[#表紙(表紙.jpg)]
協奏曲
遠藤周作
目 次
飛行場
アンカレッジ
巴 里
フランスに安く行ける法
出 発
船 旅
愛の追跡
巴里まで
葛 藤
巴 里
最後の夜
競 泳
[#改ページ]
飛行場
千葉は受話器をとるとホテルのフロントを呼びだした。
「三十分ほどしたらチェックアウトを頼むよ。それから自動車を一台ね」
「畏《かしこま》りました」
彼は仕事をしていた机から離れると、バスルームに入って水と湯とを白いタイルに入れはじめた。それから、浴槽がみちるまで、机の上を片付けて、まだ残っている珈琲《コーヒー》をゆっくりと飲んだ。
湯に体を浸《ひた》して、髭《ひげ》をそり、熱い体にタオルを巻いて部屋に戻るとウイスキーの瓶をとって、その琥珀色《こはくいろ》の液体をゆっくりと咽喉に流す。時計を見るともう五時半だった。
(あと三時間でこの日本とも当分、お別れか)
霧雨が窓のむこうに降っていた。ホテルの入口には次々と濡れたタクシーが到着して、制服を着たボーイが車にかけよってドアをあけ、食堂の灯《ひ》が雨ににじんでぼんやりと見える。
旅行鞄をひらき、パスポートや飛行機の切符をもう一度たしかめると、深い溜息をついた。それからベッドの端《はし》に腰かけたまま、小声で子供の時おぼえた童謡を口ずさんだ。
電話が鳴り、フロントから、勘定書ができあがったことを知らせてきた。
「ボーイをそちらに参らせましょうか」
「ああ。トランクが一つあるからね。お願いします」
紺のフィンテックスに白いネクタイを締めた。別に今から外国へ旅行するからこの洋服を選んだのではない。外国旅行ならもう幾度もやっている。大学を出てから三年間、巴里に留学もした。だから、どういう洋服が旅行に一番、便利でむいているかを千葉はよく知っているのだった。
迎えにきたボーイにトランクを持ってもらい、エレベーターで下におりると彼は勘定を払った。
「今度はいつ、お出でになりますか」
ここのホテルはもう度々、仕事場に使っていたからフロントの従業員たちとも仲良くなっていた。
「いや、半年ほど御無沙汰するよ」
「半年も。どこかへ御旅行ですか」
「うん。仏蘭西に行く」
「あちらですか。で、いつ御出発です」
「今からだよ」
従業員は驚いたような表情になって、
「御冗談を」
「いや、本当だ」
「取材の旅行でいらっしゃいますか」
「そうじゃない。全くの私用です。煙草を二つくれませんか。当分、日本の煙草ものめないだろうから」
「それじゃあ、当分お目にかかれませんね。元気で行ってらっしゃいまし」
従業員は少し寂しそうな顔をして手を差しのべてきた。
ボーイが掴まえてきたタクシーに乗ると千葉は疲れたように眼をつぶって、
「羽田」
と言った。
「羽田飛行場ですか」
「そうだよ」
雨はまだ小やみなく降りつづいている。東京の街は今日も車やバスがひしめきあい、路はほじくりかえされ、ビルの鉄骨から工事の音がひびいていた。この街を彼は一方では嫌い、他方では愛していた。ローマやフローレンスや巴里やマドリッドとは全くちがって、乱雑で、うすぎたなく、どこまでも拡がっている街。しかしやはり彼は東京の乱雑さを棄てることができなかった。
「よく降りますねえ」
運転手はハンドルから片手を離して、ラジオのボタンを押した。
「胃腸病にはラドック、ラドックでおなじみの矢代《やしろ》製薬がお送りする、君とあたしの音楽の時間でございます」
それから、女が千葉の知らない歌を歌いはじめた。歌は知らなかったが、それを歌っている歌手は個人的にも知っていた。
「すまないが、ラジオをとめてくれないか」
「気分でも悪いんですか。旦那」
「そうじゃない。少し、考えごとをしているもんだから」
車は高速道路に出ると速度をまして、濡れ光った道を滑るように走っていった。両側にはネオンの光がさまざまの色彩で雨の中に煙っている。
彼は今夜、自分を乗せて星屑《ほしくず》のきらめく大空をヨーロッパに向う飛行機のことを考えた。今、自分はこうして雨に濡れた東京にいる。だが明日は、オルリー飛行場から巴里に向うバスの中にいるだろう。半日たらずで地球の東から西へ、この体を移動させているのだ。
(俺が、急に、東京にいなくなったのを知って、皆、驚くだろうな)
今度の旅行は誰にも言っていない。新聞社や雑誌社の友人たちにも告げてはいない。しかし一年前から、この旅行のことを考え続けてきただけに、どこにも迷惑のかからぬよう仕事も片付けてきた。ただ、新しい仕事を依頼されるのを避けるために、この二週間、ホテル泊りの生活を送ってきたのだ。
窓硝子に顔を押しあてて、彼は通りすぎていく歩道をぼんやり眺めていた。小さな傘をさして、赤いレインコートを着た娘が今、横断歩道を横切っている。
(赤いレインコートか)
千葉はその時、ふと志摩弓子のことを心に甦《よみがえ》らせた。弓子もまた、雨の日、赤いレインコートを首まで襟を立てて着こなす娘だったからだ。しかし、この弓子の顔はすぐ心から消え、そのかわり、彼が今、星屑のきらめく大空を飛びこえてまで、会いに行こうとしている「あの人」の面影がせつなく強くまぶたの裏に浮んできた。
「あの人」は今、巴里にいる。自分は人妻となった彼女と結ばれることが出来ないことを百も承知しながら、やはり、一目でも会いたい情熱を抑《おさ》えることができず、こうして飛行機に乗ろうとしている。
(いい歳をして……)
千葉は苦笑して煙草に火をつけた。彼はもはや二十代ではなかった。もうしずかな思慮分別にしたがって行動していい年齢だった。
(仕事までなげうって)
もし自分が「あの人」に会うため半年も、日本を離れると言ったら、友人の作家や編集者がどう答えるか――その答えは聞かなくてもわかっていた。
「お呼びだしを申し上げます。東洋鉄工の島田さま。正面の放送係りまでお出で下さい」
ラウド・スピーカーから若い女の声が、広い羽田国際空港のロビーに流れていた。靴の音、靴の音。笑い声、話し声。見送る者、見送られる者。人々はあちこちにグループをつくったり、円陣になったりして、今から外国に出かける知人に挨拶している。
千葉はそのいつもながらの空港風景を、カクテル・ラウンジの止り木に靠《もた》れながら眺めていた。
みんなと違って自分には見送り人など一人もいないことが、かえって気が楽だった。時々闇の中にサーチ・ライトが光ると飛行場の雨にぬれた芝生や、白服を着た整備員の姿や、まだ休息しているジェット機の姿が突然、浮びあがってくることがあった。そして空の一角で鋭い爆音がひびいた。
(まだ、税関に入るまで四十分ある)
腕時計をちらっと見て時間をたしかめると、ゆっくりグラスを口にはこび、ゆっくり煙草をすった。当分、日本のこの煙草ともお別れだった。
ラウド・スピーカーがまた誰かを呼んでいた。
「作家の千葉さま、千葉さま。おいででしたら、放送案内所までお出で下さい」
グラスをおいて舌打ちをした。自分がここに来ているということを、新聞社や雑誌社の誰かにもう嗅ぎつけられたのか。彼はラウド・スピーカーの声が自分を探し求めるのを諦《あきら》めるように願いながら、じっと止り木に靠《もた》れていた。
「千葉さま、千葉さま。おいででしたら放送案内所までお出で下さい」
二、三分の間をおいて繰りかえされる放送は幾度かつづいたが、遂にやんでしまった。
(これでいい)千葉は微笑をうかべて(これでいい)
勘定を払い、彼はカクテル・ラウンジから離れると、さっきより更に混《こ》みあい始めたロビーを避けて、外国の品物を並べている売店の方に近づいた。
その時、彼の眼に、赤いレインコートの色が飛びこんできた。そしてその襟をたてポケットに手を入れた娘がじっとこちらを見つめていた。
「どうしたの。志摩さん」
千葉は少し、びっくりして訊ねた。
「誰か、送りに来たの」
弓子は彼の顔から視線をはなさず、少し悪戯《いたずら》っぽそうな微笑を浮べると、
「あたし、今日、お発ちになると伺ったもんですから」
「ぼくが?」
「ええ」
「そりゃ、そうだけど、実は誰にも言っていないんだよ。どうして君、ぼくの旅行を知ったの」
「Oホテルのフロントにお電話したら、さっき羽田にいらっしゃったと教えてくれました。で、あたし、車をすぐ飛ばして」
千葉は仕方ないという風に、頭をかいた。若い娘には実際かなわない。
「そりゃ、どうも有難う。しかし、こんな雨の中を、わざわざ、申し訳なかったね」
「いいんです。あたし。今日は仕事が珍しくお休みで……一日ブラブラしていたんですもの」
「一人で飛行機に乗り、一人で日本を離れていくつもりだったんだよ」
「何時、お帰りになるのですの」
「半年あと。おそらく来年の一月頃、戻ってくるだろうね」
「じゃあ、それまで、もう、お目にかかれないんですね」
弓子の頬から微笑が消え、その眼に哀しみの色が浮んだが、それを無理矢理、押えようとしているのが千葉にもはっきりわかった。
(いい娘だ。いい娘だ)
と彼は思った。彼には自分と十歳以上も違うこの娘の心を傷つけることは我慢できなかった。しかし、今、傷つける、傷つけないにせよ、言うべきことは、はっきり事務的に説明しておくのが義務だと思った。
「志摩君」
「はい」
「もう時間がないから簡単にいうけどね……俺は君が俺みたいな男に好意をもってくれるのを有難いと思う。思うが、しかしこれはどうにもならないんだ」
ああ、何て嫌な言い方を自分はしているのだと彼は急に自己嫌悪に捉えられた。若い娘から思いもかけぬ好意を寄せられた中年男の得意さと優越感を自分も本当は感じているのではないか。もしそうなら、その感情は不潔でいやらしい。
「君は、まだ二十二歳だが、俺はもう中年もいい歳《とし》をした男だよ。君が好意をもったり、生涯の伴侶《はんりよ》として考えねばならぬのは、俺のような中古品になった男ではなくて、若くて、新鮮な青年たちだよ。御好意は嬉しいけれど、その好意を利用するような人間にはなりたくない。お手紙をもらった時、びっくりしたが、しかし、これはいけないと思った。君は間違っている」
「間違っている?」
弓子はびっくりしたような顔をあげて、大きな黒い眼で千葉を見つめた。
「間違っているとも」千葉はわざと声を大きくして言った。「ぼくみたいに一度、結婚に失敗した中年男を相手にするなんて、本当に間違っている」
「そう言うことは、あたしには、どうでもいいんです」
眼を大きく開いたまま、弓子は必死にたずねた。
「あたしのこと、どうしても好きに、なって頂けないでしょうか」
千葉はその眼とその言葉にたじろいだ。今日まで彼は女性から、こんな積極的な告白をきいたことはなかった。
「あたしは、先生と違った時代に生れたんです。あたしは自分が好きな人は好き、嫌いな人は嫌いとはっきり言って生きていきたいと思います。年齢とか、世間の思惑なんて、あたしにはどうでもいいのです。そして自分が正しいと思った通りに生きぬき、その責任は自分でとりたいと考えてるんです」
二週間前この弓子からもらった初めての手紙の結末に、その言葉がはっきりと書いてあったのを千葉は心に甦らせた。香水の匂をしみこませた上質の紙にその言葉は一字一字、力をこめて書かれていた。
「あたしのこと、どうしても、好きに、なって頂けないでしょうか」
(そんなことは、わからない)
と言いかけて、千葉はこう言う相手に希望を少しでも与えるようなことを口に出してはならぬと思った。お前は今日まで沢山の人を傷つけて生きてきた。これ以上、それらの人々のなかに、この娘を入れてはならない。今は残酷な言葉でも、はっきり、思い切ってもらったほうがいいのだ。
「駄目だ、と思う」
「なぜ」
「ぼくには、好きな人がいる。その人に会うために、今、こうして、巴里に発つんだから」
「わかりました」
弓子は赤いレインコートから手を出して、千葉に差しのべると、
「弓子、諦《あきら》めますわ。すぐに諦められないけれど、諦めるように努力します」
悪戯っぽく笑って弓子は千葉の手をふった。
「だけど、先生。飛行機が出るまで、先生と恋人のような恰好ぐらいはしたっていいでしょう」
彼女はおずおずと千葉の腕に自分の腕を滑りこませた。だが彼はその腕が彼女の感情をあらわすように少し震えているのを感じた。
「そろそろ、出発らしいぞ」
わざと快活な声をだして千葉は、電光サインを見あげた。
「お荷物は?」
「トランクが一つだけ。もう飛行機に廻っているだろう」
「一つだけの荷物で、ヨーロッパにいらっしゃるの」
「当り前だ。エジプト王の海外旅行じゃあるまいし。作家が外国に行くのに大袈裟なことをしていたら、何処にも旅ができないじゃないか。じゃ、俺は、行くよ」
拡声器がアンカレッジ廻り巴里行きエール・フランス機の出発を構内に告げていた。今までかたまっていた人々の群れがゆっくりと動きはじめる。
「だれも送る人がいないのは、やっぱり寂しいでしょ」
「寂しいなんて、馴れているよ。俺は」
千葉は白い歯を見せて笑うと、乗客の列の一番後尾にたった。
「さようなら」
「さようなら」
一寸、手をふって、くるりとうしろを向くと、彼はもう弓子のほうを振りかえりもせず、足早に税関にのぼる階段に姿を消してしまった。まるで、近所へ散歩に行くようなあっけなさだった。
(これが……別れなの)
一人になって、弓子は唇を噛みしめながら今、千葉の姿がそこにあった階段をうつろな眼で見つめていた。これが自分の初恋の……もしあれを恋とでも言うことができるなら――終幕だったのか。
「展望台のほうに、行きましょうよ、ママ。飛行機が飛ぶのが見えるわよ」
小さな女の子が、母親の手にぶらさがりながら、そうせがんでいた。
「パパの乗る飛行機、あたし見たいわ」
弓子は人々の中に交りながら展望台まで歩いた。霧雨が頬に細かくぶつかってきた。サーチ・ライトの中で、エール・フランスの白い機体が、今、ぽっかり口をあけて、次々とハッチを登ってくる客を吸いこもうとしていた。
「元気でえ」
「こっちを向けよオ」
その客に向って学生の一団がまだ名残り惜しそうに大声をあげていた。千葉はもう、とっくに乗ったのか、遂に姿は見えなかった。
我にも非ず、涙が弓子のまぶたから流れはじめた。泣いてはいけない、泣いてはいけないと思いながら、頬がぬれ、あごがぬれ、飛行機の赤い後尾燈が、うるんで、かすんで、ぼやけていった。
なぜ。あたしは、あの人を愛しちゃ、いけないんだろう。なぜ、あたしは自分が追い求めている人を喪《うしな》わなくちゃ、ならないんだろう。
やがて轟音《ごうおん》と共にエール・フランスの機体は疾風《しつぷう》をあたりに作りながら滑走路を走っていった。そしてしばらくの間、旋回した後、離陸を開始し、暗い雨空にその小さな尾燈だけを豆粒のように赤く光らせながら消えた。
「バンドを解いて、煙草を自由におのみ下さい」
千葉は窓に頬をあてて、下界に拡がる東京の灯を見おろした。チョコレートの銀紙をまきちらしたように夜の東京は光りかがやき、拡がっている。
「|Comme c'est si beau.《コム・セ・シ・ボウ》」(なんて美しいんでしょう)
彼の隣に坐った、仏蘭西の老婦人が子供のように両手をあげて、千葉に話しかけた。
「|Regardez, monsieur ces petites lumieres.《ルガルデ・ムツシユー・セ・プテイツト・リユミエール》」(ごらんなさい。小さな灯がたくさん)
「|Madame, permettez-moi de fumer《マダム・ペルメツテモア・ド・フユーメ》……」(たばこを吸ってもかまいませんか)
スチュワーデスが客たちに飲物の注文をとりはじめた。
千葉は老婦人のために、枕と毛布をおろしてやると自分も椅子を少し、うしろに倒し、煙草を口にくわえながら、眼をつぶった。
心には、もう弓子のことはなかった。彼は自分がまだ書きあげてない小説のことや、これから手をつけるであろう作品のことをぼんやり考えはじめる。
羽田から日本橋に向う高速道路を弓子は車を走らせながら、雨に濡れたフロント・ガラスの前方を見つめた。彼女の前には同じように羽田から流れていく車の列が幾台も続いていく。そして東京の光の海がこの車の両側に拡がっていた。
耳には千葉が今、それに乗って真暗な空に消え去っていった飛行機の爆音がまだ残っていた。
「君は、まだ二十二歳だが、俺はもう中年もいい歳をした男だよ。君が好意をもったり、生涯の伴侶《はんりよ》として考えねばならぬのは、俺のような中古品になった男ではなくて、若くて、新鮮な青年たちだよ。御好意は嬉しいけれど、その好意を利用するような人間にはなりたくない」
千葉が言ったあの言葉は、今、アクセルをふんでいる彼女の胸を、針のように刺した。そんな馬鹿なことって、あるかしら。恋愛や結婚とは、年齢をほとんど同じくした男女にだけ許されるのであって、二十二歳の娘と千葉のような年齢の男との間で行えば世間の物笑いになると言うのか。
(そんな馬鹿なことはないわ)
それは今日までの習慣や、偽善的な一種のとりきめに違いないと弓子は思った。彼女はもうずっと前から、そんな習慣やとりきめは無視して、自分が正しいと信じたこと、やり甲斐のあると思ったことだけを、どんなことがあっても実行していこうと決心していた。女だから、いけない、なんて、あたしは考えたくない。好きな人は好き、嫌いな人は嫌い。好きな果物は好き、嫌いな果物は嫌い。その代り、ウジウジといつまでも後悔したり、感傷的になったりする人生はごめんだ。
(あたしは千葉さんが好きになったから、好きだと言ったまで)
その結果、みごとに振られちゃった。少し泣いたけれども、もう大丈夫。そう思うと弓子は可笑しさがこみあげ、ハンドルを握ったままペロリと舌を出した。
弓子が千葉を知ったのはもう半年前のことである。思いだしただけで、それは妙な出会いだった。
その日の真昼、彼女は友だちの家から帰る途中だったが、急に大粒の雨が降りはじめたので、小走りにバス停留所の近くのビルに飛びこんだ。
一人の中年男がそこで、やはり彼女と同じように、雨宿りをしていた。
「意地悪な天気ですなあ」
縁なしの眼鏡をかけて、キリギリスのように痩せたその人は、しきりと空を見あげながら、弓子に向って話しかけてきた。
「朝のうちはあんなにカラッと晴れていたので、まさかと思っていたが」
「ええ、本当に……」
「こりゃ、やみませんよ。当分。タクシーも来ないようだし」
「何処かに公衆電話はないかしら」
「五十米ほど先にあるけど、この雨の中を行っちゃ大変だ。あんた、肌着までびしょ濡れに濡れますよ」
中年男はニヤニヤ笑いながら、弓子の頭から足の先まで見まわし、煙草をすいはじめた。何だかエッチな男だと弓子は体を固くして、出来るだけ離れながら黙っていた。
その時、一台のフェアレディが通りを通過してきたが、急に停車して、
「おい、楠本、楠本」
運転台に坐っていた人が声をかけていた。
「君、何をしているんだ。そこで」
「何をしてるやないで。雨宿り。雨宿りや」
楠本とよばれたエッチな男は、急に関西弁を使うと、助かったという風に、
「地獄に仏とはこのことやな。困っとったところやで」
「乗せていってあげるから、来なさいよ」
今まで一緒に雨宿りをしていた弓子にはもう眼もくれず、楠本は駆け足で車に飛びのろうとした。
「ひどい奴だな、君は」運転台にいた男はその楠本をたしなめながら、
「お嬢さん、どうぞ」
一瞬どうしようかと迷ったが、この土砂降りにはタクシーも掴まえられそうもなかった。行きずりの見知らぬ人だったが、悪い男には見えなかった。
「じゃア、お言葉に甘えて」
「どうぞ。どうぞ」
車が雨の中を動きだすと、ハンドルを握りながら、もう男は楠本と弓子の関係のない話をはじめた。話の内容では楠本がどうやら料亭を経営しているらしく、その料亭の税金のことだった。
「おい。うっかりしていた。もう国電の駅や。おろしてくれ。この駅で女性と待ちあわしてるんや」
「女性と待ちあわしているって……君、このお嬢さんとデートじゃ、なかったのか」
「冗談やないで。俺はこの人とさっき同じ場所で雨宿りをしただけやがな」
「え?」
運転をしながら相手はびっくりした顔で弓子をふりかえると、
「本当ですか」
「ええ、本当です」
「何だ。私はこいつ[#「こいつ」に傍点]と知り合いだと思ったから、お乗りになるようにお誘いしたんで、それは失敬しましたな。随分、ソコツな話だ。これは」
「ほんまにソコツな奴や」
楠本が捨てぜりふを残しておりたあとも、男はハンドルに顔を伏せながら、笑いつづけていた。
「あの、あたしも、ここで降ろして頂きますわ」
弓子がそう言うと、
「この雨の中を。私は今、多少、暇ですから行先が余り遠くなければお送りしますよ」
車はもう走りだしていた。片手で運転しながら、片手で胸のポケットから煙草を出してくわえ、火をつけると、彼はうまそうに吸いこんで、
「何処までです」
「大森なんです。あたし、フェアレディに乗ったのは始めてだわ」
弓子は自分も運転が好きだから、車の中をジロジロと見渡すと、
「安い割に、悪くはありませんね。私はこいつを中古品で買ったんです」
と相手は正直に告白した。
「だろうと思いましたわ」
「車がお好きですか。それなら一寸、遠まわりをして大森までお送りしましょうか。私は今、仕事が片付いたので少し車をいじってみたくなったんです」
これが千葉と弓子との最初の出会いだった。その時は彼女はまだ相手の職業も年齢も知らなかった。ただ行きずりの親切な一人の中年男にすぎなかった。憶《おぼ》えているのは彼がその時、連れていってくれた自然の風景である。
「あなたが、あまり人に教えないと約束してくれるなら、お嬢さん、今どきの東京には珍しい自然の風景の残っている場所を教えてあげますよ」
千葉はそれから彼女をつれて多摩川を渡り、田舎に出た。雨は次第に晴れはじめ、今まで灰色だった空に、碧《あお》い空間がぽっかりあいた。濡れた農家の樹々の葉が突然あかるくなった光にかがやき、道には小さな湖のような水溜りが白い雲をうつしていた。
「このあたりは昔は柿の名所だったのです。今は誰も知りませんね。王禅寺という寺があるが、そこを愛したのは北原白秋だけですよ」
「よく、御存知ですね」
「ええ、一人でこのあたりはよく歩きましたな。だから、皆にあまり来てもらいたくない」
千葉はそう言うと、指先で煙草を水溜りにはじいて微笑した。
「あなたも、料亭をやっているんですか」
弓子がふしぎそうに訊ねると、
「料亭? 私が。どうして」
「だって、さっきお友だちの方と」
「ああ、楠本ですか。幼なじみでね、築地の有名な店の主人です。しかし、私は一向にその方は駄目です。私が……料亭の主人に見えますか」
「見えないから、お訊ねしたんです。ごめんなさい。失礼なことを伺って」
あの日の会話の一つ一つまで半年たった今でもはっきり憶えているのは何故だろうか、と弓子は思った。私は決して、あの時はあの人に心惹かれてなんかいなかった。
彼女は一人でラジオのボタンを押した。アナウンサーが低い声で、天気予報を告げていた。
「海上は濃霧がたちこめ、また大陸を覆っている低気圧が南下していますので船舶は警戒を要します」
それから、突然、声の調子が変って、
「臨時ニュースを申しあげます。ただ今、入ったニュースによりますと、本日午後八時四十五分に羽田を発ったエール・フランス機が、消息不明になりました。海上その他の船舶、燈台で飛行機らしいものを発見された方は水上警察か海上保安部に御連絡下さい」
と言った。
弓子は軽い悲鳴をあげ、思わずブレーキに力を入れた。車が浮きあがり濡れた高速道路を左によろけるように滑った。うしろから走ってきたビュイック・リベラがそれにぶつかった。
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アンカレッジ
失敗《しま》った!
そう思った時はもう遅かった。背後のビュイックのライトが砕ける音がして、無数の硝子が雨の道に散らばった。弓子の車は弓子の車で、今の衝撃からすると後部トランクが相当、痛めつけられたに違いなかった。
「馬鹿野郎」
大声で叫びながら、扉をあけて、一人の青年が飛びおりてきた。
「どうしてくれるんだ。人の車を滅茶苦茶にしやがって」
その青年は雨にぬれるのもかまわず、こちらの窓に怒った顔をピタリとあて、
「おや、女の人か」
弓子はムッとした。喧嘩ならどんな男の子とやっても負けたことはない。
「おや、女の人かとは何よ。馬鹿野郎とは何よ。そりゃこっちだって、スリップをしたのは悪かったわ。悪いからあなたの出かたでは、ゴメンなさいともあやまり、こわれた補償にも応じようかと思っていたけど、そちらさんがそう言う出かたをするなら、こっちだって、言わして頂くわ。あんたも運転なさるようだから交通法規を御存知でしょうけど、追突した場合はぶつかってきた車のほうが悪いんですよ。一定の距離をあけていなかったか、スピードを出していたかのどちらかですからね。車を滅茶滅茶にされたのはむしろ、こちらのほうなんだから、損害はあんたの方で払って頂くわ。そちらさんのライトがこわれようが、どうなろうが、あたしの方では知ったことじゃないわ。もしそれが御不満なら、出るべき場所に出ましょうよ。さあ、そうしましょうよ」
機関銃のようにパン、パン、パンと相手の口を入れる間もないほどの早口でまくしたてるのが、弓子の男の子と喧嘩をする時の方法だった。たいていの男の子はこれだけで、怖れをなし、黙りこんでしまうのだ。
「スゴいなあ……」
この青年もまくしたてる弓子の言葉がやっと終ると、茫然としてこちらの顔をじっと見つめていたが、びっくりして呟いた。
「スゴいって、何が、すごいんですの」
急にツンと澄まして弓子はひらきなおる。
「女だからって、甘く見ないで頂戴。さあ、警察にいきましょうよ」
「いや、それは堪忍してくれませんか」青年は急にしおれて、頭をかいた。「俺、相手が悪かったよ」
通りすぎる車が一寸、スピードを落し、こちらをふりかえって行く。
「あらあら、こんなにこの車をこわされちゃって」
弓子は車からおりて後部を見ると、塗装がはげて傷が大きくついているだけで、ペチャンコになっていないのにホッとしたが、わざと大袈裟な悲鳴をあげた。
「あたしの車ならいいんだけど、これは借りたものなのよ。この車のオーナーはね、淀橋警察の署長さんのお嬢さんなのよ」
もちろん、それは出鱈目だったが、青年はますます、青菜《あおな》に塩の表情で、
「困ったなあ。本当ですか」
「ウソなもんですか。とに角、弁償はちゃんとして頂くから」
「わかりましたよ、でも、月賦じゃあ、いけませんか」
「月賦ですって。ビュイック・リベラをお持ちの方のくせに、ケチケチしたことをおっしゃるのね」
「実は、これも、あなたと同じように、ぼくの車じゃないんです。ぼくはアルバイトで、この車の持主の運転手をやっているんです。たった今、彼を羽田飛行場まで送ってきたところですが――いいえ、嘘じゃありません。九時前に仏蘭西にたったエール・フランスの飛行機に乗ってったんだから」
「九時前のエール・フランスで?」弓子は布を引き裂くような声で叫んだ。「それだわ。その飛行機だわ」
「どうしたんです」
青年はびっくりして、弓子の顔を見つめた。
「今のニュースを聞かなかったの? あなた。あの飛行機はこの霧でたった今、連絡を絶ったのよ」
「何ですって」
千葉は隣の仏蘭西婦人が眠りはじめたのを見ると、頭上の電気を自分の方にむけて、持参してきた書物を読みはじめた。それは、テル・ケルという巴里の若い作家たちの本で、千葉は頁をめくっていくうちに次第に読書の楽しみに飛行機に乗っていることも忘れていった。
さきほどまで、あちこちの席で雑談をかわしたり、夕刊をひろげていた人々が、そろそろ寝支度をはじめた。やがてエンジンの震動だけが機内にひびき、時々、栗色の髪の毛を可愛い帽子から出したスチュワーデスが通りすぎるほかは、千葉を除いて誰一人として起きている者はいなかった。
本から頭をあげ、丸い窓から外を見ると、霧はどこまでも深く、濃く、そして哀しかった。青い火を吐き出しながら、エール・フランスの飛行機は夜の空を飛んでいる。あの人は今、巴里で何をしているだろう。今、巴里はまだ午後なのにちがいないが、あの人は夫のいないクレベール街のアパルトマンで、友人に電話をかけたり、一人で編物をしているのかもしれぬ。そして決して、今、一人の男が自分を忘れがたいがゆえに、地球の果てからこちらに向いつつあることを夢にも考えてはいないだろう。
千葉は煙草を口にくわえ、ライターで火をつけた。甘い煙を胸ふかく吸いこみ、そして空になった箱を折ったり、拡げたりした。ふしぎに睡魔は襲ってはこず、この夜を眠りたくはない、という気持である。いい年をしてこんな感情に捉えられるのは、もう十数年ぶりのことだった。
その時、突然、機体を太い鉄棒で叩いたような衝撃が襲った。機体は階段でも転げるように一段、二段、落下した。
「|Oh!《オー》」(おお!)
「|Qu'est-ce que c'est arrive?《ケス・ク・セ・タリベ》」(どうしたんでしょう?)
人々は眼をさまし、不安そうにうしろをふりむいた。
だが、衝撃はそれだけで、ふたたび飛行機はさきほどの静かな運航に戻った。
「エア・ポケットですよ」
千葉は小鳥のように怯えて、自分にしがみついてきた仏蘭西の老婦人をやさしく慰めた。
「|Soyez bien tranquille, madame.《ソワイエ・ビアン・トランキール・マダム》」(ご安心ください、マダム)
少しざわついた乗客がふたたび眼を閉じて中断された眠りをとり戻そうとした時、第二の衝撃が――さっきよりもっと烈しい衝撃が機体全体をゆさぶった。棚から、救命具が音をたててころげおちた。
操縦室の扉がひらき、操縦士がスチュワーデスを呼んでいるのがこちらから見えると、乗客の中から、悲鳴のような声が一つ、二つ起った。
「皆さま」
蒼ざめた顔をしたスチュワーデスがこちらをふりむいて早口で、
「救命具を至急、お膝にご用意下さいまし。救命具を至急、お膝にご用意下さいまし」
「どうしたのだ。早く説明しろ」
「ただ今の烈しいエア・ポケットの衝撃でエンジンの一部と無線機に故障がありました。操縦士がただ今大至急、修理にかかっておりますが、万一の場合は海に着水するかもしれません。その場合も、決して生命には危険はございませんから、私の指示通りになすって下さいまし」
スチュワーデスは乗客を安心させるために必死で微笑を頬に作っているように千葉には思われた。小説家の彼にも生命に危険がないというスチュワーデスの説明が一時の気休めぐらいはもちろん、承知している。
墜落するとは考えられなかったが、万一という嫌な予感が不意に頭の中を大きな鳥のように横切っていった。
「死ぬんでしょうか」
隣の老婦人は彼を見て震《ふる》え声で言った。
「大丈夫ですよ。奥さん」
「あたしはお祈りをしますわ。あなたは、祈る神さまを持っていないのですか」
「私は持っていません」
ハンドバッグから老婦人はロザリオを出して膝の上でその一つ一つの球をくりながら、小声で祈りを呟いていた。そのほかの乗客の中にも彼女と同じように眼をつむり、手をくみあわせている人々もいた。
丸窓に顔を押しつけると、機体が少しずつだが下っていくのがわかる。一方のエンジンはとまって、さきほど青い火花のちっていた左の翼はただ死んだように胴体についているという感じだった。
(俺が死んだら)
自分が死んだら――その時、彼はまだ完成していない自分の仕事のことをふいに思いだした。それはまだ一字も手をつけてはいなかったが、彼の体の中でこの三年、少しずつ醗酵《はつこう》し、熟しつつあるものだった。その仕事を彼は自分の今日までの作品の総決算にしようと考えつづけていたのだ。
その時、千葉は不意に自分の心に第一に浮んだものが仕事のことであって、あの人のことでなかったことに気がついた。自分にかけがえのないものは仕事なのか、それとも、あの人なのかと今まで問いつめたことはなかったが、今、現実にあの人の面影の前に仕事が思い浮んだことが千葉には腹だたしく、そしてまた一種の快感があった。
「皆さま」
ふたたびスチュワーデスが扉をあけて顔を出した。その眼にはさっきと違って、どこかあかるい光が赫《かがや》いていた。
「皆さま。ただ今、無線機がようやく修繕の見込みがたちました」
吐息《といき》とも悦《よろこ》びの声ともつかぬものが、あちこちの席から起り、続いて|Bravo《ブラボー》と叫ぶ声がきこえた。
「ごらんなさい」
隣席の老婦人は千葉の肩をつついて、
「私は一生懸命にお祈りしました。神さまは必ず私たちの祈りをきいて下さいますわ」
「え、え、もう少し大きな声で言って下さいよ」
公衆電話の受話器にしがみついて、青年が肩を震わせている姿を、自動車の中で見つめる弓子も気が気ではなかった。
「なんですって、消息が? 不明、不明じゃない、どちらなんですか。そうか。そうか。有難い」
受話器を勢いよくおろすと、青年は顔中をクシャクシャにさせて、
「助かった。助かりましたよ」
「大丈夫だったのね。そうでしょ」
「そうですよ」
歓喜が弓子の胸をいっぱいにして、幸福感がお腹をギュッと締めつける。
「よかったわ、本当によかったわ」
「大丈夫だとは思ってたんですがね」
「あなたが、さっき車をぶつけてきたことも許したげるわ」
「え。本当ですか」
「運のいい人よ。こんなことがなかったら弁償費をとりたてるどころか、免許証もおあずけだったのに、飛行機さま、さまね」
「しかし、こちらはライトを滅茶滅茶にしているんですからねえ、辛いなあ」
「その車、保険に入ってるんでしょ」
「ところで、その飛行機にあなたの御親類でも乗ってられたんですか」
「親類?」
かるい声をたて、ハンドルにうつぶせになりながら弓子は笑った。
「恋人よ」
「へえ」青年は感心したように首をふって「海外出張ですか。その方は」
「とんでもない。恋人に会いに行ったの」
青年は怪訝《けげん》な顔をして黙りこんだ。弓子が羽田に送ったのは恋人だというのに、その恋人が更に恋人に会いに行くと言うのが咄嗟《とつさ》に理解できなかったらしい。
「さあ、私、もう出発しなくっちゃ」
「僕を見棄てて行くんですか。困ったな。ライトがこわれた以上無燈で走ることになる」
「世話の焼ける人ねえ。じゃあ、あなたの行先か、修理屋まであたしが先導してあげるから、従いていらっしゃい」
弓子はエンジンをかけながら、うしろを向くと、眼玉を喪《うしな》ったようなビュイック・リベラにおぼつかなさそうな恰好で彼が乗っている。口に手をあてて、
「何処まで行くの」と叫ぶと、
「自由ケ丘です」
「まあ。あたしの家の近くだわ」
自分としては雨の銀座に出る筈だったが、思いがけぬ事故のため予定をかえて進路を田園調布にとった。
田園調布の暗い静かな住宅街を静かに車を走らせていると、ふっと千葉の面影が胸を横切っていった。この路を二度ほど千葉と歩いた思い出がある。雨に濡れた銀杏の青葉が街燈に光っている。
自由ケ丘まで来ると、
「ここでいいでしょ」
弓子は、青年に向って窓から手をふり、さっさと車をターンさせて別れていった。
翌日、いつものように忙しい一日が始まった。赤坂のTBSラジオが彼女の勤務先である。若い女性アナウンサーとして、彼女は今日も午後の婦人の時間に朗読をやり、有名な建築家の和木氏に『東京都の将来』についてしゃべってもらった。インタビューを受けもつ時は、よく前もって相手の考えを調べ、適切な質問をしなければならない。頭の回転が早く、歯切れのよい弓子は局内で腕のいい女性アナウンサーとして通っていた。
「お疲れさま」
「お疲れさま」
録音を終えて、和木氏を送りの車に乗せると、彼女は、つかれを感じて、二階のロビーにお茶を飲みに行った。
「どうしたい。しょげているじゃないか。テープうまくとれなかったのかい」
レモン・スカッシュに唇を当てている彼女のうしろから、声がかかった。制作部にいる押見という若いディレクターだった。その名の通り、押しが強いので「アツカマくん」という別名をもらっている。
「テープは大丈夫なんだけど、和木先生って無口でしょう。何を質問しても、ええ、とか、いいえ、としかお答えにならないんですもの。神経、使っちゃったわ」
「あのね。弓ちゃん。一寸、ぼくにさ、三千円ほど貸してくれないかな。利子つけて返すからさ」
急に話題を変えた押見は文字通り「アツカマくん」らしい顔つきになってくる。
「だ、め」
はっきりと、一語一語、区切りながら弓子が首をふると、押見はその口をそっくりまねして、
「だ、め、じゃ、ないよ」
「本当に、何て、厚《あつ》かましい人でしょ。どうせマージャンか、お酒に使うくせに」
「今日はそうじゃないんだ。後輩を助けてやるんだよ」
「たとえそうでも、男の癖に女の子からお金借りるなんて、みっともないわ」
「それくらい俺だってわかっているさ。それを百も承知でこうして頼むのは、相応の事情があるからなんだ。俺、大学時代の水泳部の後輩と同じ下宿にいるだろ。そいつが学生アルバイトで運転手をやってるんだが、昨日、新米のロクに自動車も扱えねえ女にライトをこわされたんだって。可哀想に、奴、しょげちゃってな、ところが、今日、俺は文なしだろ。奴に修繕費を貸してやれないんだよ」
「一寸」
弓子は何かを言いかけてその言葉を咽喉に飲みこむと、
「その人、女の人にライトをこわされたの。それ、何時の話よ」
「昨日さ。図々しい上に、猿のような顔をした女の子でね。奴、口下手なもんだから、彼女に言いまくられて弁償費も取れなかったそうだよ」
「猿のような顔をした女の子?」
「ああ。そう言っていたな」何も知らぬ押見はうなずきながら「ひどい話さ。自分でぶつけておきながら、金も払わずに逃げるんだから。近頃の女の子は油断も隙もありゃしない」
「いいわ。そういう御事情なら三千円、貸してあげるわ」
弓子は白っぱくれて、
「その代りに、押見さんが嘘を言っているんじゃないと言う証拠を見せて頂戴」
「証拠? 信用ねえなあ、俺は。どうすりゃあ、いいんだい」
「その学生に会わしてよ」
「簡単さ。俺と同じ下宿だから」
「今日、あなたの下宿に帰り道、寄るわ。つれていって頂戴」
「今日? そりゃ、駄目だ」押見は急に狼狽して首をふると「駄目だよ」
「なぜ、よ」
「掃除してないんだ。俺、恥ずかしいよ」
「今更、何、言ってんの。でないと、嘘だと思うわよ。お金なんか貸さないから」
飛行機はアラスカのアンカレッジに翌朝ついた。まだ残雪の残っている山々と落葉松の森林が何処までも拡がる大自然の中に、この街はひどく孤独に千葉の眼にうつった。あの事故があったため、乗客が飛行場のレストランで二時間の休憩をとっている間、千葉は飛行場の出口近くまでおりてみた。アメリカのビザをとっていないため、彼にはこのアンカレッジの街を散歩することができないのが残念だった。
街はここから少し遠くに見えた。午前のあかるい光が、いっぱいに当っている街は、子供の時、読んだ物語の幻の都市のように思われる。
陽《ひ》にやけたエスキモー人らしい夫婦が子供の手を引っ張って路を歩いている。冬になれば、あのエスキモー人たちは毛皮の帽子をかぶって狩猟に出かけるのかも知れぬ。
千葉は三年前、あの人が巴里に向う時、ここから絵葉書をくれたことを急に心に甦らせた。
その絵葉書には、このアンカレッジをとりまく雪の森林の向う側に落ちる真赤な落日の風景がうつされていた。
『もうあと数時間で巴里でございます。その途中とは言え、この地球の果てのような街に来るとは思いもよりませんでした。ただ今、空港から見えるアンカレッジは粉雪がしずかにふっております。路も建物も銀一色で、外套を着て毛皮の帽子や耳当てをした男女が歩いています』
あの人が書いたその絵葉書の言葉をすっかり千葉は暗記していた。
彼はぶらぶらと構内の売店を覗いてみた。エスキモーのお面や人形を土産物に売っているのも、いかにもアラスカらしかった。
「新聞を一枚」
千葉が仏蘭西語で売子に話しかけたが、相手は首をふった。英語で同じことを言いなおすと、
「アンカレッジの新聞ですか」
売子の女性は愛想よく笑いながら一枚の新聞をとって、
「たいしたことは書いてありませんよ」
しかし千葉は自分の行く先々の街で、そこの新聞を読むのが好きだった。見知らぬ国の、見知らぬ街の匂いをはじめて感ずることのできるのは、その新聞を開いた時だった。ちがう人種、ちがう言葉を話す人々がどんな生活をしているのか、どんなことを考えているのかは、小説家の彼にとって何より好奇心をそそることだった。
食堂に戻ると、さっきまで一緒だった乗客たちがそろそろ待つことに退屈しながら、それぞれテーブルを囲んでいた。熱い珈琲をたのんで、千葉はゆっくりと新聞をよみはじめたが、たいしたことは一つも書いていない。街の誰それの令嬢がワシントン大学を卒業した青年と婚約したとか、教会のボーイ・スカウトは今年、こういうキャンプをするというような出来事までが、大きな見出しで出ているのである。そんな話題を毎日の食事でくりかえしながら生活しているアンカレッジの街の人々が、千葉の眼に見えるようである。
彼が珈琲を飲み終って新聞をたたんだ時、スチュワーデスが出発時間の迫ったことを一同に知らせに来た。
「本当に来る気かい」
自分の下宿近くまで弓子と一緒に来るには来たが、流石《さすが》に閉口した表情で言うと、
「あたり前よ。その学生さんに会って確かめてみなくちゃ、お金なんか貸せないもの」
弓子としては昨日会った学生が押見の後輩だということよりも、自分のことを、図々しい女だ、と言ったことに、すっかり腹をたてていた。のみならず、猿のような顔をした女だとはあまりにひどいではないか。掴まえて、ギュウの音も出ないくらい、とっちめてやらなくちゃあ……。
「掃除をしてないんだぜえ」押見はいつになく、心細そうに「汚いんだ」
「かまわないわよ」
「君がかまわなくても、ぼくがかまうよ」
「どうせあなたのことだから、お掃除してないってぐらい、初めから見当ついてるわよ」
諦めたように押見は通りから少し入ったアパートに向って歩きだした。
「ここだよ。気をつけてくれ。入口が低いからさ、頭ぶつけないようにな」
正直な話、そのアパートは決して綺麗なものとは言えなかった。モルタル造りの、雨の染《し》みの痕《あと》が何処かいつまでもついているような壁に、物干竿のぶらさがったわびしい窓が五つ、六つあいている。
「おーい。安川。お客さんだぞ」
押見が口に手をあてて叫ぶと、ちょうど階段をのぼりつめたところで七輪を団扇でパタパタとあおいでいたランニング・シャツ一枚の青年がこちらをふりむいた。
「うへえ、七輪の煙が眼に入って、よく見えません」
「上衣ぐらい着てこいよ。お前に金を貸してくれる人をつれてきたんだから」
眼をこすりながら青年は、階段をのぼってくる押見の肩ごしに弓子を何気なしに見おろすと、
「あッ」
異形《いぎよう》のものにでも出会ったように、大きく口を開けて叫んだ。
「あッ、あッ」
「おやおや、どうなさったのよ」弓子はわざとしずかに微笑をして、
「昨日は、御迷惑さま」
と、安川とよばれた青年は口をもぐもぐさせ、団扇をもったまま後ずさりをして、くるりとうしろを向くと一目散に走り出した。
「何だ。どうしたんだ。安川」何もわからぬ押見はふしぎそうに、「弓ちゃん。あいつを何故、知ってる」
「そんなこと、どうでもいいわ。あの部屋が、あなたたちの部屋なのね、あたし入るわよ」
ドアをあけると――今度は仰天し、真赤になったのは、むしろ弓子の方だった。若い独身男二人の下宿がこんなにクサく、キタないものとは彼女も流石に知らなかったのである。
部屋中、新聞や本が散乱しているのはまだいいとして、左に何日も洗っていない食器やドンブリがちらかり、右に綿のはみ出た万年床が敷きっぱなしで、
「臭い」
思わず、鼻をつまむくらいの汗臭い男の匂いが充満している。
「こりゃ、いけねえ」押見は部屋の隅で小さくなっている安川に、「片づけないか。早く、雑巾を出せ。雑巾を」
「押見さん」安川もユデダコのように真赤になり、「それは……雑巾じゃない。押見さんの猿股です」
「馬鹿、かくさないか」
五分後、弓子の前に押見も安川も正座して顔から汗をながしながら、
「許してくれよ。弓ちゃん」
「あら。許すも、許さないもないんじゃない。どうせ、あたしは図々しい女ですわ」
「とんでもないことです」
「さっきと随分、形容詞がお変りになることねえ。猿のような顔をした女から三千円、お借りになるくせに」
「ぼかア、サルと言ったんじゃない。ツルといったんだ。鶴のように品のいいという意味だ」
「先輩」安川は恨めしげに、「ぼくは三千円とは言いませんでしたよ。二千円とたのんだのに」
狼狽する押見を、弓子は睨みつけて、
「ほうら。そうだろうと、思ったわ。千円、あなた、猫ババするつもりだったのね」
平あやまりにあやまる男二人を見ていると、弓子も何だか馬鹿馬鹿しくなり、
「もう、いいわ。許してあげるから」
「それは、有難い」
「しかし、汚い部屋ねえ。臭くて頭が痛くなってきたわ」
「だから掃除をまだ、していないと言ったじゃないか」
「掃除? これ、何日前に掃除をした部屋なの」
「俺たちは二ヵ月に一度、やるんだ。時間が惜しいから」
「時間を惜しんで勉強でもしているような言草じゃないの。そんなお二人が、あらあら、あんな写真を壁にはりつけて」
弓子が指さした壁にはどこかの週刊誌から切りぬいたらしい女優の水着姿の写真を幾枚もピンでとめてあった。
「あなたたち、不潔よ」
「わかったよ、わかったよ、弓ちゃん。そう怒らずに、まア、飯でも食っていってくれよ」
「先輩」安川は心細そうに、「飯はあるんですが、副食物が、今日も丸干と沢庵だけですから」
ハンブルクの街の灯が窓の下に拡がっていた。それは東京の夜景よりはずっと規模が小さかったが、いかにも独逸の街らしく、きちんとして秩序があった。
「雨がふっているようだな」
と、後ろにいる外人の男たちが、その灯を見つめながら話していた。
「ハンブルクは面白いよ」
「どう言う意味で」
「なに。男にとっては面白い街だという意味さ」
飛行機は着陸の態勢にうつり、バンドをしめて、煙草をすわぬようにという電気文字が前方についた。やがて、軽い衝動が機体をおそった。滑走路に着陸したのである。
雨がふっていた。東京を出る時と同じようにこの飛行場にも細かい霧のような雨がふっていた。タラップの下で、傘をもった独逸人たちが五、六人、こちらを見上げていた。
「ダンケ・シェン」(ありがとうございました)
スチュワーデスは、ここで降りる人たちに微笑をうかべながら挨拶をする。その人たちのあとから千葉のように巴里まで乗りつぐ乗客がタラップをおりた。
雨にぬれた大地をふんだ時、やはり旅の疲れと軽い眩暈《めまい》とを千葉は感じた。彼は湿った空気をすいこみながら、自分が今、やっと、あの人にほど近い街に到着したのだと思った。
その時、彼は前方に赤いレインコートを着た娘がたった今、おりてきた乗客の一人に手をふっているのを見た。いかにも独逸女性らしい金髪の娘だった。
だが赤いレインコートは彼に弓子のことをふと心に甦らせた。羽田に、あの弓子も同じ色のコートを着て送りに来てくれたからである。
彼は巴里についたら弓子に絵葉書でも送ってやろうと思った。そして彼女のことはそれで心の中から、地面におちた雨のように消えていった。
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巴 里
まぶたにあたる微光に千葉はふかい眠りからやっと目をあけた。すると、まだ朦朧《もうろう》とした彼の感覚に、どこか遠くで、ク・ク・クと誰かのふくみ笑いがぼんやり聞えた。
目を子供のようにこすりながら、彼は、その笑い声が窓ぎわにとまっている一羽の鳩の声だと気がついて、
(ここは巴里だったんだな)
白いフレンチ窓の鎧戸《よろいど》から差しこむ朝日が一条の線となってベッドの上に流れるのをぼんやりと眺めた。
その窓にもたれると、まだ巴里の街はすっかり朝の眠りからさめてはいなかった。マロニエの街路樹のかげに乗り手のないルノーやキャトル・シュボーが置き去りにされて、ナッパ服を着た清掃人が歩道をそうじしているほかは、人影はない。
老婆がむこう側の曲り角から姿をみせた。長いフランスパンを入れた籠を手にかけて、鶏のように歩いていく。彼女は左手の教会の柵をあけて中に入った。司祭館勤めの婆やなのだろうか。ああ、牛乳屋のマークをつけた小型トラックが今、右側を通りすぎていった。
東京にいれば、なんでもないこんな朝の風景も、千葉にはなつかしい。この広い街は、むかし留学したころのさまざまな思い出にみちている。それは彼にとって、あるいは悦《よろこ》びであり、あるいは悔恨《かいこん》や悲哀でもあった。教会の尖塔《せんとう》から鳩が舞いおりていく。鳩の群れは朝の空を曲線をえがきながらむこうの森に消えていく。この風景も彼にはかつてみなれたものだった。その時、彼は二十六歳であり、モンパルナスに近い通りに下宿をしながら大学に通っていた。
あの人と知り合ったのはその時である。もっともあの人とはじめて会ったのは、この巴里ではない。
それは、スイスとフランスとの国境に近いサボアの小さな避暑地コンブルーの村だった。このコンブルーには学生のための『山の家』があったのだ。あの二十六歳の時の夏休み、彼はその『山の家』で二週間ばかり滞在するつもりで、勉強の本をいっぱい入れたリュックサックをせおって汽車にのったのだ。
巴里を夕方出て、翌朝、ルフラマンという小さな駅でおりると、先にコンブルーの『山の家』に滞在しているフランス人の友人が、スポーツ・シャツに半ズボンというかっこうで迎えに来てくれていた。
ルフラマンの駅はいかにも高原の駅らしく、赤、黄、白の花がいっぱいに咲きみだれていた。その花のずっとむこうに、まるで地球の歯のようにアルプス連山の山並がうかんでいた。『山の家』のあるコンブルーは、ここからさらにバスで四十分ほど、のぼったところにある。
フランス人の友人は、汽車からおりた千葉を見つけると、なつかしそうに手をあげながら駆けよってきた。
「|この野郎《サクレチバ》。|元気か《サギヤーズ》」
背中を思いきり叩きながら、その友人は言った。
「待たしやがって」
それから彼は巴里っ子らしい早口で、『山の家』のことをしゃべりはじめた。今、この家に来ている学生は男女で三十五人ほどいる。一人一室の部屋もあれば、二人一室の部屋もある。俺はお前と住むようになるだろう。部屋のすぐ真下は牧場で、そのずっとむこうにモンブランの山がはっきり見える。眺めも悪くないし、飯もまずくはない。ただ勉強にむくかどうかはわからないな。ジャズばかりかけている連中がいるから。
バスの中で彼は急に思いだしたように、千葉に囁いた。
「そうだ。日本人の女の子が一人、来ているぜ」
「日本人の女の子?」
「ああ。ソルボンヌ大学じゃなく、ピアノを勉強しに巴里に来ているんだってさ」
千葉はふうんと言ったきり、強い紫外線の中でかすんでいる森や林をながめた。日本人の女の子よりも、彼は今、のどにも肺にも甘いこの高原の空気と風景のほうに心ひかれていた。
これが、あの人と千葉が最初に出会った夏だったのだ。もうずっとずっと昔。十年もへだたった時のことだ。
シャワーをあび、洋服を着ると、彼はまだ静かなホテルの階段をそっとおりて、客の姿のみえぬロビーを横切った。眠そうな顔をしたボーイがあわてて扉をあけた。
朝の巴里の歩道はまだ湿っている。どこへ行くあてもなかったが、それでよかった。あの夏が終ったあと、千葉は彼女とどのくらい、この湿った歩道を肩をならべて歩いたことだろう。マロニエの枯れ葉にうずまり、今と同じように清掃人がしきりにほうきを動かしている歩道を、鳩が餌をついばみ、珈琲店のテラスでは、やっと主人が椅子と卓子《テーブル》を並べはじめている。
「朝食を食いたいんだが」
「いいですよ。ムッシュー」
千葉はまだ片づけられていないテラスにすわって、珈琲が熱くなるのをおとなしく待っていた。
「電話を借りていいかね」
「奥にありますよ」
コインを受け取って電話室に入ると、彼は手帳を出して、番号をもう一度たしかめた。クレベール・二―一八六四。あの人のアパルトマンである。
受話器を右手にもった時、ためらう感情が胸に起った。
(彼女の主人は、まだ出勤していないはずだ)
まだ八時半。おそらくあの人のアパルトマンではようやく朝食をはじめたばかりにちがいなかった。そして、もし自分の電話をうけた時、家族の前で動揺し、混乱するあの人の姿を想像すると、
(やめよう)千葉は受話器をかけなおした。
(時間が早すぎる)
熱い珈琲をすすりながら、彼は今、自分がためらった心の動機を噛みしめはじめた。自分がもしあの人の夫の立場にあったら、どうであろう。妻に見知らぬ小説家から電話がかかってくる。しかも、その小説家は妻に会うためだけに、わざわざ巴里にまで来たというのだ。
(俺の今やっていることは、いやな臭いがする)
そんなことは初めから百も承知していた。彼の胸の奥に出かかっていて、それをはっきり言うのが怖ろしい言葉も知っていた。不倫の恋という言葉である。一人の男が妻をめとり、自分たちのために巣をつくる。その巣を別な男が乱しにくる。その侵入者が俺だ、と千葉は思った。
珈琲は口もとから少しこぼれて彼の靴先をぬらし、
(しかし、俺は、会いたい。せっかく、巴里まで来たのだから)
珈琲店を出ると、マロニエの葉を通して強い陽《ひ》ざしが彼の額にあたった。歩道の売店で朝刊とジタンという煙草とを買い、千葉は、セーヌ河にむかって歩きだした。
午前の光は針のように河面《かわも》にきらめいていた。花のすっかり落ちたマロニエの樹がその河面に影を落している。白い荷舟が単調な音をたてて河を遡《さかのぼ》っていく。
空は晴れてはいたが、むこうに見えるパレ・ド・ジュスティスの黒い塔がぼんやりと煤煙につつまれていた。河岸の石段に腰をおろし、彼は新聞をひろげて読みはじめた。こんな何ものにも拘束されない時間をもてたのは何年ぶりであろう。東京では今ごろ、もう彼は電話をうけ、机にむかっているだろう。客が来、どっさりと郵便物が届き、その仕事をさまたげるだろう。
新聞には特にこれといったニュースはない。ドゴール大統領が英国でフランスの新しい地位を要求したという記事が一面を飾っている。三面には、英国とフランスをへだてるドーバー海峡を泳ぎぬく選手権の予告が出ている。いずれも今の千葉には興味がない。
足もとをゆっくり流れていく水の中に煙草を指ではじくと、それは波の間にかくれ、流されていった。
(不倫か、してはならぬ恋だな)
彼はその時、なぜか、自分を羽田まで送ってくれた志摩弓子のことを思いだした。あの女の子ならやりたいことはやるだろう。そしてその責任は自分で負うといっている。彼女なら、今の自分のように不倫だの、道ならぬだの古風なことを念頭におかず、まっしぐらに進んでいくだろう。千葉は、自分と弓子との世代の違い、倫理の相違、生き方の差を感ぜざるをえない。
(弁解のようだが、一度だけ、あの人[#「あの人」に傍点]の声をきけばそれでいい。そうしたら、俺はこの巴里を去って南フランスに行く。それからまっすぐ日本に帰国しよう。仕事の中でもう何もかも忘れてしまおう)
彼はその想念を、心の半分では自分をごまかしていると思いながらあとの半分で、その誘惑に目をつぶることにした。
陽の白く光る河岸の石段をのぼり、十字路にみえる郵便局に近づいた。電話口にコインを入れると、小石が深い谷に落ちるように長く反響があった。ダイヤルを指でまわしコールのサインがくりかえして鳴っている時間を千葉は苦笑しながら聞いていた。
「|Allo《アロ》……|Allo.《アロ》」(もしもし……もしもし)
飴をしゃぶったような女の声がきこえた。あの人の声ではなかった。フランス人の女中が電話口に出たのであろう。
あの人が今すぐ電話口に出てくる。そう思うと、千葉は急に苦痛に捉えられ、このまま逃げだしたい衝動に駆られた。そして足音が受話器の奥できこえ、しだいにこちらに近づき、千葉が忘れることのなかった声が、
「もし、もし。那智でございます」
いぶかしそうに伝わってきた時、彼は思わず、口を噤《つぐ》んで、すぐ返事をすることもできなかった。
「あの……那智でございますが……どなたさまでしょうか」
「私、です」やっとの思いで千葉は答えた。「おわかりになりませんか」
受話器の奥に沈黙がしばらく続いた。あの人が彼だと知って驚きのあまり黙っているのか、それとも、まだ電話の相手がわからぬので沈黙しているのか、わからなかった。
「さあ、お声だけでは……どうぞ、お名前をおっしゃっていただけませんか」
こちらの非礼をとがめるように、彼女は少し硬《かた》い調子でいった。そんなことってあるだろうか。俺の声をもうすっかり忘れていたのか。
「お忘れですか。千葉です」
すると受話器のむこうで、ああという溜息とも吐息ともつかぬ声が洩《も》れた。そして十秒ぐらいの間隔をおいて、
「いつ、ここに、いらっしゃいましたの」
「昨日です。ホテルはコンコルド広場のすぐ近くです。おさしつかえなければ一時間でもお目にかかりたいのですが」
また、沈黙が続いて、
「今日でございますか」
その声には、あきらかに迷惑そうな調子がふくまれていた。
「ええ」
「今日は……あたし」
千葉は当惑し、少しためらった。はるばる巴里にまで、ただ彼女に会うためだけの目的で来た自分に、こんな返事を彼女がするとは考えてもいなかったのである。
「一時間だけでも……お暇がありませんか」
「……四時からお買物にちょっと、でかけますので、その時でしたら」
「けっこうです。場所は何処にしましょうか。シャンゼリゼのキャフェ・ド・ラ・ペイで、四時半に必ず待っています」
受話器を切ると、思わず、溜息をついた。たいへんな仕事をやってのけたような感じだった。一台のスポーツ・カーが、車道を横切る彼の体すれすれに走りすぎていった。誰かが背後で、あぶない、と大声をあげた。
どうしたというのだ、指を額にあてながら千葉は考えこむ。あの声の調子、他人行儀なもののいい方、すべてそれらは、むかしのあの人[#「あの人」に傍点]のものではなかった。彼女が千葉に会うことを怖れ、当惑している気配がありありとわかった。もちろん、彼には人妻である彼女の立場がよくわかる。千葉の出現によって、ふたたび自分のしずかな生活がかき乱されるのを怖れたのかもしれぬ。しかし、それだからといって、あのひややかな、こちらを突き放すような物のいい方はやっぱり、彼の胸を鋭いメスのように傷つけた。
デンスケ(録音機)をかついで、その日、弓子は映画評論家の野田氏に会ってきた。映画俳優の深沢真子と原耕二の離婚についてしゃべってもらうためである。
結果が思わしくないので、プリプリしながら制作部にもどると、
「どうしたい」矢崎という同僚がたずねた。「ごきげんが悪いね」
「ダメね。野田さん。真相を知っているのに逃げをうって、打ち明けてくれないのよ。卑怯だわ」
「君の自由にならないから、卑怯とはひどいな」矢崎は笑って、「それより、弓ちゃん。部長が君に話があるそうだ」
「話?」
「三階の応接室に押見といるはずだよ。行ってごらん」
部長が何の用事だろう。近ごろヘマをやってないはずだがな。彼女は首をかしげて、
「なんだか、こわいな」
「弓ちゃんらしくもないね。叱られたら泣くまねをすればいいさ」
「そんな手は、部長に通用しないわよ」
三階の応接室は第七スタジオの前にある。応接室といっても、出演者と打ち合わせをするだけの粗末な椅子とテーブルとがあるだけだ。
その机に吉沢部長は肱《ひじ》をついて、押見と何かをしゃべっていた。いつも微笑しているが、目つきが鋭い。物おじしない弓子も、この部長だけはちょっと、苦手なのである。
「ご用ですか」
「うん」部長はうなずいて、ポケットから煙草を出すと、一本を口にくわえ、火をつけながら、
「まあ、そこにすわりなさい」命ぜられるままに椅子に腰かけると、
「今、押見君とも相談していたんだがね」
「はい」
「君は……今の仕事を離れる気はないか」
「離れる?」弓子はびっくりした顔をあげて「私、何か、失敗をしたんでしょうか」
「そうじゃない。安心しなさい。実はね、君も知っているように、兼高かおるの海外旅行のテレビ番組がうけているだろう。だから、うちのラジオ局でも、あれと同じようだが、ちょっと、ちがった新番組を作ってみたいと思うんだ」
部長は煙草の煙をはきだして、
「ただしだ。これには、条件がある。押見君に聞くと、君は、はなはだ心臓が丈夫だそうだね」
「自分では丈夫だと思いませんけど、別にお医者さまにかかったことはありませんわ」
「私の言っているのは、君は押しがつよいという意味だ。女の子にしては、ズウズウしいということだ」
「まア。押見さんがそう言ったんですか」
弓子はそばにいる押見をそっと睨んだが、彼はそ知らぬ表情をして壁の一点を見つめている。
「君は学生時代、ヒッチ・ハイクや無銭旅行の名人だったそうだね」
「おもしろ半分でやったんですわ」
弓子は真赤になってうなずいた。
「まったくの無銭旅行じゃありませんでしたけど」
「どの程度だね」
「それは、お話していいんですけど、今度の企画とどういう関係がありますの」
「大ありだよ。だが、その前に君の無銭旅行の程度を話してごらん」
「大学の女子学生の時、おもしろ半分でお友だちと千円だけで京都まで行ったことがあるんです」
「千円で? 君、汽車賃でも千円以上するだろう」
「汽車なんか乗りませんでしたわ。女の子二人で品川から歩いていると、必ず、車を運転した青年がのっていかないかと声をかけるんですもの。その車の中でいいのをえらんで、次々と乗りついでいきました」
「君、むちゃだな」
「でも、こんなこと、今の女の子にはあたり前のことですわ」
「そんなものかね。しかし、食事はどうした」
「食事だって、奢《おご》ってくれる男の人がすぐ見つかりますわ」
「へえ。それはどんな奴だ」
「部長ぐらいの中年男が一番、多いようです」
吉沢部長は闇夜に鼻をつままれたような顔をしてだまりこんだが、
「あぶない目にあったら、どうするんだ」
「そんなの、いくらでも手がありますわよ」
「絶対、自信があるかい」
「ありますわ」
「よし。じゃあ、話がきまった。君はその無銭旅行を京都までではなく、ヨーロッパでやってもらいたいんだ。フランスやイタリヤをヒッチ・ハイクで歩いてくれないか」
「まあ」
あまりのことに、さすがの弓子も絶句して、
「気が遠くなりそうだわ」
「なんだって」
「いいえ。突然のお話なので、びっくりしたんです」
「そうだろう」部長はニヤニヤ笑いながら、
「そして、そのヒッチ・ハイクの模様をテープで記録して送ってもらいたいんだ」
「あたし一人で、やるんですか」
「もちろん、万一のことを考えて、この押見君を同行させる。しかし、それは君といっしょにヒッチ・ハイクをさせるためじゃない」
「ぼくは見えつ、かくれつ、君をどこかから守っているよ」と押見は腕をくんでうそぶいた。
「親船に乗ったつもりで安心したまえ」
頼りにならぬ押見のような護衛者では、かえって心細い上に足手まといになると思ったが、部長命令とあれば仕方なかった。
「部長」
押見は急に、椅子から飛びあがるように立つと、
「お願いがあります。厚かましいようですが」
「君の厚かましさは、今に始まったことではないが、何だね」
「この護衛役にもう一人、つけ加えていただけないでしょうか」
「なんだって、冗談じゃないよ。君一人ではできないと言うのか。それなら、やめたまえ」
「と、とんでもない。ぼくは自分の腕力で、十分志摩君を守る自信がありますが、そうじゃなくて、ぼくの後輩でドーバー海峡をかねてから泳いで渡りたいという奴がいるんです」
「ドーバー海峡」
「そうです。部長もご存じのように英国とフランスとの間を流れるあの大西洋の海流は潮の速さも早く、これを渡り切った青年は非常に少ないんです。日本人じゃ、もちろんいません。奴は大学の水泳部ですが、絶対に自信があると言っているんです」
「君」吉沢部長はわざと大きなあくびをしながら「馬鹿言っちゃいかんね。放送局は仕事と関係ない人間まで外国に行かす予算はない」
「でも奴は荷物もちにもなりますよ。デンスケだって二つや三つは平気でぶらさげます。それに部長。あと三ヵ月したらこのドーバー海峡で世界アマチュア遠泳大会があるんですが、奴をそれに参加させて、もし優勝できたら……これを実況放送すれば、太平洋を横断した堀江青年以来の快ニュースになるかもしれませんよ」
まるで暗記したようにまくしたてる押見の顔をじっと見ていた部長は、最後の言葉に少し心を動かされたようだった。
「世界遠泳大会か。堀江青年以来の快ニュースか。しかし、彼は絶対優勝できるかね」
「ぼくがコーチとして、はっきり断言するんですから、部長、親船に乗ったつもりでいてください」
「君は軽々しく親船に乗ったつもりで、と言いすぎるぞ。しかし、悪い案でもなさそうだな。よし、重役会に提出してみるか。重役会で否認されるかもしれんが」
部長は何本目かの煙草をもみ消すと大股《おおまた》で部屋を出ていった。そのうしろ姿を見送りながら、押見は舌をペロッと出して、
「うまく、行ったぞ」
「ヨーロッパに行けるなんて夢みたいだわ」
弓子の心をその時、占めたのはヨーロッパ・ヒッチ・ハイクという仕事のことだけではなかった。一度は断念しようとした千葉とふたたび会えると言うことだった。口ではドライな強がりを言う娘でも、彼女の心の奥には女としてのひそかな湿った領域があった。そのひそかな領域の中を、千葉にふたたび会えるという倖《しあわ》せと悦びとが水のように拡がっていった。
「なんだい。妙に感傷的な顔をしやがって」なにも知らぬ押見は、部長が机の上に忘れていったピースの箱をのぞいて、「チェッ。しけてやがる。一本も残っていないや。しかし弓ちゃん。この欧州行きは誰の推薦で、君が行けるようになったか、この際、確認してほしいね」
「わかっているわよ。ありがたいわ」
「ありがたいと思うなら、千円、かしてくれないか」
「千円ぐらい貸すわよ。でも、ちょっと、聞きたいことがあるの。ほんとうに、あんたのあの後輩、ドーバー海峡で優勝できる自信があるの」
押見は片目をつぶり、
「細工はリュウリュウさ。その日になればわかるよ」
制作部の部屋にもどっても、まだ胸の震えがとまらなかった。ヨーロッパに千葉のあとを追って行けるなどとは、ほんのさっきまで夢にも考えていなかったのだ。
押見が、デスクの飯田さんに部長命令を報告すると、
「やっぱり、決定したか」
飯田デスクはもちろん、この企画を耳にしていたとみえ、
「みなは今、外出しているが、この話を聞くと、ひがむぞ」
「そうでしょう」
「つまらん嫉妬心をあおりたててはいかん。押見君は当分、おとなしくしたまえ。浮かれて騒いだりしないように」
一言、ぴしっと注意しておくのを忘れなかった。
その朝まで淑子《よしこ》は、千葉との思い出を誰にも見せない心の一隅にしまいこんで、固く鍵をかけていた。それはまるで、暗い秘密の箱のようだった。その箱の鍵をあけないのは、彼女がこの思い出を誰にも知られたくないからだけではなく、それを開くこと自体が、自分でも怖ろしかったからなのである。
いつもと同じように、よく晴れた巴里の夏の朝だった。
「近く、休暇をとるから」
朝食の食卓で新聞をよみながら夫の直光が言った。
「サボアのほうでも、ドライブをしようか」
外交官である直光はユネスコのほうの仕事を担当しているから、他の仏蘭西大使館の職員が夏休みをとっても、かえってこのシーズンに仕事が多かった。ユネスコの各国関係客が、この期間、巴里にやってくる。その接待や会議で毎日が忙しいのだ。休暇をとるなどとは珍しいことだった。
「どうした。うれしくないのか」
夫と淑子とは年が十六歳もちがった。そのためか、夫のものの言い方は、まるで父親のようである。
「いいえ。それはうれしいけど」
淑子は小さなビスケットにママレードをつけながら、
「サボアではなく、ブルターニュの海岸じゃ、いけません?」
「どうして」
「あたし、あっちの方はまだ行ってないんですもの」
「そうか」
なにも知らぬ夫は、ル・モンド紙の朝刊をたたみながら、
「それなら、ブルターニュでもいいよ。あそこは魚料理がうまい。南仏とはちがった料理がある」
淑子がサボアに行くのをそれとなく断ったのは、夫に言ったような理由のためではなかった。自分がこの直光と結婚する前、はじめて恋というものを味わったのは、あのサボアのコンブルーとよぶ避暑地だったからである。学生のための『山の家』に同じ巴里音楽院の友だちたちとほんの一週間ぐらいのつもりで出かけた時、彼女はそこで留学生の千葉を知った。
鍵をしっかりかけたその思い出の箱をふたたび開くことを淑子は何よりも怖れた。今はもう昔のやさしかった思い出、千葉との巴里でのできごと、それらすべてを忘れて、直光の妻として、平凡でしずかだが、決して波風のないこの生活を守りつづけたかった。外交官の妻として夫の仕事を助け、夫の任地をついてあるき、今後を生きていきたかった。
「さあ。そろそろ、出かけるか」
直光は立ちあがって食堂の壁にはめこんである鏡の前にたつと、ネクタイをちょっとなおし、自動車の鍵を指さきでまわしながら玄関の方に歩いていった。
その時、電話がなった。
マダム・ボッシェが、
「|Ne quittez pas, s'il vous plait.《ヌ・キテ・パ・シル・ブ・プレ》」(ちょっと、お待ちください)
そう言っている声が、夫を送りに出た淑子の耳にも聞えてきた。
「だれかしら」
「早く電話口に行きなさい」夫はうなずいて、「今晩はジャノワさんの家で晩御飯に招かれていることを忘れていないね」
「ええ」
電話口でなにげなしに耳にあてた受話器の奥から、思いがけぬ千葉の声を聞いた時、淑子は胸がしめつけられたようで、しばらく息もつけなかった。
悦びよりも不安と怖れとの感情が彼女を支配した。
自分でも何を言ったのか、よく憶《おぼ》えてはいなかった。憶えているのは、自分がいつの間にか彼と今日、一時間だけ会う約束をしてしまったことだった。
(どうしよう。あたし)
受話器をかけて、食堂にもどった淑子は食卓の上に散乱している珈琲茶碗や皿をぼんやり眺めながら、自分が今から何をしてよいのか考えることもできなかった。
「奥さま」
マダム・ボッシェがその食堂に入ってきて、
「お昼は家でなさるんですか、それとも」
「え?」
「お昼は家でなさるんですか」
彼女はうなずいて椅子に腰かけ、額に手をあてながら、千葉と会うことはどうしてもやめなくてはいけない、と思った。
「気分が悪いんですね」
心配そうにこちらの顔を見ているマダム・ボッシェに、弱々しく首をふって、
「そうじゃないの」
どうしよう。断るにも千葉のホテルの電話番号さえ聞くのを忘れていた。
(夫を裏切るようなことを決して、してはならないわ)
彼女は十幾つ年齢のちがう直光の顔をちらっと思いうかべた。自分を娘のように愛してくれる夫。しかしその父親のような愛情の中には、彼女がなぜか満たされぬ何ものかがあった。少なくともあの若かったころ、千葉と自分とが陶酔した情熱の日々にくらべると、どこか物足りない空虚なものを、淑子はやはり、夫にいつも感じていた。
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フランスに安く行ける法
「できるだけ安あがりでヨーロッパ旅行せよ」
吉沢部長から命令を受けた時、自信ありげに胸を叩いてみせたが、さて、弓子には、自分にできるかどうか、本当の話、自信はそうなかった。
日本国中なら、もちろんヒッチ・ハイクはたびたび、やった。第一、言葉の心配はない。それに、日本人の男性なら青年でも、いわゆるオジサマ族でも「いなす」方法は幾つもあった。
去年の夏は、大学時代の友だちと軽井沢から上田・長野を経て志賀高原まで、この手で旅行した。ヒッチ・ハイクをやるには手がある。服装は、下はスラックスに、上は目だつように原色の何かをはおっていればよい。男の子の審美眼などは低いもので、複雑な色の服装だと、敬遠してしまう。
それに、大学の時からの研究で、どこが一番車を拾うにいい場所か、知っていた。たとえば、軽井沢に行く時は戸田橋をちょっと、出たところに立っていれば、十分に一台は必ず車がとまってくれる。ここを通る車はたいてい熊谷か、高崎まで行くからだ。
目的地は軽井沢でも、乗る時はそう言わないのも、手の一つだ。もし、相手も軽井沢に行くなら、その車で直行できる便利さはあるが、向うでウルサクつきまとわれる怖れがある。それに長時間、いっしょに乗っているというのは、それだけ、面倒臭いことや、トサカに来るようなことも起らないとは限らない。
戸田橋から車を拾ったら、おりる所は本庄なら本庄のドライブ・インにしておくと便利である。ドライブ・インなら次々と車がとまり、一休憩した連中が次々と出発していくから、次の車を見つけるのに一番好都合である。
昨年の夏はその手で志賀まで遊び、一人で五千円も使わなかった。一昨年、三人で九州の雲仙をまわった時も、同じ方法を活用した。ヒッチ・ハイクの日本旅行なら弓子にも自信があった。
だが今度はちがう。今度は見も知らぬ外国だし、それに言葉の問題があった。こんなことなら、学生時代、もう少し語学をやっておくんだったと思ったが、もう時間はなかった。
「押見さん。あなた、フランス語のほう、強いの」
「フランス語。巴里に行った時の用意かい。そんなものは習わなくたってさ、ジェスチャーだけで押し通す主義さ。かえって少しばかり知っている外国語を振りまわすと、生兵法《なまびようほう》は大怪我の元になる」
押見が相変らず、調子のいいことばかり言うので、心細さはいっそうつのったが、しかし、この青年は口だけではなく、意外にビジネスライクであることが、だんだんわかってきた。
たとえば、彼はどこで聞きこんできたのか知らぬが、十万円でヨーロッパに行ける船のあることを見つけてきたのである。
「冗談じゃないわよ。十万円なんて」
飛行機のエコノミー・クラスでも二十数万円かかると聞いていた弓子には、これは、まったくのオドロキだった。
「あるとしても、幽霊船みたいなボロ貨物船でしょう」
「ところが、さにあらずでね。豪華なサロンもプールもあるし、シャンデリヤのきらめく食堂もととのったフランス豪華船のお値段なんだよ。こいつに堂々とふんぞりかえって、横浜・マルセイユ間がたったの十万円でござる」
「信じられないな、そんなの」
「信じられなきゃ、そちらは飛行機で行くわけか。その代り部長承認の旅行費を君の分がはるかにオーバーするぜ」
「意地悪ねえ。あたしもその十万円で行くったら。でも、確かにフランス豪華船ね。保証するわね」
半分はまた押見のデタラメだろうと思いながら、しかし十万円でなくても船のヨーロッパ旅行も悪くはないな、と弓子は思った。どこまでも拡がる碧《あお》い海と白い波と、そして見知らぬ国の見知らぬ港をめぐる喜びが、ふいに、彼女の胸をつきあげてきた。学生時代にならったボードレールという詩人の『旅への誘い』という詩が頭にうかんだ。
考えてみると、こうして仕事をかねてヨーロッパに行く嬉しさの大半は、もちろん、未知の街や風景にせっすることだったが、それよりも恋しい千葉に会えるからだった。
(あたしとしたことが、なぜ、あんな人のことを忘れられないのかしら)
千葉が一足先に欧州に去ってから、この疑問はしばしば弓子の頭を去来した。仕事のかえり、地下鉄のホームで電車を待っている時、灯のにじむ町を歩く時、自分でも解答のできぬそんな問いが、ふいに心をかすめることがあった。
(あんな世代の人に……)
千葉のような戦中派といわれる世代の人間に長い間、弓子は無関心だった。敬遠していた。たんに年齢の差というだけではなく、戦争時代に若さを失ったようなあの連中と自分のようなピチピチとした戦後派の世代とには、どうにもならぬ感覚の差があるように思えた。
やりたいことがあるなら、やろう。好きなら好きになろう。好きなら、世間がどう言おうと飛びこんでいこう。それが、弓子の恋愛観だった。だが、千葉とくると、弓子を自分の胸に飛びこませ、しっかりとだきかかえてくれる代りに、何かこちらをためらわせる城壁をきずいているような気がする。彼をためらわせているのが、弓子のもっとも軽蔑している世間の慣習なのか、既成道徳なのか、よくわからなかった。
そんな彼に、どうして自分の心が惹かれているのか、弓子にもわからない。ひょっとすると陽電気と陰電気とが引きあうように、弓子は自分とは違っていつも最後は彼女と自分との間に最終的な隔たりをおく千葉のつめたさに、闘志をかりたてられるのかもしれなかった。千葉から子供扱いにされればされるほど、彼をいつかは征服して自分の言いなりにしてみたい――そんな慾望がむらむら起ってくるのかもしれなかった。
(いいわ。私、ヨーロッパに行ったら)
出発が近づくにつれ、弓子は時折、指を噛みながら、自分に言いきかせることがあった。
(彼をどうしても、あたしのものにしてみせる)
千葉に巴里に好きな人がいることは、羽田の飛行場で彼自身の口からはっきり聞かされた。その時は諦めますと言ったが、しかし今はもう、彼に好きな人がいるから自分が身を引くというのは、古風な偽善的な考えのように思われた。
(あたしが好きなら、それで充分じゃないの。その人とあたしとどっちが好きか――彼がもし最後にその人を選んだなら、あたしは納得《なつとく》して日本にもどるわ)
まだ見たことのない千葉の恋人に弓子は猛烈な闘志を持った。それが、新しい世代としての自分の生き方だと彼女は今は考える。好きなら好き。好きなら退いちゃ、いけないのだ。好きなら、どんな障害があってもその障害にぶつかっていくべきなのだ。
出発がしだいに近づくにつれ、忙しくなった。社での自分の担当番組を旅行中、引きうけてくれる同僚と充分、打ち合わせをしなければならなかったし、それから実際、向うに行ってのプランを作成して部長やデスクに報告しておく必要もあった。
「部長」
そんなある日、押見は例によってあつかましく、吉沢部長にくいさがった。
「このプランの中に、例のドーバー海峡を後輩に横断させる案、あれを入れてもいいですか」
「あれは重役会で否決されたよ」
「え、否決。なぜです。ぼくはもう安川に――ぼくの後輩の名ですが――絶対、大丈夫だと言ったんですよ、今になって、ノーと言われちゃ、先輩としてのぼくの面目が丸つぶれですよ」
「君の面目? 馬鹿言っちゃいかん。君が大丈夫だと軽々しく言うからだ。こっちの知ったことじゃない」
吉沢部長はそう言いすてると、煙草を口にくわえたまま知らん顔で書類に目を落した。
「ちぇっ」
大きな音をたてて押見は舌打ちすると、
「部長の頭は古いよ」
捨《すて》台詞《ぜりふ》を残して、自分の机にもどっていった。すると、部屋中の者は一瞬、静まりかえってうつむいた。それほど、今の押見の声は大きかったからである。
「押見君」
果せるかな、部長は顔をあげて押見をジロリと見ると、
「今、何て言った」
「部長の頭は古いといいました」
押見はたちあがって、少し蒼ざめながら答えた。
「そうか。君はそう思うか」
「そうです。ドーバー海峡を横断しようなんて、やはり若い者にしては見上げた気持だと思います。それに、その実況放送は色々な意味で若い世代にはニュース・バリューがあるんです。だから、彼一人ぐらいヨーロッパに行かせたって、放送局としては、それを上《うわ》まわる有形無形の利益を得ると思いました。でも、それがわからないようでは、部長も重役の方たちも感覚が古いと思います」
「君はそれを、自分の口から重役に具申できるかね、その青年が必ず一等をとると」
「言えとおっしゃるなら、言います」
「馬鹿者」
突然、部長は雷のような声で押見をどなりつけた。
「それが通ずるようなら、俺が重役会に提出した時、パスしているよ。俺ががんばってもできなかったのに、お前がもし、重役室にノコノコ行ってみろ。お前自身のヨーロッパ行きまで、とりやめになるぞ」
「そんな、ものですか」
「世の中というものはそういうものだ。お前は今、俺の頭が古いと言ったが、たんに若さの体当りだけで、万事が通るもんじゃない。押見、そこをよく考えろよ」
弓子は二人のそのやりとりを見ながら、押見を少し見なおす気になった。と同時に、部長の言う理屈もわからないではなかった。
「おい、押見」
「なんですか」
ふくれっ面をしている押見に、部長は一枚の紙きれを渡した。
「よし、その青年もつれて行け。但し、一つの条件がある。その青年がドーバー海峡競泳で必ず優勝することだ。それでなくては金をかけたニュースにはならん」
「しかし、重役会で否決されたんでしょう」
「重役会では否決されたが、俺は否決しない。あとの責任は俺がとってやる」
それから、吉沢部長は回転椅子をきしませながら、ふたたび書類に目を通した。
なんだか念の入った一幕物を見ているような感じだった。もっともあとで、押見は弓子にペロリと舌を出して言った。
「あれが、部長のやり方さ。本当は、重役会は通ったと思うんだけどね。しかし、部長のハッタリにしてもなかなかツボにはまったハッタリだなあ。あれは俺も学ぶ所が多かったよ」
パスポート、ビザの申請や事務手続きはいっさい交通公社にまかせてはあったが、それでも弓子は二度ほど、外務省に行った。船旅である以上、赤痢、黄熱病の注射も目白の聖母病院まで行って受けねばならなかった。
「押見ちゃん。あなたは、もう注射はやったの」
「俺はそれどころじゃないよ。後輩の安川をこのごろ、毎晩、神宮プールにつれていって猛練習をさせているんだ。とにかく部長にああ大きなことを言った以上、絶対にドーバー海峡競泳で彼を優勝させなくっちゃならないからな」
そして押見は右手で自分の首を切る真似をしてみせた。この競泳に自分の首がかかっていると言う意味らしかった。
「それはいいけど、船の予約のほうは本当に大丈夫なの」
「大丈夫さ、フランスの豪華船だ」
午後四時半、千葉はシャンゼリゼのキャフェ・ド・ラ・ペイで淑子のあらわれるのを待っていた。ガラス張りのテラスにはどのテーブルも観光客たちが腰かけて、じっと耳をすましていると、色々な国の言葉が右からも左からも聞えてくる。
テラスのむこう、夕暮の光がシャンゼリゼのひろい通りにあたっていた。豪華な店々が並ぶ歩道に、一人のみすぼらしい老婆が焼栗を売っており、その焼栗を洒落《しやれ》た洋服の娘たちが買っていくのがおかしかった。映画館では今、評判のスウェーデン映画が上映され、その前にはもう行列ができていた。
時計は五時十五分前をすぎていたが、淑子の姿はまだ見えなかった。彼女がたしかに「伺います」そう言った声は耳に残っていたが、十五分もたってテラスの前を往復する群衆の中に、その姿が一向に見当らないとわかると、千葉はもう駄目だなと思いはじめた。彼は勘定書《アデイシイオン》の紙を手にもって椅子から立ちあがった。その時、入口にためらうような姿で那智淑子が入ってくるのをみとめた。
ながい間、二人はテーブルを真中にはさんでおたがいの目を見つめあっていた。相手の目、相手の表情、それらの動きのなかに過ぎさった過去の思い出をたしかめあうように、千葉は彼女を見つめ、彼女もまた千葉を見つめた。
「ごきげんよう」溜息を洩らすように彼女が言った。「少しもお変りになっていないわ。昔のまま……」
「そうですか」
千葉はその昔、自分と淑子とが決してこんな他人行儀な言葉など、使ったことのないのを考えていた。
「お菓子でも召し上りますか」
「いいえ。あたし、もうすぐ帰らなくちゃなりませんから」
「どうして」
淑子は千葉の無作法な質問をとがめるように眉をくもらせた。そして冷やかに、
「夜、主人と、お友だちの家に夕食のおよばれを受けていますので」
「そうですか」
千葉は煙草を指でいじりながら、今、彼女が発音した主人という言葉を噛みしめていた。この人の生活をすべて支配している一人の男の存在がはじめて彼の心にのしかかってきた。
「お話したいことは山ほどあるんですが、何から口に出していいか」
「ごめんなさい。あなたが巴里に来ていらっしゃるとは、今朝まで夢にも考えてなかったものですから……」
二人は、思慮ぶかい友だちのようにおたがいを傷つけあわない話題をえらんで、少しだけしゃべりあった。たまたま、話が昔の思い出にふれようとすると、あわてて、そこをさけて通った。
「いつまで、ここにご滞在?」
「半月ほどです。半月したら南仏とイタリヤとマドリッドをまわって帰国しようかと思います」
「お忙しいのね」
何というまわりくどい会話だろうと千葉は自分で自分が情けなかった。本当に俺が話したいのは、こんな愚劣な会話じゃなかったはずだ。
「お暇しなくちゃ」彼女は店の時計をチラッと見あげて「あたし、もう帰らねばなりませんわ」
千葉は仕方なしに勘定書を手にとってカウンターに歩いていった。淑子は入口のところでぼんやりと歩道をながめていた。
「巴里も、変っていませんな」
肩をならべて凱旋門の方角に歩きながら彼はなつかしそうに周りの風景と淑子の肩とを見くらべた。そのむかし、このシャンゼリゼを自分と淑子とは指と指とをからませながら歩いたことが幾度あったことか。今、自分がそれを思いだしているなら、彼女だってそのことを考えているに違いなかった。
「そうでしょうか。ここに住んでいると、小さな変り具合が眼につくものですわ」
「しかし、あの時[#「あの時」に傍点]とおんなじだ」千葉はわざとあの時[#「あの時」に傍点]という言葉に力を入れた。「安くて料理のうまい店がクレベールにあったけど、あれはまだ残ってますか」
「金の葦亭《あしてい》でしょう。まだ、あるようよ」
「この次、お目にかかれるなら、そこで食事をお誘いしたいが……」
淑子はうつむいて立ちどまった。それから溜息といっしょに、
「いいえ、もうお会いしないほうが、いいと思いますわ」
「なぜ」
「なぜって……あたしには主人がありますし、千葉さんにだって奥さまがいらっしゃるでしょう」
「ぼくは……今、一人者ですよ」千葉は色々な感情をこめてわざとおどけて言った。「あなたを忘れるため、結婚しましたがね、だめでした。妻とは昨年の春、別れたんです」
淑子は驚いたように彼の顔を見あげていたが、小さな声で自分の不躾《ぶしつけ》な質問をわびると、
「いつまでもお元気で……」
顔を急にそむけると、目の前のタクシーにむかって小走りに歩いていった。千葉がいっしょに乗りこむ暇のないうちに、車はシャンゼリゼのひろい車道を滑りだしていった。
一人とり残された千葉は、しばらく茫然として車の消え去ったシャンゼリゼの大通りを眺めていた。正直な話、彼はあんなに冷たい淑子を今まで一度も見たことがなかった。冷たいと言うより、まるで羽をもがれた鳩のようにオドオドとして、キャフェにいた間も誰かに見つからないか。そればかりを気にするようなふうだった。
(なにが、彼女をああ、変らせたのだろうか)
俺にたいする追憶や思い出を、あの人はもう厭わしいもののように思っているのか。もう、俺を記憶のなかから消したいと考えているのか。そう思うと、千葉の胸にはやはり、いらだちと不安と充たされぬ気持とが同時にこみあげてくる。
(主人と、夕食のおよばれを受けていますので……)
そう言った彼女の言葉が今、彼の頭のどこかにひっかかっている。千葉は、夫のうしろでいかにも貞淑な妻らしく、微笑しながら誰かと挨拶をしている淑子の姿を思いうかべる。
シャンゼリゼの通りは少しずつ夕闇がしのびより、左右の洒落た店々がまぶしいイルミネーションをともしだした。マロニエの樹が夕風に乾いた音をたてて鳴り、テラスでチンザノやペリノ酒を飲む人々は満足そうな顔をして、夕刊を膝にひろげている。
この時、淑子は淑子で、タクシーの座席に体をうずめたまま、思わず吐息を洩らした。まるで重い大役をやっと果したような気持だった。
(これで、よかったんだわ)
彼女は自分が感情のために、那智の妻としての義務と節度とをこわさなかったことにホッとしていた。今はもう自由で勝手気儘な娘ではない。一人の男性の妻だった。本当をいえば、千葉と会っていた間、どれだけ、しめつけられる思い、懐かしさ、何もかも打ち明けたい心が胸にこみあげてきただろう。
にもかかわらず、その心を自分はじっと、抑えることができたし、少なくとも態度では、那智の妻としての立場を裏切ることをしなかった。ただ一つ、千葉が離婚をして今は一人でいることを知った時、思わず、かくすことのできない悦《よろこ》びが顔に出てしまったことだけが恥ずかしかった。
(そんなこと……)
彼女は首をふって、胸に湧いた一つの空想を追いはらおうとした。その空想は、今の彼女には実現のできぬ、また実現してはならぬものだった。
「|Madam, vous etes Espagnole?《マダム・ブ・ゼツト・エスパノール》」(奥さんはスペイン人ですか?)
運転手が突然、こちらをふりむいてたずねた。スペインの方かと聞いたのである。
「|Non, je suis Japonaise.《ノン・ジユ・スイ・ジヤポネーズ》」(いいえ、日本人ですわ)
彼女は微笑みながら首をふり、窓ガラスにうつる表情を見て、そんなに、自分はスペインの女性に似ているのかしらと思った。
夏の夕暮が巴里を包む時刻だった。薔薇色の微光が空一面にさし、その空にエッフェル塔の黒い尖塔《せんとう》が少し哀しげに浮びあがっていた。巴里に来てもう何年にもなるが、彼女はいつもこの街の夏の夕暮が好きだった。仕事をおえた人々が歩道まで出たキャフェの椅子に腰かけ、のんびりと夕暮の光と街路樹の影をたのしんでいる。アパートの門番が誰かをつかまえて、大声で話している。八百屋では男たちが歌うような声で、この国の人たちの大好きなアルティショーという野菜を、女たちに売りつけている。
アパルトマンにもどると、彼女は自動エレベーターのボタンを押して四階までのぼった。
「旦那さまは、とっくにお帰りですよ」
女中のマダム・ボッシェは扉をあけて、声をひくめ、
「どうなさったんです」
「車がなかなか、掴まらなかったの」
彼女はマダム・ボッシェにそう嘘を言うと、夫の部屋の扉をたたいた。
「だれ? ああ、お前か。何処に行ってたんだね」
夫の直光は新しいワイシャツのカフス・ボタンをはめにくそうにいじりながら、妻を信じきった表情でたずねた。
「今日はジャノワさんの家で招かれていることを、お前、忘れているのかと思った」
「まア、どうしてですの」
「いや、どうしてと言う理由もないけどね。早く支度をした方がいいよ」
「そのカフス・ボタンより、こちらの方が、よくなくって?」
彼女は、妻らしく夫によりそって、シャツにボタンをはめてやった。
夫の下腹が妙にでっぱっているのに彼女は気がついた。自分より十六歳も年の多い彼は、このところ、急に肥りはじめていた。階段を登る時など、途中で立ちどまって、苦しそうに息をととのえることもあった。
夫の肥満したお腹を見た時、淑子はなぜか、急に千葉のことを思った。その想念を追い払うように、
「あなたも、運動をなさらなくちゃ」
「うん。そうは思うのだが、暇がなくって」
公使を兼ねている直光は多忙な執務のほか、食事によばれたり、よんだりする夜が多かった。パーティや会議の続く毎日だった。
自分の部屋に戻って、髪にブラッシをあてながら淑子はたった今、夫の肥満した体とその満足そうな顔とを見た時、ふと千葉のことを考えた自分を恥ずかしいと思った。にもかかわらず、さっきよりはもっとせつなく、千葉にもう一度、会いたいという欲望が胸に起ってきた。彼が日本にもどっている以上、諦めることのできたものが、今、現実にこの町に彼もいることがわかったために、ふたたび動きはじめたのである。
(いけない)彼女は、鏡にうつる自分の顔を見つめながら言いきかせた。(そんなこと、いけないわ)
出発が明日という日――
税関に荷物を運び、そして、押見が船室をとってくれた豪華船カンボジア号に手続きをすませねばならない。
局には昼まで残って、昼から押見のボロ車に荷物をのせて横浜まで出かけることになっていた。
「それで、そのカンボジア号というのは、もう横浜についているの」
「二日前から碇泊しているさ。ちゃんと調べてあるんだよ」
「本当にプールもあり、シャンデリヤのきらめく食堂もついた豪華船でしょうね」
押見は憤慨したように顔をあげて、
「疑いぶかい女だな、君は。こういう女は一生、お嫁にいけんだろうな」
「あら、そう。でも、なにも、押見ちゃんに、もらってくれとお願いしてませんからね。ベエーだ」
押見は舌打ちをして机の引出しから大きなパンフレットを出した。船会社の広告である。
弓子には読めぬフランス語が蟻のように並んで、その真中に、青い海を走るまっ白な、女性的な客船の写真がのっていた。
「これだぜ、この写真を見ても、君あ、まだ俺を信じないのか」
「まア。この船」思わず、弓子は悦びの声をあげた。「本当にこの船」
「ステキだろう」
「うん。この船なら、ゴキゲンだわ」
ホテルのように洒落たこの船でヨーロッパまで行けるなんて、夢にも考えていなかった。
「でも、押見ちゃん。これに、十万円で乗れるって、言うの」
「そうさ」
「あたし、なんだか不安だわ。あたしたちの船室はどこかしら」
「船室? ――うん。この写真では見えないがね、青い海原のたえず見える青い部屋だよ」
青い海のたえず見える青い部屋。押見にしては珍しくロマンチックなこの言葉に、弓子は少しうっとりとなった。本当にその船室を十万円で見つけてきたのなら、千葉にはすまないけど、この青年の頬に接吻ぐらいしてやってもいいと思ったぐらいである。
昼食をすますと、その押見といっしょに局の車庫におりた。ポンコツで売っても五万円にもならぬルノーに、あの安川が大きなあくびをしながら運転席に腰かけていた。
「おい」押見は先輩らしく、「俺たちの荷物はみな入れておいてくれたか」
「大丈夫です」
「じゃあ、横浜まで直行だ。先に船に寄ってな。それから税関にまわるとしよう」
品川から横浜にむかう道で、弓子はまだ、まぶたの裏にやきついている白い豪華船カンボジア号への思いと闘いながら、
「ちょっと、きくけど、あたし、押見ちゃんや安川君と別々の部屋にしてくれたでしょうね」
「なぜ?」
「なぜって、あたり前じゃないの。あたしだって女の子よ。着がえもあるし」
「冗談じゃないよ。十万円でそんなゼイタクが言えるかい。ぼくらと相部屋だよ」
「じゃあ、あたし、あんたたちの前で裸になると言うの」
「見ないよなあ。安川」押見は大声で、「俺たち見ないよなあ」
「先輩の言うとおりです。電気消しますよ」
横浜に突入して、山下公園の横を通り、埠頭《ふとう》に入ると、午後の白い陽が倉庫の壁にやさしくさしていた。港にはタンカーや貨物船がゆっくりと体をやすめていた。そして目ざす豪華船カンボジア号はその巨姿を岸壁に堂々と見せていた。
「まア」
弓子は感動のためクラクラッとして、
「いかすわねえ。この船」
「だろう」押見は鼻をピクピクさせながら、「これなら、誰にだって大いばりというもんだ」
カンボジア号の甲板では、フランス人の船員たちがこちらを見おろしながら、口笛を吹いたり片手をあげたりしていた。
「上品にやってくれよ。上品に」
と、船にのぼるタラップで押見は弓子に偉ぶってみせた。
タラップから船に入ると、彼女は思わず声をのんだ。マチスが壁画をかいた豪華なサロンが見えたからである。糊《のり》のよくきいた真白な制服を着たボーイが、うやうやしく三人に頭をさげた。
「ケ・ス・ク・ヴ・ディズレ・ムッシュー」
どぎまぎして押見は、ポケットから切符らしきものをとり出し、そのボーイに見せたとたんに、ボーイの唇に冷笑のような笑いがうかんで、
「アンバ」
まっすぐ甲板のほうを指さす。
「どうしたの。押見ちゃん」
「どうも、あっちらしいな。俺たちの部屋は」
言われたとおり、三人はノコノコと蜂の巣のように船室の並んでいる通廊を歩きはじめた。
「ちょっと見ろよ」
押見はその室の一つを覗いて、
「このすごさ」
まるで映画に出てくるサロンのような部屋が幾つも並んでいる。大きなベッドにゆったりとしたソファ。そして、化粧室。
「十万円じゃ、こうはいかないわね」
「ちょっと、おちるかもしれないね」
まぶしい甲板に出てキョロキョロとあたりを見まわし、そこに一人、立って海をみつめている黒人の船員に、押見が例の紙を見せると、またうす笑いを浮べて、
「アンバ」
今度は甲板の下を指さす。垂直な鉄の階段がその甲板の先にポッカリあいた口から下におりているのだ。
その階段の上から覗きこんだ弓子は思わず、アッと言った。すさまじい臭気である。その臭気はともかく、階段の下には、堆くつまれた積荷の横に、カンバス・ベッドを幾つも並べた倉庫のような船底の空間が見えたからである。
「これが、あたしたちの船室?」
「まあ……そう言うわけなんだが」
「プールがあるなんて」弓子は泣声をだして、「うそつき」
「プールはあるさ」
「シャンデリヤのついた食堂があるなんて」
「あるさ。一等のほうには」
「青い海が見えるなんて」
「船底だから海の下だもの。たえず青い海が見えるさ」
押見はシャアシャアして言うではないか。
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出 発
千葉がたった今、この巴里にいることが確実なのに、その千葉に会うまいと努力することは淑子にはくるしかった。
それは、今まで消えたと思っていた灰の中からまた真赤な火種があらわれたような気分だった。何かを近づければすぐ燃えあがる。淑子にはそれがわかっている。わかっているから彼女はけんめいに灰をかけようとした。
しかし、なにかの用事で街を歩いている時、彼女はふと、通行人のなかに千葉の背のたかい姿が見つからぬかと、思わず目を走らすことがあった。夫の運転する自動車で外出する時、彼女はスカーフをなおすふりをしてうしろをふりかえることもあった。たった今、交叉点を横切った緑色の背広の人、その人のうしろ姿が千葉にそっくりだったからである。ちがっていた。
それは、姿は千葉によく似た長身だったが、栗色の髪をしたフランス人だった。
「どうした」
直光はそんな彼女の心の動揺に気がつかず、ハンドルを握りながらやさしく言った。
「だれか知っている人なのかい」
「いいえ。別に」
彼女は顔をあからめ、そ知らぬ顔をする。胸の鼓動が夫の耳に聞えぬかと不安である。
「明後日《あさつて》、マルセイユに行かねばならない」
「マルセイユに?」
「うん。むこうの佐伯領事とちょっとした打ち合わせがあってね。近く自由党の代議士がかたまってこちらに来るだろう。どうせ、マルセイユにも行くだろうから、その準備の打ち合わせもある」
「いつ、お帰りになりますの」
「四日間ぐらい滞在してからだ」
「佐伯さんの奥さま、お元気かしら」
「ああ。あの奥さんに君はブイヤベースを習ったんだっけね」
ブイヤベースとはマルセイユ名物の魚料理のことだった。
「よろしく伝えておくよ」
「ええ」
巴里のたそがれ。夕陽が赤いガラスのようにうるみながら、パンテオンのそびえる丘のうしろに落ちていく。ルュクサンブール公園の上に鳥が舞っている。
だが淑子は四日間、夫が旅行をすると聞いた時、すぐ千葉の顔を思いうかべた。マダム・ボッシェさえ気づかなければ自分は彼に会うことができる。夫のいない四日間、千葉といっしょにすごすことができる。ただ電話のダイヤルに指をかければそれでいい。傷口がうずくように淑子の胸がうずいた。
(いけない。いけないわ)彼女は首をふって、内からの声を聞くまいとした。(会ってはいけないのだわ)
淑子にとって夫が出張する日のくるのがこわかった。直光が横にいてくれる間は自分は、まだ支えられる。まだ自分を抑えることができる。だが、もし夫が不在になってしまえば、その支柱はなくなるのである。
(そうすれば、あたしはきっと彼に会ってしまうだろう。巣にかえる鳩のように、いそいそと彼に会いに行くのだわ)
この想像にはよろこびといっしょに自己嫌悪がまじっていた。そうやっていそいそと出ていく彼女自身の姿が目に見えるようだった。
「わたくし、ごいっしょしたらいけませんか」
「え? どこに?」
「マルセイユに」
いっしょうけんめいな淑子の顔を見ると、夫はびっくりしたような表情になり、それから笑った。
「馬鹿だな、そんなに一人でいるのが寂しいのかね」
寂しいんじゃありません。あなたがマルセイユに行っておしまいになると、私はどうなるかわからないんです。彼女は心の中でそう呟いた。
「だめだよ。仕事だからね。岡谷さんでも来るように言ってあげよう」
岡谷さんとは大使館で働いている若い女性のことだった。
「マルセイユには、そうだ。今度の休暇の時、サボアの帰りに連れていってやろう」
夫はそう言うと、小声で笑いながら、新聞に眼を通すのだった。ナイト・ガウンに包まれた彼の満足そうな姿を見て、彼女は不意にそのお腹を想像した。
直光がマルセイユに出かける日、淑子はせがむようにして駅までついていった。夫のそばにいなければ、どうしても心細かったからである。自分の心を一瞬でも彼によって、つなぎとめてもらいたかった。
北停車場のホームはいつものように雑踏《ざつとう》していた。ガラス張りの天井の下にたった今、ボルドーから着いた列車が乗客たちを吐きだしている。長旅につかれた人々は、それぞれ、トランクを右手から左手に持って蟻のように改札口にながれていく。
改札口で待っていた若い青年が、乗客たちの群れのなかから婚約者らしい娘を見つけて駆けよるように抱いた。二人の首が小鳥のように傾いて近づきあっていくのを、淑子はじっと見つめていた。
彼らは幸福そうに笑いながら肩をならべてタクシー乗り場の方に去っていった。
直光は新聞と煙草とを買い、それからホームに自分を見送りに来ている大使館の岡谷という女性を見つけて、手をあげた。
「やあ、こんな時刻に申しわけないですな」
「とんでもございません」
淑子も夫といっしょに礼を言うと、
「奥さま、お寂しいでしょう」
岡谷春恵はちょっと、皮肉なうす笑いを浮べて夫婦を見つめた。
「一日ぐらい、拙宅に来てやってください」
「伺わせていただきますわ。わたくしでよろしかったら」
淑子は何ということなく、この春恵の言葉に刺《とげ》を感じて、不快な気がした。
フランスの列車は日本のそれのように、出発のベルが鳴って動きだすというのではない。時刻がくればさっさと動きだすのである。
「あなた、もうお乗りにならなくちゃ」
淑子は、まだ岡谷春恵と話しこんでいる夫にそっとうながした。
「じゃあ、行ってくるよ」
「奥さまは、あたしがお守りしてますからご安心なさってくださいませ」
直光は歯を見せて笑うと、レインコートと鞄《かばん》とを持ちなおして一等車に姿を消した。
マルセイユ、ニースと行先を示したその急行列車の窓々からは、さまざまな顔がホームをのぞいていた。休暇をもらったらしい兵隊たちが紺色のザックをぶらさげて、淑子の前を通りすぎていった。
ニースとよぶ美しい避暑地の風景がふいに淑子の心に浮んだ。そこはむかし千葉といっしょに遊びに行ったところだったからである。季節はずれの街はがらんとしていたが、がらんとしているだけに淑子と千葉には楽しかった。二人は一日中、ホテルの前の白い砂浜に腰をおろして生ぬるい波が寄せては引き、引いては打ち寄せるものうげな音をじっと聞いていた。黙っていても、二人の心と心との通いあうような時間が続いた。
その時の追憶が今、淑子の胸をしめつけていた。
「どうなさいましたの。奥さま」岡谷春恵が、彼女の腕にふれて言った。「ご主人が何かおっしゃってますが」
ガラス窓の内側で直光は、指をちょっともちあげ、淑子に合図をした。その時、にぶい音をたてて列車がホームを動きだした。
汽車がやがて姿を消してしまうと、淑子は春恵と肩を並べて北停車場の広場に出た。暖かい陽ざしが肩から背中にかけて気持いい日だった。
「奥さま、まっすぐ、お帰りになりますか」
「いいえ」淑子はしばらく考えこんで、「お友だちの所にちょっと寄ってみますから」
「そうですか。じゃ、わたくし、ここで失礼させていただきますわ」
岡谷春恵はさっきとはうって変って、上役の妻に礼儀正しく頭をさげると、バスの停留所にむかって美しい脚で歩いていった。
やっと一人になれた。淑子はほっとした。これから四日間、自分はもう直光にも縛《しば》られずに一人でこの巴里に生活できる。ちょうど、娘の時、はじめて留学に来たころのように自由に、のびのびと時間を使うことができる。
足もとに拡がっている巴里の町をみつめた。真昼近く、マロニエの樹々の間を色とりどりの車がすべるように往復していた。キャフェのテラスでは、忙しそうに白服を着たギャルソンが食前酒《アペリチフ》やソーダ水の瓶をテラスの客に運んでいる。この町のどこかに千葉がいるのだと思うと、たまらない幸福感が胸をつきあげてくるのを淑子は感じた。
しかし彼女はその想念と闘いながら、タクシーに片手をあげた。
(どんなことがあっても、会っちゃ、いけないのだわ)
淑子は運転手に一つのアパルトマンの住所を告げた。それは退屈な時、いっしょに時間をつぶしてくれるような女友だちの家だった。直光がマルセイユに発《た》ってしまった今、この友だちによって千葉に会いたいと思う気持をごまかすより仕方がなかった。
「|Rue St. Jean? Entendu, madame.《リユ・サン・ジヤン・アンタンデユ・マダム》」(かしこまりました。サン・ジャン通りですね)
ベレー帽を横ちょにかぶり、火の消えた短い煙草をくわえた運転手は車を七区にむけた。
サン・ジャン町には今日、市《いち》が出ていた。ふとった内儀《おかみ》や腕まくりをした男たちが、野菜や果物をならべた小店の前で歌うような声で客を呼んでいるのは、日本と同じ風景だった。石だたみの上に散った野菜の屑を、鳩の群れが鳴きながらついばんでいる。
タクシーをおりた淑子はその市の間をぬけ、友だちのアパルトマンをたずねていった。ベルを押すと自動扉が開いて、門番の老婆が顔をだした。
「|Madame!《マダム》」(おや、奥さん)
「|Mademoiselle Chatellant est-elle chez elle?《マドモアゼル・シヤトラン・エテル・シエ・ゼル》」(シャトラン嬢はご在宅?)
門番は首をふって淑子の友だちが外出したばかりだと言った。
淑子はしばらくの間、そのアパルトマンの前に立っていた。自分がここをたずねてきたのは、千葉にたいする感情から一時間でも二時間でも逃れるためだった。しかし、陽のまっすぐにぶつかってくる歩道で、彼女は自分の感情を防いだりごまかしたりする城壁を失ってしまっている。
野菜売りたちの声が心をいらだたせた。
(あたしが悪いんじゃないわ。あたしが……)
彼女は既にマルセイユにむかう列車の中でゆったりと腰をおろし、新聞をひろげているであろう直光の姿を思いうかべた。汽車はもう中仏の田園を走っているだろう。食堂車の用意ができたことを告げる車掌がテーブルの予約をとりにまわっているだろう。小さな村、小川が流れ、家鴨《あひる》がそこを泳ぎ、そして茶色い小さな教会のある村が窓から見えるだろう。
(あたしが悪いんじゃないわ)
彼女は夫にむかって、そう心の中で弁解をした。
(あなたがマルセイユにいらっしゃらなければ……あなたがもっとあたしをつなぎとめておいてくだされば……こんなこと、あたしはしなかったのよ)
ハンドバッグをあけ、手帳を出すと震える指先で淑子は千葉の泊っているホテルの電話番号を捜した……。
垂直の鉄の階段を安川と押見に助けられておりる。ペンキと油の臭いがムッと鼻についてくる。鎖でつないだカンバス・ベッドが、ずっと奥まで並んでいる。まるで兵営のようだ。
「できるだけ、あたしから離れたところに席をとってよ」
「どうして」
「いやよ。押見さんたちの近くで寝るなんて」
「ご挨拶だなあ。チョッ」
弓子は、鞄の中から用意してきた大きなシーツをとりだして、ベッドの上から下までぶらさげた。
「何の意味だね。そりゃあ」
「国境よ。ここからは私の国」
「しかし弓ちゃん。横浜から香港までは、ここも俺たち三人きりだけど、そこから先は色々な奴が乗ってくるんだぜ。そんなゼイタクはできなくなるよ」
「その時は、その時。ともかく、香港まではこうしておくわ」
船の出発は五時ということになっている。持ってきた毛布や枕をカンバス・ベッドにおいて、昨日運ばせたトランクの中から着がえをとりだしておいた。この四等は寝具も食器もすべてセルフ・サービスというからである。
すべてが寒々として心細い。押見と安川は、既に持参のするめでポケット・ウイスキーを飲んでいる。二人がいてくれるにしろ、正直な話、弓子はちょっと、泣きたくなってきた。
(こんなんじゃなかったわ。あたしのヨーロッパ旅行の夢は)
トランクの上に腰かけて、頬杖をつきながら押見と安川を見ていると、
「弓ちゃん。用意はできたのかい。こっちに来て、まア、一杯やれよ」
「いらないわ。いいえ。少し、もらおうかしら」
平生は飲まないウイスキーだったが、この不安を早くとり去りたかった。
「もう十分で出発だな。まあ、仲よく三人で大旅行をしましょうや」
「よろしくお願いします」安川はピョコンと頭をさげた。「とにかく、ぼくとしては先輩と弓子さんがたよりですから」
ウイスキーを咽喉に流しこんでも弓子の気持はあんまりパッとしなかった。とにかく、ここはペンキと油との臭いが強烈なのである。
「甲板に出てみようや」
「雨がふってるわ。情けない出発ねえ」
「今から、そんなに意気地がないなら帰ったらどうだい」
帰るもんですか、と弓子は胸を張った。石にかじりついても、若い日本娘の意気を見せてやるわ。
甲板といっても、こちらの甲板には覆いがない。上の一等甲板や二等甲板では、外人の乗客たちが笑いさざめきながら、しきりにテープを岸壁の人々と交換しているのに、こちらは誰一人として港まで見送りに来てくれる者はいなかった。
その甲板にもたれて、三人は岸壁からこちらを見あげているあまたの顔を見おろしていた。鴎が二、三羽、倉庫の上をかすめながら飛んでいく。
「五時五分だ。もう動くぞ」
押見が時計を見ながらそう言った。あたしにとっては、いかさない船出だなあと、弓子は思う。もうこれで、とうぶん、日本の風景を見ることはないのだ。
「ほれ、動きだしたぞ」
「先輩、まだですよ」
「いや、岸壁と船との間を見ろよ。少しずつ間隔があいてきたろ」
押見の言葉はほんとうだった。船はたしかにゆっくりと――ゆっくりとと言うよりは音もなく岸壁から離れだしていた。そして、こちらを見あげている人々の顔が幾分小さくなり、ただその声だけがひときわ大きくなってきた。
雨は既にやみ、ほの白い空から少しだけだったが、微光が洩れてきた。岸壁も倉庫も今ははっきり自分たちから、遠ざかっていくのがよくわかる。さようなら、お元気で、と言う声はまだ聞えてくる。
「もう、弓ちゃん、あとに引けないよ」
押見は腕をくみながら呟いた。
「安川、お前も、かならずドーバー海峡を泳ぎきるんだぞ」
半時間後、三人の眼の前には横浜の街も山もすっかり縮小されて拡がっていた。そして、西の海はたそがれの微光に白く光るなかを、どこまでも続いていた。
(出発)と心の中で弓子は叫んだ。(あたしの出発!)
この白く光る海のむこうに、千葉さんがいる。あたしは、今度はどうしても、千葉さんを奪《と》らねばならない。たとえ、彼に好きな人がいても、その人からあたしは彼を奪らねばならない。
その時、淑子と千葉とはルュクサンブール公園にそったサン・ミッシェルの坂路を歩いていた。ソルボンヌ大学に近いこの坂は、学生たちから『ブル・ミッシュ』と呼ばれる通りで、本屋とキャフェとが交互に並んでいる。千葉にとっては留学時代のなつかしい思い出が、その一つ一つの店にこもっている場所である。
キャフェのテラスにはさまざまの国から来た学生たちがいっぱい集まっていた。彼らは一杯のコーヒーや葡萄酒《キヤノン》を前にして、たった今見てきた芝居や映画を論じあっている。淑子と千葉はその中で席を見つけようとしたが、どの卓子も満員である。
「仕方がない。公園に入りましょうか」
千葉はあごでルュクサンブール公園の大きな鉄柵《てつさく》を示した。
むかし二人はその公園のベンチで群がってくる雀にパン屑をやりながら、口げんかをしたことがあった。つまらない口げんかであとになればはずかしくなるようなことが原因だったが、しかし、二人がけんか別れをしたような恰好になって別々に帰った時、千葉の胸は鋭い刃でえぐられたように痛んだ。ルュクサンブール公園にはそんな思い出があった。
「何も変っていない」
公園に足を入れた時、千葉はなつかしそうに木洩《こも》れ日の落ちている地面やむこう側の森、なだらかな傾斜の下にある池を眺めた。むかし留学していた時、大学の帰りに彼はよくここに来て、日なたぼっこをしている老婆やそのまわりで遊んでいる子供たちを眺めたものだった。
「何も変っていない」
「そうかしら」
二人は同じ想念に捉えられて黙っていた。
「昔とそっくりだ」
昔とそっくりなのは、公園のなかの風景だけではなかった。夕暮の陽を肩にあびながらベンチに腰をおろしている二人も、あの時とそっくりだった。
だが、その時、淑子は今ごろマルセイユの領事館で忙しく会議に出席している夫のことが心に浮ぶのを感じた。自分が今、やっていることは姦通……姦通でないにせよ、しかし暗い秘密にちがいなかった。少なくとも夫には決して打ち明けられないことなのである。
彼女は手をのばし、地面に落ちている小石をひろった。
小石は夕暮の陽をうけたためか、寂しい暖かみをもっていた。
「何をしているんです」
「いいえ、何でもないの」
千葉が淑子の掌《てのひら》から小石をとろうとした時、その指が彼女の指にふれた。二人はまるで火にでもふれたように、あわててその指をひっこめる。
寂しい恋愛だと千葉は考えた。この巴里のたそがれのように寂しい恋愛だと思う。
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船 旅
翌日は神戸。
神戸を夜、出航して、朝がた目がさめると、船が横ゆれに激しくゆれているのがわかった。
カンバス・ベッドの上に体を仔猫のようにまるめて寝たせいか、背中や首すじが痛かった。
そっと押見と安川のベッドの方向へ目をやると、彼らはまだ大きないびきをかいて眠りこけていた。弓子はやっと安心して、枕元においたガウンをまとうと、音をたてないように洗面所に行った。
洗面所といっても、まるで兵舎のそれのように粗末きわまるものだった。特に弓子を驚かしたのはお手洗いで、これはお手洗いであることにはちがいはなかったけれども、こちらの意志とはお構いなしに突然、水がほとばしりはじめるのだった。
顔を洗ったあと、乳液で手入れをして、髪をといて口紅をつけ終り、弓子は、まだウワバミのような声をだして眠っている押見と安川のそばをそっと通りぬけた。
(本当にきたない足をしているわ)
毛布からはみでた押見と安川の足は毛むくじゃらで、その上、足の裏がまっ黒だった。ゾウキンでゴシゴシふいてやりたくなるぐらいだった。二人とも乗船以来、サンダルをひっかけて船内を歩きまわっているからである。
一人で鉄の階段をのぼり、甲板に出た。
強い風が弓子の額にぶつかった。甲板のむこうに海があった。マストの先端が音をたてて鳴っていた。船客たちは、だれもまだ眠っているらしく、人影はなかった。
髪が目にかぶさるので、弓子はスカーフを頭からかぶり、空を見あげた。乳色の雲がゆっくり流れ、その雲間から朝の光が、海を今、薔薇色に染めている時だった。
海は白く泡だち、数えきれぬ波がたがいに噛みあいながら右、左におどっていた。二羽の海鳥が鋭い声をたてて風に乗りながら飛んでいる。
東のほうに既によろこばしい青空と、そしてその反対側に、峨々《がが》たる岩島が見える。
弓子は胸の底の底まで、まともに吹きつけてくる風を吸いこんだ。すると、手足の先まで生命感が溢れてくるようだった。
船は今、まっすぐ西へ、西へと進んでいる。弓子にとっては、それは千葉のいる方向に向っているのである。
黒い岩島のむこうに、削りとったような山が見えはじめた。
(どこだろう。あの山は)
彼女がスカーフを押えながら考えこんでいると、一人の船員が甲板のむこうからこちらにゆっくりと歩いてきた。
「|Bonjour! Vous avez bien dormi?《ボンジユール・ブ・ザベ・ビヤン・ドルミ》」(おはようございます。よく眠れましたか?)
相手のフランス語はボンジュールと言う言葉以外はわからなかったが、こちらも微笑しながら、
「ボンジュール」
そう言って、海のむこうの削りとった山を指さすと、
「フォルモサ、マドモアゼル」
そう言下に教えてくれた。
フォルモサ、――台湾。ああ。台湾まであたしはもう来たのか、と弓子は思う。胸がツンとしめつけられるような感じである。
「ああ、眠い眠い」
タオルを首にまきつけながら押見が甲板に現われる。船員を見て、ハローと声をかける。外人ならば、米国人でもフランス人でもハローで通ずると、押見は思いこんでいるらしいのだ。
「いつ、起きたの。早いね。昨日は安川のいびきがものすごくて、俺はよく眠れなかったぜ。もう、あいつと隣合わせはごめんだ」
「あなただって、すごい、いびきをかいていたわ。さっき」
「腹すいたよ。俺」
安川は眠そうにノロノロと甲板にあらわれる。
「押見さん。ぼくは先輩のいびきで、睡眠不足ですよ」
「なんだって。そりゃア、どっちが言う台詞《せりふ》だ。早く厨房《ちゆうぼう》に行って、朝飯をもらってこい」
南支那海が荒れていた。
荒れるというのがこんなに凄いとは弓子は思わなかった。甲板に叩きつけられるように波が覆いかぶさってくるのだ。
気持がわるくて、吐き気がして、彼女はカンバス・ベッドでじっとしていた。
男の子たち二人は流石に平気の平左《へいざ》の顔をして、ベッドを机がわりにして、
「梅あ……咲いたか……桜あ、まだかいな。ヨイヨイ」
変な節まわしで歌を歌いながら花札をやっている。
それでも押見は弓子のことが気になると見え、時々、こっちに顔を向けては、
「弓ちゃん、だいじょうぶかい。吐きたければいつでも言ってくれよ」
「ありがと。そんな、はしたないこと頼めないわ」
「遠慮するなよ。何か食べたくねえかい」
「ほしくないの。何にも」
「しかし、食べなくちゃあ、だめだぜ」
がさつなようで意外にやさしいところもあるのだな、と弓子は毛布をあごまでかぶりながら思った。
目をつぶって、千葉のことを考える。正直な話、こんな時、押見や安川ではなく、あの千葉が横にいてくれたら、こんな船酔いはすぐふっとんでしまうだろうに、と彼女は考える。
丸窓に、右や左に傾く水平線が見える。それをじっと凝視《ぎようし》していると、急に眩暈《めまい》と頭痛とがしてきて弓子はあわてて目をつむった。
それでも翌日、風が少し穏やかになったのか、船のゆれが昨日ほどではなくなった。
「どうだい。気分は」
「もう、だいじょうぶ。情けないわ。自分でもこんな弱虫だとは思わなかったから」
「なあに。気にするなよ。そのうち旅なれるさ。それに俺がついてるからな」
押見は鼻の穴に指を入れながら、弓子を慰めた。
「ここは、どうもペンキと油臭くていかん。寝る時以外は一等船客の甲板で遊んでいようじゃないか」
この船では、一等船客には一等船客用の甲板、ツーリスト・クラス(二等)にはツーリスト・クラス専用の甲板があるのだ。
「だって……あたしたち四等じゃないの、そんなところに行ったら叱られない」
「だいじょうぶだよ。いかにも一等のようなツラをしていればいいんだ。第一、バスだってむこうは使えるんだぜ。俺と安川は、昨日、こっそり一等船客用の風呂に入ってきたんだ」
「まあ、驚いた」
「弓ちゃんも入ってこいよ。香水なんかふんだんに備えてあって、豪華なもんだぜ」
押見や安川に誘われるままに、夕食後、弓子はカンバス・ベッドからおりて、いちおう服装を整えてから、一等甲板にそっと行ってみた。
靴がすっぽり入ってしまうようなジュウタンの上にシャンデリヤがきらめき、大理石の壁にマチスの大きな絵がかけられているサロンには、葉巻をくわえた紳士や優雅に足をくんだ婦人たちが、トランプやチェスをやっていた。
自分たちは四等船客なのに、あつかましく、ここに侵入してきたことが弓子をドキドキさせたが、押見と安川は平気な顔をして、
「ギャルソン!」
白い制服を着たボーイを呼びつけて、
「ウイスキー」
「アンタンデュー・ムッシュー」(かしこまりました)
ボーイが運んできたウイスキーを、甲板のデッキ・チェアにもたれて飲んでいると、さっきまでの船酔いもすっかり消しとんだ気分だった。
「どうだい。もう、こわくないだろ」
「あんたたち、ほんとうにズウズウしいのね」
「小さくなっていちゃあ、万事、損だからね。なあ、安川」
食堂で食事をすました客が少しずつ、客間や甲板に集まりはじめた。
夜の海にしずかに大きな丸い月が出はじめた。月の光が海を一面、銀色に光らせ、ただ船のかきわける波が白い氷のように散っていく。弓子は、こうした夜の船旅の情景を映画でしか見たことはなかっただけに、今、何だか胸がしめつけられるような気がした。
「弓ちゃん」
「なあに」
「気をつけろよ。むこうに立っているキザな恰好した毛唐《けとう》の青年が、君をさっきから見てるぜ」
「見ていたって、いいじゃないの」
「変なまねをされたって知らないぞ」
視線をそちらの方に向けると、なるほど、洒落た背広を着た白人の青年が、唇のあたりにじっと微笑をたたえながら、自分のほうを凝視しているのに気がついた。ツンとして顔をそらしたが、心の中では、まんざらでもない気持だった。顔だちも押見や安川にくらべると、はるかに美男子だし、それに背たけもすらっとしているからである。
スピーカーからタンゴの曲がながれはじめる。甘い音楽を聞きながら、くだける波、月光にかがやく夜の海をみつめているのは気持がよい。もし自分が千葉といっしょにこのデッキ・チェアで肩を並べてすわり、この夜の海を眺められたら、どんなに幸福だろうと思う。
三、四組の客が甲板でおどりはじめた。
「弓ちゃん、やらないか」
「あら、押見ちゃん、おどれるの」
「馬鹿にしちゃあいけないよ」
だが、手をとって押見とおどりだしてみると、これはもうダンスと言えるものではなかった。ステップは滅茶滅茶だし、足は踏みつけるし、おまけに……。
「押見ちゃん、Hねえ、そんなに変な足の出し方しないでちょうだい」
押見は足を弓子の両足の間にあつかましく入れてくるのである。
「ごめんよ。しかしねえ。さっきの毛唐の野郎がまだ助平な目つきで君を見ているだろ。君にはちゃんと恋人がいるんだ、ということを見せておいたほうがいいんだ」
「あら、押見ちゃん、あたしの恋人のつもり?」
「じゃ、ないけどさ。あんな金髪野郎に日本女性を軽く見られたくないしね」
むきになってそう言う押見が妙に子供っぽくて、弓子は思わず、笑いだしてしまった。
汗だくでやっと一曲すんで、デッキ・チェアにもどろうとすると、問題の青年がつかつかと寄ってきた。
「メイ・アイ」
軽く頭をさげて恭《うやうや》しくこう言われると、さすがの弓子もドギマギして、
「困ったわ」
「断っちゃえよ」押見は肩を怒らせて「ズウズウしい野郎だ」
ズウズウしいのは、四等船客のくせに、ここにやってきてダンスをおどっている自分たちのことだった。
「メイ・アイ……プリーズ」
仕方なしに弓子は彼のさしだした手をとって甲板のまん中に出た。
正直な話、弓子は車の運転とダンスとにはいささか自信があった。大学の女子学生だったころ、ダンス部の男の子からパートナーになってくれないか、とせがまれたことも幾度かある。
その弓子が今まで出会ったことのないほどこの青年はうまかった。まるで体が波の動きに乗って、しかも、自分の体が優雅な線を描いていることが、はっきりわかるのである。
「お上手ね」思わず弓子は笑った。「初めてだわ」
日本語のわからない彼は、少し哀しそうな微笑を浮べて、うなずいてみせた。
今までおどっていた人々が、もう自分のおどりをやめて、こちらをじっと見ている。
「ブラボー」
中の一人が手をたたいた。曲が終ると拍手がひびいた。弓子は得意だった。
「帰ろう。帰ろう」
押見はくやしそうに安川を誘って、
「弓ちゃん、引きあげるぜ」
「待って」
「なんだ。船酔いだからと言って連れてくれば、俺たちの二倍、元気じゃないか」
「怒らないでよ」
「君になんか怒っても仕方ないさ。俺の怒ってるのは、あの毛唐青年だよ」
弓子は、白人の青年に会釈《えしやく》をして押見と安川のあとを小走りで四等船室までもどった。まだプンプンしている押見を見ると気の毒だったが、おかしくてならなかった。
直光がマルセイユに発《た》ってから、巴里は毎日のように青空がつづいた。すべてのものを青くそめてしまうような青空だった。そして、淑子はその青空の下で、千葉と逢引《あいび》きを重ねた。
自分は人妻であり、夫が今、何も知らないのだという懸念《けねん》は、もちろん、彼女を苦しめた。しかし、直光がマルセイユに行っている間の幾日かを、彼女は、自分の人生の中で空白な時間にしておきたかったのである。
(あたしは、この四日間だけ、千葉さんと会って、もう二度とお目にかからないつもりだわ。そして、そのあとは夫のため、貞淑な妻になるわ)
彼女はそう、自分の良心に言いきかせる。言いきかせて、やっとホッとする。
「田舎に行ってみようか」
待ち合わせのトロカデロの広場で、千葉はベンチに腰かけてフランスの小説を読んでいたが、淑子を見ると微笑しながら立ちあがった。
今日もうららかに晴れた日だった。紫外線をさけるために淑子はつばの広い大きな帽子をかむっていた。つばの影が彼女の顔にあたり、千葉は印象派の絵を見るみたいだと思った。
「田舎に?」
「ああ。自動車で。車を貸してくれる所がどこかにあるだろう」
「そうね」
昔、二人はよく、巴里の郊外に腕をくんで散歩に出かけたものだった。その思い出が急に淑子の胸にこみあげてきた。
貸自動車屋でルノーを借りた。ギヤーとエンジンの調子を調べている千葉に、
「どこへ行くの?」
「そうだな、ボアか、ヴェルサイユの方向に行ってもいいんだが」と腕時計を見て「なんなら、ルーアンの方向に出かけてみよう」
車の交渉がやっと終って、千葉は自分の横に淑子をすわらせ、
「出発しよう」
巴里の町は東京のようにだだっ広くない。ひょっとすると、京都よりもっと小さいかもしれない。
この巴里を抜ける間、車中での当りさわりのない会話のなかに、夫の名が一度も出てこないのを、淑子はさっきから意識していた。自分だけではなく、千葉もまた、直光のことを訊ねもしないし、その名を口に出すのを避けている。
「まぶしいね」
郊外に出ると、青い麦畠の中を一直線にルーアンに向けて舗装道路が走っていた。
「なんとか言うけれど、やはり、金持ちの国だな、フランスは。こう実際に来て、この目で見ると、しみじみわかる。日本なんか、比べものにならない」
「でも、もう未来がないんじゃないかしら。昔は美しかったけど、今はお年寄りになった女性――そんな気がするわ」
「そうだろうね」
千葉はハンドルを握りながら、うなずいた。
「しかし、風景だけは実にきれいだ。日本みたいにせっかくの風景をペンキの看板や工場でいためつけない」
千葉の言うことはほんとうだった。が、こうした会話をことさらに選んだのも、直光のことを二人が無意識にふれまいとしているからである。道のむこう、背のたかいポプラの並木がつづき、そのポプラの並木の上に、金色にふちどられた白い雲がぽっかりと浮いていた。ゆたかな耕作地の間には、牧場が拡がり、乳牛がゆっくりと草をはんでいた。
「寝ころびたいわね。ああいうところに」
「むかし、よく寝ころんだじゃないか」
「そうだったわ」
淑子は両手で頬をはさみ、ふかい溜息をついた。どうして、あたしたちの会話は昔の思い出話にだけもどっていくのであろう。それだけが、二人の人生のなかで一番、充実した倖せな時間であったように。
遠くで汽車の音がきこえる。ノルマンディの海ぞいの街に行く汽車だ。淑子は思わず、からだをピクリとふるわせる。
「どうしたの」
「いいえ。なんでも」
汽車の汽笛の音は一瞬だったが、彼女にマルセイユ行きの列車に乗った夫の姿を、やはり思いださせたのである。直光は今、マルセイユでいっしょうけんめい働いているだろう。夫には、どう考えても非難すべき何ものもなかった。いつも自分にはやさしく、夫というよりは父親のようないたわりを見せてくれた。だが、その父親のようないたわりが彼女には物足りなかったのだ。
道は二つに別れ、一つはルーアンの方向に向い、もう一つは、サン・クレップという部落に行くらしかった。
「サン・クレップか。ここにローマ時代の教会が残っていたと思ったんだが」
千葉は一人でブツブツ呟きながら、車をその方向に向けた。むかし千葉は小説家になりたいと言っていたくせに、建築や美術の本ばかり読んでいて、二人が田舎に出かける時も、ちょっとした古い教会や修道院があると、すぐ立ち寄る癖があるのだった。
風がポプラの葉を白く光らせていた。葡萄畠では農夫が子供といっしょに消毒薬をまいていた。
「|Mon vieux pere! Voudriez-vous m'indiquer ou est l'eglise?《モン・ビユ・ペール・ブードリエブ・マンデイケ・ウ・エ・レグリーズ》」(おじさん、教会はどこにありますか?)
車の中から千葉が道を聞くと、農夫は汗だらけの顔に微笑を浮べて、むこうの丘を指さした。まひるの光が、部落とその丘の上の教会とにひっそり当っていた。
丘の下まで車で行って、千葉が教会の中に一人はいったあと、淑子は石段に腰をおろしながら、眠ったように静かな部落をじっと見おろしていた。教会に入らなかったのは興味がないからではなく、自分の心の内側を神に見られるのが、なにか怖ろしいような気がしたからである。
「|Bonjour madame.《ボンジユール・マダム》」(こんにちは、奥さん)
五、六歳の男の子がいつの間にか、石段の下に姿を見せて、鼻に手をあてながら甘えるような声でいった。
「今日は」
淑子はうなずいて、
「|幾つ、坊やは《ケラージユ・アチユ》」
「|六つ《スイザン》」
「名前は」
「ミッシェル」
子供と話をしていると、見終った千葉が、まぶしそうに目ばたきをしながら教会から現われた。
「どうでしたの」
「うん。祭壇のうしろにまだローマ様式が残っていたけどね」
「この子と今まで話してたのよ」
自分が教会に入らなかったのは、心の内側を神に見とおされるのがこわかったからだ、とはさすがに千葉にも言えない。今、自分のやっていることは、夫を裏切ろうとしていることだった。夫に秘密をもつことだった。姦通[#「姦通」に傍点]という、暗い、嫌な文字が今、彼女の唇に不意にのぼってきた。淑子は身ぶるいをしながら立ちあがった。
「行きましょうよ」
忘れること。忘れること。今、このまひるの一瞬を、なにもかも忘れて楽しみたい。
「お腹がすいたわ」
二人は肩を並べて歩きだした。ミッシェルとよぶあの子は、鼻に指をあてたまま、二人のあとをついてくる。街道の横をゆるやかに小川が流れ、家鴨《あひる》の群れが列をつくりながら鳴いていた。
「今日は」
千葉は一軒の農家の前に立っているお内儀《かみ》さんに声をかけた。
「すまないが、パンとチーズと葡萄酒を売ってくれませんか」
「おや、まア」おかみさんは驚いたように手をうって答えた。「お安いご用ですよ。しかし、どこで食べるのかね」
「牧場で」
大きな袋のなかにパンと色々な種類のチーズと、それから梨とを入れ、一本の葡萄酒までそえてもらうと、二人は小川のほとりまでなだらかに傾斜している牧場に歩いていった。小さなミッシェルはまだ、ついてくる。
牧場は草の匂いがした。黄色い百合《ゆり》のような花、赤い可憐な花が咲いた地面に腰をおろすと、耳もとに蜂の羽音が聞える。
「ミッシェル。君もたべたいのか」
千葉は笑いながら、子供にキャマンベールのチーズとパンをちぎってやった。それから二人もパンをかじり、葡萄酒をアルミのコップに入れて飲みあった。
「いつ、お帰りになるの」
「フランスから?」
「ええ」
「いつまでもいたいんだけれど、そうもいかない。もう一ヵ月したら、巴里を発ってどこか田舎でもまわり、それからスペインかイタリヤでもまわって帰国しようと思う」
「そうね。そうなさったほうがいいわ」
「どうして」
「いいえ、別に、どうって理由はないけれど」
掌で頬をはさみながら、淑子は哀しそうに目の前で風にゆれている黄色い花をじっと眺めた。黄色い色の花びらの輪廓が急ににじむのを感じ、彼女は泣くまいと努力した。
「君は、いつごろ、日本にもどるの」
「さあ、そんなこと……主人しだいだわ。この次の任地がどこになるかもしれないし。外務省に直接ポストが命令されれば、東京に帰ることもできるでしょうけど。東京もずいぶん、変ったでしょうね」
「変ったよ」
煙草の袋から、二本の煙草をだし、千葉は一本を彼女に渡し、他の一本を口にくわえた。
あと一ヵ月で巴里を引きあげれば、もう自分は彼女に会うことはできないかもしれぬ、と千葉は思った。そうたびたび自分の仕事を放擲《ほうてき》してヨーロッパに来ることはできない。それは確かだ。彼は胸の中に激しい感情が突きあげるのを感じ、思わず手をのばして淑子の掌《て》をつかもうとした。しかしその時、目の前にパンを片手にじっと二人をみつめている小さなミッシェルの瞳に気がついた。この子の前で彼はなにもすることはできなかった。
「果物がほしいかね」
と、彼は自分の感情をごまかすために子供にたずねた。
「そうか。ほしいのなら、袋の中から取っておたべ」
「だめよ。皮をむいてやらなくちゃ」
千葉はポケットから金色のナイフを淑子に渡し、淑子はそれを使って、小さなミッシェルのために、若い母親のように梨の皮をむいてやった。
教会で一つ、鐘がなった。一時なのか、十二時半なのか、時計をもたぬ彼にはわからなかった。
「そろそろ、車にもどろうか」
「そうね」
二人は膝のパン屑をはらい、牧場のなだらかな傾斜をゆっくりとおりた。猫柳のふちどった小川にさっき橋で鳴いていた家鴨の群れが列をつくって泳ぎはじめていた。
「トントン、トントン」
ミッシェルは、その先頭を泳いでいる家鴨に向ってそう呼びかける。その声に家鴨はこちらにむきを変え、もどりはじめてきた。
「トントンと言う名か。しかし、よく馴れたもんだ」
「こういう平和な田舎で、一軒の家を買って生活したらいいでしょうね。なにもかも忘れて……」
なにもかも忘れて、と言う言葉に力を入れて淑子は溜息をついた。夫のこと、夫との家庭のこと、それらすべてが過去に消えさり、千葉と二人でこんな農家に住んだら、どんなに幸福であろう。
「さあ。君は車に先に行っていてくれないか。ぼくは、この葡萄酒の瓶を返してくるから」
千葉は淑子の言葉を聞かないふりをして彼女の掌に鍵《キイ》を渡した。
淑子をアパルトマンの近くまで送ってホテルにもどると、もう夕暮だった。夕暮の陽が巴里の空を金色に光らせていた。
フロントで鍵と幾通かの郵便をもらい、千葉は自分の部屋にもどった。
シャワーをあびてから、ゆっくりとした気持でベッドのふちに腰をかけ、郵便物の封を切った。日本の出版社からのもの。友人からのもの。そして最後の少し分厚い手紙は日本ではなく、フィリピンの切手がはりつけてあった。いぶかしく思いながら裏をかえすと、志摩弓子というローマ字が目にとびこんだ。
「あの子が、マニラに?」
便箋の上にピョンピョンとした字がおどっていた。いかにも弓子らしい軽快な恰好をした字だった。
『ギョッとされたでしょ。ビックリされたでしょ。まさか、弓子からマニラ発の手紙をもらうとは思ってなかったでしょ』
そこまで読んで千葉は苦笑し、煙草に火をつけた。窓の外を通る物売りの大きな声が聞えた。
『でも今、マニラにいるんです。うそじゃありません。もっとも明日はここを出航して、サイゴンまで四日間の船旅です。その次はシンガポール。それからジプチ。ジプチがすんだら、ポートサイド。そしてあとは一直線に地中海を突破して目ざすフランス、マルセイユです。所要日数三十五日。先生の飛行機のように、二十四時間後はもう東京から巴里、というわけにはいきません。残念だけれど、こっちは倹約大旅行なんですから。その上、仕事を兼ねているんです。あたしの仕事というのは……』
それから弓子は、なぜ自分がヨーロッパに行けるようになったかを嬉しそうに説明していた。
千葉はベッドの上に仰向けになって、手紙を読みつづけた。
『巴里に行ったら、鉄砲弾のように先生のところに飛んでいこうと思います。むこうみずな娘だとお思いになるでしょう。お思いになってもいいんです。あたしたちの世代は、自分のやりたいことをやらないような人生はイヤなんです。やりたいことがあれば、どんな障碍《しようがい》があっても、それをやるのが人生なんだ――そんな気がします。そしてその責任は自分が引きうけるつもりです。
巴里で、あたしには何もプレゼントがありませんから、この自分をみんな、さしあげるつもりです。弓子をおとりになるのはお嫌? 結婚して、なんて我儘申しません。ただ一晩だけ。さよなら』
困った奴だ。千葉は舌打ちをしてその手紙を引出しにしまった。壁にかけてあるカレンダーを見ると、彼女がマニラからこの手紙を送ってからもう五日たっていた。二週間ほどで、あの子は巴里に来るにちがいなかった。
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愛の追跡
マットのパタパタ鳴る甲板で弓子は腰をおろしながら、持ってきた手帖を拡げた。風がその手帖の頁を忙しげにめくっていく。それは、毎日の日記をメモ風につけたノートだった。
真昼である。地中海は穏やかだった。波はそのくせ、ひどく澄ました顔をして冷たいように思えた。今日まで通過してきたさまざまな海――インド洋やアフリカの海、スエズ運河の入江など――それらは、それぞれ原始的な生命力のあふれた表情をしていた。照りつける太陽も烈しくきびしかった。だが一度、地中海に入ると、海はまるで文明人の顔そのもののようにとり澄ましているのである。
白い鳥が二羽、どこまでも船を追いかけてくる。遠くに雪をいただいた鋭い山をもった陸地が見える。あれはギリシャにちがいなかった。
手帖をめくって自分の書いた文字を見ると、この三週間のあまりにも大きな思い出が、次から次へと走馬燈のように浮んでくるのである。
十五日
シンガポール。真白な時計台と火焔木《かえんぼく》の赤い花。時計台の影が黒く広場に落ちている午後。空の碧《あお》さ。
空の碧さ。空がこんなに碧いとは初めて知った。眩暈《めまい》がしそうである。
押見さんと安川君は午睡。私は一人、街に出る。あの白人の青年が一緒についてこようとする。ついてきたいのなら、ついてこさせてやれ。植物園を彼と見てまわる。すごい大蛇がいる。トラックのタイヤほどのふとさ[#「ふとさ」に傍点]だ。帰りに、彼とお茶を飲む。ホテルの中でマレー人の白い服を着た男が給仕をしてくれる。白人の青年は英語でくどきはじめた。ほら、おいでなすった、とこちらは警戒態勢をととのえる。
とにかく、キザな文句を臆面もなく次から次へと並べられて、こっちは何が何だかわからなくなる。好きだとか、あなたの目は星のようだ、とか言ったあげく、
「ユー・ラブ・ミイ?」
彼がそう迫ってきたから、
「ノー」
あなたの英語、さっぱり、ポコペンという顔をしたら、相手は拍子ぬけした情けない表情で、
「オー・アイ・シー」
それっきり、黙りこんでしまった。
船にもどって押見君に以上の結果を報告すると、彼、とたんにトサカにきたらしく痩腕をふりまわし、日本娘に失礼だ、断乎こらしめてやる、と息まいていた。
大丈夫。あたしの好きなのはこの世界にただ一人。その人は、この海のずっとむこうに鎮座ましましている。あたしがマニラから出した長文のラブレター、届いたかなあ。船の名も船会社も、ちゃんと書いたのだけど、サイゴン、シンガポール、どこにも彼の返事は来ていない。あたしの一人|角力《ずもう》……。
彼にたいしてあたしは一人角力をとっているのかしら。燃えるように真赤なシンガポールの夕焼けを見ていると、急に情けなくなってきて、涙がにじみ出てきた。
弱気を出すでないぞ、弓子。
自分の人生は自分で作っていく。これがあたしの信条。千葉さんが欲しいのなら、どんなことをしても、あたしは彼を獲得しましょう。
夜、一等のバスにもぐりこんで洗髪。四等の旅も楽じゃないわ。
十八日
海、海、海。
陸地はもちろん、島影一つ見えない。もう二日も私たちの目にうつるのは海だけである。インドのけだるい光。けだるい光が海をおしつけている。
真昼の甲板は人影がない。空いたデッキ・チェアの上に、誰かが読み残していった横文字の雑誌が捨てられている。果汁の痕《あと》のついた清涼飲料のコップがその横においてある。
押見君と安川君は相変らず甲板の日陰で昼寝。ほんとうに、二人は何時間寝たら、気がすむのかしら。そのくせ、真夜中になると急に起きあがって、花札なんかを歌うたいながらやっているのだからあの二人、始末がわるい。
エンジンの鈍い音が一日中、甲板でひびく。
十九日
今日も海だけ。
時々、水平線のむこうに黒い一点が見える。何だろうと思っていると、それにマストがつき、エントツが浮びあがり、船の形をとる。すると、退屈しきった船客たちはまるで子供のように、近づいてくるその影をじっと見つめている。
例の白人の青年君(名をアンドレ・ロッシュというんですって)トランプの手品をしてくれる。なかなか、いい奴だ。押見くんは怒るけれど。だが、どんなに暑くるしくても、あたしには毎日毎日がすばらしく充実しているように思える。あたしは今、見知らぬ海と見知らぬ港にむかって進んでいるんだもの。
インド洋の落日。こんなにすばらしいものが、ほかにあるだろうか。日本では決して見られない大きな太陽が、縁を燃やしながら垂直に沈んでいくのですよ。東京のウジウジした喫茶店の中で顔をつきあわせ、溜息をついている恋人たちよ。この海と太陽とをごらんなさい。
二十日
朝、目をさまし船窓に顔を押しあてると、水平線のむこうに、巨大な、一木一草だにない大きな島が見えるじゃないの。
「ああ」
私はすぐ甲板にのぼっていった。それは、島ではなかった。岬だった。
「あれは?」
通りすぎた船員にたずねると、彼は両手をあげるようにして叫んだ。
「ア、フ、リカ」
アフリカ。ああ、これがアフリカなのか。こたえられないじゃないの、この気持。あたしはとうとう、アフリカ近くまでやってきたんだもの。
押見君と安川君とを叩きおこして甲板までつれてきて、この巨大な、一木一草だにない岬を見せてやった。
「ひゃあ」
彼らは目をまるくして、
「すげえなあ。まるでさ、地球が初めてできた時のようだ」
昼すぎ、船はしだいに大陸にそって南にくだりはじめた。フランス領のジプチに寄港するためだろう。
押見君と安川君はドーバー海峡を横断する競技会への出願書を一日かかって書きあげた。これをロンドン水泳会に送って、許可が出れば、参加が認められるということになる。
あたしは千葉さんにまた手紙を書く。あす、ジプチで、もし彼から便りがきていなかったら、ほんとうにトサカに来ちゃうから、いったい、ひとのことを何と思っているのかしら。
二十一日
ジプチに朝ついた。こんな凄い町を私は今日まで見たことはなかった。
港は遠浅なので、船は港からずいぶん離れた沖に停った。そして、あの映画で見るような小舟に真黒な黒人たちが船まで果物を売りに来はじめた。彼らは私たちにはわからぬ奇妙な言葉で歌を歌っていた。彼らが笑うと、その歯が真白に光り、汗にぬれたその裸の背中が銀色に輝いた。
白い入墨を頬にしている者もいた。
港に押見さんたちとおりたのはお昼すぎ。とにかく、すさまじい光だ。椰子《やし》の木も海も眩暈《めまい》がしそうなくらい輝いている。
町まで二十分ほど歩く。死んだような街である。家畜小屋よりもっとひどい黒人の家。広場には人影もない。地面に死体のように黒人がねむりこけている。郵便局とキャフェがあるだけである。
「それ以上、遠くに行ってはいけない」
黒人の警官が手まねで、われわれに注意する。何が起るかわからないと言うのだ。
草原を鉄道線路が一本、走っている。あれは、エチオピアのアジス・アベバにむかう列車だそうである。
それだけ。ほかに何もない。すさまじい光と、音一つ立たぬこのジプチの町。
世界にこんな町があるとは知らなかった。
あたしはまだ、何も何も知らない娘だった。この町一つを見ただけでも、インド洋のあの大きな落日一つを見ただけでも、この旅は私にとって甲斐があったと思う。
あたしは、人生を少し、なめていた。東京にいた時、人生をもう大分、わかっているような顔をしていた。そして、千葉さんに笑われたっけ。「人生はそんなに簡単なもんじゃない」って。
ほんとうだ。これを見た時、あたしは、これから自分に勉強することがたくさん、たくさんあるような気がしてならない。
もう一つ、嬉しいニュース。町から船にもどると、千葉さんから返事が来ていた。
びっくりした、と書いてあった。びっくりしたでしょうね、彼。まさか、このお弓さまが巴里にあらわれるとは、夢にも思わなかったでしょうから。でも、そのあとは、まことに気のない文章。要するに、はっきり申せば、彼はこの弓子のことを、地面に這《は》う蟻ぐらいにしか思ってないと言うことだな。
くやしいけど、このキビしい事実はこの際、認めなくちゃならない。問題は、あたしが決して蟻じゃないことを、彼に考えさせることだわ。
夫が今日、帰ってくるという日、淑子は大使館の岡谷春恵から電話を受けた。出発の日、北停車場まで直光を送りに行った時、ホームに来てくれていた若い女性だった。
「さぞ、お寂しゅうございましたでしょうね」
受話器の奥で彼女は丁寧なものの言い方をした。
「実はたった今、マルセイユの領事館から電話がございましてね。ご主人さま、八時に、こちらにおもどりになるそうでございます。その前に書類を、そちらに届けておくようにとのことでございますから、今から、お伺いしてよろしゅうございますか」
受話器をおいたあと、淑子は何か心にひっかかるものを感じた。岡谷春恵のものの言い方は礼儀ただしく丁寧だったが、なにか、いやあな感じがしたのである。
その春恵が来たのは、電話をきってから一時間後だった。品のいいスーツに真珠の首飾りをして、用件の書類を手渡すと、すぐ帰ると言ったが、
「まあ、よろしいじゃございませんの。お茶ぐらい召上っていって下さいませ」
淑子は微笑を唇に浮べて止めた。
「主人も岡谷さんがおたずね下さったと知ったら、悦《よろこ》びますわ」
「申し訳ございません。お留守中、何のお役にもたたなくて。さぞ、お寂しかったでしょうね」
紅茶茶碗を膝の上におき、春恵は、こちらをさぐるように目をあげて、
「でも、私、二度ほどお電話いたしましたが、奥さま、お留守でございましたわ」
「あら、そうでしたの」
さりげないふりをしようとしたが、自分の顔が赤らんでいるのを淑子は感じた。
「奥さま、小説家の千葉さんをご存じでいらっしゃいますの」
春恵は急にそうたずねた。たずねられて淑子は狼狽をおしかくしながら相手の顔をみつめた。だが、岡谷春恵の表情には何の感情もあらわれず、
「わたくし、奥様と千葉さんとがご一緒のところを二日ほど前、拝見しましたわ」
「まあ、どこで」
「コンコルドのHホテルからお出になるところでした」
そのホテルはたしかに千葉の宿泊しているホテルだった。
二日前、たしかに自分はそのホテルに行った。もちろん、ロビーで千葉のおりてくるのを待っていただけにすぎない。決して彼の部屋などにのぼりはしなかった。
だが、夫の留守中、男性の宿泊しているホテルをたずねた姿を大使館の誰かに見られたということ――それは外交官の夫人としてあってはならぬことだった。当然、人々の噂にのぼるようになる。
「千葉さんは昔から存じあげておりましたし……、久しくお目にかからなかったのに、急にあの方、巴里にいらっしたものですから」
淑子は上ずった声で弁解しはじめたが、弁解すればするほど、岡谷春恵が自分の心の内奥に気づくような気がして、途中で口を噤《つぐ》んでしまった。
「よほど、お声をかけようかと思いましたけれど」
「あら、声をかけて下さればよかったのに……」
「かえってご迷惑になるといけないと思いまして、やめましたわ」
自分の言葉、春恵の言葉、その一つ一つに刺《とげ》がある。まるで自分とこの女性とはむかしから憎みあっているみたいだと淑子はそう思い、哀しそうに微笑して黙った。
「じゃあ、わたくし」
ハンドバッグを手にとって、少し勝ちほこったように春恵は立ちあがった。
その彼女を送りだしたあと、淑子は椅子に腰かけてしばらく、じっとしていた。彼女は大使館のなかの雰囲気がどういうものであるかをよく知っていた。特に館員の夫人たちがどんなことを話題にしたり、噂の種にしたりするかもよく知っていた。岡谷春恵が今の事実をそうした夫人連にいつまでも黙っていないこともすぐ推察できた。
外交官の出世はその妻の挙動にかかわる、と直光は平生から口癖のように言っているのである。
(もし、あの人が主人に、何気なさそうにそのことを話したら)
マダム・ボッシェが部屋に入って卓子の上を片づけはじめた。
淑子は母親のようなこの中年の婦人に何もかも打ち明けたいような衝動にかられた。
「どうなさいましたの、奥さま」
マダム・ボッシェは卓子の上で動かしていた手をとめ、心配そうにそうたずねた。
「なんでもないの」
「顔色がよくありませんよ。でも、ムッシュー・ナチが今日、お帰りになれば、すぐお元気になられますわね」
一人になると、彼女は千葉に電話をかけようとした。コールの音がひびき、ホテルの電話係がムッシュー・千葉は今、留守だと言った。
その夜、きげんよく帰ってきた直光は、
「どうだったね。留守中は」
「何もありませんでしたわ。変ったことは」
「変ったことが、そうそう、あっては困るからね」
シャワーをあびながら、夫はきげんよくバス・ルームから笑い声をたてた。この人は何も知らないのだ。この人は自分を信じきってマルセイユで働いてきたのだ。そう思うと、淑子はさすがに苦しさと恥ずかしさが胸をつきあげてくるのを感じた。
「鞄の中を見てごらん」
「トランクのものはもう整理しましたわ」
「いや、私の鞄の中だ」
鞄の中には小さなリボンでくくった箱があって、
「あけてごらん」
中をあけると、フローレンス模様の百合の形をしたブローチが淑子の目にとびこんできた。
「気に入ったかね。十九世紀のものらしい。むこうで領事館に出入りの商人が持っていたのだが」
バス・ルームから出た直光は紺のガウンを着ると、煙草に火をつけて、ゆっくり椅子に腰をおろした。悪い人ではない。悪いどころか、こんなに自分をいたわってくれる夫である。それなのに、自分はどうしてこの夫に何か漠然とした空虚感を感じるのだろう。
淑子は自分を悪い女だと思った。岡谷春恵から非難をうけても仕方がないと思った。
ついに、マルセイユに着いた。
弓子は波止場の前のキャフェで例の手帖をひろげ、鉛筆をなめ、さて、今から頁に書きこむ文字を思案する。
心にまず浮んだのは、やはり、待望のフランスについたという悦びだった。フランスに着いたという悦びよりも自分が今、千葉と同じ土地を足で踏み、同じ空気を呼吸しているという幸福感だった。
「もし、私が鳥だったならば」
はじめて英語の仮定法を習った時に知った例文が、急に心に浮んでくる。もし私が鳥だったら、巴里まで飛んでいくだろうに。
波止場には中国のジャンクのような小舟がぎっしりと詰っている。そして、ベレー帽をかぶった逞しいフランスの漁師たちが、大きな箱を次々と小舟から岸壁に運んでくる。彼らの叫ぶ声が魚の匂いにまじってこのキャフェまで流れてくる。
押見と安川とは税関で録音機械やテープを受けとるために、まだぐずぐずしている。ここに先に来て腰かけているのは弓子だけだった。
柔らかな日ざしが、マルセイユの街とそのむこうの丘をやさしく照らしていた。マルセイユの街は街全体が淡紅色に見える。建物の色調を地中海の海の色、空の色に合わせて選んだようなのである。丘の上に高いパジリックが見える。ノートル・ダム教会だ。
隣席にいた中年の男が弓子が一人ぽっちなのを見ると、片目をつぶってみせた。ほら、おいでなすった。フランスに行けば、男はすぐ誘惑にかかるから注意しろ、と物の本に書いてあった通りだ。ボーイがその男のために何かスープを持ってきた。
ナプキンを子供のように胸にぶらさげると、男はスプーンでスープを飲みはじめる。すごくおいしそうな香料の匂いが、空腹の弓子の鼻にプンと漂ってくる。思わず視線をそちらにむけると、男はスプーンを手に持ったまま、
「ブイヤベース」
と言う。
ああ、これが、マルセイユ料理でも有名なブイヤベースなのか、色々な魚を入れて作ったスープなのか、と弓子は思わず咽喉をごくりとならした。
「マドモアゼル・セ・ボン・トレ・ボン」
男は人のよさそうな笑顔をして、スープ皿を指しながら説明してくれる。そのくらいのフランス語なら、もう弓子にはわかる。おいしい。とても、おいしいと言っているのだ。
「セ・ボン・セ・トレ・ボン」
そうでしょうね。でもそんなにオイしそうに食べないでよ。こっちのお腹の虫が騒ぐじゃないの。
男が大きな音をたててスープを飲み、魚の骨を舌の先でゆっくりしゃぶっているのを羨ましそうに見つめている時、やっと汗をふきふき押見と安川があらわれた。
「とにかく閉口したよ。相手の言う言葉がさっぱり、わかんないんだから。むこうもこっちも、ピーチク、パーチク言いながら、唖みたいに手を上げたり下げたりするんだ」
「でも、デンスケ(録音機)はとれたんでしょう」
「うん。どうにかね」
「じゃあ、いよいよ、仕事開始ね」
「そうだ。しかし、今日ぐらい、このマルセイユで一泊して明日からやったっていいんじゃないかい。今晩ぐらい、俺、どんちゃん騒ぎしたいよ」
「駄目よ」弓子はきびしく首をふって、「あたしたちは大名旅行のため、ここまで来たんじゃないのよ。仕事よ。仕事」
「そりゃ、わかってるけどさ」
「あたし、今からでも巴里にむけてヒッチ・ハイクやるわ。あなたたちも、あたしのあとをついてきて頂戴。万一のことがあったら助けてくれなくちゃ、イヤあよ」
弓子と押見たちが今後の打ち合わせをやっている間、ブイヤベースを食べている男は、ふしぎそうにこちらをジロジロと見つめていた。
「だが、どうするの」
「まかしておいて頂戴」
スープ皿を前におしやってナプキンで口をふいた男は、もう一度、弓子に片目をつぶってみせると、キャフェの前においたトラックにむかって歩きだした。その荷台にはたった今、波止場で荷上げしたらしい魚の箱がつまれていた。
「ムッシュー」
弓子は車の扉をあけた男に近よってそう呼びかけた。そして思いきり愛嬌のある笑顔をつくって、
「ヒッチ・ハイク・パリ。ヒッチ・ハイク」
きょとんとして相手は弓子の顔を見ていたが、
「|Oh. Mais jusqu' ou?《オー・メ・ジユス・クウ》」
「パリ、パリ」
「|Mais mademoiselle je vais a Lyon.《メ・マドモアゼル・ジユ・ベ・ア・リヨン》」
リヨンまでしか、この車は行かぬと言う意味らしかった。ともかく、乗れと合図されて、弓子が自分のショルダー・バッグとデンスケとをぶらさげて助手台に乗りこむと、
「弓ちゃん、待ってくれよ、俺たちあ、いったいどうなるんだね」
びっくりした押見が助手台の窓をガンガン叩く。
「黙って荷物台にでも這いあがんなさいよ」
「冗談じゃない。あんな魚くさいところに乗せられてたまるか」
「つべこべ、文句を言うんじゃないの」
デペシェ・ヴーと男は叫んだ。急いでくれと言う意味らしかった。
トラックはあかるいマルセイユの街を走りはじめた。どの建物も白い。橡《とちのき》の街路樹の間を、チンチン電車が走っていく。チンチン電車に今、栗色の髪をした青年が走りながら飛び乗っていく。飛び乗って、こちらに気づいたのか、弓子にむかって片手をあげる。
「臭え」
「臭えぞ」
うしろでは押見と安川とが怒鳴っている声が聞えた。魚の臭さによほどヘキエキしているに違いない。
「ケス・キイル・ディ」
ハンドルをまわしながら、ベレー帽の男は弓子にたずねた。うしろの連中は何をわめいているんだ。そうたずねていることが、弓子にもわかったから、
「これ」
鼻をつまむまねをすると、うなずいて肩をすくめてみせた。
海が見えた。地中海である。海のほとりに松の木が茂っている。日本の松とはちがって、まるで傘を開いたように、すっぽりと横ひろがりに茂った松だ。午後の陽が静かな地中海と松とにあたっている。ああ、これがフランスなんだわ、と弓子は思う。明日《あす》か明後日《あさつて》、自分は巴里に着いているだろう。そして、千葉に少なくとも電話をしているだろう。
旅行から帰った翌々日、大使館からもどった直光はいつになく、不機嫌な表情をしたまま淑子の出迎えを受けた。
食卓についても、ほとんど口をきかず、フォークとナイフを動かしている。
聞かなくても何に彼が腹をたてているのか、淑子にはもうよくわかっていた。岡谷春恵があの一件をきっと、それとない口ぶりをして直光に教えたにちがいなかった。
給仕をするマダム・ボッシェもいつもとちがった雰囲気に気がついたのであろう。こわばった表情で皿をとりかえている。淑子も淑子で直光の態度に気圧《けお》されて、咽喉まで出かかった言葉が口に出ない。
食後のデザートがすむと、夫はだまって立ちあがり、サロンに入ってしまった。新聞をひろげて読んでいるうしろ姿が硬い。
「あなた、コニャック、召しあがりますか」
思いきって淑子は声をかけた。食後、サロンでコニャックを飲むのは彼の習慣だった。
「いらん」
「どうなさったんです」
淑子は夫のそばの椅子に腰をかけて、
「今日は、いつもと違ってご機嫌が悪いようですけれど」
手術を受けるなら、早く受けたほうがましだった。
「聞かなくても……君にはわかっているだろう」
直光はそう冷たく答えると、煙草に火をつけた。
「岡谷さんからお聞きになったのでございますね」
「私は大使館で恥ずかしい思いをした」
「岡谷さんのおっしゃる通りに、わたくし、たしかに千葉さんをおたずねしました」
「なぜ?」
「なぜって……」淑子は自分の声が乱れるのを感じた。「なぜって。千葉さんはむかし巴里に来られた時からのお友だちですもの。今度、こちらにいらっした、とお電話があったものですから」
「お友だちか」直光は皮肉な笑みを頬に浮べると、「しかし、一人の人妻が、主人の留守中、その男のホテルをたずねる。これは穏当な話じゃないと思うがね。少なくとも常識をもった者なら、決してしないことだ」
「でも、わたくしは、ロビーで千葉さんとお話しただけでございます」
淑子は恨めしそうに夫の顔を見上げた。
「それだけじゃ、ございませんか」
「それだけだという証拠はどこにもない」
「じゃあ、あなたまでが……」
「私がどうかというのは別問題だ。私が信じても、他の人が信じなければ、どうにもならんじゃないか」
「他の人とおっしゃいますと、岡谷さんのことでございますの」
「岡谷さんとは限らん」
「あなただけが信じて下されば、それでいいじゃありませんか」
思わず声が高くなったのに気がついて、淑子はそっと台所のほうを見た。食事の後始末をしているマダム・ボッシェには、日本語はわからない。わからないが、夫婦のいさかいはこの声の調子だけで手にとるように理解できるだろう。
「俺一人という問題じゃない。そこがわからんのか。いいか。俺は何も知らずマルセイユに行った。その間、お前は何をしたというのだ」
自分は決して千葉と不義はしなかった。なるほど、彼とは毎日のように会い、毎日のように話をした。しかし一つの限界だけは二人とも守ったはずなのに……。
「お前がしたことは、私に恥をかかせることだけだった。いつも言っておいたはずだ。大使館員の細君はその一挙一動で主人を出世もさせる。失敗もさせる」
「存じております」
「知っているなら、お前のしたことは……外交官としての私の出世を――足をつかんで引きずりおろすことだった、と承知してやったのだね」
淑子は、夫の顔をじっと見つめた。そうか。そうだったのか。今こそ、長い結婚生活で私がこの人に感じてきた不満が、やっとわかったような気がする。この人が気にしているのは、私ではなく、まず自分の出世なのだ。自分の体面だったのだ。
「そうお思いなら」
唇をかみしめて淑子はソファから立ちあがった。
「もう仕方、ございません」
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巴里まで
マルセイユを出発して二時間、トラックは今、南仏《ミデイ》の丘陵をぬけ、北にむかって走っていた。赤い大きな夕陽が硝子球《ガラスだま》のようにうるみながら、深みある最後の光を、それらオリーブの林に、ポプラに縁どられた牧場に、そして白い壁の農家に投げ与えている。
牧場の牛たちが首にかけた大きな鈴の音をカラコロとならし、一匹の犬にみちびかれながら村に帰っていく。農夫たちもそのあとを鍬をかつぎながら引きあげていく。それらの風景は日本のそれと似かよってはいたが、しかしどこか、ちがっている所もあった。それは、村の真中に、夕暮の空を背景にくっきりと十字架をうかびあがらせている教会の尖塔《せんとう》のせいだった。
(ああ、これがフランス)
弓子はトラックの窓に頬をあてて、感無量のまなざしを暮れなずむそれらの風景に注いだ。
石をつんで造った農家。庭で大きなポプラの葉がゆれている。栗色の髪の婦人が一人、その庭に出て、洗濯物をとりこんでいる。なにげないそんな風景も、弓子にはもうずっと前、ピサロの絵で見たような気がしてならない。
村をすぎると、手入れの行き届いたアスファルト道が一本、畠をつらぬいてどこまでも走っていく。小さな酒場が、その街道の片隅にある。店の前には五つ、六つの椅子とテーブルがならべられ、そこに一仕事終った男たちが腰かけて、何かを飲んでいる。
見知らぬ小さな町も幾つか通りすぎた。夕陽がバラ色にあたったそれら見知らぬ町の一つに、ちょうどサーカスが来ているらしく、天幕《テント》の入口で、道化師の恰好をした男が笛を吹き、子供たちがむらがっていた。町をすぎると、ふたたびオリーブの林がつづき、林のむこうに黒ずんだ中世の城らしい廃墟が見えた。
見るものすべてが、弓子には目あたらしく新鮮で、印象がつよかった。しかし彼女はそれよりも、今、自分の目の前に坦々とのびているアスファルトの道に、やっぱり心を集中している。この道を行けばそこには巴里があり、巴里には千葉が滞在している。
(会いたいなあ、千葉さんに)
彼女は指で車の硝子をなでながら、ぼんやり考えこんだ。すると夕暮の風景は消え、そのかわりに、千葉とやがて会う日のことが急に心にうかんできた。その瞬間が、なんだか、弓子にはひどくこわいもののような気さえしてくる。
(あたしって)と彼女は思う。(やっぱり、女の子なんかなあ)
運転台でハンドルを握っていたフランス人はひくい声で唄を歌いはじめた。意味はわからぬが、今の弓子の心にしみいるような唄だった。歌いながら彼は片目をつぶってみせた。
男は片手でハンドルを握り、もう一方の手で座席においた大きな袋からパラフィン紙で包んだものをとりだし、何か言った。チーズとパンとをたべろと言う意味らしい。
「うしろの男の子たちにやっていい?」
「コマン?」
弓子は指で背後の荷物台を指さし、口を動かして食べる真似をする。
「オー、ビヤン・シュール」
車は叢《くさむら》で徐行し、止る。扉をあけて急いでとびおり、
「押見ちゃん、安川くん」
そう声をかけると、彼らは返事もしない。途中で振りおとされたのではないかとびっくりして覗きこむと、二人とも足を投げだし、口をあけて眠っている最中だった。
その間、運転台のフランス人は車からおりて、しきりにエンジンを調べていたが、
「キャプート」
舌打ちをしながら首をふった。
「どうしたの」
「キャプート」
大きく手を振って見せる。困ったことにはどうやらトラックがたった今、停車した拍子にエンコしてしまったらしいのだ。
「どうしましょう。動かなくなったようだわ」
安川と押見をたたき起して、彼らにもエンジンを調べてもらったが、どうしても原因がわからない。
男は電話をかけに行ったが、修理工場は大分遠いらしい。なかなかもどってこない。そのうちに、三人、四人と土地の青年らしいのが集まってきはじめた。中に一人、片言の英語ができるのがいて、
「ユー、チャイニーズ?」
「ノー、ジャパニーズ」
弓子は胸を張って答えた。
当惑したような表情を見せながら、電話をかけに行ったフランス人がもどってきた。大きく肩をすぼめて首をふってみせる。
「おい、おい。えらいことになったぞ」
押見は、英語のできる青年から身ぶり手ぶりをまじえて事情を聞いていたが、
「修理工が明日までもどらないんだってさ。だから、俺たちをここまで運んでくれた大将、ここで泊るんだってよ」
「まア。じゃあ、あたしたち、どうなるの」
「俺たちも、ここに泊るより仕方ないじゃないか」
「ホテル、なんてあるかしら」
「ホテル? 冗談じゃないよ。俺たちはゼイタク旅行でフランスに来たんじゃないぜ。部長に知られてみろ。どんなに叱られるかもしれないぜ」
「じゃあ、野宿をしろって言うの」
「場合によってはな。できるだけ、安あがりでこの旅行をやりぬかなくちゃ、ならないんだろ」
いつになく急にきびしい表情でそう言う押見に、ふくれっつらをして黙りこんではみたが、彼の言うことも当然だった。この旅行は観光旅行ではなかった。物見遊山のための旅でもなかった。
「押見さん」
むこうで英語のできる青年と話をしていた安川が、大声をあげて叫んだ。
「こいつが、自分の家の納屋《なや》で寝ろって、言ってますよ」
「納屋で?」
「ええ、こいつの家は、農家だから大きな納屋があるんだそうです。ヒッチ・ハイクの学生なんか、よく泊っていくそうです」
「ふうん、そうかア」腕をくんで押見は考えこみ、「まあ、いいだろう」
「そのかわりね、日本人なら柔道を教えてくれって、こいつ言うんです」
「柔道を? お前、柔道を知ってるのか」
「そんなもん知りませんよ。でも、誤魔化しちゃえばいい。誤魔化しちゃえば」
青年につれられて、三人は田舎道を歩きはじめた。両側は果樹園らしく、大きな林檎の樹に青い果実が夕靄にうるみながらなっていた。農家というより、大きな地主といったらいいような敷地や木造の建物が並んだ場所に来ると、犬がけたたましく吠えはじめた。
「トト、トト」
と、青年はその犬にむかって声をかけた。三匹のグレートデンが体をくねらせて、主人のところに駆けよってくる。
「ここかあ。俺たちの今夜のホテルは」
押見は舌打ちをしながら、藁をいっぱいつみかさねた納屋の中を覗きこんだ。甘ずっぱい匂いがプンとただよってくる。
「見ろよ。ジャムの瓶だぜ」
おそらく、去年できた林檎でつくったジャムなのであろう。その芳香のただよう瓶がいっぱい棚に並んで、
「しめしめ。出発の時、二、三瓶は失敬するか」
思わず、押見は舌なめずりをしながら、周《まわ》りを見まわした。
青年は食物を持ってくると言いながら三人をそこに残し、母屋の方にもどっていった。三匹の犬がうしろから嬉々としてついていく。
弓子は荷物を藁束《わらたば》の上におくと、広い庭を歩いてみた。
果樹園をもう夜がすっかり包みはじめている。何か甘ずっぱい木の葉と果実の匂いがただよい、母屋《おもや》のほうに灯《ひ》がともり、さっきの犬がしきりに吠えている。
林檎の樹にもたれて目をつむると、急に自分がフランスに来ていることが、実感をまったくともなわぬ非現実的なことに思われてくる。
千葉は今ごろ、巴里でどうしているのであろう。弓子は土の匂いのする石の上に腰をおろして両手で頬をはさみながら考えこんだ。
今日まで弓子は自分を新しい世代に属する娘だと信じてきた。自分がやろうと思い、やるべきだと考えたことはウジウジせずやっていくこと、そして、それにたいし責任をとること、それが自分たちの世代の生き方だと信じてきた。
しかし、今、弓子は自分の中にも古風な女の存在することを、やっぱり認めざるをえなかった。千葉をどうしても忘れられない自分が、ひどく憐れな古めかしい女のような気がするのである。
本当に現代的な娘なら、こうした不合理な恋はさっぱり棄てて、新しい生活に飛びこんでいくべきだということは、弓子にもはっきりわかっている。わかっているのに、いざそれが千葉を諦めるとなると、どうしてもできないのである。それが、弓子には口惜《くや》しく情けなかった。
(どうせ、結婚できる相手じゃないのに。いつまで思ったって仕方がないのに)
彼女は、無理矢理にでも自分にそう言いきかせようとした。横浜からマルセイユまでの長い船旅のあいだ、黄昏《たそがれ》の、バラ色の雲をデッキで見つめながら、この言葉を何回となく呟いてみたのである。
(これは、弓子にとってハシカのようなものなのかしら。誰でも一度かかるあのハシカを、それが終るまでジッと辛抱しなければならないのかしら)
すると、彼女は自分がまだ子供のような気がして、それがひどく腹だたしくさえなってくるのだった。
しかしハシカであれ、熱病であれ、自分がそれにかかっているのは事実だった。紫色の空に星がまたたいていた。真黒な林檎の木の梢と梢との間にも星々はまたたいていた。日本で見るのと同じ星にはちがいないのに、さすがにこの遠い国で、家族からも別れて、千葉のことを思いながら星々を見つめると、胸を悲しさとも苦しさともつかぬ感情がしめつけてくる。
「ええい」彼女は首をふって言いきかせた。「こんなはずじゃあなかったのに。あたしとしたことが、どうしたんでしょ」
犬の吠える声がだんだん、こちらに近づいてくる。
「弓子さあん」
安川だった。右手で犬の頭をなでながら、
「ずいぶん、さがしたんですよ」
「押見さんは?」
「晩御飯を早く食べてくれって。ぼくたちは、そのあと、柔道をここの村の青年たちに教えるんです」
「押見ちゃんが柔道を? だって、あの人、柔道のジュの字も知らないんじゃないの」
「ええ。でも」安川は、平気な顔をして快活に答えた。「何を見せたって、相手にも本当か嘘かわからないでしょ」
納屋にもどると、赤黒いアルコール・ランプの火が燃えて、押見が鍋をかきまわしていた。
「まア、何を作ってるの」
「シチューだよ」
「肉なんか、どこで手に入れたの?」
「母屋で借りてきたんだ」
「鍋は?」
「鍋も借りてきたんだ」
「塩や調味料は、どうしたの」
「それも、借りてきたんだ」
「返す意志はあるの?」
「返す意志はない」
鍋や調味料だけではなく、パンや小瓶の葡萄酒まで、押見はあつかましく、母屋から「借りてきている」のである。
「あんたは雑草みたいな人ね」
シチューをたべながら、弓子がそう呟くと、
「どう言う意味だい、それは」
「だって、そうでしょ。どんなところでも平気でズウズウしく根をおろすんですから」
「ぼくは現代っ子だからね」
押見と安川はよほど、面《つら》の皮が厚いらしく、弓子が何を言っても、もう相手にもせず、スプーンですくってシチューをたべている。
外で男たちの声が聞えてきた。さっきの青年が自転車で部落をかけまわり、柔道を習いたい有志をつのってきたのである。
「十人ぐらい集まっているわよ」
納屋の戸口からそっと外を覗いた弓子がびっくりして叫ぶと、
「十人か」
「教える自信あるの」
「教える自信はない。しかし誤魔化す自信はある」
押見と安川は手で口をぬぐいながら、ゆっくり、外に出ていった。迎えに来た青年たちの拍手をする音が聞えた。
(どう言うんだろ、これ)
鍋やスプーンのあとかたづけをしながら、弓子はなんと言うことなく、押見と千葉とを比べあわせてみた。やりたいことは何でも平気でやる押見は、なんと言っても弓子には自分と同じ世代に属する男の子に見えた。しかし、同じ世代に属するだけに、彼女には友情はもてても、それ以上の気持を感ずるはずはなかった。そして、千葉には、やはり年齢や環境からくる落ち着きと深みとがあった。その落ち着きや深みは、押見や弓子と同じ年齢の青年にはどうしても見つけることのできないものだった。
あとかたづけをやっとすませて、外に出てみると、中庭で、大きな驚嘆の声や拍手の音が聞えてきた。
足音をしのばせてそっと近づくと、円陣を作ったフランスの青年たちの真中で、押見が安川をつかまえて、
「クビナゲ。えい、やアッ」
大声で叫びながら、安川の首をもって投げる。投げられる安川も心得たもので、大袈裟に地面にころがってみせる。二人でしめしあわせてやっているのだから、投げる方も投げられる方もいい気なものである。
「つぎ、シタテナゲ」
下手投と言うのは角力の手であって、柔道ではない。それぐらいは弓子も知っているのだが、二人は平気のへいざで、
「次はズツキ」
頭つきなんて柔道にあるのかしら、とおかしかったが、フランスの青年たちは、小声で押見の言葉を口の中でくりかえし、
「ズウツウ・キ」
「ズウツウ・キ」
と言いあっていた。
翌日、リヨンについた。リヨンまで、あの部落の青年の一人が昨夜《ゆうべ》の柔道のお礼に、トラックで送ってくれたのである。
リヨンは京都や奈良のようにひっそりとして、静かな都市だった。ペラッシュ広場という町の入口まで送ってくれた村の青年は名残りおしそうに、
「オー・ルボワール・マドモアゼル」
と弓子には言ったが、押見にはわざわざ日本流のおじぎをして、
「メルスィ・ボクー・モン・メイト」
恭《うやうや》しく別れの挨拶をしたくらいである。この青年は昨夜の柔道? にすっかり感激し、押見を本当に東洋武道の大先生と信じこんでいるらしかった。
「気の毒だわ」
「仕方ないさ。そのおかげで、リヨンまで送ってもらえたんじゃないか」
トラックが立ち去ったあと、三人は、またも見知らぬこのリヨンの町に右左もわからぬまま、ポツンと立っていた。
「とにかく、歩いてみよう」
町には二つの大きな川が流れていた。ローヌ川とよぶ川は川幅もひろく、流れも早い。ソーヌ川という川は澱んで静かである。そしてこのソーヌ川のあたりに古い黒ずんだ家がたち並び、ローヌ川のほとりには比較的、新しい建物が集まっているようだった。
教会が多かった。いたるところにゴシック式やローマン風の教会があった。そういえば、道や広場を歩く人の中にも、修道女や司祭の姿がたくさん見うけられた。
「まあ、フランスで、もっとも保守的な町というところらしいな」押見はガイド・ブックをよみながら説明した。「しかし、これでもフランスじゃ、巴里とボルドーにつづいて三番目の都市らしいぜ」
三人は、ソーヌ川のほとりからケーブルにのって、フルビエールという丘にのぼってみた。名所案内のリヨンの場所に、フルビエールという名が掲載されていたからである。
その丘の上から、リヨンの町全体が見おろせた。まひるの町は灰色に、静かに少しもの哀しく拡がり、それは弓子には、憂愁にみちみちた街のように思われた。街のひろがりのむこうには褐色の土地がつづき、その遥か彼方に地球の歯のように白い雪をいただいたアルプスの峰々があった。
「モンブランだぜ、あれが」
押見はガイド・ブックから目をあげて、その峰々の真中にひときわ巨大に、純白に、真昼の陽に光っている山塊を指さした。
「あれが……」
「そうさ。氷砂糖みたいだぜ」
「行ってみたいわ」
「行ってみるか」
モンブランに行けば、それだけ巴里に着く時間が遅れる。それに気がついて、あわてて弓子は口をつぐんだ。
「いいわ。やめとくわ」
「どうして」
「どうしてでも……」
「変な奴だな」
弓子は一人で指を唇にあてながら、なぜこの都会が真昼の日をあびているにかかわらず、どこかもの哀しげで、憂愁にみちみちているのかをぼんやり考えた。おそらく、それはこの街が幾度もの火災で焼けた日本の都会とちがって、ながい歴史を残した石の街だからかもしれなかった。ながい歴史とは、そこに生きた無数の人間の哀しみや悦びが何百年もの間、この街の古びた姿の中に残っているということだった。そして、それら人間の哀歓が、ひとつひとつの教会の尖塔《せんとう》を通して、無限の空を指している……そんな気がしてくるのである。
(千葉さんなら、もっと、うまく説明してくれるだろう)
彼女は一日も早く、自分が今日まで見たこと、わからなかったことを千葉に話してみたかった。しかし、千葉に会う刹那を考えると、それはまるで針で胸を刺したような痛みを感じさせるのである。
「そろそろ」と、押見は安川と弓子に言った。「引きあげるとするか」
街におり、ソーヌ川のほとりを歩くと、太いマロニエの樹の下で幾組もの男女がベンチに腰かけて休んでいる。若い恋人たちがしっかりと抱きあって、口づけをしたり愛撫しあっているにもかかわらず、道行く人たちは全く気にもとめていない。小さな子供たちも、それら恋人たちの周りをキャッキャッとびまわって自分たちの遊びに夢中になっているだけである。
「驚いたねえ。こいつは。見ているこっちが恥ずかしくなるくらいだぜ」
押見はさすがにドギマギして、
「これが日本だったら、こうはいかないな。東京じゃ、道ばたで恋人たちが平気で接吻したり抱擁しあったりしたら……みんなからジロジロ見られるからな」
「みんなが他人のことに干渉しない主義なのかしら」
弓子も少し赤くなりながら首をかしげた。
「それとも、おのおのが、自分たちの生活を大事にするということかしら」
「わからん。しかしともかく、こういうところが俺たちの感覚とちがうな。俺たちには、いくらあつかましくても、こういうことは人前じゃ照れくさくてできん」
こまかい光がソーヌ川の小波《さざなみ》にさしていた。マロニエの木陰がその小波に涼しげに落ちている。
日本人とフランス人とどちらが古く、どちらが新しいかはわからなかった。しかし、弓子はこんな恋人たちの姿を見ると、やはり日本のつつしみぶかさの方が、好ましいものに思われる。
けれども、そんな理屈は今、どうでもよかった。真昼の、このリヨンという街の川べりで、みなと同じように足を投げだし、川原で遊んでいる子供たち、ベンチで編物をしている女たち、釣竿をしずかに垂れている中年男の姿を見ていると、このフランス人たちが、どんな風に生活というものを楽しんでいるかが、わかってくるような気がするのだった。そして彼らにまじって小波に小石を投げて、
(ああ、いつまでも、この街に住んでみたいわ)
弓子は心のなかで呟いた。
その夜は、駅前の案内所の紹介で、キャンプ用宿泊所という所に泊ることにした。それは、学生やヒッチ・ハイクの若人たちの専用の泊り場所で、カンバス・ベッドと毛布だけを貸してくれ、食事は自炊という建物だったが、清潔で秩序ただしく、日本のこの種のものにありがちな不衛生なところが少しもなく、さすがに弓子は感心させられた。
三人のほかに五、六組の若いフランス人男女が、その夜、そこを利用した。彼らはたがいに微笑し、まだ、よく事情ものみこめず、言葉も通じない三人に、親切に身ぶり手ぶりで話しかけてきた。
弓子の隣を占領したブロンドの娘は巴里大学の学生だと言った。彼女は弓子がひどく気に入ったらしく、チョコレートをくれたり、自分の恋人の写真まで見せてくれて、
「あなたにも恋人がいるの?」
そう、英語で話しかけてくる。
弓子が、千葉が泊っているホテルの住所を紙に書いて示すと、
「わたしの家のすぐ近くだわ」
「どういう所、そこ?」
「シャンゼリゼを知っているでしょう。その近くよ。しずかな場所だわ。コンコルドの広場もすぐそばにあるわ」
カンバス・ベッドに横たわり、弓子はまもなくそこを訪れるであろう自分を闇のなかで思った。千葉はそのホテルで毎日、しずかに読書したり散歩したりしているのだろうか。そして、もし自分が不意に彼のホテルを訪れ、
「とうとう、来たのよ」
そう言った時、どんな顔をするだろうか。そうだ。電話もかけず、不意にたずねてやろう。
この空想は、その夜、弓子の胸をいつまでもドキドキとさせた。
リヨンからディジョン、ディジョンからさらに北にのぼってブールジュ。毎日、たのしいが、びっくりするような旅がつづいた。巴里が少しずつ近づくにつれて、千葉にもうすぐ会えるのだという感情が、しだいに現実感を伴って弓子の胸に迫ってきた。それは不安と悦びとをいっしょにしたような混乱した感情だった。
ブールジュについた日は霧雨の日だった。ここに寄ったのは、この街に有名な中世の大教会《カテドラール》があると聞いたからである。
街そのものは、弓子には今までマルセイユを出てから訪れた幾つかの町や都市にくらべると、灰色で寒々としているように思われた。
しかし、その小さな町の真中に山のようにそびえている大教会の中に足をふみ入れた時、彼女は、アッと声をたてた。うす暗い内陣の左右から洩れてくる光線、それは、すべてすばらしい色硝子の反射だった。こんな芸術的な色硝子を弓子はかつて見たことはなかった。それらは、誰が作ったか四百年後の今日まで、まだ不明なものなのだそうである。
弓子はまた内陣のあちこちで、手をくみあわせて祈っているいろいろな年齢の男女を見た。老人もいた。青年もいた。黒いヴェールをかぶった婦人もいた。基督教というものが、この国でまだどんなに根をつよく張っているか、彼女にはわかる気がした。
「こんな教会を見ると、東京の教会なんて実にチャチなものね」
「どうも、俺にはよくわからない」
と押見は首をふった。
「なにが」
「だって、まだ宗教みたいなものを信じる現代人の気持が」
「そうかしら」
そうやって押見や安川と肩をならべながら、弓子は突然、もし[#「もし」に傍点]という想像にかられた。
(もし[#「もし」に傍点]、これが押見ちゃんや安川くんといっしょでなく、千葉さんといっしょだったなら)
もし、千葉といっしょにこのブールジュの大教会の内陣に立っていたならば、もし千葉といっしょにあのリヨンの丘から古い街を見おろしていたならば――。
「弓ちゃん、何を考えているんだい」
「いいえ。なんにも」弓子は無理矢理に微笑を作ってみせる。「ただ、うっとりとしていただけ」
「弓ちゃん、何を考えているんだい」
「いいえ、なんにも」
明後日、巴里につくという夕暮だった。その夕暮はシャルトルの郊外で三人は初めて小さなホテルに泊ることにしていた。
ホテルといっても田舎町の旅籠屋といった感じで、五つか六つの部屋のほかには、古い玉突台のある客間《サロン》と、もう色あせた紙の万国旗を天井にぶらさげた小さな食堂しかない、そんな家だったが、晩御飯の前、弓子が庭の前にある小さな流れのそばを散歩していると、押見がうしろから、ぶらぶら、ついてきた。
「安川くんは?」
「あいつか。あいつは今、シャワーをあびて洗濯をやってるよ」
「マルセイユに上陸して、はじめてのホテルですものね。こんなゼイタクをしたら部長に叱られないかしら」
「いいさ。ここまで俺たち、よくガンバったもの。もっとも俺たちは男だからいいけど、女の子の君は、相当こたえたろうな」
押見はいつになく、しんみりと言った。
自分がここまでガンバれたのは、仕事のためという気持、それに押見や安川の重荷になりたくないという感情もあったが、弓子には、それより、千葉に会えると言う期待が、毎日の疲れを忘れさせたのだった。
「そうでもないわよ」
「いや、えらかったよ。弓ちゃんは」
「色々、勉強できたもの。それだけでも来た甲斐があったわ」
小川の上に小さな石橋がかかっていて、四、五羽の家鴨がギャア、ギャア鳴きながら歩きまわっていた。
「前から、弓ちゃんに話そうと思っていたんだけど」
押見は、煙草に火をつけながら、火口をしばらく見つめて、
「なあ、聞いてくれないか」
「なによ。急に改まって」
「ちょっと、照れくさいことなんだよ」
「押見ちゃんでも照れくさいなんて感じることあるの」
「そうチャかされるから、俺、ますます言いにくくなるのさ」
それから彼は目をつむって、
「弓ちゃん。日本にもどったら、俺と結婚してくれないか」
一気にそう言った。
茫然として弓子は押見を眺めていた。今まで――いや、この長い旅行の間、千葉のことしか頭にない彼女には、押見がそんな気持で自分を見ていた、とは知らなかったからである。
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葛 藤
あの日以来、淑子は自分と夫との距離が、ぐんと拡がったのを感じた。今までは自分でも名づけることのできなかった夫にたいする漠とした不満が、なぜ心の中にあったのか、目からうろこ[#「うろこ」に傍点]が落ちたようにはっきりわかったのである。
表面は夫婦の間に平穏な日がつづいた。直光もあの日以来、決して千葉のことを口にはださない。淑子も淑子で、今までとおなじように貞淑な妻としてふるまった。
しかし、表面がおだやかな時、海の底も静かだとはかぎらなかった。淑子の夫にたいする感情は、不満というだけではなく、時には、針のような痛みをともなって胸を刺すのである。自分がやはり直光との結婚生活で失敗したのだという考えが、しだいに彼女の心にかたまりはじめた。
しかし反省してみると、直光に悪いところは一つもなかった。直光が自分を裏切ったのではなく、むしろ、彼を心のうちで裏切ろうとしたのは淑子自身であった。
(あの時、どうして思いきって、自分は千葉さんと結婚しなかったのだろう)
出発点はすべて、千葉との恋愛にあった。
千葉と結婚できなかったのは日本にいる両親のはげしい反対のせいもあったが、女として自分の弱さやあの頃気づかなかったエゴイズムも、そこに働いていなかったとは、今になってみると、言えないこともない。たんなる一留学生で将来が海のものとも山のものともつかぬ千葉の腕の中に飛びこんでいく勇気が、やはり、なかったのである。その上、親思いの彼女にとっては、両親を棄ててまで自分の意志を押し通すことはとてもできなかったのである。
彼女は二人の最後の日をまだ覚えていた。オウトイユのキャフェで千葉はいつまでもコーヒー茶碗のスプーンをまわしていた。
「もう一度、考え直してくれないか」
淑子は頬杖をついたまま、目をつむった。
「仕方がないの。あたしが弱かったのよ。あなたが私を憎んだって、仕方ないと思うわ」
「馬鹿」ひくいが、きびしい声で千葉は言った。「憎むとか憎まんとか……そんなメロドラマみたいなことを口に出すもんじゃない。君がどうにもならない事情のあることは、ぼくにはよくわかっている」
そのわかりすぎる千葉が自分には物足りないのだ、と言おうとして淑子は口をつぐんだ。おたがい、これ以上、苦しめあうのは二人の今日までの恋愛をよごすことになるからだった。
「帰るわ」
「そうか」
いつもの夜と同じように千葉はアヴニュー・フォッシュの彼女のアパートまで送ってきてくれた。
玄関の前で握手をして……それが、二人の恋愛の最後だった。
「おいおい。徳川の最後の将軍は何という名だっけ」
彼女がこうした物思いにふけっている間、直光はパイプを口にくわえたまま、日本から送られてきた週刊誌のクイズに鉛筆を走らせていた。
「慶喜《よしのぶ》でしょう」
「そうか。慶喜か」
ガウンを着て、しきりに解答を書きこんでいる夫の満足しきった表情を見ると、淑子は、自分が今、どんなに孤独であるかを感じる。巴里の夜は東京の夜よりずっと静かである。このアパートの下を時々、車が通りすぎる音がするが、それが途絶えると、あたりは真夜中のように静まりかえる。
電話がなった。立ちあがろうとする夫に、
「いいわ、私が出ます」
電話口で受話器を耳にあてると、フランス人の声だった。
「Madame Yoshiko?」
ヨシコという発音がイオシコときこえ、
「|セ・モア・メーム(ええ・そうです)」
そう答えると、嗄《しわが》れた早口で千葉という男を知っているか、と訊ねた。彼女はす早く、客間の夫をうかがったが、夫はこちらに背をむけて、しきりに鉛筆を動かしている。
「実は、そのムッシュー・千葉が、先ほど自動車事故に会われたのです」
咽喉まで出かかった悲鳴を必死になって押えながら、淑子は受話器を握りしめた。
「それで、どうなのでございましょうか」
「まだ、気を失っています。あなたの住所を書いた手帳がポケットにありましたので、いちおう、お知らせしたわけです。申しおくれました、私はサン・ジョゼフ病院の医師です」
あとの言葉は耳に入らなかった。体を支えている両足がこちらの意志とは関係なしに小刻みに震えている。
「ありがとうございました」
それだけ言って、受話器をおくのが、やっとだった。
「だれからだね」
まだクイズをやりつづけながら、夫はなにげない声でたずねた。
「ああ。あなた、ご存じないかしら、マニイさんの奥さんよ。急病だから、ちょっと、来てくれないかって、そう、おっしゃるんです」
「彼女が急病だからって、なぜ、君まで呼びだされる必要があるのかね」
「ご主人も、お子さんも、みな、旅行に出てらっしゃるからですわ」
自分でもびっくりするほど、巧みな嘘がすらすらと淑子の口から出た。結婚以来、夫にたいしてこのような嘘をついたのは、初めてだった。
「わたくし、一時間ほど出かけてまいりますわ。申しわけありませんけど、先におやすみになって、ここの鍵だけ、あけておいて下さいません? 車を使わせて頂きますわ」
直光はだまったまま週刊誌をみつめていた。だまっていると言うことは、彼が不満な証拠だったが、今となっては夫の不機嫌にかまってはいられなかった。
急いで支度をして客間を横切り、階段の扉をあけようとした時、
「待ちなさい」
夫は立ちあがって、じっと淑子の顔を見た。
「マニイさんのところだね」
「ええ、どうして」
「いや、何でもないんだ。気をつけて行きなさい」
車庫からルノーを引きだし、淑子は夜の巴里に車を走らせた。右、左にネオンがかがやいたダンフェルの広場を通りすぎ、教えられたサン・ジョゼフ病院にむかう道すがら、彼女はもし神というものがあるならば、それに祈りたい気持でいっぱいだった。
(千葉さんを死なせないで下さい。すべてはあたしが、みんな悪いためかもしれません)
自分という人間はだれをも幸福にすることはできない。むかし、千葉にたいしても結局はいい恋人ではなかったように、夫の直光にたいしてもいい妻でありえなかった。そう思うと、ハンドルを握りながら彼女の目から涙がにじんできた。自分という存在が、こんなにみじめで、哀しく思われたことはなかった。
夜の病院は頑固で陰気な老人のように黒々とうずくまっていた。車を門の前でとめ、彼女は、クレゾールの匂いのただよう廊下に入った。金髪の看護婦が一人、宿直室の机にむかって書きものをしていた。
「ああ。マダム、その方なら二〇二号室ですわ」
彼女は急いで階段を駆けあがり、教えられた部屋の扉を叩いた。
「|アントレ《おはいり》」
扉をそっと押すと、パジャマを着た千葉は片足を出し、中年の看護婦に包帯をとりかえてもらっているところだった。
「まア」
自分の想像のなかでは、意識を失ってベッドに横たわっている千葉の姿があった。それが今、その不吉な想像とは全くちがって、微笑している彼を見ると、
「こんなだったの」
彼女の目から嬉し涙が急にあふれでた。
「よかったわ」
「どうしたの。泣いたりして」
「いいえ。何でもないの。ただもう、あたし、あなたが助からないんじゃないかと思って」
「馬鹿だな。大したことはないんだよ。でも、ぶつかった時は、やはり気を失って。もう、だいじょうぶだ。さっき、頭部レントゲンの結果がわかったんだが、どこも異常ないそうだから」
「でも怪我をしたのね」
「うん。右足と、左の腕とにね。もちろん、骨には影響はない」
そう言って千葉は突然、顔をしかめた。
「痛い」
ガラスの破片がくいこんだ傷は意外にふかく、その部分にぬった消毒薬がしみるらしかった。クレベール街で横断歩道を横切った時、横あいから来た車がブレーキをかけそこねて、千葉の体にぶつかったのだった。
「どのくらいで退院できるでしょうか」
彼女が、ベッドの前に跪いて包帯をとりかえている看護婦にたずねると、
「十日間ぐらい。傷口がふさがるまででしょうね」
淑子はその十日間が二十日になることさえ、そっと願った。その二週間、自分は千葉のため、この病室に花を飾ったり、本を読んであげたりすることができる。それを思うと、彼女の心は幸福だった。
指の間からこぼれ落ちる砂のように毎日がながれた。
この毎日は今までになく、淑子にとっては充ち足りた一日、一日だった。彼女は昼食をすますと、午後四時まで千葉の病院に来て、彼ととりとめのない会話をかわしたり、時には、ねむっている病人のそばで、だまって編物の手を動かした。
そんな、なにげない時間も、千葉といっしょにいるというだけで、淑子にはもう何ものにもかえがたいもののように思われた。
そういう淑子を、マダム・ボッシェも直光も知らない。昼から出かけていく淑子をマダム・ボッシェは買物だと思っている。
「赤ちゃんをマダム、早くお生みにならなくちゃ」
マダム・ボッシェは冗談ではなく、真面目な顔をしてそう言う。
「夫婦にはやはり、子供が必要でございますよ」
家にもどる時、淑子の顔にはまるで夕映えの最後の光のように、千葉とすごした幸福感が残っている。しかし、アパートの玄関に入るや否や、その顔は少し寂しそうな貞淑な一人の妻のそれに変ってしまう。だから、マダム・ボッシェも直光も何かを嗅ぎつけることは不可能だった。
自分のなかにこうした二人の女を演技できる力があるとは、今まで淑子は考えてみたこともなかった。しかし「恋というものが女をどのようにも変えてしまう」ことが、彼女には今さらのようによくわかった。
彼女はやがて、千葉が巴里を引きあげる日のことを想像したが、ふしぎに、それは実感を伴わなかった。雨の日に、そこだけ晴れている遠い丘を見るような気持でしか考えられなかった。淑子にとっては今、この今だけしかもうないように感じられる。
千葉が入院して六日目に、いつものように彼女が病院からアパートにもどると、夫が今朝、使ったルノーが車庫に入っていた。なにか不吉な胸さわぎを感じながら、淑子は四階にある自分たちの部屋までエレベーターに乗った。
直光は客間で腕を組んで立っている。その姿はあきらかに、怒りと興奮とを押えようとして闘っているようだった。
「いつ、お帰りになったの」
そう言ったが、それに返事をせず、
「どこに行っていた」
「買物ですわ」
「一週間ほど前、君は、マニイさんの奥さんが急病で出かけると言ったね」
「ええ」
「今日、マニイさんに偶然、会ったのだが、君の言葉を真に受けたぼくが見舞いを言うと、びっくりしておられた」
棒のように真蒼になって立ちつくしている淑子に、
「どうして、そんな嘘をついたのかね」
「…………」
「それじゃあ、あの夜、君はいったい、どこに行っていたのだ」
「…………」
「言えないのかね。君が言えないなら、代ってぼくが言おうか。君は、あの千葉とか言う小説家のところに行っていたのではないのか」
淑子は夫の言葉よりも、夫の言葉のなかに使われている「君」という呼びかけのほうに気をとられていた。機嫌のいい時、直光は彼女にむかって「お前」という。だが、感情がこのように昂っている時、わざと「君」と言う。
「そうじゃないのか」
「あなたが、そうお考えになるのなら、それでもけっこうですわ」
ふしぎなくらい自分の心が冷静になるのを淑子は感じた。おそかれ早かれ、こういう事態が起るのを覚悟しておかねばならなかった。
「わたくしが悪いのは自分でもよく存じております。あなたからどんな非難をうけても仕方ないと思っております」
直光はだまっていた。彼は、妻がこのように千葉とのことを認めるとは思っていなかったのである。
「あなたが離婚とおっしゃるなら……」
「離婚? 何を言う、とんでもない話だ。離婚をした外交官がやがて外務省でどう扱われるか、君もよく知っているはずだ。まともな結婚生活のできない外交官は出世街道からはずされるのは……」
直光は額に脂汗《あぶらあせ》を浮べながら、しゃべり続けていた。その顔を淑子は皮肉な気持でじっと眺めていた。胸の底から笑いが浮びあがってくる。
「なにがおかしい」
「じゃあ、あなたは、わたくしがこんな妻であっても離婚なさらないと言うわけね。ご自分の体面や世間体や出世のために……」
「結婚生活というものは、そんなものじゃない……」
淑子はもう夫の言葉を聞いてはいなかった。自分がこれからこの人と生涯を共にせねばならぬという苦痛感が、吐き気のようにこみあげてきた。
その夜、寝室の闇のなかで、淑子は、できるだけ直光から遠く離れるようにしながら、大きな目を見ひらいていた。結婚というものが、世間体や体面を持続するために、このように自分を偽った生活の連続なら、それは、彼女にとっては、もう耐えられぬことだった。
「とにかく、千葉ともう会わぬようにできないのか」
直光はさきほど、哀願するように言い、それを突き放すように淑子は答えた。
「約束はできませんわ」
「あの男はいつ、日本にもどるのか」
「あと二、三週間後ですわ」
すると、夫の顔に初めてホッとしたような顔色が浮んだ。おそらく千葉が帰国してしまえば、すべては昔と同じようにもどるのだと考えたにちがいなかった。
かすかな鼾《いびき》をかいている夫を起さぬように、淑子はベッドから起きあがり、寝室の窓をそっとあけた。
夜の冷気が顔と首すじとにあたる。真下の石畳の路に青い角燈が潤んでいる。もし自分がこの窓から飛びおりたら――夫から解放されたら――死の甘い誘惑が一瞬淑子の胸を横切る。
その日、淑子が夫の目をかすめて、昼すぎ、サン・ジョゼフ病院をたずねた時、受付で、あの金髪の若い看護婦が一人の東洋人の娘と身ぶりで何かを話しあっていた。彼女は淑子を見て助かったというように、
「マダム、ちょうどいい所に来て下さったわ。この方は」と東洋人の娘をふりかえって、
「あなたと同じ日本の方らしいんだけど、フランス語がおできにならないもんだから」
「あたしが通訳しますわ」
うなずいて淑子はその娘に、
「日本の方?」
「ええ、そうです」
その娘は砂漠のなかでやっとオアシスを見つけた、というような表情をして、
「志摩弓子と言うんです。東京から来たんです」
「まア。で、この病院にどなたかお見舞いでも?」
「ええ。まだ着いたばかりで事情がよくわからないんですけど……ここに、千葉さんとおっしゃる小説家の方が……」
「入院していらっしゃるわ」
自分も今、そこに行くのだと言いかけて淑子は口を噤んだ。相手から自分が千葉の何であるかを想像されるのも嫌だったが、それよりも、この娘と千葉とがどんな関係か、女としての本能から探りをいれたかったのである。腕時計をチラッと見て、
「あら、まだ一時半にならないわね」
淑子はすらすらと嘘をついた。
「この病院じゃ、昼食のあと一時半までは面会謝絶なのよ。だから、あなたさえよかったら、そこの喫茶室であたしとお待ちにならない」
「そうさせて頂きますわ。でも、お邪魔じゃありません?」
「そんなこと、あるもんですか」
淑子はこの若い娘に、すでにかるい嫉妬を感じていた。巴里に着いたばかりなのに、すぐ病院にかけつけること自体が、千葉とこの娘との親密な関係を示しているように思われたからだった。
「で、よくおわかりになったわね。この病院が」
「ええ。千葉さんのホテルをおたずねしたら、ここだと教えられたものですから。先生、どうなんです」
「たいしたことはないわよ。かすり傷とお考えになっていいわ」
すると、今までこわばっていた娘の表情に初めて朝の草花のように倖せそうな笑いが浮んだ。それは、淑子もハッとするほど、新鮮なかわいい笑いだった。
(ああ、この娘は千葉さんを愛している)
と彼女は直感的にそう思った。
女としての本能から淑子は冷静に自分のライバルらしい志摩弓子を観察した。旅のつかれはこの若い肉体のどこにもなかった。もうすぐ千葉に会えるという悦びのせいか、この娘はしきりに壁にかかった電気時計のほうに目をやっている。
「奥さまも千葉さんとお親しいんですか」
「ええ、もう、ずっと前からね。あの方がまだ留学生としてここに来ていらっした時から存じあげていたわ。あたしもコンセルバトワールの生徒だったから」
あなたより、ずっと昔から千葉さんとは親しいのよ、ということを言い聞かせるように、彼女はこの言葉を口に出した。
「そうですの」
すると、弓子の目に、はじめて勝ち気な光がうかんで、
「でも、千葉さんは、東京で一度も奥さまのことを、あたしに話して下さいませんでしたわ」
「まあ、そう」
淑子はわざと微笑みながら、その言葉の刃を受けとめた。
「きっと、千葉さん、あなたには話す必要がないと思ったのね」
「奥さまは、コンセルバトワールの生徒の時は、まだ独身でいらっしたんでしょう」
「ええ」
「じゃあ」弓子は皮肉な調子で、「千葉さんと結婚なさろうと思えば、おできになったわけですね」
「そうかもしれないわ。でも、結婚なんて生活ですもの」
「なぜ、千葉さんと結婚なさらなかったんですの」
淑子はびっくりして、娘を見つめた。たった十五分前に会ったばかりなのに、この弓子は不躾な、刃のように鋭い質問を次から次へと投げかけてくる。
「立ち入ったことをお聞きになるのね。しかし、結婚は愛情だけではどうにもならぬことだってあるでしょ。生活というものが……」
「あたしなら、自分だけを信じますわ。自分がいいと思ったことなら、やっていくのが本当の生活だと思いますわ」
「まだ、あなたは世間というものをご存じないようね。人生なんて、自分の我儘だけで運ぶもんじゃないわ」
淑子はそう言って、この口調が、いつもの直光のそれとそっくりなのに気がついた。それから思わず顔を赤らめて、
「ごめんなさい。偉そうなこと言って」
「いいえ」
二人はしばらくの間、だまっていた。担送車に乗せられた患者が好奇心のこもった目で、この二人の東洋人の女たちを見つめていた。
「もう一時半ですけど」
弓子は促すように淑子に言った。
「あら、そうだったわね。じゃあ、行きましょうか」
肩をならべて、よく磨かれた病院の白い廊下を歩きながら、淑子はなぜか急に笑いがこみあげてくるのを感じた。
(なんという、はしたない)
年下の娘とこうして一人の男を奪いあっている自分の姿が、たまらなく醜いように彼女には思われた。そして、そういう状況に自分たちをおいて、一人、悠々とベッドに横になっている千葉のことも、ひどく憎らしくなってきた。
「ここよ」
彼女はドアのノブをまわし、中をそっと覗いた。千葉は包帯をまいた足を投げだして、真剣な表情で本を読んでいた。
「あたしですけど」
淑子は弓子にわざと聞えるように、
「お見舞いの方が来ていらっしゃるのよ」
「お見舞いの人?」
千葉は本を膝の上において、ふしぎそうな顔をした。この巴里で、できるだけ日本人を避ける生活をしている自分を見舞いに来る人がいるとは思えなかったのである。
「かわいいお嬢さんよ」
「お嬢さん?」
「ええ、そう」
そして、弓子は淑子に押されるようにして病室のなかに入った。千葉はびっくりして本を膝から床に落した。
「先生」
「本当に来たのか」
弓子は思わず、こみあげてきた熱い感情を顔にあらわすまいとして唇を噛みしめた。
「今朝、七時頃、巴里についたんです。同じラジオ局の人たちと。取材でマルセイユからここまで一週間かかりました」
「よく、わかったね。この病院が」
「七時に巴里について、すぐ、その足で先生のホテルをたずねたんです」
二人が話をしている間、淑子は入口のドアを背に、唇のあたりに微笑をたたえながらじっと立っていた。
「先生、あたし、毎日、お見舞いに来ますわ」
「でも、ぼくはもう二、三日で退院だから」
「それでもいいんです」
むきになってそう言う弓子と、じっとその背後で微笑をたたえている淑子の顔を見て、千葉は、この二人の無言の対立を感じた。それは彼をひどく狼狽させた。千葉は当惑して、顔をあからめたまま、淑子のほうをチラッと見た。
「じゃあ、あたし、これで帰りますわ」
弓子はそう言って、淑子にも頭をさげ、
「明日、伺いますわ」
「まだ、いいじゃないか」
「でも今日は、局の仲間と東京に連絡しなくちゃならないんです」
彼女の足音が廊下に消えていく間、千葉も淑子も、じっとだまっていた。
「いいお嬢さんね」
淑子はそう言ったが、自分の言葉が皮肉に聞えはしないかと怖れた。
「懸命なのよ、あのお嬢さん。羨ましいわ。あたしたちの世代と生き方がどこか違うのね」
「そうかもしれないな」と、千葉はうなずいた。「ぼくたちは、あれこれと考えすぎたり、気にしすぎます。だが、あの娘やその友だちは自分が信じていることを、すぐ、やることができるんですから」
なにげない千葉のこの言葉は淑子には痛かった。自分が千葉と結婚できなかったのは、たしかに「考えすぎ、気にしすぎた」せいだった。
「少し散歩をしましょうか」
「ええ。お願いします」
千葉を車椅子にのせて、その背を押しながら花や芝生のうえられた中庭を散歩するのが、この二、三日の淑子の仕事だった。
(しょってるわ)
舌打ちをしながら、弓子は病院の階段をおりた。なにもかもが癪にさわる。だから、戦中派の連中はいやなんだ。
(あたしたちと、実際、感覚がちがうんだから)
今となっては、あのとりすました奥さんも、それに千葉までもひどく偽善的に見えた。千葉さんも千葉さんだ。本当はあの奥さんを好きならば、思いきって、その夫の手から奪ったらいいじゃないの、と思う。道徳や自分の世間体《せけんてい》のために、好きな相手とかくれるように会っているのは不潔だ。
(少なくとも、男らしくないわ)
弓子はむしゃくしゃしながら、病院の中を歩きまわった。出口がどこかわからなくなってしまったのである。
やっとの思いで、外に出ると、そこは、よく手入れの行きとどいた庭だった。
大きな樫《かし》の木の下で患者たちが看護婦や家族に助けられながら散歩をしている。ベンチに腰かけて本を読んでいる者もあれば、手紙を書いている人もいる。
「あら」
たった今、別れたばかりの千葉が車椅子に乗せられて淑子に押されながら、建物の一角から姿をあらわしたのを弓子は見た。
「お仲のいいこと」
かるい嫉妬を感じて、彼女はそこから立ち去ることもできず、樫の木のかげにかくれて、じっとその方向に目をやっていた。
淑子がなにか話しかけると、千葉はそれにうなずいている。
それを見ていると、弓子は急に、目から涙があふれ出てくるのを感じて、
(ひどいわ、先生。ひどいわ)
あたしはこの一ヵ月あまり、ただ巴里に来ることだけを夢みつづけていたのに、その日がこんなみじめな形になろうとは思いもしなかった。
弓子は片手で目をこすりながら、しかし、猛然と闘志の湧くのをおぼえた。唇をかみしめて二人の姿を注目していると、突然、うしろから誰かに肩を叩かれた。
びっくりしてふりむくと、一人のフランス人の青年が立っていた。
「まあ」
マルセイユに来る船のなかで彼女をダンスに誘った青年である。押見を怒らせたあの青年である。
彼はニコニコしながら、弓子に言った。
「|ホワット・イズ・ザ・マター《どうしました》」
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巴 里
その夜、千葉が就寝前、看護婦に手つだってもらって熱い手ぬぐいで上半身をふいていると、ドアにノックの音がきこえた。
「どなた」
ドアがあいて、見知らぬ若い医者が聴診器をもって入ってきて、
「内科のサルモン医師だが……」
と、その若い医師は看護婦に言った。
「君はもう、退《さが》っていいよ」
「でも、サルモン先生」看護婦はおどろいて、「この方は外科の患者ですわ。外傷なんです」
「知っている」
若い医師はうす笑いを浮べてうなずいた。
「外科の宿直医が、急用ができて、重患しか見られぬから、この患者は今夜だけぼくに委託されたんだ」
「そうですか。でも、婦長から何も聞いていませんけれど……」
「たった今、きまったのさ」
けげんな表情をして看護婦が部屋を出ていくと、若い医師はニヤニヤと笑った。
「恐縮です。上半身、裸になりましょうか」
千葉がたった今、着かえたパジャマをもう一度ぬごうとすると、
「いや、そのままで」
医者は首をふり、手をさしのべた。
「失礼。実は、ぼくはサルモン医師じゃあないんです」
「なんですって」
「いや驚かないで下さい。アンドレ・ロッシュと言う者です。事情を説明しますと……」
彼はそう言って看護婦の出ていったドアに鍵をかけた。
「今日の午後、この病院に友人を見舞いにきましたら、先月、ヨーロッパに向う船でいっしょだったかわいい日本娘に再会したんです。その日本の娘は病院の中庭で一人ぼっちで、ションボリしていたもんですから、つい相談にのりました」
千葉は相手が無邪気にニヤニヤ笑うのを見ながら、
「その娘にたのまれて、あなたは、ここに侵入してきたわけですな」
「まあ、そうです」
「いったい、彼女は何をあなたに頼んだんです」
アンドレ・ロッシュというそのフランス青年は、おかしそうにクスクス笑った。
「あなたはフランス人の性格をよくご存じでしょう。フランス人という奴は、みな利己主義者です。でも、例外が二つあります。一つは若いかわいい女性から何かをたのまれた場合と、その頼みがユーモアのある時とです」
「で、その娘はユーモアのある頼み方をしましたか」
「彼女はかわいいだけでなく、エスプリがありますよ。ぼくに、ここに入る手引きをしてくれ、と言うんですから」
「なんですって」
「つまり、今夜、十時半にこの病室に自分をつれこむ手伝いをしてくれと、そう言うんです」
「冗談じゃありません。ここは病院だ。消燈は十時、ときまっています。それは規則です」
「だから、おもしろいじゃありませんか。ぼくら若いフランス人にとっては、規則は破るために存在しているんです」
その青年は笑いながら言った。
「十時に看護婦が見回りにくるでしょう。彼女が立ち去ったら、このドアの鍵をそっと開けておいて下さい」
青年は白い診察着のポケットから鍵をだした。
「ちょっと、看護婦室から無断借用してきたのですがね」
「困りますよ。そういう悪戯《いたずら》をされちゃあ」
「悪戯じゃあない。こんな時、彼女の小さい頼みまで聞いてやらないのは、人間じゃありませんよ」
千葉が抗弁するのもきかず、その青年は、枕元に銅色の鍵をほうり出して、
「お元気で」
風のようにドアから消えていった。
時計を見ると、もう九時五十五分だった。困ったことになったと、千葉は寝台の上で膝をかかえこみながら考えこんだ。
弓子の突飛な行動には馴れていた。しかし、夜ふけに、たとえ、それが病院であれ、男の寝室に忍び入ってくることは、若い娘のすることではなかった。
弓子が自分に好意をよせてくれていることは、東京にいる時から知っていた。しかし、それは率直にいって千葉には問題にはならなかった。まるで、自分の一番年下の妹ぐらいにしか感じられない弓子から好意をもたれることは、たしかに、男として悪い気はしないが、しかし、それだからと言って、こちらの心が動くわけはない。
弓子の行動は、千葉にはまるでダダをこねている子供のように見える。もし、本当の自分の妹なら、その体をつかまえてお尻を平手で撲《ぶ》ってやりたいと思う。
千葉は舌打ちをしながら煙草に火をつけた。その時、十時を知らせる病院の点鐘《てんしよう》が遠くで鳴って、
「変りありませんね」
当直の看護婦が病室を巡回してくる。
「お休みなさい」
千葉はうなずいて、毛布にあごをうずめ、枕元のランプをくらくした。
やがて、足音が廊下で聞えた。弓子かと思い、上半身を起してガウンをまとったが、そうではなかった。
足音は千葉の前を通過して消えた。
十一時、うとうとしていると、かすかに、ドアをだれかがノックする音が耳に伝わってきた。
「先生……先生」
かすかな声で自分を呼んでいる。
「君か。馬鹿な、帰りなさい。何時だと思っているんだ」
「ごめんなさい。でも五分だけ、あたしの話を聞いて」
「駄目だ。こんな時刻に若い娘が男の病室に来るなんて……そんなことあるものか」
千葉は思わず、荒々しい声をだすと、ドアのむこうはしずまりかえって、それから、
「あッ。だれか来る。だれか来る」
弓子の困ったような声が聞えた。千葉は狼狽した。自分の病室の前に消燈後の時間、若い娘が立っているのを、フランス人当直医や看護婦に見られたら、とんでもない噂がひろがるにちがいなかった。
「どうしましょう。だれか、こっちに来るんです」
「仕方ないな。はいりなさい」
その声と共にドアが開いて弓子の姿がひらりと病室に入ってきた。
「どうして、こんな時間に突飛なことをやるんだ」
「ごめんなさい。でも、午後の面会時間には、あの奥さまがいつもここに来てらっしゃるでしょ」
「あの人、来ていたっていいじゃないか」
千葉は枕元のスタンドをひねって、ドアにもたれてこちらを見ている弓子の姿を、目をパチパチさせながら見た。
「アンドレ・ロッシュという青年が手引きしてくれたのかい」
「ええ。いい人ですわ。今、廊下で見張りをやってくれているけど」
「君たちはおもしろがってるのかい。こんな悪戯をして」
「悪戯じゃあ、ありませんわ。先生」弓子はかなしげな声で首をふった。「先生に、あたし、おききしたいことが幾つかあるんです。あの奥さまの前では、それがうかがえないから、こうして、しのびこんできたんです」
「聞きたいこと」
「ええ」
千葉はバルトーのたばこの箱を出して、その封を切ると一本、口にくわえて、それから気がついたように弓子にすすめた。
「いいえ。あたし、いただきませんわ」
「そうか。それで、話って何だい」
「先生は……あの奥さまを……愛していらっしゃるんですか」
千葉は急に腹だたしい気持にかられて弓子の顔を見た。この娘はあつかましくも、自分の病室にしのびこんだ上に、土足で自分の心の中にまでふみこんでくる。
「なぜ、ぼくが、そんな問いに返事をしなければならないのかね」
「もし、あたしが先生の心のなかに入る余地がないとしたら」
「聞きなさい」
灰皿にたばこを強くもみけして、千葉はしずかに言った。
「ぼくは中年男だ。中年の男が、若い君みたいな女の子に好かれて悪い気持はしない。そりゃ本当だ。しかし、その気持に甘ったれてその娘の長い生涯を考えないようなら、これは男の名にも価しないような人間だ。弓ちゃん。あんたが恋をしたり、愛したり、自分の人生を賭《か》けたりするのは、ぼくのようにもうでき上った中年男じゃない。君が賽《さい》を投げなくちゃならないのは、これからの未来をもっている青年たちにたいしてだ。そういう青年をなぜ相手にしないのだ」
千葉の言葉をじっと聞きながら、彼女はなんということなしに押見のことを考える。
千葉のいう理屈はよくわかる。しかし、押見一人を考えてみても、自分と年齢の接近している青年はどことなく頼りないのだ。友人としてなら楽しい相手だけれど、生涯を託するにはなにか心細いのだ。
「ねえ、弓ちゃん。ぼくら中年男が、たとえ君たち若い女の子から見ると、落ち着いて、自信ありげにうつったとしても、それは上《うわ》っつらのことだけなんだよ。たとえば、ぼくらが生活にくたびれて動くことが嫌になっている姿が、君たちには落ち着いてみえるだけなんだ」
「そうじゃありませんわ」
「いや、そうだ。君は既製服と自分の体にあわせて作った服とのどちらをえらぶ? ぼくらは君にとって要するに既製服のようなものだ。いちおう、形はなしている。しかし、君の体にあわせて作ったもんじゃない。君は君の人生や未来という布地の上に君にあわせて洋服をつくっていくべきだ」
千葉はそう言い終ると、毛布の上に両手をひろげて黙った。弓子も弓子で黙ったまま、ドアにもたれていた。
弓子はなんとも言えぬ哀しさが胸からこみあげるのを感じた。千葉は要するに何もわかっていないのだ。年齢の違いなどいったい、どうだと言うのだろう。彼の言っていることは理屈だ。三十歳であろうが二十歳であろうが女はいつでも女なのだ。
「一人の女が海をこえて、日本からこの巴里までたずねてきた気持を、どうして考えないんですか。それよりも、こんな夜、こうして病院にまで忍びこんできた娘の気持をどうして考えないんですか。先生の言っていることは理屈で、世間の道徳にすぎないんです」
弓子はめったに見せたことのない寂しそうな目でじっと千葉の顔を見つめた。
「とにかく、今夜は帰りなさい」
「はい」
弓子は目がしらが急に熱くなるのを感じて思わずうつむいた。だらしないぞ。若いくせに。泣いちゃあ、負けじゃないかと彼女は思った。
ドアをそっとあけて、外に出た。病棟のなかはしんと静まりかえって、天井の蛍光燈が白い床と壁とを照らしていた。
「|ユー・オーライ?《どうだつた》」
と、片すみにかくれていたあのロッシュという青年が近づいてきて英語で言った。
「彼とうまくいった?」
「ノー」
「彼は君にキスしてくれた?」
「ノー」
青年はしばらく黙っていたが、吐きすてるように、
「その男は利己主義だな」
そう言った。
病院の裏口からそっと外に出ると、ロッシュ青年は門の外においてあるルノーにエンジンをかけて、
「乗りなさい」
それから、彼は車を動かしながら弓子にわかるように一語一語を英語でゆっくりと、
「青い鳥は……遠くにいない……自分の家にいる」
歌うように呟いた。
自動車の座席にもたれると、不覚にも弓子の目から涙がこぼれた。
「青い鳥は……遠くにいない。自分の家にいる」
ロッシュ青年はまた言葉をつぶやいて、
「君は今夜、少しお酒をのまなくちゃいけない。そして陽気にならなくちゃいけない」
いつの間にか、弓子の意志とは反対に、車はモンパルナスのネオンの中に入っていった。キャフェクポール≠フ大きなサインが夜空に明滅している。
そのクポールにはロッシュの友だちらしい青年たちが数人いた。彼らにまじって弓子はあまり飲めぬ酒を飲んだ。青年たちはさらに次の酒場に彼女をつれていった。そこには、別の男女のグループがいて、ロッシュは弓子におどろうと誘った。おどりながら、このフランス青年はあつい息を弓子の耳もとに吐きかけながら、
「青い鳥は……遠くにいない……自分の家にいる」とささやいた。
「船のなかから君のことが好きだった」
「帰るわ」
「どうして。怒ったの……」
「帰るわ。帰らして」
弓子はみながふりかえるほど大きな声で言い、酒場の外に出た。送ってこようとするロッシュ青年に、
「いいの。一人で帰れる。サヨウナラ」
タクシーにとびのって、口だけ笑顔をつくり、手をふった。
年とった運転手にホテルの名と住所を書いた紙をみせると、モンパルナスからポール・ロワイヤルの方向に車をむけてくれた。モンパルナスをすぎると、もう巴里の街はまっ暗である。ところどころのキャフェだけに灯がうるんで、ベレー帽をかぶった男たちが二、三人、葡萄酒を飲んでいる。自分がひどくみじめで一人ぽっちになったような気がして、弓子は思わず肩をふるわせながら泣きだした。
年とった運転手がうしろをふりむいて慰めるように何かを言った。
しかし、彼の言っているフランス語は弓子にはわからない。
「|ヴォアラ《さあ》」
車がとまると、ホテル・パッシィとかいた白いネオンのついた建物の前でジャンパー姿の青年が立っていた。押見だった。
「どうしたんだ。こんな遅くまで」
押見はポケットからタクシー代を出しながら、
「飲んでるね」
「ええ。飲んでるわ、放っといて」
ホテルの階段をのぼりながら、時々よろめく弓子の体を押見はうしろから支えた。
「放っとくわけにはいかないよ。この巴里じゃ、俺は君に責任があるからな」
「責任? 押見ちゃんはあたしの監督者じゃないわよ。何しようと、こっちの勝手じゃないの」
弓子が蒼白な顔をしてそう言いかえすと、いつもは何を言われてもニヤニヤしている押見がひきしまった顔をして、
「馬鹿野郎ウ」
弓子の頬に大きな音をたてて平手打ちをくわせた。
「女の子だと思って、やさしくすればつけあがるな」
それから押見は弓子をそこに残して、ジャンパーの肩をふりながら、廊下を去っていった。
部屋にもどると安川が寝がえりをうつ音がした。彼も今日はつかれているらしい。毎朝新聞の支局長である阿部さんをたずねて、阿部さんからドーバー海峡競泳会の申し込みの件について念を押してもらったり、これでもなかなか忙しかったのである。
押見はズボンを椅子の上にかけ、パジャマをいそいで着ると、ベッドの上にあぐらをかいた。たった今、とまった安川の鼾がまた大きくなりはじめる。
弓子に平手打ちをくわせた右手は押見には痛かった。今まで女の子にこんな暴力をふるったことはない。自分でもたった今、なぜあんなことをしたのかわからない。
しかし今、弓子に平手打ちをくわせた瞬間、押見は、はっきりと自分が弓子のことを愛しているのだと知った。
日本にいる時は単なる制作課の仲間としてしか見なかったこの勝ち気な娘が、不幸を全身に背負ったように酒を飲み、ホテルにもどってくるのを見るのは、やはりたまらなかった。
隣の弓子の部屋からかすかな物音もしなかった。
押見は、弓子が千葉を今日たずねたことを知っていた。弓子が千葉をひそかに愛しているのも前からうすうす、感じていた。彼はできることなら、弓子のために何かをしてやりたかった。
「先輩、まだ寝ないんですか」
安川が寝がえりをうって寝ぼけた声をだす。
「寝ないならいいけど、ゴソゴソしないで下さい」
「わかってるよ。うるさいな」
翌朝、弓子と廊下で顔をあわせた時、
「おはよう」
押見はできるだけ快活な声をかけたが、彼女のほうは顔をこわばらせたまま、返事をしなかった。いつもなら、三人いっしょに朝飯をたべるのだが彼女はドアをとじて出てこない。
「弓ちゃん。朝飯もってきたぜ」
そうドアの前で言うと、
「いりません。あたし、今日」
「病気なのか」
「放っといて」
「いいからちょっとだけあけてくれよ。話したいんだ」
「話したくないわ。押見さんと」
「個人的感情で話するんじゃあない。仕事のことなんだ。今日、みんなで大使館に行くんだろ」
仕事のことを言われて、さすがに仕方なくドアを少しあけて、
「お入りなさいな」
しかしツンとして冷たい声を弓子は出した。
「昨日は俺、わるかったよ」
部屋に入るなり、押見は直立不動の姿勢をとって頭をピョコンとさげた。
「とにかく、女の子をひっぱたいたことには弁解の余地がない。何とでもあやまるけどさ。もし君の気がすむなら、俺を叩きかえしてくれよ」
すると、ベッドの端に腰かけていた弓子は男の子のように大股で近よって、
「ようし」
右手を頭の上へあげて押見を叩く姿勢をとった。彼女はそのまま、じっと彼をにらみつけていたが、手をふりおろそうとはせず、
「野蛮人!」
「ああ」
「今度だけはゆるしてあげる。でも、二度とあんなことしたら、承如しないから」
これで、すべてが好転した、と押見は思わず、ニヤリと笑った。女の子なんて扱いにくいものじゃあない。
「馬鹿にしないでよ。すべてを水に流したわけじゃないのよっ」
「わかってるよ。ともかく、大使館に行こうじゃないか」
外は陽がさんさんと輝き、野菜や草花をいっぱい載せた手押し車をおした老婆が石畳の坂道をおりていった。彼女は時々、足をとめて、
「シュウ、シュウ」
と声をはりあげた。
教会で点鐘がなり、その点鐘に鳩の群れが、曲線を描いて空を舞った。安川と押見とは弓子をはさむようにして立ちどまり、その鳩の群れを見あげた。
「ああ、東京の連中はどうしているかなあ」
「相変らずよ。夜勤の夜は制作課の部屋でスルメをやきながらお酒のんでいるわよ」
弓子の機嫌はもう治《なお》っていた。
「ああ、米の飯が腹いっぱい食いたい」
と、安川が呟いた。
「日本にもどったら先輩、ぼくは何よりも寿司屋に行きますよ。日本人はやっぱり、米の飯をつめこまねば体に力が入りません」
「だから、大使館にいって、その点も頼もうと言うんじゃないか」
三人はセーヌ河にそってあるいていた。バスに乗れば一直線で大使館のあるアヴニュー・フォッシュまで行けるのだが、こんないい日には若い彼らには乗物に乗るなんて考えられもしなかった。セーヌ河の岸壁にかげろうのように川面《かわも》から反射した陽がうごいている。若い恋人たちがその岸に腰をかけて、仲むつまじげに何か話しあっている。
日の丸の国旗を巴里で見ると、さすがに嬉しかった。大使館の屋根にひるがえる赤い日の丸が三人には目にしみるように鮮やかだった。
「愛国心などということは、東京にいた時、考えたこともなかったんだがなあ」
押見がポツンと呟いたが、その気持は弓子にもよくわかるような気がする。ランバサード・ジャポネとかいた建物のドアを押して中に入ると、フランス人の老人が受付に腰かけていた。
「コンニチハ」
と彼は片言の日本語で言い、あとはフランス語で早口に話しかけてきた。途方《とほう》にくれていると一人の若い館員が近づいてきて、
「ご用件は何ですか」
「ああ、ぼくらは東京から来たんです」
「そうですか」若い館員は、皮肉な笑いをうかべて、「それでご用件は」
「毎朝新聞の阿部さんから電話して頂いたと思いますが……ドーバー海峡横断の件で……」
「ドーバー海峡横断?」
若い大使館の館員は、いかにも外交官の卵のようにこちらを見くだしたうす笑いをうかべる。
(いい感じじゃないわ)
押見がイライラしているのが、弓子にもはっきりわかって、代りに説明しようとした時、
「岩井君、その話なら、私がきいている」
ちょうど、そこを通りかかった紺色の背広を着た中年の紳士が、こちらを向いて声をかけた。
「話をうかがいましょう。私は一等書記官の那智ですが……」
廊下の右にある応接間に招じいれた。
その応接間の白いソファに腰かけるまで弓子は今、自分の目の前にいる紳士が千葉を見舞いに来ていたあの女性の夫だとは、さすがに気がつかなかった。
「あの競泳会は、今月の三十一日でしたな」
「そうです」押見は自分のことのように得意になって言った。
「とにかく、日本人で参加するのはこれが初めてだと、思います」
「ほう……」
直光は興味を急に目にただよわせて、
「君が参加するのですか」
「いや、ぼかあ、こいつのマネージャー役です。泳ぐのは、こいつです、おい、お前、挨拶しないか」
すると、安川はピョコンと椅子から立ちあがり、
「よろしく、おねがいします」
「大使館としては特に何もお手伝いできんが」
直光は、革のシガレットケースから、たばこをとりだして火をつけながら、
「私個人としてできることなら、何でもやります。これでも、高等学校時代、水泳部に入っていたのです」
「それじゃあ、お願いします」
間髪を入れず押見は膝をのりだして、
「こいつに、米の飯を食わしてやって下さい。日本人なので、やはり米の飯を食わんことには体に力が入らんと言うてますから」
「米の飯?」
直光ははじめ、びっくりしたように押見の顔を見ていたが、
「なるほどねえ。お安いご用です」と大きくうなずいて、「何なら、今から私の家に来なさい。ちょうど昼食時だ。妻に、簡単だが日本食をつくらせましょう」
そう言って、応接間の片すみにある電話をとりあげ、耳にあてた。
「ああ、私の家につないでくれ」
交換台にそう命じて、
「あのドーバー海峡競泳会は小さいながらアマチュア・オリンピックみたいなものですから、やはり、日本人の君たちに勝ってもらいたいですよ」
それからコールしている電話機に、
「ああ、淑子か」
とそう言って、話をはじめた。
弓子はこの時、目の前にいる人が誰なのか、自分たちが今からだれの家に行くのかを、初めて知ったのだった。彼女は思わず、小さな声をあげたが、その声に押見も安川も気がつきはしなかった。
「君たち、巴里は初めてですか」
車を運転しながら何も知らぬ直光はうしろをふりかえった。
「はい」
「巴里は今ごろが一番いい。マロニエがきれいでね」
「そうですか」
「私の女房は、ほかのことは駄目だが、料理だけはかなりやります」
弓子は皮肉な目で車の外をながめていた。
見覚えのある白い建物と、白い長い塀が通りすぎていった。それは千葉の入院している病院だった。いや、千葉は今日、退院するはずである。その退院の日に、自分があの女性の家に行くとは、ひどく皮肉な気がするのだった。
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最後の夜
アパルトマンのエレベーターが音をたてて昇っていく。
「このエレベーターは古いんでね。コンシェルジュに新しいのと取りかえろと幾度も言っているんだが」
胸ポケットから白いハンカチをだして湿った額をたたきながら直光は、いかにも弁解するように言った。その大きな横顔を弓子は皮肉なまなざしでじっと見つめていた。押見も安川も何も知らない。もちろん、この直光も少しも気づいていない。
四階まで昇ると、彼はまず、弓子を先に出してから自分があとに続いた。
「こういう巴里の古い建物に長いこといると、何よりも日本家屋の畳を素足で踏みたくなってねえ」
扉のボタンを押しながら直光はしんみりとした調子で言ったが、この言葉には実感があった。
内からしずかな音がして扉がそっとあいた。「昼食の支度はできているかね」と、直光は内側に声をかけた。「電話したように若い日本人の方たちをおつれしたよ」
「お待ちしてましたわ」
淑子の姿は扉のかげにかくれて見えなかったが、声ははっきりと聞えた。
「お邪魔します」と、押見は例の調子で「ぼくは押見と言います。こいつは安川です。それから、こっちが志摩さんといって、ぼくの同僚です」
弓子と淑子とは入口のそばにある外套掛けの前で向きあった。弓子は微笑しながらじっと相手の顔を見つめた。一瞬、ハッとした淑子はやがて、
「はじめまして。……よく、いらっしたわ」
と静かに言った。
「さア、中に入ってくれたまえ」
自分の妻と弓子との表情の動きに気づかぬ那智は、安川の肩を押すようにして、
「うんと、たべなさいよ。君はいいからだをしている。体重はどのくらいだね」
などと、話しかけていた。
食堂に入ると、真白なテーブルの上に、ゆの木の盆や箸が並べられていた。朱塗りのお椀や九谷の湯呑みなど東京にいる時はごくあたり前に眺めていたものが、四十日あまりの間日本を離れた三人にはまるで初めて見たような気がするのである。弓子の頭には自分の家の茶の間や父や母の顔やそれから朝早く母の作ってくれる熱いお味噌汁の味などが一時に、パアッと浮んできた。
「なつかしい、わ」
と、彼女は食い入るような目で、それらの日本食器を見つめながら呟いた。
「俺たちは随分、日本を離れていたような気がするなあ」
と押見も呟いた。
「冗談じゃない」その言葉を聞いて直光は笑った。「もう三年も私たち夫婦は日本を知らないんだよ。三年前に一度、東京と神戸に戻ったことがあるが、それも二週間だけだった」
食事がはじまった。直光が自慢しただけあって、たしかに淑子の作った日本食はおいしかった。
「うまい」と押見と安川は幾度もあたたかなご飯のおかわりをしながら、「しかし、巴里でこんなに日本食の材料が手に入るんですか」
「どうにかですわ。巴里には二軒だけ日本のレストランがありますけど……そこにたのんで、お醤油なんか少しわけてもらいますの」
「もっとも大使館だからね。なんとか日本から送らせるのさ」
食事中、淑子はほとんど弓子のほうを見なかった。
弓子も弓子でいかにも久しぶりに口に入れる故国の食事に夢中になっているふりをして淑子に話しかけなかった。それが礼儀にはずれているということはわかっていても、今さら話しかけること自体のほうが、もっと失礼のような気さえしてくる。
「ドーバー海峡横断は自信があるのかね」
「あります。ぼくは有明海を泳ぎ切ったのが五回以上ありますし、問題は水温です」
「しかし二ヵ月くらい、練習はやってないんだろう」
「そうなんです。そこが不安なんです」
「でも」と押見は横から口を出した。「たとえ失敗しても、ぼくは安川のやることには意味があると思うんです」
「ほう、どういう意味かね」
「なにかに挑戦するという意味です」
「挑戦?」
「そうです。なにか困難なものにぶつかって闘うということです。ぼくたちの世代は何もかも便利すぎて闘うものがなくなってしまいました。だけど、闘うものがないということは若さを喪《うしな》うということじゃないでしょうか」
「なるほど」
弓子は淑子の顔をそっとうかがった。淑子はいかにも押見の話を熱心に聞いている表情をしていたが、その目は他のことを考えていた。
視線がふと出会った時、じっと相手を凝視したのは弓子のほうだった。淑子は翳《かげ》のような不安の色をうつくしい瞳にうかべた。
(あなたが今、なにを考えてらっしたか、あたしにはわかりますわ)
と弓子は口にだしてこそ言わね、無言の中で相手に話しかけた。
(千葉さんのことでしょう。千葉さんがそんなにお好きなら、なぜ、彼のところに行かないんです。ここでは貞淑な人妻のふりをして、そのくせ、心にひそかにだれかを思っている。そんな生活はすごく偽善的だと、あたしは思うわ)
直光と押見と安川とは女二人の心には気がつかず、日本の水泳技術の問題を子供のように論じあっていた。――男って、本当にどうしてこんなに子供みたいなのだろう。
弓子は突然、そんな直光の満足そうな顔に、一抹《いちまつ》の不安感を与えたくなった。それは同時に、いかにも直光の貞淑な妻らしい恰好をしている淑子にたいする挑戦だった。
「奥さま。お茶を頂けますこと」
「どうぞ。どうぞ」
「どこかでお目にかかったような気がするんだけどなあ……」
弓子はいかにもさりげなく、無邪気にその言葉をだした。
今まで議論に熱中していた男たちは、びっくりしたようにこちらをふりむいた。
「あら、そうかしら。東京で?」と淑子は巧みにごまかした。「あたしのような顔はザラにありますもの。きっと、どなたかとおまちがえになったんじゃない?」
「いいえ。奥さまみたいなお綺麗な方をまちがえるはずはありませんわ。それに東京じゃなく、巴里のことですもの」
「巴里で? どこかしら。悪いけど、あたしは全く記憶がないのよ」
淑子はそう苦笑してみせた。
「ねえ、それより、あなたには男の方たちの話より、洋服のほうが興味がおありなんじゃあなくって? この方たちにはブランデーをさしあげることにして……あたしの部屋で、二人っきりでコーヒーでも召し上らない。あたらしいモード雑誌なんか、お見せするわ。ねえ、あなた」
「それがいい。女は女同士だ」
直光は棚からブランデー・グラスをとりだしながら上機嫌でうなずいた。
「わたしたちはまだ、安川君の競泳のことでいろいろ相談しなくちゃならないからね」
弓子は押見に目くばせすると、椅子から立ち上って淑子のあとに続いた。
食堂から客間をぬけ廊下に出ると、淑子はうしろをふりかえって、
「この奥よ。ずいぶん、ちらかしているかもしれないけど」
その淑子の部屋には、白いピアノの周りに洒落た椅子が二つ三つおいてあり、その上に大きなグラフ雑誌が散らばっていた。
「お待たせしたわ」
淑子は盆の上にコーヒー茶碗や銀のポットをのせて、すんなりとした足で室内に入ってきた。
「あら、立っているの。お坐りなさいな。お砂糖は一つ、二つ」
「二つ頂きますわ。でも、今日は本当においしい日本食ありがとうございました」
「どういたしまして。あんなものでよかったら、お友だちと一緒にまた、いらしってよ。でも驚いたわ。さっき、あなたが玄関に入っていらしった時……」
「このあいだは失礼しました」弓子はコーヒー茶碗を膝の上にのせて「千葉さんは今日、退院なさるはずでしょう」
「あら、よくご存じね。どうして知っていらっしゃるの」
「千葉さんから伺いましたもの」
「そう」淑子は煙草の箱をあけながら「喫わない?」
「千葉さん、今日、退院なら、奥さま、いらっしゃらなくていいんですの。あたしたちが伺ったため、ご迷惑じゃなかったんですか」
「それ、皮肉なの?」
「皮肉じゃありませんわ。あたしが奥さまの立場なち、すぐとんで行っただろうと思いますから」
「あたしはあなたと違うわ」淑子は目を伏せて自分の膝の上をじっと見つめながら、「夫があるわ、家庭があるわ。夫がお客さまをおよびしたのなら……」
「奥さま、ウソを言ってらっしゃるわね。奥さまは」と弓子はそこで一寸ためらったが、
「自分にウソを言っているんだわ。そんなに千葉さんがお好きなら、なぜ、あの人と結婚なさらないんです。結婚なさらなくても、一緒になぜおすみにならないんです」
淑子はコーヒー茶碗をもったまま、驚いて弓子の顔を見た。何という無茶な、世間知らずのことを言う娘だろう。それとも、この娘は無邪気を装っているのだろうか。
「世の中は、そんなに自分の思い通りになるものじゃあないわ。そんなに思い通りになるなら誰だって苦労はしないわ」
彼女はまるで年上の姉が妹にさとすような調子で言った。
「あたしは、そう思いません」弓子ははっきり答えた。「あたしたちが生きるのには、そりゃ、いろいろな抵抗があるぐらい、知っています。でも、あたしはあとで奥さまのようにウジウジしないように、初めから自分の意志を実現するよう、精一杯ぶつかってみたいと思うんです」
「お言葉だけど、あたしのどこがウジウジしているのかしら」
「そうじゃありませんか。奥さまは千葉さんをお好き。なのに今のご主人と一緒に不満な毎日を送っていらっしゃるんですもの」
淑子は顔をしかめた。たしかに弓子の言葉は、自分のいちばんいたい部分を指摘している。しかし、それを他人に――というよりは年下の同性に言われるのは淑子の自尊心をひどく傷つけるのだ。
「ずいぶん、想像力のお強い方ね」
「いいえ。事実を申し上げてるんですわ。さっきお食事を頂きながら――頂きながらこんなこと考えてたのは申しわけないんですけれど……なんだかあたしには、たまらなく息苦しいような気がして。あたしなら、こんな結婚生活を棄てて千葉さんと一緒に暮します」
「生活を棄てるなんてやさしいことよ。大事なことは、それを守るということよ」
「ごめんなさい。ズケズケと言いたいことばかり言って。でも、奥さまは……なぜ、昔、千葉さんとご結婚なさらなかったんです」
淑子はだまっていた。それがわかれば自分でもこう思い悩む必要はなかった。家の反対があった。小説家になろうなどという青年を日本にいる淑子の父母は頭から信用していなかった。海のものとも山のものともつかぬ男に生涯を託するなんて馬鹿だと兄からも言ってきた。家族というものにこれほど反対されると、あの頃の自分の心はかなり動揺しはじめた。
それに留学生だった頃の千葉は貧乏だった。彼は屋根裏の一つの窓しかない部屋に住んでいた。冬になると小さな電気ストーブだけがその氷のような部屋をわずかに暖めていた。パンとコーヒーだけで食事をすますこともあるのだと彼は時々、苦笑しながら言った。
恋愛の頃はそんな千葉の生活がまるで夢のようで一種の魅力にさえなっていたが、いざ、結婚とむすびつけてみた時、やはり淑子はたじろいだ。千葉を愛してはいたが、愛しているだけに自信がなくなってきた。家からの手紙はその頃、ますます、淑子にとって辛いものになりはじめていた。自分の将来を心配してくれている父や母を傷つけることは、彼女にはとてもできなかったのである。
(しかし、それだけではない)
それだけではない。もっと別の理由が彼女の心の隅にそっとひそんでいた。彼女は千葉との思い出が現実での彼との結婚生活で傷つき、つぶれるのではないかと、こわかったのである。
「奥さま」
と弓子は椅子から立ちあがった。
「もし奥さまが、このお家を棄てて千葉さんのところに飛んでいく勇気がおありじゃないなら……あたし、おねがいが、あるんです」
弓子はそれから唇のあたりに微笑をうかべて、
「申しあげてもいいかしら」
「ええ、どうぞ」
あおざめた顔で淑子はうなずいた。
「千葉さんをあたしにください。あたしも千葉さんが好きなんです」
食堂ではまだ男たちはブランデーをのみながら話をつづけていた。押見も安川も、久しぶりでたべた米とブランデーとのために、すっかり陽気になっていたが、
「あッ、もう三時半だ」
と押見は時計を見ながら叫んだ。
「すっかり、お邪魔しちゃって。しかし奥さんや弓ちゃんは、どうしたんでしょう」
「女同士の話に夢中なんだろう」
直光は後輩たちにとりかこまれた先輩のようにブランデー・グラスを上機嫌に重ねていた。平生の彼としては珍しいことだった。
「しかし、どうしたのかな。向うじゃ、笑い声も聞えないようですけど」
「女は、洋服の話をする時は意外に静かだよ」
だが直光と押見とがそんな会話を終った時、扉があいて、淑子と弓子とがつれだって入ってきた。
「今、君たちは何をしてるだろうって悪口を言ってたんだよ」
「そうですか」
淑子の顔はあおざめていた。しかし、彼女は懸命に自分の感情を押えようとして努力していた。
「どうしたんだい。顔色がわるいが」
「別になんでもありませんわ」
淑子は無理に微笑をつくってみせ、
「水泳の話は、もうおすみになったの」
「うん。大使に私からもお願いして、明日から安川君の練習が充分できるようにするつもりだ。もっとも競泳まであと僅かしかないが……」
「そろそろ、おいとましなくっちゃ」
弓子は押見にそう促した。勝ったという悦びがさっきから胸をうずまいていた。彼女は淑子のほうをできるだけ見ないようにして直光に礼の言葉を言った。
外に出ると、午後の光がつよく三人の顔にあたってきた。
「ああ、満足だ」と押見は言った。「巴里にこれで来た甲斐があったよ。銀飯はたらふく食えたし、安川の件もうまくいったし、親切な人だな」
「大使館員といえば、もっと偉そうにしているのかと思ってました」
と安川もうなずいた。
「さア。明日からお前も頑張らなくちゃア駄目だぞ」
「わかってます」
「しかし弓ちゃん。弓ちゃんとあの奥さんとは一寸の間にずいぶん仲よくなったらしいね」
「ええ」と弓子は微笑しながら答えた。「仲よくして頂いたわ」
淑子は頭痛がするからと言って自分の部屋に引きこもった。椅子に腰かけて手で額をささえながら彼女は長い間、じっとしていた。
巴里の夕暮れには一瞬、気が遠くなるように静かになる時がある。なぜかしらないが、その時刻もまた、灰色の町に車の音、人の気配がはた[#「はた」に傍点]とやみ、あたりがある哀しみをおびた静寂にじっと包まれていた。淑子はその静寂のなかでさきほど、この部屋に侵入し、この部屋から去っていったあの弓子という娘の言葉を一つ一つ思いだしていた。
あの言葉に動揺したのではなかった。弓子のような年齢の娘が口に出す世間知らずの考えを、淑子だって笑い捨てることはできた。
しかし、それとは別に彼女は自分と千葉との関係を考えてみた。
やがて千葉は日本にもどる。そして、その千葉のあとを自分は決して追っていくことはないだろう。直光との生活には決して満足はしてなくても、やはりそこには結婚生活の歳月がつくりあげた無数のひっかかり[#「ひっかかり」に傍点]があった。そのひっかかり[#「ひっかかり」に傍点]を棄てて、あたらしく人生をふみだすだけの勇気があるのかと弓子に問われた時「ないわ」小さな声でそう答えざるをえなかった自分を淑子は辛く、痛く思いだした。
彼女はむかし彼女の母が時折、父についての愚痴をこぼしていたのを思いだした。
「母さま、そんなに父さまのことがイヤなら、なぜ、別れないの」
娘時代、淑子は母にその都度、そうたずねたものだ。そんな時、母は一種、諦めに似た笑いをうかべて、
「しかし、別れたって、どうにもなるものじゃなし……」
と答えるのだった。そんな母を淑子は不甲斐ないと考えたが、今、自分の人生もその母と同じような過程をたどりつつあるのだ。すべての妻がたどったと同じ道を。そしてあの弓子もやがて結婚をすれば、きっとあたしと同じ人生を歩むにちがいない。
(どうせ、あたしと千葉さんとは遅かれ、早かれ、こうなるんだったわ)
鳩の群れが灰色の夕暮れ、屋根の上を歩きまわる音がした。彼らの声はいつも寂しかった。
扉を叩く音がした。直光だった。
「気分はどうだね」
「ええ。おかげさまで、だいぶ、よくなりましたわ」
夜。
弓子はそっとベッドから起き上った。起き上ると体をかがめるようにして裸になった。隣室の押見や安川はもうすっかり深い眠りに落ちたのであろう。カタリという物音もしない。
トランクをだして、真新しい絹の下着をとりだした。花模様のついた絹のうつくしいこの下着は東京で買ってきたものであったが、それは、この夜のためにこそとっておいたものだった。その下着に少しだけ香水もかけた。
すべてを着がえると、化粧をなおし、鏡のなかにうつった自分の顔をじっと見つめた。
(今から、やろうとしていることはいいことかしら)
東京にいる母親が、今、自分の考えていることを知ったら、なんというだろう。「なんてことをするの。弓ちゃんおよしなさい。およしなさい」母の声が耳に聞えるようだった。
(母さん。あたしは、もう子供じゃないわ。あたしが今からやることは母さんの時代の娘たちなら決してしなかったことでしょうけど……あたしは自分ですべて責任をおうつもりよ)
鏡のなかにむかってそう微笑みかけ、弓子は靴をはくと、そっと足音をしのばせて階段のほうに歩いていった。
ホテルの外には夜の冷気にまじってマロニエの匂いがただよってきた。それは、彼女の胸をしめつけ哀しくさせた。
どの建物ももう寝しずまり、あいているのは一軒のキャフェだけだったが、幾人かの男女が手をくみながらそのキャフェからあらわれ、車にのりこんだ。
「タクシー」
歩道のわきに駐車しているタクシーの硝子をコツコツと叩くと、
「マドモアゼル」
眠っていた運転手がむっくり起きあがり、びっくりしたように車の扉をあけた。
千葉の住所をかいた紙片を見せ、車に乗りこんでその震動に身をまかせていると、突然、ひどく自分が悪い娘のように思われてきた。こんな深夜、ひとり見知らぬ異国の街で男のホテルをたずねていく。その行為は世間の常識からみれば当然、非難されるべきことにちがいなかった。
(でも、母さん。もし、あたしが、これをしなければ……あたしはいつか結婚しても、必ず今夜、千葉さんのところに行かなかった自分を悔むにちがいないわ。一生、今夜のことが痛恨の種になるにちがいないわ。そしてあたしも、母さんやあの淑子さんと同じように、たえず心のなかにみたされぬ思いをしながら毎日を生きつづけていくにちがいないわ。だから、あたしは行くの。たとえ、それがみんなから非難されることであっても、あたしは行くの)
彼女は目から少しこぼれた涙を指先でふいて、
(馬鹿ねえ、お弓。こんな時、泣くなんて)
と自分に言いきかせた。
セーヌ河が白い帯のように光っていた。ルーブルの黒い建物が微光をふくんだ夜空に城館のように浮きあがっているコンコルド広場をぬけて、車は河にそって走りつづけた。
「ヴォアラ」(ここです)
彼女は金をはらい、
「メルスィ」(ありがとう)
と小声で言った。
「セ・モア・キ・ヴ・ルメルスィ」(お礼を言うのはあたしですよ)
運転手はうなずいた。
「ボンヌ・ヌイ。マドモアゼル」(ごきげんよう、お嬢さん)
ホテルのドアをあけると、折よく小さなフロントには人影がなく暗い油燈《ランプ》が一つポツッとともっていた。音のしないように彼女は階段をのぼり、千葉の部屋の前にたった。扉はかすかにあき、なかは真黒だった。
千葉の名をよんだが、答えはない。黒い闇のなかで急におそろしくなり、このまま逃げて帰りたい衝動にかられたが、じっと壁にもたれて立っていた。思いきって手さぐりでスイッチをさがし、電気をつけるとベッドも寝た形跡はなく、机の上にはノートや読みかけの仏蘭西語の本が開かれたままである。
ベッドの端に腰かけながら、弓子は長い間、千葉の帰りを待っていた。時計はもう二時半をまわっている。千葉が机の上に残していったたばこを口にくわえ、悪戯半分に火をつけてみたが、あまりの苦しさに思わず咳こんだ。どこから迷いこんだのか一匹の蛾《が》が天井にぶつかりながら逃げ口をさがしている。やがて彼女は小石のように眠りに落ちていった。
肩をゆさぶられて、目をあけた時、千葉がびっくりしたようなまなざしで自分を見おろしていた。急に恥ずかしさにかられ、弓子は顔を両手で覆った。
「なんて、しつこいんだ。弓ちゃん。あれほど言ってきかせたろ。この間、病院で」
千葉は怒っていた。顔を少し赤くしながら彼は椅子を片手でひきよせ、腰かけた。
「君は、こんな時刻に、男の部屋をたずねてくることが……」
弓子は哀しそうな目で、黙ったまま千葉を見つめていた。千葉は小説家なのだろうか。弓子は小説家ならば、いわゆる世間の常識や道徳に曇らない目で、ものごとを判断してくれると思っていたのに……。
「先生がそんなこと、おっしゃるとは、弓子、考えてもいませんでした」
「なぜだ」
「あたしがこんな時刻、この部屋に来たのも……」
弓子はそこまで言って、まるで子供のようにイヤイヤをした。
「先生。今日、あたし……那智さんの奥さまにお会いしたんです。そして、先生をあたしに下さいと、はっきりお願いしました」
「馬鹿なことを言うもんじゃあない」
勝手だと千葉はこみあげてくる怒りを噛みしめていた。この娘はすべてのことを滅茶滅茶にする。それを若さの特権だと錯誤しているのだと彼は思った。
「じゃあ、先生はなぜ、あの奥さまと一緒にならないんです」
「あの人は結婚してるじゃないか」
「それじゃあ、あの方とご交際になるのはおよしになるべきだわ。先生は都合のわるい時はあの人は結婚していると自分に言いきかせ、都合のいい時は他人の奥さまと恋愛をたのしんでいるんだわ。先生たちの世代は、いつもそうやって、自分をごまかしているじゃありませんか。あたしのしていることが若い娘のすることでないなら、先生のなさっていることも男のすることじゃないわ。あたしたちなら、こういう時、自分のやりたいことをどんどんやるんです。そのほうがもっと清潔なんです。うす汚れていないんです。湿っていないんです。だから、あたし……こうして……来たんです。先生が好きだから。好きな以上、今晩、弓子の全部を奪《と》っていただいたって、決して後悔しないわ。全部、奪って頂いたあと、先生があたしを部屋の外におっぽりだしたって構わない。そのほうがずっと、あたしにとっても清潔なんです」
弓子は胸の底から激してくる感情と懸命に闘いながら、それらの言葉をとぎれとぎれに言った。
「おねがい。先生。あたしを奪って」
「なんのためだっ」
「あたしのため」
千葉はこの娘の激しい感情に圧倒されたように部屋の真中に棒のように立っていた。ベッドの上から、じっと自分を見つめている彼女の眼からボロボロ涙が溢れでている。この娘が言っていることは正しいとは千葉には思えない。正しいとは思えないが、しかし彼女が今、自分にたいして精一杯、ぶつかってきていることと、懸命に生きようとしていることは痛いほどわかるのだ。
彼ははじめて、泣いている弓子をかわいいと思った。それは今まで一度もこの女の子に感じたことのない感情だった。
「おねがい」
弓子は助けを求めるように両手を前にさしのべた。彼は腕ぐみをしたまま、じっとその手を見つめていた。
俺はもう若くない。俺にはもうこんな激情は枯れてしまっていると彼は考えた。相手の激情にまきこまれることはどうしても千葉にはできなかった。もし自分が弓子のこの感情を利用して、そのからだをだけば、それはやはり卑怯な行為だと彼は思った。
「帰りなさい」
彼は片手だけで弓子の右手を掴むと、強引にベッドからひきずり起した。
「ぼくは君をもらう気持は毛頭ない。帰りなさい」
弓子の目が大きく開き、その目のなかに怒りの光が走った。
「臆病者だわ」
それから右手をゆっくりあげ、彼女は千葉の頬を叩いた。
「臆病者だわ。いい。もういいわ。もう二度と、あたしは先生に会うことはないでしょう。もう二度とあたしは先生におねがいすることもないでしょう。でも、弓子は先生を追って東京からこの巴里まで、はるばる来たことも、この部屋に真夜中、しのびこんできたことも決して後悔しない。今、やっとわかりました。先生たちとあたしたちがどんなにちがうかがわかりましたわ」
吐きすてるようにその言葉を部屋に残すと、彼女は扉をひらいて廊下を小走りに走り去っていった。
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競 泳
キャフェの親爺はちびた煙草を口にくわえながら、グラスをみがいていた。店の前においたゼラニウムの植木鉢に、さんさんと陽の光があたって美しい。
自転車にのった若い労働者がキャフェの前を通りすぎ、また逆戻りして、
「やっぱり、ひっかけていくかな。葡萄酒《キヤノン》を一杯」
親爺は煙草を口から離さず、棚から葡萄酒の瓶をとりだして二つのグラスに注ぐと、
「|どうだい《サバ》」
「|まあ、まあだね《コムサ・コムスイ》」
労働者は、自慢そうに胸ポケットに入れたトランジスター・ラジオをとりだして、
「どうだい」
「買ったのか」
「いや。誕生日に女房から」彼は嬉しそうにニコニコと笑いながら言った。「プレゼントされたのよ」
労働者の厚い手から銀色のトランジスター・ラジオをうけとって、親爺は、
「スイッチ、入れてもいいかね」
「いいよ、今、何をやってるかな。ニュースじゃないのか」
「知らないのかい」
「なにを」
「中継だよ。カレーの海岸で競泳があるだろ。ドーバー海峡を横断する競泳が。俺あ、ちょっと、そいつを聞きたいんだ」
「へえ」
「日本人の若いのが出るんだ。応援しなくちゃならない」
「なぜ、日本人を応援するんだ」
「俺の家に」キャフェの親爺はニヤリと笑って、「泊ったからさ。いい若者たちだったぜ。陽気で、メソメソしたところが、これっぽっちもなくてな。三人来たんだ。一人、娘がまじってた。|かわいい娘《ミニオンヌ》だったね」
ラジオのスイッチを入れると、すでに競泳の中継は始まっていた。
「こちらは巴里・ルュクサンブール放送であります。こちらは巴里・ルュクサンブール放送であります。私たちはここ、ドーバー海峡に面するカレーの海岸にマイクをもってまいりまして、午前十一時からはじまるアマチュア競泳会の実況をみなさまにお伝えしたいと思います。空は晴れ、風は少し強く、海には多少の荒れが見えますが、選手の競泳には全く十分なコンディションかと思われます。
まだ選手たちは集合してはいませんが、見物人たちは、それぞれ自動車やオートバイで海岸に続々とつめかけてきております」
見物人たちは続々とつめかけていた。強い海岸の紫外線のなかで、彼らの着た色とりどりのスポーツ・シャツが美しい。自動車は急造の駐車場にもうぎっしり詰っていた。首にアイスクリームの箱をかけた物売りの少年たちが、
「ボンボン、ショコラ、クレーム」
そうどなりながら人々の間を歩きまわっている。
競泳に参加する選手は圧倒的にフランス人が多かったが、ドイツ、スイス、イタリヤ、それにユーゴから来た二名の青年もいる。異色なのはインドから一名、そして、日本からはるばる来た安川だった。
国旗が風に鳴っている。こんな異国で日の丸を見るのはさすがに感慨ふかかった。
弓子は少年からアイスクリームを買うと、それをなめながら、人々から少し離れた岩の上に腰かけた。
空はコバルト色だった。空だけではなく今日のドーバー海峡もコバルト色だった。コバルト色の海に、まるで油絵の白い絵具をちらしたように、点々と白い波頭が見えた。海鳥は鋭い声をあげて、その海をとびまわっていた。
二十数年前、ここはイギリスから連合軍の艦船がノルマンディ上陸作戦を決行するために渡ってきた所である。弓子が今、腰かけているあたりも多くの兵士たちが倒れた場所なのかもしれない。
しかし、今はそんな悽惨な海はなかった。すべてが爽《さわ》やかで、あかるかった。光も海もまぶしかった。もし心に翳《かげ》があったとしてもこのオゾンのいっぱい含まれた空気を吸いこめば、すべてぬぐわれるような気持がした。
傷口よ、洗え、海の潮で
あたらしく生きよ、この砂浜を
未来にむかって、歩け
むかし学生時代に読んだ詩を弓子はアイスクリームを舐《な》めながら考えた。それはまさに今の自分に一番、必要な言葉かもしれなかった。
「千葉さんなんか、どこかへ、行っちゃエー」
風の中で弓子は両手に口をあてて叫んだ。風はその言葉を乗せて、頬をかすめ、吹き飛んでいった。
「千葉さんなんか、どこかへ、行っちゃエー」
すると気がせいせいした。巴里でのあの苦しかった出来事がみな、胸の中から吐きだされるような気がした。
サイレンがなりはじめた。あれは準備をおえた選手たちの集合を促しているのである。
脱衣所の小屋から、堂々とした体格の外人選手たちが、腕をグルグルふりまわしながら二人、三人とでてくる。
「安川くん、どうしたのかしら」
押見と安川とは脱衣所からまだ出てこなかった。弓子もついていきたかったのだが、さすがに男の子が裸体になるところにズカズカ入って行くわけにはいかない。
「おーい、弓ちゃん」
押見が一人、走り出て、手を口に当てて彼女を呼んでいる。周《まわ》りの見物人がびっくりしたようにその押見を見ている。
「どうしたのよ」
「口紅かしてよ」
「口紅、何するのよ」
「海水パンツに自分の国のマークを入れなくちゃならないんだ。俺たち、うっかりして忘れたんだよ。日の丸の赤じるしをつける絵具がないんだ」
「だって、あたしの赤じゃないわ。ピンクなのよ」
「仕方ない。それでもいいや」
ハンケチに口紅でピンクの日の丸を書くと、何とも言えずはえないものになってしまったが仕方ない。
それをつけて安川は脱衣所から出てきた。さすがに興奮しているのか、足がぶるぶる震えている。他の選手たちはすでに体に黒い油を塗りはじめていた。ドーバー海峡は水温がひくいので、油をぬって体の冷えるのを少しでも防ぐのだ。
「メッシュー」
拡声器で選手たちを促す声が聞えた。
「ヴレ・ヴ・デペーシェ……、アン・プチ・ヴー……」
そして一同は海べりに一列を作った。選手たちの横にはモーター・ボートで同行するコーチたちが集まる。押見と弓子とはもちろん、その中に加わった。巴里から来た雑誌や新聞記者がさかんにカメラのフラッシュをたく。
波はいくぶん、さっきよりきつそうだったが、空は相変らず晴れていた。競泳にはもってこいの条件である。
「日本。バンザーイ」
突然、見物人のなかから声がした。いつの間に来たのか、四、五人の日本人たちが日の丸の小旗をふっている。
「バンザーイ」押見はそれに和した。「バンザーイ」
弓子はその日本人たちのなかに那智氏の姿を捜したが、あれほど今日のことに熱を入れてくれた彼の姿は見当らなかった。もちろん淑子の姿も見えなかった。なぜか知らないが、弓子は暗い不安が胸のなかに起るのを感じた。
選手たちは、いっせいに泳ぎはじめた。
フランス人たちのグループがトップをきり、つづいてスイス、イタリヤ、インド、ドイツそして最後に安川の順である。
ボートの上から、各トレーナーやコーチはいざという時の薬、飲物、タオルなどを点検しながら、
「がんばれよ」
「ペースを乱すな」
さかんにそう声をかけるのである。
時々大きな波が来て、ボートをゆっくり持ちあげ、選手たちの頭をのむことがある。波からふたたびあらわれた彼らは口から水を少し吐くが、元気だ、ニヤッと白い歯を見せて続泳している。
半時間。フランス人たちのグループがトップをまもりスイスとイタリヤの選手が並んだだけであとの順位は変りがない。
「大丈夫、安川くん」
依然としてビリッケツを糞真面目な表情で泳いでいる安川を見つめながら、弓子は少し不安になって押見にたずねた。
「なあに、大丈夫さ」
「だって、どうして抜かないの」
「素人《しろうと》はこれだから困るな。まだ先が長いんだぜえ。安川はいつもあとが弱いんだ。だから俺としては今のうちに余計にスタミナをたくわえさせておく必要があるから、初めから飛ばすな、と言っておいたんだ」
「そう」
弓子はボートから手をだしてうねる波に指を入れた。陽がきらめいているにもかかわらず、意外に水は冷たい。
「でも、安川さん、外人と体格がちがうでしょ」
「だから余計、最初にエネルギーを消耗しちゃ駄目じゃないか」
乱暴な口調で、しかもウルさそうに押見は言い、メガフォンを口にあてて、
「安ー川ー、そのー調子。そのー調子」
波のなかで泳ぎながら、安川はうなずいた。
海草がゆっくり流れてくる。押見は棒を出してその海草が安川の顔にまつわりつかぬようにとってやる。時計を見て、記録ノートに何かを書きこむ。その忙しそうな押見の姿は局の時とはちがった何かを持っている。局にいる時はたんなる同僚としてしかうつらなかった押見が急に男らしい。
空には綿毛のような白い雲が一つ、ポッカリ浮んだ。水平線のむこうに薔薇色の陸地がほのかに見える。
(イギリス……)
あれがイギリスである。
「おい。目的地がそろそろ、見えてきたぞ」
メガフォンを口に当てて押見は安川によびかけたが、安川は聞えないらしく、顔をむこうにむけて泳ぎつづけている。
「ルギャルデ。ルギャルデ」
むこうのボートからもフランス選手のコーチが叫んでいる。
スカートで膝をくるみ、その膝をだくようにして、弓子はその薔薇色の陸地をじっと見つめた。
安川は今、あの陸地に向って必死に泳いでいる。ちょうどそれは巴里にむかって、千葉に会いたい一心で懸命に海を渡ってきた自分にそっくりだった。安川がこの青い海を泳ぎきろうとしたように、自分も、愛の海を泳ぎきろうとしたのだ。
(安川さんは泳ぎきらなくちゃ、いけない)
彼女は今まで他人事のように見えたこの競泳が、そして暗青色の波を直線コースで進んでいる安川の孤独な姿が――そう、泳いでいる選手たちはみな一人、一人、孤独だった。――急に大型映画のスクリーンにうつる顔のように自分にグウンと迫ってくるのを感じた。
ボートの端に手をかけ、弓子は心の中で叫んだ。
(がんばってちょうだい。安川さん)
一時間後。あきらかに疲労が各選手に浮びはじめた。コーチたちはそれぞれ、薬はいらないかとボートの上から声をかける。
「大丈夫か。安川」
安川はメガフォンを通して叫ぶ押見の声が聞えたのか、片手をちょっと、あげてみせた。
「無理をするな。無駄な精力を使うなよ」
インドの選手は相当に疲労|困憊《こんぱい》している。安川がゆっくりと彼を追いぬきはじめた。波のたかまりで二人は一列になり、やがて褐色のくるしそうな顔は、押しながされるように遅れていった。
インド選手のコーチは太ったフランス人だったが、
「サバ? サバ・バ」
しきりに心配そうに声をかけた後、ついに、
「セ・フィニィ」(終った)
モーター・ボートを彼の方に近づけていった。ぐったりとした体をひきずりあげ、急いで薬を飲ませている。
「これで一人、へった」
押見はそう呟いた。
このあたりから今まで紺青《こんじよう》だった海の色が変る。暗い青である。海水の温度が低くなったことが、この色を見ただけでもわかるのだ。
「安川さん、がんばれるかしら」
「知らん」押見は時計をみながら怒ったように言った。「しかし、最後までがんばらなくちゃいかんのだ。あのインド選手のように途中で弱気を出しゃあ、おしまいだよ」
「少し安川くんにきびしくはない。押見さん」
「ぼくはコーチだよ。コーチである以上スポーツにはきびしいとか甘いとかはないと安川に言いきかせている。自分の体力との闘いがスポーツだものな。安川は、それを選んだのだからね。やりとげなくちゃあ。女が恋愛を選んだ時と同じだろ」
最後のその言葉を押見は弓子にあてつけるために言ったのか、どうかわからなかった。しかし弓子はうつむいて、その言葉が棘《とげ》のように胸に刺さるのを感じた。
「ひどいことを言うのね」
「えっ、どうして」
「押見さんはあたしのことを……言ってるんでしょ。あたしが失恋したことをからかってるのね」
「そうじゃないさ。失恋なんか誰だってすることだ。しかし、失恋との闘いに弓ちゃんは負けているじゃないか」
それから彼は、じっと彼女の顔をみつめた。押見にしては珍しく真剣な表情だった。
「やめよう。ぼくは弓ちゃんのコーチじゃない。安川のコーチなんだから」
彼は寒暖計を海水のなかに入れた。海の色はさっきよりもさらに黒く冷たそうになってきた。
五人のフランス人選手のうち、急に二人がコーチのボートに手をあげた。疲労のため競泳を放棄《ほうき》するというのである。
「どうしたのかしら、まだ一時間半もたっていないんじゃない?」
たった一時間半ぐらいで、出場者の三名がもう力尽きたような姿でコーチにだきかかえられながらボートに這《は》いあがるのが、弓子にはふしぎである。
「冗談じゃないよ」押見は首をふった。「海の表面ではわからないかも知れないが、このあたりは海流が速いんだ。その海流にみんなは抵抗しながら泳いでるんだからね」
「そうだったの」
「そうさ。普通の海じゃないんだよ、ドーバー海峡は。だから選手の体力はそれだけ消耗しているんだ」
弓子はもうほとんど一列になって泳いでいる選手の顔を見た。どの顔も疲労が見た目にもはっきりわかる。みんな自分を押し流そうとする海流に逆《さか》らって力泳しているのである。
「安川くん。疲れているわね」
「わかっている」
レモンを口にふくませるため、押見はボートを少しずつ安川に近づけた。ボートの起す波が安川の体力をさらに消耗しないように気をつけねばならない。
薄く切ったレモンを口に入れてもらうと、安川はうなずくような表情を見せたが、その顔には相当、疲れが見えているようだった。
「馬鹿野郎」押見はその安川にどなった。「甘ったれた気持を起すんじゃないぞ。疲れているのはお前一人じゃないんだ。みんな、まいってんだぞ」
ひどいことを言う、と弓子は押見を睨んだが、押見は唇をキッと噛んだまま、中腰になって安川を見ている。
「なぜ、もっと、いたわってやらないの」
「うるさいな。黙っていてくれないか。今がいちばん、勝負なんだ。奴にやさしい言葉をかけてみろ。フラフラとボートに這いあがる気持になってしまう」
「でも、体が本当にまいってしまったら、どうするのよ」
「だから、こっちは奴の顔、表情をたえず気をつけてるんだ。あいつがどのくらいまいっているか、俺には、手にとるようにわかるんだから」
海流の速さは海にレモンの皮を流してみただけでもわかる。
むこうに小さい漁船が一隻、あらわれた。三人の漁夫たちが船をとめ、手をあげて英語で何か叫んでいる。
「イギリスの漁師だぜ」
さきほど薔薇色にかすんで見えたイギリスは、しだいにはっきりとした姿を見せはじめた。褐色の陸地に白い建物が点在している。
だが、また落伍者が出た。ドイツの選手とフランスの選手二名である。
ボートに引きあげられた彼らは、もう力尽き果てたようにぐったりと仰向けに寝ころび、コーチがしきりにマッサージをしている。
「残ったのは三名だぞう」
メガフォンを口に当てて押見は安川を激励した。
「フランスが一名、スイスが一名、それにお前だあ」
はじめて安川が少しだけ白い歯を見せた。
「ペースを乱すな。記録はどうでもいい。泳ぎきることだあ」
それからまた棒をだして、流れてきた海草を払う。
「大丈夫ね」弓子はそれを手伝いながら「安川くん、大丈夫ね」
「うるさい」
押見は大声で彼女をどなりつける。
空が少し翳《かげ》ってきた。
翳ってきたのではない。青空は青空なのだがイギリスから流れる煙突の煙の微粒子がやはり大気にまじっているのであろう。さっきより日光の強さが弱まったように感じられるのだ。
海のうねりもややおさまってきたように見える。
「もう海流はなくなったんじゃない?」
「第一の海流はね」押見はうなずいた。「だが、もうひとつ、第二の海流があるんだ」
「もうひとつ?」
「その難所でたいてい、落伍しちゃうんだよ。さっきの海流でみんな、スタミナをすっかり喪《うしな》っているからね。それをのり切れば大丈夫なんだが……」
「もうすぐ? その海流は」
「あそこに……見えてきたろう」
なるほど、押見の指さす方向に帯のようにそこだけ、無気味なほど波の静まりかえったところがあった。波が静まりかえっているのではなく、その底にはかなりの速さで海流が流れているのだ。
「ああ、近づいてくるわ」
安川はスイスの選手、フランスの選手と頭をならべながらその静まりかえった部分に接近していく。
「渡り切れる。安川くん」
「渡り切らなくちゃいけないんだ」
三人の頭はついにその海流部分に突入した。体がほとんど前に進まない。まるで立ち泳ぎでもしているような感じである。歯をくいしばり彼らが暗い大きなものと闘っているのがよくわかった。安川も闘っていた。徐々ではあるが、安川が三人のなかでトップを切りはじめている。
言いようのない感動で、弓子はその光景をみつめていた。
これは、彼女にとって、たんなるスポーツの見物ではなかった。それは巴里まで愛する者を追い求め、断られても、まだ追い求めてきた自分の姿に似ていた。安川が今、闘っていると同じように、自分も闘ったのである。
安川は少しずつ前進した。時々、押しもどされる。わずか百米ほどの幅しかないこの海流地帯だが、それを突切るのに何と時間がかかることだろう。
「もう少し。もう少し」
押見は必死でメガフォンを口にあてる。
「そこを渡れば、あとは楽だ」
陸地はもう間近である。既にむこうの岸から五隻のモーター・ボートがこちらにむかってやってくる。海岸にもかなりの人が集まっているらしい。
フランス選手が遂に勝負を棄てた。
コーチのボートは、力なく、木片のようにただよっている彼をひきあげるため、そばに寄っていった。
スイスの選手は、かなりがんばっている。安川との差がちぢまっていく。安川がもう最後の力まで出し切ろうとしているのがよくわかるのだ。しかし、最後の力を出してはいけない。余力を残らず使い果せば、ゴール突入の直前にへばってしまうからである。
弓子は手を握りしめ、
「安川くん。安川くん」
と泣くように繰りかえしていた。
ポッカリと黒くういた安川の頭――あれは自分だと思う。千葉の病院やホテルをたずねた自分だと思う。自分は失恋こそしたけれど、自分の情熱には誠実だったと思う。だから敗れたって悔いたりすべきでないと、今、弓子は思う。
スイスの選手はついに安川と同列になった。
「ペースを乱すな」
押見はどなる。
スイスのコーチもボートの上から必死で叫んでいる。
落伍した組のボートでもこの二人の勝負を、選手たちがじっと見まもっている。海鳥が鋭い声をあげて白い波頭をかすめていった。
渡り切った。難所を遂に渡り切った。
だがその時、スイスの選手が片手を少しあげ、そのまま沈んだ。力つきたのである。
「ああ」
失望とも落胆ともつかぬ声が、各ボートの上からいっせいに起った。
コーチはタオルをひろげ、助手が片手を海面にのばして選手を水から引きあげた。彼がボートに這いあがった時、拍手が海の上に拡がった。弓子も思わず手を叩いた。
安川一人――。
安川は一人のまま少し泳いだ。彼の頭がまた荒くなった海に沈み、浮ぶ。
「がんばれ」
激励しているのは押見だけではない。フランスのコーチも選手もインドのコーチも選手もドイツのコーチも選手も今は自分たちの立場を忘れて、ただ一人、力泳する安川に声援してくれているのだ。
「がんばれ!」
オ・ラ、オ・ラ、オ・ラ、だれかがリズムをつくってそう叫ぶと、みんなはいっせいにそれに和した。オ・ラ、オ・ラ、オ・ラ。それはさまざまな国の言葉をこえた言葉だった。
けれども安川の体力の限界はさすがにそこまでだった。突然、彼は口から水を出しながら立泳ぎをはじめた。
「よし、今、行くぞ」
じっとその姿を凝視していた押見は思い切りよく、メガフォンを投げ棄てた。
「安川、よくやった」
引きあげられた安川の肩や手をもみ、ビタミン注射をしながら押見はいく度も繰りかえした。
「安川、よくやった。よくやったことだけで十分なんだ」
二階建てのバスが走っていく。そのあとを制服をきた救世軍の一隊がマーチをならしながら行進していく。
ピカデリー・サーカスの通りで弓子は押見と安川との三人で、ぼんやり、その救世軍の行列を見つめていた。
「なんだか、この風景、映画のなかで見た記憶があるんだけどなあ」
押見はそう呟いたが、弓子もさっきから同じことを考えていたのである。
「じゃあ、五時までにホテルへもどればいいのね」
「そうだ。しかし五時には必ず帰ってくれよ。でないと、飛行機に間に合わなくなるから」
「わかってるわ」
二人をその喫茶店に残して、弓子は一人、ピカデリーの歩道を歩きだした。
巴里とは雰囲気のちがったロンドンの盛り場である。どう違っているか、一口にはいえないが、シャンゼリゼが銀座のようにすました顔をもっているならばここは新宿に似ているといえる。
(さあ、どこに行こう)
どこにいく当てもなかった。しかし、この見知らぬ街のなかで、おそらく一生、どんなことがあっても、ふたたびめぐり会うことのない人々にまじって歩いていることは心地よかった。自分がロンドンでこういうふうに一人ぼっちで歩いているなんて――三ヵ月前までは考えもしなかったことである。
(ずいぶん、遠くまで来たもんだ)
彼女は今、東京は何時頃だろうとふと考えた。おそらく東京は今、真夜中だろう。巴里は? 巴里はロンドンとそんなに違いはしない。千葉は今はもう巴里にはいない。ニースのほうをまわっているはずである。
少年が新聞を売っていたので何気なく一枚買った。英語なら多少、読めるので、もしやドーバー海峡横断のことが記事として出ていないかと思ったからである。
目の前にバスが来た。思い切って乗ってやれと考え、手をあげて飛びのった。
「ターミナル」
「イエス、ターミナル」
終点がどこか知らないが、そこまで行って引きかえせばいいのだ。
新聞をひろげたが、どの記事もむつかしそうでよく理解できない。ただ巴里とロンドンの社交界のニュースをのせている欄を何気なしに拾いよみしていると、
『巴里、日本大使館でのパーティ』
そんな記事が目にとまった。
『大使館再開の丸十周年を記念して巴里の日本大使館ではパーティが催され、英国大使館からもウエリントン大使その他が出席した。当日はミセス・ヨシコ・ナチのピアノ独奏が客たちの盛んな拍手を受けた』
なんということなく、弓子の頬に笑いがうかんだ。
(自分を偽った生活……)
その言葉が急に咽喉にこみあげてきた。
そう、なぜか理由こそはっきり言えない。言えないが那智淑子の生き方、それは弓子には自分を偽った生活に見えるのだ。危険をさけ、本当の部分に目をつぶっているように見えるのだ。
海流にまともにぶつかっていった安川の懸命な姿。
あの姿はまだ弓子のまぶたの裏にはっきりと焼きついている。押し流されても押し流されても流れをつきぬけようとしていったあげく、力つきてボートにこそ引きあげられたが、安川は決して卑怯な真似はしなかった。
いかにも全力をあげて、闘ったという感じがした。
(あたしだって、千葉さんという海流に、……)
安川と同じようにぶつかったのだ。敗れて悔《く》いはない、と押見は言い、安川もうなずいていたが、それは弓子の場合にも当てはまる言葉だった。
(それが、あたしたち世代の生き方だわ)
自分たち世代の生き方だけではない。今後のあたしの生き方だと思う。
「ターミナル。ターミナル」
客たちのあとについてバスをおりると、そこはロンドン塔のすぐ近くである。灰色の塔が少し曇り空に浮きあがっている。漱石《そうせき》の小品ではひどくここが陰惨に描かれていたが、今、子供たちが遊ぶ声、緑の樹木、すべてがあかるい。
テームズ川にゆっくり船がのぼってくる。橋がある。
弓子は川面を見つめ、自分はやはり海を渡ってこの国に来てよかったと思った。
本書は、一九七九年五月に刊行された講談社文庫版を底本としました。