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ぐうたら好奇学
遠藤周作
目 次
ぐうたら好奇学 1[#「ぐうたら好奇学 1」はゴシック体]
山小屋の合宿
日本はもうダメだ
外国の男はおそろしい
迷える不惑
対談
写真と私
私の盗み
バカでかい風呂
女(中)難
女子中学生たち
先輩の錬さんのこと
ぐうたら好奇学 2[#「ぐうたら好奇学 2」はゴシック体]
カモはお天気相談鳥
野趣の街・渋谷探訪
道玄坂の酒と食べ物
四畳半のスラバヤ殿下
脚のパントマイム
夕顔のような女
開拓地・渋谷の素人女
視線が合った女
糸切り歯の女
西瓜と私娼
閉じていた雨戸
少女の仕返し
新糞尿譚
フロイド流観察
気晴しの歌
人間である証拠
夕暮のエトランゼ
模型の糞尿諏
生きている風景
金歯を光らす女
ほおずき市の女
黄昏のまえ
わが祖又兵衛
リキまぬが大切
放屁の極意
チョロチョロ
昔ながらの玉電
月窓亭の変人
落書きの雅趣
牛乳泥棒
センセイの花柳病
歌ならぬ歌
チョボ髭風流士
俗塵雅趣あり
盛夏の麦茶
食通の邪道
食道楽転々記
古本の話
ギョウザの味
アブと伊賀流
ほとばしる精気
消えてゆくのみ
ぐうたら好奇学 3[#「ぐうたら好奇学 3」はゴシック体]
ベンガクをしよう
ヒットラーを呼んだ霊媒
人間は死んだら何を見るか
掏摸《すり》
吸血鬼
夢の謎
明日に賭ける人に
宇宙人の話は本当か……
事実は小説よりも奇なり
悪戯のすすめ
二つの奇怪な実話
寒気のする話
悪魔
ヒットラー生存説
あまりに残酷な……
狐狸庵ドキュメント人間[#「狐狸庵ドキュメント人間」はゴシック体]
占師 この哀しきピエロ
吉原通いも運転手の役得
私は銀座のカンカン娘
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ぐうたら好奇学 1
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山小屋の合宿
仕事がら、いわゆる毎日、出勤するということはないが、そのかわり土曜日もなければ日曜日もない。週休二日制というニュースも私には別世界の出来事なのである。誰の監視もうけず自宅で気儘に仕事はできるが、日曜日の朝の寝床で思いきり手足をのばして、
「今日は休みだ」
と思う快感は味わえない。日曜日も仕方なく机に向う日も多いのである。
もっとも私は好奇心だけは強いので、その好奇心をみたすだけの時間はできるだけ作るようにしている。今日はこれだけの仕事をやればあとは遊ぼうと考えると、仕事が妙に捗《はかど》る時もある。
もっとも遊ぶといっても私の場合、不器用だからゴルフ場に行くわけでもない。一時、先輩にすすめられてゴルフに少しだけ手を出したことがあったが、ある日、ロッカーで靴をはきかえていると、さきほどまでしきりに私をおだてていた先輩たちのひそかな会話がロッカーごしに聞えてきた。
「いや、遠藤を教えるのは大変です。あいつ、怒るとゴルフをやめると言うし、ほめるとツケあがります。手数のかかる奴です」
以来、クラブを握ったことはない。
マージャンも一度、教えてもらったが、もともと勝負ごとは不得手なので尻ごみするようになった。パイの名で憶えているのはパイパンぐらいである。
ゴルフもマージャンもやらぬが、その代り自分だけでできる遊びには手をだす。一人でボウリング場に行ってボールを放ることもある。もっともアベレージは百という情けないものだから、ボウリングをやっているなど言う資格はない。
一週に一度、催眠術の勉強に行く。この前までは手品を習っていた。しかし手品のほうは習った日、家族の前でやってみせて、たちまちタネのばれることが度々つづいたので、今は誰も見てくれなくなり、嫌気がさしてやめてしまった。
催眠術のほうはどうにか、こうにか、かけられるようになった。催眠術を習いだした最初の目的は、ボウリング場で阿川弘之という友人の作家に催眠術をかけ、ガーターばかり出させようという点にあったが、今はもっとマジメな本格的なものになってしまった。咳ばらいをしただけで、私の催眠術に馴れた相手ならすぐ眠ってしまうぐらいはできるのである。
そのほかの私の趣味は若い友人たちと飲んで騒ぐことである。私には妙な癖があって、静かな家ではあまり仕事ができない。階下で若い友人たちが笑ったり騒いだりしているのを二階で聞きながら机に向う時が一番、仕事が捗るのである。なぜか自分でもふしぎだが、理由はよくわからない。
だから、私の山小屋には二年ほど前までは若い友人がよく来たものだ。みんなのために庭の隅にプレハブの家を建てたぐらいだ。
東京ならば大声をあげたり、音楽を高くならしたりすると近所のご迷惑になるが、この山小屋は周りも森だし、隣家も離れているので安心である。特に八月の末になると北杜夫氏だの矢代静一氏だのまでが加わってみんなでゲームをしたり、歌を歌ったりできる。
私はこの山小屋を数年前にたてた。一応、軽井沢にはなってはいるが、いわゆる上流の軽井沢とはずっと離れた山のなかである。本当の軽井沢のほうに、むかし貸別荘を借りて住んだことがあるが、表通りを通ると、えらい先輩たちに会うし、そのたびごとにペコペコ頭をさげねばならず、仕方なく裏道を日蔭者のように歩いていたら、草むらに群がるブヨに足を刺され、五日も寝こんだ悲しい思い出がある。それでイヤになり、人里はなれた山に移り住むようになったわけだ。
四年前、その山小屋に泊りにくる若い友人の数があまりふえたので、皆で勤労奉仕をして地面を平らにし、プレハブの家を運んできた。いわば合宿の家を作ったのである。
ある日、私はそこに立札をたてた。
「この家は曽呂利新左衛門が作ったもので、膝栗毛のヤジさん、キタさんも泊ったのです。皆さん、つつしんで拝観しましょう」
時折、そのプレハブの家の前を通りかかった散歩中の女の子が立札をみて、
「本当かしら。でも妙ねえ」
と首をかしげている。それを山小屋の窓から窺いみながら、私は可笑《おか》しくてならない。
山のなかだから栗鼠《りす》が胡桃《くるみ》の実をたべにくる。胡桃の木が周りにかなりあるのだ。夏になるとその青い実がたくさん稔って、風にゆられている。色々な鳥がやってくる。
この一、二年の間若い友人たちは次々と結婚して子ができ、会社の夏休みもそうとれなくなり、私の山小屋にも来れなくなった。皆で一緒に建てたプレハブの家も無人の時が多くなった。
私の理想は彼等の赤ん坊がやがて少年や少女となった時、ふたたびこの合宿所を存分に使ってくれることである。彼等の父親や母親が私の山小屋で知りあい、そして結婚し、その子供たちを生んだのだ。
その時、私ももうかなり年とっていると思う。昔のように皆と一緒に遊ぶことができないだろうから、皆が遊んでいるのを意地悪い顔をして見てやろうと思う。
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日本はもうダメだ
九月になっても仕事をかかえて信州の山小屋に残っていた。東京はまだ残暑がきびしいらしかったが、そこでは夕方になると雨がふり、霧が流れた。
そんなある夕暮、私が真っ赤なスエーターを着てその霧のなかを深い思索にふけりながら散歩していると、一台の車があらわれ、なかから間ぬけた青年の顔が二つ、窓ごしにこちらを見ている。私は彼等が霧のために真っ赤なスエーターを着た私を若いうつくしい女性と錯覚して、誘おうとしているのだと、すぐわかった。そういうことはこの避暑地ではよく見かけたからである。
で、私は車に背を向けたまま、立小便をはじめてやった。アッとか、ヒェッとかいう仰天した声をだして彼等の車は遁走《とんそう》していった。青年たちのびっくりした顔が眼にみえるようだった。
こういう悪戯をする男に罰があたらぬ筈はない。数日後、帰京した私は中野のビルで階段から転げおちて左の腕を折ってしまった。『メナム河の日本人』という十月にやる自分の芝居の稽古《けいこ》を見に行った時のことである。階段から転げた時、昔、習った柔道の受身のマネをしてみたため、かえって左腕に全重量がかかり、哀れにもポキンと骨折したのだ。
私は怪我、病気には馴れているから、その日、友人の医者につれられて整形外科の専門医に行き、上半身、「透明人間」のように包帯をまかれて帰宅した。
骨折ぐらいだから、たいしたことはないのに、中、高校生を主体とする私の読者や色々な方から御心配を頂いて恐縮した。しかし、私の憧《あこが》れている女優さんからは岡崎友紀さん以外、電話一つ、花束一つも送られてこない。平生、友人、知人に女優たちと親しく交際していると高言してまわっている私としては、面目まるつぶれである。家人たちも私を馬鹿にするような口ぶりをする。
私は悲しくなって友人の小説家、佐藤愛子さんに電話をかけた。君はぼくの幼友だちだ、助けてくれと言った。
「何を助ければいいの」
彼女の問いに私は、実費を払うから、松坂慶子さんの名で花を家に送らせてくれないかと頼んだ。
すると彼女は実費の花代のほかに、花屋にかける電話賃も返してくれるなら「まあ考えてもいい」と答えた。私はたかが電話賃ぐらい出してくれと言ったが「それならイヤよ」と彼女はつめたく拒もうとした。仕方なく私はこの条件をのんだ。
夕方、松坂慶子さんの名で、一番安っぽい花束が届いた。家人の前で私はああ松坂君から見舞の花かと何げなく呟《つぶや》き、何げない表情をつくり、岡崎友紀さんの花とそれとを並べさせて客間におかせた。
翌日から客がくると私は二分ぐらい客を待たせて客間に入ることにした。その二分間の間、客がこの花束とその差出人のカードの名に気づくようにするためである。
「ほう、松坂慶子さんから見舞の花束ですか」
と向うが聞く。すると私は顔色ひとつ変えず、
「まあ、色々な人に心配いただいております」
とさりげなく答えるわけである。
だがその日の午後、友人の作家、阿川弘之が見舞に来た。三浦朱門も来てくれた。私は二分ぐらい彼等を待たせ、客間に入ったが、阿川は驚いた顔も羨望《せんぼう》の表情もみせてはおらぬ。あとに来た三浦朱門もまた同じである。阿川にいたっては、お前は少し本が売れすぎたから罰が当ったのさ、と笑っているぐらいである。
たまりかねた私は君の眼はフシ穴か、この花束に気がつかぬのか、と叫んだ。見舞の花束やないか、と彼は言う。花束のカードを見てものを言え、と私は声をあげた。
キョトンとして――文字通り、キョトンとして阿川も三浦も私を眺め、こう答えたのである。
「誰や、松坂慶子っていう人は」
「誰や、岡崎友紀って」
彼等は皮肉やカラカイでそう言ったのではないのだ。本当に日本中、誰でも知っている有名な松坂慶子さん、岡崎友紀さんを知らないのである。何ということであろう。何という情けないことだろう。私はこの教養の貧しい男たちを友人に持ったことを悲しみ、彼等の文化程度のひくさに呆《あき》れて、骨折の痛みも忘れ、ものも言えなかった。
六日後、腕をつったまま、偶然、毎日新聞社のなかで佐藤愛子にバッタリ出あった。彼女は、見舞の言葉を言うどころか、こちらの顔を見るなり、
「あんた、花代と電話賃を返してよ」
と叫んだ。
この瞬間、私は日本はもうダメだと思ったのである。
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外国の男はおそろしい
この間、ある団体旅行に加わってヨーロッパの芝居見物にでかけた。企画の人はかなりの人数が集まると思っていたらしいが、私が加わった途端、なぜか急にやめると言う人が多くなった。
責任を感じた私は仕方なく大枚を投じて、高校生になる息子をこの旅行団に入れ、更に大飯ぐらいの姪も誘うことにした。更に私の不運に同情した古山高麗雄氏がわざわざ令嬢を参加させてくださったのは本当に有難かった。
古山氏の令嬢も私の姪もちょうど年頃であり、適齢期である。出発の日の夕方、羽田の飛行場にそれぞれの家族が見送りに来たが、姪の父親である兄は私の手を握り、古山氏はじっと私の眼をみつめ、よろしく頼む、と言う。よろしく頼むと言うのは外国には悪い男がいるから娘たちを守ってくれという意味ならんと私は考えた。まかせろと胸をはってうなずいた。
天気つづきのロンドンで幾つかのミュージカルや芝居を見た。芝居のあと、パブで酒を飲んだ。朝靄のたちこめるホテルにちかいハイドパークも散歩した。どんな時、どんな場所でも、私は古山氏の令嬢と姪とのそばに小判鮫のようについて歩いた。彼女たちはうすぎたない親爺につきまとわれるのは迷惑至極らしかったが、私には親から頼まれた責任がある。義務がある。向うの青年たちには口だけうまくて心の悪い男がいるから、帰国まではそんな男を彼女たちに一ミリでも近づけてはならん。実際、私は居眠りばかりしている高校生の息子のほうは放ったらかして、彼女たちのそばから離れなかった。嫌がられることは承知しても義務は義務だったのである。
ところが、明日ロンドンを発つという日、そして私が責任を果したという悦びに浸っている夜、思いがけぬ事件が起った。意外な伏兵があらわれ、遂に襲われたのである。
襲われたのは勿論、古山氏の令嬢や私の姪ではない。こればかりは男の子だからと安心していた自分の息子のほうである。それまで息子ははじめての外国なのにかかわらず、劇場でもバスのなかでも居眠りばかりしていた。食事をしている間もフォークとナイフを手にもったままもう舟をこいでいる。親に似て親以上にぐうたらな少年である。
その夜、この息子がはじめて大きく眼を開き、ホテルの酒場で酒を飲んでいた私のところに真蒼になって飛んできた。たった今、エレベーターのなかで中年の外人からいやらしいことを言われ、ノオ、ノオと絶叫したにかかわらず、部屋まで尾行してきて口説いたと言うのだ。
「どんな奴だ」と私は叫んだ。「パパみたいな人だ」と息子は答え、私は実に情けなくなった。私だって偏狭な人間ではないから、ホモだってレズだって認めるつもりではある。しかし何も私の息子に手を出さなくってもいいじゃないか。しかもそれが私に似た外人だとは。
息子をつれてエレベーターや廊下を探しまわった。しかしその中年の外人の姿はもう影も形も見えぬ。
翌日から巴里。私は古山氏の令嬢と姪だけではなく、息子からも一歩も離れじと決心した。向うから外人が来て二人の娘には言うまでもなく、息子にも視線をそそぐと、それこそ鬼のような表情をつくって相手を睨みつけた。睨みつけながら疲れてきた。疲れてそのうち妙なことに気づいた。この俺にたいしては女は勿論、ホモの男まで誘ってこないじゃないか。と、妙に自分だけが無視されたような気になってきた。
とに角、疲れた。疲れ果てて日本に戻ってきた。もっとも私の疲れのため二人の娘と息子との安全が保証されたのがせめての慰めであるが……。
外国に子弟をやられる親たちよ、娘さんならとも角、これは男の子だから、と安心されてはいかんのだ。外国の男はまことにおそろしいのです。
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迷える不惑
かの哲学者サルトルは青年の頃、自分が斜視であるため娘たちにも敬遠され、非常に悩んでいたが、某日、ある医者から手術をすれば治ると言われた。青年サルトルは手術すべきか、否かを黙考した末、斜視は自分の顔の一部分である、自分の一部分であるものを訂正すべきではないという大結論に達し、生涯、手術をしないことにきめたという。
そういう話を誰かから聞いたことがある。そしてその話を思いだすのは、夜、自分が養毛剤を頭にふりかけている時である。鏡を見ながら懸命に頭上で瓶をふりまわしていると、そばで陰険この上もない顔をして高校生の息子がうす笑いをうかべてフンと言う。
フンという彼の嘲笑の声には、髪のゆたかなおのれにたいする優越感と、年上の肉体にたいする軽蔑感があきらかにふくまれている。馬鹿め、あと二十年たってみろ、と私は心で呟《つぶや》くが、そこは賢明、何も言わない。ただ考えていることは、サルトルは立派だ、斜視さえわが身の一部として治さなかった。それにくらべ自分は養毛剤を懸命に頭にふりかけておる、ああ、情けない、という感情である。
四十にして不惑というが、四十をとっくに越したのに私には毛髪ひとつにさえ確乎《かつこ》たる信念ができていない。
信念ができていないから、本気で怒ることができない。生活上、やむをえず家庭や外で怒ったフリをすることがあるが、それはフリであって内心では怒っても仕方がないという気持があるし、お前も同じじゃないかという感情もある。
もっとも、この気持は今に始まったことではなくて、二十数年前青年だった頃、戦争が終って正しかったと自称する人が間違っていた前の世代の人を裁き、非難するのが流行だった時も、一方ではなるほどと思いながら、他方では自分にはとても自信をもってああいうことは発言できないという気持があった。もし自分が同じ情況下におかれたら同じことをしたかもしれぬという感情が働いていたためである。たまたま、その頃、独逸の自分と同じぐらいの年頃のカウフマンという作家の小説を読み、その作家も同じ気の弱さのあるのを知ってホッとしたのを憶えている。
しっかりした信念のないことは情けないことである。そして本気で怒れない人間は情けない人間である。それは重々、わかっているのであって、二十数年間、しっかりした信念をもつよう、ほんの僅かは努力したつもりであったが、今のところ、その努力は無駄だったようである。一方では自分で自分を情けないとは思いながら、しかし他方では信念をもっているような発言をする人、他人を強く裁く人、自分の考えは正しいと思っている人に出会うと、なにかウサン臭さを羨望《せんぼう》と同時に感ずるのは何故だろうか。それはそういった人には他者の立場に身をおいて考える想像力の欠如があるからだろうか、それとも一種の偽善の臭いがその周囲に漂うからだろうか、あるいは強者にたいするヒガミのせいだろうか。
やむをえず、何処かで講演させられる時ほど、自分が偽善的行為を行っていると感じる場合はない。あの高い壇上で、ノートなど広げてくださる聴衆を前にしていかにも信念ありげなことを言い、いかにも人生、社会についてわかっているかのような言葉をのべて、控室に戻った時、ああイヤだと自己嫌悪を感じてしまう。しかし考えてみると、次から次へと後味のわるい行為をしては、あとで早まったことをしたと後悔してきたのがこの十年である。四十にして不惑とは、本当だろうか。
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対談
この二年間色々な人と対談をした。
対談は好きである。職業もちがい、世界もちがうが、それぞれの道で苦労してきた人には味があって、その味が何気ない話のうちに感じられるような対談が一番、好きである。
ある雑誌で一年間、大きな会社の社長さんと毎月、対談したことがあったが、私はいつもその人のスランプ時代はどうしたかという話をきくのが楽しみだった。万事がうまくいく時は才能と運と努力がかみあう時だが、しかし、何をやってもうまくいかぬ失意の季節はどんな人間にも生涯、一度は必ずあるものだ。
社長たちの一人一人にそのスランプ時代、失意の時代の生き方をたずねているうちに、私は変な話だが昆虫の生き方を連想した。
積極的に針や毒液で敵をやつける虫もあれば、そういう武器をもたぬものは保護色を使って自分が葉や草と区別できぬようにする。虫にはそれぞれの外敵への防ぎ方があって、その防ぎ方は長い長い年月の間にそれぞれ体の形や、体色をつくっていったのであろうが、社長たちの失意の季節の越え方も、一人一人の性格によってちがう。地味で堅い社長はスランプの時、この性格から生れた「忍耐」という武器でのりこえているし、また、それで成功している。積極的な性格の社長はそんな時、思い切った賭をやって、それでみごとにスランプを打開している。
あたり前といえばあたり前の話だが、昆虫と同じように、人間にもそれぞれの身の保護の仕方がそなわっていて、それは他人の自己防衛術とは全くちがう。しかし彼にとってはその方法こそが成功のもとだったのであり、それは後になってわかるのだ。対談の時は、その事実が手にとるように私には理解されてとても面白かった。
月並な返事をしてくれるのは女優や歌手で、これはあらかじめ暗記してきたのではないかというようにみな同じ答えをする。それを突きやぶって、一人の女、一人の娘にぶつかるのが私には快感があった。しかし、どんなツマらぬ西部劇をみても、見しらぬ風景があるだけで楽しい私には、たとえ月並な返事で終始しても結構それはそれなりに面白かった。
うす気味わるい対談があった。ある女優で前から霊感をもっているという評判のある人がいたが、それが記者にむかって、
「あなたの弟さんは不良で、お母さんが悩んでますね」とか、
「あなたの部屋はこうなってますね」
とか言うと、それがみな当った。その女優が帰りがけ、小声で、
「おっしゃらないで頂きたいけど、今年の十二月九日のおひるに大地震があって東京はメチャメチャになります」
と言った。皆、だまりこんでしまった。
まさかと思っても気になるもので、十二月九日が近づくにつれて、妙な気がした。明日が九日という日、家中の火の元をしらべて歩いたほどである。
その朝方、地震があった。もちろん三十秒ぐらいで終ったものだが、仰天して飛びおきた。しかし、それきりで九日の昼になっても何も起らなかった。
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写真と私
キの字のつくものは苦手である。病気[#「気」に傍点]は言うまでもないが、飛行機[#「機」に傍点]に乗るのはこわいし、卵の黄[#「黄」に傍点]身では蕁麻疹《じんましん》を起す。電気[#「気」に傍点]とくると尚更のことで、長い間、さしこみの右の穴が陽電気で、左の穴が陰電気だと思いこんでいたため、家人の失笑をかったことがあった。
写真機もキの字がつくからやはり苦手である。はじめて写真機をもって外国に出かけ、人に教えられた通りシャッターを押してまわったのはいいが、いざフィルムを現像に出すと、何もうつっていなかった。レンズのキャップをはずすのをすっかり忘れていたためである。キャップをしていては写真も撮《と》れようがない。
写真をとられることも長い間あまりうまくなかったようだ。うちの古いアルバムを見ると、私はたいてい座頭市のような顔をしてうつっている。撮ってくれる人がシャッターを押す時、偶然、眼をとじるためか、フラッシュに驚いて、眼をつぶるせいか、わからない。
たくさんの人と一緒にとった写真からはすぐ自分を見つけることができる。なかで色の一番くろい男をさがせばいいからだ。子供の時から私は色がくろく、今でも幼稚園の時、小学校の時の卒業式の写真をみると、とりわけおデコの色のくろいのが私である。世を恨んだような顔をしている。子供の頃、私はカラスの周ちゃんとかデコ坊という渾名《あだな》をつけられていた。色がくろいだけでなく、妙な声をだして騒ぎまわっていたからだ。
ひとは信じてくれないが、私は自分がたまたまテレビに出るようなことがあっても、そのテレビをあまり見ない。
写真ならまだ自分の姿が動かないし、声も出さないから距離をおいて見れる感じがするけれど、テレビは実際に動き、実際に声をだしている自分がそのまま、うつっているからだ。
いつだったか偶然、テレビをつけたら(うちのテレビは古いせいか、画面より声のほうが先に出る)まことに下品な胴間声がきこえ、こんな品のない声を出すのは誰だろうと思っていたら、なんと口をパクパクさせている私の顔が画面にうつったのである。人間は自分の声を毎日きいていても、本当の声をよく知っていないもので、テープレコーダーに吹きこんだわが声をきいて「これがわたしの声か」と首をかしげた人も多いだろう。私はそれ以来、自分の出ているテレビを積極的に見る気を失ってしまった。
声といえば私の母は音楽家だったが、私は文字通り音痴で時々、一人で童謡なんか歌うこともあるが、誰もそれが童謡だと思ってくれない。どこかの僻地の民謡を歌っているのだと思うらしい。いつか「カラタチの花が咲いたよ」の曲を曲だけハミングしていたら、女中が「ご詠歌ですか」と言ったので嫌あな気持がした。
私が人前で安心して歌を歌えるのは、この写真をとっている軽井沢だけで、軽井沢には北杜夫君の山荘もあり、彼が私の家で酒を飲んでいると、北君が必ず歌を歌う。その歌声たるや、驚くべし、庭にすだく虫まであきれ果てて鳴くのをやめるというもので、彼の前だけは私も気おくれがせず歌えるからである。
写真はテレビとちがって声が出ないから、まだ気が楽である。
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私の盗み
ひとさまのものに手をつけるな、とは幼い時、ジジ、ババが我々孫たちに必ず教えたことであったから、私は今日まで人様の金をあからさまに盗んだ経験はあまりない。しかし、ここに人さまのものか自分のものかワケのわからぬものがあって、それをこっそり我が物にしたとすると、これは盗みになるのであろうか。もし盗みになるとすれば、私は盗みの経験がないわけではない。
そのものとは原稿料のことである。原稿料とは私がとも角ない知恵つかって書いたものの報酬だから、私は私のものだと考えるのだが、家人はそれは私のものではなく、家族全体のものだと言う。そこでそれをクスねようとする私と家人との間に対立がおきる。
そういう対立はここ十数年、続いてきたのであるが、この五、六年前頃から出版社や新聞社は印税はもちろん、原稿料まで銀行に送ることが多くなった。そのほうが経理部にとって便利なためかもしれない。
そうなると私は全くお手あげになってしまった。私は働く。そして原稿料は私の頭上をはるか高く飛びこえて、銀行に行ってしまう。銀行にいくと、通帳や判などヤヤコしいものが必要で、面倒臭がりの私にはとてもそれを細工するわけにはいかぬ。第一、通帳は家人が持っているからだ。
そこで私はジジ、ババからあれほど禁じられた盗みをせざるをえない。
毎日の郵便物のなかに現金書留がないかを調べねばならぬ。たいていは銀行送りになるが、稀にPR雑誌などで現金書留を送ってくるのがある。それをくすねるのだ。しかし、私の町では郵便配達夫が非常に勤勉な人らしく、まだ私の寝ている九時半頃、ドサリと厚い郵便の束を届けにくる。寝ている間に届けられると、家人はその中から現金書留を取りあげてしまう。ようやく十時頃、眼をさました私の手には金とは縁のない本や雑誌やダイレクトメールが渡されるだけである。
それでもまだ何とかして、くすねることもある。ラジオやテレビが私のへそくりの財源だ。ラジオやテレビのギャラはしれてはいるが、それでも直接、私に手渡してくれることが多い。だが対談の時など、仕事が終って、
「くれないかなあ」
と心で祈るような気持でいるのに、雑誌社の人は銀行送りにするつもりらしく、そのまま、
「有難うございました。ではサヨウナラ」
というだけの時がある。そんな時はチェッ、チェッと舌打ちを千回ぐらいしながら帰宅するのである。
こうして家人にはわからぬヘソクリを自分の寝室のある場所にかくしている。いい年をして、こんなことをするなんて本当に情けない。
けれどもこのヘソクリは税金申告の時、すべてバレてしまう。何も知らぬ家人が申告をしたあと、税務署でわざわざ「申告洩れ」の通知をよこすからだ。「えッ、こんなラジオやテレビや対談があったんですか」とその通知ですべて、すべて発覚する。私は本当に税務署が恨めしい。なぜあなたたちは、ささやかな私のヘソクリもソッとしておいてくれないのか。佐藤栄作氏はその点をどう考えておるのか。
ねがわくは雑誌社の方たちよ。銀行送りはできるだけせずに、原稿料は直接[#「直接」に傍点]、当人[#「当人」に傍点]に渡してください。十年前まで出版社と作家の関係はそうだった。あの美風がなくなったことを私は悲しむ。
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バカでかい風呂
十年前、現在の家を建てた時、私は文明評論的なバカげた想念にとりつかれた。
その想念というのはこうである。
「日本の現代建築は日本の湿気ある風土を考慮していない。湿気ある日本に住む日本人にとって一番、身心の休まる場所は茶の間でもなければ寝室でもない。風呂である、風呂場である。しかし、その風呂場はいつも日本の家屋のなかで片隅に追いやられている。風呂場こそ日本人は家屋のなかで金をかけるべきだ」
家人の反対にもかかわらず、私は設計家に六畳のひろさの風呂場を作ってほしいと頼んだ。そして風呂自身も普通の二、三倍もある奴を……。
予算に不足をきたさなければ、そのまま私のバカげた想念は実現したのであるが、金が足りなくなって、六畳の広さは五畳ぐらいの広さに削減されたが、ともかく我が家のなかで最も見晴しのいい位置に風呂場を作ったのである。風呂場のなかに観葉植物の鉢をならべ、金魚鉢をおき、窓をあけて、大山、丹沢、向うの丘と林とを眺められるというわけである。
「家をたてたそうですね」
「えっ、ボロ家ですが、風呂場だけが自慢です。一つ、入浴しにきて下さい」
当時、わが家に来てくれた客の半分は無理矢理、衣服をはがされ、入浴させられたものである。
だが私はバカだった。夏がすぎ、秋がすぎ、冬になると、私はこの広い風呂場をもてあまし始めたのである。
第一に燃料費が高くつく。プロパンガスしか使えぬこの家では、バカでかい風呂にガスを使うわけにはいかぬから石炭、薪を買ってくる。
夏ならとも角、バカでかい風呂が冬、熱くなるには時間も金もかかる。
それにバカでかいため、風呂場のなかが寒くて、裸になって中に入るとガタガタ震えるわけだ。折角ならべた観葉植物も湯気にあてられて枯れていくし、金魚鉢の金魚も死んでしまった。
それに、窓をあけると大山、丹沢、そして向うの丘、林を眺められるという楽しみも、その翌年から突然、侵入してきた不動産屋のブルドーザーのため、奪われてしまったのである。
丘はくずされ、林は根こそぎに消滅してしまい、しかもその代りに沢山の住宅が建ったからである。人家が建った以上、窓をあけて入浴姿をさらすわけにはいかない。
「だから、言ったじゃ、ありませんか」
家人はその頃から私の独断、専行をぶつぶつ言いはじめた。面目を失った私は、名誉をとり戻すため、風呂のなかに血液の血行をよくする噴出器という怪しげな機械を入れてみたり、ラジウムの出るという火山岩のような石を放りこんだりした。
するとこの火山岩のような石に私も家人も入浴中、足を傷つけられ、顔をしかめて手当をしなければならなかった。
三ヵ月後、新聞であるインチキ業者が全く出鱈目《でたらめ》の石をラジウム石といって売り捌《さば》いているという記事を読んだ時、私はガックリきた。
バカでかい風呂は今更、どうしようもない。もて余すと言っていいぐらいだ。
冬、バカでかいために湯ざめも早く、バカでかいために沸くのに時間もかかる。
どなたか、このバカでかい風呂場をどこかへ持っていってくださらぬだろうか。
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女(中)難
二年ほどいてくれたお手伝さんが実家の事情で帰ることになった。二年も一緒だとたがいに情もうつり、別れがたいが仕方がない。あたらしいお手伝さんを探すため、今度もまた新聞に広告を出した。
新聞に広告を出すと、二、三十通は応募の返事がくる。「わたしは無芸大食ですが、力だけは自信があります」などと書いた手紙をもらうと、林檎《りんご》のように赤い頬をした雪国の少女の顔が眼にうかんでくる。
眼にうかんでくるからと言って、すぐ来てくださいと承知するわけにはいかない。これまでの三、四度の経験から、こういう手紙の書き手の半分は、両親の許可なくただ東京に行きたい一心で、自分一人で応募していることがわかっているからだ。その一つ一つに御両親の承諾を得ておられますかという手紙を書いて送ると、これら二、三十通の大半は急に音沙汰なくなり、わずか七、八通ぐらいが返事をくれるのである。
そういう事情をまだ知らなかった頃、鹿児島からこちらの送った旅費で上京してきた女の子が我が家につくなり、
「東京だ、東京だと言ってきたら、ここ、うちと同じ田舎じゃないですか」
と不服そうに言った。わが家は東京都下だが、新宿から電車で一時間ちかい場所で周りには丘陵と雑木林とが多く、華やかなネオン、高層なビルに憧《あこが》れてきた彼女はすっかりガッカリしたのである。
「しかし、風呂場を見たまえ。窓から山がみえる。林がみえる」
当時、新築した家に誇るべきものが一つもないから、それだけ自慢していた大山、丹沢のみえる風呂場につれていくと、
「うちのお風呂からは海が見えるよ。山だけじゃないよ。温泉がわくだよ」
彼女の故郷が鹿児島県の温泉、イブスキだと私はうっかり忘れていたのである。五日もしないうちに東京見物をすませた彼女は鞄《かばん》をもって帰ってしまった。何のことはない、東京見物の片道旅費を用立たせて頂いたようなものである。
幸か不幸か、私は遠藤という姓のためか地方には作曲家の遠藤実氏と混同する女の子がいて、時々、「歌を教えてください」などという手紙が舞いこんで、私をびっくりさせることがある。むかし、やはり新聞広告でわが家に来た富山県の女の子は第二の美空ひばりを志していて、どうしても夜は歌謡曲を習わしてくれとせがまれ、往生した。もちろんお花や洋裁、英会話なら私も悦《よろこ》んで習いにいかせるが、縦からみても横から見てもこの子が流行歌手になれるとはシロウトの私にも思えず、さりとて故郷のノド自慢で二等をとったという彼女の自尊心を傷つけるわけにもいかず、そういう点も年頃にちかい娘をあずかる家ではつらいところなのである。
平塚から来たお手伝さんは可愛い子だったが、何を習いたいかとたずねると、自動車運転をやりたいという。いつも女房に運転してもらって恥ずかしい私は、ちょうど暇ができた頃だったので彼女と一緒に教習所に申し込みにいった。
ところがこっちは中ぶる男。向うは二十歳前の若い娘。カンのちがいか若さのせいか、私が教習員に叱られながら前進でモタモタしている間に向うはもうエス字型など習ってござる。もしこの調子で試験に私が落第などすれば、一家の主人としても雇用主としても面目を失うことおびただしい。
そこで女房と相談して、このお手伝さんが寝てしまってから、夫婦で足音をしのばせて家を出、音のしないように車庫から車を出し、近所の玉川大学の構内で毎晩、練習をする。もちろん教師は女房で、一時間、彼女に叱られながらまた足音しのばせて家に入るという始末だった。こういう点でも雇用主として大いに苦労した次第である。
数年前、愚妻が実家に病人ができて一週間ほど留守をしたことがあった。小学生の息子と遊んでくれていたお手伝さんが急におナカが痛いと言いはじめた。
医者をよぼうとすると医者はイヤだという。そこへ、私のかかりつけの按摩《あんま》さんが偶然やってきた。腹痛ならハリでピタリと治してみせると言う。私はそのお手伝さんにハリをうたせた。
翌々日、彼女はやっぱりお医者に見てもらうと言って家を出たきり、もう戻ってこなかった。
何が不満だったのかと帰宅した愚妻と話をしている矢先、お手伝さんの母親から電話がかかってきた。
「実は……」
その母親は電話口に出た愚妻に言った。
「うちの娘……、赤ん坊ができまして」
瞬間、愚妻の脳裏にはチチオヤはウチのオッサンという文字がひらめいたそうである。しかし幸いなことに私の無実が、その母親の口からすぐ語られ、相手は前から休み日に交際していた青年で、近く結婚してくれると向うも言っていることがわかった。
「まあ、おめでたいわ。原因と結果が入れかわっただけですもの」
と女房は笑いながら言ったが、私は実に情けなかった。
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女子中学生たち
この三ヵ月ほどの間、一日、十通から十五通ぐらいの手紙が他の郵便物にまじって来るようになった。その半分はヒヨコやキューピーの絵のついた便箋《びんせん》が使ってある。いずれも女子中学生からの手紙で、彼女たちは私の『ぐうたらシリーズ』を読んでくれた読者たちなのである。
ヒヨコやキューピーの絵のついた手紙をもらうのは初めての経験である。私は今日まで大学生とは多少の接触はあったが、若い高校生や中学生とは息子を除いて交際したことはない。もっとも息子のほうは近来、とみに親を馬鹿にするようになり、話しかけてもロクに返事もしてくれない。だから私はこの初めての経験に浮き浮きとして、平生は仏頂づらの午前中も郵便物が届けられると楽しくなるのである。
彼女たちの手紙は実に私を嬉しくさせる。何よりもその誤字脱字によって。もちろんそのなかには本当の誤字もある。しかし機知とユーモアでわざとアテ字を使う芸当もたっぷり見せてくれる。
「あなたは髪のうすいのを気にされているようですが、そんなこと気にするなんてオカシイと思います。私たち○○中学校の女子生徒はあなたを禿増《はげます》会をこれからつくろうと思います」
たしかに随筆のなかで私は髪がこのごろ、うすくなったのを嘆いた文章を書いた。それにたいして私を禿増す会をつくったという女子中学生たちの機知とユーモアに思わず笑いださざるをえない。
「あなたは女性にもてぬと書いていましたが、テレビをみるとあなたは微男子です」
これも別の女子高校生。美男子を微男子と書いたのはあきらかに意識的なからかいで、お前さんには男としての魅力が微かなりという意だろうが、こう書かれると怒る気は一向に起らない。
手紙だけではなく電話をかけてくる女子中学生も多い。仕事中はさすがに電話口に出るのは許してもらうが、たまたま一休みしている時は彼女たちと話しあうこともある。「あの、どんなもの食べてるんですか。寝る時はパジャマですか。寝間着ですか」そんなことまで訊《たず》ねてくる。
「私が食べるのはオココと飯だけです。寝る時はパジャマも寝間着も着ない。フンドシだけ。フンドシ」私はそうからかう。ハアとかハアーとか情けなさそうな声を女子生徒は出す。こちらは可笑《おか》しくて仕方がない。疲れも忘れる思いである。
私にはその年ごろの女の子がないので、もしそういう女の子がいたならば、夕飯の時、酒でも飲みながら彼女を今のようにからかえばどんなに楽しかろうと思う。私が女の子の父親ならばカナダでは左手にナイフ、右手にフォークをもって飯を食うのだとか、のみ[#「のみ」に傍点]の尻の穴を発見したのはスウェーデンの学者だとか、出鱈目《でたらめ》ばかり教えるであろう。
一番、困るのは何のためかわからぬが、自分の写真を入れてくる女子中学生が時々いることである。ごらんになったら返してくださいと書いてある。私のような爺《じい》さんに自分の写真を送るのはどういう心境なのであるか。
痛快なのは、私は今まで北杜夫さんのファンでしたが、これからはあなたのファンになりますと、書いている手紙をもらった時である。北杜夫には圧倒的に中、高校生ファンが多いが、その何人かを私が頂戴《ちようだい》したわけだ。
一度、イヤがらせにこの種の手紙を北の家に送ったことがあったが、さすがに彼は大人でニコニコとして動じなかった。
女子中学生よ。夏休みの間、北杜夫の本、私の本も大いに読んでくれたまえ。と同時に、日本や外国のいい小説もうんと読んでくれたまえ。そしてこの爺さんの一日を楽しくさせる手紙をくれたまえ。
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先輩の錬さんのこと
柴田さんに始めて会ったのは、私がまだ学生の頃だから、今日までかれこれ二十年以上になる。戦後まもない頃で、東京はいたるところに焼あとが残っていたが、柴田さんも柏木のそんな焼あとの一角にお嬢さんとお二人で住んでいられた。奥さまが御病気で入院されていたからである。まわりがトウモロコシの畠で、その畠のなかでキリギリスの鳴き声がきこえた。
柏木の柴田家は当時、応接間と二つの日本間しかなかったが、やがて奥さまが退院なさる頃になると茶の間ができた。
なぜ、そういうことを書くかというとこの家とこの茶の間とが後輩の私にはいつまでも忘れられぬ懐しい場所だったからである。私は当時、金がなかったから、今の女房とデイトしようにも晩飯ひとつ食えず、一計を案じて柴田家の夕飯どきをねらってはよく伺ったのだ。
茶の間にはほり火燵があって、中に足を入れると、もう帰るのがイヤになるほど心地よかった。私はそこで一時間も二時間も柴田さんやミカちゃん(お嬢さん)や女房と雑談をしながら、早く御飯ができないかなと待っていたものである。今、思うと実にアツカマしい話ではあるが、あの頃、柴田家には私のような若い連中が次々と遊びに行っていて、吉行淳之介などもその一人だった。チェコで演劇の博士号をとられた村井志摩子さんなども、私はこの茶の間で口喧嘩をした相手である。
当時の柴田さんはボードレールやリラダンが好きで、絵入りの『悪の華』の原書をみせてもらったことがある。奥さまの御令兄が仏文学者の斎藤磯雄先生であり、私はこの茶の間で先生からリラダンや仏蘭西の象徴詩のお話をうかがったこともある。
留学から戻って、はじめて『アデンまで』という短篇を書き、『三田文学』に載せてもらったが、発表してから数日後、柴田家に遊びにいくと、「おい」と柴田さんは鉛筆とこの『三田文学』とを茶の間に持ってこられた。みると、私の小説のいたるところに筆が入れてあって、その日、二時間ぐらいの間、私は文章作法を教えていただいた。柴田さんから一字一句を教えてもらった後輩はおそらく私一人だけだろうと思う。
その頃の柴田さんはひどくおシャレをして外出するかと思うと、丹前姿のままブラリとバスに乗って新宿に行くことがあった。いつも不機嫌な顔をして、パチンコをやるか、西部劇をみるかが、その散歩コースで、あとはコーヒーを飲むほかは楽しみがない人だった。
私が芥川賞をとった翌日、すぐ柴田家に報告にかけつけると、玄関に出てきた柴田さんが「お前、とったな」とニヤッと笑われた。その笑顔が今でも私には忘れられない。
私の結婚式の時、柴田さんは何を思いけん、遠藤のあだ名は「ウソツキ遠藤」であると冗談まじりでスピーチをしてくださったが、そのおかげで私はそれ以後、ずっとこのアダ名を背負わされる運命になった。
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ぐうたら好奇学 2
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カモはお天気相談鳥
この柿生の狐狸庵に移りすむまえ、駒場にいたことがある。
猫の額のような小さな庭と家だったが、それでも五月ごろ苗を植えておいた糸瓜《へちま》が玄関前の棚を這って、青々とした影をつくるのである。
六月の淫雨がやむころ、この葉と葉との間に黄色い花が咲いては散り、やがてあのブラリとしたへちまの実がみのる。私はこのブラリの下に椅子をもちだしては、そこで何もせずにポカンと坐っているのが好きだった。そして、あまり陽ざしが心地よいと、そこで居眠りをすることもあった。
また、私は青ものの鉢が好きだから、縁日の植木屋などから求めてきたさまざまの植木を庭に並べた。その間に少し泥と青ごけがついているが、奮発して古道具屋から運ばせた大きな水がめがある。前の年戯れに放った金魚は、一冬をこしても死にもせず、少し黒くよどんだ水と蓮との間を、時々するどい線を描きながら泳ぎまわっている。この蓮は、朝がた、かすかな音をたてて、白い花、赤い花を咲かすというので買ったのだが、どうやらダマされたらしく一度もその花をみたことはない。
金魚の他に我が家にかっていた生き物は、猫一匹、四十雀十羽、そして家鴨《あひる》である。
この家鴨ははじめは人にあげる約束で、一時家にあずかっていたのだが、そのうち相手の都合がわるくなり、そのままここに落ちつくようになったのである。
家鴨は私にとって、その日その日の空模様の移りかわりを知らせてくれる鳥となっていた。夏の夕暮など、仕事に追われて部屋の暗くなったのも忘れて机に向っている折ふし、私は、急にこの家鴨の物がなしい嗄《しわが》れ声に、ふと気がつくことがある。
窓をあけると、家鴨は腰をふってしきりに声をあげている。彼が雨をよんでいることは、その物腰でわかる。夕立をはらんだ空は曇り、急に風が吹いて庭の八つ手が大きな葉を音をたてて震わす。すると家鴨は余計に腰をふりながら、しわがれ声をあげるのである。そして大粒の雨が私の手をかけた窓に小さなハジキ豆のような音をたてて当りはじめる。
この家鴨は一人ぽっちだった。冬の夜など私が渋谷の飲屋でおそくまで時間をつぶし、寝しずまった近隣を起さぬよう、そっと門をあけると、きまって小声で鳴きたてるのも彼である。雪のふる夜、ふと眼をさまし、雨戸を細目にあけて庭をのぞくと、彼は降りつもる白い雪の中に片足をあげたままじっと立っているのである。私はそんな時、しばらく強情そうな彼の姿を、寒さを忘れて見つめていることもある。
隣は、四軒長屋になっていた。長屋には共同の井戸があって、その井戸でのおカミさんたちの世間話を、私はひそかにきいていて飽きたことがない。夜おそく酔っぱらっては家にもどり、飼犬にむかって、
「こら、コンニチハといえ。コンニチハといえ」
と無理難題をふっかけていた左官屋のKさんもまた、この長屋の左端に住んでいた。
今からこの家を中心にして、当時心のおもむくまま、私が興味をもったさまざまの事がらを、気ままに書いていこうと思う。そのあたりといっても、私のことだから駒場からほど遠くない渋谷のことなども入るだろう。
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野趣の街・渋谷探訪
駒場に住んで私が興味をもったことは、東京も西の方角は大体、渋谷のあたりまではいかにも街であり、都会であるという感じしかしないが、あの渋谷の道玄坂を登りつめた坂の頂のあたりから、同じように家並がつらなり、車や電車の往来は激しくとも、どこかふるい武蔵野の面影と野趣とが漂いはじめることである。
ではどこにそういう野趣や面影が残っているかといわれれば、私も返答に困ってしまうであろう。
さりながら、トコトコと気のおもむくままにこのあたりの路を歩いて気づくことは、土地の起伏が多いことである。道玄坂という坂の名の由来はその昔、ここに道玄という盗賊がかくれていたためであると聞いたことがあるが、この坂を少しおりると松見坂のふかい窪地《くぼち》に出る。
今はこの窪地にはあやしげな逆さくらげの宿屋数軒をまじえて、ぎっしり家もたてこんでいるが、その昔――昔といっても江戸時代でさえ武蔵野特有の雑木林がしげって、ひょっとすると小さなせせらぎさえ流れていたにちがいない。なぜならばこのあたりは駒場という名の通り、むかしは馬場があり、また時には狩りさえしたというからである。
大正から昭和の初めにかけて東京がずっとこの方面まで広がったころから、駒場から、世田谷にかけてはいわゆる新開地となったらしいが、当時の人の日記などを拝借して読んでも、いかにものんびりとした風景が描かれていて、今のわれわれには到底《とうてい》、想像も及ばないようである。
幼年の頃ここに住んでいた安岡珍斎亭(本名章太郎・作家)主人の話によるとたとえばあの満員、鈴ナリだった玉川電車さえ、ほとんど閑散としていて、線路の上を百姓家からとびだした鶏が歩きまわり、運転手は電車からおりてその鶏を追い払う……そんな光景も決して珍しくはなかったそうである。
そしてまたこのあたりは兵営が点々としていた場所でもあった。このことは「渋谷で遊ぶ」ためには決して忘れてはならぬ一事項であって、そのうちポツポツと渋谷の女、渋谷の裏町のことなどを書いていくつもりだが、私の頭はいつも、いまいったことを思いださずに渋谷を見たことはないのである。
渋谷は学生の街であり、中産階級の盛り場だと普通いわれている。なるほど戦後は渋谷もそういう面がグンとのしてきたし、私もここで遊ぶたびにそれ以上のことを感じなかったのであるが、駒場に住むようになって以来、その感じの上にもう一つ、新しい感じを補足せざるをえなくなった。
我が家から渋谷は七十円のタクシーで正確に最低料金ぎりぎりのところでつく。これは逆に渋谷の東横百貨店のハチ公出口のあたりで車をひろい家の前までの値段であるが、面白いことには家よりたとえ五メートルでも進めば、メーターはカチリ、九十円にのぼるのである。
私はそれが面白さにここに住むようになってからほとんど毎夜のように渋谷にでかけた。たとえばようやく約束の仕事が終えた時など、柱時計はすでに夜の十二時をすぎていても、門を出て七十円の車にとびのれば三分後には渋谷の寝しずまった街を歩けるのである。いや、私の好奇心強い性癖は、むしろ寝しずまったこの夜ふけの町のありさまを探しまわっていたといってよい。
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道玄坂の酒と食べ物
ある夜、なんかの会があって、その帰りに安岡珍斎と二人で渋谷まで車で来たことがある。まだ、十時ごろで、映画館がハネたばかりらしく、道玄坂は相当にぎわっていた。
安岡珍斎も私もまだ飲みたりない気分だったから、
「降りましょうか」
「降りやしょう」
車を渋谷東宝のちかくにとめさせたのだった。
平生、渋谷で飲む時、私の行く店は原則的にきまっていた。日本酒を飲みたい時は、道玄坂をおりた所からあの渋谷大映にむかう道を三十メートルほど歩いたところの「玉久」という店。
この店は構えこそ汚く狭いが、鮑《あわび》、海老《えび》、鯒《こち》などその季節、季節の新鮮な魚を出してくれたのである。特にこの店の鯒《こち》のアライは私のもっとも好きなもので、店の隅に腰かけながら、これでチビリチビリとやる時の気持は何とも言えない。
この「玉久」は中年の夫婦が二人でやっていたのだが、主人はこういう店の親爺にありがちな職業的無愛想もてらわなければ、といって客になれなれしく話しかけもしない。
ここで一、二本飲んで、私は次にこの店のすぐ裏にある、これも店自身は煤けた破れ障子の、まことにうらぶれたものではあるが、その二階で食べるテンプラが思いがけなくいかす家に寄ることにしている。ここでキスなどをあげさせながら、軽く一本。そして今度は「玉久」に面している道路を渡って、ちょうど西村フルーツパーラーの裏にあった「ひょうたん」という茶漬け屋に寄って一本つけさせたあと茶漬けを食うのである。というのは、ここには色々の漬物が用意されているからだ。
私は少年のころから家族にたいして漬物についてだけは文句ばかり言っていた。今はそれほどではなくなったが、しかし少なくとも四種以上の漬物を大きな皿に美しく盛らせて食卓に運ばすことにしている。
外で食事をしていても私の気にくわぬのは何時も漬物である。特にちかごろは一分間でつける漬物器などができて、そういう器具で即製したキュウリやナスを小さな皿で出される時ほど閉口することはない。
その点、この「ひょうたん」の特徴はまず各種の漬物が、そろえられていることである。ここで私はさまざまな漬物の色をたのしみ、その香りをたのしみ、そして茶漬けをたべながらそのカリッカリッという歯ごたえをたのしみつつ食事を終えるのである。
「玉久」からこの「ひょうたん」に回るのが、私の渋谷での日本酒を飲む時のきまった足どりだった。
そこで、その日も安岡珍斎と渋谷大映にいく路を歩きだしたのだが、急に浮気心が起ったのであろう、まだ自分のよく行かない酒楼で一杯やってみたいような気がしたのだった。
そこでまあ、出鱈目《でたらめ》にマッチ箱のように並んだ飲屋やトリス・バアなどの間をぶらぶら歩いて、どこか気に入った店はないかと物色していたのである。
ところが私たちは急に余り人影のない路に出てしまった。
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四畳半のスラバヤ殿下
その路の両側にはマッチ箱のように四角い木造の家が並んでいて、どの家もペンキでべたべた塗られている。入口には女の子が二、三人ずつの組をなして立っていて、
「ちょいと。お兄さん」
「眼鏡さん、ビール一本でいいのヨ」
などと声をかけるのは二、三年前の新宿のある場所を想起させる。
安岡珍斎と私とはそれらの女の子たちに適当に返事をしながらぶらぶらと漫歩していたのであるが、突然、電信柱の陰から肥満した姉さんが走ってきて珍斎氏の腕をムズと掴《つか》んだ。
「来なさい」
「アリャ……今晩はごカンベン」
「いいじゃないの、スラバヤ殿下」
スラバヤ殿下、というのは安岡のいくらか東南アジア系にちかい顔を見て咄嗟《とつさ》に口に出たのであろうが、言いえて妙なので、私はその肥満した女性に吹き出してしまった。
結局、ズルズルと腕をとられた安岡のあとについて、彼女の店の前までくると、入口に待機していた三、四人の女たちが口をパクパクあけてわめきながら中に押し入れる。
中といっても椅子と卓が三組ほどあるだけで、しかも照明がひどく暗い。どうみても飲んで楽しそうな店ではないようである。
「あんた、奥の四畳半で飲む。ここで飲む?」
肥満した女が安岡の腕にすがりつきながらたずねた。
「奥に四畳半があるのか」
とききかえすと、自慢そうに、
「あるわよ」
で、そこに行ってみた。何のことはない、この家の茶の間のことで、隣が台所、台所の横に狭い便所があった。便所の臭いの流れこんでくる四畳半には卓袱《ちやぶ》台や茶箪笥が並べられて、箪笥の上にはこわれたラジオがおかれている。
「何を飲むの」
「ビールでももらいますか」
「あたしたちに、漬物、ご馳走して」
漬物、ご馳走してというのは愉快だったが、うんうんとうなずくと、肥えた姉さんは台所に行って、上り口の板をあげ、手を入れると白菜の漬けたのを引きずりだしてくる。
それから大騒ぎが始まった。この肥満女性のほかに二人の女の子があらわれ、漬物をバリバリ、ボリボリすごい音でかみながら、オンチの大声で歌い、我々にも歌うことを要求し大根足をドッテン、バッタンとあげておどりのマネをして我々にもおどることを要求し、狭い四畳半はたちまちにして大運動会となる。
一時間後、さすがの安岡も私もアキレ果て疲れ果て勘定をすませ、そこそこに逃げだしたが、その勘定は、家庭で飲むビールの代に少し上まわるくらいであり、一体なんのため店をやっているのかわからない安さであった。
私の興味をひいたのは、例の四畳半とこの値段の安さであった。女の子たちがあれほどわめいたり、すさまじく騒いだりする店なら新宿にでもある。しかしそういう店に限って、いわゆる暴力酒場のような法外な値段を要求するのである。だがこの渋谷の店は西部や満州(中国東北部)の開拓地の荒くれ酒場の臭いみたいなものがあった。
「それは兵隊のせいだよ」
むかし世田谷で少年時代を送った安岡はこういう解釈を下した。
「つまり、世田谷の兵隊さんたちが日曜外出でくるのが渋谷の今のあたりだったんだろうナ。だから兵隊の給料で俺は遊んだという気持になるような店がおのずと渋谷にはあるんだな」
この解釈は私にはなるほどと思われた。渋谷のもっている局面を知ったのはこの夜からである。
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脚のパントマイム
安岡にこう説明されて私には渋谷のもつ性格の一つがわかったような気がしたが、更に観察しつづけていると、もう一つの面白い局面がのみこめてきた。
我が家を出て私が普通、渋谷をほっつき歩くのは夜が多かった。それもたいてい十時半すぎ、つまり映画館がハネ、あの道玄坂がひとしきり人の群れでうずまる時間である。昼間の渋谷には決して行かないというわけではないが、そういう場合、私の出かける行き先はたいてい東横百貨店にきまっていた。
私は百貨店に行って飽きることがない。まず、私はあの忠犬ハチ公側の電車出口にむきあっている草花の苗や植木鉢をゆっくり見物することにしていた。別に買うという気持なしに、青い葉を見るのはたのしみの一つである。特に六月の終りごろから、ここには箱庭の道具や風鈴などが並べられると一段と季節の移り変りを感じる。
それから私は一階をずっと歩き、いわゆるモデルを使っての化粧品説明を聞きにいく。聞きにいくと言うよりは、そこに集まっている女性たちの表情を見るのが楽しみなのである。モデルが次第に化粧をして美しくなっていくにつれ、それを見る女たちの顔には少しずつ変化がおきる。その変化はちょうど魔術を見ている土人の顔の動きに似ている。
私はまた医療道具を並べてある硝子ケースも面白くてならぬ。肩こりや血圧の民間器械にはこれも一種の魔術があって、それを係員に教えられては試している中年男や婆さまの表情にもさきほどの女性たちと同じ顔の動きが始まる。
一階でまた興味あるのは新館の横にある電話ボックスの列であろう。このボックスは中でかけている人の上半身は見えぬが、下半身はムキ出しである。人間というものはお腹と胸と顔とを四方から遮断すると急に「誰にも見られていない」という安心感が起きるものである。そして心の動きを下半身、つまり脚にむき出しにするものらしい。ここの電話ボックスを見ていると何時もそう私は思うのである。
恋人にかけている青年、取引き先と話している男、それぞれさまざまの心の動きが、言葉はきこえなくても、まるで巧まざるパントマイムのように、その二つの脚のおき方や靴の位置にあらわれるようだ。私は彼等の下半身を眺めながら、その話の相手、話の内容をアレコレ想像して飽きることがない。
そこで疲れれば地下室の食料品売場におりるのも一興である。私はこの食料品の一角に、酒のさかなを売っている硝子ケースをさがし、そこでいわゆる、するめにカラシをつけた珍味を十円ほど買うことにしている。
それから酒を売る場所にちかづく。ここで黙って棒のように立っていると、宣伝員が試飲用の酒を小さなコップに入れて奨《すす》めてくれる。私はそれをチビリと飲みつつ、宣伝員にはわからぬよう、さきほど買ったするめをこの酒のさかなにする。
「一杯ではわからん」というと、二杯ついでくれる。「少し甘口だなあ」と首をひねると、今度は辛口の酒を出して飲ませる。こうして回を重ねると腹のすいている昼飯前なら少し酔ってくるものだ。最後に「今度にしよう」と宣伝員にきこえるようつぶやきながら歩き出せばいいのだ。これがたった十円で酔う秘訣である。
百貨店のことで横道にそれたので、渋谷のもう一つの面に話をもどそう……。
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夕顔のような女
先ほども書いたように駒場の家で仕事にあきた私が夜、渋谷を散歩するのはおおむね、夜の十時半すぎで、ちょうど映画館のハネた頃であろう。ひとしきり道玄坂から駅にいく路がそれぞれの館の出口から吐きだされる人の群れで雑踏したあと、やがて、西村フルーツパーラーの横に店を並べた占師や焼栗屋も店をたたみ、あかるい灯をつけていた両側の店々もそれぞれジュラルミンの戸をしめる時刻なのである。
私はむかしの帝都線の入口の前にこの時間ぐらいから、二、三人の威勢のいい兄《アン》ちゃんがオモチャの叩き売りをしているのを知っているからそれを見物にいく。私に興味があるのは兄ちゃんたちの口上もさることながら、それをとり囲んでいる客の表情なのだ。
オモチャを見物している客は滑稽なことには、ほとんど三十歳にちかいか、もしくは三十歳以上の中年男たちばかり。彼等のあるものはまだ折鞄や紙の袋をもっている。つまりこれは連中が勤め先から真直ぐ、家に戻らずにこの渋谷で下車し、今ごろまで酒を飲んでいた証拠でなくて何であろう。
彼等は飲んでいるうちは女房や家も糞くらえと思っているのだろうが、飲屋を出た途端、急に酔いざめとひえびえとした夜の空気のなかで細君にたいする恐怖や遊んだことの申し訳なさに駆られるのだろう。そこで一つには自分の良心をイヤすためと、女房|懐柔策《かいじゆうさく》のために、子供のオモチャを買っていく哀れ悲しい心根になったにちがいない。
その心根が同じ男である私には手にとるようにわかるので、彼等の顔を横からしげしげと観察していると、ポケットに手をモゾモゾと入れたり、地面にしゃがんで熊やキューピーを懸命に眺めては考えこんでいるのである。
この人群れを観察しているうちに時間は、十一時半ごろになる。十一時半ごろから十二時まで急にハチ公前の国電改札口がひとしきりこみだすのだが、それは渋谷の酒楼やバアで働く女が帰りだすのと、新橋、銀座で勤める女性たちがここで玉電や帝都線に乗りかえるためである。私は国電の駅前にたち、出たり入ったりする女の服装や顔を眺めることを欠かさない。この頃、鉄の戸をおろした東横デパートの前に、用もないのにぶらぶらとしている男が三、四人かならず眼につくが、彼等は別に愚連隊ではないのである。
このように私がこのあたりを観察しながら散歩していると、暗がりに弱い灯をともしたオデンの屋台から、若い女が声をかける。
「兄ちゃん。ちょっとこない」
彼女たちは私娼であって、渋谷の私娼にはオデンの屋台にかくれて客を誘うものがその頃とみに多かった。
私娼がもう一つかくれている巣は道玄坂の東宝映画館のよこである。ここの女たちはオデン屋の仲間とはちがって、年もとっており、黙ってスウッと近よってくるのが習わしのようだ。
ある夜のこと、私はこの映画館のずっと下でタクシーを捜しているようで、車がくると知らぬ顔をする女を眼にした。着物をきて小さな風呂敷づつみをかかえて、外観や物腰といい、全くの素人の女くさかった。
私がそのそばをゆっくり通りすぎた時、その女は夕顔のように目だたぬ顔をこちらにむけて、小さな声で、
「あの……失礼ですが……」
と言った。
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開拓地・渋谷の素人女
「失礼ですが……」
こういう誘いかけを玄人がする筈はない。私は少しびっくりして二、三歩退くと、その女性をじっと観察した。背のひくい小柄の女である。
粗末な和服をきて体も小さく貧弱である。その上その顔を懸命に強張《こわば》らせて次の言葉を言うのに非常な努力をしているのが、風呂敷包みを持っている手つき一つでもわかった。
「失礼ですが……あたしをどこへでも連れていって下さい」
私はその後いく度となく夜の渋谷で女たちに声をかけられたが、このような誘われ方は初めてであった。
(素人だな)
ピンときた。
「一杯やりに行くんだから」私は言った。
「あんた一緒に飲みにいくかい」
もちろん、これは通行人の冗談めいた御挨拶であり、普通こういう挨拶をすれば女たちは「チェッ、いけすかない」と言ってツイと客から離れるか、
「飲むならサ、うちの知ってる所で飲もうヨ」
こうからんでくるのが常識であろう。
ところが――
四、五歩、私は歩きかけて驚いたことには、その女は風呂敷包みを胸にしっかり押えつけながら、大股の私に遅れまいとして必死に歩いてくるのだった。
困ったなと思った。こちらは冗談でいったのだが、女は私のあとをついてくる。素人の証拠である。こうなれば彼女の心を傷つけないためには、彼女とどこかの旅館に行くことであるが、私はそういうことを好まない。
仕方がないから酒をのんで話でもして、時間をとらせたからという理由でチップでも渡して、と考えたからいつものように「玉久」にはいかず「ひょうたん」のちかくにある、ある大きなトリス・バアの地下室に足をむけた。この店ならけだし客もまばらで席も空いており、ゆっくり話もできるからである。
むかいあって席に坐ったが、女はうつむいたままだった。蛍光燈のため彼女の顔はさきほどよりも、もっと不健康にみえた。のみならず酒はなにを飲むかときいても首をふるだけである。
十分ほど向きあっているうち、女はポツリポツリと、自分はある家政婦会で派出婦をしているとしゃべりだした。街にたったのは初めてだという。
ところが、このような経験に私はその後、夜の渋谷を漫歩するたび、はからずも度々出会ったのである。一度などは昔、中学校の教師をしていたという女性にも会った。
もし彼女たちのいうことを信ずるなら、渋谷というのは素人の女が一人で……つまり、ポン引やヒモや愚連隊の手や援助を経ずに、商売できるということを知ったのはこの時である。これは東京の他の盛り場ではなかなかみられぬであろう。たとえば新橋でこんな女が眼につけば、本職の私娼から制裁をうけるにちがいない。
つまりこの事実は、渋谷が銀座、新橋、新宿などとちがって、まだ街としては完成されない場所であることを我々に示している。まだここは開拓地なのである。あの西部劇にでてくる出来あがりつつある街らしいものが、渋谷にはあるわけだ。素人の女がヒモの手を経ず路に立つのは、開拓地的な雰囲気のあらわれである。
渋谷の道玄坂をのぼると、そこからまだ野趣の残っている武蔵野の匂いがすると私は思ったが、渋谷は街と野とのあいまいな境界線になっているのだなと、私はこの女たちと話しながら推量したものである。
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視線が合った女
うだるような暑い日、我が家の六畳に坐っていてもほとんど仕事は手につかぬ。読みさしの書物も同じ頁の、同じ行ばかりに眼を繰りかえし走らせているだけで、睡魔におそわれるばかりである。
私は時々、舟をこぎながら、思いだしたように白い眼をあけては隣の長屋を窓の隙間から観察する。
さきほど共同の井戸ばたで尻をめくって腰巻の洗いざらしたのを見せながら亭主の愚痴、子供の愚痴などをしきりとこぼしていた長屋の内儀《かみ》さん連中も、
「あああ、暑いねえ」
「ブツブツ言わずに避暑にでもいったらどうだね」
「ゼニがねえよ。ゼニが」
大声でそんなことを言いながら引きあげていったが。
今はおのおの縁側にごろりんと横になり、しきりに破れ団扇《うちわ》をぱたぱたならしているようである。
その一軒のMさんのところからつけっぱなしにした安ラジオが、しきりに素人歌合戦であろうか、あまり上手くもない流行歌を放送していて、その高い声がただでさえも暑いこの午後を一層暑くるしくするのである。
聞いちゃいけない出船の汽笛
君と別れるたびがらす
私は風を入れるため窓を少しあけたが風はなかった。風はなかったが、長屋の共同井戸に、おそらく皆で金を出しあって買ったのだろう、丸々とした黒いシマ模様の大和西瓜をグサリと切って真赤な中身をみせたのと、黄色い瓜が三つ、四つ、五つ水につけてあって、その色の鮮やかさが急に眼に涼しげにうつった。
井戸のそばには一本の桃の木がある。この長屋のだれかが三年前、ひょいと縁側でくった種をここに放りなげて、それが芽が生え若木となったのだろうが、春さきにはそれでも柔らかな花びらをいっぱいにつけるのである。
その井戸の真向いにいる大工のOさんはなかなかの趣味人であって、猫の額のような庭に自分で池をほり、自分で石を集め、自分でその池のまわりに草を植え、池の中には縁日で釣った黒い鯉を二、三匹放っている。だから我が家の家鴨《あひる》がその池で水浴をせぬように注意せねばならぬが、この池も今日の暑さにすっかり水があつくなったのか、時々たまりかねたように鯉が水音をたてるのが一層、午後の静寂をふかめるのだった。
私はたまりかねて書物をとじ、下駄をはくと渋谷まで散歩しにでかけた。こういう時、あの百貨店の裏にある小さな映画館にとびこんで、客がガラ空きなことをいいことに冷房のなかでゆっくり昼寝をして、黄昏《たそがれ》やっと涼しくなったころ、「玉久」に寄り、枝豆のよく塩のきいたのに、冷蔵庫の中に十分ひやしておいた麦酒《ビール》で一杯やるのが、私の夏の生活の一部分となったからだった。
ところが外に出ると日ざしは眩暈《めまい》がするほどまぶしかった。私は掌を眼の上にあてて、ぶらぶらと松見坂の方に陽光をよけつつあるいていると、例の窪地にあるアパートの二階で、シュミーズ一枚の女が窓ぎわに坐って下を見おろしていた。
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糸切り歯の女
ただでさえ真夏のまぶしい日差しに、こちらから彼女を見上げる方角は逆光線だったから、私はしばらく瞬《まばた》きをしながら、その女を見つめていた。
シュミーズ一枚で二階の窓の張り出しに腰かけていた女をどこかで見た記憶はあったが、私はすぐに思いだせなかった。だが女は白くむきだした腕を片一方の手でポリポリかきながら、
「あんた、この近くだったの。どうしたのよ、あれから」
「ああ」
私はあいまいに笑い、記憶のしきみの底からこの女性のことを考えていた。そしてやっと思いだすことができたようである。
それは一昨年の終りのころだった。私はWという学生時代の後輩につれられて、冬のある夜、新宿東口の露地に飲みにいったことがある。この露地の突き当りに「ととや」という店があって私はそこに三、四度出かけたこともあった。W氏の連れていってくれた飲屋は二人の女性がやっている店で、若い方の女が主人、年とったのが使用人ということはすぐわかった。
若い女は下ぶくれの、いわゆるポチャポチャした顔だちだったが、笑うと糸切り歯が朱唇から覗《のぞ》き、それがまた、なんともいえぬ色気なのである。W君の彼女にたいする息はずませた話のしかたをそばで聞いていると、彼がこの女性に気があることは私にもすぐわかった。
W君はほとんど毎夜のようにこの店に通ったらしかった。もちろん彼のように若い青年は心しずかに酒をたしなむことを知らない。
私なども昔は酒そのものの味をゆっくりと楽しみ、あの小さな杯の感触やその杯の中の芳醇な液体のなかに心の愁いを静かにうつしてみることなどを考えもしなかったのであるから、W君の若気もわかるのである。近く地方の大学の講師になる彼は、この女性に自らは東京をはなれることを訴え情愛を迫ったのだった。
ところがこの女性は糸切り歯をみせて笑いながら、来年の六月になるまで家庭でゴタゴタがあるからその時まで辛抱してくれない、と言ったそうである。
W君は承知して東京を離れたが、六月、はやる心を抑えつつ、ちょうど出張があったのを幸いに上京して彼女の店を訪れると、こはいかに、かつて酔客漫歩のこの界隈は全くの廃墟。あたらしいビルディングでも建つのか飲屋はとりこわされ、掘りかえされた敷地には棒ぐいが打ってあるだけである。もとよりあの女の行き先など何処ともわからない。初めてW君もしてやられたと悟ったのである。
この話をきいた時、私は笑いながら、あの糸切り歯の女もなかなかやるなあと思っていたのであった。しかし、それはそのままとなり彼女のことも日が経つにつれ忘れてしまったのは言うまでもない。
ところがその彼女が今、目の前のアパートの二階に腰かけているのである。
「ね、あがらない」
なぜか彼女は私に笑いながらそんなことを言った。
「イヤだよ。W君に叱られる」
「あら、あたし、あの人と何でもなかったのよ」
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西瓜と私娼
そこで誘われるまま私はそのアパートの玄関をあけた。
玄関はひどく小さくて、硝子戸のすぐそばに下駄箱と少し急な階段がついている。階段を登ると、今度は左に曲る廊下がついていて蜂の巣のように両側に三つずつ部屋が並んでいた。そして彼女は一番片すみに住んでいた。
襖《ふすま》をあけると、彼女のほかに簡単服を着た年のころ四十にちかい女が、団扇《うちわ》をつかいながら畳にねそべっていたが、私を見てあわてて起きあがった。
「いいんだよ、マキさん。ねてなよ」
この中年の女に彼女はそういいながら、今度は私を見て、
「ごめんなさーい。こんな格好して」
両腕をシュミーズの乳房の上に組んで、ちょっと胸をかくすまねだけをした。私は、いやそのままで、なにしろひどい暑さだからねえ、などといいながら、マキさんとよばれた女と向きあって卓袱台の前にあぐらをかき、着物に手を入れて巻たばこを出して口にくわえた。
「久しぶりだったなあ、本当に。あれからどうしたい」
「どうしたも、こうしたも……ちょっと、待って。あんた西瓜たべる。冷えたのがあるのヨ」
そういって彼女は部屋の隣の、ろうけつ染めの暖簾《のれん》でさえぎられた小さな台所にはいった。私はその間、煙草をふかしながら、部屋をながめ、色のあせた布のかかっている鏡台や、鏡台のよこのタンスやその上のお茶卓などを見て、なんだかこの部屋に前に来たことがあるような気さえした。
彼女の出してくれた西瓜は大和西瓜で、さきほど我が家の横の井戸で長屋の人々が水に漬けていたのと同じように飄々《ひようひよう》とまるく、その色も縞模様も黒かった。私はこの大和西瓜を夏ごとに八百屋の店先でみるたび、他の西瓜よりもはるかにその色と形とを愛するのであるが、こうして女のアパートで風鈴の音を耳にしながら食べた時、大袈裟にいうと、生き甲斐みたいなものを感じるのである。
女も赤い水のしたたる大和西瓜をおいしそうに音をたててたべながら、時々、上手に黒い種を舌ではじきとばし、新宿で例の飲屋街が立ちのきを命ぜられた一件を話し、今度は渋谷の方にできたら小さな飲屋をもちたいと思っているけれど、なかなかうまくいかないのよと、口ばやにしゃべった。
「で、結局……今、ぶらぶらしているというわけ」
そういって彼女は横でだまって西瓜をたべている中年の女を見てニヤリと笑った。私はこのニヤリで直感的に二人の今の仕事がわかったのである。この時、マキさんとよばれた中年の女が、
「あたしは昔からこの商売していますけどねえ……」
ひくい声で話しはじめた。
「こういう世の中になると、ナニがナンだかさっぱりわからなくなりますねえ」
「この人はいつも不平をいってるのよ」
「ええ、私なんかには近ごろの世の中がナニがナンだかわからないからねえ」
私は二人の私娼にも新旧両世代があって、古い世代が近頃の世の中はわからぬというのがおもしろかった。
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閉じていた雨戸
私はその後、私の少しずつ好きになっていく渋谷街頭で、彼女をしばしば見かけることがあった。
夏の午後、西陽のカアッと照りつける上通りのあたりは、表がまえこそ商店街であるが、ちょっとうしろにまわると、昼はしいんとした円山の色街で、私が時々そこを通りかかる時、三味線の音が、黒塀のうしろから如何にも暑くるしく聞えるのだった。
少し歩きつかれて汗をふきながらたちどまると、すぐ眼と鼻のさきに氷と赤くかいた縄のれんをかけた小さな家があって、その縄のれんをチョイと片手であげると、思いがけなく彼女が真赤な氷イチゴを前にして片手を頬にあてている。お互いに、おや、おやと言いあった後、
「こんな所に……どうしたい。その頬は」
「歯が痛いのよ」
「そんなら、氷なんぞ飲んじゃ駄目じゃないか」
「だって、あんまり暑いんですもの」
彼女は子供のように下駄を引っかけた白い素足をブランブランさせた。
秋の夜、渋谷街頭には今まで鈴虫や走馬燈を並べていた夜店の親爺が影をひそめ、その代り焼き栗を売る婆さんがあとに立ちはじめる夜、私は散歩する人群れの中に、ふいと一人の年とった男と肩をならべて、大盛堂書店の隣の時計屋の時計を眺めている彼女のうしろ姿を見つけたこともあった。
そんな時、私は(ああ、やっているな)と考え、そっとお互い見つからぬように、こそこそと人群れの中に自らをかくした。
ところが、その年がすぎ、翌年のお正月になったころ、私は近頃、彼女の姿を全く渋谷街頭で見かけないことにふと気がついた。
もちろんそれは、私がこのところ寒さと風邪をおそれるあまり、あまり外に出ないせいもあった。
別に気がかりになったためではないが、我が家を出て漫歩の途中、例の窪地におりる細い坂道をアパートの方によってみると、半年前、まぶしい日光のなかでシュミーズ一枚になった彼女が私をよびとめた窓は、雨戸までがしっかりと閉められていた。私はよほど部屋をのぞいてみようかと思ったが、やはりやめたのだった。
二月の夜もふけて人影がほとんど絶えた東横の裏のガード下には、ゾッキ本を並べる女がうずくまって路ばたに坐っている以外、酔客の数もほとんどみえぬ時刻、このさびれた場所で私は久しぶりに彼女に――いや、彼女ではなく、あの日、私たちと一緒に大和西瓜をなんだかネズミみたいに前歯でかじっていた中年の女に、ばったりと出会った。
「あの子のこと……本当に知らなかったんですか。自動車事故で死んだんですよ。ええ……今年の一月の終り……」
ちかごろの世の中のことはわからないと呟いていた中年の女は、この時も両手を袖の中に入れて、さむそうに鼻をすすった。
私はその翌日、幾人かの客に交りながら「玉久」の隅に腰かけて――哀しい色をした酒を注いでいた。「玉久」を出ると、私は彼女も毎夜よく渡ったであろう横断歩道をわたって「ひょうたん」にいつものように茶漬けを食いにいった。
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少女の仕返し
こうして二年ほどたった。
考えてみると私はその二年に、渋谷にでるたび「玉久」で酒をのみ「ひょうたん」で茶漬けをくい、自分でも同じ場所ばかりに通って、新しいものを捜す探求心に欠けているように思われる。それは決していいことではなかった。
そこで私はある夜、行きあたりばったりに、丹羽文雄氏の小説で有名な恋文横町の入口からロシヤ料理店ロゴスキーの横を抜け、細い路の入りみだれた道玄坂の裏をぶらぶらと歩いて、何処か気の晴れるような店はないかと捜していた。
するとマッチ箱のように並んだトリス酒場や寿司屋や一杯屋の間に、あんまり目立たない小さな酒場があって、通りすがりにひょいと小窓から覗くと、年の頃、三十ぐらいの顔のキリッとしまったやせがたのマダムの姿が目にうつった。そこで何ということもなく私はこの店の扉を押した。
私は酒場にいくと、水割りウイスキー以外なにものまない。理由は別にないのだが、友人の吉行世之介(本名淳之介・作家)が水割りウイスキーは胃によいと教えてくれたのを、信奉しているのである。
で、水割りをたのんで、このマダムと店とをひそかに観察すると、私のほかにはソフトをあみだにかぶった男が、マダムを相手にピーナツを口にひょいひょいと放りこんでいた。マダムは着物の袖から真白な腕をみせて、麦酒《ビール》の瓶を彼のコップに傾けてやっている。ボックスが二つ、壁にはかんばしからぬ複写の泰西名画がかけてあって、まあ、どこか挨くさいカビくさい平凡なバアである。そこで私はそこそこに水割りウイスキーをほして河岸を変えようとした。
ところが、そのとき、男が、
「で、さっきの話の続きをしろよ」
といった。マダムは笑いながら、
「跡切《とぎ》れちゃったわね……」
そして私が入ってきたため跡切れたその話をつづけだした。私は知らん顔をしながら、耳をひそかにそちらに向けて、二人の話をきいていた。
話というのはマダムの少女のころの思い出だった。しかし、まことに一風変った思い出話だったのである。
少女のころこのマダムは近所の男の子にいじめられた口惜しさに、何かしかえし[#「しかえし」に傍点]をしようと思ったのだそうである。
いろいろと考えたすえ、彼女はある日、お肉屋さんで肉を包む竹の皮を一枚とって、それを丁寧にのばして……。
「その中にアレをしてやったの」
「アレ?」
客は小首をかしげてマダムの顔をみた。
「アレよ、ウンコ」
「へえ……」
そして彼女のウンコを入れた竹の皮を、デパートの美しい包装紙で包み、奇麗にリボンでしばった。その包みを近所の男の子の遊ぶ路においておいたのである。
やがて、男の子たちがこれを見つけて、
「アッ、落しもんだ」
「デパートの包紙だぞ、なまアったけ。なんだろな」
「なんだか柔らけえもんだぞ、こりゃ、開いたろか」
「開け、開け」
バリバリっと包装紙を破り、竹の皮をあけて、
「ゲッ」
「ひゃあ、ウンコだ、くそだ」
「お前の指に、黄色いのがくっついとるぞ」
仰天し、騒ぐのを、彼女は物かげからニッコリと笑いながら見ていたというのである。
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新糞尿譚
彼女のこの話は、耳をそばだてて聞いている私に少しも嫌悪感を起さなかった。ひとつは子供の頃私も同じようなことをした思い出があったからだ。
しかし、こちらはとも角も酒をのんでいる客である。普通なら飲食のさいウンコの話などされればヘキエキするはずなのに、一向に酒がまずいという気持にはならなかった。彼女の話しかたが爽々とした朝の秋風にも似てさっぱりとして乾燥しているためだと私は感心した。
そしてその後、しばらくこの店に通い、観察することにきめたのである。
私は五時前、我が家を出て彼女の店に出かける作戦をたてた。というのは五時ちかく、つまり夕暮になって店が開くころは、お客はまだ一人もきていないが故に、対になってゆっくり観察もできると考えたからである。
店は彼女のほかに、ノブちゃんという十七、八の女の子が手伝っていたが、五時ごろノブちゃん一人だけの時もある。そんな時はそんな時で、こちらも一杯の水割りをゆっくりなめながら、ノブちゃんからマダムの身辺のことをそれとなく聞きこむようにしていたのである。
「いつだったかウンコの話……あれはとっても面白かったなア」
やっと顔なじみになって、店の前でアイスキャンデー売りの声が晩夏の暑さをかえってかきたてる黄昏、向うも私に遠慮しなくなったと見たから、そんな風に切りだしてみた。
「アラ、あの時、聞いてらしたのね」
「ああ」
「ごめんなさい。あたしったら」
「なあに……ぼくだって」
と私はニヤリと笑って、
「キラいな方ではないさ」
「そうでしたか」
「そうでしたよ、ウンコというのはその形何処か飄々とした趣きがあって良いものだからな」
この言葉は彼女に大いに気に入ったらしく、
「嬉しいわ……実はあたし、ウンコのお話大好きなんです。でもそんな同好のかたがなかなか現われなくて……」
彼女は私の皿から南京豆をつまんで口にほうりこみながら、本当にうれしそうだった。
爾来《じらい》、私は彼女の店に行くたびに水割りウイスキーをゆっくり飲みながら彼女の話に耳かたむけた。真に道を学ぶ君子は相手が年少の者であり、女性であってもケンキョにその言を学ぶのである。
私はさきほどウンコの形は、どこか飄々として愛すべきものがあるといったが、その言や決してウソではない。
諸君もあれ果てた初冬の野原などを歩いて、この路を行く人もなし秋の暮、と一人思っているとき、ふと先人が垂れたウンコを路に発見して驚かれた時があったろう。あるいは諸君自身も生涯に一度や二度は、キリギリスのみなく暑い叢《くさむら》のかげで、星空の下で静かな心もてウンコをされたこともおありだろう。
ウンコをなし終った俗人は、クサイといってそのまま立去るようである。しかしこれは風流を解さぬ徒である。先人の野糞を発見した人は、ともかくもその形をじっと観察してみたまえ。
あの蚊取線香のようにグルグルと渦をまいて重なり、その先端だけが蝮の頭のようにピョコンと天をむいている野原のウンコの形に雅趣を感じないだろうか。
そうぼくが彼女にいうと、彼女はニッコリ笑って、
「それだけではないわ。また便秘したあとにコロ、コロでるのも滑稽な形をしているわよ」
というのだった。
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フロイド流観察
便秘したあとコロコロでるのは彼女の言葉によると「丸くて、マメ狸みたいな顔をしている」というのである。
丸くてマメ狸みたいな顔をしているウンコというのは、私も眼に見えるようだったが、それは平安時代的な表現によると「親指ほどのもの一つ二つ」ということになるだろう。惚れた女官が恋しくてたまらず、せめてそのウンコでもみようと考えた男が、女の召使いから彼女の便器を奪って開いてみると「親指ほどのもの」があったというのは有名な物語であるが、この形容は適切である。
「ほう、では便秘をすると、マメ狸のような顔をしたウンコが出るのか」
「御存知ないの」
マダムはうなずいて自らは非常に便秘症だから、一月に一度はこのマメ狸のような顔をしたウンコにお目にかかるのだといった。
私は自分の友人にも二週間も便通がわるい男がいて、二週間目に有楽町の日活ビルにとびこんで、あの中のトイレットで一時間半苦悶、力闘した挙句、突然カチインというすさまじい音がしたので驚いて飛びあがると、そこにはビール瓶のような形をしたカチカチの真っ黒なウンコが落ちていたそうだといった。
すると彼女は自分にもその経験があるとうなずいて、便秘には三段階あると教えてくれたのである。
その三段階とは、
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(1)通じ薬で翌日治るもの。
(2)通じ薬などもきかず、汗だくで力闘せねばならぬもの。
(3)指でほじくり出さねばならぬもの。
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の三種類とのことであった。
第一番目はいわゆる緩下剤などで回復できるものであり、第二番目のは私の友人が日活ビルで苦悶力闘した型である。
しかしマダムにいわせると、これも便器の腰かけ方で随分、力闘の度合を減らすことができるのだそうである。それは洋式便所ならば腰をおろして普通、足を逆八の字型に開くからウンコはますます出なくなる。ところが右足と左足との膝頭をぴたりとあわせてウウーッとリキむならば、往々にして奇跡的にコロリッコロリッと出てくる場合が多いとのことだった。そしていわゆる「マメ狸の顔をした」ウンコはこの第二番目の型に属するというのだった。
私は頬杖をついてこのマダムが熱心に説明する話をききながら、時々、琥珀《こはく》色のウイスキーのはいったグラスを口に運んでいた。外にはまたアイスキャンデー屋が鈴をならしながら通っていった。
「で、三番目は?」
「これは本当に苦しいの、お産のようだわ」
これはもう、ウウーッとわめいても、全身の力をこめてリキんでも、絶望的な便秘である。こうなるとリキむだけリキんで出口まで岩のようにカチカチになったのを、壁でも剥《は》ぐようにポロポロと剥がしていくより仕方のないことだった。
私はその話に耳かたむけながらフロイドの「便秘症の人間はリンショクである」といった言葉を思いだしていた。つまりリンショクな人間は、無意識のうちに自分の体内にあるウンコでさえ外に出したくないと考えるから、便秘になるというのがフロイドの考えである。
すると、このマダムは非常なケチではないかと私はふと思い、その方面も観察してみようと考えたのである。
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気晴しの歌
お盆がすぎたと思ったら、まだ表むきは暑さが残っているけれども、朝晩には我が家のまわりにも何処か爽やかな風がふき、青空の色ももう七月や八月ほどにはげしくない柔らかみを帯びるようになった。
こういう夜は書を読むことがなによりも楽しく、私は、
他家営事業
余持一巻経
寒山の詩を心につぶやいては深更まで燈下に坐って、時の経つのを忘れることが多かった。
それでも一週に二度ほどは、あの酒場を訪れ、彼女の話に耳を傾けるのを忘れなかったのは、彼女が楚々たる美人であることもさりながら、二人の話題の泉のごとく湧いて尽きざるが故でもあった。
私はこういう機会を利用するに非ざれば、平生、心中にふかく蔵して敢えて女性に訊《たず》ねることのできぬことを解くすべはないと考え、多少の無躾《ぶしつけ》をかえりみず、彼女にたずねるのだった。
「一体、私は常々、考えているのであるが、一般に女性は厠《かわや》において大小ともに紙を使わねばならぬ。その際、女性はその紙を前からうしろにむけて拭くのか。それともうしろから前にむけてふくのか」
この質問は彼女にとって青天の霹靂《へきれき》であったらしい。なぜ青天の霹靂であったかというと、彼女は一日数回、御不浄にて紙を使っているにかかわらず、私に問われるまでは自分がいかなる拭きかたをしているか、全く無意識だったからである。
「本当に……そうだわ。気がつかなかった」
彼女はしみじみとつぶやいた。
「私、どちらかしら……いいえ、大半の世の中の女の人も自分のこのこと[#「このこと」に傍点]は考えてもいないんじゃないかしら」
私は酒を飲みながら、心ひそかに人間には日常茶飯事の中でも、このように厠の動作一つをとっても未知のことの多いことを思いうかべ、もっともっと探究せねばならぬと考えたのであった。
しかし彼女のほうも私によいことを教えてくれた。ある日、私が生のはかなさ、諸行無常を思いつつ、しずかに酒を飲んでいると、
「きょうは沈んでらっしゃいますね」
「人生能《じんせいよく》幾何《いくばくぞ》 畢竟《ひつきよう》帰無形《むけいにきす》」
「じゃ、そんな時、こう歌ってごらんなさい。少しは気も晴れますわ」
彼女のすすめというのは、上の句に心に思いつくままの固有名詞をつけ、下の句に「ウンコする」とつけ加えることだった。たとえば上の句をブリジット・バルドーとすると、
「ブリジット・バルドーもウンコする」
と歌うのである。私はいわれるままに頭に思いつく名前を次々と上の句として、
「美空ひばりもウンコする」
「ニクソンさんもウンコする」
「小柳ルミ子もウンコする」
「アラン・ドロンもウンコする」
「若尾文子もウンコする」
「三田佳子もウンコする」
と心の中で歌いつつ人生能《じんせいよく》幾何《いくばくぞ》≠フ哀しさを慰めたのであった。
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人間である証拠
私はその時ふしぎに思ったのであるが、われわれはなぜ「田中角栄もウンコする」と考えても一向おもしろくないのに、このウンコするという句の上にケチン坊のお婆さんや映画女優の名をかぶせると、なぜ心の憂さが晴れるのだろうか。
たとえば「ソフィア・ローレンもウンコする」とうたってみるとする。冷静に考えてみるならソフィア・ローレンだって人間であるから、最小限、一週に二度はウンコをするであろう。これは否定しようたって絶対に否定することのできない医学的生理的真実なのだから、彼女がウンコをしないとは絶対にいえないのだ。
このわかりきった平凡なことが、なぜ、面白いのか、愉快なのか。
つまりそれは彼女が美人であるからか。そして彼女の映画雑誌や週刊誌に載っている写真が、みなそれぞれウンコなどはしないという顔をしているからだろうか。要するに「ウンコなどとてもしない」美しい人も、やはり「ウンコをする」という矛盾が面白いからだろうか。
私はウイスキーコップの中の氷をカラコロ音をさせながら、考えてみると……。
どうやら今いった考えは一見、妥当のようで本質をついていないような気がしてきたのである。と、いうのは私は近所にいる金棒引きの婆さんのことをヒョイとその時心に思いうかべたからだった。
その金棒引きの婆さんは文字通り、昼日中から隣近所をブラブラ歩き、誰それの家では昨日イワシを何匹くうた。あそこの家では祭りのお金を払わなかったと話をききこんだり、それを尾ひれをつけて言いまわるのが三度の飯より大好きという女で、私は平生、癪《しやく》にさわるところが多かったのである。
この婆さんの歯の欠けた梅干づらをヒョイと思いうかべて、私はもののためしに、
「あの糞婆アもウンコする」
と心の中で歌ってみるとふしぎに婆アにたいする憎しみは消えて面白い。愉快である。
すると、これはさきほどの考え――美人がウンコするから面白いという考えと矛盾する。あの婆さんが美人とはとんでもない。鶏のトサカみたいな顔の持主だからだ。その鶏のトサカみたいな婆アがウンコするのもやはりおかしいのはいったい何故だろうか。
私はその疑問を、ちょうど冷蔵庫からジンジャーエールを出してウイスキーにまぜて独りでのんでいるマダムに、問うてみたのだった。
と、マダムはニッコリと笑みをうかべて、
「いいことをお考えになったわね……それはウンコをするという行為によって、あなたはソフィア・ローレンも一人の女、一人の人間であるという気持をしみじみいだくでしょう。と同じようにその憎らしいお婆さんも、みんなと同じようにウンコする人間なのだと思って許せるじゃないの。だからあなたも心からお婆さんも人間として愛する気持になるのよ」
これはしみじみとした教えだった。私は秋の夜長を書をひもとき、古人の言葉に耳かたむけるのと同じよろこびを彼女の話から学んだのである。
そう、万人ことごとくウンコする。孟子も、ソフィア・ローレンもウンコする。それは彼等が超人だからではなく、人間だからだ。それゆえわれわれは彼等に人間的愛を感ずる。ウンコを馬鹿にしてはいけない。ウンコッシュ・ヒューマニズムとはこのことだ。
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夕暮のエトランゼ
夏の夕暮――
夕暮といっても、まだ宵の白さと夜の暗さとがちょうど程よいほど溶けあっているあの微妙な時刻が、私は好きだ。
我が家の縁側に腰をかけて、なべてのものが暗紫色ともつかぬほのかな薄暮のなかに吸いこまれていく時、私は一碗の茶をすすりながら、風の、樹々の、しずかな息づかいに耳を傾けるのである。
九年前私がフランスに留学していた頃、一番好きだったのはあの国の夏の夕暮だった。私は初めての年の夏をパリから少し離れたルーアンとよぶ街ですごした。
ルーアンは日本でいえば奈良――ふるい、しずかな、そして寺院と樹々との多い、周囲は丘にかこまれた街なのである。そして私はそのルーアンの街のなかでもひときわ、ひっそりとした一角に一室を借り、書物を読み、街を歩き、夜ふければ駅のちかくの居酒屋で赤葡萄酒の杯を傾け、じっと大西洋にむかう汽車の哀しげな音に耳をすますのが好きであった。
私の借りていた部屋からはその家の庭が見おろせた。庭には楡《にれ》や橡《とち》やそして林檎の樹々が茂っていた。庭の周囲はたかい、伸々としたポプラが並んでいた。そしてそのポプラの向うに隣の家のクリーム色の壁がみえた。
夕暮、西陽があかあかとそのクリーム色の壁に照りつけているころ、私は机にむかっているが、ふと顔をあげると、その壁に秋の落葉のような形をした夕陽の染みが二つ、三つ、ついていて、すでに庭のこちら側には夕影がしのびはじめているのである。
しかし日本ならば、それから秋のつるべ落しとまではいかなくても急速に夜に移っていくのに、この国はこの夕暮が一時間も二時間もつづくのである。微風は庭の楡の葉を乾いた砂のようにならす。そんな時、家の主人が庭から私に声をかける。
「ヴネ。オン・バ・プランドル・ド・ラペリチイフ」
食前酒をとりましょうというのである。私は快くその招きに応じ、夏の草の匂い、土の匂いの漂う庭のベンチに腰をおろして食前酒の杯をなめるのだった。
夕暮についてはもう一つ、やさしい思い出がある。
一昨年の秋、ソビエトのウズベク地方を旅行していた時であった。タシケントというこれも古い街で、土地の人々が夕暮になると大きな楠の樹の下に毛せんを敷き、煙草をくゆらし、ゆっくりと茶をすすっている光景を見た。むこうにはおそらく中国との国境の山々であろう、蒼く夕暮の中にしずんでいく。そして綿畑では綿が白く光っていた。私はなぜとはなしにツルゲーネフの小説の一場面など思いだしたのだった。
我が家の縁側に腰かけながら、私はあれこれと物おもいにふけり、それから軒先の岐阜提燈に灯をともす。それからたちあがり家の柴門《さいもん》をしめ、渋谷に夕食をとりに出かけるのである。
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模型の糞尿譚
そのフランスのリヨンに留学しているときである。ある日私は学校のかえり、目抜き通りを少しまがった通りに小さな玩具屋のあるのに気がついた。
何気なくショーウインドーに眼をやると、それは玩具屋といっても子供のための店ではなく、大人用のさまざまな悪戯道具を売る店だった。
そこには他人にのますとオナラの出る薬だの、怪しげな惚れ薬だのがあったが、私はその中に精巧きわまるウンコの模型をみつけた。
ウンコの模型ぐらいなら、東京でも尾張町から京橋よりの玩具屋キンタローに売っている。だが私は正直いってあまり感心しない。キンタローのウンコを作った職人は猫のウンコをモデルにして制作したのではなかろうか。形も貧弱だし、色も黒ずみ短く細く一向に迫力がない。
ところが、このフランス製のウンコはその形といい、黄色い色といい、その柔らかそうな実感といい、まことに真に迫るものがあって、私は左甚五郎をそこに想起したほどであった。
のみならず私がふかくふかく感動したのは、このウンコの真中のあたりに一つ……。
そう一つ……白い丸い夏蜜柑の種らしきものを入れてあったことである。この白い夏蜜柑の種は、ウンコの中の不消化物を象徴する意味においても、かえって実物そのままの感があった。私はそれを模型と知りつつ手にとって思わず、臭気のたちこめるような錯覚にとらわれたのである。
私はそれを買ってかえり、自らの下宿の本棚に飾っておいた。しかし何か物足りなくなり、それにヒモをつけて窓からつるしてみた。そこへフランス人の学友が遊びにきた。
二人で窓から下をみおろしていると(私の部屋は三階にあったから)街路をさまざまな人が通る。その中で鶏のように威張って歩く太った奥さんなどがいると、窓のヒモをもっとおろしてみたのである。
するとその威張って歩いていた太った奥さんの鼻さきに、そのウンコがするすると降りる。そしてヒョイ、ヒョイと上下する。だから彼女は仰天して両手をひろげ、
「オ、ラ、ラ」
と叫んだのである。
日本とちがって、さばけたフランスのことだから、通りがかりの男たちはそれを見て大笑いをするし、奥さんも学生の悪戯と知って苦笑しつつ通りすぎていく。しかしそれを十回ほどやっていたら、下宿の管理人がきて、そんなことをしてはいけないと言った。
そこで一緒にいた仏人学生と相談して、そのウンコをポケットに入れて大学に行った。大学の出口に二人で立って、講義が終って出てくる学生のうち、うつくしそうな女子学生をえらんで、掌にのせたそのウンコをニュッと差しだす。すると、
「キャアッ」
大声あげて叫ぶのである。なんと面白いではないか。
これに味をしめて、半時間ほど女子学生一人一人にそっとウンコを見せるとキャッという。そうして遊んでいたら、学生課の人が来て、そんなことをしてはいけないと言った。
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生きている風景
今まで書かなかったのだが、私はこの渋谷のなかでも特に好きな風景があった。それは上通りの玉電にそって、トコ、トコ、道玄坂をくだろうとする手前、大きなひろいバス道路が右におれて坂をつくりながら足もとの東横デパートの方角にむかっている所だ。
いわば丘の頂にも似たこの道路の左は東急スカイ・ラインとかいうビルディング、右は小さな商店が並んでいるが、この道の上にたつと、東横百貨店を真中に渋谷から原宿にかけての街が一眼でみわたせたのである。
さまざまなビル、そのビルとビルとの谿間にマッチ箱のように重なりあっている小さな家々。そしてその家々の上にひろがる哀しげな色をした空を、私は道玄坂を漫歩する時いつも足をとめて俯瞰《ふかん》するのである。
特に私は、夕暮にこの風景をみるのが好きだった。空だけがまだ青いのに白いビルや重なりあった家々に、夕暮の陽があかあかと映えている風景は、半時間も一時間も眺めていても飽きることがなかった。
そうした風景というのは、人間の記憶の中にかつて自分が見た同じような風景を突然よびさますのである。私の場合、それは私の青春に大きな影響を与えたフランス・リヨンの街のフルビエールという丘の頂から冬の夕暮、獣のように拡がったふるい街を眺めていたときの思い出や、心の傷を忽然《こつぜん》として甦《よみがえ》らせてくれたり、あるいはその心の傷から逃れるため、南仏地中海のほとりの街々をさまよい歩き、二月の午後、ニースという街の丘のヒマラヤ杉の下に腰かけて海をみつめたときの心情までが、一つ一つもう一度うかびあがってくるのである。
それらの思い出は、まだ私の心のなかで無造作にちらばっていて、それをきちんと片づけるという仕事、それが自分の人生の流れや方角に、どういう重みやどういう関係をもっているかを私は調べつくしていない。
だがその不分明な混乱した過去の集積は、心の中に落葉のようにかき集められていただけなのに、それがこの上通りの頂の風景に接すると、まるで夕暮の風が庭のわくら葉の中からその一枚をほじくりだして吹きあげるように、私の集積した思い出や過去の体験から、一つのものを浮びあがらせてくれる。
私は考える。
風景のなかには二つある。一つは私がいつも見てはいるが、私とは結びつかぬ風景。そこに家があり店があり、車が走り、人が通りすぎるだけの風景。
そしてもう一つは、同じように平凡であるにかかわらず、われわれの心を触発し、心の中にたまった落葉を吹きあげ、枯葉にもう一度いきいきとした生命を与える風景。
この二つがあるのではないかと私は考える。
そして、もし渋谷の中でこの二番目にあたる風景が私にあるならば、それは、上通りの頂からあの東横デパートの方角をみおろした黄昏の景色なのである
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金歯を光らす女
ここの風景はいささか気に入ったため、私はしばしば、漫歩の足をその上通りの頂から直接、道玄坂の方角に行かず、右に折れる例の坂道を選ぶことがあった。黄昏のもの哀しい街を俯瞰するのが私は好きだったのである。
路は最近できたばかりだから、私は駒場に住みながらもこの周りをあまり観察していなかった。そこである秋の午後、ゆっくりとこのあたりを歩きまわってみた。しかし特にこの辺には私の好奇心をみたしてくれるようなものは見あたらない。
あきらめて、アスファルトの路を引きかえした。戻りとなると下り坂ではなく登り坂であるから、少し面倒臭さを感じる。
その時、私は一匹の仔犬がチョロチョロと私の足もとの横を通って、車道に歩きだしたのを見た。
私は上通りの頂からタクシーが二、三台かたまってこちらに向けて疾走してくるのを眼にしたから、
「危ない」
思わず仔犬に駈けよって拾いあげた。仔犬は手足をもがくようにして私の掌に鼻を押しつける。
その時、背後から「ありがと、おじさん」私に礼を言う女の声がきこえた。ふりむくと下駄をはいて洗面器をもって、頭にはセットの金どめを沢山つけた二十三、四の女が口の金歯を二つほどキラキラ光らせながら立っていた。
私は、
「仔犬をここに連れてきちゃ危ないねえ」
というと、女はつまらなそうに、
「ああ、お風呂屋いく途中、あそこの金物屋さんにあずけていこうと思ったんだよ」
「家に残しておいてはいけないのかい」
「いけないわけじゃないけど、あたし今、留守番なんだから」
「ああ、そうか……」
私はうなずくと仔犬を彼女にわたして、ふたたび上通りの方角に向って歩きだした。五、六歩行ったところで、また、
「おじさん」
うしろで今の女が私に声をかけた。
「おじさん、今、ひま?」
「ひまじゃないけど、何だね」
「あたしの所にちょっとよって行かない」
私はちょっと考えて、
「よいだろう」
と答えた。
洗面器をかかえた女と肩を並べて、私は坂路をくだりはじめた。仔犬は私がだいてやった。洗面器のなかをのぞくと、その中にはもう大分、染色のさめたタオルとシャボン箱とが入っている。シャボン箱は洗面器にぶつかってカラコロと音をたてた。その音は秋の爽やかな空気の中でもっと爽やかだった。そして足もとにはまだ黄昏にはなっていないけれども、あの私の心を更にもの哀しくする風景が――白いビルディングや重なった家々がひろがっていた。
私は秋の午後、こうした街の風景を足もとにみながら、金歯をうれしそうにキラキラ光らす未知の女と歩いている自分の姿に、昔からあこがれていたようだった。
女は坂路の途中で酸漿《ほおずき》を買った。そして彼女はその酸漿をキュッ、キュッとならした。
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ほおずき市の女
ほおずきと言えば――
私はほおずきがその日、渋谷で売られていたことに大いに感謝した。昔は至るところに見られたほおずきも、近頃は渋谷や新宿のような盛り場ではめったに見られない。わずかにどこかの縁日やお祭りの寺の境内で、
「ああ、ほおずきが売られている」
そんなかるい驚きをもって眺められるようになった近頃である。
私はほおずきの音をききながら急に昨年の一つの思い出を心にうかべた。
昨年の夏の七夕が済んだ九日の夜、私は浅草の四万六千日のほおずき市の中を漫歩していた。
七月上旬の東京の行事といえば、この七夕さまと四万六千日と、それから十日の両国の花火となかなか忙しい。しかし江戸のころは、一日は本所の羅漢禅寺で羅漢供養があり、新吉原の燈籠祭りも行われた。二日は夏の煤払いだから、商家では家の前に天幕をはって商いものをさらしたりしたのである。
だから我が家でも七月の二日、私は部屋と庭を掃き、朝顔やへちまや青々とした植木に水をやることなどもある。
さて、その四万六千日のほおずき市には葭簀《よしず》をならべた夜店がぎっしりとならび、その店々につりさげたほおずきから幾千という風鈴が夜風に吹きあげられて、爽やかな音をたてていた。この風鈴をつけるという趣向は、この年から思いついたらしいが、その考えは妙である。
浴衣がけの男女や子供たちにまじって漫歩していた私は、急に一人の若い女性によびとめられた。
その若い女性は浅草生れの娘で、昔からの知り合いだが、嬉しい時、かなしい時につけて観音さまにお参りにくるような根っからの下町っ子気質がなつかしかった。久しぶりに彼女に会ったたのしさに肩をならべて歩くと狭い葭簀《よしず》と葭簀との間から若い男衆たちに、
「よお、お似あいのご夫婦」
などとからかわれながら歩いていた。彼女は少し恥ずかしくなったらしく、団扇を浴衣の肩にちょいとあてて、
「まあ、あたしたち夫婦のようにみえるのかしら」
「そうらしいねえ」
「本当にそうだったら、どんなに嬉しいだろう……」
そして、夜店に並んだ走馬燈と鈴虫の籠とほおずきとをおのおの求めて、近くの氷屋で白玉をさしむかいでたべたのだった。
私は彼女に別れたあと夜おそく戻り、庭に面した軒に走馬燈と風鈴のついたほおずきを吊った。そして鈴虫の籠はへちまの棚にぶらさげると、風鈴の風になる音にまじって、やがて鈴虫が爽やかな声でなきはじめた。軒では灯をつけた走馬燈がくるくる回るのをひとり、柱にもたれて私はぼんやり眺めていたのだった。
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黄昏のまえ
私は仔犬をだいたまま、ほおずきをならし金だらいを持った女につれられて坂をおりた。坂をおりるちょっと手前で、彼女は左に曲って自転車屋と小さな荒物屋との間にはさまれた路地にはいった。
そこには小さなバラックのような飲屋が一軒あって、硝子戸がしめられ、硝子戸のうしろには茶色いのれんが少しゆがんでぶらさがっていて、
「おじさん、ちょっと、まってよネ」
女はそう言うと私を残したまま裏にまわって鍵の音をガチャガチャならしていたが、やっと裏口から入れたらしく、
「お待ちどおサマ」
硝子戸を開けてくれた。私は仔犬を彼女に渡し、店の中をみると、午後四時すぎの、まだ椅子は逆さにして長い木の台に掛けたままであり、閉じた窓からは挨のまじった光線が店にさしこんでいて寂しかった。私は片隅の椅子をたたきの上に置いて腰かけると、頬杖をつきながら、壁にベタベタはりつけてある「もろきゅう」「おしん香」「くさや」などと書いた木札を眺めていた。
「何を飲むの、おじさん」
「そうだな」
「麦酒《ビール》、お酒?」
「麦酒でももらおうね」
「おつまみは」
「そうだな」
私はなにげなくヒョイと流し場をみると、おでんの台の横に指ほどの小えびを二、三十、新聞に包んだのが放り投げてあった。
「それ、どうしたい」
「どれ、ああ、これか。あたしがさっき買っといたんだよ」
「それを少しくれるかい……。うん、ゆでるんじゃない、フライパンにバターをひいて、よく塩をえびにかけて焼いてもらいたいんだ」
私はそんな変てこな注文をした。というのは、この親指ほどの小えびを見た時、私はその昔マドリッドの裏町をさまよっていた自分をしみじみ思いだしたのである。
そのころ私は中仏の冬の湿った暗さに耐えられず、あらあらしい自然の風景を求めてスペインに出かけていた。マドリッドの真中に小さな旅籠《はたご》屋をみつけ、そこに泊った私は、午後になると裏町をあるいた。裏町には屋台のようにえびやカニや小魚をくわせる店が並んでいる。えびもカニも小魚もみなオリーヴの匂いがした。店の壁や卓子からもオリーヴの匂いが漂った。それから亭主や客の肥った体にもオリーヴの匂いがしみこんでいた。
けれども私がその時、好んで白い葡萄酒(ヴイノ・ブランコ)のさかなにしたのは、鉄板であつく焼いた小えびだった。それを皿から一匹ずつつまんでかじりながら、白葡萄酒を咽喉に流すのはこたえられなかったのである。
すこし酔った頃、まだ日のあたる店の外に出ると、マドリッドの家々の上に哀しいほど青い空がかがやき、建物の色がひときわあかるい茶褐色にみえるのだった。
私はコップを握りながら、ふとその時の哀しいほど青かったマドリッドの空を――ちょうど午後四時ごろのまだ黄昏になる前の空の色を、ふと心に思いうかべ、しばらくああ、ああいう空の碧《あお》さもあったと考えていた。
「なにを考えてんのサ」
女はほおずきをならしながら壁にもたれてたずねた。
「ああ」と私はもの憂げな返事をした。
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わが祖又兵衛
我が家のまわりにも秋が来た。やわらかな日の光は縁を越して、わが書を読む部屋の中にひろびろと、ふかぶかと差しこんでくるのである。
書物の白い頁に動くその秋の日差しに、ふと眼を庭にむければ、庭の隅にいつぞや近隣の童子が遊びに来て私と戯れにまいたコスモスが、今は一メートルほどのたかさに伸び、うす桃色と白との花がさわやかに咲いている。
赤|蜻蛉《とんぼ》が――二匹ほどそのコスモスの真上をしばし水平にじっと空中に静止していたが、突然身を斜めにかわして泳いでいく。
十月、十一月の深秋ではないが晩夏と秋の始まりとが何処かとけあって、今、はりつめた水の面のように万物がすみ通ったときである。私はこの季節を四季を通じてもっとも捨てがたいひとつだと思う。
私が今、すすっているお茶の茶びつは私が手に入れたものではなく、私の家に代々、伝わったものだそうだ。先祖、係るい、親族、そんな関係の嫌いな私は、いわゆる「血は水よりも濃し」と考える自分の縁者とは原則としては交わらぬ方針をきめている。私はむしろ遠方より来る友と一巻の書を愛するのである。その私が、この茶びつを所有しているのは矛盾していると人は思われるかもしれないが、これには理由がある。
この茶びつを初めて所有した男は遠藤又兵衛といって、私の祖先である。又兵衛は寛永年間の『会津武鑑録』をひもとくとき、お馬廻り、三百石の武士とその名をとどめている男である。
又兵衛は私の祖先のなかでもっとも私の愛する人である。彼は剣を使ってもまたひとかどの名人になったので、有名な寛永御前試合の時はその「音無しの構え」によって多くの競争者を倒したのである。しかしその又兵衛は少年のときは至って蒲柳の質であり、小胆の童子であったと武鑑録には伝えられている。近隣の子からは泣かされ、あの辻には大きな黒犬がいると言って怯える。とても武士の子とは思えない。父の遠藤兵庫はいたくこれを憂い、又兵衛に命じて毎朝木刀の素振りをやらせること千回、それが終らねば朝餐を与えなかったと言う。母の吟、これまた賢母だったから孟子の母堂をまね、朝夕武士の道をとき聞かす。親には孝、君には忠との教程を開くことを惜しまなかった。
しかし又兵衛は、この父母の儒教的教育をひどく恨み、木刀の素振りも行うごとくみせて、真実は「手脚ハ不レ動カサズ以テレ口ヲ発スルノミレ声ヲ」と武鑑録は書いているから、かけ声だけ怒鳴っていたのであろう。母の吟が諄々と武士道を説いても「顔神妙ニシテ、心中、俗謡ヲ歌ウ」その俗謡とは武鑑録によれば、
「道、道々脱糞、不持紙。以手拭、借食之」
とある。今ように訳せば「ミッちゃん道々糞たれて、紙がないので手でふいて、もったいないので食べちゃった」ほどの意であろう。
この又兵衛がいかにして「音無しの構え」の秘義をあみだしたのか。『会津武鑑録』はそこに至るまで、彼が城中、指折りの怠け者にして父兵庫の死後、家督を継ぎ馬廻り役を命ぜられた後も、城内での勤務がおわるとそこそこに「城下ヲ徘徊シ、好ンデ下賤ノ巷ニ出没シ朋輩悉ク顰蹙《ヒンシユク》」したことを詳述しているのである。
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リキまぬが大切
ある夏の夕暮のこと、その彼が会津若松の城下を西陽をうけながらぶらぶらと歩いているうち「軒もあわれにかたむきたるに、夕顔いとど暑くるしゅう咲き、蚊やり火の煙ものすごう見ゆる」一軒のあばら屋の前を通りかかった。そこに一人の素裸の翁が団扇《うちわ》をバタバタならしながら涼んでいた。
その裸の老人は団扇で蚊やり火の煙を追いながら、しわがれた声で唄を歌っているのである。
老爺食酒酔死(老爺は酒をくらって酔死すれば)
老婆驚愕頓死(老婆は驚愕して頓死す)
その声の澄んでいること、まさに深山渓谷の清冽なる水流を聴くが如き感がする。又兵衛はこの老人の美声と軒も傾いたまずしい家とを見くらべて、非常に好奇心をそそられた。老人はまた美声を張りあげて歌う。
又兵衛、しばらくの間、この夕顔の咲いた家の前にたちどまって、その老人の顔をじっと凝視した。
と老人は歌うのをやめ、
「わが門は有りて有らざるが如し」
そこで又兵衛はオズオズと老人のそばに寄った。身近に寄って老人をみると、頭こそ薬罐のように禿げているがその血色、その肌の若々しいこと、まさに二十代の青年のようだった。又兵衛はこれこそ、ものの本に書いてあった福禄寿の化身ではないかと思い、おそるおそるその長寿健康の相を賞めると、老人は自らは地面に団扇の柄で、
不力
この一字を書いてニッコリ微笑み、
「これが秘訣、たんに長寿の時のみならず、人生を楽しく過す道でもある」
しかし又兵衛にはこの不力≠ニいう字の意味がよくわからぬ。と老人は、
「これはリキまずと言う。人間おのが栄達、出世、財物、女色に心動かされないことはあるまいが、その際、リキまぬことが大切である」
と教えた。このリキまずという教訓、又兵衛の心にひどくしみた。というのは彼が今日まで父母の家庭において、また城中において、いつも寂ばくたる孤独感を味わったのは、父母や家老をはじめとして、城中の武士ことごとく「リキむ」からである。忠にリキみ、武士道とやらにリキみ、名誉にリキみ、リキみこそ人間道徳の精髄と思うのが日本人のわるい癖……これをこの裸の老人が、言ってくれたので嬉しくってならぬ。
又兵衛がまだモゾモゾとたっていると、老人は、
「もう質問はないかな」
団扇で蚊の煙を追ったのち、ふたたび、あの美声をはりあげて、
老爺食酒酔死
老婆驚愕頓死
と歌う。又兵衛は叩頭して、
「実はお願いがござる。たった一つ、おたずねしたい。ただ今、リキまずの教訓、心にしみましたが、拙者、武士のくせに武士道が嫌い。そして剣術もまことにヘッポコでござる。ために年に一度、開かれる城中御前試合は拙者にとって最大の苦痛。なにとぞ不力の道による剣道一手、御伝授ください」
と頼んだ。老人はしかしその声には知らん顔をして団扇を動かしていたが、やおら立ちあがって軒もかたむいた家の中に入った。
そしてザルの中に空豆を盛って出てきたのである。
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放屁の極意
『会津武鑑録』はこの間の事情を次のように説明している。
「老爺、即チ豆ヲ盛リタル盆ヲ指シ、又兵衛ニススム。又兵衛大イニ悦ビテ之ヲ食スルニ忽チニシテ腹ハ飽満シ、厠ニ立タントス。老爺、手ヲアゲテ又兵衛ヲトドメテイワク、風ハ吹キテ音ヲ発セズ、コレヲ学ベト」
「風は吹きて音を発せず。これを学べ」と老人はいう。しかしその意見は又兵衛にはさっぱりわからない。すると老人は、
「風は放屁たり」
と一言、つけ加えた。
いうなれば「放屁して音をだすな。これを学べ」という意味だったのである。
又兵衛、思わず膝をたたき、尻を家鴨のように右にゆがめてつぼめたが、
ブッ
音がでた。こりゃイカンと左に曲げてつぼめるが、
ピッ
と鳴る。ブッ、ピッ、ブーウ、ブリブリ、どんなに腰を上下してもおならの音を消すことはできない。やがて苦渋の汗が又兵衛の額をタラタラと流れた。
その時、この又兵衛をじっと見ていた老人が一言、おごそかに、
「不力」
といったのである。即ちこれはさきに説明したように「リキむな」との意である。
この言葉を耳にした又兵衛は、大海の中に初めて木片を見出したような心持がした。いうなれば活眼したのである。極意を会得したのである。彼はもはや尻をば右にまげることをしなかった。左にゆがめることもしなかった。すべての体内の力をぬき、無念無想の境地に入ろうとする。と今まであれほどいかなる姿勢をとっても音を消すことのできなかったオナラが、墓場のなまぬるい風のごとく、すうっと鈍音のまま出たから妙である。
「その心ぞ」
老人は声高く叫んだ。『会津武鑑録』は続けて老人の言葉として、
「アニ、コレ屁ノミナランヤ、人生ノ諸事スベテシカリ、ココニ病人アリ。遠国ニ薬湯ヲ求メ、金銀ヲ重ネテ名医ヲ求ムレドモ癒エズ。コレ即チ病人、病ニリキムタメナリ、剣ノ道モ亦、然リト」
剣の道もまた然り。
豆の要領がわかると老人は又兵衛をつれて庭に出た。庭といっても軒もかたむいた家の庭であるから、そこにはカボチャの花が黄色く咲き、夕顔があわれに白い花をつけているのみである。
老人は足もとの水溜りを指さすと、ここに音をたてず放尿をしてみよといった。これはさきほどの屁よりもはるかに困難な課題である。いや不可能といってよいほどの課題である。
又兵衛は前をめくり、角度をかえ、あれこれとやってみたが、水溜りにぶつかる音は消えるはずがない。
「で……できませぬ」
彼はうただれて自らの無力をわびた。
と老人は手をたたいた。
老人一人の住まいと思われたあばら屋の中から、一人の楚々とした美しい娘があらわれたのである。
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チョロチョロ
この楚々たる女性に老人は又兵衛の願うところを話し、また自分が彼に命じた宿題を物語り、手本をみせてやれと言った。
若い女はうなずいて又兵衛の顔を見てニッコリと笑うと、うしろを向き、衣の裾をまくって眼をつむり水溜りをまたぐ。又兵衛は今こそ、その秘伝を文字通り見のがすまい、聞きのがすまいと、亀の子のように首をのばした。やがて、
「嫋々《ジヨウジヨウ》タル音、千露、千露ト」
彼の耳に伝わったと『会津武鑑録』には書いているのであるが、この千露、千露という言葉はチョロ、チョロという読みかたをすべきであるらしい。
又兵衛は首をかしげた。老人の命じた命令は音をたてずして水溜りの中に放尿せよということだった。しかるにこの楚々たる女は嫋々たる音をたてて平然としている。女だけではない。老人また莞爾《かんじ》として又兵衛をふりかえり、
「汝、コレヲ会得シタルヤ」
自らはたしかに千露、千露という音をききましたが、と又兵衛は言った。
「音はせぬ」と老人。
「いやチョロ、チョロとききましてございます」
すると老人と女とはこの又兵衛を憐むごとく見て、もはやこれ以上お前になにを教えても無駄である。お前は私の言った本当のことがわかっていない……そう言って家の中に消えていったという。
又兵衛はしおしおと家路に戻りながら、自分は折角、よいお師匠を見つけえたと思ったのに、愚かな抗弁をしたため破門されたことを深く悲しんだ。
だがあの老人の言ったことを自分はもう一度やってみたい――そう思ったから豆をたき皿にもり、それをたべ、飽満した時、体中の力をぬいて放屁すると音が出ない。
これは成功できたのであるが、無音の放尿は不可能にちかい。だが又兵衛は壺に水を入れ、その前に朝晩用あるたびにたちはだかって、
不力、不力、不力
老人に教えられたようにリキまずの言葉をくりかえしてみた。かくすること十回、二十回、七十回、百回、二百回、冬きたりなば春遠からじ……。
ある氷の張りつめた朝、寝床から出た彼はいつものように不力、不力と念じつつ……いや念じつつではなく、五体はもはやリキむ力もなく、壺の中に放尿したのである。ところが音がしない。
いや音は平生のごとく壺の中で響いていた。しかし又兵衛はその音自体に、もはやリキむ心もなくなったから無音と同じ状態に考えられたのである。
(これだ)
リキまずに音のしない屁を出すのはまだ稚拙な段階である。音ありて音をきかざる境地こそ、老人が自分に本当に教えたかったことだと又兵衛は会得したのであった。彼はそれを人生の道にも適用し、剣の道にも応用し、あの「音無しの構え」を編んだと言う。これがわが祖、又兵衛のお話である。
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昔ながらの玉電
私はこの駒場に移る前に世田谷松原の鯰庵に住んでいた。
鯰庵をみつけたのは今から五、六年前になる。ある春の一日、懐《ふところ》に『江戸名所図会』を入れ玉川電車に乗り、宮の坂まで出かけていった。
東京の私電のなかで私がもっとも愉快に思うのは、玉川電車である。今日に至るまでこの電車は発展する東京郊外を走りながら、相変らず昔風の市電そのままの格好でゴットン、ゴットン渋谷から三軒茶屋、三軒茶屋から下高井戸にむかっている。私はこのゴットン、ゴットンという時代遅れの間のびのした音を愛し、また三軒茶屋をすぎたあたりから、まだ所々に残っている田園や林の風景を眺めることを愛した。
その日、私が宮の坂に出かけたのは宮の坂の八幡神社と、いわゆる世田谷城跡とを観察するためでもあった。
上町からこの宮の坂にかけては思いがけなく漫歩の対象となるものが多い。たとえば上町は今でも城下町の形態がどこか残っているし、この街で昔ながらに行われるボロ市や、江戸時代、大場氏の住んだ代官屋敷のことなど世間のよく知るところだろう。
世田谷城は北条時代の城跡である。この城にまつわる哀しい物語もまた有名なもので、城の奥方はその昔、世田谷玉川奥沢にあった奥沢城の娘だったが、主人の留守中、家臣たちにいじめられ、奥沢の父の城をたよって逃げる途中、三軒茶屋のあたりであえなく斬り殺されたという話がある。城のあとは今日、ただ風が松を吹きならし、所々にそのむかしの築山や泉水をしのばす起伏が残っているのみだが、しかしここにひとり住んで風の音をきくことを私はきらいではない。
でも、その春の一日――宮の坂を漫歩したあと、井伊家の菩提寺である豪徳寺を見物しようと思ったのだが、ぶらぶらと線路にそって散策しているうちに、私はいつか玉電松原のちかくまで出ていた。
小さな駅の前に一本の白い陽にかがやいた路が走っている。そして片側に五、六軒ほどの商店が並んでいる。私はその商店の端まで観察しながら歩いてみると、ちょうどその行きついた先に、真黄色な山吹の花が石垣に咲き乱れた一軒のあばら屋が眼にとまった。
近よって石段をのぼり中をのぞくと、人の住む気配もない。ただ庭の樹木のさまざまな種類のあるらしいのと、その樹木に今、ほんのりと紅色がかった春の芽の吹きだしている最中である。
そこでうどん屋に首を入れて、そのうどん屋では大福餅なども売っていたから大福に渋茶を命じて、それとなくかの山吹の咲き乱れた家をたずねると空家だという。家主はその隣に広い屋敷をもっている地主の老人との話であった。
早速、その老人に話をつけ、家の中をみせてもらうと、造作はふるいが、小さな離れまでついていて書をよみ、仕事をするのに適当な広さと暗さとである。早速、ここを今後の仕事部屋と考え、借りうけたのだった。
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月窓亭の変人
ところがこの鯰庵に住んでみて私はいささか途方にくれた。
ながい間、無人の家としてうち棄てられていたこの家は、この間ほとんど手入れらしい手入れはしていなかったと見える。軒のトイは破れ落ち、雨がふれば滝のような音がひびくのはいたしかたのなきことながら畳を支える根太さえも腐れ落ちているがゆえに、部屋を歩くと、ボリッと鈍い音がして、いたるところで足がおちこむのである。
それより更にふしぎなのは、庵自身が斜めにかたむき、外から来た人はしばし、眼の水平がとれなくて眩暈《めまい》さえ感ずるという。
私が書をよむことにした六畳は母屋から少し離れた離れ屋であった。燈下、書に興趣を感じ、沈々たる夜のしじまの中に、机に向うことが多かった。時には朝がた横になって眠ってしまうこともある。
ところがこの部屋の雨戸は全く雨戸の用をなさぬ。打ちつけてある板が一枚おきに剥がれているためである。したがって黎明《れいめい》、朝の陽の光は雨戸の剥がれた部分、部分を通して私の顔を照りつけるため、私の顔のある部分は黒く焼け、他の部分は白いままとなり、さながらきりんの斑《まだら》のような変テコな容貌になったことがあった。
しかし夏の夜はこの雨戸の剥がれた部分から青白い月の光が洩れて、一種凄絶な感さえおぼえることがあった。私がこの部屋を月窓亭と名づけたのはそのためである。
月窓亭の前は鯰庵の庭になっていて楓《かえで》、桜、松などの樹木がおい茂っていた。また私は庭についてわざわざ花を植え池を掘らずに雑草の茂るにまかせることも好きである。私はそこに鈴虫を放ち、月窓亭に青く冷たくしみ入る月の光の中に端座しつつ、その虫の音にしずかに聞き入るのであった。夜露にぬれた雑草はキラキラと光り、その光の粒と粒との間から爽やかな鈴虫のなく音がひびく。
私は少年のころから京都の嵯峨野を愛し、好んでここに遊んだ。もし出来得るならば嵯峨野に住みたいと子供心にいつも思っていた。しかし、その夢も生活の事情で充たされぬ現在である。せめて猫の額ほどの庭にも、小さな秋の野をつくり、月の光のさすがままにして楽しむより仕方なし。夜は起きて燈下にむかい、昼は雨戸をかたく閉ざして眠る。
こういう生活の男が急に自分たちのそばに引越してきたため、そばの店屋の人々は非常に奇怪に思ったようである。朝はくるが、その男は勤め人の如く洋服をきて出勤する気配もない。あるいは別に店を開いてあきないをするわけでもない。三時に駅のちかくの風呂屋がひらけば、一番風呂につかりにくる。夜は夜で人々のねしずまった頃、灯をつけて眠ることがない。
私はそのために近隣の人々から変人扱いにされかかったが、一つには私の仕事が何であるかをだんだん人々が知るようになると、かえって町内では大事にしてくれるようになった。たとえば魚屋も新しいマグロが入ればそのサシミを届けてくれる。向いのうどん屋は時には大福餅を作ったと言って持ってきてくれる。私もこの鯰庵のまわりの人々を次第に愛するようになった。
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落書きの雅趣
ところでこの鯰庵に住んでみて私はふしぎなことに気がついた。
それはこの鯰庵が、野良犬が私の住む前から雨風をよけ、一宿していく宿所にしていたということである。
というのは私が朝ごと、月窓亭において眼をさまし、戸をあけると必ずや、庭に一匹、二匹の犬がねぼけ面をしてこちらを向いていたからである。
初めは別にそれを気にとめなかったが、毎朝、毎朝、毛色の変った犬がキョトンとした顔でこちらを向いている以上、私はなぜここに入れ代りたち代り、次から次へ野良犬がとまっていくのかふしぎに思わざるを得なかったのである。
そのころこの鯰庵の石垣に、また奇怪な落書きを行う者があった。
この石垣には、私が引越した頃は山吹の黄色い花が乱れ咲いていたのだが、その花がすっかり散って、みどりの葉が茂りはじめたころ、その石垣に黒い墨汁で、
鯛《たい》つり舟に
ただこう、書き捨てていった者がある。
私はその字を眺めて、これは並々ならぬ筆づかいだと思った。私自身、生来、はなはだ悪筆で汗顔の至りだが、古人の書と字を見ることはもっとも好むところである。私はこの一句の字に雅趣と気品と勢威、この三つの特質をみた。
鯛つり舟に
私はこう思った。これはおそらく一人の歌をよくする人が鯰庵の前をば黄昏、通りすぎ、山吹の葉の色の濃さに見とれ、思わず矢立をぬいて一首よみたかったのであろう。だが、この一句のみ口から出たがあとが続かなかった。その人は、やむなく筆をおさめて帰ったにちがいない。
私はこの鯰庵のちかくに私と同じく、月をめで花を愛する人のあるのを知って心中、まことに悦びにたえなかったのである。そしてその雅趣と気品にみちた文字は、山吹の青葉乱れる石垣にそのまま残しておいた。
山吹の花うちかざし、春の日を
鯛つり舟に漕ぎいづるかな
私の知っている限り、山吹の花と鯛つり舟とを合わせて読んだのは、幕末時代の公卿である金子鉄麿の歌のみである。この鉄麿のおおらかな、そしてはなやかな句は、山吹の花のかがやく色と、青い海の色とを浮びあがらせながら、勇ましい鯛つり舟の船唄までわれわれの耳に聞えるがごときであった。私は、その句を心に思いうかベながら、この石垣に筆をはしらせた人が、次の句を書きつけるのを心待ちに待っていた。
ところが、それから一週間ほどたって、私は、ふたたびその石垣の「鯛つり舟に」の文字の下に「津桂《つけい》咲く」という例の典雅な字を見出したのである。
はて、と私は首をひねった、津桂とはいかなる花だろうか。桂の一種にはちがいあるまいが見たこともない。また花の本など開いても載っていない。私はこの謎をとくために沈々たる夜、月窓亭の燈下で古い句集や歳時記をひもとく時が多かった。
ある日、私は珍斎君、世之介君にこの話をなし、その花を知らぬかと問うた。その時首をかしげていた世之介君が、
「それは逆さに読むべきではなかろうか」といった、つまり、
鯛つり舟に津桂咲く
これを文字通り逆に読んだ時、私はああと感嘆の声をあげたのである。
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牛乳泥棒
鯰庵に集まる野良犬を観察して私はまた、そこにいたく興味をおぼえた。
人さまざまなるがごとく、犬にもまたさまざまの性癖がある。
温和なること私のごとき犬があり、粗暴なることグレン隊のごとき犬もある。鈍き犬あり賢き犬あり、その性格によってその顔のちがう様子もまことに面白い。
鯰庵に住みし頃を回顧するとき、私の心に甦るものはこの犬たちの性格と顔であった。私は今日、その一つ二つをここにお話したい。
鯰庵に移り住んで一年ほどたった初夏のころ、わが近隣に牛乳泥棒が出現した。
牛乳泥棒といってもこの泥棒は朝ごとに必ず一本だけを盗み、しかもきょうは肉屋の田中家、明日はうどん屋の岡村宅というように決して同じ家から二度と盗まない。
しかし盗まれた家の数が次々とふえるため、わが近隣の話題となり、
「子供の悪戯《いたずら》かしら」
「しかし子供にしては手がこんでいるわねえ」
ひそひそと内儀連中の井戸ばた会議にそんな話がとり交されるようになった。
最初のころは牛乳屋の手落ちではあるまいかと、巡回するアルバイトの学生に、
「おい、お前んとこ、入れ忘れをしとるんじゃないのか」
肉屋の主人などが叱ると、アルバイトの学生氏は頬をふくらませて、
「冗談じゃねえや。こっちは配達先の紙と照らしあわせて毎日、牛乳瓶の数を計算させられるんですぜ」
と怒鳴りかえす始末である。
私は鯰庵からこうした人々の会話を興味ぶかく眺めていた。
だが、ある日のことである。私はその夜も月窓亭にて書を開いたまま眠りこけてしまった。
黎明、自転車のきしむ音に眼がさめる。牛乳屋のアルバイト学生が牛乳を配達する音である。
私は月窓亭の戸をあけて庭におり、朝露のしめった草の間をおりて道に出た。朝がたの冷気は私のねむ気をさましはなはだ心地よい。その時、私はふと、こういう機会であるからあの牛乳泥棒に出会うかも知れぬという予感がした。石の上に腰をおろし、私は煙草に火をつけて次第にあけていく朝|靄《もや》を眺めていた。
と――
路の向うから一匹の白い犬がヒョコ、ヒョコと走ってくる姿をみた。犬は私には気づかず、まだ戸を閉じている店々の前までくると、あたりを見まわし、八百屋の村上宅の入口にある牛乳箱に両足をかけると、中にある牛乳瓶を口にくわえてそのまま走り戻ってゆく。
驚愕した私はそのあとを小走りについていくと、犬は二百メートルほど離れた米配給所の中に逃げこんだ。
翌日、私の話をきいた近隣の人々はこの米配給所をたずね、ことごとく感動してかえったのである。
この犬には母親の老犬がいた。老犬は二週間ほど前、オート三輪にはねられ足を傷つけられたという。子供の白犬はその母のために毎朝牛乳を盗み、自分は飲まずに与えていたという。
孝心全く失せた末世の現代、鯰庵の近隣の人々は彼等の子供にその話をきかせるのを忘れなかった。犬にもこのような知恵と愛情があるのである。
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センセイの花柳病
ある朝のこと、私が雨戸をあけると、庭の樹木の下に一匹の灰色によごれ、痩せこけた犬がむこうむきになって寝ていた。
すでに書いたように、わが鯰庵は野良犬、野良ネコの次から次へと泊りにくるふしぎな場所であったから、私は、
(ああ、きょうも新入りか)
別段、この犬も珍しいとは思わなかった。
私が三年ほど前、好奇心にかられ山谷のドヤ街に泊ったことがある。このドヤ街には一泊五十円からの旅籠屋が軒なみに並んでいたのだが、私はさすがに五十円の宿はヘキエキして、二百円の旅籠屋を選んだのである。
玄関にはいり部屋の交渉がすんだあと、私がはしご段を登ろうとすると、女が、
「ゲソを持ってって下さいよ」
と言った。ゲソとは下足の隠語だが、宿の女中が隠語を使うのは、やはり山谷ならでは見られぬ風景であろう。
ところが山谷の宿では相部屋に泊っている連中も毎日、出入りがはげしいから、朝、眼をさますと隣に昨日まで寝ていた若僧がいなくなって、その代り団子鼻のオッちゃんが高いびきをかいていることもしばしばある。そんなときも、
(ああ、きょうも新入りか)
お互いお互いが別段ふしぎがりもしない。鯰庵の庭はちょうどそういう親しい感じをもっていた。
だがその朝、木の下にうずくまって眠っていた犬がふいとこちらを向いたとき、私はいささか驚いた。白犬の彼の片眼のまわりに黒い輪になった黒毛が生えていて、さながら片眼鏡をかけた老人――いや、モノクルをかけた老哲学者という面貌である。私は思わず写真でみたハイデッガー教授のことを思いだし「先生」と叫んだほどである。
センセイは日がな一日、わが庭にうずくまって深い瞑想《めいそう》にふけっておられた。すなわち彼の鼻さきをヒョイヒョイと舞う蝶や、ブウンとかすめる蠅をぼんやり見つめながら、静謐《せいひつ》と孤独を愛していられるようであった。
のみならず私にとっては余り有難くはなかったが、センセイはこの鯰庵をいたく好まれ、一週間たっても二十日たっても、ここを去って旅烏とはなられない。しかし犬も三日飼えば情が移るのたとえ通り、私のセンセイにたいする敬愛の念は一日一日増していった。
ところがある日――
このセンセイの歩く所に私は点々たる血の痕《あと》をみたのである。私は先生が小便をされる姿を拝見し、男性でいられることを知っていたから、この血にははなはだ驚いた。
翌日も翌々日もセンセイの血はとまらなかった。近寄って観察すると、それは下腹部から出ているようである。
私は仕方なく下高井戸にちかい犬猫病院にセンセイを連れていった。そこにはさまざまの夫人や令嬢がシェパードやポインターを連れてきていて、センセイのようなうす汚れ、やせ、そして眼のまわりに片眼鏡をかけている野良犬はいなかった。
白衣をきた若い獣医はセンセイを一眼みると、
「あ、これは花柳病だ。手術せねばいかん」
と言った。犬にも花柳病のあることを私は初めて知った。私はセンセイを三等病室に入院させ、翌日、お見舞に行くと、彼は空箱の中にはいって眠っておられた。
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歌ならぬ歌
私はちかごろ昼の食事のあと、再び書に向う前に、しばし午睡をとる習慣がある。
その午睡に入るために私は仏蘭西ランド地方の赤葡萄酒を食後、一杯とることにしている。そして枕頭においた新聞、雑誌のたぐいをパラパラとめくるうちに深き眠りに落ちるのである。
さて、今日のある雑誌にこういう記事が出ていた。
大阪のある区では飲食業者の衛生を取り締るため、業者ならびにその家族の検便を行うことになったが、同区柏木町のSはこの検査に合格したとふれまわり、自分の合格ウンコを一個百円で売りまわり、またそれを買った業者はこれによって検査をパスしていた……。
私はこの記事を一読し莞爾と笑って、眠りについた。その時私の脳裏にはきょうの夕暮、久しく訪《おとな》わなかったかの酒場のマダムをたずね、久々に話しあいたいという気持がふいに起った。
眼ざめるとすでに四時である。狐狸庵の庭の小さい竹林は風に爽々と音をたてて熟睡後の身心ともに爽快である。私は思わず、
空山《くうざん》人を見ず
ただ人語の響くを聞く
返景《へんけい》深林に入り
復《ま》た青苔《せいたい》の上を照らす
『唐詩選』の一つの詩が口を衝いたのだった。
柴門をしめ、杖をふりながら渋谷に赴こうとすると、郵便配達夫が一通の封書をわたした。裏をみると、意外や、あのマダムからである。
水茎のあとも美しく、彼女はいつぞやの安岡珍斎、吉行世之介氏等と清談をかわした夜の礼を述べ、私の健康を問うてくれたのであった。しかしその最後に行をかえて、
あいうえをに、かきくけこ
たちつてとに、さしすせそ
歌ならぬ歌を一首かきつけて、私はその意味に首をひねった。数分後、タクシーを降り、かの酒場を訪れると、マダムはノブちゃんという手伝いの女の子と、グラスをせっせと磨いていた。
「ああ、お久しいこと……私の手紙は届きましたでしょうか」
なぜか、彼女は眼を伏せた。
「頂いた。しかし最後の歌一首、よくその意味がわからぬままだったが……」
「おわかりになるまでその手紙をとっておいて」
そして彼女と私とは久しぶりに酒をゆっくりとたのしみつつ味わった。そして彼女は鈴をころがすような声で歌った。
あいうえをに、かきくけこ
たちつてとに、さしすせそ
美酒、美妓、美声、これらは一介の腐儒にすぎぬ私には望むべくもないが、私はこの哀調切々たる歌にしばし聞き惚れたとき、その意味を理解したのだった。
「御志はありがたい。しかし私は孤独を愛し書を愛する者である」
そういって辞退したのである。
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チョボ髭風流士
×月×日
ここに住んで歳月がたつと、おのずと近隣の人とも親しくなり、杖を引いて駒場の周辺を漫歩しているだけで、互いに目礼を交す人々が次第にふえてくる。
けだし、遜鶴先生の『雨窓集』によれば「心を鎮め書を読むには、人家を離れた竹林の碧き清流の流るるところを以て好しと為す」とあり、また望芳山人の『矛不書』はもっと具体的に「庵を結ぶに心うべきことあり、その道を挾んで畠一面に麦穂の出ずる中心を選ぶべし」と書かれておられる。
私は不幸にしてこれら先人の教うる時に生れず、また碧き清流にも、麦の穂にかこまれた道の真ん中にも恵まれざりし故、自然閑里に一つの部屋、一壺の酒、一冊の書の楽しみを味わうことができなかった。
さりながら、私はこのために自然の閑静とその美を味わうことは不可能であったとしても、ささやかなる我が家の、ささやかなる庭に、好きな樹木を植え、好きな鉢を並べ、夏の朝には一《ひい》、二《ふう》、三《みい》、四《よう》と色とりどりの朝顔の花を数え、雨の夕暮には家鴨の声を縁側にききながら書を読む悦びは知っている。また書に飽きれば、水がめの中に水草くぐる魚の動きをみつつ、静かに心を休めることもできるし、また遊心勃然として起れば、柴門を閉じて渋谷の紅燈をさまよい、杯を口にふくむ楽しみもある。
だがこれらの悦びに増して、私の心をひくものは、杖を曳《ひ》きつつ漫歩する私の毎日の生活にふとふれ合う市巷の移り変りを観察することである。わびしき路上の風景一つにも、私の好奇心は決して飽きたことがない。いやそれよりも、もっとも興味をおぼえるのは市巷の人々を見ることであって、これらを観察する悦びは、竹林閑里に隠遁して自然に没入した先人の決してあずかり知らぬところであろう。
今日は雨蕭々。
私は書を閉じ、傘をさし、我が家の柴門をとじて駒場の高台から窪地におりた。けだしこの駒場には丘陵の谿のなごりが今日、高台と窪との起伏になっている。
と私は路上にて、洋傘をさして歩いてくる人に会った。顔をあげればこれ、O氏である。O氏は欧米粉商会の支店長代理であるが、また風流を好み、私は路上で氏と立話をしてわかれることも多い。
氏に目礼して更に杖を運べばY国手が雨合羽をきて自転車をひきつつ坂を登るに出会った。
このY国手に私は親愛の情を持っている。私は彼のチョボ髭はやした豆狸のような顔を愛する。そして近隣の人々の話によると、Y国手は診察にくる母子の子供をみたあと、病気ではない母親の手をチョイと握ったり、また往診先において、帰りがけにそこの女中の尻をチョイとなぜてはニヤニヤするので評判がよくないそうである。
さりながら私のような人間には、国手がこのような人であり、豆狸のように剽軽な顔をしてチョボ髭づらなればこそ、かえって親愛の情を感ずるのである。考えれば彼もまた風流の士ではないだろうか。
漫歩一時間後、我が家に戻り、ふたたび机に向って読書に耽ること平日のごとしである。
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俗塵雅趣あり
×月×日
雨 蕭々と降り続く。
我が家はつい先日、あたらしき畳に変えたばかりであるから、青草の匂いが部屋にたちこめる。部屋は心地よいほど暗く閑静である。
私は画帳を広げ、絵具をとかし、
寒山の道を登陟《としよう》すれば、
寒山 路 窮《きわ》まらず
谿長くして 石磊々
澗闊《かんひろ》くして 草濛々
苔の滑らかなるは雨に関《かか》わるに非ず。
松の鳴るは風に仮《か》らず
誰か能《よ》く世累を超えて
共に白雲の中に座せん
私のすきなこの詩を画帳の上に画としてみようと試みたのであるが、どうもうまくいかない。諦めて筆をなげ、折よく雨もやみかけたれば庭に降りて雨滴のおちる樹木を観察する。
すると家鴨が厚かましくも首を出し、心得顔に私のあとをノコノコついて歩いてくる。私が棚に並べた紅梅、三州松、杜松の鉢を見あるく時、彼もまた両手をうしろにまわして如何にもその枝ぶりを感心したような声をたてるのである。その声は私の閑寂な気分を害することはなはだしい。
ふたたび部屋に戻り、書に向う。
書を読むに耽って眼をあげれば、時すでに午後五時である。
渋谷の「玉久」に寄り、こちのあらいにて一本をゆっくり飲む。
この店を知ってからもう三年になる。家はまことに粗末ではあるが、酒よし、さかなよし。
「ひょうたん」に寄り、茶漬けを食す。
酔客を観察せんと裏通りを歩くに、グレン隊風の男、しきりに通りすがる男に近寄り、怪しげな写真を買えと奨めるのを見る。
走馬燈を売る男あり。赤、青の色紙を舟の形、馬の形にきりとり、はりつけたのが、蝋燭の灯にうつし出されてクルクルと回るさまはまことに涼しい。子供のころ、縁日に遊びにいき、氷菓子や綿あめをたべたあと、この走馬燈を必ず、買いしことなどがそぞろに思い出されるのである。
裏通りに一人の酔客の千鳥足に歩き、奇妙な哀切こもる歌を歌うのをきく。その歌、はなはだ珍しければ左に記す。
なるようにしか ならないわ
悲しく沈む 夕陽でも
あしたになれば 昇るのよ
漫歩後、我が家に戻り、燈下また書を開く。
開けたる雨戸より冷風ながれ、極めて心地よし。
軒先にぶらさげし虫籠の鈴虫、夜半をすぎる頃より、しきりになく。その声をききつつ、酔客の歌いし歌を思い出す。
なるようにしか ならないわ
悲しく沈む 夕陽でも
あしたになれば 昇るのよ
人生またかくの如し。
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盛夏の麦茶
夏の暑い日の飲物は結局、氷のようにひえた麦茶に尽きるようである。
私はいわゆる色つきの清涼飲料水などを余り好まない。夏の日に喫茶店などに寄っても、私のほしいのは日本茶と、よく熱湯でしぼったタオルだけであり、いわゆるひやした珈琲《コーヒー》、ひやした紅茶はほしくない。
それでは私が珈琲が嫌いかというと、そうではなく、かつて仏国《フランス》に留学していたころは、市巷を漫歩する時はキャフェに寄り一碗の珈琲をすすって、路ゆく人々の顔や服装を観察することを何よりの楽しみとしていた。
そしてまた私は現在の東京にうまい珈琲を飲ませる店が沢山あることを知っている。友人、安岡珍斎君はこの珈琲にかけては眼のない人である。彼はまず珈琲の陶器の光沢をながめ、仏国風に陶器のフィルトルを使い、芳香をふくんだ一滴一滴がさながら砂時計のように茶碗に落ちる間、しずかに桜の根っ子で作ったパイプをふかす人である。また世之介君はロンドン子の如く、日常生活に紅茶を欠かさない。一昨年ロシアに遊んだ私が彼のために、雪のモスクワから銀のサモワールを送ることを忘れなかったのもそのためである。
世之介君はまず紅茶茶碗を両手にもち、しばらく掌の熱と紅茶の熱との通いをたのしんだ後、それを二、三枚のビスキュイと共に眼を細めつつ静かにすするのである。本当に紅茶の好きな人の仕草といえよう。
そういう二人から珈排、紅茶の話をきかされる以上、私がこれらの飲みものを嫌いになるはずはない。私はむしろクリスマスちかい冬のさむい日に、窓の蒸気でくもった銀座のレストランで、外を歩く男女の冬姿をながめながら、舌の焼けるように熱い珈琲をすするのも好きである。
しかし夏の日に、喫茶店で冷した珈琲をすすめられるのは御免なのだ。あの冷し珈琲とやらはおそらく日本だけの飲料だろうが、そこには珈琲独特のとろけるような匂いも味もない。
私は夏は麦茶を飲む。それもよくよく、体の芯まで冷えるほどひやした麦茶を飲む。
暑い日ざかりに、外から我が家に戻り、木綿のゆかたに着かえて、私は簾《すだれ》の下にすわり、庭から吹き入る風をたのしみつつ、熱い紅茶を息を吹きつつ飲む。それからしとどに汗の出たところで庭に打水をしてから今度は麦茶を飲む。これで暑さは奇妙に消えるのである。我が家は土用の日でも長火鉢に火は決してたやさず、鉄瓶は松風の音をいつもたてているので、熱い茶をすぐに飲めるのである。
麦茶といえば私は一つの思い出をもっている。
少年のころ、私は洛北の嵯峨野を愛し、休日、よく電車に乗って(私はそのころ阪神の西宮市にいた)京都に行き、嵯峨野を『平家物語』の一節を思いだしつつ歩いたのである。私はある夏の日、咽喉の乾きをおぼえながら、あの有名な落柿舎によった。そのころ落柿舎に訪う人の影もなく、開け放した家の中に柿の青葉の翳が青くうつり、一人の婆さまが針を動かしていた。
私の求めに婆さまは竹を切った筒を運んでくれたが、その竹づつの中には、咽喉の痺れるように冷えた麦茶がなみなみと充たしてあって、その甘露な味は今日も忘れていない。
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食通の邪道
ふしぎなことには、現在の渋谷には握り寿司のうまいのを食べさせる店がない。少なくとも私の歩いた限りでは握りのうまいと思う店は渋谷にはないように思う。
だから私はたいていは寿司をたべたい時は新宿のGという店にいくか、あるいは遠く築地まで足をのばし、ドブ河の臭い臭《にお》いのたちこめる一角でおりて、ある行きつけの店に入ることにしている。
それでも止むをえない時は、渋谷の「玉久」のちょうどうしろにある一軒の小さな店の油障子をあけることにしているが、ここは渋谷ではうまい店にかかわらず、新宿のGや築地のイキのよいタネを出す店にくらべると、タネの新鮮さも飯の握り具合もたるんでいる。
と、えらそうなことを書いたが、私は食通ではなく、むしろ下道食いのほうであろうから、本当に握りの好きな人のたべかたも知らない。
私は寿司をたべるよりはむしろタネで菊正宗をちびり、ちびり、ゆっくり飲むほうである。
だから私はまず寿司屋にいくと、イキのいい生うにで一本のむ。それから脂のとろっとした中トロで一本のむ。最後に海老を鬼がらのように焼いてもらって一本のむ。そんな邪道な食べかただ。寿司屋にきてハナから生うになど注文するのは本当に寿司の好きな人の最もきらうところだろう。
私はいわゆる食通という存在が嫌いである。そして食道楽という人には親しみを感じる。
私の区分によれば、食通と食道楽はちがうようだ。
私の親類に、いわゆるサラリーマンから出発して、まあその会社の重役ぐらいにやっとなれた男がいた。重役になれたのが嬉しくてたまらないらしく、その男はそれから「風格」をつけるため、おきまりの骨とうに手を出し、また東京や京都で評判の料理屋を歩きまわり、一かどの食通ぶっている。「京都のタンクマはうまいねえ」などと言われると、私はこういう親類を持った自分をひどく恥じたものである。
私は彼が彼自身の舌と味覚によってではなく、世間の舌がうまいと言った場所にノコノコいき、得意になっている様子を恥じた。かような人生態度は偽善とともに私の最も軽蔑するところだからである。
本当の食通とはこのようなものではないと思う。食通でない私がそんなことを言うのはおこがましいのではあるが、本当の食通とは、自分自身の舌で市巷の人に知られぬ小さな店を食べあるき、自らの味覚でうまいと思ったものを「発見する」人であり、また、そうして自分の舌をきたえていく人であろうと思う。
もっとも私が好んで市巷の屋台や小さな立ち食い屋に首を入れるのは、こうした立派な理想のためではない。
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食道楽転々記
我が家を出て例日のごとく渋谷道玄坂を漫歩する時、私の胸中には戦前、戦中、戦後を通しての渋谷のはげしい移り変りの様が時々、ふいに胸中に甦り、はかなくも懐旧の情に捉われることがしばしばある。
たとえば映画館渋谷東宝の前を通りすぎる時、私は今から二十年前、この東宝地下にモナミというレストランがあって、そこで一人で飯を食ったことを思いだす。一人でなどというと滑稽だが、私は当時、中学生であり、一人で外で食事をすることなど滅多になく、しかもこのモナミに入ったのが最初のことだったから記憶にあるのであろう。
しかし私は当時、よく渋谷松竹に映画をみにいった。それは父が松竹の株をもっていたため株主のパスで無料で見られたからである。私は映画をみると、それからまだ当時は今日のようなビルになっていない昔の大盛堂書店によった。
本といえば道玄坂の反対側、宮益坂には古本屋が並んでいた。ちょうど宮益坂の中腹のあたりから青山にかけてちょっと神田を思わせるぐらい古本屋が並んでいた。今日、私の古い蔵書のなかにはこの古本屋で求めた書物が時々でてくることもある。その大部分は戦災で失ったが、私はある時期、ほとんど毎日、この古本屋に通った経験もある。
戦後の渋谷もこの十五年の間、ひどく変った。ハチ公広場は闇市の場所で、歳末、私はシャケを買いにそのハチ公前に行き、一匹のシャケをぶらさげて三軒茶屋から経堂まで歩いて戻った。
私が初めて酒を一人で飲んだのもこの渋谷である。
今日、大盛堂書店の隣、映画館のあるあたりはその昔、ミュンヘンというちょっとしゃれたビヤホールだった。そのビヤホールが焼けて、焼けたあとに戦後、二、三ヵ月で小さなバラック小屋がたった。
バラック小屋にはくず餅と酒ありと書いた奇妙な札がぶらさがっていた。私はその中に入り、くず餅を注文した。しかしそれはくず餅というより、何かえたいのしれぬものにサッカリンをつけた食物だった。私はそれをおそるおそる食い、おそるおそる酒をたのんだ。その酒は苦いドブロクを更に水でうすめたものだった。
そのあとここにはS食堂という大衆食堂ができた。このS食堂は今、もうなくなってしまっているが、一時はその安さのため根も葉もないデマがとんだのである。私はそのデマをきいた故、かえって好奇心にかられその店にいって食事をしたことがある。そしてその猫を食わせるというデマがうそであることを知った。
考えてみれば私は渋谷を知って二十年になる。しかし勿論、ほとんど毎日、そこに出かけるようになったのは駒場に住んでからである。
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古本の話
渋谷の宮益坂から青山にかけての古本屋が戦災のためにほとんどなくなってしまったのは、私にとって全く残念である。
私がこの宮益坂の本屋をよくうろついたのは、戦争の最中だった。そのころまだ黄嘴の一書生であり、戦争中のことゆえ勤労動員で工場に行かされていた時だった。
当時の渋谷は寂寥そのものであった。道玄坂から駅、駅からこの宮益坂にかけての店々は名ばかりで、一日の大半は戸を閉じ、戸を閉じていなくても、物らしい物は一つも売っていなかった。
ところがとも角も、この古本屋の店々だけには本が一応並べられていた。一応というのは、並べられた書物の大部分が国策に迎合した読むに耐えざる書物だったからである。私は珍しい本をそれら雑本の下から発見することにたのしみをおぼえるようになった。
当時はわれわれは活字に恵まれていなかったためかえって活字に飢えた。私も丹念にこの古本屋を一軒一軒あるきまわり、その棚を一段、一段、眺めるのを悦びとした。
アナトール・フランスは巴里のセーヌ河の河岸の古本屋をさぐり歩くのを楽しんだというが、私は冬のわびしい日差しを肩にうけて、この坂をよくゆっくりと昇ったものである。
私は後に仏蘭西《フランス》にいき、初めて巴里《パリ》についた日、とるものもとりあえず、このセーヌ河岸の古本屋を見にいったことがある。
セーヌ河岸の古本屋は、よく俗悪な巴里絵葉書にも出てくるが、河岸の石垣に大きな箱を並べて、そこに古い地図や絵の複製などと一緒にさまざまな本を並べている。
さまざまな本といったが、その中から珍本、稀覯本が出たのはアナトール・フランスの時代であって、今日、ここはちょうど縁日に出るぞっき本屋と同じだと考えてよいだろう。ある日本人の画家が、一度ここで奇怪な経験をしたことがある。
彼はある日、古本をみあるいた後、少しくたびれてセーヌ河をぼんやり見おろしていた。白い小さな船が河をゆっくりと登っていくのである。すると彼は一人の若い女性から声をかけられた。
「インドシナ人か、中国人か」
「日本人だ」
「金が儲けたくないか」
「儲けたい」
金が儲かる方法があるとこの若い女性はニッと笑って言った。
そして彼をつれて河岸にそって一軒のアパートに連れていった。すると一人の背の高い男が出てきて、彼をジロジロみると、
「うん、このマスクはいい、躰も悪くない」
「なにをするのですか」
「実は君とこの女性とで秘密映画のモデルになってもらうのだ。礼はたんまり出すぜ」
日本人の画家はころげるようにして逃げて帰ったという。実話である。
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ギョウザの味
渋谷の大和田町――つまり渋谷東宝の裏を少し奥にはいったあたりには、飲屋や食い物屋の小屋が、雑然と並んでいる。
私は一時、好んでここを彷徨したことがある。
この一角に、おそらく読者の中でも御存知のかたがいられるかもしれないが「※[#「王+民」、unicode73c9]々」とよぶ中華料理屋がある。
中華料理とかいたが、さて、私はこれをどう説明してよいのかわからない。「※[#「王+民」、unicode73c9]々」は急造の二階だて木造家屋だが、率直にいえば、真黒で汚い。細い路に面して灰色のノレンがぶらさがり、それを両手であけると、もう客が七、八人、湯気のたった鍋のこちらで、それぞれ何かを食べている。料理人がいためものをする煙、豚の足、大蒜《にんにく》の束が天井からぶらさがって、さながら香港裏町の立食屋を私に思わせる。
大蒜《にんにく》といえば、このミンミンの向いに羊の肉をジンギスカン風に食わせる小屋があった。私はここで羊の肉を大蒜《にんにく》のおろしと醤油との中にひたして食べ、また大蒜《にんにく》の漬け物と中国の酒とのうまさを味わった。
一方「※[#「王+民」、unicode73c9]々」もその店の汚さにかかわらず、味は実にうまい。店の客の中にも戦争中、中国に兵隊や軍属として出かけた人がおり、昔をなつかしむようにして、ここの食いもので一杯やっている。
そのためか、店は次第に客が集まって、支店を道玄坂の栄町の下にこしらえたが、支店と本店をくらべると、店構えは支店が立派だし広いけれども、私は昔ながらの本店のほうを愛するのである。味も、この汚い本店が、はるかにうまいように思われる。
ここの主人は満州の大連育ちの人である。引揚げた後、何か仕事をと思い、大連の日本人がよくたべる豚マンジュウ――東京では餃子というあれをこしらえて売った。これが当って小さいながらも「※[#「王+民」、unicode73c9]々」を渋谷に作ることができたという話だ。
私はここにくると、破れ窓から渋谷の黄昏の空を見つつ、西瓜の塩からい種をかじって、自らもまた幼年時代をすごした大連のことを、ぼんやり思いだすことがある。
東京にはフランス料理という看板をかかげた店は多いが、私の知る限り、本当のフランス家庭料理に似たものを食べさせてくれるのは、六本木のRという店しかない。それと同じように私がまだ大連にいた子供のころ、満州人の友だちの家に遊びにいく時――彼等はおおむね自らの母や義母や腹ちがいの兄弟たちと住んでいた――彼の母親がニコニコとして作ってくれた豚マンジュウ――つまりギョウザの味をそのまま、思いださせてくれる店を、東京ではこの「※[#「王+民」、unicode73c9]々」以外に知らないのである。同じように豚肉や香料や油をつかいながら、どこか中国人の作るギョウザとはちがう。いつもそう思うのである。
私は、その幼年のころの大連のことを時々ふっと考える。
雪のふかぶかと積った夜、凍りついた道の上を馬車が走り、家の中はペチカが赤々と燃えて、私は日本から十日遅れて着く幼年雑誌をそのよこで一生懸命よんだものである。もうずっと昔の話だが……。
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アブと伊賀流
私の友人で伊賀という人がいる。伊賀といえば誰でも忍者の伊賀流を思い出すであろうが、彼こそこの伊賀流を受け継ぐ家代々に生れ、現在その家の当主である。もちろん歴代の家業は明治以後の「酒製造業」に変ったが、当主はかたわら出版社の社員として働いているため、私も彼と親しくなったのである。
彼はもともと海軍兵学校より転じて六高、六高から東大に進んだ秀才であるが、温厚篤実、滅多に声をあげるようなことはなく、常にその眉目秀麗な顔に柔和な微笑をたたえ、これが剣道三段、柔道二段の青年とは少しも見えぬのである。
私はある日、我が家の縁で彼と向きあいながら碁をうっていた。清風爽々として庭の樹木の葉を翻し、簾ごしに青畳に流れこんで、寔《まこと》、心地よい午後である。
と、その時、滅多にないことであるが、一匹のアブが低い唸《うな》り声をあげながら家の中に飛びこんできた。そして碁を静かに楽しむわれわれの周囲を憑《つ》かれたように回りだしたのである。
と、伊賀氏は黒の碁石を二つ静かに取るや、これを小指にはさむと、無造作にこの飛びすぎるアブをパチッとはさみ潰したので、私はおどろいた。
私は片岡千恵蔵主演するところの『宮本武蔵』のなかで、武蔵が割箸をもって蠅をつかまえる一場面を見たことがあるが、もちろんこれはトリックであり、あらかじめフマキラーで麻痺させた蠅を撮影に使ったと聞いている。だがこの伊賀氏のそれはトリックでも何でもない。しかし、この白面、面長の青年紳士は少しも得意な色も顔に出さず、碁盤を静かに見つめている。
私は思わず「ソノ包ムコト藩也ノ如シ」と呟いた。これは満湖先生の『問邪録』に載っている話で、むかし周の時代、藩也という青年がいた。武芸をよくしたが、彼は決してその才と力を表に出さず、内に包んでいたという、その故事を思い出したからである。
すると伊賀青年は「お恥ずかしいことでございます。今お見せ致しましたのは伊賀流の一技で、交石と言うのです」
膝に手を当てて答えた。交石というのは文字通り、小石と小石とを交えて空中のいかなるものでも把える術、これに熟達すれば敵の放った矢でさえ、掴まるという。
「私の家は播州赤穂に近く、現在は花車という酒をつくっているのですが、私は少年の頃よりこの伊賀流を学ぶため、渡辺桃太郎という先生についたのです」
と話してくれた。
それから余り人には見せぬものではあるがと言いながら、庭に相変らず喧しく鳴きたてる家鴨に、
「しらんす」
一声かけると、家鴨の嘴はペタリと糊で合わさったようになってゲッともギャッとも言うことができない。一種の催眠術にかけたのであろうと私は思った。
そこで私はもっとその伊賀流を見たいと言った。彼は、
「いや、私なぞはまだまだです。幸い私の師、渡辺桃太郎氏が上京されていますから御紹介しましょう」
と言った。
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ほとばしる精気
伊賀氏に連れられて渡辺桃太郎翁を訪れる途中、私は氏に桃太郎などという、いわばメルヘン的なお名前を翁がどうしてつけられたのであろうと訊ねたのである。
と、伊賀氏は莞爾として笑い、
「これはこれ先生御自らがつけられた愛称でございます。先生はその昔、半尺と御自分で号されておりましたが、その後、桃太郎と改名されました。半尺という御名にもそれにまつわるお話があるようですが……」
と語りはじめた。
大正十四年、翁がまだ三十代の時であるが、ある夏の夜、柳橋の妓楼で先生は浅酌微吟、あけた障子から流れこむ河風を楽しんでおられた。その時、同じ待合ではやわらの日高流を創った日高脇毛、また自称唐手五段の田村高声が酔声をあげて裸おどりをやっていた。彼は渡辺翁が隣室にいると聞いて「こいつあ面白え。早速、ひとつ、喧嘩を申し込み、あわよくばテングの鼻をへし折って酒代をせしめてやろうぜ」と良くないことを考えた。
妓を通じてこの件を取りつがす。渡辺翁は折角の遊興を乱されるのは迷惑であったが、致し方なく縁先に出た。一方、日高脇毛,田村高声は腕をまくってあらわれた。
この時、庭にむかって翁は、はかまをちょっと持ちあげ、尿《いばり》を放ったのである。ところがその尿は俗人の尿とはちがう。
「ソノ奔《ホトバシ》ルコト養老ノ滝ノ如ク、ソノ盛観ナルコト、ナイヤガラノ水ノゴトシ」
両人の眼の前で翁の尿で地面はあれよ、あれよ、と言うまに半尺も掘られてしまったのである。
「ま、まいりました」
そう叫んで平伏したのは日高脇毛である。それ以後、翁は自分を半尺と号されたという。
われわれは神田の如水館という旅館に行った。上京中の翁はいつもここを定宿とされているそうである。
私は今日、その日の日記を引きだして開いてみると、当日の模様を次のごとく書いている。
「渡辺翁ニ接見スルニ、白髯千尺、仙人ノ面影アリ。然レドモスコブル童顔桃太郎ノ如シ。微笑ヲタタエ声馨マタ寔《マコト》ニ精気ニ充ツ」
実際私は翁にその血色の良さを褒《ほ》め、さながら不老長寿の仙人のようだと言ったのを憶えている。
と翁は笑いながら自らの健康法について教えてくれた。
それは味噌を三度三度の食事に食べるということである。味噌は普通、日本の家庭では味噌汁として朝の食事の時しかすすらぬが、これを三食にのみ一週間つづければ、煙草、酒の害はもちろん消え、如何なる薬湯よりも豊富な滋養を人体に供給するとのことであった。特に胃腸病の人でこの三度味噌汁をすすることによって、どれだけ救われたかわからぬとのことであった。
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消えてゆくのみ
この閑話も回を重ねること四十二回、筆をおく時がきた。
きょうは夜来の嵐もすぎ颱風一過、拭われたような青空は、どこか秋の匂いを漂わせる。朝ごとに墨をすり、筆をなめつつ、心に浮ぶよしなしごとを書きつづけし日常の行事も今朝で終りと思えば、多少の感慨なきにしもあらずである。
私がこの閑話に筆そめし頃、わが庭の片隅に緑の芽を出した朝顔が、いつか朝ごとに紫の、白の、赤の花を咲かせ、私はその朝露にしめった花の前にたって、想をねり筆硯に向ったのである。その朝顔も今日は色あせ、黄ばんでいる。一ヵ月半の月日はまたたく間に経ったのである。
この閑話に登場した様々の人々も、朝顔のごとく移り変る。
道玄坂のバアのマダム、私にとっては風雅の談話を相語ったあの女性は、あのバアをたたんで浅草の方に新しい店をつくり移転していった。その後、水茎のあと美しい手紙をもらい、私はいつかその店に彼女を訪おうと思いつつ、その願いを果していない。
黄昏の坂を私と共にひろい街をみおろしつつ下りた女は、群馬県の田舎に戻ったようである。おそらく彼女は嫁にいったであろう。
一緒に西瓜をたべた女の友だちと言った中年の女性もその後、渋谷に姿をみせぬ。彼女もまた浮草のごとく流れ流れて何処かに去ったのであろうか。
かく思いかく観ずれば、わが愛する渋谷に生きる人々も、走馬燈のように来り去ることの何ぞ甚だしき、人生の一相とは言いながら、まことに驚くべきものがある。
ただ私一人、相変らず閑居に住まい、腐儒三昧の生活を昔ながらに送っている。
私はかつて下町に住み、長火鉢はさんで好いた女と差し向いに熱きお茶などをすすりあう生活をやりたいものと思ったこともある。しかし儘《まま》ならぬは浮世の習い。燈下沈々たる夜はただ書に向う孤影の身となってしまったが、これも走馬燈の絵の一つであろうか。
私は渋谷を昨日も杖ふりつつ漫歩しながら、十年後、十五年後、この街はどのように変るであろうと考えた。
外国の石の都市とちがい、日本の木の町は、十年前と十年後の町のたたずまいは驚くほど変ってしまう。今日までの渋谷がまた然りである。
その十年後、狐狸庵主人の孤独なる心を慰めし鈴虫売り、焼栗屋の婆さま、暗い灯ともす占者、バラックのような一杯屋、それらはむかしの思い出として渋谷の人の語り草になり、それに代って自動車の音やかましき道路と高層建築がたち並び、野趣の街、渋谷の面影は消え失せるのかもしれぬ。
この閑話は、とどのつまりそれら未来に消される今日の渋谷にまだほのかに漂う雅趣を求め歩いた一人の世捨人のよしなしごとである。
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ぐうたら好奇学 3
――好奇心の強い男へ――
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ベンガクをしよう
悲劇中の悲劇とはなんであるか諸君は御存知だろうか。それは街を歩いている時、突如として便所に駆けこみたくなったのだが、探せども探せども便所が見つからない時です。脂汗タラタラ、顔面蒼白、遂にデパートに飛びこみ、広い建物の隅から隅をドブねずみのように走りまわり、階段をかけのぼり、やっとその場までたどりつくと、
「修理中、使用禁止」
黒々と書いた紙がはりつけてある。こんな時ほど地団駄ふんで世を呪《のろ》い、人を憎む時はないのです。
だからぼくのように好奇心つよい男は、銀座などに行って多少の暇があると、こうしたデパートの「修理中、使用禁止」の便所のかげにかくれて、ここを探しにくる連中をそっと窺っている。ベートーベンよりも悲劇的な苦悶の表情をうかべた男が便所まで近寄ってくるが、途端にこのハリ紙に気がつく。その瞬間、彼の顔は人間のもつ全《すべ》ての絶望と憎悪のかたまりとなるのである。このさまざまの顔をパチリと得意のカメラにとって「決定的瞬間」と題し、アルバムにはりつけて悦んでいる友人をぼくは知っている。
また、たとえ修理中でない便所の中にはいって観察しているのでもなかなか愉快である。女性というものは最後になると教養もなにもかなぐりすてて一匹の動物となって便所に駆けこむ。バタンとものすごい音をたてて戸をしめ、内部でハアハア大きな呼吸をしているのを耳にしますが、男はこんな下品なことをしない。男性がいかに教養にこだわり虚栄心がつよいかはW・Cで観察するとすぐわかります。俺《おれ》はまだ平気だぞということを左右の連中にみせつけるために、悠々《ゆうゆう》とまず唾を便器に吐き(本当はそれどころでないのにさ)首を斜めにチョイと曲げたりして落ちついたふりをするものです。
東京は世界屈指の大都会だというが公衆便所の少ないのも世界第一ではないだろうか。巴里には三百メートルぐらいの間隔で歩道に「|かたつむり《エスカルゴ》」とよばれる二人入り、もしくは四人入りの公衆便所が並んでいる。
銀座の生理学
それに比べると東京は公衆便所がほとんどみつからない。銀座の数寄屋橋から尾張町まで歩いても公衆便所が全くないのである。したがって誰しも疑問に思われるだろうが、いったい銀座をブラブラ歩いている銀座人種は必然性に駆られた場合、どこで用を足すのだろうか。なぜなら銀座人種とはシブチンの筆頭で、就中《なかんずく》、若い女性などは用を足すだけのために珈琲店で五十円でも散財は決してしないからである。そこでぼくはある閑な日に尾張町から彼等を尾行して、どこで溜ったものを処理するか調査してみたのである。そして……
そして実に面白いことを発見したのだった。それは銀ブラのシブチン連中の六〇パーセントはなんと尾張町の銀座三越を便所と心得て、そこに吸いこまれていくという事実である。ところが三越も三越さんで買物客よりも便所客の方があまりに多いのにビックリし一階の便所をなくし、二階以上にしか設備しなくなってしまった。したがって好奇心つよい男は退屈な時は三越一階で待っているとよい。三越の一階に便所のないことをまだ知らぬ男女が、それこそドブねずみのように必死の形相よろしく、W・Cを求めて走りまわっているのを観察できるから。
一人の男がいた。この男は自分のガール・フレンドをつれて銀座を歩く。連れ歩くのはいいが、彼は最初、女友だちをビヤホールにつれこんで、しこたま麦酒《ビール》を奢るのである。それから彼女と一緒に一時間も二時間も銀座をノロノロと歩く。文字通り銀ブラで決して喫茶店にも映画館にもよらない。やがて麦酒をしこたま飲んだ彼女がトイレに行こうにも行くことができず、モジモジしだすのを彼はジッと待っているのである。機が至り、ガール・フレンドが急にそわそわして、あちこちを見回すようになると、
「おお、ミッシェル・モルガンか。ぼくは、モルガンのような典雅な女性が好きですねえ。そう言えば、あなたの眼、モルガン的だなあ……」
などと気障《きざ》なことを呟きながら道の真ん中でたちどまるのである。ガール・フレンドはたちどまると、今まで悸《わなな》いていたのが益※[#二の字点、unicode303b]、耐えられなくなり、
「そ、そ、そうかしら。う、う、う、うれしいわ」
モルガンどころか、何かが「漏るらん」でゴソゴソ、足をくの字型にして小刻みに動かしている。これをこの男はじっと窺って楽しんでいるのだからあまりに趣味がわるい。
この男の悪戯の中で、今、思いだしても馬鹿馬鹿しいのは、学生時代、学校祭でやった展覧会の出品作品である。彼は友人たちと計り、その日沢山の瓶《びん》を集めて、その中に各人のオシッコを注入しレイレイしく一室に並べ、題して「万葉集原典、展示室」と大書した紙を扉にはりつけたのである。勿論、彼の意向では『万葉集』に「万尿集」をもじったつもりだった。
当日になると来るわ、来るわ、息子や弟の勉強の成果を見んものと父兄のお父ちゃん、お母ちゃん、美しいお姉さんに妹たちが蟻のように列をつくって続々、参観にくる。この父兄の中でもすましこんだオバさまたちに限って、
「あら、万葉集原典の展覧だって。菊子や、こういうものこそ一生懸命、見学しなくちゃいけませんわ」
娘をさとしながらハンドバッグをチョイと持ちなおし、静々と万葉集ならぬ万尿集を見学しにはいっていく。廊下で耳をすまし、ひそかに内部の気配を窺っていると、ややあって、
「マアー――」
悲鳴とも絶叫ともつかぬ声がひびきわたったあと、部屋の中は突然シインと静まりかえるのだった。
侍女の監視で
仏蘭西に留学時代、ぼくは知ったことが一つある。それは男女の道路上における作法はこのオシッコと関係があるということだ。
元来、西欧では便所の発生が非常に遅く、各家庭にその設備が行き届いたのは十九世紀以後といわれている。十八世紀、つまり今から百六十年前までは、よほどの家でなければ便所はなかった。今日でもフランスの農家にいくと便所のない家がある。ぼくは留学時代、農家にアルバイトに行き、シイオット《W・C》はどこだと聞いたら、
「外の野原」と指さされた。
農家だけではなく十八世紀のころは宮殿にさえ便所らしい便所はなかった。ぼくは有名な巴里のベルサイユ宮殿を走りまわって便所を発見しえないので、大変ふしぎに思ったのだが、学者にきくと当時の貴夫人でさえ、庭の茂みに用を足したのである。あのマリー・アントワネット皇后さえ庭園の茂みに侍女を監視にたてながら事をすましたと聞き、早速、今も残っているベルサイユ庭園の茂みの土を一生懸命ほじくって記念に持ちかえった記憶がある。マリー・アントワネット皇后のおしっこを記念するこの貴重な土を所有するのは日本でもぼくだけですが、好奇心つよき読者の中で一握りでよいから欲しいと思われる方は編集部気付で申込まれたし。一握り百円で特におわけしてもよろしい。
フランスには今でも各家庭にポ・ド・シャンブル、直訳すれば寝室壺ということになるが、要するに小便壺があって、これをベッドの横のベッド・テーブルの中に入れて寝るのである。真夜中に用がしたくなったら、この中に放出して、そのそばでグウグウ眠るのだから毛唐の神経は我々とは少し違っているようだ。
だが諸君、驚くなかれ、十八世紀まではこの壺に夜たまったものを朝、窓から下の道路めがけて捨てていたのですぞ。だから窓の下の道路をかりにアベックで恋人があるく時は、男子が家のならびに近い方を歩行するのが礼儀だったのである。つまり道路に窓から捨てられる各家庭のオシッコの飛沫を、少しでも女性にかけまいとする男のやさしい配慮が、散歩中の作法となり、現在でも男は女と歩く時、建物にちかい位置にたつという習わしが礼儀として残っているのです。
以上、今日はみなさんと一緒に多少エチケットについて勉学するところがあった。もっとも勉学ではなく「便学」であったかもしれませんが。
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ヒットラーを呼んだ霊媒
マルグリット・ギヨ嬢。
この名を読んでも日本人の我々にはピンともカンとも来ませんが、この女性はヨーロッパで現在、評判の霊媒、兼、透視家です。
彼女は自分のふしぎな経験や修行を物語った『見えざるものの入口にて』という本を最近、巴里の「円卓」社から出版しました。ひょっとするとやがて日本でも翻訳されるかもしれませんので、好奇心の強い方は是非、その名を憶えておいて頂きたい。ただマルグリット・ギヨ嬢は文字通り、お嬢さん《マドモアゼール》でありますが、向うの国ではうら若い乙女のみならず、婚期をいっした梅干婆あもふくめてマドモアゼールとよぶのであるから、ギヨ嬢についてゆめゆめロマンチックな想像をしないこと。彼女は当年六十四歳の婆さんである。念のため。
今日はこの有名な女性が、あのナチの総統ヒットラーの霊を呼んだというふしぎな話をご紹介するわけですが、その前にこうした霊媒もしくは透視についていささか話しておきたい。
透視――つまり未来や将来の出来事を見通すといえば、ぼくらはどうもインチキ臭く感ずるものですが、心理学者などの話をきくと必ずしもそうでないらしい。
ぼく自身も、ふしぎな経験をしたことが幾度かある。それは、一人で夕暮に坐っている時、ジッと眼をつむり心を集中しながら恋しい女性が今なにをしているか、などと考えている時、彼女が突然、見えてくるのです。
見えてくる[#「見えてくる」に傍点]などと書けば、貴様なんというホラをふくのであるかと怒られるかもしれませんが、まあまあ、そう怒らずに読み続けて下さい。
あなたも透視ができる
勿論、彼女の姿がありありとすぐ見えてくるのじゃありません。たしかにそこではある程度の想像力も働くにちがいない。まず、ぼくは幾度も遊びにいった彼女の部屋を心に思い浮べようと努力する。始めはその部屋がなかなかハッキリ思いだせないが、一分、二分、心を集中しているうちに部屋の壁の色、壁そのもの、机、椅子、そういう風に大きなものから小さなものが次々と形を結び、やがて部屋全部がまるで眼で見ている如く、アリアリとまぶたに浮んでくる。(これは練習で誰にでもできるものです)
この状態のまま更に心を集中していると、その部屋の中で彼女があらわれてくる。あらわれてくるだけでなく、今、何をしているか(本を読んでいる。唄を歌っている)もまぶたに写ってくるのです。
その時の日と時刻をよく調べ、彼女に問いあわせたところ、ふしぎなくらいピタリピタリ良く当った、そんな経験をぼくは持っています。彼女のことだけではなく、十数年前の入学試験の時も、ぼくは受験学校から百里も離れたところで眼をつむり、合格掲示板に自分の番号のないことを透視して「落第だナ」と思っていたら果せるかな落第だったこともある。これは自分に非常に関心あること(受験、就職など)とか、非常に関心のある人(恋人、家族、親友)についてなら案外、あなたたちの大多数もできる実験ですから一寸やって見られては如何でしょう。もっともぼくの友人でこの方法をきいて早速、恋人のただ今行いつつあることを透視した男がいましたが、透視中、突然顔をしかめたので、
「みえたのか」とたずねると、彼は答えて、
「みえた」
「じゃ、なぜヘンな顔をするんだ」
「だって彼女、今、おナラをしつつあるんで……」
こういう結果もタマにはあるようだから御用心。
マルグリット・ギヨはこの透視(勿論、今、ぼくが言ったような初歩的なものとは違い、もっと専門的な修行)を印度人のムルシッド師について長い間、修めたと告白しています。この時の最初のふしぎな経験として、彼女が語るものによりますと、この頃、彼女は妊婦である女友だちの看病にスイスのラ・ロッシエルまで出かけたことがある。ところがここで彼女はその夜、ベッドの上でなにかひどい苦しみにおそわれた。朝がたの三時ごろだったそうです。ところが彼女は半覚醒の状態の中で自分が師匠の印度人ムルシッドの部屋にいるのに気がつきました。
「ムルシッド師は薔薇色の線のはいったパジャマを着ていて頭にターバンを巻いていました」と彼女は書いています。「ベッドの左にある目覚し時計のチクタクまでがハッキリきこえました。私がくるしみを訴えると師は少し考えた後、十五分後に恢復するだろうと答えました。やがて私はこの半覚醒からさめましたが、その時は苦痛はなくなっていました」
だが、ふしぎなのはこの経験を現実のムルシッド師が全部知っていたことだとギヨ嬢は語っています。なぜならこの事件があってから始めてムルシッド師に会った時、彼は笑いながら言ったからです。
「あの夜、あなたは私の所に来たのを憶えていますか」
これがギヨ嬢の最初の自己解脱でした。そして彼女は後にあのヒットラーを霊媒として呼んだ事件によって一躍有名になったのです。彼女は、その夜のことを回想して次のように言っています。
独裁者は語る
「あれは六月の夜のことでした。空気がなまぬるく微風が私の巴里のアパートの、庭の樹木をざわめかしていました。突然、私は外に出たい衝動にかられ、庭の芝生に朝がたまで立っていたのです。断っておきますが私はその時まで霊媒(透視家が幻覚のなかで出会い、話をきくことのできる人のこと)として、ヒットラーを選ぶとは考えたこともなかったのです。始め、私はだれかの足音をききました。それはコツコツという重々しい足音でした。その足音が私の前でとまった時、私はそれが、ニュース映画で見た通りのヒットラーだと知りました。ポケットに手を入れ、ボタンの多い制服を着た彼は悲しげな顔をしてたっていました」
ギヨ嬢は、それからこの幻覚のなかでヒットラーと対話をしたのであるが、ヒットラーはその時フランスに宣戦した理由として、
「自分は宣戦を希望せず同盟を願っていた。しかし貴方がたの指導者はしゃべりすぎた」と彼女に言ったといいます。
ギヨ嬢がさらに、
「あなたは独逸《ドイツ》を統一し、それを強力にするために、どのような方法を使ったのですか」とたずねますと、ヒットラーはしばらく黙っていたが、やがて一語一語に力を入れて、ゆっくりと、
「リズムによって」と答えたのでした。
「私はしばらくの間、その言葉の意味がわからず、びっくりしてたっていた。だがやがてその真意が了解できたのである」と彼女は書いています。
つまりヒットラーは、あのナチスの歩調をそろえた行進を始めとして群衆をよわせる演説にいたるまで、すべて悪魔的な力をもった「リズム」を基調としていたというわけです。
マルグリット・ギヨの語るところが何処まで真実か、あるいは彼女自身の錯覚かは、ぼくにはわかりません。
しかし始めは彼女の言を信じなかった連中も、彼女に透視をうけて以来どうも本当のようだと言う人がふえたと言うことです。
いずれにしろ信ずる信じないにしろ、日本にいる我々はいくら好奇心がつよくても彼女に会えぬのが残念ですが、例によって手紙でいろいろなことを質問することはできると思います。
左に彼女の気付アドレスを書いておきますから物好きな人は手紙を(英語か、仏語で)書いてごらんなさい。ただし返事がくるか、どうかわからない。
Mlle Marguerite Gillot
Aux bons soins des
Editions de la Table Ronde
40 Rue du Bac Paris 7e
France
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人間は死んだら何を見るか
「人間は死んだらどうなるのか」
「あなたは死後、なにを見るのか」
いくら好奇心の対象になるものが世の中に無数に転がっているにせよ、この質問ほどぼくらの心をウズかせるものはないようである。
ところがこの返答はマチマチだ。宗教を信ずる人は死後には永遠の世界があって因果応報、この世の中で正しいことをした人は天国(極楽)に遊ぶことができるというし、悪いことをした人は地獄に陥ると考えている。一方、宗教など針の先ほども信用しない方たちは、死後の世界などはフフンのフン、無の無の無と思うのは無理もない。
このどちらを是とするか、非とするかは、こちらのキメ手がないので判断のくだしようがないし、その上、困ったことには、死んだ人が生きているわれわれのために死後の世界を語ってくれた例が今までにないのである。死者が死後の世界を語る。もしこの特ダネに信憑《しんぴよう》性があれば、それを掲載した新聞や週刊誌はたちどころに売り切れるにちがいない。
残念ながらそうはいかない。そうはいかないが、こちらの好奇心はやはりウズくことには変りがない。
そこで今日、ぼくはこの疑問について最大限度、信用のおける経験談をご紹介したいと思う。その経験談とは「一度死んだ(と思われた)後に生きかえった人」の偽りのない告白なのである。つまり、こういう人は一時的であれ、死者となり、死の世界を見たのちに、ふたたびこの世に戻ってきたのだから、今のところ彼等の話がわれわれの疑問の最大限の解答になるのである。
それは、八年ほど前、フランスに留学していた時、ぼくのクラスに偶然、今、言ったような経験をした男がいた。
幸福感で一杯
この青年はスイスとフランスの国境にちかいサボア地方でスキーに出かけているうちに雪崩《なだれ》に会ったのである。
サボア地方はフランスでいうと日本の長野県のような所であり、夏は避暑地、冬はスキー客でにぎわうのだ。彼もスキーをするために一昨年の一月、パリからこのサボアに遊びに出かけたのだ。
雪崩は突然やってきた。その音はまるで汽車が全速力で走りすぎるような轟音《ごうおん》だった。
一緒にいた友人が布を引きさくような叫びをあげたのが、彼の耳にきこえた。
それから灰色の滝のようなものが周囲を走り、彼はその渦に巻きこまれたのである。
「もっともその灰色の滝が雪崩だったのか、その時、ぼくはすでに意識を失っていたのか明瞭じゃありませんがね」
と彼は長いパイプに火をつけながらその夜、ぼくらに話してくれたのである。
「とにかく、ぼくは死んだことは確かです。(その理由はアトでわかりました。)ぼくの霊魂は自分の体を雪の中に残して外に出たのですな。外に出てみると、ぼくの死体のある場所をさがして、捜索隊の連中がしきりにシャベルを動かしているのがハッキリ見えました。その時の気持はと言いますと、何ともいえぬ幸福感が体中に充満しているという感じでした。
ぼくは、捜索隊の連中にぼくの死体のある場所を教えてやろうと思いましたし、その隊の中に友人のBやFのいるのに気がついて、さかんに連絡をしようとしたのだが、それがみんなにはわからないのです。やきもきしているうちに、ぼく自身がなにか大きな気流のようなものに乗って流れていくのを感じました。別に危険とか不安とかという感情は全くなく、自分が今から死者の世界にいくのだということはハッキリわかっていたのです」
彼は一時間後、雪の中から掘りだされ、急速な人工呼吸や医者の適切な処置でふたたび息をふきかえしたわけである。
ぼくは彼の話をきいた時、もちろん疑った。
疑ったというのは彼の話の内容そのものではない。この男はウソをつくような青年ではないが、つまり彼は雪の中で「死んだ」のではなく昏酔《こんすい》したのであり、昏酔しながらまだ意識が働いていて夢をみていた。その夢をぼくらに話しているのだと思ったのである。
ところが――
その後、ぼくは、二人、同じように一度「死んだ」状態になってふたたび蘇生した人に幸運にも会うことができたのである。一人は彼と同じ外国人、今一人は日本人である。
そして、この二人の話をきいてみると、八年前、雪崩で埋まった男の経験談と奇怪なほど共通している点がある。この奇怪なほど共通している点が、いたくぼくの好奇心をそそったのである。ではその第二の話を第一の話と比較してみよう。
死者は見ている
第二の話は現在、千葉県市川市に住んでいられるTさんに伺ったものである。
昭和二十三年、終戦後まもなくだったが、Tさんは戦争中の無理がたたったのであろう、胸部にかなりの病気をえて整形手術をしなければならなくなった。整形手術も今は麻酔薬の進歩で手術死ということはほとんど考えられなくなったが、当時は相当の覚悟を必要としたものである。Tさんも治したい一心、眼をつむって手術台にのぼり、無事、手術はすましたのだが、手術後急に容態がわるくなり、その夜「息を引きとって」しまったのである。
息をたしかにTさんは引きとった。心臓が停止し医者もそれを認めたからである。
ところが奇蹟か偶然か、二分後に彼の心臓はふたたび動きだしたのだ。しかしこの二分間は医学的に言っても彼はたしかに「死んで」いたのである。
この二分間のことをTさんは次のようにぼくに語ってくれた。
「とにかく、非常にいい気持でした。私の魂が体をヌケだして、みると女房や親類のものがみんな私の体にとりすがってオイオイ泣いとるのがハッキリ見えます。
私は自分は今、こんなにいい気持だ、みんな心配することはないと、しきりに女房や親類に告げようとするんですが、相手にはわからんのですなあ。そのうちに私はなにかみえぬ力に促されて死んだ人のいる世界に昇天するんだということがわかってきたんですよ」
このTさんの話と、さきほどの雪崩に埋まったフランス青年の話とが、偶然とはいえあまりに共通しているのに気づいて、今更のようにぼくはびっくりしたのである。
それは、この二人とも、
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(1)死んだあとの気分は「いい気持」だったこと。
(2)生きている者が見え、彼等に連絡しようとするが相手には通じない。
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この二点である。
もちろんこの二人の死が本当の死だったか否かを立証するキメ手はない。しかし、もしそれがやはり「死」だったとして、すべて死んだ人が彼等と同じ経験をすると考えるならば、どうやら死ぬことはそんなに苦痛ではなさそうだ。
しかし、「死んだ人たちが我々、生きている者を見ることができ、我々に、たえず連絡しようとして果せぬ」という話が本当なら、諸君、少し困ったことではないか。
つまり諸君のだれかが、女房にはみつからぬと思って怪しげなホテルで浮気などしていても、なくなられた父さん、母さんは君のその行為をジッと見とられるのですよ。ジッと見とられて、止めようとされても、君にはさっぱりそのお声がきこえないだけなのだ。
また女房殿も亭主の眼をかすめて焼きいも買ってタラフクたべても、あんたの亡くなった妹さんはそんな姉さんの意地汚い行為をジッと見とるのですよ。
そして君たちが死んだあと、あの世で父さん、母さん、妹さんに「あの時、こんなことしていた」と一つ一つ指摘されて真赤にならないようにお互いしたいものですな。
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掏摸《すり》
読者諸君のなかの三〇パーセントは、――こう言うのはまことに失礼ですが、その昔、学生時代あのカンニングという奴をおやりにならなかった方はないだろう。明日が試験という日、一室に閉じこもって一生懸命、机にむかっている。
親御さんはなにも知らぬから、
「あの子も試験前になれば人並みに勉強しているよ」
そう思って安心してるのであるが、いずくんぞ知らん、息子殿は、教科書を暗記するかわりに、カンニングの小道具を懸命に作製しているのです。
カンニングの小道具にも色々ありまして、下敷に細かく英語の単語を書いたり、小さな紙片にそれこそ虫眼鏡でみねばわからぬような文字で歴史上の人物や年号を書きこみ、その紙片を時計の留皮の下にすべりこませる法などは普通。
もっと手がこむと、洋服の左腕内側にゴムを縫いつけ、そのゴムの先にカードをつけて掌に握り、試験監督がくると、ゴムがたちまちにして上衣の中にすべりこむ方法など、色々と苦心したのは、あながちぼく一人だけではあるまい。
今から考えてみると、こんなカンニング方法に苦労するぐらいの時間や労力があるなら、その時間と労力を肝心の勉強に注げばよかった筈です。筈ですが、それをしなかったのが、愚かしい中学時代の才覚だったのでしょう。
痛テッという前に……
ところで今日、こんな前おきを長々と書いたのは、話を掏摸《すり》のことに触れたかったからで、掏摸になるためには、色々ときびしい訓練がいるのだが、そんなきびしい訓練に払う時間と労力があれば、正業の一つでもおぼえればいいのに、と思うのも、カンニングの場合と同様、当人になってみねば、わからぬことかもしれん。
以前、パリに遊んでいた時、評判の映画に『ビッグ・ポケット』という作品がありました。監督は『抵抗』で日本にもおなじみのピエール・ブレッソンだが、この映画が評判だったのは、色々な掏摸の手口をスクリーン上で公開しているからである。
ある新米掏摸が地下鉄に乗りこみ、新聞をひろげる。よむふりをして乗客の一人にちかづき新聞紙で体をかくすようにして相手の財布をぬきとる場面などが出るたびに、観客席からは感嘆とも溜息ともつかぬ声が洩れていましたが――これは日本の掏摸仲間では初歩中の初歩の技術だから、一度、あのシャンゼリゼの毛唐たちに日本掏摸の名技を見せてやりたいと、しみじみ思ったことでした。
だが、それはとも角、この五月から六月の行楽シーズンは掏摸にとって恰好の季節である。
つまり青葉若葉でみなさんの心がホンガラカになり、浮々としている時が一番懐中を狙いやすいからなのです。
そこで今日は、この掏摸の手口について、二、三を選んでお話してみたいと思います。
一番、普遍的なやりかたに、彼等の言葉で「チガイ」という方法がある。
古典的なこれは「すれチガイ」の略で、あんたが、新宿なら新宿の夕暮を、初夏の風にいい気持になってブラリ、ブラリと散歩していたとする。
向うから二、三人の会社員がやってくる。向うも少し浅酔微吟、通りすぎる時、その一人が足をすべらして転びそうになる。それを見て君はハッとする。
このハッとして君のスキができた時、別の男が君の財布を抜くのが「チガイ」の方法です。
この場合、掏摸の人数が三人なら、すった奴は三番目の男に、盗んだ財布を手渡すのは、言うまでもありません。
こう書くと正直なる我々は、掏摸にすられぬ手段は見知らぬ男からぶつかられぬことだと一途に思いこむものですが、相手だって商売だからこんな正攻法でくるとは限らん。
いつだったか、ラッシュの国電のなかで、一人の男が靴をふまれたらしく、
「痛テッ」
声をあげた。
ふんだ人は横にいたリュウとした背広を着ている若い紳士でしたが、
「あっ、申し訳ございません。痛かったでしょう」
素直にあやまったから、靴をふまれた男は、
「イヤあ、お互いさまですよ。イヤ、痛かあ、ありませんや」
快く許している光景をみました。
だが次の駅で青年紳士がおりたあと、この男、突然、懐中に手を入れて、
「すられたっ」
地ダンダふんだがもう遅い。痛かあないですどころか、この男が靴をふまれてスキができた瞬間に、あの紳士の指業が働いたのです。
「チガイ」の方法にはこのように色々な応用の仕方があるから、ラッシュの電車、国鉄で足をふまれたら、痛テッと叫ぶ前に、君の懐中をたしかめてみることだ。
油断大敵
一昨年、こんな掏摸のやり方を見たこともありました。
大阪駅の待合室で、商人風の男がふくらんだ鞄《かばん》を右において新聞を読んでいた。すると、
「ちょっとダンナはん、煙草の火かしてくれはりまへん?」
芸者あがりのようなお婆さんが客の左側――つまり鞄と反対側の位置(この点に注意して下さい。理由はあとでわかる)に腰をおろした。商人風の男、ポケットからライターを出して火をつけてやると、
「ほんまに、暑うおまんなあ。こんな日は、汽車旅もえろう、おまっせえ……」
きさくに話しかける。商人も新聞を折りたたんで、
「そやで。そやさかいに、わしは席のえらび方に気をつけとるんや」
「へえ、ダンナはん……そりゃ、どういうことだすかいな」
「つまりや。午前中は朝陽のあたらん側の席、午後は西陽のさしこまん席を、その線路の方角をば、よう考えて取るこっちゃ」
などと自慢そうに話しておったのですが、しばらくして何気なく、この商人、自分の右側(鞄のおいてあった方)をみると、鞄がない。影も形も消え失せてるのである。
「ない!」商人は大声で叫んだ。「鞄がない。なくなってしもうとる」
婆さんもビックリして、
「ダンナはん、何ごとでっか」
「鞄、ぬすまれたんや」
「ほんまでっか」
その婆さんも椅子の下なぞ、覗いてやったりしながら、
「そんなら早う、届けなはいな、届けないけません」
ところが、あとになってわかったのだが、この婆さんが掏摸の一味で、商人の煙草の火をかり、彼の注意を鞄のおいてある右側と反対の方向に向けさせておいて(そのために彼女は左に腰をおろしたのです)その間、相棒が仕事をするのを待っていたわけである。
この方法を普通、置引といい、相棒のことはトバオイとよばれているわけです。
また盛り場、駅などでよくケンカが始まるのを、人ごみの中でポカアンと口をあけて見ている御仁がいるが、あれが一番あぶない。
こんなケンカは掏摸どうしの演出であって、好奇心つよき我々が「なんだ。なんだ」ととりまき、ケンカ見物に夢中になっているスキに、別の掏摸が活動を開始しているからである。
その他、「オイソレ」などと言って鋭い刃物で外套や鞄を切る方法などがありますが、これは有名ですから、詳述する必要はないでしょう。ただ次の四点は、ともすると気のゆるむこの五月から七月にかけては注意して下さいよ。
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(1)ぶつかってきた酔っぱらい(それが二、三人いる時)。
(2)ラッシュの電車で靴をふまれた時。
(3)女の人が電車の中などで理由もないのにこちらに靠《もた》れるような動作をした時。
(4)なれなれしく待合室で未知の人から話しかけられた時……。
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吸血鬼
編集部および拙宅あてに読者の方々から沢山のお手紙を頂き有難う存じます。世の中には小生同様、好奇心強きお方が少なからぬことを知り、今更のごとく嬉しく思う次第です。
お手紙は目下整理し、その中で御希望の多い質問をえらんでお答えしたいと思いますが、中には回答不可能なもの――たとえば、
「来日するアイクは平生どんな色の猿股《さるまた》をはいておるか。アイクは猿股を何枚もっておるか」(鹿児島市の某氏)
などにはお答えできぬこと、あらかじめお断りしておく。御了承頂きたし。
あなたの妻が、恋人が……
さて、今日は徳島市の並川さんの御質問にお答えしたいと思う。御質問は、
【西欧の恐怖談などによく出てくる、吸血鬼についてお話しください。】
です。
吸血鬼は、有名な小説『吸血鬼ドラキュラ』やその映画をごらんになった方には既に御存知のことと思いますが、人の血を吸いたいという怖ろしい欲望をもちながら、我々と同じ人間の姿をして銀座や渋谷を歩いているのだから始末がわるい。
彼に血をすすられた者は首や咽喉《のど》もとに、ちょうど大きな虫に刺されたごとき、プツッとした小さなおできができてしまうのだそうです。
そして今度は自分自身が少しずつ吸血病者に変化していき、相手の如何を問わずその血を舐《な》めたいと思うようになる。たとえば君の恋人にこういうプツが首もとにできると、翌日から君の耳のあたりにチラッ、チラッと眼を走らせ、不気味なうすら嗤いを唇に浮べるようになる。そして、
「キスもしないで……会社にいくのヒ、ヒ、ヒ」
普通とはちがったことを言いはじめる。
何も知らぬ君が悦んで顔でもさしだそうなら、キスでもするふりをしながら唇を君の耳のあたりにつけ、こそばゆいような感触でジュウッと君の血を吸っているのである。これが一週間もつづくと君の体がどうも疲れはじめる。根気がなくなる。会社でもだるい。肝臓が悪い、年だ、精力減退だなどと言ってビタミン錠を飲むが、一向ききめがない。
こういう症状を近頃思い当って、薬屋に行く前に、自分の奥さんか恋人がヒョッとすると一応、女性の顔、形はしているが吸血症に憑《つ》かれているかもしれぬと(万一ということもあるから)疑ってみるとする。
彼女がこの怖ろしい病にかかっているか否かを調べるには、例の首すじや咽喉もとに小さな歯型がないか調べるのがよいが、これはうっかりするとノミの食いあとなどと混同するといけない。
だから吸血病者の一番怖れるニンニクを買ってくるのが一番よい。我慢してこのニンニクの五つぐらいをひそかにたべ、その口の息を彼女の顔に思いきり吐きかけてみる。もしこの時彼女が恐怖の色を示し顔面蒼白になれば……お気の毒ではありまするが、あんたの恋人、奥さんはやさしい女性の顔、形はしているが、吸血鬼に何時のまにかとりつかれているのですから、自らの生命のためにも一日も早く彼女と別れた方がいい。……まあ簡単にいえばこういう風に吸血鬼について西洋の怪奇談では書いているようである。
だが、諸君はこんな話を聞いても、「ふん、バカらし、阿呆くさ」
そう思われるにちがいない。
幽霊や人魂とおなじく、吸血鬼などは、我々の恐怖心のつくりだした所産である、そうお考えになるにちがいない。
もっともな話で、これを書いているぼくも半ば同じような考えを持っているのであります。
だが、そのぼくが今から八年前、一つの解せない事件にぶつかった。今、思いだしてみても、その真相や理由がどうしてもわけがわからない。そのふしぎな話を今日、みなさんにもしようと思う。
簡単な実験で
ぼくはリヨンという中仏の街で学生生活を送っていた。リヨンというのは永井荷風が一時住んでいた街ですが、仏蘭西の中でも非常に暗い、陰気な都市です。特に冬の間というものは、毎日、毎日、黄濁した霧が街中を舐めつくし、街そのものがまるで墓場のように静まりかえってしまう。
あるそんな夜のことでした。
ぼくは四人の友だちと煙草をふかし一瓶のコニャックを卓上において、談笑の楽しみに耽っておったのであります。
やがて話が一段落した時、その中の一人が急に声をひそめて、
「こんな霧のふかい夜には吸血鬼が出そうな気がする……」
まじめとも冗談ともつかぬ調子でそんなことを言い始めたのです。
「俺の故郷ではね、昔から霧のふかい夜の、ちょうど午後十二時に墓場に行って、十字を逆に切ると、その人間は吸血鬼をよぶという言い伝えがあってね……」
みなは笑いました。
笑ったのは言うまでもなく、今の世の中にそんな馬鹿馬鹿しい話がありうるだろうかと言うわけです。だが話手の男は大学生でありながら至極まじめな表情をして、
「いや、この言い伝えが一笑に付せないんだ。実は俺の町で冗談半分にこれを実行した奴がいてね……」
「で、どうなった……」
聞き手の一人がパイプをふかしながら嘲るようにたずねました。
「死んだんだ、それから五日ぐらいしてね……」
しばらく沈黙がつづきました。話手の学生は仏蘭西でもスペイン国境にちかいピレネー方面の出身でした。その地方はまああまり大都会もない文化に遅れた県ですから、こんな迷信もありうるだろうと一同は思ったのです。
「馬鹿馬鹿しいな」
「いや、本当なんですよ」
「本当かどうか知らんが……イヤ、それじゃ面白い.ひとつ俺たちで実験してみようではないか」
パイプをくわえていた男が、そう、酒がはいっていたせいもあるのでしょうが、そんなことを言いだしたのです。今、思えばあの時、一瓶のコニャック酒さえなければ、彼等も馬鹿なまねをしなくてよかったでしょう。
ぼくは寒かったけど好奇心にかられ、十二時ちかくみんなと一緒に真暗な、そして黄濁した霧のただよっている外に出ていきました。
息をはくと、その白い息が、霧と一緒にまじるようなリヨンの夜である。
墓地は町の少しはずれにある。まだノロノロと走っている最後のバスに乗って町はずれの墓地前でおり、みんなで黙って歩きはじめた。すぐ前の村の灯が霧ににじんで、犬の吠える声がきこえる。
急にだれかが、
「止そうじゃないの」
少し怖ろしくなったのか呟きましたが、
「ここまで来たんじゃないか……」
そのまま墓地の門をくぐりました。
白い霧の中にたちどまって、例のパイプをふかしていた男が、
「やるか」
そして、先ほどの言い伝え通り、逆十字で十字を切ったのです。逆十字の切り方とは、指先で腹、頭、右肩、左肩を、次々と押えればいいので、普通の十字のやり方の反対です。
みんな黙っていました。しかし何も起りませんでした。一人が笑い出し、みんなも笑い、何でもないじゃないかと話しながら引きあげたのです。
ところが――
ところがそれから二週間後、パイプをふかしていた男がひどく痩せたのに、皆気づきました。
顔も蒼白くなり、頬肉がこけ、医者に見てもらったところ、白血球が不足している、と告げられたというのです。
やがて彼は結核になり、入院しました。
化学療法も功を奏さず、彼は一年後死んでしまったのです。
この死亡の原因が、あの墓場で吸血鬼をよんだことに何かのつながりがあるか、どうかわかりません。
どなたかこの実験をやって調べてみませんか。夜の十二時、墓地で、逆十字をきればいいのです。
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夢の謎
読者から頂いた手紙を整理していますと、夢についてこんなふしぎな体験をしたという貴重な経験談をお寄せになった方が沢山あるのにビックリしました。
たとえば現在、茨城県の野口郵便局長をなさっていられる秋山圭三さんのお手紙もその一例です。枚数の関係上、その全文をそのまま掲載することができぬのが残念ですが、簡単に要約してみましょう。
昭和五年、東京外語を卒業した二十二歳の秋山さんは海外で仕事をしようと南米ブエノスアイレスに渡航された。
ところが、この唄と酒と踊りの街で秋山さんも若かったから大いに派手に遊んだらしい。たちまちにして懐中にひんやりと秋風が吹きはじめた。秋山さんはそこで何か金儲けをせざるをえなくなり、キニエラとよぶバクチに手を出しました。キニエラとよぶバクチは秋山さんの説明によりますと、
「ブエノスでは毎日ロテリア(政府公認の宝くじ)の抽選があり、新聞の午後版に大きく番号が発表になります。その当選者の首位から何番までかを個々に予想し金を張って賭けるのがキニエラです」
というのですから、要するに今度の宝くじには何番という数字の人が当選するかを賭ける遊びのようです。
「たとえばその当日の朝までに次のように金を賭けてボスのところに届けるのです。明日の発表で一等の番号の下二桁が三五だったら次のように書きます。三五の数字に一等の時、十ドルをかける。
35-1=10$
当れば八〇倍で八〇〇ドルがはいります」
と秋山さんは書かれていますが、この賭けのやり方はこの際我々にはどうでもよろしい。
始めのうち秋山さんはなかなか運がつかず、さっぱり芽がでない。部屋代はたまる。懐中はますます乏しくなる。だが秋山さんは熱にうかされたように賭けていた。
ところが、ある朝、
「明白ではないが漠然《ばくぜん》と夢を見た気持がして二五と四五の数字を頭にうかべて見ました。たしかに夢を見た心算でした。早速ボスの所に行こうかと思いましたが、大儀なのでそのまま忘れるともなく過ぎてしまいました。
午後一時になって行きつけのキャフェへ行ってコーヒーをすすりながら新聞を何気なくとり上げてみると、ブエノスの|宝くじ《ロテリア》が一等、二五、二等が四五と出ているのです」
さあ、呆然《ぼうぜん》とした秋山さんは地団駄ふんで口惜しがった。
次の夜から、「私の数字の夢が始まったのです。その夜のこと、夜中に目をさましたその一瞬に八三という数字を夢に見たのを確認して、壁に爪でその数字を書きつけました。そして翌日、八三を賭けに行ったのです」
こうして秋山さんは来る日も来る日もこの夢に暗示されながら、キニエラで一等の金をかせぐことができたのです。
しかし幸運は長くは続かなかった。あまりに不思議なこの現象に不安と怖れを抱いた秋山さんの夢が狂いはじめました。夢の番号があたらなくなったのです。
こういう経験をもたれたまま秋山さんは日本に戻られました。帰国してフロイドの本などを読まれたが、どうしてもあの奇怪な夢の体験が納得いかない。
「私は迷信家ではないのです。一体こんな現象はどんな説明がなされるのでしょうか。偶然の一致ではあまりに幼稚だと思います。先生の御感想をおきかせ頂ければ幸甚です」
心の底にあるもの
以上が秋山さんのお手紙の要約です。細部にわたってこのふしぎな氏の夢の内容をお知りになりたい方は茨城県野口郵便局、秋山圭三氏あて、お問いあわせになるとよいでしょう。
ぼくが面白く思ったのは秋山さんのほか、これによく似た夢のふしぎな体験をされた人が、頂いたお手紙の中にも三、四通あったことです。するとこの神秘な夢と現実との関係は一体どうなっているのでしょうか。いや、それよりも、秋山さんが経験されたように夢は偶然だったのでしょうか。
あらかじめ申上げておきますが、この『好奇心の強い男へ』を書いているぼくは決して迷信を信じたり、何か霊異のことを真理だと言っているのではありません。幽霊の話、占いの話、その他もろもろの不可思議なことをそのままウノミにしているのでもない。ぼくはただこうした事実を「こんなこともあります」とそのまま読者にお知らせしているのです。
ですから……
秋山さんやその他の方の御経験についてもぼくはそれを否定もしなければ全く肯定もしません。この点をよくふくんで頂いた上、秋山さんの御質問に回答します。
今から申しあげることはぼくの研究や意見ではありません。これはジョン・W・ダヌという英国の心理学者の説を御紹介するのです。断っておきますがぼくはダヌの本を一冊しか読んでいません。それは『夢と時間』という本です。
この『夢と時間』という本は大変ふしぎな本です。うっかりすると何か人をだましたり、ペテンにかけたりする迷信じみた本と一緒にされそうですが、ダヌは決してそんな不真面目なペテン学者ではないのです。
ダヌ氏は秋山さんがおよみになったフロイドやその他の精神分析学者とちがって、夢にふしぎな力があると主張している学者です。
少し話が固くなりますが、まあ辛抱して読んでください。
従来、夢とは心の底にしずんでいる経験や欲望があらわれるのだという説が多かったわけです。たとえば君が友人の女房に惚れているとする。友人の女房に惚れてはいかんという心と、その人とキスしたいという気持が色々な形で夢にでてくる。精神分析医が患者に夢の話をさせてその患者の心の秘密をさぐるのはこのためでしょう。
夢のみちびき
ところがダヌはこういう夢ともう一つの夢とを区別した。
ダヌ先生によると夢の中には我々の五感以上の第六感、第七感――つまり未来や将来の自分の行為や出来事を見とおす透視の力があると言うわけだ。
この本の中にはダヌ先生が集めた色々の人の経験がありますが、たとえばある人はある夜、自分が近く旅行する未知の場所の風景を夢にみた。その後、現実にその場所に出かけてみると、驚くなかれ、夢でみた風景とあまりにピタリと一致していた。
「こういう経験は決して珍しいものではない」とダヌ氏は語っています。ではそういう経験がA君にあっても我々大多数の人間に起きないのはなぜか。
一つには我々は自分がみた夢を朝になって殆ど忘れているからだそうです。そう言えば「エート、たしかに俺、夢みたんだがなあ……」よく朝飯の時、君も首をかしげるではないか。ダヌ先生は我々に次のことを奨めています。
「鉛筆とノートを用意せよ、それを枕もとにおけ。そして夢を見るとすぐ忘れないうちに書きつけろ」
冗談じゃない。夢を見てすぐ眼を覚すような器用なことができるかと、言われるかも知れません。しかし著者によると、これは意志と経験を重ねること二週間にして、だれでも夢をみればピタリと眼がさめるようになるそうです。
そしてノートに書いた夢の事実がその後、自分の現実生活の中に出現するか否かを調べてみよと氏は奨めています。
秋山さんのお手紙をよんでぼくはすぐこのダヌ氏の説を思いだしました。特に秋山氏が夢の内容をすぐ書きつけられたのも一致しています。
勿論、この説を絶対正しいというだけの自信は素人のぼくにはありません。しかしあるいはダヌ氏の言う通り夢にはふしぎな透視の力があるのかも知れません。(同じような御経験のある方はお知らせ下されば幸甚です。)
明日は競輪だ。明後日の休みはダービーだ。勝ち馬の番号は何番か。諸君もねむる前に心をこの点に集中し、ノートと鉛筆を用意して夢の中に数字があらわれたら、それを書いてごらんなさい。そしてその数字で勝負してみるのも一興でしょう。
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明日に賭ける人に
「どうしたんだい。浮かぬ顔をしてさ」
先日、久しぶりで遊びにきた従弟があまりに情けなさそうな表情をしているので事情をきいてみると、こうでした。
つまり、彼は浪人一年の間、懸命になって勉強したのですが、いよいよ試験の当日になってみると、何故か、体の調子が急に狂いだし、実力の五〇パーセントも発揮できずに、遂にふたたび灰色の浪人二年目を送らねばならなくなったというのです。
ぼくとしても、
「そりゃ残念だったなあ、しかし長い人生なんだから浪人の二年や三年は……」
お決りの慰め言葉を呟くより仕方がありませんでしたが、彼が帰ったあと、しみじみ考えてみると、これと同じような経験はぼくの従弟だけではなく、多くの受験生にもあるのではないかと思ったのでした。
いよいよ試験の当日になって実力の五〇パーセントも発揮できずに落第する。
これは何にもまして無念であり苦痛なことにちがいない。実力がもともと五〇パーセントしかないなら止むをえないが、こちらは春夏秋冬、机にかじりつき、すべての楽しみを忘れて勉強してきたのである。それが皮肉にも一寸した体のコンディションの狂いでふたたび十二ヵ月の間、くそ面白くない灰色の生活を送らねばならぬ結果となっては、ぼくの従弟ならずとも浮かぬ顔をするのは当然でしょう。
その日の心身の調子が君の実力発揮に多大に影響すると言えば、「そんなことがあるか」と反対される御仁がおられるかもしれん。
もちろん実力があり余る向きは、体の調子が多少狂っても、ビクともしないでしょうが、我々凡人は実力があり余るということは先ずない。ないから、持っている力を、その日その日で百パーセント出したいのは当然でしょう。
そういう我々凡人にはやはり当日の心身の影響が大である。野球に出る日の前夜に二時間しか眠らないでみたまえ。当日の結果は火を見るよりも明らかである。
こういう「一寸した」ことがぼくらの人生に案外、大きな影響を与えるのです。ぼくの従弟だって、その日、調子さえよければ今はうれしい大学生さんだったのです。それがこの「一寸した」失敗で浪々の哀しい身の上となってしまった。
そこでぼくは明日、受験や、就職試験をうける人、運転免許をパスしようとする人、重役や上役の前で何か報告をせねばならぬ人、長時間の旅行や登山をする人――すべてもろもろ、明日大切なことをする人が当日になって心身を狂わさぬ秘訣をここにお教えしたいと思う。
お教えすると言っても、至極簡単なことなので、読者の中にはナアンだと言われる人がいるかも知れないが、馬鹿にしないで、実行してごらんなさい、翌朝の心身のコンディションが、びっくりするほどガラリと違うのである。
ここに秘訣が……
まず前夜です。前夜の七時から始めるのです。
(七時―七時十五分)
長々と畳の上に横になって下さい。のんびりと、あすの試験のことなど出来るだけ考えないようにしてゴロリ、手足を思いきりのばしてみる。
このとき、自分の筋肉が次第に解放されるように眼をつむってぼくの足は段々、かるくなる≠ニ言いきかせる。足がすむと、今度はぼくの手も段々かるくなる=\―そう心の中で繰りかえしてみます。こうして足から手、手から胴と体全部にすすめます。
この方法は自己催眠術の一つで、不眠症などに悩む人に適用することもできるのですが、一日の筋肉のしこりを解くのに非常に効果があるのです。
(七時十五分―七時半)
お風呂のある人はお風呂、お風呂のない人は熱いお湯をわかしてもらって下さい。このお風呂に入ったり、熱い湯で体をふくということは体の疲れをなおすためと言うよりは、
(1)明日の「試験・会議」などでイライラする神経を鎮めるためと、
(2)今晩の熟睡に必要なかるい疲労とを同時に与えてくれるからなのです。但し長湯はいけません。
(七時半―八時半)
ゆっくり晩飯をとります。非常に大切なことですが、軽い食事にして下さい。よく、明日は試験だからといってレストランにとびこみ、肉ダンゴ、ビフテキ、トンカツ、コロッケなどキュウキュウお腹一杯つめこむ御仁がいるが、これはかえって明日の心身のコンディションを狂わすもとである。
この食事を沢山たべたため、胃をこわすということはなくても、翌日どうも頭と神経の回転が鈍くなり、実力の五〇パーセントしか発揮できない人が多くあるものです。ぼくの従弟なども、話をきいてみるとこの犠牲者なのでした。
それから言うまでもないことですが、今晩だけは酒を我慢して頂きたい。
人生が変るかも……
(八時四十五分)
食事がすんだらば試験をうける人なら鉛筆を削ったり、万年筆にインキを入れたり、不足のものはないかを調べることです。それから熱い湯にレモンの滴《しずく》を少し入れたものを作って魔法瓶の中に入れておいて下さいませんか。
(九時)
さきほど作ったレモンのお湯、これに砂糖を入れてよく混ぜ、コップに半杯ほど飲んだあと、その魔法瓶(まだ熱いレモン湯のはいっているもの)を枕もとに置いて床について下さい。
読者はぼくがなぜこのレモン湯のことを書くのか不思議に思われるかもしれませんが、この湯は、夜半に眼がさめた時(明日が試験などあるという時には、時として夜半、眼がさめ寝つかれぬものです)これをまた飲むと、ふしぎに昂《たかぶ》った神経がしずまり、熟睡を再びとり戻せるからです。
三十分の間、週刊誌でも読んでおいて下さい。
(九時半)
さあ、便所にいって寝床についてみましょう。灯を消して――ネムロウ、ネムラネバナラヌなどと絶対考えてはいけません。こういうことを考えるとかえって眠れなくなるのです。不眠症の六〇パーセントはこのネムロウ、ネムロウというあせりのために不眠を逆に引きおこしていることは医師の認めるところです。
闇の中で、御自分の足の裏のことを考えてごらんなさい。
あるいは、さきほど御説明した自己催眠術の方法を使って私の手が段々かるくなる∞足も段々かるくなる≠ニ次から次へ体全部に及ぼしてごらんなさい。いつの間にか眠れる筈です。
そして深夜、もし眼がさめたら、枕もとの魔法瓶から、あついレモン汁を半杯(あまり沢山のむと寝小便をしたり、夢をみる)飲むことです。これで、ふたたび睡眠をとり戻せます。
翌朝、おどろくほど頭が爽快で、体がピチピチしているのにお気づきでしょう。自分の力が充分、それ以上に発揮できそうなエネルギーと自信が五体にみなぎるのを感じるでしょう。
なあんだ、そんな事だけかと思う人よ。このつまらぬ方法を知っておくのと、全く知らないのとでは、イザとなった場合、随分ちがう筈です。しかも前夜この「一寸した」ことを実行したために人生の運命がガラリと変らぬとも限らぬのですから。
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宇宙人の話は本当か……
好奇心の強い男にとってやはり関心事の一つは「空飛ぶ円盤」のことである。あの丸い銀色の円盤が、アメリカを始めとして世界の各国にあらわれたというニュースは今日だれ一人として知らぬものはないし、またその写真さえ色々な雑誌で見ることができる。日本でも、三島由紀夫氏など、知名人の間でも見たと言う人もあり、ぼくもある人から、直接そんな体験談をきいたこともある。
ところが不幸なことにはこの「空飛ぶ円盤」はヒマラヤの雪男と同様「見た」と言う人はあっても「掴《つか》まえた」という国は未だにないのだから、確実に宇宙から来た飛行船だと断定できないのも皆さま御存知の通りである。いや、あれは雲層に地上光線が反射する反映だとか、飛行機自身の影だとか、色々のもっともらしい解釈もあって、どちらが本当かわからない。
ところが「空飛ぶ円盤」に乗った宇宙人に会見したことがあるという人までポチポチあらわれた。米国の「空飛ぶ円盤」について二、三の本(邦訳あり)を書いている人も、自らその宇宙人に招かれて円盤に乗せてもらったなどと言っている。また日本でも渋谷で宇宙人に襲われたと語る人があり、これもある著名な実業家までが信用して語っていたのだが、どうも信じがたい。この方面に興味を持たれている北村小松氏のお話だと、箱根で宇宙人に会見したと自称する少年に会ってみると、少年のオツムはどうもおかしかったそうである。
ところで、宇宙人が地上にあらわれた時はどんな服装をしておるのか。まさか、あの温泉マークこと逆さクラゲみたいな恰好でフラフラと歩いているのではあるまい。そこで次にお話する奇怪な二つの体験談をみなさんに一つ、考えてみてもらいたいのである。
ブロン氏の体験
これはフランスの新聞に載ったのだが、巴里十七区に住むブロンという人が今年の二月に経験した話である。
この人はティシュの製造業者というから、日本でいえば織物屋さんなのでしょう。自宅の近所に店があって、彼は車を使わずいつも徒歩でこの店に通っていた。
フランスでは、サラリーマンも事務員も昼飯は事務所から自分の自宅に戻って家族と一緒にとる人が多い。ブロンさんもその一人でこの事件があった時も、何時ものように昼飯をたべに家に帰る途中だったそうです。
彼はセーヌ川にそった歩道をゆっくり歩いていた。歩道は川にそっていたから、ずっと向うまで一直線にのびている。
ところが自分の歩いている反対側の歩道の彼方から、一人の男がやっぱりゆっくりと、こちらに向ってやって来るのがみえた。
これだけでは別になんでもないことですから、ブロンさんは気にもとめないで歩いていく。向うの男もゆっくりと進んでくる。
二人は次第に接近した。右の歩道にブロンさん、左の歩道に彼……、ところが何気なくブロンさんがその男の方に眼をやったところ、世にも奇怪な事態が起っていたのです。
ブロンさんはそこに自分と容貌も体の形も全く同じ人間が歩いているのを見たのである。
「私は子供の時、首に手術をした痕が残っていた。その痕までそっくり、彼の同じ場所にあるのだった」とブロンさんは言っています。「他人の空似というような似かたではない。AさんとBさんとはよく似ているというような似かたでもなく、私とその男とは寸分の隙もないほど同じ人間だったのです。ちがうのは服装でした。私はツイードの灰色の上衣に、これも灰色のズボンをはいていましたが、彼は上、下とも黒い洋服を着ていました」
そして奇怪なことには、その男は凍りついたように立ちつくしているブロンさんをみて、ニヤリと笑って通りすぎたと言うのである。
「彼は私の家と反対側の方向にゆっくりと歩いていきました。やがて彼は車道を渡り、車やバスの流れが彼の姿を消してしまいました」
ブロン氏は早速、この奇怪な事件を家族や知人に話したが、「余りに話ができすぎている」という理由で誰も信用してくれない。彼は、ひょっとすると自分にはかくれた双生児の兄弟があったのではないかとその方角も手をつくして調べたが、そんな兄弟は彼にないことも確実だったのです。
ところがこのブロン氏はもう一度、この自分と同じ姿の男に再会したのです。それから一ヵ月後、彼は雨のふるバスチイユ広場で、男が傘をさして歩いてくるのをこの眼でみた。同じ黒の服をきて、ブロン氏の顔をながめるとまた、うすい笑いを口にうかべて去っていったのである。
あなたに似た人……
ぼくはこの話を興味を持って読んだのですが、勿論、心の中ではそれほど奇怪とは思わなかった。というのはこのブロン氏と彼とはたしかに良く似ていたのでしょう。そういうことは我々にもよくあることで、たとえば、いつかこのぼくがあるホテルのピアノの前に坐っていたら、このホテルの人々が「園田高弘が来た」と言っているのである。園田氏は皆さま御存知の名ピアニストであるが、なるほど、そう言われると小生ヅラであり彼がピアノを奏いているのをテレビでみると、まるで小生がそこにいるようである。
で、ブロン氏も自分と似た人を見たあまり逆上して首の傷あとまで錯覚したのではないか、そう思ったのです。
だが、これと同じ事件が今年の四月サン・パウロでも起った。サン・パウロで広告代理店に勤務しているマルセロ・コルサオという青年が、白昼、自分とそっくり、瓜二つの青年が歩いてくるのにぶつかった。この時は仰天して友人と共に追いかけたが、相手はあるビルディングの横を曲ったまま出てこない。その横町は袋小路になっており、彼が逃げることは不可能な場所だったそうである。
ところが日本でもこれと同じような事件があるので、びっくりしました。読者から寄せられた手紙の中に大阪の飯倉さんという方が、同様の体験を昨年の夏、梅田の広場でなさったのです。氏と全く同じ容貌の同じ背恰好の男がやはり、向うから歩いてきて何とも言えぬうすら笑いを口にうかべて消え去ったという。
私がこれを見て奇怪に思ったのは、ブロンさんの体験や飯倉さんの体験に一つ同じ共通点があるからである。それは相手がこちらをみて「ニヤッと笑う」点です。ニヤッと笑う以上、相手はブロン氏や飯倉さんのように驚いてはいない。少しも仰天しているのでもない。いや、既にこの奇怪な事実を彼はあらかじめ知っていたと言えるのではないでしょうか。すると、この男たちは一体なんだろうか。
第二にふしぎなのは、このような事件が昨年から今年にかけて起りはじめたことである。
ぼくはこの男たちと宇宙人とを結びつけることはもちろん、やらないが、しかし、一方では「空飛ぶ円盤」の話がある時に、こういう奇怪な話が出現したのをたんなる偶然とも割りきれぬ気持がするのだ。
もし、君もまた――ある日、白昼、街のなかで君と同じ瓜二つの男に会ったとしたら……。
そういうことも決してないとは言えないのである。通勤の電車、日曜日の街路で君は探してみたまえ。君と瓜二つの男を……。
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事実は小説よりも奇なり
『好奇心の強い男へ』も回を重ねること九回になりましたが、その間、読者の方々から沢山のお手紙を頂いたことを厚く感謝いたします。
頂いたお手紙を拝見していますと世の中にはまことに「小説よりも奇なる」経験をされた方が多い反面、その経験が思いがけなく共通していることがよくわかります。場所や時こそちがえ、同じ系列にはいる経験が案外たくさんの人々によって味わわれているようです。
ぼくは幾度もここで書いたように迷信好きでもなく、また、殊更に好んで科学などで証明できぬことを実在すると言いはる男ではありません。しかしお手紙をよんでいると、ぼくの好奇心はやはり疼《うず》く場合がたびたびあるのです。そこで今日はこの欄を利用して読者の方々から寄せられたお手紙の一部を御紹介してみたいと思います。お手紙のうち、ぼくの書いたものに触れて圧倒的に多かったのは「人間は死んだ時何を見るか」という項と「夢は未来を暗示するか」という項についてでした。
人間は死んだら何を見るかの中でぼくは自分らの耳にきいた経験者の体験から、
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(1)死んだ瞬間には自分の死体をとりまいている人の姿がみえる。
(2)しかし彼等に話しかけようとしても言葉が伝わらない。
(3)それから非常によい気持になって、何処かたのしい世界につれていかれるような感じがする。
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この三つをあげました。もちろん、これはぼく自身の経験したことではないので、その正否を証明することはできません。
しかし読者からのお手紙はこの三つにたいし同じような経験をされた方が、おどろくほど多かったことを示してくれています。
死後の世界
たとえば東京都渋谷区穏田一ノ二〇にお住まいの風間俊範さんの例をあげましょう。
風間さんは昭和三十年六月、「直腸ガン」にかかられ千葉医大、中山外科で、開腹手術をなさったそうです。手術は相当にむつかしかったらしく、風間さん御自身のお手紙によりますと、
「出血多量で昏睡、息ぐるしくなって次には呼吸がとまり……そのうちに心臓もとまってしまいました」(原文のママ)
医者たちはカンフル、輸血を行いましたが何の反応もなく、三分四十五秒間、心臓は全く停止し、医学的にも肉体的にも風間さんは「死んで」いたということになります。この三分四十五秒の間、風間さんは何をみたか、
「真黒な世界が眼の前に展開し、流星に似たものが幾つも飛び、それも次第に消えていきました。次に病室が暗いなかにポカッと浮び医師、母親、看護婦の顔が私を心配そうに見下しております。何か言おうとしましたがそれは通じません。しかしそれも暗い闇の中にすうーと消えてしまいました」(原文のママ)
と告白されている。この経験はふしぎなほど、ぼくが書いた三ヵ条の二つにピッタリとしています。
ただ風間さんは第三番目の「死んだあと何処か、たのしい世界に連れていかれるような感じ」には反対され、御自身の経験では「無の世界が長々と続いた」と言っていられるのです。この点がぼくの報告したものと、いささか違うようである。
しかしこの風間さん以外の読者のお手紙を見ますと、第三番目を肯定される方も非常に多いのです。
ここでは全文を御紹介しえませんが、仏印サイゴンで戦争中軍人として出征され、トラックにぶつかって「死」の経験を味わわれた田中幸一さん(大阪市城東区野江東之町三ノ七八)ほか多数の方が、ぼくの文章と同じ経験を味わわれているようです。もっとも、ぼくにはそのどちらが本当なのかわかりませんので、ただ一通の反論である風間さんのお手紙を引用させて頂いた次第です。
不安な予言
次に「夢は未来を暗示するか」に関するお手紙はほとんどそのすべてがイエスでした。「私も夢でみたことをそのままその後経験しました」
「今までふしぎとは思いながら人に言えなかったが、あのダヌ氏の論文紹介をよんで肯定することばかりだった」というお手紙ばかりなのです。
その中から伊東市岡区小川二ノ四にお住まいの鈴木志郎さんのお話をお知らせしましょう。
鈴木さんはこの三ヵ年連続的に夢について実に奇怪な経験をされています。
それはダヌ氏の理論のように彼の夢がいつも現実となってあらわれるのです。
三年前、つまり昭和三十三年の初夏から鈴木さんはこの経験に襲われはじめました。その初夏のある夜、氏は洪水の夢をみました。伊東に洪水があった夢です。鈴木さんは他人にそれを話そうかと思いましたが、勿論だれも一笑にふするでしょうから黙っていた。ところが九月二十六日、伊東は洪水に襲われました。
昭和三十四年になってある日、「タツマキ」の夢を見ました。ところが、八十日後[#「八十日後」に傍点]にあの伊勢湾台風がまもなく起ったのです。
昨年の十二月十一日には大地震の夢をみました。ところがそれから八十日後[#「八十日後」に傍点]の三月一日モロッコで一万二千人の死者を出した大地震があったのです。
最近は三月十八日に地震の夢をまた見ました。ところが八十日後[#「八十日後」に傍点]の六月六日チリの大地震があったのです。
以上の簡単な個条書をちょっと御覧になっただけで、皆さんは一つの怖るべき奇怪な事実にお気づきになったと思う。
つまり、鈴木さんの場合は、いつも夢から「八十日」後にその夢でみた事が現実となってあらわれているのです。
こんな天災だけのことではなく、日常生活の大きな出来ごとも鈴木さんは前もって夢で見るようになりました。
たとえば鈴木さんは昭和三十三年の五月ごろ、自分の一族が皇太子妃になるという夢をみました。そんな馬鹿なことはさすがにありえないので氏も自分で打消していられたのですが、それが現実となってあらわれたのです。鈴木さんは正田家の親類だったからです。
ところが――
ところがこのふしぎな経験をされる鈴木さんはつい最近、五月二十八日にまたもや奇怪な夢をみました。氏自身の手紙によると、
「今度は地震の場面ではありません。一面の廃墟の夢です。そしてその日から八十日目を数えてみると八月十五日になります。私としては当日が非常に気にかかるのです」
八月十五日……この日はまた別の出来ごとを我々に連想させますが、もし鈴木さんのふしぎな能力が今度も現実になってあらわれるとするならば、この「一面の廃墟」はなにを意味するのでしょう。日本に起るのか、それとも外国か、どこに現われるというのでしょう。
これは、我々の好奇心をそそるのに充分です。
皆さん。この五月二十八日の鈴木さんの夢を憶えておいて八月十六日の朝刊を気をつけてみましょう。もちろん、この夢が鈴木さんには申し訳ありませんが現実にならぬよう希望するのですが……。
このほか、もっとお知らせしたい読者の御経験が沢山あるのですが、限られた紙面なので今日はこれで終りにします。
本文中にそのお手紙の一部発表をさせて頂いた三氏に厚く御礼申上げる次第です。
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悪戯のすすめ
悪戯《いたずら》をやろう。
こういう奨めをすると、叱られるかもしれんが、しかし現在のように毎日毎日、万事が息ぐるしい世の中にいると息ぬきに笑う機会を見つけてもいいではないかと言う気がします。
その笑う機会のなかに悪戯がある。罪のない悪戯を家族や友人とやりあってドッと笑えば精神の衛生上たしかに良いにちがいない。
だが悪戯にもコツとルールがあるのであって、このルールをはずすと本当に悪どくなるものである。悪どい悪戯ほど不愉快なものはない。
早い話もう四年ほど前、ぼくは五、六人のごく親しい友人と電話で悪戯をやりあいました。
声色を使ってお互いカツぎあい、カツいだ者もカツがれた者も最後は笑いあったのです。
しかしこれが悪どくなくお互い笑えたのは、われわれがルールをいつも守っていたからでありましょう。
ところがこの遊びが評判になって、ルールも守らぬ悪どい電話の悪戯が随分ひろがったようです。ぼくの家などにも午前零時すぎて、電話をかけてくる馬鹿がいる。
御当人はそれで面白いつもりなのでしょうが、こういう悪戯にはユーモアがない。悪戯に欠くことのできぬ条件は、
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(1)最後にやられた人も笑えること。つまりユーモアのあること。
(2)悪戯であることをすぐ教えること。
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この二点にある。
だから、たとえば知人の家に電話をかけて、
「あのネ、××さんが自動車で死にましたよ」
などとウソをついて、知らん顔をしているのは悪戯道の下の下でありましょう。
まあこの要領さえお互い憶えておいて、大いに悪戯をたのしみたいものです。
そして、ぼくは悪戯グループを結成し、お互い、心地よい悪戯方法の交換を、やりたいのであります。
小道具いろいろ
ところで家庭でできる悪戯の道具をここで少しお話しましょう。
悪戯の道具はこの二年ほどで随分ふえてきました。
たとえば銀座尾張町の交叉点から京橋より、一寸行ったところに「K」という玩具店がある。この玩具店は現在、東京での悪戯道具の専門店の一つであります。
たとえば、これはよく知られているが蝋でつくったチョコレートやドロップ。
外見は全く本物と同じに見えるが、よし口に入っても害がないから安心されてよい。それに大体、口に入れれば、すぐニセ物と気づいて吐き出すからお子さんにも安心して使えるでしょう。
ぼくがこれを一番うまく使ったのは、映画の試写会の時だった。開高健という作家が横にいて、ぼくがひじをつつくと、
「何だ」
という。黙ってチョコレートをみせたら、急いで一つ取って、銀紙むいて口に放りこんだ。その時の、芥川賞作家の顔をみせてあげたかったですな。
だからこのチョコやドロップは恋人やガール・フレンドと暗い夜路や映画館を歩く時に非常に有効といえます。
五色眼鏡という奴も買ってごらんなさい。三十円ぐらいの値段です。この眼鏡には眼に当てる部分にススを塗ってあるから、君はみんなの前で、
「いやあ、面白いなあ」
と言いながら決して眼にピタリと当ててはいけない。
「何が見える」
「ヌード写真だ」
そして友人に貸してやる。友人は眼にあてながらブツブツ言うでしょう。
「ヌード写真なんか見えんじゃないか」
しかし彼は自分の眼のまわりに真黒なススの輪がついていることを知らない。これは家庭でやると実に愉快である。
近頃、できた悪戯道具に麦酒《ビール》のコップがある。これは夏むきです。
一見するとコップに並々とついだ麦酒である。
ところがコップの表面に薄い硝子がはってあるのか、逆さにしても麦酒は一向、口に入らない。勿論、こぼれもしない。
客が来た時、自らのコップには本当の麦酒、彼のそれにはこのニセものを運ばして、
「いやあ、暑いなあ」
こちらはゴクゴクとうまそうに飲む。そして頭をひょいとあげると、彼は何とも言えん実にふしぎな顔をしている。
ぼく自身、この手でひっかかったことがあっただけに、これは絶対に面白い。
こういうのは日本でも銀座の「K」に行けばすぐ買えますが、日本になくてぼくが仏蘭西の悪戯玩具屋でみつけた物の二、三を御紹介しましょう。
惚れ薬まである
仏蘭西の悪戯玩具店では勿論、右のようなものは売っていますが、日本の店にないものとしては「薬」がある。
たとえばオナラの出る薬。コーヒーなり、紅茶なりに入れて飲ませると、五分後、その相手はたちどころにオナラが出てとまらない。
人体には害がないが、少し悪どいので御婦人がたに実験することはできない。
それから「惚れ薬」……これは所謂、媚薬ではない。媚薬のようにイヤらしいものではない。効能書をみると君がこの薬をA子さんとB夫君に飲ませれば、二人が恋をしあうというのだから愉快である。
ぼくは今この薬を七袋もっている。この間、仏蘭西に行った時、買ってきたのです。開いてみると茶色い粉がはいっている。
早速、酒場の女の子に、そっと飲ませた。飲ませてから、ぼくのことスキか、と言ったら、キライじゃない、と答えた。ある程度の効力はあるようです。
よし効力がなくても如何にも神秘的で何か魔法の力でもありそうな点が面白い。
悪戯で思いだしましたが、いつぞや渋谷でこんな経験をした。
東横デパートの裏側を夜おそく歩いていると一人の男が近よってきて、変な笑いをうかべながら、ポケットから写真の束を出し掌で半分以上をかくし指さきでその一部をパラパラはじいてみせるのである。
そのパラパラとはじいた写真の一部をみると(男と女とのらしい)足が組んだり、からんだりしていて如何にも危ない写真らしい。
ぼくはエロ写真売りかと思ったら、その男が、
「どうです、面白い写真にみえるでしょう」
「うん」
「ところがちがう」
そう言って手を全部ひろげた。すると、何のことはない。若乃花と栃錦が四つにくんで土俵を動きまわっている写真だった。暗がりでこの二人の足の形と動きだけ見ていると、危ない写真にそっくりなのである。
この男、ただ笑って何処かに去ってしまったが、何のためにあんなものを見せてくれたのかわからない。おそらく彼も悪戯の好きな男かもしれません。
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二つの奇怪な実話
毎日がひどい暑さなので、今日はふたたび読者から送っていただいた手紙のなかから少し夏むきのうす気味わるいお話をしましょう。
うす気味わるいといってもこれはいわゆる、怪談ではない。作り話の怪談ならばこの季節はいろいろ他の雑誌にも載っているでしょうから、特にこの『好奇心の強い男へ』の欄に掲載する必要はありますまい。これからご紹介するお話はみな現代実際に起った話であり、しかも読者のかたが体験されたものである点がわれわれの興味をいたく惹くのです。
第一話 呪われた家系
これは静岡市のSさん(本人のご希望で名前を伏せます)という女性がぼくに書いて送られたお話です。
この話は明治の中ごろ、つまりSさんの祖母さんの時にさかのぼります。Sさんの祖母さん中井かよさんは三十幾歳でカリエスにかかってしまった揚句、肺も悪くなって亡くなられました。当時はストレプトマイシンも肺手術療法もない時代でしたから、この病気にかかれば、まず助からないと思うべきだったのでしょう。
かよさんは、まあ言ってみればあまり幸せな女性ではなかったようです。十九歳の時お嫁にいって、三人子供が生れた。上と下とが男の子で真ん中が娘――あとになってこれがSさんの母親になる女性です。
かよさんは三番目の男の子を生んでから急に体がわるくなった。激痛が背中を走ってとても家事につくことはできない。不幸なことにはかよさんは姑《しゆうと》や小姑と一しょに同居していたのです。中井さんの家は決して嫁いじめというわけではなかったのでしょうが、姑や小姑のいる家で嫁が床につくというのは当時たいへんな気苦労を重ねたものです。床につくと始めのうちはよいが、この病気は二月や三月で治るものではない。そのうちに姑や小姑も邪険な眼で彼女をみるようになる。その上、彼女の御主人が妻が床についたきりなのに我慢できなくなって外に女をこしらえた。寝たきりの生活で便の世話をしてくれる人は一人もいない。
Sさんのお手紙によるとかよさんは文字通り枯木のように痩せほそって最後は陽のあたらぬ納屋の中に運ばれて死んだそうです。病人を納屋で死なせるとはムゴい話ですが、昔の人は肺病を遺伝と考えていたからこの病人を隣近所にかくすためによくこういうことをしたのです。
死ぬ前にかよさんはまだ小さい娘だったSさんのお母さんにむかって「自分はこの中井家を恨んでいる。自分はこのままではとても死にきれない。だから自分は必ずお前の孫になって生れ変ってくる」そう呟きながら息を引きとったという。
若いSさんはこの話を母親からきかされるたびに封建的だった自分の昔の家をヒドいと思い、今の開放的な世の中に生れたことを感謝したそうですが、「必ずお前の孫になって生れ変る」というくだりになると、余りに大時代的なので笑ってしまったそうです。現代の女性の彼女にはそんな湿っぽい莫迦莫迦しい話は信じられなかったのです。ところがSさんの兄さんが昨年、結婚して始めての姪が彼女にできた日、彼女は生れたての赤ん坊をみて非常に無気味な気がした。というのはこの赤ちゃんの乳から肩にかけて木の葉のようなアザがあったからです。Sさんのお母さんはかよさんの話をするたびに「乳から肩にアザがあった」と言っていたのを憶えている彼女はとても不吉が気がしました。
ところが、この赤ん坊が生れた年にSさん――の叔母、叔父が次々と不慮の事故で死んでしまった。偶然といえば偶然かもしれませんが、かよさんの遺言といいアザがそのまま再現した赤ん坊といい、このころ、そういう祖先の呪いと子孫の不幸の関係について考えてばかりいるが、こういうことは有りうるだろうか、とSさんは書いてよこされているのです。
第二話 無気味な写真
これは非常に現代的な気味わるい話です、酒田市にお住まいのN氏の実験談です。N氏の話もやはり第一話と同じように赤ん坊がでてきます。Nさんは二年前に結婚されて、昨年、はじめて赤ちゃんができました。奥さんが身重になり、二人はよく生れてくる赤ん坊の育てかたなど相談しあいました。男の子ならこんな名前、女の子はこういう名前とNさんは生れる前から考えていました。
Nさんには一つの計画がありました。その計画というのはNさんは非常にカメラにこっていましたから、子供の成長する写真を次から次へととっておいてやりたいと考えられたのです。この気持は子をもつ親なら当然すぎるほど当然の話といえましょう。Nさんはできることなら自分の子がこの世に生誕した瞬間の写真をとってみたいと考えたそうです。しかし産室は男子禁制でありますからこれはどうも仕方ありません。
「じゃ、妹にたのんだら」と奥さんが提案しました。奥さんの妹さんはどうせお姉さんが産気づけば病院に手伝いにくることになっていたからです。「それはいい考えだ」とNさんは思いました。そこで入院三日ほど前からこの義妹にカメラの扱い方をいろいろ教えたのだそうです。さてその当日がきました。「陣痛を訴える妻を産院にタクシーで運んで、義妹に電話をかけ、とんできた彼女にカメラをわたしました。なおお断りしておきますが私のカメラはミノルタです」とNさんは書いていられます。「フィルムはその時、新しいのを入れたので前に写したことは一つもありません。それを義妹にわたしたのです」妹さんはうなずいて姉さんや看護婦たちと一緒に産室に行きました。
二時間ほどすると廊下で待っているNさんは元気な産声をききました。それから医者と看護婦が出てきて「坊っちゃんですよ」と言い、義妹さんはしばらくしてから廊下にあらわれてカメラを返しました。もちろん彼女は笑いながらフィルム十二枚をすべて撮ったといいました。
Nさんはその日の夕方フィルムを写真屋に持っていって現像をたのみました。翌日、Nさんは妻や妹をおどろかせようと会社のかえり急いでその写真屋に写真をとりに行きました。写真屋は無造作に袋を渡し、Nさんは中を調べました。生れたてのクシャクシャの顔をした赤ん坊の姿が次から次へと出てきました。
「おい、ちがってるよ。この一枚」
Nさんは写真屋に中に入っている一枚の写真を返しました。その写真は赤ん坊ではなく、くたびれた老人の顔が映っていたからです。写真屋はそれは同じフィルムのものだと言いました。フィルムは切っていなかったので、Nさんはそれを窓の光にすかせてアッと言いました。たしかにそのフィルムはすべて彼の愛らしい赤ん坊の顔や姿なのに一枚だけ、その老人の顔が映っていたからです。
びっくりした彼は病院にいくと妹さんにそれを見せました。妹さんは怪訝な顔をしてこんな人は産院でも産室でもみたことはなかったといい、看護婦も奥さんもそれを肯定しました。この手紙を読んでぼくはふしぎなことがあるものだと思いました。というのはこの欄でいつか御紹介したマルグリット・ギヨという仏蘭西の霊媒師も同じ実験をやって同じように赤ん坊のかわりに一人の年とった男の顔がネガにあらわれたと書いていたからです。この大人が生れた赤ん坊の五十年後の姿なのか、それとも彼の祖先の顔なのか、あるいは生れ代る前のこの世にあった顔なのか――それはギヨもわからないと言っていますが……Nさんの場合もどう解釈すべきでしょう。
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寒気のする話
大久保彦左衛門の講談をよむと、この将軍家御意見番と自称した老人が、時の旗本の子弟が軟弱にながれたことに腹をたて「我慢会」というのを開いたと書いてあります。
時はちょうど炎熱の候だ。肌を焦がす夏である。老人は一同に、決して「暑い」という弱音を吐かぬよう厳命し、摂氏三十数度という日ざかりに厚い綿入れをきせ、家の雨戸をしめてグラグラとにえたつ闇鍋《やみなべ》というのをたべさせた。
闇鍋というのは真暗な闇のなかで各人がめいめい持参したものを放りこむ。持参した食いものといえば聞えはいいがネギのシッポだの、鶏のトサカだの、まあ普通でいえば食えぬものである。老人はその時、この鍋の中にガマ蛙を放りこんでおいた。真暗ななかで一同、綿入れをきている上、グツグツと炭火で煮えたつ闇鍋を食べるのであるからその暑いことお話にならぬ。しかし痩《やせ》我慢をしながら箸を動かしていた一人がガマ蛙を口に入れ、さすがに腹をたてた、すると老人、すかさず、その昔、家康公のお供をして戦場に駆けめぐり草の根を噛んだ時は、この蛙さえ馳走であったと真赤になって叱りつけたという。
この我慢会と闇鍋の話を一昨年小生、耳にした時、これは面白い、わたしも一つやってみましょう、そう思って仲間を探してみた。すると馬鹿馬鹿しいことで騒ぐのが大好きな連中がわたしの友人には多いので男三人、女二人がたちまち承諾した。忘れもしない、その年の五月二十三日、駒場の我が家でこれをやりました。砂糖と醤油で味つけた大鍋の中に各人が持参のものを入れる。真暗だから何もわからない。ところがその中に性悪の男がいて中に自分が二週間もはいた汗と脂でベットリとなった靴下を入れた。おまけにその男はひどい水虫ときている。これが浸った汁を他の一同知らずに飲んだため、さすがに言い争いになって残念でしたが、散会してしまった経験がある。
しかしこの闇鍋と我慢会は五、六人でやると実に面白いから、若い諸君も膝開き遊びなど愚劣なことをせず、こういう健全な遊びをしては如何であろうか。
我慢できぬこと……
実はこんな闇鍋の話を持出したのは他でもない。我々の神経には我慢できることと我慢できないことが沢山あるが、世の中には、この我慢できぬことを我慢すれば快感をおぼえるという奇妙な人がいるものなのです。
たとえば、硝子にブリキの罐《かん》をあてて強くこすると、キイーコ、キイーコとそれは神経にさわる音がする。
たいていの人はこの音をきくと耳に指を入れて止めてくれという。他の音はそうでないのにこの種の音だけが奇妙に人間の神経に不快感を与えるので(ウソだと思ったら実験してごらん)、生理学者たちもその理由を調べたが、未だにさっぱりわからない。
ナチ時代のドイツでは拷問用にこの音を囚人に一晩中きかせたところ、発狂してしまった者もいたそうです。
銀座に出井という料理屋がある。その近くのバアの女性で、この音がたまらなく好きというのがいましたが、これなどは余ほど変った女でしょう。彼女は非常にふしぎな心理の持主で、ノミを一匹つかまえると、わざと腕に這《は》わせこの虫が皮膚に針をさして血を吸うのをジッと我慢している。その我慢しているのがなんとも言えず「いい気持」なのだそうです。
ぼくはこの話を彼女からきいた時、それでは今度、くすね蜘蛛《ぐも》というものを皮膚に這わしてごらんと教えてあげました。
くすね蜘蛛については先年、『周作恐怖|譚《たん》』で一寸ふれましたが、なんでも南方地域にいる蜘蛛である。もっともこの話はぼくも人から聞いたので、この蜘蛛は見ていないのが残念ですが、蜘蛛は人家の屋根や天井からポタリと人間の体におちてくるそうです。
落ちてくるだけならいいのだが、これは人間の血を吸うのです。しかも血を吸った皮膚の中に針を通して卵を産みつける。ところがこの卵を産みつけられた人は、そこにブツブツと小さな発疹《ほつしん》ができてくる。
やがてその発疹がかたまって小さな銅貨ぐらいのハレものになります。ちょうど火山の噴火口のように真中に穴があいて、その痒《かゆ》さはたまらないらしい。
だがこのブツブツとしたハレものを指で一つ一つつぶすと、中からこの蜘蛛の黒い小さな幼虫が幾本かの足をうごめかしながら出てくるのだそうです。
この話をきいた時、ぼくはたまらなくイヤな気がしました。イヤというよりは、やはり硝子を罐でこすった時のような不快感がこみあげてきたのです。
まあ、考えてもごらんなさい。あなたの体に今、デキものがあるとする。そのデキものの中に足の五、六本もある蜘蛛の幼虫が何千匹もあなたの血や膿《うみ》を吸いながらうごめいていると想像したら不愉快になりませんか。この不愉快な感覚をどう説明したらいいのでしょうか。
むずむずの極致
もう一つ、同じような感じを与えられたことがあったのでお話したい。
今はもうなくなりましたが、戦争中に学生はよく野外教練という名目で兵営に一週間ほど泊らされ、演習をうけたことがあります。
ぼくの友人でこれに加わった男がいます。その時の実話です。
毎日、毎日、汗まみれになって軍事教練をうけ、夜は馬小屋のような小屋で埃だらけの毛布をかぶらされて寝る日が続いた。
ところが三日、四日とたつうちに体中がものすごく痒くなった。首やワキ腹など肉の柔らかな所に虫の噛み口が点々と赤く残っている。彼だけではない。周りの友人ことごとくそうである。しらみ[#「しらみ」に傍点]だということはすぐわかりました。下着をとると、縫目のところに銀色の小さなしらみ[#「しらみ」に傍点]が、じっとかくれていて、その腹の真中に、小さな黒い点がある。その腹をプツンとつぶすと黒い点と思ったのは吸った血で、たちまちにして一同の指先が赤黒くなっていった。更に陽にすかせてみると、下着一面にちょうど正月の数の子のような卵がついていた。
一同は一日かかってしらみ[#「しらみ」に傍点]とその卵とを退治して、今日から安眠できると思ったそうです。
ところが、その夜も、また、首の下、尻、ワキ腹にチクッ、チクッ、しらみの噛む感覚がする。ぼくの友だちはまた下着をぬいだ。彼だけではなくみんなも同じ痒さにねむれぬらしく起き上ってくる。
ところが、ふしぎなことに一人だけ、毛布をかむって寝ている男がいた。みんなはひょっとするとこの男が自分たちにしらみ[#「しらみ」に傍点]をうつした張本人ではないかと思った。そこで、一同でその男の毛布をパッと引きはがし懐中電燈をつきつけてみた。
その時、懐中電燈の暗い丸い灯の中で一同がみたものは、この男の上半身をまるで銀色のうろこのように無数のしらみ[#「しらみ」に傍点]が覆っていたのでした。しかもそのしらみ[#「しらみ」に傍点]たちは白い埃が散るようにザアッと光をきらって逃げようとする。彼等の音は砂のこぼれるようにみんなの耳にひびいたそうです。
ぼくはその話を聞いた時、頭の髪の毛の根元まで痒くなるような気がしたが、みなさんはどうでしょうか。何でもありませんか。
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悪魔
基督《キリスト》教の伝統のない日本に生れた我々は悪魔といっても実感的にピンとこないようです。
だから鎖国前のきりしたん[#「きりしたん」に傍点]たちも遠い海をわたって遙々、神の教えを授けにきた異国の神父たちから、この悪魔(ルシフェール・デモン・サタン……)という言葉をきかされてもどう訳してよいのか閉口したらしい。
そこで遂に「てんぐ」という迷訳を与えたようであります。もちろん、てんぐ[#「てんぐ」に傍点]とは例のコウモリのお化けのように鼻のたかい化物のことであって、基督教でいう悪魔とはちがう。
しかし現代の日本人になると、やはりこの悪魔という言葉にある感じはもっているわけで、ぼくの友人でいわゆるドン・ファンの男がある日、こんな話をしてくれました。
その男はあるバアの女性と食事をしてダンスをおどりに行ったのち、まあ、おきまりの場所に連れていったのである。女はその場所に行き、寝室につれていかれるまでは反抗も抵抗もしなかったのですが、いざ彼がだきかかえて顔をちかづけた時、右手で彼のその顔に抗いながら、一声、
「悪魔!」
こう叫んだと言う。
このアクマ! という声をきいた時、男は背すじから足にかけて嫌《いや》アな感じが走ったそうです。彼の告白によると「不良」とか「人非人」とか言われても何でもないのだが、なぜかこのア・ク・マという発音は胸に鋭くひびいたとのことでした。彼は思わず自らの征服欲に水をかけられたような気になったと言っていました。
黒ミサという祭式
悪魔といえば西洋の絵や寺院の彫刻をみますと耳のながい、眼のつりあがった、狼のような恰好をしたものですが、こういう姿を悪魔のなかに想像する現代人はもういないでしょう。
悪魔を現在の西洋人が、どれほど信じているか否かはぼくにはむろんわかりません。
しかし、今日このような話を突然もちだしたのは他でもない有名な「黒ミサ」のことに一寸ふれてみたいからです。
ぼくが始めてこの「黒ミサ」という名前を耳にしたのは戦争直後、あるアメリカ人の青年によってでした。
今、その時なんの会話をやっていたのかよく思いだせませんが、いずれにしろこの青年から、
「ブラック・メス」(黒ミサ)
という発音をきいた時、その意味はわからなくても何か嫌アな感じをもったことを憶えてます。
「なんだ、それは」
とぼくは彼にききました。
すると彼は声をひくめてそれは悪魔にたいする祭式だと教えてくれました。
その後、ぼくはフランスの小説をよんでいるうち現代にもこの黒ミサがあるらしいことを知りました。たとえば邦訳もありますが、ユイスマンの『彼方』という小説、これは黒ミサやそういう悪魔にたいする呪術が詳しく書かれています。
こういう小説によってぼくは黒ミサとは神を礼拝するかわりに、悪魔に魂を売るという奇怪な人間たちの秘密の祭式であり、彼等は悪魔に魂を売る誓約をすることによってこの世のあらゆる快楽や利益をうるものらしいことがほぼわかりました。
と同時にユイスマンの『彼方』という小説などによりますと、この黒ミサはヨーロッパの中でも仏蘭西のリヨンという街で行われているということを知ったのです。
ところが全く偶然に……
一九五〇年の夏、ぼくはこのリヨンの街に行くことになったのでした。リヨンとは地球の歯のようなアルプスの峰がみえ、ローヌ河のながれる古い街であり、戦争まえは日本人の商社も幾つかあったとは人から聞きましたし、また永井荷風の『ふらんす物語』がこの町を背景としていることは前から知っていましたが、いざリヨンに行くとなるとぼくの興味をもう一つひいたのは今言った黒ミサのことでした。
本当にこの街の中でそういう祭式が行われているのか、この眼でみてみたいという気になったのです。
ある夏偶然に
ぼくはリヨンに始めてついた日のことを今でも忘れません。
ちょうど黄昏で、汽車がこの街にちかづくにつれ、地平線のこちら側にくろずんだ灰色の家が、まるで動物のみだらな腹のように拡がる街がみえてきました。
それが……リヨンでした。ところがこの街の上にはなにか灰色に濁った靄のようなものが重くるしくかかり、汽車から遠望しただけで、おそらくこちらの感情も大分加わっていたためかもしれませんが、「陰気な街」という印象がこみあげてきたのでした。
しかしこの印象はその年、ながい冬を送って益※[#二の字点、unicode303b]つよめられました。リヨンの冬は一日も晴れた日がなく毎日、ふかい黄ばんだ霧が近隣の沼地から這いあがって街全体をつつむからなのです。
この霧ふかい夜に、黒ミサが行われるのはいかにも、相応《ふさわ》しいような気がしました。
ぼくはそれまで色々なリヨンの人に黒ミサのことを訊《たず》ねましたが、ある者は首をふり、ある者は、
「そういう話は昔きいたが、もうリヨンにはない」
と答えるのでした。
しかしあるそんな冬の夜、ぼくはやっとリヨン生れの学生からこの「黒ミサ」について話してもらうことができたのでした。
黒ミサは、いわゆる基督教から破門された人や狂信的な女や現世的な利益をもとめる人の秘密結社によって行われ、その方法は神を冒涜するために普通教会で行われるミサを反対からやってみせるのだそうです。
時として祭壇は一糸まとわぬ女の裸の体をつかい、その四肢に蝋燭を結びつけ、祭司者はメスでその女の裸の体を傷つける。信者たちはうしろむきに手をつなぎ、ぐるぐると廻る。暗い密室の中に横たわった白い女の体、その体から糸のように流れる血、蝋燭の炎はぐるぐる廻る信者たちを次第に興奮させ、やがて、そのぐるぐる廻りが早くなるにつれて一同は一種のヒステリー状態におちこむらしいのです。
この時祭司者の投げたパンを、犬のように這いまわりながら食べるようにさえなるのだそうです。
そういう奇怪な話を彼はぼくにしてくれたのでした。
彼はそれを黒ミサにたちあった人から聞いたと言っていましたが、後になってぼくはミシュレという人の『魔術師考』という本に同じ説明をよみ、彼もこの本をよんだのではないかと思いました。
この奇怪な儀式の行われていたのは、彼の説明によるとリヨンでも最も古いサン・ジャンという昼なお暗い一角でした。
中世紀のころからの家が今なお残り、狭い通りには尿とも油とも人間の体臭ともつかぬ一種異様な臭気がたちこめ、どの家も午後四時ごろから灯をつけねば仕事ができぬ場所でした。
ぼくはひょっとしたら、と思い、好奇心にかられて幾度もこのサン・ジャンの路をそれから歩きましたが、遂に何も見ることはできませんでした。しかし「黒ミサ」の話は、いまだに忘れられません。
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ヒットラー生存説
外国の新聞を読んでいると、何ヵ月に一度はかならずと言ってよいほど、第二次大戦中の独逸の総統だったヒットラーに関する奇怪な生存説が、チラッ、チラッと、顔をだします。
第二次大戦の終り――昭和二十年の五月上旬、ベルリンに入ったアイゼンハワーの率いる連合軍と独逸軍のあいだに最後の血みどろな戦いがくりひろげられた時、ヒットラーは総統官邸で愛人、エバ・ブラウンと最後の別れを惜しんだのち、遂にその生涯に結末をつけてしまったことは誰でも知っている。
真実は誰も知らない
しかし、この時の彼の死の模様が未だにはっきりしないのです。
ヒットラーの身辺に最後までつきそっていた者の告白では、総統は皆に別れを惜しんだのち、エバ・ブラウンと共に寝室に閉じこもった。やがて別室にいた一同の耳に鋭い銃声がきこえてきた。
人々が飛びこんでみると、ヒットラーはエバを射ち(一説には毒薬を使ったともいう)、自分の額をも射って死んでいたという。
これが現在、みなに信じられている総統最期の模様ですが、しかし別の説もいろいろある。
一説によるとヒットラーは彼の護衛にあたっていた兵士によって射殺されたという。
あるいは官邸危うしとみるや自ら機関銃をとって闘ったが、流れ弾にあたって戦死したという。
我々にはこのどれが本当かは勿論わかりませんが、しかし確実なことは、このように一人の人間の死の模様にいろいろの説が出て、しかも戦後十数年の今日もまだどれが本当かわからない以上、ヒットラーの死の模様はまだ確実にされていないと言うことです。
本当に自殺したのか殺されたのか誰も知らないということです。
この事実と共に、ヒットラーの死体が、ついに発見されなかったことによって、彼の死は更に謎をかけているのです。
ある狂人の横顔
一九五九年の二月下旬伊太利のナポリ基督教教会経営の精神病院で一人の男が死にました。
一人の狂人が死んだということは、ビッグ・ニュースにはなりませんが、しかしこの狂人が「ヒットラー」であったという噂が彼の死後、患者や看護人の間に随分、強く拡がったのであります。
この患者は、もう大分前に、三人の男につきそわれて、病院にやってきました。
男たちは病院長のアルノルド博士に会って、長い時間、なにごとかを秘密裡に相談したといわれます。
いずれにしろ、その日から、この痩せた男は、病院のなかでも特別の個人部屋を与えられて、生活したといわれます。
普通こういう病院には、自己英雄症といって、自分を実在の英雄と錯覚し(日本でも葦原将軍などの例があります)、それにまねた言動をする患者がよくいるものですが、しかしこの白いものが栗色の髪にまじり、痩せた男は、一見したところ、きょくたんな人間嫌悪症と孤独症にかかっているらしく、他の患者ともほとんど接触しようとはしませんでした。
しかし彼が誰かに似ているという噂は少しずつ病院内にひろがっていきました。
もちろん、病院関係者は、頑固にそういう噂を否定していたといわれます。
彼の死後、この病院の看護人の一人はこう言っています。
「我々はよくこのカウフマン(患者の出身地は独仏国境のザールになっていました)がもし鼻に髭をはやし草色の制服を着たならば、かつてのナチスの総統そっくりだと話したものです」
しかしこの男は一応、病院のカルテには妻子を戦争でなくした、元機械関係の技術者ということになっていました。
不思議な共通点
暗いこの精神病院の部屋で彼は読書によくふけるほか一人で、樹木のない中庭を散歩するだけの生活を送っていました。
彼の蔵書の中にはヒットラーがいつも枕頭の書といっていたニイチェ全集もあったそうです。
一九五九年にヨーロッパをおそったアジア風邪がこの男の肺をわるくし(ヒットラーが結核患者だったことは周知の事実です。そして病院のカルテにはこのカウフマンもまた胸をやられた痕のあることが記入されていました)、ベッドにつかねばならなくなりました。
この時、彼の身のまわりの世話をしたのはチオノという伊太利人の老人でしたが、この老人にある夜、この元の技師は奇怪なことを呟いたのだそうです。
「わしはその夜、いつものように熱い湯とタオルとそれから彼の睡眠をより和らげてやるための薬とをもって部屋に入った」とチオノは告白しています。
「わしは部屋を出ていく前、彼に『もう用事はないか』と訊ねた。
彼は首をふって、礼をいった。この男の物の言いかたはやさしく、眼はトビ色で柔らかい光をたたえていた(ヒットラーの眼の色もトビ色だった)。それから彼は突然、わしにむかって、
『もし、私がむかしと同じなら……君に何でも与えたろう』
わしは彼がかつてそんなに金持だったのかと訊ねた。すると彼は微笑して、
『私は金持ではなかった、むしろそれを憎んだ男だ』
それから、しばらくして、自分が誰だったか、わかるかと急に訊ねた。
わしは自分にはさっぱり合点がいかないが、病院のなかにはあなたとヒットラーとが似ていると言う者がいると答えた。すると彼は、
『そうだ、私はヒットラーだ』
としずかに答えた。
それはこの種の誇大妄想狂にありがちな威張った馬鹿馬鹿しいものの言いかたではなく、おちついた平静な返事だった」
二月に技師は息をひきとり、その死体はふたたび、彼が病院に来た時と同じように、三人の男の手によって夜おそく、いずこともなく運ばれていったと言います。
否定はできない
この挿話は、アルマン・ゴーチェという新聞記者の『これが真実だ』と題する書物に掲載されているのですが、ゴーチェは、いろいろな点でこの孤独な人間嫌いだった狂人と、ヒットラーとの間に肉体的な特徴(胸の病痕、髪や眼の色、背の高さ)があまりに一致していること、その趣味(患者は決して肉食をしなかったこと。ヒットラーは有名な菜食主義者でした)も読書傾向も似すぎているのは奇妙なほどだと言っています。
一九六〇年になってナチの残党の大幹部がアルゼンチンにかくれていたことがわかったのは日本の皆さまも御存知でしょうが、鋭い各国警察の眼の中に、そういう人が十数年も堂々と生きていたことは我々をびっくりさせます。
すると……死体もみつけられなかったヒットラーがナポリの精神病院にいたことを我々が否定しうる理由もまた、全くないのです。
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あまりに残酷な……
芥川賞をとった北杜夫氏の『夜と霧の隅で』は第二次大戦中捕虜の大量虐殺やガス部屋であまりに名高いアウシュヴィツの収容所を背景にしたものですが、このアウシュヴィツの収容所長だったヘスの手記をぼくは最近仏訳で読む機会をえました。
このヘスの手記は彼が獄中で処刑をまつあいだポーランドの医師たちに奨《すす》められて書いたものだそうですが、悽惨《せいさん》なその現実は文字通り、読む者をして眼を覆わしめるものがあります。
戦慄すべき記録
ガス室には収容されたポーランド人やユダヤ人のうち老人や女や子供たちがごったに入れられました。
彼等の大部分はもちろん自分たちの前に怖ろしい死が待っているとは知らず、本当に蒸気風呂を使わしてもらえるものと信じていたようです。
というのは、これらの老人や女や子供を慰撫する役を収容所では同じ捕虜のなかから選抜したポーランド人自身にやらせたからであります。
もっとも本能的に何かを予感して騒ぎはじめた者は、収容所の隊員が物蔭に連れていき、拳銃をそのコメカミにあてて殺したとヘスは書いています。時として自分たちの怖ろしい運命に気がついた母親の中には必死になって子供だけは助けてくれと哀願したり、自分のぬぎ捨てた衣服のなかに我が子をかくしたりしたのですが、しかしこれらの子供も容赦ない手によってガス室に入れられるのでした。
ある日、ヘスはそれらのガス室行きの行列のなかに一人の若い美しい娘が、年よりや子供たちを率先して慰め、その衣服をぬぐのを手伝ってやるのを見ました。
だがその娘はいよいよ、一同がガス室に入れられようとした時、ヘスの耳もとにちかよって言ったそうです。
「あたしはあなたが今から我々になさる行為を知っていますわ。そのむくいは必ずあるでしょう……」
ガス室で殺された死体は、同国人のポーランド人やユダヤ人捕虜の手によって始末されました。これらの捕虜のなかには、室の中にころがっている死体のなかに自分の妻や子供の変り果てた姿をみつけるものもいました。
ヘスはそんな時の捕虜の表情をじっと観察していました。すると彼等は自分の妻や子の死体を見つけた瞬間、ピクッと体を震わしただけで、あとはもう無感動なうつろな表情で作業を続けたそうであります。
このヘスの手記は色々な意味で人間や集団の残忍さや心理を知る上でも貴重な記録でしょうが、今日お話するのはこの手記のことではありません。
不思議な男
アウシュヴィツの収容所のほかに独逸には戦争中、多くの収容所があり、それぞれ、そこで同じような残虐行為が繰りひろげられていました。その中には生きた人間にモルモットのように様々な菌を植えつけたり、人体実験も行われましたが、収容所員のなかには捕虜を殺してその体をちょうど南米のある種の土人がかつて行ったように、これを原型のまま剥製《はくせい》にして(中の臓器をとり出し縫い合わせをする)、飾りものにした者のあることは邦訳されたフランクルの『夜と霧』をお読みになった方は御存知でしょう。これらの残忍きわまる証拠品は戦後、占領軍の手によって押収されましたが、中には秘密裡に葬られたものもあったようです。
話は十二年の後になります。ベルギーと仏蘭西との国境にちかいリールの街の古本屋コプランに、雪のふる一月のある日、幾冊かの本を持ってきた男がいました。
その本はいずれも独逸語の小説で中にはホフマンやノヴァーリスのような独逸浪漫派の本が入っていたのです。
コプラン書店では、独逸語の本は、買客があまり多くないため、あまりいい顔をしなかったのですが、本の装幀やカバーが、なかなか面白いので、たいして高くもない値で引きとりました。
男は別に抗《あらが》いもせず、渡された金を温和しく引きとると帽子をふかくかむって、霏々とふる雪の中を消えていきました。
ところが――
コプラン書店の店員は買いとった本を購入帳につけながら、この本のカバーの一つ一つの面白さに感心していました。一体に向うの本は仮綴《かりとじ》本が多く、その装幀やカバーは持主の各※[#二の字点、unicode303b]が各自の自分の好みによって作らせるのが普通です。
店員はその数冊の本のなかに、一冊まことに変ったカバーが表紙にはりつけられている書物を手にとりました。
それは一見、黒ずんだ灰色の皮に、トランプのハート模様とSERGE《セルジュ》 Cecile《セシル》というあまりうまくもない文字が浮きあがっていました。
名乗り出た恋人
店員は始めはなんの気なしにその本を別の本の上に載せました。時刻は夕暮でしたし、外は雪が降っていたので机の上の電気スタンドの灯をつけ、そして暗い灯が今、放り出した本の上にまるい影をつくりながら照らしているのをぼんやり見ていたのであります。
突然、彼は、あることに気がついて体中に水をあびせられたような戦慄を感じました。
そうです。この本を覆っているのは――、そして、ハートとセルジュ、セシルという字は、人間の、皮膚のうえに書かれた入れ墨ではないのか。
つまり、このカバーは人間の皮膚を剥いで作ったものであり、文字はその剥がれた人間が、もともと自分の体に入れた入れ墨だったことがわかりました。
この事件は街で起ったもっとも戦慄すべき事件として、ただちに警察の手によって厳重な捜査が開始されました。
警察ではこの犯罪は変質者の仕業だと考えていたのですが、この事件が報道されて一ヵ月後、実に意外な事実が判明したのであります。
それはカルカソンという町に住むセシル・グランムガンという女性がこの本のカバーの皮膚の持主こそ自分のかつての恋人、セルジュにちがいないと申立てをしてきたからです。セシルの話によりますと、セルジュは戦争中、カルカソンで自動車工場に働いていた職工だったが、ユダヤ系の人間であったため家族と共に秘密警察の手で強制労働に独逸に送られたまま、杳《よう》として行方不明になってしまったということでした。
セルジュはセシルと恋愛中、二人の名を自分の片腕に入れ墨をして得意になっていたということでした。そして新聞に掲載されたこの恐ろしいカバーの写真をみた時、セシルはこの文字こそ、十数年前、自分の恋人が腕に彫った文字であったことに気がついたのです。
しかしセシルのこの申立てにかかわらず、あの冬の夕暮、霏々と降る灰色の雪のなかに姿を消した男も、その男がどこからこの本を手に入れたかも、彼等は遂に知ることができなかったのです。
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狐狸庵ドキュメント人間
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占師 この哀しきピエロ
ウン勢占いの登場
師走になると盛り場の隅に暗い灯をともして寒そうに客を待っている占師たちが妙に眼につく。あれは妙な風情がある。
私は占師が好きだ。別に占いを信じているのではない。むしろ、全く信じていないと言っていいだろう。
数年前に東京の少し名のある占師や占星術家を五人ほど廻ってみたことがあった。五人廻ってこれに皆、同一の質問を幾つか出してみた。
だが、私が獲た答えはこれ悉く、全部ちがっていたのである。
そんな思い出があるにかかわらず、私はやはり占師たちが好きだ。暇があると彼等のところによく行く。
占いも近頃はいろんな新手を考えはじめた。新宿・伊勢丹デパートの真向いにはコンピュータによる運勢占いが百円でやっている。
自分の生年月日、姓名を与えられたカードに書きこむと、女の人が、それをコンピュータに入れる。そして戻って来た紙には、私なら私の好運の番号やその他の運勢が出ている。
しかし私の趣味としては占いはこんなエセ科学的な仮装を装うよりは、昔ながらのゼイ竹や昔ながらのトランプ占いのような古風なのがいい。
人相、手相はもはや誰も知っているが腹相とか足相とか、乳相とかによって運勢を占う易者もいる。
「あんたのフクソウを拝見」
と言われて服装を見るのかと思ったら、お腹を出せと言われて怒った娘がいる。これは腹を見るのではなく、ヘソを見るのだそうである。
もっともこれは必ずしも根拠がないわけではなく、この間、おヘソの整形手術で有名な名医、南雲吉和博士にお目にかかったら、ヘソ相は意外と医学的見地から見ても、当っていると言われた。
たとえば、占師の良しという丸くて深くて上向きで位置が高いほどヘソ相は、医者から判断しても文句なしに健康なヘソを指しているのだそうである。
私はまだヘソ相を見る占師とは会っていない。乳相を見る占師とも会っていない。足相を見る占師がいると聞いたが、これにも会ってはおらぬ。
足相、乳相、ヘソ相があるくらいなら排泄物すなわちウンコを見て占う占師はいないかと探したが、古今東西、この方法だけはさすがにクサいとみえて一派をなした人はいないようだ。
心霊術のトリック
最近、某社から『ウンコによる健康診断』という本が出て、私も早速、読んだが、これはちゃんとした医者の先生で、なるほど書かれていることは、もっとも至極である。しかし医学的見地から言っても、締って良い色をして形よきウンコはその人の健康をあらわすのだから、これからその人の将来を占うことはできぬか。ウンコで占うのだから、文字通り、ウン勢を占うということになるのだが……。
私が占師を訪れるのは彼等のこともさることながら、そこに不安そうに訪れる人の表情がまた興味があるからである。行きつ、戻りつ、ためらった揚句、やっと意を決したように占師の前にたち、おずおずと手をさしだすおばさんや娘――。こういう人は何も占師でなくても、
「ほオ。大分、悩んどられますな」
ただの一言だけで相手を意のままに動かす心理にすることができる。
随分、今日まで色々な占師をまわった。有名な藤田コト姫君は、まだ娘のころ、文化学院の生徒で、私はそこの教師をしていた。出席簿には彼女の名は載っていたが、授業には出てこないので戒告を与えるつもりで彼女の家に行ったことがある。(たしか、その家は大井町にあったと記憶している)
ところが彼女のお母上が、何を思いけん、私を待合室に入れてしまった。彼女はその頃、売り出したばかりだったが、よく当るとかいう評判で、私が放りこまれた待合室には株屋らしい親爺と、いかにも亭主の浮気に悩んでいるような青白い顔をした婦人が腰かけていた。
「田中さん」
呼びだしがかかると、株屋が出て別室に入る。そこでコト姫さんに運命をみてもらうのだ。
株屋の次に、婦人が、婦人が出ていってしばらくしてから、私の名がよばれた。
部屋の真中に彼女が腰かけていて紙に万年筆で何か書いている。そして私に、
「名前は」
とたずねた。教師の私の名を聞いても生徒の彼女は平然として、職業は? と更にたずねた。教師という代りに、本職の作家と答えると、じっと私の顔をみて、実に気の毒そうに、
「あんた。原稿が売れないのねえ」
と言った。今でもあの時の彼女の表情は忘れられぬ。
三原橋のちかくで心霊術をやっているという話を聞いて、人を介して出かけたことがある。
ある店の二階に二十人ほどの人が集まり、机の上に夜光塗料を塗った紙の円筒や人形やハーモニカがおいてあった。その机の向うに霊媒師が椅子に手足を縛られて腰かけていた。そして更に腹話術を使わぬように口中に水を含まされた。
電気が消えて、しばらくすると、木を叩くような音がきこえ、机上の円筒や人形が空中をフワフワと飛んだ。ハーモニカも鳴った。そして霊媒を通して、チベットに数世紀前に生れたというロームとかいう霊が出現して話しはじめた。
私はもちろん、それがトリックだと知っていた。ある本でこうした心霊術のトリックを読んでいたからである。しかし客はびっくりして、ロームが、
「このなかに山田はいるか」
と重々しく言うと、客のなかの山田氏は「はッ。私でございます」
と畏って答え、ロームが、
「山田。心を清くもって働けよ」
とさとすと、感激した声で、
「はッ。はッ、はッ」
とうなずくのであった。
ロームは最後に、今から皆に倖せを与える食べものを与えんと言った。すると天井からバラバラと駄菓子屋で売っているようなゼリー菓子が落っこってきた。私はそれを五、六個、ひろって、すぐ紙をはがし口に入れると、ロームは私を叱った。
「今では駄目だ。あとで食え」
あの時ほどおかしかったことはない。
愉快なとぼけた表情
私が特に親しくしている占師の一人に口から真珠を出す佐藤さんという女性がいる。口から真珠を出すだけではなくて、こちらが生菓子などを箱に入れて持参すると、それをしばし拝んでくれた揚句、箱を開かせてみせると生菓子の中から真珠が出てくるという話を徳川夢声氏なども書いていた筈である。もっとも私がたずねると、いつも念力が弱くなってこれは失敗するが、口から五、六粒、こぼれ出たのは確かに目撃した。
だがこれは手品でもできることだから私は皆さまに信用しろと言わない。滑稽なのはその女性の御亭主で、私がこんな奥さんをもらって倖せだなあ、とからかうと、
「飛んでもない」
と首をふり、声をひそめて真顔で、
「実は二年ほど前、浅草で浮気をしていましたらね、そこへ女房から突然、電話がかかって、あなた、今、これこれのことをしたでしょうと見ぬかれました。私が外出しても、彼女が眼をつぶると、何処で何をしているか、財布にいくら持っているか、全部、見えるのだそうです。たまりませんよ」
といかにも情けなさそうな表情を作って言うので可笑しかった。彼の話が本当か嘘かはわからぬが、占師には必ず、こうした愛すべきユーモアがまつわりついていて、それが楽しみで私は出かけるのだ。
本気か芝居なのか
今日、ここに紹介する占星術師、トービス星都先生もユーモアあふれる人である。もっとも先生にユーモアを感ずるのは私のほうで、先生は真面目そのものの方であり、外見は白髪、痩身、さながら大学教授か哲学者カントのような雰囲気を持っておられる。
先生とのつき合いは長い。むかし駒場に住んでいた頃、近所を散歩していると、「天星館・トービス星都」と書いた古ぼけた洋館があり、面白半分に訪問したのが我々の交際の最初だったと思う。
私が先生の占いが好きだったのは、それを信じたからではない。正直いって私は占星術など信じていないし、先生の占いが格別、当るとは思っていない。ある年の夏、先生は私にだけの極秘情報としてこの年の九月某日に大地震があると予言され、私も流石《さすが》、そんなことを言われれば薄気味が悪いので、その当日、子供まで学校を休ませ、いざとなれば何時でも逃げだせる用意をしていたのであるが、昼になっても夕暮になっても地震のジの字もない。
私も腹をたてて、先生を難詰すると、先生はカリホルニアの海中で地震があったなどとムニャムニャ誤魔化していたが、
「この頃は、わが星占いも人工衛星によって妨げられ、当らぬ時もある」
と真面目な顔をして言われたので、私は返す言葉もなかった。
先生は自分の部屋にうず高く本をおき、デパートから買ってこられた地球儀などおいて研究室風にこしらえているが、どうも迫力がない。何か質問をすると、コンパスを動かし、計算器を使われるが、それも下手な演出である。
だから、ある日、私は先生に、
「あなたはどうも演出がまずい。ぼくに委せてみないか」
と言うと、委せると言われたので、私は面白半分もあってある友人とホテル・オークラの二室を借り、一室に金持の奥さん五、六人を集めてきた。
もちろん別室に先生はターバンみたいなものをまいて待機されていた。
この夫人たちのことは私は多少、知っていたから、あらかじめカードをつくり、A夫人は息子が浪人、B夫人の悩みは孫の生れぬことなど書いて、先生に手渡しておいた。一人一人の夫人が入室してきたら、そのカードをチラッとみて、
「ほう、息子さんが大学に入学できずに悩んでおられますなあ」
と初手から一発、当てれば、あとは意のままだと思ったのである。
だが、折角、我々がそこまでお膳立てをしたのに先生はこのカードをとりちがえて、A夫人に言うべきことをB夫人に、B夫人に言うべきことをD夫人に言ったため、私は夫人たちから非難ごうごう、全く出鱈目な占師をつれてきたと、後々まで恨まれた次第だった。
にもかかわらず、私がトービス先生が好きなのは、彼が本気なのか、芝居しているのか全くわからぬとぼけた表情で私に友情を示してくれるからである。
一般に水商売の女やホステスには占いをすぐ信じる人が多い。私は彼女たちに先生の住所を教える。
早速かけつけた彼女たちの顔をじっと見ながら、トービス先生は実にふしぎそうな顔をされる。
そして、
「わからん。実にわからん」
と呟く。
気になったホステスが、
「何がわからないんですの。何か悪いことですか」
とたずねると、先生は重々しい口調で、
「今、占ってみると、あなたは遠藤君と前世で夫婦[#「夫婦」に傍点]だったのです」
「まさか」
「いや、本当だ。だからわたし自身、びっくりしておるのだ」
先生からそこまで言われると、ホステスだって信じざるをえない。私が彼女の勤めているバーに行くと、今までとは、うって変ったサービスをしてくれるのは(ひょっとすると、この人が前世での夫なのかもしれない)その気持が働くからであろう。
岩下志麻さんが母親
いつか女優の岩下志麻さんを先生に紹介した時、先生はやはり、ふしぎそうな顔をして「わからん、実にわからん」
をやりはじめた。もっとも、この時は多少、小心な先生は気がとがめたのか、
「前世で、あなたと遠藤君は親子でした」
と小声で言った。
びっくりした岩下さんが、
「親子って、どちらが親ですの」
とたずねると、
「あんたが親で、遠藤君が子供です」
私より、ずっと若い岩下志麻さんは仰天してこっちの顔をみつめていた。
先生の話によると、私は前世でしばしば夜泣きをして、母、志麻を困らせたのだそうである。
さきほど心霊術のことを書いたが、日本の霊媒というのも実に愉快だ。田舎に行くとお婆さんで、お狐さまを祭り、そのお狐さまにのりうつってもらって、しゃべり出す霊媒がいるが、面白半分で私も時々、行くことがある。
都内にいるあるお婆さんでやはり霊媒をしている人があり、友人と一緒に出かけると、まずお狐さまを拝んで、畳からとんだり、はねたり大騒ぎである。そして私の妹の霊がのりうつったらしく、
「兄さん。妹だよ。あたしだよ」
と私にとりすがるのだが、こっちには妹などいない。
「ぼくには妹などおらん」
と言うと、
「兄さんは知らんが、父さんにはかくした女の子がいて、それが、あたしだよ」
と泣くまねをする。
あまりおかしいので、他の人には聞えぬように、
「お婆さん、芝居はよせよ。あんたも自分の言うておること、信じておらんのだろうが」
と小声で囁くと、そのお婆さんの口のあたりに、ニヤリとうす笑いがうかんだ。いかにもバレたかという感じで、私はそのお婆さんが大変、好きになった。
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吉原通いも運転手の役得
ホメチギリ戦法
東都で一杯、飲んで草ぶかき狐狸庵まで電車で戻るのは億劫な時がよくある。タクシーに乗ると、幸い、遠距離なので乗車拒否をされる率も少ない。
一時間半ほどの間、タクシーに身をあずけながら運ちゃんと色々、話をするのは結構おもしろい。
もちろん中にはムッとして一言も物を言わぬ運転手氏もいる。しかしたいていは、こちらが話しかけると気やすく応じてくれるものだ。賃金値上げの話、ノルマの話、乗車拒否の話は少し面倒くさいが「この間、乗った客にこういう女がいましてね」などと言われると聞き耳をたてて、
「ふん、ふん、それで」
と言うのは凡人の哀しさ仕方がない。
私は神風タクシーがこわくてならぬので出来るだけ年輩の人が運転する個人タクシーを探すが、当節、そんな我儘も言っておれず、若いアンちゃん風の運転手のタクシーに乗ることもある。そんな時、どうすればいいか。色々、思案した結果、ホメ戦術に出ることにした。
私「うまいねえ。あんた。運転が」
運転手「へえ、そうですか」
私「うまい。ベテランという感じがするよ」
運転手「タクシーやって五年になるからね」
私「そうだろう。そうだろう。第一、安心感がある、事故の心配を感じないからね。うまいんだなア」
何でもいいからホメちぎると、ふしぎや運転手氏はスピードをゆるめ、安全運転をやってくれるものである。この方法を私は「狐狸庵ホメチギリ戦法」と称しているが読者も採用されては如何。もっとも時には、
私「うまいねえ。あんた」
運転手(ムッとした顔で)「…………」
私「うまい、ベテランという感じがする」
運転手「…………」
こういう場合もあるから絶対に効果ありとは断言しない。
深夜、一時間半の間、東都から田舎にむかって車に乗っていると時々、こわいこともある。一度、運転手が車を走らせながら黙っていたが突然、
「アッ。今、俺はウトウトとしてただ」
と叫んだことがあり、私はびっくり仰天、こいつをもう眠らせてはならぬと絶えまなく話しかけることにきめ、金魚のようにパクパク口を動かしながら、
「最近の物価をどう思う。実に高くなっている、ケシカらんと思わないか。君の感想をきかせてくれ。これというのも政治が悪いと思わないか。な。そうだろ。君は何処に住んでいる? 何? 浅草、江戸ッ子かい。幾歳だ。結婚しているのか。子供は何人いるか。女房はこわいか。何? こわくないか。なぜこわくないのか。言ってくれ。たのむ」
口出任せに次々と質問をあびせかけて彼の睡魔を防がんとした経験があった。
人相のよくない客
こわいと言えばこんなこともあった。
はじめて草ぶかき狐狸庵に移り住んだ翌日、六本木で午前零時ちかくまで飲んで、車をひろった。運転手は私より年下だが、そう若くはなかった。
はじめての道のりなので、こちらもコースを覚えるのと、それから、タクシー代がどのくらいかかるかを見るため、時々、運転手の席に首をさしだしていた。
一時間ほど走ると、やがて人家もほとんどない山の中に入る。真暗でヘッドライトが凸凹の道を照らして走るだけである。
その時、運転手が急にこう言ったのである。
「旦那。あたしゃネ、むかし人を殺したことが……あるんですよ」
ただでさえ、薄気味わるい深夜の山のなかで、タクシーの運転手氏から人を殺したと言われれば、諸君だってびっくり仰天するだろう。
思わず膝がしらの震えるのを、私はこいつは弱味を見せてはいかんと自分に言いきかせ、言いきかせ、
「そうかね。どこで」
「千葉の海岸で、相手はアメリカ兵でした」
「それで、あんた、どうした」
「少年感化院にやられましたよ。まだ未成年だったからね」
こいつ、何のためにこんな話をするのか。金を強奪するためか。飛びおりて逃げだしても相手は車で追いかけてくるだろう。どうしよう。石をぶつけながら逃げようか。そう咄嗟《とつさ》に思いめぐらしながら私は外見だけは落ちついたふりをみせ、
「なあに、若い頃は一つや二つ、過ちをしても仕方ないさ」
などと言い、話題を転じて彼をこれ以上、刺激しないようにした。とかくするうちに、嬉しや、狐狸庵の灯がやっと見え、やっと助かったという気持である。
と運転手が驚いたように叫んだ。
「旦那、家があるんですね」
「あたり前じゃないか」
「そうですか。旦那は本当にここに住んでいたのですか。さっきは嘘をついて、すみませんでした」
「嘘?」
「へえ。実は六本木からね旦那を乗せた時から、何だか人相の良くねえ客だなア……と薄気味わるかったんです。すると段々、寂しいところに行かされるでしょ。それに旦那がこっちの方に体をだしてくる。首でもしめられるのかと。近頃、タクシー強盗が多いもんだからねエ」
「冗談じゃないよ。ぼくは幾らぐらいになったかと、メーターを見ていたんだぜ」
「そうか。そうだったんですか。で、あたしも考えて、他に方法がないからこちらが逆に脅せばいいと思って……人殺しをしたことがあるなんて嘘をついたんです」
「おい、こわかったのは……こちらだよ」
運転手に金を払って家に入ったが、情けないやら馬鹿馬鹿しいやらで、私はしばし鏡にうつる自分の顔を見た。そんなに人相が悪いのかと改めて自認したかったのである。
吉原の女郎の思い出
運転手さんの話をきくのは楽しい。
「えっ。私ですか。古いもんです。昭和四年からタクシーの運転手をやってるんですから、三十八年間ですよ。今はこのように個人タクシーをするようになりましたがね」
昔の円タクは東京市内だと全部、一円でしたよ。乗車拒否なんていうもんじゃない。客の奪い合いでした。助手っていうのが助手席にいて客をつれてくるんです、だから昔の吉原なんか、よく知ってますよ。
当時の女郎は可哀相でねえ、籠の鳥です。吉原から外に出られないようになっていたんだから。そうそうこんな思い出がありますな。ある夜、男の浴衣を着た客をのせて、乗せてから、女だと気づいたんだね。その女は高尾山に行ってくれ、母さんが急病だなんて言っていました。そしたら高尾についたら金がないという。七円の運賃でしたかね。事情をきくと、吉原の女郎で耐えられなくなって逃げたんだねえ。小川テルという名前を今でも憶えています。
妙なもんでしてね。タクシーの客は私らのことを、おい、運ちゃんと呼びますが、個人タクシーをやってみると、おじさんと呼ばれるようになります。
こんな商売をやっていますと、色々、おっかないこともありますなあ。
むかしね、今の宮城ちかくで芸者を乗せて走ってたんだ。そしたら横合いから車が来てね、スリップして、あたしの車はお濠のなかに落っこっちゃった。
水圧で扉が開かないんだ。そしたら近衛三聯隊の兵隊さんたちが助けてくれてね。
芸者はア、アーと叫びながら、何処かへ行っちゃいました。今の女なら損害を要求するんでしょうけどね。どこに行ったかわからない。着物だってダイなしにしたろうにね。
翌日車を引きあげてみると、あんたドジョウが一杯、車のなかに入っていました。そのドジョウは人夫たちが食ってしまったけれど。車の損害ですか。六十円でした。
助平心が大失敗を招く
こわかったことはもう一つあった。
ありゃ昭和二十九年かなあ。
師走です。十二月二十日、乗せた客が二人の男で錦糸町に行ってくれと言う。
走っているうちに、うしろから首を紐でしめられた。あたしゃ、指を紐と首の間に入れて抵抗したが、あんた、今でも、咽喉仏がないでしょう。その時、つぶれちゃったんです。目は充血、鼻血はだらだら流れるで、死ぬと思いました。
それであたしゃ、同じ死ぬなら一緒に道づれにしてやろうと思いましてね。錦糸町の交番に車ごとぶつけてやったんです。それで一人は逃げ一人はつかまりましたよ。
タクシーなんて見知らぬ人に背中を見せて乗せるんだからね。本当いえば、おっかない商売だ。
運転手が襲われるのは車が停った時ですな。走っている時、やれば、お客のほうも危ないからね。こわい話って言うわけじゃないんだが、奇妙なこともありましたねえ。
昭和二十四年のことだ。アメリカ人の女を乗せてねえ。大田に行ってくれと言うんだ。大田区の方に行ったら、ノオ、ノオと言う。それから、あっちこっち行った揚句、結局、群馬県の太田だとわかったんだね、やっとたどりついたら、あんた、カム、カムと言ってあたしをホテルに連れこもうって言うんだ、こっちも助平心があったから、ついていきましたよ。
そしたら、その日から二日間、帰してくれないんです。ひどい目にあった。クタクタでした。太陽が黄色くみえるって言うけれど本当だね。白人の女はイヤだ。顔にもヒゲみたいな生毛がはえてニキビがあって、肌はきたないし。
でも帰りは三万円くれて、土産物まで渡してくれましたよ。
死人乗せるとゲンがいい
こんな話もあります。
蒲田から若い男を二人,乗せた。男はお婆さんを背負っているのです。病気のお婆さんだなんて言って。ぐたりとしていた。
そのまま、熊谷まで行けと言うんでしょ。
走らせているうちに――あたしゃ、いつもバック・ミラーに注意しているからね。バック・ミラーで見ると、どうもお婆さんが動かない。もしもしと言ったんです、おばあさん、どうか、したんじゃないですか。
するとお客が、すまない、実は葬式を故郷でしてやりたくて、生きているように背中におぶって乗ったんだが、実は死んでいるんだ。
びっくりしましたねえ。
でもねえ。運転手は死人を乗せるとゲンがいいって悦ぶんだよ。
ゲンがいいと言えば、新車で、処女の娘が乗れば、これも悦ばれますね。
以上は、新宿の酒亭でタクシーの運転手を三十八年もやり、今は個人タクシーを経営されている安藤秀一さんの話である。
東都から狐狸庵までの一時間半のタクシーのなかで、運転手から身の上話をされることがある。
年輩の運転手氏が、
「私は沖縄で商売してたんですが、事業に失敗しましてね、息子二人をどうしても東京の大学に入れるため、娘と女房をむこうにおいて上京してきたんです。あたしは、こうしてタクシーの運転手をして、息子は今、学校に通うかたわら、アルバイトをやっています」
そんな話をきくと、こちらもタクシーに乗っているのが悪いような気がする。
「ぼかあ、こう言っちゃ何ですが、会社じゃ一番かせぐんです。その秘訣ですか。会社に近いところに下宿したんです。すると人より二時間、早く車をスタートさせられますからね。だから午前中でかなりノルマに近くかせげるんです。夜だって早く戻れますからね。ぼくの夢はいい加減で運転手をやめて、貯金で店を開くことです」
こんな運転手に会うと、こちらも気もちがいいものだ。あんまりムッとした顔をして運転する運転手に、おそるおそる、
「何か面白くないのかい」
とたずねると、
「面白くないねえ」
「どうかしたのですか」
「負けたからね」
「何が?」
「巨人だよ。巨人が負けると、俺はねお客ごと車をどこかへ、ぶつけたくなるんだ」
という返事。本当にびっくりした。タクシーの運転手には巨人のファンが多い。冗談にも巨人の悪口を言わぬほうがよさそうだ。
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私は銀座のカンカン娘
食糧難と飢えとの闘い
春日輝子さんについて今日は書こう。
春日さんは銀座のサンドイッチ・マンである。キャバレーやナイト・クラブ、新しく開店した店のために広告板を持って銀座を歩きまわるあのサンドイッチ・マンの女性経営者である。
経営者だけではない。現在でも自分で先頭にたってやる。昭和二十三年に女の身ながらたった一人でこの仕事をやりはじめてから二十年たった。生活は楽になったが、仕事は変えない。
実は私は春日さんに会うのが初めてだった。サンドイッチ・マンについての予備知識もない。まして女性でサンドイッチ・マン(サンドイッチ・ウーマン)をやっていらっしゃる人がいるとは知らなかった。
昭和二十三年といえば、まだ東京が焼野が原で闇市と食糧難と飢えとの時代である。私はあの頃、まだ大学生だった。春日さんは女だから既に結婚され、三人のお子さんと病気の御主人があった。
御主人は脳溢血で倒れられたのである。
洋裁の技術には自信があったが、その洋裁をやる布地などない時代である。誰もが衣類よりも食べるものを探しまわっていて、焼け残った乏しい衣類を芋にかえ、闇米に代えていた時代である。幼い三人の子供と病気の御主人をかかえた彼女にはほかの仕事を見つけるより仕方なかった。
そんな話をきくと、戦中派の私は胸がすぐジインとくる。わかるのだ。その頃、私は大学生だったが自分の周りに春日さんと同じような人を沢山、見ていた。そうした人が途方にくれて焼けあとを歩いている顔もあまりにもはっきり憶えている。自分だってそんな一人だったのだ。あの頃の飢えや悔しさや屈辱は当時を経験した日本人なら生涯、忘れはしないだろう。
「だから私はサンドイッチ・マンをやろうと思ったんです」
その頃私も学生だったが親から勘当された身だったから色々なアルバイトをせねばならなかった。
しかしましなアルバイトをやる当ても技術もない学生は宮城前でモッコかつぎまでしたのである。私も靴みがきをして金をかせいだ経験がある。
サンドイッチ・マンと言えば、当時、たしか高橋という海軍大将の息子がサンドイッチ・マン第一号として新聞に載ったのを今でも記憶している。しかし、そんな記事を読んでも別にふしぎだとは思わなかった。
当時は皇族だったある方が古道具屋をやられているニュースもあったぐらいだからだ。
サモンの広告ではないが、私はあの戦中、戦後を生きた女性をみると、
「おたがい苦労しましたなあ」
と肩をポンと叩きたいような親愛感をおぼえる。春日さんにたいしても同じような気持を感じる。
栄養失調で子供も失う
しかし春日さんの場合は三人の子供と病気の御主人をかかえての仕事だから、苦労は苦労でも、あの頃の私とはちがう。
「一人が食べるなら、そりゃ何でもないと思いました。でも四人を養わねばならぬのは苦労でしたよ」
春日さんは笑いながら言う、本当にそうだったろう。
「四つの重い石を背中に背負っている感じでした。この石の一つでもいつ頃肩から、とり除けるかと考えてましたよ」
春日さんがサンドイッチ・マンで得た食べものは子供と御主人だけでなくなってしまう。
「あたしは今でも忘れられないんですが、現在の帝国ホテルのあるところに水道管が出てましてねえ。その水を飲んで食事がわりにしたんです」
自分が食べずに御主人や子供さんに食べさせたが、御主人につづいて一番下のお子さんまでが栄養失調で亡くなられたと言う。
同じ戦中派でも私などはこんな哀しみを味わわなかった。私などはせいぜい飢えに苦しみ、アルバイトに友人たちと靴みがきをやったぐらいだ。
靴墨の赤と黒とブラッシを買って焼けあとから煉瓦をひろってきて、それを足おきの代りに使った。
自分の靴さえ磨かなかったブショウ学生だったから、人さまの靴を磨くのに相手のズボンもまくしあげず、さっきの客の黒靴に使ったブラッシで今度の御仁の赤い靴をこすると、それが赤黒く変ってしまい、
「怪しからん」
と客に怒鳴られたこともあった。
その程度の苦労しかしてないから春日さんにはとても足もとにも及ばない、及ばないが彼女の話を聞いているうちに、あの戦後の風景や臭いがはっきりと心に甦ってくる。
親分より受けた妹分の盃
女がサンドイッチ・マンになって街頭にたっていると、評判になって新聞社から写真もとりに来たが、同時に嫌がらせも随分やられたと春日さんは言う。
「嫌がらせというと同業者ですか」
「ええ。同業者です」
そうした嫌がらせの一つは、やくざのチンピラを使って脅すことである。
「見てください。あたし、ここに歯がなくなっているでしょう」
春日さんは自分の入歯をみせて、
「撲られて、その時、なくなったんですよ」
けれども驚いたことには春日さんは女だてらにそのチンピラたちと撲りあいをやったのだそうだ。
「持っている広告の板をふりまわして――銀座で喧嘩だ、喧嘩だと言うとまた輝子さんか、なんて警官に言われて」
同業者のなかには意地悪がいて、春日さんが有名になってくると商売の邪魔をしようとする。彼等に雇われたチンピラが因縁をつけてくるわけだ。
春日さんのほうは警察にも届け、手続きはしてあるから文句を言われるすじ合いはない。しかし女だてらに広告の板をふりまわしたのはあながち気が強いせいばかりではないだろう。子供を養わねばならぬ母親ゆえに強くなったのだろう。
ところが、そのチンピラたちは彼等の兄貴にたっぷり叱られたと言う。その兄貴たちは、はじめは春日さんに嫌がらせをしていたが、そのうち彼女の境遇を知り、夫と子供のために健気に働いているのを知ると、かえって味方になってくれたそうだ。
「あの頃、イヤな奴が多かったけれど、あたしが好きだったのは、むしろ、そんな人たちでしたよ。人情があってねえ」
と春日さんは懐かしそうに言う。そんなヤクザたちはそのうち、
「これで子供に何か買ってやれや」
と言ってくれたりしたそうだ。
ヤクザなどと書くと、今の我々は顔をしかめるが、あの戦後にアジア系の男が日本人に新橋などで横暴きわまりない頃、特攻隊あがりのヤクザがかれらに対抗して一時は血の雨をふらすかと思われたような事件などもあり、我々日本人はチョッピリ、口惜しい胸を晴らした記憶もある。
戦後の焼けただれた新宿を憶えている者には「光は新宿より」という看板と尾津組の名はまだ忘れられないが、春日さんはこの尾津親分に妹分の盃をもらったという。
人気を呼んだおいらん道中
サンドイッチ・マンというのはおそらく日本独得の広告業であろう。つまりそれは昔のチンドン屋をハイカラにしたものである。
春日さんにきくと、これも三つぐらい段階があって、何もせずボケーッと店の前に立っているのが一番手当が安く一日千円ぐらい。
その次にビラをまくのが一日、二千円ぐらい。それから色々な扮装をして街頭を行ったり来たりしてビラを手渡すのが三千円ぐらいの収入だそうだ。
「でも、今のサンドイッチ・マンは容易しいですよ。私のところの社員なんか、うちで警察の届けから、店との交渉、扮装、全部やってもらえるんですからね、私がやっていた頃は、自分でこんなこと全部をやらなくちゃならなかったし……」
当時、春日さんは一日、千円を要求した。しかし千円で扮装の費用も自前であるから手取りは幾らにもならない。竜宮の乙姫さまをやったり、おいらん道中をやったりして人眼をひいたと言う。
「広告のなかでは一番、安いんじゃないんですか。それに効果がすぐ出ますからね。はじめは疑っていられた店も一度、やってみられて、その後、ずっと続けてくれますよ」
先生、一度、サンドイッチ・マンをやってみませんかと彼女は笑いながら言う。私もほかの事は色々やってみたがサンドイッチ・マンはまだ、したことがない。
「でも、あれは照れちゃ駄目ですよ。思い切って堂々とやるんです。すると道を歩いていても通行する人が、よけてくれますよ。人にぶつからずに歩けます」
銀座にハリウッドというキャバレーがある。あの社長の福富太郎氏は私も個人的に仲良くしているが、彼がボーイ時代、呼びこみをやった時の秘訣として、
「鞄をもった人には声をかけない。考えごとをして歩いている人にも声をかけては駄目。セカセカ歩いている人を呼んでも無駄」
と言っていたので、その理由をたずねると、
「そりゃあ、そういう人は今、仕事のことだけ、頭にある人だからです。そんな人は呼びこみを聞きながすだけですから、ボーイ時代、私はそんな通行人には黙っていました」
と答えた。要するに呼びこみにも、気合いが必要なのである。入ろうか入るまいかと迷っている人に一発、気合いをかける心理的策戦が必要なわけだ。
そのハリウッドの呼びこみも、今は春日さんの社員が出張しているそうである。
私は春日さんの話をききながらここにもやはり小さな戦後の歴史がある気がした。私のような戦中派には忘れようとしても忘れられぬ――しかし今の若い世代には全く実感の伴わない話なのだろうが――戦後二十年の銀座の風物や匂いがその話のなかから甦ってくるのだ。
「そうそう」
私がふと思いだして、
「あの頃、鶴田浩二のサンドイッチ・マンとか、高峰秀子の銀座カンカン娘という歌がはやっていたっけ」
と言うと、春日さんは大きくうなずいて、
「銀座カンカン娘は私がモデルなんです」
「へえー。どうして」
「あれはね。初め、銀座カンバン娘という題だったんです。それじゃ語調が悪いので銀座カンカン娘にしたんですよ」
これは私も初めて知ったことである。
〈掲載誌・発表年月一覧〉
ぐうたら好奇学 1[#「ぐうたら好奇学 1」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
山小屋の合宿 「毎日新聞」一九七三年十月十七日
日本はもうダメだ 「毎日新聞」一九七三年九月二十六日
外国の男はおそろしい 「サンケイ」一九七三年五月十四日
迷える不惑 「毎日新聞」一九七二年八月二十一日
対談 「風景」一九六九年一月
写真と私 「ノンノ」一九七二年十月二十日
私の盗み 「噂」一九七一年八月
バカでかい風呂 「オール読物」一九七二年四月
女(中)難 「文芸春秋」一九七二年四月
女子中学生たち 「毎日新聞」一九七三年八月二十日
先輩の錬さんのこと 「別冊文春」一九六八年十二月
ぐうたら好奇学 2[#「ぐうたら好奇学 2」はゴシック体]
「内外タイムス」一九六〇年
ぐうたら好奇学 3[#「ぐうたら好奇学 3」はゴシック体]
「週刊新潮」一九六〇年四月十八日〜十月三日
狐狸ドキュメント人間[#「狐狸ドキュメント人間」はゴシック体]
「潮」一九七〇年二月、五月、六月