レジェンド・オブ・レギオス
雨木シュウスケ
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【テキスト中に現れる記号について】
:ルビ
(例)祭《フェスタ》りの夜
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)異界|侵蝕《しんしょく》
[#]:入力者注主に外字の説明や、傍点の位置の指定
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目次
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00 リ・バース
01 五年後
02 アルケミスト
03 再会
04 祭《フェスタ》りの夜
05 イン・ザ・ホール
エピローグ
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あとがき
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装丁朝倉哲也(design CREST)
扉イラスト深遊
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リグザリオ洗礼
レジェンド・オブ・レギオス
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01 リ・バース
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裏切りの動機はよく覚えていない。
気がつけば、かつての同僚《どうりょう》を殺していた。
赤く染まった自分の手を見つめる。血だけではなく、無数の髪と骨の張り付いた肉片までまとわりついている。
どうしてこうなったのか? 自問する時はすでに過ぎていた。
|葛藤《かっとう》、理由付けの時期は過ぎ、いまは|寸暇《すんか》を惜しんで行動するべき時だ。
「……どうして?」
空気の|隙間《すきま 》を抜けるような小さな問いかけに、手から目を離す。乾き始めた血の感触は行動理由を探る手がかりではなく、不快の源でしかなかった。
目を上げ、いまいる場所を確認する。白を基調とした無味乾燥な部屋。様々な調査機材に囲まれた手術台。それを照らす天井の光源が、部屋の白さをより際立たせていた。
手術台には少女が拘束《こうそく》され寝かされていた。透けるような裸体を強い光に晒《さら》しているというのに、少女の顔には羞恥《しゅうち》の色はない。
「どうして? どうしてか……」
独り言のように言葉を返しながら、床に倒れた同僚を見る。もとより部署の違う、顔を知っているだけの同僚だ。ただ、同じ場所で同じ目的に向かっていままでやってきただけの間柄に過ぎない。だからこそなのだろう。自分が頭を握りつぶした死体を見ても、思ったほどの動揺はない。
ただ、どこか|呆然《ぼうぜん》とした気分を意識の片隅に感じながら、血と肉片に塗《まみ》れた手を死体の白衣で拭《ぬぐ》った。
「どうしてだろうな?」
死体は三つ。その全ての頭部を砕いた。全員が白衣を着ている。手を拭い、残った二人の内、比較的汚れていない方の白衣を選んで|剥《は》ぎ取ると、手術台の拘束を解いた。
「助けてもらった恩返し。たぶん、そんなところじゃないか?」
「そうですか」
拘束を解かれた少女は手術台から足を下ろす。細い足の先は素足だが、残念ながら彼女に合う靴をこの場の三人は持っていそうになかった。探す余裕もない。少女の肩に白衣をかけ、着るように促す。ごまかすことはできないだろうが、それでも裸の少女を連れまわすよりははるかに目立たないことだろう。
「これから、どうするのですか?」
黒い髪を揺らし、黒い瞳で見上げてくる。その視線に一瞬、息を呑《の》む。
「逃げるのさ。それ以外にないだろう?」
無意識に浮き上がってきた映像を振り切り、アイレインは少女の反応を見る。そのことを理由にして少女を観察する。長い黒髪に覆《おお》われた小さな顔、どこか|茫漠《ぼうばく》とした印象を与える黒い瞳、閉じられた小さな唇。細い首。いまは白衣に隠された、性別という言葉からやや距離を置いた肢体《し たい》。
思い直して目を閉じる。いま、その姿をそれ以上見つめることに、なんの利益があるだろうか。
「どうする?」
反応を返さない、こちらの視線をいぶかしむこともしない少女に問い直す。
「ここにいるか? それとも、一緒に逃げるか?」
「いきます」
改めて少女を見つめると、彼女は無表情に|頷《うなず》いた。
「壊されることは望みません」
「なら、行くか」
導くように彼女の手を掴《つか》もうとして、止めた。宙ぶらりんになった手を二人して見つめる。左手……拭いされない血で汚れたままの手を握り締め、自分がいつから左利きになったのかという疑問を覚えながら、背を向けた。少女の自分を見る瞳から、かつて何度も世話になった手術台から、両方から目をそらす。
決別の時はすでに過ぎたはずなのに、まるでいまがその時であったかのように思いながらドアの開閉ボタンに手を伸ばした。
「そういえば、名前、聞いてなかったな。おれはアイレイン」
「……サヤです」
「そうか」
ドアが開く。すでに緊急を要する事態となっていた。警報が甲高く鳴り響き、無数の足音がこちらに近づいてくる。かつての同僚たちが武器を手にやってくる。
顔を知っているかどうかもあやしい同僚たち。いま殺した白衣の連中よりも自分との関係の薄い人間たち。
顔を知り、言葉を交わし、情の通った同僚たちは、もはやほとんどいない。
ここにいる理由も、ここで耐える理由も、ここで邁進《まいしん》した目的も、すでに意味を失っているのかもしれない。
だからこそ、いま、自分はこうしている。
「さて、行くとするか」
ならば、ここにいる理由も、ここで耐える理由も、ここで邁進した目的も、全てを|完璧《かんぺき》に失ってしまった自分は、どこに向かえばいいのだろうか? そんな疑問を、放置したままの呆然とした感情の隣に並べ、アイレインはドアをくぐる。武器はなにもない。謹慎を命じられていたアイレインに、武器の携帯が許されるはずもない。
「まあ、なんとかなるだろうさ」
背後の少女に不安感を与えないようにそう|呟《つぶや》き、アイレインはあえて足音に向かって歩を進める。
なんとかなる。言葉の通り、そんな気がするのだ。自分の体が、アルケミストが提供する肉体強化手衛に耐え切ったからの自信ではない。そんなものは、今向かってきている警備兵たちも軽度ではあるが行っている。
アルケミスト。いまのこの隔絶《かくぜつ》された世界を作った張本人たち。すでにその張本人たちは死去しているだろうが、その技術を受け継いで組織化した当代のアルケミストたちは、いまだこの国の富める現実を維持し、狂った|歪《ゆが》みを生み出し続けている。
その彼らの技術の一つが、肉体強化手術だ。狂った歪みに対抗するためなのか、それとも単純に戦争目的のために開発されたのか、それは知らないが、両方の目的のために、いまもなお兵士たちに惜しみなく施されている。
人を、肉体的意味において超人とする手術。
「ついてきてくれ」
「はい」
不安のない返答にアイレインは前に出た。ライフルを構えた警備兵たちの群れはすぐそこに。鋭い静止の言葉を無視して速度を上げる。
走る。銃爪《ひきがね》が引かれる。一瞬にして視界を銃弾が埋め尽くす。
ゆっくりと迫り来る銃弾の壁を、左手で振り払う。
|驚愕《きょうがく》が、一瞬にして狭い通路を支配した。
その驚愕に、アイレインも支配される。
(銃弾が、見えただと?)
そして振り払えた。高速で飛来する金属の弾を生身の体で、だ。手術によって反射速度、運動能力が強化されているといっても高速で撃ち出された銃弾を視認し、さらに生身の腕で払いのけるなんて真似はできない。
思わずやってしまった自分の行動が信じられない。
(本当にどうなっちまったんだろうな?)
自身の変化に皮肉な笑みを浮かべ、アイレインは前に出る。動揺はまだあるようだが、アイレインが無手なのもあって、まだ侮《あなど》っている。警備兵たちは通路を塞《ふさ》ぐように立ち、ライフルを構えている。|遮蔽《しゃへい》するものはなにもない。アイレインの速度に警備兵は反応できず、ただ、殴られるままに殴られた。
その場にいた警備兵の全てを殴り倒す。|顎《あご》を突いた右のストレートは骨を砕き、左のボディは内臓破裂を起こさせた。
(右目と、左腕か……)
異変が起きているのは、どうやらこの二つらしい。動いている最中に右と左の視界がぶれることがあり、これで何度か拳打を外してしまった。そして左右の拳の明らかな威力の違い。左腕で殴ろうとすれば、その膂力《りょりょく》を支えるのに他の筋肉が悲鳴を上げている。
「肉弾戦は極力避けるべきだな」
痛みを訴える体に顔をしかめ、アイレインは警備兵の装備を調べる。
「ちっ、使えるのがないな」
拾ったライフルの銃爪を引いても何の反応もないのに、わかっていたことだがアイレインは舌打ちした。
正規の軍務に就く者に支給される装備は、全てDNAと所属章の両方、あるいはどちらかが適合しなければ使えないようになっている。
おそらく、反逆が発覚した時点でアイレインのDNA登録は|抹消《まっしょう》されたのだろう。
時間をかければ解除できないこともないが、それをしている時間がない。
使えない装備に価値はない。死体となった同僚から奪った装備帯を捨てると、アイレインは歩き始めた。
「あの、これを使ってください」
背後からの声に、アイレインは振り返った。サヤの手には二丁の拳銃が握られていた。
「これは……」
それは、明らかに警備兵の持つ装備ではなかった。異様に長い銃身、グリップの下部から顔を見せるマガジンは見たことのない形をしている。
「あんたのものか……?」
警備兵の装備では絶対にない。メーカーと製造品番を示す刻印もない。
ならば答えは、少女が持っていた、しかなくなる。
だが、どこに隠していた? 白衣の下には裸身しかない少女のどこに……?
「あなたについていくと決めた時から、全てあなたのものです」
サヤの答えは納得のいくものではなかったが、いま必要な武器がそこにあるという事実を無視することもできない。
サヤの手から拳銃を受け取る。しっかりとした手応えが腕に乗る。その重さを両手で確かめながら、アイレインは再び歩き始めた。
背後から素足の音が続く。
前方から、再び無数の足音が響く。
「それなら、おれはあんたを守ろう。ここから無事に脱出して、そしてどうにかして生きていく方法を見つけよう。それが、おれたちの間の契約だ」
アイレインは|呟《つぶや》く。|呟《つぶや》きには力があった。迷いの時は過ぎ、決断の時は去り、決別の儀式を済ませ、|果断《か だん》なる行動の時にある今、その行動の先を見据えた希望の光が現出したことを、アイレインは感じた。
背後の少女を守り、この施設を脱出する。
「計画よ、さようならだ」
曲がり角から姿を現した警備兵たちに告げると、アイレインは両手の銃爪を同時に引いた。
マズルフラッシュの灯火に導かれ、二人は凄惨《せいぜつ》な脱出劇を敢行《かんこう》する。
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闇夜《やみよ》をオーロラが囲んでいた。
「大丈夫ですか?」
「ぎりぎりだな」
淡々とした少女の問いかけに、アイレインは荒くなりそうな息を押し殺して答えた。
体を横たえたその左右に道路が延びている。道路の両側には放置された|肥沃《ひ よく》な大地が広がり、そこを支配する青々とした雑草が、夜光と風を受けて海のようにさざめいていた。
「さすがに、まいただろうな」
施設を脱出して、すでに二日が過ぎていた。追っ手がかかったのは脱出してから一日だけだ。追っ手の乗っていた車両を奪って移動し、さらに途中の農場で車を盗んでさらに乗り換えた。
そして、整備不良車を酷使したために故障してしまい、乗り捨てたのが夕方。そこから徒歩でここまで移動した。
アイレインは道路の真ん中に転がったまま、その先が闇に飲み込まれたままなのを確認した。別に自殺を志願しているわけではない。あわよくばこの道路を利用する車を、体を張って止めることができるだろうという考えからだ。
全身が悲鳴を上げたのが、一時間前。
それは突然の激痛だった。
いや、兆候なら遥《はる》か以前からあった。施設を脱出する時に警備兵をぶん殴って殺した時からだ。それから兆候は施設を脱出するまで続いた。突出しすぎた右の視力に振り回される反射神経と、突出しすぎた筋力を発揮する左腕を支える全身の筋肉がついていけずに悲鳴を上げ続けていた。
その悲鳴を無視して、ここまでやってきた。施設を脱出してから戦闘らしい戦闘は一度しかなく、その後は体に染み付いた鈍い痛みと、ときおり訪れる鋭い激痛に耐えていた。その激痛も時間を追う|毎《ごと》に感覚を広げ、やがてなくなるだろうと思っていたところでこの様《ざま》だ。
耐え切れないほどの激痛が全身を襲い、アイレインは倒れた。体を動かすという行為をすること自体がすでに不可能な状態となっていた。
それでもなんとか道路の真ん中まで転がり、それからずっとこうしている。
「すまないな。そろそろあったかいベッドが恋しいだろうに」
「……いえ、大丈夫です」
会った時からずっと無感動を通すサヤの体はいま、農場にあった家から盗んできた作業服に包まれている。サイズが合ってなく、|袖《そで》も|裾《すそ》も何重にも捲《まく》って着る姿はとても似合っているとはいえない。透き通るような肌をした|頬《ほお》や額には砂塵《さじん》が張り付き、汚れている。背中に流したままの黒髪も同様だろう。施設で見た時には水を触るような手触りを想像したが、いまはそこに泥の文字が混ざるに違いない。
温室の花が似合いそうな少女に、この状況は酷だ。
「もったいない……」
痛覚が|麻痺《まひ》しつつある。アイレインは|掠《かす》れた声でそう|呟《つぶや》き、空を見上げた。
依然、オーロラが空を囲んでいる。揺らめく七色の輝きはこの空を、この国を永遠に囲い続けることだろう。
「|忌々《いまいま》しい、オーロラ・フィールドめ」
自分を見下ろす七色の輝きを、アイレインは睨《にら》み付けた。右目に力を入れると、頭の奥から背筋に掛けて痛みが走る。何とか腕を動かして、右目を手で覆った。
七色の輝き以外には、空には闇しかない。
かつて、夜空には星と月というものがあったらしい。
だが、アイレインは現物を見たことはない。新暦以前に作られた映画でそれを見たことがあるだけだ。
「ここにも、星はありませんね」
同じように空を見上げたサヤが|呟《つぶや》く。
「首都の辺りなら見れるらしいがな、この辺りは十年前に増設された区域だ。宇宙には通じてない」
「そうですか」
サヤは視線を下ろして、アイレインを見た。
「どうして、あの場所に?」
当然の疑問をサヤはいまになって口にした。
「あなたは、どうしてオーロラ・フィールドの中にいたのですか?」
「どうしてって、なあ……」
アイレインは夜空に浮かぶオーロラを見上げながら、ほんの二日前の過去、さらに少年時代に受けた歴史の授業を脳裏に浮かばせた。
増加の一途を辿《たど》る人口に対して、食糧や資源が文明を保つために必要な量を欠くようになったのは西暦のいつ頃だったのか……まじめに授業を受けていなかったアイレインには思い出せない。
ただ、新天地を求めて世界規模で大々的に行われた宇宙開発が失敗に終わっ七時、ギリギリの線で保たれていたせ界平和は完全に瓦解《がかい》した。
資源戦争。見栄の|欠片《か け ら》もない名称で呼ばれた戦争は、資源を奪い会うと同時に、世界規模で行われた口減らしの儀式であった。血で作られた底なし沼に行列をなして次々と飛び込んでいくかのような戦争に勝利者はなく、ただ死傷者数だけが計上されていく。
そんな戦争に終止符を打ったのが、アルケミストと呼ばれる科学者チームだった。すでに組織としての力を失いかけていた国連によって世界中から集められた科学者たちは、この状況を打開するための新技術を世界中に発表した。
それが、オーロラ・フィールド。
亜空間増設という技術。数理上で仮定された空間を実質的にはゼロである領域に現実化させ、固定する技術。なにもない場所に無限の大地を生み出す。そこには豊富な地下資源があり、汚染されていない水脈があり、|肥沃《ひ よく》な大地がある。全ての国が欲して止《や》まない新天地が何の苦労もなく手に入る技術。
宇宙開発に失敗した人類にはあまりにも|分不相応《ぶんふ そうおう》に思える技術であり、誰もがその発表を疑いの目で見たが、現実に生み出された新天地を目の当たりにすれば疑問を口にしている暇はない。
全ての国がもろ手を挙げてその技術を受け入れた。すでに需要と供給が崩壊していたが、苦しい時期を過ぎれば希望の未来があるとわかっていれば人はそれに邁進する。世界中に亜空間が生み出され、その空間を固定するためのオーロラが世界中に幕を垂らした。
苦しい時期が過ぎた後もオーロラは増え続けた。貧困の時代から一転して富裕の時代となったのだ。無限に増やすことのできる資源を無限に増やし続け……結果、国の全てをオーロラで埋め尽くすこととなった。
その瞬間、世界中が鎖国の状態となった。
増え続けた亜空間が相互干渉し、各地で絶縁を起こしたのだ。国と国だけではない。地域ごとにも絶縁は起こり、異なって生成された亜空間同士の移動のほとんどを不可能にした。
混乱はほんのわずかしか起こらなかった。切り離された家族の嘆きがその代表であったが、それ以外ではさしたる問題にならなかった。政治はその地域の自治体が行うようになった。物資の不安はすでになく、アイレインのいるこの国の総面積は、すでに星の表面面積をはるかに超えていた。同一規格のオーロラ・フィールドを使用すれば絶縁の心配はないというアルケミストの発表によって、わずかにあった混乱も終息し、そして今に至る。
「絶界探査計画つてのがあったんだよ」
歴史の授業を短い間に思い出した後、アイレインは言った。
「絶界?」
「断たれた世界の向こう側を見る。本来のこの星、世界は隔絶されてしまっている。なら、いまおれたちのいる世界の向こう側はどうなっているのか? つてな。異民問題の原因究明の一つとして計画が持ち上がって、オーロラ・フィールドの絶縁空間に飛び込む命知らずを募集してた」
「あなたは、それに?」
「ああ、志願した。確かめたいことがあったからな」
不意に一人の少女の姿が頭に浮かぶ。だが、それをすぐに振り払い、アイレインは続けた。
「あの施設はそのために作られた研究所みたいなもんだ。そこでおれたち志願者たちは絶縁空間に対応するための強化手術を受け、想定される事態に対処するための訓練を受け、装備の扱いを覚えさせられ、そして飛び込んだ」
夜空に浮かぶオーロラ。そこが増設された亜空間の一つの境目であることを示す。誰にも感知することのできないゼロ領域。その中で、その向こうに行くことのできない絶縁されたゼロ領域がある。
それが絶縁空間。
「絶縁空間をむりやりこじ開け、おれたちはオーロラ・フィールドの中に飛び込んだ。……結果は、なにもわからないままで終わったけどな」
そして、アイレインを除く全ての同僚たちは絶縁空間に飲み込まれて、消えた。
「あんたは、どうして……」
遠くからエンジンの音が聞こえ、アイレインの言葉はそこで途切れた。間に埋もれていた道を、ライトが小さく切り裂きながら近づいてくる。
「おれたちは運がいい」
痛む体で起き上がる。右目は閉じたまま、左目だけでライトを見る。まだ遠い。車だろうが、車種までは判別できない。
「この時間に移動するような連中だ。トラック野郎に違いない。うまいこと荷台に潜り込めば……」
「アイレイン……」
サヤの細い声が耳に響いた。その瞬間、視界が揺れる。
「あっ……?」
限界はとうにやってきていた。ただ、完全に麻痺してしまった神経が、それに気付かせなかったのだ。アイレインの足ほ力を失い、崩れ落ちる。
いきなり下がった視界に疑問を持つ暇もなく、アイレインは意識を失った。
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虫の夢を見た。
ぐるぐるぐるぐると、体の中で転がりまわる虫の夢だ。それは口から入り、喉《のど》を押し広げて胃に向かい、さらに腸へと達する。親指ほどの太さで、二の腕ほどの長さの虫だ。それが大腸を抜けて小腸に達した時、いきなり、鈍重そうな黒い頭をもたげ、先端を裂くようにして一杯に広げた。開かれた内部には小さな|牙《きば》がびっしりと敷き詰められていた。
背筋を走った不安は、すぐに現実化した。
狭い腸内で身をよじらせた虫は、小腸の壁に噛《か》み付いた。小さな口で腸壁を挟み込み、左右に口を揺する。そうして腸壁を牙の群れですり|潰《つぶ》しているのだ。
「やめろう!」
アイレインは叫んだ。だが、その声は虫には通じない。虫は無言で、一心不乱に腸壁に大穴を開けんとすり潰し続けている。そんな光景が見えているという事実で、すでにこれが夢だとわかるのだが、自分の体を内側から食い荒らされているという事実が本能的な恐怖でアイレインを縛った。
「やめろっ!」
だが、虫はすり潰し続ける。ゴリゴリと、音まで聞こえてきそうだ。
ゴリゴリと、ゴリゴリと……
「やめろっ!」
穴が開いた。親指の先ほどの穴だ。虫はそこに頭を突っ込む。喪を左右に振って穴を拡張させると、その穴に長い胴体を潜らせる。
腸の外に出ようとしている。さらに肉を食い破り、外に出る気か?
それとも? ああ、それとも腸の外から肉を食い荒らす気なのか? 抵抗できない内側から、アイレインの体を穴だらけにする気なのか? 中を完全な空洞にして、アイレインを人の形をした肉袋に変える気なのか?
「やめろっ!」
アイレインは叫ぶ。
「やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「目が覚めたか?」
野太い声に|尋《たず》ねられ、アイレインは自分が半身を起こしていることに気付いた。裸の上半身。ズボンだけは穿《は》いている。全身にびっしりと汗が浮かんでいた。
ここはどこだ?
恐怖で赤熱しそうだった心が急速に冷めていく。上下する肩。肺が空気を求めて痛いほどに膨張と収縮を繰り返している。
淡い光が周囲を照らしていた。
車内だ。小さな窓の向こうで夜空のオーロラが移動していた。
それにエンジンのくぐもった音。
車内にはアイレインの寝ているベッドがある。間仕切りのカーテンは半端に開けられたまま揺れていた。その前に腹の出た中年男が立っている。体格に似合わない神経質そうな目でアイレインを見下ろしている。脂肪層の裏側にしっかりとした筋肉を備えているだろう腕には湯気の立ち上るマグカップが握られていた。
男が邪魔をして、その背後はよく見えない。
「お前らを拾って丸一日だ。俺の体はソファで寝るには向いてない。起きたならそこをどけろ」
「拾ってくれたのか?」
「俺は見捨てたかったが、うるさいのが一人いるんでな」
そう言われても、別に嫌な気分にはならなかった。
「どう考えでも|厄介《やっかい》者だ。そうだろう?」
「ああ……そうだな。感謝する」
「ふんっ。やっぱりそうか。ほらどけ。これでも飲んで起きてろ」
マグカップはアイレインのためのものであったようだ。受け取ったそれはコーヒーで、立ち上がると入れ替わりに男がベッドを占領した。
間仕切りのカーテンが閉められる。無言の拒絶に、アイレインは車内を見渡した。
キャンピングカーのようだ。中央にテーブルが置かれ、片面にはソファがある。もう片方にはキッチンセット。奥にはシャワールームもありそうだ。トラックの荷台並みの空間に生活スペースが作られている。整頓《せいとん》されている方ではあるが、それでも男の一人暮らし特有の汚さがそこかしこに|垣間《かいま 》見えた。
「おはようございます」
ソファに座っていたサヤが無感動に言った。
「おはようって時間でもないがな」
そう返し、アイレインはサヤの姿を見て首を傾《かし》げた。
「服、どうしたんだ?」
サヤの服はここに来るまでに着ていた農作業の服ではなかった。黒を基調としたドレスの様な服を着ている。
「いただきました」
「誰に?」
まさか、あの中年男ということはないだろう。背後からはすでに派手ないびきが聞こえてきている。車内を見る限りあの男一人でこのスペースを使っていることは間違いない。まさか、あの男に少女愛好の気があるということは……
「……なんか、変なことされてないか?」
「あははははは、そいつは無駄な心配だね」
いきなり、けたたましい女の笑い声がした。
どこに? 見回してみても人の姿はない。人が隠れられるような場所は限られているが、そこにいる様子はなかった。
音もなく、テーブルに猫が上ってきた。真っ黒い毛並みに青い瞳の猫だ。額には瞳と同じぐらいの大きさのサファイアが移植されている。まるで三つ目のようだ。
「ニア」
と猫が鳴いてあくびした。
「その服はわたしがあげたのさ。心配しなくてもあの人にそんな趣味はないよ」
声は、あくびをする猫から聞こえてきた。
「まさか……」
「ああ、別に猫に意識があるなんてことではないよ。わたしはここにいるのさ」
猫の額。そこにあるサファイアが|不可思議《ふかしぎ》な光の反射を見せた。いや、一瞬、色を変えたのだ。七色に。
それをアイレインの右目が捉《とら》えた時、唐突に理解した。
「その中にいる……のか?」
「まさしく、猫の額のような土地って奴だね」
自分のジョークに声を殺して笑っている。
「そんなところに、亜空間を固定していると?」
「わたしにとっては簡単な技術だよ。ただ、もうわたしには研究成果を公表する義務はないから、世間には知られてないけど」
「アルケミストか……」
「あんたの体を治したのもわたしだよ。感謝して欲しいね」
「なんだって……?」
「右目と左腕……だろう?」
退屈そうに前足に顎を乗せた猫と、真実を貫くその言葉。噛み合わない二つの挙動に会話の間合いが計れない。通信だと思えばなんとかなると、頭ではわかっているのだが……
「絶縁空間で異界|侵蝕《しんしょく》を受けたね。良い方向に異界化したことと、わたしに出会えたこと、二重の幸運に感謝しなさい」
「なにをした?」
感謝しろといわれて、素直に感謝なんてできない。
相手は、アルケミストだ。おそらく、目の前にいる声の主は|正真正銘《しょうしんしょうめい》のアルケミストなのだ。組織としてのアルケミストに仕える科学者のことではない。亜空間増設という現代を創造したといってもおかしくない、神の領域に踏み込んだ者たち。その技術を受け継いだ錬金術師《アルケミスト》。
国家によってあらゆる実験を、人道非人道問わず、倫理を無視したあらゆる実験を行うことを認められた超特権階級。
そんな超重要人物がどうしてこんなところにいる?
いいや、そうではない。そんなことはどうでもいい。
そんな人間が、アイレインにまともな治療を施すはずがない。
「あんたの体の不調は肉体能力のバランスが崩れちゃったところにあるからね。そのバランスを取り直したんだよ。まあ、詳しい説明はおいおいするとして、体の中に器官が一つ増えたと思いなさい」
「それは……おれはまだ人間なのか?」
「自分がまだ人間だと思っていたのかい?」
猫の問いにアイレインは答えられなかった。
男の名前はドミニオ・リグザリオ、猫の中にいる女はエルミ、夫婦だそうだ。
キャンピングカーは自動運転によって道路を進み続ける。ドミニオは狭い車内だというのにアイレインたちがいないかのような態度を取り、エルミもあれ以来話しかけてはこなかった。サヤは環境の変化に動じた様子もなく、一日ソファに座っていても苦ではなさそうだ。
車を運転できるのはアイレインとドミニオしかいない。ドミニオがベッドを使っている時はアイレインが運転席に、あるいはその逆というのが短い会話でできあがった自分の役割だった。
しかし、運転席に座っていても基本はナビゲーションに従っての自動運転でしかない。定期的にナビ通りに走っているかをチェックすれば後はやることはない。
自分の体がどうなったのか、冷静に考える時間ができた。
異界化とエルミが言った。異界侵蝕、異民化……現在、この国で問題となっている絶縁空間からの法則干渉にアイレインも捕らえられたということなのだろう。絶界探査計画のため、異界侵蝕に耐性を持つ体として調整されたこととは、なにか関係があるのだろうか?
少なくとも、計画に関わったアルケミストの科学者たちはエルミほどの技術は持っていなかったのだろう。施設にいたアルケミストたちはアイレインの変化に気付きさえしなかった。
『自分がまだ人間だと思っていたのかい?』
エルミにそう言われたショックからは、自分でも驚くほど簡単に立ち直ることができた。
強化手術の同意書にサインした時から、人間であることへの|諦《あきら》めはついていたのだ。驚くことではないのかもしれない。
では、アイレインの体になにが起こったのか? エルミは自分にどんな|施術《せじゅつ》を行ったのか?
器官が一つ増えたと言った。それはなにを意味しているのか。自分の体にはっきりとした違和感はない。
だが、変化は起きている。
鏡に映る自分の顔に今までにないものがあった。額から|頬《ほお》に、右目の上を駆け抜けて白い大きな傷跡ができていた。この傷はいつできたのか? 絶界探査計画が実行段階に移り、失敗し、そして今日まで、アイレインには鏡を見る余裕はなかった。
そしてもう一つの変化は自分が本当にもう、人間ではないのだろうと思わせられた。
傷跡のことをサヤに|尋《たず》ねると首を傾げるようにして教えてくれた。
「あの場所で、あなたに会った時からありましたよ」
そういうことらしい。では、これは異界侵蝕の証《あかし》なのだろう。この国のある世界とは別の世界の法則が肉体に干渉した結果。あるいは、なにもないはずの場所に確定された存在が現れたことによって起こる、世界の誕生、そして|脆弱《ぜいじゃく》であるが故の滅亡。その瞬間の興亡を確定された存在は反動として受ける。異界侵蝕とは、おそらくこの二つの内どちらかであろうと言われている。
どちらであろうとも、ただの人間ではいられなくなるのは確かだ。
そして、アイレインは肉体強化手術によって人間を捨て、さらに異界侵蝕によって完全に人間ではなくなったということなのだろう。
それなら、器官が一つ増えたくらいどうということもないのかもしれない。
(約束したしな)
サヤを無事に逃がし、人並みの暮らしができるように取り計らうのだ。
いまのこの国で一般人と変わらない安定した平穏な生活を送るには、まず|戸籍《こ せき》が必要になる。首都の中央コンピューターが管理する|戸籍《こ せき》を手に入れることがでされば最善だが、それは難しいだろう。偽造するなら、各都市のみで有効の|戸籍《こ せき》を手に入れる方が簡単だ。
(そのためにはまず、資金か……)
生活していくにしてもそのための|戸籍《こ せき》を手に入れるにしても元手がなくでは話にならない。
そういえば、アイレインの|戸籍《こ せき》はどうなったのだろう? まさか役所に顔を出すわけにもいかない。指名手配になっていた場合、|厄介《やっかい》だ。街に着いたところでドミニオに頼むしかないだろう。
「ちょっと、あんた」
運転席で考え事をしていると、猫が話しかけてきた。
「もうすぐ街に着くだろう?」
「ああ。夕方には着くな」
モニターにある到着予定時刻を確認して、アイレインは|頷《うなず》いた。
「あんたの服を用意したから、着ときなさい。まさか、その格好でうろつくつもりはないだろう」
今着ているのは施設を脱出した時の軍用着だ。
「そんなものを着ていたら、すぐに身元がばれちまうよ」
助手席に乗った猫は、すぐに床に下りてアイレインを生活空間に案内した。
「用意したって、いつ?」
「猫の額でさ」
猫がニアと鳴く。あの額にある宝石の中に一体どれほどの空間が広がっているのか……想像するのも馬鹿らしく、アイレインは首を振るだけで済ませた。
すでに定席となったソファにはサヤが座っている。その前にあるテーブルに服が置かれていた。
黒スーツに黒のコート。
「……悪趣味だな」
「あんたに紹介してやる仕事のことを考えたら、型に嵌《は》まっちまうのが一番楽でいいのさ」
「うん?」
「それよりも、こっちだ」
猫が前足でテーブルに並んだ衣類から一つを引っ張り出した。
眼帯だ。
「目は悪くないが?」
「悪いよ、あんたの目は。凶悪だ」
猫がこちらを見る。青い二つの目に、ときおり色を変える額の宝石がアイレインを透過するように見つめた。
見ているのは右目だ。
「あんたの右目、わたしや、そこのお|嬢《じょう》ちゃんには無害だし、旦那《だんな》も心得ているけどね、なにも知らない連中にとってはとんでもない目さ。隠しておきなさい。なに、左目だけでも苦労はしないよ。むしろ、普段はそっちの方が都会がいいくらいではないの?」
戦闘中の視界のブレのことを考えれば、確かにそうかもしれない。
「いま、なにもかもを説明する気はないんだな?」
「いずれわかることを順序立てて説明するのは面倒なんだよ」
猫の顔は変わらないまま、いや、たとえ変わっていたとしでも猫の表情などわかりようもないのだが、いとも簡単に拒絶されアイレインもそれ以上、問いただすことはしなかった。
「とりあえず、さっぱりしてから服を着な。あんたらにとっては、今晩はひさしぶりのまともな食事になるだろうからね」
エルミの言葉に従い、シャワーを浴びで服を着替える。黒のスーツに身を包んでも特になにかが変わったという感じはしない。
「似合っていますよ」
初めて、サヤがお世辞を言った。アイレインは苦笑し、運転席に戻った。嵌めた眼帯のおかげで視界になれるのにしばらく苦労をしそうだと感じたが、それも街に着くまでの短い時間で解消してしまった。
そしてこれが、果たせない約束を果たすためのどうしようもない日々の始まりだった。
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01 五年後
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一目で、それとわかってしまう男だった。
黒スーツに黒コート、いまどき、皮膚の張り替え手術で|完璧《かんぺき》に消せてしまう傷跡を消しもせず勲章のように顔に貼り付けた男だ。
生身の目よりも性能力良い義眼が安価に売られている現在で、時代遅れの眼帯で傷跡を覆《おお》っている。
そんな男が、暗い照明に沈んだ店内に足を踏み入れた。
一目で余所者《よそもの》とわかる。
店に集まっていた客の目が男に集まる。胡乱《うろん》な者を見る目、場違いな所に来た珍客を見る目だ。
男は、一人ではなかった。
その背後、コートの|裾《すそ》に隠れるようにして少女がいた。白い肌に黒い瞳、人形然とした整った顔立ちの少女だ。
二人が|揃《そろ》うことによってひどくアンバランスな|雰囲気《ふんい き 》ができあがる。男一人なら、ここに現れたところでおかしくない。だが、こんな少女を連れているとなると、はたして、どこに|相応《ふ さ わ》しい場所があるのかと首を傾《かし》げたくなる。
「酒を飲みに来るにしちや若すぎるの連れてるよな? 商品か? なら、店を間違えたぜ」
客の一人が言い、下卑《げび》た笑いがそれに続いた。
手にしていた銃が笑い声で揺れる。
ここは、ハイン市の片隅のさらに地下にある、狭いバーだ。カウンターと三つのテーブル席を用意しただけで手一杯のような広さの店。こんな場所、こんな所に来る連中がどんな人間かは店主も承知している。
承知していままでやってきたし、これまではうまくやってきた。
ドアの前に立つ男も、三十分前までなら来てもおかしくない客だった。
だがいまは……
「悪いが、立て込んでるんだ。ペド野郎を探してんなら別の店に行きな」
元客の一人が言った。昨日までは店主であるラミスに逆に|機嫌《き げん》を取っていたような男だったが、今日は銃口を彼女に向け、にやついている。
「勝ちが決まらないとなにもできないチキン野郎。ゲドシュをどうした?……」
唾《つば》を吐きかける。その|唾《つば》を元客、チキン野郎……ジッドは|頬《ほお》に受け、それを舌で舐《な》め取った。
とても長い舌が蛇のように丸まり、ラミスの|唾《つば》を包み込むようにして口に運んでいく。
怖気《おぞけ》が背中を震わせた。ジッドにあんな舌はなかったはずだ。
いや、それよりも……とても人間のものとは思えない。
「ジッド……あんた………」
「ゲドシュ? 聞いてるのはこっちだろう?」
それは昨夜までゲドシュの顔色を窺《うかが》っていた男の顔ではない。
言葉を失うラミスに、ジッドが自分の唾液《だえき》で濡れた|頬《ほお》を|袖《そで》で拭《ぬぐ》いながら笑った。
そういえば、この男の黒目部分はこんなに緑色に近い色をしていたか? ラミスの脳裏にそんな疑問が浮かび、はっとしてカウンターから自分を出られなくしている元客の男たちを見た。
近くによらなければ相手の顔が見えないように照明を落とし気味にしているというのに、それは、ここで時に密談をする客もいるからだし、そうするようにとゲドシュが望んだからなのだが……
どうして、そんな中でこいつらの顔はこんなにはっきりと見えている?
「あんたたち……なんなんだよ」
「強え味方が付いたのさ」
ジッドの笑いが、人間のものに見えなくなってきていた。他の連中の顔も同様だ。薄暗がりの中でその顔だけはよく見えているという奇怪さが徐々にラミスの精神を追い立てていく。
「すまないが、メニューはないのか?」
そんな時に、こんな言葉を投げかけられるとは誰も思っていなかった。
ドアの前に立っていたはずの男と少女の二人組みは、テーブル席にいた。少女の方は|椅子《いす》に座り、テーブルに置かれた小さなランプ型照明を見つめている。男はそのそばに立っていた。
「長旅で疲れてるんだ。美味いものと、久しぶりに良い酒も飲みたい」
カウンターに腕をかけ、ラミスに話しかけてくる。
ジッドがそんな男の|襟《えり》を掴《つか》んだ。
「……てめぇ、聞こえてなかったのか?」
「店主でもない奴に出て行けと言われてもな……」
一斉に銃口が男に向けられた。ジッドの銃は男の|顎《あご》に突きつけられる。
「じゃあ、たっぷりうまい飯を食わせてやろうか? 鉛玉のライスなんてよ?」
「うまいこと言ったつもりかね」
ため息とともに眼帯の男は肩を揺らし、そして動いた。
一瞬で|襟《えり》を掴んだジッドの腕が外された。どうやって? わからない。次の瞬間にはジッドの鼻から真っ赤な血が噴き出し、持っていた銃は床に転がり、そして宙に持ち上げられた。
後ろ|襟《えり》を掴んで持ち上げたのだ。ジッドの太った体が宙でぐるりと回り、銃口の群れの真正面に向けられた。
「てめぇっ!」
取り巻きの誰かが叫んだ。だが、銃爪《ひきがね》は引けない。引けば、ジッドに当たる。
「これから飯を食うつてのに、お前らの汚い血の臭いは嗅《か》ぎたくないんだよ。わかるか?」
落ち着いた声で、男は話す。銃など見えていないかのような態度に、ジッドの仲間たちはひるんだ。
「ぐえぇぇっ!」
ジッドが押しつぶされた悲鳴を上げた。後ろ|襟《えり》を掴んでいた腕が、一瞬でジッドの首を直接掴んだのだ。指はたやすくジッドの肉に食らいつき、指先から血の筋が静かに流れ出した。
「お前らの血は格別臭いしな」
ジッドが長い舌を飛び出させて暴れている。が、どれだけ暴れようとも男は上げた腕を微動だにさせなかった。
「おれとしては、大人しくここで飯を食わせてくれると嬉《うれ》しいんだけど?」
暗い照明の中で男の隻眼《せきがん》が落ち着いた……いや、やる気のない様子でジッドの仲間たちを見た。
「わ……ぎゃ……った……」
答えたのはジッドだ。
「ふむ。こいつはこう言ったが?」
手を離す様子はない。ジッドの仲間たちは戸惑った様子を見せたが、最後には銃を収めて男の脇を抜けてドアを抜けていった。
最後の一人が出て行き、ようやく男は手を離した。
泡を吹いて白目を剥《む》いていたジッドが床に転がる。だが、男に頭を蹴られるとすぐに気絶から舞い戻った。
「て、てめぇ……」
咳《せ》き込みながら激しい敵意を向けるジッドに、男は顔を近づけた。すでに乾き始めた鼻血で顔の下半分を赤黒く染めたジッドはそれだけで勢いを失う。
「出て行く前にお前たちのボスに伝えておけ、ゲドシュとかいうのはおれのボスが預かっているとな」
「なっ、て、てめぇ……最初から」
「伝えろよ」
一方的に会話を閉じた男は、顔を離すとジッドの背中を蹴った。
人間が宙を飛んだ。開け放たれたままだったドアを抜け、レンガ造り調の壁にぶつかる。男が外を確認することなくドアを閉めると、それで店の中にはラミスと男とその連れの少女だけということになる。
「あなた、なんなのよ?」
ラミスはカウンターの中で震えながら|尋《たず》ねた。ジッドたちに起こった奇怪な変化、そしてそんなジッドを人間離れした力で圧倒した男。自分の中の常識が、あの一瞬で覆《くつがえ》されたような気分だ。
「使いだよ」
男はそれだけを言うと、少女の待つテーブルに戻った。
「それより、メニューをくれ」
男と少女の奇妙なカップルは、アイレイン、サヤとそれぞれに名乗った。
メニューはないと答えると、美味いものといい酒という言葉が返ってきた。酒の方はそれなりに上等なものを数本用意してあったのでそれを出したが、問題は料理だ。チーズとハムとナッツ以外はつまみになる程度の冷凍食品しか店の冷蔵庫の中にはない。ままよと大皿にそれらを並べて持っていった。
アイレインは文句も言わずにそれらを平らげ始めた。
「それで、あんたたち……」
先ほどまでの|剣呑《けんのん》な|雰囲気《ふんい き 》はなく、アイレインは無心に大皿に載ったつまみの群れを口に放り込んでいる。ラミスは警戒を緩ゆで|尋《たず》ねた。
「ゲドシュは無事なの?」
「さあ?」
答えたのはアイレインだ。
「さあって……」
「わたしたちが彼を確保した時にはすでに重傷でした。治療の結果を確認せずここに来よしたので、現在はわかりません」
サヤと名乗った少女が驚くほど淡々と|喋《しゃべ》った。
少女はテーブルに置かれたつまみどころか、目の前のジュースにすら見向きもせず、ラミスを見上げている。
黒い瞳に黒い髪、肌の色は違うがアジア系の人間だ。アイレインもそうだし、もしかしたら兄妹なのかもしれない。ただ、アイレインからは気だるげながら暴力に慣れた者特有の|雰囲気《ふんい き 》があるというのに対して、少女にはそれはない。年恰好《かっこう》からすればそれは当たり前なのだが、さきほどのアイレインのやったことに対して驚きも恐怖も見せる様子もなく、いまもまたラミスに向かって|喋《しゃべ》った言葉に感情らしきものが感じられない。
話し方が年相応ではないのだ。
(なんだか、本当に人形を相手にしているみたい)
正確には機械を、だろうか。
「あんたたち、なんなの?」
「使いって、言わなかったっけか?……」
「聞いたわ。なら、どこの使いだって言うのよ? ここら辺を仕切ってるのはさっきのジッドがいるケルフェ・ファミリーだよ。ゲドシュだってそうさ。それとも隣の区のファミリーが縄張り拡大にちょっかい出してきてるって言うの?」
「おれたちは余所者だ。その上、この街に来たのも初めてだ。地元のギャング連中にツテはない」
今の時代、市を名乗る規模の街は一千万人以上の人口を抱えている。肥大した衝の裏社会を一つのギャングが支配している例はかなり少なく、また現実的ではない。無数のギャングが一つの市街に乱立しているのが常識だった。
「じゃあ……」
「まあ、待て。あいつらに伝言は済ませたが、もう一つ伝言を頼まれている。あんたにだ」
「わたしに?」
「うちのボスからだ。『望むなら、お前も保護する』だ、そうだ」
どうする? とは聞かれなかった。アイレインは興味のない様子でつまみを口に運び、酒で流し込んでいる。瓶の半分は飲んでいる。度数の強い酒だというのにどこにも酔った様子は見られなかった。
|不可思議《ふかしぎ》な男だ。だが、不審な男であるはずなのに、信用してもいい気分にさせる。
それは、もしかしたらアイレインがラミスにまるで興味を示さないからかもしれない。ラミスの生死がどちらに転がろうと自分にとってはたいしたことではないと、その態度が告げているからだろう。
信頼して欲しいと強く訴えかけられるのには、ラミスはもう飽きていた。信頼なんて、本当に存在していたとしでも現実の前ではたいして役に立たない。
それにここ数日、二人きりになった時にゲドシュが|憔悴《しょうすい》した様子で考え込んでいる姿を何度も見ている。もしかしたら、今夜のこの騒ぎはそれに関わっているのかもしれない。
「そこにいけば、ゲドシュに会える?」
「まだ生きているのなら……いや」
思い直した様子でアイレインは首を振った。
「生きてはいるだろうさ。ただ、五体満足とか、まだ人間として見られる外見を保ってるかどうかは、保証できないがね」
「……いいわ」
この男がそれを言うと妙な説得力がある。ラミスは意を決して|頷《うなず》いた。
「そうかい、それなら……」
|呟《つぶや》くと、アイレインは皿に残った最後のチーズを残った酒で一気に流し込んだ。
「アイン……さきほどから|行儀《ぎょうぎ》が悪いですよ」
「いいじゃないか。あまり時間はないようだしな」
サヤに言われ、アイレインは困った顔で眼帯を指で掻《か》く。その瞬間だけ、二人の間にのみ許された温かい空気が流れた気がした。
「それで……ラミスさんだったか? 車は持っているかい?」
「え、ええ」
「そうか。ここにはタクシーで来たからな。その事を使わせてもらおう。ああ、もう一つ、運転はうまい方かな? 例えば時速八十キロでドリフトしながらカーブで対向車を避《よ》けられるくらいには」
「そんなのできないわ」
「そうか、まあおれもできないんだけどな。じゃあ運転はサヤに任せよう」
「わかりました」
その言葉でラミスは、ゲドシュにプレゼントされたあの赤いスポーツカーは今夜で廃車になるのだろうなと、漠然と未来を予想した。
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車は店の近くの道路に置いていた。この辺りだとこんな所に放置しておけば盗まれるのは当然なのだが、ゲドシュの後ろ盾があったことで、誰もラミスの車には手を出さない。
だが、ジッドの態度を見れば、ゲドシュの立場がケルフェ・ファミリーの中で急落したことは確かだ。
追われ、命を狙《ねら》われている。それならこのスポーツカーの運命は明日、遠くとも今夜普通に閉店まで置いておけば盗まれたことだろう。
「ねぇ、ゲドシュはどうしちゃったの?」
キーを渡された少女がスムーズにスポーツカーを動かすのに驚きながら、助手席のラミスは後部座席に乗ったアイレインに|尋《たず》ねた。
ゲドシュとは昔からの知り合いだ。彼は近辺の悪ガキどもを束ねていて、ラミスとは家が隣同士という間柄だった。親同士の仲もよかったこともあり、二人は兄妹のように過ごした。
近すぎる関係性はラミスに恋心を抱かせなかった。大きくなるにつれ、連れ歩く不良たちの数が多くなるにつれ、ラミスは距離を置くようになった。
だがそれが、いまはゲドシュに依存するような生き方をしている。
「さあ?」
ともすれば物思いに沈みそうなラミスに、アイレインは首を傾げた。
「さあ……って、あなたたち、ほんとになにも知らないの?」
「取引はうちのボスとの間で行われた。おれたちはボスの言うとおりに動き、それでボスから給料をもらう。仕事を完遂《かんすい》でさればボーナスも付く。そういう契約でね」
「あなたたち、|傭兵《ようへい》かなにかなの?」
「それに近い、といえば近いのかもしれんね」
狭い後部座席に窮屈そうに座るアイレインを、前を気にしながら観察する。なにしろ、運転席に座る少女は体を沈み込ませるようにしなければアクセルも踏めないのだ。あれでは前が見えないだろうと思うのだが、車は車線に従って走っている。
「ボスって……やっぱりあなたたちギャングじゃないの?」
「この街のギャングにツテはないって言ったぜ? 街の外のギャングっていう、現実味のない話もなしだ。一応はまっとうな雇われ人のはずだ」
ますますわからなくなる。
街の外のギャング。確かに一瞬、ラミスの脳裏にその可能性が浮かんだのは事実だ。だが、豊富な資源と農地を都市の周囲に抱えている現代では、都市同士の交流さえも特に必要とはしない。それは裏社会でも同じだ。ギャングがテリトリーの拡大に他の都市に手を出すのは、アイレインの言うとおり、現実的ではない。
「ほんとに、あんたたちって……」
「来ました」
ラミスの解決しない疑問は、その言葉で強制的に保留とされてしまった。
「こっちでも確認した」
アイレインが首だけを捻《ひね》ってリアウィンドウから外を見ている。ラミスも見た。深夜のこの時間、この辺りを走る車は少ない。それなのに二台が並走してこちらの後に付いてきている。
「ホテルまでどれぐらいで着く?」
「時速百キロで二十分ほどかと」
「高速に乗っちまえば縄張り外になるはずだが……まあ、一応武器をくれ」
「はい」
アイレインを見ていたラミスは、サヤがそれをどこから出したのか見ていなかった。
ただ、宙に二つの大きな塊がいきなり現れたように見えた。放られたそれをアイレインはキャッチする。
銃身の長い銃だ。ジッドのようなチンピラが持っているものとははるかに違う。それは銃という名の工業製品というよりは、銃という名の芸術品のように冷たい気品を放っていた。
それを黒ずくめのアイレインが両手に持つ図は、ピタリと嵌《は》まっている。
「とりあえず、逃げれるだけ逃げてみ」
「いえ、無理です」
瞬間、車内が激しく揺れた。何かがぶつかってきたのと、車が急カーブをしたからだ。
「仕掛けてきました」
「はやいね」
車は尻を振るようにして揺れながら走っていたが、すぐに持ち直す。
車外を、何かの影がちらついた。
「揺れますので、シートベルトを着けてください」
「え、ええ……」
サヤの淡々とした声に従いながら、窓の向こうを見る。その影は車に張り付くようにずっとそばにいた。
「……なに、あれ?」
高速で走るスポーツカーは区の中心部へ向かってひた走っていた。人気が少ない通りから、比較的人のいる所へ。その過程で街を|彩《いろど》る電飾と街灯の数は増えていく。
高速で走り抜けていく赤いスポーツカーを何人かの人々が振り返って見ている。
けばけばしい街の明かりが、車に張り付く姿を一瞬だけ影から切り出した。
その、瞬間に残された映像は理解できないまま他の光景に飲み込まれる。なにかを見た。それだけは理解できる。では、なにを見た? 脳の記憶を担当する領域に送られてしまった映像を引っ張り出す。出したくない。火種に素手を伸ばすような、そんな危険を感じながらも掴み、引きずり出すことが止められない。
「ひっ!」
思い出す。そのために要した時間分、ラミスは悲鳴を上げるのが遅れた。
「なによ、あれ……なんなのよ!?」
記憶から掘り出された映像……あれは犬だった。いや、虎か、|獅子《しし》か、豹《ひよう》か、とにかく四足で走る生き物だった。長い顎には大量の涎《よだれ》に濡れた|牙《きば》があり、ナイフで裂いたような鋭い目があった。
だが、だがだがだが……あの肌はなんなのか?
毛がなかった。それだけなら何の問題もない。毛のない犬は意外に貧相で、外にいる四足の獣もその例からは漏れない。
しかし、あの肌に張り付いているもの。いや、肌そのものなのか、そこには人の顔があった。
拡大された人の顔があった。
その顔をラミスは知っていた。ラミスを見て、その顔は笑った。|眉《まゆ》も髪もなく、目と鼻と口だけのパーツでしかないのに、その口が作ったにやけた笑みがラミスの別の記憶を刺激したのだ。
『よう、ラミス』
あの顔は、ジッドだ。
「……異民問題って知ってるか?」
ラミスのその驚きは車内のどこにも浸透していなかった。サヤは黙々と車を運転し、アイレインは左の銃を脇《わき》に挟んでコートの内側からなにかを取り出している。
銀製のケースに収められた、それは|煙草《た ば こ》だった。
火をつけず、アイレインは一本抜き取ったそれを銜《くわ》えた。
「国境……絶縁空間から漏れ出したオーロラ粒子による法則の変換。各地に出没している異形のことだけどな」
「オーロラ・フィールドに穴が開いてるって、あの|噂《うわさ》になってる……?」
「ああ、そんな|噂《うわさ》だ」
「知ってるわ。でも、それって公害みたいなやつでしょ? フィールド境界面から離れてたら問題ないって……ここだって、そのためにいくつか区を|廃棄《はいき 》して移動したんだから」
それに、いま外を走っていたあの奇怪なものが異民……零《こぼ》れだしたオーロラ粒子によって法則を変えられた生物だとは信じられない。
信じたくない。
もっと……毒性の物質によって神経や脳細胞に障害が起こるような、病院で手術を受ければ治るような類であってほしい。
そうでなければ、自分がああなるかもしれないという恐怖と闘わなければいけなくなる。
「害がくるわけないってか? まあ、そうなんだろうけどな。でもな、フィールド境界面……絶縁空間がどこにあるかなんて、あんた知ってるのかい?」
「え?」
アイレインに言われて、ラミスは口ごもった。
そんなこと、考えたことはない。空に浮かぶオーロラ・フィールドはどこからでも見ることができる。だが、そもそもオーロラ・フィールドは亜空間増設機によって作られた亜空間と現実の空間が接触することによって生じる火花だという話を聞いたことがある。
それなら世界中、どこの空からでも見ることができるのは当たり前なのだ。今、自分がいるこの場所は地上も空も、全て作り物なのだから。
フィールド境界面と呼ばれる、亜空間を創造・固定している増設機の位置なんて開いたことがないし、考えたこともない。
「どこにあるかも知らんのに、そんな暢気《のんき》にしてるとは、平和だねぇ」
「そんなこと、言われても………」
「ま、仕方ないのかもしれんがね。……よし」
リアウィンドウから後方を確認したアイレインは一つ|頷《うなず》くと右側に寄った。
「じゃ、ちょっくら|掃除《そうじ 》してくる」
「効果時間をお忘れなく」
「わかってるよ」
|頷《うなず》いたアイレインはいきなり窓を銃のグリップで叩き割った。車はすでに高速バイパスに入っていた。突風が車内で荒れ狂う。アイレインは動じることもなくガラス片を払うと狭い|隙間《すきま 》から車外へ、屋根へと移動した。
「ああ、そうそう」
屋根の上から、アイレインが顔を出す。
「なにがあってもサヤの邪魔だけはするなよ。ここにサヤがいる限り、要塞《ようさい》並みに安全なんだからな」
「え?」
「そしておれは、砲台の役目ってわけだ。じゃあな」
するりとアイレインが顔を引っ込める。
「……なんなのよ、もう」
なにもかもについていけないラミスは、ただそう|呟《つぶや》くしかなかった。
車の屋根の上に立ち、アイレインは銜えたままだった|煙草《た ば こ》にオイルライターで火をつけた。時速百キロの突風の中だというのに、オイルライターからの火は|煙草《た ば こ》の先に宿る。
「さて……」
オイルライターをコートに戻し、銃を掴みなおす。隻眼で状況を確認する。追尾する車は二台のままだ。ここはすでにケルフェ・ファミリーの縄張りではないだろうに、そんなことはお構いなしの様子だ。
「ボスの見通しは甘かったか?」
まあ、それはいつものことのような気もする。かわいそうなボスのことはとりあえず頭の片隅からも除外して、観察を続けた。
車のすぐそばを追走する異民どもは十匹だ。全てが犬に似た四足獣の形をしている。人の顔を貼り付けた肌を持つ犬。肌にある顔が敵意と侮《あなど》りの視線をアイレインに向けた。
「後悔してくれ」
告げると、アイレインは両腕の銃を持ち上げた。
銃爪を引く。マズルフラッシュが夜を引き裂いた。|轟音《ごうおん》の後には即座の結果が現れる。
すぐ近くにいた一匹が頭を破裂させて吹き飛んだ。道路をバウンドして転がる死体は、追いかけてくる車に轢《ひ》かれ、さらに無残なことになる。
銃爪をさらに引く。マズルフラッシュは夜気に残光を刻み、その度に犬の形をした異民の頭が弾け飛ぶ。
五匹が一瞬にして物言わぬ死体になったところで反撃が始まった。
速度を上げた犬たちが一斉に飛びかかる。濡れ光る牙がアイレインに、そして車のタイヤに迫った。
三匹がアイレインに。
「遅い」
正面に迫った一匹の顎を蹴り、追い返す。
同時に両腕を左右に伸ばす。突き出された銃身が犬の牙を砕いて、銃口を口内に押し込んだ。
マズルフラッシュが牙の|隙間《すきま 》から零れ出る。
胴体にある顔が驚きの表情を作って膨らむ。銃弾とともに吐き出された衝撃波が犬の体を粉砕した。
蹴り飛ばした一匹に銃弾を食らわせ、さらにタイヤに噛み付いた二匹を見る。タイヤを食いちぎらんと|執拗《しつよう》に食らいつき、タイヤの回転に巻き込まれた二匹だが、車はびくともせずに走行を続けている。
その二匹の頭部を順番に打ち砕き、アイレインは追尾する二台に目を向けた。
「真打ちはあの中か? 来るか?」
口の中の紫煙を吐き出す。|煙草《た ば こ》の長さは半分ほどになっていた。
「時間はあまりないか……」
二台は一定の距離を保ったまま、追いつこうとはしない。
「なら、ここから……」
銃口を二台の車に向けたその瞬間……
世界が揺れた。ブレーキ音が被《かぶ》さる。
「ちっ」
地面そのものが揺れたのだ。地震ではない。高速バイパスの道路が波打ち、身をもたげ、進行方向を塞《ふさ》いだ。
サヤがスポーツカーに急制動をかけた。車体は尻を振って前後を逆にし、止まる。
バイパスには他にも車がいた。それらの車は急激な変化についていけず、スリップを起こし、行く手を塞ぐ道路だったものに衝突し爆発を起こした。
「アイン……」
破れた窓からサヤの声が届いた。
「わかってる。犬っころに異民化したわけじゃなかったわけだ」
あらゆるものに寄生する顔。それが奴らの異民化……法則を無視した生命体の正体なのだろう。
「まあ、これで確定だろうさ」
異変を見上げながら、アイレインは|呟《つぶや》いた。
道路は車を内包して球形になろうとしていた。
その内側にあの顔がある。ラミスの悲鳴が甲高く密閉された空間に響いた。
犬についていたあの顔だ。より巨大化した十の顔がアイレインたちを取り囲んで笑っていた。
巨大な目が、まるで小さな覗《のぞ》き窓から見下ろすようにしてアイレインと車を見つめている。腕がらくらくと入りそうな鼻の穴からは息とともに白い煙のようなものが零れ出ている。ゲタゲタと、笑い声が空気を震わせている。
狂気を誘う光景だが、アイレインは冷静に笑い声を上げる顔たちを見上げていた。
「高速を使えんのは面倒だな……サヤ」
「ルートの検索はすでに済ませてあります」
「了解した」
サヤの返答を聞いて、アイレインは次の行動に移る。
ぷっと|煙草《た ば こ》を吹く。赤い火種が暗い中で線を描き、球の中央に達した。
素早く跳ね上げた銃の銃爪が引かれる。銃弾が|煙草《た ば こ》を粉砕した。
その瞬間、閃光《せんこう》が球の内部を支配する。悲鳴が球形に満ちる。ラミスのものではない。周囲に浮かぶ巨大な顔からだ。
突如、球形の形が|歪《ゆが》み、地面にぽっかりと穴が聞いた。
重力に従い、赤いスポーツカーは落ちる。
「このまま逃げるぞ」
「わかりました」
破れた窓から後部座席に戻ったアイレインが言い、サヤがアクセルを踏みつける。
地面にたどり着く。数度バウンドしたスポーツカーは何事もなく走行を開始した。
「なんなのよっ!」
ラミスの怒りとも悲鳴ともつかない大声にアイレインもサヤも答えることなく、スポーツカーは一つのホテルの前で止まった。
放心状態のラミスを引きずるようにしてシャンデリアの黄金色の光に染められたロビーを抜け、エレベーターに乗り込む。
たどり着いたのは地上六十階のホテル。その最上階にあるスイート。ェレベーターから出れば、すでにそこは部屋の中だった。
「ボス、連れてきたぞ」
フロアの全てを使っているだろう広い部屋にアイレインの声が響く。
「聞こえている」
イライラとした声がそれに答えた。
姿を見せたのは、この部屋には似合わない男だった。中年太りの突き出した腹がまず目に付く。神経質そうな目がアイレインたちを見ていた。若い頃は好い男だったかもしれないが、時の流れは残酷にもその|残滓《ざんし 》しか残していなかった。
しかし、そんなのは金持ちにだっている。誰も彼もを疑ってかかる金持ちたちをラミスは何人も見ている。
そんな彼らと、目の前にいる男との違いは服装だろうか。ウエスタン風の服にシャワーを浴びてそのまま放置しているのだろう髪、そして無精ひげ。|身綺麗《みぎれい》さに対する無意識レベルの無頓着《むとんちゃく》さが、男をこの部屋と不釣合いにしている。
「ご苦労だった。適当に休んでろ」
「あいよ」
「では、休ませていただきます」
言うと、アイレインたちはラミスを置いて部屋の奥へと消えていった。
「まったく、悪い方向に影響を受けおって……」
ぶつぶつと零していた男は、ラミスに視線を移した。
「失礼した、レディ。おれはドミニオ・リグザリオ。あいつらのボスだ」
「あなたたち、なんなの……?」
「なんだと? あいつらそんなことも説明してなかったのか?」
アイレインたちの立ち去った方向を睨《にら》み、再びブツブツと零したドミニオはラミスをソファに案内して、自ら|淹《い》れたコーヒーを置いた。
周囲にはホームバーのセットがあり、ビリヤード台が置かれたりもしている。この辺りはロビー兼応接室といったところだろうか。
「あ、美味しい」
口をつけたコーヒーに、ラミスは思わず|呟《つぶや》いた。張り詰めた気分の中で混かい飲み物はありがたい。それだけでなく、コーヒーは本当に美味しかった。
「コーヒーの味がわかるとほありがたい。あのくそガキどもは使えんからな」
コーヒーを|褒《ほ》めた瞬間だけ、ドミニオの瞳は和らいだ。
「さて、自己紹介だ。名前ほもう言ったな。職業は巡視官《サーキット》だ」
「巡視官ですって?」
交易の不必要化によって、各都市は年々自立化が進んでいる。ネットワークによって情報の交換は常に行われているが、ネットワークがもたらす情報だけではその都市の実情はわからない。
そのために政府が数十年前に設立した組織が、巡回司法機関だ。組織に所属する巡視官たちはその足で各都市を巡り、司法の状態を確認し、その都市の犯罪事情を調査する。巡視官には司法の全ての権力が与えられ、犯罪者を独断で裁くことが許されている。時にその都市の司法機関が健全な状態ではないと判断した場合には、司法機関の最高責任者を代行することも認められており、そのためには政府軍の出動を要請することができるのが巡視官だ。
これほどの強権の要因は、政府のある首都と地方都市との疎遠関係にもあった。広大すぎる国土、物質的距離において離れすぎた都市たち。政府の影響力が地方都市で効力を失ってきていることに、危機感を覚えた末の機関設立だった。
ドミニオが手帳を出す。革の装丁がされた手帳を聞けば、そこにはバーコードが刻まれているのみだが、次の瞬間にはホログラフが展開し、幾分若いドミニオの写真が|添付《てんぷ 》された身分証明書が映し出された。
「信じてもらえたか?」
「巡視官の身分証なんて見たことないんだから、本物かどうかなんてわからないわ」
先ほどまでのことを考えれば、現実的な話の展開だ。ラミスは落ち着いてドミニオを見た。
「それで、ゲドシュとわたしをどうしたいの?」
「君を求めたのはゲドシュだ。おれと彼の間で司法取引が成立している。君を保護する代わりに、情報を提供してもらう」
「情報?」
「ケルフェ・ファミリーに接触をもったとされる人物の情報だ。おれは現在、その男を追っている」
「誰のこと?」
「それはゲドシュから聞く。をれよりも、君にはこれからゲドシュと会ってもらわなければならないのだが……。一応聞いておきたいんだが、君とゲドシュは|幼馴染《おさななじみ》という話だが」
「ええ、そうよ」
ラミスは|頷《うなず》いた。
それ以上の関係があるのかどうかは開かれなかった。聞かれてもどう言えば良いのかは、実はラミスにもよくわかっていない。|幼馴染《おさななじみ》? それだけで片付けるには二人は年を取りすぎた気がする。恋人? ゲドシュとの間にそんな関係はなかった。今も昔も。
学生の身分から卒業し、社会人を数年経て結婚した後に失意したラミスの前に、ゲドシュは何年かぶりに姿を見せた。その間、ゲドシュとは電話すらしたこともなかった。ギャングの仲間入りをしたという|噂《うわさ》話だけは聞いていた。実家に戻っている様子はなかった。
そんな彼がとてもタイミングよく、全てを失って|呆然《ぼうぜん》とする自分の前に現れたのだ。
ゲドシェとの関係を確認したドミニオは彼の元に案内しようとした。
「待って。その前に電話をさせて」
「なんだと?」
「実家に子供を預けているのよ。もう遅いけど、母に帰れないって告げないと。携帯電話は店に置きっぱなしだわ」
「……そこの電話を使え」
ドミニオに指差された先には、周囲の調度に合わせたアンティークな形の電話があった。
少し離れた場所にある。
ラミスがソファから立ち上がり電話に向かう。ドミニオはその背を見ながらコーヒーを飲んだ。
「浮気心は不味《まず》いと思うぜ」
「ぶっ」
あやうく、コーヒーを噴き出しそうになった。
「アインっ!」
ソファの背側から体を預けるようにして、アイレインがそこにいた。
「一応は嫁さんのいる身なんだから、ボスは」
二人の視線の先にはラミスの背がある。体のラインに沿ったドレスは歩に会わせて彼女のヒップを強調する。
「お前こそ……」
「おれとあいつは、そんな関係じゃないぜ」
機先を制され、ドミニオは言葉を詰まらせ、喘《あえ》いだ。
「そんなことより、だ」
「なんだ?」
イライラとしたドミニオにアイレインは笑ってみせた。
「エルミがいないけど?」
「なんだと?」
「奥で寝てたんじゃねぇの? 出かける前はそうだったけどな」
「いや、一時間前まではそうだった。くそっ、もう行っちまったってことか」
「そうなんかね? まあ、手っ取り早くやってもらった方が、おれが楽できるけどな。最近、持続時間が短くてさ」
「ヘビースモーカーになっただけだろうが」
付き合いされんと再びコーヒーを口につけたドミニオは、ある事実に気付いた。
「……待て、エルミがいないということは」
「ゲドシュもいなかったぜ。まだあの中?」
「クソがっ!」
自分が着ている服を一万着は用意できそうなテーブルを乱暴に叩き、ドミニオは立ち上がった。
「まっ、そう怒らんでも。そっちの方が案外いいのかもしれんよ?」
「なんだと?」
「来たぜ」
言葉と同時にホテルが揺れた。
ラミスが悲鳴をあげでその場に座りこむ。
「ここは安全だったんじゃなかったのかい?」
六十階の建物だ。最上階はとてもよく揺れる。ドミニオが転がる横でアイレインは平然と立ちながら、コートから銀のケースを取り出した。
「ここはケルフェの縄張りじゃない。この辺りを仕切っているファミリーとは話をつけているんだぞ!」
揺れに立ち上がれず、ドミニオは座り込んだまま騒いだ。
「それだけの秘密をゲドシュが掴んでるってことじゃねぇ?」
「戦争をしてでも守りたいというか?」
「これがあれば勝てるって思ってるのかもな」
ケースから|煙草《た ば こ》を取り出し、銜える。
「サヤ」
「はい」
呼びかけると、背後から声が返ってくる。まるでこの揺れがないかのように歩いてきた少女は、アイレインの|側《そば》にぴたりと寄り添った。
「サヤはここでディフェンス。おれはアタック。よろし?」
「かまいません。この部屋はすでにわたしの干渉下です」
その手には先ほどの銃が置かれ、アイレインの手に渡された。
「お気をつけて」
サヤが冷たい瞳で見上げてくる。アイレインはその頭を撫《な》でると、唇の端を吊《つ》り上げて笑った。
「エルミが戻ってくるまで時間|潰《つぶ》しだ。派手に遊ばせてもらうか」
エレベーターに吸い込まれていったアイレインをドミニオたちは黙って見送る。
激しい揺れは収まったが、それでも微弱な震動はホテルの全体を支配しているようだった。
「ねぇ、どうなってるの?」
ラミスの質問はしごく当然のもののように思われた。
少なくとも、ドミニオにとっては。
ワンフロアを使い切った豪勢極まりない部屋にいるのはたったの三人。
事情を知らないのは一人。
説明する気もなく、どこを見ているとも知れない目でただ立っているだけの少女が一人。
残っているのは、やることもなく痛み出した胃を押さえて|唸《うな》る……
「おれだけか」
それは自分の職業上立場上当たり前のような気もする。アイレインたちを雇っているのはドミニオで、しかも自分は巡視官だ。だが、今自分が関わっていることほ巡視官の職分を|凌駕《りょうが》しているような気もする。大人しく上層部に伝えて、アルケミストなりを派遣してもらう方が妥当なのではなかろうか。
そうは思ってみても、それは許されないだろう。
(雇っているといったところで、あいつらが言うことを聞くのはエルミだけだしな)
まったく……自分の境遇を悲観してため息を|吐《つ》くと、ドミニオはラミスを見た。
ラミスもまた、無言を通すサヤよりもドミニオに|尋《たず》ねるのが一番だと感じているようだ。
「仕掛けてきているのはケルフェ・ファミリーだ」
「まさか」
ドミニオの言葉は、予想通りに鼻で笑ってあしらわれた。
「ここ、ニルヘイム・ホテルでしょ? この辺りはハイン市の中心部よ。仕切ってるファミリーは一番実力がある。戦争なんてしたら消し飛ぶのはケルフェの方よ」
ドミニオもそエノ思っていた。
「勝てると思ったから、こんな無茶をしてるんだろう」
アイレインが言った言葉をそのまま言う。
まったく……アイレインが転がり込んでからすでに五年が経っている。その間、こんな事件に散々に関わってきたというのに、ドミニオにはまだ奴らの考えがわからない。
(いや、違うな)
わかってはいるのだ。
手に入れたものがなんであろうと、それは|分不相応《ぶんふ そうおう》な力だ。そして力を手に入れた人間がどうなるか?
それはドミニオのような凡人の範疇《はんちゅう》にあるものだ。
力に|怯《おび》えるか、力に酔いしれる。
「あいつら、一体どうなったっていうのよ?」
「異民化です。言いませんでしたか?」
サヤが口を挟む。
「聞いたわよ。でも、おかしいでしょう」
苛立《いらだ 》たしげな視線をサヤにぶつけ、ラミスは続ける。
「どうして、あいつらだけがあんなに急におかしくなるのよ?」
その疑問に、ドミニオが正確な答えを出すことがでされば、どんなに楽か。
「詳しい説明は俺にはできん。いまは、時間を稼ぐだけだ」
「待ってよ、ゲドシュは?」
「予定が変わった。ここにはいない」
「どういうことよ?」
「こっちが聞きたい!」
悲鳴のような|怒鳴《どな》り声に、ラミスは黙った。
エレベーターで一つ下の階に。揺れもなく、ただ特有の到着音がして扉が左右に開いた。
あんな超高級の部屋は一つしか用意してないらしく、毛の探そうな|絨毯《じゅうたん》が敷き詰められた|廊下《ろうか 》が左右に延びていた。
ドアの間隔は広い。この階も最上階ほどではないにしても高い部類に入るのだろう。アイレイン一人だけならば、こんな高級ホテルには一生、足を踏み入れることはなかった。
だが、巡視官であるドミニオに付いていけばあっさりと最高級の部屋に泊まることができる。
自分の金ではなく、ましてや自治体の金でもない。
ギャングどもの金でだ。
ギャングたちが一番恐れるのは首都政府軍の介入による秩序の強制正常化だ。一度発動されると、出動した軍隊は秩序回復の名目で、ギャングに関係する全ての人間を殺して回る。それを決定することができるのが、巡視官の最大の力だろう。
そうならないよう、訪れた巡視官を最大級にもてなすのはほぼ全ての都市で慣例となっていた。
もちろん、それになびかない正義感溢《あふ》れる巡視官には、暗殺という別の手段が行使されることになる。
ドミニオはどちらかといえばなびく側の巡視官だ。
「……さて」
左右に視線を飛ばし、様子を見る。微弱な揺れは相変わらずあるのだが、どこか変わった様子、というものはない。
おかしいのは、あんな揺れがあったというのにこの階にいるだろう客が誰も部屋の外に出ていないこと……か。
「ま、十分だな」
|廊下《ろうか 》を進み、アイレインはすぐそばにあった部屋をノックした。
返事はない。が、ドアの向こう側から生き物の気配だけは感じられる。
「入るぞ」
ドアの向こうに聞こえているかどうか知らないが呼びかけると左腕でドアを殴った。あらゆる事故に対応するよう作られたドアがそれだけでへしゃげ、引きちぎれる。
内側に倒れたドアを踏みつけて中に入るとダブルベッドの広い部屋だった。
人の気配はベッドの上だ。こんな時間だ。すでに夢の世界に旅立ってしまっていてもおかしくはない。
だが、ドアが破壊された音にさえ気付かないほどの深い眠りは、そうはないだろう。
「おい」
遠くからベッドに呼びかける。シーツの膨らみは身じろぎもせず、その向こう側で|寝癖《ね ぐせ》ができ始めた髪がチラリと見えた。
「起きないのなら別にかまわないぜ、そこでそのまま死ぬだけだ」
待ちの時間はない。即座に銃爪を引いた。吐き出された銃弾がシーツの大穴とともに血の花をベッドに咲かせる。宙には羽毛が散らばった。
ただの宿泊客であった可能性をアイレインは考慮に入れていない。
誰かにそのことを責められれば、アイレインははっきりと言うだろう。こんな状況で寝ているほうが悪い。
そして、今のところ責められたことはない。
なぜならば……
ベッドが揺れ、シーツが吹き飛ばされる。胸から上を失った死体が露《あらわ》になるが、アイレインの目はそれを見ていない。
床を影が走る。
顔だ。犬に張り付き、そして高速バイパスに寄生してアイレインたちを取り囲んだ顔、その一つが床を滑るようにして高速で移動している。
「逃がさねぇよ」
アイレインはすばやく足を動かし……踏みつけた。
「ぐげぇ」
そんな声が床からする。
アイレインの足が踏みつけたのは顔を構成する三つのパーツの内、口だった。目と鼻はそのままアイレインの胞をかすめ、ドアの向こうへと逃げていく。
「器用なことだ」
逃げていく目と鼻を|呆《あき》れた顔で見送り、踏みつけた口を見た。
「耳がないってことは、聞こえないのか? それとも耳がなくても聞こえるのか?」
「へへへへへ……」
「答えろよ」
「ぎゃああっ!」
踏みつけた足に力をこめる。|砂利《じゃり 》を踏んだような音がして、悲鳴が後に続いた。
「てめぇ、なにしやがる!」
砕けた歯を血混じりの唾とともに吐き出して、口は|怒鳴《どな》った。
「聞こえてるのかって、おれは聞いたよな?」
「聞こえてるよ、この糞《くそ》野郎!」
この声には覚えがある。ラミスにジッドと呼ばれていたあのチンピラだ。
「ならけっこう。聞きたいことがあるんだけどよ」
「なんだよ」
口は、踏みつけられたまま動こうとしない。あるいは逃げようとしているのかもしれないが、それが動きとして出ていないだけなのかもしれない。
「お前らをそういう風にした奴がいるよな? どこにいる?」
「はっ」
「…………」
「痛い痛い痛いっ!」
「おとなしく言おうぜ? めんどくさい」
「めんどくさいなら、関わんじゃねぇよ」
「ガキの揚げ足取りもやめようや」
「てか、なんなんだよ、おめえほっ!? おれらを見てもビビリもしねぇ。普通にやり返しできやがって」
「仕方ねぇだろ? お前らにとっちや降って湧いた特別な力かもしれんが。おれにとっちや、そう珍しくもない力だ。特に、フェイスマンのはこの間も見たしな」
「てめぇ、なんで知って……」
「ああ、やっぱりフェイスマンか」
「あっ……」
「……お前、仲間内で馬鹿扱いされてないか?」
「う、うるせぇ! おれは腕っ節専門だったんだ!」
「その腕ももうないけどな」
「うるせぇっ!」
「ま、いいけど。で、フェイスマンはどこよ?……」
「ぐっ……」
アイレインは|煙草《た ば こ》に火をつけると、黙りこむ口を強く踏みしめ、悲鳴を上げさせる。
その口に火の付いた|煙草《た ば こ》を放り込む。
「ぎゃっ!」
舌が焼けて悶《もだ》える口だが、その悲鳴の上げ方が徐々に激しくなっていった。
唾がだらだらと口からあふれ出す。口内の熱を下げようという代謝能力なのか……だが、|煙草《た ば こ》の火は消えず、肉を焦がし唾液を蒸発させる音が延々と続いている。
「その|煙草《た ば こ》はな……」
新しい|煙草《た ば こ》を銜えながら、アイレインは説明した。
「アルケミスト製の|煙草《た ば こ》だ」
口は、焼かれ続ける舌に答えることもできない。
「煙に含まれる粒子にオーロラ粒子の起こした異界|侵蝕《しんしょく》を現世法則に書き換える能力があるんだそうだ。つまり、完全に全てが異民化しちまったお前には毒以外のなにものでもないってことさ」
「ががばばばばばば……」
意味のない叫び声を上げる口に、アイレインはもう質問する気はなかった。
「質問は他の奴にさせてもらうことにするわ」
そうは言っても足は外さない。大量の煙を吐き出す口を淡々と見下ろし続ける。と……|頬《ほお》に冷たい感触が当たった。
「ん?」
雨? そう感じたのは一瞬。屋内で雨が降るわけがないという事実にすぐ気付く。では防火装置が作動したか?
そうではない。
見上げた天井に目と鼻がいた。口の危機に戻ってきたのだろう。
濡れたのは、目から零れ出た涙でだった。
「おいおい」
ぼたぼたと落ち続ける涙が見る間に量を増やしていく。あっという間にその量は蛇口を全開にしたかのように溢れ、煙を噴き出す口の中に流れ込んでいった。
現在の世界を創造したといってもおかしくないアルケミスト製の|煙草《た ば こ》だが、さすがにそんな大量の水を浴びせかけられては燃えでいられない。
「ぐばああああ、畜生!」
大量の水が降り注いだ時に、アイレインは口の側から退避していた。大量の水を吐き出しながら口は移動。ドア近くの壁で目鼻と合流した。
声で想像したとおり、そこに出来上がったのはジッドだった。
「てめぇ、絶対殺してやる!」
「よく|喋《しゃべ》れるもんだ」
わめき散らすジッドに|呆《あき》れつつ、アイレインは右手の銃を向けた。
「どっちにしても、お前さんじゃ勝てねぇよ」
「俺一人ならな」
含みのある笑いを浮かべた瞬間には、すでにジッドの……ジッドたちは動いていた。
天井が盛り上がり、巨大な目が|瞼《まぶた》を押し上げた。
壁が捻じ曲がり、巨大な鼻がせり出した。
床が陥没し、大口を開けた口が現れた。
「ふう……ん」
足場を失い、アイレインは落ちる。粘つく舌の上に着地して、顔をしかめた。
「歯を磨けよ」
「うるせぇっ! おれらもどこに通じてんのかしらねぇ胃の中で、虫けらみたいに溶けて死にやがれっ!」
バグンッ、とくぐもった音とともに口が閉じられ。飲み込む動作を表して部屋全体が揺れた。
「くひやひやひゃひゃひゃひゃっ!」
ジッドの舌足らずな笑い声が部屋中に満ちた。
特有の到着音が鳴った時、ドミニオとラミスは最初に会話を交わしたソファに座っていた。
ドアが開くよりも早く、サヤがエレベーターとドミニオたちの間に立つ。いつ移動したのか、ラミスにもドミニオにもわからなかった。
静かな気配が二人にサヤを感じさせなかったのだ。
「退避してください」
感情のない声がそう告げる。
「くそっ、あの馬鹿、遊んでるな」
即座に理解したドミニオが舌打ちし、状況がわかっていないラミスを無理やり立たせて部屋の奥へと走り出す。
エレベーターのドアが開く。
「やあ」
無数の声がそう言った。
「フェイスマン!」
苦々しい悲鳴がドミニオの口から漏れた。エレベーターにはグレイを基調とした|縞模様《しまもよう》のスーツを着た人型が立っていた。ドアが自動で閉まらないように手を当て、顔中でにこやかな笑みを作る。
「ひっ」
振り返ってその姿を見たラミスが息を呑《の》んだ。
頭髪はない。その顔全体に無数の目があり、鼻があり、口がある。三つのパーツを無秩序に大量に貼り付けていた。エレベーターのドアに当てた手にも無数の小さな顔が張り付いている。
「まったくしつこい巡視官だ。私を捜しているようだが、一体なんの用なのかな?」
「犯罪者を捕まえるのは、俺の仕事だ」
「不浄役人がよく言う」
その異形の割に、|喋《しゃべ》り方は常人と同じであることが、また精神的錯誤を呼ぶ。いっそホラー映画のような狂った笑い声を連発でもしていてくれれば、ラミスの精神は安寧《あんねい》を得られたかもしれない。
「どちらにしろ、私の行動原理を邪魔する者は排除させてもらう」
「させません」
今まで沈黙を保っていたサヤが口を聞いた。
右腕がフェイスマンに向かって掲げられる。
次の瞬間、その右腕が裂けた。中指と薬指の狭間《はざま》から、|袖《そで》を巻き込んで裂けていく。
それはナイフで肉を切るような生々しい裂け方ではなかった。むしろ、そういう機構を持つ機械のように音もなく、静かに開かれた。血も噴かず、肉も露にならない。その奥にあるのは無明の|闇《やみ》。
側にいたとしても見ることはできないだろう間の奥から、それは吐き出された。
重々しい音とともに、毛の深い絨毯に三脚が突き刺さる。
どこ製のものという明確な表現はできない。それに似た形のものがあったとしても、完全に該当する兵器はこの国には存在しないだろう。
その武器には、アイレインに手渡された銃と同じように製造番号等を示す刻印はない。
それは、重機関銃だった。
「はほっ、御同輩《ごどうはい》か」
凶悪な銃口が向けられているというのに、フェイスマンは姿勢を崩すことはなかった。
「私と同じく正真の異民なのだね、君は? 他所の世界に来た感想はどうだい? 前に会った時はあの男に邪魔をされてそのままだったが……なるほど、君のバックアップのおかげだったということかな?」
「あなたと同じに語ってほしくありません」
無表情に|呟《つぶや》くと、サヤは銃爪を引いた。大型バイクのエンジン音をさらに数倍にしたような音が部屋の大気をかき乱す。
乱射された弾丸の牙は|容赦《ようしゃ》なくフェイスマンの全身を粉々に引き裂いた。
……はずだった。
「激しいお|嬢《じょう》さんだ」
銃弾は確かにフェイスマンの肉を裂き骨を砕き内臓を噴き出させ粉微塵《こなみじん》に打ち砕いている。貫通した弾丸は壁を深々と抉《えぐ》り、エレベーターを粉砕した。
フェイスマンは破壊されながら穴だらけになったエレベーターから出てくる。
肉が裂け、骨が砕かれ、内臓を吐き出すのはほんの|刹那《せつな》のこと。
次の瞬間には、それらはまるで何事もないかのように復元されてしまう。
「しかし残念ながら、それでは私を殺しきれない。わかっているでしょうに……」
消滅したかのように粉砕された頭部を瞬時に再生して、フェイスマンは満面に笑みを浮かべる。
「絶縁空間を越えた瞬間から、私たち正真の異民はそれ自体で一つの世界だ。膨張し、拡大する。今の世界そのままである私たちが、そんなちょっと大きな鉛弾程度で死ぬと思っているのですか?」
「わかっています」
かまわず銃爪を引いたままサヤは轟音の中で変わらぬ淡々とした言葉を吐いた。
「わたしの役目はディフェンスですから」
「ふむ……?」
破壊と再生をまるで早送りの画像のように繰り返して歩き続けていたフェイスマンが足を止めた。
「なるほど、これですか」
パントマイムを演じているかのごとく、なにもない場所に手を当てる。
「ここからがあなたの世界ということですか」
「そこから先はわたしの干渉下です。あなたの法則では足を踏み入れることはできない」
「やりますね。空間を制御するのがあなたの法則ですか。武器を出現させたのもそれと同じ道理ということですね」
感心した様子で異相の人型は何度も|頷《うなず》く。
「だが、しょせんはディフェンスです」
なにもない大気。そこにあるサヤの張った見えない壁に両手を上げて、フェイスマンは満面で、全身で歯を剥く凶暴な笑みを作った。
「あなたの法則には他者への侵略という概念がない」
全身が蠢《うごめ》いた。あの銃弾の雨の中、再生の影響を受けて無事なスーツからもまきは見られる。
その|蠢《うごめ》きの正体は頭部を見ればわかる。
頭部全体にあった顔のパーツが皮膚の上を滑るようにして激しく移動しているのだ。
無数の顔のパーツたちはフェイスマンの腕を伝い、サヤの張る不可視の壁の上へと移動する。壁を|這《は》っていたジッドの顔と同じ要領なのだろう。
なにもなかったその場に本物の壁が現れた。
しかしそれは、人の顔で作られるという最悪のデサインセンスによるものだ。
こちらに正面を向けた形で張り付いた顔たちが、一斉に口を開いた。
「ああああああああああああああああああっっっっ!」
悲鳴の大会場に、あらゆるものが震えた。サヤの背後にあるホームバーに並んだ酒瓶が次々と破裂してアルコールの匂いがばら撒《ま》かれる。テーブルに置かれたままだったコーヒーカッブを始めとした陶器や他のガラス製品も同じ運命を|辿《たど》った。
天井のシャンデリアが砕けてガラスの破片が降り注ぐ。電気の明かりは消えうせ、闇となった部屋に千切れた電気コードから弾ける火花だけが弱々しく抵抗していた。
しかし、震動の威力はそれだけではない。ソファゃテーブルががたがたと揺れ、不吉な破砕音を生み出している。
「きゃあああっ!」
ラミスの悲鳴が大合唱の上に重なった。
サヤの手にしていた重機関銃も震動し、グリップが外れて重い本体が床に落ちる。襲いかかる震動が見る間に分解していった。
震動はサヤの全身にも襲いかかる。不可視の攻撃はサヤを内部から崩壊させ、その肌から血がにじみ出た。
「…………!」
無言のまま、サヤが膝を突く。
血まみれになったサヤが膝を突くのを見て、いや、ラミスの目は別のものから目を離せなかったのだが、少女が抵抗を弱めた時、ラミスは悲鳴を上げながらそれを見た。
見てしまった。
電話は通じなかった。
|繋《つな》がらない電話に嫌な予感を覚えた時にこの異変が起きたので、誰にも相談することはできなかった。
ラミスの実家の場所を知るなんてケルフェ・ファミリーには簡単なことではないのか? ゲドシュとラミスが密接な関係にあるとファミリーには思われている。ゲドシュを見つけるために、人質に取られたのだとしたら?
その疑問をまさかこんな形で解消させられるとは……
フェイスマンの前にできた顔の壁の中にそれはあったのだ。日と鼻と口のパーツだけになってしまったというのに、わかってしまった。血の涙を流しながら悲鳴を上げる老いた顔。そしてその隣に小さな小さな顔があることに気付いてしまった。
気付きたくはなかった。それが母の顔であり、愛する子供の顔であると。
「嘘吐《うそつ》き……」
ここにいないゲドシュに向かってラミスは|呟《つぶや》いた。
幸せにしてやる。事故で夫を失い、子供を抱えて呆然とするしかなかった自分の前に現れたゲドシュはそう言ったのだ。
言ったのに……どうしてこんなことになっているのか?
ラミスはその場に座り込み、帰ってくることはないだろう二つの顔を見つめ続けた。
顔でできた壁の向こうで、フェイスマンが高らかに笑った。
「君の世界も侵蝕してみせよう。そして、その美しい顔をいただこうか」
「いや、そうはならんのよ」
笑い声と悲鳴の合唱の|隙間《すきま 》を縫うように、その声は届いた。
「なに?」
突然の声にフェイスマンは|狼狽《ろうばい》した。体中にある目が声の主を見つけられなかったのだ。
だが、声は続く。
「おれがアタックでね、サヤはディフェンスなわけだ。わかるかい?」
悲鳴の合唱が止まる。
「|侵蝕《アタック》するのはおれの役なのよ。それをサヤにやらせようとするってのは、間違ってるだろう?」
「な、貴様どこか……うごぉっ」
フェイスマンの言葉は途中で掻き消えた。
震動が止まり、顔の壁が突如として崩れる。
「お前が飲み込んだんだ。どこにいるかなんてわかってるだろうが」
その向こうでフェイスマンは両手で顔を押さえうずくまっていた。
「私の中だと……? 馬鹿な、完全な他世界の法則だぞ? そんな場所で生きていられる人間がいるわけ……」
「おれは元々、絶縁空間を越えるために作り変えられているからな。昔は苦労したが、いまじゃあお前らとの付き合い方は心得ている」
「貴様、人間では……」
「さあ、|侵蝕《アタック》を始めようか」
次の瞬間、フェイスマンの体中にある片目が、ぎょろりと動いた。
その目玉は中央にあるはずの黒目部分の形がおかしかった。
いや、目というよりも、なにかの紋様のようだ。
|茨《いばら》の輪に囲まれた十字。
その異形の眼球全てが右目であることにはフェイスマン以外では観察力のある人間でしか気付けなかったろう。ラミスは気付けない。
だが、他の二人、サヤとドミニオは経験的にそれを知り、また次になにが起こるのかを知っていた。
侵蝕が始まったのだ。
異世界の法則。亜空間と亜空間を隔てる絶縁空間。本来は存在しないはずの空間の狭間にある存在しないはずの隔絶された空間。
ゼロでありながら、飛び込めば無限ともいわれる広大さを持つその場所にほ、世界を世界たらしめる森羅万象の法則がない。生物とはこうであるとか自然とはこうであるというはっきりとしたものは存在しない。
絶縁空間に飛び込んだことのある者で生存者は少ないが、彼らは言う。
「なにもなかった」
「黄金色のすばらしい世界だった」
「森が、とんでもなく広い森があった」
その言葉には、どれ一つとして同じものはない。
だが、後に続く言葉は同じだ。
「二度と、行きたくない。あの場所は、狂いたくなるぐらいに醜《みにく》さを見せ付けてくる」
そこにあるもの、その正体は……
混沌《こんとん》≠ナあろうと言われている。
この図のある世界とは別の世界の法則が肉体に干渉した結果。あるいほ、なにもないはずの場所に確定された存在が現れたことによって起こる、世界の誕生、そして|脆弱《ぜいじゃく》であるが故の滅亡。その瞬間の興亡を確定させた存在は反動として受ける。異界侵蝕とは、おそらくこの二つの内どちらかであろうと言われている。
アイレインの感覚では正解は後者だ。
絶縁空間に飛び込んだ者は、本来、自分が存在するために存在する法則を失う。肉体すらも失い、残るのは自分が存在していると認識する自我だけとなる。
その自我が絶縁空間に一時の世界を見せる。
それが世界の誕生だ。
その世界は、どこにも存在しない世界だ。あるはずのない世界だ。
だが、絶縁空間に突入し、絶縁空間を突破した者はその世界を我が物とする。一瞬の内に興亡してしまう世界を滅ぼさず、自らの内に収め、そして……
自らの体を世界そのものに変え、絶縁空間を突破する。
そうして産まれるのが異民。
この国、亜空間によって閉じ込められた広大な空間に存在する国民とは違う。だが、隔てられた本来地続きにあるはずの他国に住む民ともすでにして違う者。
異世界にして、その世界のただ一人の民。
それが、異民だ。
「世界とは拡大するものだろう? ゼロから世界を増設できないおれたちは、なにかを利用するしかない。てめぇは人の顔を、おれは目だ」
それはこの時代を生きる全ての人々に共通する認識だろう。世界とは、不足となれば増やすべき空間を指すのだ。
そのために、異民は他者を自らの世界の法則に侵蝕する。
国中に流れている|噂《うわさ》。零れ出たオーロラ粒子によってからだが異形化するなんてことは、起こらないわけではないが希少な出来事であり、その被害は微々たるものだ。
それよりもはるかに希少で、そしてそれよりもはるかに危険なのが異民による世界の侵蝕なのだ。
「な、ぐっ、貴様……」
「てめぇは、アンナバレル市五千万の人間を使って自分の世界を確立した。その世界を奪われる気分はどうだ?」
「ぐっ、う、おお……」
フェイスマンの体で起きる変化は止まらない。無作為に動き回っていた右目たちの周囲で他のパーツが、左目と鼻と口が溶けるように肉の中に埋まり、そして現れた。
全てが右目となって。
目玉だらけとなったフェイスマン……もはやその名に相応しくない外見となってしまった異民は、突然立ち上がると両手を押し上げるようにして、
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
絶叫した。
絶叫に後押しきれるようにその体が爆発する。全身の、いや、もはや目玉の塊となったそれが四散する。サヤの形成した不可視の壁はまだ存在し、眼球の一部はそれによって受け止められた。
不可視の壁にぶつかった眼球は小山を作る。
|茨《いばら》輪の十字を宿した眼球の山。
それはまるで、異界の墓地のようであった。
「ご苦労様です」
体のあちこちを血で滲《にじ》ませながら、サヤは立ち上がると白く煙る壁の向こうに声をかける。
フェイスマンのいた場所に黒い影があった。
「ああ……まだ干渉は外すなよ。あいつの影響が残ってる」
「はい」
時間を置くと、白い煙は徐々に薄よりだした。
その中にアイレインが立っている。
アイレインは右目の眼球を眼帯で覆っているところだった。その右目が周囲に散らばる眼球の山と同じように|茨《いばら》輪の十字を刻んでいるのか、確認した者は一人を除いて誰もいない。
「で、フェイスマンは片付けたのか?」
ドミニオは、見飽きるほど経験しながらも決して見慣れない光景が終わったことに|安堵《あんど 》の息を吐きたかったからそう聞いた。
聞いて、自分が掴んでいるものを見て舌を打ち、手放す。
「いや、逃げられた」
コート内から銃を取り出し、それをサヤに返しながらアイレインは|呟《つぶや》く。彼の背後では四方に小山を作った眼球たちが青い煙を吹きながら、徐々にその姿を薄れさせている。
銜えた|煙草《た ば こ》に火をつけ、小山たちの中央に投げ落とすと、その速度はさらに早まった。
ふと、その中にある二つの目玉が転がるのを見た。
「どういうことだ?」
転がる先を見つめているとドミニオが聞いてくる。
「あれは五千万もの人間の顔を手に入れてんだ。だが、おれが侵蝕したのは精々千ってところじゃないか? 分裂したのか、トカゲの尻尾よろしく切り捨てて逃げたのか……そりゃわからんがね」
「くそっ」
それはつまり、ドミニオにとっての悪夢がまだまだ続くということだ。
「エルミもいないし、これからどうする?」
アイレインは冷めた目でドミニオの隣を見て言った。
「わたしはここだよ」
その声に全員がそちらを見る。半壊したソファの上で一匹の猫が大きなあくびをしていた。
「エルミお前……」
いつから? と喘ぐような顔で|呟《つぶや》いた夫を無視して、その猫はそこに向かった。
「アインが片を付けてからね。そうでなきゃ、いくらわたしでも空間的に閉じちまったここに戻ってこれるわけがないじゃないか」
絨毯の上を音もなく進んだ猫は、ドミニオの隣で足を止める。
「穴は閉じたのか?」
「ああ」
アイレインの問いに言葉だけが答える。猫はその場に座り込むと、毛づくろいを始めていた。
その猫に、アイレインは我知らずきつい視線を送ってしまっていた。
「小規模な穴さ。異民が出てくるほどじゃないし、ダイブするのに向いてる穴でもないよ」
エルミの言葉で、自分の視線に気付いた。
「そんなつもりはないぜ」
言ってみても、自分でも説得力が感じられない。エルミもそう受け取ったのか、聞いてはいなかった。
「しばらくは異界侵蝕患者が増えるんじゃないかね? フェイスマンがあの穴を開けたのか、それともオーロラ粒子の濃度に惹《ひ》かれてきたのか、それを知りたかったんだけどねぇ」
音だけの嘆息が壊れかけのスイートルームに響く。
その猫の前で、ラミスが座り込んでいる。
うつろな笑いを浮かべ、その目はどこも見ていない。座り込んだ|膝《ひざ》の先で転がった眼球が止まっていた。
「悪いけど、わたしは心まで治せないよ」
猫の声帯以外の場所でその声が響く。額にあるサファイアがその瞬間、七色に色を変じた。
極小のオーロラ・フィールドから吐き出されたそれが、座り込んだラミスの膝に乗せられる。
ラミスの瞳が一瞬だけそれを捉え、薄笑いの趣を変えた。
「こっちも手遅れだったし、今回はわたしらの負けだね」
そこにあるのは顔だった。なんとか顔の皮膚を残した目と鼻と口。
ゲドシュと呼ばれていた男の末路だ。
「結局、あいつがなにを考えてギャングに接触したのかもわからずじよいか?」
「見てきたけど、ケルフェ・ファミリーだっけ? 幹部連中はみんなあいつに取り込まれてたよ。もしかしたら、さっきのアインのあれで消されちやってるかも」
「あ、このホテルにいた連中も全滅。たぶん、トカゲの尻尾切りに使ったのはここの人間がほとんどじゃないか?」
「なんだと、くそ……」
エルミとアイレインの続けざまの報告に、ドミニオが毒づく。
「ま、捜査はやり直しってことだ、ボス。次の街行こうぜ。長居してると、めんどくさい連中が来る」
「サヤちゃんを治してあげないといけないしね」
「エレベーターは壊れちまったしな。奥に非常階段あったろ?」
「ええ」
「くそっ、くそっ、くそっ!」
毒づきながら先頭を切って非常階段に向かうドミニオの後を、エルミとサヤが付いていく。
後方に付いたアイレインは、振り返って笑い続けるラミスを見た。二つの眼球をその手に拾い、愛しそうな顔で胸元に寄せている。
「まっ、立ち直れるなら幸せにな。子供いるんだろ?」
声をかけると、アイレインはもう、振り返らなかった。
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02 アルケミスト
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幻でも、その瞬間だけは、それは確かに実在していた。
「なにをしているの!?」
通信機から届く声は混乱に支配されていた。メンバーの全員が目の前に展開した別個の世界に取り込まれ、望んでも手に入らないなにかを見せ付けられ、むりやりに叶《かな》えられ、その現実に悶《もだ》え苦しんでいた。
アイレインもそれは同じだった。
なぜ、それがそこにあるのか? 当たり前だ。それこそがアイレインをこの計画に参加させた動機なのだから。
絶縁空間。
そこに進入した者は自らの心の表層、深奥を問わず、最も強い願いを実現した世界を構築してしまう。
メンバーの願いがなんであったのかを、アイレインは知らない。その時、自分は自らの叶わぬ願いが作り出した世界に取り込まれていたからだ。他のメンバーとてそれは同じだったろう。現実化してしまった、それが現実になるとは絶対に思えないことを実現させられてしまった喜びと、しょせんそれが脆《もろ》く|儚《はかな》く崩壊してしょうことを本能的に察知してしまったが故の懊悩《おうのう》に取り込まれていたはずだからだ。
彼女を除けば。
「なにをしているの!?」
それは、自らが取り込まれた世界に対してのものではなぐ、身動きの取れなくなったメンバーたちに投げかけられた言葉だった。
彼女は、自らが望む世界を見ていなかったが故に、他の全員の世界を見ていたのではないだろうか?
ジャニス・コートバック。それが彼女の名だ。
絶界探査計画に参加した命知らず、というよりも自殺志願者予備軍というひどく|曖昧《あいまい》でいい加減なカテゴリーに入りそうなメンバーの中で、彼女だけはなにかが違った。絶縁空間に飛び込むことを志願したメンバーは、誰しもどこかしら虚無的な部分を持っていた。性格はみな違っていたが、必ずどこかに投げやりな部分があった。
それは自分が死ぬかもしれないという未来に対してひどく鈍感だったことだ。なにがあっても自分が不幸なことになることはないだろうという、平和な時代にありがちな危機感の鈍磨化ではなく、自分の生死の|行方《ゆ く え》に対して興味を持っていないということだ。だからこそ、軍規定に定められているよりもはるかに重度の肉体強化手術を受けることにも誰もためらいなく同意書にサインをしたし、どんな危険な実験や訓練にも体力の許す限り参加し続けた。
だが、ジャニスだけは違った。
彼女にはそういう虚無的な部分は見つからなかった。明るく前向きで、こういう危険な場所に自ら志願するほどに冒険を愛していた。彼女の趣味はロック・クライミングで、施設に移動してからは練習用に設置してもらえた、壁に岩を模したものを貼り付けたものにしか登れないことが不満の種だった。機密保持のため、施設の外に出るにはひどく面倒な手続きが必要であったし、彼女が挑戦したいと語る山々はどれも人跡未踏に近いような場所にあったため、そもそも許可を取ることさえ不可能だった。
彼女の太陽のような笑みは砂漠で浴びるそれのように、アイレインたちにとっては|眩《まぶ》しすぎて、過酷なものだった。学生時代、クラスにこんな子がいれば男子と対等に付き合い、女子たちには慕われ、クラスのムードメーカーとして愛された存在となっていたことだろう。
だが、ここはハイスクールの教室ではない。ここにいるのは同じ地域や学力の度合いによって集まった、無作為の青少年たちの集まる場所ではなく、一つの目的を持って人選された人間たちの集まりだった。
「死ぬのが怖くないのか?」
だからアイレインは、他の連中にならば絶対に聞かないだろう質問をジャニスにぶつけてみた。
質問をすると、ジャニスは迷惑そうに|眉《まゆ》を寄せた。後から知ったのだが、他の連中にも同じような質問をされたことがあるのだそうだ。
「じゃあ、あなたは死ぬのは怖くないの?」
たずね返され、アイレインはわずかに考えてから答えた。
「たぶん、怖いんじゃないかな?」
怖くないと言うこともできたかもしれないが、断言することには疑問を覚えた。口の中に銃口を押し込まれたことがないのに、それが怖くないかどうかを語ることはできない。おそらくは、そういうことなのだろう。
「あたしだって怖いわよ」
場所は施設の中にある喫茶室だった。この辺り一体はリラクゼーションを目的とした設備があり、喫茶室の片方の壁にはどこともしれない緑豊かな自然の映像が音付きで流され、反対側にあるガラスの向こうには大きなプールとスポーツ器具が並んでいる。
短い金髪はまだ濡れていた。体を覆《おお》っているのはスポーツ水着で、プールから上がってここに来たことは疑いようもない。
「でも、怖いからってあたしの好奇心が抑えられないのも事実。何度も機械で試して失敗した絶縁空間の踏破を、生身の人間でやってみようっていうんだから。きっとチャンスは今回限りよ」
その日には絶縁空間に挑むことへの恐怖も不安もなく、未知の場所への期待感で輝いていた。
ロック・クライミング。誰にも目を向けられないような危険な絶壁にその身だけで挑戦し、誰も見たことのない景色を独り占めすることに喜びを覚える彼女だからこその言葉だろう。
そんな人物だったのだ、ジャニス・コートバックという女性は。
その彼女も絶縁空間に飲まれてしまった。それが彼女にとって望みどおりの未来であったはずはない。唯一気になることといえば、あの空間で彼女は自らの願望に相応するものを見ることができたのか? そしてそれは彼女の好奇心を満たすことができたのか? それだけだろう。
それを確認する術《すべ》は、もはやない。
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フェイスマン。本名性別出身国全てが不明のこの人物をそう呼ぶようになったのは、自身であったということになっている。本人には確認しようもない。なぜならソーホはまだその人物に出会ったことはないし、出会ったとしでもそんな暢気《のんき》な身の上話をしている余裕はないだろう。
「ケルフェ・ファミリー、だったかな?」
「はい」
そこは狭く無機質な部屋だった。警察病院にある聴取室だ。中央に二人がけの机があるだけで、ソーホも部下も|椅子《いす》に腰を下ろしていなかった。
ソーホは二十代の後半を迎えてはいるのだろうが、まだまだ若さを失っていない、むしろ童顔の部類に入るために年齢相応には見えない。部下の方が年上だろう。だが、侮《あなど》られている様子はなかった。
座っているのはもう一人の人物のみで、その人物はソーホの言葉に何の反応も示さなかった。
ぼんやりと机の上に乗せた自分の手を見つゆている。生気のないその顔は精神がまともな時には美しかったのだろうが、いまはなにもかもが|茫漠《ぼうばく》として、捉えどころを失った顔をしている。
そんな女性の反応を確認し、ソーホは部下を見た。あらかたのことは聞き終えたし、確認は済んでいる。
この女性にはなにを聞いても無駄だという確認が終わっただけにすぎないが。それでも確認であることには違いない。ソーホは女性の存在を無視して部下と話し合った。
「フェイスマンの目的について、犯罪捜査の観点から見てなにか意見はあるかな?」
「不明ですね。人間的性向がまだ残っているのであれば、自分の能力が社会の表舞台にでるには不適当であることははっきりとしていますから、裏社会での権力を手に入れるということも考えられるのですが……」
「だが、あれは最終的にはケルフェ・ファミリーの構成員の全てを取り込んでこの都市を去った」
「はい。ですから、裏社会での権力には興味がないと考えるのが妥当ではないかと」
「単純に世界の拡大を求めているのならば、あれが発生したアンナバレル市と同じことをすればよかっただけの話だ。隠れて事を行ったとしたのであれば、それはどうしてだ?」
「フェイスマンと接触した巡視官は?」
「ドミニオ・リグザリオだったか?」
そこでソーホは机に一人座る女性、ラミスの体がかすかに揺れたのを見た。美しい女性だが、いまはその中身を全て失って、しぼんだ風船のようになってしまったその女性は、フェイスマンと接触しながらも唯一無事でいられた一般人なのだ。
「こちらとの接触を報告書のみで済ませて移動しているのは不審です。リグザリオ巡視官がなにかを隠しているとしたら」
「そしてそれが、フェイスマン……異民に対して有効な戦術や兵器であるのなら……?」
「ええ。追う必要があるかと」
この会話が始まる前に、ソーホはラミスに対していくつかの質問をした。だが、彼女は反応一つ見せることなく机を見つめ続けていた。
狂っているわけではない。|喪失《そうしつ》のショックに、静かに我を失っているだけだとソーホは感じた。
「ドミニオ・リグザリオの資料は取り寄せているな?」
「はい。すでに」
「では、これ以上ここで得るものはなにもない。彼を追うぞ。二度も接触できたのにはなにか理由があるはずだ」
「はい」
ラミスは会話が成立しない状態であり、それを暢気に待っている余裕はソーホにはない。
「サイレント・マジョリティーの最初の仕事だ。仕損じるわけにはいかない」
決意を口にし、ソーホが聴取室を出ようとすると、背後から悲鳴があがった。
悲鳴の主はラミスだ。|椅子《いす》を蹴飛ばし、部下に飛びかかっている。
「放せっ!」
二人はなにかを奪い会って争っているようだった。ずっとその手に握っているものを部下が奪おうとしてラミスが反抗している。いままでとは一転して噛《か》み殺さんばかりに必死な様子に部下は|狼狽《ろうばい》していた。
「やめないか」
ソーホが部下を押さえると、二人の手からそれが零《こぼ》れ落ちた。固い床の上を二つの球体が跳ねる。ラミスはそれを飛びっくようにして拾った。
床を転がった時、ソーホはちらりとそれを見た。眼球に似た白い球体だ。黒目の部分に|茨《いばら》のような輪があり、その内部に十字が収められている。
床を|這《は》い、奪われないようにと身を丸くする姿にソーホは目を逸《そ》らした。
「行くぞ」
「しかし、あれは異民化問題の重要な研究資料では?」
出て行くソーホに部下が食い下がる。
「それのサンプルなら、すでにアルケミストが大量に保管している。危険性もないし、必要でもないんだ」
背後で部下が息を呑《の》む気配が伝わってきた。聴取室の扉の閉まる音が続く。
警察病院の|廊下《ろうか 》を抜けて外に出、車に乗り込むまで二人は無言だった。
車が走り出す。
運転席に着いた部下は物聞いたげな視線をルームミラー越しに向けてきていた。
「僕の前歴は知っているね?」
ソーホはため息を|吐《つ》き、そう言った。
「はい。アルケミストに所属する科学者で、五年前に中断した絶界探査計画に関わっていたと」
「そこでは肉体強化を担当していた。もちろん、絶縁空間に対する研究も行っていたけどね。計画が頓挫《とんざ》した理由は?」
「……絶縁空間に挑んだ志願者たちが全員死亡したためと」
「絶縁空間は機械による探査を受け付けない。おそらく、機械を製造する段階で付着した製造者たちの念……潜在的欲望に空間が反応するためだ。機械ではそれに対して抗する術がない。世界の崩壊に飲み込まれ壊れてしまうんだ。だからこそ、潜在的欲望を打破するための精神力を、自らの欲望を超越することのできる、あるいは受け流すことのできる人間を選び、絶界探査計画を遂行《すいこう》したんだけどね」
しかし、計画は失敗したのだ。
「全員死亡というのは|嘘《うそ》なんだよ。一人生き残った」
「……そうなのですか?」
部下はルームミラーの中で驚いてみせた。
「だが、彼は異民化し、研究施設を脱出した。多くの人間をあの球体に変えてね。彼を捕らえ、あるいは抹殺《まっさつ》することも異民化問題対策調査組織として設立された、サイレント・マジョリティーの使命だ」
「はっ。……では、あの玉のようなものはその男の異民能力なのですね」
「正確には眼球だよ。彼が絶縁空間でなにを見たのか知らないが、彼は右目に能力……いや、異世界法則を宿している。あの時には、彼は気付いていなかったかもしれない。施設の警備員たちがそうなってしまったのは、彼の脱出を許してしまった後だったからね。あの時点で動かせる戦力を全て眼球に変えられてしまって、追うこともできず彼の|行方《ゆ く え》を見失ってしまったのさ」
説明をしながら、ソーホは左の手の薬指を弄《いじく》っていた。まるで女性のように細い指だ。その薬指に二つの指輪が嵌まっていた。
「その男の名は、なんと?」
「アイレイン・ガーフィート。あの施設の中では、年も近くて割と話の会う男だったんだけどね」
そう|呟《つぶや》いたソーホは流れていく車外の光景に目を向け、口を閉ざした。
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いつもと違う場所で目覚めると、一瞬だけ自分を見失う時がある。
「あー……」
寝起きは悪い方ではないはずだが、こういう時は自分の頭が動いている感じがしない。
カーテンの遮光《しゃこう》機能を九十パーセントにしているため、陽光で時間を予想することもできない。だが、漠然と昼ぐらいだろうとは思う。
ベッドから広めのワンルームを見渡しつつ、アイレインは寝ぼけた頭を徐々にクリアにしていく。
ここはクラヴェナル市。そしてこの部屋は長丁場になるだろうからとドミニオに用意してもらった賃貸のアパートだ。ドミニオと同じ高級ホテルの一室を借りても良かったのだが、潜入捜査をしている身の上で高級ホテルに寝泊りしているのはおかしな話だろうと、ここにしたのだ。
ベッドから抜け出し、シャワーを浴びる。浴びながら今の自分を取り巻く情報を整理していく。
クラヴェナル市。フェイスマンを追ってここにやってきた。正確にはフェイスマンがここにいるだろうと予測して、この都市にやってきたのだ。予測を立てたのはエルミだ。アンナバレル市の事件からこの間のハイン市まで、アイレインたちはフェイスマンを追い続けていた。接触できたのはハイン市が二度目だったが、それまでの間、フェイスマンは絶縁空間に沿うようにしてある都市を移動していることが判明している。
順に回るのであれば、この都市にいるはずなのだ。
「ま、どっちでもいいけどな」
個人的にフェイスマンに対して恨みがめるわけじゃない。決着を付けたいとか熱い気持ちがあるわけでもない。
どうでもいいのだ。根本的に。
ただ、フェイスマンを追っている方が自分にとっては都合がいい。
ただ、それだけのことだ。
シャワーを浴びて戻ってきても部屋は静かなままだった。ベッドを見れば、アイレインのいなかった空白の隣でサヤは眠り続けていた。食事は最小限しか必要としないサヤだが、眠りは人一倍必要としていた。初めて出会った時も少女は眠り続けていた。眠ることこそが、もしかしたらサヤの潜在的欲望なのかもしれない。
絶縁空間の中でただ一人、なんの干渉も受けることなく眠り続けていたのだから。
サヤの持つ異世界法則、自己の周囲の空間に干渉し、望まないものを寄せ付けないようにするその能力は、本来は彼女の眠りを邪魔させないようにするためのものなのかもしれない。
あの武器もサヤを守るためにあるものなのだろう、本来は。
眠り姫を守る|茨《いばら》として。
その|茨《いばら》を使う自分は、やはり|茨《いばら》の中に含まれているのだろう。眠りを覚まそうと訪れる王子たちを寄せ付けない|茨《いばら》として、アイレインはサヤの|側《そば》にあり、そしてアイレイン自身もそのことを望んでいる。
(約束しちまってるもんな)
サヤの寝顔を見下ろし、そう考える。
絶縁空間の中で自らの世界の崩壊に飲まれて滅びるしかなかったアイレインを救ったのは、サヤの干渉能力だった。それがあったからこそアイレインは絶縁空間から生還することができたし、そのためにサヤは絶縁空間の外に出なければならなくなった。
責任は取らなくてはいけない。絶縁空間に戻すということも考えたが、サヤがそれを望まなかった。なら、この世界で、この国で生活するしかない。
そのための資金集めとして、エルミやドミニオの仕事を手伝っているのだ。
携帯電話が着信を知らせてテーブルで震えた。サヤを起こさないよう、素早く取り上げる。
「仕事だよ」
通話ボタンを押して耳に当てるなり、かすれた声がそう告げ、さらに時間を言うと唐突に切れた。
「やれやれ……」
会話すら成立しない事務的な言葉に肩をすくめると、コートに手を伸ばした。
準備を済ませて再びベッドに戻る。
サヤはまだ眠っている。寝顔の様子からして、今日はもう眠り続けるつもりだろう。彼女は危険に対してひどく鋭敏な|嗅覚《きゅうかく》を持っている。危険な状況であれば彼女は眠らない。
それはつまり、今日一日アイレインがいなかったとしても、彼女の身に危険は降り注がないということだ。
アイレインは安心して部屋を出た。
訪れたのはビジネス街から少しずれた場所にあるビル群だった。雑居ビルらしくそこら中に色々な看板があり、どこでなにをしているのか、ぱっと見ただけではうまく理解できない。アイレインはその中の一つに入ると古ぼけたエレベーターのボタンを押して呼び寄せ、階数ボタンの下にある隠されたボタンを押した。
エレベーターは地下へと動き出す。階数表示に地下はない。存在しない階へと下降したエレベーターはやがて停止した。
開くと、すぐに目つきの悪い連中に出迎えられた。
「ママにお使いを頼まれた」
儀礼的な合言葉で、連中はアイレインのために道をあける。
そこはちょっとしたクラブのような造りをしていた。ブースにDJの姿はなく、音楽も流れていない。周囲のテーブルに何人かのチンピラたちが気だるげに座っているだけだ。床にはビールの缶や瓶が転がり放題に転がっている。彼らの間を抜け、ブース側の奥にある通路に向かう。そこにはチンピラたちよりも幾分は|雰囲気《ふんい き 》の違う男たちが居座っていたが、アイレインの行く手を阻むようなことはしなかった。
そこにいる連中全員が気味の悪い目でアイレインを見ていた。それはそうだろう。そこにいるほとんどのチンピラは、やることが思いつかないままに出来上がっていく、形にできない憂さを暴力じみた行為で晴らそうとしている、安っぽい青春の延長線上にいるような連中でしかなかった。アイレインのように眼帯をしているわけでもなく、コートに身を包んでいるわけでもなく、消えない血や硝煙の臭《にお》いをまとわせているわけでもない。ごくまっとうなおちこぼれ集団でしかないのだ。
「やれやれ」
アイレインはひどく場違いな場所にいる気分で肩をすくめた。
奥にある扉を聞けば、ようやく今現在の仮の雇い主の前に立っことができる。
「時間通り、凡帳面《きちょうめん》な性格はいいことだよ」
そこには個人的なバーがあった。テーブルは一つきり。人工水晶のテーブルに大きなソファが一つ。雇い主はそのソファに一人で腰かけていた。
かすれたその声だけは男のように聞こえなくもない。
だが、ソファに座っているのは女性だ。チャイニーズドレスを着た艶《あで》やかな女性はカミソリのような瞳でアイレインを見ていた。
「前から思ってるんだけど、あそこにいる連中はいざという時邪魔じゃねぇ?」
「邪魔にするために置いているのさ。あそこのスプリンクラーからは毒ガスが出るようにしてるんだ」
つまらない冗談を言ったような顔で女性は言った。
「|物騒《ぶっそう》なことで」
「実際、|物騒《ぶっそう》なんだよ。一日、ビール数ケースで動く障害物が置けるなら、安いものさ」
それ以上、チンピラたちのことについて女性は語らなかった。彼らの命に対して本気で興味がないのだろう。毒ガスだって本当かもしれない。いや、本当に違いない。
女性の名は、ママ・パパスといった。もちろん本名ではなく、裏社会での通り名のようなものだろう。クラヴェナル市にある中規模ギャング、ロサリ・ファミリーを率いる女ボス。男を魅了して止《や》まない艶やかな美女だというのに、|喋《しゃべ》ればその声はまるで男のようだから……理由としてはそんなところに違いない。
性転換した元男だという|噂《うわさ》もあるらしい。声帯だけは性転換以前の喉頭癌《こうとうがん》手術の影響で女性のものにできなかったのだと。
どちらであろうとも、アイレインにとってはクラヴェナル市にいる間は世話になる人物に違いないし、それ以外の部分には興味はない。そんな|噂《うわさ》をしている連中とて、結局はママ・パパスに見向きもされないような連中でしかないのだ。
「で、今日の御用は?」
「取引のボディガードを頼もうと思ってね」
「……そんなの、そこにいる連中がいれば足りるのでは?」
ママ・パパスの周囲にはチンピラとははっきりと空気の違う男たちがいる。こちらこそが彼女の本物の兵隊だろう。
「てっきり殴り込みでもするのかと思った」
「うちは平和主義だよ」
肩透かしを食らった顔をすると、ママ・パパスは凶暴な笑みを作った。
「いつものならこいつらで事足りるんだけどね。今回は工場の連中が金額の吊《つ》り上げを要求してきてさ。別のファミリーの名を挙げたりと、色々と|物騒《ぶっそう》な感じなんだよ」
「ああ……」
「うちは独自の生産ラインを持っていない弱小だからね。こういう時は苦労するものなのさ。やんなるよ」
それは本当のことだ。ロサリ・ファミリーに接触する前にドミニオが集めできた情報によると、ママ・パパスは他の都市から集団で流れ着いてきた余所者《よそもの》で、この周辺を仕切っていたギャングの私兵として傘下《さんか》に入り、そしてボスの座を|瞬《またた》く間に奪い取ったのだそうだ。
クラヴェナル市に流れ着く前は軍人であったらしい。他の根も葉もない|噂《うわさ》よりも明確な履歴。本名も聞いている。
「大変ですねぇ。ダンミ・ララ少佐」
試しに、その名前を言ってみた。
その瞬間だ。部屋にいた男たちが瞬時にアイレインを取り囲み、その頭に向かって銃口を突きつけた。
その速度は常人に可能なものではない。
人体強化手術を受け入れた、強化兵たちにのみ可能な速度だ。
「……いま、なにか言ったかしら?」
ママ・パパスは自分の爪《つめ》を眺めながら|尋《たず》ねてきた。
「いいや。ただ、そういう人物の|噂《うわさ》を聞いたって四方山話《よもやまばなし》をしたかっただけなんだけどね」
「茶飲み話なら、タイミングっていうものが大事よ」
「そのようで」
「その度胸と自信。腕の方も紹介通りであって欲しいものね」
静かに笑みを浮かべるママ・パパスにアイレインは肩をすくめた。
移動している間に夜になった。クラヴェナル市の郊外へと出る。都市間連絡道路を外れ、荒れ野に近い、土を固めただけの道路を進むとその場所にたどり着く。
砂塵《さじん》で汚れきった倉庫群が目的地だった。
どうやら、周辺の農場でできた作物を一時的に集積するための場所だったようだ。
過去形で語るのは、現在はその目的で使われている様子がないからだ。倉庫にあるガラス窓は破れたままで、あちこちにはトラックが放置され、荷台に砂塵が溜《た》まっている。人気を失った人工物の寂寥感《せきりょうかん》が宿命的に沈殿していた。
「原料もこの辺りで堂々と作ってるわよ。ここら辺の農場は資料上では廃棄したことになってるからね、チェックされる心配はない」
「へぇ」
三台の車に分乗してきた部下たちを外に置き、アイレインとママ・パパスだけが倉庫の中に入った。
商談相手はすでにいた。避暑地にいる金持ちのような格好をした中年太りの男だ。
その周囲を固めているのは作業服の男たちだ。年齢はばらばらだが、それぞれ手には軽機関銃が握られている。
ボスであることは一見してわかった。
「ドルジェ、物はどこにある?」
ドルジェの数歩前で足を止め、ママ・パパスは問いかけた。アイレインは彼女の一歩後ろに立ち、隻眼《せきがん》で周囲を観察する。
「その前のお話がまだ終わってませんが、ママ・パパス?」
ドルジェはサングラスの下でニコニコ笑いながら答える。まるまると太ったその顔はまるで団子のようだ。
「話も何もない。不作でもないのに値上げ交渉など受けられるわけがないだろう」
「では、我々は商売相手を変えるだけです。卸《おろ》し先をロサリ・ファミリーから別の所に」
「それでは、こちらもするべきことをするだけだが? わかっているのか? それが?」
「そのことですよ。別の商談になりますが、あれ、売ってもらえませんかねぇ?」
「農民の悪い|癖《くせ》だな」
「は?」
肩をゆすったママ・パパスは細巻きの葉巻を取り出した。火をつける役はアイレインしかいない。オイルライターを取り出して、火をつけた。
鋭角的な唇で葉巻を銜《くわ》え、ゆっくりと紫煙を肺に送り込みながら、ママ・パパスがドルジェをカミソリのような瞳で見つめる。
ドルジエの額に脂汗が浮かんだ。
「どういうことでしょうか?」
「農民の悪いところは、地面と空ばかり気にしすぎるところだ。自分と同じ高さをろくに見やしない」
「…………」
周囲の空気成分に濃密な緊張が足された。アイレインは眼帯を撫《な》で、自分の銀のシガレットケースを取り出し、|煙草《た ば こ》を銜えた。
「自分の都合ばかり考えて動けば他人の不興を買う。いまさらそんなことを他人に教えられなければわからんところが、度し難い」
「……商談は決裂ですか?」
ドルジェは笑みを維持しようとしていたが、それは失敗していた。額に湧《わ》いた脂汗は顔の横に砂塵の筋を作り、唇の端は震えていた。サングラスの下でどんな目をしているのか、見てみたい誘惑に駆られた。
「こちらは商談をした覚えはない。覚えの悪い犬を|鞭《むち》で打ちに来ただけだ」
その言葉が合図だったのだろう。
壁の破裂する音がドルジェの後方と左右からした。コンクリートの砕けた粉煙に|紛《まぎ》れて黒い影が無数に走る。
ママ・パパスの部下たちだ。肉体強化手術を施した兵士たちは壁を砕いて突入し、一気にドルジェとその部下たちを取り囲んだ。
「|躾《しつけ》けのなっていない犬は打ち殺して代わりを買う。誰にでも尻尾を振る駄犬と野良犬に用はない」
「ははは……そんなことが本当に可能だと?」
ドルジェは額の脂汗を拭《ぬぐ》いながら強張《こわば》った笑い声を上げた。
サングラスを外して、ドルジェは叫んだ。
「我々を殺せると、本当に言っているのですか?」
サングラスの下にあるのは目だ。当たり前の話だ。だが、その目に異状があった。眼球が細胞分裂したかのように四つに分かれているのだ。その一つ一つに黒目がある。|爬虫類《はちゅうるい》の複眼になりかけているのだ。
その証拠に、周囲の肌に鱗《うろこ》のようなものが生えていた。
「こいつら、異民か?」
それも本場物の異民だ。オーロラ粒子を浴びて異界|侵蝕《しんしょく》を受けた人間たち。
見れば、作業服姿の男たちもママ・パパスの兵士たちを恐れている様子がない。目に見えない部分で異界侵蝕を受けているのだろう。ママ・パパスがママ・パパスとなる以前、ダンミ・ララ少佐に率いられていた、肉体強化手術を受けた正規の兵隊たちを前にしているというのに、その彼らを恐れていないとでも言うかのごとくに挑発的な様子を見せていた。
「私が見つけて、拾ってやった」
アイレインの疑問に、ママ・パパスは吐き出した紫煙が作る渦を見ながら答えた。
「都市政府に見つかれば収容所送りになるとこを、私が書類操作してこの地域一帯の農場ごと|戸籍《こ せき》から消して|庇護《ひご》してやった。それがこの始末だ」
だが、すぐに自分の支配下に置かず商売という形を取ったのは、ママ・パパスの失敗なのか、あるいはそういう慎重な態度を取らざるを得なかったほど、彼らの異界侵蝕が進行していたのか。
「恩知らずなことで」
「まったくだ」
銃を持ってくれば良かったかなとアイレインは思った。だが、アイレインの武器はサヤが管理している。あの寝顔を起こすのは忍びなかった。
「兵隊を下がらせな。ママ・パパス」
銜えたままだった|煙草《た ば こ》に火をつける。
「いいのか? こいつらは異界侵蝕の影響で銃弾が通じにくい。肌にできた鱗が天然の防弾スーツになっている」
「いい情報をありがとう。まっ、腕試しにはいいんじゃないかな?」
銃があっても結果はそう変わらなかったようだ。サヤの銃をそこら辺の大量生産品と同じに語りたくはないが……
「ふむ」
ママ・パパスが手を上げる。それで強化兵たちは包囲の輪を広げた。
逆にアイレインはママ・パパスの前に出る。
「来な、遊んでやるよ」
彼らの浮かべる挑発的な笑みに挑発的な態度で返す。
「やれっ!」
ドルジェが叫んだ。近くにいた青年たちが軽機関銃の銃口を向け、銃爪《ひきがね》を引く。
無数の銃弾を、アイレインは眼帯に覆われた右目で見た。
左手を動かす。迫り来る弾雨をなぎ払う。轟風《ごうふう》が周囲で荒れ狂った。左手の中にいくつかの弾丸を掴《つか》む。範囲外にあったものは轟風を呼んだ衝撃波が進路を捻《ね》じ曲げる。
背後のママ・パパスは傷一つ負っていない。
|驚愕《きょうがく》の視線がアイレインに突き立った。ドルジェからその部下から、強化兵から。
背後のママ・パパスは悠然と構えている。
「さて、運動するか」
背中の奥で虫が震えたのを感じた。体の長い寄生虫のような虫だ。蛇の冬眠のように渦を巻いた虫の体が震え、その静かな震えが血管を介して全身を巡る。
右目と左腕、常軌を逸した二つの部位を支えるために、残った部位を震えが調整しているのだ。
エルミの施したもう一つの器官。
アイレインは動いた。
それから先は、ひどく単調な仕事だった。異界侵蝕を受けた青年たちは、ママ・パパスを慎重にさせるほどには硬かった。だが、遅い。ママ・パパスが最強の手札を切れば勝てると踏む程度に遅かった。頑丈ではあったが、その肉体は常人の反射神経しか宿していなかった。軽機関銃を捨てて鉈《なた》に似たククリナイフを取り出す者もいたから、力も強かったのかもしれない。だが、速度の違いは決定的だった。
銃弾をかわす。
一人ひとりの前に立つ。
左手で頭を掴む。あるいは首を掴む。
力をこめる。
目の前を血が舞う。
骨を|潰《つぶ》す硬い感触が左手に伝わる。
背中の奥の虫が震え続け、全身にあるはずのない力を与える。
銜えたままの|煙草《た ば こ》。肺に流れる紫煙が血液に注がれ、そんな肉体に
「落ち着けよ」と告げた。
「おい、落ち着けよ。そこまではしゃぐ必要はない。そこそこにやるんだ」
そんな幻聴が耳の奥でこだまを繰り返していた。
幻聴は虫の興奮を抑え、どこまでも加速してしまいそうな……そして自らの速度に耐え切れずに崩壊してしまいそうな感覚を抑える。
疾走感《しっそうかん》を抑える。
そこそこの速度でアイレインは見捨てられた倉庫の中を駆け巡る。驚き、あるいは恐怖に|強張《こわば 》った目が、一瞬前までアイレインのいた方向を見ている。そんな顔を一つ一つ潰していく。
顔を潰し、名前のないただの肉の塊に変えていく。まるで、そうすることが自然であるかのように、アイレインはそれを繰り返す。
ドルジェの前に戻った時には、アイレインの左手は乾きかけた血がまるでゼリーのように重く貼り付いていた。
「ぐ……」
首を掴む。くぐもった声が零れたが、ドルジェほ死ななかった。|煙草《た ば こ》の火がフィルターを焼いていたのだ。フィルターをはき捨て、恐怖に凍りついたドルジェを見つめる。
「おい、落ち着けよ」
紫煙の|残滓《ざんし 》が遠くのこだまのように体内で繰り返しささやいている。
「まるで、はるか音にいたっていう首切り役人ね」
ママ・パパスの|呆《あき》れた声が重なった。首を掴んだドルジェを吊り上げ、振り返る。ママ・パパスは葉巻を銜えたまま、|懐《ふところ》から拳銃を取り出した。
倉庫中に首なしの死体が転がっていた。ママ・パパスはその状況に|呆《あき》れ、また揶輸《やゆ》したのだ。アイレインはドルジェから手を離した。
落ちる。這うようにして逃げようとしたドルジェの背中をママ・パパスが踏んだ。足だけでひっくり返すとさらに体重をかけて押さえ込み、その額に拳銃を押し付ける。
「分というものを覚えたか? ドルジェ?」
団子のような男の顔は、下半分がべっとりと血で汚れていた。アイレインの手から移ったものだ。異民化した複眼じみた目があちらこちらへと無秩序に動いている。|痙攣《けいれん》するように|頷《うなず》いた。
「そうか? だが、遅かったな」
カチリ。
「来世で役に立たせるんだな」
その時のママ・パパスは瞳を優しく下げ、慈母のごとく|微笑《ほ ほ え》んでいた。
銃爪が引かれた。弾丸そのもののような銃声が静寂を取り戻そうとした倉庫内に響き、新しい赤ペンキが床にばら撒《ま》かれた。
「物の隠し場所は|把握《は あく》しているな? 回収しろ。それから農場に残っている連中も処分しろ。代わりはすぐに来るぞ」
部下たちに命令を下すと、立ち上がったママ・パパスがアイレインに振り返った。
「あいつらはこれからが忙しい。私は戻るぞ。運転手をしてくれ」
「人使いが荒いことで」
|傍《かたわら》らを通り抜けようとするママ・パパスに、アイレインはため息を吐きかけた。女ボスは足を止めると、小さく|呟《つぶや》いた。
「酒を飲むなり女を抱くなりベッドに頭から潜り込むなり……さっさと頭を冷やしたいんだろう? ここではそれはできんぞ」
もう一度ため息を吐き、アイレインはママ・パパスの後を追った。
見透かされている。
部屋に戻れたのは朝方近くだった。
重いため息を吐いて部屋を見渡す。かき回されていない静かな空気が部屋を支配していた。
見ればベッドの中にはサヤがいる。どうやら一日眠り続けたようだ。
アイレインは服を脱ぐと、その隣に潜り込んだ。
眠りはすぐにやってきた。
自分の鼻の動きで目が覚めた。
「…………」
ゆっくりとまぶたを上げたサヤは眼前にアイレインがいることを確認して、視線だけで周囲を確認する。
軽く首を傾《かし》げて考えること数秒。サヤはようやく、自分がどこにいるのかを思い出した。
長い間眠っていたような気もするし、ほんの一瞬のことのような気もする。長時間眠ることによる疲れなどサヤは感じたことがないので、その間の時間感覚はかなり|曖昧《あいまい》だ。
危険を感じて目覚めたわけでもない。
小さな鼻を動かして、アイレインを見つめる。彼から血のにおいが強く漂っていた。
なにか危険なことをしてきたのだろう。
胸の中央に違和を感じて、サヤはアイレインが起きないように気遣いながら手を当てた。
小さなしこりのようなものを感じる。
それは現実に存在するものではなく、サヤの心が感じているしこりだった。
自分のいない場所で、アイレインは危険なことをしていたのだ。サヤの目が覚めなかったのだから、それはたいしたことではなかったのかもしれない。
だが、その側に自分がいなかったことが、胸になにかがつかえているような気持ちにさせる。
絶縁空間から出、この国に現れて五年。ほとんどの時間を眠りの中で過ごすサヤにとっては全てが一瞬のことのようだった。
それでも覚えてすらいない絶縁空間の中で眠り続けているよりははるかに濃密な時間の流れだ。
その中で、目覚める時には常にアイレインの姿がある。転々と移動を繰り返す生活なだけにそれは仕方がないことでもあるのだが、自分が絶縁空間から出た理由もまたアイレインにあるのだから別の思いが湧きもする。
(どうして、わたしはこの人のために目覚めたのだろう?)
その疑問は五年間、ずっと頭の片隅に張り付いている。
サヤには絶縁空間で目覚める以前の記憶がない。名前だけはわかり、時に自分でもどうして知っているのかわからない知識があったりするが、自分がどこで生き、どういう経過を経て絶縁空間で眠り続けることになったのかが、まるでわからない。なにかを見て脳の奥にしまいこまれている記憶が刺激されるというようなこともない。
自分がどうして自分なのか、そういう疑問もある。
ただ、アイレインの側にいなければという気持ちだけがある。
それを義務として感じているのか、願望として感じているのか、それがよくわからないのがサヤにとっては記憶がない以上に問題だった。
そうしていなければ、この人はいつか自分の前から消えてしまうのではないか……そんな気がしてならないのだ。
「次は、ちゃんと起こしてくださいね」
小さく|囁《ささや》くと、サヤは抗しがたい眠りの中に落ちていった。
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「どうやら長丁場になりそうね」
クラヴェナル市にやってきて三日、エルミは……いや、エルミの黒猫はテーブルに置かれた地図に鼻を当てながらそう言った。
声は、黒猫の額にあるサファイアから聞こえた。
クラヴェナル市の中央にある最高級ホテルのスイートだ。当たり前のようにその部屋に他人の、決して清潔とはいえない金で泊まっている。
「どういうことだ?」
ドミニオが|尋《たず》ねる。
「いままでのフェイスマンの移動を見る限り、絶縁空間にできた穴、そこから零れ出るオーロラ粒子に引かれているのは確かなのだけどね。この穴がちょっと|厄介《やっかい》よ」
「|厄介《やっかい》って?」
聞く気もなくソファに寝転がっていたアイレインだが、エルミのこの言葉は気になった。彼女が|厄介《やっかい》という言葉を使うのは珍しい。面倒ならよく聞くのだが。
「穴がたくさんあるのよね。一つ一つは小規模なんだけど、けっこう大量のオーロラ粒子が市内に注がれているのよ。それらを埋めていくのが面倒なのもあるけど、それだけじゃくで、人為的なものも感じるのよね」
「誰かが絶縁空間に穴を開けているというのか? まさか」
ドミニオはその言葉に笑った。
絶縁空間に穴が開き、オーロラ粒子が溢《あふ》れ出す。そのことによって起こる異界侵蝕……生命体の異形化は異民問題として社会問題になりつつある。
だが、絶縁空間にどのようにして穴が生じているのか? それに現在の世界を作った科学者たちの後継組織、アルケミストでさえ原因の解明ができていない。
「そうね。いまのところ、どうして穴が聞くのかはわかってないわよね。だけど、だから人為的に穴を開けるのは不可能です、なんて口が裂けても言えないけど」
「む……」
黙りこむドミニオ。エルミの黒猫はテーブルの上から移動すると、寝転がるアイレインの腹の上で丸くなった。
「その原因究明は、まあわたしがするとして、みなたがやることはなに?」
「……クラヴェナル市の犯罪調査」
「だけじゃないわよね?」
「フェイスマンの捜索だ」
ドミニオは、はっきりと嫌な顔をした。
「正直、あんなのとは関わりたくないがね。それこそあれはアルケミストの仕事だと思うが?」
「認めてもない後継者どもに、あんなのが処理できるのかしらねぇ」
「お前が認める認めないはそれほど重要ではなかろう。それが社会のシステムだ」
「社会のシステムなんてソフトとハードの問題よ。天才はシステムからは生まれない。プログラミングではどうしようもないもの。あれに生み出せるのは平均化された才能。多少突出したのが出てきても、それは揺らぎの問題でしかないわ」
黒猫の額のサファイアが七色に変色し、ドミニオを黙らせた。
「あなたの仕事はフェイスマンを見つけること。いい?」
「くそっ。アイン」
「ん?」
「お前は明日から客分としてロサリ・ファミリーに出向いてもらう」
「は?」
「なんだ、ちゃんと仕事してるんじゃない」
エルミがおかしそうに笑う。その声を聞きながら、アイレインは起き上がった。猫が腹から床に下りる。
「フェイスマンは裏社会に対してなんらかの執着を持っている。ここでも関わっている可能性は高い。上からと下からの視点でやつを探るためだ。ロサリ・ファミリーのボスは他の都市から流れてきた軍人で、腹心の部下たちもそうだ。縄張りは中規模程度だが、その武力は他の大規模ギャングたちに切迫している。目障りな存在だ」
「火がつきそうな火種のそばに置いておくってことね」
「そういうことだ。動きがあるならロサリ・ファミリーを中心にしてだ。せいぜい派手に立ち回れ」
このようにして、アイレインのロサリ・ファミリー入りは決定した。
じりじりとした熱気がその場所にはこもっていた。
「暑ぅ……」
コートは脱いでいるもののアイレインにはこたえる熱だ。
「熱いのなら上で待っていてもいいのよ」
側にいるママ・パパスの目が迷惑げにアイレインを見ていた。彼女もこの熱に嫌気がさしているのだろぅ。
「一応、ボディガードなんでね」
額から零れた汗が眼帯の縁に溜まり、流れ落ちていく。それが不快で、指で|拭《ぬぐ》う。
「あんたの戦力がこの場で必要になることはないと思うけど。好きにしなさい」
アイレインの異常な運動能力をすでに見た上での言葉だ。信じてよかったかもしれないが、聞かなかったことにした。
アイレインたちは地下にいた。ロサリ・ファミリーのアジトである雑居ビルの地下、さらにその地下にある狭苦しい一室だ。部屋の隅にはドラム缶があり、その中に大量の炭と石が詰め込まれている。熱の原因はこのドラム缶だ。
そのすぐ側には半裸の屈強な男がいて、台座に縛り付けられたもう一人の男を観察している。
台座に縛られた男も下着一枚で裸に剥《む》かれていた。これまでも何度も熱を浴びているのだろうことを示す穴だらけになったドラム缶から零れる赤い光に照らされ、肌は汗で輝き、そこに生えた鱗を際立たせている。
例の農場の生き残りだ。取引場所であった倉庫には来ず、彼らの農村に残っていた一人だ。ほとんどは処分され、残りは情報源として同じ階のどこかで、目の前の男と同じ運命になるのを強制的に得たされている。
半裸の、ママ・パパスの部下がドラム缶の中に火箸《ひばし》を突っ込んだ。
取り出したのはドラム缶に詰められていた石だ。炭火に夫《あぶ》られて赤熱したそれは慎重に男の上に移動していく。
「そろそろ話してくれないかしらね?」
場にそぐわないひやりとした声をママ・パパスが発した。
「あなたたちに交渉を持ちかけてきたのはどこのファミリーなのかしら?」
台座に縛り付けられたその男は、乱れに乱れた髪の|隙間《すきま 》からママ・パパスを見、そして笑った。
ふう……
ため息が合図となり、火箸《ひばし》が開かれる。
狭い部屋に悲鳴が溢れた。
「義理立てする理由なんてどこにもないでしょうに」
腹の上に乗った石は、その熱で男の皮を溶かし肉を焼く。暴れて落ちないように|火箸《ひばし》で押さえつけられている。その|火箸《ひばし》もまた、先が赤熱化していた。
「きりがねぇな」
「本当にね。なにがそんなに、こいつらの口を堅くしてるのかしら?」
涙を流して腹部の激痛と関っている男を見てアイレインとママ・パパスは会話を交わす。
「……なあ、こいつから情報引き出したら、どうするんだ?」
「決まってるでしょう。この世界、侮られたらそれでおしまい。うちのシノギに手を出したらどうなるかを、きちんと理解させないとね」
そんな会話をしている間にも、新たな石が男の上に投じられる。今度は胸。肉の焼ける臭いが部屋の中に充満する。こげる血の臭いが鼻孔をなでた。
「……なあ、こいつの口を割らせたら、特別ボーナスって出るかね?」
狭い部屋に響く大音量の悲鳴の中、アイレインはぼんやりと|尋《たず》ねた。
「いいわよ」
ママ・パパスが簡単に応じた。
「んじゃ」
ごみ置き場から拾ってきたような|椅子《いす》から立ち上がると、アイレインは|拷問《ごうもん》役の部下を下がらせ、男の前に立った。
脂汗をびっちりと浮かべた男に笑顔を投げかける。
「早いとこ言っちまった方が楽だぜ。死ぬにしても、まだ人間として死にたかろ?」
「はっ」
その言葉に、男は火傷の苦悶《くもん》に|歪《ゆが》んだまま笑った。
「こんなになってんのに、まだ人間かよ」
投げやりな言葉は自分の体を覆う鱗のことをさしているのだろう。
「いやぁ、そんなもん、まだいい方だって」
アイレインは顔を近づけた。
「おれに比べれば、な」
最初、男は|怪訝《け げん》な顔をしていた。だがやがて、その顔が恐怖に歪みだす。
「な、なんだお前……」
見えているのだ、この男には。
眼帯の奥に隠されたアイレインの右の瞳が。
異界を覗《のぞ》き、異界そのものと化してしまったその瞳が。
「どうする?」
アイレインは|尋《たず》ねた。なにをどう、と詳しいことは言わない。それだけで通じてしまうのだ。
「ソ、ソリオーネ・ファミリーだ。ゴッソ・ルムーが、おれたちのところに交渉に来た」
「ごくろうさん」
振り返るとママ・パパスは微笑していた。背後で銃声が響く。悲鳴はなかった。部屋の中の熱気に鉄錆《てつさび》の臭いが混じる。
「ボーナスは弾むわよ」
「そりゃどうも」
ソリオーネ・ファミリーはクラヴェナル市でも大規模に入るギャングだ。ママ・パパスのロサリ・ファミリーとは縄張りが近いこともあり、これまでも小さな衝突を繰り返している。
だが、ロサリ・ファミリーの中核を成す戦力が強化兵であることもあり、直接的な衝突はこれまでなかった。
ドアの向こうでは好戦的な作戦会議が行われていた。アイレインはその場にはおらず、ドアのこちらで壁にもたれている。
フェイスマンを灸り出すにはちょうどいい騒ぎになってきたのではないだろうか。ロサリ・ファミリーとソリオーネ・ファミリー。ロサリ・ファミリーの資金源を直接的に奪おうとしてきたのだ、これでママ・パパスが黙っていては逆に相手を調子に乗らせることになる。
今夜辺りドミニオに報告に行かなければならないが、アイレインの予想ではロサリ・ファミリーが勝つように仕向けろと言ってくるだろう。大規模ギャングが弱体化したとなれば、その周囲のギャングたちは縄張りを切り崩そうと動くはずだ。
この区画周辺で銃弾と流血が大安売りになるのは間違いない。その中でフェイスマンがどういう行動をするのか……
「……けっこう、ボスもえぐい作戦を考える」
他に聞かれないようにこっそりと|呟《つぶや》いていると、ホールでざわついた音が聞こえてきた。
ホールには相変わらず、チンピラたちがたむろしている。彼らの声に反応して、通路を固める男たちが身をもたげた。
ざわめきを静かにかき分けてやってきたのは黒いドレスの少女だった。
「サヤ?」
「おはようございます」
昨日から眠り続けだったサヤはアイレインの前に立った。
「今日はまたどうした?」
「いた方がいいと思いましたので」
ありがたい言葉なのだが、嫌な予感を伴う言葉でもある。
「それは、さっそく釣れたってことか?」
「さあ?」
サヤが感知できるのは危険であるということだけだ。その危険がどのような種類のどのようなものかまではわからない。
小首を傾《かし》げるサヤを見ながら、アイレインは|煙草《た ば こ》を取り出して銜えた。いつなにがあってもいいようにと、体が勝手に動く。
「ですが、このビルの前に不審な車が集まってきているのは確かです」
「わかるのか?」
「ええ」
聞き耳を立てているママ・パパスの部下が|怪訝《け げん》な顔をしている。
「先ほどここに入る時に、ちょうどそこに集まっているのを見ましたから」
「なっ!」
声は別のところから聞こえた。
爆音と衝撃が耳を打った。エレベーターのドアが吹き飛び、ホールの前に立っていた見張り役のチンピラを打つ。溢れ出した煙の中からガスマスクを付けた男たちが走り出す。
「やるね、軍隊式?」
「いえ、まだまだ」
隣の男は苦笑で応じてきた。余裕があるらしい。
「想定内です」
男が壁の非常用ボタンを押すと通路の前に鉄柵《てっさく》が下ろされた。銃弾は通るが人は通り抜けられない微妙な感覚の鉄柵だ。エレベーターからはぞくぞくと人が吐き出されている。
逃げ場を失ったチンピラたちが騒いでいる。彼らは騒ぐことしかできなかった。ママ・パパスから銃を与えられているわけでもない。戦いの心得を教えられているわけでもない。ファミリーの仕事に関わっているわけでもない。彼女は、銃をガキのおもちゃだとは思っていないだろう。だからこそ遊びと真剣の区別もできない人間に銃は与えない。仕事にも関わらせない。そして、あの場所にいるチンピラたちは酒が自由に飲めるたまり場というだけで、その背後関係をまるで気にせず、意図を考えず、逆に自分たちがそういう存在に近づいているという幻想に酔いしれるしかできなかった。
そんな半端者に、ママ・パパスは甘くない。
何人かが鉄柵にしがみついて助けを求めてきた。隣の男は銃を取り出して、無言で彼らを撃った。背後から迫るガスマスクの男たちも邪魔になるチンピラたちを撃つ。銃声と悲鳴。裏切りの|怨嗟《えんさ 》は聞こえてこなかった。彼らには、それを理解する暇も与えられなかったのだ。
「マスク着けてるけど、ガス効くん?」
「皮膚から侵蝕しますからね。マスクは関係ないですよ」
「そいつは凶悪だ」
アイレインも男も、明日の天気を語るように目の前の死を見つめ続けた。奥からライフルを構えた仲間たちが駆けつける。フルプレートの、宇宙にでも行きそうな機密性を重視した戦闘衣を着込んだ連中だ。彼らの準備が終わる時間を稼いでいたのだろう。
隣にいた男に促され、フルプレートの援軍に後を任せて奥へと引っ込んだ。
扉が閉まる瞬間、スプリンクラーの作動する音が届いた。
死がばら撒かれる静かな音は銃声によって切り刻まれ、扉が閉まることでシャットアウトされる。
「先手を打たれたわね」
ママ・パパスは涼しい顔で監視カメラからの映像を眺めていた。音声のない画像の中でチンピラたちと襲撃者たちが毒ガスに悶絶《もんぜつ》し、銃弾に倒れていく。徹底的な虐殺だ。
ママ・パパスがちらりとアイレインの隣に立つサヤを見た。が、驚く様子もなく、関心を寄せた様子もない。
「ソリオーネ・ファミリー?」
「やられる前にやれってことでしようね」
監視カメラの映像が切り替わる。雑居ビルの入り口だ。サヤの言ったとおり、そこには無数の車が乱暴に置き去りにされている。
残っている男たちが数名いる。その中の一人を、ママ・パパスは指差した。
「あれが、ゴッソ・ルムーよ。ソリオーネの幹部の一人。武闘派で通っているけど、要は口より先に手が出るタイプなだけよ」
ゴッソ・ルムーは確かに粗野そうな男だった。四十代ほどだろうか、|伊達男《だておとこ》のように見えるが、その目には隠す気のない暴力性が宿っている。
だが、そんなゴッソも、いまは不測の事態に慌てていた。
「でもこれで、ソリオーネだという確証が手に入ったわね。しかも向こうからはっきりとした形で手を出してきた。逆襲に気を使わなくていいのはありがたいわ」
ママ・パパスはカミソリのような目を細め、童女のように笑った。細めた瞳は研ぎ澄まされた刃の|雰囲気《ふんい き 》を放ち、監視カメラの向こうにいるゴッソ、その背後にいるソリオーネ・ファミリーの肉をどのようにして削《そ》ぎ落とすかを考えているようだった。
監視カメラの向こうで動きがあった。ゴッソを守る護衛たちが次々と倒れていく。裏口からか、あるいは別の場所に待機していたのか、ママ・パパスの部下が襲撃したのだ。逃げるタイミングを逃し、その場に留まっていたのが敗因だ。足を撃たれたゴッソはその場に座り込み、部下たちに取り押さえられた。
「この街を火の海にでも変えるつもりかい?」
「あら、そんなことをしたら市場もなくなってしまうわ。せいぜいお祭り程度よ」
ゴッソが引きずられてモニターの外へと退場していく。
「それに、騒ぎが起きてくれた方があなたたちもありがたいのでしょ?」
「…………」
「紹介状の名前はライデル・ファミリーの長老だったが、その裏にはスイートに泊まっている誰かさんがいるのでしよう?」
「ノーコメント」
見抜かれていたようだ。ママ・パパスは腕を組み、死者だけを残したモニターの映像を見上げていた。
「勝てる戦を見逃す必要はないわよね」
目はモニターに向けられたままだったが、意識はアイレインに向けられている。その体に宿った異質な力を見抜いている。強化兵を|凌駕《りょうが》する速度、異民化した農民を恐怖させた右目。
「あなた、薬は使ってるの?」
不意にそう聞いてきた。
「薬?」
「その体の進行を抑える薬よ。うちのもう一つの商売」
ママ・パパスが組んでいた腕を解《ほど》くと、その手に部下がプラスティックのケースを置いた。それがそのままアイレインの手に流れてくる。
「オーロラ粒子で変異した肉体を修正する薬よ。うちのドクターが作ったもの。うちの専売商品よ。常習性はないから心配しなくていいわ」
「へぇ」
プラスティック・ケースを手の中で弄《もてあそ》ぶ。アイレインの|煙草《た ば こ》と同じようなものだろうか。
「クラヴェナル市は他の都市に比べて異民化問題が深刻でね。潜在的な異民がたくさんいる」
農民たちがよこせと言っていたのは、この薬のことか。
「特許をとればいいだろう。そうすればこんなところでギャングをしている必要もない。大金持ちだ」
「開発したドクターがわけありでね。いまのままだとそれを理由に市政府に特許を取られてしまう。それこそ、力尽くで。そうさせないためにも、少なくともこの街で誰にも文句を言わせないだけの実力は必要になるわけ」
「なるほど」
ママ・パパス。ダンミ・ララ少佐……自分の隊を引き連れて所属の軍から抜け出した逃亡軍人、彼女らが抱えるドクターとは、おそらく従軍医師なのだろう。
その逃亡の理由は知らないが、色々とあるのだろう。
ママ・パパスの前に、足を撃たれてうめくゴッソが連れてこられた。
「さあ、戦争を始めましようか」
楽しげに、とても楽しげにママ・パパスは宣言した。
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一週間。クラヴェナル市の一角に緊張が走り、凝固するには十分な時間だった。
ロサリ・ファミリーの本拠として知られていた雑居ビルからは、あの日以来人の姿が絶え、ママ・パパスの姿はクラヴェナル市の夜から姿を消した。
だが、ママ・パパスの手はあちこちに伸びる。
その手は長く、迅速で|果断《か だん》で激烈だった。
一方、ソリオーネ・ファミリーには苛立《いらだ 》ちがあった。ママ・パパスの手は、正確にソリオーネ・ファミリーにその鋭い爪を振りかざしていた。ファミリーの構成員が集まる場所、ファミリーが経営する酒場、風俗店、カジノ等を的確にママ・パパスの強化兵たちが襲撃し、銃弾の雨で血の水たまりを作っていった。その的確さにソリオーネ・ファミリーは対応できず、応援が駆けつけた時には死者だけが残されているという状況が続いていた。
「やることがねぇ」
隠れ家のリビングで、アイレインはそう|呟《つぶや》いた。雑居ビルのアジトから移動してずっと、護衛としてママ・パパスの側にいた。
サヤはさっきまで起きていたのだが、いまはアイレインの足を枕に眠っている。
ここがどこなのか、アイレインにはわからない。わからないよう、意図的に複雑なルートを使って移動したように見えた。アイレインを信頼していないのか、それとも誰に対してもそうなのか、それはわからない。
ここはどこかのビルの屋上に作られた豪邸だ。庭には小さな林があり、ブールがあり、ヘリポートがある。富豪が酔狂で作ったような場所に感じる。ロサリ・ファミリーの経済力だけでこれだけの場所を手に入れるのは不可能だろう。その富豪と協力関係にあるのか、あるいは利用しているだけなのか……
広いリビングは作戦室の様相を呈していた。クラヴェナル市の地図が映し出された巨大モニターがあり、そこには何かを示すマークがいくつも点滅している。そのマークのいくつかには×印が重なっていた。
その意味だけはわかる。
処理済み。
日を追うごとに増えていく×印を眺めるだけの毎日。ここに来た時にはこの場所はすでにこうなっていた。電源を入れただけでチーム分けされた強化兵たちの位置を知り、それにママ・パパスが指示を飛ばす。
戦うための準備はすでにできていたのだ。
「退屈そうだな」
シャワーを浴びてきたらしいママ・パパスが戻ってきた。|裾《すそ》の長いシャツだけというあられもない姿だ。水を吸った重い髪にタオルを当て、苦笑気味にやってくる。ボタンが外れて|垣間《かいま 》見える胸元からは荒々しい傷跡がいくつか|覗《のぞ》いていた。
その手には高級そうな酒瓶とグラスが二つあった。
「楽なのはありがたいが、変化がないのはどうもね」
「体を持て余すか? 悪いが女の世話はできんぞ?」
この豪邸にはママ・パパスとアイレイン、そしてサヤしかいない。アイレインにママ・パパスの護衛を完全に任している状態となっている。
言い替えれば、二人っきりと表現しても特に問題のない状況だ。
「……あけっぴろげなのは美徳ではないと思うね、本当に」
頭を抱えたアイレインの隣にママ・パパスが座った。
「人は殺せでも、そういうところは|擦《こす》れてないな。その娘を押し倒す度胸もないだろう?」
「こいつは、そういうんじゃないよ」
「では、どういうのだ?」
静かに眠り続けるサヤに、二人の視線が向けられる。ときおり長い睫《まつげ》が震え、胸がゆっくりと上下を繰り返している。それがなければ等身大の精巧な人形だと言われても信じるものがいるかもしれない。
「……前に助けてもらったからな。だからおれは、ここでのあいつが生きていける場所を提供する。そのために働いているんだよ」
「一所《ひとところ》には落ち着けない生活をしてる、お前が?」
「そいつを、あんたに言われたくはないな」
「まさしく、な」
ママ・パパスが自ら二つのグラスに酒を注ぐ。|琥珀《こ はく》色の液体がグラスで波打った。
「わたしが軍隊を抜けたのには理由がある」
グラスを手に取り、|琥珀《こ はく》色の液体を揺らしながらママ・パパスは言った。
「その理由はわざわざ語ることもないだろう? ダンミ・ララと呼ばれた女のつまらない失敗話だ。話したところでなんの慰みにもならない」
「そうかもな」
グラスの酒を一息に飲み干すと、そこにまた新しい酒を注ぐ。ママ・パパスの視線はグラスに注がれたまま動くことはなかった。
「そのために、わたしたちもまた一所にはいられぬ身になった。その事実だけが全て。それだけが唯一つ明確な過去。その過去をよしとせぬために今がある。わたしたちのやり方がある」
ロサリ・ファミリーの乗っ取り、ギャングとしての成り上がり、そして抗侵蝕剤の特許取得、販売。
それが、ママ・パパスの行ってきたもの、行っている過程、そしてこれから行う目的。
最後の一つが実現すれば、ママ・パパスは、ロサリ・ファミリーは巨万の富を得ることができるだろう。オーロラ粒子の|漏洩《ろうえい》による異民化問題は、いまやこの国全体の問題だ。その問題にアルケミストはいまだ明確な打開案も治療法も発表していない。もし彼らに先んじて発表することがでされば、国中の都市で売られることになる。特許の取得に成功すれば、五十億ともいわれる国民の全てが顧客となるのだ。そこから産まれる利益の前では、一つの都市で麻薬を売ることで得られる利益など子供の駄賃に等しい。
だが、そのために邪魔になるのが逃亡軍人という名の前歴だ。それを覆すためには|生半可《なまはんか 》な努力では間に合わない。一つの都市をごまかすために作る偽造の|戸籍《こ せき》ではない。首都政府の中央コンピューターに収められた自分たちの前歴を、完全に抹消するための権力が必要になる。
「実際、この都市一つ自由にできるようになってもそれが可能だとは思えないがね」
アイレインも酒を飲む。きついアルコールの熱が喉《のど》を焼く。鼻の奥まで|芳醇《ほうじゅん》な香りでいっぱいになった。
「方法はある」
「へぇ、どんな?」
「仲間になれば教えてやる」
「ははっ」
アイレインは笑って首を振った。
「信じてないな?」
「信じてないっていうよりは……ああ、いや、いいや。うまく言葉にできない。うさんくさいっていうのとは違うんだけどな」
ママ・パパスがそんな安い嘘を吐くとは思えない。方法があるというのなら、それは真実あるのだろう。
だが、どうしてそれをアイレインに話すのか?
仲間にしたいから? 信じられない。ママ・パパスと強化兵たちの間に存在する信頼感に、自分が潜り込めるとは思わない。思えない。その理由が存在しない。アイレインの体もまた強化されているからか? 異民化によって人とは異なるからか? そんなこと信頼の育成の前には些事《さじ》でしかないことを、アイレインは知っている。
一つの国しかないこの世界にだって戦争と戦闘は存在する。ギャング同士の抗争ではない。軍と軍による資本と人的資源が惜しげもなく投下された本物の戦争だ。独立を訴える都市はあまた存在し、それを押さえつけようとする政府軍も存在する。戦争は何度も行われてきたし、そのために強化兵たちも次々と生み出されている。
ママ・パパスたちの前身も、そうして生まれたに違いないのだ。
強化兵は味方だけでなく、敵にも存在する。ただそれだけの理由でそんなことを言っているとは思えない。
「あんたのボディガードをおれ一人に任せる。その信頼はありがたいと思うけどな。それはおれのバックになにがいて、なにを望んでいるかをわかっているからの話だ。それになにより……」
「なにより?」
「あんたが自分の作戦に絶対の自信を持っているからだろう?」
ママ・パパスがカミソリの瞳を細めた。
サヤが身じろぎした。そのまぶたがゆっくりと押し上げられる。
「それは不正解よ、アイレイン」
「ああ、おれもいま言って後悔した」
ママ・パパスの視線に合わせて振り返る。そこからは広いプールとその奥にある林の光景が窓越しに見えた。
客の姿が林の奥にあった。
「アイン」
サヤの手に銃が現れ、差し出される。
「ソリオーネ・ファミリーにはどうしても収集し切れなかった情報があってね」
「へぇ……どんな?」
「異民どもの中で、戦闘に使えそうなものを選んでスカウトし、特殊部隊を作っているらしいという|噂《うわさ》があった。うちへの対抗手段としては、金はかかるが人材育成の手間が省ける手段だ」
「有効的とはいまいち言えないがぬ」
オーロラ粒子によって起こる異界侵蝕は画一的ではない。それはつまり、軍隊としての運用には適していないということだ。使いどころの問題ではなく、補充と代用が利かないためだ。ママ・パパスの強化兵に関しても補充という問題があるものの、一人が欠けたからといって戦術的問題がすぐに浮上するということはないだろう。
「そうだな。運用する者の熟練も足りないからそれほど恐れてはいなかった。だが、うちの兵力にも限界がある。今回の作戦におけるこちら側の喉笛を正確に噛み付きにくることだけはできるかもしれない。そのためのあなたよ」
誰にも知られていないはずのアジトだが、異界侵蝕者の中にそれを見つけ出す能力を持つ者がいたら? なにが出てくるかわからない異界侵蝕者がいるのだとしたら、その危険性は考慮しなくてはならない。
そのためのアイレインということか。
「なるほど、合点がいった」
|煙草《た ば こ》を銜え、銃を受け取る。防弾ガラスの窓を開け、外に出る。
客たちは林を抜け、プールの前に立っていた。
一目で異形とわかる容姿だ。先頭に立っているのは鼻のでかい小男だ。赤子の頭ほどの鼻を膨らませてにおいを嗅《か》いでいる。犬の役目ということか。放棄したアジトにママ・パパスの私物でも残っていたか?
「どっちにしろ、女のにおいを嗅ぎまわるのはいい趣味じゃねぇな」
アイレインの言葉に大鼻はなにも言わなかった。
「そいつは、耳がほとんど聞こえてない」
たどたどしい言葉でそう言ったのは、隣の男だった。
「それに、そいつは女のにおいが好きだ。どんなものでもな。女性ホルモンのにおいが大の好物だそうだ」
「そんな豆知識はいらんよ」
うんざりした顔で異民たちを眺める。
「お前らを理解しようとは思わんし、友達になりたいとも思わん」
銃を持ち上げる。相手からは殺気よりも侮りが強く感じられた。まともな人の姿に見えることで、アイレインをただの殺し屋だとでも思っているのかもしれない。たとえ、ママ・パパスの強化兵でもその態度は変わらなかったかもしれない。
前の都市でも見た、典型的な馬鹿たちだ。
ただ、大鼻だけはなにかを嗅ぎ取ったのか、数歩後退した。
「どうせ、明日にはもう会えないんだ」
|煙草《た ば こ》の火をつける。
それはいつも通りの始まりの合図だった。
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ドミニオにはやることがない。
ベッドに寝転がってだらだらと時間を過ごすぐらいしか、やることがない。
一度事を動かせば後は結果報告を待つだけなのが、いまのドミニオだ。アイレインがやってくるまでは、危険な目にも遭ったし、そういう場所に飛び込んだりもした。
だが、いまはその必要はない。
正直な気持ちを言えば、アイレインが危険な部分を担ってくれたことに感謝している。深刻化する異民問題やフェイスマンのような正真の異民のような、強化手術も受けていないドミニオにはどうすることもできない相手が現れたからではない。
それ以前に、銃を構えて危険な場所に立つことに、ドミニオは疲れてしまっていた。一時はそういうことにはまっていた時期もあった。もう少し若く、エルミも猫の額に引っ込んでいなかった頃だ。
その頃を|懐《なつ》かしいと感じてしまう。エルミの作った特製の銃と知恵を武器に悪党を相手に自分の意思を貫いた。激しくも|懐《なつ》かしい日々。
だが、あの日々はどうやっても戻らない。体力は戻らない。折れた心をむりやりに|繋《つな》げてみても、やがては切断面からぼろが出てくるのは間違いない。いまの自分にできることは、適当に都市を巡り、地元のギャングからの歓待を受けて無難な報告書を首都の本部に送るだけの、かつての自分が|嫌悪《けんお 》した不浄役人の行いだけだ。アイレインの武力を頼りにすることで完全な不浄役人に成り下がることだけはなんとか免れているが、それでドミニオの気が|紛《まぎ》れるはずもない。
自分にはもう、なにもできることがないという事実を、淡々と目の前に置かれ続けるだけでしかない。
それは時に地獄のようでもあり、また救済でもあるような気がする。
ぼんやりとすることに飽き、どこかに放り投げたリモコンを手で探って拾い上げると、テレビの電源を入れてニュース番組を探す。現地局のニュース番組にたどり着けば、そこではロサリ・ファミリーとソリオーネ・ファミリーの衝突が取りざたされていた。
「順調に暴れているようだな」
クラヴェナル市に向かう途中から集めていた情報で、暴発しそうな火薬を抱えていたのがロサリ・ファミリーだった。別の都市からの逃亡軍人。軍に所属していた頃は、異民化問題への直接的対処で実績のあった部隊だ。どういった理由で変節があったのかはわからないが、クラヴェナル市でひそかに流通しているという抗侵蝕剤を精製しているのがロサリ・ファミリーであることは想像がつく。異民化問題に対処していた隊にいた専属の軍医は、アルケミストから出向していた。となれば異民に対する研究を同時に行っていたと考えて間違いはない。
その抗侵蝕剤が、他の都市で出回っている気休めにしかならない偽薬めいたものよりもはるかに効果が見られている以上、ロサリ・ファミリーはそれを大々的に売り出すための手段を欲しがっているはずだ。
その手段も、ドミニオはめる程度想像がついている。
そして、その手段のためには中規模ギャングではあまりにも力が足りない。
のんびりと時期を待っていては|噂《うわさ》を聞きつけたアルケミストたちによって薬のレシピを盗まれる可能性もある。また、本当に開発されたのであれば、実現が可能だという証拠ともなる。他の誰かがそれを為《な》すかもしれない以上、のんびりとしているわけにはいかない。
ロサリ・ファミリーとしては早急に勢力を拡大したいところだろう。
その考えはいまのところは図に当たっているようだ。予想以上に事が早く進み、アイレインと連絡が取れなくなったことだけは予想外であったが。
「あれが、田舎のギャングの抗争でやられるとは思えないがな」
問題があるとすれば、こちらの予想よりも早くフェイスマンが姿を現すことぐらいだろう。
「釣れんと話にならんが、タイミングが悪ければ糸が切れる」
フェイスマン。アンナバレル市五千万の人間を食らって生まれた一つの世界。前回の勝利は形だけのものでしかないのかもしれない。アイレインの実力を軽く見るつもりはないが、重く見る気もない。勝利が確定するための策が八割成功しなければ安心はできない。
「まったく……」
口から出るのは|愚痴《ぐち》だけだ。
まったく、アイレインを拾わなければこんなことにはならなかったろう。彼を拾ったことで唯一の不満があるとすれば、エルミが絶縁空間に、それに付随する異民に関わることをやめなかったことだ。
異民化問題がどこの都市でも見られるようになる前から、エルミは各地で生まれる小規模な穴をふさいで回っている。亜空間を生み出す増設機の不良のためだということだが、増設機を作ることはできでも修理することは現在のアルケミストにはできない。なぜなら彼らは設計図通りの物を作っているだけであり、そこに配置された部品がどのように作用するからそこに必要なのか、そういうことがまるでわからないからだ。
彼らが亜空間の境界に生まれる綻《ほころ》びを直そうとすれば、増設機を取り替えるしかない。だが、増設機を取り替えるということは亜空間を一度消して、再配置することになる。亜空間の消滅は、そこに住んでいる人間全員を一度、隣接している別の亜空間に移動させなければならない。そして、そんな大規模な移動はたとえ土地が余っている状態であったとしても並々ならぬ手間がかかる。現実的な方法ではなく、いまのところそんなことが行われたことはない。
ならばこそ、亜空間増設機の修理は、そのシステムを完全に理解している設計者の一人、エルミにしかできないということになる。
だが、それはエルミにとっても危険を伴う作業なのだ。
そのために、エルミは……
「まったく……」
ため息だけがとめどなく零れてくる。
アイレインを拾わなければ、止《や》めていただろう。
あるいは、ドミニオの前から姿を消していたかもしれない。
どちらであろうと、ドミニオはまっとうな不浄役人の道を進んでいたはずだ。
「ため息ばかりついてると、しあわせが逃げるわよ」
頭に柔らかい重石がのせられた。目だけを動かせば、そこには黒猫が足をのせて
「ニア」と鳴いている姿があった。
「退屈をしてたの? マイ・ダーリン。それとも後悔?」
「後悔なら腐るほどしている。退屈もな」
「ごめんなさいね。でも、坊やたちに甘いところなんて見せられないでしょう? 目の毒だわ」
悪戯っぽく甘えた声で言う。昔ならばちゃめっけたっぷりに舌でも出していただろうが、いまは猫の|欠伸《あくび》ぐらいしか出ていない。
「期待はしていない。おれにできることなんて、いまのところはこんなものだし、これ以後になにかが出てくるとも思えん」
猫から目を離し、テレビに目を向ける。地方ニュースは討論番組へと様相を変え、しつこくギャングの抗争について論じ合っている。
「もしかして、拗《す》ねてる?」
「……昔からそうだ。どれだけ走っても、おれはお前の望み通りにはなれん」
拳銃片手に悪党とどれだけ戦ってみても、それはエルミの望むものではない。そこにあるのは、|所詮《しょせん》常人同士の戦いでしかない。
そして常人同士の戦いの外にドミニオは目を向けなかった。
「おれの限界は昔からわかっていた。肉体の限界ならおまえが超えさせてくれただろう。だが、精神の限界だけはどうにもならない。おれは、どうしようもないほどに凡人だ。その事実を、おれは乗り越えられない」
猫が頭から退いた。重みが去ったことと、天井からの照明がかげったことにドミニオは頭を動かした。
新たな重みが生まれた。
そこにいた。
「悪いことをしたとは思っているのよ」
ドミニオに馬乗りになり、胸に手を当て、彼女がそこにいた。
「ねぇ、恨んでいる?」
エルミの瞳がドミニオの瞳を|覗《のぞ》き込んでいた。
「……恨んではいない。むしろ感謝している。凡人の安っぽいヒーロー願望を、おまえは叶えてくれたんだ。気分は映画スターだった」
それをドミニオは見つめ返す。
「だが、映画に終幕があるように、ドラマに最終回があるように、おれのヒーロー話は終わったってだけのことだ。続編の話もなしだ。ヒーローがあまりにヒーロー的過ぎたし、敵はいつまでも様変わりしなかった。話の筋は陳腐で、その上、客を喜ばせることを放棄していた。そんな話の続編を誰も望んでいなかった」
ただそれだけの話。
ドミニオはエルミを見つめながらそう語った。
初めて出会った時は息をするのを忘れるほどの|美貌《び ぼう》だった。時間を無視して生きる人間の超越がそこからは|迸《ほとばし》っていた。ドミニオなど、まともに話をすることすらできなかった。
その時の美貌をエルミは失った。
巡視官になって初めて赴いた都市で、青い正義感を振りかざした結果、暗殺者に殺されかけているところを拾われてから十数年の間、変わらずにドミニオの隣に誇らしくあった美貌は見る影もなく奪い去られてしまった。
絶縁空間によって。
「ねぇ、わたしはあなたを気に入ったから助けたし、あなたを愛してしまったからずっと隣にいたわ。あなたは?」
エルミの瞳には真剣な光が宿っていた。
「愛しているさ、今も昔も。昔はおれの隣にいてくれた。今はお前の隣にいる。それが全てだ」
「ありがとう」
「ああ……」
愛していないと言えば、エルミはすぐに姿を消しただろう。そうすれば解放されたのだ。そして、晴れて不浄役人の道を歩むことになる。安穏と平和と自堕落に満ちた余生が待っている。
欲しながらも、それを選べない。もはや見る影もなく化け物と化してしまったエルミを、本当に愛しているからか?
それとも……
「ん?」
エルミの目がドミニオから離れ、テレビに向けられていた。
視線を追いかけて、テレビを見る。
映っているのは、ロサリ・ファミリーによって大きな穴を開けられてしまったソリオーネ・ファミリーが経営するなにかの店だ。四散したガラス片を境界線にして、野次馬たちが群れを成している。
その野次馬の群れの中に、ドミニオは見た。
やや童顔気味の青年だ。その青年だけは他の野次馬のように新鮮な現場に立ち会っていることに興奮しているわけでも、好奇心に目を光らせているわけでもない。
落ち着いた観察者の瞳で現場を見つめていた。
その目をドミニオは知っている。
馬乗りになっている彼女と、同じ目をしている。
「……予定が、ちと狂いそうだな」
「そのようね」
舌打ちしてそう言ったドミニオに対して、エルミは言葉だけの同意をした。
その声は、ひどく楽しそうだった。
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大鼻は最後まで残した。戦闘能力はなさそうだし、利用価値があると思ったのだ。
「残るはこれだけか?」
大鼻に銃口を突きつけ、背後のサヤに|尋《たず》ねる。
「建物に侵入しようとした者はいません。それ以上はわたしの干渉外です」
窓の前に立ったサヤから落ち着いた声が返ってくる。包囲したり別働隊を用意することすら考えなかったらしい。
|傲慢《ごうまん》以前の愚行としか言いようがない。
「素人を寄せ集めたにしでもひどすぎる」
自分たちの変化をポジティブに受け入れ、そして慢心したのか。
「おまえ………も…………異民、か?」
大鼻が肉の切れ目のような目を蠢《うごめ》かした。目を見開こうとしたのかもしれないが、肉に埋もれてそれができていないのだ。垂れ下がった鼻に隠れた口からの声もかすれている。異常に発達した|嗅覚《きゅうかく》が他の器官を阻害しているのだ。
「この距離なら、聞こえるか?」
「なん………とか」
「ならいい。一瞬でも抵抗のそぶりを見せれば殺す。大人しくして、こちらの質問に答えれば殺さない。OK?」
大鼻は黙って|頷《うなず》いた。
「では、立て。ボスに会わせてやるよ」
銃で促すと短い手足を使って起き上がる。その体は幼児のように小さい。そのくせ、顔は大人のそれよりもはるかに大きく、鼻はその顔の半分以上を占めている。
オーロラ粒子を浴びての異界|侵蝕《しんしょく》でこんな体になったのだ。
戦場になったプールと林の中間地点は血で染まっていた。そこに転がる異民……アイレインやフェイスマンとは違う、異界侵蝕者たちの体も一様に明確な変化を迎えている。麻薬農場の農民たちのような肌が硬質化しただけのようなものではない。ある者は大鼻のように肉体の一部が異常発達し、べつの者は人間ではなく別の生命体のようになっていた。
異界侵蝕者たちは多く見てきたが、ここまでの変化した者を、それも大勢見たのは今日が初めてだ。
エルミが絶縁空間に小規模の穴が大量にできていると言っていた。それが原因なのだろう。
だが気になるのは、それを人為的に行っている者がいるかもしれないということだ。
そんなことに、なんの意味があるのか?
「ご苦労様」
庭からリビングに戻ると、ママ・パパスが微笑で出迎えた。
「情報源を持ってきた」
「有益な話を聞ければいいけれど」
ママ・パパスは大鼻の異様に驚いている様子はなかった。他の人間と同じように、酷薄な瞳で大鼻を見下ろす。
「なんでも……話す」
ママ・パパスの視線に体を震わせた大鼻だが、すぐに従順な態度を見せた。
「素直なのはいいことだわ」
「誰、でも……いい。おれを恐れないのなら、誰だって」
切実な響きを乗せて見上げてくる大鼻に、ママ・パパスの表情は変わらない。
「欲しい情報とこれからの働き|次第《し だい》では、雇ってあげないこともないわよ」
「ほん、とう……か?」
「ええ」
その返答に大鼻が屈託なく喜ぶ様子を見せた。その姿が、大鼻のいままでの境遇を想像させる。
「では、あなたたちはソリオーネ・ファミリーに雇われていたのよね子」
「ああ……」
「その規模は?」
「おれが、知ってるの……は、一緒に来た……あいつらだけ、だ」
「それは、他にも雇われている連中がいるということ?」
「そうかも、しれない」
「あなたたちをスカウトしていたのは誰?」
「ゴッソ・ルムー。怖い、男」
その名前に、ママ・パパスが顔をしかめた。
「本当に?」
「ああ」
|頷《うなず》く大鼻が|嘘《うそ》を|吐《つ》いている様子はない。アイレインとママ・パパスは顔を見合わせた。
「ゴッソは?」
「処分屋に任せたから、知らないわ。今頃はミキサーか酸か……生ゴミに混ざって肥料にでもなってるかもしれないわね」
「どっちにしろ、話が聞ける様子じゃなさそうだ」
「そうね。それに…………」
言いかけて、ママ・パパスはモニターの前に置かれた|分厚《ぶあつ》いファイルを手に取った。中には収集したソリオーネ・ファミリーの情報が詰まっている。その中からゴッソの写真を見つけ出し、大鼻に見せた。
「そいつの顔はこれで合っている?」
「最初の顔は、これ、だった……」
「最初?」
「二度目は、違う……顔だった。名前も、違う。でも、におい同じ。おれ、わかる」
「それはまたおかしな話ね」
|眉《まゆ》をしかめつつも、ママ・パパスはそのことを保留して、大鼻に他の質問をしていく。そのほとんどはすでに入手した情報の再確認だった。大鼻も自分が知っていることを包み隠さず話す。
つっかえるような話し方は気管支に問題があるためだろう。尋問が終わった時には、大鼻は疲れきっていた。大鼻の話では、発見の報告をしていないということなので、このままこの屋敷に滞在することになった。
大鼻には部屋が与えられた。ママ・パパスの寛容さは味方だけに与えられる。休息の後にはママ・パパス自らが台所に立った料理を供せられ、大鼻はその姿になってから初めて受けたのだろう歓待に泣いていた。
食事が終わり、ママ・パパスたちが再び眠りに入った時には深夜を迎えていた。
アイレインにも部屋を与えられているが、あえてリビングにとどまった。ボディガードの役目を果たすには、この場所が一番動きやすいのだ。
サヤもそれに付き従い、ソファで眠っている。
アイレインの|側《そば》で眠るサヤの姿は、この五年間で見慣れたものとなった。五年間。決して短くない時間だ。施設からサヤを連れて逃亡し、エルミたちに拾われ、今の生活を続けてきた。
絶界探査計画を裏切り、逃亡した代償として|戸籍《こ せき》を失ったアイレインと、そもそもこの国の住人ではないサヤが平穏に暮らすためには|戸籍《こ せき》が必要となる。そのために必要なのは技術者だ。中央コンピューターに進入し、アイレインたちの|戸籍《こ せき》を偽造できるだけの技術は|生半可《なまはんか 》な者ではできない。
いまのような生活を続けるだけならば、|戸籍《こ せき》は必要ないのだが。
「そいつは、あんまりだよな」
女の子を連れて、こんな血なまぐさい生活を続けることが正常だとは決して言えない。ドミニオは一つ仕事を達成すればその度に報酬をくれる。それをためて、どこかの都市で技術者を雇うのだ。そして、二人分の|戸籍《こ せき》を手に入れる。
故郷に戻ることはできないだろうが、あそこに似た場所ならば他にもあるかもしれない。アイレインの実家も農家だった。製薬工場に卸《おろ》すための薬草を栽培する農家だ。何種類もの薬草をそれにあわせた環境で栽培するため、辺りにはいくつもの栽培場が建設されていた。家の周りにも|花壇《か だん》が作られ、何種類もの薬の原料となる花が植えられていた。
その花の世話は母と妹の仕事だった。
「ニルフィリア」
我知らずに伸びた手がサヤの額にかかった髪に触れていた。
ニルフィリア。それが妹の名前だった。そして、二度と会うことのない名前でもある。父母は生きている、いまでも新設された農園に行くことがでさればそこで薬草を育てているだろう。
だが、妹にはどうやっても会うことはできない。
妹はいなくなってしまったのだ。
ある日突然に、妹は農園から姿を消した。捜索願によって警察が出動したにも拘《かかわ》らず、死体すらも見つけることができなかった。
その一か月後だ、オーロラ粒子の異常濃度が発覚し、農園が移転することが|急遽《きゅうきょ》決定したのは。
妹はそのまま|行方《ゆ く え》不明者となり、その姿を再び見せることはなかった。
だが、アイレインは見ていた。
その日は、やや曇り気味の空だった。見回りぐらいしか仕事のない時期で、時間を持て余していたアイレインたちは外に出てそれぞれに時間を|潰《つぶ》していた。
散歩にも飽き、曇り空が|次第《し だい》に雲の厚さを増すのを見て、アイレインは家へと戻る途中だった。
遠くに妹の姿が見えた。
大声で呼びかけると、妹もこちらに気付き手を振った。
その姿のまま、妹は消えてしまったのだ。
唐突に、忽然《こつぜん》と。
映像を差し替えられたかのような消え方だった。その後にはごく普通の、見慣れた農園の様相しか残されなかった。
あれは、絶縁空間に飲み込まれたのだ。その時にはすぐに理解できなかったが、時間が経《た》つにっれ、そしてオーロラ粒子の異常濃度が発覚して農園の移転が決定したことでアイレインは確信した。
それから、絶縁空間に入る方法だけを考え続けた。
そして、絶好の機会が訪れたのだ。
絶界探査計画の志願者募集という。
その末に、サヤに出会った。
「ニルフィリア……」
サヤの髪を撫《な》でながら、もう一度その名を呼ぶ。
ばかばかしいことをしているのはわかっている。サヤがニルフィリアであるはずがない。
絶縁空間に消えた妹と出会う。それ自体がすでに奇跡のような確率だ。奇跡というのはつまり、ゼロではないが起こるはずもない確率ということだ。
法則もなにもない場所で、もし本当にニルフィリアがいたのだとしたら、それは……
「ばからしい」
静かに頭を振る。
サヤはサヤとしてあそこにいたのだ。顔が似ているという偶然がすでに奇跡で、それに奇跡が重なるはずもない。
涙を流してママ・パパスを見上げる大鼻の姿が脳裏をよぎった。異界侵蝕者となって迫害から逃れ続けてきた大鼻にとって、ママ・パパスの態度はそれこそ夢にまで見た、決して叶《かな》わぬだろうと思っていたものだったに違いない。
恐れない、蔑《さげす》まない、ただそれだけのことがだ。
髪を撫でていた手が止まった。サヤが目を覚ましたのだ。
「どうした?」
気配に異常はない。だが、サヤが目覚めたことそれ自体が、危険を示すサイレンだ。
「わかりません」
どんな状況にあってもサヤの表情は変わらない。喜びも衷しみも混乱も宿さず、良くできた人形のような優美さと可憐《か れん》さを湛《たた》えて首を振る。|寝癖《ね ぐせ》一つつかない長い髪が揺れて、アイレインの手に触れた。
「変化がありました。ですが、その変化がなにかわかりません」
眉一つ動かさずにそう答えるサヤに、アイレインは立ち上がった。
「二度目の襲撃か? だとしたら、この場所はばれていることになる」
大鼻が嘘を吐いたとは思えない。だが、大鼻の知らないところで気の利いた誰かがこっそりと連絡を取っていたのかもしれない。あるいは発信機が取り付けられていたか。
「油断したか?」
やはり移動するべきだったのかもしれない。そう考えながら、ママ・パパスの部屋へと向かった。
広い|廊下《ろうか 》を進んでいると、大鼻の姿があった。鼻孔を膨らませて空気を小刻みに吸い込むその姿には警戒の色があった。
「おか、しい………にお、いが、変わった」
大鼻のその言葉にアイレインの緊張感が強まった。
サヤから銃を受け取り、|煙草《た ば こ》を銜《くわ》える。歩きながらのそれらの行動が体と精神を戦いの姿勢へと変えていく。
ママ・パパスの部屋にたどり着いた。周囲に変化はない。感覚を澄ませっつ呼び鈴を鳴らすと、ママ・パパスからの返事はすぐに来た。
「どうした?」
ママ・パパスの言葉遣いも軍人のそれに変化していた。
「異常は?」
「見た目にはないが、空気がおかしいな」
部屋から出てきたママ・パパスの顔に睡魔の影はない。カミソリの瞳が周囲をゆっくりと|威嚇《い かく》していた。
「よくない空気だ」
痛みを堪《こら》えるように、ママ・パパスがこめかみを指で押さえている。湧《わ》き出してくる嫌な記憶に蓋《ふた》をしているようにも見える。
「サヤ、部屋でママ・パパスのガードを、おれはちょっと一回り……」
言いかけたところで、アイレインはひきつけられるように背後を見た。
そこに、人が立っている。
短い金髪の、若い女だった。
「嫌な目をしているな」
ママ・パパスの言葉に、女は無表情を通した。
「関係者を確認」
淡々とした声でそう|呟《つぶや》く。
「同時に、手配ナンバー01『アイレイン・ガーフィート』及び、手配ナンバー02『|茨姫《いばらひめ》』を確認。警告、両名は大人しく投降せよ。こちらは殺傷の許可を得ている」
「|機械兵器《アンドロイド》? ずいぶんと精巧なものを作ったな」
機械的な話しぶりにママ・パパスはそう判断した。
そして、言葉の内容からこの機械人形を差し向けた者がギャングでないことは明白だった。
首都政府側のなんらかの組織だ。
だが、ドミニオに確認してもらった時には、警察組織にアイレインたちの手配書は存在していなかった。|戸籍《こ せき》が抹消されたのは、絶界探査計画の失敗による死亡のための抹消だ。つまり、アイレインが施設を逃亡したという前歴は、秘匿《ひとく》されているということになる。
それを知るということは、つまり、アルケミストに関係する組織だということだ。
しかし、それよりもアイレインを絶句させているのは、機械人形のその姿だ。
「おい、なんの冗談だ?」
思わず、|呟《つぶや》いた。
生気のないその表情は、アイレインの知る彼女からは遠い|雰囲気《ふんい き 》となっている。だが、そのしなやかに伸びる四肢《しし》や、アイレインの目から見た身長差は彼女そのままだ。
そしてなにより、その顔立ちだ。
「ジャニス……」
ジャニス・コートバック。ロック・クライミングを愛し、冒険を愛し、誰も見たことのない場所に踏み入ることを望みとする女性。
絶縁空間の中に飲み込まれたはずの仲間の姿を、こんな場所で見ることになる。
これはなんの冗談だ。
そう言いたくもなる。
「無回答は抵抗と判断。強制捕縛を実行します」
「サヤ!」
殺気もなにもない。だが、本能は危険信号を真っ赤に染めて警告していた。
アイレインの叫びと同時に、ママ・パパスとサヤが部屋の中へと退避する。アイレインもジャニスの正面から壁際に退避。
ジャニスの腕が持ち上がった。
瞬間、|廊下《ろうか 》の中心を光が走った。
|廊下《ろうか 》全体を鮮やかな紫に染めながら、その光はアイレインの眼前を駆け抜ける。
「ぐがっ!」
押しっぶされるような怪音は光が走るのとほぼ同時に耳に届いた。
大鼻が逃げ遅れた。体の能力のほとんどを嗅覚に吸い取られているため、|咄嗟《とっさ 》に動けなかったのだ。
仰《の》け反《ぞ》って倒れる大鼻に、体が勝手に動いた。銃口がジャニスの姿をしたものに向き、銃爪《ひきがね》を引く。銃声が雷光の|余韻《よ いん》を吹き飛ばす。
友人に似た顔が消し飛ぶように弾けた。|廊下《ろうか 》に白いゼリー状のものが張り付く。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
頭部を失ってバランスを崩そうとする機械人形の胸にさらに一発、大穴を開ける。今度は床にゼリーがぶちまけられる。
機械人形が床に倒れた。
これで戦闘が終わったとは思えない。|煙草《た ば こ》に火をつける。一気に吸う。肺に満ちた煙が全身を巡り、上昇した体温が下がっていく。貧血にも似た眩《くら》みが襲った。
大鼻が起き上がる様子はない。その体は黒く焦げ、焼けた肉のにおいが鼻孔を打った。
ジャニスに似せた機械人形。これは一体、なんの冗談か。それとも皮肉か、嫌がらせか。どんな意図でジャニスの姿を弄《もてあそ》んだのか。安らぎを手に入れた大鼻がなぜ死ななければならなかったのか。
凶暴な理不尽が目の前にあった。
「くそっ、ふざけてるぞ。誰だ、こんな……」
収まらない怒りに潮弄《ほんろう》され、アイレインは注意を怠った。
見るべきものを、見なくてはならないものを見失った。
足にまとわりついたその感触に気づいた時には、遅かった。
「なっ!」
足を、機械人形が掴《つか》んでいた。引っ張られる。背中から倒れる。頭を失い、胴体に穴を開けたままの機械人形が起き上がろうとする。破壊の断面に機械的なものがなにもなかった。|膝《ひざ》立ちのまま、もう片方の手がアイレインを押さえにかかる。銃を持ち上げる。銃爪を引く。機械人形の手が吹き飛ぶ。もう片方の手も吹き飛ばす。
どうして動ける? その疑問が体勢を立て直そうとする中で浮かんだ。頭部を破壊し、胴体……胸に大穴を開けた。人型の機械兵器を相手にするのはこれが初めてだが、機械にとっての重要な部分はすでに破壊しているように見える。
それでも、ジャニスを|冒涜《ぼうとく》する機械人形はアイレインを押さえ込もうと動く。アイレインは体を捻《ひね》り、腕をなくした胴体でのしかかろうとするのを避ける。銃弾をさらに一発。胸の部分が完全に破壊され、下半身だけになった。
起き上がる。
できなかった。
二度目の|驚愕《きょうがく》。右腕を誰かに掴まれていた。細いが、硬い皮膚に覆《おお》われた指。断崖《だんがい》にある無数の突起や裂け目にかけ続けたために鍛えられたその指……ジャニスの指だ。
ジャニスの顔がすぐそこにあった。透明な瞳でアイレインを見つめている。瞳に刻まれた刻印が目に飛び込んだ。機械であることを示す刻印付きの瞳が、アイレインを見ている。
上半身だけのジャニスがアイレインにしがみついていた。
両手を使ってアイレインの右腕を封じる。だが、左腕はまだ自由だ。頭部に左の銃を向けようとして、失敗した。左腕を踏みつけられた。
下半身だけがそこに立ち、左腕を踏んでいる。
「サヤ、行けっ!」
一瞬の判断で叫ぶ。鉄を打ち合わせたような音が響く。アイレインを押さえる腕と足が変化し、強固な輪を形成。輪はアイレインを固い床に縛り付ける。無表情なジャニスが目の前で溶け崩れる。白いゼリー状のように見えたそれは、|蠢《うごめ》く白い砂糖粒の群れとしてアイレインの頭上で合流し、完全な姿を取った。
ジャニスが、無表情にアイレインを見下ろしている。
まるで悪夢だ。
「あなたを捕縛します」
淡々としたジャニスの言葉。ニルフィリアの姿をしたサヤと、初めて言葉を交わした時に感じた衝撃を再現した気分だ。
「できるか……?」
腕を捕らえた輪は床の|絨毯《じゅうたん》を貫いている。食い込んでいる材質はなんだ? コンクリートか、人工大理石か……どちらにしろ、アイレインの筋力をもってすれば……
「抵抗は不可能です」
ジャニスに似たものはそう言い、アイレインの胸に手を当てた。
全身を衝撃が走った。大鼻を打った雷光と同じものか。全身の筋肉が意思に逆らって暴れる。
輪を砕いた腕が持ち上がる。足がばたつく。
束縛からの解放、反撃への行動。それをする余裕もなく、アイレインの意識は|暗闇《くらやみ》に落ちた。
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ジャニス・コートバックとの思い出は、わざわざ振り返らなければならないほどに多くはない。
絶界探査計画の中でアイレインたち志願者はオーロラダイバーと呼ばれていた。そのオーロラダイバーたちの多くは、前にも言ったとおり自殺志願者予備軍で、アイレインを含めほとんどの人間が自分の死を突き放す虚無を抱えていた。多くの人間は没交渉を望み、アイレインもその例に漏れない。
アイレインとジャニスが唯一まともに会話したことがあるのは、あの喫茶室での十数分だけだろう。
会話の後、彼女は再びプールに戻った。鍛え上げられた肢体が静かに水の中に消えていく光景を、アイレインは不思議なものに出会った気分で見つめていた。
そんな彼女を見つめる瞳がもう一つあったことを、アイレインは失った意識の中で思い出した。
だから、目を覚ました時、その顔がそこにあっても驚かなかった。
「ああ、やっぱりお前か」
そう言ったことで、逆に相手を|狼狽《ろうばい》させてしまった。
場所は、あの屋敷の一角だった。自前のスポーツジム。屋敷の中で一番頑丈に作られていそうな場所だ。
ダンベルを持ち上げるための台に、アイレインは縛り付けられている。
見下ろしているのは、童顔の青年だった。あの時よりもやや老けたか、|癖《くせ》のない直毛に白髪が東になって生えていた。五年前にはなかった。もっと若く、そして研究に励んでいた。若者は強化手術を担当していた。アルケミストから派遣された若き天才研究生。人の体を弄《いじく》り回すことを純粋な瞳で行う彼を、志願者たちは皮肉な目で見つめていた。
ジャニスを除いて。
「久しぶりと|挨拶《あいさつ》するべきなのかな? ソーホ」
「でされば会いたくなかったよ。友達のこんな姿は見たくなかった」
ソーホは顔をしかめてそう言う。
友達。アイレインとソーホは、施設の中では年の近い同性だった。ただそれだけの理由だった
が、同年代の同性があまりいない環境にいるソーホにとっては、それだけでコミュニケーションを取りやすい理由となったようだ。
「ではどうしろと? 本部に運行されてモルモットと友情について語り合って欲しかったか?」
そう言うと、ソーホはひどく傷ついた顔をして、黙った。
ソーホのそんな顔を見ながらアイレインは、サヤたちが無事に逃げられただろうかと考えた。
サヤはともかくとして、ママ・パパスは歴戦の勇士だ。アイレインの知らない退路を多数用意していたとしでもまったく不思議ではない。無事に逃げ切ったことだろう。
そういえば……アイレインは記憶を掘り返す。あの、ジャニスに似た機械人形は、ママ・パパスを『関係者』と呼んだ。
「あの計画がうまくいかなかったことは、僕だってショックだった」
ソーホの言葉でアイレインは現実の視界に意識を戻した。
「計画の最終段階。アイレインたちが絶縁空間に飛び込んだ日だ。あの日、僕は観測所にいた。気密服を着た君たちがモニターから手品みたいに消えてすぐに、計器は全て役立たずになった。
気密服に取り付けられていた機械すらも異界侵蝕を受けてしまったんだ。観測が不可能になった段階で、中止が決定した。だけど、通信機も役立たずになっていた。君たちを引き戻すための手段は全てだめになっていた。僕たちは君たちが無事に戻ってくるのをただ待つしかできなくなっていたんだ」
そして、戻ってきたのはアイレインとサヤだけだった。
「君はひどく混乱していて、話ができる状況じゃなかった。君の体に変化が起きていることに、すぐには誰も気付けなかった。だから彼女を、君が絶縁空間から連れ帰った彼女を先に調べることが決定した。そのすぐ後に、君は………」
ソーホが言葉を濁し、再び沈黙が降りた。
アイレインは素早く状況を確認した。視界はほぼ天井しか見ることができない。が、スポーツジムの各所に人の気配があった。ひっそりとした気配はアイレインに視線を集中させているようだった。まるで草むらから獲物を狙《ねら》う肉食獣のようだ。ソーホが連れてきた軍人たちだろう。ボディガードか、あるいは兵士か。
そもそも、ソーホはなんのためにクラヴェナル市に現れたのか?
関係者……ママ・パパスをそう呼んだことにどういう意味があるのか? ママ・パパス当人に用があったわけではないのだろう。彼女の前歴に関係のある人物なのか?
ソーホは変わらずアルケミストに所属しているのだろう。
それはつまり……
「どうして、逃亡なんて馬鹿なことをしたんだ?」
やや硬い声でソーホがたずねてきた。
「モルモットとなにを話していいかわからなかったから」
そう言うと、ソーホの顔に朱が走った。
「昔の君はそんなことは言わなかった」
「音の君は友人の体を腑分《ふわ》けすることはあっても、友人を縛り付けることはしなかった」
言い返すと、ソーホは限界まで顔を赤くして黙り込んだ。
アイレインはため息を吐いた。
「冗談を理解してくれよ」
「昔の君は冗談なんて言わなかった」
「なあ、五年っていう時間は人を変えるには十分過ぎる期間だと思わないか? 研究室にこもってたお前にはわからないかもしれないが」
「僕だって……」
「昔々と、お前はいつの時間を生きているんだ?」
「僕だって変わったさ。研究社の主任になった。いまや正式なアルケミストの一員だ。対異民問題も任された。僕は変わったんだ」
「変わったのは地位だけか?」
理解した。なぜジャニスの姿をした機械人形がいたのか。なぜ、ソーホがここにいるのか。簡単な足し算だった。
「ジャニスを作ったな?」
「ああ、作ったよ」
それを素直に認めたソーホの顔に罪悪感は|垣間《かいま 》見えなかった。
「レヴァ」
「はい」
ソーホが呼ぶと、ジャニスの人形がアイレインの視界に入った。すぐ側に控えていたのだろうが、アイレインにはわからなかった。生きている人間の気配がないので、わからないのだ。
「レヴァンティン。僕が開発したナノセルロイド。ナノマシンでのみ構成された兵器だ。まだプロトタイプだけど、その性能を君は自分で確かめたよね」
「どうして、ジャニスの姿にした?」
「そんなこと……」
「知りたいね。あの時は声もかけられなかった女の形に固執する理由に、人に話せるものがあるのなら」
拳が来た。|頬《ほお》を抉《えぐ》るとまではいかない。位置が悪いし、握力もない。そもそも、研究|一途《いちず 》なソーホ自身にまともな体力なんてないのだ。
興奮して肩をいからせるソーホを、アイレインは黙って見つめた。
「友人だからって、侮辱は許さない」
「なあ、昔はともかく、いまはおれのことを友人だなんて思ってないだろう?」
ソーホは赤くした顔を青くして沈黙した。
沈黙そのものが答えだ。
「それこそが変化なんじゃねぇのかね?」
やはり、ソーホはなにも言わなかった。
ソーホが去り、代わりに黒服の男がアイレインの前に立った。
「あまり、うちの長をいじめないでいただきたい」
「旧交を温めていただけさ。昔は、どんな皮肉も通じなかったんだ。それがわかるようになっただけ、立派な成長だ」
黒服はため息を吐いて首を振った。
ソーホよりも十は年上の男だった。そして油断のない目をしていた。アイレインの隻眼《せきがん》を見つめ、一筋も真実を見逃すまいとする光があった。射るようなその視線はアイレインを居心地悪くさせた。
ドミニオも、時にこんな目をする。もっとも、ドミニオのその日は黒服よりもはるかに老練な|雰囲気《ふんい き 》を楕しているが。
「もしかして、元警察?」
ソーホは去ったが、レヴァは変わらずアイレインの側にいるようだった。足音でそれを判断した。ナノセルロイドと呼んだ機械兵器の気配は読めない。それ以外の部分に意識を集中させなければならないのは、思った以上に神経を疲れさせる。
「ええ、首都警察で十年以上」
「初めから、あんたが尋問に来ればよかったんだ。そうすれば、ソーホが泣かなくてすんだ」
「そうしたかったんですが、ボスですからね」
「ボス?」
「ええ。異民化問題対策調査組織、サイレント・マジョリティーといいます」
沈黙する多数派。
「趣味の悪い名前だ」
多数派の人間が、少数派である異民、異界侵蝕者たちをどう思っている? 建前の言葉ではない。その心の奥にある真実の気持ちだ。大鼻のあの姿を見れば、わかろうというものだ。
「そう思いますが、名付けたのは私でもボスでもないので」
黒服はそれ以上の無駄話を望んではいなかった。
「ドミニオ・リグザリオをご存知ですか?」
「さあ?」
「私たちはこの都市で幾人かの人物を捜しています。彼もその一人でしてね。巡視官なんですが、彼が滞在しているはずのホテルには、もういませんでした」
「よその都市に行ったんじゃねぇの?」
ドミニオが|行方《ゆ く え》をくらましたことに思考を動かそうとしたが、|止《や》めた。ドミニオが尋問する時、相手の沈黙の中から真意を探りとっているように見えた。おそらく、この黒服も同じようなことをしようとしているはずだ。アルケミストの設立した組織にスカウトされたということは、この黒服は有能な警官だったのだろう。余計な考えはぼろを出すことになるかもしれない。
「まあ、いいでしよう。やることは他にもありますし、この都市でまず優先されることは別なところにあります」
黒服は素直に退く姿勢を見せた。
「同時期にクラヴェナル市に姿を現したあなたとドミニオが無関係にあるとは到底思えない。そのうち、向こうから行動を起こすことでしよう」
「そうだといいな」
アイレインの言葉に肩をすくめ、黒服が視界から去る。
「そうそう、一つ聞いていいですか?」
視界の外から、黒服がたずねてきた。
「異民になるというのは、どんな気持ちです?」
アイレインの前歴を知ってそれを聞いているのなら、異界侵蝕者になるという意味ではないだろう。
「……自分の人生の最高の瞬間が、まさしく言葉通りだった。そういうのを想像してみなよ」
黒服はそれについてしばらく考えている様子だったが、なにも言わずに今度こそ立ち去った。
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「もう二度と、あそこにはいかん」
青い顔をしてドミニオはそう言った。
「残念。わたしのプライベートを知ることができるのは、あなただけなのに」
黒猫が顔を洗いながら笑い声を零《こぼ》す。
そこは同じホテルの別の部屋だった。念のためにと自腹を切って取っておいた部屋だ。テレビで見たアルケミストが兵士を引き連れてスイートへと押し入った時、一足早くこちらの部屋に退避したのだ。同じホテルの別の部屋というのは盲点だ。予想通りにアルケミストたちは得る物もなくホテルから去っていった。
だが、この部屋に移動するためにドミニオはエルミの研究室に入らなければならなかった。すなわち、黒猫の額にあるサファイア、彼女専用の亜空間にだ。
アルケミストがその研究欲に純粋に従った末の陳列物はドミニオにとって悪夢の産物でしかなかった。
移動のタイミングがきわどかったための非常手段だが、自分の妻の恐ろしさを改めて教えられた気分だ。
スイートから一転して、シングルルームへと様変わりしたのだが、ドミニオにはこちらの方が似合っている。
「あいつらの狙いはなんだ?」
備え付けの冷蔵庫からビールを取り出し、一気に呷《あお》る。それでようやく落ち着いた。
「そうね。アインにフェイスマン、あとはこの街で出回っている抗侵蝕剤。ここら辺じゃないかしら?……」
「ばれたか?」
巡視官であるドミニオが異民であるアイレインを使っている。その事実はドミニオに懲戒免職を通り越して処刑台に直行させる運命を下すのに十分な理由になる。
「さて、どうなのかしらね? フェイスマンの情報はほぼわたしたちが独占している状態だもの。それを知りたかったということも考えられるわ」
「あの対応でか?」
「研究者に一般常識を期待するほうが間違ってるわ」
「それはよくわかる」
実感をこめてドミニオは|頷《うなず》いた。
エルミの研究所にあった悪夢たち。あんなものを、一般常識を兼ね備えて並べられてはかなわない。
だが、エルミの言うことには一理ある。首都に送っているフェイスマンに関する報告書は、アイレインのことを抜きにして語らねばならないため、かなりの部分を|曖昧《あいまい》にごまかしている。また、フェイスマンをどのように追跡しているのか、その方法も明かしていない。
まさか、妻が初代アルケミストで、彼女が推測しているのだとは言えない。初代はすでに死亡したことになっている。その事実だけで一波乱が起きる。彼女の研究結果は、もしかしたらこの国に新しい繁栄をもたらすかもしれない。だが、同じように悪夢と|歪《ゆが》みも増やすことになるだろうとドミニオは本能的に感じていた。
オーロラ・フィールドが生まれたことによって人類は資源の|枯渇《こ かつ》から脱却し、そしていま異民問題に悩まされているように。
「そろそろやめ時か……」
もちろん、巡視官としての仕事を。辞職しても特に困らないような気がする。金銭的問題はエルミがなんとかすることだろう。情報収集の面でやや問題が起きるかもしれないが、それもどうにかなるかもしれない。
「|馘首《くび》にならない内はやっていけばいいじゃない。それより、どの問題であったとしでもあの連中、アインと衝突することになるわね」
エルミがあげた三つはすべてギャングが絡んでいる可能性のあるものばかりだ。しかもアイレインと抗侵蝕剤にいたっては、ロサリ・ファミリーに集中している。それにフェイスマンをおびき出すためにロサリ・ファミリーにアイレインを派遣しているのだ。
目に付くところにいるアイレインと衝突するのは、確かに目に見えて明らかだ。
「|厄介《やっかい》だな。連絡が取れればいいんだが」
「電話かけたら?」
「こちらからはなるべくかけない方がいいんだがな。向こうの状況がわからん」
「でも、非常事態だしね」
「むう……」
ドミニオが判断をつきかねていると、その胸が震えた。
携帯電話だ。画面には知らない番号が表示されていた。
通話ボタンを押すと、しばらく沈黙があった。
「誰だ?」
「わたしです」
「サヤか、どうした?」
「アインが捕まりました」
ドミニオは思わず黒猫を見た。だが、黒猫は丸くなって眠っている。
「どういうことだ? いや、詳しいことは直接聞こう。合流できるか?」
「はい。……少し待ってください」
「ん?」
言葉の最初はドミニオにではなく、電話の側にいる誰かに向けてのものだったようだ。
「悪いが代わらせてもらった」
サヤのガラスのような声とは違う。硬く鋭い、刀剣のような声が緊張を伝えてきた。
「ママ・パパスか?」
「そうだ。お前の部下には世話になった。非常事態故、直接連絡を取ったことは詫《わ》びよう」
「この段階に来ては、それも仕方なかろう。おれも職を失うかどうかの瀬戸際だ。うちの雇い人がドジをしたそうだな。直接会える場所があるならば、指定してもらいたい」
「了解した。話が早くてありがたい」
ママ・パパスが住所を告げる。ドミニオはそれを脳内のメモに書き付けると通話を切った。
「で? どうやって移動するの?」
「心配しなくても、向こうは現実的なルートを設定してくれている」
黒猫から零れた舌打ちを無視して、ドミニオは素早く出かける支度にかかった。
タクシーで最初に指定された場所に行くと、そこに迎えの車が来ていた。さらに数度の乗り換えを経て、目的の場所にたどり着く。
第三司令室。ママ・パパスはこの場所をそう紹介した。元は病院だそうだが、経営に失敗して放置されている。使われているのは地下区画だけで、地上部分は地下区画への入り口を潰した以外には手を付けていない。そうすることで酔狂な人間がやってこようとも、人がいるようには見えない。さらに、移動には地下通路を利用するため人の出入りを見られることもない。
「ギャングは用心深さと|迂闊《うかつ》さを同時に備える奇妙な連中だが、あんたには|迂闊《うかつ》さなんてないのだろうな」
第三司令室の様相を眺めて、ドミニオは嘆息した。その名に相応しく、その場所は様々な機材で埋め尽くされている。
「いや、|迂闊《うかつ》なことには変わりない。ギャングには形ばかりでなったつもりだが、襲撃された場所に安穏と残ったことは失敗だ」
唇を噛《か》む、ママ・パパスは本気でそのことを悔やんでいるようだった。
「まあ、アジトを変えたからってアルケミストの襲撃がなかったかどうかは怪しいけどね」
「どういうことだ?」
すでに紹介も情報の交換も済んでいる。ママ・パパスは黒猫が|喋《しゃべ》ることに驚いたが、すぐに柔軟にその事実を受け止めた。
「ソリオーネ・ファミリーの異界侵蝕者部隊? そいつらの後を追いかけてあなたのアジトに行ったのではないのかもしれないからよ」
視線が黒猫に集まる。そ知らぬ顔の黒猫は、熱を発する機材の上で丸くなっていた。
「その、不可解な機械兵器だけど、たぶんナノマシンの群れで構成されたナノセルロイドね。一部が破壊されてもすぐに他の部分がその機能を代替《だいたい》する。破壊するのが難しい兵器。コストの問題で量産化はできないし、メンテナンスも面倒、結局は人を雇った方がはるかに安価に有効な軍隊が作れるって理由でずっと昔にお蔵入りになった技術だけどね」
「兵器の説明はいい。それで、どういうことだ?」
「わたしが、アルケミストで最後にしていた研究は、オーロラ粒子の収集とエネルギー変換」
「オーロラ粒子のエネルギー変換だと?」
「そう」
言葉と黒猫の行動は決して一致しない。だが、その額にあるサファイアが得意げに色を変えた。
「わたしがアルケミストにいた当時から、絶縁空間に穴が生じていたのよ。そこから零れ出るオーロラ粒子は、今ほどではないにしろ、人体に軽微の異界侵蝕を起こしていた。遺伝子のレベルでの改変である異常、治癒は不可能。それならばって予防策として研究していたのが、それなのよ。オーロラ粒子を収集し、そしてそれをエネルギー化して処分することがでされば、異界侵蝕者を出さなくても済む。……まあ、わたしがいる間は、これもコストの問題とかで結局お蔵入りしてたんだけどね」
「だから……」
結論を先延ばしするエルミの話し方にドミニオは苛立《いちだ》ちを募らせた。
「コストとかの問題はその内解決するだろうとは思ってたけど、問題は収束することでオーロラ粒子の濃度があがること、これが最大の問題だったのよ」
ドミニオの視線など知らぬ顔でエルミは話し続ける。
「絶縁空間とは、すなわちオーロラ粒子のみで構成された亜空間になる前の状態のことよ。ほんの小規模とはいえ、オーロラ粒子を収束されればそれが生まれてしまう。そして、絶縁空間は機械すらも変化を促してしまう。機械に付着した人の思念に反応するため、そう仮説づけられているわね。それならば、完全に人の意識から承離《かいり》した機械を作るためにはどうすればいいか? 機械作業による機械の製作を行っても、絶縁空間で無事にいられる時間がやや延びただけでしかなかった。
機械を作るための機械に付着した思念が伝染してしまったからよ。しかし、思念は無限に存在し続けるわけじゃない。発生源から切り離してしまえば、それはやがて拡散し、霧消する。つまり、これを繰り返すことがでされば、完全に人の思念から超越した|完璧《かんぺき》に清潔な機械を生み出すことができる。そのために最も適しているのが」
「ナノマシンか」
「その通り」
はっとした顔のママ・パパスに、エルミは声だけで|頷《うなず》いた。
「機械に人の思念を張り付かせないためには、機械を作るための機械を作るための機械を作るための機械を作るための機械を作るための……と、それはそれはとても馬鹿らしくもコストのかかるプロセスを経なければならない。だけれど、ナノマシンならそれをしなくてもいい。初期段階でナノマシンに自動生成プラントのプロプラムを与えておけば、勝手に自己増殖して古いナノマシンを代謝して処分していく。後は放っておけばいいだけ。
そこで、そのナノセルロイドの話に戻るわけだけど、わたしの推測が正しければ、それにはオーロラ粒子変換機能力ついているわね。人を一撃で殺傷するような雷撃を発生させるなんて、けっこうなエネルギーを使うのよ。だけど、オーロラ粒子があれば、それは可能になる。外部からエネルギーを供給し続ければいいんだから。そして、相手が異民なら、そのエネルギーは無限にある。わたしのいう異民とはアインやフェイスマンのような正真の異民のことよ。彼らはそれだけで一つの世界。そして増殖しようとする世界でもある。それはつまり、彼ら自身がオーロラ粒子を放っているということになる。そして、ナノセルロイドはアインの放つオーロラ粒子を辿《たど》ってきたのではないかってわたしは思うんだけど?」
長い説明が終わった。
「つまり、アインにとっては、最悪の相性の敵だってことか?」
「もちろん、フェイスマンにも。話を聞く限り、そのナノセルロイドは軍隊的運用に向いているとはとても思えない。せいぜいが暗殺要員ぐらいね。けど、そんなことをするために馬鹿みたいに高いコストをかける必要はない。なら、対異民用兵器として開発されたと考える方がはるかに現実的ね」
「……なるほど、あの兵器の運用方法はわかった。それがアルケミストの目的なのかもしれない。だが、あの兵器はわたしをみて関係者と言った。それはつまり、わたしの持つ抗侵蝕剤にも興味を持っているということだが」
「クラヴェナル市に出回っている抗侵蝕剤の効果はすでに実証されている。アルケミストがそれに興味を持つのはおかしくないことだ……だが、なにもかもをと欲張っていては結局失敗する。たとえ、ここに来たのがアルケミストだとしても、集団で来ている以上、ボスの行動に修正を加える者はいるはずだ」
「そうだな。わたしもそう思うが」
ドミニオとママ・パパスが|頷《うなず》きあう。
「それをいま話し合ったとしても、ここで解明される謎ではないのではなくて?」
エルミの言葉も、また真実だった。
ドミニオとママ・パパスが善後策を講じ始めると、エルミの黒猫は機材の上から退いて移動した。
部屋の隅にある|椅子《いす》にサヤが座っている。黒猫はその膝の上に飛び乗った。
「元気?」
エルミは気遣わしげな声でサヤにたずねた。
「健康的な問題はありません」
「じゃあ、精神的な方は?」
サヤは黒猫をじっと見つめた。黒猫の背に手を乗せ、毛を撫でる。
「不安です」
「アインのことが?」
「それもあります。でも、他にも」
毛を撫でるサヤの手は、震えていた。
「わたしは、記憶を持っていません。アインに拾われる前、どうしていたのか。この国にいたのか、それとも他の国にいたのか。自分が何者なのかを知らないんです。だから……」
「だからもしかしたら、絶縁空間の中で、アインによって作られたのかもしれない?」
猫を撫でていたサヤの手が止まった。
「そうなのですか?」
「その可能性は否定できないわね。絶縁空間の中でなにが起こるか、それを推測するにはまだまだ検証が足りない。でも、だからあなたはいま不安なの?」
「…………」
「アインの死が、自分の死に|繋《つな》がるかもしれないから?」
「わかりません」
サヤは首を振った。その瞳からなにかを推し量ることはできない。
「なにもわからないまま、消えることは怖いです。でも、それ以上にあの人が死んでしまうかもしれないと考えるのが、怖いんです」
ふと思う。サヤが無表情なのは、そうすることを知らないからではないかと。生まれたでの赤ん坊が|微笑《ほ ほ え》むことがないように。人と交流するための最低限の知識は持っていたがゆえに、感情を相手に伝える必要がなかったからではないか、と。
サヤはいま、五年の時を経てようやく変化を迎えようとしているのかもしれない。
「まあ、そこまで心配はいらないわ。ナノセルロイドの能力は確かにアインにとっては苦手な部類に入るだろうけれど、それは、ナノセルロイドがわたしの想定するスペックを持っていればの話よ」
「そうなんですか?」
「持っていなければ、大丈夫よ」
「……ありがとうございます」
サヤの声に湿り気が混じったような気がした。だが、その表情は相変わらず人形めいていて、瞳は水晶のように透き通っていた。
「そうすぐには変わるはずもないか」
「え?」
「いや、なんでもないのよ」
黒猫は|微《かす》かな寝息を立てて眠っていた。エルミの見立てた黒の服と混ざり合って、まるで一つになろうとしているかのようだ。
「あいつも、同じぐらいに気持ちをはっきりさせてれば、あんなふうになることもないだろうに」
そう|呟《つぶや》く。今度は、サヤも聞き返しては来なかった。少女にもわかっているのだ。アイレインに言葉にはしない望みがあることを。
そうしている間に、ドミニオとママ・パパスの作戦会議は終了した。
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あれからソーホはアイレインの前に姿を現さなかった。あの会話にそれほど腹を立てたのだろうか。
だとしたらしてやったりだ。アイレインはひそかにほくそ笑んだ。
ソーホは幼い頃からアルケミストにその才能を買われ、純粋培養されている。肉体強化手術ではどんな無茶でもやってみせ、それで志願者の何人かは死んでいる。
だというのに、その手術を受けたアイレインに無垢《むく》な顔で友達になろうと言ってくる。そのアンバランスさが昔から気味悪かった。
そしてその気味の悪さはいまでも続いている。
視界の外には相変わらずレヴァがいた。ジャニスそっくりの機械人形の冷たい視線は、最初は感じられなかったが、徐々にそれを認識できるようになってきた。
「いったい、どんな冗談だ?」
声を出しても、それに答える者はいなかった。視界の外には変わらず何人かの監視の人間がいる。そいつらは何度か交代したようだが、そばにいるレヴァは不眠不休でアイレインに付きっ切りだ。
機械は休むということをなかなかしないから|厄介《やっかい》だ。なにより、精神的な疲労というものがない。生身の監視者の方は時に油断を見せるのだが、レヴァはそれを見せない。
いつまでも見つめ続けている。
時に腕を動かしたりして、自分を束縛するものの具合を確かめる。革製の肌触りを見せる輪があり、それが鎖を繋いでいる。力をこめれば千切れそうではあるが、まさかそんな簡単なわけがないだろう。
(さめて、どうするかな? )
初めてレヴァを見た時には動揺していた。そのために戦いも後手に固らされたまま圧倒された。
その後にレヴァに受けた雷撃の傷もある。その傷は、今までの時間でほぼ回復している。異民化のためか、それともエルミによる処置のためか、あるいは相乗効果なのか、大抵の傷は一晩で治るようになった。その傷を治すために、アイレインの体は休眠を欲していた。そのため、体の動きが鈍く感じるのも仕方がないと感じていたのだが……
傷がほぼ完治したいよもどこか全身に鈍さを感じるのはどういうわけか?
(こいつのせいかな? )
レヴァ。対異民兵器として開発されているのなら、アイレインたちに何らかの影響を与えるものを放射していてもおかしくはない。
(しかし、そうだとすると|厄介《やっかい》だな。|煙草《た ば こ》もねぇし。どうすっかな?)
倒れる前に持っていた銃と、アイレインのコートがこの場にはない。シガレットケースはコートの中に入っていたのだ。
(なるようになると考えるしかないけどな)
こういう時、意地でも生還するという気力がアイレインにはない。死ぬつもりもないが、生きるために最大限あがくということができないのだ。
サヤとの約束は覚えている。そのために生きて戻らなければならないということも頭ではわかっているのだが、心の別の部分ではそんなことすらもどうでもいいと感じている自分がいる。
自殺志願者予備軍。
オーロラダイバーに志願した時に抱えていた虚無は、サヤと出会えたことで|払拭《ふっしょく》できたと思った。だが実際には鳴りを潜めているだけなのだ。こういう時にふと蓋が外れ、表に湧き出てはコールタールのような黒いものでアイレインの命を覆い、目に見えなくさせる。命の姿が見えなければ、それが傷つこうともわからない。
「困ったもんだよ」
「どうか、しましたか?」
胸の内で凝り固まろうとしている虚無を見つめていると、レヴァはここに来てはじめて口を開いた。
視界の中に現れ、見下ろしてくる。所作そのものは患者の様子を見る看護師のようだが、その瞳の冷たさだけはどうしようもない。
「心配してくれるのかい?」
「捕縛した以上、あなたをアルケミスト本部に送られるまで守るのがわたしの使命です」
「そいつはどうも」
「困ったことがあるのでしたらお申し付けください。可能なことはいたします」
「こいつを外してくれってのは?」
「それはできません」
「基本だね。じゃあ、とりあえず飯が食える姿勢にしてくれんかな? 寝っ転がってるのにも飽きた」
「わかりました」
レヴァが|頷《うなず》く。
てっきり、別の|椅子《いす》でも持ってくるのかと思ったが、そうではなかった。
レヴァはその場に跪《ひざまず》くと、アイレインを拘束する台の裏に手を伸ばした。なにをしているのかはアイレインには見えない。力任せに曲げる気かと思ったが、金属をむりやりに捻《ね》じ曲げる音はいつまで経っても聞こえてこなかった。
だが、視界はゆっくりとだが上がっている。台の腰に当たっている部分からゆっくりとだが曲がっているのだ。溶かしているのかとも思ったが、その熱が背中を焼くこともない。
ソーホはレヴァをナノセルロイドと言っていた。その名称を聞いたことはなかったが、名前の様子からしてナノマシンを使用しているのだろう。ならば、そのナノマシンがなにかをしているのだろう。なにをしているのかなんて、アイレインには想像もできないが。
やがて、台は|椅子《いす》らしい形となった。視界が天井主体から部屋の半面を見渡せるようになった。
その代わり背後がまるで見えない。新しい死角だが、以前よりははるかにましだろう。
「他にはありませんか?」
「食事もまだだけどね」
「わかりました」
「いや、与えなくてもいいよ」
新たな声がレヴァを止めた。あの黒服だ。
「捕らえてもう丸一日経っているというのに、トイレの要望もなく、食事の要求もようやくだ。ボスは彼が通常の食事を必要としていないのではないかと思っている。そのため、食事は抜きだ」
「わかりました」
レヴァがそのまま下がる。ジムの壁にまで下がるとその場で直立の姿勢を取った。
「|我慢《が まん》強いだけなんだけどな」
「それなら、どこまで|我慢《が まん》できるか見せてくださいよ」
「嫌な奴だね、あんたは」
「これでも昔は、妻には優しい人だと言われていたんですがね」
「へぇ、いまは?」
「妻がいなくなってからは言う人はいませんね。殺されたんですよ、フェイスマンに」
「そいつはご愁傷様」
「わたしはね………妻を殺されたからって異民全てが許せないとか、そんな差別主義者になるつもりはありませんがね。あんたがたには怒りを抱いている」
黒服の指が胸を突いた。その目がすぐそばにある。前に話した時とは違う、本気の怒りがそこにあらた。
「人をあんなにも踏みにじって不幸にしながら、自分たちだけは幸福になろうっていうその姿勢は、許しがたいことだとは思いませんか?」
「不公平だって?」
「そうです。あなたの前歴は調べさせてもらっています。|行方《ゆ く え》不明の妹さんがいらっしゃいますね? その妹さんと、あの『|茨《いばら》姫《ひめ》』が同じ容姿なのは、どういうわけですか? あなたが絶縁空間で作った世界が、彼女なのではないんですか?」
その瞬間、腹の奥からすっと温度が去った。氷の塊を飲み込まされたような感じだ。
その眼の奥にあるのは|嫉妬《しっと 》だ。妻を失った自分がいるというのに、その一方で失ったものを取り返した奴がいる。そう思っているのだ。
「一つ聞き忘れてたことがあるんだけどさ。レヴァが殺した異界侵蝕者がいるだろ? あれ、どうした?」
「さあ? それは処分係の仕事だ。ただ、異界侵蝕者はDNA鑑定ができないから身元の確定ができない。よくて、身元不明者墓地行きかアルケミストの研究所か、悪ければ焼却処分だな」
「そうかい」
ママ・パパスが引き取ることがでされば、ファミリーの一員として埋葬したことだろう。異界侵蝕者となって迫害を受け続けた男の末路としては順当なのかもしれないが………
「それがどうかしたのか?……」
「いいや」
ただ、そんな男の死に様などまるで気にしていないこの男の想像力、そして傲慢さは癪《しゃく》に障る。
「……あんた、フェイスマンに奥さんを殺されたって話だけどさ。その死体は、あったのかい?」
「……いや、だが妻はわたしの目の前で殺されたんだ」
「ふうん。……なら、生きてるかもしれないぜ。フェイスマンの顔として、フェイスマンの世界の人間になって」
「なっ……」
絶句する黒服の姿を見て、アイレインは声を潜めて言葉を重ねた。
「あんた、おれを羨《うらや》ましいと思ってるのかもしれないが、それはとんだお門違いだ。あんたの方が幸せになれる可能性がある」
「どういう……ことだ」
アイレインが危険なことを言おうとしている。もしかしたら騙《だま》そうとしているのかもしれない。
そう思っていることだろう。だが、黒服はその言葉から耳を離すことができない。
なくしたものが手に入るかもしれない。その誘惑の恐ろしさを誰よりも知っているのはアイレインだ。
「あんたもフェイスマンの顔になればいい。フェイスマンの世界の住人になればいい。どうせ、めんたらの組織はフェイスマンも追いかけているのだろう? そのためにここに来たんじゃないのかい? だとしたら、ちょうどいいじゃないか」
「なにを、ばかな……」
「そうかい? 失われたものを手に入れようというのに、代価なしを願うなんて調子良すぎるんじゃないか? そんなあんたに、このおれをうらやむ資格があるのかい?」
「…………」
黒服は黙ってアイレインを睨《にら》みつけてきた。その日には怒りのほかに苦悩が滲《にじ》んでいる。
死んだ人間が戻ってくる。そんなことは絶対に不可能だ。死はどんな形であろうとも誰にも平等に訪れ、残された者は死者の|寂寥《せきりょう》を胸に宿さなくてはならない。
誰もがそうであるならば、この黒服はただの復讐者になっただけで話は終わっただろう。
だが、そうではない。アイレインという失ったものを取り戻した者が目の前に現れた。アイレイン自身、サヤがニルフィリアだとは思っていない。思わないようにしている。奇跡の上に奇跡は重ならない。ましてや……
そう、アイレインの静かな怒りの理由は、大鼻だけのことではない。
「口を開けて待っていれば願いが叶うのは赤ん坊までだ。そんなことすら忘れているなら、あんたはこんな場所にいるべきじゃない」
「くっ……」
逃げるように立ち去っていく黒服の背は、アイレインの背後に回ってしまったためすぐに見えなくなった。
残されたのは、こちらをまっすぐに見つめるレヴァの姿だけ。いまの黒服との会話は聞かれていただろうか? 声を潜めていたので他の監視者には聞こえていないだろうか、機械のレヴァはどうか?
「まあ、聞かれてたってどうってことはないか」
別に脱出するために即興で考えた策というわけではない。単なる腹いせだ。それで他の奴らが惑わされてダンスでも踊ってくれるのなら、とんだ儲《もう》けものというぐらいのものだ。
「どうかしましたか?」
あるいは、このナノセルロイドはいまの話がどういう意味を持つのか、理解していないのかもしれない。
「人間ってのはさ……」
「はい?」
「こうであって欲しくないって部分をその通りに指摘されると、どうにも|我慢《が まん》できない生き物なのかもしれないな。いや、そんなことを考えるのは人間だけなのかな? まったく…………」
手が自由なら、額に手を置いてため息を吐きたかった。
「まったく、度し難い」
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04 祭《フェスタ》りの夜
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ロサリ・ファミリーの攻勢はこの時もまだ続いていた。ボスのママ・パパスになにかがあったわけではない。ただ食客分のアイレインがいなくなっただけの話でしかないからだ。
ソリオーネ.ファミリーは強化兵による徹底したゲリラ戦術によって次々と手駒《てごま》を失い、幾人かの幹部は銃弾によって倒れた。
報復を叫ぶ者たちもいたが、数日後にはそんな彼らも沈黙をせざるを得なかった。ママ・パパスによる調査は精密を極め、ソリオーネの幹部の中でそういう立場を主張するであろう人物の候補はすでに上がっており、彼らをまず標的としたからだ。墓石の下に押し込められては沈黙以外の選択肢《せんたくし》は存在しない。
だが、報復と復讐を叫ぶ声が失われていき、これ以上やられては最後の抵抗を選ぶしかないという場面まで来たところで、ロサリ・ファミリーの攻勢は忽然《こつぜん》として止まった。
豪雨が突然に晴れたかのような静寂の中で、ママ・パパスによる会見の申し入れがソリオーネのボスの元に届けられる。
指定された場所にソリオーネの幹部たちは罠《わな》ではないかと|訝《いぶか》しんだ。その住所は、先日ソリオーネが逆転をかけて送り込んだ異界|侵蝕者《しんしょくしゃ》たちが消息を絶った辺りだった。後にその場所を捜索したが、ロサリ・ファミリーのアジトらしき場所は見当たらなかった。
ママ・パパスはソリオーネが見つけられなかったアジトで会見をしようというのだ。
あまりにもママ・パパスにとって有利すぎる場所だ。罠である可能性は高い。なにより、会見にあたって生き残った全ての幹部の出席を条件としているのが気になる。だが、潰《つぶ》そうと思えばあのまま潰すことのできたのを|止《や》めてまで、そんな罠にかける必要があるのかという疑問もある。そして、もしママ・パパスが本気で会見によってこの戦争に終止符を打ち、ソリオーネを支配しようとしているのなら、反撃のチャンスが残されていることにもなる。
どうすればいいのか……ソリオーネは一枚の書状を中心に一晩話し合いを続け、そして結論を出した。
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二日、アイレインはジムに捕らあれたままとなっていた。ソーホたちに動きがあった様子はない。なにかを待っているのか、あるいは調査をしているのか……どちらにしろ、すぐにアイレインをアルケミストの研究所に送るつもりはないらしい。アイレインをこのままにしておくことに油断があるようにも感じるし、同時にレヴァの能力試験につき合わされているようにも思える。
どちらであろうともアイレインが退屈をもてあましていることは確かだった。一つ騒動でも起こしてみるかと|物騒《ぶっそう》な暇つぶしを考えていると、ソーホが顔を見せた。
「よう、頭は冷えたのかい?」
意地悪くそう言うと、ソーホは顔を真っ赤にして立ち尽くした。だが、今度はすぐに立ち去るようなことをしない。肩を上下させて長く息を吐いた。
「この二日、ずっと君を検査していたんだ」
「へぇ」
口では軽く言ったが、実際には驚いていた。そんなことをいつからしていたのか、まるで気付かなかったのだ。
「最初は君が気絶している間にもらった髪や皮膚でのDNA調査。それから内部も透過検査させてもらった DNAはともかくとして、人体透過なんていつやったのか。可能性があるとすればレヴァになるが。
「結論から言わせてもらえば、君は完全な異民ではない。侵蝕を受けた右目と左腕は完全に違うDNA……なのかどうか検査もできなかったんだけど、他の部位は違う。施設時代の君のDNAとは変化はしてた。してたけど、ほとんど普通の人類の範疇《はんちゅう》に入るDNAだったよ。異界侵蝕者の例から考えれば、君が絶縁空間に入って五年、たとえあの時に完全に異界侵蝕を受けなかったにしても、それから完全に異民化した右目と左腕から侵蝕が広がっていてもおかしくない。これはどういうことだい?」
「おれに聞かれてもなあ」
「ロサリ・ファミリーとの|繋《つな》がりを聞いてるんだ。あのギャングたちが裏で売っている抗侵蝕剤を使っているのかい?」
「もし、使っていたら?」
「現在、ほとんどの都市で出回っている正規の抗侵蝕剤が異界侵蝕者に対してなんの効果も上げていないのは、君だって知っているはずだ。もし、ロサリ・ファミリーの抗侵蝕剤が有効なのなら、それはギャング程度のこづかい稼ぎに使われていいものじゃないんだ」
「それならロサリ・ファミリーと交渉すればいい。特許を与えれば特許使用料だけで|莫大《ばくだい》な額の金が産まれるんだ。向こうだって文句言わないだろう」
「そうしてその金で、ギャングはなにをするんだい? 悪事に加担する気はないよ」
「ご高説ありがとう。それならおれだって、他人の研究成果を盗むような悪事には加担したくないね」
「僕にそんなつもりはない!」
拳を握って叫んだソーホの手を見て、アイレインは顔をしかめた。
左手の薬指だ。そこには二つの同じデザインの指輪が嵌められていた。
「だいたい、お前らの狙《ねら》いはフェイスマンだろう? 薬の話なんて関係ないじゃないか」
顔をしかめたまま、アイレインは言った。
「関係ないわけじゃない。異界侵蝕の抗体があるなら、対異民戦で異界侵蝕を恐れる必要がなくなる。僕の組織にはなくてはならないものだよ」
「それなら自分で作れよ。アルケミストだろう?」
その言葉がソーホのプライドを傷つけたようだ。
傷つき、視線を下げる。震える体に握り締める拳。
(ああ、見慣れた光景だ)
研究以外の部分ではソーホは耐える男だった。例えば同年代のいない研究室。例えば違う生き物を見る被験者たちの視線。例えば将来を有望視されるソーホに向けられる、年上の同僚たちの心無い言葉。
ソーホには味方はいない。その才能に対する味方がいたとしても、それはすぐ|側《そば》で彼を守ってくれることはなかったのだろう。そして、才能は孤独を感じることがなかったとしても、人間性は常に孤独の中に置き去りにされていた。
その、人に飢えた目はアイレインでさえ感じることのできるものだった。いや、同年代のアイレインだからこそ感じることができたのか。当時二十歳。子供ではないが大人からは若造と呼ばれる微妙な年齢の中で、ソーホはまるで冷め切った子供のような目をしていた。水のない貯水槽の目だ。
そんなソーホにまともな人間的会話をした人間は、あの施設ではアイレインとジャニスだけだったはずだ。
「お前、その指輪はなんだ?」
震える拳で光る指輪から目が離せず、アイレインは|尋《たず》ねた。はっと顔を上げたソーホが左手を隠すように手で覆《おお》う。
「結婚してるとは知らなかったな。おめでとうと言っていいのか?」
きっと殴ってくる。そう思ったが、アイレインの予想通りの行動はしなかった。
感情の抜け切った顔がアイレインを見下ろしていた。
怒り心頭に発したか、言葉もなくアイレインを見つめ続ける。
左手の薬指に収まる二つの指輪。
ジャニスに似た機械人形。
この二つだけで、ソーホがアイレインを憎む理由は十分にある。いや、絶縁空間の中でなにがあったのかをソーホは知らないはずだ。だが、同じ時に絶縁空間に挑み、ジャニスは帰らずアイレインは戻ってきた。それだけで十分すぎるほどに十分だ。
ソーホにとって、ジャニスが初恋であったかどうかはわからない。だが、初恋と同等かそれ以上の場所に彼女はいた。ソーホ自身からその話を聞いたわけではないが、ジャニスを見る瞳は輝き、苦しみ、焦がれていた。
ジャニスにとって、ソーホというのは絶縁空間に行くための装備を整えてくれる技術者でしかなかったはずだ。ロック・クライミングで様々な難所に挑戦してきたジャニスは、道具を用意してくれる職人がいてこそ、危険な真似をすることができるというのを承知している。
礼儀と敬意を怠ることはないが、そこに恋愛感情があったとは到底思えない。彼女にとっては危険こそが最愛の|伴侶《はんりょ》であり、生身の男が|眼中《がんちゅう》にあったかどうかも疑わしい。
だが思い返せば、生身の人間に興味がなかったからこそ、ジャニスは自分の美しさが他人にどのように映っていたのか無自覚であったような気がする。化粧っ気はなかったが四肢は柔軟さを残しながら鍛えられて細くしなやかにのび、実行力を具《そな》えた好奇心に満ちた瞳は人をひきつけて止まない。
モデルのような美しさではないが、野生の獣に似た美しさがあった。
その無自覚な美しさにソーホはあてられたのだろう。
だが、ソーホがジャニスを|口説《くど》いていたようには見えなかったし、彼女がソーホを気にしていたような節はない。あの頃のアイレインは他人に興味が湧《わ》くことはほとんどなかったし、二人の行動をいちいち追いかけていたわけではないから断言できるわけではないが、しかし二人が恋人になる可能性があったとは思えない。
(いや、だからこそなのか? )
ソーホの背後にいるレヴァを見る。顔が同じでありながら元のジャニスの魅力を一切表現できていない。ジャニスがモデルの道を選んでいればこうなっていたかもしれないという美しさであり、それはジャニスの本来の魅力の|真逆《まぎゃく》をいくものだ。だからこそ、人形めいたものがより際立っているのかもしれない。
偽物であることが決まりきっていながら、その上で本物に近づくことすらできていない。それは哀れなようでもあり、奇怪な|歪《ゆが》みを孕《はら》んでいるかのようにも見える。
「…………」
ソーホが口を開いた。なにかを|呟《つぶや》いたような気がする。
だが、その言葉を聞き返すことはできなかった。
遠くから、かすれた銃声がアイレインたちの耳に届けられたのだ。
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|騙《だま》された。いや、予想通りの展開だ。
ソリオーネ・ファミリーの幹部たちはそう思ったことだろう。ママ・パパスの示すビルに入り、指定された手順に従った末に現れた秘密エレベーターを使って屋上へとたどり着けば、そこに待ち受けていたのは武装した兵士たちだった。
ママ・パパス自身がかつて軍を率いていたという前歴は、すでに裏社会では周知の事実となっており、その部下が強化兵であることが知れ渡っていることもあって、彼らはそこにいる兵士たちが彼女の私兵であることを疑わなかった。
誰が最初の銃爪《ひきがね》を引いたかは、この際関係ない。引かなくとも、この場にいたアルケミストの組織したサイレント・マジョリティーは彼らを生かして帰す気などなかっただろう。
一発の銃弾が機関銃による数百発の銃弾になって返ってきた時、エレベーターの中は格段に広くとも、鉄の袋小路に押し込められている形の彼らに生き残る手段などあろうはずもなく、|刹那《せつな》の後には物言わぬ骸《むくろ》に変化していた。
「なんだったんだ?」
兵士の一人がそう|呟《つぶや》いた。生きている時にはその集団を見ただけで多くの一般人が迫力に道をあけただろうが、死んでしまえばそんなものは失われる。銃弾に引き裂かれた死体からわかるのは着ていた衣服であり、高級でありながら静かな凶暴性を自然と演出しているコーディネートから、ギャングの一員であったのだろうという推測しかできない。
「事情を知らないギャングでもいたのか?」
「だとしたら相当な間抜けだな」
その間抜けを演じさせたのがママ・パパスだとはわからないし、ましてやついでで彼女たちがやるべき仕事を押し付けられていたのだとは知らないまま、兵士たちが笑う。
「まったく、間抜けだ」
声は、その場にいる誰にとっても知った声ではなかった。
「どうせ罠だろうとは思っていたが、嫌な予感もあったのだが……なるほどなるほど、まさかこういうことになっているとは思わなかった」
まさか……兵士たちが下ろしたライフルを持ち上げた。エレベーターの中にできた死体の小山が震え、銃口はその場所に集中する。
「こいつらがどれだけ死のうと関係はない」
全員が息を呑んだ。そして起ころうとしていること、すでに起こっていることを目にして言葉にできない混乱に支配されようとしていた。
生き残りがいた。そんなレベルの話ではないのだ。
銃弾によって頭が吹き飛び、胴体に穴が開き、四肢のどこかを失っている死体たち。
その全てがいままさに起き上がろうと動き出しているのだ。
「すでに、私の世界の内だ」
砕けていなかった顔の一つ。自分のものか他人のものかわからない血で染まり、|呆然《ぼうぜん》と口を開け、瞳孔《どうこう》の開いていた目。なにも映さずなにも|喋《しゃべ》らず、それが死者の顔だ。死相を晒《さら》していたその顔が、死相のままに目を動かした。口を喘《あえ》ぐように開閉させた。
砕けた頭部から飛び出し、床で破裂した眼球が血まみれのエレベーターの床に沈んだ。死者の顔から口がずれる、目がずれる、鼻が落ちる。
それはまるで、安っぽいパズルのように。
目と鼻と口。顔を構成する度要な三つのパーツ。その三つが新たな生を受けたかのごとく本体から分離し、移動を開始する。
口々に|喋《しゃべ》りだす。
「我が名はフェイスマン」
絶縁空間に飛び込み、異世界となった人間。
「異民だ……」
兵士の誰かがそう言った。訓練と手術で|培《つちか》った体が反射的に銃口を分離した顔に向ける。銃弾の雨が降り注ぐ。
「本部、本部!緊急事態! 手配ナンバー03『フェイスマン』を確認! 至急応援を!」
その叫びの中、エレベーターではさらなる異変が起こっていた。
顔が。
無数の顔が、目と鼻と口が、エレベーターの中に押し込められた死体の数よりもはるかに多いパーツたちが次から次へと溢《あふ》れ出し、壁を床を支配し、滑るように移動していく。
まるでこの場所を一つの顔として支配するかのように。
悪夢が始まろうとしていた。
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報告はソーホにも届けられ、アイレインの聴覚はフェイスマンの名を聞き逃すことはなかった。
ソーホはアイレインを一睨《ひとにら》みして去っていく。無言。アイレインに対してなにかを言うことをためらっているかのような、言ってしまえば後はもう止められないとでも言うかのような、とても微妙な怒りがこめられていた。
その背をレヴァが追いかけていく。これで、レヴァ以外にナノセルロイド、またはそれ以外の有効な対異民兵器が存在しないことが証明される。
「逃げ時だな」
こんなに都合よくフェイスマンがこの場に現れるとは考えにくい。ドミニオかエルミが策を講じてくれたのだろう。そしてそれはつまり、サヤとママ・パパスが無事に逃げおおせたことを示している。
両腕に力を入れる。腕を押さえている輪は、ただの金属ではなさそうだ。硬い抵抗、それ以上にアイレインに力を入れさせないなにかがあるように感じる。
「|厄介《やっかい》だな」
一度力を緩めて、再びこめる。歯を噛《か》み締める。
「おい、なにをやっている?」
レヴァ以外にいた見張りはこの場を去ることはなかった。アイレインの異変に彼らは姿を現す。
銃口を向けられる緊張感が体の各所に突き刺さるが、アイレインはあえて無視した。
警告はなかった。太ももに衝撃が走る。銃弾が突き抜けたのだ。ズボンが弾け、大穴の開いたももが露《あらわ》になる。砕けた骨が姿を現し、赤い血が溢れ出す。それでも力をこめる両腕に輪が食い込み、皮が裂ける感覚を伝える。
左腕に異様な力が備わっていくのを感じる。
右目が燃えるように熱い。
背骨が蠢《うごめ》く虫の感触を伝えた。
異界侵蝕を受けた右目と左腕。そして残る現実世界の影響下にある肉体。この二つにある能力的、法則的アンバランスの均衡《きんこう》を保つためにエルミが移植した虫。
もう一つの器官。
異民でありながら不完全であり、人間と呼ぶには繰り返された強化手術のために人間ではなくなった体を持つ、もはや何者と呼ぶこともできない一つの生命体。
アイレイン・ガーフィート。
だが、その均衡が破れようとしているのをアイレインは感じていた。元より時間の問題であることもわかっていた。ソーホや黒服を相手に話をしている時、できるだけ冷静を|装《よそお》っていたものの、この状況が抜き差しならない緊張を必要とすることは間違いなく、その中で肉体は臨戦態勢に近い状態にあった。
アルケミストたちが『|茨姫《いばらひめ》』と呼ぶサヤ。アイレインは自らを眠り姫を守るための|茨《いばら》とであると認識している。また、自分の能力が攻撃に優れていることも知っている。アイレインの特性は攻撃であり、その時こそ異民化された二つの部位はその本領を発揮する。
普段は背中の虫のおかげで休眠状態にある右目と左腕は、いつでも暴れられるように活性化状態にあったのだ。ソーホがどのようにしてアイレインの体を調べていたのか知らないし、異界侵蝕を他の部分が受けていないと言っていたが、そんなはずはないのだ。いや、ソーホにとってアイレインの今の状態が普通であるのか異常であるのか、わかるはずもない。
異民部分である二つの部位が活性化状態にある時、そこから生み出されるオーロラ粒子を中和していたのは背中の虫であるが、その補助として必要だったのがエルミ特性の|煙草《た ば こ》に混入されている成分だ。
その供給を失われたままにこの場所で数日を過ごしていた。
それはつまり……
太ももにできた大穴が、次の瞬間には塞《ふさ》がった。右腕に異様な筋力が生まれ、輪を引きちぎる。
足の束縛も破り、アイレインは立ち上がった。
銃弾が豪雨のように横殴りに降り注ぐ。その全てを右目が捉《とら》え、両の腕でなぎ払う。暴風が荒れ狂い、ジムに設置されていたトレーニング器具が金切り声を上げた。
|轟音《ごうおん》が支配したスポーツジムに|余韻《よ いん》を残した静寂が訪れた。
「ああ……こいつはやばい」
自分がやったことにアイレインは落ち着いた感想が出てきた。暴風は衝撃波の嵐でもあった。
トレーニング器具は見る影もなく無残に折れ曲がり、あるいは引きちぎれ散乱している。
その中にアイレインを見張っていた兵士たちが倒れている。衝撃故になぎ倒され、あるいは吹き飛んだ器具の残骸《ざんがい》に貫かれて。彼らは全員、強化兵だ。施設を脱出する時に相手をした強化兵たちよりも、はるかに重度の手術を受けていたはずだ。あの施設での教訓を活かしているのなら。
だが、そんな彼らもいまやこの姿だ。
異界侵蝕が高速でアイレインの肉体全てに及ぼうとしているのだ。覆っているはずの右目の視界と、左目の視界が合わさろうとしていることがその証明だ。
「やばい……が、まぁなにが変わるってわけでもないか」
アイレインのその言葉は間違っている。それに気づいた時には、もはや自力で戻れない場所にいた。
「今日こそ、フェイスマンとの決着を付けよう」
オーロラ粒子が全身を駆け巡っている。自分の体を内側から侵蝕し、絶縁空間で自分が見た世界へと書き換えようとしている。
ああ、それはとんでもなく幼稚な望み。
わかっているのだ。ママ・パパスには平穏を望んでいるように思われた。それは一方で真実だが、もう一方では|嘘《うそ》だ。
こうなることも望みのうちの一つだ。唯一つの望みを叶《かな》えるための複数の条件の一つだ。その中の一つに平穏があるに過ぎない。
|茨《いばら》の棘《とげ》に。|茨《いばら》そのものに。何よりも鋭く強固に何者も寄せ付けず何者も越えることのできない|茨《いばら》になることこそがアイレインの望みだ。
そのためになら、全身を異民化することも|厭《いや》わない。
スポーツジムを出たアイレインは騒ぎの方角へと足を向けた。エレベーターのある玄関ホールの辺りだ。
玄関ホールに入る直前でアイレインは足を止めた。
そこはすでにフェイスマンとレヴァとの戦いの舞台が公演されていた。いや、無数の顔で構成された舞台の上でレヴァが一人、踊り狂っているようにも見える。
床といわず天井といわず、そこら中にフェイスマンの顔が満ちていた。その中でレヴァが跳ね回っている。
ソーホの姿はない。部下たちとともに安全圏に退避したか。
周囲に満ちた顔たちは時に口を巨大化させ、レヴァを飲み込む、あるいは噛み砕こうとするが、レヴァの速度がそれを回避し続けている。機械人形の速度は強化兵を超え、アイレインに匹敵する速度を実現させていた。
ホールが薄紫色の光で一瞬満ちた。レヴァの手から放たれた雷光は人ひとりを飲み込みそうなほどに太く、複雑なカーブを作って床を支配する顔を焼いた。轟音の後には黒焦げの床が残り、レヴァがそこに着地する。
アイレインと戦った時に放った雷光よりも、はるかに強力だ。
それをレヴァは次々と放つ。ホールは薄紫に激しく明滅し、空気には雷撃の余波が残り、帯電するほどまでになった。
「なるほど、君はオーロラ粒子をエネルギーとして変換しているわけか。なら、私がここにいるというだけで、君は無限の力を得ているに等しい。なるほど、|厄介《やっかい》だ」
次々と顔を繰り出しながら辺りに満ちる顔のどれかがそう言った。
「私のこの、無数の目と知識は決して無駄にあるわけではないよ。誰かが君を知っている。例えば……こういうやり方もできる」
その瞬間、なにかが変化した。なにが変化したのか、アイレインにはわからなかった。違っているとなんとなくわかっているのだがその差異を指摘できない。二枚同じ絵を左右に並べて、一箇所だけ違いがある。そんな雑誌の隅っこにある間違い探しゲームをさせられているかのようなじれったさがその場に張り付いた。
機械であるレヴァはすでにその変化を読み取っただろう。だが、それを脅威とは受け取らなかったようだ。電撃は絶えず放出を続け、周囲の顔を焼き続ける。|驚愕《きょうがく》の顔を残して顔は床や壁や天井で炭化し、崩れ落ちていく。そのすぐ後には新しい顔が生まれる。目と鼻と口だけの顔。輪郭《りんかく》が失われただけで判別が難しくなる。数という障害がそれを助長していた。
だが、わかる者にはわかるのだ。
例えばそれはパイン市での時に、アイレインがチンピラの顔を判別することができたのと同じように。
わかる者には、わかったのだ。
光と音の狂乱を止めたのは、それと比べればはるかにはかない一発の銃声だった。だがそれは、ホールに残骸として釣り下がっていたシャンデリアを完全に破壊し、人工水晶の破片を地上に降り注がせた。
「私たちが知らなくとも、それを引き出すための方法もある」
静寂が訪れ、レヴァが床の上に静かに着地し|膝《ひざ》を突いた。無表情のままに自分の体を抱き、震えている。
そのレヴァを床から|迫《せま》りあがった巨大な口が一飲みにした。どこにあるかもわからない喉《のど》が動く音がして、レヴァの姿はどこからも消える。
別の場所で騒ぎが起こった。止める者たちと騒ぐ者。見れば雷撃によって砕かれた玄関の向こうで数人の強化兵が黒服を押さえ込もうとしている。黒服は必死に抵抗し、誰かの名前を叫んでいた。
女性の名前だ。
連想ゲームをする必要もない。あの無数の顔の中に黒服の言っていたフェイスマンに殺された妻がいたのだろう。その顔を焼き続けるレヴァを止めるために黒服はなにかをしたのだ。
おそらくは、レヴァが制御不能になった際に使う非常手段的なものを。あの弾丸は直接撃ち込む必要はなく、封入されたものを散布すれば済むだけのものだったに違いない。
「フェイスマンの有利に動いたのは面白くないな」
黒服の行動については自分でまいた種だ。それについてとやかく言うつもりはない。むしろ、あそこまでしておきながらフェイスマンの元に行けず引き離されていく姿には暗い喜びを感じる。
その喜びに、そんなことをしてもなにも解決はしないという虚無が付きまとっているのだけはいただけない。
この数年、忘れようとして、実際に忘れかけていたものを思い出させられたことへの苦さのみが残り、アイレインは顔をしかめた。
「さあ、いつまでそこでのんびりと構えているつもりだね」
フェイスマンの言葉はアイレインに向けられていた。ここにはない視線が自分に集中するのを感じる。ソーホたちが監視カメラで戦いの|行方《ゆ く え》を見守っていたのだろう。だからこそ、ここまでアイレインが接近していることに気がつかなかったのか。
アイレインはひきつる唇を押さえることもなく、いまだ右目を覆う眼帯を外すと、ホールの中に足を踏み入れた。
「より、らしくなっているじゃないか。そうだ、その目だよ。その目こそが君が異民である証《あかし》だよ。誰よりも餓え、誰よりも渇き、そして誰よりも歪んでいるその目だ」
フェイスマンの|嬉々《きき》とした声がホールに満ちる。
「君のその顔を私のコレクションに加えたい。さぞすばらしいデスマスクとなることだろう」
「コレクターか」
フェイスマンの一端、彼が絶縁空間の中でなにを望んだか、絶縁空間が彼の潜在願望をどう表現したのか、その一端を|垣間《かいま 》見たような気がした。
デスマスク・コレクター。それがいまや、ライブマスク・コレクターだ。いや、死したまま生きた仮面を作るのか。
その狂気がフェイスマンを作ったのか。
「ギャングの顔集めにはもう飽きた。次は同類の顔を集めるとしよう」
「できるか?」
体内でオーロラ粒子が駆け巡るのを感じる。もはや体の隅々まで異民そのものとなった体。
両目に意思を込め、ホールを脾睨《へいげい》する。
その瞬間、アイレインの周囲にあった顔が次々と眼球へと変化した。
|茨《いばら》輪の十字を刻印された眼球だ。
眠り姫の城を守る|茨《いばら》。その周囲には姫の眠りを覚まそうとした者たちの墓標が連なっている。
「おれの周りにあることが許されるのは、墓石だけだ」
「その|寂寥《せきりょう》が君の狂気か!」
フェイスマンの声に反応するかのように、眼球は次の瞬間に消滅し、再び三つのパーツで構成された顔に成り代わった。
アイレインという世界を構成するように働いているオーロラ粒子と、フェイスマンという世界を構成するように指向されたオーロラ粒子が衝突しあっているがための現象だ。パイン市ではこんな現象は起きなかった。それはつまり、あの場所ではそれだけのオーロラ粒子を発生させるだけの母体がフェイスマンにはなかったということを意味する。あの場所にフェイスマンは本体を置いていなかったのだ。
そして、この場所にいるフェイスマンは本体か、あるいはそれに匹敵するだけの世界量を有しているということになる。
たとえ倒せずとも、ここでフェイスマンが敗北することは大きな戦力減退に繋がる。
「くだらない戦いだ」
再び周囲の顔を眼球に変えながら、アイレインは|呟《つぶや》いた。
「どうしようもなくくだらない戦いだ。だが、それをしなければ眠る場所が手に入らないというなら……」
アイレインの脳裏に、自分の膝で眠るサヤの姿が浮かんでいた。
「お前の墓標を打ち並べてやろう」
本格的な衝突が始まった。
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隣のビルにサヤたちはいた。
「まずいわね」
そう|呟《つぶや》いたのはエルミだ。ドミニオとママ・パパスが|双眼鏡《そうがんきょう》で戦場を確認している中、黒猫はサヤに抱かれて丸くなっていた。
「|煙草《た ば こ》をなくしたわね。まあ、あの状況だと仕方がないとはいえ、異界侵蝕が加速してるわ。このままだと完全な異民になる」
「|煙草《た ば こ》?」
「あの子の|煙草《た ば こ》は、あなたたちが販売している薬とはまた方法が違うのだけれど異界侵蝕に対抗する作用があるのよ」
「それは……」
「まあ、それは微々たる効果よ」
驚愕するママ・パパスを涼しげな声で制する。
「吸い続ければ異界侵蝕者が通常にまで完治するというわけではないわ。それにあの|煙草《た ば こ》の役目はアイレイン自身に対する抗侵蝕の効果を期待しているわけではなくて、あれに取り付けた器官に対する抗侵蝕のためというのが本当の理由。アイレイン自身の抗侵蝕はその器官が行っているわ」
「その器官というのは?」
ママ・パパスの目が鋭く光った。エルミの発言にはもしかしたらロサリ・ファミリーが専売している抗侵蝕剤を超える効果があるのかもしれない。
だとすれば、ママ・パパスの考える計画が台無しになる。
「心配しなくても、これを市場に放流するつもりはないわよ。それに放流できるものでもないし」
ママ・パパスの心理を素早く察したエルミは、そう言ってから説明を続けた。
「器官というよりは寄生虫よね。それが腰部辺りの背骨周辺に着床し、新規の神経ネットワークを構築する。|末梢神経《まっしょうしんけい》にいたる全ての神経に並行する形でサブの神経が走り、それが肉体内部に侵蝕してくるオーロラ粒子を感知し、吸収するのよ」
「それは……もしかして、あのナノセルロイドとかいう機械人形と同じ原理なのか?」
「そうよ。理論を考えたのはわたしだもの。向こうの専売特許ではないわ。むしろ向こうがわたしに特許使用料を払ってもいいぐらいね」
最後の部分は冗談だったのだろうが、ママ・パパスは笑わなかった。
「だが、その技術には問題があったと、ナノマシンでなくてはそれは解決しないと言っていなかったか?」
製造者の思念がオーロラ粒子に影響を与える。それを防ぐためには自己増殖が可能なナノマシンが最適だと、エルミは言っていた。
「そうよ。だけど、実はもっと簡単な方法があるのよ。アイレインに着床しているのは虫だと言ったでしよう? その虫自身に志向性のある欲望を持たせればいいのよ。すなわちエネルギーの生産」
寄生虫は体内に侵入したオーロラ粒子を吸収し、自らの欲望であるエネルギーの生産という形でオーロラ粒子によって変化し、オーロラ粒子自らの手によって粒子をエネルギーに変換する器官が完成する。
「これで問題は解決するはずなんだけど……さすがに虫では瞬間的なエネルギー吸収量とか発生思念の強度の問題とかあるから、アイレインが緊張状態にある時のオーロラ粒子発生量を制御しきれない、だから|煙草《た ば こ》の形にした抗侵蝕剤で抑制をかけてるんだけど、こんなものが要る時点でまだまだ未完成よね」
つまり、いまのアイレインの状態は器官が吸収しきれずに溢れたオーロラ粒子によって異民化が進んでいるということになる。
「完全に異民化した場合、どうなる?」
「フェイスマンと同じよ。彼は顔を増やすために色々と動いている。アインも目的のために動くようになる。目的のために行動することは誰だってだいたい同じだろうけれど、異民の極端な行動がどういうことになるかは、フェイスマンの例を見れば明らかよね」
フェイスマンの所業についてはすでにママ・パパスに説明している。ママ・パパスは口を閉ざし、ドミニオは苦い顔をした。
「方法はありませんか?」
いままで沈黙を保っていたサヤが口を開いた。無表情な、どこか眠たげにも取れるその瞳は|双眼鏡《そうがんきょう》なしで隣のビル、つい先日までそこにいた豪邸の様子を見つめていた。
「アインを元に戻す方法です」
黒猫が顔を上げる。エルミの意思を反映してのものではない。黒猫を抱くサヤの手に力がこもったのだ。居心地の悪くなった腕から脱出し、猫は「ニア」と鳴いた。
「いまさら|煙草《た ば こ》を与えたとしても間に合うとは思えないわね。わかってる? 遺伝子レベルからの改変なのよ。それが軽度なものなら残留情報を元に修復することもできるけど、あそこまで進行してしまってはいまのところは戻す方法はないわね」
「それは、現代の技術ではということですね?」
「ええ、そうよ」
サヤの目は異民二人による悪夢の戦場となった場所から離れない。黒猫が見上げ、額のサファイアが輝く。
「なら、絶縁空間に|類似《るいじ 》した場所でオーロラ粒子にそう仕向けるようにすればどうでしょうか?」
「あなた……自分がなにを言っているかわかっているの?……」
「ええ……」
猫の瞳は|無垢《むく》のまま。だが、額のサファイアが放つ輝きは灼熱《しゃくねつ》がこもったかのように鋭く、サヤの|頬《ほお》に刺さった。
「なにか不都合がありますか?」
「不都合があるのはあなたの方じゃない?」
その言葉でサヤが黒猫を見た。瞳に変化はない。だが唇が微《かす》かに震え、顔色が青みを帯びているように見えた。
「あなたがやろうとしていることは、あなたの言葉通りのことではない。アイレインの本来の異民化があれではないと否定するということでしょうに」
エルミの青葉には哀れみが混じっているようにさえ思えた。
「それでもやりたい?」
サヤは胸元に手を置いて、しばらく固まっていたがそれでも|頷《うなず》いた。
「よろしい。それなら行ってちょうだい」
「はい」
「待て、行くのならまだ見つかっていない通路がある。案内する」
ママ・パパスが部下を引き連れてサヤを追いかける。
「どういう意味だ?」
残されたドミニオがエルミに|尋《たず》ねた。
「詮索屋《せんさくや》は嫌われるわよ」
ドミニオはそれで|唸《うな》って引き下がる。
黒猫のひげが震え、空を見上げた。厚い雲が素早く流れていく中、月も星もないのに雲の|隙間《すきま 》から見える空は暗く青く輝いている。
「穴が拡大しているわね」
目に見えない異変を覗《のぞ》き見て、エルミは|呟《つぶや》いた。
「まるで………」
アイレインとフェイスマンの戦いに呼応しているかのようだ。
エルミの|呟《つぶや》きで慌《あわ》ただしく屋内に逃げていくドミニオの足音を背に、黒猫は空を見上げ続けた。
これから起こるであろう、変化を見守るために。
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この少女が必死に走る姿を見ることになるとは思わなかった。それがママ・パパスの正直な感想だった。喪服《もふく》にも似たフリル付きの黒いドレスは運動をするには向いていない。走る足の動きにスカートが絡みつき、サヤは何度も転げそうになっている。
「大丈夫か?」
少女の速度に合わせるのは、ママ・パパスたちからすれば軽いランニングにも及ばない運動だ。
余裕を持って話しかけられる。
「大丈夫です」
少女の息も乱れていない。だが、体力はあっても運動能力はないらしい。サヤの外見と同じ年代の少女たちからしたら平均的なのかもしれないが。
彼女が異民だとわかった時、ママ・パパスには驚きがあった。こんな少女が……外見が異民の恐ろしさの説明にはならないのかもしれないが、それにしても……
地下通路を走っていた。サヤたちのいたビルの地下とアジトのあったビルは地下で繋がっている。二つのビルの所有者は同じ人物だ。所有者の息子が異界侵蝕を受け、その治療のための抗侵蝕剤をママ・パパスは無料で提供する代わりにあの豪邸を借り受け、さらに改造を施していた。
脱出の際に使った通路は使えないが、それ以外にも通路はある。もしかしたらすでに発見されているかもしれないが、この混乱状態だ。安全に進入できる可能性は高い。
コンクリートを打っただけの無骨な通路を走り抜けると、その先にはエレベーターがあった。
これで最上階まで向かい、その後にはしごを使って上れば屋敷の庭に出る。
「ありがとうございます。ここまででけっこうです」
説明をすると、サヤはママ・パパスたちに頭を下げた。
「アイレインにも言ったが……」
このまま同行しよう。そう言いかけたママ・パパスは別の言葉を口にした。
「この騒動が落ち着いたら、わたしたちの仲間にならないか? ソリオーネ・ファミリーの持っていた縄張りはそのままわたしたちのものになる。うまくすれば一年以内に特許申請の段取りが組めるはずだ。その時にお前たちが欲しがっている|戸籍《こ せき》も手に入れることができる。そうすれば……」
|戸籍《こ せき》を手に入れ、どこかの都市で安住する。それはアイレインがサヤに約束してくれたことだ。
そのための近道をママ・パパスが示してくれている。
だが、サヤは首を振った。
「申し出はありがたいのですが」
「なぜかは、聞いでもいいか?」
「……いまが壊れるのが、怖いんです」
現在《いま》。エルミやドミニオとともに都市を巡り、様々なトラブルに巻き込まれる。そのことをサヤは迷惑にも感じていなければ不満も感じていない。どうして自分が眠りを欲するのかわからないが、眠り続けなくとも自分の体に異常はない。精神的な負担を感じることもない。
そう感じることに一つだけ不安がある。
自分がアイレインの欲望によって生まれたのではないか、という不安。サヤという人間は実はどこにも存在したことはなく、アイレインが絶縁空間に飛び込んだ時に生まれたのではないかという、不安。
だが、アイレインの側で眠る時に感じる幸福感は嘘ではない。
目覚めた時にアイレインの鋭い|眼差《まなざ 》しが側にあることに心の底から|安堵《あんど 》している自分に偽りはない。
それが崩れるようなことはしたくない。
アイレインにはアイレインのままでいて欲しいのだ。
それこそが本当に大事なことなのだと、フェイスマンとの戦いを見て思った。
「すみません」
「いや、かまわんよ」
再び頭を下げたサヤに、ママ・パパスはどこかすっきりとした言葉を投げかけた。
「お前たちにはお前たちの平穏がある。それだけの話だ」
では、成功することを祈る。
そう言って、ママ・パパスたちは元の道を戻っていった。あのままエルミたちと合流するのだろうか?
おそらく、そうはしないだろう。ソリオーネ・ファミリーが壊滅した以上、ママ・パパスたちがこの戦いに加わる理由はない。
一時の共闘が終わり、それぞれの道に進む。
それをサヤはわずかに寂しいと感じた。ママ・パパスとともにいた時間は短かったが、その時間は決して不快なものではなかった。彼女の性格は敵には厳しいが、味方には度量の広さを見せる。あの時間を感じることがもうないだろうと思うことは寂しい。だが、ママ・パパスの側にいれば、もっと大きな現在を失うことになる。
サヤは|微《かす》かに首を振るとエレベーターのスイッチを押した。
上昇を終えたエレベーターから出ると、そこは狭い部屋だった。ここもコンクリートが打たれただけの部屋だ。すぐ目の前の壁にはしごがある。
上った先には重い蓋《ふた》があり、それをどけると暗い夜空とそれを飾る木の葉が見えた。
庭にある林の中だ。落ちた枯葉の重みが邪魔だったが、なんとか地上に這い出す。
向かいのビルの屋上からここまで移動するのに三十分もかかったとは思えない。
だが、そんなわずかな時間で、様相は一変していた。
玄関ホールを中心に豪邸の屋根が吹き飛んでいた。
吹き飛んだ屋根の代わりに、巨大な影が夜の中に浮き彫りになっている。
それは、顔だけで構成された奇怪な生き物だった。およそ、この世界に存在するまともな生物の形をしていない。怪物と呼ぶにふさわしい異形のなにかは塔のように伸びた体のそこかしこから腕のようなものを伸ばし、宙を飛び回るなにかを捕まえようとし、あるいはなにかを掴《つか》んでいた。
その周囲にはさらに別のものがまとわり付いている。蛇のように宙でのたうち、顔で構成されたなにかを縛り付けるようにしている。
それは、|茨《いばら》だ。
膨大な数の|茨《いばら》がねじれあい、より合わさって蛇のように|蠢《うごめ》いている。びっしりと生えた棘が怪物を構成する顔のパーツに突き刺さり潰している。潰れたパーツが血潮を噴くように零《こぼ》れ、地面に落ちるや小さな丸い塊に変わる。
|茨《いばら》輪の十字を宿した眼球だ。
眼球は二つの怪物が戦う足下で山をなしている。だが、その山のふもとでは眼球が潰れ、元の顔のパーツとして再生し、怪物の元に戻っていく。
怪物の各所にある口が|茨《いばら》を噛み裂く。|茨《いばら》は抉《えぐ》られただけバランスを崩す。だが、次の瞬間には|茨《いばら》を咀嚼《そしゃく》する口から無数の腺が突き出し、周囲の顔を潰していく。
破壊と再生の奇怪な無限循環がその場では繰り広げられていた。
サヤはその場で足を止めて、終わりの見えそうにない戦いを見つめた。
顔のパーツで構成された怪物はフェイスマンだ。
なら、|茨《いばら》はアイレインか?
終わりそうにない要因はもう一つある。ただの再生と破壊の無限循環であるなら、ある状態にまで達した段階でそれ以上の上昇はありえない。
なのに、怪物にしろ|茨《いばら》にしろ、その体積を徐々に増やしているのはどういうわけか?
「オーロラ粒子……」
サヤは視線を空に上げた。そこには厚い雲が流れていく夜空しかない。
だが、目に見えないなにかがこの空には、この周囲の空間にはあるはずだ。エルミがクラヴェナル市には小規模ながらも無数の穴があると言っていた。だから、この都市には異界侵蝕者が多いのだと。
この場所に濃度の高いオーロラ粒子が漂っているのだとしたら、そしてそれをアイレインとフェイスマンは吸い取りながら戦っているのだとしたら?
この都市は終わることのない二者の戦いによって|完膚《かんぷ 》なきまでに破壊されることだろう。さらにとどまることなく続くならば、この国そのものも。
そのことに対しての恐怖感も止めなければという義務感もサヤにはない。
それでも、止めていた足を動かし、走る。
アイレインの元へ。
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意識は真っ赤に燃え盛っていた。
滅ぼし、滅ぼされ、滅ぼす。
奇怪な輪廻《りんね》の中に押し込められた自分を感じ、そしてその輪の中で定着しようとしていることに違和感を覚えていない。
かごの中で飼われたリスが、|慰《なぐさ》めの車輪の中を全力で走っているような、そんな気分だ。車輪を回すことに意味などない。だが、その車輪をどれだけ素早く回すことができるのか、そんなどこにも|辿《たど》りつかないことに熱中しているような気分。
それでもその瞬間は心地よいのだ。その先には疲労だけが残されるとしても、その瞬間だけはそのことに熱中することができる。
内に宿った虚無を無視することができる。
ひどくぼんやりとした視界は無数の目と鼻と口で占められていた。アイレインはそれをひたすらに潰す、潰す、潰す。
だが、その先に待っているのはやはり虚無だ。全身を筆舌に尽くしがたい疲労が、どこにあるかもわからない心を重くさせる虚無が、一瞬でも忘れていただけに重くのしかかる。
ここ最近で感じる虚無の表層にはパイン市で出会ったラミスという女がいる。幸せを望んでいただろうあの女に、どうしようもない不幸を押し付けてしまったと心に重石がのしかかってくる。
これが終われば、黒服にしたことさえも罪悪感として襲ってくることだろう。
なんて虫のよい話だと、自分でもわかっている。わかっていても襲いかかってくるのは後悔だ。
どれだけ学ぼうとも繰り返さずにはいられない不幸の押し売り。エルミやドミニオと一緒にいるからこんなことになるのではない。
あの絶縁空間に飛び込み、そして生きて戻った時からこうなることは決まっていた。不幸はどこからでも忍び寄ってくる。その中で、アイレインは不幸を形にしたような存在となってしまったに違いない。
忘れろ。灼熱の中にある意識が強く念じた。
いまはただ、目の前のものを破壊することだけを考えろ。
まさしく、その通りだ。
うすらぼけた視界の中にある顔、顔、顔。フェイスマンがこれまで拡大し続けた世界が目の前にある。
これを破壊するのはアイレインの世界だ。眠り姫を守る、|茨《いばら》という名の世界。
本来、眠り姫を守るためにある|茨《いばら》がフェイスマンの顔たちを貫いていく。そして貫かれることを恐れない顔たちが|茨《いばら》を噛み千切っていく。貫き潰された顔は|茨《いばら》の墓標に埋葬されるが、そう時を置かずに墓穴から|蘇《よみがえ》ってくる。
繰り返される喜劇。だが、その中でアイレインは自分の力が増していることを感じていた。全身に生えた厳は硬く鋭く大きくなっていく。
同時にフェイスマンの顔たちも大きく、さらに凶暴になっていく。破壊と再生の速度が上がっていく。
潰し潰され、再生し再生され……両者を区別する境が徐々に|曖昧《あいまい》になっていく。それは一つの化学反応でもあるかのように両者は徐々に融合を始めている。破壊と再生の速度が上昇していく過程で、相手の一部を取り込んだまま元の形に戻ろうとするからだ。
上昇する力は灼熱に狂奔《きょうほん》するアイレインの意識の速度も上げていく。
その中で、疑問が意識の隅を駆け抜けていった。
しかし、どうしてだ?
力の根源は外にあった。
ほぼ同時に、フェイスマンも自らの力の膨張に疑問を抱いたようだった。動きが鈍くなる。もはやアイレインとフェイスマンの食い合いは本人同士でさえも止められないほどの速度となっていた。フェイスマンの全体にある目が空を見上げ、アイレインも意識を上方に向けた。
異民となった目だからこそ、それが見える。
空に巨大な穴が開いていた。
オーロラが輪を描き、穴を縁取っている。流れる雲が穴に差し掛かると、大岩を避ける川の水のように形を変えていく。
油の浮いた水面に光を当てているかのように、穴の内部では七色の光がゆらりゆらりと揺れている。
「絶縁空間」
どちらともなく、あるいは同時に、アイレインたちはその言葉を口にした。
そこに見えるのは確かに絶縁空間だ。飛び込んだその瞬間にだけ見ることができる、絶縁空間の、おそらくは本来の姿。なにものの影響も受けていない。混沌《こんとん》の混沌たる姿が上空にむき出しになって現れている。
「どういうことだ……?」
絶縁空間がこんな形で現れるのは、アイレインにとって初めてのことだ。絶界探査計画でも、絶縁空間の中に飛び込むまではこんな風には見えなかった。
もちろん、異民となってからの五年間でもこんな経験はない。エルミがどれだけ穴が聞いていると言っても、それを肉眼で確認できたことはなかった。
それが、なぜいまできる?
なぜいまここにある?
脳裏に新たな灼熱が宿る。この瞬間にこのタイミングにこの機会に、どうして絶縁空間が現れる。こんなにも巨大な、こんなにも明確な、こんなにも壮大な絶縁空間が目の前に置かれる。
まるで、いまこの時にしか好機は存在しないとばかりに。
絶縁空間に再び挑戦する。
それは、この五年間の日々の中でアイレインが静かに望んでいることだ。
確認しなければならない。サヤと過ごす日々の中で徐々に大きくなっていく疑念を解決するには、どうしてももう一度挑戦しなければならない。
ずっと、そう考えていたのだ。
「ははは、これはすばらしい!」
フェイスマンが口々に叫んだ。
「ここまで大規模な穴が開くとは、どうやらこの世界も限界が近づいているようだ」
フェイスマンの言葉は、決して聞き逃していいものではなかった。
「なんだと?」
聞き返す。|茨《いばら》そのものとなってしまった今では、自分に発声するための器官があるのかどうかもよくわからない。この言葉も、ちゃんと声として発せられているのかどうか、自分では判断できない。
だが、フェイスマンはアイレインの意思を汲み取っているようだ。
「おゃ? 君はこの世界の異民かね? なるほど、絶縁空間を踏破したわけではないのだね。ならば教えてあげよう。外の世界がどのようになっているかを、いいや……」
自らの言葉を否定して、フェイスマンは唇を楽しげに震わせた。
「外の世界など、少なくともわたしの知っている限りもう存在しないのだよ」
周囲で驚きの声が聞こえてきた。この声はソーホだ。こんな状況になってもまだ退避していなかったらしい。
「なぜか? そんなこと、元の世界では裏社会の奇人でしかなかったわたしにわかるはずもない。だがあの日、空は突如としてあのように七色に輝いた。オーロラは無残に引きちぎれ、地上へと降り注いだ。
わたしの周りで同じように空を見上げていた人々が忽然といなくなりだした。なぜかなんて誰も説明できない。だが、生き延びたわたしにはわかる。維持できなくなった亜空間が目に見えない|亀裂《きれつ》を走らせ、その中に人々を落としていったのだ。落ちた先が絶縁空間だ。
わたしも落ちた。そして生き延びた」
フェイスマンとなって。デスマスクへの異常な執着によって目と鼻と口だけの奇怪な異世界となり、この国、この世界へとやってきた。
「規模は小なれど、あの空の輝きはまさしくあの時の再現だ。この世界の寿命は近い」
狂うでもなく、恐怖でもなく、ましてや喜びでもなくフェイスマンの声は朗々と周囲に響いた。
その言葉を聞いたのは、このビルにいる者たちだけではないだろう。このビルの異変に気付いた者は他にも大勢いるかもしれない。
そして、その全員が耳にしたのだ。
奇怪な存在が告げる世界の|終焉《しゅうえん》の予言を。
「そんなことには、させません」
淡々とした言葉。それはクラヴェナル市の夜に響くフェイスマンのそれとは比べ物にならないほどにはかなく、弱々しい言葉だった。
だが、アイレインとフェイスマンを硬直させるには十分な言葉でもある。
「レヴァ?」
フェイスマンの策によって機能不全にさせられ、そして飲み込まれたはずのレヴァの声がどこからともなく届けられた。
「わたしの役目は対異民兵器。あなたたちが捕縛に従わないというのであれば、その存在を駆逐します」
「それでこの世界が救われるとでも言うのかね? あの現象に我々が関係ないというのに」
どこからともなく聞こえる声に、冷静さを取り戻したフェイスマンが挑発した。
「あの現象はあなたたち異民の持つ、指向性を持ったオーロラ粒子の衝突による共鳴現象であるとの解析データを受信しました。あなたたちには即刻、戦闘を中止し、投降することを警告します。さもなくば……」
「やってみたまえ」
フェイスマンの挑発は続く。レヴァを機能不全にした、あの弾丸を使用させるような策は、もはやフェイスマンにはないはずだ。
それでも、フェイスマンは挑発する。姿を見せないレヴァを前に引きずり出そうとするかのよすうに。
「さもなくば、この場で|殲滅《せんめつ》します」
宣言。
そして実行は即座に。
「っ!!」
声も出せず、アイレインは全身を駆け抜けた激痛に悶《もだ》えた。
それはフェイスマンも同じだ。二つのよじれた柱のようになった二人は、激痛で神経が制御を失ったかのように暴れ、強引に引き|剥《は》がされた。
根元はすでにそう簡単に引き剥がせないほどに適合してしまっている。|茨《いばら》の形となったアイレインは体のあちこちを引き剥がしながら根元を残してビルの屋上に倒れた。
建物が倒壊し、粉塵《ふんじん》と残骸が舞う。
全身を覆う痛みはいまだ続いている。
(これは、なんだ?)
言葉にもできず、アイレインは激痛に|雄叫《おたけ》びびを上げた。
なにかが体の中を暴れまわっている。それはアイレインの内部で凄《すさ》まじい熱を発しながら移動し、細胞を一つ一つ丁寧《ていねい》に潰していっている。
丁寧でありながら迅速的で|瞬《またた》く間にあちこちがぼろぼろと崩れだし、その崩壊部分からは煙と閃光《せんこう》が|垣間《かいま 》見えた。
「レヴァ……がしているのか?……」
そうであれば、なにをしているのか想像がつく。激痛に絶叫を上げながら、頭に描かれた想像を明確な形にした。
ナノセルロイド。ナノマシンの集合体であるレヴァが活動するのに、完全な人型でなくてはならないということはない。そのことは初めて出会った時に証明されている。あの時のレヴァは、上半身と下半身を別々に動かし、アイレインの動きを束縛した。
つまり、レヴァは現在、あの人型の姿をしていない。あるいは別個に動く分身であるナノマシンをフェイスマンに飲まれた状態のままで生産したのだ。そうしてフェイスマンの体内にナノマシンを散布し、体内に満ちるオーロラ粒子を次々とエネルギーに変換し、雷撃という形で放出している。
それしか考えられない。
凄まじい激痛の中、そこまで考えたアイレインは次の思考に移る。
どうやってレヴァの攻勢をかわす?
体内を暴れまわる雷は現在のアイレインの体を構成する物質を次々と焼却していっている。外部からオーロラ粒子が補給されることによって多少の再生は行えているが、焼け石に水だ。なんとか、レヴァの放ったナノマシンを排除しなくてはならない。
だが、どうやって?
ナノマシンに汚染された部分を切り離せばいい。そこまでは考えた。だが、その方法は? アイレインの脳裏にトカゲの尻尾のように自分の体を分離する姿が浮かんだが、雷によって焼かれ続ける体はそれを実行することはなかった。
混乱する神経がそれを行わせないのか。
あるいは、アイレインにはそんな芸当ができないのか。
この体になったのは今日が初めてだ。自分自身でもコントロールを|把握《は あく》できているわけではない。元の体ではそんなことは不可能だろう。それがそのままこの|茨《いばら》の体にも通用されているのか? そんなことすら、いまのアイレインにはわからなかった。
焦りの言葉を吐こうとすれば、そこからは絶叫しか出てこない。
(まさか、ソーホに……)
足元をすくわれることになるとは、アイレインにとって意外なことだった。研究以外ではまるで役立たずだったあの男に。
いや、だからこそその研究に破れるのか? レヴァ……ジャニスを模して作られた機械人形。欺瞞《ざまん》に満ちた二つの指輪。異民となるために最初に踏み台にした不幸。まさかこんな形で結末を運んでくるとは。
(ざまぁ、ないか……な?)
|諦《あきら》めが心を支配した。このまま死んだとしでもなにを後悔することがあるだろう。こんな姿になってしまっては、もはやサヤを守るためにっいて回ることもできない。それに彼女のことならエルミに任せでも大丈夫かもしれない。彼女だけなら問題かもしれないが、ドミニオもいる。
決して、悪いようにはならないはずだ。
「ま、ありかな?」
絶叫の|隙間《すきま 》を縫って、なんとか言葉にできた。言葉にするほどの意味もないのだが、発音という形で自分の気持ちを追認するのは意外に重要かもしれない。本当の意味で発音できたのかどうかは怪しいが。
絶縁空間にもう一度挑戦することが叶わないのは心残りだが、死んでしまえばそんな心残りにも意味はない。
滅びの激痛の中でそう考える。
「アイン」
その言葉は強くもなく、大きくもなく、|囁《ささや》くようにアイレインに届いた。
「サヤ……?」
すぐ側にサヤが立っていた。黒いドレスにはあちこちに砂塵の汚れがまとわりつき、少女の整った顔にも汚れが及んでいる。
「なにをしてる。逃げろ」
言葉にはできなかった。絶叫が言葉を塗りつぶしたのだ。巨大な|茨《いばら》となった体が震え、暴れる。棘の先から細い雷光がこぼれる。それはサヤのすぐ側を走り、地面に吸い込まれた。
サヤはその場から離れない。
「わたしには一つ、恐ろしいことがあります」
暴れるアイレインの側でサヤがそう|呟《つぶや》く。
「わたしは、あなたの創造物ではないのか。そのことを考えるたびにいつも恐ろしくなりました」
激痛の中でアイレインは絶句した。それは、アイレインも感じていたことだ。黒服に指摘され怒りを感じるほどに。アイレインの中でその疑問は、思うことはあっても決して口にしてはならないものだった。
それをサヤが口にしている。
自分もそのことを恐れていると告白して。
「でも、たとえあなたの創造物であったとしても……!」
瞬間、アイレインの周囲でなにかが展開された。サヤの干渉能力だ。サヤを中心に展開された何者をも拒絶する不可視の壁がアイレインの一部を取り込む。
次の瞬間、サヤの周囲で薄紫の光が花開いた。不可視の壁の中にあるオーロラ粒子に反応して、アイレインの体内にいたナノマシンが飛び出してきたのだ。雷光が辺りを|疾走《しっそう》し、サヤを打つ。
サヤの小さな体が吹き飛んだ。
「サヤっ!」
叫ぶ……が、アイレインも助けに行けない。不可視の壁によって実質分離させられた|茨《いばら》の体にもナノマシンがいたのだ。内部では雷撃が発せられ続け、焼き尽くされようとしている。
地面に背中から落ちたサヤは、体をぎこちなく動かしながら立ち上がった。
その表情は変わらず動かない。だが、髪の毛先から、たおやかな指先から雷光の舌が伸びるのをアイレインは見逃さなかった。ナノマシンは即座にサヤの体内にも侵入したのだ。
激痛に晒されているだろうに、サヤはなお、その口を動かす。
「たとえあなたの創造物であったにせよ。あなたとともにいることで、わたしは幸せを感じることができるのです。それを、簡単に失うつもりはありません」
「………!!」
その瞬間、頭の中で新たな火花が起こった。
狂奔する戦いの熱ではない。足元を照らす炎が現れたかのような閃光。
(おい、なにをしている)
閃光の中で幻の声が聞こえた。
(馬鹿みたいにくたばるために、あんな|想《おも》いをしてまでいまここにいるわけじゃないだろう)
それは、幻ではない。
(立て、立て、立て。立ってお前がするべきことをやってみせろ)
それは、自分自身を喚起させる言葉だ。
「ううううう……おぉおおっ!!」
雷が強制する絶叫を飲み込み、アイレインは叫んだ。
変化が、起こった。
茨と化したためにどこかぼんやりとしていた自分の肉体感覚が、急速に戻ってきているのだ。
頭が、胴体が、手足が、ここにあるとはっきりと感じることができる。
その感覚に、アイレインは覚えがあった。
サヤと出会った時だ。|行方《ゆ く え》不明となったニルフィリアを求めて計画に志願し、絶縁空間に飛び込んだアイレインは想像を絶した混沌と、侵入者の潜在願望に反応して姿を変えるオーロラ粒子による|脆弱《ぜいじゃく》な世界、その崩壊に飲み込まれようとしていた。
それを救ったのが、サヤのこの干渉能力だ。
あの時と同じことが再び起ころうとしているのか?
(あるいはもしかしたら……)
アイレインの記憶はあり、サヤの記憶はない。そのことからサヤを創造したのは自分ではないかと思っていた。
だが、もしかしたらそれは逆なのかもしれない。いや、アイレインは存在していた。そのことはソーホたちアイレイン以外の人間が認めるだろう。だが、それでもやはり……
完全な創造ではないのかもしれない。しかし、やはり連なのかもしれない。
サヤがアイレインを自らの世界に取り込んだのでは?
二本の長い腕がサヤを抱きしめた。
「たとえそうであっても、かまうものか」
自分の発した言葉を、自分の耳で聞くことができる。地面をしっかりと踏む足の感覚。柔らかな髪に包まれた小さな頭が胸に寄せられる感覚。
その小さな体を抱きしめる腕。
「おれとお前は一心同体。そうだろう?」
|茨《いばら》輪の十字を備えた右目がサヤの姿を捉えた。
「はい」
サヤが|頷《うなず》き、淡々としたままアイレインの右目を見つめてくる。
「攻撃が収まりました」
次の瞬間、淡々としたままサヤがその事実を述べる。肩透かしを食らった気分だが、サヤに言われて初めてその事実に気付いた。
「どういうことだ?」
サヤの張った不可視の壁の外では、いまだに雷が走り回っていた。壁の外に残した|茨《いばら》はアイレインからのオーロラ粒子の供給を失い、崩れ始めている。
戦い……あるいは一方的な|蹂躙《じゅうりん》はフェイスマンとレヴァに集中していた。レヴァの放つ雷はフェイスマンの体を焼き続け、無数の口からはいまも絶えず悲鳴が発せられている。
レヴァになにか問題があったという感じではない。
「もしかしたら、限界を迎えたのかもしれません」
ナノマシンそのものはその言葉の示すとおりに極小の物体だ。どれだけの機能を有していたとしても、質量的な問題からできることはごく小規模なものとなる。それが無数にあり、ほぼ無限に投入できる状態であるなら、変化したアイレインやフェイスマンを焼くことも可能だったろう。
だが、サヤの不可視の壁はサヤを害するあらゆるものの侵入を許さない。すでにその内側に存在していたものを排除することはできないにしても、その外側から新たに入ってくることはできない。やがては能力の限界を迎えることになる。
「ああ、なるほどな」
サヤの言葉に間違いはないだろう。
「それなら、このままとっとと逃げるとするか」
フェイスマンが死のうとレヴァが倒れようと、どちらの結果であろうと上空にあるあの巨大な穴は閉じることになるだろう。レヴァの言っていたことが正しければ、クラヴェナル市にあった穴をあそこまで拡大してしまったのは、アイレインたちの戦いに呼応してのことだ。
それなら、戦わなければいい。幸いにもフェイスマンはレヴァを排除することに集中して、アイレインにかまっている余裕はない。
フェイスマンとの決着は付けてしまいたかったが、この街でそれをゃろうとすれば、またあの穴を生み出すことになる。世界が滅んででも決着を付けたいなんて、アイレインは思わない。
「サヤはどこから来たんだ? そのルートを使わせてもらうと……」
「待ってください」
立ち上がったアイレインを、サヤが引き止めた。
「変化がありました」
「ん?」
すでに背を向けた戦いの様相を、アイレインは振り返って確認した。
雷はいまだ走り、フェイスマンを焼き続けている。
だが、その雷の量がはっきりと減っていた。
「どういうこった?」
雷の量に比例してフェイスマンの上げる悲鳴も沈静化しようとしていた。激痛で一杯に広がっていた無数の目と口が、ゆっくりと|怪訝《け げん》な表情を作ろうとしている。フェイスマン自身にもこの変化の意味がわからない様子だ。
「レヴァに限界が来たか?」
だが、サヤの不可視の壁に守られているアイレインたちならばともかく、あの場所ならばナノマシンを生産する上での不都合はなさそうだが。生産に必要なエネルギーはオーロラ粒子から、材料はそこら辺に転がっている物質から必要なものを抜き出せばいい。生産速度の問題なんて、アイレインとフェイスマンを同時に焼こうとしたことから考えれば、解決していなければおかしいほどだ。
「レヴァになにかあったか?」
そう考えるのが妥当だろう。
だが、一体なにが………?
次なる変化が現れるのにそう時間を置くことはなかった。アイレインが再び逃走を決断するよりは早く、それは現れた。
フェイスマン。無数の顔によって構成された異形の異民。デスマスクを|蒐集《しゅうしゅう》することに取り憑《つ》かれた異国の奇人の持つ顔に、変化が起きたのだ。
無数にある中のたった一つだけの変化。
だがそれをフェイスマン以外の者たちもはっきりと見定めることができた。
一際大きく展開された顔だった。無秩序に配置されていたパーツが人間として適正な位置を取りつつ、その特徴を変える。
アイレインにとって、そしてソーホにとって記憶を刺激する顔だ。そしてそれ以外のこの場に残っていた目撃者たちにとっても見慣れた顔であった。
「レヴァ……いや、ジャニスか?」
その変化にアイレインは息を呑んだ。顔は見間違えようもなくあの機械人形と同一だった。
フェイスマンとの力比べに負け、取り込まれたか?.
一瞬だが、誰もがそう思った。
だが、違う。
その顔はさらに迫りあがり、輪郭を備えていることがはっきりした。ジャニス、あるいはレヴァそのものの輪郭を形成しながら盛り上がっていく。
まるで泥の中から這い出してくるかのように。
そして、その形容の通りに彼女の顔、喉、さらにはその下の鎖骨、腕が出てくるにいたって、フェイスマンに取り込まれたのではないとはっきりした。
フェイスマンのいまの|巨躯《きょく》に対応するほど、それはもう巨人と呼ぶしかない大きさのレヴァ、あるいはジャニスが完全に抜け出た腕を使って上半身を引き出した。
その肌は白く、|蝋《ろう》というよりは|艶《つや》のある陶器のような色をしていた。
決して血の通った人間の色ではない。
「もしかして……異民化したか?」
アイレインの苦い|呟《つぶや》きの後、巨大な女性は七色に光る瞳で周囲を睥睨した。
「嘘だっ!」
絶叫が背後から聞こえた。
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「嘘だっ!」
それを目撃したソーホは絶叫した。七色に光る瞳。それは絶縁空間、あるいは空に浮かぶオーロラそのものの色だ。そんなものを設定した記憶はないし、ましてゃレヴァがそんな意味のない変化を自分の外見に与えるはずがない。
ならば、導き出される結論は一つしかない。
異民化したのだ。
レヴァが。対異民兵器として完全であると信じ、絶縁空間に入ることさえ不可能ではないと信じていた、ソーホのナノセルロイドが。
「そんなことがあるわけない」
だが、事実はソーホの願望を裏切っている。
ナノマシン自身による自己増殖自動代謝は、いままで絶縁空間に探査機を送る際の弊害《へいがい》となっていた製作者の残留思念という問題を完璧に解決する手段であったはずだ。オーロラ粒子の供給過多による暴走があったとしでも、異民化が起こるはずがない。
「どうして……」
完璧な理論によって生まれたはずのレヴァはいま、無数の顔のパーツによって構成された巨躯から巨大な上半身を生やし、さらに腹部を引き伸ばしてフェイスマンに絡み付き、締め上げようとしている。雷はその威力は減衰したままとはいえ、変わらず周囲を駆け回り、レヴァごとフェイスマンを焼き続けていた。
それは、レヴァが異民化してもなお、ナノセルロイドとして生まれた自らの役目を忘れていない証拠だ。
「僕の|想《おも》いなんて消えてるはずなのに。消え去ってるはずなのに。どうして……」
その場に手を突いてソーホがうめく。
「そう……やっぱりあの外見にはこだわりがあったわけね」
声は、この場に残っている護衛の強化兵たちからではなかった。
知らない女性の声だ。
「誰だ?」
だが、顔を上げてみても女性の姿はない。
ただ、そばにこの場に相応しからぬ黒猫が一匹いた。ソーホを見上げて「ニア」と鳴く。
「兵器のデサインにしては造型にこだわってるように見えたからね。なにかあるんじゃないかとは思ってたけど」
「誰だ?」
繰り返し、驚きに目を見開いて|尋《たず》ねる。
声は黒猫から聞こえてくる。強化兵たちが黒猫に銃口を向けようとする。
だが、強化兵たちは目的の行動を取れなかった。
風を巻いて移動してきたアイレインが黒猫と強化兵たちの間に立ったのだ。
「誰でもいいじゃない。それなりに技術に目端の利く人間。そう思っておけば幸せじゃない?」
「なっ……」
「さっき、あれに解析データを送った時に、軽くプロプラムを見せてもらったのよね。人型時の外見モデルのデータ設定が、なんにでもなれるくせに一つしか設定してないし、しかもけっこう細かい指定があったりして、ああ、これはなにかあるなと思ったんだけど」
黒猫……エルミの発言は目を剥くようなことだったのだが、それを追及する気力はソーホにはなかった。
「そうだよ。あれはジャニスを元にして作ったんだ。絶界探査計画で戻ってこれなかった彼女を忘れないために。……でも、あんな姿にするんじゃなかった」
黒猫から、というよりもその側に立つアイレインから目をそらし、ソーホは独白する。
「僕は彼女をなにも知らない。それを教えられただけだった。彼女がなにを望んでいるのかも知らない。好きな食べ物も。休日の過ごし方も。彼女は動物が好きなのかどうか、何色が好きなのかも知らない。どんな時に笑うのか、どうされたら怒るのか。履歴書以外の情報をなにも知らない。それなのに、僕はどうしても残したくて、でも残したからこそ教えられた。僕は……」
「……理論通りでいけば、自己増殖が進んで内部的な世代交代が十分に行われたナノマシンが異民化するなんてことはなかったでしょうね。でも、あなたが彼女の外見を設定する時の思念は残った。機械にではなくて、プロプラムに」
「そんな……」
「これで一つ、わたしたちは学んだわけよ。機械で絶縁空間に挑戦するなら、プロプラムでさえ自動でなくてはいけない。人の思念というのは恐ろしいほどに|執拗《しつよう》で頑健で、執念深い。だからこそ絶縁空間、ゼロ領域に数字を足すなんていう奇跡を起こす」
その時、戦場から新しい音が聞こえてきた。
全員の視線がそちらに向く。
雷は鳴りを潜め、代わりにフェイスマンの表面を白い膜が覆っていた。レヴァの体が変化し、フェイスマンを包み込もうとしているのだ。
それにフェイスマンは抵抗してはいるようだ。ときおり、膜の表面に顔のパーツが現れる。だがそれはすぐに、膜の奥に追いやられてしまう。
「異民化しても本来の性能を失ったわけではないようね。逆に異民化したことでオーロラ粒子の過剰吸収がなくなったみたいよ」
そして、おそらくは目的も見失ってはいない。
フェイスマンの表面を完全に覆いつくしたレヴァは、残った上半身に新たな変化を加えた。
背中を震わし、長い突起物が四本、姿を現す。
「飛行ユニット」
ソーホが呆然と|呟《つぶや》く中、突起物が帯電し光を放つ。重力のくびきから脱した巨体はゆっくりと上昇した。
目指すのは、もしや。
「あのまま絶縁空間に飛び込むつもりか?」
アイレインが空を見上げて|呟《つぶや》く。その言葉を認めるかのようにレヴァの進路は上空の穴に向けられていた。
「一緒に絶縁空間に飛び込めば、こちら側から共鳴現象を起こしていたものがなくなる。自滅覚悟とはいえ、機械にしてはなかなか自己犠牲精神の強い行為を選んだわね」
「だめだ!」
エルミの予測にソーホが悲鳴を上げた。
「あの中にはデータが、大切なデータがあるんだ!」
「諦めろよ」
|呆《あき》れた様子のアイレインに、ソーホは激しく首を振る。
「違う、違うんだ! あの中にあるデータは僕が持ってる唯一つの……彼女の写真データなんだ」
苦しさとともに、その言葉を吐き出した。
「レヴァを作って、僕は実感したんだ。僕は彼女をなにも知らないって。それが悲しくて、|辛《つら》くて……僕は彼女の写真を全て捨てた。だけど、唯一つだけサンプルとしてレヴァの中に隠したんだ。それまで失ったら、僕はもう……」
記憶の中のジャニスは不完全だ。だが、写真の中のジャニスは、たとえそれを読み取ることができなくとも完全な姿を保っている。写真に封入された外見の中に推し量ることのできない彼女の全てがある。
それまで失ったら、もう彼女を思い出すことさえできないのではないか……恐怖と絶望がソーホを支配した。
「…………」
長いため息が頭上から聞こえてきた。
「そのデータが入ってる部位ってのは、おれでも見分けが付くものなのか?」
その言葉に、ソーホは顔を上げた。アイレインは、自分自身にあきれ返った様子で空を見上げている。
「どうなんだ?」
「できるよ。ゴルフボールサイズの球体だ。いまみたいな通常状態ではない姿を形成している時は指令コアが存在してないといけない。データはその中だ」
「場所は?」
「背骨の、首の裏辺りだ。アイレイン………?」
「友達なんだろ? まっ、最後の友情だろうけどな」
再びため息を|吐《つ》くと、アイレインはそばにやってきたサヤに手を伸ばした。
その手に、二丁の銃が手渡される。ソーホが没収したはずの銃。
そしてシガレットケースが渡される。
「そうそう……」
|煙草《た ば こ》を銜《くわ》えたアイレインが背を向けたまま話しかけてきた。
「ろくに話したこともない相手に求婚しようなんてのは、たぶん止めた方がいいと思うぜ。これからは気をつけるんだな」
ソーホの返事は待たない。|煙草《た ば こ》に火をつけたアイレインの姿は走り出そうとして、|袖《そで》を引っ張られているのに気付いた。
サヤが|袖《そで》を掴んでいる。無表情の瞳がアイレインを見上げていた。
「ちゃんと帰ってくるさ」
サヤが手を離す。少女の表情が|微《かす》かに動いたような気がした。
笑ったのかもしれない。不安を押し殺しているのかもしれない。
どちらにせよ、その表情がもっと多彩に輝く様を見てみたい。
「行ってくる」
サヤの頭を撫《な》で、アイレインは走り出した。[#改ページ]
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05 イン・ザ・ホール
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走る。
アイレインは|疾風《しっぷう》を追い越し疾駆する。
目指すレヴァは、まるで異形の女王蜂のような姿で空に向かってゆっくりと上昇している。腹部に当たるフェイスマンを覆《おお》う箇所が地面からいままさに離れようとしたところで、アイレインは追いついた。
オーロラ粒子によって変異したナノマシンの膜の向こうで無数の顔が蠢《うごめ》いている。
跳躍。壁のように立ちはだかる膜に足をかける。浮き上がる顔を足場にして駆け上がる。泥の上を走っているような不安定感に、重力の手が力を貸す。
「こなっ、くそがああああああっ!」
力任せに駆け上がる。
向かう先にレヴァの背がある。突き出された四つの突起は帯電し磁界を形成しているのか、重い体をゆっくりと重力から引き|剥《は》がしている。
機械の異。その向こうでレヴァと頭部が見えた。これだけ巨大になってもその頭部にある髪は金色を保ち、波打っている。黄金の滝か、あるいは荒れる海のようだ。
その向こうにある顔までは見えない。
ロック・クライミングだ。
突起や|窪《くぼ》みを足がかりに力任せに走る自分の行為をアイレインはそう思った。もっとも本物のジャニスがこれを見たら、苦笑とともに首を振るか、怒るかのどちらかだろうが。
重力の手がアイレインの背を掴《つか》み、足が空を切り出した。巨体が上昇する際に生まれた揺れも手伝う。乱れ吹く強風がアイレインを連れ去ろうとする。
ぎりぎりのところで、体を落ち着かせる平面にたどり着くことができた。
口に銜《くわ》えたままだった|煙草《た ば こ》を深く吸う。これだけの乱気流の中でも消えることのない火が赤く燃え、肺に紫煙を流し込む。
吐き出し、また|煙草《た ば こ》の先から零《こぼ》れる煙が周囲の空気に触れ、虹色の火花を生んで消えていく。
周囲のオーロラ粒子に反応しているのであり、それだけ粒子が高濃度に含まれているということでもある。
再び、全身に異界|侵蝕《しんしょく》が起こることを心配したが、背中の虫は正常に機能しているようだ。その心配はない。むしろ、体内を熱いエネルギーが巡っているのが強く実感できた。|煙草《た ば こ》の成分がこの短時間で変わったとは思えない。
もしかしたら、|茨《いばら》へと変化したことが虫に対してなんらかの変化を与えたのかもしれない。あるいは強化か。
「まあ、ありがたいことだよな」
背中の虫とも長い付き合いとなったが、その詳細な性能をエルミからほ聞いていない。ただ、体内に侵蝕したオーロラ粒子を吸収するとは聞いている。それだけで十分だし、これからも、おそらくは十分だろう。エルミの作ったものだから、もしかしたらとんでもない爆弾が隠されているかもしれないが、その時はその時だ。
|煙草《た ば こ》を吸いきり、新しい|煙草《た ば こ》に火をつける。
空の穴がずいぶんと近づいてきた。
あの穴へと飛び込むことをずっと考えてきた。絶界探査計画が失敗に終わり、施設から脱出した後もずっと。エルミやドミニオについて各都市を巡ることに異論もなく同行していたのは、恩や義理、そのことで得る報酬が魅力的ということもあるが、ひとえに再び絶縁空間に突入するためだ。
突入して、確認しなければならないと思っていた。
サヤがニルフィリアではないことを確認しなければならないと思っていた。自分の中にある疑念を、恐怖を、どういう形であれ解消しなければならないと思っていた。
自分がサヤを作ったのではないか?
まさか、サヤまで同じことを考えていたとは思わなかった。長い付き合いだが、機械的な|雰囲気《ふんい き 》の中に人間的なものを宿す少女の考えていることを、五割も理解できているとは思えない。
だが、その淡々とした表情の奥で、あるいはアイレイン以上に思い悩んでいたのだとしたら?
「まったく……」
オイルライターを閉じ、一息吸って火種を定着させる。
上を見る。
レヴァ……ジャニスの顔がある。初め見た時には驚いたが、いまではそれはジャニスには見えない。ジャニスに具わっていた輝くような好奇心、彼女そのものといってもおかしくない、飽くなき探究心の輝きがないためだろう。
ソーホが作った|歪《いびつ》な彫像。あるいはサヤを見ている時の自分は、こんな|歪《ゆが》んだ視界になっているのかもしれない。
手元に写真すらも残さず、全てを捨てて絶界探査計画に参加したアイレインには、過去の妹の姿を記憶以外で確認する作業すらもできない。その記憶も目前のレヴァを見ていればあやしく感じられてくる。
自分の記憶は、どこまで本当のニルフィリアに近いのか?
……もう戻ることはないだろう実家に戻ってその写真を確認したら、案外サヤとはまるで別人の妹の姿を見ることになるかもしれない。
そうであれば良いと思うし、そうでなければならないと思う。
「しっかりしようぜ、大人ならよ」
小休止は終わりだ。アイレインは跳躍すると、頂上を目指した。
再び同じことを繰り返し、今度は勢いを失う前に水平な両にたどり着くことができた。
「ふう…………」
やや気温が下がっている。吐き出す息が白い。夜ということもあるが、それ以上に高度が上がったためでもある。上昇に勢いが付いてきたのだろう。すでに自分たちがいたビルの屋上すらも、はるか眼下に見下ろす高さとなっていた。
「さて、ここからだ」
目の前には白い絶壁、頭上にはオーバーハングがある。
今立っているのは、フェイスマンの頭上。女王峰の譬《たと》えのままならば、腹部の付け根部分だ。
レヴァの腹から腰にかけての部分だ。無駄な肉はなく、女性からすれば理想の腰つきかもしれない。腹部の真ん中に臍《へそ》はなく、見上げた先にある緩やかな二つの丘にもあるべき突起部分がない。服を着ている印象がない以上これは裸体のはずだが、どうも水着でも着ているかのような感じだ。
強化手術の際にジャニスの裸は見ているはずで、再現は可能なはずだが……それが羞恥《しゅうち》かソーホ自身の美学か、あるいはモラルか、今考えたところで仕方がない。
こちらの存在に気付いていないのか、レヴァの視線は上空にある絶縁空間に向けられ続けている。見上げれば円を描いた絶縁空間の入り口が視界の全てを占め、円の端を見ることはかなわない。
濃密なオーロラ粒子と紫煙との間に起こる火花も激しくなっている。アイレインの体を巡る力もその強さを刻一刻と増している。ここまで簡単に登ることができたのも、その力があってこそだ。
「どう攻めるか……」
目的のものは、ソーホの言葉通りならば首の裏、後頭部との境目周辺にあるそうだが、このサイズになってもその位置にあるのかどうかは疑わしい。
「ま、とりあえずはそこだな」
この場所からは、通常サイズに換算すれば決して豊かとはいえない胸に邪魔され、|顎《あご》の裏、そしてわきの下辺りだけしか見ることができない。
アイレインは脳裏で移動過程を考えた。
まずは肩に移動するとして、ルートは二つ。腹部を走り上がり、あの胸をまず目指すか、それとも背中に回り、あるであろう浮き出た背骨のかすかな|凹凸《おうとつ》を利用するか………
気分はロック・クライミング。やったこともないのにまたもそんなことを考えた自分に苦笑していると……………………変化が起きた。
苦笑が消える。背筋を冷たいものが走った。
レヴァが視線を下げ、アイレインを見ていた。
見つかった。
「ちっ……」
機械的な視線には敵意も好意も、感情と呼べるものが何一つとしてない。排除すべき対象を見つけただけという簡潔な事実を認識しただけの瞳。
考えている暇はない、一気に駆け上がる。目の前にある腹部に向かって足を動かす。
その眼前、左右、おそらく背後でも異変が起きる。
肉が盛り上がった。まるで海草のようにゆらゆらと揺れながら盛り上がった肉は、次の瞬間に本体から切り離され、人の姿を取った。
「悪い冗談だ」
現れたその姿に、アイレインは顔をしかめた。
無数のレヴァがアイレインの周囲を囲んだのだ。
「相手してる暇はないね」
足は止めない。人型の形成から動き出すまでに時間差がある。その|間隙《かんげき》を経って、アイレインは腹部を駆け上がった。
それを追いかけるように、あるいは先回りするように肉の盛り上がりが生まれ、レヴァが誕生する。その盛り上がりをも利用して、アイレインは走る。
「……がっ」
勢いに任せた突進に待ったがかかり、アイレインの体が先行する意識に置いていかれた。
瞬時に感覚が戻ってくる。
足を、足場にしたレヴァに掴まれたのだ。
形成から行動までの時間が早くなったか、あるいはタイミングを読み間違えたか……落ち着いて考えている暇はない。
「邪魔」
言葉一つ。右手の銃を足元に向け銃爪《ひきがね》を引く。吐き出された銃弾がレヴァの手を砕き、自由を取り戻す。失われた勢いを復活させるために、その頭を蹴る。
戻りきらない勢いに重力の手までレヴァに加勢してくる。
「っ! ええい!!」
力任せに躯け上がり、群がるレヴァの手を振り払い、蹴り飛ばし、時に銃弾で吹き飛ばしつつ、アイレインは胸の谷間にまで到達し、さらにそれを利用した連続跳躍で胸の上に着地した。胸には特有のやわらかさも弾力もなく、人が触れば首を傾《かし》げる硬さがあった。
彫像ではないが人間でもない、微妙な感触が足下に伝わる。
ここまで来れば、肩から回り込み、目的の場所まですぐそこだ。
だが……
「ま、そんなに甘くないか」
すでに先回りされていた。アイレインの目的がなにか察したのか、あるいは危険物であるアイレインが指令コアに近づくのを嫌がっての防衛反応か。後者であれば、ソーホの言葉通りの場所にコアがあるということになるのだが……
「悪いがどいてくれないかな? ソーホの頼みで来てるんだけどな」
「申し訳ありませんが、それはできません」
淡々とした声がどこからか届いた。頭上にある巨大な顔からではなく、周囲を囲むレヴァのどれかからだ。
「マスター自らの命令ではありませんので。命令の撤回、及び変更はマスターの声紋を通してお願いします」
「まさかここにソーホをつれでくるわけにもいかないだろう? どこだと思ってんだ?」
言いつつ、アイレインは視線を巡らせた。声は一つだ。
(もしかして……)
どこかに本体が混じっているのか? だとしたら指令コアもそこにあることになる。木を隠すなら森の誓えだ。同じものが無数にある中にコアを隠されては、事が簡単ではなくなる。
「酸素が薄いぜ。あいつは虚弱体質なんだ。一発で高山病だな」
「しかし、マスターの命令は敵を捕縛、あるいは|殲滅《せんめつ》せよです。目的の一つであるフェイスマンの殲滅を実行中である今、これを変更するにはマスターあるいは正式に指揮権を移譲された者の声紋が必要となります」
声の方角はおおよそ見当が付いた。だが、もう一つ|厄介《やっかい》なことがある。
「ソーホはお前さんの異民化による暴走を恐れている。無事なら、その顔を見せてやったらどうだ?」
「この作戦が終わった後に、そういたします」
声は一つだ。だが、口を動かしているのは全員。皆が同じ立ち方、同じ所作を取っている。考えたのが誰だか知らないが、いやらしい手だ。機械的に声の発生源を探査でもしない限り見つけ出すことはできそうにない。アイレインには無理だ。
「まいったね」
両手の銃を確認する。動作確認、必要なし。残弾確認、必要なし。ただその重さと存在を確認する。サヤの生み出した銃に整備不良による不具合など存在しない。なぜならこれは、眠り姫の眠りを守る|茨《いばら》そのものなのだから。
アイレインの態度になにかを察したのだろう。レヴァが一斉に腕を上げた。
「ならば力尽く、だ」
瞬間、アイレインのいた空間で光が|炸裂《さくれつ》した。紫色の光だ。前に立っていた数名が同時にはなった雷撃は中央で衝突し、激しく乱れ咲いた。
|刹那《せつな》の後に光が消える。
アイレインの姿はない。
レヴァたちが一斉に空を見上げる。
出迎えたのは、銃弾の雨だ。空中で回転し逆さまになったアイレインが両手の銃を使ったのだ。
連続で引かれ続ける銃爪。無限に供給される弾丸。降り注ぐ破壊の|牙《きば》がレヴァを破壊する。ほぼ正確無比に、その頭部を破壊する。頭部を破壊されたレヴァは再生することなく、巨人のレヴァに吸収されていく。本体ならばすぐに再生するだろうが、それをしないということは分身を完全に制御、すくなくとも再生させるような真似はできないのだろう。
「外れ」
再生するものがいない以上、そういうことになる。端的にその事実だけを|呟《つぶや》き、アイレインは着地。そこにもレヴァが群れを成している。銃爪は引き続けたままだ。放たれる弾丸がこれまた頭部を破壊していく。
雷撃が放たれる。
だが、雷光が去った後にはやはりアイレインの姿はそこにはない。
「どういうことですか?」
破壊されながら、レヴァの声が問いかけてきた。移動したアイレインを見つけ雷撃を放つことも|止《や》めない。
「撃たれる前に移動してるんでな」
こちらも破壊しながら答えた。
撃たれてしまえば雷を避けるのは、実質不可能だ。アイレインの速度は濃密なオーロラ粒子による虫の活性化によって通常以上の速度が出せているとはいえ、光の速度に達しているわけではない。
だが、撃ち放たれる瞬間がわかっていれば避けることは決して不可能ではない。
「雷なんて、目標に向かってされいに撃てるもんじゃないからな。なにかしてるだろうとは思ってたんだよ。それがなにかは知らないが、それをおれの目は見ることができる。それだけの話だ」
放電現象とは、簡単に説明すればプラスとマイナスの電子による通電現象であり、雷光を起こすためには空気に拡散する|莫大《ばくだい》なエネルギー消費量をまず計算に入れなければならない。兵器として運用するには現実的な方法ではないのだ。オーロラ粒子のエネルギー変換によってその莫大なエネルギーを克服したとしても、それを目的の場所にほぼ真っ直ぐに放つには、もう一つ過程を経《へ》なければならない。
例えば、目的の場所までを真空に近い状態にした上で相手にマイナスの電子を打ち込むなどという方法だ。
実際、アイレインの日には電撃が放たれる|刹那《せつな》の前になにかがアイレインに向かって放射されるのを見た。それは本当にわずかな差ではあるが、それを察知した瞬間に動けばまず当たることはない。
通常ならばこれすらも不可能だろう。だが、多量のオーロラ粒子によっていまのレヴァがあるのと同じように、多量のオーロラ粒子がアイレインにこの動きを可能にしている。
「そういうことだ」
ほんのわずかな時間で数十発の雷撃を避けた後、アイレインはそう|呟《つぶや》いた。淡々と。嫌味も通じない相手だとわかっていれば、言葉に乗せる感情も希薄になってしまう。
「悪いが、この条件でお前さんに負ける気はしないね」
自分の言葉の乾燥具合にどこか違和感を覚えながら、銃口をただ一人残ったレヴァに向けた。
雷撃を避けている間、アイレインは銃爪を引くことを止めなかった。弾き出された銃弾は首発を超えているかもしれない。
その全てがレヴァの頭部を撃ち貫き、そして最後に残ったのが目の前のレヴァだった。
「……どうして、邪魔をするのですか?」
突き出された銃口に反撃のそぶりを見せず、レヴァは問いかけてきた。
「ソーホに頼まれたからな。ま、友情?」
意外な質問にアイレインも説明しにくい事柄のために冗談交じりに答えた。しかし、だからといってレヴァから意識をそらすことも、銃を動かすようなこともしない。銃口は変わらず、レヴァの額に向けていた。
「目的は指令コアですね。しかし、指令コア内部にあるプロプラム及び戦闘経験は一日ごとにバックアップが行われていますので再生は可能です。唯一つを除けば」
「持って回った言い方をするね」
「わたしにとっても理解不能な部分ですから」
ジャニスの写真データ。レヴァはその存在を知っている。
「ジャニス・コートバックとは、どのような人物なのでしょう?」
「なんだって?」
「ジャニス・コートバック。わたしの外見デザインのモデル人物です。フィンテ市生まれ。ハイスクールのロック・クライミング部では定期的に行われる大会で優秀な成績を残し、さらに在学中からカレッジ卒業まで社会人の有志によって結成されたロック・クライミングクラブに参加し、あらゆる難所に挑戦。二十三歳の時に絶界探査計画に参加、|行方《ゆ く え》不明となる」
淡々とレヴァはジャニスの履歴を述べた。
「わたしは写真データを忠実に再現しています。人型形成時の擬似率は九十八パーセントを低下したことはありません。しかしそれでもマスターは満足していません。なぜでしよう?」
「………………」
答えはわかっているが、言うのがためらわれる問いだ。性格、人間性の問題だと言ったところで、機械であるレヴァがそれを理解できるのかどうか……
「この国で集められる彼女の情報は集められるだけ集めました。その上でわたしは自らの外見に補整を行っています。それでも、マスターには満足していただけません」
「おいおい」
その言い方では、レヴァがジャニスを独自に調べたことをソーホが知らないということになる。
しかも、その上で外見の問題しか口に出さない。
やはり、人間性の話をしたところで理解してもらえるとは思えない。
だが……
「故に、わたしは写真ではない本物のジャニス・コートバックのデータを収集しなければなりません。そのために絶縁空間に赴かなければならないというのに、どうしてあなたは邪魔をするのですか?」
「……任務じゃなかったのかよ」
冗談交じりにそう吐き捨てた。一拍置かなければ、動揺を落ち着かせることができない。
ジャニスを知るために絶縁空間に挑戦する?
それでは、アイレインと同じではないか。
「任務は任務として果たします。フェイスマンは絶縁空間の中に、余剰部分となったナノマシンによって厳重にシールドした上で破棄します。現状、この方法がもっとも有効でしよう」
そこでアイレインはさらに気付いた。余剰部分。それはこの巨人となってしまったレヴァのことだろう。そして巨人のレヴァにあって目の前のレヴァにないもの。
七色に輝く瞳。
他の分身だったレヴァはどうだったか? よく思い出せない。七色に光るといっても目全体がそうなっているわけではない。白目は白目のまま、いわゆる黒目の部分だけが変化していたのだ。
戦闘による興奮状態の中ではそこまで詳しく観察できていなかった。
「もしかしてお前さん、異民化してないのか?」
「オーロラ粒子による侵蝕でしたら切り離しました。生産ブロックに進入されてしまったために増殖を許してしまいよしたが、なんとか代替の形成と指令コアの保護は間に合いました」
つまり、フェイスマンを包み込み絶縁空間に飛び込もうとしている巨人のレヴァは異民化しているが目の前にいるレヴァには影響を与えていないらしい。さらに、異民化したナノマシンをも、レヴァは操っているということになる。
とにかく、指令コアは目の前のレヴァが持ち、無事であるようだ。そうでなければ困るのだが……となると、いまのレヴァの発言は異民化による願望の突出化ではなく、レヴァ本来の表層に現れた願望であるらしい。
レヴァに付着していたソーホの残留思念ではなく、機械人形自身の願望だというのだ。
「機械が、製作者の意思を無視するのか?」
「無視はしていません。マスターが望むのは|完璧《かんぺき》なジャニス・コートバックの再現です。わたしはそれを行うために行動しているにすぎません」
「ソーホはそんなことどうでもいいから戻ってきてくれって言うぜ、きっと」
「正式な命令変更でしたら、マスターの声紋を通して行ってください」
アイレインの言葉を頑として受け入れず、徒労感を募らせる。
機械が狂った。そう感じる瞬間がある。だが、それは果たして正しいのか。製作者の命令を遂行する|傍《かたわ》らでちょっと自分の用事を行おうと、レヴァが言っているのはこういうことなのだ。
非常に人間らしい発言であり、だからこそナノセルロイドであるレヴァがそんなことを言うのは狂っているのではないかと思わせてしまう。
「まあいい。おれはおれで、やることをやらせてもらうぜ」
「いいえ、それはできません」
「力尽くで……」
言いかけ、アイレインは気付いた。いいや、もっと念頭に置いていてもいい問題を無視してしまっていた。戦闘に集中しすぎたあまりにダイムリミットを失念していたのだ。
頭上に絶縁空間が迫っていた。
「しまっ…………」
絶縁空間は巨大なレヴァの頭部に触れるような位置にすでにあったのだ。|驚愕《きょうがく》している|隙《すき》に揺れる境界面に頭頂が触れた。ゆらりと揺れ、次の瞬間には頭部が消滅した。空間内部に吸い込まれたのだ。それによって距離が縮んだのか、あるいはむりやりに引き上げられたのか、七色に光る境界面がさらに迫った。
全身からなにかを引き抜かれたような不思議な、そして覚えのある感覚がアイレインを包み込む。
「やばい!」
重力が減退している。絶縁空間が周囲のものを吸い込んでいるのだ。
「悪いがおしゃべりは後だ」
もう一秒とて時間を無駄にはできない。アイレインは銃爪を引いた。銃声すらも絶縁空間に吸い込まれ、奇妙な|余韻《よ いん》を残す。
声もなくレヴァが大きく身をよじらせて吹き飛んだ。指令コアを壊す恐れのある頭を避け、胸を撃ったのだ。重力が減った関係か、間延びしたような放物線を描くレヴァを追いかけ、その体を抱える。
「大人しく帰ろぅぜ」
自分の動きすらもどこか緩やかに感じてしまう。重力が減過したことで、重さに対する感覚が狂っている。無駄に大きくなる自分の動作に舌を打ち、走る。
巨人のレヴァからの妨害はない。絶縁空間に飲み込まれ始めたことによって何らかの機能障害が起きたのか、それともレヴァの言った「切り離し」を行ったのが、あの分身を生み出し、本体であるレヴァが離れた時だったのか。
とにかく、妨害がないのは幸運だ。
「いいえ」
抱えられたままのレヴァが|囁《ささや》く。走ることは止めない。もはや一刻の|猶予《ゆうよ 》もない。体感的な重さは一秒|毎《ごと》に失われていく。自分では疾走しているつもりだが、ゆっくりと跳んでいるのに近い状態になっていた。
最後の一歩。着地し、踏み出せば巨人となったレヴァの体の外に出る。そこから先には足の置き場はない。落下あるのみだ。落下した後のことはとりあえず考えない。思い悩んでいる暇がないのだ。
「わたしは完全とならねばならないのです」
あくまでも淡々と吐き出される、機械の決意。抱えていたレヴァが形態変化を行った。抱えていたものがいきなり形を変える。そのためのバランスの変化が着地の体勢を崩した。だが、それは大きな問題ではない。体の軽さが転倒を防いだのだ。どういう体勢であろうとも後一歩を踏み出すことができたなら……
それが、できない。崩れたレヴァの一部が足に絡みついていた。
「|諦《あきら》めろよ」
完全にバランスを崩し、転倒する。アイレインはアメーバのような形になったレヴァに飲み込まれようとしていた。粘体となった体から触手が現れ、アイレインの動きを完全に奪おうとする。
転倒した時の勢いを殺さず、アイレインは転がった。斜面となっていたこともわずかに有利に働く。
「あなたこそ、諦めて協力してください」
後一歩。跳躍であればすぐの距離だったが、転がってとなればまた違ってくる。レヴァの粘体が転がる勢いを殺そうとする。
右目による異界侵蝕を試みたが、失敗。レヴァの体はアイレインのオーロラ粒子を吸収している。
「完全になって、どうするってんだ?」
すでに抱えていた右腕は粘体に押さえつけられている。残る左腕を捕らえようとするのに抵抗しながら、アイレインは問うた。
「マスターの望みがそれで叶います。それで、十分です」
レヴァが望むのはジャニスの完全なる再現。それは、ソーホが望みながらも達せられなかったことだ。それをレヴァは感じていたということなのだろう。だが、ソーホもまさかレヴァがこんな行為に走るとは思ってなかっただろう。
「それで、お前になんの得があるってんだ?」
左腕に巻きついた触手を振り払う。銃を握っている余裕はなかった。左腕の膂力《りょりょく》は触手を引き
ちぎることはできたが、手に残った残骸《ざんがい》が徐々に自由を奪っていっていた。
活路を……転がりつつ、粘体を押しのけながら視線をめぐらせる。勢いはすでに殺され、斜面の意味は粘着によって失われている。粘体に抵抗する|余禄《よろく》だけで転がっていた。
「わたしの得など関係ありません。マスターにとってそれが意味のあることかどうかだけが問題です」
「お前が完全になったからって、あいつが得なんてするものか」
その言葉は|咄嗟《とっさ 》に出ただけで、アイレインも意図して口にしたわけではなかった。
だが、思わぬ効果を与えていたようだ。
レヴァの動きが明らかに悪くなったのだ。
「お前が本物のレヴァに限りなく近づいたところで、あいつは決して喜ばない。いや、最初は喜ぶかもな。だけど、それは最初だけだ」
意図したわけではなかったが、アイレインは自分の言葉の先にあったものを瞬時に探りとって形に変えていく。
変えながら視線を動かす。粘体としてのレヴァはとでも薄く広がっている。この状態ならば指令コアを見つけることができるのではないか。
「そんなことはありません」
転がり続けたアイレインはなにかにぶつかり、跳ねた。
そして、跳ねたまま落下の衝撃はやってこない。そもそも、落下している感触すらもない。
いや、はっきりと上昇している。
レヴァの粘体に包み込まれたアイレインには、外の状態がわからない。
「ぐっ!」
息が詰まる。大気がなくなったのだ。空気以外のなにかが喉《のど》を伝う。どろりとしていながら水のように流れ、体内の隅々に粘り気のあるものを付着させる。一瞬の内に細胞の隅々にまで浸透し、体の中身全てを強制的に取り替えるような恐怖と苦痛と|恍惚《こうこつ》。
この感覚には覚えがある。
視覚が捻《ね》じ曲がる。
聴覚が断絶する。
|嗅覚《きゅうかく》が逆転する。
触覚が奔流《ほんりゆう》する。
味覚が散逸する。
全ての感覚が狂いに狂い、自分ですら認知したことのない新たななにかに生まれ変わろうとするかのような最低にして絶頂、奇怪にして|滑稽《こっけい》な変革が自らの中で起こっているかのような………
世界が
まるで
溶けて
崩れた
ような。
「がはっ!」
空気の塊を吐く。石のように縮こまった肺が再び活動を始め、今度は味わったこともない甘くて新鮮な空気で肺が満たされた。
オーロラ粒子が生存本能の訴えかけに反応して大気へと変換したのだ。
無重力空間に放り投げられた感覚の中、アイレインは即座に自分の心を閉ざした。|想《おも》いを閉ざした。願いを閉ざした。蓋《ふた》の上に重石を乗せ厳重な封をするイメージを必死に構築する。誰に習ったものでもない、次に来た時にはこうしなければと訓練していたわけでもない。
まさしく、本能的な恐怖がアイレインをそうさせた。
絶縁空間、あるいはゼロ領域と呼ばれるなにものでもない場所。
視界はいまだレヴァの粘体の中に自分がいることを示している。アイレインは自分の手を見た。
アイレインがアイレインとして形を成しているかを確認した。それから全身をまさぐる。動きを封じていた粘体はその効力を失い、まるで水に漂うビニールのように流れに身を任せている。粘体は腕を動かしただけで離れた。
触覚が正しく機能しているかどうかの自信はないが、その感覚が伝えてくる慣れた感触は、混乱の中にあったアイレインを鎮静させるには十分だった。
「OK OK おれはおれだ」
何度も何度もそう|呟《つぶや》く。自分に言い聞かせる。
アイレインはアイレイン・ガーフィートのままだと。
「問題は、どう戻るかだな」
以前の時はどうやって戻ったのか……? 色々と混乱していたからよく覚えていない。
元の場所との境界面にいまだ穴が残っているのなら、そこから戻れるか試すしかないだろう。
レヴァの粘体が流れていくかのようにしてアイレインから離れた。
視界が開ける。
見渡す限りの七色の光景にアイレインは吐き気を覚えた。足下には巨大なレヴァがまるで石の彫像のように身動きもせず漂っている。絶縁空間の中に完全に飲み込まれている様子だ。
フェイスマンはどうしたのだろうか? まるで動く様子を見せない。女王峰の腹部めいたものの中でじっとしている性格とは思えないのだが。
(まあいい)
なにもしてこないのならそれに越したことはない。それよりもレヴァの指令コアを手に入れて脱出方法を考えなくては……
女王蜂の流れてきた先を見ると、そこからクラヴェナル市の空がぽっかりと浮かぶように映っている。夜の空だ。暗くて他はなにも見えないが、その黒さが逆に七色の塗料をぶちまけたような世界の中ではとても目立つ。穴の広さはアイレインの背丈の三倍程度か。遠近感がつかめないので距離的に離れているのかどうか、判断が難しい。そのため、その穴の大きさも実際にそうなのか、距離が離れているからそう見えるのかがわからない。
「急ぐに越したことはないな」
結論付け、どこかに流れていこうとする粘体を追いかける。泳ぐつもりで手足を動かすと、思い通りの方向に体が動いた。
あるいは、願えば周囲のオーロラ粒子が変化して移動がもっと楽になるかもしれない。だが、願うということは自分の心をこの世界にさらすことになる。心奥に封印した願いまでも包み隠さずオーロラ粒子は実現して見せることだろう。
それはあの時と同じことになるという意味であり、アイレインの同僚《どうりょう》たと同じ結末を自分が迎えることになるかもしれないということだ。
オーロラ粒子が心理的にどの程度の強さの願いに反応するのか……とりあえず、指令コアを取り返しこの場所から脱出するという考えには反応していない。大気の発生からして生死に関わる問題には反応するようだが、それはおそらく常人ならあらゆる願いの頂点に立つものではないだろうか。
それに、本当に大気が発生しているのかどうかがわからない。もしかしたらオーロラ粒子の中で生きていけるように変化させられているかもしれないではないか。
「長居は無用だな。いや、ほんとに」
自分の考えに冷や汗を浮かべながら粘体を追いかける。流れに漂う布切れとなった粘体にはすぐに追いついた。端を掴み、流れに同調する。抵抗らしい抵抗を見せる様子はない。オーロラ放子の影響を受けて機能力止まってしまったのだろうか。だとしたら指令コアも無事ではないかもしれない。
オーロラ粒子は機械に張り付いた思念にも反応する。指令コアの中にあるソーホのプロプラム。
そこに組み込まれたジャニスの写真データ。ソーホの彼女への|想《おも》い。
オーロラ粒子がまさにそれを見つけ出していたとしたら?
レヴァはいま、アイレインには見えない自分だけの世界の中にいることになるのか? だとしたら、あの絶界探査計画の時、ジャニスは仲間たちの願望から生まれた世界を一つも見ないまま、ただ突如混乱に陥った彼らの姿だけを見ていたことになる。
(それは、ちょっと間抜けだな)
どうでもいい考えに身を浸す。そうしていなければ、どこから自分の心が暴かれるかわかつたものではない。アイレインは沈黙を続ける粘体に視線を走らせ、指令コアを探した。
「め、ああ。あ……」
アイレインの声ではない。粘体が微《かす》かに震え、その声を届けてきたのだ。
「あなたが、そうなのですか?」
レヴァは確かにそう言った。
あなた?
その言葉の意味を採るよりも早く、粘体が変化する。一つにまとまり、大きな球体になったかと思うや、五つの長さの違う突起が生まれ、さらに球体が細長く変化し、泥人形に似た不細工な人型を作り出す。
その後の微調整は瞬間的に終わり、レヴァの姿が現れた。
アイレインは後ろから彼女の肩に掴まっている形になっている。
つまり、レヴァはアイレインを見てその|台詞《せ り ふ》を言ったわけではないということになる。誰かと相対しているということになる。
誰と?
答えはすぐに出た。
レヴァの前に、もう一人、レヴァがいた。
まるで鏡でも置かれたかのような状態にアイレインは一瞬だけ息を呑み、次の瞬間には驚愕していた。
「まさかっ!」
『あなた』と呼んだ以上、それはレヴァの生み出した分身の一つというわけがない。ならばそこにいるのはレヴァとは違う存在ということになり、それでいてレヴァと同じ外見を持つということは……
「ジャニスなのか?」
「………………」
だが、そのジャニスはアイレインの言葉には反応を示さなかった。ただ、レヴァを前にして、レヴァよりもよりジャニスに似た笑みを浮かべ、ただそこに立っている。
まるで、写真のように。
(ああ、そうか)
ジャニスの姿をじっと見つめるうちに理解した。
これは本物のジャニスではない。レヴァの願望……機械の願望にオーロラ粒子が反応するかはわからないので、おそらくはプラプラム上にある写真データに付着したソーホの願望だろうが、それにオーロラ粒子が反応したために現れた偽者だ。
そして、ソーホの思念であるのなら、やはりそれは本物のソーホが抱くものよりかは弱い。弱いのだろう、おそらくは。
そのために、ソーホが望み、レヴァが望んだ本物のジャニスとはならず、写真から抜け出てきたような姿だけが現れたのだ。
あるいはソーホの中のジャニスは写真一枚に凝縮されてしまっているのかもしれない。
だとすれば……どういうことになるのか? いや、ソーホの中のジャニスが不完全なことはわかっている。レヴァという姿を見れば、それは十分に。いくら写真の中にあらゆる真実が隠されているとしても、それを読み取ることができなければそれはないに等しい。
「そんな……」
その事実に気付いたのか、レヴァが淡々とした声で絶望を表現した。その所作には一|欠片《か け ら》も現れていない。声にも、表情にも。
だが、その瞬間、確かにレヴァは人間的な表現をした。ほんのかすかな、誰にも気づかれることがなかったかもしれないような、ほんのかすかな絶望だ。
「お前は本物にはなれない」
その昔に、アイレインは語りかけた。
「いま目の前にあるのが、本物のジャニスだったとしても無理だ」
レヴァはアイレインの言葉を聞いているのかいないのか、振り返ることはなかった。ただ、|微笑《ほ ほ え》み続けるジャニスを見つめている。
「本物を参考にして、限りなく本物に近くなれたとしても、お前さんは偽者なんだよ。誰をも騙《だま》せたとしでもソーホは騙せない。お前さんがレヴァであることをやめたとしても、だ」
語りながら、アイレインは左腕を持ち上げた。
(確か、後頭部辺りの首筋だったか?)
「なぜなら、お前さんはどれだけ|誤魔化《ごまか》してもレヴァだからだ。ジャニスにはなれない」
左腕を動かす。
完全な|茨《いばら》となった自分にサヤが語りかけた言葉がなければ、こうは思わなかったかもしれない。
サヤはサヤであって、ニルフィリアではない。たとえ、アイレインの願望によってサヤが生まれたとしても、あるいはその逆であったとしても。
サヤはサヤだ。
記憶は薄れていく。どれだけ強く覚えていようと努力しても時間とともに記憶は鮮明さを失い、|曖昧《あいまい》にしか理解できなかった部分はそぎ取られ、強調された部分による再構成が行われ、記憶は|捏造《ねつぞう》される。
記憶の中にいるニルフィリア、ソーホにとってのジャニスはそのようにして不完全なものへとなっていくのだ。
ニルフィリアを生み出すことなど不可能なのだ。
アイレインの腕はレヴァの首を破壊し、そこに隠されていた球状のものを掴んだ。
レヴァの指令コアだ。
その証拠に、レヴァの砕けた体は再生する様子を見せず、破壊された姿のまま絶縁空間を漂っている。
アイレインの前に立ったジャニスはその姿勢、その表情のままなにかの流れに乗ってアイレインから離れていった。放っておけば、そのまま崩壊するだろう。
「さて、後は戻れるかどうかだけだな」
気がつけば、額にびっしりと汗が浮かんでいる。自分の心を封じ込んでおくという作業は想像以上に精神を疲弊《ひ へい》させる。
レヴァのコアを手に入れている間にまたも流されたようだ。穴の大きさはアイレインの身長よりも小さく見える。距離のためもあるだろうが、それ以上に穴が縮小しているのではないか。
「間に合うか?」
間に合わせる自信はない。
だが、サヤには戻ると約束した。約束した以上は虚無に身を任せるわけにもいかない。アイレインは手足を動かし、泳ぐ要領で穴に向かって進む。
「……まずいな」
時間としてはほんのわずかだが、距離が少しも縮んでいないことにアイレインは気付かざるを得なかった。
考えられるのは二つ。
一つは、ゼロ領域という空間が宇宙規模のスケールをもっていること。
もう一つは、ここに来てからずっと移動していたと感じていたものが全て錯覚だったということ。
どちらだとしても絶望的だ。一つ目ならば穴までの距離に光年レベルの距離があるかもしれないし、地球と月レベルでもやはりたいした違いはないかもしれない。
二つ目だった場合も、ではどうすれば動くようになるのかがわからなければ話にならない。
「どうしたものかな」
内心は焦っているのだが、それが言葉には出てこない。表情も変化が起きない。おそらくは感情に蓋をしているためだが、その蓋も恐怖という新たな要素の誕生に手間取っているように思える。いつかは内圧で爆発し、アイレインの前に変化したオーロラ粒子が現れることだろう。
「そうなる前に」
そうでなくとも、この緊張状態ではいつ虫が制御不能になって、さっきの二の舞になるかわからない。焦りはずっと生まれ続ける。だが、結果は兆候すら見せてはくれない。
『苦労しているようね』
いきなり、そんな声が耳に響いた。
「エルミか?」
『いま、やつと増設機を見つけたところでね。やれやれ苦労させられたわ』
ゼロ領域に亜空間を創造し、固定する増設機。エルミはこんな騒動が起きている間も捜し続けていたのか。
『ゼロ領域で変化もなくさ迷えているのは前回の経験からかしら?』
「かもしれんし、わからんね。愛の奇跡が起きてるのかもな」
『素敵な話』
アイレインの冗談を涼しげに流し、エルミは本題に入る。
『やっぱりだけど、増設機に人為的に手を加えた人間がいるわね。こいつに手を加えられる人間がいるなんて、信じたくないものだけど』
「お前さん以外の、初代がどっかにいるんじゃないのか?」
『みんな死んだわよ。この目で確かめたもの。まあいいわ。増設機は修復ができるから。それよりもあなたが脱出してからその穴を閉じたいのだけど、自力で脱出できそう?』
「それができそうにないから困ってる」
アイレインは手短に状況を説明した。
『なるほどね。距離の|喪失《そうしつ》か。ゼロ領域ならではの現象というところね』
「なんか手立てはあるかい?」
『こちらからどうにかできることはないわね。アドバイスくらいかしら』
「速効性があるのを頼むぜ」
『簡単よ。そこはゼロ領域。あらゆるものがない代わりに、思念によってはあらゆるものが存在する。そこはそういう空間。距離が存在しないのなら、存在しないままに移動すればいいのよ』
「……むちゃを言う」
エルミの言葉に、アイレインは冷や汗がこめかみに伝うのを感じた。
「それはゼロ領域で願うってことだぜ。どういうことかわかってるのか?」
オーロラ粒子が反応しないよう、アイレインは心に蓋をしている。エルミはその蓋を外して願えと言っているのだ。蓋を外してしまえば、オーロラ粒子は|隙間《すきま 》から入り込んでアイレインのあらゆる願望を暴きたでてさらけ出す。人間の不完全な願望によって構築された世界が生まれ、その|脆弱《ぜいじゃく》さゆえに崩壊する。
崩壊に生き残れなければ死ぬしかなく。
生き残れば異民となってしまう。すでに異民であるアイレインだが、そんなことはオーロラ粒子にとっては関係がない。
新たな変化がアイレインに訪れることだろう。
そうなっても、まだ今の自分でいられるのか。
そして、今の自分が願うこととは果たしてなんなのか、どれだけ願おうとも本物のニルフィリアは現れないと、さっきのことで確信してしまったアイレインの内側に、果たしてどんな願いがあるのか、自身にすらわかっていない。
わかっていないから、なにが起こるかもわからない。
『でも、やるしかないでしょう?』
「む……」
『そこでのたりくたりと芋虫《いもむし》みたいにのんびり進むつもりはないでしょう? わたしも待つ気はないわよ。なら、やるしかないんじゃない』
「くそっ」
エルミの言葉はもっともだ。穴が開いたままではあふれ出したオーロラ粒子によってクラヴェナル市はより多くの異界侵蝕者を生むことになるだろう。やがては市全体が異界侵蝕者だらけになるかもしれない。
それだけではなく、新たな異民を生むことになるかもしれない。
顔も知らない他人の運命など知ったことではないが、アイレインが戻らなければサヤはいつまでもクラヴェナル市に居続けるような気がする。異界侵蝕者程度がサヤの干渉能力を超えられるとは思わないが、彼女の眠りを妨げることにはなるだろう。
「やるよ」
彼女の眠りは自分が守る。
『そうこなくては』
エルミの顔など見たこともないが、その声がほほ笑んでいるように聞こえた。
『では、早くお願いね。デリケートな作業だから、あまり待ってられないのよ』
「……ほんとに、勝手を言ってくれるよ」
|呟《つぶや》いてみても、もうエルミからの返事はない。アイレインは意識を集中し、ゆっくりと蓋を開ける作業に入った。
聞けすぎてはだめだ。オーロラ粒子に自分の心のすべてを触れさせず、ただ穴を越えたいという願いだけを表に出す。
手順らしき手順があるわけでもない。マニュアルのない作業だ。可能力どうかもわからない。
そもそも心に蓋をするという作業すらも偶然にできたようなものだ。それに事前の訓練も経験を重ねたわけでもないのに、精密な作業をしようというのだ。
無謀と呼ぶ以外のなにものでもない。
それでも、やらなくてはならない。
「うまくいけよ」
届ける先もわからない祈りの言葉を|呟《つぶや》きながら、アイレインは念じた。
感触的になにか変化が起きたようには思えない。
だが、視界は瞬間的に変化し、目の前にはクラヴェナル市の空が広がっていた。
穴の前にたどり着いたのだ。
「うまくいくもんだ」
だが、決して楽な作業ではなかった。顔に広がる熱い感触。手を当てると、どろりとしたものが張り付いた。
血だ。赤い色が右の視界を侵蝕していく。右目、異民となったその日を覆う|傷痕《きずあと》が聞いたのだ。
どういう願いに反応したのかはわからないが、危うかったということだろう。
しかしそれも、脱出でされば問題にはならない。
……のだが。
「おい、勘弁してくれよ」
背後に動くものを感じて、アイレインは嘆息して声をかけた。
「私とて、まさか戻ってくることになるとは思わなかったよ」
振り返ると、巨大なレヴァの腹部が視界を占めていた。
フェイスマンの声はその腹部から聞こえてくる。
「いや、戻って来たくなどなかったよ。ここに戻ればどうなるか、私はわかっていたのだから」
つるりとしていた表面が盛り上がり、そこに一つの顔を作った。もしかしたらそれがフェイスマンの本物の顔なのかもしれない。
「どういうことだ?」
聞き返しながら、アイレインはサヤの銃を失っていることを悔やんだ。あれがあれば少しはましなことができたかもしれないが、移動することですら疲労を伴うような場所ではろくなことができない。
「外でもいったろう。あの国以外のほとんどの世界では、亜空間に飲まれてしまっていると」
「……言ってたな」
言葉ではうなずきながら、アイレインは穴に飛び込む自分をイメージしていた。飛び出したと同時にエルミが穴を閉じてくれれば、フェイスマンはこのままだろう。
だが、アイレインからエルミと連絡を取る方法がない以上、彼女がこの事実に気づいていなければならない。
「お前には見えていないかもしれないが、ゼロ領域には崩壊した亜空間の中で生活していた人類がいる」
「なんだって?」
「ゼロ領域にいながら私のような異民にもならず、願望の世界の崩壊に飲まれても死んだわけでもない。ゼロ領域と同一化して生きているのだよ」
「そんなことが信じられるとでも?」
一瞬だけ、想像をした。アイレインは即座に頭を振り、思考を振り払う。考えたのだ。フェイスマンの言葉が真実ならば、このゼロ領域のどこかにニルフィリアが生きているということになる。ジャニスもそうだ。絶界探査計画に関わった仲間たちもそうだ。
全員が生きていることになる。
(ニルフィリアが生きている?)
そう考えただけで穴に飛び込むために固めていたイメージが溶け崩れ、精神の蓋が開きそうになる。
(考えるな)
「信じなくともけっこう。君が信じようと信じまいと、それはどうでもいいことだ」
フェイスマンを覆う表皮が|蠢《うごめ》き、無数の顔の形を浮かび上がらせた。
だがそれは、今までのものとは違う。目と鼻と口。三つのパーツがランダムに配置されていた今までのものとは違う。すべてが顔を形成して浮かび上がってきているのだ。
「私の存在は、再び絶縁空間をくぐってゼロ領域に至ってはならぬ身だった。なぜなら、ゼロ領域に飲まれた人々は形を求めていたからだ。明確な願望もなく、自らを形作ることもできない者たちが明確な形を得るために、私の|蒐集《しゅうしゅう》した顔は絶好の触媒となる」
フェイスマンが話す間にも顔は次々と生まれてくる。それに比例するかのようにフェイスマンの顔は起伏がなくなっていき、周りの顔に飲まれようとしていた。
「私は……帰ってきては、ならなか……った」
「フェイスマン!」
「……………」
呼びかけてもフェイスマンからの返事はない。顔は更に生まれ続け、|這《は》い上がろうとしている。
首から下もある。胴体が姿を現す。レヴァの分身が生まれてきたのと同じ段階をたどって無数の人間が現れようとしていた。
だが、これは人間なのか?
異民ではないのか?
フェイスマンがこの国に現れた時に犠牲となった五千万の人間、その数だけの異民がいま誕生しようとしているのだとしたら?
「ここは、魂の|坩堝《るつぼ》か?」
異民になることもできず、ゼロ領域に飲まれてしまった人間は肉体を失い、魂……意識だけの存在となって漂っているのか。だからこそアイレインには見ることができないのか。
そして、そんな彼らがフェイスマンの|蒐集《しゅうしゅう》した、異民の一部となった顔を触媒にして現れるというのなら、それはすでに純粋な人間ではなく、異民ということになるのではないか。
「……ぼやぼやしていられないな」
ニルフィリアのことが頭をよぎる。だが、それを必死に抑えてアイレインは穴に飛び込むイメージを固め、放出した。
全身を型にはめられたかのような圧迫が襲った。
視界が黒に染まる。冷たい強風が体を叩いた。|轟音《ごうおん》が耳を打ち、落下の感覚が襲った。
戻ったのだ。
「絶縁空間は……」
アイレインの頭上にある。
七色の断面を見せる穴は急激に狭まっていく。エルミが増設機の修復に成功したようだ。
手の中にはレヴァの指令コアがある。その感触を確かめながら、アイレインは小さくなっていく穴を見つめ、落ち続けた。
「ニルフィリア……」
生きているのかもしれない。たとえ異民になっていたとしても、生きているのかもしれない。
あの、ゼロ領域の中で。
ジャニスも。
ソーホにこれを教えたら、彼はどうするだろうか……自分の中でまとまらない結論に対してソーホはなにを選ぶだろうか。
自分はなにをすればいいのか。まとまらない思考を抱えながら、アイレインは落ち続けた。
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エピローグ
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キャンピングカーの中では退屈という成分をたっぷりと含んだ空気が充満していた。
アイレインの姿は運転席にあり、ときおり自動運転が正常に作動しているかどうかを確認する以外はフロントガラスの向こうにある景色をぼんやりと眺めている。隣の助手席にはサヤが座り、リクライニングを後ろに下げて眠っている。その|膝《ひざ》にはエルミの黒猫が丸くなっていた。
ドミニオはぶつくさ言いながら居住空間で酒を飲み、いまはベッドの上でいびきを立てている。
起きているのはアイレインだけ、しかも特に起きている必要もないときては眠気に抗《あらが》う気力もなくなってくる。
眠気覚ましにとナビゲーション用のモニターで電波を無作為に拾わせていると、一つの映像を映し出した。
音声は拾えていないし、映像にも砂嵐が混じって色彩がモノクロに近くなっている。クラヴェナル市からかなり離れた証拠だが、それよりも不鮮明な映像の中に映る人物に、アイレインは眠気を払って注視した。
「ママ・パパス」
モニターの中のママ・パパスはレディス・スーツを着込み、ギャング然とした|雰囲気《ふんい き 》を完全に封じ込めていた。かといって女性らしいたおやかさを前面に出すのではなく、鋭い表情で演台に立ち、なにかを|喋《しゃべ》っている。
「クラヴェナル市の市長選かな?」
助手席からエルミの声がした。猫は眠ったままだ。だが、その額のサファイアの中にいるエルミまで眠っていたわけではないようだ。
「市長選? なぜ?」
「簡単な話よ。抗侵蝕剤《こうしんしょくざい》の特許を取るために必要なのは首都に正式に記録されている|戸籍《こ せき》。それに手を加えようとするなら、首都の中央コンピューターに直結している端末にアクセスしなくてはいけない。その端末に直接触れることができるのは、市長のみよ」
ママ・パパスが言っていたのはこのことなのかとアイレインは納得した。もはやどの都市でも政治と裏社会は切っても切れない関係にある。ソリオーネ・ファミリーを壊滅させて増大した裏社会における権力を利用すれば、クラヴェナル市での|戸籍《こ せき》をごまかし、市長選に望むことも不可能ではないだろう。
その上で、中央コンピューターにアクセスし、正式な|戸籍《こ せき》を|捏造《ねつぞう》するつもりなのだ。
「まあ、ぽっと出の候補がいきなり市長に当選するのは難しいだろうし、たぶん|傀儡《かいらい》にする予定の候補も何人か潜ませてるんだろうけどね。ていうか、その方が確実だから彼女が表に出る必要はないわねぇ」
「なるほどね」
エルミの言うとおりだとしても、ママ・パパス自身が市長選に出ることを止《や》めることはなかっただろう。そして彼女は非常手段として傀儡を用意していたとしても、本命は自分自身の市長当選のはずだ。
政治と裏社会が親密関係にあったとしでも、それはあくまで裏側での話だ。市長になる、公の場所に顔を出す立場になるということは、それそのものが精神的な裏社会との決別に|繋《つな》がるのではないか? アイレインはそう考えた。
それは戦闘の果てに平穏を求めたママ・パパスとその部下たちにとって正しい道筋ではないのかと思う。
平穏。
それはいつかは手に入れなければならないと思っているものだ。思いながらも、どこかでそうなることを|忌避《きひ》している自分がいることも知っている。
あのレヴァの指令コアを奪っての決死のダイビングは、死にはしなかったものの、アイレインに相当な重傷を負わせた。身動きがとれなくなったアイレインをソーホの部下たちが捕らえようとしたが、サヤの守護と、指令コアを人質に取ったエルミの交渉によってなんとか停戦に持ち込み、アイレインはクラヴェナル市で傷の治療に専念することができた。
普通の人なら死んでもおかしくない傷だったが、アイレインは一週間で動けるようになった。
その後でソーホに指令コアを返し、逃げるようにクラヴェナル市から去ったのだ。ソーホたちは追ってこなかった。レヴァはすぐに動ける状態でもなく、またその他の戦力もフェイスマンとの戦闘で低下していた。アイレインが治癒した以上、彼らになす術《すべ》はなかったのだ。
絶縁空間を前にしたレヴァとの会話。あれをソーホに話すべきか……悩んだ末、アイレインはなにも言わないことにした。次に会った時にレヴァがどんな姿をしているか、ソーホの結論はきっとそこにあるだろう。その結論にいたる過程にアイレインが必要以上に立ち入ることが正しいのかどうか、判断できなかったのだ。
ゼロ領域でフェイスマンから聞いた話もしていない。ソーホがどう決断するかを確かめて自分が動こうとしていることに気づき、それに|嫌悪《けんお 》したからだ。
ママ・パパスは自らの意思で、自らの考えだけで決然と己の道を進んでいる。自分もそうならなければいけない。
電波はさらに悪くなり、モニターは砂嵐が完全に支配した。アイレインはナビゲーションマップに戻す。興味を失ったエルミは沈黙を保ち、黒猫は身じろぎもせず眠り続けていた。
黒猫を膝に乗せたサヤも眠り続けている。
「エルミ」
「なに?」
黒猫は寝たまま、エルミから返事があった。
「フェイスマンが言っていたことは本当か?」
「増設機の故障?」
「ああ」
「機械なんだから、いずれ壊れるのは当たり前でしよう」
「……もしかして、そうなるとわかってたのか?」
エルミは増設機を開発した初代のアルケミストだ。
「それはね。でも、この世界がこんな風になることまでは想像できるはずもないでしょ」
無限に増殖した亜空間によって隔絶されてしまうたこの世界。
それをアルケミストが原因であるというのは間違っているのかもしれない。亜空間増設の技術がなくでは、人類は資源戦争の段階で滅んでいたかもしれないのだから。
「亜空間による増設なんて結局は一時しのぎにしか過ぎない。そんなことは作った時からわかっていたことよ。複製することはできても、誰もこれを独自で作り上げることなんてできない。私たちがいなくなってしまえば、改良もできず、一度設置すれば壊れても修理できる者がいない。こうなることは自明の理というものじゃない?」
だが、誰もそんなことは考えなかった。アイレインも同様だ。
「人類が持ち直すまでの一時しのぎで使うのが正しい使用方法だったんだろうけど、一度覚えたぜいたくはなかなかやめられないのが人間の性《さが》よね」
「それじゃあ、この国もいずれ消えるのか?」
「わたしが死ねば、いずれそうなるでしょうね。まあ、首都近辺の土地は実存の土地だし、ほかの国もそれは残ってるでしょうけどね」
それがなんの気休めになるだろう。すでにこの国だけで本来の地球の表面面積を超えているのだ。この国の人口だけでパンクしてしまう。
「そうならないために、あなたに頑張ってもらわないとね」
「おれに、ドミニオの代わりをやれと?」
「あら、気づいてた?」
「それなりにな」
だが、ドミニオはここまで深くエルミがやろうとしていることには関われなかったのだろう。
あるいは関わろうとしなかったのか。
エルミはたった一人で、この国を守るために亜空間増設機を修理して回っているのだ。その重圧は想像しただけで気分が悪くなる。
「もしかして、お前っていい奴だったのか?」
「あら、今頃気づいたの」
「やってることは悪人だと思うがね」
やれやれと、アイレインは肩をすくめた。
エルミたちに同行していたのは、ただサヤが平穏に暮らせる場所を求めるためのものだったはずだ。それがいつのまにか正義のヒーローのようなことをしなければいけなくなっている。
なんの冗談だと思わないでもない。
だが、そうしなければサヤが平穏に眠れる場所をも失ってしまうことになる。
「意地でもおれは絶縁空間からは逃げられないんだな」
ウィンドウ越しに空を見上げれば、青い空にぼんやりと七色の幕が揺れている。あの向こうに絶縁空間がめり、ゼロ領域がある。
その中にはもしかしたらニルフィリアがいるかもしれないのだ。
(ぐちゃぐちゃだな)
アイレインの精神もまたゼロ領域のように混沌《こんとん》のようだ。なんに反応して変化するのか自分でもよくわからない。
「まあいいさ」
なるようになるのだろう。
そう|呟《つぶや》くと、アイレインはリクライニングを下げて目を閉じた。
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あとがき
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はじめまして、あるいはこんにちは。雨木シュウスケです。
歴史あり。現在の日本人は、遺物の出土から二万五千年ほどまで遡《さかのぼ》ることができるらしい。
狩猟生活から農耕生活へ。石器から鉄器へ。刀から銃へ。馬から車へ。飛脚から郵便へ。手紙から電話へ、そしてインターネットへ。日本だけにとどまらず、いまわたしたちが生活しているこの世界には歴史が存在する。その歴史がなければいまの生活は存在しないし、その歴史が一つ違えば、もしかしたらわたしたちは別の生活形態をとっていたかもしれない。
いまのわたしたちの存在を証明する道筋、それが歴史。
そこまで壮大なことではないけれど、小説作品としてファンタジー世界にも歴史はある。一つの世界には、文としてあらわされる舞台の時代以前があり、そして以後もある。それは概して形になることはないけれど、時にはそれが語られることもある。
この作品はそういう部類に入るものです。
『鋼殻のレギオス』という、富士見ファンタジア文庫において現在進行形でリリースされている作品の過去世界を舞台とした物語。それが『レジェンド・オブ.レギオス』です。
『鋼殻のレギオス』を読まなければこの作品を楽しむことができない。また、『レジェンド・オブ・レギオス』を読まなければ『鋼殻のレギオス』を楽しむことはできない。ということはありませんのでご心配なく。
どちらも単独で楽しむことができるよう努力しています。
ただ、この二つを読んでいれば読んだ人にだけわかる楽しみがある。それだけは確かです。
この作品は、現在のわたしたちよりもはるか未来を生きる人々を描いた物語です。宇宙進出に失敗した人類が、膨張する人口とその問題を別の方法で解決した未にできた世界。そんなIFの世界に生まれたアイレインたちがどう生きるのか。そして生きた末の結末が『鋼殻のレギオス』にどういう形で|繋《つな》がるのか。作者の望む場所に見事着地してのけるのか、あるいは予想外の方向に動いてしまうのか。始まったばかりの物語ですが、作者であるわたし自身とても楽しみにしています。
一つの作品でその世界の歴史を語りきるのはそうできることではありません。小説は人の物語を描くべきであって世界の物語を描くべきではないと思っていますし、その考えはいまも変わりません。ですが、ファンタジーという仮想の世界を生きる人間を描くことを生業《なりわい》としている身として、その世界そのものの成り立ちを考える楽しさもまたあります。そこで生まれた歴史は結局語りきることもなく終わってしまうのですが、この作品は主人公であるアイレインの物語であると同時に、『鋼殻のレギオス』だけでは語りされない世界の歴史に触れる物語でもあります。
世間でライトノベルといわれる分野で育ち、そこからデビューした人間であるわたしにとって、単行本を出すということは挑戦ということになるのでしよう。だけれどあいにく、わたし自身はそれほど強く思っているわけではなかったりします。
雨木シュウスケは雨木シュウスケでしかなかったという結論になる。そう信じています。ただ、それが良い意味でいわれるのか、悪い意味となるのか。それだけが問題です。
面白かったと思ってもらえることこそが大事です。
最後に、語ることができないはずの歴史を語ることを許してくれた高木編集長とそのチャンスをくれた『鋼殻のレギオス』という作品に、そして『レギオス』を支えてくれた読者の皆様、この作品を手に取ってくれた皆様に感謝を。
[#地付き]雨木シュウスケ
この物語は全三巻の予定です。
物語は、第二巻『イグナシス覚醒《かくせい》』へと続きます。
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