開高 健
私の釣魚大全
目 次
T
まずミミズを釣ること
コイとりまあしゃん、コイをとること
タナゴはルーペで釣るものであること
ワカサギ釣りは冬のお花見であること
カジカはハンマーでとれること
戦艦大和はまだ釣れないこと
タイはエビでなくても釣れること
根釧原野で≪幻の魚≫を二匹釣ること
バイエルンの湖でカワカマスを二匹釣ること
チロルに近い高原の小川でカワマスを十一匹釣ること
母なるメコン河でカチョックというへんな魚を一匹釣ること
おわりにひとことふたこと 初版あとがき
U
井伏鱒二氏が鱒を釣る
ツキの構造
高原の鬼哭 駒込川のイワナ
探究する 最上川河口のスズキ
遂 げ る 孀婦岩のオキサワラ
古拙の英知 古代釣りの愉しみ
後 記 完本・私の釣魚大全・あとがき
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T
まずミミズを釣ること
いつかオックスフォード大学の学生が家へ遊びにきて、いろいろ文学話をしているうちに、話が自然描写のことになった。オックスフォード君はイギリスではカエルが鳴かないという。少年時代から野原ではよく遊んで鳥の声はしじゅう聞いていたが、カエルが鳴くのはたえて聞いたことがないというのである。
つぎにロンドン大学のダン教授と銀座の飲み屋で話をしているときにこのことを話題にだすと、ダン教授はしばらく考えてから、やっぱりカエルの鳴声は聞いたことがないという。アメリカ産のブル・フロッグ(日本で食用ガエルという)が水車のような音響を発して盛大に鳴いているのは聞くが、イギリス土着のカエルが鳴くのは聞いたことがないという。ついでにいうとネコもイギリスではひっそりしていて、春の宵もおとなしい。日本のネコのカンツォーネをはじめて聞いたときはいったいどんな獣が暴れているのだろうと思って窓をあけたことがあった。日本人の恋愛はつつましやかなのにどうしてネコだけ派手に騒ぐのだろう。
「それはおかしいな。≪クローク≫(croak)という英語があるやないか。あれはカエルの鳴声からきた擬声語ですよ。音があるからには鳴いてるんだ。いや、昔は鳴いてたんだろう。いまは鳴かないんじゃなくてカエルがイギリスにはいなくなったちゅうことやないやろか」
いつか新幹線でいっしょに京都にいくときにこの話を持ちだしてみると、中野好夫氏は私の疑問にそう答えられた。ただしネコのカンツォーネ、これはやっぱりロンドンでは聞いたことがないと、氏もいう。
日本でもカエルの声はめったに聞かれなくなった。池にも田にもカエルがいなくなった。その卵も、そのオタマジャクシも見られなくなった。いまにカエルとびこむ水の音を聞いたことのない日本人が大量に発生するにちがいない。いやもうすでに大量に発生してしまってかなりの年齢に達しているのである。文学の自然描写から鳥・獣・虫・魚が消えて久しくなる。
私の少年時代は大阪の南の郊外だった。その頃はちょっと歩けば川があり、池があり、野があった。毎日毎日私は魚とりに夢中で、学校の教室で教科書を読んでいると眼と紙のあいだにキラキラ陽の射す川が流れ、巨大なコイやナマズがゆうゆうと泳いでいくのが見えたのである。その頃、春の野へいけば、魚類図鑑の分布図そのままの光景がいたるところにあった。茂みのかげの暗い泥には巨大な食用ガエルの金色の眼が輝き、草むらにはトカゲ、イナゴ、バッタ、クモが走る。水のなかではガラス細工のようなエビが跳ね、モロコが閃き、メダカの群団が平べったい頭をそろえて流れにさからっておよいでいる。とろりとした淀みにはナマズがひそみ、密生したタヌキ藻のしたには暗鬱で孤独で不敵な、貪婪《どんらん》かつ傲然たるライギョが巨体をかくしている。朽ちた乱杭のかげの穴をさぐるとカニやウナギが指さきでピリピリもがく。産卵期になると眼を瞠るほど大きなフナが日頃の底を離れて浅瀬に近づき、狂ったように跳ねまわった。そういうフナはもう釣れなくて、ヤスを投げて仕止めるよりほかないのである。石で流れをせきとめてかいぼりをすると甘い泥のなかで大魚、小魚。跳ねるの、這うの、くねるの、もがくの、走るの。足がふるえてきて、とてもジッとたっていられないようなどんちゃん騒ぎが見られた。
いまはどうだろう。ウサギ追いしかの山は団地群となり、小ブナ釣りしかの川は埋立ててコンクリの皮を張られてハイ・ウェイとなった。野、池、草むら、土堤は消え、陽炎をたてる堆肥も香ばしい匂いをたてる藁塚も消えた。キの字をばらまいたような晩夏のトンボの乱舞も消えたし、キン、コン、カンと音をたてそうな冬の夜もないのである。空と土と水にひしめき、ざわめいていた、あのおびただしい生はどこへ去ったのだろう。われわれはお湯を流すのといっしょに赤ン坊まで流してしまったのではないか。何百種類、何千種類もの生を滅ぼし、自然の因果律はこれほど貪婪に歪曲してしまっていいのだろうか。
私は魚釣りをしたくてしようがない。けれど、|しゅん《ヽヽヽ》の川や磯のあのすさまじい釣竿の林のこと、河原におちたビニール袋や空罐や空瓶のこと、不妊症に陥ちた淀み、石コロをひっくりかえしてもザザ虫一匹走らない河原のこと、ランプつきの浮子《うき》で夜釣りしている人の群れのことなどを考えると、何ともブリキ罐を舐めたような気がして腰があがらなくなってしまうのである。もう何年もでかけたことがない。地図を眺めたり、釣場情報を読んだりして、アアでもあるか、コウでもあるかと一人で部屋のなかで想像しては遊んでいる。インドア・フィッシャーである。カフカはアメリカへいかないでアメリカ紀行を書いた。クレーンは戦場へいかないで南北戦争を書いた。北欧の一人の哲学者はテーブルや壁を山、断崖、渓谷などと思いつつ部屋のなかを何度も何度もグルグルと歩いてまわった。一度、みなさんに私の川を見せてあげたい。こんなすごい穴場がまだのこっていたのかと眼をこすりたくなりますぞ。何しろこの川、河口から源まで、一本の杭、一塊の藻、ことごとく穴場ばかりで、しかも人影はどこにもなく、河面はどこを見わたしてもドキドキするような魚紋《もじり》でいっぱい。その生無垢、豊饒は史前時代さながらである。まるで魚の背のうえに糸がおちるようなものだから、シズや浮子をつける必要もないのである。釣るのがイヤになるくらい釣れるからもう私は釣らないのである。岸に腰をおろし、鈎のついていない糸をたらし、終日、うらうらと背に陽を浴びながら静思にふけっている。太公望の心境がようやくわかってきましたゾ。
日本ではミミズが絶滅しつつある。
生餌の三傑は、キジ、ゴカイ、アカムシであるが、この三傑がことごとく絶滅しつつある。ことに東京ではひどいことになっている。神田に≪日本一の餌問屋≫という大層な看板をかかげて保刈老人が店を営んでいる。この人、ミミズを売りながら、じつは春本の蒐集に余念なく、人間性の文学の大通である。ミミズ、ゴカイ、アカムシ、ハチの子、サシ、ブドウの虫、イソメなどという虫以前の虫がゾロゾロもぞもぞ、老人の店へ飛行機や新幹線ではこびこまれては都内の釣具屋へ散っていく。アカムシなどは九州から飛行機でとりよせる。酸素を吹きこんだ箱に入れてとりよせる。イソメも飛行機で東京へやってくる。九州の海と東京の海では塩の濃さがちがって東京のほうが濃いのでイソメ様を生かして使うのに苦労がいる。ゴカイも東京湾がごぞんじの汚染で、いまでは行徳の近辺でしかとれなくなった。値からいうとアカムシがいちばん高値で、つぎがゴカイ、イソメ、つぎがミミズというところ。老人、或る日真剣に考えて、哲学を練る。
ゴカイ、ゴカイとみんなは夢中になるが、ゴカイは絶滅の一途である。これの擬餌鈎が作れないものか。魚が食べるゴカイを餌にして魚を釣ったところで人間の知恵はどこにもないではないか。釣りはもともと人と魚の知恵くらべ、だましあいではなかったか。マスを毛鈎で釣るのは知恵である。しかしゴカイでハゼを釣るのは敗北である。芸術は反自然の自然であろう。釣りは芸術である。ならばどうしてゴカイの擬餌を作ってはいけないか。というので、老人、魚博士の檜山義夫氏と頭つきあわせて相談し、ビニールでゴカイを作る研究に着手した。アアでもない、コウでもないと試作に試作をかさね、やっと苦心工夫のあげく、ソレらしいものができた。色、ツヤ、モゾモゾのぐあい、どこからどうハゼが食いついてもゴカイそっくりの歯ざわりがするであろうと想像される。いや、これは知恵である。芸術である。ゴカイの上をいくものである。名を何とつけよう。よし。きめた。老人、ポンと膝をうち、≪ロッカイ≫と名をつけて売りだす。
「売れましたか?」
「ダメでしたね」
「釣れないんですか?」
「ええ。どうも。ハゼのほうが賢くってね。どうしてもとびついてくれないんですよ。ニセモノとわかっちゃうらしい。見破られるんだね。むつかしいもんだ」
老人苦笑して頭を掻く。
つぎはミミズ。どこもかしこもコンクリの皮で蔽われ、また畑はみんな農薬を使うのでミミズの棲息地がなくなった。人間はときどき空の星を眺めて悠久に思いをいたし、人類が滅びてもミミズは生きのこると考えたほうがいいと志賀直哉がいつか書いたが、そのミミズがいなくなっちまった。以前は雨の翌日など、よくドバミミズの太いのが道のうえでマゴマゴしているのが見られたものだが、いまはドバもキジも容易なことでは手に入らないのである。昔は釣りにでかけるのに餌など買わなくてもよかった。釣場についてからあたりの堆肥のかげをちょいと棒でつついたり石コロをひっくりかえしたりしたら大地の精がすぐ見つかったのである。
西鶴は江戸時代のあらゆる職業のうちで最低なのは金魚の餌のアカムシとりだろうかと書きのこしているが、いまアカムシの養殖をやったら大長者になれる。ミミズも同様である。保刈老の店へミミズを売りにくる人は一回に三千円、四千円(しかも税抜きで!)と稼いで帰っていく。面白いのはその人たちが店で顔をあわせることがあってもたがいにどこでミミズをとってきたか、ぜったいに口にしないことである。保刈老が聞いてもぜったい答えないのである。よくよく考えねばならない状況である。釣場の穴場はけっして誰もほんとのことを教えあわないし、あの暗くて苦いモーパッサンは穴を争うあまり親友どうしがとうとう殺しあいをするにいたるという小説を書きのこしているくらいだが、現代日本ではそのずっとずっと手前のところ、ミミズの穴場からすでに争奪戦がはじまると見てよろしいのである。事情はどこもおなじらしくて、アメリカの或る会社は保刈老のところへ月に十万ドル相当のミミズの取引をしたいと申込んできたそうである。十万ドルといえばザッと三千六百万円の巨額である。年にして、何と、四億三千二百万円である! もし、いま三三途《みみず》の完璧な擬餌鈎ができて、≪四三途《しみず》≫とでも銘うって発売したら、みなさんはクェートの石油の王様よりも豪快で清らかな富が楽しめますゾ!
私は心が騒いで声が高くなる。
「じゃ、じゃ、どうして保刈さん、ミミズの養殖をしないんです。ミミズでキャデラックにのれるじゃありませんか?」
老は気がなさそうに答える。
「いえね。そこなんですよ。あのミミズというのはネズミとよく似ていて、どんな箱に飼っても夜になったらきっと、どこかへいっちまうんです。どうしてだかわかンないが一匹、一匹と夜逃げして、ついに一匹のこらず消えちゃうんですね」
「ガラスで囲ったらどうです?」
「いや。それはミミズがイヤがる」
「こう、何か、金属でやってみたら」
「いや。ミミズは金物がきらいなんです。奴さんは空気のよく出入りする木だけが好きなんですよ。それでいて木の箱に入るのはイヤだというんだから厄介だ。あれでなかなか気むずかしいところがあるんです」
ああ。目なく耳なき、これほど微小なる暗黒の友、腐土の子、輪廻の出発点にして終点、ヒトにはさげすまれ、サカナには貪られ、ただつつきまわされてちぎられるよりほかない身分の君までが強制を嫌って自由を求めるか。君の社会には独裁制はないのだろうか。一夫一妻制はないのだろうか。上・中・下の関係はないのだろうか。しかもなお君の完全な自由は自《おのずか》らなる充足を知って恐怖ではないのだろうか。と、すると、君こそは……
美食の世界にブリア・サヴァランがいて、釣界にアイザック・ウォルトンがいる。彼は十七世紀に『釣魚大全』を書いた。その時代のイギリスにも孤独と動乱と流血があった。けれどウォルトンはマスの住む川岸と野をさまよってひたすらゴカイは鈎にどう刺したらいいかとか、釣師はいかに高潔の心志を保つべきかとか、そんなことばかり考えていた。流血の時代にそむいて書かれたそのひまつぶしの文章が後代、流血の時代になればなるだけいよいよ版をかさね、歓迎され、百版、二百版を見ることとなった。人びとは時代を嗅いで、これはキナくさいナ、と思うと『釣魚大全』を買ってきてベッドにもぐりこみ、眼と鼻だけをふとんからだしてゴカイの刺しかたを読み、ほのぼのと眼を閉じた。そして或る晴れた日、本をおいて戦場へでかけ、≪なぜ?!≫と問うすきなく弾丸を発射したりされたりして土へ帰り、ゴカイを養ってやったのであった。また、一匹のミミズとなったのであった。
ウォルトンは書いている。
『日照りがつづいて、ミミズの欠乏をきたしたときは、栗の葉をもみこんで苦くした水、または塩水を作って、ふだん夜のうちにミミズがよく土を持ちあげる地面に、その水をまくと、たちまちミミズは地面に姿をあらわすものだ。またミミズやアザミといっしょに樟脳を餌袋に入れておくと、その強い芳香が虫に移って、魚をひきつけ、大釣りをすることがあるという人があるが、こういうことも知っておいて悪くない』(下島連 訳)
あらためてこの本を読みかえしてみて、十七世紀のイギリスの川にすでに禁漁期が設けられていることを知り、愕然とした。三百年も昔にすでにイギリス人たちは自然の滅亡を憂慮して措置をとっていたのである。ウォルトンはサケの産卵をさまたげないようにその法令があるのだと解説しているのだが、十三世紀、十四世紀、彼の時代よりさらに三百年も昔にすでに≪魚の破滅をふせぐための数ケ条の規定があった≫ことを記述している。現代から六百年も以前にイギリス人たちは人間の官能を充足させるためにはそれを制限すべきであるという知性を体得していたかに見える。今日のイギリスの川をさかのぼるサケはその時代のサケの直系子孫である。六百年以前のサケが今日も精力を更新されてイギリスには生きているのである。わが国のことを思い、暗然となって私は本をおいた。
セーヌ川はドブになったといってフランス人は肩をすくめて力なく冷罵する。隅田川や荒川はまずまず硫酸のドブといっていいだろう。ゴカイ、イソメはおろか、舟食虫すらそこには棲めなくなっているのである。夏の昼さがりにあれらの川をごらんになったことがあるだろうか。まっ黒の水にブツブツ、ブツブツ、メタンの泡がたち、まるで河面は夕立ちが降ったような穴だらけになっている。あらゆる地上の生物のなかでもっとも強健だと思われるはずのヒトをそこへほうりこんでも十分と生きのびられないのではあるまいかと思われるほどの砂漠の毒河である。それでも自然はさらに不屈であって、或る種の人工的工夫をほどこしてやると、たちまち河は生をとりもどす。砂町の汚穢処理場の排水孔は二十四時間切れめなしに浄化された水をこのインクの流れのなかにそそぎこむのだが、水圧によってその周辺には小さなガラスの室のようなものができた。上潮、下潮の汚水はすべてそのガラスの室の壁や天井に沿ってうごき、侵入することができないのである。すると、いつのまにか、その一メートル四方ぐらいの浄水のガラス箱のなかに絶滅したはずの魚類が住みつくようになった。コイ、フナ、ウナギ、ドジョウのほか、おどろくべし、キンギョ、タナゴなどという脆弱《ぜいじやく》な魚までが住みつき、いきいきとうごき、繁殖するようになったのである。
隅田川にくらべるとセーヌは渓流といえる。おなじみのあの河岸の釣師たちはグウジョンという魚を釣っている。餌はミミズである。やっぱりこれも釣道具屋で買う。≪アン・ヴェール・ヴェール・ダン・ル・ヴェール・ヴェール!≫(緑色のコップに緑色のミミズ)と暗誦して子供たちは遊んでいる。コップと緑とミミズがフランス語では発音がそっくりなのである。このミミズも絶対自由主義的なのでおそらく木箱で飼っているのであろう。或る午後、散歩していると、釣師の竿が弓なりに曲り何人もの人が大騒動してかけまわっているのでスワコソと走っていったら、やがて水のなかから手網《たも》でひきあげられた魚があった。バタバタ跳ねているのを見ると、ヘラブナをさらに平べったくしたような魚で、銀白のまじったとろりと淡紅色の、見るからにいろっぽい魚であった。いかにも中間色の大好きなフランス人の魚らしく、色までが寝室の壁紙にそっくりなので、笑わせられた。けれど都心で三十センチはあろうかというそんな大魚が釣れる事実は私を愕かせ、又、東京の汚濁ぶりを反省させられた。まったくあの硫酸の河には住人の破廉恥がまっ黒にたたえられて流れているのである。
タコはラッキョウで釣れる。クロダイはミカンで釣れる。コイはイモで釣れる。そのイモも近頃ではインスタント食品のマッシュ・ポテト、あれをこねたうえに味の素やら水飴やらナニやらカやらをまぜて秘術をこらすのだが、ニシンの油をちょいと入れると原爆的効果が生ずるのだそうである。あんまりコイがよく釣れるので高潔な釣師のあいだではタブーとされているが、ナニ、近頃の奴らはそんなこと気にしやがるもんですかと、保刈老、舌うちする。老は店にすわってあちらこちらからはこびこまれる暗黒の友、腐土の子たちをさばくのだが、ハチの子が大の好物というヘキがある。目がないのである。客に売らないで自分で食べちまう。生で食べるのがいちばんなんだが、とりわけ土バチの子ときたら絶品中の絶品。甘醤油で御飯にまぜてハチの子飯にしてもそりゃうまいもんですゼと、話しているうちに眼がトロトロにとけるありさま。
ふと、顔をあげ
「フォア・グラよりうまいね」
という。
フランスとハンガリーがこれの名産地である。アヒルの肝臓を肥らせて、大きくしたやつをすりつぶし、香料だのぶどう酒だのをまぜ、なかには松露を入れたのもある。ストラスブールのがことに逸品とされている。その原爆的美食も老にあっては土バチの子に劣るというのだから舌覚とはまさに広大にして深遠なる不思議の世界。
だいたい魚の餌のなかには人間の餌になる物が多い。何がいちばんだといってイクラぐらい贅沢な物はないと思われる。イクラでヤマメを釣っていると、しばしば釣っているのだろうか釣られているのだろうかという感慨を味わうものである。明朝出撃という前夜、山の宿で茶碗に少し水を入れ、イクラをおとし、鳥の羽根で一粒、一粒をわけていると、ふと、イクラなのか真珠なのかわからなくなることがある。
「イクラはヤマメにやるまえにこちらで食べてしまいたくなるけれど、どうなんでしょう。ゴカイをいじるたびに考えるんだが、あれは柔らかくてトロトロしている。足がモゾモゾとしたところもある。三杯酢か何かで和《あ》えて小鉢でだしたら、案外、サカナになるのじゃないかしら」
私がそういうと、老はただちに
「そう高い物を食っちゃいけませんゼ」
といって笑った。
それもそうである。飛行機や新幹線で旅行なさるゴカイ様なのである。これはもうハゼ様に召上って頂くよりほかない。人間は何でも食べるがハゼ様はゴカイ以外は見向きもしない、それも生無垢のホンモノでないと我慢ならないとおっしゃるのである。こんな物を食べた日には目がつぶれちまう。やめた。やめた。ゴカイの三杯酢はやめた。
むつかしい時代である。風吹けば倒れる家あり、水出れば流される家ありというのにゴカイは飛行機で旅をする。熱海の乞食はテレビを持っているという。熱海では山の飯場の土管に乞食が住み、近くの電柱から電気をひいてテレビを見ている。昼は山をおりて町へお貰いにでかけ、夕方になると店じまいをして山へもどり、夜は土管のなかでコメディー・フランセーズ一座の芝居を見ていたのだそうである。どうしてわかったかというと、或る日、火の不始末で飯場が火事になった。すると翌日、乞食たちが山からゾロゾロおりてきたが、それを見ると、めいめいテレビを抱えていたというのである。目撃した人がそう私に話してくれたのである。
保刈老の話によると、新潟で地震があった。鉄筋コンクリ四階建か五階建のアパートが積木をひっくりかえしたみたい壊れもせずにコロリとひっくりかえった。この地震は相当なもので、いっさいの交通が途絶したくらいの威力をふるったのである。ところが二十四時間たってからその新潟から釣道具屋のおっさんがオートバイで野をこえ山をこえして神田へミミズを仕入れにやってきたという。おっさんはおどろいている老人からミミズを買うと、オートバイにうちまたがり、また野をこえ山をこえして新潟へもどっていったというのである。釣りは芸術である。やっぱり狂気の血を求める。穴場を争って親友二人が殺しあいを演ずるのもまた避けられぬ。高潔、清新、瞑想、幼児の日への回帰だとしてウォルトンは釣りを描きだしているのだが、サイコロの目の出方次第ではまことに怪しい事態も発生するのである。
「自慢じゃないがハイヤーにのって私の店へゴカイを買いにくるお客さんもいるんです。こういう人の竿は五万円、十万円とする大した業物《わざもの》だね。釣師というのは妙なもので、竿にはいくらでも金を使う。いっこうに惜しまないんだよ。それが餌となるとガラリと態度が変っちゃって、百円、二百円のゴカイが高いの安いのって文句をいいだすんだ。竿が泣きますゼと私はいいたいんだが、どういう心境ですかね」
或るとき、私は、ほんとに遊んでいる人を見たことがある。羽田の岸壁でハゼを釣っていた人である。貧しくて若い夫婦であった。どこかあの近くの工場ではたらいている工員らしかった。竿はただの延竿で、リールなどついていなかった。釣ったハゼはビニールの袋に入れ、装具などは何もなかった。日本酒の小瓶が一本おいてあった。二人はやすやすと岸壁にすわって足をたらし、竿をあげたりさげたりし、ときどき瓶からチビリ、チビリすすった。日曜でもなく休日でもない日だった。膚のしたでは悲愁や懊悩が痛い歯をたてていることが、ひょっとしたら、あるのだろうと思いたい。けれどこの貧しい二人のまわりには高邁と自足の爽やかな匂いが漂っていた。孤独には毒や翳がなく、底まで透《す》いて見える秋の川の気配があった。ほんとに遊んでいる人はめったに見かけられないものである。そういう人に出会うとこちらまでホッと心がやわらぐのである。よごれたジャンパーをひっかけ、ときどき風に肩をすくめ、ゴム草履を酒瓶のよこにきちんとそろえてにごり水を眺めているこの二人だけは、ほんとに遊んでいるな、と思わせるものを持っていた。
河原の石をひっくりかえすと羽虫がチョコマカ走る。あれはイワナ、ヤマメ、ハヤ、そのほか渓流魚なら何でもとびつく御馳走である。信州ではザザ虫と呼んでいる。ハチの子は飴煮にされて罐詰や瓶詰で売られ、ウソかマコトか、リキがつくと有難がられているが、ザザ虫も飴煮にして食べるところがある。天竜峡の山菜料理の家へいったときに食べたことがある。飴煮にすると何でもおなじ味になってしまうからハチの子もザザ虫もけじめがつかない。たしかクヌギの木だと思うが、小指くらいの太さのムッチリ太った幼虫が幹に穴をうがって住んでいる。ウォルトンは塩水でミミズが誘いだせるというがこの虫も塩水で誘いだせる。瓶から塩水を穴についでやると苦しがって這いだしてくるのである。この虫は、イワナ、ヤマメ釣りにたいへん結構なものだが、焼いてキツネ色に焦げたところを頬張ると、なかなかいい味がする。フォア・グラとどうだといわれたら頭をひねりたいところだが、エビによく似た味がして、私は好きである。ヤマメ様にはイクラを食べて頂き、私はこちらを頂戴する。
メコン・デルタでは農民がライギョやナマズをカエルで釣る。日本とおなじポカン釣りで、藻の密生したあたりをカエルでちょいちょいアタると凄い水音をたててライギョが跳ねあがってくる。竿は一本、延竿。竿尻に竹のあてものをつけ、腿でそれを支え、魚をガバッとゴボウぬきするときテコにする。あそこのクリークの魚は妙なことに雲古が大好物である。ゆるゆるとしゃがんで哲学しつつ投下をおこなうと、待ちかまえていたのが凄い水音をたててとびあがってくる。お尻の穴にとびこむかと思えるほどの勢いである。これを市場へ売りにいくと人は買って食べ、三時間たって河岸へ放出にいく。それを魚が食べる。それをつかまえて売りにいく。それを食べて三時間したら河へいく。輪廻が眼で見、手でさわれるところにある。エネルギーの永久回帰である。ただし御叱呼のときはガブッとやっても泡しかないからナマズはまた日本人がガセをつかませやがってと舌うちしつつ河底へ帰っていく。ビーズのように小さな目玉が大口のよこで憤怒と侮蔑にキラキラ光っているのがよく見える。(ウォルトンを注意して読みかえしたが、さすがの『釣魚大全』にも雲古で魚が釣れる話は書いてないようである。魚が雲古を食べると推測される報告はあるが、それで釣れとは指示してないのである)
ラッキョウでタコを釣るなどという、まるで判じ物みたいな発見を日本人はやってのけるのである。釣りの世界もナイロン・テグスにリール竿ばかりではあるまい。地方をさぐればまだまだ古く懐しい奇智や奇習があるにちがいない。野をこえ山をこえしてそれを知りにでかけ、試してみたいものである。魚を釣るまえにミミズを釣らねばならない時代だけれど、きっと古い個性はいまでも谷や磯にあるにちがいない。
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コイとりまあしゃん、コイをとること
私はまだコイを釣ったことがない。だからコイを釣るのはたいへんむつかしいものだと思いこんでいる。ことに野生のコイとなるとたいへんな忍耐と寛容がいるのだと思いこんでいる。中学時代に友人の一人が淀川の近くに住んでいて、これが釣好きで、毎日学校へくるときに淀川の堤を歩き、ここぞと思う淵へカンバイ粉のダンゴを一箇ほうりこむ。学校から帰りしなにまた淵を歩いてダンゴをほうりこむ。そうやってコイを淵に集めると同時に住みつかせ、餌に慣らしてしまう。何日も何日もそうやって淵へダンゴを投げて餌づけ≠オてから、頃合を見て竿をふりこむということになってくる。その話を聞き、教室でダンゴを見せられると、さすがにコイは深淵の棲息者だと思わせられた。口のはしにたらりと|大 官《マンダリン》ヒゲをたらしていかにもコイは好色なような、貪婪なような、傲然としているような、そして底知れないような風貌だが、それがとろりとした蒼暗の淵の薄明のなかで、ハヤやヤマメのように利口ぶらず、わずかにヒレをそよがせて、ゆったりと動作する。餌をとるのも鬱蒼としてものうげであり、総じてキラキラしないのである。孤独だの、革命だの、セックスだのと、うかつにハシャいで手軽に絶望するということがないのである。
九州にコイとりまあしゃん≠ニいう非凡の男がいて筑後川の淵へもぐり、素手で野ゴイをつかんでくるという噂はかねがね聞いていて、一度目撃したいものだと思っていた。九州出身の新聞記者がよく聞かせてくれるのである。それによると、人によって噂はまちまちだが、まあしゃんはこうとにらんだ淵へ沈むとまちがいなくコイを抱いてあがり、ときには両腋にかかえたうえ口に一匹くわえてあがってくる文字どおりの名人だが、たいへんな女好きだというのでもあった。そしてまあしゃんは、自分でもぐる気のないときにはいくら金を積んでもぜったいもぐらず、なおネチネチと話を進めようとすると、プイと席をたってどこかへ消えてしまう。それはきっとオンナのところへである、ともいうのである。女房はこわくないのか、とたずねると、いや、こわがっている、大いにこわがり、かつ、うるさがっているようである、という。けれどまあしゃんは九州出身の作家たちにたいへん愛され、火野葦平にも書かれたし、檀一雄にも書かれた。テレビがくる。ブン屋がくる。いまやちょっとした名士となった。目下彼は後継者がいないことを嘆き、真冬の川へすっ裸でとびこむ凛冽の気風が失われた時代を嘆いているとのことである。
「……古くは『吉野拾遺』という本の中に、康方という少年が、吉野川の清滝のあたりで大きな鯉を二本抱えあげてきたという話が見えている」
檀一雄氏は『石川五右衛門』のなかで少年五右衛門が淵から素手でコイをとってきたという設定にして鯉取りの万ちゃん≠ニいう男の話を傍証にしている。これがまあしゃんのことである。
「……鯉を抱き獲るには、自分もこの大鯉の大王になったつもりでやらなくてはいかんそうで――静かに彼らが夢を見て浮かんでいる近くまで泳ぎ降《くだ》る。さて大鯉の側までゆき、しばらくボンヤリと自分も夢を見ながら浮かんでいるようなつもりになっていると、却って鯉の方から体温を慕って、少しずつ、少しずつ腹の脇によってくるそうである。鯉が人体のぬくみを慕って、腹の脇まで寄ってくれば、もうしめたもので、そっと脇の下に受けてやればいい。これも荒だててはいけないらしく、やっぱり、抱擁に馴れないウブな少女を、軟かく、やさしく、抱きとめるぐらいの、思い遣りが肝要なのであろう。水苔の生えた鯉の鱗を、かりにも逆立てるようなことをしてはいけない」
さて、火野葦平氏の長篇『陸軍』にはまあしゃんが実名のままで登場する。まあしゃんその人を主人公とはしていないが鯉の手づかみを主題にしたのでは『鯉』という短篇がある。檀さんもそうだが、おそらく火野さんもまあしゃんと親しく会って話を聞いてから小説にこなしたものであろう。
「……私は水中眼鏡をかけて川底へもぐって行く。水中眼鏡は川へ入る前に、蓬《よもぎ》の葉をつぶしてよくふきます。そうしておくと曇りが来ません。泳ぎながら、石垣の間や岩かげを探す。奥の方に鯉がいます。鯉は私を見ますけれども動きません。私はそっと手をさしのべる。たなごころをこころもち袋のようにして、正面から鯉の頭に近づける。そのまましばらくじっとしていて、そろそろと手を引くと、鯉が掌に吸いよせられるようについて出て来る。しずかに鯉を胸にひきつける。しずかに抱くようにして水面にあがる。この鯉が身体について来るというのが、どうもやはり体温を慕っているもののように私は思います。つまり体中から放たれる活気が鯉を吸いよせるわけでしょうか。ところが、むずかしいのは川面に浮いてしまってからで、そのときうまくやらないと、折角そこまでつれて来た鯉を水を切る間際に逃がしてしまうことがあります。これを逃がさず、一枚の鱗もいためずにあげるのでなければ、上手とはいえません」
これがコイとりそのものの技と心であるが、いくらそれを体得していても、いきなり川へドブンとやってしまってはいけない。とてもそんなあっけないことなのではなく、前日、前々日、前々々日あたりから細心の注意で或る種の修養と工夫を凝らしておかなければいけないのである。技神に入るためにはやはりそのための覚悟がいる。捨てねばならぬものがある。
「……鯉を捕りに川に入る前は、前日は勿論のこと、少なくとも三日間は女に触れてはいけません。それは私が何十年という経験から自然に体得したことで、三日以内に女と遊んだときはいつも不手際で、成績のあがったことがない。これはその道理で、冷たい水中に入るときには身体中には活気があふれ、それが水のなかでも熱をおびているほどでなければ、鯉を掌や胸から発散する体温によってひきよせることができないからです。身体の調子をつくるために、女と接触しないのみならず、数日前から肉食ばかりをします。牛肉、豚、すっぽん、鶏の肝、などを多量に食べるわけです。そして、熟睡をします。すると、身体中にホルモンがみなぎりわたり、皮膚の全面に脂がぎたぎたとふきだして、冷たい水をはじくようになる。それでも不死身にはなりきれませんから、川岸には焚火の用意をしてもらっておきまして、一度水中にもぐってあがるたびに暖をとるわけです。見物する人にはわからないことですが、これだけの下準備をしてからでないと、寒中の川には入れません」
引用が長くなったのはこの稀れな技の人知れぬ苦心に読者の注意をひきつけたいためで、ほかのことに注意を刺激するためではなかった。
福岡県浮羽郡田主丸町の、トラックやバスがブンブン、どかどか駈けぬける街道に面して、小さな、古い、申しわけないがまことにくたびれたといいたくなるドンブリ飯屋風の家がある。そこがわがポセイドンの棲家であって、≪鯉の巣食堂≫という。店の入口に生簀があり、のぞいてみると、さびしい冬の水のなかにコイとウナギがゆるくうごいている。
「……ごめん」
といって暗い土間に入ると、しばらくして一人の頑強な男が荒い革ジャンパーを着て登場する。男は初老と見られるが、首も背も厚く、眼光鋭い。ニッコリ笑うとにわかに稚純のいろがみなぎる。すごく厚い手で一枚の名刺をぬきだしたところを見ると
筑後川かっぱ
鯉取マーシャン
上村政雄
さてはこれがポセイドンであったか。
まあしゃんは石油ストーブで股火鉢しながらぼそぼそと、聞かれるままにコイとりの妙諦を話し、かつ近頃の川が農薬と砂利採取で見るかげもなく荒み、濁ったことを嘆いた。田ンぼに農薬をまくようになってからは、春、川の本流から田の細流へ上っていくコイが秋になってももとへもどらなくなった。おそらく細流へ上って、そこで斃死《へいし》してしまうのである。おまけに極悪のやつらがいて、川へ農薬を流して魚をさらっていく。ハヤもコイもいっせいに水のなかをキリキリ舞いして浮いてくるのでそれとわかる。
また、砂利採取のために川床が荒れてしまい、とりわけ水がひどく濁ってきた。まあしゃんは澄んだ水を見るとわくわく昂揚してきて殺気≠ェみなぎり、ドブンといきたくなるが、腐ったイワシの眼みたいな色を川がしている日は、闘志も感興もわかぬ。そんな日はどこかへいって誰かと遊んでいたほうがマシであるという。そんな日にお金を持ってきてもぐってくれんかといわれてもとうていその気になれない。まして、コイを何匹あげてくれるかと聞かれると、ムカッとする。わしの技術≠見たいちゅう人にはいくらでも見せまっしゅう。しかし、それを金で換算しようというやつらはてんで誤解しとるタイ。ごめんこうむるバイ。
まあしゃんは奥へ入って掛軸を二本持ってきた。一本は九十センチのコイの魚拓、一本は一メートル二十センチの草魚の魚拓。コイのほうは体重が二貫九百八十匁、胴回りが何と六十センチ、推定百歳というトテツもないもの。草魚のほうは成育の早い魚だから巨大だけれど年齢は二十八歳ぐらいであろうと土地の水産技官が判定してくれた。さすがは筑後川である。腹の巨きな川である。私はしばらく息を呑む。まあしゃんは掛軸を壁にかけ、誇りにみち、寡黙にそのよこへたつ。戦後の日本の川にもまだそんな受胎力があったと知らされて私はおどろいてしまう。その巨きな影はおそらくゆらゆらといつまでもまあしゃんの心を蔽うことであろう。
まあしゃんからじかに聞くコイとりの戦法はこうである。
コイはあたたかい季節は敏捷にうごきまわるからヤスで刺すが、手づかみは何といっても寒くなって淵底にコイがかくれるときである。川を棹でたたいたり、石を投げたりして騒ぎ、コイを淵へ、淵へと追いこむ。どこをたたいたらどの淵へ逃げるか、その淵の底はどうなっているかを知っておかねばいけない。まあしゃんは筑後川の淵という淵の構造を掌の筋のように知っている。さてコイを淵に追いこむと、網で遠巻きして逃げられないようにする。|防 疫 線《コルドン・サニテール》というものである。それから肉食した体を焚火であぶって脂汗をビッシリかいてからドブンといく。それもスポッととびこんで、バチャバチャやってはいけない。バチャバチャやるとコイに逃げられる。コイを攻めるには川下からである。そして頭からである。淵というものはどれほど澱んでいても少しずつ流れているものである。だからしばらく息をつめて眼を瞠っていると、コイのいる淵ならどこかできっと小さなゴミの群れがはじきだされるのが見えるはずである。そこでたなごころをこころもち袋のようにし=A抱擁に馴れないウブな少女を、軟かく、やさしく、抱きとめるぐらいの、思い遣り≠ナじわじわとコイの頭をおさえ、縦にして胸へ抱きとる。
ここまでがしんどい。抱きとってしまえばシカと抱擁し、トンと川底を蹴り、一挙に水面へとびあがって舟へほうりこむ。両腋に二匹、口に一匹というぐあいに、いい淵なら一挙に三匹をあげることもざらである。
淵にコイがいるかいないかをどうして知るかというと、餌を食べた跡からである。アユが川にいるかいないかは岩についた川苔を貪った口跡があるかないかで判定する。故佐藤垢石老の書くところではアユの多い川はプンとアユのいい匂いがするとある。けれどまあしゃんは淵にもぐってから水底の砂泥を見る。コイは逆立ちして砂泥を口で掘ってミミズを食べるが、その跡はポコンと穴になる。オチョコぐらいの穴ならまず百匁のコイである。吸物椀ぐらいの穴なら一貫近くのコイである。穴にゴミがたまっていなければコイは近くにいる。たまっていたらもうコイはよそへいったかもしれない。それからコイの巣というものであるが、コイはどんな岩かげにひそんでもきっと逃げ道のある穴を選ぶものであるから、それをよく知っておいて、こちらから攻めて逃げられたらどちらの方角へ走るものか、そういうこともちゃんとわきまえておかねばならない。
「コイは賢い魚ですか?」
「賢いです。とても頭のいいやつがおります。いくら網を張ってわたしが攻めても、網にひっかからんようによこむきになり、首をこうたてて、ツ、ツ、ツと川を走って網をとびこえて逃げてしまうやつがおりまっしゅう。かわいいもんですバイ」
まあしゃんはストーブで股火鉢しながらなおもぼそぼそとコイとり話をつづけた。檀一雄氏と火野葦平氏が彼とイッパイやりながらニコニコしている黄いろい写真が壁に貼ってある。火野葦平氏の書いた小さい横軸もかかっている。
鯉の巣歌≠ニ読みたどれる。
こひとり まあしゃん 大河童
ひごひに まごひに ふなウナギ
のぞみ しだいの 腕じまん
すの物 鯉こく 味のよさ
うれしい この店 粋な店
たくさん 来んの 忘れずに
田主丸 鯉の巣
まあしゃんのぼそぼそした話を聞きつつ、ハヤの煮つけでイッパイやっていると、小さな店のなかを、家が破裂するかと思うくらい巨大な体躯の二人の息子さんが孫を抱いて出たり入ったりする。息子さんの嫁がまた出たり入ったりする。婆さんが孫を背に負って出たり入ったりする。まあしゃんの奥さんである。遊んでいるのはまあしゃんだけらしい。心なしか婆さんが通りかかるたびにジロリとこちらを一瞥し、その眼光はいかにも鋭くリアリスティックであるように感じられる。
そのうち甲高い女の声が奥から
「そんなとこで何しとるんバイ!」
とひびいた。
まあしゃんはヒルんだ眼のいろになったが、厚い手をもみつつ、ぼそぼそと、コイとり話をつづけた。いけない気配である。とても日常的、かつ悪質に重いようである。われわれはこそこそと家をでて筑後川へいった。冬の筑後川は寒風がひょうひょうと吹いているが、淡い陽が射していた。青い水がいっぱいにみなぎって流れ、それは裂くように冷たいが、水量が豊かなせいか、刀の刃のようには感じられない。まあしゃんは知りあいの農家から薪を二束借り、岸にもやってあった小舟にのせ、われわれはゆらゆらと流れていってから、ササの茂る岸につけた。そこには古い護岸工事の石が水に沈み、深い淵があり、水がとろりとしていた。
薪を積んで火をつけるとまあしゃんはすっ裸になり、灰青色の水泳パンツをはき、古外套を肩にひっかけて火にあたった。その古外套はおそらく米軍の放出品か何かではないかと思うのだが、旧帝国陸軍の満蒙派遣軍が着ていたのではあるまいかと思えるほどの年代物である。
まあしゃんは五十四歳だが、少年時代から水で練りあげ、こねあげ、たたみあげたその体躯は柔軟、かつ頑健であった。そして、よく見ると、腹に一つ、顎のあたりに一つ、古い傷痕がある。あきらかに刺傷である。私の眼に気がついたらしく、まあしゃんは腹の古い刺傷を撫でながら、苦笑を浮かべて、若い頃に鉄火気質でやった出入り≠フことを話した。あまり深くは話したがらないが、彼は昔はかなりの鉄火で、やり手で、川筋の若い衆で、正面へ体をひらいて切った、はッたをやったらしい気配である。河童は陸へあがると炸《はじ》けるものらしい。
風が吹き、薪が燃える。
まあしゃんは草にしゃがみこんで火に手をかざしながら
「こうやって腹と背をあぶっていると脂汗がじわじわとでてきまっしゅう。全身にビッショリなったぐらいがちょうどいい。そこを見て水に入るですタイ」
そういってしばらくだまったあと、女の話をぼそぼそとはじめた。この近くの温泉場の小料理屋ではたらいている女とねんごろになったが、近頃、女は久留米へ移り、そこでも小料理屋ではたらいている。一度きてくれとヤイヤイいってくるが、まだいっていない。一度いってみたいものだと思っている。
「だんだん体があたたかくなってくると、KINTAMAが下へおりますバイ。二ツ玉がそろっておりきったあたりがいいんです。これが体温計でっしゅう」
そういってしばらくだまったあと、またまあしゃんは女の話をぼそぼそとはじめた。それはさきの久留米の女とはべつの女で、床屋の後家さんである。この夏に亭主が八代の海岸で泳いでいて死んだので、いたましいことだと思っていたら、気丈な後家さんで、立派に女手一つで店を切りまわしはじめた。以前から気はあったのだが亭主もいることだし、そしてそれが不幸なことになったのだし、と思ってひかえていた。ところが近頃耳にしたところでは、学生がチョコマカ出入りしているというので、それじゃあと、意を通じてみたら、後家さんはウンといった。それで、明日、いってみようと思う。
「明日だというもんだから、今朝、爪を切ったとです。コイをつかむには爪をのばしているほうがいいんです。逃げようとしたらカッとたてられます。けれど、今朝、爪を切ったとです」
まあしゃんはそういいながら指の爪をしげしげと眺めた。そして、そのあと、息子二人に店をまかしてあるからおれはもうすることがない。ところが家でゴロゴロしてると女房がガミガミいう。そこで女のところへ遊びにいくと、また女房がガミガミいう。気がクサクサしてやりきれない。だから耳納山へ鉄砲を射ちにいったりコイをとったりして遊ぶ。そのときだけはのびのびと楽しいんじゃ。いつぞやは東京の檀先生の家へ尾が一メートルもあろうかというヤマドリを射って送ってやったことがある、という。
アメリカにもリップ・ヴァン・ウィンクルといってガミガミ女房を持った男がいて、あまり女房にガミガミいわれるのでクサクサしていたら、或る日、裏山で小人が遊びにおいでと誘いをかけてきた。そこでウィンクルはいそいそと山へでかけ、小人たちといっしょにボウリングをして遊んでいるうちに、とうとう浦島さんになってしまったという話がある。どこでもおなじなのじゃないか。私がそう説明しにかかったが、まあしゃんは短くなった爪に見とれていて、いっこう耳に入った気配がない。ぼそぼそと、床屋はいい商売なのだとか、しっかりした後家さんなのだなどとつぶやいている。
そのうちまあしゃんは古外套をポンとはね、ヌッとたち、全身にテラテラ汗をうかべて寒風のなかを歩き、やにわに川へとびこんだ。それはドブンでもなく、バチャッでもなく、ピシャッでもなかった。ザブンでもなく、ズボッでもなく、ザバザバッでもなかった。青い深淵はまあしゃんを音なく呑みこんで、屈強の男一人をまるまる呑みこんだとも見えず静かで、とろりとした渦を巻いてゆっくりと、流れるともなく流れていく。風が吹き、薪が燃え、私はタバコに火をつけようかと思う。まあしゃんの潜水の最長記録は二分十五秒であるという。そのあいだに彼は淵底をしらべてコイの穴を観察し、判断し、眼をこらしてゴミをはじきだしているところがあるかないかを観察し、判断し、じわりじわりと川下から、頭からコイを攻めにかかり、体温を放射し、ウブな少女を誘いだすように胸へ誘いだし、抱きとりにかかるのである。水中眼鏡はさきほどあたりのヨモギをむしってゴシゴシと拭いておいた。なぜかしらヨモギの葉で拭いておくと、いつまでも、何度もぐっても、ガラスがくもらないという。だからまあしゃんはいまこの淵の底でよくよく眼を澄ませてランデヴーの散歩をしているのである。
ふいに水が裂け、ガバッとまあしゃんが頭と肩を飛沫のなかに見せた。口に一匹コイをくわえ、両手で一匹抱きしめている。コイは重く、はげしく彼の口ではねまわる。ヤ、ヤ、ヤ。やった。剛健、克己、無垢は完成した。まあしゃんは体をふるって水からあがり、水中眼鏡を額におしあげフウッと息をついて、コイを小舟のなかへ吐きだす。そして焚火のところへ歩いていって、体を古タオルで拭いてから、古外套を肩にひっかけ、手を火にかざした。二ツ玉はすっかり小さくなり、傷だらけの体をまあしゃんはブルッ、ブルッとさせるのである。
「水のきれいなところにいるコイは赤銅色をしてますタイ。近頃は川が荒れたのでそんなコイはいなくなった。青白いです。食べても天然のコイはうまかですが、養殖はまずいです。話にならんです。カイコのサナギを餌にやるとムクムク太るとですが味がよくない。そこで餌をいろいろと会社は研究しとるとです」
赤銅か蒼白か。二匹のコイは|大 官《マンダリン》ひげをふるわせて乾いた小舟のなかで体をおどらせ、暗愁も絶望もない眼をまじまじ瞠って大きな息をつく。
やがてまあしゃんの体が乾いてきたので、われわれは小舟にのり、棹におされるままゆらゆらとさかのぼり、もとの岸につく。船外モーターを鳴らして二人の男が走っていく。あれはハヤとり専門の男で、ハヤしかとらんとですとまあしゃんが棹をおしつついう。また一人の男が小舟を対岸につけ、草むらをのぼりながらこちらへ、よおおッと声を投げてくる。とれたかあああッ。まあしゃんが声を投げかえす。まあまあってとこだああッ。長い堤に陽が落ちかかり、水はキラめき、ススキがぼうぼうと風になびいている。
さてこうして私はかねてからの念願のまあしゃんを実見した。まあしゃんは噂にたがわず名人であり、女好きであり、剛健の気風を持していた。その技は純潔、無雑である。魚を素手でつかむ以上に稚純な、おおらかな、かつ精緻な、魚と人とのまじわりかたがあるだろうか。|防 疫 線《コルドン・サニテール》の網を張ってコイを逃がさないようにし、夏はヤスで刺し、ときには手網を持ってもぐるとしても、それはアフリカ人やカナカ島人も不可欠としてやっていることである。ヤス。網。手網。これらのほかにまあしゃんが使う人工は水中眼鏡とヨモギの葉っぱくらいのものである。つまり彼はようやく石器時代をぬけだして糸で網を織ることをおぼえはじめた当時の直立歩行類|猿人《ヽヽ》の時代に住んでいるのである。コンクリもスモッグもなくて、家といえばただ木と茅で組みあげていた当時のヒトが川へもぐったように彼は川へもぐる。筑後川が寡黙な彼の動脈である。ときには水深十二メートルもある淵を持ち、体長一メートルにも達する巨魚を内蔵することもある、荒みながらもなお子宮の深く、豊かな筑後川が彼の動脈である。はじめて私はこの川の腹腔の内部を瞥見することができて、歓んだ。それは想像していたよりはるかに繊緻、広大、かつ深遠であった。
削りたての白木の肌理《きめ》を私たちは無上に歓ぶが、まあしゃんの技とはそのようなものである。腹の匕首の古傷も、淵や山をさまよう孤愁も、水がよごれていたら断じてもぐらないという宣言も、水が澄んでいたらしゃにむに殺気がコミあげてとびこみたくなるという感応も、まさに日本人そのものである。その夜、柳川へ走って、旧立花侯邸の≪御花≫の一室で、これはまたゆかしい北原白秋の≪思ひ出≫の覆刻版を二十年ぶりくらいに頁をパラパラと繰りつつ、白くて硬い敷布のうえで、私はほのぼのとくつろいだ。筑後川はもう濁ってくれるな。まあしゃんはコイや女と遊べ。風はたわむことなく吹け。そして女はいつまでも召す=A召せ≠ネどという古語を稚くつぶやけ。
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タナゴはルーペで釣るものであること
タナゴという魚がいる。春さきに田ンぼの細流の岸を通りかかると真ッ黒にかたまって遊んでいるのが見られる。それこそ幼稚園か小学校の運動場のようにメダカの兄ぐらいの小魚がゴマンと群れている。日本全国どこにでもいる。ことに西日本に多い。漢字で書くと≪※[#「魚」+「與」]≫である。魚の名にはアテ字が多いが、おそらく数をなして群れるところから≪與《くみ》する≫と読まれて、そんな字をかぶせられることになったのであろうか。
タナゴ釣りは江戸時代からつたわる風流で、その繊細なこと、道具に凝ることはかねがね噂に聞いているが、まだ私はやったことがない。子供の頃に大阪の郊外で小川をかい掘りすると、こましゃくれたタイのような雑魚がたくさんとれて、それがタナゴだと教えられたが、それを釣ってやろうかとか、食べてやろうなどという考えを起したことはなかった。タナゴはニガくていけないと教えられたような気もする。モロコ釣りには夢中になったがタナゴを釣る気は起さなかったのは、やっぱり関西の習慣のせいだろう。関西ではモロコ釣り、ハス釣りが小物釣りの主流で、ことにハス釣りとなると竿の凝りかたがたいへんになってくるのである。モロコは小さくて、敏捷で、貪食、大群をなして棲み、旺盛に食いつき、浮子をピンピンおどらせる。あの小さくてもろい口でと思うのに呆れるほど小さい奴がグイグイと浮子をひきこみ、まことに陽気な釣りが楽しめる。かなりな悪水でも耐えられる頑健な魚であるから、東京へどんどん移住させたらよろこばれるだろうと思う。秋川や多摩川にはもうかなり繁殖しているそうだから、そのうち大人のゲーム・フィッシュになるかもしれない。
宇留間鳴竿氏の『タナゴ釣』(西東社)という本によると、わが国には約十二種類のタナゴが棲んでいるそうだが、そのうち関東で人気を集めているのはヤリタナゴ、タナゴ(二種類をひっくるめてマタナゴと呼ぶ)、それとオカメタナゴである。ほかにミヤコタナゴ、ゼニタナゴと呼ぶ可愛い在来種もいたがいまは見られなくなったという。オカメはヘラブナとおなじように関西から移殖されたが近年大いに殖えたそうである。オカメもヘラブナもよく似た形をしていて、それはコイ科の魚なのに平べったいということであるが、なぜ関西のは平べったいのだろうか。ヤリタナゴは腹のヒレに一刷き朱がさしていてとても綺麗な魚だが、オカメもたいへん可愛い。顔が小さく、形がタイに似ていて、おなかがプックリふくれ、二百匹も三百匹もが箱からあけられたところは、蒼白な金の粒が水を散らして炸《はじ》けたように見える。熱帯魚の仲間入りをして観賞魚として買われていくことが多くなったそうだが、あのこましゃくれた沈痛と華麗は夜の光のなかで愛されるだろう。マタナゴにしてもオカメタナゴにしても、だいたいタナゴという魚は、成魚でも五センチそこそこの小魚なのに、体をよく見れば立派に一人前の女の艶麗と爽愁をそなえているのでおどろかされる。トランジスター・グラマーというものか。
タナゴ釣りは江戸(元禄)の頃から愛された狂気で、ヒマを持てあました殿様が深川あたりにくりだし、筏にのっかって、絹布の座ブトンに金屏風、少女の髪のさきへ金の鈎などをつけトチチリチン、トチチリチンと三味線などひかせ、剣菱の辛口をふくみつつヒラリ、ヒラリと釣ったものであった。
「殿、今年は住民税が、チト……」
とか
「殿、今年は遊興飲食税が、チト……」
とか
「殿、今年は間接税が、チト……」
などと渋っ面の彦左衛門が、耳打ちしかけると、殿様は、とろとろに頽れているのにどこか秋の川のように澄みきった眼をちらともうごかさず
「よいわ」
とおっしゃる。
彦左がグイと膝をすすめ
「殿、人生は具体的ですぞ」
という。
すると殿様は、剣菱の辛口をすすり
「なに、人生?」
ものうく手をふって
「そんなものは白土三平にまかせておけ」
とおっしゃるのである。
江戸から明治、大正、昭和、戦後とタナゴ釣りはけっして途絶えることなくつづいたらしい。途絶えるどころか、狂気はいよいよ精緻になり、鈎はいよいよ小さくなり、竿はいよいよ繊細になり、とうとう今日では世界に比類のない顕微鏡的釣技が完成されることとなったのである。
タナゴは釣る人の足もとに群れる小魚である。いわばメダカ、ミジンコの類である。蒼暗の深淵から野ゴイをあげる豪快もなく、ほとばしる急流からヤマメをぬく神妙もなく、荒磯で体重をかけてクエを浮揚させる力闘もない。もし季節はずれに春のうららかな野原で日光をぬくぬく浴びつつタナゴ釣りをしている男がいたら、そいつはほんとのバカというものである。これは寒風にひょうひょう吹きさらされつつバカを実行するところに奇妙な悦びをおぼえる遊びなのだから、何だってかんだって小さな魚を釣ればいいというものでもないのである。悦楽には、真の悦楽には剛健の気配がどこかになくてはいけない。ここが大事なところである。悦楽はそれに溺らせきらさない何事かとの争いのなかにかろうじて汲みとれる一滴なのであるから、ホイホイぬくぬくしていては、イケないのである。
「こう、手のひらをひろげてですね、そこに一匹ずつはなして、百匹タナゴをのせる。それぐらい小さいのを狙うのです。オチョコ一杯に三十匹入るといいますからね。どだい話の外ですよ」
宇留間氏はそういって笑った。上野駅から出発した電車のなかで、ゴム長にアノラックという頑強な恰好である。おっとりと、しかし熱心な口調で、道具をいろいろとりだして説明なさる。話しながらアホらしさに自分を苦笑しているが、どこかまったりとして淡々とした気配がある。四十四、五歳の長身、屈強の体躯だが、十歳は若く見える。小物釣りの名手。ヤマメ、ハヤ、タナゴ、アユ、ハゼ、キスなどをもっぱら攻め、四百人ほどの会員を持つ東京タナゴ釣研究会の副会長。この会は略してタナ研≠ニいう。タナ研は季節中は毎週日曜日にバスを一台チャーターして霞ケ浦のふちのあちらこちらへ出撃してその日、その日の釣果を記録し、年間を通じて記録に基いて、もちろんお座興にだが、会員に段≠あたえる。一段から八段まであり、宇留間氏は名人だから八段である。
「免状をだすんですか?」
「ええ、だしますよ」
「黒帯は?」
「いや、そこまではいきません」
宇留間氏は苦笑して財布から一枚の紙片をとりだしてみせた。それは、なるほど小魚釣りのタナ研≠轤オい免状で、名刺ぐらいの大きさしかない。そこに何やら荘重、深遠な字体で、八段の位を認める趣きのことが書いてあった。
男の手のひらに百匹ものる小魚となると、一センチあるやなしというようなものであろう。その魚を鈎に食いつかせて、あわせて、釣りあげるというのだから厄介なことになってくる。翌朝、潮来の旅館で宇留間氏に鈎を研ぐ七ツ道具を見せてもらった。いま日本で売られている鈎でいちばん小さいのを極小というが、宇留間氏はそれにヤスリをかけてさらに小さく、鋭くするのである。洗濯バサミのような恰好をしたホルダー、これも手製だが、それに鈎をはさんで、アーカンサスという油砥石の細片で、ルーペで覗き覗き削っていくのである。その砥石も鈎の外側を削るのやら、内側を削るのやら、切先をととのえるのやら、用途によって何本も机にならべてから仕事にかかるのである。安食《あじき》さんというこの道の教祖みたいな人がいて、現在のタナゴ釣りの竿、鈎、釣法、すべてを完成した人物だとのことであるが、宇留間氏はこの人から鈎研ぎのヤスリを譲られた。免許皆伝、ということであろう。そのヤスリを見せてもらうと、何本かで一組になった金属ヤスリで、ルーペで覗かないと見えないくらい目がこまかい。こつはスイスの時計職人が使うヤスリだとのことであった。つまりタナゴ釣りは凝れば時計作りまでの精度に達する遊びということになるのである。タナゴはルーペで釣るものである。
凝る話をつづけてみる。
タナゴ師が凝りに凝るのはいま書いたようなぐあいに鈎なのだけれど、竿にも苦心がいる。冬のタナゴは岸の乱杭のあたりで釣れるものだから、沖の深ンどにいるのを狙うときは三メートルぐらいの竿を使うが、ふつうは一メートルそこそこの竿である。これが継ぎ竿になっていて、精妙にウルシがぬられ、納めると筆ぐらいになる。それを、たとえば宇留間氏などは、コヨリを編んでウルシで固めた、細長い印籠といった恰好のものに入れて釣場へいく。だから釣師の恰好は、ふつうゴム長にアノラックの肩へ釣竿をかついで、ということになるが、タナゴ師だけは竿をポケットに入れて、ということになる。この竿が安物なら千五百エン、二千エン、≪東作≫あたりへいって特別註文して作らせると、三万エン、四万エン、五万エンと天井知らずである。それも出来上りまでには六カ月はたっぷりかかる。(竹ボウキの竹を一本ぬいてきたってタナゴは釣れないわけではないのだが……)
釣竿には中通し≠ニいって竿のなかに糸を通す形式のがあるが、素人が手間をかけて中通しのタナゴ竿を作ることもある。宇留間氏が記念に贈られたという一本を見せてもらうと、朱や金や緑の散った歌舞伎カラーのどうしてどうして立派なものである。竿の穂先はふつうクジラのヒゲを使うので穴のあけようがないが、この竿は布袋竹だから穂先の胴にも穴をうがってある。こんな細い穂先にどうやって穴をあけたのだろうと、眼をこすって聞いてみると、ピアノ線の先を研いでコツコツとえぐったのだという。癇癖の強そうな、傲然とした老人が、日向の縁側で、むっつり黙りこんで竿と遊んでいる光景が眼にうかぶようである。
タナゴ師はみんな首から箱をぶらさげている。それは餌のタマムシやアカムシを入れるのといっしょに、釣ったタナゴも入れるので、水が入っているから、師が身うごきするとピチャリピチャリと音がする。ポトポトとタナゴの跳ねる音もする。この箱がまたくせ者で、凝るとウルシ仕上げ、ラデン細工、まるで重箱のようになってくる。≪東作≫で見せてもらったのでは柾目の桐で作った一万五千エンのがあった。≪三松≫という名人が一人生きのこっているきりだという。そして柾目が素直に何本走っているかが箱の出来、不出来として論じられることがあり、柾目一本が千エンの計算になろうかというのである。ついでに書いておくと、超特製のタナゴ鈎も市販されているが、これは工場で女工さんが一本一本ヤスリをかけて作ったものだから、一本が二百五十エンもする。しかし宇留間氏ほどの師となると、それにも全然満足できないから、やっぱり出撃前夜に自分でヤスリをかけて作る、ということになる。
何故、山に登るのか、とたずねたら、そこに山があるからと答えられたという挿話は行動家と観察家の相違をクッキリと伝えている。それはもともとたずねること自体が愚かしいのだ。たとえ、たずねずにはいられないとしても、ということを告げている。タナゴ釣りは世界最小の釣りで、竿、糸、鈎、錘、浮子、餌、餌箱、どの点でも三嘆、四嘆せずにはいられないような繊鋭の注意力を凝集している。ほとんどそれは骨董いじりとおなじで、≪玩物喪志≫という言葉以外の何物でもないと感じられる。≪|物 そのもの《デイング・アン・ジツヒ》≫の態度である。鈎そのものの調整に恍惚となってしまい、心の主力は前夜に費されて、当日、岸辺にたつと、釣れても釣れなくとも半ば以上どうでもよくなっているのではあるまいかとさえ想像される。それはタナゴ釣りだけではなく、ありとあらゆる釣り、または遊びというものに共通する本質である。われわれは遊ぶために遊ぶのである。志を失うために志に熱中するのである。ただし大半の人はせいぜいその身ぶりに熱中するだけで、けっして失うところまで肉薄、没頭できないものなのであるが……
土浦で電車からおり、ウナギ弁当を買って、タクシーに乗り、古渡《ふつと》というところへいった。ここに中位の川が冬枯れの野のなかを流れ、霞ケ浦にそそいでいる。寒風が浦からひょうひょうと吹き、波はさわぎ、耳も鼻も削りおとされそうである。草はいちめんに枯れ、浦の水平線に明るい雲の城がたっているが、川の波はさわぎたち、岸にもやった何隻もの小舟が上に下にゆれている。よれよれのアノラックに身を固めた、風景の汚点《しみ》ともいうべきタナゴ師たちが、凍てついたように枯草のなかや舟のへさきにすわりこんで、竿をにぎるというよりはつまんで上下させている。底湿りのした、性《たち》のわるい、針のように骨へキリキリ食いこむ寒風が、さえぎるもののない野面を殺到してきて、われわれを、打撃し震撼させて、太平洋のほうへ走る。宇留間氏に用意してもらった竿を持って漁船のへさきによじのぼり、ゆれさわぐ水へ竿をふると、タナゴ師たちがブツブツと不平をつぶやいているのが聞える。
「いやな風だよな」
「そうなんだ」
「トンボの動きが見えねえよ」
「あんた、何してんの」
「タナゴ、釣ってんの」
「脈釣りに変えた」
「無精釣りでいくか」
「ひでえよ。今日」
「文句いうでねえの」
「釣れてんの」
「今年はわるいようだよ」
「いまさき舟の右でやったら全然だったけど、左でやったらいくらか食う。でもね、今日は一束は無理さ。四十もあげたら店仕舞だよな。ひどいシケ。なめてやがんの」
「ホイ、ホイ」
「お久しぶりで」
「おや、やるじゃない」
白い玉浮子がツツツーッとモロコに似たひきかたで川底へひかれる。ピクリとあわせると、かすかなショック。五センチほどのが水を散らしてあがってくる。大きいのが釣れたと私は思う。けれど、ここでは大物は問題にならない。
箱へすべりこむタナゴは背がいくらか黒く、肩から腹へは淡桃色がにじみ、腹ビレに一点、朱をさし、大きな眼をまじまじ瞠り、とてもいろっぽい。
よこで宇留間氏がいう。
「きれいな魚でしょう?」
「ええ」
「春になると婚姻色がでて素晴らしくなりますよ。観賞魚としてもヒケをとりませんね。かわいいもんですよ」
にこにこ笑いながら氏はたえまなしに釣っていく。波がたちすぎて今日はだめだとみんないい、舟のへさきにかじかんで丸くなっているのに、氏だけは苦もなくひょいひょいと釣り上げる。
タナゴ師の左手首にはヒモで小さなハサミがぶらさがっているが、あれは餌のタマムシを切るのに使うのである。それから師たちがときどき胸のあたりで手をくるくるさせているのが見られるが、あれはタマムシのはらわたを鈎に巻きつけてダンゴにしているところである。それがときどきなのは、一回ダンゴをつければそれで何匹も釣れるからで、しじゅうとりかえなくてもいいのである。一回の餌で何匹釣れるかの競争をすることがあるが、いままでの記録では五十匹という数字がでているそうである。
タマムシというのはイラ蛾という、粉が膚についたらイライラとかゆくなる蛾のサナギである。大豆ぐらいの固い殻に入っている。昔は貝殻虫と呼んでいたらしい。割るとぐにゃぐにゃした、黄いろい、毛のあるサナギがでてくる。それを指でおしてはらわたをお尻のほうへさげ、ハサミで頭をパチンと切り、なかのねっとりしたクリーム状のやつを鈎へクルクルと巻きつける。何気ないようだがこの技術だけで三年かかる。なぜリンゴやナシの木につくイラ蛾のサナギがタナゴにいいのか、誰が思いついたのか、それはさすがの宇留間氏にもわかっていない。氏はダイヤモンド工具の製作会社に課長さんとして勤めながら古文献をいろいろあたってみることもしているのだが、タマムシの件だけは、いまだに不明である。近年歓迎されだした黄虫のほうは、誰が、いつ、どうして発見したか、人の名も場所もハッキリしているのであるが……
宇留間氏の説くところでは、タナゴ釣りは一人でいってもあまり面白くない釣りで、何人かで競争してこそ張りがでるという。だからタナ研≠ヘバスを一台チャーターするのである。タナゴは群棲しているから、いいスポットを見つけたらつぎからつぎへ、ヒラヒラ、ヒラヒラと、眼にもとまらぬ早業で釣っちゃはずし、釣っちゃはずしをやる。そこで、一日に何百匹釣るか、何百グラム釣るか、一回の餌で何匹釣るか、おなじサイズの魚を何匹そろえるか、ということが競技になってくるのである。
「私はタナゴ釣りをはじめてもう二十年になるのですが、或るとき古老が、帰りの電車のなかで弁当を食ってる男を見て、いい心掛けだといったことがあります。釣りに全力投球して、専心して、飯を食うヒマも惜しんでる、その純粋さがいいというんです。しかし私などはむしろ、そうガツガツしないで、飯も食い、遊びもして、ゆったりした心で、しかもいい成績をあげるという立場のほうをとるんですけれどね」
さてこの立場、二つのうちどちらをおとりになるか。どちらをとってもべつにどうッてことはないようなのだが、私ならばむしろ余裕派に軍配をあげたい気がする。川の岸まできて血相変えて力みかえることはないだろうと思うのである。
今年はなぜかしらタナゴのわるい年だそうである。師たちは枯草のなかで凍てつきながら釣れない釣れないといってこぼしていた。私と「旅」編集部の三神君は四十匹ほど大小とりまぜアカムシで釣った。一日は寒気と荒涼のうちに消費され、やがて乱雲のなかで陽は傾き、広大な霞ケ浦は昏くなりはじめた。師たちはバスのくる土堤の下に集ってめいめいの釣果を草むらにおちているブリキ板の上にあけ、世話人が一匹ずつかぞえて記録をとる。二百八十匹という人もいるが、五匹という人もいる。なかにはフナばかり釣った人もいる。わいわいガヤガヤ。どこかよそへいって、オカメばかり狙ってきた人が餌箱をあけると、この人は豆級ばかりを攻めたらしく、二百匹ばかり、おなじサイズの腹のプックリふくれたオカメがぞろぞろッと、とびだした。そのときになって私は大きくても小さくても釣れるものは何でもと餌箱へとりこんでいた自分がはずかしくなった。オカメは小さくてもタイに似て型《かた》がよく、こましゃくれたふくらスズメをどこか想わせる魚だが、それが二百匹そろってピンピン跳ねるところは小紋散らしというか、波に千鳥というか、ほんとに鋳型からぬいたばかりの青と金と淡紅の粒々が炸けるのを見るようであった。華麗のうちにいじらしさと悲愁とおませをたたえた光景である。そして、そのなかに、一センチになるやならずの、顕微鏡的といいたくなるようなのが、やっぱり一人前に釣られていて、それはもう鈎に接着剤でもつけてとってきたのではあるまいかと思いたくなるのである。この人の釣果には今日一日、ぼうぼうと吹く寒風のなかで一途に行使し、消費してきたこの人の緻密、繊細な、注意力と凝集力、それにちょっぴり微細の神技を誇りたい気持がよくあらわれていて、ほほえましかった。
帰りのバスのなかではマイクロフォンでめいめいの釣果と順位が発表され、感嘆や失笑の声のうちに記念品の石鹸がさしあげられる。順位がずいぶん下の人でも、ふつう一箱のところを二箱も石鹸をもらっているので宇留間氏にたずねてみると、五番ごとにそうなるよう仕組んであるのだとのこと。つまり上位者ばかりがもらうようにするといつも二箱組はきまってしまってうごかないから、下位者は指をくわえているよりほかなくなる。だから下位者を奮起させるためにも五番ごとにオマケをつけてあげたほうがいい。家へ帰ってもメンツがつぶれず、法螺も吹けて、気持よく眠ることができよう。というまことに綿密な心の読みである。
つらつらバスのすみっこから観察するのに、タナ研会員諸氏には、老いもあり、若きもあり、みんな一様にぶざまなゴム長にアノラック、それに野球帽というかゴルフ帽というか、もとはクッキリ派手だったのにいまは褪せてオートバイ屋のおっさんがかぶっていたら似合いそうな帽子をチョコナンとかぶっている。しかしどちらかといえば若い人は少なくて、中年、壮年、老年という年頃の人が多い。医者、フグ料亭主人、会社重役、隠居などである。しかし、眼の配り、光りぐあいから見たところ、下町の遊び飽いた旦那衆という気配が濃いようである。もさもさしたアノラックのフードのなかでキラリ、ピカリと光る眼のぐあい、どうも一癖、二癖、三癖ありそうな感じである。浮世の甘辛ピンを舐めつくしたあげくにタナゴ釣りなどというたわいもないたわむれ、繊妙を凝らし、大金をかけ、しかも家でぬくぬくしていられるのに真冬の湖岸へとびだそうというのだから、そういうガンのトバしかたになるのもまず避けられないところか。おそらく家へ帰ればたっぷりの長者風、けれど傲岸不遜、人を人とも思わず、右の物を左へもうごかさず、ただせっせとルーペを覗いて鈎研ぎにふける意地悪爺さんが多いのではあるまいかと愚察仕った。
アユ釣りは世界にも比類のないマス科釣りであるが、タナゴ釣りは、これまた世界に比類のないコイ科釣りである。それはミクロの世界といってよろしい。小さくて凝っているということは聞いたがここまでの玩物ぶりに達していようとは知らなかったので、私は舌を巻いてしまった。この釣りには古い日本のすべてがある。繊細、巧緻、微小、隠微、小手先である。襞のこまかさのとめどなさということではおそらく右にでるものはあるまいと思える。ときにそれは遊びであるかどうかを怪しみたくなるほどのものである。霞ケ浦からの寒風が吹きすさぶと手が凍える。師たちは手甲をはめているのだが、はめていないと指が凍《い》ててしまって、鈎にアカムシを刺すこともできなくなる。そして背骨の芯まで冷えこみ、ぶるぶるふるえながら待ちわび、そのあげくあがってくるのが、三センチにもならない小魚なので、つくづく情けなくなってくる。けれど、それを情けながっているようでは幼稚園であって、師たちは黙々と耐えることにまことに不可思議な沈潜したよろこびを味わっているのである。
霞ケ浦一帯の町でそうであるけれど、宿をとろうとして潮来の町へいくと、タナゴのスズメ焼を売っている。オカメを十匹ぐらいずつ串に刺して照り焼にしたのを山と積んで売っている。冬のタナゴは淡泊だが小さな脂がのって、食べてわるいものではない。見た眼にもそれはふくらスズメが並んで飛ぶようでかわいいものである。一冬中に漁師が捕る数はいったいどれくらいのものになるだろうか。宇留間氏の推察ではオカメはよく殖える魚で、またこのあたりでは広大な霞ケ浦という源泉をひかえているから、漁師と釣師に減らされた分だけつぎの年には湖から大群をなして川へ攻めのぼってくるようだとのことである。
一センチたらずのタナゴは釣れるが、ほかの魚でそんな稚魚を網でとるのはべつとして鈎でひっかけるという話は聞いたことがない。それは、そんな稚魚がたいていプランクトンか何かを食べているのに、タナゴだけは、早くも動物性の餌に手をだすからである。つまりあんなに小さくても結構マセて、大人の食べるものを食べるのだ。だから師の神技にうまうまとひっかかってしまう。もし食べなければ釣られることはないはずである。何しろ師たちの一日の釣果は、今日のように荒れた日はべつとして、ふだんなら一束∞二束≠単位として数えられるほどのもので、一束は百匹だから、一冬中に釣られる数は他の川魚には見られない、とほうもない数になりそうである。件の安食さんは一日に千六十匹釣ったことがあるという。それが最高かと思っていると、やがて千百匹釣る人があらわれたそうである。四十匹や五十匹なら竹ボウキの竹でも釣れようが、四百匹、五百匹となるとスイス的精度と熟練の神技が動員されねばならず、そうなってこそこの釣りの妙味があらわれるという。タナゴはおびえやすくて敏感だが、いつもお茶ッぴいでおなかをすかしているから、テもなくやられてしまうらしい。春になってニガくならなければ年中狙われて、とっくに絶滅してしまっているかもしれない。
心の痛む話である。釣りが好きだからよけいに痛む。タナゴは減らないといっても、すでに関東在来のミヤコタナゴやゼニタナゴは絶滅に瀕しているし、以前ではどこの細流でも釣れたのに、いまは霞ケ浦まで出張しなければ釣れなくなってしまったのである。タナゴの圏はあきらかに後退し、小さくなり、薄くなったのである。昔、北アメリカ大陸には、学名をエクトピステス・ミグラトリスという小さくて美しいハトがそれこそ雲のように棲息していたが、ほぼ百年で絶滅してしまったそうである。人びとは網でとり、銃でとり、なかには大砲に散弾をこめてぶッぱなすやつもあり、ほとんど地平線のように無限と思われたこのハトも、とうとう絶滅してしまった。生物はたいてい一種族の絶滅ということを誰に知られることもない寡黙のうちに遂げ、気がついたらいなくなってしまったということになるもので、落日の悲劇はけっしてフェニモァ・クーパーの『モヒカン族の最後』のような形をとらないものであるが、このハトだけは最後の最後の一羽が息絶えた日も時間も場所もわかっている。つまり人間の犯行の日と時間と場所がハッキリわかっている。それは一九一四年九月十四日、午後一時、シンシナティの動物園である。
釣った魚を家に持って帰って自慢したい気持はよくわかるけれど、もうそろそろその稚気は捨ててもいいのではないか。ことにタナゴ釣りくらい人知と手技の極に達するくらいの注意力を集中する釣りならば、おなじ注意力を魚族の繁殖にそそいでやってこそ、苦労人の遊びといえるのではあるまいか。タナ研は規約の第一章を設けて、釣った魚はみんなに見せて数をかぞえたあと、もとの川へ放してやること、と宣言すべきなのではあるまいか。ヨーロッパではどこでもやっていることである。パリのどまんなかのセーヌ川で三十センチもあるグウジョンが釣れるのは、都市管理に意をそそいで水の汚染を防いでいることもさることながら、釣師たちが小魚は釣っても、そのあとで
「大きくなってまたおいで」
といって放してやるからなのである。
こんな小さなことも実行できないようではいくら凝った≠ニころで、その人の限界はタカが知れているようにさえ思えてくる。遊びはつまり何らかの意味で自分を征服し、拡大することにある。それは相手を殺すということではない。スポーツマンは征服するけれども支配しない。この一点だけをのぞけば私には日本のタナゴ釣りは絶妙の稚雅な技と呼んでいいように思われる。
帰りの電車のなかでたずねられるまま私がセーヌの釣師のことを見たとおりに話すと、聞きおわって宇留間氏は眼を伏せ、低い声で
「はずかしいことです」
といった。
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ワカサギ釣りは冬のお花見であること
いつか、モノの本を読んでいると、きっとそれはセント・ローレンス河のことではないかと思うのだが、カナダでは冬になると河が凍るので穴釣りをする。あのあたりまでいくと氷はアスファルト道路のように堅牢になるから、みんなはマイ・カーのうしろにマイ・トレーラーをひっぱって河へでていく。そのトレーラーの床には穴があけてある。ベッド、ハイ・ファイ、冷蔵庫、小型料理台などの設備もあり、もちろんカナディアン・ウィスキー(乾草の匂いがしてあまりうまくないけれど……)の一本か二本もあり、人びとはベッドに寝そべったままで床の穴から魚を釣るという。バターをとかした鍋がグラグラ煮えていてホイといって一匹釣ると、アイナといって相棒か、恋人か、女房かがうけとり、頭を一発たたいてから、ポンと鍋へほうりこむ。カリカリのキツネ色に揚ったやつにレモンをチュウッとしぼりかけ、ベッドに寝そべったままでモグモグ食べるのだそうである。その魚の名をうっかり忘れてしまったのだが、何かしら冬になっても元気に海から河へ氷のしたをさかのぼってくる魚である。魚釣りにもハイ・ファイにも食べるのにも飽いたら、ひょいと眼をあげ、顎を一つしゃくればいい。それもベッドにころがったままで。すると、そこがセント・ローレンス河の不思議なのであるけれど、ふいに真冬なのに鬱蒼とヤエムグラ茂れるままの穴が出現する。これは奇妙にほの温かい穴で、脈釣りがいいのだが、ちょいちょいと小当りに当ってみると、あれがあり、これがあり、なおあれがあり、なおこれがある。おやと思って脈りつづけるうち、つい夢中になって、あれやこれやがすっかりこんがらがってしまい、ひどく汗をかいたり、心臓がドキドキしてくるのだそうである。これをセント・ローレンスの御神渡《おみわた》り≠ニいう。ぼうぼうと空を走る大いなる風のなかにさらに大いなる声あって、それは、エフォルセ・ヴー・ダントレー・パル・ラ・ポルト・エトロワト!≠ニ叫ぶ。何のことだろうとたずねてみたら、力を尽して狭き門より入れ≠ニのこと……
諏訪湖のワカサギも氷のしたを元気に泳ぐ。もともとワカサギは、あんなポケット・ナイフの刃みたいに小さいけれど、出身がサケ・マス属であって、ハタハタやシシャモみたいに冬になると海から河へおしかけてくる習性なのだそうである。しかし彼女は順応力も強いので、海水から離れても平気で生きられる。陸封されても気にしない。だからあちらこちらの湖や人工湖やダムでよろこばれるのである。諏訪湖で聞いたところによると、もともとここのは霞ケ浦から大正四年に持ってきたものだそうだが、いまでは卵を毎年あちらこちらの湖にわけてやっているとのことである。それらの湖は水が寒冷すぎて、プランクトンがわかず、ワカサギは栄養不良と不妊症にかかるのか、せっかく移してやってもあまり繁殖しないし、体も小さくなるばかりだから、毎年卵を送ってやるという。諏訪湖はワカサギにとっては絶好の濁り状態で、よく餌のプランクトンがわく。≪水清ければ魚棲まず≫はこういう山上湖にもいえることであるらしい。いつか十和田湖へいったら、あまり水がきれいで冷たすぎるのがニジマス養殖にとっての難ですと教えられたことがあった。
ワカサギは秋、舟をだして釣ることもできるけれど、やっぱり私としては冬の穴釣りがしてみたかった。汽車で通りかかったり、写真で見たりするたびに、一度あの穴釣りというものをやってみたかった。諏訪には霧ケ峰へスキーにいったり、出版社の講演旅行でいったり、何度か訪れているのだけれど、いつもアタフタと通過するだけで湖畔に錨をおろしたことがないのである。いつかも氷上で穴釣りをしている人を旅館の窓から眺めて、ああ、うらやましいなと思ったことがあった。冬のモスコウ河でもやっぱり氷に穴をあけて魚を釣る人がいて、それを通りがかりに橋の上からじっと眺めていたら、リヴォーヴァおばさんが笑いながら、あれは魚の数より人間の数のほうが多いのじゃないかという評判ですよと教えてくれたことがあった。何を釣っているのかは聞きおとした。しかし、それから何日かして、木材労働者出身だという底抜けに善人のまなざしを持った巨大な作家に逢うと、これが釣狂で、記念にといって擬餌鈎をくれた。巨漢は窓の外に紐でブランデーの瓶をぶらさげていて、アジア人の客が書斎に入ってくるのを見ると、いそいそと窓ぎわにかけつけて紐をたぐりよせるのだった。そのアルメニア産のコニャックはよく冷えていてとてもうまかった。巨漢はテーブルに釣りの道具箱を持ちだして、あれやこれやと見せてくれたが、仕掛は日本のとほとんど変らないようである。しかし、擬餌鈎は鉛粒にペンキで色を塗り、テント虫に見せかけたもので、日本の数かずの顕微鏡的傑作にくらべると、子供だましといいたくなるような物だった。日本のスレたマスなら手をたたいて笑いころげそうである。茫然となって、これで釣れるのかと聞いたら、巨漢はおおらかに笑い、釣れるの何のって、といって眼を細くした。
さて。本日。世間の人は二本足で立ってウロチョロ働いているが、われらは断固として氷上にうずくまってワカサギを釣るのである。われらは布半旅館≠ニいうところに泊り、前夜、ワカサギ料理と馬肉の刺身と野沢菜の漬物をしこたま食べたから、今朝目がさめて窓に薄明と微光を見ると、寒烈の気にもかかわらず体内に、にわかに、神々の大いなる稚い笑いがみなぎりわたるのを感じた。ワカサギとバサシ=i馬刺しのこと。馬の肉の刺身のこと)のせいであろうか。何しろ前夜はお米を一粒も食べず、ひたすらワカサギだけ食べた。およそ物の核心に迫ってその神髄を把握するには精神を量と質に集中して徹底的にたたきこまねばならない。きだ・みのる氏はナマコが食べたいと思ったらナマコ、カキが食べたいと思ったらカキ、そればかりを朝・昼・晩三度、三度、四日も七日も十日もひたすら食べつづけるのだぞと私に教えてくれたことがある。そこで昨夜は、お通しにワカサギの甘煮、お椀にワカサギの吸い物、焼物にワカサギの塩焼、酢の物にワカサギの南蛮漬、揚物にワカサギのフライとワカサギの唐揚げと、ワカサギのテンプラを食べ、ほかにコイの生作りと、馬肉の刺身と、野沢菜、デッセールとしてリンゴを食べ、そのあいだ清淡にして艶麗なる銘酒真澄≠呑みつづけ、風呂に入らなかった。かくてワカサギはあらゆる方角から肉化されたのである。私は知らなかったがここの或る人びとはワカサギが信ずるに足る栄養源であると感じているらしい。昔、抗生物質がないときには、ひたすらワカサギを食べて胸を治したものだというのである。この土地の産である或る歌人もつぎのようにうたっている。
みづうみの
氷をわりて獲し魚を
日ごとに食らふ
命生きむため
島木赤彦
歌としてはいい作のように思えないけれども、当時の人びとがこの小魚によせた感覚がいたましく覗いている。病いも貧も赤く裸で痛く、生はこんな小魚に託すよりほかなかったのである。
魔法瓶に真澄≠つめてもらい、よちよちと氷の上へでていく。もうたくさんの人があちらこちらに散らばってさかんに竿をあげたりさげたりしている。おでんやの小屋が二軒でていて、そこでは竿も賃貸してくれる。われらはその小屋のうしろに三角の小さな穴をあけた。もと釣舟業をしていた原田さんという元気な御隠居が昨夜、宿で、お酒を飲みながらいろいろとワカサギの話をしてくれたが、今朝は釣竿を貸してくれ、ツルハシをふるって氷に穴をあけた。この人はそういう癖になっているらしく、ただの穴でいいところを正三角形の穴にした。どの穴もきちんと正三角形に掘りぬいた。竿は一メートルたらずの物で、布袋竹。黒染のナイロン0・8号が道糸。ハリスは透明で0・6号か。枝鈎が六、七本ついている。餌は紅サシ。これを三角穴に静かに入れる。この湖のこの場所は底が浅いので、オモリがトンと底につくまで入れる。トンとついてそのままにしておくと糸がたるむ。糸をたるませるとワカサギの微弱な当りが読みとれないから、いつも糸をピンとさせておき、静かに竿を上下する。ワカサギがとびつくと、かすかにブルブルとくる。それをグイとあわせてはいけない。グイとあわせると、魚の口が切れて、逃げてしまう。それくらい脆いのである。そのままスイとあげればよろしい。ホラ、二匹一度にかかった。ホラ、また釣れた。また釣れた。またまた釣れた。
サシはお尻が固いので、その皮を縫うようにして鈎を刺し、鈎頭を外へだす。チョン♀|けである。ここにコツがあって、深く刺すとサシがすぐ死んでしまうし、体内のおつゆが流れてしまってペチャンコになる。ワカサギは群れをつくって回遊する魚だから、食いだすとドンドン操作して群れを逃がさないように釣りあげるのもコツである。そこで釣りあげたら、むごいようだが、ワカサギを鈎からいちいちはずしていないでヒョイとちぎってしまうのである。氷の上に投げだされた彼女はあざやかに白銀と青を閃かして二、三度跳ね、大きな眼をまじまじ瞠ったまま息絶え、凍りついてしまう。たいへん上品な、素朴な釣りではあるが、ここがいたましく感じられるところである。
サシは一度つけたら何匹釣ってもとりかえなくていい。しかし、魚に突かれたり、呑まれたりしてすぐおつゆが流れてしまうし、水がなにしろ冷たいので、ほうっておくと凍ってカチカチになってしまう。だから小まめにとりかえるにこしたことはないのである。ワカサギは女、子供(これはバカにできないが……)、誰にでもひょいひょい釣れるのであるが、数を釣るとなるとやっぱり熟練と注意がいる。タナゴのときは百匹を一束とかぞえて、師たちは束単位で釣果を誇りあっていたが、ワカサギ師たちはキロを単位にしている。一キロ、一キロ半、二キロなどという。昨日の黄昏、乾いて鋭い寒風がひょうひょうと走る暗い氷の上で、見るからに百戦錬磨の古兵と思われるオンボロ人生が釣っていたので話しかけてみると、土地の釣道具屋の主人で、正月の三日休んだきりであとは毎朝欠かさずやっているという。原田の御隠居はこういうのをケダモノヘン=i狂≠フこと)と呼ぶ。このケダモノヘンと立話をした。
「いちばん多いときどのくらい釣るもんですか?」
「そうね、まず一キロから一キロ半というところでしょう」
「一キロって何匹ぐらい?」
「それはね、一度かぞえてみたですよ。すると、三百六十匹ジャストでしたね。大きさは二年仔でまずまずこんなもんですから、キロ三百六十匹というのがかたいところでしょうな」
「もっと大きいのはいないんですか?」
「三年仔ですか。いないことはない。たまに十二センチ、十四センチぐらいのが来ますが、稀れでね。そういうのは太閤≠ニいうんです。だけど味のほうはよくないね。味は二年仔のこれくらいのが一番です」
「どうやって食べるのが一番です」
「唐揚げにしてね、そいつを、こう、甘酢につけるんです。そうすると、何カ月もとっておけるんです。こいつで一杯やったら、そりゃあいいものだ」
よれよれドロドロのチャンチャンコで着ぶくれた師は赤くなった鼻をこすりこすりそういってニンマリと笑った。南蛮漬≠フことだろうか。それなら昨夜しこたま食べた。布半の女中さんの話ではサッと素焼きしてから唐揚げして甘酢につけたのだとのことであった。気づかない程度にトウガラシのみじん切りが散らしてあって、そりゃいいもんだった。カリカリに揚げた唐揚げとこの南蛮漬が昨夜のメニュのうちでは筆頭と思われた。淡泊な、清潔な、小さい脂がのっていて、冬のワカサギは絶妙である。私は昨夜、この魚について、コペルニクス的転回を遂げた。これまであちらこちらの旅館やレストランで食べたワカサギの、ことに揚げ物は、シネシネベちゃりとしていて、まったくよくなかった。これはカリカリに揚げなければいけないのである。あとで原田の御隠居が自分の家へつれていって、カリカリ揚げをドンブリ飯風にして食べることを教えてくれたが、これまた、そりゃあいいもんだった。御隠居のいうには、ドンブリ鉢に大根おろしをたっぷり入れ、それに酢醤油をかけたのを穴のふちにおいといて、釣れるあとからほうりこみ、ピンピン跳ねまわるところをサッサッとまぶして頬張ったら、そりゃあいいもんだとのことである。それはたのむ、ぜひたのむ、おねがいと、昨夜たのみこんだら、老はニンマリ笑って固く約束してくれたのだったけど、今朝、家へいったら竿しか持ちだしてこなかったので、残念であった。
「山中湖のほうでは、何でも、安全カミソリでワカサギの刺身を作るというんだ。そいつはとてもうまいそうだよ。板前さんにそういって、作ってもらえないかしら」
布半の女中さんにそういうと、女中さんはニッコリ笑い、ハイ、ハイといっておりていったが、しばらくしてあがってくると、生のワカサギにはジストマの危険があるので避けました、という。
ワカサギには一つの不思議があると知った。原田老の話によると、たとえば去年はおよそ十七億粒という卵を諏訪湖に放したそうである。ワカサギはせいぜい三年しか寿命のない魚で、彼女たちはきわめて活溌に、貪婪に、大きな眼を瞠っていきいきと生を疾駆していくのである。だから、六センチぐらいしかない二年仔の小さな体も、あれですでに人間なら熟しきった黄いろい麦なのである。艶麗、豊満の大年増なのである。その脂も、その滋味も、ことごとく眼の大きなマダムのそれだと察すべきところのものである。ところが、三年経って彼女たちが生を完了しても、死骸が湖に浮いたのを見たことがないと原田老はいう。漁師に刺し網でとられ、ケダモノヘンにキロでとられ、観光客に匹でとられしたところで、まだまだおびただしい数のワカサギが残っているはずである。フナ、コイ、モロコ、ハヤ、テナガエビなどが湖族だけど、ワカサギの天敵としてはナマズがせいぜいいるくらいである。ライギョがはびこってワカサギをおびやかしたことがあったが報奨金をつけて絶滅してしまい、いまはナマズが残っているくらいである。いくらナマズが貪食漢でもワカサギの全群団を呑みこむほどとは思えない。すると、彼女たちはどこへ消えるのだろうか。息をひきとったらたちまち分解してプランクトンの体内へ拡散、輪廻していくのだろうか。魚でも人でも溺死体はきっと水面へ浮いてきて、膨脹し、匂いをたて、それからゆるゆると分解して消えていくものではないか。だのに老は十五年も二十年も釣舟屋を営んで春夏秋冬、諏訪湖の東西南北を凝視しつづけてきたが、かつてワカサギの自然死体というものを見たことがないという。これは不思議なことではあるまいか。≪大魚、小魚を啖う≫とブリューゲルが図解した、あの苛烈な自然の法は天敵にみちみちた海でこそ起るけれど、人間が完全にといっていいくらい抑制し、統治しているはずのこの湖で、ワカサギの群団はどこをやぶって姿を消していくのだろうか。
今日は日曜日なのだった。魚が釣れるのは、早朝と夕方で、ワカサギも例外ではなく、八時頃には食いがやんでしまった。原田老はピアノ釣り≠ニいう奇手を教えてくれた。それは、鈴木魚心氏の考案で、いまはあまり流行《はや》らない。どうするかというと、穴のふちに二、三本の、あの短い(三十センチくらい)穴釣竿を並べ、糸を水に垂らしておいてから、穂先のクジラのヒゲをピンピンはじく。すると人がいちいち上下させなくてもヒゲはしばらく一人でピンピンと上下する。三本がいっせいにピンピン上下する。われらはそれをふところ手をして眺めていたらよろしい。ワカサギが食いつけばヒゲがブルブルするのでわかる、という無精釣りである。いろいろなことを考えるものだと感心していると、今日は晴れているけれど寒さがきびしく、氷がしきりに割れる。ゴン、ゴンと音が走るのである。それは空や湖岸や山にもひびくほどの轟きである。釣っている足のうらや股のあいだを音が走っていくと、これは氷結の圧力がせめぎあっているのだから絶対大丈夫なのだと知ってはいても、何やら無気味である。長い、鋭い、ピシーッと裂くような音が走りぬけることもある。
いつのまにかあたりには足の踏み場もないくらい人がひしめきはじめた。まるで冬のお花見である。少年。少女。娘。青年。おじさん。おばさん。爺ィちゃん。婆ァちゃん。みんなコロコロに着ぶくれて、竿を上下させ、叫んだり、笑ったりしている。木箱、椅子、ポンチョ、スノウボート、ソリなどにめいめい腰をおろしてやっているが、なかには古タイヤに乗っかるものもあり、或る一団などは緋毛氈にあぐらをかき、七輪に火をカッカッとおこし、そこへ金網をのせ、ワカサギを釣るあとからあとから焼いて食べていた。家長らしいのが茶碗酒をチビチビやりながら片手で釣りあげると、その妻がキャッキャッと笑いつつ鈎からちぎっては金網へのせるのである。この一族の周辺には瑞気と生気がキラキラ輝きつつうごいていた。こりゃあいいもんだと感嘆して見とれていると、旺《さか》んなる家長は茶碗酒を口に含み、私を見て、ニンマリと笑った。そりゃあそんな顔になるだろう。
叔父と甥らしいのが大声で話している。
甥が、叔父の肩をたたいて
「竿も問題だけど、穴がカンジンなんだよなア、叔父さん。穴が悪けりゃしょうがないよ。女の人とおなじだよなあ」
と叫ぶと、叔父はニコニコ笑い
「そうだよな。まあ、ナ」
甥は元気よく
「穴の恰好もなァ。問題だよなァ」
と叫ぶ。
叔父は微笑しつつもいぶかしげに
「恰好?」
とつぶやく。
甥は一人でクスクス笑い
「何だい、知ってるくせに」
と叫ぶ。
叔父は、頭をかしげ、やっぱり
「恰好、恰好……」
といぶかしんでいる。
湖岸にはズラリとマイ・カーが並んでいる。ナンバー・プレートを見ると、山梨、長野、松本、東京が多いが、なかには浜松というのもある。ずいぶんケダモノヘンがいるわけである。この湖はよほど人気がある。
屋塚《やつか》漁≠ニいう素朴な漁を見た。これはこの湖だけの古式漁法で、江戸時代から伝わったものだという。湖の底のあちらこちらに、ゴロタ石をほうりこみ、塚を築いておくと、冬になればコイやフナやナマズが寒がって石のあいだへ逃げこんでくる。頃を見てでかけ、氷を丸く切り、簀の子をおしこむ。簀の子は塚をとりかこんで、魚が逃げられなくなる。簀の子の一箇所に穴があけてあって網が張ってある。チャンチャンコで着ぶくれたおじさんがやってきて、長い柄のついた馬鍬で湖底を掻き、ゴロタ石を一個、また一個とあげる。ウトウトしていた湖族たちはうろたえて、眼をこすりこすり網のなかへ逃げこむという次第である。あげた石をどうするかというと、ちょっとはなれたところに穴があけてあって、そこへドボン、ドボンとほうりこむのである。するとそこに塚ができ、湖族のアパートとなる。コイやフナやナマズが寒い、寒いといってもぐりこむ。そこで頃を見て氷を切り、簀の子をおしこみ、石を馬鍬でひっかけ、その石をちょっとはなれた穴へドボン、ドボンとほうりこむと、そこにまた塚ができ、コイやフナやナマズが寒い、寒いとこぼしながらやってきて……
子供たちがスケートをしているよこでチャンチャンコは古手拭いで頬かぶりし、寒風にさらされつつ、ジャボ、ジャボと馬鍬を操ってゴロタ石をあげている。手さぐりで引っかけるのだから、これは大変な労働だろうと思う。原田老の話によると、一日働いてもいくらにもならないから後継ぎがいず、若者はいやがって家業を捨て、工場や会社に勤めたがり、年を追ってこの漁は廃《すた》れていくようだとのこと。時の流れに馬鍬一本でさからうのは容易じゃないと聞かされた。
「漁のぐあいはどうです?」
声をかけるとチャンチャンコはむっつり黙ってゴロタ石をあげつづけ、しばらくしてから、いきなり
「新聞社か。新聞社ならごめんだぞ。答えてやらないから」
といった。
「新聞社じゃないですよ。テナガエビなんかもとれるんですか?」
チャンチャンコはふくれたきり
「ダメだ」
という。
「近頃は水が汚れていけない」
そういったきり、ふくれてゆがんだまま、ジャボジャボごぼごぼ水を掻きまわしつづけた。氷の穴のなかで水がまっ黒になっている。石をあげるために底を引ッ掻きまわすから泥ンこになるのである。これでは魚がくさくなってしまいはしないか。たずねてみようかと思ったが、ふくらみと、ゆがみと、風の苛酷さを考えてやめることにした。
ワカサギは繊弱な魚で、ヒレがとても弱いから、釣っても手ごたえがあまりない。タナゴのほうがヒレが強くて、よく抵抗する。だから数を稼ぐ釣りをするなら話は別だが、一匹一匹の当りを楽しみたいのなら、よほど竿が敏感なのでないといけないと思われる。竹ボウキからぬいたような布袋竹でも釣れるし、なかには箸に糸をくくりつけてやっている人もあり、さらに無精なのになると旅館からドテラ姿にヘップのサンダルをつっかけてやってきて、竿なしの手で脈釣りをしている人もいる。しかし、道具だけに眼を凝らして歩いてみると、タナゴ師同様になにげない業物≠ニでもいうべき逸品を駆使している師に出会うこともしばしばである。いいかわるいかわからないが、たった四十センチか五十センチくらいの竿に豆のようなリールをとりつけている人もいた。いちばん敏感なのはクジラのヒゲを穂先に使うことだろうが、グラス・ロッドの極細を使っている人が多い。それはいささか化学の匂いがたちすぎ、キラキラと新しすぎ、和竿のにじみだすようなあの味わいとアトモスフェールにくらべると、ちょっと眼をそむけたい気がしないではないけれど、敏感で、よくふるえ、よくしない、とても有能ではある。私の印象としては、穴釣竿で穴に密着して釣るよりは、一メートルくらいの竿で穴から少しはなれたところにたって操作するほうが動作が速くて、テキパキ身うごきできるようである。
今度来てわかったことだけれど、諏訪湖では一年中、魚釣りができる。氷のあるあいだはワカサギ、それがとけたらフナ、つぎにコイ、この季節には子供だましみたいだけれどモロコもやれる。つぎにナマズ、それがすむとハヤ、八月にはテナガエビ、秋風が吹いて結氷する季節まではまたワカサギ、これは舟で釣る。テンプラ鍋を舟に積みこんで、釣っちゃ食べ、食べちゃ飲み、飲んじゃ釣りというフトい大名ぶりである。冬は釣りに飽いたらスケート、スケートに飽いたら霧ケ峰へスキーにというわけで、このあたり観光宣伝めいてくるが、住民諸氏が諏訪を中央線の真珠≠ニいいたがる気持もよくわかる。私のような風呂嫌いの客にはどうッてことはないけれど、旅館の風呂では年中、天然湧出のお湯がふんだんに流れっぱなしに流れているのも魅力なのであろう。
いつか諏訪へきたとき、旅館でなにげなくだされた日本酒がひどくうまくて、おどろいたことがあった。女中さんにその酒の銘を教えてもらうと真澄≠ニいうのだった。そのときは文藝春秋社の講演旅行で、奥野信太郎氏、田村泰次郎氏についていったのだったが、両氏ともこの酒を激賞した。私は関西育ちで、灘の酒ならいくらか知っているが、地方の酒にはまったく暗い。しかし、近頃の日本酒はどこで飲んでもいやにベタベタと甘く、含みとひろがりがなく、舌にもたれたり、こびりついたりして、浅薄なくせにクドいのである。ところがこの真澄は清淡で、かつ豊麗なのに、おどろかされた。
東京へ帰って岩波書店の知人に、諏訪にはとてもいい酒があると吹聴したら、何だ、今頃知ったのかといって、笑われた。ワカサギ釣りをしたあと、その話をしたら、布半主人が酒倉を見ますかとすすめ、電話をかけてくれた。喜んで、いってみると、酒しぼりには空圧式のミクロ・フィルターを使うが、こうじは昔通りに手でやるといったぐあいで、和魂と洋才の二頭の手綱をよくひきしめている印象が深沈とした、暗い清潔な倉のいたるところに感じられた。黄綬褒章をもらったという眉雪の老杜氏にも紹介され、しぼりたてのモト酒をすすりつつ、いろいろと苦心談を聞かせてもらった。私は日本酒は剣菱か菊正宗ときめていたが、今後は真澄をワイン・リストに加えることとしよう。(この件り、飲まされたからのコマーシャルではありません。酒がマズければ誰が酔狂に倉までいくものですか)
男の神様が対岸の女の神様のところへいく通路なのだといういいつたえになっている御神渡り≠フ現象は寒気と氷結のために起るものにはちがいないが、その真因はじつのところ、まだ科学的にハッキリとつかめていないとのことである。近年は暖冬異変のせいか、何か、クッキリと一筋にピシーッとヒビのいくことが少なくなり、神様は少し無精になっているのではないかと思われる。それよりも、土地の人びとは、今年は御柱《おんばしら》の祭り≠ェあるので張りきっている。寅の年、申の年、七年に一度めぐってくるこの有名な奇祭をまだ見たことのないのが残念である。諏訪大社の上社《かみしや》の本宮と前宮、下社の春宮と秋宮、それぞれ四本ずつ、つまり計十六本の巨大な柱を八ケ岳あたりの森から切りだし、えいやえいやと、一本の柱に何百人もの若い者がよってたかって、谷をわたり、崖をおとし、川をこえ、野をこえして町まではこんでこようというのである。柱といっても七トン、八トン、十トンはあろうか、長さは十二メートル、十三メートル、十五メートルはあろうか、まことに太ぶとしく長く、かつ重く、かつ強い古代の勇みであって、それに直径三十センチはあろうかという男綱、女綱をかけて、数知れぬ男や女が、歌ったり、曳いたり、乗っかったり、はじきとばされたり、ころがったり、喧嘩したり、怪我したり、落っこちたり、呻いたり、死んだりしつつ、力をいたすのである。昔は沿道の家々では重箱に御馳走をつめこんで戸や窓をあけておき、見ず知らずの人がとびこんできてもとめどなく飲ませたり食べさせたりしたそうである。ためにこの年にはムコとりをするなといわれたくらいのエクストラヴァガンツァ(どんちゃん騒ぎ)。一つの宮にそれぞれ四本の柱を建てるのは東西南北を鎮護する、聖域を画する、また七年ごとにいちいち宮を造営しなおすのはしんどいからかわりに柱で象徴しておく、そのためである……などと解説されている。けれどフロイト学派ならたちまち特異の鼻で性の匂いを嗅ぎつけるかもしれぬ。祭りという祭りにはきっとどこかに隠見する男根崇拝、パンタグリュエリスムがここにもあるということになる。男や女が巨根をかついで、すべったりころんだりして洪笑しているところが鳥羽絵か何かにあっただろう。あれではないか。十六頭の巨大なるソレが山野をわたり歩き、さまよい歩いたあげくに優柔な町をドンと突き、グイグイとつらぬき、ふるわせ、ゆるがし、豊饒を惜しみなく放散しつつ前進、突貫、また前進である。このとほうもない巨大物と、この一閃の微小なワカサギと。すなわち諏訪の町では両極端が一致する。
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カジカはハンマーでとれること
「……冬は谷川の水がかれ、鮠は石垣の根の穴に身をひそめてゐる。それで私は釣竿の代りに大きな玄翁を持つて川におりて行き、鮠の身をひそめてゐる岩を満身の力をこめ玄翁でたたくのである。カーンといふたくましい音がして、きなくさいにほひがする。同時に、岩の下から鮠がバネ仕掛けの作用によつたやうに出現し、水のなかに停止する。玄翁で岩を打つ音は、鮠にとつては青天のへきれきである。煩はしいなどと思ふ間もないだらう。すなはち鮠は、きよとんとしてゐるのである。そこを私は落着きはらつて網ですくひとる」
これは井伏鱒二氏の名随筆集『川釣り』のなかにある『鮠釣り』と題する文章の一節である。前後のいきさつから察すると、発表されたのは戦後だが、書かれてあるのは戦争中、疎開先の田舎でのことらしい。独特のキメのこまかい、やわらかなユーモアとおとぼけがでていて、この随筆集はほのぼのと心をひらいてくれる。名著である。
玄翁≠ヘゲンノウ≠ナあって、大きな金槌のことである。つまりハンマーのことである。玄翁和尚がそれで殺生石をたたき割ったのでそう呼ばれるようになったのだと賢いモノの本にはでている。それで井伏氏が冬枯れの川岸へハンマーをかついでおりていく姿が見え、そろそろと足をしのばせて岩に近づいていく姿が見え、また、世のため人のためでなく満身の力でやにわにそれを岩にたたきつける姿が見えてくるのである。人が自身や時代からのがれるために凝らす工夫はじつに千態万様であって、ひたすらレンズの玉をみがいていた人もあり、鈎のない糸を川に垂れる人もあり、ハンマーで小魚をおびやかす人もある。
「井伏さんのことだ。創作の名人だ。おまけに釣師だ。釣師で創作の名人なんだから、ウッカリ真にうけられないぞ。これもウソか、マコトか……」
いつか私がそういう意見を洩らすと、堀田善衞氏の養子になった中野青年が、笑いながら口をだし、イヤ、それはホントでしょうといいだした。彼の故郷は茨城で、子供のときには川へはいって岩に岩をぶっつけて魚の目をまわしてやったものである。その魚はハヤとかヤマベであった。だから井伏氏がハンマーで岩をたたくのは考えられないことではありません。いや、きっとそれはそうでしょう、と声を強くする。ほかにボクの国ではアンマ釣りといって、竿さきに一メートルか二メートルくらいの糸をつけ、オモリも何もつけず、鈎にチョロ虫を刺して、川を上流からジャブジャブとおりていく。ときどき竿をしゃくる。すると下流からさかのぼってきたハヤがとびつくのです、といって、いきいき眼を輝かせる。
西日本と九州の釣場を紹介した某新聞社刊の賢いモノの本によると、福岡県|京都《みやこ》郡の犀川町に祓《はらい》川という川が流れているが、そこでは昔からゲンノウで魚をとっているとある。その川は底が浅くて大きな石が水面に頭をだしている。そこへ二十キログラムもある大ゲンノウ≠力いっぱい≠スたきつける。すると魚はふらふらになって白い腹を見せて浮きあがる。そこを網でしゃくいとる。昔はこれでアユがとれたこともあったが、いまはハヤ、フナ、ドンコ、カマツカ、ギギなどである。いつ頃からはじまったのかわからないが、年越し魚に試みられる漁法≠ナあることはたしかで漁期≠ヘ秋落ちから寒明け、魚が寒がって岩のしたにかじかんでいる期間だと、その本は知らせている。ジャンパーを着た人が川のなかの岩にたってハンマーをふりあげている挿画があって、このコラムの短文の末尾はつぎのようになっている。
『……大漁のコツは魚のいそうな石を見つけることだが、いまでも、ベテランになると一打二十尾といわれているからたいへんなものだ』
漁期=A漁法=Aベテラン=Aたいへんなものなどという字が見える。心がだんだんせいてくる。ドンブリ鉢が浮いてくる。やってみよう、やってみようといってそそのかすものが顔をだす。私は本を閉じながら、ウン、これはどうも子供の遊びではなさそうだぞと思う。子供になることを求めているはずなのに一応はそういって聞かせるわけである。
いろいろとさぐってみると那珂川の上流でもやっているらしいとわかった。これは那須山中からくる川で、幾つもの枝川の水を呑みつつ広くなり、那須野ケ原に栄養を積みつつ流れ、ついには水戸市に入り、太平洋にそそぐ。両岸の流域でハマグリやアサリやヒトデの化石層が見られるのはそのあたり一帯が昔は海底であった証拠で、あの渺茫とした那須高原そのものが大いなる毛深い時代には海底にあったのだという。那須高原は御用邸とゴルフ場と避暑別荘地として有名であり、殺生石の伝説も有名であり、その麓の黒磯町は九尾弁当≠フ駅弁で知られている。しかし、茨城、栃木の両県を流れる那珂川にはヤマメはもちろん、ハヤ、カジカ、コイ、フナ、ウナギ、ウグイ、土地の釣師のかぞえる筆頭としてアユ、そこでサイと呼ぶスズキに似ているらしい魚、また季節になるとサケやマスなども太平洋からさかのぼってくる。そのように襞と翳と栄養のゆたかな川であるらしい。その川の上流で、昔から、ハンマーで岩をたたく遊びを大人がしてきた。いまはかなりすたれてしまったが、昔は村の鍛冶屋にわざわざそのためのハンマーを打たせたもので、木の柄だとガツンと手がしびれ、力が逃げてしまうから、よくしなう細身の鉄棒を柄としてつけたものである、というのである。子供のときにそれで遊んできた人がそういって確言してくれ、通《つう》を紹介しましょうと連絡をとってくださった。そこで私は、もうそろそろ寒さがほどけてハヤは岩からでて遊びにうごきだしてはいますがきっと大丈夫でしょうといわれ、釣竿もハンマーも持たず、特製強力のマークのついたヘヤートニックと二、三冊の本だけを革袋に入れて上野駅から電車に乗りこんだのである。
うごく物に乗ってうごかない物を眺めると、手前のほうの物体は家も看板も色彩も、すべてが渓流のように縞となって流れ、何かしら華やかで朦朧とした波と見えるが、遠方の諸物は色彩も文字もかたくなに正常に形のうちにとどまって眼と判断にさらされるまま佇んでいる。どちらを見るべきか。同時にどちらも見るべきなのか。どちらか一方だけを見て寸旅のたのしい偏見を養うべきであるのか。不動の遠方から近方の混沌を見て養うのもたのしい偏見。近方の混沌を漉《こ》してかなたの不動の『福助足袋』の野立看板を見るのもたのしい偏見。どちらをとるべきであるかと思って窓辺で眼をまじまじ瞠っているうちに何だかクラクラしてきて気持がわるくなったので、眼を閉じ、お茶をすすりつつ、エビセンベイを食べてみた。それは新宿のターミナル・ビルの地下の名店街で買ったのだったが、あまり上品すぎてコクがなかった。
魚とりはプレイである。魚とりを生業とする人は別だが、それ以外の人は、プレイとして魚をとる。そのことに唯一の救いを求めている人も多い。魚を殺すことで生きのびていく人、それだけで生きのびていく人も多い。そこで、このプレイをフェアかアンフェアかという点から見ると、どうだろう。魚はヒトよりもはるかに古くからこのテラ(地球・土地)の先住者である。ヒトはずっとずっと遅れてやってきて、魚と同棲し、やがてそれを超え、ついで侮蔑しはじめ、誇りに酔い、いまはむしろ好敵手が減りつつあるので狼狽しているが殺生はやめられないという段階である。ヒトはたいてい魚の食う自然の一片を餌にして魚を釣って技と知恵を誇っている。または魚の心を読みとったと思って格闘後に満身へ清浄の、いいようのない愉悦をおぼえて、きびしくもあどけない誇りに浸る。これを工業の点から見ると、ヒレと顎でしか抵抗できない魚をナイロン糸、ダクロン糸、無数の歯車や液をくぐったあげくの物体に原始のスズコをつけてヤマメを釣っているわけである。ナイロンはテグスのように容易には切れないし、鈎は年を追って精妙になる。ヤマメはどうあがいたって逃げようがない。スズコを食うか、チョロ虫を食うかは彼女の意志だが、そこから一ミリうえは茫漠、厖大な科学の野であって、怪奇、異様、無秩序にしてかつ精妙、ヤマメにはどう手のつけようもない。
ナイロン糸がヒトにとっては自然であり、チョロ虫がヤマメにとっての自然であるが、ヒトはナイロン糸のさきにチョロ虫をつけるのだから、ここで問題が起ってくる。ナイロン糸に擬餌をつけてヒトがヤマメを誘うのなら、それはヒトの|自然という不自然《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》そのままに徹しているということになるが、糸はナイロン、餌はチョロ虫であれば、不自然と自然の奇怪な結合ということになる。遅れているのはヤマメで、進んでいる≠フはヒトだということになる。そんな幼児虐殺のようなアンフェアプレイで私は酔うことができないから、ここでハンマーを選ぶ。これですら鉄器時代であって、アンフェアプレイである。ヤマメ、ハヤのたぐいは石器時代からおなじ本能と反射で暮してきたのだから、彼女らとほんとうに格闘したとヒトがいいたいのなら、鯉とりまあしゃんのようにパンツ一枚で淵へ沈んで手掴みすべきである。それこそ人智と魚智の対等の格闘なのである。石器時代にも魚骨の釣鈎があって、糸があって、すでにハヤはハンデをつけられ、鉄器時代となればすでにハンマーはできていて、さらにハンデはついていたことであろう。釣竿、糸、槍、投石器、刀、車軸、車輪、鍬、鎌などはすべてヒトの世界では巨大、画期的な産業革命と見られているけれど、本質的には二本足でたちあがることができたためにヒマになった二本の手、手そのものの、形を変えた延長にほかならなかったのである。釣竿、釣糸とは延びた手、つまり義手であり、浮子、錘り、鈎は義指であり、義爪なのだった。間接接触の媒介手段にほかならない。つまり、ジェット機やテレビなのである。そういうイカサマに私はウンザリしたから、本日は、ホンモノの手と足を使って鉄器時代にさかのぼり、岩に岩をぶっつけていた先覚の跡をしのんでみようと思うのである。岩を鉄にかえたところにすでにいまわしい進歩≠ネるものの病毒は匂うけれど、本日はただ肩と腰の非日常的疼痛を捧げるつもりであるだけだから、魚へんに危いと書いて表現される鮠《はや》族諸君はめいめいの反射のままに逃げるなり、メマイを起されるなり、好みのまま行動されたい。釣客≠ナはなくて打客≠ネのですぞ。
よろしいか。
電車は疾走しますぞ。
大昔は海底であったはずの那須高原の頂上にあるホテルに黄昏頃に着いたが、窓から眺めると、高原はうねり、波うち、私はさながら昏れかかる空に漂うような力弱さと不安をおぼえるようであった。その一瞥は豪壮であり、渺茫ともしていて、岬の岩に佇むのとおなじ感動があった。林や森は枯れつくしてところどころに残雪の斑《まだら》をのこし、淡褐色のたくましい波、波、波が声なくかさなりあいつつ、のたうちつつ広大な蒼暗の界にひしめいていた。その水平線のはるかかなたにどこの町の灯か、空に散らされた砂粒のように小さな閃光を発して輝いているが、形もなく、線もなく、円もなく、意志の痕跡は消えて、ただひとつまみの哀れな星雲とさえ見える。眼をあけると雄大であり、眼を閉じると凛冽として寒い。二、三度まばたくうちに波はことごとく夜に併呑され、ただ星雲状の灯が広い闇のなかに漂うだけとなった。夜光虫のようだという人があるかもしれない。螢の群れという人があるかもしれない。けれど私はある岬の夜の南支那海の光耀とメコン河の息を呑むような巨大な蒼白に輝く叢林を思いだすので、すぐにはウンといって同意できないかもしれない。
やがて三人の訪客がある。めいめいふいにといった恰好で部屋にあらわれ、ハンマーのことをたずねるとちょっとその話をしてから、あとはひたすらヤマメやアユの話をして消えていった。一人は漁業組合の組合長さんで、立派な顔立をし、流暢に柔らかくヤマメ話をひとしきりした。上流の森の乱伐、農薬、ダム工事、簗争い、減水、魚釣りブームなどで魚は減ったし、毎年減りつつあるけれど、まだまだこのあたりでは釣れる。よそではハヤ釣りをさわいでいるらしいがここではザコといって、土地の者はふり向かない。子供と東京者が釣るくらいである。われわれが眼の色を変えるのはアユと、マスと、サケでしょうかな。マスは数が少なくなったけれど、潜ってヤスで突けば一度に二匹刺したという話もあります。大きいので、そうね、一貫二、三百匁というところかね。御用邸のなかを川が流れているが、そこには尺物のヤマメがメダカみたいにいるはずで、釣師はその禁漁区から迷いでてくる、いわば御下賜品を釣っているのだが、不平をいうことはない。やたらに釣れるヤマメなんていっこう面白くない。釣れないのを釣ってこそ面白いのだ。高原にいくと沢がいっぱいあり、そこの膝まであるかないかのチョロ流れには、ウンとヤマメがいて、わしらはそれを藪かげから短い竿をだしてひっかからないようにしてチョウチン釣りでやるんだ。餌か。スズコじゃない。チョロ虫がいちばんだ。河原の石をひっくりかえしたらチョロチョロ走るの、あれじゃ。足を一本も折らないであれを鈎にかけられるようになったら一人前じゃ。
私がハンマー打ちのことをおそるおそるたずねると、組合長さんは鷹揚にうなずき、けっして子供の遊びだとはいわないで
「昔はあれも鍛冶屋に特別註文で打たせまして、鼓型の物を作り、柄もよくしなるような鉄の細い棒にするというぐあいでしたが、いまはすたれましたな」
といったが、それきりであった。
彼が消えてしばらくすると黒磯町の若い銭湯屋さんがあらわれた。この人はアユ釣り専門で、マスもヤマメもハヤも知ったことではなく、ただひたすら釣りといえばアユの友釣りだけしか知らぬという。ドブだの、コロガシだのといわれても眼もくれず、ただもう友釣り一本に打込み、期間中は晴、雨、曇、暑にかかわらず一日も休まない。ではそのあいだ誰が風呂をわかすのかと聞くと、彼はいたましい、くやしげなまなざしで眼をパチパチさせ、早朝に河原へかけつけて正午《ひる》すぎまで釣り、それから家へとんで帰るのだといった。ためしにこの人にマス、ヤマメ、ハヤのことをたずねてみたが、食欲と脱出欲を喪った檻の動物を棒でつつくような反射しか見せなかった。ハンマー打ちのことをたずねてみると、さあ?……といったきりである。
そこへおなじ黒磯町から野間宏氏にそっくりの長大なる体躯に肥満の肉をつけた、ハシバミの実のように小さな眼をした、けれどその眼は辛辣に、かつ鷹揚に、敏捷にうごくという大人風の人物があらわれた。この人は聞いてみると黒磯町の不動産屋さんであるが、かたわら奥さんに乾物屋を営ませ、アユの季節になると一日も欠かさず河原にかよい、それをここ三十年ビッタリと≠ツづけている。アユ釣りといってもドブだのコロガシだのとどんな言葉でささやかれたってふり向くことなくただもう友釣り一本であるという。さきにあらわれて消えた組合長さんが名人でいまやこの人が名人を襲名し、お風呂屋さんはその跡を追おうとけんめいである。やせたお風呂屋さんは太った不動産屋さんにひたすら師事のそぶりを見せたが、ふとしたはずみに、もう五年したら師は体力が落ちてくるにちがいないからそうなったらオレが名人になるんだと、いい放った。師はそれを聞いてもウッ、フッ、フと笑ってとりあわず、悠々としてナメタケとりの話などしていた。まず宮本村の武蔵《たけぞう》と、宮本|武蔵《むさし》の違いということになるか。
二人は仲がよくて、とめどなくアユの友釣りの話をはじめた。まず親子ぐらい年がちがうかと見られるのだが、話をするというと二人ともアユの友釣りのほかには何も話をすることができず、いうことは口をそろえたようにまったく符号が合い、その関係はまるでくちびると歯みたいなものであった。唇歯輔車≠ニはこういう二人をいうのではあるまいか。くちびると歯、頬骨と歯ぐきの関係である。何しろ二人とも三百六十五日をアユにあわせて分割し、かつ統治していて、お風呂屋と乾物屋、奥さんにでもできる仕事を生業として選び、期間中は何をいわれても体のなかに那珂川が流れるばかりで耳には入らない。不動産屋というのはたえまなく耳、目、口をはたらかして情報を集めなければつとまらない仕事だと思うのだが、三カ月半というものはバッチリ切断してどこ吹く風だという。囮のアユの鼻にとおす鼻環に何を使うかをアレでもない、コレでもないと取捨していくうちにとうとうパチンコのバネにたどりついたのだが、どれくらいこの発見、発明に悩んだことか。(パチンコのバネを一度、七輪でコッテリと焼いてから切って細工するのだそうである。こういう重大ニュースをこう手軽に書いていいものか、どうか……)
そこでハンマー打ちのことをおそるおそるたずねてみると、お風呂屋さんは何も知らなかったが、不動産屋さんは、知っている、聞いたことがある、ハンマーを持っている男も知っているといった。アユの友釣りのほかに師が話してくれた那須高原一帯と那珂川の話はサケ、マス、ヤマメ、ザコ、カモシカ、キジ、イノシシ、テンなどであり、かなりの部分は声がとくに低くなることもない、はなはだおおらかな口調による密猟話であった。特別天然記念物に指定されているはずのカモシカの生皮がたったの五千エンで、アッと思うと、それをナメすのが二万五千エンかかる、といったような種類の話であった。釣師の話だからグッと割引くとしてもそれはやっぱり眼を瞠らせられ、そんなことがあっていいのかとおどろきながらちょっとどこかで欲しいなと思ったりさせられる話であった。そういう話のあとへ金槌で魚を打つ話を持ちだすのはどうにも心細く、アホらしく感じられることだった。それほどにもわれらは自然から、大きく毛深い自然から隔離、無菌化、不能化されてしまったのだ。
翌朝早く、まだ高原の疎林の残雪の穢れた白が眼に痛く感じられる時刻に不動産屋さんとお風呂屋さんがあらわれた。自動車で高原を大きく右にくねったり、短く左にくねったり、まっすぐどんどん走ったりするうち黒磯の町をすぎ、那珂川に沿って松林にさえぎられつつ走っていった。一軒の駄菓子屋さんで魚とりのケダモノヘン(狂の意)氏に紹介され、その人からまたヒゲづらの若い、眼のいきいきした、朝からお酒を飲んでいるお百姓のケダモノヘン氏に紹介されるが、二人とも都合が悪くてと、いたましい顔をする。そこで二人が三人組≠ニ呼んでいるもう一人のケダモノヘン氏のところにいくことになり、またズンズンと走っていく。ある川岸でとまり、いわれた川原のある場所へいこうと、低い堤を歩いていくと、とつぜん乾いた田ンぼの間から肩に竹で編んだショコ(背負い籠)を背負った初老の小柄なおじさんが、胸まである漁師のゴム長を着こみ、肩にハンマーをかついでひょこひょこと歩いてくるのに遭遇する。すなわち鉄器時代者が求めに応じてちびた≪新生≫をくちびるにくわえてあらわれたのであった。
ついに打師《うちし》の登場である!………
師は枯草を踏みしだいて川原へおりるとショコをおろし、ハンマー片手にジャブジャブと瀬へ入っていった。もう寒明けだからハヤはうごきだしている。魚のいる石を見つけるのがカンジンだ。ゴミ屑がひっかかって影になっているような石がいい。水が小さく渦を巻いているような石もいい。一つハタいて≠ンるべえか、などとつぶやきつつ師は鋭いまなざしで川を見わたしてから一個の石に近づき、やにわにハンマーをふりおろした。広い川原に音がひびきわたる。たしかにそれはカーンというたくましい音≠ナある。けれどたいへん孤独な気配もこもっているようである。たちまち起って、たちまち消えた。こだまが川原を走り、空と堤と森とに吸いこまれる。師はつぎつぎと石をたたいて歩いた。石は割れてとび、水煙があがる。ようやく七発めか八発めで、七センチくらいのハヤが二匹とびだした。師はそれを川のなかから手で拾いあげた。ハヤは二匹とも目がまわり、尾が小さくピリピリしているが、グッタリとなって、跳ねも躍りもできない。
不動産屋さんが
「脳震盪を起すんだなあ」
といった。
お風呂屋さんが
「えれえショックなんだね」
といった。
私が
「衝撃波ってやつだなあ」
という。
石のしたにハヤはかくれて眼を光らし、外へでて餌をあさりまわらなくちゃいけないが寒いのでおっくうだな、こうしてジッとしていたらチョロ虫が鼻さきへ流されてこないかなと、まるでコタツにもぐりこんで現金封筒ですゥの声が玄関にひびくのを待ちわびるように待ちわびていたのである。そこへ突如として、まったく突如として大衝撃が落ち、キャッと家をとびだしはしたが、そこでもう全身がしびれて、どうにもならなくなってしまったのだった。家鳴震動である。天地玄黄、晦冥濛々である。鈎で顎を裂かれ、水のなかをのたうちまわり、空中へとびだして窒息にもがき、魚籠へほうりこまれてさらに乾いた音をたててもがく責めにくらべれば、いっそこれは安楽死に近いものか。瞬間にして完璧であるか。
「……一丁、やらしてください」
師からハンマーをうけとると、四キロあるのか、五キロあるのか、ズシッと肩へくる重量。そいつを、こう、真ッ向にふりかぶって足もとのめぼしい石をめがけてたたきつけると、カーンといったはずみに石が割れ、水がしたたか顔と上半身にしぶき、眼鏡がグショ濡れとなる。あわててそいつをこすって水を透かし見れば、川底にはひとかたまりの茶褐色の泥煙りがわきかえっているばかり。
「こんな岸じゃどうですかね。沖に瀬がある。あそこならいいかも知れない。石を見つけるのがコツなんだけどね。ゴミのひっかかってる石なんかがいいんだけどね。そのゴム長じゃ沖へたちこめないんだけどね……」
師は口ごもりつつ柔らかく、つつましくそうつぶやき、投網《とあみ》の用意をしに舟のところへ去ってゆく。
小説家は岸に沿って浅瀬をわたり歩きゴミ屑のある石、渦の巻いている石などをさがしてはドカンパチッと割っていき、髪までグショ濡れとなるが、不思議、ハヤは一匹もバネ仕掛けにかかったみたいにとびださず、水のなかで白い腹をひっくりかえすこともなく、きょとんと停止するということもないのである。そろそろ懐疑の魔が頭をもたげだし、井伏さんはきなくさいにほひがする≠ニ書いているけれど、いっこうにしないじゃないかと思いだす。カーンというたくましい音≠ヘまさにそのとおりだが、あとがいっこうにきなくさくない。わるくすると、いやそれがしばしばであるが、たくましい音のあとにピシャリ、パチャッと水がとびついてきて冷たく寒く、うそうそ首をすくめたくなるばかりである。井伏さんのあれは、やっぱり話がうますぎるのではないかしらん。見ろ。さっきの師も五発か六発めにようやく二匹を仕止めたばかり、それも頭から水をかぶってではないか……
発止と、一撃。
こたえたかと、一撃。
必殺と、一撃。
みなごろしと、一撃。
祖来たれば祖を刺してでもと、一撃。
ドカンと、一撃。
カーンと、一撃。
ニッコリ笑って、一撃。
にが笑いで、一撃。
見やがれと、一撃。
これでもかと、一撃。
こんちきしょうと、一撃。
くらえと、一撃。
ええええんやコーラで、一撃。
いくぞと、一撃。
玉砕と、一撃。
どうなとなりゃがれと、一撃。
あわせてかれこれ、二十個か三十個の石をたたいたり、割ったりしたであろうか。くらわすたびに水へしげしげと顔を近づけて眼を瞠るのだが、どうもいけない。茶褐色の泥煙りが水のなかに舞うばかりである。チョロ虫がいそいで石を走ってどこかへ消えていく。腕がふるえ、肩がしびれ、水垢でぬるぬるの石に足を踏ン張ってハンマーをふりあげるとフトした瞬間にぐらりとよろめくのをおぼえるほどになってきた。今日はいけないようである。潮さきが向いてない。風も嘲弄的である。シケである。
「……お、カジカだ」
「………?」
「ちょっとはいかれたらしい」
「…………」
いつかもどってきていた師が指さすところを見ると、いまブッたたいた石のかげのあたり、とろりとゆれる早瀬の小溜りのなかへ、五センチほどのカジカが、アンコウにそっくりの破壊された顔の持主が、小さな、憂鬱な眼を光らせてゆらゆらとさ迷いでてきたが、フム、グロッキーになったかと思うのに、師がしゃがんで手をつっこむと、おかしい、どこかへ消えてしまった。師は水のなかをせかせかまさぐり
「逃げたべ」
といった。
ヘトヘトになり、ずぶぬれになって、ハンマーを肩に川原へあがると、流木に火をつけて、師が投網でとった小魚を即製の竹串に刺して人びとは焼いていた。
誰かが、私を見て
「餅なら二臼はつけましたねえ」
といった。
何となくフッ、フッ、フと笑ってやった。
誰か嘆くでもなく、嗤《わら》うでもない口調で
「道によって賢しってもんなんだなあ」
とつぶやくのが聞えた。
私はしゃがみこんで火に手をかざしながら、鉄器時代人の暮しはきびしかったろうと思いをはせるのである。糸も鈎もロクなのがなくて、網もロクなのがなくて、岩を岩にぶっつけたり、金槌で岩を殴ったりしていた古代人は、今日のような日には、さぞやひもじい思いをしたことだろうなと、悠久に思いをはせて、わが卑小なる衰えをごまかすのである。彼らは広い川原に毛深い肩をすりよせて流木の火をじっと眺め、父、母は濡れたような、乾きかかったような黒い眼で、かなたの森と、空と、白い石の原を眺めやるだけであったにちがいないのである。そう思いめぐらしているうちにようやくむしゃくしゃは落着いてきた。
師の投網も今日はあまりかんばしくないようである。昨日は三時間でハヤを八キロもとったということだが、今日の網には、瀬や淵をあちらこちらとあたってみるが、二、三匹から四、五匹ぐらいしか入らない。一匹も入らないこともあった。ハヤにまじってヤマメの変種で、このあたりでヒカリヤマメとかギンゲと呼ぶ、腹が白銀色の美しいマス科の魚、それと、アンコウそっくりのカジカが一匹、二匹。驚いたのはサケの子が三匹かかったことだった。去年の秋に太平洋からこの川のさらに上流までさかのぼったサケがあり、その子が、いま長途の旅に出発しようと下《お》りてきたところなのである。メダカをちょっと大きくしたくらいの身長しかなく、まだサケの貌《かお》にはなっていないが、ピチピチと元気だった。採卵、人工ふ化など何もしていず、この川はほとんど野放しの状態だが、それでも自然の水脈は断たれていないようである。
しっとりとした、ひめやかな香りの漂う杉林をぬけていくと、田ンぼがあり、一軒の小さな藁葺きの農家がある。そこが打師の家なのである。この人は小さな庭に小さな生簀をこしらえ、一人の奥さん、一匹のトラ猫といっしょに暮している。自分の家で食べる分だけを田畑で作り、あとは山へ行って炭を焼いたり、パルプ材を切ったりだが、川がにぎやかになるといてもたってもいられなくなってもどってくる。そして半分は遊び、半分は慾≠ナ魚をとり、川魚問屋に売る。東京から来たアユ釣りの客を舟に乗せて釣場へ案内してやることもあるという。つくづくとうらやましい、ゆたかな生きかたである。
春早い雨が軒を指さきでたたき、暗い土間では火が燃え、トラ猫は傲然たる甘え声で低く鳴き、人びとは掘りゴタツに入ってお茶を飲みつつ、アユ釣り、サケ突き、大漁、大物獲り、あの瀬、この淵の話にふけっている。暗い土間の暗い炭俵と何かのドンゴロス袋のあいだにピカリとにぶく光って黙っているのは、おや、ハンマーだった。
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戦艦大和はまだ釣れないこと
『白鯨』や『老人と海』は別として、これまで私が読んだ大物釣りの話では、あるイギリス人の記録が記憶にのこっている。この人は七つの海をヨットで渡りあるいちゃあ化物みたいな魚を釣っている人である。何でも彼がオーストラリアのシドニー(だったと思う)までくると、海水浴場にフカがあらわれ、女の足を一本まるごと食い切って逃げたというので大騒ぎである。そいつはまだ付近をうろうろしているのじゃないかと、みんな噂している。
そこで彼は名乗りあげ、オレにまかしといてと胸をたたく。彼は人びとの話をよく聞いて敵の大きさ、顎の力、食慾のぐあいなどを推定してから仕掛を考案する。それは四つのドラム罐を筏に組み、波止場の荷役に使うワイヤを道糸としてドラム罐にぶらさげ、そのさきに氷屋の氷ばさみぐらいもある鋼鉄の鈎をくくりつけ、餌としては仔ブタを一頭、ロープで縛りつけるという破天荒なものであった。こいつを沖へ持っていって起重機で海ヘドーンとほうりこんだ。そして待っていると、幸運なことに怪物が食いついてくれた。そいつは物凄い力の持主で、四個のドラム罐を向うにまわして、力戦、激闘。シドニーの沖では一日たっぷり水が白く騒ぎたつのが波止場から遠望されたという。ドラム罐は浮子がわりに使われたわけだが、四つもあってはさすがの怪物もとうとう音をあげた。そこでまたしても起重機とウインチを使って引揚げてみたら、青い水のなかから中型のクジラぐらいもあるシュモクザメが揚ってきたそうである。そして解剖してみたら、やっぱり女の足を呑みこんでいたという話である。
この人の(だったと思う)もう一つの話では、ポリネシアの或る小さな島の浜で、やっぱりワイヤを道糸にして仔ブタを餌につけ、そのワイヤのはしをヤシの根もとにくくりつけて昼寝したところ、眼がさめたらヤシが音もなくぬけて消えていたという話がある。さすがの大物師もヤシの木一本をひきずって海を泳いでいく怪物の正体は見当のつけようがなくて、思わず胴ぶるいがでたとのことである。この話を法螺話としてフッフッフと茶にしてしまうのはやさしいことで、むしろマジメにとるほうが現実的なのではあるまいか。陸にはもうアマゾン流域とシベリアの大森林《タイガ》圏ぐらいしか秘境は残されていないが、海は日本漁船団がいくら荒しつくしたといってもまだまだコロンブスが上陸した頃のアメリカ大陸みたいなもので、ことに根魚、底魚、深海魚の類は、まず何がいるかわからないと脱帽しておいたほうがいいのではあるまいか。
と、まあ、凄い話をマクラにふったのは、東京ではてんで相手にされなかったのに、徳之島の漁師はけっして茶にしないどころか、むしろまっ黒に焼けた顔をほころばせて、いや、そういうことはあるでしょうと深く、短くうなずいて、嗤いもせず、疑いもしなかったからである。徳之島は奄美大島から飛行機(プロペラ双発のYS─11)で約二十分くらいのところにある島だが、温帯の日本列島では南限といってよろしい。広大な亜熱帯圏から見ればそろそろ北限に近いところと見てよろしい島である。
めぐる珊瑚礁 どんと打越えて
磯にくだける 波しぶき
東支那海 太平洋
前と後の徳之島 ハレ徳之島
賢い≪徳之島小唄≫が教えるように、この島の≪前≫は東支那海、≪後≫は太平洋ということになっている。地図を見られよ。ゴマ粒ほどの島である。それが豪宕《ごうとう》なる空白に包囲されながら、≪前≫だ≪後≫だと指呼しているのである。住民の空間衝動の広大かつ緻密を推すべきである。きっとこの島では不思議な魚が釣れるにちがいない。
羽田空港を朝の八時半に出発し、大阪、鹿児島、奄美大島と、乗りつぎ乗りつぎしながら南下していくと、午後の三時には徳之島に着くのである。この島と奄美大島をくらべてみると、私の見聞するところではプロペラ双発機でたった二十分飛ぶくらいしか離れていないがこの島のほうがずっと山が低く、だから耕地がたくさんあり、人の活気もさかんで、植物についていえば、アダン(たこの木)、ガジュマル、蘇鉄の林などはこの島のほうがずっと濃く、たけだけしく、深くはびこっているようである。つまり、≪南≫なのである。豊満、強壮な日光が淡緑のとろりとした水をあちらこちらに溜めた珊瑚礁に射し、午後の陽はうるんだようにムッチリしている。ちょうど干潮期なので東支那海は礁の向うへ後退し、とろりちゃぷちゃぷと鳴るばかりである。南の海の、この練りあげられたような、絖《ぬめ》のような、柔らかい、媚びる、それでいて明晰をきわめた透明さは何といえばいいのだろうか。恍惚のなかで言葉をさがすのに苦しむ。ふと、≪清澄な淫蕩≫と思ったりする。そして亜熱帯の山や林や畑や茂みをいくときにおぼえる、ミチミチ音をたててひしめくような、形のうちに静座できないでおしあいへしあいせりだしてくる、この生《せい》の、ささやき、つぶやき。熱い低声《こごえ》のうねり。ひろがり。南の島はいたるところでハチのように唸っている。のしかかる東京の煙霧《スモツグ》のなかで壁のすみにうずくまり、頭にお釜をかぶったような気持で疲弊しきった言葉を編んではほぐし、ほぐしては編みする生活のことを思う。
ここの岩礁には自然物しか落ちていない。海の分泌物しか落ちていない。古い藻。新しい藻。木片。貝殻。珊瑚虫の白い骨粉。そして前方には沖。後方にはアダンの低い長壁。海がつぶやく。風が鳴る。それだけである。家、煙突、屋根、看板、ネオン、字、ペンキ、ビニール、罐、瓶、コンドーム、御叱呼の跡、雲古の跡、靴跡、指紋……そんなものはない。何もない。何もないったら何もない。ほんとにないのだ。北海道で網走へいくときに渺茫たる荒涼の原野を目撃して恍惚となったことがあったが、あそこで暗澹たる冬空のしたで開示されたものをここで晴朗、豊饒のかぎりの日光のなかでうけとるのである。両極端は一致する、というわけである。じっさいここの古代そのものの渚や磯の浄白とたくましさにくらべたら、あの湘南の海岸の、まあ汚れよう。いや、もう。いうのはやめた。やめた。
≪徳之島観光ホテル≫というコンクリ建の一見文明風の旅館に入り、これは亀津という岩礁の海岸にあるのだが、その一室に寝ころんで、女中さんの持ってきた粗菓は食べずに粗茶だけすすっていると、製糖会社の制服を着た年配の人物がそろりと入ってきた。ぴょんと、とび起きて膝を正し、畏縮した挨拶をしたら、人物も畏縮した挨拶をした。長身、よく陽に焼け、眼もとおだやか、なかなかにたくましい壮年の男である。製糖会社の原料課長だという。けれど東京で情報通氏から教えられてきたところでは彼は大した磯師で、海の穴場ならウサギの穴まで知っているとのことである。粗茶をすすりながら、ゆるゆると話を聞くと、このあたりでは磯釣りのことを≪瀬釣り≫と呼び、リール竿のことを≪車竿≫と呼ぶという。人気のあるのはクエで、最盛期にはずいぶん大きいのが、チャブチャブと歩いていける環礁のあたりまで接近してくるから、夜釣り、朝釣り、コマセ(撒き餌)なしで投釣りで揚げられるという。
「ずいぶん大きいのが投釣りで釣れます。十斤、十五斤というのがかかることもあります。コマセしなくてもそうなんですから、内地にくらべると魚は濃いんじゃないんですかね。まだここは場荒れしてませんよ」
そう聞いて頭で計算する。一斤は〇・六キロだから、十斤なら六キロ、十五斤なら九キロである。それがコマセなしの岸からの投釣りであがるとなると、これはコトではあるまいか。
声が高くなる。
「どこです、場所は」
人物はおっとりと答える。
「いえ、この宿のつい裏ですよ」
ひょいと窓のそとを顎でしゃくると、そこには干潮の珊瑚礁の平べったい岩ッ原が渺茫としたサフラン色に燦めく落日のなかにひろがっている。庭下駄つっかけてもいけそうなところ。
「きめた。明朝出撃だ」
人物はおっとりと笑う。
「いえ、だめですよ。いまはまだ季節が早くて、ネバリ(クエのこと)は近くへ来ておりません。もう一月《ひとつき》しないとだめです。沖の一本釣りも魚の数がまだ少ない。これも、もう一月しないとだめです。だから私も釣りたい一心ではあるがガマンしてるんですよ。どうしてこんなときにおいでになったのかなあとさきほどから考えてたところです」
「東京ですよ。東京では何だってかんだってあなたのところへいけば万事OK。徳之島はいまからシュンだというんです」
「おかしいですな。私はそんなことをいったおぼえはないんですが。シュンはまだもうちょっとさきのことなんですが。いまはプロの漁師でもよほど沖へでないことにはダメだといっておるですよ。二日がかり、三日がかりで沖へでなくてはいかんですよ。それはとてもクリ舟なんかでいけるところではないです」
ガックリとなって崩れる私を人物はゆるゆると粗茶すすりつつ、心から気の毒そうに眺めやる。あまり私がガックリして顎をだしているので、人物はそのうち、念のために誰かをあたってあげましょうといって、あてどなく部屋をでていった。
磯釣りもダメ、沖釣りもダメとなったが、その夜は三人の漁師と、人物と、もう一人、焼酎会社の重役の釣りマニア、計五人と、ゆるりゆるりと黒糖からとった素敵な焼酎をすすりながら南海綺譚。これが面白かった。負け惜しみでいうのではないけれど、こういう海辺で波の音を聞きつつ、漁師の陸ズレしていない、ボツボツとした重いが鋭利な口調で話される話ほど面白いものはない。漁師は聞かれるままに三十年の暮しのうちでのとっておきの話を、ずんぐりむっくりの体温から、分泌する。それらの話は日光の匂いがし、風が鳴り、海水の味がし、まことに原形質であるが、新鮮な驚きを含み、素朴、強健である。そして南の海だから、しばしば玄怪なる怪魚、奇魚が登場し、ちょっとヤマト(内地)では想像しようもないから、夜のふけるのも忘れてしまうのである。インドア・フィッシングというべきものであるが、それも釣りには欠かすことのできない第五元素であり、本質であり、精髄である。大昔のヒトが洞穴の焚火のまわりでマンモスだの、竜だの、乙姫様だのを語りあった、あの始原の娯しみ、文学の核である。
ここの海にはタコがたくさんいるが、誰も本気ではとらない。ほかに魚がいくらでもとれるからである。ホウと私がいう。タコをとるならラッキョウを使ってごらんなさい。タコはラッキョウが大好物で、何故そうなのであるか、また誰がそんなことを思いついたのか、とうていわかることじゃない。しかし、タコはラッキョウとなると目がないから一個で何匹でも釣れますよ。五人の島民はいたく驚き、そんなことははじめて聞いたと、口をそろえていう。そして漁師の一人は、ここらのタコはタコツボじゃとれませんという。以前に何度もやってみたが、いっこうに入ってくれなかったですという。何故だろうと考えてみたが、おそらくここの海は珊瑚礁で、穴がいっぱいあるから、ムリしてそんなツボに入りこむことはないとタコが思うのではないですか。
私 「住宅事情がいいんだなあ」
漁師「タコは満足してるです」
海に潜っていくとタコの穴はすぐわかる。貝だの、エビだの、食い散らかした殻が点々と落ちているからそれを辿っていけばいいのである。そこでタコをひっぱりだしたら、つぎにそれをイセエビの穴へ持っていく。イセエビはタコになみなみならずおびえていて、穴の入口にタコをつっこむやいなや夢中になってとびだしてくる。そこをつかまえるのである。死んだタコを持っていってもイセエビは一目見ただけでとびだしてくるから、つかまえるのは造作ない。タコは不思議な技を持っていて、イセエビの殻をちっとも傷つけないで、鎧だけまるまる残して肉をすっかり吸いとってからっぽにしてしまう。糸満漁法をやってた若い頃にはよくそういうイセエビを見たものである。みごとなエビを見つけてしめたとつかんだらからっぽなのでガッカリしたことが何度もある。
私 「まるで税務署みたいやないですか」
漁師「そういうことはタコはうまいです」
ここの海には四畳半にいっぱいになってハミだすくらいのお化けカマンタ(エイ)がよくいる。みんなはまずい、まずいというが味噌で煮たら案外イケる魚である。うまいのはカメで、アカウミガメとミズガメと二種いるが、アカウミガメはまずい。けれどミズガメ(タイマイのことか、アオウミガメのことか)はうまい。とてもうまい。賢そうな顔をしている。これは海底の岩にのっかってうつらうつら昼寝してるところを鈎でひっかけ、ひっぱり揚げるのである。ウツボは釣りの邪魔をするのでイヤな奴だが、なかには大人の太腿ほどもあるのがいる。見るからに凄い顔をしているが、肉はとてもうまくて、蒲焼にすると脂がのっていてこたえられない。ハモなんかより、よっぽどうまい。でかくてもうまいのは何といってもサワラで、ちょっとしたアキタロー(バショウカジキ)くらいもあるのがとびついてくるが、こういうのを揚げたときは手鈎、棍捧では足りないで、ヨキ(手斧)を食らわすこともある。サワラはいい値で売れるので、シュンになったら忙しい。
私 「クエは大物がいるでしょう」
漁師「クエ?」
私 「九州でアラといってる奴」
漁師「ああ。ここらじゃネバリといってます。これも化け物がいます。いつか百二十キロのを釣ったことがあります。それが一日に四匹釣れました。根があったんです。誰もそれまで知らなかった根をたまたま見つけたんです。クリ舟二隻で港へ持って帰りましたが、ふちまで水がきて、いまにも沈みそうでした」
クリ舟とは刳《く》り舟のこと。昔は一本の木を刳りぬいて丸木舟にしたが、いまは板を張って作る。一人か二人しか乗れない原始的な舟で、この頃はそれに船外モーターをつけて沖へでる。全速で走るところは舳先と腹がすっかり空へ浮いてしまって、まるでお尻だけを水につけて、空へ飛びたとうとあせりつつ走っているように見える。
シケでどうしようもなかった数年前のある日、この島の、すぐ眼に見えるあたりの沖を、気まぐれにふらり、ふらりと流していると、ゴッツンとあたりがあった。はじめは根がかりしたのかと思って、右に、左に糸をふっていると、そのうちにうごきだした。ネバリだ。大物だ。それも前代見聞だと知れた。道糸はナイロン三号(私の耳はそう聞いた。三十号のまちがいであろう)。それから三十分は大岩とたたかうような力闘また力闘。彼は三十年の経験と、知識と、体力を総動員し、おそらく胆は大きく、心は小さく、微細と豪宕を交互に編みあわせつつ汗を散らした。やがて海のなかから頭が四斗樽ほどもある、斑だらけの、ぎょろりと牛みたいな眼をした、もうそうなれば魚というよりは史前時代の怪獣のような超重量者が、ぬらり、ぬらりと浮上してきて大渦、小渦をつくる。巨眼を怒らせてカーッと大口をあける。ホーッ、ブワーッと息を吐きかけた。
私 「凄いだろな。そいつは凄いだろな。気味わるいだろな。そんなにでっかくなったらな。またヨキで頭を割ったんですか」
漁師「ええ。ヨキで頭を割って、それから骨は鋸でひきました。これくらい大きくなると魚の骨とは思えんです。丸太ン棒くらいもあるです。足をかけて、鋸でひいたですよ」
そう話しながら、ずんぐりむっくりの、首、肩、胸、腕、どこもかしこも厚くて太くて短い、見てくれは悪いが一度喧嘩をさせたら強大頑強な腰をしっかり落して一時間でも二時間でもたたかいつづけそうなと思われる彼は、眼も口もけじめがつかないくらいまッ黒に焼けた沖縄顔にあふれるような魚への畏敬と自身への歓びをうかべ、男惚れしたくなるような美しい微笑を分泌した。
島は沸きたち、港には嘆声が走り、翌未明からは漁師という漁師がその根に殺到して、たちまち掃滅してしまった。その根に《ネバリゾネ》(ネバリの根。ゾネは磯根≠ゥ。それともゾ≠ヘ何となく発音の円滑のために挿入されただけの語か……)という名がつけられ、語られはじめた頃には、もう怪獣たちはことごとくナイロンで根絶されてしまい、いまは伝説のなかへ繰りこまれてしまっている。たった数年前のことなのに、それはすでに≪昔ハヨカッタ≫となってしまった。海底の岩礁は大いなる住人を失っていまはただ冷暗のうちにかがみこみ、屈してチャポリとも鳴らず、ヒソヒソともささやかない。≪凄《さび》しき寡婦《やもめ》≫のごとくなったのである。毎度の嘆をふたたび繰りかえしたくなる。ヒトの手は長いのである。恐ろしく長いのである。どこまでも伸びる。どんな海底の穴もまさぐり、ひっかけ、ぬきだし、からっぽにしてしまう。
彼は沖縄顔をしているが沖縄島の人ではない。与論島の人である。もとはこの徳之島で糸満漁法をしていた。これは網を海中に張りめぐらしておいてからいい若い衆がザンブ、ザンブととびこんで魚を網へ追いこむという、まことに勇壮な漁法だったが、いまはすっかりすたれてしまった。島のいい若い衆はみんなヤマトへ高く買われていく。誰も漁師などしない。ヤマトで漁師をするとしても大資本の漁業会社の遠洋航海船の乗組員としてであるから、島へ帰ってきても使いものにならない。彼には後継者がいない。一代かぎりである。彼の家だけではない。島の漁師の家はみなそうである。衰退の一途を辿っている。漁師だけではない。砂糖キビ畑でもそうである。農業もまた老化、衰退の一途であるという。まぎれもなくこの古代の島も日本の一片であるからには全体の形勢を濃縮してあらわしているようである。
糸満潜りをしていた頃、彼は海底でさまざまな音を聞いた。イルカの鳴声や、クジラの鳴声も聞いた。クジラはウォーッともいわず、ギャアーッともいわない。むしろ牛にそっくりの声をたてる。モーッといって鳴くのだそうである。魚雷が船に命中した瞬間の音を海中で聞いたことがある。それは富山《とみやま》丸という七千トンの輸送船が兵と油を満載して≪沖縄決戦≫に補給に赴くところをこの島の沖でアメリカの潜水艦に発見されたのだった。彼は海に潜ってエビか、カメかをさがしているところだった。ふいに聞き慣れない、鋭い、鼓膜を針で刺しつらぬくような音が水中を走ってきて彼を打撃し、走りぬけていった。
私 「どんな音ですか?」
漁師「チーンというような」
私 「チーンといいましたか?」
漁師「キーンというような」
私 「キーンといいますか?」
漁師「そう。そうです。チーンというような、キーンというような、甲ン高い音でした」
その船が沈むときにはあたりが火の海となり、彼はいそいで舟を漕ぎだして人びとを拾って歩いた。全身火でずぶ濡れとなった人びとである。彼は激しく感謝された。島にはいま船の記念碑がたっている。しかし、船とともに東支那海の底へ沈んでいってしまった人もたくさんあった。七千トンの船は魚族のマンモス団地となり、戦後になってからその≪根≫へいったときはブリ、タイ、シマアジ、ネバリその他、その他が、舟に積めないくらいどっさりとれた。海は奪い、かつ、与えるという太初からの約束を寡黙に履行したのであった。けれど、ヒトの手はやっぱり長すぎ、また多すぎるので、その富山根もたちまちうつろな冷暗の洞穴となってしまったのである。
私がドラム罐でシュモクザメを釣って起重機で吊り揚げたイギリス人のことを話しても彼はいっこうに動じなかった。むしろまッ黒の顔で深く、短くうなずいて、口のなかで、そうでしょう、そういうことはあるでしょうと、つぶやくのだった。彼が傍証として持ち出した挿話はこうであった。フカの肝臓の油は漁網の水はじきにとてもいいというので、一頃、このあたりでも漁師が大いにフカを攻めたことがあった。その頃、舟を流していくと、大海原に、ふいに竹を何十本と束ねた浮子に出会ったものである。それにはロープを縛りつけてある。道糸らしい。そいつをためしにどんどん手繰ってみたら、ハリスがわりのワイヤがあらわれ、巨大な鋼鉄の鈎があらわれ、仔ヤギ一頭がまるごと縛りつけてあったという。仔ヤギが腐っていてあまりにくさいのでそのまま海中にほうりこんで帰ったが、何を釣ろうとしているのかはピンとわかった。だから、そういうことがあるんだから、ドラム罐四つを筏に組んで仔ブタでシュモクザメを釣ったと聞いても、そういうことはあるですよと思うですよ。彼はそういって微笑し、まッ黒に焼けてけじめがつかないが唇とおぼしき器官をテーブルのはしに近づけ、小さな、小さな盃からお湯で割った黒糖焼酎を、チュウッと吸うのだった。私は感動して、コップでやらんですか、コップでやらんですかとしつこく説得し、成功した。
翌。未明。五時。
すなわちバショウカジキのごとく愕然とフトンを蹴ってとびあがり、口をゆすぎ、顔を洗い、御叱呼をし、何やらソソクサ、超強力と謳《うた》ったヘヤートニックを頭にふりかける。旅館からでて、崖ッぷちで暗い珊瑚礁にサフラン色の暁が射すのを眺めていると、昨夜の二人の黒ン坊が自転車でやってくる。ニッコリ笑うが歯だけ白くて、まるで闇が笑ったよう。
「お早うございます」
「お早うさん」
「いきますか」
「いきましょう」
バナナ、蘇鉄の木などにふちどられた坂道を自転車にのせてもらってかけおり、亀徳の小さな港へいく。そこに五トンか七トンほどの彼らの舟がもやってあった。われらは綱をほどき、寡黙に東支那海めざして船出していった。動かぬ陸よ、さらば。たくましき防波堤よ、さようなら。船酔いよ。波よ。非連続の連続よ。動揺にして一なるものよ。
どんどん沖へでて、一目散に走っていくうち、偉大な徳之島は形となり、色となり、影となり、一時間か二時間後には見えなくなっちまった。黒ン坊は釣糸の準備をしながら、ふと島をふりかえって
「国が見えなくなった」
と壮大なことをつぶやいていた。
私は大きな三角波にゆさぶりたてられながら、いつも船に乗るときトラヴェルミンを呑むのが習慣で、じつは今朝も一錠呑んだのだが、まだ船酔いは味わったことがない。だのに船酔いを用心して一錠呑む。それが利いて船酔いしないのか。それともそれを呑んだと思うから船酔いしないのか。どちらなのだろう。意識がさきなのか。それとも存在がさきなのか。トラヴェルミンを呑んだという甘苦い舌の分泌感がオレハ酔ワナイという意識をもっぱら生みだして足を支えてくれるのであるとすると存在が先駆するのであり、もし甘苦い分泌感よりもさきにオレハ呑ンダ、オレハ呑ンダと思うからオレハ酔ワナイというのであれば、ここでは意識が先駆したのであり、それはまた、ひょっとすると、私がきわめて自己暗示にかかりやすい体質を精神に帯びていることの証明になるのだが、いったいどちらなのだろう。いつもそのことを考えるのであるが、と考えていた。
黒ン坊にのめりこむような三角波をさし
「これは太平洋、それとも東支那海?」
と聞く。
黒ン坊はニッコリ笑い
「太平洋です」
とつつましやかに答える。
「どう違うの?」
とたずねると
「違うです」
と答える。
彼はナイロンの道糸に十本のネムリ鈎(先端が内側へ屈曲して魚が逃げられない)をむすびつけながら、海を見晴らし、しばらく凝視する。おそらくその頑強で厚そうな頭蓋骨の内部では無数の経験と記憶が明滅、出没して、東京から来たオトボケ野郎にどう短く分析、綜合して説明してやったものかと、迷っているにちがいなかった。しばらくして彼は丸まっちい短頭型の顔をあげ、ぶすっと
「あちらがわるいときはこちらがいいです。こちらがわるいときはあちらがいいです」
といった。
この日、われらの船は太平洋から東支那海へかけておよそ十一時間さまよい歩いたが釣果はクロマツ八本、シロダイ二本、アカダイ一本であった。クロマツは五百メートルの深海から釣り揚げるので、水面に浮揚したときは水圧の変化に耐えきれず、鰓《えら》をガバッとひらき、大口をカッとあけ、内臓やら浮袋やら餌の半身のムロアジやら、何もかも一度に吐きだしちまうものだから、およそ汚ならしいッたらなかった。ブリューゲルの≪大魚、小魚を啖うの図≫にある、いちばん大きな魚みたいに、どろんと濁ってとびだした出目が大口あけて、モロモロをいっぱい口のまわりにひっかけ、咽喉の奥に怒脹したまッ赤なソーセージのような浮袋をつっかけ、ギザギザ、トゲトゲの牙をむきだしてあがってくるのである。あとで醤油で煮て食べてみたら、何やら南の魚独特の茫洋とした歯ざわり、そこへ妙な脂臭が匂って、ヘンなものだった。この族は、クロマツ、アオマツ、アカマツと三種あり、島ではときに≪チビキ≫(地引のことか)とも呼ぶという。いちばん人気がよくて値のいいのはアカマツだそうだが、本日は登場しなかった。この族の正しい魚名は何と呼ぶのか、私にはわからない。
つぎにアカダイと呼ぶのは、金魚を一尺くらいのタイの形にノシたような先生で、釣りあげてパンパン跳ねているときは背が眼のさめるような鮮紅、腹が白・銀・青色に輝くという、何とも艶っぽい魚であるが、息をひきとると、たちまち全身が鮮紅一色に変る。ちょっと見たところはキンメダイにそっくりなのだが、あれより体型は、はるかにマダイに近く、風貌はさらに金魚に近い。これを三枚におろして、ためしにサシミにして食べてみたら、黒ン坊たちはうまい、うまいといったが、やっぱり歯ざわりが茫洋としていて、シコシコと練りあげられたタッチがない。どういうものか南の魚の肉はボワボワ、ダラリとしていて、シマリのないところがある。ふと『末摘花』の一句を思いだしたくなるようなところがある。
ぬくときに舌うちするよな大年増
つぎにシロダイと呼ぶのは、全体の体型から見るとクロダイのような、フエフキダイのようなところがあるが、白・銀・青が凛と底光りする体に、奇妙、イシダイにそっくりの淡・褐・黒色の縦縞が幾条か走り、口はマダイそのままだが、ただし頬にギラギラと青・黄の線が走っている。これをためしに夕暮れに山の東亜観光ホテルに持ちこんで塩焼きにして食べてみたら、眼の下一尺はこして大皿からはみだし、まことに壮観。そして味はシコシコ、クッキリと固くしまり、珍しくボワボワ、ダラリではなく、妙な脂臭もなく、体は大きいが味わいは≪青い麦≫で、思わず眼を瞠ったことであった。
黒ン坊がこれを釣ったとき、私は南海の日光と、波の揺れと、昨夜の巨人説話と、素敵な黒糖焼酎のぶりかえしなどで、あぐらをかいたままイビキをかいて眠りこけているさなかであった。
「一級品です。一級品です。これはうまいんです。すばらしいですよ。これはいい。一級品です」
やたらにけたたましい声がしたので眼をさましたら、朝からシケですっかり小さくなっていた黒ン坊が、一匹の大きな魚をポンと投げこんで、まッ黒けの顔を幼児のようにくちゃくちゃにしてはしゃいでいるのであった。板の間でパンパン跳ねかえっている魚をよくよく眼をこすり、手でおさえて眺めてみたら、クロダイのような、フエフキダイのような、イシダイにそっくりの縞があって、口もとはマダイそっくり、それでいて頬にはいかにも亜熱帯らしく青・黄の線がギラギラ走るという、白・銀・青に輝く魚であった。
「やった。やった。釣れた!」
叫んで私は真摯《しんし》に海を眺め、黒ン坊を眺めたが、さてそれからはどうしようもないので、迷ったあげく、またぐずぐずとすわりこんでしまった。
黒ン坊たちの仕掛を説明しておく必要がある。ここの海底は砂泥ではなく、荒岩ゴツゴツの連続だから、錘りがネガカリしやすい。私が見ていても彼は二つを切ってしまった。だからこいつをいちいち鉛の錘りでやっていたら高くついて困るので彼は考え、石コロを使うことにした。仕掛を下から説明していくと、彼はまずその石コロをドーンと海へほうりこむ。それにナイロンがつづき、そのナイロンには十本の枝鈎がつき、それぞれの枝鈎のさきにはハリスをワイヤにしたネムリ鈎がついて冷凍のムロアジの半身(鹿児島からの輸入)がひらひら。石コロは矢のように海底めがけて突進する。ナイロンの道糸がつづく。つぎに一メートルほどの赤いゴムがあらわれる。こいつが強引なもので、自動車のタイヤのチューブから切りとってきたんだという。これはクッションである。何しろ南溟《なんめい》の怪、どんな凄い奴がいつ食いつくかわからぬ。それをワイヤとナイロンを石コロで引ッ張り放しの緊張一途でやったら牙でブッツリやられちまう。そこでタイヤをはさんで伸縮自在と考えたのだ。知恵というものだ。その赤いのが消えたら、あとは細くて鋭い、強引無比の三本よりのワイヤの道糸を百メートル、二百メートルどんどん繰りだしていく。クロマツも、アカマツも、ネバリも、カマンタも、ここらの魚はアングリ巨口をひらいて一発で餌をパクリ。咽喉深く呑みこんじまう。かかったとわかればあとは引揚げるばかり、あの怒脹してナイフの刃のようになったワイヤを掌でいちいちひっぱったのでは血みどろになる。そこで彼は木製の一見|紡《つむぎ》車様の、まことに原始、素朴、しかし魚に対してはじつに強力なる、小さな木車を、舟のふちにすえつける。ボルトとナットでしめつける。これにはハンドルがついている。そして、ひたすらキー、キー、クィー、クィー、巻きあげ、巻きあげるのである。
「かかったです!」
黒ン坊がよろこばしく叫ぶので私がよろこばしく紡車にかけつけ、ピンと張りきったワイヤを指の腹にひっかけて魚の苦悶をアタってみるが、ワイヤはまるでナイフのように指に食いこんでくるばかりで、ピリリとも、ピリピリとも、いっこうにわからない。何しろあいだに自動車のチューブをはさんでいるのだから、いよいよにぶくて、どう悟りようもない。
そこでおおらかにうなずき
「かかった、かかった!」
まッ赤な嘘を叫んだ。
われわれは十一時間さまよい歩いてから亀徳の小さな港をめざして、波を蹴たてて帰っていった。三角波につづく三角波をのめり、のめり、おしひしいで前進していくとやがて偉大なる徳之島が、かなたに影となってあらわれ、ついで色となり、ついで形となり、珊瑚礁、森、家、旅館、精神病院、それぞれが小さく、クッキリと判別されるようになった。こうして海から眺めると、あのゴマ粒のように思われた孤島が何と強大な、慈悲深い母であることか。三好達治は母≠ニ海≠ェフランス語ではおなじく女性詞の《ラ・メール》であることを詩に書きつけたことがあったが、大地もまた女性詞の《ラ・テール》であることを書きおとしていはしなかったか。あれほど小さな島でもそれが少なくとも色とか形とかで見えるところにさしかかると、太平洋であったり東支那海であったりする兇暴な三角波はすっかり柔らかく、おとなしく、船腹に媚びるようになってしまうのである。それはあきらかに島の影響であった。
黒ン坊は私にいった。
「わしらが二人か三人集ったらきっと話すことがあります。酒を飲んでも、飲まんでも、きっとその話がでるです」
「何の話?」
「戦艦大和ですよ。あれの沈んだ場所がまだわからんのです。魚探でずいぶんさがしまわったんですが、まだ誰も見つけてません。あれは八万トンですからね。富山丸とはちがうです。すごい魚の根になっとるです。あれを見つけたら一財産です」
「戦艦は凸凹だからいい巣でしょうね」
「そうですよ」
「まだ見つからないの?」
「まだです」
「きっとそのうち見つかるさ」
「そうでしょう」
「きっと見つかるよ」
「誰かがやるでしょう」
黒ン坊は沖と島を交互に眺めながら、まるで地主が領地を眺めわたすようなまなざしで、ニッコリ笑い、そうつぶやいた。それはこの小旅行で私が聞いた最大の、≪大物釣り≫話の、エンドであり、ベストであった。
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タイはエビでなくても釣れること
さて。
いよいよ大物と取ッ組むこととなった。それも寝業ではなくて正面から四ツ相撲で取ッ組むこととなった。すなわち瀬戸内海のタイの一本釣りをやろうと志をたてたのである。聞くところによれば瀬戸内の天下に名声とどろくタイも近頃では乱獲と汚水のためにすっかり少なくなったそうである。漁師も昔は一本釣りの手釣りをやっていたが、それではとてもこの時代についていけないので、たいてい網でとるようになり、それがまたタタッて魚の数が激減した。だから、瀬戸内のタイの一本釣りなどというものは次第に神話、民話、伝説の域に近づきつつあり、少し誇張すれば手工芸品化しつつあるといってよろしい。だから、ちっとやそっとのかけだしの素人にはとうてい歯のたつしろものじゃないよ。よしたほうがよろしいよ。ハ、ハ、ハ。
「やったことがあるの?」
「ないさ。ないけどね。だけどもっぱらそういう噂なんだ。釣りの雑誌や新聞を見るといつも大漁だが、あれはホラ吹きの釣師が一回きりの経験を何回となく書きたててるのさ。信ずる者は救われないよ。よしなよ。わるいことはいわないから。ナ」
「釣れたらどうする?」
「釣れないッて」
事情通は自信満々そういってソッポ向き、ゆうゆうとタバコをふかす。その横顔の冷酷。傲慢。憎いッたらない。
すべて非日常的行動にでる人はおまじないをするものである。これまで私はワカサギのときもカジカのハンマー打ちのときも強力とか、超強力とかうたったヘヤートニックを携帯した。徳之島へいったときは資生堂の≪ド・リュックス≫であった。これは黒い瓶に入っていて千エンもする。しかし今度はモノがモノだけにもっと敬意を払わねばなるまいと思い、どれにしようかと迷った。邱永漢氏創製の≪ヘヤー・ゲン≫というのがあって、邱氏がそれを使ってみるとチクチク嬉しいキザシがあらわれ、ほんとにきくのだということであったが、池島信平氏に会ったときに聞いてみると鼻のさきでせせら笑い、人類が二千年かかっても妙法の発見できなかった悲劇を一人の邱がどうできますか、あの人はほかのことならあんなに賢明なのにどうして禿げとなると見さかいなく凝っちまうのか、フシギだねえという。それは山登りとおなじで、禿げ頭がそこにあるからという理由なのじゃないでしょうか、禿げ頭を見さえすれば、ただもう邱氏はいてもたってもいられなくなって……と私はいいかけたけれど、池島氏の炯々《けいけい》たる眼にすでに不穏ないろがきざしかけてきたのを見て、思いとどまった。
するところへ女房が、こんなのがあったといって買ってくる。カネボウ特製の≪シデン≫とかいう一瓶であって、二千五百エンもするのである。瓶の形、レッテル、香リ、値段のこと、諸点を検討するうちに、何やらききそうな、たのもしそうな、嬉しい気持になってきたので、これを持っていくこととした。ここで≪ききそうな≫とか、≪たのもしそうな≫とか、≪嬉しい気持≫とかいうのは、池島信平氏や邱永漢氏が自身の体の最頂点について抱いているのとおなじ、または似た感覚を私が自分の体の最頂点について抱いていて、それを克服、または治癒、または防止しようという真剣で執拗な祈りを持ったというような意味ではないのである。断然そうではないのである。釣りで一匹も釣れないことを≪ボウズ≫というので、それを避けたい気持からあくまでもオマジナイとしてヘヤートニックの瓶を嬉しい気持で眺めたいというにすぎないのである。私の最頂部は熱帯降雨林のように鬱蒼とし、深くて広く、夕陽は射さないのである。
いつかパーティで遠藤周作氏に会ったら、しばらく見ないうちに最前線があらわに、徹底的に後退していて、朝陽もタ陽も照りつけるままという状態に陥ちこんでいるではないか。
「……おッ」
いいかけると、すばやく早口に
「ボードレェルみたいやろ」
噛みつくようにそういってソッポを向いた。
また、かの黒眼鏡のプレイ・オジサン、野坂昭如。九州の海岸を汽車で旅行していて、ふと客席の白いシーツにもたせかけている夕陽の射す部分を私が運わるく目撃し、思わず
「……おい、野坂」
というと、彼、暗澹と沈みこんじゃって、昔は雨が降ると農家の藁葺屋根にかかるようやったけれど、この頃はトタン屋根へじかにパラパラッとくるようやねン、つらいねン、イヤやねン、いわんといてんかと、早口に悲痛な声をだした。
奥野健男は結婚したら治ったと誇る。
村松剛はオレのは額であって頭ではないと力む。
けれど私は何もいわないのダ。
さて。さて。
豊後水道からあまり遠くないところに燧灘《ひうちなだ》というのがある。小島、中島、大島がたくさん散っていて、さながら多島海といってよろしい景色。そこに一つ、大島という島がある。≪大島≫という地名は日本のあちらこちらにたくさんあるが、この島も大島というのである。ここに私の縁者が一人、ひっそりと棲息していて、畳を縫い、文房具をひさぎ、魚を釣り、ミカンを育て、石を磨き、盆栽に凝り、まことに風雅な清貧を楽しんでいて、うらやましいかぎりなのである。私はよくミカンや、干したタコや、干しエビなどを贈られる。この人に連絡して、内海のタイの一本釣りをやりたいがと、持ちかける。アホでも釣れるやろかと、たずねる。風雅な人は賢く熟慮し、もうしばらくしたら大潮がくる、それがちょっとひきかけになった落ち潮≠フときがよろしい、アホには無理やがタイはまだこのあたりなら見られます、という答え。
タイは豊後水道から乗ッこんできて内海をさんざんいたぶられつつ通過して鳴門から外海へ抜けていく組と、鳴門から乗ッこんで豊後水道へ抜ける組と、大別して二つあるのじゃないだろうかという説があり、いや、内海の廊下のどこかに棲みついて年を越して肥るやつもいるのだという説があり、ほかにいくつもの小さな説があり、むつかしいところであるが、この大島のあたりは、海底が磯であり、根であり、潮流が速くて変りやすいことは鳴門についで二番めだという評がある。ということは、潮先が変らぬうちに釣師はすばやく反応し、アクションしなければならないということである。一つの潮が二十分から三十分しか来ないのだからまるで居合い抜きのような勝負をしなければならず、また潮先、潮先を追って移動しつづけねばならないということでもある。さて、その一つの潮が来、その一つの根に舟が位置したときに、適切な速さ、適切なシャクリ、適切な餌で条件に呼応できるウデがこちらにあるか。ないか。問題は私についてはこのあたりにある。人生の諸相もまた、おなじであろう。自分で潮も根もわからぬまま熟練の先達に某所へつれていかれてサァやれといわれたときに、うけて立てるか。立てないか。そこである。よくそういうことが、この気まぐれな人生にも、あるではないか。潮は来たがはずしてしまったとか。潮の来たのがわからなかったとか。潮が去ったのに餌をまきつづけたとか。すべての条件が整備されたのにふいにウンコちゃんがしたくなったとか。あるいはまたフトしたひとことのために、決定的瞬間を逃してしまったとか……
大島へいくには尾道から水中翼船で今治へわたり、そこからフェリーに乗りかえねばならない。この島の界隈は、昔、村上水軍のアジトだったので、島には≪村上≫という姓が多いので、人は、亀夫がどうしたとか、花子はどうなったとか、名を呼びあって姓をいちいち呼ばない習慣である。それで、人種はどうなのだろうと思うと、パンフレットに一首あったりするのである。
眉太き
海賊顔の人ありて
能島の夏を忘れかねつも
勇
この≪勇≫は吉井勇のことだろうか。
いまでも住人は眉が太いか。
海賊の顔はきっと眉が太いか。
眉の細い海賊の子孫もいはしまいか。
ちょうど乗ッこみの桜ダイの季節である。伝八笠にくるんだタイの浜焼が山陽本線のうららかに陽の射すあちらこちらの駅に見られるので、玉島駅で途中下車した。岡山のちょっとさきの駅である。ここの海岸には老舗≪鯛惣≫の仕事場がある。≪初平≫の仕事場を見たかったのだが、食べるのはいくらでも結構ですが仕事場は税務署にも見せるわけにはいきませんのでといわれた。しかし≪鯛惣≫氏にあたってみると、ここはおなじ老舗だが快くどうぞおいでといわれた。この店は渚のすぐよこに仕事場を持ち、セイロで蒸したり、赤外線で焼いたりなどという当世風のマスプロではなく、いまだに古式である。タイを藁で包み、それを布でくるむ。トロッコのような木の車のなかへグラグラ煮たてた塩の過飽和液をドウッとそそぐと、水分は流れて、塩がのこる。厚くて、熱くて、固い塩の寝床ができる。そこへタイを並べる。つづいてふたたび過飽和液をドウッ。水分がザアッ。厚くて、熱くて、固い塩の層。タイは塩層にサンドイッチされる。そこでゆうゆうと三時間、熱が自然にさめていくのを待つ。すると、タイの肌に桜色をのこしつつ肉にほのかな塩のしみた、キュッとしまった、申分のない、あの浜焼ができあがるのである。熱いうちがいちばんですよと、できたてのホヤホヤを大皿にのせ、ショウガ醤油をそえて、だされる。背ビレ、胸ビレ、腹ビレをとってから、しっぽのほうに箸を入れてグイと起すと、ウロコが一枚の鎧となってガバッと、とれる。もう一つグイと起すと、肉が一枚の鎧となって、これまたガバッと、とれる。それをショウガ醤油にちょっとつけて頬張ったら、ああ、コトバが白い肉といっしょにのどへすべってしまう。
タイの浜焼はわいてくる唾をのみのみでかけて止めを刺されたのだったが、もう一撃、思いもかけぬ珍味に出会った。≪このこ≫の塩漬である。これはナマコの卵巣のことで、ナマコのはらわたの塩したものは≪このわた≫となってどこにでも登場するが、卵巣のほうはホンのちょっぴりとしかとれないから、ほんとに珍しいものである。これを集めて干したやつにはいままで何度か出会ったことがあるが、生《なま》のには今日がはじめてである。この店の|それ《ヽヽ》は塩を薄く薄くきかせただけだから、淡桃色のとろりとしたものは清淡の醇味匂って、舌にのせたら、ア、ア、アともいわないうちに一杯の酒をのせてすべっていく。どうにも茫然となってしまうのである。このようなものがあるだろうか。冬の日本海のカニはどうだろうか。フグの白子のあの豊満はどうだろう。眼をうるませて指折りかぞえたくなってくる。年間、四万匹のタイを扱う老舗だが、お土産にこの≪このこ≫を買いたいと申出ると、さすがの鯛惣氏もこればかりはもうございませんという顔がいたましい。
大島は静かな、豊かな、いい島だった。このところ私はよくいい島に出会うようである。徳之島や奄美大島の渚には古代の浄白と強健があったが、こちらの大島もまったく観光ズレがしていなくて、ネオンや野立看板やオシッコの匂いやヘルス・センターなどというものはまったくなく、松は松としてそこにあり、漁村は漁村としてそこにあり、きつい、鮮かな、不安をおぼえるほどピリピリした藻と潮の香りが浜の小石にゆれている。旅の人間をホッとさせるのはこの島の人びと、ずいぶん内福らしくて、山のなか、田のふち、林のかげ、どこに見る民家もしっかりした瓦屋根の二階建で、けっして屈伏した獣の背のようではなく、のびやかに見えること。聞けばゴールデン・ウィークとか日曜日とかには漁師の兄さんも父ちゃんも近頃はどんどんマイカーをとばしてフェリーで今治にわたり、あっちゃこっちゃとプレイにでかけるとのことである。時代である。大潮である。眉太き海賊顔もヤング・ルックである。(それとなく気をつけてガンを行き会う人ごとにトバしてみたが、とくに眉の太いのや海賊顔らしいのに出会わなかった)
三軒きりない旅館のうちの一軒に入ったが、これまた古くて暗い、田舎そのものの旅館で、メバルやオコゼ、逸品の魚を呆れるほどへたくそに料理して恥じないおおらかさであったが、夜になるとそこへいつものように百戦錬磨の漁師に来てもらい、魚の話をしてもらう。このあたりでいまとれるのはオコゼ、メバル、ホゴ(メバルより小さい、そっくりの底魚)、アコウ、チヌ(クロダイ)、アブラメ、カレイ、スズキ、キス、タイなどである。ことにタイに注意を集中して話を聞く。ご多分に洩れずこのあたりも乱獲がたたってタイの数はお話にならないくらい減ったが、それでもよそにくらべればまだいいほうである。タイはゴチ網漁をするのでなければ古式一本釣り、または枝鈎釣りであるが、ここ二、三年は生きたイカナゴをコマセ(まき餌)して釣るようになっている。タイは悪食、貪食の魚であって、姿はあんなに立派できれいだが、何でもかんでも食べるという癖がある。チロリ虫(海底に棲むゴカイの兄貴分のような虫)、マイコエビ、サザエ、イカ、タコ、イカナゴ、何だって餌に使える。エビでタイと昔からいうけれど、エビにかぎったことではなく、何だって餌になる。アブライカといってニシンの油にイカの切身をまぶしたどうにも悪臭すさまじいのがひどくいい。このあたりにいるテナガダコの足を一本、皮を剥いてつけるのもいい。このときはパックリひとくちにやれないからタイはボツボツと食いかじってきてさいごにドカッととびつくからそこであわせる。この釣りはなぐさみ≠ニしては面白い。(遊びとして海へでることを島の漁師たちはなぐさみ≠ニ呼ぶ)。ニシンの油を毛糸にまぶしたり、腰巻のきれっぱしにまぶしたりしてもタイは釣れた。何であんな臭いのがいいのかわからないが、ピンピンおどらせると、タイはいちもくさんにとびついてきたものである。そこでホンダワラをかけてみたり、ゴムをかけてみたりしたが、やっぱりタイはとびついてくる。ゴムはいろいろの色をためしてみたが、このあたりじゃ水色のがきくようだ。
「……ずいぶん東京で聞くのと話がちがいます。タイは頭のいい魚といえますか?」
「そうじゃな。あまり頭のいい魚とはいえん。わしはそういおうと思うんじゃ」
「姿は威風堂々としてるが頭はよくないほうで、むしろ食いしんぼだ。そういえますか?」
「そういうてもまずまちがいはない。ひとはどういうか知らんが、わしはそういおうと思うんじゃ」
「かといってそうチョイチョイ素人にしてやられる魚でもない。そういおうと思うんですが、いいんでしょうか?」
「玄人と素人はやっぱりちがうんでの。たまに素人がドカ釣りでけてもやっぱり素人は素人、玄人は玄人なんじゃ。ひとはどういうか知らんがわしはそういおうと思うんじゃ」
「あしたはイカナゴをコマセして一本釣りにでかけるんですが、私みたいな素人にも瀬戸内のタイが釣れるのでしょうか?」
「明日は潮がええ。天気もええ。風も悪うない。しかしタイが釣れるか、釣れんか、そんなことはわしにはわからん。お宅のウデがわからんからの。しかし、せっかく東京からおいでなんじゃから、どうあっても釣らしてあげたいのう。わしはそういおうと思うんじゃ」
朝。
五時。
起きよ。めざめよ。海はひらく。すなどりのときなり。いろくずは待てり。といわんばかりに、ふいに深山のように静寂な島いっぱいに太ぶとしくサイレンが鳴りひびく。私はフトンを蹴ってたち、部屋を出たり入ったりし、歯をみがき、顔を洗う。そしてさいごにバグに手をつっこんでみたら、ウォルトン師も指摘しなかったあの秘薬がない。てっきり入れたと思ったはずなのに、ない。ヘヤートニックが、ない。となりに寝ていた三神君をゆりおこす。
「一大事だ」
「どうしたんです?」
「今日はシケだぞ」
「何故わかります?」
「シデンがないんだ」
「アゲーッ」
「入れたはずなのにないんだよ」
「困った人だなァ」
「あれは二千五百エンもしたんだよ」
「アゲーッ」
「ちきしょう」
「困っちゃうナ」
「メルド、メルド!」
「そりゃ何です?」
「なに、フランス語でちきしょうというのさ。メルド、メルドはちきしょう、ちきしょうだ。わしはそういおうと思うんじゃ」
「キザ、キザ」
「弱ったよ」
「どうなっちゃってんだろ」
「強力サムソンだってデライラ女《おんな》に髪をちょっぴり切られたばかりにダメになったというじゃないか。男の髪ってそんなもんなんだよ。今日はボウズかもしれん。おれは今日はダメだ。戦意喪失だ」
「イヤだな」
そこへ風雅、清貧、若白髪の縁者が、珍しや、旧陸軍の乗馬ズボンにそっくりのオールド・ルックでニコニコ笑いながらやってくる。われらはお茶のマホー瓶と弁当を持って狭い道を歩いていき、朝のひきしまった渚へおりていく。おばさんたちがわいわいはしゃいでとれたての魚を売ったり買ったりしている。魚籠《びく》や木箱のなかでオコゼ、メバル、カレイ、キスなどが濡れ濡れした肌を閃かせてバタバタはねまわっている。オコゼは醜怪無類の顔をし、それはまさに深遠な海底の玄怪にふさわしく、ふと私は通りすぎしなにデュッセルドルフやニュルンベルグの美術館で見たフランドル派の画家たちの冷たく濡れた細密画の幾枚かを思いだしたりする。あれらの画に大口をあけてあらわれる北海の魚族が黄昏の微光のなかでこのオコゼにそっくりである。
海のなぐさみ≠ヘ案内の漁師にかかっている。見ず知らずの海へ来て潮も根もこちらは知らないのだからつれていかれた場所へ糸をおろすしかないのである。海は広いけれど魚の通路と住宅はきまった場所にあって、あとは水と岩の空地みたいなものだから、そこに糸をおろしたってしかたがない。今日の漁師は縁者の小学時代からの友人で、この島の浜では選りぬきの人物とのこと。長身、屈強、まっ黒に陽焼けし、身のこなしは俊敏だが笑うと眼がほんとに愉しそうに細くなる。
「……ここは潮が速い。すぐ変ります。二十分か三十分です。そのあいだにすばやく勝負しないといけません。あっちこっちいってみましょう」
われわれはザワザワ波だっているところや、まるで早瀬のようなところや、深淵のようにトロリとしたところなど、四カ所ほどをつぎつぎと移動して攻めた。今日試したのはテンビン釣りとコマセ釣りの二法である。
テンビン釣りは道糸のさきに細いワイヤをテンビンにしてつけ、一端にハリスと鈎、中間にオモリをつける。餌は生きているイカナゴ。これは尻に鈎をかけてもよく、腹に刺してもよく、顎を下から上へ刺してもよい。そうやって頭に鈎をかけたほうが大物がとびつきやすいとのことである。テンビンが海底めがけておりていき、トンと底につく。そこでグイとしゃくって根がかりしてないかどうかをたしかめてから、ついで一|尋《ひろ》ほど繰りだし、チョイチョイとしゃくる。それでイカナゴをおどらせるわけである。指の腹に糸をかけ、何やらアグラをかいて、玄人らしきサマをよそおい、耳をかたむけてアタリを聞く。これで私はメバルとホゴを釣り、三神君はアジとアブラメを釣った。アブラメはオモリが底についたとたんに≪ドカッ≫と食いついたのでよくわかったと三神君はいう。メバルとホゴは姿のよく似た魚であるが、私の指にはあるかなしかの鈍重なアタリで、藁束をひっかけてたぐりよせるような、重いけれどにぶい手ごたえしかない。もっとピリピリしてくれたほうがなぐさみ≠ノは愉しいのだがと、人間は冷酷なことを考える。
つぎに場所を変えて、コマセ釣りを試みる。これは少し説明がいる。二人がかりでやる釣りである。まず舟のヘサキに縁者がすわり、トモに私がすわる。私の手の道糸のさきには枝鈎が二本ついている。それを縁者にわたす。縁者は二本の鈎にイカナゴを刺してから糸ごと特殊装置に入れる。これは真鍮製の重い筒であって、底に蓋があり、上には穴がいくつもあいて海水が自由に入れるようになっている。ここへ手網《たも》で生簀のイカナゴをすくって入れる。筒を両手で持ち、海水に入れ、フッと放す。重い筒はイカナゴを入れたまままっしぐらに海底めがけて突進、トンと根につく。筒が沈みつづけるあいだ水圧におされて蓋はひらかない。トンとついて、グラリと倒れたとたんに蓋はひらく。とたんにイカナゴの群れがワラワラッと、とびだす。鈎のついたイカナゴもとびだす。そいつをめがけてその辺りに棲息する魚、または通りかかった魚が電光のごとくとびかかる。
縁者が筒をはなして
「それッ」
という。
丸めた私の手のなかをいちもくさんに糸が走っていく。ピリピリ、チリチリと走っていく。縁者の手のなかでもワイヤが走る。筒が底につく。蓋がひらく。糸がとまる。すかさず糸をしゃくる。ついで一尋送る。ついでチョイチョイしゃくりつつ、ゆっくりとたぐりにかかる。一たぐり、二たぐり。ここで勝負がつく。魚がとびついたら指の腹に≪グッ≫ときたり、≪ググッグッ≫ときたり、≪ドカッ≫ときたりする。このときにアタリがなければさっさと糸をたぐりあげてはじめからやりなおしである。これを迅速かつ適切にやらないことにはたちまち潮先が変ってしまう。内海第二の難場だから厄介である。またコマセのイカナゴも筒からとびだしたあといつまでもグズグズしていず、電光のごとく逃散してしまうのだから、彼らが筒からとびだしてキョトンとしつつ乱舞しているその一瞬、二瞬のうちにこちらも糸をしゃくっておどらせ、食いつかせねばならない。そう。そう。そこのコツ。それがむつかしいと見た。
「それッ!」
「OK!」
「たのんまっせ!」
「まかしといて!」
「おかあちゃん!」
「ア、きた!」
おおむねそのような、はずんだ、いきいきした、ときどき品のわるい、ピッタリ呼吸のあった共同作業の声がヘサキで起り、トモで答えるのである。これは親友どうし、夫婦どうし、恋人どうし、忍耐と寛容のうちに結束した二人組でやると愉しいなぐさみ≠ナあろう。
これで私はチヌを三枚、アコウを六本、スズキを一本釣った。チヌとはクロダイのこと。東京方面ではカイズとかチンチンとか呼ばれている。何でも知っている、賢い矢口純が東京へ帰ってからの私にチヌが≪カイズ≫と呼ばれるのは、あれでもタイ族のうちなので≪系図≫というところが訛って≪カイズ≫となったのだよと教えてくれた。矢口氏はそう説明したあと、いつか井伏鱒二氏とカイズ釣りにでかけたら向いの舟の漁師がポンポン釣るのにこちらは一匹も釣れなかったという率直な話をしてくれた。その挿話は聞いていて私の耳にはなはだこころよくひびいた。矢口氏はいつも心根の優しいことで知られている。ほんとに紳士である。
チヌは扁平な魚だからだろうか、たぐりよせるうちに大きく右へ走ったり、左へ走ったりするので、わくわくしてくる。抵抗が大きいし、おどるから、いったいどんな大物だろうと考えたり、フッと軽くなって逃げたのじゃないかと心配したりさせる。アコウはおいしい魚なので季節によってはタイとおなじか、それより高く売買される魚であるが、底魚なので、引きは強引、鈍重、ゆっくりと浮上してくる。スズキは鈎が上唇にかかったときはいいが、唇のはしにかかったときはグイと首をふられると唇ごともげてバラしてしまうので糸をやったり、たぐったりにコツがあるらしい。恥ずかしいことに私はアタリや引きぐあいだけで魚種がいいあてられるほどの玄人ではないから、チヌもスズキもおなじ手つきでたぐりよせた。そしてやがて生簀がピシャピシャパチャパチャと過密居住になっていく物音と、暗がりにひしめくその多彩とを、空いっぱいのおおらかな満足で聞き、または眺めた。ヘヤートニックがなくても今日はまったくボウズにはならなかったではないか。見ず知らずの海で私は迅速、適切に反応できたではないか。
「あとはタイだけだ」
漁師がそう叫び、舵をキィキィたぐり、ほんとに愉しそうに声をあげた。何と優しいことか。彼はただ舟を操るだけに没頭しながら青白い東京者が彼の眼から見て児戯に類する獲物にわくわくしているありさまを見て自分もいっしょにわくわくニコニコしているのであった。私が求めつづけているのはこのような率直と親和、大いなるこの稚《おさな》さなのではあるまいか。この一瞬、二瞬。空と海に散って消える男の歓声。この酔いの圧倒的な単純の深さにくらべれば、東京で味わう無数の繊巧で衰えた声の味など、何であろう。
「それッ!」
「おかあちゃん!」
「たのんまっせ!」
「南無八幡大菩薩!」
糸が走り、糸がとまり、私は舟べりに体をのりだして、いっしんに指の腹に耳をかたむける。二回。三回。四回。
静かに、決定的に、謙虚に
「潮が変りました」
漁師がつぶやく。
われらは寡黙にうなずき、糸をたぐりあげて糸巻きに巻きつけ、ピンピンはねるイカナゴを鈎からはずして海へもどしてやる。大いなる漁師はしばらくしてエンジンの音をあげ、快速前進、浜をめざして岬をまわっていく。私は海水でふやけた指の腹がナイロン糸でこすられてヒリヒリ痛むのを底知れぬおおらかな愉悦で味わいつつ、上に揺れ、下に揺れ、くりかえしくりかえし、あと十分潮があったらタイは釣れた、いや、釣れたはずだ、たしかに釣れたはずだと、考えこむ。そのいささかの深刻な感懐を、いつもの癖で罪のない、熱狂的な巨人化で表現すれば、ローマを河の対岸に眺めながらふいに兵を引揚げたアッチラ大王、雀が丘に佇んでモスコウを睨みながら泣く泣く敗走していったナポレオンの心境が、こうでもあろうかと。わしはそういおうと思うんじゃ。
波が起り。
泡が消えていき。
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根釧原野で≪幻の魚≫を二匹釣ること
北海道の東北部、いわゆる道東と呼ばれる地帯、そこの原野を流れる暗い、冷たい、清冽な水のなかに、≪イトウ≫という魚が棲んでいる。いまや絶滅をつたえられはじめ、オオカミやニシンの神話に近づきつつある魚である。≪幻の魚≫と誰いうともなく呼ばれはじめて、もう、何年にもなる。
内地ではほとんど知られることがなく、釣師仲間でもときたま話題にはなるが、よほど遠くて巨大すぎ、まず姿を見た人もなければ釣った人もなく、食べた人もいない。水族館が私は好きで、水辺の町につくと何はともあれ見学にでかける癖があり、ずいぶんたくさんの魚をこれまでに見たけれど、まだこの魚が泳いでいるのに出会ったことがない。
そこで若干のガクを並べると、これはサケ科の魚である。この科には四つの属がある。サケ属。イワナ属。ニジマス属。イトウ属。サケやマスにはいろいろな先生がひしめいていて華麗な名が私たちを歓ばせてくれるが、サケ科イトウ属には日本ではたった一種のイトウしかいない。イトウそのものには沿海州系のもの、アムール河系のもの、揚子江系のもの、ダニューヴ河系のもの、樺太系のものと五種あるが、このうち道東に棲むのは樺太系の英雄である。
大きい。凄く大きい。ちょっとケタはずれである。昔、二メートルをこすのが釣れたことがあるといわれている。そういう大物はとても陸揚げできないのではないかと心配したいところであるが、話によると糸でひっぱられているうちイトウがカンシャクを起したのか、川のなかから陸をめがけて大跳躍をしてきたという。釣ってた男はそれを見てヒョウに襲いかかられたような気持がし、卒倒してしまったというのである。学者の推定ではそれくらいの英雄ならまず二十歳以上であろうとのことである。
蒼古たる神居の時代、水辺をさまようアイヌ人たちは、とろりとした渦を起してゆうゆうと泳ぐ巨怪を観察して、その体にふさわしい伝説を創ってやったのである。それはあのドイツのほら吹き男爵の一篇に匹敵するほどの広大なものであって、あるときイトウが牡鹿を丸呑みしたところ、角が腹をつきやぶってしまった。そこでイトウは死んでしまい、死体が川を流れた。その死体が川の水をせきとめることとなり、ために洪水が起った、というのである。いや、みごとな想像力。さすが後年、少年ヨ、大志ヲ抱ケという言葉を吐いたお国柄である。万事こうでないといけない。
イトウは強大な顎の持主で、口は大きい。小さいけれど鋭い、切り裂くような歯をしていて、半ば伝説的にではあるが、川の行手をよこぎるやつはヘビであろうとネズミであろうとカエルであろうと、何でも呑みこんでしまうといわれている。金環にかこまれた黒い眼は爛々と輝き、頭は平べったく、ウロコは小さいが腹には虹がかかり、頭、頬、背に濃褐色の斑点が散らばり、見たところは、サケ科特有の不逞、獰猛《どうもう》の形相すさまじい。画家の佐々木栄松さんはイトウに憑かれて二十年水辺をさまよい歩いてきた人で、名実ともに名人であり、権威であるが、巨大イトウのことを彪のような≠ニ書いている。たしかにそういう古字にふさわしい顔である。
佐々木さんのいうところではこの神居巨人もどんどん滅ぼされていって、いまと十年前とではお話にならないとのこと。かつては平均が七十センチ、八十センチ級であって、イトウには仔魚がいないのではないかと思ったほどであった。昭和三十六年と三十七年には、釧路川と雪裡《せつつり》川の三カ所で推定一・五メートルの大物に出会ったことがあるという。いまでも大湿原と根釧原野のどこか暗い淵にそういう神居がひそみ棲んでいるのではないかとの想像がほとんど確信となって血をかきたててやまないという。しかし、年を追ってイトウは小さくなっていき、昭和三十五年の平均が六十センチ、三十六年が五十センチ、三十七年が四十五センチである。毎年五センチずつ小さくなっていくのだとすると今年は昭和四十三年であるから、十五センチ大が平均か。もう三年たつとゼロになる。
三年かかってやっと一本あげたとか、五年かよってまだ顔を見たことがないというような話をたっぷり聞かせられた。天才福田蘭童氏にも釣れなかったし、魚聖緒方昇氏にも釣れなかった。佐々木さんの案内で両氏は原野に挑んだのだったが、ついに歯を噛み鳴らして引揚げていったとのこと。
帯広からたまたまタクシーに相乗りした釧路在住の若いお医者さんは、私がイトウ釣りにきたと打明けると、苦笑すらしないで、鎧の袖でちょいと一撫で
「ハ、ハ、ハ」
といった。
お話にも何もならない。あれはもう絶滅してしまった魚です。私の知人の釣り狂が四年も攻めているが、いまだにピクリとアタったこともないといいますからという。覚悟はしていたものの、すっかり心細くなり、三神君と顔見あわせてだまりこんでしまった。骨を腐らせるような、からみつくような、じっとりと冷たい霖雨。原野を埋める海のような濃霧。
しばらくしてお医者さんが
「佐々木栄松さんのところへいくんですか?」
とたずねる。
「そうです」
と答えると
「あの人の竿にはくるでしょうけどね」
といったきり、憎たらしく冷たく黙りこんでしまう。どうしてこうむきつけに北海道の人はものをいうのだ。いまに見ていろという気も起らない。イヤな感じだゾ。
福田天才、緒方魚聖がそうであったが、東京からイトウをめざして遠征にくりこむ人は、かならず佐々木名人の家のベルをおすことになっている。檀一雄氏もそうであった。氏も名人につれられて二日間さまよい歩いたがどうにもならなかったという。東京からのりこんでこの魚を釣った人はまだいないらしいのである。その夜、佐々木さんから、イトウの習性、餌のかけ方、キャスティング(投射)のコツ、凄い大物話、ひどい悲観的挿話など、こんこんと聞かせられた。名人は話がたくみで、十年の知人のような親密をひらき、けっして人を傷つけず、じつに優しかった。魚をあいだにはさむと、どんな未知のヒトとヒトのあいだにもたとえようのない稚雅の温暖があらわれてくるのである。徳之島でも、瀬戸内海でも、六月というのにストーブにカンカン火をたいているこの北溟の港町でもそれは変らない。この膚ざわりこそなつかしくて私はでかけていくのではないだろうか。モーパッサンは穴場を争って二人の親友がついには殺しあいまでやってしまうというにがいみごとな短篇を書いて釣師気質の一つの深い原素をえぐってみせた。それも釣りという遊びの持つ太初からの魅惑だが、また≪わらべのごときわれなりき≫とつぶやきたい親和、どの一隅にも毒を含まないこの親和も釣りの魅惑なのである。
「厄介ですが手とり足とりして教えてください。おっしゃるとおりにやってみます。釣れなくたってかまわない。佐々木さんがお釣りになるのをよこで見てるだけでもいいんです。イトウの顔さえ見られたらいい。あきらめてます」
「いや、まあ、一匹も釣れないということはないでしょう。大物が釣れるか釣れないか、それは別問題ですけれど、とにかくやってみましょうよ」
「ウン、カン、コンで?」
「そうです」
運。勘。根。
釣りの妙諦はこの三つにつきる。
さよう。
コトバではね。
「今日は忘れずにヘヤートニックを持ってきた。資生堂のデラックス。ド・リュックスというヤツ。千エンだよ」
「ハンマーたたきのときに持っていったヤツでしょう。思いだすなあ。一日、ハンマーをふるって、やっとカジカ一匹。あのときのでしょう?」
「一匹と十匹のあいだにはさほどの差はないのさ。魚釣りは一匹つれたらそれでいいんだ。一匹とれるのと一匹もとれないのとにひどい差があるんだ。ここだよ」
「小説家は口がうまいからなあ」
「ゴチャゴチャいっているまにふりかけなさい。夕陽が射してからでは手遅れだよ」
未明。
四時半。
暗い部屋のなかで三神君にヘヤートニックの瓶をわたし、今日の前途を祝して、盛大に頭へふりかけてもらう。過去の実績によればこのオマジナイ、すばらしい効果がある。
東京では初夏かというのにここでは毛糸のトックリ首のセーターにスキー用のキルティングを着こみ、腰まであるゴム長をはき、そのうえビニールの雨合羽、雨ズボンをつけ、われわれはコロコロに着こんで、同勢五人、船外モーターをつけた一隻の小舟にのり、霧と雨の大湿原へ浸透していく。佐々木名人。その弟子で木材業を営む若い森君。過去《ヽヽ》四十年大湿原でサケの密漁だけをやって暮してきたという非凡な経歴のアングラ人、中野氏。三神君。私。
かねがね噂には聞いていたがこれほどのものとは知らなかった。大湿原にはコトバを奪われた。釧路市のすぐ郊外にこの地帯は広がっているのだが、約五万ヘクタールはあろうかという。見わたすかぎり枯れ葦のぼうぼうとした原野である。人の背をはるかにこす高さで葦は茂り、そこを小さな川がウネウネと蛇行している。メコン・デルタにそっくりである。もしここに強烈な太陽、むくんでジットリした暑熱と湿気、そして川岸にヤシ、ソテツ、バナナ、パパイヤなどを配るならあの惨苦の大沖積平原そのままとなる。そこに燦爛と落ちていく夕陽は劇場や王都の炎上を想わせ、私の影は地平線にまでとどくほど長くのびるのであろう。
草岩(または泥炭)になる一歩か二歩手前の状態にあるから泥が深い。うっかり踏みこむとたちまち膝まで、腿まで沈んでしまい、ガッシリとくわえこまれ、しめつけられて、身うごきができなくなる。≪野地目《やちまなこ》≫という。湿地をわたるときは厚く葦を踏みたおしてそのうえを歩くようにしないといけないと教えられる。棒でつきながら歩くのだとも教えられる。サケの密漁にきてプロの漁師がこれまでに何人もここで迷って餓死したり、溺死したりしたという。場所によっては流砂のような底無しのところがあり、人をまるまる呑みこんでしまうともいう。声なく酷薄、こだまなく獰猛なのである。天地創造以来の厖大な静寂がみなぎるなかにアオサギが羽音をたてて舞い、カラスがしゃがれ声で叫び、黄昏、上流からくだってくると、右岸の茂みのなかに二羽のタンチョウヅルが静かに佇むのを見た。ツルが葦のなかで啼くと、その声は≪クァーン≫、≪ルルルーン≫と不思議なひびきをこだまさせた。また何を思ったのか一匹の野生のミンクが小さな、丸い頭をあげていそがしそうに川を泳ぎわたっていくのも見た。
川は小さい。クリークのようである。しかし両岸は草むらのしたが深くえぐられて壺のようになっている。岸のところどころに低い灌木がたち、水に蔽いかぶさっている。その壺のなか、木の影、草にかくされた深い淀み、沈木のかげ、岩盤のかげ、イトウはそこにひそんでいるという。水は手を切りそうに冷たいが、深く澄み、暗い。暗く、暗く、また暗い。われわれはポイントを見つけるとエンジンをとめ、みんな息をひそめ、静かに櫂で漕いでさかのぼり、反対岸の草むらにぴったりと寄せる。そして名人は上流へ、下流へグラス竿を柔らかくふる。糸はヒューンと空を切ってとび、草むらの袖口とか顎のうらとかいった絶妙の点へのびのびと、誤りなく、息を呑むみごとさで入っていく。オモリがポチャンッと音をたてる。名人は静かにゆっくり、二回、三回、リールを巻く。それでアタリがなければ急速に巻きあげ、ふたたび投げる。
仕掛は?
リール糸が八号。道糸が七号。ハリスが六号。オモリは五号。ここまではべつにどうということもないが、鈎に工夫がある。鈎は何号というのかしら、タイ釣り鈎くらいのかなり屈強な錨《いかり》型。三本腕のうち一本を切りおとして二本にしてしまってある。名人の説明によると、三本よりは二本のほうがイトウがとびつきやすく、また刺さるのも深いとのことである。餌にはドジョウ、イカの足、ドバミミズ(ここではタマクラミミズと呼んでいる。あの憎さげに太ぶとしい奴を胴掛けにする)。擬餌鈎ではマス釣りとおなじスプーンを使う。本日はドショウを使って生餌釣りである。
ドジョウを鈎につけるには、まず細い針金をドジョウのお尻の穴にさしこんで口へぬく。そのはしが丸くしてあって、そこにハリスを入れる。針金をドジョウの口からぬくとハリスがついてでる。つまりドジョウの体のなかに糸が通っている、ということになる。ハリスのはしにさきの二本腕の錨鈎がついているので、そのお尻をドジョウのお尻のなかに深く埋めてしまう。そして鈎先を外側に向けず、ドジョウの腹にピッタリとくっつけるようにしなければいけない。ドジョウは頑健な小魚で、これほどなぶりものにされてもまだピンピン生きている。丸い口から泡をふき、キュウッと鳴き、針のさきでついたほどの小さな眼が赤く充血し、ひげをふるわせて怒っている。これをポイントにふりこんだら、淵の底をゆっくりとひき、ヒラヒラと泳がせ、生きているように見せかけなければいけないのである。ドジョウは生きがいいほどよいというのはもちろんのことだが、イトウがかかるたびにとりかえなくてもよい。名人はかつて、一匹のドジョウでじつに七本のイトウをあげたことがあるという。
私はキャスティングをやったことがない。海岸で一、二回、サーフ・キャスティングをやったことはあるが、あれはまずまず遠くへとばすだけでよかった。こう屈曲した、小さな川で、しかも草や灌木が両岸にふさふさとあるところで、二十メートルも三十メートルもとばし、ボサとすれすれに微細かつ決定的な一点へうちこむなど、まさに神技を要する。見ていると名人は右からふり左からふり、遠くも近くも、難場も易場も、まったく自在である。まるで指でその場へ持っていってポチャンッと落すようである。糸は柔軟に水面をかすめて走り、遠くを狙ったときは目的点の一歩手前でふわりと一度浮くかと見えてからポチャンッと着水する。その軌跡を見ているだけでも愉しい。ほれぼれしてくる。午後になってから私の腕と指と肩は少し慣れ、かなり遠くへとぶようになったが、その糸の走りぐあいは強気一本であって、こわばっており、とても名人ののびのびした柔らかさには百歩も及ばないのである。
舟はとまったり進んだりしながらさかのぼっていく。船頭の中野さんは湿原ですごした自分の生涯を、葦をヨシと呼んで、ヨシワラがよい≠ニシャレのめしている。たいそうな風流人。釧路の海岸に掘立小屋を建てて住み、いまだにランプを使っていて、何でもその小屋はほしい物がすべて手のとどくところにおいてあるとのことである。アルコール、ことに焼酎が大の好物で、あるとき名人が釣りに誘いにいったら小屋で仲間と大盤振舞いの盛大な酒盛りをしていた。どうしたの、とたずねると、いや、いや、今日はめでたい。朝起きて海岸へいったらクジラを一頭ひろったという。(こういう話がさほどの驚きもなく語られるあたりが、さすがに北海道といいたくなるのである。)ところが何日かしたら中野さんは見るからにしょんぼりして名人宅にあらわれる。どうしたの、とたずねると、いや、いや、ひどい目に会った。あのクジラは仲買人に売ってやったが解体してみると肉がすっかり腐っていて、どうにもならず、おかげで酒盛代が大の丸損になったと青い顔であったという。
中野さんは名船頭で、川に勝手に自分で名をつけている。≪千羽曲り≫とか、≪ヤレコレ≫とか、≪ゴジャ≫などと。昔はツルが千羽もいたところなのでその曲り角は≪千羽曲り≫、下流から手で舟を漕いできてそこまできたらホッと一息つきたくなるところが≪ヤレコレ≫、水路が何本も入り乱れてゴジャゴジャしているところが、ズバリ、≪ゴジャ≫である。こういう話を聞きつつ森閑とした葦のジャングルのなかをさかのぼり、冷たい微風に頬をなぶられ、暗い水に見とれているのは何というのびやかなことであろう。中野さんはやせて鋭い顔だちだが、多年のヨシワラがよいがそうさせたのであろう、眼が爽やかに澄み、無邪気で、秋の水に似ているのである。法網をかいくぐる密漁生活も氏にあっては大いなる自然児生活の一部にすぎなくて、陰鬱、暗湿な翳りはどこにも射していないかのようである。ちなみにこの人、戦後の自分に起った重大事件を話すときには、きっと一度はソ満国境で死んだ身と思えば≠ニいうのが口癖である。
ヤレコレかゴジャをすぎたあたりで、ふいに名人の糸がピンと張り、水のなかを右に左に走りだした。何だろう。サケか。マスか。ウグイか。それとも……
「持ってごらんなさい」
「いや、いや、それは」
「いいから、いいから、早く!」
名人から竿をわたされる。抵抗はあるがかなり軽快。しかし私はドキドキしてきて、ゆっくりとスピニング・リールを巻きにかかるが、もどかしくてもどかしくてならない。舟のそばまでひきよせたとき、ふいに水がはじけ、マス科の中型の魚が口をあけて顔を見せ、ピシャッと反転。虹が閃いて消えた。糸がフッとフケる。リールを一巻きするとドジョウが煩悶しつつあらわれた。
「何でしょう、あの魚」
名人はニッコリ笑い
「あれがイトウですよ」
ちょっと考えてから
「小さい。四年生でしょう」
とつぶやく。
つぎつぎとポイントをあたりつつさかのぼるが、アタリがなく、ある浅い、おだやかな平場にでたとき、ふいに中野さんが
「跳ねたよ、先生」
と叫んだ。
名人は私に持たせてあったクローズド・フェイス・リールつきのグラス竿をとり、波紋の上《かみ》へ一回、下《しも》へ一回、いそいで投射した。下への一回でグイとアタリがあった。今度も名人は私に竿を持たせてくれる。さきのよりはいささか重い、気持よい逸走、反転、抵抗。左手で竿をつっぱりとおしつつ右手でリールを巻き、慎重に慎重に舟べりへ寄せると
「よし、きた。そのままで!」
名人は一メートルほどの竹竿のさきに鋭いモドリなしの鈎のついた業物をとりだし、やにわに一挙動、ヤッと声をあげ、魚をひっかけて水から舟へたぐりこむ。魚は虹のしずくを散らしつつバタッ、バタッと跳ねる。これが尺をちょっとこす≪幻の魚≫であった。私は両手にとってしげしげと眺める。頭は平たく、金環でかこまれた黒眼が輝き、頭と頬と背に小さな斑点が散り、腹は銀白と虹で閃く。サケの顔にスズキの胴をつけたようなところがあり、顔には獰猛と優雅があり、死ぬのは早くて、意外に繊弱なところもある魚と観察した。死ぬとたちまち頭から背へ淡黄色があらわれ、ひろがる。哀惜と恍惚におそわれて私はいつまでも手にとって魚体を眺める。とうとう私は≪イトウ≫を、見たのである。これだけでも目的は大半達しられた。今日はもう釣れなくてもいいとさえ感じられる。
霧が晴れ、霖雨がやみ、淡い、輝かしい陽が葦原にみなぎり、われわれはエンジンをかけたり、櫂で漕いだり、ポイント、ポイントに投射しつつさかのぼる。名人が投げ、森君が投げ、私が投げ、川のあちらこちらにポチャンッ、パチャンッとひくいこだまがつづく。名人は空を見あげ、水を眺め、しばらく熟慮してから、今日はツイてる、絶好の条件になってきた、明るすぎず暗すぎない、食いも荒いようだとつぶやく。
「あそこ、ポイント」
ふと名人が前方をさす。
「本番ですよ」
十五メートルほど前方で川が曲り、対岸の一点に深い草のかぶさった、小さな湾が見える。淵があることは礁湖のような淀みのあることでよくわかる。私は舟のなかですわりなおし、|祈りつつも軽く《ヽヽヽヽヽヽヽ》竿をふる。糸はヒューンッと走り、ちょっと草むらにひっかかる。グイとひくと、ポチャンッとトロ(淀み)におちこむ。
「いい。巻く。ゆっくり」
「………」
「ゆっくりと巻く、巻く。ゆっくりと」
「………」
「もう一回」
名人にいわれるまますばやくリールを巻き、ふたたび|祈りつつも軽く《ヽヽヽヽヽヽヽ》竿をふる。糸が走る。いい。ボサすれすれに淵にとびこんだ。オモリが沈む。一回。二回。三回。ゆっくりとリールを巻く。二回めがすぎて三回めにかかったあたりで、とつぜん竿にドカッと震動があり、手がふるえ、糸がピンと張り、ググググッと竿がひきずりこまれそうになった。名人。森君。中野さん。三神君。めいめい口ぐちにあたりはばからず叫びはじめた。
「来た、来た!」
「竿をたてろ!」
「ゆるめるな、つっぱれ!」
「切れる、切れる!」
「フカせ!」
「つっぱれ!」
「そこだ!」
「泳がせろ!」
「ゆるめるな!」
「でかいゾ!」
「大物だ!」
「やった、やった!」
「慎重に、慎重に」
凄い。凄い引きだ。剛勇無双。グラス竿が円となってしなる。糸が右に左に奔走し、そのたび体が持っていかれそうになる。ブルブルふるえる竿にしがみつき、舟べりにしがみつき、眼は見えず、耳は聞えず、ただもう竿をたてて糸をつっぱるだけ。脈搏異常。呼吸困難。のどがしめつけられる。ああ。何という強力。リールを巻きあげようとしてもビクともせず、歯車がガリガリ、ガリガリと歯噛みの音をたてる。ジーッ、ジーッと鳴って糸がひきだされていく。ふいに暗い水をはじいてサケの顔があらわれ、グイと首をねじって消える。閃いた胴の太さ。厚さ。虹の閃光。ゆるい波紋の大きな、深遠なひろがり。全身がふるえはじめた。
「つっぱれ!」
「もう一回顔をだすゾ!」
「あわてるな!」
「引くんだ、引くんだ!」
「泳がせろ!」
「疲れるのを待て!」
「でかいぞオ!」
そうだ。竿をたてろ。ゆるめるな。走ったら走らせろ。ボサにだけ逃げこませるな。つっぱれ。つっぱりとおせ。そら、顔が水にでた。そこをしゃくれ。顔をこちらへ向けかえさせろ。ああ。その重量。剛力。あわてるな。巻きすぎるな。じわじわと。緊迫しつつもじわじわと。見えた。ついに見えた。成魚のサケほどもあるかと思える巨体が舟に沿い、上流に頭を向け、水のなかに静止しているのがそこに見える。しかし、彼は全身でたたかっているのであろう。満身に精悍の力をみなぎらせて耐えているのであろう。巻こうとしてもリールはそれきり一ミリもうごかない。
「手|鉤《かぎ》だ、手鉤だ、先生、手鉤」
「よしきた」
「張りっぱなしにしとけ」
「ゆるめたら逃げるゾ」
「いや、いや、こいつは」
「でかい!」
「うごくぞ!」
「大丈夫!」
名人は手鉤を水につっこんで魚の腹のしたに入れ、ヤッと声をかけ、両手でゴボウぬきに引いた。巨体は水しぶきをあげて跳ねあがり、舟へおどりこむ。ドタッ、バタッと乾いた音をたてて重おもしくとびあがるその体の銀白。虹。巨眼。巨口。歯列の鋭さ。ガッパリとひらいた巨口の白い肉のなかに深ぶかと錨バリが食いこみ、見ればハリスはボロボロにほつれているではないか。危機一髪であった。もう少しで噛み切られるところであった。しかし戦いは終った!………
私はふるえる手と膝で舳先に這いより、佐々木画伯の荒あらしい、濡れた、厚い、あたたかい手を握る。
「……!」
「よかったですな」
「………」
名人は顔じゅう皺になって微笑する。みんなは口ぐちに魚の大きさを嘆賞して、珍しいとか、みごとだとかいってくれた。私はおびただしく疲れ、虚脱してしまい、腰がぬけたとつぶやく。タバコに火をつけようにも手がふるえ、肩がすくんで、どうにもたわいないこと。カッと巨口をひらいたまま息をひきとりつつ肌の色がみるみる変っていく二尺五寸(七十五センチ)のイトウに、いいようのない恍惚と哀惜、そしてくっきりそれとわかる畏敬の念をおぼえる。これこそがこの大湿原の核心であり、本質である。蒼古の戦士は眼をまじまじ瞠ったまま静かに死んでいき、顔貌を変えた。
名人がひっそりとつぶやく。
「九歳から十二歳。そのあいだ」
約三十分後に私はいくらか小さいが二尺物をもう一本釣りあげた。午後、食事のあとでふたたび舟にのって川を攻め、尺物を三本、手もとまでひきよせたが逃がしてしまった。バシャッと水音をたてて彼らが虹の閃きだけを私の眼にのこして消えてしまっても、けっしてくやしくはなかった。私は彼らが逃げるままにまかせておいた。ドジョウもつけかえず、キャスティングは粗くなり、リールの巻きもぞんざいで、午後の私の動作はすべて緩慢であった。たえず微笑が額にまでのぼり、戦慄が体を上ったり下ったりしつつ不安な感動から形ある追憶へと変っていくにまかせた。タンポポや延齢草の花が咲きみだれる小さな丘の草むらでめいめいの腕や料理を賞めそやしつつ食べたイトウの刺身や、すばらしいスキヤキや、強いウィスキーの熱などに全身をみたされて血で重くなり、清純だが強壮な初夏の午後が、びょうびょうとした蒼暗の黄昏に変っていくのを眺めつつ、私は波にゆられるまま七十キロか八十キロかを流れていった。感動が全身にすみずみまでつまり、水のような黄昏のなかをおりていきつつ、私は自身が、何かの、大きな、よく熟した、自身の重量で正しい季節に枝をはなれた果実になったかのように感じていた。
二羽の大きなアオサギが葦の穂さきをゆっくりと羽でたたいて舞い、カラスがしゃがれ声で叫び、おびただしいカモの正確な編隊が空をよこぎっていった。葦原を小さな塔のような形でしなやかに歩いていくタンチョウヅルの声は≪クァーン≫、≪ルルルルーン≫とこだました。まるまる太ったノネズミが私の顔を見てあわてて逃げていき、野生の一匹のミンクが小さな、丸い頭をあげていそがしそうに川をよこぎっていった。あちらこちらにウグイが跳ねる。
この湿原の太古こそがネオンにくたびれ、博識のために行方を失い、もうもうとした塵芥のような嘘のたちこめるなかで暮すことに顎がでそうになった私たちの心の重錘《おもり》ではないのか。ここを鳥獣保護、特別天然記念地区として約四万ヘクタールをヒトの指紋のつかぬままに保存する画策に奔走した佐々木画伯の情熱と企画は正しすぎるほど正しかった。ここへきてヒトはやっと≪時≫を見いだせよう。失い、奪われたものの、その酷薄と豊饒の、広大な形相を見いだせよう。あるいは、少なくとも、切りきざむことに熱中したあげく得たもののあまりのみすぼらしさと稀薄さにほとほと愛想がつきる想いの、あの無形のわれわれの≪根≫の顔を、ここで見いだすことができるであろう。
潮騒のない、ひたひたとみなぎり、おしよせてくる、北溟の夜のなかを舟は流れていき、五人は冷たくかじかまって、やがて地平線のかなたにサケ採卵場の小屋の灯が見えてくるまで、ひたすら口をつぐんでいた。
完璧な、どこにも傷のない、稀れな日。
追 記
北京の西園寺公一氏に久しぶりで釣りのことで手紙をだすと、返事がもどってきた。氏の『釣魚迷』によると一九五三年の秋、北海道、別海原野の西別川で、イクラを餌にして巨大なイトウを仕止めている。戦闘は四十七分かかり、竿はハーディー製十一フィートのサケ竿、獲物は全長三尺八寸五分、重量は四貫五十六匁≠ニいうたいへんなものである。私のは佐々木画伯の目測では二尺五寸(七十五センチ)であったから、中学生と大学院生ぐらいのちがいがある。けれど、何しろもう幻の魚≠ニ呼ばれている魚なので、私は昂奮して手紙を書いたものらしい。氏は冷静な筆致でイトウ学の一端を返書に洩らした。あまり日本の釣師に知られることのない魚なので、一部を引用しておきたい。
『(前略)中国大陸では三つの水系にいるようで、大いに野望を逞しうはしているのですが、未だ思いを遂げず。第一が黒龍江水系(松花江を含む)のもので、HUCHO TAIMEN。その昔、東北に巣喰っていた多くの日本人のなかには、タイメン釣りに郷愁を感じる者が少くないことと思います。第二が朝鮮との国境附近、鴨緑江、長津江水系のもので、HUCHO ISHIKAWAI。第三が揚子江上流のもので、HUCHO BLEEKERI。なお、北海道、樺太系のは、HUCHO PERRYI、ダニューブ水系のは、HUCHO HUCHOというのだそうですね(後略)』
東北(旧満州)ではタイメン≠ネズミを餌にして釣ったものですといってその失神したくなるような豪快味を説いてくれる人にその後、私は出会ったことがある。中国大陸にはよろず底知れぬところがある。そのうちぜひとも一度、でかけてみたいものである。
ところで、イトウの味はどうか。
名著といわれる佐藤垢石補・松崎明治著『新釣百科』では肉はさほど美味ではない≠ニある。この本を追った服部善郎・松田年雄共著『日本の釣り百科』では、実物は見たことがあるが、実際には食べていないので、なんともいえない≠ニなっている。宮地伝三郎著『淡水の動物誌』では、旧満州時代、アムール・イトウを、肉は淡紅色にして美味なるため日本人は興安マグロと称す≠ニ報告書に記したとある。佐々木栄松画伯は自著の『きたの釣り』に、イトウはまずいという人があるがとんでもない、海の漁師が交換しようと申しでることがあるくらいうまいものだという意味のことを書いている。
私は画伯といっしょに大湿原の奥の小さな丘のふもとに上陸し、昼食を食べたが、そのとき、中野さんと森さんが釣ったばかりのイトウを刺身にしてくれた。肉は淡紅色で、美しく、とろりとした舌ざわりである。広茫たる大原野のさなかの刺身はすばらしかった。東京へ持って帰るには塩でたたむよりほかないので、やむを得ずそうしたが、帰ってから塩をぬいて照り焼にしてみたり、塩焼にしてみたり、いろいろとためしてみたところ、いずれもすばらしかった。イトウはおいしい魚であると断言したい。
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バイエルンの湖でカワカマスを二匹釣ること
六月はパリにいて、七月に入ってからドイツ(西)へ移った。初夏のパリは黄金色の陽光に輝き、セーヌ河原では白い房毛のマロニェの種子が綿の花のように微風に散っていた。樺太とおなじくらいの北方だから黄昏が長く、また緩慢で、夜は九時、九時半になるまで訪れようとせず、淡く透明な夕焼がいつまでもキラキラとまばゆい。旅館がセーヌ左岸、ノートルダム寺院のすぐ近くなので、毎日黄昏になると私は水滴の閃くような光のなかを歩いてサン・ミシェル橋のたもとにある『出発』というキャフェへいき、冷たいパスティスをすすりながら新聞や本を読んで時間をすごした。
いわゆる≪五月革命≫を観察する目的で日本を出たのだったが、私がパリに来たときにはもう幕が下りてしまっていた。史上空前といわれた大ストライキは終り、国民投票ではドゴール派が雪崩さながらの大勝を獲得し、左翼はお話にならぬ惨敗ぶりを見せた。学生たちは大労組に捨てられ、共産党に捨てられ、大衆に半ば同情されながらもやっぱり捨てられ、そうなると極限派はいよいよ極限化していって学生仲間からも捨てられ、機動警官隊は催涙弾と棍棒で彼らを苦もなく粉砕した。そして七月がやってくると、フランスの真に強大な実力者、ドゴールにも歯のたたぬ実力者、≪ヴァカンス≫である。ソルボンヌの壁新聞には『革命にヴァカンスはない』とか『今年の夏はギリシャへいかないでソルボンヌにとどまれ』などと大書してあったが、日に日に街路からは人が減り、自動車の大群は屋根に荷物をのせて南に向い、パリは輝ける廃墟と化した。夜はうつろで冷たく、客のいないキャフェのテラスは虫歯の穴となってしまった。マロニェの種子もいつのまにか散ることをやめた。
或る日、釣道具屋へいってミミズを買い、日本から持ってきた釣竿をさげて、セーヌへグウジョンを釣りにでかける。シテ(セーヌ川の中之島)の先端に二、三本の太い、ふさふさした柳の木があったこと、そこで流れが二つにわかれて絶好のポイントと見えたことなどを思いだしたのでポン・ヌフをおりていった。そこではいつもヒッピー族たちが安酒を飲んだり、議論したり、キスしたり、銭勘定をしたりしているのである。私が河岸に腰をおろして糸を川に投げたり、巻きとったりしていると、そのよこで一人の少女と二人の青年がひそひそ笑いながらスケッチ・ブックに画を描いて遊んでいた。そこへ一人の老いて頑健な体躯の、ウクライナ人と自称する酔っぱらいがあらわれ、英、仏、独、露の四カ国語のカタコトをチャプスイにしてしどろもどろながらひたすらに日本をほめはじめたので、私のポケットから一フラン玉が蒸発することとなった。ざんねんながらグウジョンは一匹も釣れなかった。数年前の記憶とはお話にならないくらい黄濁してしまった水のせいにして私は橋に長い影をひいて去る。
ドイツへ来てみると、ここも≪ウァラウプ≫(休暇)で、大学はからっぽである。革命学生たちは、赤派も黒派も、モスコー派もペキン派も、みんな日光浴をしに海か山かイタリアかへでかけてしまい、キャンパスの芝生ではクロツグミがかくれんぼして遊んでいる。新聞を読むと約二千万人が休暇に繰りだしたので、アウトバーンというアウトバーンは自動車がつまって身うごきならないそうである。ためしに酒屋へ|焼 酎《シユナツプス》を買いにいくと、ドアのノブに紙がぶらさげられ、『三週間ノ休暇ニヨリ休業致シマス』とある。虫歯の穴のような夜の町を散歩していると、映画館があり、それもドアがしまっていて、さびしく螢光灯がまばたき、冷たい壁に若い全裸の娘がしどけなく体をくねらせたポスターが貼ってあり、≪私、渇いているの≫とある。結構。結構。一人のドイツ人は哲学を書き、二人のドイツ人はオーケストラを演奏し、三人のドイツ人は戦争をする、という小話があるくらいである。戦争するより渇くほうがいい。諸氏、諸嬢が濡れることに専念しているあいだ私は小川のほとりでゆっくりマスでも釣れるというものである。なにしろドイツ、それも|黒 い 森《シユヴアルツ・ヴアルト》とバイエルン地方のマス釣りとくると、その名声、また≪世界に冠たる≫ものですからな。私もちょっぴり遊ばせてもらいますゾ。
町の釣道具屋にぶらりと入って情報を聞くと、たくましい体躯の、釣師としては自信満々だが口調はじつに謙虚なおじさんが奥から姿をあらわし、手をとるようにして親切に教えてくれた。いまの季節だと黒い森のマスはよほど上流のスイス、オーストリア国境方面の山奥へいかなければいけない。そこにはニジマスもカワマスもいる。しかし、上部バイエルンならマスもいるかわり、カマスもいるし、ナマズもいる。一つのブリンカー=iスプーン鈎やスピンナーのこと)で幾種類もの魚が狙えるから、こちらのほうが面白いのではあるまいか。上部バイエルン、下部バイエルン、シュヴァーヴェン地方である。このあたりには湖や川がたくさんあるから状況はいい。カマスには一メートルをこす大物がいて、しょっちゅうかかるわけではないが、そう珍しいことではない。マスも型のいいのがたくさんいる。湖ならヴァギンガー、ホッフェン、キィム、ヴァルヒェン、ヴァイセン、ジムスがいいところだ。これらの湖に出たり入ったりする川をあたってみるのも面白いのではないか。場所によって規定はちがうが、バイエルンの制限はカマスなら四十五センチ、マスなら二十六センチである。それ以下のは放してやらないといけない。でも、結構楽しめますよ。何しろ魚がたくさんいますから。私としては魚より釣師の数のほうが多いといいたいところですが、けっして失望なさることはありますまい。それはお約束できますよ。
おじさんの話を聞いたり、仕掛をいろいろ見せてもらったりしているうちに、ふいにカマスを釣ってみたい気持がうごいてきた。何しろこの魚は日本に棲息していないのである。日本のカマスは海のカマスだけで、川のカマスはいないのである。マスは北海道へいけばさまざまな種族がいるが、カマスはどこにもいない。けれど、大強盗≠ニ異名のついたこの猛魚は全ヨーロッパと、イングランド、スコットランド、アイルランド、そしてロシア、中央アジアの方まで広大に分布して湖と川の弱小魚族をふるえあがらせ、養魚家には憎まれ、寓話作家のペン先にはかならずひっかけられて貪慾の代表に仕立てられている。シチェドリンの『大人のための童話』にも幾つかでてきたのではなかったか。ビアンキの動物物語、そのうちの『森の新聞』でも一役買っていたのではなかったか。思いだせないだろうか。ウォルトンもこの魚のために『釣魚大全』で一章を割《さ》いていたはずである。ほかにもいろいろと読んできて、いつともなくモザイクのような知識でこの魚につき、私は一つの巨大で貪婪な、或る猛烈な生きかたのイメージをつくっているのではあるまいか。英語ではパイクといい、ロシア語ではシチューカというのではなかったか。日本語では梭魚と書いたのではなかったか。というような泡状の知識がたちまち浮いてくるのだけれど……
本屋へいって絵入りの魚類図鑑と地図を買う。頁を繰ると、そこにサケ科の魚体にワニの頭部をつけた一匹の魚がいた。ドイツ語ではヘヒト=Aフランス語ではブロシェ≠ニいう、などとも書いてある。解説をたどり読みすると、通常、四十センチから八十センチに達し、最高記録は一メートル半、重量二十キロのがあったという。体側は淡緑色に白い斑点があり、下顎がせりだし、巨眼がワニのようにもりあがり、頭部は角張っているが、上下の両顎に物凄い歯列がある。たとえ鈎がかかってもその巨大な頭と歯でブルッと一振りされたらなまじっかなナイロン糸ではたちまち切られてしまうから、大物釣りをやるのならハリスにはかならずワイヤを使うこととある。淵。葦かげ。沈木のした。小川の流れこみ口などに棲息する。餌には何を使ってもいい。ドバミミズ。小魚。ネズミ。ブリンカー。カエル。水鳥。何でも彼は一呑みにする。産卵期は二月から四月。釣期は九月から一月まで。五月頃から釣れだして九月から十一月までが最高。バイエルン地方では四十五センチ以下は逃がしてやり、バーデン・ヴュルテンブルグ地方では四十センチ以下を逃がしてやれという法規である。
「こいつはでっかい。ものすごい力があります。けれどバカです。かかったらグイグイ、ただリールを巻けばいいんです。するとそのままひっぱられてきます。しかし、手元までひきよせて、魚の顔が水にでたら、注意がいります。いいですか。こいつはバカな大男ですが、さいごになって人の顔を見たらやにわにあばれだす癖があるんです。たいていそのときに逃げられます。そこで逃げられなかったら成功です。それだけのことですよ」
二日めに釣道具屋に私があらわれて、ぜひともヘヒトを釣りたいといいだすと、おじさんはそういって身ぶり手ぶりをやったあと、愛情とも嘲弄ともつかぬ口ぶりで、ひきずりあげた魚をもとの水へほうりこむしぐさをやってみせ
「マスのほうがよっぽど面白いですよ」
と結論をくだした。けれど、私には、おじさんの巨大な手が巨大なリールを巻いて巨大な魚を空中に描きだしてみせるそのしぐさの何げなさのほうが眼を奪うものであった。いくらバカの大男だってそんな大男なら、一度は……
何しろ仕掛がすごい。フナやハヤを餌をするときはこれを使うのだといって見せられたのが、ワイヤで連絡した三つの錨鈎である。この一つを小魚の下顎へ埋め、一つを背に埋め、三つめを下腹に埋めるのである。つまり小魚を鈎でがんじがらめにしてしまい、どこに食いつかれてもいいようにするのである。そのワイヤが二本|撚《よ》り、三本撚りの頑強きわまるものである。日本でなら磯釣りのクエか何かの超大物でなければ考えられない道具がここでは川や湖で、ざらに、どこでも使われているらしい。ネズミを餌に使うというのもおどろいていい話である。イナゴ、ハエ、カエル、クモ、小魚などのビニール製または木製、金属製の擬餌鈎にまじって、釣道具屋の店さきには、モールで作ったネズミの擬餌まである。ちょうどハツカネズミくらいの大きさに作ってある。
魚釣りにいくとき
「筋子は持ったか?」
とか
「ミミズはあるか?」
などと、われわれは声をかけあうが
「ネズミをとったか?」
などとは、思いつこうにも思いつきようのないところであろう。えらい国へ来たものである。
さて。
おじさんにすすめられ、地図をにらみ、釣場情報書を買ってきて分析した結果、上部バイエルンのジムス湖を攻める決心をした。汽車でミュンヘンへいき、ローゼンハイムというところで乗換え、シュテファンスキルヒェンというところでおりる。そこから少し歩けば湖にでる。地図で見ると、あたりには沼沢地や川などがたくさんあって、たがいに水が往来しているので、なるほど魚影が濃そうに見える。キィム湖という大きな湖も近くにあるので、ジムスがだめならそちらへ転進することもできよう。そこにはティローラーアッシェという深さ一・五メートルの川が流れこみ、カワマス、ニジマス、イトウ、ナマズなどが棲むと、案内書にでている。
ドイツで釣りをするには二通の許可証がいる。その二通がなければ誰も川岸にたつことができない。自由な川というものはドイツには一本もない。ドイツ全土に棲む一匹のフナ、一匹のマス、すべての魚族は法で保護され、二通の許可証の発行者の財産である。一通はドイツ連邦共和国、一通はその土地、土地の漁業組合、市、町、村などが発行する。日本人に珍しく思えるのはホテルや別荘所有者などが私有地《プリヴアート》≠ニして川や湖岸を独占できることである。そういうところには草むらにちゃんと私有地《プリヴアート》≠ニいう立札がたっている。こういうところで許可証なしで釣りをすると、窃盗罪になる。釣りをしたければその川の持主であるホテルや金持のところへでかけて許可証を買わなければならない。一本、一本の川について権利者が異なるから、A川からB川へ移るときにはいちいちその川の許可証を用意せねばならず、気まぐれに行動はできないのである。(ただし、川の持主といえども連邦共和国の法の傘のしたに入っているのだから、禁漁期や制限サイズについての規定は守らなければならない。私有地だからといって乱獲は許されないのである)
私はバド・ゴーデスベルクの市庁にでかけ、階段を上ったり下りたりし、部屋から部屋へとたずね歩いて漁業許可証係をさがし、腕が一本しかなくて舌が少しもつれた中年男に写真を一枚と五マルク(約四百五十エン)をさしだす。午後の二時にとりにおいでというので近くの料理店で昼飯を食べてからもう一度でかける。男のさしだす書類にサインをする。許可証をくれる。これはドイツ国家が釣りをするにふさわしい人物だと認めたのであるという一種の人格証明書みたいなニュアンスもこめられた紙である。すなわち恐懼《きようく》して握手し、部屋を去る。近くの公園へいってゆるゆると許可証の注意書を読んでみたところ、イヤ、おどろいた。春夏秋冬の魚釣りの時間、日曜日の魚釣りの時間、それぞれの魚の禁漁期間、それぞれの魚の制限サイズが、ギッシリと書いてある。私のもらった許可証は北部ラインとヴェストファーレン地方に対して有効なのであるが、そこではサケは五十センチ、カマスは三十五センチ、カワマスは二十三センチ以下は放してやらなければならない。監督官に見つかったとき、知りませんでしたと答えても口実にはならないゾと、ダメ押しまでちゃんと書いてある。あとでジムス湖でもう一通の許可証を買うと、それにはカマスは五十五センチ以下は放してやれ。枝鈎をつけてはならない。ブリンカー、ミミズ、死んだ魚をつけて釣るのはいいが、それ以外の釣法は認めない、とあった。カマスは湖のギャングで、あらゆる魚族を貪り歩く大強盗なのだが、そんな害魚までもちゃんと禁漁期と制限サイズと釣技を指定して保護しているのである。よろず徹底、正確、厳密、法律を好むお国柄とは知っていたがここまでバッチリやっているとは知らなかった。バラの花の咲き乱れるベンチで私はつくづくうなだれてしまった。荒廃、乱獲、密漁、無法をきわめた日本の川と湖は、あれは、あの無残な破滅ぶりは、何ということだろう。メダカ一匹を残さないまでに啖いつくし、掃滅しつくしてやまない私たちこそカマス以上のカマスではないか……
ミュンヘン、東南東、八十キロ。
夏のバイエルンの田舎。牧草地の低いゆるやかな丘が海のようにゆったりとうねる。モミの木の黒い森があちらの丘に一塊、こちらの丘に一塊。ハチが唸り、ヤマバトが竹筒を鳴らすような声で鳴きかわし、牛の群れが大きな、うるんだ、静かな眼をしてゆっくりと丘を散歩している。ぶどう酒樽をいくつもよこにつないだような恰好の肥料車が村からあらわれ牧草地に豊饒な茶褐色のシャワーを浴びせて歩く。カタツムリは枝に這い、ヒバリは空にあがり、神、空にしろしめし、テクテクと竿を片手にかなたの村へ道のはしを歩いていく日本人の小説家のほかに人らしい人の姿は見られず、世はなべて事もなし。幼少の頃よりたえまなしに人ごみやら、戦火やら、飢餓やら、極限文学やらにモミくちゃにされてきた小説家はあまりののどかさにしじゅう声をあげたい気持なのだが、何しろ東方の民なので、いまに何かあるのじゃないか、これはフィクションではあるまいか、きっとどこかでドブにおちるというようなことが起るのじゃないか、うっかり緊玉の皺をのばしちゃいけないゾ……などと思いつつ、キョトキョトした眼つきで歩いていく。
バイエルンの農家の特徴はバルコンにある。二階の部屋のそとにバルコンをめぐらし、また窓のそとにもきっと小さな木のバルコンをつけ、土を盛り、そこにたわわなアオイの花の赤と緑がある。花と葉は花綵となって家を飾り、白い壁に映り、日光に輝く。チョコレートの箱にある絵、そのなかに描かれている家のような家である。それが前半分で、家の後半分は牛小屋、農具室、薪置場などに使われ、きっとどの家の裏庭にもトラクター、草刈機、耕うん機などがおいてある。花に蔽われたこの白い壁の内側にも人の子の苦悩はあるのだろうが、道をいくしかない旅人の眼には豊饒、平穏、勤勉、たっぷりした備蓄の瑞兆の気みなぎって見える。たたきのめされて暗鬱な腐臭のたちこめる貧村のほとりで魚を釣るのではないことが旅人の屈したこころをホッとほどいてくれる。
こぢんまりしているがすみからすみまでドイツ風に清潔な村の|宿 ≪ガストホフ≫に荷物をおき、釣道具と竿だけ持ってさっそく湖の下検分に出かける。モミの森をぬけ、草むらを踏みしだいて湖畔にでると、ジムス湖はとろりとした水をたたえた中位の湖で、岸の或る部分には葦の茂った沼沢地と川の流れこみ口がある。そのあたりにはハスも水面に茂っている。カマスは私の想像ではナマズやライギョとおなじ習性を持つ魚であるから、きっとこのあたりがポイントであるにちがいない。朝かタ方かだ。水がとろりとなって、あたりに音がしなくなった夕方、彼はおそらく葦のなかからあらわれ、小魚やカエルを追って歩くのであろう。しかし、岸から攻めることはできない。岸は葦と泥である。そこへ踏みこんで水ぎわまで接近するには腰まで泥にひたる覚悟がいる。つまり腰まで泥に浸ってもいいゴム長のウェイダーが必要である。けれど私はそれを持っていない。とすれば、湖からボートで接近して竿をふるしかない。許可証を買った湖畔のホテルではボートを貸してやるといったが、一時間二マルク(約百八十エン)である。朝の五時から夕方八時まで頑張ったらいくらになるか。東方の君子には少し負担がすぎやしまいか。どうしたらいいか。
湖畔にほかのいいポイントはないかと思って歩きまわったところが、おどろいたことに、どこへいってもプリヴァート=i私有地)である。鬱蒼としたモミの木の森が水ぎわまで迫り、そのなかにチラリホラリとすばらしい別荘があり、車庫やボート室を備えている。瞑想にも憩いにも情事にも申分がない。けれどお屋敷の敷地はめだたないけれど鋭いトゲを持つ有棘鉄線で包囲されていて、どうにも水ぎわまで近づけないのである。どの森をさまよい歩いても有棘鉄線にぶつかって、湖は森からいよいよ遠ざかる。そこではじめて私にドイツの法律に対する懐疑と憎悪が生まれた。あれほど徹底的に魚族を保護する法を布いておきながら、かんじんの現場で人を水ぎわに近づけさせないのだ。ボートを賃借りして湖心に漕ぎだし、そこから竿をふれば、きゃつら金持のお庭先の水からズカズカと魚をひきぬき、眼にモノ見せてやれよう。しかしボートがなければ、手も足もでないのである。あれほど自然に対して微細かつ徹底的なドイツの法が、どうして別荘地はかならず水辺から百メートルはなれたところに敷地の限界をおき、岸は万人に開放しなければならぬという措置を考慮することができなかったのか。矛盾ではないか。あまりに露骨な矛盾ではないか。
「魚を釣りたいが岸にでられない!」
何やら屋敷のなかでゴトゴト音をたてているのがいたので、茂みのなかで大きな声をたてたら、大工の一人であろう
「魚釣り?!……」
やにわに頓狂な声をたてて、ヒッヒッというような笑声をだしたのがいた。
あちらへいってもプリヴァート=Aこちらへいってもプリヴァート=A手も足もだせない。とどのつまり、一日かかって湖畔をめぐり歩いた結果、もとのあの沼沢地と小川の流れこみ口しかないとわかった。しかもあの小川は調べてみたところ、淀みもあり、瀬もあり、沈木もあり、すばらしい魅力をたたえているのだが、やっぱりプリヴァート≠ナある。湖への出口のポイントだけしか攻められないのである。一時間二マルク払ってボートを借りるしかないようだ。
夕方になって森をぬけていくと丘にメイ・ポールをたてた一軒のヴァイン・スチューベ(酒場)があったので中庭に入り、小さな噴水を眺めながらビールを飲んだ。すると、小柄だがガッシリした体躯の五十歳ぐらいの男がでてきて、それはこの店の主人とわかったが、話を聞いてくれた。私は日本人の小説家だといって、リールや竿や道具を見せ、ただ釣りたいために釣るのだ、釣った魚はみんな逃してやる、ドイツのものはドイツに返すつもりなのだといった。すると主人は、この湖にはカマスもナマズもマスもいる。ナマズは五十キロのが揚ったことがある。よろしい。おれの小屋のボートを貸してやろう。日本人と聞いてうれしいぞといいだした。そしてBMWに私をのせて湖まで走り、沼沢地の水ぎわにある小屋へつれていき、床下《ゆかした》から鉄製のボートをひっぱりだし、鍵で鎖の錠をはずしてみせてから、その鍵を私の手にシッカリ握らせてくれた。
「明日も明後日も、あんたの好きなだけボートを使ってくれていい。鍵を失わないようにな。成功を祈るぜ」
「フィーレン・ダンク(ほんとにありがとう)! フィーレン・フィーレン・ダンク!」
「明日の朝は五時だね。今夜飲んじゃいけないよ。早く寝るんだね」
「フィーレン・ダンク!」
空が微笑した。バイエルンの透明な夏の夕焼空が大きく、やわらかく微笑した。葦の沼沢地が微風にざわめき、対岸の丘の教会の尖塔が閃き、男の荒れた、大きな、厚い手は気持よく乾いていて温かかった。湯のようにその体温が私の腕をのぼり、心臓に沁みた。
翌朝、五時に起きて出撃した。小屋へいこうとして沼沢の葦をかきわけて歩いていると、仔鹿が一頭おどろいて、疾走した。葦の海のなかを彼は高く頭をかかげ、大きな眼をまじまじと瞠り、まるで金褐色の小さな焔のように閃きつつ跳んでいった。うしろのモミの森でヤマバトが鳴きはじめた。したたかな露で腰から下が水につかったようにぐしょ濡れになったが私は忘れた。
今日の空はくずれやすかった。早朝は輝いていたが九時頃になるとすっかり曇り、空も水も草も暗鬱で冷えこみ、骨を腐らせるようなひえびえとした雨が降って菌糸のようにからみついてきた。霖雨というやつ。フランス人が≪クラシャン≫と呼ぶ雨である。
ボートを湖のあちらこちらにやり、ブリンカーを葦の茂みのすきにある淀みめがけて二十メートル、三十メートルと投射してみるが、いっこうに手ごたえがない。おまけに沼沢地のはずれは葦やハスの腐ったのがいっぱいあるらしくて、しょっちゅう根がかりする。朝だけでバイエルンをひっかけてブリンカーを三つも失ってしまった。水の色を見て明色のや暗色のや、いろいろとブリンカーをとりかえてみたが、さっぱり魚信がない。暗鬱で冷えきった水を眺めていると、いったいこの湖には魚が棲んでいるのだろうかと、つらい疑いがこみあげてくる。そのうち雨はどしゃ降りになり、風もでてきたので、正午すぎ上陸し、夕方もう一度出撃することとして宿にもどり、ビールとハムをとり、ベッドにもぐりこんだ。
黄昏になると北と東の空が晴れはじめ、いくらか雲もうごきはじめたようなので、また竿をさげ、バグを肩にして、モミの森へ入っていく。カエルを一匹つかまえた。生餌を使うのは御法度だし、最低の釣法だが、今回は魚籠を持たない釣旅で、魚は大小にかかわらずみんな逃してやるつもりなのだから、マ、よかろうと自分にいい聞かせる。ボートをふたたび小屋から出し、水音をしのばせて、あの小川の流れこみ口の沖へ持っていく。午前中さんざん攻めて一回も魚信がなかったが、きっとここにはいると私は確信している。ここにはいなければならない。ここにいなければこの湖にはいないのだ。カエルを錨鈎に刺し、片足を鈎にくくりつけ、少し重いめの錘りをつけてとばした。くるならカマスかナマズである。投げる。カエルが沈む。ゆっくりと、ゆっくりとリールを巻く。それから手早く巻きあげる。また投げる。カエルが沈む。ゆっくりと。ゆっくりと、それから速く。速く。だめだ。魚信がない。まだ彼らは夕食をとりにでてこないのか。九回めにカエルがバイエルンをひっかけてしまう。ひいてもゆるめてもどうにもとれない。カエルをバイエルンに返すことにする。糸を切る。陽がいくらかでて水が光りはじめた。黒い回転翼のついた新しいスピンナー(ABUのフラックス)をつける。
前方右手でふいにガバッと水音がし、魚の太い胴が水を割って閃き、消える。葦の茂みの一歩手前だ。来たぞ。ついに。マーティニ・タイムか。夕食をとりに登場したぞ。スピンナーをとばしすぎるな。竿の穂先でふりこむくらいでいい。気をつけろ。葦にうちこまず、根にひっかけず、ポイントの右と左を狙え。いいか。あの油のようなトロ(淀み)だ。一回。二回。三回。糸がヒューンと空を切ってとぶ。ポチャンッととびこむ。リールが気持よく、なめらかに、正確に鳴る。
「……?」
「……!」
「……!」
根がかりか。ちがう。竿がゴツン、ゴツンとひびく。糸が水面を走りだした。かかったのだ。食いついたのだ。奴だ。竿をたてろ。巻け。巻け。泳がせろ。走らせろ。けれどゆるめるな。優しく、しかし断固と。
竿が弓なりに曲ってふるえる。魚はあばれながら右へ走り、左へ走りするが、マスのように跳躍はせず、水のなかで翻転しながら一歩、一歩とひきよせられる。ふいに緑いろのとろりとした水を裂いてワニそっくりの頭がとびだした。金環にかこまれた黒い眼が激しくうつろに私の眼を見た。カマスだ。ヘヒトだ。パイクだ。やったぞ。ついにやったぞ。
私はしっかり竿をたて、頑強に糸を張りつめ、リールのハンドルを握りしめ、一歩もゆずらぬ。カマスは巨口を開き、また閉じ、頭をふり、胴をふる。しかし彼は顎の強大さにくらべてヒレが弱いのか、すでに抵抗力を失ってしまっている。底知れぬ貪食家のくせに意外に繊弱なところがある。淡緑色の胴に白い斑点があり、腹は白く、カッとあいた上下の口のなかに物凄い、白い牙の列が見える。つきだし、そりかえった、すさまじい下唇。なるほど。なるほど。いかにも好色家、貪婪家の顔だ。ユロの男爵。シャイロック。ようこそ!……
ボートにひっぱりあげて計ってみると、五十一センチあった。この湖の制限サイズは五十五センチである。ヴェストファーレンなら三十五センチだ。ここではざんねん、四センチ不足だが、ヴェストファーレンなら十六センチ超過だ。私は両手にとってしげしげとその見慣れぬ魚体を眺め、色と形、細部と全体を眼で吸収する。くまなく吸収する。乱雲から陽が射し、湖はとろりと眠り、はるかかなたの対岸の丘では農家の赤い屋根と鉛筆をたてたような教会の尖塔がキラキラ閃き、暗雲に蔽われてカムプェンヴァントの峰は見えないが強健なその背が森のかなたにうねる。
鈎をはずし
「ヴィーダー・ゼェーン(さようなら)!」
高く叫んで魚を水に投げる。
それからボートの櫓べりににじりより、紐をたぐりよせ、白ぶどう酒の緑いろの瓶を水からあげる。モーゼル産と銘はあるが田舎駅の駅前の雑貨店で買った安物である。雨は冷たいが湖水は意外に生温かく、酒は冷えていなかった。ずいぶん水に浸してあちらこちらとひっぱって歩いたつもりだが、なにやらとろりとしていて、キリッと咽喉にひびくところがない。けれどこの一瞬の味はトロッケンベーレンアウスレーゼの逸品に匹敵しよう。六年前にマイン河畔のシュロッス・ヨハネスベルクのメッテルニッヒ侯の荘園の地下酒庫で飲んだそれにも匹敵しよう。すなわちラッパ飲み。一発。二発。三発……
つづいて前方左手の淀みにふりこむと、二回めでガップリ食いつき、四十九センチのカマスが揚った。二回目となるともう私は手もふるえず胴ぶるいもでない。リール操作もゆうゆうとし、魚を泳がせたり、遊ばせたりして、水に閃くその姿をたのしみのこころでたっぷり眺めやる。そして体長を計測し
「ヴィーダー・ゼェーン!」
敬礼して水へもどしてやる。
魚釣りのすべては最初の一匹にある。一匹釣ったらそれでいいのだ。魚の大小にかかわらず最初の一匹に全容があるのだ。その戦慄も、その忘我も。数を釣ってよろこぶのは幼稚である。はじめて来た異国の湖で、はじめての日に、成魚を二匹も、しかも生餌でなく揚げたので、私は全身、充実した空無である。黄昏よ。雨よ。乱雲よ。バイエルンの遠い峰よ。
さようなら。
追 記
これはドイツから送った原稿である。帰国してからこの魚に興味を持ち、いろいろと調べてみた。ラルースから出版されたナドォという人の『釣り』によると、この魚の猛烈な歯は一部が生えかわり、一部はそのままであるという。これはビアンキの後継者のスラトコフが編集した『水の新聞』にもでているが、カワカマスはカメレオンのような魚で、その場その場の泥や水や藻にあわせて体色を変えるそうである。ところが、負傷したり、眠ったりしているときは変らない。眠りこんだカワカマスはよく黄いろい草のなかに緑いろをして浮んでいることがあるという。徹底的な貪食家のこの大強盗にも油断の瞬間があるものと見える。
『水の新聞』は『森の新聞』とおなじようにたのしい本であるが、ここではカワカマスはカモグチ≠ニ訳されている。よこから見るとワニに似ているが、この魚の口を上から見ると、じっさい、カモやアヒルのように平べったくて、そっくりであり、カモグチ≠ヘ正確な観察であると思われる。ソヴェトでもこの魚を釣るのにスピンナーやスプーン鈎を使うらしく、ある沈木の多い湖をさらってみると、根がかりでスプーンをとられた釣師たちがポケットをかきまわして手あたり次第に作った即製品がぞろぞろでてきたという。それはイヤ・リング、折れた匙、銅貨、剃刀、ヌマガイ、自在スパナ、ペンナイフ、鏡のかけら、時計の蓋、ブローチ、ボタン、ロケット、ミネラル・ウォーターの瓶の栓などであったそうである。スプーン鈎のことを北海道ではキンピラ=i金平)と呼んでいるが、キラキラ光る物なら何でもいいだろうと考えるからこういうにぎやかなことになるわけである。
ワニの口のなかに小鳥がとびこんで歯をせせってやるという話を子供のときからよく読んできたが、この魚にもそれがあるらしい。一メートルにも達したこの怪物の横腹をかわいい小魚がせっせとこづきまわすのがよく観察されるが、おそらくそれは餌をとっているのであって、怪物の横腹の粘液や寄生虫が小魚にとってはごちそうなのではあるまいか、とのこと。ところで、コイやフナの養魚池にこの怪物を放った男がいたという。みんなは嘲笑して野菜畑にヤギを放すのとおなじだといった。しかし、男は平気であり、毒が薬になることもあるわサと、いいかえした。秋になってその池をさらってみると、コイもフナもカワカマスもみんなまるまると太っていたという。この奇怪な現象はつぎのように説明される。(『水の新聞』)
@カワカマスは小魚を食べ、ほかの魚のために餌を確保してやった。
A病気の魚を食べ、元気な魚を病気から守ってやった。
Bもちろん目方のついた大きい魚も追っかけた。しかし魚たちは必死で逃げまわった。おかげでいい運動になり、大いに食慾がでた。
もし、そうであるなら、『とにかく、カモグチはいわれているほど、おそるべき魚ではないということになります』という結論は正しいことになる。≪善なき悪はなし≫という定理がでてくる。
ドイツの釣道具屋や田舎の宿では、よくこの魚の頭を切りおとしてトロフィーにしたのが、かかっている。よく乾してから、透明ラッカーを塗ったものであるが、ガッと巨大な口をひらいたところを見ると無数の白い牙が生えていて、獰猛、苛烈のその形相はとても淡水魚とは思えず、まるでヒョウかトラの頭のようである。トロフィーとしてはみごとなものである。こういう原始の巨怪を棲息させておくほどにヨーロッパの自然管理はいきとどいているのだと考えたい。
宮地伝三郎著『淡水の動物誌』によると一九三四年の樺太でモッキリとヨアカシという二種の魚を知ったとある。モッキリとはキタノウグイ(二十五センチ)のことで、盛りきり一杯の酒のさかなになるところからそう呼ばれ、ヨアカシとはカワカマスのことであり、これは徹夜で飲めるくらいだから、そういう名がついたものらしい。一メートルに近かったという。
(ヴァルトマンおやじにいわせると、この魚はギャングづらに似ず肉はうまいとのことである。獰猛な顔や気質なのに肉はひきしまってうまいという魚ではライギョがあるが、この二種の淡水魚はいろいろな点でよく似ている)
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チロルに近い高原の小川でカワマスを十一匹釣ること
上部《オーバー》バイエルンでカマスを二匹仕止めてすっかり上機嫌になった私は二日でジムス湖を去っておとなりのシュヴァーヴェンに移動した。ミュンヘンへ一度出て、そこからふたたび南下し、ジュネーヴ行の国際列車でカウフボイレンでおりる。そこから小さな三輛連結の田舎電車にのり、よちよちとオーストリア国境めざして進む。終点がフュッセンという駅で、そこでおりる。≪フュッセン≫とは≪足《フス》≫の複数だから、『足あし』という名の町だということになる。ドイツの人名や町名にはときどき奇抜なのがあり、一度私は西ベルリンで≪キンダーファーター≫(とっちゃん小僧)という名の紳士に紹介されて目を丸くしたことがある。
この≪フュッセン≫も町名ではかなり異名のほうだろう。≪アアレン≫(ウナギ)とか、≪アッシャースレーベン≫(灰の人生)とか、≪アイスレーベン≫(氷の人生)、≪ライヒェンドルフ≫(金持村)、≪エッセン≫(食べる)、≪ジンゲン≫(うたう)などという町名が地図を眺めているとあちらこちらに出没して、夜ふけの酒のサカナにとても想像力を刺激されるのである。それにこのシュヴァーヴェン州の住民は性はなはだ素朴にしてラブレェ風なところがあり、もちろん語源、語幹にいちいち思いをはせることなく、ほんの習慣としてであるが、≪マイ・ダーリン≫とアメリカ人ならいうところを、≪シャイセルレ≫というと、聞くのである。これを訳せば≪ウンコちゃん≫である。
朝起きて顔を洗ったあと
「おはよう、ウンコちゃん」
と挨拶をかわす。
コーヒーを飲みながら、ニッコリ
「おいしいね、ウンコちゃん」
「よかったわ、ネズミちゃん」
とかわしあう。
冗談ではない。一人の錚々たる言語学者にそう教えられたのである。≪ウンコちゃん≫は≪シャイセルレ≫、≪ネズミちゃん≫は≪モイシェン≫である。若夫婦は若夫婦、老夫婦は老夫婦で、窓のそとにヤマバトの鳴声を聞きつつ、丸パンを半分に割ってバターをぬり
「ゆうべは眠れたかい。ウンコちゃん」
「ええ、とてもぐっすり。ネズミちゃん」
などと声をかわしあっている光景など、じつに愉快ではないか。思うだに、心なごむではないか。わが日本でも明朝からはじめたらどうだろう。ずいぶん変るのではあるまいか。いろいろなことが……
≪フュッセン≫は誤解をひどく恐れながらもひとことで要約すると、松本市のような町といえようか。海抜八百十一メートル。オーストリア国境のすぐ近く。チロルまで二粁という道路標が夜の森の入口に見えたりする。老若男女のヴァカンス族たちが、小さな駅にリュックや何かをかついでドヤドヤとおりたがたちまち散ってしまって、シンシンとした秋冷がアウトバーンに霧のように流れる。ビァスチューベ(ビール居酒屋)に入ってビールをたのむと、半リットル入りの大コップに土地産の金色をなみなみとみたして持ってくる。紺青のマークに黄の楯が書いてあり、やっぱりフュッセンである。楯のまんなかに黒い三本足をからみあわせた図がある。
駅前でタクシーをひろい、≪ホテル・ペンション・ヴァルトマン≫まで夜の並木道を走ってもらう。釣場案内書によると、この小さな町のはずれにホッフェン湖というあまり大きくない湖があり、湖畔には避暑ホテルやキャンプ場があるが、湖ではカマス、マス、大ウグイ、ウナギ、ナマズなどが釣れ、とくにカマスがいいとのことである。けれど私は今度は湖ではなく、川を攻めたいと思う。このホッフェン湖にホッフェラウァー・アッシェという小さな川が流れこみ、深さ約二メートル、川幅は三メートルから四メートル、カワマス、ニジマス、ウナギ、ナマズがいいと同書が教えている。ことにカワマスとウナギがいいと、BFとAAの略号に※印がうってある。この二つのうちのBF、カワマスを私は狙おうと思う。BFとは Bachforelle の略で、英語ではトラウト≠ニ呼ぶマスである。このドイツ語を直訳すると、カワマス≠ニなる。魚類図鑑を見ると、ドイツのマス族はこのほかにミズウミマス=Aウミマス=Aニジマス=Aもう一種バッハザイプリング=i英語ではブルック・トラウト≠ニ呼ぶ種族のマス。これも直訳するとカワマス≠ニなる。日本にいるのはどちらのカワマスだろうか)、この五種である。
ドイツのカワマスは背が淡緑で、腹が淡黄色、体側に白や青の環でかこまれた真紅の斑点があり、すばらしくシックな美しさを持つマスである。敢闘精神に富んで慓悍だが、きわめて神経質であり、鈎が顎にかかるといきなり跳躍をはじめ、二度、三度、四度、水面をかすめて、トンボ返りをうって大暴れをする。肉はひきしまっていてとてもニジマスなどの比ではない。ドイツではふつう二十センチから三十五センチに達し、この附近の制限サイズは二十六センチ、それ以下は放してやらなければいけない。これまでの記録では八十センチ、五キロに達する大物があげられている。
釣師の眼からするとドイツは天国に近い。ことに南部となると、たまらない魅力である。さほど精密でない地図を眺めてもそのことはよくわかる。平野あり、丘陵地帯あり、アルプスあり、湖あり、大河あり、小川あり。黒い森、フレンキッシェ・シェヴァイツ、上部バイエルン、アルゴイ。川の大きなのを見てもイン河、イザァル河、ネッカー河、マイン河などなど、満々の緑の水がとろりとした渦を巻きつつ流れ、大動脈であるドナウに流れこむ水脈のあれ、これ。そこへ持ってきて近頃さかんになってきたとはいえドイツ人は日本人ほど釣りには熱中しないので釣師の数が少ないから乱獲がおこなわれず、前回カマス釣りで紹介したように許可証なしで釣れる川は一本もなく、許可証を二通持たないで竿を濡らしてくれる水は一滴もないといってよいほどその法律は厳密である。だから淀みに棲むナマズ、コイ、フナの類から急流に棲むマス、ハヤ、グレイリングの類まで、じつに魚影が濃いのである。彼らはゆたかな水ときびしい法律の影のなかでぬくぬくと育ち、ピチピチと跳ねる。
たとえばナマズを見ると、これはカマスとおなじ貪婪家の大強盗で、メダカから水鳥まで、行手をよこぎるやつは何でも一呑みにする癖があり、その習性はドイツも日本もおなじだが、ドイツのナマズはとほうもなく大きくなる。一メートルや二メートルの大物はふつうに見られることで、なかには三メートル、重量にして二百キロという、まるで深海魚なみの巨怪もいるのである。いくらドイツの魚がよく育つとしてもそんな大物はごく稀れなことであろうが、少なくとも一メートルから二メートルのナマズはたいして珍しくないというのは事実で、これにはおどろかされる。毛沢東の熱狂的なファンだが魚釣りは一度もしたことがないという革命青年に、苛烈な革命議論のとちゅうで、ちょっと句読点をうちたい気持になり
「ところでドイツのナマズは平均一メートルだというが、そんなでかいのは日本では考えられない。釣師はどこの国でもホラを吹くけれど、どうなんだろう?」
たずねてみると
「いや、ホラじゃない。ぼくは釣りはしたことがないけれど、ナマズは大きい魚だと思いこんでいる。それくらいのはざらにいるよ。ナマズとしては大きいほうには入らない」
という答えだった。
つぎにドイツにくるときはもう少し強い竿を持ってきてこの種の巨怪に挑んでみたいと思う。あの魚はだいたい玄怪、始原的な、禅坊主のような、混沌無明の魅力ある顔をしているが、一度そういう石器時代的な怪物を仕止めて顔を見たいものである。白い膜のかかった小さくて兇暴なその眼にある闇と光をのぞきこんでみたいものである。
≪ホテル・ペンション・ヴァルトマン≫は釣宿であるとわかった。強健なモミの黒い林のかげにその小さな、白い宿があって、窓には赤いアオイの花が咲きみだれ、明るい灯がついていた。ホテルというには小さすぎ、|下 宿《ペンシヨン》というにはやや立派すぎるが、部屋は小さくても洗いたての少女の膚のように清潔で気持よく乾き、トイレはないがお湯と水がでる。おかみさんや主人のいうところでは五年、十年とかよいなれたなじみのお客さんばかりで、たいていが釣りをかねた休暇客、よく話があうでしょうし、気のおけない人たちばかりですから、気に入るまでゆっくり遊んでいってくださいという。なるほど客が家族気分でいるらしいことは受付も帳場もないことからだけでもよく推察できる。これはいい宿へきたものだ。
主人はヴァルトマン氏≠ニいうよりはヴァルトマンおやじ≠ニ呼んだほうがふさわしいような風格である。年の頃は五十五、六歳、まだまださかんであっていい年齢だが、足が悪く、顔には衰弱がきざしている。多年の川漁師生活がコタエたのではないかと思われる。あとで年を聞くと六十一歳だとのことであった。このあたりの冬は寒風、雪氷、膚を裂くのではあるまいか。
「……フランス人のお客がきています。もう五年にもなるいいお客さんです。しかし、どういうわけか、カマスしか釣らんのです。今日も朝六匹、昼四匹釣ってきましてね」
おやじはそういって頭のよこで指をまわしてみせる。クルクルパァ≠フ合図である。マス釣りが最高でカマス釣りは鈍《どん》なものだとドイツでは考えられている。それはそのとおりだと私だって考える。マスは賢いうえにとんではねまわって全身でたたかう。カマスは強力無双、怪腕と牙と体重でさからうが、動作ははるかににぶい魚である。しかし、私はそのカマス気ちがいのフランス人をバカにしたくない。ジムス湖の暗鬱な氷雨のなかでふるえつつひたすら魚信を待っていた一昨日の黄昏と、ついにショックがきたあの瞬間の全身を走った戦慄のことを思いだすと……
おやじは私の竿とリールと道具を見せてくれという。部屋からとってきて、テーブルにひろげると、オリンピックの竿を手にとって重量をためし、まさにマス釣りに理想の竿だという。ダイヤモンドの≪マイクロ・セヴン≫のリールを鳴らしてみて、すばらしい、日本製品はすばらしいと、いう。それは『旅』の三神君が日本をたつ前日に東作へ走り、お茶の水の旅館にこもっている私のところへわざわざ持ってきてくれたものだった。日本製品がドイツ人の漁師に激賞されて私はうれしい。スピンナーをつぎに指でつまみ、糸をギュッギュッと巨大な手でひっぱり、よろしいと、深くうなずく。よろしい。よろしい。すべて申分ありません。
「私の川は小さいけれどいい川です。このところ日照りつづきで水が少なくなり、マスは深い所に集っていますから、そこを狙ってください。明日の朝十時に自動車でつれていってあげます」
おやじはよちよちとたっていってどこかに消え、しばらくしてから青い紙片を持ってもどってくる。許可証である。三日間の許可期限にしてある。さっきそうたのんだのである。
『日本ノタケシ・カイコウ氏[#「タケシ・カイコウ氏」に傍線]ハ私ノ委任ト勘定ニオイテ私ノ川、ホッフェラウァー・アッシェ[#「ホッフェラウァー・アッシェ」に傍線]ニテ釣リヲスル権利ヲ持ツモノデアリマス。釣魚許可証 番号671/68 一九六八年七月十二日発行 有効七月十五日迄 署名 ホテル・ペンション・ヴァルトマン』
これはまたちょっと特殊なケースである。ヴァルトマンおやじは父親からの遺産として小川を一本もらったのである。それは現在彼の私有財産となっている。その川に棲む魚を釣りたければドイツ連邦共和国の許可証と、おやじ個人の許可証の二通が必要である。ふつう現場の許可証は金をだして買うのであるが、おやじは自分の釣宿の客にはタダでくれる。そこで客は魚を釣ってくる。おやじは生簀のコンクリ槽を持っていて、そこに魚を放す。もし客が自分の釣った魚を食べたくて、現場で腹をひらき、ワタをぬいて持って帰ってきたら、その分についてだけ、いくらかの料金をとる。そのマスはおかみさんの手にかかり、腹に香草をつめられ、バターで焼かれたり、蒸されたりして、ジャガイモといっしょに大皿にのって湯気をたてつつ夜のテーブルにあらわれるのである。
日本の河川には漁業権は認められているが私有化は認められていない。岸に家なり別荘なりを建てる場合も川岸の私有は認められていず、おそらく百メートルくらいだったと思うけど、岸から離れていなければならない。魚によっては禁漁期があって、釣るときには土地の漁業組合に金を払って鑑札を買わなければいけないが、それはこことおなじだけれど、川の私有化ということは日本では考えられないことである……たずねられるままにそういう説明をすると、ヴァルトマンおやじは少しこそばゆい顔になり、アメリカ人もよくそういうことをいってここでは問題になる。たしかに川を私有化するのは妙なことだと思う。けれどこれはドイツの習慣だし、法律で許されていることだ。もう二、三百年もこういう習慣になっている。だからわしは父親にゆずられた物を大事にしたい、そして釣師をよろこばせてやりたいと思っているだけなのだという意味のことを弁解した。
「もし許可証なしであなたの川で魚を釣ったらどうなるんだろう」
「二百マルクから三百マルクの罰金をとる。とるのは警察です。もし私がそういう男を見かけたら、警察に連絡し、パトロールに来てもらいます。私自身は何もしませんし、できないのです」
「よくそういうのはいるの?」
「たくさんじゃない。けれど毎年、夏の休暇のこの季節には二十人くらいはつかまるようです」
「あなたの川は湖にそそいでいるそうですが、マスが川からどんどん湖へ入っていくのは防がないんですか?」
「防ぎません。それはマスの自由です。網や柵を張ってマスを防ぐことは法律で許されていません。ぜったいそれはいけない。いいことを聞いてくださった。私の川のマスは私のものであって私のものじゃないわけです」
「カマスもあなたの川にはいるんでしょう?」
「いますよ」
「カマスは何でも食べるからマスでも食べるでしょう。すると、あなたの敵だ。このカマスとマスのバランスはどうするのです。野放しですか?」
「釣りしだいにたたき殺します。または湖へ放してやります。湖で釣ってはいけないことになっている小さいカマスでも私の川では殺そうが生かそうが私の自由です。それは認められているのです」
「すると、あのフランス人はいいお客さんですね。カマスばかり釣るのだから、あなたのマスを保護するために来てるようなものですな」
「私の川のカマスだけならそういえます」
「でも湖のカマスを釣ってくれたら、そいつらはあなたの川へ入っていかないでしょう?」
「そう。そのとおりです」
ハムを食べ、三本足ビールを飲み飲みして話していくうちにいろいろなことがわかってきておたがいとけてきた。おやじは娘にビールを持ってこさせてチビチビとやりだした。客の釣師たちが何人も集ってきてテーブルにだした私の釣具を眺めて何やかやという。
フーヒェン≠フことが話題になったときにおやじはそれまでにない歓びを見せた。フーヒェン≠ニはイトウ≠フことである。あれがドイツではドナウ水系にのみ棲んでいるのである。近年は水が汚れてひどく少なくなり、ほとんど釣れなくなり、たまに釣れたらただ幸運≠ニいうよりほかないとバド・ゴーデスベルクの釣具店のおやじさんは歎いている。だからよほどの大物を釣っても逃してやらなければいけなくなっている。たとえばバーデン・ヴュルテンブルク地方では七十センチ以下は禁止されているくらいである。ここではイトウはドナウのサケ≠ニ呼ばれることがある。イギリス人もそう呼んでいるそうである。ふつう八十センチから一メートルに達し、これまでの最高記録では百八十センチ、五十キロのがあがっているという。
「日本にも十年前まではすごく大きいのがいたそうですが、いまは絶滅しかけていて、≪幻の魚≫と呼ばれています。どだい釣ろうにもいなくなったのです。けれど私はこのあいだ七十センチと少しあるのを二匹釣った。日本の北にホッカイドウという大きな島があって、その北東にクシロという町がある。その町のそとにすごく広い沼地があり、小さな川が流れているのです。そこで釣った。二匹も釣った。一時間のうちに二匹です。七十センチ以上のをね」
佐々木栄松画伯のガイドで≪幻の魚≫を二匹揚げたあの朝の感動を思いだし、クラクラとなりながら、両手をそれとおぼしいサイズにひろげた。
するとヴァルトマンおやじは微動もせず、ジョッキをおもむろにひとすすりしてから、財布をとりだし、黄いろくなりかけた写真を何枚となくわたしてよこした。見ると、クラクラとなった。若いヴァルトマンがほとんど身長いっぱいの大魚をさげてニッコリ笑い、その大魚の尾は地べたに折れて曲って這っているではないか……
「あなたのはベイビーですよ」
「………」
「小さい、小さい」
「………」
「とても小さい」
「………」
「そんなものを釣ったらここらじゃ法律にひっかかりますナ」
「………」
「しかし日本にもフーヒェンがいるとは知らなかった。ドイツもあれはドナウにしかいないから知らない人間が多いのです。フランス人も知らない。北ドイツの人間も知らないし、ラインランドの人間も知らない。ざんねんに思っていたところです。いや、愉快です。日本にもあのフーヒェンがいるとは……」
おやじはすっかり上機嫌になってニコニコ笑いだし、われわれはほかの客が一人もいなくなるまで飲みつづけた。おやじはビールを飲み、私はシンケンヘーガー(ドイツ焼酎)を飲みつづけた。
話がすんでたちあがりしなに
「魚の話をすると飲みたくなる」
といったら、おやじは笑い
「釣師と魚は濡れたがるといいますな」
と名句を吐いた。
翌日は一日、おやじの自慢の川をさまよい歩いた。海のようにゆるやかに背を起したり、寝そべったりしている牧草地のあちらこちらにブナの森、モミの木立があり、白い花が咲きみだれ、クローバーのなかでミツバチがうなる。そのなかをくねくねと、遠くから見ると草に埋もれたようになって小さな川が流れている。ほんとに小さな川で、幅が三メートルか四メートルくらいしかなく、上流へいくと溝みたいになってしまう。だいたいの全長は十粁くらいである。けれど魚影はなかなか濃くて、草むらからのぞきこむと、いくつもいくつもの黒い影が電光のように走り、ハッとさせられる。あちらに早瀬があり、こちらにトロ(淀み)があり、木立が深い影と枝をさしのべるしたは涼しい淵である。ほんとに可愛い、好ましい川だった。
けれど、何しろ夏枯れで水が少なくなっているのがざんねんである。川幅が狭いうえによくクネっているし、淵も浅すぎて、スピンナーを投射するのにはよくなく、たっぷりと深みをひくことができない。瀬は瀬でこれまた浅すぎる。あちらこちらに魚の姿が見えすぎる。直射日光を浴びすぎる。これではいけない。マス族にいいのはどんよりした曇り日で、どちらかといえば冷暗な日なのである。上流へ、上流へと歩いていきつつ三時間ほどスピンナーを使ってみたが、二度ほど軽いアタリがあっただけで、マスは大口をあけてとびつこうとしない。あとでためしに緑いろのイナゴと、小さなクモをつかまえ、生餌鈎にとりかえてやってみると、すぐ二匹釣れた。けれど、この地方の制限サイズの二十六センチよりずっと小さいので、二匹とも逃してやった。(おやじは大小にかかわらず何をどれだけ釣ってもいいといってくれたが、自尊心のモンダイである……)
しかし、マスは小さくてもよく太り、身がひきしまり、引きは強くたのもしくて、川のよさがよくわかる。この川には虫が多く、水が清潔で、醗酵がなさそうだ。ブリブリした淡黄色の腹が草むらにおどると、白や紺青の環でかこまれた真紅の斑点がキラキラ輝き、すばらしくシックな姿である。そして腰まで草に蔽われてすすんでいくと、ああ、かなたのブナの木立から仔鹿が一頭とびだしてきて、広びろとした丘のふもとの牧草地を、高く頭をかかげてのびのびと、走っていく。三度までそれを見た。その軽快な姿が小さな金褐色の焔となって牧場のかなたに消えていくのを見送っていると、全心身が丘と陽光と草いきれと静寂にみたされ、爽快な酔いでいっぱいになってしまう。
ああ。
魚なんか。もう。
どうでもいいじゃないか。
どこからともなく、よれよれの皮ズボンをはいた少年がとびだしてきて、あとになり、さきになりして、ついてくる。そして、フッと姿を消してしばらくすると、フッと草むらからあらわれ、小さな泥だらけの手にミミズをにぎって、さしだしてみせる。私がそれを使って、マスを釣りあげたり、おとしたりしていると、よこにたって息をつめ
「Ah!……」
と叫んだり
「Oh!……」
と叫んだりする。
いっしょにミミズ掘りをしようと、竿を捨てて土を掻いていると、カエルがでてきたり、イモリがでてきたりする。少年はミミズを見つけると、いちいち歓声をあげ
「もっと|大きい《グロツセル》ぞ!」
とか
「もっと|小さい《クライネル》ぞ!」
と叫ぶ。
rの巻舌音がひどくきついのはこの土地のなまりなのでもあろう。rrr!……とうなりつつ彼は細い、やせた、長い脛で草むらのなかを跳ねまわり、ミミズやイナゴを追っかける。大きなイナゴが見つかると彼は私をひっぱっていってとらせる。いつか噛みつかれたことがあって、それ以来イナゴは苦手なのだと彼はつぶやく。彼は私に釣らせようとしていちもくさんに草むらをさきへ、さきへととんでいき、魚を見つけて声をあげ、その結果魚を散らしてしまい、またさきへ、さきへと、とんでいく。そして、夕方になり、陽が丘にかたむくと、牧草地のはずれまでいっしょにやってきて、道にころがしてあった自転車を起した。私は日本の漆塗りの唐辛子ウキを彼の小さな手ににぎらせた。
「さようなら」
と少年がいう。
「ミミズをありがとう」
と私がいう。
少年は細い、やせた、長い脛をあやつり、黄金《きん》いろに輝く牧場の夕陽のなかへたちまち消えていった。私は『猟人日記』を書いたツルゲェネフを想いだして草むらで手をふる。あれは仔鹿そのものではないのか。さきに逃げていった仔鹿がもどってきて、いままた去っていくのではないのか……
翌朝、私は考えてみる。夜半に雨の音をひとしきり聞いたから、川は水量が増し、条件はいくらかよくなっているにちがいない。今日は下流をためしてみよう。少し川幅が広くて、きっと淵も深く、マスも大きいだろう。しかし、スピンナーをひくにはやっぱり川は小さくて屈曲しすぎ、キャスティングは無理だろう。玉ウキを使ってみよう。それに生餌鈎をつけ、餌にはミミズかイナゴを使ってみよう。ウキ下を短くして、玉ウキを瀬にのせ、淵へ送りこみ、そこで勝負してみよう。生餌を使うのは下等な技で、はずかしいことだが、目をつむろう。とにかく私はドイツのマスを釣ってみたい。制限サイズ以上のマスを釣ってみたい。提案採決!……ポンとベッドからとびだし、洗面台に水を張り、玉ウキにハリスをつけ、オモリをつけ、一コにしてみたり、二コにしてみたりして、ウキの浮力を実験してみる。赤いヘソのついた黄いろい日本の玉ウキはドイツのオモリを二コつけると沈み、一コつけると浮いた。よろしい。今日は一コでいこう。キマッた!……
ヴァルトマンおやじに自動車で川まではこんでもらう。おやじは夕方六時に迎えにくるよ、ここで待っていてくれといって帰っていく。草むらで竿にリールをつけていると、おなじ宿のドイツ人の禿げ頭の釣師がやってきて、昨日あそこの木のしたに忘れ物をしたからとりにきた、今日は日曜だから釣りはしない、おれはこの川にもう五年かよってるんだという。
「なぜ日曜なら釣りをしないの?」
「いいズボンをはいたからね」
彼は太いドバミミズを十匹くれて去っていった。十匹のミミズで十匹のマスを釣れという。おやすい御用さ。ミミズを使うのなら。フィーレン・ダンク。やったるぞ。びっくりするな。わが友よ。
露で腰までぐしょ濡れになりながら、牧草地をすすみ、『がまかつ』の鈎にドバミミズを刺し、草むらからそっと竿をさしだして泡だつ瀬にのせる。赤いヘソをつけた黄いろい玉ウキは瀬にゆられつつ、いそいそと流れてゆく。それが瀬の泡をこえて、岸の草をかすめ、トンとトロ(淀み)に入る。それからクルクルまわりつつ、ゆっくり流れにのって、反対の深みあるボサ(木や草の茂み)へと流れよっていく。ピクン、ズーッとひきこむか。ひきこまれない。よし。もう一回。このブナの一本立ちのポイントのしたにはきっといるはずだ。私は確信する。ここにいなければ今日この川はだめなのだ。
リールがいい音をたてて糸を巻きとる。もう一回。また、もう一回。ふいに日光に輝く水泡のなかに黄いろい玉ウキがキリキリッと沈んでいった。きたゾ。竿をたてろ。リールを巻け。そら。きた。ドカッときた。竿がしなる。リールが叫ぶ。全身へ肩からふるえがくる。重い。ふるえる。気をつけろ。張りつめろ。かつ、ソッと巻け。バシャッとふいに水音が起る。淡黄色の腹がはねる。そら。マスだ。とびだした。水面をかすめて草むらへ。瀬へ。淵へ。一回。二回。三回。はねる。すべる。水しぶきをあげる。もぐる。はねる。ボサに走らせるな。いい。うまくいった。巻け。巻け。巻け。
泡だつ朝の瀬のなかで私は強引に竿をたてて糸を巻きよせる。竿はビクンビクンとしなり、糸はキィキィと鳴るが、気にしない、気にしない。ボサに逃げられてはオダブツだから引きに引く。この川の小ささに、その魚の引きの強力さ。この愉悦。魚は翻転しながら水のなかをよせられ、バシャッ、バシャッとさからいながら、接近してくる。タモがないから私はリールの張力を信じて一挙に竿をよこへふって牧場へほうりあげる。みごと。バッハフォレレ。もがくやつをおさえて計ってみると三十一センチ。合格。これは記念《トロフイー》だ。持って帰ろう。舌でも味わおう。ドイツそのものを食べてみよう。私はパリの学生街で買ったパン用の安ナイフをみごとに張りきったマスの腹につきたてて切開し、清水でワタをさらいだし、エラに笹の葉をとおす。マスはそんなめに会わされてもまだ思いだしたように全身をはずませて、はねあがる。
夕方、私は十一匹マスを釣り、三匹だけ笹の葉にとおし、あとはみなドイツの水にもどしてやった。川からあがり、牧場をよこぎり、アウトバーンのふちを歩いて、朝、ヴァルトマンおやじと別れた橋へ、ゆっくりと歩いていく。生餌のミミズで釣ったことは、はずかしいけれど、しかし、これでドイツのマスの水中、水上の躍動は、全身につたわった。よくわかった。おやじの川は小さいけれどすばらしく、かわいい。私は満悦した。完璧な一日を味わうことができた。今日も夕陽はゆるやかな丘に射し、牛は首の鐘を鳴らし、どこにもうごく人の影はない。ただアウトバーンにひきもきらずモーターの音が鳴るだけである。昨日、白くて細い脛を見せて夕陽のなかへ消えていった少年は、なぜか、今日、あらわれてくれない。どこでイナゴを追っかけているのだろう。どこの牧場で牛の番をしているのだろう。
すぐ耳もとで、息をはずませ、
「もっと大きいぞ!」
「もっと小さいぞ!」
と叫んでほしいのだが……
追 記
日本渓魚会常任理事の田中祐三氏に教えられたところでは、いつか『ライフ』にでていた説だそうであるが、釣師には四階級あるという。最低は百姓≠ナ、これはミミズを餌にして魚を釣り、しかも穴場を人に教えようとしない釣師であり、あと二階級それぞれあり、最高は貴族=Bこれは毛鈎をいちいち自分で手製してから川へでかける釣師である。私がやったのは最低の土ン百姓釣りということになる。今後二度とやるまいと決心したので、フライ・キャスティングの竿と毛鈎をさっそく買ってきた。誰か名人のところに弟子入りし、貴族≠゚ざして精進いたそうと思っている。
アライグマを飼う少年のことを書いたスターリング・ノースの自伝『はるかなるわがラスカル』は心をのびのびさせてくれる本である。何人かの好ましい人物が登場する。そのうちの一人は森の渓流のそばに家を建て、マス釣りと読書だけして暮している初老の紳士である。シカゴで三十年間運動具店をやってせっせと貯《た》め、いまは隠退し、森の家に一人で暮しているという人物で、なぜ一人暮しをしているのと少年にたずねられて、女がうるさくていけないからだと答える。彼は少年に毛鈎を作る方法を伝授してやり、毛鈎の胴や胸にはアカギツネやウサギなどの下毛を細いワイヤでしっかりとくくりつけ、羽と尻尾にはムクドリの小羽の羽枝を使うといいなどと教える。ウッド・ダックの羽毛を使わないとどうしても仕上がらない毛鈎もある。毛鈎の材料もこの紳士はみな自分で森へでかけてとってくるのだが、ウッド・ダックは一生に一羽しかとれなかったと洩らしている。こういう人をほんとの貴族釣師というのであろう。
シューベルトの『マス』は有名な曲だが、清冽な渓谷の水が白い泡をたてて湧きかえるのが体にじかにつたわってくるようである。歌詞はクリスチャン・フリードリッヒ・ダニエル・シューバルトという十八世紀の詩人の作という。歌詞の大意はつぎのようである。(堀内明訳による)
1
明るい小川を いそいそとうれしげに気まぐれなマスが
矢のように泳いでいった
私は岸にたち のんびりと楽しく
元気な魚が 澄んだ小川を泳ぐさまを 眺めていた
2
釣竿を持った一人の釣師が 岸にたっていた
そして冷酷な眼で 魚が身をひるがえすのを 見つめていた
水が明るく澄んでいるかぎりは――と私は思った――
魚は釣師の鈎にかかるまい
3
ところがとうとう 泥棒はしびれをきらした
アッというまに釣師は小川を意地わるく濁した
釣竿がぴくっとうごいて さきに魚が跳ねている
どきどきしながら私は だまされたマスを見ていた
水が澄みすぎているときには川に入って少し濁すといい。日本でもこの歌詞のとおりのことをする。タナゴ釣りにいったとき宇留間鳴竿氏にそう教えられたことがある。ハヤのアンマ釣り≠燻翌トいる。してみれば、昔のドイツの釣師もおなじことをしていたものと見える。
この歌詞の釣師を男、マスを若い娘と見たてる解釈があるそうである。そういうことを考えるゆとりがないほど清浄、明朗、純潔な曲なのだが、そう聞けばいよいよマスがいたましくなってくるようである。3は釣師にはコタエる歌詞である。今度からマス釣りで川のほとりをはずみつつゆくときは、この曲を口笛だけ吹き、歌詞は考えないこととしよう。
私の友人に音楽学校出身で写真家になったという経歴の男がいるが、彼はいつか、愛の合戦のそのときにこれをかけておくと、とてもいいのだと洩らしたことがあった。ちとテンポが速すぎやしないか。私がそうつぶやくと、なぜか彼は狼狽していた。
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母なるメコン河でカチョックというへんな魚を一匹釣ること
ヒマラヤから発してチベットをなだれおち、雲南、北ヴェトナム、ラオス、カンボジャ、南ヴェトナムと、およそ四千粁か五千粁、メコンは旅をする。メ≠ヘ母≠意味し、コン≠ヘ大河≠意味する。文字のまま≪母なる大河≫である。ヴェトナム人は、しかし、クゥロン≠ニ呼んでいる。それはおそらく中国語の九竜からきているのではあるまいかと想像される。この河は南支那海にそそぐとき河口で九つ(じっさいはもっと多い)の支流に分岐する。それをさして≪九頭の竜≫と呼ぶのではあるまいか。
水はどこで見ても赤いか、黄いろいか、まるでオシルコのようにドロリとしている。長い旅のうちにコナされ、すりつぶされたものか、土は微粒子になっている。コップにすくって半日もたってから見ると、土が沈澱しつつも雲のように漂っている。ソッとつまんで揉んでみると、指紋の溝へクリームか白粉のようにねっとりと食いこんでくる。それほどの粉末になっているのである。人びとはこの河水を土ガメに入れ、土が沈んだところで上澄みをすくい、きっと一度沸かしたのを飲むようにしている。湯ざましである。生水はアミーバ赤痢その他の菌をしたたかに含んでいるので殺人的≠セといわれている。
(しかし、子供や大人が水浴びしているところを見ると、濁り水を平気で呑吐している。それでいてピンピンしている。子供のときからキタエていたら大丈夫だということなのだろうか……)
某日。
ゲンちゃん(山元昭君)、ブンヨー(石川文洋君)、私の三人がサイゴンからバスにのりこんで南へ、南へと街道をおりていく。目的地はカイベ。そこから小舟でメコンをくだり、バナナ島に上陸する。ゲンちゃんはそこでバナナの面倒を見る。ブンヨーは写真をとる。私は釣竿を持っているから魚を釣る。しかし、期待はできない。前日、ダカオの近くの『気ちがい牛』という名の小さなレストランでゲンちゃんから聞かされたところでは、いまは最悪の季節であって、魚がみんな産卵のために細流や水田へあがってしまい、一カ月か二カ月たたないとおりてこないとのことである。バナナ島はメコンの支流のなかにあるが、支流といってもちょっとした水道ぐらいの広さである。島には縦横に灌漑用の小溝が掘りめぐらしてあり、季節になると小魚、大魚がおしあいへしあいでのりこんでくるが、いまはまったく姿が見えないという。メコンほどの怪物になると豊饒も不毛も、生も死も、すべてが氾濫の様相で回転するのかも知れない。あるときは魚の背を歩いて小溝をわたれるくらい氾濫しあるときは一匹のこらず消えてしまう。
ヴェトナム人が魚釣りをしているのはよく見られる光景である。サイゴンのベン・バクダン(白藤河岸)の舟着場界隈では夕方になると大人や子供が群がってリール竿をふる。餌はチーズである。ミミズやヒルを使うのもたまにはいるが、たいていチーズである。グラス竿にミッチェルのリールをつけて投釣りをする。カチョックという(そういったと思う)ナマズとボラが混血したような、ヘンな魚である。頭が平べったくて口が大きく、眼が小さく、背びれにトゲがあってチクリと刺したりするが、人を小馬鹿にしたような、薄笑いをうかべたような顔つきで黄いろい水のなかからあがってくる。海釣りならヴン・タウの岬がよいとされている。サイゴン近郊ではラン・トの岸ではついこのあいだまで釣った魚をその場で七輪の油鍋で揚げて食べるというような遊びができたのだがこの二月のテット攻撃∴ネ後はすたれてしまった。ビェン・ホアのあちらこちらもカロッコ(ライギョのこと)を釣るのにいいが、夕方は早く引揚げないと危険である。メコン・デルタの田舎へいくと、水田のほとりでカロッコ釣りをしているのをよく見かける。これは長い竹竿のさきに糸をつけ、小さなカエル、またはその足を鈎に刺して岸近くの草むらや藻のあたりをたたくのである。日本のナマズのポカン釣り≠ニおなじである。ただ、この国の竿で変った点は、竿尻に木片や二股になった木をつけ、それを腿にあてるか、腿をはさむかして、そこを支点にしてひょひょいとカエルを踊らせつつ釣りあげることである。竿は一本竿で、長く、また重いから、これはわるくないアイデアである。
市場で売っている淡水魚でいちばんよく見かけるのはライギョ、ナマズ、フナ、ウナギ、カチョックであろう。テナガエビにはびっくりするほど巨大なのがいる。川漁師は島の岸近くに木の枝を束ねて川底に刺しこみ、そのソダにエビを集めてから網でとるということをする。風変りな魚の飼いかたといえば、田舎では池のまんなかへ桟橋をつきだし、そのさきで雲古ちゃんをおとし、それで魚を飼うということをしている。クリークでもよく見かけられる光景である。雲古ちゃんをおとそうとしてでかけると、足音を聞いただけで魚たちは大騒ぎをはじめ、いざ落下しだすと、水面がむくむくもりあがってきて、いまにもお尻の穴へ魚がとびこんできそうな気がする。それほどのドンチャン騒ぎになるのである。この魚をつかまえて市場へ売りにいく。それを買って食べる。三時間シエスタ(昼寝)をする。川へおとしにいく。魚が騒ぐ。それをつかまえて市場へ売りにいく。それを買って食べる。寝る。おとしに行く。騒ぐ。とる。売る。食べる。寝る……これをしもアジア的生産様式というべきか。エネルギーの永久回帰というべきか。大いなる輪廻というべきか。(この挿話はこれで書くのが三度目であるような気がする。しかし、またまた書きたくなるような気もする)
水はたっぷりある。雨はよく降る。母なる大河のはこぶ沖積土は底知れず豊満である。日光は空がうるんでむくみかえるぐらい豊饒である。だからデルタはどこへいっても朝市が野菜、肉、魚、塩干魚、魚醤《ニヨクマム》の壺、ニワトリ、アヒルの氾濫で、足の踏み場もないくらいである。人びとは民族的特質としてやせて筋張った体つきをしているが、そしてひどく貧しいのでもあるが、私はアフリカやインドに見るような飢えた人を一人も見たことがない。女たちはむっちり、まるまると太っているといってもいいような体が群集のなかにざらに見つかるのである。すべて沖積土と雨と日光とメコンの産物である。これらのために食物がどこでも入手しやすく、そのもっともよい例はさきにあげた雲古ちゃんを食べる魚だが、糧道の大道や細道がクモの網のように張りめぐらしてあるため、戦争はいつまでもつづくし、つづけられるのでもある。ヒトは自らを養ってくれるもののために自らを破壊するのだとさえいえよう。母なる大河はめぐみ深くあたえ、容赦なく奪い、ふたたびあたえ、ふたたび奪う。
ゲンちゃんとブンヨーのことをごく一部だけ略記しておきたい。ゲンちゃんは東京都出身で二十五歳である。ヴェトナムは通算五年だというから、はじめてきたのは二十歳のときである。ヴェトナム語はヴェトナム人かと怪しまれるくらいにたくみに話せる。彼は高校の同期生のテッちゃんと二人で東京の小さな、小さなバナナ会社の社員としてこの国へやってきた。会社は小さいくせに大志を抱き、メコンの島にバナナをつくって、それを日本にはこび、生産から販売までの一貫作業を一手でやろうとふるいたったのである。葦に蔽われた無人島を開拓して灌漑溝を掘り、洪水防ぎの土壁で島をかこみ、小屋を作り、村を作りしていったこの会社の苦闘を書くだけで一冊の大著ができるだろうと思われる。ゲンちゃんとテッちゃんの二人は元日本兵でヴェトミン兵でもあった古川さんと松島さんに助けられつつ雑草とマラリアと毒ヘビとサソリの無人島をバナナ園に変えたのである。二十歳の青年たちにしてはあっぱれな大業というしかない。ところが、神経質で貪慾、純潔で旺盛、頑固なくせに気まぐれでもある、ねじれにねじれたバナナの木をなだめ、すかして、やっと台湾バナナに匹敵できるだけの名品をつくりだし、あとは日本へ持ってくるばかりとなったところで戦争が激化し、サイゴン港は軍港と化し、雄図はメコンの濁水にとけてしまう。たちまち会社は破産する。社長(といってもまだ三十代だが……)は杉並区の小さな自宅の庭に掘立小屋を建てて旋盤をすえつけ、何やら細ぼそとタイマーの下請けをはじめる。ゲンちゃんとテッちゃんはサイゴンに踏みとどまり、島のバナナをサイゴン市場にはこぶことで最後の一線の確保に必死である。ところが、この三人が三人とも、いや、古川さんと松島さんも入れて五人だが、五人が五人とも、血と汗の結晶を踏みちゃちゃくにされても、会って話をしてみれば、挫折≠セの、絶望≠セのという蒼白い気配はどこにも見られず、不屈というか、ケロリというか、ニッパ小屋でお茶をすすりつつ、つぎはカンボジャをやってみるかなどといいだすのである。つくづく頭がさがる。河といい、土といい、木といい、すべて具体物と添寝して生きる人はこれほどにも強靭であり、敗北を肯んじないのである。
ブンヨーはどうであるか。彼の本名は石川文洋と、まことに気宇壮大なのだが、みんなは彼を愛してブンヨー、ブンヨーと呼ぶので、そしてそれを不快がっているようには見えないので、私もそう呼ぶこととしよう。彼はゲンちゃん、テッちゃんの親友である。しじゅういったりきたり、麻雀で勝ったり、負けたり、とったり、とられたりして暮しているように見える。彼はカメラ・マンであって、読売新聞社から出版された彼の最前線の写真と文の本は多くの人が読んでいる。火点と死線をくぐり、水田戦、ジャングル戦、山岳戦と、この国の戦闘の諸種の実態を目撃した経験の深さと広さでは、いまのところ、誰も及ぶものがないかと思われる。アメリカのABC放送会社ではたらいている千崎君がようやく迫ってきたところである。はじめてブンヨーに会ったのは三年前のサイゴンでのことで、小柄だが筋肉質、眼が大きく、鼻筋とおり、沖繩の血をそのままつたえたチュラニーセー=i美少年)で、しばしばトンチンカンなことを口走るが、それは無知というよりは無傷の率直さの味わいがあり、はなはだ痩せ、かつ、謙虚な青年であった。日本TV会社の臨時雇いとして、彼はいくつかのすぐれたドキュメンタリー・フィルムをとったが、その後はスチール写真に転身したように思われる。若くて貧しくて無名な彼は鋭敏な猟犬のように弾雨のなかでシャッターをおし、それをサイゴンに持って帰り、APの事務所へいって一枚、二枚と買ってもらっていた。そこにはデブチンだが命知らずのホルスト・ファースがいて、ブンヨーの持ちこむネガをタカの眼で選び、真に優秀なものだけぬきとって、一点につき、十五ドル、ズボンのポケットからくしゃくしゃのグリーン(ドル紙幣)をぬきだした。邦貨にして五千四百エンである。ブンヨーは命がけの仕事が名うての国際的通信社でもたったそれだけと知って、ギョッとなる。その作品は電送機にかけられて空中に発射され、世界各国の朝刊新聞や夕刊新聞に掲載されるが、ただ≪AP電送≫とあるだけ。パリ市民や東京市民は、寝床のなかでおぼろな眼をひらき、ちらと見て、あ、またヴェトナムかと思って捨てる。ブンヨーは十五ドルをポケットにつっこみ、ダカオ界隈の一週間も洗わなかった女陰にそっくりの、分解過程にある蛋白物質、熱くねっとりして挑発的なニョクマムの匂いと汗のなかをあてどなく歩きまわり、アセチレンやローソクをともした屋台で焼酎をすする。湯麺をすする。
毎朝、ブンヨーは、チャン・クァン・カイ五四の六番地の下宿からぬけだして、サイゴンをよこぎり、パストゥール通り三百十番地のアパルトマンの百一号室にあらわれる。コニャック一瓶を持っていたり、エビセンベイ一袋を持っていたり。その薄暗い部屋には越中フンドシ一枚のまッ黒な男と、パンツ一枚の丸顔の男と、二人の中年の男が毛布にしがみついて眠りこけており、幾種類もの体液の匂いがむううッと部屋にたちこめている。
「オハヨ!」
「………」
「ジョートー・アリガト!」
「………」
「スケベ・イケベ!」
ブンヨーが闇のなかで声をかけると、越中がもぞもぞと身うごきし、パンツが寝返りをうつ。越中は苦労人なので、ブンヨーがきたと知ると、もぞもぞ起きあがり、しぶい眼をこすりながらコニャック・ソーダなどを飲みつつ花札をベッドにひろげかかる。パンツの丸顔は壁のほうを向いて、いまごろパリでは菫《すみれ》いろの朝雲のなかでノートル・ダムの鐘の音がディン・デン・ドンとひびき、その数にあわせて、ひくの、おすの、ゆったりと御挨拶をしていたもんだなどと、つまらぬ法螺を本気の口調で詠嘆する。毎朝のことなので誰も本気にしやしないのに、本人だけがフィクションに夢中でソレからソレへと嘘また嘘。
「湯麺、どう?」
ブンヨーか越中かが声をかけると、パンツはむくむく体を起し、菫いろの北の朝にひびくディン・デン・ドンはどこへやら、たちまちベッドからぬけてゴム草履はきにかかる。こいつ、茶碗の音で目をさます育ちと見えた。
近頃、ブンヨーは新しい言葉をおぼえた。それを口にするのが得意でならない。朝から晩までふたことめにはそれを口にし、何やら、フ、フ、フと含み笑いをし、てれることもなく、はばかることもない。『カァチャン!』というのである。結婚したばかりなのである。新婚早々の恋女房を東京において彼はサイゴンにきたのである。すると、体一つのときには思ってもみなかった恐怖がこみあげてきて、夜ごと戦略要塞機B─52の群れが二十粁、三十粁かなたへ四十万ポンド、五十万ポンド、雨のように降らせる爆弾の轟音と震動を聞くたび、こうしちゃいられない、こうしちゃいられないと、いらいらしてくるのだが、木の枝へし折ってひゅんひゅんチュンチュンと迫ってくる銃弾の音が耳によみがえると、どうにもすくんでしまうのである。彼はそれを逃げもかくれもせず、越中やパンツに、会うたびごとに告白するのである。戦争はおっかない。命はひとつしかない。カァチャンが恋しいと、あけすけそのままに、暗い眼つきになる。越中はなぐさめてやり、パンツは激励する。おれは命が惜しいから従軍しないのだといえないばかりにあれやこれやと大層な弁解を並べたてるのにくらべたらどれだけ勇敢であるか。誠実であるか。ブンヨー。君はようやくほんとの闘争をはじめたんだ。自分との闘争だよ。それがいちばんつらい戦争なんだよ。姿も見えず、標的もなくてなあ。あせることはないんじゃないか。いきたくなればいつでもいけるさ。君は堕落したんじゃない。知ったのだ。ブンヨーは眼を大きくしてじッと聞き、うなずいたり、考えこんだりしながら、やがてのろのろ花札をうちにかかる。
しかし、私たちがどこへもいかずにサイゴンで腰をすえていたのにはほかにも理由があった。解放戦線がサイゴンへ攻撃をかけてくるかもしれないという配慮である。そうなれば、ぜったいそれを目撃しなければならなかった。いつ、何が、どこで発生してもふしぎではないという土地柄なので、うっかり地方へはでられないという気持がみんなにあった。北ヴェトナム軍と解放戦線と人民革命党(解放戦線の大脳と脊髄にあたるマルクス・レーニン主義党)の捕獲文書、転向者や捕虜の証言、解放放送、カンボジャ国境の戦闘、ドゥク・ラプ、ハウ・ギア、タイニンの一連の凄惨な戦闘はすべて一点、サイゴンをさしていた。パリ会談は座礁したままであり、アメリカの大統領選挙も即決の鍵にはならず、すべてが手詰りであってみれば、大状況をうごかすものは戦場でしかないと思われた。例によって戦争は戦争によってのみ終るのであり、平和への最短距離は大虐殺あるのみと思われた。解放戦線は今年を≪決定的な年≫と規定し、目標は≪総反攻、総蜂起≫だとしている。それが神話になるか。現実になるか。アアという説があり、コウという説があり、アア・コウという説があり、アアでもないがコウでもないという説があり、私たちはむくみきった暑熱に浸って汗をぬぐい、食べ、飲み、眠り、起き、読み、喋り、夜になれば窓につみあげたロケットよけの砂袋やトイレの壁のかげへゴキブリのようによこたわる。右眼をつむり、左眼をあけて眠りたいと思う。夜が明ければまた汗まみれで食べ、飲み、喋り、聞き、読み、歩きまわり、考え、よこたわり、眠る。八月二十二日の未明、解放戦線の二十発の百二十二ミリRPG(ロケット推進榴弾)が襲いかかり、或るアパートの五階の部屋に寝ていた日経の酒井君が小指のさきほどの破片でこめかみをつらぬかれ、ほとんど安楽死の状態で、部屋を血で浸して、はかなくなってしまう。アパートをかわりさえしていなかったら。いつものように誰かのところで徹夜マージャンさえしていたら。昨夜十時、となりのチャプスイ屋|聯光酒家《リエン・クワン》で会ったとき、私にさそわれるまま部屋にきて、よくそうしたように、朝まで議論さえしていたら……
バナナ。灌漑溝。洪水よけの土堤。ランプ。この四つをのぞくと、島の生活は石器時代であった。たとえば雲古ちゃんがしたくなったらスコップを片手に草むらに消え、ほどよいところに穴を掘り、事務完了後は土をかけてトン、トンと二度ほど踏んでおくのである。紙がないからバナナの落葉を使う。バナナの葉は大きくて、肉が厚く、ヒヤリとして気持はいいが、ツルツルすべりやすいので、いつも何がしかの不安がのこるという欠点がある。そこがざんねんなところであった。少し枯れかけのがシコシコしていて、ぐあいがいい。枯れすぎたのは痛い。御飯を食べたあとでパンツ一枚になり、河風のよく吹く場所をさがして小屋のすみで昼寝していると、フッフッと荒い息使いがする。眼をさますと、大きなブタが真摯なまなざしで土を嗅いでまわっているのであった。夜、ニッパ小屋で、ランプの灯のしたで酒を飲み、ヴェトナム人の農民たちと雑談をしていると、ふいに足もとの土がむくむくして、ヒキガエルが這いだしてくる。壁で利口そうな顔をしたヤモリが二匹、恋をささやきかわしている。農夫がヒキガエルをさして、あれはおいしいよという。
ゲンちゃんがつぶやく。
「そうなんだ。こいつはうまい。ほんとです。妙な恰好をしてますけどね、おかゆに入れるといいんです。なァ、松島さんよ。そうだよな。うまいんだよな」
松島さんが聖書から眼をあげる。
「そうだ。そうだ。見、見、見てくれはよ、見てくれはわりいけどョ、う、う、う、うめえよ。体にもいいんだよ。おかゆにいいしなあ。栄、栄、栄養にいいんだとョ。明日食ってみるか」
ブンヨーと私は小舟にのって古川さんの島へいって泊ったり、また松島さんの島にもどって泊ったりした。ゲンちゃんはヴェトナム人の農夫を指図し、泥まみれになっていっしょにはたらき、養魚池をつくるべく土管を埋めたり、土壁を固めたりした。また簡易土壌検定器を持ちだし、さまざまな試験管に土の粉と試薬を入れたり、参考書を読んだりしていた。未明と黄昏、ヤシの木とバナナの葉ごしに亜熱帯の悽愴、豪奢な太陽が輝いた。夜になって蘇鉄の木のしたで釣糸をたれていると、葦のかげにただよう漁師の舟に小さな赤いランプの灯がゆれ、水のうえをひくい、ものうげな唄声が流れてくる。この国の唄に独特の、越劇のアリアから派生したものではあるまいかと想像される、短調の哀音。菌糸のように、霖雨のように骨にからみついてくるかなしみが暗い水のうえをひっそりと流れていく。そして何百匹、何千匹と数知れぬホタルが水のなかに生えた木に群れて、まるで祭日の船のように明滅する。蒼白に輝くその靄《もや》は大群衆の歓呼の声や帝国の興亡といったようなことを私に想像させたりする。空気は熱していて、うるみ、重く湿り、女の手のようであり、ホタルの大群団がいっせいに消えると、その穴へ闇がまわりから音をたててなだれこむのである。
島の岸に網をめぐらしている漁師が干潮時になってひろってきたのを見ると、小エビ、トビハゼ、カニなどで、めぼしいものは何もない。灌漑溝をかいぼりして夕飯のおかずをひろっている兄弟の竹籠にも小エビ、小ブナ、トビハゼ、ライギョの仔などばかりである。やっぱりみんながいうように、いまはわるい季節なのである。
『チョーイヨーイ・サウ・ラム!』(こんちきしょう、最低だ)
だめだ、だめだといわれながらも水にむかって竿をふりたくなるのは妙な話である。朝と夕方、満潮で水がひたひたみなぎっているときに、私はここぞと思われるポイントめがけてスピンナーをとばし、それがだめならプラグ(魚の形をした木製や金属製の擬餌鈎)をとばし、こう水がにごっていては魚は眼が見えないのじゃないかと思って派手な色のにかえてみたり、キンキラ光るのにかえてみたりする。またドバミミズをつけてみたり、カエルをつけてみたりもする。何しろ私は釧路の奇蹟、バイエルンの驚愕、シュヴァーヴェンの歓喜なのであるから、一匹でいい、釣ってみせねばならない。慾はいわない。一匹でよろしいのである。魚釣りは最初の一匹にすべてがある。処女作に作家のすべてがあるように……と思って汗をふきふき母なる大河のポケットへせっせと鈎をふりこんでいると、頓狂な顔をしたトビハゼが草むらからカエルのようにとびだし、体をたて、尾で水をたたいて、ピョンピョンちゃぷちゃぷと走っていく。そして目的の木に這いあがると、そこに一度とまって、キョロリとこちらを眺め、眼と眼が合っても平気でいるではないか。
カエルをとってきた子に釣鈎を進呈してしばらくしたら小屋のまえがにわかにさわがしくなる。男の子や女の子がはじけるように笑いころげている。何だろうと思ったら、一人の男の子が素ッ裸の赤ン坊を私にさしだし
「おっちゃん、おっちゃん!」
と笑いつつ、叫ぶのだった。
「この子をあげるから釣鈎とかえて!」
やがてメコンの絶望は竿をしまい、木のしたに寝ころぶ。すると子供がうじゃうじゃと寄ってきて、木の実をコマにして遊ぼうといったり、ラムネ玉のあてっこをしようといったりするので、指角力を教えたり、耳をうごかしてみせたりする。この国には指角力の習慣はないらしいのである。しかし、指角力を教えながら耳をうごかしてみせたら、その子の眼に驚愕と恍惚が出現した。ついで彼は茫然となり、小さな腹をおさえて笑いころげ、仲間もいっせいに笑ったり、叫んだりをはじめ、どこかへかけていって、兄、姉、父、母、おじいさん、おばあさんをぞろぞろつれてきた。大人たちはしとやかに佇んだり、しゃがんだりし、子供たちは笑ったり、叫んだりしてひたすら私を眺めつづける。ひたすら私は火焔樹の枝のしたに寝そべって耳をうごかしつづける。二日めには政府軍の海兵隊から脱走してきた野戦服姿の青年までが隠れ場からあらわれ、子供たちにまじって、ひたすら私を眺めつづけるのだった。
子供が叫ぶ。
「チョーイヨーイ!」
私が拇指をたててみせる。
「トット・ラム!」(最高)
二日めの朝、母は十五センチほどの贈り物を一匹だけくれた。テナガエビの皮をむいて鈎にかけ、蘇鉄の木のしたで竿をうごかしていたらとつぜんピリピリッと魚信。ひょいとあげるとあのカチョックが、やっぱり人を小馬鹿にしたような、薄笑いしているような顔つきで水からあがってきた。
ブンヨーが拍手し
「虫眼鏡だ、虫眼鏡だ!」
にくいことをいう。
まったくわかっちゃいない。サウ・ラムだね。メダカも一匹、マグロも一匹、一匹は一匹。一匹釣るのと百匹釣るのに大差はないが、一匹も釣れないのと一匹釣るのとには大へんな差がある。そこがわからないようでは。一匹は一匹なのである。そうさ。女は女、なのである。ではないか。そういえばわかるのじゃない?……
夜はホタルばかりじゃなかった。ときには九時頃、ときには深夜、ときには未明、闇のなかであらゆる種類の火器と火薬の炸裂する音がひびいた。対岸が解放地区なのである。この島も二月の≪テット攻撃≫から四カ月間は解放地区だったのだが政府軍がやってきて戦闘があり、マッチャン(戦線・解放戦線のこと。マッチャン・ニャントク・ヤイフォン・ミェンナム・ヴィエト・ナム=南ヴェトナム解放民族戦線)は敗れてか、戦術的にか撤収していった。だからここはいわゆるたそがれ地帯∞競合地区≠ナ、最前線なのである。子供たちにも避難民の子供が多いのである。葦かげにゆれる漁師の舟も戦火を避けてどこかから逃げてきたのだ。彼らは戦線のない戦場の最前線から最前線へ放浪するしかないのである。私は眼をさまし、闇のなかでタバコに火をつけ、耳を澄ます。ギィ、ギィとどこかの柱がきしむのは土間でおばあさんが夢うつつにハンモックを揺りつつ眠っているのである。キッキッキと鋭くひくく鳴くのはヤモリである。どこかでこもった炸裂音がする。あれは迫撃砲だ。空をふるわせてたたきつけてくるのは百五ミリか百五十五ミリだ。咳きこむようなのは機関銃だ。小さいくせに圧力があるのはM─16自動銃だ。たえまなくにぶい歯痛のようにヘリコプターの音もする。空いっぱいにたちはだかった巨人が予告なしに、ふいに、力いっぱい足踏みするような大震動が起るのはB─52の掃滅爆撃だ。木を折り、土をふきあげ、骨を砕き、肉を散らし、戦闘員も非戦闘員もあるものか。一万メートルの高空から爆弾を降らして、いっさいがっさい闇のさなかでちゃっちゃめちゃくちゃ……
たてつづけに三発、或る夜ふけ、どうにもこうにもジッとしていられない接近ぶりで榴弾が、おそらくカイベの町の砲兵陣地からとんできて、私たちの島をかすめて対岸にとびこみ、炸裂した。ニッパ小屋がめりめり、ゆらゆらと揺れた。思わずゲンちゃんと私がとび起きて梯子をかけおりて戸外にとびだすと、健康優良児童のように寝こんでいたブンヨーもついてきた。しかし、バナナ林にかくれようが、小屋にいようが、砲弾には眼はないのだから、どうしようもない。舟で逃げだすのは一案だが音もなく流れにのって上流からおりてくる哨戒ボートに遭遇したらどうすればいい。夕方六時から朝六時までがこのあたりの川のカーフュー(外出禁止)なのだし、あのリヴァー・パトロールはやにわに重機関銃をブッぱなす癖があって悪名高い。あっちもだめ。こっちもだめ。出口なし。回収不能。ねっとりと闇のなかで汗がにじむ。たくましい蘇鉄の幹にそっとかくれて対岸をうかがえば火もなく、声もなく、ただ亜熱帯の巨大な闇。大量の水のひたひたと走る気配。コオロギの声。カエルの声。そしてあの木にはやっぱり何千匹ものホタルが群れて静かに、冷たく、正確に、たえまなく、蒼白に明滅をくりかえしていた。
第四弾がこなかったので小屋にもどり、梯子をのぼって、板床に敷いたゴザに寝ころぶ。ゲンちゃんは闇のなかでタバコに火をつけ、ひくい声でつぶやく。テット攻撃のあとでここが解放地区になった。マッチャンがやってきた。マッチャンは規律正しく、礼儀も正しかった。政治委員が小屋で話をしているあいだボディガードは何もいわずに姿を消した。委員の話は税金のことで、これまで毎年政府とマッチャンの両方に税金を払って何とかやってきた。去年、マッチャンの税金は百三十万ピアストルだった。今年はそれを五年分、四百三十万ピアストル払ってくれというのだった。とても払える額ではない。マッチャンほど正確、精密な情報網を持っている組織ならうちの会社がとてもそんな金を払えるゆとりがないということは知っているはずだ。それを知ったうえで、どうしてそんな無理をいうのだと、たずねかえした。すると、委員は、どんな話も困ってくるといつもそうなのだが、そのときも困って、上級からの命令だからうごかせないと答えた。何度もおなじ交渉をした。結果はいつもおなじで、命令だから、ということであった。そこで、或る日、こういうことをいった。ハッタリでもなく、かけひきでもない。思うままをいったのだ。われわれは税金が払えない。だから日本へ引揚げる。バナナ園はあなたがたの好きなようにするがいい。しかし、バナナは気むずかしい果物で、戦争にいそがしいあなたがたには無理だろうと思う。すると、サイゴンへ売りにいくことができなくなる。このバナナで食べているのはわれわれだけじゃない。この島ではたらくヴェトナム人みんながそうである。彼らはどこへもいくことができなくて、この島でやっと暮しているのである。バナナができなくなると、彼らはどうなるのか。われわれは日本へ帰るのだから何とかなるが、彼らはどうなるのか。これはわれわれと関係のないことだが、いつも人民の味方だと主張してきたあなたがたを人民は恨むことになりはしまいか。そこをどう考えていらっしゃるのか。そういうと、マッチャンはすっかり困り、やっぱり命令だからとはいいながらも、上級にもう一度意見を聞いてくるといって引揚げた。そうこうしているうちに政府軍がやってきて戦闘をはじめ、マッチャンは撤収した。しばらくして、或る夜、しのぶようにしてやってくると、よろしい、税金は五十二万ピアストルでいい、払ってくれ、という。それすら手にあまる額だが、考えてみる、と答えた。
ゲンちゃんは暗がりで吐息をつき、しばらくだまっていてからつぶやく。いつもそうだが、彼の口調は平静で、正確を期し、率直で、ゆっくりしている。ときにそれは二十五歳の独身青年にしては老熟しすぎているとさえ感じられる。
「うちだけではありません。今年になってからマッチャンの税金が高くなったという声はよく聞きます。米作の査定はたいへん正確なんですが、税金そのものは高くなってるらしいんです。よくわかりませんが、それで恨んでいる農民もいると聞きます」
「解放戦線の経費の3/5から4/5までは税金なんだという説を聞かされたことがありますよ。サイゴンでの情報なので、確認のしようもなくて、困るんだけどね」
「しかし、うちの場合は特別でね。日本人が経営してるんだからというので、とくにああいうめちゃをいってくるのじゃないでしょうか。けっしてそうとはいわないんですけどね。何というか、日本独占資本、帝国主義の手先というようなことで。どうもそんな感じがする。ぼくの主観なんだけど」
「そういうこともあるかもしれないね」
「あのときマッチャンといろいろ話しあいましたが、こういうこともいってましたよ。戦争はここ数カ月内に決着をつける。来年は独立だ。それまではしんぼうしてくれ、というんです」
「そういった?」
「ええ。そういいました」
「サイゴンでもそういってると聞いたことがあります。いろいろ情報は食いちがうけれど、その点だけは一致してるな。たしかに一致してるよ、その点は」
「ほんとなんだろうか?」
「わからない」
「今年中に戦争は終るのですか?」
「わからない。何もわからない」
「そうだといいんですけどね」
「………」
「………」
ゲンちゃんはタバコをもみ消して、毛布を肩に巻きつけ、闇のなかで何度か寝返りをうってから、小さく、おやすみなさいとつぶやく。私はもう一本、サレムにジッポの火を吸いつけて、おやすみ、とつぶやく。戸のすきまから冷たい風がしのび足で流れこみ、コオロギの声。カエルの声。ブンヨーと、まもなくゲンちゃんの寝息が、煙のようにたちのぼる。火薬の炸裂音はいつからかしなくなっている。両岸ともひっそりしている。ベルトをゆるめて毛布を胸にひきあげる。昆虫のどよめくようなさざめきのなかで、ふいに一つの言葉がうかんで、しばらくふるえながらただよい、消えていく。作家も批評家も、もうそろそろ、おたがい何もわからないのだと、告白すべきではないでしょうか。チェーホフの言葉だ。またしても私は他人の言葉で自身を律しようとしている。けれど何故か、さほどの不快はおぼえない。ざらざら毛ばだった床板と湿ったゴザに頬をおとし、汗にまみれつつ私はしびれていく。タバコの火をつぶす。くちびるに薄荷とニコチンの一滴。ゆるやかに私は一夜老いる。
たしか、サイゴンに帰ってから三日めだろうか。午後二時頃、ブンヨーが百一号室にあらわれ、ショロンで一時にテロがあった、見にいきませんか、という。同慶大酒店の裏にある国民中学校という学校の教室で男の先生と女の先生が四人、昼食を食べているところに若者二人を護衛にした中年女のテロリストがあらわれて連発拳銃を乱射し、一人即死、三人重傷だという。四ツ馬印ルノーをせきたてていってみると、貧しく小さな教室の床には早くも凝結しかけた血塊が、まるで内臓を投げだしたようにわだかまり、なじみ深い、あのあぶらっぽいような、みだらなような匂いが漂い、机には御飯を盛ったままの茶碗や箸が散らばっていた。男物の眼鏡が血みどろになり、女物のサンダルがいちめんの血糊のなかにぬぎ捨てられたままになっている。男が一人やってきて、後頭部を指でつつき、床の血糊をさし、ただそれだけででていく。ウォーキー・トーキーを持った警官がいたのでたずねてみるが、何を聞いても薄く笑うばかりであった。露地では刑事らしい男が住人たちの身分証明書をしらべている。中学校をでると、そのよこは葬儀屋で、赤や黄に塗った棺桶が天井までつみあげられ、半裸の職人がいそがしそうにはたらき、のぞいてみると一つの新品の棺桶のなかで赤ン坊がすやすやと眠りこけていた。ゆりかごがわりにしているのである。
昨日とおなじ、うるんだ午後である。
暑い。
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おわりにひとことふたこと 初版あとがき
これは昨年、『旅』に、ほぼ一年、連載したものである。それまでの一年、私は書きおろしの仕事のためにずっと家にたれこめたきりであったから、腰から力がぬけ、足が萎えそうになった。何か運動をしなければいけないのだが、何をしていいのかわからない。そこへ『旅』から釣りをしないかという話があったので、一発で食いついたのである。ヘラブナ、アユ、イシダイ、ハゼなど、それぞれ面白いだろうが、よく知られすぎていて、いまさら私などが口をはさむことはなかった。何を狙うか。『旅』編集部と何度も議論した。その結果、ある土地にしかいない魚、その土地でしかやらない釣りかた、または日本独特の釣技といったことだけを追うことにした。だから私のメモには、知床半島のオヒョウ、然別湖のミヤベイワナ、芦ノ湖のブラック・バス、琵琶湖のビワコオオナマズ、有明海のムツゴロウなど、たくさんのこされている。大陸渡りのソウギョやレンギョもやってみるはずだったし、小笠原へでかけてカジキやオキサワラのトローリングもやってみたかった。六月からヨーロッパへでかけたのでこれらはみな計画倒れとなったが、他日を期したい。
釣りに心得のある人が読めばすぐわかるように私はかけだしもいいところである。グラス竿にクローズド・フェイス・リールをつけてキャスティングするのはイトウ釣りで佐々木画伯に手ほどきされたのが生まれてはじめてである。それくらいのアマチュアなのである。だから≪釣魚大全≫という壮大な看板は、その重さだけでよろめいてしまいそうである。ただ、これくらい猛烈なタイトルにしておけば釣り場ではどうしても張りきりたくなり、意気ごみがちがい、おのずから釣果もちがってくるだろう。自己暗示というものである。ロシア人は釣りの話をするときは両手をしばっておけ≠ニいうそうであるが、マ、この程度の大げさは認めてやってください。オマジナイみたいなものです。
「おい井伏や、釣りは文学と同じだ。教はりたてはよく釣れるが、自分で工夫をこらして行くにつれて、だんだん釣れないやうになる。それを押しきつて、まだ工夫をこらして行くと、だんだん釣れるやうになる。それまでに、十年かかる。先づ、山川草木にとけこまなくつちやいけねえ」
佐藤垢石はそういってアユ釣りを教えてくれたと井伏鱒二氏の『川釣り』にでている。これはまことに名言である。私は自分が海釣りよりはハッキリと渓谷や湖の釣り、それもヤマメ、イワナ、ニジマスその他、サケの一族、マスの一族に熱中したがっているとわかったので、今後ひたぶるに精進いたそうと思いきめているが、おそらく工夫≠こらすことにふけり、だんだん釣れないようになることだろう。文学も、また。
ところで、ウォルトンの『釣魚大全』(原題は『完全な釣師』)は、春の日なたの野道を居眠り半分のウマに乗ってポクリ、ポクリといくような本である。しかし、ジレッたくなるのを我慢して読みすすんでいくと、面白くなる。たとえば某日、マス釣りにいこうと思う。すると途中の街道に乞食がたくさん集って議論に熱中しているのを見た。何を議論しているのだろうと、よくよく聞いてみたら、乞食たちは、多数《ヽヽ》からお鳥目をもらい集めるのと、無数《ヽヽ》からもらい集めるのとではどうちがうかといって議論しているんだという。アアだといい、コウだという。アアでもないといい、コウでもないという。これはなかなかに深遠な命題であって、大衆団交は容易に完成を見ない。とうとう、今夜、町の『待伏せ屋』にえらい坊さんがくるはずだから――えらい坊さんが訪れるにしては妙な名前の店だが――そこへいって決着をつけてもらおうということになる。一人の少女の乞食がたちあがり、音頭とりになって、≪乞食はたのし≫といった趣きの唄をうたう。みんなはそれを合唱しつつ仲よくどこかへ消えた。
牧草地のニンドウの垣のかげの澱みにいるマスのことを語りつつウォルトンはそういう話も忘れずに書いている。多数派の論拠、無数派の論拠をそれぞれ書きこみ、また、乞食の長い陽気な唄も一句のこらず書きとっている。こうしたことがあったりするものだからこの本は発熱したり、酸っぱくなったりしている夜ふけの心をのびのびとほどき、くつろがせてくれるのである。そして全篇にみなぎる哲学がいい。彼は釣りを介してひたすら清貧、孤高、素朴、超脱を説いてやまないのである。ことに最終部分で頂点に達する。このあたりを読んでいると、いったい著者が十八世紀のイギリス人なのか中国古代の思想家なのか、わからなくなってくる。たとえば老子がこの本の著者なのだよといわれても、ちっともふしぎではないという気がしてくる。その清澄が徹底しているので、この人はひょっとしたらひとことも書いてはいないけれどよほど同時代に絶望していたのではあるまいか。この本は反語なのではあるまいか。ふと、そう思うことさえある。
小さな記憶が一つある。去年の七月、ボンで狂熱的な毛沢東主義者の、ヴェストファーレン出身の青年学者と、ヴェストファーレン産のシンケンヘーガー(ドイツ焼酎)を飲みあい、会うたびパンツ一枚、しばしば徹夜となる革命論議をやりあった。あるとき私がくたびれて、ふと、ウォルトンの『釣魚大全』はすばらしい本だと洩らしたら、翌日彼はいそいそとやってきて、小さな本をさしだした。それは第何百版めかのこの本であった。イギリス留学中に買って愛読していたのだという。それでいて聞いてみると、この青年学者は、釣りを一度もしたことがない。カワマスも、ニジマスも、カワカマスも、ヨーロッパ・ナマズも、何も釣ったことがない。釣ろうと思ったこともないという。子供の頃にやったこともないという。なるほどこの本はこういう読まれかたをするのだな。卒然として私は何事かを知らされたような気がした。
さて。
たしかトルストイの短篇だったと思う。魚釣りに川へいったところ、一人の老人があらわれ、何を釣ってもよこから、昔はもっと大きいのがいた、昔はもっと川が魚でいっぱいだったという不満をさんざん並べてから森へ消えたという話。どうやら森の神様であったらしいと見当がつくように書かれていたと思う。これを現代日本にあてはめると、どうなるか。わが国ではもうそろそろ、昔はもっと大きかった≠ニいおうにも、どだいその魚そのものがいないので手のひろげようもないという事態にたちいたっている。森の神様は釣師のよこにしゃがんで一日じゅう眺め、釣師は一匹も釣れず、神様は叱言《こごと》をいうすべもなく、黄昏、二人はだまって腰をあげ、何もいわずにべつべつの道へ去ることであろう。
北海道から徳之島まで釣り歩いてみたが、いたるところで聞かされるのは、魚が激減したという声であった。これは毎度毎度書いたので、もう繰りかえしたくない。やがて釣りをするには外国へいくしかないという日がくるといっても過言ではない。それはもうすでにきているといってもいい。私たちのこの花綵列島は小っぽけだけれど南北に長く、離島と磯が多く、海岸線は複雑であり、暖流もあれば寒流もあり、大陸棚もあり、また内水面についていえば多相の渓谷と水量がみごとであり、湖、池、沼、用水、潟、湿原、じつにいい地相で|あった《ヽヽヽ》。けれど、たとえば、イワナ、ヤマメをとってごらんなさい。もうこれらの魚はダイヤモンドのように稀少となり、いまや絶滅に瀕してしまっている。ジェット推力で圧しに圧しまくる機械化と工業化とガミガミ女房にたまりかねて私たちは日曜日の早朝、家を逃げだしにかかるのだが、さて釣り場へついてみると、海も川も廃墟である。私たちは、はなはだ不具な生物で、魚の棲めないところには人間も棲めないのだという鉄則を忘れて貪りつくし、掃滅し、何十匹釣ったといって去年得意になり、今年はうなだれ、自分の不具さをちっともさとることがなかった。
大阪府の寝屋川の淡水試験場場長だという人が、惨状を嘆いた結果、苦心工夫をかさねて、とうとう赤いヘラブナという新品種をつくりあげたという。それを釣師のために放流しようというわけだが、この人の宮沢賢治をもじった文章(『つり人』一九六八年九月号)には悲痛と滑稽の二本の糸が編みこまれ、川を知る人なら暗い眼になるであろう。
「……(前略)、汚濁にもめげず、害敵にも負けず、どんなエサでも好き嫌いせずにパクパク食って、どんどん大きく育ち、人びとからうまいともほめられず、まずいともいわれない、高級な錦ゴイや金魚のようには尊ばれず、蔑みもされない、どんな河や池、沼にもすんで、庶民から愛され親しまれる、そういう魚に育てあげたいと思っている」
もう日本の渓谷では水はただ岩にあたって砕けるだけである。その淵かげから跳躍する貪慾でピチピチした、鮮烈で息のつまりそうな生体反応を川は失ってしまった。川も岩も不妊であり、冷感である。川も人もただ眼を伏せて、行方知れず、流されていく。だからいたるところの川岸に立札のたっているのが見えるではないか。そこには書いてあるではないか。
『喪中』。
『旅』編集部の岡田氏、藤原氏、三神氏、それから、これをこんな本にすることをすすめてくださった文藝春秋の池島信平氏に、深く感謝いたします。
一九六九年四月 某夜
[#地付き]著 者
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U
井伏鱒二氏が鱒を釣る
川釣りをすると晴朗で愉しいけれど、冷たい水のなかに体を浸すことが多い。ことにアユ釣りとなると太腿までドップリ、つかる。なかにはフンドシ一本で腰までつかってやってるのがいます。戦前はもちろん、戦後もよく見かけたもんです。しかし、若いうちはいいけれど、年をとると関節が痛む。冬になるとことにそれがでてくるんです。多年の殺生の報いですね。私も、もうダメです。それに近頃じゃ、いつ交通事故でやられるかしれませんしね。釣りはもうできないな――井伏邸へお伺いして酒を飲み飲みのよもやま話で井伏さんはおおむねそういうことをおっしゃる。そのさびしげな述懐が二度、三度かさなったので、私が提案し、引退興行というわけでもないが、一つ山の湖へいってラストチャンスを試みてみようではありませんかということになった。同行するのは『新潮』編集部の岩波氏、私が関係しているサン・アド社の矢口専務、それに秘書役の斎藤純子嬢である。
矢口氏は元『婦人画報』の編集長だったので文壇に知己が多いが、ことに井伏さんの作品とお人柄に惚れこんでしげしげと通ったので、たいそう親しいのである。彼は花と木と鳥と酒と女に造詣が深くて、庭園の設計などをさせるとプロを抜く非凡の腕とイデェを発揮するのである。毎夜のように銀座のバーに出没明滅してるのにいつのまに勉強するのだろうかといぶかしんだり感心させられたりする。この人には完璧主義の情念がいつまでも衰えないで巣食っている。自分の設計した誰かの家の庭に植える木をさがして関八州や伊豆の山々をくまなく歩きまわったり、渡り鳥の季節になると国立《くにたち》の自分の家の屋根へウィスキー瓶と双眼鏡を持ってのぼったりする。彼の説によると、ある時期のある種の鳥のコースがちょうど彼の家の上空を通っているのだそうである。そこで彼は屋根の棟にまたがってすわりこみ、ちびちびやりながら鳥がやってくるのを待ち、あらわれたとなると、双眼鏡をとりあげて観察するのである。イギリス人の日曜日の趣味の一つにバード・ウォッチング≠ェあるが、それである。近頃ぽつぽつわが国でもおこなわれはじめ、深い山奥でイワナ釣りをしていると、双眼鏡だけを胸からぶらさげて手ぶらで歩いている人にときどき出会うことがある。銃をさげたハンティング姿よりはよほど達人の心境に近いものを感じさせられる。
いよいよ決行ときまって、われわれ三人、つまり矢口氏と斎藤嬢と私の三人分の釣道具はすべて私所有の物を使うことになり、自動車や旅館の手配もすませたところ、矢口氏が私にひそひそ声でいった。
「……おれのおやじは早稲田で英文学を教え、ディッケンズをわが国に紹介したりしたんだが、家は西荻窪にあった。それを老師はよく知ってるんだ。その家を売っておれは国立に引越したんだけど、そのことも老師はよく知ってるんだよ。それでいてときたま会うとだね。何も知らない顔をして、矢口君の家は西荻窪でしたね、とたずねるんだ。そこでおれが、いえ、あれは故あって売りまして国立に引越しましたと答えるだろ。すると老師はダ、おやじのことや、いい木が庭にあったことをしきりに賞めたあと、そうでしょう、そうでしょう、あなたにはあの家は保《も》ちきれないでしょうっていうんだよ。今度も見ててごらん。きっと老師はいいだすにちがいないから。とぼけた顔をしてイヤ味をいうんだよ。今度もきっというヨ」
そういって彼は軽く眉をしかめるのだが、久しぶりに老師と山へ遊びにいけるのでいそいそと弾《はず》んでいる気配が肩にくっきりとでている。
ここで私はどこの駅から何電車に乗って車中どんな花が話に咲き、やがて終点に着いてから……というぐあいにいちいち地名をあげて書きこまなければならないのだが、省略しなければならないのでもある。それは老師および全員と話しあってきめたことなんである。釣行の帰途に車中でみんなで話しあい、老師の提案で、この湖のことは一切秘密にすること、どうしても話したり、または随筆などに書きたくなったりした場合は、≪あの湖《こ》≫と呼ぶことにする、ということになったんである。そう呼んでいたら人は≪あの娘《こ》≫とまちがえ、女の話をしているんだと思うかもしれないから、いいぐあいではないかということになったんである。釣師はとっておきの穴場はけっして打明けないものである。餌や仕掛もとっておきのものなら、うかうかと他人に打明けたりはしないものである。よほどそれが極端なのになると、日本刀を鍛えるために湯の温度を知ろうとして手をつっこんだばかりにその場で師に腕を切って落された昔の刀工の話などを持ちだし、≪釣りは盗むもんだ、聞くもんじゃない≫などといいだしたりする。そういうふうにヒタかくしにかくしているのをあの手この手で攻めて口を割らせるのも釣りにつきまとう多種の愉快のうちの一つではあるが、私は男の約束を守らなければいけない。げんに東京へもどって数カ月してから老師が『新潮』に発表された文章のなかには約束通りこの湖の名は書かれていないのである。かわいいアノコの名前がそうやすやすといえますかい。
その湖では三日をすごした。初日と二日めは不漁だったが、三日めの午前中、これが最後のチャンスだとしてやったところ、老師がみごとに穴場をさぐりあて、尺鱒の入れ食いとなって、ビクが破れそうになるほど釣れた。この湖の鱒はすべて野生で自然繁殖のものだから、釣堀の入れ食いとは大いに異なるのである。現在の日本の虹鱒は人工繁殖ばかりで世代交替をかさねたせいか、野生に放してやっても自然繁殖する力を喪失してしまっているとのことだが、ときどきこの湖のような例外もあるのだ。この湖の鱒はほうりっぱなしのままで、ひとりで生きぬき、食いつなぎ、殖えてきたのである。奥深い孤独と不屈の執念をその満々の秋の水におぼえさせられることがある。ブナの原生林にダケカンバの紅葉した茂みがまじり、陽が燦めくといっせいに清浄な炎上が山の麓と、中腹と、山頂に起るかのようだが、黄昏ともなれば水が昏《くら》くなり、夜を呑みこんで、広大な碧潭、深淵がそこかしこにできる。その静寂のさなかで一つの白い岩のうえに老師と岩波氏が二人ならび、ちょっと背を丸めて、竿さきを瞶《みつ》めている姿は、仲のいい親子のように見えた。
岩波氏は終始、老師のよこにつきそうかのようにして竿をだしたが、この御二人の釣りはイクラを餌にして浮子をつけての古式釣法である。私はルアーとフライをたくさん持っていったのだけれど、湖に着いたときに四人ほどの眼つきの鋭い、機敏そうな、凄腕と執念の持主らしいルアー・キャスターとすれちがったので、この人たちにさんざんルアーで攻められたあとでは、鱒たちはスレているにちがいないと思った。そこでルアーはやめにしてフライでいくことにきめた。かねてから矢口氏と斎藤嬢の二人は私から諸国武者修行の話を一方的に聞かされてばかりなので、今回は私は釣りをしないでみなさんのガイドをしてあげましょうと約束してあった。二人ともルアー、フライ、何もしらないので、私のいうままに従えばきっと釣れるよと、お約束申上げたのである。しかし、こういう初心者にルアーを教えても運わるく荒されたあとでは釣れないだろうから、フライでいくことにした。これは釣りのテクニックのなかではもっとも困難なもので、何年もの努力がいるし、私もじつは危ういこと、心細いこと、この上なしなので、とりあえずハーリング≠ナいくことにした。ルアーを流して引いてまわるのは山でも海でもトローリング≠ニ呼ぶが、フライを流すのはどうしてか呼名が変って、ハーリング≠ニいうのである。この釣りのコツはひたすらどんなフライを選ぶかにあるが、湖面をよく見たところ、虫の姿がまったく見えない。してみれば虫の季節は終ったのかもしれないからここは一番、フェザー・ミノーでいこうと考える。これは羽毛で小魚の姿に似せた擬餌鈎で、ずいぶんたくさんの種類があるが、ちょうどボックスのすみにマドラー・ミノー≠ェあったので、それにした。これはミネソタの釣師の創案で、スカルピン≠ニいう小魚に似せたものである。スカルピン≠ニいうのは川に棲むカジカで鱒の大好物である。写真で見たところ、アメリカのカジカも日本のそれにそっくりで、頭でっかちである。やっぱり鱒やチャー(イワナ)などにおびえつつ岩から岩へチョコチョコと走って暮しているらしい。
これはいい仕事をしてくれた。斎藤嬢をボートに乗せてゆらゆらと湖へ漕ぎだし、岸からちょっと沖目をゆっくりと、ことに穴場と思える岬の鼻や沈木のあたりをやってみると、つぎつぎ鱒が食いついてきた。ときには入れ食いといいたくなる連続ヒットもあった。そら、ひいた。そら、竿をしゃくる。右手で竿をにぎって左手でラインを引く。引いたラインはボートの底へ落していく。ア。ア。ア。そう。そう。右手の人差指と親指でラインを軽くつまむようにするとスムーズにいくよ。お嬢さんにつぎつぎと指図する。お嬢さんは赤くなったり、蒼くなったりしてはじめのうちはボートのなかでもぐもぐとノタうっていたが、そのうち慣れてきて、シャンと背をのばしたままで竿とラインが操作できるようになった。魚をひきよせつつ遊ばせたり、水からつかみあげたり、口から鈎をはずしたりするのが上手になった。
そのうち
「ちょっとアタリが遠のいたみたいだわ。鱒の食い時ってほんの一ッ時なんですね。これじゃ釣師が早起きしなければいけないわけだわ。よくわかりました」
マセた口ぶりでそんなことをいい、すぐ気がついてクスクス笑ったりする。こんなに呑みこみのいいコがどうして二十八歳、二十九歳になっても男が釣れないで独身でいるのかと思う。彼女にいわせると、結婚しないままで独身を通すのが今時の若いコのいい嗜みなんですとのことだが、しばしば横顔には佗びしさや寂しさが漂って、ヤッパリと思わせられるのであるけれど……
午後は矢口大兄をボートに乗せて私が漕いだ。糸の結び方、ラインの流し方、あわせ方、ラインの落し方、ことごとく午前中、斎藤嬢に教えたところを御教え申上げる。午後は少し食いがにぶくなったけれど、大兄はなかなかカンがいいので、鳥獣虫魚、山川草木、男と女の間のことなど、思いつくままに蘊蓄の深いところを語りつつ、ア、ひいたと叫んであわせる。ああするんだ、こうするんだと私が指図することはすぐになくなってしまった。こういうのを弟子にしたらたちまち追いぬいて出藍の誉れをあげ、つづいてクー・デターを起してひっくりかえされることであろう。油断大敵。ユメ、安堵してはならない。
「……タハ、いい気持のもんだな。インドあたりの殿様になった気分さ。しかし、いくら何でも悪いよナ。あなたに漕がせてばかりで。おれがかわるよ。あなた、釣りなさいよ」
「漕ぐのはしんどい。今日はこれで二人目だからね。そちらがインドの殿様なら、こちらはハゼ釣り舟のおやじになったようなもんだ。しかし、大兄、よく考えてごらん。ああするんだ、こうするんだと頭ごなしに人に命令を下すのはいい気分のものだぜ。こんなところまで来なけりゃあできないことさ」
「なるほど、そういう考え方もできますか。身ヲ殺シテ仁ヲ成ス。そいつをちょっとひねったってところかな。ゆかしいね。おかげでいい遊びをおぼえた。これはいい湖だ。あなたにふさわしいです」
二人でうだうだとバカをいいつつ、広い湖のあちらこちらとわたり歩き、黄昏が山や森や水から冷たく沁みでてきて魔が出現しそうになるまで遊び呆けた。
たしか、二日めの午後だったと思う。鱒が釣れるのは朝マズメと夕マズメで午後はほとんど芳しくないというのが定石だから、夕方になるまで昼寝しましょうということになった。みんなで山小屋に入り、ふとんを一列にならべて仲よく寝にかかった。しばらく寝たと思うと、何かの気配があったので眼をさましたら、部屋には誰もいなくて、枕もとに矢口大兄が心配顔でたっている。どうしたのかと思ったら大兄がしゃがんで、ひそひそと話す。老師が湖に落ちたというのである。みんなで枕をならべて寝ているうちに老師はこっそり一人でぬけだして湖へ釣りにでかけ、舟着場からボートをだそうとしたところ、過って水に落ちた。さいわい背負っていたリュックに空気が入って浮袋の役をしたらしく、何事もなく這いあがって帰っておいでになり、いまみんなで大騒ぎして老師のズボンをぬがせるやら、ルンペン・ストーブに火を焚くやらしているところだというのだった。大兄は呆れたような、感嘆したような声をだした。
「すごいねえ。七十をこす年になってまだ抜駆けをたくらむなんて。たいへんな人ですよ。昼寝もおちおちしてられないんだね。心身ともにバケモノですよ。釣りってそんなに底深いものですか」
いそいでふとんからぬけだし、シャツをひっかけて部屋をでてみると、たしかに大兄のいうとおり、薄暗い土間にパンツ一枚になった老師がいらっしゃって、みんなわいわいガヤガヤとズボンを干すやら、ストーブの火を掻きたてるやら大童なのだった。濡れネズミという言葉があるけれど、老師は顔も、肩も、おなかも、どこもかしこも丸まるとしていらっしゃるので、たいへん失礼だが、その姿は濡れ達磨といいたいところであった。しかし矢口大兄が思わず洩らしたように、私もまた呆れていいのか、感嘆していいのか、いずれでもあり、どちらかだけではない気持におそわれた。
「家へ帰ってもしようがない。社会党が待っているだけだ。こんな大釣りをしたのはめずらしいから、ちょっと一杯やりにいきましょうよ」
東京へ三日後にもどって電車からおりるとすぐに老師はニコニコ笑ってそう提案なさる。もとより否やのあろうはずもない。ただちにタクシーに乗りこんで大久保の老師の日頃いきつけの拠点へ走る。社会党≠ニおっしゃるのはもちろん奥さんのことで、そのわけはもちろん何をいっても反対するから≠ニのことであった。
拠点へわれわれは午後六時、アケの客として入り、夜の十二時過ぎにハネの客として出た。おびただしい酒精を吸収してその六時間か七時間、のべつ釣りの話だけをし、アノコ、アノコといいつづけ、笑ってはしゃいだ。老師は釣った鱒を一匹ずつ店のおかみさんや知人の客などにプレゼントし、そのたびに荻窪のイーさんを知らねえか≠ニニコニコ顔で凄む。もらった人たちはみんなはじめのうち怪しんで、ほんとに老師が釣ったのかしらと疑っていたが、私たちがめいめい口ぐちに保証したので、師の名誉は完全に確保され、高揚されたのだった。じっさいのところ完全に野育ちの虹鱒を、しかも尺揃いでそれだけ釣りあげるのはちょっと想像しにくいことなのである。
帰途に一台のタクシーで老師を御送りすることになったが、荻窪にさしかかると、老師はそっぽ向いたまま、矢口大兄に、矢口さん、あなたのお家は西荻窪でしたねと、おたずねになった。大兄は何食わぬ顔でかしこまり、低い丁重な声で、いえ、故あってあの父の家は売りまして、いまは国立に住んでおりますと答えた。老師はなおもそっぽ向いたまま質問をつづけられ、大兄はかしこまって答えつづけたが、それはまったくあらかじめ聞かされていたのと違わなかったので、私は自宅へ帰りついてからトイレのなかで声をたてて笑った。
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ツキの構造
何事でもそうだが、釣師のあいだでもしょっちゅう、ツキ≠ェどうのこうのと議論のタネになる。ツキ≠ヘあちらの言葉になおせばラック=i幸運)ということになるが、どうなおしてみたところで、どこかにはっきりと偶然≠ェ顔を覗かせているという事情に変りはない。だから、すごい大物を釣った仲間にツイてるなア!≠ニ浴びせるのはよく考えてみると、偶然に釣れたんだなアということになるから、失礼千万なことであるはずだ。しかし一滴一滴がたったいま岩からとりだしたばかりの宝石のような水滴の燦めきを散らしてあばれまわる野生の虹マスなどを見ると、ホメてあげたい気持といっしょにむらむらと素朴かつ深刻な嫉妬が胸さきへつきあげてくるから、それをごまかすためにどうしても口をついてでるのはそういう言葉になる。むしろそういうときは、これはツキじゃない!≠ニやるのが相手の腕にたいする最大の讃辞であるはずである。今度からは私もきっとそうすることにしたい。今度からは……
戦争にストレイ・ビュレット=i流れ弾)というものはない。たとえば南の暑い国で一人の名もない兵士が昼寝から眼がさめてあくびまじりの退屈しのぎに一発、狙いもつけずにブッ放したとする。それがたまたま近くの街道を歩いていたお婆さんにあたって、お婆さんが死んだとする。それは事故であり、無作為の過失であり、そのときの弾丸は流れ弾≠ナあるとされ、老婆は運が悪かっただけのことだとされそうである。おそらくそう定義づけるよりいたしかたのないことなのだろう。しかし、一人の名もない若者をそこに送りこみ、昼寝をさせ、銃をよこにおかせたものは戦争である。それがなければ若者はそこにはいなかっただろうし、体のよこに銃をおくということもなかった、そういう|それ《ヽヽ》があったために一つの汗と皺にまみれた、塩辛くて渋い六十年の生涯が消えたのである。だからこの弾丸は無作為の作為とでも呼ぶしかないのではあるまいか。戦争には迷い弾や流れ弾というものはあり得ないのではあるまいか。
話が大袈裟になって申訳ないが氷雨でズブ濡れになったのに一日かかって一匹も釣れないということは釣師にはしょっちゅうあることで、そういうときの彼は追いたてられ、追いつめられた弱い獣の怒りと憎しみで頭からゆらゆら湯気がたちそうになっている。祖遮れば祖を刺し、師来れば師を殺してでもというところまできているのである。その心にふさわしいような質量のものはないかと探しまわったために戦争と弾丸などという物騒なイメージがひっかかってきたのだった。しかし、現実にはこの流れ弾に似たことが山でも海でもしょっちゅう発生するのである。いよいよ引揚げぎわになって最後に一発と思ってなげやりにキャストしたルアーがとんでもないところへとんでいってとんでもない大物が食いついたというようなことがよくある。そこで味をしめた釣師は、何やら悟るところがあり、ツキ≠ニいうものは寝て待っていたところでくるものではなく、こちらから攻撃にでてつかまえにかからなければ手に入らないものなんだと知る。まさにそれはそのとおりで、魚は意志を持った生きものなのだから、いつ、どんなところにいるかという法則に従って行動すると同時に、しばしば、いつ、どんなところにいるか知れたものではないという例外にも従うのである。そうなると、釣師は次回からは夕マズメになると、これが最後、これが最後、つぎの一発がビッグ・ラストと思いつめて、とめどなく何発も、それも選りに選っておかしなポイントばかりへキャストするようになり、ルアーは岩にぶつかって鈎先が曲り、木にひっかかってからみ、沈木に刺さってとれなくなり、おまけに日がとっぷりと暮れて広い湖だと帰り道がわからなくなる。それでもこりずに釣師は例外≠追って何カ月も、ときには何年も、しぶとく悪運ばかりを追いまわす。
多種多様な歳月をかけた経験、そこから分泌されるものと独特の天与から分泌されるものがブレンドされてできるカン、そこへ左派と右派の争闘や女にふられた恨みや食いはずれた御馳走などにひそむのとおなじたぐいの根《こん》のしぶとさ、こうしたものの絶妙なからみあいのなかからツキ≠ニいう不思議は呼びよせることができる。初心者にかぎってよく釣れるという、あの、ビギナーズ・ラック≠ヘ厳然たる現実であるが、それにたぶらかされてこの道に迷いこんだあなたはその翌日からビギナー≠ナはなくなるので神様はもう目をかけて下さらない。氷雨と黄昏のなかの偉大な憤怒と、何回も、何カ月も、何年もたたかっているうちにあなたはまったりと熟《う》れてきて、どこで打ってでるか、どこで撤退すべきかがおぼろげながら体得できる。ツキ≠ニいうものにもしばしば際会し、のべつ逃げられているうちに、何となくその陽炎《かげろう》に似た性質が呑みこめてくる。おしゃべりだったあなたは、悲しいまなざしだけで生きる皺だらけの名傍役のように寡黙になる。おびただしいことは言葉にしようがないということを悟り、定義しようもないそれら風のようなもの、野獣のようなものは、もうとらえようなどと考えなくなる。あるがままにあらしめようという秋の水のような至境に達するのである。これを劔の道で申せば斬人斬馬の宮本村の武蔵《たけぞう》から宮本武蔵と名が変るまでの生であり涯である。そうであるはずのものである。それに逆らって武蔵《たけぞう》の身分である者が武蔵《むさし》の真似をしたらどうなるか。以下にあなたはその実談としての悲しみよ、今日はを読まれる。あるがままにあらしめよに逆らいたくなって走るままに走ってみたらこうなっちまったのだ。
一九七四年の六月一杯を私は群馬県の山のなかですごした。『丸沼温泉ホテル』という古くからの旅館である。ホテルと名はついているけれど純日本風建築の旅館で、いつもたっぷりといいお湯が山からでる。風呂嫌いの私にはお湯はどうでもいいようなものだが、この旅館の前には湖が二つあり、その周囲はすべて山。全山ことごとく山であって、野立看板が一つもないから、窓からでた視線はどこまでものびるままにのびていってさえぎられたりすることがないのである。こういう山がめっきり少なくなったので、よく私はこの旅館へ籠りにくるのである。仕事をするため≠ニ内心にいい聞かせて原稿用紙とインキ瓶は忘れたことがないけれど、書けたためしがない。ひたすら眠りに眠り、ウグイスの声で眼をさまし、窓にもたれて夕方までぼんやりとしてすごすのである。ときどきボートを漕ぎだして、ルアーを投げてみたり、フライ(毛鈎)をひいてみたりする。
この丸沼という湖は小さくてかわいいけれどなかなか奥行の深いところもある。霧のかたまりが山の頂からおりてくると、自分の乗っているボートの先端も見えなくなるほどで、そうなれば牛乳瓶におちたハエ≠ンたいなものでびっしりとたちこめる冷たい濃霧のなかでは底深い薄気味悪さをおぼえさせられる。この湖は昔からいいマスがでるので有名だったが、旅館の広間には一メートル大のニジマスがアルコール漬になって飾ってある。ニジのほかにワカサギ、ヘラブナ、コイなどもいるので、それぞれがお目あての釣客がやってくる。遊魚料を払いさえすれば誰にでも釣れるので、旅館には泊らずに釣りだけをする釣師が毎週、東京や近県からマイカーで繰りこみ、金曜日、土曜日となると未明から騒がしくなり、それが日曜日一杯つづき、月曜日になってやっとひっそりする。シーズン中は毎週金曜日の午後遅くにおびただしい数のニジマスを放流するが、それを知っている釣師はその時刻まで湖岸近くでヘラブナを釣り、放流がはじまると、あらかじめ用意しておいたマス用の竿でマス釣りにかえる。もちろん餌で釣るのである。養殖のニジは放流された地点でしばらくまッ黒にかたまってうろうろしているから、そこへ餌のついた鈎を投げると、一発である。これはもう釣りなどというものではない。どうにも眼にしたくない光景である。
ニジマス釣り≠ニいうとたいてい釣堀のバカマスの釣りを連想されてしまうが、野生にもどったこの魚は湖でも川でも豪快、慓悍、華麗、さいごのさいごまでたたかいぬく気魄にみちていて、ブラウンとならんで双璧である。川のニジは流水にもまれて贅肉がとれるので姿が鋭いが、湖のは下腹がずっしりとでて堂々としてくる。食べた味でいうと養殖のは日本全国どこで食べてもおなじであるうえにマズいけれど、野生のは川のでも湖のでも濃い脂がのって眼を瞠りたくなる。天然だから美味で養殖だからマズいというのはいささか性急なナチュラリズムで、養殖のでも餌さえよければ栄養の低い川に棲む天然物よりはるかに味がよくなることがしばしばである。マス、アユ、ウナギ、スッポン、コイ、私の知っているかぎりではみなそうである。天然ウナギといっても川の上流の澄んだところにいるよりは下流のにごった、あたたかいところでカニや小アユなどを食べて育ったのはお話にならないくらい美味なのである。育ち≠ナすかナ、やっぱり。
さて。金曜、土曜、日曜はそういうわけで私は宿にこもったままですごし、月曜日もこだまがのこっているだろうと考えてすっぽかし、おおむね火曜の夕方近くになってから竿をかついで湖岸へおりていくことにした。魚はルアーのキンキンピカピカには慣れやすく、スレやすいものである。ルアー師ばかりが百人も二百人も集って競技会をはじめると、釣れるのはせいぜい最初の三十分かそこらであって、そのあたりでパタッと食いがやむものである。だから丸沼のニジもすっかりスレッカラシになったものと考えておいたほうがよいのである。ひそかに私が狙ったのは今年の放流のマスではなく、前年度、前々年度からの釣りのこしの古強者である。残りマス≠ニいうやつである。こういうのはどっしりと大きくなり、スレて悪賢くなり、手傷を負って用心深く、深ンど、沈石、沈木のかげなどにひそんで眼は光らせるけれど、うかつにはしゃがない。そういうのをジギングで攻めてみようと思ったのである。これはルアーを水底まで一度落してからひょいひょいとしゃくって魚を誘いこむ方法で、ちゃんとその目的のために作ったルアーが何種もある。これまでに私はふつうのスプーンをジギングに使ってイワナ、ヒメマス、ニジなどをかなり釣っている。ことにイワナは岩と岩のあいだにひそむ山の貪婪な隠者だからこの方法はしばしばきくのである。ヒラヒラするルアーを追って大岩のしたからあの用心深いイワナが全身をあらわしてウロウロきょときょと、肩のあたりにありありとその表情を見せてとびだしてくるのを見るのは何とも愉快である。東京の知人に金を送ってルアーとジグ・ベイトを何種類かとりよせ、ひっそりと静かな黄昏近い湖にボートを漕ぎだしつつ、私は何度かニンマリした。五年前の三月某日、雪が厚くつもった崖をつたいおりてこの湖をルアーで攻め、いやらしい、骨髄にまで沁みこむ氷雨のなかで二、三時間佇みつづけたあげく六十五センチのみごとな牡を仕止めたことがあったが、あの偉大な怒りを雨ぬきで更新できるかもしれないと思うと、胸がふくらんでくる。旅館の帳場の小山内君も元気のいい声をだして、いってらっしゃいましと、景気づけてくれるのである。どれくらいの数かはわからないけれど残りマスの大物はずいぶんいるはずですと、彼は励ましてくれる。彼はマスの放流の責任者だから誰よりもよく知っているはずだと思いたいのである。おまけに彼自身も暇なときには帳場からぬけだしてちょいちょいルアーをとばしにでかけ、なかなかいいのを仕止めてくるとの話だからいよいよである。しかし、どういうものか、釣れるのは二十五センチからせいぜい四十センチ止りで、とても私の志とはかけはなれすぎている。そういうのは釣れるはしから逃してやり、もっと大きいの、もっと肥ったの、もっとサムライ顔をしたのと、ルアーを落しちゃしゃくり、落しちゃしゃくりするが、とんとダメである。追ってくる姿もないし、イタズラの小当りもない。少しずつオールの音をたてないようにしてボートを移動させ、湖岸のちょっと沖目を舐めるようにしてやってみたのだが、連戦、また連敗であった。
こうしているうちに六月も末となった某日、桐生の常見忠さんが車で山へやってきた。久しぶりだから銀山へ釣りにいこうじゃないですかというのである。村杉小屋に泊って三、四カ月あの湖畔ですごしたのはもう四年も以前のことになるが、そういえばその後一度もいってないなと思いあたった。この丸沼で釣れないのはその不勉強のためにツキが落ちたのかもしれないと思うと、ソワソワとなる。よっしゃといってたちあがり、リュックサックにパンツとルアーと原稿用紙と本を詰めこみ、あわてている小山内君をせきたててお勘定をしてもらい、忠さんの車に乗りこむ。今夜、桐生の忠さんの家に一泊し、明朝早く銀山へ討入りと、予定がきまった。ところが車中で忠さんと話しあってみると、榛名湖にいい情報があるというのだ。榛名湖は観光地で、これまでせいぜいワカサギが放流されるくらいであったが、いつごろ誰が入れたのか、ニジマスが入ってワカサギを食いはじめ、むくむくと育って、六十センチ、七十センチ・クラスがよくルアーで釣れる。それも今年になってからのことだ。もっぱら高崎と桐生の釣師が攻めているようだが、釣れた情報を整理してみると夕マズメは六時前後の三十分が勝負で、どういうものか遅いほどいい。あの湖はどこもかしこも浅いのだけれど、ある地点からちょっと深ンどになる。そのあたりでよく釣れる。じつは私はまだ一度もかけていないのだけれど、門下生が何人もすでに大物をあげていて、その魚拓がうちにありますと、忠さんはいうのだ。このあたりで忠さんはちょっと頭を掻き、声が低くなったようだが、率直さが好ましかった。
翌日は一日、桐生の忠さんの家でごろごろし、門下生≠フ釣った榛名湖のニジの魚拓を眺めたりしてすごした。いずれも腹がドッシリとした、サムライ顔の、みごとなニジである。入れかわりたちかわり、何人かの門下生≠ェ仕事の暇を盗んでやってきては談じこんでいく。本職は大工さん、会社員、人形商など、いずれも若くて敏捷そうである。だいたいこの桐生というところは釣りの世界ではワカサギだろうとアユだろうと凄腕が続出する土地柄で、それも数釣りとなると他県人がタジタジとなるような業師がざらにいるのである。ルアーも同様で、忠さん自身がいい例である。この人はルアー界のヴェテラン中のヴェテランともいうべき、御開祖といってよいくらいの草わけなのだが、熱が進行するあまり自宅は薬屋なのにそのよこで釣道具屋をはじめ、そのうちとうとう自分でルアーを何種か製造・販売をはじめたくらいである。たのまれて私はそれらのルアーに名をつけてあげたが、なかなかいい出来で、ことにバイト(あたり)≠ニつけたのは、ある年、ある湖で、ヒメとニジが入れ食いに近い連続ヒットぶりを見せた。ためしにそのキング・サイズのをブラジルの釣師に送ってあげたらドラドという急流に棲む金色の、かかったらきっと三回ジャンプするという魚にみごとにきいたという手紙がもどってきた。醍醐君という『オール讀物』の新人賞をもらった新進作家である。
夕方を待って榛名湖へでかけたところ、途中から空が下痢をはじめ、湖についたときにはびしゃびしゃと氷雨が降るうえに濃霧がたちこめて、湖面も何も見えたものではない。ルアーを白い乳霧のなかへ狙いもつけられずにキャストしてしばらく待つとどこかでポチャンと音がするという心細さ。例の大物がよくでるという深ンどもさっぱり場所が読めない。何しろ竿さきを見るのがようやくのことというありさまなのである。忠さんは湖を右回り、私は左回りで攻めたが、このものすごい濃霧ではどうしようもない。そこへいやらしい氷雨がいよいよはげしくびしゃびしゃ、びしゃびしゃである。あたりには灯もなく、人影もなく、声もない。あきらめて車にもどったところ、キーを入れてひねったとたんにポン、ブルブルといってそのまま切れてしまった。忠さんは何十回もおなじことをやったあとで、バッテリが切れたんだろうという。私も車の外へでて氷雨に濡れしょびれつつ押したり、突いたりするが、ポン、ブルブルだけ。そのうちブルブルもいわなくなった。どうなることかと思っていたら闇のなかから全身ぐっしょり濡れて釣竿を持った青年が一人、ふいにあらわれ、アタリが一回あったけれど逃げられたという。これが忠さんの門下生≠フ一人で、じつは先生と忠さんが榛名へでかけたと聞いて、いてもたってもいられず、会社がひけるかひけないかに車にとびのってあとを追っかけてきたんだというのである。
その夜はその青年の車にロープでひっぱってもらって虫の這うようなのろさで桐生へもどったが、それが深夜のことである。翌日、朝早く起きて忠さんは車の修理にでかけ、一時間もしないうちにもどってきて意気揚々、サァ、銀山だと景気のいい声をあげる。そこでべつの門下生≠フ大沢君と私とが乗りこみ、三人で繰りだしたところ、山道にさしかかって三国トンネルまできたら、またまた車がエンコしてしまった。そこでやむなく車からおり、忠さんにハンドルをとってもらい、私と大沢君と二人して車をおし、セェノ、エンヤァ、ドットとヤケクソの声をあげて、いまきたばかりの山道をどんどん下っていく。どんどん、どんどん下っていくと、ふいに左側に小さな自動車の修理所があった。そこへ車をウンウンいいながらはこびこんで見てもらったら、修理工の青年はボンネットをあけてチラと覗きこんだだけで、何だ、ヒューズがとんでいるのだといい、何やら小さな物を持ってきてドライヴァーで締めたらそれでおしまいであった。キーを入れると車はたちまち息を吹きかえし、以後けっして何もいわなくなった。
銀山へいって村杉小屋の佐藤進に久しぶりで会い、腐ったようなアルミのボートを借り、これまたウンウンいって車の屋根へあげた。銀山はスレてダメだから田子倉までいってみようという計画なのである。この湖は山上の発電のためのダム湖なのだが、広大で、奥深く、襞がたくさんあり、いい沢がたくさんあるうえ、流程に銀山湖、大鳥ダム、田子倉湖と三つも大きな湖を持っているものだから、以前には天然のイワナがサケ大に育ち、ルアーが流行するようになってからよく釣れたりし、放流のニジマスも野生化してみごとに育ったのが釣れたもので、日本全国からルアー・キャスターが殺到した。そして、たちまち魚はスレてしまい、釣れなくなった。誰も彼もが釣れなくなった、小さくなった、姿を見なくなったといいだしたのである。渓谷や山上湖で魚が釣れなくなる原因の最大のものは上流の森の乱伐、それによる鉄砲水、農薬による微小昆虫や小魚の絶滅などであるが、そのために残り少なくなった魚を釣師たちがやらずぶったくりで大小かまわず、産卵期も何もかまわずに釣りまくったら、止メを刺すことになるのである。
(一年後に私たちはとうとうたまりかね、ルアー師、フライ師、イクラ師、ミミズ師、ピンチョロ師、各派いっせいに大同団結して、有志めいめいが一万エンずつだして、この湖の魚を育てる会を作り、地元もたちあがってようやく積極的に乗りだすこととなったけれど、これはべつの話である。)
小出の町にある電発会社とかけあってあらかじめ通行証と鍵を借りてあったので、私たちは未明に村杉小屋を出発し、ゲートの遮断機をあげて、霧の迷う山道を大鳥湖めざしておりていき、さらに田子倉湖めざしておりていった。途中で放水口のところで忠さんと大沢君の二人は、ちょっとからかってみようといって崖道をおりていった。私は車からでて崖のうえから二人のキャスティングを見物したが、そのうち忠さんの竿がグイと曲り、岩かげで白い閃光がのたうった。ためつ、すがめつ、あやし、いなしたあげくに魚を川原に引揚げ、忠さんが片手にぶらさげて崖をあがってきたが、それを見ると、じつにみごとな大物であった。計ってみると、六十七センチあって、これには脱帽せずにはいられなかった。寄生虫もいず、錆びてもいず、剥げてもいず、艶艶とした肌に白い、小さな斑がちりばめられ、何年に一度かの眼を瞠るような傑作で大作であった。これは前後のいろいろなことを考えて総合判定してみると、ツキ≠ナ釣れたのではなかった。私たちは根雪の残りをさがして穴を掘ると、そこに魚を入れて雪をかけ、本日の主目的地である田子倉湖をめざして出発進行した。そしてアルミのボートをおろして田子倉湖をはしからはしまでくまなくルアーで舐めてまわったが、忠さん、大沢君、私の三人に、ついに一匹も釣れなかったし、追ってくる姿も見なかった。午後遅くに帰途で大鳥湖にたちより、ここでまたしてもボートをおろしてやってみたが、夕方になってワカサギを追って巨大なイワナがガバッ、ガバッと背をあらわすのは何度となく見たけれど、三人ともついに釣れなかった。ダムが放水を開始したので激流奔湍と化した流れをアルミ・ボートで横ぎるには、私と大沢君の二人が並んですわり、一本ずつオールを両手で握り、同時に同調して、セエノ、エンヤア、ドットと鯨波声《ときのこえ》をあげて力漕また力漕。一挙に急流をつっきってしまわなければならなかったが、それでも目標より二十メートルも流されてやっと対岸にたどりつくというありさまであった。
その夜、村杉小屋にもどって、ルンペン・ストーブのよこでちびちびやりつつ、カアチャンに丸沼以来の敗北を包みかくさずうちあけると、カアチャンは真摯なまなざしで慰めてくれたうえ
「イワナも命がけだでのゥ」
といった。
また
「秋になったらおらがとっときの場所でマイタケをとって、それを東京のおまえの家に送ってあげるから、それでも食べて精をつけてくれろ」
という意味のこともいった。
ここらあたりでおまえ≠ニいうのは親愛や尊敬の呼びかたである。
おつぎは青森である。
東京にはもどったけれど、やっぱり原稿は書けそうにもない。書きたいことはたくさんあってイメージの群れがついそこまできていると感触できるのにどうしても最後の一歩を踏みだしてくれないのである。これまでのところ私は書きおろしの仕事を三年に一作のペースでやってきて、その計算でいくと、まだあと一年たたなければ蒸溜がはじまらないのではないかと思うのだけれど、三年に一作というジンクスを信じたい気持とそれを破りたい気持とが同時に争ってもいる。じつに久しぶりに自宅にもどり、リュックサックから原稿用紙だけぬきだして机におき、毎日部屋にたれこめて暮したが、ただ寝たり起きたり、飲んだりふかしたり、そうでなければ起きたり寝たりの日がつづく。充電の焦躁と浪費の空白とが交互に襲ってくるのをただぼんやりと待ちうけて眺め、時間が乾いた砂のように指のあいだからすりぬけていくのを見送るしかなかった。そこへ久しぶりに『旅』の石井君が遊びにやってきて、何やら競馬で大当てに当てたという話をひとしきりやったあとで青森県の田代高原へちょっといって書いてくれませんかと切りだした。本題をさきにいわないで馬のラッキー・ストライクの話をしたのはよほど穴をあてたのが嬉しかったのであろう。どうやらここでもツキ≠ニいえるほどの玄妙は何年かに一度の割りでくるらしい気配であった。
田代高原というのは八甲田のかなり広大な高原で明治時代の冬に軍隊が吹雪のなかで壊滅したので有名なところだが、そこに一つの川が流れ、その源点をグダリ沼≠ニ呼ぶ。井伏鱒二師の『川釣り』という随筆集にそこへ釣りにいってイワナが悠々と泳いでいる姿をまざまざと目撃しながらヤマセ≠ニ呼ばれる風が吹いたばかりに一匹も釣れないで撤退したいきさつを書いた一節が納められている。かねがねそれを読んで、いつかいってみたいと思っていたところなので、石井君の話はツボを当てている。いろいろと話しあってみると、馬、麻雀、ドボン、花札、ジン・ラミー、ポーカー、僕は何でもこいだけれどルアー・フィッシングは一度もやったことがない、ぜひやってみたいな、教えて下さいなと、殊勝な水の向けかたをする。眼鏡のなかを覗いてみると眼にチカチカと鋭くけわしい光が一点たえまなく明滅し、それはファナティックと狂気の前兆に近いが、こういう眼の持主はしばしば釣師としていいところへいける素質があるのである。こういう白紙を一つ門下生≠ノしてABCから教えてかかったら、そうやっているうちに私にとりついているオンブオバケをそちらへ移してやれるかもしれないという計算もチラとうごいた。
リュックサックに今度は原稿用紙を入れないでルアーの箱だけをつっこみ、上野駅へいって、特急に乗りこむ。乗りこんで座席に腰をおろすかおろさないかに石井君がシヴァス・リーガルのロイヤル・サリュートの瓶をどこからかひょいととりだした。これは陶器に入っているうえにビロードの袋に納まったスコッチで、その一滴一滴の丹念でまっとうな磨きこみかたにはかねがね敬意をおぼえさせられている逸品である。父上の書斎からだまって移動させてきたのじゃないかと思うのだが、彼は軽く一笑し、ラッキー・ストライクのまっとうな金でまっとうに酒屋で買ってきたんです、素直に飲んで頂けませんかねという。そこでこちらはコペンハーゲンの釣道具屋で買った銀製の三ツ揃いのショット・グラスをリュックのポケットからいそいそととりだし、その日の夜ふけまでかかる長い長い道中を、うだうだチビチビ、飲んだり、しゃべったり、眠ったりして流れていった。
その夜遅く青森についてホテルで一泊したあと、翌日になると石井君がどこかのレンタ屋で車を借りてきたので、それにリュックを積みこんで出発した。田代高原は車だとホンのすぐのところにあって苦も何もあったものではないが、かなりゆるやかで広闊な高原である。空が高くひらいて夏なのに澄明であり、雄大な山岳を遠い背景にしながらも、一望、ゆったりとよこたわって、ところどころに木立があるあたり、ひどくヨーロッパの高原に似ていて、マーガリンくさいというよりはむしろバターくさい光景である。わが懐しのバイエルン・アルプスの高原地帯とそこで起ったさまざまの出来事をはからずしも思いださせられて、体内にいっせいに蜜がわきだしたようになり、いささか恍惚となった。ウィスキーの蒸暑くてにぶくてメランコリックな残酔が爽涼の気流に触れてたちまち消えていき、むしろどこかの木かげにころがって牧童のように眠ってしまいたくなる。たずねたずねしていくとグダリ沼はすぐにわかったけれど、そこで釣りをするには遊漁券を買わなければいけない。それはどこで売ってるかと、これまたたずねたずねして一軒の野小屋にたどりついたが、出会ったおじさんは遊漁券を売ってくれというと、聞きとりようのない方言でブツブツ呟くばかりで、いつまでも券をとりだそうとしなかった。どうやらこうやら判聞《ヽヽ》するところだと、グダリには魚がいなくなったという噂なのであなたがたが釣りをするのは自由だけれどこちらは金をとるのが気がひけてならないとのことらしかった。おじさんはそういってしきりに恥じ入り、もぞもぞと帽子をとって禿頭を撫でてばかりいる。いつまでたっても券を売ろうとせず、小声で弁解ばかりするのである。その実直な率直さも18金物なので、私はほのぼのとなり、釣れるやつには釣れるし、釣れないやつには釣れない、それは時の運というものだというようなことをいって、なおもむずかるおじさんにむりやり金をわたして券をもらった。
グダリ≠ニいう語感からすると濁ってドンヨリとたるんだ沼沢地が連想されそうであるが、現実には放牧の牛の足跡で荒く耕された牧場と牧場の狭間《はざま》にある澄んだ湧水地であった。水は澄みきっていて、あちらこちらで白い泡をたてて湧きだし、たちまちちょっとした流れをつくって渓流の相となって下界への旅にでるのだが、いたるところに長い藻が豊富な女の髪のように茂ってなびいている。けれど、おじさんがいったとおり、魚の姿はまるで見えなかった。閃く姿もないし、逃げる姿もないし、遊ぶ姿もなく、ルアーにイタズラをしにでてくる姿もなかった。のみならず両岸にはどこまでいっても牛の足跡のほかに深く踏みこみ踏み慣らした人の靴跡が二重、三重についていて、どうやらたくさんの釣師が入ったあとだということが一瞥でわかる。これは何よりの凶兆である。観念したほうがよろしい。
陸奥《むつ》湾で養殖している帆立貝は海底を殻をひらいて跳んで歩く肉厚のうまい貝であるが、跳んで歩くうちに岸へあがって沿岸一帯に帆立屋をはびこらせたうえ、青森市内にも浸透し、さらに奥羽の海岸一帯をぴょんぴょんしたあと東京都にまで攻めのぼってくる。それくらい旺盛で活溌な貝だから、夜になって田代高原の奥の旅館のアルミ鍋に侵入することなど、何でもないことである。ふやけた貝鍋をつつきつつ石井君とぼそぼそ話しあい、荒涼とした螢光灯のしたで話をまとめてみたところ、明朝早く何の期待も抱かずにグダリ沼の下流をいじってみて、そのあと青森へ撤退し、釣道具屋へいって情報を聞く。そして下北半島の太平洋一帯の夏スズキのぐあいをたずね、それがいいようなら青森からそちらへぬけてやってみようということになった。スズキは北海道にもいないわけではないけれど、ほぼこのあたりが北限となるはずである。川の出口にはきっと彼らがいる。地図で見ると下北半島にはいくつかの川が海へ流れこんでいるけれど、どうやら人口は少ないようだから、あまり釣り荒されていないのではないかと思われる。ことに小川原湖という大きな汽水湖が海に口をひらいているあたりでは期待が持てそうだ、というのが私のたてた予測であった。それは、ほぼ的中したのだったが、この年は冷水塊というやつが北からおりてきて太平洋岸一帯に居据ってイヤな影響をいたるところにあたえ、魚がいっせいに姿をくらましているということを私は知らなかった。私の専攻科目は山釣りだから、海についての情報にはどうしてもウトくなってしまうのである。これではツキ≠煢スもあったものではない。情報ぬきのツキ≠ニいうやつは現代日本ではほとんど期待のしようのないものになっている。
翌朝早くグダリ沼の下流にあたる部分を一流し流してみたがフライにもルアーにも異変は何も起らなかった。それは前日から覚悟しているところだったのでさほどの失望もおぼえずに店仕舞いをした。残念ではあったけれど、しかし、この川のこのあたりの様相は水量といい、渓相といい、両岸の木の茂りぐあいといい、申分のないものであった。駒込川というこの川の名はいつかふたたびくる場所として銘記しておいていい。竿を持っていたときの石井君はしょんぼりグニャリとしたが車に乗ると電流が通ったみたいに蘇ってテキパキと青森めざして走った。市内に入ってからいきあたりばったりに釣道具屋を見つけ、店に入っていって下北半島のスズキの情報を聞いてみると、一メートルくらいのならザラで、せいぜい中の上というところでしょうという返答である。そこでどんどん走っていき、あと二軒ほどの釣道具屋でもおなじことをたずねてみると、奇妙なことには現場に近づくにつれて情報が曖昧になるのだった。一軒ではただ首をひねって、サァねというだけで、もう一軒では、今年はまだスズキの噂は聞いてませんなというのである。一メートルくらいのは中の上だと青森ではいわれたのに現場の近くではただ、サァねといって首をひねるだけなのだからちょっとひどいが、ナニ、こんなことはザラにある。人の口から口へつたわる情報というものはえてしてそういうことになるんで、むしろ健康な反応といっていいくらいのものだ。ふたたびグンニャリとなりかかった石井君をそういってはげます。半島を横断して海岸に達してからあちらこちらと情報を求めて歩くが、例年≠フそれと、今年≠フそれと、情報は大別して二種あって、例年≠フはなかなか好ましいのだが、今年≠フになるとサッパリである。その潮と魚の匂いのただよう揚所にきてからしきりに冷水塊の噂が出没しはじめ、私は不安になってきた。海洋学の素人だってこれは聞くだけで、また字面を見るだけで、不況そのものといいたい底深い不毛を感じさせられそうである。オンブオバケは私の背からはなれて前方の海底から海面まで、沖から渚までをすきまなくおさえこんでしまったらしい。石井君に乗り移らせてやろうとひそかに考えたのは浅慮も浅慮。狼狽のうちに内心反省させられる。
小川原湖というのはかなり広大な湖で、海岸すぐのところにあり、湖の上下といっしょに海水と淡水のまじったのが湖に出入りするだろうと見られるが、その吐きだし口が川になって海に注いでいる。夏といってもこのあたりまでくれば黄昏は薄ら冷たさをおぼえるくらいで、海岸で投釣りをする人のなかには冬姿もまじっているくらいである。投釣りは何人もやっているが、たいていカレイ釣りで、スズキを攻めるのは何人もいなかった。そのうちの一人はカグラに二本鈎をつけたのを竿先からぶらさげていたので、やはりルアーでやる人もいるのだなと心強くなり、情況をたずねてみると、今年は冷水塊のせいでスズキがまだ岸へ寄ってこずサッパリです、今日はもう帰ります、といってスタスタ帰っていった。あとの数人はヒッカケ師である。分銅くらいもある錘りをつけ、ハリスに何本となく枝鈎をつけ、餌もルアーもつけず、それを海へ投げこんで魚の通路とおぼしきあたりをグイグイと力まかせにしゃくって引くと、鈎がグサリと魚に刺さるという寸法。マ、ギャング釣りとでもいう、よくある釣法である。石井君と二人して、懐中電灯や、罐詰や、ウィスキーや、オツマミなどをごっそり買いこみ、旅館でオニギリをつくってもらい、それらを車で海岸へはこんで、徹夜も辞さぬ態勢をととのえて勇気凛々、渚にたった。
東京をでるときに海釣り用のルアーを何種類かリュックに入れておいたので石井君にしゃくり方を教えた。彼はなかなかいい素質があり、それはかねてよりニラんだとおりだったが、キャスティングの姿勢がよく整ってきた。ただ一つ難をいえば力みすぎることだが、近く結婚するそうだから、そうなれば精をぬかれてちょうどよくなるかもしれないと思われた。しかし、それもなかなかむつかしい問題で、結婚したらツキ≠ェ落ちたといってこの道から去っていく人は何人もある。それからしばらくたつと、やっぱりこのほうが面白いやといって少しやせた顔でもどってくる人も何人か私は見ている。しかし、結婚とはべつに女にもてつつ同時に釣りでもツキ≠ツづける人もあればその逆もあり、何年もツキ≠ェないところを痴《こけ》の一念、岩をも徹《とお》さんばかりのしぶとさでしがみついてはげんでいるうちにとうとうオンブオバケをふるいおとして新しい展開を遂げた人もいるのである。私のオバケはいつまでしがみついているつもりなのだろうか。夜がきて九時になり、十時になりするが、いっこうにラッキー・ストライクがない。スプーン、ウォブラー、プラグ、フェザーと、つぎつぎルアーをとりかえ、表層、中層、深層とさぐってみるが、引けど、しゃくれど、ピクッともこない。あたりはまっ暗で、波の崩れる白泡が見えるだけ。月は厚い乱雲にかくされて顔も見せない。オニギリは潮水のしぶきをかぶってグンナリとなり、いやに塩っぱいし、ウィスキーまで何やら妙に辛い味がする。
そのうち石井君が暗がりをやってきて、あのオッサンがスズキを一匹釣ったという。少しはなれたところで懐中電灯の光がチラホラしている。そこへいってみると、さきのギャング釣りの人物が三十センチもない魚の腹から鈎をはずしているところであった。私は闇のなかをもどっていって石井君をつかまえ、ちょっとはなれたところへつれていって、小声でいった。
「あのな。余計なことかもしれないけどね。あれはスズキじゃないよ。セイゴだよ。フッコにもなってないな。スズキは出世魚で、大きくなるにつれて名が変るんだよ。セイゴ、フッコ、スズキとなるんだ。スズキというのは、マ、七、八十センチから一メートルぐらいだね。われわれの狙ってるのはそういうやつなんだよ。しかもダ、あれはひっかけたんで、釣ったんじゃない。われわれは食わせて釣るんだ。しかもルアーというワケのわからない物でだ。ここがまたちょっとちがうんだな。あんなのを見てイライラしないでくれ。わかりましたね」
「ハーイ」
石井君はオニギリを頬張り、もぐもぐと何かいいつつ、闇のなかに消えていった。
おつぎが山形県、酒田市である。
翌朝、二人は海岸から宿にもどって服をかえると、リュックの紐をしめなおして車に乗り、青森に入ると、駅へいって特急に乗った。行先は山形県の酒田市で、東京ではない。敗北でもなければ撤退でもない。これは転戦であり、展開なのだ。酒田へいくと最上川がある。その河口で一メートル大のスズキを狙おうという計画である。これは私の提案であった。かねてから私は酒田市で釣具店を営む富山誠一君から手紙を何本ももらい、ぜひ最上川の河口のスズキをルアーで釣りにくるようにと誘われていた。井伏さんといつか酒田の本間美術館や庄内竿のことを話しあっているうちに、私が最上川のスズキを釣ってみたいという希望を述べると、さっそく本間美術館の老朋友《ラオポンユー》の佐藤氏に井伏さんがそのことを伝えられ、佐藤氏は富山青年を紹介して下さったのである。富山青年とは何度か連絡しあったけれど、いつも手紙ばかりで、まだ面識はないのである。しかし最近の手紙にはスズキのルアー釣りの仕掛の図がくわしく書いてあったうえ、これは餌釣りだけれど一カ月ほどまえに土地の名人が釣ったというスズキの魚拓が一枚入っていた。それを見るとおよそ一メートルくらいもあって、まるでサケである。この手紙と魚拓をリュックのポケットからとりだして石井君にわたすと、彼は一読して、たちまちピンと背をたてた。田代高原でも釣れず、小川原湖の海岸の夜討ちでも惨敗を喫していささかグンニャリとなっていたが、たちまち電流が通ったようになった。さすが、若さである。良導体である。
「……よっしゃ。やりましょう。毒食わば皿までだ。しかし、何ですね、そのリュックからはつぎつぎといろんなものがでてくるようですね。まだ何か入ってるんじゃありませんか?」
「シャツ、パンツ、靴下、みな二通りずつ入ってるよ。それからライターの石、油、爪切り、バンドエイド、懐中電灯、水筒、ウィスキー・グラス、みなある。これに原稿用紙とインキ瓶を入れたら、このリュックだけでおれは暮せるんだよ。ダンヒルの紳士用の石鹸もある。これは香りが強いので、大物を釣ったあとで手が魚くさくなったら、そのとき使おうと思うんだけどね。まだ一度も使ってないんだ。酒田ではぜひ使ってほしいな」
「ハーイ」
特急はようやく梅雨の明けた北の日本海岸をひた走りに下《お》りていく。丸沼、榛名湖、銀山と、いたるところでいやな、冷たい霖雨が髄まで沁みこんだけれど、どうやらこれから前途、雨だけはまぬがれそうだ。雨がぬけたらオバケもぬけてくれるだろうか。この朦朧としてるくせに陰険でしぶとく抜け目ないやつとのつきあいにもいささか私はくたびれてきた。影とたたかってるようだ。
酒田の駅につくと富山青年が迎えにきてくれた。血色のよい、眼鼻立ちのハッキリした、たいそうハンサムでお洒落な青年だが、柔軟で丁重であった。その何とかいうチンチクリンの車に膝を抱えて乗りこみ、店へつれていかれたところ、おびただしい釣道具のなかに例の名人が釣ったスズキの魚拓がつるしてあった。これは直接法の魚拓だが、鱗が一枚ずつ見えるくらい丁重かつ精緻にとったものだったので、みごとであった。特急の疲れでグッタリしていた私も石井君もそれを見て高圧電線に触れたようになり、近くの旅館へいくと玄関にリュックをほうりこんだきり、竿とルアーを持って、そのまま港の防波堤へ直行した。そこが釣場なのである。長い突堤が海へつきだしているのだが、その左が悠々たる最上川の河口で右が湾になっている。スズキは左でも右でも釣れるという。しかし、黄昏が迫るにつれ、夜がくるにつれ、つぎからつぎへひっきりなしに釣師がやってきて開店する。一メートルおきぐらいに開店する。みんな電気浮子を使うので、投げるときはいっせいに赤い花火が夜空へ走るようなのだが、たいてい飛距離がおなじだから、何十コという光点が一メートルおきにずらりと水面に浮んでゆらゆらと揺れるのである。まるで燈籠流しである。それが聞けば一人のこらずスズキを狙っているのであり、餌は一人のこらず朝鮮から輸入した青イソメだというのだから、いったいスズキはどれに食いついたものやら、見当のつけようもないであろう。富山青年がクスクス笑いながら教えてくれるところでは、こういうことになる。
「……スズキは鈎にかかるとめったやたらに走りまわり、ジャンプしたり何したり、たいそうファイトする魚です。それがスリルだもんだから、みんなこうやっておしかけてくるんです。ところが目白押しにこうやってならんでいるから、ハリスとハリスがからんでたちまち大騒動になります。そこで他人のハリスがからんでもグイとひったくったら切れるように自分のハリスは太くて強いものにする。そうなると切られまいとして誰も彼もが太いハリスを使うようになり、まるで原爆の競争みたいなことになりました。しかし、ハリスを太くすると魚の眼につき、恐れて近よりませんから、いくら太くするといっても限度があります。そこで近頃では、誰かの電気浮子が魚にひかれて沈んだと見れば、あたりの何人かがいっせいにリールを巻いて自分のをひきよせ、からまれないようにするんです。だから、みんなああやって自分の浮子を眺めると同時にまわりの三、四人分の浮子も同時に眺めてるんですよ」
つまりこれはエゴとエゴがつっぱりあって極点に達したら、自分のエゴを通すためには他人のエゴを尊重しなければならないとわかって、べつに道徳家が大声で叱咤、嘲罵しなくたって、自然に協調が生まれるのだという教訓でもあろうか。昔、たしかシェストフがおなじことを考えたはずである。
この夜は私たちにとって初日だったからアタリも何もなくて、十時頃に旅館へもどったが、石井君は翌日、東京へ帰らなければならなくなり、惜しみ惜しみ、今度は自分の竿とリールとルアーを買ってかならず再帰するんだと力んで去っていった。そこで私は一人になり、五日間、朝駈けと夜討ちを試みた。朝は六時頃に旅館をでて突堤へいき、九時頃までやって旅館へもどり、一日ゴロゴロして、夕方になればまたぞろ這いだして突堤へいき、夜の九時か十時までやる。五つの朝と五つの夜をそうやって送迎したのである。毎度、富山青年が竿をかついで同行し、いっしょにならんでキャスティングをやった。しかしいくらやってもアタリもなければカスリもないので、毎度毎度彼はすみません、申訳ありません、どうなってんだろうなァと、詫びたり、恥じたり、嘆いたりした。彼だけではなく、彼の父上と母上も店へ私が顔をだすたびに、すみません、申訳ありません、というのだった。この五日間、富山家は家族全員がやきもきし、全山形県と最上川を代表して恥じ入ったり、小さな声をだしたり、頭を掻きつづけたりしたのだった。ナニ、こんなことはしょっちゅうですよ、坊主のたびに泣いてたんでは釣師は勤まりませんよ、などと私は大きな口をきき、みなさんの御好意に感謝したのだけれど、丸沼以来の連戦連敗にはいささか顎がでそうだった。ある夜ふけ、旅館の近くにある飲み屋へいき、かなり聞《きこ》し召して、ぶらぶらと帰館したが、魚屋のまえを通りかかると、暗い道でおばさんが一人這いまわっているのを見た。この市の人びとは夜は早く仕舞ってしまうので、人も犬も通らない道に街灯だけが蒼白く光っている。そのおぼろな光の輪を出たり入ったりしておばさんは逃げたドジョウをおさえようと躍起になっているのだった。さっそくそれを手伝ってあげようと思ったところ、ドジョウはつるつるヌラヌラと体をくねらして逃げまわり、手に砂をつけてと思うのだがアスファルトではそれもできず、息を切らして一騒ぎであった。おばさんはドジョウを私からうけとると小声で何度もすみません、すみませんといい、クスクス笑いながら店に消えたが、ぶらぶらと歩きだしかけた瞬間、おびただしい疲労と嫌悪がこみあげてきて、よろめきそうになった。魚釣りなんか二度とごめんだ。玩物喪志もいいところだ。竿もリールも人にくれてやる。いや。竿はへし折り、リールは川にたたきこんでやるんだ。くそくらえ。
おしまいが太平洋、孀婦岩である。
秋近くになってから、今度は『潮』の背戸君、それにカメラ・マンの浦君を入れ、三人で飛行機で八丈島へ飛び、そこから漁船をやとって太平洋へ乗りだした。八丈島から一直線にひたすら南下していくと、青ケ島、ベヨネーズ列岩、鳥島というぐあいに孤島や孤礁があるけれど、すべて無視して通過し、およそ二十五時間も走りづめに走る。すると、水平線上に突然、!≠うったようにたった一つの岩が見える。ちょっと背をかがめたような姿に見える角度もある。それが孀婦岩である。孀婦≠ニは寡婦のことだが、おそらく、昔、小笠原通いの舟などに乗っていた武士がつけたのではあるまいか。このあたりはいわゆる日本深海であるが、そこに海底から三千メートルか四千メートルくらいの山が一つ生えていて、その頂上の、ちょうどモン・ブランのお針≠ノあたる部分が海上にとびだしている、それがこの岩なのである。海鳥が何羽か棲んでいるほか、木もなく、草もなく、家もなく、人もいない。
團伊玖磨氏が数年前に八丈島からここへいき、イソマグロやオキサワラの物凄いのをたくさん釣った。その手記は『九つの空』に収められているが、團さんの話を聞いていると、釣りもさることながら、その岩の孤独な凸出ぶりをどうしても眼でたしかめたくなる。しかし、この岩の周辺ではしじゅう台風や準台風などが発生するか通過するかなので、まるで台風の銀座みたいなところだからめったに近づけないのである。そのため魚族が守られてぬくぬくと育つのだということになる。團さんはぜひもう一度いきたいとおっしゃるのだが、氏に暇ができたときは私が忙しく、私に暇ができたときは氏が忙しく、どちらにも暇ができたときは台風であるか、季節はずれだというありさまで、三年ぐらいが過ぎた。しかし、この年のこの季節、ある台風が通過した直後にチラとチャンスが横顔を見せたので、すかさず食いついた。竿もリールも川へたたきこんで二度と玩物喪志にはふけるまいと酒田の道で肚をきめたはずの私が、トローリングの五十ポンド竿、それにつけるペン・リールのセネター九番、イカバケ(トローリング用のビニール製のルアー)、その他、その他を買い集め、リュックはさらにふくらんでぎゅう詰め。選りぬきの大場所で乾坤一擲の大勝負を挑んでやろうと、静かに羽田空港にあらわれたのだった。
八丈島へいってみると台風の直後なので海がひどく荒れている。ホテルにたれこめて『鬼殺し』という焼酎をすすって波が静まるのを待ち、ある朝、漁船に乗りこんだ。背戸君が東京から電話で問いあわせたときにはトイレもついているし、寝室もあり、トローリングで魚と格闘するときの椅子もついているとのことだったが、沖へでてからしらべてみると、そんな物は何もなかった。椅子などどこにもないから、格闘するときはロープの山や桶などのあいだに腰をおろす。寝室というのはエンジン・ルームのよこの小さな隙間のことで、棺桶にそっくりである。トイレはないから走っている船のへりからお尻をつきだし、肛門と泌尿器をいっしょに波しぶきにさらして排出するのである。これは念のために片手でロープをにぎっておいたほうがいいだろう。とどのつまりこの航海は往復だけでも五十時間かかるが、そのあいだ甲板でしぶきを浴びるままのゴロ寝でいくしかないとわかった。いくら話が食いちがうにしてもこれはちょっとひどいが、もう遅い。なるだけ揺れが少なくてしぶきがかからなくて背中の痛くならない場所を陽のあるうちにさがしておくことだ。といったところで、小さな漁船なのだから、どこで寝ても大差あるまい。釣りもなかなかの苦行である。岩についてからそのまわりで何時間遊べるのかは見当がつかないけれど、最低五十時間、のべつに揺られっぱなしである。これで魚が釣れなかったらと思うと、底気味わるいうそ寒さが腸のあたりにきざしてくる。天日ために暗しといいたくなってくる。
その日は朝と、午後と、夜いっぱい、走りに走って、翌朝、水平線上に!≠見た。潮水をかぶって全身がねとねとゴワゴワになり、背中はまるで板を張ったように硬直しているが、感動は大きかった。水天一髪の水平線は端のほうが少したわんで見えるかと思いたい。東西南北ことごとく澄んだ紺碧の水にみたされ、その広大無辺の晴朗な虚無のなかにたった一つ岩が凸出しているきりだが、ひどく人間くささをおぼえさせられ、安堵、親愛、壊しさ、いずれともつかぬあたたかさで胸がふくらんでくる。岩についてからその周囲をゆっくりとトローリングの速度で船がまわっていく。漁師は大型の複葉のヒコーキを投げこみ、イカバケをそのうしろにつけてロープで引っぱる。ヒコーキは引かれると二枚の羽根でパシャパシャと水しぶきをあげる。その水音が小魚の跳ねる音に似ているので大魚がどこからともなくあらわれ、イカバケを発見して食いつくというわけである。私はヒコーキを使わず、イカバケをちょうど漁師のヒコーキのすぐ背後を泳ぐように流してみた。何周めかにトンと軽いアタリがあったので竿を抱きこみ、全身でのけぞってあわせ、二度、三度としゃくった。そこできまる。ドシンと衝撃があった。太い剛竿がミシミシと音たててたわみ、魚が逸走するにつれてダクロン糸がリールから走りだす。これからさきは魚に走るだけ走らせ、止まるまで待ち、それから体をたてたり倒したりして引寄せたらいいのだ。引かれたら糸を送る。止まったら寄せる。リールのギヤを締めたりゆるめたりするのがコツだ。それから体にしっかり竿をくっつけ、一体となってポンピングすることである。やった。ついに、やった。仕止めた。夢中で格闘するうちに魚が寄せられてきて、漁師がギャフをとばし、一、二の、三と親子二人で声をかけ、一挙に船のなかへひきずりこんだ。オキサワラである。巨口をひらくと猛烈な歯列がのぞく。鈎は眼にひっかかってグサリと刺さっていた。あやういところだった。魚がバケに頬ずりした瞬間にあわせたから刺さったのである。一瞬遅れたら逃げられるところだった。スレでかけたのである。
このあと漁師がもう一匹オキサワラを釣り、さあこれから戦争だと竿を持ちなおし、お尻をすえなおしたところへ無線で八丈島から台風がくるから近海の船はただちに現場から離脱せよという警告が入った。台風には勝てないからリールを巻いてバケをひきよせ、船はその場で回レ右をし、いまやってきたばかりの二十五時間の長い航路をたどって全速力で逃げはじめた。到着したとたんに回レ右である。五十時間かかってたのしんだのはたったの五分か十分である。間一髪だった。もうちょっと遅れていたら一匹も釣らないで帰らねばならないところだった。間一髪で私はオンブオバケの急襲をかわしたらしかった。ついに私は影に勝ったのだ。しゃにむに、どうにかこうにか、ツキ≠呼びかえした。辛勝だが敗北ではなかった。戸口の敷居のうえにたってたたかったのだった。変貌は完了した。
(これは小生の一時期の連戦連敗の総論であります。田代高原の駒込川と孀婦岩については各論としてつぎに入れてあります。重複するところがありますが、それはすべての総論と各論の関係であって避けられませんでした。詳しくはそちらを御愛読下さい。いずれも当時東京へもどってから書いたものです。開 高)
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高原の鬼哭 駒込川のイワナ
地図をひろげて青森県をしらべる。その地図はかなり精密なものでないといけないが、ちょっと特別の関心を持っていないことには見つけられない川がある。八甲田山≠ニあるあたりをよく気をつけてさがすと、駒込川≠ニいう川の流れていることがわかる。地図にはでていないけれど、この川の源はグダリ沼≠ニいい、そこで水が湧きだして川となって流れている。田代平という高原の牧場にその沼があり、川はあちらこちらの小さな沢水を集めつつ流れ、青森市内をよこぎって海にでる。
特別の関心≠ェないと地図でこの川を見つけるのはむつかしいと書いたけれど、特別の≠ニは、釣師の≠ニか、イワナ釣りの≠ニおきかえてもいい。山の釣師で、しかも釣りのことについて書かれたものをいろいろと読んでいる人なら、きっと井伏鱒二さんの『川釣り』という本を読んでいるにちがいないと思いたいが、その本のなかに『グダリ沼』という随筆がある。その沼である。それから、新田次郎さんの『八甲田山死の彷徨』にくわしく書かれてあるが、明治時代にこのあたりを厳冬の頃に雪中行軍をした軍隊が吹雪で道に迷い、ついに飢えと寒さで全滅に近いひどさで潰滅してしまうという事件があった。その軍隊が吹雪のなかでバラバラになりながらさまよう高原が田代平であり、ハマりこんでしまうのがこのグダリ沼から流れだした駒込川なのである。
井伏さんは青森から出発してバスでいわゆる表八甲≠フルートを通ってグダリ沼へいかれたようである。あらためて読みかえしてみると、その沼は湧水の細長い沼で、藻がギッシリと生え、水は澄明だけれどたいへん浅いのでイワナがよく見えたとのことである。餌はそのあたりにいる灰色の小さなバッタがいい。それを鈎につけて水面に軽く落し、水に浮かしたまま自然に流していくのがコツだと釣好きの旅館の番頭に教えられたそうである。餌を沈めたら魚が食いついても密生する藻のなかに逃げこまれてひっぱりだせなくなる。井伏さんがいったときには一尺五寸くらいのイワナが何匹も悠々と遊んでいるのが見えたそうである。ところが餌を苦心して鼻さきに落してやってもいっこうに食いついてくれない。食いついてくれないばかりか、そのたび右や左に体をよける。迷惑さうに≠ニ書いてある。東風のことをこのあたりではヤマセ≠ニ呼び、この風が吹くとイワナは釣れないのだそうで、その日はヤマセの吹く悪日だったと書いてある。この沼のイワナだけではなく、総じて≪見える魚は釣れない≫という原則があるし、風もまた影響が大きいのは、かねがね悩まされることである。
「グダリ沼というのは湧水による湿原の発達したような低い水深の沼ですが、藻が全面に茂り、流速の多少あるところが水路のようになっていて藻が生えず、イワナの姿がよく見えます。しかし、この沼でのイワナは天候の加減もありますが、釣れないことでは井伏先生の『川釣り』の中のグダリ沼≠ノ如実です」
ためしに編集部の石井君に青森方面に住む、現地の事情にくわしい名人に問合わせをしてもらったら、手紙がきて、ていねいに川の地図を書いたうえで、そういう注意がしてあった。たいそう親切な、ゆきとどいた文面に感心したが、井伏さんがおいでになったのはいまから二十余年も昔のことなのだから、その頃とくらべて何も変っていないらしいのにも感心した。けれど、手紙をずっと読んでいくと、やっぱり末尾には、青森県の釣りは昔日のおもかげがなくなりました。河川の改修、山林の乱伐のためです。加えて大豪雨が谷相をこわすという悪循環です≠ニあって、ガッカリしてしまった。あちらこちらでいったい私はこれとおなじことを何十回聞かされたことだろう。そのたびごとに、何十回、亡国の悲歌を感じさせられたことだろう。
「釣れるでしょうか?」
「ヤマセが吹くだろうね」
「井伏先生の随筆だと一尺五寸のイワナが何匹もいたとあります。一尺五寸というと四十五センチか。水のなかで見てそれだけなんだから実際はもっと大きいんでしょうね。みごとだろうな」
「おれのレコードは六十センチだ。四年前だけれどね。それ以来ずっと自己記録が更新できないんだ。ニジマスは六十五センチ。これも更新できない。いらいらしてるんだけどね。へたに大物を釣ると、あとがつらいぜ」
「吹きっぱなしなんですね?」
「ホラじゃないんだ」
「ヤマセがですよ」
「それはそうかもしれないナ」
東京から青森までの八時間、車中で石井君にルアー学を講義する。糸の結び方、竿のしゃくり方、リールの巻き方などを教える。彼は田村隆一氏とインドへいき、その紀行文のなかでインド狂≠ニか、黒狐≠ネどと呼ばれたが、競馬、麻雀、花、ドボン、ポーカー、ジン・ラミー、何でもこいなのだが、ルアー釣りはこれがはじめてだという。釣りには短気と根気が必要なので、こういうのはたちまち上達するかもしれない。弟子にしてあげてもいいといったらリュックからいそいそと超々特級の陶瓶入りのスコッチをとりだし、こないだ競馬で二十五万エン、あてたんですという。いささか毒気をぬかれた。こういうのを弟子にしたらたちまち下剋上をやられるかもしれない。
青森で石井君がレンタカーを借りたので、それでいく。高原は青森からすぐのところにひろがっている。ゆるやかな傾斜道を追っていくといつのまにか高原に入っているのである。名人の手紙には昔日のおもかげ≠ェなくなったという嘆きがにじんでいたけれど、はじめてきた私の眼にはこの高原はなかなかの眺望である。かなたにいわゆる八甲田連峰がつらなってそびえたち、雄大な高原がゆるやかで広い波また波となって展開する。何よりありがたいのはイヤらしい野立看板が何もないことで、視線はのびるまま、走るままに高原や、草や、林に吸いこまれていって、はじきかえされるということがないのである。木はさほどの巨木、古木はないけれど、密度がとても濃く、近頃では稀れなことだが、しばしば鬱蒼≠ニ呼びたくなる。森のなかに入ると手に緑が射してそのままのこってしまいそうだし、発生したばかりの酸素はみずみずしくて細胞がひとつずつ洗われていく。北海道へいくとこのあたりにそっくりのバターくさい高原、原野、地相、樹相を見るが、あれはこのあたりからそろそろはじまっているのかもしれない。田代平と標識のでている高原に入ると、広大でゆるやかな牧場がひろがり、あちらこちらにひとかたまりずつの森がのこされていて、私の経験ではドイツのバイエルン地方の高原にそっくりである。バターくさい≠ニ書いたのはそういう記憶のせいである。あのあたりは剛健・急峻な、荒あらしいバイエルン・アルプスが巨大な壁となってそびえ、高原にはふさふさした牧草が深ぶかと茂り、あちらに一本、こちらに三本といったぐあいにモミやニレの木がたっている。たいていそれは牧場の境界の目印としてそこにのこしてあるのだが、また、牛が夕立に逢ったとき避難所としての掘立小屋があり、そういう小屋には戸がなくて、乾草が積んである。牧場から牧場へ、小さな、かわいい、澄みきった小川がうねり、くねり、少しずつ大きくなりながら流れて、湖へそそいでいる。それは英語だとリヴァー≠ナもなく、ストリーム≠ナもなく、やっぱり、ブルック≠ニ呼ばれるような、いきいきピチピチしているが可憐な小川である。
こういう牧場の小川はゆっくりと歩いていくと、眼に見えて小さくなり、細くなっていって、源がどこにあるか、どうなっているか、すぐ見とどけることができる。ちょっと小高い丘にたって眺めると、源から湖までのその川の旅が一瞥でわかるのである。アルプスの巨大な影が朝と夕方には牧場を蔽い、小川の水はしっとりとした霧のなかでナイフのようである。岸の根株や茂みのかげにはバッハフォレレ≠ニ呼ぶマスがひそんで眼を輝かせている。このマスはあまり大きくならない種族なのだけれど、背が緑、腹が黄、それに鮮紅の斑点が青の環にかこまれてちりばめられ、鈎にかかって跳躍するところは、小さな歓声の噴水のようであり、宝石の散乱を見るようでもあって、息を呑む。リュックに白ぶどう酒を入れて宿から持ってきたが、それにひもをつけて石橋の下の淀みに沈ませておくと、キリリと冷える。マスを釣っては逃してやり、釣っては逃してやりしてさまよい歩くうちにズボンが露でグッショリ濡れる。それが朝の十時か十一時頃には太陽でかなり乾いてくるが、その頃に釣竿をおいて酒瓶をたぐりよせ、ラッパ飲みをするのである。ゴクゴクぐびぐびとラッパ飲みする。それから瓶を口からはなし、フーッと盛大な息をつくのである。その息に夏の日光が射すと、虹ができそうである。
この田代高原には自動車の走る舗装道路のほか、ちらほらと、ヒュッテ風の土産物店や食堂がある。たくさんの中学生がハイキングにきて、はしゃぎ声をあげている。いままでに見なかった空瓶や、紙屑や、空箱なども散らばりはじめた。けれど、それでも、私を回想でふくらませてくれるものがある。五年前と六年前のあの二つの夏の燦めく背景となっているものをあちらにもこちらにも見る。日光。空。雲。一本きりの木。ひとかたまりの木。傾斜する牧場。かなたの山なみ。北海道の日高牧場のあたりによく似た光景だが、たしかあそこにはポプラか何か、高い木の列があったと思う。けれど、いずれにせよ、視線はのびるまま、走るままにのびていき、走っていき、吸いこまれていって、もどってこない。淡い草いきれのなかで私は回想のおびただしさのため、汁液たっぷりの果実になったような気がする。ひからびた砂礫の層をあてどなくまさぐって疲労と倦怠によどんでいるうちにふいに根のさきが深くて柔らかい、爽やかな水をたっぷり含んだ肥土に出会った一本の樹。そのようなものになったような気がする。
ある牧場のはずれに小さな小屋があって、売店などでたずねたずねしていくと、そこにおじいさんがいて遊漁券を売ってくれるという。遊漁券は一日二百エンである。小屋をのぞいてみると、誰もいないが、一升瓶があったり、ルンペン・ストーブでまっ黒の薬罐がシュンシュン音をたてていたりする。のぞいているところへどこからか、ゴム長をはいた、眼鏡をかけた、古帽子をあみだにかぶったおじいさんがやってくる。おじいさんにかけあってさっそく川の状況をたずねてみるけれど、これがひねりにひねった東北弁だものだから、さっぱりわからない。おじいさんはこちらに妥協してわかるようにしゃべろうという気配をまったく見せない。何が何やらさっぱりわからない。ところどころ耳にとまる単語があるのでそれをつなぎあわせ、一つの文章にしてみて、これこれコウコウですかとたずねるとおじいさんはそのたび、ンだとか何とかいう。それをおぼろに肯定か否定かと見当をつけてさきへすすむ。
「×△□○!?→♀+-2……」
「魚はいないのですか?」
「△□×?!+-2→……」
「魚はあまりいない。大きいのがいない。この春はじめて山へ入ったときは跳ねやモジリが見えた。けれどその後見えなくなった。というわけですね」
「♀→+-2×△□○……」
「網をうったやつがいるんですか?」
「!×△□○?……」
「電気を流したんですか?」
「???……」
「よくわからないんですね。ところでですネ、この川の魚は虫を食べてるんですか。それとも何かの小魚を食べてるんですか?」
「×……」
「虫ですね」
「………」
「券を売って下さい。二人分」
「×△□○?!!!……」
「釣れもしないのに券を売るのはわるいような気がすると。しかしね、釣れる釣れないは釣師の腕次第、時の運次第ですからね。いいですよ。かまいません。売って下さい」
「???!!!……」
「釣れるやつには釣れる。釣れないやつには釣れないと。きびしいね、これは。いいから。売って下さいよ、券」
「×△□○→♀+-2!?……」
石井君と二人してかわるがわる意訳しておじいさんの言葉をつかまえ、券を売ってくれるようにとせっついた。おじいさんはよほど気がトガメるのか、帽子をぬいだり、眼鏡をはずしたり、券をだしかけてはひっこめたり、もじもじするばかりである。眼鏡をとったところを見ると、小さな、澄んだ、無邪気な眼である。それが目尻を皺くちゃにしてはずかしがっている。ずいぶん久しく私ははずかしがる人の顔というものを見ていないということに気がついて、うたれた。
「二人分。四百エン。ハイ、これで」
「???!!!……」
やっとのことでおじいさんは金をうけとり、券を二枚くれたが、それでもまだ、釣れるやつには釣れるし、釣れないやつには釣れないし、そういう人から金をとるのはわるい気がするし、といいつづけた。そこへトラックに牛を二頭のせてやってきた人があったのでおじいさんはそそくさと眼鏡をかけ、古帽子をかぶって、小屋をでていった。
教えられるままに牛の踏んだ跡をたどって牧場をおりていくと、そこがグダリ沼なのである。沼の水源地点なのである。ぐじゅぐじゅした湿地にミズバショウがたくさん茂っているが、あちらこちらで水が湧き、泥や砂のうえを小流れとなって流れている。これは沼≠ニいうよりは川であった。たまり水ではないのである。浅い、きれいに澄んだ、明るい川で、水は速く流れ、ぎっしりと藻が生え、ところどころ切れめが水路のようになっている。井伏さんの随筆のとおりである。青森の名人の手紙のとおりである。ただし、一匹のイワナも見えなかった。一尺五寸のも見えなかったし、五寸のも見えなかった。藻のうえにも見えなかったし、かげにも見えなかった。針金をまたいだり、藪をこいだり、ぬかるみに落ちたりして先人の跡を踏んで岸づたいに下流へいき、ときどきポイントを見つけて石川君はルアーを投げ、私はドライ・フライを投げたが、魚の姿は一匹も見えなかった。でてくるのも見なかったし、遊んでいるのも見なかったし、逃げていくのも見なかった。そのうちやっとのことで、ある小さな淵でニジマスが三匹遊んでいるのを見たが、ひどく小さかった。ニジマスの幼稚園児といったところであった。
「釣りは大小じゃないよ、石井君。一匹は一匹だ。小さくても一匹は一匹さ。女は女だ。ナ。そこだ」
不満そうな顔をしているのでそういったらやっと石井君は納得し、まじめになってルアーを投げにかかる。アイスランドのラクサ川でマス釣りをしたら、これはブラウン・トラウトだったけれど、秋元カメラが小さい小さいといってこぼすので、一匹は一匹だ、女は女だといったらやっと納得顔になったものである。オンナといわないことにはピンとこないらしいのである。そういうことがあるものだから釣師にはせっかちで色好みのやつが多いといわれたりするのであろうか。
地名からするとグダリ沼が流れだして駒込川となるのだけれど、沼そのものがないのだから、けじめはないのである。この川は夕方下流へいってみてよくわかったのだが、いい渓相をしている。両岸に水ぎわギリギリまで木が鬱蒼と茂っているのでフライ・キャスティングはむつかしいけれど、ルアーならうちこめる。しかし、何といってもこの川は典型的な日本の渓流である。やっぱり日本式の竿でテンカラ釣りをするか、餌をつけて脈釣りでいくのがピッタリであるような気がする。水はゆたかで、澄明であり、いたるところ、ザラ瀬、岩、淵、落ちこみ、白泡、惚れぼれしてくる。けれど、両岸の森や藪のなかには釣師たちの踏みかためた小道がクッキリとついているので、これはよほどの人数がいつも通《かよ》っているということになる。つまり、魚は人の姿、竿の影、鈎のさきなどをよく経験しているので、かなり過敏になっているのではあるまいかと思いたいところである。ある平場《ひらば》ではバカ長(釣用のゴム長)が捨ててあるのを見た。
ドライ・フライをうっては返し、うっては返ししながら、岩のまわりを流したり、淵をひいてみたり、ひっそりとした渓谷で私はウグイスの声を聞く。水の音はフュッセンの牧場の小川もこの駒込川もおなじである。けれど、海とおなじように山も自分の顔を知らない。それはいつどんな変貌をするか、わからないのである。夏の山と冬の山とではまるで形相が一変してしまう。明治の昔に雪中行軍でこの渓谷にさまよいこんだ軍隊があって、この高原とこの川で百九十九名が凍死した事件のことを考えると、つい、イワナのことを忘れてしまう。豪雪、吹雪、凍傷、飢餓、疲労、絶望で、とうとう発狂した兵があり、青森まで泳いでいくのだと叫んでとびこんだり、筏で下るんだと叫んでとびこんだりしたのだが、ほとんど瞬間的に死んでしまったことだろう。飛沫は彼らの体の水から露出した部分でたちまち氷となった。その凄惨な形相は新田さんの作品にくわしく書いてあるが、ちょっと想像の手がかりがないようにも感ずる。新田さんの解釈ではこの行軍は日露戦争にそなえての一種の人体実験、生体実験――極寒地でのロシア軍との戦闘のための――であったということなのだが、今日、高原と川は爽やかな風が豊満な夏の日光のなかを流れ、牛の鳴声と子供たちの叫び声があって、あけた窓のそばによこたわって農民が畑ではたらくのを見やりつつ死んでいきたいものだとロルカが詩を書いたのは、ひょっとしたら、こういう日のなかをよこぎりつつだっただろうかなどと思ったりする。私のたっているところからもう少し下流で金錆色の小川が流れこむので、その地点から駒込川は強酸に犯されてイワナも虫も棲めない石女《うまずめ》となってしまうのだが、氷雪地獄が発生したのはそれよりもうちょっと下流なのであろう。そのあたりの明るい木洩れ陽の縞にはいまでも鬼哭の傷がのこっているだろうか。
イワナは一匹もでてこなかった。
ヤマセが吹きましたのさ。
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探究する 最上川河口のスズキ
陸にミミズがいるように海には環虫類がいる。ゴカイとか、イソメとか、その他である。潮がひいたあとの海岸の泥砂に小さな穴がよくあいているが、それがゴカイの家である。ボォドレェルが詩のなかでミミズのことを≪眼なく耳なき暗黒の友≫と呼んだことがあるが、環虫氏もそういう存在である。しかし、泥と湿りと暗黒のこの友はなかなかすばしこいところがあって、穴を見つけたからといってスコップでゆっくりと掘りにかかるとトンネルをつたってどこかへ逃げてしまって、なかなかとれないものである。穴を見つけたらソッとしのびよって、いきなりスコップをそのまわりにつきたて、一気にザクリと掘りかえさなければいけない。
六年ほど以前になるが、神田の釣餌問屋の主人と話しあったことがある。この老人はなかなかの洒落者で、古今東西の春本のコレクターでもあった。ミミズやゴカイを売る店さきで老は『ガミアニ』と『ファニー・ヒル』をくらべてみるととか、『壇之浦』と『大東閨語』をくらべてみたら、などと、たいそう奥深い話をした。
ハチの子は御飯と炊きあわせてみたらたいそうな珍味で、フォア・グラよりうまいくらいなんだから、めったに客に売れたものではないなどという話も聞いたように思う。そういう優雅人だものだから、ゴカイ不足に先手を打ってやれと思い、東大の檜山先生と相談しつつビニールでゴカイそっくりの擬餌をつくり、≪ロッカイ≫と銘うって売りだしたこともある。ああでもない、こうでもないと、ずいぶん苦心した作品だったのだけれど、イザ、海へ持っていってみたら、ハゼに見破られて、とんと釣れなかったという。ゴカイの上をいくというので≪ロッカイ≫と名づけた洒落はよかったのだけれど、それで沙汰止みになってしまった。
その頃すでにゴカイは日本でとれなくなったから朝鮮から生きたままのを航空便でとりよせるのだという話を聞いたように思う。いくら海岸が工業で死滅したからといって日本全国どこへいってもゴカイがとれなくなったというわけのものではなくて、東京にひしめく釣師たちの需要を近辺の海岸でみたせなくなったということなのではないか。人件費がカサむからゴカイとりをしても採算にあわないのでそういうことになるのではないか。
老の話を聞いていてそう思うこともあったのだが、しかし、いずれにしても、ゴカイまでを外国から、しかも航空便で輸入しなければならないとは……と思うと、胸ふたがるるものがあった。何といってもこれは異常事態である。異常≠ニ正常≠フけじめのつけようがない時代に私は棲んでいて、しばしば自分がミミズの仲間、眼なく耳なき暗黒の友の友ではあるまいかと感じ、観ずるのだけれど、そのスレた神経で聞いてもこの挿話にはいいようのないものをおぼえさせられる。何かの誤解《ヽヽ》であってほしいと駄洒落をとばしたいところだが、うなだれるきりであった。
この七月に山形県の酒田市へいった。酒田は山形県ではなくて秋田県ではないかと、何となく感じたいところだが、この市は山形県である。最上川の河口があり、日本海に町は顔を向けている。ここに釣具店を営む富山誠一青年がいて、去年からしきりに手紙で最上川河口のスズキのルアー釣りのすばらしさを訴え、ぜひ一度きてほしいとのことであった。何やかやにとりまぎれて去年はいけなかったし、今年の五月、六月の最盛期の誘いの手紙にも応じられなかった。
ところが七月にふいに青森へいくことがあったので、奥羽本線にのり、六時間かかっておりていった。スズキは鈎にかかると壮烈な水しぶきをたてて跳躍するし、ルアー釣りには絶好の魚で、その強烈と気品を考えあわせると、ジッとしていられなくなる。六月の初めに富山君のくれた手紙では五月末に九十三センチの大物が突堤で、ルアーの投釣りで釣れたとのことである。こうなると、もう、サケ釣りの豪壮に達するのではあるまいか?……
スズキを釣るほかに酒田市へいったらぜひ見とどけておきたいと思うものが、かねてから、あった。庄内竿である。これは本間美術館へいって、館長の本間氏から、氏自身創作した名品を何本も芝生にならべて見せてもらうことができた。私には和竿の名品を鑑賞できるほどの素養がないけれど、何だってかまわない、とにかく一度、眼にしたかったのである。
そこで見せられた庄内竿は漆塗りもなければ、段巻きもなく、装飾らしい装飾はいっさい排してあって、あくまでも簡朴を旨としたものであった。竿尻にかならず竹の根の玉目模様がでるように工夫してあるということと、竿と竿の継ぎ目がカン継ぎ≠ニいって金属管にゆるやかな螺旋のネジ山が切ってあること、その二つである。そして、三間半の長竿になっても太竿ではなくて、意外に女性的なまでに細いのである。外見上ですぐわかる特長といえばそれぐらいのことであろうか。
竿は細身だけれど、三間半の長竿となると、なかなか重い。ゆっくりとゆすってみると、全身がたわんで波だつようである。満々たる精力をひそめていながら、あくまでも柔らかく、よくたわみ、感じやすいのに、不安をおぼえさせない。この何本もの竿は本間氏が昔、いちいち自分で竹藪へでかけて、あれでもない、これでもないと選びぬいて創ったものなのだそうである。藪には何百本と竹が生えているけれど、ほんとにいいと思えるようなのはめったにない。何本となくこれまでに竿を作ったけれど、心底から満足できたものは生涯かかって、まだ一本もないとのことである。
この地方では昔、殿様が釣りは武士の嗜みであるとしてたいそう奨励したら、最上川の川口にはいいスズキとクロダイがうんといたので、官民こぞって釣りに熱中し、その結果として、庄内竿≠ニ呼ばれる様式が編みだされ、発達し、完成されたわけである。いまは折れず・腐らず・軽い・敏感なグラス竿の全盛となったので、庄内竿は見捨てられ、使う人も作る人もいなくなったのだそうである。昔の名品を持っている人は芸術品として保存し、門外不出。釣りにでかけるときはグラス竿を買ってきて、それを持っていくという。
しかし、古今東西、無数の素材が釣竿として試され、使われたが、竹竿で釣れる範囲内の釣りについていえば、やっぱり竹竿が理想だとされている。その感じやすく鋭いけれど柔軟な弾性をしのぐ素材は他にない。日本のグラス竿は竹に似せよう、似せようと苦心工夫を凝らしていくので、グラスはグラスでもよほど外国のとはちがったものになるのである。いつかセーヌ川の小魚釣りに日本製の振出竿を持っていったら、ピュトー橋の下に≪|釣 師《ペシヨール》マルタン≫と看板をかけた川舟屋の主人ムッシュウ・マルタンは、なにげなく穂先を爪ではじいて、驚歎の声をあげ、眼をいっぱいに丸くしたものであった。
フランス人も小魚釣りの趣味があるので、敏感なグラス竿がほしいのだけれど、ヨーロッパには竹が生えないから、お手本にしてよい具体物についての知覚がないため、どうしてもゴワゴワの剛竿になってしまうのである。これはアメリカでもおなじであるらしい。トンキン竹を輸入して六角の貼りあわせでフライ竿を作る職人芸はすたれるいっぽうである。マス釣りのフライ竿は竹でなければならないと力説する純粋派と、グラス竿のほうがいいのだと力説する実用派とが、よく釣宿で議論にふけるらしい。≪純粋派は声が高く、実用派は遠くとばす≫という解説を読んだことがある。名言といってよろしい要約である。
スズキ釣りの千石場は最上川の河口である。川に沿って南突堤≠ニいう突堤が長くのびて海に突出している。右が湾で海水。左が川で淡水。広い面積にわたってササにごりの水がたっぷりと、しかもかなり速く流れて海水とまじり、なるほどこれならサケ大のスズキが釣れても不思議ではないと、一瞥でこころがおどりはじめる。
ところが、突堤の人出のすさまじさを見て、タジタジとなる。突堤はずいぶん長いけれど、そこにほとんど一メートルおきに老若の釣師がひしめいて、それがまたことごとく眼光けわしいのである。夜になるとその一人一人が力まかせに電気浮子を投げる。何十コという小さなランプが一メートルおきにならんで小波にゆれる光景は銀座の灯というか。燈籠流しというか。ウィスキー瓶をよこにおいてチビリチビリやってるの。犬をつれてのりこんでくるの。マホウ瓶のお湯でカップ・ヌードルを仕立てて腹ごしらえに余念がないの。さすが伝統のお国柄。しかもここではフィッシュ≠ニいうと、スズキかクロダイのことであるらしく、あちらでも、こちらでも、みごとなボラがバシャンバシャンと水しぶきたてて跳ねているのに誰ひとりとしてふりむくものもない。
「おじさん、いいボラが跳ねた」
ためしに一人に声をかけてみたが、おとなしい狂人は、口のなかで、ウ、と洩らしたきり。ふりかえりもしない。
これだけおびただしい数の釣師がいて、それがたいてい餌釣りで、アオイソメと呼ぶ環虫先生である。これまた暗黒の友で、ゴカイの兄弟分みたいなものだと思うが、身が固いので水面にたたきつけられても砕けることがないから重宝がられている。しかし、それがいくらかの高低のちがいはあっても何十となくならんで目白押しになっていたのでは、スズキとしては、いったいどれに食いついていいのか、迷いに迷うことだろう。しかもそこへ東京の小説家がやってきて、魚を生餌で釣るのは子供と老人だけだ、芸術とは自然に反逆しつつ自然に還っていくことだと思いこんでいるものだから、キラキラするスプーンを投げては引き、しゃくっては引き、いっこうに倦きるそぶりがない。こうしてるだけでたのしいのだとも感じている。イライラしてるくせに妙に底深くこらえ性もあるらしい。
富山君はタックル・ボックスを持出し、私といっしょに突堤へいって、ルアーを投げては引き、投げては引きしながら、ときどき歎息をついて
「すみません」
という。
暗がりで私はゆらゆらと
「何、こんなことはしょっちゅうだよ」
「慣れてますサ」
「気にしなさんな」
「十月にまたくるよ」
「時の運さ」
「大釣りなんて三年に一度だよ」
「しかし、いい川だね」
いろいろと短い感想をそのたびに洩らす。一日。二日。三日。それが四日めぐらいになると、いささか声のうらに羞恥と焦躁が芽生えて、声が低くなっていく。けれどそのたび私は外国でも、日本でも、もっとひどかった経験のあることを思いだして、まだ、まだ、と感ずる。
富山君の店内のすみっこにすわって眺めていると、しょっちゅう老若さまざまのおとなしい狂人がやってきて、アオイソメを買っていく。この暗黒の青き友はよほどスズキ釣りにいいらしいのである。そこで、一日に平均してどれくらい売れるのかと聞いてみると、だいたい二キロ、多い日で三キロという答えである。酒田市内に釣具店はどれだけあるかとたずねると、ざっとかぞえて十軒でしょうかという。すると、一日に全酒田市で二十キロ近くのアオイソメが消費されているということになる。かりに話半分として十キロとしても、かなりのことを連想させる数字ではないか。
これが酒田市だけではすまなくて、日本海岸には大きな川のそそぎこむ河口市はほかにもうんとあり、そこにはそれぞれ釣師がうんといるはずである。スズキは淡水が海水とまじりあうところに集ってきて、そこから淡水をたぐって川をさかのぼっていったり、おりてきたりということを繰りかえしている魚である。すると、この酒田市から北には雄物川があり、米代川がある。南へいけば、阿賀野川、信濃川、糸魚川、神通川、九頭竜川……まだまだ大小無数の川が北陸、山陰、九州とつづいていく。いっぽうスズキは太平洋側にもいるのだから、その沿岸に沿っておりていったら、どれだけの川、どれだけの市があることか。そこにどれだけの釣師がいて、どれだけのアオイソメを毎日、消費しつつあることか。それを全日本的に集約してみたら、いったい、毎日、切れることなく、どれだけのアオイソメが朝鮮から空輸されているのであろうか。朝鮮のアオイソメもまた枯渇しつつあるのではなかろうか。朝鮮のアオイソメが枯渇したらそれを食べている魚たちはどうなるのだろうか。朝鮮のアオイソメがなくなったら、つぎは台湾、中国本土、ヴェトナム、タイ、マレーシア、インドネシアと、追っていくのだろうか。
環虫類は海辺の、われら人類にとっての最低の段階にある暗黒の友かもしれないが、釣師にとっては唯一無二の友なのである。その愛の深さとしぶとさのゆえにこういう現実があり、こういう想像が浮かんでくるわけである。≪自然≫に還りたい渇望のゆえに自然の連鎖の一部分が、どうやら、眼なく耳なく、無邪気に、貪婪に、またしても侵食されつつあるらしいのだが、誰か、ジャーナリスト諸君、朝鮮へとんで、アオイソメなり、ゴカイなりが、どういう暮しをしている、どういう人によって、どう掘りだされ、どう転々とわたって、値がついていって、あげくふたたび日本の海へどうやって還元されつつあるのか。この大いなる連鎖を探究してみてはどうだろう。これこそは諸君がここ何年間か大好きで使っている原点≠ニいう単語にふさわしい対象ではあるまいか。
スズキは釣れなかった。
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遂げる 孀婦岩のオキサワラ
いつ頃からか一つの噂を聞き、それが広大で孤独な光景としてこころに刷りこまれて消しようがなくなっている。いつ、どこで、誰から聞かされたのか。その点はおぼろになってしまったのだが、光景とその質だけは鮮明に、小さく輝いているのである。いつかそこへいって肉眼で目撃してみたいものだと思いつつ何年もそのままですごしていたところ、四年か五年ほど以前に團伊玖磨氏に先取りされてしまった。『九つの空』という連載旅行記の冒頭でやられてしまったのである。この旅行記はその光景の探訪のほかにコモド島の大トカゲとか、オーストラリアの赤い岩とか、スコットランドのフィンガルの洞窟など、いずれも世界の孤立した異象を訪ね歩いたもので、眼のつけどころのよさにたいそう感心させられたものである。だから、先行されてしまった口惜しさはあるものの、わが念願の光景がそれに組込まれたことには、サスガと思って敬意をおぼえる結果となった。
それは太平洋のドまんなかに突如としてとびだした岩である。八丈島を出発してまっしぐらに南下していくと、青ケ島、ベヨネーズ列岩、須美寿《すみす》島、鳥島というぐあいにポツン、ポツンと孤立した小島や岩礁を水平線上に目撃することとなるが、その最後の鳥島を通過してからさらに南下をつづけると、夜の明ける頃に、突如として水平線上に小さな感嘆符がついているのを目撃することとなる。それが念願の光景である。≪孀婦《そうふ》島≫ともいい、≪孀婦岩≫とも呼ぶ。近頃ではまったく見かけることのない字であるが、孀婦≠ニは寡婦《やもめ》のことである。無辺際の大洋のさなかにたったひとりでたち、ある角度から見ると、ちょっと手を組んでうなだれた姿に見えるものだから、昔の人は連想をかきたてられたのだろうと思う。後家岩=A未亡人岩=A寡婦岩=Aどう呼ぶよりもこの呼びかたがぴったりしていると思わせられる。昔の人の素養と言語感覚には感心させられる。
ベヨネーズ列岩や青ケ島などを見るとおたがいに遠く離れあってはいるものの、海底の山脈でつながりあっているのだろうと連想をつけやすいたたずまいがあって、孤立は孤立であるとしてもどこかにあたたかさや柔らかさをおぼえさせられるのだけれど、孀婦岩はまったく人臭さをおぼえなくなった時間に、そういう場所にそびえているのである。海図を見ると、水面上百メートルの高さであるが、その周辺は二百メートル、三百メートル、六百メートルというぐあいにぐんぐん陥ちこんでゆき、ちょっとはなれたところでたちまち三千百八十一メートルの深さとなり、それ以上の数字は書きこまれていない。それを眺めながら想像すると、この岩は三千メートルを超える山の最頂部であるらしいとわかる。それもなだらかな山ではけっしてなく、幽谷、断崖、絶壁だらけの、トゲトゲの、凄惨な顔と体躯をした嶽であるらしいとわかる。蒼暗の深淵に突如としてそういう異形の峰がそそりたっているらしいのである。モン・ブランという山はよく紹介されているように凄い形相の大岩塊であるが、その頂上は尖塔のような岩の聳立であって、モン・ブランのお針≠ニ呼ばれている。私は二度ほどそのお針のすぐそばを飛行機で通過したことがあるので狷介の風貌が眼にまざまざとのこっている。おそらく孀婦岩はこれに匹敵するか、しのぐか、というようなものであろう。それは無名の、巨大な、そそりたつ山の頂上であり、尖塔のトップであり、わずかの数の海鳥がやっとの思いであぶなっかしい巣を作っている、ただそれだけのお針≠ネのである。人も棲めないし、船もつけられない。土もなく、砂礫もなく、植物もない。浜、湾、リーフ、何もない。ゴツゴツの岩が百メートルそそりたち、ちょっと前かがみになって、うなだれているだけである。
團さんに会ったときにこの岩のことをたずねてみて、いよいよいってみたくなった。世界の山や島や岩にはおびただしい数と種類の異相があるが、これはそのトップの一つである。海水はそのあたりでは信じられないくらい美しく、それを見るだけでもはるばるでかけていく価値がある。そこに表層魚、中層魚、深海魚、あらゆる階層の魚がおびただしく棲みついている。船から残飯を投げたらイズスミの大群がネコのようにかけつけてきて海面がむらむら盛りあがり、バケツですくおうと思えば難なくできそうだった。カツオ、シイラ、オキサワラ、イソマグロが大群をつくって魚雷のように岩のまわりを回遊している。泳いでいる、というよりは旋回飛行しているのである。オキサワラは十キロ、二十キロ、三十キロ。イソマグロは五十キロ、六十キロ。最強のトローリング竿なのに食いつかれたら甲板にお尻をついたままでズルズルとひっぱられてしまったほどである。オキサワラの三メートルぐらいのがかかると漁師たちは三人も四人もかかってエイヤ、エイヤと綱引きのようにしてひっぱるんである。このあたりの魚はまったく野育ちである。それぞれ純粋結晶である。無邪気なのは徹底的に無邪気であり、大きくなるのはとことん大きくなり、力のあるのはあくまでも力持ちである。始源期なんである。無限界なんである。しかも行政区分でいうとこの岩は東京都≠ノ属するのである。つまりそれは都内某所≠ネんだ。
「……あそこなら何度いってもいいです。私ももう一度いきたいな。いっしょにいきましょうや。九月のはじめ頃。台風と台風のすきまを狙っていくんです。あそこは台風のシャンゼリゼですから、プロの漁師でもなかなかいけない。台風に邪魔されるうえに燃料費がカサみますからね。だから聖域になってるわけです。いくときは声をかけて下さい」
ときたま会うたびに團さんは海のエデンのことをこまかく話して、私をイライラした、わきたつような沈黙にやんわりと追いこんだあと、きっとそういうのだった。『九つの空』が出版されてから三年間、毎年私は季節になると準備にとりかかった。トローリングの竿を買ったり、リールを買ったり、擬似餌に思考を凝らしたり、外国のトローリングの解説書を読んだりした。釣師が家ほどもある大マグロのよこにニッコリ笑ってたっている写真を眺めて、おれの左腕は子供のときに騎馬戦で骨折して以来弱くなったままだからこんな大きいのはとても無理だろうと真剣に思いつめたりした。そうなると魚に海へひきずりこまれるかもしれないと思い、日本橋の老舗の刃物店へステンレスのハンティング・ナイフを買いにでかけたこともあった。それを腰にさしておいて、力の限界点に達したら瞬間の早業で糸を切ってしまおうと考えたのである。現在のグラス・ロッドやダクロン糸の強力さのことを夜ふけに考え、團さんの釣ったイソマグロの写真の、おとなの頭がすっぽりと入ってしまいそうな巨口のことを考えあわせ、左腕の関節の弱さをそれに加味して思いあわせてみると、竿が折れたり、糸が切れたりとおなじくらいにこちらが竿ごとひきずりこまれてしまいそうに思えてくるのだった。『タルタラン・ド・タラスコン』、あのフランス南部のドン・キホーテにも似た空想がつぎからつぎへと湧いては消え、消えてはむっくり湧きあがってくるのである。四十三歳にもなったスレッカラシのおっさんの枯渇しかかった脳にこれ以上のみずみずしい刺激をあたえ、空想を湧かせてくれるものが、他に何かあるだろうか。
ところが、團さんの情報は正確であった。毎年何やかやの事情を切りぬけて、やっと出発できるとなると台風がくるし、それが去って海が凪いだ頃にはこちらの新しい事情がはじまっているというぐあいである。『杯のあるときには酒がない。酒のあるときには杯がない』という片言がヘッベルにあるが、まったくそのとおりで、毎年うまくいかなかった。去年はもうちょっとでいけそうになったのだけれど、八丈島の漁協と電話で連絡を緊密にとっていたところ、イザという日時になって台風の予報が入って挫折した。そして予報のとおり台風はきたのだけれど、それが去って海の余波がおさまった頃には何か新しい仕事か約束事が私に発生していて、結局、一年延期することにしたのであった。今年の八月も吉例によって計画をたてにかかり、本誌の背戸君が八丈島の漁協と密接な電話連絡をとってくれたのだったけれど、観光シーズンのために船も飛行機も一カ月さきまで一ミリのすきもなく満席予約でふさがっているうえ、台風14号と台風15号がダブルで北上してくるということになり、五十ポンド竿にリールはペンのセネター九番、それにダクロン糸を五百ヤード巻き、ロッド・ベルト(キンタマあて)に救命衣まで買いこんで私は待機したのに、お流れとなってしまった。そこで、これはよくよく星がわるいのだと諦めて書斎に沈没することを決意しかかったところ、台風14号は東支那海へ去り、15号はどこやらで挫折して台風からネッテイ(熱帯性低気圧)におちたうえ、ふいに飛行機の席が二人分、背戸君のと私のと、とれたというのである。カメラマンのも便を一便ズラしてとれたという。一便さきに八丈島へいって待機するという。
背戸君が
「どうしますかネ?」
電話でたずねる。
私は
「いこうや!」
即答する。
Wait and see にはもう飽いた。
八丈島へいってみると、ねっとりした湿気がぬらぬらと膚にからみついてくる暑熱。東南アジアのモンスーン地帯になじみの深い私にはかえって郷愁といいたくなるようなものがこみあげてくるが、海は台風14号の余波で六メートルの波があると、ホテルへ船頭さんがやってきて教えてくれる。いろいろ考えあわせてみたが、孀婦岩のようなところへはそうたびたびいけるものではなく、一生におそらく一度か二度というようなことだろうと思うので、なるだけいいコンディションでやりたいと思う。そう主張して二晩むなしく、けれど愉しく背戸君とカメラの浦君を相手に土地産の『鬼殺し』という焼酎を飲んで人体の下部から上部に及ぶ、法螺と真実の、自分でも見わけのつかないくらいのハナシを展開する。『鬼殺し』は焼酎にぴったりの命名で、オトコの酒はこうでなくちゃいけないと思わせられるのだけれど、度数を見るとたったの37度で、二級ウィスキー並みだから、何やらビシャビシャと水っぽくて、物足りないことおびただしい。猥談にコクとリキがこもらなくなる。ホワイトリカー≠ニしゃらくさい名をつけ、レッテルにイチゴだの、サクランボだのを印刷した、およそドリンカーをコケにした焼酎が盛大に出回っていることを思えば、せめて名前だけでも鬼殺し≠ニあるので、そこを飲みたいところだが、37度ではどうしようもない。猥談が溌溂とした法螺から、ついつい、クソいまいましい、みじめなリアリズム談に堕ちそうになるので、隙間風をおぼえること、おびただしい。こんな柔弱な酒で鬼≠ェ殺されるのだとしたら、鎮西八郎為朝公がどこかそのあたりで暗涙にむせんでいらっしゃるのではないだろうか。流人の島≠フ荒魂の伝統はどうなったのかネ。
二晩待って、三日めの朝になると、船頭さんから電話がきて、波が三メートルになった、南方に小さな熱低が芽をだしてるらしいが、何とか避けられると思う、どうかネ、という。われわれはもう柔弱な焼酎の柔弱な猥談に飽いていたから、ソソクサと起きあがり、いこうと叫ぶ。焼酎は和魂だけれど、それに浸された結果、反動としてわれわれは荒魂を呼びさまされてしまった。そこで小さな漁港にかけつけ、竿、リール、リュックサックをほうりこみ、靴をぬいでサンダルにはきかえ、燦爛とした青と、銀と、ヒリヒリするヨード臭で重い太平洋の風のなかへでていく。水平線には夏の積乱雲がコンクリート質でない無数の気まぐれな城や烽火《のろし》をそびえたたせていて、海水は速く流れ、場所によって蒼かったり、紺であったり、小さな三角波をたててせめぎあったりしていた。これから青ケ島、ベヨネーズ列岩、須美寿島、鳥島、いっさいを無視してひたすら南下あるのみである。行程およそ二十五時間。全速力。ノンストップ。ただ走る。
青ケ島のまわりにはカツオがついていると船頭さんがいったが、事実そのとおりで、カモメの小さなトリヤマがあった。速力を落してそのあたりをゆっくりバケ(擬似餌)をひいてみると、三、四匹の若いカツオが釣れた。それからふたたび全速力にもどり、日暮れ頃に波が白く騒いでいるベヨネーズ列岩のよこを通過したところ、たまたま群れ落ちになって一匹で走っているカツオとひきっぱなしのバケとが交通事故のように出会って、一匹釣れた。たまたまそれは私が支えていた三十ポンド竿にきたのだけれど、カツオは右に左に走りまわり、ほとんど体ごとふりまわされそうで、すばらしい馬力を発揮した。ウンウンいいながらリールを巻いてひきあげてみると、まるまると肥った、まるで砲弾のような、みごとな成熟したカツオであった。さきに青ケ島のまわりで釣ったカツオを船頭さんの息子さんが錆びた包丁でおろして刺身にしてくれたが、それを御飯のうえに山のようにのせ、ザブリと醤油をかけて頬張ってみたら、魚肉にはまるで餅のような歯ざわりがあって、すばらしい味だった。青、赤、金、銀を気まぐれ放埒に乱費する黄昏の燦爛を浴びて、手や足までが輝いた。その清澄な豊饒はあらゆる事物にしみこみ、お箸までがキラキラ燦めいた。
夜っぴて船は全速力で走りつづけた。船頭さんと息子さんはかわりがわりに舵をとった。二時間か三時間おきに交替で寝たり働いたりするのである。息子さんは十八歳で、父の助手として海へでるようになってからまだ日が浅いらしく、マメによく働きはするけれど、バケに魚が食いついたときにはどの糸かわからなくていちいち父にたずねるのだった。口の重い、はにかみ屋の、ちょっとのんびりしたところのある少年である。エンジンの音が高すぎて話をするのにいちいち大声をださなければならないから私は暗い甲板に寝ころんでタバコをふかしつつ夜空を眺める。すばらしい星空だけれど少年の頃に大阪の四ツ橋の電気科学館にかよってプラネタリウムでおぼえたのとくらべてみるとお話にならないくらい星座を忘れてしまっていることに気がついた。あれから私は本も読んだし、人の眼や顔も読んできたけれど、空を読むことはまったく忘れてしまったのだ。赤い三日月が沈んだあとは星が手をのばせばとどきそうなところにまでおりてきたが、クマやサソリの像が何ひとつとして読みとれない。悲哀をおぼえるには壮大すぎる舞台だから私は清浄にうつろである。たえまなく少女たちの沸きたつような合唱で『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』や『漕げよ、マイケル』のハレルヤ・コーラスがエンジンの音のなかや速い水平線上にひびく。幻聴はつぎからつぎへとめどなく聞え、船の蹴たてる白泡のなかで無数の夜光虫が火花のように散乱する。光の粉がほとばしる。
この漁船はレーダー、無線、魚群探知機など最新設備をしっかり積みこんだプラスチック船だけれど、何といっても漁船なのだから、魚を氷詰めにする船艙とエンジンのためにはたっぷりスペースがとってある。が、人間の寝るところは仮眠室というよりは箱≠ニ呼んだほうがいいような狭さである。その暗い箱のなかにふとんと毛布が敷いてあって、それには感心したのだけれど、夜ふけになってもぐりこんでみると、暗くて、暑くて、くさい。背戸君、浦君、私、三人の体熱だけでもなみたいていではないところへ八月の南のベタ凪ぎの夜の暑熱、ベトベトの塩辛い湿気、エンジンの震動と騒音と熱、それにどうにもこうにも説明のつかない、一種異様なネットリした匂いがたちこめる。眼を閉じてがまんにがまんしたけれど、全身が汗でぐっしょりになり、鼻はあけたままだから異臭がおしかけ、いてもたってもいられない。
「……?」
「……!」
「……!?」
口ぐちに何か洩らしつつ三人そろって一度に箱から這いだし、甲板へよろよろとでていった。浦君が早口の関西弁で説明してくれる。彼は私よりさきに箱に入っていたし、カメラマン特有の細部についての観察眼のおかげで、事情にくわしいのである。あのネ。あの匂いネ。あれネ。何の匂いか知ったはりますか。あれネ。あの船長の息子でっせ。あれがやりよったんです。かきよったんです。ます、かきよったんです。うんつくうんつくいうて非番のときにかきよるんです。その後始末もせんとチリ紙、ほったらかしのままなんですワ。いや、もう、元気なもんでっせ。海のうえですからネ。ほかにすることありませんしネ。カツオ食べてリキつけて。マンガ読んで。やるですなア。若いんでんなア。
「そうとは知らなんだなア」
「そうですねン」
「たいした元気だな」
「立派なもんですわ」
「民族の未来は明るいようだね」
「まったく」
暗い甲板にころがって、潮を浴びて、星を眺めながら三人でうだうだとバカをいってるうちに栗の花の匂いがやっと消え、うとうと眠ることができた。
翌朝早く、凄壮で晴朗な太平洋の朝日を見てちょっとしてから、水平線上に小さな感嘆符を発見した。須美寿島も鳥島も夜のうちに通過したから、昨日の夕方にベヨネーズ列岩を見て以来、私たちは水のほかに何の異物も見ていないのである。だからその寡婦の岩は孤絶しているのに不思議な親しさと優しさを感じさせた。水平線ははるかな端《はし》のほうでかすかにたわんでいるのではないかと見える、そのような渺茫のただなかに凄《さび》しき寡婦はうずくまり、接近するにしたがって感嘆符から影となり、影から岩となった。やがてエンジンの音が低くなり、私たちは巨大な、百メートルのお針≠見あげた。ゴワゴワの岩の尖塔である。かなりの数のカモメが飛びたって旋回する。それにまじって一羽の鳥がゆっくりと飛んでいく。
船長が、しゃがれ声で
「珍しい鳥だ。オサドリです」
といった。
私が
「アホウドリじゃないの?」
とたずねる。
船長は頭をふり
「アホウドリは鳥島にいます。いまのはオサドリですよ。なかなか見られない鳥です。珍しいんです」
といった。
船長さんと栗の花君はいそがしくはたらきはじめる。船の速度をぐっと落し、船の両側につきだした巨大な孟宗竹に糸をつけてヒコーキを流す。ヒコーキはパシャパシャと水しぶきをあげて走りはじめる。その前後に何本かの、それぞれ色のちがうバケがついている。ヒコーキのたてる水しぶきと音で小魚が群れているのではないかと魚が近づいてきて華やかなバケが踊ったり、泳いだりしているのを発見してガブリと食いつくわけである。スパンカー(後帆)のマストにくくりつけてあるもう一本の孟宗竹にロープをつけて栗の花君はおよそ一メートルはあろうかと思われる複葉のヒコーキを海にほうりこんだ。これのうしろにはカグラつきのビニールのイカが凄い大鈎をかくして泳ぐのである。大物用のバケである。さっそく私も一個借りてダクロンの道糸のさきにつけ、ヒコーキとヒコーキのあいだへ流した。トローリングらしいトローリングは今日がはじめてだから、アタマで独学でおぼえた理論≠ェ輝く惑乱のさなかでうまく実践にうつせるか。どうか……
陽が澱みも埃りもなく輝き、積乱雲の綿のような城がそびえたち、水の美しさったら、夏のエーゲ海のあの水だ。深い、澄明な紺青だが、華麗にはしゃぎたち、晴朗をきわめているのに深沈としている。指をつけたらインキが染《し》みつきそうな≠ニ誰もが口にしたいところだけれど、古今東西、あらゆる巨匠も職匠もついにこの色は再現できなかったのではないか。宋代の壺の青も、シャルトルのステンドグラスの青も、ダニュービアン・ブルーも、ネイヴィー・ブルーも、まだまだこの豊饒の虚無にはおよぶまい。陸でこの色を見ようとすれば、ひょっとしたら白人の眼にしかないのかもしれない。それも何十万人か、何百万人に一人、あるかないか。そのような稀れさであるのかもしれない。その人も生涯に一度か二度の瞬間にしか宿せないのであろうし、宿したことを自身も知らず、他者にも見られないですぎてしまうのであろう。人にも事物にも見られないとすれば南極か北極かの空を見るしかあるまい。そのようなものだろうか。
岩のまわりを三周か四周したとき、とつぜん軽くトンと当りを感じた。瞬間、竿をたてた。ドシンと手ごたえがあった。すかさず両手で竿をつかんだまま大のけぞりにのけぞった。そこできまったらしい。魚が逸走しはじめた。ジーッとリールが鳴って糸がすべっていく。走らせるだけ走らせること。魚が止まるまで待つこと。それからファイトをはじめる。けれど強力無双。剛竿がジワジワとたわみ、竿にひかれて体がゆっくりとひとりでに起きあがりそう。
「やった!」
「かかった!」
「天のお助け!」
「サワラだ!」
背戸君、浦君、船長、栗の花君、めいめいの短い、つまった声が頭上を飛びかっているが、私は竿にしがみついて悪戦苦闘。ファイティング・チェアもロッド・ホルダーもなく、ハーネスを着ないで、ただ革のロード・ベルトに竿尻をたてて、そこだけを支点にして体をたてたり倒したりしなければならない。しかもそのあたりには桶だ、樽だ、木箱だところがっているので、体をねじって倒さねばならず、竿の穂さきがスパンカーのロープや腕にひっかかってしかたない。やりにくいったらない。けれど、何合めかでとうとう魚が力の限界に達してこちらを向いてくれてからは楽になった。えっちらおっちらだけれど糸は確実にリールに巻きとられてすべらなくなった。
「……お願いします。手鈎を」
魚を舷側に寄せきってから声をかけると、栗の花君がギャフを海へとばし、なかなか手練の業で魚をひっかけ、エイ、エイと声をかけながら船へひっぱりこんだ。オキサワラである。みごとな紺青と銀に輝く腹に幾条もの縦縞があり、その巨口にはギザギザの凄い歯列。どたんばたんと跳ねまわる。船長が大きな木槌をふるって頭を一発か、二発。魚がふるえる。ひきつれる。血が飛ぶ。
船長は木槌をふるいつつ
「おれがわるいんじゃねえけどヨ」
そんなことを呟く。
満願成就。
しかし、恩寵は短く、幸福は永続きしないものである。私が一本揚げ、船長が二本揚げたところで無線が入り、東支那海へ逃げた台風14号がふたたびもどってきて明晩あたりひどい荒れになるから全船団ただちに現場を離脱して帰港して下さいという。逃げたはずの台風が力を盛りかえしてもとへ舞いもどるというのはあまり聞いたことのない話だが、何でも熱帯性低気圧になって衰えたところを中国大陸からおしだした高気圧に張りとばされたらしい。近頃は耳にしなくなったようだが何しろ≪東風ハ西風ヲ圧ス≫をスローガンにしている大陸のことである。弱った台風をおしもどすくらい、朝飯前か。
「ひどいシケなんですか?」
「15だといいます。15の台風といえばこの船だと進めない。遭難です。こちらへくるまでに弱ったとしても12か13ぐらいでしょう。それだってえらいことになります。いまから全速で帰ったら明日の朝か昼までには八丈にもどれるでしょう。それは大丈夫ですが」
「じゃ、帰りましょう」
船長は操舵にもどり、いま着いたばかりの船をもとの航路へもどす。栗の花君はヒコーキを一つのこらず引揚げて店仕舞いにかかる。私も、しようがない、リールを竿からはずし、袋にしまいこむ。エンジンの音はふたたび高くなり、孀婦岩は見る見る遠ざかりはじめる。尖塔が岩塊になり、岩塊は影になり、影は寡黙な感嘆符となり、永く水平線上の点としてあってからのち、ふと気がつくと、消えている。水、また、水。雲。空。太陽。
浦君が呟く。
「魚をあげるまでに何分かかりました?」
「おれにはわからない」
「私の感じでは十分ぐらいでした」
「そんなもんだろうね」
「往きに二十五時間、帰りに二十五時間。合計五十時間でんナ。ノンストップで五十時間ゆられっぱなしで、それで十分でっか?」
「そんなもんだよ」
「しんどいもんですね」
「釣師の人生はきびしいのさ」
「ようわかりました」
「何しろ、聖域だからね」
「まさに聖域ですね」
神与え給い、神奪い給う。
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古拙の英知 古代釣りの愉しみ
ひねもす部屋にたれこめて白い紙をまえにして言葉や、観念や、イメージをいじっていると、よしなしごとに思いが拡散し、凝縮し、また拡散して、あやしく物狂おしくなってくる。折から季節は梅雨とあって狂人の額のように空が墜ちて軒先に迫り、しとしと、べたべた、じとじと。森羅万象にカビが生え、わが豆腐じみた、やくざな脳の表皮にもカビがびっしりと生え、その荒涼とした光景がまざまざと眼に見えてくる。菌糸がからみつくような雨季の憂愁についてはアフリカでも東南アジアでもずいぶんきたえたつもりだったが、心は多頭の蛇のようにどれだけおさえたつもりでもいつも手から逃げのびて新しく甦るから、やっぱり胸苦しさは初体験のように迫ってきて、姿勢を崩しにかかる。
そこで、某日、心の獄から逃げだそうと、リュックサックを背負って上野駅へいき、東北本線に乗りこんで仙台までいく。そこで下車してタクシーをひろい、石巻までいく。この小さな町のはずれに楠本政助という人物が住んでいる。一年前に対談を二時間ほどしたことがあるだけという関係なのだが、その志と行動に私は惚れていて、お愛想ではなくて一度いっしょにぜひやってみましょう、お願いしますと、対談のあとでたのみこんだのである。人物は自信満々、ニコニコと笑って、快諾してくれたので、それだけをたよりにして、今日、でかけていくのである。この人、生計は東北の田舎と漁村をまわり歩いて医薬品のセールスをして得ているのだが、そのかたわら少年時代から趣味で考古学に没頭し、ひたすらその一途にうちこみ、いまでは趣味≠ェ本職≠ニなる水準に達したかと思われる研鑽ぶりである。繩文時代の出土品の釣鈎とそっくりおなじものを当時のまま石片で鹿角をひっ掻いて作り、釣糸もまた当時こうであったろうと推察される地元の野草から作りだして、それを手製の鈎にくくりつけて、ほんとに魚が釣れるかどうかを試し、みごとな成果をあげているのである。この人は自分のそういう行為を実験考古学≠ニ呼んでいる。わが国には現在ざっとかぞえて千万人から千五百万人という厖大な数に達する釣師がいるとされていて、糸、竿、リール、鈎などの生産額は毎年たいへんな数字に達し、伸びつづけているのだが、繩文時代の手作りの鈎で釣っているのはこの人だけではあるまいか。
売春は≪世界最古の職業≫と呼び慣らされている。この職業≠フ深遠な本質では、それがしばしばただの仕事≠セけではないプラス・アルファがあるために、塩売りとか布売りなどとちがう眼で眺めなければならないという一点がある。おそらく古代のそれは、それ以後から現代にいたるまでの金で女を買うという観念からはずいぶんズレたものであって、はたして現代の言葉で売春≠ニ呼ぶものとおなじに扱っていいかどうかについては議論がわかれてくるだろうと思う。しかし、おそらく当時だって、塩や、毛皮や、コハク、そういうナニカを持っていったら声低くイエスとか、ウイとか、ハイとかつぶやいて優しく村はずれの森へきてくれた女はたくさんいたにちがいあるまいと、誰しも想像したくなるところである。そしてそれがただの物々交換にとどまらない、何がしかの感情をともない、それを必須とし、またそれがなければどうにも面白くない営為であっただろうということは、ヒトの大脳の容量が当時と現在とまったくおなじという事実からしても察しをつけたくなるのである。毛深い時代にアレがアレだけだったらつまらなかっただろうと思うのは、毛深くなくなった、蒼白な現代でもアレがアレだけだったらアホらしいと感ずるのとおなじことだろうと、やっぱり、思いたいわけである。
いっぽう釣りもこれに似たところがあって、ただやたらに魚をたくさん釣って女房や子供を養うためにだけ毛深い男はいそしんだのではなく、もちろんそのために必死の知恵や工夫は凝らしただろうけれど、同時に、釣りそのものをたのしむという感情もおびただしく、ひそやかに内燃していただろうと察したいのである。そんなことを考えながらアメリカの釣り雑誌を読んでいたら、やっぱり似た想像にとりつかれた考古学者がいるらしくて、売春と釣りはどちらが古いかという研究に没頭しているのがいるという記事がでていた。サスガ、と私は口にだして小さく叫びたくなったのだが、釣りは遺跡から釣鈎がでてくるから、それを年代測定機にかけたらたちまち時代を割りだすことができるだろうけれど、もう一つのほうは証拠≠ェ何ものこっていないはずだから、どうなるのだろうと思った。その後、この考古学者の研究がどういう本になったのか、まだ聞いていないから、残念なことでもあり、ちょっと気がかりでもある。
楠本氏の永年にわたる研究は色気ぬきである。この人は青年時代前半期に繩文時代の考古学では釣鈎の研究だけがなされていないかひどく手薄だということに気がつき、ことにどうやって当時それが作られたか、再現の実験などは誰もやっていないということを発見して、ヨシ、オレガと発奮するのである。石巻周辺の遺跡からは鹿の角で作った鈎がたくさんでてくる。それを作るのに使ったと思われる石刃や石斧の原材料である頁岩《けつがん》その他の石もたくさんある。釣糸の原材料となったと思われるカラムシ(イラクサ)はそこらにいっぱい自生して茂っている。そこで、硬い石をひろってきて、より硬い石でそれを砕いて刃を作り、鹿の角を買ってきて、チクチク、ゴシゴシと削りにかかる。
ひとくちにそういっても、これはたいへんな忍耐と努力を要することだろうと思う。陶器のように硬いと見える鹿の角をただの石片で削り、しかも出土品の鈎と形も大きさも寸分たがわぬものに仕上げなければならないのだから、まったく楽ではない。そのうちにふとしたことから鹿の角は水で濡らして削るとずっと楽にやれるとわかったし、死角と生角のけじめも見ただけでつくようになり、鈎にして海で使ってみると生角のほうがはるかに丈夫でもあれば有能でもあるとわかってくる。天然の角は水につかると筋があらわれてきて、それが金色に光ったり、ピンクに光ったり、青く光ったりすることがあり、たいそう魚をひきつけるのである。生角だと死角よりもこの筋のでることがはるかに多いそうである。湘南海岸で投釣りのときに使う弓角は牛の角で作るけれどおなじことが論じられているし、トローリングに使うバケ(擬似餌)の頭につけるカグラを貝や牛角から自分の手で作っている大阪の中田利夫氏も私に会うたびにおなじことを教えてくれるのである。
「……だから、いい鈎にあたって、しかも食いのたってるときなら、餌をつけなくても、鈎をしゃくるだけでネウ(アイナメ)がとびついてくるんです。何度もそういうことがありましたね。イカの場合、これはちょっとイタズラして赤い糸を繩文鈎につけてやってみたんですが、手がしびれるくらい釣れましたよ」
楠本氏がそういうのを聞いていると、私としては、何の疑問も生じない。そうだろう、そうだろう、とうなずける。天然の材料は機能のほかに思いがけない含み味をいろいろとひそめているものなのである。
釣糸はというと、これまた手作りである。イラクサを刈ってきて湯につけ、表皮をとってからつぎに水につける。そうすると酵素が殺されて腐敗が起らなくなるのだそうである。こうやってぬきだした繊維質のものを陽干しにするとシュロの毛のようなものとなる。それを手で撚りあわせるとゴワゴワしてタコ糸にそっくりの太さだが麻の頑強さを持つ糸ができる。これに繩文鈎を結びつけると仕掛の出来上りである。
繩文鈎はなかなかよくできていてチモト(糸を結びつける部分)に溝が彫ってあったり、小さなコブを作ったりして、糸が結びやすいよう、ぬけおちないようにちゃんと工夫してある。楠本氏の小さな書斎にはたくさんの出土品が丁重に保管されているが、繩文鈎も種類がたくさんある。アグ(アゴ。モドリ。逆棘)のあるの。ないの。それが鈎先の内側にあるの。湾曲部の外側にあるの。またどういう目的からか、軸の長さと湾曲部の長さとがおなじになっているのもある。
アグは鈎につけた餌が水のなかでぬけおちないように、また、かかった魚が逃げられないようにという必要から作るものだが、アグなしの鈎もたくさんある。これは浅いところでたくさんの魚を次から次へと釣りあげるときに魚の顎からすばやく鈎をはずせるようにわざとアグなしにしたものではないだろうかと、楠本氏は想像している。または、アグは工作がめんどうだからつけなかったのではなく、浅場の釣りには必要がないからつけなかったまでのことではないだろうかと想像している。アグつきの鈎とアグなしの鈎は同じ地層で発掘されるが、数からいうとアグなしの鈎のほうがはるかに多いのだそうである。
さて。
翌朝三時。まだ空の暗いうちに楠本氏の自動車に乗って石巻市をでると、佐須浜という漁村へいき、そこから漁船に乗って沖へでる。楠本氏。夫人。毎日新聞の石巻通信部の藤岡記者。この人には本日の実験≠フ生証人となってもらうのである。船頭さんは縁起をかついで舟が漁港をでるとき、舳《へさき》とその両側にチャポチャポと酒をぶっかけた。夜は明けたけれど今日はどんよりと曇っていて水も暗い。しかし、このあたりは多島海であって、行手のあちらこちらに大きいのや小さいの、たくさんの島がつぎつぎとあらわれる。それらの島はたいていこんもりとした松林に蔽われているので、風景に静穏な気品の高さが感じられる。
しかし、楠本氏にいわせるとこの海も十年前にくらべると水がすっかり汚れ、魚の数もめっきり減ったうえ、年々増加一途の釣師にこすられてすっかりスレてしまったとのことだし、船頭さんは船頭さんで、往き来の舟の数がおびただしいものだから魚がエンジンの音におびえて沖へ散ってしまったのではあるまいかという。日本全国どこへいっても聞かされる暗い話をここでも聞かされるのである。銀座≠ニいいたくなるようなこんな海で太古の鈎がキクのだろうか。おそらく当時、魚はもっと岸近くに、もっとたくさん、もっとスレないで棲息していたにちがいないからあんな眼をむいたような鈎でも釣れたのだろうが……
そのうちにある場所へきて、魚探をのぞいていた船頭さんが、ここだ、ネウ(アイナメ)がいる、流し釣りでやってみましょうという。楠本氏と私はさっそく繩文鈎に餌をつける。このあたりの餌はエラコというモゾモゾ、ネバネバした海のミミズである。ゴカイのように裸で砂のなかにもぐりこんでいるのではなく、一匹ずつが妙な管をつくって、そのなかにもぐりこみ、それが何十匹となく海藻のかたまりのような団地をつくって暮している。その一本ずつの管をちぎって指でモズモズとおしていくと、はしっこから頭がおしだされてくる。体はグニャグニャでやくざだけれど、頭に関節めいた筋のついた、ちょっと固い部分があるので、そこへ鈎を刺す。三匹も四匹も房がけにして刺すのである。
船頭さんの使うふつうのアィナメ用の金属鈎とこれとをくらべてみると、鈎の太さといい、大きさといい、ポケット・ナイフと出刃包丁ぐらいのちがいがある。ハリスの糸はゴワゴワの麻同然のものだし、鈎の先端はこれ見よがしにヌッとつきだしたまま。ハリスは細く透明でなければならず、鈎は鋭く、細くなければならず、万事魚の眼につかないようにつかないようにと気を配るのが釣りの常識だが、その眼で繩文鈎を見ると、ことごとく常識を無視していて、図太いというか、破廉恥というか、いっそ天真ランマンと呼ぶべきか。テレくさくなるようなマンガぶりである。それを海底までおろし、おちついたところでちょいとリールを巻いて底を切り、ひょいひょいとしゃくりなさいとのこと。
いわれるままにやりかけると、一足さきに竿を入れた楠本氏が右舷でふいに、釣れた、釣れたと声をあげる。たったいまおろしたばかりなのにもうかかったらしい。グイグイとリールを巻きあげ、道糸をつかんで甲板へひっぱりあげたのを見ると、四十センチくらいの、腹のどっしりとふくれた、立派なアイナメで、その口には図太い繩文鈎がみごとに刺さっている。
「……どうです。釣れたでしょう。信じる気になりましたか。信じられますね。これはまぎれもない事実ですよ。信じて下さいね。二千年前の鈎でも立派に釣れるんです」
楠本氏は魚をぶらさげ、眼をいきいきと輝かせて、口早にそういって大笑した。私はあっけにとられるやら、感動するやらで、とっさに言葉がでてこなかった。みごとなものである。たしかにこれはまぎれもない事実である。あっぱれ、いくつもの釣りの常識がみごとに粉砕されてしまった。かたくなに私たちが常識≠ニ信じこんで疑おうとしないいくつものことがウソ≠ゥ、それに近いものなのだということが瞬間に立証された。
つづいて楠本氏はエラコをつけかえ、おなじ繩文鈎でもう一匹、さきのよりは少し小さいのを釣りあげた。十分もかからないうちに二匹。ほとんど入れ食い≠ニいってよい印象であった。繩文鈎の第一号の手作りが四苦八苦のうちに完成したのはたしか昭和三十四年だったと聞いているから氏はそれからもう十六年もこの鈎で魚を釣っているわけで、まさに原始釣りのプロであるわけだが、それにしても立派なものだった。感に耐えていると、ふいに私の竿さきがビクッとひきこまれた。すかさず穂さきをあおると、モクモクと糸のふるえる気配。
「きた! かかった!」
声をあげてグイグイとリールを巻きたてると、当歳仔か二歳魚と見たいような小さなのが海面にあがってきた。アイナメは底魚だから口はどちらかといえば大きいほうだが、この魚の口に繩文鈎は図太すぎると思えるのにみごとに横ぐわえしていて、鈎はグサリと唇をつらぬき、眼のはしまでをつらぬいている。魚は餌にとびつくと斜め下方へ走るか、横へ走る癖があるので、鈎のかかる場所はたいていおなじなのだが、このアイナメも例外ではなかった。鈎と口とどちらが大きいだろうかと思いたくなるような小魚なのに、口いっぱいに頬張って、釣られてしまった。私は感動をおぼえた。これはあまり類のない感情であり、近頃稀れな歓びであった。
太古の鈎と糸で魚を、それも現代日本の悪ズレした魚を釣るなんて、めったにあるものではない。釣れた魚の大小や匹数は、この際、あまり問題にはなるまいテ。釣師も作家も処女作にすべてがあるのダ。一匹釣るのと十匹釣るのと、そのあいだにある差は、一匹も釣れないのと、一匹釣るのとのあいだにある差にくらべると、心に食いこむ鋭さがひどくちがうものである。ことに近年の私の釣りはルアー・フィッシングであって、これはとても餌釣りにくらべれば数を争える性質のものではなく、そのことに私はすっかりなじみきっているから、この一匹はまことに貴重であった。そして、これがまぐれであったかどうかは魚に聞いてみるしかないけれど、そのことについてなら、数年前に私は、戦場に流れ弾≠ニいうものがないように釣りにもまぐれ≠ニいうものはないのだという原理をうちたてているのだから、まったくこれはまぐれなのではなく、そう思えば心ほがらかに澄んでのびのびとしてくるのである。
それからあと一日かかって船はあちらへいき、こちらへいきして、ポイント、ポイントで流し釣りをやり、金華山沖までいったのだが、空が晴れて、陽と水がのびやかに輝き始めると、東京から持ってきた狂人の額と脳のカビが消えて、私はとめどなく眠くなってきた。船のゆらゆらがちょうどいいリズムになって、とても眼をあけていられなくなった。
昼飯時になってゆり起され、釣ったアイナメを船頭さんに味噌汁に仕立ててもらったが、それをすすっておなかがあたたかくなると、またまた霧がたちこめたようにとろとろしてきて、あぐらをかいてすわっていることもできなくなった。サイゴンの闇市で買ったバックパッカー式の米軍の特殊部隊用のリュックサックに頭をもたれさせると、副作用のない麻薬をうたれたような無辺際の昏睡にとめどもなく沈んでいき、開ききって、蒸発してしまった。
石巻市へもどって楠本氏の書斎であらためて繩文鈎の数かずを手にとって眺めていると、さまざまな感想が湧いてくる。ひとくちに繩文時代といってもそれは二千年前から一万年前にまでわたる広大な時間域なのである。しかし、そのあいだにこの近辺の地理、天候、潮流などに大激動があったという証拠はのこっていないらしい。アイナメはやっぱりアイナメでありつづけ、スズキはスズキでありつづけたことだろうと思われる。ただし、魚影はお話にならないほど濃かっただろうし、魚体は大きかっただろうし、人や糸や釣鈎に警戒することは、はるかに少なかったことと思われる。
それでも出土品の鈎にはいくつもの種類があり、さまざまな変動があることを見ると、われらが御先祖様は勤勉で、手先が器用であり、ずいぶんああでもないこうでもないの工夫心と発明心に富んでいて、それを実践に移さずにはいられなかった人びとであるらしいなという想像がまざまざとわいてくるのである。つまり現在の日本人の気質と心性のまぎれもない原型が読みとれるようなのだ。ただ出土品を観察するだけではすまされなくて、それがどうして作られたかを当時の素材のみによって立証して見せた楠本氏の執念深い格物致知≠フ精神はみごとなものと私には思われる。この一点で私は感動するのである。観念に安住しないで、ひとつひとつ、鹿の角や石片によってまっとうに疑いつつ、信じつつ進んでいった、あくまでも事物と事実に忠実であろうとするその気魄に私はうたれるのである。
同時に、鹿の角から炭素鋼にいたるまで、無限に釣鈎は太古から材質が変化しつづけたけれど、変化したのは材質だけであって、基本的なデザインでは現在も二千年前もほとんど変ることがなく、釣鈎に求められるいくつものことはとっくの昔に知られ、完成されていて、あとはただ材質の変化があったにすぎず、デザインの完成のみごとさのことに思いをいたせば、はたしてその変化を進歩≠ニ呼んでいいかどうかについては疑わしいかぎりであるという感想にも到達するのである。
まつりごとといろごとは変れば変るほどいよいよおなじだという名言があるが、何も男女間のことと政治だけがそうなのではあるまいということが、よくわかった。説教と口説きと材質は変り続けるけれど、三者とも、本質のところで変るものは何もないのである。一日のアイナメ釣りから得た感想にしてはこれは広大でありすぎ、短絡されすぎたものだということは承知しているつもりだが、確固とした事物があらわに声なく訴えてくるものを拒むことはできないことなのである。
パンツや丸首シャツの行商をして漁村から漁村へわたり歩きつつこの格物致知の気魄を持続しつづけ、石片と鹿角にひたすら取組んだ楠本氏の執念と忍耐に私はうたれる。それはやっぱり、なかなかのことなのだ。
いい小旅行であった。
附 記
◎文中にシカの角のことについて、生角≠ヘ鈎にするのにいいが、死角≠ヘよくないとある。生角≠ニいうのは生きている、またはハンティングなどで死後すぐのシカの頭からとった角ということである。季節がくるとシカの角は古いのが落ちて、新しいのが生えてくるが、こういう落角≠ヘ死角≠ナあって、鈎にすると、もろくていけないのだそうである。
◎また、生角≠ナ鈎をつくると、死角≠謔閧烽ヒばり気があって柔軟で、とてもいいのだが、海水につけてしばらくするとグンニャリしてくる。そこで楠本氏はさんざん考えたあげくこの鈎に焼き≠入れることを思いついた。フライパンに油を入れて、鈎をイタメてみたのだそうである。すると、鈎は硬くなり、水を吸いこまず、とても調子がよくなった。奇妙なことにこのときの油はバターよりはゴマ油のほうがいい。動物の油よりは植物の油のほうがいいのだそうである。
◎ためしに大学で考古学を勉強している学生につくらせてみると、一本の鈎を角から切りとって石刃だけで仕上げるのに、七時間とちょっとかかったとのことである。慣れてプロになればもっと短縮されるはずである。古代には魚もたっぷりいただろうが、時間もたっぷりあったにちがいないから、当時の釣師にとってはいい手仕事だったと思われる。
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後 記 完本・私の釣魚大全・あとがき
釣師のあいだにはいくつもの心得≠ニいうか、タブーというか、そういうものがある。たとえば釣場へいったときには同行の仲間に一身上の苦悩などを打明けるものではないとか、下界での仕事の話はしないものだなどである。せっかく晴朗な渓流まで遠出してきたのだから自他ともに気分を毒してはなるまいとする配慮からである。こういうことは何も釣りだけにかぎったことではなく、ゴルフでもスキーでもいえることだろう。しかし、そのほかに、釣りには、『釣人不語』(釣師は語らないものだ)などというコトバもある。逃した大魚のことをしゃべるなというのか、法螺を吹いてはいけないというのか、穴場はけっして他人に教えるものではないというのか、それとも、万事静寂に終始せよという戒言なのか、さまざまに解釈できる。
私は小説家だが、釣りの本はこのほかに『フィッシュ・オン』というのがあって、書くことは語ることにほかならないのだから、釣人不語などといいつつ二冊も書いているあたり、すでに釣師として失格だろうと思っている。『輝ける闇』という作品を書きおろしで執筆しているとき、何カ月となく部屋に閉じこもったきりだったので、足から力がぬけてクラゲみたいになってしまった。そこへ『旅』から声がかかって、釣りの旅を毎月やりませんかという提案だった。そこで三神君と二人であちらこちら釣歩きをして、毎月、同誌に連載した。それがたまたま池島信平氏の眼にとまり、面白い、面白いという同氏にそそのかされるまま文藝春秋から本にして出版してもらった。
釣歩きをしたのが一九六八年のことで、本になったのは一九六九年のことである。私としては運動のつもりでほんの気軽にはじめたのだが、以後、釣りが病みつきとなり、六九年にはアラスカをふりだしに地球をほぼ半周する旅行をやってのける発熱ぶりとなってしまった。この旅行のことは『フィッシュ・オン』(新潮文庫)という本にカラー写真入りでまとめた。『私の釣魚大全』はその後絶版になったのだが、ちょいちょい読みたいと訴えてくる人があり、文藝春秋出版局も面白がって、(新装版で)再刊しようという過分の御好意。私としては釣技も未熟なら文体も醗酵不十分と思い、何しろ書きおろしに頭と心を奪われているさなかに余技もいいところで書きとばしたものだから、イタズラが好きだった池島氏の御好意で本にしては頂いたものの、恥しい思いであった。そこで、その後の釣り修業のいくつかについての新稿を増補して、エイ、毒食わば皿までと居直って、またまた釣人不語のタブーをやぶることにした。そうやってタブーを何度かやぶって、では釣りの腕は上達したのかというと、これは読んでおわかりのとおり。≪釣魚大全≫というたいそうな表題が夜泣きしようというモノ。
『釣魚大全』の宗家はごぞんじウォルトン卿だが、あるときロンドンを何の計画もなく、気まぐれに名所探訪で歩きまわっていたら、まったく偶然に一枚の銅板に出会わしたことがある。それはたしかフリート・ストリートのどこかだったと思うが、ウォルトン卿が晩年にロンドンで釣具店を開いていたという場所であったと思う。その記憶は正確ではないのだけれど、銅板に彫りこんであった一句に眼を奪われ、いまだにその字体と、銅板に射していたおぼろな冬の午後の日光がありありと思いだせるほどである。それは、"STUDY TO BE QUIET"というのである。『おだやかになることを学べ』というのである。いかにも卿にふさわしい一句で、いつか井伏さんと酒を飲みつつ、この話を申上げると、なるほどと呟いて、しばらく感じ入っていらっしゃる横顔であった。私の釣りは技も心もまだまだこの一句から遠いところにあり、むしろ川岸にたつと、おだやかどころではなく、いよいよ心乱れてならないのである。
いつになったら一句に出会えることやら。
一九七六年一月 某夜
[#地付き]著 者
まずミミズを釣ること 『旅』1968年1月号
コイとりまあしゃん、コイをとること 同2月号
タナゴはルーペで釣るものであること 同3月号
ワカサギ釣りは冬のお花見であること 同4月号
カジカはハンマーでとれること 同5月号
戦艦大和はまだ釣れないこと 同6月号
タイはエビでなくても釣れること 同7月号
根釧原野で≪幻の魚≫を二匹釣ること 同8月号
バイエルンの湖でカワカマスを二匹釣ること 同10月号
チロルに近い高原の小川でカワマスを十一匹釣ること 同11月号
母なるメコン河でカチョックというへんな魚を一匹釣ること 同12月号
井伏鱒二氏が鱒を釣る 新稿
ツキの構造 新稿
高原の鬼哭 駒込川のイワナ 『旅』1974年9月号
探究する 最上川河口のスズキ 『潮』1974年10月号
遂げる 孀岩のオキサワラ 『潮』1974年11月号
古拙の英知 古代釣りの愉しみ 『文藝春秋』1975年9月号
〈底 本〉文春文庫 昭和五十三年八月二十五日刊