部で構築されていた素材のみが混沌とした状態となって残っている。
枠が維持されているということは亜空間を生成、維持している亜空間増設機は不完全ながらも稼働しているということになるだろう。
人の潜在的欲望に反応して世界を構築するというのは、亜空間増設機が人の思念を媒介に入力が行われていたためではないか? 実際、設計図には思念披に波長を合わせた受信機が存在する。
現在ではその使い方はわからず、あらかじめデフォルトとして設定されているパターンを組み合わせて亜空間を構築するのだが、その思念披受信機を使用することができれば、より自由に空間を創造できるのかもしれない。
人の潜在的欲望というものは、どんなことがあっても忘れることができない個人の行動原理だ。
自覚がなくとも究極的な状態となった時、例えば生死を分けるような危険な状態に陥った時、その行動パターンを決めてしまう。
それほどに強い思念ならば、受信機は受け入れてしまうのではないか? あるいは設定情報を求めて受信機がその能力を高めているのかもしれない。
しかし潜在的欲望というものは、そう簡単に叶わないからこそ個人の行動原理にまでなるのであり、そして自覚することすらも拒否されてしまうのではないか?
ならば、そのような願いを完全に叶えたとして、世界としての整合性があるかどうかすらも怪しい。だからこそ、個人の潜在的欲望に反応した世界は簡単に崩壊し、その崩壊に個人は巻き込まれて消滅してしまうのか?
「とりあえずは、この推論でアプローチしてみるか」
いつまでもアルケミストの研究所にいるわけにもいかない。いまのソーホはサイレント・マジョリティー長。異民化問題に対処するため、危険な異民を排除する武装組織のリーダーなのだ。
自身が研究者である以上、実質的な調査や捜索、戦闘の指揮官は別にいるが、それでも最終的な決断を下すのはソーホだ。
クラヴェナル市での初陣の後、消耗した兵力はすでに補充され、強化と訓練も済んでいる。
その時間を利用して、ソーホ自身もナノセルロイドの改良を進め、大量生産を前提としたマザーシリーズの製作に着手していた。
プロトタイプからマスターマザーとなったレヴァンティンを母体として製作された、分離マザーUとV。そして、ついさきほど完成したWによってナノセルロイドの量産を開始する。
どれだけ大量の異民が現れようとも、ゼロ領域に満たされ、そして異民がその異民的能力を活用するたびに発生する混沌、オーロラ粒子をエネルギー源として活動するナノセルロイドの前では敵ではない。
「レヴァ、いるかい?」
部屋の外に向かって呼びかける。|囁《ささや》き声だが、集音機はソーホの声を拾い、部屋の外へと届ける。
「はい」
音声だけがソーホに届いた。
「情報は集まっているかな? 予定していたWまで完成したし、そろそろマザーシリーズの実戦テストを行いたいのだけど。手頃なものがあればいいんだけれど」
「首都内円部三十六都市を調査したところ、大規模な異民の発生はありません。小規模なものは各部長たちの判断によって、おおよそ処分済みです」
「そうか」
この研究室にこもっている間に、それなりに事態は進行していたらしい。
「外円部八十九都市は現在も調査中ですが、いくつかの都市で異常な異民の発生、及び不可解な現象が報告されています。ですがそれらは、報告された段階ですでにその異常が沈静化、あるいは消滅していることが確認されています」
「それは、もしかして?」
脳裏に一人の姿が浮かぶ。
「はい。ドミニオ・リグザリオ巡視官の移動ルートと重なります」
アイレインを雇用している巡視官だ。アイレインは強力な異民であると同時に絶界探査計画の研究者チームを全滅に追いやった罪もある。サイレント・マジョリティーしては見逃すことのできない存在だ。
そんな彼を、ドミニオは巡視官という政府の側に立つ身でありながら雇い、利用している。対異民化問題処理組織であるサイレント・マジョリティー発足した以上、これは重大な背信行為となるはずだが、ソーホはこのことを首都政府にも巡視官組織にも報告していない。
ドミニオの後ろにはさらにもう一人の人物がいる。黒猫に声を運ばせる謎の女性。アルケミストであるソーホに匹敵した知識と技術を持っているに違いない人物。
その人物が、ドミニオを異民化問題が深刻化している都市に向かわせているはずなのだ。
「あれの正体は探っておいた方がいいよね」
独り言だとレヴァは判断したらしい。答えはなく、ソーホの指示を待っている。
「いま、彼らはどこに?」
「おそらくはガルメダ市かと」
「なら、行ってみようか」
「了解しました。準備をいたします」
レヴァの声が途絶える。
準備が終わるまでにまだかかるだろう。ソーホは再び目を閉じて、思考の海に戻った。
(アイレインは、どうして? )
今度はゆっくりと、その疑問の回答について考えてみることにした。
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その少女はリリスと名乗った。
「あの子とは双子なのよ」
ニリスとは違い、どこかざっくばらんな|雰囲気《ふんい き 》のあるリリスは足を組んで笑った。対面に座席のある高級車で、アイレインはその白い足がゆっくりと組みなおされるのを目にすることになる。
「大切な妹なの、助けてくれてありがとう」
双子なら年齢は同じはずなのだが、リリスの方が年上のように見える。化粧の違いもあるだろうが、|雰囲気《ふんい き 》の違いもその原因だろう。
高級車に乗せられたアイレインたちは、どこかに運ばれていた。
「で、よそ者みたいだけど、どこの区から来たの?」
「そんなことはどうでもいいだろう」
アイレインは投げやりに応じ、リリスから視線をそらした。
「それよりも、これはどういうことだ? 歓待でもしてくれるのかい?」
眼帯に視線を感じながら、リリスの真意を探る。
誘われるままに車に乗ったのだが、その目的はまだ聞いていない。
「そうね、歓待はもちろんするわよ。大切な妹の命の恩人なんだから。それともう一つ」
「もう一つ?」
「お願いがあってね。あなた、別にどこかのマフィアに雇われていたりするわけじゃないでしょ?」
「まあな」
「そうよね。そうでなければよその区にわざわざ顔を出すわけがないわ」
その言葉にやや引っかかりを感じ、アイレインはリリスを見ようとして、やめた。
いまの言葉に反応するべきか否か、判断しがたい。サウナの時もそうだが、まるでガルメダ市の住人たちは他の区へと出向くことはしないとでも言いたげな言葉を使う。
そんな状態でアイレインがそもそもこのガルメダ市の住人ですらないことを言うべきか否か、迷うところだ。
「それに、腕も立つみたいだし。ニリスをあの人数から一人で守ってくれた。これは得難い人材だなって思ったのよ。どう? 報酬は弾むけど?」
「……どうして、おれ一人でやったってわかる?」
「ニリスに聞いたのよ」
嘘かどうか、アイレインはまたも判断に迷った。電話を使えば時間的な問題はすぐに解決するが、それならば話を聞いてアイレインを探しにきたにしては早すぎる。なにより、アイレインたちを見つけた時、ニリスを助けた当人だと確信していた様子だった。少女を連れた眼帯の男は確かに珍しい存在だろうが、それにしても早すぎる。
「まあいいじゃない、そんなこと。それよりも、どうなの? 雇われてくれる?」
「元の所を追い出されて寝るとこにも困ってたからな。衣食住完備で高給なら考えないこともない」
「因ってるっていう割に|贅沢《ぜいたく》なことを言うわね」
視線を外したままのアイレインに、抑えた笑い声が聞こえてくる。
「安売りはしない主義なんだ」
「いいわ。仕事の内容も決まってるし、衣食住完備のいい仕事よ」
それで、話が決まった。
「あんた、なかなか役にはまってるわよね」
その言葉だけは気になった。が、|迂闊《うかつ》な質問もできず、聞き流した。
|辿《たど》り着いたのは、古めかしい建築様式の屋敷だった。大きな屋敷ではあるのだが、とてつもなく広大な庭の中に置かれていれば小さいのではないかと錯覚してしまう。だが、屋敷に近づけば近づくほど、そののしかかるような大きさがはっきりとしてくる。
広い敷地のあちこちにある外灯が屋敷の外観を薄青く照らしている。
「お宅のとこは、ずいぶんと稼いでいるようだな」
これだけ広大でありながら、敷地全体を高い塀で囲っている。監視カメラの数も尋常ではなく、
また、各所に護衛も多数いるようだった。
いま走っている道、その左右には人工林が広がっているのだが、その木々の|隙間《すきま 》から護衛らしき人間が多数見えていた。
「人材も豊富そうだ」
「へぇ、見えてる?」
「まあね」
一応、林の中にいる護衛たちは闇に|紛《まぎ》れるようにしている。だが、アイレインの視力から逃れることはできない。
クラヴェナル市での一件から、アイレインの|身体能力《しんたいのうりょく》はさらに高まっているように思えた。それは左腕にのみとどまっているはずの異民化が進行しているのか、それともエルミに施された処置がなんらかの作用を起こしているのか、アイレインにも判然としない。定期的にチェックされているが、その時に怪しげな強化が施されていたとしてもアイレインにはわからない。
「軍隊式の訓練も受けているのよ。だから、組織的な動きは得意なんだけど、そういうのは逆に一人でどうにかすることが苦手になるみたい」
「だからおれを?」
「強いからだけど、たぶん本当は、あなたみたいな一匹狼は必要ないんでしょうけどね。でも、今日みたいな時には一匹狼の方が役に立ちそうじゃない?」
「はっきりと言ってくれる」
「自分がどういう風に使われるか、わかってた方がいいでしょ? それに、彼らと一緒に頑張ってねって言われて、あなた|真面目《まじめ》にできる?」
「まあね」
そこは同意するしかない。
リリスのクスクスという笑い声の後に車が停まり、屋敷の前に到着した。
高い天井にある照明がエントランスを黄金色に染めている。壁紙やその他のオブジェの反射もあるのだろうが、映画の中だけに存在するはずの豪華な宮廷とやらいうものが、アイレインの第一印象だった。
そのエントランスで出迎えるのは、さきほど別れたニリスだ。いまは髪を下ろし、よりお|嬢様《じょうさま》然とした様子でリリスを出迎えている。
その視線がアイレインを一瞬捉えた。
その一瞬にわずかな|嫌悪《けんお 》がこもっていたが、それ以上のものはなかった。すでにニリスには話が通っている様子だ。
「ただいま、こいつらの部屋は用意してくれた?」
「ええ。でも……」
「いいのよ。ニリスの考え方はわかるけど、今夜みたいな|物騒《ぶっそう》なことは必ずまた起こるわ。だったら護衛を付けるのは当たり前じゃない」
「そうかもしれないけど、でも……」
「付けるから。これはもう決定してるの」
「…………」
納得していない様子のニリスに、リリスは強引に承諾させる。これだけで双子の力関係がはっきりと表れていた。
「じゃあ、そういうことだから。おやすみ」
アイレインたちだけでなく、ニリスまで置いて一人屋敷の中へと進んでいく。
半ば|呆《あき》れてそれを見送ると、アイレインはニリスを見た。
「……どうやら、おれの役目はあんたの護衛みたいだな」
「聞いていなかったのですか?」
「そういうこと」
「|呆《あき》れました」
冷たく言い放たれては、アイレインも肩をすくめざるを得ない。
「寝る所にも困ってるからな、仕事となればホイホイ付いていくさ」
懐にあるクレジットカードのことさえ忘れていれば、事実ではある。
ニリスはアイレインの隣で黙したままのサヤを見、同情的な表情になった。
「とりあえず部屋には案内します。ですが、わたしの護衛に関しては考えなおしてください。今夜のように、危険なことですから。お金に困ってやることではありません」
決然とそう言い放ち、ニリスが歩き出す。アイレインたちはその背を追った。
「しかしそれができないとなると、結局おれたちはここから追い出されることになると思うぜ」
あんたの姉さんにな、とは言わない。
言わなくても、その意味は伝わるだろう。
「姉さんのことでしたらお気になさらず。あの人はファミリーのことには無関心ですから」
「ファミリーのことはそうでも、あんたのことならそうはいかないだろう?」
それにまで反論されたらおしまいだが、さすがにそれはなかった。
「ま、信用できないなら仕方ないけどな。隅っこにでも置いといてくれればそれでいいさ」
広い屋敷の中を延々と歩いた未に、ニリスは足を止めた。
「ここです。お二人一緒ですが、よろしいですか?」
「これに不満を持ってたら、どこにも泊まれなくなるな」
部屋を見渡すまでもなく、十分すぎるほどの空間と調度類がある。
「それでは」
そう言って去ろうとしたニリスだが、ふと足を止めて振り返った。
「どうしてあの時、助けてくれたんですか?」
「なにが?」
適当に荷物を置いてニリスを見ると、驚いた顔をしていた。
「なにって……危険なことじゃないですか?」
「ああ、そういうことね。別に、おれにとってはそれほど危険なことじゃない」
事実、アイレインにとってはあの程度のことは危険でもなんでもない。銃弾に撃たれれば死ぬかもしれないが、そもそも当たる気がしない。
だが、その感覚は常人に理解されるものではないだろう。そのことも、アイレインにはわかる。
だから、こう付けくわえた。
「それに、女性を助けるっていうのは男のロマンじゃないか?」
「馬鹿じゃないですか?」
顔をしかめてそう言うと、ニリスは今度こそ去っていった。
「意外に口が悪かったな」
「わたしも馬鹿だと思います」
背後からサヤも同じことを言う。
アイレインは肩をすくめてドアを閉じた。
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次の日から、アイレインの仕事は始まった。
ニリスは見た目通りの十七という年齢だった。
学校に通う年だが、通ってはいないらしい。代わりに、リリスがブレザーの制服を着こなし、|真面目《まじめ》な顔をして学校へと向かうのを見させられてしまった。
「おはようございます……だってさ」
花の香りでも散らしていそうな笑顔を思い出して、アイレインはニリスの前で首を傾げた。
「もしかして、入れ替わってたりするのかい?」
「まさか」
しっかりと閉じた足の上に手を置き、ニリスは精神を集中させているかのように目を閉じている。
ここは、屋敷にあるニリスのプライベートな空間であるらしい。バルコニーの側に設《しつら》えられたテーブルには数冊の本が積み上げられている。題名からして、なにかの学術書であるらしい。アイレインは一瞬で読む気を失った。
バルコニーから覗《のぞ》くのはよく手入れされた芝生と、その先にある、まるで線を引いたかのようにしっかりと境界を定められている森林だった。森林には動物が放されているようだ。木々の向こうから鹿がこちらの様子を見、奥へと去っていった。
「ボディガードするなら、出かけていった彼女をした方がいいんじゃねぇの?」
「姉さんのことなら心配は無用です」
一応、話しかければ答えてはくれる。だがその|雰囲気《ふんい き 》は、はっきりと迷惑だと訴えていた。
|諦《あきら》めて、アイレインは沈黙する。少し離れた場所にソファを見つけると、そこに腰をかけた。
(退屈なことになりそうだ)
普段から夜型の生活を送っているだけに、早朝から起きているというだけで眠い。
気が張っていれば何日だって起きていられる自信があるが、いまのようになにもない状況というのは気も緩む。
なにか起されば瞬時に目が覚める自信もある。
アイレインは遠慮なく、その目を閉じた。
黒い空間が目の前に広がる。
(夢か……)
ガルメダに入る前に見た夢もこういう入り方だった。またか、という思いでアイレインはこれから広がるだろう情景を見守る。
しかし黒さだけが支配する空間にふいに現れたのは荒野でも、その上を|闊歩《かっぽ 》する動く都市でもなく、一人の人物だった。
「……あ?」
犬に似た獣の面をかぶった男だ。その人物ただ一人が、黒い空間に立っている。
「おまえ……ディックか?」
顔は隠《かく》しても、その長身と印象的な赤い髪を忘れるはずがない。未来かもしれない場所で出会った青年に違いないはずだ。
「なんだ? 結局フェイスマンに喰われたのか?」
都市で見た面はいまのディックと同じように獣の形に変わっていた。あの面が本当にフェイスマンなのだとしたら、そういうことになる。
獣面のディックはなにも答えない。
それはそうだ。これは夢なのだから。アイレインはディックをよく知らない。ならばこんな時、彼がどんなことを言うかまでわかるはずがない。
だから、意地悪くこんな質問をぶつけた。
「それにしても、どうしてお前がおれの前にいる? お前は未来の人間のはずだぜ?」
返事などない。そう思っていた。本当にディックがフェイスマンに喰われたのかどうかなんてわからない。それなのにディックが獣面を被っているのは、彼にフェイスマンが倒せるはずがないと思っているからだ。
だが、ディックは答えた。
「ゼロ領域に時間など関係ない。そして……」
その声がディックのものなのか、それともフェイスマンのものなのか、アイレインは思い出せなかった。
それよりも驚くべきは、瞬時にディックの姿がアイレインのすぐ前に移動したことだ。
「ゼロ領域なら、ここにある」
ディックの腕が持ち上がり、その指がアイレインの眼帯を押した。
かすかな音が波紋のように周囲の黒を揺らした。
それに会わせて、アイレインの眠りも覚める。
それほど時間は経っていないようだ。その証拠に庭に伸びる森林の影は少しも移動していない。
ただ、ニリスは目を閉じてはいなかった。
|膝《ひざ》の上に置いていた手をテーブルに乗せ、積み上げられていた本を崩しにかかっている。その音でアイレインは目を開けたのだ。
(悪い夢だ)
アイレインは頭を振り、夢の|残滓《ざんし 》を振り払った。
ニリスは学術書の背表紙に書かれた題名を指でなぞっていき、一つを選んで抜きとる。目当てらしきページを開くとそこをしばらく眺め、そして次の本に移って同じ動作を繰り返す。
延々とそれを繰り返す。
|真面目《まじめ》に勉学をしているとはとても思えない仕種で、次から次に本を手にとってはページを聞き、閉じ、次に移る。
アイレインが見ている前で、ニリスは運ばれてきた食事を摂《と》る以外ではずっとその作業を繰り返していく。
テーブルの端に用済みの本が積み上げられ、使用人が新しい本の山と交換していく。ニリスは再びその本を崩しにかかり、崩しきれば新しい本の山が運ばれてくる。
四回それを繰り返し、そして唐突に終わった。
「少し休みます」
大きくため息をついたニリスは、そう言って立ち上がると奥にあるのだろう寝室に引っ込んだ。
「なんだったんだ?」
アイレインは首を傾げたが、本を片付ける使用人はなにも教えてはくれなかった。
使用人も去り、アイレインは一人取り残された。寝室への入室は認められていない。アイレインはバルコニーへと出ると、柵《さく》に腕を乗せて森を眺めた。
体が勝手に|煙草《た ば こ》に火を点けていた。
肺に満ちた紫煙を吐き出しながら、昔のことを思い出す。自分がまだ、まともな学生であった頃。車を使って一時間もかけなければならないような場所にある学校に通っていた頃のことだ。
制服があるような高級な学校ではなかった。都市の中心部ではなく、都市よりも広大に広がる農業区にある学校だ。生徒の数は、通う生徒の移動範囲を考えれば驚くほどに少なかった。
ニリスのような気難しい女の子がいた。残念ながら彼女ほどに美しくはなかったが、|可愛《か わ い》くないわけでもない。そんな中間的な女の子だった。
当時のアイレインにとって、彼女は触れ難い女の子だった。憧れの異性へ向ける考え方ではなく、性格として他人を避けているように思えたからだ。多くの男子たちだけでなく女の子たちも同じように考えていたのか、彼女に積極的に近づこうとする者はいなかった。
自分の席からほとんど動かず、難しい顔をして本を読んでいた。どんな本かはわからない。彼女の本にはいつも、女の子が使うには似つかわしくない黒い革のブックカバーがされていたせいもあるし、同時に、誰も彼女がどんな本を読んでいるかに興味を持っていなかったせいもある。
彼女はクラスにおける一つの風景画だった。題名は、本を読む女の子。そんな平凡なタイトルが付くに違いない。そこには誰に訴えかけるものもなく、画廊に並べられたとしでもそんなものがあること自体に気付かされないぐらいに存在感が希薄な画となるだろう。
その彼女とは結局、卒業まで会話らしい会話をすることはなかった。彼女は卒業するまで気難しい顔をして本を読み続け、そして卒業していった。
アイレイン自身、彼女に気を惹《ひ》かれたことはなく、またニルフィリアの消滅という事件があって彼女を気にする余裕などなかった。
(あの子、いまどうしてるんだろうな)
ニリスが読書する姿は彼女ほど静かでもなく、むしろ騒々しかったのだが、あの姿を見ているうちに、ふとアイレインの脳裏に学校に適っていた時代の自分が|蘇《よみがえ》った。特別楽しかったという
記憶もない学生時代。彼女のことだって、いまのいままで忘れていた。おそらくは彼女もアイレインのことなど覚えていないだろう。あるいは妹を失った可哀そうな男の子ぐらいには覚えていてくれるかもしれない。アイレインが気難しい顔で本を読む女の子として覚えているように。
彼女に対しての記憶にはほろ苦さもなにもない。淡々とした記憶の想起をもてあましながら、アイレインは吸いきった|煙草《た ば こ》を芝生に投げ捨てた。庭|掃除《そうじ》を担当する自動機械がそれを拾っていく。
そこで、ふと気付いた。
「なんでおれ、|煙草《た ば こ》吸ってんだ?」
リリスは夕方になる前に帰ってきた。清楚《せいそ》然とした静かな面持ちのままでエントランスに現れたリリスをニリスが出迎える。
どうやら、朝の光景は夢ではなかったようだ。
「おかえりなさい」
「ただいま。ニリスのおかげで助かったわ」
「そう、よかった」
微笑を交わし合う双子をアイレインは遠くから見守った。その様子は鏡を挟んで見合っているかのような完璧な双子の姿であり、仲の良い姉妹といった|雰囲気《ふんい き 》だ。
だが、一時間もしないうちにリリスは最初に出会った時のような姿になってニリスの前に現れた。
お茶をする、ただそれだけのためにある空間に後から現れたリリスは、先ほどまでの控えめな淑女の歩き方から自信に溢《あふ》れたモデルを彷彿《ほうふつ》とさせる態度でニリスの前に座る。
「まったく、テストなんて面倒なの考えたのは誰なんだろうね」
テーブルに肘《ひじ》をついて疲れを表したリリスに、ニリスが苦笑を返した。
「出席が足りないのをテストの点数で取り返さないといけないんだから、仕方ないでしょう?」
「勉強なんてどれだけ役に立つっていうのよ」
「役に立たないのは、役に立たせないからよ。そうするようにすることが大切なんじゃない?」
「じゃあ、それを教えろっての」
「人の生き方は様々だから」
「ふんっ」
拗《す》ねた様子で陶器のカップを|摘《つま》みあげる。その様子をニリスは愛《いと》しげに眺めていた。
「それで、今夜も行くわけ? 交渉に」
「ええ、もちろん」
「マフィアっていうのは欲のために血を流せる生き物なんでしよ? 無理だと思うけれどね」
「でも、気付かれるわけにはいかない。それは共通認識のはずだわ。わたしたちには情報が足りない。それを埋めるためにも必要なことだと思うけれど」
「でも、わかってるんでしょう?」
「…………」
リリスはティーカップにスプーンを落とし、その波紋を眺める。その顔には微笑がある。長いまつ毛を揺らして|瞬《またた》きする瞳は、なにかを蔑《さげす》むかのように水面を見つめていた。
冷笑を浮かべているのだ。
「たいていの人間は大根役者でしかないって」
「そうかもしれないけど、でも、だからこそなにかできるかもしれないわ」
「だからこそ、ね。希望はあなたに|相応《ふ さ わ》しいのかもしれないけれど」
「そんなことはないわ。あなたの中にあるからこそ、わたしにもあるんだから」
そこにある光景を見るだけなら、優雅なお茶会といえるだろう。リリスの服は夜の街にこそ|相応《ふ さ わ》しいものだが、その仕種には洗練されたものがある。ニリスは風景と一体化するかのようだ。この場所にいるために生まれ、育ったかのような、まさしくお|嬢様《じょうさま》という生き物としてそこにいる。
それなのに、ニリスの背後には一抹の|寂寥《せきりょう》が、リリスの背後には諦念《ていねん》が漂っているように思えるのはなぜだろうか?
(言ってることもまるでわからんし、な)
マフィアどもが大根役者? 巡視官を恐れている様子は昨夜のことでわかる。巡視官に漏れたら軍が出動してしまうような秘密が、この都市には、それともマフィアたちの間には存在するのだろうか?
(……想像できないな)
一度、ドミニオと連絡を取る必要があるかもしれない。
(しかし、あの位置じゃ無線連絡は使えそうにないしな)
都市同士は地下を走る通信ラインを通して連絡を取り合うことが可能だが、長距離での無線連絡は現在不可能となっている。
空を支配するオーロラが通信電波を乱すためだ。
段取りとしてはアイレインたちが引き返すことがなければ、タイミングを見てエルミが都市に入る。その時にドミニオが付いてくるかどうかはわからないが、エルミならより詳しく都市の異変を調べる方法を持っているだろう。
(エルミが目的を達成できればそれでいい。深入りする必要はない……か)
ガルメダ市にある亜空間増設機に問題がなければ、あるいはエルミが修理を済ませれば、それでこの都市からは去ることになる。
目の前にいる二人は、アイレインにとってはその程度のものでしかないのだ。学生時代のあの女の子と同じなのだ。多少は見た目がきれいだろうとも、いずれは去って記憶の中に埋没するものでしかない。
彼女たちは富裕層という優雅さの中で問題を抱えているにしかすぎない。あの女の子だって、教室の中で一人読書に耽《ふけ》る中でなにかの問題を抱えていたかもしれないのだ。
それに気付けているか、いないか、その程度の違いでしかない。
「そういうわけだから、あなた」
リリスがニリスの背後にいたアイレインに話しかけてきた。
「今夜もよろしくね」
アイレインは、黙って|頷《うなず》いた。
夜、高級車に乗り込んだニリスのボディガードとして、アイレインも乗り込んだ。
サヤは部屋で待っている。リリスたちもサヤが荒事ができるとは考えていないようで、そのことになにかを言うことはなかった。
アイレインの着るコートには、サヤから渡された銃がある。
サヤは眠る兆候を見せない。こうした状況の中でサヤと離れることに不安がないわけではないが、だからといってサヤの同行を無理に言ったとしても双子が耳を貸すとは思えない。
(まあ、大丈夫だろう)
確証などまるでない。それでもそう言い聞かせておくしかない。
今夜の話し合いをなんとか盗み聞くことができれば、サヤが眠れない理由を探ることができるかもしれないのだ。
「で、まさか今夜も同じところに行くわけじゃないよな」
「さすがにそれはしません」
ボディガードの数は昨日と同じ。ニリスを乗せた車の前後を固めた形で進む。これ以上人数を増やせば相手の警戒心を招くと考えてなのか、増やすつもりはないようだ。
(無用心だな)
昨夜のことを覚えていないわけではないだろう。
表面だけかもしれないが、瞑目《めいもく》して座っているニリスに恐れの色はない。
たいした度胸……そう評するべきなのかもしれないが、アイレインはそうすることに妙な引っかかりを覚えていた。
ニリスの透き通るような表情には、昨日のことがまるで抜け落ちているかのように見える。忘れているとは思えない。そのことは昼間のリリスとの会話が示しているし、さっきの言葉もそうだ。
(落ち着かないな)
そんな気分のまま、アイレインは眠るように目を閉じたニリスを見守る。
交渉は揉《も》めた。
揉めているようだった。
|蚊帳《かや》の外に置かれているアイレインには|分厚《ぶあつ》い木製の扉の向こうで、語気荒くなにかを叫んでいる男の声しか聞こえてこない。
そんな言葉に晒されて、ニリスはどうしているのか、アイレインにはわからない。
扉の外で待たされたアイレインたちボディガードには複数の監視が付いていた。|剣呑《けんのん》な視線は少しでもおかしな動きをすればすぐに撃つという|雰囲気《ふんい き 》があり、また、むしろそうして欲しいという挑発的な面もあった。
そんな中で、アイレインは耳を澄ますことに集中する。扉の奥で銃声がしてから動いたのでは遅いのだ。銃を抜く動作を感じた時には、あるいは新たな誰かを引きこんだときには動かなければならない。
この場所から決定的瞬間に間に合うには、それぐらいの聴力と俊敏さを必要としていた。
(よくまあ、こんな状況で平然としていられる)
アイレインの強化された聴力は、ニリスが冷静な口調でなにかを言っているのだけがわかる。
その態度がまた、相手を怒らせていることもわかってしまう。
(ま、娘みたいな年の子に対等に相手されたら、そりゃ、腹も立つだろうさ)
マフィアの娘、ボスの名代といってもその年齢は学生のそれなのだ。そんな子供を相手にしなければならないとなれば、舐《な》めてかかるか苛立《いらだ 》ちを覚えるかぐらいが順当な反応ではないだろうか。
ニリスは|舐《な》められているようではない。だが、それゆえに苛立ちを呼び寄せているようにも感じられる。
音の|雰囲気《ふんい き 》だけでは、それぐらいのことがわかるだけでも上等だ。
荒々しい声は|次第《し だい》に激しさを増していく。ニリスがなにかを言うたびに、それが火に油を注ぐだけの結果にしか終わっていないことの証拠だ。
そして、声が増すごとにアイレインへの緊張感が増していく。
殺気が集中し、|剣呑《けんのん》な空気が最高潮に達しようとしていた。
(あ、これはだめだな)
扉の奥で誰かがイスを蹴った。立ち上がろうとしたのだろう。
そしてその時にはすでに、アイレインの手は銃を握り、抜き放ち、銃爪を引いていた。
銃声は瞬間のうちに連打される。右腕の銃口は扉に、左腕の銃口は周囲にいる、アイレインの動きを阻害するだろう連中に撃ち放つ。
結果を見るよりも早くアイレインは動き、扉を蹴破る。すでにニリスに向かって銃を抜こうとしていた者は倒れ、その周囲にいた者たちも同じ運命を辿《たど》っている。
総立ちになりながらも|茫然《ぼうぜん》とした中で、ニリスはいまだ冷静な表情で座り続けているマフィアの幹部たちに言い放った。
「いまは、わたしたちが争っている時ではありません。一刻も早く正しい対応の道を探らなければならない時なのです。どうか、そのことはご承知ください」
こんな状況でさえなお、ニリスが説得しょうとしていることに、銃を構えたままのアイレインは|呆《あき》れた。
「そんな対応などはいらん、邪魔になるなら殺せばいいだけの話だ」
この状況になっても、まだそれを言える人物がいたようだ。
「相手はわたしたちよりもはるかに大きな組織です。戦えば負ける。それぐらいはわかるでしょう?」
「わかっていないのはお|嬢《じょう》ちゃんではないかな?」
その男はおそらく、ここのマフィアのボスだ。総立ちになった一人だが、いまは落ち着きを取り戻している。
男の周囲をアイレインが蹴破ったのとはまた違う扉から現れた部下たちが取り囲む。この時になってようやく、ニリスのボディガードたちも現れた。
「おれたちが死を恐れると、本当に思っているのか?」
「ええ、思っています」
ボスの言葉にニリスはきっぱりと言い放ち、|頷《うなず》いた。
「では、よろしくお願いします」
一触即発のムードの中、ニリスは立ち上がると優雅にお辞儀をして去ろうとする。アイレインは先頭をボディガードたちに任せ、後から扉を抜けた。
マフィアたちが追ってくる様子はない。
「けっこう無茶をやってるな」
車内で|安堵《あんど 》に胸を撫でおろすニリスにアイレインは声をかけた。
「無茶でも、わかってもらわなければ困りますから」
ニリスは青ざめた表情を引き締める。
いったいどうして、こんな少女が必死になってマフィアの抗争を沈静化させようとしているのだろうか。
「わからんね」
「なにがですか?」
「あんたがやらなければいけない理由さ」
「…………」
「屋敷を見るぶんには、あんたのところは大した力を持ってるみたいだ。だから、マフィアを束ねるのはあんたのところなのかもしれない。だが、それが力じゃなくて言葉ってのもわからない。なにより、やるならあんたじゃなくてボスの仕事だろう?」
しかし、アイレインはボスの顔をまだ見ていない。
こんな巨大な組織を子供が仕切っているとは考えられない。もしそうだとしたら、周りの組織は連合して切り崩しにかかるのではないだろうか? しかし、テレビを見る限りそんな派手なニュースは流れていない。
「祖父はいま、病で寝たきりですから。身内はわたしたちしかいません。それに……」
ニリスはそこまで言うと、アイレインをまっすぐに見た。
「わたしがそれをやろうと思ってはいけませんか?」
「……悪かないけどさ」
「それなら、黙って働いてください」
「へいへい」
肩をすくめるアイレインに、ニリスは険悪な視線を向ける。
確かに、アイレインが口を出すことではないのだろう。
だが、こんなにも頑《かたく》なにマフィアの抗争を止めようとする彼女の真意はどこにあるのか? アイレインは興味を覚え始めていた。
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03 本能なき者たち
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アイレインが去ってから一週間が過ぎた。
「ま、時間としては十分でしょ」
「あいつが死んだっていう可能性は考えてないな」
|雰囲気《ふんい き 》を察したのか、ドミニオが渋面でドアの前に立つ黒猫に話しかけた。
「……あの二人が死んだら、わたしの仕事もずいぶんとやりにくくなるでしょうね」
「その時は手を引けばいい」
「それもいいかもね」
エルミの言葉に|真摯《しんし 》さがまるでないことが、ドミニオの渋面をさらに深くした。
「あの二人に死んで欲しいのかしら?」
「寝覚めが悪くなる程度には、良心はまだ残しているつもりだがな」
「それなら、そういうことは願わない方がいいわね」
黒猫から聞こえてくる忍び笑いにドミニオは視線を外した。
外では静かに雨が降っていた。換気のために開けている窓からは虫の声ばかりが車内に入ってくる。
食料はまだ十分にある。水も、電力も。だが、備蓄には限界がある。それは増えることはなく減り続けるのだ。アイレインが死んでいるという可能性に踏み切って別の場所に移動することを考えるのなら、そろそろ動き出さなくてはならない。
だが、ドミニオは動きを見せない。
それが彼の良心であり、しかし動かないのがいまの彼でもある。
「危険の正体がわからないというのが気に食わない」
ドミニオはキッチンから紙袋を取り出すと、黒猫専用の皿に中身を少量載せる。そこに水をかければインスタントの猫の餌が出来上がる。黒猫はドアの前から移動して皿に口を突っ込んだ。
「アイレインたちが戻らないということは、危険は向こうにあるということだ」
「危険なんて、どこにだってあるじゃない」
黒猫は餌を食べている。声は額の宝石から響いている。
「だが、サヤがこんなにも早く危険を察知したことはない。フェイスマンの時さえ、都市に入ってから反応した」
「それはそうね」
納得はする。だが、エルミはその危険について深く考えることはしない。正体のわからない危険。判断の材料が少なすぎるため、ここでどれだけ考えても推測の城を出ないからだ。
わからないのなら、わかる場所まで近づく。それが研究者の立ち位置ではないだろうか。
「真剣に考える気などなさそうだな」
そんなエルミの態度をドミニオは察していた。黒猫に隠された自分の本体を見られたようで、
エルミは驚きの顔を宝石の奥に秘められた亜空間の中で浮かべる。
「考えでも答えなんて出ないからよ」
「いいや違う。考えていない。なぜなら、お前たちは常識から外れすぎているからだ」
静かな雨がドミニオの|呟《つぶや》きを吸い取った。
「どういうこと?」
「死を恐れない。勇壮な言葉だな。だが、お前たちは違う。死の恐ろしさを知ってあえて踏み越えているわけではない。お前たちは死すらも超越したと勘違いしている。だから危険に鈍感なんだ。いいか、危険を感じれば逃げる。それが普通の生き物の反応なんだぞ」
「普通でいられるわけがないじゃない」
エルミはいまや、異界侵蝕を受けた立派な異民だ。自らが不老不死を願ったわけではないがその姿は亜空間増設機を作った時から容色に陰りなく、体力に衰えもない。
エルミは異民化したことによってこの姿となった。だが、いまの醜い姿になる前からエルミは不老となっていた。
亜空間増設機を作ったその時から、現れたゼロ領域の洗礼を受けた時からエルミは異民であった。
死なないことは生物の本質的な欲望かもしれないが、それならば異民は誰も彼もが不老不死となっているはずだ。だが、これまで出会ってきた異民は戦いの中で死んでいる。不老ではあるかもしれないが、不死ではない。
エルミがあの時望んだものはなにか? 心の奥底から望んでいたものは。
永遠に研究し続ける。
おそらくは、これに違いない。だからこそ、エルミは年を取ることもなくいままで生きている。
だが、それは永遠の美が約束されたわけではない。なにより、人間の肉体というものはその機能として永遠に生きるようにはできていない。それは異民化したとしてもそう変わりはないだろう。
だからこそ、その|歪《ゆが》みがエルミの外見に現れてきている。
「わたしはわたしの望みとして亜空間増設機の修理なんてことをしているの。正義感でも、発明者としての責任でもない。だから行くのよ。危険は、ずっと昔から承知の上だわ」
ドミニオからの返答はない。その顔には理解されないことの苦悩があった。
無言の時を、静かな雨が助長している。
静寂を壊したのは、窓から入り込んできた一台のエンジン音だった。ここ数日、この場所にとどまってわかったことだが、ガルメダ市に向かう車の量は他と比べても少ない。さらにいえば、農業区からの貨物車以外ではこれが初めてだ。
貨物車と長距離移動用の車両では、エンジン音が違う。
なにより、車外から聞こえてくるエンジン音、しかもドミニオたちに横づけするかのように停車した音には聞き覚えがあった。
「まさか……」
「そこの車、持ち主がいるのなら姓名とIDナンバーを答えろ。こちらは巡視官、ケルネス・サーパーだ」
車外に設置された拡声器が雨霧の中で割れた声を放つ。
続くIDナンバーを、ドミニオは即座に端末に叩《たた》き込み照会する。巡視官ケルネス・サーパーで間違いない。
「巡視官が同じ場所に二人いるなんて、とんだ奇遇ね」
「まったくだ」
先ほどまでのやり取りも忘れて、ドミニオは拡声器のマイクに手を伸ばした。
「こちらは巡視官ドミニオ・リグザリオだ。IDナンバーは……」
「了解した。なにか問題が発生したのか?」
「機械的なトラブルで停車している。回復の目処《めど》は立っているので心配はない」
「わかった。これから車外に出る」
ケルネスのその言葉でドミニオもマイクを置き、レインコートを引っ張り出した。
キャンピングカーのボディが雨霧を蒸気に変えている。レインコートを雨が打つ感覚はなく、だが、ただ立っているだけで守られていない顔の表面が濡《ぬ》れ、髪が湿気で重くなっていく。
ケルネスはすでに外にいて、ドミニオを待っていた。
「首都から出て以来、同僚に出会うのは初めてです」
握手を求めてくるケルネスは、拡声器の声で感じたように若かった。短く刈り込んだ金髪の下で|溌剌《はつらつ》とした笑顔を浮かべている。
「なりたでか?」
「はい。半年前に訓練課程を終えたばかりです」
こんな天候をものともせず、ケルネスの全身からは若さが溢れ出ていた。それを|眩《まぶ》しいとドミニオは感じる。正義を信じている年齢であり、瞳だった。
自分にもそんな時代があったと、過去に思いをはせでしょう。
「ドミニオさんは、ガルメダ市へ向かわれるのですか?」
ケルネスが|尋《たず》ねてくる。巡視官は次の都市に移動する前に首都と連絡を取り、次に向かう都市を決める。その際に巡視官が同じ都市に向かわないように調整されるのだが、今回は調整ミスが生まれたのだろう。たまにこういうミスがある。
「調整ミスのようだ」
「そのようですね」
同僚に会えたことは|嬉《うれ》しいが、トラブルは困る。なにより、再び一人で他の都市に移動するあの退屈が延びるのはごめんだ。
そういう顔をしている。というよりも、以前は自分もそう考えていた。
「こちらの修理にはまだ時間がかかる。お前さんに譲るさ。念のために食料を分けてくれるとありがたいがね」
「そういうことなら、喜んで」
ケルネスは跳ねるような足取りで自分のキャンピングカーに戻っていく。
視界の隅に雨霧の中に溶け込むように走る黒猫の姿が映った。
「まったく……凡人の考えは理解されんか」
ケルネスのキャンピングカーに潜り込んでいく黒猫にドミニオは諦めのため息を零した。
「お待たせしました」
箱一杯にレトルト食品を入れてやってきたケルネスの顔には、自分が凡人であるとは露ほどにも思っている様子はない。巡視官という選ばれた職業であるという自尊心と、誇りと、自らの能力に対する絶対的自信、それらが若さという輝きの中に内包されている。
苦さを伴う感想だ。
そんなものはもう、ドミニオにはないのだ。
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†
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ニリスの孤独な奮闘は続いている。
毎夜、ニリスはマフィアのもとを訪れては交渉を行い、そして手応《て ごた》えのない対応か、あるいは苛烈《かれつ》な拒否を受け続けている。
今夜も……
「なあ、いい加減|虚《むな》しくならないか?」
横転した高級車の腹側で銃弾の雨の音を聞きながら、アイレインはニリスに|尋《たず》ねた。
「なりません」
それでもなお、ニリスは決然とした顔でそう断言する。
他にいたボディガードたちは皆、最初の奇襲で使われたミサイルランチャーで吹き飛ばされている。ニリスの乗った車はその爆発に巻き込まれて横転したのであり、直接襲ってきたミサイルはアイレインが撃ち落とした。
「しかし、ミサイルとは大事だ」
小型のものとはいえ、そんなものがマフィアの抗争で使われたという話は聞いたことがない。
マフィアたちがどれだけ本気でニリスを消そうとしているかがわかるというものだ。
しかし、そのミサイルも最初の一回以降は使われていない。使われていれば、こんなところで|呑気《のんき 》に話なんてしている余裕はなかったろう。
腹を晒《さら》した高級車に隠れ、アイレインは時折顔を出しては反撃する。そのたびに銃弾の雨が弱くなる。
一気に片付けでもいいのだが、常人からあまりに離れすぎた行動をとればニリスに疑われることになりかねないと判断した。
「たいした数だ。もしかしたら、いままで交渉に行ったマフィアが手を組んだんじゃないのか?」
「そうかもしれません。特に今夜は大人しく帰ってこられましたし」
「だったとしたら、本気であんたが邪魔なんだな」
「…………」
「まぁおれも、なんでそんなに巡視官を恐れてるのか、よくわからんけどな。|誤魔化《ごまか》せるんじゃね?」
「どうやってですか?」
「いや、どうやってって……適当に隠しちまえばいいじゃないか」
ここ数回の交渉に付き合うことで、巡視官がやってくることを警戒していることがはっきりとした。
近々やってくるという情報をどこかで入手したに違いないのだが、しかし、それを恐れる理由はまだわからない。
巡視官の来訪は、ドミニオを見ていればわかるが、半ば形骸《けいがい》化している。やってきた巡視官はマフィアの供応を受け、重大事でもない限りは目こぼしをして去っていく。そうやって何年間か働き続ければ、退職した時には億万長者の出来上がりだ。都市同士の距離がありすざるから創設された組織だが、その距離が災いして、巡視官たちのこういった不正を誰も止めることができない。
マフィアなら知っていて当然のことだと思うのだが、ニリスはそれを知らないようにしか見えない。
それだけではない。他のマフィアたちから、そういった提案が出ているように思えない。
(……この都市全体で、なにか常識がずれているような感じだな)
「それにしても、いきなり手を組むなんて……」
銃弾の音を気にもせず考え込むニリスにしても、年不相応の胆力がある。
(ママ・パパスみたいに元兵士だったなんていうわけでもなかろうに、よく平気だな)
この都市に来てからどうにも落ち着かないのは、こういうわずかな常識のずれが寄り集まっているためだろうか。
一つ二つならば個人差や偏りというだけで説明もつくかもしれないが、全般的になにかがおかしい。しかもそれは、明確にこれだと指させるわけではなく、感覚としてわずかになにかがずれている、というものなのだ。
「もしかして……」
諦めの悪い刺客たちと適当にやり合っていると、ニリスがはっとした顔で空を見、そしてまた考え事を始めた。
「なんかわかったのかい?」
「少し黙っててください」
「へいへい」
やる気を出させてくれないお|嬢様《じょうさま》だ。
きりのない銃弾の音が耳に張り付く。撃発の音か、残響音か、その区別さえつかなくなりそうなほどの多人数が銃弾をただ一人の少女に向けて撃ち放っている。
見ようによってはなんとも無残で、そして奇妙な図だ。
─近づこうとする連中を狙い撃って足止めする。
「そんな………」
諦めの悪い連中にうんざりし始めていた頃だ。ニリスがその日初めて愕然《がくぜん》とした顔をした。
「アイレインさん!」
しかも、初めて名を呼ばれた気がする。
「…………」
だが、ニリスはなにかを言いかけたまま言葉を止めた。開いたままだった口がなにかの形を作りかけ、悔しげなものに変わる。
「どうしたい?」
だから、アイレインから声をかけた。
「その様子だと、なにか困ったことが起きたんだろ?」
「……ええ」
「で、急いでここから抜けだしたいとか、言うわけだ?」
「そうです」
ニリスの表情は苦悩で歪んでいる。なにに悩んでいるのか? 最初に出会った時のことを考えれば、アイレインが手を抜いて応戦しているのは目に見えて明らかだというのに。
「で、どうして欲しいんだ?」
「…………」
「今日まで、それなりにボディガードの職分は守ってきたつもりだぜ。|馘首《くび》にならない程度に。あんたはあんまり派手なことは好みじゃないらしいから、その趣味にも合わせたつもりだ」
一気に|喋《しゃべ》る。ニリスの目をまっすぐに見て、生身のままの右目で見つめて。
(ああ、まったくおれってやつは……)
「だが、そういう悠長なことを言ってられない状況になったって言うなら、新しい命令がいるな。なにしろ、おれはあんたに雇われているわけだから」
(調子の良い嘘吐き野郎だ)
いまにも泣きだしそうな、すがりつきたそうな顔をしている女の子に向かって、本心とはまるで違うことを|喋《しゃべ》っている。
マフィアたちが大きく動き出している。
そこにこの都市に隠されている違和感により近づくためのなにかがあることは確かなのだ。
近づき、見定める。場合によってはそれを|殲滅《せんめつ》する。
そうすることでサヤの感知した危険を取り除くことができれば、サヤが眠ることができるのだ。
エルミが仕事をやりやすくなり、次の都市へと行くことができる。ドミニオのしかめっ面は……まあ次の都市に行っても消えることはないだろうが、それでも少しは安心するだろう。戻った時には熱いコーヒーを|淹《い》れてくれるだろう。味のわからないアイレインを詰《なじ》りながらも、高価そうな豆を挽《ひ》いてくれるだろう。エルミが笑い、眠ったサヤをベッドまで運ぶのだ。
それが、アイレインの日常なのだ。
サヤが眠らないことで、アイレインは日常から外れてしまっている。
(ああ、そうか……)
アイレイン自身すらもずれているのか。それになんの意味があるのかわからないが、だからこそこんなにもやる気が出ないのだ。
(いや、言い訳か?)
目的が定まっていないのも原因の一つだろう。漠然とした危険というものに対して、どうすればいいかがわからないのは、前の都市の一件でわかっている。
だからいま、アイレインは目の前の少女に目的を求めている。それは最終目的へのいくつかの過程の一つでしかないかもしれないが、ひとっ飛びにできないのならその過程を踏んでいくしかない。
「さあ、どうして欲しい?」
「……わたしは、いますぐに行きたいところがあるんです。そこに、連れて行ってください」
シガレットケースから|煙草《た ば こ》を取り出しながら、アイレインはその言葉を聞いた。オイルライターで火を点ける。
紫煙が肺に流れ込む。|煙草《た ば こ》に混入された特殊な物質が血管に回る。背中に寄生し、いまや臓器の一つとなったものの活力となる。
回転する。
そんなイメージが付いて回る。気分はエンジンだ。動き出す。右目と左腕。異界に侵蝕された肉体がその本質をさらけ出そうとし、そこから溢れ出すオーロラ粒子を吸い取り、回転する。
新たなエネルギーとなって、アイレインを疾走させる。
「了解した」
両手には銃。サヤの空間干渉から生まれた芸術的なフォルムを持つ銃。
「即、終わらせる」
口に|煙草《た ば こ》を銜《くわ》えたまま宣言し、アイレインは跳躍する。
暴風を引き連れて、破壊と殺教《さつりく》の権化となる。
包囲していた側から見れば………なにが起こったか理解することすら難しかっただろう。相手は腕利きだった。たった一人しか残っていないというのに、こちらの動きを的確に読んでそれを潰《つぶ》してくる。彼らの足元にはそうした仲間の死体があちこちに転がり、あるいは痛みに呻《うめ》き、あるいは声もなく|痙攣《けいれん》し、やがてくる死を待つだけとなっていた。
それでも勝てるだろう。そう思っていた。数は圧倒的である。周辺地区のマフィアたちが連合しているのだ。
たった一人の少女を殺すために。
だが、その少女が|厄介《やっかい》者だ。ガルメダ市では最大規模のマフィアの代理となって、巡視官の到着に合わせた停戦協定を結ぼうとする。
巡視官という異物に対して、なんらかの対応を取らなければならないのはわかる。それはマフィアのボスたちに共通した認識だ。中央から離れすぎた多くの都市が、独立などしないようにと見張るため、マフィアの動きを牽制するという建前で立ち上げられた組織。その権力は巡視官個人で軍の出動を決定することもできる。
そんなものがガルメダ市に来てもらっては困る。
ただでさえ、よそ者を嫌っているというのに。
いや、嫌っているというだけでは不十分だ。|嫌悪《けんお 》し、排除したいと思っている。
そのために、ニリスが沈黙を持って巡視官と対峙《たいじ》しようとしているのに対して、このマフィアたちは自分たちという、ある種属性とでもいうべき立場から巡視官を排除しようとしている。
それはつまり……
「つまり、あの人たちは巡視官を殺そうとしているんです」
アイレインの所業を見た衝撃からの立ち直りは早かった。時間にすれば十秒もかからぬ間に二人を包囲していたマフィアたちは銃弾に倒れ、暴風に飛ばされ、衝撃波で引き裂かれた。
それを行ったアイレインは、その一瞬で吸いつくした|煙草《た ば こ》を捨てると、長々と紫煙を吐いて、
「次は?」
と聞いてきたのだ。
「それはまた、馬鹿なことを考えたものだ」
二人はいま、マフィアたちの車の中にいる。アイレインが運転をし、ニリスは助手席にいる。
ニリスのリクエストの答え、アクセルはベタ踏みに。エンジンが焼けされそうな音を立ててバイパスを突き進む。
「そいつを殺したって次が来る。その時に、ここで巡視官が|行方《ゆ く え》不明になったって調べられるに決まってるじゃねぇか」
言われるままにナビゲーターにセットした場所に向かって、分岐路を的確に選ぶ。自動運転は法定速度でしか走らない。アイレインがハンドルを握るしかない。
その手に汗がにじむのをアイレインは感じていた。
ニリスはまだ急がせる本当の理由を言っていない。だが、いまのニリスが急がなければならない理由。あのマフィアたちが大挙してニリスを襲った理由。一つの事実がそれを重ね合わせたのだとすれば、それはなにか……
顔は平然を装わなければならない。いまのアイレインはただのボディガードだ。そういう役割を演じているのだ。
「巡視官が市内に入りました」
「……どうして、わかった?」
ドミニオ……エルミと一緒に来たのか? 平静を|装《よそお》い、舌打ちをこらえる。エルミがそばにいればまず問題はないだろう。ドミニオ自身も修羅場を|幾度《いくど 》もくぐり抜けている。アイレインと行動を共にする以前は、何度も命を狙われるような危険に直面しているはずだ。
対処の仕方は心得ているはずだ。自分にそう言い聞かせながら、これ以上踏みようもないアクセルにさらに力を込める。
「わかるんです」
かすれるような声でニリスはそう答えた。
|咄嗟《とっさ 》に出た質問だ。アイレイン自身、ドミニオたちの身を案じて、特に意識していたわけではない。
だが、その答えのおかしさは感じることができた。
推測した、ならわかる話だ。ニリスは頭のいい少女のようだし、この都市のマフィアの動きはある程度予測できたとしてもおかしくない。
だが、わかると言った。
(この女)
異民か?
新たな疑問が湧く。
だがいまは、ニリスの言葉の詳細を確かめることが先決だ。本当にドミニオがやってきて、そして襲撃されているのだとしたら。
(その時は)
大暴れに暴れてドミニオを救い出し、エルミが亜空間増設機の修復を終えるまでどこかで|籠城《ろうじょう》すればいい。サヤのことも考えなければならない。が、その程度の敵ならサヤが傷を負う心配はないだろう。
(その時は)
隣のニリスにも人質になってもらわなければならないか。
双子のリリスがニリスと同じようにティルティスを指揮できるのなら、有効になるだろう。サヤとの交換ぐらいには。
この先に待ちかまえているかもしれない不幸の善後策を考えるうちに、目的の場所が見えてくる。
「市庁舎?」
ナビゲーターにセットした時、その場所にある記号に首を傾げてはいた。だが、そんなことよりも急がなければならないことを優先したため、確認はしなかった。
だがいま、目の前に高くそびえている建物にはガルメダ市庁舎という看板がある。かなりの予算をつぎ込んだと思われる高さとデザインだ。ガラスが多く使われており、昼日中に近づけばずいぶんと|眩《まぶ》しい思いをしそうだ。
「しかも夜にか?」
夜間でもたいていの役所は開いている。人はいないが、その代わり自動で対応するコンビニマシンがある。簡単な手続きや証明書の発行はこれで済む。
ドミニオに同行して様々な都市を巡っているから、わかる。巡視官は到着すればまずその都市の市庁舎に赴き、到着を知らせ、次に警察に赴いて捜査権があることを明言し、それから各役所で手に入れた資料に目を通す。
確かにそれは、機械が相手でも済む手順かもしれない。
「どうかしましたか?」
「あー、いや、仕事熱心な奴だと思っただけさ」
ニリスの質問を|誤魔化《ごまか》し、車を市庁舎の前に停める。
すでにそこには、争いの痕《あと》が残っていた。
(だが、ドミニオのやることじゃない)
ドミニオは人のいない時間に役所には訪れない。ドミニオは機械を使わずに、人を介して手続きを済ませる。そうすることで役所のマフィアに通じている人間からドミニオのことが知れ渡り、表に出したくない秘密は引っ込められ、同時に巡視官を歓待するタイミングを失わないで済む。
なにより、一般市民が大勢いる場所なら襲撃される可能性が低い。
それが巡視官のやり方だと思っていたが。
物思いは銃声によって強制的に停止させられた。
「急ぎましよう」
車から飛び出そうとするニリスの肩を掴《つか》む。
「あんたが行ってどうするよ。おれが片付けてくる」
「巡視官は殺さないでください」
「わかってるよ」
「巡視官はエレベーターで上に移動しています。三十階です」
「了解」
|頷《うなず》いて、市庁舎の入り口に向かって走る。
(まただ)
走りながら、またも疑問が湧いてくる。
どうして巡視官の場所がわかる。今度は推理というだけでは説明しきれない。市庁舎の外観にはエレベーターの移動がわかるようなものはない。
エントランスに入る。防弾仕様なのか、そこら中のガラスは割れずにひび割れに留《とど》まっている。
こんな惨状で防犯機能力働いていないのは、マフィアの連中が切らせたのだろう。
すぐ目の前には受付の長いカウンターがある。いまはそこに壊れて火花を放つコンビニマシンが並んでいる。
受付のカウンターが四角とすれば、その四隅に柱があ─り、その中の二本がエレベーターのシャフトも兼ねていた。
両方のエレベーターが動いている。一つは巡視官が、もう一つは刺客のマフィアたちか。
「………三十階、だったっけか?」
階段を上ることを考えれば………アイレインはいったん外に出た。|煙草《た ば こ》に火を点ける。肉体能力を限界まで引き出そうとすれば、それだけで放たれるオーロラ粒子によって異民化部分が拡大してしまう。
それを抑え力に変換するのが背中の臓器であり、それに助力するのがこの|煙草《た ば こ》だ。
「跳んだ方が早いよな」
体を巡る力を確認するとその場で足を曲げ、まっすぐ上に跳んだ。
いくらアイレインの運動能力が常軌を逸しているとはいえ、三十階の高さに跳躍だけで届くはずもない。ビルの壁面にあるほんのわずかな突起に手をかけ足をかけ、跳躍を繰り返して上ってく。
空気を|唸《うな》らせて、爆発させて上昇し、市庁舎の壁面にひびを打ち、砕きながら跳ね上がる。
三十階。階数表示が見えたわけではない。いくつの窓を越えたかを数えながら登り、三十個めに到達したところでガラス窓に銃口を向け、連射した。強化ガラスではあるが防弾ではない。この部分に、ガルメダ市の本性があるとすれば、そうだろう。土地などどれだけでもある場所にこんな外見にこだわった高いビルを建て、それでもガラスには防弾能力さえもない。中央に対して叛意《はんい 》があるのなら、市庁舎をこんな無防備にはしないだろう。
もちろんこの時、アイレインはここまで考えていたわけではない。
(脆《もろ》い)
あっさりと砕けて床に散らばったガラス片に対して、その程度の感想だけを残して踏み越えた。
走るアイレインに銃声が届く。
最初の一発。そして応射の三発。
その後がない。
「ちっ」
走りながら舌打ちする。血管という血管に冷却水が流し込まれたかのような寒気。否定したはずの嫌な予感を引きずって現場に向かう。
エレベーターからわずかに離れた場所。通路に並ぶドア。一つだけ開け放たれたままのドア。
肩を押さえて|呻《うめ》くマフィア風の男が一人。銃をさげて室内に入ろうとする二人。
二人が驚いた顔でこちらを見た。銃爪を引くまでもなく、自らの速度を破壊力として吹き飛ばす。その結果を確認せず、アイレインは室内を確認した。
会議室だったようだ。
ドアのロックは壊された様子がない。巡視官の権限があれば市庁舎のロックは全て無効となるだろう。そうやってこの会議室に入り、亀城でもするつもりだったか。
巡視官の誤算は、襲撃者が相手が何者かを知っていたということ。
おそらくは、役所の人間も今回の一件を、この時が来ればこのようにすると、すでに決めていたことだろう。
裏側の概要は、おそらくこうだ。機械が巡視官の着任届を受け、それを担当官に即時連絡。担当官がマフィアに情報を流すと同時に、市庁舎のシステムを掌握。襲撃者は担当官から送られてくる市庁舎の設備利用状況から相手の居場所を察知していた。
この場所で迎え撃とうとしていた巡視官は、まさか自分の隠れていた場所が筒抜けになっているなどとは思ってもいなかったろう。
そのために、あっさりと殺されることになった。
巡視官の死体を前にして、アイレインはそこまで推理して、止めた。それ以上のことなど、いまのままでわかりようもない。
わかりきっている事実があるとすれば、その死体がドミニオ・リグザリオのものではない、ということだ。
死体を調べると、巡視官の身分を証明するカード、バッジが出てきた。さらに左手首に小さく刻印された認識コードまで出てくる。ドミニオの左手にもそれはある。さすがに肉眼でその意味を理解することはできないが、巡視官であるのは間違いないだろう。手にした銃もドミニオが使っているものに似ている。彼の銃はエルミがカスタマイズしているため、その通りの形ではない。おそらくはこの死体が持っている銃が正式採用されたものなのだろう。
「巡視官のダブルブッキングなんて、あるものなのかね?」
周囲の人の気配を気にしつつ、そう|呟《つぶや》く。
とにかく、ドミニオではなかった。
「報告が先か」
それでもいま、下で待っているニリスにとっては最悪の報告には違いない。他人事《ひ と ごと》だと自分に言い聞かせながらも、重い気分になるのはどうしようもなかった。
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†
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助手席に、ニリスは座ったままだった。
「だめでしたね」
すでに事情を察しているニリスは青い顔でうなだれている。
「どうする?」
「どう、とは?」
ニリスは先ほどまで、そしてそれ以前の出会った時からの行動力を完全に失っているようだった。虚脱した表情でアイレインを見るが、その瞳は平らで、なにも映してはいなかった。
「とりあえず隠すっていうなら、死体の処理は請け負う。まあ、ほっといても差し向けた連中がやるかもしれないけどな」
殺すことを決めた連中も、殺した事実を放置するようなことはしないだろう。巡視官殺害は重罪だ。犯人がマフィアとわかった時点で、軍隊が出動する。しかも今回は、市庁舎で殺されている。役所までも共犯だと明るみに出れば、この都市そのものが消滅する可能性もあるだろう。
都市を消滅させるのは、軍隊を出動させるよりも簡単だ。亜空間増設機を探し出し、破壊すればいいだけの話だ。
それだけで、ガルメダ市を含む空間は消滅する。
住人たちがどうなるかなど、ゼロ領域に行ったものだけが知る。だが、アイレインだってどうなるかを正確に語ることはできない。
「お願いできますか?」
ニリスはそれでもしばらく茫然とし、それからおもむろに理性の光を取り戻すとそう言った。
「あの人たちは信用できません。|隠蔽《いんぺい》するなら、わたしたちがやらないと」
当てにできない。断固とした|雰囲気《ふんい き 》でそう言い切った。アイレインはそのことには首を傾げたが自分が言い出したことだ。大人しく作業に移った。
市庁舎から巡視官の死体を引っ張り出し、車のトランクケースに乱暴に放り込む。
このまま解体工場に持って行って溶鉱炉に車ごと捨ててもいいのだが、ニリスは機械に作業記録が残ることを嫌った。
そうなればアイレインに考え付くのは一つしかない。
屋敷に戻る。その途中でニリスに頼んで部下たちに必要なものを用意させていた。
「なにが始まるの?」
リリスが顔を出してきた。すでに深夜だというのに、これから遊びにでも行きそうな格好をしている。
場所は、屋敷の広い魔。ニリスの部屋から見えた森の脇だ。そこまで車を運んだ。
あらかじめ屋敷の連中に土を掘り返し穴をあけさせている。その穴にガラス繊維の布を敷きつめた。
死体を投げ込む。
「見てて、あまり楽しいものでもないぞ」
足元には用意させておいた薬品が白いバケツのように大きな瓶に詰められ、並べられている。
その一つを取り、蓋《ふた》を開ける。化学的な刺激臭が鼻についた。
遠まわしに去るように言ったのだが、ニリスはその場から動こうとしなかった。
「ニリス」
不満げな声を漏らしたのはリリスだ。双子の姉は、すでにこの場から去るべく、体を屋敷に向けていた。
振り返りざまの、きつい瞳で妹に呼びかけている。
ニリスは無言でその場にとどまろうとした。
「ニリス、いい加減にしなさい」
一音一音をはっきりと口にして、リリスはきつく妹に言い聞かせた。歯をくいしばってその場に立っていたニリスが急に力を失い、姉の背に従って屋敷に戻る。
(けっこうはっきりした上下関係だな)
そう思いながら、薬品の中身を穴に注ぎ込む。焦げ付く音が穴の中からし、タンパク質のやける臭いが漂い出す。
アイレインは次々と蓋を開けて薬品を注ぎ込む。骨まで溶かし崩そうと思えばそれなりに量がいる。ガラス繊維の布は薬品が地面に吸い込まれないように防ぎ、たまらない色の水たまりができた。いくつもの大きな泡が生まれ、弾《はじ》けるたびに新しい臭いが噴き出してくる。
臭いにやられたのか、背後で|吐瀉《としゃ》する音がした。見れば、後片付けをするために残している連中が、全員揃って穴から距離を取り、顔をそむけ、いまにも吐きそうな顔をしている。
この場から逃げ出したがっているのが、ありありとわかる。
(なんなんだ、こいつら?)
ティルティスというマフィアは、こんな巨大な屋敷を持つだけの財力を備えたマフィアだ。死体処理のできる人間がいないというわけがない。そのための道具は、アイレインの足元に転がっているように不足なく揃っている。使った薬品などはすぐにこれほど大量に手に入れることができないものだ。あらかじめ持っていたと考えるべきで、そうならば使える者がいなくてはおかしいということになる。
(素人だ)
ここにいる連中、全員がだ。
何度襲撃されてもやり方を変えない護衛姿勢にしても、戦いの仕方も。
ティルティスだけの話ではない。襲ってきた連中も素人だ。なぜ誰も、|狙撃《そげき》するということを考えない? 遠距離からの弾ぐらい払い落とす自信はあるが、そんなアイレインの能力はこの際埒外《らちがい》として、予備で狙撃手ぐらい用意しておくものだろう。
現代のマフィアは、街のチンピラというだけではない。都市という舞台で、縄張りという領土を取り合う国同士であり、その構成員たちは兵士なのだ。本物の軍隊には及ばないまでも、その戦い方が軍隊式であるところは少なくない。以前の都市のママ・パパスのような本格的兵士の集まりは例外だが、兵士の訓練を受けている者が一人もいないマフィアも、いないだろう。
いや、リリスは受けさせたと言った。だが、その能力や考え方を使いこなせているとは言い難い。
それは、本人たちが持つ性格的な資質によるもののためか?
(こいつら揃って善人だとでも?)
|呆《あき》れたため息を零し、アイレインは後始末の方法を後ろの連中に丁寧に教えた。
「え、あんたは……?」
「おれの仕事はボディガード。いままでやってきたことはサービス。こっから先はあんたらの仕事。オーケー?」
あからさまに、哀れなほどに|狼狽《ろうばい》する男たちを残してアイレインは屋敷へと歩いていく。
捨てられた子犬よりも惨めな狼狽ぶりを見せる連中に、アイレインは背を向けたままで顔をしかめる。
しかし、戻りはしない。
そもそも、マフィアという生き物に同情してやらなければいけない理由がない。たとえ現在、この国に点在する都市経済を握るのがマフィアであったとしても、彼らは暴力を使い麻薬を使い、人を|騙《だま》し、法を犯す存在だ。どれほどのきれいごとがそれぞれのマフィアの組織信条にあろうとも、その根幹は変わらない。経済を、そこに生きる人間をダイレクトに食いものにしようとする生き物であり、倫理というものを小馬鹿にしている存在だ。
基本的に、道端で死にかけていても放っておいていい存在のはずなのだ。
そんな連中の哀れなど、知ったことではない。
(ま、おれも人のことはいえないがね)
死体を薬品で骨も残さず焼き溶かすことを実行できる自分もそう変わりはない。
だからといって、同族意識などはもちたくない。同族|嫌悪《けんお 》だと言われれば、苦笑するかもしれないが。
屋敷に入り、ニリスの部屋の前に立つ。眠るまではニリスの部屋で護衛をするのが仕事だ。眠る時も、なるべくニリスの部屋のリビングで眠る。
「アイン……」
ニリスの部屋の前にサヤが立っていた。
「代わりましようか?」
「あー、や、まだ眠くないがね」
サヤが起きているので、時々ベッドで本格的に眠る時だけは代わってもらっている。だが、ニリスはそれを護衛だとは思っていないようで、口数の多くないサヤを邪険にすることもできず、当惑しているようだが。
「なにかありましたか?」
そう聞かれて、アイレインは市庁舎の一件を話した。
「けっこう大胆なことをするよな」
なにを隠してるのか知らないが……その言葉は言外に潜ませておく。
「そうですね、首都政府の逆襲を恐れないのでしょうか?……」
サヤはそんなアイレインの意図に気付いているのかいないのか、やや首を傾げた様子で返してくる。
ただ、ドミニオの名前を出さないようにという意図はすでに伝わっている。サヤも慎重に言葉を選んでいた。
アイレインは首を振った。
「わからんね、マフィアの考えることは。時々、とんだ大間抜けをする」
ドアが開いた。
「悪かったわね、大間抜けで」
両開きの扉から|不機嫌《ふ き げん》なリリスが顔を覗かせ、二人を睨《にら》む。
「おや、気にする程度にはマフィアに愛着があるのか?」
「どういう意味よ」
「こんな家のことなんてどうでもいいのかと思ってた」
アイレインはわざと視線をそらし、|廊下《ろうか 》の装飾を眺めた。
リリスは鼻を鳴らした。その|仕種《しぐさ》さえも様になる。
(美人は得だな)
同じ顔だというのに、リリスとニリスはまるで違う性格をしている。そしてその両方の性格が、同じ顔で行われてもまるで違和感がない。初めからこの|美貌《び ぼう》には、こういう二つの性格が内包されているかのように、アイレインには映った。 視線を|廊下《ろうか 》から戻しでも、リリスはまだアイレインを|睨《にら》んでいた。
その尋常ではない様子に、アイレインはようやく気付く。
「あんた、もう出てってくれてもいいわよ」
「姉さん!」
突然のリリスの言葉に、部屋の中にいたニリスが悲鳴を上げた。
「巡視官は死んだ。それなら、ニリスがわざわざ危険なことに顔出す必要もないでしょ。それなら、ボディガードもいらなくなる」
「なるほど」
さらになにかを言おうとしたニリスの前で、アイレインは|頷《うなず》いた。
「その通りだ。請求書はいるかい?」
「そんなのは、担当と話してよ」
吐き捨てるように言い残すと、リリスはアイレインを押しのけて去っていく。
「ごめんなさい、姉さんが」
ニリスは追いかけようとしたが、|廊下《ろうか 》に出たところで諦めた。代わりに、アイレインに謝罪をしてくる。
「いや、正当なことだろ? 雇い主の心情とかはこの際別な話として」
それをわざわざ言ってしまうところに、アイレインもリリスの態度の変化に驚いていることが表れている。
それに気付いて、口元を押さえた。
「ちゃんと報酬がもらえるなら、ま、暮らす金には困らないと思うがね。そこら辺は大丈夫か?……」
「そちらの言い値をお支払いします」
「……そういうのは止めた方がいいぜ。そっちで適正な価格を言ってくれ、不満なら値段交渉するさ」
あっさりとそんなことをいうニリスに驚き、思わず助言をしてしまう。
だが、アイレインの返答に今度はニリスが戸惑いを見せた。
「あの、適正な価格とはどれくらいでしょうか?」
「お|嬢《じょう》さんは知らなくても、知ってる奴くらいいるだろう?」
「あ、でも……」
ニリスが頼るものを探すように視線を泳がせる。アイレインは首を傾げざるを得ない。マフィアなら、ボディガードの仕事にどれぐらい払うかなんて、感覚でわかろうというものだ。
「それなら……」
値段を決めたのか、ニリスはいままでとはまるで違う、自信のない顔でアイレインを見上げ、なにかを言おうとした。
おそらくはギャラの額だったことだろう。
だが、それを聞くことで彼女の金銭感覚を推し量ることはできなかった。
その瞬間、光が消えた。
全てが暗闘に落ちたのだ。
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04 錬金術師はかく語り
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エルミは市庁舎にいた。
ケルネスという哀れな巡視官がマフィアに追われ、死を押し付けられようとしている時、エルミは彼の運命に見向きなどせず、目的の場所に向かっていた。
亜空間増設機。彼女の目的はこれしかない。
ケルネスのキャンピングカーがガルメダ市に入ったところから探索のアンテナを張り、探し続けていたのだが、最終的には彼の人生の最終地点まで同行するはめになった。
(まさか、こんな所にね)
意外な気持ちで、ケルネスたちとは違い階段を使って市庁舎の階層を一つ一つ確認していく。
その途中でアイレインが現れ、ケルネスの死体を持ち帰ったことは気付いていた。
サヤの感知した危険については、まだはっきりとはしていなさそうだ。死体をトランクケースに入れ、走り去っていくアイレインを、市庁舎の窓から見下ろしてそう結論付ける。
「まあ、そうたいしたことでもないでしょう」
ドミニオに指摘された言葉は、すでにエルミの記憶の底の方にまで沈んでいた。特に注意すべき言葉ではないと思ったのだ。
ドミニオは年を取って、少し心が弱くなっている。そう思っただけだった。
昔の彼は、そう、ついさっきこの場所で死んだ巡視官のように正義感があった。もちろん、件《くだん》の巡視官のように愚かさと背中合わせの純粋さは持っていなかった。そんな人間なら、そもそも一緒になろうなどと思いもしなかった。人として寛容であり、過度に人の負の面を知っており、そしてそれに対して柔軟性を持っていた。行動力があった。目的を達成するためなら、平気で他人を利用できる冷徹さもあった。
エルミの好みは悪っぽい男だ。それに、ドミニオは合致していた。
昔は。
いまはどうだろう?
おそらくは自分の好みからはもう外れている。しかし、おそらくは無限に生き、そして細胞の変異が続く自分を死ぬまで受け入れてくれるのは、ドミニオだけだろう。
そう考えると、少し虚しさが胸をよぎっていく。
どうせ、ドミニオの方が先に死ぬのだ。彼は普通の人間なのだ。そして、人類には人を無限に生かす技術はない。
あったとしても、ドミニオがそれを望むかどうかはわからない。
(せめて、この体が……)
昔の通りであったなら、と思う。自分のためではなく、ドミニオのために。こんな自分から離れることのないドミニオに、昔の自分ならば報いることができただろう。
アイレインに施した処置は、エルミの体に起こり続ける異変を防ぎ、元に戻るために開発していたもの、その産物だ。結局は異変の進行を防ぐぐらいしかできていない。
完全異民化したアイレインをいまの状態にまで戻したサヤのあの能力に、一瞬期待はした。だが、おそらくは無理だろう。できるのならばアイレインは、いまのような半異民化した状態ではなく、元の完全な人間になっていたはずだ。
(まあ、わたしだけのことなら別にこのままでも問題はないけれど)
虚しさをその言葉で|誤魔化《ごまか》し、エルミは進む。黒猫は人気のない|廊下《ろうか 》を進み、階段を跳ね上がっていくどうやら、増設機は最上階にありそうだ。
(もしかしたら……)
黒猫が足を止め、額の宝石をかざすようにして顔をあげる。増設機からの反応を待っているのだ。
エルミは思念波を放ち、それが反射してくる方向に進み続けている。増設機が思念波によって入出力するのではないかというソーホの予測は当たっている。
ノイズの塊のような反応を探知して、黒猫が再び進み始める。ノイズの中に音声――そう感じるように脳内で処理される思念披――が混じっているところからみて、まだ距離がある。
この建物は六十階ある。現在四十階。だが、経験則から予想される距離は六十階をやや超えているように思える。
(天井とかと同化してたら面倒ね)
前の都市での同化現象のこともある。予期せぬ不具合がサヤの感じた危険なのか。
そんな風に考えていても、エルミの足、正確には黒猫の進みが緩くなることはない。ドミニオの言うように危機意識が薄いのだろう。異民化現象のことはさておいても、自分がそう簡単に死ぬとは思えない。根拠のない自信ではない。アイレインがその、尋常ではない運動能力という根拠をもつように、エルミには自らの科学力に自信がある。この黒猫だって、ただの猫ではない。
エルミ本人が収まる、この宝石状の亜空間とて、ただの空間というだけではない。エルミが拒むものはどんなものであろうと侵入することはできない。
そんな鉄壁の状態で、なにを恐れろというのだろう。
エルミは進み続け、そして六十階に|辿《たど》り着いた。
六十階は、市庁舎を訪れた人たちへの観光スポットとして用意されているようだった。展望台だ。室内には天井を支える支柱以外には仕切るものはなく、ガラスに沿って望遠鏡が設置されている。いくつかの場所にベンチがあり、屋台が置かれている。
いまは、全てが無人だ。
がらんとした空間には人気がない。いまが夜だからというだけではない。長い間、この空間に見合った人間を受け入れていない空虚さがそこかしこに張り付いていて、黒猫のひげを震わせた。
「さて、どこに?」
言葉は照明の落ちた闇に吸い取られる。三百六十度、全周を巡るガラスからはオーロラの輝きだけが入り込み、闇の表層部分を薄く削っているだけだった。
その中では黒猫の体は闇に埋もれ、二つの瞳と一つの宝石だけが、自ら光を放っている。
思念波を放つ。
反射はすぐに。
ノイズはなく、はっきりとした言語として、音声変換されて脳内に届けられる。
〈認証コードを〉[#底本では二重山カッコ 以下略]
単純な、それだけの言葉。エルミは思念波でマスターコードを返信した。
〈マスターコード確認。命令コードを入力してください〉
自己診断モードを要請。
〈自己診断開始します。終了までの予測時間、三百六十秒……〉
およそ、六分。そう長い時間ではない。黒猫がその場に腰を下ろし、丸くなる。
〈三百七十秒〉
時間が増えた。
処理能力が落ちているのか? 代謝再生機能に問題が起きているのかもしれない。
〈四百秒〉
考えている間に、さらなるカウントが告げられた。
〈五百七十七秒〉
〈八百九秒〉
〈千六百秒〉
〈二千四十秒〉
〈五千十三秒〉
時間が増えていく、しかもそれは膨大な増加の仕方だ。黒猫が立ち上がり、エルミの思念が飛んだ。
「自己診断キャンセル。外部診断に切り替え、接続端子起動」
異常な事態だが、こんなことがいままでなかったわけでもない。エルミは焦ることなく、次なる指令を飛ばす。
〈接続端子起動確認〉
黒猫の体が震えた。額の宝石から光が放射され、闇をわずかに跳ね飛ばす。
〈接続確認、接続認証。外部診断プロプラム受け入れ完了〉
もしやこれも故障しているのではと思ったが、その様子はなかった。エルミはそのまま外部診断を始める。
次の瞬間、エルミの脳内に強力な思念波が流れ込む。
(逆流!?)
初めての体験。思考を強力な波動が切り刻む。防衛する暇などなかった。
(しまった)
そう考える時間は、エルミにはなかった。
エルミの意識は暗闇に覆われた。
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真の暗闇に覆われた時、人はなにもできなくなる。多くの人間は視覚という光を介した感覚器官で世界を認識し、それを他の五感が補助する形を取っているからだ。目が見えない者は視覚以外のものが主となるが、見える者はやはりそうだ。
それは、アイレインとて例外ではない。
「サヤ!」
突然の暗闇にアイレインは咄嗟にそばにいるサヤを引き寄せ、その場で腰をかがめた。
「きゃっ」
近くで悲鳴が上がり、なにかがのしかかってくる。柔らかな感触がそれを女性だと判断させた。
「頭を伏せろ」
すぐにニリスだとわかる。アイレインはサヤを抱くのとは反対の腕でニリスを抱き寄せた。
「……停電?」
「自家発電機があっただろう? 切り換わらないのか?」
ボディガードの仕事を請け負った時に、この屋敷の内部は一通り調べている。非常用の自家発電機はあった。
「え? どうなんでしょう?」
「おれに聞かれてもな」
困り果てた声に、アイレインは|呆《あき》れてそう言うしかない。
暗闇は、徹底的に暗闇だった。目の前になにがあるのかさえもわからない。
こうなってくると、耳や鼻が冴《さ》えてくる。広い屋敷のあちこちから驚きや戸惑いの声が聞こえてきていた。
「このままここでじっとしてるわけにもいかんか。外に出れば、少しは明るくなるか?」
星やオーロラの明かりがあるはずだ。普段ならば心もとない光だが、いまはないよりもマシだ。
「ここでじっとしてるよりはマシですね」
それに素早く賛同したニリスは、アイレインの腕から抜け出した。
「行きましよう」
「おい?」
ニリスの声は、暗闇をものともしていないかのようで、アイレインは思わず見えぬ眼前に手を伸ばした。
細く柔らかい指が、アイレインのその手を掴む。ニリスはアイレインの荒れた手に驚いたのか一度手を放したが、すぐに掴みなおしてきた。
「ついてきてください」
「見えてるのか?」
暗闇の中を進んでいるというのに、ニリスの歩みはしっかりしていた。
「慣れた家ですから」
ニリスは苦笑混じりらしい言葉でそう答えると、先に進んでいく。
その言葉通りだとしても、停電して目印一つない状態でここまで歩けるものなのか。
「あんたって、なんか特殊な力があったりするのかい? おれと同じように」
最初に疑問を感じたのは、リリスがあまりにも早く現れたこと。
そして、最初にボディガードしていた日の、あの異常な読書。
とどめは、今夜の巡視官製撃を察知したことだ。
「………!」
ニリスは、黙っている。
「遠くのことがわかる能力じゃないのか? それとも、あの姉と連絡を取り合うことができる」
あるいはその両方か。
そう仮定すれば、最初の夜はニリスが襲われているのを察知してリリスが駆け付けようとしたと考えることができる。リリスのテストをニリスが助けたのだと考えることができる。
そして、巡視官の襲撃も察知することができる。
「そう考えていいのか?」
アイレインはニリスに聞いた。別段、自分の考えの正しさを証明してもらい、それでなにかに近づきたかったわけではない。むしろ、|尋《たず》ねた後に続く沈黙は、アイレインに後悔を与えて、苦い顔にさせた。
人の心に土足で踏み込むような無粋をしてしまったのではないかと、思った。
「すまんね、育ちが悪いんだ」
答えが返ってくることを諦め、詫《わ》びる。
闇の中でかすかに空気が震えた。
ニリスが笑いを抑えていた。
「本当に、いきなり失礼な人ですね」
肩を震わせたままの様子でニリスが言った。アイレインの手を掴む指が緩くなった。
いまにも、離れそうだ。
「そうだとしたら、|軽蔑《けいべつ》しますか?」
恐れますか? の間違いではないかと思った。
「そんなことをしたら、おれはどうなる?」
ニリスから笑みの|雰囲気《ふんい き 》が消えた。
「おれこそ、化け物だ」
絶界探査計画のために強化手術を為《な》し、さらにゼロ領域で異界|侵蝕《しんしょく》を受け、その後にエルミによって異民化部分と共存する処置をされた。
そんなアイレインは、はたして人間か?
フェイスマンとの戦いを思い出すにつけ、もはや自分が人間の断片であることすら許されない気分になる。
ニリスに詳しい事情を話す気はないが、アイレインが異常であるということはここ数日で十分に理解しているはずだ。
「そんなおれといることは怖いか?」
「そんなことは……」
「なら、その程度」
闇の中、ニリスの指がアイレインをしっかりと掴んだ。冷え始めた空気の中、その指の温《ぬく》もりがはっきりと感じられる。
反対の腕をサヤが抱く。小さな少女の小さな腕が巻き付くように絡まり、寄り添っている。
こんな闇の中で異形が三つ、|彷徨《さまよ》っている。そんな|想《おも》いがアイレインの心にふと湧いた。向かう先もわからないままに彷徨うしかない異形が三つ。どこに|辿《たど》り着くわけでもなく、流れに身を任せるしかないかのように、彷徨う。
その先になにがあるのか、アイレインが望むものは手に入るのか、サヤの望むものは?
ニリスが望むものは?
なにもわからない。わからないままに進むしかない。
「この闇は、暗すぎる」
ぽつりと|呟《つぶや》いた。
「そうですね」
ニリスが、やや疲労の色を見せて同意の言葉を漏らす。そういう意味ではなかったが、アイレインは黙っていた。ニリスの歩みは相変わらず緩みなく、その歩みの邪魔になるものにぶつかることもない。
「わたしは、そうと望めば遠くのことがわかります」
ニリスが再び口を開いた。
「範囲はちょうどガルメダ市の全域ぐらいです」
「広いな」
数千万の人間が住む都市の全域を知ることができるというのだ、その範囲は膨大といってもいい。
「でも、なんでもわかるわけではないですし。いつもそれを使っていると頭がおかしくなりそうになります」
通常の感覚器官で得る情報以外のものも知ろうとするほどには、人間の脳細胞というものは頑丈にはできていないらしい。
「それとは別に、リリスとはお互いに遠くにいても会話をすることができます」
「それで、テストでズルをしたわけだ」
「はい」
リリスがテストを受けている間、ニリスが問題に関連した本を読み、その答えを探していたということなのだろう。
「便利なもんだ」
感心して|頷《うなず》くアイレインの仕種が見えているのか、ニリスは明るい声で|尋《たず》ねてきた。
「アイレインさんは、学生の頃はどうだったんですか?」
「成績は悪かったね。|真面目《まじめ》なわけでもなかったし。テストになると|憂鬱《ゆううつ》になってたもんだ」
「まぁ」
闇の中、光もないのに明るい|雰囲気《ふんい き 》が放たれた。|眩《まぶ》しくもなく、先が見えるわけでもないが、心を軽くするには十分な明るさだった。
他愛のない会話が、腕利きのボディガードであるアイレインの人間性をニリスに見せたということになるのだろう。そのことにニリスは喜びを感じている。
しばらく歩き続けた。他愛のない会話は続く。ニリスがアイレインを知りたがり、アイレインは学生時代のことを語る。
どうでもいい過去の話にニリスは喜び、笑う。
マフィアのボスの娘ではなく、マフィアの間を奔走していた名代ではなく、ただの年相応の少女として、ニリスはそこにいた。
笑い声は明るく、|無邪気《む じゃき 》で、なんの不安もない。張りつめていたものから解放されたように、少女は少女としてそこにいた。
この暗闇が晴れた時にはニリスの笑顔を見ることができるのだろう。アイレインはなんの疑問もなくそう考えた。
サヤの察知した危機をここで探ることはできなかったが、ニリスのその笑顔が報酬だとすれば、上等というものだろう。それで一度ドミニオの所に戻って報告すればいい。エルミが大人しくしているとは考えられないが、その動向を聞くこともできる。それから仕切り直しをしても問題ないだろう。
そう考えていた。
「本当にそうなると思っているのか?」
いきなりの声にアイレインは足を止めた。
「……? どうしました?」
ニリスが尋《たず》ね、サヤが|訝《いぶか》しげに見上げてくる動作が腕越しに伝わる。
その反応で、二人には見えていないことがはっきりとした。
獣の面がアイレインたちの進む先に浮かんでいる。他の部分は暗闇に沈んでいるのか、はっきりとしない。
声は、以前に夢に出てきたものと同じだ。
「夢ではなかったのかと、驚いているのか?」
「…………」
アイレインは答えない。二人に見えていないのなら、下手に言葉を出すことは控えた方がいいと判断した。
なにより、なぜかその姿は夢で見た時よりも漠《ばく》としたものがあるように感じた。見ようと目を動かしても、逆に目をそらしても同じ状態で視界に入っている。目を閉じでも同じだ。変わらず、視界に存在する。
獣面が、アイレインのその行為を嘲笑う。
「無駄な努力だ。なぜなら、見えているのはそちらではなく、こちらだからな」
暗闇の中から現れた指が、またも眼帯を差す。
「なぜ、眼帯で隠す? なぜ、その目で世界を見ようとしない? 現在が亜空間によって支えられている以上、その目は全てを俯瞰することができるただ一つの目だ。時間の存在しないゼロ領域から、過去も未来も関係なく全てを見ることができるその目を、どうして使おうとしない?」
(まやかしだ)
アイレインはその言葉を信じなかった。どうしてこんな幻影が見えるのか説明が付かないが、不確かな存在の言葉を信じる気にはなれなかった。
この目はサヤの眠りを妨げるものを排除する|茨《いばら》を宿した日だ。それ以外のものではない。
「お前の願いが、お前の想像を超えた物を与えているという事実になぜ気付こうとしない」
かまわず、獣面は言葉を続ける。
「この間がただの闇だと思うか? いまこの時、この亜空間全てから光が失われていることに、お前は気付かないか? すでに始まっているのだ」
呪われた言葉を獣面は|呟《つぶや》き続ける。
「全てがもう遅い。見ることができでも現実の時間を逆行できないお前には、やり直すことは不可能だ。お前は、あらゆることを後悔することになるだろう」
(失せろ)
心で念じた。それにどれだけの意味があったのか、獣面は溶けるように視界から消えていった。
全てはこの闇が見せた幻だ。言葉に捕らわれれば、言葉に行動を制限される。
忘れなければ……
闇が晴れたのは唐突だった。
鋼が、アイレインたちを出迎えた。
「姉さんっ!」
ニリスの悲鳴が彼女の罠《わな》でないことを示していた。
「これは派手な……」
アイレインは|呆《あき》れた顔で周囲を眺める。
|辿《たど》り着いたのはエントランスだった。そこに無数のマフィアがひしめき、しかも全員がアイレインに銃口を向けている。
一斉に銃爪《ひきがね》を引けば、その大半はアイレインではなく仲間の背中に当たることになるだろう。
ニリスとて無事ではすまない。そんなことを考えているのやら、いないのやら、男たちは不気味なほど静かに、無表情にアイレインに銃口を向けている。敵意すら、そこにはなかった。
「これは、どういうことなの?」
リリスは男たちの後ろにいた。|不機嫌《ふ き げん》さと、それを吹き飛ばそうとする笑みとが混在して複雑な表情をしている。
「見ての通り、この男が邪魔になったの」
ニリスの非難の悲鳴を、姉はその顔のままで聞き流そうとしていた。
「あなたは顔に出るからね、待ち伏せがわからないようにさせてもらったけど……さ、早くそいつから離れなさい」
「……どうして、この人が邪魔になったの?」
それでもニリスは動かない。逆にアイレインを守るように前に立つ。
「ニリス、言うことを聞きなさい」
「教えて」
ニリスは頑迷に動こうとしない。その顔は強張《こわば》り、こめかみには大粒の汗が浮かんでいた。苦しそうに姉を|睨《にら》み、肩は震えている。
まるで、恐怖を押さえているかのように。
双子の間に緊迫した空気が流れた。
「ニリス……」
緊張を緩めたのは、リリスのため息だ。
「イグナシスから聞いたのよ」
「……え?」
その顔に驚きが宿った。
「イグナシスが目覚めたのよ。そして教えてくれた。あなたには聞こえないかもしれないけれど、わたしには聞こえるし、ここにいる連中も聞こえた」
妹を諭していた姉は、アイレインを見る。
その瞳は憎悪と、なぜか愉悦に燃えていた。
「そこの二人は違うのよ。この都市の住民じゃない。わたしたちと同じではない。外から来た、エルミ・リグザリオの手駒、ここに来るはずだった、巡視官の雇われ人」
ニリスの肩が再び震えた。一度、大きく。それはニリスが受けた衝撃の大きさを物語っていた。
怖くなるほどに、振り返る動作は緩慢で、浮かべる表情はなにもかもがひきつって、どういうものにもなり得ていなかった。
その顔のまま無言で、火のように問い詰めてくる。
「本当だ。処分したのも本物の巡視官。ただ、おれとは無関係だけどな」
余分なことを言ったかもしれないと思ったが、いまさらどう取り|繕《つくろ》っても、ニリスの信頼が戻ってくることはないだろうとも感じた。
「どうして?」
「ここに来たのなら、偶然だな。偶然見かけて、偶然拾われた。拾ったのはあんたじゃないから、それはあんたの責任じゃないな」
「離れなさい!」
アイレインを拾った張本人は、鋭く叫んで命令した。
ニリスは逆らわず、アイレインを見たまま下がり、男たちの陰に隠れる。
「さて………それで、どうするんだ?」
周りはマフィアの男たちだけになった。いまだに銃口は向けられたまま。その格好のままで揺らぎなくいつづけたのだから、感心するものがある。
だがその感心は、脅威には|繋《つな》がらない。
「死んでもらうわ」
リリスの言葉。
次の瞬間、一斉に銃爪が引かれた。タイミングのずれはなく、炸薬《さくやく》の音はひとかたまりとなってエントランスホールを|蹂躙《じゅうりん》した。
予想通り、ほとんどの銃弾はアイレインに届く前に仲間の背中に当たり、後頭部を貫いた。血と叫びと|脳漿《のうしょう》が爆発し、頭皮と硝煙が宙を舞う。
アイレインは、なおその場に立っていた。
「さて、この後どうしたものかな?」
|尋《たず》ねたのは、生き残っているマフィアたちにではない。リリスにでもなければ、その隣で青い顔をしているニリスにでもなかった。
「いったん戻る。そう考えているのではないのですか?」
|傍《かたわ》らに立つサヤが静かに口を開いた。
アイレインたちの前には銃弾が並んでいた。ある線を境に、そこから先に|辿《たど》り着けないものとして、その場所にとどまっている。弾丸に込められた速度と破壊を無視して停止する様は、その場にいる者たちを驚愕させるには十分すぎるものだった。
サヤの力だ。
「そう思っていたんだけどな、おれたちの素性のばれ方が気になった。もしかして、エルミになにかあったと考えるべきなのかな?」
「そうかもしれません」
サヤは目の前の事実を誇るでも|謙遜《けんそん》するでもなく、だからといってエルミのことを心配する様子もなく、淡々とアイレインの相手をしている。
「まさか、その子も?」
「そこまでは、情報が漏れてないようだ」
リリスの|呟《つぶや》きにそう答えると、悔しそうに顔を歪めて|睨《にら》んできた。
「見ての通り、木っ端の銃弾程度ではサヤの領域は崩せない。おれとしては一宿一飯の恩義もあることだし、このまま黙って通してくれるとありがたいんだけどな」
リリスはなにも答えない。ただ、悔しそうに唇を噛《か》んでいる。憎悪の瞳がアイレインに突き刺さっていた。美しいということは劇的だということでもある。例えば、サヤの美しさは静的という意味において劇的だといえる。相反する言葉だが、その通りなのだ。
対して、リリスは、なにをしていても美しい。静と動という、同じ容姿で二つの人格を|彩《いろど》ることのできる美しさは、あらゆるものにおいて劇的であるということである。
闇の中に明るさを生んだ、ニリスの若い美しさがそうであるように。いま、そこで顔を青ざめさせた瞬間に、悲劇のヒロインのたたずまいを見せるように。
いま、クリスが浮かべている憎悪も、|復讐《ふくしゅう》を誓う者の如く鮮烈に、激烈に表現され、アイレインに叩きつけられている。
殺さずにはおられないという|雰囲気《ふんい き 》が自然と満ち満ちている。
目の前の男たちは先ほどの愚かな銃撃のために死人が出、半死半生の者が転がっている。
「気になってることもイグナシスとやらに聞けば良さそうだし、あんたと無理してやり合う必要はないと思うんだが?」
停戦を申し出るアイレインに、リリスは静かに手を振った。
それで、男たちが再び銃を構え、銃爪を引く。
アイレインたちを四方から囲み、銃弾を叩き込み、それがまた宙で静止する。
「……サヤ」
「はい?」
アイレインはため息を吐き、目の前に溜まり続ける銃弾を眺めた。
「銃で片付けるにはちと面倒な数なんだけどな。なにかいいのあるか?」
いくらサヤの渡してくれる銃が強力だといっても、一度の射撃で殺せる人間は一人、運がよくて二人というところだろう。普段なら、別にそれで困らない。アイレインが本気で動くことによって起こる衝撃波も含めれば、いま自分たちを取り囲んでいる男たちを片付けるのにそれほど時間がかかるとも思えない。
「殺したくないのですか?」
まさか、目の前で馬鹿みたいに銃を連射している男たちのことを言っているわけではないだろ?。
「そうだな、少し気になる」
「…………」
「目の色の違いが、どうも、な」
含みのある言い方にサヤは無言で右手を前に出した。
その腕が中指と薬指の狭間《はざま》から左右に割れる。その断片に肉の色はなく、黒ずんだ、闇とも違うなにかで満たされていた。
肘《ひざ》[#原文ママ]まで割れたところでなにかが飛び出す。
棒状のそれは鋼色の胴体を従えた、長大な剣だった。
十字を描く柄《つか》はサヤの腕よりも長く伸びている。アイレインは柄を握りしめ、一気に引きぬいた。
長さは、サヤの身長ほどもあろうか、およそ、その体のどこに収められているのか判然としないものだが、アイレインはその感触に満足の顔を浮かべた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
乾燥した声にアイレインはちょっと|眉《まゆ》を寄せた。
(また、怒ってるか?)
その理由はよくわからないが、そこを突っ込んでいると拗《す》ねられそうだ。
「じゃ、行ってくる」
気軽に言うと、サヤの影響圏から飛び出した。
剛風が舞う。
アイレインは剣の使い方を知らない。絶界探査計画に関わっていた時、強化手術を受けた際にその|身体能力《しんたいのうりょく》に|馴染《なじ》むために軍隊式の訓練は受けている。そこで、銃器は習熟した。アサルトライフルから、迫撃砲、そして|拳銃《けんじゅう》も。戦車や飛行機までは必要ないと教えられなかったが、およそ歩兵としての戦い方は覚えさせられた。
もちろん、格闘戦も。だが、そこで習うのはあくまで銃器を失った時に素手やナイフで戦う術であり、剣法と呼ぶようなものは習っていない。
しかし、いまのアイレインの能力をもってすれば、それは必要のない技術だ。
その|膂力《りょりょく》と速度をもってすれば、人の肉は紙切れも同然であり、剣が触れた瞬間に肉は弾け、骨は粉砕される。
暴れまわる粉砕機にマフィアたちはなすすべもなく、その体を粉|微塵《み じん》にされ、宙を舞い、血が霧を作った。
臓物臭が辺りに満ちる。
その中央で、アイレインは剣を振るのを止めた。周囲に転がるのはもはや死体ですらなく、人であったものでしかない。
その破壊の嵐の外側に、双子がひっそりと立っていた。
酸化する鉄の臭いが満ちる中でも、双子の美しさは損なわれない。幽鬼のように佇《たたず》み、あるいは悲劇のヒロインのままでそこにいた。
「…………」
無言のままに見る。かける言葉は思いつかなかった。かたや憎悪、かたや驚愕、その二つに会わせた気の利いた言葉は思いつかない。
サヤが肉片を避けて近づいてくる。そのサヤを伴い、屋敷の外へと向かう。
「生きて、この都市から出ていけるとは思わないでよ」
「この程度じゃあ、な」
背中にかかったリリスの挑発を受けて立つ。
歩みは、止めない。
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†
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一人残されたドミニオは無為に時間を過ごすしかやることがなかった。
だが、その無為にドミニオは苦痛を感じない。悠々とパズル雑誌で時間を潰し、時にガルメダ市からの電波を拾ってテレビを見る。
その日もグラスに生のままのウィスキーを満たし、パズル雑誌に挑戦していた。アルコール類の残りが少なかったのだが、ケルネスが補充してくれた中に何本か上物のウィスキーがあったので、それを開けたのだ。
外の音は、|要塞《ようさい》じみた車内にいる限り聞こえてこない。それでも防犯用のセンサーは撒《ま》いてある。それが外の状況をソファの隣にある立体モニターで伝える。
雨が降っているようだった。
その音は届かないが、湿度の上昇の影響はゆるやかに車内にも手を伸ばしてくる。アルコールの巡りも手を貸し、やがてドミニオはソファで眠りについていた。
異変は静かに湿気とともに車内に現れようとしていた。
BGMはなく、ドミニオのいびきが底を震わすように響いている。ソファのある空間と運転席との間には間仕切りがされており、異変はその仕切りの部分で起こった。
天井部分に換気用の穴がある。毒ガス等が注入されないように|幾重《いくえ 》にもフィルターが施されているが、異変はそれすらもすり抜けて車内に侵入し、集合を果たそうとしていた。
密度の薄いなにかが、その場所に現れる。
まるで、影が立っているかのようだ。
ぼんやりとしていたそれは、やがて二次元を脱して三次元に移る。平面であったものに厚みが増し、人らしい形を得ていく。長い足、細い腕、繊手は空を撫《な》で、くびれた腰が生気を得て左右に揺れ、足が動く。
足音は静かに。
ドミニオのいびきは続く。
頭部を飾る短い金髪が一度、風を受けたかのように広がり、あるべき形に収まる。
金髪の下で顔が配置され、そこには完全な一人の女性が誕生した。
美女ではあるが、その目を見た瞬間に、ほとんどの男は彼女に対して色気を出す気を萎《な》えさせるだろう。
女の目には生気というものがなかった。生きているという事実に対して頓着《とんちゃく》していないのではなく、生きているという事実を事実以上に見ていないというべきか、サヤ以上に人形然として、まるでガラス玉がはめこよれているだけのようだ。
その目が、ドミニオを捉《とら》えた。
いびきは続く。女は静かな足取りでさらに数歩進み、距離を縮める。
いびきが息を吸う段になった瞬間、ソファに寝転んでいたドミニオの大きな体が跳ねるように起き上がった。
その手には、いつの間にか拳銃が握られている。体に似合わない俊敏な動きで腕を動かし、狙いを定めると同時に銃爪が引かれる。
銃声が車内を駆け巡り、跳ねまわった。
ドミニオには当てた確信があった。
だが、仕留めたという手応えはまるでない。
その証拠に、女はそこに立ったままでドミニオを見下ろしている。
「ナノセルロイドか……」
苦い顔で女を見る。以前にも見た顔だ。
アルケミストに所属し、対異民組織サイレント・マジョリティー長でもあるソーホの作り出した戦闘兵器。
アイレインと同じく絶界探査計画に参加し、そしてゼロ領域に消えた女の姿を模写した人形。
確か、レヴァと呼ばれていたはずだ。
「巡視官、ドミニオ・リグザリオですね?」
すでに確認しているだろうに、聞いてくる。
「なんの用だ?」
いわば公務員であるドミニオには、首都の組織が作った兵器は攻撃できない。そう読んで、ドミニオはさきほど発砲した事実を忘れた。
「あなたに対して事情聴取を行いたく、参りました。外へ」
レヴァの手が動き、外へと導く。
(しくじったか?)
都市内にでも入っていれば職務中であることを理由に無視することもできたが、いまそれをすれば反逆行為と取られてしまう。従うしかなく、ドミニオは立ち上がった。
センサーは完全に無効化させられていたようだ。
外に出ると、そこには大型のトラックが並び、ドミニオのキャンピングカーを囲んでいた。普通の貨物を運搬する車ではないことは、荷台を見ればわかる。特殊な鋼材が使われているのか、つやを消されたボディには重々しい|雰囲気《ふんい き 》が宿り、内部から横溢《おういつ》していた。
すぐ隣の荷台の中に連れ込まれる。
内部は作戦室の様相を呈していた。
「ようこそ」
間近でその顔を見たのは初めてだが、研究者らしき男がソーホだとすぐにわかった。
人間は、彼以外にはいなかった。ドミニオの背後に控えるレヴァ以外に、三体、ソーホを守るように立っているが、その瞳の生気のなさ、立ち姿の無機質さからレヴァと同じナノセルロイドだとわかる。
「なんの用だ?」
同じ質問を相手を変えてぶつける。
「アイレインは、もうガルメダ市に入っているのかな?」
名乗り合いの必要性はないと向こうも感じたのか、質問をしてくる。
「職務上の秘密に関わる。他人に零《こぼ》せるか」
ソーホが率いる組織は対異民化組織であり、異民に対して直接的手段をもって排除することはすでにわかっている。
その上で、ドミニオは倣然《ごうぜん》と胸を張って言い放った。
「……彼がなにか、わかってて言ってるんだよね?……」
ソーホは顔をしかめた。その立ち居振る舞いの通りに、彼は研究者でしかないらしい。強権に訴えることも、迂遠《う えん》な策を用いる方法も知らないに違いない。なにを考えてか、その方面のエキスパートを連れてこなかったのが、彼の失敗だ。
「巡視官はその捜査に犯罪者を使うことを許されている。法律的になんの問題もない」
「問題はあるよ。彼の能力は常軌を逸している」
「常軌を逸しているというのなら……」
ドミニオの目が、ソーホの周りに立つナノセルロイドに向けられた。
「この子たちは違うよ。純然たる兵器で、命令には従う」
「クラヴェナル市では、暴走していたようだが?」
「…………」
「彼の行った戦闘は、全て捜査上の自衛手段で、法的に認められたものだ」
ドミニオはソーホが言葉を失ってうんざりした顔を浮かべるほど、アイレインを擁護する言葉を並べたでた。
それは、ドミニオ自身にもよく理解できない心境から生まれてきたものだった。言葉では守りながら、その実、アイレインがドミニオに守られるような存在ではないことを承知している。
(なぜだ?)
口を動かし、視線で牽制《けんせい》し、態度で威圧する。そうしながら、ドミニオは自分の行動に疑問を持った。
もはや巡視官でいることすらも疎ましくなり始めていた。クラヴェナル市でのフェイスマンとの戦いは、それを見ただけで、もはや自分が関知すべきものではないとまで思ったのだ。関わろうにも自分には役立つためのなにものもないのだと。
若かりし頃の行動力があれば、まだよかったか?
答えは否だ。
若さだけで解決できる問題ではない。
ドミニオは直感的に理解していた。
フェイスマンという存在は、現代社会の|歪《ゆが》みから派生したものでしかない。その一つを片付けたとしでも、なんの解決にもならない。
歪みそのものを断ち切らねば、二度、三度とフェイスマンは現れる。
そのために必要なのは、ドミニオという手段ではない。
アイレインという兵力と、エルミという知識と、その両方を|十全《じゅうぜん》に憎かすことができるシステムだ。ドミニオという手段と方便は弱すぎる。
(いかん)
言葉はすでに絶えていた。アイレインとサヤの引き渡し要求にドミニオは頑として応じず、ソーホは説得する言葉を失って、|茫然《ぼうぜん》と天井を見ていた。
その姿を見るうちに、ドミニオは頭が冷える思いがした。
(おれは、なにを考えているんだ)
エルミとアイレインを、世界を救うために役立たせようとしている。
なんて立派な考えだ。
そして、なんて利己的な考えだと、吐き気を覚える。
だが、ソーホを目の前にして政治的な対応をしようと決めた時、内部から我知らずのうちにこの考えが湧き出し、熱を帯び、ドミニオの態度を後押しした。
そう思うことによって二人を守らねばならないという使命感がドミニオを洗脳したのだ。
若い頃、修羅場に立っている時には自然とこの洗脳がドミニオの弱さを覆い隠し、多くの刺客と戦うだけの力を与えてきた。
だが、それを失ってすでに久しい。
だというのに、どうしていま、こんなものが老いの色を濃くする自分の内側から溢《あふ》れ出てきたのか。心の深奥の底の底にわずかばかり残っていたものが、噴き出しでもしたのか。
その理由がまるでわからない。
人の心に理由を求めるのは間違っていると、ドミニオは知っている。人間は理屈の通らないことでも感情が勝ればやってのける生き物だと、巡視官となってから知ったし、骨身に絡みている。
だがたとえそうでも、自分の中に正義感と思われるものが恥ずかしげもなく残っていたことに、ドミニオほどうしようもなく吐き気を覚えるのだ。
正義感とはすなわち、一方的な情熱だ。信仰する価値観に沿わないものに対して激烈な拒否反応を見せ、排除する考え方だ。
巡視官という職は、建前として都市経済の正常化のためにマフィアに|掣肘《せいちゅう》を加えるのが職分だが、本音の部分ではマフィアに対して政府の影響力を忘れさせないため、ひいては都市に独立の気運を与えないためにある。マフィアが善人だとは、たとえ間違っても言えないが、政府のやり方が正しいともとうてい言えない。
そんなものに長々と従事し、いまや堂々とマフィアの供応を受ける自分に、正義感なんていうものが残っていたとは考えたくない。
「アイレインのことは、いまはいいことにしましょう。ただ、政府はいま、サイセント・マジョリティーに力を入れている。このことは留意しておいて欲しい」
「…………」
ソーホが口を開いたことで、ドミニオは思考の迷路から抜け出すことができた。考え続けたところで自分を納得させることができるとは思えなかった。それよりも思考そのものを切り捨ててしまった方が早い。
「ところで、もう一つ|尋《たず》ねたいことがあるのですが」
「なんだ?」
「猫……なんですが」
ソーホの言葉でドミニオは背筋が冷えた。
「アイレインと行動を共にしているはずの、猫です。ご存知ですね?」
「…………」
知らん。そう言うことは簡単なはずだ。
だが、ドミニオの口は動かず、表情が自分でも考えていなかったほどに動揺を示してしまった。
弱みを見せてしまったのだ。
「……知っていますね」
ソーホの瞳に底冷えの光が宿った。
いままでとは違う、|貪欲《どんよく》な獣の目に変わった。アイレインに対しては組織の長として対応したからこそ、ソーホの態度は慣れないものだった。だが、エルミに対しては違う。
知識欲から、研究者という立場から、そのことを質問したに違いない。
だからこそ、自らの本領を発揮することができる。
「知っているのなら、教えていただきたいのですが」
主の無言の意思を受け取ったのか、目の前にいる三体のナノセルロイドが、背後にいるレヴァもまた、ドミニオに圧力をかけるように近づいてくる。
だが、それ以上のことになる前に、新たな変化が訪れた。
「マスター、ガルメダ市で変化が」
背後のレヴァが口を開いた。
「変化?」
「オーロラ粒子の大量発生を感知しました」
「……なにかが起こった?」
「そのようです」
「……ドミニオ巡視官、なにか覚えがありますか?」
「ないな」
サヤが危機を察知したことは告げまいと、瞬時に決めた。どちらにしろ、そんな|曖昧《あいまい》なものをソーホが聞き入れるとも思わなかった。
「……まあいいでしょう。ガルメダ市に急ごう。それと、UからWはポーンの起動準備を、レヴァは偵察にいってもらう」
「了解しました」
ナノセルロイドたちが声を揃え、準備を始める。
ソーホがドミニオを見た。
「あなたにも同行していただきます」
「わかった」
|唸《うな》るように、ドミニオは|頷《うなず》いた。
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†
[#ここで字下げ終わり]
気を失っていたのはどれくらいか……
数日単位ではないはずだが。
「時計が壊れてるわね」
いや、そこまで侵蝕されたと考えるべきだろう。
エルミの周囲では、かつてドミニオが吐き気を催し、正気と狂気について考えることすら拒否した研究室に異変が生じていた。
あちこちが放電し、空間が歪んでいる。おかげで大事な研究成果が破損し、放電に焼かれ、奇怪な変化を遂げていた。
「とりあえず、防衛装置はまだ生きているようね」
思念波の逆流現象を懸念して防衛装置を取り付けていたのだが、今回はそれが功を奏したようだ。
「それにしても、増設機に罠を取り付けるなんて誰の仕業かしら? アルケミストにも逸材が出てきたのかしらね」
「そんな天才が出てくれば、こんな無様な世界はなかったのではないかな?」
突如、エルミしかいない空間に声が響いた。
「おや?」
その声には、かすかに聞き覚えがあった。
「ということは、あなたも謎は解けずじまい? ええと………」
「相変わらず、人の名前を覚えるのは苦手か?」
「元から、あまり興味がないし」
「そういう女だよ」
聞き覚えはある。そして、どういう人間なのかもだいたい思い出せる。
しかし、名前は出てこない。
「ゼロ領域を超えてきたの?」
エルミの問いかけに、声の主は押し殺した笑いを漏らした。
「ゼロね……そうではないことぐらい、君ならばもう察しているのだろう?」
「ああ、なんだかあなたのことを思い出せそうだわ。まあ、それはおいおい思い出せばいいとして、そうね、ゼロ領域がなにかぐらいは、もうわかっているわ。だから、質問を変えましようか、こちらになんの用かしら?」
「実験だよ。異民化を完全に消せるかどうかの」
「へぇ」
「まあ、期待の五割も成果を出せなかったのだけれどね」
「ふうん」
「よい触媒が手に入ったのでね、これ幸いと試してみたのだけれど、そう簡単にはいかないものだ」
「フェイスマン?」
「さあ、名前は知らない。名前なんてどうでもいいことじゃないか?……」
「そうね、あなたの名前も」
「そう、君の名前も」
冷たいやり取りの間にも空間への侵蝕は続く。エルミは無言で|数多《あまた》の防衛プロプラムを起動し、さらに逆撃を加える手段も講じていく。
だが、手応《て ごた》えがあまりにも薄い。
「悪いが、君が気を失っている間に、ほとんどの防衛システムは掌握させてもらっているよ」
「なるほどね、女性の部屋にそういう無理やりな方法で入るのが、あなたの趣味?」
「お互い、もはや性をどうこう言える外見ではないだろう」
声には|自嘲《じちょう》の響きも混ざっている。
「じゃあ、あなたも?」
細胞の変異は、やはりエルミだけに起こったわけではないようだ。
「その通り。因果なものだ。深刻な資源不足から救った亜空間増設技術。それを作った我々が、この亜空間時代の最初の被害者でもあるわけだからな」
「老人の回顧談なんて聞きたくもない」
「世に我らより年を経た人間がいるかよ」
快活に笑う。その笑い声が不気味だった。時にエルミとて、自分の運命を|諧謔《かいぎゃく》を弄《ろう》して皮肉る時もあるが、この笑い声には狂気が混ざっているように感じられた。
いい加減、この男との会話にも飽き始めていた。うんざりしたと言ってもいい。
「それで、なにが目的なのかしら? イグナシス」
「ああ、思い出してくれたのかい? リグザリオ」
|嬉《うれ》しそうにイグナシスは人懐っこい声を出してくる。
「最初に言っただろう? 実験だよ。とりあえず、二例だけとはいえ一応の成功例も出たことだし、私もこちらに移動しようと思うのだけれど……」
一瞬の静寂は、嫌な予感を膨らませるのに十分なものだった。
なんの目的もないのに、エルミの猫に対して、ここまで攻勢をかけてくるとは思えない。
「リグザリオ、頼みがあるのだけど」
「なにかしら?」
「君のその体、もらえないかな?」
「お断りね」
エルミの周囲の空間が変質していく。それに素早く修整をかけ、元に戻していく。
変質は、イグナシスの魔手。
修整は、エルミの防衛。
この競り合いに負けた時、エルミという人格は消滅し、イグナシスがこの世界に現れることになるだろう。
ゼロ領域の向こうから。
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05 死山血路
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敵に満ちていた。
「こいつは驚きだ」
剣を肩にかけた姿勢で、アイレインは|呆《あき》れた。
車の上だ。双子の屋敷から奪った高級車で、運転はサヤがしている。
アイレインは車の屋根に座っていた。
屋敷を出る直前から、濃密な殺気が自分たちに絡みつくのを感じていたからだ。新たに出してもらった銃をベルトに挟み込み、いつでも動けるようにしていた。
屋敷の門が見えたところで、殺気の正体が判明したのだ。
閉められたままの門の前には、一般人らしき人々が大挙していた。門を揺らし、好き勝手に|吹《ふ》えている。
「マフィアにデモ?」
「まさか」
運転席からサヤが会話に乗ってくる。
「敵意は、わたしたちに向けられているように感じられます」
「やっぱり?」
だとすれば、それはどうしてなのか?
「どちらにしろ、このままじゃ動けんからなあ」
門の向こうにいる一般人たちは、その先にある道路を占め、溢れ出していた。
とうてい、車を走らせる余地はない。
「轢《ひ》いていくにしても限界があるよな?」
「ですね」
言い交わしているうちに門に|辿《たど》り着き、仕方なく車を停める。
手に手に武器を持っている。まともな銃を持つ者もいれば、ナイフや包丁を持つ者など、家にある刃物や鈍器になりそうなものを持っている者もいる。
その格好に統一性はないが、その意思は統一されている。
「洗脳とか、そういうものなのかね?」
「わたしにはわかりません」
空気を震わせる吠え声の合唱は、アイレインたちに収束して叩《たた》きつけられていた。
「とりあえず、道を作るとして……どこに行ったもんかな?」
アイレインの頭の中には、一般人と斬り合うことになるかもしれない罪悪感や予想される後味の悪さはない。
「ドミニオの所に戻るのでは?」
「あ〜、それも考えたんだけどさ。さっきのあれ、やっぱりエルミが原因の気がしないか?」
「そうですね。さきほどのはただの停電ではなく、空間そのものが光を排除したように感じられましたし」
「……それ、さっき言ってくれればよかったのに」
「部外者がいましたから」
「ああ、そだね」
門を見る。もはや一般人ではなく、暴徒と呼ぶべきだろう。暴徒は門に取り付き、激しく揺らしている。門全体が鉄の|軋《きし》む悲鳴を上げていた。
「となると、少なくともエルミはもう、市内に入っていると考えていいわけだ」
まるで他人事《ひ と ごと》のようにそれを眺めながら会話を続ける。背後からマフィアたちが追いかけてくる様子はない。エントランスホールの一件で、あらかた片付けてしまったのか。
「まあ、エルミがなにかドジったんだとしたら、増設機関連だろうし、そうなると……」
アイレインは誘われるように空を見た。
いつからそうだったのか。
オーロラがある。それはいつものことだ。
だが、そのオーロラのあり方がおかしい。一つの場所を中心に四方八方にその幕を広げている。
「……あそこかな?」
「そうではないでしょうか?」
「わかりやすいな」
「抱えている問題の違いではないですか」
その瞬間、門を支える金具が崩壊し、敷地内に倒れこんだ。倒れきるのを待つこともなく暴徒が踏み越えようとし、鉄の塊が跳ねまわるのを押さえつける。
合わせるようにサヤがアクセルを踏みつけ、急発進する。
車体が暴徒と衝突するよりも早く、アイレインが飛び出していた。|煙草《た ば こ》を銜《くわ》え、紫煙がたなびく暇を許さず、その火種の紅が闇の中で鬼火のように線を引く。
剣が舞い、暴風を呼び、衝撃波が嵐となる。
暴徒は吹き飛ばされ、鉄の塊に砕き散らされ、血路として均《なら》される。
暴風は道路に沿って猛進し、その後をサヤが運転する車が追う。
人の群れは、いつまでもいつまでも続いた。
「ただ事じゃないな」
ある程度片付けたところで車の上に戻った。短くなった|煙草《た ば こ》を捨て、新しいものを銜える。
「まるで、ここの市民全員が敵になったみたいだ」
道路沿いの暴徒たちはある程度片付けた。だが、その左右から次々と人は現れ、道路を埋め尽くそうとする。アイレインはベルトの銃を引っ張り出し、車体に手をかけようと飛び出してくる者を次々と撃ち落としていく。
「その考えは間違っていないと思います」
運転席の窓は開いている。サヤの声は風切り音や暴徒の|雄叫《おたけ》びをそっと押しのけて、アイレインの耳に届けられる。
「どういうことだ?」
「わたしが感じていた危険がようやくわかりました。この都市、全てです」
「都市全て?」
意味がわかりかねた。いや、いまのこの状況を考えればその通りなのだろうということはわかる。
だが、どうしてこうなるのかはわからない。
近づいてくる暴徒を跳ねのけるため、銃爪を絶え間なく引き続けている。無限の弾倉は無限の弾丸を生み出し、マズルフラッシュがかがり火のように灯《とも》る。
「オーロラ粒子が増加しています」
「そういえば」
そうかもしれないと、アイレインは視界の端にあるオーロラを見た。空全体を覆い尽くさんばかりの光の幕は、亜空間同士が接触する際に起こる火花だと言われている。
その通りなのだとすれば、あの幕群の中央でかなり大きな穴があき、異界がのしかかるように接触していると考えてもおかしくはない。
それはつまり、オーロラ粒子の増加ということにもなるだろう。
「それなのに、この人たちは異民化する様子がありません」
「ああ?」
確かに、オーロラ粒子とはゼロ領域に満ちる混沌《こんとん》のことであるし、それを多量に浴びれば異民化する。
「それほどの量か?」
すでに異民化しているアイレインには、よくわからない。
「はい。いつこの空間が壊れてもおかしくないほどです」
「そいつは……」
それならばここにいる暴徒たちが、普通の人間の姿をしていることはおかしい。
「確かに変だなあ」
オーロラ粒子を浴びでの異民化は、画一的な変化を起こすことはほとんどない。変化には個体差が表れることがほとんどだ。まして、外見が普通の人間のままでいられることなど、かなり低い確率だろう。
「作為的なものがあるっぽいな」
「そうですね」
「ますます、エルミになにかあったと考えた方がいいな」
「はい」
「じゃあ、とりあえずあそこに向かうか」
周囲の殺伐とした空気とは別に、アイレインたちの周りにはどこかのんびりとしたものがある。
「はい」
「じゃあ、もう少し気張らないとな」
アイレインは銃をしまい、再び剣を構えて道を切り開くべく、飛び出す。
だが、二人ののんびりとした空気ほどに、その道のりは楽なものではない。
サヤの運転する車の進行方向を埋めるかのように人々が行く手を塞《ふさ》ぐ。大人だけ、男だけではない。女性もいる。子供もいる。老人もいる。
その全てが敵意に満ちた視線を向け、襲いかかってくる。全力で走る車の行く手を、恐れることなく塞ごうとする。
クレーゲームのライフルで撃ってくる者もいれば、道端のコンクリートを砕いて投げてくる者もいる。包丁をかざして追いかけてくる|恰幅《かっぷく》のいい主婦もいれば、ガーデニング用のロングシザーで突いてくる者もいる。
「行く先、読まれてるかな?」
「そうかもしれません」
もはや、ガルメダ市民全員が敵だと確信している以上、どれだけの数が出てこようと驚きはしない。しかし、どれだけ道を替えようと行く先々に人が溢れ、アイレインたちに恐れもなく襲いかかってくる。
これは問題だ。
「どうしたもんかな?」
剣で薙《な》ぎ払ってもキリがない。いまは銃と車の体当たりですませられる部分はすましている。
だがそれでは、遅々として先に進まない。
問題はそれだけではない。
懐を探る。シガレットケースの軽い感触に、アイレインは舌打ちする。
あと、二、三本というところだろう。
ガルメダ市に入った時に持ってきたものは、ニリスの護衛をしている時に大分吸ったし、いまこの時にもかなり消費してしまった。
このまま車で進んだところで目的地に|辿《たど》り着く前に、|煙草《た ば こ》が切れてしまう。それでは、エルミの所に着いた時に荒事となっても、ろくなことができない。
「どうします?」
サヤの空間干渉でもこの|煙草《た ば こ》を作ることはできない。オーロラ粒子を拒絶する作用がめるため、異民の力では生み出すことはできない。
「このままだと進みようもないし……サヤ、少し|我慢《が まん》できるか?」
「できないことはないと思いますが」
「なら、そうするか」
言葉は足りなくても、意思は通じあう。アイレインは運転席の窓に手を伸ばし、サヤがそれを掴《つか》む。車は自動で走り続けるが、道を塞ぐ人々に反応してすぐに速度を緩める。
屋根の上に引っ張り上げたサヤを左腕に乗せる、細い腕がアイレインの首に絡みついた。
「じゃ、行くぞ」
「はい」
シガレットケースから|煙草《た ば こ》を抜く。
あと、二本。
目的の場所はまだ遠い。一本分の時間で|辿《たど》り着けるか、どうか……
「節煙すればいいと思います」
「節煙かあ、厳しいな……」
本気なのか冗談なのかわからない言葉に答えながら火を点《つ》ける。完全に止まってしまった車に人々が群がり、足を掴もうとする。
アイレインは跳んだ。
近くのビルを目指して跳び、その壁を蹴り、さらに高みを目指す。
風を切る音、首に絡まるサヤの腕に力がこもる。サヤの空間干渉の力は風圧を切り裂き、二人に届けない。
銃声が追い付いてきた。もはや深夜だというのに、ビルの窓のあちこちに人の姿があり、窓ガラスを割り、銃を構えていた。
「やっぱり、読まれてるな」
アイレインの脳裏に双子の姿が浮かんだ。遠くの場所の出来事を知ることができるという能力でこちらの行動を探っているのだろう。
とすれば、この暴徒に対して、双子は命令を下せるのだろうか?
「ここまできて、あの二人が無関係なんてことはないか」
しかし、だとしたら……新しい疑問が湧いてくる。
一つのことに命を捨てて一致団結することができるのならば、どうしてニリスは巡視官の問題であそこまで奔走しなければならなかったのか。
「なんかどうも、ここの連中はわからんね」
アイレインの高速移動に虚《むな》しく銃声だけが飛び交う。たとえ当たったとしても、サヤの空間干渉がそれを防ぐだろう。
「最初から、こうすればよかったですね」
サヤの言葉が耳に痛い。
「いや、|煙草《た ば こ》の本数がやばかったんだって」
しかし車での移動で無駄に消費してしまったのだから、サヤの言葉が正しい。
高層ビルを跳躍して移動することで、道路を走るよりも早く、目的の場所に|辿《たど》り着いた。
「まさか、また市庁舎とはな」
一歩手前のビルの屋上で、アイレインは足を止めた。市庁舎の上空を中心にオーロラが広がり揺らめいている。
足下《そっか》を見る。市庁舎の前も暴徒で埋め尽くされていた。
「これは、中も埋め尽くされてるんだろうな」
|煙草《た ば こ》の残数を考えると無理はしたくない。一度ドミニオの所に戻って補給をしてからが理想的ではあるだろう。
が、それまでエルミが無事かどうかの保証がない。
「じゃ、行ってくる」
「わたしも……」
「もしもの時はお前さんに戻してもらわないといけないしな」
付いてこようとするサヤを押しとどめる。
「あんなことが、何度もできると思わないでください」
「おれだって、できればああはなりたくないよ」
そう言い残して、アイレインは市庁舎に向かって跳んだ。
最上階近くの窓を蹴破り、中に突入する。
予想通り、通路は人で埋め尽くされていた。飛び散ったガラスで切り裂かれながらも、|怯《ひる》むことなくアイレインに向かってくる。
その顔に恐怖はない。
いや、感情そのものがない。血が滾《たぎ》った獣のような吠え声を上げ、手に手にお粗末な武器を持って襲いかかってくる。
「なんなんだ、お前らは」
うんざりした気分で素早く|煙草《た ば こ》に火を点け、剣を振り回して最上階を目指す。階段にまで満ちた暴徒たちはアイレインの障害にはならない。粉砕して突き進む。
血の霧をまとって最上階に|辿《たど》り着いた。
仕切りのされていない広い空間に出る。
柱がある以外には視界を|遮《さえぎ》るものはない。なにより、さっきまで雲霞《うんか》の如く現れていた暴徒たちが待ち受けていないだけでなく、上がってくる様子もなかった。
ここになにかがあるのは、間違いないと考えていいだろう。
「さて、なにが出てくる?」
|煙草《た ば こ》はまだ半分ほど残っている。それにシガレットケースに一本。心もとない数だ。
剣を肩にかけ、油断なく辺りを見回す。
オーロラの光はガラスから注ぎ込まれ、空間を淡い七色に染め上げている。
すぐにそれが目にとまった。
「エルミ?」
黒猫だ。
黒猫は四足でピンと立ち、|尻尾《しっぽ 》を高く振り上げたままその場で固まっている。まるでなにかに驚くように口を開け、小さな|牙《きば》をきらめかせ、上を向いている。
まるで剥製《はくせい》のように、そのままの形で動こうとしない。
近づくべきか、迷った。
「エルミ」
呼びかける。だが、返事はない。
「こいつはまいったな」
エルミが危機だろうとは思ったが、まさか連絡も取れないほどだとは思わなかった。
「さて、どうしたものか……」
はっきりとした障害があれば、やることはすぐにわかる。だが、目の前には動かない黒猫が一匹いるだけ。この状況で、なにかを察し、対抗策を講じるだけの知識はアイレインにはない。
慎重に黒猫の様子を観察する。黒猫自体には争った形跡はなく、毛並みはきれいなままだ。
ただ、額の宝石の色がおかしい。サマフィアの輝きの中に七色の揺らぎを持つはずの宝石が、青一色に染まっている。
試しにと指を伸ばす。
(触ってはだめ!)
いきなり、脳内で言葉が破裂した。
「っ!」
弾《はじ》けるような頭痛に、アイレインは跳び退く。
黒猫に変化はない。
「誰だ?」
一瞬のことだ。声ではなかった。いきなり頭の中に言葉が浮かび上がり、爆発したかのように危険信号でいっぱいになったのだ。
「なんだ?」
声を出しても、どこからも反応はない。
だが、ここで時間を浪費してもなにかが好転するとも思えない。
(状況は見た。とりあえず、ドミニオの所に戻るか)
サヤをあのままにもしておけない。
退くことに決め、アイレインは黒猫に背を向ける。
その瞬間だ。
「っ!」
アイレインは跳んだ。着地の寸前に振り返る。衝撃波がガラスを震わせ、間を置いて割れた。
|煙草《た ば こ》の火がフィルターを焼く。吐き出し、シグレットケースに手を伸ばししつつ、なにが起きたのかを確かめる。
黒猫の周囲になにかがあった。
紫煙にも似たなにかが揺らぎ、その場にとどまっている。
「残念だ。同じゼロ領域を突破した肉体なら、|馴染《なじ》みやすいと思ったのだがね」
「誰だお前?」
「エルミの友人だよ、はじめまして」
「で、いまは旧友と積もる話でもしてるって?」
「おや、なかなか話がわかるようだね、君は」
声に合わせて煙が揺れている。アイレインは剣を床に突き立て、手を放した。
「まあね。で、そっちももの分かりがよくなってくれるとありがたいんだが、そろそろうちに帰る時間だから、迎えに来たんだがね?」
「ふむ……」
煙は考える|風情《ふ ぜい》を見せた。煙がどう考えるのかはわからないが、|雰囲気《ふんい き 》がそうなのだ。
(アルケミストか)
煙を見、さきほどの言葉を思い出しながらアイレインは思った。
組織ではなく、その身をもってその名を持つ者。
エルミと同じく、亜空間増設機を開発した天才科学者。
それならば、エルミと同じく生きていたとしでもおかしくはないし、あんな姿で現れたとしても驚くことではない。
しかし、この国にはアルケミストはエルミしかいないはずだ。彼女自身がそう言っていた。
なら、このアルケミストはゼロ領域を突破し、別の国から、別の空間から来たということになる。
(|一筋縄《ひとすじなわ》ではいかないか)
そう考えたところで、煙がまた揺らめいた。
「悪いが、エルミとはもう少し話したいことがあるんだよ」
「そいつはいけないな」
「なぜだね」
嫌な気配が充満していた。いや、すでにこの階に満ちていたものが動きを見せたのだ。
「エルミには旦那《だんな》がいるんだ。それをさしおいて、他の男と夜を明かすなんて、見過ごしてはおけないな。小心者なんでね。隠し事ができないんだ」
「ふむ、だが……」
「だから、腕ずくだ」
右手を閃《ひらめ》かせた。
この程度なら、|煙草《た ば こ》もいらない。ベルトに挟んでおいた銃を抜き、銃爪を引く。触るなという警告が頭に響いて離れなかった。
だから、銃だ。
銃口から弾丸が圧力によって弾き出される。その振動を腕に感じていた。相手は煙、気体だ。
銃弾にどれだけの意味があるのか、それを確かめる意味もある。物理的破壊が通じるのなら、アイレインにもやりようがある。
それがだめなら、左目を試してみるしかない。
そう、考えていた。
煙が、突如割れた。
まだ、弾丸は届いていない。
割れた煙の中から、なにかが現れる。
手だ。オーロラに|彩《いろど》られた煙は七色を反射し、その中から現れた手も、オーロラの淡い光を映していた。細い腕に、幼い繊手がいっぱいに広げられている。
煙の割れ目は、出てくる手に合わせてその面積を広げる。
その手に、覚えがある気がした。
脳裏に浮かんだのは、首に絡む腕。
腕は手首から肘《ひじ》に、そして肩が現れ、そして、そして、そして……
「…………」
言葉は出てこなかった。
煙を裂いて現れた者は、そのまま煙を護《まも》るように位置取ると、広げた手で銃弾を受け止めた。
ああ……
長い髪が、揺れている。
ああ……
鋭い眦《まなじり》が、挑発的に下げられている。
ああ………
淡い闇の中で、紅い唇が浮かび上がっている。
ああ………
その名を、いま、口にしないといけないのか。
「そら、遅かっただろう?」
眼帯に覆われた右目の中で獣面が一瞬現れ、嘲笑い、そして消える。
「ニルフィリア」
「ただいま、お兄ちゃん」
明るい笑みで、妹はアイレインにそう告げた。
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†
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サヤは、待っていた。
市庁舎に動きはない。最上階に向かっている様子はここからでも確認することはできたが、そこから先の動きがない。
突然に静まり、そして静まり返ったままだ。
どうするべきか、サヤは迷った。そこに自分も向かうべきか、それとも待ち続けるべきか。
向かって、なにをするべきか?
胸がざわついている。嫌な予感がずっとしていた。それをアイレインに伝えられずにいた。
危険を危険として感じる以外になにもわからないサヤには、それをうまく伝える術もなかった。
無表情の奥で形にならない不安に駆られ、サヤは足を動かし、そして戻しを繰り返す。
風が吹く。髪が流れ、一瞬、視界を覆った。
視界が晴れた時には、サヤ一人ではなかった。
見たことのある女が立っていた。確か、ママ・パパスの屋敷で、そしてフェイスマンとの戦いの際にも。
「なにか、用ですか?」
そこに現れたナノセルロイド、レヴァを見ても、サヤは動じることはなかった。
「ドミニオ巡視官の身柄を預かっています」
「誘拐、ですか?」
端的な事実に、単純な疑問を返した。ナノセルロイドがどういうものなのかは、すでに承知している。
このオーロラ粒子をエネルギーに変換するという戦闘兵器と、異民である自分が戦えばどういう結果を生むか、サヤはその部分をどう考えているのか、その表情からはわからない。
戦おうとしているのかどうかすら、その表情からは読み取れない。
サヤ自身、自分がこの状況下でどうすればいいのか、よくわかっていなかった。
「いえ、違います」
それは、レヴァもそうだ。その表情は人形のように硬く、そこからはなにも伝わってこない。
「では、わたしはどうします?」
以前、レヴァはサヤの前でアイレインを捕まえている。なにより、レヴァは対異民化問題を扱うソーホの命令に従う戦闘兵器だ。サヤを見逃すはずがない。
戦いになるか?
二つ、異種の人形が並んだような光景に、鈍い緊迫感が漂う。
「いいえ」
レヴァは否定した。
「あなたを保護するようにと、仰せつかっています」
「保護?」
「わかりませんか?」
レヴァの視線がサヤから外れ、市庁舎を撫で、そして足下の、暴徒が蠢《うごめ》く街並みを見た。
「この都市に人はいません」
暴徒は市庁舎を囲んでいる。中に突入したアイレインがどうなるのか、その結果を待っているようにサヤには思えた。
「ここにいるのは、異民だけです」
レヴァは、感情のない言葉で告げた。
「どういう意味です?」
サヤはレヴァを見た。
その背中で、ガラスの割れる音が響く。
アイレインだ。最上階のガラスが割れ、飛び散る破片にアイレインの黒い姿が混ざって落下していく。
「アインっ!」
サヤが叫んだ。
その悲鳴が聞こえたのかどうなのか、アイレインは市庁舎の壁を蹴り、落下から上昇へと転じるとサヤのいるビルに着地した。
「大丈夫ですか?」
「……|煙草《た ば こ》が切れた」
アイレインは顔色悪く、銜えていた|煙草《た ば こ》を吐き捨てる。
顔を上げると、サヤをじっと見つめた。
「どうしました?」
「…………いや」
首を振って否定した。
その顔に苦い笑みがかすかに浮かび、そしてすぐに|怪訝《け げん》な色を帯びた。
「で、どうしてレヴァがここにいるんだ?」
「マスターの命令です」
「そうか……いまやり合ったら負けるか、な」
「ご心配なく、マスターの命令はあなた方の保護です」
「なんだって?」
「ここには、異民しかいないそうです」
サヤは聞いたばかりの言葉をアイレインに伝えた。
「異民しか……?」
さらに|怪訝《け げん》の色を深めるアイレインに、レヴァが言葉を被《かぶ》せる。
「マスターがドミニオ巡視官とともにお待ちです。どうか、ご一緒に」
「やれやれ、逃げ場はないらしい」
そう言って笑うアイレインの顔には、やはり力がない。
先導しようとするレヴァにアイレインが従う。その後ろで、サヤは市庁舎を振り返った。
(あそこで、いったいなにが?)
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†
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レヴァの先導でガルメダ市を脱出する。
使ったのは、地下にある下水道だ。ここまでは暴徒の手も届いていない。
(いや……)
アイレインを迫っていたのが、双子の遠くを見る能力なのだとしたら、レヴァを追えないのは道理だろう。レヴァの体を構成するナノマシンは、オーロラ粒子を吸収する。異民の能力は総じてオーロラ粒子を発生させ、そしてそれを利用するものだ。それを吸収されていては使い物にならない。
下水道といっても汚水は流れ込んでいない。雨水が流れ込む場所なのだろう。水はほとんどないが、冷えた湿気が肌に絡みつく。
「しかし、あれが全員異民だって」
とうてい信じられない言葉だった。
「ですが、調査の結果はそう出ました。現在ガルメダ市内全域を覆うオーロラ粒子の濃度は、常人には耐えられないものとなっています」
レヴァが淡々と答えを返してくる。
考えれば、この機械人形と下水道を歩いているなんてことになるのも奇妙なものだ。
「やれやれ、どんどんひどくなっていくな」
エルミたちに付き合ってもう五年以上、様々な都市で異民の問題に関わってきたが、年々異民の数や質がひどくなっていく。
フェイスマンが現れたことは、一つの契機だったのかもしれない。
(そうだ、あの時に考えたな)
フェイスマンが死んだ時、彼は、自分が取り込んだ顔を求めてゼロ領域に取り込まれた人々がやってくると言った。
実際、アイレインの目の前でフェイスマンを包む無数の顔が変化していったのを見ている。
その中にニルフィリアがいるのではないか……確かにアイレインはあの時、そう考えた。
(しかし、だからって……)
あのタイミングでその考えが現実化するなど、誰に想像できるというのだろう。
馬鹿らしいことに、オイルライターの火を|煙草《た ば こ》の半ばほどに点けてしまうほどうろたえてしまった。
目の前に、長年探し続けてきた妹がいる。
サヤと同じ顔だ。
自分の記憶力が正しかったことを喜べばいいのかどうか、アイレインには判断できない。
妹は昔と同じように|無邪気《む じゃき 》な笑みを浮かべている。
|無邪気《む じゃき 》に|妖艶《ようえん》さを振りまいている。
「本物か?」
思わず|呟《つぶや》いた言葉に、ニルフィリアは笑った。声を殺して。
あの時と、アイレインの目の前で忽然《こつぜん》と消えてしまった時から変化していない容姿のままで、笑う。
笑っている。
笑みをこらえて濡《ぬ》れた瞳でアイレインを見ている。
「お兄ちゃんは変わったね」
「ああ……」
茫然と答えることしかできない。
このまま、妹を抱き寄せて連れ去ってしまおう。
そう、考えた。
どこへ? どこへだろう?
それが、アイレインがあの時からいままで生きてきた理由のはずだ。
かなえようと願いながら、かなうはずがないと思っていた理由だ。
「ニルフィリア……ニル、その猫を兄ちゃんに渡してくれないか?」
「だめ、この猫、博士が欲しがってるから」
手は、猫を求めた。
だが、ニルフィリアは猫と煙をアイレインから隠すように、立つ。
「それともお兄ちゃん、わたしを殺して持っていく?」
「そういうことを、言うものじゃない」
剣を握る。ニルフィリアは唇を引きのばし、笑っている。
「怖い顔。お兄ちゃん、本当に変わったぬ」
「生きていれば色々あるさ」
「それじゃあまるで、わたしが生きてなかったみたいじゃない」
「…………フェイスマンか?」
「なんのこと?」
話が進まない。半端に点いた火が|煙草《た ば こ》を二つに折って、先を落とした。
「お兄ちゃんがどうしてもこの猫が欲しいって言うのなら、わたし、お兄ちゃんのこと嫌いになるなぁ」
剣を引きぬいたアイレインにニルフィリアは牽制《けんせい》の言葉を投げかけてくる。アイレインは無言を通した。
そうでなければ、悩乱して身動きが取れなくなる。
だが、妹と戦えるか?
「いくよ」
妹は構えを取らない。戦う妹の姿など想像もできない。
だが、アイレインの銃弾を受け止めたのは確かだ。
|煙草《た ば こ》の火が、フィルターを焼いた。
「ちっ」
アイレインは後ろに跳び退いた。ガラスがあることなど忘れていた。
衝撃波がガラスを破る。破片が顔を裂く。
「アインっ!」
重力の手に掴まれたアイレインにサヤの叫び声が聞こえた。
下水道の道はまだ続く。
ニルフィリアのことをサヤに伝えるべきなのか、伝えるべきなのだろうとは思う。
だが、アイレインの口から言葉は出なかった。言おうとすると、喉《のど》が痺《しび》れたようになりなにも言えなくなる。
アイレインがゼロ領域から連れ出したサヤには、昔の記憶がない。そのことがサヤに、自分がアイレインの願望によって生まれた人形ではないのかという悩みを抱かせているのはわかっている。
言うべきなのだ。
だが、アイレインは下水道から脱出するまでにそれを言うことができなかった。
ガルメダ市の境にある河へと出ると、すぐそこに数台のトラックが並んでいた。その最後尾にドミニオのキャンピングカーがいる。新車らしきトラックの列に並ぶと、まるで場違いなところに置かれた雑種犬のような佗《わび》しさがあった。
市外は雨が降っていた。霧のような雨だ。
河から上がると、ドミニオが待っていた。
「アイン」
「悪い、エルミが捕まった」
「誰にだ?」
「……アルケミストだ」
声を抑えて耳打ちすると、ドミニオの顔色が変わった。
「なんだと?」
「向こうから来たみたいだな」
「くそっ、言わんことじゃない」
吐き捨てると、ドミニオの体から力が抜けていくのがわかった。その場に座り込んでしまいそうな体を、アイレインが支える。
「しっかりしてくれよ」
「ああ、しっかりするさ。だがな、だが……」
「今回は、おれもだめかもしれないんだからな」
「……どういう意味だ?」
それに答えることはできなかった。
ソーホが近づいてきたのだ。
「久しぶりだな」
「……そうだね」
ソーホが苦い顔で|頷《うなず》く。タイミングよく、サヤがキャンピングカーから戻ってきた。取ってきてくれたシグレットケースを受け取り、懐に入れる。
「あそこにいる連中、全員異民だって?」
「うん。そうとしか考えられない」
「……元の住民はどうしたんだ?」
「それなんだ。いま、調べているんだけど」
ソーホの前に立体モニターが現れる。霧雨が画像を乱れさせているが、ソーホはかまわなかった。
「いま、市内をうろついている人たちの顔を市庁舎の|戸籍《こ せき》と照合してみると、全て合致するんだよ。記録が改ざんされた様子もない」
「じゃあ………」
「でも、彼らの体からはすでにオーロラ粒子の反応が出ている。異民化の証《あかし》だよ」
「ますますわからんね」
「わからないのは僕だって同じだけど……これだけは言える」
ソーホがモニターを消す。
痩《や》せたソーホの周囲に、それとなくレヴァが立っている。その他にも三体。
すぐにレヴァと同じナノセルロイドだとわかった。
全員がアイレインの動きを監視しているようだ。下手なことをすれば、すぐにでも襲いかかってくるだろう。
しかし、いまのアイレインにはソーホをどうにかしようとする気はない。が、そのことをナノセルロイドたちは、冷たい機械人形たちは察することはない。
「ガルメダ市にまともな人間はいない。サイレント・マジョリティーはガルメダ市を掃滅する」
「大きく出たが、軍隊は連れてきてないだろう」
見回しても、ここに並ぶトラック以外に控えている様子はない。そのトラックにも人の気配は感じられない。
いるのは、この四体のナノセルロイドのみだ。
「この子たちがいれば、軍隊は必要ないよ。それより君たちのことだ」
「捕らえる気か?」
「それが僕の役目だよ」
「それなら、抵抗させてもらうけどな?」
レヴァたちが静かに戦闘状態に入ったのを感じながら、アイレインは言葉ほどには自分の体に熱が入っていないことに気付いていた。
「一つ、条件があるんだ」
そのことに、ソーホは気付いていない。慌てたように言葉を挟んできた。
「なんだ?」
「僕に協力すれば、君たちのことは目をつぶるよ」
「……モルモットと仲良くする気はない」
「そんなことはしないよ。……君には借りがある」
「へぇ、そんな考え方ができるようになったのか」
意外だった。幼い頃から研究に没頭していたソーホは対人能力に問題がある。本人が基本的に善人だから、それが致命的な問題にまでなっていないが。
「君には、レヴァを救ってくれた恩があるからね」
ジャニスと言わなかったところに、人間味が混ざったような気にさせた。
「ボスは?」
どうする? 振り返り、ドミニオを見る。
「ああ」
思いつめた様子のドミニオは空返事をするばかりだ。
エルミのことがショックなのか。
それなら。
「先のことはともかくとして、ここでの共同戦線ぐらいなら考えでもいい。一人、助けないといけないからな」
「それはもしかして、あの猫の人なのかい?」
「まあ、そんなところだ」
「そうか、あの人が捕まっているのか」
ソーホが興味を示すのも無理はない。あのクラヴェナル市で、エルミはレヴァのことを見抜いていた。それをソーホは見ている。興味が湧いて当然だ。
(知られれば、|厄介《やっかい》だが)
判断を仰ごうにも、背後で地面を見つめるばかりのドミニオはこちらを見ていない。
(逃げりや、いいか)
アイレインが判断するしかなく、そして結局、その考えに至った。
「わかった。猫の人の救出は君たちに任せる」
「ありがたいね」
「でも、君たちが逃げないとも限らないから、人質は残してもらうよ」
さらに意外に、ソーホが抜け目のないことを言った。
「それはまた、信用がない」
「この間、君たちは逃げたじゃないか」
「逃げていない。次の仕事に向かっただけだ」
反論はしてみたが、信じてもらえる様子もなく。
「とにかく、人質はもらうよ」
「人間、信頼は大事だぜ」
言ってはみたものの、人質を出さなくてはおさまらないだろうことは肌で感じた。
(まあ、ドミニオに頼むか)
後方にいるのは常に彼だ。
だが、そのドミニオが肩を掴んだ。
「アイン……」
ドミニオはなにかを言いたげに、苦しそうにアイレインを見つめている。その顔には脂汗が浮かび、たるんだ|頬《ほお》の肉が震えていた。
その目はアイレインになにかを訴えている。
「………死ぬぞ」
それを察して、アイレインは言った。ドミニオは一瞬、その言葉に肩から手を離した。
だが、すぐに掴んでくる。
「それでもだ」
必死の|形相《ぎょうそう》に、アイレインは呑まれた。
「サヤを置いていく」
自然とその言葉が口から出ていた。
「いいのかい?」
ソーホの声に意外な響きがあった。ドミニオはアイレインから手を離し、いまは悄然《しようぜん》と立ち尽くしている。
「かまわん」
「じゃあ、作戦開始は一時間後。それまではのんびりしていていいよ」
「わかった」
ソーホが去っていく。
レヴァになにかの指示を与えるその背中を、アイレインはただ黙って見つめた。ジャニスの姿を模した機械人形に、ソーホは事務的に命令を与えているように見える。
その心の中はどうなのか?
ジャニスの影は、もう振り払ったのか?
脳裏にニルフィリアの姿が浮かんでくる。望んでいた光景がそこにあったというのに、アイレインはそれを喜ぶことができなかった。
足がすくみ、まともに動くことができなかった。
声はかすれ、|眩暈《め ま い》を起こすのではないかと思った。
喜びのあまり、体がどうにかなってしまったのか?
だが、違う。
そうではない。違うはずだ。
時間が経ったいまですら、心の中では衝撃が荒れ狂い、喜びの影すら見えない。いや、嬉しいという言葉はある。ニルフィリアが生きているという事実を歓迎している自分がいる。
それなのに。
「アイン、風邪を引きますよ」
サヤが背後に立つ。その手には傘が握られていた。
気がつけば、霧雨はアイレインの服に知らぬ間に浸透している。髪は重くなり、先から滴が零《こぼ》れていた。
「風邪、引けるのかね、おれは」
「…………」
そう|呟《つぶや》くと、サヤは黙ってアイレインに傘を押し付けた。
広げでも、雨の当たる音はしない。だが、露先《つゆさき》に滴が溜まるのに、そう長い時間はかからなかった。
傘は一つしかない。狭い中、二人は寄り添って河沿いに立ち、ガルメダ市を見つめた。
雨霧の中に都市の光が浮かんでいる。
「ニルフィリアに会った」
その言葉を口にした時、心臓に痛みが走った。
「そうですか」
サヤは向こう岸を見たまま、動かない。
だが、その肩がわずかに震えたのを感じた。
「よかったですね」
「よかった……のか?」
ニルフィリアはエルミを捕らえている何者かの言いなりになっていた。それだけでなく、異民として人間ではない能力を持っていた。
それは、アイレインの望む妹なのか?
異民になっているということは、仕方がない。生きて目の前にいるというだけで喜ばしいことだ。
だが、何者かの言いなりになっているあの姿は喜んでいいのだろうか。
わからない。
ただ、あの姿を思い出すたびにアイレインの心は千々に乱れ、なにをしていいのかわからなくなる。
「わたしは、やはりあなたの妹ではなかったのですね」
「そういうことになるな」
「では、わたしは……」
何者なのか?
ニルフィリアではないということは、おそらく証明できた。
そしてそれは逆に、アイレインがサヤの願望によって生まれたのではないということも証明されたことになる。
なるはずだ。
それなら、サヤは。
(おれの願望から生まれたのか? いや……)
その可能性は、まだ否定しきれない。だが、そうではないと思いたい。
「妹さんを取り戻しますか?」
「それは……そうだな、家に帰してやりたい。親は喜ぶことだろうさ」
だが、あの時から少しも年を取っている様子のない妹を見て、親は喜ぶだろうか。
いまの自分のように、不確かな悩みを抱えてしまうのではないか。
「悪いな、勝手に残る方にしてしまって」
話を変えた。これ以上、ニルフィリアのことでサヤと話を続けるのが苦痛だったのだ。
「いえ、ドミニオさんの気持ちを考えれば、当然のことです」
「そうだな」
ドミニオとエルミの関係は夫婦だ。だが、夫婦らしいと感じる場面をアイレインは見たことがない。エルミの行動に、骨に|眉《まゆ》を寄せているようなイメージしかない。
それでも、ドミニオはエルミのために動こうとしている。アイレインは見たことがないが、エルミの外見はおそらく、異民化によって人間とはかけ離れたものになっているだろう。
それでも、ドミニオはエルミを愛しているというのか。
あんなに苦悩しながらも、自らがエルミを救う道を選ぶのか。
「おれは、なんだ?」
ニルフィリアが生きていたというのに、素直に喜べない。異民化しているからか、敵だろう人物に操られているからか、まるでわからないままに苦悩し、苦悩したままでなにも考え付かない自分は、なんなのか。
「アイン」
「おれは……ニルを見ても、あんな状況だっていうのに、おれは……」
「アイン、いいんです」
その感触。アイレインの手を、傘を握るその手を、サヤの両手が包んでいた。
「サヤ」
「いいんです。アインは、それで……」
雨露が傘の内にいるアイレインたちを濡らす。細かな滴を帯びた手にサヤの両手が絡みつく。
雨が体温を奪い、どちらの手にも温《ぬく》もりはなかった。
だが、重なる肌の触れ会いにアイレインは|安堵《あんど 》と、その奥でなお波立つものがあることを感じずにはいられなかった。
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06 生命と炎
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一時間が過ぎた。
雲はガルメダ市の上空へと流れていき、雨霧で包み込む。
ガルメダ市内に平穏は訪れていなかった。ガルメダ市にある自衛軍が出動し、市庁舎の周りを囲んでいる。戦車の無限軌道が道路を荒らし、重武装の歩兵が軍靴を鳴らす。基地や警察の武器庫、銃砲店の倉庫は全開放され、武器が市民の手に渡り、市民たちは狂騒的な瞳で路地を巡っていた。
もはやその異常さを隠すこともなく、異物を排除せんと殺気立っている。
レヴァの姿は、市庁舎近くのビルの屋上に見られた。
その脳内で、ソーホの声が響く。
出撃前にソーホがアイレインに語っていたものを記録し、再生しているのだ。
アイレインに市内の様子を聞き、推測を述べている。
「おそらくだけれど、この異民たちは普通の人間の暮らしを真似ていたんじゃないかな? いや……うん、そうだよ。そうすると……マフィアがマフィアらしくなかったって言ってたよね? うん、やっぱり、この異民たちはオーロラ粒子を浴びて異民化した、純正のガルメダ市民じゃないんだ。入れ替わってるんだよ」
自分の推測が当たっている可能性が高いと、ソーホの声が明るくなる。それにアイレインは顔をしかめているが、そんなことは気にしない。
「だとしたら、僕の推論が当たっていることになる。ゼロ領域は最初からあったんじゃない。ゼロ領域ができたから絶縁空間が生まれて、亜空間同士の連結が途切れたんだ。ゼロ領域の場所には、かつて亜空間が存在したんだよ。そしてそこに、その空間で生きていた人々の魂が存在しているということになる。問題なのは魂の存在をいまだ実証できていないということだけれど、もしかしたら今回の事件はそれを可能にするかもしれない」
魂。
それは絶界探査計画で消滅したジャニス・コートバックの魂もあの中にあるということなのだろうか?
クラヴェナル市でのフェイスマン事件の|顛末《てんまつ》はレヴァの指令コアの中にはすでにない。ジャニス・コートバックのデータも、ソーホによって自我形成に問題が出ないように取り出され、すでにレヴァの中にはない。
ないと、思われている。
だが、ソーホが思っているよりもレヴァの自己保有本能は進化していた。消された二つのデータは、体組織を構成するナノマシンの中にいくつにも分割されてバックアップされ、いまでは完全に復元されている。
そしてそのデータを再び発見され、消去されないために、レヴァはソーホにその事実を話さず、|隠蔽《いんぺい》している。
自己|嫌悪《けんお 》という感情は、レヴァにはない。命令に背いているという思いもない。ゼロ領域での活動を可能にするためには、製作者の思念を無に近い状態にしなければならない。そのために、ナノセルロイドのマザーシリーズU号機の製作はレヴァに任された。
それと同じように、レヴァは自らの中にあるソーホの思念を消すために自己進化を繰り返している。
それが、ソーホがレヴァたちに求めているスペックだからだ。
ソーホのためにソーホの思念を消す。矛盾した行為に疑問を持たないまま、レヴァはジャニスの記憶を内に抱いている。
(このどこかに、ジャニス・コートバックがいる可能性がある)
クラヴェナル市で彼女を求めて独断に近い状態で行動し、ゼロ領域の中に飛び込んだ。その試みは失敗に終わったが、|諦《あきら》めたわけではない。
「U、V、W、作戦を開始します」
レヴァの声はガルメダ市全域に撒布したナノマシンを通じて他のナノセルロイドに届く。
「マザーU、カリバーン了解」
「マザーV、ドゥリンダナ了解」
「マザーW、ハルペー了解」
「V、V、W、ポーン形成、統括。異民群掃討開始」
「了解」
レヴァの命令に三体は揃って声を返す。
雨霧に変化が起こる。ガルメダ市の各所で放電現象が起こり、その場所から次々と人型をしたなにかが現れる。顔もなく、装飾のない操り人形のように節くれだったそれは、|瞬《またた》く間にガルメダ市の要所要所で集団を形成した。
突然の異形の人形の出現に、市民たちが戸惑いの反応を見せる。
各所で戦闘の火花が散り、雨霧の中に閃光《せんこう》と悲鳴が混じり、吸い取られていく。
現れた人形群は、ポーンと名付けられたナノマシンによって構成されたナノセルロイドたちの分体だ。レヴァを含んだマザーシリーズ四体のような自律思考能力はなく、ただレヴァたちの命令に従う。
いまは、ガルメダ市の各所にいるレヴァを除いた三体がそれを制御し、異民群と戦わせている。
分体といってもその体を構成するナノマシンはオーロラ粒子をエネルギーに変換する能力がある。オーロラ粒子の濃度の高いガルメダ市内では、これほど強力な軍隊もない。
レヴァは三体の制御能力、ポーンたちの動きを観察する。他の三体にしてもポーンたちにしても、これが初陣だ。テストでは現れなかった問題に対処するのは、戦闘経験のあるレヴァの役目だ。
その一方で市庁舎にも監視の目を注ぐ。
市庁舎の前ではポーンたちとガルメダ市自衛軍との戦いが起きている。戦車砲が|咆哮《ほうこう》を上げ、ナノセルロイドの雷撃が夜を切り裂く。
その最中を走る者がいる。
衝撃波の剛風を引き連れて戦場を真っ二つに裂く者と、生まれた空白地帯を必死の|形相《ぎょうそう》で走り抜ける者、二人。
アイレイン、そしてドミニオ。
ニルフィリアがあの中にいると、言っていた。その言葉を、レヴァは聞いている。
アイレインの履歴はレヴァの頭の中にあった。農業地帯で生まれた普通の少年であったアイレインは、妹の消失事件以来問題を起こすようになり、やがて絶界探査計画に志願する。
目的はゼロ領域に消えた妹を捜すためだと。
その妹の名がニルフィリア。
本当にアイレインの妹があの市庁舎にいるのであれば、ジャニス・コートバックがゼロ領域の中で生存している可能性はさらに高くなる。
ソーホにこのことは報告していない。あの事件以来、ソーホはジャニスの名を口にすることはなく、ゼロ領域の中でのことも事実以上の報告を聞こうとはしない。
故に、レヴァもそれについて特に報告する必要を感じなかった。
ソーホが諦めたとして、それでもなおレヴァがジャニスにこだわるのであれば、それはレヴァ独自の思考によるものだ。
完全な自律化は、ソーホの望むもののはずだからだ。
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†
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鋼の暴風が肉を裂き、骨を砕く。
市庁舎のエントランスでは、そこに控えていた自衛軍と正体不明の暴風とが戦っていた。
いや、それはおよそ戦闘と呼ぶことはできないものだ。
暴風は銃弾をものともせず、ガス攻撃を跳ね飛ばし、無情に兵士たちにのしかかり、その荒々つぶしさの中に隠した刃の圧力で切り裂き、砕き、押し潰し、爆砕する。
血臭が辺りに満ち、白々とした照明に照らされていた空間が薄紅色に染まっていく。
暴風が去った時、そこに生者の姿はなかった。
「ふう……」
形すらまともに残していない死体の群れの真ん中で、アイレインは短くなった|煙草《た ば こ》を吐き捨て、肺に残っていた紫煙を吐き出す。
剣に付着した血脂を振り払い、アイレインは背後を見た。
入り口の陰に隠れていたドミニオが姿を見せる。
「大丈夫か?」
「……うむ」
ここまでの疾走で、ドミニオの息はすでに上がっていた。いまにも座り込みそうだが、それを壁に手を当てることでこらえている。その手には巡視官の支給品であり、エルミが改造しているという銃が握られている。
最上階に|辿《たど》り着いた時、その銃爪《ひきがね》を引く体力が残っているのか、怪しいところだ。
市庁舎の外では、ナノセルロイドの分体と軍隊が戦闘している。戦車砲の|轟音《ごうおん》が内部を揺らしていた。
エレベーターを確かめる。スイッチを押しても反応はない。力まかせにドアを開けて確かめると、ケーブルが切られていた。
階段を歩いていくしかない。
「少し休むか?」
「いや、行くぞ」
フラフラになりながら、ドミニオは階段へ向かっていく。
その姿を見れば、アイレインもそれ以上は言えない。黙って、後に付く。
階段は延々と続く。
邪魔する者はなかった。エントランスに詰めていた兵隊たちが全員であったかのように、無人が続く。
三十階、ちょうど半ばに|辿《たど》り着いたところで、ドミニオの足が止まった。
「休憩しよう、いざという時に動けなくなるぜ」
アイレインのその言葉に今度は逆らわず、ドミニオは腰を下ろした。
「無様か?」
荒い息で、ドミニオがそう言った。
「ん?」
「おれだ。こんな姿を晒《さら》すのは、無様か?」
「わからんよ、おれには」
実際、アイレインにはわからない。ドミニオのエルミへの|想《おも》いが。それがドミニオを動かしているのだとはわかる。だが、それ以上はわからない。
その|想《おも》いが、一般的な男女の関係から出来上がっているのかが、アイレインにはわからない。
「おれにだって、わからん」
ドミニオは、どこか投げやりにそう言い放った。
「おいおい」
「わからんものは仕方ない」
いっそ清々《すがすが》しいほどに言い切り、汗みずくの顔を上げて手にしていた銃を放し、手を拭《ふ》き、銃に付着した汗を拭った。
「エルミは、おれの青春だ。巡視官として、熱を入れて働いていた頃のおれそのものだ。この銃はその時のものだ。熱を失ってからは、一度も使ってない」
懐かしそうに目を細め、銃を眺める。
「どれだけのことをしても世界が変わらないというのなら、おれごときの行為でなに一つとして左右されないというのなら……そう思うとなにもかもが馬鹿らしくなった。その横で、エルミは世界に関わることを一人でこなしていたというのだから、よりやりされなくなって、な」
銃を下ろし、ドミニオがこちらを見上げる。
「そういえば、おれの前に巡視官がここに来たはずだが、知らないか?」
「……死んだ」
「そうか」
そう聞いても、驚いた様子も落胆する様子もない。
「若い頃のおれも、あいつみたいな顔をしていた。自分のやることが正義だと、そうすることで都市の秩序を維持し、平和をつくっているのだと。そんな嘘っぱちの正義に踊らされていた。……踊って、踊って、踊り狂っていられればよかったんだがな」
そう|呟《つぶや》くと、ドミニオは立ち上がった。
「さあ、行くぞ」
そして、登り続ける。
五十階に|辿《たど》り着いたところでもう一度休憩し、また登る。
ドミニオの背を見ながら、アイレインは心に重くのしかかるものがあるのを感じていた。
(おれは、ニルと戦えるのか?)
年齢に似合わない|蠱惑《こわく》的な目で人を挑発する。昔から変わらないあの妹に、手にした剣を、あるいはベルトに挟んだ銃を使うことができるのか。
使わなければならないのか?
(あいつが、おれの言うことを聞くわけもない)
昔から、そうだ。
ニルフィリアは、どこかアイレインを馬鹿にした目で見ていた。妹の前に立てば、あの目で見上げられれば、自分が兄であるということを忘れて、みっともなく慌てふためくしかない。
そんな自分の言葉を、ニルフィリアが聞くわけがない。
(無様だな)
妹が目の前に現れて、自分の中に喜びが湧いてこない理由がわかってきたような気がする。
現実が戻ってきたのだ。
ニルフィリアを失った時は、取り乱し、悶《もだ》え、狂うほどに悲しんだ。
その悲しみの内に自分の中での妹への好意のみが純化し、それに付随する兄と妹の関係が失われていたのだ。
それが|蘇《よみがえ》った。
だから、心が乱れるばかりで、喜ぶことができないのだ。
(無様なのは、おれの方だ)
しかし、それがわかったからといって、妹と戦えるわけではない。
戦わない方がいいのだろう。なんとか言葉を絞り出して、あの向こう側から来たアルケミストと手を切らせた方がいい。
(そうすることができればいいが、な)
自信はない。
ないからといってやめることもできない。
ドミニオの足は止まらない。これこそ、アイレインには止められないものだ。
そして、最上階へと|辿《たど》り着く。
アイレインが来た時と、なにも変化がない。
猫は静止画のようになったまま、煙のような状態のアルケミストはそこに漂ったまま、
……ニルフィリアはそこに立ったまま、だ。
「サヤ?」
ニルフィリアを見て、ドミニオが|訝《いぶか》しげにそう漏らした。
「また来たの?」
言葉とは裏腹にそうなることを予想していた顔で、笑みを作っている。
その一言で、ドミニオは目の前の少女がサヤでないことに気付いた。
「妹、か?」
「ああ」
アイレインは|頷《うなず》き、|煙草《た ば こ》を銜《くわ》える。
「ニルはおれがなんとかする。だが……」
「……やるしかないだろう」
小声で言い交わす。ドミニオの声は喉の奥から絞り出され、震えていた。顔中に脂汗が流れる。
雨霧を呼ぶ雲が空を覆っている。オーロラの光は弱くなり、灰色の間が空間に満ちていた。ニルフィリアの姿はその中に埋まりながらも、瞳の色と唇の紅だけは闇を押しのけて自己主張している。
|煙草《た ば こ》に火を点けた。今度は、中ほどを焼くような無様な真似はしない。
「あら、今度は逃げないの?」
前へと出たアイレインに、ニルフィリアは笑った。
「わたしの前だといっつも役立たずになってたお兄ちゃんが、なにをしようっていうの?」
嘲笑《あざわら》う。
その言葉を聞くだけで、アイレインの中で闘志が消えそうになった。腰の辺りから力が抜けるようで立っていることさえおぼつかないような、あるいは昇りすぎた血によって足が宙に浮いているような、そんな不安定感が襲ってくる。
「そうだな、おれはいうだってだめな兄ちゃんだった」
忘れ去っていた過去を思い出しながら、アイレインは前に出た。
「だけどな、時間の流れが決して無駄なものじゃないっていうことを、お前に見せてやる」
「無理よ」
一言だ。それでまた、アイレインはくじけそうになる。
背後で、ドミニオが機会を窺《うかが》っている。なにをする気か知らないが、ドミニオの覚悟の気持ちがその全身から溢れ、アイレインの背中を打っていた。
アイレインはその覚悟にすがるような気持ちで足を前に出している。
「だめかどうかは……」
紫煙を肺に流し込む。背中の器官が回転するのを感じた。右目が、左腕が熱を帯びるのを感じた。
溢れ出すオーロラ粒子が全身に流れ出し、それを器官が吸い上げているのを感じた。
いつもは当たり前のように受け流す感覚の一つ一つを確認し、自分がこれから戦うのだということを短い間に何度も体に承知させる。
「やってみなければ……わからん!」
「わかるわよ」
言いながら、ニルフィリアが後方に跳んで斬撃《ざんげき》をかわした。
その跳躍は、アイレインに比肩する。
「っ!?」
「ふふ、驚いた?」
距離を稼いだニルフィリアは|微笑《ほ ほ え》みながら手を空に伸ばした。
「わたしは、あのナルシストみたいに遠まわしな自衛なんて求めてない。もっとちゃんとした形で力が欲しかったの」
空が突然に裂ける。
裂け目からオーロラ粒子がどっと溢《あふ》れ出したのを、アイレインでさえ感じることができた。
あの裂け目はそのままゼロ領域に通じているのか、溢れ出したオーロラ粒子は水に絵の具を落としたかのように、闇色の糸を引き、ニルフィリアの白い腕に絡みつく。
その間の糸が瞬時に硬化し、数発の巨大な弾丸……いや、砲弾といってもいいものとなった。
「ふふふ、そういうところではやっぱり兄妹なんだね、わたしたちって」
砲弾を放つ。
炸薬《さくやく》もなく、なんの兆候もなく、突然に音速を突破してアイレインに迫る。
避けることはできない。一瞬で背後のドミニオのことが頭に浮かんだ。アイレインは迎撃すべく剣を振るう。衝撃波が助勢して、砲弾を叩《たた》き落とす。
爆発は衝撃波と均衡して、背後に流れることはなかった。
「ふふふ……」
ニルフィリアは爆発の余波で割れたガラスを潜り、外へと出る。
アイレインは追いかけた。
すぐ外は、なんのとっかかりもない直角の壁だ。数階分落下した後、アイレインは壁に剣を突き立て、その上に立つ。
ニルフィリアは、壁に対して平行に立っていた。まるでそちら側に重力がめるかのように、髪にも服にも乱れはない。
「でも、お兄ちゃんの力は、ちょっと即物的すぎるわよね。ねぇ、どうしてそうなったの?」
「知るかよ」
ニルフィリアの背後を見て、アイレインは怖気《おぞけ》を感じた。
どっと吹き抜けるオーロラ粒子のためでもある。
そこには、ニルフィリアを呑み込むにはちょうどいい大きさの穴ができている。ゼロ領域がむき出しになっているのだ。そこから溢れ出るオーロラ粒子のみが、ニルフィリアの髪を揺らしていた。
「わかった。お兄ちゃんはその力で、わたしを腕ずくで物にしたかったんだね」
「……笑わせてくれる」
寒気は、オーロラ粒子や雨露のためばかりではないだろう。
「おれたちは、兄妹だ。なにを馬鹿な」
「そう言って、自分を|誤魔化《ごまか》してたんでしょ。ずっと、ずっとずっとずっと、ずぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっと」
ニルフィリアがやや|顎《あご》を上げ、アイレインを見下ろす。
蔑《さげす》みの目で。
「イライラするのよね。そういうの」
動いた。
ニルフィリアの周囲で糸を引いていたオーロラ粒子が再び形を取る。先端を尖《とが》らせた、投げ|槍《やり》に似たものになると、無数のそれが一斉に襲いかかってくる。
ベルトの銃を抜いた。
剣から飛び降り、落下する最中に柄《つか》を掴む。落下の勢いをそれで消し、足を着けるやビルの壁を疾走した。
槍は軌道を変え、アイレインを追いかけてくる。
後ろ手で銃爪を引きまくる。数本を撃ち落とし、さらに走る。落下しそうになれば剣を壁に突き立てて姿勢を整え、あるいは鉄棒の要領で跳躍し、位置を変えた。
そうしながら銃を撃つ。
いくら撃墜しても、投げ槍は次から次へと増え、アイレインを追尾する。
その後方にニルフィリアはいる。間に無数の槍の雨を置き、跳ねるような足取りで追いかけてくる。
「そうやって、逃げて逃げて逃げて逃げて……逃げ続けて、追いかけてきたくせにやっぱり逃げて、なにがしたいの、お兄ちゃんは!」
「っ!」
わき腹を熱が走り抜けた。心理的な痛みではない。現実の激痛がアイレインを襲う。
一本、抜きんでた速度の槍がアイレインを追い抜いて駆け抜け、前方にあったビルに大穴をあけた。
「無様で」
さらに一本。今度は右肩を裂く。
「見苦しくて」
さらに一本。左足の脛《はぎ》の肉を削る。
「わたしそっくりの人形を手に入れて悦にひたる」
さらに一本。
左手を抉《えぐ》った。小指の側から三本、指が消し飛ぶ。
銃が落ちた。
「けがらわしい」
バランスを崩した。落ちる寸前で剣を突き立てこらえる。
だがそれ以上は、体が動かなかった
槍が迫る。
死を、覚悟した。
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†
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一人残されたドミニオはゆっくりと黒猫に近づいていた。
黒猫の周りに漂う煙が、アルケミストだということはわかっている。エルミも参加していた亜空間増設機を作った科学者集団、アルケミスト。いまは政府の組織としてその名は引き継がれているが、その実態は、亜空間増設機を設計図なしでは組み立てられず、修理すらできないという体たらくだ。
その、本物のアルケミストが、エルミになんの用なのか。
「エルミ、無事か?」
ドミニオはなお慎重に近づきながら、声をかけた。
「ド……ミニ………オ?」
壊れた無線機のようにノイズ混じりの声が聞こえた。
「生きていたか?」
「馬……鹿、ね…………逃げ………………なさい」
「そうは、いかんな。おれはお前の夫だ」
ノイズにエルミのくぐもった笑い声が響いた。だが、それ以上はなにもない。エルミの声がドミニオの耳に届くことはなかった。
「くそっ」
ドミニオは慎重さをかなぐり捨て、黒猫へと走った。人形のように動かない黒猫に迷うことなく手を伸ばし、毛皮に触れる。よく手入れされたなめらかな手触り。サヤが起きている時に、|膝《ひざ》に乗せてブラシをかけていた図を思い出す。
その記憶の想起から生まれたイメージが切り裂かれる。写真を裂くように、ズタズタになる。
「ぬあっ」
いつの間にか、煙がドミニオの体にまとわりついていた。
「……邪魔を、しないでくれるかな?」
耳に息がかかるような距離で声がする。煙からだ。
その煙は気体でありながらまるで粘液のような、ぬるりとした感触を肌に残していく。感触は全身を|這《は》いまわり、ドミニオの体を動けなくさせる。
「リグザリオの夫なのだって? それはとても苦労したことだろう。なにしろこの女、いや、わたしもだが、他人などどうでもいいという人間なのだから」
「ぐぐぐ……エルミを、どうする気、だ?」
「なに、その体が欲しくてね」
「体、だと?」
「そう、ゼロ領域で触媒となってくれたものには、満足のいく体がなくてね。自我を取り戻すのには役に立ったが、その先がいけない。だから、体を求めてここにやってきたのだよ。この都市にいる全員が、ね」
ソーホが言っていた推論は正しかったということか。
「なぜ、エルミだ」
「その知識が欲しいのだよ。わたしがゼロ領域であがいていた時間を埋めるためにもね、まあ、この都市の例から見るに成功する可能性はゼロに近いが、やらないでいるわけにもいかない」
「なるほど、な」
ドミニオは逆らうのを止めた。
止めたと見せかけた。
その体の奥に全力で力を溜《た》め、一瞬動くためだけにその時を待つ。
「なぜ、ここにきた?」
「なぜ? なぜか? |譬《たと》えるならばゼロ領域とは、意識あるままに放り込まれる死後の世界というものなのだよ。黄泉返《よみがえ》りたいと思うことが、それほどおかしなことか?」
「そうだな、その通りだ」
ドミニオは|頷《うなず》いた。
前半部分はよくわからないが、後半部分はよくわかる。
誰だって死にたくはない。
(そうだ、誰だってな)
その瞬間、ドミニオはこのアルケミストが人外のものだとは思えなくなった。こんな煙のような姿でありながら、それでもなお生きているというのにだ。
ゼロ領域の中でオーロラ粒子に肉体を|翻弄《ほんろう》され、それでもなお意識のみが残り漂い続ける。
あの場所とは、そういう場所となっているのだろう。
そこから、這い出してきたのだ。このアルケミストだけではない、このガルメダ市に巣くっている異民たちは、全て。
皆、生きたいのだ。
(おれだって……な)
「よくわかった」
「そうか、では」
「お前にエルミは渡さん」
動いた。
溜めに溜めた渾身の力をふり絞って、煙の束縛を抜ける。全身に痛みが走った。ぬめった感覚はただそれだけのものではなかった。こちらの動きを束縛するために煙が肌から浸透し、筋肉にまで達していたのだ。
皮膚が裂ける。肉が千切れる。激痛が脳を焼き、ドミニオは悲鳴を上げた。
上げながら、それでもドミニオは動く。猫の体を鷲掴《わしづか》みすると、強引に額の宝石を|剥《は》ぎ取った。
ギャンッ!
骨にまで達していた宝石を無理やり剥ぎ取ったのだ、血が溢れ、猫が悲鳴を上げて暴れた。
手を放すと、猫は点々と血の痕を残して、出口に向かって駆け去っていく。
それだけでは終わらない。さらに手にした宝石を、アイレインが割ったガラスに向かって投げた。
力が足りず、宝石は床を跳ね、滑るが、それでもなんとかドミニオの狙い通りに割れたガラス片の|隙間《すきま 》を抜け、落ちていった。
「アインっ!」
その声が届いたかどうか。
はたしてアイレインが無事に回収してくれるかどうか。
それはわからない。
「お前にはやらんよ」
だが、やり遂げた。その|想《おも》いがドミニオの心を満たした。
「エルミは、おれの妻だ」
美しき思い出なのだ。たとえその結末が挫折であろうとも、たとえエルミにとって自分がこの国を巡るための移動手段でしかなかったとしても。
たとえ、エルミがドミニオを愛していなかったとしでも。
世界を左右する能力もなく、その気概もなく、がむしゃらに自分の中の正義感だけを胸に安っぽいムービーヒーローを演じるしかできなかったとしでも。
それは、ドミニオが最も輝いていた時なのだ。
「そうか……それならば、それもよかろう」
煙が、再びドミニオにまとわりつく。
「ぐ、うう……」
全身に再び、なめくじが這うような感触。煙が皮膚を抜け、筋肉に達し、そして神経を侵そうとしているのがわかる。
体が痺れるのだ。
「ならばとりあえず、君の体をもらうことにしよう。なに、しばらく|我慢《が まん》すれば、次の宿主を見つけるよ」
煙が喉を、鼻を使って内部に侵入してくる。口内から脳に侵入する気だ。
「それまで、君の脳組織が無事である保証はないがね」
頭を太い金属で貫かれたような感触がある。冷たく、鉄錆臭く、圧迫される。神経が痺れと激痛に侵される。
頭が痛い。
痛い、痛い、痛い……
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
「ぐあっ、がっ、げっ、ぐぇぇぇぇ」
内臓が痛みで暴れまわる。吐いた。吐きまくった。胃液がなくなり、空気を吐いた。胃が裏返るような感覚。腸が萎《しぼ》んでいくような圧迫。転ぶ。自分の胃液に塗れて転がった。目が飛び出そうになる。視界が赤く染まる。筋肉が反乱を起こす。舌が抜けそうになる。指が逆に曲がろうとする。体が縮んでいく。
「こ、こひぇひゃひょのへあ」
言葉が|喋《しゃべ》れない。
ドミニオは激痛の中で、自分を失っていくのがわかった。激痛は神経が制御者を失って暴れている証拠だ。体を奪われる過程で、この肉体が所有者不在の状態になろうとしているのだ。
アルケミストはなにも|喋《しゃべ》らない。
ドミニオは、脳神経を奪われ考える力を失いながら、必死に考えた。
どうすれば……助かる。
エルミを差し出せば助かるのか、いまからアイレインの手に渡っているかもしれないあの宝石を取り返すことができれば自分は助かるのか。
それを、アルケミストに申し出ればいいのか。
そうすれば、ドミニオは助かるのか。
助かって、それで、それで、それで……
ああ、思考が千々に乱れる。
この痛みは、どうすれば消えるのか?
エルミに押し付ければいいのか?
エルミに、エルミに………………………………………………エルミに?
(ふざけるな!)
火が点いた。
それはおそらく、ろうそくの最後の一瞬。大きく揺らめき、燃え盛り、そして消える。ただそれだけの最後の炎。
その揺らめき。
(エルミに、なにをしてくれやがった!)
腕が動いた。床に転がっていた銃を掴んだ。
巡視官となった時に与えられ、エルミが改造してくれた銃。
その銃を手に、多くのマフィアと戦った。この銃があったから戦えた。エルミが陳腐な正義感に糧を与えてくれた。どうしようもない小悪党どもと戦うしかできないどうしようもない小悪党の自分をマシなものにしてくれた。
その銃を握る。銃爪に指をかける。床に噛《か》みついて暴れる首を固定し、腕を曲げる。
銃口を、こめかみに。
(お前も死ね!)
銃爪を、引いた。
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†
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覚悟した、その時。
その音が耳に届いたと思うのは、おそらく気のせいだ。
その声が耳に届いたと思うのは、おそらく気のせいだ。
言葉の痛みが胸を貫いたと思うのは、幻覚に違いない。
ただ、視界を黒い槍の群れに埋め尽くされたその時に、ほんのわずかな|隙間《すきま 》から、雨霧の間を抜けて、オーロラの光を反射して、一瞬の輝きを見逃さなかったことだけは、事実だ。
それが、どうしてそうなのだと思ったのかは、わからない。
アイレインは、走った。
槍を恐れることなく、その向こうに立つ妹に|懐《おのの》くことなく、走った。槍の雨は体を切り裂き、血しぶきが舞う。
それにかまわず、走る。
追いかける槍が左腕を肘から奪い取っても、走る。ビルの壁面を、重力の手にとらわれて斜めに走りながら、追いかけた。その手に剣はなく、もはや銃もない。空いた右手をいっぱいに伸ばし、宝石を掴んだ。
そのまま壁を蹴って飛び、どこかのビルの屋上に着地する。
手を開いて確認する。黒猫の額にあったものと同じものだ。
「エルミ」
呼びかけたが、返事はない。
足元に槍が突き立った。
「逃がさないわよ。お兄ちゃん」
背後にゼロ領域の穴を従え、ニルフィリアが立つ。
「…………」
無言で、宝石を懐のポケットに押し込み、新しい|煙草《た ば こ》を銜える。体を冷たいものが占めていた。
血を流しすぎたからなのか、それとも妹と戦うことにいまだためらいを覚えてしまうからなのか。
左腕はもはや使い物にならない。
どうする?
「逃げても、もう無駄よ。大人しく死んだら?」
ニルフィリアには殺意がない。だが、殺す気がないわけでもないだろう。
殺す気がなくても、殺せるということか。
どうする?
その問いかけばかりが頭の中で繰り返される。
その先に進めないままでいるわけにはいかない。
一歩、前に進まなければならない。その時が来たということなのだろう。無様に妹を|想《おも》う愚かな男が、妹に対してなにかをしなければならない。
(いっそ、殺されてやるか?)
雨を吸った|煙草《た ば こ》が、ジリっと鳴る。
いまだ戦闘音がしている。戦車砲は鳴り止まない。爆発音は鳴り止まない。
そんな中で、ただ一発の銃声が、アイレインの耳に届くはずがないのだ。
届くはずがないのに、それが届いた。
それは、オーロラ粒子が異常に満ちた空間だからこそ成せる業なのか。
ドミニオの断末魔が呼び起こした業なのか。
死んだ。
直感した。ドミニオが死んだ。エルミを救い、死んだのだ。
アイレインに託して。
「なんて……馬鹿な」
どうして、おれなどに託すのか。こんな、くだらない人間などに託すのか。
「ニル………どうやらそう簡単には殺されてやれそうにない」
アイレインは眼帯を掴んだ。
「そうしてやってもいいかと、一瞬考えたんだけどな」
「へぇ、どうして?」
「馬鹿なおれに馬鹿なことを頼む馬鹿がいた」
眼帯を、外す。
「だからだ」
|茨輪《いばらわ》の十字がそこにある。眼球の黒の部分がそれへと変化した、アイレインの異民の証。世界を|侵蝕《しんしょく》する者の証。
アイレインの前に突き立っていた槍が、消えた。硬質さを失い、まるで気体のように渦を巻いて収束し、そして一つの塊となって、転がった。
|茨輪《いばらわ》の十字を刻んだ球体に、アイレインの右|眼窩《がんか 》に収まった眼球と同じものになる。
「去れ、そうでないとお前の墓標を作ることになる」
「……言うようになったのね、お兄ちゃん」
ニルフィリアの背後で、穴がさらに巨大になった。
溢れ出すオーロラ粒子に|煙草《た ば こ》が反応する。先で立ちのぼる紫煙が、口から吐き出した紫煙が粒子を吸い取って光を放つ。先に灯った赤い火までもがその色を変える。
オーロラ色に。
「でも、わたしにはかなわないよ」
穴から、巨大なものが這い出した。流動体のように流れ出すと足元に溜まり、形を作っていく。
獣の足が生まれ、さらに先が出来上がっていく。四つの足が胴体を支える。ビルの屋上を占領する大きさに、アイレインは隣のビルに退避した。
出来上がったのは、巨大な四つ足の獣だ。狼に似たそれは長いたてがみを炎のように振り回すと、空に向かって大きく口を開ける。
次なる変化は、地上からの光だ。
地上から数個の発光体が現れ、それが昇り、狼の口の中に収まる。
それで初めて、都市を震わせる遠吠《とおぼ》えを上げた。
「なんだ?」
巨大な獣に驚きはしない。だが、その獣が吠えるのと間を置き、光の球のようなものを食らったのが気になる。
獣はその光を目に収めたかのように、初めて眼光を帯びたからだ。
「自我を取り込んだ……だろうね」
かすれた声が胸で響いた。
「エルミか?」
「ああ、やっと、取り戻したよ。空間も、わたしも……」
声には疲労がにじんでいる。
「大丈夫か?」
「そんなことより、あそこにいるのはアインの妹なんでしょう? いいの?」
「……他人の心配よりも、することがあるんじゃないのか?」
「え?」
エルミの声には純粋な驚きがあった。
(もしかして、ドミニオのこと、気付いていないのか?)
だとしたら、それを伝えるのはアイレインの役目、ということになる。
(最悪だ)
心の中で|唸《うな》り、アイレインは獣に目を向けた。
「……自我って言ったな? どういう意味だ?」
「そのままよ。あの子は、オーロラ粒子を凝縮させて物をつくる。そういう能力なのでしょうね」
「そうだな」
その部分はサヤに似ている。サヤは体内のオーロラ粒子を使うのに対して、ニルフィリアは絶縁空間を裂いてゼロ領域から引き出しているところが違うくらいか。
それはつまり、つくり出せるものの規模の違いも示しているのかもしれない。
「だけれど、無機物をつくるのなら問題はないのでしょうけれど、あんな有機的なものをつくろうとするなら、自律神経的なものもつくらなければいけない。それは銃をつくるよりももっと専門的な知識を必要とする。だからそれを簡易化するために、他人の自我を奪って代行させたのでしょうね」
他人の自我……
「異民のか?」
「そういうことになるわね」
「無茶苦茶だな」
自分たちとともにゼロ領域の苦境から抜け出した仲間の自我を、そんな簡単に使ったのか。
「昔から、他人を利用することばかり考えていた奴だからな」
それなのに、そうとわかっているのに見限ることができない自分は、ひどく利用しやすい人間だったのだろうな。
|自嘲《じちょう》の笑みを瞬時に切り替えて消す。
獣が動いた。
体を縮こまらせるようにして力を溜め、跳躍する。
ただそれだけで、獣のいたビルが崩れた。
「本当に、無茶苦茶だ」
まっすぐこちらに向かってくる獣に、アイレインも跳躍して退避する。着地した勢いで、そのビルも倒壊を始めた。
獣が崩れ始めたビルから再び跳び、倒壊にとどめを刺す。
|咆哮《ほうこう》しながら、獣がアイレインを追ってくる。
獣は、その巨体の重量によるビル崩壊以上の影響を周囲に振りまいていた。
オーロラ粒子の急激な増加という影響だ。
すでに常人の許容限界以上に粒子が満ちていたガルメダ市内に、さらなる濃密なオーロラ粒子が振りまかれる。
「オーロラ粒子増加量、危険域に到達。U、V、W、フィルター展開、変換効率五十パーセントに変更」
粒子の増加が、あの獣……ひいてはその獣が現れる要因となった異民ニルフィリアにあることを、レヴァは察知している。マザーシリーズに指示を送りつつ、自分も戦闘に参加すべきかを考える。
純粋なオーロラ粒子の塊であるあの獣を放置するのは、危険かもしれない。
ソーホに判断を求めようとしたが、市内に撒布してある通信用のナノマシンたちは、すでに不調を示し、いくつかはすでに死滅していた。
通信音声に混じるソーホの感情に粒子が反応したと判断。以後、基本命令をもとに独自に判断することを決定すると、レヴァは改めて周囲の情報を収集した。
獣はアイレインを狙って、ビルの上を跳ねまわっている。
防戦一方のように見えるが……
「援護に回りますか?」
マザーU、カリバーンが獣に一番近い。レヴァ以上に戦いの様子が見えているに違いない。
「いえ、わたしたちは異民群の掃討に従事します」
だが、レヴァの判断は獣を放置することを選んだ。
アイレインの戦闘能力をこの中で一番知っているのはレヴァだ。その判断の根には、彼がスペックを十分に活かした戦い方をしているように見えなかったというのがある。
なにかの策を用いているのか、そうであればいま加勢することは邪魔になるだけかもしれない。
そう、考えた。必要なら、アイレイン自身がなにか言ってくることだろうし、こちらの戦場に無理やり誘導するような真似をしてくることだろう。
なにより、レヴァにはもう一つ、|危惧《きぐ》すべきことがある。
レヴァを除いた三体のマザーシリーズはこれが初陣であるということだ。レヴァの戦闘経験を引き継いでいるとはいえ、高濃度のオーロラ粒子内での戦闘はそのレヴァでさえ暴走を余儀なくされた。引き継がれた戦闘経験を十分に活かしているのかどうかも怪しいマザーシリーズたちは、その上でポーンという新兵器を使っている。
注意すべきなのは、味方の方だ。
「U、V、W、ポーンの変換効率に注意を、保有エネルギー値を一定化、余剰値破棄の徹底化を」
「V、ドゥリンダナ。ポーンの接続率に異常発生、現在七十パーセント」
「W、ハルペー。同様の現象を確認。現在、八十パーセント」
「U、カリバーン。同様の現象自確認。現在、九十パーセント」
「接続異常のポーンに注意」
予想が当たった。
通信用ナノマシンの異常は、ポーンの制御にも影響を与える。三体からの報告は続き、接続車は下がり続ける。
レヴァは広がっていた戦線を縮め、ナノマシンを濃密化させて接続率の回復を図った。命令への反応が鈍いポーンは放棄する。
全体で、およそ三割以上のポーンを見捨てたことになる。
変化は、見捨てられたポーンたちが起こした。
人型を保っていたポーンたちが、突如、その形態を放棄した。
その背中から翼が生える者がいた。足が融合し、半蛇半人のようになる者がいた。手足が裂けて虫のような多足になる者がいた。獣面となる者がいた。なんと形容してよいかわからぬ者がいた。形を維持することを放棄して、四散する者がいた。
そのまま機能不全となって動かなくなるのであればいい。しかし、異形化したポーンはエネルギー変換を止めぬまま、半ば暴走状態で辺りかまわず破壊を始める、その破壊対象には味方であったポーンも含まれていた。
同士討ちしながら、それでもレヴァは戦闘を展開させず、ひたすら接続率を回復させる場まで退かせた。そうでなければ、暴走するものがさらに増えたことだろう。
戦線の混乱を最小限にすることに、レヴァも他のナノセルロイドたちも集中しなければならず、結果、アイレインに援護の兵を回すことは不可能となっていた。
アイレイン自身、そんなものを期待してはいない。
「どうしたものか、一気に侵蝕できるか?」
追ってくる獣を見ながら、アイレインは倒す方法を考えていた。
本体を晒した時のフェイスマンを倒すのにも時間がかかった上に、結局は無駄な努力に終わった。周囲のオーロラ粒子を利用して、再生を行うためだ。おそらくはこの獣もそれぐらいはできるだろう。
倒すなら一撃、そうでなくとも時間をかけない方がいい。
ニルフィリアはそれを知っていて、この大質量の獣をつくり出したのか。
「それは違うんじゃない?」
エルミの声は、|次第《し だい》にクリアに耳に届くようになっていた。
「見たところ、年は外見と同じようなものでしょう? それなら、そう老檜《ろうかい》なことはできないわよ。大好きなお兄ちゃんに反抗されて、腹を立てて、自分の全力を出したというところではないかしら?」
「どうして、そう言い切れる?」
話しながら、アイレインはビルからビルに跳んでいた。
それを、獣が追いかける。獣が着地するたびにビルが崩れ、辺りには轟音が響いていた。
「見てみなさいな、あの子の背後」
ニルフィリアの姿はすでに遠くにある。だが、アイレインの強化された視力はそれを見ることができた。
「む……」
「ね?」
「そうだな」
エルミの言いたいことはわかった。
ニルフィリアの背後に、あの穴がない。
「総量の限界ってのがあったんだな」
「一度に使える限界量でしょうね」
「欠ければ、増やせるか?」
「さあ、そこまではやってみないと」
「なら、やってみるまでだ」
話は決まった。
アイレインは再び跳ぶ。だが、今度は別のビルにではない。
上に向かって跳んだ。
下では獣が着地をし、ビルを崩している。アイレインの体は跳躍の限界を迎えて、落下へと変わる。
獣の背中に落ちた。
針のように硬い毛がそこに生えている。普通の犬なら指一つにも満たない長さだろうが、この大きさともなればアイレインを呑み込むほどある。
ノミにでもなった気分だ。
鼻が痛くなるほど無臭の獣の毛に揉《も》まれながら、アイレインは右目を光らせた。
次の瞬間、動きを束縛していた毛が消えた。
辺りに、眼球が散らばる。
「やはり一度は無理か」
その声にエルミは答えてこない。
アイレインは再び目を光らせ、視界にある獣の体を侵蝕した。|茨輪《いばらわ》の十字を刻んだ眼球はその場に溢れる。
悲鳴や咆哮は上がらない。ただ、獣はアイレインが自分の背中にいることに気付いて、ガルメダ市内を走り固り、暴れまわった。
無事な右手で足元の肉を掴み、落ちないように耐える。その間も侵蝕は続ける。
眼球は次々と生まれ、バラバラと辺りを跳ねまわる。
出来上がったばかりの一群が、アイレインに向かってなだれ込んできた。
それをあえて受けた。
予感があった。
いつもは生み出すだけで放置していた眼球だが、今日はなにかが違う気がした。それはあるいは、ガルメダ市に来る前、未来を見ることを願った男の眼球を手元に残した時からあったのかもしれない。
なだれ込んできた眼球の波がアイレインを呑み込む。
だが、ガラス玉のように跳ねまわっているというのに、体に当たっても痛みはない。
そうではない。当たっているのではなく、アイレインの体に吸い込まれているのだ。
(おお……)
声にならず、アイレインは|唸《うな》った。吸い込まれた眼球はアイレインの中で形を失い、元のものとなる。獣の肉片ではなく、さらに原初、オーロラ粒子となって体内を巡る。過度のオーロラ粒子はアイレインにとっては危険だ。エルミの器官が大量の粒子をエネルギーへと変換できず、異民化の侵蝕が起こってしまう。
だが、今回はそうならなかった。一度眼球化しているためか、それは純粋にアイレインのためとなるエネルギーへと素直な変換を遂げたのだ。
もはや痛覚すらも|麻痺《まひ》しようとしていた左腕が熱を帯びた。熱は見る間に存在していないはずの腕の先へと広がっていく。
幻肢痛かとも思ったが、そうではない。
左腕が復元している。指先の感覚がある。
動く。
それだけではなく、普段以上の力を感じる。
しかも、それで終わりではない。アイレインの右目は獣の侵蝕を続け、眼球は次々と生まれる。
すでに、獣の四分の一ほどを侵蝕し、眼球がそこら中に満ちていた。
それらが次々とアイレインに向かって来、その体に溶け込んでいく。
力が次々と注ぎ込まれる。
もはや左腕だけにとどまらず、全身に流れ込んでいた。
爆発するのではないかと思うほどだ。
実際、この時のアイレインは過剰なエネルギーで発光していた。細胞の一つ一つにそれが満ち、光っていたのだ。
骨を透かすような光を放ちながら、アイレインはさらに侵蝕し、そして吸収する。
食らっている。そう言ってもおかしくはない。
獣は体積の減少によってその巨大さを保てなくなり、サイズを変える。だが、アイレインの侵蝕は止まらず、獣は小さくなり続けるしかなく……最後には本物の犬ほどの大きさにまでなり、眼球の小山となって、消えた。
ニルフィリアはその間、動かなかった。
獣を消し去り、その身を発光させてアイレインは妹の姿を探した。
すぐに見つかった。最初に倒壊したビルの隣にいた。ありあまったエネルギーがアイレインの視力をたすけ、離れているというのにすぐそばにいるような感覚を与えるほどはっきりと目にすることができた。
ニルフィリアは悔しげに唇を噛んでいた。憎悪がその瞳を激しく燃やしている。リリスを見た時にも思った、美しいということは激烈なのだ。激しい憎悪は裏切りと怒りで|彩《いろど》られ、アイレインにいまにも跳びかかって来そうだった。
だが、ニルフィリアはアイレインに背中を向けると逃げに入った。
「ニルっ!」
アイレインは叫んだ。その叫びにどういう意味があったのか、自分自身でも区別できない。逃げる敵を止めようとしたのか、去る肉親を引主戻すためにだったのか。
アイレインの足は、動かなかった。
「いまは、諦めなさい」
エルミがいたわる声でそう言った。
「なぜだ?」
自分の体からの光が薄くなっていくのを感じていた。あまりにも膨大なエネルギーを肉体が保有しきれず、溢れ出している。そのための発光現象だ。発光という形を取らぬままに流れ出すものもあり、アイレイン自身が戦う気を削《そ》がれたこともあって、保有する努力も失われたエネルギーは時を置かずに消えうせた。
熱として放射されなかったということは、元のオーロラ粒子となって宙を漂っているのだろう。
「そんなに簡単に、人の心は変わらないわよ」
エルミは端的にそれだけを言った。
アイレインは黙って|頷《うなず》くだけで返した。
「とりあえず戻りましよう」
エルミの提案にすぐに答えられない。
ドミニオのことをどうするか。いますぐに話して、遺体と合わせるのが正しいだろう。だが、死んだと思っているのはアイレインの直感だけのことであって、もしかしたらそうではないかもしれない。
行って確認すればいいだけの話なのに、それができない。
「どうかした?」
エルミの|怪訝《け げん》な声に、アイレインは口を開きかけた。
その時だ。
(たすけて!)
いきなり、その言葉がアイレインの脳裏で弾《はじ》けた。
体験がある。最初にエルミの黒猫に近づいた時にも、こんなことがあった。
だが、今回は強い。脳裏で弾けた言葉には、肉声が伴っていた。
その声色は、間違いなくニリスのものだった。
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エピローグ
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反射的に、アイレインは跳んだ。言葉にはそれだけの力があった。体内に残ったエネルギーの|残滓《ざんし 》が跳躍に力を与える。普段以上に跳んだ。その力の制御に困るほどだ。
「なんだと思う?」
脳内の声はエルミにも届いていた。アイレインは双子のことを説明し、その能力について話した。
「双子が感覚を共有するっていうのは聞く話だけどね」
エルミの|喋《しゃべ》り方は、それを信じていなかった。
「異民化した上での能力なら、さてどうでしょうね。なにより、双子の感覚共有というものに、わたしは懐疑的だし」
「なぜだ?」
「感覚を共有するだけなら、双子でなくてもいいからよ。音叉《おんさ》のように共鳴するというのなら、確かに双子の方が発現率は高いだろうけれど、人というのはたとえ双子でも成長していけば個人差が出てくる。共鳴するための説得力としては、少し温《ぬる》いわよね」
わかったようなわからないような、そんな気分だ。
「それより、どうしてその子を助けなければいけないわけ?」
「さて、なんでだろうな」
改めて聞かれると、よくわからない。
「まさか、サヤちゃんを捨ててその女に走ろうなんて……」
「どういう思考展開だ」
「男と女が動けば、まずそれを疑われる。なにより、性的動機は生物を一番簡単に動かす方法だと思うけれどね」
そうかもしれない。
だが、ニリスに対してそういう意味での好意を感じているとは自分でも思えない。確かに美人だ。最初は嫌われていたようだが、最後の方では打ち解けていた。それは本当に闇の中で手を繋いだほんのわずかな時間だけのように思うが、それでもその時にはアイレインは心を許していたように思える。
「……ふうん、本当にそうじゃないんだ。なら、どうして?」
「そうだな。もしかしたら……」
もしかしたら、彼女らが異民だとわかったからではないだろうか。
「同族意識?」
「かもしれん。生き難い性だからな、仲良くなれる奴とは仲良くしときたいのかもな」
自分の感情の正しい意味なんてわかりはしない。
ニルフィリアに抱いていた感情。失った後の感情。再会した時の感情。根本にあるものは一つのはずなのに、三つの状況が自分に異なる行動を起こさせていたように思う。
ただ、いまは脳内を雷のように激しく駆け抜けたニリスの叫びを無視できないと感じたことだけに集中するしかない。
そうすればニルフィリアのことを忘れることができる。
おそらくはそれが真実に最も近い答えなのかもしれない。いまは、ニルフィリアに付随するものに触れたくない。
そしてだからこそ、この後、アイレインは後悔を胸に刻まなくてはならなくなる。
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†
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そこは、戦場だ。
いや、市内で戦場ではない場所がどこにあるだろうか。
ガルメダ市民全てが、ゼロ領域から訪れた異民であった。都市の向こうから訪れたのは、その異民を排除するために存在する組織。
二つが衝突するのは当然の帰結であり、そのためにソーホたちはここにいる。
ナノセルロイド。ソーホの兵器。その分身たちは無情な戦闘力を駆使して異民たちを排除していく。一時は高濃度のオーロラ粒子により暴走したものも出たようだが、いまは落ち着いている。
だが、その暴走したナノセルロイド、ポーンたちは本来の人型を失ったまま、正常化する様子はない。マザーであるレヴァたちは暴走したポーンたちを異物として扱い、すでに制御を放置しているため、暴走状態のまま機能力安定化してしまっている。敵味方の区別なく、動くものに襲いかかる。
それがまるで、そのものの本来の性質であるといわんばかりに、この短時間で独白の成長変化を遂げて、さらにその姿を奇怪に染めていた。
その様相を、アイレインはビルの上から眺めていた。
ニリスの声とともに送られてきた位置はこの辺りだった。
「ひどいなこりゃ」
「レヴァの時と同じようなものね。ただ違うのは、あれらには自律的な思考能力がないから、厳密には異民化ではないということかしらぬ」
「ん?」
「見るに、自己増殖させたナノセルロイドをあのレヴァとかいうのが統括して制御しているのでしょう」
「レヴァだけじゃないけどな」
「ああ、増やしたんだ。ま、とにかく、そういう司令塔的役目を果たす存在に思考の全てを任せているのだし、なにより大量生産によって人の思惟《しい》が介在する余地をなくしたものを媒体としているのなら、異民化ができるわけもない。あれは、単純にエネルギーを供給しすぎたことによる暴走よ。ああ、でも……!」
「なんだ?」
「いえ……そういう可能性まで考えてたらキリがないわね。とにかく、戦闘することのために自己進化を続ける、そういう命題をもって暴走しているのでしょうよ」
「|厄介《やっかい》なことだ」
「試験運用も兼ねてるのでしょ? それなら事故はつきものよ。どちらにしても廃棄するつもりだろうから、どうなったっていいでしょうしね」
「ああ……」
その言葉は納得できる。
もはや、このガルメダ市には普通の人間は存在しないだろう。
そうなってしまった亜空間を放置するのは、危険だと判断されたとしてもおかしくはない。
「なら、ここから逃げる算段をしないとな」
「そのためにはサヤちゃんとうちのを引き上げないと。うまく立ち回ってればいいんだけど」
「……ああ、そうだな」
気まずい気分を呑み込み、アイレインはニリスの姿を探した。悲鳴と銃声だけはそこら中でしている。
ここには暴走したポーンしかいない。他のポーンたちは戦況が混乱するのを嫌ったのかここにはいない。そして、動くものに手当たり|次第《し だい》に襲いかかる暴走したポーンたちは、結果的に初期の命令に従う形となって異民たちを食い荒らしている。
まさしく、食い荒らしている。
そこら中に人の粉々になった死骸《しがい》があり、血が散乱している。臓物臭は吹き荒れる風の中をひとかたまりになって吹き抜け、きな臭さと交互に鼻孔を刺激した。
それは野生の獣のような食い方ではない。柔らかな内臓から食うという法則性はなく、まさしく噛んだ場所を食いちぎるという荒々しさだった。
「全体制御する母体を失っているだけに、自律統御が難しいのかしらね。だから生物を食べて、その機能を学習しているのかも」
エルミがそんなことを言っている横で、アイレインはニリスの姿を探した。抵抗の気配はすでに弱い。オーロラ粒子をエネルギーに変え、人体を食らって自らの体を生物へと近づけようとする機械たちは、|容赦《ようしゃ》なく異民を食らい続けている。
その体に銃弾は意味をなさない。その破壊力は密度の高いボディによって塞《ふさ》がれ、その損傷は体内にめり込んだままの銃弾を分解・再構成することによって補充される。
足りなければ、食った人肉がそれを|補《おぎな》う。
銃弾程度の破壊力では、殺すことはできない。
あの、脳を震わせるような声はもうしない。死んだか、そう思った時、アイレインは抵抗を続ける一群の中に美しい双子の姿を発見した。
周囲を武器を構えた男たちに守らせ、双子はお互いを支え合うように抱き合っている。その顔は|煤《すす》に汚れ、それがいっそう、この双子に現在の状況に即した美しさを与えていた。
名付けるなら、悲劇か。
「助けて、どうするの?」
「それは、後で考えるさ」
思考の放棄を宣言して、アイレインはビルから降下する。
暴走ポーン……異獣とでも名付けるか、それはアイレインを見つけるや襲いかかってきた。
アイレインの手には剣しかない。その剣を|容赦《ようしゃ》なく振るい、衝撃波を生み出す。サヤの生み出した剣は高密度の異獣の体と硬度を競っても負けることはない。刃こぼれひとつ見せることなく、異形の生物を切り捨てていった。
「アイレイン………さん」
ニリスの信じられない瞳がこちらを見ている。その隣でリリスが憎悪を向けていた。まるで鏡を置いているかのような相似形だ。表情を除けばの話だが。
「逃げ道の確保もできなかったのか?」
「うるさい! 敵のあんたに助けてもらうなんて………」
「姉さん」
噛みついてくるリリスを、ニリスがたしなめる。
「ありがとうございます」
「で、どうしたいんだ? アルケミストの所に行きたいっていうなら、無理な話だぞ。場所はわからん」
余裕のある状況ではない。結論を急がせる意味でそう言った。
「とにかく、脱出を」
「ま、それぐらいなら手伝うさ」
「冗談じゃないわ」
だが、それでもリリスはアイレインに対して拒否の姿勢を見せる。
「さっきの戦いを見てたわ。あんた、イグナシスの敵なんでしょ。そんな奴に助けてもらうわけにはいかない」
リリスの態度に、ニリスは困惑を見せる。
「どっちだっていいぜ。おれは……」
それはアイレインの包み隠さない真実だ。
「お前らを助ける義理はない。ギャラだってまだ貰《もら》ってないからむしろ貸しがあるぐらいだ」
ニリスは息を呑《の》んで事態を見守っている。リリスはさらにアイレインへの敵意を燃やそうとしている。
双子でも、本当に相似形というわけではないようだ。ニリスは助けを求め、リリスはそれを拒絶している。
その二人を守るように囲む、おそらくはマフィアの生き残りだろう男たちは表情を殺したままでいる。まるで感情などないかのように。
いや、本当に感情がないのかもしれない。ゼロ領域から飛び出した人格らしき者たちは、この双子やニルフィリアのような一部の例外を除けば、|憑依《ひょうい》した肉体の人生をなぞるだけの機械のようなものにしかなれなかったのかもしれない。
だが、憑依した肉体の脳に込められた記憶を読むことはできないから、『こういう人間はこういう行動をするらしい』という、小説やドラマで表現される役割の真似事しかできないのかもしれない。
たとえ自我があったとしても、それを表現することのできないほどの弱さしかない。敵対していたマフィアのような一部の者だけが、多少の自我を発露できていたに過ぎない。
ここにいるのはそうでない者たちなのだろう。だから、本来の人格を余すことなく取り戻している双子を、いまだにマフィアのボスの娘という立場で捉《とら》えて、命令に従っているに違いない。
(さっさと逃げ出した方が生き延びる可能性があったと思うんだけどな)
それもまた万分の一ぐらいの可能性かもしれないが、ここでナノセルロイドたちが攻撃を始めるまで待っていた時よりも生存率ははるかに高い。結果はいま眼前にある通り、ナノセルロイド側が不完全な状態にあったというのに、一矢も報いていない。
双子の言い争いはまだ続いている。
「もういいっ!」
口論を切り捨てたのは、リリスの方だ。
「姉さん!」
「そんなに行きたいなら、あんただけで行けばいい。それができると思ってるならね」
リリスが背を向け、歩き出す。それにマフィアの男たちが全員従う。
誰も、ニリスを護《まも》ろうとはしない。
「あっちの方が人望なさそうだけどな」
「そういう問題ではないんです」
ニリスの背中に語りかけると、彼女は苦笑しながら振り返った。無理をした笑い方は本当に苦いものを含んでいる。
「わたしは、偽物ですから」
「ふうん」
聞けば深い理由が返ってきたかもしれないが、その時間すらも惜しい。
「見な」
顎をしゃくって、ニリスに空を見るように促す。
「…………え?」
ニリスはその変化に気付いていなかった。
「わからなかったか?」
「わたしの能力は、リリスとシンクロしていないとほとんど使えないので。さっきから……」
つまり、アイレインに助けを求めた時から、ニリスはなにもできないようになっていたわけか。
「それは、リリスもか?」
「はい。わたしたちはそういうものなんです」
言葉の意味は理解できない。
二人が見る先、空には変化があった。
市庁舎上空から四方八方に、まるで空がひび割れたかのように広がっていたオーロラが|歪《ゆが》んでいるのだ。
その光景はまるで、空にモザイクがかけられているかのようだ。
「空間破棄が決まったかな?」
「決まったとなれば、破棄は簡単だものね。自壊させる装置は外付けで取り付けられているし、あとは遠隔装置でボン」
アイレインの胸元から聞こえてきた女性の声に、ニリスが目を丸くしている。
「時間は?」
「この様子だと三時間ほどじゃないかしら?」
三時間後には、ここは三次元的に消滅する。取り残されることとなればゼロ領域の中ということだ。
「ということだそうだ」
「え?」
「この空間は、ガルメダ市はもうすぐ消滅する。無事なナノセルロイドどもは退却するだろう。残るのは暴走してる連中だけだ。逃げやすくはなってるな。いまのうちにリリスと仲直りして逃走ルートを見つけた方がいいんじゃないか? おれの手助けはもういらんだろう?」
さきほどの異獣を倒したことで、とりあえずの危機は脱することができた。アイレインの役目はそれで終わりだ。これ以上深入りしたところで、しょせんはあのアルケミスト、イグナシスに肩入れする連中だ。
アイレインの有利になることはないだろう。
「でも……」
ニリスは動かない。
逆にアイレインに一歩近づいた。その瞳はアイレインに視線を注ぐ。
「あなたも、一緒に」
そこに込められた熱に、アイレインは心の中でたじろいだ。顔には出ていない。出していないはずだ。
気付いている様子を見せてはいけない。ニリスの気持ちに気付いているようには。
「一緒に来ては……」
さらに一歩。ニリスの手がアイレインの|頬《ほお》に触れた。この一夜のおかげで無精鬚《ひげ》が目立ち始めた顎をニリスの柔らかい手が撫《な》でる。
それは、空を|彷徨《さまよ》うように弱々しい動きだった。
銃声が、したからだ。
熱に濡《ぬ》れた瞳が急速に乾く。中途半端に開いた口が息を零《こぼ》し、舌の上で転がっていた言葉をアイレインが聞くことは、二度とない。
ニリスの胸を貫いた銃弾はアイレインの脇を掠《かす》め、熱を残してどこかに消えた。
去ったはずのリリスが、妹の背後に立っていた。
その手には、両手でしっかりと銃が握られている。外すものかという気負いが燃える炎のように|美貌《び ぼう》に宿されていた。
ニリスの体がアイレインの胸に収まる。
「なにを考えている?」
それだけを口にするのが、精一杯だ。
「鏡のくせに」
リリスはそう零す。憎悪の瞳を妹の背に向け、アイレインをまるで見ていない。
「鏡のくせにわたしから離れるなんて、どういうつもりよ!」
そう叫ぶと、リリスは走り去っていく。
追いかけようとしたが、よりかかるニリスの体がそれをさせなかった。
「いいんです」
ニリスの声に苦しげなものはどこにもなかった。
確かにその瞬間を見た。胸が裂け、布地がアイレインの前で飛び散るのを見た。銃弾の影を見、それが脇を駆け抜けた痛みは、いまだアイレインに主張している。
なのに彼女の胸からは血が一滴も溢れ出てはいない。
「あんた……」
「そうです。わたしは、生き物ですらありません」
ニリスが悲しげに笑みを作った。出会った時から硬く強張《こわば》り、アイレインには見せたことのない笑みがそこにある。
もしかしたら、手を繋いだあの闇の中ではこの笑みから悲しみを取ったものが浮かんでいたのではないか、そう思わせるものがそこにある。
「わたしは、リリスの鏡です」
「なぜ……?」
「リリスは自分に自信のある子なんです。自分以外はなにもいらないんです。できることなら、他人なんていらないくらい」
ニリスはもう、『姉さん』とは呼ばなかった。
「なるほどね、強力なナルシストということかしら? それならゼロ領域の中で自我を保つことは難しくないかもしれないわね」
欲というものはつまり、自分を中心とした周囲との|繋《つな》がりから生まれてくる。自己の環境に対しての不満、その精神的抑圧に対して解放を望む。意識しているかどうかの可否は関係なく、その感覚は個人の行動原理に繋がる。
それが潜在的欲求。ゼロ領域が最も過敏に反応するものだ。
「自己の存在以外を否定するのなら、それはあの場所ではとても実現しやすい願いのはずだもの。構築される世界も単純。崩壊する可能性は低いわね」
「はい。そして生まれたのがわたし。リリスが自分自身を確認するための鏡である、わたしです」
「自分を確かめること。それ自体が世界を確認することに繋がる。それがあの娘にとっての世界。こちらに戻ってきた時に現出した能力が広域走査能力だったことも、それで説明がつくかもしれないわね」
鏡を見ることで世界を確認する。
「まるで、白雪姫の継母《ままはは》ね」
エルミの|譬《たと》えが面白かったのか、ニリスが小さく笑った。
「それなら、アイレインさんの妹は白雪姫ね。彼女の美しさにリリスはショックを受けて、憎んでいるもの。あなたへの敵意もそう。巡視官の回し者だったことなんかより、そのことに怒っていたから」
「だけど、サヤがそばにいたぜ」
出会った時からサヤはそばにいたし、ずっと行動を共にしていた。
「リリスはきっと、見ていなかったわ。あの子は、見たくないことは見ないままですませられるから。だけど、わたしは違うから、だからずっと、気にしていました」
自己を最大限に肯定する者はその根源を揺るがすものを恐怖する。それに対処する方法は二つ。
徹底的に敵対するか。
徹底的に存在を無視するか。
リリスはそれを行った。だが、リリスが無視をすればするほど、|真逆《まぎゃく》を映すニリスは無視できなくなる。
だから、ニリスはアイレインを警戒していたのか。
「でも、そのうちわたしは、あなたのことを……」
言葉を切った。だが、ニリスはこちらを見ようとはしなかった。胸に額を当て、じっとアイレインの心音を感じようとするかのようにしている。
「そのことも、リリスは気に入らなかった。リリスはわたしを見、わたしはリリスを映しているだけでよかったはずなのに。わたしは、鏡に映る逆さまのリリスとして、あそこにいればよかっただけなのに……それができなくなっていました」
リリスにはない使命感や|生真面目《きまじめ》さは、そのためなのか。
ニリスが顔を上げた。
水気を含み、溢れそうな瞳で。
その瞳にアイレインを映して。
「わたしはもう、わたしでいることはできません。ただの鏡としてリリスを映すだけのものとなるでしょう。でも、その前に……」
わたしが、わたしでいたことの証を。
迫る白磁の美貌を避けることは、アイレインにはできなかった。
重なる唇は、冷たさしか伝えてはこなかった。柔らかさはそこになく、硬い抵抗が唇を|潰《つぶ》したような気がした。
鏡にキスをするような。
唇が離れる。
ニリスは涙の粒を|頬《ほお》に走らせながら、精一杯の笑みを浮かべてアイレインを見ていた。
それに、アイレインは笑うことはできたか。
なにかが、できたか?
「さようなら」
瞬間、アイレインの腕から、体から、彼女の重みは消えた。夜の中、わずかな光を反射して、それは数百数千の鏡の破片となって四散し、風に飛ばされるようにリリスの去った方角へと流れていく。
アイレインはそれを、ただ見ているしかできない。
見送るしかできない。
幾百の鏡の破片は、星のようにきらめきながらアイレインのもとを去っていった。
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†
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自壊の決断はソーホに託されていた。アルケミストに所属してはいるが、ただの個人であるソーホに三千万からの人間の命運が託されていたのだ。
だが、首都政府にとってみれば、たかが三千万でもある。全ての都市を足せば、この国には十億人以上の人間がいる。そして一つの都市が失われたとしでも、それが他の都市に致命的な問題を起こすわけではない。
それぞれの都市がそれぞれの生産能力で完全な自給自足を可能にしている現在、都市は外側の世界の興亡をそれほど重要視しない。
だが、手にした物が壊れることは許せても、その手から離れることは許さない。そういう人種がいる。
それが首都政府の高官たちだ。
だからこそ、巡視官に軍出動を要請できる権利を、ソーホに亜空間増設機の自壊ボタンを簡単に与えてしまえる。
ソーホはそれを押した。
押すのを|躊躇《ちゅうちょ》したのはほんの数秒だ。
だが、その前にレヴァたちに無事な市民が生存していないかを徹底的に調査させた。
いない、とわかったから押せたのだ。
絶界探査計画でアイレインを始めとした無数の志願者たちを腑分《ふわ》けしてきたその手も、|無辜《むこ》の民を殺すことにはためらいを覚えた。
それに苦笑いをするような感覚は、ソーホにはない。
だからこそ、ソーホはその瞬間にどうして|躊躇《ちゅうちょ》したかについてすぐに答えを見出《みいだ》すことはできなかった。
(自壊の予兆を確認)
復帰した通信が、レヴァの声を届ける。
「三時間以内に、最低でもマザーシリーズと検証サンプル用のポーンを撤退させて。こちらはもう撤退させてもらうよ」
この領域もガルメダ市の圏内だ。トラックを全力で走らせても圏外脱出までに二時間はかかる。
それほど悠長にできる時間でもない。
「彼らはどうしますか?」
「足止めする必要はないけど、無理に手を貸す必要もない。ああ、こちらの意図に気付いているようなら、足止めをお願いするよ。殺してもかまわない」
「猫の件は?」
「見つからないのなら、|諦《あきら》めるさ。もし本当にアルケミストなら、もしかしたらこの状況に対処する技術を持っているかもしれない。それを観測するのも一つの手だよ」
「了解しました。マザーVの制御はすでにそちらに移行しています」
「うん、ありがとう」
レヴァとの通信を切り、ソーホは背後を見た。そこにはポーンたちが整列している。
「それでは、『|茨姫《いばらひめ》』捕獲して撤退しようか」
「了解です」
ポーンたちがマザーV、ドゥリンダナの声で答える。
サヤは現在、ソーホたちが使ったトラックの一つに乗っている。人質としてアイレインたちに置いていかせたが、いまのところはトラックから出ることを禁じた以外にはなにもしていない。
だが、作戦も成功の目処《めど》をがついた以上、サイレント・マジョリティーしての責務を放棄するわけにもいかない。
特に、ゼロ領域に長くいたはずのサヤの捕獲は、アイレインのそれよりも優先しなくてはいけない事例だ。
(もしかしたら、向こうの世界の情報を持っているかもしれない)
それもあるし、また彼女の能力も興味深い。ガルメダ市で新たに観測された強力な異民のことも気になるが、いまはすぐ側にいるサヤだ。
観測された異民の容姿データをすぐにレヴァたちに転送させていれば、こうはならなかった。
「あれを捕まえるんですか?」
笑いをひそめた声に、ソーホは驚いた。
気がつくと、ソーホとポーンたちの間にサヤが立っていた。どこか蟲感《こわく》的な笑みを唇にたたえ、それがソーホの背筋に冷たい痺《しび》れを走らせた。危険な痺れだ。
ジャニスに抱いたものとはまた違う。背徳的な興奮がソーホの|頬《ほお》を熱くさせた。
「それはとても良いこと。できればとことん解剖して、みじんの|欠片《か け ら》も残さず焼き払ってしまって欲しいくらい」
細められた瞳に宿る濡れた媚《こ》びに、ソーホはたじろぐ。そのためにポーンに命令を下すタイミングを失っていた。
「な、なにを言ってるんだい」
自然、足が後ろに下がる。
「なにって、あの|忌々《いまいま》しい人形を捕まえて、ばらばらにして遊ぶのでしょう? ぜひとも、わたしも混ぜて欲しいの」
「だから、なにを言って……」
ソーホは混乱していた。ねだるように人差し指を唇に添えたまま、サヤが近づいてくる。これからそのサヤを捕まえるというのに、それを聞いていたというのに、まるで動じる様子もなく、逆に捕まえろと|囁《ささや》いている。
冷静に考えることができれば、そこにいるのが別人である可能性を挙げることはできただろう。
たとえ、サヤ本人のことを理解しようともせずにいたとしても。
だが、ソーホにはそれはできない。ナノセルロイドで周囲を囲め、兵士としての訓練を積んだこともなく、常に安全な場所で研究に没頭していたソーホには、それはできない。
ただ、混乱した中でなにかがおかしいと感じる以外に、できることはなかった。
「協力してあげる。だから、わたしのお願いも聞いて」
その時にはすでにサヤの姿をしたなにかは、ソーホの目の前まで来ていた。
「なにを……?」
後ろに下がろうとして、なにかに足を引っかけて尻《しり》もちをついた。視線が同じ高さになる。
美しい少女が、外見にふさわしい|無邪気《む じゃき 》な笑みを浮かべてすぐそばまで顔を近づけていた。
「その体、ちょうだい」
「…………え?」
唇に当てていた指を、ソーホの口の中にふいに差し込んだ。
その瞬間、|袖《そで》の中からなにかが飛び出し、口内へと侵入する。
驚きと違和感は一瞬。絶命の苦しみも、一瞬。
|刹那《せつな》の間に目を血走らせ顔を青ざめさせた主人に、ポーンたちがようやく動こうとした。
「止まれ」
主人の声に、すぐに動きを止める。
「今回は早かったのね」
「二度の失敗で学習したのさ。押さえるべきところを真っ先に押さえれば、抵抗などはされない」
「それは良いこと。で、どうなの?」
「識別証、声紋、指紋、|瞳孔《どうこう》認証。基本的だな。だが、高濃度のオーロラ粒子内で活動することを考えれば、アバウトさが必要となる性向パターンまではやってられまい。宿主の記憶の辞書化はまだ不完全だが、命令をするのに不都合はない」
「じゃあ、操れるのね」
「ああ」
「なら、いいのよ」
すましたサヤ……いや、ニルフィリアの態度に、ソーホ……ではない、肉体を奪ったイグナシスは苦笑した。
「怖いな、そんなに兄の態度が気に入らなかったのかい?」
「とてもね、とても」
「まあいい。では、その君の身代わりだという娘を捕らえて、退去することにしよう」
「あの娘は拾わなくていいの?」
ニルフィリアはいまだ都市の中を彷徨っているだろうリリスのことを指して言った。
「あの娘の広域走査能力は確かに有益だが、なに、それならばここにもある」
ナノセルロイド。ガルメダ市内にナノマシンを撒布して情報の収集を行っていた。
「エルミのプランの発展型というのが気に入らないが、まあ、我がままをいっている暇はなかろう。わたしが真に必要としている能力は、君が持っているのだし、ね」
「そう、それなら別にいいけど」
ニルフィリアとリリスは仲が悪い。ニルフィリア自身はリリスになにも感じていなかったにしても、リリスの側が激しい敵意を持っていた。感情の機微など知ったことではないが、あそこまで協調性を崩されていては、いかにイグナシスとて眉をひそめる。
「では、行くとしようか」
「そうね」
跳ねるような足取りの少女に先行させ、ポーンを動かす。
なにも知らない、人形の少女のもとへと。
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オーロラは、もはやその垂れ幕のような形を維持することもなく、空全体に広がっていた。それは、油膜が張った水面のように汚らしく、同時に不可解な深さを見せて、美しくもあった。
銜《くわ》えた|煙草《た ば こ》には、まだ火を点けていない。
アイレインはその空の光景を、滅びが進行する過程をじっとガルメダ市の中心から見上げていた。
戦闘の|余韻《よ いん》がここにも広がっている。あの時にはそうであった覚えのないガラスまで割れていて、強風がアイレインの体を打って吹き抜けでいく。
風上に立てて幸運だと思った。
これがもし風下であれば、アイレインの聴覚は聞きたくもない音を聞いたことだろう。強風の渦巻く音が支配する耳に、ささやかな震動が|紛《まぎ》れ込んだことだろう。
背後にはエルミがいる。彼女の作った亜空間である宝石から抜け出て、その姿を晒《さら》しているはずだ。
なぜならば、そこにはドミニオが眠っているからだ。妾を守るために死んだ男がそこにいる。
一瞬だけ、アイレインの横を通り過ぎた時、その姿を見た。顔だけは往年の美貌を宿していた。
それ以外は見なかった。見ない方が良いと思った。風の流れとは逆に蠢《うごめ》く髪の動きを記憶から渦すべく、|煙草《た ば こ》のフィルターを噛みしめる。
戦闘の音はもはやしない。
ナノセルロイドたちは撤退したようだ。
やはり、この都市の亜空間増設機を自壊させたのはソーホなのだろう。タイミングを合わせた、実に見事な撤退ぶりだ。
残されたのは異民たちの死体。
そして、自らの体を維持するために生物の肉体を必要とする異獣たち。
翼を生やした異数が、餌を求めて都市の空を飛び交っている。
これはもはや、異界の光景だ。
このまま………アイレインは考える。このまま、リリスたちのような異民の流入を許し続ければ、そこら中の都市がこんな風になってしまうのではないか、と。
それは、この都市に来る以前に見た、未来かもしれない光景へと繋がってしまうのではないか、と。
あの異獣が生命という生命を食らいつくし、オーロラ粒子が津波のように世界に流れ込み満ちていき、亜空間を変質させていけばそうなるかもしれない。
人間はその時、どうすることができるのだろう。
どう、対抗しているのだろう?
|蠢《うごめ》く都市。
それが、答えなのだろうか。
「その通りだ」
右目が獣面を付けたディックを映し出した。赤髪を揺らし、割れた窓の向こう、宙に立っている。
「やがて世界はそのように変わる。もはやこの流れを止められはしない。お前は無残な骸《むくろ》を晒し、果てることになる」
「勝手に言うがいいさ」
背後のエルミを気遣って、アイレインは小声で答えた。
「お前はあのアルケミストに利用されてるんだろうが」
「信じようとそうでなかろうと、結果は変わらない」
獣面のディックは動揺もなく、笑うこともなく、ただ淡々と言葉を繰る。
その背後では異獣たちが獲物を求めて狂ったように空を飛んでいる。吹きこむ風が都市に臭いを運んでくる。風に混じった煙の|煤《すす》けた臭い。それに様々な物が混ざり、吐き気を|催《もよお》させる。
一際濃い煙が、塊となって窓の向こう側を流れた。一部がこちらに流れ込んでくる。ディックの姿が煙に呑まれた。
「お前は死ぬのだ。背後の男のようにな」
煙が去った時、ディックの姿はすでになかった。
「……どうでもいいさ、おれの生き死になんて」
そう、吐き捨てる。
背中を震動が打った。音は、強風が吹き流しでしまう。だが、音を押し流されようとも抵抗する震動がアイレインに伝わってきた。
それは、押し殺したエルミの|慟哭《どうこく》であったに違いない。
足にまとわりつくものを感じて、アイレインは下を見た。額に生々しい傷のある黒猫が毛皮を擦り寄せてきている。血に濡れて乾いた毛がドミニオの決死の行為を物語っていた。
その猫を拾い、肩に乗せる。耳元で猫はミアと鳴いた。
「また、その毛をされいにしてやらないとな」
彷徨っているうちに|粉塵《ふんじん》でも浴びたのか、猫の毛は硬くなっていた。
ブラシをかけるサヤの姿が、脳裏に浮かび上がる。
「サヤは、ソーホの手に落ちただろう、な」
その方がいい。亜空間崩壊の脅威から逃げるには、アイレインたちがいないいま、ソーホたちの移動手段を利用するしか手はないだろう。
「必ず、取り返すさ」
黒猫にそう話しかける。傷の癒えていない黒猫は、アイレインに体重を預け小さく鳴いた。
「この世界は、もうだめかもしれないわね」
エルミが虚無に落ちた声でそう|呟《つぶや》いたのが聞こえた。
それは、亜空間増設機を修理して回っていたエルミから、その熱意が失われたことを意味していた。
おそらくはこの世界で唯一、亜空間の崩壊を止めることのできる女性の心から、行動の意味が奪われてしまったのだ。
(ドミニオ、あんたは本当に偉大だった)
エルミが気力をなくしたことで、アイレインの見た未来はよりいっそう、現実味を増してきたように思える。
(それだけじゃない)
アイレインは帰る場所を失ってしまった。いずれサヤを連れて去ることを考えていたのだから、仮の宿でしかないはずだが。|喪失《そうしつ》感はアイレインの胸から消えてくれない。
ドミニオ個人は凡人だったろう。戦う気力もなく、マフィアと癒着する小悪党だった。だが、彼の能力ではなく、彼が存在することには確かに意味があった。
そのことを、痛いほどに感じている。
(だけどな)
それでも、アイレインは|煙草《た ば こ》に火をつける。
ここから脱出するために。
サヤを救い出すために。
先のことなど知ったことではないと、脳裏に浮かんだ映像を振り払って。唇の先の熱を糧に。
前へと進んだ。
[#地付き]V巻へ続く
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
二巻です。
さて、この話も中盤を終了いたしました。後はただ終わりに向けて駆《か》けていくだけです。
ただ問題なのは、自分でも驚くほどアイレインの存在が大きくなってしまったことです。想定していた三巻の内容にかなり修正をかけないといけません。おもしろくなったのでそれで良しと言いたいところですが、はてさてどんなものでしょう?
おもしろいと言ってもらえれば幸いです。
この『レジェンド・オブ・レギオス』は以前のあとがきにも書いたように富士見ファンタジアでリリースしている『鋼殻のレギオス』シリーズの前世|譚《たん》です。この二巻で二作品のリンクの度合いが上がってきました。
その一つがディクセリオ・マスケインの登場です。
『鋼殻のレギオス』でもほとんど活躍していない彼ですが、今後は彼の登場する場面が増えてくることでしょう。そちらも読んでくださっている方は楽しみが増えたと思ってください。
もちろん、前提条件である『これを読んでいなかったらあちらのシリーズは楽しめないということはない』は守ります。
ただ、この作品が『鋼殻のレギオス』の前世譚である以上、物語の結末が深い関わりを見せるようになることだけは逃れられない事実です。つまり、この作品のエンディングは絶対に変えられない。現在である『鋼殻のレギオス』という世界の前提を覆《くつがえ》せないわけです。
そこで前述のアイレインの存在が大きくなってきたのが問題となります。普通の作品であればエンディングを変更すればいいだけの話ですが、この作品はそれが絶対にできません。
三巻を作る上での難易度が上がってしまいました。技量が試されるとはまさにこのことですね、緊張します。
この二巻はデビュー作以来久しぶりに校正さんに大量の赤を付けられてしまいました。それをあえて無視した部分もありますので、この作品の日本語的におかしいところは間違いなく私の責任です。
それでは、最終巻『レギオス顕現』で。
[#地付き]雨木シュウスケ
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