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ぐうたら愛情学
遠藤周作
目 次
二枚目半愛情論
二枚目半文化論
男女分権論
当世女子学生物語
愛のエスプリ
女性の愛について
妻は夫の踏絵である
「嫁」と「姑」
女性に与う愛の十二講
「女性のユーモア」再考
「女と記憶」再考
雑句波乱《ざつくばらん》女性考
犬の話
再 会
女のうわさ話
悪妻か否か
女のしかり方
女の友情
慎みの欠けた時
女であることはシンドイ
少しきわどい話
ダメな親
夏の事件
夫婦の愛情診断
夫の悩み・夫の不安
夫はどう愛情をみせるか
夫の嫉妬と妻の嫉妬
夫婦喧嘩考
続・夫婦喧嘩考
家庭について
雌鶏に刻を告げさせよ
恐妻武者修行
女房はなぜムッチリ肥るか
男は真実女房がこわい
正々堂々と浮気をする法
日本人亭主の素朴な疑問
パリの女房操縦学教授
女、この不潔なるもの
「亭主悪漢の思想」をどう捌くか
「女房論理学」から身を守るべし
「負けるが勝ち」の演出法
最上、最高の「女房懐柔策」
誰のためにも愛さない
ベビーで頭がいっぱいのママになるな
夫婦喧嘩のときの屁理屈
おしゅうとさんにいじめられない法
パンチのきく涙の使い方教えます
妻よ日曜のゴロ寝を許されよ
犬も三日飼えば情が移る、女房も……
夫婦の仲にもマナーあり
反抗期の夫とおならの関係
女子大家政科卒、甚だ合理的
課長夫人の評判が悪い理由
一円玉でわかるあなたの悪妻度
男の苦しみ、女の哀しみ
人を愛するとは
愛の男女不平等について
姦通《かんつう》論
結婚の生態
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二枚目半愛情論
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二枚目半文化論
1
二枚目半文化論などと書きますと、どうも大袈裟で照れ臭くなります。しかし他に適当な題名がないので一応この題でおしゃべりをすることにしました。気楽な気持で読んでください。
まず、二枚目半[#「二枚目半」に傍点]という言葉ですが、これはつい最近、ある週刊雑誌が創りだした言葉です。お読みにならなかった方はキョトンとされるかもしれませんから、簡単に解説しておきましょう。
近頃、映画界では今までのように非のうちどころのない美男スターではなく、何処にでもある顔だちの男優が若い女性の人気をえているでしょう。こう申しあげては失礼だが、たとえば大坂志郎氏だの、小林桂樹氏などがそれです。森繁さんだってある意味でそうだと言えないことはない。外国では、ダニエル・ジェランのような俳優をあげることができます。彼等は決して昔の岡田時彦や上原謙のようにハンサム中のハンサムではない。銀座や新宿を歩けばざらに出あうタイプの顔だちと言ってよいのです。それがかえって現在の若い娘さんから好感をもたれている。つまり二枚目[#「二枚目」に傍点]ではなく二枚目半[#「半」に傍点]なのです。
その理由はなぜかと言えば幾つでも挙げられるでしょう。寸分スキのない顔だちの青年は女性にとって憧れの対象となっても、なにか縁遠さ、近よりがたさをおぼえさせ、時には警戒心や劣等感を起させる。「素晴らしいハンサムだわ。しかしあたしなんかとてもとても」と思う気の弱いお嬢さんもあれば、「美男子を鼻にかけてイヤらしいったら、ありはしない」と反発する女性もいる。女性だけではない。こうした美男子というのは同性の男性からもヒガまれるだけで必ずしも人生において得《とく》をするとは限らないのであります。
ところが二枚目半となるとこんな冷たさ、警戒心を若い女性には与えない。まるでオフィスで一緒に働いている山下クンや田中クン、あるいは家庭にあって小遣ばかり妹にせびる兄貴のような親しみを感じさせるわけだ。「桂樹ちゃん。お茶のみに行かない?」「ヨシきた」そういう気やすさ、親愛感があの二枚目半のスターにはある。「あんな男性なら私の恋人にも見つかるかもしれないわ」。女性には大いに現実感を与え、また我々のような若い男性にも「小林桂樹がもてるなら俺だって何とかなるかもしれないぞ」という自信を植えつけるのです。
これだけなら問題はない。これだけの話ならば映画雑誌の黄ページのお話だ。だが言うまでもなく映画スターという存在は考えようによっては、たんに銀幕の人気者だけではなく、ある時期時期の女性の趣向や感覚の反映です。戦争直後、三船敏郎のような俳優が若いファンの心をひいたのは、彼が戦後の不安定な世情にもビクともしないたくましい男とうつったからでしょう。今日、二枚目半のスターがもしお嬢さんたちの好感をさそっているとするならば、それ相応の社会的理由がその底にひそんでいるのかも知れない。ぼくが皆さんと一緒に考えたいのはまず、この問題です。
そこでクドいようだが、もう一度、二枚目半の特性を考えてみましょう。二枚目半が今日、好意をもたれるのは第一に彼等が我々男女にとって縁遠い存在ではないからである。それは二枚目という我々凡人のなることのできない高嶺《たかね》の花ではなく、みんなも同じようになれる、誰もが恋人にもてる人間だからだ。
第二には、二枚目半には二枚目にどことなく漂うあの偽善的な匂いがない。偽善的というと語弊がありますが、二枚目というのは顔だけではなく煙草の喫《す》い方、洋服の着こなしかた、すべてが完ぺきであり、完ぺきというものは人間にとって偽善的、独善的な匂いを感じさせるものです。「私は美男子。みなとちがいます」。極端に言えば二枚目は社会から離れた高い場所に坐っているようだ。彼等はぼくら凡人には憧憬やコンプレックスをもたせますが、同時にある無力感を与えてくれるとも言えましょう。
この「縁遠くないこと」「独善的でないこと」「みんなもやれること」こういった一種の実現可能感が二枚目半の魅力です。そして今日、この二枚目半諸氏が映画で活躍しだしたという事実は同時に若い世代が他の領域――たとえば教養や実生活の面でも「みんなにもできる」「縁遠くない」「独善的でない」ものを求めだしているのではないだろうか――こう考えられるわけです。
二つの例をもちだしてみましょう。ぼくはこれで足かけ五年ほどある女子短期大学に週一回でかけているのですが、時々、そこのお嬢さんたちがどんな本、どんな雑誌を読んでいるかたずねる時がある。名前はだしませんが五年前には婦人雑誌ではAというのが一番読まれていたようだ。そのAという雑誌はパリ直輸入のモード、華やかなグラビア、色とりどりに入れて大変うつくしい。それが五年後の今日、同じ質問を女子大生にしてみると思いがけなく人気が落ちている。
「ふしぎだね。昔はA誌が人気があったのだぜ」そうたずねると――、
「だってアレ、夢ばかり持たせて、作れないんですもの。モードだって何だって」という返事でした。彼女たちの希望によると、婦人雑誌のモードは夢を持たせてもらわねば困る。しかし役にたつ実現可能な夢でなければ不満だと言うのです。シャンゼリゼを自動車で通りすぎるパリ貴婦人には似合うが、満員電車の束京ではとても着こなせないモードなら意味がない。つまり高嶺の花で憧れだけ持たせる二枚目モードよ、さようならと彼女たちは言うのでした。
彼女たちとの授業でも、この傾向は少しずつ現われてきた。ある日、ぼくはアンドレ・ジイドの『狭き門』を彼女たちに読んでもらい、その感想を出させたことがある。御承知のように、この本は一見アリサとジェロームのこの世ならぬ恋愛を描いた作品で昔の娘さんなら泪《なみだ》ながさんばかりに感激、陶酔した小説。これが今日の若いお嬢さんには思いがけなく人気がなかった。彼女たちは本能的にいわゆる純愛のもつ偽善性をかぎつけたのであります。「ジェロームという青年は女々《めめ》しいからキラい。アリサだって普通の女じゃないわ」。そういう意味の率直な批判を書いた答案が幾つもあった。勿論こうした二つの例だけから新しい世代の趣味や傾向に判断を与えることは危険でしょう。しかしぼくはこの些細《ささい》な経験の中にも「二枚目」ではなく「二枚目半」スターを応援する彼女たちの生活感覚がひそんでいるような気がする。現実から浮き上ったもの、独善的なもの、とりすましたものに対する嫌悪がそれです。やすやすとこの生活感覚がいいとか悪いとか言うのは差し控えたい。問題は彼女たちの気持がそうなった以上、その感覚から我々も良い面を学ぶことができないでしょうか。
2
もし彼女たちの感覚を更に発展させれば、二枚目文化は当然馬鹿にされるでしょう。二枚目文化とはおかしな言い方ですが、さきほどの分類にしたがって二枚目と二枚目半とを対立させますと、文化の中にも二枚目文化と二枚目半文化があるように思われる。更につけ加えるならば三枚目文化も考えられないことはありません。
それでは二枚目文化とはいかなるものでしょうか。面白いことには、明治以後、戦前の日本人はこの二枚目文化の影響をうけ、しかも無意識にそれを尊敬していたことです。二枚目文化は見かたによると近代日本文明の歪みをそのまま象徴しているように思われます。
二枚目文化の第一の性格はその特典が二枚目にしか与えられないという点です。こう言えば皆さんは「ははあ、昔のように王侯、貴族だけが味わうことができても一般庶民には手の届かぬ文化のことだろう」とお考えになるでしょう。フランスならばあのフランス革命前まで――つまり芸術も、豊かな生活も、上層階級だけに楽しめ、悲惨な生活と重税に苦しむ一般民衆には縁遠かった文化を連想されるでしょう。勿論それは二枚目文化の一つのあらわれであります。しかしまた現代日本のように高い豪奢《ごうしや》なビルディングが無数に建てられるが、一般の住宅は依然として貧しくみすぼらしいのも二枚目文化の特徴です。なぜならそれは少数のスターだけが美男子であり大多数の人間がそれに憧れるだけという関係をもっているからです。あるいはまた、亭主はねころんでヴァレリイの本を読み、女房は背に赤ん坊を背負って風呂をたいている日本の都会生活も、二枚目文化のあらわれと言わねばなりますまい。
都会だけが近代的で都会を一歩離れれば物質生活も生活感覚も前近代的であるという日本の現実はよく識者に指摘されることですが、その原因の一つは明治以後の日本人があまりに二枚目文化を尊敬しすぎたためだとぼくには思われます。文化そのものが本当に人間の心性や感覚や風土に根をおろさず、頭のテッペンで浮きあがってしまっているのは二枚目教養の大きな特徴である。しかも明治以後の近代日本人は案外この二枚目教養を無意識に尊敬してきたのです。
たとえば本屋に行ってごらんなさい。日本ほど外国文学の移り変りに敏感な国はないということはみなさんも御承知の通りです。戦争が終ってサルトルがフランスで人気があると聞けば、自称実存主義者が日本にもあらわれてくる。カミュの『異邦人《いほうじん》』が本国で読まれていると聞くと我々も争って読む。サガンという少女がでた。たちまち『悲しみよこんにちは』は二つの出版社から上梓される。新宿や渋谷のトリス・バアに行きますと、ジャン・ジュネだとかマルキ・ド・サドなどとしゃべっている学生に幾らでも出会うことができます。ぼくの友人でフランスに留学した男がいる。彼はむこうでパリ大学の文科学生たちよりもフランス現代文学の作家や作品についてよく知っていたそうです。「お前、何処で読んだ」「日本で読んだ。みんな翻訳がでている」そう説明しても誰も信じてくれはしない。プルーストやジイドならともかく、ピエール・ファーベルだのルック・エスタンだの、本国のフランス文学青年でさえほとんど知らない小作家の作品までが極東の国では翻訳されているとはどうしても彼等には納得がいかなかったそうです。「その時、ぼくはフランス学生の眼のなかにぼくにたいする一種の憐憫《れんびん》の情を読みとりました」と彼は哀しそうに手紙で書いてきました。
勿論、外国の芸術に敏感なこと、あまたの翻訳がでることはそれ自身では決して悪いことではない。しかしそれが朝、発行されて夕方には棄てられる新聞紙のように我々に無駄な疲労と根のない知識の集積だけをもたらすならばこれは考えなくてはならない。この問題は、この場合だけには限らず他の領域にもあらわれていると思う。ある雑誌で今日出海氏が「民主主義国として更生して十年になり、民主主義は形の上では一応、落ちついた観を呈しているが、その内容に到っては、これが根を据えるのかどうかと疑問に思うばかりに、浮いた形ばかりの民主主義で、単に衣更えをしたという感じがせぬではない」と書いていられるのもぼくの申し上げたことと同じ悩みだと思います。
二枚目文化、二枚目教養というのを思うとき、ぼくはなぜか昔の旧制一高の学生を思いだします。白線をつけマントを着た彼等の寮の壁にはいつも「真理とは何ぞや」「人間愛をもたぬ者よ去れ」などという深刻な文句が書きつけられていた。夜は夜で彼等はカントを読みゲーテを語り、読書と思索にふけっていたそうです。だがこれら似而非《えせ》なる哲人たちも大学を出て社会に入ると大部分はカントどころか、電車の中で週刊雑誌を読むのが精一杯。かつて夜を徹し人間愛について友と談じた男が戦争の指導者にもなりかねない。どこかに彼等の若かりし日の文化摂取や教養には一本、本質となるべきものが欠けていると思われるが間違いでしょうか。これがぼくのいう二枚目文化なのです。
こうした二枚目文化を批判するものに三枚目文化精神というものがあります。三枚目文化と言うとこれもおかしな言葉になりますが、三枚目、つまり道化の文化と言ってもよろしい。ある一時代の末期、衰退期、腐敗期になりますと、こうした道化的な文化やその役割を背負った人間が生れてくるものだ。彼等は自らをわざと愚人化し、おどけ、阿呆を装いながら、しかも苦しい自虐の精神と痛烈な諷刺《ふうし》の眼をもって二枚目文化のもたらす偽善、独善をえぐるのです。シェイクスピアの『リア王』を開いてごらんなさい。その中にこんな言葉があります。
今年は阿呆のはずれ年
賢い方が馬鹿になり
知恵の使いようも知らぬほど
身ぶり手ぶりが阿呆らしい
この言葉を一人の道化が述べるのですが、言うまでもなく彼は「知恵の使いようも知らぬ」二枚目連中の美男子ぶりを嘲笑しているのです。シェイクスピアの道化だけではない。先ほど一寸ふれたフランス革命のはじまる頃にはこうした道化や自虐家、つまり三枚目役が幾人も芸術家となって生れてきた。たとえば『危険な関係』を書いたラクロがそうです。それからサディズムの元祖、サド侯爵もその一人。彼等はわざと二枚目文化からみれば顔を赤らめる罪ぶかい小説を書いて自分を道化にしてみせたのであります。
だが二枚目文化を諷刺するこの三枚目文化の中にも同じような独善があります。三枚目文化人がひっくりかえされた二枚目文化人になる場合がある。彼等は孤独な寂しい道化役を演じていますが、心の底には「我一人」という自信と美男意識がひそんでいる。「俺はわざとこうした演技をしてみせるが……」という自己陶酔がかくされていないとは限りません。つまり彼等は社会から離れたアウトロウ(局外者)の位置で世をすねていると言えましょう。その心は悲壮で辛いでしょうが、時としてその演技は不毛になり、その孤独感は袋小路にぶつかる場合が多い。これが三枚目文化人の悲劇なのです。だが三枚目には皆がなれるとは限りません。三枚目は多くの場合、芸術家がその役割を背負ってきたのですが、皆が皆芸術家とは限らぬ以上、ここで別のあり方を考えねばならぬわけです。それがここで言う二枚目半の立場。勿論、ぼくの言う二枚目半の立場とは小林桂樹や大坂志郎を好む感覚から少し飛躍しすぎたかもしれません。しかも先程もお話したように現実をふまえない教養、独善的な一人よがり、美男子意識を捨てようとする傾向があの感覚のなかにはふくまれています。それを発展させるならば、ぼくらは明治以後、今日まで日本人がともすれば陥りがちであった、あの根のない文化や教養をこえることができるかもしれません。まず第一に二枚目半の文化は「みんなにも近寄れること、みんなもやれること」から始まります。一人の二枚目、一人の美男子に遠くから憧れる夢想ではなく、みんなが自分も二枚目半になろうという現実感から生れるわけです。現実感から生れるのですから、それは浮きあがった文化ではなく日本に根をおろす文化への志向とも言えるでしょう。
具体的にはどういうことかとお尋ねになるのですか。たとえば読書一つを例にとってみましょう。外国の文学を読む場合でも日本の現実を頭におきながら読む方法です。外国の文学の中には神だの罪の意識だの虚無だの、我々日本の伝統や風土からほど遠いものが一杯でてくる。二枚目文化や二枚目文化人はそうした縁遠いものもまるで心得ているようなふりをして読んだのである。「君、サルトルはいいねえ」。その一高生が今日は電車の中で週刊雑誌だけに眼を通すのも本当に教養のための教養読書だったからです。だが今日、そのクダラなさを知ったぼくらは外国の小説からワカらぬものはワカらぬ、縁遠いものは縁遠い、たえず日本の現実を頭におきながら読む。そしてなぜ縁遠いのかということを考える。これならば誰でもできます。正直だからです。
これが二枚目半の読書だというのです。つまり身についたところから文化を創りあげていきたいのです。そしてこの感覚は読書だけではなく、他の生活の上にもそれぞれ及ぼしていくべきでしょう。
第二は二枚目半の文化は一人の美男子のための文化ではなく、みんなが二枚目半になれるということです。先ほども申しあげたように、亭主がヴァレリイを寝ころんで読んでいるのに、女房は赤ん坊を背負って風呂をたく――これはとりすました二枚目的文化人の生活です。都心には立派な建物ができるのに一般の住宅はみすぼらしく貧しい。この背後にもやはり二枚目文化の感覚がある。少数の者だけが美男子を誇って多くの者がそれを憧れているからです。たとえタイロン・パワーのごとくなくとも、みんな大坂志郎であるように――それを願う二枚目半文化人は女房が風呂をたく時は水をくむでしょう。都心にはデッカいサンドイッチのような建物がたつ前に、みんなの住宅があと五十パーセントだけ良くなる文化を望むでしょう。
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男女分権論
1
初めにおことわりしておきますが、このエッセイは女性の読者であるあなたたちにとって、読んで気持のよいものでないかもしれません。ある人は、途中まで読まれて顔をしかめられるかもしれませんし、ある人は、「まア」と声こそ出さね、心のなかで反発されるかも知れない。いわば、このエッセイは書き手であるぼくにとってあなたたちを憤慨《ふんがい》させるかもしれないという危険さで、極めてやりたくない損な原稿なんです。
ぼくだって男性ですから、女の子の気を損じたくない。遠藤周作さんという人は、女の気持をよくわかってくれるわと思ってもらったほうがありがたいし、うれしいにきまっている。それを百も承知でこんな損な原稿を書きだしたのは、一つには、ぼくのような考えがそろそろ発言されてもいい時期なんじゃないかと思ってきたからです。
もっとも、今言ったように、ぼく自身じゃこの損な役割は引受けたくなかった。できうれば、だれかえらい学者先生がそのうちに言いだしてくれるだろうと、待っていたんです。
だが今までのところ、誰も言いださない。特に進歩的学者先生は言いださない。なぜ言いださないかと言えば、彼等、髪をパラリと額におとし、憂鬱げな顔をして理屈をこねる連中は、女性の読者がおそろしいことを百も承知しているからだ。まかりまちがっても「女性よ、君たちは少し甘やかされている」などと言えば、彼女たちの柳眉《りゆうび》を逆立てさせ、怒らせ、そしてソッポむかれること必定である。だから言えない。そしてぼくだってイヤだが、皆が言わないからしかたない。
ところで皆が女性読者をコワがるのも無理もない。戦後、強くなったのは靴下と女だという言葉がありましたが、これは一面、男性の自己|揶揄《やゆ》でありながら半面、真実をついている。たしかに女性は戦後、美しくなったが、同時に強くもなった。これは現在、十代二十代の皆さんには本当かなと思われるかもしれませんが、ウソだと思われたら、お母さまや叔母さまに聞いてごらんなさい。お母さまや叔母さまの時代は、御存知のように女性には選挙権もなければ、大学に進学する権利もない。兵役もなければ(兵役は男だけの損な役割だ)、姦通《かんつう》罪においても男子ばかり特典があった。亭主に「オイ、コラ」と怒鳴られれば「ハイ、申し訳ございません」と頭をさげてあやまらねばならなかった。あなたたちのように男の子に荷物を持たせ、喫茶店ではコーヒーをおごらせ、平気のヘイザというわけにもいかなかった。
それが今日では男も女も一応は同権である。これは当然のことであると皆さんはお思いでしょう。しかし、女性にも選挙権があり、大学に進学できるまでには、日本の先覚女性がさまざまな形で闘ってきたことはお忘れになってはいけない。今日、当然とあなたたちが思っていらっしゃる権利をかちとるまでには、こうした偉い先輩たちの力がおおいにあるのです。
男女は同権であると今の女性たちは考えます。あたしたちは能力においても知識でも男性には決して劣らないわ。社会において男にまけず働くことができるのよ。選挙権、進学権、その他もろもろの基本的人権と社会的位置においては同格でなければならぬし、同格であるのは当然ですわ。こうお考えになるでしょう。
ぼくもそうだと思います。本当にそうだと思う。しかしそれは一つの条件を入れての話です。その条件についてはあとで述べるつもりです。
だがその前に別のことを考えてみましょう。さきほど女は強くなったと申しましたが一方では、民主主義の社会になった今日も、女性側の中には依然として男女同権が社会では実行されていないという声を、日常生活でぼくはよく聞くのです。
「なにが男女同権ですの。うちの職場じゃまだ女の子にお茶くみさせるんだわ」
「そうよ。うちじゃ五年つとめたって七年つとめたって、女性には責任ある仕事を与えてくれないわ。女には何もできないっていう考えが頭にあるからだわ」
こういう声をぼくは若い女性から非常によく聞く。彼女たちはその時、ぼくまでが横暴な男性であるかのような顔つきをする。そしてぼくは他の男性の責任までとらされて甚だ迷惑だ。
しかしちょっと、考えてみましょう。あなたが仮にどこかの会社の上役だったらどうします。客がくる。あなたは男子社員にお茶を持ってきてくれと本当に言いますか。ぼくならやはり給仕さんがいない時は女性社員に頼むでしょう。但し勿論、その時は「おい、お茶もってきてくれ」などとは言わない。「○○さん。お茶、運んでくれませんか」という言いかたはするが、とも角、女子社員にお茶くみをたのむ。ぼくはこれを非民主的とも封建的とも思わない。なぜか。お茶を武骨なきたない男の手で出されるより、あなたたち女性のやさしい優雅な手で出されるほうがオイシイし、また事務的な客にもなごやかな雰囲気を与えるからです。お茶くみは決して事務や机運びよりいやしい仕事でもなんでもないと思うからです。と同時に、机運びは力弱い女性にはたのまないで、男の社員にたのむでしょう。男の能力と女の能力は優劣があるのではなく、別の次元だからです。
次にあなたが会社に責任ある上役だったら、日本の現状で女性に課長や係長の役職を与えるでしょうか。
いやいや、あなたたちだって、この点、自信をもって同性を会社の重要なポストにおかないでしょう。なぜなら会社の仕事というものは、やはり他の仕事と同じように能力と共に年期と経験がものを言います。これはどう否定しようとしたって否定できない事実です。だがたいていの女性は、入社して五、六年もたたぬうちに結婚生活にはいるため退社してしまう。このことは上役にとってはやはり責任ある仕事を委せられぬ重大な理由になるのです。ところが男の社員の場合は多くの場合、その生涯を会社の運命や浮沈に賭けているのです。
だから彼等の間にははげしい競争心や嫉妬心も生れるかもしれませんが、友情も生じる。そして彼等が同じ職場の女性社員を(やがては他人の女房となって退社する女性社員を)生涯の同僚と見られなかったとしても、それはあながち冷たい仕打ちとは言えないでしょう。
こう考えてみると、お茶くみ問題といい、女性を男性よりも職場で差別する問題といい、一途に[#「一途に」に傍点]男性の横暴と言えない理由がみなさんにもわかっていただけると思う。
しかし問題は別なところにある。こういうことはぼくが何もわざわざ書かなくても聡明《そうめい》なあなたたち女性はみな御存知だ。御存知にもかかわらず、なぜ依然として女性のなかにはお茶くみや職場待遇の問題にからんで憤慨される人が絶えず、また、そういう不平をつぶやくのでしょうか。
それには根本的な理由があるとぼくは思う。その根本的な理由とは戦後以来、進歩的女性やそれに追従する一部の文化人が「男女同権」ということをまちがった形で唱えたからです。
男女同権という考えかたは平たく言えばこうです。男と女とは同じ能力もある、力量も資格もある。女はなにもできないと言って家庭に封じこめ、男だけが社会に出てデタラメ勝手なことをするのは許せん。それは男性の封建意識のあらわれだ。だから男と同じだけ女も扱われるべきだという考えです。
2
この考えかたは、それまでの日本の社会が外見、極端に男尊女卑の形態をとっていたために、当時の民主主義風潮にほとんど無反省に受け入れられ、特に女性の間では歓迎されたようです。
そしてどんな現代女性も、心のどこかでは考えている、女だって男に負けないわ。女だって男と同じようにやれるわ。……
こういう男女同権意識が心の奥にあるから、会社でお茶くみを命ぜられるとカチンとくる。大学出の女性になると、会社で男と同じ地位を与えないと柳眉をさかだてるわけです。
しかし我々男性からみると、こういう男女同権主義の女性には、どうしても腑《ふ》に落ちない点がある。というのは彼女たちは一方では「女は男に負けぬ」と言いながら、自分の都合のいい時は「女はかよわいもの」と言い逃げる。
たとえば男女同権なら、男女の友人や恋人たちが、レストランやコーヒー店によった時、ワリカンで支払うべきだ。あるいは女が男におごってよい筈だ。
しかし小生の経験から言って一度だってそんなありがたい目に会ったことはない。いっしょに食事をする。お茶を飲む。すると女性は「おごるのはアッタリマエ。男の義務よ」と立ちあがって、スタスタと表に出てしまう。
パーティーにいく。時間がおそくなる。こちらが誘ったのでもない女性が車に乗せろと言う。車に乗せろということは、家まで送れということだ。そしてもし我々男性がワリカン主義を唱え、家まで送らねば彼女たちはなんと言うでありましょうか。
「野蛮人。弱い女をいたわることを知らぬ礼儀知らず。もう知らないッと」
自分の都合のよい時はか弱い女性で、自分に別の都合がよければ男女同権。これじゃ、あんまりと言うもんじゃないかよ。もしあなたたちが逆の立場だったら、それでも承知できますか。できないでしょう。しかし日本の現状には実際、こういう不合理なことを平気で考える女性が案外、多いのです。
どっちかにきめてほしい。いったいあなたたちはどっちを望んでいるんだ、と男性は叫びたくなる。本当に心の底から叫びたくなる。「女性よ。男と同じにとり扱ってくれと言うのか」
よろしい。そうなら男と同じにとり扱おう。その代り会社では男と同様、生涯、そこに殉《じゆん》じてくれ。途中で結婚して家事のため育児のためといって退社したり、あるいは会社を欠勤せず夜勤もどんどんやってくれ。喫茶店やレストランで男ばっかりに払わせるな。払うのはアッタリ前という顔をするな。
それとも、か弱い女として扱ってくれというのか。よろしい。おごろう。おごりましょう。レストラン代は男が持つよ。その代りだ。君たちはか弱い[#「か弱い」に傍点]のだから、男女同権などと会社ではいうなよ。係長、課長にしないなどと不平をいうなよ。
この理屈は男性からいえば当然です。しかし女性からみれば屁《へ》理屈とみえるでしょう。屁理屈とみえるほど、今の日本女性は外国の女性に比べて甘えさせられているのです。
ぼくは今の日本は女性の待遇をよくしている相当の国だと思います。これは詭弁《きべん》でもなんでもない。ウソだと思ったら外国に行ってくるがよい。
なるほど外国に行けば婦人は一見、恭《うやうや》しく扱ってもらえるようにみえる。エレベーターにはいれば男性は帽子をとる。煙草をだせば男が火をつけてくれる。家庭の夫人となると発言権もつよく、それは亭主から大事に扱われる。
なるほど、なるほど。しかしエレベーターで帽子をとってもらい、オーバーを肩にかけてもらうぐらいのやさしい行為で、「あたしは尊敬されている」と思うなら、これはよほどオメデタイ話だ。駅員さんはお客に「ありがとうございます」と頭をさげるが、これは客を尊敬していることを意味しない。心の中ではこの馬鹿ッタレと思ったって、帽子をとることぐらいなんでもない。
外国で家庭夫人が大事にされるのは、一つは持参金の問題だと安岡章太郎氏が発言していましたが、これはある意味で真実だ。ヨーロッパでは今日でも細君の持参金ということが結婚の時、非常に問題となる。そして彼女たちは離婚する時は自分の持ってきた財産を持ち去れますから、亭主としてもビクビクせざるをえない。
しかし考えてみれば、こういう汚ない金銭関係で女房を大事にする外国人の夫というのは偽善的というべきです。
これに比べれば手鍋だけさげてきて、亭主より家庭の実権をデンとにぎれる日本女房のほうが、純粋愛にはぐくまれて幸福といえましょう。
たとえ、夫から時にはバカヤローと言われたとしても。
3
話が少し横道にそれましたが、こうした都合のいい男女同権論の根本的な混乱というのは、どこから来ているのでしょうか。
それは男と女とを全く同じ種類とみなす考えから由来しているのです。
男と女とを同じ次元におき、女が男のようになること[#「女が男のようになること」に傍点]を男女同権だと錯誤《さくご》している点です。あるいは男が女のようになることを男女同権と思っている点です。
そんなことはわかっているとお思いでしょうが、この錯誤が戦後の進歩的女性や一部の文化人によって大いに唱えられたのではないでしょうか。かつて小学生の男子に料理や針仕事も教えるという滑稽《こつけい》な教育が行なわれましたが、それらはこのまちがった男女同権論から生れたのかもしれません。
男女は同権です。しかし同権といえば誤解をまねきますから、もっと正しく表現して男女分権と言ったほうがいいのです。
男の能力と女の能力、男性の資質と女性の資質はちがう。これは性《セツクス》がちがうように先天的なものです。男には男の仕事があるし、女には女の仕事がある。男には女に及ばぬもの、できぬことが幾つもある。出産、育児、家庭、やさしさ、平和主義、そして愛、これらは男が女に劣る点です。
しかし論理、体力、闘争、判断力等々では、たしかに男のほうが女より強い。そうした違いには勿論一部の例外はあてはまりましょう。なるほど男より立派な論理学者となった女性もいるし、男より体力のつよいプロレス女性もいる。しかし皆が皆、この一部になることはできない。一部の女性をもって全女性を考えることは論理のまちがいです。
だから男と女とがその能力の資質のちがいをみとめあうこと、これが本当の男女同権論の出発点です。男にできぬことを女がやり、女にできぬことを男がやり、互いの資性を尊重しあうことが本当の男女同権論というべきです。いや、男女分権論というほうが正しい。しかし、正当な分権論は同権論と同じです。ヴァイオリンだけではコンチェルトはできぬ。ピアノの伴奏がいります。ヴァイオリンの人とピアノの人は楽器は別ですが、同じ権利をもっている。だれだって、このことはわかる。
しかしこの平明な理屈がなぜ今日まで男女同権論に正確に適用されていなかったのか。男と同じになることを女の進歩と考えるエセ男女同権論が日本にはびこったのか、ぼくはよくわかりません。ぼくはこの原稿を書くに際し、もう一度、戦後の日本の女性の手によって書かれた「男女同権」に関するエッセイを読みましたが、そこには驚くべき錯誤が堂々と語られていたのです。
これはあきらかにまちがいだ。そしてこの錯誤はきわめて明瞭なのにかかわらず、今日なお、これを混同した不平、不満を若い女性の口からぼくはよく聞くのです。
このエッセイは読者のみなさんの心を傷つけましたか。反発を感じられましたか。感想をいただければありがたいと思います。
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当世女子学生物語
娘であることの価値
一週に二度、ぼくは二つの学校で女子学生に接している。接していると言ってもぼくは本来の教師ではなく外来講師という資格である。
外来講師というのは実に割りのあわぬ職業で、研究室は勿論のこと、学校に往復する電車賃さえ与えられない。先日、徹夜で仕事をした時などは、さすがに混みあった電車に乗るのがくるしくタクシーで学校を往復するから、このタクシー代だけで当日の日給は全部、すっとぶということになる。
考えてみれば精力の浪費にすぎぬ仕事なのに、ぼくが今日まで退職しないのは、どうやら理由があるようだ。一つはぼくは子供の時から妹コンプレックス――つまり妹がほしくてたまらなかったのだが、この希望が自分の妹にひとしい女子学生諸君によって充たされているらしいのである。授業が終ったあと彼女たちに珈琲を奢り、彼女たちの恋人の話やアルバイトの話などを聞いていると、何ともいえぬ兄貴愛? がこみあげてくるのである。まして彼女たちから、「アア、あたしも先生みたいなアニキがほしいなあ」などと言われると、もういけません、嬉しくて嬉しくて恋愛の相談にものり、アルバイトの世話などに力を入れ始めるのだ。
本来の教師でないぼくも、一年間教えている女子学生たちは次第に顔をおぼえ、名前も知り、一緒に雑談などしあうようになると情も移ってくる。新学期の四月、あたらしい連中にむかい合った時は向うもこっちもとり澄ましているから、それほどではないが半年ほどすると、親しみも増してくる。彼女たちも彼女たちで、折角アルバイトで儲けた給料の一部をさいて、小さな贈物などしてくれる。夏休みの旅行先からコケシ人形や絵葉書を送ってくれる。こういう点は男子学生の方が薄情で、女子学生の方が妹らしくてよろしい。
もっとも「教える」という点になると、男子学生にくらべて女子学生には、色々むつかしい問題が起きてくる。これはぼくの行く学校の性格にもよるのだが、ぼくの女子学生の大部分は卒業後、恋愛し人の妻になるのであって、研究室に残って学問にうちこむということはまずない。あるいは社会のしかるべき職場に進出しようということもまずない。そのような女子学生はみな東大を始めとする一流大学に行っているのであって、ぼくの学校の彼女たちは正直なところ「遊ぶことの方が勉強よりスキ」であり、「ムツカしい学問などあまり興味もない」お嬢さんたちなのである。
そういう女子学生にサルトルは何年に生れ、いかなる作品を書きというようなことは教えても不毛なのである。彼女たちは男子学生にくらべて、懸命にノートをとるふりこそしているが、そのノートの下に『挽歌』や『ジェームス・ディーン物語』がかくされていることを、ぼくは知っている。そしてそれはそれでいいのだと考えている。なぜなら、もし自分に本当の妹がいたとしても、ぼくはハイデッガーやサルトルなどを偉そうに論ずる彼女よりは、映画や山登りの好きな彼女の方を本当と思うからなのだ。だからぼくは彼女たちに一年の間に一冊の小説を丹念に読むという授業をしている。それは小説を一年かかって一冊だけ一字一句もおろそかにせず読んでいるうち、彼女たちはいつのまにか「小説の読みかた」がどんなにむつかしいものであるかわかるようになってくる。そしてその小説が彼女たちの生活にもいろいろな影響を与え、心にしみこむにちがいない。このほうがサルトルが何年に生れたかよりも、ぼくの女子学生にとってはるかに有益なのではないか。そう思ってこうした授業方法をとっているわけだ。
話が横道にそれたが、ぼくの見た限り現代の女子学生は世間一般が考えているように、芯《しん》からアプレ・ゲールの娘たちでもなければ、むつかしい議論を信じている才女でもない。ぼくは彼女たちの心は昔と変らぬ「娘」であり「女」であると思っている。週刊誌などが好んでとりあげる「現代女子学生はドライである」という考えは、彼女たちを知らぬも甚だしいものであって、女子学生は今も昔も心はそう変ってはいない。
そこで今日は不当に世間から歪められて見られているわが妹たちを擁護すべく、一人の兄貴として筆をとった次第である。
いわゆる純情型
ぼくの女子学生たちは、高校を終えて入学した連中だから十八、九歳から二十歳の娘が半数以上、クラスにいる。この十八、九歳、高校を出たころの娘たちは〈いわゆる純情型〉である。純情型とはどういうタイプかというと――新学期、教師の授業内容よりも、彼の背の高さ、服装、ネクタイの色、オデコが大きいか、小さいかなどばかり観察している連中である。
「ネ、彼、一寸、伴淳三郎に似てない」
隅っこの方で、そんなことを囁いているのはこの純情型であって、ぼくのような古手教師の耳にはそんな小声だって、チャンと聞えるのだ。かかる場合は、激怒したり真赤になってはいけないのであって、切りかえしが必要である。
「ぼくは伴淳三郎さんの友人で、彼のパンツをもらったことがあるが、君たちの中でほしい人がいますか」
一瞬教室はシーンとする。
「君はいりませんか」ぼくのことを伴さんに似ていると言った隅の女子学生によびかける。
「イリマセン」
蚊の泣くような声で彼女は答える。
「では授業をはじめます」
この純情型は必ず四、五人でグループをこしらえ、自分以外のグループとはあまり交際しない。グループの連中は必ず終生の友情を誓いあっているようだが、この熱烈な友情も学校を卒業すると、大半、消えてしまうのだから愉快である。
けれども、この頃は彼女たちは教室でも食堂でも決して離れあうことはない。滑稽なのは便所にまで友情をもちこむことであって、たとえば一人が用を足している間、グループの友だちは便所の鏡の前で髪をなおしながら、辛抱強く待ってやっている。男子学生はかかる臭い友情など結ばないであろう。
彼女たちの恋人はおおむね大学生であり、会社員や中年男であるということはほとんどない。
「恋人、いるかね」などとひやかすと、「イマセン」などと真赤になって横をむいているが、本当は話したくてウズウズしているらしく、何かの機会に打ちあけると、今度はつぶさに恋人のことを報告しにくるものである。最後には全く閉口するくらいだ。
「先生。彼ったら昨日、ジャンパー買ったんです。あたしが黒がイイって言うのに黄色いの買ったんです」
これならまだよいのだが授業がすんで教室を出ると、
「先生」
「うん」
「彼に会ってやって下さい。学校の門のところまで連れてきたんです」
こういうのはどういう心理かさっぱりわからない。門の所まで出ると肥ったニキビ面の学生がオドオドしながらたたされていて、ぼくを見ると照れ臭そうにペコリと礼をする。全くわからん。
インテリ女性ぶり型
十九歳から二十一歳ほどの女子学生になると少し生意気になり、少し危険になってくる。この連中は大きく分けると〈ムード的虚無型〉と〈インテリ女性ぶり型〉の二つになる。
〈インテリ女性ぶり型〉というのは――教室で、「質問はありませんか」
そう訊ねると手を四十五度ほどあげて、
「先生、このレシの女主人公の生き方ですが……」
小説と言わずにレシと外国語で言うのがミソであって、実に微笑ましい。
「この女性は、まだ社会的意識にめざめていないと思うんです。男性の横暴に屈服していると思うんです」
まるで昨日『婦人公論』を読んで、暗記してきたようなセリフを言いはじめるのである。彼女たちにあうとジイドの『狭き門』の女主人公アリサも、モーリアックの『テレーズ・デスケールー』の女性も、すべて社会的意識にめざめず、男性の横暴に屈服している結果になるから愉快である。
このタイプの女子学生はあまり化粧やおしゃれをしない。時にはわざわざお化粧をしないことを、男女同権のシンボルだと考えている節もある。
けれども、ぼくはこの女子学生たちが突然、「娘」に戻る場合を幾度か見た。それは彼女たちが恋愛をしたり、失恋をしたりした時だ。先月まで口紅一つつけることを軽蔑していたA嬢が、急にルージュをつけて教室に出てくれば、教師のぼくといえど何かを想像せずにはいられないのである。
「先生、相談があるんです。一度、会ってください」
夜中など一人、仕事をしていると突然、そんな電話がかかってくることもある。電話をかけてきたのは男性の社会的横暴をいつも教室で述べるKさんだ。
「相談って、恋人のこと?」
「ええ……そうなんです」
次の授業のあと、Kさんに喫茶室でその相談をうけることになるのだが、その時の彼女はもう男女同権や歴史的に虐げられた女性について議論をふっかけてくるKさんではない。
「先生、彼の心、どう考えたらいいんでしょうか」
「そんなこと言ったって、君、彼のことスキなんだろ」
「ハイ……好きです。好きなんです」
彼女は既に一人の娘である。恋をした一人の娘であって、ぼくはそのような彼女をなんとか慰めようとするわけだ。自分の昔の失敗談や恥ずかしい話をきかせてやり、少しでも笑わせてやろうとする。
ムード的虚無型
この〈インテリ女性ぶり型〉の女子学生にたいして、もう少し面倒なのが〈ムード的虚無型〉女子学生たちである。
彼女たちは学校にも出てくるが、主として同人雑誌をやったり、劇団の研究生たらんと志しているものが多い。学校がすむ。学校のちかくの暗いムード音楽やシャンソンをきかせる喫茶店に出かけると、必ずと言っていいほどこのタイプの女子学生がグループをなして、あるいは一人ぽっちで音楽に耳を傾けている。
「先生、人生って結局、虚無ね。つまんないわ」
「そうかね」
「虚無じゃなかったら、何を生き甲斐にしたらいいんでしょうか」
こう言われると教師とはいえ、万事に自信のないぼくはどう答えていいのかわからない。
「先生、あたしってとても複雑な女なんです。複雑で複雑で、自分でもわからなくなるくらい複雑なんです」
アニキたるもの、こういう場合は体にジンマシンの発生しそうな心地になるのをじっと我慢しなければならない。
彼女たちは文学づいていて、その複雑な自分を小説に表現すべく、同人雑誌などをやっているが、その小説はどれを読んでも共通した欠点がある。まず、虚無的な娘(自分のことであろう)が、ある男と恋愛するが、その男の平凡さに耐えられぬというスジが多い。第二の欠点は文章である。ぼくも懸命に読んでやろうとするのだが、何を言っているのか理解に苦しむ場合がある。
「冴子の過剰な自意識は明夫の執拗な愛に耐えられなかった。明夫のはげしい愛撫をうけながらも冴子の虚無はますます鋭角になっていくのであった。そして明夫とわかれると彼女の心は冷え性になった」
(過剰な自意識)とか(虚無)という言葉はA子さんの小説にもB子さんの作品にも必ず出てくるので、こちらはもうピンとこなくなってしまった。彼女たちはそれぞれ自分がだれよりも自意識過剰に苦しんでいると思っているらしいのだ。
「先生、感想きかしてください」
こんな時うっかりした批評でもすれば、乙女の自尊心を傷つけるから、もっぱら表現のちがいを指摘するようになる。
「この『明夫とわかれると彼女の心は冷え性になった』という書きかたはオカシイね」
「なぜですか」
「なぜって……どういう意味なんだ」
「心がツメたくて無感動になった、という意味です」
「それにしても冷え性[#「冷え性」に傍点]とはおかしいよ」
〈ムード的虚無型〉の女子学生が少し危険だと思うのは、彼女たちが自分と同年輩の青年たちを馬鹿にする傾向があるからだ。純情型の十八、九歳の女子学生たちは先にも書いたように、ニキビ面でも同じ世代の青年をボーイ・フレンドにもつが、〈ムード的虚無型〉の女子学生は二十二、三の青年や学生は「子供っぽくて」「頼りない」と告白するのである。
「やはり中年の男性の方がしっとりとして、落ちつきがあって魅力的です」
いつだったか、ある婦人雑誌にたのまれた彼女たちの四、五人と編集部の人を会わせたら、連中、こんなことを率直に言ったものである。
ぼくはそんな時、中年男はいかにも落ちつきがあるように見えるが、あれは生活に疲れ果てて、若い者のような行動力を失っているためであり、決して自信があるからではないのだと言いきかせることにしている。けれどもこの忠告も彼女たちにはなかなか実感を伴わないらしい。時々、妻子ある中年男と恋愛をして苦しむ女子学生が稀にはいるが、彼女は大体この〈ムード的虚無型〉のタイプに属するようである。そういう女子学生が卒業して二年ぐらいたった後、正月など思いがけなく年賀状をくれて「先生、いろいろなこともありましたが、結局、田舎で見合結婚をして、案外、幸福に暮らしています」などと書いてあるのを読むと、さすがにホッとする。
自称ドライ型
こうした〈純情型〉〈インテリ女性ぶり型〉〈ムード的虚無型〉の女子学生のほかに、勿論〈自称ドライ型〉にも時々、出会うことがある。
自称ドライ型で思いだすのは、T子という女子学生のことだ。この子は稀にみる美貌で、その美貌ゆえに他の女子学生よりはボーイ・フレンドも多いらしい。
「先生、あたし、絶対に損するような交際や恋愛はしません」
彼女のボーイ・フレンドの選びかたは(1)頭がいいか、(2)背が高いか、の二点を必須条件としていて、デートの間も自分を退屈させるような男の子は、すぐポイにするのだそうである。
「あたし、テニスをやろうと思う時は大学のテニスの選手とつきあうんです。むこうは一生懸命、教えてくれますし、彼と組んで試合をすればそれだけ得ですもの。テニスをおぼえれば彼と別れます」
こういうことをぼくに一生懸命話してくれるのだが、じっとその顔を観察していると、彼女とてやはり、根はよい娘なのである。ただ青春の生き方がジメジメしていませんという自慢を、ぼくに知らせたくて、偽悪的な心理になっているにすぎない。事実、このT子さんは卒業後、一人の青年に献身的な愛情を捧げている。
「昔の人生観とちがってきたじゃないか。チャッカリ主義はやめたのかな」
久しぶりに会ったので話をきくと、なかなかうがった返事をした。
「女って最後は結婚ですから、遊び友だちならばチャッカリ主義でもいいんですが、結婚の相手となると、やはり献身的になっちゃいます。あたしも女でしたのね」
「どうしてその人と結婚する気になったの?」
「彼は、今までの男の子とちがってあたしを黙殺《もくさつ》したんです。黙殺されるのが口惜しいからバタバタしているうち、彼に尽すことに嬉しさを感ずるようになりました」
つまり、女子学生時代のチャッカリ主義も、結婚の相手を見つけるまでの自己防禦の方法だったということになる。現代女子学生が、たとえドライだとしても、これは考え方によってはよいことであり、つまらぬ男にひっかかった昔の女性よりは、何か爽やかな気さえする。愛する男さえ見つかれば、彼女たちはドライやチャッカリを捨てることができるのだから、この連中も芯は「女」であるのだ。
女子学生の多くは今あげたような色々なタイプに属するが、結婚すれば普通の妻、普通の母親になっている。彼女たちがぼくの妹だったとしても、ぼくは現在のままにほったらかし、安心して眺めているだろう。これは彼女たちに五ヵ年も次々と接したぼくの結論である。少なくとも彼女たちの心の底にある「女」は外観とはほとんど関係がないのである。
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愛のエスプリ
行動のおしゃれ
テーブル・マナーをすべて心得ているお嬢さんが、キャンプなどで、わざと肉を手づかみで食べるのと、テーブル・マナーをまったく知らぬ青年が、レストランで肉を手づかみで食べるのとは大きな違いがあります。
くだけた場所では、くだけた食事のとり方をするのが、みんなと調和し、雰囲気にマッチしたやり方で、ハイキングの時、自分一人が正式な、しかつめらしい食事作法を守ったら、これは滑稽であり、笑止だとぼくは考える。
作法というものは、正式なものを熟知した上で、それを場所や時に応じて破ってもいいのであり、もし阿呆の一つおぼえのように、場所もかまわず正統方法をふりまわすのはバカだというのが、ぼくの持論です。
また、こういうこともあります。
ぼくの次の質問に答えてください。
あなたが、六時半に食事に招待されたとします。
外国人の家では、正式の時は招待状の中に、きちんと時刻を書いてよこしてくる。
もしその時、あなたが、時間に遅れてはならぬと思い、すこし早目に――六時二十分に、その家のベルを押したら、礼儀正しいでしょうか?
あるいは、キッパリ時間を守ろうと思ってその家の前をウロウロしたあげく、六時半きっかりに戸の前に立ったら、礼儀正しいでしょうか?
それとも六時四十分、つまり、十分おくれてベルを押すのはどうでしょうか?
この三つのうちで、みなさんなら、どれを選びますか?
ぼくなら、第三番目が、もっとも礼儀正しいと考えます。つまり、六時三十分に食事に来いと言われたら、六時四十分にたずねるべきだと思います。
なぜでしょう?
六時二十分にもしそこを訪問すれば、そこの夫人は、お客の接待準備か、あるいは着がえの最中かもしれません。
そんな時に、客がベルを押すというのは、相手にたいする思いやりがない、と言うべきです。
六時三十分にベルを押す。もちろん、これはまちがってはいないでしょう。
しかし、もっと考えれば、六時三十分では招待者に余裕を与えなさすぎます。
ひょっとすると、準備がまだ完了していないかもしれない。
夫人も着がえがすんでないかもしれぬ。
だから、少し間をはずして六時四十分、この時ベルを押せば、招待者も余裕をもって戸をあけられるのです。
作法の先生なら、約束時間に遅れぬことを阿呆の一つおぼえに言うでしょうが、このように時間を少し遅らせてこそ、イキなはからいだ、とぼくは思います。
しかし、その破り方にもコツがあって、六時三十分を七時半に行くようでは、もちろん話になりません。
恋人とのデートでも、同じです。
六時に彼と約束する。五時半にいけば、男性は、あなたが自分に夢中だとウヌぼれるでしょう。六時にいけば面白味もありません。
彼を五分か七分(十五分はダメ)待たせて、来るのか、来ないのか、軽い不安を与えるのも恋の作法です。
これはカケヒキにみえますが、このようなカケヒキをしないと、恋愛は、ほんとうは誠実ではないのです。
このことは、みなさんも異論がおありかもしれませんが、ひとつ、ぼくの本でも読んでください。
もちろん、さきほどの食事時間の問題やデートの時間の遅らせ方は、相手の心や立場を考えた上できまるのです。
それが、いわゆる礼儀作法に、形式ではない、ほんとうの生命を吹きこんでくれるのです。いかがでござるかな?
「美しさ」のありか
あなたたちの中には自分の容貌があまり美しくないと悲観して、メソメソと心の中で劣等観念を持っている方はいませんか。
ぼくの経験談を一つしましょう。
ぼくの従妹に、顔だちだけはどうみてもあまりハエないのが一人いました。
従兄の口からこう言うのも可哀想でしたが、男性として客観的にみても、他の娘よりは容貌の点でC級です。
この従妹は自分でも劣等観念があるらしくみんな集まった時などもなにかウジウジしている。
積極的ではない。ぼくが彼女を引きたてようとしても、何となく尻ごみしてしまうのであります。
ほかの従姉妹たちがそれぞれボーイ・フレンドや恋人の話をぼくにきかせてくれるのに彼女だけは黙っている。
「恋人できたかい」
そう気軽にきいても、
「あたしなんか……とっても。第一、こんな顔じゃ」
自分で自分を軽蔑したような返事をするのです。
自分で自分を軽蔑する者は時として他人からも軽蔑されます。いつか、男の従兄弟たちも、
「A子の奴、あの顔じゃあね」
そんな陰口をきくようになりました。
そのせいか彼女は益※[#二の字点、unicode303b]、消極的になり他の才能の点でも自分が劣ったように考えはじめたのです。
これはいけない、とぼくは考えました。そこでぼくは彼女を美しくするために及ばずながら力を貸そうと考えたのです。
勿論、男のぼくには化粧の方法や洋服のえらび方はわかりません。また人間の美しさは顔にあるのではなく、心にあるのだという理屈をならべたって効果のないことは初めからわかっていました。
そこで注意してみていると、彼女は友だちの選び方から間違っているのです。女の子の中には自分より容貌、才能の見ばえのしない娘をわざわざ友人にして――つまり、自分を引きたたせてみせる道具としての友人をつくる傾向があります。
憐れにも彼女は心さびしさのあまり、そんな友人たちの引き立て役になり、更に自信を失っているようでした。
ぼくはそこで彼女に、
「自動車運転を練習する気はないか」
と言いました。もしその気があるなら、その費用ぐらい出してやるつもりでした。
初めは例によって尻ごみをしていた彼女もあまりぼくが奨めるのでシブシブ教習所に通いはじめたようです。
一ヵ月の間、最初は気乗りのしなかった運転が段々面白くなったらしく、遂に免許をとってしまいました。
免許証をみせに来た時の彼女の嬉しそうな顔。
「ほれみろ。A子だって車を動かせるんじゃないか」
幸い、ぼくの兄の家に車があったのでA子はそれをかりて乗りまわすようになった。自分にもできるという自信が、彼女にはやっとついたのです。
「じゃ、次にダンスを習えよ」
一つの技術をおぼえると、次の技術をおぼえたいという欲望が起るらしい。ダンスもいつの間にかすっかり上手になって、パーティーなどにも、そのうまさのため、みなから感心されるようになりました。
人から目だったこと、注目されたことが彼女にはよほど嬉しかったらしい。今まで消極的だった彼女が、洋服やアクセサリイにも注意を細かくはらうようになったのはそれからでした。
幾分、猫背だったのも心の劣等観念が作用していたのですから、自分にも車の運転やダンスができるという自信が、A子をシャンとさせました。
彼女は女子大に行っていましたが、それから英語の成績などもずっと良くなったようです。
さあ、そうなると今まで彼女を引きたて役にして連れて歩いていた友人たちも昔のようにはいかなくなった。A子自身とパーティーにいってもダンスではやはり負けてしまうでしょう。
引きたて役にされないことのためにあの劣等観念はすっかり剥《は》がれたようでした。
今、彼女は婚約さえしています。
ぼくはいつも思うのですが、容貌に自信がなくクヨクヨする女性はそのクヨクヨのためにかえって自分を醜く、不器用にみせているのです。
そんな人には一つの技術をマスターすることをすすめます。
つまりこれは自分に自信をつける手段です。今までうなだれていた首をシャンと伸ばし、胸をはって人の中に出られる最初のステップです。やってごらんなさい。必ずこれは効果がありますよ。
そして次のことを心にいつもおぼえておくことです。
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(1) 友だちほしさに、同性の、引き立て役になって、自分を更に弱気にさせないこと。
(2) なにか別のことに自信をもつこと。
(3) 男は容貌ばかりに気をとられるほど馬鹿ではないと思うこと。
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女性の愛について
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妻は夫の踏絵である
なぜ夫は妻をオソれるのか
もうマンネリになったことだが「恐妻家」という言葉が一時流行したことがある。女房がこわいという亭主のおどけた姿が、こういう言葉になってあらわれたのだが、なぜ夫は妻をコワがるのだろう、コワがる必要なんかないじゃありませんかという発言がこの時、多くの主婦から起き、結局恐妻とか恐妻家というのは大袈裟《おおげさ》な夫の擬態《ぎたい》だろうということになった。
しかし、夫は本当に女房がコワいのである。
私自身、結婚する前、先輩や友人が恐妻家ぶるのを見て、あれは演技だと考えていた。少なくともコワい、コワいと言っていたほうがいろいろな点で便利だから、ああいう擬態をしてみせるのであろうと考えていた。
「本当にコワいもんなんですか。細君て」
だから私は結婚前、よく笑いながら先輩に言ったものだった。
「たいしたもんじゃないんでしょ。女房なんて」
すると先輩たちははなはだ真剣な顔で首をふるのだった。彼らがその理由としてあげたのはさまざまだったが、
「女房というのは怒ればワメくし、甘やかすとツケあがるからこわい」
「女房というのは過去にたいする記憶力が非常に強いから、昔の約束など持ちだして責めたててくる。だからコワい」
「女房というのは異常な直観力をもっていて、こちらの弱点をパッとみぬくし、かくしていることもすぐ敏感に感じるからコワい」
などというのが今でも私の記憶にハッキリ残っている。そして要するに彼らにとって女房とは、「ちょうど、正月に食いすぎた餅が腹にたまっている――あの重くるしい感じ」のする存在だと言うのであった。
私は当時、自分の後輩である慶応の女子学生と婚約していたのであるが、このまだ可憐で慎みぶかく、私がW・Cの話など好んですれば真赤になる娘がコワいとはどうしても考えられなかった。この温和《おとな》しい娘が先輩たちの言うように「怒ればワメき、甘やかすとツケあがる」図々しい女性に変るとは夢にも思えなかったし、また彼女が自分にとって「食いすぎた餅のように」重くるしい存在になるとも考えられなかったのである。
だから私は先輩たち、少し、どうかしているんではありませんかと笑ったが、先輩たちはさも憐れむような眼つきで、
「今に、わかるさ」
そう一言、言うだけだった。
さて私は結婚した。一月《ひとつき》たち二月《ふたつき》たち――しかし私は女房が一向にコワくならない。彼女は先輩の言うように異常な直観力でこちらの弱点を見ぬくこともないし、私のかくしていることを見やぶるということもない。私が一度だけコワいと思ったのは、彼女が少女時代から習っていた合気道で私を投げ飛ばした時だけであった。
「ぽくには一向、女房はコワくありませんが」
先輩たちにふたたびこう言うと、
「まだまだ。まだまだ」
「何がまだまだですか」
「四ヵ月や五ヵ月では女房というものはよくわかるはずがない。向うも、いわば休火山のようなもので、爆発するまでには至っていない」
そういうワカったようなワカらんような返事をするのだった。
あれから十年ちかくなる。そして十年たった今日、私は先輩たちが決して嘘を言っておどかしたのではないことをしみじみと知った。それはちょうど病院の中で先に手術をうけた古参患者が新米患者にむかってメスの痛さや手術中のくるしさを誇張して言うようなものでもなかった。
それではなぜ亭主族は女房をコワがるのであろうか。よく漫画にあるようにホウキをもって亭主をなぐりつける女房などこの世にはそう存在しないであろう。噛みついたりひっかいたりする狂暴な細君にも私は実際おめにかかったことはない。
そして読者のなかの奥さまも、決して御主人をそのように手荒に扱われたことはないであろう。(ことを私はあなたたちの御亭主のために祈る)
にもかかわらず、おおむねの亭主が女房をコワがっているとすれば、それはなぜか。どういう心理か。男である以上、腕力でも頭でもわれわれはそう女房には負けないと考えている。それなのにわれわれはやはり女房にたいしてあるコワさを感じる。
このコワさはどこからくるのか。結論から先に言うと、われわれが女房をコワがるのは彼女たちが強いからではない。まず彼女たちが亭主にとって良心の呵責だからである。良心そのものだからである。
この感情を一体どう説明したらいいであろうか。たとえば私が子供の時、なにか悪いことをした時、隣の家の柿の木の柿を失敬してたべた時、ケンカをした時、私は母親がコワかった。母親にその悪事が知られなかったとしても、母親の眼をみる時、コワかった。それは私にとって母親がある意味で良心というものの象徴的な姿だったからである。私はその後、大きくなり、別の悪さをし、母親をしばしば泣かせたが、泣いていた母親の姿を今でも思いだすことは辛い。そのくせ、私には母親ほどだましやすい存在はなかった。本を買うと言って遊びの金をまきあげることなど赤子の手をひねるよりやさしかった。つまり彼女は私を愛してくれていたからである。そしてまるで母親と息子との関係は「ダマされるもの」と「ダマすもの」とのような具合になった時期さえある。
この感情は多くの亭主が、多かれ少なかれ自分の妻にもつ感情である。男というものが妻にたいして夫としての気持のほかに息子的な気持をどこか持っていることは、たいていの細君なら認めるであろう。またたいていの細君は結婚後五、六年もたつと亭主にたいして母親的な感情をもち、それをもちながら、自分がそのような立場にあることにいつも不満を抱くものである。
男の業《ごう》と女の中の「母親」
こういうことを書くと「いい気なもんだ」「甘ったれてやがる」という批判がどこからかあるような気がしてならない。しかし私のいうことが事実かどうかを知るためには、読者は御自分の亭主をしかと観察されるがよい。必ずや思い当られるであろう。
妻にたいして母親的感情への移行を行うのは日本の亭主の特徴であるが、この時、妻はかつての彼の母親と同じように良心となる。彼は何か悪いことをした時、多少とも妻の顔を思いうかべる。妻に知られてはならぬと思う。それは妻が彼にとって良心だからである。
勿論、その良心の意味は人それぞれによってちがう。ある人にとっては単純な社会的道徳の象徴であり、他の人にとってはもっと本質的な裁きの象徴にもなる。しかしそのいずれにしろ、多くの夫は母親をむかし泣かせた時と同じ悲哀を、妻を泣かせた時感ずるものである。
「俺はいい人間だ。俺は立派な男だ。俺は善い男だ」などと思っている男はこの世にはほとんどいない。いればそれはよほどのお目出たか、鈍感な男である。大半の亭主は「俺はわるい男だ」という気持を心のどこかに持っているはずである。そういうことを言うと、ビックリする細君がかなりおられると思うが、事実は事実だから仕方がない。夫というものはあなたたちが想像しておられる以上に自己にたいする嫌悪感を持ちあわせているものだ。(女にはそれがない。女はいつも自分にたいしてウヌぼれていられるからだ)ただ彼らはこの自己嫌悪となっている部分を、他人に――特に細君に指摘されれば、怒鳴ったりワメいたりするだろう。なぜなら自分でも知っている欠点や過ちを身近なものから攻撃されるほど人間にとって不快なことはないからだ。
にもかかわらず、おおむねの夫はいつも「俺はワルい男だ」と無意識のうちに感じている。自分のカセギが少ないため、子供に運動靴を買ってやれない時、彼は一人そう思う。会社で気がムシャクシャするからもらった給料で酒をのみ、夜ふけ、すっかり空になった月給袋をもって帰る時、そう思う。女房が病気なのに怒鳴りつけた時、そう思う。自分が立派で、正しい人間だなどと自信をもてる亭主は百人中、十人もいない。
だが何にたいして彼は自分のことを「悪い人間だ」と思うのか。女房にたいしてである。女房をこのような形で倖せにできないことが、彼を「悪い人間だ」とどこかで考えさせているはずだ。
私はよく夜ふけの渋谷で次のような光景をみることがある。終電車が発車する半時間ほど前、あのハチ公広場の片隅で、若い衆がオモチャを地面に並べて売っているのである。飛行機や自動車、ピョンピョンとぶ猿、いずれも買えばすぐ、こわれそうなオモチャであるが、この玩具を必ずといっていいほど七、八人のサラリーマンが手にとり、考えこみ、そして買っていくのである。
みなさん。大人の彼がなぜ、このオモチャを買うのかおわかりでしょうか。
子供のためだとお思いか。それもある。しかしそれだけではない。男の私にはよくわかる。彼は自分だけが飲屋で酒をのんでいる時、女房と子供がわびしく晩の食事をしているのを思いだし、何か自分がわるウい人間のような気がしてきたのである。そのうしろめたさ、寂しさが(大きく言えば良心の呵責が)彼をしてピョンピョン猿や自動車を買わせてしまうのだ。
そう書けば、そんなに男って純情で気が弱いものですかと笑われる奥さんたちもいられるかもしれない。だが余程、冷血な男でないかぎり亭主というものはそういうものなのだ。
それならば、そんなうしろめたさ、寂しさを感じるようなことをしなければいいじゃありませんか、とあなたたちはおっしゃるかもしれない。だがそのような考えを起されるのは、男のどうにもならぬ業《ごう》を御存じないからである。
なぐりつけた手の痛み
夫というものは多かれ少なかれ、妻を傷つけずにはいられぬ存在なのである。それは治せといったって治せるものではない。ちょうど男の子供というものが母に苦労をかけるか、傷つけるかによって「男の子」であるようなものだ。これは長い間の私の確信である。私だけではない。別のところで同じような例を出したが七、八年前イタリア映画で『道』という作品があった。ザンバーノという男がジェルソミーナという白痴の女を苛《いじ》める。女は一度は男から逃げだすが、やっぱり彼のところに戻ってくる。そして揚句の果て、彼に棄てられて冬のわびしい陽のあたる山で死んでいく。男は後になってそれを考え涙をながす。そんなスジであった。
私はこの『道』という映画は男と女との、どうしようもない関係の「道」を描いたものだと思う。時代は変っても世の中がどう変ろうとも、そして洋の東西を問わず男と女とはこのザンバーノとジェルソミーナのような関係だと考える。
夫は多かれ少なかれ妻を苛めたり傷つけずにはいられない。苛めたり傷つけると言っても、もちろんそれは撲ったり蹴ったりすることではない。夫婦それぞれに、それぞれのザンバーノとジェルソミーナの関係がある。幸福にしてやれないという苛め方、子供に喜びを与えてやれないという苛め方、浮気をせざるをえないという苛め方、百人百様いろいろあるのです。
それだから夫はいつも心の隅で「自分は悪い」と考えている。そこまで考えなくても「自分が善い」と思う亭主は数少ない。女房はその時、かつて泣いていた母親の姿と重なり、母親が象徴していた良心の代りとなる。
恐妻というのは細君に叱られたり怒鳴られたりヒステリーを起されたりすることにビクビクすることだけではない[#「だけではない」に傍点]。もちろん、細君のなかにあるこの狂暴な女の素顔にわれわれが怖れおののくことも大いにあるが、それだけではない。女房という良心にたいしてはなはだ申し訳ない私であるという、後ろめたい感じ、寂しい感じ、内部の呵責、それがつみ重なってあの恐妻という感情をつくりあげているのだ。買ってもらったばかりの洋服を喧嘩でズタズタにして一人、夕焼道を戻る時の男の子の心情――あれには母を恐れる気持があると言うならば、それに似ているのだ。
だからこれだけは世の細君たちも知って頂きたい。たとえあなたの亭主があなたを苛めたとしても、そのふりあげた手に痛みを感じているのだと。だから撲られたあなただけが痛いのではなく、撲ったあなたの亭主の心も痛いのだと。
その痛さのつみ重ねを私の先輩たちは「正月に食いすぎた餅が腹にたまっているあの重くるしい感じ」と言ったのである。
おそらくこれを読まれた女の読者は、私が何と男だけに都合のいい屁理屈を並べたのであろうかと言われるかもしれない。しかしそう考える人は失礼だが多分、まだ二十代の方たちか未婚の女性であろう。
人生を半ば以上すぎ、結婚生活の本当の年輪を経た読者ならば、私の意見にうなずかれるにちがいないと私は確信する。もしこの一文を読まれて腹をたてられた読者がいられたら、願わくは年上の女性に話して下さい。こういう考えは間違っているだろうかと。
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「嫁」と「姑」
皆さん。
今日、この快晴の日、ほかならぬ皆さんのグループ「白|薔薇《ばら》会」にお招き頂き美しい皆さんとテーブルを共にし、狐狸庵《こりあん》、寿命ものびる心地で……。厚く御礼、申し上げる次第であります。(ト一礼)
会長の鼻高夫人から食後、なにか話をせよとの御命令でありましたが、御存知のように拙者《やつがれ》、七年前より、世をいといまして、柿生《かきお》と申す山里に草庵をあみ、昼は経を読み、夜は庵《いおり》とりまく林を吹く風に耳傾けるという文字通り、世捨人の生活を送っております身ゆえ、とてもとても皆さまのお相手などできません。で、鼻高夫人にも再三話だけはと、固辞したのでありまするが、お許し下さらんのであります。
会長夫人に伺いますと、皆さん「白薔薇会」のメンバーは月一回、集まられて、あるいは読書会を作られ、料理講習会も開かれ、美容のために卵と蜂蜜をまぜたものを顔面に塗られ、あるいは他のグループの悪口を言いあい、おのが亭主の学歴地位を巧みに誇るなど、その活動も多岐にわたり、さすが教養ある近代婦人のグループだと拙者、しみじみ感動したのでありまするが、とりわけ、「うちの会にはお姑さん、若いお嫁さんも随分おられますが、どの方も優しいお姑さん、いいお嫁さんのカップルで、お仲のいいことには感心させられますワ」
というお話には、深く考えさせられるものがありました。そこで今日はこういう機会を利用して、嫁と姑との関係について、拙者、平生から考えている愚見の一端をしゃべらせて頂きたいと思います。(ト一礼。拍手)
女の嘘と軽薄さ
姑と嫁との関係――これは既に嫁をおもちの方にも、現在、嫁の立場にある方にも、また近い将来、お嫁にいかれるお嬢さまたちにも大きな問題であります。姑と嫁との関係はいかにあるべきかは日本のように家族制度が何らかの形で今日なお残っている社会では、女性が必ず考察せねばならん課題だと思うております。
そのためか、ここ数年来、巷間の婦人雑誌などをツレヅレなるままにめくりますと、「やさしい嫁をもった私の幸福、山田ウメ(六十一歳)」とか「理解あるお姑《かあ》さまと御一緒に、木村トメ子(二十七歳)」というような告白手記が必ずや一つか二つは掲載されているのでありまして、それらには、この「白薔薇会」のメンバーの方たちのように仲むつまじげな姑と嫁との情愛が語られております。
「長男一郎に嫁がまいりましたのは今から四年前でございますが、わたしたちの間には今日まで口争《いさか》い一つ起ったことがございません。嫁は私のことをまるで実母のようだなどと申し、ママ、ママ、と何でも相談してくれます。私も私で息子夫婦にできるだけ邪魔にならぬように努め、ただ何か相談をうけた時だけ、長年の人生経験による考えを申しのべるのでございます」(山田ウメ)
「うちのお姑《かあ》さまは年は六十五歳ですが、まるで娘と同じで、あたしの一番いい相談相手です。時々、お茶をのみながら、これじゃア、どっちが本当の子供かわからないワネなどと夫とあたしの顔をみくらべながら、おっしゃいます。今日までお姑《かあ》さまが他の御家庭にあるように夫婦の寝室の音に聞き耳をおたてになったり、あたしの食事がマズいなどと茶碗をひっくりかえされたことは一度もありません。若い人たちには最近、ババぬきなどという言葉がはやっているようですが、あたしにはとてもそんなことは考えられません」(木村トメ子)
こうしたうつくしげな手記は拙者が今更御紹介しなくてもみなさま、既にお読みになったことがあると思います。(一同深クウナズク)
姑イジワルの実際
さて、今日、お話いたしたいのは、こういううつくしげな姑や嫁の手記についてであります。もっと端的に申すならば、こういう手記にはどこまで真実性があるかということであります。いや、誤解をさけるためにこう言いなおしましょう。これらは別に婦人雑誌の編集部が読者に代って書いたのではなく、あるいは読者に強制して書かせたのではなく、山田ウメさんも木村トメ子さんも進んで自分の嫁のこと、姑のことを語ったにちがいないと思いますけれど――拙者のように世を捨てた老人には何か眉ツバのようなものを感じてならんのである。(会場、ザワメク)
静かにして頂きたい。静粛におねがい致します。
御覧のように拙者は、時代遅れの人間であります。時代遅れの人間でありますから若い頃から姑という者は嫁にイジワルをするもの、嫁というものは姑からイジワルをされるものという固定観念がぬけきれませんな。
若い頃、拙者の知っております姑なぞは、そりゃア、あんた、手のこんだイジワルをしたものでありますよ。
たとえばですな。冬の日、嫁というものは、一番最後に風呂に入るのが昔の日本家庭の習わしですが、嫁が裸になって風呂桶に足をつっこんでみると、湯が膝のあたりしか来ない。前に入った男たちがドンドン湯を使ったためであります。
そこで、仕方がないから可哀想な嫁さんは、こう、湯ぶねの中でガタガタ震えながら、あんた、手で湯をすくって肩や背中にかけたもんだ。(一同、シーントスル)
するとだねえ、姑はそれを知っとるんですよ。知っとって、わざと浴室の前までトコトコと猫背で近よりましてな、ジイッと聞き耳をたて、それからあんた、猫なで声で、
「文子さん、いいお湯かい」
すると嫁は哀しそうな声で、
「はい、お姑さま、おかげさまで、いい湯です」
「そうかい、そうかい。ゆっくり温まりなさいよ」
可哀想な文子さん。ゆっくり温まろうにも湯がないんだから温まれる筈はないのだ。(マアヒドイワ、ヒドイワ、ト言ウ声シキリナリ[#「声シキリナリ」に傍点])
こんな意地悪のされ方なんか序の口だったんですよ。渋柿を甘柿のなかにわざと一つ入れて、自分と息子は甘柿のほうを食べ、渋柿を嫁にわざとむいてやって、
「さあ、疲れたろ、柿でもお食べ」
渋柿を口に入れた嫁が思わず顔をしかめると、
「おや、マズいかね。どうせ、あたしがむいたものだからマズいだろうねえ」
こういうアリカタが拙者の若い頃の姑と嫁との関係でした。決して現代の山田ウメさん、木村トメ子さん語るところの「やさしいお姑《かあ》さま」「可愛い嫁」なんてもんじゃなかった。
愛と敵意の交友関係
いっさいのヴェールを剥いであんたたち正直に答えて頂きたい。一体、一人の女性ともう一人の女性との間に心の底からの友情、愛情が成立するものか。拙者、時代遅れのせいか、女と女とは二匹の犬のごとく、顔をつきあわせれば、ただちに敵意をもちあうと長いこと考えてまいりましてな。(マア、無茶苦茶ダワノ声シキリナリ)たとえ、口では、
「まあ、奥さま、おきれいな」
「奥さまこそ、おうつくしいわ」
などと友情ごっこをやってみせても、心中、なにがこの女がきれいなもんかとあんたたち、御経験あるでしょうが……ほら。(女性侮辱ダワノ声シキリナリ)ましてだ。姑と嫁との間に友情、愛情なんて存在するもんか。姑というのは嫁を憎むから姑だ。可愛い息子を自分から取った嫁をあんた、もう一人の女が愛せるもんかね。嫁というものは姑を邪魔ものと思いこそすれ、自分の実の母親と同じように愛せるもんかね。嫁と姑とは古今、東西、革命が起ろうと互いに憎みあう関係で、これを変えろというのは猫にワンとなけ、犬にニャアとなけと命ずるにひとしいワ。
だからこそ、現代の婦人雑誌にのっているような「可愛いウチのお嫁さん」「頼りになる私のお姑さま」などという山田ウメさん、木村トメ子さんの文章は偽善[#「偽善」に傍点]という二文字で覆われているのであります。偽善という言葉が大袈裟ならば、少なくとも世間体ちゅうか、虚栄心ちゅうか、あるいは功利的な感情で真実を避けて語っとるんだなア。木村トメ子さんは女として当然、心にもっている姑への嫌悪感をかくし、山田ウメさんは女として当然感ずる嫁への敵意に眼をつむり、「友情ごっこ」という芝居を毎日、演じているにちがいない。そして「友情ごっこ」は「ごっこ」である以上、決して真実のもんではないんですなア。いつかは破れるもんなんですワ。
なぜこういう「友情ごっこ」が最近、はやってきたか。そりゃ簡単だ。家族制度が戦前と異なり崩壊した日本の家庭では、姑の権力はもう落ち目だからな。落ち目の人間は相手にペコペコするがな。そうせねば姑は三度の御飯もたべさせてもらえません。だから今までとはガラリとちがい「うちの嫁はいい嫁さん」友好外交に転じたわけだ。嫁は嫁で、女中をやとうのは高い近頃だし、さりとて赤ん坊のお守りをしていれば自分は亭主と映画一つ行けぬから、姑を赤ん坊のお守りに使うのが一番いい。だから、あんた、姑は嫁に、
「二人で映画にでも行っておいでよ」
「姑さまって、理解あるのね」
こういう氷砂糖のような会話が交されるわけだ。しかし心の底でお互いそう思っているわけではない。「あなたおキレイね」「あなたこそおキレイだわ」の会話と本質的にちがいはないのであります。
イジワルの効用
拙者は頭の古い人間であります。頭の古い人間だからこういう歯のうくような姑と嫁との友情ごっこが最近の我が国に流行しはじめたのをみて、まこと嘆かわしいと思う。なぜ「友情ごっこ」が必要か。古来から日本に伝わる「嫁いじめ」の美風を姑たちはなぜ、再び行わないのか。
あんた。最近の若い嫁は漬物一つつけられん。亭主に蒲団あげさせて平気である。頭に何やら洗濯ばさみみたいな金具をつけて、畏くも勿体なくも一家を支え給う御主人を玄関に送りだす。食事中、平気でおナラをする。まことに嘆かわしい限りである。その原因は一体どこにあるのか。拙者はそれをこう考える。それは教育係が嫁にいないためである。眼の上のタンコブというか、頭のあがらん存在が彼女たちにいなくなったためである。(それは亭主が女房を叩かなくなったためでもありますが)
その教育係、コワイ存在というのは昔は姑が受けもったのである。有名な「秋ナスは嫁に食わすな」このきびしい教育が姑によって行われればこそあんた、嫁はその後も粗食に甘んじてコマ鼠のように亭主に仕えたもんだ。風呂だってあんた、膝までしかないのに入らされたればこそ、その後も倹約に倹約、亭主のサラリーを今の若い女房のようにパッパッと使わなかったんだ。(論理ガ飛躍シテルワノ声シキリナリ)
要するにだ。嫁が今日、その可憐さ、その清楚、その従順性、その温和さを失った最大の原因は何といっても日本古来の伝統である「姑のイジワル、嫁イジメ」の美風が失われたせいではありますまいかな。拙者は日本の女性はふたたび大和ナデシコの美徳をとり戻すため、
敷島の大和心と人とわばア
嵐ににおう山ざくらかなア
ちがっておりますかな。ちがっておってもいい、姑の意地悪をもう一度、復活してほしいと思う日本人の一人であります。
「困難」の育てる知恵
拙者はさきほど、姑のイジワルとは、姑と嫁との「友情ごっこ」なる偽善[#「偽善」に傍点]をあばくものだと申しました。そうです。イジワルはすべて人間関係の偽善をとりのぞき、その本質を示すものなのである。たとえば、姑のイジワルは姑嫁の本来の本質関係をはっきりみせてくれるものなのであります。
フランスに有名な作家で批評家のアンドレ・モロワ先生という方がいらっしゃいます。河盛好蔵先生の御本を読んでおりますとモロワはユーモアとエスプリとを次のように定義づけているそうです。
「エスプリとは高みから人間を批評することであり、ユーモアとは自分を劣等者の位置において人間を批評することである」
おわかりかの。平たく申しますとだ、ユーモアとはこっちが道化役、劣等者の立場になって権力者や威張っているものの弱点欠点をマネをしたり誇張したりしてからかう「イジワル精神」のことである。エスプリとは高い地点から一刀両断、人間を鋭く批評する「イジワル精神」である。
だから、いずれにしろイジワルというのは批評とつながるのである。批評である以上、それは真実をつくということになる。してみれば、あんたイジワルとは他人に真実を示してやることになるのではないかの。
嫁に渋柿くわせた姑、湯のない湯ぶねに入れた話、それらの姑こそまさしく、真実をついていたのです。姑はそれによって「鬼婆」だの「糞婆」だのという世の非難を受けたのでありますが、そもそも、世の非難よりも真実をつくという行為のほうがはるかに高いのです。
今日、姑が嫁に猫なで声を出し、嫁が姑をいいお姑さまと呼ぶのは、それが民主的、文化的にみえるから誰もが出来るヤサしい行為である。しかし、猫も杓子《しやくし》もやるヤサしい行為とは原則的にロクなことはない。少なくとも風流ではありません。今のような世の中ならば、あなたたち姑は決然と嫁にイジワルをすべきです。そして彼女たちを泣かせながら漬物のつけ方を教えてやって下さい。頭に洗濯ばさみのような金具をつけて亭主を送り出すべきではないことを、しこんで下さい。そして畏くも勿体なくも亭主のおかげで雨露にもあたらず三度の食事も事かかないことを徹底させてやって下さい。嫁イジメ、姑のイジワルこそ、若い女性を女性本来の姿に戻し、日本古来の伝統に立ち戻らせる第一歩だと、拙者、信じて疑わんのである。(拍手ナシ)
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女性に与う愛の十二講
1 女の「強さ」とは
すべてが同等であり得るか
執筆者と読者の関係なんてツマらねえな。大体、執筆者なんて高いところから悟りすましたような良識でものを言うね。大説をのべるもんです。
大きな説なんかぼくア、恥ずかしくって言えないんだよ。みんなと同じようにアレコレ人生に迷っとるんです。せいぜい小声で小さな説をのべるが力一杯。だから小説家って言うんだ。
こっちにいらっしゃいよ。悪いことしないから。遠藤周作いい男。あなたの恋人や御主人と同じくらい、いい男。コワくない。コワくない。一緒にストーブのそばで蜜柑《みかん》でもたべながらだべろうよ。
しかし何、話そうかなあ。
ずっと昔、ぼくにガール・フレンドがいた。ぼくだってガール・フレンドぐらいいましたよ。あなたと同じほど綺麗《きれい》でした。でもないかな。ある出版社の編集部に勤めていてね。この娘。
その娘がデイトのたびに会社での不平言うんです。男性社員の悪口言うんです。
当時、猫も杓子も阿呆《あほう》の一つ憶《おぼ》えのように、「封建主義」とか「反動」とか昔のこと、古いしきたりを非難している頃でね、彼女もよくその言葉を使っていたなあ。
「うちの会社ってすごく封建的なのよ。本当に嫌になっちゃう」
「なぜさ」
「まア聞いて頂戴《ちようだい》よ、こんなことってある。初任給からして男と女は違うでしょ。それは学歴が違うからしてまあ、いいとしても、女の子は出勤すると、すぐみんなの机の上なんか片付けたり、そこらを掃除させられるのよ。男の人はそんなことしなくてもいいの」
「ふうん」
「お客さんが来たらお茶を出すのはあたしたち女の子の仕事だし……それに編集会議だってほとんど男の人たちでやっちゃうの」
「なるほどねえ」
「あたしがね、一番|口惜《くや》しいことはうちの会社じゃ、女はチョウになれないことなのよ」
「チョウ? チョウって蛾《が》や蝶のチョウか」
「あんた馬鹿じゃない? チョウっていうのは編集長や課長のことよ。あたし仕事じゃ男の人には絶対、負けないつもりなんだけど、それでもいくら勤めたって長にはなれないのよ。不公平だと思わない。男と女と能力に違いはない筈よ。あたしたちのお母さんの時代は別だけど、今のあたしたちは決して男に負けないんですから。こんな差別待遇って、ひどく前近代的だと思うわ」
「ああ」
「ああ[#「ああ」に傍点]って、あなた、私の言う通りだと思わない。あなたも、うちの会社の男たちと同じように封建的な考えの持主じゃないんでしょうね。男女平等を認めるんでしょうね」
当時、ぼくはその娘に多少、心が動いていたからね、相手の機嫌を損じたくなかったし、それに若いくせに古いって言われるのがコワかったからうなずきましたよ。そうだ、そうだって。君の会社の男たちは横暴だ。ひどい。現代男性の風上《かざかみ》にもおけないって。
「女らしさ」の行き場所
しかしこの娘、ヘンな奴だったなあ。この議論のあとで、たとえば喫茶店にいく、何かを食べにいく。そして勘定の時になると、さっさと自分だけ先に出て、金はぼくに払わしたもんです。それも一度や二度じゃないよ。毎度ですからね。
大きい声では言えないが、男ってのはもともとケチでね。娘とデートの時、奢《おご》るのはあれは虚栄心からですよ。そしてぼくア、虚栄心って奴があまり好きじゃないからさ、言ってやったんだ。
「なぜ喫茶店やレストランで男の俺ばかり払わなきゃあ、いけないんだ」
「まア」
彼女は眼を丸くしてビックリしたような蔑《さげす》むような口調で教えてくれましたよ。
「あなた、野蛮人ね、女は弱いんですよ。だから男は女を大切にするのが当り前なのよ。女に払わすなんて、最低の男なのよ」
ぼくは黙っていた。黙っていたが心の中で、何言ってやがんだい。いい気になるな、世の中に甘ったれやがって。真実そう思いましたな。
だって、あんた、そうじゃないか。彼女はさっき男と女は平等であるべきだ。男に女は決して負けない。そう言ってたんだ。
それがさ、平等である女が男にケーキ代、珈琲《コーヒー》代を払わして、「女はか弱いんだから、いたわれ」とこう、きやがる。平等ならば、喫茶店に入った時、男と女は割カンでいけばいいじゃないか。少なくとも二回に一回ぐらい払えばいいじゃないか。
都合のいい時は男女平等、都合わるい時は「か弱い女」、これじゃあ、オテントさまだって泣くわいな。あんまり虫がよすぎますわいな、そうぼくは心中、考えた。考えたけど言いませんでしたよ。言えば、ハジキ豆のように叫びはじめるですからね、彼女は。
世間が冷たいのか……
それから十数年。ぼくも大人になりました。時々、あのガール・フレンドのことをふっと考える。今頃、いい女房になっていることでしょう。子供の二、三人もあることでしょう。
しかしだ。彼女の不平は今でも耳に残っている。うちの会社じゃ男ばかりを大切にする。その不平はあの頃の彼女と同じような娘さんたちにぼくは今でもよく聞かされますよ。
でもねえ、もし、ぼくがその会社の重役だったら、社員だったら、女の子を男性と同じ待遇にはしない。今ならもうガール・フレンドがコワくないから、そうハッキリ言えるような気がする。女性読者、怒った? 怒ったのなら、ぼくに抗議状、送って下され。無記名はイヤだよ。ちゃんと名前と住所を書いてね。
なぜかって。当り前でしょ。女の子の大半は(現状のところ[#「現状のところ」に傍点])その九十九パーセントまでがお嫁にいく。途中で会社をやめる。いいかえれば会社と一生、運命を共にはせぬ存在だ。
ぼくがその会社の社員なら、一生、会社に自分を賭けようと思うよ。そういうぼくに、途中で会社をやめるような女の子に同僚意識を持てるかい。友情をもてるかい。腹の底うちわって語りあおうと思うかい。思う筈がないですよ。
ぼくがその会社の重役なら、会社を途中でやめるときまっているか、その可能性のある女子社員に重大な仕事を委せられるかい。教育しようと思うかい。自分の片腕として何かを託す気になるかい。ならんですよ。
あなたがもし男なら、ぼくのこの理屈はハッキリわかる筈です。世の中なんて、そんなに甘くないですからね。
まあ、そんなこたア、どうでもいいことだ。要するにぼくの言わんとするのは、戦後の男女同権、あれを女性は実に、なめて、考えてきましたね。少なくともあの同権論を本気で噛みしめようともせず、世の中に甘ったれたんではないのかな。都合のいい時は同権、都合がわるい時はか弱い女に早変り、ぼくのガール・フレンドのような場合は御愛嬌《ごあいきよう》があるが、御愛嬌じゃ生きてはいけませんからな。
「戦後、強くなったのは女と靴下だ」なんて男がよく言いますが、あれほど女をなめた言葉はありませんや。正直言いましょう。女は全然、強くなってませんよ。靴下も強くはならなかったけど。
近頃、女子学生がどこの会社からもシメ出されるでしょう。女子学生はひどいと言って怒るけど、ぼくは思う。あれは女子学生だけの問題じゃない。戦後の日本女性が世間を甘くみた結果だと。読者よ。怒った? 怒ったのなら手紙をおくれ。
2 「粧う」とは
男が幻滅するとき……
男が女に多かれ少なかれ幻滅する瞬間は、女性の「化けの皮が剥《は》げた」時である。男というのは幾つになっても、どんなに社会的地位が高くなっても小児的であるから、年齢の如何にかかわらず、女を美化し、女に夢をもっている。
ずっと前、なくなられた江戸川乱歩氏につれられて浅草のストリップを見物に行ったことがあった。舞台では、妖《よう》にして艶《えん》、可憐《かれん》にして清楚《せいそ》な踊り子たちが次から次へとトンだりハネたり、我々も木石《ぼくせき》にあらねば思わずウットリとしたのであるが、舞台終って乱歩氏に楽屋につれていかれると、次から次へと踊り子たちが鏡にむかって化粧をおとしていく。アア、アッと思うまに妖艶だったダンサーが色黒の山家育《やまがそだ》ちの小娘となり、
「あんた、ラーメンたのんだべや」
「あいよ。二人前、電話かけといただ」
田舎言葉まる出しで話しはじめ、私はそれもそれで好きではあったが、一方では、舞台見物中ウットリした気分が引きずりおろされた気持を味わわされたことは確かである。
こういう話をすれば、皆は私を馬鹿だという。女がどう化けるかを、あらかじめ心得ずにそれにダマされた私がバカだという。しかし男というものは多少とも、私と同じようにその点、バカなのであり、ダマされると知りつつ、ダマされるのであろう。
ある小説に、女優の恋人になった男の話があった。そのなかで、その女優が寝室で恋人の前で化粧をおとす場面があって、それがなかなか印象的であった。化粧をおとし、つけまつげをとり、ルージュを紙でぬぐい――つまり彼女が素顔を男にはじめてみせた時、その素顔はテレビや映画のスクリーンで笑ったり、上眼《うわめ》づかいをしている顔ではなく、毎日の仕事に疲労しきった、不健康なそしてエゴイスティックなあさましい顔だったというのである。
私はもちろん、女優の恋人になった経験などないから、こういう情景に出くわしたことはないが、それに似た経験を一度、味わったことがある。
その女優は、私がスクリーンでは好きな女優でありました。好きというより、憧れをもっていたと言うほうがよい。だからある雑誌社が彼女と対談してみないかと企画してきたとき、すぐさま引きうけたのである。
場所は銀座のレストランであった。こちらはもちろん、胸おどらせてとまではいかぬが、決して悪くない気持で定刻五分前にはそのレストランに駆けつけたのである。それが礼儀でもあるからだ。ところが約束の時間が二十分すぎ、三十分たっても彼女は現われぬ。雑誌社の人はしきりと方々へ電話し、しきりと彼女に代って詫《わ》びた。
四十分後にようやく付人《つきびと》と共に現われた彼女は、撮影が長引いたのでと弁解したのちにテーブルについた。それから途端《とたん》に、長い間の私の、彼女にたいする憧れを一挙に粉砕するようなことを二つやってのけたのである。
その第一は、まだ料理の運ばれていないうちに、話しながら片ひじをつき、卓子《テーブル》にもられたパン籠《かご》からパンをとってそれをちぎりながら食べはじめたことである。もちろん、こういう無作法は時と場合によっては可愛い。しかし初対面の相手の前でこのようなマナーを無視したやり方は、私のもっともカンに障《さわ》るところである。
第二は、しばらくして彼女は突然、自分の付人にむかって叫んだ。
「どうしたのよ。煙草とライターが入ってないじゃないの」
付人の女性は恥ずかしそうにうつむいて、自動車に取りにいった。
私は目下の者、弱い者にこのような物の言い方をする女は嫌いだから、以来、この女優にたいする好意を失ってしまった。今日でも彼女の映画など絶対に行かん。絶対に行かん。
くり返して言うのですが、「女は化けるものだ」というのは当然である。狸と狐と女とは化けてこそ価値がある。化ける能力もないカサカサした女は、これは男にとっては乾《かわ》いた女性。
「だからねえ、化けた以上は徹底的に化けてほしいな」
これが我々男の夢である。狸が小判にばけ、その小判にシッポが出ていたなら愛嬌がある。しかし、くだんの女優のように、美しい顔とは全く裏腹《うらはら》な本質をむき出しにされると、もういけません。男はそのような女を徹底的に蔑み疎《うとん》じる。化けるならトコトンまで化けよ。
「では男性を幻滅させぬためには、どう化ければいいのですか、周作先生」
「お答えしましょう。まず化けかたに高望みをしてはいけません。自分の力――容姿、教養その他――を知っておくことが必要ですな。そして自分が五ならば、最初は六か七ぐらいに化けなさい。決して十に化けてはいけません」
ウソつきの天才は事実を五、ウソを三いれる。五つの事実の裏づけがあるから彼の三のウソも効果があり、見破られないのだ。もし彼が事実を一、ウソを五にしてごらん。たちまちにして万事が露見する。女の化け方もまた同じ。はじめから自分を十に見せようとするから、バケの皮が剥げた時、それが男に大ショックを与えるのだ。化けかたも順と段階を追って少しずつ小きざみにしていくほうが、より効果的なのである。
理由は二つある。第一に、それがバレた時も男は幻滅するより、可愛いと思ってくれるからだ。自分の容貌もみきわめず、ベタベタつけまつげに昼間からアイシャドーの女は、男が陶酔と夢からさめた時、寒けと軽蔑しか感じさせないが、少しだけ化けた女が素顔をみせると、男はむしろ女のせつない努力のほうに心ひかれるから妙である。教養ありげに背伸びしてベートーベンやサルトルをふりまわす女は、男には次第にうとましくなるが、少しだけ読書をしている姿を時々みせると、彼はこれも悪くないと考えるから奇妙である。総じて化け方は小きざみに順を追って昇っていくがよろし。
「心」にあるもの
「第二に、外面だけでなく心でも化けよ、ですな。これも小きざみのほうがいいのです」
東京のキャバレー王、福富太郎氏に会った時、氏は自分の店で働くホステスの一人一人に、なにげなく、
「君は実に綺麗だ」
そう言ってやるそうである。すると必ず、そのホステスは素顔まで綺麗になるという。
これは一種の催眠術だが、当をえている。綺麗だと他人に言われれば、現在よりも素顔が美しくなる。この方法を使ってみるといい。もっとも自分を一足とびに大美人だと思っては失敗する。小きざみに前進していくのである。外面も十だけ化ければ、教養も十だけつけてみる。そうすれば必ず十だけ女は心身とも美しさにおいても前進するからふしぎだよ。
よく、顔だけ化けて、化粧をおとすと驚くべし、むき卵的な顔が出る女がいるが、あれは実はこの小きざみ方法と自己催眠の応用術を知らぬのだと私は思う。
女に男がいちばん、幻滅するのは、女房をもらって三年目という説がある。この三年目には女房は安心しきって、夫の前で「化ける」ことを忘れるからであろう。女の仕事の一つは娘時代でも人妻時代でも、年齢に応じて心身とも「化ける」ことであるのに、夫に幻滅させるのは化け方に怠慢《たいまん》な女房だと言われても仕方がない。そういう女房をもった亭主に、私は次の方法をすすめる。福富太郎氏にならって、心ではこのクソ婆《ばばあ》と思っても口だけは、
「君は綺麗だ」
と言ってやることだ。女は暗示にかかると、そのとおりになる。化けてもらいたいなら、化けさす心理にすることだ。効果はテキメンである。
(この箇所を読者よ、あなたの夫か恋人に読ませたまえ)
3 女の「教養」とは
「知識バカ」
むかし、と言っても七、八年前のことであるが、ある有名な映画女優さんと彼女の自家用車に乗っていました。
ちょうど渋谷に向うその自動車が青山にさしかかった時、彼女は突然、うっとりとした声をだし、
「車をとめて。……ごらんになって、この霧。まるで巴里《パリ》の夜みたい」
そう言ったのであります。すると、ぼくはなぜか、背中にジンマシンが起きたような気がして、できうれば車から飛びおり、一人でスタスタ歩いて帰りたい衝動にかられました。
この女優さんは大変、教養ありげな人で、その夜、食事を一緒にした時も、突然、フォークとナイフとをおいて、
「わたくし、この間、自衛隊の学生たちと対談しましたの、そしたら驚いたことに、あの人たちったら、ドゴール政権のこと、何も考えてませんのよ」
まともな表情でそう切りだされ、ぼく自身、ドゴール政権のことなど知ったことではありませんから、自分まで叱られているような気がして、食事も咽喉《のど》に通らなくなった記憶があります。この時は、なにか自分の背中にジンマシンが起きたような気がしたのです。
彼女と別れたあと、ぼくは精神衛生上、はなはだ害のあったこの二事件を忘れるため、駅前のおデン屋にとびこみ、
「おっちゃん、ショウチュウくれや」
そう言ってショウチュウをのみ、平生はあまり、そういうことはやらんのでありますが、茶碗を箸《はし》でチャン、チャン叩いて、
イヤだ、イヤだよ。ハイカラさんはイヤだ。
あー、ヨイ、ヨイッと
と下品な声を思い切りだして唄を歌ったのを今でも憶えています。
だが考えてみると、青山の霧の風景をみてうっとりし、まア、巴里の夜みたいと叫ぶことは決して悪いことではないし、日本のことよりもドゴール政権について思いをはせるということは大変、高尚なことでありましょう。
にもかかわらず、このように立派な台詞《せりふ》をきいて、背中にジンマシンが起きるほど照れ臭さ、恥ずかしさを感じたのは、あながち、ぼくが悪いだけではなく、そこには男性が女にたいして共通してもつある一般的感覚が働いたのではないでしょうか。
一般に男性は、女性が「うっとり」している状態にあるのを見るのがイヤです。男性もまだ十九、二十歳の頃は自分もあることに「うっとり」できますが、二十五、六をすぎると、本当の陶酔ではなく、こうした薄っぺらな、センチな陶酔ぶりを他人に見せることも、他人から見せられることにもオジケをふるうようになるのです。
「教養の育つ条件」
もう既に書いたかもしれませんが、ぼくの友人の奥さんがある日、こういう不平を言っていました。
「主人は……結婚五年もたつと、あたしを甘やかせてくれませんわ。たまには甘えてみたいわ。婚約時代のことなど、話しだすと、主人は急に変な顔をして、ブウッとオナラなんかするんですの」
「へえ。オナラをねえ」
「そうですの。それも、わざと音の大きなのを。ロマンチックな気分も何もなくなってしまいますわ」
ぼくは狡《ずる》い男でありますから、その奥さんには気の毒ですなあ、御主人に忠告しておきましょうなどとウマいことを言っておいたが、本心では、フン、亭主がオナラをする気持はわかるよ。もっとオナラをしてやれ、やれと考えていたのです。
万一、あなたたちがこの奥さんと同じ不平を御主人にたいしてお持ちならば、こう考えていただきたい。男であるご主人は彼の女房がいい年をしているのにもかかわらず、「うっとり」して婚約時代のように溜息《ためいき》ついたり、散歩の時、暗闇などで急に寄りかかってきたりされると、キャッと叫んで逃げだしたいような恥ずかしさと苦痛感を味わうのです。それは男のどうにもならん感覚であって、この感覚から彼は女房のうっとり顔[#「うっとり顔」に傍点]に水をかけるべく、わざわざオナラをしてみせるのです。
この間、クリスマスの前夜にある女子大の寮にスピーチをさせられに出かけました。百人ちかい女子学生たちにかこまれて食事をしたのはいいが、食後、この女の子たちが食堂の灯を消してロウソクに火をつけ、うっとり顔で素敵、ロマンチック、きよし、この夜などと言いだすと、ぼくはもうたまらない。苦痛で、恥ずかしくて、照れ臭くて、この女子学生たちは二十歳にもなっているくせに、なんという自意識のない連中であろうか、などと口の中でブツブツつぶやき、ひとりで冷汗をかいたのを憶えています。
男だって、もちろん陶酔する。しかしうすっぺらな陶酔を求める傾向は、男より女のほうが強いんではないでしょうか。
また、男にとって苦手なのは、女が教養ありげなところを見せる点です。「自衛隊の人たちはドゴール政権のこと、何も考えてないんですって」こういう言葉を女性からもろ[#「もろ」に傍点]に口に出されると、いったいどういう表情をしてよいのかわからなくなってきます。大袈裟《おおげさ》に言うと、自分までが穴があれば入りたいような感じになるのです。
だからといって、ぼくが女性の教養を馬鹿にしていると思っていただいては困ります。ぼくは女性の教養ある人は幾人か知っているし、それを尊敬するのに人後に落ちるものではない。ぼくは、さきほどの女優さんのことを「教養ありげな」と書いたはずです。
男の中にも、教養ありげな連中はワンサカいる。こういう連中は、なにかというとすぐムツかしい人の名まえや横文字を会話や言葉のなかに入れてきます。あなたらも、こういう男に恋をささやかれたことがおありでしょうが……。
「ぼくの君にたいする愛情はね、実存的というか、サルトル的というか、サルトル的実存の愛だとそう思ってくれていいんですよ」
もし、そんな男がいたら、あなたたちは、お手洗いはどこ? と急に聞いてやるといい。えてしてこういう男は、靴下がたいへん臭いものであります。
だが男の場合、こういう靴下の臭いようなやつは、仲間からいつか馬鹿にされ、からかわれるものですが、女の場合、「教養ありげな」女性は一種の尊敬まで仲間から持たれるので始末が甚《はなは》だわるい。
率直に言って、ぼくは今日まで女子学生の中で本当に教養ある女性だと思った者に、一度もお目にかかったことはありません。大学を出て、いわゆる文化的(?)な勤め口に勤めている女性の中に、教養ある女性を見たことはありません。テレビや映画女優のなかに、教養ある女性を一度も発見したこともありません。彼女たちはドビュッシーだのアンチ・ロマンだの、わけのわからんことを口に出すことを誇りにしていますが、その誇りにしていること自体が、無教養な証拠だとぼくには思えてならないのです。
むかし我々の祖母さんのころには、ほんとうに教養のある女性がいました。その人たちは、こんな阿呆くさいことは口には言わなかったが、たとえばお茶を何げなく飲む時、その手の動きだけで、ああこの人は奥ゆかしい、と思えるような人がいたもんです。この間、女子大の寮に行って彼女たちの食事の仕方をじっと見ていたら、フォークのつかみ方さえ知らない。フォークの置き方さえ知らない。それで口では教養、知性とか言うので、ぼくは助けて、母ちゃん、思わずそう叫びたくなったんであります。
4 女にとって「友情」とは
女の闘争性
正直な話、ぼくは女が男にくらべて賢く、知性的であるとはどうしても思えない。けれども、女は男より下等だとは一度も考えたことはない。
正直な話、ぼくは女が男にくらべて、たのもしくて、判断力や分別があるとはどうしても思えない。けれども女は男より仕様のない存在だとは一度も考えたことはない。女は男とは同じ面ではまことに愚鈍であるが、男のもたぬ立派さ、高尚さ、けだかさを別の面で所有している。
にもかかわらず、多く男性が日常生活のなかで一瞬ではあるが、女のスサマじさにぶつかることがある。そして、ああ、女っていやだなあと思う時がある。
たとえばそれは次のような時だ。
女が女の悪口を言う時である。男だってもちろん他の男の悪口を言う時がある。だが女が同性の悪口を言う時と男が同性の悪口を言う時には本質的にちがいがあるのだ。
男が同性の悪口を言う時はもちろん嫉妬心からくる場合もある。会社の仲間、同業者にたいし男は競争心からその悪口を言う時もある。しかし、それが全部ではない。男は別の感情から悪口を言う場合が多いものです。
だが、女がもう一人の女にたいする時は――男の眼からみると――先天的に嫉妬が発するのではないだろうか。
ぼくは昔、一匹の犬を飼っていたことがあったが、その犬は他の犬とぶつかると、相手に見さかいなしに歯をムキダシ、鼻のあたりに皺《しわ》を寄せて、ウーウ、ワンワン、はなはだ迷惑至極であった。この犬にとっては自分以外の犬はすべて「敵」としか見えなかったらしい。
この間、人と待ちあわせるために都内の某ホテルに出かけた。相手がまだ来ないのでエレベーター近くのロビーに腰をおろしながら、案内嬢の一挙一動をじっと見ていると、面白い気晴しになった。
この案内嬢、客がそばによると、まことに上品、しとやかに微笑をたたえて応対している。だが、その客が彼女に背中をむけて立ち去ろうとした瞬間から実に奇妙なことがはじまるのである。
彼女は男客なら、そのまま知らん顔をするが相手が女客の場合は、今までのしとやかな顔が突然、鬼のような表情に変り鋭い眼つきでじっと相手のうしろ姿を観察する。相手の頭の先から足の先まで調べているのである。
なんの恨みも憎しみの理由もない客に、ただ相手が自分と同じ女性であるというだけで、このような眼つきをすることは、男の場合断じてありえない。
ここからぼくがわかったことは、「女にとって他の女はすべて敵である」ということであった。女にとっては、自分以外の他の女性はたとえ、同僚であれ、クラスメイトであれ、いや姉妹であっても、無意識には敵[#「敵」に傍点]なのではないだろうか――そんな感じさえしてきたのである。
ヤドカリと殻――そのエゴイズム
何を言うの。ヒドいことを口にしないで頂戴と皆さんはおっしゃるにちがいない。読者から怒られることを知りながら、その怒られることを覚悟でものを書くには勇気がいる。ぼくはあまり勇気がないほうだが、しかし事実をウソだと言うことはできない。
ぼくはある日、友人と銀座のバアに行った。その友人はここが顔なじみらしくホステスたちと仲良く話をしている。その話を何気なく聞いているうちに、ぼくは一つの場面にぶつかった。以下、その会話である。
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友人「おや、今日はレイ子の奴、来てないのか」
ホステス「あの人、さっき、お客さんとお食事に行ったのよ。レイ子ちゃん、ここで売れっ子だから」
友人「あんな面《つら》でか」
ホステス「あら、あんな面ですって。綺麗じゃない? レイ子ちゃん」
友人「そういえば一寸、エリザベス・テーラーに似てるな。しかし、あいつ、自分の綺麗なことを鼻にかけるからね」
ホステス「あら、そうかしら。そうかもしれないわね。だから、こう言っちゃ何だけどお客さんも始めはいいけど、あとであの人に寄りつかなくなるのよ」
[#ここで字下げ終わり]
ぼくはそのホステスのいかにも偽善的な物の言い方や、やがて露骨にレイ子という同僚を罵《ののし》りだすまでの表情をじっと観察していて、なるほど、これが女の心理だなと思った次第だった。
つまり、女とは同性には無関心か、嫉妬かのいずれかの感情しか持ちえないのではないか。言いかえれば女同士には真の意味の友情は男性間よりもなかなか持ちえないのではないだろうか。
だからぼくはかつて女子学生を教えていた頃から彼女たちの「仲よし」という関係を本気で信じたことはない。
女子学生たちの仲よしというのは実に奇妙なもので、講義中でも体を犬ころのようにすり合わせ、授業がすめば双生児のように手と手をつないで引きあげていく。ぼくが最も滑稽だと思ったのは一人が便所にいくと、その親友というのが、別に便意もないのに一緒にお手洗についていくことである。
「そんなに離れたくないのか」
「あたしたち一心同体なんです」
「いつまでそれが続くだろう」
「失礼ね。先生。あたしたちの友情は一生ですよ」
ウソつけ、とぼくはよくその時、心の中で思ったものであった。君たちは本当の友情をもてぬからベタベタ、くっつきあっているにすぎない。自分の心のたよりなさを、ひそかに知っているから、わざと友情ごっこをやっているにすぎない。
このぼくの予感ははずれたことはない。というのは卒業後の彼女たちをみると、ほとんどつきあっていない。卒業後しばらくはまだ「仲よしごっこ」は続いているが、一方に恋人ができるともうダメだ。友人より、女にとっては恋人のほうがはるかに大事になる。むかしの友人は段々、邪魔っけになり、時には仇敵になることさえある。
「むかしは、君たち、カタツムリとカイガラみたいだったな。もう手紙のやりとりもしていないのか」
「年始状ぐらい出しますわ。あたしも主人と子供のことで忙しくて手紙なんか出す暇がないんです」
こういう友人関係というものは男性にはあまりない。ぼくの場合を言えば、ぼくの友人たちは少なくとも十年来の交際で次第に友情をつくり上げていったものばかりである。だからぼくは女同士に友情というものが果して成立しうるのか疑問に思うのだ。
なぜだろう。ぼくはその点を考えてみる。そして結論はこうである。
女は男とちがって自分一人では、どうにもできぬ存在だからである。女は結局、自分で自分の運命をつくることができない。
女はいつも自分の運命を他[#「他」に傍点]に依存している。親や恋人や夫や子供によって自分の運命が変化する。だから、いわばヤドカリみたいな存在なのではないか。
「いいカラ(殻)にぶつかることによって幸福がきまる」という気持はどんな女の心にも存在している。口では男女同権などと言っても女は「いいカラ」にぶつかれば幸福、「つまらぬカラ」にぶつかれば不幸になるのだという感情が心をいつも支配しているのではないか。はっきり言ってしまえば、女は結局、自分に自信をもったことがないのではないか。そこから彼女のエゴイズムがはじまり、彼女が他の同性には無関心である理由があり、「いいカラ」を誰が見つけるかという嫉妬心が生じるのではないか。
この一文はおそらく多くの女性読者に反発を引きおこすだろう。そしてもしぼくの考えが間ちがっているならば、どうぞみなさん、どこが誤解か教えて下さい。御返事を頂ければ幸甚です。
5 真の「内助」とは
「安堵」の生む「怠惰」
女性の悪口を書いたために、読者から手紙やお葉書をいただいた。
おおむねは礼儀正しいお言葉で、ぼくをたしなめてくださったり、共感を示してくださったのであったが、その中に一枚、一読キャッと震《ふる》え上がるような葉書があった。文面、左のごとし――、
「激怒、激怒、激怒でキーキーポッポ。このような男がストッキングで首をしめられなかったのがふしぎなくらい(その際、眼鏡がずり落ちんことを望む)。こんな男には原稿料を払ってはいけません。こんな男がいるから女は強くなれないのである」
普通もらうこのような手紙のうち、こちらを罵倒《ばとう》している手紙は無署名なのが多いのですが、このお嬢さんは、はっきり自分の名まえ、会社名まで書いてある。要するに、ケンカを正々堂々と申し込んできたのである。その勇気は立派だ。
ぼくは震えながらも、しばらく考え、自分の考えをもっと電話で彼女に説明したほうがいいと思って受話器を握った。同僚らしい男性から名まえをよばれた彼女は電話口にでると、
「もし、もし、どなたです」
ぼくが自分の名を言うと、
「キャアーッ」異様な声で叫び、あとは「スミません。ゴメンなさい。ゴメーンなさい」の一点ばり。あの勇ましい文面はどこへやら、もう狼狽《ろうばい》して電話を一刻も早く切りたげである。ぼくも、もう吹き出してしまい、先ほどの恐怖やおののきも、やっと鎮《しず》まったくらいであった。
こういう陽性なドライなお嬢さんは、近ごろだんだんふえてきた。私は大好きである。
しかし、私がこのお嬢さんをふくめて皆さんにお願いしたいことがある。それは、ただ女性を男性の眼で批判したという、それだけの理由で「ストッキングで首をしめられてしまえ」と激怒されないでほしいのです。でないと、男と女は永遠に話ができなくなる。我々も皆さん女性に注文が言えなくなる。
今日《きよう》は若い主婦たちのことについて書きます。ひょっとすると誤解がぼくのほうにあるかもしれない。もしそうだったら、親切に教えてください。
はじめから結論を言うと、ぼくは日本の若い主婦たちは近ごろ、むかしの主婦にくらべて怠《なま》けているのではないかと思うのです。
怠けてない、そんな馬鹿なことはない、と言われるでしょうが、まア、聞いてください。
ぼくが子どものころは、日本の主婦というのはほんとうに忙しかった。朝から夜おそくまでコマネズミのように働いていた。つまり、レジャーなどというものは、彼女たちにはほとんどなかった。
理由はいろいろあるでしょうが、なんといっても電気洗濯機や電気掃除機、ガス風呂などのある現在とそうでない昔とは、主婦の労働力はずいぶん違う。
もちろん、若い主婦というものがこういうものを使って余暇をつくるということは大賛成です。電気洗濯機があるほうが、そういうもののない時代より、若い主婦にとってありがたいことは、言うまでもない。
しかし、ぼくは最近、若い主婦たちをみていると、せっかく得たレジャーをムダに使っていられる方が意外に多いのに、いささかビックリしました。怠けていると思いました。
どういうふうに怠けているか。たとえば、こういう例をあげるのはどうかと思いますが、ぼくはこれら若い主婦たちと何らかの機会で話をしてみると、精神の張りが感じられないのです。極端に言うと、気持が何か安心しきっていて、その安心の上によりかかっているような気がするのです。
だから何を話題にしても、実にツマらない。こちらの会話にたいして、ちゃんと受け答えひとつできず、ニヤニヤ笑っているか、ろくでもない返答しかなさらない。話すことといえば、だれか知人のウワサか、悪口か、あるいは子どものことばかり。
ついでにここで書いておきますが、若い主婦がいちばん我々を興ざめさせるのは、彼女たちが自分の子どもの話ばかりする時です。
「今年は幼稚園の試験もムツカしくなりましてね」
「ウチの坊やったら、おもしろいんですよ」
はじめは我々も彼女にうなずいておりますが、やがて、なんと無神経な人だろうと思うようになる。彼女の子どもは、なるほど、彼女にとっては眼の中に入れても痛くないほど可愛いでしょうし、そのすること、なすこと、すべて興味があるでしょうが、他人にとっては、やはり、他家の子どもにすぎません。その子どもがバアと言おうが、キャアとわめこうが、こちらにとってはそれほどおもしろい話題ではない。
そのおもしろくない話題を一時間も話しつづける神経はチェーホフ流に言えば「可愛い女」かもしれませんが、やはり精神がたるんでいる、と言うより言いようがない。
むかしの主婦もそうでした。しかし彼女たちの場合には、さきほども書いたように一日じゅう労働に追いまくられて、興味の対象が自分の家か子どもにしかなかったからです。
夫婦のあり方
3の講でぼくは「教養ありげ[#「ありげ」に傍点]」な女は大嫌いだと書きましたが、それはほんとうに教養のある女性が嫌いだという意味ではありません。むかしの主婦にくらべて、生活も合理的になった若い主婦が「もはや、あたしは永久就職に合格した」という安心感から、心をたるませ、何ごとにもほんとうの興味も学ぶ気持ももたなくなり、眼はトロンとし、人のウワサと悪口と子どもの話しかできない時――、ぼくはその人の夫が浮気しても、夫のほうに同情します。
男はそれでも何とか言われながら、まだ勉強しますよ。社会の生存競争が、眼をトロンとさせた男を蹴落してしまうからです。それは若い主婦たちも認めるでしょう。永久就職という温室にヌクヌクとして、
「ウチの坊やはおもしろいんですよ」
「近ごろ、家計のやりくり大変だわ」
この程度の話題か、
「奥さま、お聞きになった? 今川さんのところの御主人、課長になったんですって」
こんな話しかできなくなれば、どんな女も魅力がなくなりますよ。我々はこんな女性にはハイ、サヨウナラと言ってもしかたないでしょう。
ぼくが留学していた時、住んでいたフランス人の家庭では、その若い主婦が育児、家事の暇を必ず見つけて、毎日一時間、何かの本を欠かさず読んでいました。
しかも彼女は、決して「教養ありげ」な女性ではありませんでした。
「主人は仕事で忙しいでしょう。だからパーティーやお客さまを御招待した時、話題になる本を読む暇がないのです。私が代りに読んで、彼に内容やその本の批評を話してあげるのです」
と、その若い夫人はニコニコしてぼくに説明してくれました。
これがほんとうの内助の一つだ、とぼくはその時、思ったものです。
6 女と「記憶」
思い出のハンスウ性
牛がこのごろ、東京から姿をみせなくなった。ぼくは動物といえば何でも好きだが、馬と牛とどっちが好きだと言われれば、
「牛」
と即座に答える。印度には二度ほど行ったが、あの国の風物のなかで一番好きなのは、街路とか田舎道に牛がたくさんいることだった。牛はこの仏教国では神の使いとされて大事に扱われているからである。
なぜ牛が好きかというと、あの眼がちょっと、白痴的で善良そうで、馬のそれのように小利口なところがひとつもないからである。みなさん女性は、どちらがお好きですか?
「馬よ。やっぱり颯爽《さつそう》として」
「牛なんかイヤ。大嫌い。鈍ですもの」
ははア。そうですか。なるほどねえ。ところで、みなさん、牛と馬と、どちらが女性のイメージをもっていると思われますか。
牛って、ハンスウするでしょう。
「ハンスウってなあに」
「ハンスウってのは」周作さんは答える、「一度、胃袋におさめた食べものを、また口のなかに戻してモグモグやっているでしょう」
「ああ、やってる。やってるわ。きたない涎《よだれ》なんか、たらして……」
「あれですよ、ハンスウっていうのは」
ところで、ぼくはあのハンスウしている時の牛の顔が大好きなんである。ペチャペチャ、グチャグチャ一度たべたものをまた口にもどし、うまそうに噛《か》みしめ、また胃袋に入れるそのぼくの大好きな牛の横顔こそ女のイメージ。
「失礼ね」
「人を馬鹿にしないでちょうだい」
「いい気になるんじゃないわよ」
だって奥さま、お嬢さまたち、そうではないですか。
女っていうのは男とちがって、必ずむかしを大事にする。むかしの思い出を大事にする。
この間、サマセット・モームという英国作家の芝居を見にいきましたらね、粗野な亭主に苦しんでいる妻が妹から、
「どうして、あんな人とつながっているの?」
そうきかれて、
「思い出[#「思い出」に傍点]につながっているの」
と答えておったが、その言葉、女だなあと、実に実感がありました。ああいう台詞は、とても男には言えない。男は自分の妻が現在、粗野になった時、それに耐えて、ただ彼女との昔の思い出を噛みしめるなんて、とてもできないのである。
え? あなたたちだってそうでしょう。あなたたちの御主人が別に粗野な男性だと申しあげているのではない。あなたたちの御主人はやさしく、男らしく、心こまやかにちがいない。
しかし、夫がどういう方であれ、いや、夫がやさしく男らしければ男らしいほど、女というものは台所仕事、洗濯、その他もろもろの家事をやりながら、彼との楽しい過去の思い出――婚約時代のこと、彼が結婚を申し込んだ日のこと、初めての接吻のこと――をもう一度、お腹の底から口の中に戻して、グチャグチャ、ピチャピチャ。
「あの時の良二さん、ステキだった」
「あたしも今はこんなにお婆ちゃんになったけど、あのころは若くて美しかった」
噛みしめ、味わい、また、頭のどこかにしまっておく。つまり、わが愛する牛くんたちが食物をハンスウするがごとしで、そのイメージにおいて、はなはだ類似点があるのです。だから、こういう時の女性の顔は牛に似ておる。牛がハンスウしておる時の顔に、はなはだ似ておる。
男はなぜ過去を忘れるか――
こういう表現が万一、失礼ならば、哲学的に書きましょう。哲学者ジャン・ポール・サルトルが言っている、「女は過去に向い、男は過去よりも未来を志向する」
哲学的に書けばそういうことになるが、要するに意味は同じだ。女は牛がハンスウするような顔をして、いつまでも過去を噛みしめ味わい、また胃袋の中に戻す。しかし男というものは、だいたいにおいて、過去よりも未来のほうが大事なんです。なぜなら、過去にいつまでもこだわっていては、運命など切り開けない。過去にいかに美しい思い出があっても、それよりも自分のこれからを立派にすることのほうが大事だ。
だから多くの夫は、自分がむかしラブレターで何を書いたか、むかし接吻をして言った言葉なんか、すっかり忘れておる。かく申すぼくなぞも自分が婚約した日、結婚式なんかほとんど憶えておらん。ぼくだけがそうじゃない。A君だって、D君だって、E君だってみんなそうだ。
「あなた」
「なんだ」
「あなたは明日が何の日だったか、憶えていらっしゃる」
「明日? なにかな。なんだったけな。NHKが集金にくる日なのか。美空ひばりが生れた日か」
「まア」女房どのはワッと泣きだす、「口惜しいわ。おぼえていないの、明日は私たちが婚約した日じゃないの」
「そ……そうだったけな」
男にとっては妻がこんなツマらん(?)ことを自分が忘れたぐらいで、なぜ泣きだすのか、さっぱりわからん。そりゃ、あたりまえです。男にとっては過去なぞ、そんなに大《たい》したもんじゃない。
結局、その翌日、彼は女房をつれて六本木かなにかのレストランで晩飯をくわされ、
「思いだすわねえ、あなた。婚約のころを」
「う、うーん」
すっかり機嫌をよくした妻は、
「近ごろ、こんな所、一年に一度しかつれていってくださらないけれど、これから婚約日には二人で外出しましょうね」
「う、うーん」
チェッ。なんでこんなつまらんことで、つまらん出費をせねばならぬのかと、亭主は苦《にが》い気持だが、顔だけは嬉しそうにしないと、またヒステリー起されては困る。
「あなた、幸福?」
「う、うーん」
助けてくれ、と言いたくなりますわい。こんな夫婦がよく、おりますなあ。五月、十月ごろの町のレストランに。
要するに、すべてこれらは、女の中にある牛のハンスウ的傾向のせいで。しかし、女性よ、そのためにぼくを怒ってはいけない。すでに書いたかもしれませんが、夫婦喧嘩で男がやりこめられるのは、女の過去にたいする異常な記憶力のせいなんです。
「あなたは、二年前の三月十七日に、こう言ったんですよ。二年前の三月十七日に」
「そ、そんなこと言ったか」
「言いました。チャンと憶えてんだから。その二年前の言葉と今と違うじゃありませんか」
「それは、その」
「どっちが正しいんです」
「君です。すべて君です」
女が牛であることよ。万歳。
7 女の「知的能力」とは
「学ぶ」感覚の欠如
熊本の大学総長が女子学生の入学禁止を宣言したために、物議をかもしている。男女同権を無視したやり方だという批判を、主として女性側から、ぼくも、しばしば聞くのである。
「これじゃ、戦前に逆もどりよ」
「そうよ。逆コースもはなはだしいわ」
戦争が終るまでは、日本は特別の条件がなければ、女性は一部の大学を除いては大学に進学できなかった。もちろん、目白の女子大や東京女子大はあったが、当時のあれは大学ではなく、カレッジだった。女性たちが戦後、獲得したものの一つに進学の同権がある。女性も、また大学に入れるようになったのです。
ところでぼくも、その女性たちが大学に進学した戦後最初の大学生でありました。慶応の三田の校舎や廊下に、急に春がきてパッと花がひらいたように女子学生が現われて、
「あのオ……二〇二番教室、どこでしょうか」
と聞かれた時なんかの胸のトキメキ、今でも忘れない。もっとも、その時はまだ女子学生の数など少なくて、今みたいに、文学部の三分の二が彼女たちによって占められているということはなかった。だから、彼女たちが鉛筆でも落そうものなら、五、六人の男子学生がバッタのように駆け寄り、
「あッ、ひろいます、ひろいます」
「いや、ぼくがひろう」
「バカな。オレが先にひろうんだ」
こういう状態であった。女子学生一人に男子学生十人が、金魚のウンコのようにゾロゾロついて歩いたもんだけれどな。
しかし、いちばん困ったのは便所。いままで男子学生しかいなかった大学だから、女子用の便所がない。女子学生一人が便所を使用中だと、われわれは中に入ることはできず、戸の前で足ぶみなんかやっている。
「ウーウ、洩《も》りそうだ」
「ウーウ、まだか。長いなあ。早くしてくれんかいな。たまらん。我慢できん」
彼女は中で悠々《ゆうゆう》と用を足し、こちらの苦痛も知らぬ顔、鏡に向って化粧なんかなおしている。
「ひゃア、もうダメだ。我慢の限界だ」
「すみません。こいつ、もう洩らしはじめたんです。出てください」
「あら、ごめんあそばせ」
そんな悲劇が毎日、三田で行われていたのである。
しかし、あのころの女子学生は、まだ普遍的でなかったから美人が少なかった。たいてい、スケソウダラのような顔をしていた。だが、スケソウダラでも希少価値があったから、われわれにはチューリップに見え、ヒヤシンスに見え、天使に見えたのである。
それに女子学生は、われわれにとって都合がよかった。だいたい、当時の女子学生はケチであったから、授業料はらった以上、学校をサボるのは損だという経済観念、ケチ根性から講義を休まない。だから試験前にノートを借りるには、もってこいなのである。
「松井さん。ノート貸してください」
「あら、遠藤さん。またノートをとってないの。しかたのない人ねえ」
「そんなこと言うなよ。君は美人だな。ミス・ケイオウだ」
お世辞、言ってノート借りてきて、いざ写そうとすると、ところどころ、ワケのわからんことが書いてある。
「十九世紀の文学はエート、二十世紀のそれとちがってゴホン、感覚的であり浪漫的でありエート、ゴホンその技法においても……」
写しながら、このエート、ゴホンはなんの意味か、さっぱりわからん。
「松井さん。このエート、ゴホンはフランス語、英語」
「え? そんなこと書いてある?」
「書いてあるよ、ほれ」
彼女、それ見て顔赤くした。顔赤くするのも無理はない。彼女は教授の言葉を、男子学生のように理解してノートをとるのではない。まるで筆記機械のように一言一言、そのまま筆記したものだから、教授が言葉につまって、
「エート」
というとエートと書く。教授が咳《せき》をして、
「ゴホン」
というとゴホンと書く。そこでエート、ゴホンがあちこちに交《まじ》ったわけである。
女性共通の「ものの見方」
あれから二十年、もうこんな女子学生はおらん。彼女たちはスケソウダラではなく、ほんとうにチューリップみたいに美しい。エート、ゴホンを書くほど糞真面目《くそまじめ》ではない。要領がよすぎるほど要領がいい。
だが彼女たちは、要領がよすぎるほど要領がよくなり、糞真面目でなくなったから、大学の教師にとって教えにくくなったことは確かだ。彼女たちは勉強のために勉強するより、「試験」のために勉強する。試験がすめば、ケロリと習ったことは忘れる。実用的な語学などには熱心だが、実用的でない学問には無関心である。しかし学問とは、すぐに実用的ではないからこそ学問なのであるから、学問を実用化に結びつけ、そうでなければ死学問だという現実主義的な女房感覚[#「女房感覚」に傍点]の女子学生は、大学教師にとってやりきれないほど腹が立つ。
ぼく自身、大学で教えているので、女子学生からうける教師の被害は、いくぶん理解できるのである。なんといっても、いちばん困るのは、女子学生が多いと講義の水準を下げねばならぬということだ。
男子学生なら、こんな遠慮はいらない。わからなければ叱りつけ、どなってもわからせる。なぜなら、彼は社会でその知識を活用して生きていくと思うからである。しかし女子学生の大半は、人がなんと言おうと、「お嫁にいくため」の条件として大学に来るか、いわゆる「御教養のため」に大学に来ているのであるから、彼女たちを叱りつけ、どなるだけ損だ。こちらの声帯も痛む。
そのうえ、
「エコヒイキばかりして」
「周作先生なんて大嫌い」
そんなことを言われるのは損である。ぼくは損なことはしたくない。
彼女たちのために水準を下げれば、男子学生に気の毒である。教養のために彼らは大学に来ているとは限らない。学問のために来ている連中もいるのだ。
ということを、ある大学出の若い奥さんに話したら、その考えは間違っていると叱られました。
「なぜ」
「なぜって、なぜあなたは、そんなに男女の学生の知的水準を区別するの」
「だって、事実がそうだもの。見ればハッキリする。男子学生のほうが女子学生より、ほんとうの学問的な意味で優れている。全部が全部、そうとは言えんが」
「でも、彼らを教師は同格に扱うべきだわ。女子学生を甘やかさず、男子学生と同じように叱り、どなり、それでもできなければ堂々と落せばいいのよ。そのくらいの勇気を教師は持たなくちゃあ」
しかし、学習院で、仏文科の鈴木力衛教授が女子学生を落第させたとき、彼女と彼女の母親のものすごい非難をうけたことは、世間のだれでも知っている。こんなバカらしいことが通用するぐらいなら、熊本大学の総長の言うように、女子学生を大学から締め出すべきだと思うのは、ぼくだけではあるまい。
8 女の「ウヌボレ」とは
「ズルさ」との関係
痴漢の季節になりました。
満員電車で通勤や通学なされるお方は、きっと一度はヘンな男にやられたでしょう。あれはどんなことをするんですか。お尻なんかをさわるのですか。正直な話、私は幸いにも通勤電車にのる仕事ではないので、いったい、どういうもんかワカらない。
一度、見てみたいと思っていますが。
「先輩、睨《にら》みつけられました」
ある日、後輩のK君が蒼白《そうはく》な顔をしてぼくの家にやってきた。
「若い娘にキッと睨みつけられました。侮辱《ぶじよく》です。電車のなかで」
「なぜです」
「実は……押しあいへしあいでしょ。別に触れるとか、さわるって意志はこちらになかったんです。うしろから雪崩《なだれ》のように押しこんでくる。こっちは自然の成行ですよ。前の娘さんに体がピッタリくっついちゃったんです」
「本当か」
「本当です。アラーの神に誓っても本当です。ところが口惜しいじゃないですか。その娘の野郎、豆腐を下駄で蹴飛ばしたような顔をしてやがるくせに、人をグッと睨《にら》みつけて、何と言ったと思います」
「何と言ったかワカらん」
「ヘンなこと、やめてください! そう言ったんだ。周《まわ》りの連中がみんな、ぼくをふりかえったですよ」
「君は痴漢に思われたんだね」
「そうなんです、先輩。ぼくの先祖は菅原道真ですよ。東風《こち》吹かば匂《にほ》ひおこせよ梅の花、主《あるじ》なしとて春な忘れそ。知っとりますか」
「知っとる。知っとる」
「その菅原道真の子孫であるぼくが痴漢であるはずはないじゃありませんか。それだけじゃない。その娘は、途中でスカシ屁を自分が洩らしたくせに知らん顔しているんです。すると周りの人がまたぼくの顔をじっと見るんです。あたかもそのスカシ屁の発源体がぼくであるかのように……」
「君は断じてそのスカシ屁をしなかったんだね」
「先輩。ぼくは道真の子孫です。道真の子孫は車中でそんな失敬なことは断じてしない」
後輩の話を聞きながら、私は、女というものを痛切に考えた。女のウヌボレの形態を。女の身勝手な狡さを。第一に、もし彼女が「豆腐を下駄で蹴飛ばしたような顔をしていた女」でなく、美人であったならば、どんな混んだ車中でも、本当にヘンな気持で体に触れてくる男と、わが後輩のように不可抗力でお尻に手のふれた男の区別ぐらいチャアンとつくものである。それは彼女が美人であるため「さわられつけている」ためでもあるが、それより女独特の直観がこの時、必ずや働くからである。
したがって、この後輩をキッと睨んだ女性は、平生《へいぜい》から痴漢にさえも敬遠される醜女であるか、あるいは醜女ゆえに「男から車中でサワられたい。サワられたということを皆に知ってもらいたい」という無意識的な願望が働き、かくて、
「ヘンなこと、しないでください」
わがK君に無実の罪をなすりつけたのであろう。
私は、つい最近のことであるが、一人のガール・フレンドにせがまれて、某劇団の某男優Hのところにつれていったことがある。
つれていったといっても、折あしく、その時Hは芝居の楽屋にいたから、彼女は右往左往する関係者のなかにまじって、すこし、ポツンと一人ぽっちであった。それをみたHは、心やさしい男だからサービスの意味をふくめて、彼女に何かと話しかけたのである。
ところがその帰りに、
「どうだい、H君に会えて嬉しかったろう。H君も君にいろいろと話しかけていたようだね」
と言った私にたいし、彼女の返事がふるっている。
「ええ。Hさんのようにトリマキの女性から平生ワイワイ騒がれる人は、あたしのように会っても知らん顔をしている女には好奇心が起きるらしいのね。向うから積極的に話しかけてくるので……困りましたわ」
「へえ……」
私は、こういう発想法も世の中にはあるのかナと、しばし驚嘆して彼女の顔をみつめたが、向うさんは大マジメである。
「君、それ、本気かいな」
「ええ、そうですワ。どうしてですの」
「君、本当にH君が、君に好奇心を起したと思っているの?」
そこまで言いかけて、さすがの私もグッとこらえた。おかしさがクックッとノドもとにこみあげ、
「ああ、世はのどかなり。のどかなり」
思わず、口のなかでそうつぶやいた次第であった。
ウヌボレる背景
つらつらに思うに、カサッカキ(梅毒)と女のウヌボレだけは、たとえ月世界に我々がいけるようになっても、絶対になくならないであろう。どんなブス(醜女)でも入浴のあと自分の顔を見てまんざらでもないと思い、決して自分は世にも醜悪な顔だとは考えないらしい。なぜなら、女性は現実を自分の都合のよいようにしか見ないからである。
こういうウヌボレを私は、決して非難しているのではない。だいいち、男にもウヌボレがあるし、女だけを責めるわけにはいかんからである。
しかし男は、そのウヌボレを時おり、反省する自意識というやつをもっている。なぜなら、
「課長。課長は実に美男子ですなあ」
「そうかね。それほどでもないだろう」
「いや、美男子です。社内の女の子がみなそう言うとります」
「クダラんことだ」
「いや、課長は横顔が加山雄三にそっくりだって」
「ふうん」
「尾上菊之助にも似ているって。それに口もとのあたりは昔のゲーリー・クーパーみたいだという評もあります」
このあたりまでほめてくると、だいたいの男はだんだんイヤな顔をしはじめ(オレはバカにされているな)と考えはじめる。しかし女性の場合は、決してそういう自意識は働かない。
「サチ子ちゃん、サチ子ちゃんは実にきれいだね」
「あら。お世辞うまいこと。奢《おご》らないわよ。自分で自分、よく知ってますからネッ」
「いや美女だよ。社内の男性みなそう言っている」
「奢らないわよ、絶対に」
「お世辞じゃないよ、君はエリザベス・テーラーみたいな眼をしてるって言ってるよ」
「まア。ほんとかしら。からかわないで。でもそんなこと、ときどき言う人もあるわね」
「倍賞千恵子的な顔だと言うヤツもいるぜ」
「自分ではそう思わないけど……そうなのかしら」
「そうだとも。それに口もとのあたりは昔のノーマー・シャラーにそっくりだって部長もほめていたぜ」
「フ、フ、フ、フ。あの部長さんて、あたし、いい方だと前から思っているの」
「ぼくは君をミス・日本に出したいくらいだよ」
「あたし、もしそうなったら、あなたに奢ってあげるわよ。ほんとよ」
(こきやがれ。この下駄でひっくりかえした豆腐娘めえ!)
いや、御無礼をば、いたしました。
9 「偉い女房」とは
「控え目」の意味
ある友人の編集者が、こういう話をしてくれた。
「執筆者の奥さんは注意しなくちゃイケマせんなあ」
「どうして」
「ぼくらは何も執筆者の全部を個人的に尊敬しとるわけじゃあないんですよ。それを味噌も糞も先生と呼ぶのは、仕事の上、それが便利だからでしょう」
「そんなことぐらい、わかっとるよ」
「まア、そういうわけで、原稿をとるために、相手を先生、先生というのは仕方ないとしても、その人の家にいって、女房までがエラそうな顔をするのに時々出会います」
「なるほど」
「執筆者はそれでも一応の考えをもった人ですから、先生で結構ですが、その奥さんは正直言えばタダの女じゃないですか。そのタダの女が執筆者の女房という理由だけで、自分までが偉そうな物の言い方などするのをみると、アン畜生! と思うことがありますなア」
その友人が帰ったあとで、ぼくは、彼はなかなかいいことを言ってくれたと思った。
もともとぼくは、執筆家を先生とよぶ習慣は、あまり好きではなかった。なぜ気に入らんかというと、若僧が先生などとよばれると、偽善者になる傾向ができるからである。
それはさておき、今の編集部の友人が言ったことは、やはり考えておかねばならぬ。
これは、なにも執筆者の女房だけの問題ではない。女全般に関する問題だからである。私も同じような経験がある。むかし先輩の家をたずねていった時、その先輩の前で奥さんが私に、
「あんた、早く偉くならなくちゃダメですよっ」
と言ったことがある。
こちらは、その先輩にとっては後輩にちがいないが、彼の奥さんの後輩ではない。先輩にたいしては尊敬しているが、しかしその女房に同じ感情をもっているわけではない。それなのに、その彼女から「あんた、早く、偉くならなくちゃダメですよっ」などと言われるスジはない、と腹を立てた記憶がある。
今、考えてみると、それは私が若いから怒ったのであろう。そして、その奥さんも悪気ではなく、自分の夫をたずねてきた学生ゆえに、親切心からそう言ってくれたのであろう。
しかし、こういう、かつての若い私のような青年にムッとさせるような結果になっては、せっかくの親切心も不毛である。だから女房というものは、できるだけ「控えめ」に「控えめ」にしていたほうがいいのだと私は思うのだ。
ある教訓
けれども言うはやさしく、行うはかたし。女というものは依存的存在(だれかに依《よ》りかかって生きていく存在)である以上、自分が依存している人間が偉くなったり、ちょっと名まえが売れたりすると、自分までが偉くなったような錯覚をするものらしい。
滑稽《こつけい》な話が五年ほど前にあった。そのころ、私は渋谷近くに住んでいたのだが、近所で合同でドブ掃除をやろうとして、当番の人が各家に申し入れを行ったところ、二軒ほどの家からピシャリと断られた。断るのは各家の事情がそれぞれあり、もちろん、とやかく言うすじあいはないが、その一軒の奥さんの断った理由がふるっている。彼女はこう言ったのだ。
「ウチの主人は東大出なんでございますのよ」
つまり、彼女の言いたいのは、自分は東大出身の、おえらアーいお方の細君である。その細君はみなといっしょにドブ掃除などできないと言うわけだ。
その話を聞き、私は爆笑した。読者のみなさんも苦笑されて、その人は少し頭がオカしいのではないかと思われるでしょう。しかし、これが実話なんだから。そして、これほどではないが、これと大同小異の例に、みなさんも日常生活や同窓会なんかでぶつかりませんか。
「あの……、お宅の御主人、どこの大学でございますの」
「ウチは△大ですの」
「まア、△大ですの」
「お宅は?」
「ウチは……たいしたことないんです。東大ですの」
こんな女性が同窓会なんかよくいるでしょう。嫌だねえ。てめえが東大出たもんでもあるまいに、主人の出身校のことをなんとかして友人たちに知らせようとする阿呆臭い努力。
こういう女性が極端になると、さっきのドブ掃除を断った奥さんのようになるのだが、また彼女は主人の部下の細君にたいしても、あたかも自分が彼女たちの上役であるかのごとき言葉づかいをするものなのだ。しかしよく考えてみると、亭主が部長だからといって、その女房が部長と同じ力量、頭脳があるわけではない。女房はどんな偉い人の女房でも、しょせん、女房業しかできん女にすぎぬにかかわらず、当人、勝手に自分までエラくなったような錯覚にとらえられているのである。
こういう錯覚にとらえられているドン・キホーテ的女房を見ると、男たちはなんともいえぬ女のあわれさ、愚かさを感じて苦笑するのであるが、当人、いっこうそれにお気づきにならぬから、ますますメデタイ、メデタイ。
「つくす」行為の難しさ
むかし、青年の時、社長の娘というのがガール・フレンドの中にいて、この娘が社長の子だというのであまりに威張るから、引っぱたいたことがあるが、父親が、
「よく、やってくれた」
と言ってくれた。偉い人だったと思う。
だから、女房を部下や後輩の前で威張らしたりゾンザイな口のきき方をさせておくのは、亭主のほうにも非があることはたしかだ。たしかだが、しかし聡明な妻というものは、自分が何者であるかをよく知っていて、決してその分《ぶん》を越さぬようにすべきだと思う。結局、笑われるのは御当人であり、またその亭主でもあるのだから。
と書けば、あるいは読者のみなさんの中から、反発の声があがるかもしれない。
「まア、ひどい。それじゃア、妻というものが可哀想だと思いますわ」
「どうして」
「あなたは、どんな人間の女房も、しょせん女房にすぎぬとおっしゃいますが、亭主を偉くするような女房というものもあるのですわ」
「そりゃア、あるでしょう」(吐きすてるように小生、言う)
「その内助の功なんて並みなみならぬものですわ。してみると、御主人を部長さんにした奥さんは、それを威張れるだけ、やはりお偉いんじゃないかしら。内助の功をなさったんですもの」
「わかりました。わかりました。そう大きな声で、あんたギャーギャーわめかんでもよろし。しかし、もしその女房がほんとうに亭主に内助の功をつくしつづけたいなら、彼を後輩からの笑われ者にはしませんね」
「そりゃア、しませんわ」
「なら、私がきょう書いたようなことで、後輩や部下から笑われないでください。御自分だけではなく、御自分の亭主まで……その努力も内助の功でしょう」
「…………」
「おわかりかの。小生に言いこめられて黙るような反発なら、口に出さんほうがよろし。要するにあんたより、こっちのほうが頭がいいんだから」
「まあ憎らしい、だから遠藤さんて大嫌い」
「女が嫌いという時は、好きというのと同じだア」
10 女の「嫉妬」とは
なぜ女の嫉妬は陰湿なのか
知りあいの歴史学者と、ある日、よもやま話をしていると、その男がこう言った。
「家康のことだがね」
「え?」
「家康のことだがね。彼が晩年にしみじみこう言ったそうだよ。予は天下を征服するに苦労をしたが、それよりもっと苦労したことがあると」
「ほう、何だね、それは」
「それは、予の妻妾《さいしよう》を互いにやきもち、りんき[#「りんき」に傍点]をやかせずに生活させることだった。このほうが天下をわがものにすることより、ムツカしかった……、そう家康は語ったそうだ」
「ほんとうかね」
「ほんとうさ」
歴史学者はウイスキーの水割りをのんで笑った。
私はそのほうには暗いから、よくそれが事実であるか、どうかを詳《つまびら》かにしない。読者のかたで御存知の向きがあれば、何卒《なにとぞ》、お知らせねがいたい。
しかし、新東宝の大蔵社長に伺うと、膝をたたいて、そうですよ、全くそうだとうなずいておられたから、この家康の言葉はひょっとすると真実かもしれぬ。
しかし、私の教えた女子学生が、ある日、あそびにきて、こう言ったな。
「先生。先生のおっしゃったとおりでしたわ。男も女もヤキモチやきですけれど、女のヤキモチは男にくらべると、湿っぽくて、意地悪だわ」
「へえ。何かあったのかい」
「ええ。あたしが入社した会社にオールド・ミスの女の人がいるんです。岡野って名ですけど、その人がとってもヤキモチやきで意地悪なんです」
どういうふうにその岡野というオールド・ミスがヤキモチやきで意地悪かというと、その巧妙な手口に私もつくづくと感心したな。
たとえばだ。この私の女子学生が会社で仕事をしているところに、ボーイ・フレンドから電話がかかってきたとする。
「もしもし、登美子ちゃん。ぼく青山です。きょう、いっしょにボーリングにいかないか」
「きょうは土曜ね。三時ごろに退社するわ。いいわよ。じゃ、三時半に会おうか」
「いいね。ステキだね。幸福だよ。倖《しあわ》せ。登美子ちゃんといっしょに午後をすごせるなんて」
「あら、青山さんお世辞うまいのねえ」
「なに、本気さ。ほんと。ヒッ、ヒッヒ」
「じゃあ、例のところで三時半。バイバイ」
「バイバイ」
恋人同士のこういう楽しげな会話も、私ならニコニコ微笑して聞いているのであるが、この岡野というオールド・ミスはニコリともせず、仕事をしながら知らん顔をしている。
「バイバイのバイ」
「もう一度、バイバイ」
「ほんとにバイ」
「おまけのバイ」
早く切ればいいのに、そこは若い恋人、バイバイのバイバイと何度も何度も言いあっているのを(私ならニコニコ微笑して聞いているのであるが)岡野さんは能面のような顔をして気にもとめないふりをしているのだが、ほんとうは気にもとめないのではなくて、全身、これ耳。
しかして、彼女は何もしないかというと、決してそうではない。
午後三時半ちかくになるのを、じいっとクモが餌のかかるのを待っているように待っているのだなあ。そして午後三時半の時計がボーンと鈍い音をたてて鳴るや否《いな》や、ツウと席をたち、一かかえもある帳簿を両手にかかえ、私の女子学生だった女の子の机にいき、
「泉さん」(実にやさしい声で)
「はい」
「ほんとにすまないけど、急ぐのよ。このお仕事。六時までに仕上げないとダメなの。御苦労さまですけど、やってくださいね」
茫然《ぼうぜん》としているわが教え子の前にドサリ、書類の山をおき、
「おねがいね」
あとは知らぬ顔。そして我が教え子は青山君との三時半のデートも全く不可能となり、泪《なみだ》にくれながら仕事をしているのを、
(いい気味ね)
じいっと向うの机からその姿をうかがう岡野……。
以上のような話を、いとも口惜しげにわが教え子はして、
「あんなこわい女性には、あたし、決してなりたくないわ」
しかし私は、こういう女の嫉妬心をそうこわいとは思わなくなってきたのである。男だって嫉妬心の強い奴はザラにいる。ただ、男にくらべて、女の嫉妬心がやや陰湿味をおびているのは、女が男のように暴力をつかえないからだ。男なら、ねたましい不愉快な相手を、
「このヤロー」
ボカボカと撲《なぐ》れるのであるが、女はそのようなことはできぬゆえ、嫉妬の相手にも、勢い陰湿な手段をとらねばならぬのだろう。
復讐心と底深さと……
私がほんとうに女はこわいと思った一例として、こういうことがあった。
フランスのリヨンで留学生活を送っていた時、下宿していた家のおばさんが、いつも私の部屋にきて亭主の悪口を言う。
おとなしいおばさんだったし、またその悪口の言い方も控えめなのだが、話をすれば必ず亭主のことについて恨みがましいことを言う。事情はよくわからぬのだが、どうも彼女は自分の主人を心から嫌っているようだった。
ところがその主人は肝臓がわるくなった。べつに深酒をしたわけではないが、ビールスか何かで肝臓を悪くしたのである。医者からは、食餌療法をきびしく言われたようである。
ところが――、
ところがである。私はある日、この主人とおばさんと三人で食事をしながら(晩飯はこの三人でとることになっていた)ふと、あることに気づいた。出された料理は塩分が多い。アルコールを使っている。バターも使っている。それらはすべて、医者が彼の肝臓にひびくものとして禁じていたものばかりである。
(なぜこんなムチャをおばさんは、するのか)
と私はふしぎに思った。しかし、おばさんがうっかりしたのだろうと考えて、その日は食事をすませた。
だが、その翌日も翌々日も……私は食卓の上に同じように、主人が決して食べてはならぬ料理を見たのである。
おばさんは、決して意識的にこの料理をつくったのではない。ただ彼女の無意識の夫に対する憎しみが――いつかこの料理をつくらせていたのではないか。そうして毎日毎日、夫の命をちぢめるようにしているのではないか。そう思った時、私はゾッとした。おばさんは知らん顔をして食事をしている。主人もムッツリしてフォークやナイフを動かしている。
私はその時はじめて、女の復讐がいかなるものかを見たような気がした。
一週間後、私は早々にして、この下宿を出たのはもちろんである。
ああ、女はこわい――それをあの時ほど実感として感じたことはない。
11 女の「クソ度胸」とは
人前での度胸
この間、小田急に乗っていた時のことである。子供をつれた母親がすわっている私の前にたった。その子は「かあちゃん。腰かけたいよオ」と叫び、母親はジーッと私の顔を見るのである。つまり、あんた、早くうちの子に席をゆずりなさいよという意思表示であった。
私はなにクソ、負けるものかと思った。今まで何回、こうした母親のために、せっかく苦心してとった席をゆずり渡したであろう。私の考えでは、子供が電車やバスで腰かけるのは体育向上にも、また平衡感覚をとる訓練のためにもよくないことであり、おとなといえばみな丈夫で子供は弱いと考える習慣は断じてやめるべきなのである。私はだからなにクソ、ここで席をゆずっては御先祖さまに申しわけないと思い、がんばったが、やはり真正面からジーッと見つめられると戦闘意欲が少しずつ萎《な》えて、ついに刀折れ矢つきたのであった。
私は無念で仕方なかったが、しかし同時にわが子のためにジーッと私をにらみ倒したこの母親の強靭さには感心したのであった。これは神かけて誓うが、男には絶対にできない粘り強さと度胸である。
かつて私はまた同じ満員の小田急で、私とからだを押しつけ合っている若いオフィスガールが、あきらかに自分で放屁したにかかわらず、さきほどの母親と同じように私をジーッと凝視し、この責任を私にかぶせた苦い経験を持っている。
こういう強さは女のどこから来るのか。いかに人が言おうと私は女は男より弱い存在だと思っている。戦後、強くなったのは靴下と女だとか、現代の女は男よりハルカに強いなどとよく言われるが、私はああいうことばは信じない。女は女である以上、本質的に男より弱い存在であると私は確信をもち、男は女性をいたわらねばならぬと主張する一人だ。
しかし弱虫のヤブレカブレの強さというものがある。私が前に住んでいた家にドラねこがすみつき、こいつが犬に追いかけまわされているのを見たが、縁の下に追いつめられるやヤブレカブレになり、歯をむいて逆襲し、びっくりした犬は飛んで逃げていった。私は女の強さはこのドラねこのヤブレカブレの強さだと思う。
ヤブレカブレの強さ
ヤブレカブレの強さとは言いかえれば恥も外聞もない強さである。ヤブレカブレの人間ほどこわいものはない。女は男から見れば強いとは思えぬが、ヤブレカブレになるから男にはこわいのである。歯をむいたドラねこの顔、あれがいざという時の女の顔である。
女はヤブレカブレになることができる。なぜなら女性はヤブレカブレになるほか、たたかう武器がないからだ。男にくらべれば腕力だって弱いし、知能だって弱いからだ。腕力や知能が弱いから彼女たちは窮するとヤブレカブレになる。恥も外聞もすててむしゃぶりついてくるのである。男は多少は腕力も知能もあるから追いつめられても、何とかきりぬける術を考える。ヤブレカブレになるということはあまりない。
女のくそ度胸とは結局、このヤブレカブレのことである。これは文字通り本当の度胸ではなく、くそ度胸である。
ジェントルマンの深慮
私の友人がこぼしていたが、この友人の細君は夫婦げんかになると、庭にとびだし、
「御近所のみなさん、聞いてくださーい。うちの主人は、あたしをたたいたんですよ。それも三度たたいたんですよ」
そう大声で叫んだそうである。友人は恥ずかしくて、よしてくれ、オレが悪かったとあやまったそうだが、こういう行為は男には決してできない。男は女より知能もあるし社会的名誉も考えるし、虚栄心だってあるから、夫婦げんかの時に隣に助けを求めるくそ度胸はとてもない。
女は何をするかわからない。だからこわい、とは男が女にたいして意識下にばく然ともっている恐怖である。
だから男たるものは決して女をヤブレカブレにしてはならぬ。ヤブレカブレにならぬ以上、女はわが家のドラねこのごとく、やさしい声でニャオーと鳴き、のどをゴロゴロならしている。だが窮すればグワーッと歯をむいてむちゃくちゃをするのだ。西洋の男が女性を外見はやさしくしたり、いたわったりしたのは真心からではなく、女をヤブレカブレにしないほうが安心だという保身の策だったのである。
そういう意味でもわれわれは女をあまりいじめないほうがいい。最近、女性を罵倒して得意になっている文化人がふえたが、あれは火薬にマッチを近づけるような危険な行為である。
12 女にとって「ユーモア」とは
ユーモアと人生の「幅」
これがいよいよ最後です。十二回の間、重箱の隅をほじくるような思いで女性の悪口を書きつづけましたが、正直な話、こういう悪趣味なことは小生の本意とするところではないのです。天に唾《つば》するものは、自分の顔にその唾をうけるといいますが、女性の悪口を言う奴はどうせロクな男ではないことぐらい、百も承知しています。男だって我々同性からみてもいやになるような奴がザラにいます。それに自分自身も男としてさまざまの欠点をもっています。
編集部から、毎月責めたてられなければ、この労役からはやく逃《のが》れたかったのです。
ところでつい最近、あるテレビ局のニュース・ショーで、私の友人が女性一般の悪口を言いました。ところがたいへんだ。
彼が話し終らないうちに、局に電話がジャンジャンかかってきたのである。
「なんですか、あのイカナゴのような顔をした男は」
「そんなに女が馬鹿ならば、その女から御当人も生れたんじゃないですか。あんたの奥さんも女でしょう。何故、馬鹿な女を自分の奥さんにしたんですか。こんな男は一度もマシな女に会わなかったに違いないわ。気の毒ね」
その他諸※[#二の字点、unicode303b]の怒りにみちた電話、罵言《ばげん》でふくらんだ電話、軽蔑の電話、呪《のろ》いの電話が殺到し、さすがの局の面々も悲鳴をあげたと、後日、語ってくれましたが、私は、やはり女とは人を見る眼があるもんだとつくづく感じました。何故なら、そのテレビに出た私の友人は、女性視聴者の抗議電話の通り、いつも女にふられてばかりいる男であり、彼自身の告白によると「まだ一度もいい女にめぐりあったことがない」そうだからです。女性に噛みつく者は、あとがこわいということを、これで彼も身をもって知るに至ったでしょう。
しかし私は、その話を聞いたとき、我が友人も私同様ケシクリからんが、視聴者の女性も多少ケシクリからんではないかと思いました。つまり彼女たちにはユーモアがないのです。すぐムキになるのです。一|足《た》す一は何でも二なのです。
私の友人がたとえ女は馬鹿だ、けしからんと言ったとしても、それは朝のニュース・ショーのいわばお遊びのつもりであり、心の底からこの男が女性軽蔑、女性憎悪にかられていないことぐらい、そのふんい気をみただけですぐわかるはずです。これがわからないのはよほど鈍感か、ヒステリー性の女性であって、たとえそのふんい気がわからなくても、テレビ画面に出るこの男の人のよさそうな顔を見れば、いったい彼がどこまでユーモアをもってこういう発言をしているか、よみとれるはずです。
「お前、アホやな」
「どこまでマがヌケとるねん」
と友人に冗談半分に言いますが、それをムキになっておこる連中はまずいないでしょう。会話とか言葉は、そのふんい気で相手に伝達されるのであって、それを見ぬかないのでは、冗談一つ相手に言えたものではありません。だからテレビ局に電話をかけてきた女性の全部が全部そうだとはいいませんが、亀の子だわしのような顔になって食ってかかるところに、私は女の精神の貧弱さをみます。
もちろん、女というのは徳川夢声氏が言われたように「お産という深刻な仕事をする」ために、物事をナックル・ボールで受けとめることがなかなかむずかしいらしいですが、それでも訓練の如何《いかん》によって、人生の幅をもたせるユーモアを感じることができるはずです。私はそんなお婆ちゃん、そんな主婦、そんなお嬢さんをたくさん知っていますし、彼女たちのユーモアのセンスに敬意をはらっています。しかし同時に、多くの主婦の中に、どうも万事をストレート・ボールで受けとめる人がいて、これが男性を、夫を、しばしば照れくさくさせ、当惑させるのを見るとき、「おばはん、何もそうムキにならんでもええやないか」と軽くいなしたい衝動にかられます。
生活のリズムとして
おそらくテレビのニュース・ショーをみていた女性視聴者は私の友人の発言でおおいに自尊心を傷つけられたのでしょう。とすればなんとその自尊心の小さなことよ。あるいは、同性のために奮起せねばならぬという連帯意識にかられたのでしょう。とすればその連帯意識のなんと貧弱なことよ。
「ああまた、男がくだらんことを言っておる、ハハハハハ……」とニコニコニッコリ笑ってみすごす度量が何故ないのか。仮にここに石垣綾子なるおばはんがいて男性の悪口を言ったとする。しかし我々男性の大部分は、
「おばはん、また言っとるわ」
とニンマリニヤリと聞き流すことができるでしょう。もしここにひとりの男がいて、「けしからん、男性を馬鹿にしとる」さっそく受話器にとびついて局に電話をしたならば、我々はこの男の正義感を小児的なものとして、
「よせ、馬鹿馬鹿しい真似《まね》は」と軽くたしなめるでしょう。何故ならば、男がいなければ女は棲息《せいそく》できないし、女がいなければ男も棲息できないことぐらい、三歳の子どもでも知っているのですから。同じような欠点が我々にあることは百も承知している。承知のうえで言葉のピンポンをやっているのです。ピンポンはゲームです。あそびです。あそびを本気でとられてはこっちはポカンとせざるを得ない。おわかりかな。
こういうユーモアのなさが女性同士の生活に多くの摩擦を生じさせているようだ。
すべては心の余裕から
ユーモアがないというのは、心の余裕がないということです。私は教育ママの頭の中に、このユーモアのなさを感じます。心の余裕のなさを感じます。私は子どもの教育に熱心というひたむきな姿は、かえって人に照れくささを感じさせますし、子どもも迷惑です。もう少し子どもの人生を黄河のようにゆうゆうたるものとしてみてやる心の余裕をもたないかと思います。
「お隣の家はピアノを買ったのよ」
そう亭主にいうときの妻は、ひたむきはひたむきでしょうが、やはりユーモアがない。隣がピアノ[#「ピアノ」に傍点]を買おうが、こちらが褌《ふんどし》を買おうが、隣の娘がパンティ[#「パンティ」に傍点]をはこうが、こちらがみやこ腰巻き[#「みやこ腰巻き」に傍点]をつけようが、どうでもいいではないですか。
亭主のポケットにバアのマッチがはいっている。それだけでいやみをいう女房は「男を思うあまり」といえば聞えはいいが、やはり心に余裕がないからです。何故ならば嫉妬心というのは、たいていの場合、自分に自信のない場合におきるのであって、自分に自信がある場合は――胸に手をあてて考えてごらんなさい。嫉妬心は決しておきないでしょう。
いろいろ書きましたが、私の言いたいのは、この連載で腹をたてた人は一つ、人生や相手をゆとりある気持で見てください。遠藤周作は口ではあんなことは言うがほんとうはいい男だと思ってください。彼がああいうことを書いたのも、ことばのゲーム[#「ことばのゲーム」に傍点]であり、仕事だからだ。
「でも、かわいいとこあるわね」
「気が弱いのよ」
とおぼしめしください。けれども、ことばのゲームとはいえ、私もなかなかいいことを言ったでしょう。偉い人はどんな愚言もわがものとして精神を鍛練すると孔子さまもおっしゃいました。そんなこと孔子は言わなかったわという人は、まだ心にユーモアと余裕のない人!
私のつまらん文章も、賢い女性にはきっと役に立つだろうと願いつつ、またおめにかかる日まで、みなさんさようなら。
[#改ページ]
「女性のユーモア」再考
女性にユーモアがないとは近ごろ、よく言われる言葉だが、これは間違っている。女性とはそれ自体、ユーモアのある存在であって、御婦人が真面目になればなるほど、彼女はわれわれのユーモア感をそそるか、ユーモアの対象になるのである。
ただ、こういうことは言える。女性はユーモアを感じないか、本心ではユーモアをバカにしている存在だということだ。それにくらべて男はたしかに女性よりはユーモアを愛することができる。
と、書けば、もう柳眉をさかだてる女性も読者のなかにはいられるだろう。ひょっとすると、この原稿が載ってから一週間以内に私のところに無記名の葉書で「あたしたち女をバカにしている」と書いてくる女性もいられるかもしれぬ。だが、もしこの原稿を読んで自分たちはバカにされたと怒る人がいられたら、その御婦人は既にユーモアがないのである。すぐむきになって怒るからである。
女性は本質的にはユーモアを感じない。それは彼女たちは愛する男が三枚目になることを決して望まないことでもよくわかる。愛する男が道化師であることは、ほとんどの女にはとても耐えられない。彼女の周りに五人の男がいて、その三人がマジメ人間や秀才や二枚目であり、あとの二人がバカか道化師であれば、彼女は決して恋愛、もしくは結婚の対象にこの後者をえらばないであろう。
河盛好蔵先生の御説によると、ユーモアとは、自分をバカ、もしくは道化師の位置において、バカや道化師になれぬ人間をひそかに笑う感覚である。もしくはバカ、道化師の感覚をひそかに味わう楽しみでもある。だから自分をバカや道化師の位置におけぬ人間はユーモアの感覚がないと言える。
女性は自分が他人からバカにされたり、道化師に見られることは絶対にゆるさない(化粧品と美顔術の発達はこの女性たちのユーモア欠如を最大に利用したものである)。自分にゆるさないだけではなく、恋人や夫や子供にもゆるさない。それはちょうど文化人といわれる人や大学教授が他人からバカにされたり道化師になることをきらうのとよく似ている。文化人といわれる人や大学教授に女性的な人物が多いのはそのためである。
徳川夢声氏は私にある日、こう言われた。「女性にユーモアがないのは、やはりお産ということを生涯の大事業にかかえているためではありませんかな」。あるいはそうかも知れない。それは最近、よく上映されるお産映画を見ればよくわかる。あれは皆、マジメを装っている。本当はエロが売りものなのに、いかにも厳粛、マジメな映画のように宣伝されている。
ユーモアを味わう楽しみを知らぬ人間――つまり道化師になることを絶対にきらう人間はそれ自体、ユーモアの対象になる。女性はユーモアを感じないが、それ自体、ユーモラスな存在であるのはそのためである。彼女たちがマジメなつもりになればなるほど、それはユーモラスな存在になる。戦争中の愛国婦人会の婦人たちや、キリスト教婦人会の婦人の写真などを見ると、われわれが何となく、おかしくなるのはそのためである。教育ママたちが漫画の対象になるのもそのためである。
私は週一度、大学に講義に行くが、文科系の大学には女子学生が圧倒的に多い。女子学生たちのなかには、懸命にノートをとることがマジメな勉強ぶりだと錯覚している学生が多い。しかし、面白いのは彼女たちはその自分のマジメさに陶酔するあまり、ノートを全部とることだけに終始してしまうのである。そしてある日、これら女子学生のノートを見てみると「かくてエヘン、二十世紀の小説はエヘン」というように、私のセキばらいまでマジメに筆記していた者がいた。これほど女性のマジメさと、その本質を象徴しているものはないように私には思われた。
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「女と記憶」再考
「昔のこと」をもち出す癖
はなから尾籠《びろう》な話で恐縮だが、私はこういう男を知っている。この男、結婚して十年目になるのだが、夜など、夫婦二人っきりで散歩せざるをえない時、少しでも女房が甘えた身ぶりや鼻声を出すと、たちまちブッとオナラをするのだそうである。
私には彼の気持がよくわかる。もちろんせっかく女房が甘えようとしているのに、その気持を粉砕するがごとくオナラなどするのはよろしくない。よろしくはないが、われわれ亭主族には、古女房がいい年をして娘時代のような声をだせば、穴にでもはいりたいほど照れくさいのだ。背中にジンマシンの起きるように恥ずかしいのだ。だからその照れくささをゴマ化すために、彼女の心に水をかけるためにブッとやりたくもなるだろう。彼の気持はよくわかる。読者のなかにもワカル、ワカルと言われる方は多かろう。
女性読者はこれ以上、読まないで下さい。
私は女房というものを考える時なぜか、牛を連想する場合がある。牛は一度、胃袋に入れたものを幾度も幾度も口に戻してモグモグ噛みしめている。あれを牛の反すう[#「反すう」に傍点]というのだそうだが、女房もまた牛と同じように、昔のことを幾度も幾度も思いだしては反すうする癖があるらしい。女房ほど過去の事をよくおぼえている人種はないのである。
婚約記念日や結婚記念日は亭主たちにとって、もう過去のどうでもいいことであるが、女房族にとっては宝石以上に大事なものらしく、思いだしては噛みしめ、思いだしては噛みしめている。亭主がうっかりこの日を忘れようものならたいへんだ。愛情がないとしかられる。二人の思い出を大事にしないと涙ぐむ。
彼女たちは家事をやりながら、反すうする牛と同じように目をトロンとさせながら、過去を噛みしめているのではないだろうか。私は女房族というものを考える時、口を動かしている牛を思いだす。
男にはこういうことはない。男にとっては過去の思い出よりこれからのことで頭がいっぱいなのだ。だから夫婦げんかをする時には、昔のことを必ず持ち出す女房には絶対、記憶力ではかなわない。かなわないから、手がとぶ。手がとぶと、もう、こちらの負けだ。なにしろ世は暴力否定の民主主義の時代である。
いったい、どうしてこういう違いができたのであろう。
夫の役割・その順列
もし亭主に男と夫と父性の三要素があり、女房に女と妻と母性の三要素があるとするなら、結婚十年目の亭主にはその順位は次のようになる。男が第一。次が父性、最後が夫である。つまり男にとっては結婚生活をいくら続けても男の心理がいちばん大きな比重を占め、これにわが子かわいやの父親的感情が続き、最後に女房にたいする夫の気持がある。これは当然だ。男はまず働かねばならぬ。運命を切り開かねばならぬ。朝から晩までデレデレ父性や夫の心理ではおられんのだ。
だが普通の女房にとっては、順位は次のようである。まず母、次に妻、そして女。あるいはまず妻、次に母、最後に女。いずれにしろ妻の部分が男の夫の部分より高い位置にあることは、私がかなりの家庭夫人にたいして調査した結果に得た結論である。
こうした順位などどうでもいいが、困ったことがここに起る。つまり女房たちは自分たちの順位と同じものを亭主に要求するからである。一般の亭主にある「男、父、夫」の順位を「父、夫、男」の順位か「夫、父、男」の順位に変えろと言うのである。
「あなたは家庭をかえりみない」
「あなたは自分のことしか考えない」
彼女たちの多くの不平はすべてこの順位変更の欲望から出ている。
そのくせもしおおせの通り、われわれ亭主がその順位を変えたとしよう。すなわち家庭にばかり心をむけて男の要素を少なくしたとしよう。すると彼女たちはたちまち、怒りはじめる。「デレデレしている」「働きがない」「男らしくして下さい」
われわれはこうして女房がこわくなってくる。こわいというより、何か横にいるだけで重い気持になってくる。そう……それは正月にもちを食いすぎて腹部がふくれたような不消化な感じに似ている。そしてきょうも牛の反すうのような顔をして、昔のことを噛みしめている女房たちの顔をみては深いため息をつく。あるいは、気が狂ったように突如として娘時代のような甘え声をだす彼女たちに仰天し、恥ずかしさをごま化すためにブッと一発やる。そうではないか。読者諸氏。
(この文章にたいする女性側の反論はいりません。どうせ、こちら[#「こちら」に傍点]が負けるに決っているんだから……)
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雑句波乱《ざつくばらん》女性考
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犬の話
一年ほど前、友達の外国人夫妻が日本を去るというので、飼っていた小さな西洋犬を私に押しつけて引きあげていきました。その日、私は外出していて帰宅してからこの犬を見たのですが、まるでボロボロのよごれた毛糸のパンツ(昔、子供のころ冬になると近所の女の子がよく、はいていたものです)を丸めたような犬で、ひどく人見知りをするらしく、ヒガんだような眼でじっとわれわれを見るだけで、なかなか馴《な》れてこない。
味噌汁の残りをご飯にかけてやっても「ふん、こんなものが食えるか」という顔をする。奴は外人の家でチーズやバターやパンをもらって食べていたのです。私は断然、怒って、怒鳴ってやった。
「なんだ、お前は、日本人の家に来たのだぞ。日本食をくえ。ここは日本人の家だ」
それから彼にオケサ節やお猿のカゴ屋などを歌ってきかせ、日本精神を注入するよう心がけました。奴は仕方なく、渋々、味噌汁の残りをなめ、変な顔をしておった。
半月ほどたつと、やっと彼も日本家庭の良さがわかったのでしょう、警戒心をとき、あのヒガんだ眼もしなくなり、お愛想に尾っぽをふるようになった。一ヵ月すると、すっかりズウズウしくなり、家のなか、庭のなかを暴れまわり、私が大事にしている庭の桔梗《ききよう》はほじくる、廊下には丸い小さな糞《ふん》をするで、すっかり慎しみがなくなってしまった。
私はこの彼の態度を見て、こう思った。
「ああ、なんという奴だろう、しかし考えてみると人間の女性のなかにも、こんなふうなのがいる」
読者諸姉よ、怒らないで頂きたい。あなたたちは例外だと私は知っているのです。
だが時として、女性のなかには、最初は男にはなはだしく警戒心をもちながら、一度、馴れるとその相手の男性にすっかり慎しみを欠いて、ゲンナリさせる人が時々いるのです。男性に警戒心のある時は、彼女は大変すましている。すましすぎて、時にはこちらがそんな気が毛頭ないのにハッシと睨《にら》みつけたり、イヤらしいと怒る人がいる。そういう女性に限って、その男性にすっかり気を許すと、もうすっかり何もかも曝《さら》けだして、彼の前でハンドバッグから紙をだしてお手洗いに駆けこんだり、頬杖《ほおづえ》をついてピチャクチャ、ポチャクチャ、機関銃のようにしゃべりまくる。
そんな女性をあなたたちも身近にきっと一人、二人、ご存知でしょう。
男というのは妙なもので、女性が自分に気を許していない間は相手にどんどんプラス点を与えるくせに、彼女が自分の恋人か細君になった瞬間から――つまり女性がすっかり自分に気を許してしまった時から、きびしい採点者になるのです。
「もう恋人(夫)だから、多少、慎しみを欠いてもかまわないのだ」
というのは女の論理です。だが、
「もう恋人(妻)なのだから、そういうことはしてもらいたくない」
というのが男の理屈です。
「だって、あなただって、同じことをしているじゃないの」
というのは女の考え方です。
「いや、男が慎しみを欠いても、女がそれをしていいとは限らない」
というのはすべての男の感覚です。
「身勝手ね、そんなの不公平」
と女性はいうでしょう。たしかに身勝手だと思います。身勝手とは思いますが、男とはそういう身勝手を女に求めるものであることを、まず頭に叩きこんで頂きたい。
どんなに長年、つれそっても亭主の前で靴下をずりあげたり、足の裏をみせて昼寝をしてもらいたくないもんですなあ。
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再 会
青年時代に恋した女性に長い歳月をへた後、ばったり盛り場のデパートや街路で出会う――そんな経験はどんな男性にもあるものだ。
男というものは意外と小児的であり、非現実的なものである。彼女と結婚できなかったゆえに彼女は彼の心のなかで、いつまでも娘であり、若く、美しいのだ。青年時代に思っていたすべての気持が、まだ彼の心には損《そこな》われず残っているのである。
「あら」
向こうも彼をみとめて足をとめる。
「ほんとうにお久しぶり……」
男はすばやく相手の顔と姿を観察する。昔の面影《おもかげ》はまだ残っている。生活のやつれがあり、眼のふちに皺《しわ》ができたけれども、彼女はやっぱり彼女なのだ。
「お元気ですか」
「ええ。あなたは」
一瞬、言葉が跡《と》切れる。男の胸に長年、忘れ去っていた恨《うら》みや悲しみが少し甦《よみがえ》る。しかしもう終わったことだ。こちらも別の女と結婚して、もう子供もいるのだから。
三言、四言、さしさわりのない言葉をかわしてから、男はおずおずと、
「いかがです。そこでお茶でも飲みましょうか。久しぶりですから」
「ええ」
女は腕時計に眼をやって、
「三十分ぐらいなら」
男は彼女が家に戻り夕食の支度をしなければならないのだなと思う。彼女も一人の主婦なのだと改めて考えるのである。
喫茶店のテーブルを真ん中にして二人は向かい合う。
「子供の冬物を買いにきましたのよ」
「はア」
「あなた……、お子さまは」
「一人です」
「うちは二人」
「幼稚園ですか」
「いいえ。上はもう小学校なんですのよ」
それから彼女は急に元気づいたように、自分の子供の話をし始める。いい小学校に入れるために塾に通わせたこと。塾の月謝は高かったこと……小学校入学も近ごろはむつかしいこと。男は三十分の時間が自分には興味のない話題で消えていくことに、イライラし始める。昔、彼女はそんな話などしなかった。見た映画のことや読んだ本のことを彼が話すのを、一生懸命、聞いてくれた。
「主人は子供たちを自分と同じように、どうしても東大に進学させるっていうんですよ」
まだ女は子供の話を続けている。そして、やっと気づいたように、
「おたくはお坊っちゃん? お嬢さん?」
「娘です」
「それなら学校の心配、そうしないでもいいわねえ」
時計を見て、彼女はアラ大変という。今から地下の食品売場で夕飯の材料を買っていかねばならないのだそうだ。
「あなたは変わりましたね」
別れぎわ、勘定を払ってから男はちょっと皮肉をいう。自分にとって大事だった三十分をこんな話題で終わらせてしまった彼女に対する恨みをこめて。
「そうかしら」女は肩をすぼめて「でも同じよ、結局」
地下におりる階段を足ばやにおりていく女のうしろ姿を見送りながら、男は会わねばよかったと考える。会わなければ、彼女の娘時代の姿のまま自分の心に生き続けたろう。
一方、食品売場で、女は一円でも安い野菜や肉を見つけようとしている。
さっき会った男のことは、もう彼女の頭にはない。それは空気のように、過ぎ去ってしまったことだ。
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女のうわさ話
たいていの亭主は、勤めから疲れて帰宅したあと、細君から他人のうわさ話や悪口を聞くのがきらいだ。
「山本さんの娘さんね。一年前にお嫁にいった人よ。あの人、離婚されてもどったんですって。八百勝さんがそう話していたわよ」
そういう時、へえ、とか、そうかいと答えてくれる亭主はまだマシなほうである。大半の亭主は、黙って夕刊でも読んでいる。
「あなたは……」
と細君はいらだつ。
他人のうわさをするのが悪いというのではない。男にとってやりきれないのは、たいていの女のする他人のうわさには、思いやり[#「思いやり」に傍点]というものが欠けている点である。自分だけの世界、自分だけの道徳、自分だけの感情に受け付けないものは、ただちに裁き、切り捨てるのである。「山本さんの娘さんが、離婚されてもどったからといって、その人だけの過失ではないかもしれないじゃないか」
「でも、あまりにだらしないから、追い出されたって話よ。掃除なんかもチャンとしないんですって。ご主人に汚れたワイシャツを着せて、平気だったんですって」
ひょっとすると、その嫁は体が病弱だったのかもしれぬ。あるいは、その夫のほうにも落度があったのかもしれぬ。夫婦間の機微は、当人たちだけにわかることで、第三者が軽々しく批判できぬものなのだと、亭主は思う。
「いいじゃないか。他人さまのことは」
と、彼はけんかをしたくないために、そういって話を打ち切ろうとする。
しかし、自分の亭主が会社から疲れて帰った時、その疲労に神経を働かせないで、こんな話をしだす細君に、彼はいいようのない情けなさを感じる。
「わたしの話なんかバカにして聞いてくれないのねえ。うちには夫婦の対話がないんだわ」
冗談ではない。人のうわさを一緒になって夫婦がやるのが対話なのかと、亭主は怒鳴りたいのをじっと我慢する。
男からみると、女はどうして、あれほどロクでもない他人のウワサ話が好きなのだろう。主婦だけではない。会社の化粧室でも、女の子たちは絶えずそれをやっている。
「もう少し、マシな話ができんのか」
と、たまりかねて亭主がいうと、女房は待ってましたとばかり反撃する。
「マシな話ができないようにしたのはだれ。あたしをいつも一人ぼっちにして家のなかに閉じこめておくからじゃないの。マシな話ができなくて悪かったわね。そんな方をお嫁さんにすれば良かったのに」
そうなると、亭主はもうにが虫をかみつぶしたような表情で、
「うるさいな」
と、つぶやくより仕方ない。
もちろん、亭主だって細君にだれかの話をすることがある。
「オレの大学の後輩のA君だけれどね。父親の会社をやめて、一人で百姓をやるそうだ」
「なぜ」
「なぜって、会社で働くより、自分で畑を作りたかったんだろう。そのほうが、彼には意味があると思ったんだろう」
「へえ、せっかく、お父さまの跡を継いで、社長にもなれる将来をもっていたのに、そんなことをするの。Aさんって、少し、バカじゃない?」
亭主は、じっと細君の顔をみる。そして、何と想像力のない女だろうと考える。
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悪妻か否か
皆さん。
一緒にひとつ答えてください。今月はぼくが質問者になります。
これはぼくの若い友人の本当にあった話です。
その友人はテレビ局に勤めている。若いから、まだ月給はそう多くない。奥さんは五つ年下で、二人の間には男の子と女の子がいる。
そういう普通の家庭です。奥さんとは会ったこともありますが、とてもいい奥さん。かわいくって、家庭のきりもりも、うまい。
さて、話はこうなのです。
日曜日、珍しく夫がこういった。
「今日は久しぶりに家族でどこかに行こうかな」
「まア、珍しい。ほんと」
奥さんも子供たちも眼を輝かせました。テレビ局に勤めている彼は、日曜日も社に出て働かねばならぬことがある。そしてクタクタに疲れてもどってくるから、肝心の日曜日は家でゴロ寝をするのです。あんまり一家で外に出かけたことはなかった。
さて、こうして一家は浮き浮きと街に行きました。
デパートで奥さんは必要な買物をして、それから、子供たちを屋上で遊ばせた。子供たちはもちろん大喜びである。夫婦もそれを見ながら幸福だった。
「晩のご飯をここで食べようね」
と男の子がいうと、
「よしよし」
彼は笑って答えた。
「まあ、もったいないわ。うちへもどりましょうよ」
と奥さんが口を入れた。すると彼は、ちょっとイヤあな顔をして、
「たま[#「たま」に傍点]だからいいじゃないか」
そこでデパートの食堂にあるウナギ屋に四人は入ったわけです。
ウナギは特・上・並と三種類あった。
「どう、違うの」
と男の子が父親にたずねると彼はニコニコして、
「特は一番、大きな奴。上はその次に大きな奴」
「じゃ、ボク、特だ」
と男の子は叫び、小さな女の子も、
「わたしも」
といいました。
「よし、特を四つ、頼もう」
彼がそう注文しかけた時、
「およしなさいよ」
と奥さんが口を入れた。
「並で結構よ。もったいないわ。それに、子供たちに味の違い、わからないんですもの」
その言葉を聞いた時、彼はさっきよりもさらにイヤな顔をして、
「うるさいな」
と怒鳴りました。
「君は黙っていろ」
奥さんは、なぜしかられたのかわからない。そうでしょう。毎日、毎日、家計簿ちゃんとつけて、一円でもムダにせず、大根一つ買うのも吟味して苦労しているのに、夫はその苦労もわからず、特級のウナギを四人前も注文する。ほんとなら、家にもどって食事すれば、このウナギ代四人前の三分の一で夕食ができるのだ。しかし、そのことさえ彼にはわからない。
いいえ。彼はテレビ局に勤めているから、それぐらいの知識はあったのである。
にもかかわらず、彼はこの日曜日、家族と断じて特級のウナギを食べたかった。だから怒鳴ったのである。皆さん、彼の気持がわかりますか。そして、あなたが奥さんの立場だったら、どうしたでしょう。特を注文させましたか。それともどうしても、並にしたでしょうか。わからぬ人は悪妻の素質あり。
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女のしかり方
女をしかることは山を動かすよりムツかしい。
スタンダールの恋愛論には、こういうケッサクな女の話が載っている。
その女は浮気をしている現場を、恋人に見付けられた。
普通ならばビックリ仰天、ひたすらにあやまるのに彼女は頑《がん》として首を振り、自分は浮気をしていないといい張る。
「だって、今、見たばかりじゃないか」
と唖然《あぜん》とした恋人がなじると、彼女は、
「あなたって不実な方ね。自分の見たことの方を、わたしのいうことより信じるのね」
と答えたのである。
このケッサクな話を読んだ時、私は女ってまさしくこうだ、とヒザをたたいたものである。
女と男の違い――それはいろいろとあるだろうが、男は時として自分の非を認めるが、女は、いつも、どんな時も自分が悪かったと決して思わないのである。恋人に浮気の現場を押えられながら、逆に、
「あなたって不実[#「不実」に傍点]な方ね。自分の見たことの方を、わたしのいうことより信じるのね」
という女は、かかる場合も決して自分が悪かったとは毫《ごう》も思っていないのである。
「ゴメンなさい」
と女は口先ではいう。しかしそれはあくまで口先であって、心底、自分が全く悪かったとは考えていない。
(そりゃ悪かったわ。でも、仕方なかったんですもの。必ずしも全部、わたしが悪いわけではないんだわ。そうよ)
これが女の本心なのである。セルフ・ジャステファイ、つまり自己正当化と自己弁解をたえずするのが女なのだ。
「こんな女にだれがした……」
という流行歌があったが、女は自分の非を必ず別のことになすりつける。そして自分を多少でも正当化する。
おそらくそれは女が本質的に自己独立ができないためであって、たえず他者依存で生きているからであろう。
「君、ちょっと、きなさい」
と課長がタイピストを呼ぶ。
「こんな間違った打ち方をしたら、だめじゃないか」
「スミません。でも、枚数が多かったもんですから」
最後の弁解は男ならほとんどしないが、女の子は付け加える。その場では付け加えなくても化粧室で同僚に、
「なによ。休む暇がないぐらい、仕事をまわしてくるんだもの。思いやりがなさすぎるわよ。うちの課長さん」
というのを忘れない。
百人の亭主は百人とも、女房にその点、手こずっている。どんな時でも素直に、
「ごめんなさい。わたしが悪うございました」
とはいわない。必ず弁解の一つか、二つは口にする。だから、亭主は余計にカッカするのである。
私の考えでは、女に全面的に非を認めさせようとすると、多くの場合、失敗する。
だから、いい加減であきらめた方が良い。女はそういうものだと思った方が良い。なまじ相手がクドクド弁解するのに腹を立てて、平手の一発でもくらわせようものなら、形勢逆転、
「まア、あなたって、女に暴力をふるうの」
今までの自分の非はタナに上げて、逆襲してくることは明らかだからだ。
「そうか。あんたのいうのも分かるが、しかし悪い部分もあるぞ」
その程度であきらめておく方が男として無難なのである。
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女の友情
私はこれまで二度ほど団体旅行に加わって外国に出かけたが、その都度、おもしろい発見をした。
それは、団体旅行に加わった女性同士の間で、必ずといってよいほど喧嘩《けんか》が始まるということである。男同士の間にも喧嘩はないとはいえないが、しかしそれは非常に稀《まれ》である。逆に、女性たちの間は絶対的に冷戦、悪口のいい合いが発生するのだ。
綿密に観察していると、喧嘩をするAとBとの女性は、初めから仲が悪いのではない。むしろ出発前は、
「お互い助け合いましょうね」
「なんとなく、気が合っちゃうわね。わたしたち」
今までは互いに知り合いでもなかったのに、たちまちにして百年の知己《ちき》のような口のきき方をして、羽田のエアポートでも、外国に向かう機内の中でも、ベッタリ席を並べ、ペチャクチャ、ポチャクチャ、食事まで分け合うぐらいの親しい間柄となって、だれが見たってこの二人が数日後、仲たがいをするとは思わない。
それがどうでしょう。向こうの国へ行く。同じホテルの同じ部屋でベッドを並べ、どこに行くのも二人一緒、という何日かが過ぎると、いつの間にか、互いに相手の悪口をいい合うようになるのだ。
「あの方って、お食事一緒にしますと、いつもわたしに払わせますの」
「あの人って実にダラシないので困るわ。ホテルの洗面所を先に使っても、水は出しっぱなし、あたりは汚すで――迷惑するのはわたしですの」
そういう悪口を、同行の男性に訴えてくるのである。
「あの人ってスープを音たてて飲まれるので、ご一緒にレストランに行くのが恥ずかしいですわ」
「まア、彼女こそ洋式便所の使い方も知らないのよ。びっくりしたわ。便所のふちにとび乗って、用を足していらっしゃるんですもの」
同行した男性は、半ばおかしく、半ばやれやれというケシかけたい気持ではあるが、あまりケシかけて自分が渦中に巻き込まれるのも怖《おそ》ろしく、
「はア、なるほど、それは困りましたなア」
「ごもっとも、よく、分かります」
相手の言葉にうなずくだけで、累《るい》が我身に及ぶのを避けるのが賢明なのである。
かくして、行きの機内ではベッタリと隣合わせだったA嬢とB嬢とは、帰りの飛行機ではかなり離れた席に座り、互いに黙殺、知らん顔。百年の知己のごとくだったのが、今や親の代からの宿敵のようになる。
これを見ると、われわれ男性には、女性の友情とはどこまで本当なのか、さっぱり分からなくなる。
道ですれ違った二頭の犬は、なぜか必ず鼻にシワ寄せ、歯をむき出し、
「ウ――」
と唸《うな》るのが普通だが、女というのはこの二頭の犬と、本質的には同じなのではなかろうか。
女は、他の女に対して許すということを知らない、とかのゲーテはいった(いわなかったかもしれん)が、これは至言である。男は他の男を認める時が多いが、女は実に他の女に対しては厳しい。学校時代の親友も結婚してしまえば赤の他人のようになる例は、男の場合少ないが、女には当たり前のことらしい。
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慎みの欠けた時
この前、吉永小百合さんと対談していた時、彼女がこんな話をした。彼女には(現在の夫君、岡田ディレクターと交際する前に)ボーイ・フレンドがいた。その青年がある日、吉永さんにこういったのである。
「ぼくは君がトイレに行くなんて信じられないよ」
その言葉を聞いた時、吉永さんは「大変カナシカッタ」そうである。
「だって彼が、わたしを女優として見て、人間として考えてくれないと思えたんですもの」
と彼女はそう私に説明した。
なるほど、私にも吉永さんのこの時の気持は分かる。しかし男として、私はその青年の気持も分かる。彼はむしろ吉永小百合さんに次のようにいいたかったのであろう。
「男には、女性が露骨にトイレに行く姿など見たくない心理のあることは分かってくれたまえ。理屈では君がトイレに行くことは承知しても、そう思いたくないのだ」
何と子供っぽい心理、何と幼稚な心理だと女性の諸君は思われるだろう。しかしどんな男にも、多かれ少なかれ、この幼稚な心理はあるはずだ。
多くの場合、男が女性に幻滅するのは、彼女に「慎みが欠けた」一瞬である。この一瞬を、私は「悪魔のささやき」と呼びたい。
先日、ある女優と食事をした。美しく飾ったその女優は、流行の服を身につけて現われた。
だが食事が始まる前、彼女は「慎みを欠く」ことをした。まだ皿が運ばれないのにパンかごからパンを取って、それをヒジを付きながら食いちぎったのである。
こういう動作は、恋している男から見ると「かわいい」と思うものかもしれぬ。しかし私はこの女優に恋心を抱いていなかったから、一瞬、戸惑った。戸惑ったのみならず、いいようのない白けた、幻滅した気持を味わったのである。
断わっておくが、この感情には彼女の人格に対する軽蔑《けいべつ》はない。軽蔑はないが、できればやってもらいたくないという感情が働いたのは事実である。
食事の仕方を見ればその人が分かるというのは、ある意味で至言だ。
もしこれをピクニックに行った時としよう。ピクニックでパンを食いちぎったって一向にかまわない。ピクニックの時、正式のマナーを誇示するような食べ方をした女がいたなら、私はただちに、
(この阿呆《あほう》)
と、もっとイヤになるだろう。彼女は時と場所を心得ていなかったからだ。皆と和気藹々《わきあいあい》、騒ぎながら野原や山で食事をする時には、レストランとは違った楽しい食事作法があるのであって、これをキチンとした作法でやられては、雰囲気ぶちこわしなのである。
悪魔のささやきは女にいつ来るか、決まっていない。男に膚を許した瞬間、女が急にハスッパな言葉を使ったため、男が白けたという例は幾つもある。
自分の友人の悪口を恋人に聞かせた時、彼が急に幻滅したような顔付きになるのを、皆さんの中には経験された人もいるでしょう。男は自分は上役や同僚の悪口はよくいうくせに、女が他の女の悪口をいうのを聞くのを好まないのである。
私が来世、もう一度、男に生まれたいと思うのは、女に生まれれば恋人や夫の前でいつも「慎みに欠けぬ」よう注意を払わねばならぬからです。皆さんは大変ですなあ。
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女であることはシンドイ
私がもし生まれ変わるならば、再び男でありたいかそれとも女になった方が得だろうかと、時々、鼻毛を抜きつつ自問自答することである。
女と生まれたならば、トクなことがたくさんある。
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(1) どこかに食事に行ったり遊びに行っても、男に払ってもらえばいい。
(2) 結婚という逃げ場がいつもあるから、職場での仕事に必死にならないでよい。
(3) あんまり勉強しないでも、何とか生きられる。
(4) 都合の悪い時は「わたしは弱い女」といい、都合のいい時は「男女同権よ」と主張できる。
(5) 自分の思想がなくても「男性の封建社会的横暴」というスローガンさえ口にすれば、インテリ女だと見てくれる。
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まだまだ、いろいろあって、そういう利点を考えると、来世、女に生まれ変わっても悪くないナと思う時がある。
だが待てよ。女と生まれて損なことの方も、たくさんあるぞ。
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(1) 月々の生理とかいう、めんどうくさいものがある。
(2) 夜、遅くまで外出すると親にしかられる。
(3) 電車の中でイヤらしい男に体を触られる。
(4) 男のように立ち小便ができない。用便のためには喫茶店などに入ってムダな金を払わなければならぬ。
(5) 毎日毎日、家族の食事のオコンダテを考えなければならぬ。仕事が単調である。
(6) お産が苦しい。
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こう列挙してみると、女より男の方が生きやすい気もしてくる。
だが、私が一番、女はつらいだろうなあと思うのは、男には、許されるだらしなさが、女には許されない点にある。
例えば、ここにフケだらけの男がいるとする。洋服の肩なんかにフケが白く落ちている。
その場合、彼は必ずしも非難されはしない。外国ならいざ知らず、日本では、
「身なりかまわんいい男だ」
そう友人から思われる時が多い。
「わたしが、チャンとしてあげなくちゃ」
会社の隣の席にいる女の子の母性愛をそそるかもしれん。
このように、男がヨレヨレのズボンをはいても、ほころびたワイシャツのそでをしていても、逆にそれが彼の美点に逆用できる場合があるのだ。
だが、女の場合は……。
女の場合はそうはいかない。髪をバサバサにしている女の子は、
「不潔なやつだ」
「女のくせに身だしなみが悪い」
ただ、バカにされ、きらわれるだけである。
男なら立ち小便をして、できるだけ遠くに飛ばすと名誉になる。女なら、もし同じことをすれば、バカかキチガイと思われるだけだ。
そう考えると、女であることは実にシンドイことだと思う。
いつも清潔にしておかねばならぬ。いつも美しさを保たねばならぬ。汚さ、だらしなさ、なれなれしさは、女にとっては絶対的な欠点である。逆にいえば、女は決してだらしなく、汚くあってはならないのだ。男はそういう女を見ると心中、必ず不快感と軽蔑心を感じるものなのである。
女であることは、やっぱりシンドイ。来世は今まで通り男に生まれたい。
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少しきわどい話
少しきわどい話をします。きわどいといっても猥《みだ》らな話ではないからご安心を乞《こ》う。
私の後輩で人妻と恋愛をした男がいます。その男から聞いたのですが、この人妻は、彼が最初出会った時は控えめで、慎み深く、そしてもの静かな夫人だったという。
後輩はプレイボーイでした。この夫人に出会って一目ぼれしてしまった。彼は恐らく難攻不落の相手と知りながら、自分の知っているあらゆるテクニックを使って、攻撃を開始しました。
思ったとおり、夫人は彼の誘いを頑強《がんきよう》に拒み続けたのです。
時には怒りの色を顔に表わして、もはや自分の目の前に現われないでくれといいました。にもかかわらず、後輩は押して押して押しまくった。
とうとう難攻不落と見えた壁の一角が崩れました。そして、ついにある日、彼は夫人を自分の腕に抱くことができたのです。
ところが彼が驚いたことには、あれほど控えめで、もの静かで、慎み深く見えたこの夫人が、一度恋のとりこになると、別人のように大胆になったことです。
「こういうことがありました」
と彼は私に話しました。
「ある日、彼女は事もあろうに自分の家にぼくを招待したんです。ご主人が出張でいないからというんですね。行ってみると、ぼくのほかに彼女の友達の女性も来ていました。そこは彼女の頭の良さで、たとえ主人が不意にもどってきても怪しまれぬように女友達も同時に招いたんでしょう。
みんなで食事を始めようとした時、思い掛けなく主人が帰ってきました。出張の仕事が早く済んだのだといっていました。妻のことはすべて信じきっているような、善良な顔をした亭主でした。
彼女は平然と微笑しながら、自分の女友達とぼくを夫に紹介しました。何も知らぬ夫はぼくたちとテーブルにつき一緒に食事に加わりました」
「ところが……」
ところが私の後輩が仰天したのは、テーブルの下で夫人が軽く自分の脚《あし》を彼の脚に絡ませてきたからである。しかも絡ませながら、テーブルの上では顔につつましげな微笑さえたたえて、夫の話にうなずいている。
テーブルの上では彼女はいかにも貞節な妻であり、テーブルの下では彼女は夫を裏切って、彼の恋人になっている。
「ぼくはつくづく、女って恐ろしいと思いました」
プレイボーイの彼はそういってため息をつきました。
「男なら、できるだろうか。そんな危ない真似を。自分の女房の前で」
と尋ねると首をかしげ、
「できませんね。とても、怖くって」
「なぜだろう」
「女房にすぐ分かります」
「夫に分からぬことが、女房になぜ分かるんだろう」
「女房も女である限り、敏感ですからね、男の方はそれに比べると、全く鈍感です。だから亭主には気付かぬことも、女房は気付くのでしょう」
「そうだな」
私はうなずきました。そして女は、こうした男の鈍感をよく知っているのだと思いました。それでなければ、この夫人も堂々と、そんな大胆な真似を食卓の下でしなかったでしょうから。
それにしても、こういうことができるのは、やっぱり女です。女って本当に怖いですね、という後輩の言葉はなるほどと思えます。
女は男よりモラルがあるとよくいわれますが、私はそう思いません。ひょっとすると女は男より、全く無道徳主義者なのかもしれぬ。ただ女が母となり主婦となると急に道徳を振り回しますが、あれは自衛方策だと考えています。
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ダメな親
ある日、中学生の女の子から、こんな手紙をもらった。
「わたしの父は、日曜日、テレビを見るか、ゴロ寝をします。友達が来るとマージャンとゴルフの話ばかりです。だからわたしの母は、弟にいつもいいます。勉強しないと、お父さんみたいに出世できない人になるよって、母はわたしにいつも父の愚痴ばかりこぼします。わたしはそれが、とてもイヤです」
よくある話だ。娘や息子をつかまえて、父親の無気力やわがまま、だらしなさを、グジャグジャこぼす母親。子供たちにそれ以外の話題のないような母親。無意識のうちに、父親への軽蔑《けいべつ》を子供たちに伝染させ、植え付けている母親。
「だから、あんた、一流の学校に進学しなくちゃだめよ」
夫への不平不満が、そのまま息子への教育に変わるような母親。私はそういう母親をみると、何ともいいようのない空虚感を感じる。彼女はそういうやり方で、逆に子供たちをだめにしていることを知らない。もしくは、子供たちから、自分までがばかにされていることに気付かない。
よほどの人間でない限り、男にはいい点があるものだ。よほどの亭主《ていしゆ》でない限り、亭主にはいい点はあるものだ。たとえ彼が出世しなくても、無気力で、テレビとゴロ寝ばかりで暇をつぶすような男であったとしても、自分や子供たちのために、毎日、働いている――それだけでもいい点ではないか。その点をなぜ見てやろうとしないのであろう。
私は、こういう愚痴こぼし型の母親が非常に増える一方、別の形、自信のない母親の増加したことにも、むなしさを感じる。
この種の母親は、かなり教育熱心である。だがその熱心さには何か、自分の教育方法と我が子に対する自信のなさが感じられる。
なぜならこういう母親は、自分で我が子を見て、どうすればいいかと考えるよりは、他人の意見をすぐ仰ぐからだ。
「あの、一方ではスパルタ教育をすべきだという先生と、いや、伸び伸びとした放任主義がいいという先生とがおられますが、どちらがいいんでしょうか」
ある日、テレビでこういう質問をゲストの教育評論家にしている母親を見て、私は失笑した。これは子供をもった母親にしてはあまりに無責任な質問だったからである。
スパルタ教育が絶対いいとか、放任主義教育がいいとか、だれだって答えられぬことである。それは一人一人の子供の環境、一人一人の子供の性格、一人一人の子供の肉体的条件による。体の弱い、性格の弱い子供にスパルタ教育をすれば、心がねじ曲がる時もある。わがままな一人息子をあまりに放任主義にすれば、どうなるか火を見るより明らかだ。
「このようにせねばならぬ」という普遍的な教育方法は一つもない。教育方法というのは、それが集団の場所で行なわれない限りは、あくまで一人一人の子供によって違うものであることは当然である。そして、子の性格、健康、心理、環境をいちばんよく知っているのは親だから、隣家の子がスパルタ教育によって「いい子」になったから、うちの子もそうすべきだと考えるのは愚の骨頂である。別の家では、放任主義教育をやり伸び伸びとなったから、我家の坊主もそうしようと思う親は、よほどばかである。
「あの、スパルタ教育と放任主義と、どちらがいいんでしょう」
テレビでそのような質問をする母親は、よほど我が子を観察していないと考えるより仕方がない。一見、教育熱心に見えるこうした母親が今の日本にどんなに増えたであろう。そのくせ、こういう母親に限って、
「子供を個性的に成長させたいんでございます」
というのである。自分の教育方法に個性が欠けているのに、全く彼女は気付いていないのだ。
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夏の事件
最近、軽井沢で一人の青年が二人の娘と知り合い、一緒にドライブやゴルフの練習や食事をしたあげく、夕暮になって暴行を試みようとして失敗、一人を殺し、もう一人に傷を負わせたという事件がありました。
私は別にその現場に立ち合ったわけでもなく、加害者や被害者と話し合ったわけではありません。新聞や週刊誌で「夏の軽井沢――若人のスキャンダル」というような記事として読んだだけです。そして、おおむねそれらの新聞雑誌は、加害者の青年だけにすべて非があるような書き方をしていました。
だが、待てよ。
男として[#「男として」に傍点]私は考えました。果してこの事件ではこの青年だけが悪いのかしらん。
今年の軽井沢は、異常な人数の若い青年男女が遊びに来たといいます。あの小さな町に三百万人から四百万人の人が来たというから、これは異常だ。あんな町のどこがおもしろいのかしらん。遊ぶものは東京とそう変わらず、今年は東京並みに暑く、それならむしろ、ほかの海べりや山に出かけた方がいいと思ったぐらいです。恐らく若い男女の半分は、無意識のうちに「何かおもしろいハプニングがあるかもしれん」と思って来たのかもしれません。
ま、その青年もその一人だったのでしょう。車を動かして女の子を探して歩いていたのでしょう。
これは余談になるが、今年、軽井沢での夏の終わり、寒いので私が赤いカーディガンを羽織って道に立っていたら、車がスーッと停《とま》って、中から青年が顔を出した。明らかに、赤いカーディガンのため、私を女性と間違ったのである。私はそれに気付いたから、足を広げ立ち小便の真似をしてやった、すると、
「チェッ、男じゃないか」
といって、彼は車を走らせていきました。
事件の青年も、この車の彼と同じだったのでしょう。幸運にも彼は、私のように底意地の悪い男にぶつからず、東京から来た二人の娘に声を掛けることができ、彼女たちも車に乗り込んできた。
いいですか。彼女たちは女だから、「誘われたから乗ってあげたのよ」と考えるかもしれぬ。しかし男の立場からいうと、見も知らぬ女性が車にノコノコ乗ってくれたのは、ある協定が成立したと思うのです。考えてもごらんなさい。無償、無料で車に乗せるタクシーが東京のどこにありますか。
ましてこの男は二人の娘にドライブを楽しませ、食事を奢《おご》り、ゴルフの練習場で遊ばせている。娘たちもそれを受け入れている。まさか彼女たちは、これらの男の出費が無償の好意とは考えていなかったでしょう。何かを求めてくると思ったに違いない。しかし自分たちは二人だ。道には人もたくさんいる。うまく逃げられると無意識のうちに計算して、男の誘いに乗ったとしか思えない。そこに女の狡《ずる》さがあったような気がします。
男はその一日、彼女たちのためにかなりの出費をしました。ガソリン代、食事代、ゴルフ練習場の料金。見も知らぬ他人に、それだけの金を使って、
「さよなら。元気でね」
と別れる男がいたら、それはよほどの聖人か、ばかである。
彼は聖人でもばかでもなかったから、当然、その代償を求めようとした。そしてピシャッと断わられた。
私は何もその青年が正しいなどといっているのではない。弁護しているのでもない。彼は当然、裁かれるでしょうが、それはそれで仕方ない。
しかしだ。今、私が書いたことを読まれて、男の立場からいうと彼もかわいそう、と皆さん、思われませんか。そして娘の方だけが被害者だとは必ずしもいい切れぬ気がしませんか。女の狡《ずる》さというものをお感じにならないでしょうか。
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夫婦の愛情診断
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夫の悩み・夫の不安
餅を食いすぎた重くるしさ
ぼくの友人でK君という男がいました。
K君はまだ隣れなる独身者の一人でありました。
会社の同僚や先輩の中には、
「K君、そろそろ、女房をもらったらどうだ」と奨める人もあり、また、
「実際、独身の君が羨ましいよ」
と呟く友だちもいました。
K君がいつもふしぎに思うのは、会社の昼休などに仲間が四、五人集まると、必ずといってよいほど、「恐妻だ」の、「女房がこわいからな」などという言葉が、みなの口からとびだすことです。
「おい、おい、女房って」K君は彼等の一人にたずねました。「そんなにこわいものかい」
「こわいさ。いや、こわいと言うより重くるしいな」
「なぜだろ」K君は首をかしげて、「それは、君たちが奥さんにかくれて悪いことをしているからだろ。スネに疵《きず》をもたなければ、奥さんにたいして、こわい筈ないじゃないか」
「いや、いや、スネに疵をもたなくても女房はこわいよ。こわいというより重くるしいんだな」
妻帯者の連中はそう言うと、ドッと笑い、それから幾分、K君を憐れむような口調で言うのでした。
「まあ、君も結婚すれば、わかるさ……」
一年後、K君は結婚しました。結婚して数ヵ月たった時、彼ははじめて同僚たちがあの時しゃべっていた言葉がなるほどと思い当るのでした。妻をこわいと言うわけではもちろんないが、一種ハッキリと名づけることのできない圧迫感を感ずるのです。別にそれは妻を愛していないわけではなく、たとえ妻に愛情をもっていても、(事実、K君は妻を愛していました)この重くるしさを妻におぼえるのです。
「これは一体、どういう理由だろうかねえ」
K君はある日、ぼくの家に遊びにきてソッと打明けました。
「別にぼくの女房の責任じゃないんだ」彼は、目をしばたたきながら言うのであります。
「夫の口からほめるのもヘンだが、うちの女房はそりゃ、控え目な女らしい女だ。性格的にも亭主を尻にしいたり、ぶつかってくるタイプじゃない。それなのに、どうして夫たる者が彼女に重くるしさを感ずるのだろう」
「ア、ハ、ハ」ぼくは笑いました。「心配するな。そりゃ君だけじゃない。どんな亭主も自分の女房にその重くるしさを感じているんだよ。つまり、正月に餅を食いすぎて腹がモタれたような、あの感じではないかな」
「ウン、ウン、そうだ」K君はびっくりしたように肯《うなず》きました。「その感じ、その感じ」
× ×
ところでみなさん、誤解のないように言っておきますが、K君が肯いたこの重くるしい感じというものは、普通いわれている夫婦の倦怠感とはちがうのです。ぼくの知人でまだ倦怠期どころか、結婚後、半年たたぬ青年T君が、ある日、ぼくにこんな話を告白したのを憶えています。
「つい、この間のこと、ぼくは結婚後、はじめて女房にウソをつきました。それはこんな事からです。
この間の土曜日の夕方、会社の帰りがけにいつものように新宿駅で電車をのりかえようとしました。その時、なぜか今日は妻と一緒に晩飯をたべず、独身時代のように独りで飯をくってみようというふしぎな衝動に駆られたんです。自分でもなぜあんな気持になったのか、今でもわかりません。
夕暮の新宿の歩道には、たのしそうに恋人たちが肩をならべています。ぼくはその中にまじって、ブラブラと歩きました。自分も昨年まではああした一人だったんだと考えると半分、ふしぎな気がし、半分、つまらない気持がするのです。一人で晩飯をたべ、それから独身時代によく行ったバーをのぞいてみました。なぜか知りませんが楽しかった。今までにない解放感を感じたのです。
家に戻ってみると、妻はまだ待っていましたが、ぼくは久しぶりで学校時代の友人たちと会ったのでとウソをついてしまいました。
ぼくは、決して女房に飽いたわけじゃありません。気質もいい女ですから、嫌いな筈もないのです。それなのにどうしてあの日の夜、あんな解放感を感じたのか合点がいかないのです」
さきほどのK君といい、この青年といい、二人の若い夫には、共通して言っている言葉があります。読者の方々は、既にそれにお気づきになられたでしょう。その言葉というのは、
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(1) 女房に決して飽いたのではない。愛しているのである。にも拘《かかわ》らず……
(2) また、女房は気だての悪い女ではない。むしろいい女である。にも拘らず……
[#ここで字下げ終わり]
というわけなのです。
それでは二人とも、いや世の男とか、亭主というのは、あまりに我儘で身勝手で利己主義の権化じゃないかと言われるでしょう。そう言われても仕方のないことも、よくわかっているのですが、しかし、これは矢張り事実であり、真実であり、しかもこの感情はたんに男の我儘だけから生れているのでもないと断言できるのです。ではこの夫の心理はいったい、何処《どこ》に根ざしているのでしょうか。なにが原因なのでしょうか、今日はそれについてみなさんと一緒に考えてみましょう。
女は急変するが男は……
一般に言って、男というものは結婚した後、自分を「夫」と感じるまではなかなか時間がかかるものなのです。これにたいして、女性は結婚して一人の男性を愛するようになると、比較的すぐ彼の「妻」に成長することができる。子供を生んだ瞬間から「母親」の意識にめざめます。
つまり、ぼくら男性は結婚をしたあとでさえも、一人の「夫」や「父親」になりきるまで大変、心理的にも努力がいるし時間もかかるのです。彼は「夫」や「父」である以前に、まず「男」なのです。ところが、女性のあなたたちは、結婚をなさると「女」であることをやめて「主婦」や「母親」になれるという優れた才能をもっていられるのです。
ぼくの後輩のO君は、つい最近、恋愛結婚をしました。新妻は、まだ大学にいっている女子学生でした。新妻の両親は、娘が学校を卒業してから式をあげるのを考えていたようですが、アツアツの二人は一日も離れて暮しているのが我慢できず、遂に式を早く挙げてしまったわけです。
新婚旅行は箱根に二日間、三日目に東京に戻ってきて、O君は新妻と神田の駿河台を歩いておりました。
駿河台は、みなさんも御存知のように大学の沢山あるところです。ちょうどお昼どきでしたから、本をこわきにかかえた女子学生たちが道を歩いている。O君は新妻とその道を歩きながら、
(ああ、俺の女房もこの女性たちと同じように本当は女子学生なんだなあ)
そう、ふと思って妻をふりかえり、瞬間、ハッとしました。なぜハッとしたか。O君の少しうしろを歩いていた新妻は、たった四日前まで、いま道を歩いている娘たちと同じ女子学生であったにかかわらず、和服を着た姿、白いハンドバッグの持ちかた、歩きかた――それらすべてがもう女子学生ではない、一人の人妻の姿態だったからです。
O君は大変、狼狽しました。恥ずかしいようなヘンてこな気分でした。だがO君の新妻は、彼の気持もしらずまぶしそうにニッコリと笑いました。
「なぜ、ぼくがその時狼狽したかと言いますと」後になってO君は言っています。「四日前まで女子学生だった女が、結婚した途端にすべての点で妻になった。それにくらべて男性のぼくは、まだ夫になりきっていなかったからです。夫という実感さえ、自分に湧いてこなかったからです」
そうです。これはO君だけの印象ではありません。ほとんどすべての男性にとって、「夫になった」という実感を自分に作りあげるまで二年もしくは三年もかかることでしょう。だが、まるでサナギがある日、突然、蝶になるように、女性は「妻」に即座に変化します。あるいは「主婦」に変ります。だがノロノロして鈍い我々男性は相変らず、夫というよりは「男」なのです。
× ×
みなさんは、この話を少し極端すぎるとお思いかもしれません。ぼくが誇張しているのではないかとお考えになるかもしれません。よろしい。それでは、あなた方の中でもう結婚され、お子さんのある方は、御主人に次のような質問をしてごらんなさい。
「はじめて赤ちゃんが生れた時、パパとしての気持が起ったか」と。
すると、あなたがたの御主人の八十パーセントまでが、(正直なところ)こういう返事をなさるでしょう。
「いや、戸惑っちゃったよ。これが俺の子供かと、コソバゆいような気持で見つめてたね」
お怒りになってはいけません。これが男というものです。
たいていの男性ははじめて自分の子供のできた時、なにかコソバゆいような気持と戸惑いと、それから女房にたいする劣等感を抱きながら自分の赤ん坊を見つめる。コソバゆいような気持とは、この小さな真赤な顔の肉体が俺の第二世かというふしぎさと恥ずかしさです。戸惑いとは、父親になったという実感が、まだ起らず、当惑した気持です。
けれどもそうした感情よりも、彼が驚くのは、生れたばかりの赤ん坊に乳をふくませている妻の顔です。それは昨日まで彼が知っている妻の顔ではなく、全く今まで知らなかった、新しい「母親」の顔です。幸福と母性愛とにみたされた「母」の表情なのです。この顔にたいして、まだ「父」にもなれぬ彼は一種の劣等感を感ずるのです。
「妻」になる時だけではない。「母」になる時も女性の方が男にくらべて急速だということが、これでおわかりでしょう。もちろん、あなたたちは、それが当然だとおっしゃるかもしれません。母になるまで、その女性は九ヵ月も十ヵ月も子供をお腹のなかで育てたのだから、彼女は決して突然、母になったのではないと反駁なさる人もいられるでしょう。そうです。しかし、それ故に男は女性と同じように我が子の父と、心も生活もなるためには、十ヵ月もたち遅れているとも言えるのです。
このように女性が妻や母に変るスピードにくらべると、男というものは「夫」や「パパ」になりきるまで大変、時間がかかるものなのです。何度もくりかえしますが、男は結婚をしたあとでさえも、「夫」や「父」である以前にまず「男」なのです。ところがあなたたち女性は、結婚なさると同時に愛する者のために「女」であることを抑えて「妻」や「母親」にすぐ成長できる素晴らしい才能をもっているわけです。結婚をしたたいていの立派な女性は、よほどの場合をのぞいて、まず一人の男の妻か(主婦か)子供たちの母親であり、またそうであることに幸《しあわ》せを感ずることができるのではないでしょうか。
「夫」へのあせりと「男」への郷愁
さてこうした男性と、女性とが結婚する。ここから、夫婦の間には目にみえぬ心理のずれが起るのではないかと、ぼくはいつも考えているのです。
なぜか。
まず、結婚したばかりの夫婦を考えてみましょう。
女性の方は、さきほど例にひいたO君の奥さんのように、愛する男のために妻になります。いや、心理的にも肉体的にも彼女は自分が彼の「妻」だという気持で生きているわけです。ところが、のろまな男性とくると、なかなか自分が「夫」になったという実感が起きません。なるほど会社から戻ってくると、自分の女房になった女性が部屋も道具もみな奇麗にしてくれて、晩御飯をつくって待っていてくれる。なるほど自分が亭主になったのだということはわかる。わかるが「夫」ということが自分の生活のすべてになっているかと言うと、どうもアヤしい。自信は全くない。これが普通の男性の偽らぬ心理ではないでしょうか。彼は「妻」になりきっている自分の配偶者を多少とも劣等感をいだきながら眺めるのです。
この時、彼は無意識のうちに自分も早く夫にならねばイカンと考えます。あるいは、妻のなにげない眼差《まなざ》しがそれを要求しているように思うのです。
「夫」「夫」「夫」彼はこの夫という文字に背伸びを毎日してみます。エヘンと咳《せき》ばらいをして威張ってみせたり、夫らしく世間一般のことに講釈をしてみせたり、だが心中では、本当は夫にまだ成長していない自分をしっているのです。
すると彼はなぜか自分がもと[#「もと」に傍点]あったもの――「男」に郷愁をいだくわけです。夫でもパパでもない一人の男、男の生活――それは普通、独身者の気やすさなどと言われていますが、決してそれだけではない。夫とか、パパとかいう一つのワクにはめられない、伸々《のびのび》とした男――に戻りたいという気持に時々かられるのです。
さきほどお話したT君が、結婚後、半年にして会社から真直ぐ、家に戻らず一人で晩飯をくい、一人でブラブラと夜の新宿の歩道を歩き、なにかから解放されたような気分になったのも、これでおわかりと思います。彼はこの時、「夫」ではなく、独身時代と同じように自由な「男」だったからです。少なくとも二時間なら二時間、三時間なら三時間は、この男としての悦びを味わえたからなのです。彼は決して妻をキラっているのでもありません。いや、むしろ愛しているのです。しかし、愛していることと、この「男」に戻りたいという感情とは別のものなのです。
× ×
さあ、これでT君だけではなくK君の悩みも、女性のみなさまにはわかって頂けたと思います。女房が別に嫌いなわけじゃない。まして別居したいとは夢々、考えてもいない。しかし、妻との生活がお正月のお餅がお腹に溜っているような気分に時々なるのは、彼が「夫」や「パパ」にまだなかなかなれないのに、妻がいち早く「母」になり「主婦」になっているからです。彼はそういう妻になにか無意識の劣等感を感じるのです。これが一種、圧迫されているような気持、いわゆる恐妻心理の根本原因ともなるわけです。
この夫婦の心理的なちがいは、案外、ぼくらの間でも気づかれてはいません。多くの身の上相談をみると、ぼくはいつもそのことを感じるのです。
ぼくのような者のところにも時々、御主人にたいする不満を述べて相談にこられる奥さまがいます。
「うちの主人は夜遊びが多いのです。いくら言っても会社のかえり、バーに行って酒をのむのですね。別にバーの女と浮気をしているわけではないのですが、家庭経済の上から言って困りますわ」
こういう悩みをもたれている奥さんは案外多いことでしょう。もちろん、ぼくは家庭に待っていられる奥さんや子供を放ったらかしにして、飲み屋やバーを歩きまわる御亭主の味方をするわけではありません。しかし、彼を家に引きもどすためには、その心理的原因をさぐり、その後、治療する必要がある筈です。
もし御主人がバーに通いすぎるなら、それは、彼が奥さんの中に「女」をみつけられないからです。奥さんがあまりよい「主婦」であり、子供のよい「母親」でありすぎるからなのです。彼は自分の妻のなかに、よい「主婦」でもない、「母」でもない一人の女を時々はみつけたいのです。あるいは、彼が自分の「夫」や「パパ」というワクからぬけだして、「男」に一時間でも戻りたいからなのです。
もちろん、これは男性の我儘だと言えぬことはありません。しかし、こうした夫を家庭に引き戻すのに一番よい方法は、たんに怒ったり、責めたりするのではなく、彼の妻が、彼のために「主婦」でもなく、子供の「母親」でもなく、「女」に戻ってやることがいいのです。その時、彼は妻にたいして圧迫感を感ずることが少なくなり、久しぶりで家の中でさえも男としてふるまえるからなのです。「女」に戻ることは何でもないことです。それは、あなたが一日のうち二時間だけでいい、娘時代になった気持で彼のためだけに化粧し、彼の話を(たとえそれがロクでもない愚痴にせよ)ウンウンと熱心にきいているふりをしてやり、その二時間の間は決して「ボーナスは何時なの」とか、「お中元の代が高くかかるのよ」などという主婦的な話や、「坊やの学校の成績がわるいの」等の母親的会話をしないだけで結構なのであります。
夫というものは、妻にくらべて自分がまず「男」であり、「夫」や「パパ」に素早くなりきれぬことに途方にくれています。あるいは、妻から生活のすべてが「夫」であり「パパ」であることを要求される時、ひそかに不安を感じるものなのです。
この悩みはT君やO君のような形であらわれたり、飲み屋通いにもあらわれるわけです。仕様のない動物だと言ってしまえばそれまでですが、本当に困ったものは男です。しかし、こうした男の夫としてのひそかな悩みを、世の中の沢山の奥さんが知っていられるのと、いられないのでは、二人の結婚生活もまたグンとちがってくると思われます。
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夫はどう愛情をみせるか
蜜蜂ちゃん∞小ねずみちゃん
八年前、フランスに留学していたころ、病気にかかって二、三週間ほど入院したことがありました。
病室は三人が一室の部屋で、ぼくは真中のベッドをあてがわれ、右と左にフランス人の男が寝ていた。右の男はスペイン人とフランス人の混血で体格もよく、仕事は画家だと言っていました。彼にくらべると、左の患者はチビ助の上に、塩センベイのような顔をして、おまけに口もとにちょび髭《ひげ》をはやしている。職業は税関の役人だそうです。
毎日、五時ごろになると、この二人の男に細君がやってくる。
お二人の細君が見舞にこられるのは、御当人たちにとって結構な話でありますが、独身留学生のぼくには、まことに迷惑だった。と言うのは、この二組の夫婦は――まあ、その気持もわからんのではないですが――病室の中だというのに、大きな音をたててキッスはする、かたく抱きあう、甘い声を出して互いに慰めあう……それを眼のやり場もなく天井を睨んで、見て見ぬふりをしていたぼくの胸中も察して頂きたい。
幾分、ヤケのヤンパチの気持も手伝って、お恥ずかしい話でありますが、左右から洩れてくる白人夫婦の甘いささやきをじっと聞いていた。ところが、夫が女房をよび、女房が夫をよぶ言葉の甘いことと言ったら……、
「ぼくのキャベツ」「わたしの蜜蜂ちゃん」「ぼくの小羊」「わたしの小ねずみ」
ぼくは左に寝ている塩センベイのような税関役人のちょび髭の顔を見るたびに、これが「わたしの小ねずみ」であり、「わたしの蜜蜂ちゃん」なのかと、阿呆らしく、馬鹿らしくてならなかったが、御当人は平気の平左。
だが、これはなにも彼一人の責任ではない。一般にフランス人――フランス人だけではなく、欧州人男女の愛の表現は、我々日本人から見ると実に濃厚であり、誇張的であることはみなさま御存知の通りです。
またぼくは、三、四ヵ月ほど、あるフランス人の家庭に下宿したことがありましたが、この家の娘に婚約者の青年ができて、毎日遊びにくる。娘はその青年と親や兄弟の前でも平気で肩をくみあったり、腰に手をまわしたり、時にはウットリとした眼差しで彼を眺めてはばからない。そして、彼女の親や兄弟も一向にこの態度をふしぎがらないのです。彼等はふしぎがらないが、同宿しているぼくのような日本人にはやはり照れてしまう愛情表現でありました。まあ、考えてもみてください。かりに、あなたの御主人がこのフランス的夫婦愛の表現方法をそのまま真似て、突然ある日、
「ぼくのキャベツ君」
「ぼくの小羊」
そうあなたを呼んだら、あなたはどんな気がするでしょう。きっと御主人のおツムが、陽気のせいで変になったと思われるにちがいない。逆にもし、あなたが会社から帰った御主人にニッコリ笑って、
「わたしの蜜蜂ちゃん。小ねずみちゃん」
と言ってごらんなさい。彼の顔がどんな色になり、家庭内にどんな大騒ぎがもちあがるか。
こんな誇張的な夫婦の愛情表現は、外国人とはちがって我々日本人の感覚には、たしかに不むきなのです。妻から、「わたしの蜜蜂ちゃん」などと言われると、背中にジンマシンが起きるような顔をするのが、日本の亭主族の特徴です。と同時に、彼自身も自分の女房にむかって「ぼくの小羊クン」などと、とてもささやくことはできない。
だから、「日本人の男は、女性にたいして愛情の表現が拙劣である。あまりに照れくさがりすぎる。もう少し外国人の男性を見習って、濃厚な表現をすべきである」という評言が、よく雑誌などにも書かれるのです。しかし、ぼくは、この考えに必ずしも賛成することはできない。ぼくは、女房から「蜜蜂ちゃん」などと言われれば、それこそ七面鳥のように真赤に照れる日本の亭主族の気持が、充分理解できるような気がしますし、また、この照れ方を決して女性にたいし無神経な行為とは思っていないのです。
「バッケヤロ」という気持
なるほど日本の男は、妻や恋人にたいして愛情の表現が満点とは言えない。外人の男に比べて専制君主な面があったり、サービス精神がいささか欠けていることも、率直に認めざるをえない。しかし、ムッツリ屋で無愛想な男が、心のつめたい人間とはかぎらず、時にはペラペラと口のうまい男より親切な魂の持主であるように、日本の亭主だって、ひそかに日本流の愛の表現方法を使っている場合があるのです。そして、あなたたち女性が、これを見ぬいてやらなければ、やはり彼等亭主族は可哀想だとも言えるのです。
ぼくの知り合いの娘さんが縁あって、ある建築技師と結婚いたしました。この娘さんは、どちらかと言えば西洋映画や西洋文学の大好きな近代的なお嬢さんだったのですが、結婚後ある日、ぼくの家に遊びにきて、「主人は、何かと言うとすぐ、こちらの女らしいロマンチックな気分をこわすようなことをしたり、言ったりするんです……」と嘆いていました。
ロマンチックな気分をこわすようなこととは何なのか、ぼくもさっぱり合点がいかないので、根ほり葉ほりたずねてみますと……、
たとえば、彼女が御主人と久しぶりで一緒に夜の外出をした時、星がキレイで路も月光に白く、なにか二人の愛が昂揚したような気分になっているのに、そんな時、ブウッと音をたててオナラをするのだそうであります。あるいはまた、彼女が、「ね、あたしのこと、好き?」そうたずねると、横をむいて、「バッケヤロオ。好きなんて馬鹿らしくて言えるかい」そう返事するのだそうです。
ぼくはその話を聞いた時、半分おかしいのを我慢しながら、しかし、彼女の御主人の心もわかるような気がしました。
「で、あなたは御主人のそんな動作や言葉からみて、彼が鈍感な人だと思いますか」
と、ぼくは彼女にきいてみました。と、彼女は、
「鈍感とは思いませんが、もう少しやり方、言い方があるような気がしますわ」
「じゃ」と、ぼくは答えました。「御主人がバッケヤロと言ったら、それは愛シテオルヨという言葉だと、今後お思いください」
つまり、この御主人は大変照れくさがりやだというのが、ぼくの観察でした。二人が外出した帰り、星がキレイで路も月の光に白く赫《かがや》いていて、横によりそう妻の気持がセンチになっていることもよく知っているのです。知っていればこそ、それに応ずるのが照れくさく、気恥ずかしく、気恥ずかしい故に照れかくしにブウッとオナラなどをしてみせるのである。また、妻から「あたしのこと好き?」とたずねられて、「バッケヤロ」と答えるのは、決して彼女が嫌いだからではない。ただ「好き?」などと改って訊ねられると、恥ずかしく照れくさいから、バッケヤロと怒鳴るのである。ブウッというオナラの音もバッケヤロも、言うなれば、彼の妻にたいする愛情と親愛感の逆表現だったのであります。
勿論この御主人の場合は、極端すぎる例だと言えないことはありません。いくら照れくさいからといって、「バッケヤロ」は少し、極端な行きすぎの表現です。けれども、彼の心情は、日本の亭主族であるかぎり、ある意味では[#「ある意味では」に傍点]理解でき、共感できるものなのです。あなたの御主人も、あなたがこの話をしてさしあげるならば、苦笑しながら彼の心理を半ば肯定なさるにちがいありません。
愛情表現も直球から変化球へ
多くの日本の亭主族は、彼ほど極端ではありませんが、ある程度、同じ「照れくささ」のために女房にたいする愛情の表現をストレイト・ボールでは行わずに、ナックル・ボールで、表現します。つまり、生の形ではとてもあらわすことができず、一《ひと》ひねりも二《ふた》ひねりもした愛情の表現方法をとるようです。それがよいか、悪いかは別として、こういう夫の心理を若い新妻やこれから結婚なさる女性は理解しておいて損はない筈です。
というのは、若い恋人時代や、新婚ホヤホヤの時代ならばとも角、結婚して一年もたつと、日本人の亭主族は女房にたいし、たとえば、次のような心理になるのが普通です。
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(1) センチな、甘い愛情表現をしまいとする。
(2) 逆に、女房が白昼や他人の前でセンチな、甘い愛情表現をすると照れくさがる。
(3) 友人や他人の前で、自分の妻のことを知らん顔をしようとする。
[#ここで字下げ終わり]
このような心理は、女性の側から見るとまことに妙なものですが、一応は誰でも夫たるもののかかる心理です。女の側から見ると、まことに小児的なもののようですが、これは夫にとっては、色々な原因からそういう気持になっていくものなのです。
だから、結婚生活後ようやくこの時機にたっした妻は、自分の御主人が、恋愛時代や新婚時代のやさしい態度をガラリと失って、急にえらそうな面構えになったことに気がつくことがよくあります。昔のように優しい言葉もかけてくれなくなった。こちらがそういう甘い雰囲気を求めても、知らん顔をしている……そういう妻の側の不平を聞くのもこの頃である。
だが、早まってはいけない。亭主がこの頃から仏頂面をしたり、甘いささやきをしなくなったからといって、ただちに自分たち夫婦に倦怠期が訪れたのではないか、夫の愛情がつめたくなったのではないか、他に恋人でもいるのじゃないかと速断するのは早すぎると言うものです。
心配は、おそらくいらないでしょう。ただ、これは御主人の愛情表現が、昔のように直球の投げ方ではなくカーブやシュート、つまり変化球にかわってきたと見るべきでありましょう。愛情がなくなったのではなく、その噴出孔が別のところにできたのでありましょう。
ぼくの知っている奥さんで、やはり、今、申しあげたような不満にとりつかれた人がいました。昔ほど夫がロマンチックな愛情の表現をしなくなったからです。ところがある日、彼女は病気で二週間ほど寝こまなければならなくなった。ところが、この病で、夫は昔のようにロマンチックな言葉などは喋らなかったが、男らしい、言い方や行為で、彼女を大いに慰め元気づけてくれたそうです。
「つまり、夫の愛情のあらわし方も、昔とちがって結婚生活によってベタベタしなくなったのかもしれませんネ」
と、彼女は後日《ごじつ》、そんな感慨を洩《も》らしていました。
この例が、いい見本だと思うのですが、もし同じ不満をもっていらっしゃる奥さんは、二、三日の仮病をつかって、御主人の反応をためしてごらんなさい。あなたは彼がこういう危急存亡の時に、やはりあなたの支え[#「支え」に傍点]であることが、おわかりになるでしょう。
ぼくは、こうした問題について、よく結婚して五、六年以上たった友人と話すのですが、彼等は、異口同音にこう言っています。
「ぼくたちの女房にたいする愛情のあらわし方は、青春時代みたいにベタベタとした惚れたハレたなぞではできんなあ。男の愛情なんて、女房がイザ本当に困ったという時にあらわれるんじゃないかな。女房にこの野郎と怒るのも愛情である場合もあるからなあ」
考えようによっては随分虫のよい話ですし、ぼくも先ほどから申しあげている通り、これがよいと言っているのではありません。しかしこういう夫の心理は一応、頭にふくんでおくことは、妻として決して損ではないから、繰りかえして述べるのです。
ほんのりとしたお色気で
そこで、妻の側からは、こういう夫の心理にはどう反応すべきでしょうか。それには、それぞれの夫婦によってニュアンスややり方の差がありますが、大体の原則論として、次の二項をお考えになっておくとよいと思います。
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(1) 主人に見習って、自分も全く愛情表現をかくすようになってはいけない。といって、恋愛時代、新婚時代と同じストレイト・ボールの投げ方をしては、やはり下手である。
(2) 主人に、女の心理を折あるたびに教えてやること。女とは元来、あらあらしい表現よりは、いたわりや優しさの方を求める心理が強いと教育すること。「バッケヤロ」という愛情表現よりは、「おい、疲れないか」といういたわりの愛情表現をしてほしいと、そっと教えること。
[#ここで字下げ終わり]
まず(1)から簡単に説明します。これをよく理解して頂くためには、前に書いた「夫の悩み・夫の不安」というぼくの文章をもう一度よんで頂くと有難いのです。あの文章の中で、ぼくは夫の中にはあなたたち妻に、妻でもなく、子供の母親でもない「女」の部分を求める心理があることを書きました。ここではそれをくりかえしては詳述しませんが、もしあなたが御主人の愛情表現の照れくささに追従して、自分も知らん顔をするようになると、夫という始末におえぬ子供は、至極、寂しがり不服な気持を持ち出すのです。我儘きわまる話ですが、男とは、また夫とはそういう駄々っ子なのだから、手におえません。手におえないでしょうが、そこは「眼をつぶって」やってください。そして、夫が愛情表現を照れくさがれば照れくさがるほど、こちらは愛情を見せてやってください。
ただ、この愛情を見せてやるというのも、甘い結婚前と同じ表現ではいけません。「スキ」とか「愛している」という言葉を、夫の顔を見るたび露骨に言えというのではありません。こういう濃厚な表現方法は、恋愛時代や新婚時代には繰りかえして[#「繰りかえして」に傍点]も飽きますまいが、お互いに朝から晩まで顔をつきあわせている夫婦では食傷してしまいます。
妻の愛情表現には、やはりコツがあります。ほんの一例ですが、妻らしい色気を出すということです。色気といっても、下品な言葉とお思いにならないでください。いや、むしろ妻こそ妻らしい色気を大切にすべきです。色気というのは、「そこはかとなくあらわれる魅力」と言えましょう。さりげない立居振舞に出る女の魅力です。これも、そんなにムツカしいことではなく、会社から夫が戻る直前に、家事でバラバラになった髪をちょっとなおすとか、夜ねむる前にルージュを濃く引いて、口に仁丹をふくんでおくだけでも色気なのです。
妻の愛情に夫がグンとまいるのは、彼女が自分の夫にたいする思いやりをそっと[#「そっと」に傍点]表現した時だと、ぼくの友人はみな口をそろえて言っています。
「いやね。これでもか式に愛情を押しつけられると、こちらも重荷なものだね。ところが、さりげなくやられて、ああこんな所までも考えていてくれたのかと気がついた時は、女房の情けが身にしみるね」
というのがおおむね夫の気持でしょう。どんなに生活が苦しくても、夫の男としての自尊心を傷つける言葉を一言も口に出さぬこと、一ヵ条だけでも一年間守ってごらんなさい。これもムツカしくはない。つまり、「あなたの会社は、ボーナスが少ないのねえ」とか、「田中さんは、あなたと同じ年なのに、もう課長ですって」などと夢々言わぬことだけでいい。夫というのは、神経が粗雑なようで案外、こういう妻のそっとした目だたぬ愛情を素早く感ずるもの。そんなとき、これは「スキ、スキ、スキ」の言葉だけの愛情表現よりは、百倍、ぐんと男の心にしみてくるものなのです。
次に(2)は、むしろ妻になる亭主教育の一つと言えましょう。
姉妹の多い中に育った男性は、こういう女の心の動きを知っていますが、男の兄弟しかいなかった亭主は、あなたたちが想像できないほど、ごく常識的な女の神経に無頓着なのが普通です。彼は、男の神経でそれを考えていることが多いのです。
たとえば、「お前がスキだ」と言うのが照れくさいあまり、「バッケヤロ」と言うのは、男仲間での法則を妻にも適用しているにすぎません。男同士の仲間――たとえば兄弟や親友の間では、「よお、久しぶりだなあ、バッケヤロ」「バッケヤロ。お前も元気か」というように、バッケヤロは親愛の情を示す表現です。これを彼は、親しい自分の女房だから用いているのです。
だが、このバッケヤロがいくら親愛な妻にたいしてとはいえ、女である以上は、やはり親愛感よりはあらあらしいひびきを与えてくることを、彼に知らせてやるべきでしょう。女というものは、(1)ちょっとしたいたわりの言葉でも、それが優しければ優しいだけ、しみじみと心に感じること、(2)女とは、過去の思い出(婚約記念日、結婚記念日、二人の誕生日)を男が考えるより以上に大切に思う存在であることなどを、折あればそっと彼に優しく教えてやってください。
始めは彼は、
「バッケヤロ、そんなこと、おかしくって……」
などと言っているかもしれません。しかし、彼は、決してその妻の言葉を忘れているのではないのです。
ぼくは保証しますが、彼は、その次の結婚記念日に自分のノミシロを倹約して、あなたに手袋の一つ、帯留の一つでもそっと買ってくるにちがいありません。もっとも、それをあなたに手渡す時、例の照れくささのあまり、「バッケヤロ」とまた言うかも知れませんが……。
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夫の嫉妬と妻の嫉妬
アブない女性のほめ言葉
男性と女性とはどちらが嫉妬心が強いかは、大変ムツカしい問題です。
「そりゃ女にきまっとる。女の嫉妬心には、全く我々かなわねえ……第一、花嫁さんの角かくし、ありゃ、女は妬《ねた》み心がひどく強いから、一生リンキをたてるなという証拠じゃないか」
こう男性諸君が言いますと、女性側も黙ってはいない。
「まあアキれた。よくもあんたたち、そんなズウズウしいことを口に出せるわね。男こそ、女よりはるかに嫉妬心の固まりよ。あなた、評判のオセロー≠ニいうお芝居見なかったの」
とやりかえす。こういう風景は、昼やすみのオフィスや事務所でよく見られるものでしょう。
では、男と女とはどちらが嫉妬心が強いのか。その答えは今、横において、ここでぼくがハッキリ言えることは、男性の嫉妬心のあらわしかたと、女性の嫉妬心のあらわしかたは、いささか違っているという点です。
どう違うかと申しますと、女性は、自分の嫉妬心をひと捻りもふた捻りもして表現する場合が多い。これにたいし、男は阿呆くさいほどストレイトでまとも[#「まとも」に傍点]なあらわしかたをするものです。つまり嫉妬心に関する方面でも、あなたたち女性のほうが、我々男性より複雑なテクニックを使われているように見える。
その一例として、ぼくの友人でこんな失敗をした男がいました。
この男は、A子さんという同じ職場で働く女性に恋をしていました。しかし、いたって気の弱い性格であったため、彼女を誘うことができない。
それでも、ある日曜日、やっと彼女と一緒に映画を見ることに成功し、胸は幸福感でいっぱい。
そして、映画を見たあと、彼はA子さんと喫茶店に入ったのです。
コーヒーを飲みながら、二人の話題は、おのずと今見た映画のことに及んで、
「あのRという女優、どこかで見たような気がするなあ」と彼は言いました。「そうだ。庶務課のB子さんだ。似ていると思いませんか」
「そういえば、そうね」
A子さんは、あまり関心もなさそうにツンとして答えましたが、自分の発見に気をよくした彼は、
「本当にあの女優とB子さんとは似ておるな。もっともB子さん、顔もきれいだけど、頭も切れるっていう話ですねえ」
と更にきいたりしたのです。すると、
「そりゃ、頭のいい方よ。なにしろ××高校の御出身ですもの」
A子さんは、B子さんのことをホメはじめました。
「才色兼備って、あの人のことね。あんな方、きっと男の人をすっかりチャームするでしょうね」
彼女がこのようにB子さんのことをほめるので、それを真にうけた彼は、
「なるほど、そういえばそうですねえ」
一緒に口をそろえて、B子さんを激賞しはじめた。
ところが、どうしたのであるか、A子さんは急にツンとして、
「あたし、帰りますわ」
御機嫌がわるくなったと思うと、サッと椅子から立ち上って、店を出ていってしまった。どうして怒ったのか、哀れな彼にはさっぱりわからない。そして、このために折角、成功しそうだった彼氏の恋も、水泡に帰してしまったのである。
男は単純、子供っぽい
可哀想な彼には、理解できなかったようですが、ぼくには、このA子さんの急激な心理のうごきも、どうやらわかるのです。つまり、A子さんはB子さんにヤキモチをやいていたのですが、彼女は、そのヤキモチを女性特有の表現で言いあらわしたのです。その女性特有のヤキモチ表現とは、「相手をほめる」というやりかたです。女性が嫉妬している相手についてしゃべる時は、むしろ「ケナす」より「ホメる」という逆手を使うことを、ぼくの友人は迂《う》かつにも知らなかったのでした。
今でこそ、こんなことを知ったふうにも言えるのですが、実はぼくも、この女性の複雑なワケのわからん表現の方法に気がつくまでは、この友人と同様、随分、失敗したものである。ガール・フレンドが別の女友達のことを「キレイな方ね」と言うから、こちらも「ああ、キレイな方ですねえ」そううなずいたため、とんでもない失敗を幾度くりかえしたことか。
これは、ぼくだけではない。多くの男性が同じようににがい経験をしていることなのです。
だから今は、心もすっかりヒネくれてしまって、知りあいの女性が別の人をほめる時は、心の中で、警戒、警戒と叫びつつ、
「そうですかなあ。しかし……」
と、まず曖昧に否定してみるようになってしまいました。ここでもし、相手の女性が、
「そんなことないわよ。あの人、本当にキレイよ」
とあくまで主張するならば、安心して問題の人をほめることができるのです。しかし、たいていの場合、こちらが、
「そうかなあ、キレイかなあ」と首をひねるまねをすると、
「そうね。あの方のキレイさは作りものですものね。なんでも彼女、整形手術で顔をなおしたんですって……」
と、実に嬉しそうな顔をして、彼女は呟くのであります。
嫉妬の対象をけなすかわりに、まずほめる。この高級な戦法は、女性特有なものであります。ところが、単純で子供っぽい男は、とてもこういう高級な戦法は思いつかない。彼等の嫉妬心のあらわしかたはもっと端的であり、直接的です。
よく酒場などで見かける風景ですが、
「チェッ、田中か。ヤな奴じゃないか」
むきだしで、ライバルの悪口を惚れている女給さんに述べている男がいるものです。
「あいつなんか、本当にイヤな奴だよ。あんな奴のこと好きになるなよ」
「おや、どうして」
そんな時、女性のほうは上手ですから、わざとトボけてみせたり、
「あら、そんなことないわ。田中さんだって、あれでなかなかイイとこあるのよ」
と、わざと彼の嫉妬心をあおるようなことを言う。ところが、この手にコロリと男はひっかかるもので、
「どうしてって言われたって、イヤな奴だから仕方ないさ。チェッ。少しぐらい英語知ってるのが自慢で、英語の歌うたったりさ。キザだぜ。それにあいつ、女の子のはくような猿股はいてやがるんだ。そんな奴のことを好きになるなよ」
相手の猿股の悪口まで口に出して言うのであるから、子供っぽいといえばまことに子供っぽく、その表現の手口もいたって単純なもので、女性のようにナックル・ボールをほうる、大人のやりかたではないようです。
なにはともあれおだてなさい
さて、夫婦間の嫉妬の心理を見ていますと、この男女の相違が、やはりはっきりとあらわれているようです。夫の嫉妬のだしかたは、妻のそれにくらべて直截《ちよくせつ》で単純なあらわしかたをするものです。だから敏感な妻には、彼が「やいているのだナ」とすぐわかります。
結婚後まもない頃の夫は、妻のボーイ・フレンドなどが遊びに来て、妻がうっかり娘時代のように浮き浮きなどしますと、子供みたいにその口惜しさを顔に出したり、急に黙りこんだり、あるいは鼻の穴をピクピクさせたりしますから、彼がヤキモチをやいていることは、すぐ見抜けます。結婚後数年たっている夫になると、自分が他の男に「やいた」ところを見せるのは、夫としての威厳を失うと思うのか、若い夫のように直接にはそれを口に出しませんが、これも急に今まで言わなかったようなこと――たとえば、
「天井《てんじよう》にススが溜っとる」とか、「お前の子供の教育はなってない」
などあらぬこと、理屈に合わぬことを突然口走りはじめますから、女性の皆さまには、すぐわかる。要するに、亭主の嫉妬の出しかたは、一つの例外をのぞいては単純で子供っぽいものです。
一つの例外とはあとで書きますが、この例外をのぞいた夫の嫉妬心の構造は、子供っぽいだけにそれを防いだり、それを鎮めてやる方法は、全くムツカしくはありません。
その方法で一番手ごろで便利なのは、「おだてる」という方法です。たとえば、あなたの結婚前のボーイ・フレンドや、あるいは昔の会社の同僚の方が遊びにきたとします。あなたは、この昔のボーイ・フレンドを、結婚したからと言って玄関払いするわけにはいきません。もちろん、愛想よく、
「さあ、おあがりになって」
と言ってよいのです。そして、もし夫が在宅なら、彼を昔のボーイ・フレンドの前につれていって紹介するのがいいでしょう。そして、なにも気がねすることなくボーイ・フレンドとお話をしておきなさい。ただ、その際、夫が横にいるのに、彼をあまり[#「あまり」に傍点]無視しないほうが賢明にちがいありません。
そして、ボーイ・フレンドが帰ったあと、あなたはただ、次の二つの言葉を口に出せばよいのです。
その一つは、
「一緒にお話してくださって有難う」それから少しおどけたように、「あなた、考えていたより寛大なんでビックリしちゃった。あたし、昔のボーイ・フレンドなんか家におよびしたら、叱られるかと思っていたの」
これが一つ。それからその次に、
「あたしには、あなたが、一番いいわ」
この二つの言葉だけを、口に出してごらんなさい。その効験は実にあらたかです。
おそらく亭主のうち九十九パーセントまでが、ボーイ・フレンドが来ていた間、多少、心にもっていた不安や嫉妬をすっかり消すでしょう。
「あなた、意外に寛大でビックリしちゃった」
と言われれば、大半の亭主は急に得意になり、
「馬鹿言え。俺なんかさばけた新時代の男性だからな。妻のボーイ・フレンドにヤキモチやくほど野暮じゃないさ」
と、子供のように威張りだすから妙である。時には、
「ああ、これからもドンドン、君のボーイ・フレンドをよんできなさい。ドンドン、よんできなさい」
勢いづいて、まるでドンドン焼きの太鼓のようなことを口走る。
そこで最後に、
「あたしには、あなたが、一番いいわ」で押されると、
「バカヤロ、おだてるない」
それでも鼻の下を長くして、安心するものなのです。
男というものは、愛情の心理にかけては、女性に比べて単純であり子供のようですから、この「おだてる」方法は一見、あなたたち女の方には、いかにも男尊女卑の感じを与えるかもしれませんが、つまらぬことで夫婦間の傷を拡大するより、ボヤはボヤのうち早くから消したほうが良いという意味でも、お奨めする次第です。
これだけは例外絶対秘密のこと
だが、さきほども書いたように一つの例外があります。この例外の場合は、亭主の嫉妬はいかにあなたたち女性といえども、なかなか鎮めることはできないでしょう。
その例外とは、「結婚前に自分の妻と関係のあった男」にたいする嫉妬です。
時々、ぼくはこれから結婚するという娘さんから、こんな相談をうけることがあります。それは、「昔の恋人だった人のことを、夫にうちあけるべきか」という問題です。あるいは、「私は子供の時、知らないである男に肉体を奪われた。そのことを夫に言うべきか」という問題です。
この場合、彼女が夫にそうした過去をうちあけようとするのは、夫にウソをつきたくない、正直でありたい、誠実でありたいと思うからでしょう。
しかし、そうした動機の純粋さは認めても、ぼくはハッキリ申しあげましょう。
「過去の恋人のことや、過去の自分の肉体問題については、絶対、夫に言わないほうがよい」
もちろん、夫の中には寛大で人格も立派で、妻の過去は過去として認めてくれる人もいるでしょう。しかし、現在の大半の夫は、よし口では認める、許すと言っても、この点に関する限りでは、やはり苦しんだり悩んだり、その後の妻の行為にまで、あらぬ疑惑をもってしまう傾向になるのはやむをえません。それでは、女はあまり分が悪いではないか、大半の男性は、結婚前に一度や二度は遊んでいるくせに、自分の妻には純潔を要求するのは我儘だと、お考えになる人もいるでしょう。ぼくは、それは尤もな意見だと思います。思いますが、現在ではまだ、それは理屈でしかないのです。現在では、多くの夫はやはり自分の妻が他の男は知らず、自分だけを始めて愛したのだと思いたい心理段階にいることは否《いな》めない事実です。
この場合、夫は一生、妻の過去と過去の男に嫉妬します。この嫉妬は残念ですが、ぼくがさきに申しあげた「おだて」の方法でも、夫婦の「話しあい」でもなかなか消し去ることはできません。
だから、たとえそのような事実が過去にあっても、夫には生涯言わぬことがよいのです。それは、不純でも不誠実でもなんでもない。夫を生涯くるしめ、家庭を暗くするようなことは、たとえ動機が誠実でも、結果においては不純だと言えましょう。
だから、この嫉妬だけは亭主に起させぬこと――それ以外の夫の嫉妬なら、あなたはちょっとした注意と知恵とで、なだめたり防いだりできると、男の一人であるぼくは、自信をもって言えるのです。
美人も台なし御用心
夫の嫉妬は、このように単純で治めやすいのですが、少しムツカしいのは、むしろ女性側の嫉妬の処理方法です。つまり、あなた自身が夫にたいして嫉妬心を抱くようになった場合、どうすればよいかという問題です。
嫉妬心とは、当人はそれほど気づきませんが、他人の眼から見るとみにくいものです。美人も嫉妬に狂った顔は、「狐のようになり、その言葉は慎みを失う」と、西洋の詩人は歌っています。
だが万一、あなたが夫や恋人にたいして嫉妬心にくるしみだした時は、次の二つのことを考えてみましょう。
(1) 女の人が嫉妬心をあらわすと、今も申しました通り、それは御当人の容貌、動作をみにくくするので、かえって御主人や恋人の心を遠ざけてしまって、損なのです。嫉妬心は、相手を自分のものにしたいという欲望と、その欲望と自尊心が傷つけられた口惜しさから生れるのですが、それは逆に、かえって相手を遠くに追いやる結果になりがちです。嫉妬心にかかったら、作戦的にもその感情を見せないほうが得なようです。
(2) 我々は、嫉妬にかかっている時は、相手の何から何までが嫉妬の対象になる。
これは、大変おもしろい事実です。もしあなたが御主人に疑惑をもち、嫉妬心にかられたとしましょう。すると、その時から御主人のすべてのことが、疑惑のタネ、嫉妬のタネになります。
たとえば朝、御主人がヒゲをそる。するとあなたの嫉妬心の虫は、こう言います。
(あれは他の女によく見られたいから、おシャレをしているんだ)あるいは、御主人が昨日とちがったネクタイをすると、あなたの心は、(あの女性にほめられたいから、新しいネクタイをする)と考えだす。
このように、平生では何でもない御主人のすべての行為までが、嫉妬の対象になり、それが更に炎をかきたて、あなたをくるしめる。
以上、二つの嫉妬心の性格を考えますと、次のようなことが言えると思います。
「我々は人間であり、夫婦である以上、嫉妬心をもたないということはありえない。しかし、嫉妬心は真相を百倍も二百倍にも拡げる傾向がある。平生は何でもない夫の動作でも疑わしく見えるのは、嫉妬という眼鏡が自分の眼にかけられているためである。だから本当の真相は、嫉妬心の持主が想像しているより、もっと小さなものである」
これはバディというフランスの心理学者の論文『嫉妬心の分析』から採った言葉です。ぼくは、これは名言だと思います。嫉妬心はだれにでもある。しかし、もし女性のあなたが、悋気やヤキモチを御主人に抱かれた場合は、
(1) ヤキモチを起したために、自分がみにくくなっていないか。
(2) ヤキモチのために、本当の夫を色眼鏡をかけて眺めてはいないか。
以上の二つのことを、絶えず考えてください。この二つを考えるだけでも、夫婦の避けられぬ問題であるジェラシイ(嫉妬)の辛さは、半減するようにぼくには思われます。
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夫婦喧嘩考
冷戦といういやな奴
夜おそくまで自分の部屋に閉じこもっている私は、必然的に朝寝坊をする。したがって朝飯は一人で食卓に向うようになる。
夜おそくまで自分の部屋に閉じこもっていると、家族はその私が勉強をしているか、仕事をしているのだと思っているらしい。そして朝寝坊は今は黙認されるようになった。だが実をいうと、私は夜おそく自分の部屋で居眠りをしたり、鼻毛をとったり、引出しからウイスキーの小瓶を出してそれをなめながら過していることが多い。ただ家族にそのことは言わない。言うと私の威厳が損じるからだ。
朝飯を一人で食うのは、はなはだ楽しい。なぜなら食べながら朝刊を読めるからだ。家族と一緒に食卓に向うとき、このようなことをすると、非常に妙な顔をされるか、非常に叱られる。だからこのときだけは悠々と、落ちついて朝刊をひろげ、スポーツ欄から三面記事に至るまでゆっくりと読む。この時間が一日のうちで最も幸福だ。
ところが昨日、その新聞に嫌《いや》あな記事が載っていた。
それはつい最近、死んだばかりのモーリアックという仏蘭西《フランス》の小説家のニュースだった。この作家は私も昔からはなはだ尊敬していたのだが、生涯、たった一度も細君と夫婦喧嘩したことがなかったとその学芸欄には書かれていたのである。
たった一度、彼が良妻賢母を諷刺したような作品を書いたとき、それを自分のことをモデルにしたのだと思った夫人が非難したことがあったが、モーリアックはやさしく接吻して、
「あれは想像で書いたのだよ。君を傷つけて悪かったね。ぼくは君だけを愛している」
そう答えたという。
これ以外、この有名な作家とその妻には夫婦喧嘩らしい口論さえなかったというのだ。
朝飯もそこそこに、私は急ぎあわててその頁を破り、ポケットに入れた。私の妻は新聞は三面と女性週刊誌の広告しか見ないお方であるから、まずまず安心であるけれども、万一、まかり間違ってこんな記事を読んだら大変だと思ったからである。もし彼女がこれを読んだならば、そこは女の愚かさで向うは世界の大作家、こちらはあわれな三文文士であることを忘れ、
「まア、何とえらいんでしょう。同じ小説家でも、誰かさんとは月とスッポンね。実に立派だわ。感心よ。尊敬するわ。それにくらべて、あなたは何と駄目なんでしょう」
そう口には出さぬが、心の中で思うことは必定《ひつじよう》であるからだ。なぜ口に出さぬかと言うと、そういうとき、口に出せば私がグッと睨《にら》みつけるからであって、私の睨みはまだ家庭内でかなり威力があるのである。
モーリアック氏は尊敬していたが、この日だけは、この記事を読んで、がっかりした。なんでえ。何が君を傷つけて悪かっただ。何が君だけを愛しているだ。こういう背中にジンマシンの起きるようなことを古女房に言う亭主はわが日本国にはいない筈である。
夫婦喧嘩のどこが悪い、というのが私の平生の考えである。そりゃあ、相手に致命的打撃を与えたり、破局、別居に至るようなシンコクな喧嘩なら私だって、ヨセ、ヨセというが、女房の頭の三つや四つは張りとばしたって、女房が亭主にかみついたって、あとがさっぱりするような喧嘩なら私はむしろ、やれ、やれと言いたいほうである。私が一番いやな夫婦喧嘩は、あの冷戦という奴だ。双方、隠花植物みたいな顔をして、
「あら、そうですか」
「そうですよ」
何日も何日も黙りこくっているような喧嘩である。あれをやるぐらいなら肉弾相うつほうがよほど人間的だ。
かつて引っ掻き戦法に敗れた私は……
さすがに今は私だって夫婦喧嘩もしなくなったが、結婚当初は向うも血の気の多い女子学生だったから実によくやった。相手は子供のころから合気道を習っていたし、男兄弟と実戦の経験をかなり持っていたらしく、腕に自信があったらしい。こっちは女の姉妹がいなかったから、女など一発張りとばせば、それでいいのだという錯覚があった。ところが、どっこい、そうはいかなかった。
女姉妹がいない私は、男兄弟とやった喧嘩と同じように接近戦にもちこんだため、大敗北を喫したのである。男兄弟とは撲りあいの喧嘩が普通である。あるいは相手を腕力で押えつけるのが普通である。私は女房との場合もそれと同じことをやろうとした。
その瞬間、私は手の甲に稲妻の走るような痛みを感じた。敵は私が全く知らない「引っ掻き戦法」を使ったのである。引っ掻くなんて、男兄弟しかない私には全く知らぬ奇襲方法だった。
実に痛かった。女の爪があんなに痛いとは思わなかった。みるみるうちに手の甲に五つのミミズばれができ、血さえにじみ出ている。
「痛《い》てて、ててて」
私はその日一日、ひどく痛そうに手をふったり、傷口をなめたり、鉛筆をパタリと落したりして、被害を殊更に誇張し、敵をして後悔せしめんと試みたが、相手は悔いるどころか、ざま見ろという顔をしている。
特に困ったのは外出するとき、手をかくすことができぬからである。
「どうしたんだ、それ?」
友人に言われて、
「女房に引っ掻かれたんや」
そんな情けないことを男として言えるものか。
「猫にね、やられてね」
「おめえんとこ、間借りじゃねえか。猫、飼ってるのか」
「いや、近所の猫だ」
何が猫なものか。
こうしてかなり合戦をくりかえすうちに、私は次第に細君と喧嘩するときの作戦やコツを知るようになった。
第一に接近戦は禁物だということ。その理由は、今、言ったように敵は腕力においてリーチも男より短く、力においても劣るので、歯と爪を使用することがわかったからである。接近してかみつかれたり引っ掻かれたりしないことが亭主のとるべき作戦である。
第二に女というものは逆上すると恥も外聞もなくなるから、逆上一歩手前で終戦もしくは休戦にもちこむべきだということである。窮鼠《きゆうそ》かえって猫をかむ――つまり追いつめられたチュー公は、何をするかわからないというのは細君の場合も同じだと知るべきである。私の友人で夫婦喧嘩のとき、細君が窓から首を出して、
「御近所のみなさん、聞いてください。うちの人はこんなこと、したんですよオー」
と叫ぶ戦術をとられ、あとで女とは逆上すると恥も虚栄心もなくなるからコワいと呟いていた奴がいた。そこまで女を逆上させたら男は必ず負ける。女にまだ恥と外聞とが残っているうちに休戦すべきである。
三浦朱門流極意を改良して
ベスト・セラー『誰のために愛するか』の曽野綾子さんの御主人は三浦朱門である。三浦と曽野さんだって夫婦喧嘩をするだろうと、ある日、たずねると、
「もちろん、するとも」
と三浦は大きく、うなずいた。
「そのとき、どうするかね、君は?」
すると三浦はなかなか、うまい戦術を教えてくれた。
それは相手がくたびれるまで、黙っていることだという。三浦は曽野さんから叱られると、彼女の口がくたびれるまで、黙って聞くふりをしているのだそうだ。(本気で聞く必要はない、と彼はハッキリ言った)そして曽野さんの口がくたびれたときから、彼がしゃべり出す。するともはや、口のくたびれた相手は、反駁《はんばく》不可能な状態になっているのである。
この三浦の夫婦喧嘩術を聞いて進取の気性に富んだ私は、更にこれに改良訂正を加えてみた。その結果うまれたのが次の戦法である。
細君が怒りはじめたら、黙っているのは三浦式方法と同じである。ただ私の場合は、たんに黙っているだけではなく、顔に苦痛と悲しみとをいっぱいたたえた表情をとる。表情なんて鏡の前で二日練習すればできるものさ。
こうして悲しげに、辛《つら》げに女房の説教を聞く。(心の中では別のことでも考えているのが一番いい。私の場合は東海道線の一つ一つの駅名を思い出すことにしているのだ。東京、横浜、小田原、沼津、静岡、ベントウ、ベントウ、ベントウにお茶……)
反抗すると思った亭主が、意外にも辛げな顔をして自分の説教を聞いているのを見ると、女房は最初びっくりする。びっくりして、やがて怒りの言葉をぶちまけているうち、
(あたし、言いすぎたんじゃないかしら)
という不安が必ずや心をかすめる筈だ。この瞬間を利用して更に辛そうな表情をこちらはとる。なんなら庭の一点を見て、泪《なみだ》ぐむようなふりをしてもいい。
女房がこのときたじろいだら、しめたものだ。黙って自分の部屋に引きあげる。十分ぐらいするとたいてい、向うは、
「すみません。私もひどいことを言って……」
とあやまりにくるものだ。こうすれば、とにかく、こちらは勝てぬにしろ負けたとは言えない。
してはならない本格的口喧嘩
接近戦と同様に、女房と決してやってはならぬものは本格的口論である。口論をすれば男は必ず女に負ける。それは男が女より口下手だからではなく、女の記憶力のスゴさとその飛躍的論理のせいである。
女というのは、胃袋の中にあるものを絶えず口にもどしてハンスウしている牛と同じようなもので、過去にたいする記憶力だけは男に数段まさっている。婚約記念日とか結婚記念日とかは亭主にとって全く記憶も関心もないが、女房は実によく憶えている。その上、五年前の八月十日にこちらが言ったことまで記憶しているからスゴい。だから夫婦喧嘩のとき、
「今、そう、おっしゃいますけどね、三年前にはその反対のことを、あなた、言ったじゃありませんか」
「言ったおぼえはない」
「冗談じゃありませんよ、三年前の六月三日の夕方ですよ。会社の田中さんと酔っぱらって戻ってきたときですよ」
そういえば、たしかにそういうことがある。こうなると、もう喧嘩はこちらの負けなのである。
また女は男の思考法でものを考えない。男同士の口喧嘩では論理のスジの通っている者が必ず勝つ。しかし女房を相手に口喧嘩をしてもスジの通った論理で相手を負かそうとしてもこれ全く無駄なのである。女房にはこういうものは通用しないからだ。
それでは女房の思考法とはどういうものか。たとえばこうである。亭主が酔っぱらって深夜、帰宅する。すると女房は怒ってこう言うのだ。
「あたし、あんたが自動車でひかれはしないかと心配して眠れなかったのですよ。しかし、あんたはそんなに心配しているあたしのことなど考えずにお酒を飲んでいたのでしょう」
ここまではいい。ここまでならば男の論理であり、男の思考法である。しかし、そこから彼女たちは突然、飛躍する。
「そうよ、いつもそうよ、あんたはあたしのことなんかコレッポッチも考えてないのよ(第一の飛躍)。もしあたしが死んだって平気なんだわ(第二の飛躍)。だから、あたしが死んでもよ、墓なんかも来てくれず、あたしは一人で地下で眠っているわけよ(第三の飛躍)。あなたはそういう薄情なエゴイストよ」
酒を飲んでおそく帰ってきたことと、墓場と一体どういう関係があるのかわからないが、女房というものはアレヨ、アレヨというまに喧嘩の出発点から十万里もはるか彼方に飛躍した所に突然つれていって、怒るのである。こういう相手と口喧嘩をしたってかないっこないのだから、口喧嘩はさけたほうがいい。
爽快に肉弾相うて
一番いい夫婦喧嘩は爽快に肉弾相うつことである。そしてお互いのモヤモヤをそれによって発散し、あとは恨みっこなしのプレーンソーダを飲んだような気持になることだ。
だから私は自分が仲人をした若い夫婦に夫婦喧嘩を大いにすすめている。男のほうには、そっと言っておく。
「女房という奴は、初手にバアーンと張りとばしておくことが大切だぞ」
また一方、彼と結婚するお嬢さんには、
「なに、女だからといって泣いていてはいかん。ますます、男をつけあがらせる。ムシャブリついてかみついてやりなさい」
ひそかにそう奨めるのだ。
そんなわけで自慢じゃないが、私の仲人をした若夫婦たちは、いずれも華々しい夫婦喧嘩をする。そのくせ、結構、兄妹のように仲がいい。
ことしの夏など、この若夫婦たちの一組が私の山小屋にやってきたが、駅まで迎えにいくと、亭主のほうは鼻の上にバンソウコウをはり、女房は暑いのに腕に包帯をまいている。
「やったね」
と私が嬉しそうに言うと、
「へえ」
なんでも夜おそく彼が帰宅して玄関をあけたとき、待ち伏せしていた彼女がおどりかかって、顔を引っ掻いたという。
「ぼくは眼鏡がとび、一瞬、眼が見えなくなりました」
「それで」
「それから玄関でとっ組みあいをやりました」
「うむ。よろしい」
近ごろの若い夫婦は、女が威張り、男がヘイヘイしているという話を聞くが、必ずしもそうではないのである。
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続・夫婦喧嘩考
ソクラテスの教訓
君は女房に平手打ちをくわせたことがあるかい、とかつて私は親しい友人たちにひそかに聞いてまわったことがあった。私の友人たちはおおむね紳士だからこのぶしつけな質問に驚いたような顔をして首をふる者が多かった。中に三人ほど「ある」と答えた者もいた。
「しばしばか」「そうだ」「君はなぜ、かよわい女に暴力をふるうのか」「だって、君、女房はかよわい女じゃねえよ」
これでは答えにはならぬ。答えにはならぬし、私だって世の亭主が妻に一発お見舞いするのははなはだよくないぐらい結構わかっている。わかってはいるが、男として私は女房をたたいたという三人の友人の心情も理解できるような気がするのである。
夫婦喧嘩の際、たいていの夫は口では細君に負けるはずである。たとい夫の側に弱味や弱点がなくても、女の理屈は男の理屈とかみ合わず、強引、力まかせにこちらを組み伏せてくる。結局、やりこめられるのはいつも亭主だ。思わずカッとなって手が飛んでしまう。あのにえかえるようなくやしさは夫婦喧嘩の経験のある世の亭主ならたいてい御存じだ。
だがなぜ、男は女には口喧嘩では負けてしまうのか。ソクラテスだってその妻には口論でさえも頭があがらなかったらしいし、カントもそれを予感して一生、妻帯しなかったほどである。
私の考えでは女には、男の論理学の全く適用しえない理屈のすすめ方がある。われわれ男性は学校で論理学というものを習った。AはBなり。BはCなり。ゆえにAはCなり。こういう当然の論理で男同士は議論し、論争するのだが女にはこれらの論理学的論理は全くない。女は男のつくった論理学を無視する。
妻の喧嘩の仕方
だが女には論理がないのかといえば、そうでもない。彼女たちには彼女たちの論理のすすめ方があるのだ。それは(1)過去よみがえらし法(2)飛躍拡大法の二つである。夫婦喧嘩で女房のことばを黙って聞いていると、この二つの方法を彼女たちが実にウマく、巧みに駆使していることがよくわかる。
第一の過去に対する記憶力のよさは女の場合、驚くべきものがある。過去に亭主の言ったこと、やったこと、その場所、その時間、結婚記念日その他もろもろのことについて女房たちは針仕事をしながら、アイロンをかけながらさながら牛のように胃袋から出しては噛みしめ、噛みしめてはまたのみこんでいるにちがいない。この過去にたいする記憶のよさは夫婦口論のさい、彼女たちにとって実に有効な武器となる。
あなたは今、そんなこと言っていますけどね、三年前の六月五日の四時ごろ反対のことを口に出したんですよ。男というのはそんなに時と場合で無責任なことを言うんですか。こうヤリコメられた亭主は世に無数にあるだろう。本当に六月五日に自分がそう言ったのか、わからぬので彼はろうばいし、しまったと思い、黙りこんでしまう。結婚記念日、婚約記念日などは世の夫にとってもう忘れてしまったことだが、女房は毎年、毎年記憶をあらたにして、夫がそれを忘れたと言ってはののしり、泣き叫ぶ。全くかなわない。
夫の対処法
第二の飛躍拡大法というのは、ある事柄の一部分を突然飛躍させ、拡大させ、それで理屈をすすめてくるというやり方だ。例をあげてみる。
「また酒を飲んでおそくなってきて。あたしがどんなに心配しているか、わからないんですか。あなたが外でお酒を飲んでいる間、あたしがどろぼうに殺されたっていいんですか。あなたはあたしが一人ポッチでどろぼうにたたかれて苦しんでも平気でお酒を飲んでるような人なのね。そうよ。そうにきまっているわ。あたしはいつか、そんなふうに死んでいくのだわ。死んでお墓にはいっても、あなたはそんな人だからお参りにも来てくれないんでしょう。本当にあたしって不幸だわ」
このムチャクチャな理屈のすすめ方は妻をもった男ならみなヘキエキする一例である。亭主が酒を飲んだことは彼女の中でいつか拡大されてどろぼうに殺される自分、墓にはいった自分にまで飛躍していく。そしてその悲惨な状況がまるで目の前にあるかのごとく彼女たちは泣きだすのだから全く始末が悪い。
こういう女の理屈のすすめ方に夫はどう、対処したらいいのか。男の論理で口論を続けるべきか。それともヒッパたくべきか。答えはノーである。それは火に油をそそぐようなものだ。三浦朱門はこう言っていた。「沈黙するよりしかたがない。相手の口がくたびれるまで待つことだ。聞いているふりをして、他のことを考えていればいい」
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家庭について
ぶざまで滑稽な……
谷崎賞を受けた小島信夫氏の『抱擁《ほうよう》家族』について伊藤整氏はこう言われている。
「これまで妻なるものがまともに男性作家によって書かれた小説はほとんどなかった。したがって妻を中心として組織されている家庭というものもほとんど書かれなかった。書かれていたものは、日本の家庭の中でのみあるべき妻という置きかえの可能な役職を持つ性格なしの女であり、しからざれば妻という名の娼婦だった」
伊藤氏はこういう意味で妻を中心として組織されている家庭を書いた『抱擁家族』の新しさを指摘されているが、この指摘は的確だ。
私のこの原稿は『抱擁家族』論を書くことではないのだが、しかし伊藤氏のこの批評を読みながらあらためて自分の家庭や現在の日本の家庭についていろいろ考えさせられた。
現代の家庭というものを思い浮べるとき、私は変な話だが、アンコ型の力士の取り組みを考える。技というものを持たぬアンコ型の力士はただ力まかせに相手をねじ伏せようとする。見ているとぶざまで滑稽だが、しかし家庭における夫婦というものも結局このアンコ型の力士のように毎日、相手をねじ伏せる角力《すもう》をとっているようなものではないか。『抱擁家族』の第一部にはそうした夫婦の力わざのやりきれなさ、ぶざまさ、二人の荒々しい息づかいがにじみ出ている。
夫の孤独と妻の安住
家庭において亭主が力を失った。これは確かである。戦争中まで夫婦や家族にともかくも秩序を与えてきた「家」の観念が崩壊して、その代りに「家庭」が出現したとは従来、たびたび言われてきたことだが、この「家庭」で亭主というものは私の感じではまるで他所者《よそもの》のような気がする。それが証拠には夕食後、家族が笑い声をたてている茶の間にもし亭主があらわれると途端に皆だまってしまう。座が白け一人去り、二人去り、そして亭主だけがとり残される。そういう経験はどんな亭主、どんな父親も多かれ少なかれ必ず知っているはずだ。こちらが仲良くしようとしても、家族が仲良くしてくれぬ。いや、こちらも家族と仲良くする技術を持ち合わせていないのかもしれぬ。とにかく、亭主とか父親は家庭では孤独である。
理由は簡単だ。かつての「家」は亭主や父親が支配しうるものだったが、今日、それにとってかわった「家庭」は、あくまでも女房のものだからだ。子供たちはすべてこの女房に結びつき、女房に支配され彼らは結束している。彼らにとっては父親を除外したもの、それが家庭だ。
変な言い方だが私は「妻」と「女房」とはちがうと次第に思うようになってきた。妻とはかつて「家」のあったところの産物であるか、あるいはまだ新婚当初の、家庭が形成されない段階の女の姿である。それは夫と決して力わざを挑まぬか、力わざをしてもねじ伏せることのできる段階の姿なのだ。だが、ある日、突然、この「妻」が「女房」にガラリと変る。私はそれを見たことがある。西陽《にしび》のあたる部屋にベタリとすわっていた妻のお尻から太い根がズルズルとのびて、畳をつらぬき、地面におりていったのを。もう押しても引いてもここから動きませんよ、と言うようで恐ろしかった。可憐で慎みぶかい妻の姿はこの日から失せ、私にはわけのわからん巨大な強力な女房が出現した。
異質の同居人
夫としての力を持て。父親としての権威を回復せよという有識者の言葉が近ごろ、方々の雑誌に載っている。女房側からも近ごろの父親はふがいないという発言がある。しかし女房のものである「家庭」において、どのようにして権威を持てるのか。具体的に教えてくれる文化人はいない。みな無責任な理想論ばかりである。私は父というものが子に権威を持てるのは西部劇に出てくる父子のように、ウシの捉え方、銃の打ち方――つまり実際生活の技術を伝授できるような関係の場合だけだと思っている。そうした父としての技術を持たぬ現在の日本亭主にどうして権威など持ちえようか。それ以外の権威はすべて民主主義のおかげで子供たちがせせら笑い、否定するようなことばかりである。しかし、早いところ、何とかせねばならない。
女が家庭に体ごと結びつけるのは、木の色にあわせて体の色を変えるカメレオンになれるからである。娘は結婚式の翌日から、態度、顔色、指の動かしかたにいたるまで、もう妻づら[#「づら」に傍点]である。赤ん坊を生んだ妻はその瞬間から、もう母親に変化している。あの変貌の早さに男はとてもついていけない。男は夫や父であるよりもいつまでも男なのだが、女は女を捨てて全く女房に変り、全く母になりきることができる。そして彼女たちは自分たちがこう変れたのだから男も男をすてて全く夫になり、全く父になることを要求してくる。男にとってはそれが不可能だから、彼は家庭にあっては村八分にされていくのだ。
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雌鶏に刻を告げさせよ
三浦朱門がある随筆で私のことをほめていた。遠藤はすべてにつけて細君よりデキがわるい。それなのに、彼の家に行くと、遠藤は威張りかえっている。あれは立派だと。三浦にこうも尊敬されると、当人の私はそれほどでもないよと微笑したくなるが、これは事実である。私が細君よりデキがわるいことも事実であり、にもかかわらず、家庭において私が威張っていることも事実だ。
第一に私は妻のできることができない。妻は自動車の運転ができるが、私はできない。本当を言うと一緒に教習所まで習いにいったのだが、私が免許試験に失敗したのは、実は深慮遠謀があったのだ。この遠謀についてはあとで書く。
また女房は乗馬は大学時代にやったが、私は馬が大嫌いだ。蓼科高原で駄馬に乗ったらこれが突然、暴走し土産物屋にとびこんだため私は大恥をかき、爾来、あの長い顔をみるだけで胸糞がわるくなる。しかしこれもわが深慮遠謀には大いに役立った。
ともあれ私にできて女房にできぬのは小説をかくことと一日中、居眠りをすることぐらいであろう。にもかかわらず、私は女房に威張っている。第一に私は家事について一さい手伝わない。縦のものを横にも動かさなければ、横の物を縦にも動かさない。日曜日など、私は家族サービスなどして車に家族をのせて出かける連中のマネをしたことはない。世の亭主がみれば、私は羨ましがられるであろう。
と言って私は明治時代という男尊女卑の時代に生れたのでもない。また万事が男性優位主義の鹿児島県の出身でもない。私は戦後、男女共学をやりだしたころ、慶応の学生であり、また女房はその慶応の仏文科で私の後輩であった。彼女の頭にも女性解放の思想ぐらい吹きこまれたに違いない。
しかし戦後の大学生であった私はいわゆる男女同権というものに矛盾を感じていた。戦後の男女同権というのは、女が男と同じになろうという同権でこれは甚だおかしい。彼女たちの言い分は大変都合がよくできている。彼女たちは自分たちは男と同じであるから、社会的に同じ待遇にしろと言う。そのくせ、自分たちに都合が悪い時には、かよわい女性を大事にしない男は野蛮だという。
たとえば同権ならば男と女がデートした場合、ワリカン主義でいくべきだ。にもかかわらず、喫茶店でコーヒーを一緒に飲んでも女はこちらが彼女の代金まで払うのが当り前という顔をして先に店から出ていくではないか。もしワリカンを要求すれば非近代的、非文化的男性だと軽蔑する。そのくせ、職場などでは男も女も同権だ。お茶くみはイヤだ。月給にも差別をつけるなと言うのは甚だ矛盾していると私は思う。
大学の時、私はこの男女同権の矛盾に気がついたから男女分権論を一人、三田で主張し、同期の女子学生のヒンシュクをかった。現在、六本本の仏蘭西料理屋Rを経営しているI女史など、そのころ、私を野蛮人と言った女子学生であった。
しかし私は今日も男女同権論者ではない。男女分権主義者である。結婚をする時も、この点を、絶対に死守すべきであると固く固く心に誓った。そのために嫁えらびには非常に頭を使ったものだ。
まず、弟妹多い長女であること。次にオフクロが昔風の女であるような家庭の娘をもらうつもりだった。なぜなら長女というのは、幼いころから姉として弟や妹にオヤツもゆずり、オモチャも貸すように教育されているのが普通である。次女とか三女というのを嫁にすると、我儘者が多いにちがいない。嫁をもらうなら長女に限る。それにオヤジが横暴でオフクロが昔風の女の家庭に生れた娘は、自分はあんな母親みたいになりたくないと反発しながら結局は男とは自分のオヤジのようなもの、女とは母親のようなものと最後には考えてしまうものである。
私はだから長女でオヤジが我儘でオフクロが昔風の温和な人という娘をさがした。相手は私のかかる深慮遠謀にも気づかず、知らぬが仏で結婚したのが運のつきである。
結婚しても私は狐のように狡滑《こうかつ》であった。何年か手伝ってやるふりをして、わざと失敗してみせるのである。皿洗いを手伝ってくれと言われればウンと言い、手伝うふりをして皿を二、三枚割る。皿は惜しいがやがてこれが倍の効果になって戻ってくる。どこかに使いに行かされても、わざと忘れて戻ってくる。自動車学校に行ってもわざと落第する。これが十回、二十回と重なると女房は呆《あき》れ果て、この男にものを頼むと損害の方が多いと諦めてしまい、もう何も頼まなくなる。大掃除の時なども、手伝われると、足手まといですから遊びに行って下さいと言う。よし、じゃあ行ってやろうとこちらは悠々と出かけるわけだ。
万事がこの手を使うから私は家では何もしないでいられる。三浦朱門はそれをみて、私のようにデキのわるい男が、なぜ家庭でああも威張っておられるのかとふしぎがり、尊敬したわけである。
世の軟弱な亭主諸君よ。君たちは一週間クタクタに働かされているのだ。日曜まで車の運転をして家族サービスなどする必要はないではないか。もともと自動車免許などとってデキのいい所をみせるからそういう悲惨な結果になったのだ。今からでも遅くない。女房の前ではデキのわるい亭主を装え。そうすれば私のように女房の運転する車にふんぞりかえっていられるのだ。今からでも遅くない。雌鶏《めんどり》に刻《とき》を告げさせ、君は眠っていることだ。これが君を幸せにする第一歩である。
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恐妻武者修行
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女房はなぜムッチリ肥るか
女房族は下等である
こんな話からはじめることを許してください。
昨日、会合がありました。ぼくが数日後、外国に行くというので友人たちが新橋の中華料理屋で御馳走してくれたのです。
外は晩秋の霧雨、少し寒かった。だが部屋のなかは暖かく老酒《ラオチユウ》がうまかった。もう幾日かで日本のたべものとも友人や仲間たちともしばらくお別れだと思うと流石《さすが》に感傷的な気持もしないではない。盃をなめながらぼくは一人、ぼんやり物思いにふけっていたのです。
と、その時……
周囲の友人たちがしきりに「女房が、女房が……」と話しあっているのに気がついた。思わずぼくは微笑したというものです。というのは三十代の男が十人あつまると必ずうちあけあう例の愚痴話を彼等もやっていたからです。
その愚痴話とは――世の奥様、お嬢さまには申し訳ないが女性にたいする男としての不満、女房についての夫としての不平なのである。もっともその席上に集った連中はめったにこうした愚痴はこぼさぬ人々らしいのですが晩秋の夜のさみしさが彼等の心を弱くしたというのでしょう。
「女房という奴あ……なんで……あんなにムッチリ肥るんだろうねえ」
責任をとってもらうためにハッキリ実名をあげますと、こう呟いたのは劇作家の矢代静一という人です。彼は日本の夫婦のうち大半の夫はみじめな鶏のように痩せこけているのに、女というものは結婚後、なにを食わせてもムッチリ肥っていくことがいまいましい[#「いまいましい」に傍点]と確かに言いました。
矢代さんの奥さんはむかし女優をやっていられたほっそりとした美しい人。だから矢代君までがそう述べるなら、うちの女房などはムッチリどころかブクブクにちがいないと他の連中は溜息をついたものでした。
「俺たちの留守中にぬすみ食いをしているんだろうか」と一人の男が言いました。
「いやいや、そんなことはない」
これには一同も全く同感だった。家計についてはあれほど献身的でシワン坊の女房が日に三度の食事以外、別に一食ぬすみ食いをしている筈はないという信頼心だけは流石《さすが》彼等も自分の細君にはもっているようです。
「あのね。女房族というのは肉体的にぼくら男性より下等ですよ」
この言葉を言ったのは絶対にぼくではない。戦中派の発言で注目された評論家の村上兵衛という人です。そういえばこの人も一人の夫として思いなしか痩せて蒼白な顔をしていたので皆はふかくふかく肯きました。
「なぜ」
「女房というのは出産の体力を保持するため、男性よりも体が強健にできあがっているのです。ごらんなさい。戦後の栄養失調時代にぼくら男あバタバタ死にましたのに女性は一人も死なんかったでしょうが……」村上さんはひくい声で説明してくれました。「女房族とはアミノ酸グリコーゲンを男性より数倍保持しとるのだそうです」
「ほう……アミノ酸、グリコーゲン」
「このアミノ酸グリコーゲンが体にあるため、彼女たちは飯のようなデンプン質を食うとブクブク肥るようにできている」
「なるほど、なるほど」
「彼女たちがイモを好んで食べるのはそのためです。しかし男性にはイモや飯をくっても肥るだけの底力がないのだ……」それから村上さんは一段と声をひそめて教えてくれました。「だから……女房なんかには何を食わしてもいいんだ。要するにあいつ等は何を食うても肥るようにできあがっとるんだ!」
ぼくはその叩きつけるような言葉をきいた時、びっくらしました。そんなことを言うのはいかに相手が女房族とはいえアンマリだと思ったからです。
だが他の連中たちはひどく感心したのか、
「そういえば、うちの家内なぞいつも頭痛がする、腰がいたいと不平ばかし言っているが、ありゃウソだったのか」
「ウソじゃないでしょうが、これからは特に同情する必要はないでしょうね。女の方が男より体がもともと頑丈なんだから」
「本当に彼女たちは昼寝一つさえしないからな。日曜日ぼくが昼寝しているとすごく怠け者のように言うんです。自分たちの体力でぼくらを計られたらかなわんなあ」
男がムキになるわけは?
ガヤガヤ、ブツブツ自分たちの経験をのべあって雑草のように逞しい女房の体力から女は肉体的に下等だなどとそれはひどいことを言いはじめました。この時、
「肉体だけではないよ。女は一般的に精神の点でも欠けているものがあるね」
明確に発言した男がありました。それは作家の三浦朱門という人でした。
「女には精神というものが根本的に欠如しとるんや。生理と本能でしか生きとらんわ」
「えッ」
矢代君といい、三浦君といい、まあ、何ということを言う男でしょう。人も知るように三浦君の奥さんは才色兼備の曽野綾子さんである。三浦君にまで女性は精神的に欠陥があるといわれればうちの家内などオケラのオケラではないかとみなが愕然としたのは無理もない。
会が終って外に出ると霧雨はまだ冷たく降っていました。老酒の酔がまだ体の芯に残ってしびれるような気持です。
みんなと握手をして一人トボトボ家路につきました。
路をあるきながら今さっき耳にしたことを考えてみると半分わかったようでもあり、半分は解《げ》せません。
女房は肉体的にも男より強く、何を食わしても肥るほど下等である。肉体的にではなく論理性に欠け、要するに生理と本能でしか生きない。
ぼくは一度だって女性にそんな考えをいだいたことはありませんでした。さきほどの席上で皆に附和雷同せず、じっと辛抱していたのも、ぼくだけは女性や女房にたいしてソンケイとケイイを払っていたためです。
だが少し思いをめぐらしてみると、あの友人たちは家に戻れば、きっと奥さんたちにペコペコしているにちがいない。平生ペコペコしていればこそ、男だけの集りであんなにムキになって女性をこきおろすのでしょう。
女性や女房が下等ならなにを怖れることがあるか……。
これは日本の夫だけの習性か。それとも全世界のすべての夫の本音だろうか。
ぼくはその時、はじめて数日後たずねるヨーロッパで色々な夫にあって彼等の女房観を切実にきいてやろうという気持になったのでした。
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男は真実女房がこわい
考えてみると、ぼくはむかし――むかしと言っても、三年前のことですが、同じ年齢ぐらいの友人たちが奥さんのことをひどく気にかける心理がさっぱりわかりませんでした。
「君ねえ、すまんけれど、ぼくの代りに家に電話をかけてくれんだろうか。君がぼくをムリヤリ飲みに誘ったと、そう言ってくれればいいんだけど……」
こういう頼みをいわゆる第三の新人といわれている仲間の作家からたのまれるたび、ぼくはいつも不思議な気持がして、しかし素直に承諾してやるのでした。
「アア、もしもし、奥さんですか。実あ、ぼくお宅の御主人、今夜、無理矢理に誘ったんです。えっ、ぼくが……ぼくです。みんな悪いのはぼくです」
こうして一生懸命、一人一人の奥さんに電話をかけている間、友人たちは、じいっと眼をすえ、杯をにぎりしめてぼくの受け答えに耳を傾けているのです。仲間の間では勇猛をもって鳴る近藤啓太郎サンさえも、まるで十日間便秘で苦しんだ男のように眼をつりあげて物一つ言いません。
「大丈夫だったよ。承諾してくれたよ」
受話器をおろしてそう言うと彼らの顔はまるで四月の花のようにパッとほころびるのです。
「どうして君たちはそんなに奥さんがこわいのですか」当時、新婚早々のぼくは首をかしげていつも訊ねるのでした。
「ぼくなんか、いっこも怖しくあらへんで……」
「今にわかる……今にわかる」
「今もあともないじゃありませんか」
「今にわかる……今にわかる……」
呪文のように彼らは、新婚早々のお前にはわからん、女房のこわさは今にわかる、今にわかるとかなしげに呟くだけである。だがぼくにはさっぱりわからなかった。
餅を十個食う苦しみ
わからないと言えば、結婚前、先輩の柴田錬三郎氏の所に伺ったことがありました。
「女房など処理するのはひどく簡単なことじゃないでしょうか」
「いや、そうではない」ひくい声で氏は首をふりながら、「お前にもやがてわかるであろう」
「でもぼくの結婚する娘はしごくギョしやすい女です。今まで幾度もダマして小遣銭をまきあげてやりましたが、すぐ、ひっかかりました」
「彼女もやがて安達原の鬼婆のような女になるであろう」
「そうかなア、すると女房とは一体どんなものです」
すると柴田氏は変なことを言いました。お前は正月に餅を十個以上食ったことがあるかと訊ねるのです。
「あの腹にもたれたような重苦しい感じ……あれが女房というもんだ」
この先輩の説明を当時あさはかだったぼくはフフンのフン、先輩はそうかもしれないがこちとらはうまく処理してやる、腹にもたれるのが女房なら消化剤を考えだすことだと勝手な熱をあげていました。だが今日それが愚かな空想だったことをぼくは知っています。
世の中に恐妻という言葉がある。あれは身勝手な夫たちが細君を懐柔し丸めこむために作った言葉だと言われている。自分たちはいい気なことをして、そのくせ表面は女房にペコペコしてみせる策戦だというのです。
「わかっているわよ。男の人たちの狡猾な手。恐妻なんかってウマいことを言ってサ」
ぼくはたびたびそのような言葉を知りあいの奥さんたちからもききました。そしてむかしはぼくも恐妻などとは中年のいい気な男たちのあみだした策戦だろうとしか考えていなかったのです。
だが今はちがう。今はその考えを改めている。夫というものは真実、女房がこわいのです。
ベントウ、ベントウ……
ではなぜこわいか。別に女房からブタれたり蹴られたりするわけではないのになぜこわいか。これはいろいろな理由やまた御家庭の事情によって違うとは思いますが、一般的にいって次の段階をへるようです。
[#ここから1字下げ]
一、女房なんてこわくないと思う段階
二、女房が思いがけなく扱いにくいことを発見する段階
三、あつかいにくい女房にまだ抵抗している段階
四、抵抗することの無駄、わずらわしさにやっと気づく段階
五、抵抗することを諦める段階
六、抵抗することのわずらわしさや諦めが心に重なって、自分の無力さを感ずる段階
七、無力感から劣等感、劣等感から漠然とした恐怖に至る段階
[#ここで字下げ終わり]
まあざっとこんなものであることはすべての夫が身をもって実感している事実にちがいない。つまり初めから「こわい」のではなくて、扱いにくさに抵抗する「わずらわしさ」に夫は最初まけていく。この失地に女房族はノサバリ、夫をさらに追いつめて、恐怖感にまでもっていくといえるでしょう。
なぜわずらわしいか。それはいろいろな例がありますが、たとえばその一例として女房の反スウ癖をあげましょう。
反スウというのは言うまでもなく牛が昔くったものを口にもどして噛みしめることである。女房に叱られている時、世の夫で妻が牛の顔に見えないものがあるであろうか。
なぜなら彼女たちは現在、今の瞬間の夫の失策だけを怒っているのではない。彼が犯した三年前、四年前、つまり法律でいっても時効にかかっているような過去の過ちまで覚えていて、それを今日もクドクド、ブツブツくりかえすのです。「今日だけじゃありませんよ。去年の五月六日の夜だって、あなた同じことやったじゃありませんの。去年だけじゃないわ。三年前の八月十九日だって……」
こういう時の女房の過去にたいする記憶力のよさ。過去の失敗を一つ一つ胃袋からとりだしてもう一度カミしめてみせる執拗さ。モグモグ、モグモグ。まるで牛の顔のようにみえてくる。
もしかかる時、それを否定しようとかかったり弁解せんと試みんか、まるで油に火をつけたように去年や三年前が五年前、八年前の事実に飛火をしてキャンキャン、ワンワンわめきたてるのであるから、夫はこの場合、ふかく首を垂れて、「東京、横浜、大船、小田原、ベントウ、ベントウ」と東海道線の駅の名を心の中で一つ一つ思いだしながら、聞いているふりをするのが一番いい。
こうした諦めに似たわびしい気持、抵抗することの空しさを知るには結婚後二年の歳月を要する。それまではドタバタ、むだなあがきをやっているにすぎぬ。
だがこれではいけぬ。そこでぼくはヨーロッパ各国の亭主族がどういう方法によって恐妻から救われているかも調べてみたいのである。
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正々堂々と浮気をする法
パリは物価がたかいと聞きましたが、ベラ棒に物の値段がはねあがっているのでビックリしました。ちょっとした小料理屋で飯をくっても二、三千円ふっとぶのであるから、八年前の留学時代とは格段の差がある。だが三、四日もすると要領も次第にわかって馬鹿馬鹿しい外人相手のホテルから引越し、裏通りの旅館に手ごろな部屋を借りました。
十一月のパリは昼間は空が鈍色に曇り、その鈍色の雲の間から、まぶたに重いほどの微光が石畳の上に落ちてくる。夜になると、しずかに雨が降り始めます。
旅館の親爺は、映画でおなじみの喜劇俳優フェルナンデルを水でうすめたような顔をした男です。一ヵ月も宿泊予約をしたぼくは、この旅館にとっては有難いお客にちがいないから、親爺の愛想はなかなかよい。内儀は痩せた神経質な女で、たえず、
「ルイ、ルイ、またテレビをみている」
夫にガミガミ小言を言いながら働かせている。
「本当にあの人は怠け者でして」ぼくをみるとむくれた悲しそうな顔をして亭主のことをぼやくのである。テレビを手に入れて以来、夫はまるで七歳の子供のようにこのオモチャにかじりついて旅館の仕事をやってくれないと言うのです。
女房にどやされるたびにこの親爺は、片眼をぼくにつむってみせる。それから大きな尻をボリボリかきながら金槌や、ヤットコを持って客室の水道管をなおしたり、便所のタンクの掃除をしたりするのである。
「え? 叱られてばかりじゃないですか」そうぼくが笑いながら言うと、
「ああ、女というものは|扱いにくい《アントレターブル》もので……」
「フランスの男もやはり女房には頭があがらないのですかなあ」
「|とんでもない《メイ・ノンメイ・ノン》」彼は急に真剣になって首をふりました。
ムッシュー、これが女房だ
その夜ぼくは彼を誘って近所の居酒屋《ビストロ》で一杯、奢ることにしました。懐《ふところ》さびしい身ゆえに沢山飲まれるのは閉口ですが、この親爺のようなパリの平凡な男が女房をどのように取扱っているかを聞くのは一興であります。
「恐妻? そんなものはムッシュー、フランスにないやね」
親爺は人の奢った酒をさんざお代りした後、やっと勿体ぶって口を開きました。
「恐妻などちゅうのは要するにムッシュー、智慧のない男の言うことだよ。女房なんて結局ロバのように馬鹿で単純なものじゃないかね」
ぼくは洋の東西をとわず、女房とは愚鈍で頑固な動物にすぎぬという考えが、普遍的に通用する事を知ってホッと安心しました。日本にいる時は、なまじ反動的とか非進歩的文化人といわれるのが怖さに、女房をロバのように馬鹿な存在だとはとても発言できなかったが、パリまで逃げてくれば本心をそのまま発表することがそれほどこわくなくなってきた。
「ほう、女房とはそんなに馬鹿で単純かなア」腕をくみながらぼくが繰りかえすと、「そうだとも」親爺は葡萄酒で真赤になった顔を懸命にふりながら、「おだてればポプラの樹のようにつけあがるし、叱れば嵐のように荒れくるう。これが女房だよ。ムッシュー」
「だから、平和と静けさを好む男性は女房が面倒臭くてならなくなる。どうしたらいいんだろうかねえ」
「ムッシュー、それは頭だよ。智慧」彼はしきりに指で禿げあがった自分の頭を指さしました。
「男ア女より頭がいいんだからそれを使わにゃ……」
「だから使いかたを教えて下さいよ。もう一杯、酒を奢るから……」
「エ、ビヤン、アロウ。じゃ、お話ししましょう」
彼は生がきの中にレモンの汁を一滴おとして、それを肴に白葡萄酒を舐めながらこんな作戦を教えてくれました。
「ムッシューは独身かね、ああ、結婚している。じゃおわかりだろうが、女房の一番の弱味は自尊心だ」
「自尊心?」
「んだ。女房という奴は本当は男である夫に、劣等感をもっているからね。この劣等感を少しでも突かれるとわめきたてるのを、ムッシュー、知ってるだろ」
「知っている。知っています」
「逆に言えばね、女房は家の中で[#「家の中で」に傍点]亭主を馬鹿にできる時が一番幸福なんでさ」
ぼくは首をひねりました。というのは女房は亭主を尊敬できる時が一番幸福だ、という考え方もあると思ったからです。だがこの親爺はそんな考え方はエリザベス女王夫婦のような連中か、新婚ののぼせあがったばかりの若妻にだけ通用する話である、と親爺は頑張るのである。
「だからよ」彼は声をひそめ、「家の中では女房に自尊心は渡してやるのでさ。こちらをバカにさせておくのでさ」
この単純な方法をとってから、親爺は女房をたいへんうまくチョロまかしてきたのだ、と自慢しはじめました。
「たとえばだよ。ムッシュー、あんたも浮気したい時があるだろ」
「そりゃ……ありますね」ぼくはゴクリと唾をのみこんで肯いた。
「そんな時、女房に浮気をかくそう、かくそうとするから世間の多くの男は失敗するんでさ。かくすことは女房の自尊心をひどく傷つけるから、奴等、むきになって疑ってくるもんだ」
「じゃ、どうすればいい」
「女房に、自分の夫は女にはてんでモテぬ男だと、心から思わせて安心させるので……あっしがとった方法は、……」
俺は正直正兵衛さ!
親爺は今から十五年ほど前に結婚したのだそうです。彼はいろいろ考えた。考えた揚句、こういう作戦をたてた。
毎夜、彼は仕事のあと、一杯のみに外に出かけて家に戻ると、自分が酒場やキャフェの女給にいかにもてたかと女房に話してきかせたのである。デタラメ、駄ぼら、何でも並べたててモテて、モテてかなわんと言いつづける。はじめのころ、女房は眼を三角にしてリン気を起した。
「ですがね。ある日、俺は友だちのデデにたのんで女房のスジイに、こう、そっと言ってもらいましたよ」
悪友のデデは彼に言われた通り、スジイの所にやってきて、親爺の作戦どおり、何気なくこういう言葉を洩らした。
「あんたの亭主はね、どこの酒場やキャフェにいっても、さっぱり女の子にもてん男だよ」
その夜から、親爺が相変らず女の子にモテてモテてと吹いても、彼の女房はフフンのフン、見むきもしない。やきもちをやく代りに、このどこに行ってもモテぬ亭主のホラを馬鹿にしたような顔できいている。(いい気なもんだよ、外じゃ女の子にモテぬから、あたしにはこんなホラをふいているのさ)彼女の顔には亭主を軽蔑する色がありありと浮かびはじめました。
「さあ、それからは勝負はこっちのものでさ」親爺はますます得意気に杯をのみほして「あっしは、どこかの女と浮気をしたあとね、女房に浮気してきたぜと言うんですがね、女房が信じねえんだから」
「なるほど」
「あっしが女にはモテねえから、また、例のウソとホラをついていると思ってまっさ。こちらにはシメたもんだよ」
「でも真相がバレたらどうするんです」
「言ってやりますよ。俺はお前に何もかくさなかったってさ。あの時話したじゃないかって、そのこちらの話をバカにして信用しなかったのは、お前のせいで、俺は正直正兵衛だったとね」
柳生流の極意、身をきらして骨を切る法と、佐々木巌流のツバメ返しの男だとホトホト感心しました。
今日もこれをかいている部屋の下で、
「ルイ……ルイ、またテレビを見ている」内儀のがなりたてる声がきこえます。そんな時、親爺はぼくが居あわせると、片眼をつぶって合図するのです。
「ね、女房とはロバのように馬鹿で単純なものでさ」
彼はなにも知らぬ彼の妻を横眼でみながら、ニヤッと笑っているわけです。
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日本人亭主の素朴な疑問
十一月、十二月になると、パリではいわゆる芸術の季節ですから、ぼくも夜には芝居や音楽会に出かけはじめました。日比谷の音楽堂などとちがって、こちらの小屋は、三階、四階まで座席が並べられ、その高い座席から下をみおろすと、夫婦づれの客が俄然多い。もちろん中年の男と女とが、一緒に坐っているからと言って、必ずしも夫婦とは断定できぬでしょうが、つれそう男の女に対する態度をみていると、なかなか一興があります。
豪奢なオーバを着た妻が席に坐るや、そのオーバをぬぐ手伝いをするのも夫、プログラムを買ってきてやるのも夫、休憩時間になると廊下で妻が煙草を口にするや否や、ライターの火をあわててつけてやるのも夫。まるでおしきせを着させられた従者の観がある。滑稽なのは、彼らの間にチラホラとみえる日本人らしい人の夫婦づれだ。いずれ日本大使館勤めの外交官、パリ駐在の商社の社員の人々でしょうが、周りの外人男性がキッキュウジョとして、細君の世話をしている中で、自分だけが日本的亭主の態度をとっているわけにはいかない。黄色い非文化人、野蛮人と思われるのが怖ろしさに、彼らもまた女房のオーバを着せてやったり、プログラムを買いに走りまわっている。だが長年、身につかぬことを急にやったところで、夫婦とも照れくさいのは当り前でしょう。彼らの顔にはどことなく当惑したような、困ったような表情がありありと浮かんでいます。
天井桟敷でしみじみと
とはいえ、かく申すぼくも連れてきたぼくの女房を放っておくわけにはいかぬ。大使館の連中、商社の人と同じように、女房のオーバをぬがせたり着させたりせねばならぬ場合がこの国では多い。その時の阿呆クサさ、恥ずかしさ、口惜しさは言葉ではいえぬほどである。
「憶えてやがれ」そのたびに心の中で、ぼくは叫んでいる。「憶えてやがれ。この野郎」
「いい気味だわ」女房もひそかに呟いているにちがいない。
だがパリで劇場や音楽会にくるたびにぼくにはいつも、二つの疑問が起ってくるのであります。それは、
(1)まず、白人の男はなぜこれほどキチョウメンに女房とつきあうのか。音楽会や芝居や映画その他、ありとあらゆる所にまで、女房を伴ってくるエネルギイは、どこからくるか。
(2)彼らは、なぜあれほど自分の女房の身の周りの世話をマメにやくのか。オーバをぬがせたり、煙草の火をつけてやったり――まるで従者のような態度をどうしてとるのか。
これは、日本人の男なら、だれしもが感ずる素朴なる疑問にちがいない。
第一の疑問(なぜ白人の男はキチョウメンに女房とつきあうのか)については一つの思い出があります。昨年、ぼくはソビエットのモスコーにいった。通訳の若いソビエットの娘に、うかつにもこんな打明け話をしたことがある。「ぼくは結婚しているが、夜になると一人で外に酒をのみにいく。日本の男は、女房などあまり連れて出ることはない」
この打明け話は、そのソビエットの娘にとってはひどくショッキングだったらしい。顔を赤くして怒った彼女は、これは日本人夫婦に愛情がないためだと思ったのであります。
だが日本人ならば、こんなソビエット娘の考え方がいかに阿呆らしいかはすぐ気がつくはずである。外に連れ出さぬから、夫が妻に愛情がないと思われてはたまらない。それは、女の論理であり、男にはさっぱり合点のいかぬ理屈である。はっきり言えば、われわれ、日本のやせおとろえた男性には、一日の労働のあと夜まで女房を外につれだすエネルギイがとてもないのである。疲れて、くたびれて、一人ぽっちになりたいのである。
この実感は洋の東西をとわず、亭主たる者すべて認める感情である筈だ。日本人であろうが、フランス人であろうが、この実感には変りない。にもかかわらず、白人の男が一日の劇務のあともなお女房のために勤めるのは、彼らがわれわれより女房に愛情があるからではなくて、体力的にわれわれ日本人より上まわっているためにちがいない。バターをたべ、牛乳をたらふく飲んでいるせいか、よほど、この国の食糧政策が岸政府のそれよりよいからにちがいない。
劇場の天井桟敷で、ぼくはしみじみとそう思いました。
だが、第二の疑問はこれとは少しちがう。白人の男は、なぜ自分の女房の身の周りの世話をマメにやくのか。オーバを着せたり、ぬがせたり、靴のヒモまで結んでやったり、従者のような、奴隷のようなまねをするのか。これは日本人の亭主であるぼくにも、とことん[#「とことん」に傍点]までは、どうもよくわからぬ事実であります。
そして、ある雨の日
もちろん、これに対する、アリキタリの解答は次の二つである。
(1)(白人の夫たちは、女房を尊敬するフェミニストである。中世紀の騎士と貴婦人との関係のように、このフェミニズムはキリスト教によって育てられてきた)
だが、馬鹿を言っちゃいけない。どんな亭主だって結婚一年もすれば、女房をそう毎日も尊敬できなくなってくるはずです。少くとも自分の体力まで消耗して、自分のものとなった女に、ペコペコする阿呆くささには、すぐ気がつく筈である。
(2)(白人は子供の時から女を、か弱いものとして、助ける義務を感じている)
これもバカバカしい話であります。村上兵衛氏がいみじくも言ったように、女は体力的にも男より強靭であります。少くとも家庭において、女房が夫よりカヨワイと信じている夫が世界の国のどこにおろうか。
フランスの男性は、それほど間抜けでないのですから、右の二つの理屈は当然知っているにちがいない。知っていてなお、彼らはなぜ、女房に対して従者や奴隷のようにペコペコするのでありましょう。相手は赤ん坊でもあるまいのに、彼女たちのオーバを着せたりぬがせたりするのでありましょう。これは、単なる礼儀上の問題だけではないように、ぼくにはだんだん思われてきた。
よし、ではこの理由をフランス人の亭主族からひそかに聞きだしてやろう。始めはうちあけないかも知れぬが、同じ男の間柄として、あるいは心の底を洩らすかも知れぬと、そう考えたのであります。
そして、ある雨の日、ぼくは結婚して二年目の友人をパレ・ロワイヤル近くのアパートに、たずねていきました。
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パリの女房操縦学教授
外人たちは、なぜあれほど女房にサービスのかぎりを尽せるのか、なぜ下男か奴隷のように、公衆の面前でも彼女の身のまわりの世話ができるのか。パンを獲《え》んがための涙ぐましい一日の労働のあとも、劇場やパーティで、彼女たちの御機嫌をとりむすぶ体力とエネルギイとは一体どこから出てくるのか。
これは外国に来た日本亭主族が、なによりも驚きをもって発見する事実であります。
幸いにして、われわれの祖国日本では、亭主族はまだ最後のトリデを辛うじて保守している。友人や知人の前で女房に外套を着せたり、靴のヒモをむすんでやる必要は毛頭ない。そんなことを敢えてする連中は、キザな野郎と悪口を言われます。逆に女房こそ(少くとも公衆の前では)、われわれ亭主にオーバをかけるべきだと思っている。
外人亭主の困惑
だから、われわれ日本の男性には、外国において、外人亭主のサービスが、一種キザな女々しいもののように眼にうつるのは当然のことでありましょう。
そこで、ぼくは外人亭主の心理を知りたかった。奴ら本気であのサービスをやっているのであるか。なぜ団結してこんな悪習(?)を排除しないのであるか。それほど彼らは女をおそれ、あるいは女を尊敬しているのであるか。
「ふん、ふん、ふん、ふん」
東洋の友人の、このふかい懐疑に、むかし、留学時代の仲間であり、現在、パリで電気器具の販売の外交員をしているP君は、せつない顔をして肯きました。
残念なことには、ぼくとしては、昔の友人がもう少し出世しているかと思ってパリに来たのでありますが、どいつもこいつも、あまりパッとしてはいなかった。P君も、妻と子供二人をかかえ、フウフウ生活難にあえいでいる三十代のあわれなフランス人である。
「君も女房にオーバをかけたり、煙草に火をつけてやる一人かね」
「うん」
彼は情けなそうな顔をして首をたてにふりました。
「日本じゃ本当にそんなこと、しないですむのかな」
「あたり前ですよ」
「へえ」
「なぜ、君ら、そんな阿呆くさいマネを今でもやっているのかね」
「あの……」
彼は困惑した表情で呟きました。
「俺はうまく説明できないよ」
本当でした。このP君は学生の頃も、頭のめぐりがそれほど良い男じゃなかった。こいつにこの問題をたずねに来たのは、失敗だったとぼくは考えました。
「あのね」
彼は突然手をうって声をあげました。
「ルリイ家庭学」入門
「うまい考えがあるよ。パリにはね、若い亭主たちのために女房操縦術を教えている先生がいるんだ」
急に熱心な口調でしゃべりはじめた彼の説明によると、パリのエトワールのそばに、女房をうまくあやつる方法を教える講座があるというのです。なんでもその先生というのは、離婚回数八回という経歴の持主で、自分の過去の苦い経験や苦労から、
「女房、この未知なるもの」
という本を書き、無知で結婚に憬れるバカな男や、すでに、苦い目にあっている亭主たちのために、コンセツ丁寧に、女房をあやつり、懐柔し、まるめこむ秘訣を教授しているというのである。
その先生ならば、きっとお前のふかい懐疑にも、明確な解答を与えてくれるだろうと、P君は手をもみながら呟きました。
「住所がわかるか」
「うん。俺、たしかに新聞でみたよ」
ゴソゴソ、ガサガサ、彼は古新聞をひろげて、やっとそのアドレスをみつけてくれました。
"44 rue Hamelin"
外に出ると、雨がふっていた。雨の中をバスにのって、教えられた住所まで出かけてみました。パン屋や八百屋にはさまれた黒ずんだ建物の入口に、なるほど、
「ムッシュー・ルリイ家庭学教授」
銅板のはり札が出ている。ルリイ先生は三階に住んでいると、門番が指さして、
「結婚するのかね、あんた」
「いや、もう絶対にしたくない男ですわ」
ぼくは笑いながら答えました。
「絶対にね、死んでもね」
ルリイ先生の扉のベルを押すと、奥から足音がきこえてきました。扉があいて、いやらしいほど黄ばんだ銀髪の老人が、ヒョコ、ヒョコとあらわれました。
「ムッシュー」
すこし卑猥な微笑をうかべて人をみあげる。
「私は日本から……」
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」
この老人の笑声は奇妙でした。その肉のたるんだ顔は、彼が八回も離婚したという奇妙な経験を暗示しているようでした。
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女、この不潔なるもの
このルリイという老人の部屋は、アパートの中庭に面していました。テーブルの上には、食べかけのパンのかけらや厚い猥らな先生の唇の跡のついたコップがおかれ、床には古新聞や裸体の女の表紙のついた雑誌が散乱している。
「この間、日本人が尋ねてきたね。ムッシュー、コノという政治を勉強している日本人」
「コノ? 聞いたことねえですなあ」
パリには今、六百人ほども日本人がいるそうです。政治を勉強しているコノ君をもちろんぼくが知る筈はない。ひょっとすると、この間、パリにきた自由党の河野一郎氏ではないかと思いましたが、政界の実力者と自称する氏が、家庭における非実力者として、こんな老人の家にくる筈はないでしょう。
断っておきますが、ルリイ先生の個人教授(?)は一回千フラン(千円)もする。乏しい懐中からシブシブぼくは三回分の金を前払いした。これは読者も編集部も御記憶ねがいたい。
今日の講義は「女、この不潔なるもの」という題目で先生の話をたっぷり三十分、伺うことでした。
「なぜ、この話を前もってせねばならんか」老人はポキポキ指をならして説明しました。「多くの若い青年のロマンチシズム、あるいは若い亭主のセンチメンタリズムは、自分の恋人や妻になる女をあまりに美化しすぎるからである。結婚後の第一幻滅は自分の女房が――いや、女性が、男性と同じように肉体的動物であることを発見した瞬間である」
「ペ」を放出する女性
どうもフランス人の講釈というのは、哲学的辞句が多く、頭のあまり良くないぼくにはつかみにくいのですが、この老人のいうのは、女は男と同じように不潔な動物だということと思えました。
「つまり……女も男と同じように……センセ……食欲もあれば睡眠欲もあるということでしょうか」
「ノン」先生は大袈裟な身ぶりで首をふりました。「ムッシュー、女は男より不潔な存在だということです」
ルリイ老人は、引出しからタイプのうったパンフレットをとりだしました。
「読みなさい」
「へえ」
「声をあげて読みなさい」
紙の表紙にはロラ博士「一室における三人の若い女性についての実験研究」という変な題目が、かいてありました。ぼくは声をあげて読み始めました。読んでいるうちに、このパンフレットは、ロラ博士という学者が三人の若い女性を一室において自由に談話せしめたる後、一時間後に、彼女たちが退出したこの部屋の空気を、実験室において分析した研究発表だとわかってきました。
「声をあげて」先生は指をポキンとならしました。
「声をあげて読みなさい」
「我々ノ分析ノ結果三人ノ若キ女性タチノ談笑セル部屋ノ空気ノ中ヨリ、最モ多量ニ検出サレタルハメタンガス[#「メタンガス」に傍線]ニシテ、コレハ我々研究者ニトリテ貴重ナル発見ナリキ。スナワチ、彼女タチハ談笑中、ヒソカニ、各※[#二の字点、unicode303b]ガ無音ノメタンガス[#「メタンガス」に傍線]ヲ放出セルモノト推測サル」
「よろしい」先生は肯きました。
「まことにムッシューに申しにくいのであるが、このメタンガスは何であるかムッシューはおわかりか」
「いえ、わかりませんわ」
「フランス語ではペという。日本語では何と言いますかな」
「屁です」
「ペとへか。国は遠く隔れども生理的な言葉では、発音にあまり違いはないようだな。すなわちムッシューもおわかりであろう。三人の若い女を一時間、一部屋におくとすぐこのザマである。彼女たちは美しい化粧をし、あでやかにふるまいながら、他人にわからなければ、音のしないようにペを発散して平気なのである。これが女性というもの……おわかりか」
生まれながらのインケンさ
男性ならどうだろうか、とぼくは心の中で考えました。男ならば大きな音をたててペをする無邪気さがあるでしょう。
「や、失礼」「オヤ、ごめん」
これですむでしょう。しかし、そういう男性の行為を軽蔑する若い女性が実はひそかに同じことをやっているとぼくは知らなかったのです。
「声をあげて」ルリイ先生は更に促しました。「次をよみなさい」
「マタ、我々ハ若キ女性ノ入浴後ノ湯ヲ検出セルニ、同ジク多量ノメタンガス[#「メタンガス」に傍線]ヲ発見セリ」
すなわち、パリジェンヌといわれる若い美しい女性たちが入浴中、人の知らぬことをいいことにして風呂の中でいかに放屁しているかの分析表がそこに掲載されていたのでした。
「お国、日本の若い女性も同じことであろう」
「とんでもない。日本の女性はとてもツツしみぶかく……」
「ツツしみぶかい女ほど、ひそかにこういうことをやっているものですぞ」
ぼくは少し阿呆らしくなって顔をふせました。わざわざ海をわたってフランスにまできながら、中学生の馬鹿話のようなパンフレットを読まされるとは思わなかったからです。その顔色をルリイ先生はいち早く敏感にかぎつけたようでした。
「おそらく、ムッシューは、私のこの話を子供っぽいと思われたであろう。しかしすべての理論は幼稚なところから解きあかさねばならぬ。このパンフレットに書かれていることはムッシューを笑わせるだけかもしれん」
「いいえ、とんでもない」
「しかし、大事なことは女性というものは本質的に不潔で、インケンであるというのである。これが、女房になると、もっと露骨になってくる。それはこと屁の問題だけではない。精神的に亭主にたいする態度においてしかり。亭主たるものはこの女性の生まれながらの不潔さとインケンさとを、どう制御すべきか。それをまず考えねばならん」
先生は隣室から一つの巻物をもってきました。その巻物には次のように書いてあったのです。
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「亭主悪漢の思想」をどう捌くか
ルリイ先生が別室から持ってきた巻物――巻物というよりは、よく小学校の博物の時間などに黒板にかける図表のような紙には、次のような文字が書かれていました。
(図省略)
「おわかりかね」ルリイ先生はにんにくくさい息を吐きかけながら「これはほんの一部の例。上段をみなさい。娘時代の美点というのは、ムッシューら男性が恋人や婚約者の娘の長所だと錯覚する性格だよ。これは美点でも長所でもありはしない。一度、彼女らが結婚してみなさい。それらの美点(?)はたちまちにして下段のような怖ろしい悪性に変化していくのである」
「オオ! 了解、了解」思わずぼくも声を上げました。「つまり……娘時代に娘らしい慎みぶかさをもった女は、女房になると亭主にとって、不感症な怠けものの女に変るというわけでしょうか」
「|然り《メイ・ウイ》。|然り《メイ・ウイ》。仕事から帰っても、ロクでもない話題しか持たん女房がこれじゃよ。ムッシューは頭が良いのよ」
「それほどでもありませんが……でもなるほど、感受性の強いと見えた娘はヒステリーで嫉妬ぶかい細君に変り、行動力ありげな近代娘は結婚すると亭主を尻にしこうとする悪魔に変るわけか。小生、いささか思い当ります……」
「左様、日本から来たムッシューよ。このように女性というものは、本質的に劣等的な生物にすぎんのです」
知った時はもう遅い
どこか遠くで、またアパートの女中が流行歌を歌っていました。窓ぎわには、二、三羽の鳩が体をすりよせてコロコロと鳴いている。ああ、自分は今や巴里に来ているのだとしみじみ感じました。封建的な日本の友人諸君からならともかく、フェミニズム(女性崇拝)の都で鳴る巴里にきてまで、女に対するかくも侮蔑的な言辞をきくとは思ってなかった。長い間、胸の底にかき起し、かき起してきた女性敬愛の情を無残にふみにじられた心持で、ぼくは少し、ションボリとしたことをお伝えせねばなりません。
「悲しいかの。ムッシュー」老人はぼくの肩に手をかけながら呟きました。「悲しいであろう。だがわれわれ男性は、今こそ真実を真実として見ねばならん。三文文士や感傷詩人がデタラメに美化してきたあの女房たちが、真実は愚鈍、ケチ、偽善、ヒステリーの動物であることをハッキリ認識せにゃいかんよ」
「ハイ」しかしぼくの声は悲しみのために小さく震えていました。「でも先生、それならばわれわれはどうすればいいのでしょうか」
「そこでじゃて」
ルリイ先生は指をポキンとならして椅子からたちあがりました。
「不幸にしてこの世には二つの性、男性と女性しかない。イヤでも応でもわれわれ憐れな男性は女性と結婚せねばならんのです。そして結婚してはじめて、女房とは何であるかを知る。知った時はもう遅い」
「ハイ」
「無数の亭主が女房の強情に悩まされとる。女房というものは自分を反省する能力がまずない。女は何でも自分を正当化する論理をもっている。自分の落度のため亭主がテンカンになっても、悪いのは夫の体力で自分のせいではないと考える。悪いのはいつも夫で正しいのはいつも女房だと信じとる。これが女房の論理じゃ」
「アア、思い当る。思い当る」
女房は道徳の代表者か
「無数の亭主が女房の独裁欲望に悩まされとる。新婚二、三ヵ月は慎しげによそおっておる。だが、少しずつ、奴ら女房は家庭における自分の権力を拡張していくのじゃ。目だたず、ひそかに、ズデンと大きな尻をおろしてな。子供まで自分の味方に引きこみよる。憐れな亭主がわれとわが身に気づいた時は、彼の場所はもう家庭にはほんの少ししかない」
「アア、思い当る。思い当る」
「そのくせ無数の亭主がそのために家庭の重くるしさを一瞬まぎらわすため、酒場にでもいけばナ……女房たちはキャアキョン非難するのじゃ。自分らは酒場の女性ほど容色、化粧で男性を悦ばせようとする努力を怠っとるくせに、非難の言辞だけはいかにも道徳的でな」
「アア、思い当る。思い当る」
「それに社会がわるいよ。ムッシュー。日本はどうか知りませんがな。フランスでは進歩的文化人という奴らが自分の細君怖さのためか、雑誌や新聞でこうした女房族をいかにも男性の犠牲者のように言いふらすのでな。女房たちがまるで世の道徳の代表者のようにつけあがります」
「アア、アア」
「思い当るかな。日本の文化人も同じようかな」
「はい。日本でも婦人雑誌の大部分は、女房犠牲者、亭主悪漢の思想で編集しています」
「だが安心しなさい。こうした箸にも棒にもかからん女房をどう捌くか――これを教えるのがわしの仕事です」
ルリイ先生は、それからしばらく黙って、パイプに煙草をつめていました。
「さあ、紙と鉛筆をだして」パイプをふかし終ると老人は微笑しながら言いました。「眼をつぶって、よく考えて、ムッシューが男性の一人として世の女房にかくあれかしと願う希望条件をかきなさい」
ぼくは眼をつぶりました。そしてしばらくの間考えた後、次のような希望条件を書いたわけです。
[#ここから1字下げ]
(1) 女房の論理をヒックリかえす方法
(2) 女房的強情を突き破る方法
(3) 家庭において亭主の権力を守る方法
(4) 彼女らの嫉妬心、ヒステリーを防御する方法
(5) 浮気をうまくやる方法
[#ここで字下げ終わり]
「簡単なことよ」
ぼくの願いを読み終ったルリイ先生は、嬉しそうに肯きながら、
「コロンブスの卵と同じこと。わしの話をきけば何だと思うようなものだが実行してみなさい。明日からと言わず、今日からムッシューはすべての亭主の苦悩から解放されるじゃろうね」
「そう簡単にいくでしょうか」
ルリイ老人がその日、教えてくれた方法というのは、たしかにぼくの場合、きき目があったようです。読者諸氏も早速、実践していただきたい。その方法とは――残念ですが紙数がつきたようです。
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「女房論理学」から身を守るべし
ルリイ先生の第一課は、「女房の論理」から始まりました。女房の論理とは何であるか。いうまでもなく、それはすべての世の亭主が、仕事から戻ってきたとき、夜おそく帰宅したとき、日曜日の朝、毎日の食卓でクドクド、グジャグジャ、細君からきかされる説教、愚痴、叱責のことであります。
われわれ男性亭主には、これがたまらなくウルさく面倒臭い。ウルさく、面倒臭いから黙って新聞でも読んでいれば、「人のいうことを真剣に聞いていない」とわめきはじめる。といって多少でも弁解しようとすればそれこそ火のついたようにヒステリーを起す。いかなる亭主といえ――たとえ、エリザベス女王の夫エジンバラ公でさえ、この女房論理の地獄からまぬがれてはいない、とルリイ先生はいいました。
「女房の論理」を撃破するには、その論理の発生理由をわれわれ亭主はよく見きわめねばならぬ。どこから、あの機関銃のような涙混りの言葉がとびだしてくるのか、あの羊のウンコのように切れることのない説教が続くのか、その過程を男性は明晰な眼で調べておかねばならぬ。
ルリイ先生は、「彼女たちの論理」はこれことごとく「彼女たちが自分を悲劇的人物と思いこもうとする」女性特有の本能から出ているのだとおっしゃいました。つまり、平たくいえば女房という奴は何を与えてやっても、心の底では「アア、あたしは不幸な女だ。不幸な女に違いない。不幸な女でなければならぬ」そう考えているのであります。どんなに諸君が彼女にやさしくしてやっても、女房という奴は決して満足することはない。ビフテキのヒレ肉を食べさせてもらっても不幸、日曜日に諸君が無理をして台所の棚をなおしてやっても不幸。決して彼女たちの心の底にある不幸待望の欲望を消すことはできない。
だから――いや、それ故にこそ、女房のすべての論理はそれが諸君にたいする愚痴であれ、説教であれ、恨みの呟きであれ――ことごとく「あたしはあなたのためにこんなに不幸なの」ということを自分自身に立証することにあるのです。このことを世の亭主族と、これから結婚される若い独身男性はきもに銘じておかねばいけません。
では次に――。彼女たちはこの自己悲劇化の欲望を、どういう理屈を使って愚痴や説教を述べるでしょうか。ルリイ先生は壁にかけた黒板に、サラサラと次のような図表を書かれました。
(図省略)
@逆算論理
これは既にぼくがのべましたように、女房とはどんな些細な過去の出来事でも決して忘れていない。そして、今日、起ったある出来事について諸君に恨みごとを述べる時は、彼女は二年前、三年前、四年前のカズカズの出来事に遡って愚痴をこぼすということです。「今日だけじゃないわよ。あんたはきっとお忘れでしょうけど、一年前の一月一日にだって、おなじことをやったじゃないの」
男たちは人がよく善良ですから、そんな一年前、二年前のことをすっかり忘れている。忘れていないまでも、すっかり清算がついたと思っている。時効にかかった筈の古証文をもちだされたって、支払う必要はないと考えている。だがこれは男の論理というものです。女房は決して、「水に流す」ということはない。むかしの出来事、むかしのケンカ、むかしの侮辱、みんなあの雀のように、小さな頭の裏にシツコク陰惨に叩きこんでいるのだ。そして牛が一度食べた食物を胃袋から出して味わうように、彼女たちも過去をゲップと一緒に口の中に戻して噛みしめ、イヤらしい快感を味わっているのであります。何と怖るべきことではないか。
A比較論理
女性は保守的といわれる。しかし、こと亭主に対する限り、彼女は自己の環境に満足したことはない。彼女はたえず亭主の能力(能力というのは月給の額です)、家族の能力(テレビがあるか、洗濯機があるか)を近所隣家や自分の友人、同級生などと比較する。「あのうちじゃ便所が二ケツあるのよ。それなのにウチは女便所しかないじゃないの」
そんなつまらんことまで、彼女たちは自分に夫が加えた侮辱と考えこもうとするのである。そこで亭主が女便所のほかに男便所も建てたとしても、彼女は決して満足しない。さらに比較すべき家を二百メートルさきの所に発見してくるのだから、まったく始末におえません。「岸さんのお家には便所が三つもあるんですって。二階に一つ。一階に二つ。うちは一つしかないじゃないの」
大臣官邸の便所の数と比較されれば、どんな男だって黙らざるをえない。この比較論理は亭主の「能なし」「働きがない」に始まり、働きある亭主に対しては教養がないと罵り、教養ある亭主には男性的魅力が欠けていると侮辱するあの女房的理屈に無限に展開してゆくのです。
B無視論理
彼女たちは自分に都合の悪いこと、自分を正当化しえない亭主の弁解をまったく無視するという論理をもっています。例をあげて御説明しましょう。年末すでに諸君には御経験もあると思うが、すまじき宮仕えで、忘年会、二次会、三次会で諸君がクタクタに疲れて帰宅したとします。男ならば「本当に御苦労さまでした」といってあげたいところである。しかし女房たちには、これが全く解らない。
女房の論理
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(1)ウマイものを自分だけよそで食べてきた。
(2)妻や子供のことを忘れて一人で遊んでいる。
(3)自分だけイイ目をして家庭を犠牲にしている。
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亭主の弁解
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(1)あんなものはウマくない。上役に気を使って料理など味わうどころではない。
(2)遊んでいるのではない。これをやらねば交際がない男と思われるじゃないか。
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女房の結論
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故にあたしは不幸な女。亭主はエゴイストの男。
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この亭主の弁解は、女房にとってまったく無視される。そんなものは男の勝手なヘリクツと思う。どんなに口をすっぱくして言いきかせても女房の頭には、亭主が「自分だけウマイもの食べてきた……」これ以外にはまったくないのです。自分を正当化するために、相手の正しい弁解には耳をふさぐこの無視論理は女房のもっとも怖るべき戦法です。
逆算論理、比較論理、無視論理、これらをたくみに使いわけることによって、女房は自分を不幸な女と思いこみます。何をしてやっても、ビフテキをくわせてやっても、温泉に行かせても、永遠に彼女たちは不幸だと信じているのです。不幸だと思うのは彼女たちの勝手ですが、一緒に住んでいる亭主こそいいツラの皮というものでしょう。
では一体どうすれば、この女房の論理から、われわれは身を守ることができるでしょうか。ルリイ先生はその方法について話して下さいました。
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「負けるが勝ち」の演出法
前項でのべたような女房の愚痴、説教をわれわれ亭主はいかにして防御することができるか。われわれは襟をただしてルリイ先生のお話をききましょう。
小生「では先生。日本の幾十万という悩める良人たちのためにも、先生の新年のプレゼントとして、この防御方法を伝授して頂きたいものです」
ルリイ先生「わかりました。この戦法は、ちょうど結核にたいするストレプトマイシンと同じような働きをするものでえす。現代医学の知恵者たちは、かの偉大な抗生物質の発見をもってしても、結核を世界から断絶することのデケないことを知っていまあす。ストレプトマイシンは結核を断絶しません。ただ抑えるだけのこと。それと同じように、あなたたち男性もオクさんの心から愚痴、お説教をなくすこと期待してはいけないね。わたしの教える方法も被害をできるだけ少なくすることだけのこと」図表でかくと、
(図省略)
言われるまでもなく、われわれは自分の経験から、女房に弁解したり、怒鳴りかえせばかえすほど、彼女たちがマクシたてることを知っています。腕力などに訴えれば――女房というものは、男が考える以上に男性の腕力には平気なのです。
最も拙劣な戦法は「出テイケ!」などとわめくことである。女房が出ていった場合、結局、炊事、洗濯などの点から申しましても、損をするのは亭主族であるということをキモに銘じて頂きたい。
深く静かに対決せよ
第一の方法は兵糧攻めである。兵糧攻めといっても、勿論、女房に食事を与えないなどということではない。孫子によってあみだされた兵糧攻めが、敵方の糧秣のすべて尽きるのを忍耐強く待って、相手が弱り果ててから攻勢に移るように――女房がワンワン、キャンキャン怒鳴っている間、諸君は沈黙、ただ沈黙に出るべきです。ふかくふかく頭を垂れ、あたかも恭しく謹聴しているような顔をして、心の中では東京から大阪までの駅名でも思い出しておけばよろしい。
やがて一時間後(どんなに長くても二時間)女房は言うべきことのすべてを言い尽し、顔面神経も口舌神経もこれことごとく疲れ果てるでありましょう。この時の女房の心理は如何。
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(1)心の中のスベテを吐きだしたという満足感。
(2)亭主に少し言いすぎたのではないかという多少の後悔。
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の二つがあるにちがいないのです。われわれ亭主が攻勢にうつるのは、まさしくこの二つの心理に乗じてである。相手は口が疲れている。言いたいことをば、みんな言ったという心のスキがある。言いすぎたのではないかという多少の後悔がある。ここを狙って諸君が理路整然と相手をたしなめるならば、戦況はまさしく逆転するのである。「あたしも言いすぎたわ」と思わせるように、言葉を運んでいけばそれでいいのである。ただし、この際注意すべきは、
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(1)女房の自尊心を傷つけざるよう言葉の選択に注意すること。
(2)いつまでも長く女房を攻めてはならぬ。つまり兵をまとめて引上げる時が大切だ。
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とルリイ先生は特に注意されました。
第二の方法とは感傷的演出である、と先生は更に説明されます。
感傷的演出とは女房のもつ母性愛をチョト利用する(少し卑劣な)方法だそうです。兵糧攻めの場合と同じく、この際も女房の説教中は沈黙、決して逆らわないことが肝要。女房の口が疲れ果てたる後、諸君はいとも辛げな、寂しげな表情を顔面につくり、部屋の窓に顔でも押しあてて、眼をしばたたきながら、ジイッと庭でも見ることです。(心の中で幼年時代の夕暮、耳にしたサーカスのあわれ寂しいジンタでも思いだせば、表情が憂愁にみちてくるものである)
諸君のその孤独な寂寥たる姿をみて女房はどう感じるでありましょうか。彼女は子供を叱りすぎたことに気づいた母親のように、何だか自分が悪かったような気がしてくるにちがいない、言いすぎた、ヒステリーを起しすぎたと思うのが普通です。まもなく彼女は有形無形の形で夫の機嫌をとるものである。(その晩の食卓に酒を一本つけてくれるなど……)
「光の中」より「闇の中」
第三の方法とは夜の説得。この方法こそルリイ先生が長年の貴重な体験から発見された秘法でした。
ルリイ先生のお話によると、女性とは物事を男性のように頭脳で考えるのではなく生理でしか考えぬということです。女房にひそむ女性としての弱点を利用することが必要なのだそうです。一言でいえば女房の理屈に理屈でハムカッてはならない、女房という種族にはいわゆる抽象的な論理は全くわからない。彼女たちはいわゆる男性の理屈が、実感をもって納得できぬようにできているのだ、と先生はおっしゃいました。
「要するにバカなのですか」とぼくはビックリして訊ねました。
「女房族は……」「バカといえばバカね。弱い頭……」
この女房の弱い頭に物事を説明する時は、一足す一が二であると言いきかしてもそれは無駄である。彼女たちの論理では一足す一が三にも四にもなるのだからだそうです。だから――と先生は声をひそめられました。女にこちらの理屈を納得させるには一つの方法しかない。
それは時間をえらぶこと。統計によると女性が男性の理屈に心から耳を傾けるのは昼間よりも夜だそうです。これはかの有名な女性心理学者コンイデイオ氏も書いていることで、女性は「光の中」より「闇の中」の方が言葉をなるほどと思うという。諸君は女房に何かを説得する場合、昼間をできるだけ避け、夜の時間と闇の時間とをえらぶべきである。「闇の中こそ」と同じ女性研究家のピイピイ氏も語っています。「女が一日のうち、利口になる時である」
ぼくはこの三つの方法のうち三番目のものを非常に思いがけぬもののように思いました。しかしルリイ先生の顔には自信があふれていました。
「ホントです。信じて下さい」先生は大きく肯きながら繰りかえしました。
「実行してください。実行して下さい」
諸君も早速実行して頂きたい。ぼくはこの三つの方法を巴里の在留邦人や仏人の亭主に教えましたが、そのうち、七十五パーセントまでの方から驚くべき効果があったと感謝されている始末です。
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最上、最高の「女房懐柔策」
パリを発って、ロンドンに三、四日の旅行を試みました。ロンドンの有名なピカデリー・サーカスは、ちょうど東京の銀座にあたる繁華街でした。
この繁華街の裏路で、フランス料理店「黒い真珠」屋を開いているのは、ぼくの昔の同級生だったアンドレ・ソテル君であります。
ソテル君のつくってくれた料理をパクつきながら、ちょうど彼の奥さんが座をはずしたあとに、ぼくは早速例の質問にとりかかりました。
「……というわけなのでね、君が女房をどう抑えているか、わざわざロンドンにまで聞きに来たわけです」
「わざわざね?」
ソテル君は皮肉な嗤いをうかべて、
「まあ……各人には各人のやり方があるからな。俺の女房懐柔策が、必ずしも日本の御主人たちにうまく運ぶか、わからんよ」
「それは先刻承知している。だからこそ、その個人的な体験談を聞きたいんだ」
では……というわけで、ソテル君は赤いイタリア産の葡萄酒を舐め舐め、語りはじめました。
「俺はうまくやったよ。うん、たしかにうまくやったよ。お前も知ってのとおり、俺は昔、女の問題で痛い目にあっているからな。今の女房と結婚したとき、万事計算しておいたのさ」
「ほう」こちらが膝をのりだすと、
「俺の予め立てた方法はね」とソテル君は次の二つの方法をのべてくれました。
溢れ出るムチョムチョ
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(1)女房の母性的感情を自分にむけさせるよう努めること。つまり自分を亭主としてではなく、男の子供として考えるように教育すること。
(2)早く赤ん坊をつくること。
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なぜか。早速その説明にとりかかりましょう。
ソテル君はこう考えた。大体世間の亭主をみていると、彼らは男として女房にたちむかうからいけない。男として女房にたちむかうから、女房の側もむきになってわめいたり、嫉妬を起こすのである。家庭における権力をとられまいと必死になるのである。ソテル君の観察によると、世間の大部分の亭主の悲劇はここから来ているように思われた。
そこで戦法をかえて、女房に対して「亭主」ではなく「子供」になる方法をとってみた。女の中には母性的な感情が、牛の乳のようにムチョムチョと溢れている。そのハリキッた乳房にチョイと穴をあけてやればよいのだ。世の母親というものは、扱いにくい子供、手のかかる子供、迷惑ばかりかける子供に対して、余計に母性的感情をもつものである。
「あの子って仕方がないわ。仕方がないから、あたしがいなくちゃ、いけないんだわ」
これが母親の論理という奴である。老獪なるソテル君はここに眼をつけた。女房の自分に対する感情を、妻の感情から母親の感情に転化すれば――手のかかる子供と同様、彼は大手をふって何でもできる。
「そこで俺は結婚以来、こういう戦法をとったのさ。たとえば女房に日曜日、日曜大工をたのまれるとするだろう」
読者も経験がおありでしょうが、日曜日、女房から台所の棚をつくってくれ、チリトリを製作してくれと、たのまれたとします。その時、大部分の亭主殿は、憐れにも自分の能力のほどを誇示せんためにトンチンカンと、立派なチリトリを作ってやる。
「それがいけないんでね」とソテル君は説明しました。
「こちとらは、わざとすぐコワれるようなチリトリを作るんだ。この人には何をやらせてもダメだと思わせるのよ」
新しい恐妻家を求めて
この人には、何をさせてもダメという気持が、やがて彼女の中で亭主を「仕方のない子供」と思う感情に変えていく。つまり彼女のなかには母性的感情が次第に発生していくのであります。
こうなればもう大丈夫。亭主殿が何をやっても、女房は「この人は仕方ないんだわ。子供なんですもの」そう思うようになる。彼女の心に母性的感情が湧いてくる。彼女は亭主を男としてよりは自分の子供の一人として見るようになってくるのであります。こうすれば男のたいていの我儘にも口先だけではブツブツというが、心の底では、仕方ない、あきらめよう、許そうという心構えがあらかじめ出来上ってくるのである。
「俺たち亭主はその相手の心構えの上にあぐらをかけばいいのさ」
「ふんふん」
「やってみろよ。俺なぞは女房のこの母性愛のおかげで、随分助けて頂いたぜ」
「それじゃ、第二の『早く赤ん坊をつくる』っていう方法は」
ソテル君の説明によると、これは子供をつくることによって、夫というものは、女房に一種の愛するオモチャを与えることができるのだそうです。女という奴はなにかを愛さずにはいられない。何かを愛さずには生きていけない存在である。ところが、この女の集中的愛情という奴は、世の亭主にとって、甚だ重い荷物になる時がある。愛されるのは結構だが、愛されすぎると、どうも重くるしくなる。男の我儘な気持は、ここから時々のがれて、一人でホッと息をつきたくなる。これはすべての亭主諸君が、ひそかに御存じのことでありましょう。
「だから女房の心を分散さすのだよ」
「分散?」
「そうさ。赤ん坊をあてがえば、女という奴は夢中になるからね。むかしほど、こちらだけに気を集中しなくなるものさ。要するにスキができるのよ」
ただし……とソテル君は条件を入れました。あまりたくさん子供をつくってはいけない。あまりたくさん子供をつくると、子供のことにばかりかまけて、今度は亭主をおろそかにするようになる。これは亭主の自尊心にたえられない。
「まあ、子供は一人か二人が、この点、適度な分散をつくるようだね」
外はロンドン特有の冬の雨がふっていました。午後四時だというのに、この街では、もう電気をつけねばならぬ暗さです。ぬれた歩道を山高帽をかぶり、黒い外套を着たロンドン紳士がくたびれたような顔つきで通りすぎていく。
ソテル君と握手をして、外套の襟を立てながら歩きはじめました。これから旅をするイタリアやスペイン、あるいはアフリカでぼくはまた新しい恐妻家の話を聞くことができるかもしれません。その時はまたその時お知らせすることもあろうと、ぼくは考えたのでした。
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誰のためにも愛さない
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ベビーで頭がいっぱいのママになるな
早いもんだ。この間までまだ子どもだ、子どもだと思っていた君が、結婚式をあげたのがつい一年前だと思ったら、もうママになるというのだから。
とにかく、おめでとう。これで、ぼくもやがては伯父貴《おじき》になれるわけか。先日、君のご亭主がぼくの所に会社の帰りに寄ってくれて、いともご満足だった。そこで生まれてくるわが甥《おい》(姪《めい》)のために祝杯をあげようと思ったが、君のご亭主は、それどころではないという表情をして、そそくさと帰っていった。よほどあいつは君のことがコワイのか、心配なのかね。
ところでやがて子を持つ君のために、ぼくは二、三、愚見をのべたい。これは今こそ気づかないだろうが、やがて君の亭主がきっと感ずるようなことだから、ぼくの意見だけとは思わず、世のすべての亭主の感想だと考えられたい。耳の穴ほじくって、よく聞かれよ。
やがて君は子どもをもつ。そのとき、注意せねばならぬことは、まず、他人の前で子ども自慢のママになるなということだ。
世の中の大半の妻は、自分の子どもで頭がいっぱいだ。時によると彼女の関心の八十パーセントはわが子にむけられ、あとの二十パーセントだけが夫にふりむけられていることもある。夫が腹痛起こしても、「戸棚の中にいつか買った薬があるわよ」と言うだけの妻も、わが子が病気になるとビックリ仰天、一目散に医者に駆けていく。そのうしろ姿を夫はうらめしげに見ているだけだ。もし彼がこの点について妻に不平を言おうものなら、何と言われるか、よく知っているからだ。彼女は頬にうす笑いをうかべて、
「あなた、子どもにヤキモチやくの」
そういう考え方をするのが一般の妻というものです。
さて話が少し横道にそれたが、かように子どものことで頭がいっぱいの妻というものは他人がわが子をホメてくれれば、それをすぐ本気にしてニコニコとする。だから他人の家に行って話題がないときは、そこの子供のことをホメるのがいちばんいいと言った化粧品のセールスマンがいた。
人からホメられれば喜ぶだけではない。えてして妻というものは、だれの前でもすぐわが子のことを話題にだしたがるものだ。
「お元気そうですなあ。お宅の坊っちゃんは」
お客が、「こんにちは」とか「よいお天気で」ぐらいの意味でこういう挨拶をすると、もう、それにひっかかって、
「ええ。食欲がずいぶんありまして、毎日、牛乳を三本も飲むんですの。それに何かといえばお腹《なか》がすいたと言いますでしょ。栄養だけは気をつけているんです。学校でも体重だけはいちばんですって。
近所の子と角力《すもう》とっても負けませんのよ。昨日も二年上のご近所の坊っちゃんと角力をとりましてね、それに勝つんですから。お友だちにはリキドウザンと言われてるんですの。ねえ、そうでしょう、お前。こちらに来て、おじさまに腕角力していただきなさい。パパだってかなわんなんて言うんですの。おじさまにも負けないかもしれないわよ。やってごらんなさい。やってごらんよ」
ベラベラ、ベラベラ、わが子自慢をはじめる。うっかり、口をすべらしたため、腕角力をさせられる客こそ、いい面《つら》の皮です。
子ども自慢はある程度ほほえましいが、わが子にしか関心がないことをムキだしにする母親は決して美しいものではない。第一に彼女は感受性が鈍いということを他人に印象づける。
なぜなら、自分の子はだれだってかわいいが、他人にはただの子どもにしかすぎぬことを彼女はわかっていないからだ。これはやはり鈍感と言わねばなるまい。
子どもにしか関心がないのは母親として当たり前だろうが、しかし、時にはそれを抑制して他人には示さぬことを、君はやがて学んでほしい。
まもなく君はママになる。そして君の頭は、朝から夜まで君の赤ん坊のことでいっぱいだ。ホラ、笑った。ホラ、クシャミをした。他人から見ればアホくさいそんなことも、君には世の中の何よりも意味があり、価値があるように思えてくるだろう。
しかしそれを他人にまで無意識[#「無意識」に傍点]に強要するな。自分の子どものことしか話題をもたぬ母は、チェホフの「可愛い女」かもしれぬ。しかしこの「可愛い」という形容詞の裏には、愚鈍という意味もふくまれていることを忘れたもうな。
そういう女は、やがて夫にもあきられてくる。夫の友人たちからもアクビのでるほど退屈な奥さんだと思われるようになる。それはやがて夫の社会生活にも影響してくるだろう。
おわかりか。断わっておくが、君も知っての通りぼくは子どもが大好きだ。
人の子供をみるのも好きだし、遊んでやるのも好きだ。子ども好きのぼくが今の意見をのべるのだから間違いはないと思ってくれ。では、毎日、体に気をつけて、亭主にむだな気づかいをさせるなよ。
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夫婦喧嘩のときの屁理屈
夫婦喧嘩は犬も食わぬという諺があるが、お互い、考えてみれば、実にツマらん、アホらしい動機でわれわれは夫婦喧嘩をしているようだな。
友人の和辻君が、ある日、憂鬱そうな顔をしているので、どうした、とたずねたら、やっぱり奥さんと喧嘩したといっておった。理由をきいたら、実際ばかばかしくなったよ。彼の家の台所で突然、買ったばかりの魚がなくなった。和辻君はのら犬のしわざだと言い、奥さんは隣りのネコが盗んだのだと言い、意見が対立しているうちはよかったが、それが段々とスサまじい口論になってしまった。他人が聞けば、実にアホらしい話だが、われわれの夫婦喧嘩もたいていはこういう実にツマランことからはじまっていることが多いんじゃないかと、つくづく反省したよ。
しかしなぜツマランことが夫婦の間では喧嘩の種になるか。友人同士、他人同士なら笑ってすませられることが夫婦の間では口論となり、ののしりあい、あげくの果ては「コンな憎らしいやつは世の中におらん」と夫は考え、「ああいやだ、いやだ。こんな男となぜ結婚したんだろう」と妻は思うようになるのか。そいつを今日は君とじっくり考えてみようじゃないか。
そりゃ、君のほうにも色々と言い分のあることはわかるよ。こちらも男だからわがままだ。勝手なところもあろう。しかしそれはそれとして、夫の言い分も聞いてくれないか。
夫婦喧嘩の際、ぼくがいちばん閉口するのは、女の理屈というやつだ。いや、もっとハッキリ言うと理屈にならん理屈だ。
ぼくの観察によると、男の理屈と女の理屈とはもともと本質的に平行線の部分があって、時には永久に交わらないのではないかしらん。
というのは、君は――いや君だけではなく世の中の大半の細君は――夫婦喧嘩となると、どうやっても勝とうとする。なにがなんでも夫を言い負かそうとする。そのときは理屈のすじ道も論理の正しさもあったもんじゃない。
この際、細君が使う戦法は三つある。一つは部分をことさらに拡大して言う言い方であり、第二は論理の飛躍であり、第三は過去に対するおそるべき記憶力の駆使によって、強引にそれを裏づけようとすることだ。
話が理屈っぽくなったから、わかりやすく言わせてもらおう。
部分を拡大する細君の言い方とは次のようなものである。
「あれほど遅くなるなら電話をかけてくださいと言ったのに、なぜかけてくださらないんです。こっちは自動車にひかれたんじゃないか、なにか事故でもあったんじゃないかと十二時まで起きていたんですよ。寝床にはいったのは十分前なんですから。ウソだと思ったらこのシーツをさわってごらんなさい。まだ温かくなっていないでしょう。そうやって毎晩心配させて、あたしが病気になっても、あなたは知らん顔なんですね。どうせ、そうです。やがてあたしが病気になってひとりぽっちで寝こんでも、あなたは平気な顔をしてお酒を友だちと飲んでられるんですよ。そしてあたしは寒々とした部屋で、だれにも看病してもらえず死んでいくんですから……」(このあたりで、その未来の部屋の情景がはっきり浮かぶらしく悲しくなって涙ぐむ)
電話をかけなかったということが、いつの間にか細君の論理の中では、飛躍して自分が病気になってもほうっておく亭主というイメージにまで拡大されていくのに注意されよ。
さらに彼女は言う。
「そしてあたしは寒々とした部屋でだれにも看病されずに死んでいくんですから、要するに、あなたは口でうまいことを言っても、私に一回だって思いやりをかけてくれたことがないんですから」
「そんなばかなことがあるものか」
たまりかねた夫がうっかり抗弁しようものならたいへんである。なぜなら細君はこういうとき、彼女の持っている強力な武器――つまり先ほど言った過去に対する恐るべき記憶を駆使して夫をねじ伏せてしまうからだ。
「そうですか。本当にそうですか。なら申しあげますけど、あなたは四年前の結婚記念日に、あたしと出かけるって約束しておきながら多田さんと飲みにいったじゃありませんか。少しでも思いやりがあれば、ああいうことはできないはずです」
「あれ……あのことは……もうアヤまってすんだじゃないか」
「それなら二年前の十二月十五日はどうです。夜中に私が腹痛を起こしたのに、医者も呼んでくださらず、トンプクでも飲んどけ、と言ったきり眠りこんでいたじゃないの」
「それも、もうわびた過去のことだろ」
「去年の三月八日のことを言いましょうか。あなたは……」
「ああ助けてくれえ……」
こういうふうに過去に対する細君の記憶力のよさを見ていると、ぼくら男性には、女というものが牛のように見えてくるのだ。女はなにか仕事をしながらも、牛が胃袋のものをもどしてはたべ、もどしては反すうするように、過去の出来事をたえず反すうしてかみしめているのではないかしらん。
暴力をふるう夫というのがいる。もちろん暴力というのはよくないが、彼らの十パーセントはおそらく細君と口喧嘩をはじめたとき、彼女たちの理屈にならぬ理屈に言い負かされ、思わず手が出るのではないだろうか。問答無用というのではなく問答がとても成りたたぬからついカッとして手を出してしまうのだろう。(男というのはその点、まだ小児的である)
だからぼくは君に提案する。われわれ夫婦は決して二宮尊徳先生ご夫妻や孔子夫妻とはちがうのだから喧嘩せずにはいられないだろう。喧嘩はじっと黙りこんだ冷戦よりまだマシな気がする。
しかし、なにがなんでも相手に勝とうとするのはお互いやめようじゃないか。ぼくも他の人とは決してそうではないのに、君と喧嘩をするときは不思議に「どうしても勝とう」とする。君もぼくを強引にねじ伏せようとする。思えばこれこそ、まさに小児的だ。今日からは、この点にまず注意しあおうよ。
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おしゅうとさんにいじめられない法
君には今日、姑と嫁との問題について語ろう。姑《しゆうとめ》という字は女ヘンである。しかし子供の配偶者に幾ばくかの嫉妬を感ずるのは何も女親だけではないようである。舅《しゆうと》、つまり男親の場合も同じような感情はあるらしい。この感情は両者の場合は次のように形を異にするものだ。
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姑――息子の嫁に姑根性――娘の夫に比較的好意
舅――娘の夫に舅根性――息子の嫁に比較的好意
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どんな舅でも自分の手塩にかけた娘を突然横合いから引ったくった青年に本能的な怒りをひそかに持つものだ。君の父さんの場合だって同じだと思う。もちろん平生はそれを感じないかもしれぬが、たとえば正月など夫といっしょに嫁いだ娘が久しぶりに里に帰ってくる。婚約時代はわが娘にいたって紳士的、騎士的であったが、いつの間にか亭主づらをして、
「おい、由利子、タバコをおれの外套からとってきてくれ」
横柄な口のききかたをしたり、
「だめじゃないか。あれほど言っておいたのに」
娘をしかりつけたりするのを見ると、何ヲコノヤロウ、オレノ大事ナ娘ニドナリヤガッテと、思わずカッとなるものである。
父親というのは妙なもので、わが娘だけはいつまでも清純、無垢《むく》で子どもだと思いたがるものだ。どんな父親にとっても娘はいつもタブーである。私の先輩ではなはだプレイボーイ的生活を送っている人がいたが、そんな彼も娘と同じ年齢の女性には決して手をださぬといつも言っていた。ところがこの人の娘が結婚した途端、はじめてそのタブーがぽろりと落ちて、若い女性とも遊べる気持になったというのである。さっき書いたように姑根性、舅根性は相手が異性のときよりも同性の場合に強く起こるものだ(姑は嫁に、舅はムコにというように)。
つまりこれは姑根性とはたんに嫁イビリというだけではなく、そこに同性が同性に感ずる嫉妬心がふくまれていることを示している。そこで嫉妬心の性格を調べると、姑根性もはっきりするだろう。
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(1) 嫉妬心は敗者が勝者に感ずる心理である。
(2) 嫉妬を持った人には、相手のすること、なすこと、すべて憎しみの原因となる。
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この二つの嫉妬心の性格は、嫁たる者、自分の義母にたいするとき、いつも心得ておくべし。
嫁というものは夫の母にたいして本質的にはいつも勝利者である。何といったって男は結婚してしまえば母から離れて妻のほうに顔をむける。昨日までお母ちゃん、靴下ツクロッテヨ。お母ちゃん、お腹ガ痛イヨウと、とりすがっていた男が一度、嫁をもらうと、由利子、靴下ツクロッテヨウと言いはじめる。母はそのとき、嫁にたいして、敗者の意識を感ぜざるをえない。
第二の性格も、もし君が胸に手をあてて考えればすぐわかることだ。嫉妬を感ずる女は、恋人や夫を奪った相手の女性のすること、なすこと、ことごとく嫌《いや》ったらしく、憎ったらしくみえるだろう。相手が吐く息まで不潔に見えるだろう。それを考えれば、嫁をジロリと見る姑のまなざしがどこからきているのかわかるだろう。要するに姑にとっては、嫁のすること、なすこと、ことごとく、おもしろからず、癪《しやく》の種となるのである。嫁がアクビをしたことも、おならをしたことも、みな、憎悪の対象になるのである。おわかりかな。
以上の二性格はわかりやすいようで、意外に全国の嫁どもは承知しておらん。自分の婚約者の母親だけには姑根性はないものと思ってイソイソと嫁にいく。そして姑から姑根性をみせられると目をパチクリするものだ。
女のコワサ、女のイヤラしさは女性自身がいちばんよく知っているはずである。姑も女である以上、他の女のようにイヤラシク、コワイ何かを胸の奥に秘めていると知るべし。たとえ姑が他人さまにむかって、
「いえ、本当によくでけた嫁でございますよ」とか、二人にたいして、
「あんたらが仲よくするのが、いちばん幸福さ」などと言っても、夢々、その言葉に甘えてはならない。女が美言を使うとき、裏腹の心理があることは、女たるものいちばん心得ているであろう。
されば、全国の嫁よ。姑、および夫にたいし、次のようにあれかし。
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(1) 姑根性のない姑はないと思え。
(2) それに対しては喧嘩か、辛抱か、知恵か、三つしか対策、方法はない。
(3) よき[#「よき」に傍点]嫁は、姑に辛抱する。ばか[#「ばか」に傍点]な嫁は姑とけんかする。
(4) 賢い嫁は、姑の敗者意識を刺激しない。
(5) 賢い嫁は、姑の発言力と自分の発言力とを小事と大事とにわけて善処する。
(6) 賢い嫁は小事(料理、家事のやり方など)では姑の発言に従う。小事においては常に姑の自尊心を満足させてやる。
(7) 賢い嫁は大事(子どもの教育法、夫への忠言など)に姑の関心をむけないようにする。
(8) 賢い嫁は、姑よりも自分が結局、勝利者だと知っている。
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以上の八ヵ条はもちろん、生やさしくできるものではあるまい。しかしだ。全国の嫁たる者はまた夫の立場というものを考えてくれ。
「あなた、お母さまと、私とどちらを選ぶんですの。さあ、答えてちょうだい」
「ぼくはその……どちらも仲よく」
「ひきょう者、そんなこと、できないから言うんじゃありませんか。私をあなた一度もかばってくださらないじゃないですか。男らしくないわよ、あなたはだれと結婚しているんですか、私? お母さま?」
夫はそこで、さきほどの八ヵ条にさらに一ヵ条をつけ加えて筆をおきたい。
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(9) 賢い妻は夫に姑の悪口を言ったり、姑とけんかするよう、けしかけない。
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右の夫からの手紙にたいする妻の返事、
「随分、あなたに都合よくできていますこと」
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パンチのきく涙の使い方教えます
新婚時代には若い妻は、よく泣くものである。
結婚したばかりのK君がしょんぼりしている。
「どうしたい」
「はあ、実は、昨日、恵美子に泣かれまして。ぼ、ぼく、どうしたらいいのか、わかんなくなったです」
「ははあ……」
同じような経験のある先輩はニヤリと笑う。
「どうして奥さんを泣かしたのかね。K君」
ぼくにもそれがよくわかんないんです。実は昨日、M君とE君を引っ張って戻りましてね。おい、酒を二人に出してくれないか。するとそのときは機嫌よくハイと答えてたんですが、そのうち三人でスチャラカ、チャンチャンとウイスキー飲んで騒ぎながら、
「おーい。酒のサカナがなくなったぞ」
そう言ってしばらくして台所にいったら、女房のやつ、すみでシクシク泣いてるんで。M君とE君もわけがわからず、バツの悪そうな顔をして、帰っちゃったんです。
「ふーん。それで、君、理由をきいたかね」
もちろんですよ。ぼくは初め、「友だちを引っ張ってきたことがいけなかったのかい」ときいたら、
「ちがうわ」
泣きじゃくりながら、そう言うんです。
「あいつらが気に入らなかったんだな」
「ちがうわ」
「ぼくたちが下品な流行歌をハシで茶わんを叩きながら歌ったことが気にさわったのかい」
「ちがうわ。ちがうわ」
だから、ぼく、何が何だか、わからなくなってきたんです。
「ふうん」先輩はニヤリと笑って、「仕方のないやつだなあ、新妻の気持もわからなくて。君の奥さんが泣いたのはねえ、君が酒のサカナがなくなったぞうって叫んだろ。客の前で叫んだろ。それがこたえたのさ。女なんて新妻のときは夫にも夫の友だちにも一生懸命、完全につくそうとはりきっているもんだ。その心根が君に傷つけられたのが寂しく、辛かったんだよ。わからんかね」
K君、目を丸くして、「へえ、女房なんてそんなことぐらいで泣くんですか。これからはウッカリものも言えんなあ。ぼかア、男の兄弟しかいないから、女の心ってよくわかんないんです。結婚って大変だなあ。先輩なんか、毎日、言葉づかいに注意してるんですか」
「バカいっちゃいけないよ、女房が何でもないことにも涙ぐんだりするのは新婚早々だけさ。
まあ、今にわかるけどねえ、結婚後五年七年、十年とたってみなさい。女房は泣きわめくか、泣きどなるかはするが、花嫁のように涙ぐまんよ。女房はたくましくなるよ。強くなるよ。
結婚後十年たった女房の右腕なんか、実に太いもんだぞ。あたしゃ、毎日赤ん坊を右手に抱いて買い物かごさげて市場に行ったんですからね、腕が太くなるのも当たり前ですよ。そう言っとるよ。うちの細君は」
先輩はK君にそう説明したあと一人で考えた。うちの女房も新婚のころは泣いたなあ。真珠のような涙をポロポロこぼして泣いたなあ。そのときはあいつも色気があって可憐《かれん》でありました。今だって泣かんことはない。しかしその泣きかたたるや、ウワア、ウワア、ゴオーゴオ、さながら野ネコのトタン屋根でわめくがごとくであって、おせじにも色気あり、可憐なりとは言えねえや。
おれだって男だからな。宴会の席上でワイシャツに口紅をつけられることもある。ポケットの中に友人とやったマージャンの借用証の入っていることもある。ボーナスからちょいとヘソクリをごまかすこともある。
しかし、これは男たるものの八十パーセント(いや、ひょっとすると九十パーセント)はやっておることである。にもかかわらずそれを見つけたとき、天下の苦痛を一身にあびたように、ウワア、ウワア、ゴオーゴオ、泣かれ、わめかれ、どなられては、「チェッ、うるせえや」
どんな夫でもどなりかえしたくなるものである。大体、結婚して五年以上たった女房の泣き顔には全く色気も可憐さも発見できないと思うのが世の男性の意見だと思うが諸君、どうであろうか。(ヒヤヒヤ、賛成。全く同感の声多数あり)
全くしかり。結婚後五年以上の女房の泣き顔は。駄菓子屋のセンベイのごとくゆがみ、みにくく、こちらには何の効果もないものである。五年以上たった女房は、亭主の素行をあらためたければ、泣くなとわが輩は声を高くして言いたい。(ヒヤヒヤ、賛成万歳。全く同感の声多数あり)
けしからん話である。こういう先輩をもつと、K君もあと四、五年でタチのよくない亭主になっていくであろう。そこで遠藤周作氏が世の奥さまたちに涙の使い方をそっとお教えしたい。
新妻時代にはすぐ涙ぐむのも武器になる。しかし、この武器は長くて一年、早くて三ヵ月で無効になるとはっきり言っておきましょう。それ以後は普通の夫婦の場合、涙は今のけしからん男の言うように亭主にはほとんど効果がないのみならず、むしろ彼をいらだたせ、不快にさせ、(またヒスを起こしやがってよう)そう思わせかねないのである。
では彼の言うように妻たるものは泣いてはいけないのか。いやいや、決してそうではない。だが、有効な泣きかたを選ばねばならぬ。
どんな女房にも泣きたくなるような夫の仕打ちが一生に幾回かは、あるものである。たとえばあなたのご主人の寝小便の癖が治らん場合とか――失礼、そういうことはないだろうが競馬競輪にふけりすぎるとか、大酒のみだとか、女遊びがあったとか、場合場合によって違うだろうが、そういうとき、わめき泣いたり、どなり泣いたりしてはほとんどムダであると言ってよろしい。それよりも当分、じっと黙っていなさい。黙って今まで通り、一生懸命に夫のために尽くしてやりなさい。すると夫のほうだって心の中ではヒケ目を感じるものである。おれは悪い奴だ、仕方のない男だと思いだすものである。そういう風に男が考えだしても、彼はまだ、競馬にふけったり、女と遊んでいるだろう。
そのとき、ある日、あるときをえらんで(このタイミングが非常に大切)、あなたは泣くのだ。ギャアギャア、ワアワア泣いてはいかん。黙って(いいですか、黙って)彼の顔をじっと見つめ、黙って、ポロ、ポロッと涙が頬を伝わっていくような泣き方で泣くのである。そして黙っている。黙っている。これは夫に絶対、効果がある。遠藤周作、保証してよい。絶対、効果がある。やってごらんなさい。
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妻よ日曜のゴロ寝を許されよ
近ごろの子供はテレビに夢中ですわね。それはいいんでございますが、悪い言葉やCMのくだらない歌までいっしょにおぼえるんでございましょ。本当に困りますわよ。あれはどうにか、ならないんでしょうか。
PTAの会で、あるいは隣り近所の細君連との茶飲み話で、君が必ずもちだし、もちだされる話題の一つに「テレビの子供に及ぼす悪影響」というやつがある。
なるほどごもっとも。子供をよく育てようと思う母親の心配、無理からぬものがあり、夫としても大いに議論していただきたい。
さりながらだ。夫たる男は同時に「テレビの女房に及ぼす悪影響」についても、PTAなどで考えてもらいたいと思うなあ。
テレビのどの番組が君に悪い影響を与えるのか。奥さま映画劇場、ノー。よろめきドラマ、ノー。ああいうものは毒にも薬にもならない番組である。毒になるのは、ほれ、いま、君が見ているアメリカで作られたホーム・ドラマやパパものなのであるよ。
健全なこの番組のどこが悪いんですの、あなたって根性まがりねえ。婚約時代からそうだったわ。白を黒といい、黒を白といわなければ気がすまない性格《たち》なんですからね。
ハッハッハ、まあ、そうムキになるな、女って奴は何でもすぐ、まともに取るからいかんよ。人生や会話、なにもストレイト・ボールばかり投げるんじゃなくて、ナックル・ボールを使うときがあったっていいじゃないか。女ってやつはここのところがわからんから、われわれ男性は困るんだよ。
わからなくて悪うございましたわね。どうせ、あたしはバカですわよ。それならそんなバカをお嫁にもらわなければいいじゃありませんか。出ていけとおっしゃれば、すぐ出ていきますわよ。
ほー。出ていけといえば、すぐ出ていってくれますか。(小声で)それはありがたい。
出ていけっていったって、だれが出ていくもんですか。いつまでも、ここにいるわよ。第一、ここはあなただけではなくあたしの家なんですからね。
そうでしょう。そうでしょう。それなら少し冷静に夫の言い分も聞いてください。ぼくがアメリカで作られたテレビのホーム・ドラマやパパものが、世間の細君たちに「悪影響を与える」というのは、あれが君たち女房によくない夢を与えるからです。
よくない夢ですって。冗談でしょう。健全な家庭の夢だわ。あそこには理想的なパパ、理想的な夫の姿があるわ。よく働き、妻にはやさしく、家庭にも細かい心づかいとサービスをする夫の姿があるわ。あなたもせめてああいう夫、ああいうパパになっていただきたいと、わたし、いつも思っているんですよ。
それ、それ。そこによくない夢の典型がある。一体、君は夫というものがアメリカ人の男のように会社から戻っても妻や子供に気をつかい、日曜日には家族に奉仕これつとめるのが理想的だと思っているのか。
少なくとも、あなたよりはね。会社から帰れば不機嫌な表情をしてムッツリ食事をし、テレビで野球の中継を見ながら、うたたねをする夫よりはね。日曜日には家族をどこにもつれて行ってくださらず、一日中、ゴロゴロ寝ている夫よりはね。
なるほど、しかし、君はそこで大きな現実の認識不足をやっているようだ。アメリカの亭主と日本の亭主の肉体的条件と生活環境のちがいを全然、考慮にいれておらん。アメリカの亭主と日本の亭主とは一日の疲労度がどのくらい異なるかということを、ほとんど考えていないようだ。
アメリカの亭主は、朝飯がすむと、車で勤め先に通う。ぼくたち日本人は、行きも帰りもラッシュアワーの電車でもみくちゃになる。向こうは妻にニコニコできようし、ぼくたちはグッタリとなるのも無理ないというわけだ。グッタリとなれば物も言いたくなくなる。それに向こうさんは毎日、ミルクを五本分にビフテキを食って生活している肉体だ。昼弁当はザルソバかラーメンですますわれわれとエネルギイの保有力が全くちがうのだ。
週五日制で土曜は休みだし、日曜日、彼等が自動車で家族をつれていくのはそう疲労するサービスではないが、おれたちには、それは病人に百メートル競走をやれというようなものなんだよ。ウソだと思ったら日曜日の夕方、電車に子供たちをつれて乗っている亭主族の顔を見るといい。日なたの朝顔のようにグッタリしているじゃないか。そりゃ、たまの休日に一日中ゴロゴロ寝ている夫は君たちの目から見るとだらしないさ。しかし、ゴロゴロ寝なければ翌週、激しい競争のなかにとびこめぬ日本の男性の疲労度に思いやりがあってもいいと思うんだ。
それぐらいわかってるわよ。(だんだん声が小さくなり)わかっているから、日曜日なんか寝かしておくじゃないの。
寝かしておいてはくれるさ、寝かしておいてはくれるが、しかし、積極的に寝かしてくれはしないね。イヤイヤながら寝かしてくれているようだぞ。
そうかもしれないけど、結果においては同じじゃありませんか。
イヤ、ちがう。積極的に寝かしてくれるのと、イヤイヤ寝かしてくれるのは一見、ちょっとした差みたいであるけど、夫の気持としては大きな違いがあるんだ。君は日曜日、イヤイヤ亭主のゴロ寝を許す。しかし心の中では不満なんだ。君は夫がアメリカの夫のように自分と子供に日曜日、大サービスをしてほしいと心のどこかで願っているわけだ。
つまり君は日本人の夫が一週間の間、モミクチャの電車、ザルソバの昼飯という悪条件に耐えながら懸命に働いているという事実を考えようともしてない証拠なんだ。日曜日のゴロ寝に不平を抱く妻は、亭主を理解する努力に欠けた細君だといっていい。本当に亭主を理解しているやさしい細君なら、たまの日曜日ですもの、一日中、ゆっくり横になっていてくださいな。なにもしてくださらなくていいのよ。一週間、働いてくださったんですものね、とこういう態度にでるだろう。
すると亭主のほうも、その優しさにうれしくなって、いいさ、君たちをつれてひとつウマイものでも食いにいこうよという気が起きるもんだ。ゴロ寝ばかりして、掃除のじゃまになりますから、どこかに行ってくださいという態度をとられちゃあ、意地でもふとんにしがみつきたくなるよ。要するに、男なんて子供みたいなんだから、相手の出かた次第でどうにもなるのさ。それを操縦できないなんて、ずいぶん才覚がないと思うがなあ。
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犬も三日飼えば情が移る、女房も……
どんな夫婦がいちばん理想的な夫婦か知らんぞ。世の中には聖人君子のような男があっていつもニコニコ、酒を飲まず、タバコもすわず、夜遊びはせず――こんな男の細君がまた山内一豊の妻のようによくできたご婦人で、リンキも起こさず、着物もほしがらず、夫婦ともに人格者――そういうのを理想的というのなら、おれは断じて、
「ノ―!」
と叫ぶぞ。ノー、ノー、ノー。
少なくとも彼らは理想的な人間たちかもしれないが、理想的な夫婦ではない。彼らは理想的な人間たちであっても、魅力のある人間ではない。
理由は簡単だ。酒も飲まず、タバコもすわず、夜遊びもせず、女房とけんか一つせぬ男と君は結婚したいと思うか。エジソンや二宮尊徳は、おれより人格数等上の男かもしれぬが、男性としては魅力欠乏の御|仁《じん》だ。
おれは酒を飲む。タバコも喫う、夜だって遅くはなるさ。君とけんかはするさ。
君だって、愚痴は言う。リンキは起こす。口あけて鼻からチョウチン出して夏の日、縁側で昼寝はする。口答えは平気。飯だけ三人前食べる。
しかし、おれたち夫婦はかくのごとく、欠点だらけであればこそ、人間的だ。二宮尊徳先生ご夫婦より人間的だ。孔子様夫婦より人間的だ。君はそう思わないか。
思わない? バッケヤロ。だから女ってだめなんだなあ。おれイヤになっちゃったよ。もう一杯、酒を飲んでこの憂《う》さを晴らすか。
夫婦なんてなあ、けんかはする、相手をコノ野郎と思う。しようのない男だと考える。あの人はあたしがいなくちゃだめなんだわ。なんで、こんな男を一生の伴侶《はんりよ》として選んだんだろう。でもあたし以外の女じゃあ、この人の世話はできないんだろうな、窓の夕焼けを見ながらそう妻が考えているとき、夫は夫で、犬も三日飼えば情が移るが、おれはこの女房でまあしかたないとあきらめる。そんな毎日毎日が続くから夫婦といえるんじゃないだろうか。
そうして十年たって。
そうして二十年たって……。
おれたちは老人になる。老人夫婦になる、悪くないじゃないか。
おれなあ、映画なんかで、外国の街の公園で老人夫婦が日なたぼっこを二人でしながら、じっとベンチに坐っている――あんな場面を見ると、妙に涙がポロポロって出てくることがあるんだ。
なぜか、おれにもわからない。おそらくね、きっと、この老人夫婦の心境をこう考えるからかもしれないな。
おじいさんも若いころ、よく浮気をしましたねえ。
ばあさん、あんたもそのたびごとにヤキモチやいたもんだ。
二人は本当にそのたびごとに口ゲンカばっかり。それからおじいさんが痔で入院したこともありましたよ。
ばあさんが胃病で寝たことも、借金して入院費払ったのも覚えているよ。
いろいろなことがありましたねえ。
全く、いろいろなことがあったよ。
じいさん、ばあさん、お互い口にこそ出して言わぬが、心の中でしみじみ、長かった夫婦の歴史をかみしめながら、秋の午後、公園の日だまり、ベンチに坐ってござる。これが夫婦だ。彼らは孔子夫婦でも、二宮尊徳夫婦でもないから、若いころはイガミ合い、けんか、さまざまあったが、四十年、人間らしくつきあってきた夫婦だ。
こういう夫婦を理想的な夫婦といわぬなら何をさして夫婦というか。
こんな老夫婦っていいなあ。おばあさんが先に死んでしまった。するとおじいさんは急にガックリとした感じになって、縁側にしゃがんだまま一日中、じっと庭木を見ている。時々ブツブツ、ばあさまの悪口をつぶやき、それからお経をあげている。
かくすること三ヵ月、ある朝、家族がこのおじいさんを起こしにいきましたところ、彼はもう、だれにも知られぬうちに息を引きとっていた。みんな顔を見合わせて言った。
「おじいちゃんは、おばあちゃんのあとを追うようにして行っちゃったのねえ」
こういう夫婦はいい。ばあさまが死んでしまうと、あれほど若かりしころは、スッタモンダのあったじいさまに急に生きがいもなくなり、体も心も衰え、自分に残されたただ一つの仕事はばあさまの所に行くこと――それだけしかなくなったような老夫婦。うらやましいとは思わんかね。
思わない。なぜ?
何? あなたは、あたしが先だったら、鉢巻きしめて大喜び、アラ、エッ、サッサと浮かれ歩いて後妻をもらうような男ですからか。とても信じられないって、バカな、おまえこそ、おれが先に死ねば、おれにかけた生命保険でヌクヌクと暮らすんじゃないか。
まあ、けんかはよそう。要はおれの言いたいことはだ、次の歌につきる。
老爺 飲酒シテ 酔死スレバ
老婆 驚愕シテ 死亡スル
有名な中国の詩人、王維の詩です。教養のないおまえにはわからんだろうが、まことに品格のある詩とは思わないか。夫婦らしい夫婦を歌った詩とは思わないか。じいさまが死んだあと、それを追ってばあさまも死んでいった。オシドリのような夫婦愛じゃないか。
人をバカにしないでちょうだい。何が王維の詩ですのよ。そんな歌、近所の小学生がよく歌っているわよ。じいさん、酒のんで酔っぱらって死んじゃった。ばあさん、それ見て、びっくりして死んじゃった。あれじゃないの。
へ、へ、へ、ばれたか。しかしねえ、こんな俗謡にも、おれには孔子夫婦よりも、もっと人間的夫婦があるような気がするのだが、どう思うかね。もう一本、酒をもってきてくれよ。
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夫婦の仲にもマナーあり
学生時代、ぼくは自分の故郷が田舎だったから必然的に東京で下宿に入ったり、学生寮で生活したりした。木村と親しくなったのもそのころだ。
その時、気がついたんだがね、同じ下宿や寮にいると同居生活のウマのあう奴《やつ》とウマのあわない奴とがいる。だれかと同居するのがウマい奴と下手な奴とがいる。
同居生活のウマい奴というのは、一緒にいる相手に迷惑をかけない男のことだろうぐらいに君は簡単に考えるだろうがね。決してそんな単純なもんじゃない。
男の学生の下宿って、行ったことがあるかい。ぼくと木村とは、掃除なんて一度もしなかったからマスクをして寝ていたもんだ。動くとホコリが立つし、掃除をするのは面倒くさいのでマスクをして寝ていたわけである。洗濯なんかも億劫《おつくう》だったから、汚れものは押し入れに突っこんで新しいのをつけているうちに、彼の汚れものと俺の汚れものが一緒になり、その中からまだ使えそうな彼の猿股《さるまた》を俺がはき、俺の突っこんだランニングを彼が着ているという始末で――まあ、吐き気がするわ――と世の女性はいうだろうが、学生の下宿生活なんて大体そんなものだね。
こんな間柄だったが、彼は実に同居生活のウマい男だったなあ。つまり、邪魔にならず、こちらの神経に一向さわらんのだよ。
「君は実に、俺の同居人としては満点だったなあ」
この間、久しぶりに同窓会があったろ。あの時、木村にそういったら、
「うん」
とうなずいて、
「しかしね、俺だって初めからそうだったんじゃないんだぜ。自己訓練さ、学生生活でいろいろなよい経験をやったが、友人と同居生活をしたことも、後になって女房との結婚生活上、役立ったよ」
とつぶやいた。
彼は下宿や寮で同居生活を学生時代にやった人間は、赤の他人と同じ部屋で生活をするコツをおぼえるという。そのコツとは、どんなに親しくなっても、ある線以上は同居人の中に入らぬことだという。
その線をどこにきめるかは相手次第、各人各様だが、それはこの同居生活を幾度かくりかえしてみると、だんだんわかってくるのだという。
「だからね」
彼は近ごろの花嫁学校や花嫁修業は、やれ花の生け方、料理の作り方、カロリーの計算ばかり教えて、肝心《かんじん》の夫婦生活の基本となる同居生活のコツをしこまないのは、はなはだ片手落ちだと主張しはじめた。
「そりゃ、カロリーも大切、生け花、お茶も結構だよ。しかし夫婦というのは、最初は俺たちの学生時代と同じように、昨日まで生活を共にしたことのない人間が、寝起きを共にすることじゃないのかね」
「そりゃ、そうだ」
「だから、やはり同居生活のコツをお互いが守ることが必要だと思うんだ。とんでもない、夫婦とは愛情で結ばれているんだから普通の同居生活とは違う。そう考えるのは過信というもんだ。それにね、普通の同居生活では相手がイヤになれば、ハイ、サヨウナラといって下宿をかわることはできるが……」
「結婚生活じゃ、そう簡単にはいかん」
「だろう。だから、余計、このコツをお互いが知って、それを守ることが必要だ。俺はね、娘が一人いるんだが、年ごろになったら地方の大学に送って、そこで寮生活をさせようとさえ思っている。それがあるいは、よい花嫁修業になるかもしれんから」
俺は彼のいうことも確かに一理あると思った。胸に手を当てて考えてみると、そう、学生のころ、俺も同居生活のコツというのをいくつか、身をもって学んでいたようだ。
それは何だったか。ちょっと列記してみようか。
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(1) 同居人のものを承諾なしに見たり調べたりしないこと。
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たとえば、同居人の引き出しを勝手にあけたり、その洋服のポケットを調べたりすれば、必ずケンカが始まるのは当然だ。
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(2) 金銭はもちろん、その他の品物を借りることはあっても、すぐ返すこと。
(3) 彼の身内、故郷、親兄弟のことは、どんなに彼が悪くいっても、調子を合わさないこと。
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理由は簡単だ。彼には悪口をいう権利や理由はあるが、こちらにはない。それにどんな人間でも自分の身内の悪口をいわれるほど腹のたつことはない。
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(4) 万一、口論など始まった場合は、いつまでも我《が》を張らず、すぐ、どちらかが折れること。
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同居して口喧嘩をすれば、その傷は非常に深く感じるものである。傷口の深くならぬうちに、出血をとめるのは当然ではないか。
たった四ヵ条だ。これさえ守れば、俺はたいていの人間とは同居できるのだと、学生時代に下宿生活をやりながら考えていたようである。
だが、世間を見わたしたところ、多くの夫婦の中には、普通の同居人たちが意識的にせよ、無意識的にせよ守っているこの四ヵ条さえ、お互いのルールとしてはいないのではないだろうか。
夫婦であるからという口実の下に、夫に来た手紙や夫の日記をひそかに読む妻がいかに多いことか。夫のポケットを調べる妻はどんなにいるだろう。
その時の自分のコソコソした、蛇のような目を考えただけで、自分がイヤにならないだろうか。
夫婦だからという口実の下に、妻の兄弟の悪口をいう夫のいかに多いことか。
また、夫の父母の悪口をいう妻のどんなにいることか。
夫婦だからという口実の下に、夫婦喧嘩を徹底的にやりつづける馬鹿もいる。
夫婦だからという口実の下に……もう、よそう。夫婦とは、その原型はやはり一つ家に寝起きを共にする同居生活だという木村の言葉は、ある意味で正しいとぼくは思う。
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反抗期の夫とおならの関係
以前、女房の効果ある泣き方について書いた。夫が浮気などした場合、無理難題をもちかけてきた際、ギャアギャア、ワアワア、泣きわめくのははなはだ効果がない。黙って夫の顔を見上げホロッと一しずく、涙を落とすのがいちばんよろしいと言った。
今日は、甘え方について、教えん。
わが若い友人Mの細君は、ときどきわが家に来て、こうこぼす。
「何が何といったって、うちの主人が所嫌わず家の中でおならをブウブウするほど、いやなことはないわ。あれはどうにかならないのかしら」
婚約時代には彼女の前では、一見紳士風、女性を大事にする主義であると言い、立ち小便はもちろんのこと、おならなど彼女の前で一度もしたことのないMは、結婚するとガラリと態度が変わった。あたり構わずブウブウ、ブウ。細君がなじるとニヤッと笑って、
「出もの、はれもの、所、嫌わず」
てんで相手にしてくれない。
私はその話を聞いて、この細君がいささか気の毒になり、M君に直接会ってたしなめることにしました。
夏の夕暮、会社から帰宅する彼をつかまえて、渋谷のビヤホールに誘った。ビヤホールのテレビでは相撲の中継をやっている。塩気のよくきいた枝豆でジョッキをグッとやりながら、
「と、いうわけなんだ。君が家の中でおならを平気でやることについて、君の細君は随分こぼしていられたぞ」
そう説教をしはじめると、
「先輩、どうも、そんなクダラン話を美智子の奴、もちこんですみません。しかしね、ぼかア、このおならを別に出したくって、出しているのではないんです。出すべき必然的な理由があるからこそ、出しているんです」
はなはだ不思議な答弁をする。
「出すべき必然的理由。それは一体、君何かね」
M君は、口についたビールの泡を掌でぬぐいながら話しはじめた。
結婚後、気づいたのだが、女というのは嫁さんになっても、相変わらず、こちらの背中にジンマシンが起きるような甘え方をする。こちら夫というものは、なるほど、恋愛中、婚約中ならそういう甘え方もされれば、
「かわいいな」
「うれちいな」
そう思うが、結婚してしまえば、女房はいわばツリあげた魚。煮て食おうが焼いて食おうが、こちらの勝手だ。それに一緒に生活すれば、今まで見なかった相手の足の裏がどんなに真っ黒いかもわかるし、昼寝の時、鼻から提灯《ちようちん》だして寝ている顔も知っている。
そんな女房が平生は非常に現実的であるのに、秋の夜、月が縁側にさしこんでいようものなら、
「まア、いいお月さま。あなた、婚約のころ一緒に海岸歩いたの、思いだすわね」
急に猫が風邪を引いたような声をだしはじめ、体などすり寄せてくる。こんな時ほど夫にとっては、照れ臭く、オッ恥ずかしく幻滅的なものはない。
「先輩、この感覚、わかりませんか」
「わかる。わかる」
「おう。わかってくださいますか。さすがは先輩だ。だから、ぼく、そんな時オッ恥ずかしさのあまり、美智子の前でブッと一発やらかしてやるんです」
「わかるなあ。その気持」
「阿呆くさいことは止せという意思表示です。女房のくせにデレデレ夫に甘えるなという警告です。われわれ男性にとってセンチになっている女房ほどうそ寒いものはありませんからなあ」
私には目に見えるようだった。たとえば夕食後、ラジオで急にあのムード音楽という奴がなりはじめると、編物をしていた美智子さんが急にうっとりとした顔となり、
「あなた、踊らない?」
途端にヘキエキしたような表情でM君はブブッと一発やらかす。美智子さんは豆鉄砲でもくらったような顔になり、ムード音楽のムードはすっかり吹っとび、
「色気ないわ、あなた」
「そうかね。ああ、くたびれた。眠るとするか」
これで万事、おしまいである。私には、M君がブブッと一発やる気持が手にとるようにわかる。
「日本人の男は、外国人の男のように女房からベタベタされるのを好かんのです」
「まったくだ」
「女房も自分自身をふりかえって甘えてもらいたい。風呂上がりに、頭に仏壇の金具みたいなのをつけた女房が、あなた、おどらないと言ったって、おどる気もしませんよ」
「同感、同感」
「まして結婚一、二年ならともかく、十年もたった女房に変な声を急に出されると、背中から水かぶせられたようだ。ねえ、先輩」
「同感、同感」
「女房というものは、こうした時、甘やかさぬ亭主を愛情がないと不平を言うが、それはとんでもない話だ。日本男子の愛情表現は、外人のようになでたり、さすったりばかりするものではなく、黙っていてもジインとわかる時には伝わるような愛情を、奥底にひめたたえているものでないですか」
「然《しか》り。その日本男子の愛情の出しかたを非難する文章を、近ごろの婦人雑誌などでチョクチョク見るが、ああいう文章を書く手合は、大体軽薄な馬鹿野郎が多いようだ」
「そうですか、先輩。先輩がそう言ってくだされば、ぼくも今後、安心しておナラをすることができそうです。やりますぞッ。ぼかア」
三杯のビールにすっかり機嫌よくなったM君は意気軒昂。右肩をあげて家に戻っていった。私は、ああ自分はくだらん賛意を示したと思ったが、彼の言うのも一理ある。みなさんはどうお考えでしょうか。
M君は今日も家でブウブウ、おならをしているでしょう。ブウブウ、ひょっとすると彼の家はおならで充満しているかもしれぬ、みなさんのお宅ではご主人はおならをしませんか。もしすれば、彼は日本流にいい亭主です。しなければ彼は外国流にいい亭主です。
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女子大家政科卒、甚だ合理的
君に今日、一つの宿題を出そう。
宿題といっても本当にあった話だ。会社のT君、君も知っているだろう。奥さんと次第にまずくなり、今は別居しているT君のことだ。
あの夫婦が別居したとき、君はびっくりしたように、
「Tさん。どうして別れたのかしら、あんなに立派な奥さまだったのに」
そう言ったのを覚えているか。君の言葉どおりT君の奥さんは、だれの目から見ても立派な奥さんだった。
その立派な奥さんと彼はなぜ別居したのか。彼に情事でもあったのか。いや、あのT君はそんなことのできる男じゃない。夫婦間の心理は身の上相談の女史たちが簡単に解決するような手軽なものじゃない。あの夫婦にも、だれにもわからぬ心のたたかいがあったのだろう。
ところが昨夜、ぼくはT君の口からその心のたたかいの一部を聞いた。昨夜、宴会があったろう。あの帰り二人で新宿で一杯やったんだ。そのとき、彼は酔いのあまりか、急にこんなことを言いはじめた。
「潜水艦というのは狭い艦内にすべてを収容するためにむだな空間がないそうですね」
「そうだってね。非常に合理的に中を作ってあるらしいな」
なんのために彼が潜水艦の話などをしはじめたのか、こちらには、はじめピンとこなかった。だが……。
「むだがない。合理的すぎるってイヤなもんだ」T君は吐出すように言った。「息がつまりそうになる」
「だろうね」
「女にだって、むだを決してしない女がいますよ。そんな女と結婚してごらんなさい。毎日、毎日、息がつまりそうになる」
ぼくは彼が別れた細君のことを言いはじめたのだなと、やっとわかった。こちらには何も口に出しようのない話だ。
「私の女房がそうでした。他人の目から見ると実に良妻でしてね。いや、ああいうのを世間は良妻と言うんでしょう。女子大の家政科を出たせいもあるでしょうが、実に家事を合理的にやりましてね。家の中はチリ一つない。ものは、すべてキチンと片づけられている。食事も栄養を中心に作られる」
「結構な話じゃないか」
「そうでしょうか。だがそのキチンと片づけられた家の中で、会社から帰ってステテコで寝ころんでタバコの灰を畳に落とすことさえ、私はできなかったんです。別にあいつは口には出して言いませんが、目で私の男としてのだらしなさを非難してるんです。たとえ夫でも無作法なこと、しまりのないことが、彼女の神経にいちばんこたえるようでした」
「そりゃあ、君も疲れたろうな」
「わかるでしょう。夫が食卓でおならをすることさえ許してくれぬ妻には、やはりこちらが疲れますよ。彼女の家計簿はいつもきちんとしてました。私への小づかいだって一定の額がきまってましてね」
「決してそれ以上はくれなかったんだね」
「ええ。彼女の目的は少しでも貯金して、その貯金で株を買って、株をふやしながら最後に小さいながらも家を建てることでした。
なにしろ、私たちはアパート住まいでしたからね。その目的を彼女は口ぐせのように私に言いきかせました。それを聞くと、私だってむだづかいはできなかったんです」
「君たちは、お子さんもそのために作らなかった」
「ええ。彼女に言わせれば、ちゃんとした経済的基盤がないのに子供を作るのは非合理だというんです。ぼくは、一人、子供がふえたって何とかなるさと言いつづけたんですが、子供より家を先に作るべきだという妻の合理主義はもっともですしね」
「そして、その家ができたのは」
「一昨年ですよ。小さいけど妻の設計でうまくできた家でした。むだのない、合理的な家でした。まるで妻とそっくりの家でした。その家にはじめて入った日、ぼくは得意そうな女房の横で、たまらない息ぐるしさを感じたんです。それがすべての始まりでした」
T君はそう言い終わると、まだ酒の少し残っている杯を、じっと見ながら一人で何かを考えこんでいるようだった。
(わかるなあ)
ぼくはそう言いかけて思わず口をつぐんだ。
「帰ろうか」
「ええ帰りましょう」
彼と別れたあと、ぼくはつくづく夫婦の生活とはむずかしいものだと、いまさらのように考えこんでしまった。
君もそう思わないかい。いったい、悪いのはT君なのか。それとも奥さんだったのか。奥さんには奥さんとしての言い分が――いや、彼女は今でも自分がT君にとって良妻だったと信じきっているだろう。
そう思うといったい、こういう夫婦はどうすればよいのだろう。ぼくはこの問題を君に今日、考えてもらいたいと宿題として出したんだ。
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課長夫人の評判が悪い理由
「社内で、上役の奥さんの寸評を若い連中がやっているのを、おれは今日、耳にしたがね」
「まア。そんな噂話をする青年なんて大嫌い」
「そうだな。決していいもんじゃないな。第一、若いくせに仕事の話ではなく、課長夫人や部長夫人の寸評をするなんて、志がひくいよ」
「本当よ。で、その人たち、何と言ってたんですの」
「なにを?」
「上役の奥さんのことを」
「なんだね。今、君はそんな噂話は大嫌いと言ったばかりじゃないか」
「噂話が嫌いと言ったんじゃないわ。男のくせに噂話をするのが嫌いと言ったのよ」
「同じことじゃないか」
「違いますよ。ねえ、聞かして。私にも参考になるんですから。私が若い方たちに悪口いわれたらあなただってイヤでしょ。だから聞いておきたいわ」
「いくら出す?」
「え? 冗談じゃないわよ」
「じゃあ、聞かしてやろう。おしなべて同僚や部下に評判の悪いのは、デシャバリ夫人とイバリ夫人だな」
「それはどこだって同じことですわ。わかっていますよ」
「それがわかってないんだなあ。君だって」
「どうして、ですの」
「よし、そんならよく聞け。二週間ほど前におれの課の高本君が、ここにやってきたろう」
「ええ。おぼえていますわ」
「その時、お前の高本君にたいする口調をおれはじっと耳かたむけていた。お前、彼にたいして、どんな口のきき方をした」
「どんなって……ごく当たり前のつもりだったけど」
「違う。君はね、まるで目下の者か、弟にたいするような口のきき方、態度をしたぞ」
「そりゃア――ひょっとしたら、そうしたかも知れないけど。だって高本さんはあなたの部下だし、あたしより年下だし」
「おれの部下だったら君の部下かね」
「そうじゃないけど」
「なら、なぜ、キチンとした物の言い方を高本君にしないのか。おれの部下だからといって、高本君は君とは何の関係もないといっていいんだぞ。いうなれば、高本君はおれにたいしては仕事上の部下だが、君とはまったく対等だということを忘れるな」
「どうして、そのくらいのことを、大声たてて怒るんですか」
「そのくらいのこと? これは大変、大事なことだ。よくおぼえておきたまえ。いいか。一般にバカな女房というものは、亭主が会社や職場などで地位が上がれば、自分も偉くなったような錯覚を起こすもんだ。若い者にたいする口のきき方、態度までがだんだん高慢ちきになる。これは部下から見て実に不快でイヤなことだ」
「でも」
「でも、何だね」
「やはり女房だって主人が偉くなるにつれ、それ相応の努力をしてきたことは認めていただかなくっちゃ」
「それは亭主一人が認めてやれば十分なことだろ。なにも外部から認めていただくことはないと思うね。とにかく本当に利口な女房とは、亭主が偉くなればなるほど、部下の人、若い連中に腰をひくくするものだ」
「社内でも、若い人たちはそう言っているんですか」
「言っているとも。A部長の奥さんが評判がいいのは、下役の連中がうかがっても、彼等に実に腰がひくいからなんだね。それに反して、B部長夫人が陰で生意気なクソばばあと言われているのは、彼女が亭主と同じように、自分まで上役気どりをするからさ」
「なるほどねえ」
「大事なことだよ、これは。それから特に、社内の女の子には態度をやさしくしてほしいね。これはもう、男の連中より、そういうことに敏感なんだから」
「でも女の子なんて、別にあなたの仕事を左右するはずないでしょう」
「いや、とんでもない。こういう女の子の評判というのを人事部長なんかは、じっと聞いているんだから。××さんの奥さんは本当に生意気よ、なんて、古株の清瀬益代君なんかがもし昼休みに言えば、そういう固定観念が意外に社内に広がるんだよ。
もし何かの用事で彼女たちが家に来たり、あるいは日曜日にデパートなんかで会ったら、特に愛想よくしてもらいたいね」
「なんだか、あたし、悲しくなってきちゃったわ」
「どうして」
「だって、男のあなたが、そんなミミッチイことにまで、神経質なんですもの」
「そうじゃない。そこまで気をくばらねば、男というのは安心して仕事に打ちこめないんだよ。これは君の一つの内助のあり方なんだから、くれぐれも気をつけてくれよ」
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一円玉でわかるあなたの悪妻度
「君のお母さんのことをね、いろいろ君は批評するけどさ、昔風すぎるって」
「だって、そう思わない? 私、小さいときから、自分の母親みたいな結婚生活したくないと思ってきたのよ。だって、里じゃ、まず父が第一でしょ。父のわがままをみんな母は忍従してきたんですもの」
「忍従か。なるほど、それで君は自分が結婚したらそんな生活はごめんだと考えたわけだな」
「そうよ。あたりまえよ」
「しかしだな。おれ、近ごろ考えるんだけど、昔の女というのは当世風の女性より亭主操縦術をちゃんと心得ていたかもしれないぞ。彼女たちは君たちより男というものの取扱い方を百も承知してだな、一見、夫の言いなりになるように見せながら、実は要所、要所を締めていたのかもしれないぞ」
「ほんとかしら?」
「たとえばだよ。君のお母さんは君のお父さんが月給袋を渡すとき、必ずきちんとそれを両手で受けとって、きちんとアリガトウゴザイマスと言ったそうだな」
「ええ」
「いつか君はそれを笑っていたけれど」
「あたし、そんなの美風じゃないと思うわ。夫婦の問題では形式的すぎるじゃないの」
「たしかに形式的だ。しかしねえ。この形式的なことが夫婦間では近ごろまったくばかにされ、軽蔑されてきたような気がするぜ。主としてそれはおまえさんたち女房の側からだけど。だがね、男というもんは女房族がよくご存知のように、きわめて単純で子どもみたいなもんだ。女房が自分のもってきた月給袋を両手でおしいただいてアリガトウゴザイマシタと言ってくれれば……」
「あなた、そんなことがうれしいの」
「うれしいさ。ばかにするならばかにしてもいいが 女房がそうありがたがってくれたのかと思うと、どんな男でも一ヵ月、会社でいやな思いを我慢したり、疲れた体に鞭うって働いたことがむくわれたような気がするだろう」
「そんなもんかしら。子どもみたい」
「子どもみたいだよ。男って。たった一言だぜ。アリガトウゴザイマシタ。改まって、坐りなおして、そう言うことに何の努力もいらないじゃないか」
「そうですか。じゃあ、これから、そう言いますわよ。言えばいいんでしょ、言えば。でもやっぱりばかばかしいな。形式的で。そんな言葉口に出さなくたって、夫への感謝の気持はほかのことで出せるんじゃない」
「いや、形式は大事だよ。たとえばだ。こういうことがある。君はときどき、一円玉や五円玉を台所の流しのところにポンとおき忘れていることがあるだろ。二、三日の間、だらしなく」
「そんなこと、あったかしら」
「あれえ、あんなこと言ってら。おれはたびたび見たぜ」
「何かのおつりだったんでしょ。一円ぐらいのことで、だらしないなんてブツブツ言うもんじゃないわよ」
「だらしないことを文句言ってるんじゃないよ。なるほど、たかが一円だ」
「あなただってご自分が使うときは五十円、百円を平気でむだ遣いなさるじゃありませんか。この二、三日前も、タクシーの運転手に、おツリはいらないよ、って。ああいうのをほんとうのだらしない虚栄心だというんだわ」
「ちがう(大声で)。そこだなあ、考え方のちがいは。おれの百円は、おれがかせいだものだ。しかし、台所の一円は君がかせいだものじゃない。(だんだん、小声になって)もちろん君だって家のことで働いているんだから、そうはいえないけど。しかしねえ、現実に月給をもらってきている亭主の目から見るとね、家のどこかに一円玉や五円玉が無造作にポンと放り出されるのを見ると、何ともいえぬ情けない気持になるもんだぜ」
「神経質ねえ。あなたって」
「へえ。いつか、君はおれのことを無神経だと言ったがな。まあ、いいさ、とかくだ。そういう一円玉を見ると、世の亭主すべてはね、一ヵ月の自分の努力、苦労がすべて妻からバカにされているような気がするんだ。たった一円玉だが。
しかし、その一円玉におれの血と汗とがにじんでいるんだぞ。アダやオロソカにしてもらってタマルモンカイ、そういう気がするんだぞ。そのことがわからなくて、女房業がつとまると思ったら、ちゃんちゃらおかしいや」
「なんですって」
と、まあ、一般の亭主なら言うだろうね。おれは言わないけどさ。とにかく、そういうもんだよ。夫っていうのはちょっとしたそんなことで、ぐっとよろこんだり、ぐっと傷つけられたりすることを、女房はもっと知ってもらいたいんだ。実際、たいした手数はかからねえんだから、アリガトウゴザイマシタと言ったり、台所の一円玉を財布にしまっておくことは。男なんて、そのくらいのことで、うちの女房いい女房と思うもんだぜ。
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男の苦しみ、女の哀しみ
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人を愛するとは
愛とは……いろいろな説明や解釈があるでしょうが、私は愛とは「棄てないこと」だと思っています。愛する対象が――人間であれ、ものであれ――どんなにみにくく、気にいらなくなっても、これを棄てないこと、それが愛のはじまりなのです。
逆に言えば、美しく、魅力的なものに心ひかれるのを普通、われわれは愛とよんでいますが、そんなものは愛ではない。なぜなら美しく魅力的なものに心ひかれるのは、誰でもができる当然の、やさしい行為だからである。愛とは誰でもができる、やさしい行為ではありません。
恋愛の場合だって同じことです。あなたが若く、あなたの恋人が若くて魅力的な時、あなたたちの恋愛は必ずしも「愛」とはよべない。若くて魅力的な青年に心ひかれるのはどんな女性だってできる行為です。それは「愛」ではなく「情熱」とよぶべきなのです。情熱は年ごろの男性と女性とが容易にもつことのできる感情で、愛ではないのです。
愛は男と女とが人生の苦しみも悦《よろこ》びもわかちあい、時にはつきなんとする二人の心の火を忍耐と努力によって一生、消さない時に生れます。二人がみにくくなり、倦怠期《けんたいき》にはいっても情熱のかわりに生の連帯という感情が育《はぐく》まれる時、生まれるのが「愛」なのです。
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愛の男女不平等について
港と船・女と男
私は昨日まで九州の天草の島に行っていました。キリシタンの殉教史や迫害の歴史で有名なこの島に本渡という市がある。市といっても小さな漁港と九州本土の三角からくる船がつく港にそって小さな町があり、その町の背後に小高い丘があります。むかし天草四郎に率いられたキリシタン軍とその城との間に血みどろの激戦が行われた丘ですが、今はそこも荒涼として、ただ小さな碑と、白い十字架とがたっているだけです。
黄昏、その白い十字架のたつ丘の上に腰をおろして、私は夕靄につつまれていく港と、暗い灯をにじませて港を出ていく小さな船をじっと見ていた。それを見つめながら、私は人生というものを考えたが、その人生の考えのなかには、男と女との関係ももちろん含まれていました。
暮れなずむ丘の上から、港とその港を出ていく船を見おろしながら、私はなぜ男と女とのことを考えたのか。それは別に一時の思いつきや感傷ではない。私自身の「男と女との関係」についての前からの考えが、夕暮の港と船とのイメージに投影したからです。私には運命という大きな海に乗り出していく船が男に見え、その船が出発し、また傷ついて戻ってくる港が女だという古風な考えが頭にあったからです。
なんだ、それだけのことかと、あなたたちはおっしゃるかもしれません。たしかにこのイメージは古風で単純にちがいありませんが、しかし私には確信があります。
ながい歴史のあいだ、男と女とはいつもこのような港と船との関係だったし、今後、社会がどう変ろうと、どう改善されようと、どんな革命が起ろうと、男は運命という黒い未知の海に乗りだしていく船であり、その船が傷ついて戻る場所が女という港であることは、永久に同じだろうと思います。そして傷ついた船は傷がなおれば、ふたたび港を棄てて、海に出ていくでしょう。彼が港に戻ったまま、もはやそこから離れないのは、老年の時か、死の時だけであります。これが今日までの男と女の本質的な関係であり、今後の本質的な関係でもあると私は思っているのです。
天草の白い十字架のたつ丘に腰をおろして、私はそんなイメージを思いうかべましたが、今一つ、私は男女の本質的な関係をみごとなイメージで描いた映画をここですぐ、あげることができます。すこし以前のことになりますが、おそらくみなさんもよく御存じの『道』というイタリア映画です。あの映画はその甘悲しい音楽のために、ずいぶん感傷的に日本では見られましたが、本当はずいぶんおそろしい映画なのです。なぜ、おそろしいか。それは男と女の、永遠に変ることのない関係の原型[#「原型」に傍点]がそこにはっきり描きだされているからです。
人生――その一つの「道」
ごらんにならなかった方のために簡単なすじ書を申しますと、ジェルソミーナという一人の白痴にちかい女(この白痴にちかいという言葉に注意しておいてください。その理由はあとで書きます)が、ザンバーノという粗暴な男に拾われて、村から村、町から町を旅して歩く辻芸人にさせられます。芸がわるいと彼女は男に罵られ、いじめられ、叩かれます。彼女はこの仕打ちにたえかねて、ある日、彼から逃げていってしまう。
男は彼女を失って、初めて、この女がどんなに自分にとってかけがえなく大事なものだったかを知ります。一方、ジェルソミーナもまた、自分がいなければ、辻芸のできぬ彼のところにやっぱり、戻ってしまうのです。そしてふたたび、男のあとをトボトボとついて村から村へまわる女の姿が画面にうつしだされます。
やがて彼女は病気になった。役にたたなくなった女をザンバーノは山の中に棄ててしまう。女は冬のさびしい陽のあたる道で一人で死んでいく。
男のザンバーノはその後、どうしたか。映画ではそれを別に詳しく描いていません。ただ、ラストのシーンで、男が夜の海べりで自分の棄てた女を思い、泪《なみだ》を一回ながす場面がある。それで終りです。
私はこの映画をみて、これほど古今、東西、無数の男女の人間関係を原型化したものはないと感動しました。男と女とはいつの時代にあっても、このような形、このような関係をとってきたし、今後もとるでしょう。
この映画を見たあと、私は友人の作家、安岡章太郎氏と、こんな話をしました。
「あのジェルソミーナはキリストを女性の形にしたものだな」
「うん、そうだ。だから、俺たちにはむつかしい」
と安岡もうなずきました。
先ほども書いたように、この映画の監督がジェルソミーナをなぜ、白痴にちかい女にしたかの理由はここであきらかです。ドストエフスキーは彼がもっとも理想的人間(つまりキリストにちかい男)を『白痴』という題で書きました。そういう大傑作に及ぶはずもありませんが、私も自分のキリストを『おバカ[#「バカ」に傍点]さん』という同じような題で小説にしたことがある。
こうしたキリスト教的感覚に裏うちされたこの映画は、実は安岡の言うように本気でみれば、日本人のわれわれにはムツかしい作品ですが、もし私がさきほどから申しているように、男と女との原型的関係を描いた作品と見るならば、われわれにもわかるはずです。
大事なところは次の点です。ジェルソミーナはザンバーノといっしょにいれば自分の人生がますます不幸になると知って逃げだした。しかし、やはり彼女は、彼のところに戻ってきた。そしてとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]と、そんな男のあとをついて道[#「道」に傍点]を歩いていった。
今ように言えば、こんな非近代的で間のぬけた人生を若い女性は選ぶまいと思うでしょう。ジェルソミーナを文字どおり間抜けか、「白痴」か「おバカさん」だと思うでしょう。しかしその白痴の女、おバカさんの女にわれわれはなぜあの映画を見たとき、感動したのでしょうか。理由は簡単だ。本当の愛というものは白痴のようでなければならず、おバカさんのようでなければならぬことを、われわれは知っているから、その本当の愛を実現したあの女に感動したのである。そしてあなたたち女性はわれわれ男とちがって、この愛を知っている。どんなに近代的なことをおっしゃっても、女性は本質的にジェルソミーナのような愛の生き方をいざとなればしてしまう。男を封建的とか横暴とか批判されても、愛の世界では女はいつもジェルソミーナである。そして愛の世界では男はいつもやくざで粗暴なザンバーノでしかない。その原型を『道』は残酷なほどはっきり描いているのです。
『道』という題は人生を意味します。黄昏、粗暴な男がさきだって歩き、そのうしろを泣きじゃくりながら女がついていく。あの映像の意味はわれわれの人生の映像だと私は思う。
男にとって愛とは……
女は港であり、男は船。傷ついた時だけ戻って傷が修理されれば港を棄てて海に出ていく。女は人生でこの男のあとをついていけば不幸になるとわかっていても、やはり黄昏のながい道をトボトボとついていく。
そう私が書けば、あなたたちは不愉快でしょう。私だってあなたたち女性に悦んでいただくためには、進歩的文化人や自称ヒューマニストのように、男女の愛を「港」と「船」との関係ではなく、いっしょに海にのり出す一隻の船に一組の男女が同格の関係で乗りくむことであり、その関係はつねに社会意識にめざめた「前むきの姿勢」でなければならぬなどと言ったほうがよいぐらいは知っています。しかし私はこうした考えの十分の三ぐらいは承認しても、十分の七ぐらいには反発を感じます。こうした発言のなかには人間不在の偽善があるからです。進歩的とか近代性とかいう美名にかくれて、男女の愛の哀しさや深さをごまかしている軽薄さがひそんでいるからです。私は彼等に、本気でお前さんたちは愛というものをそう軽々しく扱えるのか、と開きなおりたい気持にかられます。
私が、そういう自称ヒューマニストや文化人諸氏に開きなおるのは、愛の世界では男と女とはまったく異種族だという長い間にできあがった考えが根底にあるからです。愛の世界では男と女とは同じ面貌をかぶっていますが、その発想も心理も本能も根本的にちがうという考えがあるからです。このちがった者同士は正直に言って、どこまで互いを理解しあえるのか、私は疑問にさえ思っている。おたがい理解しあえぬと思われるこの男女を軽々しく一つの船に乗せて、前むきの姿勢で進めなどという軽薄な愛の理論はたいていの場合、身上相談専門の女史か、異性を傷つけ、自分も傷ついている愛を経験したことのない学者先生ぐらいが口に出すのであって、多少とも小説を書いた作家なら決して口にだして言わないでしょう。
愛の世界で、女は愛に生きぬきます。私はどんな女でも最後まで愛を信じているのではないかと思う。なぜなら女性というものは愛以外の仕事はすべて本職ではないからです。たまさか、愛以外のことを本職にしている女性もいますが、もし彼女が誰かを愛したならば、この本職はたちまち副業に変るでしょう。その愛が恋人にたいする愛、夫にたいする愛、子供にたいする母性愛であれ、それはどうでもよい。女はこれら愛の対象をぬきにして、何かをやれるとは私には絶対に思えない。もしそういう女がいるとしても私はその時、彼女の顔や表情にある欠如のみにくさと哀しさとを感じます。その欠如のみにくさとは恋人でありえなかった哀しさ、妻でありえなかった哀しさ、母でありえなかった哀しさ――つまり愛したり、愛されたりしえなかった女の欠如のみにくさと哀しさです。よく「仕事しか愛さないわ」などという女性がいますが、あれがたんなる彼女たちのコンプレックスの裏がえしか、虚栄的強がりであるぐらいは、私などよりあなたたち女性のほうが炯眼《けいがん》によく見ぬいていらっしゃるでしょう。
ところがふしぎなことに、男の場合は誰かを愛したり、誰かに愛されたりしなくても、その顔にこの欠如のみにくさや哀しさはほとんど現われません。恋人や妻がいなくても、仕事や運命と一人で闘っている男には、男の臭いがしますが、恋人であれ、子供であれ愛する対象をどこかに持たぬ女には、女の匂いがしないのは一体なぜか。これを考えていただきたい。
それは女が愛を本職として生き、他のものはすべて副業なのにたいし、われわれ男にとっては愛欲は一生をかける本職ではなく、一時的な副業にすぎないからです。言いかえれば男にとって女にたいする愛は人生の三十パーセントの価値しかありません。愛の世界では男はまことにやくざで、落第生なのです。
男はそれでは一体なにか。男は運命や自分の外部の世界を征服することしか考えていない存在です。だから男は恒久的《こうきゆうてき》愛の対象などが横にいなくても美しい顔をもっています。たとえば画家の岡本太郎さんの顔は男の臭いがあふれていますが、岡本さんは独身です。男が男の臭いがするのは、彼が父親のときでも恋人といっしょのときでもなく、自分の仕事にうちこんでいるときだけだとは、あなたたち女性がよく言う言葉ではありませんか。
こうした愛の世界では、やくざな男は、運命に傷ついた体をいやすときだけ、港に戻ります。彼はそのときだけ港というものにいつまでも停泊したい気になりますが、ペンキを塗りかえ、破損した箇所をおだやかな港で修理されれば、ふたたび、海にむかって自分以外の世界にむかって、出ていこうとする。出ていかざるをえないのです。
港である女にはそれがわからない。たいていの港はなぜ自分が修理した船が、黄昏、自分を棄ててふたたび灯をともして出航するのかわからない。ここに男と女のどうにもならぬ裂け目があるのです。女は心の底では男という船がいつも自分という港のなかに停泊していることを望んでいる。しかしそれが不可能と知ったときでさえも、港はいつもこう寂しく呟《つぶや》く。
「いつかは、あの人は自分のところに戻ってくるわ。あの船は傷ついてこの港に戻ってくるわ」
この夢が女という港の生き甲斐になります。私はウソを言っているのではない。あなたたち女性が胸に手をあてて考えられれば、このせつない夢には必ず思い当られるはずだ。
愛のはじまり
ジェルソミーナがザンバーノのところに戻ったのもこの港の感情からだったと言えましょう。自分がついていかねば、あの男を世話する者もいないという心情が、彼女をして、男のところに帰らしめたのである。そして男のうしろをとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]とついて歩くあの姿をつくらせたのである。港のかわりにせめて親船の形をとったのであります。
あなたたちはこうした女の姿勢をたまらなくみじめだとお思いでしょう。それでは男が勝手すぎるともお考えでしょう。しかし今、私は倫理的判断をここでやっているのではない。男と女との関係は原型的にこうだと申し上げているのにすぎません。そして男だってザンバーノが泣いたように自分が棄てた港にたいして言いようのない苦しさを感じることのあるのも確かです。
あなたがたがまだ若く、恋愛をされているならば、このようなイメージを御自分と恋人との間にお持ちにならぬと思います。自分と彼とが一隻の船に同乗するのだという夢が恋愛というものでしょう。しかし私はいわゆる恋愛のなかに本当の男女の関係はないと考えています。本当の男女の関係が出現するのは夫婦になってからであり、そして妻として生きてこられた女性ならば、おそらく今、私が申し上げた港と船のイメージはわかっていただけるのではないか、と思うのです。
こういうイメージに封建的だの、男性にばかり都合がいいの、という批判を加えるのは、阿呆でもできます。しかし女性が愛の世界で立派なのは彼女がいつも港である姿勢を持ちつづけてきたからではないでしょうか。ザンバーノのあとをとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]とついていくジェルソミーナの黄昏の姿を持っていたからではないでしょうか。
私はさきほどこのジェルソミーナの姿勢にキリスト教的感覚があると言いましたが、それは、キリスト自身がザンバーノという男に象徴された人間のあとをいつもとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]ついていったからです。キリストはジェルソミーナがザンバーノにいじめられるように、人間からいじめられた。しかし彼はその人間を棄てなかった。そのあとをとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]ついていった。これら人間といっしょにいれば自分が十字架というあの惨めな死をとげることを百も承知しながら、彼等を棄てえなかった。それをもし「愛」とよぶならば、とぼとぼと男のあとに従うジェルソミーナはまた「愛」なのであります。
「愛」とは魅力あるもの、美しいものに心ひかれることではない。美しいもの、魅力あるものに心ひかれるのは「情熱」といって「愛」とは関係のないことである。「愛」とは棄てないことから始まる。こういう「愛」ができたのは今日まで女性だけでした。私が女性を尊敬するのは彼女たちにはやくざなわれわれ男性の理解しえぬこの黄昏の港と黄昏の道を歩く姿が象徴的にあるからです。私はこの男と女の姿が今日まで存在したように、明日も永久に存在すると思います。私はそれが女にとってみじめな哀しいことだろうと思いますが、また女の崇高さはそういう点にあるのではないかとも思います。
おそらくこの文章には反発される読者も多いと思います。私は読者が感情や怒りでこの文章を読まれずに、客観的な眼で私に返事を書いてくださることを望みます。投稿欄ででも、私はまたお答えするでしょう。
[#改ページ]
姦通《かんつう》論
心の奥底の「ある願望」
あなたも本当は姦通に憧れている……。こう書きますとあなたたちの中には顔をしかめられる方がいられるかも知れない。顔をしかめられる方がいられても、私はそう断定することができると思っている。
私はこれを読んで下さっているあなたがまだ結婚していられないお嬢さんであるか、既に人妻になられた方かは知りません。だがお嬢さんであろうと人妻であろうと、あなたの心の奥には姦通をそっとやってみたいと思う衝動がたしかにあるのは事実です。
最近あるテレビの関係者から聞いたのですが、健全な主婦の中にも、朝、主人を会社に送りだしたあと、テレビのチャンネルをひねり、夫を裏切ろうとする妻を主人公にしたメロドラマを見る御婦人が非常に多いとのことです。
これは別にふしぎでもなんでもない。早い話、戦後のベスト・セラーの中でもっとも代表的なものといえば『美徳のよろめき』があります。『武蔵野夫人』があります。『氾濫《はんらん》』があります。これらの作品はそれぞれ何らかの意味で姦通を素材としていることは誰でも知っている。
テレビのメロドラマを見るにしろ、『美徳のよろめき』を読むにしろ、この際、あなたの心の動きはまず次のようなものである。
[#ここから1字下げ]
(1) あなたは自分の主人、自分の家庭を裏切ったり、破壊してまで姦通をする勇気がないことを知っている。
(2) だが姦通という言葉は(たとえあなたが主人を心から愛されていても)なにかあやしい甘美な魔力をもってひびいてくるはずです。むかしのように姦通は女性にとってたんに不義とか御法度とかで単純に心から消すことができなくなっている現在、たしかに姦通という言葉は誘惑という文字と同様に、あなたの心を疼《うず》かせる要素をもっています。
(3) だがあなたはテレビを見ることによって、姦通を描いた小説を読むことによって現実にはやる勇気のない衝動をここで解放せしめることができる。
[#ここで字下げ終わり]
「もしも家庭を破壊しないですむなら……もし世間体というものや他人の眼がなければ、……あたしだって姦通するかもしれないわ」
ひそかに、隠微《いんび》にあなたはそう思われるにちがいない。
もしそうでないという人妻がいられたら私は彼女をカマトト、あるいは立派な大聖女だと思う。だがいやしくも本書の読者にはカマトトがいられるはずはない。また大聖女ならばなにもこの本をお読みになる必要はない。あなたたちはこの私と同様、煩悩《ぼんのう》に悩む方たちであるはずです。
けれどもこうした最近の現象だけでは実証性はどこにもありません。私はそこでなぜ、「あなたたちの心に姦通をしたいという気持がひそんでいるのか」をもっとハッキリと、もっと論理的に説明しなければならないでしょう。そこで今日はこのことについて少し、しゃべりたいと思います。
「不安」と「情熱」と
さて姦通とはなんであるか。いうまでもなくこれは普通、妻ある夫、夫ある妻が自分の妻や夫以外の異性に情熱を燃やすことです。あるいは若い娘が妻子ある男性と恋愛をすることです。
このほかに姦通という言葉は、兄妹や姉弟――時としては母と息子とが関係をもつという近親相姦の場合にも使われることがありますが、これは稀だとも言えましょう。
だが姦通というものが妻子ある男と娘との関係にせよ、夫ある妻と青年との関係にせよ、あるいは近親相姦を指すにせよ、ここから姦通の第一の条件がハッキリわれわれにうかんできます。姦通のもつ性格をすぐつかむことができます。
そうです。姦通の第一の性格とは次のようなものです。
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≪それはあらゆる恋愛のうちでも、恋しあう二人にとって、苦しい、困難な、障碍《しようがい》の多い恋愛である≫
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思ってもごらんなさい。あなたが仮に妻子のある一人の男性と恋愛したとする。あなたは毎日、彼のことを考える。だが考えれば考えるほどそれは苦しいつらいものなのです。他の女性たちが同じようにやっている恋愛のように、周りから祝福もされず、社会の道徳からみればある非難をうけねばならぬような暗さをもっている。あなたは彼の妻のこと、彼の子供のことを思い、できるならばその人たちを傷つけたくはないと考える。だが胸にこみあげる彼への烈しい執着はどうすることもできない。ひょっとすると、このまま彼とは永久に結婚することもできぬかもしれぬ。よし、できたとしても、そのゴールに到着するためには他の恋愛にはくらべものにもならぬほど、多くの困難や障碍をのりこえていかねばならぬのです。
このように、姦通とは恋愛のうちでもっとも苦しい、障碍の多いものだということなのですが、ここからさらに姦通の第二の性格が生れてきます。
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≪姦通の当事者である男女はこの苦しさ、この多くの障碍のために、かえって相手に執着し、相手を慕うのである≫
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もう一度、この言葉を読みかえしてください。もう一度、あなたが妻子ある男性に恋をしていると想像してください。あなたはきっと、このことに気がつかれるはずです。普通の恋愛とちがって、妻子ある男性との恋愛は周囲の眼をさけねばならぬこともあるでしょう。デート一つにしろ、そうしばしば、あからさまに会うこともできないでしょう。彼の妻の嫉妬に怯《おび》えねばならぬかもしれぬ。いや、あなた自身も、彼の妻にたいして嫉妬を感じずにはいられないでしょう。さらに彼が自分を捨てて、妻のところに戻るのではないかという不安、苦悩があなたの胸をしめつける。
けれどもよく考えてみれば、彼に会うこともあからさまにできぬ暗い恋愛なればこそ、余計に彼に会いたいと思うのではないでしょうか。彼にたいする嫉妬や不安や寂しさに苦しむゆえに、かえって彼をほしい、彼を自分のものにしたいと願うのではないでしょうか。なぜならもし、あなたがなんの心配も顧慮もなく毎日でも彼に会える身ならば、これほどその男にたいする執着は起きないからです。ありあまったものにわれわれは多くの場合、それほど関心を起しません。
だから――姦通恋愛のもたらす障碍や苦しみは、実はその当事者である男女の心をさらに燃え上らせる油となっているのです。いわばこれらの苦しみや不安が二人を引きよせる引力ともなっているのです。
だから私は姦通は≪情熱≫の純粋なあらわれであると申したいのです。≪情熱≫はみなさんも御存知のように≪愛情≫とは本質的にちがうものです。情熱とは愛情のように二人の男女がひそかな努力やめだたぬ忍耐によって、一歩一歩、創るものではなく、だれでも異性にたいして起せる本能的な感情です。その上、情熱は不安や苦しみによって燃えあがり、この不安や苦しみがなくなれば色あせるものです。有名なフランスの作家プルーストの言葉がこの情熱の意味を次のようにはっきり[#「はっきり」に傍点]と定義しています。
≪安定は情熱を殺し、不安は情熱をたかめる≫
彼に会えぬこと、相手のために苦しむこと、……その他、もろもろの恋愛のもつ苦悩や不安が情熱の火に油をそそぐが、一度二人が結婚し苦しむ必要がなくなると、この情熱はまたたくまに消えてしまう。いわゆる倦怠が夫婦の間をおそってくる。プルーストはこの誰しもが気づいている情熱の性格を、先ほどのような簡潔な言葉で定義したのでした。
こうしてみると姦通こそは情熱のうちでもっとも烈しい、もっとも強いものではないでしょうか。なぜなら姦通こそは先ほど繰りかえして申しあげたように、あらゆる恋愛のうちでも、一番苦しみや不安を伴うものだからです。姦通のもつ罪の意識や、薄氷のように心もとない二人の関係は、彼等の暗い情熱をひそかに、しかしいっそう烈しく燃えあがらせずにはいられないからです。
「姦通」にある愛の宿命
あなたは今日まで小説のなかで無数の、いろいろなタイプの恋愛をお読みになったでしょう。その中にはせつない恋もあり、甘美な恋もあり、醜悪な恋愛もきよらかな恋愛もあったと思います。そしてあなたは一つの小説から次の小説を読むたびに世界には星のように無数の恋愛があると、お考えになったかもしれません。
しかし率直に言いますと、文学にあらわれた一見さまざまの恋愛の大半は、実は一つの型しかふんでいない。その型とは――はっきり書きましょう――実は姦通心理の型なのです。
これは少し大胆な意見かもしれませんが、日本文学はともかくとして、西欧文学のなかで初めて恋愛がはっきりと讃美されたのは、ローラン・ド・ルネビイユという人の説によると『トリスタンとイズウ』だと言われている。トリスタンの話はきっと皆さまも御存じだと思いますが、これは西欧中世紀にドイツやフランスなどで共通して語りつたえられた物語です。
話とすじは簡単である。騎士トリスタンは王マルクの命令をうけて、自分の主君のために妃をさがしに旅に出る。さまざまの辛苦ののちに彼はイズウという美女にめぐりあい、彼女をマルク王の妃として連れかえろうとするが、魔女の媚薬《びやく》を口にしたため、彼自身がこのイズウに恋いこがれてしまう。そしてイズウ自身もこの騎士に恋情をおぼえるに至ったのです。
だがこのトリスタンとイズウの恋愛は絶望的なもの、悲劇的なものです。今とちがって西欧の中世時代を支配していたのは基督教ときびしい封建主義でした。イズウはトリスタンにとっては自分の王の妃となる女です。一方、トリスタンはイズウにとっては自分の臣下ともなるべき騎士です。この二人が恋しあうことは、当時の制度や宗教からいってもっとも厳罰にあたいすることでした。
したがって二人の恋愛は、苦難と障碍とをはじめから予想した悲劇的なものだったと言えます。はっきり申せば二人はこの地上で「結びあうことのできぬ」宿命をもっていたと言えましょう。
結局――トリスタンとイズウは地上で果せぬ二人の愛を永遠の世界、死後の世界で成就するために自殺しなければならぬ。トリスタンが死に、イズウもそのあとを追う終幕は悲壮で美しいものですが、それは彼等がはじめて会った時からすでにきめられてしまった運命とも言えましょう。
『トリスタンとイズウ』の物語はふつう、中世の封建制にたいするルネッサンス的な人間主義の反抗として読まれています。あるいは結婚にたいする恋愛の讃歌として考える人もいます。
その説の是非はここではどうでもよろしい。ここであなたが気づかれねばならぬことは、西洋文学で最初の恋愛讃美の物語が――ごらんなさい――姦通という形式をとっているということです。トリスタンのイズウにたいする恋愛は自分の主君マルク王の妃にたいする恋愛です。はっきり言ってしまえば主君の妻に道ならぬ思いをいだいたということになります。姦通なのです。
西洋文学の最初の恋愛讃美の物語が、姦通という形式をふまえたことは、後々の恋愛文学に決定的な雛型を与えました。ローラン・ド・ルネビイユの説によると後世の恋愛小説の大半はこのトリスタンとイズウの恋愛のもつ二つの性格、
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(1) 引きさかれた恋愛、結びあうことの困難な恋愛
(2) その障碍や苦悩を油として燃えあがる恋愛
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を、その作品の中にみちびき入れているというのです。祝福された、ひろびろとした男女の愛情を描くかわりに、苦しみ、嫉妬、不信、疑惑という心の悶えを描く恋愛か、あるいは、たがいに恋しあっていても、その恋人には簡単に結びあえぬ距離のあるような引きさかれた恋愛を、大半の小説は描いているというわけです。
はっきり言ってしまうと、こういうことになります。つまり大半の近代文学は、姦通がその最も強烈なあらわれである≪情熱≫しか描かなかったのであり、ひろびろとした祝福された男女の≪愛≫を描くことはまれだったということです。
どんな小説でも手にとってごらんなさい。百冊のうち九十九冊までは、一人の男が一人の女のためにどう苦しんだか(コンスタンの『アドルフ』のような小説)、一人の人妻が夫との安定した生活≪愛≫に充ちたりず別の男とのしびれるような関係≪情熱≫に走ったか(フローベルの『ボヴァリイ夫人』のような小説)のいずれかに属する、といっても過言ではないようです。安定すれば、色あせる≪情熱≫を描いたのが近代小説の性格であり、安定したのち、男と女とが、夫と妻が、一歩一歩、きずいていった≪愛≫を描いた作品はほとんど少ないと言えましょう。つまり、あなたたちはこうした多くの近代小説を通して、たえず≪情熱≫にふれているのであり――ここからともすると≪情熱≫を≪愛≫と混同したり、≪愛≫の中に無理矢理に≪情熱≫をひきこもうとしたり(これは不可能なことです。愛と情熱とは水と油とのように合致せぬものなのですから)する混乱が、現代人の愛情生活のなかに生れてくるのです。
「結ばれぬ純愛」の真理
以上のことはたとえ、純愛といわれている恋愛にもあてはまります。少なくとも純愛を描いたといわれる作品にたいして適用できます。結論から先に申しますと、いわゆる純愛物語といわれる作品は、二人の男女がいかに長くそのほろびやすい≪情熱≫(≪愛≫では決してありません)を持続したかを描いたものにすぎません。
早い話がどの純愛小説でもよろしい。たとえばジイドの『狭《せま》き門』でもいい、ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』でもいい、日本でいえば中河与一氏の『天の夕顔』のように評判の高かったものでもよろしい。こうした本に描かれているのは純愛ではなくて、主人公が自分のもろい≪情熱≫をいつまでも持続させるためにいかなる手をうったかということなのです。
シラノ一つをとってもこのことはすぐわかります。御存じのようにエドモン・ロスタンが書いた戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』は満天下の子女の紅涙をしぼるに足る純愛物語です。
シラノは剣をとっては無双、しかも哲学や詩に通じた文武両道に秀でたガスコン青年隊の剣士でした。しかし天は二物を与えずのたとえの通り、この男は顔が醜かった。その鼻があまりに大きく太かったのです。
シラノは自分の従妹のロクサーヌに恋をしていた。だがおのが顔の醜さを思うと、彼にはせつない胸のうちを告白することはできなかった。
この時、クリスチャンという凡庸なつまらぬ男が、シラノの所属する青年隊の一人になりました。その上この男はロクサーヌに夢中になってしまったのである。ロクサーヌもまた彼を憎からず思っているらしい。
シラノは自分の恋を諦めました。諦めただけではなく、クリスチャンのために、この凡庸な男の恋が成就するよう、進んで彼を助けてやったのである。クリスチャンはシラノと違って無学無才なつまらぬ男ですから美しい恋の言葉を知らぬ。その男に代って恋文を書いてやり、時には闇を利用して美しい言の葉を彼に教えてやる。
こうしてクリスチャンはシラノの助力でロクサーヌと婚姻することができました。だがシラノは決してことの真相を打ち明けなかった。自分の胸に秘めていたのであります。
やがて戦争が起る。クリスチャンもシラノも出征する。クリスチャンは不幸にして戦死し、ロクサーヌは尼寺にはいる。未亡人になった彼女を、シラノは毎日なぐさめるため修道院にかよう。そして彼は自分が息をひきとるまで、自分こそ彼女を愛していた唯一人の男だったことを口には出さなかった……。
これが有名な『シラノ・ド・ベルジュラック』の大略のすじであり、一読、満天下の子女の紅涙をしぼるに十分な「純愛物語」と言えましょう。
だが待っていただきたい。この「シラノ」を読んだ時、私は少なからざる疑問を数ヵ所におぼえた。その二、三をここに書いてみましょう。
(1) まず第一にふしぎなのはシラノという男がロクサーヌをなぜ諦めたかという点です。鼻がみにくいから――だが鼻がみにくいだけで男は自分の好きな女を諦められるのか。少なくとも私なら鼻が三角であろうが四角であろうが、そのくらいのことで愛している女から身を引くようなことはせぬ。
(2) 第二にシラノがクリスチャンという男とロクサーヌとを結婚させた心理です。さきにも書きましたように、クリスチャンは凡庸なつまらぬ男だった。しかもシラノはこの男を軽蔑していた。自分が軽蔑している男を愛する女と結婚させるというのは、普通、よくよくすねた心か、復讐の心理がなければできぬ行為です。なぜなら、ロクサーヌはいつかはこのクリスチャンの凡庸さ、つまらなさに気づき不幸を感ずるでしょう。その不幸をシラノが予想しなかったはずはないからである。
この疑問をみなさんはどう解釈されるでしょうか。答えは明瞭、簡潔です。シラノ・ド・ベルジュラックは≪安定は情熱を殺し、不安は情熱をたかめる≫という単純な、しかし人があまり気づいていない原則を知っていたのです。だから彼はたえず自分とロクサーヌとの関係を不安定[#「不安定」に傍点]にしておこうと考えたのであります。自分とロクサーヌとが結ばれない(ちょうどトリスタンとイズウとの間のように……)運命をつくるならば、彼はいつまでもその苦しみ、嫉妬などによって彼女への≪情熱≫を燃やしつづけることができるのです。
クリスチャンにロクサーヌを嫁がすこと――そうすれば彼女は人妻になります。人妻に心を燃やすことはひそかな姦通です。自分は彼女と結婚できない。しかし、そのために≪情熱≫はいつまでも持続できるのです。もし逆にシラノがロクサーヌと結婚したとしてごらんなさい。安定は≪情熱≫を殺します。もう苦しむ必要はない。もう嫉妬する機会もなくなる。その代り≪情熱≫は色あせ、枯れ、いかなる夫婦も陥るあの倦怠と疲労の生活が続くでしょう。この点をシラノはよく心得ていたのでした。だから彼は結婚をクリスチャンにゆずるという一見、敗北の形式をとりながら実は情熱の世界で勝利をえたのです。『シラノ・ド・ベルジュラック』は外見、純愛の物語です。けれどもよく読めばこの純愛は≪愛≫の創造ではなく、≪情熱≫を不安定な男女の関係で持続させたにすぎぬ話だったことがおわかりでしょう。
「シラノ」だけではありません。世のいわゆる純愛物語のすべてが――たとえば先にあげた『狭き門』にしろ『天の夕顔』にしろ、私が今、申した情熱持続の話であって本当の≪愛≫を創造する本ではないことがこれでおわかりと思います。つまり、われわれが漠然と純愛と考えていたものも、姦通心理がそのもっとも強烈な表現である情熱しかとりあげていないのであります。
「愛」とは「情熱」だろうか……
いよいよ結論らしいものを述べねばならなくなりました。私はさきにあなたたちも本当は姦通に憧れていると書きましたが、その理由はほぼおわかりになって頂けたと思う。それは言いかえれば人間の心には姦通――つまり≪情熱≫のはげしい表現を求める衝動がいつもひそんでいるからです。あなたたちは映画のスクリーンで燃えるような男女の恋愛をごらんになる。自分も一度はああいう恋愛をしてみたいとお考えになる。
だが、スクリーンでも小説でも≪情熱≫はかきますが、本当の≪愛≫の生活については語ることはまれです。カンナンシンク、「すれちがい」の末、やっとめぐりあった『君の名は』の春樹と真知子とが結婚して、どうなったかを菊田一夫先生は決して語ってくれません。あの二人はその情熱を持続させやすい恰好の境遇をもっていました。苦しみ、会えぬこと、嫉妬、周囲の圧迫、そういうものがあればあるほど彼等の執着は増すのが当然で、当人たちがその情熱を持続させるのに、それほど困難ではなかったことを、もう皆さまはおわかりでしょう。
だが彼等が結婚してしまえばどうなるか。彼等にはもう障碍《しようがい》も困難もありません。朝から晩まで顔をつきあわせていねばならぬ。軒先には春樹のステテコがほしてあるでしょうし、真知子がお便所にいく姿も春樹は見るでしょう。すべての夫婦と同じく彼等の≪情熱≫は色あせ、すべての夫婦と同じく彼等にも倦怠期がおそうでありましょう。賢明な菊田一夫先生は「安定は情熱を殺す」ことを知っていられますから、二人が安定した以後のことは書かれないのです。
だが≪情熱≫がほろびた後に、≪愛≫がはじまります。ステテコがほしてあろうが、お便所にいこうが、毎日顔を合わせていようが、――つまり≪情熱≫の終った砂漠から夫婦の≪愛≫ははじまらねばならぬことは誰でも知っているはずです。
≪情熱≫と≪愛≫とはどうちがうか。哲学的な言葉で言えば≪情熱≫は「状態」ですが、「行為」ではありません。たとえばわれわれはミジメなもの、気の毒な人をみれば本能的に憐憫の情を起します。だがこの憐憫の情は決して≪愛≫ではない。それと同じように、情熱も年頃の娘と年頃の男とがめぐりあえば本能的に起る感情です。あなただってできるし、かく申す私だってできる。別にそこには努力も忍耐も必要としません。
だが≪愛≫はちがう。愛は一歩一歩、夫婦や一組の男女が同じ運命、同じ悦び、同じ人生の苦悩をわかちあいながら一日、一日、めだたぬ努力と忍耐とによって創っていく行為なのです。倦怠はどんな夫婦にも訪れる。なぜなら夫婦の間には≪情熱≫が存在しないからです。倦怠がおそった時、それを賢明な知恵や、時には子供というゴマカシにさえたよって乗りこえるのが≪愛≫という行為です。
私がこんな身のほどでもない、むつかしい理屈をのべたのは、多くの人妻がこの≪愛≫と≪情熱≫とをともすれば混同しているからです。映画やテレビではしびれるような情熱世界しかくりひろげませぬ。それはたんに不安や嫉妬によってかきたてられるものなのですが、多くの人妻はそのしびれるような情熱が愛だと思っている。ステテコがほしてあり、メザシの臭いのただよう生活にこの≪情熱≫が全く失せたことを≪愛≫が欠乏したと錯誤している。でなければなぜ、姦通のメロドラマが彼女たちの多くにとっては欲求不満をみたす役割をしているのでしょう。
現代の夫婦にとって必要なものはこの≪情熱≫と≪愛≫とを秩序ある見かたによって区別することから始まると言えるようです。
[#改ページ]
結婚の生態
三月……日
私は仕事に疲れて散歩にでたとき、しばしば、よその家の前でたちどまることがある。私はその家の表札に眼をやる。内藤茂夫だとか梅田一郎だとか、なんの変てつもない名前を暗記してから、垣根ごしにチラッと、その家のよごれた玄関、くたびれた下着の干してある庭、子供の三輪車がこわれたまま投げだされている勝手口をのぞく。硝子窓はしまっている。家の中からは物音ひとつしない。
すると、私にはなぜか、その家のなかでジッと向きあっている一組の夫婦の影像がうかび上ってくるのだ。彼らは互いに黙っている。時々、妻が話しかけるとき、夫のほうは疲れた気のない返事をするだけだ。彼らは結婚して何年たっているだろう。二年か。三年か……。そういうことはどうでもよい。確かなことは、私の想像するこの家の夫婦がその隣家の夫婦とまったくおなじように、自分たちの生活にも愛情にも重くるしい不満を感じ、ときには相手を憎みながら生きているということである。
彼らが別れることはおそらく、あるまい。世間ていや子供にたいするきずな、あるいは別れるということのめんどうさや、新しい相手と結婚生活を繰りかえすことの煩雑さから、この夫婦はこれからも今までの生活を続けていくだろう。やがてふたりが老年になり、もはやそうした不満にも憎しみにも無感覚になる日をひそかに期待しているのかもしれぬ。
こうした影像は散歩の途中、どの家を見ても私にはうかび上がってくる。もちろん、それらの家々のなかには私の想像など受けつけぬような調和したしあわせな家庭もあるだろう。けれどもその他の大部分の家は多かれ少なかれ、このような状態で毎日を送っているはずである。あるいはそうした状態や不満をさまざまな手段や方法でなだめたり、ごまかしながら生活しているはずだ(たとえば「恐妻」という言葉がある。ああした言葉の背後には一種、作為的なユーモアでどうにもならぬ自分の結婚生活の不満をなだめようとする夫たちの気持がかくされているのである)。
彼らの家に風波がないということはこの場合、問題にはならぬ。風波がない夫婦は必ずしも幸福な夫婦とはかぎらない。おおむねの場合、惰性と無気力とが夫たちに家庭内に事件を起こさせぬ場合が多い。妻を愛するために裏切らぬのではなく、裏切りによって起こるさまざまの煩わしさから姦通を犯さない夫たちを私は多く知っている。私が散歩の途中見るこれらの家々の夫婦たちは、多かれ少なかれ、このようなものなのに……。
三月……日
会のあと、作家のXといっしょにタクシーで帰る。その車のなかで突然、Xが私にこういった。
「もし、別の女と結婚していたならば、おれは幸福になれただろうか――そんなことをこのごろ、よく考える」
Xのために弁解しておくが、Xと彼の妻は現在、決して仲たがいをしたり争っているのではない。Xならずともすべての夫は(また妻は)その結婚生活のうち一度は必ず、この考えを心にうかばせるものだ。
だがXはまちがっている。彼がたとえ今の妻と別れて、別の女性と結婚したとしても、すべては決して改善されぬだろう。前の妻に感じたと同じ不満、同じ嫌悪感、前の結婚生活に抱いた同じ不満、同じ嫌悪感はあたらしい結婚の場合にも繰りかえされるであろう。
われわれはよく結婚生活における破局や幻滅や失望を夫婦間の性格のちがいや、境遇のちがい、教養のちがい――その他、もろもろのちがいのせいにする。たとえば、アンドレ・モロアの『風土』という小説が描いた二組の夫婦の破局は、すべて彼らの性格や趣味のちがいによるものだ。私はもちろん、こうした夫と妻との外面的な違いが夫婦間の愛情に及ぼす影響を考えないわけではない。だが、決して、それだけではないのである。
たとえ、性格、環境、趣味、考え方が夫婦間に一致したとしても(そういうことはまず、ありえないことだが)夫がなにかしら妻に不満をもちつづけることはありうるし、また自分を不幸に感じる妻も存在するのである。モロアの『風土』を読んだときの私の物足りなさは、この作家が結婚生活の悲劇をすべて表面的な要因にのみ還元して、結婚生活それ自体のもつ、どうにもならぬ本質的矛盾、男と女との宿命的な対立まで描ききっていなかったことにある。私が同じ結婚生活のくるしさを物語りながらモロアの『風土』よりも、もっと本質的なモウリアックの『テレーズ・デケルウ』や『愛の砂漠』をかうのはそのためである。
最近、離婚したばかりのTが、その理由をつぎのように私に説明した。
「第一に、あいつは僕の仕事を少しも理解してくれないのです。第二に彼女は家庭生活を大事にしようとしないんです。家の仕事もキチンとしない。食事だってチャンとしてくれなかった。要するに……」
だが、私は夫の仕事をあまり理解し、家庭生活をあまりに秩序だてたために、逆に夫からきらわれた妻を知っている。その夫は私にこういっていた。「彼女といっしょにいるとチッ息しそうだった。あなたは万事整いすぎた女といっしょに住む息苦しさを知っていますか。それはまったくむだのない潜水艦のなかで生きているようなものだった」
四月……日
それならば個々の結婚生活ではなく、結婚生活一般のもつ本質的な悲劇はどこからくるのだろうか。
第一に――これはわかりきった話だが、結婚生活とは本質的に男女の情熱を殺すようにできているのである。そして、多くの夫婦は(長い結婚生活を送った男女でさえも)この原理をハッキリと直視せず、むなしく自分たち夫婦のなかに失われた情熱の幻影を探りだそうとするのである。「むかし、私はこの男に、もっと情熱をもっていた」と彼らは考える。
「もっと彼に生き甲斐のようなものを感じていた。だが、今はもうそういう情熱を彼に持てない……」
そして、彼女(あるいは彼)は自分たちの夫婦生活がくたびれ、疲れ果てている、あるいは自分たちの生活が惰性だけの上で営まれていると考える。
このような失望感、空虚感はどんな夫婦でも襲われるにちがいないのだが、この原理からいうならば「男女間の情熱をたやさない結婚がりっぱな結婚であり、情熱の失せた結婚は惰性の結婚だ」という結論になるだろう。
姦通にたいする、ひそかなあこがれ、姦通を主題とした小説や映画が多くの人妻の不満のはけ口になるのはそのためだ。彼女たちはそうした小説やスクリーンのなかにもはや自分たちの結婚生活に発見できぬ情熱[#「情熱」に傍点]をむなしく求めているのである。だが、彼女たちは、そうした情熱を主題にした小説や映画がどのように構成されているかを考えたことはない。
「安定は情熱を殺し、不安は情熱をかきたてる」このプルーストの言葉は情熱の根本原則についてすべてを語っている。
男女の情熱が維持されるためには、まず、ふたりが決して結合しないことが、必要である。その情熱が決して安定しないこと、満たされないことが必要である。ふたりを結合させる障害がおおきければおおきいほど情熱は燃えあがる。たとえば相手にまれにしか会えぬこと、相手のすべてを知らぬこと、いや、ときには相手が信じられなくなったり疑ったり嫉妬したりすればするほど情熱は発生するであろう。不安、苦悩は情熱の炎をかきたてるための必要な油なのである。愛欲の炎、情熱の火は苦しめば苦しむほど、燃えるものなのだ。
これにたいして結婚生活は安定、結合の上に成り立っている。いいかえれば情熱が発生できぬ場所が結婚生活の本質なのである。つまり、情熱の必要とする苦悩、嫉妬、相手にたいする好奇心などは結婚生活の中で望むべきではないし、望んでもしかたがないのだ。
にもかかわらず、多くの人妻、多くの夫が自分たちの生活に不満をいだく理由のひとつは、もはや相手にたいして情熱を感ぜられないという点にある。これは水のなかに火を捜そうとするにひとしい。むなしい幻影だ。そして結婚生活のもつ悲劇のひとつは、これら男と女とが情熱をたえずそこに求めようと錯覚している点にあるのだ(私は多くの恋愛論や結婚生活論にこのわかりきった根本原理がほとんど指摘された例がないのを見て非常にしばしば、驚くのである)。
先日、私の友人Kは、彼の妻がむかしの恋人と交際しているのではないかと疑いはじめた。ところがそのとき、彼は長いあいだ、失っていた新鮮さと情熱とを自分の妻にふたたび感じたという。だが、やがて、その疑いが晴れると(彼の妻はその昔の恋人と交際していなかったのである)、その情熱も急速にさめていった。
この話は私をおもしろがらせた。彼が久しぶりに妻に情熱を感じたのは、妻自身のためではなく、Kが彼女に久しぶりにいだいた嫉妬や不安のためだったのである。
結婚生活は安定と結合を前提とする以上、情熱の世界とはもっとも遠く離れた地点にあること、――このわかりきった原則を多くの夫婦(とくに妻)はほとんど、認めたがらないし、認めた場合にも、やはりつまずいてしまうのである。妻は夫のなかに、夫は妻のなかに、たがいに求めることが不可能なものを探りあっている。そしてその実現が不可能である場合、ひそかな裏切りがはじまるのだ。
五月……日
ほとんどすべての夫が自分の妻にたいしてばく然ともつ気持は、妻の存在が重いという感じである。重い……というのは適切ではない。むしろ重くるしいといったほうがよいかもしれぬ。
この重くるしいという感じのなかにはいろいろな要素がある。だがそのうちでももっとも大きな要素は解放感がないという気持なのだ。女は結婚によって男以上に急速に変化していくものである。男は独身時代も、夫になっても、父親になっても本質的にはそれほど変化しない。変化したとしても、それは徐々に、少しずつ変わっていくのである。
だが、女性の場合は、娘から人妻になったとき、驚くほど早く変ってしまう。さらに人妻から母親になるとまったく脱皮してしまう。私はある女友だちを持っていた。彼女が結婚してから十日目に私は歩道でばったりと出会ったことがある。すでにこの女の顔はもう娘ではなく人妻という以外、他に形容のできぬほどの変り方をしていた。さらに彼女が出産した翌日、私が見舞にいくと、そこには昔の面影はまったくみとめられぬ、ひとりの母性が、ベッドの上で赤ん坊に乳をふくませていたのだった。この三段階の転身は、まるで根のおりていく隠花植物を私に連想させた。娘から人妻へ、人妻から母親へと、彼女はズズッと根をおろし、最後には押しても引いても動かぬあの女房という存在に成り変わっていたのである。このような急激な転身や脱皮は男の場合、ほとんど不可能である。彼は夫になっても、父性になってもそれは形式的な変化だけであって、芯は結局、いつも同じなのだ。
このこっけいな男女のちがいは、しかし結婚生活のなかで思いがけない裂け目を起すのである。娘から人妻、人妻から母性へと鮮やかな転身を行なえる女は、この変化を毫も疑いはしない。のみならず彼女は夫にたいしても自分と同じような急速な脱皮を要求し、それを当然だと思いこむのだ。
このときである。夫はあるいいようのない息ぐるしさを妻に感じはじめる。妻はもはや家庭のなかに深い根をおろして押しても引いても動かない。彼女の感覚、彼女の倫理はすべて子供たちの母であり、家庭の主婦であることからでている。そして彼女はこの感覚と倫理とで夫を判断しはじめる。いいかえれば彼女は夫を、まず夫としてしか、子供たちの父親としてしかながめない。彼女は彼をまったくその範囲内にとじこめ、それ以上、彼がはみでることを本能的にきらうのだ。
だが男とはなによりも自分が他人から限定されることをいやがるものだ。妻の視線、妻の眼は彼を夫であり父親であり、家庭の責任者である人間として無言のうちに要求している。その視線は社会的な道徳によってささえられているだけに、男にとってはさらに重圧感を感じさせる。
私がさきに例としてあげたある男は、その妻がいわゆる良妻賢母であるために「まるで息ぐるしい潜水艦のなかで生活をしているようだった」と告白していたが、それは妻が非の打ちどころがないだけに、かえって彼女の視線が要求するものに重い束縛感を感じたにちがいないのだ。
もちろん、こうした息ぐるしさを感じることは女性の眼から見れば男のわがままとずるさとしてしかうつらないであろう。だが私はここでモラルを述べているのではなく、男性の誰もが持っている本能についてしゃべっているのだ。男性というものにとっては、女性とちがって、自分の所有しているいろいろな可能性を奪われるときほど苦しいことはない――この本能についていっているのである。
五月……日
もちろん、女性もまた妻であり、母親だけであることには満足はしないというだろう。だがそのような彼女たちの欲求は男性ほど強くはないし烈しくもない。私はまともな女性がまず念頭にもつものは母親になり妻になることであって、それ以外の欲求は彼女にとって副産物だと考えている。つまり女性はいつもひとつの場所にしっかりと根をおろし、そこを秩序だて、ひとつのシンボルだけを生涯まもって生きていこうとする本能を持っているのだ。だが不幸にして男性にはこのような静止の本能よりも運動の本能――動くこと、たたかうこと、征服すること――のほうがはるかに強いのである。
この男性と女性とのおおきな違いが、結婚生活ではしばしばナマのまま、さらけだされる。妻となり母性となった女はその夫に静止すること、動かないことを要求する。妻のもはや微動だにしない存在が、それを無言のうちに求めている。妻が夫にとってある息ぐるしいものに見えはじめるのは、その時からなのである。
六月……日
結婚生活は男女間の情熱の発生をゆるさない場所であること、そして男性と女性との本能的なちがいがしばしば、我々の結婚生活にみえない暗い翳《かげ》を与えている。
こういうことは誰でもわかりきっているのにかかわらず、私はこのどうにもならぬ矛盾を直視しつつ書かれた結婚論をまだ読んだことはない。だが、私たちの友だちは多かれ、少なかれ、この矛盾にくるしんでいるのだ。彼らはときに離婚の自由やその合理性を認めることによって、こうした矛盾を解こうと考えている。けれども離婚の自由や合理性を認めることは決して問題を解決したことにはならぬ。離婚後に行なわれた新しい結婚のなかにも私が書いたどうにもならぬ矛盾は繰り返されるからだ。
もっと深い男女の存在的な結びつきで結婚の問題にも照らしあわされねば、こうした矛盾を克服できないと私は思っている。たとえば、夫婦間の因縁とか、業という問題はすぐ非現代的だといわれるが、私はそこにもっと深い価値をおいていいと考えているのである。
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〈掲載誌・発表年月〉
二枚目半文化論
「婦人公論」 一九五八年九月
男女分権論(男女同権に反対する)
「マドモアゼル」 一九六三年六月
当世女子学生物語(トップモード女子学生論)
「婦人公論」 一九五九年三月
愛のエスプリ(遅刻のすすめ)
「マドモアゼル」 一九六六年十月
(美しくなりたい悩み)
「マドモアゼル」 一九六〇年一月
妻は夫の踏絵である
「婦人公論」 一九六六年四月
「嫁」と「姑」(イジワルをしなさい)
「婦人公論」 一九六七年十二月
女性に与う愛の十二講(「とにもかくにも」改題)
「主婦と生活」 一九六六年一月〜十二月
「女性のユーモア」再考(女性とユーモア)
「朝日新聞」 一九六九年四月一日
「女と記憶」再考(愛情の押売りいやがる亭主族)
「日本経済新聞」 一九六七年六月九日
雑句波乱女性考(遠藤周作の雑句波乱)
「マミール」 一九七三年一月〜十一月
夫の悩み・夫の不安
『ぐうたら愛情学』のための書下し
夫はどう愛情を見せるか
同 右
夫婦喧嘩考
同 右
家庭について(私の家庭論)
「読売新聞」 一九六五年十月十八日
雌鶏に刻を告げさせよ
「文芸朝日」 一九六四年七月
夫婦喧嘩考(勝利なき女との口論)
「日本経済新聞」 一九六八年十一月十日
夫から妻へのひそかな注文
「二人自身」 一九六五年二月〜十二月
恐妻武者修行
「週刊コウロン」一九五九年十一月二十四日〜一九六〇年二月二日
人を愛するとは(愛の倫理)
「マドモアゼル」 一九六三年十二月
愛の男女不平等について
「婦人公論」 一九六四年三月
姦通論
「婦人公論」 一九五九年九月
結婚の生態
「総合」 一九五七年九月