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ぐうたら人間学
遠藤周作
目 次
ぐうたら人間学[#「ぐうたら人間学」はゴシック体]
頭 髪
迷編集長と迷編集者
思いちがい
ガスは正しく使いましょう
デビ夫人のこと
語 源
江戸の漢詩
三浦家の泥棒
だまし屋
イザヤ・ベンダサン氏のこと
京都の娘
信長のこと
天下を変えたマヌケ男
狂った秀吉
夫婦愛こまやかな手紙
憶えていますか
鬼の眼にも泪
わるい奴
カンニング
年をとりました
一人で見るテレビ
かのように
一盃綺言
狐狸庵と詩仙堂
酒のさかな
しずかなる決闘
狐狸庵動物記
雪の夜、書斎に無言の友
ポンポン、ブラブラ狸の味
緊急特報――一ヵ月の成果、トクとごらん
困る話
世にもふしぎな物語
体験「六本木のドラキュラー」
お化け屋敷をたしかめたい
夜の町
ウツ病
夕暮になると
古本のたのしみ
ファン
私と日本人
亭主諸君におすすめする
暗い古い建物
兄 弟
私と車
下品会
手をあげるから怒る
ゴルゴタの丘で
印度のボーイ
サマルカンドの石
私と競馬
私と唄
私と色紙
私と対談
私とガンノロ
パンツの話
旧友との再会
挿 話
死について
墓について
御 縁
清水崑画伯の個展
ぐうたら生活入門[#「ぐうたら生活入門」はゴシック体]
人生ケチに徹すべし
語るにたる気の弱い奴
亭主族の哀しみ
正義漢づらをするな
鼻もちならぬ洋行自慢
人間の運命を変えるもの
人生どうせチンチンゴミの会
人生とは退屈なり
嫁いじめを復活させよ
人生のことを語りたい
女にはわからない男の美点
男と女の生きる道
それでも彼女を愛す
当った二十年前の予言
あなたも催眠術がかけられる
運命を知る知恵
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ぐうたら人間学
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頭 髪
二十七、八歳をすぎた女性に久しぶりに会うたびに、私が口に出す言葉がある。
「おや、驚いた。眼のあたりに……烏《からす》の足跡ができましたね」
と、十人のうち、十人とも嫌な顔をする。嫌な顔をしたって、もう、かまわない。どうせ、この年になると、どんな女も相手にしてくれないのである。
女性にむかって眼尻に烏の足跡ができたという自分の心の裏には、こっちも頭の毛が薄くなってきたというおアイコの感情がある。そして薄くなった頭は現代医学ではどうにも恢復できないという哀しい諦めもある。
考えてみると、もう十年前、わが頭髪のうすくなったことに気づいて愕然としてから、出来るかぎりの手を尽したものだ。養毛剤といわれるものもアレコレ使ってみた。散髪屋にいって卵の黄身で頭も洗ってもらった。しかし何をやっても効果なし。無駄。
すると、今度は同年輩の連中の髪の濃さが妙に気になりはじめた。同じ年頃なのにまだフサフサと髪のある奴はどうも気にくわない。自分より薄くなった男には何とも言えぬ懐かしさを感じる。
理髪店に行くと、この理髪店にはどんな芸能人や俳優が来るかと、それとなくたずねる。そしてその店を利用している芸能人のなかで髪うすき二枚目が、二枚目を維持するため、どんな工作をしているのか、ひそかに主人からききだす。
その結果、俳優のT氏はカツラを使っていること、音楽家で二枚目のA氏も頭の天辺が露出しかかっているのでカメラの位置に気をくばっていることなどを知った。皆、泪ぐましい努力をしているのだ。
だが時折、そんな自分が――つまり髪のうすさに拘泥する自分が甚だ情けなくなる。男子一匹、たかが頭髪のことに心を悩ますなど、まったく意気地ない話ではないか。
その頃のことである。ある日、タクシーに乗って運転手氏と世間話をしていた時、面白い身の上話を聞いた。
「わたしはねえ、恥ずかしい話だが」
とその中年の運転手氏は急にしゃべりはじめた。
「十五年ほど前、今の女房をもらったんですがね。自分の口から言うのも何だが、山本富士子に似たかなりの別嬪でね。自分でもこんな女を女房にしたのが得意なくらいでしたよ」
なるほど、なるほど、そりゃ結構だったじゃないかと言いながら、私は心中、いい歳をして何をノロケてやがると思った。だがこの運転手氏の話はノロケ話ではなかったのである。
「ところが旦那。結婚して十年目ぐらいに突然、女房にびっくりするようなことが起ってね」
ある日、彼の細君の鼻から頬にかけてが、お椀をかぶせたように腫れあがったのである。疔《ちよう》か。瘡《そう》か。はたまた悪性の腫物か。亭主である運転手氏は仰天したが、細君の意外な告白をきいて、更にびっくりしてしまった。
「女房の言うには、わたし、あなたを十五年間ダマしてすみませんでした。わたし、結婚前に自分の鼻が獅子鼻なので、整形手術をしたんです。その手術の時、鼻のなかに入れたものが、今頃になって炎症を起したんです。ダマしてすみませんでした」
今更、文句を言うわけにもいかない。女房は運転手氏につれられて、ふたたび病院に行き鼻に入れた異物をとってもらった。退院してきた時、山本富士子に一寸似ていた彼女の顔はあわれや元の獅子っ鼻に戻っていた。
「それで、どうしました。別れましたか」
私は甚だしく好奇心にかられてたずねた。
「いや、かえってウマく行ってますよ。これが俺の女房の素顔だと思うと、そのほうが気が楽になったね」
運転手氏の最後の言葉はジンときた。その日から私もおのが頭髪の薄くなったことを気にしないようにしたのである。
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迷編集長と迷編集者
三年前、『三田文学』という雑誌の編集長を一年間だけやったことがある。『三田文学』は周知のように慶応義塾をバックにした永井荷風以来の伝統のある雑誌だが、何度も何度も廃刊と復刊をつづけたものの、このところパッとしない状態にあった。憂慮された先輩たちが色々と考えられた末、遠藤、お前、責任をもってやってみろと言われたのだった。
一年間だけ、という約束で引きうけたものの、編集長などとは名ばかりで第一、部下になる編集員がいない。それに私自身、雑誌編集の経験がない。編集のやり方はある有能な先輩に教えてもらうことにしたが肝心の手足になる部下がいなくてはどうにもならぬ。
仕方なく三田の大学から、五人の若い学生に手伝ってもらうことにしたが、この後輩たちも割りつけ、校正はもちろん御存知ないし、文学とは縁の遠そうな顔をした連中である。編集長もズブの素人なら、部下もズブの素人。しかし目標は沈滞した『三田文学』の名をふたたび世間に知らせるというのだから随分、心臓のつよい話だった。
私は学生たちにこう宣言した。
「俺も君たちも雑誌のつくり方は何も知らん。だがいわゆる大雑誌は戦艦や航空母艦と同じで大型だが小マワリがきかぬ。こちらは小型だが小マワリがきく筈だ。その小マワリを最大に生かそう」
そう言ったものの何が小マワリか、自分でもよくわからない。しかし自信のある顔を学生にはせねばならぬのが迷編集長の辛いところだった。
私の部下となった五人の学生のなかに気の弱そうな、オドオドしたTという男がいた。私は彼に自信をもたせたいと思い、A氏という癇癪持ちの評論家のところに原稿をたのみに行かせた。
ところがこの学生は近頃の若い世代にありがちな世間知らずなのか前もってA氏の御都合もうかがわずにノコノコと早朝、氏のお宅の玄関を叩いたのである。
礼儀作法にキビシいA氏はこの無礼に顔を赤くして怒られた。お怒りになるのは無理もない。何の予告もなしに突然、自宅にやってきて、原稿を書いてくれと言われれば、カッとなさるのは当然である。
「君はだれだ」
「ミ、ミタ文学の者です」
気の弱いTはA氏の怒ったお顔を見ただけで、もうすっかり狼狽し、混乱してしまった。
「ミタ文学か、ヨタ文学か知らんが、前から[#「前から」に傍点]、何故、電話をしない」
「失礼しましたア」
Tは悲鳴のような声をあげて一礼すると脱兎のようにA氏の家から走り出た。
そして――
そして現代の若者の無礼に腹をたてておられるA氏の家に、五分後に電話をかけたのである。
「ぼく、前から[#「前から」に傍点]、電話してます」
「なに」
「前の米屋さんから電話しています。だから原稿お願いしますッ」
A氏はあまりのことに笑いだしてしまわれた。Tが冗談ではなく、本気で前から[#「前から」に傍点]電話していると思いこんでいるのが、その声でアリアリとわかったからだ。
「いいよ。いいよ。書くよ。書くよ」
A氏はつかれたような情けないような声でそう承諾された。
Tは自分が怪我の功名だったことにその日一日、気づかなかった。私は彼の報告をうけて爆笑したが、ムツかしいA氏の原稿をもらえたのは、たしかにTの思いちがいの結果にちがいない。
『三田文学』のその号は売り切れだった。A氏の人情味ある執筆承諾がその原因の一つだったことは言うまでもない。
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思いちがい
昨日、書いたT君のような思いちがいなぞ誰にもあるものである。
これは『三田文学』に来ていた学生たちから聞いた話だが、もう数年前に慶応の経済学部の入試の一つに作文があって、その題が「経済学部への期待」というものであった。
その日、一つの教室で、答案がくばられ、若い試験監督の先生が試験開始のベルがなると共に、チョークをとって、大きく次のように作文の題を書かれた。
経済学部
への期待
もちろんこの若い試験監督が題を二行にわけて書かれたのは黒板が小さかったからにすぎない。そして次に書くような悲劇的な出来事が起ったのは、必ずしもこの先生がわるいのではない。
受験生たちは静粛に作文を書きはじめた。そして一時間後、この作文は集められ、別室に待機している採点係の先生たちのもとに送られた。
経済学部
への期待
作文のなかには福沢先生の教えを引用して実学の道は経済にありと書く者もいた。経済国日本の将来のためにこの学部で勉強したいと立派な志をのべる受験生もいた。しかしそのなかに、甚だ奇妙きわまる一枚の作文があった。
「忘れもしない。二年前、ぼくが盲腸の手術をやった時です。痛みは朝からはじまり、医者は即刻、手術をしようと言って病院に運ばれ……」
その作文には何故か、出題テーマとは全く関係のない盲腸手術の経験がくどくどと書かれていた。そして、
「手術後、ぼくも看病してくれた母も共に屁を期待しました。なぜなら、もし麻酔がきれた時、ガスが一発、腸から出れば経過は良好の証拠だと医者は言っていたからです。そしてその屁の期待がぼくを一晩苦しみに耐えさせ、屁の期待を母は一晩待ちつづけ……」
採点をする試験官は、受験場で作文の題が、
経済学部
への期待
と二行にわけて書かれた事情を知らなかった。この受験生はすっかりアガっていて、「経済学部」と「への期待」とを別々に読んだことも知らなかった。
彼が合格したか、どうか、私は知らない。しかし、もし私が採点者だったなら、この苦心の作文(しかも大真面目な)に優は与えなくても断じて良は与えたであろう。彼の懸命さは良に価するからだ。それでいいではないか。
これも『三田文学』の学生Kにきいた話。
年に一回、大学では学生の健康検査をする。女子学生と男子学生はもちろん別々の日にやる。
身長、胸囲、レントゲンなど調べられたのち、Kたちは試験管をわたされた。Kたちのすぐうしろに一人、ひどくマジメな学生がいた。各人はトイレに入り、試験管のなかにコハク色の液体を入れて紙に包んででてきたが、ひどくマジメな学生だけは十分たっても二十分たっても出てこないのである。
「どうしたんだ。あいつ」
と皆でそっとトイレのほうを見ていた。
やがて――
そのマジメな学生が額にベッタリ汗をかいてトイレから出てきた。いいですか。額にベッタリ汗をかいて。
のみならず、彼の手にしている丸い長細いあの試験管のなかにウンコがビッチリつまっていた。マジメな学生は額にベッタリ汗をかいて、それを握りしめ黙っていた。みなも気の毒になりシーンと黙っていた。
しかし一体、どのようにして、あの丸い長い試験管にウンコをつめることができるのか。私も色々な国を旅行したが、その方法がわからない。
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ガスは正しく使いましょう
この間、私の大学時代の先輩が盲腸炎にかかって手術をした。
早速、見舞いに行くと、先輩は手術を終えたわりには意外に血色のいい顔で寝ていたが、
「まア、聞いてくれや」
私の顔を見ると言った。
「俺がなぜ、盲腸炎になったか、知っているか」
「いえ、わかりません」
「実はな、年末に知りあいの若い夫婦二組と年甲斐もなくスキーに出かけたんや」
一昨年からよせばよいのに若い者にまじってスキーを始めたこの先輩は今年も二十代の若者夫婦と一緒に草津のほうに滑りにいった。
スキー場ではとも角、宿に戻ると若者夫婦の二組はベタベタとする。「ムネヤ」などと新妻が亭主の名を猫のように甘ったれて呼ぶ。先輩にはそれが気にくわない。ヤケ酒を飲んで、
「もう寝よう」
と言うことになったが、スキー場の宿は雑魚寝でこの若者夫婦二組と一緒に枕を並べることになった。
「諸君」
寝巻に着かえてから先輩は彼等に断った。
「はなはだ、失礼だが、私は夜間、布団のなかで大きなオナラをすることがある。もし左様な事態となった時、無礼をおゆるし頂きたい」
しかし新妻たちはゲンナリした顔をして、
「イヤだなあ。そんなの」
と溜息をついた。
溜息をつかれて見ると、心のなかで出もの、はれもの、所きらわずと呟いても、何となく遠慮がちな気分になる。そのまま寝床に入って夜半、眼がさめた。
眼がさめたのは言うまでもない。オナラをしたい衝動にかられたからである。
これが我が家ならば細君が横にいようがいまいが思い切り、豪快なのを一発ぶちかますところだが、他人の夫婦二組のいるところでは何となく気がひける。まして、
「イヤだなあ。そんなの」
と言われた手前、衝動にまかせて自由に放屁できない気持だった。
可哀相に――この先輩は我慢した。我慢すればするほど、腹はふくれて耐えがたい。
そっと、かすかに出してみた。しかし、それで腹中の痛みが去ったわけではない。一晩放屁を我慢してまんじりともせず、夜をあかした。
「それで、帰京したら翌々日から盲腸が痛みはじめたんや」
先輩は情けない顔をしてそう告白した。ガスの圧力はこわい。腹中のガスは盲腸を圧迫し、それをねじまげ、炎症を起させたのだ。
「ガスを馬鹿にしてはいけませんぜ、先輩」
と私は忠告した。
私は自分で運転しないで秘書にやってもらっている。時々、居眠りをしていると、突然、車のスピードがガクンと増し、その直後、車内がプーンと臭くなることがある。私はこの現象をこう思う。私が居眠りをしているのをいいことに、秘書が音なしの屁をポンポンとやったのだ。ロケットの原理で、車はそのポンポン・ガスで速度を一時的にます。しかし臭いは車内に残る。ガスはおそろしいとそんな時、つくづく思う。
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デビ夫人のこと
もう三、四年前にデビ夫人と対談したことがあった。
雑誌社が設けてくれた料亭に行くと、デビ夫人はまだ来ておられず、二十分ほど待たされた後に、彼女が愛嬌よい顔を皆にむけながら姿を見せた。
当時、この夫人にたいするジャーナリズムの気持は必ずしもいいものではなかった。私自身といえば、彼女とは始めての会見だし、迷惑も受けた憶えはないから、好悪の気持は全くなく、むしろ彼女にたいする好奇心のほうが強かったと言える。
しばらく話しているうちに、彼女が非常に魅力のある女性であることはわかったが、その話のどこまでが本当か嘘か、区別がつかなくなってきた。
「スカルノ大統領は夜、お休みになる時」
彼女はスカルノ大統領のことはこんな敬語を使って言う。
「片眼をあけてお眠りになるんです」
「へえ。片眼をあけて? 一体、どうしてです」
「私もふしぎに思って、何故ですの、とおたずねしたら、自分は夜もインドネシアのことを考えずにはいられない。だから肉体は眠るが心はさめている。それで片眼だけはつぶり、もう一つの眼は開いているのだ、とこうおっしゃいました」
ユーモアなのか、本気なのか、判断つきかねたので、
「本当ですか?」
と思わず、たずねた。すると彼女は一寸、気色ばんで、
「わたくし、坊主の髪と嘘とはゆったことがございませんわ」
そこで私は坐りなおして、
「それじゃ、あなたが嘘つきかどうか、テストさせて下さい」
「ええ、どうぞ」
「あなたは……お風呂のなかでオナラをされたことがありますか」
この時の彼女の表情は今もって忘れがたい。一瞬、沈黙し、うつむき、而して何かを決意したごとく顔をあげ、
「はい。いたしたこと、ございます」
蚊のなくような声で答えた。
私はこの返事とこの表情で彼女が一寸、好きになった。特にいたしたこと、ございますという言い方はユーモアがあり、なかなかいいと思った。
対談のあと、彼女をバーに誘った。
バーに行くと、デビ夫人は威厳をとり戻され、ブランデーを前において、控え目に私たちとホステスの話を聞いていた。
「デビ夫人」
と私は彼女にたのんだ。
「あなたもお子さんをお持ちの身。親の心はおわかりになると思います」
「まア、何ですの」
「実は小学校に行っている私のセガレが成績もわるいのです。親として困っています。それで……あなたのお膝は英雄スカルノのなでられたお膝……その光栄あるお膝を私に一度、さわらせて頂けないでしょうか。私はその手で今夜セガレの頭をなでてやりたいのです」
彼女はこの時も悪びれなかった。マジメな表情で、
「どうぞ」
そう言って自分の膝をさし出し、一度だけだが私になでさせてくれた。
それ以後、私は彼女のことが週刊誌で悪く書かれると、何かベンカイしてやりたい気になっている。そんなに悪い人ではないがね。
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語 源
テレビのC・Mもひと昔前にくらべると芸も細かくなり、なかなか巧みになってきた。とりわけサントリーのC・Mには何時も感心するのだが、あの宣伝部には後に小説家になった開高健氏や山口瞳氏がいたのである。
鼻毛ぬきつつテレビを見ながら、私も時々、自分がもしC・Mを作らせられたら、どういうのを作るかなと考えることがある。
こんなのはどうだろう。
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(1)美女がお風呂に入っている。
(2)その美女があたりを、そっと見まわす。
(3)湯のなかから、大きな泡がブクブクと出てくる。
(4)その泡の一つがパチンと割れる。
(5)美女は顔をしかめて、臭いという表情をする。
(6)画面に大きく「ガスは正しく使いましょう」という字と東京ガス提供と出る。
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私としては会心のC・Mのアイデアなのだが少し品がなさすぎるだろうか。東京ガスはこんなC・Mを使ってくれないだろうか。もちろん、使ってくれないにちがいない。鼻毛をぬきながら私の考えるようなことは、まこと、こんなクダらんことなのである。
今まで、お読みくださった読者は多分、御察しがつくと思うが、私は「下《しも》がかった」話が決して嫌いではない。私は基督教の洗礼をうけた男なので「神がかった」本を読むのも好きであるが「下《しも》がかった」馬鹿話を友人としたり、自分で考えたりするのはむしろ大好きなほうだ。
私のところによく遊びにくる日本女子大の二人の女子学生は「小児のオマルの研究」を卒業論文にしているためか、やはり「下《しも》がかった」話に非常に興味をもっている。
いつかこの二人の女子学生に「厠」という語源をきかれた。これはすぐ答えられた。「川や」と言って昔の人は川のそばに便所をつくり、水にながすという法をとったからである。
しかしオナラとなると、これが「音鳴る」から来たのか「尾鳴る」から来たのか、語源的にはっきりしない。
「クソ」というのは「臭し」から来たのであり臭き素という意味なのであろうと女子学生たちに言った。
読者のかたには大変、真面目な方がおられて、時々私の出鱈目を本気にされて非常に恐縮することがある。
前にこんなことを小説中に書いたことがあった。
「運勢」という言葉は昔人間のウンコの勢いを見て、その人の将来の吉兆を占ったことから出来たのである。
京都にそういう意味で「運勢」を見る名人が織田信長の頃いて、この名人の宅には毎朝、おのがウンコの一切れを持参する男女が絶えなかった。ウンコはその人の健康をよく示すことは現代の医者もみとめることだが、昔はそのウンの勢い、形、などで当人の生命力、未来の幸、不幸も見わける術があったという。
以上のことは勿論、鼻毛ぬきつつ私がぼんやり考えた出鱈目だったのだが、これを小説のなかに書き入れたところ、四国の真面目な読者からお手紙を頂戴して、右の説の出典を是非教えてほしいと言う内容が書かれており、恐縮してお詫び状をさしあげたことがある。
私はあれこれ考えるのだが「へ」「シッコ」「イバリ」などの言葉がどうして生れたのかわからない。「へ」の場合、仏蘭西語では「ペ」というから、何か共通したものがあるのかしらん。御教示頂ければ幸いである。
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江戸の漢詩
時折、江戸漢詩集を開くことがある。と書くと如何にも教養ありげに聞えるが、なにそんなにムツかしい五言絶句ではない。漢字が読めるなら中学生でも一読、理解できるような詩なのである。
屁臭
一夕飲燗曝(一夕 燗曝《かんざまし》を飲みてより)
便為腹張客(便《すなわ》ち 腹張りの客となれり)
不知透屁音(透屁《すかしつぺ》の音を知らざりしか)
但有遺矢跡(但し遺矢《うんこ》の跡あり)
有名な蜀山人の詩である。
次の詩など愛誦して飽きることがない。滅方海銅脈先生の作である。
低《た》れんと欲して、雪隠《せつちん》に 臨みたれば
雪隠の中には 人、有りけり
咳払いすれども、尚、未だ出でざれば
幾度か 吾は身震いしたる
(欲低臨雪隠
雪隠中有人
咳払尚未出
幾度吾身震)
愚仏の作に次のようなものもある。
屁を放って行燈を滅すの図に讃す
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|諷諷※[#「馬+芻」、unicode9a36]※[#「馬+芻」、unicode9a36]と屁穴開けば
見物は鼻を撮《つま》んで吹き出して哈《わら》う
腹は減り、息は弱り、甚だ滅し難ければ
明晩は十分に芋を喰って来んと
[#ここで字下げ終わり]
これらの漢詩の作者について説明すれば蜀山人は言うまでもなく大田覃のことであり、銅脈先生は程朱学派の畠中観斎のことであるが、むかしの人はやはり風流だったから「下がかった」話も決して嫌いではなかったのであろう。
今あげた漢詩などさほどムツかしくはないが、次の詩などは、ひょっとすると今年の国立大学入試に出そうな問題だ。読者のなかに受験生がおられるなら、これによって、おのが実力をためされるがいい。
椀椀椀椀亦椀椀
亦亦椀椀又椀椀
夜暗何疋頓不分
始終只聞椀椀椀
読んで解釈できましたかな。これも愚仏の作。題して犬咬合《いぬのかみあい》という。
ワンワンワンワン、またワンワン
またまたワンワンまたワンワン
夜は暗くして何|疋《びき》か頓と分らず
始終、只聞くワンワンワンのみを
これがわからぬようでは今年も浪人になるやもしれぬ。
甫伊甫伊又甫伊
縫目細処歩骨折
段段廻手漸捕来
生殺得只是糸屑
しかし次のような狂詩を読むと、私は思わずこの詩の下に絵を描いてくださいと清水崑先生に言いたくなる。
類《たぐい》も無い貧乏人なれど
其の癖 仕事は厭《きらい》なり
後悔は先に立たねば
年寄って 今は残念
私がこの詩を読んで自分と少し違うのは最初の一行だけで(私とて貧乏だが、無類とまではいかない)あとの三行は、わが現在の心境をそのままあらわしているような気がするからだ。
右の漢詩はすべて狐狸庵の作ではない。岩波の日本古典文学大系『五山文学集、江戸漢詩集』にちゃんと掲載されている。
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三浦家の泥棒
小人、閑居して不善をなす。
仕事をするのも億劫なので、しかし机に向っていないと家人に叱られるから、机には向いながら鼻毛をぬいていると石坂洋次郎先生から電話を頂戴した。
「君、昼のニュースを聞きましたか」
「いいえ」
「三浦朱門君の家に昨夜、強盗が入ったのです。三浦君は手を縛られたが、曽野綾子君がドロボウと叫んだので逃げたというのです。君、戸じまりはチャンとしたまえよ」
私はびっくりしてテレビのスイッチを押したが、既にニュースは終っていた。びっくりしたのは他でもない。この二年ほどの間、三浦の家には二度も泥棒が入っている。その泥棒は美術のほうはメキキらしく、他のものは盗んだが床の間にかけてある偽の鉄斎の絵に手をつけなかったと、三浦はあとで口惜しがっていた。
与太者などに因縁をつけられやすい顔の持主がいるように泥棒に入られやすい家があるのかも知れない。三浦の家では前に泥棒よけに茶色い雑種の犬を飼っていたが、この犬は綱を切って逃げていってしまった。
三浦の家に電話をして詳細を聞こうとしたが夫妻はどこかに出かけて話にならない。折角、退屈がまぎれるというのに、よく働く夫婦だ。私なら同じ経験をすれば二、三日、隣近所を走りまわって体験談を吹聴してまわるだろう。
夕刊がやってきた。三浦は泥棒を蹴飛ばしたと書いてある。
「えらいわ。やっぱり三浦さん」
と家人が言った。
「あんたなら、皆をそのままにして飛びだして逃げるでしょうがねエ」
面白くなかった。しかし一年ほど前、家人たちと寿司屋で寿司を食っていると、突然、地震が来た。私はワッと叫び、箸を放り出して一人、店の外に走り出した。ノコノコ戻ってくると店中の客の失笑をうけ、家人からはイヤーな顔をされた記憶がある。以来、家人から嫌味を言われても、反駁することができない。
泥棒は三浦家に入る前に犬養智子さんの家に入った男と同一人物かもしれない。ジャーナリズムと関係のある女性の家ばかり狙うのは一体、どういう心理か。しかも犬養さんといい、曽野さんといい、まあ美人である。この泥棒は美人のもの書きの家ばかり狙うとすると――今後、彼が侵入しない女性の物かきは美人でないという評判がたつ。これは大変だ。
翌日、やっと三浦夫妻と電話で話ができた。
「お前。見舞い品どんどん来とるで。お前、何もくれへんのか。はよ、持ってこいや」
と三浦はアサましいことを言った。焼けぶとりと言う言葉があるが泥棒ぶとりと言うのはこういうことを言うのだろう。ひょっとすると三浦はその泥棒をつかまえて、泥棒の持金を泥棒したのではあるまいか、などとひそかに考えた。
この事件にもう一人、被害者がいた。それは画家の秋野卓美さんである。事件後、タクミさんは毎日、警察から電話で、
「戸じまりに気をつけて下さい」
と注意をうけた。なぜ自分の家だけに警察が注意してくるのかタクミさんにはわからない。
三日目にまた警察から電話があった。
「なぜ、ぼくばかり注意されるのですか」
「アレ」
と警察の人はびっくりして叫んだ。
「あなた、男の人ですか。女性ではないですか」
警察では秋野卓美を女性の名と間ちがえていたのである。
「ぼく、女の画家と考えられていたらしいです」
と秋野氏は情けなさそうにそう私に言った。
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だまし屋
今の少年雑誌にはそういう馬鹿馬鹿しい広告は載っていないようだが、私の子供時代の少年雑誌のなかには、「伊賀流忍術、秘法の本、一読、ただちに姿を消し、空を飛ぶことができる神秘不思議の術を書いた本。今月、注文の方には美麗カメラ一台を景品」
などという広告が頁のあちこちに載っており、私はそれを見て非常に感激して、代金を送った記憶がある。
送ってきたカメラは全く使いものにならぬ紙製の赤いパラフィン紙をはりつけ、小さなレンズをはめこんだものであった。そして神秘不思議の本のほうには、五十にちかい項目があり、姿を消す法にも空中を飛ぶ術にも、ワケのわからぬ薬草の名をならべたてて、以下を服用するとできますなどと出鱈目が書いてあり、子供心にも口惜しい思いをしたものだった。
だがその後、大人になってからも、私は好んで赤新聞を買う。赤新聞のなかで一番、面白いのは広告欄で、この広告を見て飽きることがないのだ。何かモットモらしくて、何かインチキ臭いあの広告――あるいは仔細ありげな品物の広告、そういうのに手を出せばイッパイ食わせられると百も承知していながら、そのイッパイをどう食わしてくれるかに私の興味はある。私の後輩で同じようにインチキ好きなのがいて、近ごろの赤新聞によく載っている臭いつき下着を注文したら、安物の香水をふりかけた品物を発送してきたという。敵さんもなかなか考えるのである。
地方に行くとよく東京の有名歌手の名にもじった名が、村や部落の電信柱に出ている。美空いばりだの、橋雪夫だの――しかし地方ではそれでも結構、みんな聞いてくれるらしい。
今のようにポルノ映画が盛んでなかった七、八年ほど前、ピンク映画の広告にもこの種のものが幾つかあって、思わず吹きだしたことがあった。いつか小田急の某駅の前にそんなピンク映画の立看板があり、そこに名作映画化と題して、
『砂利《じやり》の女』
『泥の中の植物群』
と書いてあった。いうまでもなく『砂利の女』は安部公房の『砂の女』を、『泥の中の植物群』は吉行淳之介の『砂の上の植物群』をもじったものである。
私もひどい目に会ったことがある。
四、五年前のことだ。
軽井沢の町をぶらぶら散歩していたら、電信柱に、映画の広告が出ていて、そこに四つん這いになって何かを窺っている男のポスターがあり、
「夜ばい虫、主演、遠藤周作」
と書いてある。私と家人とはびっくり仰天して、よくよくそのポスターをみると「夜ばい虫、主演、武藤周作」と書いてあるのだが、「武」と「遠」という字は遠くから見ると同じように見えるものだ。あとの三字は全く同じだから、私の知人は私と間ちがいかねないのである。
情けないことには、そのマギらわしい私の名に似た芸名の上に、実に下品な夜ばい姿をした男の写真がのっていたことである。
もちろん、その武藤周作氏が私の名から芸名を考えたのか、どうかわからないし、私にはそれに文句をつける権利はない。
さりながら、その夏、一週間の間、私は軽井沢の町を歩くのが恥ずかしくてならず、家にとじこもっていた。東京に戻って友人に話すと、武藤周作氏はピンク映画では名の売れた俳優だそうである。
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イザヤ・ベンダサン氏のこと
「ペンネームですか。それは」とよく聞かれる。
遠藤などという姓は鈴木、森田という姓と同じぐらいに日本には掃いて捨てるほどいるが、周作という名はそんなに多いほうではないだろう。
「ペンネームですか。その名は」
と聞かれるたびにいいえ本名です。と始めは首をふっていたのだが、その質問が少し多すぎるのに気がついた。考えてみるとこの名から受けるイメージと実物のイメージが余りにちがうからだろう。村松剛が何処かに書いていたが、彼が一高生の時、たまたま私の書いた評論を読み、その名からキザな色の白い青年を想像していたらしいのだが、いざ、会ってみるとゴボウのように色の黒い、ガラガラ声の男だったのですっかり情けなくなったと言うのだ。
周作などという名は剣豪、千葉周作を連想させて甚だ照れくさい。私が後に狐狸庵などという雅号をつけたのは、周作からくるイメージを払いのけるためでもあったが、わが身のほどをよく知っているからでもある。
以来――
「ペンネームですか。その名は」
と聞かれると、「はア」と答えることにしている。
「本名は臭作というのですが、それでは何ですので、こういう名にしました」
臭作のほうが周作よりずっと気が楽で、私にむいている。
自分にある固定したイメージをつくられると息苦しい感じがしてならない。私は三年に一度ぐらいの割合で堅くるしい小説を書くので、それが発表されたあと、読者から私が、世界、人生に悩みぬいたようなイメージを抱かれるのではないかと思うと、たまらなく嫌である。実際にそんな手紙を読者からもらうと、自分が偽善者のような気がして、精神衛生上とてもわるい。
だからそのあと私は色々な形で自分が軽薄な人間であるということを自分の読者に知らせようとする。周作が臭作になりかわろうとするのはたいてい堅苦しい作品を書いたあとだ。
明治大正の小説家のなかには生活、社会、人生の大苦悩を背負って生きたようなポーズを持続していた人がいるが、私にはそういう作家の苦渋にみちたような顔写真をみると、心中、本当かなあという気がしてならない。本当に人間、悲しい時はワンワン声を出して泣かないものさ。私は女がワンワン泣いている時はあまり、こたえない。何もいわず、黙って、やがて、ひとしずくの泪がすうっと頬に流れた時のほうがこたえる。
私はペンネームはつけなかったが(狐狸庵は別)、ペンネームをつける人の心理はなかなか面白いと思う。その人の趣味や心理がその名にかなり、あらわれているからだ。
今の若い作家で漱石とか鴎外などというペンネームを自分につける人はほとんどいないだろう。第一、恥ずかしくて、とてもとても、名のることはできない。
最近のペンネームで一番、秀逸なのはかの有名なイザヤ・ベンダサン氏であろう。ベンダサン氏が何者であるかは未だに確定していないようだが、私は私なりに一人の日本人を考えている。そしてイザヤ・ベンダサンは筆名であると考えている。
イザヤ・ベンダサンは風雅な愉快な筆名だ。日本のジャーナリストの誰も気づいていないが、これは「いざや、便、出さん」をもじったものだからである。
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京都の娘
この二、三年、正月を私は家族をつれて京都で送るようになった。歳末の錦小路を歩きながら、東京の市場でも見られない食べものを見てまわるのも楽しいし、おケラ参りをしたあと、火のついた縄をクルクルまわしながら戻ってくる男女の姿を見物するのも京都ならでは、と思うからだ。もっとも名所旧跡や寺にはほとんど行かない。一度、正月元旦に、今日こそは静かだろうと思って嵯峨野に出かけたら、女性週刊誌をかかえた女の子やその恋人らしい男の子がゾロゾロと歩いており、自家用車がそのあとを行列して徐行している始末で、すっかりゲンナリしてしまったからだ。
京都のKホテルで司馬さんに偶然会った。この知識ゆたかな作家はまた話術の名人で、次から次へと京都の話、京都人の話をしてくださるから飽きることがない。
年末、最後の日に新京極に出て、高倉健のヤクザ映画と『華麗なる大泥棒』というベルモンド主演の映画をハシゴで見てホテルに戻ったらフロントに、年越そばと小さな名刺がおいてあった。
名刺には「わたしはファンの一人ですが、この年越そばはオイシイから、たべてください」
可愛い文字で書いてあった。中学生の女の子のような字だった。私はこれでも意外と中学生に読者を持っていて、時々、泣きたくなるような手紙をもらうことがある。私が病気をしたと誰かに聞いたから自分の家に来い、自分の家は空気もいいし、水もいいから療養に来てくださいなどという手紙をもらうと、もう何ともいえなく嬉しくなってしまう。
もっとも時々、
「わたしは、あなたについて歌を習いたいのです」
という葉書がまい込んでくる。始めはフシギ、キテレツと思っていたが、それは私に歌ごころが全くなくて、自分でポッポッポを風呂場で歌っているつもりなのに、家人には豚が悲鳴をあげているとしか聞えないというほどの悪声だからだ。
だが、そのうち事情がわかってきた。私に歌を習いたいと書いてきた地方の少女たちはどうやら、遠藤実氏と私とをまちがえていたらしいのだ。
手紙や葉書をくれるだけではなく、家にたずねてくる中学生もいる。
「ぼく、小説家になりたいんです」
と可愛い男の子が勝手口で家人に言っている。
「弟子にしてもらいたいんです」
家人は懸命に首をふって、小説家なんか実にクダらんからおよしなさいと言っている。
「そうですか。そんなら、よそうかなア」
と中学生。
「そうなさいよ。そのほうが、いいわ」
「そんなら、ぼく、漫画家になります」
二階で聞き耳をたてていた私は思わずそのケロリとした言い方に吹き出してしまう。
さて、その年越そばにつけられた名刺を見て、私は女子中学生かなあ、と思い、
「礼を言わなくちゃ、いけないな」
と名刺の電話番号に電話をかけてみた。
すると受話器に出てきたのは、年頃のお嬢さんだった。クックッと笑っている。私は嬉しくなり、正月三日までいますから、一度、遊びにいらっしゃいと言った。
ところでそのお嬢さんが正月二日の夜、遊びにきてホテルのバーで、京都の話を色々してくれたのだが、その話で印象に残ったのを一つ、二つ。
京都に私が住みたいと呟くと、彼女は京都に住むには心得がいるという。
たとえば、京都の家をたずねて、「どうぞあがっておくれやす」と言われてノコノコ、あがってはいけない。あとで、あの人は礼儀知らずだと悪口を言われる。「どうぞあがっておくれやす」が三度くりかえされなければあがってはいけない。まして「おぶづけでも食べていっておくれやす」と言われたら、「いえ、用があります」と断らなくてはいけない。
玄関で座蒲団を持ってこられて腰かけて下さいと言われても、座蒲団のおき具合をじっと見てから、その半分が土間に垂れているようなら、腰かけたらアキまへん。もし腰かければあとで悪口を言われますわ。京都の娘は男から、うまいこと言われてもその二十パーセントしか信じませんねん。だから、先生がわたしのこと、可愛い娘だなあと言いはっても、二十パーセントしか信じませんねん。
私はその話を聞きながら、このお嬢さんのサービス精神に一寸、感心した。そして、京都というところは、やはり一度、住んでみたいところであるなあ、とつくづく思った。
私は「どうぞあがって、おくれやす」と言ってノコノコ、あがるような神経は好きでない。そして、あがった者を正直とも思わないし、あとでその当人の悪口を言うような京都人が裏表あるとはつゆ考えない。こういう挨拶はいわば芸道でいう「約束ごと」であって、お茶の席に出ても、ああ、こんなことバカらし、と思うような作法が次々と行われるが、その作法が茶席で必要なように、会話にも「約束ごと」があって一向に差支えないと思うからである。「どうぞあがって、おくれやす」と三度、言わないうちにノコノコあがる人間は「約束ごと」を守らなかったから、礼儀知らずと言われても仕方がないのである。「まあ、腰かけておくれやす」そういって座蒲団をもってくるのは形である。向うが形をみせたのに、その形を無視して、ドシッと腰かけるのは作法はずれである。
そういう形は偽善的だとか、真心にかけているというのは非常に狭い見方なのであって、たとえば外国でディナー・パーティの招待状に「七時にお出でください」と書いてあったから七時にベルを押せば、思いやりのない客と考えられる「約束ごと」とよく似ている。七時においでくださいと招待状に書いてあれば七時十分か、十五分にベルを押したほうがいいのは、そこの主人や夫人の身支度に余裕を多少、与えてやる思いやりが、あるからである。
「おぶづけでも、食べていっておくれやす」
と昼近く、主人側が言うのは「約束ごと」であって、その約束ごとの作法にこちらは相手を思いやり、
「この次、ごちそうになります」
と言うのは、まずまず当然であろう。京都の言いまわしはなかなか面白い。そういう言いまわしは決して偽善ではないのだから京都人は今後もまもり続けてほしいと思う。
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信長のこと
そのお嬢さんに会った翌日、同じホテルのバーで夜、司馬遼太郎氏と一緒に飲んだ。司馬さんの話はまことに面白く、聞くものをして飽かしめない。私はそのお嬢さんの京都人についての話をすると司馬さんはこんな話をしてくれた。
織田信長が三好一族を亡ぼした時、三好家のコック長ともいうべき男がつかまえられた。信長は早速、このコック長、辻本某の首をはねようとしたが、とめる者あって、料理をこしらえさせ、それがマズければ殺されては如何でしょうかと忠告された。一命をとりとめた辻本某は早速、膳をこしらえたが、信長は彼のつくった京都風のウス味がわからず、
「殺してしまえ」
と怒鳴った。
「もう一度、こしらえさせて、くださりませ」
と辻本某は言った。そして今度は美濃に育った者にむいた強い味で料理をこしらえると、田舎者の信長は舌つづみをうち、うまい、うまいと感心したと言う。
さて、話はそれからである。一命とりとめた辻本某はその後、同僚にそっと語って言うには、あの時、俺は信長にはうす味などわかるまいと思って、わざと試してみせたのだ。そしてそのあと、これまたわざと田舎者の好きそうな濃い味にしてやったのだと。
司馬さんはこの話を京都の友人に語ったところ、その友人はこう言ったという。
「本当の京都人なら、それだけでは、すまさないね。本当の京都人なら、信長が濃い味の料理をうまいと言った時、わざと感心してみせて、なるほど、おかげさんで今日は料理道を教えてもらいましたとお世辞を言うのさ」
京都の人はこわいとよく言われるのはこういうことだろう。かつて水上勉氏につれられて祇園のお茶屋に行った時、あるエラい人の掛軸がかかっていた。そのエラい人の掛軸の字はどうみても上手とは思えなかったので、私がこんなもの、なぜ、かけているのかなと呟くと、勉さんはそれが京都やがなと笑った。ながいながい歴史、権力者が入れかわりたちかわり地方からこの町にやってくる。京都の人はそのエラい人のいる間、心のなかでセセラ笑いながら頭をさげる。エラい人が次のエラい人に代ると、また心中、セセラ笑いながら新しいお方に頭をさげる。この掛軸はそれを示していると、水上勉氏は教えてくれた。
司馬さんの織田信長と料理人辻本某の話をホテルのバーで聞きながら、私はふとこの掛軸のことを思いだした。
私は信長のことが決して嫌いではない。辻本某には心中、馬鹿にされたが、彼こそ当時の近代主義者だと思っている。武田の騎馬隊にたいして鉄砲を使って戦うというその後の合戦戦術の方法を考えついたのも信長だし、本願寺と戦った時、毛利水軍にたいして日本最初の鉄甲船を作ってこれを撃破したのも信長である。
私はかつて必要あって、信長の頃に日本にやってきた南蛮宣教師の通信文をかなり読んだが、宣教師たちは秀吉や家康よりもはるかに信長を(彼等の功利的な意味もあるが)激賞している。
信長が生れて始めて黒人を見たエピソードなど、はなはだ愉快である。
信長が京都にいる時、宣教師が謁見に出かけたが、その時、この宣教師の従者に一人の黒人がまじっていた。(おそらく日本で最初に来た黒人であろう)
その黒人を見た信長は非常に驚いたらしい。『信長記』にも真黒な牛のようだと書いてある。信長は家人に命じてこれを洗わせたが、洗って落ちる筈がない。珍しがった彼は宣教師に命じてこれをもらいうけた。
この黒人は後に信長の息子、信忠にあずけられ本能寺の変の時、明智光秀に捉えられたが追放され、行方をくらましてしまった。
日本で一番はじめに黒人の来た模様は前に書いた通りだが、日本で一番はじめに眼鏡をかけた人間が来たのも織田信長の時で、その人間も宣教師だった。
その時、信長は岐阜にいたのだが、その彼に謁見すべく眼鏡をかけた宣教師がその地に赴くと、さあ、びっくりした日本人たちは、
「四つ眼がきた」
四つ眼が来たと近隣近在から集まり、その宿舎の前は押すな押すなの人だかりだったという。傑作なのは彼等がこうして待ちかまえていると宿舎から出てきたのは宣教師の従者の一人で片眼の修道士だったので、見物人たちはガッカリしたという話だ。
日本で一番はじめに象が来たのはカンボジア国王が九州の大友家に送った時だが、この象はすぐ死んだ。二番目に送られてきたのは秀吉の頃でこれはマニラの使節が連れてきたもので、大坂城で秀吉は秀頼の手をひいて象を見たという。この象は桃をもらうと足を折って挨拶する真似をしたので、秀吉はひどく感心したそうだ。
日本で一番はじめに鉄砲がきた場所は種子島だということはよく聞くが、あれは出鱈目で、種子島にもたらされる前に、平戸の松浦家に南蛮商船が見せている。
ところで正月、京都で司馬遼太郎氏と話をしていた時、司馬さんは「信長の家は、今でいえば地方の鉄工所の経営者みたいなものです」
と言われたのは面白かった。
尾張の小鉄工所ぐらいの経営者が、今川といういわば静岡県の財閥を相手にケンコン、イッテキの勝負をしたというわけか。
私は二年ほど前、信長がその頃いた、あの清洲の城と桶狭間のあとをたずねたが、率直に言ってガッカリした。信長が舞をまって出陣した清洲城のあとはゴミだらけの猫の額のような小公園になっているだけだし、桶狭間のあとも周りにぎっしり住宅がならび、烈しかったあの雨中の戦いを偲ぶこともできない。
信長という人は宣教師の書くものを見ると家臣に非常に怖れられていたようで、近習たちはその顔色の動き一つでかけまわっていたという。信長はある日、外出から戻ると、侍女たちが泊りがけで寺まいりをしていたので彼女たちを処刑したし、部屋に塵が落ちていたというだけでその係の女を殺している。二条城の工事をしている信長を宣教師がたずねた時、彼等の眼の前で、自分の侍女の一人の被衣にさわった人夫の首をはねている。
「姉ちゃん、いい体しているなア」などと言おうものなら、たちまち殺されるわけだ。私など信長の家来なら、もう初日で殺されていたろう。
そんな信長が実に珍しく人間味ある手紙を書いている。それは何と、秀吉が妻のねね[#「ねね」に傍点]と夫婦喧嘩をした時に、ねね[#「ねね」に傍点]を慰めた手紙である。
「仰せのごとく、こんどは、このじへ初めて越し、見参《げざん》に入り、祝着《しゆうじやく》に候。殊に土産色々うつくしさ、中々目にもあまり筆にも尽しがたく候(略)中んずく、それの眉目《みめ》ぶり、かたちまで、いつぞや見まいらせ候折ふしよりは、十のもの女ほども見あげ候、藤吉郎|連々《れんれん》不足の旨申すのよし、言語道断、曲事《くせごと》に候か。それさまほどのは、又|二《ふた》たび、かのはげ鼠(藤吉郎のこと)相もとめがたき間、これより以後は身持を陽快になし、いかにも、かみさまなりに、おもおもしく、悋気などに立ち入り候ては、然るべからず(略)」
女の心理のツボをちゃんと心得た手紙で、へえ、信長がこんな手紙と、これを読んだ時、私はいささか、驚いたくらいだ。
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天下を変えたマヌケ男
京都ホテルから河原町に一寸、歩いた方向に織田信長公霊廟と本能寺がある。にぎやかな通りだからつい見すごしてしまうような小さな寺であるが、この本能寺の場所はもちろん、かつて信長が光秀のクーデターにあって自決した旧本能寺と同じ場所にあるのではない。
私は時々、考えるのだがもしあの光秀のクーデターがなかったなら、秀吉はどういう一生を送ったであろうか。
司馬さんにそれをホテルでたずねてみると、
「いや、その場合は秀吉は生涯、信長の下でモミ手をしながら送ったでしょうね。信長という人は実に部下を休息させずコキつかった人で、あの機会がなければ秀吉も東奔西走で疲れ果ててうだつがあがらなかったでしょう」
という意味の御返事をしてくださった。
こんなことを書くのはたいていの人間の一生は多かれ、少なかれ、信長型、秀吉型、家康型の三つにわかれるようで、それぞれの胸に手をあててみると、なるほどこれら三人のように天下をとるなどという大規模なことは成就できないが、運の切り開きかたという点ではこの三人のどれかに当てはまるような気がすると思うからである。
棚からボタ餅に運が開けてきたのは秀吉が備中高松城の水攻めで城主、清水宗治の頑強な抵抗にあい、ほとほと閉口している矢先だった。突如として信長の死のニュースがもたらされたのである。それまでの秀吉とくると、信長という怖ろしい主君のために、おそらく自分が天下者となるなどという野心はあまり持っていなかったかもしれない。
彼とて戦国の武将であるから、そういう夢は持っただろうが、それはおそらく生涯、実現不可能の夢と自身でも知っていただろう。
ひともみで潰せると思った高松城は意外に手古摺った。手古摺ったが、ようやく秀吉は、もう大丈夫と思えた頃、信長に御出馬くださいとたのんでいる。これはあきらかに信長にたいするおベンチャラであり、また保守策でもあった。信長は意外と部下に嫉妬心がつよくて、部下が功をたてすぎると、時にはこれを叩く場合がある。秀吉はそれを心得ていたから高松城攻略の功を主君の御威勢によるものとしたかったのである。
その矢先、目の上のタンコブであった信長が死んだ。光秀、よくやってくれたと秀吉は言いたかったであろう。
ものの本によると、このニュースが秀吉の手に入ったのは、何と光秀が高松城を助けにきた吉川勢に自分のクーデターの成功を知らせ、同盟を求めるべく、送った使者が少しヌケていて、秀吉側の陣地にノコノコやってきたためである。
このマヌケ使者はおそらくその場で殺されたろうが、自分の失敗が、日本の歴史を変えたとは当人、死ぬまで気づかなかったろう。もしこの使者がちゃんと吉川の陣地に手紙をとどけていたならば、秀吉は急遽、姫路に引っかえして光秀と天王山で一戦をまじえる余裕もできず、天下は誰のものになったかわからぬからである。
私はこのマヌケ使者に何となく憐憫を感じる。三年前、このマヌケ使者のことを現場で思いたいため、わざわざ、倉敷市から近い、この高松城をたずねてみた。城はひろい水田にかこまれた小さな丘陵にその本丸跡を残すだけで、かつて周りを沼沢でかこまれた難攻不落の城塞をしのぶすべもなかったが、空にはトンビがヒョロ、ヒョロと鳴きながら飛び、秀吉やその部将の陣どった山々の上に青空が雲一つなかった。天下を知らずして変えたマヌケ使者の名も素姓もわからぬが、歴史のなかには無名のこういう人間がいるのだと思った。
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狂った秀吉
ところで秀吉のことを考える時、私は彼を二重人物と思うことにしている。天下統一をする前の彼と、それ以後の彼とである。その二つの彼はなるほど、同一人物だが、頭の構造は全く違う。前の彼は正気で実に頭がよいが、後の彼は、はっきり言うと狂気の人である。光秀を攻略し、勝家を亡ぼし、家康と事をかまえて身を引き、小田原攻略にのりだす頃までの彼を調べると、実に運のよい男だが、その運を最大に利用する利口な人だとつくづく思う。
ところが朝鮮に兵をすすめた頃の秀吉はどうみても狂った老人である。狂った老人という言葉が悪ければフウテン老人である。少なくとも昔もっていた明敏な判断能力が欠如し、甚だしいウヌボレと甚だしい小児性がその行動に随所に見うけられる。
「はやばやと状給り候。御うれしく思いまいらせ候。よって、きつ、かめ、やす、つし、御気にちがい候よし、承り候。沙汰のかぎり候間、かかさまに御申し候て、四人を一つ縄にしばり候て、ととさまのそなたへ御出で候わん間、御おき候べく候。我ら参り候て、ことごとく、たたき殺し申すべく候、御ゆるし候まじく候、かしく」
これは秀吉が六歳の愛児、秀頼へあてた手紙だが、文面にある通り、きつ、かめ、やす、つしという四人の侍女が秀頼の気に入らなかったと聞いて、四人を一つ縄で縛るように母さまに言え。自分がそちらへ行くまでそうしておきなさい。きっと殺してしまうからと書いた文面である。
もちろん文字通り受けとるべきではないかもしれぬが、昔の秀吉なら自分のあと取りにこのような甘やかし方は決してしなかった筈である。甥などにも随分、立派な忠言を与えていた時もあったのである。おそらくこの手紙は彼の本心であり、本気で六歳の秀頼の意にそわなかった四人の侍女を処刑するつもりだったのだろう。
私はこの間、このフウテン老人が朝鮮出兵の時、大本営とした九州西端の名護屋城の跡と、その時の軍港となった呼子にぶらりと行ってみた。かつては二十数万の軍勢が出陣のために集まった呼子も名護屋も今は冬の弱い陽にてらされ、時折、漁船の出入りするわびしい町になっていたが、海だけは広く、悲しく拡がっていた。
この名護屋で秀吉はこの地方の名家だった波多三河守の妻に手を出そうとして、それに失敗すると、朝鮮で奮戦していた三河守の帰国上陸をゆるさず、彼を筑波山の麓にながし、その家をとりつぶしている。本心は別のところにあったのかも知れぬが、そのやり方が非人間的である。
人間、権力をもつとただでさえ思いあがる。だがそれ以上に秀吉の晩年は非常に小児的で、しかもイヤらしい。私は秀吉に関する本を読むたびに、晩年の彼と、中年時代の彼との頭がこうも違ってきたのかと驚くことが多い。おそらく病気にかかっていたのではないか。それを見ぬいていたのは小西行長で、小西行長という人の評価はもう少し高くあっていいと私は思っている。
秀吉のことを考えるたび、私は若かった頃、ある飲屋で仏文学者の渡辺一夫先生が教えてくださった言葉を思いだす。
「遠藤君、人間の一生で一番、生きるのがムツかしいのは老年です。若い時や壮年時代は失敗しても社会が許してくれます。まだ役にたつからです。しかし役にたたなくなり、顔も体も醜くなった老年には世間は許してくれません。その時、どう美しく生きるか、今から考えておきなさい」
先生はこう教えてくださったのである。
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夫婦愛こまやかな手紙
[#ここから2字下げ]
返す/″\下《しも》くだしを指し候て少し大便 おり候ように致したく候。ただし大便いく日《か》ほどおり候や、目出たき左右《そう》待ち申し候……大便に少しおり候わばよく候わん。下くだし、少し指し候わんや。かしく
[#ここで字下げ終わり]
これは秀吉が天正十三年の頃、妻のねね[#「ねね」に傍点]に送った手紙である。ねね[#「ねね」に傍点]というのは、この前、信長が秀吉の夫婦喧嘩の仲裁に入って手紙を書いたその当人である。
文中の下くだし[#「下くだし」に傍点]とは何か。言うまでもなく下剤のことだ。秀吉が妻の便秘を心配して下くだしをもっと使えと遠くから書いた手紙で、私は亭主が女房に送った手紙のなかでも、最も情愛こまやかなものとして第一等だと思うのである。我々ならば、カミさんが糞づまりになっても知らぬ顔。旅行さきから秀吉のように「下剤を使って、少しウンコが出るようにしなさい。ウンコが少し出れば良くなるぞ。かしく」
などという手紙などアホ臭くて、とても出せるものではない。
ねね[#「ねね」に傍点]は秀吉の死後も諸将が慕うほどの心がけよき婦人だったらしいが、悲しや、便秘に苦しんでいたことは、計らずもこの秀吉の手紙で発見されたのである。(ヤハリ学問研究ハ大切ダ)ねね[#「ねね」に傍点]のように便秘にくるしむ女性はかなり多い。私も知っている女優さんなどで、少し痩せがたの人に、
「あなたは、ロケなどに出られると、便秘で悩むでしょう」
と言うと、たいてい顔を赤らめて、
「ええ」
とうなずく。
ひどい女性になると三日も四日も便の出ない人がいるそうだ。そういう女性に出会うと、私は昔、若い頃は、いかに美貌の人でもお腹のあたりがマックロに糞だらけのような気がしてゲンナリしたものであるが、今は少しは人生がわかってきたのか、それもよしよし[#「よしよし」に傍点]という心境になってきた。
フロイトの説によるとケチは便秘症だそうだ。(断っておくが、逆は必ずしも真ならず、便秘症、必ずしもケチではない)それはケチな女性ほど、自分の所有物を、手ばなしたくないという無意識の本能があり、自らのウンコまで体外に出したがらないからである。便秘症の女の五十パーセントはケチだから、こういう女性と交際しても、決して自分のハンドバッグから財布をだして、こちらに酒をのませてくれるということはない。
しかし糞づまりというのは実にくるしいものだ。
終戦後まもなく、東京八重洲口にあった公衆トイレに入っていたら、隣から、猛獣映画の夜の録音のようなうなり声が聞えてきた。その男は私がいるのを知らず、自分一人だけだと思って声をだしたのであろうが、いや、はや、呻くような、唸るような声で、揚句の果て、壁を叩いているのである。横で聞いている私もきがきではなく、ひたすら、彼[#「彼」に傍点]の御安産を祈っていたのであるが、やがて遂に御出産らしい悦ばしい音がきこえた。
どういう御仁かと先に出て、手を洗っていると、なんと、ドアを開けて出てきたのは男ではなく、モンペをはいた妙齢の女性だった。非常にスマして、全く何もなかったように立ち去っていった。これだから女はおそろしい。
秀吉のことを書いていたら、また話がおちてしまったな。水は低きにおのずと流れると言うが、全く身の不徳の至すところ情けない話である。今後二度と品のない話は書かない。お許しをこう次第だ。
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憶えていますか
昨日、突然、市川崑さんが狐狸庵の戸を叩いてくれた。崑さんは、三月からはじまる彼のテレビ映画に私の小説をとりあげてくれたので、そのロケハンティングに拙宅に寄ってくれたのである。
崑さんを見ていると、絶対に口から煙草をはなさない。一本すうと、もう別の煙草が口にくわえられている。手品で次から次へと指の間から煙草をだすのがあるが、あれを見ている気持である。
崑さんと日本映画界の不況、不振を嘆きあっていると、
「だから、あなたも、昔、松竹を受けて落ちてよかったですなあ」
と彼は笑った。
崑さんは私が大学を出た直後、松竹の助監督試験をうけて、みごと、落第したことを知っているのである。
全くだ。
もし、あの時、松竹に入社できていたならば、崑さんのように映画の才能のない私など今ごろ、食いはぐれて途方にくれていたにちがいない。あるいは逆に監督になるほうは失格はしたが俳優のほうに転職し、今頃は高倉健にバサッと切られる悪いほうの親分の、そのうしろにいる男ぐらいの役はもらっていたかもしれない。
今年の正月は六本ぐらい映画をみた。『華麗なる大泥棒』『ウイラード』『007/ダイヤモンドは永遠に』『ル・マン』と正月、京都・新京極でやっていた洋画を毎日、はしごでのぞいて、見るものがなくなったから高倉健の『吹雪の大脱走』まで鑑賞した。
映画館を出ると、入った時はあかるかったのに、もう日がすっかり暮れて、周りの商店に灯やネオンがついている。そんな時は必ず、少年時代、親の眼をかすめて映画に行き、見終って外に出た時のヤマシい気分と、家に戻ってからの言いわけを考え考え歩いていたことを思いだす。
あの頃、少年だった私を感激させてくれた映画と俳優よ。今はあなたたちの消息もきかないし、あなたたちの名を憶えているファンも少なくなったが、私は少年時代を考える時、あなたたちをヌキにはできないような気がする。
羅門光三郎さんよ。あなたのチャンバラ映画が私は大好きであった。あなたのチャンバラ映画を見ると、私は家に戻って、きたない風呂敷でフクメンをして、チャンバラの恰好を一人でしたのを憶えている。
高勢実乗さんよ。あのネのオッさんよ。私は今でもあなたが日本のキートンだったと尊敬している。私は尊敬のあまり、東京に行った時、成城のあなたの家を二時間かかって探し、表札をぬすんで戻ったぐらいだ。
大谷日出男さんよ。あなたの白ズキン・シリーズが来るたび、その広告が電信柱にはりつけられていて、私は土曜日が待ち遠しくてならなかったぐらいだ。
桑野通子さんよ。ニキビだらけの中学生が、はじめて世の中にこんな美しい女の人がいるのかと仰天したのは、あなたのおかげだった。私はあの頃、あなたのブロマイドをどんなにこっそり集めたかわからない。
あなたたちの映画を親にかくれてコッソリ見にいっているうち、私は自分も映画界に一生をかけようなどと夢みたいなことを考えてしまった。大学を出て松竹を受けたのはそのためである。しかしその入社試験で落第をしたため、私はそちらに行くことを断念してしまった。
残念だったなあ。
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鬼の眼にも泪
今の若い人には一生、忘れられない思い出の映画などありえないのかもしれない。あの年、あの映画を見たという記憶がその後も何時までも残るというようなことはありえないのかもしれない。
だが私のような年代の者にとっては戦争中の暗い日々に見た映画、戦争のあとにすべてが解放されたような気分で見た映画の一つ一つが、まるで自分の精神年齢という樹木の年輪を示すもののように心に甦ってくるのである。
安岡章太郎という作家と一緒に飲んでいると、彼はしばしば立ちあがって仏蘭西語でシャンソンを歌う。シャンソンと言ってもそれは戦後のシャンソンではない。戦争中に幾度も幾度も上映されたルネ・クレールやデュヴィヴィエなどの仏蘭西映画の主題歌なのだ。安岡は仏蘭西語はできないけれど、その主題歌だけはみな原語で暗記している。彼がどのくらい繰りかえして、その映画をむさぼり見たかが、それではっきりとわかる。
そう、むさぼり見たものだ。私もそうだった……。
飲屋で、ひくい声で安岡が口ずさむシャンソンを聞いていると、私はその背後に重くひびく軍靴の音を同時に耳にする。昭和十七年から十八年。東京の街はもうすっかり死んだようになっていた。中国での戦争はやがて日米戦争に変り、日本が泥沼のなかでもがいている感じが、我々国民にもよくわかった頃である。
学校でも勉強らしい勉強はほとんどやってくれなかった。その代り軍事教練と勤労動員での工場の作業が学生たちの日課になっていった。
東京はいつも灰色の雲に覆われてその雲のなかで鈍い爆音がきこえていた。
そんな日々、時折、新宿の光音座という映画館でかけられる古い古い仏蘭西とドイツの映画、画面には雨がふり、トーキーの録音はすっかりかすれていたが、それが、何だったろう。『白き処女地』『我等の仲間』『商船テナシチー』『地の果てを行く』『会議は踊る』『夜のタンゴ』――私はまだそれらの題を一つ一つ思い出すと、そのすじやイメージさえ話すことができる。『舞踏会の手帖』にながれたあの音楽を決して忘れたこともない。
それは私たちにとって手の届かぬ遠い世界だった。にもかかわらず、そこに何となく漂う暗い絶望的な匂いは私たちのその頃の匂いによく似ていた。便所の匂いがどこからか漂い、うしろの映写幕からスクリーンに注ぐ白い光のなかに埃がいっぱい浮きしずみしていた。そして映画を見て外に出ると、家々や店々は窓という窓を暗幕や黒い紙でかくし、やがてくる空襲にそなえていた。私たちもいつか兵隊として入営せねばならぬ日が来ることが痛いほどわかった。
安岡がひくく口ずさむ仏蘭西映画の主題歌をきくと、それら一つ一つが心に甦ってくる。
昭和二十五年――戦争が終って五年目に、私は仏蘭西のリヨンの大学に通っていた。まだ日本は戦犯国で平和条約も結ばれておらず、リヨンには日本人は私を含めて三人しかいなかった。私の生活はかなりみじめでかなり孤独だったのは、そんな戦犯国の留学生だからかもしれぬ。
ある日、そのリヨンの場末の映画館で偶然『舞踏会の手帖』を上映していた。隅の席に坐り――客はほとんどいなかった――画面を見ているうちに、私はどうにもならぬ気分になり泪をながした。映画のせいではない。遠い国で、昔、戦争中にむさぼり見たこのフィルムをまた見られるとは思えなかったからだ。
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わるい奴
マリリン・モンローの懐かしい映画『帰らざる河』を見終ったとき、はなはだ奇異な感にうたれた。
というのは、この映画はマリリン・モンローと一人の男と、その男の子供の三人が小舟をあやつって様々な危険にめぐりあう話なのだが、小さな小舟に一日中、のりながら、モンローの演ずる女が一度も用を足していない。用を足していたのかも知れぬが少なくとも映画のシーンには出てこないのだ。
映画だから当然だ。そんなもの別に映す必要はないといえばそれまでだが、三人しか乗れぬ小舟で、男ならとも角、女がどうして用を足したか、ふしぎに思うのも確かなのである。
この頃の映画となると、平気で用を足す場面をうつすようになった。この間、見た高倉健の『吹雪の大脱走』では、一人の男性俳優が便所で堂々と放尿しているのを、そのまま映しており、さすが私も何だかイヤな気がした。こういうのを文字通り、クソ・リアリズムというのだ。
しかし用を足すということが人間の運命に影響を与えることがある。事実かどうか知らぬが、秀吉は小田原攻めの時、箱根の山中で家康と共に並んで放尿しながら関東移封を命じたという。先祖伝来の三河から未開の関東に家康を移すのは秀吉の策謀だったが、それをわざと一緒に放尿している時に言ったというのが、また術《て》である。俗にいう「関東のつれ小便」というのはこれだ。
男ならどこでも用を足せる。勿論、罰金を覚悟なら町中だってできる。しかし女の場合は必ずしもそうはいかない。私の知っている女子学生で手洗いを我慢したためにジンウエンにかかった娘がいる。娘を持つ親は気をつけられたい。
昔、女の子と歩いている時、女の子の返事が次第にアイマイとなり、何となく、心ここにあらざる表情になるを見て、あッ、トイレに行きたいのだなあと、すぐ気づくことが時折あった。
今の娘ならはっきり、トイレに行きたいの、と言うだろうが、私の若かった頃の娘たちは非常につつしみ深かったから、そんなことを口にしない、我慢している。そして一緒につれだっている青年(かつての私)が喫茶店に早く入ってくれないか、早く入ってくれないかと心のなかで念じているのが手にとるようにわかる。
今、思えばワルいことをしたと思うのだがそういう時、私は、
「気持いいなあ、まだ歩こうよ」
などと言い、眼前に喫茶店があっても決して入らなかった。向うは恨めしげに店をチラッとみる。
「そこでですねえ、君はカミュの小説、好きですか」
わざと、私はキザでムツかしい話を持ちかける。カミュでもサルトルでも何でもいいのだ。こういうキザでムツかしい話を持ちかけられた時、女の子はトイレなどと言えるもんじゃない。それを計算しているわけだ。
「彼の『シジポスの神話』を見るとですねえ、結局、人間に耐えることを教えているんですね」
「ええ」
「耐えること……スバらしいなあ」
向うは必死に耐えている。トイレに耐えている。まさにカミュ精神を実践しているのだ。
ギリギリ限界一歩前で私は喫茶店に入る。而して彼女が脱兎の如くトイレに前進するのをみてニタニタと笑うのだ。何と悪い人間ではないか、この私は。
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カンニング
今の中学生は父兄同伴でなくても映画に行けるようだが、私の中学の頃は絶対に一人で映画館や劇場に行ってはならぬことになっていた。
私の出身中学は灘中学――今の灘高である。灘高を卒業したなどというといかにも秀才くさく見えるがとんでもない。当時の灘中は大体、神戸一中に入れなかった落第坊主や阪神の酒屋の息子の入った学校で、その連中のなかで最も劣等生だけで構成されたクラスに私はいたからである。
私の中学生活は教室で先生の授業をきくためにあるのではなかった。先生の授業をきいても何を言っとられるのか、サッパリわからなかったから、居眠りをするか、教科書の下に春陽堂文庫の江戸川乱歩の本をかくして、『一寸法師』とか『黒蜥蜴』とかをこっそり読んでいるのであった。
時々、私は先生が黒板をむいておられる間、教室をすばやく逃げだし、校舎の外にある土管のなかにもぐりこむことがあった。その土管は地面の下を学校の外まで出ていて、その出口のまん前に今川焼屋があったからである。私たち悪童は土管を這って、今川焼を買い、またすばやく教室に戻ってくることを英雄的行為と考えていた。
今考えるとなぜそんな馬鹿げたことをしていたのか、自分でもさっぱりわからんのであるが、とに角、そんなことをやっておったのである。
ある日、この土管のなかで向うから這ってくる上級生にぶつかった。その上級生は私より前に今川焼をかって戻ってくる途中だった。一人しか這えぬ土管だから、向うが、
「おい、さがれ」
と言う以上、退らざるをえない。私は仕方なく外に出ると、そこにコワい顔をして教師がたっていた。
「何している」
私は黙っていた。その時、今度は上級生が袋に入れた今川焼をかかえて、這い出てきた。教師は我々にビンタを三、四発くらわせ、今川焼の袋をとりあげて去っていった。
ビンタをくうといえば当時の中学教師は実によく生徒にビンタをくわせた。私なども撲られるため学校に行っているようなものだった。「兎に角」を「ウサギにカク」などと読み、習字の時間に墨で幽霊の絵を書き、そしてあとは机でうつ伏して眠っているか、江戸川乱歩の本を読んでいるような私なら教師も呆れ果てて撲りたくもなっただろう。
私のたのしみは土曜毎、映画に行くことだった。映画に一人で行くことは絶対に禁じられていたし、もし見つかれば謹慎処分にさせられることになっている。教師のほかに県の補導委員という人たちが映画館に行って、中学生が来ないか、眼を光らせているのだ。その危険を犯して映画館に行くのは実にスリルがあった。
試験の時、カンニングも随分やった。カンニングの道具を作るために前日一日をつぶしている状態で、ゴムの先にカードをつけて、ゴムを腕にはめておき、教師が近づくと手の中のカードを放し、上衣の袖にかくすという道具も作ったが、これは実践不可能だった。
教師も教師で、わざと教壇で新聞をよんでいる。こちらは相手が新聞を読んでいると思って早速、カンニングをやりはじめる。ところが教師は終了のベルがなると同時に、カンニングをした連中の名を一人一人言う。私らにはその透視術がわからなかった。
卒業の時、この教師にどうしてわかったのかとたずねると彼は笑いながら言った。
「なに、新聞の真中に小さい穴をあけて、そこから、すべて見ていたのさ」
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年をとりました
現在の男子中学生はどうか知らぬが、当時の中学生とくると、甚だ小児的なところがあって登校、下校の途中、他校の中学生とゆきちがうと、それだけで喧嘩をする奴がいたものである。ちょうど二匹の犬が出会うと、すぐ歯をムキ出してウーンと唸るがごときであった。喧嘩の道具には剣道の竹刀の鍔を使ったり、自転車のチェーンをかくしている者もいた。
そういう連中も、道ですれちがう相手が男子中学生ではなく、女子学生だと途端に体をかたくし、ニキビ面を真赤にする。男女交際は禁じられていた時代だから、不良といわれる連中も事、女性に関するとウブなところがあったのだろう。
私は硬派でもなく軟派でもなかった。私はノラクラ者で勉強が甚だしくできないことと、先生にはクラスで一番ビンタを受けているがゆえに硬派からも軟派からも交際を拒まれることはなかった。私は硬派の男が芦屋川の河原で他校の生徒とケットウを行う時、附添人としてついていったことがある。附添人だったから二人が喧嘩している間しゃがんで待っていた。
既に書いたことだが、私たちの近所に甲南女学校(現在の甲南女子大)があって、その生徒がわれらの憬れの的であり、そのなかに佐藤愛子が存在していた。存在していたなどと大袈裟な表現を使うのは、当時の彼女は立てばシャクヤク、すわればボタンとまではいかなくてもタンポポよりはずっと美しかった。くろい、大きな眼でじっと見られると、呼吸がとまりそうになる感じだったが、彼女は我々にそうしてくれたことはない。
「俺のこと、おぼえているか」
後年、彼女が私と同業者になった時、そうたずねると、
「おぼえてへんなア。でも何や、電車のなかでうすぎたなくて、臭いのによう出会うたのおぼえているけど、あれ、あんたやあらへん?」と言った。
私は俺やないでと答えたが、おそらくそれは私だったかもしれぬ。私は当時、入浴一週に一度もせぬことを自慢にしていて、友人からソバプンなどとアダ名をつけられていたからだ。ソバプンとはけだし、そばに寄るとプンとにおうからである。
こんなことを平気で今、書けるようになったのも、おたがい、もう欲のなくなった爺さん、婆さんになったからかもしれぬ。
往年、大きな眼でじっと見ると男の子が身震いをした佐藤愛子も今や媼《おうな》になりつつある。
この稿を書くために、私は彼女に電話をかけたばかりである。(取材費のなんと、かかることよ)
周[#「周」はゴシック体]「なに今、してんネン」
愛[#「愛」はゴシック体]「なにも、してへん。テレビで『ガメラ対ギャオス』という子供映画、見てるねん」
周[#「周」はゴシック体]「あれ、おもしろいわ。亀のおばけの出てくる映画やろ。働かんのか」
愛[#「愛」はゴシック体]「原稿用紙、見るのイヤになってん」
周[#「周」はゴシック体]「年やなあ。ぼくかて、もう駄目や。この頃、溲瓶《しびん》、枕元においてんのや。年で便所が近うなったさかいなア、あんた、まだ溲瓶使うてへんのか」
愛[#「愛」はゴシック体]「まだや。でもあの溲瓶を使う音、ええもんやわ。人生のわびしさがあるわ」
周[#「周」はゴシック体]「君も……年とったなあ」
愛[#「愛」はゴシック体]「何、言うか。あたし、まだ若いつもりやッ」
周[#「周」はゴシック体]「若うないで。若うないで。若い頃の君やったら、司葉子さんや犬養智子さんを狙うた泥棒がイの一番に入った筈や。あの泥棒は美人好みやさかい、彼が避けて通るようになったら、もう年とったことやがな」
愛[#「愛」はゴシック体]「何、言うか。一週間のうち、必ず泥棒を入らしてみせるから」
諸君、賭けよう。彼女の家には絶対に泥棒ははいらない。
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一人で見るテレビ
なにをしているの、と聞くと佐藤さんはテレビで『ガメラ対ギャオス』という子供映画を見ていると答えたが、流行作家の彼女が執筆にくたびれて、ぼんやり、そんなテレビ映画を見ている味気ない心境は、私にも想像できるような気がする。
正直いって、私も夜、一人で書斎でテレビと向きあっている自分に気がついて、何と面白くない人間だろうと我と我が身のことを考える時が多い。
階下の茶の間では家族たちが談笑している。その声が書斎にまで聞えてくるのだが、下におりて皆と話する気持に毛頭ならない。それに私が茶の間に入ると、今まで話をしていた家族が一瞬、口をつぐみ、白けた表情をするのもよくわかるからだ。
私ぐらいの年齢になると――その年齢の男性はたいてい同感だろうが――何となく家族から煙ったがられるものである。若い連中の話題にもついていけないし、女たちの話もよくわからない。何か口を出すと、頭が古いというような顔をするし、黙っていると協調的でないと思われる。
そのため、必然的に夜の食事がすむと私は自分の書斎にこもってしまう。書斎にこもって本を広げるが、必ずしも読んでいるわけではない。原稿用紙に向うが、必ずしも字を書くわけではない。自分用のテレビをつけてぼんやり見ているが、本気で見ているわけでもないのだ。
そんな一人ぽっちの自分の影が壁にうつっているのを見ると、つくづくこの年齢の男の孤独、わびしさ、そして醜さを感じるのである。
かつて若かった時、私は父親が食事のあと食堂から一人、自分の部屋に戻って碁盤に石をならべているのを見ると何とつまらない人だろうと思ったことが屡※[#二の字点、unicode303b]あった。もっと積極的に和気藹々と家族と食堂で談笑することができぬものかと思った。しかし正直な話、父が食堂にやってくると、私たちは何となく白けた気持になり、向うが話しかけても、こちらが話しかけても、何となく無理があるような感じがしたものだ。
父親の嫌な面を子が受けつぐという西洋の諺があるが、それから歳月を経てみると、かつて一人、自分の部屋で碁石をならべていた父の姿が、テレビを一人でみている私の姿に重なりあっているのである。
一人でそうやってポツンと書斎にすわっている時、私は妙なことを急に思いだす。
それは少年時代にたべたマクワウリの味である。あの黄色いマクワウリを夏休みよく冷やして、昼寝のあと、種を吐きだしながらたべた時のことを思いだすのである。
マクワウリはもう、ほとんど売っていない。果物屋や八百屋をさがしても、何とかメロンというそれに似たものを出してくれるが、それは決してマクワウリではない。
それから、油揚をあつく焼いて、お醤油をつけたもの、それをホカホカ御飯で食べた時のおいしさ。
あの頃の油揚はどうしてあんなに、うまかったのだろう。今の油揚の味とは絶対に、絶対にちがうのだ。
一人、夜、書斎にとじこもって、マクワウリや油揚のことを思いだしている。自分でも実に愚劣だと思う。そしてもし、階下の茶の間におりて、家族にもいい年をした男がわびしくこんなことを考えていると言ったら嘲笑されるだけだろう。
佐藤さんが『ガメラ対ギャオス』を夜、ぼんやり見ていた気持がよくわかる。
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かのように
すぐれた中国文学者であり随筆家だった奥野信太郎氏は永井荷風の教えを乞いたくて、三田の文学部に入学したと何処かに書いておられた。同じようなことをもっと大先輩の佐藤春夫氏も語っておられたように思う。
私が三田の文科に進んだのはそんな志のためではなく、当時の三田の文科が入学しやすかったためであるが、後に私も永井荷風の文学にひどく傾倒した一時期があったのは、教室で奥野信太郎先生の授業をうけたためである。
今でも時々、長雨の日など狐狸庵の一室にとじこもって荷風の『断腸亭日乗』を開けることがある。私にとって荷風の傑作は何といっても彼が長年、書きつづけたこの日記である。その簡潔な雅趣にとんだ文章は幾度、読みかえしても飽きることがない。
だがその頁をめくるたび、荷風は私と同じ年齢の頃、いやもっと年をとってからも実に好奇心が旺盛なのに舌をまくのである。既に書いたように私はもう眼もかすみ、厠も近くなり、ヨボヨボとして何をするのも億劫になり、人の顔は忘れ、そのために外へ出るのも嫌で嫌でたまらぬという情けない心境なのに、荷風とくると読書、執筆のほかはほとんど銀座を歩いて世相風俗を観察し、それを日記にしたため、時には絵まで描くという努力をしている。
私も自分の不甲斐なさにこれではならぬと時折、世相風俗を観察せんものと東都まで出かけることもある。出かけて六本木や赤坂をうろついてはみるのだが、一向に面白くなく、一向に好奇心も湧かず、ただくたびれ果てて、使った金と時間とだけがやけに惜しく狐狸庵にトボトボと戻る次第だ。そんな時、荷風のことをイヤな爺さんだとつくづく思う。
荷風をイヤな爺さんだと思うのは決して彼を尊敬しないという意味ではない。いな、むしろ、あの年齢であのような好奇心を持続している故人にチェッ、チェッと舌うちしたくなるという意味である。
奥野信太郎先生が昔こういうことを私に言われたことがあった。
「荷風のポーズにだまされてはいけません。荷風は病弱のようで実は体も頑健です。意志は強固なのに意志薄弱のようにみせかけます」
そういえば、この『断腸亭日乗』のなかにもしばしば病骨、病身のわが身を嘆いてみせる言葉が出てくる。秋になれば秋冷、骨にしみるような書き方をする。そして『断腸亭日乗』を読んでいると、病弱な主人公荷風が孤独にたえ、世をすねて生きていく姿が次第にこちらに感ぜられるように出来あがっている。
出来あがっている、という言葉をわざわざ使ったのは荷風は発表用の日記と発表しない日記との二つを書きわけていたことが戦後にわかったからである。中央公論社版や東都書房版の『断腸亭日乗』は発表用の日記であり、最も新しい岩波版のそれは本当の日記である。
私はこのような作為の自分をこしらえた荷風が嫌いではない。むしろ好きである。荷風によって創られた主人公荷風の風雅な生活にいかに多くの読者が魅了され、荷風ファンとなったか。荷風はその背景で本当の意味で孤独なのである。
三島由紀夫氏とある日、話をしていたら、彼は突然こう言った。
「作家とは、かのように、生きるべきだね」
「かのように」は勿論、森鴎外の言葉である。
その三島氏が私に、
「君はなぜ、狐狸庵などという年寄りじみた名をつけるのだ」
そのほうが年とってから楽でしょうと私は答えた。年をとってから周作などというキザな名を背負って生きるのはシンドイという意味だった。
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私に酒というものを始めて教えてくださったのは、他ならぬこの奥野信太郎先生である。そしてそれは私が大学三年の時であった。
と書くと、それまでの私がえらく堅ぶつにみえるが、実はそうではない。
戦争中と戦争直後を学生生活で暮した私には酒というものを滅多に飲む機会がなかったのである。戦争中の配給酒は乏しい食料を補う芋やカボチャと引きかえになり、終戦後、闇で手に入れる日本酒も学生にはあまりに高くて手に入らなかったからだ。
大学三年の頃に私は『三田文学』の同人に加えられ、その会合にも出席を許されるようになったが、その会合の帰り道、奥野先生と既に亡くなった丸岡明氏という先輩作家に、はじめて飲屋というものに連れていって頂いたのである。
飲屋といっても戦争が終ってまだ三年目である。東京の至るところに焼跡の残っていた時である。それは一軒の建物でも家でもなく、露店のような葦簀《よしず》ばりの小屋で、そんな小屋が今の新宿武蔵野館から国鉄の線路のあたりにかけてずらりと並んでいたのだ。
そこはちょうど北アフリカのアラビヤ人町の迷路のような雰囲気があった。尿の臭い、酔漢の吐いたゲロの臭い、それに鯨肉をにる油の臭い、魚をやく臭い、そういった様々な臭いが小屋と小屋との間に漂い、至るところから、戦争に敗れた日本人のやけのやんぱちの歌声が聞えてくるのだった。
一つの小屋は四、五人の客が腰かければ満員になる狭さで、そこに坐ると、たいていコップに入れたカストリが黙っておかれるのであるが、始めてカストリに口をつけた時、なぜ、こんなものを皆がうまそうに飲んでいるのか、ワケがわからないほど臭く、まずかった。
愚かにも私は当時、焼酎ぐらい飲めないようでは一人前の小説家にはなれないのだと考えていたから、修業のつもりで、ほとんど毎晩、この闇市のような飲屋街に来るようになった。一杯のカストリが当時、三十円で、そのほかにバクダンと称して一杯二十円のアルコールも飲んだが、これはうっかりすると眼がつぶれると聞いてからやめてしまった。
焼酎やカストリの酔いは驚くほど急激にやってくる。酔ってくると私は自分がスーパーマンのような気になり、平生はこわくて飛べない崖から平気で飛びおりたり、力まかせに郵便ポストを押し倒そうとしたりして家に戻るのだった。しかし酔っている時はふしぎに怪我をしないもので、私はかすり傷一つ負わなかった。
そんなある日、私は電車のなかで知りあいの奥さんに会った。その奥さんは仕事の都合で遅くなり、終電車で帰宅する途中だった。自分の駅から家まで暗い焼あとを歩くのがこわいと言われるので、それではお送りしましょうと私は身分不相応なことを口にしてしまったのである。
もちろん奥さんは再三、固辞された。だがカストリに酔っている私が言うことをきく筈はない。無理矢理、彼女のおりる駅で自分も下車して、お宅まで送り届けたのはいいが、彼女がさようならと言って家に消えた途端、突然ムラムラと力だめしがやりたくなったのである。そしてその家の板塀を力まかせに押してみたのである。古い家で手不足の折だったから板塀の根が腐っていたのであろう。バリバリという大音響と共に、塀はそのまま地面に倒れてしまった。(こんなことは信じえないかも知れないが、本当だから仕方がない)家中、大騒ぎになり、犬はワンワン吠えたし私は酔いもさめて、自分がとんでもないことをした、と気づいた時はもう遅かった。
二度と酒は飲むまいとその夜決心したが、三日もすると、また新宿に通いだす始末である。
酒のためにやった愚行は酒の酔いがさめると共に、身をさいなむ。私は自分がそれほど酒癖の悪いほうではないと思うが、酒癖が悪くない私でも思いだすと恥ずかしいようなことが幾つあるかわからない。
真夜中、眠っていて、ふと目がさめた時にその愚行の一つが急に記憶から甦ってくることがある。そんな時はいたたまれない気になって、
「あーッ」
とか、
「ぎゃあーっ」
とか、ワケのわからぬ叫び声をたててしまうのだ。それも家中にひびきわたるような大声で……。
これは私一人かと思って、ある日、友人にそのことをそっと話すと、
「お前もか。俺もだ」
その男も情けないような、なつかしいような顔でそう答えたから、読者のなかにも同じ経験の持主がたくさん、おられるであろう。
しかし嘆くことはない、カトリックの神父さんでも同じ経験をしているのだ。
Kという先輩の文学者がある日、私にキリスト教の話をしてくれるいい神父さんを紹介してほしいと言われた。
私はその時、友だちの神父の一人がいいと思った。彼は大学を出ると、私と一緒の船で仏蘭西にわたり、むこうのきびしい修道会で修業してきた男で、人情の機微にも通じ、心のやさしさ、学識も申しぶんなく、しかも酒が好きという、私にとって有難い神父なのである。
その神父さんを連れて先輩の家に伺うと、そこには何人かの知人も来ていて、酒をくみかわしていた。知人の一人が鹿児島の焼酎を持参していて、わが友、神父も大悦びで飲みはじめた。
鹿児島の焼酎はうすめて飲まねばいけないらしい。私はそれを最近聞いたのだが、この時は全く知らず、居あわせた人たちも知らなかったようである。
「神父さん、まあ一杯」
「もう一杯」
神父さんはほとんど一人でその焼酎をあおり、我々はもっぱら酒のほうを飲んでいたのである。そしてK先輩がカトリックの教義やキリスト教の話をたずねられるのを、我々も厳粛に横で拝聴していたのだ。
突然、神父が急に叫んだ。
「もういいじゃないですか。そんな抹香くさい話。それより、もっと陽気にやろうぜ」
私は失敗した、と思った。長いつきあいだから私は神父の酔った状態を知っている。あきらかに、ひどく、酔っている。鹿児島焼酎が爆発的にきいたのだ。
「イエスさまも我々が現在陽気にやることを望んでおられるよ。なア、遠藤」
私はびっくりして彼の裾を引張ったが、そんなこと向うはもうおかまいない。
「ねえ。おじいさん」
K先輩にそんな話しかたをする。
「あんた、人生、わかっとるのかね」
神父といえば敬虔でもの静かなものと思っていた知人は吹きだし、手をうち、
「こりゃ、おもしろい神父だ。話せる」
と言ってくれるが、紹介者の私はそういうわけにはいかない。
たまりかねた先輩がモーツァルトをかけると、
「美空ひばりはええねえ」
そうして高いびきをかいて神父さん寝てしまった。
この神父、その夜、拙宅に泊ったが、やはり翌日しょげていた。しかし神父さんでも酒を飲めばそうなんだから、我々は仕方ないじゃないか。
こんなことがあった。
ある日、ある雑誌によばれて赤坂の小さな料亭に出かけた。その料亭で、私はインタビューみたいなものを受けることになっていた。
料亭につき、部屋に入ると、時刻がまだ少し早かったせいか、一人の青年が坐っているきりで、速記者らしい人も顔みしりの編集部の人もいなかった。
その青年は私をみると蒼白な顔をあげて頭をさげて、自分はルポライターの仕事をする者で、今日のインタビューの聞き手になるのだと言ったきり黙ってしまった。
私も黙って坐っていたが、相手の顔色がひどく悪く、なにか苦しそうなので、
「どうか、なさったのですか」とたずねた。
「いいえ」
そう答えたきり、また黙りこんでいる。私はしばらくして、
「気分が悪いのでしたら、私にどうぞお構いなく横になってください」
と言うと、彼はつらそうな表情で、
「実は二日酔いです」
「そうですか。二日酔いなら苦しいが病気じゃないから」
「いえ、ぼくは酒乱の傾向があって――昨日、あるバーに仕事の帰りつれていかれて、……そこでまた例の癖を起し、隣席におられた小説家のXさんと出版社のYさんを撲っちゃったんです」
私はいささか、びっくりした。隣席にいたために撲られちゃX氏もYさんもびっくりし憤慨されたであろう。
「酔いがさめて、愕然として、一夜、くるしくって」
わかる。その気持。若い頃、私もよく似た経験をしたのだ。
「大丈夫ですよ」
私は彼をなぐさめた。
「みんな、そんな経験がありますからね。X氏だってY氏だって若い時、やってますよ。今度、会った時、詫びれば、わかってくれますよ」
相手は首をふって、自分は暴れに暴れたのだ。とても許してもらえそうにないと言った。
「気を落しなさんな。大丈夫です」
「でもつらいです」
「それはよくわかります。しかし、若気の過ちと思えばいいじゃありませんか」
そんな会話が続いたあと、私は、
「まあ、飲みましょうや。飲んで忘れましょうよ。そんな昨夜の愚行は」
編集部の人は来ていなかったが、この青菜に塩の青年を慰め、励ますべく、ウイスキーと氷を部屋に運ばせた。そして彼にダブルの水割を作ってやり、
「気晴らしに一杯いきましょう」
無理矢理、彼にすすめ、自分の昔の同じ経験を話して飲みはじめた。
「とに角、心配したってつまらない。明日という日があるんだ」
そんなことを言ってコップを重ねているうち、突然、この青年の眼がすわって狐つきのような顔になった。
「なんだ」
そして大声で怒鳴ってきたのである。
「さっきから聞いていると、気やすく大丈夫だ、大丈夫だと言いやがって、この野郎」
私はしまったと思った。私はつい相手が酒乱であり、その酒乱に酒を飲ませて慰めていることを忘れていたのである。酒乱青年は、今また酒乱になったのである。
「うるさい、バカヤロ。俺のくるしみも知らないで、大丈夫だなどと」
インタビューもへったくれもなかった。彼はわめき、怒鳴り、寝こんでしまったからだ。酒乱を慰める時は諸君、酒を飲ませてはいけない。
笑い上戸、泣き上戸はユーモアのある酒癖だが、悪口上戸、愚痴上戸、からみ上戸、はしご上戸に出会うとこれは閉口千万だ。
私にとって苦手なのはからみ上戸だ。何を言ってもからんでくる。
「田中さん、久しぶりですね。元気ですか」
飲屋などでバッタリ顔を合わせて挨拶すると、
「なにが田中さんだ。え、なにが田中さんだ」
「何か、いけなかったですか」
「当り前だ。よそよそしいじゃないか。田中さんなどと何故言うんだ。他人行儀ぶりやがって。気に食わねえよ」
「あ、失礼。じゃ田中君」
「なんだ。田中君だと。狎々しい呼びかけをするな」
これじゃ手がつけられない。
はしご上戸――私の友人のH氏はこのはしご上戸の最たるものである。もう一軒、もう一軒と言って決してこっちを帰してはくれない。しかも次々と寄る一軒で決して腰を落ちつけないのである。徳利一本の半分も飲み終らぬうち、
「行こう。河岸を変えよう」
そのくせ、決して帰ろうとしない。たまりかねて車に無理矢理のせて、家まで送っていこうとすると、
「ぼくの家、そこを右に曲って、はい左に曲って、右に折れて」
グルグル、あっちこっちを廻って出てきたところが、さっき通過した場所で、
「Hさん。違うじゃないか。あんたの家の場所さえ知らないの」
「バア――」
深夜の二時、これではこっちが泣きたくなるのは当り前である。
けんか上戸というのがある。あまり喧嘩が強いとは思えない体格なのに酒を飲むと、
「外に出ろ」
すぐ言う。外に出ろと言われても外に出るわけにはいかぬから、
「わかった。アヤまる。アヤまる」
何をアヤまるのか自分でもわからぬが、ひたすらアヤまる、アヤまると言うと、
「アヤまるなら許してやる。うん」
威張ってまた飲みはじめる。やれやれ、と思っていると、再び、突然、
「外に出ろ」
また言いはじめる。
喧嘩の強くないX君と喧嘩の強くないY君とは共にこの「外に出ろ」の酒癖があって、それが偶※[#二の字点、unicode303b]、我々と一緒に飲んでいる時があった。
「外に出ろ」
「なにお前こそ外に出ろ」
二人は飲屋の硝子戸をガタガタ言わせて外に出ていった。我々が心配してそのあとを追いかけていくと、二人は路の真中で撲りあいならぬツネりあいをやっていた。
新劇俳優のAさんもこの外に出ろの一人である。これは若い俳優から聞いた話だが、あるホテルのスカイラウンジでプロレスのオースチンが女づれでAさんの横にすわった。その女の子がAさんのファンで会話がはじまったのが、オースチンの気に障ったらしい。突然、赤くなって怒鳴りはじめた。
Aさんは椅子から立ち上って、拳闘のかまえをし、グルグル、オースチンの周りをまわりながら、
「カムオン、ボーイ。ヘイ、カムオン」
と言った。
オースチンは顔を真赤にして怒ったが、職業柄か、それともAさんの枯木のような体格のせいか、つかみかからなかった。
「あんなことやると、殺されますよ。幸いオースチンが何もしなかったからいいけど」
と友人が注意すると、
「なに、ちゃんと向うがかかってこぬとわかっていたのです」
とAさんは答えた。
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一盃綺言
酒癖と言えば式亭三馬に『例之酒癖一盃綺言』という作があって、そのなかに酒癖のさまざまな生態を活写しているのだが、その項目は次の通りである。
一、わる口を吐いて嬉しがらす酒癖
二、酔いたる上にて愚痴ばかりいう酒癖
三、盃のとりやりのむつかしき酒癖
四、段々、気のつよくなる酒癖
五、おなじ事をくどくどいう酒癖
六、つれにこまらする酒癖
七、ひとりおもしろくなる酒癖
八、無益のことを争う酒癖
この八つの項目をじっと眺めていると、いずれも知人たちの一人一人に当てはまるようであり、飲屋の雰囲気、魚をやく臭い、人々のざわめき、一つ一つが甦るようで飽きることがない。
第一のわる口を吐いて嬉しがらす酒癖はよく飲屋で見かけるものである。
「課長。ぼくらは閉口しているんですよ」
「なにがだ」
「課長は強情だからね、こうと言ったら、絶対に押し通すからね。ぼくら、たまりませんや」
「強情は俺の性分だ、治そうたって治せない」
「わかってますよ。しかしよくまア、そんなに強情を上役にまで押し通せますね。我々、気弱な部下はあの一匹狼、また頑張っていると閉口と尊敬のまじった気持で見ているんですぜ。少しは並の人間になって下さいよ」
一見、わる口を言っているようで相手を悦ばす会話は酒席でよく見うけられるものだ。
おなじことをクドクド言う酒癖もこれまたぶつかるものである。
「ヒッ。(シャックリの音)俺はな、今はこういう安サラリーマンだが、俺の祖先は平家の残党なんだぞ。ヒッ。それをあの営業の山村の奴、人を馬鹿にしやがって、課長も課長だ。課長なぞいくら東大出かしらんが、俺の家はくにに行けば村会議員もやった家といって尊敬されているんだ。平家の残党の子孫なんだから。自民党代議士の甲田さんなんかとも親類づきあいしているんだ。ヒッ。それをあの山村と課長の奴、馬鹿にしやがって、世が世なら俺のほうが身分だって高いんだ。なにしろ平家の残党が祖先なんだから」
「わかったよ、わかったよ」
「わかるか。えらい。ヒッ。お前、陸軍少将にしてやる。ヒッ。自民党の甲田さんに言ってお前を陸軍少将にしてやる」
無益のことを争う酒というのも、これまた時々、ぶつかるものだ。
「勘定? 勘定は俺にもたせろ。ここは俺の縄張りだ。縄張りに来て、友人に奢られては俺の名誉にかかわる」
「すると、君、ぼくが金を持っていないと思っているのか」
「金の問題じゃない。俺がよく来ている店だから俺が払うというのだ。それが何が悪い」
「悪いさ。ぼくが払うと言ってここに来たのに、今更、払ってはいかんと言われれば、ぼくは死んだ父、母にあの世に行って申しわけがたたん」
「なにがあの世に行ってだ。犬だって自分の縄張りでよその犬がおシッコすれば怒るんだぞ。なあ、おばさん。ここは俺の縄張りの店だろう。この間も三人ぐらいで来た時、俺が奢ったろ。俺は人に奢られるのがイヤなんだ。俺はそういう性格の男だ。わかったか」
三馬が書いたように、要するに酒のみは憎めないということだ。酒癖のわるいのはその時は閉口だが、あとになってその当人の酔いがさめてからの悔恨を考えると、むしろ可笑しくなるのが普通である。
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狐狸庵と詩仙堂
暖かい。
この二、三日、大雪のふったあとのせいか春のように暖かい。
狐狸庵の庭にある池で鯉がその暖かい日の光をたのしんでいる。メダカはまだ姿をみせぬが、もうしばらくすると泳ぎはじめるだろう。
春さきになるとこの池にもメダカの子が生れる。よく注意しないとわからぬぐらいの小さな、糸屑のような子供である。
土のなかで眠っていたガマ蛙がこの池に戻ってくるのも四月だ。彼は池の主人のような顔をして眼だけを水面から出しているが、カンテンのような卵を生みつけるのが閉口である。
鳥もいろいろな鳥がくる。山鳩に似た鳥、ギャギャとなく関東尾長、春になると山鶯が間のぬけた声でホーホケキョとなく。
庭の一角にある雑木林のなかにタケノコが首を出すのもその頃だ。あっち、こっちでタケノコはその背丈の生長を競いあうように伸びていく。
庭の手入れはほとんどしないし、私は植えた花より野花のほうが好きだが、それでも毎年、桔梗《ききよう》だけは庭に少しずつ植える。花のなかで桔梗が一番、好きだ。
京都の大徳寺に出かけた時、あの境内のなかをぶらぶら歩いていると、桔梗寺という名札をぶらさげた寺が眼についた。
大仙院のような寺は観光客でごったがえしているが、この寺は訪れる人もないようである。
わたしはその桔梗寺という名に心ひかれてそっと入ってみた。
そしてこの寺の庭が他の寺のように、勿体ぶった枯山水などつくらず、ただ庭一面に桔梗をうえているのが非常に気にいった。
桔梗の花がむらさき色に庭一面に咲く。そして夏の夕暮、まだ光の全くさめぬ空に丸い月が出る。
そんな庭が前から見たかった。ひょっとすると子供の時から憬れていたのかもしれぬ。絵本のなかにそんな風景が描かれていたような記憶がする。
その寺を見て狐狸庵に戻ってから、庭に桔梗をうえてみたいと思ったのである。しかし庭一面に桔梗をうえるには、茂った樹木をとり除かねばならぬ。思い通りにはならないものだ。
詩仙堂を訪れた者は必ずあの鹿追いを我が家にも作りたいと考えるだろう。石川丈山は鹿が庭に入ってきて読書の妨げになるので鹿追いを作ったというが、しかしあの音は庭の閑寂をより一層ふかめるものだ。
庭の雑木林のなかに池から流れを引き、竹を切って鹿追いらしいものをつくってみた。
だが、竹がわるいのか、石がわるいのか、あの詩仙堂のようにカーンという冴えた鋭い音がひびかない。
ボコッ
にぶい、濁った音がするだけである。やはり素人のつくったものは駄目だ。
しかし鹿は追えぬが、庭に魚を狙いにくる野良猫はびっくりして逃げるので、私はこれを猫追いと呼ぶことにした。石川丈山の詩仙堂は鹿追い、狐狸庵は猫追い、やはり風流のちがいが端的にあらわれている。
カーン カーン
その音をききながら丈山は書をよんだ。
ボコッ ボコッ
その音を聞きながら狐狸庵は居眠りをする。春がちかい。
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酒のさかな
私がここに狐狸庵を結んだ頃は、周りにあまり人家もなく、雑木林と畠とにかこまれた散歩道が至るところにあったから、春、散歩の杖を引く時、そちらこちらの畠のあぜ道で土筆《つくし》をかかえ切れぬほど取ってきたものである。
土筆のほかに一寸した流れには芹《せり》がいっぱいあった。土筆はそのはかまをとり醤油で煮、芹はよく洗ってドレッシングをかけると、これだけでその夕方の酒のさかなになった。
晴れた日にはわが狐狸庵からは丹沢、大山がはっきり見える。とりわけ大山は江戸時代の人々が大山詣でをするほど夕陽のうつくしい山で、一風呂すませたあと、藤棚の下でその茜色にそまった山々を眺めながら、チビリ、チビリとやる時は何とも言えぬ気持だった。
酒のみは酒のさかななどなくても、海苔の二、三枚でもあればそれでよいと言うし、よく夕暮、町の酒屋の前を通ると、手に塩を少しのせて、それでコップ酒を飲んでいる御仁を見かけることもあるが、私の場合は酒のさかなが幾つか並んでいなければ、どうも酒がうまくない。
芹のドレッシングをかけたものは日本酒にはむかないが、しかしよく冷したコップにオンザロックのウイスキーでこれを味わうと格別のうまさがある。私は日本の洋食屋で何がまずいといってもサラダのまずさにいつも舌打ちをするのだが、自分のつくった芹サラダだけはうまいと思う。
長崎に「虎寿司」という寿司屋があってその家の主人が毎年、自家製のカラスミのほかに正月の橙《だいだい》をかげ干しにしたものを細くきざみ砂糖と醤油でクチュクチュと煮たものを送ってくださる。そのカラスミを薄く切り、大蒜《にんにく》を少しはさんで、これを舌の先で転がすように味わいながら、チビリ、チビリとやると、こたえられぬ。橙のほうも、これをあつい飯において食べるもよし、酒のさかなによしである。
ママカリは岡山の名産だが駅で売っているのはうまくない。吉行淳之介に教えられて寄った岡山の「魚正」という寿司屋のママカリは天下一品で、時々、送ってもらうが、これも私の酒のさかなでは最もおいしかったものである。
しかし酒というのは瓶づめだと、どうしてもまずい。私は時折、東京に行くごとに、上野不忍池の「藪」で、そば味噌をさかなに菊正を飲むが、あそこの菊正は樽の匂いがしみこみ、えもいわれず、うまい。
きだみのるという作家がいる。むかしこのきださんが八王子山中の山寺に住んでおられた時、たずねて酒を御馳走になったことがある。
きださんは鉈で竹藪の竹を切り、そのなかに酒をいれて枯葉であたためられた。そしてそれを欠けた茶碗でのんだのであるが、竹の匂いがそこはかとなく酒にしみこんで、文字通り、舌にしみる感じだった。
仙台に行った時、「いろり」という店で、朴の大きな葉っぱに味噌をのせ、それを炭で焼きながら酒をのんだ。うまかった。
家に戻って同じことを試みようとしたらどうもうまくいかなかった。二度目に仙台に出かけた時、その店をたずねたが季節はずれで焼味噌はできなかった。
毎日、酒をのむ。そして夕暮になると酒をのみながら、人生は面白くないと一人で仏頂面をしている。酒をのみ終ってから一人で食事をする。食事をしてから一人で自分の部屋に戻り、何もかも面白くないと仏頂面をする。
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しずかなる決闘
ビールを飲むとトイレに行く回数が多くなる。
ニューヨークの日本料理店で若い邦人画家とビールを飲んでいたら、その青年が、
「失礼」
三分か四分おきにトイレに行く。始めは何とも思っていなかったが、そのうち一寸、話しただけで、
「失礼」
トイレに駆けこんでしまう。向うも神経的に尿意を催すようになって、ちょうどシャックリと同様、おさえがきかなくなっているのだ。可笑しいやら、気の毒やらで五、六回目に彼が戻ってきた時、二人で笑いだしてしまった。
狐狸庵から東京の真中まで車で一時間半ちかくかかる。深夜など、飲んでタクシーをひろい、一時間半、車にゆられていると、トイレに行きたくなることが時折ある。
あれは、ちょうど産気づいた女性の陣痛とよく似ていて、痛みならぬ尿意が、次第に間隔をちぢめて波のように押しよせてくるものだ。
はじめは七、八分に一度ぐらい、その波はゆっくりとやってくる。
しばらくすると、これが三、四分に縮まってくる。一生懸命にこらえていると、やがて波は引き、やっと一息ついていると、ふたたび、遠くから押しよせてくる感じだ。
これが目的地ちかくなってくると、三十秒ごとにピッチをあげまさに波がしらがくだけるがごときだ。もうすぐ家だヨ、もうすぐ便所だヨと考えるともう抑制力もきかなくなってくるのである。
心のなかで、そういう時は唄を歌って、瞬時でも気をまぎらわしたほうがいい。
えっさ、えっさ、えさホイのサッサ
お猿のカゴ屋は
ほいサッサ
私の研究によると、この歌はかなり尿意と闘うのに効果がある。童謡にしてはテンポが早いからだろう。逆にのんびりとした曲はかえって波を助長させるようで、
命、みじかーし
こいせよ、おとめ
こういう唄で気をそらそうとしても絶対だめである。あまりにノンビリとしていて、気がまぎれないのである。
もう一つの方法は、これは宮本武蔵が発見した秘伝であるが、そういう時、膝関節の真中を人さし指でグッと押える。するとパッと烈しい尿意が消えるという。むかしの武士は城中でお殿さまがおられる時は、こうして恥をかかぬようにしたらしいのである。(しかし私の経験ではあまり役にたたない。むしろ太股をギュッとつねりあげたほうがいい)
車が交叉点などでとまり、赤信号がなかなか青信号に変らぬ時などは脂汗のにじむほどつらいであろう。そういう時はあたりかまわず叩いても必死にこらえねばならぬ。
そういう苦しい、苦しい過程を経て、ようやく家なり、公衆便所に到着し、そしてそこに駆けこみ、すべてが解放された時ほどシアワセでウレシクッて――生きていることの悦び、五月の春風そよそよと、ひろきを己が心ともがなという心境になる時はない。
我々は男だからお産の経験がないが、十ヵ月、重くるしいお腹をもった妊婦が安産した時の悦びにあれは似とるんじゃなかろうか。
今は夜中の三時すぎ
凸凹おやじが飛びおきて
便所と戸棚を間ちがえて
アーッという間に寝小便
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狐狸庵動物記
私はデパートで猿を手に入れて帰宅したため、家人の猛反対をうけてスゴスゴとそれをデパートに返しにいった男だが、私をして言わせると、なぜ家人たちが動物を嫌いなのかわからんのである。
私は子供の頃、満州の大連に住んでいて両親から雑種の犬を一匹もらって、それを大事に大事にしていた。春、大連の街路をうずめるアカシヤの花のなかを私がランドセル背負って、小学校に行く時、この犬は学校までついて来て、授業中、校庭で寝そべっているのであった。学校から帰る時も彼はノソノソとあとからついてくるのであった。
私は今、二十五の生命を養っているし、二十五の命が私のこの老いた肩にかかっているのである。二十五の命は、私がもし働くのをやめると飢えてしまうのだ。二十五の生命とは、犬三匹、九官鳥一羽、人間家族四人、そしてメダカ十匹、鯉その他七匹の命であり、この二十五の尊い生命を養うべく、今日も狐狸庵は面白くない顔をして机の前に坐るのであります。
私が猿を飼おうと考えたのは、間先生の影響からである。こう書いては間先生に御迷惑かもしれない。なぜなら私は先生に二度しかお目にかかっていないのだから。
先生は京都の大学の研究所に所属される学者である。先生は毎日、リュックサックに南京豆を入れて比叡山にのぼられる。比叡山で先生の顔を知らぬ人は一人もいないだろう。雨の日も雪の日も先生は山にのぼられぬことはないからだ。
この頃はあちらこちらで猿の餌づけをやって観光客にみせるところが多くなり、この比叡山の鋪装道路附近にも、猿があらわれて餌をねだるようであるが、間先生は、
「そういうところでは、猿も気どっているのです」
と始めてお目にかかった時、教えてくださった。猿にも虚栄心や見栄があって、人間がくるとスマしたり、エラぶったり、色々するらしいのである。
「一度、山のなかでスマさぬ猿をごらんなさい」
そこで私は三年前の冬、先生のお供をしてまだ凍み雪の残っている比叡山の山のなかに足をふみ入れた。
谷には森が覆っていて猿など何処にいるのかわからない。
だが、先生がオー、オーとターザンのごとく声をあげられ、その声が山びこになって消え、森にふたたび静寂が戻ってきた時、向うの杉の木にスルスルと黒いものが這いあがり、こちらを凝視しているのがわかった。猿の群れが先生の声をきいて、偵察猿がそれを確認していたのである。
ものの五分もたたぬうちに、私は眼の前の叢から五、六匹の猿が出現するのをみた。そしてそのあとから、出るわ、出るわ、七匹、八匹、十匹、十五匹と親猿、子猿、雲霞のごとく斜面を這いのぼってこちらに来るのである。
まず出現した群れはお猿の主婦連であった。お猿の主婦連であることは彼女たちが片手か背中に、まだ眼の大きな皺くちゃな顔の子猿をだいたり背負ったりしていることで私にもわかった。
お猿の主婦連というと、私は四谷の主婦連のエラーい人から叱られるかも知れないが、しかし猿の世界でも、主婦連はボスをえらぶ上でかなり発言権を持っているそうである。つまりボス猿になるためには、たんに力がつよいだけではだめで、御婦人猿たちに人気があり、その支持をうける必要があるので、主婦連からそっぽ向かれると、ボス選挙にまけるのだ。美濃部さんに秦野さんが負けた理由は、猿の世界でも通用するのさ。
猿知恵という言葉があるが、なかなか、どうして馬鹿にならぬとわかったのはその時である。
間先生の真似をして私も南京豆をまきはじめたが、全部にやれるわけではない。すると背おっていた子猿を両手でかかえて、しきりに私のほうにさしむける母親猿がいる。
「あんた。うちの子供に、おねがい」
と言っているようである。
なんと言っても子猿は可愛いからねえ。うるんだ大きな眼で子猿からじっと見つめられちゃ、こちらも情が出て、一握りの豆を、前にばらまいてやりますがな。
と、今まで子猿を私にさしだしていた母親がやにわにわが子を払いのけて、チャッチャッと自分が食べはじめるのだ。
要するに子猿をオトリに使ったわけである。この頭のよさ。相手の心理をピタリと読んでござる[#「ざる」に傍点]。
彼女を母性愛に欠けているなどと人間として軽蔑してはならん。人間界でも最近、我が子にひどいセッカンする母親がでてきたじゃないか。
周知のように猿に餌をまくとボスを中心とする勢力圏がはっきりわかるのは、動物学者の指摘する通りである。
だがこの時はふしぎにボスは叢のかげからじっと我々を窺っているだけで輩下たちが勝手に豆をひろっていても制裁を加えなかった。
にもかかわらず、群れから十メートルぐらい離れたところに、一、二匹の素寒貧《すかんぴん》の猿がいて、こいつはやけにワメくだけで、決して群れのなかに入ってこない。間先生にうかがうと、この素寒貧は文字通り素寒貧なので仲間に全くバカにされているのだそうである。
あわれになって私がこの素寒貧に豆を放ってやると、群れのなかの二、三匹がものすごい声をだして、奴を追いかけ威嚇して食わせない。そして素寒貧は尾をたれて逃げては、また戻ってくるのである。
尾をたれるというのは猿の場合、私はアカンのでありますという意思表示である。だからボスはいつも旗のように尾をピンと立てているし、このボスに睨まれると輩下のものは尾をさげるのである。
素寒貧の猿はどんな仲間に出あっても尾をたれている。私はアカンのでありますと言っているのだ。
そういえば、彼は他の猿にくらべて体も痩せ、毛の色もよろしくない。うまいものを食っていないからだろう。私は全く彼が可哀相でならなかった。
素寒貧猿のほかに西行法師のような猿もいる。彼は西行法師が世と人の汚濁をすてて世捨人になったように群れからはなれて世捨猿になり、一人でくらしていると間先生は教えてくださった。私はできればこの世捨猿をおとずれ、その御心境をうかがってみたかったのであるが、何処に庵を結ばれているのかわからない。諦めた次第である。
餌づけという観光用の猿寄せ方法がでてから、猿もぐうたらになったと先生は嘆かれていた。外敵と闘いながら餌をさがす必要が少なくなったので、猿グループは今まで必ず持っていた偵察兵をおくことが少なくなった。キャラメルなどをもらうので虫歯の猿もでてきた。
とりわけ群れの中核ともいうべき青年猿たちがだらしなくなり、群れから離れたところで遊びまわって仕方ないそうである。
人間社会でいえば、この連中、トランプの王さまみたいな髪をして、竹|箒《ぼうき》のような外套をきて六本木でゴーゴーをおどっているようなものである。
猿について悲しい思い出がある。
若かった頃、私は中仏のリヨンという都市に留学していた。そのむかし永井荷風がわずかの間、ここに滞在し、『ふらんす物語』を書いたあの街である。
戦後まもない頃で、日本はまだどこの国とも平和条約を結んでいない戦犯国だった。大使館も領事館もなく、仏蘭西に送られたわずかの日本人留学生は頼るものといえば、自分一人きりしかいなかった頃である。
そのリヨンの冬、私はひとりぼっちだった。この街は十一月になると、もう寂しい冬で翌年の四月までほとんど青空をみない。
古綿色の雲が毎日、空を覆って、午後四時頃になるともう町には灯がともり、やがて市をながれるローヌ、ソーヌの二つの河のあたりから霧が這いはじめ、時には一寸さきも見えぬほど町を包んでしまうこともあった。
私は大学の帰り、一人で街のはずれにある「金の頭」という公園によく行った。
森と古い池とのあるこの公園は冬にはほとんど人影を見なかった。裸の樹々はさむざむと銀色にひかり、時折、かわいた鋭い音が森のなかでひびいてくる。
森のなかの公会堂には枯葉が散乱している。夏にはそこに赤や青の豆電球の灯がともり、楽隊がきて音楽を演奏したり、みんながダンスに興ずるのだが、今は一人の姿もみえず、椅子にも屋根にも湿った枯葉がちらばっているだけである。
奥にふるい池があって、そこには半ば泥水に沈んだ舟がつながれていた。私はそこまでくると、いつも手をこすりながら、白い溜息を吐いて道を引きかえすのだった。
ある日、思いきってその池からずっと先まで歩いてみた。斜面のところどころに、すこし汚れた凍み雪がさむく眼にしみた。
そこで私は小さな檻が二つあるのを見たのである。
一つの檻はからで、もう一つの檻には毛のぬけた猿がいた。キャベツの皮が檻のなかに転がっているのをみると、この公園で飼われている猿らしかった。
毛のぬけた猿は私を見ると檻から手をだして唇をふるわせた。そして何ももらえぬとわかると、隅のほうに退いて、そこでうずくまった。森のなかから、また、木のはじけるかわいた鋭い音がきこえた。
その日から私はたびたび、その猿をたずねるようになった。別に何の目的があるわけではない。途中で買ってきたハムをはさんだパンを半分にわりその半分は自分がたべ、あとは猿に与えるだけである。私は寂しかったし、寂しい私の眼には、この友もいない一匹の猿が自分と同じように孤独にうつったのである。お前もさむいだろう、と私は彼がパンを齧るのをみながら呟いた
ものだ。
何度もその猿を見にいくうちに、彼は私が近づくと唇を烈しく震わせるようになった。別に威嚇しているのでもなく、何かを訴えているように唇を震わせるのだ。だが私には彼が何を言いたいのか、もちろんわからなかった。
日本に戻ってからも時々、その冬の公園のことを思いだした。森のなかで枝のわれる鋭い乾いた音や、枯葉のちった公会堂と共に、泥水につかった一隻の舟と、あの猿のことを思いだした。だが、あの猿はなぜ、唇をふるわせていたのだろう。
ある日、私はある動物学者と話をしていた。この公園の思い出を私が語ると、その若い学者は笑いながら教えてくれた。「恋したんですよ。あなたに、その猿は。牝猿は恋をした相手に唇を震わせて愛情を表現するんです」
私は笑った。人間の女に恋されたことの滅多にない私が牝猿に恋されたとは……だが声をたてて笑いながらあの時の私の寂しさと猿の寂しさとを痛いほどまた思いだしていた。
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雪の夜、書斎に無言の友
高橋さんがある夕方たずねてこられ、
「こんにちは」
そう言って手にぶらさげた大きな風呂敷包みを床におき、
「おもしろい鳥を持ってきましたよ」
と言った。
こういう時の高橋さんは実に嬉しそうな顔をする。
「何の鳥ですか」
「まア、そこにある、ここにあるという鳥じゃありませんね」
そう呟きながら包みをとくと金網のなかに黒い鳥の色がチラリと見えた。
(カラスかな)
と私は思った。前から悪戯好きのカラスが一羽ほしかった。三、四年前、近所の雑貨屋の息子さんが林のなかからカラスの雛《ひな》を見つけてきて飼っていたことがある。カラスという奴は非常に利口で、光るものをくわえてかくす癖があると彼から聞いたからである。
「カラスですか」
「ちがいますよ」
風呂敷をとりあげた時、私はびっくりした。カラスより少し大きい黒い鳥だが、くちばしがペリカンのように大きい。そして首が洋傘のように細長い。道化師のように物悲しげな憐れな顔をした鳥だ。
「ひやア」
と私は叫んだ。
「奇妙な鳥ですなア」
「奇妙でしょう。これは犀《さい》鳥と言って、アフリカの鳥です。日本の船員が手に入れて持ってかえったのを、バーのマダムが飼って、それから私の手に入って……ごらんなさい」
そう説明しながら高橋さんが洋傘のように長い首をなぜると、その首がうしろに弓のようにまがって、まがった儘じっとしている。
あちこち、羽がぬけている。尾羽うち枯らしたという言葉があるが、傘張浪人のように文字通り尾羽うち枯らした鳥だ。それに顔が滑稽なのだが、どことなく憐れな表情をしている。
「なんだか、みじめな鳥ですなア」
「ええ。今も話した通り、アフリカからつれてこられ、あっちの家、こっちの家を転々としていますからねえ」
私はアフリカの密林やくりぬいたような青空や原始色の花のなかで遊んでいたこの鳥が、日本まで連れてこられ、何処でももて余されてこうなった次第を高橋さんから聞かされた。
「何をたべますか」
「何でもたべます。タクアンでも林檎でも。しかも遠くから放ってやるとパクッと受けます」
試みに林檎を細かく切って五メートル先から放ると、高橋さんの言う通り、長い首を左右にのばしてパクッと嘴でキャッチする。まことにふしぎな鳥だ。
高橋さんはその鳥を私の書斎においていった。ストーブのそばで首をまげて気持よさそうに眠っていたが、しばらくすると妙な声をあげ、私のそばに歩いてきた。
私が夜ふけまで机に向って、仕事をする気もなく、読書をする気もなく、ただ漫然と人の世の面白くなさを仏頂面をしながら舌打ちしていると、この奇妙な鳥は道化師のような顔でそんな私をじっと見つめている。
素寒貧のようなこの鳥と向きあったまま、身動きもしないでいると、外が妙にシインと静まりかえってきた。
雪がふりだしたらしい。
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ポンポン、ブラブラ狸の味
日本人は狸から二つのイメージを連想するらしい。一つは狸親爺という言葉にあらわされるように「狡い」「煮ても焼いても食えぬ」というイメージであり、今一つは、愛嬌があって「タンタン狸の××は」に唄われるようなこの動物のイメージである。
しかし実際、動物園などに行って狸を見ると、そういうイメージとはほど遠い。小さな臆病な動物が岩穴からじっとこちらを窺っている。絵に描かれているようにポンポンが大きいわけでもなく、××がブラブラするわけでもなく、髭がピンと生えているわけでもない。
狐狸庵という雅名を自分に与えた時から私は狸に関心を持ちはじめたが、童話のカチカチ山などで狸が不当に取扱われているのが甚だ残念であった。狸はそんなに悪い動物ではない。
数年前、新聞に出ていた記事で御記憶の方もあると思うが、鎌倉のあるお宅で、偶然裏山から狸が残飯を食べにきたので、その後庭に食べものをおいてやると、この狸、女房だったらしく、自分の亭主と子供をつれてやって来るようになった。そして食べものが庭に出てないと、家の戸をドンドン叩いて、飯はまだかと催促し近所の話題になっていたそうである。
私はこういうニュースは大好きなので、切り抜きをしておいたぐらいだが、飯が出てないと家の戸をドンドン叩くなど、眼にみえるようである。うちのシロちゃんなども食事が遅れると硝子戸をガリガリ引っかく。狸だって馴れれば同じなのだろう。
これも新聞に出ていたニュースだが、四国で鼠とりに猫を沢山飼っている田舎の家の厨にいつの間にか狸が住みついて、猫の真似をしていたのが捕えられたそうである。
記事が小さかったのでそれ以上のことは詳しくわかりかねたが、どれも狸らしい愛嬌のある話だ。
狸がズルイというのは彼が猟師にうたれると死んだ真似をしてから相手の油断をみすまして逃げるからで、これだけでズルイと言うのは可哀相だ。人間だって時と場合によっては死んだまねもする。バカづらを装うこともする。ハムレットを見たまえ。
しかし、私に興味のあるのは狸にポンポンをふくらませ、酒徳利をぶらさげさせた日本人の発想だ。あの狸のイメージはこの上なく愛嬌のある「オッさん」のイメージである。ああいうイメージを日本人が好んだというのは日本人のユーモア感覚のよさであり、また日本人のユーモア感覚の分析に役立つ筈である。あの「オッさん」のイメージは十返舎一九の弥次さんに通ずるものがある。一九の弥次さんは夜逃げもするし、女にも、手もだすし、江戸っ子だと威張るくせに小心で、決して憎めない。このような人物は私は大好きだが、それが何故、好きかというといわゆる儒教精神的なものなどこれっぽっちもないからである。狸を見て我々は孔子さま、孟子さま、武士道など全く感じない。いいじゃないか。
私はわが庵を狐狸庵と名づけたので、庭に狸のおきものをならべはじめた。
狸のおきものにもさまざまあって、よく小料理屋の玄関においてある貧乏徳利をぶらさげた狸はどこにもあるが、そのほか、寝そべっている狸、お酌をする娘狸、色々つくられている。
庭のアチコチにそれをおいていると家人が下品ですと腹をたてる。狸の味は女には絶対わからない。狸の味がわかれば私の大嫌いな女の陶酔的正義づらはなくなるのだが、これは当分、無理だろう。
[#改ページ]
緊急特報――一ヵ月の成果、トクとごらん[#「一ヵ月の成果、トクとごらん」はゴシック体]
この連載をはじめて、もう一ヵ月半以上もたってしまった。
私はたしか第一回目に、自分の髪の毛が少しずつ薄くなり、それに悩んだ話を書いた筈である。
ところが、この一ヵ月のあと、少し事情がちがって来た。
どう事情がちがって来たかはあとでお話するとして、その間の経過を少し、しゃべらして頂こう。
十年ぐらい前から、朝、眼をさますたびに抜け毛の多いことに気がついた。その時はそれほど狼狽もしなかったのであるが、ある日、友人たちと一緒に写真をとるべく、私がしゃがんだ時、後列に立っていた友だちが、
「おや、うすくなったねえ」
と言った時は、愕然とした。
あわてて対策をたてはじめた。毛はえ薬というものはたいてい使ってみたし、スイスから吉田首相も使用したというカプセル入りの溶液もとりよせたぐらいである。
その頃、仕事場にしていたFホテルの理髪部の主人が、
「生やすことは薬では不可能です」
そうつめたいことを言って、
「今の髪を確保するより仕方ないですなあ」
卵を頭にぶっかけて、その黄身で髪を洗うことまでしてくれた。頭が黄身でドロドロになるのを耐えしのんだのも、今、思うと一本でも失うまいとした憐れな心情からである。
だが何をやっても駄目だった。モテない男が何をしてもモテないように(これは過去の体験から身にしみて知っているのである)禿げだした男の頭はもう何の手をうっても防ぎ切れない。
そういうことを自覚したゆえ、私は悟りをひらいたつもりだったのである。
ところが――
この一月、最初の原稿を書いたあと、読者の一人からBという髪の薬を使ってみませんかという手紙を頂いた。その方はBを使用して嬉しい徴候をえたというのである。
Bはどこの薬屋、化粧品屋でも売っているというので、私は半信半疑だったが、その御好意を無にしたくないため、買ってきた。
そしてその使用方法をよく読んだ上、第一液と第二液からなりたつこのBを交互に頭にふりかけて、マッサージを毎日、怠らなかった。
正直いって、私は今度も駄目だろうと考えていた。一ヵ月たっても効果ないなら、Bはもう続ける気持はなかったのだ。
それが、二十日すぎた頃、
「おや」
私の頭を覗きこんだ家人が大声をあげた。
「うぶ毛みたいなものが生えてきた」
私は前からあった毛だろうと笑った。しかし、うぶ毛でもそれがもし生えたというなら悪い気はしない。新しくBをもう二瓶、買って使用をつづけた。
一ヵ月半の今、そのうぶ毛は黒みをおび、約二センチほどの幅で拡がってきた。もはやうぶ毛ではなく、小さな髪と言えそうである。
Bの名をここでハッキリ書けないのが残念だが、化粧品屋でBの頭文字のある頭髪液と言われればわかる筈である。
私に効いたから、すべての人に効くとは限らないだろう。また私はBの会社とは全く関係がないことは誓って申しあげる。
禿を気にしておられる中年男諸君に緊急特報としてお知らせする次第だ。
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困る話
毎日、ドサリと郵便包の束が運ばれてくる。その三分の一はほとんど私にとっては役にたたぬダイレクトメールなのであり、あとの三分の一は雑誌や新聞であり、残りの三分の一が本当の郵便である。
朝食をひとりで食べながら、その郵便を一つ一つ見る。
ほとんど毎日のようにそのなかに未知の人からの手紙がある。私の書いたものを読んで感想を書いてくださった手紙はやはり嬉しい。
だがそのなかに時折、妙な手紙もまじっている。金を貸せという手紙。自分の土地を買わないかという手紙。それらはまだそれぞれの理由や事情がわかるから返事の書きようもあるが、たとえば、
「兄上さま」
冒頭から、そんな書きだしの便箋の文字を読むと、弟や妹のない私はびっくりしてしまう。
びっくりはまだ早い。
「今回、兄上様の御厚意で、お妹さまの安達瞳子さまと私の婚約が成立し、嬉しく、幸福に思っております」
これは一体、何のことだ。
兄上さまというのは私のことらしい。だが安達瞳子さんと私とは兄妹でもなければ、こういう相談をうける親類でもない。
よみ進むうちに、どうやらこの手紙の差し出し人は、テレビで私と安達瞳子さんとの対談をみているうちに二人が兄妹と信じこみ、その上、彼自身と安達瞳子さんとが婚約することを兄である私が許可したという幻想を抱いた人だとわかってきた。
要するに頭のおかしな人なのである。
(またか――)
私は溜息をついた。春近くなるとこういう手紙が時々、舞いこむ。始めての経験ではないのだ。
返事は出さないことにする。
しかし、この人は三日おきぐらいに手紙を寄こしてくる。その上何通目かに、
「昨日は明治神宮に参拝し、我々二人の将来の幸福を祈り、あわせて兄上さまの御健康を祈願しました。兄上さまに銀製品を一品、お送りしました」
と書いてあると、流石に困ってしまう。いわれのない品物――しかも銀製品などもらうのは迷惑だからだ。
よほど安達さんに電話をして手紙をそちらに廻そうかと思ったが、私に迷惑なことを彼女に押しつけるわけにはいかない。彼女も身におぼえのないことにビックリされるにちがいない。
私は仕方なしに差し出し人の下宿の住所を電話局に告げ、その電話番号をやっと調べると、管理人にこの人の親兄弟の居場所を教えてもらうことにする。
「ああ、やはり、そうですか。どうも、こっちでもおかしい、おかしいと思っていたんです」
向うの管理人は親切にその弟さんに連絡することを約束してくれる。
三日ぐらいして弟さんから電話がかかってくる。しきりに詫びられ善処すると言ってくださる。
やれやれ、これで安心だ。
以後、全くその人から手紙はこない。そして手紙ではなく、小さな箱が丁寧に包装されて送られてきた。
あけると、何と銀色の小さな靴ベラが入っていた。もちろん銀ではない。彼が「銀製品を一品、送った」と言ったのはこのことだったのである。
しかし、今のような人はまだ困るというほどではない。困るのは、自分が私の小説のモデルだと思いこんで、やって来る人である。
もう十年以上も前のことだが、三重県から私の『おバカさん』という新聞小説のモデルだと言って上京してきた女性がいた。
私はその女性に会った事はそれまで一度もない。見た事も話したこともない。見たことも話したこともない相手をモデルにするのは不可能である。
それに――
私のこの『おバカさん』の主人公はガストン・ボナパルトという外人の間のぬけた男であって女性ではないのである。それなのに彼女は飽くまでも自分がモデルであると称して首を縦にふらない。
その女性は年の頃、四十にちかく青い帽子をかぶり、トランクを右手にぶらさげてあらわれた。
私は大声をだし、モデルなどあの小説にいないと力説また力説するのだが、彼女はその力説をうす笑いを浮べて聞いているだけであって、こっちの話がすむと、
「わたしがモデルですねん」
とまた頑強にくりかえすのである。
ほとほと困ってしまった。最後には疲れ果てて、
「それでモデルだと言われる以上、何がお望みですか」
と言うと、妙な返事をした。
「あの……わたしのこと、幾ら思いはっても、私には婚約者がいますから、アキらめてください」
仰天して私は思わず叫んだ。
「あなたはそれを言うために三重からわざわざ上京して下さったのですか」
コックリと彼女はうなずくのである。ありがとうございますと私は言ってお引きとりねがった。
これだけなら笑い話ですむ。だが、ありがとうございますと私が言ったのが悪かったのである。それを真にうけた彼女は数ヵ月後に、ふたたび現われたのだ。そして今度は、いつの間にか、彼女の頭には私が彼女の婚約者である風に出来あがっていたのである。
ちょうど幸いなことにはその時、『おバカさん』を連載したA新聞のM記者が遊びにきていた。
彼は私と口をそろえて、
「『おバカさん』にモデルはない」
「あんたとは婚約していない」
力説、また力説するのであるが、この四十歳の女性はうす笑いを口にうかべて黙っているだけである。
M記者はたまりかねて、私の愚妻と息子とをつれてきて、
「みなさい。この人はもう結婚している。子供もある」
と言ってくれたが、相手は騒がず、驚かず自信ありげにこう言った。
「この子はこの女の連れ子や」
もうこうなっては説得のしようもないのである。
私は交番にかけあいに行ったが、こういう時、交番は全く頼りにならぬもので、
「傷害でもその女が起したというなら、わかるが、それだけで連れていくわけにはいかんなあ」
と答えるだけだった。
皆さんはここまで読まれて馬鹿馬鹿しいと思われるだろう。しかし当事者としては馬鹿馬鹿しいどころではないのである。
一年ぐらい彼女の音沙汰はなかった。私はそのこともすっかり忘れて気にもとめなかった。
一年後、私は病気をして目黒にある病院に入院していた。
ある日、昼食のあと、私がベッドでうつらうつらしていると、突然、扉が開いた。
看護婦かと思って眼をあけると、何と、その女性である。
「心配いらんよ」
と彼女は仰天して起きあがった私に言った。
「入院費だって私がチャンと作ってきてあげたから」
「入院費、だれの入院費?」
「あんたの入院費」
私は病室をとび出し、看護婦室に飛んでいってそこにいた婦長に事情を話した。しかし事情を話しても、彼女がそれを何処まで信じてくれたかどうかわからない。
「とに角、病室から出ていってもらって下さい」
婦長はもう一人の看護婦と私の部屋にやってきた。
「今、安静時間だしね。面会謝絶なんですよ。帰ってくれますか」
「あんた、だれ。いやだよ。帰らない」
「病院には規則があるんですよ」
「しかし家族は病室にいて、いいんでしょうッ」
「家族って、あんた、家族ですか」
「そうだよ。この人の婚約者ですよ」
私はもう恥ずかしく、毛布を両手に持ったまま彼女に怒ったり婦長に叫んだりしていた。
ようやく諦めて病室を出た彼女はそのあと二時間ぐらい、病院の庭にじっと立っていたが、やがて姿を消した。
だがそれで落着したわけではない。なぜならそれから毎日、彼女は病院にあらわれ、看護婦の目をかすめては私の病室に侵入しようとしてきたからである。
退屈な患者たちにはこの出来事は面白半分の話題の種になった。迷惑この上もないのは私である。
私は意を決して医師と婦長と相談し、慶応病院に転院することにした。
始めは笑える話も今はもう癪の種である。相手の住所も経歴もわからぬ以上、向うの家族に抗議することもできぬ。
私は慶応病院に移ってやれやれと胸をなでおろしたが、そうは物事、うまくいかなかった。
商売柄、私の転院がどこかで活字になったらしい。あるいはどういう手づるで調べたのかわからないが、彼女はまた慶応病院にやってきたのである。
それは私が手術をうけた直後でウンウン、ベッドで呻いている時だった。鼻孔には酸素吸入のゴム管が入れられ、足には輸血の針がさしこまれ、附添さんがつききりで、その附添さんが一寸、昼食をとりに病室を離れた間である。突然飛びこんできた彼女は、
「大丈夫よ。大丈夫よ」
と叫びながら、私の体をゆさぶったのである。
助けて、人殺しと叫びたかった。しかし鼻にゴム管を入れられ、息たえだえの手術直後の私は大声をだす体力もない。ゆさぶられるたびに体にすさまじい痛みが走った。
その時、幸いにも附添さんが戻ってきてくれたのである。
私はこの時ばかりは本当に怒った。ひどいと思った。こういう病気の人を野放しでおく厚生省に怒った。しかし、どうしてよいのかわからない。私は友人の神経科医で作家の北杜夫に相談した。
北杜夫に相談したのは彼が神経医であり、そんな患者の専門家であることを知っていたからである。
北杜夫のほかに私はA新聞にいる友人のM君にも何とかしてくれと頼んだ。ベッドに呻吟する私としては自分で歩きまわることはできない。友人たちにこんな愚劣なことで迷惑をかけるのは申しわけなかったが、ほかに手のうちようがなかったのである。
「いや、閉口したよ」
M君はそれから五、六日して病室に来て苦笑しながら言った。
「君、彼女はアパートを借りているんだ。この病院のちかくの……」
「へえ」
「そして管理人にそれとなく、聞いてみたら、何と彼女は週刊誌にのっていた君の写真を切りぬいて、それに御飯をおいてね……恢復を祈っているらしいぜ」
私は何とも言えぬ辛い、当惑した気持になった。自分には迷惑なこの頭の狂った女性が急にいじらしくなってきた。しかしどうにも仕方がないではないか。
「彼女に会ってくれたのか」
「会ったよ、喫茶店につれだして」
「それで向うに何と言ったんだ」
M君は可笑しそうに下をむいて、
「俺は彼女に遠藤は君をアイシテイルとでも言ったのかと聞いてやったんだ。そうしたら、彼女はそう言われたと答えたぜ」
「冗談じゃねえよ」
私はベッドに寝たまま手術の傷口が痛むのも忘れて大声をあげた。
「ぼくがそんなこと、言う筈がねえじゃないか」
「小説のなかで私にそう愛を告白したと彼女は言うんだ。それも時代小説のなかで」
「ぼくは時代小説を一つも書いたことはないぜ」
「俺もそう教えてやったよ。しかし彼女がその時、何と答えたと思う」
「わからん」
「ほかの人は知らないだろうが、遠藤周作はペンネームを使って時代小説を書いている。そのペンネームは南条範夫という名だってさ。南条範夫の名で書いた時代小説のなかで、私に愛を告白したんだと、そう彼女は言っていた」
M君のその話を聞いた時、私は頭をかかえて、かなわんと叫んでしまった。南条さんは私も愛読する時代作家である。だが、この時ばかりは、南条さん、どうしてくれるという気持だった。(もっとも南条さんも身におぼえのないこと、恨んでも仕方がない)
「あれじゃ、どうにもならんね」
心やさしい北杜夫は神経科の先生に早速、連絡をとってくれた。
その先生が私の病室にこられ、色々、話を聞いて、
「何か、彼女からの手紙がないでしょうか」
私は早速、彼女からもらった二、三通の手紙をみせると、
「あっ、これさえあればもう完全に狂っているとわかります」
とりわけ手紙のなかには私たちの恋愛(?)は電波によって日本中に知れ渡っていると書いてあったが、その電波という文字の使い方が専門医から見ると、電気ショック療法をかつて受けた証拠になるのだそうである。
彼女はやがて病院につれていかれたが、下宿においた荷物のあずかり証拠人がないので、私がなった。
その後、彼女の消息はきかない。
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世にもふしぎな物語
仏蘭西の新聞に『フランス・ソワール』というのがあって、これは向うに行った日本人なら読んだ方も多いだろう。『フランス・ソワール』はちょうど仏蘭西版『夕刊フジ』とも言うべきだが、第一面から「ママと叫びながら、少女ジャニーヌは水に消えていった」などという活字が大きく出ている点、より大衆的かも知れない。
仏蘭西に寄るたび、私は飛行場で飛行機を待っている時、ホテルのベッドにひっくり返っている時、この新聞を読むのである。そしてママと叫びながら水に消えた少女ジャニーヌの話に泪ぐみ、映画やブロドウエーの芝居の評を読み、それから広告欄に眼を走らせて「透視術」の女性占師たちの広告を見るのである。
向うの女性は実にこういうものが好きである。だから『フランス・ソワール』にも占いや透視を職業としている連中の広告が実によく出ている。
うちの婆アがまだ女子学生の頃、何を思いけん、旅芸人の通訳というアルバイトをして向うに行ったことがあった。そしてある日、人にすすめられてカンヌに近いマントンという町でよく当るという女占師に見てもらい、腰をぬかさんばかりにびっくりしたと言う。なにしろ、
「あなたは今、ホテルに戻ると二通の手紙が来ていますよ。その一通は学校の先生で、内容はこんなことが書いてあります。もう一通は……」
具体的にそこまで予言され、半信半疑でホテルに戻ってみると、言われた通り、二通の手紙が来ており、その一通は大学の恩師であるS先生の手紙だったというから婆ァ(いや、当時はまだ娘だったて)腰ぬかしたのも無理はない。
婆アをつれてその後、仏蘭西に行った時、このカンヌの女占師のところに是非たずねていこうと思った。
と言うのは私は日本の占いなら、たいてい見物していて、ゼイ竹、トランプ占い、ソロバン占い、占星術、人相、手相、たいていはまわってみたのだが、向うのやり方はまだ見たことがなかったからである。
婆アのふるい記憶をたよってそのマントンという町のあちこちを探しまわった揚句、ようやく女占師の家を探しあてた。女占師は毛糸屋をやっていて、家の扉をあけるとチリン、チリン鈴がなった。
女占師は婆アをおぼえていた。(あるいは憶えていたふりをしたのかも知れない)婆アは昔、あなたに見てもらって適中また適中、適中しなかったのは亭主運が悪かったことだけだとおベンチャラを言った。
それで私がまず見てもらうことにした。
分銅のような金属製の玉に糸をつけたものを、私の両手の上でクルクル廻し、女占師はうなずいたり、溜息をついたりした。それから硝子の板に息を吐きかけさせて、その曇り具合をじっと観察しトランプを卓子の上に並べはじめた。
こういうやり方は日本のトランプ占いにはないので私は非常に好奇心を刺激された。
「ああ、何という人だろう」
と彼女はニッコリ笑い、婆アをむいて、
「あんたはいい亭主をえた。いつか大儲けする亭主です。あなたたちがチリーかブラジルで大きな館に住んでいるのが、もう眼に見えるようです。チリーかブラジルですよ」
私は興奮しノボセ、いつ頃、そうなるかとたずねた。五年か、六年後、と彼女は言った。もしこの予言が本当なら私はブラジルで大成功をするのだ。私はこの女占師に幾度も有難うと言い、婆アと小おどりしながら帰った。あれから五年、いや十年、たったがチリーならぬ塵の陋屋《ろうおく》で相変らず仏頂面をしてブラジルならぬイモジルをすすっているのが私と婆アである。
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体験「六本木のドラキュラー」
六本木から狸穴に向う通りの左側にもう四年ほど前、ドラキュラーという店があった。店のなかは薄暗く、妖気にみちており、あちこちに血まみれの人形や棺桶をおき、不気味な音楽をたえずながし、客がそのなかに入ると言いようのない不安に襲われる雰囲気に作ってあって、コカコーラやビールの小瓶しか飲料として出さない。
このコカコーラかビールを飲んで腰かけていると突然、壁が裂けて、そこから世にも恐ろしい顔をした男があらわれ、客席を歩きまわって皆を縮みあがらせるという趣向で――その後、このエピゴーネンの酒場が新宿、渋谷にできたのだが、造作の豪華さではこのドラキュラーに及ぶものはなかった。
店が出来た時、好奇心に駆られ私は早速、見物に出かけたが、怪物に扮した男が客席を歩きまわると、
「キャー」
「ヤメテエ」
などと女の子たちが恋人にしがみつき、あるいは床にしゃがみこむ様が、たまらなく面白く、自分もできたら見るよりは怪物に扮装したくなって、事務所に頼みにいった。
事務所には若い社長がたまたま、来ておられて、突然のこの話に、
「しかし、かなり重労働ですが、よろしいか」
「大丈夫であります」
「それでは採用しましょう」
ということに相成った。
この若社長は英国の怪奇博物館からこの店のヒントを得られたそうで、ゆくゆくはニューヨーク、ローマにも同じ店を作りたいなどと語っておられた。(実現したか、どうかは知らん)
さて、翌日から私はこの店で怪物の扮装をして歩きまわることになった。
当日、夕刻すぎ、店に行くと私と同じアルバイトの若者四、五人が集まっていて、これらの先輩に教えられ、緋のマントを着用、赤毛のカツラをかぶり、そして奇怪な、イボイボだらけの顔をしたゴム製のお面をかぶったわけである。
幼年時代、夕暮、路のすみにかくれて、遊び終った少女たちが二、三人、つれだって戻るのを見つけ、
「ヒ、ヒ、ヒ」
などとおばけの真似をして彼女たちが腰ぬかすのを楽しんだあの頃と同じ心境のつもりであったが、いざこのお面をかむってみると、これがすごく息苦しく、生ぐさく、しかも暑くて、
「かなりの重労働ですぞ」
と社長の言ったことも成程と思った。
事務所から客席の裏側にまわると、そこにドンデン返しの戸があり、その戸から客席にとびこむのである。
私は仲間に肩を押されて、客席にとびこむや、女の子とその恋人の周りをうろつくと、
「脅してやって下さい」
と恋人の青年がたのむ。私が女の子の肩に手をふれると、ワー、キャーとすさまじい声をあげて恋人にしがみつく。恋人はおかげで嬉しそうにニヤニヤとして感謝、感謝と呟くのだった。
それではあまりに私がサービス一方になるので時々、女の子のお尻なんかにさわってやった。すると、
「エッチ、おばけ」
と怒鳴られた。
三十分もこれを続けるとクタクタで、事務所に戻った時は汗びっしょりだった。顔を洗いながら、我ながらいい年をして馬鹿なことをすると苦笑したが――持って生れた好奇心の虫はどうしようもない。
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お化け屋敷をたしかめたい
私は元来、占いとかお化けという馬鹿馬鹿しいものにも興味というか、好奇心があって、もうずっと前に『週刊新潮』の告示板という頁に次のような「お願い」を出したことがある。
「私は日本中に現存している幽霊屋敷とかお化け屋敷(見世物に非ず)をたずねて、実際にそこに幽霊お化けが出てくるのかどうか、この眼でたしかめてみたいのです。御近所にそういう話や噂のある家のあることを御存知の方は恐縮ですが御連絡頂けませんか」
すると読者とは有難いもので全国から二十通ぐらいの手紙が『週刊新潮』の編集部をへて、私に送られてきたのである。
ところが、この手紙に一つ一つ返事を書き、是非、おたずねしてその家を訪れてみたいと言うと、
「その家は二年前とりこわしになって、今はありません」
とか、
「私も祖母に聞いただけで、本当に出るかどうか知りません」
というように話が次第に空気の洩れた風船のように小さくなっていく。
結局――
その二十通ぐらいのなかからまだ真実ありげなのが四通のこった。
その四つは現在もその建物が残っており、その噂が現存している人々に残っているという家である。
たとえば、名古屋の元中村遊廓のなかに、どんな時計も午前零時になるとピタリととまるという空家がある。
私はその家に現在、落語評論家で有名な江国滋さんと真夜中、三十分前に目覚し時計をもってもぐりこんだ。
長い間、空家になっているので家中、腐った畳と埃の匂いが充満している。しかしそれよりもその遊廓だった家の一間一間には、昔そこで遊んだ男と娼婦の臭いのようなものが感じられて、かえって奇妙なすごさ[#「すごさ」に傍点]があった。
懐中電燈一つをたよりにして一室に入り雨戸を一枚あけて十一時四十五分ぐらいから江国さんと持参した目覚し時計を睨めっこしていた。
チク、タク、チク、タク、
本当に噂の通り、零時に時計は停るだろうか。それとも嘘の話だったのだろうか。
その結果は残念ながら、ここでは書けない。
この家やほかの幽霊屋敷について私の実験記録は『蜘蛛・周作恐怖譚』(講談社文庫「怪奇小説集」――編集部注)という拙著に書いたので同じ話を二度繰りかえすわけにはいかんのである。結果を知りたい方はこの本を読んでつかわさい。
しかしあの時の何とも言えぬ好奇心の満足は今もって忘れられなかった。
私は同じような探険をそのほか伊東でもした。熱海でもした。
それで今日、『夕刊フジ』の読者におねがいしたい。
この好奇心つよい男のために、あなたがもし現存しているお化け屋敷、不気味な家、幽霊屋敷を御存知なら教えてくださらんか。私は何をおいても飛んでいき、果してその幽霊屋敷が本物か否かをこの身でたしかめたいのである。そしてその結果をここで書きたいのである。
私はもちろん一人では行かない。さいわいこの欄の担当はYさんという私の大学の後輩にあたる美人記者である。Y嬢も勿論、決然として「幽霊屋敷は本当か、否か」の壮挙に参加してくれるであろう。私は大悦びである。諸君も大悦びである。(Y記者は参加しない。狐狸庵は一人でいけ。デスク記)
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夜の町
むかし渋谷に住んでいた頃、終電車の時刻頃、急に家を出て人影もまばらになった道玄坂やその裏通りを歩くことがあった。何か突拍子も無い出来事や事件にぶつからないかと思ったからである。
それで気づいたのだが、ああいう盛り場には朝まで全く人がいなくなるということはないのである。勿論、表通りに人影はないが裏通りを徘徊してみると、必ず誰かがいる。午前三時ごろ、マラソンの稽古をやっている男をみたことがあるし、眠くなったのでこうして散歩しているのだという受験生にも会ったことがある。地方都市などはこういうことがないだろうから、流石、東京だと思った。
しかし真夜中、一人で裏通りを歩いていてもさほど怖ろしくないのも東京であって、これがニューヨークならこうはいかないだろう。この間、新聞にニューヨークで深夜、殺された日本人のニュースが出ていたが、私も二、三年まえ、東京のつもりでニューヨークの真夜中を散歩していたら、気味わるい巨大な男たちが、アチコチでこちらをじっと見ているので、早々にホテルに戻り、翌日、知人にそれを話してひどく叱られたことがあった。カッパライ、強盗、殺人、ニューヨークの犯罪率は当時からすさまじかったのだから、叱られたのも無理はない。
中近東は全部、行ったわけではないが、あの乾燥した国々には二千年にちかい前の都市や町が廃墟になって残っていることがある。
イスラエルのガリラヤ湖といえば聖書を読んだ人には、ああ、イエスが説教して廻った湖かとすぐ思い出されるだろう。そのガリラヤ湖に出かけた時、山の中にコラジンという古い古い町の廃墟があるのを発見した。聖書にも出てくるのだから非常に古い町と考えて頂きたい。町といっても日本の村ぐらいの大きさで、真黒に風雨にさらされた石の家、石の路、公会堂の残骸が半ば原形を残しながらそのままに残っているのだが、何分、山の中なので日中にも訪れる人もない。
それを昼間みて、夕方宿に戻り、真夜中になってから突然、そこに今、行ってみたい欲望にかられた。
こういう好奇心にかられると私は自制できないところがあり、すぐ洋服をきて、宿の前にまだ流しているタクシーにコラジンまで行ってくれと頼んだ。
運ちゃんはこの真夜中、山のなかの廃墟に行く東洋人を甚だ不審そうに見たが、黙ってドアをあけてくれた。
そして真暗な灯一つともっていない山道を月のあかりを頼りに、そのコラジンにたどりついた。
「待っててくれ」
私はそう言って、おそらく千五、六百年の歳月を風雨に晒されたままになっているこの廃墟の町の中に足をふみいれた。
月の光が地面に転がった石や柱の残骸を照らしている。千五百年前にそこに人間が歩いた石畳の道が私の前につづいている。千五百年前にそこに人間が住んでいた家がその壁だけ残して西側にある。
私は何ともいえぬ眩暈のするような気持でその道を歩き、家々の壁を撫で、小さな広場に転がった円柱に腰かけて、黒い山の影とその山の上に浮ぶ月をいつまでも眺めていた。ここに住んだ人間の亡霊があちこちから出てくるような気もしたがふしぎに怖ろしくはなかった。
これが私の今日までのなかで夜の町を歩いた最も充実した経験であった。
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ウツ病
この随筆で私は何回も仏頂面をしている自分のことを書いた。ところが先日のある日、
「あれは本当でしょうか」
未知の女の人から電話がかかってきた。
「わたしたちの見る狐狸庵さんはそんなに憂鬱そうに思えないのですがねえ」
私は本当です、スミません。あなたのイメージと違って申しわけないと言うより仕方がなかった。
実際、それは文章の綾ではなかった。というのは三日ほど前、私は自分の仏頂面にツクヅク嫌気がさして北杜夫氏に電話をかけ、この精神状態を多少、しゃべったのである。すると神経科医でもある彼はしばらく聞いた後、自分の家に来てくれと言う。
その夕暮、私は彼の家に行き、彼の問診を受け、更に彼の友人である神経医の病院に行った。ここで診察をうけて、ウツ病であると診断された次第である。北氏は既に長い間、ソウウツ病にかかり、吉行淳之介もウツ病に悩んでいたが、私も遂にその仲間入りをしたわけだ。
「ウツ病というとぼくは精神病ですか」
と北氏にきくと、彼は苦笑して、
「ウツ病は残念ながら精神病ではありません。特にあなたのは初老性ウツ病といって人生の変り目にかかり易いものです。二、三ヵ月か半年ぐらい、薬をのめば治ります。要するに神経の使いすぎが疲労をもたらしたのですな」
と言った。そして私のウツ病は彼のソウウツ病にくらべると、はるかに程度の低いものであると言って慰めてくれた。
家に戻って机に向い、ああ自分はウツ病であったかと思うと、何となくハクがついたような気がして嬉しいような情けないような複雑な気持である。しかし北氏のいう初老性ウツ病という言葉がひっかかってくる。青春のウツ病というのは何か樹液のような生ぐさい臭いがする。しかし初老性ウツ病というのは古洋服の襟の裏に溜ったホコリのような臭いがする。
「初老性ウツ病とは何ですか」
北氏にそう聞くと、彼はこう説明してくれた。
よく新聞に中年の人が突然、家を出て姿を消し、遠くの山林で首をくくっているという話があるでしょう。
家人たちは首をひねり、原因はさっぱりわかりません。思い当らないんです。その日もニコニコして、子供と野球見物に行ったぐらいなんですからね。
書置きもない。部屋など整理した気配もない。
それなのに不意に姿を消し、山林のなかで首くくっちゃう。
あれですな、初老性ウツ病とは。
北氏にそう話を聞いたのがまだ心に残っている。
私は家人にその説明をして、
「俺もある日、突然、姿を消すかもしれん」
そう言うと、家人は猫のように鼻に皺をよせてセセラ笑った。家人は北博士の診断にかかわらず、まだ私が天下晴れてお墨つきのウツ病だと信じていないのである。あるいは自分の家族の一人がウツ病だと信じたくないのかも知れない。
諸君のなかで、
1、世の中が面白くない。2、何をするのも面倒くさい。3、仕事に情熱、好奇心も余り起らぬ。4、ゴロ寝をすぐしたくなる。
以上のような気分がある人がいればウツ病の疑いがある。ある日、突然、山林に行って首くくらぬためにも医者に相談することをお奨めする。
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夕暮になると
このところ、空があまりに澄んできたせいか、書斎の窓から見える丹沢、大山の山並が急にこちらに迫ってきたような感じがする。
山襞や山頂が白いのは雪があそこに昨夜、音もなくしずかに降ったせいだろうか。机に向うまで、私はながい間、その山並をじっと見る癖がついた。
夕暮まで本を読んでいて、ふと、まぶたのあたりが、ほの紅いのを感じ、眼をあげると、薔薇色に空はかがやき、山々は蒼黒く浮びあがっている。その薔薇色が真紅にかわり、真紅がオレンジ色に移り、やがて闇のなかにすいこまれるまで、私は見ていて飽きたことがない。
夕暮になると、私はなぜかしらぬが、幼年時代や少年時代に知った人のことを急に思いだす。
もうそれ以来、会わないし、また今後、会うこともないそういう人たちが、今、何処で、どうして生きているだろうかと、ふと考えるのだ。
幼年時代、私は満州の大連という都会で育った。
ロシア人がつくったという大連は初夏になると街路樹のアカシヤの花が吹雪のように路に舞い、花の匂いがほのかに漂ってくる。秋になるとそのアカシヤの葉が黄ばんで歩道に散っていく。十一月から雪がふり、雪は凍り、凍ったその雪の上を満人の馬車のひづめの音がひびくのだ。
その頃、私の家には十五、六の満人のボーイさんがいた。ボーイさんというのは向うの呼び名で下男のことだった。
彼は私の家にくる前に、辻で曲芸師をやっていた少年だった。逆立ちをしたり、体を弓のように曲げて額にのせた棒に皿をのせたりしているのを小学校の帰り、私も一度見たことがあった。
その少年がどういう手づるで私の家のボーイさんになったのか、今でもわからない。
私の記憶にあるのは彼が私を――私は幼年時代、かなり愚鈍だった――非常に可愛がってくれたことである。
私がどのくらい愚鈍だったかは、雨の日に[#「雨の日に」に傍点]傘をさし雨合羽を着て、庭の花畠に一生懸命に如露で水をやっていることでもわかるだろう。
それを窓から見ていた兄がアッと叫んで母に知らせに行った。母は私に、
「雨の時は、花に水をかける必要はないでしょう」
と教え、始めて私は、ああ、そうかと思ったのである。
そんな愚鈍な私をこの十五歳の満人の少年は非常に可愛がってくれた。日本語のできぬ彼はカタコトの言葉とミブリとで私といつも遊んでくれたのである。
病気をして寝ていたことがあった。その時彼は兄のように私の看病をしてくれたが、ようやく熱の引いた時、退屈な私のために、昔、彼が街の辻でやっていた曲芸を――額にのせた棒に皿をのせ、その皿をまわす曲芸をやってくれたのだ。
その中国人の少年《ボーイ》と一年のちに別れて私は日本に帰った。
夕暮、茜色に丹沢や大山がそまる時、私はなぜかしらぬが、その少年のことを思いだす。思いだすと、まぶたに泪のにじむことがある。
アナトール・フランスの短篇に『聖母と軽業師』という作品があるが、その短篇を読まれた方には、私の気持がわかってくださるだろう。
あの少年は今、どこに生きているだろうか。
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古本のたのしみ
アナトール・フランスの『聖母と軽業師』のことに一寸、ふれたが、私は学生時代、この聖職者のような顔をして、皮肉っぽい眼つきをした仏蘭西作家にぞっこん惚れこみ、その作品を愛読したことがある。
アナトール・フランスはよくセーヌ河岸の古本の露店を歩き、そのなかから埃に埋もれた珍書や古書を発見したというが、私が若かりし頃、はじめてかの国に遊学した時、この巴里のセーヌ河岸の古本露店に飛んでいったのだが、もうその頃は、珍書も古書もなく、ガリマール社から出しているセリ・ノワール叢書の探偵小説や怪しげな恋愛小説がパラフィン紙に包んで並べられているだけで、多少ガッカリした記憶がある。
私には珍書や初版本、稀覯本を集める趣味は全くないが、それでも古本屋を歩きまわるのは嫌いではない。古本の持っている独特のカビくさい臭いもさして苦にならない。
珍書や稀覯本には縁が遠いが、それでも自分が探して見つからなかった本が、地方都市の古本屋で無造作に転がっているのを見つけた時は、
(あった)
まるで自分の受験番号を入試発表の紙から見つけた受験生のように体の震えるのを感じることがある。
数年前、必要あって切支丹関係の本を集めていたことがあったが、神田のT書店という小説家の資料収集を専門にしている店でさえ探せなかったものを、京都の古本屋で、全く偶然に見つけた時、しかもその値段があまりに安いのを裏表紙を見てわかった時、
(イ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ)
下品な笑いが顔に浮んだのを今でも記憶している。
古本を買ってそれを読む楽しさのなかにはその頁のところどころに、前の持主の感想が書きこんであったり、赤いラインが引いてあるのを見て、その人がどういう読み方をしているのか、推理できるところにある。
しかし経験上、赤線の引いてあるのが多い時は、前の読者がその本を本当は理解していないのだとすぐわかる。本の読み方を知らないのである。
時にはその本のなかから、古い葉書などが出てくることがある。
おそらく、前の持主が何げなく、シオリの代りに入れたにちがいないのだ。
そういう葉書を見ると、前の持主の生活や経歴が何となくわかるよぅな気がして、
(よう、先輩)
と一種のなつかしさをおぼえるものである。
こんな経験があった。
本郷の古本屋で、たまたま、マルセル・アルランという仏蘭西作家の本を手に入れ、まだ半分も頁の切っていない(仏蘭西の書物には頁を切っていないのが多い。近頃は大分、なくなったが)のを見て、途中で放棄したなと思いながら、読んでいると、その中から一枚の半紙が出てきた。
みると、欠席届と墨で書いてある。
「私、風邪のため、×月×日、欠席いたしました。右、お届け申しあげます」
つまり、そういう意味のことが、筆で書かれていて、最後に一高の校長の名が上に記載され、その下に当人の名がしたためられていた。
その当人の名を見ると、何と文芸評論家中村光夫氏の本名ではないか。若かりし頃、一高生だった中村光夫氏が欠席届を書いて、この原書のなかにうっかり、はさんだのだとわかった。可笑しかった。古本を買う楽しみにはこういう附録もついているのだ。
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ファン
古本屋に行って、偶※[#二の字点、unicode303b]、自分の本が書棚にあるのを見るのは、作家にとってあまり気持のいいものではない。
特にそれが力をこめて書いた作品であると、
(どうして、いつまでも愛読してくれなかったのか)
という不満が一寸、心に起るのはやむをえない。
ウヌボれるなと自分で言いきかせてみるが、これは私だけでなく、すべての作家の気持であろう。
逆に新本屋に行って、たまたま、私の著書を買ってくれている人を目撃すると、非常に嬉しい気のするのも人情であろう。その人の本に悦んでサインをしたい衝動にかられるぐらいである。
逆に、しばらく私の本をとり出して、考えこんで、迷った揚句、また書棚に戻し、その隣にある別の本を買ってしまう読者をみると、
(チェッ)
と舌打ちをするのも当然の話だ。
作家など、聖人でも悟りをひらいた男でもないから、このくらいの感情はゆるしてもらいたい。
いつだったか、こんなことがあった。
Tホテルのティー・ルームでお茶をのんでいたら、一人の青年がつかつかと寄ってきて、
「あの……遠藤さんでしょうか」
と声をかけてきた。
私は自分の読者だと思ったから、平生の仏頂面を捨てて、出来るだけ愛想よく、
「ええ、そうですよ」
「あの……二分ほど、お話していいでしょうか」
「どうぞ、どうぞ」
ファンは大事にせねばならぬ。私はボーイをよび、紅茶をもう一つ、彼のため注文してやったのである。
ところが、この青年、
「遠藤さんは、北杜夫さんをよく御存知だそうですね」
「ええ。よく知っています」
「ぼくは、北さんの大ファンなんです。ですから北さんの話、きかせて下さい。あの人は実生活でもあんなに楽しい人ですか。本をよむと実に魅力的ですねえ」
私のとってやった紅茶を飲みながら北、北と北の話ばかりする。
(チェッ)
真実、私は胸中、舌打ちした。この紅茶代、北にまわしてやろうかと思ったぐらいだ。
「北さんて写真でも魅力的ですね」
「そうですかね」
こちらは次第に仏頂面になっていく。
「あの人のマンボウもの、全部、持っているんです」
「そうですかね」
「実に、品のあるユーモアです」
「へえ。そうですかね」
「じゃ、ぼく、失礼しますけど」
紅茶を飲みおわると彼は礼儀正しく頭をさげて、
「ごちそうさまでした。どうぞ、北さんにお会いになったら、健康に気をつけて、ますます、作品を書いて下さいと伝えてくれませんか」
だれが伝えてやるもんかと、私はムッとした顔で彼を見送っていた。
あとで考えてみると、この青年、私にわざとイヤがらせをしたのかもしれぬ。
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私と日本人
ローマの町をぶらぶら、歩いていると向うから来た婦人が愛想よく笑いかけてきた。もちろん、その婦人はちゃんとした奥さんであることはその服装や品のいい化粧でわかる。
向うが愛想よく笑いかけるので、こっちもほほえむ。
(ハテ、何処かで知っている人かな)
と思いだそうとするが、思いだせない。
こちらが微笑すると、向うが伊太利語でベラベラと話しかけてくる。何を言っておるのか、わからない。仕方なくこちらはたった一つ頼りの仏蘭西語で何を言っているのかとたずねると、向うが首をふる。
そして、突然、自分の両指で自分の両眼をツリあげるようにして、
「マダム・バタフライ」
と言ってニコニコッと彼女は笑った。
私は始めて了解した。彼女は、あなたはお蝶夫人の国、日本から来られたのですね、と言っていたわけだ。
会釈して歩きだしてから、しかし、なぜ西洋人は日本人や中国人は眼がツリあがっていると考えてるのだろうと思う。タレ眼のキンちゃんなどは外国に行って、日本人、必ずしも眼がツリ上っているのではないと主張してもらいたいものだ。
外国――特にヨーロッパで作られたり描かれた東洋の人形や東洋人の顔を見たまえ。たいていがツリ眼である。これはちょうど日本の漫画に描かれた外人すべてが背高ノッポであるのと同じだろう。
しかし、私はその時、自分が日本人であると向うに認められたことで満足をしていた。
というのはこれまで、私は外国人から色々な国の人間に間違えられてきたからである。たとえばリヨン大学に留学していた頃、学生食堂である日、食事をしていると、同じ席についた仏蘭西人の学生が突然、
「君、モロッコの状勢は近頃、どうですか」とたずねてきた。
「え?」
私は怪訝な気持で、
「よく知りませんよ。君のほうがよく御存知でしょう」
と言うと、相手は、
「あれッ。あんた、モロッコ人でないですか」
と言った。私が日本人だと言うと、彼は失礼しましたとあやまった。
こんなことは度々あった。
別に何国人に間ちがえられても構わないのだが巴里やリヨンには北アフリカのアルジェリア人やモロッコ人の行商人が多くいる。巴里である日、幼友だちの歌手の古沢淑子さんのアパートをたずねた時、生憎、古沢さんは留守で彼女と同居の仏蘭西人女性が扉をあけてくれた。私を見るや否や、この女性は扉を半分しめて、
「いりませんね、いりませんよ」
と大声で叫んだ。
その時の私は古ぼけたソフトをかぶり、古ぼけたバンドつきのレインコートを着ていたのである。この仏蘭西人の女性は私を見て、アルジェリア人の行商人とあきらかに間ちがったのであろう。
こちらが何も言えぬうちにバタンと相手は扉をとじてしまった。
私はスゴスゴと、そして憤懣やる方なくアパートを出て歩いていると、折よく向うから古沢淑子さんが戻ってこられるところだった。
「ひどい目にあいました」
事情をきいた彼女は可笑しさを噛みころしながら私をつれて、ふたたびアパートに戻った。
彼女の女友だちは恐縮し、笑いころげ、しきりにアヤまったが、私はふくれ面をしていた。
リヨンの私の下宿は屋根裏部屋で冬はさむかった。
自分でこう言うのも何だが、この頃、私はかなり勉強をした。大学に通うのと、食事に出かけるほかは、この屋根裏部屋で机にしがみついて本を読み、ノートを取っていた。
もともと私は大学の研究室に残るつもりで渡仏してきたのだが、渡仏の船のなかで次第に心境の変化をきたし、小説を書きたいという気持になってきたのである。そういう意味で日本人もほとんどおらず、そして戦争犯罪国民である私にとって、リヨンの寒い、孤独な生活は小説家となるためにかなり役立ったような気がする。
下宿の前は市電の停留所で、古ぼけた、時代遅れの電車が鈍い音をたてて停ったり、通過していった。近所に町工場があって、そこから絶えず、木材を切る音がきこえていた。
市電の停留所の前にいつも一人の中年の女がたっていた。服装もみじめで、顔もうすよごれていた。
昼近くになると、この女は姿をあらわし、夕暮になって、あたりが暗くなるまで、停留所の前のアパートの蔭にじっと立っている。
ふしぎな女だと思っていたが、ある日、下宿の門番にきくと、あれは狂女だと教えてくれた。戦争で夫が兵隊にとられ、死んだのだが、まだ夫の死が信じられず、昔、新婚の頃そうしたように勤め帰りの夫の帰るのをあそこで待っているのだという。
その頃、私はひどく孤独だったから、その話は心にしみた。夕暮、大学からの帰り、下宿の前まで戻ってくる時、彼女の姿を夕靄のなかに見つけると、何故か泪が出てくる時があった。
リヨンには幾つかの本屋があったが、そのなかにマルキシズム関係の本ばかり専門に売っている店があった。
私がその店にはじめて寄った時、店の主人が、
「あなたは中国人か。中国の革命はスバらしい。私の店では中国人学生には本の割引をする」
と言った。私が仕方なく、気弱な笑いをうかべて黙っていると彼は本を割引してくれたが、その後、二、三回、その店に寄るたび、彼は中国人は素晴らしいとほめ、割引をしてくれた。彼は私を中国人と思い、私も割引してもらいたさに中国人になりすましていた。
下宿から大学に行く途中の煙草屋に、かなり美しい中年の女がいた。私はその女の顔みたさにわざわざその煙草屋に寄ったのだが、ある日、その店で小肥りの酒やけをした彼女の亭主に出あった。
この亭主は平生、店のほうは女房にまかせ、おのれは近所の一杯屋で仲間と床屋政談をやったり、リヨンをながれるローヌ河の岸でペタンクという球なげ遊びばかりしている怠け者だった。私はあんな美しい女がこんな男に惚れているのが前から癪だったのである。
「あんた、印度支那人《アンドシノワ》か」
と彼は私に煙草を渡しながらきいた。日本人だと答えると彼はセセラ笑って、
「俺にとっては日本人も印度支那人も同じこと」
と言った。
下宿に戻ったが腹の虫がおさまらない。私はもう一度、彼の店に行って、煙草を買い、
「あなたはボッシュか」
とたずねた。ボッシュとは仏蘭西人が独逸人をさげすんで言う言葉である。果せるかな、彼は眼をむいて、
「俺は仏蘭西人だ」
「ぼくにとっては仏蘭西人もボッシュも同じこと」
そう言ってクルリと私は店を出た。
「日本にはどんな猛獣がいますか」
「日本には石の建物がありますか」
「日本に地下鉄があるって? ……信じられないなあ」
今、仏蘭西に出かけた留学生が、田舎ならいざ知らず、巴里やそれに近い都市の住民にそんな質問を受けることはまず、あるまい。
だが、一九五〇年、私たちがおそらく戦後の留学生グループとして最初に渡仏した頃は、そんな質問は仏蘭西人の友人から(しかもインテリの……)堂々と受けたのである。
私は一九五〇年の夏、大学が開講するまで(向うでは大学は秋が新学期となる)ルーアンのRという建築家の家にあずけられていた。
あずけられていたというと変だが、この建築家の家では家族を離れた外人留学生を親身になって世話をし、あずかりたいという考えを持っており、私はその夏休み、この家で二ヵ月を過すことになったのだ。
戦後間もない頃だった。当時、ルーアンの町にいる日本人は私一人だけだった。(巴里でも十人ぐらいしか住んでいなかったと思う。今から見ると隔世の感がある)
だから、そのR家の知人たちはこの家を訪問したり、お茶や食事によばれるたびに、紹介された私に、(礼儀上か、本当の好奇心か、区別はつかぬが)いつも同じような質問をするのだった。
「日本には虎が住んでいますか」
「日本人は紙と木で作った家に住んでいるそうだが、よく風に飛ばされないですね」
私は後になって外務省ならびに大使館が怠慢だと怒りの随筆を書いたことがあるが、実際、今から二十年前までの仏蘭西の小学校の教科書にはリキシャに乗った男、花の傘をさした女、そして中国風か日本風かわからぬような家に住んでいる日本人の絵が堂々と載っており、それにたいして外務省と日本大使館は訂正も変更も要求していなかったのである。
私はとにかく、懸命になって日本を説明しようとした。
しかしだ。諸君。当時の私のまずい仏蘭西語で、障子をどう教えることができようか。
「日本人はベッドに寝ないで、床に寝るというが……」
タタミというものがあるんですよッ、と私は叫びたかった。
しかしタタミをどうわが仏蘭西語で説明していいのか。
「つまりです。一種の藁《わら》が床においてあります。その藁の上に寝るのです」
汗だくで私がそう教える。
「ああ、わかった、わかった」
御婦人たちに紳士がしたり顔で言う。
「仏蘭西の百姓屋の納屋のようなもんだな。ぼくらも、若い頃キャンプで、納屋の藁のなかに入って寝ましたが、あれ、なかなか、暖かいもんです」
ちがうんだよ、そうじゃないんだと私は怒鳴りたくなる。
しかし、もう、その時はヘトヘトになっているのだ。
「そういうのと、似ているんだろうね」
面倒くせえや。勝手にしやがれ、と私は諦める。もう、ウイ、ウイと返事をすることにする。
「ウイ」
「日本人は紙と木とで作った家に住んでいるそうだが、風で紙が破れるだろうね」
「ウイ」
「日本には虎がいますか」
「ウイ」
かくしてルーアンの仏蘭西人は日本には虎がおり、我々は藁の中に眠ると考えてしまう。私にはどうにもならなかったのである。
その留学時代、私はスイスの国境にちかい田舎の農家で春休みを利用してアルバイトをしたことがある。
アルプスのとがった峰が砂糖でもかけたように真白にみえる高原の村で、林檎の花が至るところに咲いていた。
村はそんな峰々の斜面にあって、教会を中心に戸数二十戸ぐらいの家々が牧場にとりかこまれて点在していたのだが、私はその村の若い夫婦の家で働くことになったのである。
ところが行ってみて驚いた。水道がないのである。水は村の一角に泉があって、それをくむのである。
そして便所は――水洗じゃない。穴の上に板がおいてあって、日本の田舎より、もっとひどい。断っておくが、私の働いた若夫婦の家は村のなかで貧乏なほうではない。むしろ普通か、裕福なほうだったと思う。
嘘だとお思いの方は、『禁じられた遊び』という映画に出てくる農家を思いだしてみたまえ。私の住んだ家が想像できるだろう。
私のパトロンは私のついた日、仕事を説明した。朝の五時に起きて、まず牛の乳しぼりをするのである。
三月下旬の朝はまだ暗い。そしてこのアルプスの麓はまだ寒い。わたしゃ、五時に叩き起され、本当に辛かったべ。ねぼけマナコで牛小屋にいくと、
「モー、モー」
と牛が鳴いて、臭い尻をこちらに向け、パトロンはバケツのようなものを彼等の脚の間におき、垂れた乳房をしごくようにして乳をしぼっていた。
教えられた通り、やってみると、牛がギャーと変な声を出す。そして足でバケツを蹴飛ばす。私があまりに下手糞なので、痛がっているのである。
翌日も折角、パトロンは自分でしぼった牛乳入りのバケツを牛に蹴飛ばされた私を見て、
「もう、いい」
と情けない顔をして言った。
朝飯のあと、水を泉にくみに行った。天びんにやはり二つ、バケツをぶらさげて、水をくみ、それを家まで持って帰るのだが、途中で水がこぼれて、半分以下に減っている。
若いパトロンはこんな日本人を雇ったのが身の不運だったというように、そのバケツをじっと見ていた。
私はすっかり、凹んだ顔をしていると、細君のほうが慰めるように、
「子供と遊んでくれる?」
という。
私は子守ぐらいはできるだろうと思って、小さな男の子と女の子を牧場に連れていったが、陽はうららとして、林檎の花は白く匂い、アルプスの山はうつくしく、それを寝ころがって見ているうちに、ついウツラウツラと眠ってしまい、眼をさました時は、男の子も女の子も何処かに消えていた。
あわてて家に戻ると、子供たちはおヤツをたべていたが、若い細君は、もうホトホト呆れたという顔をしていた。
日本人の学生をあれ以後、あの村ではアルバイトに雇うことはないだろう。
しかし、あまりに私のできが悪いので、彼等夫婦はかえって笑いだし、一週間後、
「もう、帰っていい」
とバイト代はくれて、クビになってしまった。
しかし、彼等はクリスマスになるとカードをいつもくれた。私にとっては懐かしい御主人たちだった。
とはいえ、私は林檎の花の咲くこの牧歌的な村で大いに楽しい観察をすることができた。巴里やリヨンではみられぬ、仏蘭西の農民の気質や純朴さに触れえたからである。
村で一番、えらいお方は昔の日本の村と同じように村長さんと教会の司祭だった。教会の司祭はこの村の出身だったから、顔も姿も全く農村出身の雰囲気があり、毎日、オートバイで何処かに行っていた。
村には一日一回、郵便配達夫が来たが、この中年のチョビ髭をはやした男は、郵便物をわたしては、その家で話しこみ、葡萄酒を御馳走になっては、隣の家に行き、同じことをくりかえすので、夕暮まで村のなかをウロウロとしている始末だった。
午後、林檎の花の下ですっかり酔っぱらった彼が配達用の自転車を放り出したまま、叢で眠りこけているのを見たことが二、三度あった。
通りがかった爺さまが彼をゆさぶり起すと、大きなアクビをして自転車にのる。そして夕方、ようやく配達を終えて村を去っていくのが私には非常に印象的で、こんなのどかな村に育てば良かったろうにと思うほどだった。
この村では日本人が来たのは始めてだったろう。
夜、私とパトロン夫婦が飯を食っていると必ず、四、五人、遊びにきた。彼等の目的は私の顔をみることだった。つまり、日本人ちゅうもんは、どんな人間か、見にきたべい、と言うわけである。
四、五人の大人のほかに、必ず鼻垂れ小僧が二、三人、ついてきた。
鼻垂れ小僧たちは日中、オートバイに乗った神父さんによく怒鳴られていたが、あれは教会の子供用の公教要理(教えの勉強のこと)をさぼって、牧場に遊びに行ったためであろう。
小僧たちは眼を丸くして、私が食事をするのを見ている。パトロン夫婦はパトロン夫婦で自分の家に日本人を泊めたことが大得意であることはその顔や表情でよくわかるのである。
ある日、一人の爺さまがやってきた。彼は私の顔をしばし、じっと見ていたが、何を思いけん、突如、
「で、あんたは、チェコから来たのかいの」
とたずねた。
今もって、私はこの爺さまが何故、チェコと私の顔とを結びつけたのかわからない。あるいは第二次大戦中、国境をこえてチェコからここに逃げてきた避難民がいて、その思い出と私の顔が爺さまの頭で一緒になったのかもしれん。
「いや、日本からですよ、爺さん」
と私が答えると、爺さまは重々しい顔で、
「うーん、日本はあの山のずっと向うだあ」
と呟いたのを私は今でも可笑しく思いだす。
この村で私がした悪戯の一つがある。道で例の鼻垂れ小僧たちに出会ったので、お前は幾つかときくと五つ、四つと答えた。一人一人、名前を訊ね、俺は何国人だと思うかと問うと、坊主たち、答えられない。私は彼等に世界には日本あり、中国あり、アラビヤありと教えてやり、
「で、君たちは何国人だ」
とたずねると首をかしげ、
「知らねえ」
という。私は悪戯気をおこし、
「君たちは中国人なのだ。わかったか」
と言うと、この仏蘭西の鼻垂れ小僧たちは神妙な顔をして、
「わかった」
と答えた。
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亭主諸君におすすめする
この前、書いたことだけれど、もう少し詳しく説明すると、私は子供の時、少し低能なところがあった。
自分がなぜ、少し低能だったかというと、今でも一つのエピソードを記憶しているからである。
小学校一年の時、母親が私と一緒に庭に花の種をうえてくれて、
「毎日、水をやると芽が出てくるわよ」
と教えた。
私は大悦びで毎日、学校から帰ると、この花畠に如露で水をかけていたが、ある雨の日も、家に戻ると傘をさしたまま、いつものように如露をもちだした。
懸命に土に水をかけてやっていると、家の窓からそれを見つけた兄が、
「あッ、あいつ」
と言って、母に知らせにいった。
母もびっくりして、私を家に入れ、
「雨の日は、水をやらなくていいのよ。わかるでしょう」
と言った。
私はしばらく考え、
「あッ、そうか」
と叫んだそうである。
この思い出は記憶にあるし、今でも兄からからかわれる。
それから、こういうこともあった。
やはり小学校一年生の時、母から始めてお使いに行ってこいと言われた。
風呂敷につつんだおはぎ入りの重箱を近所の知り合いに届けるお使いだったが、出がけに、
「いいこと。重箱は向うにわたすんだけれど、風呂敷は持ってかえるのよ」
母は何度も何度もそれを繰りかえした。私は心のなかでフロシキ、フロシキと呟きながら、向うの家に行き、たしかに風呂敷をもらって、
「そうだ。頭の上にのせ、その上に帽子をかぶればいい」
と子供心にも名案を思いつき、頭に風呂敷をおいて、その上から小学校一年生の真新しい帽子をかぶった。
そこまではよかったのである。
さて、家に戻る途中、向うの歩道でやはり知りあいのおばさんがやって来るのを見た。
「周ちゃん、今日は」
とおばさんは遠くから声をかけた。
私は帽子をぬいで、こんにちはと言った。
家に戻ってみると風呂敷は頭になかった。今日はと頭をさげた時に、その頭からズリ落ちたのに気がつかなかったのである。
こういうことが、たびたび、あったから、私の家では私を使いにやらなくなった。兄はいつもそれについて不平を言っていた。
所帯を持ってから、もう低能どころか、すっかり悪知恵のついた私はこの思い出を利用した。それは家人に、
「棚のものを取って下さい」
とか、
「これを運んで下さい」
と頼まれると、必ず、ウッカリしたように何か一つを落してこわすのである。(但し安物に限った)
家人はそのうち、呆れ果てて、もう物を頼まないようになった。
歳末の大掃除の時なども私は手伝ったことはない。引越しの時もしかりである。
「かえって、足手まといになりますから、何処かに出かけて下さい」
と家人は言う。
だから私は十二月三十一日はたいてい映画館に行く。映画から戻ると家中の掃除ができている。頭は使いようさ。
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暗い古い建物
一時間前、机に向っていた私は突然、電話をうけた。
「川端先生が逗子のマンションで自殺されたそうです」
知らせてくれたのは、『三田文学』の後輩だった。電話はそのあとも次から次へとかかってきた。
先生のお顔を最後に見たのは一ヵ月ほど前。日本ペンクラブの会議室である。ちょうど、今年の十一月にペンクラブ主催で、世界の日本研究家《ジャパノロジスト》の大会が開かれるが、専務理事の阿川弘之の説明を我々、理事や各委員が聞いている時だった。トックリスェーターに上着をひっかけられた先生は会議の終りごろ、部屋にはいられたが、その軽快な服装のため、すこぶるお元気にみえた。
阿川弘之に聞くと、先生はひどくこの大会に情熱を燃やされているとのことで、参加者を京都に招待することにも、ひとつひとつ、こまかい指示をお与えになったそうである。
会議が終って、私が事務室の方に行くと、先生はだれに向っていうともなく「外国にいる日本研究家だけではなく、日本に留学している学者も呼びたいですね」とつぶやかれた。
この三月下旬、私はローマ法王の謁見をうけるため、イタリーに行くことになったが、阿川の頼みをうけてローマ駐在のポルトガル大使、マルチンス氏をこの会議に呼ぶ伝達者になった。
マルチンス氏は外交官でありながら日本文学のすぐれた研究家で、その『日本文学と西洋』という本は定評がある。ローマに着くと、彼の官邸を三浦朱門と訪ね、その旨を伝えたが、「それは川端先生のご希望ですよ」とつけ加えると、大使の顔にパッと喜色が浮んだ。
それは、彼が東京の大使からイタリー大使になって、長年住みなれた日本を去る時、鎌倉の寿司屋で開かれた送別会に川端先生もおみえになり、大使夫妻は大変おどろいていたからである。けだし、大使は川端先生の文学ファンで、書斎にはその英訳された作品が発行されるごとに並んでいくのを、彼とは長いつきあいの私は常々みていたのである。
ノーベル賞をとられたあとも先生は若い後輩にもきさくに話しかけてくだすった。私などとても先生に近よりがたいほうだったが、避暑地のスナックなどで、近所の奥さんや娘さんなどと騒いでいると、ワイシャツ姿の先生がその前を通りかかられ、立ち止ってニッコリと笑われ、ご婦人たちをあの大きな目でじっとみつめられるのだった。
今、テレビから、なぜ先生が自殺されたのか、まだわからないというアナウンサーの声がきこえる。私も私なりに色々と考えるが、しかし、だれが一人の大作家の死に至る心の秘密をつかむことができよう。そういうことは無遠慮に、軽薄に語るべきではないように私には思われる。
私は昨年の冬、ストックホルムを訪れたが、最初の夜、迎えにきてくれたスウェーデンの出版社の人が車で静まりかえった夜ふけの街を通りながら、暗い古典的な建物の前で、急にスピードをおとし、静かにつぶやいたのを思い出す。
「ここで、あなたの国の大作家がノーベル賞をうけたのです」
あれは、暗い古い建物だった。
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兄 弟
子供の頃、私は少し低能だったと書いたが思いだしてみると、その例はまだある。
私には兄弟は二つ上の兄しかなく、この兄は、前に書いたように雨の日に花畠に傘をさして、如露で水をやっている私をみて、
「アッ」
と叫んで母親に知らせに行ったぐらいの秀才(?)であるが、とに角、学校も常に一番であり、私は長い間、その点、頭があがらなかった。
学校から戻ると兄は言いつけられた通り手を洗い、オヤツをたべ、そして勉強する。私とくると、学校から家に戻るまでかなりの時間がかかるのである。途中で蜘蛛が巣を張っているのを見ると、しゃがんでそれを眺め、犬が喧嘩していると、遠くからコワゴワそれを見物し、ノロノロ、グズグズ、家に戻るからだった。
しかして家に着くや、まず玄関の扉をそっとあけて、誰もいないのを確かめるや、ランドセルを放りこんで一目散に逃げていく。一歩、家に入って母親か女中さんに掴まると、手を洗わされ、まずいオヤツを食べさせられ(家のオヤツはまずかった。私は外で売っている鯛焼や駄菓子をたべたくて仕方がなかったのである)勉強させられるのが、たまらなくイヤだったからである。
しかし私は二歳上の兄を尊敬はしていた。学期ごとに彼のもらってくる通信簿は全甲であるにたいし、私のは良くてアヒルの行列、つまり乙、乙、乙に丙がまじっているという状態で、子供心にも、兄はえらいもんだと考えていたのである。その上、私は毎日、夜、兄から『少年倶楽部』という少年雑誌を読んでもらうのが楽しみで、かくもスラスラ、平仮名や漢字を読める彼を眼を丸くして眺めていたからである。
当時、『少年倶楽部』には附録がついていて、それには戦艦、長門の模型が組みたてられるようになっていたり、あるいは当時世界最高のエンパイア・ステイト・ビルディングの紙模型を作る紙型がまじったりしていた。
私は日曜日、兄が半日かかってエンパイア・ステイト・ビルディングを作るのを寝ころんで眺めていた。そして心の中であることを考えていた。あれが出来あがった瞬間、こわしてやろうと思っていたのである。
最後の九十九階の尖塔を彼が嬉しそうに糊づけした時、私はその考えを実行した。グシャッという音で、半日の彼の苦労は無になったのである。私はひどく母に叱られた。
しかし私が少し低能だったのではないかというのは――この兄は時折、おネショをする癖があった。母は色々な治療を試みたがうまくいかなかったようである。子供心にも私は彼に同情していた。
ある夜、隣で寝ていたこの兄が真夜中、私をゆさぶり起して、
「また、やってしまった」
と情けない、泣きそうな顔をした。
私はその時、どう思ったのか、あまり憶えていない。あれを兄にたいする同情でしたのか、尊敬でしたのかもよくわからない。ひょっとすると同情でしたのかもしれない。たしかなことは兄がおネショをしたならば、こっちは、もっとデカい大きなことをやってやれと考えたのである。
いずれにしろ翌朝、母は長男の布団におネショを、そして私のほうには寝糞を発見して仰天してしまったわけだ。私が子供の時、兄より、デカい大きなことをやったのはこれがただ一つである。
このことを思いだしてみると、子供の時の私は頭があまり良くなかったらしい。
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私と車
長い間、仕事を手伝っていてくれた人がやめて、今度、大学を出たばかりのお嬢さんがきてくれることになった。三度の飯より車が好きだそうで、しかもスピード狂らしく、一緒に自動車に乗ると、こちらの心胆を寒からしめるような速度を出す。
のみならず、東名道路を走っている時、うしろから追越してきたり、こちらの運転を邪魔する車があると、車中で怒鳴るのである。
花はずかしき乙女が隣席で一人で憤激したり、追越しの車を罵ったりしているのを見ると、私は不安をおぼえ、すべての娘には赤軍派の女性幹部のNと同じ素質があるのではないかと考えたり、このお嬢さんがやがてお嫁にいったら、旦那を同じように怒鳴るのではないかなどと心配になってくる。
このお嬢さんだけではなく、実際、車にのると女はガラリと性格が変る。家内はもともと猛婦というべき女性だったが十年前、車の運転をおぼえてから猛婦、変じて蛮女になってしまった。
「バケヤロー」
とか、
「この野郎。危ないじゃないか」
とか、一本道ですれちがう砂利トラックに怒鳴るのであるから、私は隅で小さくなり、この女と私とは偶然、同乗しただけであり、まして全く縁もゆかりもないのでありますという顔をしたものである。
私も実は免許証は持っている。免許をとったのは、何としても女に運転してもらって、うしろにチョコンと乗っているのはサマにならないからだった。
教習所は二ヵ所、行った。
はじめての目黒の教習所では、ノロノロと前進していると、
「もっと勇気を出したらどうですか。人生には勇気が必要です」
と二十歳ぐらいの教習員が言うので、
「ぼくは君に人生について習いに来たのではない」
そう言いかえして、やめてしまった。
その後、しばらく習うのを諦めていたら、近所の畠をつぶして教習所ができた。
ここの教習員はやさしい人が多かったが、それでも、なかには、
「ああ、あ」
わざと窓に肱をつき、大きな欠伸をしてみせながら、
「春だというのに、ヘタクソに教えるのはかなわんなア」
などと嫌味を言う男もいた。
心のなかでは煮えくりかえるような気持だが、この時はぐっと怺えたものである。
始めて路上運転にでた時、この教習員は、
「なんだ。その運転は」
と言い、途中で車をとめさせて、
「今から模範運転をしてやるから、よく見なさい」
と言い、自分が運転席に坐り、私を彼の坐っていた助手席にうつした。
ところがである。
ものの百メートルも行かぬうちに、突然、警官があらわれ、われらの車を停車させて、私の先生である教習員を連れていってしまった。私もびっくりして、あとに従っていくと、なんと彼が机に腰かけた四、五人の警官の前でうなだれている。スピード違反をやったのである。
私は気の毒やら、可笑しいやらで車に戻った。
やがて引きかえしてきた彼は黙って車を運転し、私も黙っていた。時々、彼はチッ、チッと舌打ちをしていた。
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車というのは乗り手を馬鹿にすることはまずない。しかし馬のほうはこれが下手な乗り手だと必ずやなめてかかるものである。
と書くと、如何にも私が馬術に詳しいようだが、実際、馬にのったのは十回ぐらいしかない。
もう十五年ほど前に蓼科の高原で一夏を送ったことがあった。
今の蓼科は随分、ひらけて別荘もあまた建ち、ホテルや旅館もかなり出来たようだが当時の蓼科はまだ軽井沢などに比べると野趣にみちた避暑地だった。
プール平という蓼科の中心部に貸馬屋があって農家の人がバイトで客に馬を貸していた。
私はその夏、馬でも練習してやろうと考え、その貸馬のなかで一番、おとなしそうなヨボヨボの馬を借りて、乗ることにした。それは見るからにドン・キホーテが乗った老馬を思わせるもので、その顔は情けないという以外、形容のしようのない馬だったのである。
とに角、一時間分の金を払って、この馬に乗り、颯爽と走らせたと言いたいが、何しろ相手はヨボヨボ馬だから、ポコポコ、ノロノロ、歩くだけで、疾駆することがない。
馬上で私は何とも言えぬうら悲しい気分になってきた。
「もう少し、早く、歩けないのかね」
と彼に言うのだが、向うは首をたれたまま相変らず、ポコポコ、ノロノロ、歩いているだけである。
そのうち、突然、道の途中で彼は停止してそばの草をくいはじめた。黄色い大きな歯をだしてモグモグやっているだけで、
「おい、こら」
と言っても、動こうとしない。
私はその腹を蹴ってみたが知らん顔をしている。馬は私をなめているのである。
「いい加減にせんか」
たづなを引っぱっても、怒鳴っても、相手はモグモグ口を動かすだけで、時々、尾で飛んでくるアブを追い払っている。
わるいことには向うの道から、年頃の娘が三、四人、歌を歌いながらおりてきた。私は困ったな、と思った。草を食って動こうとしない馬の上で阿呆づらをして乗っているのは何とも恰好の悪いものだからである。
娘たちは私を見るや、歌うのをやめ、ふしぎそうにこちらを見た。
その時である。
この馬は突然、尿《いばり》をたらしはじめたのである。それも長い、長い尿を。
尿をたらしている馬にのった男。これほど阿呆くさい人間はない。娘たちは道のわきにより、クスクスと笑いはじめた。私は汗を出し、ドウドウと言い、馬は眠そうな眼で相変らず放尿をしている。
放尿をし終った時、急にこの馬はうしろをむいた。
びっくりした私はたづなを左に引き、右に引いたが、こ奴はそのまま、今、来た道をトコトコ走りだしたのである。
あれよ、あれよと思ううちに、奴めはさきほど、自分のつながれていたプール平に私をのせたまま戻ってしまった。
「あれ、一時間、乗るちゅうんじゃなかったのかね」
と貸馬屋のおじさんは言った。何しろ十分か十五分で私が元の地点に戻ってきたからである。
「もう、いい」
私は苦虫をかみつぶしたような顔をして馬から降りたが、一時間ぶんの料金は返してもらえなかった。
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下品会
この三年、春になると野暮用が出来て外国に行く。日本の桜が咲きかけたころに出かけて、桜が散ったころに日本に戻る。今年もローマからイスラエルに出かけ、戻ってみると、桜は半ば以上、散り、葉桜になっていた。
私は前からドンチャン騒ぎの花見に憬れていた。長屋の花見という落語に出てくるように仮装してくりだし、飲めや、歌えやの大騒ぎをするような花見をやりたいものだと考えていた。
そこで四年前の春、若い友人たちに、
「どうだ。花見に行かないかな。面白い趣向で遊ぼうじゃないか」
と言うと、
「やりましょう」
と応じてきた。
「しかし、ただ、花見をするのでは面白くないぞ。できるだけ、ゲヒンにやろう。ゲヒンに」
私は前に「下品会」というのを作ろうかなどと考えたことがある。たとえば年とった時、私は和服の上にラッコの皮のついた二重まわしを着て、酒場などに行き、
「チップをやるべい」
などと言って大きなガマ口から一円玉を出してテーブルにパチンと音をたてておいたり、飲屋に行って、飲みほした徳利の口を掌にあてて、その滴を舐め、皆のヒンシュクを買うようなことをする。また、この『夕刊フジ』の美人記者のYさんにたのんで彼女はメイセンの着物を着て、色足袋に下駄をひっかけ、髪にたくさん金属のカーラーをつけたままで、袖口に手を入れ、私と一緒につれだって歩くようなことをすれば、どんなに面白かんべいと考えるのであった。
そういうゲヒンな形で花見をしたいと後輩に言うと、彼等は大悦びで、
「やりましょ、やりましょ」
と叫んだ。
当日の夕暮、私はズボンに黒足袋をはいて草履をひっかけ、半天をひっかけて千束の池で皆とおちあった。皆も思い思い、妙な姿でやってきた。
花はまだ七分咲きで、風が少しあったし、日が暮れていないので、池のほとりには客がまばらである。
ムシロをしいて、酒瓶をころがし、食べものを並べて、皆でできるだけ品のない大声で、
月が出た 出たア
月が出たア
と手をうって、歌いはじめた。
通りがかる人たちは笑いながら見るか、若い娘たちは、イヤねえという顔をして避けて通る。
このイヤねえという顔を若い娘にされると、私は嬉しくって嬉しくってたまらないが、若い友人たちはまだ修養が足りないせいか、一瞬、ひるみ、恥ずかしそうになる。それをシッタして、
月が出た 出たア
月が出たア
しかし、一時間ほどすると、まわりには同じような花見客がムシロをしきはじめ、酔った連中が手をうって、唄を歌いはじめた。なかにはウクレレやアコーディオンを持ってきて合唱する若い男女グループもあれば、三味線持参の中年グループもあり、はじめ、その下品な声ゆえに注目されていた私のグループの影はすっかり、薄れてしまった。
「チェッ、面白くねえや」
と一人がつぶやいた。
「こうなれば、ヤケのやんぱちだ。喧嘩の真似をしよう。そうすれば、我々は目だつかもしれん」
馬鹿なことを思いついたものである。
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手をあげるから怒る
A君とB君がたちあがって喧嘩の真似をしはじめた。もちろん、これは悪意あってやったのではなくたんに花見客を驚かしてやろうという小児的な心情からだった。
「この野郎」
「なんだ。この野郎」
二人はつかみあいの形をとり、横眼でチラチラッと他の花見客を見ている。言葉だけはスサまじいが、手には力がこもっていない。
「やめろ」
と誰かが言った。
A君とB君はウソ喧嘩を相変らず続けている。
その時、A君の拳が偶然、B君の頬にあたった。
すると、B君もおかえしにポカッと撲った。二人の喧嘩はこの時、ウソ喧嘩から本ものになったのである。
はじめ私は二人がまだ喧嘩の真似をやり続けているのだと思った。しかしやがてそれが本当の喧嘩だと気がついたとき、びっくりし、とめに入った。だがもう二人は本気になっていた。事、既に遅かったのである。
私はあとになって、こういう始末を起した責任者の自分を恥じたが、しかし、この花見から一つの教訓をえた。それは次のようなものである。
「我々は怒るから手をあげるというより、手をあげたため怒りの感情が倍加することが多い」
この言葉は私のものではない。仏蘭西の思想家アランのものである。
A君とB君とは始め、真似ごとで手をあげていた。しかし手をあげ、つかみあいの恰好をするうちに喧嘩の感情がそこに移入されてきたのである。そしてそれは偶然、一方の手が頬にあたった切掛けから形をとったのだ。
行為がそれに伴う感情を倍加するということはこの花見の失敗でよくわかった。このことは我々の生活の上で重要な教訓となる。
たとえばどんな人間にもスランプの日がある。何をする気にもなれない。私などは毎日がスランプの日みたいなのだが、特にスランプのひどい日には思い切って夕方まで遊ぶことにしている。それもダラダラと遊ぶのではなく、徹底的に遊ぶのである。
そして夜になってから、思い切って原稿用紙をひろげる。ひろげて、とに角、何でもいい、書きはじめる。書きはじめている間はまだスランプの気分が残っているが、やがて没頭できるようになるのだ。
ともかくも原稿用紙をひろげたという行為から、スランプを脱出できるようになれるのはさきほどのアランの言葉の応用である。
私は仏蘭西語しか読めない人間だが、今まで洋書をひろげると始めの二頁ぐらいは、ひじょうに読みづらい。読みづらいのを我慢して十頁、十五頁と読んでいくと、次第にスピードがあがってくる。わからぬ単語などあっても内容はつかめるのである。これもアランの言葉のある応用かもしれない。
スケートを習いはじめた子供は、やがて自由に滑れるようになると、はじめ、なぜ、氷の上に立っただけで体がグラグラしたのか、わからないと言う。自転車の場合も同じで初日にあんなにできなかったことが一ヵ月後には本能的にうまくやれるものだ。あとから考えると、何故、自分はあんな簡単なことができなかったのかとふしぎなくらいだ。
人生を生きる上には、行為を先にすることによって自分の精神、心情をそれによって伴わせるほうが便利な時も多いものだ。ナチスはその手によって群集にある種の心理を起させたのである。人間の感情なんて弱くもあり、またその弱さをも応用できるものなのだ。
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ゴルゴタの丘で
イエスさまが死んだエルサレムのゴルゴタの丘はもう丘ではない。それは今日、あとかたもなく削られ、そこに黒い大きな教会がたっているからだ。教会の前の広場には観光客のグループがひっきりなしに訪れ、その客にスライドや絵葉書を売りつける行商人たちが右往左往している。
ゴルゴタの丘にくるたびに、私はいつもその俗っぽさに幻滅し辟易する。人類のもっとも悲劇的な場所が、こんな観光の地に変ってしまっていることが、私のようなグウタラな男の心もやっぱり傷つけ、悲しませるのだ。
今年もまた、ここにやってきた。そしてイスラエルの強い日ざしのなかで、様々な色のスポーツ・シャツを着たアメリカ人の観光客や、鳥のような顔をして写真機をぶらさげた神父たちが大教会から出たり、入ったりするのを私は憂鬱な眼で眺めていた。
もう昼ちかくだった。春のイスラエルの空はあくまでも碧く、雲一つない。その時、私は突然、やかましい女たちの声を背後で耳にした。
黒い服を着た年をとった女たちが十人ほど、リーダーらしい男につれられて、絶えまなくしゃべりながら、今、大教会のなかに入ろうとしているところだった。
彼女たちの話す言葉は英語でもなければ仏蘭西語でもなかった。ひょっとするとギリシャのキプロス島のあたりから来た巡礼の女たちかもしれなかった。そしてその日にやけた、皺のよった顔は、彼女たちが都会の生れではなく、田舎で育った女たちであることを示していた。
好奇心にかられて、私は彼女たちのうしろから、大教会の入口に入った。その話す言葉はわからなかったが、私には彼女たちが善光寺まいりをした昔の日本の老婆と同じように、なけなしの貯金をはたいて一生一度の巡礼に来たのだとすぐわかった。
さて――
彼女たちは入口にちかい地面に急にひざまずいた。そこは十字架からおろされたイエスの死体が置かれた場所と言われていて、今では手足と胸に血の流れたイエスの像が横たえられているのである。老婆たちはそのイエス像にしきりに接吻し、それから自分たちの持参した幾つかの十字架をその上においては祈っているのである。
私も背後にたって、そのイエス像を眺めていた。これはどうにもほめられぬ俗っぽい像だった。
あまりの俗っぽさにイエスさままでが、憂鬱そうな顔をしておられるように見えた。それでも老婆たちはその憂鬱そうなお顔や手に接吻し、小さな十字架をその上におくのである。そこにおいた十字架を故郷に戻った時、巡礼できなかった村人への何よりの土産ものにするのだろう。
私は、彼女たちの迷信じみた態度を笑うよりも、その素朴な敬虔さにむしろ感動していた。自分もまがりなりに基督教信者だが、その自分に一番欠けているものがこの素朴な信仰だと知っていたし、それを今日まで辛く、やましく思ってきたからだ。
だが、私はある光景に接したのである。しきりに像に接吻している一老婆の十字架の一つを、となりの老婆が素早く、チャッカリと失敬したのを目撃したのである。
失敬したあと、この老婆は何くわぬ顔をして歯のない口を動かしながら祈りつづけた。私は驚き、そして苦笑した。けだし巡礼にまできて、しかもゴルゴタの丘で友人のものを一寸、失敬するとは何ごとであるか。
だが、その時、私は俗っぽい、憂鬱げなイエスさまのお顔が一瞬、私と同じようにニヤッと笑ったのをたしか見たのだ。そのニヤッと笑った顔は子供の悪戯をみつけた父親の嬉しそうな顔に似ていた。よし、よし、と言っているようでもあった。
(主よ)と私はつぶやいた。(今日、私は私にとって一番、うれしい光景を見ました)と。
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印度のボーイ
私は印度にはもう三回ぐらい出かけたけれど、いずれも滞在期間が四日か、五日で、あのひろい大自然と国土をゆっくり見てはいない。
それでも私はその三回の間、夕暮の満月の下に白く悲しげにひろがったタージマハルの大理石の宮殿も見たし、ヒンズー教徒たちが死んだ時、ながされていく真昼のベナレスの町も訪れた。
昨年の十月頃、私はニューデリーのホテルで、二、三日ぶらぶらとしていた。タイのすさまじい暑さのなかを、泥河を遡って、山田長政時代の日本人町の跡を見にいったあとだったので、私は夏のスポーツ・シャツのままで印度に来たのだが、ニューデリーはくしゃみが出るくらい涼しかった。
バンコックの暑さのなかで私は毎日、酒を飲んでいた。私のジャンパーのポケットのなかにはいつもウイスキーか、ブランデーの小瓶があり、それを烈しい陽光のなかで口にふくむと一瞬、暑さを忘れた。
印度でも同じやり方をしようと思って機内でブランデーの瓶を買った。
ニューデリーのホテルにつくと、すぐシャワーをあび、そのウイスキーを冷たい水で割って飲むと疲れを忘れた。
その翌日から毎日、外を歩きまわった。
私には印度を語ったり、ここを舞台に何かを書く気持は全くなかったが、うすぎたないニューデリーの下町はいくら見ても見あきなかった。痩せた牛がねそべり、その横を自動車や人が避けて通る街路も片一方の靴やこわれた眼鏡まで売っている泥棒市も夕暮、モスクから聞える物悲しい声も私は一日中、見物して立ち去りがたかった。
いい加減つかれてホテルに戻り、さてウイスキーの瓶を見ると、何だか量が減っている。はじめはふしぎだなあと思ったぐらいだったが、二日目も、たしかに減っているのを見ると、
(ボーイの奴、飲んだな)
と思った。
廊下に出ると、ボーイが立っている。私がたちふさがって、
「飲んだろ」
と酒を飲む真似をすると、奇妙な笑いをうかべて首をふった。
翌日、部屋に戻ってみると驚いた。
今度は酒の量が増してあるのである。
飲んでみると、ひどく水っぽい。ボーイが、バレたのを知って、あわてて水まししたのだが、なんと水を入れすぎた[#「すぎた」に傍点]のだ。
私は寝床にひっくりかえって笑いだした。
こういうボーイ、どこかコソ狡いくせにヌケた人間を私は嫌いではない。むしろ言いようのない親愛感を感じ、肩でもポンと叩いてやりたい気になる。
(ようし)
私は考えた。
(あいつ、ビックリさせてやろう)
トランクの底から、小さな醤油瓶をとりだした。私は小さな醤油瓶をいつも外国旅行に持っていく。僻地にいる日本人にあげるととても大悦びするからだ。
それをウイスキーの瓶のなかに注いでクレオソートの粒を放りこんで、いかにもコハク色の液体のように見せかけておいた。飲んだら物すごい味だろう。
翌日、私が部屋に戻ってくると、量が少し減っていた。
廊下に出ると、ボーイの姿はみえなかった。彼があれを飲んだ時の仰天した顔を思うと可笑しくってならなかった。
翌日、私はニューデリーを去った。
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サマルカンドの石
旅先で拾ったり、手に入れたりした古いものは、たとえそれが他人の眼にはガラクタに見えようとも、当人にとってはさまざまな思い出や夢がある。
もう十年前、アジア・アフリカ作家会議でソビエトのタシュケントに出かけようとしていると、詩人の草野心平さんが私に、
「君、サマルカンドに行くかね」
「行くかもしれません」
「もしサマルカンドに行くようなことがあったら、そこの石を一つ、拾ってきてくれないかな」
私は他の先輩作家と一緒に地球の屋根のようなヒマラヤを飛行機で越えて、ウズベック共和国のタシュケントに行った。それから草野さんとの約束通り、多くの人々を憬れさすあのシルク・ロードの都、サマルカンドにも寄った。空碧く、峰も青く、鈴かけの樹の影の下で人々がゆっくりと茶をすすっているサマルカンドの町で私は古い天文台や宮殿の廃墟をみたあと、草野さんのために石を一つひろった。
石といっても何の変哲もない石であるから、
(ひょっとすると)
私は急に不安になった。
(この石を……俺が東京の新宿でひろったものと思われないかな)
私は一緒にここまで来た伊藤整氏や野間宏氏、加藤周一氏たち先輩文学者に相談した。
「遠藤君。ぼくたちが証明書を書いてあげますよ」
伊藤整氏は微笑をうかべながら、いい知恵を授けてくださった。
「この石はたしかにサマルカンドの石であることを証明します
[#地付き]伊藤 整
[#地付き]野間 宏
[#地付き]加藤周一」
その夜、ホテルで一枚の便箋にそう署名してもらって私はホッと安心した。
東京に戻って草野さんに送ったこの石はまだ、あの詩人の家にあるそうである。持ってきた甲斐があったというものだ。
私の机の引出しにはそういった石が幾つもある。砂漠のなかの町、ジェリコで拾ってきた石は西暦二千年前の世界、最古の都市発掘の現場でみつけた土器の破片である。カイザリヤで発見したローマン・グラスの破片は、あの時代、どんな貴族の杯になっていたのだろう。コラジンのシナゴグの柱のひとかけらと思われる模様のついた石、そういったものが私の引出しのなかにある。
深夜、ひとりで書斎にすわっている時、それらの石をとり出して、じっと眺めることがある。
他人からみると、ガラクタにすぎぬそんな物が私のために甦り、復活し、生命をとり戻すのはそんな深夜である。
遠い国の土中に埋もれた石柱や土器やガラスの破片。しかし、それはその昔、あるいは悩んだ人が手にふれ、うつくしい女が唇にふれ、だれかがその上を歩いたかもしれないのである。
そんな人間のにおいの残っているものが、千五百年も二千年もの歳月の後に、日本の私の部屋に無造作にある。それが私には何とも言えないのである。
石やガラスを頬にあてると決して冷たくない。まだかすかな暖かみさえ残っているような気がする。まるでそれにふれた女の唇、悩める人の手の暖かみが消えていないように……。
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私と競馬
生れつき勝負ごとの好きな人間とあまり好きでない人間があるとするならば、私は後者に属すると思う。
友人のなかで、吉行淳之介や阿川弘之や近藤啓太郎のようにマージャンやドボンに熱中する人がいると一方では、そんなに面白いものかとふしぎに思えるが、他方ではそういう憂さ晴らしのできることを羨ましく思う。
いつかの夏、山小屋で昼寝をしていたら、突然、阿川と柴田錬三郎氏とがやってきて、どうしてもドボンというトランプ遊びをやれと強要された。ドボンというのはポーカーとブラック・ジャックをあわせたような遊びで子供でも憶えられるというのだ。
阿川の家に引っぱって行かれて無理矢理ルールを教えられたが、もともと気のりがしないのだから一回で頭に入るわけはない。二人は最後には怒りだし、
「子供でも憶えるこの遊びが憶えられないようでは最底だ」
と言いはじめた。
そこで仕方なく二人と勝負をしはじめた。ところが運というのは無欲な人間につく。ドボンのようにツキで半分勝てる勝負ごとではツイたものが有利だ。向うがあせればあせるほど、無関心な私にツキが来て、三時間の後に阿川も柴田さんも苦虫を噛みつぶしたような顔になり、
「こいつ、なんで強いんだろ」
とぼやいてしまった。
それほど、勝負ごとの好きでない私だが競馬だけは二年ほど前からやっている。
それまではよく電車のなかで競馬新聞をひろげ、赤鉛筆を持っている人をみると、自分はああいう真似はしたくないと思ったものだが、今では同じ恰好をして府中に向う自分に気づいて苦笑することがある。
そもそもの切掛けは三年前の有馬記念に無理矢理に人に誘われて中山競馬場に行き、何が何やらわからず欠伸かみころして馬の走るのを見ていたが、メイン・レースで買った二枚の特券がつきもついたり四十倍の八万円となり、腰をぬかさんばかりに驚いたことから始まるのである。
(この特券は偶然、場内であった柴田錬三郎氏がつぶやいたのをあまり気のりもせず、ただ買ったのだった)
以来、土曜日がくれば駅前の競馬新聞を買い、夜のテレビで明日の予想をたのしむようになったが同じ柳の下に二匹の泥鰌のいる筈はなく、勝ったり負けたり、いや負数が多くて年の暮れ、考えてみると赤字の通算成績というわけである。
それなのに何故、競馬場に行くかと言うと私の場合、古山高麗雄氏の言う「悪魔の囁き」がたのしいからである。古山氏は今、この題で某スポーツ新聞に競馬随筆を書いているが、彼と競馬場で会うと私は必ずツキがわるい。なぜツキが悪いかと言うと、彼は私がまさにあれこれ計算し、思案した券を買おうと窓口に立った瞬間に、音もなく近より、
「確実なスジから聞いたんですが」
しずかに言う。
「××と○○○とが絶対らしいですよ」
そしてまた音もなく去ってしまう。この一言、この囁きで私の昨夜からの予想は急に不安の色に塗りつぶされ、迷ってはいけない、と言いきかせながら遂に古山説の馬券に手をだして苦杯をなめること何度あったかしれない。
私は今は逆にこの悪魔の囁きを窓口のあたりで一人、呟くことにしている。するとそれを耳にした周りの人々の顔に一瞬、動揺、不安がうかび、私の顔をそっといじらしくも盗み見ながら、急いで私の囁いた馬券を追加して買っているのだ。
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私と唄
私は音痴である。当人がそれを認めるのだから、これほど確かなことはない。滅多に唄を歌うことはないが、時たま酔っぱらって声をはりあげていると、家人はそれは何ですかと真顔できく。
いつだったか、三浦朱門が私の歌をきいてびっくりし、世にこんな音痴はいない、お前が歌っているのを聞いて、それが何の歌かわかる者がいたら賞金を出していいと言った。そこで彼とバーに行き、ホステスたちに聞いてもらったら、一人たち、二人たち、全員いなくなった。彼女たちは店の外に出て、腹をかかえて笑っていたのである。
とはいえ、私はこれでも子供の時、ヴァイオリンを習ったのである。私の母は、今の芸大、当時の上野音楽学校のヴァイオリン科を卒《お》え、後にモギレフスキーの弟子だった女であるが、私にもヴァイオリンを教えようとして、小学校二年の時から私に無理矢理にボーイングを習わせた。
キーコ、キーコと毎日、近所も戦慄するような音をたてていたが、母の姿が見えなくなると、たちまちにしてヴァイオリンの弓をチャンバラの刀に早変りさせたものだから、糸は切れて見るも無残なものとなってしまった。そして二度と母はヴァイオリンを教えてはくれなかった。
中学三年の時、ピアノでも弾くべいと思って母の友人の女性のところに通った。しかしバイエルの最初の本も終えぬうちにやめてしまった。
以来、いかなる楽器もいじったことはない。
それから歳月がたち、二年ほど前のある日、何げなくテレビを見ていたら、素人が作詩、作曲したものをプロが歌って、それを採点する番組がうつっており、その審査員に曽野綾子さんが加わっている。
私は曽野さんに電話して、
「ぼくも応募しようかなア」
と言うと、
「しなさいよ。そして作曲はうちの亭主(三浦朱門)がしたら面白いわよ」
という。
三浦ものり気で、もしこの唄と曲とがヒットして、どこかのレコード会社が買いに来たらどうしようと、二人でそのレコードの印税まで計算しはじめた。そして万一、印税がたっぷり入ったら、もう小説など書くのをやめ、プールのある家を作るかもしれぬなどと夢のようなことを語りあったのだった。
私は半日かかって(『中年男の唄』)という作詩をした。それは次のようなものだ。
女房よ 俺をバカにすな
結婚以来 二十年
だれのおかげで飯がくえ
だれのおかげで子が生めた
(繰りかえし)
あんまり 俺をなめとると
俺はこの家 出ていくぞ
出ていくったら出ていくぞ
息子よ 俺をバカにすな
ニキビのはえた その面で
自分ばかりが 日本を
わかったような口きくな
(繰りかえし同じ)
娘よ 俺をバカにすな
ステテコはいて なぜ悪い
今にお前のムコさんも
きっとステテコ はくだろう
(繰りかえし同じ)
どうです。飲屋で歌うのにいい唄でしょう。私はこの唄は必ず全国にヒットすると思うのだが、いまだレコード会社からは何とも言ってこぬ。どうしたわけじゃろか。
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私と色紙
講演の依頼を時々うける。申しわけないがお断りすることになる。というのは私は大変な照れやで、あのような水さしとコップのおいてある壇上に立つことを考えただけで身のヤマシサと恥ずかしさをおぼえるからだ。あのような壇上に立ってオクメンもなく堂々としゃべれるのは政治家か教師でなければできないだろう。
だが私など、まだましなほうだ。私はとも角、三十分なり四十分なり、しゃべるのであるから。吉行淳之介とくると絶対に講演をしないが、それは彼が昔、無理矢理にあの壇上に引っぱりだされた時、二分――二十分ではない――二分、モソモソと言っただけで、あとは絶句して引っこんだからである。
地方の講演に行くと非常に話しづらい。というのは高校生あり、母親あり、サラリーマンありで、一体、どの年齢の方を対象にしてお話していいのか、戸惑うからである。主婦なら主婦、学生なら学生だけの聴衆のほうが、しゃべりやすい。非常にヘンピなところへ行くとナニワブシの会とまちがえたのか、爺さま、婆さままで来ておられ、前列で小さな子供がキャッチ・ボールをして遊んでいることがあって、もうそんな時にはどうしていいのか、わからなくなる。
私が講演が嫌いなのは地方に行くと色紙をたくさん持ってこられるからで、漱石や龍之介の色紙ならこれ持ちガイもあるというものだが、三文文士以下の一・五文文士の狐狸庵に字をかけという方の気持がわからない。屑屋でも一円にも買わないだろうから。
私はすごい悪筆で色紙に向きあっただけで脳貧血が起きるから、そういう時は親友の三浦朱門と同行すると助かる。三浦の字というと小学校の一年生でも丙をもらうような下手糞なもので、しかも彼がその蟻の這ったような字で書く文句というと、いつも必ず、
――妻をめとらば曽野綾子
そんな色紙を一体だれが部屋に飾るのか。
文壇にデビューした時、はじめて火野葦平氏、中谷宇吉郎博士と北陸に講演旅行に出かけた。
一番わかい私は講演がすんだあと、開かれる宴会が苦手だった。特に芸者衆が出てくるとどんな話をしていいのか途方にくれ、一人で飲ませてくれないかと、そればかり考えていた。
サービス精神に徹した火野さんはそういう時、唄も歌われるし、カッパの色紙も次から次へと描かれるし、中谷博士も舞をまわれ、漢詩を色紙に書かれるのだが、若僧の私などに色紙などたのむ人はいない。
ところが何をまちがったのか、
「あんたも一つ、何か」
と中年の男の人が四角いあの紙をもってきた。
私は真赤になり、怯え、再三、断るのだが向うは言うことをきかぬ。仕方なしに私はその色紙に幼稚園の子供でも笑いだしそうな汽車の絵を描いたのである。ヤケのヤンパチの気持だった。
「これはなんだね」
とその男の人は言う。私は怒って絵の横に汽車と書いたが、ノボせたのかアワてたのか汽車を※[#「さんずい+氣」、unicode6eca]車と書いたのである。
「汽車には米という字は入らんがな」
男の人は嘲笑するように言った。
その時、そばで筆を走らせておられた火野さんが真赤になって怒鳴られた。
「むかし汽車は米をつんで走っていたんだ。遠藤君はそれを知っているから米という字をつけ加えたんだ」
その男の人は黙った。
火野さんのことを思いだすたび、あの時の氏のやさしさが今でも忘れられぬ。
[#改ページ]
私と対談
講演は苦手だが対談のほうは嫌いではない。むしろ好きだと言ったほうが良いくらいだ。
小説家というのは沢山の人と接触しているようで実は限られた文壇関係の人としか交際がないというのが普通である。自分たち以外の世界で生きている人と話しあえるのは取材の時でなければ、対談しかない。
だから対談の話があれば、私はよほど忙しくない限り、たいてい承諾の返事をする。ただし、それがテレビやラジオでない限りは。
テレビやラジオだと相手の人はかまえる。時間の制限もあるが、それよりもマイクやカメラを意識されて、身がまえられるのが普通である。実際、テレビのスタジオで、カメラがこちらに接近してくると、私など、その背後に主婦連合会のこわい御婦人がたの眼を感じ、声もかぼそくなってしまうくらいだ。
テレビやカメラでない普通の対談はたいていレストランや料亭でひらかれるが、この場合も相手の気持をいかにホグすかが大事であって、私は速記者の人に、
「はじめの三十分は書くまねをしているだけでいい。実際には使わないから」
とはっきり言っているぐらいだ。つまりその三十分は相手の人が私に馴れてくださるまでの三十分であり、初対面という「構え」を捨ててくださるまでの三十分なのである。極端に言うと、対談を一応おえて、
「それじゃ、このくらいで」
と言ったあとの雑談のほうが面白いぐらいで、時によると速記者は帰るが、テーブルの下では依然としてテープ・レコーダを回転させたほうがいいのだ。
私は日本一のインタビューアーはやはり、徳川夢声だろうと思う。週刊A誌に載った夢声老の対談を読むと、この人の間のおき方は定評があるが、相手が無口でも、その無口に困惑している自分自身の面白さを出し、相づちのうち方のうまさ、聞き上手という点、無類というほかはない。
次に感心する対談はやはり吉行淳之介のものである。これは味のこまやかな料理を食っているおいしさがあって、その受け答えの微妙なニュアンスはまさに玄人というべきである。
対談はだれもができるものではない。ただむやみに相手にしゃべらせ、毒にも薬にもならぬ質問をしている対談を読むと、何が対談だと言いたくなる。対談というのはその相手の性格、味が行間ににじみ出るようなものでなければならぬ。
インタビューにはコツがいる。私は対談をしているうちに次第にそれがわかってきた。
たとえば、ある有名な人の夫人と対談をしていた時、その夫人が若い頃、よく主人に叩かれましたわ、とユーモアをまじえて告白された。
こういう時、
「やはり、そうですか」とか「今でもそんなこと、ありますか」などと聞いてはならない。相手はすぐ、自分のこの告白が御主人に迷惑のかかることを怖れ、
「でも若い頃の話ですわよ。今はそんなことありませんの」
と話を抑えてくるだろう。
だから、こういう時は、全くふしぎそうな表情をして、
「そんな話、信じられん。嘘でしょう。信じられん」
と否定してみせるのである。
すると相手は、
「いいえ、嘘じゃありませんわよ。こんなことも本当にあったんですもの」
と具体的な実例をあげてくるのである。これは一つのコツだが、私にはあと五つほどコツがある。
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私とガンノロ
ガンノロ――癌ノイローゼにかかったことがある。もう十年前のことだ。
その頃、知っている人が次々と癌で死んだ。そして癌についての記事があちこちに出ていて眼につくことが多くなった。
阿川弘之はその頃、風邪を引いて声がかすれたのだが、自分はきっと喉頭癌にかかったにちがいないと考え、一日、布団をかぶって寝ていた。
客がくると、口で話すかわりに指をうごかし、
モノガイエナイ。
と字を書いて相手にみせた。
ネツガ、シチドモアル。
七度の熱でもう死にそうな顔をしているので客は皆びっくりするのだが、阿川の場合は七度で高熱なのだそうである。
しかしそんな彼のガンノロ話をきいても、私には笑えなかった。私のほうも癌ノイローゼだったからである。
田崎博士という癌の大家が、当時、三十歳をすぎて腹具合がおかしければ癌を疑ってかかれと言われたとか人に聞いて以来、私は一寸でも腹腔が佳でないと、ただちに胃腸病院にとんでいって、バリウムを進んでのみ、レントゲンをみてもらうまでは安心できなかった。
私は米を食う日本人は胃癌になりやすいと聞くと、ただちに米をやめて麦飯にした。家族はいやだと言ったから、食卓でみなが食べる白米を恨めしそうに見ながら、まずい麦飯をたべた。
医者は、
「大丈夫、癌ではありません」
と言うが、癌患者に癌という筈はないからその医者の宣言だけでも安心できなかった。
鼻がつまると、上顎《じようがく》癌にかかったのではないかと思い、そのため半日ついやして虎の門病院にいった。
皮膚のホクロが皮膚癌になると聞くと、真剣にホクロをとろうかと考えた。
今、思えば馬鹿馬鹿しい話である。
私はまた当時、アスファルトの路をさけるようにして歩いていた。アスファルトにコールタールを使っていたからである。コールタールは発癌物質でこれを兎の耳に塗りつけておくと癌になったと何かで読んだからだ。
そして癌にならぬために、青汁といってある植物の葉をミキサーにかけた実にまずいジュースをのみ、麦飯をくい、泥土の地面を歩いているうちに、遂にフラフラになってしまった。
今、思えば馬鹿馬鹿しい話である。
その頃、『私は癌ビールスを発見した』という本が出て、その著者のH医師が自分の作ったワクチンをうてば癌の予防ができると書いてあるのを見て、その医師の研究所なるものに行った。
そして彼がみせてくれた癌ビールスの写真を眺めているうち、この人はインチキなのではないかと急に思った。
私はそれから彼のワクチンは買わず、ひそかに友人の医師にきくと、果せるかなその医師の発見したビールスは学界でも全く問題にされていないことがわかった。
それがわかると同時に、私は眼からウロコが落ちたように自分の癌ノイローゼからたちなおった。
今でも勿論、病気になるのはイヤだ。
しかしノイローゼにはならない。年に二度、バリウムをのみ、レントゲンはとるがほかのことは何もしない。もちろんアスファルトの道も歩いている。
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パンツの話
テレビを見ていると、よく歌手のうしろで体を章魚《たこ》のようにくねらせて踊っている四、五人の娘がいるものだ。私はそういう画面をみると、ああ、自分がもし、女の子に生れたら、ああいう娘になっていたのではないかと考える。
私がもし女に生れていたなら――娘時代、きっと、西郷輝彦さんや舟木一夫さんにのぼせ、日劇に彼等が出演すると、半徹夜しても正面、前列の席をとり、キャーキャーわめき、テープを投げて騒いでいたろうと思う。(これは冗談ではなく、慎重な自己分析の結果、そう思ったのである)ずっと前、ビートルズが来た時、私は新聞社から切符をもらって見物に行った。場所はもう忘れてしまったが、とに角、若い娘たちがもう広い会場にぎっしりと詰っていて、その発散する汗とお化粧のまじった何とも言えぬ臭いで眩暈《めまい》しそうなくらいだった。
女の子たちはビートルズのあのトランプの王さまのような連中の似顔をかいたハンカチでしきりに汗をふき、始まる前から、もう騒いでいる。
やがて、司会者が出てくると、もう場内はまるで戦場のようで音楽もヘッタクレもあったものではない。
キャーキャー、ワーワー、私は気絶しそうだったが、いよいよ、肝心のビートルズが舞台にあらわれた時は、周囲にいた女の子はおのが髪をひっぱり、眼をつりあげ、もう精神病院にいる感じだった。
ところが彼等がやがて歌い終り(何を歌ったのか聞いた奴は一人もいないだろう)皆が帰りはじめても席をたてぬ女の子があちこちにいた。
「早く帰りなさい」
婦人警官が促している。だが彼女たちはなかなか立てない。
立てないのも道理。なんと彼女たちはあまりに興奮して、おシッコを洩らしていたのである。
だが、私はこういうミーハー的娘が大好きだ。自分がもし女だったら、おそらく、ミーハーになっていただろう。
それから二、三日して、ある新聞に私は『ビートルズを見る』という随筆を書いた。
その時、一寸、いたずらをしようと思った。
そしてその文の最後に、
「私はビートルズたちの泊ったホテルのボーイと親しいので彼等からビートルズが部屋に忘れたパンツをもらった。もらったものの、私としては始末に困っている」
と書いたのである。
そして、じーっと待っていた。
果せるかな、それから二日後、電話がかかってきた。女の子である。うしろに二、三人、友だちがいるらしく、彼女たちの囁き声も受話器を通して聞えてくる。
「あの……」
と蚊のなくような声で彼女は言った。
「そのパンツ、わたしたち欲しいんですけど」
私は可笑しさを抑えながら、
「そりゃ、差しあげたいけど、ひどく、臭いんですよ」
「よごれているんですか」
「彼等、洗濯しないで捨てるらしいですなあ。臭いサルマタです」
受話器の奥で、彼女が友だちと相談している声がきこえる、「臭いんだって……」
私は可笑しくってならない。
「そんなら……いりません」
と彼女は泣きそうな声で言った。
私はこんな女の子が大好きだ。自分の娘だったら毎日、からかって遊ぶだろう。
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旧友との再会
時々、神戸に行く。
神戸に行くのは時には野暮用のためでもあるが、またそこで、中学時代の悪童仲間に会えるからでもある。
中学時代の仲間も今はそれぞれオッさんになり、妻子をもつ身になってはいるが、顔をあわせると、十五、六歳の頃のニキビはなやかなりし時代にすぐ戻れるから、ふしぎである。
おたがいに昔の悪戯や弱味を知っているから、今更、どう見栄をはっても仕方のない間柄である。何をしゃべっても、アトクサレないから一緒に酒をのんでも一番、気が楽なのだ。
いつか書いたように、私は灘中(今の灘高)で百八十八人中、百八十六番という卒業成績であった。私と同じクラスの連中は皆、百五十番以下の者だけだったから、同じようなものだろう。
いつだったか、大阪のテレビ局でスタジオにいたら、
「おーい」
と声をかけたオッサンがいる。
ふりむくと、どこかで見たが、どこで会ったか思いだせぬオッサンである。
「俺やがな。××やがな」
「××」
「思いだせんか。灘中の時のキンカンやがな」
あッ、キンカンか、中学時代の先生と友だちは本名より、アダ名のほうが記憶に残っている。このキンカンはニキビだらけの顔をして、そのニキビの層の上に更にニキビが発生して、まるで果物のキンカンのような顔になったため、かかるアダ名をつけられたのだ。
「なつかしいなア。お前、何しとんねん。テレビ局に勤めとるのか」
「阿呆いえ。俺、この番組のスポンサーやがな」
彼がとりだした名刺をみると、私も名だけは聞いている有名な家庭用品の会社の、
専務取締役
と書いてある。
「えッ、お前がセンム」
「うむ」
どうも信じられない。何しろキンカンは私のクラスで私と最低席次を争うぐらいの男だったからである。
「お前、よう、その年でセンムになったなあ」
すると彼はニヤッと笑い、小声で、
「嫁さん」
と一語、言い、私はすべてを了解した。つまり彼はこの会社の持主である先代社長の娘さんを嫁さんにしたというのである。もちろん彼も大いに努力して働いたのだろうが、照れてそう言ったのかもしれぬ。
また別の日、宝塚のちかくにある関西の聖心女子学院の父兄のために講演をたのまれた。従妹がその修道女だったためである。
ガラにもない話をして、講堂を出ると廊下の向うから大声で、
「おーい、ソバプン」
と叫ぶ奴がいる。私と一緒に歩いていた糞真面目な修道女たちはびっくりして彼をみた。あッ、あいつだ。中学時代の悪友だ。困ったぞ。こりゃ。
彼はなつかしそうにそばに来て、
「今、話きいとったんや。俺の娘、この学校にいるさかいな。しかし、お前、えらそうな話、よう、しよったなア」
そして、修道女たちを見て、
「ほんまでっせ、こいつ中学時代、そばによるとプンと匂うほど臭かったんでっせ、そやからソバプンいう、アダ名がつきましてん」
修道女たちは泣き笑いのような顔をして私をみた。
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挿 話
ある日、私は長距離の電話をうけた。受話器の奥からひくいが陰気な声がきこえた。
「おぼえていますか。中学の頃、一緒だったPです」
私は記憶のなかからPの顔を思いだそうと試みたが無駄だった。
「おぼえていませんか。もっとも、ぼくは二年の時、陸軍幼年学校に移ったから」
それでは仕方がない。印象に残っていないのも無理はない。
「実は、君にうちの工場で女工員たちに話をしてもらいたいんだがね」
急に相手は狎々しい声をだしはじめた。
「ぼくは今、そこの庶務課にいるんでね。たのむよ」
その工場は東京から列車にのって七、八時間のところにあった。のみならず、その時、私には仕事が山積されていた。本当ならば断りたい気持だったが、中学時代の同級生の頼みといわれると私は弱かった。
「やってくれるやろ」
「うん」
私は仕方なく承諾をした。
三、四日の間、私は無理をつづけてやっと時間をつくり、そして列車にのった。
夕暮、海べりのその町の駅についた。四、五人の降車客の最後から、空虚なホームにつくとPがたっていた。
顔を見て、中学時代の彼をやっと思いだした。
私をみるとPは一言、二言、何かを言ったがあとは黙って歩きだした。迎えの車かタクシーを用意してあるのかと思ったが、そんな様子はない。彼は細長い、海の匂いのするわびしい町をいつまでも歩いていくのである。
私は少し失敬だと思った。中学時代の友人とはいえ、講演をたのんだ以上、タクシーくらい用意してくれてもいいと感じた。何しろ向うは手ぶらだが、私のほうは夜、仕事をするため原稿用紙や本を入れたトランクをぶらさげているのだし、数時間、列車に乗ってきているのだから。
三十分ほど歩かされ、彼はやっと一軒のうすぎたない家の前にたちどまった。ホテルでもなく、旅館でもないこの家は何だろう。
「うちの社員たちがマージャンする家や。今日は平日で誰も使うておらんさかい、あんた、ここに泊ってや」
一方的に彼はそう言うと玄関をあけて、女中をよんだ。
西日のさしこんだ、畳のやけた部屋に通された。
「すぐ飯にしよか。酒、三本持ってきて」
と女中にPは言った。女中が去ると彼は、
「ほんまは君の接待費では酒は一本ということになっとるんやで。だが特に一本、俺が追加してやったんや」
と得意そうに呟いた。私は何とも言えぬ情けない気持になって黙りこんだ。
酒がくると彼は一本目をのみはじめ、自分は戦争中、憲兵将校として台湾にいたのだと自慢しはじめた。
「あの頃は俺が睨めば、何でもできたのや。それが今は、チェッ」
チェッ、チェッと言いながら空になった徳利を電気のほうに向けて覗き、更にそれを掌の上で叩いて、わずかな滴をなめるのである。
「もうあと一本ずつ飲もう。しかしお前の分はお前、払えや、接待費はもうないのやからな」
彼は重ねてそう警告し、手をたたいて女中をよんで二本の酒を追加して、私から金をとった。
私は東京に残してきた仕事のことを考え、鞄にいれた原稿用紙を思い出したが、もう諦めたほうがよさそうだった。こうなればヤケのヤンパチ、そのような状態におかれた自分をユーモア化して見るというのが、私のいつもの手なのである。
彼は赤黒く酔いのまわった顔をこちらに向けて、しきりと軍隊時代の自分を自慢した。憲兵将校だった彼はまるで王さまのような生活をしていたのである。
「それが、チェッ、チェッ」
自慢話は急に愚痴にかわる。現在の生活が彼には不満で面白くなく、
「チェッ、チェッ」
と舌打ちをしきりにするのだ。
私は急にまだ彼も私も中学一年生だったころの母校の校庭のことを思いだした。
なぜ、そんな校庭のことを急に思いだしたのかわからない。
ただ陽のあたったグラウンドでラグビー部の少年たちが大声をあげて駆けまわり、私たちが野球をやっていた光景がふいにまぶたにうかんだのである。
「おい。女郎屋に行こう。女郎屋に」
と急にPは叫んだ。
「俺のなじみの女がいる」
しかし彼はつけ加えることも忘れなかった。
「お前の分はお前が払えよ」
仕事があるからいかないと婉曲に断ると彼はお前はどのくらい収入があるんだと根ほり葉ほり訊ねはじめた。
蹌踉としてPがこのわびしい部屋から引きあげたのは十一時すぎだった。
一人になった私は、ところどころ裂けた白い古カーテンをあけ、硝子ごしに闇につつまれた外を見たが、小さなこの海べの町はもう死んだように眠っていた。そして耳をすますと遠くでかすかに波の音がきこえた。
翌日、Pの勤めている工場で女工員を前にして、しゃべった。
Pは私を紹介するため先にたって、手を膝において腰かけた女工員たちに、
「みなさんは今からうかがう話をよく味わい人格をたかめ、心をみがく材料にしてほしいと思います」
と無表情な顔で言った。そしてそれに照れた私がシドロモドロの話をしている間も右側の椅子で同じように無表情な顔をして腰かけていた。その顔をみると、私はひどく可笑しくなり、おい女郎屋に行こうと叫んだ彼をその上にふと重ねあわせた。
話が終ってから、私はもう急用があるからという口実ですぐ工場を出ることにした。
駅まで彼は送ってきてくれた。今度はタクシーに乗せてくれた。
駅のホームに弱い午後の陽があたっている。
列車が遠くから来た時、彼は急に、
「おまえ、金に困ったら」
と突然、言った。
「俺に電話しろや。そしたら講演させてやるから」
車輛にのって、窓から彼の姿を見ていた。列車が動きだしたあとも、彼はまだホームにたっていた。午後の弱い陽のあたったホームが小さくなり彼の姿も消えた。
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死について
年頃になったお嬢さんたちに、
「君は恋人か、許婚者がいますか」
とたずねて、
「まだ、ございません」
と返事された時、すかさず、
「それでは君の未来の配偶者が今、この瞬間、何をしているか知りたくありませんか。彼は今、日本か、世界の何処かにいるわけですから……」
ときくと、必ずと言っていいほど、そのお嬢さんの眼が嬉しそうにかがやき、
「ええ、知りたいですわ、とても」
と返事するものである。
「知りたいですか。今、君の未来の夫が何をしているかを……」
「それは、もちろん」
「教えてあげましょうか」
「教えてください。おねがい」
「彼は今、ウンコをしておるのだ……」
私のような年齢になると、自分の未来の配偶者(そんなもんがいる筈はない)が今何をしているか、別に気にもならぬし、知りたくもない。
その代り、自分がいつ、どこで死ぬかをふと考えることがある。
やがて死は必ず訪れてくる。その時、自分は何歳ぐらいだろうか。
それは誰しもが中年になれば一度は考えることだ。
しかし、たいていの人はその時、自分はどこで死ぬだろうか、あまり想像しない。おそらく自分の家か、病院のなかだろうぐらいに漠然と思っているのである。
しかし家はとも角、病院の部屋で死ぬというのは普通、考えられている以上に悲惨なものなのである。
病院を多少でも知っている者は、あのムキだしの壁と、多くの人がそこで苦しみ、息を引きとった病院そなえつけのベッドで死ぬ気にはなかなか、なれぬだろう。
御臨終ですと医者が厳粛な顔をしていう。しかし彼は廊下に出ると、もうすぐにそのことを忘れてしまう。人の死を一つ一つ気にしていたら病院では仕事にならぬ。
二十分ほどの間、家族や知人が泣いていいが、やがて看護婦がストレッチャーを運んできて、あなたの死体をのせ、病院にある死体安置室に連れていってしまう。
これで一巻の終り。あなたの死はまるで小包みでも発送するような没個性的な扱い方をうけるわけだ。
ひょっとすると、野たれ死でゴミ溜めの横で死ぬほうが病院における死より個性的かもしれぬ。そう思えるくらいである。
あなたは自分が死んだ翌日も空が晴れ、街には自動車が列をなして走り、テレビではC・Mのお姉ちゃんが相変らず作り笑いをうかべて唄を歌っているのを考えると、妙に辛く悲しくないだろうか。あなたの死にもかかわらず、世界が相変らず同じ営みをつづけているのだと思うと悲しくないだろうか。
当り前の話だって。もしそういう心境をお持ちの方なら、悟りをひらいた方だ。たしかに我々が死んだって、社会や世界は昨日と同じ営みをつづけていくにちがいないのだが、それを思うと、やはり何だか辛く悲しいのは人情なのである。
私は留学していた頃、勉強につかれてくるとよく墓地に行ったものだ。仏蘭西の墓地は白い。そしてひっそりと静まりかえっている。
秋の午後、金色の葉の落ちる墓地の静かさ――あれは一体なんだろう。あれは死者たちの静かさだったのだろうか。
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墓について
ミュッセは、自分が死んだら、その墓に一本の柳を植えよと言ったと聞く。スタンダールの墓には「生きた、書いた、恋した」と墓碑銘が書かれているそうだ。
そういう話を聞くと私は何とキザな話だろうと思わざるをえない。生きた、書いた、恋したなぞというジンマシンの起きるような文句を自分の墓にきざませる神経の持主なぞ、とても耐えられない。
とはいえ、嗚呼、忠臣、楠氏之墓などという奴もこれまたいやだね。できうれば、無縁仏のようなのが私の一番、性にあっているのだが。しかし無縁仏ではやっぱり一寸、情けない気もする。
もう七、八年前の初夏のことだ。
私は長崎の裏通りを少し汗ばんだ額をふきながら一人でぶらぶらと歩いていた。
ちょうどその午前、一緒にこの街に来た二人の友人に別れて一人ぽっちになった気やすさもまじり、私はひっそりと静まりかえった坂路をおりているところだった。
坂の両側には古い墓がたくさん並んでいた。楠の大木がいたるところに茂っていて、その楠のどこかで、もう蝉も鳴いていた。
私は一人の男の墓を探しているところだった。その男というのは後に私の小説の主人公のモデルになった外人宣教師で、切支丹迫害時代に日本で怖ろしい拷問をうけ、棄教したあと、この長崎でみじめな生活を送って息を引きとったフェレイラという人物だった。
この寺に彼の墓が残っていると、私は東京で聞いてきた。だから私はその初夏の真昼、少し汗ばみながら、歩きまわり、三百年もたった彼の墓を見つけようと思ったのである。
大きな古い寺のなかには人影は全くなかった。初蝉の声のきこえる楠の茂った墓地のなかで、墓はあまりに沢山あるので、彼のものを見つけるのは不可能にちかかった。
半時間ほど歩きまわった時、私はくたびれて崩れかかった石段に腰をおろした。線香の匂いはその石段にまでしみついていて、真昼のあたたかさと、蝉の声と、そして線香の匂いとで私は軽い眩暈《めまい》さえ感じていた……。
その時、私は自分のすぐそばに、愛らしい古い墓をみつけた。
それは丸い石を三つ、置いたものだったが、その石の背後に形のいい楠が一本、植えられていて、楠のこんもりとした葉彩がその石の上にやさしい翳《かげ》と木洩れ陽とを同時に与えていたのである。
微風がふくとその翳と木洩れ陽とが墓を愛撫《あいぶ》するように揺れた。まるで母親が幼い子供のゆりかごをゆらせているようだった。そして微風がやむと、葉翳が静けさをそっと保つようにその石の上にさした。
墓はふるかった。おそらく百年か百五十年ぐらい経過しただろう。そこに埋められた人は丸い石を三つ重ねた墓しか作ってもらえぬところを見ると、世間ではたいした出世もできなかった男か、幼くして死んだ子供かもしれないのだが、生きのこった母親か女が彼のために小さな楠の苗木をそばに植えてやったのだろう。
苗木は大きくなり、葉翳と木洩れ陽とをその三つの丸い石につくり、そして長い長い歳月がたった。
(これがいつ……)
私はその時、いつの日か自分が死んだならば同じようにしてほしいと切に思った。やさしい葉翳と木洩れ陽との下で永遠にゆっくりと眠れる。
フェレイラの墓はその日、遂に発見できなかったが私はひどく満足だった。それ以後、長崎に行くたび、その墓を見にいくことを欠かさない。
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御 縁
もし故郷というものを、忘れがたい少年時代の思い出が数多くある土地とするならば、私には故郷がない。幼い日と少年の頃を送った大連は既に別の国のものとなっているからである。
私は随分、旅をした。いろいろな土地、いろいろな町をも見た。故郷のない私はその度毎、この土地、この町がもし自分の故郷だったらと考えることが屡※[#二の字点、unicode303b]あった。
信濃の山並が蒼くひろがり、千曲川のながれる小さな町を通った時、夕暮の灯がともり、家々の庭に胡桃《くるみ》の木が影をつくっているのを見て、こんな小さな町が自分のふるさとであったならと心の底から思った。その町の名は塩名田といった。
島根県の津和野を訪れた時も、あの盆地にひっそりと眠るこの静かな町に同じ思いを抱いた。
だが塩名田といい、津和野といい、もしそこが私のふる里であったとしても、生涯そこに住むわけにはいかなかったろう。町は私にはあまりに小さくあまりに静かすぎた。
もしそこで生れて、そこで一生、生活してもいいと思うような場所があるとするならば、私は盛岡と長崎とをためらわず、あげるだろう。秋の日に盛岡を訪れ、そのやわらかな澄んだ光のなかでまるで赤い宝石のようにみえる林檎の林を通りぬけ、雫石川の川原で身を休めた時ほど、私がこの町を美しいと思ったことはない。だが盛岡は私の心にはたまらない可愛く、美しいだけで、おいしいとは思えない。
長崎はそれにくらべて、おいしい街である。この東西交流の歴史を長い歳月の間に蓄えた長崎は味わえば味わうほど、おいしいのだ。
私と長崎とのまじわりはまことにふしぎな人との縁から始まる。八年ほど前に、私は三浦朱門と二人で長崎を何の気なしに訪れた。グラバー邸や大浦天主堂、出島というようなお決りのコースをまわり、銀嶺という古いランプや皿を集めた洒落たレストランで休んでいた。
「曽野綾子に、土産、買うていこうと思うねん。しかし女のものは何がええかなァ」
と三浦はさっきからしきりに思案していた。
私は自分の席のすぐ近くに二人のお嬢さんがジュースを飲んでいるのを横眼でみて、
「あのお嬢さんに相談してみたら、どうだ」
と言った。
「お嬢さん」
私が声をかけると、そのお嬢さんたちはびっくりしたようにこちらをむいた。
「我々は長崎が始めてなのですが……いい土産ものを買える店を教えて頂けないでしょうか」
お嬢さんたちは顔をみあわせ、二人で何かを囁きあっていたが、
「あの……よろしければ、私たちがお連れしますけど」
と答えてくれた。
律義な三浦は甚だしく恐縮し、ペコペコと頭をさげながら、
「有難うございます。有難うございます。われわれは決して怪しいものではありません。自分は三浦と言い、こいつは遠藤と言い、共に小説家であります。決して怪しい者ではありません」
お嬢さんたちはその三浦の念の入れ方に苦笑しながら、歩きはじめた。そして目ぬき通りの大きなベッコウ屋や食料品店に連れていってくれたが、彼女を見ると店員たちはニコニコとして、しかも三浦や私にまで値段の割引をしてくれるのである。私はふしぎでならなかった。
「あなたたちは、はい、一体どなた様ですか」
どの店もお嬢さんたちに案内されると割引をしてくれるので、私はふしぎでならず、そう訊ねた。お嬢さんたちはホ、ホ、ホと笑うだけである。
その夕方、矢太楼という宿屋に戻って長崎には親切な娘さんがいるものだと三浦と話しあっているところに電話がかかってきた。
「さきほどは娘がお世話になりましたそうで……」
と女性の声が受話器できこえた。あのお嬢さんの母上からの電話である。私は正直いって、不安になった。うちの娘に勝手に声をかけて……と叱られるのではないかと思ったのである。ところがその内容はそうではなかった。
「娘から聞きますと長崎はお始めてだそうで……もしお宜しければ、おいしいお寿司屋にお連れしたいと思いますが」
私と三浦とは恐縮し、びっくりし、そしてあのお嬢さんとその母上の見も知らぬ我々への思いやりに感激した。
とら寿司という寿司屋で私たちはお嬢さんの一家にはじめて紹介されたが、そのご一家は長崎で一番大きな婦人服の店、タナカヤさんの田中御一家であった。
始めて訪れた土地での印象は、その土地の人の親切で左右されることが多い。私があの日、あのお嬢さんに会わず、そして田中さんご一家と知りあいにならなければ、私にとって長崎は盛岡と同じように、美しい可愛い街でしかなかったろう。だがその日田中さんと知りあったため、またとら寿司の御主人に紹介されたため、私は長崎が好きになり、長崎の切支丹史を勉強しはじめ、やがて『沈黙』という小説を完成することもできたのである。人生というものは偶然の出会いが何を生みだすかもわからぬものなのだ。
それから幾度も長崎を訪れた。私は長崎はおいしい町だとわかったのである。とら寿司の寿司はうまい。魚はこの町では実にうまい。果物も実にうまい。しかし食べものだけではなく、この町の歴史は小説家にとって、こたえられぬほど、おいしいのである。私は長崎に魅せられたわけだ。
私が長崎にたびたび行くと聞きこんだ梅崎春生なる先輩作家がある日、電話をかけてきた。
「君はいつ、今度、長崎に行くのです」
「来週です。三浦とまた、行くつもりです」
「それでは君たちは長崎で花を買って、雨森という病院をたずね、そのお嬢さんにその花をぼくからと言って渡してください」
なぜですかと聞いたが彼はムニャムニャ言うだけである。やがてわかったのだがそれは梅崎さんが五高の生徒の頃、その雨森病院のお嬢さんに遠い憬れを持った思い出があったからである。
梅崎さんは一円もくれなかったから、私と三浦は自腹でバラの花を買い、雨森病院をたずねた。まったく知らぬ家を訪れて、理由もなくバラの花を渡しに行った我々も我々だが、それを後輩に命じた梅崎さんも梅崎さんである。
「えーと、お嬢さまにこのバラの花をわたしてほしいと小説家の梅崎春生氏からたのまれまして……」
私たちは女中さんにそう言い、お嬢さんがどんな方か見ようと玄関で待っていた。
姿をみせられたのは品のある、立派な御婦人だった。なるほど、梅崎さんが五高の生徒だったのは三十年前の話だった。それを私と三浦は忘れていた。御婦人は梅崎さんの名を聞いて首をかしげ、バラの花を受けとられて更に首をかしげられた。彼女の記憶に梅崎さんは全く存在してなかったようである。可哀そうな梅崎さん!
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清水崑画伯の個展
長崎の田中さん御一家と偶然知りあいになれたことから私は長崎を自分の故郷と思うようになったのだが、縁というものは更にふしぎだった。
その田中さんと清水崑画伯とが、なんと少年時代からの親友だったとは……。そして崑画伯の長崎での個展はいつも田中さんのお店タナカヤの画廊で開かれているのである。
今年もまたその画伯の個展がタナカヤで開催されるので、私は編集部のYさんと今、長崎に来ている。最終回の原稿だけはどうしても記念のために長崎で書きたかったからだ。
長崎という町は日本に珍しい華やかな色彩をその底にもっているくせに、他方はその華やかさのゆえに受ける迫害や受難をたえず味わわねばならぬという別の顔がある。私が長崎に心ひかれるのはその両面があるからだ。
切支丹がこの地方で迫害をうけていた間、彼等はひたすらにサンタ・マリアを思慕して生きつづけてきた。ひょっとすると、これら切支丹は神やイエスよりも聖母という母なるものを思いつづけて生きてきたのかもしれない。彼等が持っていたマリア観音のいじらしい顔をみると私はそう思わざるをえない時さえある。
タナカヤの画廊で清水崑画伯の絵をみながら、私は急にこの事を感じた。私の拙い文章に描いてくださった墨絵とちがって、この個展の絵は、長崎のハタあげやおくんちや精霊ながしという華やかな行事を織りこまれた色彩ゆたかな絵である。しかしその華やかな色彩のかげに、何となくサンタ・マリアを――いや、母なるものと言ってもいい――母なるものを思慕している何かがある。それは、タコの糸のもつれを解いている女性のカッパの顔であり、母を失った子供のカッパが父親と祭りに出ていく顔に、あらわれている。
画廊の一隅に精霊ながしの絢爛とした夜の屏風があったが、その華やかさが長崎の一面であるとするならば、数隻の舟が海にむかって出ていく『ペーロン』と題する絵の言いようのない淋しさも長崎のもう一つの面である。私はしみじみ、清水画伯は長崎の画家だと思いをあらたにした。
明治の初め、やっと鎖国はとけたが、日本人の信仰の自由はゆるされなかった。長崎に来た僅かの外人のために仏蘭西人の司祭が大浦天主堂をつくり、そこに、いじらしい聖母の像をおいた。
神父はひょっとすると、かつて迫害をうけて根絶したという日本の切支丹の子孫たちがどこかにいるのではないかと長崎の町やその近郊をたずね歩いたが、人々は首を横にふるだけだった。むなしく日はすぎていった。
だがある日、その神父が聖堂で祈っていると、一人の日本人の農婦がそっと聖堂にしのびこみ、彼の耳もとで囁いた。
「サンタ・マリアさまのお像はどこ」
そして聖母の像を見せられた時、彼女は始めて嬉しそうにああ、可愛かと呟き、自分たちはまこと切支丹であるとうちあけた。
ながいながい迫害と禁教令の間、切支丹の子孫は人々の眼をあざむきながら、聖母を思慕しつづけてきたのである。彼等の苦しい毎日には、ただ聖母、母なるものの思慕だけが生きる支えだったのである。この大浦天主堂の神父と切支丹との邂逅とが近代日本の信仰の自由を作ったことを知る人は少ない。
しかし清水画伯のカッパの絵をみていると、私には、サンタ・マリアのお像はどこという声がきこえるような気がする。母なるものは、どこという声がきこえるような気がする。
長い間、読んで頂いて有難うございました。
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ぐうたら生活入門
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人生ケチに徹すべし
[#地付き]後悔しながら浪費する人たち
[#ここで字下げ終わり]
フランス人のケチ
リヨンという町にいた時、夜、遅くまで本を読んでいると、下宿の奥さんが部屋に来て、
「夜ふかしは体に毒だよ」
と心配してくれる。それでも読み続けていると、
「寝ないなら、お前の健康のため、あたしが電源を切るよ」
健康を心配するという口実のもとに、パチリ、電気を消してしまうのである。
真暗にされれば寝ないわけにはいかぬ。しかし子供じゃあるまいし、九時や十時に灯を消されては仕方ないから、翌日から、本を持って近所のカフェに行った。
だが婆さんは私がカフェに行くことには文句は言わない。言わないところをみると、彼女は私の健康を心配してくれたのではなく、電気代をケチっていたのである。かねがねフランス人はケチだと聞いていたが、そのケチにぶっつかったのは、これが初めてであった。
だが、そのうち次第に、この婆さんだけではなく、フランス人の中産階級は大体においてケチであることがわかってきた。ケチという言葉に語弊があるならば、ムダ遣いをしないと言ってもよい。とにかく、ムダ遣いをしない。学生を例にとるならば、本さえあまり買わない。では本はどうするかというと、図書館をできるだけ利用するのである。
自信のなさが浪費を
私はその時、私をふくめてこの国にたち寄る日本人旅行者が、はなはだゼイタクであることを知った。もちろん彼等は旅行者であるから金をパッパッと使うのは仕方ないのであるが、その使い方を観察していると、フランス人にくらべてはるかに浪費している。使わないでいいところに金を使っている。たとえばレストランに入って、フランス人なら一割しかチップをやらぬのに二割はずむ。地下鉄なら二等に乗ればいいのに一等に乗っている。わずかな金額の差だと言ってしまえばそれまでだが、やはり浪費である。
そこで、私のような男にもハタと膝をうつものがあった。浪費の感情の中にはいろいろな理由があるが、その最も主なものの一つには「自分にたいする自信のなさ」があるのではないかと。日本人が海外においてゼイタクなのは、一種の劣等感のあらわれなのではないかと。日本にいる時にざるソバ一杯で百円札を出し、おツリが十円足りんと言って真っ赤になるオッさんが、花の都、パリでは、
「とっとき給え、チップだ」
二倍のチップをボーイにはずむ。
「メルシー・ムッシュー」
そう言われて嬉しがっている心情には、白人国に旅行している日本人の背伸びした姿勢がたしかにひそんでいるわけだ。浪費の中には虚栄心とともに、自信のなさがこの場合にたしかにあるのである。
そう言えば、女の子とデートした時の男の浪費の仕方にもこの心情が働いている。たとえばこの私を例にとろう。私は平生、映画なら八時以後を狙って行くような男である。夜間割引という札が切符売り場の窓口にかかって二割は少なくとも安くならねば映画館には入らん。
そんな男がたまさか女の子と映画館に行けば無理して指定席だ。指定席七百円ナリ。映画が終って外に出ればすでに日暮れて真暗。おなかがすいたわと彼女がのたまう。おのれ一人ならば、屋台のラーメンで腹の虫をおさえるのだが、彼女に上品なところを見せるためRestaurantと書いた店に入る。白いテーブルに白い壁。
諸君も経験がおありだろうが、こういうところのボーイが意地悪でねえ。女の子づれの男とみると、わざとうやうやしくいんぎんに頭をさげるものです。わけのわからん料理を並べたメニューをさしだし、わざと一番、高いものを指さして、
「ブダペスト風オニオンスープとボルドー風シチューはいかがでございましょう」
「ああ、それでいいだろう。それを持ってきてくれ給え」
こういう経験あるでしょう。ブダペスト風オニオンスープか何か知らんが口に入れても味けなく、心の中では、映画代七百円、それに料理二つでどんなに少なく見つもっても千八百円はとられるぞ。合わせて二千五百円か。おれはバカだ。浪費家だ。ムダ遣い屋のだらしない男だ。惜しい、じつに惜しい。そう思わなかった男性は世の中に一人だっていないはずはないだろう。
もし彼が――いや私が、自分に自信があるならば、たとえ彼女をラーメン屋に誘っても、わが高尚な人格、上品な趣味をみせると思ったであろう。
だが自分はそのような高尚な人格者ではなく、ビキニ姿の娘を見れば胸ドキドキし、鼻クソほじくって指先で飛ばしては喜ぶような男であるゆえに、彼女の前では上品なところを示すため、無理してレストランなどに入ったのである。海外における日本人の浪費と女の子づれの男の浪費にはこのように共通したものがあるのだ。
貧乏人ほど浪費家
金持ほどケチで、貧乏人や田舎者ほど浪費家だという言葉があるが、いかんせん、この言葉はある意味で真実だ。
「おい。ここはおれに払わせろよ」
「いいよ、いいよ、おれが払うってば」
「なにイ、お前はおれに恥をかかす気か。ここの店はおれの縄ばりだ。おれが払うのが当り前だ」
よく飲み屋でいい年をした男が大声をあげて喧嘩をしているが、おれが払う、いや、払わさんと言うような連中はたいてい、そう金には縁のない顔をした連中である。おれの縄ばりもへったくれもない。彼は自分を金がない、ケチだと思われたくないからおごる、おごると言うだけである。これが金持だと、ワリカンでいこうと平然と言える。自分のふところに自信があるからである。
こう書くと私はいかにも浪費家を軽蔑しているように聞えるかも知れないが、じつは私は自分と同じようにオドオドしながら(つまり本当はケチなくせに)、わが自信のなさから浪費してしまうような人物が大好きなのである。
徹底したケチ精神
私のような男は浪費をするたびにチェッ、チェッと舌打ちをする。女の子におごったあとほどこの舌打ちが激しくなる時はない。ああ損したと思う。そういう私を親友のAという男が叱りつけて、
「人間、ケチの美徳を学ばねばいかんで。おれなんか大阪の生れやさかい、ケチがどんなに立派なことか子供の時からしこまれた」
彼は私にケチ訓練をさせるためにデパートに行けと言う。Aはときどきデパートに行くと、まず、地下の食料品売り場に行って酒の販売をしているケースの前に立っていると、
「いかがですか。菊吉宗でございます。試飲してくださいませ」
Aはこの試飲酒をチビチビやったあとありがとうと一言、言ったまま、今度は出雲ソバを売っているケースに近づく。ここも出張員がソバを宣伝するため試食させる。それをパクパク食って、今度は書籍部に行き本をタダ読みしさらに大食堂にのぼって、床をじっとながめていると必ず、色つきの丸い札が一、二枚、落ちているものである。その札をサッとひろって、何くわぬ顔をしてテーブルにつき給仕の女の子に渡すと、ホットケーキを持ってくる。これで終りかというとそうではない。ふたたび売り場をまわって今度も床を見張りし、客が落していった買い物レシートを拾っていく。このレシートを中小企業の店に持っていくと税金落しの材料として買ってくれるからである。
ケチもAからこう聞かされると、私には非常に辛い精神的努力のように思えてくる。こんな努力をしなければならぬくらいなら、私はやはりチェッ、チェッ、損した、損したと後悔しながら、気の弱さ、自信のなさから浪費する連中の一員になったほうがまだマシだ。
あなたはケチか、浪費家か
ところで諸君はだれがケチか浪費家か、すぐわかる方法を知っているか。第一の方法はその相手に親指をうしろにそらさせるやり方だ。非常によくそるやつは浪費家であり、いくら力を入れても指の直立しているやつはまずケチである。
第二の方法はその相手に便秘症かどうか尋ねることである。精神分析の医者たちによると便秘症の人は大体においてケチだそうである。つまり彼の胸の中では、おのが物は何でも堅く握りしめておこう、決して外には出すまいぞという心がたえず働いていて、それがたとえ自分のウンコであれ、体外に排泄して人手に渡すのが惜しゅうてならん――こういう心理がおのずと彼(彼女)を便秘にするのだという。
私の実験によると、この説は決して眉ツバではない。だから、
「あたし、体は丈夫なんですけど、毎朝のものが出にくくって」
やせ型で、そんなことをいう女性がいたら、ケチだと思って差支えない。
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語るにたる気の弱い奴
[#地付き]よく、その心情、理解できる人たち
一匹の虫
これは賭けてもいいですがね。この「本」の読者の七十五パーセントは「気の弱い奴」でしょうな、なぜかって。理由は簡単です。気の強い男はこんな本など買って読まんからです。そうじゃ、ありませんか。諸君。
わが人間観察によると、気の弱い奴には必ず、一匹の虫がつきまとうものらしい。この得体のしれぬ虫めはあんたがその気の弱さのため何かをシクジルと、耳のうしろ側で、ケ、ケ、ケと奇妙な笑い声をたてるのです。
たとえば諸君にはこういう経験はありませんかな。駅のホームで電車を待っていると向う側のホームに部長が立っていられる。気の弱いあんたはこういう時、すぐ挨拶できないものです。部長が気づかぬのに、頭を下げるべきか、それとも黙っているべきか、あんたは心中ハムレットの如く迷う。そして思い切って頭をさげたが、部長は知らん顔をしている。なんだ、挨拶なんかするんじゃなかったとペロリと舌を出した時、向うの視線がこちらにぶつかった。部下に舌を出されたと錯覚した部長はムッとされ、あんたはこれはとんだことになったと思う。そんな時です、耳のうしろであの虫めが、ケ、ケ、ケと笑うのは……。
私はあんたのその時の気持がよくわかるよ。なぜなら、私もあんたと同じような経験が幾回、幾十回となくあったから。
あんたに仮に惚《ほ》れていた娘がいるとする。その娘は初心《うぶ》で清純であんたは本当に心から惚れておるのだ。惚れているのだが、悲しいかな好きだと言えないのだ。
「気の弱い奴ちゃなあ。そんなの、手ごめにするぐらいの勇気でぶつかれや」
悪友に励まされ、けしかけられ、
「よおし、今夜は必ず決行だぞオ」
清水《きよみず》の舞台から飛びおりる気持であんたは彼女を映画に誘った。
映画館の中で手を握ろう、握らねばならぬ、断じて握るのだ、そうあんたは心に誓いながら、いざ本番となると、どうしても勇気が出ず、そのくせ、心はスクリーンではなく右側の彼女と自分の腕にばかり集中して、モゾモゾ、貧乏ゆすりばかりして、
「どうか、なさいましたの」
彼女にそう言われると、イスから二尺も飛び上りそうになり、
「いえッ何でも、ありまッせん」
上官に報告する兵隊のような声をだす。情けない奴ちゃな、あんたは。
そして映画が終って、喫茶店。今度こそは心のすべてを打ちあけねばならぬ。断じて打ちあけるのだと思いながら、コーヒーだけいたずらにガブガブのみ、
「うちの伝書|鳩《ばと》はかわいいです」
愚にもつかぬことばかり口走っている。これではいかん。言え。男じゃないか。言うのだ。そう懸命にわが心に言いきかせ、
「道代さん」
「何ですの」
そういう時だ。気の弱い奴は突然、尿意を催し、どうしても我慢できなくなってくるのである。あの虫めがまた、意地悪をしだしたのだ。
「道代さん」
「何ですの」
「ぼ……ぼかア。たまらん。失礼」
びっくりしている彼女をそこに残して、あんたはW・Cに走っていくのである。そして何も言えず、何もできず、彼女を自宅まで送りとどけたあとは一人、舌打ちばかりしながらくやしまぎれに歌う歌は、
「松の木ばかりが、松じゃない」
どうです。ピタリでしょう。あんたには必ずこれと同型の経験があるでしょう。私はあんたのその気持がよくわかる。なぜなら、私もあんたと同じような経験が幾回、幾十回となくあったからです。
気の弱い奴を喜ばす言葉
気の弱い奴には友人のうち、誰が自分と同じように気の弱い奴か、すぐわかります。そういう男はえてして、発作的にから元気を出すからすぐわかります。飲屋やバーなどで、酔うにつれ女給や友人を相手に、
「ぼくはヤルと言ったら断じてヤル。ヤルと言った以上、どんな障害があってもヤッてみせる」
そんなことをわめきながら、そのくせ相手の眼色を窺《うかが》い、自分の言葉を信じてくれたか、どうかをキョトキョトッと測定するから、すぐわかります。
そういう先輩上役がいたら、何よりも彼を悦ばす言葉は二つあると思ってください。一つは、「芯が、本当は強いんだなア、先輩は」であり、もう一つはガラリと趣向をかえて、「いい人だ、先輩は。善意があるために損をされているんですね」
理由は簡単です。気の弱い奴は、えてして芯が強いことにたまらなく憧《あこが》れるものですし、またいつも、その気の弱さのために損をしているからです。
スカシ屁の犯人にされた男
私が今日まで見た気の弱い友人から三人を選んでお話しましょう。いずれも私やあんたたちには身につまされて「よく、その心情、理解できる」話なんです。
A君は毎日、中野駅から東京駅まで出勤するサラリーマンなのですが、寿司づめの国電の中で若い女性に体を押しつけられる時と、スカシ屁を誰かがした時ほど辛いことはないと言っていました。
いつだったかA君が汗ダクで国電に乗りこみ、やっとつり皮にぶらさがった時、突然、異様な臭気があたりに漂いだしました。誰かが例のスカシ屁を一発やったんです。A君はその震源地は彼の前に腰かけている妙齢のBGだとすぐにわかったのですが、そのBGは平然とした顔で、平然どころか、いやまるでA君が犯人であるかのような眼つきでじっと彼を見上げているじゃありませんか。
「臭いなあ」たまりかねて、車中誰かが叫びました。
「ひどい奴だな、この中で屁をするなんて。どいつだ」
BGはまだじっ[#「じっ」に傍点]A君を見ている。そしてその唇のあたりに軽蔑的なうす笑いさえ浮べたのです。あんたでしょう。おナラをしたのは、まるでそう言っているようだ。
(ボクじゃない)A君は叫びたかった。(ボクじゃない)
しかし彼女のいかにも自信ありげな顔をみると、気の弱い彼は、(ボクじゃあ、ないんです。いいえ。ボクかもしれません。ボクでした。申しわけありません)
だんだん、そんな心境にさせられてきた。そして自分がスカシ屁の犯人のようにうなだれ、眼を伏せ、東京駅まで苦しみながら乗りつづけた、というのです。
「ぼかあ、モスクワ裁判なんかで、被告が自己批判をした気持が、今こそよくわかりました」
彼は後になってそう申しておりました。
給料もとりに行けない男
B君はA君よりもっと気が弱い男です。彼はかつて、私が成城大学の講師をしていた時の同僚でしたが、自分の給料さえ、取りに行けず、ハンコを私に渡してとって来てくれないかと言うのです。そして顔を赤らめ、
「給料下さいって言うのは悪いような気がして……」
「冗談じゃないですよ。君の労働にたいして当然、支払われるべき報酬じゃないですか」
「ええ、それは理屈じゃ、わかってます。でも、やっぱり、給料下さいって言うのは悪いような気がして」
こういうB君は同僚にお金をかしても、それを返してくれというのが「悪いような気がして」とても口に出せない。あまつさえすっかり忘れてしまっていた相手が急に思いだして、
「あっそうだ。返そうか」
と言うと、
「いいんだよ。いいんだよ。まだ」
笑いごとじゃない。あんただってこのB君によく似た経験があるはずだ。
過去にさいなまれる男
ずっと前、あるアパートで生活していた時のことです。
毎夜、真夜中に、私の部屋の上で、若い男の叫びがする。
「アアッ、アーッ。アアッ」
諸君は、早まってはいけない。彼は独身だし、その上、女を自分の部屋の中に引きずりこむような男じゃないよ。
にもかかわらず真夜中に、
「アアッ、アーッ。アアッ」
悲鳴とも絶叫ともつかぬ声をたてる。なぜ彼はそのような声をたてているのか。わかった人は小説家になれる素質がある。あんたはどう思いますかね。
「その男は頭が可笑《おか》しいんでしょう」
ダメ。そんな答えでは。彼はね、夜中に布団を引っかぶっていると、昨日、今日のあるいは過去の、自分のやった恥ずかしいこと[#「恥ずかしいこと」に傍点]が一つ一つ突然心に甦って、居てもたってもいられなくなり、
「アアッ、アーッ。アアッ」
思わず、大声をたてているのです。
何だ、そんなことか、と思われる人は気の強い奴。気の弱い奴なら、この夜の経験は必ずあるはずだ。
それがないような奴は、友として語るに足りぬ。
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亭主族の哀しみ
[#地付き]この小心で孤独な除け者の存在
「亭主」と「夫」とは違う
学者先生の作った字引などを引くと、亭主という言葉は夫、良人と同意語であるかのように書いてある。だから学者などという手合いはダメなんだ。
妻と女房とちがうように、夫と亭主とは断じて違う。これは私の卓見だ。
妻というのはね、まだ花嫁の気分ぬけやらず、楚々《そそ》として慎み深く、夫のいうことに比較的従順な、あの女の一時期をさすのである。女房というのは、この妻が突然か次第にか変異して、巨力強大な怪物となり、家庭の座にどっしりとアグラをかき、縦から押しても横から押してもビクともせず、子供たちをおのが味方につけ、亭主を村八分にする――あのオバさん時代のことなのさ。
もうわかったでしょう。夫と亭主のちがい。君が新婚ホヤホヤで自分に寄りそう妻に満足し、彼女を妹のように使いこなせる時は夫という。だが、相手が女房となり、君が彼女に何らかの形で使われるようになった時は、君はもう夫ではない。亭主である。
おわかりか。君は今、夫かね。それとも亭主かね。
私は亭主族という奴が好きだな。なぜかって? 人間の臭いがプンプンするからです。孤独で小心でさ、威張りたくって、そのくせダメな男で、これあ、オレたちじゃないか。
読者のなかで亭主族の人はいますか。いたら手をあげてください。君たちの生態を今から二、三あげてみよう。
村四分の亭主
まず、亭主というのは家庭にあって村八分とまではいかなくても、村四分ぐらいの扱いをうけている。子供たちは女房には何でもかんでも打ちあけて話すのに、オレには何かヨソヨソしいところがある。君はそうひがんでいませんか。
晩飯のあと、家族たち(家族というのは亭主を除いた家の者たちのことをいう)は茶の間でキャッキャッと笑いながらテレビをみている。亭主はそういう時、どうしているか、自分も仲間に入りたいのだが、彼等とキャッキャッと騒ぐのが照れくさく恥ずかしく、しばらくモジモジしているものだ。だが、やがて思いきって茶の間の襖《ふすま》をあける。
笑いが、ピタリとやむよ。みんなが突然、白けた顔をするよ。子供の一人がそっと部屋を出ていくよ。もう一人も勉強しよっと呟《つぶや》きながら逃げていってしまう。こうして君は一人ぼっち。仕方なく君は孤独のまま、くそ面白くもないテレビをぼんやり見つめている。
そんな経験ないですか。ない奴は人生の寂しさ知らん青二才だな。オレとは話すに足りん奴だ。ほかの本でもめくって読め。この本を読むのは人生の哀歓を多少でも噛みしめたお方に限る。
しかし、やがて君もそういう孤独な亭主になるんだ。私もね。若いころ、自分の父親をみて、なんてこの人は孤独なんだろうと思ったものです。晩飯のあと、一人で部屋にとじこもり、自分用のラジオをきいていた彼を見ながら、オレは将来、ああなりたくないと考えたもんだ。
しかし今日、私はね、自分の父親と同じように自分の部屋でトランジスタ・ラジオをきいている。思わず、ああ、これだったのかと感じるんです。
しかし子供ってものは、どうして父親をああ煙ったがるのですかねえ。子供と二人っきりになったことあるか? こちらも何か話しあわなくちゃダメだと思いながら、話題をさがす。向うも気まずそうに調子を合わせている。寂しいね、これは。
失礼しました。思わず取り乱しまして愚痴をこぼしてしまいました。われわれは亭主一般について考えていたのであった。
土産を買う亭主
夜、十時ごろか、十一時ごろ、東京の渋谷や新宿の広場を通りすぎたことがありますか。ああいう所には、こんな時刻に必ずオモチャの叩き売り屋が出ているものである。
夜の十時ごろにオモチャの叩き売り屋がなぜ出るか。餓鬼《がき》たちはすべて、眠りこけているという時刻なのに。
これはねえ、父親相手の商売なのさ。亭主族相手に売っているのさ。大道商人は学者先生たちよりはよく亭主の何ものなるかを知っておるよ。
うそだと思ったら現場に行ってごらん。いるよ。いるよ。亭主族が。みんなじっと、懸命に大道商人の声に耳をかたむけているよ。「この鉄腕アトムはね、たんに手足が動くというんじゃないよ。ほれ、このリモート・コントロールを使えば両足そろえて空中を泳ぐんだからね。アメリカに輸出した時は目の青い向うの子供がワンダフルと叫んで、たちまち売り切れになったんだよ。向うの父親はえらいよね。ちゃんとよいオモチャを買って子供に与えるんだから。だが日本の父親はどうだ。デクの棒のように突っ立って買おうか、買うまいか考えてござる。手前《てめえ》はしたたか酒をのんだくせに、可愛い子供に土産の一つも持っていかない気かね」
この最後の言葉が周りをかこんだ亭主たちの胸にぐさりと突きささる。本当にオレはいけない奴だなと思う。オレは今日、会社の帰り、この渋谷でとも角も酒をのみ、ホルモン焼きを食ったのだ。自分は家族を放ったらかしてたのしんだ。申しわけない。オレは悪い奴だなあ。
「だからさあ、このオモチャぶらさげて家に戻ってごらんよ。角《つの》出したカミさんの機嫌も急によくなるし、それから明日の朝、目をさました坊やが泣いて喜ぶよ。うちの父ちゃん、いい父ちゃんって」
たった二百円の鉄腕アトムがこうして売れていくのも、酒のんだあとの亭主のビクビクした心理をうまくつくからである。私は渋谷や新宿に夜ふけて必ず出会うオモチャ売りとそれを囲んでじっと飛行機や潜水艦をいじくっている男たちの群れを見るたびに、そのせつない心理を思わざるをえない。臆病で、小心で、そのくせ威張りたがる彼等よ。
亭主が怒る時
小心だから彼は家庭にあって除《の》けものになりたくない。家族のみんなから尊敬されたい。だが夜ふけにオモチャを買っても、それは一時的に子供の心を引くだけで、あとは相変らず除け者にされる。除け者にされるから彼は自分を注目させるために威張ろうとする。そして、彼が家庭で怒る時の心理は次のようなものだ。
たとえば長男がジャズレコードばかりかけているとする。それが気に食わぬが、気に食わぬとどなれば、たちまち家族中の大反撃に会うことも彼は知っている。
「古いよ、父さんは、頭が。横暴だよ、自分の趣味にあわないからって」
古いとか、横暴とかいわれるのが、家庭にあって亭主には一番つらい。その上、女房にまで子供の味方としてギャア、ギャアわめかれてはたまらなく不愉快だ。
だから、おおむねの亭主は子供を叱る時は、別のことを口実にして小言をいうものだ。
「なんだね、この部屋、だらしがないぞ。少しは掃除しなさい。みなさい、ホコリがこんなにたまっている」
彼が怒りたいのは部屋のことではなく、本当はジャズレコードのことだが、しかし、彼はこういう言い方によって自分の父としての権威をみとめさせようとするものだ。
亭主族の怒り方は、こうしてみると実に下手で、無器用だということがよくわかる。この無器用さを作っているのが結局、彼のたえざるコンプレックス――つまり自分は家族から除け者にされているというコンプレックス――なのである。
さっきあげた例のほかに、恩きせがまし怒り型という亭主がある。これは自分が家族に買ってやったものが一向に活用されていないのを見て腹をたてるタイプだが、
「お前、父ちゃんが買ってやったマフラー全然やってないじゃないか。やってないだけでなく、友だちにやったっていうじゃないか」
「やったんじゃないよ。バンドのバックルと交換したんだ」
「なぜ、そんなものと交換する。あのマフラーはな、千八百円もしたんだぞ。千八百円も」
息子や女房はこの言葉をきいて、自分の親父、自分の亭主は、何というケチな男だ、とますます軽蔑していく。
だが彼にとっては、千八百円がムダになったことがショックなのではない。彼は自分も愛されたい一心で買ったマフラーが、息子によって黙殺されたのが寂しいのだ。家族のものに、いい父ちゃん、やさしい父ちゃんと思われなかったのが腹がたってくるのだ。
日曜日の午後、家族がそれぞれ出かけたあと、縁側でねそべっているステテコ一枚の亭主の姿は何となく憐《あわ》れで、哀しくて、滑稽である。家族の誰からも煙たがられ、除け者にされている孤独な男。
そんな男に諸君はなりたくないだろう。しかし君はやがて、そうなるのだよ。
それもいいじゃないか。どうせ人生、どうころんでも同じだからな。
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正義漢づらをするな
[#地付き] 自分だけが正しいとして他を裁く独善主義
私の告白
はじめにねえ、恥ずかしいことではあるが、私は決して他には話さなかった自分自身の女性体験を赤裸々に告白したいと思う。いわば個人の秘密、プライベート・シークレットをこのように打ちあけるのは、自分としてもなかなか気が進まなかったのであるが、ついに筆を執った次第である。
しかし、何といっても一人の男の赤裸々な女性体験であるから、その露骨さにあるいは驚かれる方がいるかもしれぬ。あるいはこの一文によって興奮される読者がおられるかもしれぬ。驚かれてもいい、興奮されてもいい。それは諸君の自由だからだ。しかし決して他言だけはされないようにお願いする。それは私にとって口にするだけでも恥ずかしい秘密なのだから。
結論から先に申しあげれば、私はこの年になって女性に消すことのできない不信感を心のすみで抱くようになっている。私は今から語るように次から次へと女性に裏切られていったからである。ああ少年のバラ色の夢よ。そのなかで女性は私のような男にとっても、どんなに美しいベールに包まれていたであろう。それはやさしさと優雅さと可憐さ、そして清純さの象徴であった。しかし今、私の舌の上には、にがい悔恨と幻滅としかない。
女性への不信感
思い出は二十五年前にさかのぼる。二十五年前それはまだ中学生だった。女性というものを知らなかった。
あのころの思い出の一つにこういうのがある。私は女性から凌辱《りようじよく》をうけたのである。しかも他の人が見ている前で。十七歳の中学生だった私。まだ童貞だった私。その私が彼女たちから集団的に凌辱を受けたのである。それは今、思いだしても辛い、恥ずかしい経験ではあるが、清水の舞台から飛びおりる気持で、赤裸々に告白したい。
君、そうゴクリと唾を飲んで膝をのりだすな。話すといったら本当に話すんだから。
あれは大東亜戦争が始まって三、四年たったころだった。場所は神戸の三宮だった。そして時刻は……もういいだろう。
中学生の私はその日、親の眼を盗んで学校の帰り映画を見(当時は父兄同伴なしでは映画に行ってはいけなかったのだ)一人、トボトボとその三宮を通りかかったのである。
その時、私は数人の女性から急に呼びとめられたのである。彼女たちはグルリと私をとりかこんだ。
怖ろしかった。こわかった。逃げだそうにも逃げる勇気さえなかった。すると彼女たちの一人が猫なで声で言った。
「あんた、中学生でしょ」
「はい」
うす笑いをその女は浮べ、うしろを振りかえり、同輩たちに眼くばせをした。そしてその一人がやにわに片隅に私をつれていき、私の手に|×(〔A〕)を握らせた。(一字伏字)
「|××(〔B〕)なさい」(二字伏字)
「えッ」
「|××(〔C〕)なさい。中学生なら|××(〔D〕)るんでしょ。早く早く」(四字伏字)
彼女の顔は紅潮し、眼は少しつり上っていた。
この光景を詳細に書きたいのであるが、私は恥ずかしい。しかし、この本の読者はちょっとやそっとのことでは驚かないたくましい人たちに違いない。そこでこの四つの伏字を思いきって順に埋めていこう。
A=紙、B=読み、C=読み、D=読め
すなわち彼女たちは国防婦人会の会員たちであり、中学生のくせに夕方遅くまでブラブラしている私に「非常にあなたは非国民的です」という紙を手渡したのであった。
子供心にも私は何と軽薄な、と思った。私がではない。彼女たちがである。私は彼女たちのとりつかれているこの正義感がはなはだしく不快であった。自分だけが正しいとして他を裁く彼女たちの独善主義が、子供心にもひどくイヤだった。
その後、独善主義とは女の一番おちいりやすい習癖だと私は知った。男と女とくらべると、たしかに女のほうが「自分が悪い」とは考えぬ。たとえ、おのが悪さを、キリキリのキリまで自認せざるをえない状態になっても、女性は次のような文句で自分を弁解する。「私をそんな風にしたのはあんたじゃないの」あるいは「どうせ、あたし一人が悪者になっていればいいんですから」
はき違えた正義感
私は昔、駒場というところに住んでいたが、拙宅のすぐ近所の金棒引きの婆は、A家では今日、鰯《いわし》を何匹買った、B家では亭主のヘソクリがどこにかくしてあったなど、隣の情報をあっちこっちに触れまわるのであるから、近所の主婦たちはこれを快く思っていなかったが、彼女に反抗すればどんな悪口を言われるかもしれぬので、障《さわ》らぬ神に祟りなしという形でコワがっておったのである。いずれにせよ、この婆さんと主婦たちとは、隠微な形で仲がよくなかったのである。
だが、ある日から、この主婦たちと婆さんとが一種の同志的結束と連帯感とを抱くようになった。原因は、婆さんが、すぐ近くのかなり立派な家に、一人の若い女性が引っ越してきたことと、その女性のところに事業家らしい男がチョコチョコやってくることを発見し、ただちに触れまわったからであった。すると、今までこの婆さんを快く思っていなかった主婦たちは、一様に道路の真中に集まり、
「お聞きになりまして。お虎婆さんに」
「わたくしも、たった今、聞いたばかりでございますのよ。驚くじゃありませんか」
「不潔なお話ですわ、あんなチャラチャラした洋服をきて、どこのお嬢さんかと思ってましたら、妾ですってね」
「子供の教育上、そんな家が近所にあってはお互い迷惑でございますわ」
ケンケン、ゴウゴウ論じあっているうちに、彼女たちは一種の激しい正義感にとりつかれ、このお妾に断じてイヤがらせをすることが正しい人の行為だと思いこみ、しかもそのイヤがらせをする大役を、かの婆さんに一任したのであった。つまり、こうしてまるでピエール・ガスカールの小説に出てくるようなポンチ絵的正義感が生れ、ポンチ絵的連帯感が生じたのである。
私はその光景をみて、昔、国防婦人会の糞婆たちになぶり者にされた時のことを連想したが、もともと臆病な上に、長いものには巻かれろ主義のグータラ性格の持ち主だから、あえて彼女たちをとめなかった。
だが、一週間もたたぬうちに彼女たちとお虎婆は、マーケットに行く問題の女性にイヤミを言ったり、小学生たちにまで、あれは妾だよ、と教えたりしはじめた。こうなっては臆病者の私も断固、立ちあがったのである。
断固、立ちあがって何をしたか。それは言うまい。話すまい。稔るほど、頭のさがる稲穂かなであるからだ。だが私はそのために彼女たちから随分、ひどいことを言われましたよ。妾の肩もつ三文文士、なんて陰口きかれてさ。しかし言うまい。言うまい。
けれどもこの時私にはハッキリ気づいたことがある。人間は自分ができぬことを他人がやっておれば、癪にさわる。そしてその欲求不満をたやすく正義感に転化することができる。
たとえば、この主婦連はなるほど妾という存在に腹がたったのでしょう。しかしそれ以上に彼女たちが腹をたてたのは妾が自分たちより「いいおべべをきて、いい家に住み、電気洗濯機を持っている」ということだったのだ。彼女たちは自分がいいおべべもいい家も持っていないから腹をたてたのであって、相手が妾ということは自分たちの物欲的怒りを転化させる恰好の口実だったにすぎない。
鼻もちならぬ偽善者
国防婦人会とこの主婦たちという女性たちとの交渉――これだってやっぱり私の女性体験である。それ以上のヘンなことを期待しながら本文を読んだ読者にはお気の毒でした。
によって私は自分が正義づらをすることをいっさいしないことに決心した。少なくとも自分を正しいと思って他を裁く時、私は国防婦人会のオバさん、お虎婆さんと手をくんだ主婦たちと同じ心理動機が働いていないか、そう反省してみることにしているのである。
諸君。この本の読者諸君なら私の言うことはわかってくれるだろうな。何がイヤだといったって、この世には自分は正しいと思いこんでいる奴ほど鼻持ちならぬものはいないわいな。そういうタグいが、いわゆる文化人の中に、主婦の中に、PTAのなかに、よう、いるやないか。われわれは少なくとも偽善者でないように、おたがい、努めようじゃないか。
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鼻もちならぬ洋行自慢
[#地付き] 駆け足旅行で廻ったくせに
オウシュウに行く
ネコもシャクシも洋行できる世の中になった。まずは、めでたいかぎりである。外務省をのぞいてみると、パスポート申請のオッさん、おばさんたちが緊張した面持で、横文字のサインをやっとる。羽田に行けば早朝から一人の男が円陣にかこまれ、
「穴野尻作君、バンザーイ」
「バンザーイ」
まるで出征のときと同じ風景だ。たかがニューヨークやロンドンに出かけるのに友人、縁者、知人、ことごとく見送らんでもいいだろうと思うのだが、そうもいかぬらしい。
「よオ」
「やア」
「やっとるね」
「やっとるよ、元気かね」
「うん。元気だが、当分、もう君には会えんかもしれんのだ、このオレは」
「変なこと言うね、なぜだ」
「実は今度ヨーロッパに行くことになってね。ハッ、ハッ、ハ」
うれしそうに笑いながらパスポートなんか、ちらつかせる。やはり外国へ旅行するということは大の男にとって得意であるらしい。チェッ、なんだよ、たかが外国旅行ぐらいで天下とった顔すんなと思っても、こっちには金なし、チャンスなし、そこで考えたあげく、バーなどで、
「二、三日中に、オレはオウシュウのほうにいくことになってね」
ホステスたちは羨ましそうに、
「オウシュウに行くの。羨ましいわ。ステキ、つれてって」
「ああ、つれていってやっても、いいよ」
「ほんと。ウソじゃないでしょうね」
「ほんとさ。オレ、生れてから坊主の髪とウソはゆったことない」
てなわけで、本気にしたホステスと五日後待ち合わせて、仙台に行った奴がいる。
「ウソつき、オウシュウに連れていくなんて人をだましてさ」
「何がウソだ、ここは奥州じゃないか」
こういうことばかり考えている狐狸庵は人にバカにされる。しかしバカにされてもかまわねえやねッ。
閉ロする洋行じまん
しかし何だなあ。君の先輩、同僚、知人におらんかい。わずか、一ヵ月か二ヵ月、アメリカかヨーロッパを駆け足旅行でまわってきたくせに、とっくに外国の政治、経済、文化、生活、すべての「通」になったような得意づらで、二口めには「アメリカじゃあね」「ヨーロッパじゃあね」とふりまわす御仁。あるいは旅行話を幾度も幾度も部下や後輩に話してきかす御仁、あれは閉口するなあ。
「君い、アメリカじゃあね。芋にミルクをかけて食うんだ」
「へえ、芋にミルクをねえ。本当ですか」
「そうさ。芋にミルクをかけて朝食にする。ありゃ日本にはないけれど、実にうまいもんだよ」
なに、この御仁、コンフレークを芋にミルクをかけて食うと錯覚したわけで、コンフレークなら日本のどこにでもありますがな。
こういう御仁は無邪気でよろしいが、鼻持ちならぬ洋行がえりに三種あり。
やたらと英語を使うバカ
第一種は帰国後、やたらと会話のなかに英語を入れて使う手合いでしてな。
「グッド、モーニング、ジェントルマン。いや昨日は天気もベリ、ファインだから、ワイフとチルドレンをつれて大磯に行ったんだが驚いたねえ、また日本の米国模倣がはじまって、大磯ロングビーチなんてできてるんだが。あんなもんじゃありませんよ、ワイキキなんて。ぼくがワイキキに行ったときはね」
またか、と同僚たちはイヤな顔をするが当人一向お気づきでない。
「いや、その海のビューティフルなこと。そしてビューティ・ガールスの多いこと。日本みたいに海もきたなく、大根足の娘たちがウロウロしているのとちがうよ。全くビューティフルの一語につきるね」
「そうですか」
「そうだよ。そのビューティフル・ガールスの一人がつかつかと、ぼくのところに寄ってきてジャパニーズかときくんだな、イエスと答えると、ジャパンにぜひ行きたい。ちょっと一緒につきあってくれんかと……向うの女は積極的だからねえ。やりたいことしたいことはフランクだよ、フランク。日本の女とそこが違うな。一緒に泳いで、向うが言うんだな。ユー、キャン、スイム、ベリ、ウエル。オレ、答えたよ。サンキュー、ユー、オルソウ。それで意気投合しちゃって、あとはご想像にまかせるよ、ハッ、ハッ、ハ」
なにがご想像にまかせるだ。なにがハッ、ハッ、ハだ。第一、こういう連中は外国ではただオロオロ、キョトキョトしているだけで外国人の女性から偶然、話しかけられても顔面紅潮、男子七歳にして女子と席を同じゅうせずとばかりガタガタふるえ、イ…エ…ス、イ…エ…スというばかりなのだが、日本に戻れば、だれも知らぬが幸い、出まかせに、自分がもてたようなことを言うのである。
いるでしょうが、諸君のまわりにも。洋行がえりのこんなオッさんが。
ホラを吹くバカ
第二の洋行がえりの型は、向うで大物ばかり親しく会ってきたようなことをホラふく連中である。これは映画やファッションや美容の世界で働く女性に多い。
「わたくしがハリウッドで、ジョン・ウェインのお宅に昼食におよばれしました時ね、ウェインはわたくしの着物を随分ほめてくださって、ぜひ、美しい日本に行きたい、日本に行ったらミミー(自分のことなり。ちゃんとした日本名あるにかかわらず、おのれのことを向うでミミーとか称してきたことが彼女、大得意なり)の案内で日本を見物したいと、そうおっしゃるんでございますのよ。そのとき、わたくしがジョン、日本では映画をおとりになる気はありませんのと、そうお伺いしましたら、チャンスがあったらぜひとりたい、そうお答えでしたのよ。本当にそれが実現すればうれしゅうございますねえ」
男にも同じ型がよくいる。
「オレがだな、A・B・Cカンパニーのミスター・コーション君、奴、カルフォルニアの財界では大物だが――彼と会ったとき、奴はオレをゴルフに誘ってだな、あとで一緒に小便もやったぐらいだ。そこでオレが日本じゃ、こういうのを臭い仲というと言うてやったら、奴、大笑いしてだな、アメリカでも同じ言葉があるというんだな。そこでオレたちは臭い仲から一歩すすめて義兄弟としてつきあおうじゃないか、まあ、そう言うてきたんだがね」
実は彼、向うでそのコーション氏という大物と握手だけし、頭をペコペコさげ、それで終ったのであるが、夢は現実と一緒になり自分でも見わけがつかんようになり、帰ってからも、こういうホラをふくのである。
国粋主義者になるバカ
第三には、ひどく国粋主義者になって帰国する洋行型がいる。これは最近、出現しはじめたニュー・ルック型で、まだ数少ないが、時々おめにぶらさがる。
「向うで英語、話したかって? 冗談じゃないよ。日本人だろ。堂々と日本語でドナってやったさ。レストランに入ってもだな。ミズ、モッテコイと怒鳴りつけてやるのさ。
するとボーイがかしこまって、イエス、サーと一礼、ちゃんと水をもってくるから妙だね、グッドモーニングなんて一度も言わなかったぜ。おい、このやろう! こう言うと向うはペコペコだ。大体、向うにいっている日本人は妙な白人コンプレックスにかかっとっていかん。堂々とやりゃいいじゃないか。日本語で押し通せばいいじゃないか。グズグズ文句言うなら、ジュウドウ知っとるぞ、そう一発ぶつければ、縮みあがるんだな、毛唐は。日本男子ここにありで旅行してきたよ」
しかしこういう心理もまた劣等感の裏がえしであることをご当人、お気づきじゃない、何も日本人と威張らず、毛唐と見くびらず、ごく自然に、ごく普通にやれんもんかいな。
バーなどの主人でちょっとぐらい外国に行った奴と、これまたちょっとぐらい外国旅行をしてきた客の会話ほど、横で聞いていて愚劣にして滑稽なものはないなあ。
主人「おや、お客さんもブルターニエの方に。ぼくも昨年、組合の連中と一緒にブルターニエにいきましたよ」
客(鼻白んだ顔で)「ふうん、ブルターニエじゃないだろ。あれはブルターニュというんだ。少なくともぼくの行ったのはブルターニュだがね」
主人(ムッとして)「ブルターニュ。知ってますよ。そのくらい。しかし向うの土地の人はブルターニエと発音してるんで、この方が正確なんだと、私はききましたね」
客「へえ、向うの土地の人がねえ。ぼくは向うに一ヵ月も滞在してたが一度もブルターニエという人間に会ったことはないがね。まあ、いいさ。ブルターニエか。もっとも向うじゃ、変な発音しても大目にみてくれるだろうな」
主人「まるで、ぼくがブルターニエに行かなかったようですね、今のお話では。おい。(そばのボーイに)山田。ぼくはたしかにフランスに行ったろ。え、返事しろ」
客「なにも君がフランスに行かなかったとはいっとらんよ。ただブルターニエとはおかしいと言っただけなんだ。君は向うにどのくらい、いた?」
主人(ちょっと、弱気になって)「二日です」
客「二日ぐらいじゃ、滞在したとは言えんよ。ぼくなんか、一ヵ月だからね、一ヵ月」
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人間の運命を変えるもの
[#地付き]ばかにできない生理現象
女子専用トイレなし
女子学生というのを諸君、ご存じか。おそらくも大学在学中のころはあの手合いと随分おつきあいなされたことでありましょう。そのころ、諸君はあの連中を何かまぶしい花をみるように窺いながら、胸ときめかしておったのではないか。
かく申す拙者《やつがれ》は終戦直後、大学の一年生でしてな。その時、はじめてといっていいくらい女子学生が大学に入学してきたのである。
今とちがって、小学校をのぞいては女の子などと席を並べて勉強したことはない封建下に育ったわれわれに、彼女たちは何とまぶしく、花やかにみえたことであろうか。
わが慶応大学には当時、聖心女子学院ちゅう、お上品学校からの進学者が多くてな。
「あの、次のご授業のお教室は……どこでございますの」
そんな言葉は姉妹にも使われたことはないから、拙者などドギマギして、
「はっ。次のご授業のお教室はこのお廊下を右にお曲りになった三番目でございます」
懸命にお答え申しあげたもんである。向うはこっちのドギマギに気がついて、
「オ、ホ、ホ、ホ、ホ」
なにも笑う時にまで、オをつけなくていいじゃあねえか、聖心の学生。
あのころ、大学も困ったろうな。今まで男の学生ばかりウロウロ、ガヤガヤしておったところに、女子学生がなだれこんできたから。手ぬきが随分、多かったなア。たとえば女子学生用の便所なんかなかったからね、あのころ。
「おーい。おメエら、なぜ、便所の前に列つくってんだ」
「はいってんだよ。二人」
「はいってるって。何がはいってるんだ」
「女子学生が二人、俺たちの便所、使ってんだよ」
てなことで、まさかこっちはウラ若い女性がご使用遊ばされておるご不浄に侵入することはできんからね。みんな尿意の刻々と烈しく迫りくるを我慢しながら、足ぶみやっておる。バタバタ、ドタドタ(靴音ならしながら)、
「うーん、まだか」
「まだだ、まだだ」
「俺はもう駄目だ。洩るで」
「俺も洩るで。だれか、中をちょっと、覗いてくれえ」
もうすんだかと中を覗いてみると女子学生二人が涼しい顔をして鏡の前で髪すいてんですよ。こっちの苦痛も知らぬ顔で。「あの……中村先生のご授業、明日、あるかしら」「いいえ、明後日よ」などと言いながら、こちらは「洩るで」「洩るで」と大騒ぎであった。
偉大な哲学も生理現象には無用
あれから歳移り、月かわり、慶応大学にもめでたく女子学生、専用便所もできたそうで、わが後輩たちも先輩のわれわれと同じ苦しみをあじしわうことはあるまい。
しかしだな。尿意を烈しく催した時に便所に行かれんということは、全く想像を絶した苦痛ですな。どんな大学者だって、偉いお方だってこの時ばかりは、どんな哲学、どんな宗教だって役にたたんのではあるまいか。カントをもちだそうが、ヘーゲルをもってこようが、はたまたコーラン、仏教聖典、新約聖書のことを考えようが、波のように迫りくる尿意のくるしさには何の役にもたたんのではあるまいか。
つまりすべての宗教、すべての思想もこの生理的現実すら克服できんという事実に、二十世紀の悲しさ、実存的悲哀というものがあるのではないだろうか。
わが深い研究によると尿意を烈しく催し、脂汗ながしてそれを我慢している時は、波のような起伏があってな、ウーン、出そうだ。洩りそうだ。それを必死で耐えておると、アナふしぎ、心頭を滅却すれば火もまた涼し、一時的に急に、この尿意が引き潮のように引いていくことがある。されど、これで安心してはならぬのであって、一分後、あるいは二分後に、ふたたび波は押しよせてくるのであるから、ここが肝心である。しかも次に押しよせたる波はさきほどよりももっと強力にして、この時は、われらもあるいは足をくみかえ、あるいは頭かきむしり、全力あげてこれに抵抗し、押しかえさねばならんのである。押しては引き、引いては押しよせる大坂城夏の陣のごとき血みどろの戦いがそのあと続くことも覚悟しなければならんのである。
何とふかい考察ではなかろうか。何とみごとな体験的観察ではなかろうか。諸君も今の個所を読み、「真理は万人に真理」という言葉をハタと膝うって思われたことであろう。
この人は今、アレと戦いつつあるのだな、とすぐわかるような表情にぶつかることがある。電車のなかでつり皮にぶらさがり、そばの友人が、
「おい、どうも今度の大洋は弱いなア。最下位になるとは思わなかったぜ」
「…………」
「なぜ黙ってるんだ。気分でもわるいのか」
「ウ、いや、ウ」
「大洋はいいピッチャーがいねえから弱いんだ」
「ウ。うん。太陽はまだ弱い。まだ夏じゃない。ウ、ウ」
「なに言っとるんだね。お前あ」
トンチンカンな返事ばかりして、歯をくいしばるようにして窓をみつめ、時々、体をふるわせている御仁があれば、これは必死でアレをこらえていると思わねばならん。
トイレで人間観察
しかし、人間の虚栄心がいかに根づよいものであるかを知るためには映画館の休憩時間、便所を覗いてみるにしくはない。便器が五つ。この便器がことごとく既に占領されておって、一つずつに三人、四人の男たちが順番を待っておる。
彼らはどれも早く、便器の前にたちたいのである。なぜなら彼らは甚だしく尿意にせまられているからである。だから、ある者はイライラし、ある者は足をふみならして順番のまわるのを待っているにかかわらず、ここに虚栄心のまだ強い男はただ、たんに他の者たちに優越感を感じたいため、
(俺はお前らとちごうて、そんなにしたくはないんだぞ)
それを誇示したいために悠々とタバコなどをだし、カチリとライターで火をつけ、紫煙を吐きだしてみせるのであるが、何も臭い便所でタバコをすわなくてもよかろう。これはあきらかにつまらん虚栄心のなせる業であって、こういう便所でもわれわれは人間の観察はできるのである。
生理現象が人生を一変
諸君はあるいはこの本の貴重な紙面を拙者が生理的現象の観察などによってむだに費やしておると憤慨されておるかもしれんが、この尿意によって人生の局面が一変することさえあることを諸君もよく考えていただきたい。
たとえばだ。拙者の友人で、Aという気の弱い青年は、かねてから心ひそかに愛しておったTという令嬢に何とか愛をうちあけんとして、ようやくデートを重ねること数回。向うもこちらを憎からず思うておるかもしれんと考え、ある日曜日、今日こそは心のうちを述べんものと、ビヤホールにつれこみ、
「T子さん」
「まアなんですの、急にコワイ顔をなさって」
「T子さん」
「ぼかア……」
ぼかア……と言いかけて勇気づけにビールをのみ、また、
「T子さん」
「まア、なんですの。そんなコワイ顔をなさって」
「ぼかア」
また、ビールをのむ。そのうちにこのビールが段々、たまりはじめ、烈しい尿意になり、
「ぼかア……ウ、ウウン」
「まア、なんで顔をしかめていらっしゃるの」
「ぼかア、失礼、ごめん」
たまりかねて、便所にかけだす。ああ、俺は何というドジをふむ男だと後悔、痛憤やるせないが、意地悪な生理現象は恋の思いも邪魔してしまう。彼女は彼女でせっかくロマンチックなところまでいったのに一目散、便所にかけこむような男にはもうすっかり幻滅し、
「Aさん、もう帰りますわ」
こういう実例が本当にあるから、生理的現象といえども、人間の運命をひっくりかえすことがあるのだ。
しかも諸君、この現象はわれわれのような凡人のみならず、カントにも訪れ、マルクスにも訪れ、ブリジット・バルドーにも、ビートルズの坊やたちにも、美空ひばりにも、司葉子にもみな訪れることを考えれば、寂しい時、辛い時、諸君の慰めとはならないか。しかり。諸君、さびしい時は次の唄を歌えよかし。
アア〜
ソオクラテスもウンコした
ドゴール大統領もウンコする
美空ひばりもウンコした
人間みなおんなじだ。
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人生どうせチンチンゴミの会
[#地付き]わが風流の集い
迷いこんだ迷文
暑いの。退屈だの。
東都はなれること八里、朝夕は山里の涼しき風が肌に心地よい、ここ、柿生の里ではあるが、それでも日中はややたえがたい。庵《いおり》とりまく雑木林もなにやら草の熱気むんとして、桔梗、つり鐘草の花もうちしおれ、水を求めて群がる小鳥のみ、しゃがれた声で鳴きおって、わが午睡をさまたげるワ。
かえりみれば六年間、俗世を捨てて花鳥風月を友とせんとこの山かげに草廬《そうろ》をあんだ狐狸庵であるが、花の春、月の秋、雪の冬とちごうて、この夏だけはどうも風流生活にむかんようだナ。恥も外聞もなくフンドシ一枚になり、渋《しぶ》団扇《うちわ》せわしく動かし、日中は溜息ばかりついて夕暮のくるのを待つ。情けないものだ。
「郵便――」
「御苦労ッ」
こういう山里にも郵便だけは来る。郵便配達夫は鶴川とよぶ村からテクテク山路をのぼってくるのだから、大変なものだナ。咽喉が渇《かわ》かれたとみえ、庭の筧《かけひ》から水をうまそうに飲んでおられるワ。
封を切ってみると、わが風流の友、A君からの便りにして、「闇鍋、我慢会の案内」とある。
「葉月《はづき》の炎熱、耐えがたく、墨田川に涼を求めし古人の心に習わばやと、杖引けども川面の悪臭、河岸を走るトラックの排気ガスにたまりかね、もはや東京には江戸なしと今更のように嘆き候、されど嘆きつづけるも甲斐なければ、ふと思いたちて、かの鯉丈先生が八笑人のひそみに倣い、『チンチン、ゴミの会』の同好の士を集め、炎暑闇鍋の会を催したく、大人《うし》にもお知らせ申上候」
なかなか迷文、来年の東京大学入学試験の問題にとりあげては如何《いかが》。この本の読者よ。右の手紙のなかに文章、文法の誤り幾つあるか、おわかりかの。
ははア、また、あいつ奴がと拙者《やつがれ》苦笑いたしました。このA君とは餓鬼《がき》の頃からの友。竹馬の時から、おたがいに世のためにもならず、人のためにも役だたぬチンチンのゴミのような人間になりたいものと、たがいに相つとめた結果、その志どおり、めでたく我も彼もチンチンのゴミのような者となり大いに満足しておる。諸君のなかにもこの狐狸庵やA君のように、世の中で働くのもメンドくさい、何をするのもメンドくさいと思うお方はおられぬかの。我等は三年前より「チンチンのゴミのような連中の会」というのを作っておりますれば、入会されることをお奨めする。
美智子妃に投げられた石
当日、庵の戸をパタンとしめ、袋ぶらさげて東京に出むいた。
いやはや、東京は暑いの。汗をふきふき、A君の寓居に赴けば、さすがは江戸風流の男、玄関に打水のあとも涼しく、藤棚の下には植木鉢などならべ、
「ごめん」
「これは、これは、狐狸庵か」
既に集まる者は、チンチンのゴミの常連、日念暮亭《ひねくれてい》主人、金玉嘉雪翁、我楽多《がらくた》山人それにA君と、いずれもこの炎熱の中にわざわざドテラ襟巻など着て、
「うーむ、涼しい」
「いや、涼しいどころか、寒いぐらいだ」
「いや、鳥肌がたつワ」
などとわめいておる。こいつらバカじゃなかろうか。
そのうち大鍋がはこばれてまいりましてな、中に醤油と化学調味料とを一寸入れまして、やがて灯を消し、このなかに各自持参のものを放りこむのである。だが、まだ陽はあかるい。
「我楽多山人、近頃はお珍しいものを手に入れられましたかな」
我楽多山人は東京・世田谷に住む。山人は有名なコレクション・マニアにして、その収集した珍物には定評あり。
「いやあ、最近はな、なかなか掘出物ものうて。しかし、珍しい石を一週間ほど前、入手いたしましてな」
「石? メノウか何かで」
「いや。そんなくだらんものではありませぬ」
ドテラの奥に手を突っこみ、何やら探しておるようであったが、やっと大事そうに錦紗《きんしや》の布で包んだものをとり出し、おもむろにそれを開く。
「これでございます」
「我楽多山人、これはただの小石ではありませぬか」
「はて、ごめんくださいませ、我々にはただの石としか見えませんな」
「十年前、美智子妃殿下が御婚儀のあと、馬車で宮城より出られた折、某少年が、小石を投げつけるという御無礼を働いた事件をお憶えか」
「そういえば、そのようなこともありましたなア」
「その時の小石ですぞ。この小石は」
「ほう、この小石が」
「さよう」
「珍しいッ。実に珍しいッ。これが、あの時、某少年の投げた小石ですか。珍しいッ。実に珍しいッ」
阿呆かいな、と読者のなかには思われる人もあるかもしれぬが、しかしその御仁は風流を解せぬ人である。話すに足りん、どうせ、どう転んでも退屈きわまる世の中だて。こんな会の一つ、二つぐらいあってもよいのではないか。
悪食≠烽ワた楽し
さて日も落ちぬれば闇鍋をはじめる。灯を消し闇のなかで各自持参のものを鍋のなかにそっと入れる。何を入れるかはそこは秘密で、ただし食用に値する衛生的なものでなければならぬ。
「大分、煮えてきましたな」
「そろそろ試食するとしようか」
鍋の中に箸を入れて何やらつまめば、
「や、や、これは何だ。西瓜の皮ではないか。うまい、実にうまいッ」
「私、メダカを五匹ほど入れておきましたが、どなたか、箸にかかりましたかな」
「メダカですか。いや小さすぎてどこにあるのやらわからぬ」
ワイワイがやがや、箸をうごかし、食べたのやら食べぬのやら、さっぱりわからぬが、そこは風流人の集まり。
「いやア、満腹、満腹」
「近来にない馳走でありました」
みなみな今宵の主人、A君に礼をのべ、それぞれ引きあげていく。
夜半、狐狸庵に戻れば、月は赤く大山の向うにかかりて、昼の暑さもどうやら肌に涼しく、ああ、今日もこれで一日終ったと、何やら馬鹿馬鹿しき気持である。
さりながら恥をしのび、このようなわが風流の一日を読者諸君に御紹介したのも他でもない。こういう狐狸庵が書くことであるから、どうせ、チンチンのゴミにもひとしきことばかり。この閑話によって人生に目をひらかされたとか、大いに悟るところがあったとか、絶対に絶対に期待しないで頂きたいと、これだけは手を合わせておねがい申し上げる。この本をお読みになる方は、まず怠け者、ぐうたらでは他に負けぬとお思いの方、何ごとにも退屈また退屈のお方に限る。
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人生とは退屈なり
[#地付き]わが某月某日の記
風流とは退屈なもの
暑いな。しかして退屈であるな。
五年ほど前、ここ柿生の山里に移りすむまえ、渋谷の町なかに陋屋《ろうおく》を結んでおったのであったが、その時は昼は庭のへちま棚の下で書を読み、昼寝などなし、庵《いおり》とじ、渋谷におり、女中相手によく塩のきいた枝豆で、チビリ、チビリ、とやるのが楽しみであった。
それがこう、俗塵嫌うて山里に住むとな、むかし馴染んだ酒亭におもむくのも何かと億劫で、一人、夕餉《ゆうげ》すませば雑木林のなかで渋《しぶ》団扇《うちわ》バタバタ鳴らしつつ、蝙蝠《こうもり》の夕空に飛びかうのをぼんやり眺めておる始末で、これは余り大声で他人さまには言えぬが、風流とは退屈なものだて。
先日、ひどく暑い日がありましたろう。あの日は流石《さすが》、花鳥風月を友とする拙者もたまりかね、早々に夕暮、草廬《そうろ》を出て東都は芝、笄《こうがい》町にすむA君を訪れましてな。
「ごめん、在宅かな」
ところがA君の気色もすぐれない。
「暑気あたりではないかの」
「いや、昨日より、どうも軽い腹痛で……なに、苦しいと言うほどではないワ。歓迎。歓迎」
そこは通人、A君。腹痛にもかかわらずにこやかに笑い、友を迎えてくれる。乃木将軍とステッセル。庭にひともとナツメの木。
やがて暗くなる。友あり遠方より来るであるから、夕食ぐらいは出してくれるであろうと、心中ひそかに期待しておったが、向うさんは一向にその気配もみせん。
「いや、なんだな。腹痛ならば夕餉も控えるつもりだろうな」
それとなく謎をかけるとA君、急に声をひそめ、
「うむ、夕食だが、チト探りたいものがあってな」
「ほう。探りたい。何を」
「赤坂にCという大きな喫茶店があろうが」
スウェーデン風接待?
その大きな喫茶店なら狐狸庵も知っておった。道路に面した大きなレストラン兼喫茶店で、中に入ったことはないが、何やらサーカスの広告のような若い男女がいつもウロウロしとったな。
「その店に来る常連のなかでトミ子とか言う娘がいて、その娘にそっと訊ねると」と、A君はひどく深刻な顔をして、
「あるマンションを教えてくれるそうだ。つまり……何だな……言いにくいが、そのマンションでは……スウェーデン風接待をすると言うので……」
「よしなさい。莫迦莫迦《ばかばか》しい、あんた、年を考えなさい。年を」
狐狸庵は正直な話、かかる週刊誌に載っておるような秘密ありげな話はどうも好かぬ。
そんなものはわが風流の道とは何の関係もない。だが、その日は夜になって暑かった。それにA君が一向に夕餉を出してくれぬので、
「ではそのCという店で、あんた、トミ子という娘と話されるがよい。我輩は夕食をとるから」
そう言って外に出たのであった。
問題の大きな店にはいったがな、狐狸庵の想像した通りであったな。右にも左にも不良外人らしい手合いがキョロキョロ女子を物色しておって、しかも相手になるらしい娘たちというのが、これ亦《また》、一週間も入浴したことのないようなアカじみたうすぎたない小娘たちで、ジーパンにサンダルひっかけ、しかも親からもらった黒髪を金色、栗色にそめて、眼にも青い絵具を塗り、御先祖さまが見られたらさぞかし泣かれたであろう。流石にA君もションボリとして、
「いやはやこれは絶望」
馬鹿馬鹿しくなり外に出ようとすると、女か男かわからん女がそっとよってきて、兄ちゃま素敵よ、という。馬鹿もん、何をするかッと一喝したが、あれは男娼といわれる手合いであろう。
夜も大分ふけたようだがまだ暑い。A君を誘って、青山まで歩き、涼を求めて外苑を漫歩せんとす。ここは東都にただ一つ、樹木多くして巴里やナポリをしのばせるからである。このあたりからA君また元気なく、
「どうも腹がいたい」
さらば厠《かわや》をさがさんと、ほの暗き外苑の樹立のなかに公衆便所を求めてはいったところが驚いた。
月光の下の異様な光景
月の光ほのあかるく枝の間から洩れさすなかに、何やら妙な形の樹木があるわいと思って、ふと眼をやれば、これが人間でしてな。若い男が突ったって両手をひろげ、まるで木の恰好を演じておるのである。
こちらも異様に思い、じっとその男を注目しておると、向うはがっかりしたように、
「何だ、男二人か」
「早く行ってください。獲物が逃げるから」
我輩、この男をはじめどこかの劇団の研究生で、樹木の精霊になる演技でもひそかに研究しておるのかと思ったら、そうではなかった。こいつノゾキ屋と称する手合いで、忍んでくるアベックたちの生態を、じっとのぞき見する連中なのであった。こうして樹の恰好をしておれば、アベックが安心してそばに寄ってくると考えたらしい。
さきほどのCという店にうろつく少女といい、この手合いといい、ろくなことをしよらん。近頃の若いもんは。
「そんな恰好をして木になったつもりかね」
「まア、そういうことです」
「アベックたちは本当に君を樹木だと思うかね」
「アベックだけじゃないよ。犬だってぼくを信じたんだから。いつか犬がね、ここでぼくに片足あげて小便かけようとしたもん」
得意になっとるのである。馬鹿じゃないのか、近頃の若いもんは。
「アベックなぞおらんじゃないか」
「いますぜ。あっち、こっちに。木の上にもいる。ほれ、あそこを見ろよ」
男のそっと指さす方向に眼をやると何と本当で、高い榎の半ばあたり、幹が二本分れるところ、二つの影がうごいておるワ。なにも木にのぼってキスをせんでもええじゃないか。
「あいつ等、ぼくらに覗《のぞ》かれると思うて、木にのぼってやっとるんだ。全く困った奴等だ」
口惜しそうにノゾキ屋は言うが、困った奴とは自分らのことではないか。全くわけがわからんな、この連中は。
馬鹿馬鹿しくなり、A君と更に公衆便所を求めて歩きまわったが、一向に見当らん。
眼が闇になれるにしたがい、右、左の叢《くさむら》におるワ、おるワ。雑草のようにだき合っている連中が。こっちが横を通りすぎても無視した顔しておる。
「A君、みろや。嘆かわしいことだ。濁世だ」
「こっちア、それどころではない。便所はないか。便所は……もう洩りそうだ」
恍惚とした男女、無我夢中の男女、羽化登仙の男女の間をよろめくようにして歩きながら、A君、たまりかねたか、
「ブッ」
放屁《ほうひ》すると、びっくりしたようにムクムクとアベックが体をはなす。
「ブッ」
また一組起きあがる。ブッ、別の組も離れた。
甘いささやき、あつい抱擁の最中に色気のない男が便意にたまりかねて、あっちこっちで放屁してまわるのだから、これは百年の恋もさめよう。同情を禁じえない。
「なに、あの音」
「いやだなア。ぼくらの夢がだいなしだ」
やっと公衆便所を見つけたのが十時半。それよりA君に別れを告げ、夜半、柿生の庵に戻ったのであった。
いやはや、全く暑いな。しかして退屈であるな。
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嫁いじめを復活させよ
[#地付き] 心にもない仏づらはもう捨てよう
昔なつかしい老人像
暑いな。しかして退屈である。
鼻毛引きぬきつつ、一日中、くうだらん事を考えておるのである。どうせ何をしたところで、こっちは社会にとって無益無用の存在であるから、暑い日はあまり動かずに鼻毛をば引きぬいているに限るのである。
しかし何だなあ。拙者《やつがれ》は今後、一体どうなっていくのかなあ。若い折はそんなことなどトンと考えもしなかったが、近頃のように尿《いばり》の数も多くなり、朝も早く目がさめ、物憶えもわるく、
「その話はもう前にききましたがな」
時々、人にそう言われてみると、やはり同じことを繰りかえししゃべっているようだな。拙者は初めてその話をきかせておるつもりであるが。
同じ老人になるなら、拙者はこういう年寄りになりたいの。つまり何だ。小指の爪を長くのばし、時々、それで耳の穴をほじくりながら爪の先についた黄色いアカをフッと吹きとばし、中指には大きなハンコ用の指輪をはめて、口には金歯を入れ、爪楊枝《つまようじ》をくわえて、できるだけチュッチュッと下品に音を立て、列車にのれば、すぐスリッパをはきチヂミのシャツにステテコ一枚になって団扇《うちわ》でバタバタ股なんかあおぎ、
「ああ、暑い。暑い」
あたりかまわず通路を歩きまわる。外人なんかビックリした顔をしてもかまわない。文化人なんかがヒンシュクした目でみてもかまわない。
つれて歩く女も、次のようなのがいいな。安物の着物に色つき足袋に下駄をひっかけ、これも金歯がギッシリで、羽織の中に両手をちょっと入れて、チョコチョコとせわしく、
「おお、さぶ。さぶう」
そんな女性がいいな。
バーなんかたまに行っても、女給たちに、
「おい、チップやろうか」
大きながま口から銅貨を一枚、一枚だし音をたてておく。そんな年寄りになったら面白いだろうな。
何をくだらんことを考えておるのか。世の中ではみんなは今日も一日一生懸命、働いておるのだぞ。お前もくうだらんことば思案せず、少しは、人類社会に裨益《ひえき》するようなことを思いついてはどうだ。しかしまアいいでしょう。誰も彼も精力善用、自他共栄、勤倹貯蓄、奮励努力ではあんまり無駄がなさすぎる。くうだらんことも世の中には必要だア。
しかし何だなあ。年寄りと言えば近頃は本当の年寄りらしい年寄りはいなくなったなあ。元来、年寄りというものは頑固頑迷で、若い者を小馬鹿にし、昔はよかったななどと今を見くだしていたもんだ。それが今の年寄りときたら、若い者にどうも理解がありすぎる。理解してるんじゃない。理解ありげにみせかける方が生きやすいからだろうなあ。
「いや、近頃の若いもんも偉いもんですよ。彼等も彼等で悩んでおりますからなア」
そういうワケ知り顔の老人が会社にも文化界にも随分、ふえたが、あれは嫌なもんだな。老人が若い者におべっかを使うようになったのは、世もセチ辛く、そうでもしなければ生きていけんからだな。食いっぱぐれるし、名声も保てなくなるのがこわいからだろうな。つまり、あれは老人の狡《ずる》い阿諛追従《あゆついしよう》だなあ。
むかしの老人はそうではなかったな。嫌われようが憎まれようが、物わかりなんぞ一向によくなく、古いと言われようがフフンとそっぽをむき、新しいものはみんなダメと言ったもんだよ。ああいう老人に拙者、やはり好感をもつなあ。
いじわるバアサン歓迎
老人の美風のうちで、最近、姑婆《しゆうとめ》さまの「嫁いじめ」が都会で見られなくなったのは、まことに残念である。近頃の家庭ではいかにも物わかりよさげな姑が「うちの嫁はほんとうにいい人ですよ」などと言い、嫁は嫁で「こんなにやさしい姑さま持ったあたしは倖せ」などと女学生の友情ごっこに似たような見えすいた愛情ごっこを他人にみせつける傾向があるが、姑と嫁とは川が低きに流れるごとく、憎みあってこそ姑と嫁なのであって、それが本来の姿なのである。姑が最近いかにもやさしげになったのも、むかしと違って「家」がなくなり家庭の中心が嫁に移ったから、食いつないでいくために嫁の機嫌をとる必要があるからで――世の若い妻たちよ、これら偽善的婆さまの戦術にひっかかってはならぬ。
また世の婆さまも心にもない仏づらはもう捨てて、本来、女の持っている鬼の姿にかえるがいい。そのほうが、どんなに正直で、偽善的でなく気持がええワ。
むかしの姑は渋柿をわざわざ嫁の目の前でむいてやり、
「さア、おたべ。疲れたろ。ほんとに、よう働いてくれるの」
そう言って一切れを食べさせ、
「甘かろう、この柿は」
それぐらいの立派な芸当はしたもんだ。
お風呂だって、拙者の知っとるある姑はわざと自分が嫁の入る前に入り、その時、湯をできるだけ使っておく。嫁が入浴する時には風呂桶に身をかがめても、膝の半分までしか湯も残っておらぬ。
そこで嫁は湯舟のなかを這《は》いまわり、手で湯をすくって体にかけるという始末で、これをじっと硝子《ガラス》戸のかげから見ておるんだな、姑さまは。
「湯加減はどうだい」
猫なで声でそう言う。
「よく、あたたまって出なさいよ」
いやはや、スゴかったなあ。むかしの姑は。これが姑、本来の姿であって、こうした姑が、あんた一朝一夕で、ニコニコ、物わかりいい優しい婆さまに変ると思いますか。そんな阿呆らしいことはないのであって、彼女たちに何かの打算、何かの考えがなければ、物わかりいい姑となる筈はない。だから拙者はイヤなんだなア、知人の家などに行って、
「本当にできた嫁でございますよ」
「うちじゃア、姑さまがあたしと義男さんと映画に行ってこいと奨めて下さるんですよ」
そんな背中にジンマシンの起きるような愛情ごっこの会話をきかされるのは。
本当の話、近頃の若い嫁は少しツケあがっておるのではないか。むかしは亭主がご出勤とあらば三時間前におき、朝食の仕度はもとより、洋服、ハンカチ、財布にいたるまでキチンとそろえ、靴もみがいてお送りしたもんである。それがどうだ。今の亭主は自分で冷蔵庫から牛乳だして飲み、こそこそと靴をはいている頃、女房はあのネグリジェとかいうメリケンコ袋の洗いざらした奴をきたまま、頭に仏壇の金具のようなものをベタベタつけ、
「はい、今日のお小遣、百円」
あくびしながら銀貨一枚を彼に手渡すのである。今の女房たちは電気冷蔵庫、電気洗濯機、掃除機などのおかげで、ほとんど働くことがない。むかしの嫁のように寒中、手をかじかませながら赤ん坊のオムツを洗った経験もない。それを、
「便利になって結構な話じゃないか」
年寄りたちが、いかにも理解ありげなことを言うからいけない。今の若い妻たちの精神はいけないのですよ。断じて。むかしの嫁にくらべ。
だからこそ、鍛える必要がある。彼女たちを叩きなおすため、もう一度、姑の嫁いびりという日本伝統の嫁教育を復活させるべきと思うがいかん。
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人生のことを語りたい
[#地付き] 自分の本当の顔をとりもどすとき
なぜか涙が流れてならぬ
年のせいかなア。近頃、妙な時、ふいに涙が眼ににじむようになってな。不意に何ともいえん哀しみに襲われることがある。
いい年をして、と自分でも恥ずかしいが、どうにもこらえようがないな。
たとえば、退屈をまぎらわすため、映画館にはいって、くだらん西部劇をみているとするな。黄昏《たそがれ》の曠野《こうや》を二十人ほどの騎兵に護衛されたホロ馬車の列が、ある地点まできて、ここで騎兵隊と別れることになる。
「ではわれわれの任務もここで終ります。みなさん、しっかり今後やって下さい」
騎兵隊の隊長はそう言って挙手の礼をなし、部下二十名と馬首をめぐらせて、今来た道を戻っていく。ホロ馬車の人びと――老いも若きも男も女も、砂塵をあげて去っていく騎兵隊の姿をじっと見つめている。
よく、あるでしょうが、こんな場面。
ところが、こういう場面を見ていると、急に涙が不覚にもにじみ出るのだなあ。
夜の電車にのっている。電車のなかに一日の勤めで疲れた人たちが、あるいは居眠りをしたり、あるいは吊り皮にぶらさがって新聞なんか読んでいる。そういう人のよごれた顔をぼんやりと見つめ、何げなく窓に顔をむけると、線路ぎわの一軒の家の、暗い灯をつけた窓が不意に眼にうつる。一瞬のことだが、暗い灯の下で卓袱台《ちやぶだい》をかこんで母親と二人の子供が食事をしている光景がみえたのだな。すると、なぜかしらんが、不意に哀しみが心にあふれ、眼に涙がたまるのだなあ。
なぜだろう。年のせいかなあ。年のせいで気が弱くなったのかなあ。昔は決してこんなつまらんことで、むやみに心を動かされたり、涙ぐんだりはしなかったのだ。まるで十七、八のセンチな女子学生みたいじゃないかと、自分でも恥ずかしいのだ。
だが、これは自分だけかと思っていたらA君も同じらしいな。あいつもワシと同じようなつまらんことに、やはり急に哀しみを催すらしいな。
だがなぜか知らぬと言ったが、この哀しみの裏にあるものが、自分でも何となくわかるような気がするんだ。あるいはまちがっているかも知らんが。
夕陽のあたる曠野をホロ馬車隊と護衛の騎兵がわかれていく。夜の電車で何げなくみた一軒の家の窓――親子三人のわびしい食事。ああいうものが不覚にも涙をもよおさすのは、それらがきっとワシやA君の年齢に至った連中の胸底に、人生とか人間というものを不意に感じさせるからにちがいない。
ふと生きることの哀しさが……
映画のあの場面は一種、どうにもならぬ人間の別離の哀しみを、小さな家のまずしい夜の食卓の光景は、人間のいじらしい幸福への願いを、急に感じさせるからにちがいない。
A君もこのワシも、自分ではいつも若い、若いつもりで今日まで毎日をぐうたら送ってまいりました。しかし、ぐうたらでも人生の集積というものは何処かにあるようだ。他人をそれほど不幸にもしなかったかわりに、だれをも幸福にしないぐうたらな集積をつみかさねているうちに、理屈ではなく、心で、気障な申しようだが、人間のいじらしさ、生きることの哀しさは、凡人は凡人並みにだんだん、わかってきたような気がするの。
そうだよ。情けない話だが、いたずらに馬齢をかさねて、ワシたちは結局、そのくらいのことしかわからなかったよ。しかし今、人生、黄昏にあたり、うしろをふりかえる時、それくらいのことしかわからんかったことも、それで仕方がなかったのだと、一種、諦めの気持で思うのでな。旅人が自分のトボトボと歩いてきたひとすじの道をふりかえる。夕暮の微光が山にも畑にもその道にもさしている。自分と同じように誰かが歩いている。あいつも旅をしておるのだと旅人はわが身から推して、その人の道中のことを考える。そんな心境に遂にわれわれもなったのだなあ。
人生をふりかえる所
諸君。諸君がもし生活に多少とも退屈し、おれはこのままでええんやろうかと、ふと思われることがあれば――、いやいや、きっと、そう思われるにちがいない。会社のかえり、西陽のさす街をひとり歩いておる時、夕立の終ったあとの雲をアパートの窓からみておる時――そう思われたならば、ワシは諸君に一つの場所に行ってみることをお奨めする。それは病院だ。できたら大きな古びた大学病院などがええ。
夕暮の大きな病院には、窓々に灯がひとつひとつともる。遠くからそれを見ていると、まるでうつくしい夜の客船のように目にうつるかもしれん。だが病院とは、生活のなかで他人にみせる仮面ばかりかむっているワシらが、遂に自分の素顔とむきあわねばならん場所だ。わしは長い間、病院生活をやっとったから、これだけは確実に言えるのだが、夕暮に灯がうるむ病院の窓では社会での地位や仕事がなんであれ、自分の人生をじっとふりかえる人びとが住んでいる。病苦のおかげでみんな、そうせざるをえんのでなア。
ワシらの生活には仮面をぬいで、自分の素顔とむきあおうとする時はそうざらにない。いや、ひょっとすると、素顔をみることが怖ろしいのかもしれんなあ。
いつも黒眼鏡ばかりかけている若い連中が、ちか頃、ふえたろうが。あの一人の野末陳平君にその理由をきいたことがある。そうしたら、こう答えたな。
「むこうの顔はこっちから見えるが、こっちの素顔は相手にわからんからね。それに黒眼鏡をかけると、自分が別の人間になったような気がする」
仮面をぬぎすてるとき
自分が別の人間になったような気がする。それは仮面をかむるということだな。黒眼鏡をかけることによって、別の自分を世間にみせるということだな。しかし、別に黒眼鏡をかけなくてもワシたちは、本当の顔を他人にみせておらん。会社では会社むきの顔をつくり、恋人には恋人むきの顔をつくり、家庭でもやっぱり家庭むきの顔をつくっておるのよ、ワシたちは。あんたも、そうだろう。
えらそうなことを言う文化人先生だって同じだろうな。ベトナム問題を論ずる時はベトナム問題むきの顔をつくり、大衆に迎合する時は大衆に迎合むきの顔をつくっておるのだな。そしてわれわれもこれらの大説家たちも、今や、次の自分の本当の顔はどんなものであったか、わからなくなってきたのだなあ。
「ぼくの素顔はどんなものだったでしょうか」
ひょっとすると、われわれの間にはこんな質問をとり交すこともふしぎでないかもしれん。
しかし、人間が一瞬だけだが、自分の本当の顔をとり戻す時が、人生にはかならず一度はあるもんだ。それは、ワシラが息を引きとる時。生命の力が次第に失《う》せ、死の翳《かげ》が夕靄《ゆうもや》のように迫ってくるあの瞬間、はじめてワシらの長い人生の間に他人に見せていた仮面が蒸発して、自分だけの顔を夕映えのように浮びあがらせる。だから、デス・マスクといわれるものは「死顔」ではなく「素顔」と訳すべきかもしれんのだ。
話が何だかムツかしゅう、湿っぽくなったなあ。こんな話が気楽な読物でないことは、百も承知しておるが、しかし読者よ。ゆるして下され。たまには鼻毛引きぬきつつ、拙者も、人生のことをしんみり、みんなと語りたい。
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女にはわからない男の美点
[#地付き]弱気な男、結構
社長と並んで立つとき
いつか、自意識ちゅうムツかしーいことについて、ちょっとふれたことがあるが、きょうはその話をすべい。
拙者《やつがれ》は自意識のとぼしい奴ア、どうも苦手だなあ。自意識なんて書くと、えらく難解にきこえるが、なに、たいていの人間がもっていることだな。
自意識が自分にどの程度あるか、どうか検査するにはだな、そうだな、たとえば、つぎのようなばあい、あんた、どうするか、考えてみるといいな。
君がだ、会社に出る。そしてまあオシッコがしたくなったので、便所にいく。ところが、トイレのいくつか並んだ朝顔の列に一人の老人がただいま用足し中であって、そのほかには誰もおらん。しかもだ、その用足し中の老人というのが、ほかならん君の会社の社長だった場合、君アどうするか。その朝顔の横に社長と並んでたつか、たたんか。入り口で迷うか、迷わんか。つまり自意識が活動するのは、このような時だなあ。(ムツカシイ哲学的用語ノ説明モ狐狸庵先生ニカカルト、コノヨウニ平タアク、庶民的ニ、ワカリヤスウク、ワカルダロ。ネ、ワカルダロ。それをことさらにチンプンカンプン、ひねくりまわして説明する哲学教授と比較せよ。まこと教養が身についているとは、このようなことをいうのである)
風流を解する人
君はしかし決然、朝顔の前にたつ! 社長とならんで放尿しはじめる! しかして、かの時、この時、君は黙々とキビシイー顔をして直立不動、オシッコをつづけるか。それとも、
何か言うべきだろうか。何か言わざるべきだろうか。ザット、イズ、クエスチョン! チョン、チョン
迷い、ためらい、ついに意をけっして、
「おはよう、ございますッ」
そう叫ぶだろうか。そして老社長からジロリと顔をみられ「用便中には挨拶せんでよろし」ひくいが威厳ある声で言われ「ハッ、わかりました。用便中は挨拶しません」そう答えるだろうか。このケースのばあい、君の自意識は七十パーセントだろうな。
ところが、自意識の百パーセントある男はどうかというと、これは朝顔の前にソロリソロリと立って、コソコソとボタンをはずし、前者と同じように迷い、ためらうのだが、結果が少しちがうのだな、結果が。どうちがうというと、彼はそおっと社長の顔をうかがい、チョビチョビッと放尿し、社長をまた、そおっとうかがう。そこで社長もキッとなって、こちらを睨《にら》みつけると、
「へ、へ、へ、へ、へ」
まあ何というか、泣き笑いというか、チンコロに塩をぶっかけたような、実に卑屈な顔をして頬に愛想《あいそう》笑いをうかべ、
「へ、へ、へ、へ、へ」
「なにが、おかしいか」
「はあ、すみません……でした」
君がこういう男であるならば、君は拙者の友人だ。語るに足る人だ。真に風流を解する人だな。なぜなら、このへ、へ、へ、へには、彼の悲哀のすべてがこもっているのであって、この悲哀は人間の人生にたいするどうにもならん悲哀に通じているからな。
そしてこういう便所で社長にへ、へ、へ、といった仁はけっして会社ではパッとせんであろう。出世も遅れよう。なぜなら、彼は自意識欠如の連中のように、臆面もないことがつぎからつぎへといえたり、できたり、でけんからである。しかし君がそれをいかに嘆こうとも、その君の悲哀とやさしい心根はこの狐狸庵、よく知っておりますぞ。
たとえば、こういう仁は外国がえりの課長がだな、帰国早々、自慢たらたら、
「いやあ。外国ではな、日本語で全部、押し通してやったよ。だいたいだ。向うの毛唐が英語をしゃべるからといって、何も俺たち日本人が英語を使うことはないぞ。ホテルでもレストランでもみな日本語だ。オイ、女、酒モッテコイ、そう怒鳴りつけてやると、びっくりして、それでもちゃあんと酒をもってくる。こうじゃなくちゃあいかんよ。毛唐の女にたいしてでもオイ、俺ト遊ベ、俺ハ日本民族ダ。ワカッタカッ。バンダノ桜ニ富士ノ雪、大和心ト人問ワバ朝日ニ匂ウ山桜カナ≠アういう日本語で言うてやるとオー、ナイス、ワンダフル≠アう通じちゃってオー・ケーとくるんだな」
いい加減な出駄羅目《でたらめ》を吹いても自意識のない奴は、
「課長は豪傑だからなあ」
歯のうくようなお世辞をいえるだろうな。しかるに君はそんなお世辞をいうのがたまらなく照れくさく、といって、ただ黙りこんでいるのも不甲斐ないと自嘲にかられ、ただ阿呆のように課長の顔をポカーンとみるのだな。もし君がそうなら、狐狸庵、君のような人間が大好きだなあ。
女性にはわからない男の美点
またこういう御仁は学生の頃などもあまりパッとせんようだな。六大学野球リーグなどで、他の連中が肩をくみ、
都の西北 ワセダの森に
みよ 精鋭のつどうところ
愛校心にもえ「青春はええなア」「カレッジライフはすばらしい」などと、友情ごっこの真似みたいなのを神宮球場でやるとき、一人だけ両側の友人に肩をくまれ、半泣きみたいな顔をして「ミヤコ……ワセダ……モリ」などと蚊のなくような声で、いちおう、みんなの声にあわせている男がいるが、ああいう男は狐狸庵好きだの。なぜならこの男は、
「なんだ、野球の応援などクダらん」
そういい切るほど気力もなく、といって、まったく愛校心に陶酔するには照れくさく……そのどっちにもつけんのである。こういう仁は会社にはいっても、メーデーの日など、うしろから浮かぬ顔をして足をひきずり歩いてるワ。
こういう男の美点を女はけっしてわからんな。だいたい、女というのは自分にたいしては一足す一は三でもあり四でもあるような考えをもっとるが、男にたいしては黒か白か単純な奴を男らしいと思うて好むからな。だから女はバカよ。
女はこういう自意識のある男を「弱気」とか「シャリッとしない」とかいって馬鹿にするな。しかして、さっきの課長みたいな「バンダの桜、富士の雪。女、俺と遊べッ」こういう手合いを、男らしいと感激するな。だから女はバカよ。
拙者の後輩に一人いたな、こういう男が。こいつ自分の好いた娘とデートすることにしてな。やっと人影まばらな鎌倉の海岸につれていき、黄昏の光は波にひかり、波はしずかに、二人の足もとに白く泡だちくだけ、夏の思い出を思わせる貝がらや木の枝などをやさしくはこんでくる。遠くで外人らしい女が一人、白い犬をつれて散歩しているほかは人影はない。岬のむこうに、赤い硝子球のように夕陽がうるんでいる。
娘は彼が接吻してくれるのを待っていた。だから、ネッカチーフでつつんだ顔を海のほうに向けて、じっと黙っていた。そして今、自分におとずれる倖せへの期待に胸をおどらせていた。しずかだった。いつまでもしずかだった。あんまりしずかなので、彼女は少し恨めしげな眼で彼をみると、彼もじっと自分をみていた。
「泉さん」
すると、その泉という青年、どうしたと思う。急に卑屈な笑いをうかべ、チンコ巻のように顔をしかめ、
「へ、へ、へ、へ、へ」
そう笑ってみせるのだそうだ。
いい男ではないか。しかして哀しい男だの。こち吹かばにおいおこせよ 梅の花 あるじなしとて我な忘れそ≠ィ前、なに書いとるん。へ、へ、へ。
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男と女の生きる道
[#地付き]ある献身的なメス猫の話
あなたは狐型か狸型か
人間の顔にはな、狐型と狸型との二種類があるな。岩下志麻の顔、あれは狐型。団令子の顔、これは狸型。わかるだろうが。
会社で暇なおり、上役、同僚が狸か狐か、じいーっと観察してみるがいい。結構、おもしろいな。
わしは狐より狸のほうが何となく好きだ。なぜか知らんが、同じ人間をだますのでも狸のほうがやはり愛嬌があるらしいな。狐は本当に人間をだますが、狸はとぼけただましかたをするからな。
二年前、愛媛県のある農家でこういう出来事があったことを新聞で読んだ記憶がある。
その農家では、猫を沢山飼っていたそうだ。ある日、主人が縁側で昼寝をしていると、猫のようであるが、猫ともチトちがう声を出して自分の頭を通りすぎた奴がいた。目をさまして見ると、こいつが狸めでな。この狸、その農家の大きな厨《くりや》に半月ほど前から住みついて残飯を食っておったらしいが、猫声のまねをして家人をダマくらかしたらしいな。
家の主人は早速つかまえて、近所の小学校に寄付したとのことであった。写真も出ていて、キョトンとした目で檻の中にはいっている姿がうつっていて、愛嬌あったなあ。
やはり同じころ、鎌倉にも狸が出ていたなあ。これは鎌倉の普通の家にな、ある日、裏山から狸がおりてきて残飯たべているので、それから毎日、家人が残飯をおいてやると、今度は仲間と二匹で日参するようになってな。「チカゴロハ、キマッタ時間ニヤッテキテ、尾デ家ノ戸ヲタタキ、早ク飯ヲダセ、ダセト強要スルヨウニナリマシタ」と、その家人の談話が新聞にものっていたがなあ。
そのときもこれはいいと思い、願わくばその狸公二匹がいまも健在であり、小学校なんかや動物園などに寄付されず、いつまでも「早ク飯ヲダセ、ダセ」と現われることを願う次第である。
狸はいいなあ。わしは柿生(神奈川県)の山里に住むが、まだ野生の狸にはおめにかかっておらん。このあたりもいることはいるらしいがね。そのかわり、イタチ、野ウサギなどは散歩のおり、ちょくちょく見るの。
いじらしい猫の女房
むかし渋谷(東京)の長屋に住んでおったとき、猫を飼っておったな。メス猫でな。全身、真黒であった。
ところがだ。この猫に亭主がいてな。隣の左官屋さんのドラ猫で――この亭主はこれが猫かと思われるほど憎ったらしいまでに肥っておって、髭なんかも偉そうにピーンと左右にはねあがっとるんだな。そして人間なんか現われても、ジロリ、見るだけで、ニャアともミョオーとも鳴かん。生意気というか、傲岸《ごうがん》というか、そのくせ大のグータラでネズミ一匹とるわけでもない。一日中、左官屋さんのトタン屋根の蔭になっておるところで眠っておるのである。
女房の黒猫(つまり、わしの猫)は健気な奴で、いじらしいほどこの亭主に仕えていたなあ。
夕飯どきになり、わしが皿の中に鯛の頭、調味料をよくかけた汁ご飯(わしは当時食事だけは、ゼイタクであったな)を入れてやっても、自分は決して食わん。台所の外に出て、西日のカアッと照る隣家のトタン屋根のほうを見て、
「ミャウ、ミョ、ニョウ……ニョウ」
せつない、いじらしい声を出して鳴くんだ。つまりこの猫語を人間に翻訳すれば、ミャウはあなた、ミョは来い、ニョウ、ニョウは早く早くの意があるから(以下の猫語は津田米吉博士著『猫語人語辞典』による)、
「あなた、いらっしゃいよ。早く早く、お食事よ」
と訳してもほぼ正解であろう。
ところがだ。亭主のドラ猫は女房のこの献身的ないじらしい声を聞くと、ありがとうも言わず、
「ア、アー、アッ」
と背中をのばして、のびをし、ガリガリガリ前足でトタン屋根をかき、偉そうにノッソ、ノッソ、ノッソと地面におりてくるのだ。
そして自分はネズミ一匹もとらぬくせに、彼はわが家の台所に堂々と上りこみ、女房の食事を一口、二口たべる。そして、
「ミョー」(まずいッの意)
と唸《うな》る。すると、そばでな、小さく、うずくまっていた彼の女房は、
「ミュー、ミュー」(申しわけありませんの意)
かぼそく、哀しく、恐縮して泣くんだなあ。
可哀相なメス猫の最後
あの光景を毎日毎日、わしは夕暮に見て、感動した。猫でも女房は夫のためにこうまで尽す。婦道を守る。節婦の行為をする。偉い、立派。だが、それにしてもこのドラ猫の横暴は何だろう。人間の亭主だって、こんな無茶な我儘《わがまま》は女房にしない。君だって奥さんにこんな偉そうな真似はしないだろう。君の奥さんが、せっかくつくってくれた夕飯を一口、二口食って、
「不味いッ」
吐きだすように言うだろうか。そんな亭主はわれわれの間には断じていないと思う。そう考えるとわしはムラムラッとして、うちの黒猫のために怒鳴ってやったのだ。
「バカ者ッ。生意気なッ。わしは、お前の夕食代をつくるために狐狸庵閑話のような心血をそそぐ文章を書いておるのではないぞ、バカ者ッ」
おそらくわしの日本語――じゃない人間の言葉は、左官屋のドラ猫には理解し得なかったと思う。しかし、わしの鋭い語気と迫力ある怒面は相手に通じたにちがいない。にもかかわらずだ。
「ニィーッ」(フン、何ぬかすの意)
ドラ猫は少し歯をむき出し、わしを脅かすと、台所の戸の隙間から悠々立ち去っていった。
女房の黒猫はその光景を震えて見ておった。可哀相に彼女の主人と亭主との間に板ばさみになり、孝ならんと欲すれば忠ならず、哀しげな目で、
「旦那さま、すみませんです。うちの人はあれでも根はいいんです。ただ我儘なんで……。ゆるしてやってくださいまし」
あたかもそう言うかのごとく、わしをじっと眺めるのだな。わしは憐憫《れんびん》の情にかられ、
「人間も同じだが、猫も悪い亭主をもつと苦労するなあ」
思わず、そう呟いたものである。
この猫は偉かった。というのはそれから一年後、わしが東都の騒音に耐えかねて、この柿生の里に引き移るとき、わしではなく、あの仕様もない亭主に操をたておって、荷物をつんだ小型トラックから飛びおり一目散に逃げていったからな。逃げ先はもとよりわかっておった。亭主のところだ。
そして、どうなったか。
わしがいなくなった空屋に一人住み、亭主は相変らずトタン屋根の上でぐうたら寝てばかりいて女房のため働く奴ではないから、彼女だんだん痩せていってなあ(近所の人の手紙による)、それでもこんな甲斐性のない亭主を見捨てもせず、「台風の日、雨にうたれてビショ濡れになり、痩せた体で近所のゴミ箱をさがし歩いているのが目につきましたが、それから見えなくなったと思ったら、用水池に彼女の死骸《しがい》が浮んでいました」
近所の人からそう書いてきた。亭主のほうは哀しそうな顔一つせず、相変らずトタン屋根で昼寝ばかりしているとのこと。
わしはその手紙を読んで、いわれなく感動したなあ。人間の男と女というものの関係も結局、こうではなかろうか。
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それでも彼女を愛す
[#地付き]わが映画評
有馬稲子さんなんぞ知らんな
久しいこと庵《いおり》にとじこもって文明の湯に浴さず、戯れるものといえば、春は花、夏は鳥、秋は月、冬は雪と、さながらコイコイかバカッ花のような風雅な毎日を送っている拙者であったが、感ずるところあって、活動大写真を久しぶりに見んものと、勇んで東都に赴いたのであった。というのは、
「爺さん、映画など長いこと見んだろ」
遊びに来た泉という青年にいわれ、
「ああ、見んのオ。わしが映画を好んでみたのはメダマのマッちゃんや阪妻の時代だったからな。最後に見たのは、何だったか。新興キネマの大友柳太郎、初出演のサムライ日本≠ソゅう映画だったな。高杉早苗や桑野通子をスクリーンでみるたび胸ときめかしての、イ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ――あの女優らは今も健在かの」
「冗談じゃねえよ。高杉なんて、もうお婆さんだぜ」
「はて?」
「桑野なんて、その娘のみゆきが活躍してらあ。母親のほうはとっくに死んじゃったよ」
「はて? 面妖《めんよう》な」
「爺さん、何も知らんのだなあ。有馬稲子なんていう女優知らんのか」
「知らんな。むかし有牛麦子という女優がおって、えろう、のぼせたが……」
「じゃあ、前田美波里は」
「イバリ? 前田し尿《いばり》とはこれ奇妙な芸名であるの」
「イバリじゃない。ビバリだ」
というわけで、浦島太郎さながらな老いの無知を、この青年にさんざん嘲笑され、「今じゃ、映画も大型だぜ。色彩だ。しかたねえなあ。じゃあ、連れていってやろう」
映画もみすてたもんじゃない
さて、その日が来るのが待ち遠しく、前日は庵の軒にテルテル坊主を結びつけ、握り飯三個竹皮につつみ、庵とりまく雑木林より栗や山柿などひろい、待ちに待ったるに。
そも、この渋谷とはそのむかし、渋谷氏という豪族の居住地にして、その山塞のあとは今も渋谷八幡の社をたずぬれば、そこはかとなく、しのばるる。
「道玄坂とはな、むかし、大和田道玄とよぶ盗人が、この坂にのぼり、通りがかりの善男善女を襲うた場所であるな」
泉青年にせっかく、教えてやっても、この青年、通りすがりの善男善女ならぬピーチク、パーチクの女の子に気をとられ、折あらば大和田道玄のごとく話しかけんと懸命なり。
映画のだしものは『ミクロの決死圏』。
いやあ、七十翁の拙者もびっくり仰天してしまった。なにしろ大型スクリーンに、色彩あざやかに画面うごき、天女のごとき美女、続々出現して年甲斐もなく目ひきつけられ、
「爺さん、楽しかったろ」
そう言われるまで、ポカンと口をあけっ放しであったぞなもし。
筋書申せばこうである。
時は二十一世紀。脳に怪我をした一人の男を救わんものと、医学者その他が細菌よりも小さく縮小し、(なにしろ二十一世紀の話であるから、これ可能なり)患者の血管に原子力潜水艦と共に沈入し、この血管を遊泳潜航――しかして脳の悪しき部分を体内において取り除かんと試みるなり。
されど途中に危険さまざまあり。細菌と同じ大きさの原子力潜水艦に大ショックあたえる心臓の鼓動。はたまた酸素の欠乏。あるいは人間体内において細菌を食う白血球。
かかる危険をいかにしてのがれ、いかにして克服し、かの患部に到達するかが、映画全編の見ものにして、
「うまいッ!」
「実に筋書のうまくできているものである」
なるほど人間身体の内臓や細菌とたたかう白血球のことなど、どんなことでも知っているのであるが、これを逆利用してサスペンスにみちた話をつくるとは、なかなか思いつくものではない。
「映画もテレビに食われると聞くが、このような脚本ばかりなら、なかなかどうして、映画も見すてたものではない」
ミクロの女体圈≠ェいいな
客集めにはすぐエロと考える日本映画界に少し考えてもらいたい問題であるといえば、泉青年、アクビなどをする。
「しかし」拙者、少し声をひくめて「もしこの狐狸庵が、あの脚本書いたならば、もっとおもしろく話をつくれたろうにな」
「ほんとか」
「ほんとだ。ハリウッドも惜しいことをしたものよ」
「ふーん。では、どんな話だ」
拙者そこで煙草一服すいつけて、おもむろに話しはじめた。
すなわち、映画では患者を男にしたからよくない。これを若くて美しい女性にするのである。
「なるほど。それで」
しかしてこの女性の体内に潜航艇にて乗りくむ医者の中に、彼女の恋人を一人いれる。
あとは大体、映画のすじ書き通りであるが、しかし後半がちがう。
患部を手術してな、さて体外に脱出せんとしたところ、キャプテン、航路をあやまり、患者の胃から腸に艇をすすめてしまった。この腸の中にて、艇のエンジンは故障するのである。艇はもはや動かない。電気も切れてしまった。危険はせまる。
さてどうするか。
「ここが全編サスペンスのクライマックスだな」
「爺さん、それでどういう結末を与えるのだ」
「まア、せくな、せくな。一寸、煙草を一服」悠々とキセルに火をつけ、スパスパ。「乗り組んだ医学者たちは考えた。このうえは潜航艇を患者体内の力で動かすよりしかたない。それには腸に刺激を与え、患者に大きな屁意を催させよう。そしてその屁の力で潜航艇を体外に飛び出させるのだ。そう、医者たちは考えた」
「うーむ」
「そこで、全員、ガスマスクをつけ、この患者の腸に刺激を与えた」
「なるほど」
「たちまちにして腸は蠢動《しゆんどう》し、腸内のガスは凝集し――そして大発音と共に潜航艇及び乗り組み員は、女性患者の体外に脱出したのである」こういうウイットにとむが下品な話となると、泉青年の目は光るのである。
しかし、狐狸庵は、別のことを、この話を通して語りたかったのだ。
「体外に出て、元の大きさにもどった医者は、まだベッドに昏々と眠っているおのが恋人をじっと眺める。一時間前までは、あれほどアコがれ、うつくしいと思った女性も、自分がそのからだにもぐりこみ、胃はともかく、屁のこもった腸まで通過してみると――百年の恋も一時にさめるか――と思われる。彼は恋人にたいする夢を消したのだろうか」
「消したのか」
「いや、彼は同僚に決然、語っていう。わたしはそれでも彼女をやっぱり愛する、と、……」
生理にたいする精神の勝利をこれほど端的に表現できる脚本はないのだと、拙者、泉青年に語ったが、彼は、わかったようなわからんような顔をするのみであった。
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当った二十年前の予言
[#地付き]いまだにわからぬそのカラクリ
コックリさんの予言
「コックリさん」という占いを諸君、ご存じか。
もう二十数年前、三田の書生のころ、ある悪友がな、わしを誘って、芝の一軒の家につれていった。その家には出戻りの若い女性がいて、それが奇麗なくせに何かに憑《つ》かれたような顔をした人で、
「この人あ、コックリさんをやるんだよ」
と悪友がいった。
「コックリさん?」
わしがききかえすと、
「夜になったら、やろう」
と悪友はその女と笑ったな。
夕暮になって、晩飯くって、それから夜がきた。コックリさんをいよいよやる時刻になったのである。
まず電気をうす暗くした部屋で、イ、ロ、ハ、ニと一つの文字を書きつけたカードを机の上に並べた。そして三本の箸の先端を紐でくくり、その一本ずつをわしと悪友がもった。窓をあけて女は大声でいった。
「コックリさん。コックリさん。何卒、わたしたちの質問にお答え下さい」
それから女はわしにむかって、
「さあ、何でもコックリさんにたずねてごらんなさいよ」
「そうだな」わしは唾をのんで考えた。
「俺、将来、何になるかなあ、それをコックリさんに訊ねたい」
と、二人がもった箸が何かに押されたように急に動きはじめた。だれか見えない手が勝手に箸を引きずっていくようである。箸の先は、机にならべたカードの「シ」の字にむかって進み、次に反転して「ヨ」の字をさした。眩暈《めまい》のしそうな感覚だったな。
「ショ……」
女はわしらの代りに声をあげて読んだ。
「ショ……セ……ツ……カ」
「小説家? へえ。俺がねえ」
その時のわしは思わず苦笑したが、小説家になろうとは毛頭考えておらんかったからだ。かかる荒唐無稽の返事をきいても、フフンのフンとなった気持で信じられなかったのだよ。
その夜、色々な質問をだし、色々な答えをカードと箸とが答えたのだが、未だに耳に記憶に残っとるのは、この「ショ……セ……ツ……カ」と大声で読んだ女の声だ。
それから二十年、わしはともかく小説家になったが、それにしてもそれを予言したあのコックリさん遊びとはそも一体、何であろうとふしぎでならぬ。
われと思わん占師は
まず考えられるのは、わしといっしょに箸をもった悪友が、あらかじめ作為をもって箸を押したり引いたりしたのではないかと思うが、しかしこの男もわしが「小説家」になるとは全然、考えておらんかったのだしな。たとえば「教師」とか「事務屋」とか出れば、まだ話はわかるのだが、思いもかけぬこの結果に彼が手をかしていたとは思えん。コックリさんは、立ち会い人の無意識の願望がおのずと出るという説をなす学者があるが、悪友にとってもわしにとっても「小説家」は、無意識の願望ではなかったしなあ。
今もってその謎、解せんのだな。どなたか読者のなかで、この「コックリさん」の秘密を知っとられるお方があれば、なにとぞ教えてつかわさい。
しかしそれはともかく、あんたら今晩でも家族同士でこのコックリさん、やってみんかいな。なに道具は簡単。さっきも書いたように部屋を少し暗くして、卓子の上にイロハ以下の文字をカードに書いてこれを並べる。箸三本をむすびあわせ、その二本を二人がもつ、あとは窓を開いて、頭をさげコックリさんにお願いするわけだな。
注意せねばならんのは、あんまりコックリさんに沢山の質問をすると、コックリさんが怒ってその家に「居着く」そうだな。そう、その女性が二十年前にいうとった。気をつけにゃ、いかんよ。
まア、これ以後、わしも占いに興味をもってな。東京の色々な占師をたずねまわったものだ。
しかして、その結論は……いわゆる人間による占いは(東京都内のすべての占師に限り)全く当らんということだ。手相、カード占い、ゼイチク占い、透視術、占星術師など色々あるが、みんな思いつきをいうだけだ。これはわしの長年の経験で確信をもっていえるな。
この一文を読んで、そんな馬鹿なことはないと自信ある占師がいたら、何卒、通知してほしいもんだな。むかし某誌に「占者に挑戦す」という文章を書いたが、かんじんのわしに反駁《はんばく》してきた占師、自信ある占師は一人もおらんかったのだ。それだけでも彼等に信念がない証拠だ。
「コックリさん」はまあ、ともかく、わけがわからんのに霊媒というのがある。
断っておくが、これはいわゆる農村などで狐つきの婆さまが、自己催眠でギャアギャアわめく、あの霊媒じゃないよ。わしのいうのは「降霊術」という奴でな。
いまだにわからぬトリック
この実験を一度見たことがある。
三原橋のすぐ近くのある家でな。わしが紹介者につれられてその家にいった時は、すでに十五、六人ほどの男女が集まっておった。
まず司会者から、絶対に写真を撮らぬことという注意があり(これがトリックを使う証拠だとわしは思うたな)、次に、椅子に坐った霊媒師の手足を誰か縛れという。
わしは警視庁の友人から「縛り方」を学んだことがあったから、ある絶対的な方法で、この中年の霊媒師の手足をくくってやった。
電気が消えた。そして、レコードでクンパルシータがなりはじめた。途端にわしのすぐ近くにあった机が動きはじめたな。机の上の夜光塗料を塗った人形がチャラチャラ、鈴の音を鳴らしながら空中を飛ひまわりだしたな。
それからロームとかいう二世紀前に死んだチベットの霊の声がしてきたが、これはあきらかに腹話術の声であった。霊媒が腹話術を使っておるということは、わしにもすぐわかったなあ。
しかしだ。解せんことは、机や人形がなぜ空中に浮ぶかということだ。わしは初め、ハハア、こいつは天井からピアノ線であやつっておるなとそう考えた。そこで目の前に飛んできた人形の上を右手でさぐってみたのだが、何もない。何もない以上、糸であやつっているとは思えん。
そのうち天井からゼリー菓子が落ちてきたり、筆がひとりでに(?)動きだして、色紙に字を書いたりしてな。こりゃあ、結構、おもしろいショーであった。
しかし今もって解せんのは、糸でぶらさげてない人形や机が、なぜ空中に浮動するかという点でな。今もってこのトリックがわからん。
もちろん、わしはそれほど神秘主義者でないから、右の現象がすべて何かの「トリック」を使っているものと思う。
で、長田幹彦氏や宮城音弥氏の著書をよむと、これらは暗幕のなかから霊媒があやつっているのだと書いてあるがな。しかしその説明ならば、人形をぶらさげる糸と竹竿がなければならん。その糸をわしは手で触覚しなかった以上、どうも疑問が氷解せんのである。
そこで、読者のなかに「コックリさん」と「降霊術」のトリックに詳しい方がおありなら、一寸、教えて下さらんかの。お礼としてわしは東京でおもしろい占いをやる仁をご紹介してもいいがの。
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あなたも催眠術がかけられる
[#地付き]人間は未来を予見できる
女性は暗示にかかりやすい
さきほどわしは、少なくとも東京にいる占師は、わしの体験からいってほとんど当てにならんと高言した。いまのところ、あの文章に憤激して「われこそは自信ある占師なり」と訂正要求をしてくる占師は一人もおらん。これが彼らに自信のない証拠だな。
わしは好奇心が強いから、人から「あれはよく当る」と聞けば、少なくともそれが東京にあるかぎり、たずねてまわったもんだ。そして、わかったことは、人間とは、実に「ダマサレやすい」種族だということだな。冷静に客観的に聞けば実に滑稽な、見ぬきやすい占師の暗示や誘導尋問にコロリとひっかかって、自分から身の上を白状しているんだな。ことばでいわずとも顔色で返事をしてしまうんだな。
だが、それでは人間にはまったく奇妙な能力、未来を予見する力がないかといえば、必ずしもそうではない。
催眠術師などをみていると、アリャリャ、自分はとてもあんなに珍しい能力はないよ、とみんな考えるようだが、これなど一時間もあれば太郎にも花子にもできる術だて。わしは友人に催眠術家がいるため、彼からかつて教えてもらったのだが、わずか一時間でその方法は会得したな。そこでその秘伝を今日は教えよう。
被術者は女房、こどもは避けたほうがええな。なぜかというと、あんたの女房、あんたのこどもは、どうしても、とうちゃんをバカにする気持があるから、初心者にはふむきだ。で、まず、術にかかりやすい相手を選ぶことが肝要だて。
「術にかかりやすい相手」をみつけるには造作ない。まず五人なら五人の女(バーでもあんたいったとき、実験してみるべい)にお祈りでもするように両手をしっかり組ませ、左手右手の人さし指だけをぐっと開かせて、その指先あたりをじっと注目させておく。これは何故するかというと、被術者の視神経を疲れさせ、暗示にかかりやすい心理にさせておくためだな。
さて、それがすんだら、あんたは自信ありげにこういう。
「開いた左右の人さし指がだんだん閉じてくる。閉じまいと思っても、だんだん閉じてくる」
ところがこれがフシギに、被術者の指は必ずといっていいほど閉じてくるな。勿論、それにはすぐ閉じる女もあれば、かなり時間のかかる女もおるよ。君はそれを観察して、すぐ閉じた女性を自分の催眠術の相手に選ぶのだ。この女は暗示にかかりやすいタイプだからだな。
さて、相手ができたら、この女性を直立させて、今度は両手を前に平行に出させてみる。
「両手がだんだん閉じてくる。閉じまいと思うても閉じてくる」君はそのことばを幾度もくりかえすのだな。「まるで……磁石が両手にあるように、すーっと吸いつけられてくる。両手がすーっと吸いつけられる」
すると奇妙キテレツ。必ずといっていいほど被術者の両手はしだいに合わさってくる。
「さあ、今度はその手がだんだん開いてくる。掌と掌との間に風がはいったようにだんだん開いてくる」
またまたフシギ、ぴったり合った掌がまた開いてくるな。
わしのこの話を聞いて、
(なんや。オッちゃん、また嘘いうてはるワ)
そう思われるかもしれんが、だまされたと思うてやってみい。十人中、五人まではこの簡単な催眠術を三十分で実行できること、堅く保証しておこう。いや十人中、五人とはいわん、
(ぼくにも、できる)
そういう信念さえあれば君にもできる。あなたもできる。バーのホステスにやってごらん。家庭じゃあ駄目よ。家族というものは大体、君をバカにしとるからな。
以上ができたら、もうあとは簡単。トントン拍子に催眠術の奥義がわがものになる。どうだ。狐狸庵もときにはなかなか、おもしろいことをいうじゃろが。
自己催眠をかけてみよう
催眠術などは特殊な人だけに与えられた能力ではない。だれにでもできるのだ。というのは人間、だれにも、自分で知らぬ、気づかぬ六感とか、未来を予見できる能力があるのであって、ただ、それを引き出す力がないのだな。
地震や洪水のある前には蟻や動物の移動があるだろ。あれはこれらの虫や獣にも未来の災害を予感する能力があるからで――もともと人間にもあるのだ。
「オッちゃん、嘘こくな」
じゃあ、今夜から、わしのいうことを実行してみい。
まず、小さなノートとエンピツ。
これを枕元に用意するな。そして就寝前に自己暗示をかけておくな。
「ボクは夢をみたら、すぐ目がさめる。ボクは夢をみたら、すぐ目がさめる」
だからといって、その夜からすぐこの自己暗示がきくと思うたらアカンよ。だがこれを一週間、連続して行うと、本当に夢をみるとすぐ目が開くようになる。
目が開いたら、たったいま、自分がみた夢をノートに書いておきなさい。
これを毎日つづけよ。眠うて、そんなことはできんという仁はやめたほうがよし。それでも頑張るという男だけに、あとでまこと不可思議な現象が起るじゃろ。その現象とはな、君が夢でみたことは未来の君に起ることだということだ。
(阿呆くさ。そんなことあるもんか)
読者のなかにはここまで読んでガッカリして呟く人もあるじゃろ。しかしねえ、これは狐狸庵の説じゃなかとですよ。ダーンちゅう英国の心理学者がな、『夢と時間』という本に書いておることだ。
つまりこの学者の考えによるとな、さっきもいったように人間にも未来に対する予知能力はある。そしてその能力はしだいに退化したのじゃが――しかしいまでも「夢」となって現われてくる。
夢の中でみた風景は、必ず一年さき、二年さき、三年さきに現われる。あんたらもときどき、はじめてみた風景を前にして、
「あッ、これ、どこかで見たの」
そう気づき、さて何時、何処で見たか、どうしても思いだせんことがよく、あるじゃろ。あれは、あんたが「夢」で昔、見ておったんじゃよ。しかし「夢」でみたからもう忘れてしまっておるんだ。
夢で会った未知の人についても同じことがいえる。その人にあんたはいつかは会うじゃろうとね。こうダーン氏は『夢と時間』という研究書に書いとられるな。それじゃあ狐狸庵、お前、実行したかといわれると困るんだがの。何しろ一度寝てしまえば前後不覚な男じゃから。
ただ、そういうマズメな夢と予見能力についての本のあることもお知らせしとこう。
ま、それはそれとして、さっきの催眠術な、今日から会社でもバーでもやってごろうじろ。忘年会のかくし芸にももってこいだ。
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運命を知る知恵
[#地付き] 合理主義ではとけぬ占師の存在
なくては困る身の上相談
いつかも拙者は、自分の調査によると易者などというものは当らない。もし本当に自信がある人がいるならば拙者に名のりでてほしいと、こう書いたのだが、いっこうになんの音沙汰もない。やはり自信のある易者などはいないのだと思う。
だからといって誤解のないようにいっておくが、拙者はけっして易者の存在を否定しているのではない。易者はやはりなくては困るのである。
第一に、あれは庶民の身の上相談役、グチの聞き役だと私は思っている。外国には教会の神父さんがいて、それがみんなの身の上相談にものってやり、女房のグチの聞き役もしてくれる。胸にたまったものを「他人に聞いてもらう」だけで、われわれの心は慰められるもので――この社会にはグチの聞き役は必要なのである。
しかし、日本には手軽なグチの聞き役が最近なくなってしまった。昔は大家さんというのがいて、店子の夫婦に喧嘩があれば、それぞれのいい分を聞いたり、身の上相談にのってやったりしたものだが、いまのアパートじゃ、隣に夫婦の喧嘩があれば、早速聞き耳たてて、
「もっと、やれ、やれ。やらねえか」
心中、そう叫んでいる手合いばかりになってしまった。われわれの周囲を見まわしても、人生相談、グチの聞き役はすぐ見つかるわけでなく、そういうときには街に出て、裏路に灯をつけている易者に何となく意見を聞くしかない。そういう意味で、日本の易者は当る当らぬではなく、こっちの胸にたまったことや心配を「聞いてもらう」手軽な相手なのである。
第二に易者というのは、何ともいえん滑稽味のある存在で、一杯ひっかけたあと彼らがいかにも学ありげに述べたてることを神妙に聞くほどおもしろい遊びはない。第一にそんなに人の人生、運命を知りつくせる知恵があるなら、ご当人こそ大道易者などやらず、もうチト出世しそうなものなのに、己《おのれ》のことはまったく知らぬ顔のところが甚だオモろいな。
「前世ではあなたの奥さん」に
そういうわけで、拙者は暇があれば易者、占星術師、透視家などによくいったわけだが、そのコボレ話を二、三してみると――。
名前はいえんが、ある占星術師と三年ほど前ヒョンなことから親しくなった。この御仁は、外見はいかにも哲学者らしき風采をして、しきりにムツかしいことをいうが、二、三度、会っているうち、いうことがその時々の思いつきに過ぎぬこともだんだんわかってきた。
しかし銀座のホステスなどを彼に紹介してやると、彼は拙者のためいろいろ、気を使ってくれて、
「ウーム。この星をみるとおもしろいことがわかった」
などとしたり顔でいう。ホステスが膝をのりだし、
「まア、何でしょうか」
とたずねると、彼は星座の地球儀をまわしながら、
「あんたは前世でこの狐狸庵氏の妻だったらしいぞ。いや冗談や嘘じゃない。奇妙なことだが、星の計算でそう出ているのだ。いやフシギだ。こういうことがあろうか」
まことマズメーな顔をしてそう呟いてくれる。
ホステスははじめは半信半疑であったが、相手がニコリともせず大真面目なので、
「ほんとかしら、信じられないわ」
「私も信じられんが、星の計算表がそう証明している。自分でもなぜこんな結果がでたかわからぬ。しかし、あんたが前世でこの狐狸庵氏の細君だったことはたしかだ」
ここまでいわれれば、ホステスも心のどこかで本当かしらと思うらしく、その次、拙者がそのバーにいくと、いつもと違うんだなあ。サービスが。
「前世で、あたし、あなたの奥さまだったのかしら」
「そうらしいなあ」
「どんな生活してたのかしら、あたしたち」
勘定もやかましくいわんし、その額もなんとなく安くなっている。拙者はそこで随分この占星術師に感謝したものだな。
演出された星占い
で、ある日、その恩返しではないが、彼の家に遊びにいったとき、
「なあ。オジさん。生意気だが、ぼくがひとつ、オジさんを演出してみようか」
「ワシを演出する?」
「そう。オジさんを国籍不明の大占星術師ということにしよう。ぼくが知人の夫人たちを集めるから、占ってみたらどうだ」
拙者の知人には、占いの好きな夫人たちのグループがあり、彼女たちがこの占星術師先生の後援をしてくれれば、今後、大いに彼のためよろしからんと、そう思ったのでな。
そこで、某テレビ局の演出部の友人に相談し、都内のホテルの二室をかりて、夫人たちにきていただいた。われわれは例の占星術のオジさんに頭にターバンを巻かせ、白いインドふうの衣を着させて、一室のテーブルに威厳ありげに腰かけさせた。
友人がもう一室で夫人たちに御挨拶をしている間、拙者は占星術師にA夫人、B夫人、C夫人などについての予備知識をそれとなく教えたわけだな。
「いいか、A夫人はお子さんが一人。現在そのお子さんの進学問題に頭を悩ましておられる」
「ふむ。なるほど」
「だからオジさんは彼女には、あなたはお子さんで悩んでおられますな、と、冒頭にいえばよい」
「よし、よし」
「B夫人は癌ノイローゼだ」
「わかった、わかった」
これくらいの予備知識ならば教えても罪にならんだろうし、あとはこの占星術の御仁がそれを活用して、夫人たちの悩みに希望を与えてくれるよう頼んでおいたわけだ。
やはり先入観はイカン
こうして会が始まったわけだが、拙者と友人が別室で待っておると、占星術先生と話のすんだA夫人も、B夫人も、プリプリするか、浮かぬ顔をしてあらわれてくる。
「どうしました」
「どうしましたじゃないわよ。てんで当らないじゃないの」とB夫人。
「はア」
「はアじゃないわ。子供のいないあたしに、あなたはお子さんの進学問題で悩んでおる、というし」
「はア」(これは困ったことになった)
「まア」とA夫人が「あたしは癌ノイローゼでしょ、といわれたわ」(あいつメ、A夫人とB夫人とを間違えやがったな)
つづくC夫人、D夫人、みなプリプリして、拙者いたたまれず、友人と早々に逃げ出したが、あとで占星術の先生は相当にトッちめられたらしいな。やはり占師に先入観みたいなものを親切心で与えると、それが助けになるどころか、邪魔になることが、これでようわかった。
もっとも、この占星術の先生とは、いまでも時々つきおうている。この合理主義すぎる世の中で、彼のような星の運命を本気で信じる御仁と会うと、なんだか、曇天に青い空を見つけたような気がするでなあ。
〈掲載紙誌・発表年月一覧〉
ぐうたら人間学[#「ぐうたら人間学」はゴシック体](「狐狸庵閑話」改題)
[#ここから1字下げ]
「夕刊フジ」一九七二年一月十八日〜五月十三日
[#ここで字下げ終わり]
ぐうたら生活入門[#「ぐうたら生活入門」はゴシック体](「人間万事虚誕計」改題)
[#ここから1字下げ]
「宝石」一九六五年十月〜一九六六年九月