とある魔術の|禁書目録《インデツクス》16
鎌池和馬
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【テキスト中に現れる記号について】
《》…ルビ
|…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)いつまで母性の|塊《かたまり》に甘えているのよーっ!!
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底本データ
一頁17行 一行42文字 段組1段
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とある魔術の|禁書目録《インデツクス》16
ローマ正教の暗部『神の右席』後方のアックアがついに動いた。『聖人』の力『神の右席』の「特性」を併せ持つその最強・最悪の敵は、|上条《かみじよう》|当麻《とうま》の「右手」を狙い学園都市に侵入する。
アックアの宣告を受けたイギリス清教は、上条のもとに天草式十字凄教の五和をボディガードとして派遣していた。上条宅に泊まり込んで護衛する彼女は、圧倒的な料理スキルとかいがいしさをもってして、居候シスター・インデックスの立場すら危うくさせる。そして、それを見た上条の目からは一筋の涙が……。
しかしそんな安息の時も束の間、ついに最強・最大の敵が現れる……!!
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|鎌池《かまち》|和馬《かずま》
15巻は科学メインだったので、今回は魔術メインです。今さらながら、一つのシリーズで色んな事ができる設定だなあと思います。
イラスト:|灰村《はいむら》キヨタカ
狩り専用携帯ゲーム機を買ってみました。この手のゲームはリアル活動に支陣をきたすので良い子は真似しちゃ駄目だぞ? と思いました。
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とある魔術の|禁書目録《インデツクス》16
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c o n t e n t s
序 章 指導者としての立ち位置 Stage_in_Roma.
第一章 平穏から破滅へと続く道筋 Battle_of_Collaps.
第二章 敗北から立ち上がる者達 Flere210.
第三章 桁の違う怪物同士の死闘 Saint_VS_Saint.
第四章 誰が誰を守り守られるか Leader_is_All_Members.
終 章 さらなる騒乱への案内人 True_Target_is......
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序 章 指導者としての立ち位置 Stage_in_Roma.
ローマ教皇には、とある一つの鮮烈な思い出がある。
イギリス清教との会合を行うため、ロンドンへ|赴《おもむ》いた時の事だ。
|旧教《カトリツク》の三大宗派の一つ、イギリス清教のトップはローラ=スチュアートという年齢不詳の女性だった。その女は、確かに巨大組織を束ねるに足る実力を持っていた。何しろ、自らの真意や本音を伏せる事はおろか、議題の隠された主旨や方向性に気づいた時には、すでにその採択が取りつけられているという状況を作り出せるほど、巧みに言葉を使う人間だ。少しでも気を|緩《ゆる》めれば、どんな粂約を取り決められるか分かったものではない。同席したローマ正教側の書記の三名は、|緊張《きんちよう》に耐えかね途中で医務室に運ばれたほどだった。
しかし、ローマ教皇にとって一番鮮烈なのは、そこではない。
問題なのは、会合が終わってから三〇分後の事だった。
場所は聖ジョージ大聖堂の近くにあるランベス宮。イギリス清教の|最大主教《アークビシヨツプ》が住まう官邸の前を、ローマ教皇を乗せた高級車が通りかかった時、信号待ちで一時停止している最中に窓を開けた所、宮殿の方からこんな声が聞こえてきたのだ。
「まーだ九月の始めだと言うのに、かようにクリスマスカードと言うのは大量に届きしものな
のね……」
「クリスマスになってからでは遅すぎます。この時期に届くというのは、それだけ我々の事情を|鑑《かんが》みてもらえている|証《あかし》でしょうね。毎年イギリス中から送られてくる二五万通ものクリスマスカード|全《すべ》てに目を通すのは、それはそれで大変な重労働ですから」
「|他《ひ》|人《と》|事《ごと》みたいに聞こえしなのよ、|神裂《かんざき》」
「さて、何の事やら。それより一二月のスケジュールが決定しました。時期が時期ですから、|最大主教《アークビシヨツプ》にはサンタクロースの格好をして四三ヶ所の児童養護・福祉施設を回ってもらいます。これも公務ですので、どうかご了承ください」
「うむ。鼻血必至の悩殺ミニスカサンタセットはすでに調達できたるのよ」
「ッ!! !? ?? 今、白信満々にウムとか|領《うなず》いて変な事を言いませんでしたか!?」
「いや実を言ふとわたしも恥ずかしゅうて恥ずかしゅうて仕方がなしなのだけれどそこはほれ|敬虔《けいけん》なるイギリス清教信徒のためならば一肌脱がねばならぬといふ断腸の思いでだな」
「物理的に一肌脱いでどうするつもりなんですかこの変態!!」
「ハッ! まさか、ミニスカサンタは変態と呼ばれるまでにお寒く感じられしほどに|旬《しゆん》が過ぎ去りたるものとでも言うの!?」
「いやええと、そういう次元ではなくそもそもイギリス清教の|最大主教《アークビシヨツプ》がミニスカートなどという脚部を大幅に|露出《ろしゆつ》するような衣装を選ぶ事自体に問題が―――」
「フッ。ミニスカサンタ|如《ごと》きでは納得せぬか。やはりサービスショットのグラビア本家は違いたるわね。これぞ、わざわざ日本流の『オン=ガエーシ』で幻想殺しの少年相手に本気で一肌脱ぐ決意を固めた|神裂《かんざき》|火織《かおり》。常に露出度の最前線で戦いける女である事よ」
「やかましいこのド素人が!!」
「ッ!?」
「さっきっから|黙《だま》って聞いてりゃベラベラと!! そもそもテメェがあの子に『首輪』なんて変な術式を組み込まなけりゃ変な所で借りを作ってその恩を返す事もできず|土御門《つちみかど》にからかわれたりもしなかったのに!!」
「かっ、神裂? 神裂さーん……? あの、ええと、先ほどから口調がおかし―――」
「言葉遣いに関してテメェにゴチャゴチャ言われる筋合いはねえこのクソ野郎!!」
「ッ!? いっ、今ちょっと聞き捨てならない事を言われしような……よっ、ようし|叱《しか》りけるわよ。コラ神裂!! 仮にもイギリス清教のトップに向かいてその口ぶりはいかがなものなりしなの!?」
「黙れド素人が……。私は決めたんです。海の家で土御門の変態野郎にゲラゲラと爆笑された時から、|全《すべ》ての元凶はこのバカ女であり、このバカ女さえいなければ恩返しとかいう話もなかったのであり、従ってもうこのバカ女を尊敬するのはやめようってなァあああああああああああああああ!!」
「ひっ、ひいいい!? すている、ステイルーっ!!」
どんがらがっしゃーん、とランペス宮の方から、やけに軽快な|破壊音《はかいおん》や楽しげな悲鳴が飛んでくる。
|礼儀《れいぎ》作法で言えば間違いなく赤点と評されるし、身分や階級というものを考えればまずありえない会話の|応酬《おうしゆう》だった。そもそもランペス宮という秘中の秘とも呼ばれる聖域から、|魔術師《まじゆつし》同士の会話が表まで聞こえているという事自体がすでに問題でもある。現に、近くを歩いている子供連れの主婦は彼女|達《たち》の声に最初|驚《おどろ》き、それからくすくすと笑って通り過ぎている。
何もかもが不可解。
だが、そこには笑顔しかなかった。
年齢による差異、力による上下関係、信仰による威光と威厳、それら全ては取り外され、ただただ平等な世界が広がっていた。
多数の護衛に守られ、黒塗りの高級車の後部座席に腰を沈めていたローマ教皇は、その光景を|呆然《ぼうぜん》と眺めていたものだ。
とても聖ジョージ大聖堂で世界を動かす会合を軽々とこなしていた女性とは思えない。しかしそれでいて、十字教としての教義から圧倒的に外れているとも思えない。そう、あらゆる信徒を見守る父は確かにこう言った。|隣人《りんじん》を愛せと、人類は皆兄弟であり、主の前において全ては平等であるのだと。それは、まさしくこういう事ではないのか。
年齢や地位を重ねるごとに難しくなる事柄。
ただ目上の者が乎等に接してやるのではない。ただ目下の者が相手を怒らせないように振る舞っているのでもない。ローラ=スチュアートはどんな相手ともケンカをし、悪態をつき、暴れ、時には少し涙声になる。しかし最後にあるのは笑い声だ。
そんな昼下がりの|些細《ささい》な|喧騒《けんそう》が、ローマ数皇にはとても|羨《うらや》ましく感じられた。
あれがイギリス清教の|最大主教《ア−クビシヨツプ》。
一〇年前でも二〇年前でも……ローマ教皇が初めてイギリスの地を訪間したその時から、年齢不詳のあの女は、ずっとそんな風に笑っていたように、思う。
皆の中で、皆と共に。
そんな|感慨《かんがい》にふけっていたローマ教皇は、現在イタリアの首都・ローマの市街地を歩いている。
バチカンを|離《はな》れ、聖ゴスティーノ教会で軽く講演を終えた帰りだった。バチカンまでの道のりはおよそ一・五キロ。教皇は、ローマ市内で活動した折は、送迎車を便わずに徒歩で移動する事を心がけていた。それば単純に健康面の都合でもあるし、ローマ市内の空気を好んでいるからでもあるし、何より|市《し》|井《せい》の者と少しでも多くの接点を作っておきたかったからだ。
今もすれ違う観光客はギョッと身を固めてカメラを構える事も忘れ、建物の窓には信心深い中年の女性が祈りを|捧《ささ》げている。
しかし、
「……好ましい状況とは言えませんね」
|傍《かたわ》らにいた書記の男がボソリと、ローマ教皇の耳にだけ入る声で告げた。書記という肩書きはあるが、実質的には|武闘派《ぶとうは》の護衛官だ。肩書きを変える事で、『武力を持つ者の入れない場所』でもローマ教皇の|側《そば》にいる権利を得ている訳である。
書記は続ける。
「やはり、徒歩での移動はリスクが高すぎます。今も周辺に複数の護衛を配置していますが、これも万全とは言えないでしょう。移動には術的防護を|施《ほどこ》した車両団を編成するぺきです」
「分かっている」
「『十字教は皆に平等である』という宣伝ならば、|他《ほか》にも効率の良い方法はいくらでもあるでしょう。適切な寄付を行ったのち、児童養護施設や|医療《いりよう》施設を訪間する方が好感度の調整には……」
「分かっていると言っている」
気分を|壊《こわ》されたローマ教皇は、やや語気を強くして、もう一度|繰《く》り返した。
書記は黙る。
ローマ教皇は重たい息を|吐《は》いた。いくら平等を求めても、それが成功しているとは思えない。こちらを見る通行人や観光客は、|驚《おどろ》きや尊敬の|眼差《まなざ》しを向けてくるだけ。かつて見たローラ=スチュアートのような、『輪の中』へ入っている感じが全くしない。
と、狭い路地から|薄汚《うすよご》れたボールが転がってきた。
直径は三〇センチほど。子供向けに作られた、ビニールのようなゴムのような、テカテカした素材の安っぽいボールだった。
ローマ教皇は思わず身を|屈《かが》めてボールを取ろうとしたが、書記の手がそれを|遮《さえぎ》った。ローマ教皇の身動きが止まった時、路地からボールを追って子供が飛び出してきた。この辺りでは珍しい、ストリートチルドレンなのだろう。泥だらけのボールよりも汚れた服を着た、一〇歳ぐらいの女の子だ。
今度こそ、ローマ教皇は書記の手を振り払って、ボールを取ってやろうとする。
しかしその前に、鋭い声が遮った。
「やめて」
見ると、声の主は当の女の子だ。
「そんな大層な服を汚したら、どんな目に|遭《あ》うか分からないから」
その冷たい|響《ひび》きに、ローマ教皇は|雷撃《らいげき》でも浴びたように動きを止めた。その間の女の子はボールを拾うと、まるで暴漢にでも警戒するようにジリジリと|距離《きより》を取って、元来た狭い路地へと逃げ帰っていった。
「……、」
|呆然《ぼうぜん》とするしかなかった。
|隣人《りんじん》を愛せ、人類は皆兄弟であり、主の前において|全《すべ》ては平等である。
その言葉を思い浮かべ、ローマ教皇は深く深く、奥歯を|噛《か》み|締《し》める。
「問題だな……」
思わずポツリと|呟《つぶや》くと、|傍《かたわ》らにいた書記はすぐに|領《うなず》いた。
「ええ、仮にも二〇億人もの信徒を一手に束ねるローマ教皇様に対して、あのぶしつけな言葉遺い。断じて、あってはならない事です。ましてイタリアと言えば総本山だと言うのに……。信徒を名乗るのなら、最低限の質ぐらいは維持して欲しいものですね」
「……、」
まったくもって何も分かっていない書記の言葉に、ローマ教皇はさらにため息を|吐《つ》く。
一体、いつからこんな風になってしまったのか。
もはや、|得《え》|体《たい》の知れない距離感に寒気を覚えるしかなかった。
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第一章 平穏から破滅へ続く道筋 Battle_of_Collapse.
本日の四時間目はとある事情で異様に長引いた。
平凡な高校生・|上条《かみじよう》 |当麻《とうま》を含むクラスの|面子《メンツ》が購買や食堂へ走った時には、すでに後の祭り。|完壁《かんぺき》に出遅れたために購買のバンは|全《すべ》て消滅し、食堂の席も埋め尽くされ、昼休みが終わるまで空く様子もない。トドメに食券販売機は、真夜中の|煙草《タバコ》の自販機みたいに軒並み売り切れランプが点灯中。なんという不幸。この状況も上条当麻が歴史教師に放った一言『へー。じゃあもしも|織田《おだ》|信長《のぶなが》が織田幕府を作っていたら日本はどうなってたんですか?」によって全てが脱線してしまったせいである。
責任を感じた上条が職員室へ直訴に|赴《おもむ》き、ヘルシーざるそばセット五八〇円を|頬張《ほおば》っていた|小《こ》|萌《もえ》先生に『何なら調理実習室を開放してください! 上条定食を開きますから!! 余り物の冷たいご飯と粉チーズとケチャップであら不思議!!」と|懇願《こんがん》するも、先生は苦笑するばかりで応じてくれず。おまけにすぐ近くでウニとイクラのゴージャス|海鮮丼《かいせんどん》をガッツリ食べている数学教師・|親船《おやふね》|素甘《すあま》や、もはやご飯とはあんまり関係なさそうな肉まんを多数消費している体育教師・|黄泉川《よみかわ》|愛穂《あいほ》のせいで、職員室は|無駄《むだ》に|美味《おい》しそうな|匂《にお》いだけが充満し、上条は自分を見
失う前に職員室から逃げ帰る事になったのだ。
「の、残された道はジュースの自販機か……。しかしそれで午後の授業に耐えられるのか……」
食糧難にあえぐのは上条当麻を始め青髪ピアスや|土御門《つちみかど》|元春《もとはる》、この日に限って弁当を作り忘れた|姫神《ひめがみ》|秋沙《あいさ》や通販の健康食品が品切れ中の|吹寄《ふきよせ》|制理《せいり》などを含めた食堂&購買組、男女合わせて二一名。
ここぞとばかりに弁当組がものすごく美味しそうに小さなハンバーグやシューマイなどをもったいぶって頬張る中、彼ら空腹同盟は|遂《つい》に決意する。
「脱走だ!! 脱走してコンビニへ行くんだ!!」
一体|誰《だれ》が叫んだのか。
気がつけば食堂&購買組の男女が円陣を組んで作戦会議を実行する。
こういう時、やはり力を発揮するのは吹寄制理だ。
「全員が|一斉《いつせい》に学校の外に出れば、|流石《さすが》に先生|達《たち》に気づかれるわ。実働部隊は三、四人に的を絞って、彼らに全員分のお金を渡してまとめ買いしてもらう方が成功率は高いのよ!!」
「じゃあ。|他《ほか》の人はどうすれば?」
首を|傾《かし》げる|姫神《ひめがみ》に、|上条《かみじよう》は手を挙げて言う。
「情報をゲットしたり陽動してもらったりと、バックアップに|徹《てつ》してもらうって事だろ。とにかくこの作戦は先生に見つからないようにしないといけない。だからお前|達《たち》の協力が必要なんだ。ケータイは|繋《つな》ぎっ放しにしておけ。情報は最新のものでなければ意味がない」
「よし、どこから脱走するかだけどにゃー」
|土御門《つちみかど》はいらなくなったプリントの裏に、詳細な校内見取り図を描き上げると、
「これが不審者対策の警報関係の位置。こっちの赤外線センサーは夜間だけだから気にしなくて良い。……で、職員室の位置関係を考えると、正面から出ていけばフェンス周辺で即バレする。窓から校庭全体が丸見えだからにゃー。やっぱり基本は裏口からだぜい。ただ、購買のおじさんなども出入りするから、そことぶつかるとすごく|厄介《やつかい》だにゃー」
「なるほど……ポイントは裏口を通るタイミングね。よし、じゃあ役割分担決めちゃうわよ!!」
|吹寄《ふきよせ》の指示で二一人の反逆者達がいくつかのグループに分けられる。上条|当麻《とうま》、青髪ピアス、土御門|元春《もとはる》、吹寄|制理《せいり》の四人が実際に脱走する実働部隊だ。どうやらいつものバカ|騒《さわ》ぎっぶりによって、機敏さを評価されたらしい。
「……でも上条って不幸だけど昼飯任せて|大丈夫《だいじようぶ》なのか?」
「……大丈夫。あいつにはオトリという重要な役割がある」
ボソボソ言うクラスメイト達に上条はゲンコツを振り上げて|黙《だま》らせる。
彼ら全員は円陣を組んだまま携帯電話を取り出し、複数の回線を同時に繋げられるトランシーバーモードに設定し、さらにデジタル時計を秒単位で合わせると、
「―――行くわよ。|作 戦 開 始《ミツシヨンスタート》!!」
パンパン! と吹寄が両手を二回|叩《たた》くと、食堂&購買組が|蜘蛛《くも》の子を散らすようにバラバラに分かれていく。
上条、青髪ピアス、土御門、吹寄の四人は急ぎつつも、『廊下を走っているのを|見《み》|咎《とが》められる』というイージーミスを防ぐため、『早歩きに見えなくもない動作』で廊下を突き進む。
「この作戦は時間が勝負よ」
数人の教師を笑顔でやり過ごしつつ、上条の|隣《となり》を早歩きする吹寄はそう言った。
「お昼のコンビニと言えば圧倒的な|稼《かせ》ぎ時。せっかく外に出られたとしても、コンビニの棚からお弁当が消えていれば元も子もないわ!!」
|下《げ》|駄《た》|箱《ばこ》へは行かない。|革靴《ローフア》と|上履《うわば》きが入れ替わっている事を発見されれば、外出しているのがバレてしまう。靴がないのに校庭で遊んでもいない……というのは割と致命的なのだ。
なので、|一旦《いつたん》別れて別行動していた仲間|達《たち》から体育用の運動靴をゲットすると、代わりに|上履《うわば》きを預ける。校舎から体育館へ繋がる『外にある通路』まで行くと、運動靴を|履《は》いて一気に外へ。後は|誰《だれ》かに|見《み》|咎《とが》められる前にそのまま校舎の裏へ走る。
金属製のフェンスが見えた。
辺りには誰もいない。ネックとなっていた購買のおじさんも見当たらない。
「ようし! このまま一気に脱走するぞ!!」
|上条《かみじよう》は勢い込んでフェンスを乗り越えようとする。
その時だった。
ブッブー、というけたたましいクラクションの音。
振り返れば、そちらには今ファミレスで外食してきた所ですと言わんばかりの|災誤先生《ゴリラ》が。
生活指導が乗っているのはファミリー用の4ドアだが、あれは人間様のために作られたものであって、無差別級のゴリラが乗ると公衆電話みたいに|窮屈《きゆうくつ》に見える。
「チッ!! 教職員の車両用出入りにも裏口が使われる可能性を|考慮《こうりよ》すべきだったわ!!」
|吹寄《ふきよせ》が己の失策に後悔するが、上条が感じたのはそれとは別だ。
彼はただ思った事をそのまま叫ぶ。
「卑怯だーっ!! よりにもよって外食かよ!? あの生活指導の筋肉|猛獣《もうじゆう》、俺達にはあんなキャパ不足の食堂で骨肉の争いをさせておいて、自分だけくつろぎ空間|満喫《まんきつ》済みーっ!!」
「ば、|馬鹿《ばか》カミやん。相手にすんな! ここで捕まったらみんなのお昼はどうなるんや!!」
青髪ピアスの叫びで上条はハッとする。
車を降りて、猛スピードで迫り来るゴリラ教師・|災誤《さいご》先生から逃れるため、上条は金属のフェンスを乗り越えて外へ。吹寄は形勢の不利を感じていち早く別ルートへ逃走を開始し、|土御門《つちみかど》は捕まりそうになった所で青髪ビアスをフェンスから|蹴《け》り落としてミサイル|回避《かいひ》用のフレアに|捧《ささ》げた。
尊い|犠牲《ぎせい》を|無駄《むだ》にしないため、上条と土御門は|敷地《しきち》|外《がい》の道路を全力|疾走《しつそう》する。
土御門は走りながら、後ろを振り返ってギョッとした。
「おのれあのゴリラ教師、青髪ピアスを|締《し》め落としてこっちに走ってきたにゃーっ!?」
「マジでか!? 土御門、とにかく二手に分かれよう! ここで全減する訳にはいかんのだよ!!」
上条と土御門は|頷《うなず》き合うと、生き残る可能性を高めるために、十字路をそれぞれ左右へ突き進む。
|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》|凄教《せいきよう》に所属している少女・|五和《いつわ》は|上条《かみじよう》の高校の近くにいた。
ふわふわした羊みたいなトレーナーの上からピンク色のタンクトップを着ていて、下は濃い色のパンツ……なのだが、パンツは巻きつくような切り込みが入っていて、布地がめくれないように透明なビニール素材を合わせてある、脚の肌色が大胆に|覗《のぞ》くように作られた学園都市最新のデザインだ。住民の八割が学生という|稀有《けう》なこの街の中でも溶け込めるよう細心の注意を払った衣服の選び方だった。ビジネス街ならスーツだし、|繁華《はんか》|街《がい》ならミニスカート。これは五和だけでなく、天草式全体のセンスだった。
五和が学園都市にいるのには理由がある。
今から二日前、イギリス清教と学園都市の上層部へ、それぞれ同じ書面の手紙が届いていた。差出人はローマ正教最暗部『神の右席』の一人、後方のアックア。その内容は、これより上条|当麻《とうま》の粉砕に|赴《おもむ》く。止める気であれば全力で臨むようにされたし……という、一種の果たし状だった。
もちろん|偽物《にせもの》という可能性もある。
しかしイギリス清教に送られた手紙には、学園都市に送られたものとは違って、|信憑《しんぴよう》|性《せい》を補足するために、とある別の物品も送付されていた。
すなわち、左方のテッラの遺体。
『それ』は最高級のビロードに優しく包まれた上で、ほのかに木の香りの漂う|桐《きり》の箱に詰められて郵送されてきた。まるで宝石箱のように|豪奢《ごうしや》な飾りに込められたのは、敵対者に向けた|嘲弄《ちようろう》か、あるいは敬意の表れか。
腰の辺りで寸断された上半身は、確かに『神の右席』の一員だった。
テッラと直接|戦闘《せんとう》した五和は遺体の確認のために聖ジョージ大聖堂に呼び出され……そしてそこで困惑する。
原因は二つ。
一つ目は、テッラは学園都市製の兵器によって、アビニョンで焼き尽くされたはずだが、遺体の死因は明らかに腰の切断面にある。
二つ目は、その学園都市製の兵器すら|凌《しの》いでいたテッラを、こうも軽々と処刑してしまった『後方のアックア』の実力について。
|一撃《いちげき》必殺。
切断された傷口が語るのは、ただその一言。
左方のテッラのカを、じかに戦った|五和《いつわ》は知っている。彼女|達《たち》をさんざんに苦しめ、学園都市が放った大部隊さえも正面突破した『神の右席』左方のテッラの|最期《さいご》は―――体を強引に引き|千切《ちぎ》られる、という|凄惨《せいさん》|極《きわ》まりないものだった。
さらに、疑間もある。
これまでの『神の右席』に見られた|搦《から》め|手《て》の戦術を使わず、|何故《なぜ》古風な果たし状を出したのか。
その果たし状の材料として使われた左方のテッラは、何故アックアの手で殺されたのか。
あまりにもストレートすぎる後方のアックアのやり方は様々な|憶測《おくそく》を呼び、イギリス清教と学園都市は|罠《わな》の可能性も|勘繰《かんぐ》ったが、しかしアックアの真意は|掴《つか》めずじまいだ。ともあれ|上条《かみじよう》|当麻《とうま》を|狙《ねら》ってやってくるというのなら、ここで|叩《たた》いておくのが最良だと判断したらしい。イギリス清教側から、|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》|凄教《せいきよう》が派遣される事になった。
学園都市内部における、|魔術《まじゆつ》|師《し》の集団行動は、本来なら禁じられている。
魔術サイドと科学サイドのラインを割る行為だと定義づけられているからだ。
しかし今回、例外的にその協定は破られた。
五和に詳細は分からないが、おそらくイギリス清教の|最大主教《アークビシヨツプ》と学園都市のトップの間で、何らかのやり取りがあったのだろう。
イギリス清教としては、天草式という独立した|傘下《さんか》の小組織なら都合が悪くなった際にトカゲの|尻尾《しつぽ》切りするにはちょうど良いと考えたのかもしれないし、あるいは元々日本国内で活動していた事から、地の利に|優《すぐ》れていると判断された可能性もある。
ともあれ、本来いるべきではない五和は、現在この学園都市にいる。
それは世界が『学園都市・イギリス清教』組と『ローマ正教・ロシア成教』組に分かれ始めているからでもあるし……何より、後方のアックアというあまりにも巨大な爆弾は、ルールを守るだけで倒せる相手ではないからでもある。
逆に言えば、『科学と魔術のラインを割る事が生むであろう世界的混乱』よりも、『アックア一人が攻め込んでくる』方が|脅威《きようい》だと、学園都市とイギリス清教の双方から受け止められた、という訳だ。後方のアックアとは、そのレベルに達する強敵なのだ。
「……、」
そういう事情があり、上条の護衛役として、五和の参戦も決定した。
と同時に、早急に上条と接触しなければならないものの、そこそこ常識と良識を持っている五和は、|流石《さすが》に授業中の学校へ乗り込むような|真似《まね》はしなかった。今は上条のクラスが良く見える位置で待機し、放課後になってから実行する予定だった。
(……頑張らないと)
むん、と小さな拳に力をこめて、|密《ひそ》かにやる気な五和。
実は数日前のC文書の件では、力量不足のために最後まで上条を守り抜く事ができなかったのだ。その事実を|払拭《ふつしよく》するたためにも、今回こそプロの魔術師として民間人・上条当麻にば指一本触れさせない覚悟を決めたりしていた。
彼女は肩に|提《さ》げたバッグと、その中に分解して|収《おさ》めた|海軍用船上槍《フリウリスピア》の重さを確か吻つつ、(あの人は前方のヴェント、左方のテッラと、すでに二人もの『神の右席』を|撃退《げきたい》しているという話ですけど。でも、私にもできる事はあるはず。だから頑張らないと)
と、その時。
|五和《いつわ》の目の前を、見知った人物が勢い良く横切っていった。
|件《くだん》の|上条《かみじよう》 |当麻《とうま》だ。
「え?」
どうして? と五和は首をひねって、時間を確認する。どう考えても、まだ下校時間ではない。しかも街を走る上条は尋常ではない表情だった。まるで何かに追われているようだった。
何かあったのかもしれない。
わずかに|緊張《きんちよう》する五和の目に、
何やらゴリラのような怪人が上条を追って五和の前を横切るのが見えた。
なんというか、その、アクの強い洋ゲーに出てくる|悪党《ポリゴン》みたいな顔の怪人だった。
五和は上条の事を考え、洋ゲーの顔を思い浮かべ、もう一度上条の逃げ足を確認する。
|あんなの《ゴリラ》がまともな一般人であるはずがない。
百戦|錬磨《れんま》の|猛者《もさ》・上条当麻の表情は恐怖でいっぱいだった。
もぎ取られる、と顔に書いてあるように見えた。
やがて、彼女はこう判断した。
九月三〇日の報告書によると、どうやら後方のアックアは男性であるらしい。
(―――さっそく現れたッッッ!!)
五和は|迅速《じんそく》に|槍《やり》を組み立てると、そのまま一気に洋ゲーへ突撃していく。
健康上の都合により、生活指導の|災誤《さいご》先生は早退されました。
「……うはあ」
放課後、何とかお昼ご飯大作戦をコンプリートした上条はちょっと重たい息を|吐《は》くと、|下駄《げた》|箱《ばこ》で|下履《したば》き用のバッシュに履き替えて校門を出た。と、そこには今も顔を真っ青にしている五和が|佇《たたず》んでいる。
昼休みに|何故《なぜ》か突然現れ、鬼の形相で生活指導へ強烈なタックルをぶちかました五和(槍つき)だったが、何やら彼女なりの早とちりだったらしく、『あれ、後方のアックアじゃ、ない? ええ、学校の先生!? こっ、この顔で教師なんですか!?』とあたふたしていた。
何で|五和《いつわ》が学園都市にやってきているのか、その辺も含めて色々話をしなくてはまずそうだったのだが、五和は目を回しているゴリラ教師を介抱するため、|災誤《さいご》先生の巨体を|担《かつ》いで病院へ高速移動してしまった。
そうして現在に至る。
「わ、私ったら……役立たずにもほどがあります……」
どーん、と病院から戻ってきた五和は真っ暗に落ち込んでいる。
|上条《かみじよう》としては、あのゴリラ教師に捕まったら最後、ウルトラ|破壊《はかい》|力《りよく》を誇る古武術の投げ技でアスファルトへ|叩《たた》きつけられて|汗臭《あせくさ》い寝技のコンボに持ち込まれたに決まっているので、役に立ったか立たなかったかで言えば断然役に立ったのだが、どうも五和の落ち込みポイントはそこではないらしい。
(……一般人を傷つけたかつけなかったか、という所も……あれだよなぁ。落石注意ゾーンで|襲《おそ》いかかる岩盤を両手で受け止めた伝説を持つゴリラが一般なのかどうかはすごく疑問な所だ)
ともあれ上条は、|魔術《まじゆつ》サイドの住人である五和が、何で科学サイドの本拠地・学園都市にいるのかを聞いてみる事にする。
「……後方のアックア、という名前は覚えているでしょうか?」
恐る恐る、という感じで五和はそう言った。
上条の|眉《まゆ》が不審げに動く。
「確か、『神の右席』の一人……だよな。九月三〇日に会った事はあるけど」
そう、学園都市で前方のヴェントを倒した際、そこへ|横槍《よこやり》を入れたのが後方のアックアだ。
『神の右席』の一員でありながら、同時に『聖人』としての資質をも兼ね備えているという人物。具体的な|戦闘《せんとう》能力は想像もつかないが、これまでの敵とは格が違う事ぐらいは分かる。
どこに向かうでもなく何となく|繁華《はんか》|街《がい》の方へ足を向けながら、上条は話しかける。
「その、アックアがどうしたって言うんだ? まさか、またどっかの外国の街で、妙な事を始めようとしているのか」
「い、いえ、そうではなくて……」
五和はものすごく言い|辛《づら》そうに、何度か頭の中で言葉を考えるようにして、やがて言った。
「後方のアックアの|狙《ねら》いは、あなたにあるようなんです」
「は?」
「ええと、イギリス清教と学園都市の双方に、後方のアックアから果たし状が届いているんです。そこには、数日内に上条|当麻《とうま》を……うーん、|襲撃《しゆうげき》するから用心しろ、と」
五和は困ったように、言葉の|端々《はしばし》を途切れさせる。まるで親が子供にするように、刺激の強い部分をごまかして説明しようとしているようだった。
『神の右席』や後方のアックアに命を狙われる……という事の重大さに、いまいちピンとこない平凡な高校生、|上条《かみじよう》|当麻《とうま》は|訝《いぶか》る。
「『神の右席』、か」
上条は少し考え、
「前方のヴェントの話だと、わざわざ|俺《おれ》一人を殺すためにローマ教皇に書類を作らせたり、学園都市を|襲《おそ》ったりしていたみたいだけど。何でまた、ただの高校生一人のためにそんなバカ高い出費を覚悟で襲ってくるんだろうな」
「ひっ!? いえいえいえいえ!! それはあなたがこれまで数々の人を助けたりローマ正教暗部の|企《たくら》みを次々と|阻止《そし》したり色々してきた訳でしてつまり何が言いたいかと言いますともうただの高校生どころの話じゃ」
|五和《いつわ》は何か慌てて叫んだが、良く分かんないけど多分彼女は|天草式《あまくさしき》補正で自分を眺めてくれているのだろう、と上条は適当に結論付けた。おだてられるとくすぐったいが、こっちは|正 真《しようしん》 |正 銘《しようめい》ただの高校生である。|褒《ほ》めたって何も出ないのだ。
「しっかし、前方、左方と来て……今度は後方のアックアか」
「今、英国図書館の方で彼の身元を洗っていますが、今の所、|他《ほか》の『神の右席』のメンバーの情報も含めて、それらしいものは何も出ていないみたいなんです」
「まあ、秘密組織の秘密メンバーだもんな」
「詳細を|掴《つか》めない『神の右席』としての力はもちろん、『聖人』としての力もあるようですから。|女教皇様《プリエステス》の協力を仰げれば良かったんですけど」
|女教皇様《プリエステス》と言うのは|神裂《かんざき》|火織《かおり》の事だ。
彼女もまた世界で二〇人といない『聖人』の一人で、かつては本物の天使と戦って生き残った戦績を誇る。
確かに神裂の協力があれば心強いが、色々な事情があって、今の天草式と神裂の間には溝がある。その上、ステイル辺りから聞いた話によると、聖人というのは|莫大《ばくだい》な力を持つが|故《ゆえ》に、自由にあちこち動いて良い訳でもないそうだ。
「……でも、私|達《たち》にも策がない訳じゃないんです」
五和は不安を|拭《ぬぐ》うように言った。
「『神の右席』は|魔術《まじゆつ》サイドでは絶大な力を持つ集団で、正直、私達がまともに戦っても|太刀《たち》|打《う》ちできるかどうかは保証できません。でも、前方のヴェント、左方のテッラ……これらの二人は現に|退《しりぞ》ける事に成功しています。それば|何故《なぜ》か」
「ふんふん」
「詳しく分析した訳ではないので確定した情報と言いきれないのですが、双方に共通しているのは、『科学サイドから大規模な介入があった事』なんです。左方のテッラの時は|駆 動 鎧《パワードスーツ》と超音速|爆撃機《ばくげきき》が計画を変更させましたし、前方のヴェントの時は……ええと……天使のようなものが見えたとか?」
言われてみればそんな気もする.
|魔術《まじゆつ》サイドでは屈指のカを持つ『神の右席』を揺るがしたのは、いつでも科学サイドからのイレギュラーな|反撃《はんげき》だった。最強の座を得た|完襞《かんぺき》な舞台で戦うのではなく、不得手な科学サイドの舞台へ引きずり上げて戦わせる事が勝利への|鍵《かぎ》となるのかもしれない。
「となると、そこらじゅう科学だらけな学園都市の中で戦う事に、大きな意味があるって訳だな」
「……わ、私は、それだけじゃないと思いますけど……」
「?」
ごにょごにょ言う|五和《いつわ》に|上条《かみじよう》が首を|傾《かし》げると、彼女は慌てて両手を振ってごまかした。
「とっ、ともかく! 後方のアックアが|襲《おそ》ってきたとしても、私が必ず守ってみせます。私|達《たち》も表から陰から全部ひっくるめて護衛に当たるというのがイギリス清教からの命令ですから、どうぞご心配なくっ!!」
元気いっぱいに言われてしまった訳だが、ちょっと今のは聞き捨てならない。
聞き間違いかとも思ったので、念のため確認してみる。
「で、五和は何しに来たの?」
「決まっています。護衛に来たんですよ」
むん、と小さな|拳《こぶし》を握り締める五和に、上条はパチパチと|瞬《まばた》きをした。
もう一度尋ねてみる。
「で、五和は何しに来たの?」
「だから護衛に来たんですよ。泊まり込みで」
|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》 教皇代理・|建宮《たてみや》|斎字《さいじ》は物陰に隠れたまま、双眼鏡から目を|離《はな》した。
彼らがいるのは小さな映画館のすぐ|傍《そば》だ。近くには細い横道があり、さらに横道の入口を視界から|遮《さえぎ》るように、宝くじの売店が設置されている。人混みの中にあるのに人の目に入りにくい、奇妙なポイントだった。
双眼鏡片手に渋い顔で目を細めたまま、建宮は静かに語る。
「……つまらんのよ」
その言葉に、彼の|隣《となり》で雑誌を読んでいるふりをしている大男、|牛深《うしぶか》も|頷《うなず》いた。
「五和の野郎……さっきから業務運絡ばかりで、ちっともアタックしませんね」
「まったくよな。せっかく上条|当麻《とうま》にゼロ|距離《きより》攻撃できるチャンスを与えてやったというのに、アビールを開始しないどころか、あいつ、自分の武器にも気づいていないと見えるのよ」
「なんすか五和の武器って?」
ポップコーンをもりもり食ぺている小柄な少年、|香焼《こうやぎ》が尋ねると、建宮は|傍《かたわ》らに置いたバッグをゴソゴソと|漁《あさ》り、まるでクイズ番組の解答者みたいなフリップボードを取り出して、黒のマジックをキュキュキューッと走らせる。
彼は正解の書かれたフリップボードをドン!! と提示すると、
「―――そう、それは『|五和《いつわ》隠れ巨乳説』ッッッ!!」
クワァ!! と|建宮《たてみや》が両目を見開いて宣言すると、|牛深《うしぶか》や|香焼《こうやぎ》だけではなく、周囲にまんべんなく展開していた初老の|諫早《いさはや》や既婚者の|野《の》|母《も》|崎《ざき》といった男衆までもが、ガタガタッ!! と建宮に食いついてくる。
「そっ、その仮説には根拠があるんすか教皇代理!?」
「そんな事を言って……また競馬の予想みたいに遭当な事を言ったら承知せんぞ貴様!!」
鼻息荒げる男衆に、建宮はさらにフリップボードへ黒マジックを走らせ、
「以前この|俺《おれ》が実行した五和マッサージ大作戦で得た調査結果によると、彼女の肩こり指数は四〇。しかし五和の筋力や運動量を|考慮《こうりよ》した上で、彼女の衣服・装備・持ち物の総量を足して計算しても、本来ならば肩こり指数は最大でも三七でなければおかしいのよ」
「それはつまり……」
ゴクリと息を|呑《の》む一同。
建宮は|厳《おごそ》かに|領《うなず》くと、腹の底から力を|溜《た》めて、声高に宣言する。
「そう。この肩こり指数の差『三』こそが、五和隠れ巨乳説を証明しているのよッ!!」
ドバーン!! と|驚愕《きようがく》の事実が書き加えられたフリップボードを突きつけられて腰を抜かす牛深・香焼。初老の諫旱が孫の成長を喜ぶように小さくガッツポーズを取る一方で、野母崎は乳は小さい方が良かったのか、肩を落として悔しがっている。
そんな中、少し|離《はな》れた所に立っていたふわふわ金髪の女性、|対馬《つしま》が|馬鹿《ばか》にしたような息を吐いた。
「……くだらない事言ってないで、護衛対象のマークに集中しなさいよ」
すると、水を差された建宮|達《たち》男衆は、長身に反比例して胸は控え目な対馬の体を、頭の上から|爪先《つまさき》の下までじっくり眺ぬた後に、
「対馬先輩って、どっちつかずで需要が少なそうすよね」
「なっ!?」
「|如何《いか》にも、せめて胸はデカくて背も高いか、胸は小さくて背も低いか、だったら良かったものを。対馬はキャラ付けが固定されておらん。それで一体どうしろと言うのだ」
口をパクパクさせている対馬の横で、建宮は新しいフリップボードを取り出し、黒マジックを走らせると、
「チッチッ。お前さん達にはこれが分からんのよ。―――『対馬脚線美説』!!」
何か|得体《えたい》の知れない事を説明しかけた教皇代理の|股間《こかん》を|蹴《け》り上げて|黙《だま》らせる対馬。
男衆は対馬にあんまり興味がないのか、そちらを放っておいて五和に注目する。
「でも、このままでいいんすか? |五和《いつわ》の野郎、まだおしぼり作戦続けるみたいすよ」
「確かに五和は奥手すぎる。これでは|埒《らち》が明かんな……」
|歯噛《はが》みする初老の|諫早《いさはや》。そこへ妙に涙目の|建宮《たてみや》が、再び会話の主導権をもぎ取った。
「そう、五和特大オレンジ説を最大限に発揮するためには、このままではいかんのよ」
「え…-特大オレンジですか!? せいぜいリンゴぐらいだと思っていたのに!!」
あわわとうろたえる|牛深《うしぶか》をよそに、|香焼《こうやぎ》は疑わしそうに尋ねる。
「でも教皇代理。これって外野がわーわ言ってどうにかなる問題なんすか? 五和の奥手っぶりは筋金入りすよ」
「ふっ。だからこそ秘策を用意したってのよ」
ニヤリと笑いながら、建宮が素敵なバッグから取り出したのは、
「サッカーボール?」
「このフィールドの|狙撃《そげき》|手《しゆ》・建宮|斎字《さいじ》がフリーキック大作戦を提案するのよな」
|御坂《みさか》|美琴《みこと》の頭はモヤモヤしたものでいっぱいだった。
|上条《かみじよう》|当麻《とうま》に関する『ある事柄』を知って以来、ずっとこうだった。どれだけ考えても解決しない。時間が|経《た》っても解決しない。まるで答えのない間題を解けと言われたように、いつまでもいつまでも思考は空転を続けるばかりだった。
(やっぱり、あれは|嘘《うそ》なんかじゃない)
ある事柄。
すなわち―――|記憶《きおく》|喪失《そうしつ》。
たった数文字の単語に、美琴の心は大きく揺らぐ。
(でも、一体いつから……?)
九月三〇日に携帯電話のペア契約をした時は、違和感はなかった。|大《だい》|覇星《はせい》|祭《さい》の時も目に見える変化はなかったと思う。八月三一日はどうだっただろうか。そして、|妹達《シスターズ》や|一方通行《アクセラレータ》と|関《かか》わったあの時は?
「……、」
練引きができない。
こうして考えてみると、あの少年は身近な場所にいるように見えて、実は良く分からない所がかなり多かった。
(私が悩んだ所で仕方のない問題だってのは、分かってる……)
それはいつから|陥《おちい》っている事なのか。どの程度の記憶を失っているのか。生活に支障はないのか。きちんと医師に看てもらっているのか。治る見込みは本当にないのか。
そして。
自分との思い出は、どこからどこまで消えているのか。
(知り合いの精神系能力者に相談するって選択肢もあるんだけど)
|常磐《ときわ》|台《だい》中学には、|美琴《みこと》の|他《ほか》にもう一人、第五位の|超能力者《レベル5》がいる.精神系では学園都市最高―――つまり史上最強の『|心理掌握《メンタルアウト》』。|記憶《きおく》の読心・人格の洗脳・|離《はな》れた相手との念話・|想《おもい》いの消去・意志の増幅・思考の再現・感情の移植……ありとあらゆる精神的現象を一手にこなす、|十徳《じつとく》ナイフのような|超能力者《レベル5》が。
「でもあいつは苦手なのよねえ……」
思わず考えていた事を口に出してしまった。
それぐらい美琴は『あの』|超能力者《レベル5》が苦手だという事だ。
何しろ特定の組織、集団、派閥に属さない美琴と違い、常盤台中学最大派閥の女王サマとして君臨している、という時点で馬が合わない。こんな事で相談すれば間連いなく『借り』となってしまうだろうし……最悪、|治療《ちりよう》と称してあの|馬鹿《ばか》の精神にいらない細工をされる危険もある。|有《あ》り|体《てい》に言えば、知り合いの体を任せられるほど|信頼《しんらい》できないのだ。
そっちの案は考えるぺきではない。
美琴はもう一人の|超能力者《レベル5》の存在を、とりあえず頭から追い払う。
(これはあの馬鹿自身の問題だってのも、分かってる。でも、だからって何も思わないなんて事はできない。私はそこまで、何でもかんでも割り切れる人間じゃない)
|何故《なぜ》相談してくれなかったのか。気づかないふりをしておいた方が良いのか。その辺りも含めて、もう|歯《は》|噛《が》みするしかない。何しろ、当の|上条《かみじよう》|当麻《とうま》本人は美琴がこの事実に気づいている事を知らないみたいだし、そうであって欲しいとも考えているらしいのだ。|下手《へた》に問い詰めて強引に相談に乗る……という方法も、この場合では相手を傷つけるだけの可能性もある。
どうすれば良いのか。
どうにかできるような問題なのか。
(だぁーっ!! くそ、そもそも何で私があの馬鹿の事でこんなに頭を悩ませなくちゃならないのよ! なんか下手に|焦《あせ》って頭が回らなくなってるし、そのせいで余計に焦りまくってるし。
一度全部リフレッシュして考え直した方が良いのかしら)
とはいえ、そう簡単に思考を切り替えられれば苦労はしない。
そんな感じで、美琴が重たい息を|吐《は》いた時だった。
「……?」
ふと街の片隅にある小さな映画館の近くで、こそこそ動いている人影を発見した。
クワガタみたいに光沢のある黒髪の大男はアスファルトの地面にサッカーボールを置き、|傍《かたわ》らの数人と|領《うなず》き合って、二歩、三歩と短い助走をつけると、そのまま思い切りフリーキックを放つ。
ポーン、と大きく|蹴《け》り飛ばされたサッカーボールはギュルギュルと横回転しており、そのスピンによって鋭い弧を描いた。公式試合なら、DFの壁を|避《さ》けた後、真横からゴールへ突き刺さりそうな勢いだ。
街中で何をやっているんだ? と|美琴《みこと》は自然とサッカーボールの行き先に目をやって、
そこでギョッと身を固めた。
バゴン!! という良い音と共に、|上条《かみじよう》|当麻《とうま》の側頭部にボールが激突する。
しかもその勢いに押され、上条の頭が|隣《となり》を歩いていた少女の胸の谷間へと突っ込んだ。
結構な威力だったらしく、上条は少女の胸にめり込んだまま気を失っている。少女の方はどう対応して良いのか困っているようで、顔を真っ赤にしながら、とりあえずボールの当たった辺りを小さな|掌《てのひら》で|撫《な》でたりしていた。その仕草が、どうにも上条の頭をギュッと受け入れているように見えてしまうのは|錯覚《さつかく》か。
あまりの事態に口をパクパクと開閉させる美琴の耳に、いえーい、という声が聞こえる。そちらに目をやると、|道端《みちばた》でいきなりフリーキックを始めたクワガタや若者|達《たち》が喜び合ってハイタッチしている。
バチバチ、という火花の散る音が聞こえた。
それが、自分の出している高圧電流の音だと気づく前に、|美琴《みこと》が爆発した。
「人が色々抱えて困ってるってのに……変なモンを追加でゴロゴロ押し付けてんじゃないわよアンタらーっ!!」
前髪から|雷撃《らいげき》の|槍《やり》をズバンズバン!! と連続で射出すると、それに気づいたクワガタ|達《たち》は四方八方へ散らばって、あっという間に消えてしまった。カメレオンみたいに入混みの中に|紛《まぎ》れ、どちらを見回しても一人も発見できない。
??? と美琴は首を|傾《かし》げる。
しかし、標的を見失ったからと言って、それで美琴の怒りが収まる訳ではない。
何より、|全《すべ》ての元凶たるツンツン頭の少年は、なんだかんだで|未《いま》だに少女の胸にめり込みっ放しだ。しかも『うっ、ううん……』とか何とか言いながら、寝ぽけて少女の|膨《ふく》らみをわし|掴《づか》みだ。
「あの馬鹿……いつまで母性の|塊《かたまり》に甘えているのよーっ!!」
美琴は叫び、直接裁きを下すべく|上条《かみじよう》の元へと突っ走る。
さんざんな一日だった。
上条|当麻《とうま》は重たい息を|吐《は》く。|道端《みちばた》で唐突に|襲《おそ》ってきたフリーキック、さらに追い討ちをかけるようにやってきた美琴の電撃。護衛としての任務をまっとうするとして槍を組み立て始めた|五和《いつわ》を|羽《は》|交《が》い|絞《じ》めにし、何故か五和と密着した事に腹を立てた美琴から逃げるために学園都市中を走り回った。これだけ運動すればメタボリックな心配をする必要はないだろうというぐらいの走行|距離《きより》だ。
そして上条当麻の前には、さらに新たな間題が立ち|塞《ふさ》がる。
そう、ここからが本番なのだ。
「……で、とうま。何で|天草式《あまくさしき》のいつわが隣にいるの?」
本日最大のデンジャラスチェックポイント。
学生|寮《りよう》のドアを開けるなり、インデックスが放った一言に上条の全身から脂汗が出る。|噛《か》み付き準備完了いつでも行けますとばかりにうっすらと歯が|覗《のぞ》いているのがすごく怖い。
ちなみにいつもインデックスと|一緒《いつしよ》にいる|三《み》|毛《け》|猫《ねこ》は、五和の周りをぐるぐる回って、「|誰《だれ》この人。だれー?」と鼻をひくつかせて|匂《にお》いを|嗅《か》いでいる。
上条は噴き出る汗を|拭《ふ》きながら。
「い、いや。それは、ええとですね、なんて説明したら良いのかなー……?」
と、彼の隣にいた五和がキョトンとした顔で、
「つまりですね、『神の右席』の―――」
「でぇやあ!!」
|上条《かみじよう》は突然大きな声を出すと、|五和《いつわ》の首筋にチョップ。ビクゥ!! と言葉を詰まらせた彼女の後ろから上条は腕を伸ばして首に巻きつかせると、インデックスから急速に|離《はな》れて|内緒《ないしよ》 |話《ばなし》を実行。
「(……いっつーわサン!! あのええとインデックスには|黙《だま》っておいてはいただけないでしょうか!?)」
「わっわっ」
「(……アックアの|狙《ねら》いはどうやら|俺《おれ》だけみたいだし、インデックスに矛先が向かないならそれは良い事だと思うんだっ! だから余計な事を言ってインデックスを変な所へ近づけさせるのはやめようそうしよう、ねっねっ!?)」
「わわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわっ!?」
「(……五和、人の話聞いている?)」
「きっ、聞いていますですよ!! ばばばばばっバッチリでぇす!!」
|何故《なぜ》か顔が真っ赤になったまま首をブンブンと縦に振りまくる五和。
苦しかったかな? と上条は五和の肩から首にかけて回していた腕を取ったのだが、するとどことなく残念そうな表情になるのが|謎《なぞ》である。
と、
「……、」
いつの間にかインデックスが完全無感情。大きく爆発する事すらなく『……いいもん』と口の中で|呟《つぶや》き、ごろんと向きを変えてテレビの方へ顔を向けてしまったのが本気で気まずい。あ
れはマジだ。『もうっばかばか、とうまのばか!!」レベルではない。時折、クラスメイトの|姫神《ひめがみ》がまとっているどんよりしたオーラみたいなのが見える。何故こうなった。というかインデ
ックスは一体何に怒っているのだ。上条は左右にガタガタと|震《ふる》えた後、やがて静かに|土下座《どげざ》を決行し、インデックスの背中に向かって頭を差し出す形で、
「……その、何だか良く分かりませんが、|完壁《かんぺき》に爆発する前に、いっそ|噛《か》んでくれませぬか? 少しずつ怒りパワーを分散していけば、上条さんの|頭蓋《ずがい》|骨《こつ》は噛み砕かれずに済むと思うのです」
身動きのない二人に五和はオロオロとするものの、護衛を辞退しないのは使命感の表れか。
割と行き場を失った調子で視線をさまよわせると、|匂《にお》いの確認が終わった|三《み》|毛《け》|猫《ねこ》と目が合った。
「そ、そうだ。猫ちゃんにはお|土産《みやげ》があるんですよー?」
場を|和《なご》ますというよりは居心地の悪い会話の輪から逃れるように、五和は大きなバッグをゴソゴソと探った(おや? 彼女は上条宅で三毛猫を飼っている事は知らないはずなのだが……?)。『猫のお食事会・三ツ星プラチナランク』と側面に描かれた超高級な金色の缶詰を取り出すや|否《いな》や、三毛猫の全身がバキィン!! と固まった。目をまん丸に見開き、背筋を正す。バコッと開いた缶詰を五和から差し出されても、三毛猫は『ねっ、猫ですけど。こんなブルジョワっぽいものを食べても良いんですかにゃーっ!?』と何やら恐れおののいている。
と、大好評|土下座《どげざ》中の|上条《かみじよう》は、|五和《いつわ》のバッグの中からスーパーの袋らしきものが|覗《のぞ》いているのを発見する。
「……|何故《なぜ》、五和のバッグの中に肉や野菜が? |天草式《あまくさしき》マル秘サンマ|魔術《まじゆつ》に使うとか?」
「いっ、いえいえ。今は|断食《だんじき》などの食事制限を行う必要はありませんから」
話を振られて五和は顔の前でパタパタと手を振った。
「ついでなので近くのスーパーで食材を調達しておいたんです。その、簡単なものなら作れますから。いくら警護のためとはいえ、ただ|居候《いそうろう》するのは気が引けますし。家事の方は任せてください。手伝える事なら何でもお手伝いしますよ」
その|瞬間《しゆんかん》、上条は何を言われたか理解できなかった。
数秒の空白を用いてようやく五和の殊勝コメントの意味を解すると、今度は無言のまま首だけを動かしてインデックスを見る。
「なっ、なに、とうま。何で空気の流れが一変しているの?」
「自分の胸に聞いて御覧なさい。上条さんに全部任せきりで、今までお手伝いしてこなかったのは|誰《だれ》ですか?」
「う、うん。それはごめんだけど。……? あ! そんな事を言って無理矢理に逆転しようとしている気じゃ……ッ!?」
インデックスは上条の|企《たくら》みを看破しかけたが、もはや一度動いてしまった流れは変わらない。上条はいかにも自然体な感じで台所スペースへ顔を向け、『えーとお|鍋《なべ》の場所とか教えた方が良いか?』『あ、はい。お願いします』などと言葉を交わし白い修道女を意識から外し、もう『|何故《なぜ》こんな事になっているのか』『いつもいつもどういうつもりなのか』などという一番初めにあった命題を丸ごと心のゴミ箱へ投げ捨てた。
(だって、何で五和がこんなにやる気なのか|俺《おれ》自身にも分からないもん! 分からないものに説明なんてできないもん! い、いや、今はとにかく五和サンクスと言うだけだ! ふははーっ!! |噛《か》み付きなしでインデックスの追及を逃れるなんてこれは快挙じゃゴギュ)
勝利の|余韻《よいん》に浸りかけた所で、緒局イライラしたインデックスに後頭部を嗤み付かれて転げ回る上条。その拍子にゴージャスな猫の缶詰の中身が床にぶちまけられ、『もったいなーっ!! じゃあ食ぺる! 全部食ぺます!!』と|三《み》|毛《け》|猫《ねこ》がモグモグロを動かした。
あははと苦笑して五和は台所スペースへ向かう。
彼女の目にはほのぽのした光景に見えているようだが、当の本人にとっては地獄絵図である。
(それにしても)
これもまた環境へ溶け込む事を|旨《むね》とする天草式の能力か。なんだかんだでいつの間にか受け入れられていた五和のいる方へ、上条は首を動かす。
後頭部に人間の歯形をつけ、変死体のようにうつ伏せでのびていた彼は、お鍋がぐらぐら煮える音や高温のフライパンがじゃーじゃー鳴る音を聞いて、
(……お、女の子のお料理風景だ)
|迂闊《うかつ》にもまぶたの|端《はし》から一筋の涙が伝う所だった。
「むっ? 何でとうまは奇跡を|目《ま》の当たりにした子羊みたいな顔になっているの?」
インデックスが言うが、|上条《かみじよう》はシスターさんなど放ったらかしで|恵《めぐ》みの光を一身に受ける。
そして、ただ|五和《いつわ》を働かせてのんびりしているだけでは居心地も悪くなってくる。部屋の掃除でもやろうかしら、と上条は少々真剣に考えてみた。
一方、一通り上条の頭にかじりついてストレスを発散させたインデックスは、料理の|匂《にお》いにつられるようにふらふらと台所スペースへと近づいていき、
「あっ、|駄目《だめ》ですよ勝手にちくわを食べちゃ!!」
「そんな事を言われた所でこの口はもう止まらないんだよ」
さっそく空腹に負けて料理の|邪魔《じやま》を始めたインデックスを見て、上条当麻はむくりと起き上がった。
そして猛ダッシュするとインデックスの腰の辺りに両手を回し、高速で台所スペースから引き返す。その助走の勢いを利用し、|得体《えたい》の知れないプロレス系の投げ技でベッドの上に、そり
ゃァァああ!! とぷん投げた。
「ヲトコの夢を妨害すんなアァああああああああああああああああああああッ!!」
「むぎょおおっ!? とっ、とうま、これは一体どういう事!?」
目を回すインデックスが何事かを叫び|三《み》|毛《け》|猫《ねこ》が|鬱陶《うつとう》しそうに|距離《きより》を取ったが、上条はまともに受け答えしない。
上条は無言でインデックスの頭を|掴《つか》んで、グリン!! と台所スペースへ回転させた。
「見なさいインデックス!! あれが|居候《いそうろう》の正しいあり方だ!!」
「痛たたたたたっ!? 何で今日に限ってそんなに行動的なのとうま!?」
「冷静になれば、何でお前はいつも食べて寝てテレビを見る係なんだ!? 今日からは仕事もしてもらいます。ほらスポンジと洗剤持ってお|風呂場《ふろば》の掃除をしなさい!!」
「えー。今から『|超起動少女《マジカルパワード》カナミンインテグラル』のさいほーそーが始まる時間だよ?」
「良いから仕事しろオォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
なんでー? と首を|傾《かし》げまくるインデックスをユニットバスに放り込む上条。五和のような真人間を見ていると、ふと心が洗われたりするものである。そう、周囲にいるのが|煙草《タバコ》|臭《くさ》い|放火《ほうか》|魔《ま》|的《てき》な神父であったり年がら年中ニャーニャー言ってる多重スパイだったりするのでインデックスが比較的『まとも』に見えていたのだが、よくよく考えてみれば常識的な少女とは五和のような人間に与えられるべき称号なのだ。
(さて。|俺《おれ》も真人間っぼく部屋の片づけでもしようかな)
とか何とか考える上条だが……人のご飯を作ってあげている五和と、単に自分で散らかした部屋を自分で掃除するだけの|上条《かみじよう》では釣り合いが取れる訳はない。でも、だからと言って何もしないよりかはマシだよな、と結局適当に持論をまとめつつ、ひとまずフローリングのあっちこっちで開きっ放しになっている雑誌を束ねてみる。
その時だった.
「こっ、この本格的な和食の|匂《にお》いは何なのかーっ!?」
唐突に少女の叫ぴ声が上がったと思ったら、ベランダの方からメキャメキャーッ!! というプラスチックの|破壊《はかい》|音《おん》らしきものが|響《ひび》いてきた。上条がギョッとして首を回し、|五和《いつわ》がびっくりして料理の手を止めると、そちらから出現したのはメイド服を着た|土御門《つちみかど》|舞夏《まいか》だ。
どうやら『火災時とか|緊急《きんきゆう》|時《じ》以外は壊さないでね的に各部屋のベランダを区切っているボード』を|遠慮《えんりよ》なく破壊し、侵入してきたらしい。
「おのれェ!! 久しぶりに真人間的行動に心洗われている所へまた変人か!!」
|忌々《いまいま》しげな上条などお構いなしに、|普段《ふだん》は表情の変化に|乏《とぼ》しい舞夏は極めて真剣な顔つきでくんくんと鼻を鳴らして台所へ近づくと、
「……匂う、匂うぞー。……その|味噌《みそ》|汁《しる》……隠し味に粉末状に削った乾燥ホタテを入れているなー……?」
「なっ、|何故《なぜ》それを!? お母さんにも看破された事はないのに!!」
美食家に指摘され|驚愕《きようがく》する料理人五和。
料理の基本はやっぱりお母さんなのですね! と、隠れた家庭的ワードにちょっとホロリとした上条など放っておいて、今まさに味見しようと小皿に少量の味噌汁をよそっていた五和は少し考え、そしてゆっくりとした動作でメイド服の少女へ小皿を手渡す。
まるで茶道みたいな挙動で舞夏はそれを受け取ると、全く無音で唇をつけ、一拍の間をおいて―――クワァアア!! と勢い良く両目を見開いた。
舞夏はわなわなと肩を|震《ふる》わせながら、
「こっ、この女、できる……」
「ば、はい?」
「ぐォらァあああああ!! こ、こうしてはおれん!!」
何やらロ調を一八〇度変えたまま、舞夏はいそいそとベランダを通って|隣室《りんしつ》へ再び戻っていった。
開いた窓を通して兄妹の会話が飛んでくる。
『あ、あれーっ!? 何で今日のホワイトシチューを下げちゃうにゃーっ! っつかオレの晩ご飯は!?』
『外野は|黙《だま》ってろ!! あれだけの一品を見せられて、この程度で対抗できる訳があるかーっ! い、今に見ていろ、これからこの私が本物の味噌汁を味わわせてくれるわーっ!!』
ええーっ!? 別に今のシチューで良いんですけどーっ!? という金髪サングラスのエージェントの嘆きを聞いて、|五和《いつわ》が不気味そうにブルッと肩を|震《ふる》わせた。
「え、ええと、さっきの男性の声って、アビニョンで聞いたような……? というか、そもそもあの子は一体どうしちゃったんでしょうか」
|俺《おれ》も良く分かんないけど、多分メイド候補生の理解不能な|琴線《きんせん》に触れてライバル認定されたんだよ……と|上条《かみじよう》は言いかけたがやめた。五和はまっとうな人間であって、そうした変人的行動に償れているとは思えない。
上条としては、心の中でこう思うしかない。
願わくば、この少女だけは変人に染まりませんように、と。
一時はその人間関係が危ぶまれたインデックスと五和だったが、インデックスは五和が作った料理を食べてしまうとそれで|全《すべ》て丸く収まってしまったのか、今では床をゴロゴロしながら五和に八林目のおかわりを求めて困らせている。|三《み》|毛《け》|猫《ねこ》はと言えば、五和の持ってきた丸まったおしぼりにガブリと|噛《か》みついて遊んでいるようだ。
(はー。まぁ、大きなトラブルにはならないようで何よりだ)
こんなに簡単にインデックスの|機嫌《きげん》が直ってしまうのなら、いっそ『インデックスが怒った時に投げる用』の魚肉ソーセージでも常備していようかしら、と上条は思わなくもないのだが……いや待て、お菓子を隠し持っている事に気づかれた時点でインデックスから噛みつかれるに決まっている、と思い直す。|美味《おい》しい話というのはなかなか転がっていないものだ。
ともあれ、ご飯を食べてしまえばもうやる事はない。
今日は特に宿題も出ていないし、上条は自主的にお勉強をする子でもないので、もうお|風呂《ふろ》に入って寝るだけである。
しかしここで問題が発生した。
「―――何でスポンジと洗剤で掃除しただけでお風呂が|壊《こわ》れるんだよ、インデックス!!」
「そっ、そんな事言ったって私はとうまに言われた通りにゴシゴシやっただけだもん!!」
夜の街に上条とインデックスの叫びが|響《ひび》き、五和が苦笑いを浮かぺる。
彼ら三人が外出している理由は単純で、上条の部屋のお風呂(というか給湯機)が壊れて使い物にならなくなったため、近所の銭湯まで足を運ぶ羽目になったからだ。
「ちなみにインデックスは実は上条さんの言う通りにゴシゴシやっていないに|賭《か》ける! っていうかバスタブの給湯口からプラスチックの溶けたみたいな|匂《にお》いがしたのは|何故《なぜ》か。それはインデックスが給湯口に思いっきり洗剤の原液を注ぎ込んだからですどうだこの推理!?」
「え? 洗剤入れたらキレイになるんじゃないの?」
「おっしゃーっ! ここで|驚異《きようい》の天然キョトンが来ました!! っつかおかげで給湯器内部が焦げ付いて火災寸前ですハイ!!」
「あ、あはは。ま、まぁ、たまにはお外のお|風呂《ふろ》を使うのも気分転換になって良いじゃないですか」
|五和《いつわ》がカミワザなフォローを割り込ませ、|上条《かみじよう》とインデックスの|騒《さわ》ぎが|和《やわ》らぐ。
人という生き物は、弱々しく気を遣ってもらうと大騒ぎできなくなるものである。
五和は小さな手帳をパラパラとめくりながら、
「学園都市って意外にそういう公衆浴場が充実しているんですね。昔ながらの銭湯から天然ものの温泉、スバリゾートまで|揃《そろ》っていますし……そうだ、ここなんてどうでしょう。アミューズメント施設と合体しているみたいですよ」
「……っつか、何で五和はそんなに詳細な学園都市情報を入手しているんだ?」
天然ものの温泉があるなんて話は地元の上条ですら知らない話だ。しかも五和が手にしているのは学園都市内部の出版社が発行しているガイドブックではなく、ボロボロになるまで手で書き込んだらしき古い手帳である。
「(……え、ええと、周辺の地理情報を把握しておく事は、対象を護衛する際に必要なものですし)」
五和はインデックスに聞こえないように小声で、
「(……その上、アックアは|魔術《まじゆつ》サイドの人間ですから、この街を走る『脈』の流れなども向こうの行動を予測する際に役立つと思いまして)」
……お仕事熱心なのは大変結構なのだが、アックアの前に|警備員《アンチスキル》などが機密保護条例を守るために|襲《おそ》いかかってきたりはしないだろうか、とちょっと不安な上条だった。
「で、そのレジャーお風呂ってどこにあんの?」
「ええと、第二二学区だそうです。ここは第七学区ですので、お|隣《となり》の学区って事になりますね」
「第二二学区って言うと……地下市街か」
およそニキロ四方と、学区としての面積は一番狭いものの、地下数百メートルまで開発が進んでいるという、元々SFっぽい|雰囲気《ふんいき》を持つ学園都市の中でも|際立《きわだ》って未来未来な場所だ。
「うーん。でも終電出てるしなぁ」
五和は|古臭《ふるくさ》い手帳をパラパラゆくりつつ、
「|距離《きより》はそんなでもないですし。サイドカー付きのレンタバイクを借りればすぐですよ。幸いショップも近くにあるみたいですし」
「え、五和バイク乗れんの?」
「まぁ、それは、その。一応、自動車と自動二輪、小型船舶と……飛行機は無理ですけど、ヘリコプターなら、何とか……」
何だか肩身が狭い調子で言う五和。
飛行機を操れない事がそんなに気になるのだろうか。
「日本の場合は交通|網《もう》が発達していますから、それほど必要ないんですけど……お仕事によっては延々と砂漠や草原が広がっている場所とかもありますし」
特に自慢でも何でもないのだろう。むしろ|叱《しか》られたような|蚊《か》の鳴く声で言う五和だが、となると日本国内の免許ではなく、国際ライセンスの所有者という事になる。一輪車に乗れるだけでスゲースゲーの|上条《かみじよう》からすれば、すでに五和は尊敬の対象である。
今日は普通少女五和の意外な面がいっぱい出てくるなぁ、と上条はちょっと感心しつつ、|寮《りよう》の近くにあるレンタバイクの支店へ足を運ぶ事に。学生ばかリの学園都市の場合、レンタカ
ーよりもレンタバイクの方が需用は高くてメジャーなのだ。
バイクの値段表と|睨《にら》めっこする上条は、やがて雷に打たれたような顔で、
「そっ、そうか。五和は第七学区の学生じゃないから地域割引が使えないんだッ!!」
「え、ええと。|大丈夫《だいじようぶ》ですよ。軍資金はありますから」
と五和は言うが、主婦的|家計簿《かけいぼ》スキルの身に付いた上条からすれば、少しでも安く、は物事の基本である。
結局、主に終電を乗り過ごして帰れなくなった人用の深夜お得プランで中型バイクを借りてくると、追加料金を払ってサイドカーをつけてもらう。
運転するのは五和で、その後ろに乗っかるのが上条。インデックスはサイドカーだ。
「とうま。私はこの構図に何らかの意図を感じるよ?」
「そっ、そんな事はないぞー。レディファースト的に言うとだなー、サイドカーが一番ふかふかで気持ち良い席だから上条さんは仕方なく|譲《ゆず》っているだけであってだなー」
|胡散《うさん》|臭《くさ》い棒読みで否定する上条だが、五和のお|腹《なか》に手を回した時点で心臓バクバクである。
五和は修道服のフードの上から強引にヘルメットを|被《かぶ》ろうとするインデックスの世話を焼きつつ、ふと思い出したように、
「そう言えば、猫ちゃんはお留守番させておいて大丈夫だったんでしようか?」
「|流石《さすが》に銭湯に動物連れていく訳にもいかないからなぁ。ま、あの猫はのんぴリゴロゴロしているようなヤツだし、問題ないとは思うけど」
ちなみにその|三《み》|毛《け》|猫《ねこ》は現在、五和が持参した超高級|爪《つめ》|研《と》ぎボードの前で、『ひっ、ひのき!? なんかものすごく良い|匂《にお》いがするけどホントに爪立てても怒られないんですかこれ!!」とガタガタ|震《ふる》えている事に|誰《だれ》も気づいていない。
そんなこんなで、インデックスが正しいヘルメットの被り方をマスターした所で、五和はバイクのエンジンをかける。
「うわお。夜の学園都市ってすいていますねー。ステアの挙動もエンジンの|響《ひび》きも心地良いし、路面のコンディションも|丁寧《ていねい》だから思わずスピードが出ちゃいそうです。……ああ、どうせなら学園都市名物の超電導リニアニ輪っていうのにも挑戦してみれば良かったかな.なんか車輪とシャフトの間を磁力で反発させて、ドーナツ状の車輪を電気で動かすバイクがあるって話だったんですけど」
「ま、バイクについては分かんないけど、『外』の技術と比べちゃあな。それと一応、安全運転でお願いしま―――バカ|五和《いつわ》ホントにスピード出てる出てる!?」
|上条《かみじよう》は反射的に五和のお|腹《なか》の辺りに回した両手に力を込めてしまうのだが、実はその反応が|嬉《うれ》しくてスピードが出ている事にまでは頭が回っていない。
上条の|寮《りよう》は第七学区の|端《はし》だ。|隣《となり》の第二二学区までは歩いて行ける|距離《きより》である。五和がバイクを持って来たのは、単に湯冷めするかもしれないから早めに帰れるように、という配慮だろう。
第七学区を抜けて第ニニ学区へ入ると、サイドカーに乗っていたインデックスが目をまん丸にした。
「わっわっ! とうま、ジャングルジムがあるよ! でっかいジャングルジム!!」
第二二学区の地上部分は|他《ほか》の学区と大きく異なる。いわゆる一般的な家屋やビルは存在せず、風力発電のプロペラだけが並んでいるのだ。それも普通の学区にあるような『電信柱の代わり』ではなく、まるでビルの鉄骨のように縦横に柱を並べ、三〇階分ぐらいの高さまで大量のプロペラを立体的に設置している。その光景はインデックスの言った通り『巨大なジャングルジム』だ。
地下市街へのゲートを目指しながら、ハンドルを握る五和は言う。
「地下に展開される第二二学区は他の学区のように風力発電や太陽光発電に|頼《たよ》れませんからね。その上、地下市街は大量の電気を使うらしくて、学区の至る所に発電対応策が講じられているそうですよ」
何だか妙に博識な五和が操るバイクが、四角く切り抜かれた地下ゲートをくぐる。
第二二学区の地下は巨大な円筒形だ。そして道路は直径ニキロの筒の外周を|這《は》うように、ぐるりと回りながら下っていく。反対の上り車線と合わせると、理髪店の前でくるくる回ってい
るポールのような配置になるらしい。
いつまでも|緩《ゆる》やかなカーブを描くトンネルは、オレンジ色の照明に照らされていた。|普段《ふだん》の街並みとはまた違う電飾に、インデックスが両手を挙げて喜んでいる。
上条はやや排気ガスの|匂《にお》いのする空気を吸い込みながら、五和に言った。
「地下市街って、日本とは合わないよなー。|地震《じしん》とかメチャクチャ怖いし。確か、どれだけ壁の強度を強くしても、地盤の断層ごとズレたら丸ごと引き裂かれちまうんだろ」
「一応、地震対策は万全って売り文句でしたけどね。そうそう、この|螺旋《らせん》|状《じよう》の道路は巨大なバネになっていて、地震が起きた時には|衝撃《しようげき》を|緩和《かんわ》する、とかいう話じゃありませんでしたっけ?」
「……それは根も葉もないウワサ話だ。つか、何で五和は設計図のスペックシートにも載っていないようなローカル都市伝説まで調べてるんだ?」
あ、あはは、と笑ってごまかす|五和《いつわ》。
「そういや、レジャーお風呂《ふろ》って第何階層にあるんだ?」
「ええと、第三階層だそうです」
「とうま、『かいそう』って何? わかめ?」
「|海藻《かいそう》じゃねーよ。階層。第二二学区は全部で一〇の地下階層に分かれてんの。で、これから|俺達《おれたち》は上から三番目の階層に行くんだとさ」
そうこうしている内に、第三階層―――地下九〇メートルへの入ロゲートが見えてきた。五和はウィンカーを点滅させ、減速しながらゲートへの分かれ道に進む。
四角いゲートをくぐると、視界が一気に広がる。
「うわあ……!!」
思わず声を出したのはインデックスだ。
トンネル内のオレンジ色とは違い、こちらは|薄《うす》い青の空間だった。直径ニキロ、高さ二〇メートルほどの広大な空間の|天井《てんじよう》は一面ブラネタリウムのスクリーンになっていて、地上部のカメラが撮影した『星空』をリアルタイムで映し出している。おまけに街の照明が同じ色で統一されているため、まるで星の海のど真ん中へ飛び込んだような印象を与えてくる。
地上から天井まで、間にあるプラネタリウムのスクリーンをぶち抜く形でそびえるビル群は、同時にこの地下市街を支える柱としての役割も|担《にな》う。もっとも、地下市街の屋根は体育館のよ
うに鉄骨を張り巡らせて重量を分散し、それだけでも自重に耐えられる構造になっているらしい。いざという時のために、複数の方式で支えられる設計になっているのだ。
インデックスはサイドカーからぐるりと辺りを見回しつつ、
「こんなの、本当に地下にあるものなの? 川もあるし森もあるみたいなんだよ!!」
「森は農業ビルにある水栽培技術の応用だそうです。空気の浄化作用の|他《ほか》に、精神的な面から生活を支えるのにも役立っているみたいですよ。あと、水は地下市街の重要な発電源だそうで、各階層へ順番に落としながら、それぞれの層で水力発電していくらしいですね」
何だか今日の五和は学園都市の観光バスに乗っているバスガイドさんみたいになっている。
インデックスは首を|傾《かし》げつつ、
「いつわ。何でそんなに電気がいるの?」
「うーん。一番大きいのはポンプでしょうか。地上から酸素を取り込んで、逆に|溜《た》まった二酸化炭素を排出するのに必要ですし、雨水や生活廃水を下の層から|吐《は》き出すためにも、やっぱり大きなポンプが不可欠なんです。第二二学区の消費電力の四割以上がこういう大規模ポンプを動かすために使われているらしくて、その辺りが実用化のネックになっているみたいですね」
学園都市は発電の大半を風力に|頼《たよ》っているから、どれだけ電気が増えても燃料費や環境|破壊《はかい》について、それほど悩む必要はない。しかし他の国や地域では遣う。環境問題が声高に叫ばれ、石油の値段が日々上がる中で化石燃料に頼りながら地下市街を作るというのは、現実的に難しかったりするらしい。……そもそも、|敷地《しきち》に限りのある学園都市とは違って国土に余裕のある広大な国では地下に街を作る必要性そのものに迫られていない訳でもあるのだが。
(ま、研究が成功するのと、それが実際に市場に出るのはまた違う問題みたいだしな)
人工的な星の海を、サイドカー付きの中型バイクが突き進む。
後部シートに乗った|上条《かみじよう》、遠くの方に見えたビルの電飾を指差して言った。
「ん? おい|五和《いつわ》、例のレジャーお|風呂《ふろ》ってあれじゃねえのか?」
「あ、そうみたいですね」
「しっかし、そこって結構話題になってんだろ」
「え、ええ。街のお風呂ランキング三位らしいですけど」
……本当にそんな情報が護衛の役に立ったりアックアを倒すのに必要なんだろうか、と上条は首を|傾《かし》げてしまうが、五和はお構いなしだ。
「それがどうしたんですか?」
「いや……。そんなに有名な所なら、知り合いと顔合わせたりするかなーって」
|御坂《みさか》|美琴《みこと》は足を止め、眼前にそびえる巨大な建物を軽く見上げた。
第二二学区の地面から|天井《てんじよう》まで一気に貫くビルの出入り口には、『スパリゾート|安泰泉《あんたいせん》』とある。平たく言えば、このビルは全部大きなお風呂なのだ。各階のフロアにはそれぞれ特殊な薬効成分やら電気やら超音波やらといった特殊なお風呂がズラリと|勢揃《せいぞろ》いしていて、それでも余ったスペースにはショッピングモールやゲームセンター、ボーリング場などをぎゅうぎゅうに詰め込んでいる訳である。
昔ながらの『銭湯』というよりは、『お風呂という形をしたレジャー施設』という方がニュアンスは近い。ターゲット層も(学生ばかりの学園都市という背景もあってか)一〇代の少年|達《たち》に合わせて設計されている。
アミューズメント主体の施設であるため、VIP用の浴場なども用意されている訳だが、美琴の|狙《ねら》いはそちらではない。
「……湯上がりゲコ太ストラップ……」
サービス期間中にスタンブカードに一〇点ためると入手できるキャラクター商品である。このための『スパリゾート安泰泉』だ。このストラップがなければ、わざわざ|寮《りよう》の門限をぶっちぎって脱出し、ルームメイトの|白井《しらい》|黒子《くろこ》の追跡を振り切ってこんな所まで来る意味はない。
(まあ別に黒子は連れて来ても良かったんだけど……あいつはお風呂とか言うと|蛇《へび》みたいに|絡《から》みついてくるに決まってるしなあ……)
|一瞬《いつしゆん》それを想像しかけて、背筋に寒いものを感じる美琴。首を振って|嫌《いや》なイメージを|払拭《ふつしよく》すると、|美琴《みこと》はお|風呂《ふろ》ビルへ|突撃《とつげき》した。入口をくぐると大きなホールがあるが、受付のようなものはない。料金は各フロアにある浴場入口で支払うようになっているのだ。
|団扇《うちわ》をバタバタ|煽《あお》いで涼んでいる一団や、お風呂に飽きてゲームセンターへ走る子供|達《たち》の間をすり抜け、美琴はエレベーターへ向かう。
壁に張り付けられた案内板を見ながら、
「さってと。今日はどこでスタンプ|稼《かせ》ぐかね……」
超音波を使ったお風呂はもう入ったし、電気を使うお風呂なんて|発電能力者《エレクトロマスター》の自分がわざわざ入るようなものではない。そんな風に消去法で一つ一つ消していくと、後は基本的な薬効成分を高めたお風呂ぐらいしか残っていなかった。薬効成分、などと書くと不気味なイメージが|湧《わ》くだろうが、ようは温泉の仕組みを科学的に分析し、同じ効果を得られるように調整されたお風呂の事である。
「素直に入浴剤を使っていますと書けばいいものを」
身も|蓋《ふた》もない言葉と共にエレベーターに乗って八階へ。お風呂の入口で料金を払ってバスタオルを借りると、脱衣所に入って手早く衣服を脱ぐ。淡い色のタオルを体に巻き、ロッカーの|鍵《かぎ》をかければ突撃準備完了だ。
(……意外に短いのがネックなのよね)
バスタオルの|端《はし》、|太股《ふともも》の辺りをやや気にしながら、美琴は大浴場への扉を開く。
ビル特有の高さは全く感じられない。窓がないからだ。|風光明媚《ふうこうめいび》な山の中ならともかく、ここは都会のど真ん中。風景を見るために女湯に窓を用意するなど自殺行為に等しい。……もっとも第二二学区の場合、仮に窓があったとしても、そこに広がるのはやっぱりただの地下空間なのだが。
お風呂の内装は典型的な銭湯に近いが、お湯の熱さに応じて|浴槽《よくそう》は三分割されている。壁にはペンキで描かれた富士山……などはなく、代わりに一面が発色磁気粒子の巨大モニタになっていた。確か粒子を直接変色させる事で光を使わずに色を表現する画期的なモニタという売り文句だったが、値段が|馬鹿《ばか》高いのと普通の人には今までのモニタでも何の問題もない事から、一部の芸術家や映画館などでしか買い取ってもらえなかったという悲劇の一品だったはずだ。
モニタはタッチパネルも兼任しているらしく、二、三人の子供達が『いたって。だから白い天便がいたんだって』『いないよーそんなの』『本当、こんなの。悪をやっつけてたんだよ』とか何とか言いなが|掌《てのひら》をベタベタ|這《は》わせてお絵描きしたり、小さなウィンドウを切り抜いて夜のドラマを見ているキャリアウーマンらしき女性もいる。
美琴はお湯の|蛇口《じやぐち》が並ぶ一角で腰掛け、センサー付きの蛇口を軽く握る。そのまま数秒|経《た》つと、蛇ロの根元にある小さなモニタに『三八度』と表示された。掌から体温を測り、体を洗う上で最も効率の良い温度のお湯を自動で調節してくれる訳だ。
(いっその事、スタンプをためるために数秒だけ湯船に入って往復するってのはどうかしら。ううん、それはそれで違うのよね。……やっば危険を承知で|黒子《くろこ》を呼んで、スタンプを二倍ゲ
ットするとか、いっ、いやいや……ッ!?)
適当な事を考えながらボディソープを使って軽く体を洗い、お湯を使って柔らかい泡を流し落とす。
(にしても、スタンプまだ半分ぐらいしか溜まってないし。湯上がりゲコ太は遠いなぁ)
実はあんまり熱いお|風呂《ふろ》が好きではない|美琴《みこと》は、三分割された|浴槽《よくそう》の内、一番子供向けの方へ足を進めていく。
と、そこで美琴の動きが止まった。
視線の先に、
見覚えのある銀髪|碧眼《へきがん》のシスター少女が湯船に|浸《つ》かっていたからだ。
「あっ、あれ!? 何でアンタこんな所にいるのよ!?」
美琴は思わず大きな声で言ったが、白っぼく|濁《にご》ったお湯の中にいる少女インデックスは、自分の口の近くに人差し指を当てると、
「……お風呂では、静かに!」
言われてみればその通りなので、美琴は口を閉じると、スゴスゴと湯船に足の先をつける。
そこでさらにインデックスが言った。
「……お湯にタオルは入れない!」
外国人から日本の銭湯ルールを注意されて地味にヘコむ美琴。淡い色のタオルを取って湯船に肩まで浸かった美琴は、ふとインデックスの|隣《となり》に、二重まぶたが特徴的な見知らぬ少女が|佇《たたず》んでいる事に気づいた。
いや、見知らぬ、ではない。
「そうだ、変なサッカーボールのせいであの|馬鹿《ばか》に抱き着かれてた女じゃない!!」
いきなり言われて、地味だった少女は『ぶぐぅば!?』と噴き出して顔を真っ赤にさせた。両手をバタバタと振りながら『いっ、いえっ、いえいえいえわた私はわたわわたわたわた……ッ!!』と何か言い訳をしようとして失敗している。一方で外国人のシスターの口がわずかに開き、そこからギラリと|輝《かがや》く歯が。
しかし美琴は地味っぽい少女の言葉など聞いていない。
バタバタと手を振ったためにガードの|手《て》|薄《うす》になった胸元へ目をやり、白く濁ったお湯からわずかに見える部分だけから推察して、
(意外にデカそう……)
素直に負けを認めるしかない状況だと気づいて舌打ち。今は色つきのお湯に隠されているが、この地味少女が浴槽から立ち上がったら、その|瞬間《しゆんかん》に美琴は絶望に打ちひしがれる事間違いなしだ。
ごにょごにょごにょごにょーっ!! と小声早口で言い訳らしきものを連続させる地味少女を見ながら、ふと|美琴《みこと》は考える。
そういえば、この子|達《たち》は、あの馬鹿の抱えている『事情』を知っているのだろうか?
事情。
記憶喪失。
美琴がそれを知ったのはつい最近だ。一体いつから記憶がないのか、どういう原因でそうなったのかなど詳しい事は何も分からず。ただ断片的な情報から察するに、あの馬鹿本人は自分が記憶喪失である事を隠したがっているように思える……という予想ができる程度だ。
(こいつらは……その……記憶喪失については知ってたのかしら)
それとなく顔色を|窺《うかが》ったりしてみるのだが、もちろん|読心能力者《サイコメトラー》でもあるまいし、それぐらいで人の考えが分かるはずがない。
美琴は湯船に|浸《つ》かりながらさらに頭を働かせ、
(っつか、そもそもこれはあの馬鹿が抱えてる問題であって、私は丸っきり部外者なのよね。私がどうこうして何が解決する訳でもない―――ってのは分かってんだけど。だー、大体何で私があの馬鹿の事でこんなに悩まなくちゃならないのよ|面倒《めんどう》|臭《くさ》いったらありゃしないわぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶく……)
「あっ、あれ!? 短髪がお湯の中に沈んで行っちゃうよ!?」
「のぼせてるんです!! 早く助けてあげないと!!」
「?」
一足先にお風呂から上がっていた|上条《かみじよう》は自販機の前で、コーヒー牛乳とアイスクリームのどちらで攻めるぺきか考えていた所で、ふとバタバタという足音を聞いて振り返った。
救護室、と書かれた部屋から出てきた女医さんが女湯へ|突撃《とつげき》していくのが見えたが、当然ながら中の事は分からない。
そんなこんなで楽しいお風呂タイムは終わった。
上条はレジャーお風呂のビルから出て、正面入り口に突っ立っていた。別に|煙草《タバコ》を吸いに来た訳ではなく、夜風を浴びに釆たのだ。
「……地下市街だっつーのをすっかり忘れてた」
しばらく|経《た》ってから完全な無風状態である事に気づき、屑を落とす上条。
がっくりしながらも、彼はふと考える。
ローマ正教の最暗部『神の右席』の一人、後方のアックアからの宣戦布告……。これ以上の|懸《け》|念《ねん》が存在しないほどの非常事態だが、|蓋《ふた》を開けてみれば特に何も起こらない。
(ただのブラフだった……? いや、そう判断するのはまだ早いか)
うーん、と悩む|上条《かみじよう》の|隣《となり》に、何だか湯上がりで良い|匂《にお》いがする|五和《いつわ》が近づいてきた。
「そんな所にいると湯冷めしてしまいますよ」
「いや、ちょっとのぼせ気味だったからちょうど良いかも」
「ええと、帰りもバイクを使いますので、その時間を|考慮《こうりよ》すると、やっぱり湯冷めするかもしれませんけど」
控え目に指摘され、ガーンとへこむ上条。
そんな彼の顔を見て、五和はくすくすと笑った。
「少し歩きませんか?」
「湯冷めするって言ったのは五和じゃない!!」
「どうせ湯冷めしてしまうのなら、もう構わないかなとも思いますけど。それに、何でしたら後でもう一度お|風呂《ふろ》に入っても良いんじゃないですか? プールみたいに遊べるお風呂もいっ
ぱいあるみたいですよ」
それはそれでパラダイスだな、と上条は心の中だけで思って|頷《うなず》いた。
ぶっちゃけ、一人で男湯は寂しかった。
「ああそうだ。インデックスはどうしよう?」
「何だか、ビルの中にある『食べ物空間』の試食コーナーを駆け回っていましたけど」
そんな状態のインデックスを呼び止めて散歩に|誘《さそ》ったら、その時点で頭を|噛《か》み付かれるに決まっている。試食コーナーから出る事はないから迷子にはならないだろ、と上条は適当に結論を出す。
(……それに、アックアについても今の内に色々話し合った方が良さそうだしな)
後方のアックアが学園都市へ来るかもしれない、という話はインデックスには|内緒《ないしよ》にしてある。今回のターゲットは上条一人だ。余計な事を言って彼女を危険な場所へ引きずり込むような|真似《まね》は|避《さ》けたいのだ。
そんなこんなで五和と夜の地下市街を散策する事にした。
青一色で統一された夜景は、|得《え》|体《たい》の知れない南国の|蝶《ちよう》の|鱗粉《りんぷん》のようにも、|珊瑚《さんご》|礁《しよう》に|覆《おお》われた海の中のようにも見える。お風呂から上がったばかりで体が|火照《ほて》っているからか、不思議と冷たい印象はなかった。
「そういえば、|天草式《あまくさしき》は日本からイギリスに引っ越したんだっけ?」
「ええ、まあ」
「イギリスでの生活って、どんなのなんだ」
「うーん」
|五和《いつわ》は少しだけ考える素振りを見せて、
「ロンドンへ移住したと言っても、私|達《たち》が任されているのは日本人街のブロックですから、そんなに変わらないですよ。毎日三食、食べるものも日本と同じですし」
「え、そんなもんなの?」
「うーん……」
五和はさらに|曖昧《あいまい》に笑い、ほんの少しだけ間を空けて、
「そのう、そもそも|天草式《わたしたち》はあらゆる環境を学習し、その環境に適した形で溶け込む集団ですから。『知らない場所』へ向かう時の反応は、普通の人とは違うかもしれません」
となると、五和達が日本人街にいるのは『日本の風習を引きずっている』のではなく、『日本人の集団がいても違和感のない場所』を選んだだけかもしれない。おそらく本当は和洋中ドンと来いな感じなのだ。
「イギリス清教の待遇も良くしていただいていますし。もちろん『|天草式《あまくさしき》としての』感覚なんですけど、ロンドンでの生活も気楽なものですよ」
五和は笑ってそう言ったが、そんなに単純なものではないだろう。
イギリス清教として動く事に政治的な問題が生じる場合、天草式だけを動かして、いざとなればトカゲの|尻尾《しつぽ》のように切れる状況を、|上条《かみじよう》は何度か見ている。巨大組織の『|傘下《さんか》』になるという事は、そういう便利屋的な仕事を押し付けられる事でもあるのだ。
「そっか」
ただ、上条はそれらを|呑《の》み込んで、一言だけ答えた。
五和の表情は簡単な笑みではなかったが、それでも今ある境遇に満足しているように思えたからだ。
「あのさ、そういえば天草式ってのは街に溶け込むように存在している宗派なんだよな」
「ええ、一応そういうものを目指していますけど」
「となると」
上条は改めて五和の格好に目をやる.
今の彼女は、明るい色の羊みたいなトレーナーの上から、ピンク色のタンクトップを重ね着していた。濃い色の細いパンツは巻きつくような切れ目が入っていて、めくれるのを防ぐために透明なビニール素材を当ててある。
「それって、ロンドンの人達はみんなそういう格好[#「そういう格好」に傍点]をしているって事?」
「あっ、ええと、今は一応『学園都市の中に|紛《まぎ》れる事』を意識して選んでいるつもりなんですけど」
もしかして浮いてます……? という不安げな五和に、上条は軽く首を横に振った。
彼女はややホッとした様子で、
「こういうのはロで説明するのは難しいんですけど、その、ロンドンの方はもう少し大人っぽい感じかもしれません」
「はー、学園都市以外のブランドとか知らないからなぁ。やっぱ向こうのアイテムで固めるとそういう感じになったりすんの?」
「ええと、そうではなくて。向こうの人も国内品だけを好んでいる訳ではないので、逆にそういう選び方は危険な場合もあって……。それ以外にも、着ているものは同じでも、仕草や挙動に特徴をつけるだけで、結構|雰囲気《ふんいき》は変わってしまうというか」
ごにょごにょと言う|五和《いつわ》。衣服に関してはほとんど感覚的な処理をしてきたため、改めて論理的に説明するのが難しいのだろう。『自転車の乗り方を教えて』と言われても、『自転車に乗るんだよ』以外に説明のしようがないのと同じである。
ともあれ、ロンドンでの五和の格好がちょっと気になる|上条《かみじよう》。
とっさに連想したのは、彼女以外に存在する、もう一人の|天草式《あまくさしき》の知り合い。
|神裂《かんざき》|火織《かおり》だ。
「―――でも神裂の服装って変じゃね?」
「ッ!? な、と、へ、変、とは……?」
「あいつ確かに大人っぽいけど大人しいっつーより絶対エロいと思うけどなぁ?」
「とっ、唐突に|女教皇様《プリエステス》へなんて|凄《すさ》まじい評価を!? あれはエロいのではなくて術式を組むにあたって左右非対称のバランスが有効なために採用しているのであって別に体のラインを見せつけている訳では―――ッ!!」
ハッ!? とそこで我に返る五和。
胸の前で両手をグーにして力説する奥手少女の|変貌《へんぼう》ぶりに、上条はやや引き気味で、
「じ、じゃあ何だ。五和|達《たち》としては結局『ロンドンに釆て正解だったぜイエーイ』っていう感じなのか」
「??? まぁ、|女教皇様《プリエステス》のいらっしゃる場所に来れた事は|嬉《うれ》しいです」
上条の唐突な方向転換に五和はややキョトンとした。
「……ええと、|距離《きより》が遠くなっちゃったから、日本にいる人とはすぐに会えなくなっちゃったのが残念ですけど……」
彼女は上条の|隣《となり》を歩きながら、少しだけ視線を下に向けて、口の中で何かを|呟《つぶや》く。
「……でも、そういうのも良いかなって最近思っていて。その、|織姫《おりひめ》と|彦星《ひこぼし》みたいだなぁって……」
「? どうしたの五和?」
「いっ、いえ!! 何でもないですハイ!!」
上条がキョトンとした顔で質問すると、五和は唐突に顔を真っ赤にして両手をわたわたと振り始めた。
10
|建宮《たてみや》|斎字《さいじ》を中心とした現天草式のメンバーは、そんな|上条《かみじよう》と|五和《いつわ》から少し|離《はな》れた所にいた。彼らは一ヶ所ではなく、上条|達《たち》をぐるりと取り囲むように、主要なアクセスルートを押さえつつ、対象と同じ速度で絶えず移動する。しかも、それでいて|完壁《かんぺき》に風景に溶け込み、何者かを守っているという素振りは見せない。もしもこの状況を要人護衛の専門家が見れば舌を巻いただろう。そして、天草式は専門家にすらその正体を勘付かせない。
イギリス清教からの命を受けて任務に当たる天草式の中心人物である建宮は、数人の若者達とグループを組んで街を歩いている(ふりをしている)。彼らはカラオケボックスや屋内レジヤー施設などが並ぶルートを通り、どこの店に入るか品定めをするように見せかけながら、上条と五和を一定の|間隔《かんかく》で追う。
「教皇代理、どう思います?」
|隣《となり》にいる|牛深《うしぶか》が尋ねてきた。
「五和のインデックス押しのけ夜のデート大作戦?」
「後方のアックアです」
短く言われて、建宮の表情がわずかに変わる。
彼は周囲を軽く見回しながら、
「今の所、侵入の|痕跡《こんせき》はなし。学園都市側からはそういう報告を受けちゃいるが」
「……やはり、信じられませんか」
「この場合、信じられないという言葉には二通りの意味があるのよ」
建宮はニヤリと笑い、
「一つ目は、単純に学園都市のセキュリティが|魔術《まじゆつ》関係に|疎《うと》く、信用できない場合。二つ目は、学園都市上層部が何らかの意図で、本来得ている情報を隠している場合。さて牛深、お前さんの信じられないは、どっちの信じられないよな?」
「それは……」
「そもそも、上条|当麻《とうま》一人のために、学園都市、イギリス清教、そしてローマ正教『神の右席』の三方が策略を巡らせる、というこの構図がすでに妙なのよな」
「教皇代理」
「ああ。分かってる。|俺達《おれたち》天草式にとって、上条当麻って名前にゃそれなりの価値があるのよ。時に命を救ってもらい、時に共に戦ってもらった相手だし」
ただ、と建宮は言葉を切って、
「学園都市にとって、上条当麻とは何だ? イギリス清教にとって、上条当麻とは何だ? ローマ正教『神の右席』にとって、上条当麻とは何だ? ……それは、『組織』ってデッカイものを動かすだけの価値があるものなのか」
|建宮《たてみや》を中心とするグループの数人は、わずかに黙った。
答えが分からないのではない。
思いはしたが、口に出すのが|憚《はばか》られたのだ。
「……いくつかの仮説なら、立てられる」
建宮|斎字《さいじ》が、やがてポツリとそう言った。
「ただ、そいつが……|上条《かみじよう》|当麻《とうま》の『価値』が、成り立ちも広がり方も違う三つの巨大組織に共通するものなのか。その辺りで思考が止まっちまう。どうにも、まだ|俺達《おれたち》の知らない情報が隠れていそうな気がするのよな」
「教皇代理……」
「本気で上条当麻を護衛するんなら、そっちも含めて一度探ってみる必要があるのかもしんねえのよな。今みてえに一回二回の|襲撃《しゆうげき》にガタガタしてんじゃなくて、そもそも『襲撃してくる者』の核を直接|叩《たた》くために」
と、そこで建宮の言葉が途切れた。
違和感に気づいたのだ。
消えているのは人。いつの間にか、夜の地下市街を歩いている者が建宮達だけになっている。何らかの手段で人の流れが操られた。それも、『風景に溶け込む事』を得意とする|天草式《あまくさしき》の目をかいくぐるほどの高精度で。
「……、」
言葉すらなかった。
建宮が指先だけで合図すると、数人の若者達が隠し持っていた『武器』へ手を伸ばす。
周囲を警戒する天草式は、ある感覚を得た。
それは圧迫感。
地下鉄のホームで列草が近づいてきた際にやってくるような空気の|塊《かたまり》にも似た感覚。ただ単純に『巨大なもの』が近づいてくる事で巻き起こる、余波のような何か。
建宮はそちらへ振り返る。
そこには、
11
青で埋め尽くされた地下市街の中を、上条と|五和《いつわ》の二人は歩いている。普通の街と違って計画段階から景観を意識して作られたせいだろう。統一の取れた夜景は|若干《じやつかん》 |窮屈《きゆうくつ》さを感じるものの、全体としてはやはり|綺麗《きれい》なものだった。
と、|隣《となり》を歩いている五和が、ボツリと言った。
「動きませんね。アックア」
「……学園都市のセキュリティに引っ掛かっている、なんて都合の良い話じゃないんだろうけどなぁ」
のんびりしていると忘れそうになるが、目下最大の問題はやはり『神の右席』だ。
学園都市の|警備員《アンチスキル》も|馬鹿《ばか》ではないが、過去に|魔術師《まじゆつし》が何度も侵入してくるのを見た|上条《かみじよう》としては、彼らに|全《すべ》てを任せておけば安心……とは思えない。ましてアックアは、前方のヴェントを回収するために実際に一度学園都市に侵入しているのだ。
|天草式《あまくさしき》の増援は|頼《たの》もしいが、こちらもやはり、いざ政治的な問題になればトカゲの|尻尾《しつぽ》を切れる範囲での応援しかしない、と言外に宣言されている。もしもイギリス清教がなリふり構わず全力でアックアと戦う気なら、迷わず|神裂《かんざき》を使うはずなのだ。
話題が変わると、それだけで夜景の青の質が変わったような気がした。奇遇というか何というか、後方のアックアが掲げる色も青であるらしい。
「|襲撃《しゆうげき》がない事自体は、喜ぶべき事なんでしょうけど……」
どう判断して良いのか分からないのだろう。|五和《いつわ》の口調もどこかふらふらとしている。
青に染まる街を歩きながら、上条は少し考えて、
「また、学園都市の中でこそこそと下準備をしていたりとか、色々複雑な事になってるかもしれないな」
ただ、これまでぶつかってきた「神の右席』の二人……前方のヴェントと左方のテッラは、それぞれ正反対の攻め方をしていた。片や真正面から|踏《ふ》み|漬《つぶ》すように学園都市へ侵攻し、片や世界中に混乱を巻き起こして遠回しに科学サイドを|締《し》め上げようとした。
サンプル数がたった二人しかいないのでは『神の右席』という全体像を|掴《つか》むのは難しいし、ましてヴェントもテッラも|尖《とが》りすぎていて参考にならない。
「とにかく、気をつけないといけませんよね……」
五和は小さな|拳《こぶし》をグッと握り締め、
「教皇代理を含めて、みんなも見えない所で頑張ってくれていますし。|誰《だれ》が来るにしたって、私|達《たち》がベストを尽くす事に変わりはないんです。いつもと同じ事をするだけなら、特別意識する必要もないんですよね」
「いつもと同じ事、ね」
上条は五和の言葉を聞いて、思わず苦笑してしまった。
「……っつか、『神の右席』なんてご大層な組織から|狙《ねら》われているのに、お|風呂《ふろ》が|壊《こわ》れてレジャー施設へやってくるっていうのは、何だか情けないよなぁ……」
「いっ、いえいえ。そんな事はないと思いますよ」
五和はわたわたと手を振って、上条の言葉を打ち消した。
「強敵がやってくるからと言って、必要以上に身構えていても気疲れするだけなんです。全力を出すためには最適のコンディションを保つのも重要です。そのため『力を抜く』っていうのは、実はとても効果的なんです。無理に頑張って『特別なリズム』の中で生きようとした所で、|上手《うま》くいくはずがないんです。そんなの淡水魚を海水に放すようなものだと思います」
そんなもんかな、と|上条《かみじよう》は首をひねる。
散歩のコースは特に決めていない。インデックスの前でアックアの事を話せば|一緒《いつしよ》に戦うと言い出すのは間違いないので、今回の件については内緒という事にしてあるだけだ。話す事は話したし、ちょうど目の前に川が見えてきて、その川に鉄橋が|架《か》かっている事から、あれを渡ったら別のルートから引き返すか、と上条は適当に考えた。
「そういや、|他《ほか》の|天草式《あまくさしき》の連中は? |建宮《たてみや》とか」
「ええとですね。今も少し|離《はな》れた所から見張ってくれていると思いますけど」
|五和《いつわ》はそれから、ちょっと残念そうな口調で、
「……|女教皇様《プリエステス》もいてくだされば、百人力だったんですけど」
「それって、|神裂《かんざき》の事だよな。やっば、あいつってすごいのか」
「そっ、そうですよ! |女教皇様《プリエステス》は世界で二〇人といない聖人なんですから! どんなトラプルだって|女教皇様《プリエステス》がいれば一発で解決するんです!!」
へぇーなるほどなあー、と上条は超適当に相槌を打ちながら、
「ま、『神の力』とかいう大天使とケンカするぐらいだからな。やっぱすごいんだなぁ神裂って」
「ぶごぅえあ!? だっ、大天使と、ケンカ? それってどういう事ですか……ッ!?」
おや? と上条は首を|傾《かし》げる。あれは『|御使堕し《エンゼルフオール》』という特殊な環境下での出来事だったから、五和は知らないのだろうか。でも、神裂のいる脱衣所へ|突撃《とつげき》した事は|土御門《つちみかど》辺りから聞いているようなのだが……。どうも、『|御使堕し《エンゼルフオール》』については、いまいちイメージしにくい上条である。
うーん、と上条は頭を|掻《か》きつつ、
「聖人も天使もすごいんだなー。世の中すごいヤツらばっかりだ」
「も、ものすごくアバウトに評価されていますけど……」
五和はまだちょっとショックから抜け切れていないようだ。
「一応、天使と聖人でしたら、天使の方が格は上ですよ」
「そういうもんなの? 神裂でも頑張れば天使を倒せたりしない訳?」
「む、難しい質問ですね……。ただ、単純な力なら天使の方が断然上です。聖人として与えられる力よりも、天使一体が持っている許容量の方がケタ違いですからね」
五和の話によると、人間が『聖人』として振るえる力には限界があって、それを無理に超えると自滅する恐れもあるらしい。|魔術《まじゆつ》業界の学者の間でも、『天使が|何故《なぜ》あれほどのカを|溜《た》め込んで暴走しないのか』というのは様々な学説があるだけでハッキリしていないそうだ。
「ちくしょう、勉強の事を考えると頭が痛くなるのはどこも|一緒《いつしよ》なんだな」
「アバウトに言ってくれましたけど、でも、多分その意見は正しいと思います……」
肩を落として息を|吐《は》いている所を見ると、|五和《いつわ》も色々頑張っているらしい。
「話を戻そう。|神裂《かんざき》の協力はないって事だったっけ。でも、今は神裂も|天草式《あまくさしき》も、同じイギリス清教に所属してるんだろ。|頼《たの》めば受けてくれるんじゃないの?」
「そう……ですね。いるにはいるんですけど、『聖人』というのは核兵器みたいなものですから、そんな簡単にイギリス国外で活動させられないみたいですし。それに、天草式にも色々事情があるもので、そう簡単に協力を仰げないというか……。やっばり、その辺りはデリケートな問題でして……」
そんな事を言いながら、|上条《かみじよう》と五和の二人は鉄橋に足を|踏《ふ》み入れる。
鉄橋の長さは五〇メートルほど。
橋のサイズとしてばそれほどでもないが、川全体が人工的なものである事を考えると、それはそれでちょっと|感慨《かんがい》深い。
これも照明の一環なのか、ライトアップされた鉄橋の基本色はやはり青だった。
「(……気を|緩《ゆる》めちゃいけないのは分かっているんですけど、二人きりだ、うわあ……)」
「どしたの五和?」
「いっ、いえいえ!! 何でも!! 何でもないですよ!?」
顔の前で小さな手をブンブンブンプン!! と超高速で左右に振りまくる五和。
「え、ええとその、あんまり人気がないんだなーって思いまして。二人きりとかそういうのではなくてですね、せっかく|綺麗《きれい》に飾り付けられているのに、も、もったいないなー、とか……」
橋の歩道ゾーンを進みながら、上条は首を|傾《かし》げた。
何で五和はさっきから早口で|愛想《あいそ》|笑《わら》い全開なんだろうか?
「まぁ、時間帯にもよるんじゃないのか? 夜の学園都市ってこんなもんだよ。終電とか終バスの時間をわざと早めに設定してさ、夜遊びしにくいようにしてるんだ。ま、それでも遊ぶヤツは遊ぷんだけどな」
と言ったものの、直後に違和感が生じた。
今は夜の一〇時過ぎ。確かに主要な交通機関は眠りに就いている。
時間帯によって道路の交通量が変化する事自体は珍しくもない。住民の八割が学生である学園都市ならなおさらだ。
ただし、
午後一〇時を過ぎた辺りと言えば、夜遊び派なら全然普通に動いている時間のはずだ。
(ま、ずい……ッ!?」
不自然なまでに無人の風景[#「不自然なまでに無人の風景」に傍点]に|得体《えたい》の知れない|悪寒《おかん》を覚えた|上条《かみじよう》は、思わず|五和《いつわ》に危険を呼びかけようとした。
しかしできない。
それだけの暇がない。
「―――宣告は与えた」
声が聞こえる。
前方から。ある男を象徴する青いライトアップ。その照らしきれぬ|闇《やみ》の向こうから、|武骨《ぶこつ》な男の声が飛んでくる。
「―――貴様の前には、いくつかの選択肢があったはずである」
足音が聞こえる。
しかしそれは、まっとうな人間の出す音ではない。一歩一歩|踏《ふ》み出すごとに、ズン……ッ!! と鉄橋から低い|震動《しんどう》が伝わってくる。圧倒的な力の|片鱗《へんりん》。あるいは明確化された死へのカウントダウン。青い闇から近づく奇怪な足音が示すものは、もはや暴力以前の|理不尽《りふじん》さだった。
五和はこの異常な事態に対して、|唖然《あぜん》としていた。やや|緊張感《きんちようかん》の欠けた表情だが……上条は即座に気づく。|天草式《あまくさしき》本体からの連絡はどうした。彼らはつかず|離《はな》れず上条|達《たち》を陰ながら護衛していたはずではなかったのか。
「―――私の宣告を受け止めた上で熟考し、自分の命を預けるに足ると判断した選択肢が『これ』だと言うのなら、私は真っ向から立ち|塞《ふさ》がるのであるが」
だが、と声は|嗤《わら》った。
「―――率直に言おう。もう少しまともな選択はなかったのかね」
闇が|拭《ぬぐ》われる。
あくまで光源は淡いライトアップのみ。夜を払うほど強い光が追加された訳ではない。ただ、その男が|薄闇《うすやみ》の奥からこちらへ近づいてきただけ。ただそれだけのはずなのに、まるで闇の方がカーテンを開くように男から遠ざかったように感じられた。
茶色い髪に、石を削り取ったような顔立ち。衣服は青系のゴルフウェアを|彷狒《ほうふつ》とさせる。屈強な体つきだが、そこに健全さはない。それは血にまみれた兵隊の体だ。
「お前は……」
知らない顔ではない。
かつて一度―――九月三〇日の学園都市で、上条はこの男と出会っている。
|幻想殺し《イマジンブレイカー》を使ってかろうじて打ち倒した前方のヴェントを、横からさらっていった大男。
「後方のアックア。以前そう名乗っておいたはずであるがな」
神の右席。
そして同時に、『聖人』としての資質をも持ち合わせた者。
「宣言通り、って事か」
「策を練る必要性は惑じられない」
アックアは簡単に言った。
「私はただ、この世界で起きている|騒乱《そうらん》の元凶を排除しに来ただけである」
言ってくれる、と|上条《かみじよう》は心の中で毒づいた。
前方のヴェントは学園都市の機能を|麻痺《まひ》させた。左方のテッラは世界中を混乱させた。彼らの事情が何であれ、『神の右帯』から騒乱の元凶などと言われる筋合いはない。
「話し合いはなし。最初っから殺す気か」
「ふん、確かに性急すざたかな」
アックアはつまらなさそうに上条の体を上から下まで|一瞥《いちべつ》し、
「私の望みは騒乱の元凶を断ち切る事である」
「騒乱って何だよ」
「分からんとは言わせん」
「原因があるならそっちだろ!! アビニョンで何をやったか、忘れたとは言わせねえぞ!!」
「それすらも、『上条|当麻《とうま》及び学園都市という危険分子を攻略するため』という原因が存在するのだがな」
平行線の状況に、アックアは|苛《いら》立つ事すらない。
つまりは最初から、上粂の言葉など聞いていない。
「|全《すべ》ての元凶は貴様の肉体の一部を起点とする特異体質にある。ならば、命までは奪わなくても良いであろう。―――その右腕を差し出せ。そいつをここで切断するなら、命だけは助けてやる」
答えるまでもない申し出だった。
アックア白身も、断られる事を前提に会話をしている。
「|天草式《あまくさしき》の本隊は……」
その時、|五和《いつわ》がようやくボツリと|呟《つぶや》いた。
それが何らかのサインなのだろう、五和は周囲に目配せをするが、
「|無駄《むだ》である」
たった一言で、アックアが断ち切る。
「私の仲間は、一体どうしたんですか?」
「殺してはいない」
アックアは簡単に言った。
「私が倒すぺきは、|奴等《やつら》ではないからな」
言いながら、アックアの体がふらりと動く。
お互いの|距離《きより》は一〇メートル前後。こうして観察する限りアックアの手には武器らしい武器は何もないし、衣服の中に隠している風でもない。ゴルフウェアにも似た服装は屈強な体に押し広げられ、そういった物を隠すスペースが残っているとは思えないのだ。
それでも、|上条《かみじよう》と五和は全身の神経を集中して、アックアの指先の動きまで|捉《とら》えていた。争いを|回避《かいひ》するのは不可能。そんな事は百も承知だからこそ、下手な一手は打たず、最適のタイミングを把握して|突撃《とつげき》しようとしているのだ。
だが、
真横。
「ッ!?」
上条が息を|呑《の》む前に、すでにアックアは五和の真横へ飛び込んでいた。消えた。そう判断するしかないほどの速度で|懐《ふところ》深くへ|潜《もぐ》り込んだアックアは、五和の|頬《ほお》を横から|殴《なぐ》るように|肘《ひじ》を放つ。
音は聞こえなかった。
ただ上条の視覚が、歩道を越えて車のない車道へ吹き飛び転がる五和の体をかろうじて捉えた。上条はまだ息も吸えない。それでも肺の中に残っている空気を使い、ほとんど反射的に叫ぶ。
「五和!?」
「人の心配をしている場合であるか」
アックアの声が|遮《さえぎ》る。
|轟《ごう》!! という音がようやく聞こえた。音源はアックアの足から伸びる影。そこから巨大なシャチが海面へ跳ねるように、|莫大《ばくだい》な金属の|塊《かたまり》が飛び出した。全長五メートルを超す|得物《えもの》の正体は、|騎士《きし》が馬上で使うランスに似ているが、違う。
まるでビルの鉄骨を使ってパラソルの骨組みを組み上げたオブジェ。
それは|撲殺《ぼくさつ》用の|金属棍棒《メイス》だ。
「行くぞ。我が標的」
「くっ!!」
|上条《かみじよう》が身構えるよりも早く、アックアの筋肉が爆発的に|膨《ふく》らむ。
|避《さ》けろ、と頭が悲鳴を上げるよりも何倍も早く、残像すら渦巻かせて真上から巨大なメイスが振り下ろされる。
死ななかったのは奇跡に近い。視界の外から飛んできた|五和《いつわ》のバッグが上条の体にぶつかり、彼の体がアックアの予期せぬ方向へ飛んだからだ。
標的を逃した五メートルの|鉄塊《てつかい》は空中に浮いていた五和のバッグを軽々と引き裂くと、それ自体がギロチンのように地面へ突き刺さる。
アスファルトで固められたはずの鉄橋。
それが、ズドン!! と|一撃《いちげき》で揺さぶられた。あちこちで鉄骨を留めるボルトが破断していく不気味な音が|響《ひび》く。ライトアップに使われていた青白い明かりのいくつかが不自然に消えた。しかし上条にそれらに注意を向けている余裕はなかった。|隕石《いんせき》が海面に激突したように、アックアのメイスを中心に大量のアスファルト片が周囲に|撒《ま》き散らされ、その一部が上条の体に直撃したからだ。
「がァああああああああッ!?」
その余波だけで、すでに|踏《ふ》ん張る事もできなかった。
ふわりと足の裏が浮いたと思った時には、すでに上条の体は何メートルも転がされ、鉄橋を支える鉄骨の一つに背中をぶつけて、ようやくその動きを止める事ができた。
バラバラ、という音。
細かいアスファルトの破片が、まるで雨のように降り注いでいた。
アックアは鉄骨を重ねたようなメイスを肩に|担《かつ》ぎ、倒れた上条の方ヘ一歩進む。
|粉塵《ふんじん》が、|闘気《とうき》を可視化したようにアックアを取り巻き、吹き散らされる。
と、そこで彼は眼球だけを横に向けた。
のろのろと起き上がったのは、五和だ。バッグを投げる前に取り出しておいたのだろう、|柄《つか》の部分を分解して収納できる|海軍用船上槍《フリウリスピア》を組み上げ、その十字の切っ先をアックアに向けて突き付けている。
しかし最初の|一撃《いちげき》で相当のダメージを受けたのだろう。唇から赤い血の筋を垂らし、|頬《ほお》を赤く変色させた|五和《いつわ》の切っ先は、風に流れる釣り|竿《ざお》よりも|頼《たよ》りなく揺れていた。
アックアは笑いもしない。
ただ告げる。
「一組織の全体が束になっても|敵《かな》わなかった相手に、その一員が挑んで勝てるとでも思っているのであるか」
「……私にも……意地があります」
その一言に、どれだけの感情と決意が込められていたのか。
対して、アックアは『そうか』と返しただけだった。
それだけだった。
(まずい……ッ!!)
|上条《かみじよう》は痛む体を無理に動かし、五和とアックアの間に割り込もうとした。だが思いに反して体は動かない。そうこうしている内に、五和とアックアが|近距離《きんきより》で激突する。
五和の動きは速かった。
しかしアックアはもはや消えていた。気がついた時には五和の腹に鉄骨のメイスの側面が食い込み、そのままアックアは体の向きを変え、遠心力を使って、上条に向けて五和の引っ掛かったメイスをそのまま|横《よこ》|薙《な》ぎに振り回してきた。
反応する、という選択肢すら頭に浮かばなかった。
金属製のメイスの重量に加えて人間一人分の重さをプラスし、ただでさえ鉄骨に体を預けていた上条の体が決定的に圧迫された。肺から|全《すべ》ての空気が|吐《は》き出され、そこに|鉄臭《てつくさ》い味が混じる。数秒間、押し付けられた体が地面から浮いた。その後に遅れて、まるで地球の重力が数倍に増したようなダメージに襲われ、上粂は地面へ崩れ落ちる。
|覆《おお》い|被《かぶ》さるような五和は動かない。上条はぐったりした五和を横にどける事もできない。
|朦朧《もうろう》とする意識が、その場に君臨する後方のアックアをかろうじて|捉《とら》える。
(ケタが……違い過ぎる……)
前方のヴェントにしても、左方のテッラにしても、まだ動きを目で見るぐらいはできた。攻撃の合間をかいくぐって反撃を放ち、逆にダメージを与える事もできた。
だが、こいつは何だ……と、上条は思う。
後方のアックア。
こいつは本当に同じ人間なのか。
人と人の実力差ではない。まるでネットワークRPGでレベルが一〇〇以上違うキャラクターを相手にしたように感じらられる。何かトリックがあって攻撃が効かないのではなく、単純に『実カ』がすごすぎて戦いにならない。それでどう勝てと言うのだ。
「右腕だ」
アックアはゆっくりとメイスを頭上に掲げて、告げる。
「差し出せば、命の方は見逃すのである」
「ふ、ざける、な……」
立ち上がろうとしたが、力が出ない。
自分の限界に気づきつつある|上条《かみじよう》は、それでも|諦《あきら》めずに力を振り絞ろうとする。
だが、
「そうか。それならば、もう少し現実を知ってもらうのである」
12
(う……)
|五和《いつわ》の意識は少しだけ断絶していた。
|滲《にじ》むように戻った意識は、まず始めに|鉄臭《てつくさ》い|匂《にお》いを感じ取った。次に痛み。頭の|芯《しん》がそれを知覚した|途端《とたん》、全身から津波のように激痛が押し寄せた。意外にも|普段《ふだん》最も|頼《たよ》っているはずの視覚や|聴覚《ちようかく》が一番遅くやってくる。
|薄暗《うすぐら》い|闇《やみ》。
青で埋め尽くされた絶望。
あちこちの鉄骨が引き|干《ち》|切《ぎ》れ、アスファルトが砕かれ、|砂《さ》|塵《じん》の舞う鉄橋。
つい先ほどまで二人で歩いていた夜景そのものが引き千切られた|惨状《さんじよう》。
そして手の中にある|槍《やり》の|柄《つか》の感触。
「ッ!?」
ようやく状況を思い出した五和は慌てて手をついて起き上がろうとする。
そこで、ぬるりとしたもの|掌《てのひら》に感じた。
生温かく、頭の|眩《くら》むような鉄臭さ。そして何より真っ赤に染まった液体の正体は単純だ。
鮮血。
しかし五和はそれほど出血していない。というより、これほどの血を流していれば意識を保つ事は難しいだろう。インクや何かの|他《ほか》の液体、とも違う。これは聞連いなく人の血だ。
じゃあ|誰《だれ》の血だ、と考えようとして、意識は即座に否定しようとした。
考えるまでもなかった。
上条|当麻《とうま》だ。
「気づいたか」
冷静に考えれば、武器を持った後方のアックアは今もすぐ目の前に立っているはずだった。
「ならばそこをどけ。私の|一撃《いちげき》は威力が大きすぎるのである。|下手《へた》に本気を出すと周りにも被害を及ぼすのでな」
しかし|五和《いつわ》の意識に入らない。彼女は力タカタと肩を小刻みに|震《ふる》わせ、ゆっくりと、ただゆっくりと自分の後ろを振り返る。
五和が気を失っていた間、今の今まで寄りかかっていたもの。
ぐったりと力の抜けた|上条《かみじよう》の手足。顔は赤く染まっていた。|瞳《ひとみ》は開いているとも閉じているとも取れず、まるで|壊《こわ》れたオートフォーカスのように半開きのまま停止している。全身を走る激痛は体を引き裂くようなもののはずだ。にも|拘《かかわ》らず、もはや少年の体はピクリとも動かない。
生きているのか、死んでいるのか。
それすらも分からなかった。
単に物理的な|距離《きより》ならぴったりと寄り添っているのに、たったそれだけの事も|掴《つか》めない。
「あ……ぁ……」
五和の判断能力が粉々に吹き飛んだ。
後方のアックアという即物的な|脅威《きようい》が、|完壁《かんぺき》に頭から消えた。彼女は敵の前にも拘らず、他人の血にまみれた手を動かし、周囲に散らばったアスファルトの破片をかき集め、おしばりを取り出し、血だらけの上条のズボンのポケットに手を入れて財布を取り出した。
|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》の扱う|魔術《まじゆつ》には、奇怪な|呪文《じゆもん》や|霊装《れいそう》などは使用しない。
用いるのは、あくまでもどこにでもある日用品だ。
五和はそうした日用品の中に秘められたオカルト的な|残滓《ざんし》を組み直し、出血を止め、傷口を|塞《ふさ》ぎ、失われた生命力を|充填《じゆうてん》するための回復魔術を実行しようとしていた。五和という少女にとって、今現在ある『問題』と『戦い』は、この少年が生きるか死ぬかの一点だけに絞られてしまっていた。
実際、混乱の極みにありながらも、五和の|手際《てぎわ》は|驚《おどろ》くほど的確かつ高速だった。
あっという間に回復魔術は発動した。
ぐったりと動かない上条の体から、|薄《うす》く淡い光の玉がふわりと舞った。緑色の光は蛍のようにも見える。それらの光は引き裂かれた|皮膚《ひふ》の|隙間《すきま》を埋めるように|潜《もぐ》り込もうとする。
しかし、
バン!! という音が聞こえた。
五和が組み上げたはずの回復魔術が、|木《こ》っ|端《ぱ》|微塵《みじん》に、残滓も残さずに消滅した。
原因は明確。
「……ぅ、あ」
五和はのろのろとした動きで、上条の顔から、垂れ下がった右手へ目を向ける。
右手。
|幻想殺し《イマジンブレイカー》。
あらゆる不可思議な現象を、善悪間わずに打ち消してしまう特異なカ。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
|五和《いつわ》は絶叫し、さらに|破壊《はかい》されたはずの回復|魔術《まじゆつ》を組み直す。だが無意味。発動した|途端《とたん》に魔術は破壊され、また組み上げては破壊される。どこにでもある目用品を使っているとはいえ、こうも|無《む》|駄《だ》|遣《づか》いをしていればあっという間に消費されていく。気がつけば、回復魔術に扱えそうなものは残っていなかった。
「もう良いか」
いつまで|経《た》ってもあがきをやめようとしない五和に、アックアは言葉を投げかける。
しかし五和はまともに受け答えもできない。
延々と叫び続ける事しかできない五和に、アックアはそれ以上何も言わなかった。
何も言わないままその大きな足を振り上げ、うずくまる五和の背中を上から|踏《ふ》み|潰《つぶ》した。
ベゴォ!! という|轟音《ごうおん》と共に絶叫が止まる。
暴力的な音と共に、彼女の手足から力が抜ける。意識が断たれたようだった。
「ふん」
地面に崩れ落ちた五和になど目も向けず、アックアは改めて巨大なメイスを構え直す。
本来の仕事。
|狙《ねら》うは気を失った|上条《かみじよう》の右肩。
しかしアックアのメイスは振り下ろされなかった。
彼が手心を加えたのではない。
全身に傷を負い、体の|芯《しん》までダメージを蓄積し、意識を失っていたはずの五和が、ドロドロの手を動かして己の|槍《やり》を|掴《つか》み、勢い良く立ち上がったからだ。
|奇《く》しくも、上条とアックアの間を|遮《さえぎ》る壁のように。
「ぐっ、がっ、ォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
内臓を|震動《しんどう》させるその叫びはまさしく死力だった。今の五和はもう勝算などを考えていない。血走った目を見れば、そんな余裕は残っている訳がないのは容易に想像がつく。
死なせたくない。
奪われたくない。
立ち上がりたい。
ただそれだけで動いているだけだ。
ロから血の|塊《かたまり》を吐き出しながら、五和の|瞳《ひとみ》にこれまでにない粘ついた眼光が宿る。
アックアは退屈そうに息を吐いた。
そうしながら、ゆっくりとメイスを握る腕が|膨《ふく》らんでいく。恐るぺき筋肉の力で、鋼鉄でできているはずのメイスの|柄《つか》を漬しかねないほどに強く固く握り締める。
アックアは五和を敵と認識したのではない。
|邪魔《じやま》な|五和《いつわ》ごと|一撃《いちげき》で|上条《かみじよう》を粉砕しようとしているだけだ。
五和は唇を|噛《か》んだ。
その雑な扱いを彼女は認識していた。
そして、雑に扱われるだけの実力差が開いてしまっている事も。
(……。)
しばし、五和は|黙《だま》り込んだ。
単に口を動かさないのではない。頭の中においても静寂。心の中が何も生まない奇妙な空白。それはある種の覚悟か、あるいは|諦《あきら》めか。|一 瞬《いつしゆん》後に|全《すべ》て思考を取り戻した彼女は、ふらふら揺れる切っ先を、それでも明確にアックアへ突き付けた。
死地へ挑む者が放つ、ただ純粋な宣職布告。
五和の中に残されたわずかな力が、一ヶ所へと集約されていく。
静寂は唐突に破られ、そして結末はやってくる。
「ありがとう、五和」
五和の決意を砕いたのはアックアの一撃ではなかった。
それは彼女の肩に後ろからそっと置かれた、とある少年の弱々しい手だった。
五和の小さな体が、その一言にビクリと|震《ふる》えた。
彼女は振り返れない。
肩に置かれた手はボロボロのはずだ。
だが五和の脳裏に浮かぶのは、ただ優しい顔。
「お前の回復|魔術《まじゆつ》のおかげで、ちょっと元気が出た」
そんなはずがなかった。彼の|幻想殺し《イマジンブレイカー》はあらゆる魔術を砕いてしまう以上、五和の回復魔術など何の意味もないはずだった。
実際、少年の声は絞り出すように小さなもので、声域も|頼《たよ》りなくふらふらと揺らぎ、今にも消え入りそうに惑じられた。
にも|拘《かかわ》らず、その短い言葉には温かさがあった。
五和は思わず崩れ落ちそうになるが、直後に少年が何を考えているかを知り背筋に|悪《お》|寒《かん》が走る。
|何故《なぜ》、このタイミングで立ち上がったのか。
指先を動かす事すら難しい状況で、どうして無理に立ち上がったのか。
そして、後方のアックアへ飛びかかろうとした五和を引き止めるように肩へ手を置いた上条の真意は。
「待―――ッ。」
声を出す暇もなかった。
少年は|五和《いつわ》の肩に置いた手にカを込めると、まるで五和と立ち位置を交換するように、一気に前へ飛ぴ出した。ボロボロの体を動かし、後方のアックアへ向かう|上条《かみじよう》の背中を、五和は止められなかった。|中途《ちゆうと》|半端《はんぱ》に決意を砕かれたせいで、精神力によって支えられていた体の力が抜けてしまったのだ.
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
いくらあの少年が|戦闘《せんとう》の|素人《しろうと》とはいえ、後方のアックアに勝てない事ぐらいは分かっているだろう。
あの少年の|狙《ねら》いはそこではない。
後方のアックアは、最初から標的は上条一人だと言っていた。周囲に展開していた|天草式《あまくさしき》の本隊も殺していないと言っていた。つまり一刻も早く戦闘の決着を着ければ、周りへの被害は減る。
例えば、
すぐ|側《そば》にいる五和は死なずに済む。
「……ッ!!」
その背中を目で追う事しかできない五和の表情が|歪《ゆが》む。
彼女のまぶたから透明な液体がこぼれる。
五和は何かを叫んだが、上条は振り返らなかった。
振り返らないまま、一直線にアックアの元へと飛び込んだ。
「良い度胸である」
後方のアックアはそれだけ言った。
そうして、五和の見ている目の前で、恐るべき|一撃《いちげき》が放たれた。鋼鉄で作られた、全長五メートル以上もの巨大なメイスが横に振るわれ、少年の|脇腹《わきばら》へ|容赦《ようしや》なく突き刺さる。人体にぶつけるものとは思えない|轟音《ごうおん》が|炸裂《さくれつ》し、橋を作る鉄骨の柱とメイスの間に挟まれた少年の体から、|全《すべ》ての力が奪われた。決死の思いで握られた|拳《こぶし》は、アックアに向かって放たれる事すらなかった。
今度こそ|完襞《かんぺき》に意識の消えた少年の体が、巨大なメイスに寄りかかる。まるで|布団《ふとん》を干すような格好になった少年を見て、アックアは笑う。
敗北者の|奮闘《ふんとう》を|讃《たた》えるように。
少女のために死地へ|赴《おもむ》いたその勇気を、認めるかのように。
「一日待つ」
アックアは、意識を失った少年を引っ掛けたまま、腕一本で|緩《ゆる》やかに巨大なメイスを振り回す。
「|麻酔《ますい》もなくここで引き抜かれるのも|酷《こく》だろう。義手の準糒でもしておくが良い。期限までに|騒乱《そうらん》の中心―――その元凶たる右腕を自ら切断し、我々に差し出すと言うのならば、その命は見逃してやるのである」
それだけ言うと、アックアは無造作にメイスを横へ|薙《な》いだ。
『神の右席』にして、聖人としての資質をも兼ね備えた怪物の|一撃《いちげき》。
メイスに引っ掛かっていた少年の体が、砲弾のような速度で鉄橋から飛んだ。手すりを飛び越した体は数百メートルも|真《ま》っ|直《す》ぐ突き進み、暗く冷たい水面に激突すると、そのまま沈まずに跳ね飛んだ。あまりの速度に少年の体は二回、三回と水面の上を跳ね跳び、最後には川を流れていたクルーザーのすぐ横に沈み、まるで爆風のように川の水を盛大に|撒《ま》き散らす。
ドッバァァン!! という|轟音《ごうおん》が少し遅れて|炸裂《さくれつ》した。
詳しい生死を確かめもせず、後方のアックアは|五和《いつわ》に背を向ける。
彼は最後に、もう一度言った。
「一日待つ」
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行間 一
何だ、眠れないのか。
それじゃじーちゃんが話でもしてやろうな。ん? じーちゃんの話は長くてつまんないって。
だからさっさと眠たくなるんだろ。
ええと、それじゃ|占星《せんせい》|施術《せじゆつ》旅団について話すか。
ああ、そうそう。昔はそういう名前で呼ばれていたんだよ。やってる事は今と変わんないかな。そうだよ。お前がガキんちょなりに入のお手伝いをしている、あれと|一緒《いつしよ》。一応は十字教系の|魔術《まじゆつ》結社で、あっちこっちで人から相談を聞いて、状況に合わせてこっそり魔術を発動する。そんな集まりだ。
ただ、昔は|依頼《いらい》の数が圧倒的に多かったな。|嘘《うそ》じゃないぞ? 国中の人|達《たち》に|頼《たよ》られたんだ。何しろ依頼のために集まる人があまりにも多いから一ヶ所に|留《とど》まれないってんで、じーちゃん達は何年もかけて、ゆっくりとロシア全土を回るような生活をしていたぐらいなんだからな。
ところが、まあ、トラブルってのはどこにでもあるもんでな。
|厄介《やつかい》なのに目をつけられちまった。
いやいやいやいや、断っておくけど、ロシア成教全部が悪いって訳じゃないんだぜ。ただ、その|馬《ば》|鹿《か》野郎はロシア成教の一部門を完全に私物化していやがってな。おかげでじーちゃん達はプロの|戦闘《せんとう》集団相手に追いかけっこをする羽目になっちまったんだ。
馬鹿野郎の名前?
じーちゃん達を捕まえてどうするつもりだったのかって?
そいつはガキんちょには教えられないな。曲がりなりにも一国家の暗部ってヤツだ。教えるのは簡単だけど、そうなったら子供だって|容赦《ようしや》はない。おいそれと|吹聴《ふいちよう》して良い内容じゃないって訳だ。
とにかく、ロシア成教の追っ手ってのはおっかなくてな。そもそも人間の|範疇《はんちゅう》にいない|幽霊《ゆうれい》だの妖精だのと戦うために編成されたガチの化け物だ。『お手伝い』業務のじーちゃん逮じゃまともにぶつかってもどうにもならない相手だった。圧倒的なんだな。
だから、じーちゃん達は国外へ逃げる事にしたんだ。不幸中の幸いにも、ヤツらはロシア成教。つまりロシアの国境から出ちまえば何とかなる。希望ってのはすごいもんでな。|一掴《ひとつか》みの|藁《わら》があれば、人間はいくらでも頑張れるものなんだよ。
でも、辺りはマイナス五〇度の地獄でな。国境までは何十キロもある。いやぁ、大変だったよ。なんていうか、もう痛みとかそういう世界じゃないんだな。ただ足の裏が重たくなっていく感覚しかないんだよ。そんな中を延々と徒歩で歩くんだ。じーちゃんみたいな老人も、お前よりも小さなガキんちょも、みんな平等に。お前なんか、かーちゃんのお腹の中にいたんだぞ。かーちゃんが怪力なのは多分あの時のせいだな。
そんな状態なら、ロシア成教の追っ手だって動けなかったんじゃないかって?
違うんだな。連中は、そラいう永久凍土の中で動くために訓練された、本物のプロなんだ。まるで機械とか人形みたいに規則的に動きやがる。しかも兵士も一流なら、装備も一級品だった。ヤツら、金属の馬を使うんだ。あれは八本足の馬だったかな。そうだよ、確かスレイプニルとかってコードネームで呼ばれている|霊装《れいそう》だ。
じーちゃん|達《たち》とロシア成教の速度なんて、|一目《いちもく》 |瞭 然《りようぜん》だった。
|吹雪《ふぶき》に|霞《かす》む視界の向こうにうっすらと国境が見えるだろ。でも分かるんだ。あそこに|辿《たど》り着く前に、ロシア成教の追っ手に捕まっちまうって。もう見えているのに届かない希望。みるみる後ろから近づいてくるのに、どうする事もできない追っ手の影。|諦《あきら》めるしかないって思うだろ。|無《む》|駄《だ》な努力をするぐらいなら|膝《ひざ》をついた方が楽だって思うだろ。でも、できないんだ。なまじ目の前の国境っていう希望が見えちまうと、諦める事すらできないんだ。
ん?
その後どうなったのかって。
そりゃお前、何とか逃げ切ったよ。そうでなけりゃじーちゃんはここにいないし、お前だって生まれていないだろ。どこが引っ掛かっているんだ?
そっかそっか。
どうやってロシア成教の精鋭から逃げきったのか、それが分かんないのか。
そいつは簡単だよ
じーちゃん達の前に、『ヤツ』が現れたんだ。
ウィリアム=オルウェルがな。
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第二章 敗北から立ち上がる者達 Flere210.
夜の病院に慌ただしい音が|響《ひび》く。
ここは第二二学区第七階層にある、救命救急病院だ。
患者を乗せたストレッチャーの小さな車輪がガチャガチャと鳴る。複数の救急隊員がそれを取り囲みながら進み、音の|塊《かたまり》は救急外来から建物の中へ。ストレッチャーを押す手が救急隊員から医師や看護師ヘバトンタッチされ、集中|治療《ちりよう》|室《しつ》に入り、さらに手術室の扉の中へと消えていく。
「……何とか、終わりました。正直、安定した容態とは言い|難《がた》いですが」
手術室から出てきたストレッチャーが再び集中治療室へと戻っていくのを見届けながら、若い男の医者はそう言った。
面会時間の終わった病院の廊下は寂しいものだ。
しかし現在、|薄暗《うすぐら》い廊下には複数の人影がいた。大勢、と呼んでも良いかもしれない。|老若《ろうにやく》 |男女《なんによ》、合わせて五〇人前後の人間が壁に寄り掛かったり、ソファに座ったりして医者の言葉に耳を傾けている。その大半が衣服のあちこちを破き、包帯を巻いていた。しかも白い布の上からじわりと赤いものが|滲《にじ》み出ている者も多い。
彼らは『|天草式《あまくさしき》』と名乗ったが、それが具体的にどんな組織を差しているのかは、若い男の医者には分からない。|有《あ》り|体《てい》に言えばとてつもなく|胡散臭《うさんくさ》い集団なのだが、スキルアウトの大物などが入院したりすると、やはりこんな風に不良少年|達《たち》で待ち合いロビーが|溢《あふ》れ返る事もたまにある。なので、若い医者はあまり深入りしないようにした。
「|大雑把《おおざつぱ》に言って、普通の人間なら絶対安静、といった所でしょうか。細かい内訳で言うと、まずは全身|打撲《だぼく》と|脳震盪《のうしんとう》。後は右肩、左足首の関節が|脱臼《だつきゆう》しています。後は内臓も圧迫されていて」
「……つまりは、予断を許さないって訳よな?」
クワガタみたいな光沢の黒髪の大男が、慎重に言葉を選びながら尋ねてきた。
医者は重たい息を|吐《は》いた。
「不幸中の幸いとでも言うべきでしょうか……。一番怖かったのは長時間水の中にいた事によって、脳へ酸素が回らなくなっていた危険性ですが……こっちはダメージは少なそうです」
電子情報化されたカルテらしきものを見ながら、若い男の医者はスラスラと統ける。
「しかし……複数の|目撃《もくげき》証言があるとはいえ、にわかに信じられない『原因』ですね。人間の体を鉄橋の上から数百メートル吹き飛ばし、川の水面を何回もバウンドさせて、水の中に|叩《たた》き込むなんて……。状況そのものも信じられませんけど、それだけの|大《だい》|惨事《さんじ》に巻き込まれて、まだ|峠《とうげ》の途中でふらふらできるという事が奇妙としか言えません」
「手加減されたんだ……」
暗い廊下で、|誰《だれ》かがボソリとそう言った。
若い男の医者はそちらを振り返るが、誰が言ったか分からなかった。彼らはおかしな集団で、病院の中では圧倒的に浮いているのに、誰も彼もが『突出』していない。『群衆という風景』のように見えるのだ。しかも『五〇人近い包帯を巻いた集団』であるにも|拘《かから》らず、だ。
「とにかく、まだ|全《すべ》てが終わったって訳じゃねえのよな」
唯一『突出』しているクワガタ男が、念を押すように医者に聞いた。
「話ができれば、一言だけでも謝っておきたい所なのよ」
「なっ、何を言っているんですか!? 絶対安静に決まっているでしょう!? そ、その、何に対して謝るのか存じませんけど、今は得策じゃありません。麻酔でぐっすり眠っていますし、仮に麻酔の|影響《えいきよう》がなかったとしても、体力レベル的に|覚醒《かくせい》するとは思えませんよ。今は休ませてあげるぺきでしょう」
それに何より、と若い男の医者は|顎《あご》で集中|治療《ちりよう》|室《しつ》を差した。
外からでも患者の変化を|逐一《ちくいち》確認できるようにするためか、集中治療室の壁はガラス張りで、廊下からでも数名の患者が寝かされているのが見えた。大量の機械に囲まれたべッドの一つに、ツンツン頭の少年が横たわっている。
クワガタ男は若い男の医者に促されるように集中治療室に目をやり、そこでわずかに表情を|曇《くも》らせた。
ベッドに寄り添うように、あるいは床に|跪《ひざまず》くように、一人の少女が|佇《たたず》んでいた。患者の|掌《てのひら》を両手で包み込むように握っているのは、白い修道服を着た少女。
インデックスだ。
「……こいつは医者としての経験ですが、そっとしておくべきだと思います」
若い男の医者は感情を消したような顔で、そう警告した。
クワガタ男も、あの中に割って入るだけの度胸はないらしい。|黙《だま》って|領《うなず》くのを確認してから、若い男の医者は廊下を歩いて立ち去った。
クワガタ男―――|建宮《たてみや》|斎宇《さいじ》は、集中治療室のガラス壁から一歩だけ身を|退《ひ》いた。
本当に悔しいが、あの少年に対してできる事は何もなかった。|天草式《あまくさしき》に伝わるあらゆる回復や|治癒《ちゆ》の|魔術《まじゆつ》も通じない。せいぜい無事を祈るぐらいが関の山だが、それにしたって、祈るだけの資格があるかどうか。
後方のアックアから身を守ると言っておきながら、実際には文字通り『|蹴散《けち》らされた』。片手間のような|攻撃《こうげき》でボロボロにされた|建宮《たてみや》|達《たち》は、標的へ向かっていくアックアを地面に倒れながら見届けるしかなかったのだ。
その上、最後は護衛対象自身が|天草式《あまくさしき》の『仲間』を守るために戦って……この有り様だ。あちこちに巻かれた包帯や、|貼《は》り付けられたガーゼ。一般人には分からないだろうが、|魔術《まじゆつ》|的《てき》な観点からは|一目《いちもく》 |瞭然《りようぜん》。今の天草式は、平時のように環境と一体になる事すら|薄《うす》らいでいる。
今の天草式は、何もかもに負けていた。
後方のアックアからも、そしてそれ以上に、|上条《かみじよう》|当麻《とうま》からも。
「……、くそったれが」
建宮は奥歯を|噛《か》む。
どれだけ打ちひしがれようが、敵は待たない。|五和《いつわ》の話によると、後方のアックアは一日後に上条当麻の右腕を切断して渡さなければ、再び上条を|襲撃《しゆうげき》すると伝えてきているという。当然ながら、右腕も、襲撃も、そのどちらも許せるはずがない。
やるぺき事は分かっている。
上条当麻を守るために、何があっても立ち上がるべきだ。
「で、お前さんはそこで何を|蹲《うずくま》ってんのよ」
建宮が問いかけると、薄暗い廊下の中でも、さらに光の少ない、ほとんど黒い|塊《かたまり》のようになった一角で、ビクリと小動物が|震《ふる》えるような気配があった。
目を|凝《こ》らさなければ分からない。
しかし、ソファの隅で小さくなっているのは、間違いなく五和だ。
手足には包帯、|右類《みぎほお》を覆うような四角いガーゼ。痛々しい事この上ないが、肉体的な分かりやすい傷などとは比べ物にならないほど、彼女の精神は打ちのめされていた。
「……わ、たし……」
声は不安定で、しゃっくりのようなものが混じっていた。|鳴咽《おえつ》。あまりにも涙をこばしすぎたせいで、|横隔膜《おうかくまく》の制御がおかしくなっているのだ。
「……私、守るって……そう言って。|槍《やり》だって、魔術だって……何の役にも、立たなかったのに……ありがとうって、言ってくれて……。少しも守る事ができなかったのに、立ち去るアックアに一矢を報いる事もできなかったのに……ありがとうって……」
ボタボタ。という音が聞こえる。
それは涙かもしれないし、握り|締《し》めた|掌《てのひら》から血がこぼれているのかもしれない。
「私……あの人の話を聞いた時、なんてすごい力を持っているんだろうって、思いました。でも違ったんですよ。あの人は、どんな防御術式に|頼《たよ》る事もできない。どれだけの回復魔術があっても、|掠《かす》り傷一つも治せない。本当に、体一つで戦っていただけなのに……」
「五和……」
「私、そんな人を見殺しにしたんですよ」
その時、|五和《いつわ》は笑っていたかもしれない。
ぐずぐずと鼻を鴫らしながら、その顔には笑みのような|歪《ゆが》みが見えた。
「そんな人間が、何で一人だけのうのうと生きているんですか。被害者の集まりの中に一人だけ変なものが混じり込んで、何で|天罰《てんばつ》って降り注がないんですか!? こんなのはおかしいんです。私の方があのベッドで眠っているはずだったのに!! それで全部解決していたはずなのに!!」
一つの言葉の中で強弱が|曖昧《あいまい》に揺れる。それは相談であり、独り言であり、|懺悔《ざんげ》であり、八つ当たりであり、負け犬の泣き言であり、|猛獣《もうじゆう》が放つ|咆哮《ほうこう》でもあった。
自分で自分の感情を把握しきれていない。
そんなものに気を回す余裕がないほどに、五和は追い詰められている。
それを知り、|建宮《たてみや》はわずかに目を細めながら、|闇《たみ》を裂くように五和の元へと|踏《ふ》み込んだ。
「立つ気はないのか」
「……、」
「お前さん、一体そこで何をやってんのよ?」
建宮は軽く言いながら、しかし五和の胸倉を片手で|掴《つか》み上げた。周りが何か言うより前に、恐るべき筋力で|吊《つ》り上げると、そのまま手近な壁に勢い良く|叩《たた》きつける。
バゴン!! という|凄《すさ》まじい音が鳴り|響《ひび》いた。
五和の背中に|衝撃《しようげき》が走り、呼吸がおかしくなる。だが五和は、抵抗らしい抵抗を何もしなかった。ただあえぐように酸素を求め、涙に|濡《ぬ》れた|瞳《ひとみ》で建宮を|睨《にら》み返している。
「……さん、だって……」
息も絶え絶えに、しかし五和は唇を動かした。
「建宮さんだって、負けたじゃないですか」
「―――、」
|醜《みにく》い言葉だと言うのは、彼女自身気づいているだろう。そして本来、建宮に怒りをぶつけるべきではない事も。それでも彼女が建宮に|刺《とげ》のある言葉を放ったのは、もうそれぐらいの事をしないと自分の精神が耐えられないからだ。きっと五和という少女は、本当にあの少年を守りたかったのだろう。心の底から約束を果たしたかったに違いない。そして、その|想《おも》いは、圧倒的な力によって粉々に打ち砕かれてしまった。
建宮は、無理に理解しようとしなかった。
その感情は、おそらく五和だけが理解するべき大切なものだ。
だから代わりに、彼はこう言った。
「こんな女を助けるために、あいつは体を張ったのか?」
その言葉に、五和の目が大きく見開かれた。
刃物を刺されたかのような表情。壁に叩きつけられた時にも苦痛を表現しなかった顔が、建宮の言葉でグシャグシャの痛みを表していく。
「テメェの身内を目の前で痛めつけられて、ボロボロになった命の恩人を前にして……まだ動こうともしない。本当に、そんな女のためにあいつは命を投げ出したっていうのか。だとしたら、そいつは犬死にってヤツなのよ。|正真《しようしん》 |正銘《しようめい》の犬死にだ。ハッ。結局シンプルじゃねえの。こりゃあ|馬鹿《ばか》が馬鹿を助けて馬鹿をやったって事なのよな?」
|五和《いつわ》の頭に、カッと熱が|籠《こも》った。彼女は|吊《つ》り上げられたまま、|獣《けもの》のような叫び声をあげて|建宮《たてみや》に|拳《こぶし》を打とうとする。しかしその前に、建宮は壁に押し付けていた五和の体を、思いきり床へ振り下ろした。
ズン!! と|地《じ》|響《ひび》きすら|錯覚《さつかく》させる|大《だい》|音響《おんきよう》だった。
再び呼吸困難に|陥《おちい》る五和の上へ馬乗りになり、建宮は彼女の目を見る。
「良いか。分かんねえようなら教えてやるのよ」
低く、ただ低く。
建宮|斎字《さいじ》の声色には、怒りの火が|灯《とも》る。
「―――後方のアックアは、必ず来る」
ビクリと五和の体が震えた。
目を|逸《そ》らしたいほど分かり切っている事を、建宮はもう一度再確認させる。
「|俺達《おれたち》がこうしてグダグダ悩んでいる今も、タイムリミットは確実に迫ってるのよな。一秒一秒の|無駄《むだ》が、ただでさえ低い幸福の確率をより一層引き下げちまうのよ! お前さんはそんな事を許せるのか。まだ可能性は残ってるのに、たとえどれだけ少なくても確実に残っているのに、そいつをつまんねえ後悔や罪悪感で全部捨てちまうのか!? そうやって勝手に|諦《あきら》められたあいつは、何も知らないままに右腕をぶち切られちまうのか!? 笑顔を守りたければ立ち上がれ。自分の都合で他人の人生を投げ捨てるんじゃないってのよ!!」
ほとんど|咆哮《ほうこう》に近い叫びだった。
何も言わない五和に向かって、建宮はさらに言う。
「……助けを呼んで助けが来るなら、俺達だってそうするのよ。あの『聖人』が、|女教皇様《プリエステス》が来てくれるって言うなら、後の事は全部任せられる。でも、そんな都合の良い事なんてありえねえってのよ。良いか。―――後方のアックアは、必ず釆る。お前さんは、この病院を戦場にしたいのか。つまんねえ現実から|逃避《とうひ》するために!!」
「たて、みや……さん」
「|黙《だま》ってたってアックアは止まらねえ!! 助けを求めてもイギリス清教が今から作戦を変更して増援を送ってくれるなんて都合の良い事は起きねえってのよ!! だったら動ける者が動くしかねえ。今ここで戦えるのは俺達だけだ!! |惨《みじ》めだろうが何だろうが、今ここにいる俺達が動かなかったら、今も|麻酔《ますい》で眠らされているあいつは一体|誰《だれ》に守ってもらうのよ!! そいつが分かってんのか!!」
|五和《いつわ》の胸倉を|掴《つか》む|建宮《たてみや》の手が、ギリギリと音を立てた。
本当に、自分の手を|壊《こわ》してしまいかねないほどの力だった。そして、五和は知る。怒りを覚えているのは、己を恥じているのは、自分一人ではない事に。全員が|上条《かみじよう》|当麻《とうま》を守ろうとして、全員がそれに失敗してしまった事実を受け止めている事に。
彼らは、それでももう一度立ち上がると言った。
負け犬の恥を知りながら、|蹲《うずくま》るのではなく、立ち上がると言ったのだ。
大切なものを守るために。
ならば、
(わ、たし……は……)
「あいつに謝りたいか?」
目を見て語る。
「あんな風にしちまった『守るべき者』を、もう一度|陽《ひ》だまりの中に帰したいか?」
五和は|咳《せ》き込む事も忘れて、小さく|領《うなず》いた。
何かを言ったが、それは|鳴咽《おえつ》に|震《ふる》えて聞き取れなかった。
「……だったら戦え。お前さんが最高に良い女である事を証明して、こんなヤツのために命を張って良かったって思わせてやれ。謝るにしても、笑うにしても、そいつは命がなくちゃできない事なのよな。墓前で|懺悔《ざんげ》をしたくなけりゃ、|俺達《おれたち》は戦うしかねえのよ」
建宮は五和の胸倉から手を放すと、ゆっくりと起き上がった。
周囲を見回し、確認を取るように言う。
「……この中に。五和と同じ事を言う|馬《ば》|鹿《か》はいるか?」
後悔と無力感によって|徹底《てつてい》|的《てき》に沈み込んだ空気を打ち破るように、建宮の声が通る。
「いるって言うんなら、前に出ろ。目を覚ましてやるのよ」
返事はなかった。
しかし覚悟はあった。
後梅と無力感が消えた訳ではない。だがそれ以上の戦う意思があった。
建宮は|薄暗《うすぐら》い病院の廊下に|佇《たたず》む五〇人近い仲間達を改めて眺めて、こう言った。
「いないって言うなら、それで良い。後は全力を尽くすだけなのよ」
|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》の面々は振り返らない。
集中|治療《ちりよう》|室《しつ》に一人の少年と一人のシスターを残し、彼らは再び強敵と立ち向かうため戦場へ戻っていく。
「ったく。救われぬ者が目の前にいて、これに手を差し伸べねえって事はねえのよなあ」
やるべき事は、ただ一つ。
王手のかかった盤をひっくり返し、少年の命を守り抜く事のみ。
夜の暗い|闇《やみ》の中に、後方のアックアは|佇《たたず》んでいた。
第ニニ学区第三階層の市街地からはやや|離《はな》れた一角にある、自然公園だ。彼がここにいる理由は単純で、少しでも科学技術に|溢《あふ》れた人工物から遠ざかりたかったからだ。もっとも、ここにある森林も水栽培技術を応用した科学の|塊《かたまり》である事に気づかされ、落胆している最中でもあるのだが。
(そもそも、この空間全体からして人工的な地下空間だったのであるか)
頭上を見上げれば星空が広がるが、それらもプラネタリウムのスクリーンに映る幻。少しでも|魔術《まじゆつ》を知る者なら、その差に気づくだろう。
あまり維持費をかけていないのか、ライトアップもまばらな闇の中に、小さな四角い光がある。
アックアの持っている携帯電話だ。
話し相手はローマ教皇。しかし彼らは携帯電話の電源を入れていない。アンテナ部分の|先端《せんたん》に光っているのは、あくまでも魔術による光だった。
(これでも傍受の危険は|拭《ぬぐ》えんか。一応、|天草式《あまくさしき》とかいうイギリス清教の|尖兵《せんぺい》もいたようであるしな)
とはいえ、科学サイドの総本山で|馬《ば》|鹿《か》正直に電話を使うよりかはマシだろう。
『それにしても、殺すのをやめて右腕を奪うに|留《とど》まるとはな。『神の右席』は己の方針を変えないものだと、前方のヴェントからは聞いていたが?」
「あれはヴェントの性格的な問題である。実際には|各々《おのおの》の局面に応じて臨機応変に立ち回っているものである。……テッラの場合、それが行き過ぎて暴走したがな」
同じ組織の|同僚《どうりよう》を|惨殺《ざんさつ》し、その死体を敵対組織の元へ郵送したアックアだが、そこには後悔や罪悪感らしきものは|窺《うかが》えない。
「実際、あの少年の特異性は『右腕』に集中している。それを奪えば|脅威《きようい》は排除されるであろう。ただの未成年にかまけているほど、我々は暇ではないのである」
『私としては、そちらの方が好ましくもあるがな』
ローマ教皇が、電話の向こうでわずかに笑った気がした。
『これは以前ヴェントにも言った事だが……自らの意志をもって明確に神の敵となったのならば粉砕するしかないが、|件《くだん》の少年は|未《いま》だ神を知らぬと聞いた。それをただ殺してしまうというやり方には正直、反発がある。……ヴェントには鼻で笑われたがな』
「……私に何を期待しているかは知らぬが、私は|貴方《あなた》ほど善人でも博愛主義者でもない」
アックアの声が、|平坦《へいたん》なものになる。
「殺すべき時が来たら殺す。今はその時ではなく、そしてその時が訪れれば殺すだけだ。いくつかの選択と時の運が重なれば、その時が訪れない未来もあるであろう。それだけの話である」
彼の言葉に|嘘《うそ》はない。
世界でたった四人しかいない最高組織。その数少ない|同僚《どうりよう》である左方のテッラを|容赦《ようしや》なく|瞬殺《しゆんさつ》したのは、後方のアックアだ。
『右腕』が消失した事で、敵性が失われればそれでよし。
それでも|駄《だ》|目《め》なら、あるいは『右腕』の提出を拒めば―――後は簡単だ。
消す。
言葉にすればあっけなく、そして言葉以上にそっけない|一撃《いちげき》で、アックアは|全《すべ》てを土に|還《かえ》すだろう。
彼にはそれだけの力と覚悟があるのだから。
後方のアックアはそれを認識しつつも、表情が動く事はない。
『奇妙な状況だな』
ふと、ローマ教皇がそんな事を言った。
『代々の教皇の「相談役」として設立された「神の右席」が敵地の中心へ|踏《ふ》み込み、この私がバチカンから傍観とは」
十字教は一神教だ。
神は一柱しかおらず、全ての奇跡はその一柱によって集中管理される。絶対的な神に|抗《あらが》える者はいないのだから。本来ならば世界の全ては幸福に満たされるはずであり、不幸な人が現れ
る事はないはずなのだ。
だがしかし、現実にはどうか。
歴史を省みれば分かるだろう。十字軍遠征の失敗、ペストの流行、オスマントルコ勢力の拡大。個人の幸不幸どころか、ヨーロッパ全土が死滅しかねない転換期など、幾度もあった。
教皇一人の手に余る。
かと言って、『神は絶対』を掲げる十字教の象徴たる教皇が、何者かに相談するという事自体が、ある種の不祥事とも言える。
そこで生み出されたのが『神の右席』。
時に教皇すら|頼《たよ》りにするほどの知識と力を保有する事を求められた、十字教社会のピラミッド構造に寄り添う特殊な『相談役』。
|枢《すう》|機《き》|卿《きよう》、執政、軍師。そういったものとは全く異なる、そもそも『ピラミッドの中に存在すらしない』、声なき助言を与える者としての役目を全うする存在。
その座は常に四。天使の中で特に重要な四大天使に対応する『右席』のメンバーは、必要に応じて『中身』だけを次々と入れ替える事で存続する。
だが、状況が状況だったとはいえ、時の教皇|達《たち》は『影の相談役』に|頼《たよ》り過ぎたのかもしれない。いつしかローマ正教は、『神の右席』を中心に据えてしまっていた。
アックアはその事を少しだけ考えた。
だが、特に言及するような|台詞《せりふ》は|吐《は》かなかった。
「次に連絡を入れるのは、事後の報告であろう。例の標的が生きるか死ぬかはさておいてな」
その時、大きな音によって彼の言葉は|遮《さえぎ》られた。
原因は大気。
|闇《やみ》の色に|紛《まぎ》れるように、何かがチカッと|瞬《またた》いた。それは常入の感覚器官では|捉《とら》えられないほど小さな光。アックアはそこに危険を察知すると、携帯電話を肩と耳で挟んだまま、気軽に飛び下がる。
空気がひとりでに渦を巻き。つい先ほどまでアックアの立っていた空間が、地面ごとまとめて|抉《えぐ》られ、削れて消える。
奇怪な現象に|眉《まゆ》をひそめるアックアは、やがて一つの予測を立てる。
(……空気中に何らかの微粒子を散布し、物質を分解しているのであるか)
彼が科学に詳しい者なら、『オジギソウ』というナノサイズの反射合金を思い浮かべた事だろう。回路も動力もなく、特定の周波数に応じて特定の反応を示す極小の粒。それはテレビのリモコンを使ってラジコンを操るような感覚で、動植物の細胞を一つずつ|毟《むり》り取る事もできる。
アックアが見えない|魔手《ましゆ》に警戒していると、今度は人工的な夜空を作る巨大プラネタリウムのスクリーンに異変が生じた。|甲高《かんだか》いブザーと共に、一面に警告メッセージが流される。
『第三階層全域で無酸素警報が発令されました。住民の皆様は|速《すみ》やかに災害対策指定を受けた建物に|避《ひ》|難《なん》するか、各家庭に設置された酸素ボンベを装着してください。|繰《く》り返します、第三階層全域で無酸素警報が発令されました―――』
「なるほど」
アックアは不敵に笑う。
「どうやら、向こう[#「向こう」に傍点]はこの階層全域に|攻撃《こうげき》用の微粒子を散布し、私の逃げ場をなくすつもりで
あるらしい」
『まずい状況かね』
「そう見えるか?」
アックアが口の中で唱えると、空気中の水分が彼の味方となる。水分に触れる動きを感知し、彼は|大雑把《おおざつぱ》に『オジギソウ』の散布バターンを推測していく。
すると今度は周辺の茂みからガサリという葉の|擦《す》れる|微《かす》かな音が聞こえてきた。目を走らせれば木々の合間から|駆動鎧《パワードスーツ》の装甲が月の光を照り返している。少し|離《はな》れた所からは別種の駆動音も聞こえる。ガソリンエンジンと電気を使い分ける、都市型短期警戒用の装甲車も用意してきたらしい。
彼は笑いもしなかった。
「戦力調査の小手調べ、か。ならば、|傭兵の流儀《ハンドイズダーティ》というものを紹介してやるのである」
『|無暗《むやみ》な|殺生《せつしよう》は控えてほしいものだがな』
「詳しくは知らないが、|全《すべ》て無人機というヤツであろう。人間らしい気配がない。だからこそ、ここまで近づかれた訳であるが」
ブォン!! という新たな音が|炸裂《さくれつ》する。
アックアが足元の影から五メートル以上の全長を誇る特大のメイスを取り出した音だ。
「それにしても、素晴らしいのであるな。学園都市というものは」
ズシリと重たい|鉄塊《てつかい》を肩に|担《かつ》いで彼は言う。
「わざわざ血を流さぬ戦場を作るとは気が|利《き》く。肩を慣らすにはちょうど良いのである」
声に|応《こた》えるように、敵の集団が動く。
夜の公園の一角で、アックアを中心に複数の影が取り囲む。
無数の弾丸が|襲《おそ》いかかった。
肉眼では見えないレベルから『オジギソウ』が|喰《く》らいついてきた。
しかしアックアは倒れない。
弾丸を|避《さ》け、『オジギソウ』を吹き飛ばし、時に『オジギソウ』の力を借りて軌道を不自然に|捻《ね》じ曲げる弾丸にまで正確に対処し、即座に|反撃《はんげき》へ移る。
(科学の仕組みは分からんが、どこかに現場で指揮を執る者が隠れているはずである)
アックアは一息で包囲|網《もう》を突き抜け、彼の持つ五メートル以上の長さのメイスが|槍《やり》のように装甲車の側面に刺さる。彼はその重量を無視して装甲車ごとメイスを振り回し、無数の|駆動鎧《パワードスーツ》を吹き飛ばす。アックアはさらにメイスを地面へ振り下ろし、|先端《せんたん》に引っ掛かっている装甲車を|木端《こつぱ》|微塵《みじん》に爆破させ、滞空する『オジギソウ』を|牽制《けんせい》させた挙げ句、どういう術式を使っているのか、燃え盛る炎の中からアックアは平然と歩いてくる。
(ならば、全ての|駆動鎧《パワードスーツ》の装甲を|毟《むし》り取り、装甲単のボディをこじ開けて、片っ|端《ぱし》から確認するまでである!!)
『神の右席』後方のアックアが動く。
|轟音《ごうおん》と破壊が全てを支配する。
日本とイギリスの間には約九時間の時差がある。
現在、日本は深夜と呼ばれる時間帯のはずだが、ロンドンではまだ夕方だ。もっとも、緯度の関係で、秋や冬の場合イギリスの日没は早い。すでに空の色は紫がかっていた。
王立芸術院。
英国でも屈指の名門と呼ばれる美術館は、次の時代の|担《にな》い手を養成するための美術学校のスポンサーでもある。そしてそこからは|未《いま》だに講師の声は途絶えない。
蛍光灯に照らされた|教壇《きようだん》に立つのは、シェリー=クロムウェル。
「そんじゃ、今日は紋章について話すぞ」
ライオンのような金色の髪に、チョコレートのような肌の女性だ。服装はボロボロに|擦《す》り切れたゴスロリの黒いドレス。優れた彫刻家としても知られるシェリーだが、その美的センスは己の作品以外には向いていない……というのが、生徒|達《たち》の間での評価だった。
「紋章っつってもあれだ、家紋に使われるヤツの事ね。|得体《えたい》の知れないオカルト的なマークじゃない。……まぁ、そういう紋章もあるにはあるが、今は脱線しないでおこうか」
生徒達の間からは含んだ笑みが返る。
どうやら冗談だと思われたらしい。|魔術《まじゆつ》|師《し》シェリーは気にせず話を先に進めた。
「一口に紋章っつーといくつかの部品を組み合わせたワンセットで扱われてるけど、今日持って来たのはその中で一番中心にある|盾の紋章《エスカツシヤン》」
シェリーは気だるげな口調で、
「キャンバスに絵の具を塗って食べてく事を目標にしてるテメェらには関係ないって感じだろうけど、メッセージ性のある作品を描く時、こういう知識が助けになる事もあるのよ。ま、スランプ|回避《かいひ》|策《さく》の一つとして、適当に先生の話を聞き流してなさいってトコか」
と、その時、講義室のドアが控え目に|叩《たた》かれた。
教壇の上に見本品の|盾の紋章《エスカツシヤン》を乗せたまま、シェリーは|怪訝《けげん》な目をそちらに向ける。
うっすらと、音もなく少しだけドアを開けたのは、この美術学校の若い事務員だ。去年赴任したばかりの女の事務員は、その小さな頭をわずかに傾け、申し訳なさそうな声で言う。
「あのう……英国図書館の方からご連絡があるのですけど……」
「そうか」
シェリーは適当に言って、紋章の縁を人差し指でなぞり、わずかに考えてから、
「という訳で、悪いがしばらく自習ね」
極めて適当な調子で生徒達に言葉を投げると、ボリボリと頭を|掻《か》きながら講義室を出る。
廊下に出ると、小柄な事務員はオドオドした目でシェリーを見た。
「その、何だかすみません」
「別に。あいつらも自習の方が|嬉《うれ》しいだろ。作品ってのは教えられて作るようなものでもないし。自習を好まないようなヤツは、そもそも作り手には向いてないわよ」
「は、はぁ……」
|曖昧《あいまい》に|微笑《ほほえ》んだ事務員に、シェリーは|面倒《めんどう》|臭《くさ》そうな調子で尋ねた。
「で、連絡ってのは?」
「え、ええ。お電話です。事務室までいらしてください」
事務員に先導されて小さな部屋に入ると、ビジネスデスクの上に置かれた電話機の一つが、保留中のランプをチカチカ|瞬《またた》かせている。
「あれか」
「英国図書館からの連絡というと……美術品の取り扱いとか、そちらの話ですか」
「そんなトコよ」
大英博物館や聖ジョージ大聖堂などから|頻繁《ひんぱん》に『連絡』を受けるシェリーは、周囲からは古い美術品の|鑑定《かんてい》や|修繕《しゆうぜん》などを請け負っていると思われているらしかった。
ペコリと頭を下げて自分のデスクに戻っていく事務員を見ながら、シェリーは|面倒《めんどう》|臭《くさ》そうな調子で受話器を取った。
向こうからは、やたらのんびりした女性の声が聞こえてくる。
『あらあら。そちらはシェリーさんでよろしいのでございましょうか』
「……やっぱりテメェかオルソラ。ったく、|他《ほか》に書物のスペシャリストはいないのかしら」
極めてうんざりした調子のシェリーに対し、オルソラと呼ばれた女性はころころと笑って、
『まぁ。粗大ゴミは月曜日と金曜日でございますよ』
「分かった分かった。言動が巻き戻るのは良く分かってるから本題を話せ」
最近彼女の扱い方を覚えたシェリーは|平坦《へいたん》に言って話の先を促す。
オルソラの話はこんな感じだ。
『英国図警館に残されている過去の|魔術《まじゆつ》|的《てき》事件の|帳簿《ちようぼ》などから、『神の右席』……後方のアックアについて調べていたのでございますけど』
「それは今朝、私が出勤する前に聞いたわよ。で、結果は?」
『九月三〇日の|目撃《もくげき》証言などを検証した結果、|件《くだん》の「彼」は後方のアックアを名乗る前は、イギリス国内を中心に活動していたようで、複数の目撃談があるみたいでございます』
「それも昼休みに聞いた」
『で、一部では「彼」はイギリスの「|騎《き》|士《し》」だった……という証言もあるみたいでございますけど』
「あ?」
初めてシェリーの|眉《まゆ》が|怪訝《けげん》に動いた。
(ローマ正教徒である後方のアックアが、イギリスの騎士……?)
現在のイギリスでは、表向きの『騎士』の|爵位《しやくい》は|勲章《くんしよう》のようなものだ。家柄とかそういうものは関係なく、英国にとって優れた功績を残した者に、女王陛下から直接授けられるのである。その爵位が子供や孫に相続される事もない。感覚としては国民栄誉賞に似ているだろうか。
だがそれとは別に、イギリスの暗部には今も『騎士派』という大きな派閥が存在する。王家と国家のために剣を取り、それを|脅《おびや》かす者|全《すべ》てを敵とみなして、命を尽くして|殲滅《せんめつ》する―――極東のサムライと同じく、火器の発達と共に消えたはずの『騎士』|達《たち》が。
「……今の他宗派の幹部が、昔はウチの|騎《き》|士《し》だったなんて。それが本当だとしたら、|厄介《やつかい》|事《ごと》にも|程《ほど》があるわね。下手すりゃ後方のアックアが起こした事件の責任だ何だで学園都市側から|搾《しぼ》り取られるかもしれないぞ」
『ただ、バッキンガム宮殿に保管されている騎士人名記録からは、後方のアックアの特徴と一致する人物は見つからないのでございますよ』
「つまり情報はデマだったって事か?」
|魔術《まじゆつ》|的《てき》な|傭兵《ようへい》か何かが、周囲から誤解された……という所だろうか。
オルソラは『うーん』と少しだけ悩むような声を出して、
『確かに、騎士人名記録からは見つけられないのでございますけど』
「あん?」
『騎士に選ばれた者には、家柄一つにつき|盾の紋章《エスカツシヤン》を用意するものでございましょう? ロンドン郊外の職人に尋ねた所、|依頑《いらい》|人《にん》不明の|盾の紋章《エスカツシヤン》の注文書が見つかったのでございますよ。……|匿名《とくめい》で注文はされたものの、製作途中で取り消されたらしいのでございますが』
「……なるほど」
シェリーは唇の|端《はし》を|歪《ゆが》めた。
「紋章のデザインは、その家柄、歴史、役割を記号化したもんだ。そいつを調べて、『記録上存在しない騎士』の|素性《すじよう》を明かすって訳か」
『紋章の図版から得られる情報があれば……と思いまして、ええと「ふぁっくす」というので注文書をそちらへお送りしたのでございます』
シェリーがファックスの方を見ると、ちょうど用紙が|吐《は》き出される所だった。先ほどの若い事務員がファックスの機材に向かって走っていく。
事務員から一〇枚近い紙束を受け取ったシェリーは、一枚一枚デスクの上に並べ、そこに記されたものを人差し指でなぞっていく。芸術品と言うよりは、機械の設計図のようだ。モノクロの用紙のあちこちにカラーの指定が細かく書き込まれているのが、そういうイメージをさらに深めているのかもしれないが。
「……メインカラーは二色。原色の青をベースに、装飾で緑。使ってる動物は……ドラゴンと、ユニコーンと、こっちの女はシルキー……か? 盾を四つに分けて、三つの動物を配置したとなると」
『何か分かったのでございましょうか』
「分かったのは簡単な事だな」
しばらく図版を眺めていたシェリーは、やがて|呆《あき》れたように息を吐いた。
「何だか知らないけど、この紋章の持ち主は相当のひねくれ者ね」
『はあ』
「ドラゴン、ユニコーン、シルキー。共通するのは、|全《すべ》て『現実には存在しない生き物』である事。それに、紋章の色もおかしい。基本色の青に、基本色の緑を重ねて配置するのはルール違反よ。……ここまで|露《ろ》|骨《こつ》だと笑えてくる。こいつ、よっぽど『|騎《き》士《し》』としてリストアップされたのが不服だったみたいね」
シェリーは蓄音機の針のように、図版に記された情報を人の言葉に直していく。
「大方、『王室派』から歓迎の言葉を受けて、断るに断れず、しぶしぶ任命式の召集状を受け取ったんだろうよ。となると……こいつは『騎士』になる前はフリーで|活躍《かつやく》していた|戦闘《せんとう》のプロ。それも英国にとって利益になる活動を行っていたってトコかしら。……|傭兵《ようへい》のくせに騎士に|抜擢《ばつてき》されるって事は、汚い戦場の中でも正々堂々と己を貫いた|証《あかし》。人物背景に汚い所のない相手ほど、やりにくい敵はいないわね」
念のために注文書の|依《い》|頼《らい》日時を尋ねると、一〇年以上前のものであるらしい。
そんな昔の、それも依頼を|破《は》|棄《き》されたはずの注文書を職人が後生大事に抱えている時点で、後方のアックアがイギリス活動時代にどれほど人望を集めていたかが|垣間《かいま》見える。
『あと、|魔術《まじゆつ》業界における「騎士派」の|爵位《しやくい》任命資格は英国人にしか与えられないのでございますから、英国を本拠地に置いた傭兵をリストアップすればよろしいのでございましようか』
「いいや」
シェリーは図版に描かれた動物を人差し指でコンコンと|叩《たた》き、
「ドラゴン、ユニコーン、シルキー。これらば全部イングランドの伝承に登場すんのよ。英国って意味じゃなくて、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北部アイルランドの四分類で言う『イングランド』だ」
『……? ユニコーンはギリシアの方ではございませんか?』
「エリザベス一世がユニコーンの角をコレクションしているって伝承があったんだよ」
実際は単なる動物の骨だったんだけどな、とシェリーは|呟《つぶや》いてから、
「とにかくイングランド地方の出身者で、英国の利益となったフリーの傭兵……ガッチガチの魔術結社に所属していない『騎士に迎えやすい』一匹|狼《おおかみ》の傭兵が怪しいわね。おまけに|嫌《いや》な事を|頼《たの》まれても断りきれなかった事から、ある程度『王室派』を大事に扱っていたヤツを洗い出せ」
|建宮《たてみや》|斎字《さいじ》を始めとする|天草式《あまくさしき》の本隊五〇人は、第二二学区第七階層の裏路地にいた。連絡を受けた建宮は、携帯電話を片手に周囲の仲間|達《たち》へ声をかける。
「第三階層の自然公園で、後方のアックアと学園都市の無人機甲部隊が|衝突《しょうとつ》したようなのよ」
その場の全員に|緊張《きんちよう》が走る。
第三階層と言えば、ちょうど|上条《かみじよう》と|五和《いつわ》が襲われた場所だ。
どちらが勝利したかは言うまでもない。後方のアックアという化け物は、量産品の機械の群れにやられる程度の存在ではない事ぐらいは分かり切っている。
|建宮《たてみや》の近くにいた|牛深《うしぶか》が|窺《うかが》うような目で言う。
「……行きますか?」
「いや」
建宮はパチンと携帯電話を閉じながら、首を横に振る。
「|闇雲《やみくも》に突っ込んだ所で、結果は目に見えてるってヤツなのよ。イギリスからの情報を待つ。最適の準備を整え、最適の作戦を練って、最適の時に、最適の戦いに臨む……これば、決戦だ。本気でヤルってのは、そういう事よ」
大切な仲間であり、命の恩人である|上条《かみじよう》を|叩《たた》き伏せた後方のアックアの現在位置が判明していながら、ここは|堪《こら》える。建宮の内心には|業火《ごうか》が吹き荒れているだろう。たった一度の勝利のためにそれら感情|全《すべ》てを押し殺し、建宮は『待つ』と言ったのだ。
「最適の時は今じゃない。最適の作戦を練るのは、オルソラ|嬢《じよう》のデータ整理能力に|頼《たよ》ってからでも遅くない。それなら今、|俺達《おれたち》にできる事は何か。簡単よな。―――最適の準備を行うって事しかねえのよ」
建宮は周囲を見回す。
あちこちに散らばっている|天草式《あまくさしき》の面々は、それぞれが剣や|槍《やり》などの手入れを行っていた。|普段《ふだん》は『隠し持つ』事を|旨《むね》とするため、ある程度の強度や威力を|犠牲《ぎせい》にする必要があるのだが、今はそちらのリミッターを解除するための『補強』を行っている最中なのだ。
「……三時間ほど、待ってください」
ボソリ、と声が聞こえた。
建宮がそちらを見ると、そこにいるのは革ベルトを|新撰組《しんせんぐみ》のようにたすき掛けにした|五和《いつわ》だ。彼女は|俯《うつむ》いたまま槍の補強―――というより、ほとんど全面的な改造をしている所だった。
彼女の槍は|接続部《アタツチメント》によって短い棒をいくつも|繋《つな》げているため、どうしても強度が弱くなる。今はスプレー状の固定剤を|柄《つか》の全体に吹きつけ、樹脂の|塊《かたまり》で一回り太くした上に、紙ヤスリを使って表面を|丁寧《ていねい》に|磨《みが》いている状態だ。
「手に|馴《な》|染《じ》むように形を整えて、怪物用に刃を|研《と》ぎ直すのに、ちょっと時間がかかりますから。……任せておいてください。あいつの|攻撃《こうげき》を|直《じか》に受けたんですから、どれぐらいの|得《え》|物《もの》があれば|手《て》|際《ぎわ》良くヤレるかは分かっています……」
紙ヤスリをかけ、形を整え、樹脂の塊がある程度|薄《うす》くなったら、その上から再びスプレーをかける。彼女はこの作業を、何回も、何十回も、ひたすらに|繰《く》り返していた。
ジャリ! ジャリ!! と、樹脂を削る音にさえ殺意が込められているように聞こえて、建宮はちょっと背筋に寒いものを感じた。まるで夜中に人食い|山姥《やまんば》が包丁を研いでいるみたいだ。彼は心の中だけで思う。や、ヤバい。ちょっと調子に乗って追い詰め過ぎたかも?
と、似たような事を考えていたのか、|傍《かたわ》らの|牛深《うしぶか》が|建宮《たてみや》に耳打ちしてきた。
「(……どうすんですか。|焚《た》きつけすぎて石油化学コンビナートに大引火って感じになっちゃっていますよ、今の|五和《いつわ》)」
「(……いっ、いや!? だってお前さん、病院じゃ何か抜け殻みたいになってたもんだから、ええとそのあれよ!! 元気づけるっていうの?)」
「(……この|大《おお》|馬《ば》|鹿《か》野郎!! やっば考えなしに焚きつけただけだったんですか!? |俺達《おれたち》、これから恋する乙女の恐ろしさを|目《ま》の当たりにするかもしれないですよ!!)」
「(……ええー俺のせいなのよ!? じゃあ、あの時一体どうすりゃ良かったってのよ!!)」
「建宮さん、それに牛深さんも」
ボソッと五和に言われて、男二人はビシィ!! と直立不動になった。
五和は|俯《うつむ》いたまま、表情の読めない顔でこう言った。
「大丈夫、私は大丈夫ですから―――ちょっと、集中させてもらえます?」
のっぺりと、ものすごく|平坦《へいたん》な声だった。
言葉はそれっきりで、再びジャリジャリと槍の側面に紙ヤスリをかけていく五和。持ちやすいように、使いやすいように、殺しやすいように、少しずつ槍は形を変えて進化していく。
あわわわわわわわわーッ!! と全身で|震《ふる》える建宮や牛深を見て、周りにいた|他《ほか》の仲間達が心底|呆《あき》れたような息を|漏《も》らした。
何だか今日の五和はやけにバイオレンスなので、建宮達はこそこそ革ベルトをたすき掛けにして衣服の|魔術《まじゆつ》|的《てき》補強を行ったり、全員の手帳を確認し合って周辺地形を頭に|叩《たた》き込んだりする。
そうこうしながらも、建宮と牛深の二人は、ここにはいない後方のアックアに対して、ちょっと真剣に両手を合わせて無事を祈った。
お前さんにも色々あるんだろうけど、うちの五和がついうっかりブチコロシモードになっちゃった時は、自分の身は自分で守ってね、と。
「(……ぜっ、ぜぜぜぜ絶対、キレた五和を|羽《は》|交《が》い|絞《じ》めにする係にはなりたくねえのよ)」
「(……そそそ、そいつは俺も同感です)」
その時、建宮|斎字《さいじ》の携帯電話が着信音を鳴らした。
『あらあら。そちらは建宮さんでございますか?』
「うわあオルソラ|嬢《じよう》!! この声すごく|癒《いや》されるのよーっ!!」
結構心の中の重要な所が|決壊《けつかい》しかけて、その場で泣き崩れそうになる建宮。
電話の向こうでは状況が|掴《つか》めていないらしく、
『あのう、人違いでしたら申し訳ございませんでした。私はこれで―――』
「切らないで!! ここで切られたら再ぴあの|緊張感《きんちようかん》の中に放り込まれてーっ!!」
|藁《わら》をも掴む感じで建宮はオルソラとの会話に没頭していく。彼は周りにも聞こえるよう、携
帯電話をスビーカーフォンにモードチェンジしてオルソラの言葉を待った。
『こ、後方のアックアについての新情報でございますよ』
天然マイペースなオルソラが珍しく|若干《じやつかん》引きながら報告してきた。
『後方のアックアの本名が判明したのでございます。ウィリアム=オルウェル。イングランド地方出身の|魔術《まじゆつ》|的《てき》な|傭兵《ようへい》で、所属はなし。当然ながら、生まれた時からローマ正教徒という訳ではなく、幼少期にイギリス清教の教会で洗礼を受けたという記録もございます。傭兵としては一匹|狼《おおかみ》で活動を続け、特に敵の拠点を|叩《たた》く事を得意としていたようでございますよ』
得意としていた。
その言葉に含まれるのは、『拠点を叩くだけ』ではないという事だ。数ある|戦闘《せんとう》の中で最も得意だったのが拠点制圧。だが、それ以外の戦闘にしてもできなかった訳ではない。もしそうなら、ウィリアム=オルウェルはとっくに敗北し、ここにはいないはずなのだから。
『また、ウィリアムは魔術師としての魔法名も持っていたようでございます。Flere210という名を胸に刻んでいたのでございますよ』
「……Flere……か」
魔法名に使われるのはラテン語の単語だ。Flereの|端的《たんてき》な意味は『涙』。そこにどんな意味を込めていたのかは不明。だがウィリアム=オルウェルには胸に刻むだけの理由があるのだろう。そして同時に、胸に刻むだけの圧倒的な実力が。
聖人。
自分|達《たち》とは圧倒的に違う存在を示す単語が、|建宮《たてみや》の脳裏をよぎる。
「ウィリアム=オルウェルの|傭兵《ようへい》時代の戦歴ってのは?」
『ロシア西部で|繰《く》り広げられた「|占星《せんせい》|施術《せじゆつ》旅団援護」、フランス中央部の「オルレアン|騎《き》|士《し》|団《だん》|殲滅《せんめつ》戦」、ドーヴァー海峡近辺での「英国第三王女救出戦」……数え上げればキリがないのでございますよ』
数々の戦いに参加し、勝利を収め、生きて帰ってきたという事は、それだけで後方のアックアの強大な実力を示す証拠となる。
オルソラはアックアが参加した|戦闘《せんとう》の名を|羅列《られつ》した。建宮も聞いた事があるものがいくつかあった。いずれも激戦として知られる。今の|天草式《あまくさしき》では束になっても乗り越えられないような、悪夢と|譬《たと》えるべき戦場ばかりだ。
「強敵……いや、難敵ってレベルよな」
『ただ、ウィリアム=オルウェルは目の前の問題を|全《すべ》て暴力で解決するような人物でもなかったようでございます。例えば|医療《いりよう》設備の乏しい紛争地域では医療に応用できる薬草の知識を伝えて死亡率を軽減したり、飢えに苦しむ村ではその地方では食用に使われていないゴボウの調理方法を教えたり……と、戦う以外の方法でも|活躍《かつやく》したとか。一部では「賢者」とも呼ばれているそうでございますよ』
それは現実の戦争を理解しているからこそ、できる事だ。
とりあえず大部隊を送ったり、とりあえず現金を寄付したり、といった方法では解決できない問題もある。実際に戦場の空気を肌で感じ、そこにいる人々が何を求めているのかを読み解き、その上で『彼らにもできる事』を示す事で、一時的ではなく恒久的に生活の質を向上させる。どうやら後方のアックアは、ただ単純な戦闘バカという訳ではないようだった。
|強靭《きようじん》な肉体と柔軟な思考を兼ね備えた、聡明な|獣《けもの》。
建宮がイメージするのはそれだ。
『弱点と呼べるようなものは見つからないのでございます。フリーの傭兵の|頃《ころ》から「聖人」として爆発的な力を行使していたようでございますし』
「……その上、今はローマ正教に改宗して『神の右席』としての力すら振りかざす、か」
そう、傭兵時代の伝説の数々は、まだウィリアム=オルウェルが『後方のアックア』と呼ばれる前に打ち立てたものだ。今の実力はそれ以上。しかも単に実力が追加したのではなく、全く新しい戦闘の基盤を丸ごと一つ手に入れているのだ。改めて、敵に回している存在の大きさに|驚《おどろ》かされる。今回の敵は、おそらく彼らが掲げる|女教皇様《プリエステス》に|牙《きば》を|剥《む》くより恐ろしい。
(それほどの力、一体どうやって制御しているのよ?)
|神裂《かんざき》などを見ると、聖人としての力を自然に扱っているように思えるが、実際にはそんなに甘くない。建宮など普通の|魔術《まじゆつ》|師《し》が扱おうとすれば、即座に自滅するほどの量なのだ。
その上、アックアが|掌握《しようあく》するのはそれ以上。
(……やはり|魔術《まじゆつ》の腕でも超えられているって訳よな)
『ウィリアムは英国の|騎《き》|士《し》として迎えられる予定でございましたが、その任命式の一週間前に消息を絶っていたようでございます。だから作りかけの|盾の紋章《エスカツシヨン》が、職人の家に放置されていたのでございますね』
そして、再び出てきた時にはイギリスの敵となっていた。
その過程に何があったのかは|謎《なぞ》だが、今はそれどころではない。
「弱点までは期待しない。せめて、アックアの|戦闘《せんとう》スタイルぐらいは分からないのよ? 使っている武器とか、流派とか」
『流派の方は|完璧《かんぺき》な独学のようでございますね。本人は「|傭兵の流儀《ハンドイズダーテイ》」と語っていたようでございますけど。使っている武器に関しては、全長五メートルを超す、|鋼《はがね》の|棍棒《メイス》。外観は騎士の級うランスのようだという話もございますけど』
それは実際に|対時《たいじ》した建宮達も|掴《つか》んでいる情報だ。
『後は……戦闘中の移動方法が特殊で、走るのではなく、地面を|滑《すべ》るように動き回るそうでございます』
「……?」
そこまで頭が回らなかった。接近時に音が聞こえなかったのはそのためだろうか。言われてみれば確かにそんな気もするが、何しろ後方のアックアの速度はあまりにも高速で『方向転換の|一瞬《いつしゆん》以外、ほとんど消えているようにしか見えなかった』というぐらいなのだ。
『どうやら水を扱った移動術式の一種みたいでございますね。氷で馬車が|滑《すべ》るのは、氷と車輪の間に|薄《うす》い水の膜ができるからでございましょう?』
「となると……ヤツは『後方のアックア』を名乗る前から水を使うのが得意だった、って訳なのよな……」
前方のヴェント、左方のテッラ、後方のアックア。
これらが四大天使の名にちなんだものなら、アックアの領分は『|神の力《ガブリエル》』であり、その属性は水だ。前回の戦闘で『水の術式』を使った特殊な|攻撃《こうげき》が来なかったのは、それだけ軽くあしらわれていたからだろう。
(……さて。本当にどう作戦を練るか)
未知数―――それも想定している上限のはるか高みにある未知数の項目が多すぎて、建宮は思わず笑いそうになった。
と、その時だった。
「敵が何であれ、私達がやるべき事は同じはずです……」
ボソッと。
|槍《やり》の補強をしていた|五和《いつわ》が、ほとんど唇を動かさないでロを挟んだ。
「そうですよね。|建宮《たてみや》さん」
ニゲルナヨと言外に宣告され、建宮は携帯電話を握ったままガタガタと|震《ふる》える羽目になった。
深夜三時。
第ニニ学区第三階層の鉄橋に、後方のアックアは|佇《たたず》んでいた。
公園からここまでの道中、これまで倒したのは『オジギソウ』制御用自走アンテナ八基、装甲車一七台、|駆動鎧《パワードスーツ》三八体。いずれも無人機だった。敵を倒しては移動し、移動先で敵と|遭遇《そうぐう》しては|殲減《せんめつ》し……と|繰《く》り返しているが、作戦を指揮している操縦者は|未《いま》だに発見できない。どうも、彼が考えている以上に相手も頭を使っているようだ。
頭上にあるプラネタリウムのスクリーンに映された作り物の夜空になど目も向けず、アックアは思う。
(こういう時、ヴェントの『|天罰《てんばつ》術式』があれば簡単なものであるがな……)
それでも、ものの一時間も|経《た》たずに敵の部隊は|撤退《てつたい》した。
あまりにも一方的な勝敗に、軍備の|無《だ》|駄《だ》|遣《づか》いだと学園都市上層部は判断したのだろう。アックアもその通りだと思う。あの鉄クズの|塊《かたまり》が、元はどれだけの値段をかけて生産されたものかはあまり考えたくなかった。近代兵器というのは金の感覚がおかしくなるほど|莫大《ばくだい》な費用をつぎ込まれるものだ。もっと上手な金の使い方を覚えれば良いものを、とアックアは考えたが、
「……しかし、案外|馬《ば》|鹿《か》ではないようだ」
|手際《てぎわ》の良い撤退に対する、彼の評価だ。
どんな分野においても言える事だが、プロとは自分の領域に関してとても高いブライドを持つ一面がある。そして軍人ならばストレートに『カ』。あれだけ一方的にやられて、|黙《だま》っている者はいないだろう。それを押さえつけ、納得させるだけの論理を組み立て実際に状況を理解させ、|迅速《じんそく》な撤退を促した指導者が、この学園都市に存在するという訳だ。
もっとも、指導者がどれほど優れた政治的手腕を発揮しようと、その下にどれほど屈強な戦力が結集しようとも、アックアのやるべき事は変わらない。
|幻想殺し《イマジンブレーカー》の粉砕。
及び、それを妨害する|全《すべ》ての因子の|迎撃《げいげき》。
(さて)
アックアは|懐中《かいちゆう》時計を取り出し、時間を確かめる。
(|幻想殺し《イマジンブレーカー》の交渉期限まで、後一九時間ほどある訳であるが……)
懐中時計の|蓋《ふた》を閉じ、ズボンのポケットへとしまい、アックアはジロリと眼球だけを動かして横を見る。
「『結果』は出たのかね?」
アックアは、|闇《やみ》の向こうへ言葉を放つ。
「刻限まで半日以上あるのであるが、準備はもう済んだのか」
闇の奥から、ザリ……という足音が聞こえた。
一つではない。
足音の数は五〇前後。いずれもイギリス清教の分派として知られる、|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》のメンバーばかりだ。取り囲むような足音は立体的で、それは鉄橋を構成する鉄骨の合間合間から彼らが|滲《にじ》み出るように出現した事を意味していた。
男も女も子供も大人も、|誰《だれ》も彼もがどこにでもいそうな普通の服装をしているのに、その手には剣や|槍《やり》や|斧《おの》や弓や|鞭《むち》などが握られていて、街灯の光を|禍々《まがまが》しく照り返している。中には|傭兵《ようへい》のアックアも見た事もない、東洋特有の|鎖 鎌《くさりがま》や|十手《じつて》、鉄製の笛のような武器まであった。
先頭に立つのは天草式十字凄教の現教皇代理・|建宮《たてみや》|斎字《さいじ》。
名前を知っているのは単純で、前回の|戦闘《せんとう》時、仲間同士の呼び掛けや戦術切り替えの際にわずかに|漏《も》れた単語を拾っていたからだ。戦地での情報収集能力も傭兵には必要な技能である。
「ま、ここまで決定的な無理難題を押し付けられると、悩む必要もなくなるってのよ。おかげで決断するのは速かった。そいつだけは感謝しておこうか」
建宮が手にしているのは大剣フランベルジェ。クレイモア、トゥハンデッドソードと同じく、分厚い|甲冑《かつちゆう》ごと敵を|叩《たた》き|潰《つぶ》すために極限まで大型化された両手剣だ。
全長一八〇センチを超す化け物サイズの|得《え》|物《もの》。
しかし、アックアからすれば、それでも子供の持つ木の枝程度にしか見えない。
「無理難題、か」
|嘯《うそぶ》き、笑い、アックアは足の裏で軽く地面を|叩《たた》く。
音もなく影が|蠢《うごめ》き、そこから五メートルを超す鉄の|塊《かたまり》が突き出てくる。
「ローマ正教二〇億人を敵に回した状況から、腕一本で脱せられると言っているのだ。むしろ安い買い物だと思うのであるがな」
「敵はローマ正教なんかじゃねえ。|真《ま》|面《じ》|目《め》に神様を信じている一般の人間を食い物にして、好き勝手に操ってるテメェらみたいな人間なのよ」
「ふむ、交渉は決裂、という訳であるか」
「それ以外に何があるってのよ」
「別に。私が困る問題ではないからな。むしろ困るのは貴様|達《たち》の方である。……唯一生き残る可能性のある選択肢を、自らの手で|放棄《ほうき》したというのだから」
アックアは足元の影から伸びた特大のメイスを|掴《つか》み直し、テニスラケットを振るうような気軽さで手首の調子を確かめながら、言う。
「念のために|繰《く》り返しておく。私は聖人である」
「……、」
「そして『神の右席』としての力も有している」
「……、」
「それを正しく理解した上で、なお守るぺき者のために命を|賭《と》して戦うと言うのならば、私は期待するのである。人の持つ可能性とやらに。その大言が寝言でない事を期待し、貴様|達《たち》が持てる力の|全《すべ》てを注いで用意したであろう切り札を、一つ残らず受け止めてみせよう」
アックアが、変わる。
見た目に変化がある訳ではない。具体的に天使の羽が生えたり頭上に輪っかが浮かんだりする訳でもない。しかし、この時、確かにアックアの全身から見えない何かが噴き出した。
「その上で、勝つ」
ズン……と、アックアの足が半歩だけ動く。
それは移動のための半歩ではない。|鉄塊《てつかい》のメイスを構えるための半歩。敵と認識したものを余さず粉砕する覚悟と決意を示す、静かで重たい決定的な動作だ。
「勝負とは善悪ではなく強弱によって決定するものだという事を、私は証明するのである。願わくば、せめて私の『切り札』の一つぐらいは引き出せる事を。それすら届かぬならば、貴様達には弱者ではなく愚者の称号が与えられるであ―――」
しかし、アックアの言葉は最後まで続かなかった。
ドバン!! と。
|痺《しび》れをきらした|五和《いつわ》が、二人の会話を無視していきなり本気の|一撃《いちげき》を放ったからだ。
無言で放たれた|海軍用船上槍《フリウリスピア》は、雷光のような速度で一直線にアックアへ突き進むと、その刃先にある『冷たい夜気』を利用して作り上げた術式を一気に発動し―――そして起爆した。
ズバァ!! と|閃光《せんこう》が吹き荒れ、爆風が|撒《ま》き散らされ、直撃を受けたアックアだけでなく、周辺のアスファルトまで|容赦《ようしや》なく粉々に打ち砕く。
味方であるはずの|建宮《たてみや》|斎字《さいじ》まで|煽《あお》りを受けてひっくり返った。
「いっ、五和……ちゃーん?」
面食らった建宮が小声で言ったが、五和は振り返りもしない。その肩からはピリピリした感情だけが伝わってくる。
もうもうと立ち込める|粉塵《ふんじん》を|睨《にら》みつけ、五和は槍を構えたまま舌打ちする。
灰色のカーテンをメイスで|掻《か》き破り、無傷のアックアが出現したからだ。
「人の話は最後まで聞くものではないかね?」
「……話なら、後で聞いてあげますよ」
|臆《おく》するどころか、逆に一歩前へ|踏《ふ》み込んで五和は告げる。
「さんざんさんざんさんざんさんざんグチャグチャのグチャにブチのめした後に! まだ|顎《あご》が砕けていなかったらの話ですけどね!!」
無表情ながら|眉間《みけん》の真ん中に異様な力が集まりつつ、鼓膜を破るような大声を聞いた|天草式《あまくさしき》の面々が、苦い顔で頭を抱えたり目を|逸《そ》らしたりする。
「(……あばぁーっ!! |五和《いつわ》の野郎、カンペキに|弾《はじ》けちゃっていますがーっ!?)」
「(……ほら病院で教皇代理が『最高に良い女である事を証明して』とか不用意に言うから、五和もうヲンナゴコロ全開じゃないすか!!)」
「(……|馬《ば》|鹿《か》ね。恋する女は神様だって敵に回せるのよ)」
|騒《さわ》ぐ男衆に対して、何だか妙に冷静なコメントを残す女性の|対馬《つしま》
そんなやり取りを無視して、五和とアックアが正面から|睨《にら》み合う。
いつの間にか、天草式の中心点がガラリと変わる。
「ふむ。勇ましい限りだが、その言動を現実的な実力として見せてほしいものである」
「ご心配なく。私|達《たち》はたとえ肉片の一つとなってでも、あなたを|徹底《てつてい》|的《てき》にメキャメキャのメキャにブチのめして自分のした事を後悔させてあげますから!!」
ええ!! そこまですんのーっ!? という背後の声を無祝して、五和はさらに一歩前へ。
決定的な射程圏に|踏《ふ》み込んだ二人は、|呆然《ぼうぜん》とする|建宮《たてみや》|斎字《さいじ》を放ったらかしにして激突する。
深夜の鉄橋に爆音が|炸裂《さくれつ》する。
聖人として|莫大《ばくだい》な力を有するアックアと、ただの人間である五和では圧倒的に速度が違う。ほとんど肉眼から消える速さで真正面から突っ込んだアックアは、全身の筋肉を一気に|膨張《ぼうちよう》させ、まるでギロチンのような勢いで巨大なメイスを|叩《たた》きつける。
半歩遅れて、五和の|槍《やり》がかろうじて動く。
アックアの|攻撃《こうげき》の軌道へ槍を挟み、受け止める構えだ。だがアックアの一撃を止められるものなど存在しない。
しかし。
「ッ!!」
ガッキィィ!! と。
岩と岩をぶつけるような|轟音《ごうおん》と共に、五和の槍がアックアのメイスを止める。
本来ならば|海軍用船上槍《フリウリスピア》ごと、五和の|華奢《きやしや》な体を粉々に吹き飛ばさなければおかしいのに。
「その槍は……?」
「ええ、樹脂を一五〇〇回ほど重ねてコートしています」
ギリギリと武器を|噛《か》ませながら、|五和《いつわ》は笑う。
「表現する象徽は樹木の年輪であり、隠れた術式の正体は『植物の持つ|繁殖カ《はんしよくりよく》』。―――術式の限界を迎えるその時まで、時間の経過と共に文字通り成長するこの硬度。一秒ごとに増幅する耐久力を味わっていただきます!!」
『雑草』の力を知れ、と五和は宣言する。
「だが、|他《ほか》にも複数の術式を重ねがけしているな……」
「……古全果西あらゆる文明において衣服が|何故《なぜ》生み出されたのか。その隠れた術式の意味を説明する必要がありますか?」
見れば、五和の着ているトレーナーの|脇《わき》の辺りが不自然に|弾《はじ》け、白い肌が|露出《ろしゆつ》していた。まるでメイスによる五和へのダメージを肩代わりしたかのように。
「『装着者の身を守る』……これが最も重要な意味のはずです。とはいえ、あくまで補助的なダメージ|緩和《かんわ》術式であって、どんな|攻撃《こうげき》でも丸腰で防げるほど便利なものではないですけどね」
前回の|戦闘《せんとう》では、アックアはこんなものを見なかった。そして彼らに出し惜しみする必要はなかった。つまり、|天草式《あまくさしき》の面々は即席でこれだけ高い効果を持つ|霊装《れいそう》・術式を用意してきたという事だ。
しかしアックアが一番|驚《おどろ》いているのはそこではない。
(私の速度に、ついてきただと……?)
アックアは聖人だ。その速度は圧倒的で、生身の人間などに追い着けるものではない。本来ならば、五和は指一本動かせずに消減していたはずだ。
それに反応を示した。
半歩遅れてかろうじて追い着く程度のもので、反撃に転じるだけの余裕はない。だがしかし、確かに防御自体は成功している。
何故だ、と疑間を感じたアックアは、直後にその正体を看破する。
五〇人近い天草式のメンバーの動きには、一定の規則性がある。単に効率的な戦闘を行うための布陣とはまた違う、一種独特の規則性が。五和を中心にしたと思えば他へ中心が移り、中心を探せば全体へ散って中心そのものがなくなり、そして中心そのものを意識から外した|途端《とたん》に再び五和へ中心点が戻る。一つの組織の中を『中心』という生き物がヌルリと移動していくような、奇妙な感覚だった。
それは時にまとまり、時に散らばり、砂時計の砂のように、|各々《おのおの》の動きが一つの大きな意味を作り出す。
(互いが互いの動体視力や運動能力を増強し合っているという訳であるか)
「小細工を……」
まるで聖人との戦いに慣れているような挙動[#「まるで聖人との戦いに慣れているような挙動」に傍点]に、アックアはやや|眉《まゆ》をひそめる。聖人は世界でも二〇人といない希少なオ能だ。一生の内に|直《じか》に目にできる者も限られている訳だが、
(ふん、そうか。|天草式《あまくさしき》 |十宇《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》。あそこにはかつて私と同じ聖人が属していたのであるな)
その辺りの事情が加味され、彼らは聖人の速度・腕力・知性に『目が慣れていた』という訳か。そしてその経験を|活《い》かすだけの頭があり、こうして術式を組んでアックアの動きについてきたという結果まで出した。
アックアは一度メイスを後ろに引き、構え直し、改めて|五和《いつわ》の顔を見据えて、
「―――だが、それでも遅いのである」
「ッ!?」
ズォ!! と再びアックアが迫る。
暴風を認識する前に、五和に向けて|横《よこ》|薙《な》ぎのメイスが|襲《おそ》いかかる。かろうじて五和がそれを受け止め、衣服を裂いて|魔術《まじゆつ》|的《てき》に|衝撃《しようげき》を逃がした時には、すでに真上から次の一撃が追る。五和は|槍《やり》を振るおうとするが、一撃目の衝撃が|今頃《いまごろ》になって伝わり、五和の体が|仰《の》け反る。衝撃の伝導よりも素早く振るわれたアックアの二撃目を、初老の|諫早《いさはや》が刀を|犠牲《ぎせい》にして軌道を半秒遅らせ、その間に女性の|対馬《つしま》が五和の首根っこを|掴《つか》んで横へ跳ぶ。
統けて放たれたアックアの三撃目が、ついさっきまで五和の立っていた場所を通過し、鉄橋のアスファルトを|容赦《ようしや》なく粉砕した。
ゴドン!! と、鉄橋そのものが不安定に揺れる。
直撃を免れたものの、飛び散った大量の破片が諫早の全身を|叩《たた》き、吹き飛ばす。
アックアはさらに五和を追おうとしたが、その時、灰色の|粉塵《ふんじん》に混じって何かがキラリと反射した。
まるで、赤外線レーザーが煙幕によって視認できる状態になったように。
その細く直線的な光の正体は、
|鋼糸《ワイヤー》。
それも一本二本ではない。
気がつけば、五和を中心に五〇人近い、人間の指先から極細の糸が放たれていた。各人が操る糸はそれぞれ七本。合計三五〇本もの|蜘蛛《くも》の糸が、全方向からアックアへと|襲《おそ》いかかる。
「ふん」
アックアは|避《さ》けなかった。
ギュバ!! と空気を引き裂く極細の刃に|敢《あ》えて身をさらし、その上で力技を使って強引に引き|千《ち》|切《ぎ》る。
必殺どころか、足止めにしても一秒すら|保《も》たない。
圧倒的な力を見せつけた『神の右席』、後方のアックアは、
『―――殺したな』
ボソりと。
耳元で、ささやくような声を聞いた。
『―――ワタシをコロしたな』
(なるほど、そう来るのであるか……ッ!?)
アックアが|歯《は》|噛《が》みした|瞬間《しゆんかん》、ワイヤーの切断面から赤い|霧《きり》のようなものが噴き出した。それは深夜の|闇《やみ》に|染《し》み渡るように拡大すると、あっという間にアックアの全身を包んで|呑《の》み込んでいく。
「……隠れた術式の正体は、『殺人に対する罰』」
|壊《こわ》れた鉄橋の中央に立つ|五和《いつわ》が|呟《つぶや》くと、赤い霧が、内側からボゴッ!! と|膨《ふく》らんだ。
|天草式《あまくさしき》の|魔術《まじゆつ》が、霧の内部で|莫大《ばくだい》な爆発を巻き起こしたのだ。逃れ得ぬ|牢《ろう》を築いた上で、その内側で圧倒的な爆発を見舞う。これならどんなに素早い動きをしても|避《さ》けられない。
「ワイヤーを一個人の生命線と再定義し、それを|破壊《はかい》した者に罰を与える術式です。これは古今東西、あらゆる文化圏に共通する宗教観を利用していて―――つまり、どんな文化圏の防御術式を使っても防ぐ事はできない『負の|怨瑳《えんさ》』を意味しているんですよ」
アックアを包み込んだ赤い|塊《かたまり》が続けて二度、三度と内側から膨らんだ。ボゴッ!! バゴッ!! という水中で爆発が起きたような鈍い音が次々と|炸裂《さくれつ》していく。それは|連鎖《れんさ》|的《てき》に数を増し、いつしか赤い霧はブドウのような|歪《いびつ》な形になっていた。
個人の力では行えない、天草式という『一つの塊』が織り成す最大級の|奥義《おうぎ》。
しかし、五和|達《たち》の表情は優れない。
ドバッ!! と。
必殺の術式は中心から破られ、四方八方へと飛び散ったからだ。
それは天草式が用意したものよりもはるかに|膨大《ぼうだい》な爆発。彼らが殺人用に持ち出したものより一層強大な爆風が、軽々と牢を破壊してしまったのだ。
|粉塵《ふんじん》と水蒸気が混じり合い、周囲一面に灰色のカーテンが下ろされる。
その向こうから、太い男の声が聞こえてきた。
「私の特性を教えよう」
カーテンの向こうに揺らぐ巨大なシルエット。
直立するその影には、|芯《しん》のようなものが通っていた。
「私の特性は『|神のカ《ガブリエル》』。そして受胎告知との|繋《つな》がりから、私は聖母に関する術式―――聖母|崇拝《すうはい》の|秘《ひ》|儀《ぎ》をある程度行使する事ができる」
言葉だけが続く。
「聖母崇拝の特徴は、『|厳罰《げんばつ》に対する減衰』である」
『神の右席』後方のアックアの声だけが。
世界を占める。
「信じる者は救われる。しかし規律を守らぬ者に相応の厳罰を科すのも『神の子』の特徴である。それを聖母崇拝は軽減する。修道院を抜け出した女の代わりに日々の点呼を肩代わりして、女が戻ってくるまで監視の目をごまかしたりな」
ゆらり、とシルエットが動いた。
|粉塵《ふんじん》と水蒸気が作るカーテンを破るために、前へ。
「生まれながらにして、人と神と|聖霊《せいれい》の子である『神の子』と違い、聖母は|正 真 正 銘《しようしんしようめい》の人の子でありながら、神の領域に深く|踏《ふ》み込んだ|稀有《けう》な存在である。そこから転じて、聖母は『圧倒的な|慈悲《じひ》の心をもって、厳罰に苦しむ人の直訴を神へ届ける役割』を得たという」
声が|響《ひび》く。
高らかに、隠す事もせず。
「―――結論を言おう。我が特性は罰を打ち消す『聖母の慈悲』。厳正にして的確なる最後の審判すら|歪《ゆが》め、|魂《たましい》を天国と地獄へ送り込む道標をも変更させるのである。あらゆる罪と悪に対する罰則などの制約行為は私に対して意味をなくす。『殺人罪』の|払拭《ふつしよく》など、指一つ動かす必要もない。『神の罪』すら打ち消すこの私に、そんなものが通じるとでも思ったのであるか」
ドバァ!! という爆発音が響いた。
アックアを包んでいた灰色の幕が、一気にまとめて|薙《な》ぎ払われる。
「ふむ。人の話は、最後まで聞くものではないかね」
アックアは巨大なメイスを肩で|担《かつ》ぎ、つまらなさそうに息を|吐《は》く。
そこには彼以外、|誰《だれ》もいなかった。ご|丁寧《ていねい》に『人の気配』だけ察知させる術式を置き|土産《みやげ》に、|天草式《あまくさしき》の|戦闘《せんとう》要員五〇名は|忽然《こつぜん》と消えている。
彼は鉄橋に一人残され、しかし獲物の足跡を|辿《たど》る|猟師《りようし》のように笑みを浮かぺる。
「まぁ、追う楽しみは増えたのであるが」
|建宮《たてみや》|斎字《さいじ》を中心とした現天草式のメンバーは、鉄橋から三〇〇メートルほど離れた小さな広場まで移動していた。アックアに仕掛けた『殺人に対する|禁忌《きんき》』の術式と連動し、それが破られた場合は問答無用で高速逃走する術式をあらかじめ組んでおいたのだ。
だがそれは気休め。
あれほどの使い手が、人間の気配や|魔力《まりよく》の流れを感知できないはずはない。この|閉鎖《へいさ》された地下市街では逃げられる場所も限られているし―――何より、彼ら|天草式《あまくさしき》には逃げられないだけの理由がある。
「やはり破られましたね.どうするんですか、教皇代理」
|牛深《うしぶか》が木綿糸のように|千《ち》|切《ぎ》られたワイヤーを回収しながら、|建宮《たてみや》に指示を仰ぐ。
「……あれで倒れてくれれば簡単だったんだが、やっぱりそうはいかないのよ」
建宮はフランベルジェを手にしたまま、皆を見回して言う。
後方のアックアについていくほどの運動能力を見せた天草式だが、実はそれほど便利なものではない。というより、五〇人もの人間が常時『聖人』と同じ速度で動けるとしたら、もはや天草式は『聖人』一人よりも重宝されている事だろう。
「ごまかしにも限界があります、ね」
|五和《いつわ》は荒い息を|吐《は》いて呼吸を整えながら言った。
実はあの肉体強化術式は、背中に触れる事をキーに据えた術式だったのだ。隠れた術式の意味は『背中をさする事による体調回復』。彼らは戦いながら絶えず陣形を変化させ、移動・交差する際に仲間の背中へ手をやり、その体内機能を回復、また一時的に増強する。個人ではできない集団特有の『仲間のための』行動による術式であり、さらに風水上『寝所』や『休憩所』に|相応《ふさわ》しい『脈』のある|場所《エリア》で効果が増幅するおまけつきだ。
仲間同士で互いに|幾重《いくえ》にも運動能力を高め合う事で『聖人』にもついていく事に成功したが、敵の攻撃を|捌《さば》き切れず、陣形そのものが乱れてしまえば仲間の『増強』に手が回らなくなる。一ヶ所の|綻《ほころ》びが周囲全体の動きへ|影響《えいきよう》を与え、いつしか集団そのものの速度が鈍る。
これだけでは、後方のアックアにば勝てない。
「聖人』とは、そういう怪物なのだ。
「となると、こっちも『本命』出すしかないってのよ。『神の子』の処刑の様式に従い、『|槍《やり》』を持つ五和を起点として反撃する。出し惜しみはなしだ。覚悟を決ゆるぞ」
彼は、特に五和の方を見て確認を求めた。
五和は|海軍用船上槍《フリウリスピア》を両手で握ったまま、小さく|頷《うなず》く。
その時だった。
ゾワッ!! と、その場にいた全員の肌に寒気が走った。何か巨大な気配のようなものが、|闇《やみ》を引き裂いて高速で近づいてくる感覚が確かにあった。その正体を間うまでもない。後方のアックア以外に|誰《だれ》がいる。
彼ら天草式には『本命』となる作戦がまだ残っている。
しかし、それは『本命』であるが|故《ゆえ》に、そう簡単に|繰《く》り出せるものではない。
「チッ、一度態勢を立て直すぞ!!」
|建宮《たてみや》が叫ぶと、|天草式《あまくさしき》の全員が波のように動いた。
彼らが移動したのは、前後左右のいずれでもない。『下』だ。タイル状の人工的な地面に手を突いて、一メートル四方ほどのタイルをハッチのようにこじ開ける。その奥に待っているのは鋼鉄とコンクリートの織り成す地下空間だ。
湿った金属の階段や手すりに、縦横に走る太いパイブ。ごうんごうんと音を立てる機材の群れに背中を押しつけるようにして、|隙間《すきま》を|潜《くぐ》り抜ける|五和《いつわ》は、ここが水力発電用のタービンと変電施設を兼ねている事に気づいた。
地下市街の層と層の間にある|隔壁《かくへき》は、厚さ一〇メートルほど、そのスペースはエネルギーの生産施設として利用されているのだろう。
建宮や五和は入り組んだスペースを通りながら、あちこちにワイヤーを張ってトラップ術式を構成する。これだけでアックアが倒れるとは思わないが、時間が|稼《かせ》げればそれで良い。
天草式が目指しているのは、ひたすら下。
とにかくアックアのいる第三階層から、無害な第四階層ヘ一度|撤退《てつたい》する事で時間を稼ぎ、その間に『本命』となる術式の準備を終わらせようとしているのだが、
『良いものを見せてもらったのである。こちらも返礼をしよう』
不意に、|薄暗《うすぐら》い空間に太い男の声が|響《ひび》いた。
何度も|反響《はんきよう》する声は、音源の方向を|掴《つか》ませない。
『「|神の力《ガブリエル》」の性質を秘める私が、何を|司《つかさど》るかぐらいは理解しているのであるな』
「ッ!?」
反応を見せるだけの余裕もなかった。
|突如《とつじよ》、コンクリー卜空間を縦横に走る巨大なパイプが、内側から勢い良く破裂した。直径一メートル超、厚さ五センチを超える水道管が紙のように引き裂かれ、ギターピックほどの金属片が無数に|撒《ま》き散らされる。バヂバヂッ!! とオレンジ色の火花が方々で|炸裂《さくれつ》する。高速で飛来する金属片がコンクリートに|直撃《ちよくげき》し、辺りを跳ね回っているのだ。
『水は容易に体積を変えられるものであってな。上手に使えば爆弾にもできる』
ドガガガガッ!! と四方八方の水道管が次々と爆発した。
水と水蒸気の混合物に押し出されるように、大量の金属片が散弾の豪雨と化して天草式に|襲《おそ》いかかった。ようやく反応を示した五和が顔面に飛んできた金属片の一つを|槍《やり》で|弾《はじ》くが、逆にこちらの体が|薙《な》ぎ倒されそうになる。
その|破壊《はかい》|力《りよく》もさる事ながら、五和にはもっと気になる事があった。
水道管が破裂する寸前、光る文字のようなものが見えたのだ。
浮かび上がるのは|laguz《ラグズ》。
記号的な一文字の正体ば、
「なっ……水のルーン!?」
極めて|凡庸《ぼんよう》な、基本であるが|故《ゆえ》に代表的とまで呼ばれる|魔術《まじゆつ》。
『その反応……私が贈ったテッラの死体から、少しは「神の右席」を学んだのであるか?」
イギリス清教からの報告によれば、『神の右席』はその肉体が人間よりも天使に近くなっているため、特別な術式を扱える反面、一般的な魔術師の扱う術式は行使できないという話だったはずなのに……。
『|驚《おどろ》くような事であるか。確かに「神の右席」は普通の人間が使う魔術を扱えない。しかし私の持つ聖母|崇拝《すうはい》の術式は、そういった約束・|束縛《そくばく》・条件から免除される効力を持つのである』
聖人と『神の右席』のカを同時に扱い、
その上、人間と天使の術式を|完壁《かんぺき》に|掌握《しようあく》する。
『おかしいとは思わなかったのであるか。最初の|襲撃《しゆうげき》の際、一体どこの誰が「人払い」などというポピュラー極まりない魔術を使ったのかという事に[#「一体どこの誰が「人払い」などというポピュラー極まりない魔術を使ったのかという事に」に傍点]』
攻撃の種類も威力も圧倒的に違う。
質と量を同時に備える怪物は、余計な感情を挟まずに、ただ事実として述べた。
『この後方のアックアを、そこらの「神の右席」|如《ごと》きと同列に見てくれるなよ』
(くっ……ッ!!)
さらに複数の水道管が破裂し、しまいには水力発電に使われるタービン装置そのものが爆発して|襲《おそ》いかかってきた。巨大な回転刃のように向かってくるタービンのプロペラを見て、|五和《いつわ》は階段を使わずに金属製の手すりを飛び越し、そのまま一気に|闇《やみ》の奥へと落下する。床に設置されたハッチ状のドアを|槍《やり》で突き破り、身を乗り出すように外へ出ると、そこが今までいた第三階層から一階層分下のフロアである、第四階層の|天井《てんじよう》部分だった。
床から二〇メートルほどの高さにある空間。天井に沿うように金属製の細い通路や階段が縦横に走る光景は、演劇の舞台のようにも見える。そして真下に広がるのは、第四階層の街並み―――ではなく、巨大なブラネタリウムのスクリーンだった。地上部のカメラが撮影した空の様子を映し出すものだ。街を|覆《おお》う巨大な布地は、規則的に配置された無数の細い柱とワイヤーによって、天井部から|吊《つ》るされていたのだ。
だが、今の五和にその奇怪な光景に目を奪われているだけの暇はない。
「……ッ!! アツクアは―――ツ!!」
「ここだ」
不意に真横から声が聞こえたと思った時には、すでに風圧があった。そちらを振り向く前に反射的に五和の槍が動く。放たれた重たい一撃を受け止めた―――そう思った|瞬間《しゆんかん》、五和の体は水平に一五メートルほど吹き飛ばされていた。防御した槍ごと|薙《な》ぎ払われたのだ。
ゴッシャア!! という鈍い音が後から耳に|響《ひび》く。
|五和《いつわ》は全身を|襲《おそ》うダメージをどうにか耐え、着地体勢を取ろうとした。しかし足場がない。|為《な》す|術《すべ》もなく五和の体が巨大スクリーンの上へと落下していく。
と、意外にもスクリーンは破れずに、五和の体を支えた。どうやら|天井《てんじよう》|部《ぶ》からの落下物を防止する役目も負っているらしい。
不安定に沈む足場も気にせず、五和は|槍《やり》を構え直して前を見る。
後方のアックア。
五和の槍とは比ぺ物にもならないほど巨大なメイスを肩に|担《かつ》いだ男は、自らも手すりから飛んでスクリーンの上へ着地した。
「さて、小手調べはこの辺りにしておこう」
担いだメイスを構え直し、アックアは静かに語る。
「互いに武器を手にしているのなら、これを打ち合わせぬ道理はなかろう」
「……そうですね」
五和は応じるように十字状の|穂先《ほさき》をアックアに向け直し、ゆっくりとした調子で語る。
「ただし、私一人とは限りませんけど」
言った|途端《とたん》、アックアの頭上にある天井部のハッチが次々と開いた。そこから現れたのは|天草式《あまくさしき》の人間だ。その|誰《され》もが傷を負い、衣服のあちこちを赤く汚しているものの、|未《いま》だに数は欠けていない。
総勢五〇名、一〇〇の眼球がアックアを|捉《とら》える。
対して、怪物は恐れすら抱かなかった。
「構わん」
ゆらりと。
一歩も動いていないのに、ただ重心だけが下に落ちる。
「来い」
その言葉と同時に、天草式の全員が後方のアックアへ飛びかかる。
五和は正面からアックアの元へと飛び込んでいく。
星空を映す巨大なスクリーンの上に乗るアックアがそれに応じる前に、左右から後方から上空から、次々と刃を持った天草式の少年|達《たち》が襲いかかった。
二〇近い切っ先がアックアの体へ向かい、仮にそれを|凌《しの》いだとしても、さらに三〇の切っ先が追加でアックアへ襲いかかる。
常人ならば、まず対処できぬ絶対の数。
しかしアックアは応じた。
バォ!! と巨大なメイスが空気を引き裂いた。上空を舞う|牛深《うしぶか》と|香焼《こうやぎ》が|薙《な》ぎ払われ、わざと周囲へ|撒《ま》いた|衝撃《しようげき》|波《は》が他者を|襲《おそ》う。吹き飛び崩れる前方の|天草式《あまくさしき》を無視して、アックアは振り向きざまに真後ろヘメイスを|叩《たた》きつける。
一連の動きは、ほとんど爆発だった。
アックアを中心に、天草式の|手錬《てだれ》が四方八方へと発射されていく。
「ッ!!」
追加攻撃を加える寸前だった|五和《いつわ》は、思わずスクリーン上で足を止めようとした。
そこへ、アックアの体がスケートのように|滑《すべ》りながら飛び込んでくる。
とっさに身構える五和の防御の|網《あみ》をかいくぐるように、振り上げられたメイスはやや斜め方向から彼女の|頭蓋《ずがい》|骨《こつ》目がけて一気に振り下ろされる。
それは鋼鉄の雷光。
だがその一撃は五和に当たらない。
ボヒュッ!! という空振りの感触をアックアは得た。射程圏内にいたはずの五和が消えている。見れば、五和が着ていたはずの明るい色のトレーナーだけがメイスの先に取り残されていた。アックアは視線を手元から前方へ変更。少し|離《はな》れた所に立つ五和は、どういう方法を使ったのか、上に|纏《まと》っていたタンクトップばそのままに、トレーナーだけを脱ぎ捨てたらしい。
アックァはメイスを軽く振るい、布切れを捨てる。
「身代わりであるか」
「|生憎《あいにく》と、それほど数はないものでして」
五和は十字の|槍《やり》を構え直しながら、静かに言った。
「あまり恥ずかしい事をさせないでくださいね」
言い終わるより前に、二人は再び激突する。
大地すら軽々と叩き割りそうなアックアのメイス。
しかし五和の槍が応じた。様々な術式で肉体を補強し、聖人の動きについていくための努力を重ねているのだろう。一撃、二撃、三撃と、アックアに対して半テンポほど遅れる挙動で、かろうじて五和は攻撃を|弾《はじ》き返す事に成功する。
「良い動きである」
アックアは高速でメイスを振るいながら、素直に敵を|称賛《しようさん》した。
「しかし良いのであるか。徐々にリズムが遅れているようであるが」
「く……ッ!!」
じりじりと押されるように開いていく差。それが一定まで達すれば、アックアの一撃を止められず、五和の体は無数の肉片と化す。
そんな五和の応援に回るため、|対馬《つしま》や|諫早《いさはや》といった天草式の面々が様々な角度からアックアへ攻撃を加えるが、恐るべき速度で放たれるアックアのメイスは、防壁のように攻撃を通さない。|五和《いつわ》と刃を交えつつ、片手間のような素振りで周囲の|天草式《あまくさしき》を|牽制《けんせい》し、そして|隙《すき》あらばルーンの文字を光らせて、高圧縮した水の|塊《かたまり》で|反撃《はんげき》に転じる。
猛攻をさばきながら、|建宮《たてみや》は五和へ目配せする。
「(……『あれ』の準備の方はどうなってんのよ!?)」
「(……余裕がありまっ、せん……ッ!!)」
「|五《いつ》……ッ!!」
一度態勢を整えるために建宮は叫ぽうとして、そこでアックアの一撃が来た。
思わず構えたフランベルジェが弾かれ、|衝撃《しようげき》|波《は》に|薙《な》ぎ払われた建宮の体が巨大スクリーンの上を二回、三回と跳ね転がる。
「さて」
荒い息を|吐《は》く五和を見て、アックアはメイスを構え直す。
「何秒|保《も》つか楽しみである」
その言葉と共にアックアの全身の筋肉が一気に|膨張《ぼうちよう》する。
アックアの射程から逃れるのは不可能。
巨大なメイスと五和の|槍《やり》が激突する。かろうじて直撃は|避《さ》けたが、そこが五和の限界だった。ドガガガガッ!! と二人の武器が激突するたびに、まるで攻撃を組み立てる歯車が欠けていくように、五和の速度が目に見えて落ちてくる。
反撃に転じる余裕などない。
|完壁《かんぺき》に受け切れなかったアックアの攻撃の余波が、衝撃波となって足元のスクリーンを|叩《たた》いた。おそらく防弾|繊維《せんい》でも織り込んでいるであろう特殊な布地が、まるでストッキングのように引き裂かれていく。
そのスタミナを削る地獄は、マラソンにも似ていた。
ただし、走者の背後から人肉をすり|潰《つぶ》すミキサーがゆっくりと近づいてくるマラソンだ。
立ち止まれば死。
それでいて、無理に走り続けても限界を超えた体は砕け散る。
刃と鈍器のぶつかり合いだけがひたすら続く。
「ふ……っ!!」
アックアが息を吸い、さらに強力に|踏《ふ》み込もうとした時、五和が動いた.
彼女は前へ出たのではなく、アックアの攻撃から逃れるように、思い切り後ろへ下がったのだ。
ほんの数メートルの、なけなしの|逃避《とうひ》。
聖人としての運動能力を行使するアックアからすれば、|一瞬《いつしゆん》で詰められる|距離《きより》だ。だが五和にとっては決死の判断だったのだろう。全力で跳んだ結果、体のバランスを崩し、今にも倒れそうになっている。
|五和《いつわ》は次の行動に移れない。
|攻撃《こうげき》を回避する事も、防御する事も。
「ふん」
アックアはつまらなさそうに息を|漏《も》らし、とどめを刺すぺく前へ。
空気を引き裂き、ジェット|戦闘《せんとう》|機《き》のような速度で必殺の間合いへ飛び込もうとしだアックアは。
ガクン!! と。
その動きが、何かに|縫《ぬ》い止められるように停止した。
「な……っ」
アックアは|驚《おどろ》いて自分の足元に目をやる。
彼の高速移動は、一種の術式に支えられたものだ。靴底と地面の間に|薄《うす》い水の膜を張り、氷の上でタイヤがスリップするのと同じ理論で体を『滑らせる』のだ。
その術式が、知らぬ間に|破綻《はたん》していた。
|天草式《あまくさしき》の五和に、アックアの術式を逆算し、|破壊《はかい》するだけの余裕はなかったばずだ。現にそうした|儀式《ぎしき》の動作は一切なかった。
だが、
気がついた時には、淡い光が割り込んでいた。それはアックアの足元からだ。不可思議な紋様が一気に広がり、アックアが使用していた移動術式を阻害する。
五和が受け止め損ねたアックアの攻撃、その余波は|衝撃《しようげき》|波《は》となって足場となるスクリーンを引き裂いていた。そして引き裂かれた布地が描く模様そのもののが一種の陣を築き上げ、|奇《く》しくもアックアの移動術式を妨害していたのだ。
偶然ではない。
天草式|十字《じゆうじ》|凄教《せいきよう》は魔術を扱う際に特別な|呪文《じゆもん》や|霊装《れいそう》などは用いず、どこにでもある日用品や行事の中に隠された魔術的記号を回収・再編成して術式を作り上げるのだから。
そして何より、
|一瞬《いつしゆん》だが確かに|隙《すき》のできたアックアを見て、
目の前の五和は薄く薄く笑っている。
前につんのめる形になったアックアに向けて、五和の|槍《やり》が容赦なく突き入れられた。
ここに来てようやく放たれた、雷光の速度の反撃。
ゴッ!! と空気を引き裂く一直線の攻撃に、アックアは初めて回避行動を取る。
「くっ!?」
アックアは前後左右のいずれでもなく、上へ跳んだ。
不安定なスクリーン上であっても関係はない。アックアはたった一歩で五メートル近くまで一気に突き進み、スクリーンを|吊《つ》り下げる細い支柱の一つに足を引っ掛ける。
「―――|建宮《たてみや》さん。それにみんなも!!」
それでも、|五和《いつわ》の構えは変わらなかった。
彼女は腰を低く落とし、改めて|海軍用十宇槍《フリウリスピア》の|穂先《ほさき》をアックアへ正確に突きつける。
「今こそ『本命』を!!」
五和が名を呼び、その全身に力を蓄えると、周囲に散らばっていたはずの|天草式《あまくさしき》の面々が呼応した。あるいは五和に近づき、あるいは一定の決められた|距離《きより》を取り、彼らの陣形が五和を中心軸に備えたものへとより一層強調される。
細い支柱に片足を引っ掛け、着地場所を探していたアックアは、眼下の風景の中で、意志や|魔力《まりよく》といったものが五和に向けて一斉に集中していくのを確かに感じた。
それは前兆。何か巨大な事が起きる手前の第一波。
(来るか……ッ!!)
アックアが言葉に出す前に、五和が動いた。
ゴバッ!! という爆音が|炸裂《さくれつ》する。
それが、人間の足がスクリーンを|蹴《け》った音だと知覚した時には、すでに五和はロケットやスペースシャトルのような勢いで夜空を突っ切っていた。あまりの威力に、巨大なスクリーンを吊る支柱のいくつかがへし折れた。圧倒的な加速で迫る五和の手には、おしぼりのような小さな布があった。それを使い、|槍《やり》の|柄《つか》を包むように槍を構え直している。
「|管槍《くだやり》だと!?」
槍と|掌《てのひら》の間の|摩擦《まさつ》を軽減させる事で、槍を突き出す速度と威力を倍加させる。
だが、五和のそれは本来の用途とは違う。
「|喰《く》らいなさい」
これから放つその|一撃《いちげき》。
自身の掌を守るために細工をしなければ、魔術の途中で手首を失う羽目になる。
「―――聖人崩し!!」
ドバァ!! と五和の手の中で槍が爆発した。
|比揄《ひゆ》でも何でもなく、本当に五和の槍が雷光と化した。一直線に飛び出した鋭利な一撃が今度こそアックアの腹の真ん中へ|容赦《ようしや》なく突き刺さり、青白い紫電がその背中から噴き出して、深夜の|暗闇《くらやみ》を引き裂いた。圧倒的な|摩擦《まさつ》によって槍の柄を|掴《つか》んでいた布地が黒い煙を|吐《は》いて吹き飛ばされる。
|轟音《ごうおん》と共に、アックアの背中から火花とも違う、光の十字架が上下左右へ爆発的に伸びる。
「……ッ!!」
アックアが何か一言を|紡《つむ》ぐ前に、隠れた術式が発動する。
五和が―――いや、|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》の全員が放ったのは、文字通り『聖人崩し』。
聖人とは『神の子』と身体的特徴が似ているが|故《ゆえ》に、偶像|崇拝《すうはい》の理論によって『神の子』と同種の力を引き出せる才能を持った人間を差す。
ならば逆に、その『「神の子」と似た身体的特徴』のバランスを人為的に崩してしまう事によって、一時的に『聖人』としての力を封じてしまう事も可能となる。
唐突にバランスを失った『聖人』は、単純に力を失うばかりか、体内に残っていた力の制御すらままならず、自らの暴走に巻き込まれて身動きが取れなくなってしまうのだ。
かつて、
天草式十宇凄教は、一人の聖人を失った事がある。
自分の強さが他者を巻き込んでしまう事を恐れて自分の居場所から立ち去った、優しい聖人。彼女を止めるだけの力すら持たなかった天草式の面々は、一つの誓いを立てたのだ。
いつか、彼女の負担にならないだけの強さを手に入れよう。
今度は彼女の背中を追いかけ、その手を|掴《つか》み、|大丈夫《だいじようぶ》だと言えるだけの強さを手に入れよう。
そうして血の|滲《にじ》む努力によって得たのが『聖人崩し』。
聖人である彼女を支えるためには、聖人である彼女を正しく理解し、そしてその壁を越えなくてはならず、そして聖人である彼女が『|脅威《きようい》』と思うような問題にさえ立ち向かわなくて
はならない、という論理によって生み出された、
|正真 正銘《しようしんしようめい》、
|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》だけが編み出す事に成功した、
『聖人を倒すためだけに存在する』専用特殊|攻撃《こうげき》術式、
(魔力の体内暴走による硬直時間は、おそらく三〇秒前後)
理論上においては『聖人だけに通じる』術式であり。それ以外の『普通の魔術師』には何ら|影響《えいきよう》のない攻撃術式。その特性上、わざわざ体を張って実験台に付き合ってくれる「聖人』などいる訳もなく、ある意味においてはぶっつけ本番の一本勝負。
しかし、|五和《いつわ》には確かに手応えがあった。
彼女はその手応えから有効時間を算出し、
(その持ち時間の|全《すべ》てを使って、『ただの人間』になったアックアを|完壁《かんぺき》に無力化させる!!)
だが、
「良い術式である」
今度こそ、五和の表情が凍り付いた。
雷光と化した|海軍用船上槍《フリウリスピア》が、いつの間にか元の形に戻っていた。五和が指示したものではない。外部からの力によって、強制的に術式を逆算・解除されている。
アックアの左手は腹に。
傷口を押さえているのではない。|皮膚《ひふ》に触れるギリギリのラインで、彼の|掌《てのひら》が五和の|槍《やり》を|掴《つか》んでいる。おそらく五和の槍が雷光と化す直前に、アックアの腕が|海軍用船上槍《フリウリスピア》の切っ先を強引に掴んでいたのだろう。発射前に細工をされていたのだ。だからこそ特殊な雷光は、その矛先を微妙にずらされてしまった。
「私がただの聖人なら、ここでやられていたかもしれないな」
アックアの唇が|歪《ゆが》む。
|嘲《あざけ》りではない。強敵と巡り合えた喜びを示す笑みが深く刻まれる。
「だが惜しい」
左手一本で五和の槍を押さえたまま、アックアの右手が動く。
全長五メートルを超す、|鉄塊《てつかい》そのもののメイスが。
「―――私は聖人であると同時に、『神の右席』でもあるのだよ!!」
ドッパァ!! という|轟音《ごうおん》が、無人の広場に|炸裂《さくれつ》した。
衣服を利用した身代わりの術式を使う暇もなかった。
それが自分の体の出す音だと|五和《いつわ》が気づいた時には、すでに呼吸が止まっていた。上から|叩《たた》きつけられた彼女の体は、一秒もかからずに分厚い防弾|繊維《せんい》のスクリーンを突き破り、さらに二〇メートル下の地面へと勢い良く落下する。
「がっ、アアああああああああああああッ!!」
途中で|幾重《いくえ》にもわたって防御術式が張り巡らされる|輝《かがや》きが見えた。おそらく|天草式《あまくさしき》の面々だろう。五和自身も今あるものを使って、必死で落下速度を軽減させるための術式を組み立てようとする。だが、それら|全《すべ》てを突き破って五和の体はアスファルトへ叩きつけられた。
灰色の|粉塵《ふんじん》が、煙のように舞い上がる。
ボロボロになった五和は、砕けたアスファルトに埋もれながら、首だけを動かして頭上を見上げた。縦横に引き裂かれたスクリーンの向こう側で、何かが|炸裂《さくれつ》した。ザバァ!! と波が岩を叩くような音が聞こえたと思った時には、その引き裂かれた|亀裂《きれつ》から大量の水が噴き出してきた。何十トンにも及ぶ大量の水は巨大な腕とも竜の|顎《あご》のようにも見えた。その圧倒的な質量に叩き|潰《つぶ》されるように、天草式の人間がバラバラと落ちていく。いくつもの悲鳴が上がる。
ただ一つだけ、ふわりと羽毛のように着地する影があった。
「つまらん。数を|揃《そろ》え、策を練った所でもう限界であるか」
後方のアックアだ。
彼はほとんど漬れかけた五和のすぐ近くのアスファルトに足を乗せると、静かに話る。
「私が告げた期限まで、まだ幾ばくかの|猶予《ゆうよ》がある」
ブラネタリウムに使われていたスクリーン上から滝のように水が流れ落ち、方々で機械的な警告音が鳴り|響《ひび》いた。しかしアックアは動じない。|来《きた》るべき敵は全て粉砕するとばかりに、|泰然《たいぜん》とした調子で五和を見下ろす。
「選択を与えよう。あの少年の右腕を差し出すか、ここで路上の|染《し》みとなるか」
「……、」
返事はない。
しかし行動はあった。砕けたアスファルトの破片を|掴《つか》み、ボロボロの体を動かして、血まみれの五和がまだ立ち上がろうとしているのだ。
「ならば仕方がない」
アックアは特大のメイスを構え直し、静かに語る。
「死を望むなら、波間に消えると良いのである」
メイスの|先端《せんたん》が頭上を指し示す。
ドォ!! という爆音。
引き裂かれたスクリーンから滝のように落ち、今まさに第四階層を|蹂躙《じゆうりん》しかけていた|膨大《ぼうだい》な水が、アックアの意志に応じて大きくうねる。サイズは全長二〇メートル弱。まるで地面から生えた、建設重機についているアームのような関節を持つ巨大なハンマーが、地上を|這《は》いずる獲物を足元の大地ごと|狙《ねら》うように。
五和は目を|瞑《つぶ》らなかった。
だからこそ、彼女は最後の最後で気づいた。
ふと、アックアの手が止まった事に。
ゾン!! と。
不意に、辺り一面に、|得《え》|体《たし》の知れない殺気が充満する。
それは後方のアックアから放たれたものでも、周囲に倒れている|建宮《たてみや》や|牛深《うしぶか》といった|天草式《あまくさしき》の仲間|達《たち》から放たれたものでも、まして|満身《まんしん》|創痍《そうい》の五和から放たれたものでもない。距離も方向も分からない。ただ確かな敵意の感情。アックアは手を止めて、標的から別のものへと注意を向ける。アックアほどの人物であっても注意を向けざるを得ない何かが、すぐ近くに存在するのだ。
「……なるほど」
後方のアックアはわずかに|呟《つぶや》き、そして笑った。
一度は五和も間近で見た、強敵を前にした時の表情。だが今回は、五和に向けられたものよりも何倍も何十倍も、深く深く刻まれている。
第四階層の空中をうねっていた数十トンもの水の|塊《かたまり》が、解ける。|魔術《まじゆつ》|的《てき》な制御を失った|膨大《ぼうだい》な水は人工的に作られた川へと身を沈め、津波のように巨大な波紋を|撒《ま》き散らして堤防を水浸しにする。
アックアは肩の力を抜き、巨大なメイスを肩に|担《かつ》ぎ直した。
そして一度だけ、五和の顔を見て言った。
「命拾いしたのであるな。貴様の主に感謝しろ」
バン!! という爆音が|響《ひび》いた。
そう思った時には、すでに後方のアックアは消えていた。あまりの速度に、肉眼で追い掛ける事すらできなかったのだ。
五和は|呆然《ぼうぜん》と、|誰《だれ》もいなくなった前方を眺めていた。
生き残った。
アスファルトもコンクリートも砕け、|爆撃《ばくげき》直後のようになった|瓦礫《がれき》に大量の水をぶっかけたような|惨状《さんじよう》の中でその事実を|噛《か》み締《し》めても、|嬉《うれ》しさはなかった。明確に負けたかどうかすら|曖昧《あいまい》な結末。どう判断すれば良いのかも分からないまま、五和はただアックアの言葉を頭の中で|繰《く》り返す。
「……貴様の、主に、感謝しろ……?」
|五和《いつわ》は首だけを動かし、辺りを見る。
アックアが直前に見ていたであろうモノを追いかけたかったのだが、そこには何もなかった。アックアが消えたのと同じく、ただの暗い|闇《やみ》が広がっているだけだった。
五和が落下した路面から二〇〇メートルほど|離《はな》れた場所。
コンクリートによって固められた河原は、小さな展望台になっていた。『人払い』によって|完璧《かんぺき》に人気のなくなった冷たい施設に、二人の聖人は立っている。
一人は後方のアックア。
そしてもう一人は……、
「私の『仲間』|達《たち》が、世話になりましたね」
長身に白い肌。黒い髪は後ろで束ねても腰まで届く。服装は腰の所で紋ったTシャツの上からデニム地のジャケットを羽織っていて、下はジーンズ。ただしジャケットの右腕部分は肩の所から切断され、逆にジーンズば左脚部分が|太股《ふともも》の所から切断されている。
だが、それら十分個性的である格好は、たった一つのアイテムによって吹き消されていた。
ウェスタンベルトに差した、一本の刀。
全長ニメートルを超える日本刀の銘は『|七天七刀《しちてんしちとう》』。
「そういえば、極東には|一撃《いちげき》必殺を信条とする聖人がいたのであるな」
アックアは満足そうに|頷《うなず》く。
国家や組織に所属する聖人は、そうそう簡単にあちこちで活動する事はできない。この聖人はそれらのリスクを受けてでも、アックアの前に立ったのだろう。
彼は、改めてメイスを握り直す。
ようやく『弱い者いじめ』ではない、本当の戦いを楽しめると言外に語っている。
「しかし|天草式《あまくさしき》の聖人は|戦闘《せんとう》を|嫌《きら》う性根と聞いているのであるが、私と戦う度胸はあるかね」
「ええ」
彼女は、
「私もそう思っていたのですが、どうやら私は自分で考えていたよりも、ずっと幼稚な人間だったようです」
|神裂《かんざき》|火織《かおり》は、
「彼らが|蹴《け》|散《ち》らされる様子をまざまざと見せつけられたせいでしょうか。いけませんね、こんな|魔法《まほう》|名《めい》を背負っているのに。『怒り』は七つの罪の一つだと、そう教えられたばずなのに」
かつて|女教皇《プリエステス》と呼ばれた聖人は、|瓦礫《がれき》の聞すら吹き飛ばすように、
ただ鮮烈に君臨する。
「ぐだぐだと悩むのはやめましょう。彼らの決意を|無《む》|駄《だ》にはしない。それだけで十分です」
|理不尽《りふじん》な暴力を受けて倒れた少年のために。
その|暴虐《ぼうぎやく》を止めるために立ち上がり、圧倒的な力によって|蹂躙《じゆうりん》された仲間|達《たち》のために。
彼女は握り|潰《つぶ》すように、刀の|柄《つか》へ手を伸ばす。
二人の『聖人』の眼光が、正面から激突した。
それが合図。
世界で二〇人といない怪物と怪物の戦いが、ここに幕を開ける。
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行間 二
オルレアン|騎《き》|士《し》|団《だん》。
フランス最大の|魔術《まじゆつ》結社。それが少年に絶望を与えた名前だった。
その『組織]は、元々はジャンヌ=ダルクの人柄に|惹《ひ》かれ、公式の戦力とは異なり、陰ながら彼女の歩みを支えるために集まった有志によって結成された。魔術の扱いに特化した特殊な『組織』という訳でもなく、ただフランスを救いたいという目的さえ持っていれば身分や地位、家柄などは関係なく、(当時としては極めて珍しい事に)貴族から農民までありとあらゆる人人が肩を寄せて笑い合うような、そんな『組織』であったはずだった。
しかし、一四三一年五月三〇日、彼らの方向性を決定的に|歪《ゆが》める出釆事が起きた。
イギリスに捕らえられたジャンヌ=ダルクが背信者として焼き殺されたのだ。
以降のオルレアン騎士団は『ジャンヌ=ダルクの|復讐《ふくしゆう》』を掲げる一種異様な『組織』に|変貌《へんぼう》する。直接的にジャンヌ=ダルクを処刑したイギリスの|殲滅《せんめつ》はもちろん、ダルクの害となったフランスの兵や貴族、ダルクに救われておきながら、ダルク奪回のために具体的な行動を取らなかったフランス国民に至るまで(厳密にはやろうと思ってもできなかったのだが、情状|酌量《しやくりよう》を認める『組織』ではない)、『復讐』の対象は極めて広範囲の人々に向けられていった。
いかにフランス最大の魔術結社といえど、それら|全《すべ》てを同時に敵に回しては、勝算は|薄《うす》い。はずなのだが、彼らはその事実に気づかない。
オルレアン騎士団には、一つの希望がある。
ジャンヌ=ダルクは、生まれながらに特別な才能を持っていた訳ではない。彼女は一三歳の時に『特別な声』を聞き、そこから一気に能力を開花させる事となった経緯がある。
オルレアン騎士団は、その『ダルクの神託』を求めた。
ダルクのように|誰《だれ》かを守るためではなく、自らの復讐、ただそれだけのために。
私情で奇跡を願う者に神の手は差し伸ぺられないと、|何故《なぜ》誰も気づかなかったのか。必然的にオルレアン騎士団は『神秘を取り扱う集団』へと変貌し、その特色も魔術の|匂《にお》いの強いものになっていく。
そして数百年の時が流れ、オルレアン騎士団の人員も何世代にわたって交代していき、彼らはダルクの力を持っ者の人工的な量産作業という『できるはずのない実験』を|未《いま》だに|繰《く》り返していた。
そんな中で巻き込まれたのが、一組の少年と少女。
『ダルクの神託』の『素体』として一人の少女が半ば強引に選ばれ、少年はそれに対抗した。少女を逃がすためにありとあらゆる策を講じ、持てる力の|全《すべ》てを使って|奮闘《ふんとう》し―――そして敗北した.
今、少年の|側《そば》に少女はいない。
|瀕死《ひんし》の少年が最後に聞いたのは、『信じている』という少女の声。
しかし、少年には立ち上がるだけの力がなかった。
そんなものが残されているなら、あの時とっくに使っているはずだった。
腐った路地の中、少年は汚い地面に倒れている。
「それで、貴様はそこで|這《は》いつくばって、全てを|諦《あきら》める気かね?」
声が聞こえた。
フリーの|傭兵《ようへい》だと言った屈強な男。
オルレアン|騎《き》|士《し》|団《だん》の横暴を止めるためにフランスへ入国したらしい。そこで一組の少年と少女に出会い、少女を逃がすために陽動を買って出てくれたのだが……肝心の少年があまりにも弱すぎて、結局少女は連れ去られてしまった。
「どうしろって、言うんだよ」
倒れたまま、少年は|呟《つぶや》く。
手を伸ばせば、|鞘《さや》に収まった剣に手は届く。コリシュマルド。スポーツで使用されるサーベルを軍用に改良した、少年が片手でも扱える軽量なフランスの剣。それでもボロボロになった彼の手は、熱湯を恐れるように鞘へ触れる事すらためらわれる。
「僕は、特別な人間なんかじゃない。その場にあるものだけで、どんな危機でも乗り越えられるような人間じゃない!! 勝てる訳がないじゃないか。相手はフランス最大の|魔術《まじゆつ》結社なんだぞ… そんなもん相手にどう戦えって言うんだよ!!」
「だから、彼女の事は諦めるのか」
「……、」
「それを容認できないから、貴様は立ち去る事なく、いつまでもこんな所で這いつくばっているのではないのか」
少年は答えない。答えられない。
泥と傷でボロボロになった体を動かし、何とか上半身だけは起こすが、そこが限界だった。体力だけでなく、気力まで折れているのだ。
傭兵は気遺わない。
「くだらん絶望など、している暇はない」
彼はいつまで経っても少年が拾おうとしない、鞘に収まった剣を手に取り、
「敵は強大であり、そしてその目的に対する実行力を|鑑《かんが》みれば、彼女がこれから迎える運命は明白である。ならば、貴様がここで考えるべきはただ一つのはずだ」
すなわち、とそこで傭兵は言葉を区切って、
「あれだけの絶望的な状況で、それでも彼女は貴様を『信じている』と言った事である」
少年の中で、時間が止まる。
傭兵の言葉だけが、続く。
「貴様はどうする。愚か者の少女が描いた夢を守るために、もう一度立ち上がるか。それとも愚か者の少女に現実を教え、さらに深い絶望を与えてやるか」
傭兵は剣の|鞘《さや》を|掴《つか》み、いつまで経っても立ち上がろうとしない少年の鼻先に、彼が勇気ある者として振るうベき剣、コリシュマルドの|柄《つか》を突きつける。
「選べ、貴様はどちらを選択する」
悩むまでもなかった。
考えるまでもなかった。
目の前に積み上げられた問題は山のよう。あちこちに散らばるリスクは星の数。だが関係ない。それを悩むのは、それを考えるのは、まず動き出した者にだけ許される特権。
少年は立ち上がる。
|満身《まんしん》|創痍《そうい》の|全《すべ》てを無視して、傭兵に突きつけられたフランス製の細い剣の柄を掴み取り、固定用の細い金具を外すと、己の武器、コリシュマルドを鞘から勢い良く引き抜いた。
「―――良い選択である」
傭兵が笑う。
少年の表情は変わっていた。彼は傭兵の|隣《となり》に立ち、全く同列の存在として屑を並べ、戦友と共に暗い路地の出口を―――倒すべき敵と、救うぺき少女のいる『隠れ家』のある方角を見据
える。
「行こう」
少年は静かに告げた。
「|脅《おび》える時闘は、もう終わりだ」
敵はフランス最大の|魔術《まじゆつ》結社、オルレアン|騎《し》|士《し》|団《だん》。
歴史的な|復讐《ふくしゆう》に走るプロの|戦闘《せんとう》集団を相手に、これより本当の|反撃《はんげき》が始まる。
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第三章 桁の違う怪物同士の死闘 Saint_VS_Saint
世界が破裂する音を聞いた事があるだろうか。
それは爆音や|衝撃波《しようげきは》の領域すら超えていた。人間に聞き取れる範囲をはるかに超えた、世界が放つ苦痛の悲鳴。悲鳴の余波の余波、その切れ|端《はし》になって初めて爆風と化す。悲鳴の切れ端は街路樹の枝を吹き飛ばし、第四階層のコンクリートの地面をビリビリと振動させ、金属製の手すりを|飴《あめ》細工のように捻じ曲げる。
|神裂《かんざき》|火織《かおり》と後方のアックア。
科学に埋め尽くされた街の中、二人の聖人の激突だけが、深夜の展望台にある|全《すべ》てだった。
「おおおァあああッ!!」
|裂帛《れつぱく》の気合と共に神裂の手から放たれるのは、神速の抜刀術。特定の宗教に対し、別の教義で用いられる術式を|迂《う》|回《かい》して傷つける事によって、一神教の天使すら切断する事を可能にした必殺の一撃だ。
十字術式にできない事は仏教術式で。
仏教術式にできない事は神道術式で。
神道術式にできない事は十字術式で。
互いの弱点をその都度適切な形で補い合う事によって、完全なる|破壊《はかい》|力《りよく》を生み出す無二の攻撃術式。
すなわち、|唯閃《ゆいせん》。
|何人《なんぴと》にも受け止める事のできないはずの|斬撃《ざんげき》を、しかしアックアは巨大なメイスで|弾《はじ》き返す。続けて複数の|太《た》|刀《ち》|筋《すじ》を見舞いながら、神裂は知る。アックアもまた、神裂と同等かそれ以上に多種多様な術式に精通しているのだ。ただの『神の右席』には不可能とされる、一般的な|魔術《まじゆつ》を行使する能力を思う存分に発揮する形で。
神裂が仏教術式に迂回しようとすればそれに対応し、神道術式に転換しても即座に防御の型を変えていく。両者の間で|莫大《ばくだい》な魔力が次々とその性質を変え、音速を超える肉弾戦の最中に別次元の『読み合い』という頭脳戦が並行して展開される。
物理と魔術。
肉体と精神
|騒乱《そうらん》と|瞑想《めいそう》
ガガガザザザギギッ!! と互いに武器をぶつけて火花を散らしながら行われる聖人同士の戦いは並行的に見えて、しかしその中に一つの大きなうねりが存在する。
一般に、|魔術《まじゆつ》を扱うのに才能は不要とされる。
そもそも才能なき者が才能ある者と同じ奇跡を生むために生み出された技術こそが、魔術なのだから。
しかし、彼らの動きを見てもまだ同じ事が言えるだろうか。
『聖人』という、極めて特殊で異例な才能を見ても。
「……素晴らしい。たった一人の危機にこれほどの人員・戦力が駆けつけるとは、大した人望。あの少年、敵ながら見事である」
五メートル強もの|鉄塊《てつかい》を木の枝のように軽々と振り回しながら、アックアは言う。
「しかし覚悟しろ。我が戦場に立つと言うのなら、|蹴《け》|散《ち》らす|他《ほか》に道はない!!」
ゴァ!! という新たな爆音が|炸裂《さくれつ》する。
|神裂《かんざき》の背後は暗い川。その黒い水面が揺らいだと思った時には、二〇メートル近い水柱が上がっていた。それは関節を持つ巨大なハンマー。恐るべき鈍器は地下市街の|天井《てんじよう》を|掠《かす》め、そのまま頭上から神裂を|叩《たた》き|潰《つぶ》そうと迫る。
アックアとの|連撃《れんげき》だけで手が一杯というのなら、ここで対処しきれずに神裂は死ぬ。
しかし
ドバッ!! という切断音が|響《ひび》く。|死闘《しとう》を|繰《く》り広げる神裂の周囲で何かがキラリと光ったと思った|瞬間《しゆんかん》、七つの|斬撃《ざんげき》が後方から迫る水のハンマーを|容赦《ようしや》なく切断し、川面に帰した。
ワイヤーを使った『|七閃《ななせん》』だ。
「……この程度で全力と思われるのは心外です」
神裂の唇が動いた|途端《とたん》、七つの斬撃は神裂の刀の軌道を補うように、様々な角度から一斉にアックアを|襲《おそ》う。
アックアの連撃速度がさらに上がる。
あるいはメイスで|弾《はじ》き飛ばし、あるいは首を振って|避《さ》け、刀とワイヤーの双方を|凌《しの》ぎ切ったアックアの眼前を―――|突如《とつじよ》、|紅蓮《ぐれん》の炎が埋め尽くす。
「―――ッ!?」
空中を引き裂くワイヤーの軌跡が三次元的な|魔法《まほう》|陣《じん》を描いた。アックアがそう気づいた時には、すでに爆炎は彼の屈強な体を呑み込んでいた。
さらに続けざまに二発、三発と爆発が続き、それらを引き裂くように七本のワイヤーが炎を切り裂き、最後に月明かりりを浴ぴた刀が|一閃《いつせん》する。
連続した音は鳴らなかった。
あまりにも素早すぎて、音は数をなくした|塊《かたまり》となる。
バァン!! と空間そのものを巨大な腕で引き|千《ち》|切《ぎ》るような|轟音《ごうおん》。
しかしアックアはそこにいなかった。
|神裂《かんざき》の視線が正面から遠方へと移る。一〇メートルほど|離《はな》れたコンクリートの地面に、アックアは飛び|退《の》いていた。
その|頬《ほお》に、一筋の切り傷がある。
おそらくワイヤーに裂かれたものであろう、わずかな|掠《かす》り傷。しかし、それは今まで|何人《なんぴと》にも届かなかった傷だ。頬から赤い血を垂らしつつ、アックアは静かに告げる。
「やばり|天草式《あまくさしき》の一員。基本的にやっている事は同じなのであるな」
流れる血を人差し指ですくい、その指先をメイスの側面に押し付け、何らかの意味ある言葉を記しながら、
「だが、扱う者が聖人になるとここまで変わるのか。つくづく、才能とは|残酷《ざんこく》なものである」
|魔術《まじゆつ》とは才能なき者の反乱の歴史。しかしそれを天が与えた『聖人』という言葉が答易に押し|潰《つぶ》す。
投げかけられた言葉に、神裂はわずかに|黙《だま》る。
単に|戦闘《せんとう》の結果だけを見れば、その言い分は正しいのかもしれない。
神裂のいない現天草式では、アックアに傷一つ負わせる事もできなかったのだから。
しかし
「訂正をしていただきましよう」
神裂は手にした刀を|鞘《さや》に収め、重心を低く落とし、抜刀の準備に入る。
「確かに、彼らに『唯閃』は扱えません。ですが、その土台となる剣術、|鋼糸《ワイヤー》、術式、その組み立てと戦術のバターンば|全《すべ》て天草式の|先達《せんだつ》に教えていただいたものです。この結果は才能などというちっぽけなものではなく、彼らの歴史が作り上げた結晶。私の|学《まな》び|舎《や》は天草式であり、私の師は私の仲間|達《たち》です。それを|侮辱《ぶじよく》する発言を認めるつもりはありません」
ミシィ!! と、刀の|柄《つか》を握る手に力が|籠《こも》る。
「まして、それだけの力を自覚しておきながら、ただの高校生に|容赦《ようしや》なく振りかざすような|外道《げどう》に、|誰《だれ》かを見下すような資格などありません」
それは|翻《ひるが》って神裂自身へと刺さる言葉。
とある目的のために、一度はあの少年を|斬《き》った神裂の、己に対する|戒《いまし》めだ。
「……そこで怒りを覚える事自体、手ぬるいと評価して塘くのである」
己の血で紋様を描いたメイスをゆっくりと構え直し、アックアは告げる。
一〇メートルの|距離《きより》など、彼ら聖人にとっては目と鼻の先。
|対時《たいじ》する二人のイメージは、古き良き時代劇か、あるいは西部劇か。
「歩兵が偵察に出かけたところ、不意に敵の戦車と|遭遇《そうぐう》した。……それが戦場である。対抗策は必ず用意されているものではない。逃げ道や安全地帯、まして紳士のマナーなど存在しない。全く同じ条件をわざわざ|揃《そろ》え、勝敗の確準を五分五分に調整した上で戦う行為はスポーツと言うのである。才能とは、戦力とはそういうもの。適切な装備を持たずに戦車と遭遇すれば、歩兵がどうなるかは考えるまでもない。容赦なく|砲撃《ほうげき》を受け、ただ消し飛ぶのみ。貴様の戦場は違うのであるか?」
「それはあなたの論理です」
「だが、その領域に|踏《ふ》み込んできたのは貴様|達《たち》である」
アックアは|嘲《あざけ》りすら向けず、ただ淡々と告げた。
「いや、あの少年に関して言えば、どこかの|誰《だれ》かに引っ張り上げられたのであるか?」
合図はなかった。
何の前触れもなく、|神裂《かんざき》が動いた。彼女はプロの|魔術《まじゆつ》|師《し》の目で見ても|霞《かす》む速度でアックアの|懐《ふところ》へ潜り込む。|鞘《さや》の先がコンクリートの地面に接触していたのか、爆炎のような火花が神裂の軌跡を追い掛けた。しかし火花に追い着かれるより早く、抜刀された|七天七刀《しちてんしちとう》の刃は容赦なくアックアへ|襲《おそ》いかかる。
ガッキィィン!! という|甲高《かんだか》い金属音が|炸裂《さくれつ》した。
神裂とアックアの|得《え》|物《もの》がぶつかり合い、二人は至近|距離《きより》で|睨《にら》み合う。
「それが分かっていながら、巻き込まれただけの一般人と認識しておきながら! |何故《なぜ》『聖人』としてのカを叩きつけたんですか!?」
|普段《ふだん》では聞く事もできない、感情|剥《む》き出しの怒号だった。
神裂とアックアが同じ聖人だからか。
あるいは、聖人としての性質が、過去に多くの人を傷つけた経験を背負っているからか。
「世界で二〇人といない、本物の魔術師ですら恐れるような力を振りかざせばどうなるか。そんな事も考えずに|暴虐《ぼうぎやく》を働いていたんですか、あなたは!!」
「戦う理由だと。そんなものを語ってどうする」
そんな神裂に対して、アックアはあくまでも冷静沈着。
「己の行いに自信を持つ者に、歩んだ道のりへの言い訳など必要ない。行動の結果として意志が伝わる事はあろう。だが、初めから語るために用意された台本に、どれほどの真実が含まれている」
|鍔《つば》|迫《ぜ》り合いを行うニ人の間で、表面化した魔力が小規模の爆発を巻き起こした。メイス側面の血文字が起爆したのだ。その拍子に聖人達の距離が少し開く。
わずかにたじろいだ神裂と、不動の体勢で巨大なメイスを構えるアックア。
揺るぎなき強敵の|芯《しん》を支えるのは、おそらく一つの信念。
だがそれが、神裂|火織《かおり》には全く見えない。
「見せてみろ、極東の聖人」
アックアの全身が、秘める気配が、一気に二回りも|膨《ふく》れ上がる。
単に筋肉だけの問題ではない。まるで、彼の持つメイスの根元から|先端《せんたん》までもが重量、を増したように見えてくる。
「口先だけの言葉ではない。その刃に|籠《こ》めた理由を、ただ無言のままに示してみせろ」
そして再び聖人|達《たち》は激突する。
|何人《なんぴと》にも追い着けぬ速度で、何人にも叶わぬ力を振るって。
|上条《かみじよう》|当麻《とうま》のまぶたが動いた。
それは自分の意志で動かしているとは思えないほどわずかなものだ。ほとんど|痙攣《けいれん》にも近い感覚で、ゆっくりと、ゆっくりと、まぶたは細く開く。それでいて、数秒は視界が確保されなかった。フォーカスの遠近が揺らぎ、ようやく病院の|天井《てんじよう》らしきものを脳が認識する。
(……俺、は……)
ここがどこなのか、上条には分からなかった。あるいは見覚えがあっても、その視覚情報を脳が処理できていないのかもしれない。目に映った風景よりも、鼻から|嗅《か》いだ消毒用のアルコールの|匂《にお》いの方が手っ取り早く知覚できた。
(……どう、なった……んだ……)
胸や腹に、粘着テープのような感触があった。おそらくデータを採るための電極を|貼《は》り付けられているのだろう。
部屋の照明は落とされていたが、|誰《だれ》かの気配があった。|布団《ふとん》の腹の辺りに、わずかな重圧を感じる。目だけを動かしてそちらを見ると、ベッド横のパイプ|椅子《いす》に座っているインデックスが眠っていた。長い髪に隠れて表情は見えないが、おそらく大分前から付き添ってくれていたのだろう。
その事に上条はほんの少しだけ胸が痛んだが、
(……、)
だらりと下がった己の手に、わずかな力が戻る。
意識が戻るのに呼応して、頭の中に血液が巡るのが分かる。
後方のアックア。
|五和《いつわ》。
|天草式《あまくさしき》。
上条は鉄橋から投げ飛ばされて意識を失ったが、彼らの戦いは続いているはずだ。そうであって欲しい。もちろん『天草式が勝って戦いが終わった』可能性もゼロではない。しかし、彼らには悪いが、どうしてもそのビジョンは頭に浮かばない。後方のアックアは|正真 正銘《しようしんしようめい》の怪物だ。自分のような高校生が立ち向かった所でどうにかなる訳ではないのは分かるが、それでも戦力は少しでも多い方が良いに決まっている。
アックアは、|上条《かみじよう》の右手に宿る力を危険視していた。
ならば逆に、それを使えば戦況に|影響《えいきよう》を与えられる可能性も残っているという事だ。
神様の奇跡でも打ち消す事のできる、この右手。
その存在を確認し、そして上条は一人で|頷《うなず》く。
彼は机に伏せるように眠っているインデックスを、もう一度見た。
心の底から心配してくれているであろう、一人の少女。
(……悪い、インデックス。後で、死ぬほど謝る……)
しかし、
(だから、今はやるべき事をやらせてくれ)
バォォ!! という爆発音が深夜の学園都市に|炸裂《さくれつ》する。
炎による爆風ではない。水による爆風だった。
アックアの|魔術《まじゆつ》によって|膨大《ぼうだい》な川の水が操られ、地下市街の|天井《てんじよう》を|掠《かす》めるような巨大なハン
マーを|神裂《かんざき》のワイヤーが|容赦《ようしや》なく|叩《たた》き切る。建設重機のアームのような形状だったトン単位の水の|塊《かたまり》は|一瞬《いつしゆん》で水蒸気となって|撒《ま》き散らされ、それらは再びアックアの手で操られ、キラキラと|瞬《またた》くダイヤモンドダストへと|変貌《へんぼう》する。
アックアが制御するのは『ハンマー』一つではない。
直径ニキロ近い第四階層の|全《すべ》てが、もはやアックアに|掌握《しようあく》されていた。元々人工的に引かれていた川は完全に干上がり、一滴残らず宙に浮いている。それらは細い線となって第四階層の隅々まで張り巡らされ、複雑怪奇な|魔法《まほう》|陣《じん》を形成していく。
陣が組まれ、切り替わり、形を成すたびに、様々な術式がアックアを援護する。
多種多様な|攻撃《こうげき》が神裂を|襲《おそ》う。
一つ一つが三〇メートル近い氷の|槍《やり》が複数飛んだ。
|鞭《むち》のようにしなる水の尾が様々な角度から襲いかかった。
ボール状の巨大な塊が縦に振り下ろされ、また横に|薙《な》ぎ払われた。
それらの|隙間《すきま》をかいくぐり、アックア自身が神裂の|懐《ふところ》へ|踏《ふ》み込んだ。
―――それぞれが必殺と言える攻撃を複数組み合わせ、さらに死亡率を跳ね上げた上での戦略。アックアの予想では、七〇秒で神裂の手は遅れ致命傷を負うばずだった。
「ッ!!」
だが、その期限を過ぎても神裂は反撃する。
次々と形を変える水の魔法陣に対し、神裂も七本のワイヤーを四方八方へ引き伸ばし、即席の結界を作ってこれに応じる。地力では負けている事を覚悟した上で、時に水の線を引き裂き、時に水の線の中に|潜《もぐ》って軌道を|捻《ね》じ曲げ、アックアの|魔術《まじゆつ》を失敗させ、または途中で乗っ取り利用する。
もはや電子戦にも似た、魔術によるハッキングだ。
水と|鋼糸《ワイヤー》。二つのネットワークが互いを食い破り、隙を突き、裏をかき、限りある世界の主導権を奪い合っていく。
世界が無数の光線に染まる。
アックアの魔法陣を構成する水と、それを打ち破る神裂のワイヤー。
地下市街の全域を埋め尽くすアックアと、その中にぽっかりと空いた神裂。
圧倒的な魔術戦を頭脳で行いながら、しかも同時に武術としての直接的な肉弾戦をも並行的に展開させる。
どちらか片方すら並の魔術師では退い着けない所業を、二つ同時にこなしていく。
複数の爆音が|炸裂《さくれつ》する。
神裂とアックアの体が空間に|霞《かす》む。
|鋼《はがね》と鋼は様々な角度から振るわれ、交差し、激突する。
(聖母|崇拝《すうはい》術式の使い手……)
刀とワイヤーと|魔術《まじゆつ》を同時に振るいながら、|神裂《かんざき》は歯を食いしばる。
その表情を作るのは、単に苦痛だけではない。
十字教術式の厳格なルールを|歪《ゆが》める特別な法則。アックアはそう言うが、本来、聖母崇拝はそんな事のためにあるものではないはずだ。それは敗者復活のチャンスなのだ。あるいは罪を犯し、あるいは神を捨てるほどの悲劇に見舞われ、一度ルールからあぶれて道を|踏《ふ》み外した者のために、聖母の像は涙を流し、夢の中で|微笑《ほほえ》み、そして奇跡を実行するカギを与える。人々はそれを起点に、ただただ一心に祈るという形で無自覚に術式を行使する。
だからこそ人によっては無秩序に奇跡を|撒《ま》き散らすと言われる。『神の子』以外の者を信仰していると誤解される。だが違う。聖母崇拝の本質は、教会と聖職者の作るネットワークの|隙間《すきま》を|縫《ぬ》うように起こる悲劇を止めているだけだ。聖母は十字教社会を乱すものではない。人々が|膝《ひざ》をついて拝み、家族の、友人の、仲間の無事を祈るのには、それだけの理由が存在するのだ。
聖母崇拝。
『神の子』を産むという十字教史上最高の偉業を成し迷げた、歴史上でも最大クラスの聖人。人々に安息と救いを与えるために天使の言葉を受け入れ.『神の子』を|身寵《みごも》り、夫と共に苦難と試練の道を歩む覚悟を決めた聖母と、そんな彼女を|慕《した》う人々の気持ちが作った信仰の緒晶。
それを。
(その|想《おも》いを……ッ!!)
まっすぐな祈りの形で表現される聖母崇拝術式は理屈の解明が難しく、全く的外れな石像が奇跡のアイテムとして報告された例も多数あった。それに便乗した|詐欺師《さぎし》も横行した。だがアックアはそれよりも|性質《たち》が悪い。|正真 正銘《しようしんしようめい》、本物の奇跡を使って|暴虐《ぼうぎやく》を振るっているのだから。
「大したものである」
長刀と鈍器がぶつかり合う|轟音《ごうおん》の中、アックアの声が通る。
「直径ニキロ、質量五〇〇〇トンの陣を、力技で|捩《ね》じ伏せに来るとはな」
だが、とアックアは続け、
「―――その体、すでに限界に達していると見えるのであるが?」
「ッ!?」
その指摘に神裂の動きがわずかに鈍った所で、アックアの|攻撃《こうげき》がさらに|苛烈《かれつ》さを増して|襲《おそ》い
かかる。
|一瞬《いつしゆん》で差を引き|離《はな》されそうになり、しかし神裂はさらに逆転し返すべく刃を振るう。
『|唯閃《ゆいせん》』発動時の神裂は生身の肉体で制御できる運動量を超えたパワーを強引に引き出している。そんな状態で長時間の戦いなど行えるはずもなく、だからこそ神裂の『唯閃』は必然的に、一発で勝負を決められる抜刀術という形で|研《と》ぎ|澄《す》まされていった。
だが、アックアに|一撃《いちげき》必殺は通じない。
同等かそれ以上のカをもって立ち|塞《ふさ》がるアックアは、聖人としての力に加えて『神の右席』という特性までも利用して、己の肉体を|徹底的《てつていてき》に強化している。|神裂《かんざき》ですら|瞬間《しゆんかん》|的《てき》に|踏《ふ》み込む事がやっとの世界を、後方のアックアは悠々と突き進む。
まるで天使そのものだ、と神裂は奥歯を|噛《か》んだ。
後方のアックアが司るのは『神のカ』。
(ミーシャ=クロイツェフというのも、事実上は不完全な顕現だったようですが……)
|奇《く》しくも、一度だけ戦った事のある、あの『大天使』の名を冠した本物の強敵。
(それにしても、おかしい。アックアには、それ以上の何かを感じる……ッ!!)
似たような許容量を持つ聖人とは思えぬ連撃。
不完全だったとはいえ、あの大天使に匹敵するほどの感触を与えるアックア。
だが、考えられるか。
本当にそれほどの力を秘めた場合、人間とは自減しないものなのか。
「ふっ!!」
アックアが息を|吐《は》く音が聞こえる。
一瞬、ふわりという妙な感覚が神裂を包む。
それはアックアが|苛烈《かれつ》な連統攻撃を止めてカの『溜め』を行ったのだと気づいた瞬間、|渾身《こんしん》の一撃が来た。
真上から思い切り|叩《たた》きつけられた巨大なメイスを、神裂は刀を横に構えて受け止める。その拍子に、ズシン!! という特大の|衝撃《しようげき》が刀から腕、胴体、足へと一気に走り抜け、ブーツを|履《は》いた靴底が数センチほど地面へめり込んだ。足元は硬いタイルのはずなのに、まるで泥のように沈んでいた。
頭を|殴《なぐ》られた訳ではないのに、|脳震盪《のうしんとう》のような揺らぎが生じる。
だが受け切った。
そして全依重を乗せた渾身の一撃を放った直後のアックアには、|隙《すき》が生じるはずだ。
「おおおおおおおおッ!!」
神裂は|雄《お》|叫《た》びと共に|七天七刀《しちてんしちとう》を振り抜いた。
|完璧《かんぺき》なタイミング。絶好のチャンス。起死回生の一手。
にも|拘《かかわ》らず、それすらアックアのメイスは受け止めた。ガッギィィ!! という鈍い衝撃波が、刀に込めていた威力を分散させられてしまった事実を広く|喧伝《けんでん》していく。
「聖人同士の|戦闘《せんとう》は三年ぶりである。久方ぶりに良い運動にはなった」
至近|距離《きより》で、アックアは感情のない笑みを浮かべる。
「だが終わりにしよう。私は仕事をしに来たのである.『|運動《スポーツ》』に興じる暇もない」
「ッ!?」
|神裂《かんざき》はまともに応じず、一度引いた刀をより強く振るい、|苛烈《かれつ》な|一撃《いちげき》を見舞う。
しかしアックアは眼前にいない。
視力ではなく気配で神裂は察知する。標的は頭上。アックアの体が真上に二〇メートルほど飛び上がっていた。常人には不可能な、まるでロケット発射のような|跳躍《ちようやく》。空中の一点と化したアックアは、『神のカ』の象徴たる衛星・月を背にしていた。
厳密には違う。
夜空を映す、ビリビリに引き裂かれたプラネタリウムのスクリーン。
アックアは|天井《てんじよう》近くで体を半転させると、作り物の|天蓋《てんがい》へ足を乗せる。
「ッ!!」
神裂は即座に追おうとするが、先ほどのダメージと、何よりここまで蓄積した体の負荷によって、ほんの|数瞬《すうしゆん》のラグが生じてしまう。
動きの止まった神裂を四方から取り囲むように寒気が包む。それは本物の武人だけが感知する生と死のリズム。|戦闘《せんとう》という全体の流れが大きく揺らいだ時に|垣間《かいま》|見《み》る、物質的には存在しないシーソーの『傾き』のような何か。
そして頭上のアックア。
「―――|聖母の慈悲は厳罰を和らげる《T H M I M S S P》」
アックアのささやきに応じて、その背後に|佇《たたず》む月が爆発的な光を発する。違う。ブラネタリウムのスクリーンに映像を映す機構が何らかの負荷を受けてショートしているのだ。バヂバヂ
ッ!! と複数の火花が、得体の知れないカウントダウンのように|炸裂《さくれつ》する。
本物の月の光は届かないのに、本物の月の加護を受けている。
普通の|魔術《まじゆつ》|師《し》ならばありえないこの理屈を、アックアの聖母|崇拝《すうはい》は強引に押し通す。
(これは……ッ!!)
青白い|閃光《せんこう》を受けた鋼鉄のメイス全体に、|莫大《ばくだい》な力が宿っていくのを神裂は知る。
「|時に、神の理へ直訴するこのカ。慈悲に包まれ天へと昇れ《T C T C D B P T T R O G B W I M A A T H》!!」
怒号と共に天井を|蹴《け》|飛《と》ばし、勢い良く下降するアックア。ただでさえダメージを負っていた|偽《いつわ》りの空は、その一撃ぞ|完膚《かんぷ》なきまで|破壊《はかい》され、青い|静謐《せいひつ》が|漆黒《しつこく》の|闇《やみ》へと戻っていく。
一直線の落下。
そして振り下ろされる特大のメイス。
そこから放たれたのは、|斬撃《ざんげき》や刺突や射出や爆発や破裂や分断や粉砕ではない。
ただ重圧。
上から下へと突き進む圧倒的な破壊力は、小惑星との激突すら|凌《しの》ぐ。
その時、世界から音が消えた。
世界が破裂する音すらも、消えた。
必殺の|一撃《いちげき》を放ったアックアを中心に、学園都市第二二学区第四階層の地面そのものが、直径一〇〇メートルにわたって|容赦《ようしや》なく突き崩された。落下の|衝撃《しようげき》はクレーターを作る事すら許さず、そのまま鋼鉄とコンクリートの地面を粉々に砕き、巨大な穴と化す。
シェルター級の硬度だろうが何だろうが関係なし。
直径一〇〇メートルもの|崩壊《ほうかい》した大地は、そのまま下の第五階層へ降り注ぐ。
爆音と、|震動《しんどう》と、|粉塵《ふんじん》が|炸裂《さくれつ》する。
どどどどどどどどどど、という破滅の|音響《おんきよう》が、いつまでもいつまでも鳴り|響《ひび》く。
第四階層の川や水力発電用のパイプが寸断されたせいか、滝のように水が降り注ぐ。
「ぐっ……ごほっ……」
そんな中に、|神裂《かんざき》|火織《かおり》は倒れていた。
攻撃自体は|七天七刀《しちてんしちとう》で受け止めたものの、足元の大地の方が耐えきれなかったのだ。
|莫大《ばくだい》な重圧を受けて、|瓦礫《がれき》の山と|一緒《いつしよ》に二〇メートル以上の高さから落ちた神裂は、コンクリートの|塊《かたまり》の上で、|仰《あお》|向《む》けに転がっていた。
その全身はボロボロだった。アックアの一撃が直撃しなかったとしても、重圧は武器を通して体を|蝕《むしば》む。特大のメイスと人工の大地の間に挟まれた神裂は、腕と言わず脚と言わず胴体と
言わず、ありとあらゆる所からドロリとした赤黒い液体をこぼしている。
世界で二〇人といない聖人でさえ、この有り様だった。
もう一度同じ攻撃を食らえば、今度ば絶命するという計算がすぐに導かれた。
だが、
「……、」
ギシリ、と奥歯を|噛《か》み|締《し》める神裂火織の顔に、恐怖や|驚愕《きようがく》はない。
あるのは怒り。
クレーターの真下である第五階層。神裂の落ちた辺りは大きな広場になっていたせいか、不幸中の幸いにも|犠牲《ぎせい》|者《しや》はいないようだった。しかしそれは結果論だ。もしもここが住宅街だったら。たまたま広場を|誰《だれ》かが歩いていたら。そう考えただけで、神裂の背筋に寒いものが走る。どうやら学園都市が何らかの処置を行っていたようだが、ここは第四階層と違って、最低限の|魔術《まじゆつ》|的《てき》な『人払い』すら行われていないのだ。
同じ聖人のくせに。
世界で二〇人といないオ能を持っているくせに。
どうして、こんなつまらない事にしかカを振るえないのか。
「アックア……」
傷だらけの体を引きずるように上半身を起こし、瓦礫の上に落ちていた七天七刀を|掴《つか》み直し、神裂は|掠《かす》れるような声で呟いた。
対して、同じように第五階層の地面へ荒々しく足を着けた後方のアックアは、
「幻想殺しはどこにいる」
圧倒的な|破壊《はかい》をもたらしたメイスを軽々と肩で|担《かつ》ぎながら、
「それとも、一つ一つ層をぶち抜いて行けば、いつかは会えるものであるか?」
「アックアああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
己の血を振り|撒《ま》くような勢いで、|神裂《かんざき》は猛然と立ち上がる。
両手で構えた|七天七刀《しちてんしちとう》はふらふらと揺れていた。
あまりにも強く握り|締《し》め過ぎたのか、彼女の|爪《つめ》のいくつかは割れ、指と指の隙間からは赤い血が垂れている。受け流しきれなかった|莫大《ばくだい》な|衝撃《しようげき》が神裂の全身を内側から傷つけたのか、呼吸をしようとした彼女の口から、ごぽっ、と血の|塊《かたまり》が噴き出した。
それでも、神裂の眼光だけは衰えない。
そしてその眼光が消えない限り、神裂の刃が止まる事はない。
己を鼓舞するためか、傷ついた呼吸器官を押してまで|雄《お》|叫《たけ》びをあげる神裂。同時に放たれた一撃をアックアがメイスで|弾《はじ》き、金属音が|響《ひび》き―――そこから重なる金属音の連続が、|一瞬《いつしゆん》で空気を爆発させた。
ドバァ!! という激突音が|炸裂《さくれつ》する。
聖人と聖人が再び刃を交えた。
その簡単な事実を確認する方が遅れるほどの速度だった。
|神裂《かんざき》|火織《かおり》は|七天七刀《しちてんしちとう》を高速で振るい、その|隙間《すきま》を|縫《ぬ》うように七本のワイヤーを走らせ、少しでも隙が生じれば刀を|鞘《さや》へ戻し、|莫大《ばくだい》な速度の抜刀術を放っていく。さらにワイヤーが描く三次元的な|魔法《まほう》|陣《じん》や神裂自信の足運び、鋼鉄と鋼鉄がぶつかるリズムなどを利用し、合間合間に炎や氷などの|攻撃《こうげき》術式を生み出して断続的な|奇襲《きしゆう》を繰り広げる。
対するアックアは巨大なメイスで刀を|弾《はじ》き落とす|傍《かたわ》ら、『神のカ』としての属性か、月光の|片鱗《へんりん》を秘める夜気を吸収し、メイスの|破壊《はかい》|力《りよく》を増幅。さらには聖母|崇拝《すうはい》が示す『|厳罰《げんばつ》に対する|緩和《かんわ》』の特性を使い、『「神の右席」は普通の|魔術《まじゆつ》を使えない』という条件を克服。音速を超える連続攻撃を繰り出しつつ、同時に真空刃や岩の|塊《かたまり》などを使って多角的に神裂へ攻め込んでいく。
ドガガガザザザギギギギギッ!!と火花が飛び散った。
神裂とアックアの周囲に小規模の星空が舞う。
「ごっ、ふ!?」
しかし結果は|一目《いちもく》 |瞭然《りようぜん》。
すでに限界を迎えている神裂の口からは断続的に血がこぼれる。体の見えない所に重大なダメージがあるのは明自だった。刃を振るう速度は目に見えて遅くなっていき、いつかは追い着けなくなってアックアの一撃を受ける絶望的な未来が脳裏をちらついた。ついていくだけでも精一杯の相手に対し、起死回生の一撃など放てない。逆転のチャンスとは、それを実行するための切り札を温存しておいて、初めて実現するものなのだから。
|全《すべ》てのカードを使わなくては対処できない神裂に、チャンスはない。
たった一枚の切り札すら出し惜しみできないのでは、巻き返しを図るのは難しい。
だが、
『うるっ……せえっつってんだろ!!』
頭に浮かぶのは、この学園都市で初めて『彼』と出会った時に受けた言葉。
それを思い出し、自然と神裂の全身に力が戻る。
戻ってくれる。
『んなモン関係ねえ! テメェは力があるから、仕方なく人を守ってんのかよ!?』
インデックスという一人の少女の処遇を巡り、聖人の前にただの握り|拳《こぶし》一つで立ち向かったあの少年。
『遠うだろ、そうじゃねえだろ! |履《は》き違えんじゃねえぞ! 守りたいモノがあるから、力を手に入れんだろうが!』
別に、あの少年の言葉が世界で一番美しいものとは思わない。
思想など人の数だけあるものだし、その内のどれかが頂点に立つという訳でもない。
それを言ってしまえば、後方のアックアにも戦うぺき理由や信念が存在するのだろう。
しかし。
聖人や『神の右席』としての|莫大《ばくだい》な力を認識していながら、それをただの一般人へ|容赦《ようしや》なく|叩《たた》きつける『理由』なんてものが、あの少年に勝てるとは思えなかった。
ただの一般人のくせに、|五和《いつわ》を守るために自らアックアの|攻撃《こうげき》を受けた少年の行いが、ただ『選ばれた人間』として当たり前のように君臨する者に、負けるとは考えられなかった。
|神裂《かんざき》|火織《かおり》は、刃を振るいながら、思いきり奥歯を|噛《か》み|締《し》める。
あの少年が見せた『理由』を、
|命《いのち》懸けで示してくれた『信念』を、
こんな才能『しかない』|卑怯者《ひきようもの》に、|踏《ふ》みにじらせはしない。
五〇人近い|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》の面々は、|治療《ちりよう》のために巻いた包帯自体が引き|千《ち》|切《ぎ》られ、その内側から赤いものを|滲《にじ》ませるという|凄惨《せいさん》な状況も気に留めず、アックアが|破壊《はかい》した第四階層の巨大な穴の縁から、第五階層で|繰《く》り広げられる聖人同士の戦いを|呆然《ぼうぜん》と眺めていた。
爆音、爆風、|衝撃《しようげき》|波《は》は余波だけで|凄《すさ》まじく、辺りに散らばる|瓦礫《がれき》の量から考えて、一般人が巻き込まれていないのが奇跡に思えるぐらいの状況だ。
同じ人間であるにも|拘《かかわ》らず、圧倒的な運動量と衝撃波によって、荒れ狂う|魔力《まりよく》の渦すら|薙《な》ぎ払って|激闘《げきとう》を繰り広げる怪物|達《たち》。|雄《お》|叫《たけ》びが|響《ひび》き、金属と金属がぶつかる激突音が|炸裂《さくれつ》し、爆風が空気中の水蒸気を吹き消して飛行機雲のような残像を生む。攻撃の合闘合間に複数の|閃光《せんこう》が|瞬《またた》き、その内の一つでも浴びれば現天草式など消し炭になるであろう術式が、これまた圧倒的な魔術でもって次々と迎撃されていく。
|離《はな》れた所から見ると、それは銀河と銀河のぶつかり合いにも見えた。激突と共に複数の星が爆発し、空間がたわみ、暗黒に|呑《の》み込まれ、その|闇《やみ》すら振り払うように新たな光が生み出される。ならば|仮初《かりそめ》の銀河の中心に立つあの二人は何を示すのか。
あの内の片方は、神裂火織だ。
かつて自分達を率いてくれた、そして今も陰ながら温かい|眼《まな》|差《ざ》しを注いでくれる、世界で二〇人もいない本物の聖人だ。
天草式の|元女教皇《プリエステス》は今、戦ってくれている。
おそらくばターゲットとして指定されてしまった一般人の少年を助けるために、そしてアックアに|襲《おそ》われていた現天草式の仲間達のために。
だが。
「……、」
ガシャン、という音が聞こえた。
戦いを眺めていた血まみれの|五和《いつわ》の手から、|海軍用船上槍《フリウリスピア》が|滑《すべ》り落ちた音だった。あのアックアに対抗するため、そして一人の少年を助けるために、ありったけの技術を注ぎ込んで補強した一本の|槍《やり》。その努力の結晶が、まるで|路傍《ろぼう》の石のように、ただ転がっていた。
五和だけではない。
|他《ほか》にも何人かが、同じように武器を落としていた。|膝《ひざ》から力を失い、壁に手をつく者もいた。そして、これもやはり同じような表情を浮かべていた。
それは、ただ圧倒的な無気力感。
自分は一体何をやっていたんだろう、と五和は思っていた。
|神裂《かんざき》|火織《かおり》が自分達のために戦ってくれれば戦ってくれるほど、自分達の努力が否定されていく感覚があった。どこまで努力しても自分達は聖人の|掌《てのひら》の上から逃れる事はできず、『彼女』は愛らしいものでも見るような目でそれらを眺め、そしていざ危険が迫れば|誰《だれ》にも到達できないような高みで戦いを繰り広げる。
全然、本気で見てもらえていなかった。
どこまでいっても、|所詮《しよせん》は遊びでしかなかった。
その厳然とした事実に|叩《たた》き|潰《つぶ》されそうになりながら、そして同時に、神裂火織が見ぜた|命《いのち》|懸《が》けの優しさに対して、そんな事しか考えられない自分の小ささに、さらに五和達は打ちのめされる事になる。だが|駄《だ》|目《め》だった。あまりにも|矮小《わいしよう》だった。とても割り込む事のできない圧倒的な|戦闘《せんとう》を眺めているだけで、|凄《すさ》まじい無気力感が傷ついた体に残ったわずかな体力や気力を丸ごと|削《そ》ぎ落としていく。
あの少年がここにいれば、そんな事に構ったりはしないだろう。
ただ目の前で神裂火織という『仲間』が戦い、傷つけられている様子を見れば、もうそれだけで|拳《こぶし》を握って戦闘の真ん中へ割り込んでいけただろう。
それもまた、 一つの強さ。
だが、今の|天草式《あまくさしき》にそれだけの強さを示す信念は、ない。
聖人と聖人の戦いは統く。
あまりにも圧倒的なカは、直接的にぶつからずとも、ただ見ているだけで人の心を|抉《えぐ》り取っていく事も知らずに。
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行間 三
救難信号ならとっくに聞こえていた.
しかし身動きの取れる者は一人もいなかった。別に、体に何か大きな傷があるという訳ではない。目的地まであまりにも|距離《きより》があり、そして乗り物などが調達できないという訳でもない。
彼らが動けないのは、単に立場や政治的な問題だった。
救難信号は英国王室専用の長距離護送用馬車から届いたものだった。
そもそも、この馬車の|魔術《まじゆつ》|的《てき》な防護|網《もう》は|完璧《かんぺき》であるはずだった。馬車が作られた当初から、たとえこの惑星が真っ二つに割れたとしても救難信号が出る事などありえないと|揶揄《やゆ》されるほど強固なものであるはずだった。特殊な修道服『歩く数会』どころの話ではない。魔術大国イギリスの技術と歴史の|粋《すい》を集めて設計され、『移動鉄壁』という異名まで持つ王室用の馬車は、たとえどんな|襲撃《しゆうげき》|者《しや》にも止められる訳がなかった。
その馬車から、救難信号が来た。
普通なら絶対にありえない現象。
それが示す意味ば簡潔だった。
何らかの政治的な『取り引き』があった。
馬車に乗っていた英国第三王女は、その捨て|駒《ごま》にされたのだ。
ドーヴァー海峡を挟んだ国境沿いで、『|騎《き》|士《し》|派《は》』の面々は、悲痛の思いで|繰《く》り返し届けられる救難信号を、ただ|黙《だま》って聞いていた。
|誰《だれ》もが無言で歯を食いしばり、|掌《てのひら》から血が|滲《にじ》むほど|拳《こぶし》を固く握り|締《し》めていた。
彼ら『騎士派』の目的は.三派閥四文化という複雑な関係を持つイギリスという国家の分裂を防ぎ、国家をまとめるに足る王家の血を引く者を、たとえ命に代えてでも守り抜く事だ。
|権謀《けんぼう》|術策《じゆつさく》の渦中で活動する彼ら『騎士派』の男|達《たち》は、その|苛酷《かこく》な環境に身を置いていたからこそ、特に何の説明も受けなくても、今置かれている状況を予測する事はできた。
英国第三王女を簸撃しているのはスペイン星教派。ローマ正教の中でも極めて大きな派閥であり、エリザベス一世の時代に無敵|艦隊《かんたい》を|葬《ほうむ》られて以来、スペインとイギリスの魔術勢力間には歴史的な確執が存在する。
英国王室が|敢《あ》えてこの襲撃を見逃したのは、スペイン星教派との戦争を起こすきっかけが欲しかったからだろう。大航海時代に十字教を伝えた関係で、今もスペイン星教派は南米大陸の|旧教《カトリック》文化勢力を、ほぼ|完璧《かんぺき》に|掌握《しようあく》するだけの|影響《えいきよう》|力《りよく》を持っている。イギリス側としてはこの南米への影響力をローマ正教スペイン星教派からもぎ取り、勢力圏を拡大しようとしているのだ。そして英国第三王女は、王室内ではそれほど強い権限を持っていなかった。大陸一つと|天秤《てんびん》にかけられ、そして捨て|駒《ごま》にされたという訳である。
王女を守るのが『|騎《き》|士《し》|派《は》』の務めだ。
たとえ救いを求める声がなくとも駆けつけるのは当たり前。まして救難信号が出ているのにそれを無視するなど、本来ならば絶対にありえない事だった。
しかし。
今だけは、今この|瞬間《しゆんかん》だけは、『騎士派』は石になるしかなかった。
フランスでの|魔術《まじゆつ》|的《てき》|戦闘《せんとう》がドーヴァー海峡を挟んでイギリスまで及んだ場合は|速《すみ》やかに行動するよう求められていたが、逆に言えばイギリスに火の粉がかかるまでは、絶対に動いてはならないと暗に強制されていたのだ。
「……、」
ウィリアム=オルウェルは『騎士派』が野営しているテントから.外へ出た。
真夜中のドーヴァー海峡の向こうでは、今も断統的に光が|瞬《またた》いていた。灯台の光ではない。
フランス国境側から|漏《も》れているのは、スペイン星教派による魔術|攻撃《こうげき》の余波だ。
「行くのか」
背後から声がかかる。
ウイリアムが振り返ると、そこには『騎士派』のトップ、|騎士団長《ナイトリーダー》が立っていた。屈強なアックアとは違い、どこか優雅な立ち振る舞いを見せる男。それは生まれ育った家柄のおかげでもあるのだろうし、何より常に王家の血を引く者を守る責務から、王城や宮殿での作法を学ぶ必要が生じたからだろう。
ウィリアム=オルウェルは金で雇われて|誰《だれ》の下でも戦う|傭兵《ようへい》だ。
一国家のために命を尽くす|騎士団長《ナイトリーダー》とは、本来ならば|相《あい》|容《い》れない存在のはずだ。
しかし実際には、二人は暇さえあれば酒を|酌《く》み交わす関係にあった。|騎士団長《ナイトリーダー》は何度となくウィリアムを『騎士派』に|誘《さそ》い、ウィリアムはそれを断りつつ、しかし世界中で戦った後は、一杯の酒を|喉《のど》に通すために自然とイギリスへ帰ってくる。地位も立場も、戦い方も生き様も、
何もかもが違っていたくせに、彼らは不思議なほどお互いを認め合っていた。
だからこそ、|騎士団長《ナイトリーダー》は知ったのだろう。
何も告げず、ただ|黙《だま》ってテントから出たウィリアムの考えを。
「貴様|達《たち》には一国を守る者としてのしがらみがある。国家の後ろ盾を持つ者の行動は、その国家を代表した意思表示になってしまうのである。そうした状態ではフランスとの国境を勝手に越えてスペイン星教派へ手を出す事も難しいのであろう」
ウィリアムは巨大なメイスを肩で|担《かつ》ぎ直してから、静かに語った。
「だが私なら違う。私はただの|傭兵《ようへい》である。国家の後ろ盾を持たぬ者が個人的に暴走したとしても、それはイギリスの思惑とは一切関係がないはずである」
「お前一人に行かせると思うか」
|騎士団長《ナイトリーダー》は口元を|綻《ほころ》ばせた。
「いくら歴戦の傭兵とはいえ、お前だけには任せられん。なに、お前の悪運ならば生き残る事はできるだろう。しかし王女を守る立場としては、出自も分からぬ傭兵に彼女を預ける訳にもいかないのでな。わずか一四ばかりの子供とばいえ、曲がりなりにも婚前の女性だぞ。|不埒《ふらち》な|輩《やから》に連れ去られては国家の危機だ」
「人の話を閏いていたのであるか?」
アックアは|呆《あき》れたように言った。
彼は気づいている。|騎士団長《ナイトリーダー》の並べた反論は、単なる建前でしかない事に。
そして|騎士団長《ナイトリーダー》にとっても、気の|利《き》いた冗談ぐらいの調子でしかない。
彼ら二人は、目を合わせれば呼吸が合う。
そういう腐れ縁なのだ。
「イギリスという国家を背負う『|騎《き》|士《し》|派《は》』には手出しができないという話だろう」
|騎士団長《ナイトリーダー》は簡単に言うと、胸元についていた純金の勲章のようなものを取り外した。それは彼の血統を証明する、家紋の紋章の中心に据えられる|盾の紋章《エスカツシヤン》をあしらった識別章だった。|騎士団長《ナイトリーダー》は少しだけ寂しげに識別章を眺めていたが、やがてそれを手から|離《はな》した
地面に落ちた識別章には目を戻さず、|騎士団長《ナイトリーダー》は正面からウィリアムの目を見据える。
「これで私も騎士失格だ。だから行かせてもらう。今も救難信号を出し続けているという事は、まだ第三王女は生きているはずなのだからな」
「なるほど。貴様らしい選択である」
ウィリアム=オルウェルはその決意を知って、わずかに笑った。
彼もまた|騎士団長《ナイトリーダー》と同様に、知っていたのだろう。今まで共に酒を|酌《く》み交わしていた相手が、一体どんな人間であるかを。
知っていたからこそ、背中を預けて戦えたのだ。
|騎士団長《ナイトリーダー》は海峡の向こうで|瞬《またた》く光を|忌々《いまいま》しそうに|睨《にら》みながら、ウィリアムを促す。
「急ごう。走行不能になったとはいえ、|未《いま》だに馬車の防護機能は生きているだろうが……『王室派』が直接工作をした以上、それもいつまで保つか分かったものではない、とにかく一刻も早く駆けつけねば」
「そうであるな」
ウィリアムは率直に同意したが、次の|瞬間《しゆんかん》には、|騎士団長《ナイトリーダー》の腹へ深々と|拳《こぶし》を突き込んでいた。ズドン!! という鈍い音に、|騎士団長《ナイトリーダー》は信じられないものでも見るような目でウィリアムの顔を見る。
「お、前……何を……?」
「駄目だ。連れてはいけない。分かっているはずであろう」
ウィリアムが|拳《こぶし》を抜くと、|騎士団長《ナイトリーダー》は支えを失ったように地面へ崩れ落ちた。それでも鍛えに鍛えた|騎士団長《ナイトリーダー》の意識を完全に奪う事はできなかったらしい。もがく|騎士団長《ナイトリーダー》を見もしない
で、ウィリアムはただ告げる。
「私は|傭兵《ようへい》という身軽な立場を利用し、世界各地の戦場を自由に渡る。だが、そんな私でもイギリスの王城や宮殿の中には入れない。それは貴様にしかできない事である」
「ウィ……リ、アム……」
「本当に第三王女を守りたいと思うのなら、今だけでなく、先を見ろ。このような|権謀《けんぼう》|術策《じゆつさく》が招く人災は、おそらく今後も|幾度《いくど》となく第三王女を|襲《おそ》うであろう。その時、|側《そば》にいてやれる人間がいた方が良い。守ってやれ、|騎《き》|士《し》の|長《おさ》。第三王女だけではない。そのような政治的駆け引きに腐心する『王室派』そのものを。それは傭兵の私ではなく、騎士の貴様にこそ任せられる仕事である」
「ウィリアム=オルウェエエエエエエエル!!」
倒れたまま叫ぶ|騎士団長《ナイトリーダー》の言葉を振り切って、ウィリアムは戦場へ向かう。
|騎士団長《ナイトリーダー》は、一つの魔法名を聞いた。
とある傭兵が掲げる|魔法《まほう》|名《めい》を。
「名乗るべき時が来た。我が名は『|その涙の理由を変える者《Flere210》』である!!」
イギリスとフランスの間にあるのはドーヴァー海峡。
しかし水中移動術式を|施《ほどこ》したウィリアム=オルウェルは、まるで砲弾のような速度で一気に国境を突き抜ける。
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第四章 誰が誰を守り守られるか Leader_is_All_Members.
|御坂《みさか》|美琴《みこと》はトボトボと深夜の街を歩いていた。
湯上がりゲコ太ストラップを得るために外のお|風呂《ふろ》施設を利用した美琴だったが、折悪く、なんか『無酸素警報』とかいう第ニニ学区特有のデンジャラスイベントに|遭遇《そうぐう》し、ビルの中で足止めを喰らっている内に、気がつけば時間は深夜になっているし|完壁《かんぺき》に湯冷めしているし、お風呂に入った意味もなくなっていた。
(だーちくしょう……結局、|寮《りよう》のユニットバスを使う羽目になるのか)
と思ったのだが、どういう訳か第ニニ学区の出入り口は|封鎖《ふうさ》されていた。
現在、その『無酸素警報』については一応の決着がついたらしく、ビルからの出入り制限自体は解かれている。どうやら何らかのシステムの不具合らしく、ゲートを管理している中年のおじさんも頭を|掻《か》いていた。
普通なら文句の一つも言いたい所だが、何しろおじさんの背後ではドタバタというものすごい足音や、あっちこっちで野太い怒号や|叱責《しつせき》が飛び交っている。心なしか、対応したおじさんの顔色もすすけていた。|今更《いまさら》クレームを重ねるのも|不憫《ふびん》だ、と思った美琴は|噛《か》みつく事を|諦《あきら》めた。
(うーん、一体何があったのやら)
こう見えて、美琴もあの少年に負けず劣らず|野《や》|次《じ》|馬《うま》根性のトラブル体質の持ち主である。そっちの|騒《さわ》ぎの方も少し気になったのだが、
「にょわっ!?」
突然、バチン!! と美琴の前髪辺りから静電気のようなものが散った。彼女にしては珍しく、軽度の能力の暴走だ。美琴はびっくりしているおじさんに|愛想《あいそ》|笑《わら》いを浮かべて頭を下げると、ひとまずそこから|撤退《てつたい》する。これは学園都市特有の感覚かもしれないが、自分の能力を自分で制御できないヤツというのは、これはこれで案外恥ずかしいものだ。そうしている内に、いつの間にかトラブルの現場に首を突っ込んでみる気も|萎《な》えていた。
もしも彼女が|魔術《まじゆつ》に精通していれば、今のが『人払い』という、人間の感覚や認識に|影響《えいきよう》を及ぼす術式の効果と,自身の能力の制御法が競合を起こしたのだと勘付いたかもしれない。
(しっかし、何だったんだろさっきの?)
首を|傾《かし》げつつ、とりあえずゲートの動作不良がどうにかなるまでは地上へは出られないとの事なので、|美琴《みこと》は第二二学区の案内板を眺め、第七階層にあるグレード高めなホテルへ足を運ぶ事にする。
(今から飛び入りでチェックインできるかしら……。つか、さりげなく|寮監《りようかん》が怖いなぁ。やっば|黒子《くろこ》に電話して空間移動で脱出した方が良いのかも)
そんなこんなで、|螺旋状《らせんじよう》の下り坂を降りて第七階層へ降りる。
と、その時だった。
不意に、前方の暗がりから、何者かの人影がふらっと出てきた。明らかに普通の歩き方ではない。|頼《たよ》りないというよりは、不安定さが|際《きわ》|立《だ》つ挙動。変質者か? と美琴は|眉《まゆ》をひそめたが、人影が街灯の下に出てくると、彼女の顔は一気に|驚《おどろき》きに染まった。
|上条《かみじよう》|当麻《とうま》だ。
「ちょ、アンタ何やってんのよ!?」
慌てて美琴は駆け寄る。
|普段《ふだん》の彼女なら、こういう反応は見せないだろう。この少年は日常的に夜の街をうろついている事は知っているし、美琴にとっては腐れ縁のようなものだ。顔を突き合わせてケンカをす
る事はあっても、心配をするというのは珍しい。
だが、今の美琴は、いつもの行動パターンから外れざるを得ない状況に直面していた。
上条当麻の様子が、明らかにおかしかったからだ。
まるで氷の海に|浸《つ》かっていたように青ざめた顔。体中に巻かれた包帯は無理な運動のせいか所々がずれていて、赤いものが|滲《にじ》んでいる箇所すらあった。着ている服もおかしい。見慣れた学生服ではなく、まるで病人用の手術衣のようなものを|纏《まと》っているだけだ。
「|御坂《みさか》、か……?」
街灯の柱に体を預けるようにして、かろうじて体勢を保ちながら、上条は言った。強引に引き|千《ち》|切《ぎ》ったのか、|頬《ほお》や腕には電極のついたテープらしきものがあって、コードの|端《はし》が地面まで垂れている。
その目を改めて見て、美琴はギョッとした。
良く見なければ分からない程度だが……上条の右目と左目は、わずかに|瞳孔《どうこう》の開き方が違う。確実に焦点が合っていない。これでは|曇《くも》りガラスを通して風景を見ているようなものだろう。
上条自身の表情から、その事に気づいている様子はなさそうに見える。
あるいは、そんな|瑣末《さまつ》|事《ごと》など気にしていられないほど、|切羽《せつぱ》|詰《つ》まっているのか。
「……、」
上条の唇が|微《かす》かに動いたが、美琴の耳には聞き取れなかった。
ただ彼は、ゆっくりとした動作で街灯の柱から手を放すと、再び歩き出す。そのまま美琴の横を通り抜けようとして、そこで|膝《ひざ》から力が抜けた。
ガクン、と地面に崩れそうになる上条を、美琴は慌てて支える。
「馬鹿!! アンタ、その|怪我《けが》どうしたのよ!? そっちについている電極のコードとか……、まさか、どっかの病院から抜け出してきたとかって言うんじゃないでしょうね!?」
「行か、ないと……」
間近に接近したからか、ようやく|上条《かみじよう》の声が聞こえた。
「あいつら、多分、今も戦ってる。だから、|俺《おれ》も行かないと……」
断片的な言葉を聞いただけで、|美琴《みこと》は全身が|震《ふる》えるのが分かった。
この少年が、今までも何度か美琴の知らない所で事件に巻き込まれているらしいのは、何となく予想がついていた。ただし、それはケンカの延長線上にあるようなものだと思っていた。過去に一度だけ、学園報市最強の|超能力者《レベル5》と戦う場面を|目撃《もくげき》した事もあるが、あれはまさに人生一度の出来事だと考えていた。まさかこんな、生きるか死ぬかの|瀬《せ》|戸《と》|際《ぎわ》を何度も何度も行き来していただなんて、|誰《だれ》に想像できただろう。
同時に、これなら考えられる、と美琴には納得できる部分があった。
彼女の脳裏に浮かぶ単語はただ一つ。
(……記憶喪失)
こんな風に、毎回毎回寿命を削って戦い統けていれば、体の方だってただでは済まないはずだ。記憶喪失の原因が精神的なショックなのか、それとも脳の構造的な問題なのかは美琴には分からない。だが、そのどちらの原因であっても『ありえる』と、思えてしまう。それぐらいに、上条|当麻《とうま》の体はボロボロになっていた。
止めるべきだ、と美琴は思う。
今にも死にそうな体をひきずって、頭の中の記憶を失うほどの経験をして、それでも何らかの危機に立ち向かおうとするこの少年を。
「……?」
上条は、いつまで|経《た》っても自分の腕を|掴《つか》み続ける美琴を、不思議そうな目で見ていた。
何で美琴が立ち尽くしているか、全く理解していない顔。
他人に心配をかけさせるような事は全部|内緒《ないしよ》にしているから、誰かに声をかけてもらう事なんて絶対にありえないと、何も言わなくても誰かが自分のピンチを察して助けに来てくれるなんて都合の良い事は起こる訳がないと、本当にそう信じている顔。
その小さな事が、頭にきた。
心の底から。
「何で……言わないのよ」
気がつけば、美琴はボツリと|呟《つぶ》いていた。
後戻りはできなくなると分かっていながら、言葉を止める事はできなかった。
「助けてほしいって、力を貸してほしいって! ううん、そんな具体的な|台詞《せりふ》じゃなくて良い。もっと単純に!! 怖いとか不安だとか、そういう事を一言でも言いなさいよ!!」
「|御坂《みさか》……。なに、言って……」
「知ってるわよ」
この|期《ご》に及んでまだごまかそうとするように……いや、|美琴《みこと》を巻き込ませないように演技を続ける|上条《かみじよう》に、美琴は切り捨てるようにこう言った。
「アンタが|記憶《きおく》|喪失《そうしつ》だって事ぐらい、私は知ってるわよ!!」
その|瞬間《しゆんかん》、上条の肩がビクンと大きく動いた。
大きな―――それこそ人生を左右するほど大きな『揺らぎ』が見えた気がした。
戸惑っている上条を見て、美琴の方も|衝撃《しようげき》が走る。
だがそれがどうした。
美琴はかつて一度、本当にこの少年に命を救われた事がある。彼女一人だけではない、彼女が守るべき一万人近い少女と|一緒《いつしよ》に。
その時、たった一人で学園都市最強の|超能力者《レベル5》に立ち向かおうとした美琴の前に、上条|当麻《とうま》は現れたのだ。|全《すべ》てを一人で抱えて死のうとしていた美琴の心の奥深くへ、土足でズカズカと|踏《ふ》み込んでくるようなやり方で。
確かにそれはデリカシーの|欠片《かけら》もない、ともすればプライバシーすら侵害するような意地汚い方法だっただろう。しかし、御坂美琴という少女は、そして彼女の『|妹達《シスターズ》』は、そういう方法で救われたのだ。
そのやり方を、上条当麻にだけは否定させない。
この少年だって、そういう方法で救われたって良いはずだ。
だからこそ、美琴は言う。
「アンタの中にはそれぐらい大きなものがあるってのは分かる。でも、それは全部アンタが一人で抱えなくちゃいけない事なの? こんなにボロボロになって、頭の中の記憶までなくして、それでもまだ一人で戦い続けなくちゃいけない理由って何なのよ!!」
上条は、その言葉を聞いていた。
彼が黙っているのを良い事に、美琴はさらに|畳《たた》みかける。
「私だって、戦える」
正面から挑むように、ただ真っ直ぐに意志をぶつけるために。
今まで言えなかった事が、ただ自然と口から飛び出す。
「私だって、アンタの力になれる!!」
それは学園都市第三位の『|超電磁砲《レベル5》』があるからではない。そんな小さな次元の話ではない。たとえこの瞬間に全ての力を失ってただの|無能力者《レベル0》になったとしても、それでも美琴は同じ事を言えると絶対に誓える。
「アンタ一人が傷つき続ける理由なんてどこにもないのよ! だから言いなさい。今からどこへ行くのか、|誰《だれ》と戦おうとしているのか!! 今日は私が戦う。私が安心させてみせる!!」
「み、さか……」
「人がどういう気持ちでアンタを待ってるのか、そいつを一度でも味わってみなさい! 病院のベッドに寝っ転がって、安全地帯で見ている事しかできない者の気持ちを知ってみなさい!! アンタ、|妹達《シスターズ》を助けた時もそうだったじゃない!! こっちには相談しろって言っておきながら、自分だけ学園都市最強の|超能力者《レベル5》に一人で挑んで!! 何で自分の理論を自分にだけは当てはめないのよ。どうしてアンタ一人だけは助けを求めないのよ!?」
叫びながら、|美琴《みこと》は|上条《かみじよう》の顔を見据えた。
そこにあるのは|愕然《がくぜん》。
だが、それは『知らない事』を突きつけられた表情ではない。『隠していた事』が明るみに出た|驚《おどろ》きだ。
|一方通行《アクセラレータ》や|妹達《シスターズ》についての|記憶《きおく》ある。
その事に美琴はホッとする反面、この局面で感情に打算が混じった己の意地汚さに|嫌悪《けんお》する。本来なら上条の身を一番に心配するべきこの状況で、美琴は自分の『不安』を|払拭《ふつしよく》するための行為に出てしまったのだ。
上条|当麻《とうま》は、気づかない。
あるいは、気づいていながら、見逃してくれたのか。
「とっ、とにかく、行くわよ、病院に! アンタ口で言っても聞かないんだから、ちゃんと病室に戻るまで見逃したりはしないわよ!!」
美琴は上条の腕を|掴《つか》みながら、もう片方の手で携帯電話を操作して地図を呼び出し、病院の場所を検索していく。
「……そう、か」
上条はしばらく|呆然《ぼうぜん》としていたが、やがてゆっくりと唇を動かした。
それは、笑みのようにも見えた。
「知っちまったのか、お前」
崩れ落ちそうでありながら、上条の体に妙なカが|龍《こも》る。最も危険な状態だと美琴は判断した。だから彼女は上条の腕から手を離さない。
「でも、違うんだ」
さらに何かを言おうとした美琴を封じるように、上条は言った。
「|俺《おれ》、記憶がないから詳しい事は分からないんだけどさ」
上条当麻の|芯《しん》は、折れていない。
「以前の自分の事なんて思い出せないけど、どんな気持ちで|最期《さいご》の時を迎えたのか、もうイメージもできないけど。でも、ボロボロになるとか、記憶がなくなるまで戦うとか。自分一人が
傷つき続ける理由はどこにもないとかさ」
|記憶《きおく》|喪失《そうしつ》である事が|露見《ろけん》した。それ自体はとてつもなく大きな出釆事のはずだ。だが、|上条《かみじよう》が抱えている本当の|芯《しん》は、そこではない。
「多分、そういう事を言うために、記憶がなくなるまで体を張ったんじゃないと思うんだよ」
|美琴《みこと》の表情が、止まった。
その結論が、上条当麻の抱える本当の|芯《しん》。
だからこそ、少年は記憶をなくした事実を隠す。|誰《だれ》かのせいだと、動かなければこんな事にはならなかったと、そんなつまらない|台詞《せりふ》を口に出して誰かを傷つけさせないために。
もはや思い出す事すらできない、一つの過去。
だが、そこでも上条は大切なものを守るために傷つく覚悟を決めて、実際にそれを一つの結果として成し遂げた。お涙|頂戴《ちようだい》の美化された自殺願望ではなく、ただやるべき行動の先にある種の終わりが待ち構えていて、それでも前へ進んだのだという、一つの結果を。
「昔の事は思い出せないけど、でも、思い出せなくても、その見えない部分のおかげで|俺《おれ》はここにいる。もう覚えてもいない|頃《ころ》の俺が、今の俺を動かしている。残っているんだ、『|頭《ここ》』じゃなくて『|胸《ここ》』に。だから俺は、俺を思い出せなくても、俺がやろうとしていた事、俺がやるぺき事ならきちんと分かる」
おそらく上条当麻は、そんな|曖昧《あいまい》で、自分自身すら確証を持てない『何か』に誇りを持っている。信念があるからこそ、彼は後悔をしない。もしも過去の自分に会えるとしたら、ためらいもなく『ありがとう』と笑って言える。この少年は、絶対にそう信じている。
「悪い、|御坂《みさか》。お前はもう早く帰れ」
気がつけば、美琴の手が|離《はな》れていた。
異様に強いカで、上条の腕が動いていた。
「俺は行く。誰かに任せれば良いっていう訳じゃない。別にやらなきゃいけないなんて強制力がある訳でもない。……ただ、俺は行く。結局、変わんねえんだよ、そういうのって。もしも何かの歯車がズレて俺の記憶が失われなかったとしたって、俺のやるべき事は同じなんだ。上条当麻っていうのは、記憶のあるなしぐらいで揺らぐものじゃないんだよ」
少年は美琴に背を向けて、再び歩き出す。
追い掛けようと思えば、いくらでもできたであろう、あまりにも頼りない歩み。
(どうしよう……)
だが、美琴は動けなかった。
背中はすぐそこ。手を伸ばせば今なら届く。
(私は間違った事は言ってない。こいつは今すぐ病院に戻らなくっちゃいけない。それに、私がこいつと|一緒《いつしよ》に戦場へ行くっていう選択肢だって……。でも、こいつが|嘘《うそ》をついていないのも分かる。多分、今、ここで、こうして、自分の足で立つ事に、こいつは特別な意味を|見《み》|出《いだ》してる)
そうこうしている間にも、|上条《かみじよう》は動く。
|美琴《みこと》が悩んでいる間にも、上条は動いてしまう。
(だって、そんなの、止める事なんてできない。できる訳がない。きっと、ここで見送るのが正しいんだ。両手を組んで、神様にお祈りして、無事に帰ってくる事を願うのが一番正しいのよ。それ以外のすぺての選択肢は、どんなものであっても『余分』でしかない。こいつは、そんなものを、絶対に望んでなんかいない……)
|頼《たよ》りない背中が遠ざかる。時間はない。
止めなくてはいけないはずなのに、どうしても美琴には動けなかった。
(どうしよう。全然、納得できない)
おそらく上条|当麻《とうま》が言った|台詞《せりふ》には何一つ|偽《いつわ》りはない。彼はただ自分の本心を明かし、それでも自分がやりたいから戦おうと決意している。
理屈で言えば、その意見を尊重して見守るべきだ。
そんな事は分かっている。|馬《ば》|鹿《か》でも分からなければいけないはずだ。
だが、納得できない。
どうしてもできない。
(……そう、なんだ)
知らず知らずの内に、彼女は白分の胸に手を当てていた。
|御坂《みさか》美琴という一人の少女は気づいた。
それが、論理や理性や体面や|世間体《せけんてい》や恥や外聞までもが関係ない、ただただ白分自身を中心に据え置いた一つの意見こそが、まさしく御坂美琴という人間の核なのだと。|惨《みじ》めで|醜《みにく》くわがままで|駄々《だだ》をこね―――それでいてどこまでも素直な|剥《む》き出しの『人間』なのだと。
その感情の名を、美琴は知らない。
どんなものに分類されるのかを、彼女はまだ理解していない。
しかし、今日、この日、この時、この|瞬間《しゆんかん》。
御坂美琴は知る。
自分の内側には、こんなにも軽々と体裁を打ち破るほどの、|莫大《ばくだい》な感情が眠っている事を。
学園都市でも七人しかいない|超能力者《レベル5》として、『|自分だけの現実《パーソナルリアリテイ》』という形で自分の精神の制御法を熟知しているにも|拘《かかわ》らず、それら|全《すべ》てを粉砕するほどの、圧倒的な感情が。
|上条《かみじよう》|当麻《とうま》の背中が、|闇《やみ》に消える。
|御坂《みさか》|美琴《みこと》は最後まで彼を止められなかった。
その理由は、上条の行動に心を打たれたからではない。
気づいてしまった感情の|片鱗《へんりん》に胸を圧迫され、指一本動かせなかったからだ。
後方のアックアのメイスが|唸《うな》る。
持別な術式や|霊装《れいそう》などがある訳ではない。ただ体力。『|唯閃《ゆいせん》』という特別な術式を使って一時的に力を増す|神裂《かんざき》と、いつまでも|天井《てんじよう》知らずの全力を出し続けるアックアの間に生じた『差』が|瞬《またた》く間に|膨《ふく》れ上がり―――そしてついに限界が訪れた。
ドッ!! という|轟音《ごうおん》が炸裂する。
メイスを受け止めた|七天七刀《しちてんしちとう》ごと、神裂|火織《かおり》の体が大きく吹き飛ばされる。
「がァあああああああああああッ!?」
|瓦礫《がれき》の山を|踏《フ》み|潰《つぶ》すように戦っていた神裂は、そのままノーバウンドで一〇〇メートル近く突き進んだ。彼女自身が砲弾にでもなったかのように、次々と瓦礫を吹き飛ばし、コンクリートの|塊《かたまり》を粉々に|破壊《はかい》して|粉塵《ふんじん》を|撒《ま》き散らす。
「もう終わりかね、極東の聖人」
アックアの声に込められたのは失望。
しかし|瓦礫《がれき》に埋もれ、動きの止まった|神裂《かんざき》には応じる余裕もない。
血にまみれた体に入る力は、最初の半分にも満たないか。
(……なに、か……)
小細工もトリックもない。
ただ根本的な『カ』の違いを相手に、どう戦えば切り崩せるか。
(……あの力の……正体は……?)
ごぶっ、と口から血を|吐《は》きながら、神裂は疑問を感じる。
『|唯閃《ゆいせん》』という形で聖人の力をフル|稼働《かどう》させる神裂には、分かる。聖人という性質は、そもそも生身の人間の限界を超えているのだ。本来の『唯閃』は、|一撃《いちげき》必殺の抜刀術だ。そういう形で使わなくては、自分で自分の体を|破壊《はかい》してしまう事に|繋《つな》がりかねないからである。
その無理を、アックアは正面から通す。
|故《ゆえ》に、神裂との差が開いてしまう。
(―――『唯閃』の……|魔術《まじゆつ》構造に、余裕は……ない)
この術式は単に運動量を増幅させているだけではない。人間の体の限界を超えて筋肉が|壊《こわ》れないように、|極端《きよくたん》な速度に振り回されて重心バランスを失わないように、それこそパズルのように|繊細《せんさい》に術式の各ピースを組み合わせた『結晶』だ。これ以上を要求し、どれか一つのパーツに手を加えようとすれば、その途端に|全《すべ》てのバランスが崩れてしまう。全てのピースをはめて完成させたジグソーバズルに、さらに新しいピースを加えようとしても駄目なのだ。
ここが近接|格闘戦《かくとうせん》をメインに戦う『聖人』の限界点。
アックアはこれ以上に洗練された身体制御術式を組んでいるとでも言うのか。
神裂はいくつかの仮説を立てたが、いずれも失敗した。
やはり、どこかを増幅すればどこかに無理が生じる。アックアの性能を引き出した時点で人間の肉体は空中分解してしまう。物理的にも、魔術的にも。
(アックアの……力は……)
そもそも、聖人は与えられた力を一〇〇%完全に引き出す事はできない。
『神の子』と似た身体的特徴を持って生まれた事で、恐れ多くもその力の一端を手に入れる事に成功したと言われる聖人。しかし、たとえ力の一端といえど、たかが人間ごときにその力を|掌握《しようあく》する事などできないのだ。
与えられたカの一端の、そのまた一端を操るのが精一杯。
それが聖人の正体だ。
どういう風に術式を組んでも、絶対に|無《む》|駄《だ》は出てくる。有り体に言えば、せっかくの力が|霧散《むさん》してしまうのだ。偶像|崇拝《すうはい》の理論によって体の中に入ってくる力に対して、実際に自分の意志で振るえる分というのは限られているものである。
しかしその|無《む》|駄《だ》は悪い事ではない。仮に一〇〇%完全にカを行使した場合、今度は高圧すぎる力によって聖人の肉体が粉々に吹き飛んでしまう恐れがあるからだ。それは|魔術《まじゆつ》というよりも自己防衛本能に近いものかもしれない。魔術の知識を知らぬ赤子の|頃《ころ》から、その力を安定させる|術《すべ》だけは知っているのだから。
だが、
(……アックアには、『聖人』としての……限界が、ない……? ……あの力は、もう……人間が制御できる領域を……軽く、超えてしまっている……?)
まして、アックアは聖人の|他《ほか》に、さらに『神の右席』としての力を上乗せしている。後方のアックアと呼ばれる|所以《ゆえん》、大天使『神の力』の属性を、一見すれば、単に力が倍増したと思うだろう。だが実際には、その分だけ跳ね返ってくる負荷も倍増しなければおかしいのだ。
そう。
奇妙なのは、アックアが軽く二〇〇%以上の力を完全に|掌握《しようあく》し、なおかつ暴走を起こさず、顔色一つ変えていない事である。
(……できる、訳がない。素質とか天才とか、そういう次元じゃない。聖人と、『神の右席』。その|相容《あいい》れない二つの性質を、たった一つの肉体で押さえつける事など、できるはずがないんです……)
天才という言葉には、|全《すべ》てを納得させてしまうだけの説得力がある。
しかし、違うのだ。
その領域にいる|神裂《かんざき》だからこそ、分かる。
天才とは、オ能とは、現実にはそんなに便利な言葉ではない。
(……何かが、ある……)
トン、という軽やかな音が聞こえた。
神裂の前に、後方のアックアが降り立った音だった。
(……聖人と、『神の右席』……)
目の前にいる強敵を|睨《にら》みつけながら、神裂は思う。
(……その双方の力を共存させるための|術式《トリツク》が、必ずどこかに存在する……ッ!!)
「ッ!!」
アックアに一歩|踏《ふ》み込まれる前に、神裂は倒れたまま真横へ転がった。
地面に落ちていた|七天七刀《しちてんしちとう》を強引に|掴《つか》み取る。
同時、アックアも五メートルを超すメイスを真横に振るった。|瓦礫《がれき》も地面もまとめて|薙《な》ぎ払うような、強引極まりない|一撃《いちげき》だ。
|奇襲《きしゆう》するつもりだった神裂の刀は、防御に回さざるを得なくなる。
メイスと刀がぶつかり、ガッギィィ!! と|轟音《ごうおん》が鳴り|響《ひび》く。再びメイスの勢いに押される前に吹き飛ばされそうになる|神裂《かんざき》だが、彼女は刀を地面に突き刺す事で威力を殺す。それでも一〇メートル以上地面を|滑《すべ》ってようやく動きを止める。
「まだ戦うのであるか」
アックアは感心したように告げた。
ただしそれは、自分が目上である事を自覚した上での感心だ。
「逆転のチャンスなど、ない。自分の手持ちと、こちらの切り札の数を|考慮《こうりよ》すれば分かるはずである。努力や祈りに応じて奇跡が訪れると言うのならば、我々のような少数の『聖人』がもてはやされる事はないのだからな」
「……もてはやされる、ですか」
ボツリと、傷だらけの神裂は|呟《つぶ》いた。
心の底から、|吐《は》き捨てるような声で。
「自分の力で手に入れたものではない、生まれた時から勝手についてきただけのオプション。そんなものを振りかざして、あなたはそれで満足なんですか?」
「語ってどうする」
アックァは受け答えようとしない。
「前に言ったはずである。語って聞かせる信念に、どれほどの真実が含まれているのかとな」
神裂とアックアが同時に飛んだ。
正面からぶつかり合い、金属と金属が火花を散らせる。
「貴様はこう|憤《いきどお》っているのであろう。圧倒的に実力の違う一般人や|天草式《あまくさしき》の人間を、聖人の戦いに巻き込むなと」
「……ッ!!」
「だがこれが戦場である。生まれ持った能力の差、手にした武器の性能、戦う人員の数。そういう歴然とした違いが堂々と|襲《おそ》いかかってくるのがこの場のルールである。そいつに巻き込ませるのが|嫌《いや》だと言うのなら、初めから『ここ』に立とうとするな」
もはや|鍔《つば》|迫《ぜ》り合いにもならない。
アックアの押す力に負け、神裂の体があっさりと退く。
「力なき者に戦わせる必要など、どこにもない」
崩れそうになる神裂に、アックアは言う。
「刃を交えるのは、真の兵隊だけであれば良いのである」
それが、信念を語らぬアックアの|片鱗《へんりん》か。
|他《ほか》の『神の右席』とは違い、少年の右腕のみを粉砕すると」言ったこの男
天使ではなく聖母―――|徹底《てつてい》して『|慈悲《じひ》のカ』を振るう者の心の断片なのだろうか。
確かに、神裂にも似た想いはある。
あまりにも無慈悲な戦場では、|鍛《きた》える鍛えない以前に、単体の|戦闘力《せんとうりよく》など無意味。どれだけ準備を整えようが、死ぬ時は死ぬ。それが|嫌《いや》なら、あらかじめ|神裂《かんざき》という聖人があちこちに散らばるリスクを|全《すべ》て排除した上で、安全な戦場で戦わせるしかない。
だが、そんな事ができる訳がない。
単純に敵と味方の戦力を|考慮《こうりよ》し、伏兵の可能性を|危惧《きぐ》するぐらいならできるだろう。しかし本物の戦場とは違うのだ。本当に悪夢のようなタイミングで発生する偶然を、あらかじめ全て|掌握《しようあく》し、それらを|完璧《かんぺき》かつ未然に防ぐ事など実現できる訳がないのだ。
神裂は、それを未熟と評した。
自分のカが足りないから、絶えず変化する戦況をコントロールできず、大切な仲間|達《たち》が傷ついた。『あの時』は本当にそう思っていた。当時、|女教皇《プリエステス》であった神裂はそれに耐えられずに、結局|天草式《あまくさしき》を抜け出してしまう事になる。
しかし、
(なんて……)
神裂|火織《かおり》は、後方のアックアに自分の姿を重ね、奥歯を|噛《か》み|締《し》めた。
(なんていう|徹慢《ごうまん》な考え方でしょう)
天草式の|魔術《まじゆつ》|師《し》が弱いから死んでしまった、全員が聖人と同じような力を持っていれば|誰《だれ》も死ななかった。本当にそうか? そんな訳があるか。だったらあの少年は何だ。みんなと|一緒《いつしよ》に戦い、みんなと一緒に勝利し、みんなと一緒に笑っているあの少年は何なのだ。
結局、一緒に戦うと言っておきながら、神裂火織は天草式|十宇《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》の実力を信じられなかったのではないのか。人格や精神ではなく、その実力を。だからこそ、神裂は自分の背中を誰にも預ける事ができず、連携を崩し、自ら必要のない敗北を重ねていただけではないのか。
天草式十字凄教とは、そんなに弱かったのか。
本当に弱かったのは、一体どこの誰だったのか。
こんな|酷《ひど》い状態で無理に勝利して、一体何が得られると言うのだ。
たとえ時代がみんなの望む方向へ進んだとして、世界がより良い方向へ動いたとして、最後の最後まで勝者の力になれなかった人間は、そこへついていく事はできるだろうか。
取り残されたと思うはずだ。
辺り一面に|溢《あふ》れる幸福な光の中、たった一人で取り残されたと思うばずだ。
聖人。
ただ生まれた時から得ていただけの―――『選ばれた者』の特権を振りかざす愚か者同士の意志のぶつかり合いは、どこまで傲慢であれば気が済むのか。
「私は……|大《おお》|馬《ば》|鹿《か》|者《もの》です」
神裂火織は、|吐《は》き捨てた。
今まで自分が行ってきた、無自覚な暴力を|目《ま》の当たりにした。
つまり、そういう事か。
後方のアックアも、『神の右席』も、|神裂《かんざき》|火織《かおり》も同じ。
『特別な誰か』が|全《すべ》てを管理し、『それ以外の全て』はただ口を開けて管理されろ。それがお前|達《たち》のためであり、|無《む》|駄《だ》な努力などした所で無様な姿をさらし、限りある資源を無駄に消費し、皆に笑われるだけなのだから、もはや何もしないで|黙《だま》って従え。神裂は知らず知らずの内に、自分の大切な仲間達に対して、そんな事を要求していたのか。
「―――、」
神裂火織は血まみれの唇を|拭《ぬぐ》い、改めて|七天七刀《しちてんしちとう》を構え直す。
自分が取るぺき選択は何か。
(分かってる)
本当の意味で、『伸間』達を救い出すための選択は何か。
正々堂々と『仲間』である事を認め、光の中に取り残さないための選択は何か。
(分かってる!)
絶対の敵、後方のアックアの間違いを正すために|相応《ふさわ》しい選択は何か。
アックアの持つ力の|謎《なぞ》を解き、その圧倒的な暴力に対抗するための選択は何か。
(分かってる!!)
一つが解ければ、後は全てが|連鎖《れんさ》|的《てき》に|紐《ひも》|解《と》かれていく。七天七刀を握る両手から、ミシィ!! と音が鳴った。それは神裂火織の最後の力。正しいと信じら弛るからこそ、出し惜しみなく全てを出せる、信念の力。
敵は聖人にして『神の右席』としての力さえ振るう後方のアックア。
史上最悪の強敵を前に、神裂火織は最後の行動に出る。
二人の聖人が戦う第五階層から三〇メートルほど上方にある。クレーター状に崩れ落ちた第四階層の縁で|呆然《ぼうぜん》と戦いを眺めていた現|天草式《あまくさしき》の面々は、その|瞬間《しゆんかん》、確かに声を聞いた。
「―――、……を」
世界で二〇人もいない、本物の聖人の声を。
「……、して、ください」
かつて天草式を率いていた、|元女教皇《プリエステス》の声を。
「力を貸してください、あなた達の力を!!」
神裂火織の声を。
最初、|五和《いつわ》や|建宮《たてみや》は、何を言われているのか分からなかった。言葉の意味を脳が処理しても、それが自分達に向けられているものとは思えなかった。
だが、確かに神裂は自分達に言葉を放っている。
あれだけ絶対に届かないと思っていた|神裂《かんざき》|火織《かおり》が、|所詮《しよせん》は生まれた時から持っているものが違うのだと思っていた神裂火織が、大切な仲間を傷つけたくないと言って貧弱な自分|達《たち》に背を向けた、あの神裂火織が。
協力を求めている。
自分一人で倒せない敵を倒すための協力を。
「―――あ」
|震《ふる》えている自分に気づいた者は、何人いたか。
涙を流しかねない表情を浮かべている者に気づいた者は、何人いたか。
つまり神裂火織が示した言動の意味は、こういう事だったのだ。
あの|女教皇様《プリエステス》が認めてくれた。
単なる重荷としての仲間ではなく、共に肩を並べる戦力という意味での仲間として。
今までそんな事は一度もなかった。
|何故《なぜ》、この局面になって神裂火織は|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》に助けを求めたのか。
そんなのば簡単だ。
神裂火織には、たった一人では倒せない敵がいる。
それでも彼女には、立ち向かうべき理由がある。
そして、
その無理を通すための希望が、
彼女の夢を守るための最後のピースが、
|建宮《たてみや》や|五和《いつわ》といった、ごくごく普通の天草式十字凄教なのだ。
「……、」
その時を、その|瞬間《しゆんかん》を、どれだけの間待ち|焦《こ》がれたか。
無気力感から武器を落とした者は、その武器を拾い上げた。
拒む者などいなかった。
体中に包帯を巻き、その包帯すら赤いものが|滲《にじ》んだり、包帯自体が破けてしまうような状態であっても、そんなものは関係なかった。
自分達が束になっても|敵《かな》わず、神裂火織ですら歯が立たないほどの『怪物』の前にもう一度立てと言われても、|怯《おび》える者はいなかった。それ以上に心を占めるのは|嬉《うれ》しさだ。|女教皇《プリエステス》の力になれると、もう一度あの人と共に戦えると、ただそれだけの事実が生み出す喜びだ。
|雄《お》|叫《たけ》びをあげて戦意を|奮《ふる》い立たせる者がいた。世界で最も明るい涙をこぼす者がいた。ただ静かに、|誰《だれ》にも気づかれぬよう幸福を|噛《か》み|締《し》める者がいた。壁に寄りかかっていた者は、もう一度自分の足で立ち上がった。教墓『代理』の建宮は|束《つか》の間の重い荷が下りたとばかりに、そっと息を吐いた。
「……行くぞ」
|建宮《たてみや》|斎字《さいじ》は、|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》の仮の指導者として、最後の指示を出した。
一言では足りなかったのか、彼は万感の思いを込めてもう一度、
「行くぞ! 我ら天草式十宇凄教のあるぺき場所へ!!」
叫び声と共に、我先にと第四階層に空いた大穴から飛び降り、戦場へと突き進む。
無力である事など百も承知。
それでも戦うべき理由は揺らがない。
だからこそ、天草式十字凄教は束になって強敵へ立ち向かう.
彼らがリーダーと認めた、たった一人の女性と共に。
(な、に……?)
後方のアックアは、|神裂《かんざき》|火織《かおり》の取った行動を理解できなかった。
聖人と聖人が起こす|戦闘《せんとう》の真ん中へ、ただの|魔術《まじゆつ》|師《し》が巻き込まれればどうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。そもそも神裂は、それを|嫌《きら》っていたからこそ、後方のアックアを天草式から遠ざけ、|敢《あ》えて専用の戦場を用意して戦っていたはずだ。
なのに、
「おおおおおおおおおおおッ!!」
ある者は剣を|携《たずさ》え走り抜け、ある者は|槍《やり》を手に大きく跳ぶ。死を恐れぬ者|達《たち》はあっという間に集合すると、まるで|満身創痍《まんしんそうい》の神裂を守るように布陣を築き上げた。
アックアからすれば、菓子に等しい|脆《もろ》き壁。
彼はメイスを構え、険しい表情で告げた。
「弱者に救いを求めるだと……、それほどまでに、命が惜しいのであるか」
「そう見えますか」
|神裂《かんざき》|火織《かおり》は血まみれの両手で|七天七刀《しちてんしちとう》を構えながら、言った。
彼女の口元には、笑みすらあった。
「確かに、私の|側《そば》にいる事で、傷つけられてしまった仲間|達《たち》がいました。私はそれを恐れて、一度は|天草式《あまくさしき》 |十宇《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》から|雛《はな》れようとも思いました」
ただし、と神裂は力強く言葉を切り、
「その悲劇は、彼らが弱かったから起きたのではありません」
「……、」
「彼らを『弱い』と決めつけ、その実力を信じられなかった自分が、心のどこかで彼らを見下し、背中を預けられなかった自分が。そうしてすぐ近くにあるはずのカを放置し、未熟な腕にも|拘《かかわ》らずたった一人で戦い続け、敵に大きな|隙《すき》を見せてしまったこの自分が! この|傲慢《ごうまん》が、『守ってやる』という優越感が、|全《すべ》ての悲劇の元凶だったんですよ!!」
己の弱さを自覚し、な埼かつ前へ進む者は成長する。
神裂火織のボロボロの体の中に、新しい力が渦を巻く。
「だから私は克服します。彼らを信じ、背中を預け、互いが互いの力を最大限に発揮する事で、私は私の天草式十字凄教を取り戻してみせます!! 我々のリーダーは我々であり、我々の仲間は我々です!! そこには『聖人』などという、たった一人の|上司《トツプ》など必要ありません!!」
(何だ……?)
確かに、神裂火織には今までなかった自信のようなものが取り戻されていた。
それは|芯《しん》だ。
己の行動に自信を持つ者だけが精神の中心に持つ、強固なる芯だ。
だが、勝機がない事は変わらない。|鳥合《うごう》の衆が五〇人ほど追加されたとして、何の問題もないのだ。現天草式など、わざわざ全力で戦うまでもない。神裂との激戦の最中、勝手に吹き飛ばされる背景のようなものなのだから。
(集団心理でも働いたのであるか。ありもしない|錯覚《さつかく》にすがるとは)
「根拠なき希望は単なる|妄想《もうそう》」
アックアの全身に力が|溢《あふ》れる。
「そんなもので私を超えられるとでも思ったのであるか!!」
くだらないものを吹き飛ばすように振るわれたメイスの射程圏内へ、神裂火織は|臆《おく》せずに突っ込む。
七天七刀とメイスが激突し、しかしその|衝撃《しようげき》を殺すために複数の天草式の面々が防護術式を展開。いかに精神論を持ち出そうが、互いの実力差は変わらないはず。それなのに、ここにきて|神裂《かんざき》はアックアと|拮抗《きつこう》した。
「聖人とは、『神の子』と良く似た身体的特徴を持って生まれたために、偶像|崇拝《すうはい》の理論によって恐れ多くも『神のカ』の|一端《いつたん》を借り受けた者を差します」
情報では、神裂と現|天草式《あまくさしき》の間には、数年のブランクが存在するはずだ。
しかし彼女|達《たち》は言葉すら交わさず、たった一息で|全《すべ》ての時間を克服する。
「だが、そんな『聖人』であっても、あなたほどの力を行使する事はできません。あなたは明らかに、|ただの聖人《わたし》以上の力を有している。それは|何故《なぜ》か」
その拮抗はまやかし。
即座にアックアの|反撃《はんげき》が入り、神裂を含む天草式の布陣が大きく揺らぐ。
それでも天草式| 十字《じゆうじ》| 凄教《せいきよう》は必死で戦う。
「―――答えは簡単、『聖母崇拝』に決まっています!!」
そう、思えばアックアは包み隠さず、正々堂々と語っていた。
自分は聖母の属性を振るう者だと。
しかし、後方のアックアが本来|司《つかさど》るべきは大天使『神のカ』のはずなのだ。|慈悲《じひ》の象徴である聖母に比べ、『神のカ』はゴモラといラ都市を丸ごと焼いたり、最後の審判で世界を|壊《こわ》すために|活躍《かつやく》したりと、もっと直接的な攻撃を行った神話はいくつもある。何故そういった『分かりやすい攻撃方法』を|避《さ》け、遠回りするように聖母の方を選んだのか。
「あなたの身体的特徴が似ているのは『神の子』一人ではなかったのでしょう?あなたは『神の子』の|他《ほか》にも、聖母とも身体的特徴が似ているために、そちらの力も同様に手に入れていたんです!!」
『神の子』と聖母は親子の関係にある。その身体的特徴が似ている事については、それほど違和感がある事実ではないだろう。
そして、聖母は『神の子』に次ぐ十字教のナンバー2、あらゆる聖入の中でも『神の子』を産むという最高の奇跡を成し遂げた存在として、やはり強大なカを持つと言われる。その聖母を|讃《たた》える聖母崇拝はあまりにも多くの民衆の心を動かし、世界のルールそのものである厳正な『神の子』よりも例外的な慈悲を与えてくれる存在として、聖母に祈り聖母が|叶《かな》える形の『奇跡の報告』が教会に多数寄せられ、『このままでは聖母崇拝だけで独立してしまうのではないか』と時のローマ正教上層部に危機感を与えたほどである。
聖人と聖母。
もしも、この二つの属性を同時に併せ持つ身体的特徴を有する者が存在するとしたら。
それこそが、後方のアックア。
おそらくは生まれた時から抱えていた才能を、『神の右席』でさらに開花させた完成形。
彼の体内に収まったカの量は、一体どれほどになるのか。
「あなたは二種類の異なる性質を持つ存在と、同時に重なるような身体的特徴をもって生まれてきました。だからこそ、『ただの』聖人である私の資質だけでは力負けしてしまったんです」
そもそも『神の右席』とは人間を超え、『|神上《かみじよう》』を目指す者を差していたはず。つまり彼らの目指す所は、最初から『ただの聖人』どころではないのだ。
|神裂《かんざき》自身は『ただの聖人』であるため、その領域を想像するのは難しいが、おそらく聖人や天使が取り扱う『ある種のカ』とは、『一定以上のラインを突破すると安定する』性質を持つのだ。飛行機は速度が遅い方が扱いやすいが、遅すぎては失速して|墜落《ついらく》する。アックアがやっているのは|敢《あ》えて飛行機を高速で飛ばして機体を安定させるようなものだ。
聖人から、さらに長い空白を経た高みにある、
高速安定ライン。
アックアは聖人と聖母、二つの性質を重ねる事で、通常の『速度を落として安定させようとする』聖人とは異なる高速安定ラインの中を生きているのだ。だからこそ、本来なら不安定になって暴走するはずの力を強引にまとめる事に成功したに違いない。
しかし
「その反面、あなたには『弱点』があります」
神裂|火織《かおり》はそう言った。
そう、のんぴりと飛行する機体よりも、音速の何倍もの速度で飛行する機体の方が、操縦がデリケートで難しいのは明白なのだから。
「あなたは私以上に、いえ全世界のどの聖人よりも、対聖人専用の術式に弱い側面も抱えてしまっているはずです!」
そこで神裂は言葉を切った。
話す相手を変えるために。
アックアではなく、仲間の|天草式《あまくさしき》に向けるために。
つまりは、
「―――『聖人崩し』です!!」
「ッ」
「あらゆる|攻撃《こうげき》をメイスでいなし、あるいは|避《さ》けたアックアが、唯一魔術的な手段を用いて本格的な『防御』行動に出たあの術式[#「唯一魔術的な手段を用いて本格的な『防御』行動に出たあの術式」に傍点]。そこに勝機はあります!!」
普通の人間には、聖人の力を|完壁《かんぺき》に操るのは難しい。まして『神の右席』と聖人の同時使用などできるはずがない。それは実際に聖人である神裂だからこそ分かる情報だった。
神裂は当初、その二つの力を完璧に制御する特別な術式が存在するものと考えていた。
それは結局見つからなかったが、当然と言えば当然だ。
そんなものなどなかったのだ。
「元々試した事もない『聖人崩し』を、さらに|他《ほか》に例のない存在であるアックアが|喰《く》らえばどうなるか。アックア自身も想像がつかなかったんですよ!!」
アックアが『聖人崩し』を全力で防いだのは、何も自分の力のストックの何割かが、ほんの数十秒間使用できなくなるからではない。
「『聖人崩し』とは『神の子』に似た身体的特徴のバランスを強引に崩し、体内で力を暴走させる事によって聖人を一時的に行動不能に|陥《おちい》らせるためのもの。本来なら数十秒|黙《だま》らせるのが限界ですが、聖人と聖母の表裏持つアックアが喰らえば、待っている緒未は単純明快―――アックア自身が起爆するのみです!!」
彼の扱う術式は、聖人以上に|繊細《せんさい》な『生まれつきの体質』に依存するものだ。
言い換えれば、人工的な手段で補強できるようなものではないのだ。
|神業《かみわざ》のようなバランスが少しでも崩れてしまえば、その|瞬間《しゆんかん》に|全《すべ》てが暴発するかもしれない。それは時速一〇〇〇キロオーバーを|叩《たた》き出すドラッグマシンと同じ。|莫大《ばくだい》なカを扱うからこそ、取り扱いには細心の注意を払う必要がある。だからこそ後方のアックアは『全カ』で防御行動に出たのだ。
「―――、」
その答えを看破されたアックアは、一言も告げなかった。
ただし、その表情に変化があった。
笑み。
これまでの、見下すようなものではない。|完璧《かんぺき》と称された彼にある、一点の穴。それを突きつけられてなお、アックアという人間は壮絶な笑みを浮かぺていた。
弱点程度でば|焦《あせ》らない。
戦いとはそんなものではない。
さらに|苛烈《かれつ》な|攻撃《こうげき》を連続して|繰《く》り出すアックアに対し、|神裂《かんざき》は|七天七刀《しちてんしちとう》でその攻撃をかろうじて受け止めながら、ほんの少しだけ息を|吐《は》き、それから刀の角度を微調節し、攻撃の余波となる|衝撃波《しようげきは》を意図的に生み出した。
それはアックアに向かわず、彼の背後にある物を|破壊《はかい》した。
|瓦礫《がれき》の山に埋もれていた背景の一つ、|錆《さ》びついた有刺鉄線を。
(……なるほど、そう釆るか……ッ?)
アックアが頭上を仰ぎ見た時、|干《ち》|切《ぎ》れて空を飛んだ鋭い針金が、ちょうど円の形になった所だった。さらに神裂のワイヤー、|七閃《ななせん》が周囲一面を改めて切断する。瓦礫の山から次々と|魔術《まじゆつ》|的《てき》な意味が抽出され、彫刻のように出現する。
現れたのは巨大な十字架であり、鋭い|鉄杭《てつくい》のような釘であり、そしてイバラの|冠《かんむり》だった。
すなわち、
「『神の子]の処刑の象徴であるか!!」
聖人としてその力の|一端《いつたん》を振るっている者にとっては、その弱点をも継承している事になる。
とはいえ、こんなガラクタで聖人を倒せるのならば|誰《だれ》も苦労はしない。
実際、|神裂《かんざき》のような『ただの聖人』には、それほどの効果はない。
だが、
後方のアックアとは、『特別な聖人』なのだ。
世界で二〇人といない聖人よりも、さらに|希少《きしよう》な身体的特徴を持つ者。聖人と聖母のカの|一端《いつたん》を同時に振るう者。|莫大《ばくだい》な力を得た代わりに極めて|繊細《せんさい》なバランス制御を求められる存在になってしまったからこそ、神裂|火織《かおり》がその場限りで形成した『処刑』の象徴は効果を表す。
『処刑』の術式は、聖母とは関係ないと思われがちだが、この場合は違う。
そう。
聖母は十字教史上最高の聖人としても扱われているのだから。
「―――ッ!!」
物理を超えたアックアの中心で、何かが泡立つのを神裂は知覚した。
『ただの聖人』であっても分かるほど明白な変化。
つまり、後方のアックアは、
「揺らいでいます」
神裂はきっぱりと、自信を持ってそう告げた。
アックアという存在の中心核に重なるように存在する、聖人と聖母の力。それらが外からの圧迫を受けて互いに競合を引き起こし、ギシギシと|嫌《いや》な悲鳴を上げている。
今ならできる。
だからこそ、神裂火織は腹の底か喝力を込めて叫ぶ。
「準備は整いました! |槍を持つものよ《ロンギヌス》、今こそ『処刑』の儀《ぎ》の最後の|鍵《かぎ》を!!」
「ッ!!」
『聖人崩し』のカギを握る|五和《いつわ》は、神裂の言葉を|汲《く》み取り、即座に封しばりを取り出し、それで|柄《つか》を包むように|海軍用船上槍《フリウリスピア》を構えた。
「……|面白《おもしろ》い」
しかしそれ以上に早く、アックアが動いた。
「|天草式《あまくさしき》 |十字《じゆうじ》 |凄教《せいきよう》であるか。その名は我が胸に刻むに値するものとする!!」
言葉と共に、アックアが一気に二〇メートル近く―――いや、第四階層と第五階層を|繋《つな》ぐクレーターを突き抜け、二倍以上も跳び上がる。途中で何十本、何百本というワイヤーが夜空を舞ったが、それでもアックアの動きを止める事はできなかった。
円形のクレーターの奥から街の光が|漏《も》れるため、まるで巨大な月のように見えた。
その人工的な月を背に、アックアがメイスを椴える。
「|聖母の慈悲は厳罰を和らげる《T H M I M S S P》」
以前、あの|一撃《いちげき》は小惑星の激突にも似た|破壊《はかい》|力《りよく》で神裂火織を|襲《おそ》った。万全の神裂すら|叩《たた》き伏せるほどの威力。その上、今回は単純に二倍の滑空|距離《きより》。今の|天草式《あまくさしき》では|太《た》|刀《ち》|打《う》ちできる訳がない。この第五階層ごとまとめて|叩《たた》き|潰《つぶ》される。
「|時に、神に直訴するこの力。慈悲に包まれ天へと昇れ《T C T C D B F T T R O G B W I M A A T H》!!」
|莫大《ばくだい》な速度で、一直線に落下するアックア。月明かりを浴びたメイスが青白い尾を引いていた。
(まずい!?)
あらかじめ配置された無数のワイヤーが防護の陣を築き、|神裂《かんざき》自身が|魔力《まりよく》を通し、その|鉄槌《てつかい》を防ごうとする。だが足りない。アックアの|一撃《いちげき》は、それらを容赦なく食い破って地面へ近づいてくる。
じかにそれを受けた神裂だからこそ分かる。あれをもう一発受ければ、今度こそ命はない。神裂はおろか周辺にいる天草式の全員が|殲滅《せんめつ》されてしまう。
(|頼《たの》みの|綱《つな》は―――ッ!!)
|歯《は》|噛《が》みする神裂の横で、|五和《いつわ》が頭上に|槍《やり》を構えた。『聖人崩し』。しかし術式の下準備がまだ終わっていない。このままでは間に合わない。
(諦めて……)
神裂|火織《かおり》は、|七天七刀《しちてんしちとう》へ手を伸ばす。
破壊の|塊《かたまり》と化して落下するアックア。それを見上げ、|睨《にら》みつけながら、彼女は|瓦礫《がれき》だらけの広場を強く|踏《ふ》みしめる。一息に刀を|鞘《さや》から抜くと、それを水平に構えた。
反撃のための挙動ではない。
|全《すべ》ては防御。古今東西あらゆる記号を寄せ集め、即席で術式を組み、神裂火織は盾となる。
(諦めて、たまるか!!)
後方のアックアが、全力をもって地面へ落ちる。
光が吹き荒れた。
神裂火織の目が、耳が、鼻が、舌が、肌が、全ての感覚が消えてなくなった。
|破壊《はかい》。
そのたった二文字の単語すら、理解できなかった。
五感が死んでいる。あるのは白、瓦礫の吹き飛ぶ音も、吹きすさぶ|衝撃《しようげき》|波《は》も、舞い上がる|粉塵《ふんじん》も、|鉄臭《てつくさ》い|匂《にお》いも、何かの潰れる感触も、何もかもが脳まで入ってこない。本物の破壊とは、純粋な消滅とは、これほどまでに『何もない』のか。
(……、っ)
真っ白に塗り|潰《つぶ》された五感が戻るのに、しばらく時間が必要だった。
そして|神裂《かんざき》は知る。
少しずつだが、五感は戻りつつあるのだという事実に。
失われたのでばなく、回復しつつあるという事は……。
(な、にが……?)
後方のアックアが放った|一撃《いちげき》は、まさに絶対の|破壊《はかい》|力《りよく》を秘めていたはずだ。神裂を含む、|天草式《あまくさしき》全員の命を残さず奪い尽くしてもお釣りが返ってきたはずだ。それが、まるでアックアの術式そのものが消えてなくなったかのように、神裂は無傷。被害らしい被害が全くない。
(消えて[#「消えて」に傍点]、なくなる[#「なくなる」に傍点]……? 術式が[#「術式が」に傍点]、魔術が[#「魔術が」に傍点]、消える[#「消える」に傍点]?)
ハッと神裂は顔を上げた。
善悪強弱間わず、|魔術《まじゆつ》というもの|全《すべ》てを間答無用で打ち消す行為。
そんな|馬《ば》|鹿《か》げた事ができる人間を、彼女はたった一人だけ知っている。
「ま、さか……」
五感が戻る。
自分の放った言葉が自分の耳に入り、それをきっかけにするように、全ての感覚が息を吹き返した。悪夢のようなアックアの一撃があったにも|拘《かかわ》らず、| 正真《しようしん》| 正銘《しようめい》、『何も起きていない』これまで通りの風景。そして、その中心点に立っているのは、
|上条《かみじよう》|当麻《とうま》。
アックアの魔術攻撃を正面から押さえつけ、握り潰すような勢いでメイスを|掴《つか》む少年がいた。
あるいは、後方のアックアがただの腕力でメイスを振るっていれば、血まみれの上条など右手ごと粉々になっていただろう。しかし今回はあくまでも魔術攻撃だ。そして少年の右手は、どんなものであれ異能の力を丸ごと吹き飛ばす性能を秘めている。
アックアの攻撃が絶大な『魔術』攻撃であればこそ。
少年の右手は、|容赦《ようしや》なくその一撃を無効化させる!!
「な……ッ!!」
「―――、……」
|驚愕《きようがく》するアックアに、血まみれの上条は何かを|呟《つぶや》いた。それは|誰《だれ》の耳にも届かない。そうしながら、上条はまるでメイスにもたれかかるように倒れ込んだ。カが尽きたのではない。アックアの動きを封じようとしているのだ。
「ッ!!」
それを見た神裂も動いた.
|上条《かみじよう》一人では、メイスを振るっただけで払われてしまうだろう。だがアックアが|驚《おどろ》いた|一瞬《いつしゆん》を突いて、|神裂《かんざき》は|七天七刀《しちてんしちとう》を放り捨て、まるで丸太でも|掴《つか》むような体勢で、巨大なメイスごとアックアの肩を封じにかかる。
「貴様ら!!」
アックアが何かを叫んだが、二人は聞いていなかった。
|満身《まんしん》|創痍《そうい》の上条と神裂は、同じ所を見ていた。
すなわち、|天草式《あまくさしき》| 十字《じゆうじ》| 凄教《せいきよう》の|五和《いつわ》へと。
ただの|魔術《まじゆつ》|師《し》である五和へと。
「任せておいてください……」
五和がおしぱりで|柄《つか》を包むように握った|槍《やり》を構え直すと、|他《ほか》の天草式の面々も特殊な術式の起動準備に入った。
「必ず当てます!!」
|咆哮《ほうこう》と共に、五和が爆走した。
複数の術式の保護を受けた少女の小柄な体が、一気に加速しアックアへ突き進む。
アックアはこれを|回避《かいひ》しようとした。
しかし聖人としての腕力は同じ聖人の神裂が封じ込め、それを振り払うために『神の右席』として発動する聖母の特殊な術式は上条の右手がまとめて消し飛ばす。
「お、」
身動きの取れない時間は、わずか数秒。
しかしそれだけあれば問題ない。
その瞬間、アックアが放ったのは|雄《お》|叫《たけ》びだった。
それは恐怖によるものではない。
次の|一撃《いちげき》を|避《さ》けられぬと分かり、なお己の内の信念を揺るがせず、むしろ突撃してくる五和に対して、大きく前へ一歩|踏《ふ》み込もうと力を加えるための、戦意ある雄叫びだ。
『聖人崩し』。
五和の槍が分解され、一本の雷撃へと形を変える。物質的な|束縛《そくばく》を超えた術式が、この場を制する一撃と化してアックアへと|襲《おそ》いかかる。
ドバン!! という空気の|震《ふる》える音が|炸裂《さくれつ》した。
雷光はアックアの腹に突き刺さり、背中から飛び出し、今度こそ彼の全身をくまなく|蝕《むしば》む。
|直撃《ちよくげき》の|衝撃《しようげき》に押され、|上条《かみじよう》と|神裂《かんざき》は思わず手を|離《はな》していた。
アックアの背中から、火花とも違う光の十字架が上下左右へ|爆発的に伸びた。しかしその十字架の中心点、交差するポイントを貫くように、衝撃を受けたアックアの体が大きく飛ぶ。
『聖人崩し』を受けたアックアの体はコンクリートのタイルの上を数十メートルも転がり、その手から巨大なメイスが|離《はな》れ、吹き飛ばされたアックアはそのまま第五階層に用意された人工の湖へと突っ込んだ。砲弾のように水中を進んだ彼の体が完全に見えなくなった所で、さらなる変化が起きる。
|魔力《まりよく》の暴走。
後方のアックア自信の起爆。
聖人と聖母の属性が『聖人崩し』を|喰《く》らうと同時に反応、競合を引き起こし、その体内で本来の『聖人崩し』ならばありえない急激な|連鎖《れんさ》爆発を引き起こす。
カッ!! と深夜の暗い湖が真昼のような|閃光《せんこう》に包まれた。上条|達《たち》の視界が真っ白に塗り|潰《つぶ》される。大量の水が丸ごと蒸発する不気味な音が耳についた。
神裂|火織《かおり》が再び目を開けた時、アックアは存在しなかった。
ただ、人工の湖に張られた水が|全《すべ》て蒸発していた。湖の縁はまとめて吹き飛ばされている。人工の湖と全く同じ太さの水蒸気の柱が、|真《ま》っ|直《す》ぐ上に伸びていた。その巨大な柱は地下市街の|天井《てんじよう》部分にぶつかり、そこから四方八方へと広がっていく。まるで一〇〇〇年の歳月を超える巨木のように圧倒的なその光景は、|端的《たんてき》にアックアの起爆の|凄《すさ》まじさを示していた。
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行間 四
今から一〇年ほど前の、寂れた港にて。
ウィリアム=オルウェルは|殴《なぐ》られた|頬《ほお》を軽くさすっていた。
殴ったのは|騎士団長《ナイトリーダー》。
ムスッとしている二人の間でオロオロしているのは、世間では無能の|烙印《らくいん》を押されている英国第三王女だ。もっとも、だからこそこうして城を抜け出しても問題にならないのだろうが。
「今のは私を|騙《だま》して|美《お》|味《い》しい所を一人占めした分だ」
ボッキボキと指の関節を嶋らしつつ、|騎士団長《ナイトリーダー》は社交界では決して見せないような表情でウィリアムへ近づく。
「まだだぞ。まだ私は、お前がイギリスから出ていく分については殴っていない。だから確認を取っておこう。間違いがあってはいけないからな。よし質問だ。お前は本当にイギリスを|離《はな》れるつもりなのか」
「ああ。出ていく」
ウィリアムが返した|途端《とたん》に、|騎士団長《ナイトリーダー》はもう一度ウィリアムの顔面を思い切り殴り飛ばした。
ゴン!! と鈍い音が|炸裂《さくれつ》し、第三王女が小さな悲鳴をあげて両手で自分の顔を|覆《おお》った。
むしろ殴られた本人であるウィリアムの方が何ともない顔で、
「……貴様、酔っているのであるか?」
「だとしたら、|酒瓶《さけびん》でお前を殴っている」
|騎士団長《ナイトリーダー》は肩にかけた革のザックを下ろすと、中をごそごそと|漁《あさ》りつつ、
「スコッチの良いのがあるぞ。カラメルなど一滴も使っていない、純粋に|樽《たる》の色だけが|染《し》み込んだ一級品だ。ああ、中身が満杯なのは目を|瞑《つぶ》ろう。今日は門出の日だからな。これぐらいは重量サービスしてぶん殴っても良いだろう」
「先ほどから何を怒っているのだ、貴様は」
ウィリアムが尋ねると、|騎士団長《ナイトリーダー》はわずかに動きを止めた。
やがて、彼は言う。
「お前は|傭兵《ようへい》の器では終わらない男だ」
「買い|被《かぶ》りという言葉を知っているのであるか? いいや知らないであろう」
「私が方々に手を回して、ようやくお前を一人前の『|騎《き》|士《し》』として迎え入れようというのに……そいつをあっさり|蹴《け》りやがって。お前はどこぞの偉大な芸術家にでもなるつもりか。死後何百年も|経《た》ってからようやく認められるような人生を選ぶなど、どうかしているとしか思えない」
「芸術については分からんよ。そいつを作る者の生き様もな」
「……何を目指す気だ? |誘《さそ》いを|蹴《け》るには、それなりの理由があるだろう」
「別に、特別な事をしようという訳ではない」
ウィリアム=オルウェルはそっけない調子で答えた。
「前にも言ったであろう。|騎《き》|士《し》と|傭兵《ようへい》の違いである。この国の騎士には絶大な権限があるが、それだけでは解決できない問題もある。傭兵にしても同じ。我らは身軽である反面、どうしても『信用』のいる場所へ|踏《ふ》み込む事は難しいのである」
「……お前」
「どちらかが欠けても|駄《だ》|目《め》なのである。貴様も今回の騒動で分かったであろう。一組織が肥大するだけではまとまらない事がある。だからそれを外から監視する者が必要になってくる。その監視者だけが特別になってもいけない。社会を形成する歯車に大小はあっても、皆が互いに干渉し、回っているという事実を忘れてばいDないのである」
ウィリアムの言葉は確かなもので、彼の人格を知るからこそ、|騎士団長《ナイトリーダー》は|憮然《ぶぜん》とした顔で|黙《だま》り込んだ。そんな旧友の顔を見て、ウィリアムは|微《かす》かに笑う。
「|何故《なぜ》、『王室派』が強硬策を使ってでも勢力圏を増やそうとしたのか、その裏も気になる。イギリスは『王室派』『騎士派』『清教派』の三派閥で成立している事は知っているのであるな。
『王室派』は『清教派』からの|影響《えいきよう》を受けやすい。何かあったと考えた方が良さそうである」
その言棄に、|騎士団長《ナイトリーダー》は清教派のトップを思い浮かべたようだ。
|最大主教《アークビシヨツプ》、ローラ=スチュアート。
三派閥の一角を収める頂点という形では、|騎士団長《ナイトリーダー》と|最大主教《アークビシヨツプ》は同列の立場にある。だが、それをこの騎士は快く思わないだろう。それぐらい不気味な存在だった。
さらにウィリアムは言う。
「問題は英国内部だけではない。ローマ正教やロシア成教、そして学園都市の動きも|不穏《ふおん》の一言である。世界が動こうとしている。そういう時こそ『組織』は暴走するものである」
「『騎士派』の一員として、イギリス国内で|盤石《ばんじやく》を固める趨択肢もあると思うが」
「それだけで|全《すべ》てを解決できるとは思えん。今回の件が良い見本であろう。私は外から守る事にする。だから貴様は内から守る事にしろ。そうすれば選択の幅が広がるはずである。仮に我々のどちらかが暴走しても、止められる可能性も増えるのだ」
「これ以上議論するのは無駄か」
|騎士団長《ナイトリーダー》は寂しそうな調子で言うと、それを|払拭《ふつしよく》するように、ザックの中に入っていたスコ
ッチの|酒瓶《さけびん》をウィリアムに押し付けた。
「|餞別《せんべつ》だ。チェンバレンのじいさんが今年の自信作だと言っていたぐらいだからな」
「……一人で欽むにはもったいないレペルであるな」
「なら、旅先で良い仲間を見つける事だ。その一杯が似合うほどのな」
|騎士団長《ナイトリーダー》の|気《き》|障《ざ》ったらしい言い回しに、ウィリアムは|呆《あき》れたように息を吐いた。どこまで行っても|騎《き》|士《し》と|傭兵《ようへい》。これで今まで良く話が合ったものだと、本当に思う。
「そうだ。ロンドン郊外の職人に、|盾の紋章《エスカツシヤン》の注文を出していたはずである。あれは|廃棄《はいき》しておいてくれ。物として残っていると、|一緒《いつしよ》に未練まで残りそうであるからな」
それが、傭兵の別れの言葉だった。
特別な|儀《ぎ》|式《しき》や作法などない。|騎士団長《ナイトリーダー》が領土を持つ貴族の顔を見せたのなら、ウィリアムは根なし草としての傭兵の流儀で|応《こた》える。
一人の傭兵が去った後、|騎士団長《ナイトリーダー》はポツリと言った。
「……捨てるものか」
第三王女は|騎士団長《ナイトリーダー》の顔を見たが、彼は自分の声が|漏《も》れていると気づいていないらしい。
「……捨てられるものか、ちくしょう」
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終 章 さらなる騒乱への案内人 True_Target_is......
|上条《かみじよう》|当麻《とうま》は病院のベッドで目を覚ました。
もはや見慣れたいつもの病室だ。第二二学区ではなく、カエル顔の医者がいる第七学区の方に移されたらしい。事件性のある患者だからなのか、毎回毎回|他《ほか》の患者のいない個室へわざわざ運ばれる辺り、もしかすると結構な|厄介《やつかい》|者《もの》なのではないか、と実は上条、ちょっとビクビクしていたりもする。
「わっわっ、気づかれましたか?」
そう言ったのは、見舞い客用に用意されたバイプ|椅《い》|子《す》に座っている|五和《いつわ》だ。上条は起き上がろうとしたが、体が思うように動かなかった。単に傷が深い、というのとは違う。何だか異様な疲労感があって、全く力が入らない。疲れの|芯《しん》のようなものが、全身をくまなく貫いているような感覚がある。上条が慣れない感覚に戸惑っていると、五和の方はホッと肩の力を抜いてこう言った。
「う、動けないのも無理はないんですよ。絶対安静の中、病院を抜け出して戦場へ舞い戻った挙げ句、あのアックアに|奇襲《きしゆう》を仕掛けちやったんですから」
五和から、後方のアックアをとりあえず退けた事、民間・|天草式《あまくさしき》の両方に死者は出ていない事などを聞いた上条だが、全くもって実感がない。
というか、実の所、病院を抜け出して|云々《うんぬん》という辺りはほどんど記憶が抜け落ちていた。何だか途中で|美琴《みこと》と出会ったような気もするのだが、あれは一体どこまでが夢だったのか。とはいえ、根本的に記憶|喪失《そうしつ》である事を隠している上条としては、そういう『記憶がないんです』とか『所々抜け落ちているんです』的な相談はあんまりしないので、とりあえず|曖昧《あいまい》に笑ってみる。
「……しっかし、その、スゲェな。アックアって『神の右席』で聖人でもあるんだろ。そいつを倒しちまうって……なんつーか、歴史的|瞬間《しゆんかん》に立ち会っちゃったんじゃないのか、これ?」
「いっ、一番の立役者が何を言っているんですか!? というか、世界で二〇人といない聖人を打ち破る事自体が奇跡的であって、その上、味方の損害がゼロなんていうのばもうサンタクロースが転んでプレゼントを空からばら|撒《ま》いちゃうような大盤振る舞いであって……ッ!!」
何だか五和が顔を真っ赤にして意外に大きな胸の前で両手をわたわたし始めたのだが、ようはアックアに勝利した天草式スゲーという事でオーケーなんだろうか、と|魔術《まじゆつ》業界について何にも知らない上条は超アバウトに状況を判断する。
……ちなみに実の所、後方のアックアにトドメを刺したのは五和がカギを握る『聖人崩し』なのだが、|五和《いつわ》も五和でその事実に全く自覚がないようだ。天然バカとマジメ|謙虚《けんきよ》人間はどちらが罪か。いずれにしてもアックアからすれば|報《むく》われないの一言に尽きるだろうが。
「だー……つか、今日何日だ? ま、まさか出席日数とか|大丈夫《だいじようぶ》だろうな!? ヤバい、なんかこの辺はしっかり確認しとかないとまずい気がする!! |何故《なぜ》ならここん所ずっと事件が起きている気がするから!!」
「あっ、だ、ダメですよ起き上がっちゃ!!」
ベッドから身を起こそうとする|上条《かみじよう》と、その肩を両手で|掴《つか》んで押し留めようとする五和。結果、二人の顔が急接近する。その|距離《きより》わずか五センチ弱。ぶっちゃけ目の前には|驚《おどろ》いて顔を赤くした五和の顔がいっぱいに広がっている。上条は顔と顔の間にある空気が柔らかい壁になったような感覚を得たが、それでも何故か距離を|雛《はな》す、という選択肢が頭に浮かばない。
そこで、
「…………………………………………………………………とうまがもういつも通りなんだよ」
低い声に促されるようにそちらを見れば、病室の出入り口近辺で|呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす少女つまりインデックス。しかもご|丁寧《ていねい》にも彼女の心情を表すかのように、足元の床には割れた|花瓶《かびん》のおまけつき。サスペンス準備完了いつでも事件ですと言わんばかりの神が与えたもうたナイスタイミングに対して上条は、
「ひっ、ひぃー!? 待ってクダナイヨインデックスサン!! 言葉がなくても分かる! 今のアナタナマはどことなくわたくし上条さんの存在や人間性を|諦《あきら》めかけてはいませんか!?」
「……きっきまでそこに座っていたのは私なのに、ちょっと目を離した|途端《とたん》にもうこれなんだよ……。そもそも、|黙《だま》って病院を抜け出した事のごめんなさいもまだなのに……」
「そうそう、そうです! それについては私も賛成です! あんなボロボロの状態でアックアの元へ帰ってくるなんて正気の|沙《さ》|汰《た》じゃありませんよ! 本当にもしもの事があったらどうするつもりだったんですか!?」
「アックア!? アックアってあの『神の右席』の!? そんな思いっきり|魔術《まじゆつ》|的《てき》強敵相手にこの禁書目録を|頼《たよ》らないって、とうまそれどういう事!!」
「あれーっ!? いつの間にか|体《てい》|良《よ》く五和のポジションが変わってますがーっ!? これが|天草式《あまくさしき》環境適応能力かーっ!》」
と、そんなやり取りが行われている病室の手前。直線的な廊下に立ち尽くしている女性が一人。|神裂《かんざき》|火織《かおり》である。彼女も彼女で見舞いに釆たのだが、何だかタイミングを外されてしまい(五和に先を越されたとも言う)、どうして良いのか分からなくなっている訳だ。
「(……どうしましょう。明日にはロンドンへ戻らなくてはいけないのでスケジュール的には今しかないのですが、しかしまさにこの|瞬間《しゆんかん》、五和や『あの子』がいるようですし……)」
「ねーちーん……。そうこうしている内に日が暮れちゃうぜーい?」
唐突に真後ろから聞こえた声に、|神裂《かんざき》の肩がビクゥ!! と大きく動く。振り返ると、そこにいるのは金髪サングラスの少年、|土御門《つちみかど》|元春《もとはる》だ。
土御門は口元に軽く手を当てて含み笑いをしながら、
「せっかく激務の中で日本にやってくる機会に恵まれたんだから、ここらで今までインデックスや|天草式《あまくさしき》が世話になったお礼を言わなくっちゃいけないよにゃー」
「そっ、そんな事は分かっています。しかし、その、なんと言うのでしょう。一対一でも気恥ずかしいというのに、今は|五和《いつわ》に『あの子』までいるので、ええと、もう少しだけ待っていただけるとありがたいというか……」
「で、|堕《だ》|天使《てんし》メイドセットは持って来たんだろうな?」
「ぶふげば!? も、もも持ってくる訳がないでしょう!! |七天七刀《しちてんしちとう》以上に税関が厳しいです!! そもそも、その|馬《ば》|鹿《か》げた計画を実行に移すならより一層、一対一に決まっています!! 間に五和や『あの子』が挟まるなど絶対にありえません!! 『あの子』の完全記憶能力がどれほどのものか分かっているでしよう!?」
想像するに恐ろしい情景を思い描いたのか、高速で首を横に振る神裂。しかし土御門は訳知り顔で|鷹揚《おうよう》に|領《うなず》くと、
「そんな|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》で恥ずかしがり屋のねーちんのために……じゃーん!! 今日はより進化した堕天使エロメイドセットを持って来たにゃーっ!!」
「一体どこがどう変わったと言うんですか!?」
「え、何言ってんの? ほらこの胸の開き具合とスカート部分の透け具合がですね―――」
唐突に何らかの布地を広げかけた土御門の手を、神裂は|渾身《こんしん》の力で押さえつける。聖人の握力で|掌《てのひら》を|潰《つぶ》されそうになりながら、土御門はそれでもやや引き|攣《つ》った笑みを崩さず、
「じゃーどーすんの? ぶっちゃけどうするつもりなのねーちん。まさかテメェ、ここまで引っ張っておいてフツーににっこり|微《ほほ》|笑《え》んでちょっとほっぺた赤くして小首を|傾《かし》げて感謝していますで終わりとかじゃねーだろうな。気づけよ馬鹿ねーちん! そんなんじゃもう収まりがつかない所まで話は進んでんだ!! |焦《じ》らしに焦らして屑透かしなんて許されると思うなよーっ!!」
ビッカァ!! とサングラス越しに両目から|閃光《せんこう》を放つ土御門に、神裂|火織《かおり》は|普段《ふだん》の冷静さをすっかり失ってしまう。
やや後ろへたじろぎつつ、神裂は尋ねた。
「ならどうしろと言うんですか!! たとえどれだけ借りを|膨《ふく》らませようが、私にできる事と言ったら誠心誠意―――」
「挟んで|擦《こす》るぐらいの事はできんのかキサマはぁ!!」
「??? 挟むって、何をです?」
「こんのっ、お高くとまりやがって……ッ! ハイ質問ハイ質問!! ねーちんのそれは何のためについているのですか? その|哺乳類《ほにゆうるい》のアカシすなわちおっぱいは何のためについているんですかって聞いてんだよォォォ!!」
「す、少なくとも、挟んで|擦《こす》るために使うものではありませんけど……」
|土御門《つちみかど》の言いたい事を頭の中でイメージできないのか、不可解な表情になる|神裂《かんざき》。
意外にノッてこない彼女に土御門は軽く舌打ちして、
「でもねーちん。本当の所、そんなスローペースで良いのかにゃー?」
「な、何の事ですか」
「(……あの奥手少女、|五和《いつわ》ちゃんなら|堕《だ》|天使《てんし》エロメイドぐらいやりかねんと言っておるのだよ)」
「(……ッッッ!! !? ?? そ、そんな事がある訳が……ツ!!)」
土御門に合わせて、意味もなく|内緒《ないしよ》|話《ばなし》卜ーンになる神裂。
彼はにゃーにゃーと含み笑いを|漏《も》らしながら、
「|何故《なぜ》言い切れる? 確かに五和は奥手であるが|故《ゆえ》に大胆な行動には出ないと思われがちだが、実はおしぼり作戦が空回りしているだけであって、よくよく考えてみると行動力自体は結構あるもの。そして空回りを続ける五和が自らに足りないもの、すなわち堕天使エロメイドという|歯車《はぐるま》とガッチリ|噛《か》み合ったその|瞬間《しゆんかん》、そこに生まれる|攻撃《こうげき》|力《りよく》は一体どれほどになるであろう
か」
「そ、そんなまさか! ウチの子に限って!!」
「つか、ぶっちゃけ五和のサイズなら挟んで擦るぐらい問題ないですよ?」
「??? その、ですから挟むとは?」
またもやキョトンとしてしまう神裂に、珍しく自分のペースに巻き込めない土御門はちょっと頭を抱えた。これは別方向から攻めるぺきか、と方針を変更する。
「ねーちんば結局あれだ。自分の恥ずかしさばかりが先立って、カミやんに対する感謝の気持ちとかはもう全くゼロって事なんだにゃー?」
「ちっ、ちがっ、違いますよ!! あなたの|譬《たと》え話が堕天使エロメイドとか突飛すぎるだけです!! 私は普通に惑謝して!!」
「五和は多分気にしないよ? それはカミやんへの感謝の気持ちの方が強いから。正直な話、あの子は堕天使メイドぐらいなら普通にやるはず.それが堕天使エロメイドにパワーアップしようとな。この違いが何であるか分かるかにゃー?」
「な、何ですか。違いというのば……」
「つまりねーちんは五和に負けているんだにゃー。女の器のレベルで」
「ッ!?」
「っだー。ホントに|大丈夫《だいじようぶ》かよ今の|天草式《あまくさしき》は。ったくこの女はプライドだけが高くて身を削るって言葉を全然分かっちゃいねえ。こんなんで迷える子羊を導けんの? ねーちんってさ、いざとなったら自分だけ|可《か》|愛《わい》く思えてみんなを見放すんじゃねーのかにゃー」
「そっ、そんな……|堕《だ》|天使《てんし》エロメイド|如《ごと》きでそこまで言われる筋合いは……」
自分は絶対に正しいばずなのだが、何だかさも当然という顔で突き放すように言われてしまうと色々揺らいでしまう|神裂《かんざき》。
元々|上条《かみじよう》に負い目がある事も重なったせいか、あっという間に神裂の頭がバンク状態になる。
(い、いや、これは|土御門《つちみかど》の策略に違いないはず! 本当は堕天使エロメイド如きで女の器が決定する事などありえないはず!! え、ええと、論点はそこではないような……? 問題は女の器ではなく、あの方への感謝の示し方であって……。しかし堕天使エロメイドはないと言いつつ、私は具体的に反論できるだけのビジョンを頭に思い浮かべられるのでしょうか……。ハッ!! よ、弱気になってはいけません!! これは土御門の|罠《わな》!! いや、しかし、ううん、ええと……冷静に。とにかく一度冷静になって考え直すのです!!)
「ん? あ、あれ。ねーちん?」
内面世界で空回りする神裂に、やや引き気味に質問する土御門。
その言葉が全く聞こえていないのか、神裂は顔からあらゆる感情を消したフラットな表情を作ると、病院の廊下で静かに正座し、華道の作法のような|緩《ゆる》やかな動きで、どこからともなく
取り出した二〇枚近い屋根|瓦《がわら》を積み上げていくと、
「ぬううううラララうううううううううううん!!」
真上から握り|拳《こぶし》を叩きつけ、瓦どころか床にまでグーをめり込ませる神裂。
ガラガラと崩れていく音を聞きながら、神裂は極めてクールな調子で土御門に言った。
「|大丈夫《だいじようぶ》。私はちゃんと考えています」
一方、何だか妙にスワッた目つきの女教皇を見た土御門は、内心ちょっと|焦《あせ》っていた。
ヤバい、|面白《おもしろ》半分に追い詰め過ぎたかも?
ちょっとダラダラと冷や汗を流し始める土御門に、神裂はゆらりと手を伸ばす。手刀のように五本指を|真《ま》っ|直《す》ぐ|揃《そろ》え、|掌《てのひら》を上に、そのまま土御門の首をスッパリ切断できそうな感じで。
神裂は言う。
「土御門」
「は、はい?」
「覚悟が決まりました。例の物を」
およそ一〇分後。
ゲラゲラ笑う土御門の顔面に拳を叩き込み、女性としての引き出しを増やし、また一段とレベルアップした|天草式《あまくさしき》|女教皇《プリエステス》・神裂|火織《かおり》が一つの病室へ|突撃《とつげき》していく。
その後、世界にどういう混乱が巻き起こったかは|女教皇《プリエステス》の名誉を守るために割愛する。
ただ言えるのは、上条|当麻《とうま》はミーシャ=クロイツェフとも|風斬《かざきり》|氷華《きようか》とも違う、第三の天使の影に今後しばらく|怯《おび》え統けるという事だけだ。
イギリス清教から連絡があった。
戦略交渉人と呼ばれる者は、いくつかの資料と、降参するためのプランをいくつか提示してきた。最も望む結未を自分で選べと。言外に語っていた。ローマ教皇はそれらを半分も聞く前に、連絡を断ち切っていた。
|憤《いきどお》る。アックアが|敗《やぶ》れた事には二つの意味がある。一つは、それだけ重大な戦力を失ってしまった事。そしてもう一つは、敵側にそれ以上の戦力が存在するという事。
(そもそも、一体何をどうすればアックアが敗れるのだ……)
|上条《かみじよう》|当麻《とうま》
|稀《け》|有《う》な力の持ち主とはいえ、それだけでアックアがやられるとは思えない。しかしあの少年を守るために、多くの人間が自然と|集《つど》った。単純な友人や仲間による、彼らの勢力が。
「……、」
ローマ教皇は、静かに思う。
確かに、あの少年は強敵だ。
真剣な表情で考え込むローマ教皇の耳に、一つの足音が聞こえてきた。
「いかんなあ。アックアが倒れたって? 連中もそこそこ成長してきたって訳か。まあ、だからこそ|叩《たた》くための大義名分が仕上がる訳なんだが。ハッ、俸大なるローマ正教が収める世界に混乱生じる場合は、いかなる者であろうとその元凶を|速《すみ》やかに排除すべし、って所か」
バチカン聖ピエトロ大聖堂に|響《ひび》く足音。
その主を見て、ローマ教皇ば苦渋の表情を浮かべる。
「右方のフィアンマ……。ま、さか、『奥』から出てきたのか……」
「これはこれは険しい顔を浮かべている」
ローマ教皇に声を放ったのは、一人の青年だ。
フィアンマはローマ教皇の顔を見て、がっかりしたような顔になった。
「指導者の資質は|窮地《きゆうち》にこそ|露《あらわ》になるって言うのに。いかんな、そういう反応は。まるで教皇としての器に合わんように見えてしまう」
「どうする……つもりだ?」
ローマ教皇は慎重に尋ねた。
前方のヴェントは|療養《りようよう》|中《ちゆう》、左方のテッラは死亡、後方のアックアは生死不明。ならば、現状で『神の右席』の、そしてローマ正教の決定権を一手に握っているのは、このフイアンマだ。
それ以前に、このフィアンマは『神の右席』の中でも不気味な存在だった。あれだけ我の強い『神の右席』の連中も、最終的な行動の決定権はフィアンマに|委《ゆだ》ねていた気がする。
「ヴェントを使った学園都市への|奇襲《きしゆう》も、テッラが出した世界的な集団操作も、そしてアックアの圧倒的な才能も……ことごとくが失敗に終わった。これ以上の手があるのか? 科学サイドの総本山、学園都市の動きを封じるだけの、圧倒的な策が」
ローマ教皇の声色は暗い。確かにローマ教皇は科学サイドの台頭を容認できず、『神の右席』に指示を仰いだ。だからと言って、自分自身ならともかく、罪なき信徒まで巻き込んでまで、このまま|籠城《ろうじよう》するような|真《ま》|似《ね》はしたくない。
が、そんなローマ教皇の思惑とは裏腹に、フィアンマは軽い調子でこう言った。
「まずはイギリスを討つ」           1、
なに? と|訝《いぶか》しむローマ教皇をほとんど無視するように、フィアンマは続けて言う。
「これが分からんかな。現状、我々はロシア成教を取り込んだ事によって、イギリス以外のヨーロッパ全域をほば|完壁《かんぺき》に|掌握《しようあく》している。諸国家へ連絡を入れ、イギリスを干上がらせるんだよ。人員、物資、金銭、それら|全《すべ》ての流れを断つ。基本的には島国だからな。逃げ場をなくしたヤツらは数ヶ月で力を失ってしまうって寸法さ」
「意味が、理解できないのだが」
ローマ教皇はフィアンマの言葉をもう一度理解しようとして、そして|諦《あきら》めた。
素直に質問する。
「確かに学園都市とイギリス清教の間にはバイプがある。しかしイギリスを攻め落とした所で、それが学園都市へ致命的なダメージを与えるとは思えん。仮にイギリス全体を巨大な人質にしても、学園都市は平気な顔で戦争を続行するに違いない。『彼らを助けるのだ』とでも言えば口実になるだろうしな」
逆に、学園都市を先に攻め落としてしまえば、イギリスの動きは止まる。イギリス清教は|旧教《カトリツク》の三大宗派の一つだが、それば『三大の一つ』という意味でもある。ローマ正教、ロシ
ア成教という『三大の二つ』とそのまま戦争を起こすとは思えない。
イギリス側が強気になっているのは、学園都市―――科学サイドが丸ごと味方についているからであって、学園都市さえ無力化してしまえば、イギリスは無傷で目を覚ますはずだ。
「違うなあ。そいつは違うんだよローマ教皇さん」
しかし.フィアンマは簡単に|遮《さえぎ》った。
「学園都市なんて、こっちは眼中にないんだよ」
今度こそ、ローマ教皇の呼吸が止まった。
右方のフィアンマの言っている事が、部分的ではなく、単語の一つまでも理解できなくなった。
そんなローマ教皇に、フィアンマはあっさりと続ける。
「イギリスには『あれ』があるんだよ。どうしても必要な『あれ』がな。とはいえ、連中が素直に『あれ』を差し出すとは思えんし。だから騒ぎを起こす必要があったって訳だ。『あれ』を手に入れるために、ローマ正教としての大きな力に動いてもらわなくてはならなくてな」
「何を、言っている……?」
「んん? 質問には答えているつもりだがな。それに、あながちお前の願いから外れた行動って訳でもないよ。『あれ』さえ手に入ってしまえば、学園都市だろうが科学サイドだろうがまとめて粉砕できるだろうしさ」
「何だ……?」
ローマ教皇は理解できないまま、ただ質問する。
「『あれ』とは、何だ……?」
「ああ」
右方のフィアンマは簡単に口を開いた。
そこから出てきた言葉は―――、
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
ガタン、という音が聞こえた。
よろめいたローマ教皇の背が、聖ピエトロ大聖堂の太い柱にぶつかった音だ。
「|馬《ば》、|鹿《か》な……」
かろうじて、絞り出すようにローマ教皇は告げる。
「貴様、本当に十字教徒なのか……?」
フィアンマはあっさり返す。
「さあて。どっちだと思う?」
「くそ!!」
「いかんな。仮にもローマ教皇ともあろう|御《お》|方《かた》が、そういうロを|利《き》くのはとてもいかんよ」
|嘲弄《しようろう》するようなフィアンマの言葉を、ローマ教皇は無視した。
それどころではなかった。
前方のヴェント、左方のテッラ、後方のアックア。各人が異質な思想や|流儀《りゆうぎ》に|則《のつと》って動いていたが、彼らはまだ『神の右席』という十字教の一集団だった。天使以上の力を手に入れ、『|神上《かみじよう》』となって直接的に人を救う。その考え方は|傲慢《ごうまん》かつ|冒涜《ぼうとく》|的《てき》である一方、人として理解できなくもない部分もあった。
だが違う。
この右方のフィアンマだけは決定的に違う。
フィアンマは『ローマ正教・ロシア成教』の力を使ってイギリスを孤立させろと言った。しかし、それをイギリス側が|黙《だま》って見ているとは思えない。本気で枯渇すると分かれば、死に物狂いで戦おうとするだろう。このままではヨーロッパ全土が戦場と化す。学園都市へ潜り込んで、要人の一人二人を|襲《おそ》ってくるのとは次元が違う―――|正真 正銘《しようしんしようめいの戦争が起きてしまう。
「き、さま……この私が黙って見過ごすとは思っていないだろうな」
やらせる訳にはいかない。
始めてはいけない争いを始めてしまった……その自覚はあるが、今ならまだ止められる。
「ヤル気かな」
ローマ教皇の顔を見て、フィアンマは|緩《ゆる》やかに首を横に振った。
「『神の右席』を束ねるこの|俺様《おれさま》に?」
「見くびるなよ。沈みかけた|泥舟《どろぶね》の|長《おさ》が」
「言ってくれるな。確かに希少な『質』の持ち主とはいえ、たかが三人。『前方』『左方』『後方』の地位など、再び|誰《だれ》かをあてがってしまえばそれで済む。この俺様が生き続ける限りはさ」
「させると思うか」
ローマ教皇の声が低くなる。
「右方のフィアンマ。貴様にはしばらく黙っていてもらおう。あるいは、永遠にな」
ドン!! という爆音が|炸裂《さくれつ》した。特に何かが出現した訳ではない。ただ何も変化のないままに、周辺の空間そのものがミシミシと奇妙な音を立てて揺らいでいく。まるで巨大な箱の内側から、その箱が|潰《つぶ》されていくのを眺めるような情景だ。
「一から一二の使徒へ告ぐ。数に収まらぬ主に仰ぐ。満たされるべきは力、我はその意味を正しく知る者、その力をもって敵が倒れる事をただ願う」
複数の光が舞う。それらは単なる光の玉に過ぎないはずなのに、不思議と逆さにした十字架や|帆立《ほたて》|貝《がい》など、全く異なるイメージをそれぞれ内包していた。
意味持つ光はフィアンマを取り囲み、それぞれが平面を築く。まるでサッカーボールのような牢獄の中央に、彼の体が閉じ込められる。
口笛が聞こえた。
完全包囲されたはずのフィアンマのロから|漏《も》れたものだった。
「『神の子』と一二使徒の象徴ね。良いのか。仮にも教皇様が裏切り者のユダの印まで借りて」
「勘違いするなよ。確かにユダは主を裏切ったが、そのユダをも使徒として招いたのが主の|慈《じ》|悲《ひ》だ。|汝《なんじ》、|隣人《りんじん》を愛せよ。都合の悪いものを|葬《ほうむ》るのは簡単だ。しかしその安易を求めないのが教えの本意のはずなのだ」
バォ!! と爆音が炸裂する。
フイアンマを取り囲む一三角形が、それぞれ|束縛《そくばく》の陣を形成した。それば物理的にフィアンマを|縛《しば》るものではない。彼の肉体と精神を切り|離《はな》し、その肉体の中で|永劫《えいごう》に空回りさせるための、『傷つけぬ|束縛《そくばく》』である.
「ユダは裏切りの後、強い自戒に駆られて首を|吊《つ》ったそうだ。彼の世界は暗く寒く深く苦しく、どこを見回しても|一縷《いちる》の希望すら見えなかったのであろう。覚えておくが良い、これから貴様が味わうものの正体だ」
すでに聞こえぬだろうが、ローマ教皇はそれでも口を動かす。
「これより貴様を四〇年ほど空転させる。ユダの|陥《おちい》った『己白身に対する孤独』を長く味わい、その未熟な精神を今一度|研《けん》|磨《ま》し直すが良い」
一三角形の中で、棒立ち状態のフィアンマの唇が、わずかに|震《ふる》えた。
指一本動かせぬ中での、精一杯の抵抗か。
「やめておけ。曲がりなりにも私は教皇。今ここで振るう力とは二〇〇〇年の時を経て、二〇億もの信徒を支え導く神聖なもの。一人二人の|傲慢《ごうまん》で振り切れるようなものではない」
それに加えて、この聖ピエトロ大聖堂は|旧教《カトリツク》勢力圏の中でも最大最高の|要塞《ようさい》。さらにばバチカン市国そのものが、ローマ教皇を何重にも補強する巨大|霊装《れいそう》として機能する。
「ふん」
そこで、今度こそフィアンマの口が動いた。
ローマ教皇の顔に|驚《おどろ》きが出る。それは束縛された者の動きではなかった。
自然な調子でフイアンマは言う。
「残念だが……たった二〇億人、たかが二〇〇〇年ではな」
その|瞬間《しゆんかん》、|全《すべ》てが消失した。
ローマ教皇の瞳には、フィアンマの右肩の辺りが爆発的に光を放つのをかろうじて|捉《とら》えるのが限界だった。次の瞬間には全ての視界が真っ白に塗り|潰《つぶ》され、そして|破壊《はかい》の|嵐《あらし》が巻き起こる。
ドーム状の爆風が|炸裂《さくれつ》した。
聖ピエトロ大聖堂の三分の一が内側から粉々に吹き飛ばされた。
|莫大《ばくだい》な施設を支える|魔術《まじゆつ》|的《てき》な仕掛けが次々と切断され、このバチカンを守っているその他の施設が次々と|連鎖《れんさ》崩壊を起こしていき、本来は領土を保護するためにあるはずの防護陣が大きく崩れ、行き場を失った魔力がそこかしこで吹き荒れ、景色をぐにゃりと|捻《ね》じ曲げる。
ローマ教皇の体は一〇〇メートル以上吹き飛ばされ、広場の|石《いし》|畳《だたみ》を転がっていた。
彼は、砂煙をあげて崩れていく聖ピエトロ大聖堂を、|呆然《ぼうぜん》とした顔で眺めていた。世界最大の要塞が、十宇教で最も巨大な聖堂が、まるで紙細工のように引き裂かれていく。そのあまりの|惨状《さんじよう》は、ローマ教皇から傷の痛みすらも忘れさせた。
全ての破壊の中心に、右方のフィアンマは君臨する。
彼はゆっくりと広場へ歩いてくる。
その右肩の辺りに、奇妙なものがあった。
本来あるべき腕とは別に、出来損ないの|翼《つばさ》のような、不格好な五本指を備えた巨人の腕のような、|歪《いびつ》な光の|塊《かたまり》が。ギリシア神話では主神ゼウスの割れた額の傷口から女神アテナが生まれたとされるが、それと同等のあまりにもシュールな光景だ。
「つまらんな。これだけで空中分解したのか」
フィアンマば己の右腕と、肩から生えた何かを交互に眺め、エンジンの調子の悪い車に乗ったように舌打ちする。
ローマ教皇は砕けた|石《いし》|畳《だたみ》に体を預けたまま、|呻《うめ》くように呟いた。
「それは……腕……まさか、その力は……」
「そう。右腕というのは奇跡の象徴だ」
ゆっくりと|瓦礫《がれき》の中を歩きながら、フィアンマは言った。
「『神の子』は右手をかざすだけで病人を|癒《いや》し、死者を|蘇《よみがえ》らせた。十字を切るのは右手であり、洗礼の聖水を振りかけるのも右手で行われる。そして『|神の如き者《ミカエル》』。こいつの右手には史上最強の武器が備わっていた。多くの|堕《だ》|天使《てんし》を|葬《ほおむ》り、かの『|光を掲げる者《ルシフエル》』すら|斬《き》り伏せるほどの圧倒的な力がさ」
右方。
|燃える赤《フイアンマ》を象徴する男は、ただただ講釈を統ける。
ローマ正教で最も偉いはずの、教皇に対して。
「ぐっ……」
「だが、当然ながらそんなに|莫大《ばくだい》な力を持つ『聖なる右』ってなぁ、まともな人間にゃ扱いきれんのだよ。一般信徒が十字を切ったり聖水を|携《たずさ》えたりというのは、まぁ、あれだ。神話の人物が振るう力の|片鱗《へんりん》のようなものに過ぎないってのは分かるだろ? たとえ聖人だろうが『神の右席』だろうが、|所詮《しよせん》ベースとなってる肉体はただの人間だ。分かるかい、ローマ教皇さん。|俺様《おれさま》はただの人間なんだよ、困った事に」
フィアンマは退屈そうな調子で告げる。
人間|離《ばな》れした力を軽々と振るうこの男は、それでも自分をただの人間と呼び、|蔑《さげす》んだ。
「つまり、だ。この俺様は素晴らしい『右腕で振るうペき奇跡』の結晶そのものを握っているが、そいつを|溜《た》め込み操り発揮するだけの出力|端子《たんし》がない。そんな状態で振るう力なんて、ちっぽけだっただろう? わざわざハイビジョンカメラで撮影した映像を、モノクロのテレビで見るようなものだ」
|歪《いびつ》で巨大で|禍々《まがまが》しい腕が、フィアンマの背後で揺らめく。
彼は細い指先を軽く舐めながら、言う。
「なあ、おい。欲しいとは思わないか?」
人の作り上げた聖堂など、ただ組み立てただけの神秘など、造作もないとばかりに聖ピエトロ大聖堂を破壊し尽くした、右方のフィアンマ。
「あらゆる奇跡の象徴たる『聖なる右』。どんな邪法だろうが悪法だろうが、問答無用で|叩《たた》き|潰《つぶ》し、|悪魔《あくま》の王を地獄の底へ|縛《しば》り付け、一〇〇〇年の安息を保障した右方の力。そいつを|完璧《かんぺき》に引き出せる『右腕』があるとしたら、その内部構造を知りたいとは思わないのか?」
(ま、さか……)
報告書でなら、読んだ事がある。
学園都市にいるという一人の少年が持っている、正体不明の異能の力。
あらゆる神秘も|魔術《まじゆつ》も打ち消すとされる、その右腕。
「|俺様《おれさま》なら、扱える」
フィアンマはニタニタと笑いながら、右手を水平に掲げた。
呼応するように、己の力によって空中分解した第三の腕も動く。
「この『|神の如き者《ミカエル》』なら、|完璧《かんぺき》に扱ってみせる。そのための下準備が必要なのだよ」
無論、『材料』だけが|揃《そろ》っても、術式は制御できない、圧倒的な力を押さえつけるのに必要なのは、やはり人の領域を超えた圧倒的な知識。そして、ローマ教皇は『知識の宝庫』を知っていた。世界中の|魔道《まどう》|書《しよ》をかき集めた、ある一つの知識の縞晶を。
ローマ教皇の表情から、何を考えているのかを知ったのだろう。
フィアンマはさらに笑みを広げる。
「禁書目録。イギリスの連中も愉快なものを用意してくれたもんだ」
だからこそ、
こいつはイギリスに用がある。
学園都市に一時滞在している本人ではなく、|敢《あ》えてイギリスの方へ。
「やら、せるか」
ポツリと、ローマ教皇は呟《つぶや》いた。
血まみれの体を引きずって、ローマ教皇は立ち上がった。彼は『神の右席』に指示を仰げば、その一員となって『|神上《かみじよう》』を目指ぜば、より多くの信徒を救えると思っていた。ローマ教皇は自分の地位や立場を押し上げるために、そんなものを目指していたのではない。罪のない子羊が|踏《ふ》み台にされるような世の中を作るために、ローマ教皇になったのではない。
だからこそ、ローマ教皇は立ち|塞《ふさ》がる。
彼の背後には、二〇億人の未釆がある。
「楽しいな」
巨大な腕を水平に掲げたまま、フィアンマは笑った。
「圧倒的な勝負というのは、|馬《ば》|鹿《か》|馬《ば》|鹿《か》しくてもやっぱり楽しい」
ゴバッ!! という爆発音が|炸裂《さくれつした。
二人は交差すらしなかった。
ただ圧倒的な力が貫き、ローマ教皇の体が吹き飛ばされた。
聖ピエトロ広場が|粉《こな》|微塵《みじん》に|破壊《はかい》された。爆発の余波が複数の建物を突き崩し、ただでさえダメージを負っていた大聖堂がさらに|倒壊《とうかい》していく。バチカン市国を囲む外壁の一部が壊れていた。ローマ教皇はそちらに薙ぎ払われたのだ。
その騒ぎで、『こんな所で危機的状況に|陥《おちい》る訳がない』と信じ切っていたバチカンの衛兵|達《たち》がもたもたと駆けつけてきた。彼らはフィアンマの事を、はじめポカンと眺めていた。まさか生身の人間がこれだけの破壊を巻き起こせるとは思っていなかったのだろう。ようやく我に返って職務を全うしようとした数名が、グチャグチャに|潰《つぶ》れて宙を舞った。それで『支配者』は確定した。
「ふん?」
と、フィアンマは|徹底的《てつていてき》に破壊されたバチカンの外壁の向こうを見た。
おかしい。被害が少ない。
本来なら先ほどの|一撃《いちげき》の余波で、外壁の向こうに広がるローマ市街も、数百メートルにわたって|瓦礫《がれき》の山になっているばずだった。しかし実際には、破壊はバチカン内部だけで、外に広がる市街地には及んでいない。
「全部自分一人で受け止めた、か。大した野郎だ」
フィアンマは鼻歌を歌い、ほとんど崩れた聖ピエトロ大聖堂へ向かう。
|下《した》っ|端《ぱ》の衛兵はおろか、大司教や|枢機卿《すうききよう》といった|重鎮《じゆうちん》までもが、一言も発する事ができなかっ。
.
血まみれのローマ教皇は、家屋の外壁に寄りかかるように倒れていた。
フィアンマは、爆発を隠そうともしなかった。おかげで周辺では爆弾テロだ何だと大騒ぎになっている。
救急車のサイレンがどこかで鳴っていた。
どこかで被薯が出たのかと思ったが、どうやら自分を運ぶための救急車が近づいてきているらしい。
辺りを見回しても、家屋が倒壊している様子はない。
砕け散った外壁の破片がいくつかの窓を割ってしまったが、死者は出ていないようだ。
その事にローマ教皇がわずかに微笑んだ時、ふと家屋と家屋の|隙間《すきま》にある小さな路地から、|薄汚《うすよご》れた身なりの少女がこちらを見ているのに気づいた。
ここは危ない。
そう言おうとしたが、まともな言葉は出なかった。
意識が飛ばないようにするためか、少女はローマ教皇に何かを叫んでいる。彼女の手には包帯も消毒液もない。だが、必要以上の科学を求めないローマ教皇には、こちらの方がむしろありがたかった。何よりも、|莫大《ばくだい》な悪意に触れた直後には、この小さな善意が身に|染《し》みた。
「はん。ご立派な事だね」
声が聞こえた。
ローマ教皇が顔を上げると、黄色い服に身を包んだ女が立っていた。
前方のヴェント。
「迷える子羊を救って名誉の負傷、|傍《かたわ》らには|御身《おんみ》を心配してくれる小さな思い、か。それでも人に選ばれる事はお|嫌《きら》いなの? 選挙で決まったローマ教皇さん」
「……、イギリスだ」
息も絶え絶えに、何とかローマ教皇は口を開いた。
ほとんど血の|塊《かたまり》を吐き出すように、彼は言う。
「フィアンマの|狙《ねら》いは、イギリスにある……」
「この私に、命令形はない」
ヴェントは舌を出して、簡単に切り捨てた。
「だが、クソ野郎を殺すために合致するなら見逃してやっても良いってトコか」
その時、ヴェントの言葉がわずかに止まった。
|薄汚《うすよご》れた身なりの少女が、挑むようにヴェントを|睨《にら》んでいたからだ。
「良い悪意」
彼女はうっすらと笑う。
「そして運も良い。本来の『武器』が手元にあったら、あなたはここで死んでいた」
救急車のサイレンが近づいてくる。
ヴェントはそれ以上何も言わず、家屋と家屋の|隙間《すきま》にある路地へと姿を消した。それこそ.
薄汚れた身なりの少女よりも、見知った顔で。
ロンドン、リトルヴェニス。
イギリス清教を束ねる最高権力者、|最大主教《アークビシヨツプ>のローラ=スチュアートはボートの上に寝転がっていた。ボートが浮かんでいるのは復数の水門で管理された人工の川だ。ヴェニスという名前からも分かる通り、多少はヴェネツィアを意識しているようだが……何をどう間違ったのか、美しい景観を持つものの全くもってヴェネツィアらしくない。そもそも海上都市でも何でもない、三本の川が集まる船着場なのだ。
なお、裏の意味として海の上に人工的に形作られたヴェネツィアの地形を|魔術《まじゆつ》|的《てき》な観点から再現・解明するための場所でもあるのだが、その正体を知る者は極めて少ない。
「せめて|手《て》|漕《こ》ぎのボートぐらい浮かびておればよきものを……」
ローラはつまらなさそうに、ボートの後ろをチラリと見た。一応船頭らしき男はいるのだが、ボートには小型のエンジンがくっついている。
「報告です」
その船頭が仕事の話を持ってきた。
せっかく聖ジョージ大聖堂から抜け出しているというのに|雰囲気《ふんいき》ぶち|壊《こわ》しな船頭に、ローラは口を|尖《とが》らせつつも先を促す。
「ローマ正教内で内部抗争があった模様。ローマ教皇が巻き込まれたようですが、生死は不明。一応病院へ|搬送《はんそう》された事は確認できましたが、予断を許さない状況との事です」
「……、」
船頭はローマ市内での|目撃《もくげき》情報や|魔力《まりよく》の流れなどから得た予測的な情報を交えて、『内部抗争』の詳細を話していく。
「バチカン内で観測された|莫大《ばくだい》な魔力量から判断するに、本来の被害は数倍から数十倍に|膨《ふく》れ上がるという事ですが……計算にもう少し時間をください。どこかで間違っているのかもしれません」
「ふん、何も出なしわよ。ローマ教皇の背後は一般市街なりけるのでしょう。なれば結果は火を見るより明らかね」
ごろんと寝返りを打って、船頭からは表情が見えなくなるローラ。
そうしながら、彼女は一言だけポツリと|呟《つぶや》いた。
「……善人め」
その言葉に、どれだけの意味が、|想《おも》いが込められているのか。船頭には判別つかなかった。ローラ=スチュアートは見た目通りの年齢ではなく、積み重ねた経験の量も質もそこらの人間とはケタが違う。だからこそ、船頭にはローラの考えている事が分からなかった。
「……されど、貴様は笑うていたのであろうよ。この善人め」
ただし、あくまでも凡人の船頭から見た感想では。
ローラ=スチュアートの声色は、どこか寂しそうに思えた。
学園都市の一角には、窓のないビルがある。
核兵器でも|破壊《はかい》できないほどの強度を誇る建物は、たった一人の『人間』のために用意されたものだ。
学園都市統括理事長・アレイスター。
巨大なガラス容器の中で逆さまに浮かぶ『人間』の口元には、笑みがある。
彼が見ているのは、空中に直接表示された四角い画面だ.
情報元は『|滞空回線《アンダーライン》』。
学園都市中にばら|撒《ま》かれた極小機械が織り成す、特殊なネットワークだ。
いつもはあらゆる情報を映し出す画面には、しかし灰色のノイズしかない。後方のアックア|撃破《げきは》後に起きた大爆発によって、『|滞空回線《アンダーライン》』の情報|綱《もう》が一時的に寸断されてしまったのだ。極めて特異なテクノロジーによって作られた『|滞空回線《アンダーライン》』だが、その母体はわずか七〇ナノメートルしかない。爆風や|衝撃波《しようげきは》によって|損壊《そんかい》してしまう事もある訳だ。
一エリアで発生したノイズはネットワークのあちこちに飛び火し、全体に大きな負荷をかけている。完全復旧までおよそ数時間。アレイスターにとっては片腕をもがれたような状況だが、しかし彼の口元には笑みしかない。
「やはり、この間題点はどうにかせねばならんな……」
むしろ|嬉《うれ》しそうだった。やるぺき事が明らかになったとばかりに。
アレイスターを取り囲む機械群は、『|滞空回線《アンダーライン》の機能停止直前に得た情報を多角的に分析し、ノイズまみれの断片を明確かつ有効な情報へと統合処理していく。灰色の画面に鮮明な色がつき、それらはすぐさま重要なレポートとなって出力される。
レポートの内容は、とある少年の右腕に備わっている力について。
様々な化学式が|躍《おど》り、吸入する酸索と排出される二酸化炭素の量から脳の作動状況を逆算し、学園都市に|蔓延《まんえん》するAIM拡散力場の|相殺《そうさい》具合のデータから、右手のカの質と量が導き出される。
|徹頭《てつとう》|徹尾《てつび》、科学のみで構成された世界。
それらのモニタの片隅にある文宇を目で追って、アレイスターの笑みはさらに深くなる。
大人にも子供にも、男性にも女性にも、聖人にも罪人にも見える『人間』の前には、こんな報告が並んでいた。
―――非諭理的現象を否定するための基準点(Point Central 0)、安定レベル3を維持。
―――中心点でアイドリングを続けるコアの規定回転数を確認。
―――検体名称『|幻想殺し《イマジンブレイカー》』、プラン|影響率《えいきようりつ》九八%。
―――学園都市第一位と並び、メインブラン主軸としての力は計画通り稼働中。
[#改ページ]
あとがき
一冊ずつついてきていただいている|貴方《あなた》はお久しぶり。
一七冊一気読みという偉業を成し遂げた貴方は初めまして。
|鎌池《かまち》|和馬《かずま》
このあとがきも、もうそろそろ二〇回に届くのですね。いい加減に少しは慣れれば良いものを、本文ともども|拙《つたな》い感じなのがとてもアレですが。
今回のテーマは『選ばれたもの』。オカルトキーワードは『聖人』です。アックアの術式には聖母|崇拝《すうはい》などを組み込んでいますが、やっぱり土台となるのは聖人と聖人のぶつかり合いになっています。
|五和《いつわ》(というか|天草式《あまくさしき》全員)が放った『聖人崩し』ですが、九巻を読み返していただければ分かる通り、これも結構な大技です。この隠し玉を放った時点で、|魔術《まじゆつ》サイドにおける天草式の組織的バランスは崩れてしまったものとお考えください(|故《ゆえ》に、聖人の|神裂《かんざき》がトップに返り咲かないと大変な事になる、という女教皇復帰を願う|建宮《たてみや》|達《たち》の策士っぶりも発揮されている訳ですが)。
この巻でもちょこちょことシリーズ全体の核に|関《かか》わる情報が出てきますね。この辺りで一度、提示された情報をまとめてみるのも|面白《おもしろ》いかもしれません。どの時点でどの情報が提示されたのか、そしてその情報が|覆《くつがえ》されたのはいつなのか。調べてみると、今後シリーズ内で起こるであろう流れのようなものの|片鱗《へんりん》を|掴《つか》めるかも?
担当の|三《み》|木《き》さんとイラストの|灰村《はいむら》さんには感謝を。意外に面倒なバトル描写が多かったかなと反省しているのですが、お付き合いいただきありがとうございます。
そして読者の皆様にも感謝を。何だかシリーズの舞台裏だけがゴチャゴチャしていく感じで申し訳ないのですが、ここまでお付き合いいただいてありがとうございます。
それでは.今回はこの辺ウでページを閉じていただいて。
次回も無事に開いていただける事を祈りつつ、
この辺りで筆を置かせていただきます
なんか、五和も普通の女の子じゃなくなっていく [#地付き]鎌池和馬
[#改ページ]
とある|魔術《まじゆつ》の|禁書目録《インデツクス》16
鎌池和馬
発 行 二〇〇八年 六月一〇日 初版発行
著 者 鎌池和馬
発行者 高野 潔
発行所 株式会社アスキー・メディアワークス