遠藤周作
口笛をふく時
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目 次
プロローグ
灘 高
男女七歳にして
息 子
忍ぶれど
接 近
卒 業
ある女
新入社員
写 真
戦 争
実 験
万年筆
新 薬
口 笛
勝 利
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プロローグ
「失礼ですが……」
小津はゆっくり眼をあけた。
この新幹線のなかで何時の間にか、眠っていた。冬のわびしい陽差しが浜名湖の鉛色の水面にさして、二、三隻の小舟が浮いている。
「失礼ですが……」
声をかけた男は人なつこい、懐かしげな表情をうかべて、
「小津さん、じゃあ……ありませんか」
「はあ」
眼をしばたたきながら小津は相手の名を思いだそうとした。
この年齢《とし》になると物忘れがひどくなった。時折、こんな風に、突然、だれかに声をかけられることがある。出会った記憶のある顔だが、相手の名前も自分との関係もどうしても思いだせない――そんなことが数多くなったのだ。
「上田です。憶えておられませんかな」
男は困ったような表情をして、
「灘中時代、御一緒だった……上田です」
「ああ、これは、これは」
小津は思わず声をあげた。だが、上田という名も、その男の中学の頃の顔も記憶の層のどこにもなかった。
「さきほど、ビュッフェに行く途中、この車輛を通った時、チラッと拝見しましてね、どこかでお目にかかった顔だと考えていたのですが、食事しながら、急に思いだしたのです。あなたとはクラスがちがっていたが……」
「ほう」
「修学旅行の時、同じ部屋でしたよ」
上田は小津の記憶を助けるように、
「その時、財布をなくされましてね」
「私が?」
「ええ。みんなで探しましたよ。出発がおくれて、チューアンがひどく怒ったでしょう」
手洗いに行く婦人を通すため、上田は体を横にして小津の肩に手をおいた。
「チューアン。思いだしました。体操の教師の……」
そう、そんなこともあったっけ。小津のひからびた唇に微笑とも苦笑ともつかぬ笑いがやっと浮んだ。チューアン。体操の教師。穴から出てきた鼠そっくりの顔をしているために生徒からそんなあだ名をつけられていた先生だ。
「どうされています、あの先生は」
「おや、御存知なかったですかな。戦死されましたよ。中支で」
「そうですか」
小津は溜息をついて、
「長いあいだ、灘中の先生たちにも御無沙汰しておりまして……」
「同窓会にはあまり出られませんか」
「出ておりません。通知を頂戴しておらんものですから」
「そりゃ、いかん」
上田はしばらく小津の顔を覗きこむようにして、
「名簿にきっと記載洩れなのですな。私から幹事に連絡しておきましょう。名刺を頂けますか」
列車は浜名湖をすぎていた。工場の煙突から、ゆっくり煙がながれ、遠くに団地の白い建物が午後の陽ざしをうけて並んでいた。
「今は灘中も我々の頃とは違うて、秀才学校に変りましたよ」
「そうらしいですな、わたしらの頃はほかの中学を落ちた連中も入学してきたもんですが……」
名古屋でおりるという上田が自分の車輛に引きあげたあと、今、もらった名刺にじっと眼を落して男は三十年以上も前の記憶におのずと浸《ひた》りはじめた。
(そうか、灘中か)
あの学校を自分が出たというのが、ふしぎなくらいだ。
時折、灘高の話を耳にしたり、週刊誌で読んだりすることがある。彼が通学していた時とはすっかり違って、今では秀才ばかり集まる高校に変ってしまったようだ。東大などの入学率も全国で上位にランクされているらしい。子弟をこの高校に入学させるため、わざわざ、阪神に住居を変える父兄もいると耳にしたことがある。
「父さんが灘を出たとは信じられんね」
むかし息子からそう言われたことも小津にはたびたびあった。
「どうして」
「だって、強敵だよ。あの学校の奴は」
その頃、受験勉強をしていた長男はいかにも憎らしそうに、
「あの学校じゃ一年でもう普通の高校の二年分を教えてしまうと言うんだから。むかしはそうじゃなかったんだろ」
「父さんの頃か……まだ、そこまでは、やっていなかったな」
小津はその時、首をふったのを憶えている。
「もっと、ノンビリしていた。成績順にクラスをA、B、C、Dの四つにわけて、秀才はA組に入れたけれど、C組やD組はできない連中の集まりだった」
「父さんはいつもD組だったのか」
「いや、BとCとDを往復していた」
そうだ。あの頃の母校はまだ、のんびりとした何かがあった。
御影にちかい住吉川のほとりの松林に建てられたクリーム色の建物。その右に木造の柔道場があるのは、この学校が柔道の始祖|嘉納《かのう》治五郎が建てたためである。柔道は生徒全員の正課になっており、小津が入学した頃はドブ先生という柔道教師がいたっけ。
眼をつぶって小津は母校の校歌を思いだそうとしたが、あの頃、歌いなれていたその歌が、すっかり古くなった頭には浮んではこなかった。そのかわり講堂にかかげられてあった「精力善用、自他共栄」という嘉納先生の八つの文字が突然心に甦《よみがえ》ってきた。
ながい間、あの学校を訪れたこともない。
同窓会にも出席したこともない。
一緒に机をならべた連中の消息もほとんど知らぬ。
物理の先生の名は何といったっけ。名は思いだせぬが、あだ名だけは記憶に残っている。ガスマスクは小津が三年生の時、お嫁さんをもらった。頭髪がうすくなって頭の地肌が髪の間からチラホラ見えるために「明暗」とよばれていた図画の先生は授業中、いつもターナーの話ばかりしていた。教頭のキンカン先生は文字通りキンカン頭を光らせて古墳のことを教えてくれた。
C組やD組の連中は、授業中、いつも悪戯をするか、居眠りをしていたものだ。
「お前たちにはまったく教え甲斐《がい》がないのう」
とある日、一人の先生が溜息をついた。
「何を教えても、わかってくれん」
教え甲斐のない生徒のなかに小津も加わっていた。柴坂もいた。佐藤もいた。モンキーこと津川もいた。ベソもいた。あいつは何といったっけ。あの三年から転校して来た男は……。
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灘 高
「私たちは自習室にいた、と、校長が新入生と机をかついだ小使とをつれて教室に姿をあらわした。居眠りをしていた連中は眼をさまし、みんな勉強中のところを不意うちをくったように立ちあがった。
すわれ、と校長は合図してそれから監督教師にむき、ひくい声で、
『この生徒をたのむ。一応、二年級に入れるからな』
扉のかげでよく見えなかったが、新入生は十五ぐらいの田舎出の子で、私たちより背も高かった。村の聖歌隊よろしく前髪をおかっぱにして、まじめくさった、そのくせ、ひどくきまり悪げな顔をしていた……」
フローベルの小説『ボヴァリー夫人』の冒頭はこんな場面で始まるが、この午後、この新幹線のなかで記憶のフィルムを元に戻している小津の頭に、ゆっくり水泡のように浮んだのも、あの男が新入生として教室に連れてこられた日のことだった……。
図画の時間だった。小津たち三年C組の生徒たちはアクビを噛みしめながら明暗《ヽヽ》というアダ名の老先生の説教を聞いていた。
「イギリスの画家ターナーはねえ、どんなに逆境にあってもねえ」
うしろ向きの先生の頭は毛がうすく、渋茶色の地肌がまるく見えた。
「決してひるまなかったねえ。たとえばだ」
不幸にして小津はそのあと明暗先生が何を話されたかは一向に憶えていない。なぜなら彼も他のC組の仲間たちと同じようにこの時アクビをしたり、鼻糞をほじったりしていた一人だったからだ。
灘中では学業成績の優秀な者をA組に入れた。まあまあという生徒はB組に加えられた。そして箸にも棒にもかからぬ連中をC組かD組にまわした。
「ターナーは努力の人だったねえ。だからお前たちも努力さえすればね……来年A組にのぼれないことはない」
明暗先生は励ましの意味でそう言われたのだが、誰も聞いている者はいなかった。みなはただ、一分でも早く授業が終らぬか、早く昼飯の時間にならぬか、とそればかり考えていた。
「ああ、あ――」
突然、教室の真中あたりで一人の生徒が牛の鳴くように長いアクビの声を洩らした。
「誰だ」
明暗先生は腹をたてた。
「不作法な声をだしたのは……不謹慎である」
その時、扉があいて教頭が新入生をつれてきた。「マダム、ボヴァリー」の冒頭のように……。
「みんな、そのままで」
教頭は灰色のうすぎたない制服を着た少年をあごで示しながら、
「加古川の中学から転校してきた平目《ひらめ》君だ」
机のあちこちから忍び笑いが小石を投げた池の波紋のように拡がった。平目。なんや。こいつは。名もケッたいやが、顔かて魚のようにケッたいな奴やで。
少年は金魚鉢のデメ金のように眼をショボショボさせながら背をまげて教壇の横に立っていた。
「みんなも親切に、色々、教えてやりなさい。学校に平目君がなれるまで」
それから教頭は眼ざとく、小津のうしろの空席をみつけて、
「一応、あそこに腰かけて、おとなしく授業を聞きたまえ」
教室の窓の外から号令をかける配属将校の塩から声が時折きこえてくる。
そう。中国ではながい戦争がまだ続いていた。この灘中にも最近二人の退役軍人の教官のほかに現役の少佐が配属将校として着任してきた。
「ターナーはねえ」
教頭が去ると、明暗先生はさきほど大声でアクビをした生徒を叱ったこともすっかり忘れて、生徒たちにとっては退屈な人生教訓を続けはじめた。
小津はうしろに着席した新入生がゴソゴソと身じろぐのが気になって仕方なかった。気になると言えばその背後の席から、ほのかな、臭気がただよってくるのだ。沢庵と汗とのまじったような異様な臭いで……。
「あのな……」
急に背中を指でつつかれた。ふりむくと眼をショボ、ショボさせ魚のような顔が彼をじっと見ていた。
「あのな」
「なんや」
「今、何、教えとんや」
小津は明暗先生に気づかれぬよう、小さな声で、
「図画」
と答えた。
それから、しばらくの間静寂が続いた。静寂のなかで背後のゴソゴソと身じろぐ音と、言いようのない妙な臭いとが小津の心を乱した。
「あのな」
また背中をつついてくる。
「なんや」
「今、なん時や」
小津は返事をしなかった。転校生のくせにうるさく背中をつつき、しつこく話しかけてくる。狎々しくて、ズウズウしい奴だと思う。
突然、クーウーウという長い、物がなしい間のぬけた音が平目の席から聞えてきた。その音をきいたのは小津だけではなかった。C組の全員がびっくりするほど、このクーウーウという家鴨が咽喉をつまらせたような物がなしい音は二度もつづけて鳴った。
生徒たちは笑いをこらえて、うしろをふりかえった。
「なにごとか」
明暗先生は机の両端に手をつきながら、ひどくきびしい顔をされた。
「今、妙な音をたてた者は、立て」
眼をショボ、ショボさせながら平目は不器用に椅子から起立した。
「お前か」
「へえ」
と平目は悲しげに答えた。
「腹が、鳴りましたんや」
教室中、笑いの渦がまき起り、明暗先生だけが情けなさそうな表情だった。
「ぼくが鳴らそう思うて、鳴らしたんやありません。勝手に鳴りよるんや、腹が」
「坐れ」
「へえ」
おとなしく平目は席に腰かけた。もう授業を真面目に聞いている者は一人もいなかった。ターナーはと先生だけが相変らず同じ話をつづけていたが、クラスの生徒たちは舌をだして顔をしかめてみせたり、大ぎょうに口をあけて小津や平目の席を窺いみていた。
「ターナーはえらい人でねえ」
放課後になると――
学校の正門から松林をぬけ、小さな住吉川にそった道を蟻の列のように下校の生徒たちが歩いていく。
薄黄色い制服を着た彼等は当時の阪神の中学生たちがすべて、そうであったように、ゲートルをまき、軍靴のようなドタ靴をはいていた。
同じ恰好だが、よく見ると、A組とC、D組の生徒との区別はすぐわかる。
雄鶏のようにスマして、首をあげ、学校から命じられたままに電車の停留所まで向っていくのは、たいていA組の秀才たちである。時には彼等のなかには、英単語のカードに眼をやり暗記しながら歩いている者もいる。
そのうしろから、肩にぶらさげた鞄をだらしなくブラン、ブランとさせ、友だち同士で奇声をあげたり、立ちどまったりするのはきまってC組、D組の連中だった。
だが、ふしぎなことがすぐ起る。
雨の日のほかは水のほとんどないこの住吉川ぞいの道が、ちょうど、大阪と神戸とを結ぶ国道にたどりつくあたりで、列をなした生徒の足が急に遅くなるのだ。小さな鯛焼《たいやき》の屋台がいつもそこに置いてあって、そこから、甘い餡《あん》とメリケン粉《こ》を熱する匂いが空腹の彼等の鼻をほのかに刺激するからだ。学校では生徒たちにいっさいの買食いを禁じていたから、たちどまるわけにはいかない。もし見つかれば、すぐに教員室に連れていかれ、悪くすると、登校禁止一日をくらってしまう。
だから――
生徒たちはこの地点までくると、歩調をゆるめ、鼻孔を大きくふくらませ、ただ、そのほのかな匂いを嗅ぐだけで我慢するだけだった。
その日、皆と少し離れて歩いていた小津も同じ気持だった。食べざかりの年齢である彼には午後三時頃が一番、腹がすく。彼もまた眼をつぶり、その甘ったるい匂いを吸いこんでいた。
誰かが、うしろをつついた。ふりむくと、平目だった。
「君、十銭あらへんか」
相変らず眼をショボ、ショボとさせて平目は呟いた。
「ある」
「そんなら買えや」
「あかん」
小津は首をふって、
「先生に見つかったらエラいこっちゃ。それに上級生のなかに風紀委員もおるさかいな。つかまるで」
「そやけど……」
平目は眼をしばたたきながら、切ない顔をして呟いた。
「食いたいもの、食うて、なぜいけんのやろ」
「見っともないからや」
「鯛やき、買うのが、なぜ、見っともないんや」
「俺たちが中学生やからや」
「中学生が鯛やき、買うのが見っともないのなら、誰が買《こ》うたら見っともええのや」
小津は眼をショボショボさせて、ひとり呟いている平目の魚のような顔に何と答えていいのかわからなかった。
鯛やきの屋台をすぎると、今度は妙な臭《にお》いがした。平目の例の体臭だった。
「お前……風呂に入っとるのか」
「風呂、きらいや。俺」
国道に出た時、小津は、
「電車に乗るんか」
とたずねた。彼自身もこの国道を走る褐色の古ぼけた電車を利用して通学していたのである。
「そやで」と平目はうなずいた。
「西宮に住んどんねん、ぼく。西宮三丁目まで乗るねん」
「ふん、俺は夙川や」
「夙川、ぼくと同じ方向やな」
しかし小津はこの臭い少年と電車に乗ることに気がひけた。この国道電車には前の停留所からやはり彼等と同じように学校から帰宅する甲南の女生徒たちがいっぱい乗りこんでくる。沢庵の臭いのような平目の体臭を彼女たちはどんな顔をしてかぐだろうか。
白いセーラー服を着た彼女たち。その白いセーラー服の肩もまるく、胸もふっくらとしている娘たち、彼女たちと同じ電車に乗りあわせると小津はなぜか体全体が堅くなってしまう。おたがい同じ年ぐらいなのに、彼女たちは一日ごとに美しくなり、自分たち男の子は一日ごとに醜くなっていく。ニキビがはえ、声が変り、ゴツゴツとしてきたこの体を小津は彼女たちの前でかくしたい気持にさえなるのだ。
停留所には先についた五、六人の灘中生たちが電車を待っていた。
「ぼくは、ほんまに昼前になると腹すくねん」
と平目は情けなさそうに呟いた。
「腹がクウクウ鳴っていかんわ」
古ぼけた市電そっくりの国道電車がガタガタと軋みながら停留所についた。
小津は平目をふり捨てるように先に乗り、できるだけ彼を避けようとしたが無駄だった。平目はべったりと彼によりそい、鼻をすすりながら吊皮にぶらさがった。二人の前の座席には三人の白いセーラー服の女の子たちがスカートの膝をかたくそろえて腰かけていた。
「ほんまに、あの鯛やき、うまそうやなア」
と平目は小津の当惑など知らぬげに声をかけた。
「ぼくは、ああいう甘いもの好きや。カルピスかて、どりこのかて好きやで」
「ああ」
女学生たちは笑いを噛みころしたような顔で小津たちをチラッと見あげ、視線をそらせた。
「あした、数学の試験やで」
小津はまだ鯛やきの話に熱中しようとする平目の話題を転じようと懸命になった。
「さよか」
だが平目は眼をしばたたいただけで、
「明日、ぼく、どうしてもあの鯛やき、買うてみよ」
「そんなことして、教師に見つかってみい。謹慎やで」
「見つからんよう……買うてくるがな」
「いつ」
「そやな」と事もなげに平目は、
「授業中や」
こいつは馬鹿ではないかと小津はふと思った。
女学生たちは視線こそそらせはしていたが、二人の会話をたしかに聞いていた。彼女たちの林檎色の頬に軽蔑的な笑いが一寸うかんだからである。
電車がカーブにかかると平目が少し、よろけた。あの沢庵と汗の臭いをまぜたような臭気がプンとにおい、セーラー服の女の子たちは顔をしかめた。
(そうか。あんなこともあったのだな)
名古屋を出た列車は美濃のさむざむとした谷戸《やと》を走っていた。ひくい暗い山塊に眼をやりながら小津は今はこの世にいない昔の友だちの顔を思いだして苦笑した。
(おかしな奴だった)
もし平目が生きていたら何になっていただろう。自分と同じように髪のうすい、くたびれた中年男に変っていたろうか。
(あいつはあの翌日、猫を学校に持ってきたな……)
そう。翌日は数学の試験がある日だった。平目は授業がはじまる前に小津にもう一度くりかえした。
「ほんまに、鯛やき、買《こ》うてくる」
「やめとき。できへん」
「できる。ぼく、子猫を、箱に入れて持ってきたんや」
「猫?」
「そや。今、弓道場のうしろにかくしてあるわ」
「猫、どうするんや」
平目はニタッと狡そうな笑いをうかべて首をふった。
一時間目は歴史の時間で、二時間目が数学の試験だった。フグという肥った先生が試験問題を黒板に書き、用紙をみなにくばった。
小津は問題に視線を走らせたがその四つのうち、二つは問題の意味さえ、よくわからなかった。左右をそっと見まわすと、右の橋本が彼にむかって教えろというサインをしきりに送っている。首をふって小津はその要求を断った。だれかが大きな溜息をついた……。
この時、教室の外で突然、ミャオーという鳴き声がきこえてきた。母親を求める悲しそうな子猫の声に生徒たちは一瞬だまったが、誰かがすぐに笑い声をたてた。
「静かにせんか」
とフグ先生は一同をたしなめた。
ミャオ、ミャオ、ミャオ。
教室の窓のすぐ下で猫はしきりに鳴きつづけている。
「先生」
と一人の生徒が糞真面目な顔で立ちあがり、
「あの猫、なんとか、してくれなはれ。そやないと、ウルそうてウルそうて、ほんま、答案かけまへん」
「そや」と皆はこの提議に声をあわせて賛成した。「やかましゅうて、ならん。先生」
フグ先生はあきらかに困惑した。彼は窓のそばに近より、大きな体をかがめながら下をのぞきこんだ。
その瞬間、小津は背後の平目が動いたのを感じた。あの目のショボ、ショボした奴にこんな機敏な動作ができるとは思えぬくらいだった。小津のほか、誰もが気がつかぬうちに、平目の姿は教室から消えていた。
ふりかえった先生は、悪童たちを情けなさそうな眼でみまわし、前列の一人に、
「おい。お前。あの猫を捨ててこい」
「そんなことしたらオレ、答案、書く時間、少のうなりますねん。不公平や」
と、その隣にいた園田というニキビだらけの生徒が手をあげて嘲るように応じた。
「先生。満点くれるのやったら、ぼく、猫すててきまっせ……」
C組の生徒たちは憐れな教師が混乱し、困惑しているのを見て楽しんでいた。できることなら子猫がもっと声を震わせて鳴けばいい。できることなら、そのために、この馬鹿馬鹿しい試験時間が目茶目茶になり無効になれば更にいい。こういう時ほど彼等が一致団結することはなく、学校の教育主旨である嘉納先生の「精力善用、自他共栄」を実行する時もなかった。
「お前たちが……」
フグ先生は疑わしげに皆を見つめ、小声で、
「わざと猫を連れてきたのと……ちがうのか」
「ひどいこと言いはる」
誰かが奇声をあげて抗議すると、全員はブウーと口をそろえて反撥した。
「無実の罪もええとこやで……ほんま」
「そうか。わかった、わかった」
蜂の巣をつついたような騒ぎを数学の教師は手で抑え、
「騒ぐな、試験をつづける」
「猫、どうしまんねん」
「わたしが、捨ててくる。ええか、わたしがいないからと言って、カンニングなどしたら、あかんぞ、カンニングをしても、すぐわかるからな」
フグ先生は念を押すように、教室の出口で皆をふりかえり、渋々と廊下に出ていった。
喚声が教室中にあがり、猫、なけなけと誰かが怒鳴った。すばやく、隣の席の答案をのぞきこみ、それを写しはじめて、
「こんなん、写してもアカんがな。出鱈目の答えやがな」
と相手にたしなめられる者もいた。
そんなクラス全員にまじって小津一人だけが気が気ではなかった。うっかりすると今、教室を出ていった平目とフグ先生とが廊下で鉢あわせになるかもしれぬのだ。そうなれば平目は転校早々、謹慎の身になってしまう。
(あいつ、何ていうこと、やりよるねん)
一見、薄馬鹿のように眼をショボ、ショボとさせるあの男に、こんな機敏さとズウズウしさとがあるとは小津には思いがけないことだった。
窓の下で子猫の鳴き声がやんだ。数学の教師がシッ、シッと言いながら、猫をつまみあげている。
「先生、遠くに捨ててきてや」
と生徒の一人が窓にむかって声をかけた。
教室の扉がしずかに開いて、いがぐりの頭に汗の湯気をだした平目の顔がそっと覗いた。彼はたしかに、鯛やきを包んだ紙袋を手にかかえていた。
「買うてきたで」
「阿呆」
と小津は舌うちをして言った。
「見つかったら、どないするねん」
「見つかることないワ」
「先生と出合わんかったのか」
「向うから歩いてくるとこチラと見たワ。でも素早く、かくれたさかいなあ。ああ、息が切れてしもうた」
香ばしい鯛やきの匂いがうしろの席から漂ってくる。それは小津の腹の虫をキューと鳴らせた。
「ひとつ、くれ」
「いやや」平目はつめたく拒絶した。「働かざる者は食うべからず……そやけど一個、五銭なら売ってもええワ」
数学の試験から二日目に平目はクラス全員の前でフグ先生から叩かれた。
今の中学、高校とちがって、当時の生徒はよく先生に叩かれた。灘中だけでなく、ほかの中学でも体罰は当り前のことだった。体罰をくらわせたからと言って、父兄が文句を言いにくることもなかったし、当の生徒自身がケロッとして翌日、また叩かれるような悪さや悪戯《いたずら》を平気でやる――そんな時代だったのである。
この日、フグ先生はかなり興奮して教室に入ってきた。
「起立」
と学級委員の坂田が号令をかけ、皆は面倒くさそうに椅子から一寸、体をあげて着席した。
「今日はな」
フグ先生は二日前の試験の答案用紙を机の上におくと、一同を情けなさそうな眼つきで見まわした。
「授業の前に言っておくことがある。わたしはお前たちがなにも試験で満点をとらねばいかんとは……言うておらんぞ。しかし今度の答案をみると、満点どころか、一番できたもので五十点にもみたん」
亀の子のように皆は首をすくめ、先生の説教を聞いていた。もっとも、教師のこうした説教は毎日のように聞かされているC組の生徒たちだったから、心を入れて耳傾けている者は一人もいなかった。通りすぎる俄雨が早くやむのを軒下《のきした》であくびをしながら待っている心境だった。
「こんな問題ならな、A組の者《もん》なら二十分で全部、解答してしまう。どうだ。お前たちそれを聞いても恥ずかしいとは思わんのか」
別に恥ずかしいとは思いまへん、と小津は心のなかで呟いた。しかし呟いたのは小津だけではなく、C組全員がそうだったにちがいない。
(ま、先生、そんなに怒らんと……ゆっくり、いきましょうや)
それがみんなの偽らざる心境だった。ガリ勉はA組の連中にまかしておけ、俺らは俺らでのんびり、ぐうたら、やりまっさ。
「だが、わたしが今日、怒っとるのは、お前たちの何時もながらの成績の悪さについてではないぞ。わたしはC組、D組の不勉強、不成績には馴れておる」
そんなら、先生、なにを怒ってはりまんねん。
「わたしが腹をたてておるのは……」
フグ先生はそこで言葉をきって、
「この答案に、実にフマジメにして、人をバカにした解答を書いた者がいたことだ。みなもよく聞け。平目、ここに一寸、こい」
皆はびっくりしてうしろをふりむいた。先生によばれた平目は眼をショボ、ショボとさせて教壇まで歩いていった。
「お前か。平目というのは」
「へえ」
「お前、自分の答案に何を書いた。言うてみい」
平目は相変らず干魚の顔のような表情で黙っていた。フグ先生は答案用紙の一番上の紙をとりだし、平目に読んでみよと命じた。
「読まんのか」
「あのオ……」
平目は答案用紙を手に持ったまま、小声でフグ先生にたずねた。
「読むいうて、声だして読むんでっか。だまって読むんでっか」
「声を出して読め」
「ぼく……」平目は困ったように首をふって、
「恥ずかしゅうて読めへん。答案は先生に見せるために書いたんや。皆に見せるために書いたんやないさかい」
「つべこべ理屈をつけるんじゃない。恥ずかしくて読めん答案なら、なぜ、そんなことを書いた」
クラスの者たちは好奇心と興味にみちた眼でフグ先生と平目の問答を聞いていた。
「そんなら、読みますウ。右の問いを証明せよ」
平目は軒端《のきば》にむらがる蚊のようにボソボソとした声をだした。
「直角三角形の場合、各辺を図のように x y z とすると x2 + y2 は z2[#「2」はいずれも上付き小文字] であるウ」
「それは問題のほうだ。お前はその問題の答として何と書いた」
平目は眼をふせて沈黙し、クラス全員も息をこらして黙っていた。
「お前が何と書いたと聞いておるのだ」
「へい」
「へい、じゃない。お前はどのような答えを書いた」
「あのオ……ぼくは……こう答えましてん。その通り、ぼくもそう思う」
小津ははじめは平目が何を言っているのか、よくわからなかった。クラスの他の者たちも最初キョトンとしていたのを見ると、同じ心理だったにちがいない、だが瞬時にしてすべてがのみこめた。
平目は一昨日の数学試験のすべての問題にたいし、
「その通り。ぼくもそう思う」
それだけしか書かなかったのである。
爆笑の渦が教室を震わせた。かつて、このC組には教師を怒らせるような数々の出来事が起ったが、試験問題に「その通り。ぼくもそう思う」という珍答案を書いた奴は一人もいなかった。
「笑うんじゃアないッ」
フグ先生は今までに見せたことのないほど怒気をこめて皆を怒鳴りつけた。
「教える者を愚弄するにも、ほどがある。平目。気をつけの姿勢をとれ」
先生は平目の頬を大きな手で叩いた。煎餅のはじけるような音がした。
「お前、一時間、たっておれ」
さすがにこの授業の間だけは、C組の生徒たちも神妙にしていた。いつものように、紙つぶてを投げたり、怪しげな写真を見せあったりする者もおらず、眼を伏せ、アクビを噛みころしながら、黒板の呪文のような数字をぼんやりみつめていた。
教壇の横にたたされた平目を、小津は時々窺った。さっき思いきり平手で叩かれたのに、平目は相変らず眼をショボショボさせているだけだ。夏の昼ざかり、樹につながれた驢馬《ろば》のように情けない姿である。
(ほんまに……)と小津は心のなかで考えた。(こいつは、何を考えとるんやろ)
フグ先生はよほど腹にすえかねたのか、黒板に数字や三角形を書きながら、平目のほうに時折強い視線をむけた。強い視線をむけられた時も、平目は別にあの鈍い表情を変えない。
「お前、何ということ、しよるのや」
ようやく長い授業が終り、先生が教室を出ていったあと、席に戻ってきた平目に小津がたずねると、
「答えとして間ちがっておらんと思うけどなア」
平目はうつむきながら呟いた。
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男女七歳にして
性格的に引込み思案の小津に平目が妙な相棒《あいぼう》になったのはこの時からだった。
小津は心のなかで半分は平目をほんまに馬鹿な奴ちゃ、と思いながら、あとの半分では自分にはないズウズウしさと人を食った横着さを持ちあわせている彼に羨ましさに似た気持を感ずるようになった。そしてどうやら彼だけではなく、クラスの全員も同じような感情をこのうすぎたない、眼をショボ、ショボさせた転校生に持ちはじめたらしかった。
「変な奴ちゃな、ほんまに」
学校が終ると、小津は平目と一緒に帰るようになったが、その時、彼は幾度か妙な眼をして、この何処となくうすぎたない友人に呟くことがあった。
「すこし、オカしいのと、ちがうか」
「ぼく、キチガイやないワ」
平目は口をとがらせて抗議した。
「そやけど、お前ほど、叩かれる奴もまああまりおらんで。一体、痛くないのんか」
「そりゃ痛いワ。けど、前の学校でも同じぐらい叩かれたさかい、馴れとるねん」
「今日かて、教練の時間に、なんで、あんなことしたんや、あれやったら、叩かれるの、当り前や」
「うん、そや。そやなア」
平目は例によって眼をショボ、ショボさせながらうなずいた。しかし、うなずいたにせよ、その貧弱な顔は相変らず無表情で、別に叩かれたことを恥ずかしくも辛くも思っていないことは、あきらかだった。
今日の午後、教練の時間があった。カバという退役曹長が羽のそげた矢を手に持ってC組の生徒たちに幾度も匍匐《ほふく》前進をさせた。銃を片手に持ち、小石の多い運動場を這いまわっていると、膝も腕も痛くてたまらなかった。
「そんな、潰された蛙のような恰好をすると、何十回も同じことをさせるぞオッ」
と長靴をキュッ、キュッといわせながらカバ教官はみなのうしろから叱咤した。
「A組の生徒はもっとキビ、キビやっておる。お前らは、まこと箸にも棒にもかからん奴である」
(何、言うてけつかるネン。えらそ、しなや。腹すいてかなわんワ)
生徒たちは心のなかではそう呟いたが、さすがにその言葉を口には出せなかった。匍匐前進のあとは射撃の姿勢をとらされ、運動場の端にある銃器庫と松の木とを目標にして、だらしなくカチ、カチと引金を引いた。
「突撃の訓練をする。着剣」
やれ、やれ、まだ走らされるのか。早う授業終了のベルが鳴らんかいな。
「突撃に進め……」
小津は皆と一緒に走りだしながら、自分の横に平目がドタドタと靴をならしながら不器用に駆けているのを感じた。彼が平目の存在を感じたのはそこまでで、そのあと一列に並んで番号を叫んだ時は、あの転校生は亡霊のようにかき消えていたのである。
「一人、足らん」
カバ教官はびっくりし、それから興奮して叫んだ。
「どこに行ったのか」
十分後、平目は銃器庫のうしろから引きずりだされた。突撃を利用して彼はかくれてしまったのである。
「そやけど、ぼく、くたびれましてん。足が動かんようになりましたんや」
平目は眼をしばたたきながらカバ教官に弁解したが、もちろん熊手のような手で頭を張りとばされた。
その日、いつものように平目と国道電車に乗った。
例によって甲南の女学生たちを意識しながら身をかたくして吊皮にぶらさがったが、どうしたわけか、この電車のなかには一人のセーラー服も腰をかけてはいなかった。
「今日、寄りみちせいや。ぼくの家の近所に戎《えびす》さんあるさかい」
と平目は鼻をすすりながら小津を誘った。
「串カツや飴細工の屋台が出とるねん。おもろいで」
戎さんとは西宮で一番古い大きな神社でしかも官幣大社だった。小津は元旦、母親につれられ、弟と一緒に初詣でをした憶えがあった。
「その屋台のおっさん、食うた串の数で金とりよんねん。そやけど、眼が少し悪いさかいな、この間ぼくが串を地面に落して知らん顔していても、わからへんかった」
片手で吊皮にぶらさがりながら、平目はもう一方の片手で串カツを口に運ぶ真似をやりはじめた。と、串カツのソースの匂いや油の匂いが空腹の小津にプウンと漂ってくる気持がして、
「あかん、あかん」
あわてて首をふった。
「制服のまま、そんな屋台に行ってみい。だれかに見つかるワ」
「そんなら、ぼくの家で鞄と帽子をおいていけ」
「お前の家」
「うん。お袋と姉さんしかおらへんけどな」
「親爺、会社か」
「親爺」
平目はこの時、はじめて淋しそうな眼つきをした。
「死んでもてん。俺、小さい時」
「ふうん。姉さん、女学生か」
「ちがう。お嫁に行ったんやけど、ムコさん、今兵隊に行っとんねん」
電車の窓のむこうに、わびしい午後の陽のあたっている家なみが並んでいた。小津はつい先日、自分の家の近所の男が兵隊にとられて、家族や町内の人たちから旗をふられながら入営していったのを思いだした。海を隔《へだ》てた国で日本は泥沼のような戦争をやりつづけていた。
「なあ、串カツ、食いにいこ。十銭もってるやろ」
「そりゃ、持っているけど……な」
「足らへんかったら、姉さんの本、盗んで古本屋に持っていこ」
「お前、そんなこと、するのんか」
「ああ、時々、やったるねん」
にぶい音をたてて電車が何番目かの停留所にとまり、変な声をあげて別の中学の生徒たちが乗りこんできた。小津たちの灘中とは何かにつけて仲のわるいK中学の連中だった。
「はア。カルピスの味は初恋の味か。おもろいなア」
彼等の一人は小津たちを意識して殊更に大きな声をだした。
「見いや、灘の奴ら、眼《がん》ヅケしてきよるで」
平目が眼をショボショボさせて彼等をぼんやり眺めたのに因縁をつけてきたのである。
「放っとけ」と小津は小声で言った。「知らん顔、しとれや」
しかし、こちらが黙っていると、図に乗った相手は、
「臭ア。あいつら屁こきおったんとちがうか。何や、あいつら、変な臭《にお》いするで」
乗客たちは迷惑そうに黙っていた。小津は平目に、
「降りよう」
と誘って、彼等のいる場所とは反対の出口に進んだ。喧嘩になればこちらが負けるにきまっている。相手は体のでかい三人だし、平目ではとても頼りにはならなかった。
電車が芦屋川の松並木の前で停った時、小津は急いでドアから飛びおりた。そのあとを平目が不器用についてきた。
白い川原にわずかの水が流れていた。松並木の間を自転車に乗った男が通りすぎる。
「あいつら……うしろから来るで」
平目がかすれた声で呟き、うしろをふりかえった。
「どないする」
「どないする言うたかて」小津は腹だたしげに「やれば負けるやないか。多勢に無勢や。お前……喧嘩……自信あんのか」
「ないワ。そやけど、なぐられるのは馴れているさかい、平気や」
「お前は平気でも……俺は平気やない」
右側に板塀がつづいている。このあたりは芦屋の金持の大きな邸が並んでいるのだ。川岸にそった白く長い道にはどうしたわけか、人影がなかった。
「おい。待てや。灘中」
うしろから執拗についてきた三人はここで急に声をかけた。
「待たんかい」
「なんや」
小津は仕方なくふりかえって、
「なんの用や」
「お前ら、人に眼《がん》ヅケしよって、そのまま行く気か」
「眼ヅケしたのは、そちらやないか」
「なに言うてけつかる。お前ら、やる言うのなら、やるで」
一人が肩に背負った鞄をバタバタといわせて駆けてくると、小津と平目との前を立ちはだかるように遮って、
「川原におりいな」
「おりん。卑怯やぞ。お前らは三人やないか。三人で二人を相手にすんのんか」
「そんなら一対一でもええワ」
彼は喧嘩なれがしているらしく、鞄を松の木の根元におくと、先に雑草がまばらに生え、小石の転がった川原に飛びおりた。
「来んかい。一対一や」
小津は仕方なく鞄をとり、上衣をぬいだ。彼は喧嘩には自信がなかった。だがこうなった以上、何かのケリをつけねばならなかった。
彼が同じように川原におりた時、平目が路ばたの石をとって相手に投げつけた。
「痛てえ」
腕で石を避けながら、その男は仲間をよんだ。
「こいつ、石を投げよるんや。きたない奴ちゃ」
よばれた二人の仲間がうしろから平目を羽がい締めにした。グウという潰された蛙のような声をあげて平目はもがいた。
小津が飛びかかると、相手は体をかわして大きな靴で膝を蹴った。それから組んだまま二人は川原の上を転がった。
「やめなさい」
どこかの主婦が向うの岸から大きな声をだした。
「誰か来て。喧嘩をしていますよ。中学生たちが」
五分後――
小津は川原に仰向けになって午後の空を見つめていた。あのK中学の連中たちは主婦の叫び声に驚いて彼と平目とをあわてて蹴とばしなぐると、つむじ風のように逃げていってしまった。
だがなぐられた口惜しさとみじめさとは小津の胸に焼鏝《やきごて》を当てられたような痕《あと》を残した。その痕からまだ屈辱感の煙がくすぶっていた。
「阿呆んだら」
と彼は頭の下に両手を入れ青空にむかって呟いた。
「今度|会《お》うたら、ド頭《たま》、三角にしたるワ」
しかし実際に彼等とふたたび出合っても、決して仕返しのできぬ自分の内気な性格を小津はよく知っていた。知っていたからこそ、なお口惜しいのである。
「おぼえとれ」
「ええがな」
いつの間にか平目の声がそばでした。二人がかりでなぐられたらしいのに、平目の声は相変らず、鈍重でのんびりとしていた。
「そんなに気張ることないで」
「お前、このままに放っとく気か。母校の不名誉やで」
妙なところで母校の名誉を口にする自分の滑稽さに小津は気がつかなかった。
「愛校心、ないのんか、お前には」
「喧嘩に愛校心もへったくれも、あらへんで」
平目は眼をしばたたきながら呟いた。
「放っとけや。ぼく、いつか、あいつら、キャと言わしたるさかい」
「お前がか。どないして」
「これからその方法考えるワ。考えるの、ぼく、好きやさかいな」
小津は起きあがって平目を眺めた。平目の制服の肩が破れ、手の甲から血が流れている。
「あっ、血、出てる」
「かめへん。行こ」
「ハンカチないのんか」
「ないねん」
「お前、制服、破れとるで」
「そや。姉さん、また怒りよるワ」
平目は手の甲の傷を犬のように舐めながら歩きだした。
国道までたどりつく白い川ぞいの道は長く、人影は相変らずない。
「傷、痛くないか」
心配した小津がたずねると、平目は眼をショボ、ショボとさせて、首をふった。小津は機嫌をとるように、
「電車に乗ったら、めだつで。薬屋で包帯買おか」
遠くで国道電車がとまり、セーラー服の女の子たちが二人、おりてきた。赤い手さげ鞄をぶらさげながら、彼女たちは小津と平目の方に向ってくる。
「いかん、甲南の女の子、来よるがな」
体をかたくして小津は眼を川原の方にそらせて歩いた。相手を痛いほど意識しているくせに、いざとなると、まともに見つめられぬのだった。
彼女たちとすれちがった時、セーラー服の白さを肌で感じ、何か甘ずっぱい匂いをかいだように思った。
「まア」
とその一人が声をあげた。この瞬間に、平目の人生と人生の方向とのすべてがきまったのだと小津はあの時は夢にもわからなかったのである。
「まア」
中学生になってからこの三年の間、小津は一度も甲南の女の子に声をかけられたことはなかった。
だが今――
「まア」
二人のセーラー服の一人が通りすがりの小津と平目とにこう言ったのだ。
「怪我をしてはる、この人。血が出てます」
小津はびっくりして足をとめ、直立した。
「へえ」
平目は平目で急いで片手を洋服のわきに入れてかくそうとした。
「そんなことしたら、洋服、よごれるわ」
声をかけたセーラー服の一人は日にやけ、大きな眼をしていた。その眼をクリクリとさせて彼女はまるで兄弟にでもするように気やすく話しかけてくる。こんなことはありうることではなかった。中学生が女学生と一緒に歩くことは勿論、みだりに会話をかわすだけで不良とみられていた時代だった。
「あんた、ガーゼ、持ってたでしょう。今日、医務室でもらった……」
彼女はもう一人の女の子をふりむいて、
「あれ、あげたら」
「うん」
小柄な、温和《おとな》しそうな友だちは言われるままに自分の手さげ鞄をあけて、なかに手を入れた。
「はい、これ」
彼女は白いガーゼを平目のほうにさしだし、
「あげるわ」
「す……」平目は狼狽《ろうばい》し、どもりながら、「すんまへん」
「あら、そんな縛りかたじゃ駄目。わたし、やってあげる」
眼の大きな女の子は平目のそばに寄り、当惑の絶頂にあるこの少年の手からガーゼをとった。小津はただもう仰天して、これらの様子を茫然と眺めていた。
「いいわ。さよなら」
彼女たちは平目が礼を言う前に、もう歩きだしていた。しばらくの間、ものも言わず、少年たちは棒のように立っていた。
「お前」
うすぎたない平目の右手に純白なガーゼが巻きつけられている。ガーゼの色の白さが小津の目にしみた。
「おめえ、えらいこっちゃ……で」
「う……」
「う、やない。考えられへん。甲南の女の子に、こんなことしてもらった奴、灘中に一人もおらへんど」
「そやろか」
娘たちの姿はもう遠くなっていた。彼女たちは二度とこちらをふりかえろうとはしなかった。
「なにを阿呆づらしとるんや。行こ」
「あの子たち」
平目はかすれた声でたずねた。
「何年生やろか」
「知らん。三年生か四年生ちがうか。それにしても、お前のそばに寄ってガーゼを手にまいてくれた時、どないな気がした」
「俺……夢みてるみたいやった」
「そやろ。そやろ。ほんま、うまいことやりおったな」
国道電車に乗っても平目は眼をショボ、ショボとさせたまま、黙っていた。
「怪我《けが》の功名とは、ほんまやな」
「う」
「う、ばっかり言うな。お前、どうかしてるで」
(そうだった。あれがすべての始まりだった)
京都はもう近く、列車は湖のほとりをすぎ、トンネルに入っていた。網棚のトランクをおろして、降車の支度をはじめる客たちもいた。
三十数年前の記憶は今、甘酸っぱい懐かしさを伴って小津の胸に甦《よみがえ》ってきた。長い歳月の埃《ほこり》をかぶった少年時代の思い出から、忘れきっていた平目の貧弱な顔やあの得体の知れない体臭までがせつなく思いだされてくる。
(わたしたちにも、あんな時代があったのだな)
彼は横を通りぬけて出口のほうに進んでいく長髪の青年とその恋人らしい娘を見送りながら、同じ年齢だった頃の自分たちのことを噛みしめた。
(あのあと、何をしたろう)
あのあと、そうだ。たしかに平目の家に行ったんだっけ。
西宮二丁目で国道電車をおり、雑草のおい茂った空地を通りぬけ、平目の家にはじめて遊びにいった。同じような家屋が四つ並んでいる右端がそれで、玄関の硝子戸をあけると、便所の臭いがかすかに漂ってきたのを憶えている。
平目の部屋はうす暗い階段のあがり口にある四畳半で、そこに土を入れた空瓶が幾つか机の上に並べてあった。
「蟻を入れてんのや」
と平目は空瓶を大事なものでも扱うようにそっと指さした。たくさんの蟻がその瓶の土をせわしく動きまわっていた。
「巣を作っているやろ」
「なんや、変な臭いがするな、この部屋」
「姉さんもそういうて怒るねん。ぼく秘密で二十日鼠《はつかねずみ》、飼うているさかいな」
その姉さんらしい女の人の咳が階段の下からきこえた。
机の引出しから彼はそっと二十日鼠を入れた小さなボール箱をとりだした。赤い眼をした鼠がキャベツの齧りかけの葉のなかにうずくまっている。
「カリ公という名やで」
「カリ公いうたら、漫画の冒険ダン吉の鼠やないか」
「そや、あれと同じや。これ戎《えびす》さんの境内に売っとったワ」
「お前の体臭にはいろんなものが、まじっとるんやな」
階段の下で姉さんの声がする。
「お茶、うけとって」
「お茶なんか、いらへん。ぼくら今から戎さん行くさかい、金くれえ」
平目がそう答えると姉さんは怒った声で、
「阿呆、言わんといて」
「いつもあれやねん」平目は首をちぢめ、「ヒステリーや」
戎さんの境内のことは今、小津の記憶にはぼんやりとしている。だだっ広い空地に自転車をとめた男たちが、インチキの塗薬を売る行商人の話を聞いていた。そのそばに風にあおられて二、三軒、おでんや串かつの屋台が出ていた。
「あの甲南の女の子の名、知りたいワ」平目は何本目かの串カツの串を地面にそっと捨てて呟いた。
「もう一度、会えんやろか」
小津はこの時、少し妬《ねた》ましさを感じて、
「会うたって、どないもならんで」
うつむいて肉にメリケン粉をまぶしていた親爺が顔をあげて舌うちをした。
「その串を一本や二本なら見のがすが、ええ加減にさらせ。五本もかくしよって……」
小津は今でも思いだすことができる。あの日以後、時折、平目が帰校の途中、ガタゴトとゆれる国道電車が芦屋川の間近に来ると、
「なア、一緒に降りてくれや」
魚のような顔に哀願の色をいっぱい浮べて自分に頼むようになったことを。
「あした、試験やないか。俺早う帰りたいワ」
「そんなに時間かけん。五台、電車、待とう。三台でもかめへん。三台、待って彼女が降りてこんのなら、ぼくかて諦《あきら》めるさかい」
「彼女に……出合うたかて、何になる」
しぶしぶ同意したようなふりをして、小津もこの薄ぎたない友人と芦屋の停留所で下車する。
芦屋川の土手には松並木がつづいている。両岸には昼ざかりにも、ひっそりと静寂な邸が長く続く。邸の塀の影がくっきりと白い花崗岩質の道に落ちている。
いやいや、つきあうような素ぶりを見せてはいるが、小津自身、本当は自分もあの娘たちに会いたいのだ。会って彼女たちから平目がやってもらったことと同じことを、してもらいたいと思っている。
下車をした中学生は土手の松のかげにかくれて、おたがい黙ったまま、次の国道電車が停留所にとまるのを待っている……。
茶色い、不恰好な国道電車。それはたくさんの荷物をかかえ、子供を背負《せお》った|おばはん《ヽヽヽヽ》に似ていた。
喘《あえ》ぐようにして、ゆるい坂をのぼり、やっとこの停留所に鈍い音をたてて停る。三、四人の客が下車し、散らばっていく。
「おらへん」
平目は眼をショボ、ショボとさせて情けなさそうに呟く。
「だから、俺、言うたんやんか」
小津は小津で腹だたしげに平目に当る。
「待っても無駄やて」
「だけど、彼女たちこの前、ここで降りたのやから……ここに家があるということやないか。家があるさかい、必ず、この道を通る筈やで」
一見、平目の推理はもっとものように思われる。だから黙って、二人は二台目の国道電車をむなしく待ち、それにもあの娘たちの姿が見えないと、また愚《おろ》かな議論をしあう。
「家がここに、あるのや、ないで。あの時は用事あって、おりたのかもしれん」
「用事って」平目は悲しそうに反抗する。「どんな用や」
「そんなこと俺、知るか。友だちの家に行ったんかもしれへんし、花か、ピアノ習いに行ったんかもわからん。あの年齢《とし》の女の子、花やピアノを習うんやで」
「ピアノ……か」
土手に腰をおろし平目は溜息をついている。まるでピアノを習う娘たちが幸福の象徴でもあるような声をだして。
おそらく今の高校生たちには三十数年前のこれら少年たちの心理はあまりに馬鹿馬鹿しく、あまりに縁遠いものかもしれぬ。だが男女、七歳にして席を同じゅうせず的な考えが、当時の日本人にはまだ頭にしみこんでいたのだった。少年や娘たちが手をつないで歩くことなどは勿論、話しあうこともムツかしい時代だった。
三日、待った。五日、待った。しかし彼女たちはどうしたのか、それっきり、国道電車から降りてこなかった……。
(もう、やめとき)
その見かけとはちがって平目が意外に強情なのを、小津はこの待ちぼうけの間に知った。そして遂に彼等はあの娘たちを掴まえることができた。
その日も彼等は三台目の電車をいたずらに見送ったのち、小津はもう二度とこんな無駄なことをするまいと自分自身の愚かさに腹をたてながら、
「帰るで、俺」
まだ渋っている平目をそこに残して芦屋川の土手をおりようとしていた。その時、四台目の国道電車が向うからノロノロと姿を見せいつものように鈍い音をたてて坂をのぼってきた。
「待たんかい」
「イヤや。阿呆くそうて、かなわん」
電車は停留所に軋《きし》んだ音をたてて停った。小津がもし走れば、その電車が動きはじめた時、飛びのれるかもしれない。だが彼の心のなかにも万が一、という期待があって、その期待が彼をまだのろのろと歩かせていた。
三人のセーラー服が次々に電車からおりた。逆光線なのではじめは見えにくかったが、彼女たちが肩をならべて、何か話しあいながらこちらに体をむけた時、その二人があの娘たちだとすぐわかった。
狼狽して小津はうしろをふりかえった。平目は平目で土手の松の樹かげにあわてて体をかくしていた。小津もあわててその松のほうに駆けていった。
駆けている彼の姿は当然、三人の女学生たちの眼にうつった筈だった。もしあの娘たちが憶えているならば、この間、川ぞいの道でガーゼをやった中学生の一人だと思い出した筈だった。
にもかかわらず、彼女たちは相変らず、肩をならべ、何か話しあいながら、何も気づかなかったように、小津と平目との匿《かく》れた松の木のそばを通りすぎた。
「だから、わたしが、言ったでしょ。気をつけな、あかんて」
その一人の声が、体をかたくして松の幹により添っている小津の耳にきこえてきた。たしかにその声は、あの陽にやけた、目の大きな女学生のそれにちがいなかった。
ながい間、黙っていた。ながい間、黙ったあとで、平目が地中から這い出てきたイモ虫のように体をゴソゴソと動かし、
「亀《ヽ》しよう」
と囁いた。みると平目の額に汗が少し浮き出ていた。
亀するというのは当時の阪神の中学生たちの言葉で、兎を追いかける亀のように、女学生たちのあとを尾行することだった。尾行するだけで声ひとつ、かけられぬくせに、ただいつまでも従《つ》いていくのだが、それを「亀する」というのである。
三人の娘たちは、ずっと前方を並んで歩いていた。白い道が川にそって真直ぐに伸びている。娘たちのセーラー服のスカートから黒い靴下をはいた恰好のいい足が動いている。
「亀して……」
小津は唾をのみこんで、
「どうすんのや」
「知らへん。でも、亀しよう」
「声かけてみい」
「ぼくかて」平目は柄になく首をふった。「とても……できへん」
自分らが尾行されているのを彼女たちは気づかぬようだった。二人が途中で立ちどまり、手をふって道を右に折れた。残ったのがあの陽にやけた、眼の大きな女学生だった。
彼女はたちどまって、手さげ鞄を持ちなおした。小津も平目もあわてて足をとめた。彼女が歩きだすと二人の中学生たちも同じぐらいの歩調であとをつけた。両者の間隔はいつまでも同じで、長くも短くもならなかった。それが当時の中学生の「亀する」やり方でもあった。
橋をわたって彼女が向う岸に行った時、小津たちは横にある邸の門のかげにかくれて見つからぬように体をちぢめた。
やがて彼女が蔦のはえた煉瓦の塀をくぐった時、二人は何もしめし合わさぬくせに、駆けるように足を早めた。
それは木造の家に洋風の建物がついた和洋折衷の家だった。このような家は夙川や芦屋のような高級住宅地には多かった。
「東という家やで。変な名前やな」
門燈のついた門柱を見あげながら平目は溜息をつき、大きな発見でもしたように貧弱な顔に笑いをうかべた。
「東……なに子と言うんやろ」
彼等は耳をすませた。だが家のなかからはカタという物音もきこえなかった。無人のように静まりかえっている。
平目は手で何かをいとおしむように煉瓦の塀をなでていた。
「何、してんのや」
「この塀に……」と平目は眼をショボ、ショボさせてひとりごちた。
「ぼくの彼女、もたれたかもしれへんからな」
「阿呆」
小津は実際、腹だたしかった。自分でもなぜ腹だたしいのか、わからない。「ぼくの彼女」と平目が今、口にしたズウズウしい言葉が彼の神経に障ったのかもしれぬ。まだ誰の彼女ともきまったわけではないのだ。
「ぼくの彼女、などと言わんとけ」
「なぜや」
「下品やないか」
「なら、ぼくの好《す》ウちゃん、言うたらええのか。そのほうが、もっと下品やで」
平目は二本の指で塀をなでながら、裏門の牛乳箱の前でたちどまった。箱の口をあけて空の牛乳瓶を引きずりだしている。
「何しとるねん。見つかるで」
「この牛乳瓶なア」
しんみりと、思いつめた声で相手は呟いた。
「彼女が口つけて、飲んだんかもしれへんで」
「馬鹿。口つけて、女の子が飲むか。それに彼女のおやっさんが飲んだかもしれへんし……」
「万一、ということもあるワ」
突然、家のなかから犬の鳴き声が聞えてきた。まだ子犬らしく、高い声をあげて鳴いている。
「トビ、トビ」
女の声がした。
小津と平目とは体をより添うようにさせてその声を聞いていた。あれは、たしかにあの娘の声だった。
「羨ましいなア」
「なにが」
「こんな家に住めて、犬を飼えたらなア。ぼくの家、貧乏やさかい、犬も飼えんワ。二十日鼠《はつかねずみ》さえ、かくしているのやから」
そう……たしかにうすぎたない二人の中学生にはこの家は彼等の手の届かぬ幸福がすべてあるような気がした。幸福とは何か、人生をまだ知らぬ二人にもそう思えた。
[#改ページ]
息 子
二日間だけの出張だったが、東京に戻り会社に寄ってから自宅に戻ると、なぜか長い間、わが家を留守にしたような気がした。
「鋭一は」
靴をぬぎながら、伸子にたずねた。
「金曜日ですよ」
と妻は鞄を受けとって夫の物忘れを笑うように、
「病院の宿直の日じゃありませんか」
「ああ」小津はうなずいて「そうだったな」
彼は別のことを聞きたかったのだが黙っていた。出張をする前日、久しぶりに夕飯に戻ってきた息子と些細《ささい》なことから言い争いをしたのを思いだしたのだ。
昔は父親思いの子に見えたが大学の医学部に入る前ごろから小津は鋭一の物の考え方に次第に反撥するようになった。医者の世界が必ずしもそうでないとは思うのだが、鋭一の心のなかには何か出世第一主義の考えが出てきたように思う。
高校の時から妹の由美とちがって、すさまじく勉強もした。勉強したからこそK医大にも入学できたのだろうが、友だちがいなくなった。それまで遊びに来ていた友人たちが次第に遠ざかるようになった。
「あいつらと、ぼくとは違うんだから」
鋭一はよくそう言ったものだ。
「あいつらは親爺や親類のコネで楽な人生コースを歩けるけど、ぼくは父さんから何も助けてもらえないものな。友だち、友だちというけど、結局、一番、大切なのは自分だもん」
そんな時、小津が、
「そんな考え方をすると、人生が寂しくなるぞ」
と呟いても、息子は唇のはしに冷笑をうかべて、
「じゃ、父さんのようなお人好しは人生が寂しくないのかい。嫌だな、ぼくは、父さんのような生き方をするのは……」
そう答えたのをまだ記憶している。
先日の言い争いも結局は同じようなものだった。食卓をかこんで病院の話などをしているうちに、鋭一の会話に長期治療の見込みのない老患者を嘲るような言葉が出たので小津がそれを咎めたのが始まりだった。その言い争いを小津はまた思いだした。
「なにか、変ったこと、なかったかな」
着がえをすませて、茶の間で妻に茶を入れてもらい、二日間の間に少し溜った郵便物の裏を見ながらたずねた。
「別に。二階の雨戸の滑りが悪いので、大工さんに電話しているんだけど、なかなか来てもらえなくて」
「人手不足なんだ。今はあっち、こっちで建築しているから。雨戸なんかで来てくれる筈がない」
彼が大きな音をたてて茶をすすると、
「変ったことと言えば」
伸子は急に思いだしたように、
「変な電話が三度ほど、かかってきましたよ」
「変な電話って?」
「それがリーンと鳴って、こちらが受話器をとると……ガチャッと切ってしまうの」
「間ちがい電話じゃないのか」
「だって、こちらが小津ですと言っても、しばらく、向うはじいっと黙っているのよ。なにか気配を窺《うかが》っている感じ。由美なんか気味わるがっていましたよ」
夜になり由美が戻ってくると、長男をぬきで晩の食卓を囲んだ。
「しかし医者も、こう下積みが長いとは思わなかったな」
小津は妻と娘とが食事をしている間、一人、盃を口に運びながら機嫌がよかった。
「鋭一と同じ年の連中は、結構、いい月給取りになっているのに、あいつはまだ一本だちできない」
「仕方ないわよ」
と由美は兄をかばうように、
「兄貴が自分で選んだ道なんだもん。父さんが医者じゃないからほかの人たちのように地盤をもらって病院を継ぐというわけにはいかないって言っていたわ……彼としてはやはり大学のなかで上に行くことを狙っているんだもの」
「しかし医科大学で講師や助教授になるのも大変だろう。十年も二十年もかかる」
「だから、兄貴は必死なのよ」
「必死もいいけど」と伸子が横から口を入れた。「体をこわさないかと心配だよ」
「どうしても、出世してみせるといつも言っているわ」
由美は箸をおいて銚子をかえるため席をたった。
「あいつは……そういう奴だ」
小津が苦々しげに呟くと、
「あなたとはちがいますよ。あの子は頭も悪くないし」と妻は自慢げな表情をして「そりゃ、よく勉強してますもの」
「出世のために、心のさみしくなる人間がある。あたたかいものを全部、失って、大学で偉くなって何になる」
「時代がちがうのよ、今は若い人たちも他人を押しのけねば生きていけないんですもの。鋭一だって多少は仕方ないわよ」
小津は妻の言葉に口を噤《つぐ》んだ。妻の心のなかに、うだつのあがらぬ自分にたいする不満があることはいつも感じている。その不満が息子をかばう気持に変り、今のような言葉になるのだ。
「時代が悪いというなら……俺たちの若かった頃の戦争時代が良かったというのかね」
「そんなこと言ってませんよ。ただ、昔のほうがノンビリしていたでしょう」
あれがノンビリしていた毎日だったろうか。日本の街々が火に焼かれ、無数の人々が煙のなかを逃げまわり、そして兵営で小津たち新兵が古参兵から毎日、なぐられていた時代が……。
「そうよ。お父さんはいつも戦争時代のことを引きあいにするけれど」
銚子を持ってきた由美もいつものように母親の味方をして、
「時代の感覚がすっかり違ったのよ。一緒に並べてみることはできないわよ」
平目のあの魚のような顔とショボ、ショボした眼がまた心を横切った。お前がもし生きていたら、今をどのように言うだろう。
食事が終り、テレビをぼんやり眺めている時、電話が鳴った。
「また、あの悪戯《いたずら》電話かしら」
「俺が……出てみよう」
廊下で受話器をとり、
「もしもし、小津ですが」
そう言うと、返事がなかった。返事がないだけでなく、妻が教えてくれたように、じっと相手は、黙っている。沈黙してこちらの気配を窺《うかが》っている感じである。やがて鈍《にぶ》い音をたてて向うは受話器を切った。
水曜日は井伊教授の回診の日である。
この回診の日、鋭一たち若い医局員は医局の前にならんで教授が姿を見せるのを待っている。患者を持っている者はこの日は特に緊張して、一週間の患者の経過や検査をもう一度、頭に叩きこむ。頭に叩きこんでそれを要領よく報告する言葉を考える。
やがて、廊下の向うの扉があいて白衣につつんだ井伊教授の大きな体が、内田医局長と一緒にあらわれる。
「今日は何階から」
「二階の結核病室からまわって頂きます」
若い医局員の一人がコマ鼠のように駆けてエレベーターのボタンを押しにいく。
この間、病室はいつもと違って静まりかえっている。その静まりかえった廊下を、教授を先頭にした白衣の一団が靴音を鳴らしながら通りすぎていくのだ。
鋭一は皆にまじりながら、肩幅のひろい井伊教授の頑丈な背中をじっと見つめる。その肩にも背中にも第二外科で最高の権力をもった男の自信が溢れている。
(いつか、お前も……ああなって、みろ)
心のなかで鋭一は自分にそう言いきかせる。すると彼のまぶたに井伊教授のかわりに自分の姿が――白衣の一団の先頭で右肩を少しあげるようにして歩いている自分の姿が浮ぶのだった。
四日前、肺切除の手術を受けた患者が入室している術後病室に教授は足を踏み入れる。担当医の真木があわててレントゲン写真の袋をかかえて、そのあとに続く。他の者はその背後で教授と真木との会話をじっと聞いている。
「術後の経過はまず良好であります」
真木はベッドにぶらさげた体温計を教授に手わたして、
「血痰もようやく少なくなりました。熱も下降状態にあります。血圧やヘルンも異状ございません。プンクチオンの必要はないかと思います」
教授は新しい独逸製の聴診器を患者の胸にあててうなずいている。
「術後、四日だね」
「はい」
「明日でも新しい写真をとりたまえ。まあ、この熱の状態なら、気管支瘻《きかんしろう》の心配はないようだ」
「はい」
聴診器を耳からはずして、今度は患者に、
「大体、よいようだね。一週間もすればずっと楽になります。大丈夫。安心していなさい」
患者の眼が嬉しそうに光る。うなずいて井伊教授は病室を出ていく。
大部屋に入る。向きあった六つのベッドでマスクをした患者たちがこちらを一せいにふり向く。菌がまだ出ている患者は教授回診の時、マスクをするように主任看護婦に命じてある。
今度は田原が自分の担当患者である老人の枕もとに立つ。
「相変らず、ガフキーが出ているのか」
「はい。先週の検査ではガフキー五が検出されました。四週前はガフキー三でしたが」
「薬は」
「イスコンチとベチオンを使っていますが。今後ベチオンは変えたほうがいいように思われますけど」
医局員たちの顔が強張る。平の医局員である田原は教授がこの患者に指定した薬を変えろと言っているのだ。それは教授の指図にたいする反抗にほかならない。
「いや、今はベチオンでいい」
患者の手前、井伊教授は研究室で医局員を呼びつけて叱るような大声は出さなかったが、眉と眉との間にあきらかに不快な色をうかべ、
「そう次々と新薬を使って耐性菌を患者につくれば、あとの処置方法がなくなる」
医局員全員に聞えるようにそこだけ声を強めて教授は次のベッドに足を運んだ。
六人の患者を見まわる間、おやじ――医局員たちは普通、自分たちの指導教授をこう呼んでいた――の機嫌が悪くなったことは全員にわかっていた。
内田医局長が怒ったような眼で田原をふりかえった。
(馬鹿なことを口に出しよって……)
医局長のその眼がそう語っている。教授の機嫌を損じた医局員はいつまでたっても陽の当る場所に出ることはできぬ。それは誰にもわかっているのに、田原は故意でか、無意識でか、とにかく、しくじったのだ。
大部屋を四つまわり、あと特別病室を三つ回診し、たっぷり一時間半をかけてこの大名行列が終った時は昼をすぎていた。
「田原君、一寸」
内田医局長は教授室まで井伊教授を送って医局に戻ると、田原を呼んだ。皆のものはわざと食事に出かけるように椅子から立ちあがり部屋を出ていった。
鋭一は一人で食堂の隅でライスカレーを食べながら田原の来るのを待った。同じ医学部で田原とは同期生だったが、彼は心中、この風采のあがらぬ同僚を馬鹿にしている。ただ彼と田原とは今、共同で「気管支瘻の術後における化学療法」というテーマ論文を教授に提出しなければならぬ。だからこそ、この相手が今日のようなくだらぬ失敗をしてもらっては自分までが巻きぞえをくうのだ。
彼がライスカレーをたべ終り、コップの水を飲んだ時、猫背の田原の姿が食券売場の前に見えた。
鋭一が手をあげると、足を曳きずるように同僚はよごれたテーブルに近よってきた。
「しぼられたろ、君」
鋭一は煙草の端を爪先ではじきながら、苦い顔をしてたずねた。
「ああ」
「なぜ、|おやじ《ヽヽヽ》に、あんなことを言うんだい」
「しかし……ベチオンが結核薬としてパス程度の効力もないことは誰でも知っているんだし……」
田原はうつむいて力のない声で答えた。
「あれをいつまで続けても、ぼくの患者には効き目がない。それより、エタンブトールを使ってほしいんだ」
「おやじはエタンブトールは|いざ《ヽヽ》という時に使うといっておられる」
「ガフキーが五も出る開放性患者は、もう|いざ《ヽヽ》という状態だと思うんだけど、おやじがベチオンを続けるのは、君、あれを作った製薬会社から研究費を出させるためだろ」
鋭一は黙って煙草に火をつけた。田原などに言われなくてもベチオンが結核薬として効果のないことは長い追試でわかっている。あれはチビオン系の薬で、チビオンはそれを作った独逸本国でさえ、もう顧りみないのだ。
しかし医局員はベチオンの使用については暗黙に知らんふりをしていた。医局への研究費の寄附がその製薬会社から出されていることを知っていたからだ。
「しかしねえ」
と鋭一は苦い表情で煙草の火口をみつめた。
二人はしばらく黙って、窓の外を見つめていた。
「なア。田原」
鋭一は煙草の火口を眺めながら呟いた。
「損なこと、するなよ」
「損なことって」
「あの薬のことをもう二度と口にするな、と言うことさ」
「しかし、俺は……あの老人の主治医なんだよ。主治医である以上……患者が健康になってもらいたいんだ」
「わかっているよ。君の気持はよく、わかるよ。しかしぼくたちはやはり、今はひとつの組織の一人なんだ。医局という組織の。その統制を乱しちゃいかんよ」
「俺、なにも統制を乱すつもりはないんだ……」
「じゃ、医局長に迷惑をかけるな。彼は君の将来のことを色々、考えてくれるんだ。知っているだろ」
鋭一はそこで言葉を切って、
「だが、|おやじ《ヽヽヽ》が君に腹をたてたら、医局長も、もう何もできなくなるよ」
「さっき、医局長に同じことを言われた」
田原は少し寂しそうに笑って、茶碗にうすい茶をついだ。
「そんなことをしたら、一生、うだつがあがらなくなるぞって……」
「それみろ。なア。君のこれからに、ひびくんだから」
「だからと言って、あの患者に……」
田原はそこまで言うと、口をつぐみ、茶碗を口に運んだ。
「よく考えろよ。ぼくはもう、これ以上、言わないけど」
たちあがって鋭一はわざと背のびをしながら、
「さあ。これから図書館に行ってくるか」
「君は……いいなア」
突然、田原の洩らした呟きに鋭一は思わずふりかえって、
「なにが」
「君は、なんでも割りきれるんだから」
「そうかね」
「君はきっと、この医局で出世していくよ」
なにも答えず、鋭一は食堂を出た。長い廊下に丹前《たんぜん》を着た患者や看護婦が窓のところに集まっている。中庭で事務職員たちがバレー・ボールの真似事をしているのを見物しているのだろう。
(君はきっと、この医局で出世していくよ)
田原が今、呟いた言葉は鋭一の耳にまだ、はっきりと残っていた。聞きようによってはそれは羨望の声であり、また別の受けとり方をすれば皮肉の言葉でもあった。
(そうさ。俺は出世したいさ)
田原の顔を思いながら、鋭一は心のなかで言いかえした。
(それがなぜ、いけないんだ)
すると彼のまぶたに、また井伊教授の自信にみちた歩き方が浮んだ。医局の全員を従えて、回診していくあの姿はやがて二十年後に自分のものになるかもしれない。
「外科の小津先生、小津先生」
スピーカーが彼の名を呼んでいた。
「おいででしたら、交換室に御連絡ください。外科の小津先生、小津先生」
鋭一は廊下の突きあたりにある内線電話の受話器をとりあげた。
「小津ですが」
「電話がかかっています」
交換手の女の子の声が受話器の奥で聞えた。
「だれからですか」
「内科病棟の看護婦の今井啓子さんからです」
女の子の声には当惑と躊躇とが感じられた。
「どうしても……とおっしゃるもんですから」
「切りかえてください」
鋭一は不快な気分を抑えながら受話器を握りしめていた。
「わたしです」
すぐに啓子の声が伝わってきた。
「何か用?」
鋭一はつめたい声で、
「ぼく、今、忙しいんだけど」
「先生、今日の夕方でも会ってください」
「夕方? 夕方も手がぬけないんだ」
「十分でいいんです」
押し問答がつづき、やっと鋭一は受話器をきった。結局、今日の夕方、五時に今井啓子に会う約束をさせられてしまった。
(なんてしつこいんだろう)
彼は啓子の泣き顔を思いだした。泣いた啓子の顔は猿のようで彼をうんざりとさせるほど醜かった。彼の心にはもうこの看護婦にたいする執着は毛の先ほどもなかった。
(夕方、また、あの女につきあわねばならない)
彼は医局には戻らず第二病棟の看護婦室に寄った。
そこで自分の受持患者の検査結果表をめくっていると、医局長の内田が顔をみせて、
「ああ、君」
と外によびだした。
「困るなあ。田原にも。おやじさん、大分、機嫌が悪かったぞ」
「さっき、食堂で、私からも忠告したのですが」
「ふん。それで、彼、何と言った」
鋭一はしばらくためらったあと、
「どうも……彼は頑固なところがありまして」
「そうだな。面倒みきれんよ。ああいう男は」
「申しわけ、ございません」
「君に言っているんじゃないんだ」
医局長は苦笑しながら、ポンと鋭一の肩をたたいて、
「君は心配することはない。おやじも君には信頼を寄せておられるようだからな。ぼくらも決して君の将来を悪くは計らわないつもりだ」
「はあ」
鋭一は頭をさげ、内田医局長が階段をおりていくのを見送った。
午後の一時から三時までは患者たちの安静時間である。病棟内はひっそりと静まっている。
図書館で本を広げながら、鋭一は夕方に会わねばならぬ今井啓子とのことが心に重かった。
啓子との関係は六ヵ月つづいた。その前も別の看護婦たちと同じような間になっていた。だが他の女たちは別れてしまうと、アッサリとして、啓子ほどしつこくはなかった。
図書館から彼はふたたび第二病棟に寄り、自分の受持患者を見まわった。安静時間のようやく終った病棟には雑然とした騒がしさが戻っていた。
分担しているのは五人の患者でそのうち三人は胸部結核だった。二人は手術を待っている男たちであり、一人はもう退院が間近い。
鋭一は正直いって、もう、ほとんど結核患者に興味はなかった。抗生物質と早期発見とで患者の数は減っていくし、治療の方針もきまってしまった。将来性のある分野とはいえない。
だから彼がこれから狙っているのは、癌(クレプス)の世界だった。ここの大学にも近く癌センターを作る計画がある。医局の連中もそのセンターの設立を待っている。これからの外科は癌と心臓と脳の三つに集中するだろう。
今、受持っている患者に肺癌の老人が一人いる。ある大きな会社の重役でおそらく近いうちに手術に踏みきることになるだろうが、当人には勿論、結核だと言っている。家族にも本当のことをやがて告げねばならぬ。
三階の端にあるこの患者の病室に入ると、若い女が甲斐甲斐しく大きな花束を花瓶にいけようとしていた。患者の娘だった。
「今日は」
鋭一は微笑して、部屋をみまわした。
「気分はどうですか」
うつら、うつらとしていた老人はベッドから上半身を起そうとした。
「そのままで」
「いや。変りありません。午後、血痰が一つ出たことは出ましたけど」
鋭一が聴診器を患者の胸にあてている間、うしろに両手を重ねて控えていた娘は、
「先生、痛みが手に来たと言っているんですが」
心配そうに訴えた。
「神経痛かな」
彼はわざと陽気な顔をして首をかしげた。
「心配はいりませんよ。ずっと痛いわけじゃないでしょう」
「まさか……まさか癌じゃないでしょうな」
患者は仰向けになったまま、鋭一の表情を窺いながら、
「私の友人で肺癌で死んだ男がいましたが……その男、胸や腕が痛いとしきりにこぼしていました……」
「肺癌の時の痛みは、そんな楽なもんじゃありませんよ」
鋭一は微笑を頬からたやさず答えた。
「ま、とり越し苦労をせず、ぼくらに任せてください」
娘の顔に安心と信頼の表情がうかんだ。この娘、悪くないな、と鋭一は心のなかで呟いた。すると、夕方会わねばならぬ啓子の眼がそのうしろに浮んで、あわてて視線をそらせた。
「先生、手術ということになるでしょうか」
「そのつもりで入院されたんでしょう」
「手術をして全快すれば、昔どおり、働けるでしょうな」
「勿論です。ゴルフだって何だって、できますよ」
癌患者に嘘を言うことには馴れていた。彼等に嘘を言うのもまた外科医の勤めの一つだった。
「お大事に」
病室を出た時、彼はもう、この老人の運命のことは心にかかっていなかった。ここでは一人一人の運命に同情していては身のもちようがないのだ。
夕方、病院前の喫茶店で看護婦の今井啓子と会った。
勤め帰りの男女でほとんど席のない喫茶店の隅に、啓子はうつむいたまま彼を待っていた。
鋭一が前にたつと、顔をあげて寂しそうな微笑をうかべてあやまった。
「すみません」
「いや、それはいいんだけど、あまり時間がないんだよ。医局長に呼ばれているから」
鋭一は話を早く切りあげるため、嘘をついて腰をおろした。
給仕が注文をとりにきたあとも啓子はしばらく黙っている。
白衣を着ている時はみずみずしい啓子が、私服に着がえると、どうして、こんなにくたびれた女に変ってしまうのだろうと鋭一はみじめな気持で考えた。正直いって啓子にたいする興味も執着もとっくに無くしていた。今だって、できることなら、すぐにでもこの喫茶店から出ていきたかった。
「で、用事って何だい」
「どうして会ってくださらないんですか。この頃」
啓子は恨めしそうに運ばれてきた珈琲茶碗をみつめて口を切った。
「どうしてって」
露骨に鋭一は不快の色を顔にあらわし、
「何度も言ったじゃないの。手術患者が多くて忙しいんだって」
「嘘」
啓子は烈しく首をふって、
「わたし、外科の看護婦の関場さんと友だちなんです。今週は手術は一度しかなかった筈だわ」
鋭一は一寸ひるんだが、
「関場君がどう言ったかしらんが、医局員は手術のほかにも雑用が目茶苦茶にあるんだ。レポートも書かなくちゃならんし、医局の研究会の準備もしなくちゃ、ならない」
「昔は研究会があっても、会ってくださったわね」
スプーンをかきまわしながら、啓子の頬《ほお》に泪《なみだ》がゆっくりと流れた。
「みっともないじゃないか」
鋭一は周囲を気にしながら、声をひそめた。
「泣くほどの問題じゃないよ」
「会いたくないなら、会いたくないって、なぜ、はっきり、言ってくれないんです」
「ぼくはね」
鋭一はこの際、すべてに決着をつけたい衝動にかられ、
「君がもっと、あっさりした人かと思っていたよ」
「どういう意味ですの、それ」
「少し勝手すぎるんじゃないかな。君はぼくの立場をひとつも考えてくれず、電話してくるんだから。ぼくが、どんなに当惑するかわからないのかい」
「すみません……」
啓子はうつむいたまま、小さな声でうなずいた。
「でも……わたし、苦しくてたまらないんです」
「それが困るんだよ。なにも苦しむことないじゃないか。おたがい、楽しんだと思えば、それでいいじゃないか」
「そんな恋愛、わたし、したくないんです」
「冗談じゃない。恋愛のつもりで、ぼくは君とつき合ったんじゃないよ。みんな、やっていることじゃ、ないの」
わずらわしいことは大嫌いだ、と咽喉もとまで出かかった言葉を鋭一はのみこんだ。たった三度か、四度、寝ただけなのにこの女はもう俺と自分とを恋人同士だと思いこんでいる。
「とに角、一人合点して、ぼくに迷惑かけないでほしいね」
「知っているわ、わたし」
突然、今までうなだれていた啓子が顔をあげ、憎しみのこもった眼で彼を見あげた。
「知っているわよ」
「なにを、知っているんだ」
「先生が井伊先生のお嬢さんと近頃、つきあっていることよ」
啓子の言葉は急にぞんざいに蓮っ葉になった。
「そうでしょう」
狼狽して鋭一は思わず視線をそらせ、
「くだらん。誰がそんなデマを飛ばしたんだ」
「誰だっていいわよ」
「医局のダンス・パーティがあった時、お嬢さんと踊った憶えはあるさ。ぼくだけじゃない。ほかの連中も同じだろう。それをいちいち、針小棒大に言われちゃ、かなわんよ」
啓子のほうを眺めず、彼は顔をそらせたままあわてて弁解した。
「第一、井伊教授のお嬢さんに失礼だぞ」
「どうせ、わたしは看護婦ですもの。とても教授先生のお嬢さまには、かないっこないわよ」
「そういう言い方はよしてもらいたいね」
彼の声に背後にいた恋人らしい男女がこちらをふりむいた。恥ずかしさを誤魔化すため鋭一は吸いたくもない煙草に火をつけた。
「先生とお嬢さんとが渋谷を歩いていたのを見た人があるんだから」
「渋谷を? ああ、あれか。井伊教授の旅行用のトランクを買いにいく時、お供するよう命ぜられたんだ」
「上の人の命令ならペコペコ、従うんですのね、先生は」
鋭一は腹をたてて椅子から立ちあがった。
「帰るよ。こんなところで時間をつぶすほど暇じゃないんだ。ぼくは」
机の上の伝票をとって、そのままカウンターまでいくと、啓子は執拗にあとをついてきた。彼はそれを黙殺したまま、珈琲代を支払って外に出た。
「ごめんなさい」
大股で歩く彼に小走りで並びながら、啓子はまた、しおらしくあやまってくる。
「そんなこと言うつもりじゃ、なかったんです」
「今更、遅いさ」
鋭一の声はつめたかった。
「もう二度と会う気はないよ。さよなら」
交叉点の信号が赤から青になり、人々が車道をわたりはじめた。その人の群にまじり、もう啓子がついてこないのを意識してから鋭一は心のなかで、
(これで手が切れた)
と呟いた。
(しかし、誰が俺とお嬢さんとのことをあいつに密告したんだろう)
彼は井伊教授の令嬢の白い、派手な顔を心に思いうかべた。彼が令嬢とつきあったのはたしかに、|おやじ《ヽヽヽ》がこの前、ニューヨークで開かれた学会に行く時、旅行鞄を買う手伝をした時だけだ。帰りに一寸、お茶を飲んだ。だがその時――
だがその時、鋭一はこの令嬢と親しくなれば自分の出世にも役にたつだろうと、ふと考えたことも事実なのである。
夜、家に戻ると既に両親も妹も食事をすませて茶の間でお茶を飲んでいた。
「おかえり。御飯は?」
「病院ですませてきた」
いつものように、ぶっきら棒な答えをして鋭一は洗面所に行き、丹念に手を洗い、うがいをした。医者だから――と言うよりは医者のくせに鋭一は神経質なほど衛生に気をつけていた。
「貰い物のお菓子がありますよ。こないかい」
母親は息子が洗面所からそのまま二階の彼の部屋に行く気配《けはい》を気にしながら声をかけた。このところ父親を鋭一がなんとなく避けているのを母も妹も知っていたからである。
「ああ、行くよ」
小津は茶の間に姿をあらわした息子の髪にまだ水滴が光っているのを見あげた。出張の前より、何だか、痩せたような気がする。
「宿直は疲れるだろう」
彼は機嫌をとるように鋭一にたずねた。この前の口論のことがまだ心にひっかかっていた。
「いや、そんなでもない」
鋭一は口だけで返事をして夕刊を手にとり読みはじめた。
「このお菓子、おいしくってよ」
由美が途切れた二人の会話をつなぐように、
「疲れた時は甘いものがいいのよ」
兄は妹になにも返事をせず、出された菓子を口に放りこんだ。
「今日は手術があったのか」
「ない」
「手術があると、こたえるだろう」
「手術によるさ」
息子は面倒くさそうに父親に答えた。
「やはり癌の手術が多いのか」
「そうとも限らないよ。ぼくたちはまだ下《した》っ端《ぱ》だから、何でも手伝わさせられる」
「しかし、今は麻酔が発達しているから、患者はずっと楽だろうな。父さんが兵隊の時、入営一週間目に盲腸をやった同年兵がいたが、軍隊なぞじゃ、麻酔の手をぬくからね、すごく辛かったらしいね」
鋭一は返事をせずに夕刊に視線を落していた。また戦争の時の話か。親爺は何かにつけて|あの時代《ヽヽヽヽ》のことをふりかえる。あの時代しか自分の人生がなかったみたいな口をきく。それが鋭一にとってはいつも不快感をそそるのだった。
「実際、あの頃は薬らしい薬もなかったですからねえ」
母親だけがとりなすように相づちをうってやる。
鋭一が黙っているので小津は別のことを考える。そう、兵隊の時は毎日、なぐられていたため、痛みというものに何時か、鈍感になってしまっていた。今の若い連中は耐えるということを知らん。
廊下で電話が鳴った。
「また、あの電話かしら」
由美が不安げに腰をあげた。
「いやになっちゃう。受話器をとっても返事もしないんだもの。なぜそんな悪戯をするんでしょう」
「お前に心あたりないの」母親も心配そうに「ヘンな男の人で」
「まさか」
鋭一は心のなかで、ひょっとすると、この電話は啓子の嫌がらせではないかと思った。あの、しつこい女なら、こんなこともやりかねないのだ。
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忍ぶれど
小津と平目とが四年生になった年、ヨーロッパにも戦争が勃発した。戦争はもう日本と中国との間だけではなくなったのである。
A組の連中のなかには急に海軍兵学校や陸軍士官学校の受験を志すものがふえてきた。四年を終了すると上級学校をうける資格が一応は与えられるのだ。
もっとも――こういう資格もあわただしいA組の連中の動きも、小津や平目にとってはあまり関係がなく、
「陸士かて、海兵かて、どうせ俺たち入学できる筈ないやんか」
彼等は陸士や海兵だけではなく、むつかしい上級学校を受けることさえ諦めていた。先生たちもこの劣等生たちにはあまり期待も希望も持っておらぬらしく、
「とも角、何とか五年にあがってくれや。別に一高や三高に合格してくれとはいわんぞ。普通の高校もお前らには歯たたんやろ。まア自分の実力に見合うた私大にでも進め。鶏口《けいこう》となるとも牛後《ぎゆうご》となるなかれだ」
慰めとも諦めともつかぬ口調で呟いたが、教練の教官や配属将校たちは別だった。
「この非常時下に」
カバ教官は小津や平目たちC組の連中を整列させては、
「お前らのようなグウタラは人間の屑《くず》である。A組のなかには進んで志望校を変更して陸軍、海軍の将校たらんと考える者もふえているというのに、ああ、お前たちはそれさえ考えん。考えぬどころか、グウタラ、グウタラ、毎日を送っている。米食い虫とはお前らのことを言うのである」
そんな嫌味《いやみ》を幾度となく口にした。
「胸くそ悪いオッさんや」
「ほんまに、頭、どついたろか」
教練が終って、やっと解散を命ぜられると生徒たちは口々にカバ教官の悪口を呟いたが、実際にこの退役曹長の頭をどつく勇気のある者は一人もいるはずはなかった。
だが、ある日、また平目がとんでもないことをやった。
あれは昼休みが終るサイレンが鳴った時だった。
平目と小津とは弓道場の横の芝生に寝ころびながら、あの東という娘のことを話しあっていた。あれからもう長いこと彼女に出会っていない。出会っていないにかかわらず――というより出会うことができぬゆえに、かえって平目と小津との彼女への思慕は続いたのかもしれぬ。
「彼女の家の前、この間もうろついたんやけどな、やっぱり会えへんかったワ」
「しつこいな、お前も……」
小津は平目のしつこさに呆れたが、ふしぎに嫉妬の感情はなかった。むしろ同じ相手に恋しているこの貧弱な友人に共感する気持なのである。
「教室に戻ろうや」
小津は立ちあがり、平目とノロノロと校舎に戻りかけた。
銃器庫の前を通りかかった時、南京錠のぶらさがった扉の向うにカバ教官が帳面を持って何かを書きつけている姿がみえた。時折、教官はこうして生徒の銃の手入れを調べることがあるのだ。
「カバやで」
小津は小声でささやいた。
「うん」
平目は目をショボ、ショボとさせてうなずいたが、その手が急にゆっくりと伸びて扉をしめたのを小津は見た。それだけではない。その手が南京錠をカチリと押しこんだ。
「お前」
驚愕した小津は、
「何、すんねん」
「あれ」
平目自身もびっくりして、
「ぼく、何したんやろ」
「何した……言うて、お前、南京錠をかけたやないか。カバは出られへん。銃器庫に押しこめられたんや」
ほとんどの生徒はもう校舎のなかに吸いこまれていた。今の出来事を目撃した者は小津以外に誰もいなかった。
「あの……ぼくの手が勝手にやりよったんやで。勝手に動いて無意識に錠をかけよったんやで」
「何、言うてるねん。逃げんかい」
二人は一目散《いちもくさん》に駆けだした。校舎のなかに飛びこんだ時、小津は肩で息をしながら、
「えらいことになるワ」
「そやろか」
「当り前やがな。教官は銃器庫のなかで誰かが助けだすまで出られへん。見つかったらお前、停学やぞ」
「そんなら黙っといてや」
「そりゃ、俺、なにも言わんけど……ほんまに、お前いう奴は……」
次の授業の間、小津は国語の教師の国文法の授業もほとんど耳に入らなかった。もっとも平生でも教師の説明は彼が聞いて理解できぬことが多かったが、今はそれと違って、心ここにあらざる気持だった。
いつもなら彼の背後でたえずゴソゴソと動く平目も今日だけは音もたてぬ。身を縮めて授業の終るのを待っている気配である。
ながい授業が終りかけの時、小使が教室に入ってきた。先生に何かを話している。
「お前たちのなかで」
先生は生徒たちをふりむいて、
「銃器庫の鍵をしめた者はいないか」
皆はぽかんとして教師の顔を見ていた。
「教官が銃の検査をしておられる時、銃器庫の錠をしめたものがいる。教官はそのため一時間も救いを求めて扉を叩いておられたと言う」
笑い声が教室を震わせた。
「なにがおかしい」
「先生」
誰かが素頓狂《すつとんきよう》な声をあげた。
「先生かて、笑うとるやないか」
「私は笑うとらん」
「いや、笑うてはったで。それに天罰やなア。まア、それは」
「なぜ、天罰だ」
「ぼくらC組、D組のことを、あの教官いつも米食い虫、言うとるさかい、天罰があたったんやろ」
「何を言うか。すると、お前たちが犯人なのか」
口笛と不平の声が波のように拡がり、
「なんでぼくらばかり責めるねん」
「そや。A組の奴らは犯人やないのか」
「もういい」
先生は困惑した表情で手をふった。
「お前らが、したと言うのでなければそれでいい。小使さん、このクラスの者ではないと教官に言ってください」
小使が礼をして去ったあと、国語の教師は少し嬉しそうな顔をして、
「なア。教官や配属将校にあんまり悪戯したらアカンぞ。上級学校に提出する内申書で悪くなる」
小津はほっとしてうしろをふりむいた。平目は相変らず眼をショボ、ショボさせたままである。まるで何事もなかったようにこの男は無表情のままだった。
この年から翌年にかけて世のなかが、がらりと変った。ポーランドを占領した独逸軍は今度は反転してベルギーやオランダに電撃的な作戦を開始し、またたく間に巴里に進駐したのである。
「すげえなア」
朝、教室に誰かが独逸のメッサー・シュミット機の色ずり写真を作って持ってくると、皆はそれをとり囲み、眼を丸くして、のぞきこんだ。毎日の新聞には華々《はなばな》しい独逸軍の勝利が大きな活字で印刷されて、小津たちもそれを読み、胸のおどるのを感じた。日本は独逸と手を握っていたから、誰もが自分の国がいつか刀折れ矢つきるなどと思ってはいなかった。
「今にアジアは日本が盟主となり、ヨーロッパは独逸が指導することになります」
中支から戻って学校に講演に来たゲートル姿の新聞社の特派員がそんな演説をすると講堂の窓は生徒たちの拍手でふるえた。軍国主義とかファシズムとかいう言葉はその頃、中学生たちの頭には全くなく、中国で日本軍がどんな抵抗にあっているのかも、また独逸のヒットラー総統やナチズムの真意が何処にあるかも、少しも聞かされていなかった。
だから彼等はまもなく、自分たちが暗い谷の傾斜を転げおちていくことも一向に予感していなかった。目さきのきく上級のA組の生徒たちは陸士や海兵に入学していき、相変らず、ズボラなC組、D組の連中はそれを横目でみながら、四年生としての夏休みを迎えた。
世間は随分、きびしくなり、女の人のパーマネントが禁止されたり、愛国婦人会のおばさんたちが「ぜいたくは敵です」というビラを盛り場でくばるような日々になったが、夏休みは夏休みだった。いやな定期試験が終った日、校庭の松の木で油蝉が鳴いて、暑い青空に入道雲が湧いていた。
小津と平目とは他の生徒たちにまじって、解放感を胸いっぱいに味わいながら校舎を飛びだした。
「休みやで」
「そや」
「何すんねん」
「海に行こ」
彼等は水泳用の褌《ふんどし》を鞄のなかに入れていた。泳ぐ場所は阪神の間ではいくつもあった。海は今のように汚れてはおらず、少し足をのばせばきれいな浜辺にすぐ行くことができる。
「芦屋の海に行って、アメ湯、飲もうか」
「彼女に会えへんかなア」
「会えるかも、しれん」
勿論、二人ともそんなことはあり得ないことを知っていた。彼等は国道電車のなかでも彼女たちの姿をあれっきり見ることができなかったのだ。四年生になってから補習の時間が一時間、付加されたため、あの娘たちと電車に乗る時間がずれたのも大きな原因だった。
国道電車には乗らず、もっと海岸ちかくを走る阪神電車に乗って芦屋の浜に出かけた。
陽のまぶしく反射する海にはもうかなりの人たちが泳いでいて、白い浜に葦簀《よしず》ばりの小屋が何軒もならび、そこで鞄をあずけ、裸になった。平目はすぐにアメ湯の瓶を口にあててゴクゴクと飲んでいる。
「おめえの裸はきたないやんか。たまには洗濯ぐらいせいや」
小津は憐れむような顔をして、痩せこけて貧弱な友だちの体を眺めたが、平目は平然として、
「海につかったら、洗濯の代りになるで」
それから彼等は両手をひろげて、白い波がしらのくだける海に一目散に走りだした。
「こら、気をつけんかい。人の頭に砂かけよって」
日光浴をしていた男が大声で平目に怒鳴った。
海に入ると二人はしばらく水のかけ合いっこをしてから、平泳をはじめた。
夏休みだ、と小津は思った。体のうちをぞくぞくと快感が走る。もう嫌な授業は当分ない。眠けを誘う教師の声を聞く必要もなければ試験に悩まされることもない。A組の連中は受験準備にとり組んでこの休みを送るらしいが、そんなことはあの連中に任せておけばいいのさ。
平目が並んで泳ぎながらひとりで笑っている。
「なに笑うとるねん」
「え?」
「なに笑うとるねん」
「聞えん」
しばらく泳いでから浜辺に引きかえしながら、
「怪体《けつたい》な奴ちゃな、お前は。泳ぎながらニヤニヤ笑いよって……」
小津がそう聞くと、平目は、
「あのな。物理の実験、やっとってん」
「物理? お前がか。何の物理や」
「ロケットのこと聞いたやろ。独逸にはロケット飛行機がある、言うて」
そう言えば休みの前、物理の教師が雑談風にロケットについて話してくれたことがあった。もっとも小津はそんな面倒臭い話にはほとんど関心がなかったが……。
「そやさかい」平目は真剣な顔をして「ぼく、ロケットの実験してみたんや」
「どないにや」
「泳ぎながらポンポンと屁、こいてみたんや、そしたらほんまスピードが出たで」
浜の砂は焼けた金属のように熱かった。一人の男が犬を波うちぎわで遊ばせていた。子供たちが砂を集めて小さな山をこしらえている。
「お前」
小津は不意に平目にたずねた。
「上の学校、どこ、受けるんや」
「ぼくとこ、貧乏やさかい」
平目は少し悲しそうな顔をして、
「どこも受けられへんかもしれんワ。ぼくが勉強できたら、伯父貴も学資だすと言ってくれるやろけど……こんな成績やったらあかんやろ」
小津は黙って海と入道雲とを眺めていた。上の学校に入学しなければ平目は三年後には徴兵検査を受けねばならない。だが軍服姿の平目をこの貧弱な体から想像することは不可能だった。
「そんなら……」
と小津は小声で、
「お前、少し、勉強せいや」
「勉強、嫌いやねん」
「そりゃア……俺かて同じやけど」
彼等はしばらく黙っていた。暑い日差しが水にぬれていた二人の体をすぐ乾かした。
「あっ」
突然、平目が声をあげた。
「なんや」
「彼女や」
放心したように口をあけて平目は右の波うちぎわを注目している。
彼女だった。白い水泳帽と黒い水着を着て、あの芦屋川の川ぞい道で一緒に歩いていた友だちと今、海に入ろうとしている。
「ほんま」
小津は吐息とも溜息ともつかぬものを口から洩らして、
「彼女やがな」
平目はもう起きあがり、砂浜を駆けだしていた。小津もそのあとに続いた。
平目も小津もそこで足をとめて、しばらく水と戯れている彼女たちを遠くから羨ましそうに眺めていた。話しかけたかったが、話しかける勇気は少年たちにはなかった。
かき氷のような真白い入道雲が水平線の上に浮んでいた。波のくだける音にまじり浜で遊んでいる人たちの声が風に乗ってくる。その風を、小津は眼をつぶりすいこんだ。ここにはもう退屈な授業も試験の不安もない。戦争の足音も聞えない。
水泳帽をかぶった彼女たちの頭が波の間にならんだ。沖にむかって二人は泳いでいる。
「行こ」
平目が寄せてきた波に体を沈めた。小津もそれにならって、そのあとを追った。
海草が足にひっかかり、塩からい水を少し飲んだ。女の子のくせに二人は意外と泳ぎもうまく、平気で沖に向っている。
あまり水泳に自信のない小津は浜から遠ざかったのに不安を感じ、急に向きを変えた。それに気づかぬ平目はまだ彼女たちを追いかけている。
体が立つところまで戻ると、小津はうしろをふりかえり、遠くに浮んだブイに二人がつかまっているのを眺めた。
平目はまだ泳いでいる。
(あいつ……)
ほんま、大丈夫やろか。あいつ、俺と同じくらいしか泳げへんのに。泳げへんくせに、懸命になっとる。ブイにたどりつこうとしておる。
(お前、そんなに、好きなんか。あの女の子が……)
少し大きな波が平目の体をのみこんだ。イガ栗の頭が波を漂い、沈んだ。
(何してんねん。あいつ)
平目が溺《おぼ》れかかっていることに小津はまだ、気がつかなかった。だがすぐ、飛びあがるように浮いた平目が、手をバタバタとさせているのを見た時、
「しまった」
と思った。
何か叫んでいる。助けてくれと叫んでいる。次の波が平目を沈め、また水の上にその頭と手が浮んだ。
ブイから彼女たちが離れた。平目の声を聞いて助けてくれようとしているのだ。
小津はボートを漕いでいる男に叫んだ。
「溺れてますねん。友だちが」
「え。溺れてる。どこや」
「あそこですねん」
その時、彼女たちは平目のすぐ近くに来て、もがいている彼を扱いかねていた。
「今、行くで」
ボートの男はオールをせわしげに動かして、三人の頭が浮き沈みしている方に向った。
みんなが注目しているなかで、平目は男の人の肩に片手をあずけながら、引きずられるように浜にあがってきた。そのあとを彼女たちがボートを押しながら泳いできた。
「あかんで。よう泳ぎもできへんのに、沖に出たら……」
男は平目の体を小津にあずけ、舌打ちしながら小言を言った。
「もう一寸《ちよつと》で、御陀仏《おだぶつ》やがな」
「へい」
うつ伏せに倒れた平目のそばに寄ってきた彼女たちに、
「すみまへん」
と小津は真赤になって、あやまった。
「よかったわ、ほんまに」
平目がどうやら元気をとり戻したのを見ると彼女たちはまだ興奮さめやらぬ口調で、
「うち、どないしようかと思った。えろう、暴れはるんやもん」
それから、急にびっくりしたように、
「あら、この人に会った記憶あるワ」
と叫んだ。
「そうでんねん」平目は眼をショボショボさせて「あの時、ぼくがガーゼもらいましてん」
「まア、驚いた。あんた、会うたびに面倒かけはるんやわ」
彼女たちは屈託《くつたく》なさそうに声をあげて笑った。水泳帽をかぶった娘たちの黒い水着が濡れて、ぴったり胸のふくらみをあらわしている。
「あんたら、この頃」
小津は勇気をだして声をかけた。
「あんまり国道電車に乗らへんな」
「なぜ」
「ガーゼの礼を言おう思うとったんやけど、滅多に会わんもん」
「学校で時間ずらせて電車に乗れと言われてるんやもん。それに……」
東――小津はその姓だけしか知らなかったが、その東ではない娘がからかうように答えた。
「同じ電車に乗ったら……あんたたち灘中の生徒、臭いもん」
「臭い?」
「そうよ。汗くそうて、かなわんわ。ねえ愛子さん」
東愛子は少し笑ったまま返事をしなかった。
「臭いのは、ぼくらやないで」
小津はそこまで言いかけて口をつぐんだ。臭いのはこの平目のせいや。平目とぼくと混同せんでほしいワと彼は心のなかで呟いた。
「それにあんたたち、電車のなかでなぜ、変な声をだしたり、吊皮にぶらさがったりすんの。迷惑やわ、ほんまに」
「ぼくら、そんなこと、せえへん」
小津はしどろもどろの声をだした。
「嘘。あんた、いつか、この人と、芦屋川の土手にかくれていたやないの、知っているんだから。この東さんのあとをつけて、彼女の家のまわりウロウロしてはったでしょ」
「知らん」
「あまつさえ、牛乳瓶かて、盗んだんとちがう」
小津は真赤になってうつむいた。彼女たちは自分らを軽蔑している。彼女たちは男の子の心理が少しもわかっていないのだ。電車のなかで騒ぐのも、あとをつけるのも彼女たちの注目を引きたいためだけなのだ。小津のまぶたには、ろくに泳げもしないのに必死に沖に向っていった平目の小さな頭がまだやきついていた……。
「行こか」
東愛子は会話に飽きたのか、友だちを促した。
「うん。さよなら」
白い脚についた砂を払って彼女たちはたちあがった。空は青く、海から泳ぐ人々の声が伝わってくる。
「待ってえな」
平目が上半身を起して、哀願するように、
「飴湯《あめゆ》、おごらせてえな」
「いらん。あんなもの」
彼女たちはピシャリと断った。
「お腹こわすと嫌やさかい」
小津と平目とは辛抱づよく海で遊ぶ彼女たちの小さな姿を見つめていた。
こちらはもっと話を続けたいと思っているのに、向うには自分たちに毛ほどの関心も興味もないことを小津は痛いほどわかっていた。それは彼が人生ではじめて味わった恋の苦しさかもしれなかったが。しかし、もしこの感情を恋と呼ぶならば、それは奇妙な恋でもあった。なぜなら小津の気持には、同じ愛子にのぼせている平目にたいして少しも嫉妬の気持はなかったからである。嫉妬の代りにむしろ、一種の同甘同苦に似た感情がこみあげてくるくらいだった。
「それにしても、お前……」
小津は思わず溜息とも吐息ともつかぬ声をだして、
「よう、あそこまで泳ぎよったなア」
平目が溺れかかったあたりは浜ちかくの海とはちがい、波も荒く、底ぶかい感じがした。
「夢中やったんやろ」
「ああ」
「そやけど、女の子って、つめたいなア。お前が、なんで、あそこまで泳いだんか、一向わかってへんワ」
平目は浜に顔を押しつけたまま返事をしなかった。痩せた背中に、砂がまだらについている。痩せたその貧弱な背中が哀しそうな表情をつくっている。それが小津にも痛いほど身にしみてわかる。
「でも、あの子の名を知っただけでも」
彼は平目を慰めるように、
「収穫やったで。東愛子か。ケッたいな名や……」
彼は砂浜にその名を指で書いてみた。
「どうせ、どうにもならん」
「なんで」
「あいつら、女学校、出たら、すぐお嫁に行くやろ。相手は芦屋や御影のボンボンか、それとも軍人や。甲南の卒業生いうたら、皆そうやで。それなのに俺たちは一人前になるまで、まだまだ長くかかるもんな」
両手に顎をのせたまま平目は黙って小津の言葉を聞いていた。
「帰るで……」
と彼は悲しそうに小津に呟いた。
「もう帰るのんか」
「そやないがな。彼女たちが海から引きあげて脱衣所のほうに行っているんや。あいつら、もう帰るつもりや」
「どうする気や」
「ついて行こ」
「うるさがるやろ」
「うるさがっても、ついて行こ」
小津は平目の気持が手にとるようにわかるのである。うるさがられ、嫌がられることは百も承知なのに、やっぱり、ついて行く気持を二人とも抑えられない。
黒い影を白い砂に落している葦簀《よしず》張りの脱衣所ちかくで十分ちかく彼等は立っていた。こちらは着がえをするのに時間はかからなかった。
脱衣所のそばに、月見草が何本も生えていた。誰かが食べ捨てた西瓜《すいか》の皮に蠅が集まっていた。
洋服に着かえ、籠をさげて姿をあらわした愛子とその友だちは、彼等をチラッとみて、
「さよなら」
と言った。
「あの……何処《どこ》、行くんや」
「きまってる。うちに戻ります」
「一緒に行こ」
「いやや、うるさく、つきまとわんといて」
陽ざしの強い川ぞいの道を東愛子と友だちとは日影をえらんで歩いていく。川原の雑草のなかでキリギリスが鳴いている。
昼さがり、道にそった大きな邸はどれも静まりかえっている。
小津と平目とは少し自棄《やけ》になっていた。
向うがこちらを一度もふりむかない以上、こうして、あとを従いていくのは不得策だとわかっていても意地が許さなかった。それは関心のある少女にわざと嫌がらせをする男の子の心理に似ていた。
彼女たちが時々、足を早めると小津と平目とも急ぎ足になった。向うがゆっくり歩くとこっちも歩調をゆるめた。両者の間隔はいつも同じ距離を保っていた。
道は白く、邸の影がその白い道にくろぐろと落ちている。川岸の松の木の下で人夫が二人、気持よさそうに昼寝をしていた。
「しつこいわね、あなたたち」
たまりかねたのか、東愛子ではない娘がふりむいてたずねた。
「ついてこんといて」
小津も平目もたちどまり頑《かたく》なに黙っていた。
「一体、何の用」
「何も、ぼくら悪いことしてへんで」
平目はボソボソとした声で、
「そんなに怒らんかて、ええやないか」
「言いつけるわよ」
「だれに」
「灘中の先生に」
「先生なんか平気や」
「あんたたち、不良やわ」
「なんで不良や」
「この非常時に女の子のあと、つけてくるなんて、不良にきまってるやないの」
それから彼女は東愛子にむかって、こちらに聞えるような声で言った。
「走りましょ」
二人が駆けだすと、小津と平目も小走りにあとをつけた。兎を追う猟犬のような快感が胸をしめつけた。
「なア」
走りながら平目は叫んだ。
「なんでぼくらと君らが話することが不良なんや。なんで、つき合うたら、あかんのや。ぼくら、何も悪いことしてへんで……」
その叫びに彼女たちは返事もせず、橋を駆けてわたりはじめた。この橋をわたれば、その向うに東愛子の家がある。
その時、向うの邸の暗い影から純白の服を着た青年が突然あらわれた。青年は純白の服に帽子をかぶり、腰に短剣をぶらさげていた。
一眼でその白い服が小津にも平目にも彼等がとても入学することのできぬ海軍兵学校の制服だとわかった。
青年はたちどまり、自分にむかって駆けてくる二人の女学生を微笑しながら迎えた。親しげに何か話しかけている。彼女たちもこちらをふりむいて、小津や平目のことを彼に訴えている。
(なんや、どないしたんや)
はじめは急に起ったこの事態が少年たちにはよく掴めなかった。なぜこの颯爽とした海兵の生徒が二人の女学生と知りあいなのか、わからなかった。
純白の服の青年はきびしい顔をして小津や平目に眼を注いだ。陽にくろく焼けたその顔に眼がするどかった。
小津と平目とは口をポカンとあけ、そのまま棒だちになった。それから仕方なく、威圧された野良犬のようにうしろをむき、スゴスゴと退散しはじめた。
純白の夏の制服に短剣をさげた海兵の生徒は彼女たちにはさまれながら陽かげの横道に消えていった。暑さがきびしくなって、どこかの邸の庭から油蝉の鳴き声がひときわ大きくなった。
「なんや、あいつ」
平目は唾をはきながら川岸の松の根もとに腰をおろした。
「海兵の生徒のくせに、女学生とデレデレしてええのんかいな。非常時やないか」
平目がこのように腹をたてた姿をあまり見たことのない小津は少し可笑しくなり、
「そんなら……俺たちかて同じやで」
「ちがう」
平目は首をふって、
「俺たちは軍人やないワ。しかし、あいつは軍人。立場がちがう」
「兄貴かも、しれへんど」
「兄貴、だれの」
「彼女のや」
「そやろか」
すると平目の眼にホッとしたような色がうかび、
「兄貴なら、まア、仕方、あらへんな」
「お前、そんなに……東愛子のこと、好きなんか」
「のぼせとんねん」
恥ずかしそうに平目は川原に眼をやって、
「流行歌きいても、すぐ彼女のこと考えるねん」
「諦めえな。向うはなんにも思うてくれてへん。あかんわ、いくら、のぼせても」
「よし」
平目は急にたち上った。そして小津がびっくりするほど力んだ表情をつくって、
「海兵、受けたるど」
「海兵。お前がか」
「そや、ぼくがや。今のあいつみたいに海兵の生徒になったる。そしたら、彼女かて考えてくれるやろ」
「なにを」
「結婚や」
「お前と結婚をすることをか」
「そや」
小津は呆《あき》れて何と答えていいのか、わからなかった。第一、中学生の彼にとって結婚などという行為はまだ夢のように遠い出来事にすぎなかった。まして平目の結婚など、想像しようにもできぬことだった。
「お前のその体で……」
小津はあわれむように呟いた。
「海兵の体格検査、通るかいなあ。それにあそこの学科試験は一高や三高ほど、むつかしいねんで」
「毎日、ランニングするワ。体きたえるねん」
平目はしかし学科試験のほうはどうするか、いい智慧がうかばないらしかった。
だが事実、その夏休みが終って、新学期になった時、平目は相変らず眼をショボショボさせて、汗臭かったが、陽にやけた顔をして登校してきた。毎日、家のまわりを走りまわる訓練だけは欠かさなかったと言う。その話を聞いた時、小津は波にもまれながら沖に必死に泳いでいったこの友人の小さな頭を思いだし、その言うことが嘘ではないと考えた。
「今日ラブ・レターだしてん」
平目はそっと彼にうちあけた。
「海兵に必ず入学してみせる、と彼女に書いたんやで……」
しかしその平目のラブ・レターに東愛子から遂に返事がこなかった。平目の顔はふたたび情けなさそうなものに変っていった。
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接 近
鋭一は病棟の屋上にのぼって、白い建物の並列している病院全体を見おろすのが好きだった。
この日も彼は昼食のあと、一人、屋上の手すりに靠《もた》れてまわりを眺めた。幾つかの病棟のむこうに大きな煙突があって、そこから白い煙がながれていた。樹と花との植えられている広場に白い制服や診察着を着た看護婦と医者、それにガウンや丹前姿の患者たちが歩いている。
研究所の背後に大学の褐色の校舎が並び、運動場でキャッチ・ボールをしている学生の姿も見える。
すべて、それらは十年の間、そう、鋭一がこの医科大学に入学してから何時も見馴れてきた風景だった。言いかえれば彼の人生のはじまりがここで出発し、そして今後もその中で生きていかねばならぬ風景だった。大袈裟にいえば鋭一にとって世界とはこの病院全体であり、彼の運命もここですべて決る筈だった。
「ぼくは夕暮の病院が好きだな」
といつか田原が彼に言ったことがある。
「夕暮になると病院の窓のひとつ、ひとつに灯がともるだろ。すると病院がまるで夜の海にうかぶ大きな船のように見える。窓のひとつ、ひとつのなかで、赤ん坊が生れたり、人が死んでいく。みんな病気という人間の悪にたいして闘っている。医者はそういう人たちの助けをするんだ、とその時、いつも思うよ」
田原の幾分、感傷的な言葉を鋭一は心のなかで嘲った。
「助けると言っても限度があるよ」
と彼は田原をからかうように、
「医者があまり、患者の悩みに接近するのも考えもんだな」
「なぜ」
「患者に正確な診断と治療をくだすためには相手に溺れちゃいけない。時には冷酷でなければならないよ」
「それはわかっているけど」
田原は少し、悲しそうに呟いた。
「やはり医者は自分の患者に愛情をどうしても感じるからね」
「しかし、患者に巻きこまれて、甘やかすのは医者のとるべき態度じゃないだろ。極端にいえば、時計を修理する時計屋の気持のほうが医者の患者にたいする正しい心理なんじゃないのかな」
「しかし、患者は人間だよ」と田原は首をふった。「時計とちがうよ。病気だけが患者の悩みじゃない。生活がその背後にあるんだ。そういう生活も考慮しながら治療をしてやらねば……」
鋭一は田原の不安そうな表情にむしろ、いらだちを感じて、
「そこまで医者は背負いきれないよ。医者は身の上相談の解答者や牧師じゃないんだ。患者が入院した以上、ぼくは彼等の病気のことしか関心がない。それ以上の生活のことまで考えていたら、やるべき治療にもためらいがくるし……第一、身がもたんよ」
「君は強いね」
田原はその時、羨むように鋭一に答えた。
「ぼくは君のように強くなれないな」
強いか、強くないかは鋭一はどうでもよかった。ただ彼の眼には田原のような男はあまりに気が弱く、感傷的でありすぎるように思えた。
(俺はとに角、この世界で……)
彼は屋上から見おろす病院の風景に眼をやりながら、いつものように心のなかで呟いた。
(いつか、必ず出世してみせる。必ず。必ず……)
午後の陽が屋上に干してある白い洗濯物に橙《だいだい》色の染《し》みをつけていた。その洗濯物の間をくぐりぬけて、重い金属の扉をあけると、そこから病棟全体にしみこんでいる消毒液の臭いが漂ってきた。
鋭一が看護婦室の前を通りかかった時、部屋のなかで受話器を耳にあてていた主任看護婦がこちらをふりむき、
「あの、今、小津先生がこられました」
と誰かに答え、
「小津先生。内田先生が呼んでいらっしゃいます。すぐ、いらっしてくださいって……」
「医局長が? なんだろう」
なにか患者のことで小言を言われるのかと不安を感じながら、陽のさした中庭を急ぎ足で通りぬけ医局に行くと、医局長は一人、回転椅子に腰かけていて、
「ああ」
煙草をひしゃげたブリキの罐のなかに放りこんで立ちあがった。
「君、眼科の診察室まで行ってくれんか」
「眼科ですか」
「うん。おやじのお嬢さんが診察に来ておられるんだ。眼に何か鉄粉のようなものが入ったらしいんだよ。急に来られてね、さっきぼくが眼科の佐伯君に連絡しておいたんだが……君、行って失礼のないように、立ちあってくれたまえ」
「わかりました」
うなずいて鋭一が医局室を出ようとすると、
「場合によっては、お送りしてくれよ」
「お嬢さんをですか」
「眼帯をかけられたら、御不自由かもしれんからな。田原君に頼もうと思ったんだが、あの男はどうも気がきかんだろう。今日、特に君の患者には急変がないなら、頼むよ」
「それは……大丈夫ですが」
廊下を歩きながら、鋭一はいつか井伊教授の渡米用の鞄を買いに一緒にデパートに行った令嬢の顔を思いだした。大学を出てまだ二年だと言っていた。用事をすませたあと、フルーツ・パーラーでお茶を飲みながら、彼女が大学の時、遊びに行ったスイスの話を聞いた。スキーとジャズとが何より好きだと一寸、おどけた表情をつくって彼女は鋭一に気やすく打ちあけた。
眼科の診療室まで行くと、彼は診察着のボタンをはめてそっと扉をあけた。衝立《ついたて》のかげで佐伯講師と令嬢との声がきこえた。
「まア。眼球に傷はついていないと思いますが、念のために眼薬をさしあげておきましょう。かぶれ性ではありませんね」
「いいえ。大丈夫でございます」
「眼帯しばらくしましょうか。特に今夜はテレビなど、あまり、見ないように……」
佐伯講師はそう言って立ちあがり、看護婦に薬の名を指図した。礼を言ってその看護婦と部屋を出てきた令嬢は、衝立のうしろにいた鋭一をみつけて、
「あら」
と声をあげた。
「お迎えにあがりました」
微笑しながら鋭一は、佐伯講師に、
「第二外科の小津です。医局長からも礼を申しあげてくれとのことでして」
「それは、わざわざ」
佐伯講師は少し皮肉っぽい声で、
「御苦労さんなことですな」
廊下に出ると鋭一は、つき添ってきた眼科の看護婦に、
「いいよ。あとはぼくがやるから」
「でも、薬を」
「処方箋はぼくがあずかる。でないと、薬局でお嬢さんがお待ちになって、申しわけないから……」
彼は廊下の電話をつかって病院の薬局に電話を入れ、特別に早く薬を揃えておくように頼んだ。そういうところは鋭一はいつも要領がよかった。
「お父さまのお部屋に寄られますか。もっとも井伊教授は今日、厚生省のほうにお出かけで御不在ですが……」
「このまま、失礼しようかしら」
眼帯を指でぎごちなく直しながら、令嬢は首をかしげた。
「じゃあ、今、すぐ薬をとってきます。お名前は、どう書きます」
鋭一は佳子という名をたしかめてから急ぎ足で薬局に行った。
どんなチャンスでも逃がすべきではないと彼は心のなかで自分に言いきかせた。内田医局長はおやじの娘だから俺に送らせようとしたのだ。しかし、俺はこのチャンスを俺自身の出世のためにも利用すべきなのだ。
「三日分、入っています」
彼はがらんとした廊下で自分を待っている井伊佳子のところに戻ると、薬の入った袋を見せながら、説明した。
「眼薬と飲み薬です」
「そんなに悪いのかしら」
「いいえ」笑いながら鋭一は首をふった。「ぼくなら薬は出しませんね。むしろ今日だけ眼を使わぬようにされるほうが大切です。テレビはいけませんよ。佐伯先生も言われていましたが……」
「残念だわ」と佳子はクスクスと笑った。「今夜、見たいテレビがあったのに……」
「どんな番組ですか」
「サミイ・マーシィの中継。あの人のトランペット、しびれるぐらい好き」
「じゃあ、画面はごらんにならずに、音だけお聞きになるといい」
それから彼はすかさず誘《さそ》った。
「そのかわり、ぼくが彼のレコードをさしあげます」
「あら」
びっくりしたように彼女は鋭一をみあげた。
「そんなこと」
「いいですよ。今から買いに行きましょう。ぼくも今日は手があいてますから」
鋭一は今までの経験で女の子には考える余裕を与えず、引きずっていくのが一番いい方法だと知っていた。御自宅までお送りしますなどと、当り前のことを言えば彼女は自分の父親の弟子のおベッカぐらいにしか受けとらぬにちがいない。
先にたって彼は歩きだした。向うから顔みしりの看護婦が姿をみせ、二人を見て足をとめ、それから黙礼して通りすぎようとした。
「ねえ、君」
と彼は彼女をよびとめて、着ていた診察着をぬぐと、
「悪いけど、これを第二病棟の看護婦室にあずかってもらってくれないかな」
「はい」
「それから、ぼくは今日、戻らないと主任さんに伝えてくれたまえ」
看護婦がうなずいて去ったあと、鋭一の頭からはもう彼の担当している患者たちの存在は消えていた。
病院の玄関でタクシーを拾って新宿に向った。
「しかし、お父さまは実にお強いですね」
隣りに膝をそろえて腰かけている佳子に眼をやりながら鋭一は話しかけた。
「ぼくら若い者はとても真似できません。お父さまには患者の診察や手術のほかに講義や会議が毎日ぎっしり、つまっておられるんですからね。それを次々と精力的にこなしていかれるんですから」
父親をほめられて悪い気のする娘はいまいと鋭一は心のなかで計算した。おそらくこの娘も今夜、彼の口にしたすべての言葉を父親に報告するだろう。気をつけてものを言わなくちゃならない。
「ぼくはお父さまのことをスーパー・マンと言っているんです」
「いやだわ」と佳子は窓の風景をみながら声をだして笑った。「せわしい人でしょう。母などいつも愚痴ばかりこぼしているんです。一っときもジッとしていないって」
「お家でもそうですか」
「ええ。ぼんやりしているのが嫌いなの。だから日曜日だって医局の人たちをお呼びしてゴルフに行くか、テニスをするんです。あの年で……」
「へえ」
鋭一は少し不安を感じながら、
「医局の誰が、お父さまのお相手をするんですか」
「あら、御存知なかったの」
佳子は眼帯を指で軽く押えながら、無邪気に答えた。
「ゴルフは内田先生や神田先生。テニスは吉川さんや栗原さんなどと御一緒にしているようだわ」
内田、神田、吉川はいずれも医局での重鎮で、鋭一とはずっと卒業年度も年齢もかけ離れた先輩だから、話はわかる。しかし栗原までが……。
(あいつ、おやじの家にいつの間に出入りしているのか)
栗原は鋭一より一年前に医局に入った男だった。大きな製薬会社の社長を父親にもち、その父親が二年ほど前に胃潰瘍で入院した時は、井伊教授は特別患者としてすべての診察、手術を引きうけたと聞いている。
「栗原さんはよく、お宅に伺うのですか」
車は新宿近くのこみあった車道を時々、信号にさえぎられながら進んでいた。鋭一は栗原のいかにもブルジョアの息子らしい、おっとりとした顔を思いだして、口をゆがめて呟いた。
「ええ、あのかた、とってもスキーがお上手なんですって。いつか、つれていって頂くお約束よ」
「結構ですね」
結構ですねと答えたが、心の不快感はかくしきれなかった。
(若い者は医局にたくさん、いるのに)
鋭一は心のなかで、
(おやじが自分の家に栗原の来るのを許しているのを見ると……彼女の結婚相手に考えているのかもしれない)
憂鬱になって、しばらく彼は黙っていた。バックになる父親を持った奴はいつも得をする。俺ときたら、あのうだつのあがらぬ親爺のおかげで、これっぽっちも助かったことはない。自分一人ですべてを切りひらいていかねばならないのだ。
「栗原さんとお嬢さんもテニスをなさるんですか」
「ええ」
彼は白い運動服にラケットをもった彼女と栗原との姿を想像した。
新宿でタクシーをおり、K書店のなかにあるレコード部でそのレコードを買った。
だがさっきまでは浮き浮きしていた鋭一の自尊心は今たしかに傷つけられていた。医局のなかには自分など下っ端の知らぬ間に、井伊教授と教授の家族に接触している連中がいるのだ。そしてその連中のなかにいつか派閥がつくられ、その派閥によって自分たち下っ端の運命まで左右されるかもしれない。
この大きい書店のなかの喫茶室で、佳子と向いあいながら、顔だけに微笑をつくって、
「トランペットはお好きですか」
「ええ、もう夢中。男だったら、きっと、いじっていたかもしれないわ」
向うにも、こちら側にも鋭一たちと同じような男女が腰かけて珈琲やジュースを前において何か囁きあっていた。
「音楽会なんか時々、いらっしゃるんですか」
「時々よ。遅くなると、うちがうるさいんですもの」
「栗原さんなんかと御一緒に」
彼は珈琲茶碗を口にあてがいながら、さりげなく訊ねた。
「二度ほど連れていって頂いたわ。でもあの方、クラシックのほうがお好きなんですって。随分、レコード集めていらっしゃるようよ」
不快の念を噛みしめながら鋭一は今後、自分はどうすべきか、と素早く計算した。一番、妥当なやり方は自分もまた井伊教授の家に出入りをする一人になることだ、と思った。もう一つの方法は栗原を蹴落して、この娘を自分のものにすることであった。しかし今は勝負を急ぎすぎてはいけない。
「いつまで」
と彼女は急にたずねた。
「この面倒な眼帯つけていなくちゃ、いけないのかしら」
「炎症があれば炎症がひくまででしょうね。しかし、さっき佐伯先生のお話じゃ、傷はないから二日ぐらいで取ってもいいでしょう。でも先生に電話なすってからにしてくださいよ」
「それなら有難いわ。だって来週の土曜、お見合いするんですもの」
彼女は子供のようにこの言葉を口にして、子供のように笑った。
「義理のお見合い。お知りあいの方が持ってきてくださったんですもの。始めから断るつもりでお見合いするなんて、いけないかしら」
「じゃあ、佳子さんは」
鋭一は佳子さんと、この時、はじめて馴々しい言葉を使った。
「好きな方が別にいらっしゃるわけですね」
「そんな人、いませんわ。第一、わたし、我儘ですもの」
喫茶室がこみはじめたので二人は立ちあがった。家まで送ろうと言ったが佳子は首をふって用足しがあるからと言い、一人でタクシーを拾うと答えた。
彼女と別れたあと、鋭一は自分があの娘に今日、なんの痕跡も残さず、強い印象も与えなかったろうと口惜しく思った。月並みな会話と平凡な話ばかり続けてタクシーと喫茶室の貴重な時間をつぶしてしまった。折角のチャンスを無にしてしまったのだ。
(こんなことでは……)彼は自分に言いきかせた(お前は結局、田原と同じような惨めな下積みになってしまう……)
三、四日の間、医局は小春日和のような静かで単調な日が続いた。大手術はひとつもなかったし、容態の急変した患者も出なかった。
しかし鋭一の胸のなかでは先週までとちがった変化がはじまっていた。今まで、ほとんど意識しなかった栗原の存在が彼の気になりだしたのである。
鋭一たち後輩の眼から見るとこの男は特にすぐれた医局員ではなかった。いかにも良家の息子らしい鷹揚な顔だちをした彼は温和しく、ニコニコとしていて誰からも親しまれたが、といって一|目《もく》おかれているわけではない。研究会や医局ミーティングの時なども彼がきわだった発言をするのを見た記憶も鋭一にはない。この種の医局員はしばらく大学で勤務したあと、たいてい父親の地盤をついで町の医院か個人病院を経営するのが普通である。栗原の場合は大きな製薬会社を背景に持っているから、その会社のなかで将来、働くのだろうと鋭一たちは考えていた。
だが、その栗原のお坊っちゃんらしい姿があの日から鋭一にはどうも気にかかる。当人にはその気持はなくても鋭一にはこの男が自分の今後にたちはだかる障碍《しようがい》の一つのような予感がする。
(待てよ)
鋭一は医局や看護婦室のなかで栗原の姿をチラッ、チラッと見るたびに心のなかで言いきかせた。
(かりにこの男が井伊教授の娘と親しくなったからと言って、彼が将来、ここのキャップになるわけではないし……)
しかし、言いきかせたところで心から不安は消えぬし、面白くないことには変りなかった。
小春日和のように静かな日が続いたと思っていたら、突然、思いがけぬ事件が一つ起った。
その朝、彼は看護婦室に行くと、主任看護婦が廊下に彼をよんで、
「あの……小津先生」
言いにくそうに主任は口ごもった。
「田原先生の受持の患者さんのことなんですけれど……」
「あのお爺さんのことですか」
「ええ。薬を変えるよう指示されましたけれど。今まで使っていたベチオンをやめて、エタンブトールにするようにって」
「薬を変えろって? それは……誰から言われたの」
「田原先生です。でもたしか、井伊先生は当分はベチオンとお決めになっていたようですが、御了解を得てるんでしょうか」
鋭一は一瞬、だまった。
「でないと、私が、あとで叱られますから」
「わかった。聞いてみます。聞いてみるまで悪いけれど、ほかの先生には話さないでください」
いつか、教授回診の時、おやじに逆らった田原の姿を彼は心にあざやかに甦らせた。
(あいつ……馬鹿なことをしよって……)
医局には田原の姿は見えなかった。図書館にさがしに行くと、田原は隅でうつむいて本を読んでいた。
「一寸」
彼はこの風采の見ばえしない友人を、図書館の暗い階段につれだした。
「なにか、用かい」
田原の少しよごれたワイシャツに、ネクタイがゆるんでいた。
「君、エタンブトールを使うよう指示したんだって?」
「そうだよ」
田原は鋭一を窺うように上眼づかいをして、うなずいた。
「医局長の了解は得たのかい」
「得てはいない」
「了解をとったほうが、いいんじゃないか」
鋭一は下手に出るような物の言い方をした。
「でも、あの患者は」
いつもとはちがって、田原は強情に首をふって、
「ぼくの担当患者だ。だから、ぼくの独断で薬をきめた」
「おやじや医局長に知られると、誤解をうけるぜ」
「誤解をうけたって構わない。ベチオンはあの患者の病気を良くしないんだから……」
「それと、これとは話が別だ」
「同じだよ」
田原はポケットをさぐって煙草を探したが見当らなかった。鋭一は自分の買ったばかりのピースを一本、彼に与えてライターの火をつけた。
「ぼくは君……医者の端くれだもの。患者に効かぬ薬をいつまでも与えているのは心が苦しいんだ。いくら、おやじが、そう指示したとしても……」
「しかし、そのためにおやじや医局長に睨まれたら、どうする」
「覚悟しているよ」
田原は寂しそうに笑って、
「あの日から、ぼくはぼくなりに考えたんだ。苦しんだと言ったら大袈裟だろうけれど」
「だが、独断はいけないよ。ぼくらは第二外科の医局員なんだから」
「だから教授にはベチオンが効かぬと申しあげた筈だ。みんなの前で」
「それは知っている」
「しかし誰も黙っていた。黙っていただけでなく、ぼくは内田さんから叱られもしたよ」
煙草の火口をみながら田原は鋭一にではなく彼自身に言いきかせるように呟いた。
「そうなれば、こうするより仕方ないんだ」
「考えなおせよ」
「駄目さ。決心したんだから」
「そうか。君がそこまで言うなら、ぼくはもう干渉しない。君とは一緒にこの医局に入ったし、レポートの共同提出者だから心配をするんだけど、手を引くよ」
「迷惑はかけぬよ。ぼく一人の問題なんだから」
田原はそう答えると、煙草を床に落して、磨いていない靴でふみつぶした。そしてふたたび閲覧室に猫背のまま姿を消した。
鋭一は図書館を出て、自分はこのことを黙っているべきか、それとも医局長に報告すべきかと考えた。報告すれば田原の告げ口をしたことになり、黙っていれば知りながら黙認したと非難を受けることになりそうだった。
(損をしたくはない)
彼は病院に戻って、消毒薬をつけたモブで掃除している男たちに頭をさげながら考えこんだ。
(そうか)
その時、彼は一つの案を思いついた。そう……栗原に相談してみよう。あの温厚な男にこの責任を負わせてやろう。
それは彼の栗原にたいする一寸した仕返しだった。栗原は兎も角も自分の先輩なのだ。相談したって一向にふしぎではない。
昼ちかくで病院では一番、活気のある時間だった。外来受診の廊下には患者たちが羊の群れのように自分の名が呼びだされるのを待っていた。母親にだかれた赤ん坊が泣き、せわしげに看護婦たちが歩きまわっている。それらは鋭一が毎日、見なれた光景だった。
「栗原先生の診察はいつ頃、終るの」
外来のプレ(看護婦)にたずねると、
「あと、患者さんが二人、待っています」
「じゃ、廊下でお待ちしていると、申しあげてくれないか」
彼は廊下で煙草をすいながら、患者たちをぼんやりと眺めた。雑誌や新聞を読みながら落ちついて順番を待っている中年男もいれば、首に包帯をまいて心配そうに考えている青年もいる。
「あの」
声をかけられて鋭一はふりむいた。和服姿の品のいい婦人が微笑しながら彼の顔をみつめていた。
「外科の予診室はここでございましょうか」
「そうです」
「有難うございました」
婦人は丁寧に礼を言って、あいている長椅子の隅に腰をかけて眼をつぶった。ひどく疲れた表情だった。顔色もそう良くはなかった。
十五分ほど待った時、予診室の扉があいて少し肥った栗原が姿をあらわした。
「何か用なの」
「ええ」
鋭一は神妙にうなずきながら、
「一寸、御相談がありまして。医局のほうに戻られますか」
「そのつもりだけど」
「じゃ、歩きながらお話します」
彼は栗原と肩をならべて歩きながら、声をひそめるようにして、
「実は田原君のことですが……」
事の経過をそのまま栗原にうちあけた。
「田原はどうしても首をふるんです。ですから、ぼくとしては、どう処置していいかわからず……」
「しかし」
たちどまって栗原は太った顔に細い眼をしばたたきながら鋭一の顔を窺った。
「そのことを、なぜわざわざ、俺に話すんだい。内田さんに言うべきじゃないかな」
栗原が当惑しているのは明らかだった。それほど今日まで医局のなかで親しくもしていなかった鋭一から、なぜ相談を持ちかけられたか、腑に落ちないのである。
「でも、医局長に言えば田原君は叱責どころか処置を受けます」
鋭一は悲しそうな顔をつくって、
「ぼくは田原とは学生時代から同期ですし……一緒にレポートを作っている以上、穏便にすませて頂きたいんです」
「でも、どうせ、ばれることなんだよ。困ったなあ。君が言って首をふった以上、俺が説得しても田原君、撤回しないだろ」
「そう、思いますけど、医局の先輩としてやはり考えて頂きたいと思って」
「俺には何もできんよ」
「井伊教授にとりなして頂けませんか」
「俺が、なぜ」
鋭一は視線をそらせたまま、かすれた声で答えた。
「栗原さんは井伊教授のお家にもよく行かれると聞いているもんですから……」
人のいい栗原の頬に嬉しそうな笑いが浮ぶのを鋭一は見逃がさなかった。
「なぜ、そんなことを知っているの」
「実は、先日、教授のお嬢さんが眼科の診察を受けに来られて、そんなお話をされていたもんですからね。今度、いつかスキーに連れていって頂くんだとかで悦んでおられました」
「俺の父親が前から面倒みて頂いているんだ。……しかし俺が口にしたってどうにもならんと思うよ、おやじはああいう性格だから」
「兎も角、それでもお願いします。本当にぼくはどうしていいのか、わからないんです。色々、考えた上、栗原さんにお願いするより仕方ないと思ったものですから」
栗原は診察着のポケットに手を入れたまま、あまり結果は当てにしないでくれと答えた。鋭一は頭をさげて彼と別れた。
(これで、うまく、いった……)
彼は第二病棟の方角に歩きながら、心のなかでこの結果を検討してみた。
栗原が今後とる態度は二つしかない。黙っているか、医局長に相談するかだ。黙っていれば彼は知っていてそれを黙認した先輩として責任を問われることになる。一方、鋭一のほうは聞かれれば、
「栗原さんには御報告しておきました」
と言い逃れることもできるのだ。
逆に栗原が医局長に相談すれば、それは井伊教授の耳に入り、田原はそれ相応の処置を受けることになろう。そうすれば不運な田原に同情する者は、告げ口をした栗原に非難の眼を向けることになる。いずれにせよ、今度の問題で一番、損をする羽目になるのは栗原だ。それなのにあの人の好いお坊っちゃんは何も気がついていない。
(悪い奴だな、俺も……)
鋭一は唇にうす笑いをうかべながら自嘲した。
(だが俺には栗原のようにバックになる社長の父親もいない。うだつのあがらぬ男が俺の親爺だ。俺が出世するためには、すべて仕方ないことさ)
午後、彼は自分の患者を診察して、別に異状のないことを確かめた。回診する彼は義務に忠実な医者であり、患者にはあくまで頼りになる主治医だった。
「先生。私が治ったら、是非、伊東の別荘に泊りがけで遊びに来られませんか」
肺癌の老人は診察が終った時、自分の娘を見ながら誘った。
「それに、私の会社の診療室に是非、来て頂きたいですな」
「その時はその時で御相談しましょう」
鋭一は笑いながら、
「今は、御病気を一日も早く治すことですよ」
しかし、この患者がそういつまでも長くないことは鋭一が一番よく知っていた。
医局に戻ると、内田医局長の姿も栗原も見えない。田原も席をはずしている。他の者は憂鬱な顔をして一人一人、何かをやっている。
皆は口には出さぬが、田原のことはもう耳にしているようだった。
しばらくすると医局長一人が、部屋に帰ってきて、鋭一をみると、苦虫をかみつぶした顔をして首をふってみせた。
その動作で、事が一番、悪い状態になったことを彼は感じた。田原はおそらく医局からどこかの小さな療養所か病院に追いやられるだろう……。
その夜、鋭一は宿直だった。
宿直医は皆が帰ったあと、急に容態の変化した患者が出ない限りは、九時の消燈時に夜勤看護婦と各病室をまわるのが義務になっている。
「お変りありませんね」
看護婦が照らしだす懐中電燈の青い灯に患者たちの顔がひとつ、ひとつ、浮きあがる。時々、まだテレビだけをつけている病室もある。
「早く、寝てください」
「眠れないんです。眠り薬をくれませんか」
鋭一は患者と看護婦とのそんな問答をきいたあと、宿直室に戻った。宿直室には病室と同じようなベッドと、粗末な洋服箪笥があるだけだ。
手を洗ってから、鞄をあけてポケット・ウイスキーをなめながら、本を読みはじめた。
だれかが戸を叩いた。
「どなた」
彼は警戒した声でたずねた。
「田原」
扉をあけると、田原が疲れきった表情で立っていた。
「どうしたんだ、今頃。急患でも出たのかと思ったよ」
「すまん」
「何か用かい」
「今朝は心配かけて悪かった。さっきまで医局長と色々、お話をしてきたんだ」
「それで……」
彼はウイスキーを洗面用のコップに入れて田原にすすめた。
「飲めよ。ぼくは瓶でやるから……。それで、何と言われた」
「医局をやめることになったよ」
田原は力ない声で答えた。
「医局をやめる?」
「うん。そして福島県の私立療養所に医局長のポストがあるが行ってみないかと言われた。地方で実際の経験をうんと積み、また、医局に戻ってくるのも勉強だと、内田さんは奨めてくれたが……要するにお払い箱さ。考えていたとおりだよ」
「君は、何と答えたんだい」
「承知するより仕方がないじゃないか。結局は覚悟の上だから」
二人はしばらくの間、黙っていた。鋭一はポケット・ウイスキーの口をなでながら、
「何と言っていいか、わからないよ」
「気にしてくれるな。君の忠告を断った以上、ぼく自身で処理すべきだと思っていたんだから。ただ君にはレポートの共同提出者として申し訳ないと思っている」
「もういいよ……」
「でも、ぼくは後悔していない」
田原はコップのウイスキーを一口、飲んで呟いた。
「もしぼくがベチオンをあの患者に使い続けていたら、もっと苦しんだと思うから」
「人にはそれぞれ、生き方があるさ」
「そうだな」
田原はうなずいて、
「ぼくはその福島の病院で、患者のための医者になるつもりだよ。一生がそれで埋もれてもいい。医者のための医者で生きるよりそのほうが、ぼくに向いている」
「医者のための医者か」
鋭一は唇を一寸、ゆがめて、
「まあ、頑張ってくれよな」
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卒 業
ながい歳月が流れた今、あの夏休みが終ってから正月がくるまで、自分たちと東愛子たちの間にどんな事があったか、一つのことを除いて、小津の記憶は漠然としている。
憶えている一つのことは、平目が第二回目のラブ・レターを書いた思い出だった。いや、厳密に言うとそれは平目が一人で書いたのではない。平目の姉さんが読んでいる婦人雑誌の附録「手紙の書き方」のある行を丸うつしにしたり、流行歌の文句を挿入したりしたのを、更に小津が訂正したということになる。
「月が鏡なら、貴嬢の顔をそこにうつしたいです」
という文句は、「月が鏡であったなら」の流行歌から取ったものだったし、
「雨あがりの夜、この手紙を書いています。庭はしっとり、木の葉のにおいがして、なぜか、あなた様のことを考えます」
というようなキザな文句も婦人雑誌の附録から失敬したものだったと思う。
その上、考えてみると、その手紙は「拝啓、前略」からはじまり「敬具」で終っていたが、これも平目がどこからか写してきたもので、ラブ・レターに「拝啓、前略」と書くことの可笑しさに当時の二人は気づいてはいなかった。
平目はそれを昼休み、だれも残っていない教室で何回もかかって清書したのち、小津と一緒にポストに投函にいった。
郵便ポストの口に兵庫県、武庫郡、芦屋村という住所と、東愛子様と金釘流《かなくぎりゆう》の文字で書いた封書が吸いこまれた時、奥でコトリという音がした。二人は溜息をついた。
「彼女はこれ、読むやろか」
「そりゃ、読むやろ」
「読まんと、捨てることないやろな」
「ないと思うわ」
それでも平目は気を落ちつけたいのか、幾度もポストを掌でこすっていた。
学校に行くのが小津にも待ち遠しかった。
「返事、来たか」
「まだ、来《こ》んねん」
「一昨日、出したんやから、今日は届くと思うで。読んで返事を書くのに一日かかるやろ。すると、あと二日したら返事くるやろな」
だが五日たっても六日すぎても、第一回目の時と同じように東愛子からは平目に手紙は来なかった。平目は目をショボ、ショボとさせて、小津をみては毎朝、首をふった。
小津は小津で心の苦しさとホッとした気持とを同時に感じた。もし平目の恋文に東愛子が返事を送ってきたのなら、小津はやはり辛かったろうと思う。
「返事もらえませんが、返事を出すのが困るのやったら、次の月曜日の五時までに芦屋川の土手のお地蔵さんのある松の木に白い布をぶらさげてください。白い布がぶらさがっていたら、返事はイエスやと思います」
そういう意味の手紙を――もっと下手な表現で――平目はもう一度、東愛子に送った。
そして、その月曜日の夕方、小津と平目とは芦屋川でまた国道電車を降り、土手を走って、松の木を見に行った。
何もぶらさがっていなかった。白い布はおろか、古雑巾も枝にくくられていなかった。
五年生になると、担任の先生が生徒たちに紙をくばって志望校を書かせた。
A組やB組の者ならば、もともと狙っている学校があるから、早速、書きこめるだろうが、小津たちC組の連中は一体、どこを受けるべきか、まだ決めかねていた。
東京の第一高等学校、京都の第三高等学校は当時、難関中の難関といわれた。仙台の二高、岡山の六高、熊本の五高がこれに続く。もちろん、C組の者にはそうしたナンバー・スクールは歯がたたぬ。小津は仕方なく、第一志望、姫路高校と書き、第二志望に私立大学のP大の名を記入した。
翌日になると、この結果は教員室の先生たちすべてに伝わったらしく、朝の授業から、
「みんな、まア、A組とはちごうて、控え目な志望校を書いたが」
と明暗先生は相変らず、厳かな顔をして、
「人間は鶏口となるとも、牛後となるなかれでね、どんな学校でもそこをうまく活用すれば、偉くなれる。イギリスの画家、ターナーも……」
と相変らず、ターナーをもちだして皆を励ました。
ただ、フグ先生だけは、
「平目」
と教壇から当惑したように、
「お前、第一志望、海兵としか、書いとらんが、本気かね」
「へえ」
「しかし、海兵はお前、ナンバー・スクールと同じくらいのむつかしさだぞ。A組の連中も三分の一、入ればいいほうかもしれんな。お前には……無理だと思うがねえ」
平目は皆に聞きとれぬ声で何か答えた。
「何を言っている」
「へえ。なせば、なると言いましてん」
皆は声をたてて笑った。平目の心を知っている小津とフグ先生とだけは笑わなかった。
「なせばなる。しかし、お前は、何もしとらん。その言葉は、よう努力する者の言うことだ」
「へえ」
「みんなと同じようにやさしい学校を受けんかね」
平目はふくれ面をして返事をしなかった。フグ先生は溜息をついて、
「そりゃ、何処を受けようが、お前の勝手だが……」
休み時間に小津に平目は、
「ぼくなア。彼女のためだけに海兵を受けるんやないんやで。いつか話したように伯父貴は金だすと言うているけど、あまり世話になりとうないんや。海兵は金がかからんやろ」
と釈明をした。
小津にはこの勝敗の結果ははじめからわかっていた。おそらく平目も自分が九十九パーセント落第することを予感していたのかもしれぬ。
しかし、世の中にはまぐれとか、奇蹟というものがあって、たとえば海兵の試験官が眼がわるく二十点を八十点と読みあやまり、採点するかもしれない。それに平目の出鱈目な答えが偶然、正解になってしまうということもありうる。この一パーセントのまぐれと奇蹟とに望みを托すよりほかはなかった。
「体格検査は大丈夫やろか」
「ぼくは眼だけはええのや」
「眼だけよくても、どうにもならんで。体重もっとふやさな、あかん」
「そやさかい、飯を五杯、毎日、食うとるがな」
海軍兵学校の試験は二回にわたって行われる。まず八月に各県下の試験場で体格検査があり、きびしいテストで視力の弱い者や病気のある者、規定の体重や身長に達しない者がふるい落される。
それをパスした者が十二月、学科試験を受ける。英数、国漢、物理、化学等、ほとんどの学科のテストがあるから、いわゆる高校の入学試験よりも受験生は全般の科目に目を通しておかねばならない。
大食のおかげか、平目の貧弱な体はやや肉がついたように見えた。もっとも、もともと貧相な体だったから、それでもA組の海兵受験希望者にくらべると、やはり格段の見劣りがせざるをえない。小津は眼をつぶってスマートな海兵生徒の制服、制帽を着用し、腰に短剣をぶらさげた平目の姿を思いうかべようと試みたが、どうしてもできなかった……。
八月が遂に来た。夏休みの最中で、あの芦屋の海で平目があわれにも溺れかかってから、早くも一年の歳月がながれていた。
あの日と同じように暑く、陽のきびしい朝で、小津はわざわざ、友人につきそって試験場の県立中学に出かけた。
戦時下のせいかそれとも腕だめしという連中もまじっているのか、校門をくぐる受験生の数は小津の足をすくませるほど、多かった。隊伍をくみ、神戸一中のカーキ色の制服をきた連中が歩調をそろえて運動場のほうに進んでいく。灘中のA組の生徒までがバラバラになって、この威圧的な行列を怯えた眼で眺めた。
(平目はとても受からんやろな)
彼の眼にはどの受験生も平目にくらべるとはるかに秀才で、はるかに海兵生徒にふさわしい体格の持ち主にみえた。
「あのな」
と小津は友人のために、ない智慧をしぼった。
「便所に行ったらアカンで」
「なんでや。ぼく、さっきから、何やしらんけど、小便しとうてたまらんねん」
「阿呆。小便したら、それだけ体重、へるやないか」
「ああ、そうか」
平目は感心したようにうなずいて、
「一寸、まてや」
「何処に行く」
「お前、ええこと教えてくれたワ。ぼく、水、ガブガブ、飲んでくるで。それだけ、目かたが重くなるさかい」
受験生たちの間を駆けぬけて、平目は本当に水のみ場まで駆けていった。そしてやがてズボンのバンドを引きあげるようにして、
「ああ、くるし、腹、ドブドブ、言うとるで」
唇にまだ水滴をつけながら戻ってきた。
重くるしいベルがなった。陽光の照りつける運動場から受験生たちは列をつくり、古ぼけた木造の校舎に吸いこまれていった。
「肺活量の時、息吸いこんで吐いたらあかん」
「わかってるがな」
眼をショボショボとさせて、受験生の行列のうしろから平目の姿は小さく校舎に消えていった。
ひどく暑い午前だった。校舎の隅に植えられた桜の木で蝉が鳴き、陽影のなかで受験生の付添いたちがじっと辛抱づよく待っていた。古ぼけた木造の校舎からはふしぎに何の物音も聞えてこなかった。
半時間ほどすると、校舎の入口から五、六人ほどの受験生があらわれた。彼等に続いて二人、三人といずれも照れ臭そうな表情である。
その一人がこちらで待っている付添人のなかから友人を見つけて駆け足で近よってきた。
「あかん、ふるい落されたワ」
「どないしてん」
「やはり眼や。視力や」
「そこで落ちたら、もうあかんのか」
「帰って、よろし、と言われた」
彼等はしかし落ちたことをそれほど気にしていないようだった。学科で落第したのなら屈辱感もあろうが、近眼で失敗したのでは心の痛手も少いし、それに腕だめしで海兵を受験してきたような感じだった。
近眼の連中が二十人ほど校舎から出されたあと、また、しばらくの間、静寂がつづいた。桜の光った幹で鳴いている油蝉の声がひときわ大きくなった。
(あいつ、今頃、どうしているだろう)
小津は眼をショボショボとさせて友人が貧弱な裸体姿で身長を計られたり、体重計の上にのっているのを想像した。ひょっとすると、近眼で失格した連中と同じように、たった今、
「帰って、よろしい」
試験官にそう言われているかもしれぬと思った。
だが、ふしぎなことに平目の姿は次々と出てくる失格者のなかにまじっていない。
(ひょっとすると……)
小津は自分の試験でもないのに胸の動悸を感じはじめていた。
(例のズウズウしい要領で、うまく試験官を誤魔化しとるのかもしれんで……)
昼近くになった。校舎のあちこちの入口からドッと受験生が姿をあらわした。半分以上の者が今日、既に失格していた。今日、パスした者は明日、精密な内科検査を受けることになっていた。
「俺ア、経理学校を受けよ」
「あそこは、体格検査はここより、きびしゅうないさかいにな」
そんな自嘲をまじえた声のなかに、
「ほんまおかしな受験生がおったでえ」
「そや、小便、たらしおった奴やろ。緊張しすぎたんやないか」
「どないしてん、あいつ」
「しらん。試験監督に叱られとったの見ただけや」
そんな会話を小津は突然、耳にした。
(平目や……)と彼はすぐ気づいた。(平目にちがいないワ)
受験生たちはあらかた校庭から列をなして出ていった。嬉しそうに胸を張って門を出る者は今日、パスした生徒にちがいなかった。ふてくされたり、足を曳きずるようにして帰っていく連中は失格者組であろう。それなのに平目の姿はまだ校舎からあらわれなかった。
(可哀相な奴ちゃ……)
体重をますため、水を飲みすぎて受験場で小便をたらした平目のぶざまな恰好が小津には眼に見えるようだった。皆の嘲笑の眼差しをあび、試験監督に叱責されてどんなに恥ずかしい思いをしたかも、小津には想像できた。それも言うなれば、結局は東愛子のためだった。愛子に愛されたい一心からしたことだった。
小津一人が校舎でポツンととり残されて五分後、ようやく平目の落ちつかぬ姿が校舎からあらわれた。彼は遠くから手をあげて叫んだ。
「パスしたでえ」
眼をまるくして小津は、
「なんやて、パス? お前が……」
「そやがな」
平生はほとんど無表情と言っていい平目の顔に偽りのない悦びの感情が溢れている。
「信じられんワ。嘘やろ」
「嘘やないワ」
「俺あ、お前がなかなか戻ってこんさかい、もう、あかんかったのと思うとった。それに受験生のなかに、小便、洩らした奴がいたと聞いて、てっきりお前や、と思うたんや」
「ぼく……やがな。ぼく小便、たらしてん。握力の検査の時、あまり、力を入れようとしたら、つい、出たんや」
小津はジロジロと平目をながめ、
「そんなら、パンツ、まだ、濡れてんのかいな」
「ちがう。体格検査は、フリチンでさせるねん。全部ぬぐんやで。そやからパンツよごさんかったんや」
「一体、どないしたのや、言うてみ」
何が何だか、小津にはわからなかった。貧弱そのものの体格の上に、検査の際、小便まで洩らしたこの男がどうして厳しい第一日目に合格したというのであろう。
平目はボソボソと説明をはじめた。
試験場の講堂に受験番号の一から百、百から二百という区別をして列をつくって並ばされた。
「素裸になれ」
と試験監督の下士官がきびしい声で命令した。
「あの……猿股もとるんですか」
と誰かがおどおどして訊ねると、
「そうだ。何一つ、身につけてはいかん」
という返事が戻ってきた。
平目はさきほどから尿意の催すのを一生懸命、我慢していた。水のみ場で腹が破裂するほど水を飲んだためである。その上、下着までとらされて、無防備の生れたままのやせた裸を皆の前でさらけだすと、余計に小便がしたくてたまらなくなったのである。
しかし、体重の測定があるまでは、どうしても怺《こら》えねばならなかった。列の先頭が体重計にのり、
「よし。五十三キロ」
と言われるのを耳にしながら、平目はしきりに足ぶみをした。
彼の番になった時、試験監督の下士官がジロリと彼をみて、
「えろう、腹のふくれとる」
と九州弁で、ひとりごちた。平目は水をのんできたことがバレたかとヒヤッとしたが、
「よし、四十九キロ」
としずかに言われてホッとした。
失敗はそれから十分後に起こった。握力の検査で目盛りのついた金属製の握力計を握りしめてその目盛りの針が示す数字を監督に報告する。平目はウンウン言いながら真赤になった。
気張った時、下半身に気がまわらなくなった。アッと思った時、小便は平目の膝をつたい、床に流れはじめていた……。
「なんじゃア」
と試験監督は大声をあげた。受験生全員がこちらをふりむくほどの声だった。
「尿ば洩らしよって」
ヘタヘタとなった平目はその場にしゃがみこみたかった。尿は床に小川のように流れはじめていた。
「何をしとる」と監督は怒鳴った。「始末をせんか、自分のたれたもんじゃ」
平目はパンツだけをはいて急いで講堂を走り出た。廊下の手洗場にバケツと雑巾があったから、ぶらさげて戻った。
「すんまへん、すんまへん」
自分を注目している受験生たちの間を駆けぬけようとすると、彼等はきたないものに寄られたように、サッと身を退いた。
試験監督の下士官は苦虫をかみつぶしたような表情で彼が雑巾でそこらをふいているのを眺めている。うしろで受験生たちの笑い声もきこえてくる。
その時だった。
「待て」
という声がかかった。ふりかえると、白い海軍の制服を着た中年の軍人が平目のそばに近づいてきた。
「君たちは」
とその士官は受験生たちにきびしい顔で、
「今、この生徒の失敗を笑った。他人の失敗を嘲り笑うような者は、海軍兵学校に入学する資格はない。君たちのなかには誰一人としてこの生徒を助けようとする者はいなかった。助けないだけではなく、他人の落度を笑うのは言語道断である」
声は低かったが鋭く、受験生たちはシンと黙りかえった。士官はまだ潰された蛙のようにパンツ一枚で床にしゃがみこんでいる平目に眼をやって、
「失禁するまで、懸命に握力計を握った精神はなかなか、よろしい。兵曹、この受験生の握力検査をパスしてやれ」
他の試験監督にも聞えるような大声で言うと、クルリとうしろをふりむいて立ちさっていった。
しばらくの間、平目の周囲に静寂がつづいた。
「よし、握力検査、パス。次に行け」
下士官はニヤッと笑って平目を促した。
「そのバケツは、もとに戻してこい」
「へ」
平目はバケツをぶらさげたまま、たった今、自分を助けてくれた将校の姿を眼で探したが、その姿はもう、何処にも見当らなかった。
「ふうん」
小津は話を聞き終ると、溜息ともつかぬ声をもらして、
「ええとこ、あるやんか。その海軍のおっさん」
「そや。ぼくもそれでな、海兵に行くのも悪うないと思うたで」
平目はひょっとすると、海軍兵学校に入学するかもしれない、小津はその時、ふと思った。ひょっとすると、この男は、かつて芦屋の海で懸命に高い波のなかを泳いでいったように、東愛子のために人生を生きるかもしれぬ。
「明日の体格検査は何や」
「レントゲンみるのや。これは大丈夫やで」
「お前、合格するかもしれへんな」
「合格するやろ」
ケロリとして平目は、
「十二月に学科試験あるけど、これに受かれば、ぼくは海兵の生徒やで。そしたら、白い制服に短剣つって、東愛子の家、行ったるねん」
まだ夏休みは終っていなかったが、この体格検査で、同じ受験場に行ったA、B組の生徒十五名のうち六名が落ちたことを小津は耳にした。C組の受験者は一名、すなわち平目だが、その一名が合格したのである。
調子に乗るというのは恐るべきことだった。
学科試験ではないにせよ、A組の連中さえ何人か落第した海兵の一次試験に平目がパスしたというニュースは、新学期の五年C組全員をびっくりさせた。
「なせばなる。なさねばならぬ、何ごとも。ならぬは人のなさぬ、なりけり」
と明暗先生は早速、皆に平目をほめたたえて、
「これでお前たちも、やればA組の生徒に負けないことが、ようく、わかったろうが。ターナーも同じようにね……」
たしかに皆は平目を見なおす気持だった。事情がどうであれ、あの貧弱な体格で海兵の体格検査をパスできるとは誰もが考えていなかったからである。
「ぼくは海兵に入ったらな」
平目も平目で、もう十二月の二次試験も受かったように皆にしゃべった。
「飛行機のほう、やったろうと思ってるねん。これからの海軍は軍艦やないさかいな。航空機決戦の時代やからな」
独逸がその優秀なメッサー・シュミットで欧州の国々を叩きつぶしたことは誰もが知っていたが、平目がそれを口に出すと、皆は更になるほどと思った。とにかく彼の株はクラスのなかで、ずんとあがったのである。
小津はまた平目が前とはガラリと違ったのを見た。
なにしろ、今までなかった光景だが、平目は赤尾のマメタンと生徒たちが呼んでいる英語の単語集を広げて休み時間に暗記しはじめたからである。
「数学は岩切の参考書はぼくに少しむつかしいわ。それよりチャート式のほうが漫画も入っていて面白いで。国語は保坂の参考書読んどるねん」
平目の口からそんな言葉が洩れるのを小津はびっくりして聞いていた。何しろ、そうした受験準備の参考書のことなどをC組の連中が話題にするのは今まで聞いたこともなかったからである。
「ほんまに……お前、勉強はじめたんか」
「仕方ないがな。一応はやっとかな、十二月の試験、受けられへんさかい」
小津の眼には今まで自分とドッコイ、ドッコイだった平目が急に大人になったようにさえみえた。
「お前……変ったなあ」
「恋は人間を変えると言うさかいな。ぼくかて東愛子のこと好きにならんかったら、勉強せんかったやろ。自分でもふしぎや思うワ」
「そんなに……好きか。東愛子が」
東愛子。あれ以来、一度も会わない。それなのに小津の心にも平目の心にも前よりはもっとその顔がいきいきと浮んでくる。おそらく彼女は自分の存在が一人の少年にこれほどの変化を与えたとは夢にも考えてはいまい。
秋がふかまり、国道電車の走る道の銀杏《いちよう》が無数の葉を歩道にまきちらした。校庭のポプラの木も黄色く変っていった。住吉川の川原にススキの穂が白く枯れていった。
十二月になった。小津も遅まきながら平目と同じように赤尾のマメタンを見たり、チャート式数学の研究という参考書を買ってきた。しかし彼は自分が第一志望の姫路高校にはとても入学できぬことを知っていた。
十二月十八日。平目は三宮駅から広島行きの汽車にのった。海兵の学科試験を受けるためである。
平目が出発してから三日間、自分のことではないのに小津は気になって仕方がなかった。
彼は静粛な受験場で答案に向きあっている受験生たちの姿を想像した。そのなかに眼をショボ、ショボさせた平目の姿を思いうかべた。教室のなかに平目の机だけが無人になっていたから、教師は出席をとりながら、
「お、江田島に行っとるんだったな」
と苦笑しながら、うなずいた。
冬休みがもう眼の前にやってきたが、冬休みの間も希望者は補講を受けることができた。もちろんさし迫った受験準備の手助けをしようとする先生たちの親心である。
その補講の第一日が始まった日に平目がやっと姿を教室に見せた。
「おう。どうやったんや」
皆にとりかこまれて彼は、
「どうも、こうもないワ。頭がのぼせて、三日間、アッという間にすぎてしもうてん」
「それで試験できたんか」
「わからへん。もう思いだすのもイヤやねん」
平目はひどく疲れて、消耗した表情をしていた。小津は皆と一緒にその顔を見ながら三日間の間、この友人がない力をしぼってどんなに悪戦苦闘したか、わかる気がした。
「ぼくはアカンかもしれへん」
皆とは別に平目は小津だけにはそっと正直に告白した。
「数学も国語も、問題がえろう、ムツかしいねん。何や書くことは書いたんやけど……試験官はきびしいやろなア」
「しかし、お前は運が強いさかい」
そう言って小津は慰めたが、運だけでは学科試験はどうにもならぬ。
それっきり平目は補講には姿をみせなかった。しょんぼりして家に引きこもっている彼の顔が眼にみえるようだった。
あれは補講がはじまって三日目だった。
小津は一人で国道電車にのって家に戻ろうとしていた。
その時、途中の停留所から三、四人の乗客が乗ってきた。そしてなかに紺の制服を着た海兵の生徒が一人いて吊皮に手をかけ、きびしい表情をつくっていた。
まちがいなく、憶えある顔である。あの夏休み、芦屋の海で泳いだあと、東愛子たちと話をかわしていた海兵の生徒である。
小津の胸は大きな手でしめつけられたように息苦しくなったが、向うは彼を忘れたのか、窓の外を凝視しているだけだった。
芦屋川の停留所まで来ると、彼はピンと姿勢をただしたまま、電車からおりていった。
不吉な予感がなぜかその時、小津の胸を走った。なぜ、そんな予感を感じたのか彼自身にもよくわからない。
(平目は……駄目やったな)
彼は瞬間、そう考えたのである。
正月二日。
その予感が遂にあたった。ひょっくりと平目が彼の家にたずねてきた。
「あかん、かってん」
眼をショボ、ショボとさせて、友人のさしだした電報を小津は玄関につったったまま受けとった。
「ザ ンネン、サイキヲキス」
宿屋の主人が送ってくれたその電報の文字は生命のない数字の羅列のように小津の眼にもうつった。
「外に出よう」
小津は何と言って平目を慰めていいのかわからなかった。彼は正月のお年玉としてもらった小遣いをこの友人の心の傷を治すため全部、使っていいと瞬間的に思った。
「俺、金もってるで、今日は奢ったるワ」
「ああ」
しかし平目の声はやはり元気がなかった。
「くよくよ、するなってば、もう一度、海兵、受けたらええんやないか。体格検査を合格しただけでも自信ついたやろ。浪人一年ぐらいなんや」
「あかん」
平目は弱々しく首をふった。
「これ以上、家に迷惑かけられへんねん。ぼく、親爺おらへんし、それに姉さんは出戻りやもんな。いつまでもブラブラでけへんねん」
「伯父さんが学資、出してくれへんのか」
「そりゃ、ぼくが勉強できたら頼めたやろうけど……もう、ええワ。やっぱり灘中でたら、勤めるワ」
「勤める?」
「うん。ぼくしか、お袋や姉さん、養う者おらへんのやし……」
正月だというのに道を歩く人の姿はほとんどなかった。戦争下なのでどの家も日の丸の旗をたてていた。
「戎さんに行かへんか」
と小津はうなだれて歩いている平目の肩を叩いて、
「なア。串カツ、好きなだけ食うてかまへんで。ほんまに俺、金あるんやさかい」
「串カツより……」
と平目は少し照れたように笑って、
「芦屋につきおうてくれへんか」
「彼女の家か」
「うん」
国道電車も今日は乗客がいつもと違ってまばらだった。屠蘇《とそ》のせいか顔を赤くした男が手で拍子をとりながら小声で謡曲をつぶやいていた。
「しかし、勤めに行くと、学生みたいに徴兵延期は許されんのやろ」
小津は平目のために一番心配していることをそっと口に出した。
「兵隊にとられるで」
「でも……仕方あらへん」
「うっかりすると、戦地に連れていかれるやないか」
「そこまで考えとったら、何もできへんワ。その時はその時や」
芦屋川をおりて、冬枯れの川原を眺めながら橋をわたった。さすがにこのあたりの邸にはまだ大きな竹を門の前に飾っている家もかなりある。
東愛子の家までくると、平目は門の前に足をとめて、じっと家を凝視したまま、
「彼女おるかしらん」
それから急に、
「ベル、押してみようか」
「え? ベルを……押すのんか」
「これで、もうぼく彼女を見おさめやさかい、たった一度さよなら言いたいんや」
平目がベルを押して誰かが姿をみせるまで、小津は何度、そこから逃げだしたいと思ったかわからなかった。しかし平目は覚悟をきめたのか、直立していた。
女中があらわれて怪訝《けげん》そうに二人を眺めた。そして彼女はきっぱりと、
「お嬢さまはおられまへん。京都に行っておられます」
それから三ヵ月。
卒業式の日のことを小津は思いだす。
「精力善用、自他共栄」と灘中の設立者、嘉納治五郎先生の書かれた講堂の額の下で、父兄代表や校長が、皆におめでとうと言った。ずらりと並んだ生徒たちは平生とはちがって感傷的になり、思い出をかみしめ、静かに話をきいていた。
P大にどうにか入学のきまった小津はそばにいる平目の横顔をそっと窺った。C組、D組のなかには、もちろん、上級学校に落ちて浪人をする者もいたし、小津のように入学の容易な私立大学の予科にもぐりこんだ者もいたが、しかし何処にも進学せず、社会に出るのは平目が一人だった。
式がすみ、教室に皆は免状をふりまわしながら戻った。窓の外で空がよく晴れ、風がつめたい日だった。
「これで、諸君と別れるわけだが」
とフグ先生もしんみりとして、
「妙なもんだな。手数のかかる生徒ほど忘れがたいと言うが、そのせいか、A組、B組の生徒よりも、お前たちのほうが気になって仕方ない」
「ほんまかいな」
と誰かが、まぜっかえした。
「何を言うか。それが教師の本心だ」
「厄介ばらい、でけたと悦んでいるのと、ちがいまっか」
「まあ、少しはそういう気持もある」
フグ先生はニヤニヤとして、
「実際、お前たちには手をやいたからなア」
皆は声をたてて笑った。しかしその笑いはむしろ爽快なもので、笑いながら彼等は自分たちがこの教室のなかで五年間やった悪戯の一つ一つを思いだしていた。授業については何も懐かしさはないが教師を怒らせ、困らせたことのほうに思い出があるのだ。
「これから灘中は、もう、ぼくらみたいな者、入れへんようにしてください」
「うん」
とフグ先生はうなずいて、
「しかし教師から言うと、勉強ばかりして、よい上級学校に入る生徒は面白みがない。面白みのない秀才学校に、この灘中をしたくはないもんだ。ま、お前たちも母校のことを忘れず、時折、たずねてきたまえ」
彼は両手を教壇の机にかけてしばらく頭をさげ、そのまま教室を出ていった。
「行こか」
小津は平目をさそって、校舎の外に出た。
「もう、これで、この教室、見ること、あらへんのやな」
と平目は眼をショボ、ショボとさせながら、
「君とも、もう会えへんなア」
「そんなこと、ないがな」
小津は首をふった。
「俺、時々、お前の会社に遊びに行くで」
「しかし時間かかるでえ。赤穂までは」
平目は伯父の紹介で赤穂の製塩会社に勤めがきまっていた。
「日曜日があるがな」
「そんなら嬉しいけどなア」
いつもと同じように校門を出て住吉川の川ぶちを他の生徒たちにまじって歩いた。
「おい、見いや。やっとる。やっとる」
あの川ぶちの鯛焼の屋台に今日卒業した連中がむらがって堂々と鯛焼を買っているのを見て平目は嬉しそうに声をあげた。
「教師に叱られるど」
「叱られるかいな」誰かが答えた。「もう灘中は卒業したんやで。一人前や。今日から」
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ある女
田原の送別会が病院のちかくの小さな鰻屋で開かれた。送別会といえば聞えはいいが、結局は医局から追放される彼に別れを告げる同僚たちの集まりだった。
鋭一が病院での仕事を終えて、その鰻屋に出かけた時は夕暮がようやく闇に変る時刻で、通りの小さなビルや店々に灯がうるみはじめていた。
五、六人の医局員が一応田原を、上座にすえて、医局長と井伊教授たちの来るのを待っていた。部屋にはなんとなく沈んだ空気がこもっていて、おたがいにビールをつぎあっていたが会話は途切れ勝ちであり、気勢は一向にあがらなかった。
「しかし、福島じゃあ空気もいいし、公害もないだろ。スキーは出来るし、羨ましいよ」
誰かがその空気をひきたてるように田原に話しかけたが、それっきりで話は進行はしない。皆は田原がなぜ地方に送られたのか、わかりすぎるほど、わかっているのだった。
半時間ほど遅れてやっと内田医局長と栗原とが姿を見せた。
「遅れてすまん。すまん」
と医局長は一同にあやまって、
「井伊教授は残念ながら、お出でになれない。別の約束が急にできてね。くれぐれも皆によろしくとのことだった」
自分の医局員が遠いところに移るというのに|おやじ《ヽヽヽ》がその送別会に出席しないのは異例のことである。皆はしばらくの間、黙ってうつむいていた。
「まあ、何だ。田原君も小なりといえど向うでは幹部医局員だからね。地方医療行政のありかたや、農村医療の問題を実地に勉強しておいてもらいたいね」
内田医局長は田原にビールをついでやりながら、
「そしてふたたび、ここに戻ってくる時は、そういう研究を生かしてもらいたいと思うよ」
隅の席から鋭一はそっと田原の顔を窺った。そして医局長にそう言われた友人の頬に一瞬、泣き笑いのような表情の浮んだのを彼は見のがさなかった。
「栗原君」
誰もが黙っているのに困惑した内田は傍にいる栗原に話しかけた。
「君はスキーが上手だから、東北はよく行っているんだろ」
「よく行くというほどではありませんが……蔵王は数度、まいりました」
「ま、今度、あっちのほうに行ったら、田原君を誘って大いに激励してやってくれたまえ」
「ええ、そのつもりでいます」
栗原は大きな顔に眼を細めてうなずいた。彼はその時、若い医局員たちが非難の眼差《まなざ》しで自分を見たのに気がつかないようだった。
(何を言ってやがる)
医局員たちはこの時、そう思ったにちがいなかった。田原の追放は栗原が医局長に例の薬の件を報告したから行われたことを、誰もが知っていた。栗原としては、それがやむを得ない処置だったにせよ、もっとこの後輩をかばうようにしたってよかった筈だ。
(それなのに……まるで自分の責任でないような顔をしてやがる……)
若い医局員たちは自分が無力だったゆえに田原にうしろめたさを感じていた。そのうしろめたさが栗原に怒りとなって現われていることを鋭一は感じた。彼は心のなかでせせら笑った……。
いつもなら、こういう集まりのあとは若い連中が、
「内田先生。どこかに連れていってくださいよ」
そう甘えて二次会、三次会に元気よく出かけていくのが常だが、今夜ばかりは会がはねると、
「じゃあ」
思い思いに店の前で手をあげて、そそくさと引きあげていった。田原もまた弱々しい笑いをうかべ皆に礼を言うと、一人、地下鉄の階段に消えてしまった。
「小津君」
そのあとを追おうとした鋭一は内田医局長と栗原とに呼びとめられた。
「君。用がなければ、一寸、一緒につきあわないか」
医局長は煙草を歩道に投げすて、靴でふみつぶしながら、
「いいだろう」
「はい」
三人は少しぶらぶらと歩いてから、シャンソン・スナックと看板の出たビルにのぼった。
スタンドに恋人らしい男女が腰かけているほか客はない。
栗原は奥を一寸のぞいて、
「隅のボックスが空いています」
と医局長を促した。
席につくと内田はカンパリ・ソーダを注文し、栗原と鋭一とは水割りをたのんだ。壁のボックスからすりきれたシャンソンが流れてきて、それが陰気な店を更に陰気にした。
「まあ、今度の処置については……」
赤いカンパリ・ソーダを一口、飲んで医局長は鋭一に話しかけた。
「若い連中も情のない仕打ちと思っているだろうが……医局の秩序を守るためにはやむを得んやり方でね……」
「わかっております」
「うん。君なら理解してくれると思った。ところで君は田原君と共同レポートを提出する筈だったんだろ」
「はい」
「じゃ、彼がいなくなると、困るね」
「ええ。でも自分一人でデータは集めていこうと思っております」
「そうか」
医局長はうなずいて、しばらく考えていたが、
「井伊教授にはまだ報告していないが……君、栗原君の仕事を手伝う気はないかね。もちろん、今のレポートのめやすがついての話だが……」
「栗原さんのですか……」
「そうだ。やがてうちの病院でも癌センターを作ることになるが、その時の準備も色々しておかねばならん。栗原君には抗癌剤と手術との関係にみっちり、とり組んでもらっているが、君もその方面の研究をしてみる気はないか」
鋭一は素早く頭のなかで、医局長の今の言葉を――言葉というより暗示を分析した。そうか。栗原は自分の父親の製薬会社と新しくできる癌センターの橋わたしをする役を井伊教授から命ぜられているわけだな、と彼は考えた。
「癌センターはいつ頃に出来るんですか」
「来年のつもりだよ。勿論、その時、他の医局ではなく我々が中心に指導権を握らねば困る。また、そうしなければいかん。君はそのためにぼくらに協力してくれたまえ。井伊教授にもぼくから、よく申しあげておくから……」
二人と別れて鋭一は地下鉄におりた。プラットホームで電車を待ちながら、彼は今、医局長の言った言葉を反芻してみた。
癌センターがうちの病院のなかにもできる。その時、他の科ではなく自分たちの医局が指導権を握ることを内田医局長は井伊教授と考えている。だから大きな製薬会社を背景にもつ栗原を大事にしているのだ。おそらくその製薬会社の抗癌剤を使うかわりに、莫大な研究費を仰ぐのが交換条件なのだろう。
(すると、栗原はこれから、ますます、おやじたちに必要な人間になる)
そう思うと彼は言いようのないほど口惜しかった。親の七光のおかげで努力もしないで出世できる者と、いくら努力してもバックのないために下積みになる人間との二種類がこの世にあるような気がした。
(田原だって……もし栗原のような背景のある男だったら)
と鋭一は考えた。もしそうなら、あいつは決して古草履のように医局から見棄てられ地方送りにはならなかったろう。
(すると、俺は一生、あの栗原の下で働かなくてはならないのかな……)
彼は自分の前にたちふさがった障碍の壁の厚さをおしはかった。その壁は考えていたよりもずっと頑丈なようだった。それを破る方法はただ一つ、自分も栗原と同じようなバックを手に入れることだった。
(女だ……)と鋭一は地下鉄の吊皮にぶらさがりながら痛いほど感じた。(結婚だ。結婚の相手だけは俺の出世に有利な女をもらわねばならん)
すると、彼の目蓋《まぶた》にふたたび、井伊佳子の無邪気な顔がうかんだ。
(俺がもし、あの娘と結婚できれば)
しかしそれは今の場合、ほとんど不可能な話だった。だれがこのみすぼらしい一医局員を教授の娘に結びつけて考えるだろう。
家に戻った時は既に遅くて、両親はもう寝ているようだった。玄関をあけたのは妹の由美で、
「御飯は?」
「いらん」
彼は不機嫌に答えた。誰かに当りちらしたい気持だった。
「水をくれ」
「飲んだのね。また」
「いいから、水をくれ」
「電話があったわよ」
由美はそう言って兄の顔を窺った。
「啓子さんという人。看護婦さん」
鋭一は渋い顔をして黙った。
「電話をくださいって」
彼はそのまま茶の間に入り、妹の持ってきたコップの水を一気にのみほした。
「イライラしたって、仕方ないわよ」
と由美は立ったまま、
「病院で何か、うまく、いかなかったのね」
「うるさいな。早く寝ろ」
その時、廊下で電話のベルがした。
「きっと、あの人だわ。看護婦さん。わたし……思うんだけど、今まで妙な電話かけてきたの、この人じゃないかしら。何か、あったんじゃないの。その人と兄ちゃんと」
鋭一は返事をせず、廊下に出た。受話器をとると、
「もしもし」
という啓子の声がきこえた。
鋭一はそのまま受話器を切った。
翌日は教授回診である。
例によって急に静寂になった病棟の廊下を井伊教授をかこんだ白い診察着の男たちが病室に吸いこまれては、吐きだされ、また次の病室に移っていく。
田原の姿はもうその一団のなかにはいない。田原が担当していた患者は梅宮という医局員が引きついでいる。
井伊教授は一人一人の患者の訴えに自信ありげにうなずき、おもむろに聴診器をあて、恢復を保証するような言葉をえらんで話しかけた。
鋭一が担当している例の肺癌の重役にも、
「治られたら、ひとつゴルフの手合せを願いたいものですな」
聴診器を耳からはずしながら言った。すると痩せほそった患者の眼に急に希望の光がかがやいて、
「ゴルフが出来るくらい、恢復しますか」
「当り前ですよ。もっとも、それはあなたが今後、私の注意をよく聞いて療養してくださればの話ですが……」
鋭一は畏《かしこま》って二人の会話を横で聞きながら、不治の患者にも、なるほど、こういう言い方をすべきだと頭に叩きこんだ。
だが廊下に出ると、おやじは、
「医局長。もう、そろそろ、あの患者の身内の方には本当のことをうちあけておいたほうがいいね」
と小声で言った。
「次の部屋は」
「昨日、入院しました新患者でございます」
栗原がカルテを持ちなおして大急ぎで答えた。
「内科から外科にまわされまして、触診では腫瘤は触知されませんが、D・K・I・K反応ではプラスと出ております。レリーフ像撮影で病変らしいものが認められます」
むつかしい顔をして教授はうなずき、個室の前にたちどまった。病室の名札には長山愛子という字が書かれていた。
一同が病室に入ると、患者は胸もとを合わせながら上半身を起した。
「そのままで」
井伊教授は愛想よく、
「入院第一日目の気分はいかがですか」
「ぐっすり眠れました。お蔭さまで」
彼女は少し青白い顔に寂しい微笑をつくった。品のいい、そして眼の大きな婦人だった。
「膝を立てて頂きましょうか」
栗原と主任看護婦とが彼女を助けて、腹部を見やすいようにした。若い医師たちの眼の注がれているなかで胸もとを広げられた婦人は顔を赤らめたが、井伊教授はそれに気がつかぬようにかがみこんで、
「ここが痛みますか」
と質問した。
「ええ」
「胃は前からお悪かった」
「いいえ、ただ、急に目方が落ちてきましたから」
「そう……」
しばらくの間、沈黙がつづいた。胃のレントゲン写真をおやじは眉をひそめて眺めていた。
「検査を二つ、三つ、してみましょう。勿論、御心配になるような病気じゃありません。悪くて胃潰瘍ですな」
しかし、それが嘘だとは誰もがもう知っていた。写真にはっきり異状が認められていた。
回診が終って一同がおやじを何時ものように病棟の出口で送ろうとした時、
「小津君」
と井伊教授が急にふりむいた。
下っ端の自分がこんな時、おやじから声をかけられることは滅多になかったから、
「はい」
何か今の回診中、落度があったのではないかとドギマギしながら彼は皆の前に進み出た。
「いやね」
教授は精力的な顔に上機嫌な笑いをうかべて、
「この前、娘が眼を痛めた時、世話になったようだね。当人からよく礼を申しあげてくれと頼まれてね……」
「とんでもない。その後、いかがでいらっしゃいますか」
「もうケロリとしているようだよ」
平生はほとんど厳しい顔をしているおやじが自分の娘のことを口にする時、こんなに機嫌よくなるとは鋭一は知らなかった。
そのまま教授は医局長と肩を並べて病棟から研究室のある本館に向って去っていった。
医局員たちは肩の重荷をおろしたように、腕をふったり、煙草に火をつけたりして、それぞれ、散っていった。昼までにまだ半時間ほど暇がある。
(そうか)
鋭一は胸に湧きあがる悦びを噛みしめながら、
(彼女はまんざら俺のことを忘れたわけではないんだ)
どんなチャンスでも利用すること。このまま指をくわえて放っておけば、彼女と自分とはそれっきりになるに違いなかった。教授がたった今、自分に声をかけてくれたことを絶好の機会と考えたほうがよさそうだった……。
彼は廊下にある赤電話に指をかけた。しばらく、ためらった後、手帖を見てダイヤルをまわした。
女中が出てきた。間をおいてから佳子の声が聞え、
「あら」
彼女は突然の電話に驚いて、
「お久しぶり」
それからこの間の礼をのべてから、
「あのレコード、大事にしておりますわ」
「その後、病院にいらっしゃらないものですから、心配しておりました。眼はいかがです」
「あれですっかり治りましたわ」
話題がなくなり、鋭一はそのまま受話器をおろさねばならないと思ったが、
「ゴルフの練習を始めましたの」
と向うが助け舟を出してくれた。
「ゴルフですか」
「小津さんもなさる」
「いいえ。始めたいと考えてますがね、貧乏医師には手が出ないから……」
「そんなことなくってよ。練習場でクラブを貸してくれるわ。わたしもお友だちのを借りてやっているの」
それから、一寸、考えこんで、
「御一緒にやらない。ねえ、そうしましょうよ。今度の土曜日……」
と無邪気な声で誘った。
受話器を切ってから鋭一は舌で唇をなめた。やはり電話をかけてよかった、と彼は何かをやったあとの快感に似たものを味わいつづけた……。
約束のその土曜日に彼は芝にあるゴルフ練習場まで出かけた。入口に立っているスラックスに帽子をかぶった井伊佳子の姿が、乗りつけたタクシーの窓から見えた。手をあげると彼女も片手を軽くあげた。
「すごいもんですね」
と彼は、青い芝にめがけてクラブをふっているたくさんの男女を眺めながら呟いた。
佳子の言った通り、練習場ではクラブを貸してくれる。何もわからぬ彼は手袋だけを買い、彼女に教えられるままにウッドの一番を借りて練習場に出た。
「先生を呼んでくるわ」
「先生?」
「ええ、専門のコーチがここにいるの」
まもなく、陽にやけた青年があらわれて佳子に挨拶をすると、
「じゃア、早速、この間教えたフォームをくりかえして憶えましょうか」
それから鋭一をみて、
「あなたも御一緒にどうぞ」
青年はグリップの形をみせ、足の開き方や、ウッドのふり方を自分で示したのち、
「二人とも、この通りやってごらんなさい」
と言った。
佳子の手前、鋭一はあまり、ぶざまな恰好を見せたくなかった。青年は、
「お嬢さんはなかなか、いいですね」
とほめたが、彼には、
「どうも、アコーディオンになる」
と首をひねった。
「アコーディオンですか」
「ええ。頭がさがりすぎます。自然に、やればいい。こうしますから体を上下にしないで、ふってください」
自分のクラブを鋭一の頭の上にのせた。佳子はそれを見て笑った。
はじめは甘くみていたクラブのふり方ひとつも意外とむつかしいので鋭一はすっかりくさった。球を地面においても佳子はそれを飛ばすことができるのに彼には空ぶりが多いのである。コーチの青年も、鋭一のほうは放ったらかしにして彼女にばかり熱心に教えている。
「あら、もう、およしになったの」
クラブを足にはさんで煙草をすっている鋭一をみて、佳子はからかった。
「ぼくにはどうも不向きのようです」
「そんなことはない。はじめの人は皆、空ぶりばかりです」
コーチの青年は急に慰めるような声をだして、
「アコーディオンさえなくなれば、あなたは|すじ《ヽヽ》がいいですよ」
鋭一はもう一度、クラブを握りなおしてボールの前に立った。白い球をじっと見つめていると、それが急に白いテニスのボールにみえ、ラケットをふっている栗原の顔が思いうかんだ。
(糞!)
と、はじめてウッドに心地よい手ごたえを感じ爽快な音をきいた。
「ナイス・ショット」
とコーチの青年が叫んだ。
「その調子。それでいいんですよ」
鋭一は苦笑してうなずいた。彼が今、白球をみながら心に思っていたことを佳子は知る筈はない。
「当る時はクラブの音でわかるわね」
と彼女も言った。
それでも二箱ほど球を打ったあと、二人は練習場のパーラーで休憩をした。
「でも運動神経がおありになるわ。二箱目の球は空振りもほとんど、なかったじゃありませんの」
「駄目ですね」と鋭一は苦笑した。「スライスって言うんですか。まぐれに当っても横にそれてばかりですから。あれじゃ、コースに出れば茂みで球ひろいばかりすると、あの青年に注意されましたよ」
「でも……わたしにくらべれば、ずっと、ましだわ」
「練習場には何度ぐらい、いらっしゃったのです」
「まだ五、六度。一番はじめ、栗原さんに連れてきて頂いたの」
「栗原さんから……何でも習うんですねえ」
鋭一の声はおのずと皮肉っぽくなったが、佳子は無邪気に、
「あら。スキーとゴルフだけよ」
「ぼくら医局員のなかで栗原さんが一番、お嬢さんとお親しくしているのですか」
「だって……ほかの方、あまり、家に遊びにいらっしゃらないんですもの」
まだこの娘は世のなかの悪を知らないんだな、と鋭一は思った。彼女はおそらく恋愛の経験も男にだまされたことも一度もないにちがいない。
「しかし、敷居が高いですよ。やはり井伊教授のお宅に伺うのは。お嬢さんはぼくらには別世界の女性にみえます」
「なぜかしら、そんなの、嫌だわ」
佳子は真面目に鋭一の顔をみて眉をひそめた。
「だってお嬢さんは今まで苦労らしい苦労もなさらなかったでしょう。これからも、きっと裕福な家庭の息子さんと……たとえば栗原さんみたいな人と結婚して幸せな一生を送られるでしょう。ぼくらピイピイの医局員には考えられないような人生ですしね……」
「わたし、そんな人生、好きじゃないわ。そりゃ不幸になるのはイヤだけど……きめられたレールの上で幸せになるんだったら自分が可哀相でしょ」
両手をくんで、その上に傾けた顔をのせて彼女は可愛く笑った。
「じゃあ、どんな人と結婚したいんです」
鋭一は煙草に火をつけながら相手から視線をそらせて何げなくたずねた。
「どんな人って……わたしが賭けることができる、と思うような人がいいわ」
「賭ける?」
「ええ。もう出来あがっている人には、どうしても興味がもてないんですもの……」
鋭一は同じような言葉を何処かで聞いたような気がした。そうだ。世間知らずの、生きることの苦労など味わったことのない娘たちが結婚についてよく言う言葉の一つだ。
「可笑しいかしら……」
佳子は一寸、鋭一のうすら笑いに気がついてたずねた。
「いいえ。別に」
鋭一はあわてて真顔になり、
「考えがしっかりしていらっしゃるな、と思ったんです……」
「あら、柄《がら》にもない偉そうなこと、口にしちゃったわ」
顔を少し赤らめた彼女を見つめて彼はこの無邪気な娘はすぐ誘惑できるかもしれないと考えた。
その日もゴルフ練習場ですぐ別れた。しかし次のデートの約束を鋭一はちゃんとしておいた。
翌日、医局に行くと、
「君、井伊教授のお嬢さんのゴルフのお相手をしたんだってね」
平生は先輩であるためか、自分からは話しかけぬ栗原が近よってきた。
「ええ」鋭一は少し狼狽して「向うからお電話、頂いたもんですから」
「そう……」
栗原はそれっきり、そのことについては触れなかったが、坊っちゃんらしい大きな顔にかすかな不快の色が浮んだのを鋭一は見のがさなかった。
「ところで、内田医局長から話があったように君と今度、共同研究をすることになったけど……」
「よろしくお願いします」
「この間、入院した婦人患者がいるだろう。マーゲンのカンサー(癌)の疑いのある……」
「ええ」
栗原の言葉に鋭一は教授回診の日に見た眼の大きな中年の女の顔を思いうかべた。そう、たしか長山愛子という名前だった……。
「あの人をぼくたちの研究の一例にしようと思うんだ。ぼくの担当患者だが君も手伝う気はないか」
「わかりました」
栗原は先輩らしく、うなずいて、
「じゃ、明日、胃カメラをやっておこう。君もその前に彼女をよく診察しておきたまえ」
鋭一は、自分が主治医をしている患者たちの部屋を巡回したあと、その栗原の指示通り、彼女の病室の扉を叩いた。
返事がなかったので扉をそっと開けると、鉢の花が窓ぎわにおいてあって、彼女は顔を横にして眠っていた。
鋭一の気配に眼をさまして、
「あら」
と上半身を起し、胸もとをかきあわせた。
「御気分はいかがですか」
鋭一は病室の真中にたって鉢の花に眼をやった。
「よく咲いてますね」
それから聴診器を出して耳にあてがいながら、
「明日、胃カメラをやりますから、朝食はとらないでください」
と言った。
「あの……栗原先生はどうされたんでしょうか」
不安げにたずねる彼女に、
「栗原先生も勿論、来られます。今日から先生とぼくとがあなたの診察をすることになりました……」
「そんなに悪いんでしょうか」
「いや。栗原先生がお忙しいから、ぼくが下で手伝うことになったんです。小津といいます」
小津という名を聞いた時、彼女はふしぎそうに鋭一の顔をみた。
「胃カメラって、苦しいんでしょうか」
「たいしたことはありません。もちろん胃のなかを覗かれるんですから愉快じゃありませんよね。女の方には」
彼女はまるで息子にからかわれた母親のように微笑した。
「病院では恥ずかしがってはいけませんよ。神経を太くなさることですな」
それはいつか、おやじが若い女性患者に言っていた言葉だった。それを鋭一はそのまま真似て、この婦人に言った。
「目方はどのくらい落ちましたか」
「五、六キロでしょうか。自分では気がつかなかったのですが……皆に痩せた、痩せたと言われまして」
彼は聴診器を動かしながら、
「そばにいる人は普通、家族が痩せたことに気づかぬものですが。御主人がそうおっしゃいましたか」
「いいえ」
彼女は首をふって、
「主人は……おりません。ずっとむかし……亡くなりました」
「ほう……」
こういう会話は別に意味がなかった。ただ診察している間、患者の心を気楽にさせるため医者がたずねる質問にすぎなかった。
「御病気は何でしたか。御主人の……」
「いえ、病気じゃ、なく」
彼女はその時、少し哀しそうに微笑して、
「戦死でございます」
鋭一は聴診器を耳からはずした。戦死とか戦争という言葉が遠い世界の出来事のように思える世代に彼は属していた。何かにつけ、戦争の話をもちだす父親のような年齢の人間にいつも本能的な反撥を感じていた。
診察を終った彼女がふたたび胸元をかきあわせた時、ほのかに香水の匂いがした。さっきは感じなかったが、この患者は寝巻に香水をつけているらしかった。
「ぼくの父親も兵隊に行きましたよ」
「海軍でいらっしゃいましたか」
「いや、陸軍です。軍隊時代の話は耳がタコになるほど、子供の時から聞かされましたが、ぼくらには、どうも実感がなくてね……」
「そうでしょうね……」
彼女はまた微笑を頬にうかべて、
「下の妹もわたくしが戦争の頃の話ばかりするのが嫌だって……。もう戦争なんか、とっくに終ったのよと申します」
「同感だな」
鋭一はポケットの聴診器を指で弄びながら、
「じゃ、明日は朝食ぬきですよ。ひょっとして胃カメラのあと、微熱が出るかもしれませんが、それは心配なさらなくて結構です」
部屋を出た時、彼はもう患者の顔を忘れていた。彼に必要なのは病状を記録したカルテだけだった。看護婦室に行って彼女のカルテを見てから、鋭一は医局に内線電話を入れ、栗原をよびだした。
「今、診察をいたしました」
「どうだった」
「カルテに記録された通りだと思いました。明日の胃カメラはGFTをお使いになりますか」
「うん。そのつもりだけど」
「それじゃあ、ぼくのほうで分泌抑制剤の注文は出しておきます。アトロピンとプスコパンのほか、オピスタンも用意しておきましょうか」
「そうだね、女性だから……過敏かもしれないからオピスタンを使うとするか」
栗原の声はあくまで後輩を指導する先輩のそれだった。鋭一はこの男との共同研究でどんな充実したレポートを作りあげても、結局はその功績は先輩の栗原に帰せられるのを知っていた。それが今日までの医局の習慣だからである。
(そうは、させないぞ)
と彼は受話器を切って自分に言いきかせた。
その日、いつもより早く帰宅すると、玄関に父親の靴がきちんとそろえてあった。
「ちょうど、よかった」
台所から姿をあらわした母は、
「父さんが気分が悪いと言って会社から早目に戻ってきてね。吐いたんだって」
「ふうん」
「診察してよ」
「診察? たいしたこと、ないんだろ」
鋭一は医者だったが家族が病気をしても診察するのを面倒くさがった。妹が風邪を引いた時も、売薬でも飲んで寝ろと言うだけだった。
「でも、父さんはあんたに診《み》てもらいたがっているんだよ。お願い……」
着がえをすますと、鋭一は渋々と父親の寝ている部屋に入った。父親は布団のなかで仰向けになったまま夕刊を読んでいた。
「吐いたんだって」
「うん。会社で腹が急にさしこんでね。昼食のあと」
鋭一は枕元にすわって、そこにおいてある洗面器を横にのけた。洗面器には新聞紙が入れてあったが、吐瀉物はなかった。
「何を昼飯にたべました」
「客が来たのでね。社員食堂で一緒にうどんを食べただけだ」
「客のほうは気分、悪くはならなかったのですか」
「知らんよ。すぐ別れたからね」
「会社の人で同じように吐いた人は……」
「いや、わたしだけだ」
布団をはいで父親の腹部に手をあてた。父親は満足そうな顔で息子の一挙一動をじっと見つめていた。
「一寸、炎症を起していますね」
「悪性のものじゃないだろうね。年が年だから」
「まさか」
鋭一は嘲るようなうす笑いを浮べた。
「癌なら、こんな症状じゃありませんよ。今晩は絶食して寝ててください。薬は別に要らないと思いますがね……」
「触診だけで癌が判別つくのかい」
立ちあがろうとする息子を父親は引きとめて話しかけた。
「三十パーセントはわかりますよ。もっとも痩せ具合や顔色で……」
そこまで言いかけて鋭一は今日の婦人患者のことを急に思いだした。
「今日も、新しく入った胃癌らしい女の患者のお腹をさわりました。触診では、はっきりしませんが、急激に痩せるという症状が出ています」
「助かるのか、その人は」
「さあね。胃癌も粘膜部分だけなら完全治癒の見込みはありますが、あの人は転移しているでしょうねえ……」
「気の毒だな。当人には勿論、教えていないんだろ。お年寄りかね」
「父さんと同じ年ですよ。未亡人です。御主人は戦死したとか言っていました。じゃ、ゆっくり寝てください」
まだ自分と話をしたそうな父をふり切って彼は茶の間に戻った。
「どうなの」
食器をならべながら訊ねる母親に、鋭一は不愛想な声で、
「軽い胃カタル。放っといていい」
「おかゆでも作ろうか」
「絶食させなさい」
彼はテレビをひねり、すぐ消した。この家の臭《にお》い、この家の雰囲気が彼にはたまらなくいやだった。
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新入社員
鋭一が部屋を出ていったあと、小津は眼をつむって少し眠ろうとした。彼は今、息子が自分を診察してくれたことに満足していた。ほとんど会話らしい会話を近頃かわしたことのない息子だが、いざ自分が病気になれば、こうして一応の心配をしてくれたのが嬉しかったのである。
(あいつにも……良いところがあるな)
眼をつぶって、まだ不愉快な腹に手を当てていると、少しずつ眠けを感じてきた。眠けのなかで彼は平目の姿をまた思いだした。
(そう……手紙をもらったのは、灘中を卒業して何ヵ月目だったっけ……)
卒業してから、しばらく二人の間が音信不通になったのを憶えている。P大学の予科に入学した最初の夏休みに手紙がきた。消印は平目の勤務している赤穂で、その中に写真が一枚、入っていた。髪にポマードをつけて少しダブダブの背広を着た平目の情けなさそうな顔がそこに写っていた。
「毎日、大阪商人のケチ精神を説教されてるねん。ぼくもウンとためて、金持になったるつもりや」
写真の裏に金釘流の文字でそう書いてあった。そして手紙のほうには、この二ヵ月の間、平目が会社でどんな教育を受けたかがのべてあった……。
入社して最初の日、平目は二人の新入社員と社長に呼ばれた。
「ええか」
銀メッキの懐中時計を机の上においてこの五十歳のチョボ髭の男はこう言った。
「うちの会社の精神はな、ムダ使いはせんということや。何でも捨てるなということや。ためろということや。わしはその精神で今日の会社を築きあげたんやで。そやさかい。社員にもこの心がけで働いてもらおう、思うとる」
それから社長は平目をみて、
「わかるか、お前は」
とたずねた。
「わかりまへん」
眼をショボ、ショボさせた平目に社長は、
「これをみなさい」
自分の三つぞろいの背広を指さして、
「この背広は何年、使うとると思うか」
とたずねた。
「二年」
と平目は答え、他の二人は、
「一年」
「三年」
と次々に返事した。
「ちがう」社長は首をふった。「十年や。お前らも背広を月賦で買うとるのならきっと憶えとき。家に戻ったら丁寧にブラッシかけておけば一つの背広かて、このように見苦しゅうなく十年、使える。十年間、三人とも次の背広を新調したらあきまへんで。そのような心がけやないと、金は溜らんさかいな」
「そやけど」
と平目は口をとがらせて、
「ズボンがすりきれて、光りますがな」
「その時はな、パン粉をもろうてきて、そこにふりかけ、むしタオルで叩けば、光ったところは消えます。この靴かて七年、使うとる。歩き方に注意して、手入れさえ怠らねば一足で七年も八年も使えるもんや。この心がけが、我が社の精神や」
ケチこそ我が社の精神という社長の考えは社員にも徹底していて、平目たちは入社早々、次の言葉を毎朝、暗誦させられた。
一、捨てるものはこの世にありません
二、捨てる前に何かに使えないかと考えましょう
三、一銭を笑うものは一銭に泣きます
四、塵《ちり》もつもれば山となる
事務所といっても古びた暗いお店《たな》をそのまま使ったこの会社では社長の厳命で、新聞一枚、チラシ一枚、よそから来る封筒一枚も捨てることは禁じられていた。
「チラシはためておけば、裏がメモ用紙に使えるがな」
と社長は社員に常々、教えた。
「店に来た郵便かて裏がえせばな、こちらの封筒になります。道に落ちとる縄きれかて拾うておいで。きっと何かに役にたつさかい。これが商人道というもんや」
この会社では取引き先の電話も滅多にかけてはならなかった。
「用足しは歩いていけるところは歩いて行ってくること。歩いていけへん遠い所はな、急ぎの用でない限り、葉書を出せばええのや。どうにもならん時しか電話は使うたらあかんで」
平目は社長のそういう訓話を聞きながら、なぜか急に灘中の同級生たちのことを思いだした。上級学校に行けた彼等にたいして自分がいつかヒケを取らぬためには、たしかに金持になるより方法はなかったし、この社長の徹底したケチぶりは平目の興味を大いにそそった。
「そやさかい、ぼくは今のところはケチになりきって、社長のように金ためて、出世したろうと考えている」
小津に送ってきた平目の手紙には金釘流の文字でそう書いてあった。
「ぼくかて金がすべてやとは考えへんけど、やはり金がなくては人に馬鹿にされるし、一人だちできへんと思うている。一人だちを一日も早うすれば、ひょっとして、彼女かてぼくを、みとめるかも、しれへん。彼女のことは今でも忘れておらんし、毎日、思いだしている。もう、ぼくはどうせ彼女とは結婚できへんやろうけど、しかし彼女といつか会うた時、見くだされん人間になりたいもんな」
次の便りでは平目はつくづく社長には敬服していると書いてきた。
「うちでは取引き先を招待する時はスキ焼屋を使うそうや。なぜか、わかるか」
取引き先の相手を入れて、たとえば五人で飯をたべる時は、そのスキ焼屋に、
「三人、席、とっといて」
とたのむ。そして社長は平目のような新入社員に牛肉屋で二人分の牛肉をひそかに買わせ、それを持参して出かけていく。女中が見ていない間に、チャッとその牛肉を運ばれてきた店の牛肉のなかにまぜる。
「そうすれば三人分の料金で五人が食べられる。スキ焼屋では醤油砂糖はいくら使うてもタダやさかいと社長は笑うておった。ほんまに感心した」
そんな手紙を読みながら小津は平目があたらしい世界で元気にやっているのを知ってホッとした。そして、あの男なら、どんな場所でもうまく生きるにちがいないと思った。もっとも彼は平目自身が会社のケチ精神に本気でそまっているとは思っていなかった。
だが久しぶりで平目と再会した時、小津は次々と驚かされたのである。
大阪から赤穂に行かされた平目が久しぶりにお盆の休暇で戻ってきた日、小津は三宮の駅まで迎えにいった。
列車がホームに滑りこんでくる間、彼はP大学の制服を着た自分を平目が見て、どのような気持を持つか、気がかりでならなかった。
向い側のホームには祝出征という大きな文字を書いた板がぶらさげてある。その下で丸坊主に背広を着た男が家族に送られて列車の来るのを待っていた。一目みて入営する人だとわかる。それを見ると小津は学生である自分が何か悪いことをしているような気分になり、眼をそらせた。
やがて平目をのせた汽車がホームにゆっくり入ってきて、
「おーい」
デッキから顔を出し小津に手をあげる平目の姿が眼に入った。
相変らず貧弱そのものの顔は昔と変りはない。ホームにおりた時、吊しで買ったにちがいない背広に赤靴をはいた平目の姿は、大人の服を着させられた子供のように小津に見えた。よせばよいのに髪をポマードでベタリとわけている。平目としては精一杯のお洒落をしてきたにちがいない。
「見ちがえたで。ほんまに。歌手みたいやがな」
「さよか」
平目は得意そうにネクタイに手をやって、
「お袋、驚かしたろ思うてねん。月賦《げつぷ》もんやけどな」
「毎日、そんな服で仕事してんのか」
「何いうてんねん。そんなことしたら社長に叱られるがな。商人に、ええ恰好は禁物や、働く時は作業服」
それから平目は大学予科の制服を着た小津をそっと見あげて、
「やっぱし、そっちのほうが、ええわ」
と溜息をついた。
二人は駅を出て駅前の純喫茶に入った。中学時代には禁じられていた喫茶店に今は大人なみに自由に出入できるようになったことが小津の自尊心をくすぐった。
ボックスに腰かけると、小津はポケットから煙草の金鵄をとりだし、一本を爪の先でトントンとはじいて、
「どや、お前、喫わんのんか」
中学生の時とはちがって煙草だってもう喫いなれているところを平目に見せようとした。
平目はニタッと笑った。そして背広のポケットから枯色の煙草の箱を出した。がそれは金鵄よりも高い光の箱だった。
「なんや。お前ぜいたくやないか」
小津は驚いて、
「手紙にはケチ精神に徹すると書いとったが……一向に守っとらんやないか」
「いや。これがほんまのケチの方法やねん」平目は首をふった。「社長が教えてくれよってん。金鵄のような安い煙草を買《こ》うたら、惜しゅうないさかい、パクパクのむやろ。しかし高い煙草を買うとけば、惜しゅうてほとんど喫わん。しかも人前で出せば見ばえもする。一挙両得や」
それから彼は箱のなかを小津にみせたが、買った時のままで一本も手がつけてなかった。
突然、彼は急に声をあげた。
「マッチの燃えかす、捨てたらアカン。大事に箱のなかにしまっとき。世の中には無駄なもの一つもあらへん。その燃えかすの軸かてな、溜めとけば、お前んとこの風呂の付け木になるがな」
いかにも社長の訓示を真似たような言い草に、小津は笑いを噛みころしながら友人を見たが、平目は糞真面目な顔をしていた。
この時、喫茶店の外で人のざわめきが聞えてきた。窓硝子に日の丸の紙旗をくたびれたように手にした国防婦人会の主婦たちの影が見えた。
「入営やな」
と平目が呟いた。
「あっちでも、こっちでも入営や」
「ああ……」
「いややな。ぼくらもいつかは、ああなるんやろか」
小津は黙ってうなずいたが、彼には自分が兵士になるという実感はまだなかった。彼と平目との境遇はちがっている。徴兵延期を認められた小津のような学生と、そんな特権のない平目とでは大きな開きがもう始まっていた。
「戦争は、終らんのかいな」
「ほかの話をしょ」
小津は久しぶりに会った平目ともっと陽気になりたかった。
「お前のケチの話のほうが、まだ、おもろいワ」
「そやな。社長のテストの話したろか。社長は新入社員を急につかまえて、変なテストするんやで。財布を見ただけでそいつが将来金持になるか、ならんか、すぐわかる言うんや」
「どんなテストや」
人々のざわめきは次第に遠ざかっていった。喫茶店のなかに新しい客が入ってきた。
「ちょと、財布だして見いや」
「財布。俺のか」
「そや」
ズボンのポケットから小津が財布を出すと、平目は眼をショボ、ショボさせて中身を覗いた。
「あかん、あかん」
と彼は真顔で首をふった。
「お前は将来……金持になれへん」
「なぜや」
「十銭が五枚入っとる。五十銭も三枚あるやんか」
「それが……なんであかんのや」
平目は彼に財布を返すと、教えてくれるように静かに答えた。
「社長はいつも、こう言うとんねん。人間、小銭ほど使いやすい。金を細かくくずすとパッパッ使うてしまう。そやさかい、十銭が五枚たまったら五十銭銀貨に変える。五十銭二枚になったら一円札にする。一円、十枚たまったら銀行に入れる。その心掛がない奴は金ができん……たしかにそやで」
「お前はほんまに社長に心酔しとるのやな」
「うん。えらい人や思うワ。徹底しとるもんな。人間、あそこまで徹底すると、味がでてきよる」
小津自身はその社長がどうも金銭亡者のような気がしたが、あえてそれを口に出さなかった。むしろ上級学校に行けない友人が、現在の境遇を不満に思っていないのを見てホッとした気持だった。
「そんならお前、よかったやんか。その会社で働けて」
「そや。ぼくも、そう思うとるねん」
喫茶店を出ようとした時、小津が金を払おうとすると、平目は、
「ぼくに払わせいや」
「そんなことしたら、ケチ精神に反するで」
「今日は例外や。昔、お前には、戎《えびす》さんで串カツ、よう奢ってもろうたがな」
それから紙屑籠のなかに小津が煙草の空箱を捨てようとするのを見とがめて、
「あかんがな。その空箱かて取っておけば役にたつで。無駄なものはこの世にあらへんねんで」
それからまた何ヵ月がたった。砂糖やマッチが切符制になり、飲食店も五時から八時までしか営業を認められず、小津の通うP大学でも教練の時間がふえるなど、戦時体制の色が少しずつ強くなったが、学生生活はまだ学生生活だった。
はじめは馴染みにくかった予科生活も次第に馴れ、小津にもあたらしい友人ができるようになった。そのあたらしい友だちから小津は学校をさぼって誰かの下宿でマージャンをやることや球つきを遊ぶことを教えてもらった。煙草にも喫いなれてきたし、制帽に油をつけて皮のように光らせることも習った。
すると彼の記憶から眼をショボ、ショボとさせた平目の姿が少しずつ消えていった。手紙を書くことも怠るようになり、向うからも便りが途絶えるようになった。
九月の晴れた日、P大学の予科一年生は尼崎のある軍需工場に勤労奉仕に出かけた。二ヵ月に一度ぐらい学生をこのような勤労奉仕に出すことが、この一、二年のP大学の方針になっていたからである。
教練服を着た学生たちは工員に教えられて倉庫から重い資材を半日かつがされた。
「なんで、こんなこと、せなならんのや」
皆は不平たらたらだった。
「こんなこと学生にさせても、国のためになる筈ないやないか」
汗だらけになり、倉庫の埃をたっぷり吸わされたあと、彼等はやっと馴れぬ力仕事から解放された。
解散のあと小津は四、五人の仲間とその一人の下宿でマージャンをやるつもりで電車にのろうとした。
陽のあかるくさした電車に皆とガヤガヤ騒ぎながら入った時、彼は何気なく車内を見まわして思わず息をのんだ。
東愛子が座席の真中に腰かけていたからである。
彼女はすっかり変っていた。それはもう芦屋川の川ぞいの道を鞄をぶらさげて歩いているセーラー服の女学生の姿ではなかった。白っぽい和服を着てパーマを髪にかけ、彼女は、吊皮に手をかけた年とった女と何かを話していた。自分が見られていることも気づかず、彼女は時々、うなずき、時々、愁いをふくんだ眼で窓外をみつめていた。
「どないしてん」
と仲間の一人が小津をつついてたずねた。
「マージャンをやるんやろ。お前」
「うん」
しかし小津の視線は吸いつけられたように東愛子のほうに向けられていた。彼女がこんなに美しくなり、こんなに大人びてしまったことにすっかり仰天してしまったのである。彼の記憶には東愛子はまだ自分たちとそう違わない一人の女学生の筈だった。しかし久しぶりに見た彼女はまるでサナギからかえった蝶のように何から何までが変っているのだ……。
電車が甲東園の駅についた時、付添った老婦人が愛子を促して、棚の風呂敷包みを取った。
二人は小津の存在に気がつかず、そばを通りすぎて出口のほうに進んでいった。
「危のうおますからな」
と老婦人は愛子に何かを注意した。
「転びでも、しやはったら……おなかのやや子に障《さわ》りまっせ」
すると愛子は微笑んで軽くうなずき、そのまま、出口から姿を消した。扉がしまった。
おなかのやや子……今の言葉は小津の耳に残っていた。おなかのやや子……すると彼女はもう結婚したのか。彼は棒で額を叩かれたような気がした。
数日の間、小津はこの事実を平目に知らせるべきか、どうか、迷った。いずれは結婚する愛子だとはわかっていても、現実に人妻となった彼女と出くわした事は彼にさえ、ショックだった。まして平目がそれを知り、しかも彼女が身重であることを聞いたら、平目がどんな気持になるかは明らかだった。
だが、いずれは、わかることである。いずれはわかることなら今のうちに教えたほうがいいとも彼は考えた。
「ところでお前に知らすことがあるのや。びっくりしたら、アカンで。俺は東愛子にこの間、会ったのや。会ったというても向うは気づかへんかったけど……」
そんな文章をまぜた手紙をポストに入れた時、ポストの奥で鈍いコトリという音がした。その鈍いコトリという音はいつか、平目が恋文を同じようにポストに入れた瞬間を小津に思いださせた。
ふしぎに返事はなかなか来なかった。三日たっても四日たっても葉書一枚、平目は送ってこなかった。小津は平目の悲しみが自分にそのまま伝わってくるような気がした。平目のことだから、ただ眼をショボ、ショボとさせて自分の手紙をじっと見つめているにちがいない。その姿がありありとまぶたに浮ぶのである。
(なぜ、俺は……)
その頃、小津はふと考えたものだった。
(あんな奴のことが何時までも気になるんだろう……。俺はもうP大学の学生になったのだし、あいつとは別の人生を歩いているのに……)
にもかかわらず、小津は自分と平目とのつながりが何故か深いことを思わざるをえなかった。たとえば時折は彼のことを忘れ、おたがいの文通が途絶えることがあっても、何かの切っ掛けがふたたび二人を結びあわせるような気がした……。
十日ほど経って、ようやく平目の手紙が来た。安物の茶色い封筒を使った書留便なのが小津を驚かせた。
(何も、書留にしなくてもいいのに……)
封を切ると、なかから十円の為替が出てきた。そして手紙には、
「すんまへんけど、これで彼女に何か買うて持っていってくれや。ぼくがそちらに行く暇を社長がくれへんのや、頼むで、彼女にそうして、安産いのると言うてくれへんか。買うものは赤ちゃんの何かでもええワ。頼むで……」
小津は十円の金額が平目の懸命な貯金から出たものであろうと考えた。あれほどケチに徹して溜めた貯金から引き出したにちがいないと思った。
(阿呆……)
小津はその十円という数字を見ながら平目に言いたかった。
(ええ加減にせんかい。相手はお前のことなど……これっきりも……思ってないんやで。その愛子に……お前が大事に溜めた金をなぜ使うねん……)
しかし彼は罵りながらも、胸の奥がキュッと痛むのを感じ、いつか、芦屋の海で波にもまれながら必死で彼女を追いかけた平目の小さな、黒い頭を思いだした。
「ほんまに世話かける奴ちゃ」
彼は部屋のなかで一人、舌うちした。
「これっきりやど。もうこれっきり、こんな阿呆くさい頼みは聞かへんからな……」
小津はその為替の金額で何を買っていいのか迷った。平目は赤ちゃんの物を手に入れてくれと言っているが、赤ん坊の衣類は切符制になっていて、切符を持っていかねばデパートでも渡してくれない。なにもかもが欠乏しはじめた時だった。
考えあぐねた末、彼は愛子にこの書留便をそのまま手渡そうと思った。たった十円の金額だけど、平目が赤穂でどのようなケチをして貯金したものの一部かをうちあければ、彼女だって、あの男の気持がわかってくれるにちがいない。
土曜日の午後、彼はP大学の悪友たちの誘いを断って、国道電車に乗り芦屋川でおりた。
むかしのように川ぶちの道には人影も少なく、両側には大きな邸や洋館が静まりかえっている。だがそれらの家々のなかには鉄製の門をあたらしい木に変えた邸が目だった。それは兵器をつくるため、どんな鉄でも供出せよという役所の要望によるものだと小津は知っていた。もうひとつ、昔と違っているのは、この道を歩いているのが自分一人だけということだった。
道にはやはり平目とのさまざまな思い出が残っていた。よその中学生たちと喧嘩をした川原も、はじめて愛子と出会った場所も、そして海兵の生徒があらわれた橋も小津の胸に言いようのない感傷を起させた。
彼女の実家の前にたった時、さすがに彼は気がひけたが、思いきってベルを押した。いつかの女中が玄関をあけ、門から顔をだした。
「愛子さんは、こちらにおられますか」
唾をのみこんだ小津の質問に、女中は怪訝そうな顔をした。彼女は彼のことをもう忘れているらしかった。
「どちらさまでしょうか」
小津が自分の姓を言うと、
「あの、お嬢さまは結婚なさいまして……仁川《にがわ》のほうにおられます」
「仁川というと……宝塚の近くですか」
「はい」
彼が住所を教えてほしいと頼むと女中の顔に警戒の表情が走ったが、
「仁川の月見ケ丘でございます」
と教えてくれた。
彼はそれだけ聞くと、頭をさげて大急ぎで歩きだした。うしろから声がかかった。
「あの……長山とおっしゃるお家ですよ」
女中は彼のあわてぶりが可笑しかったのか、うつむいて笑っていた。
(阿呆が……平目の奴)
道を歩きながら小津はひとりでブツブツと呟いた。
(俺にこんな面倒かけやがって。ほんまに照れくさいやんか)
教えられた仁川なら彼も一、二度、行ったことがあった。阪急の今津線にそった駅で芦屋とはちがい、もっと西洋風の家が小さな川ぞいに並んでいる、松林の多い住宅地だった。
(手間をかける奴ちゃなあ……)
彼は自分のではない、平目の恋愛のため――それもむくわれもしない恋愛のため、この土曜の午後をつぶしているのが情けなくなってきた。にもかかわらず、あの眼をショボ、ショボとさせた男が、
「そんなこと言わんと、たのむで」
と何処かから囁いているような気がしてならなかったのである。
夕暮、阪急電車の仁川駅で降りた。小さい駅の前にパン屋と本屋と八百屋の三軒があるだけで、ほかに店は見あたらぬ。芦屋川より、もっと小さな白い川原にそって松林にかこまれた瀟洒《しようしや》な洋館が並んでいる。小津はここに二度しか来たことはないが、そのたびごとに異国の高原の別荘地にでも来たような感じがした。
キムラ屋と書いたパン屋で月見ケ丘の場所をたずねると、
「ああ、長山さんの家でっか」
パン屋の主人は愛子の嫁《とつ》ぎ先を知っていた。
「この道を右にいきまんねん。大きな池がありますさかいな、その池のあたりで訊ねはったらよろし」
教えられた道をしばらく行くと、池がちらほらと林の間にみえた。近づくとかなり大きな池で貸ボートという立札が立っていた。
愛子のあたらしい家は塀のたかい洋館だった。さっきと同じように小津は逃げだしたい衝動を抑えながら、ベルに指を当てた。
玄関の扉があいた。愛子だった。娘々した帯をしめ、髪に黒いリボンをつけていた。
「まあ」
と彼女は小さな驚きの声をあげた。小津はしばらくの間、我を忘れてこの間にくらべてずっと若く見える彼女の顔を眺めていた。
「憶えているわ。灘中におりはった人でしょ」
「すんません」
何と言ってよいのか、わからず、小津はバッタのように幾度も頭をさげた。
「この間、電車であなたを見ましてん。尼崎から年をとった女の人と乗りはった時、同じ車輛におりましてん。それで平目に手紙、書いたら、平目から、これを届けてくれと」
愛子は懸命になって、わけのわからぬ説明をする彼を吹き出しそうな表情で見つめた。
「よく、わかりませんけど、平目って、どなたですの」
「友だち。いつか芦屋の海で溺れた……」
「あら」
彼女は思いだしたのか、クックッと笑って、
「ちょっと、おあがりになります」
「いいえ。はい」
小津は直立不動の姿勢のまま、苦しげな表情で、
「お邪魔でなかったら、五分か十分、よろしいですか」
「どうぞ」
彼女は眼を、少しふせた。玄関で靴をぬぎながら小津は靴下に穴があいていないか心配だった。
「あのオ、五分で失礼しますさかい」
玄関にちかい応接間に白い布をかぶせたソファがいくつか置いてあった。小津には読めぬ文字を書いた掛け軸や、大きな時計が置いてあった。
「ここ……」と彼はおそるおそる訊ねた。「御主人の家ですか」
「主人の両親の家です」
と愛子はひどく真面目な顔をして答えた。主人という言葉が彼女の口から出た時、小津は愛子が急に自分よりもはるかに年上の女のような気になった。
「結婚しはったと、ぼくら知りませんでしてん」
「そう……」
言葉が途切れ、小津は何を言ってよいのか、わからず、ポケットから十円の為替《かわせ》を出した。為替の紙は皺だらけになっていた。
「平目が、これを……届けてくれ、言いましてん。平目は今、会社員ですねん。赤穂にいます」
「なぜですの」
愛子はリボンをつけた頭を傾けて、ふしぎそうにたずねた。
「平目さん……どうして、そんなことをしはるのかしら」
「あいつは……」
と小津は口ごもった。どう説明していいのかわからなかった。
「あなたの赤ちゃんにこれで何か、買《こ》うて持っていってほしいと手紙に書いてきたんですワ。でも、ぼくは何を買うてええのんか、迷うたさかい、為替をそのまま持ってきたんです」
「でも、なぜか……それが合点がいかないわ」
小津は眼をつむって一気に答えた。
「ずっと前、芦屋の海で、あいつようできもせんのに大きな波のなかを泳いだやないですか。平目は……あなたに声をかけたかったさかい、無理したんです。あいつは……もう何年も、あなたにいつか、もろうたガーゼのことが忘れられへんと言うてますねん」
そう言い終ってから彼は眼をあけた。愛子は膝の上に手をそろえたまま、困惑にみちた顔で彼を見つめていた。
「だって……」
彼女はやっと唇をひらいて呟いた。
「わたくし……こんなことして頂いたら困るわ。ほとんど、あなたたちのこと知らないんですもの」
「でも……受けとってやってくれまへんか。これはあいつがどうしても渡してくれと手紙で書いてきたんやから」
彼は彼女の膝の上に為替の紙をおいた。紙はその膝の上から床に滑りおちた。
しばらく沈黙が続き、小津はその床の一点をじっと凝視していた。
「ありがとうございます」
愛子は急にうつむいて、手をのばし、紙をひろいながら呟いた。
「……子供ができたら、何か買わせて頂くわ……」
それから、ふたたび二人は黙った。その静寂に我慢できなくなって、
「赤ちゃん、いつ、生れますねん?」
と小津がたずねると、愛子もホッとしたような笑い顔になり、
「あと半年、まだまだ、先だわ」
「御主人、悦んではるでしょ」
「そりゃ、もう……でも呉にいるでしょ。お産の時も、来てもらえるか、どうかもわかりませんの」
「呉に……」
「海軍の軍人なんです」
いつかの……と言いかけて小津は思わず口を噤んだ。芦屋川の橋のたもとに姿を見せた色の浅黒い海兵の生徒の姿が頭にうかんだ。
「そんなら」
と彼は急に立ちあがった。
「失礼します」
「一寸、待ってくださいませ……」
彼女は応接間から、しばらく姿を消した。
(ちゃんと為替は渡したで。だがもう、こんなこと、二度とせえへんからな)
と彼は心のなかで平目に言いきかせた。
戻ってきた愛子は手に小さな万年筆を一本持っていた。
「あの……これ、平目さんに送ってくださる。何もさしあげるものがありません。この万年筆、わたしが甲南の生徒だった時、上海から父が買ってきてくれたもんですけど」
万年筆は黒く、小さかった。小津はそれをポケットにしまって、うなずいた。
家に戻ると小津はポケットに入れてきた万年筆を箱に入れた。万年筆は彼女の言ったように独逸製だったが、かなり使ったらしく、多少インキの出が悪い。だがそれだけに愛子が女学校の教室や自分の勉強部屋で何年も愛用したものであることは確かだった。
箱に入れる前、この万年筆をもらった時の平目の気持を彼は想像した。そしてまた、平目にこれを与えた愛子の心も考えた。おそらく彼女にとってはもう不用なこの万年筆は、平目のこれからの人生に大事なものとなると彼は思った。
万年筆を送ってから一週間ほど経って平目から例の金釘流で手紙が来た。自分は一生この万年筆を大事に持つやろ、と書いてあった。そして、もう小津にはこれ以上、迷惑をかけへんから許してくれ、とものべてあった。手紙を読み終った小津もこれで友人のためにやるべきことはすべて、やってやったような気持になった。
秋がこうして終った。それなのに小津たちは自分たちの人生に大きな変化を与えるものが今、間近に来ていることにまだ気がつかなかった。
十二月上旬のある朝、彼は母親に叩き起された。
「起きなさい、あんた」
「学校やったら……」
小津は眠むそうな顔を布団から出して、
「午後から顔だすつもりや。もう少し寝かしといて」
「それどころやないがな。アメリカと日本とに戦争がはじまったんやから」
彼は布団からはね起きて、母親のさしだした号外をひったくった。十二月八日未明、太平洋上にて日米が交戦状態に入ったと書いた黒い活字が彼の眼に飛びこんできた。
「うへえ」
と彼は叫んだ。
「やったなあ」
「どうなるんやろ。あんたも兵隊にさせられるのやろか」
母親は不安そうな表情で彼の顔を見た。
「えらいことになってしもうた」
「何を言うとるねん。日本がアメリカをやっつけるんやで」
彼は急いで朝飯をかっこんで家を出た。学校に行けば、もう少し事情がわかるかもしれぬと思ったのである。
梅田の駅では拡声器から軍艦マーチの曲がながれていた。そしてそのマーチのあと、ラジオのニュースを中継して乗客たちを興奮させた。ニュースが終ると期せずして万歳という声が、人々の群れから起った。
学校に行ったが詳しい情報は何もつかめなかった。学生たちの、一番気にかかる徴兵延期廃止についても、まだ何も決っていないようだった。
「いよいよ、日本の精神文化と外国の物質文化が対決する時が来ました」
と哲学の教師までが授業の前に、上ずった声で演説をした。
「近代の超克という問題も、すべてこの戦争に賭けられているかもしれません。今まで、我々のやっていた外国文化は既に行きづまりをみせている時、それに最後の一撃を加えるのが日本の使命だと私は今朝、思いましたね」
小津たちはそんなむつかしい話よりも、次々と入ってくる戦果のほうを知りたがっていた。
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写 真
その日、宿直だった鋭一は病院の前の、うすぎたない中華料理店で夜食をすませると、医局に戻った。
もう皆がすっかり引きあげた部屋のなかに各自の乱雑な机が並んでいた。試験管や書物や薬の空箱の間にウイスキーの空瓶や茶碗が放りだされている。
煙草を口にくわえて火のないのに気づいた鋭一は、誰かの机の上にマッチが置き忘れていないかと見まわした。その時、栗原の机の上にパイプ煙草の罐がおいてあるのに気がついた。
アメリカのパイプ煙草の罐である。紙巻のほかに医局で時折、パイプをくわえている栗原の姿を彼は思いだした。
別に何という気持もなく鋭一はその空罐を手にとってレッテルを眺めた。そして罐の蓋をあけた。
一枚の小さな写真がその罐のなかに放りこんであった。写真は煙草の粉で少しよごれている。
海を背景にして外套を着た女がたっていた。まぶしそうにこちらを見て笑っている。裏をかえすと、稚拙な女文字で、
「下田ドライブの思い出」
と書いてあった。
しばらくの間、鋭一はその写真を見つめていた。
(何処かで……会ったような気がする)
たしかに何処かで会ったような気がする。しかし思いだせない。写真を見た時、井伊佳子かと思ったが、佳子の顔でなかったことが彼をホッとさせた。
鋭一はその写真を一度は戻しかけたあと、ふたたびとり出してポケットに入れた。それから罐を手にとって部屋の灯を消して、空虚な廊下に出た。廊下のずっと端までくると、屑入れのボックスに罐を放りこんだ。
(栗原さんは……明日、罐がなくなっていることに気づくだろうか)
栗原がもし罐がなくなったのに気づいても、別にあわてた素振りをみせなければなかの写真の女はたいした意味がないのだと鋭一は考えた。
この時、彼は別に悪いことをしているという意識はなかった。考え方によっては、それは一寸した悪戯にすぎなかった。写真の女についても、それほどの好奇心も関心もなかった。
だが病棟の階段をのぼり、看護婦室を覗いた時、彼は、
(そうか、あの女は……うちの病院の看護婦じゃないかな)
瞬間、そう思った。
病棟日誌を書きこんでいた若い看護婦に、
「患者に変りのある人はいないね」
「ええ、いません」
廊下の左右の病室からは話声やテレビの音が聞えている。配膳車にアルミの盆が積みかさねてあった。
(これ、どこの科の看護婦さんか知らないか?)
彼はポケットから、さっきの写真をとりだして、何も気づかずに病棟日誌を書いているこの若い看護婦にたずねてみようかと思った。看護婦たちは科がちがっても、寄宿舎でいつも顔をつきあわせている筈だからである。
「じゃあ、ぼくは宿直室にいるから」
思いなおして、彼はポケットから手をだした。
「用があったら連絡してくれたまえ」
別にこれといって異状のない一夜があけた。
鋭一は洗面をすませ、看護婦室に寄って宿直ノートに「変りなし」のサインを書き判を押すと外に出た。そして喫茶店に出かけてモーニング・サービスの珈琲を飲んで医局に戻った。
医局員が次から次へと出勤してくる。
「お早うございます」
先輩たちに鋭一は椅子から腰をあげて挨拶をした。
「昨夜は変りなかったね」
「ええ。ありません」
「今日の予定は」
「明後日の(手術)の医局会議が午後からあります」
栗原はまだ姿を見せてはいなかった。その机の上からパイプ煙草の空罐が消えていることを気づく者は勿論、一人としていなかったし、気づいたとしても、別に何も感じなかったろう。
医局長があらわれて電話をあちこちにかけている。それから彼が忙しそうに部屋を出ていったあと、ようやく栗原が顔を出した。鞄をおいて机の上を整理し、引出しをあけている。空罐が紛失していることに彼が今、気づいたことを鋭一は見のがさなかった。栗原は、一瞬驚いたような顔をして左右をみまわした。
「誰か、ぼくの机の空罐を持っていかなかったかい」
「知らんよ」
一人が気のなさそうな声で返事をすると、
「たしかに……昨日ここにおいたんだが……」
と栗原は首をかしげた。
鋭一はポケットのなかに手を入れた。写真の縁が彼の指に触れた。
(どこの科の看護婦だろう)
もしもこの写真が何でもないものなら、栗原が空罐のことをたずねる筈はないと思った。鋭一はたちあがって部屋を出た。
たしかに何処かで見た看護婦である。ただ外科の看護婦でないことしか、今の彼にはわからない。
廊下を歩いてくる看護婦たちの顔を、彼は通りすぎながら横眼で見た。しかし、それらはあの写真の女ではなかった。
(今井啓子に聞いてみようか)
と彼はその時、不意に考えた。だがやっと関係をたったあの内科病棟の看護婦にもう一度、こんなことを頼むのはさすがに虫がよすぎると鋭一は思った。
病院は今日もまた、いつもと同じような騒がしい一日を始めようとしていた。診察はまだ開始されていなかったが、廊下の長椅子には順番を待つ外来患者がぎっしり腰かけていたし、受付にも小さな列が続いていた。苦しんでいる人間はこの病院では一日として消えることがない。そして鋭一は、たしかにそれらの人間の苦しみを除いてやる医者の一人だった。
「小津先生」
と彼は急に声をかけられた。ふりむくと一ヵ月ほど前に退院した外科病棟にいた患者だった。
「やあ。宇野さん。術後、いかがですか」
「どうにか順調です。今日は久しぶりにレントゲンを撮りにきました」
鋭一は重々しい顔をしてうなずいた。
「手術後三ヵ月は無理しちゃ、いけませんよ」
この一週間、金曜日に肺切除の手術があった。患者は三年前、トラコ(成形手術)をやったのだが空洞がよく潰れていなかったと見え、今年になってシューブ(病勢悪化)を起したために肺切除にふみ切ったのである。
内田医局長が執刀で三人の医局員が助手をやった。鋭一もそれに加わった。
肋膜の癒着《ゆちやく》が烈しく、それを剥がすのに手間どる手術だった。十時からはじめて、四時ちかくまで手術は続けられた。縫合が終り、手術後看護婦がストレッチャーにまだ麻酔からさめていない患者を廊下に運びだした時、鋭一たちはドッと体のつかれを感じた。
入浴して、医局に戻り、患者の家族が届けてきたビールで咽喉をうるおしていると、医局長が部屋に入ってきて、
「経過は順調のようだ。はじめから肺切に踏み切っていたら良かったのに、前の病院でいじくりまわしたから、手数がかかって、かなわん」
と自分のコップにビールを注いで一気にのみほした。
「しかし、あの患者は気管支瘻になる怖れがあったようですよ」
と席に腰かけたまま、誰かが言った。気管支瘻とは気管支が結核に犯されている時、肺切除の手術を行うと起りやすい失敗で、この事態が生じると手当がむつかしくなる。そんな場合は肺切除より、胸郭成形という古い手術方法を行うのが常識になっていた。
「だから、化学療法で気管支結核を充分、叩けばいいんだ。薬のうまい使い方を知らんから、再発という結果になったんじゃないか。だが、手術はクリーン・カットだよ」
内田医局長は得意そうに皆をみまわし、
「じゃ、ぼくは、帰らせてもらいましょうか」
と机の上を片づけはじめて、
「小津君も、戻っていいぞ」
もちろん、小津は帰るつもりだった。手術担当者は患者の主治医のほかは、帰宅してもいいことになっている。
「そうさせて、頂きます」
「何だか嬉しそうな顔をしているじゃないか。デートかね」
鋭一は苦笑して鞄のなかに本を入れた。井伊佳子とこの間、ゴルフ練習場で約束したデートが今日であると、彼は昨日から心に言いきかせていたのである。
食事をして何処に行こうか、と彼は考えた。喫茶店で話すのも、もう芸がないと思う。映画はこの青年医師にはほとんど興味がなかった。
(電話で彼女に相談してみよう)
病院の玄関の赤電話の前までくると、彼はいつまでも受話器を握っている中年の男のそばで辛抱づよく待ちつづけた。
その電話がようやく空いて、暗記しているダイヤルをまわすと、佳子自身の声で、
「井伊でございます」
という応答が心地よく耳を伝わってきた。
「小津です……」そう言ってから「約束の日ですよ」
彼は自分でもだらしないと思うほど、浮き浮きした調子で、
「何処でお待ちしましょうか」
「それが駄目なの……ごめんなさい」
当惑したように彼女は答えた。
「駄目? なにか急用ですか」
「父が……栗原さんと栗原さんのお父さまと四人で食事をしようとどうしても言うもんですから……」
鋭一はこの時、心の底から、あの大きな顔と体との栗原を憎んだ。
鋭一は栗原に憎しみを感じた。
昨日から、いやもうこの一週間――苦心して取りつけた佳子との約束を、突如、横合いから奪った栗原を憎いと思った。
(それも……奴の父親が製薬会社の社長だから、出来るんだ)
井伊教授と栗原の父とは、今日それぞれの息子と娘とをまじえて食事をすると言う。食事の場所がどこかは知らないが、そこで交される会話の内容はほぼ想像がつく。新設するこの大学の癌センターの研究費援助の話や、その代り栗原の父の製薬会社で作る抗癌剤の追試を井伊教授が引きうけること。そんな話に触れたあと、ひょっとすると、栗原と佳子との結婚話も持ち出されるかもしれない。
そこまで鋭一は想像して、妬《ねた》ましさに手を握りしめた。佳子を取られるという妬ましさではなかった。父親をバックにして出世できる男にたいする、バックのない人間の嫉妬だった。
(俺だって……)
俺だって、もし親爺が有能な人物だったならば、こんなみじめな思いを噛みしめなくてすんだだろう。
(俺だって……あんたのように、出世したい。しかし、こっちは何から何まで独力でやらなくちゃならないんだ)
彼は栗原の肥った体、細い眼を思いだしながら心のなかで叫んだ。彼はその時、何故か、その栗原のそばに、田原の萎《しお》れた姿を並べてまぶたに甦らせた。
(何も、井伊佳子だけが女じゃないだろう)
と鋭一は自分に言いきかせた。
(いつかは、あの娘を手に入れてやるが……)
彼はそれが栗原にたいする最も痛烈な復讐だと思った。だが痛烈な復讐は時には鋭一自身の立場を損ねることも知っていた。もっと別の、ひそかな、隠微な復讐だって、ある筈だ。
内線電話の受話器をもう一度、手にとって彼は交換台を呼んだ。
「内科病棟の看護婦室をお願いします」
それから彼は洋服のポケットを探った。ポケットにはまだ、あの写真が入っていた。その縁を指でいじりながら、
「看護婦室ですか。今井さん、おねがいします」
と声を変えて頼んだ。
「しばらくだね」
一瞬、今井啓子が息をのむのが鋭一に感じられた。
「久しぶりで、体があいたから……食事でも一緒にしないかい」
まだ相手は黙っていた。黙って鋭一の心理を計っている感じだった。
「忙しければ仕方ないが……今日、オペ(手術)がうまく運んでね、浮き浮きしているもんだから……どうする、来る?」
「伺い……ます」
啓子が小声で答えると、鋭一は、
「じゃ、六本木で待とうか。いつかの喫茶店。五時に交代なんだろ。六時なら大丈夫だろ」
おいかぶせるように一方的に言うと受話器を切った。
(井伊佳子だけが女じゃないさ)
彼はもう一度、心のなかで繰りかえした。
(それから栗原さん、ぼくだけが悪いんでもないんですよ。ぼくにこうさせたのは、むしろあなたなんだから……)
約束の六時に六本木の喫茶店に今井啓子は姿をあらわした。強張《こわば》った表情で入口に立ったまま、鋭一を見つめ、それから席に腰かけたが黙っていた。
「久しぶりだな」
鋭一はからかうようにニヤニヤ笑いながら、
「とに角、ここはすぐ、出ようよ。ぼくは腹ペコなんだ。今日の手術はクリーン・カットだったけど、肋膜を剥がすのにクタクタにくたびれたよ」
運ばれてきた紅茶に啓子がほとんど手をつけないうちに、せわしく鋭一は立ちあがっていた。流行の服を身にまとった若い男女が歩く歩道に出た時、空に淡い夕焼け雲が見えた。もし、このデートが佳子とのものだったらと口惜しかった。
正直言って自分と今、肩を並べている今井啓子が嫌《いや》だった。時折、彼女がまだ恋人気取りに体をすりよせるようにするたびに、白けた。不快なものが胸の底からこみあげるのを感じた。一分でも早く、このデートを終らせたいと考えると、彼は今更のように啓子を誘いだした自分の迂闊《うかつ》さをくやんだ。
小さな寿司屋で彼は酒をのみ、啓子は箸を動かした。
「本当は後悔してるんでしょ」
ものを言わぬ彼の心を看護婦は敏感に察したのか、
「わたしを誘ったのを……」
当り前さと心のなかで呟きながら、しかし相変らずニヤニヤと笑った鋭一は、
「しつこいな。さっきから同じことばかり聞いて……」
「そんなら、なぜ、この間、電話を切ったんです」
「何度も言ってるだろ。自宅に電話かけられるのは困るんだよ。妹だって……お袋だって聞き耳をたててるんだから」
「昔は、そうじゃ、なかったのに。嘘よ。わかってるわ」
彼は寿司屋の親父のほうに視線を走らせた。親父は何も聞かなかったように包丁を動かしている。
「わかっているなら、何故、今日、ここに来たんだい」
看護婦は黙り、湯呑みを両手でかかえた。それから急に、
「わたし……田舎で縁談があるんです」
「ほう」
彼は急に眼をかがやかせて、
「結構じゃないか。見合いはもう、すませたの。相手はどんな人」
「ガソリン・スタンドを経営している人です」
「いい人なら、結婚すべきだね」
「先生が、そうおっしゃると思っていたわ」
湯呑みをじっと見つめて啓子は呟いた。
「これで、助かった、と思ってるんでしょ。でも、そうはいかないわ……」
「なぜさ」
「先生にだけ、いい目はさせないわ。わたし先生につきまとってやるから」
彼は笑おうとしたが、笑えなかった。こいつは本気で言っていると思った。
「出ようか」
たちあがり、勘定書を手にしながら鋭一は自分にまた邪魔がひとつ、ふえたと思った。栗原とこの女。この二人が自分の現在にとって厚い壁となっているのだ。
食事をすませたあと、外で空車と赤い標示をつけたタクシーを停めた。
「原宿に」
鋭一は運転手にそう教えて腕をくんだ。原宿の小さな温泉マークに鋭一は数度、啓子を連れていったことがある。だから、原宿に、と言えば今、彼女は何をするか百も承知な筈だった。
しかし、今井啓子は黙ったまま、なにも逆らわなかった。
(井伊佳子が今日、デートを断らねば、俺はこの女と原宿なぞ、行かなかったろう)
鋭一は窓からネオンや商店の灯をぼんやり眺めながら考えた。たぶん俺は佳子を抱けないから、この啓子と寝るのだろう。
「なにか言って。黙っていられるのはイヤ」
啓子は運転手に聞えぬように囁いて、彼の左手を握ろうとした。いつまでも、あなたにつきまとうわ、という彼女のさっきの脅迫を思いだして、鋭一はその手を払いのけた。
外苑をぬけ、原宿の大通りに出て、横道にそれた。小さな旅館の手前に車をとめたが、鋭一は料金を支払うと、何時もそうするように一人でさっさと旅館の門のなかに姿をかくした。啓子はレインコートの襟で顔をかくすようにして、彼のあとを離れてついてきた。
女中に案内されて部屋に通されたあと、彼はまずい茶を一口、飲み、
「風呂にはいれよ」
とあごで小さな浴室をさした。
「いいんですか」
啓子は皮肉なうす笑いを唇のあたりに浮べた。
「わたしと、また、こんなことを繰りかえして」
「どういう意味だね。そりゃ」
「先生、わたしから離れたいんでしょ……」
「離れるも、離れないもないさ。そんな風に思っているなら何故、ついてきたんだね。それが君を傷つけるのなら、今、俺たちここをすぐ出たっていいんだぜ」
鋭一は煙草をくわえて開きなおった。
「ぼくはこんなこと、別に深刻に考えていないね。男と女とが一緒に食事をしたり映画を見たりするのと同じだと思っているんだ。うちの病院の若い医者と看護婦で、幾組も楽しみあっている連中がいるじゃないか」
「そんな人と、わたしは違うんです」
「馬鹿だな。何も自分だけ区別する必要はないよ。皆、やっているんだぜ。たとえばぼくの医局の栗原さんだって……」
それから彼はポケットに手を入れて、|あの写真《ヽヽヽヽ》を、茶のこぼれた机の上に放りだした。
「このプレ(看護婦)さんと楽しんでいるんだ」
啓子はその写真を好奇心のこもった眼で覗きこんだ。
「あら、島田さんだわ」
「どこの科のプレさんだい」
「耳鼻科……」言いかけて啓子は急に顔をあげた。「どうして、先生がこんな写真、持っていらっしゃるんです」
鋭一は煙草の煙を口から吐きだして、何げない調子で答えた。
「栗原さんに借りた本のなかに入っていたんだよ。もっとも医局の連中、みんな同じようなものさ。ぼくにはわからんよ。君だけが一人、クソまじめな考え方をするのが……」
一時間後――
遠くで電車の音がかすかに聞えた。鋭一は来た時と同じように旅館の玄関から先に出て、闇の裏通りをタクシーの走っている通りまで先に歩いた。情事の時はそれほどではなかったが、すべてが終ると、啓子がそばにいることさえうとましかった。彼女に傍らで息をされていることまでが何故か腹がたつくらいだった。
(でも損はしなかったさ)
と彼は自分のうしろから歩いてくる啓子の跫音《あしおと》を聞きながら、
(こいつを言いふくめられたからな。やはり、女に話をわからせるためには、まず寝てやることだ……)
彼はさっき啓子を抱きながらその耳に言い聞かせた言葉を思い出した。
車をひろってから彼はあまり口をきかなかった。原宿の駅までくると、
「じゃあ」
そう言って千円札を彼女にわたし、
「ぼくは電車で帰るから……君、寄宿舎までこの金で戻ってくれよ」
うしろから彼女が何か声をかけたが、返事をせずに彼は駅の方に向った。
(島田伸江か……耳鼻科の看護婦の……)
彼は忘れぬため、駅の構内でその名を手帳に書きとめた。この名をどのように使うかは、まだ考えはまとまっていなかったが、しかし、とも角も栗原の秘密を手に握ったことはたしかなのである。
ホームの時計が十一時を指していた。もう井伊佳子は父親と一緒に帰宅しているだろうと思う。栗原ももちろん家に戻ったであろう。
二人がそれぞれの父親にかこまれて、どんなうちとけた話をしたか、鋭一は考えただけで妬《ねた》ましさを憶えた。おそらく赤坂か、柳橋の立派な料亭で食事をしたのだろう。まぶしい灯の下で、酒をくみかわしている四人の姿が見えるようである。鋭一はホームに滑りこんでくる電車の音をききながら、たった今、自分が出た旅館の暗い灯や、雨戸をしめた部屋を甦らせた。
家に戻ると門の前にカローラが停っていた。近所の町医者の車で、鋭一は見憶えがある。
(お袋が病気になったのか……)
玄関をあけると、ちょうどその医者が靴をはいているところで、母親と妹とが礼をのべていた顔をあげて、
「あら」
と叫んだ。
「父さんが、また具合わるくて、先生に来て頂いたの」
「なに」
その医者は一寸、照れて、
「お宅にはちゃんとしたドクターがおられるんだから、私が伺う必要はないんだがね」
「で、親爺が、どうしました」
鋭一の質問に医者は小声で、
「一寸、ブルート(血)を吐かれたようで。もちろんマーゲン(胃)からでしょうな。一応、応急の措置はしておきましたが、あんたの病院でレントゲンはとられたほうがいい」
「この間も一度、吐いたことがありまして、ぼくが診察したのですが」
「大したことはないと思いますよ」
医者は鋭一の母と妹に一寸、眼をやって、
「胃潰瘍の初期ぐらいかもしれませんが」
「わかりました」
鋭一は礼を言った。
「いずれにしろ近日中に、ぼくの病院に連れて行きます」
五日ほどして小津は息子の病院をたずねていった。レントゲンの撮影をしてもらうためである。
息子の勤務している病院はこれまで幾度か足を運んだことがある。しかし診察をしてもらうのはこれが始めてだった。
こみあった病院の玄関から医局に電話をかけて知らせると、鋭一はすぐ迎えにきてくれた。父親にかわって自分で手続きをすべてすませてくれてから、
「すぐレントゲンを撮ってもらいます」
「内科の先生の御診察を受けなくてもいいのかね」
父親の問いに鋭一はいらだったような表情をして、
「ぼくだって、ここの病院の医者です。言う通りにしてくださいよ」
と答えた。
外来患者の待っている廊下を歩きながら、時折、頭を軽くさげる診察着の息子を見て、小津は満足感と嬉しさとを味わった。何かにつけて考え方のちがう鋭一だが、彼は彼なりにまたあの人々の役にたつ仕事をしているのだ、と思った。
「満員だねえ。どこの科も」
と小津が言うと、鋭一は何をとりちがえたのか、
「父さんの順番は早くするように頼んであります」
「お前も立ちあってくれるのか」
「そのつもりですけど」
赤ランプのついたレントゲン撮影室の前にも五、六人の客がうなだれて腰かけていた。
「なんならわたしは順番を待ってもいいんだが……」
「しかし、ぼくが忙しいんです。早く入ってください」
暗い部屋のなかに野球のキャッチャーのようなプロテクターをつけた男が二人、立っている。
「田津先生、わたしの父親です」
と鋭一は小津を紹介した。
「息子がいつもお世話になっております」
小津は撮影機械の間で体をかがめて挨拶をした。
上半身、裸になってレントゲン台に立たされた。鋭一が白い液体の入ったコップと、豆粒のように小さな錠剤をのせた紙を父親にわたして、
「父さん。田津先生が合図されたら、飲んでください」
と命じた。
「一口、飲んで」
液体はいやな甘味があってトロリとしていた。田津医師が小津の肋骨の下を指で押しながら、
「もう一口。そして息をとめて」
と言った。
何回か、その液体を眼をつむって飲んだ。息子と医師とが独逸語の術語をつかって何か囁きあっている。
「台が倒れますから、そのまま楽な姿勢で仰向けになってください」
自分は癌ではないかという疑いがその時、小津の頭をかすめた。
「息をとめて。もう一枚、写真をとります」
癌なら癌でもいい。自分はもう随分、生きた。本当はあの戦争の時、死んでいたかも知れない体だと小津は思う。あの平目のように。平目があの時、死んだように……。
「終りましたよ」
田津医師の声にレントゲン台をおりた小津は籠に入れた下着に手をかけながら、
「やはり……悪いでしょうか」
「御心配は特にいらんでしょうな。昔、十二指腸を患《わずら》われた痕跡がありますし、胃炎を起されていますが……悪性のものの心配はありません」
ホッとした気分と同時に自分はまだ今後も生き続けねばならぬのだという憂鬱な重い気分が胸を走った。
鋭一と暗かったレントゲン室を出ると、小津はさっき飲まされた白い液体の痕をハンカチで唇からふきとって、
「有難う」
と息子に礼を言った。
「おかげで安心したよ」
「薬はあとでぼくが薬局からもらっておきます。今日は会社に行っても昼食はうどんぐらいにしてください。酒は当分、いけませんよ」
「わかった」
小津は息子を頼もしく思いながら、
「お前は今からどうする」
「外科病棟に行きます。ぼくの受持病室のあるところです」
「見てもいいかね」
恥ずかしそうに突然そう言った父親に鋭一はうす笑いをうかべた。
「いいですよ、しかし病室は覗かないでください」
息子が毎日、どんな病棟で働いているのか、小津は知らなかった。第一、鋭一自身がそんなことを帰宅しても決して口に出さない。だが今日、折角、この病院に来た以上、一寸でも彼の患者たちのいる病棟を見たい気がする。
長い廊下をわたり、エレベーターにのり、時々、鋭一から、
「ここがラジウム放射をして治療する部屋です」
とか、
「あの部屋で病院全部の患者の尿や血液や分泌物を全部、精密に検査するんです」
という説明をうけながら、小津は、うん、うん、とうなずいた。
外は陽がさしているが、両側が病室になっている外科病棟の廊下は暗かった。
「ここにいつもいるのかね」
「いや。平生いるのは医局です」
「静かだな」
「ええ。いつもこんなものです」
診察着のポケットに手を入れて鋭一は面倒くさそうに、
「じゃ、ぼくは患者を診てきますから」
父親をそこに残して、病室の一つに姿を消した。
小津はしばらく、その廊下の入口に立っていた。掃除のおばさんがモップでその廊下を掃除している。
向うのエレベーターの扉があいて、ストレッチャーに腰かけたガウン姿の女性が看護婦と出てきた。一瞬、その横顔をちらっと見た小津は、彼女を何処かで見たような気がした。
(東愛子に似ている)
だが三十年ちかく前に彼が最後に会った愛子はもっと若かった。そして愛子がこの病院に入院している筈はなかった。
病人は看護婦と一緒に廊下の右側の部屋に消えた。小津は眼をふせて、そばの階段をおりた。
父親と廊下で別れたあと、二人の受持患者をまわった鋭一は、長山愛子の病室に顔をだした。
「今、検査が終ったばかりです」
看護婦がストレッチャーを廊下に押し出しながら、
「二度ほど、気分が悪くなられました」
「検査って、何の検査」
「肝臓の組織検査です」
「ぼくは聞いてなかったがな……」
「でも栗原先生の指示が昨日ありました」
鋭一は黙って患者のそばに寄った。検査中気分がわるくなったとみえ、病人の顔色も唇も蒼白だった。
「大変だったですか」
と彼が小声でたずねると、
「ええ」
まだ検査の疲れが残っているとみえ、愛子は物憂げに答えた。
「いつも言う通り検査のあとは熱が出るかもしれませんが心配はいりません」
「で、結果はどうなんでしょう」
「まだ栗原先生に伺っていませんが……肝臓のほうにも支障がないか調べたんだと思いますよ。手術をもしするとなれば、肝臓にひびかぬよう考えておかねばなりませんし」
「じゃあ……」
と愛子はためらったが、
「手術になるんでしょうか」
「そのほうがサッパリしますよ。悪いところを切りとっちゃうんだから」
鋭一は微笑をたたえながら嘘をついた。おそらくこの患者は開腹の真似事だけをしてすぐ縫合してしまうだろう。癌細胞はもう、あちこちと転移しているにちがいない、というのが先日の医局会議での皆の一致した意見だったから。
患者には胃潰瘍の手術だといって、手術をする、そして予想通り、手のつけられぬ転移だと一部だけを切りとって縫合する。あとは抗癌剤とラジウム放射とそれから痛みをとめるための注射と点滴。やがて再発し、患者は息を引きとる。
「手術のあと、どのくらいで退院できます?」
「そうですね」
鋭一は首を一寸かしげてみせ、
「二ヵ月かな。順調ならば一ヵ月半」
「そんなに長く……」
と愛子は驚いた表情をした。
「術後のほうが、むしろ大切なのですよ」
「色々な事情がございまして……早く退院しないと……」
鋭一は聞かないふりをした。一ヵ月半、二ヵ月という言葉を口にしたのは嘘ではなかったが、半年もしないうちにこの女性はまた再入院してくるかもしれないのだ。
「今日は検査がありましたから、診察はやめましょう。あとで解熱剤を出しておきますから……万一の時は飲んでください」
この患者は既に血液検査で肝臓も悪くなっていることが判明していたのだが、栗原はなぜ、今日、肝臓の一部を切りとる組織検査までやったのだろう。
彼は看護婦室から医局に電話をかけた。
「ああ。検査したよ。君には何も言わなかったけれど……」
「なぜでしょうか」
「うん」栗原は答えた。「それは内田医局長から君に話があると思うけれどね」
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戦 争
昭和十七年はあわただしい年だった。年のはじめ、マニラを占領した日本はビルマにも兵を送り、シンガポールに入城した。バタビヤもラングーンもいつの間にか日本のものになっていた。
次から次へと知らされる戦勝のニュースに街がわきたち、夜になると提灯行列があちこちで行われた。もっとも、ヨーロッパでは同盟国の独逸が対ソ戦線で足ぶみをしていたが、国民は勝利を信じて疑わなかったのである。
だが日常生活は急速に不便になった。二年前、三年前のまだそれほど不自由なく、物が手に入れられた頃を考えると、すべて夢のように思われるくらい、店屋から品物が姿を消した。「欲しがりません勝つまでは」という妙な看板が三宮や梅田に大きく立てられた。
小津のP大学では時局に順応して軍事教練と勤労奉仕の時間をふやし、一週のうち二回の軍事教練をとらねば進級できぬという教務課の指示が生徒に通達された。
教室では何かこうした動きを苦々しげな顔でみる教師と、積極的にそれを支持する教師との二派が小津たちの心を不安にさせた。小津たちはこの戦争が早く終ればいいという感情と、米国にも実力をみせる日本軍のすさまじさに圧倒された気分とを二つながら味わっていた。まだ学生たちの徴兵延期は認められていたから、兵役につかなくてもいい安心感はあったが、情勢の変化では、この特典がとりあげられるかもしれぬ。その不安感も学生の間には漂っていたのである。
六月の霧雨のふった日、学校から戻ると、
「あんた、すぐ、平目さんに電話しなさい」
玄関に出た母親が顔をみるなり叫んだ。
「どないしたんや」
「兵隊にとられたんだって」
「誰が? 平目が」
「そうやがな。さっき赤穂から電話があってねえ」
靴を蹴とばすようにしてぬぐと、彼は大急ぎで電話のある茶の間に駆けていった。赤穂に申込みをすませ、ベルが鳴る間、小津はまるで自分に来るものがきたように、落ちつかなかった。
ようやく赤穂との電話連絡がとれて、平目の声が、
「もしもし」
と聞えると、小津は、
「おい。えらいことに……」
と言って絶句した。
「うん。今夜、神戸に戻るワ。お袋や姉貴に合わんならんさかい」
意外と平目の声は落ちついていた。昔と同じように眠たげだった。眼をショボ、ショボとさせて受話器を握っている魚のような顔が見えるようだった。
「何処に入隊すんねん」
「加古川の部隊やがな」
「今夜、何時に着く。迎えにいく」
一寸、沈黙したあと平目は、
「いや。いつの汽車になるか、わからへんさかい。明日、ぼくから連絡するで」
小津は何と言ってよいのか、わからなかった。入営する人には普通、おめでとうと言うのが習わしだが、そんな心にもない言葉をとても口に出せなかった。
(あいつは、徴兵延期の特典がないさかい)
と彼は申しわけのないような気がして、
「そんなら、必ず、電話くれや」
そう言って受話器を切った。あの体で兵隊のきびしい生活ができるのか、いや、あいつは要領がいいから大丈夫だろうと彼は次々と色々なことを考えた。
翌日の夜、小津は平目の送別会に呼ばれた。
平目の家のすぐそばにある小料理屋に酒や食べものを持ちこんだ集りだったが、それでも十数人の客がやってきた。客のなかには町内会会長や在郷軍人会の代表、それに勤めさきの社長と同僚もまじっていた。平目の母親と姉とが隅で小さく畏《かしこま》り、小津もその横に坐った。
「時局、ますます多難の折、わが町内の平目君が入営されることは欣快に耐えません」
町内会会長の挨拶は牛の尿のように長ったらしかった。まるで自分が総理大臣になったように時局を解説し、訓辞を与え、一同の決意を促した。その挨拶がすむと、次に町内在郷軍人会の代表が、これも陸軍大臣気どりの、同じような言葉をならべたてた。
小津は足の痺《しび》れを我慢しながら、時折、神妙な顔をしている平目を窺った。挨拶を聞いているのか、聞いていないのかわからぬが、相変らず眼をショボ、ショボとさせたその表情を見ると、小津は灘中時代の午後の眠たい教室のことを思いだした。
挨拶がすみ、平目の姉が皆に酒をついでまわると、
「それでは平目くんの入営を祝うて……」
と乾杯の音頭をとったのは社長だった。
キンカン頭の、重戦車のように四角い体をしたその顔を眺めて、これが平目の私淑しているケチの社長かと小津は思った。
酒がまわると座が乱れはじめた。
「わたしの兵隊の頃は」
と大声で町内会の会長が言った。
「ちょうど前の欧州大戦の時でしてん。わしは出征はせなんだが……しかし兵隊でもろうた金を手をつけなんどいて、兵営を出た日に役にたてましてん」
「ほう、何に……」
会長は相手の耳に何かを囁いて大声で笑った。
右、左からもらった杯の酒ですっかり酔っている平目に、
「当分、酒も甘いもんも、食えんで……今日、うんとつめとけや」
と社長が向う側から声をかけた。
「お前が入営している間の月給は、うちでちゃんと貯金しとくさかい、安心して御奉公せえや」
「へい」
「見どころのある青年でしてな」
社長は皆に聞えるように大声で、
「うちは新入りの者は殊更にきびしゅう仕付けますが、よう言うこと聞いてくれました」
ねむそうな眼をして平目は小津の顔をみた。社長がほめると、彼は小津にだけわかるようにペロリと舌を出した。
(こいつは、兵隊になっても要領よくやるだろう)
と小津はうなずきながら思った。
平目が便所にたった時、小津はそっと、あとを追って廊下に出た。
「おい。大丈夫かいな」
「ああ。ねむいワ」
「あまり飲んだら、あかんど。入営に差支えるさかいな」
突然、平目は小津の手を握って、
「しっかり勉強せえや」
と言った。小津は照れくさくなり、
「なに、言うとるねん」
「ぼく、あの万年筆は持っていくさかい、もし、偶然、あの人に会うことがあったら、そう言うてんか」
「うん」
小津はうなずいた。
昨夜、皆が送別の字を書いた日の丸の旗をたすき掛けにした平目は翌朝、国防婦人会の女や近所の人たちに送られ阪神電車の駅まで向った。
行列のうしろから小津も従いながら、いつか二人で三宮の喫茶店にいた時、これと同じような風景を見たことを思いだした。
(俺もいつか、こんな風に入営する日がくるんや)
そう考えると、今までまだ遠いもののように思われていた兵営や戦場のイメージが急に眼の前に迫ってきた。
「万歳」
「平目君、万歳」
国防婦人会の主婦たちのエプロン姿にかこまれて、平目は丸坊主の頭を右、左にさげていた。やがて電車が滑りこんで、乗客たちの視線のなかを彼は伯父や母親や姉と一緒に乗りこんだ。そして車輛の扉がしまった。
一ヵ月たっても二ヵ月たっても彼から便りはなかった。加古川の部隊に新兵として入営した平目にはおそらく手紙など書く暇のないほど忙しい毎日が続いているにちがいなかった。
小津のほうも教練と勤労奉仕とが週に二度はある毎日が続いた。はじめは華々しかった戦局も六月のミッドウェイ海戦を契機にして怪しくなっていった。大本営は相変らず、景気のいい戦果を報道していたが、八月に米国がガダルカナルに上陸した頃から日本が敗けだしたという噂が誰からともなく語られるようになった。
年の暮、やっと平目から一通の葉書が舞いこんだ。検閲ずみという判が押してあった、その裏には、あの金釘流の文字で自分は朝鮮にいて元気で軍務に励んでいるから安心してください。君にもらった万年筆でこの葉書を書いていますという言葉がのべられてあった。
平目が朝鮮に送られたと知って小津は驚いた。いつ出発したのか、また朝鮮の何処にいるのか書くことは禁じられているらしく一行もしるされていない。だがその葉書を手に持ちながら、小津はいつか写真でみた朝鮮の禿山だらけの風景を思いだした。
「君にもらった万年筆でこの葉書を書いています」その最後の言葉で、平目が何を伝えたいのかもよくわかった。
(あいつは……まだ……)
彼はこの言葉をできるなら、愛子に知らせてやりたかった。しかし、彼女に変な誤解をまねくかもしれぬと思いなおした。
翌年になると、もうP大学予科では授業らしい授業もある期間だけやり、そのほかはぶっつづけで学年毎に尼崎や神戸の軍需工場で働くことに決った。
食べるものもひどく欠乏しはじめた。小津たちがまわされた工場では飛行機の部品を作っていたが材料が欠乏しているのか、動いていない機械も一つの工場には何台かあった。昼には学生たちは持参した大豆入りの弁当を仲間にかくすようにして食べる。小津はまだ家庭があったから幾分ましな弁当を持ってきたが、下宿をしている者は小さなおむすびを一、二個、口にすればそれでおしまいだったからである。
午後三時になると当番が白い湯のような雑炊をバケツで配給した。それでもその雑炊を断る者はいなかった。
(戦争はいつ終るやろか)
口にこそ出して言わなかったが、誰もがそれをぼんやりと考えていた。
(早う終らんと、俺たちも入営することになる)
しかし暗い戦局はいつまでもいつまでも続くような気がした……。
そのあと、しばらくして平目から手紙が来たのを小津は憶えている。
彼が送った慰問袋が手に届いたという礼状で、なかに写真が入っていた。
写真には十人ほどの兵隊が二列に並んでいて、平目はその後列にぼんやり立っていた。ぼんやり立っているという表現は妙だが、小津はその写真を見た時、そんな感じがたしかにしたのである。
ほかの兵隊たちは笑ったり、肩を組みあったりしていた。よく見るとそれらの兵隊は襟章に二つ星、三つ星がついていて一等兵から上等兵であることがわかった。平目ともう一人の兵隊だけが初年兵の一つ星をつけていた。
平目の顔はむくんでいるように見えた。そのむくんでいるような顔から彼が疲れ果てているのではないかと小津は思った。
初年兵が軍隊でどのような扱いを受けるかは小津だって人に聞かされていた。体格の貧弱な平目が内務班でどんなに要領よく立ちまわったにせよ、どんなに他人よりも疲労が残るかを、このむくんだ顔がよく物語っていた。
「自分も元気で軍務に精励しているので御安心ください」
この手紙の言葉だって、決して平目の本心から出たものとは思われなかった。おそらく検閲をパスするために彼はそんな書き方をしたにちがいない。
(なあ、ほんまのところを、わかってくれや)
手紙の行間から友人の訴えが聞えるような気がした。それらの文字を平目は今度もあの愛子の万年筆で書いていた。
戦争はいよいよ、泥沼に足を入れた形になってきた。ヨーロッパでは伊太利に連合軍が上陸して、宰相のムッソリーニが解任され、遂に降伏してしまった。日本のほうも、軍部や新聞の発表だけは相変らず景気がよかったが、米国が防衛から攻勢に転じたことは、誰の目にも明らかだった。
夏休みが終った二学期のはじめ、小津たちの怖れていたことが遂にやってきた。大学や大学予科の文科系の学生の徴兵猶予の特典が撤廃されたのである。
「君たちが遂に立ちあがる時が来た。間もなくこの学園を去って戦場に赴く時、君たちはP大学の学生であった誇りを忘れないでもらいたい」
運動場に予科生を集めて学生課長がそんな演説を声をはりあげてやった。しかし皆はそれどころではなかった。入営するのは学生課長や教師ではなく、自分たちだった。
小津は徴兵検査を受けるために本籍地の鳥取県の倉吉に出かけた。
彼の父親の生れた村から村役場の老人が二人、ついてきた。小学校の講堂でふんどし一枚の若者たちにまじり、彼も次々と検査をうけながら、いつか平目の海兵一次試験に付添った日のことを思いだした。
性病と痔の検査の時は、ふんどしを取って犬のように四つ這いにさせられた。
彼は自分が第一乙という判定をうけるだろうと考えた。左右にいる田舎の若者たちはいずれも堂々たる体格をしていたからである。
だが、判定を受ける時、直立不動をした彼に、
「甲種合格」
と検査官は大きな声で言った。
「おめでとうございます」
付添ってきた村役場の老人たちが嬉しそうに挨拶をした。
小津は自分が入営した日のことをまだ、はっきりと憶えている。
兵舎の黒い屋根にたくさんの鳩がならんでクル、クルと鳴いていた。営庭にはそれぞれ出身県を書いた立札がたって、そこに小津たち入営者は四列縦隊に並べられた。
「今から、自分の所属する班の名を教える。教えられた者はすぐに班長の前に整列せよ」
班がきまると、班長に引率された小津たちははじめて兵舎に入った。兵舎に入る時、また屋根に群がっていた鳩のクル、クルという鳴声が聞えた。
(平目も俺と同じように)と小津はその時、想った。(こんな鳩の鳴き声を聞いたのだろうか)
油と体臭とのこもった内務班の部屋には真中に長いテーブルがあり、両側に藁布団を敷いたベッドが並んでいた。
「俺がお前たちの班長、内田である」
と陽に焼けた軍曹が両手をうしろに組んで話しはじめた。
「班長はお前たちの母親であるから、何ごとも俺に相談するがいい」
この時、そばにいた背の高い兵長が突然、気合をいれた。
「おい。お前らのなかに班長殿のお話を伺うのに気をつけの姿勢も取らん奴がいる。俺たちはな、お前らのように大学は出とらんが、目上の方にどういう姿勢をとるかは、入営前から知っておったぞ。軍隊ではすべて上官殿の命令や訓話をうかがう時には、不動の姿勢をとらねばいかん」
内田軍曹が面倒くさそうに紋切型の話を終えると、そのあと兵長が引きとって、
「今からお前らに軍服を支給する。シャバの服はすぐたたんで自分たちの手箱の横におけ。着装が終ったら営庭に出て銃剣受領式を行う」
夜は御馳走が出た。もう世間では滅多に手に入らない赤飯や豚のシチュウのほかに羊羹まで一本、そえてあった。だが、
(初日だけは待遇がいい。だが翌日からはガラリとちがう)
小津たちは先輩からそう聞かされていた。だから、それらの馳走も気楽な気持で咽喉《のど》には入らなかった。
「食事がすんだら、各人、それぞれ故郷に向って頭をさげろ」
班長は皆にしんみりと言った。
「それで、シャバとの縁が切れたと思え」
その夜、藁布団の上ではじめて眼をつむった時、長く、悲しい消灯ラッパが遠くから聞えてきた。
新兵さんは 可愛いやね――
また寝て 泣くのかよオ――
油の臭い、汗の臭い、内務班の臭い、ラッパの音を聞きながら、小津はいつか受けとった写真の、軍服を着た平目の顔を心に甦らせた。
(あいつは、もう、ずっと前から毎夜、このラッパの音をきいていたんだ……)
すると彼のまぶたの裏に芦屋川の白い川ぞいの路が浮んだ。その路をセーラー服を着た東愛子が友だちと歩いていた。彼女たちはたちどまって時々、何か笑いあっていた。
(眠らなくちゃ、いけない)
彼は懸命に、その思い出を――もう今の彼には手の届かない思い出を、まぶたの裏から追い払おうとした……。
怖れていた通り、入営初日の何処となく作ったような雰囲気は二日目からガラリと変った。一秒の暇もないくらい、小津たち初年兵は走りまわされ、働かされ、怒鳴られ、なぐられた。休めるのは便所のなかと、そしてあの物悲しい消灯ラッパが鳴ったあとだけだった。
一日としてなぐられぬ日はなかった。訓練の間になぐられ、内務班に戻れば戻るでなぐられた。班長はお前たちの母親であると最初の日に軍曹はそう言ったが、彼は自分が直接手をくださぬかわりに、伍長や上等兵が初年兵に私的制裁を加えているのを、藁布団の上から見ている母親だった。
「俺たちアな、大学もでていないし、学問もない連中だワ。しかし大学はでておらんでも、お前たちのような怠けた、ふてえ真似はしなかったぞ」
というのが古参兵たちが小津たち学徒兵をなぐる時、必ず口にする口上だった。そして初年兵が、箸や洗濯物を盗まれて途方にくれて、班長に相談すると、
「さア。どうすればいいか、俺ア、大学を出ていないから知らねえな」
と軍曹までがそっぽをむいた。
初年兵たちには、たがいがかばい合うこともできなかった。誰かを助けるだけの余裕もなかった。そしてそのうち、小津たちまでが学生時代に語りあった友情とか、犠牲を実践しようとする気持を無くしていった。ヘマをすれば自分だけではなく、内務班の初年兵を二列に並ばせ、長い説教のあと、たがいに向きあわせて、それぞれの相手をなぐることもさせられた。
この時になって小津はやっと気がついた。いつか朝鮮から送ってきた平目のムクんだような顔の写真。あの顔はムクんだためだけではなかった。なぐられて、はれあがっていたのだ。
(そうか。平目も、毎日、やられているのか)
彼は同じ内務班にいる東京の大学にいた山本という男をみてそうわかった。
山本はみなよりも体力がないのか、朝の駆け足から、すぐアゴを出した。皆が走っているうしろから、大きく喘《あえ》ぐようにしてついてくるが、次第にその距離が大きくなる。
「なんだ。貴様は」
と班長はやっと遅れて、たどりついた山本の頬を張りとばして、
「そんなことで戦争ができるか、お前だけもう一度、一周してみろ」
と怒鳴りつける。そのため山本は皆よりももっと走らねばならなかった。
ある日、真夜中、小津たちは内務班の出口のあたりで烈しい怒鳴り声をきいた。
「お前は、報告もせずに便所に行ったのか」
自分が悪うございましたと、山本が必死であやまっている声が聞えた。そのあと彼が突き倒される物音がした。
「なんや。どうしたんや」
と班長が上靴をひっかけて出口に出ていった。
「そうか。俺から、よう、言いきかせとくさかい、任せてや」
交渉がなりたったのか、物音はようやく消えた。
ただではすまないと毛布に顎を埋めながら小津たちは思っていた。
果たせるかな、その翌日、山本は古参兵二人に、歯が二本、折れるまで制裁を受けた。顔はザクロのようにふくれあがっていた。
入営してから四ヵ月目頃から、兵営では外地にやられるという噂が拡がりはじめた。
そしてその噂の通り、ある夜、小津たちは完全武装のまま列車で運ばれ、輸送船に乗せられた。敵の潜水艦に狙われることを防ぐため、出発日も行先も外部には洩らしてはならず、家族との面会もなく、不意うちに出発させられたのである。
船は黒い海を上下にゆれながら動いていた。おまけにつめたい雨も降っていた。船艙には兵士の体臭とペンキの臭いとが充満していた。
丸窓にかしいで見える海。それを眺めながら小津はうとうとと眠った。眠りのなかで灘中のグラウンドや住吉川の白い川原が出てきた。
「ターナーはねえ」
と明暗先生が教室を歩きまわりながら呟いた。
「ターナーはねえ。偉い人でねえ」
それから平目が数学の先生の前で眼をショボ、ショボとさせながら立たされていた。
「なんや。この答案は。お前はこの試験の問題に、何と答えたか、言うてみい」
当惑している平目に先生は大声をあげて、
「言うてみんか」
「へい」
「へい、じゃない。お前、答として何と書いた」
「そんなら言います。ぼくは……こう書きましてん。その通り。全くその通り、ぼくもそう思う」
教室中、爆笑が起った。その笑い声で小津は眼をさました。
にぶいエンジンの音。丸窓には相変らず海が上下している。ねむっている古参兵たち。小津はふたたび目をつむった。
海。入道雲が湧いていた。平目と小津はその芦屋の海で泳いでいた。夏休みのあの解放された気分で、彼等は水をかけあい、もぐり、口から塩水を吐きだした。
「小便したらあかんで」
と平目がいった。
「泳ぎながら屁をこいたこと、あるか」
「あらへんワ」
「屁こいてみいや。ロケットと同じやがな。ポン、ポン、ポンというて、早う泳げるで」
失われたすべてのもの。少年時代のそれらの思い出はもう思い出ではなくて、彼には永遠に手の届かぬ別世界のように思われた。
「お前も同じ思いやろうか」
と小津はまぶたに浮ぶ平目に話しかけた。
「そや」
と平目は哀しそうに答えた。
「仕方あらへん。辛抱せいや」
「お前、要領よく、やっとるのか」
「あかんねん。それが。毎日、なぐられてばっかしや」
「俺もやで。でも頑張らなアカンで。生きて戻ろうな」
「それが……自信ないねん。生きて戻れるか……どうか」
なぜ、平目はそう答えたのだろう。眼をあけてそれが夢だと気がついたあとも、小津の頭には、今、みた友人の哀しそうな表情がまだ、はっきりと残っていた。顔だけでなく、その声も耳のなかに残っていた。
「自信ないねん。生きて戻れるか……どうか」
小津たちが上陸させられたのは意外にも大連だった。あとでわかったのだが陸軍は関東軍の精鋭の一部を南方に注ぎこむため、小津たち学徒兵をその補充として満州に送りこんだのである。
雨のふる大連|埠頭《ふとう》に横づけになった輸送船から上陸した小津たちは、はじめてみる異郷の風景に眼をみはった。石炭が山のように積まれた埠頭には満人の苦力《クーリー》たちが大きな袋を背負って働いていた。それを日本の憲兵が監視している。
隊列をくんで大連の市中に入った。死にたえたような日本の街とはちがって、ここではアカシヤの並木も青々として、ならんだ建物も西洋風に清潔だった。
部隊はここで三つに編成しなおされた。一つは旅順、大連に駐屯し、あとの二つは北満の国境警備に当るのである。
小津は心ひそかに、旅順、大連に残ることを願っていたが、幸運にも隊は彼のねがい通り大連に留まることになった。
だがここでの訓練は一段ときびしかった。関東軍精鋭の古参兵たちは、ひよわな学徒兵を待ちかまえたように、しぼりあげたからである。
小津はもう平目のことをそれほど考えないようになっていた。きびしい訓練と内務班の生活ではそんな昔の感傷に浸る余裕さえなかった。学徒兵は兵士としての訓練に耐えるだけではなく、夜は夜でひそかに幹部候補生になる準備もしなければならなかった。
二ヵ月ほどして、ようやく日本からの手紙が小津たちの手に入った。
母からの手紙だった。小さな字で、父や知人の模様を書きながら、本当は別のところに言いたいことをかくしているような手紙だった。だが小津はその手紙の二枚目をめくって愕然とした。
「それから、平目さんが戦病死されたことを昨日、知りました。向うの姉さんから電話がかかってきたのです。まだ詳しい事情はよくわかりません。どんなに、びっくりするだろうと思い、このことを書こうか、書くまいかと迷いましたが、やはり長い間の友だちのことですから思いきって書くことにしました。あなたもどうぞ、どうぞ体だけは気をつけて、お国のために御奉公してください。これは……」
内務班の暗い電気の下で小津は何度もこの箇所を読みかえした。
あまりに突然のことなので彼には何の実感も湧かなかった。実感を湧かすために手紙を読みかえし、読みかえしているような気がした。
(平目が? ……死んだ?)
衝撃とか、驚愕という気持はなかった。すべてがこの暗い時代の暗い運命に押しながされていく。自分もまたその一人なのかもしれぬ。
「おい、小津」
と隣りにいた上等兵がたずねた。
「手紙をみてションボリしとるが、何か、あったんか」
「はい。小津の友人が戦病死したという知らせがありました」
「そうか」と上等兵はいつになく優しい声を出した。「まア、気を落すな。人間一度は死ぬもんや」
小津は厠に行ってまいりますと言って、廊下に出た。ここでは一人泣く場も便所しかない兵営だった。その便所のなかで彼ははじめて泪《なみだ》をながした……。
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実 験
長山愛子の肝臓再検査について、栗原は自分では答えない。答えないだけではなく、医局長から話があるだろうとふしぎな言い方をした。
(何だろう)
鋭一はいぶかしい気持で医局に戻った。
医局には誰もいなかった。さっき電話口に出た栗原までが姿を消していて、掃除のゆき届いていない窓硝子から埃っぽい昼の光が机や書物やビーカーにあたっている。
椅子の一つに腰をおろして鋭一は、父親のための処方箋を自分で書いた。
電話がなった。くわえ煙草のまま受話器をとりあげると内田医局長の声が、
「ああ、君か。栗原君から聞いたろう。今、医局には誰もいないか。それなら都合がいいから待っていてくれないか」
医局長を待っている間、胸の奥でかすかな不安を感じながら鋭一は指先から立ちのぼる煙草の煙を眺めていた。
その時、彼は出口のそばにぶらさがっている小さな黒板に一枚の絵葉書が鋲でとめてあるのに気がついた。
田原からの葉書だった。宛名は外科医局の皆々様になっていた。
「当地に参って半月以上になります。はじめは馴れぬことばかりで戸惑いましたが、ようやく腰をすえた気分になりました。今ではここに参ったことに満足さえしております。そして自分はやはり、こうした土地の医療に恵まれない患者のために尽すことが使命だったのだと思うようになりました。病院時代は本当にお世話になり……」
鋭一はあの田原の風采のあがらぬ姿を思いだした。あの男はもう二度とこの医局に呼び戻されることはないだろう。出世の街道からそれて何処かに去ってしまったのだ。あの時は田原に同情していた若い同僚たちも今はもう彼のことを話題にもしない。やがて忘れられていく男……。
(ひょっとすると……)
鋭一は突然、胸に痛みを感じた。
(医局長の話というのは……この俺も田原のように何処かに追いだすことじゃなかろうか……)
指先に小さくなった煙草を薬の空罐のなかに放りこんで、頭にうかんだ不吉な想念を追い払おうとした時、内田医局長がそっと入ってきた。
「待たせたね。いや、厚生省の役人は頭がかたくて話にならん。この間、一緒にゴルフをした時は了解したようなことを口にしておいて、今になって引っくりかえすんだから」
鋭一にはわからぬことを一人で愚痴ったあと、
「まア……腰かけたまえ。ところで今日、長山という患者に肝臓の組織検査をさせたのは……」
それから言葉を切って彼は入口のほうをチラッと見た。
「実はね、これは井伊教授と私と栗原君としか知らぬことだから、当分、医局の誰にも黙っていてくれたまえよ」
「はい」
「この間、井伊教授と栗原君のお父上とが会食した時、うちの癌センターについて色々と話が出たんだが、向うさんから、自分のほうで研究している新しい抗癌剤を追試してほしいという申込みがあったわけだ。かなりの効力が実験段階では期待できるんだが、ただ肝臓に影響を与えるのが難でね」
鋭一は思いだした。この間、佳子が父親と一緒に栗原親子と食事をすると言っていたが、この話はきっと、その時、出たにちがいないのだ。
「でねえ、その制癌剤を長山さんというあの患者にテストしてみようと思うんだ」
医局長は上眼使いにチラッと鋭一をみて、
「率直にいって、君もわかっているだろうが、長山さんはもう手遅れだし。実は君が担当している肺癌の田島さん――うん、重役の人だが――も考えてみたんだが、あの人は既に肝臓をかなりやられているだろう」
それから内田医局長は腕時計に眼を走らせた。
「まあ、話はこういうわけだ。君に黙って彼女の肝臓組織を検査させたのは悪かったが了解してくれたまえ。もしこの新薬が効力あるものなら、うちの外科で学会発表をしようと思う。その時は栗原君と君とにやってもらうつもりだよ。栗原君のお父上も研究費を充分出すつもりだと言っておられるし……」
彼は椅子から立ちあがり、
「とに角、当分、秘密だよ。わかったね」
「承知しております」
と鋭一は頭をさげて、部屋を出る医局長を見送った。
(そうか。そういうことだったのか)
彼は医局の主流派に遂に自分も加えられたことに悦びを感じた。もし、そうでなければ医局長がこのような秘密をまだ若い自分にうちあける筈はないのだ。
「この新薬が効力あるものなら、うちの外科で学会発表をしようと思う。その時は栗原君と君とにやってもらうつもりだよ」
耳の奥にはまだ内田医局長のこの声が残っている。鋭一は黒板や映写幕をうしろにして、新薬の追試データをのべている自分の姿を思い描いた。
その時、彼は黒板の田原の絵葉書に何気なく眼をやった。そして田原が哀しそうな顔で自分に訴えているような気がした。
(それほどまでして、君は出世したいのかい)
鋭一はせせら笑おうとした。田原の哀しい顔は更に、
(君のやろうとしていることはあの効きもしないベチオンを使うのと違いはないよ)
(ベチオンベオチンの時と事情が違うさ。この試薬は文字通り、新薬なんだから)
(しかし、一種の人体実験じゃないか)
(人体実験を願わない医者がどこにいる。あたらしい手術、あたらしい薬を人体で試してみなければ、医学の進歩はないさ)
(しかし、患者がその実験の犠牲になったら、どうするんだね)
田原はじっと彼を見つめた。その顔を追い払うように鋭一は黒板の絵葉書をもぎとって、屑籠に捨てて呟いた。
(君は、臆病なのさ。君みたいな男が医者である限り、医学は進歩しないよ)
その夜、家に戻ると茶の間で夕刊を読んでいた父親が上機嫌に、
「お帰り。今朝は御苦労さんだった。御飯はすんだのか」
とたずねた。
「すましてきました」
鋭一も平生とはちがって愛想のいい顔を父親に向けた。今日、内田医局長に言われた言葉が彼の心を晴れやかにさせていたのである。
「薬です」
鋭一は鞄から父親の薬を出して、
「食後三十分に飲んでください」
そう言ってたちあがろうとする彼を、
「まア、いいじゃないか。お茶でもつきあいなさい」
と父親は引きとめた。
台所にいた母親と妹とが出てきた。
「お父さんは今日、あんたの病棟まで見にいったんだって」
母親は急須をかたむけながら、
「さっきから、その話ばっかりよ」
「親馬鹿なんだから」
妹は舌をだして笑った。
「いや、鋭一も病院のなかでは偉いもんだよ。廊下を一緒に歩いている時、患者さんの一人がお前に世話になった、と礼を言ったろう」
「ああ。あの人はぼくの病棟で肺切除の手術をうけたんでね」
鋭一がこんなになごやかに家族と話をするのは何年ぶりだったろう。高校生の時はまだ、こういう風に皆で茶の間に集まって家族団欒をしたこともあったのだ、と小津は思った。
「しかし医者はいい仕事だな。お前も嬉しいだろう。苦しんでいる人がお前の手で治るのを見るのは……」
鋭一は少し顔をしかめた。親爺はすべての物事を甘く感傷的に考える。これが親爺の世代のやりきれぬヒューマニズムという奴だ。
「ぼく一人の手で病気が治るんじゃありませんよ。そんな時代はもう過ぎました。医学はもっと組織的なもんです」
「だが、治った患者の悦びは昔も今も変りないさ」
「でしょうね。しかし、患者は次々と出てくるんです。ぼくらはそんなセンチな気持に浸っている余裕はありませんね。映画やテレビに出てくるような医者とはちがうんですから」
小津は何かを言いかけたが口をつぐんだ。折角の夜をいつものように息子と言い争いをするのは嫌だった。
「そりゃ、そうと。今日、お前の病棟を覗いている時、エレベーターから看護婦に車椅子を押されて女の患者さんが出てきた。ひどく、顔色が悪かった」
話題を小津がかえると、鋭一の少し険しくなった顔も元に戻って、
「ああ。今日、検査をうけた患者だな。近く手術を受けるんです」
「お前の担当なのか」
「そうです。ぼく一人が主治医ではないけど。長山愛子という未亡人でね。御主人を戦争でなくしたとか言っていました」
鋭一は父親が自分の顔をじっと直視しているのに気づいた。
「どうかしたのですか」
「その患者さんの名は……何と言った」
「患者の名? 長山愛子だけど。知っているんですか」
「いや」
と小津は首をふった。
もう間違いはなかった。たしかに彼女だった。だが今朝、廊下の遠くで見た彼女はあまりに、やつれていた。芦屋の海で泳いでいた少女の頃のあの人。それから今日の姿を思いうかべることはできなかった。
「その人」
と母親は鋭一にたずねた。
「なんの病気」
「うん。癌だよ。胃の」
「胃癌なら、治るんでしょう」
と妹が横から口をはさんだ。
「初期ならばね。粘膜に見つかった時なら大丈夫だが、転移しちゃア、むつかしいな」
「その長山さんって人、転移しているの」
「ああ」
「手術じゃ、うまく行かないの」
「開けて見なくちゃ、わからんさ」
鋭一はもう、この話題に興味はないようだった。茶碗の茶を飲み、父親が読みおわった夕刊を手にとって母親に、
「風呂は」
「おはいり。ぬるければガスをつけるから」
立ちあがって部屋を出ていこうとする彼に小津は突然、
「お前、その人を治してくれ」
と声をかけた。
鋭一はびっくりしたようにふりむいた。
「治してやりなさい」
「父さん。治る癌と、どうしても手のつけられぬ癌があるんだよ。医者には開腹してみねば、わからないんだ」
息子が二階にのぼり、また二階からおりて風呂場の硝子戸をあける音がした。
「あなた」
と妻が上眼使いに夫を見ながら訊ねた。
「その方を……御存知なんですか」
「なぜ」
「いえ。別に。急にそんな気がしたから……」
小津は黙ってテレビをひねった。テレビの画面のなかで歌手が職業的な笑いをうかべて歌っていた。
平目が彼女をまたよんだのだ、と彼は思った。もう生涯に二度とあうことのないと思っていた愛子が、また姿をあらわしたのは平目があの世から、そうさせたのかもしれないと考えた。だがなんのために。なんのためだろう。
「この歌、あたし好きなんだ」
と娘の由美が画面を見つめながら呟いた。
「レコード、買ってこようかしら」
「あなた。薬のみますか」
と妻がコップに水を入れて持ってきた。
「食後三十分と鋭一は言っていましたよ」
舌に残った薬は苦い味がした。彼は更に水を飲みこんだ。
もし平目が生きていたら、自分の今と同じように家族にかこまれて、テレビを見、何げない会話をかわしていたろうか。
だが、あの時、自分と同じ年齢で戦死した奴。戦病死した奴にはそういう人生は遂に与えられなかった。そして生き残った者は幸福だろうか。
数日後の午後、病院の会議室で医局長と栗原と鋭一との三人は一人の男の来るのを待っていた。男は栗原の父親の製薬会社から今度の新薬について説明する研究員だった。
「で、長山愛子さんの手術は来週にやることにしたいと思いますが……」
と椅子の背をつかんで栗原は医局長に、
「術後、この新薬の効力を見るために五日前ぐらいから一応五‐FUとマイトマイシンの投薬をやめておきたいと思います」
「そうだね」
と内田医局長は耳の穴に小指を入れてうなずいた。
「そういうことについては君たちに任せるよ。君たち二人で相談してやってくれよ。しかし、遅いね。四時という約束だろ」
「はア。もう向うは出たと言っていましたが、車が混んでいるのかもしれません」
「だろうね」
「井伊先生はお出にならないのですか」
と鋭一がたずねると、医局長は苦笑して、
「また厚生省さ。つかまってねえ。ところで栗原君。君、井伊先生のお嬢さんとゴルフに行ったんだって」
「はア」
栗原は大きな顔を一寸、赤らめて鋭一をチラッと見ながら、
「お頼まれしたもんですから。コースにお供しました」
「はじめてなんだろ。コースは。お嬢さん」
「ええ。練習所では大分、おやりのようですが」
「どうだい。スジは」
「悪くないと思いますね」
医局長はたちあがって、両手を前にだし、フォームの形を栗原にみせた。
少しよごれた会議室の窓から夕方の弱い光がさしこみ、大きな机と椅子とに影をつくっていた。
鋭一は強張った顔をそちらに向けながら、佳子が栗原と前よりも一層、親しく交際していることに嫉妬と怒りの気持が烈しく起るのを抑えようとしていた。
(やはり……二人はいずれ婚約するつもりなのかもしれん)
しかし、そうは簡単にはさせないぞと彼は心のなかで呟いた。一枚の写真が俺の引出しに入っている。その写真の島田という看護婦と栗原がどのような関係にあったか、佳子が知らされれば、婚約はうまく運ぶ筈はない。だが、いつ、どのような方法で彼女にこのことを知らせるかだ……。
扉があいた。汗を額にうかべて髪の少し薄くなった男が鞄を片手に頭をさげた。製薬会社の研究員だった。
「遅くなりまして。路がひどく混雑したもんだから」
「そうだろうと思っていました」
医局長は愛想のいい笑顔を彼に向けて、
「まアまア、どうぞ腰かけてください」
椅子につくと研究員はせわしく書類とスライドとを机の上に出した。
「今度の新薬は先生がたもよく御存知のアドリアマイシンDを更に発展させたものでありますが」
と彼は説明しはじめた。
「アドリアマイシンにあります脱毛、口内炎、白血球減少の副作用がない代りに……」
しばらくしてから男は映写機をいじりながら説明しはじめた。
「これは動物を使っての我々のテストでございますが……」
二週間後、三週間後、そして一ヵ月後と次々と腫瘍の変化をみせながら、
「したがって我々としてはアドリアマイシンや、五‐FU、あるいはZ四八二八よりもこの新薬のほうが有効と考えております」
「新薬の名はもう、つけられたのですか」
「いいえ。まだです。もっとも我々は研究所ではブレリアマイシンという名で呼んでいますが」
「ブレオマイシンとアドリアマイシンとの名を足して割ったようなものだな」
と内田医局長は笑ったが、相手は真面目な顔をして、
「しかし癌の発育を阻止する点でも、動物実験の段階では五‐FUよりも、効力がございます」
「だが人体ではどうだろう」
「問題は肝臓に及ぼす作用でして……」
あかりをつけて研究所の所員はふたたびハンカチで額の汗をふいた。
それから一時間ちかく質疑応答が続き、
「やはりMMCとFUと併用して使ったほうがいいらしいな」
と医局長は栗原の顔をみた。抗癌剤は単独で使うより併用したほうが効力があるというのが医局長の持論だった。
「しかし併用ですと、この新薬の効果が曖昧になりませんか」
と栗原は首をふり、
「一応、長山さんにはこの薬を単独使用してみたいと思います」
そう言ったのは、もし併用使用だと学会で報告した場合、この薬だけのデータにはならぬからである。
さきほどまで会議室にさしこんでいた午後の弱い陽もすっかり窓まで退いてしまった。
「それじゃ、終りにしよう」
医局長は右手で肩をトントンと叩きながら、
「お宅の研究報告書をもう一度、詳しく我々で検討してみます」
鋭一は立ちあがって、帰り支度をした研究員のため、会議室の扉をあけた。
「君たち、どうする。どこかで一杯、やっていかないか」
と医局長は誘ったが、栗原は、
「いや、今日は早く帰らねばならぬ事がありまして」
と頭をさげた。
「デートかい」
「いや、そんな……」
「いいじゃないか、かくさなくても」
三人は連れだって廊下に出た。人影のない廊下の端までくると、
「じゃ、これで」
と栗原はもう一度、医局長に挨拶をした。診察着を着た大きなその体が外科病棟に向う通路に去っていくのを医局長は見ながら、
「あいつは、デートだよ。デートにちがいない」
と一寸、舌を出してみせた。
エレベーターをおりると鋭一は自分もまだ用があるからと言って医局に戻った。
彼はさきほどから栗原を尾行してみたい衝動を抑えていた。医局長の言うように栗原が佳子と会うにちがいないと彼も思っていたからである。
医局の受話器をとりあげ外科病棟の看護婦室に電話してみた。
「もしもし、栗原先生、そちらに寄られたかい」
すると看護婦の無邪気な声で、
「たった今、お帰りになりました」
「そうか」
鋭一は鞄を手に持ち、医局の灯を消した。それから足早に埃っぽい廊下を通りぬけ玄関に向った。
彼は自分から五十メートルほど先に栗原がゆっくりと大玄関を出るのを見つけた。自分と同じ鞄を持って少しうつむき加減に歩いている。
鋭一は足をとめた。栗原が病院の前のバス停留所に立ったからである。
(まずいな)
と思った。栗原は自分がバスではなく電車に乗ることを知っている。同じバスの停留所に並べば、ふしぎに思うだろう。
(なぜ、そんなことを、する)
鋭一は我と我が心に言いきかせた。
(栗原が佳子と出会うのを見て、お前はただ、苦しむだけじゃないか)
苦しむことは承知している。もし、佳子が栗原に嬉しそうな表情や笑顔を見せたら、自分の自尊心はどれほど傷つくだろう。だが、それを知りながら、やはり二人を尾行したいこの気持はなぜだろう。
一度はバスの停留所にたった栗原は、急にまた歩きだした。駅前のタクシー乗り場に向っている。
タクシーに乗り込む彼の姿を窺ってから鋭一はすぐ足を早めた。
「あれを、追いかけてくれないか」
彼はタクシーの扉があくと運転手にそう言った。
「忘れものですか」
運転手がたずねた。
「なにが」
「前の車の人が何か忘れものをしたんですか」
「ああ」
車は青山の方向にむかっている。おそらく青山の洒落たレストランで二人して食事でもするのだろうかと鋭一は思った。すると、そういう店をあまり知らぬ我が身が急にみすぼらしくわびしく感じられ、嫉妬が胸に疼《うず》いた。
だが栗原をのせたタクシーは神宮外苑のなかに右折し、銀杏の並木の通りを真直ぐに走っている。
「停めてくれ」
と鋭一は運転手に声をかけた。
「停めるんですか」
彼は金を払ってから、並木路を散歩しているふりをして、これも同じように絵画館ちかくに停車した栗原のタクシーを窺った。
停車したが栗原はおりてこない。そのかわり、絵画館の石段のそばに立っていた一人の女が足早に車にちかづいた。
佳子ではない。
佳子ではないその女を乗せるとタクシーはふたたび原宿の方に向けて走りだしていった。
(佳子ではないとすると……あれは島田だったろうか)
よくわからない。しかしこの尾行で栗原が佳子以外の女性とも交際している場面を目撃できたことに鋭一は満足した。
看護婦室に手術予定日と患者の名を白墨で書いた黒板がぶらさげてあるが、その翌日、長山愛子の名もそこに記入された。
手術がきまると、患者も忙しくなる。心臓の検査や肺活量のテストがあらためて行われ、更に綜合研究所で耳から血液をとる。
これは血液型を検査するだけではなくて、出血した血液の凝固時間を調べるのだ。耳から流れ出る血を、それがとまるまで長い紙につける。
長山愛子の場合、綜合試験室からまわされた報告では、心臓にやや難はあるにしても体力的に手術は可能だということだった。
「先生」
手術四日前、鋭一が彼女の病室を訪れると愛子はベッドに上半身を起して手紙を書いていたが、彼を認めるとレターペーパーや万年筆を片づけて、
「お薬が中止になりましたけど」
とふしぎそうな顔をした。
「ああ」
と鋭一はさりげない表情でうなずき、
「あたらしい薬を使うんです。それで、今までの薬を一度、やめたのです」
「あたらしいお薬ですか」
「ええ。手術のあとから使用するのです。栗原先生からお話がありませんでしたか」
愛子は首をふったが、薬が切りかえられたことについて別に疑惑も感じていないようだった。
「手術のあとは、お水が飲みたいんですってね」
と彼女は微笑しながらたずねた。
「みな、そう言いますね。しかし、みんな我慢できたんですから、あなたも我慢できますよ」
「いいえ、そんなことは心配しておりません」
「不安ですか……手術が」
「でも戦争中のことを考えれば。辛いことにはあの頃、随分、馴れましたから。手術など別に何とも思っていません」
病室のなかには植木鉢の数がふえていた。花が好きらしく、彼女がそれに水をかけてやっている姿を鋭一はたびたび見た。
「手術の時はご家族が来られますか」
「私は夫も子供もいませんから」
と彼女はまた微笑した。
「でも親しい友だちが来てくれます」
「ああ、そうか。御主人は戦争でおなくなりになったんでしたね」
「ええ。海軍で戦死いたしました」
それからずっと一人でいられたのですか、と言いかけて鋭一は口を噤《つぐ》んだ。
「あの……」
と彼女は訴えるような表情をして、
「手術前、三時間ほど外出してはいけませんでしょうか」
「外出? 大事な時だからなア。風邪でもひかれると困るんですよ。大事な御用事ですか」
「手術の前に主人のお墓を掃除しておきたいと思いまして」
鋭一は少し驚いて彼女の顔を眺めた。手術前に死んだ主人の墓を掃除する? 彼にとって、そんな行為は無駄で意味ないことに思えるのである。
手術日の朝が来た。
長山愛子の病室では看護婦が彼女に軽い催眠剤をのませ、注射をうった。
「起きちゃ、いけませんよ。飲んだあとで、自分ではシッカリしているつもりでも、起きて転んだ患者がいますからね」
毛布を顎にまで引きあげながら愛子は笑顔でうなずいた。手術だからと言って別に不安を感じている気配もなく、
「眠うなった?」
と枕元に付添ってきた彼女の二人の友だちが顔を覗きこむと、
「いいえ、まだまだ」
と彼女は苦笑したまま眼をパチパチとさせ、
「昨日、おかしかったわ。若い麻酔科の先生が来られて、診察してくださったんだけど……」
「ええ」
「お酒はどのくらい召上りますかと真面目な顔で訊ねるの」
「お酒のみには麻酔はききにくいんやて」
「じゃ、わたしは」と愛子はうなずいて「すぐ麻酔にかかる筈やけど……まだ、らしいわ」
「これ、麻酔じゃないんでしょう。本格的なのは手術室でやるんやないかしら。ぐっすり眠れた?」
「眠れたわ。それが……甲南の女学校の頃の夢を見たの」
愛子は二人の友だちとあの女学校の頃のことを話しだした。
「国道電車って古ぼけた電車があったでしょう。灘中の男の子たちと一緒で。あの子たち汗臭かったわねえ」
「今頃はあの連中もどうしているかしら。みんな、それぞれ女房、子持になっているんでしょうけど」
「あの連中って、よくうしろから尾行して来たわ」
「そうやったわね。そのくせ、よう話しかけもできへんかったのよ」
「それで、こちらが声をかけるともう真赤《まつか》になってね。物も言えへんの。純情やったのね。あの頃の中学生は」
「今の中学生とはくらべものにならへんわ。うちの子供なんか、親がいても平気でガール・フレンドと長電話しているもんね」
「少し、眠くなってきたわ」
愛子が眼をつぶると二人の友だちは窓のそばに立って空を見あげた。曇った日で、遠くから車やトラックの走る騒音がかすかに聞えてきた。
「御主人のお墓まいりに行けなかったのが残念だったと言っていたわ」
と一人の友だちがもう一人の女性に囁いた。
「病院の規則ずくめも嫌なものねえ。そのくらいは許してあげたっていいのに」
「本当よ」
廊下で足音がきこえた。さきほどの看護婦がもう一人の同僚をつれて、車輪のついた寝台を運んできたのである。
「さア。長山さん。手術室に行きましょう」
と看護婦は愛子の枕元にたって、
「楽にしてください。そのまま、こちらに移しますからね」
愛子は友だちたちに笑いかけて、
「行ってくるわ」
「頑張ってね。わたしたち、病室で待っていてあげるから、何か、することない?」
「ないわ」
と言いかけて、仰向けになったまま彼女は床にならべた花の鉢に眼をやった。
「じゃ、あの花に水をやっておいてくださる?」
手術場には水のながれる音がした。水は床の埃と患者の血をたえず洗い落すためのものである。ブルーの手術着に大きなマスクをした看護婦の硝子のテーブルに並べるメスやピンセットが鋭い音をたてている。
さきほど麻酔担当の医者が愛子にこう言った。
「心配はいりませんよ。すぐ眠れますからね。眼がさめた時は手術はもう終っています」
そして彼が数を数えるように愛子に命ずると、
「一つ、二つ、三つ」
弱い、けだるい声で彼女は呟いたが、すぐ深い眠りに落ちてしまった。
手術場にはふたたび静寂が戻った。無影灯の光を反射する水のながれがその静寂をかえって深める。
執刀医の内田医局長と手術助手の栗原と鋭一とが姿をみせたのはそれから十分の後で、ゴムの前掛けの上に白衣を着込みサンダルをはいた彼等は、看護婦から消毒した手袋をはめてもらうと、眠っている患者のそばに一列に並んだ。
「では、今から」
と医局長はひくい声で、
「手術をはじめます。用意はできたか」
「血圧計、イルリガトール、すべて完了」と鋭一は応じた。
看護婦はヨードチンキを浸した綿をピンセットでつまむと、それを愛子の体にしずかにぬっていった。
「メス」
さしだされた電気メスを手袋をはめた右手でつかむと内田医局長は少し前かがみになった。ジュウッという音が聞えた。白い脂肪の線がぱあっと浮き出たようになり、瞬間、どす黒い血が吹き出すように鋭一の眼に入ってきた。栗原がコッヘルをパチパチ鳴らしながらすばやく血管をとめると、鋭一は更にその血管を絹糸で結んだ。
愛子の足にはイルリガトールの針がさしこまれ、そこから強心剤やビタミンやアドレナリンをまぜた液体がゴム管を走って体内にたえず送りこまれていた。
「血圧は」
「大丈夫です」
剣状突起は既に切り開かれていた。医局長は愛子のくぼんだ臍の左を少し曲りかけたところでメスをとめた。それから腹膜を開きはじめた。
「血圧と心臓は」
「異状ありません」
空は曇っていた。病院ではいつものように待合室に外来患者がくたびれた表情で腰をかけ、子供や赤ん坊の泣き声が聞える。愛子の病室では二人の友だちが小さな声で無駄話を続けている。
「それで溺れかかったのよ。その灘中の生徒は……」
「泳げなかったの」
「そうらしいわ。大騒ぎになって……どうも好きだったらしいのね。彼女のことが……」
「その灘中生、愛子さんに許嫁のあったことを知らなかったの」
「そりゃそうでしょう。だってこちらは向うをほとんど知らないようなもんだったもの」
「そうねえ。あの頃、灘中の生徒たちと言ったら……」
腕時計をみて、
「まだ二時間もたっていないわ」
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万年筆
終戦から半年目。
小津は出征した時に見たあの雨の降る黒い海を渡って日本に戻った。よごれた貨物船には彼と同じように虚脱した表情の日本兵があふれていた。武器のすべてを取りあげられ、階級を示す襟章まで剥ぎとられると将校たちの顔からは威厳も誇りもなくなった。兵士たちは兵士たちで疲れ果て膝をかかえて甲板にうずくまっていた。
それでも彼等は中共軍に捕虜となった点でまだ幸福だった。かつて同じ兵舎にいた者で北満に移動させられた連中はソ連軍に連れられてシベリヤに送られたからである。
雨のふる舞鶴につき、復員局の調査を受けたあと兵士たちは家畜用の車輛にも似た列車に乗ってそれぞれの故郷に戻った。
至るところが焼野が原になっている。鮨づめの列車が鈍い音をたてて停車する駅からは何ひとつない焼け跡やリュックを背負った男女の姿が見える。
「ここまで、やられるとは思わなんだなア」
と戦友が小津に泣き笑いともつかぬ顔で呟いた。
その戦友と別れて彼は大阪駅から自分の家に戻った。
家は幸い空襲からまぬがれてはいたが、彼が兵営でいつも思い出していたのとは違ってあまりに荒廃していた。
あの頃、父親が手入れをしていた庭がすっかり畠に変っていた。防空壕もそのまま残っている。家壁のところどころが崩れている。それは一年前、ちかくの飛行機工場に空襲があった時、爆風でやられたためだという。
「あの日はほんまに怖ろしかったよ」
残雪のまだ残っている庭の畠をみながら母親は話した。
「急行列車が鉄橋でも走っているような音がしたと思うたら、もう家が地震にでも会ったようにゆれて眼の前の壁が崩れてくるんやさかい。父さんは出かけておられて、私一人やろ。防空壕に逃げようにも逃げられへんの」
彼は兵隊だったが大連にいたため、直接の戦闘は勿論、空襲にも会わなかった。大連は一時、ソ連軍が占領したものの、後に中共軍と交代をした。そのため彼は色々な点で運がよかったと言えば言えるのだった。
大学はまだ授業を開始していなかった。校舎の半分以上が焼けたからである。
大阪や神戸の街には闇市が並びはじめていた。そこには彼と同じように復員服を着た男たちが食べものを入れた袋を肩にぶらさげてウロウロと歩いていた。どの男たちも疲れ果てて、目的も生き甲斐もない顔をしていた。
彼はある日、思いたって平目の家をたずねた。だが記憶にあるあの小さな家のあったあたりも一面の焼野が原になっていて、冬の風が土埃りを瓦礫《がれき》の間からあげていた。
その瓦礫の上に腰かけて彼は失ったものの一つ、一つを考えた。
平目。あの眼をショボ、ショボとさせた友。あいつはもうこの世にいないのだ、と思うと彼は急に、泪が眼から溢れでるのを抑えられなくなった。
悪い奴じゃなかった。あいつは秀才でも立派でもなかったが、自分には懐かしい仲間の一人だったのだ。いやたった一人の友と言ってよかったのだと彼は涙を掌《てのひら》でふきながら思った。
学校がはじまるまで小津はブラブラしているわけにはいかなかった。
それぞれ復員してきた友人たちのなかには家を焼かれた者が多かった。彼等がアルバイトをやっていると聞いて小津もそれに加わった。
仕事はいくらでもあった。彼等は共同して学生協同組合をつくり、尼崎や大阪の工場から怪しげな石鹸や湯わかし器やパン焼器などを仕入れて売り歩いていた。物さえ見つければどんな物でも売れる時だったから品物は面白いようにはける。
小津もリュックサックを背負って友人とそれらの品物を闇市に運んだ。魚の油で作った石鹸は横文字の包装紙で包まれた。メイド・イン・USAと書いて、一見メイド・イン・U・S・Aと見まちがうようにしたこの石鹸も次から次へと買ってもらえた。
闇市で顔なじみになるにつれ、小津は友だちと酒の味をおぼえた。闇市のうしろにはヨシズ張りの飲屋が並んでいて、そこには復員服を着た男たちがいためた鯨肉を皿に盛らせて、コップのカストリをあおっていた。
夕暮になると、友だちとそのヨシズ張りの飲屋に腰かけて騒がしい人の行きかいを眺め、臭いの強い酒を小津はなめた。そして彼は平目のことや愛子のことを思いだした。時折、そんな闇市や飲屋のなかを白い鉄かぶとをかぶったM・Pが姿を見せることがある。街娼をつかまえるためである。
あれは三月になったある日のことだった。
彼が友人たちとアルバイトを終えて、いつものように一杯ひっかけるために行きつけのヨシズ張りで立ち飲みをしていると、騒がしい声と足音が急にきこえてきた。
「食えないんだから仕方ないじゃないか」
という男の叫びや女のわめき声にまじってバタバタという靴音がすると、駆けてきた二人の女が店のなかに逃げこんできた。
「手入れかい」
と店の親爺が、
「アメさんか。日本のポリ公か」
「おまわり」と女の一人が答えた。「闇米をかくしていたのを見つかったのよ」
闇市には時折、手入れがある。小津たち学生は米や麦は運ばないので安全だったが、闇米を農家からリュックや風呂敷に入れて運ぶ運び屋の男女は、手入れを受けて警察に連れていかれる。
二人の女はネッカチーフで顔をつつみ、背をこちらに向けてヨシズ張りの店の隅にしゃがみこんでいた。小津と友人とは彼女たちが見えないようにその横で立ったまま、いためたモヤシを食べていた。
警官が二人、しばらく飲み屋と飲み屋の間を歩きまわっていたが諦めたのか、姿を消した。
「もう、大丈夫だよ」
「有難う。おじさん」
ネッカチーフで顔を包んだ女たちはズボンの膝をはたいてから、逃げ場所を作ってくれた礼に二十円をおいて出ていこうとした。
その時、女の一人と小津との眼とが合った。
「あっ」
と女が立ちどまって、
「小津さん」
と叫んだ。平目の姉だった……。
「こんな恰好で会うなんて」
ネッカチーフを頭からはずしながら平目の姉は男もののズボンをはいた自分の服装を気にした。だが小津のほうもふるびた復員服を着ているのだった。
「もう、会えんやろ、思うてましたのに」
「ぼくはお宅をたずねましたんや。でもあの辺、みんな焼けてしもうたでしょ。お母さんは御無事でしたか」
「無事ですねん。今、わたしと住んでます」
二人が立話しているのを小津の友だちも平目の姉と一緒だった女性も店先で聞いていた。
「弟の中学時代の友だちや。トシさん。すまんけんど先に帰っといて」
平目の姉はそう声をかけた。
二人きりになると彼女は、
「きたないところやけど……私んとこに来てくれませんやろか」
と小津に言った。
「弟のもんで、小津さんにもろうてもらいたいもんがありますさかい」
高架線で電車がゴオッと鳴った。その下にはセメントの壁を汚水が伝わっている。その壁に一人の浮浪者が靠《もた》れて、通りすぎる人をぼんやり眺めていた。
「弟がいたら、叱られるかもしれんけど……女の細腕ひとつで母を養うためには、身なりも構っておられませんねん」
平目の姉はまだ、かつぎ屋をやっていることと服装とにこだわっていた。小津はいつかの夜、平目の入営の送別会で、酒を運んでいた彼女の姿を思いだした。
「戦病死いうて……なんの病気やったんですか」
と小津はたずねた。
「肺炎でしてん。同じ隊におられた方からお手紙もろうて……。陸軍病院に入れられて翌々日、死んだと言うておられました」
「肺炎……ですか」
平目の貧弱な体が眼にうかぶ。古参兵たちが内務班でヌクヌクとストーブに当っている時も初年兵は寒い外を駆けずりまわらねばならない。
「朝鮮の冬は、寒かったやろうなア」
と小津は思わず溜息をついた。朝鮮と同じくらい大連の冬もきびしかった。冷気は寒いと言うよりは体に痛かった。
「あいつも、よう、頑張ったのですワ」
そう言うより彼には平目の姉に慰める言葉がない。歩きながら彼女はネッカチーフの端を口にくわえて泣くのを怺《こら》えている。
焼け跡を横切って平目の姉は暗い灯のついたバラックまで連れていった。そのバラックは焼け残った車庫の壁と、トタンを利用して作られていた。
「母さん」
と彼女は表で声をかけた。
「母さん」
見おぼえのある、だが、すっかり白髪になった平目の母親の顔が窓から、こちらを覗いた。
「憶えている。小津さんや。小津さんやがな」
母親の顔が崩れ、その眼から泪があふれでた。
平目の姉は小津をなかに入れると、
「恥ずかしわ。こんなに汚のうて」
小さな卓袱《ちやぶ》台においた茶碗や箸や、そのそばの七輪をあわてて片づけた。壁の木板にうちつけた釘に平目の写真を入れた額がぶらさがっていた。
「あの子が生きておりましたらなア……こんなにならへんと思うてまんねんけど」
と小津のそばで母親が愚痴をこぼすと、
「お母さん。何度、言うたらわかってくれるんや。何の役にもたたんこと繰りかえさんといて」
と平目の姉が声をあげた。
「小津さん。これが弟の遺品です」
彼女の持って来た色あせた碁盤格子の風呂敷は結び目が堅かった。暗い電灯の下でそれを開くと平目が入営した日に着ていった背広やネクタイや財布が出てきた。
「このほかに……復員しはった戦友の方が持ってきてくださった物もありますねんけど」
小津は思わず、平目の洋服に向って手をあわせた。これを着て得意そうに三宮駅のプラットホームにおりたあの男の姿が眼にうかんだ。
「その戦友の方は、あの子が使っとった万年筆と手帖とを持ってきはりました」
「万年筆ですか。見せてもらえますか」
「ええ」
彼女は立ちあがって隅においてある小さな机の上の箱をあけた。
「これです」
見おぼえのある万年筆だった。忘れようとしても忘れられぬ万年筆だった。
「ああ」
と彼はかすかな声をだした。
「平目がよう……使うとった」
「もろうてやってください」
と平目の姉はじっと彼の横顔をみて、
「何も形見にあげるものがないさかい……これを小津さん、もろうてやって、ください」
「そんな」
「かましまへん。あんたに使うてもろたら、弟かて、悦ぶ、思いますワ」
小津は万年筆をおしいただくようにしてから、内ポケットに入れた。
「そんなら、頂戴します」
「それから、この手帖のことやけど、これもよかったら、持って帰って頂戴」
小津は首をふった。数すくない平目の遺品から彼の臭《にお》いの残っているような品物を二つも受けとるわけにはいかなかった。
だが、平目の姉は、
「いえ。かえって、その手帖があると弟のことが思いだされて苦しゅうなるんです」
と言った。
小津は暗い灯の下で手帖をパラパラとめくった。
ほとんどが白い紙のままになっていて、ただ住所録の部分だけに知人の名や住所が書かれていた。日記らしいものがつけてある頁も何枚かはあった。
だが小津はその一頁に地図のようなものが平目の手で描かれているのに気がついた。
芦屋川が書かれていた。松の木という金釘流の文字も読めた。橋。そして愛子の家。
小津は手帖をふせた。
彼がその万年筆と手帖をもらって平目の家から出た時は既に真暗になっていた。焼け跡には風が吹きぬけ、空を見あげると冬の星は鋭く光っている。言いようのない、やり切れなさが小津の胸をしめつけていた。彼はそのやり切れなさが何処から来るのかが、わからなかった。
(平目のようないい奴が何故、死ななくちゃならないんだ)
出口のない怒りの感情が彼の胸をしめつけた。しかし、怒りはそれだけでもないのだった。
(平目のような純情な奴が何故、死ななくちゃならないんだ)
しかしやり切れなさはそこから来るのでもなかった。
平凡で目だたぬ男。少しチャッカリはしていても少年時代の初恋を大事にするような無垢なものが心の何処かにあった男。そんな男は世間の何処にでもいるだろう。しかしそんな男がこの戦争で死んで、着ていた背広と万年筆と手帖だけを残していった。
(お前は……それが、悲しく……ないのか)
小津は空の星々に向ってそう叫びたい衝動にかられた。
(つよい奴や英雄が死んだって、俺は悲しくはない。しかし、平目のような男が死ぬと俺は悲しいんだ。あいつが世間の何処にでもいるような男だったから、可哀相でたまらないんだ)
ガード下では汚水の流れたセメントの壁に靠れ、さっきと同じ恰好で浮浪者が寝ていた。ガードを出たところでは白衣の兵隊が松葉杖で体を支えながらアコーディオンを鳴らしていた。
林檎は何にも言わないけれど
林檎の気持はよくわかる
くたびれたようなその声をうしろにして小津は駅に急いだ。暗いホームの灯の下で万年筆をとりだすと、それはあの日、愛子が彼に手わたした時と同じままで、色もあせていない。ただ、金ペンの部分だけに黒ずんだインキの痕がこびりついている。
手帖の頁をめくって彼はまず住所録を見た。平目は下手糞な字で小津の名と住所とを書いていた。愛子の名をそこにさがしたが、これはなぜか見当らなかった。
「内山上等兵殿、演習後に報告。
午後二時半、集合。
訓辞の要項。厳正なる規律と戦闘精神」
頁のところどころには、そんな意味のつかめぬ走り書きが書いてあった。
ホームにはほとんど人影がなかった。駅員が一人、階段から姿をあらわして、ホームの先まで歩いていった。
「コイアマヅア」
小津の眼に急にその六つの文字がとびこんできた。電信文字のようなその意味の不明瞭な言葉に彼は首をひねったが、すぐ、その謎はとけた。
東愛子。それを平目はいじらしく、逆に書いていたのだ。おそらく班長や古参兵に手帖を見つかった時を考慮したのであろう。
(馬鹿やなア、お前は)
小津はこの時、この万年筆をどうしても、愛子の手もとに届けねばならぬと考えた。コイアマヅア。その六つの字を、古参兵になぐられる内務班で、そっと書いた平目の切ない心情を愛子に伝えねばならぬと考えた。
三年ぶりで降りる仁川の駅だった。三年の歳月はたったが駅も駅の周りも、あの時とそう変りはなかった。駅前には小さな白い川がながれ、両側にクリーム色の家が並んでいて川のむこうに丸い甲山が見えるのもあの時のままだった。
彼は道をまだ憶えていた。松林をぬけてしばらく歩くと、池に出る。そのすぐそばに長山という家があると駅前のパン屋で教えてもらった記憶があったからだ。
冬枯れの池にはボートは見えなかった。戦争の間、手入れをしていなかったと見えて、弁天池と書いた看板もその前の家もすっかり荒れた感じだった。
その上、愛子の嫁ぎ先の家までが表札が変っていた。内堀というその名が長山という家と、どういう関係があるのか彼にはわからなかった。
しばらく、周りをうろついた後、小津は思いきってベルを押した。何度もベルを押したが誰も出てこなかった。どうやら留守らしかった。
彼はふたたび駅まで戻って、駅前のパン屋の硝子戸をあけた。
「どなたですか」
奥から、寝ていたのか、弱々しい声がきこえてきた。店を見まわすとパンなどはなくて、その代りに自転車が一台、おいてあるだけだった。
出てきたのは中年の女で、
「うちは、もうパン屋はやっていないんやけど」
と彼女は障子を少しあけて気の毒そうに弁解した。
「材料がまだ手に入らんのでねえ」
「いや。池の近くに長山さんという家があったでしょ。あの家、どこに引越されたか、知りませんか」
彼はこの時、少年の頃、読んだ「母をたずねて」という少年小説をふと思いだした。母と別れ別れになった少年があちこちと母親の居た場所をたずねて歩く。だがその都度、母親は別の場所に行ってしまっているのだ……。
「長山さんなら……戦死されたと聞きましたけど」
「戦死?」
「ええ。海軍の軍人さんやった方でしょ」
小津はあの芦屋川の橋で見た白い制服に短剣をさげた海兵の生徒の浅黒い顔を心に甦らせた。
「すると、奥さんのほうは未亡人になりはったわけですか」
「ええ。気の毒ですワ」
「奥さん、何処に行かれたんでしょう」
「疎開されたところと違いますか」
「疎開されたんですか」
彼はまた自分が何処か遠いところに行かねばならぬと思った。むかし、ここの彼女の嫁ぎ先をたずねた帰り道、彼は心のなかで呟いたものだ。
(もう、これっきりやぞ。もうこれ以上、何もせんからな)
しかし、今も平目が彼のうしろで眼をショボ、ショボとさせて訴えているようだった。
「なア。そんなこと言わんと、頼むワ。その万年筆をもって彼女の疎開先まで、たずねてくれや」
パン屋の細君は奥に愛子から来たという葉書を探しにいってくれた。一年半前、彼女からもらった葉書に疎開先の住所が書いてあったのを思いだしてくれたのである。それは京都の北にある周山という小さな町だった。
それから数日後の昼すぎ、小津は京都から北山を越えるバスに乗った。愛子が疎開後、まだ実家の両親とそこに残っている周山という村をたずねるためである。
空は厚い雲におおわれて、時折、弱い冬の陽が山にさしている。京の北をぬけてやがて山峡に入ると、あたりは更に暗くなった。両側に北山杉の茂った山腹が迫り、その山腹にはくろずんだ雪がまだ残っていた。
バスは寒かった。乗客もまばらで彼等ははげしい車体の動きに身をまかせて憂鬱そうな顔をして腰かけていた。まがりくねった道は細く悪く、山国のなかに入っていくという感じである。
小津は古オーバーの襟をたてて、時折みえる氷の張った谿川や、細い北山杉の森にじっと眼を注いでいた。
幾つかの小さな山村を通過した。藁ぶきや板ぶきの家々の間に、牛小屋のような製材所があって、そこで男にまじって女が働いている姿もみえた。
一時間ほどバスはゆっくりと喘ぎながら山道をのぼったあと、やっと峠をこえた。こんなわびしく暗い山奥にあの愛子が今、生活していることに小津はどうしても実感が湧かない。彼は時々、ポケットに手を入れて万年筆を指先でいじった。
峠をこして道がくだり坂になってから、やっと薄陽に照らされた盆地に村が見えた。それが彼女の住む、周山盆地だった。
盆地をぬけると、更にバスは谷戸のような丘陵に囲まれた街道を走った。もし仁川のパン屋の女房が教えてくれた住所に間違いがなければ、愛子はこの街道すじにある常照皇寺という寺ちかくに住んでいるのだった。
古ぼけたバスが小津一人をそこに残して埃をあげながら去っていったあと、小津はまだ路の両側に残っている凍み雪をふみながら坂路をのぼった。
常照皇寺の山門が見えた。林にかこまれた斜面に石段が見えがくれしている。小津はこの寺にどういう|いわれ《ヽヽヽ》があるのか知らなかった。
ようやく、そのそばの大きな門のある農家にたどりつくと彼は腕時計を見た。三時を少し過ぎていた。帰りのバスは四時でこれを逃すと、もう京都には戻れない。
彼の足音を聞いて、中庭につないだ黒い犬が猛烈に吠えた。
その声に、農家の硝子戸があいて、エプロンをかけた老婆が出てきた。
「長山さんのお宅は、ここですか」
と小津がたずねると、
「長山さんやったら裏に住んでおられます。え、お嫁さんでっか。そんなら、今しがたお寺に行かれました。写経してはりますからな」
礼を言って寺の石段をのぼった。林の樹木のなかでつめたい空気が弓弦のように張っていた。時々、鋭い鳥の声がした。
のぼりつめると、そこに池があり、小さな観音が安置されていた。寺の屋根は更にその上に見える。
彼が寺まで歩こうとした時、石段の上に一人の女が現われた。
愛子だった。地味なモンペをはいて、手に風呂敷包を持っていた。
「ああ」
と小津は声をあげ、彼女はたちどまって訝《いぶ》かしげに彼を見おろした。
驚きの色がその顔に走って彼女は足をとめた。
しばらくの間、二人は黙ったまま石段の上と下とから向きあっていた。
「小津です。憶えて……おられますか」
と彼が叫ぶと、
「はい」
と彼女はうなずいた。
「今、お宅をおたずねしたんですけど、お寺に来ておられると聞いたもんですから……ぼくは四時のバスで戻ります。あなたにお渡ししたいものがありまして」
彼はポケットに手を入れて石段をゆっくりとのぼった。
「お久しぶりでした」
と愛子は丁寧に頭をさげた。
粗末なモンペをはいた彼女にはあの少女時代の面影はなかった。眼にみえぬ生活の苦労がその顔や風呂敷包をかかえた手に、にじみ出ているような気がした。
「これを……」
と口に出しかけて小津はその言葉をのみこみ、
「御主人がなくなりはったそうで」
と言った。
「はい」
「ずっと、こちらに……」
「ええ。終戦前からこちらに落ちついていました」
雲間から薄い陽がまたさした。小さな雪片が何処からか飛んできた。彼女はそれを受けるように顔を斜めにあげて、空を仰いだ。
「畠仕事もしてはるんですか」
彼は彼女の指に傷の跡のあるのを見つけて思わずたずねた。
「だって父や母が年とっていますから。でもお帰りになったんでしょ。あなたも戦争から」
彼女は小津のはいている兵隊靴に眼を落した。
二人は石段をおりて、池のそばのベンチに腰をおろした。ふたたび小さな雪が風にのって流れてきた。
「寒いところですねえ」
と小津の呟きに愛子は、
「ええ。山に囲まれた盆地ですもん」
「変りはりましたね。愛子さんは」
「だってわたし一人やないですわ。戦争が長かったんですもん」
「あの灘中を、兵隊の頃、よく思いだしました」
彼女は黙ったまま微笑んだ。それからポツンと、
「国道電車、まだ動いているかしら」
と呟いた。
「動いてます。前よりも、もっと古ぼけて、のろのろと」
「あの電車も、学校のあったところも懐かしいわ」
「あのころはぼくら、こうなるとは何にも知らんかったんですねえ。のんきでした」
「ええ」
「赤ちゃんは元気ですか」
突然、そう訊ねた小津に愛子は悲しそうに首をふった。
「肺炎で死なせてしまいましたの……」
「肺炎」
「ええ」
人に倖せを与えるものは、あの戦争の間にすべて去っていったのだと小津は思った。その間、何かを失わなかった日本人は一人もいなかった。だれも家を焼かれ、肉親に死なれ、親しいものの行方もわからなくなっているのだ。
「平目……憶えていますか」
「ええ。どうなさったの。あの方」
「死にましてん。あいつも」
「まあ」
驚きと悲しみの色が彼女の眼を走った。
「朝鮮で戦病死したんです」
と小津はポケットから紙で包んだ万年筆をとりだした。
「憶えとられますか。これ……」
彼女はうつろな眼で池の面をじっと見つめた。おそらく平目の死という言葉が彼女に夫の戦死の日を思いおこさせたにちがいなかった。
「憶えとられますか。これ……」
小津はもう一度、同じ言葉をくりかえし、放心した彼女はようやく我に戻った。
「万年筆です。あなたが、いつか平目にくれはった万年筆です。あいつは死ぬまで、この万年筆を大事に大事にしとりましてん。あいつは……」
彼女は眉と眉との間をくもらせて、小津が途ぎれ、途ぎれに言う言葉に耳をかたむけていた。
「あいつは……手帖に……あの芦屋川の地図を書いとったんです。松並木も。橋も。あなたの家も。なぜや、わかってくれますか、阿呆な奴です。辛い初年兵の毎日に、それで、あいつは心を慰めたんです。あなたがあいつにくださった万年筆で芦屋の地図を書くことで……」
細かい雪片が小津の古ぼけた外套の肩をかすめて、愛子の頬に当った。さきほどまで弱い光の洩れていた空がまた雲に暗く覆われた。
「これ……あなたのものやったけど……今は彼の遺品ですねん」
彼女は黙ったまま、小さな紙包みを受けとった。
「これでぼくも……気が、楽になりましたワ」
と小津は頬に無理矢理に微笑をつくった。
一本の小さな万年筆が愛子から平目のものになり、日本から朝鮮にわたり、ふたたび日本に帰って愛子のもとに戻った。
「ほんまに色々なことが、あったんですねえ」
小津は腕時計を見て、
「バスが来る時間や。ぼく、帰らねばなりません」
「有難う、ございました」
と急に愛子は頭をさげ、
「こんな山のなかまで来てくださって」
石段をおり、山門をくぐり、二人はバスの停留所まで歩いた。
雪の残った畠や丘陵の向うに、まだ寒そうな孤独な北山が見えた。暗い杉に覆われた峰を越えねば、ここから京都まで行けない。
「もう、阪神には戻られんのですか」
「わかりませんわ」
遠くからバスがゆっくりと走ってくるのが見えた。もう二度と彼女に会うことはないだろうと小津は思った。平目と再会することができぬように自分は彼女と出会うこともあるまい。
「いつまでもお元気でいてください」
バスがとまった時、小津はそう言った。
「あなたも……」
と愛子が答えた。
二人しか乗客の乗っていない車内に乗りこむとバスはすぐ発車した。よごれた窓の向うにモンペ姿の愛子が哀しそうに微笑していた。そしてその姿はすぐ見えなくなった……。
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新 薬
手術室の自動扉が開くと四人の看護婦に囲まれるようにしてストレッチャーが出てきた。輸血の瓶や酸素吸入の管が眠っている愛子の体まで、まるで機械の一部分のようにみせた。
ながい、光った廊下をストレッチャーは静かに進んでいった。時折、向うから来た見舞い客が怖ろしいものでも通るように壁に身を寄せた。
病室の入口には愛子の二人の友だちが緊張した表情で待っていた。
「御苦労さまでした」
とその一人が看護婦に頭をさげた。
「よかったわねえ。愛子さん」
「もう大丈夫よ」
しかし彼女の蒼白な顔は微動もしない。ビニールの天幕をはったベッドのなかで看護婦は忙しげに血圧計の布を患者の腕に巻きつける。あたらしい酸素ボンベが運ばれてくる。
手術着をぬぎ、入浴をすませた鋭一が病室に姿を見せた。聴診器で彼女の心臓の鼓動を聞いてから、平手で軽くその頬を叩いた。
「長山さん。長山さん」
うす眼をけだるそうに開いた愛子に、
「手術はすみましたよ」
「ありがとう……」と彼女は乾ききった唇を動かして呟いた。「ありがとう……ございました」
ふたたび昏睡した彼女の腕に鋭一は強心剤のほかに抗癌剤ブレリアマイシンを注射した。製薬会社の研究所の指示では、これは一日、百ミリグラムから二百ミリグラムの静脈注射が有効というのだ。
白い、やせた彼女の腕に注射針をさしこみながら、
(効いてくれ)
と鋭一は切実に思った。ブレオマイシンやアドリアマイシンよりももっと効果があってほしい。
(そうすれば、俺はこの薬の最初の使用者として……学界に記憶される)
彼はふたたび、まぶたの裏に学会発表の大教室を思いうかべた。階段教室をうずめた聴衆。前のほうには各大学の教授たちが並んでいる。彼と栗原との説明に驚きの声が聞えてくる。その瞬間から自分の名が教授たちの頭にきざみこまれる。
「今夜、私は病院にずっといます」
注射器を看護婦に手渡しながら、彼は愛子の友だちにふりむいた。
「御心配はいりませんから、お帰りになっても結構ですよ。三十分おきにベテランの看護婦さんが見まわりに来ますから」
「でも、わたしたち、交代で付添うことにしたのですけど」
「そうですか。じゃ、もし一寸でも変ったことがあれば、そこのボタンを押してください。念のため申しておきますが、水を飲ませてはいけませんよ」
「はい」
看護婦を従えて鋭一が病室を出ると、
「素敵じゃない」
と彼女たちの一人が溜息を洩らした。
「あんなに若いのに……自信があってたのもしくて……お医者さまと結婚すれば良かったな、わたし」
「ほんとね。あの人に心配いらないと言われると、本当に気持が軽くなっちゃうもの」
その夜鋭一は、三時間おきに二回、愛子の病室をのぞいた。真夜中ちかく、患者は麻酔からもう一度さめたが特に異状はないようである。カンフルと葡萄糖の注射は規則正しく行われている。
「もう、お休みになっては如何ですか」
鋭一は付添っている愛子の友だちにまた愛想いい声をかけて宿直室に戻った。ワイシャツの腕をまくりあげて手を洗っていると電話がかかってきた。
栗原だった。
「どうだい。経過は。連絡が一向にないから、異状はないと思ってはいるけれどね」
こちらから報告しなかったことを皮肉りながら栗原はこまかく愛子の経過をきくと、
「そうか。なら安心したよ。新薬の注射は忘れていないな」
「もちろんです」
「御苦労でした」
栗原は初めて鋭一にねぎらいの言葉を言って、急に思いだしたように、
「君、田原君が明日、上京してくることを知っているかい」
「田原がですか」
「うん。医局長のところにそう葉書が来たそうだ」
「何の用事でしょう」
「さあ。向うの報告じゃないのかな」
田原のことなどはもう鋭一には関心はなかった。彼が久しぶりで上京してくると聞かされても、それほどの懐かしさも心には湧かなかった。あの男はもう、自分の人生には関《かか》わりない一人にすぎなかった。それよりも鋭一は自分をこう宿直させながら経過報告を電話で求める栗原の先輩づらが不愉快だった。しかしこれも医局の習慣だから我慢するより仕方がないのである。
宿直室でひと眠りすると、もう朝だった。術後の病人にとっても付添いにとっても長い苦しい夜があけて窓が白みはじめることほど嬉しいことはない。鋭一が病室にあらわれると、
「先生」
と言って愛子の二人の友人が救われたように椅子から立ちあがった。
「熱がずっとあるんですけど」
「それは大丈夫です。術後熱ですから」
鋭一はベッドにくくりつけてあるカルテに眼を通して、
「すべて順調にいっています」
と彼女たちを安心させた。
「水はほしがりましたか」
「いいえ。一度も。じっと我慢していたようですわ」
忍耐強い女性だと鋭一は思った。たいていの患者は術後、水をほしがる。特に男のほうが我が儘だ。だが愛子の場合は水だけではなく痛みどめの注射も要求しないと看護婦が言っている。
鋭一が部屋から出ていくと、今まで眼をとじていた愛子が小さな声で友だちに言った。
「ありがとう」
「起きてはったの。順調やさかい安心して」
「夢を見ていたわ。主人の」
荒れた海をわたる巡洋艦の甲板に真白な軍服を着て、手を腰にあてた夫がただ一人、立っている夢を愛子は見た。夫は海の遠くをじっと、きびしい顔で凝視していた。愛子が声をかけても、ふり向かなかった。
医局に戻ろうとして雑踏する廊下を歩いている時だった。
鋭一は向うから看護婦や外来患者の群れにまじって田原がこちらに歩いてくる姿を認めた。
久しく見なかった田原は相変らず、みすぼらしい洋服を着て、古ぼけた鞄を右手に持ってはいたが、その顔は都落ちを命ぜられたあの時とはちがって、どこか晴れ晴れとした表情に変っていた。
鋭一が声をかけるまで、気づかずに近づいてきた彼は、
「おい」
と声をかけられて、びっくりしたように眼をパチパチとさせ、それから欠けた歯をみせて笑った。
「久しぶりだなア」
と鋭一も手をさしだして、
「君が帰ってくることは、昨夜、栗原さんに聞いたんだ。でも、こんなにすぐ会えるとは思ってもいなかったよ」
「夜行で朝の六時に上野に着いたのさ。今、医局に顔を出してきたところだけど、オペ(手術)だったんだって。昨日」
「うん。マーゲン(胃)のね」
鋭一は曖昧な答えかたをして、
「いつまで東京にいるの」
「四、五日。色々、用事があってな。向うの病院の主任看護婦がやめてその後任を探さねばならん。レントゲンの機械を手に入れねばならんし……」
田原はいきいきとした声をだした。東北の病院で小さいながらも責任のある仕事を任せられ、それに生甲斐を感じていることがそのはずんだ声でよくわかった。
「主任看護婦なんか、向うで見つからないのかい」
「やはり東京のベテランがほしいよ。ただでさえ、地方は医者も看護婦も不足なんだから」
「ここだってプレ(看護婦)さんは不足だよ。見つかったのか」
「栗原さんが、一人、いいのがいると言ってくれたんだ。耳鼻科に今いるけど、前、内科も外科もまわった島田とかいうプレさん……君、知っているかい」
田原は無邪気な顔をしてそう訊《たず》ねた。その無邪気な顔は鋭一の眼に突然、走った驚愕の光に全く気づいていなかった。
「島田?」
と、鋭一は叫ぶように訊ねた。
「そうだよ、知っているのか」
「知ら……ないね、俺は」
「ベテランだそうだよ。栗原さんがそう言っていた」
鋭一は昨夜の栗原の電話を一語一語、思いだしていた。栗原はその時、田原の上京の目的も看護婦の話もまるで知らぬような物の言い方をしていた。
(そうか、そうだったのか。奴……邪魔になった島田看護婦を病院から追い払うつもりか)
島田看護婦を主任看護婦に推挙するという名目で体《てい》よく病院から出してしまう。それは彼女が邪魔になったからだ。井伊佳子との結婚に彼女がいては妨《さまた》げになるからだ。
(坊っちゃんのような顔をしているが……意外と考えているんだな)
そうはさせないぞ、と鋭一はうつむいて唾を飲みこんだ。唾を飲みこみながら彼はどういう手を打とうかと素早く考えた。一つの妙案がその時、彼の頭に上ってきた。
昨夜、宿直をした上に、愛子の経過に一応、異状がないので鋭一はその夜、その田原を病院ちかくのおでん屋に誘った。
人のいい田原は二、三杯の酒ですぐ顔を赤くした。
「あの時は正直いって、みじめな気持だったけれども、今は東北に行って良かったと思っているよ」
田原はくどくどと、この言葉を会話のなかで繰りかえした。それは決して敗者の負け惜しみではなく、本心から出た言葉のように鋭一にも受けとれた。
「人間、至るところに青山ありだなあ」
と田原は飲めもせぬ酒を自分の盃についで、
「田舎はぼくに向いているんだよ。医者の少ない地方に出かけて、お婆さんなんかから嫁の愚痴まで聞かされるわずらわしさはあるけどね。でも何というのかな、心と心の触れあいみたいなものはあるし」
鋭一はうんうんとうなずきながら、しきりに時間を気にしていた。
「なア」
と彼は箸をなめている田原に、
「河岸《かし》を変えようか」
「え」
「おでん屋じゃ殺風景だろ。洒落たスナックが、ここから五十メートルぐらいのところに出来たと聞いたよ。つきあってくれよ」
「ぼくはどうも、そんな高級なところは苦手だけどね」
「いいじゃないの。折角、君が戻ってきたんだし、俺もオペ(手術)が終った翌日だからね。プレ(看護婦)さんの一人も呼んで、三人で飲もうよ」
時計をみながら彼はまだ今井啓子が内科病棟に残っているだろうと思った。実は田原を誘ったのは、今井啓子をここに連れだすためでもあった。
電話をかけると、考えていた通り、啓子は内科看護婦室にいた。
「すぐ、来いよ。田原君、憶えているだろ。二人で飲んでるんだ。今からスナックに行こうと思ってるんだが」
珍しく鋭一のほうから誘われたので啓子は驚いた声をだしたが、すぐ行くと答えた。席に戻ると田原が、
「誰をよんだんだい」
「内科の今井だよ。知らないかい」
「さア。顔を見ればわかるかもしれないが……」
啓子があらわれると三人はすぐ、おでん屋を出て、開店したばかりのスナックまで歩いた。
「田原君はね」
肩をならべて歩きながら、急に鋭一がわざと快活な声で、
「向うの病院の主任看護婦さんを探しに、東京に戻って来たんだよ」
「嫁さん、探しのようなものです」
田原は鋭一が何故そんなことを口に出したか、全く気がつかなかった。
「君、行く気はないかい」
とからかう鋭一に、
「わたしを推せんしてくださいますの」
と皮肉っぽく啓子は答えた。彼女が今、何を考えているのか鋭一にはよくわかった。
「やめとくよ」と鋭一は大げさに首をふって「栗原さんが島田さんを推せんしたからね。もう決まったんだろ」
それから彼は一寸、間をおいて、
「栗原さんて……噂によると、井伊教授のお嬢さんと結婚するらしいね」
何げない調子で言った。すると啓子の顔が烈しくこちらをふり向いた。
(この賭に、目がどう出るか)
鋭一は心のなかで目が自分の狙っているものになるようにと祈った。
それっきり、鋭一はこのことを話題にはしなかった。啓子も啓子で何も気づかぬ顔をしていた。
「地方に行くと、色々と面白い経験をするよ」
スナックについても田原は洒落たこの店にあまり興味を示さず、相変らず自分の病院の話ばかりした。
「結核にかかった田舎のお婆さんを県立病院に入れるだろ。こっちは治療もちゃんとするんだが、治りがかえって遅い。なぜかというと、あんまり清潔で立派な大病院では、お婆さん、毎日緊張しすぎてかえって、疲れちゃうんだね。だから田舎に戻してやると、ドンドン恢復する」
「そうかねえ」
鋭一は欠伸《あくび》を噛みしめながら、うなずいてみせた。もう、この男に用はない。この男をつれだしたのは、今井啓子にあのことを聞かせるためだけだった……。
「そうだよ。だから医学は薬や技術だけじゃないと思ったね。心の問題さ。ぼくはこの頃、いい医者とは絶望的な患者を満足して死なせてやる人だと考えるようになった。福島の病院にそんな仁医がいるよ。そりゃ学界のお偉方には知られぬ人だけど、その人が患者に接している姿を見ると、頭がさがるよ」
「なんだい、それは」
「だから……思いやりだよ。この先生が努力してくれて駄目なら、それでいいんだと患者はみな、思っているんだから」
鋭一はふと、長山愛子のことを思いだした。あの新薬が効いてくれればいい。そうすれば自分は学界で……。
「そろそろ、帰ろうか」
スナックを出てバスに乗るという田原と別れ、鋭一は啓子と二人っきりになった。
「適材適所というけど、田原にピッタリだな」
と鋭一は呟いた。
「しかし退屈したろ、君」
「いいえ」
と啓子は皮肉っぽく答えた。
「退屈しませんでしたわ。先生がなぜ、私を呼んだのか、すぐ、わかりましたからね」
「ほう……なぜ呼んだと思う?」
鋭一はとぼけて煙草を口にくわえた。タクシーが一台、そばに停車したが二人が乗らないので、また走りだした。
「島田さんに……栗原先生と井伊教授のお嬢さまのことを私から言わせるためでしょ」
「知らないよ。ぼくは、そんなこと……」
「悪い方だわ。先生は。蛇みたいに、そっと餌物を狙うのね。先生は栗原先生が嫌いなんでしょ。蹴落したいんでしょ。栗原先生の結婚をぶちこわしたいんでしょ」
「冗談じゃないよ。あらぬ妄想をして、ぼくを悪人にしないでくれよ」
「本当は……私を東北に追いやりたかったんでしょうね。栗原先生が島田さんをそうしたように……」
「困るねえ。ぼくは本気で腹をたてるよ」
啓子はたちどまって、じっと鋭一を見あげた。
「女って馬鹿だわ。先生がそんなに悪い人と知っていながら諦められないんだから」
「ぼくを好きなら……」
と鋭一は煙草を靴でもみ消して、ひとり言のように呟いた。
「ぼくの出世に協力してくれる筈だろ」
「いいわ。島田さんに、さっきのことを話してあげます。そのかわり……わたしを……」
手術後、三日目の午後から愛子に軽い吐《は》き気《け》が起りだした。まだ眼は黄色くなってはおらず、必ずしも黄疸《おうだん》症状とは断定できなかったが、鋭一にはこれは新抗癌剤の副作用と思われた。
「どうしましょうか」
栗原に新薬注射を続けるべきか、やめるべきか相談すると、
「そうだね」と当惑したように首をかしげて、
「明日はおやじの回診日だろ」
「はい」
「じゃ、今日いっぱいは注射を続けたまえ。吐き気がまだ続くようだったら、おやじの回診の時、報告して決定してもらおうよ」
鋭一には栗原の気持がよくわかった。自分と同じようにこの新薬の成果をはっきりと見とどけたいのだ。患者に多少の副作用があっても、それには別の処置をとるとして、まだ注射を継続したいのである。
翌日、その井伊教授の回診が行われた。白衣のポケットに片手を入れておやじはいつものように医局長や医局全員を引きつれながら、各室をまわり、女性患者には気を落ちつかせるように話しかけ、療養態度の悪い若い患者はきびしい言葉で叱りつけた。その間、担当の医局員は緊張して直立している。
愛子の病室に入った時、井伊教授は足をとめて床におかれた花の鉢を殊更にほめた。
「うつくしく咲いていますな」
付添った愛子の友人が病人が花好きだからと答えると、
「花の香があまり強いと息苦しくありませんか。夜は廊下に出されたほうがいいですよ」
とやさしく言った。そして聴診器をおもむろに出し、患者の胸もとを広げさせた。
「新薬は注射しているかね」
「はい」
と鋭一は注射量と回数とを報告した。
「術後の症状は」
「術後熱は一応、落ちつきました。ただ昨日から多少の吐き気を訴えられています」
「そう」
まるで、そんなことは問題でもないように大きくうなずいて、
「じゃ、万事、順調ですな、奥さん」
と愛子とその友人を安心させる言葉を教授は口にした。
「吐き気のほうは、心配いりません」
微笑して軽く頭をさげると、おやじは病室を出ていった。内田医局長と局員がそのあとに続いた。
「栗原君」
だが廊下に出ると教授は鋭一ではなく栗原に声をかけた。
「吐き気というのは、どの程度かね」
「まだ軽いようです。しかし新薬の副作用だとすれば、必ずしも楽観は許せませんが……」
「別に楽観はしとらんよ」
「はい。では注射は継続いたしましょうか」
「続けたまえ。吐き気が新薬のせいか、どうかはまだわからんよ。輸血による肝炎ということもありうるんだから……一応、肝臓検査と葡萄糖の点滴はやるんだね」
「わかりました」
鋭一は自分が無視されたのを感じた。術後もその翌日も患者を診察し、その症状を認めたのは自分である。それなのに栗原はまるで彼がすべてをやってきたように教授に答え、鋭一の名を一度も出さなかった。
その午後、昨日よりも烈しい吐き気が愛子を襲った。しかし鋭一は教授に言われた通り葡萄糖の点滴と共に新薬を注射した。
日曜日に小津は墨と筆と紙とを買いにデパートに出かけた。会社の専務から先日、書の本を見せられてふと自分も習字をやってみようと思いたったからである。
妻や娘に話すと、
「どうせ三日坊主にきまっているわよ。いつだかも石にこった時があったけれど、すぐやめちゃったじゃないの」
と笑われた。
日曜日のデパートは混雑していて、若い男女でいっぱいだった。七階の催物展覧会ではフランスから戻った関谷直美という女流画家の個展をやっていた。小津はモンマルトルの石段や何げないキャフェを描いたその絵の前にたって、若い人は羨ましいとつくづく思った。彼等がこうして外国に行き、何でも吸収できる年齢に、小津や平目は軍隊でなぐられながら床を掃除したり銃を磨いていたのだ。受付のそばに腰かけて客と話しているパンタロン姿の若い女性がこの絵を描いた娘なのだろうが、髪のながいその横顔が美しかった。
墨と筆のほかに、孫過庭の書譜を買った。嫌味のない素直な字が小津の気に入ったのである。混雑するデパートの食堂で、その字を見ながら小津は一人で紅茶をすすった。こんなのんびりとした日曜日は久しぶりだった。
午後の空はまだ晴れていた。晴れた空に広告のアドバルーンが浮いている。バスに乗るため歩きながら、小津はこのまま戻るのは惜しいような気さえした。
(どこに行こう)
すると急に妙案が浮んだ。息子の病院をたずねてみようと思った。
(あいつは今日休みだが)
鋭一も今日の日曜日は病院に行かずに外出したのを小津は知っていた。息子のいない病院に行くのは手術した愛子のことが気になっていたからだった。
「あの人の手術はうまく、いったのか」
三日前、なにげないふりをして鋭一にたずねると、
「順調ですよ」
と面倒臭そうに答えたのを小津は憶えていた。
手術がうまく行ったのなら一週間ほどたった今頃、もう廊下を散歩しているかもしれない。すれ違うこともできるかもしれぬ。すれ違ったところで、長い長い歳月のたった現在、向うは自分の顔を憶えてはいないだろう。あの常照皇寺で会って以来、愛子と小津とは二度と会うことがなかったのだ。
これでいいのだと小津はバスのなかで考えた。たとえ彼女が自分のこと、平目のこと、あの万年筆のことをすっかり忘れていても、これでいいのだと思う。自分はこっそりと病院をたずね、彼女とすれ違うようなことがなくて、その顔も見られなくてもこっそりと病院から戻るだろう。
バスをおりて病院の門をくぐった。平日は患者や看護婦の往来している中庭も玄関もひっそりとして、時折、タクシーが見舞い客らしい人をおろして、また走り去った。
長い廊下を靴音をコツコツ鳴らしながら小津は歩き、大きなエレベーターに乗った。息子の勤務している病棟はすぐ思いだせた。
その病棟に入って、愛子の病室ちかくまで来ると、テレビの野球中継がどこからか聞えた。静かだった。
突然、看護婦が愛子の病室から出てきた。彼女はただならぬ表情で看護婦室に走っていった。
廊下のただならぬ気配にもかかわらず、大部屋からは相変らずテレビの中継がのんびりと聞えている。
看護婦が二人、転げるようにまた走り出た。そのあとから学生風の若い医者が聴診器を握って愛子の病室に駆けていった。愛子の容態に急変が起きたことが、今、小津にもはっきりとわかった。
壁にもたれて彼は茫然と立っていた。ほかならぬ自分がこういう事態に遭遇しようとは、デパートを出て病院を訪問することを思いたった時、頭にはなかったのである。
(あいつ……どうしているんだ。あいつは)
彼は何も知らずに今頃、何処かにいる息子にこのことを知らせねばならぬと思った。急いで彼は廊下の端にある赤電話に駆けつけると自宅の電話番号をまわした。
「鋭一はどうした。帰ったか」
「いいえ。まだだけど」
父親のただならぬ声に娘の由美はびっくりしたような声で、
「父さん、どこにいるの」
「どこでもいい。鋭一が戻ったら病院にすぐ連絡するように言いなさい」
受話器をおろして彼はポケットからハンカチを出して汗をふいた。
「先生」
と看護婦室から出てきた看護婦が、ふたたび廊下にあらわれた、さきほどの若い学生風の医者に声をかけた。
「内科の看護婦室に田原先生がおられますけど」
「田原先生?」
「ええ。東北の病院に行かれた田原先生です」
「そんなら、すぐ来てくださいと伝えてくれ。インターンのぼくには処置できないって」
「はい」
小津はそばの長椅子に腰をおろして、また額の汗をふいた。
(助かってくれ。助かってくれ)
と彼は膝の上に両手をおいて、心のなかで念じた。
(あいつは……どうしているんだ。あいつは……)
やがて看護婦室のそばにあるエレベーターの扉があいて、鋭一より少し年とった風采のあがらぬ男があらわれた。それが、田原医師であることは小津にもすぐわかった。
診察着もつけぬその医師が病室に姿を消して何分間かがたつと、一人の看護婦がゆっくりと戻っていった。そのゆっくりとした足どりで、小津は事態がようやく治まったことを感じた。
「あとで、血液をとって肝臓検査にまわしなさい」
病室から出た田原が別の看護婦に命じている。
「一応の処置はしたが、発作はまた起るかもしれん。すぐ栗原さんと小津君とに連絡したまえ。心臓もかなり弱っている。それより、薬の烈しい副作用という気がするが、何を注射しているんだ」
「あたらしい抗癌剤です」
「あたらしい抗癌剤、何というんだ」
「知りません。栗原先生と小津先生とからあの患者さん用に廻されてくるんです」
「カルテを見せてくれないか」
田原はためらっている看護婦にきびしい顔で、
「ぼくが責任をとるから」
カルテを見に行った田原を小津はしばらくの間、待っていた。愛子の身内でもない自分が彼女の容態を訊ねるのは非礼かもしれないが、彼はこのまま帰る気にはなれなかった。
たった今、耳にした田原医師の言葉から察すると、愛子の病状悪化は息子の投薬によるようである。それなのに息子は今、患者をなおざりにして、何処かで遊んでいる。小津は愛子にたいする申しわけなさと鋭一にたいする腹だたしさを噛《か》みしめながら椅子に腰かけていた。
田原医師の声が聞えた。
「じゃ、栗原先生たちが来られるまでぼくは下におるからね。いつでも連絡しなさい」
「ほんとに助かりますわ。先生」
廊下を去っていくこの風采のあがらぬ医師を小津は思わず追いかけた。
「失礼ですが」
と言いかけて彼は次の言葉に迷った。
「大丈夫でしょうか……あの人は」
田原は驚いたように小津をふりかえった。
「大丈夫でしょうか」
「心臓が大分、衰弱されてますし、肝臓がはれていますが……私は何分この病院の医師でないので」
言いにくいのか医師は眼をパチパチとさせて、
「担当医がすぐにも来ますので、安心してお待ちください」
田原が姿を消したあと、小津は階段をおりた。日曜日の午後の空虚な薬局の前に人のいない長椅子が何列も並んでいた。その一つに彼は身をかくすようにして腰をかけた。
一時間ちかく待った時、やっと黄色いタクシーが玄関の大きな硝子戸の前にとまって、あわてたように鋭一がおりてきた。知らせを受けて大急ぎで駆けつけたにちがいない。その息子がエレベーターに乗るのを見届けてから、ほっとした小津はふきでた汗をふきふき病院を出た。胃が久しぶりに体の奥で痛んだ。
エレベーターをおりた鋭一が看護婦室に足をふみ入れると、二人の看護婦が、
「あっ」
と言ってから、一瞬、黙ったあと、
「連絡したんです。あちこちと」
「日曜日じゃないか」
「田原先生に一応の処置はして頂きました。今は少し落ちつかれていますけど、何度も吐かれました。黄疸の疑いがあります」
「黄疸だとなぜ、君たちにわかるんだ」
鋭一は思わずトゲトゲしい声でたずねた。
「田原先生がそうおっしゃいました。カルテを御覧になって……」
「田原がカルテを」
鋭一は顔色を少し変えて、
「田原がもうこの病院の医者でないことは君たちでも知っているだろ。許可なくカルテを見せては困るじゃないの」
非難するような眼で看護婦たちは鋭一を見つめた。そしてその一人がヒステリックに、
「ほかに方法がなかったんです。インターンの堀先生が田原先生をお呼びになったんですから、カルテの件については、田原先生が責任をとると言っていられます。電話をして訊ねてください」
黙って鋭一は看護婦室を出た。愛子の病室をのぞくと蒼白な顔の患者は葡萄糖の点滴針を細い白い腕にさしこんだまま、眠っていた。病室のなかにはアルコールの匂いがまだ残り、床に血のついた脱脂綿がひとつ落ちていた。
長山愛子の病室を出ると、廊下の向うに田原がたってこちらを見ていた。
自分の感情が顔に出るのを抑えながら、鋭一は無理矢理に微笑を頬につくった。
「面倒かけたらしいな。おかげで助かったよ」
「ああ」
田原は鋭一の眼をじっと見つめ、
「応急の処置はしておいた。カルテ見せてもらったよ」
「そうだってね」
何げないふりをして、鋭一がうなずき、
「もう大丈夫だ。あとはこっちでやるから……まだ東京にいたのかい」
「明後日の汽車で帰る」
「島田看護婦はつれていくのかい」
「うん。一緒に連れていくつもりだ。向うで患者が待っているから」
「そうか。じゃ元気でな」
何も気づかず、何事もなかったような表情で鋭一は田原に軽く手をあげた。だがその田原は廊下に突っ立ったまま、
「君」
と看護婦室に入ろうとする彼を呼びとめた。
「あの患者に使っている新薬って何だい」
「え」
と鋭一はとぼけた顔をして、
「新薬。ああ、あれか。何でもない」
「何という名なんだ」
「医局長や栗原さんに訊ねてくれよ。ぼくは上からの指示でやっているんだから」
「あの患者は……ぼくの見たところではその薬の副作用で肝臓をあれだけやられているよ。ずっと肝臓の検査をやっていたのかい」
「失敬だけど」
鋭一は始めてムッとした表情で開きなおった。
「君はもう、ここの医局の医者じゃないんだぜ。君に指示を受ける気はないんだが……」
昔の気の弱い田原なら、鋭一にこう言われれば黙りこんでしまう筈である。昔から医学上の議論をしている時も、いつも彼をやりこめるのは鋭一のほうだった。
だが今、田原は首をふった。首をふって、
「ぼくは……」とひくい声で、
「ここの医局員ではなく、一人の医者として訊ねているんだよ」
「そんなら別の医者の立場や治療を」と鋭一は反駁した。「尊重してもらいたいもんだね」
「あれが治療か。あれは新薬の人体実験じゃないのか」
「井伊教授や医局長が認めた治療さ」
「そうかね。ぼくみたいなヘボ医でもあんなに肝臓がまいっている患者に危険な新薬は使わぬぐらいは心得ているがね」
「肝臓の悪化は血清肝炎のせいかもしれないよ。輸血をしたんだから」
「しかしカルテをみると君たちは……もうよそう。いいかい。あの効きもしないベチオンを患者に使った医局から追い出されたぼくだからね。ここのカルテの書きかたぐらい、どんなものか知っているよ。ほかの者は騙《だま》されてもぼくは騙されない」
看護婦室から二人の看護婦が鋭一と田原との会話に聞き耳をたてていた。
「おい、田原。向うに行って話そう」
鋭一は意外に強硬な相手に辟易して、なだめるような声をだした。
「患者たちにも悪いから」
肩をならべてエレベーターに鋭一と田原とは乗りこんだ。エレベーターが一階に降りる間、白けた気持で二人は黙っていた。
「君、ああいうところじゃ、まずいよ」
と廊下に出た鋭一がポツンと呟くと田原も、
「そうだった。興奮したもんだから」
「とに角、ぼくの立場も察してくれよ。医局長や栗原さんがあの新薬を使えといわれれば、いいえ、とも言えないだろう。下っ端の医局員なんだから、ぼくは……」
なによりもこの田原をなだめて外に連れだすことが先決だと鋭一は、
「ぼくもこの間の教授回診の時、あの患者の肝臓については栗原さんにも報告したんだよ。だがねえ……」
田原の同情を引くような声をだした。
「栗原さんもおやじも……当分、あの新薬を続けて様子を見ようと……」
「あの薬、既に他の病院でも追試したのか」
「知らんよ。少なくとも、ぼくは」
「じゃ、データなしに使ったわけなんだね」
「製薬会社のデータはもちろん、検討したさ」
田原は急に足をとめた。
「そうか。製薬会社。栗原さんの親爺さんの製薬会社だろ」
「ああ」
「すると……やはり、あの患者が最初のテストなんだな」
「ぼくには何とも言えないさ」
「何とも言えない? じゃ、もし、あの患者が君の身内だったら、君はこのテスト薬を彼女に注射するかい。彼女が君のお母さんだったら。君の妹さんだったら」
「するだろうね」
しばらく黙ったのち鋭一は、ふてくされたように答えた。
「どんな薬だって、はじめて、それを使わされる患者がいればこそ、改良もされ、効果もわかるんだ」
「種痘を発見したジェンナーとぼくらは違うんだぜ。我々が、新薬を使うのは、他の薬がもう効力がない時か、あるいは患者の自発的な同意をえた時か、二つに一つだけれど、今度、彼女の承諾は得たのかい」
「堅いことを言うな、今更。アメリカだって、囚人を使って新薬の実験をしたり……」
驚いたように田原は鋭一の顔をみつめた。それからその眼に哀しそうな色がゆっくりと浮んで、
「君、本気でそう思っているのか」
「もうよそうよ」
鋭一は首をふって苦笑した。こんな議論をいつまでも続けても仕方なかった。考えかたの違う自分と彼とは話が合うことはない。
「我々は医者だよ。そりゃ人間だから功名心もあるし、認められたいと思うさ。しかし医者は……」
と田原は小さな声で独りごとのように、
「何よりも医者なんだ。人を助けるという」
「わかったよ。仕事があるから、ぼくは失敬するぜ」
くるりとうしろをふり向いた鋭一に田原は、
「もう、君と二度と会うこともないだろうな」
と淋しそうに呟いた。
「ああ」
と鋭一はうなずいて背を学生時代からの友人だったこの男に向け、
「仕方ないさ。君がその気なら」
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口 笛
愛子は夢を見ていた。
彼女は夫の墓をたずねるところだった。手術を受ける前に夫の墓を掃除しておきたいというのが、入院中の彼女の一番、大きな願いだったのである。
事務所で花を買い、バケツと小さな帚《ほうき》とを借りて彼女はひっそりと静まった墓地を歩いた。
なぜか夢のなかの季節は秋で、あちこちの墓に菊の花がいけられているのが眼についた。墓のまわりにいっぱいコスモスが咲いているのもあった。
(コスモスを植えてあげればよかった)
と彼女はそう思った。仁川の夫の実家には庭にコスモスがおびただしく咲いていたのである。ピンクや白の花が、秋になると庭に乱れ咲き、ブンブンや小さな蜂が蜜を吸いに花から花を飛びまわっていた。
呉の海軍基地から時折、戻ってくる夫はこのコスモスがひどく好きだった。
「別に家で植えたんじゃないんだが……風がどこかの種を運んで、こんなになったのだ」
と夫は彼女に言った。そういえば近所のどの家もコスモスのない庭はなかった。軽い種は風にのって、道のあちこちにも花を咲かせていた。
墓の周《まわ》りの小さな雑草をぬき、帚を動かし、そして墓石に水をかけた。
「当分、来られませんわ。手術を受けるんですの」
と両手をあわせて彼女は夫に囁いた。
「だから、ごめんなさいね」
「手術を受けるのか」
と夫が耳もとでたずねた。夫の声は彼が戦死した頃と同じように、若い青年のそれだった。
「はい」
「人間には生涯に一度は戦いに加わらねばならぬ時があるよ。今度は君の戦争だな。苦しくても我慢して勝つんだぞ」
「ええ」
彼女は自分は辛抱すること、我慢すること、耐えることだけは自信があると思った。
「大丈夫ですわ。疎開した周山で、何でもやりましたもの。わたくし」
「そうだったな」
夫の表情が見えてきた。陽にやけたりりしい顔に微笑をうかべて、うなずいている。笑った時の夫の歯の白さは新鮮だった。
「畠だって、お百姓さんにほめられるぐらい、うまくやりましたのよ。わたくしが作った野菜を食べさせてあげたいくらいでしたわ」
彼女は鍬《くわ》をふるっている自分の姿を思いだした。生れて始めての経験だったが、勝気な性格がそれに耐えさせた。死んだ夫のことを考えながら、死んだ夫に話しかけながら、一鍬、一鍬、畠を掘りかえしていった日々のことを憶えている。北山に黄昏《たそがれ》の陽が沈むまで彼女は肉体をクタクタにさせた。それが哀しみを忘れる一番いい方法だったからである。
「一番、つらかったのは」
夫がたずねた。
「俺が死んだ時か」
「ええ。それと、赤ちゃんを肺炎で手遅れにさせた時でした。あなたに申しわけなくて……」
「もういい。あれは医者が来てくれなかったからだ」
あの哀しい日のことを愛子は首をふって思いだすまいとした……。
人の気配で愛子はうっすらと眼をあけた。病室の入口に看護婦が立っていた。右手に花の籠をさげている。
「どう? 長山さん」
力ない微笑を愛子は浮べたが、それが精一杯の努力だった。
「お見舞の花なんだけど、やはり廊下におきましょうか」
愛子の体が衰弱してから、病室に並べてあった花の植木鉢はすべて廊下に運びだされている。花の匂いさえ、彼女には息苦しくなっていた。
「ええ」
彼女はかすかな声で、
「どなたから……」
看護婦は花籠のなかに手を入れて、小さな封筒をさがしだした。
「何と読むのかしら。ヘイモク。平という字に目という字だけど。ヘイモク……廊下におきますよ。この花は。もうすぐ先生が来られますから。何かあったらベルを押してください……」
ヘイモク……いや、平目という名。遠い遠い記憶が彼女に甦ってきた。平目。あの灘中の生徒。自分たち女学生のあとをいつまでも従《つ》いてきた少年たち。
(どうして、平目という人が……)
ぼんやりとした頭のなかで愛子は平目の友人だという男が自分をたずねてきた日を思いだした。
そしてその平目が戦死したことをその男は教えて、万年筆をポケットから出したことを記憶していた。
(戦死した人が……どうして花籠を……)
しかし彼女にはその理由を探索するのも物憂かった。生きている者と死んだ者との区別をもう彼女はする気さえなかった。死は既にこの病室の窓にさし入る翳《かげ》のように愛子の顔を覆いはじめていた。
ふたたび夢を見た。周山で彼女が子供をなくした夜のことだった。
医者がなかなか来なかった。使いに出した男が戻ってきて医者は今、別の村に往診に行っているから、ここに来るにはあと二時間かかるだろうと報告した。
小さな寝床のなかで赤ん坊は火照《ほて》った顔をして白眼をあけて寝ていた。息づかいがひどく荒かった。愛子は濡れた手ぬぐいをその頭におき、おいてはすぐ、次の濡れ手ぬぐいに変えねばならなかった。
火鉢においた薬鑵が細かな音をたてていた。廊下の硝子戸の前にたった舅《しゆうと》が、
「雪だ」
と辛そうに呟いた。既に灰色がかった夕靄《ゆうもや》がたちこめて、そのなかに白い大きな雪が舞いおりてくるのが愛子の眼に見えた。
「医者は何をしているんだろう」
と舅《しゆうと》はわけもなく、幾度も同じ言葉を呟いた。
夢のなかで彼女は自分の左手がとられるのを感じ、ふたたび眼をあけた。
内田医局長と栗原医師とが枕もとにたっていた。二人はまだ愛子が眠っていると思ったらしく、
「あの注射はもうやめよう」
「ええ」
「解熱剤はうったのかね」
「二時間前にうちました」
「とに角、この二、三日が山になるかもしれんね」
二人の途切れ途切れの会話が彼女の疲れ果てた耳に入ってきた。
今夜も鋭一の帰宅はかなり遅かった。小津は疲れた表情で洗面所で手を洗っている息子の姿を見て、愛子の容態がはかばかしくないのを感じた。
「ただ今、帰りました」
茶の間の襖を一寸あけて顔をだし、すぐ洗面所から二階に昇ろうとする息子を、小津はよびとめて、
「お茶でも飲まないか」
「いや。用がありますから」
「いいじゃないか」
鋭一は少し不機嫌な眼で家族を見ると、茶の間に足を踏み入れた。
「疲れているようだわねえ」
「ええ」
母親のさしだした湯呑みをつかみ鋭一は音をたてて茶をすすった。小津はそれをじっと見ながら、
「どうなんだ、患者さんは」
「患者?」
「悪いのか」
鋭一は湯呑みをおいて、
「まあね。今、ぼくの診ているのは手遅れの癌ですから」
「気の毒ねえ」
と母親は溜息をついて、
「手術はできないの」
「手術はしましたよ。しかし手術しても無駄ですね。そういう進行した患者は」
いつもなら、こういう鋭一の物の言い方は小津の気に障らない。しかし、この時、彼は息子の無責任な口調にひっかかって、
「無駄とわかってて、手術をなぜするんだね」
とたずねた。
「患者に一時的にしろ安心感を与えますからね。それにレントゲンや機械でみるより、開腹したほうが病気の進行もわかるから、研究材料になります」
「すると……お前は研究材料のため、あの人に手術をしたのか」
小津は自分の声に怒気のまじったのを感じた。
「あの人って……長山愛子のことですか」
鋭一は怪訝《けげん》そうな眼で父親を見つめ、
「知っているんですか。あの患者を……」
小津は息子だけでなく、妻や娘が自分を注目しているのに気づいたが、もう遅かった。
「知っている」
と彼は静かに答えた。
「父さんが灘中の頃、甲南の女学校に通っていた……」
「どうして、その方が鋭一の病院に入院していることを御存知だったの」
と伸子が疑わしそうに夫にたずねた。
「鋭一の病院に行った時、偶然、名札を見たのさ。それだけだ」
「ほんとですか」
小津は苦い顔をして湯呑みを手に持つと、
「長山さんの御主人は立派な海軍士官だった。戦死されて、あの人もその後随分、苦労されたんだ」
「はじめて聞いたわよ。そんな話」
「お前に話す必要も別にないだろう」
伸子は何かを誤解している。男と女とが知りあえば、そこにいかがわしい関係しかないと思うような人間が世のなかにいるが、伸子もそんな人間なのかもしれぬ。
電話のベルが鳴った。鋭一が立ちあがって廊下に出た。
しばらく「ええ」とか「ほんとですか」という声が茶の間に伝わってきたが、間もなく戻ってきた息子は、
「用事ができました。出かけてきます」
「今から」
母親はびっくりしたように顔をあげた。
玄関で靴をはいていると、追いかけてきた母親が驚いたように、
「本当に何があったの」
「栗原さんと会うんです」
「こんな時刻。もう十時を過ぎているのよ」
鋭一は返事をせずに玄関をあけた。表通りに出て、しばらく待ったあとタクシーをひろった。
「君、困ったことになったよ」
さきほど、電話で聞いた栗原の困惑した声が鋭一の耳にまだ残っていた。
「どうしたんですか」
その時、鋭一はすぐに島田看護婦の名を思いうかべた。しかし栗原の困ったことは別のことだった。
「すぐ来てくれないか。新聞社に例の癌新薬のことを嗅ぎつけられたんだ」
「どこから漏れたんです」
「わからない。とに角、すぐ、ここに来てくれ」
栗原は麻布のマンションの名を教えた。そこが両親から離れて自由な独身生活を楽しんでいる彼の住居らしかった。
教えられた通り、東洋英和の校舎を左手にみて真直ぐに坂路をおりた右側にそのマンションはあった。鋭一など、今後、何年かかっても住めぬような洒落《しやれ》た建物である。
タクシーをおりて、玄関の自動扉をくぐると左手のロビーに栗原が一人の男と腰かけているのが見えた。その男が新聞社の人らしかった。
鋭一をみると、栗原は強張《こわば》った顔で相手に、
「同じ医局の小津君です」
と紹介をした。新聞記者はポケットから名刺を出して鋭一にわたしたが、それには弓削《ゆげ》という名が書いてあった。
「実は今、長山さんという患者に使われた癌新薬のことを伺っていたんですが」
と弓削記者は鋭一の顔を直視しながらたずねた。
「我々のほうに、この新薬はあなたたちが最初に患者に使われたと聞きまして」
鋭一は栗原の表情をチラッとみて、
「はい」
と答えた。
「その薬は栗原先生のお父上の会社で作られたものだそうですね」
「はい」
「それで、患者がこの薬を使うことは前から知っておられたのですか」
「失礼ですが」
と鋭一は、
「医局長に会って頂けたでしょうか」
「いえ。これからお目にかかるつもりです」
「そうですか。何分、新薬のことですから、私たちのような医局員は医局長の御許可がないと、何もお話できぬ次第でして……」
鋭一は心のなかで、自分は医局の下っ端であって、今度のことには責任はない立場をとるべきだと、素早く考えた。
「しかし」
と弓削記者は食いさがって、
「あなたたち、お二人が長山愛子さんの担当医なんでしょう」
「そうです」
「長山さんはその新薬のため、病状が悪化したと聞いていますが」
「え?」と鋭一はとぼけた。「あの薬のため。誰がそんなことを言ったんです」
「それは新聞社の秘密ですから、言えません」
しばらく沈黙が続いたあと弓削記者は、
「じゃ、内田医局長にお話をうかがってみますが、医局長のお許しがあれば、あなたたちも御説明頂けますか」
と言った。
「ええ。勿論です」
栗原はうなずいて、
「一言、お断りしておきますが、我々が新しい抗癌剤を使ったのは、あの患者の治療に適していると考えたからですよ。その点、誤解のないようお願いします」
「すると、あの長山さんには恢復の希望があるというわけですね」
「はい」
新聞記者は少しふしぎそうな顔をしたが、
「そうですか。それなら話は別です。実は我々に伝わってきた情報では、長山さんはもう手遅れで、手遅れの患者だから新薬の実験にさせられた、と言うことになっていたものですから……」
そういってポケットにメモをしまうと、椅子から立ちあがり、
「どうも夜分、失敬いたしました。仕事の上で色々、お気に障《さわ》る質問もしましたが、許してください。長山さんが全快される日が近いことを希望しています」
そう言って頭をさげた。
栗原は新聞記者を玄関の自動扉まで送り出すと、不機嫌な顔をしてロビーまで戻ってきた。
「君に心当りないか。誰が新聞社にしゃべったんだろう」
「まったく、わかりません」
鋭一は首をふった。
「しかし、どうなさいます。あの患者が治るとおっしゃったのは、少し、まずいように思いましたが……」
「だが、ああ言わなくちゃ、仕方ないじゃないか……」
吐きすてるように栗原は言うと、神経質に爪を噛みはじめた。
「医局長に」
と鋭一は腰をあげて、
「今のこと、電話をされますか」
「ああ」
鋭一はロビーの隅にある赤電話に近よって受話器をとりあげた。受話器をとりあげた瞬間、彼はこのことを新聞社に密告したのは看護婦ではないかという疑惑が頭をかすめた。
「お待ちくださいまし」
医局長の細君の声が伝わると、鋭一は栗原をよんで受話器をわたした。
「まずいことになりました」
栗原は暗い顔をしてうつむいたまま受話器を握りしめていた。体は大きいが、いざとなると気の小さい性格がそのポーズにすべてあらわれている感じである。
ロビーのなかは暗く、空虚だった。鋭一は煙草をふかしながら、電話の終るのをじっと待っていた。
もし、新聞にこれが載ると、打撃をうけるのは何よりも栗原の父親の会社であり、井伊教授だろうと彼は考えた。俺は下っ端だから責任はない。上の指示でやったのだと言いのがれができるし、そうせねばならない。
(しかし、あの薬がやはり駄目とすると、学会で発表はできないわけか)
それが口惜しかった。彼は大きな階段教室にずらりと並んだ各医大の連中の前で、新薬のデータを発表する自分の姿を毎日、思い描いていたのだ。
鋭一と栗原とが暗いホールで相談をしあっているこの時刻、上野駅のホームには東北に向う夜行列車が発車を待っていた。
「お夜食よ」
と今井啓子は島田看護婦に駅弁とお茶とをわたして、
「遅いわねえ田原先生」
と呟いた。ホームの時計は発車、三分前を示していた。
「向うに行ったら手紙をくれるわね」
「ええ」
言葉少なに島田看護婦はうなずいた。
「何もかも忘れて働くのよ」
と啓子は時計を見ながら、
「東京でのことは忘れるの」
その時、向うから鞄を持った田原の風采のあがらぬ姿が見えた。階段を急いで駆けのぼってきたのか、額に汗をにじませて、
「やあ、遅れて、すまん、すまん」
と息をはずませながら、彼はあやまった。
「先生、島田さんのこと、よろしくお願いします」
啓子が挨拶をすると、田原はうん、うんと言って、
「心づよいよ。信頼できる主任のプレ(看護婦)さんがそばにいるとね、医者も患者も」
「彼女なら大丈夫ですわ」
発車のベルが鳴った。田原は島田看護婦を先にして列車のステップをのぼった。
「皆に、よろしくと言ってくれ」
「皆って……」
「医局の連中だよ、もちろん」
列車がゆっくりと動きはじめた。啓子は四、五歩、歩きながら片手をあげ、デッキから自分を見つめている島田看護婦の哀しそうな顔に微笑みかけた。そしてその哀しそうな顔は田原医師の姿と一緒に間もなく視界から遠ざかっていった。
「東京とも当分、お別れだね」
上野の灯を見つめている看護婦に医師は話しかけた。
「ぼくも東京を去る時、寂しかったよ。辛かったね。挫折したという気持だった。しかし、やがて向うに行けば君も見つける筈だよ。医者や看護婦を本当に必要としている人たちを」
「ええ」
ネオンの灯はひとつひとつ去っていく。大きな広告塔、キャバレーのネオンサイン、電光ニュース。菓子箱のテープをまきちらしたように車が走っている。
「飲まないか」
田原はポケットからウイスキーの小瓶を出して自分は飲めないが、汽車にのる時は眠り薬の代りに一杯、ひっかけるのだと言った。
「先生」
「何だい」
「今、外科の医局では癌の新薬の事件でゴタゴタしているのを御存知でしょうか」
島田看護婦は突然、顔をあげて呟いた。
「新聞社で人体実験じゃないかと……」
「そうだってねえ。しかし俺は何も言いたくないよ。何と言っても育ててくれた医局なんだから」
「新聞社に投書したのは……」
看護婦は田原の眼をじっと見つめて静かに言った。
「わたし……なんです」
田原は眼をまるくしてウイスキーの小さなコップを口に運びかけるのをやめた。
「なんのために……」
このところ医局には重くるしい空気が流れていた。医局員たちは表だってはあのことを話題にはしなかったが、事態がどうなるのかに無関心な者は一人もいなかった。
長山愛子の新抗癌剤の投薬はもう中止されてはいたが、容態は一向に恢復しない。体の痛みを和らげるためにモルヒネの注射がはじまり、この注射のため彼女は一日中、ほとんど昏睡したように眠っている。
病室の入口前におかれた植木鉢や見舞の花が少しずつ枯れて、掃除婦の手で捨てられていった。平目という名で小津がひそかに贈った花籠の花も色あせて病院のゴミ集積場に放り出された。その放りだされた花の残骸に、ある日、雨が降った。
「今日は気分が良さそうですね」
と注射をうちに来た看護婦が愛子の脈をはかったあと、笑顔をむけた。
「ええ」
すっかり頬肉の落ちた彼女は、
「昨日にくらべると、ふしぎなくらい」
「よかったわね。今日から少しずつ良くなっていきますわよ」
「そうだと、いいんですけど」
と愛子は弱々しく微笑して
「あの……お願いがあるんだけど」
「なんでしょうか」
「洗髪をして頂けないでしょうか。だらしなくて嫌だから」
「ええ」
看護婦はうなずいて、彼女の上半身を、起してやると背中に枕をあてがってその髪をすいてやった。
「すぐ、シャンプーとお湯をもってきますからね」
看護婦は病室を出て別の用事を思いだした。三十分の約束が一時間になった。
ようやく愛子の洗髪の用意をして病室に戻ると愛子は蒼白い顔の眼を閉《と》じたまま眠っていた。
「長山さん。長山さん」
と看護婦は呼びかけたけれども、返事はなかった。
すぐに看護婦室から電話がかけられた。栗原と鋭一とは医局から大急ぎで病棟に駆けつけた。
「酸素テントを用意して」
栗原は病人の顔をみると、怒ったように看護婦に命じた。カンフルの注射針が鋭一の手で彼女の細い腕にさしこまれた。
「もちますか」
と鋭一は自分の横でステト(聴診器)を動かしている先輩にたずねた。
「わからん」
「患者の自宅に連絡したほうが、いいでしょうか」
黙ったまま栗原はうなずいた。やがては来るべき結果だが、彼女がもし今日、死亡すれば、それは一人の患者が息を引きとっただけではすまされない。弓削記者は新薬とこの死の関係を徹底的に調べるだろう。
鋭一が急いで病室を出たあと、栗原は窓のそばにたって、中庭を濡らす霧雨をじっと見つめていた。
雨はしずかに病棟の屋根や中庭の花畠に降っている。中庭には人影はひとつもない。
(その時は……)
と栗原はぼんやり、
(自分がやめればいい。どうせ、病院に残ったところで、この事はあとを何時までも引くだろうから……)
その霧雨の日、小津は会社の近くの、花屋に寄った。この前、愛子に平目の名で花を贈った店である。
「いらっしゃい」
と店員は小津の顔を憶えていたのか、愛想よい笑顔で迎えた。
「薔薇のいいのがありますけど」
「いや、今日は鉢をもらおう」
小津はしゃがんで床に並べてある鉢を眺めた。病人だからあまりに色の強い花は避けようと思った。
彼は店員の渡したカードに、
「もうひとふん張りです。平目」
と書いた。小津にしてはせいいっぱいのユーモアのつもりだった。
「この間と同じ病院ですね」
店員は心得たように、
「二時間ぐらいで届けます。特別のサービスです」
と答えた。
小津はバスにのって家に戻った。夕食までまだ少し時間があったので、彼はこの間、買った筆で習字の稽古をはじめた。
台所ではいつものように妻の伸子がカタカタと音をたてながら夕食の支度をしていた。娘の由美は外出をしていて、まだ戻ってはこなかった。
「由美がプレイヤーを買ってほしいんですって」
と台所から妻が話しかけた。
「プレイヤーって、レコードを聞く?」
「ええ。前からせがまれていたんですけど」
「うちにあるじゃないか」
「自分一人だけのがほしいと言うんですよ」
「すると、また、わけのわからんジャズを一日中、かけるんだな」
小津は機嫌がよかった。やがて夕食の支度ができた時、帰宅した娘をからかい、結局、プレイヤーを誕生日に買ってやる約束をした。
「あんたがお嫁に行ったら」
と伸子は娘に、
「一番、がっかりするのは、お父さんだろうね」
電話が鳴った。この頃はあの誰からともわからぬ無言の電話がかからなくなっている。
「出なさいよ。鋭一かもしれないから」
母親に言われて由美はたちあがると、廊下に出て、
「うん、うん、わかった」
と短く答えて茶の間に戻ってきた。
「お兄さんからよ。今晩は宿直じゃないけど、ひょっとすると病院にとまるかもしれないって」
「どうして」
「あの長山さんとか言う患者さんが危篤なんですって」
小津は食卓から急に立ちあがった。それから自分の動作に気がついて、腰をおろした。
「あの人が……危篤だと、鋭一が言ったのか」
「そうよ」
彼は黙って食事を続けた。由美がさきほどつけたテレビではクイズがはじまっていた。
「東京が夏の時、メルボルンは春ですか。夏ですか。秋ですか。冬ですか」
伸子は夫の暗い顔をじっと見ながら、
「あなた……行っていらっしゃい。病院に」
小津は箸《はし》をおろしてうなずいた。
黙って食卓から立ちあがり、隣の部屋に入ると伸子もついてきた。洋服箪笥をあけて彼女はワイシャツをとりだし、小津は無言のまま洋服に着かえはじめた。
「はい、札入れ」
「ああ」
その時、夫婦ははじめて口をきいた。
「遅くなるでしょうね」
「かも知れない」
うなずいて小津は伸子の顔をみた。そして、
「すまんな」
と小声で礼を言った。愛子とのことを詳しくは彼女には話してはいない。しかし話せば誤解なくすべてがわかってくれるだろう、という安心感が今、伸子の顔をみると起ってきた。
その伸子に送られて家を出た。表通りまで歩きながら空を見あげると、東京には珍しく一つ、二つ、三つと星がまたたいている。小津はたちどまって、それら星々を、じっと見つめた。平目のいる世界。平目だけでなく死んだものたちが住む世界。愛子が今、その世界に向ってこの地上から去ろうとしている実感が彼の胸に襲ってきた。平目の短い人生。愛子の人生。その二つに触れあっている自分の人生。
小津はタクシーを拾い、病院の前でおりた。病院は夜の海を走る船のように見えた。しずまりかえった黒い建物に暗い灯のついた窓がある。彼は自分の靴音をききながら長い、つめたい廊下をコツコツと歩いた。ふしぎに心は静かである。愛子が死んでいくことには哀しみというより諦めに似た気持のほうが今は強かった。平目が一番早く、その次に愛子が行くあの死の世界に遅かれ早かれ、自分も足を踏み入れるのだ。エレベーターのボタンを押しながら小津は真実、心の底でそう思った。
病棟は空虚でこの時刻、どの部屋も消灯して寝しずまり、廊下に暗い灯がついているだけである。看護婦室だけからあかるい電灯の光が洩れている。
「すみませんが」
と彼はその看護婦室を覗いた。
机にむかっていた若い看護婦が驚いたように顔をこちらに向けた。
「長山さんが……お悪くなったと聞いたものですから」
「御親類の方ですか」
「いいえ、知りあいです……」
看護婦は椅子から立ちあがって、気の毒そうに呟いた。
「長山さん……お亡くなりになったんです。一時間ほど前に……」
小津はぼんやりとした表情で看護婦室の入口に立っていた。
「亡くなられた?」
「ええ。先生たちも私も努力したのですけど……」
「亡くなられた……それで……」
「御遺体は霊安室のほうに安置してあります。お友だちの方が二人ほど来ておられますけど……いらっしゃいますか」
小津がうなずくと、看護婦は霊安室に行く道順を教えてくれた。
「警備員がいますけど……長山さんのお知りあいだとおっしゃってください」
小津は礼を言ってから、
「長山さんは……随分、苦しまれましたか」
「いいえ。昏睡されて長かったので、苦しまれなかったと、思います」
教えられた通り、小津はがらんとした病棟の一階までおりて中庭に出た。
真暗だった。壁のように立った病院の窓々のほとんどの灯は消えて、ただ各階の看護婦室だけが仕事を続けている。生命が生れ、生命が消えていく場所。人は自分たちがいつ頃、死ぬだろうかと考えるが、どんな場所で死ぬかと考えはしない。愛子だって、まだ健康だった頃に、自分が息を引きとる場所を空想したことがあったろうか。この病院の、夜のわびしい病室のことを想像したことがあるだろうか。
中庭をぬけて茂みの奥にあるコンクリートの四角い建物に小津は近づいた。そこが霊安室だった。
入口の傍にある小部屋で本を読んでいた警備員に、
「長山さんの……知り合いですが」
そういうと相手は小津を観察したのち小窓から木札をわたして、
「階段をのぼって左手です。帰りにこれを戻してください」
と言った。
セメントの臭《にお》いのする階段をのぼると、灯のともった部屋から灯が洩れていた。小さな椅子に二人の女が腰かけて、蝋燭の火影の向うに、白木の木棺がおかれ、線香の煙がしずかにたち昇っている。
二人の女性に黙礼して小津は木棺の前で手を合わせ、線香に火をつけた。
(愛子さん。私です。小津です)
と彼は心のなかで呟いた。
(また、あなたに会いましたが、こんな形で会うのだと……最後にお目にかかった二十数年前、考えもしませんでした)
すると彼のまぶたに周山の常照皇寺の石段をゆっくり降りて来たモンペ姿の愛子がうかんだ。あの時、小津は二十四歳で、愛子は二十三歳だった。
霊安室には何の装飾もなかった。すべての壁はむきだしのコンクリートで蝋燭の炎がその壁に染みのような影をつくっていた。小津は愛子の友だちらしい二人の女性の近くに腰をおろした。
眼をつむって彼は長い長い過ぎ去った歳月の一|齣《こま》、一|齣《こま》を思いだした。国道電車にのっていたセーラー服姿の愛子。芦屋川の川ぞいの道を小津と平目とがついてくるのに気づいて、ツンとした表情で歩きはじめた彼女。芦屋の海で友だちと水をかけあっていた水着の愛子。それらが織りなしていた彼女の人生は一時間前にすべて終ったのだった。
「あの……」
声をかけられて小津は眼をひらいた。
「まだ、ここにいてはりますか」
愛子の友だちだった。すっかり老けてはいたが、その顔は昔、みたような気がする。
「ええ」
「私たち、愛子さんが亡くなられたことを皆に電話で知らせてきます。半時間したら戻ってきますから……よろしくおねがいします」
小津が椅子から立ちあがると、友人の女性は驚いたように彼の顔を眺めて、
「失礼ですけど……灘中にいっておられた方と……ちがいますか」
「はい」
「わたくしを憶えてはりますか。愛子さんと一緒にいつも国道の芦屋から電車で通学していました中村です」
小津は目をしばたたいて、幾度もうなずいた。この時、平目のあの魚のような顔が彼のまぶたに甦《よみがえ》ってきた。
彼女たちが出ていったあと、小津は組みあわせた両手を膝の上において、一直線にたちのぼる線香と時々、ゆらめく蝋燭の炎をながめた。ここにはそれだけしか愛子をとむらう物はなかった。
間もなく葬儀屋が来て、遺体を運んでいくのだろう。そして今、その遺体と向きあっているのは故人がひょっとすると記憶もしていなかった男なのだ、と小津は考えた。
そう……小津は愛子の他の知人たちのように彼女の人生の圏内にいた人間ではなかった。にもかかわらず、彼がこの夜、彼女の遺体の守りをしている。小津はそこに運命の偶然さではなく、人生の意味がかくれているような気がした。
(自分や平目にとって……)
と小津は組みあわせた両手の指を見つめながら考えた。
(この人はどんな意味があったのだろうか)
人生には幾十回、出会っても自分の心に何の痕跡も残さぬ人がいる。しかしたった一度の触れあいでも生涯、その人のことが忘れられぬような相手もいる。平目にとってこの人はそんな女性であり、自分にとって平目はそのような友人だったのだ。
「だが、あなたには、平目や私はほとんど関心のない人間だったでしょうな」
と小津は愛子の遺体に話しかけた。
「そんな人間がこうしてそばにいるのは、御迷惑かもしれませんが、我慢してください」
小津はどのように今、彼の胸を去来しているさまざまな感慨を語っていいのか、わからなかった。
(もし戦争がなかったら……平目かて今頃は細君もあり、何人かの子供の父親になっていたかもしれへんのです)
彼の心の言葉はいつの間にか、むかし灘中の生徒だった時に使っていたあの関西弁に変っていた。
(もし戦争がなかったら……こうしてあなたも一人さびしく死なれることはあらへんかったでしょうに……)
だから私はあなたと平目とを別々に考えることができないのです。と小津は愛子に言った。あんたたちは同じ運命を別けあったのです。そして私はまだこうして生きながらえているが、平目は死に、あなたも息を引きとられた。
「私もいつか、あなたたちの世界に行きますよ」
がらんとしたこのセメントの壁のなかには愛子の遺体を飾る花一つなかった。その静けさに眼をつぶっていると、小津の眼からゆっくりと泪《なみだ》がながれた。それは鋭一たち若い世代には決して理解できぬ泪だった。戦争で親しかった者と愛していた者とを失った世代でなければわからぬ泪だった。
(この部屋じゃあんまり、可哀相やで)
と彼は平目に向って言った。
(花もないし、家族もいないんやから)
(そんなら……)
と泪のなかに平目の顔が浮んで彼に囁いた。
(口笛でもそっと吹いてきかせてくれや。お前、灘中の時うまかったやんか。あの人と俺のために)
小津は唇《くちびる》をとがらせて口笛を吹こうとした。しかし、その唇からはかすかな、途切《とぎ》れた音が出ただけだった。
[#改ページ]
勝 利
いつか製薬会社の研究員と相談をした会議室で内田医局長は、腰をかけていた。テーブルを指先でコツコツと叩きながら彼は自分の考えをまとめようと試みたが、胸に拡がっている不安を消すすべもない。
扉を叩く音がした。
「どうぞ」
白衣を着た栗原と鋭一とだった。一礼したあと沈黙したまま自分と向きあって椅子に腰をおろした二人に、
「誰も……気がつかなかったろうね」
と医局長が相変らず机をコツコツと叩きながら訊ねた。
「はい。そっと参りました」
「そう……」
しばらく無言ののち、
「遅いなア。おやじさんは……」
「もうすぐ、来られると思いますが……」
すると扉のノブが回転して、井伊教授が片手にパイプを握りながら入ってきた。三人はたちあがって彼を迎えた。
「我々が至らぬため」
と医局長は井伊教授に頭をさげた。
「くだらぬ失態を演じて申しわけありませんでした」
「いや」
火の消えたパイプを噛みながらおやじは、
「それより、事態はどうなのかね」
「あの弓削という記者からはたびたび電話がかかっています。そうも断りきれませんから今夜、会うつもりでおります」
「それで……」
「それで、どのような話し方をするか、御考えを伺いたいと思いまして……」
「そうだねえ」
井伊教授は溜息をついて眼をつむった。
「その前に、君の方策を聞こうじゃないか」
「一つはあくまで患者の死は新薬によるものではないと主張することです。しかし、これは必ずしも事態の解決にならぬという弱点があります」
「というと?」
「新聞社のほうでは患者の死亡理由より、新薬を患者の同意なしに使ったという点を問題にしているようですから」
「患者の同意を口答で得てあったという風にはできないかね」
「それも考えたのですが……」
医局長はうなずいて、
「しかし、なぜ他の抗癌剤をやめて新薬だけを使用したかと追及されますと困りませんか」
「追及してくるかね」
「弓削という記者はなかなか理屈っぽい男でして……既に医療評論家などを歩きまわって色々、知識をつめこんでいるようですから」
栗原も鋭一も無言で二人の問答に耳を傾けていた。教授の心の狼狽《ろうばい》は、彼等には手にとるようにわかった。火のついていないパイプに気づき、ポケットからライターを出して、そのまま手で弄《もてあそ》んでいる。
「記事さし止めという風にはいかんかな」
「それも色々と手をまわしてみたのですが」
医局長は弱々しく首をふった。
「困ったことになりました……」
「ああ……」
「内科の連中も薄々、知っているようです。向うは大悦びでしょう。これでうちの癌センターの主導権が握れると考えているかもしれません」
やがて創設されるこの大学病院の癌センターをめぐって、内科と外科とが主導権を争っていることは誰でも知っていた。今度の不祥事が表沙汰になれば、当然、井伊教授と外科医局には傷がつき、それだけに内科の連中は手をうって悦ぶにちがいない。医局長の恐れたのはこの外科医局の敗退だった。
しばらくの間、四人は黙っていた。黙ってはいたが皆はそれぞれある同じ打開策を考えていた。だがそれを誰が先に口にするかをためらっていたのである。
「栗原君」
とたまりかねたように医局長が口をひらいた。
「君に……何か、考えはないかい」
そして彼はじっと栗原の顔を凝視した。それは皆が今、心のなかで思っていることをお前が言えという合図でもあった。
「先生」
栗原は大きなその体を椅子から起して、少し、上ずった声で答えた。
「ぼくが……こんなことを申すのは何ですが、この新薬は父の会社で作ったものです。いわば、罪の大部分は父の会社にもあります。その意味で……」
彼はうつむいて、言葉を探すように唾をのみこみ、
「その意味で、ぼくにこの新薬についての責任をとらせて頂けないでしょうか」
おやじも医局長も栗原の言葉を遮《さえ》ぎろうとはしなかった。彼がこれから言おうとすることは、二人にはもうよくわかっていたのである。
「つまり、この新薬は先生たちに御相談せずに、私が独断で使ったことにして頂きたいのです。担当医として私に全責任を負わして頂きたいのです。場合によっては私が医局をやめることも決心しております」
「そんな……」
と医局長は首をふった。
「そんな風に君だけに責任を押しつけるのは、我々の本意じゃないよ」
しかしその言葉が医局長の心から出たものでないことは鋭一にもよくわかっていた。
「いえ。ぼくのことは、どうぞ、御放念ください。父も前から……自分の会社に来ないかと申しておったのですから……」
「そうか……」
溜息とも吐息ともつかぬものを口から洩らして内田医局長は、
「すまんが……そうしてくれるか」
「はい」
「いずれは我々も、君の将来に応援するから、今は我慢してくれるかね」
「はい」
ありがとう、と医局長は膝の上に手をおいて頭をさげた。すべてそれらは白々しい芝居だったが、おやじも医局長も感動したようにその芝居の役割を一人一人演じていた。
(勝った……)
と鋭一は心の中で呟いた。
(これで俺は傷つかず、栗原は医局から追い出せた。おやじはもう栗原と自分の娘とを結婚させることなど、これっぽっちも考えなくなるだろう)
しかし彼もその芝居の端役《はやく》をやらねばならなかった。鋭一はやや悲壮な表情をつくり、
「栗原さん一人に責任を負わせるのはどうでしょうか。ぼくもやはり担当医だった以上……」
「いいよ、いいよ」
栗原は哀しそうに首をふった。
翌日、鋭一はいつもより早く眼をさました。朝刊にどのような記事が掲載されているか気になったからである。
弓削記者の勤めている新聞は家にはとっていなかったから、彼は朝食の支度をしている母親に、
「散歩してくる」
と言って外に出た。
商店街にある新聞配達店に寄って、問題の新聞を買った。急いで三面を開いたが、記事はなかった。ホッとしたような気持と同時に不安を感じた。栗原と同時に自分の名も弓削記者が書いていないかが今は彼の心配の種だった。
その日、医局に出かけると、栗原は一足さきに来ていた。彼はチラッと鋭一の顔を見たが何も言わなかった。
九時すぎ、皆の集ったところで内田医局長が説明をした。
「おそらく、今日の夕刊に載るので、皆にもわかると思うが、患者の長山さんについてのことで、世間の誤解を招くような事態が起ったのは残念です。その誤解の責任をとって栗原君が病院をやめられると言う。井伊教授と私とはしきりに慰留したのだが、御本人の辞意が強いので、まことにやむをえないが、その申し出を受けざるをえませんでした」
医局長は皆の同意を得るように一同の顔を眺めたあと、
「しかし、栗原君が医者として良心にはずれた行動をとったのではないことは、同じ立場にある諸君には理解してもらえると思う。今度の事態は栗原君にとっても、我々医局員にとっても打撃だが、しかしそれで結束が乱れては困ります。我々は近い将来に栗原君がもう一度、大手をふって医局に戻られる日を信じ、その時は拍手をもって迎えたいと思います」
鋭一は医局長の言葉を聞きながら、田原の送別会のことをふと思いだした。あの時も医局長は同じようなことを口にしたのである。近い将来、田原君が医局に戻られる日を信じたいというようなことを言ったのである。しかし田原が二度とこの病院に帰らぬことぐらい、誰でも知っていた。
(永久追放か……)
と鋭一は栗原の強張《こわば》った横顔をそっと窺った。
(しかし、栗原には明日の仕事に困ることはないんだしな。有力な父親もいる。大きな製薬会社もバックだ。もし、同じ運命にあったのが俺としたら……そうはいかない)
そう思うとほんの少しだが心の隅にあった栗原への同情も奇妙なくらい早く消えてしまった。
「峰君」
話が終ると、医局長は峰という医局員に今とはちがって陽気に、
「栗原君の送別会の幹事は君、やってくれないか。豪華にやろうじゃないの。豪華に」
と声をかけた。
その日の夕刊に問題の記事が載った。記事は鋭一がびっくりするぐらい、癌の薬や新薬についての正確な調べがのべられていて、それを患者の同意なしに使ったことは一種の人体実験ではないかという疑問や、それにたいする医療評論家や医者の感想がつけ加えられていた。医局長の談話、栗原の弁解は活字になっていたが、鋭一の名は記事には見えなかった。
一つの山を登り終えたのだから、次の山を征服せねばならぬと鋭一は考えた。幾つ山を越えればいいのか、彼にはまだわからない。しかし、それらをすべて乗り越えると陽《ひ》がまぶしく当る高原を見おろすことができるだろう。陽《ひ》がまぶしく当る高原――それは鋭一にとってはこの大学病院での教授の椅子だった。
栗原は医局をやめることになった。鋭一にとって一つの山は登り終えたのである。それならば次の山の征服にとりかからねばならない。
だから鋭一は次の土曜日の午前を待っていた。土曜日の夜に井伊教授が厚生省の役人たちと会食をすることを知っていたからである。
その午前、彼は病院から井伊佳子にだしぬけに電話をかけた。女中がとりついだあと、受話器に出てきた佳子の声はなぜか力がなかった。
「お久しぶり」
と彼女は儀礼的に言った。
「お元気ですか」
「元気ですよ」
鋭一はわざと快活な声で、
「その上、土曜日でしょう。空が晴れているでしょう。家のなかにじっと閉じこもっている手はないと思いますがね。出かけましょう」
彼女は一寸、沈黙して、
「わたくし……この頃、あまり外出したくないんです」
鋭一は聞えないふりをして、
「それじゃ、帝国ホテルのロビーで午後四時に待っています」
相手の返事を聞かずに電話を切った。
強引なこの誘い方には考えがあった。出かけませんかという言い方をするより、出かけましょうという一方的な言い方をしたほうが女性は弱くなることを鋭一は前から知っていた。それにそこには賭のスリルもある。午後四時に佳子が帝国ホテルのロビーに姿を見せるか、どうかで、彼女の自分に対する好意の強弱がわかるのだ。
(来るだろうか。来ないだろうか)
午後三時頃まで例によって病院と医局との間を往復したが、いつもとちがって鋭一は心に張りを感じながら仕事ができた。この賭の結果がたのしみだったからである。
どういう風に話を持っていこうかと昼食を食べながら考えた。
前に医局の先輩で目ざした女を必ず仕とめると自慢していた男がこう言ったことがある。
「君、女と話をしている時、次の言葉を耳もとで囁《ささや》けば、相手は必ず陥落するものだよ」
それから彼は鋭一に女の自尊心をとろけさす二つの言葉をそっと教えてくれた。カレーライスを口に運びながら鋭一は急にその言葉を思いだし、一人で笑った。今日、できたら、その二つの言葉を佳子にそっと囁いてみて、反応を見てやろうかと思ったのである。
「なにを、ニヤニヤしているんだね」
顔をあげると、同じ医局の梅宮という男がコーヒーを手に持って立っていた。
「いや、別に……」
「憂鬱だなア。田原さんのことといい、今度の栗原問題といい。医局も小さいながら、一つの組織だから仕方ないんだろうけど……」
帝国ホテルのロビーで鋭一はソファに腰をおろして、玄関の自動扉から出入する客と腕時計を交互に見ながら、佳子の姿をさがした。
(来るだろうか。来ないだろうか)
はじめは自信があった。ここに来た時は佳子が必ずやってくるという、たかをくくった気持を持っていたのに、四時をもう十分もすぎたにかかわらず、彼女は一向にあらわれないと、心は動揺しはじめた。
(あの娘は……やはり、俺など問題にしていないんだ)
すると鋭一のようなエゴイストの常で、傷つけられた自尊心の奥から、佳子にたいする怒りの気持が起ってきた。
(もしそうなら、今にみろ。その高慢ちきな鼻柱をへしおってやるから)
四時二十分になった時、彼は腰をあげかけて、
(もう十分、待とう。もう十分、待って彼女が来なかったなら……)
ふたたび腕をくみ、眼をつむってそれ以上は待つまいと自分に言いきかせた。
何分かたった。眼をあけると、ロビーの向うに白いパンタロンを着た佳子が立っているのが見えた。彼が彼女を認めた時、向うも鋭一に気づいた。
「ごめんなさい。もう怒ってお帰りになったのかと思ったわ。タクシーが混んで……気が気じゃなかったんですけれど」
「いらっしゃらないかと思いました」
そのくせ、彼の心からはさっきの怒りの感情はあっけないほどすべて消えていた。
(だらしない)
彼は自分の甘ったれた心を叱りつけた。
(お前は計算通りにすべてをやらなくちゃいけないんだ)
鋭一は昨夜から考えていた計算をもう一度、思いかえした。それは佳子の心を自分に向けさせるために彼があれこれと作りあげた計算だった。
「上へ行きましょう」
帝国ホテルの最上階には宮城をみおろせるスカイラウンジがある。そこへ、まず行くこと。そして彼女に心から同情する素《そ》ぶりを見せること。
十七階のスカイラウンジに二人が入った時は、ちょうど、おあつらえ向きな風景が窓を通して見わたせた。杏《あんず》の実のような夕陽が沈みかけて、それが宮城の森や濠や濠にそった路に光を投げあたえていた。
「お嫌《いや》なことがあったのですか」
と彼はとぼけて訊ねた。
「こんな土曜日なのに外出したくないなんて」
「ええ。疲れているんです」
「また眼にごみが入ったんですか」
「いいえ」佳子は寂しそうに笑った。「精神的にです」
「じゃあ、今からその疲れを、ぼくが医者として治してあげます。その代り患者は医者の治療に従ってください。いいですね」
彼はボーイを呼んで酒をたのんだ。
「あたし……ジュースか何かを頂くわ」
「いや。これは薬です」
と鋭一は笑いながら首をふって、
「たった今、医者の命令は聞くと言ったじゃありませんか。飲むんですよ。薬だと思って……」
酒の酔いが佳子にまわりはじめたことは、ほんのりと赤くなったその可愛い耳たぶでよくわかった。
「あなたは何歳で死ぬと思いますか」
鋭一は真面目《まじめ》な顔をしてたずねた。突飛なこの質問に佳子はきょとんとして、
「わからないわ、そんなこと」
「八十歳?」
「まさか。そんなにお婆さんになるまで生きていたくないわ……」
「じゃあ、七十五歳としましょう。それじゃあお願いがあります。あなたは七十五歳と四時間、生きてくれませんか」
佳子は始めはその言葉の意味がよくわからず、ふしぎそうに鋭一を見て、
「四時間、長く、生きるんですの」
「そうです」
「四時間、長く生きたって無意味だわ。なぜ、そんなこと、お聞きになるの」
「その四時間を今日、もらいたいからですよ」
と鋭一は笑った。
「あなたには無くてもいいような四時間でしょう。無くてもいい時間だから、今日、それを景気よく無駄使いしませんか。自分の人生にはない四時間だと思えばいいんです。あなたの人生と関係のない四時間なら、その間ぐらいは憂鬱な記憶や悲しい出来事はすべてお忘れなさい。別人になったつもりで、この土曜日を送りましょう」
「お医者さまとして」
と佳子は鋭一をじっと見つめて、
「わたくしにそうおっしゃっているの」
「そうですよ。あなたは患者なんですから」
「小津さんは……本当は優しい方なんですね」
突然、佳子は眼をうるませて呟いた。
「ありがとう」
鋭一は自分の作戦が順調に滑りだしたことを感じた。佳子を彼のものにするためには、どんなことでも利用する必要があった。何よりも必要なのは彼女の信頼をまず得ることだった。
「わたくしが栗原さんとの婚約をやめたこと御存知なのね」
「ええ、まア……」
「その理由も?」
「ええ、漠然とは想像しています」
「やっぱり」
佳子は寂しそうにうなだれた。
「栗原さんに別の女の方がいらっしゃるとは……わたくし夢にも考えなかったわ」
「その女性は東北に行きましたよ。栗原さんが、あなたとの結婚のため、そうさせたんです」
鋭一はそれをさりげなく言って、この言葉の効果を佳子の表情から窺おうとした。
「可哀そうだわ、その方……」
「ぼくも、そう思います。しかしそれだけ栗原さんは、あなたと結婚したかったんでしょう」
「ほかの人を犠牲にしてまで、わたくし、結婚はしたくないんです」
「もう、そんな話はやめましょう。酒をお飲みなさい。この四時間はあなたが別人になるためにあるんだから……」
陽が少しずつ暮れかけてきた。ビルに灯がともり、眼下をながれる自動車はヘッドライトをつけはじめた。
帝国ホテルを出て鋭一は佳子を映画館に誘った。
映画館のような場所に彼女を連れていくのは野暮だとは知っていたが鋭一は暗がりのなかで佳子と二人きりになりたかった。
スクリーンにうつっているのは人妻と医師との恋愛の物語だった。ロンドンの郊外の小さな駅で土曜日ごとに逢引きを重ねる中年の男と女との話である。
古い映画なので鋭一は別のものを見ようと誘ったのだが佳子はこの恋愛映画のほうがいいと言った。館内には客の数は多くない。
「あの俳優、何と言いましたかね」
鋭一は彼女に小声で囁きながら自分の肩を彼女の肩に少し押しつけた。しかし佳子がそのままじっとしているので彼も身じろがなかった。
二人が別れねばならぬ場面になった時、鋭一は彼女がかすかに鼻をすする音を耳にした。栗原のことを思いだしたのだろうと鋭一は考え、それとなく彼女の反応を窺った。
やがてハンドバッグから小さなハンカチをとりだして佳子が鼻をかんだ時、
「どうか、しましたか」
と彼がたずねると、
「いいえ。何でもないんです」
「何かを思い出されて辛いんですね」
佳子は返事もしなかった。鋭一はその彼女を慰めるように、
「勇気を出すんです」
そう言って手を彼女の手の上にそっと重ねた。
見ようによってはそれは泣いている彼女の心を年上の者が鎮めるためにやった動作のようだった。しかし、鋭一は手を重ねたまま、じっとしていた。
(脈がある……)
もし彼女が自分を嫌ならばこの手を引っこめる筈だ。しかし引っこめないところを見ると佳子は自分をそう悪くは考えていないのだろう――そう考えたのである。
映画がようやく終って館内があかるくなった時、彼は彼女の眼にまだ泪が少し光っているのに気づいて、
「こんな映画を見せて……すみませんでした」
とあやまった。しかし心のなかでは自分の計算外のこの出来事がかえって有利だったのに気がついた。
「出ましょう。お腹がすいたでしょう」
路を歩きながら彼はこう言った。
「佳子さんを涙ぐませるような映画を見させたのは医者として失格だった」
「そんなこと……ありませんわ」
「ぼくは今日、あなたを慰めるために外にお連れしたのに……今の映画で裏目に出てしまったようです」
「わたくしが……我が儘だったのですわ。ごめんなさい」
「ぼくは……」
彼は昨日から考えていた文句の一つを口に出した。
「あなたの心の傷を治してあげたいんです」
「悪いわ。そんなこと……」
「いや。そうしたいんです。させてください」
映画を見て、食事をして鋭一は彼女を送った。
「ちょっと、おあがりになりません」
タクシーを降りた時、佳子は鋭一を誘ったが、
「いいえ。あなたを黙ってお誘いしたとお父さまに知られたら」
と鋭一は笑いをつくって首をふった。
「明日、病院で叱られます。お父さまには今夜のこと黙っていてください」
「父はそんな人じゃ、ありません。でも……お仕事がおありになるなら」
「ええ仕事があるから今夜は失礼しましょう。その代り、また会ってくれますか」
彼はじっと佳子の眼を見つめながら、また、会ってくれるかと訊ねた。それはある意味で自分にどういう感情を持っているかの問いかけでもあった。
「また、会って、くれますね」
「はい」
と佳子はうなずき、鋭一のさしだした手を握った。
(うまく、いった)
彼女が門に入るのを見届けてからタクシーに乗りこんだ彼は、心のなかで快哉《かいさい》を叫んだ。彼女の手の感触はまだ残っている。佳子を我がものとしたわけではなかったが、強い橋頭堡を今夜、築いたような気がする。あとは押すだけだ。押して押して押すだけだ。
「どこまで行きます」
運転手が聞いた。
「新宿駅」
と答えかけて、彼は佳子と一緒でもないのに無駄なタクシー代を払うのは勿体《もつたい》ないと考え、
「いや、近くの地下鉄駅でいい」
と言いなおした。
(彼女は今夜のことを、父親に話すだろうか)
地下鉄の吊皮にぶらさがりながら、鋭一は少し不安になった。
(しかし、俺が叱られるような言い方はしないだろう、第一、変な真似はしなかったのだからな……叱られる理由がないさ)
家についた時は十時を少し過ぎていた。いつものように彼は茶の間を覗き、一人習字の練習をしている父親に挨拶をして、洗面所に行こうとした時、
「お前」
と呼びとめられた。
「何ですか」
「坐んなさい」
いつもと違って小津はきつい顔で息子に命令をした。
「お前、今日、葬式に行ったか」
「葬式? だれの」
「長山愛子さんのお葬式だ。お前の患者だった……」
鋭一は思わず苦笑して、
「医者は……患者の葬式にいちいち、出かけませんよ」
「私は……出かけてきた」
小津は静かに言った。
「お前が来ているかと思ったが、来ていなかった。病院の誰かが、行ったのか」
「さア。行かないでしょう。しかし……物好きだな、父さんも。そんな葬式に行くなんて」
「本気で言っているのか。お前は……あの人の死に……責任があるだろう」
「ぼくが? 冗談じゃない……」
小津は息子の顔を睨みつけた。彼はこの瞬間ほど鋭一を心の底から怒ったことはなかった。
「責任がないとは言わさんぞ。父さんには医学のことはわからんが、新聞を見ると……」
「新聞? ああ。あのことですか。馬鹿馬鹿しい。患者の死は新薬の結果じゃありません」
「薬のせいでなければ……何なのだ」
「何度も言ったでしょう。あの患者はもう手遅れの癌だったって」
小津は思わず言葉につまった。医者でない彼には薬のせいでないと言う息子の言葉にたいして反駁する根拠を何処にも持っていなかった。
「しかし、新聞には、お前たちの医局があの人に無断で新しい薬を実験的に使ったと書いてあったが……」
「新聞が何を書こうが、ぼくは知りませんよ」
「新薬を使わなかったと言うのか」
「使いましたよ。しかし別に毒薬を使ったんじゃない。患者を治すための薬を使ったんだ。我々が善意でやったことを責めたてるほうが無責任じゃありませんか。その上、薬を使ったのはぼくじゃない。ぼくみたいな下《した》っ端《ぱ》は医局の幹部の指示に従って投薬するんです。あの薬を使ったのは栗原という先輩ですよ」
鋭一は冷笑をうかべながら一方的にまくしたてた。そして父親がやりこめられ、口ごもりはじめたのを見ると、
「とに角、事情も知らぬのに、とやかく言うのは止してもらいたいですね。一体、あの患者は父さんの何なのですか」
「何でもない」
「何でもないなら、何故、わざわざ葬式まで行くのですか。変だよ、全く」
小津は割りきれぬ気持で黙りこんだ。理屈は息子が合っている。しかし何か納得いかぬのだ。
「不愉快ですよ、ぼくは。疲れて帰ってくれば藪《やぶ》から棒に怒鳴りつけられる。一体、父さんにそんなことを言う資格があるのですかね。前から一度は言おう、言おうと思っていたのですが、ぼくは父さんの考え方が性に合わんのです。今後、ぼくのやることに一切、口を出さないでください」
鋭一は吐きすてるようにそう言うと荒々しく茶の間から足音をたてて出ていった。
隣室で息をこらしてこの言い争いを聞いていた伸子と娘とがそっと顔を出した。
「何も……今夜、言わなくてもいいのに」
と伸子はおろおろしながら、
「あの子もこのところ気がたって疲れているのですよ」
「ああ……」
小津は激してくる感情を抑えながら、うなずいた。彼は息子と自分との間に、越えることのできない溝が横たわっているのを感じた。あいつには……なぜ、俺が今夜、腹をたてたか、一向にわからないのだ。今夜だけでなく、これからもわかるまい。
鋭一は鋭一で二階の自分の部屋に戻ると、不愉快さを噛み殺しながら、
(この家をいつか、出ていこう)
と思った。この家とこの家族とは自分の出世や人生に何の関係もなくなるだろう。むしろ邪魔になるだけだと……。
栗原の姿が医局から見えなくなって何日目かに久しぶりで井伊教授の回診があった。
一階の入口に集まった医局員は例によって医局長を従えた|おやじ《ヽヽヽ》に頭をさげると一団となり、その一人がエレベーターのボタンを押しておやじを待った。
四階につくと、彼等は次々と病室のなかに入り、おやじの診察をじっと見ていた。
「気分はいいですか」
「はい」
「順調にいっていますよ。安心してください」
おやじが言うと、それが医局員と同じ言葉であっても千鈞の重みをもって響くらしく患者は嬉しそうに笑う。
幾つかの病室をまわったあと、二週間前、長山愛子がそこにいた部屋の前に来た。鋭一はおやじの表情を窺ったが、その顔には何の感情もあらわれなかった。
病室はあの時とまったく違っていない。壁の小さな染みも、少しよごれた窓もベッドもそのままである。違っているのは、愛子が好きだった植木鉢が姿を消しているのと、買いたてのパジャマを着た中年男が上半身を起しておやじの診察を受けている点だけである。
「ま、御退屈でしょうから、色々と検査をしますか」
おやじは担当医の峰に検査の指示を与えて、
「今のところは、特に変化はないので、たいてい大丈夫だと思います」
聴診器をポケットにしまいながら患者と雑談をはじめた。
まるでこの部屋で二週間前、何もなかったようである。医局員たちも知らぬ顔をしているし、患者自身も自分が今いる病室で何があったか気がつく筈はなかった。外は薄曇りで遠くから車の音が聞える。
「じゃお大事に……」
医局員たちはまた一団となって廊下を歩きはじめる。
回診がすみ昼になり、医局に戻った彼が昼食に行こうとしていると小使が速達を持ってきた。
裏を見ると井伊佳子という名が書かれていた。胸をときめかせながら封を切った。
「先日は本当に有難うございました。沈んでいた毎日でしたが、お蔭さまで久しぶりに外の空気を吸うことができました。しおれている私を励ましてくださろうとして頂いて、そのお気持が嬉しく、心から感謝しております。
どうか、いい患者になりますから、これからも時々、診察してくださいまし。ほかのお医者さまにはかかりません」
みじかい手紙だったが、彼女が何を言おうとしているか、鋭一にはピンとわかった。思わず勝利の笑いがこみあげてきた。
(ほかのお医者さまにはかかりません)
それはほかのボーイフレンドは持たぬという意味だった。
(どうか、いい患者になりますから、これからも時々、診察してくださいまし)
それは、これからデートをたびたび、しましょうという暗示なのだ。
うまく……いった。鋭一は元気よく廊下を歩いた。だが、まだもう一つの山がある。今井啓子をどうするかの問題だ。俺が教授の娘と親しくしていることを彼女が知ったら……。
(栗原のようなヘマはやらないぞ)
そのためにはどうするか。しかしきっと上手にふるまうだろうと彼は自信をもって考えた。
数ヵ月の後――
小津は出張で関西に行った。二日かかって神戸と大阪とで色々な人に会い、打合せをすませたが、予定の夜の新幹線にのるまで、まだ四時間ほどの余裕があった。ホテルに戻る気にもなれず、思案していると、ふと妙案がうかんだ。
母校だった灘高をたずねてみようと思ったのである。
卒業してから長い長い歳月が流れている。その間、一度も母校を訪れたことはなかったし、関西で開かれる同窓会に出席したこともなかった。
しかし住吉川のほとりにあるあの校舎が今はすっかり新築され面目を一新したと耳にしている。あの頃とはすっかり違って彼の母校は今や、全国の秀才が集まる学校になり、東大の入学率の一、二を争うようになっていることも知っている。
だが、そんなことは小津の関心をそれほど惹かなかった。彼が母校をたずねようと思ったのは、自分や平目たちの思い出をもう一度、心に甦《よみがえ》らせたかったからである。失われた少年時代。勉強もできぬ劣等生だった自分たちがそこで生活した校舎の跡や運動場を今一度、この眼で見たかったのである。
彼はタクシーに乗って、国道の住吉川まで行ってくれと頼んだ。
「国道でっか」
「そうだ。国道電車が走っている路があるだろう」
そう言って彼はまぶたの裏に、古ぼけた褐色のあの電車を浮べた。平目や自分を毎日、乗せてくれたノロノロとした電車。その電車に愛子のように甲南の生徒たちも乗ったのである。
「ああ、あの電車やったら」
と運転手はギヤを入れながら教えてくれた。
「もう、なくなりましてん」
「廃線になったのか」
「もう、あんな、のろい電車に乗る人もおりまへんやろ」
しかし神戸から大阪に向う国道だけはまだ残っていた。昔は空地があり、野原があったその国道の周囲にはぎっしりと店やビルが並んでいた。
「住吉川はまだあるかね」
「ありまっせ」
彼はまた、白い川原に月見草が咲いていたあの川のことを心に甦らせたが、間もなく見えた住吉川は川原も姿を消して、ただ味けないセメントで固められた大きな溝に変っていた。
灘高の校舎がみえた。むかし校舎の周りから国道までは松林がとりかこんでいたのに、その松林の大部分は削られて家が並んでいる。
校門の前でタクシーをとめて、運転手に十分ほど待ってくれるように頼むと、彼はそっと中にはいった。教員室や柔道場のあった前面の建物は幾分、くろずみ、古びたようだったが昔のままだった。その前にたつと小津の胸は大きな手でしめつけられたように痛んだ。
(平目よ。ここだけは変ってへんなア)
と彼は自分のそばにあたかも平目がたっているように囁いた。
黒い制服を着た生徒が、二人、三人とその建物の出口から出てきた。どの生徒もいかにも怜悧な顔をしている。彼の時代のように、間のぬけた、そのくせ人の好さそうな表情をした者はいなかった。
彼がそっと建物のなかに入ると、先生らしい人が教員室の扉をあけてあらわれた。
その先生はオールバックにして髪が白くはなっていたが、絵かきのようにあかるい上衣を着ていた。
小津の記憶にこの先生の若い頃の姿があった。そう……たしかに国語の先生だった。「銀の匙」という小説が好きで、その小説の話をされたのを彼は、今、思いだした。
だが、名が頭のどこかに、ひっかかって浮んでこない。アダ名は……
(エチオピア……)
それだけは憶えている。その頃、この先生は真黒な顔をしておられたので、そんなアダ名がついたのだ。
「父兄の方ですか」
たずねられて、
「いや」
狼狽《ろうばい》した小津はあわてて首をふった。
「むかし、灘中におりました者で……仕事で久しぶりにこちらに参りましたから」
「ほう……それはなつかしい」
先生も小津の少年時代を思いだすように顔を眺め、
「何回生でしたかな」
「九回生です。小津と言います」
しかし彼の名は先生の記憶にはないようだった。
遠くで生徒たちが運動をしている声が聞えた。窓の向うに小津の知らぬ新しい校舎が並んでいる。
「変りましたねえ。この学校も」
「そうですなア」先生はうなずいて、
「むかしの灘中とは違います。むかしと違うて生徒は自発的に勉強しますからね。校舎もこんなに良くなりましたし……私を憶えていますか」
「はい。でもお名前が思いだせません」
「橋本です。校長の勝山先生と私とが今ではこの学校で一番、ふるい」
恐縮している小津をつれて橋本先生は中庭に出た。この中庭には記憶があった。むかしここに小禽《ことり》を飼った小屋があり、小さな鉄棒台が並んでいた。
「今の生徒は勉強もしますが、あのようにクラブ活動も運動もよくやりますよ」
橋本先生は嬉しそうに、
「時代が変りましたからね」
「そう……」
万感の思いをこめて小津は呟いた。
「時代が変りました」
彼は先生に礼を言って校門まで戻った。タクシーはまだ辛抱づよく小津を待っていてくれた。
「次はどこに行きましょうか」
「甲南という女子学校があるだろう」
「ありまっせ。そこへ行くんでっか。旦那は文部省関係の方ですか」
車は坂路をのぼり、住宅街をぬけ、また坂路をのぼった。
「ちがう。甲南はこんな上じゃなかった」
「移転しましてん。ほれ見えまっしゃろ、あの大きな白い建物」
ホテルのような白い建物と青い芝生が近づいてきた。車を運転した女子学生たちが上り坂からおりてくる。彼女たちは自家用車で通学しているのだ。
車をとめてもらって彼は甲南女子大と書かれた門の向うに見える広い芝生や建物を眺めた。あかるい笑い声をたてながら女子学生たちが下校していくが、彼女たちはセーラー服を着た東愛子たちとはすっかり違って、色とりどりの華やかな洋服を着ている。戦争を知らない世代なのだ。
「次は芦屋だよ」
小津は運転手に命じた。
国道電車は廃止されたけれど、芦屋まで行く国道には見憶えがあった。むかしは空地や野原のみえた両側も今はぎっしりと商店やガソリンスタンドで埋められていたが、まだ残っている停留所の標示は小津の胸に限りない懐かしさと哀しさとをよび起した。
(平目よ)と彼はタクシーの窓に顔を押しあてて呟いた。(この停留所、憶えとるか。もとの名の通りやがな)
そう――この路も、停留所の名も昔のままだった。しかしあの頃古ぼけた電車に乗って通学した少年や少女たちは必ずしも昔のままではなかった。
(平目よ。随分、色々なことがあったなア)
すると彼の耳もとで眼をショボ、ショボとさせた少年の平目が呟いた。
(俺たちにとって、あの頃って何やったのやろな。あの灘中の頃は……)
タクシーは今、ゆっくりとゆるやかな坂路を走っていた。昔、国道電車はここまで来ると、軋《きし》んだような音をたてて、のろのろとこの坂をのぼったものだ。
松の林。芦屋川にそった路に植えられた松がみえはじめると小津の胸は言いようのない感慨にしめつけられた。
「芦屋のどこに行きまんねん」
と運転手が訊ねた。
「海岸」
「海岸でっか」
「そう」
「何もおまへんで」
小津は黙って食い入るような眼で両側の家々を見つめていた。あの頃の黒い屋根と黒い塀をもった屋敷はなくなり、それに代ってあかるい洋館や高級マンションが建ち並んでいる。松林のなかには小さなテニスコートが作られて、若い男たちがテニスをやっている。
橋があった。あの橋だった。
「橋をわたって」
小津は思わず叫んだ。
「そう。その路を真直ぐに」
東愛子の家、平目と彼とがその塀を撫で、そのあたりをうろついた家。なくなっていた。それは白っぽいマンションの一角に変っていた。
タクシーを停めて彼はそのマンションをぼんやりと眺めた。西洋人の子供が二人、バドミントンをして遊んでいる。
「もう、いい」
彼は悲しく運転手に命じた。
「やっぱり、海岸に行ってくれ」
海。芦屋の海。夏休み。入道雲が湧き、青い海にみんなが泳いでいた。海。芦屋の海。
「ここでんねん」
運転手はブレーキをかけて醜いコンクリートの堤防の前で車をとめた。
「ここ、海がないじゃないか」
「そやさかい、埋立てましてんと言いましたやろ」
海の風は何処からも吹いてこなかった。海の匂いもどこからもしなかった。小津はコンクリートの堤防の上に登り、あっと声をだした。
ずっと遠くまで砂漠のように埋立てられているのだ。その砂漠のような埋立地にミキサー車が二台、地面を走っているだけであとは何もない。あの日、平目が波にもまれながら愛子たちを追いかけたのは、どのあたりだったろう。愛子たちが笑いながら走った浜もどのあたりだろう。今、海は消えた。白い浜もなくなった。美しいもの、懐かしいものはここだけではなく、日本のすべてから消えていく時代なのだ。平目も愛子もこの地上にはいない。それなのに自分だけが生き残っている。小津は今、愛子や平目が自分の人生にとって何であったのかが、わかったような気がする。すべてが失われた今、それらが残した意味がわかったような気がする……。