ぐうたら交友録
遠藤周作
[#表紙(表紙.jpg、横200×縦200)]
目 次
ぐうたら交友録[#「ぐうたら交友録」はゴシック体]
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北杜夫氏の巻
出発のころ
梅崎春生氏の巻
三浦朱門氏の巻
柴田錬三郎氏の
原民喜氏の巻
安岡章太郎氏の巻
吉行淳之介氏の巻
村松剛氏の巻
亀井勝一郎氏の巻
阿川弘之氏の巻
近藤啓太郎氏の巻
女優さんたちの巻
瀬戸内晴美さんの巻
狐狸庵山人の巻
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現代の快人物[#「現代の快人物」はゴシック体]
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キャバレー界の風雲児・福富太郎
星占いの予言者・トービス星図《せいと》
舞踊界の異端児・土方巽
催眠術の教祖・田村霊祥
爬虫類マニア・高田栄一
刺青浮世絵師・北島秀松
異色の画家・交楽竜弾
ストリップ宗教・神田五朗
真向法代表・長井洞
巨人軍応援団長・関矢文栄
体当りヌード・豊原路子
変装人間の快感・渋井博士
マッチの軸で貯めたケチの哲学・西岡義憲
巷談・ヘビを食う仙人・田中一刻
????・狐狸庵山人
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ぐうたら交友録
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北杜夫氏の巻 世にも不思議な御曹子[#「世にも不思議な御曹子」はゴシック体]
北杜夫は本名、斎藤宗吉、いうまでもなく斎藤茂吉の次男である。
北杜夫――『夜と霧の隅で』で芥川賞をとり、『楡家の人びと』で洛陽の紙価をたかめた彼はまた「どくとるマンボウ」もので多くの読者を持っている。特にわれわれの仲間で、圧倒的に女性ファンのついている点では、その右に出る者はない。口惜しいがこれは事実である。
北の『どくとるマンボウ航海記』は六年前、すさまじいベスト・セラーになり、紳士も主婦も令嬢も中学生も争ってこれを買った(一九六〇年刊――編集注)。続いて『船乗りクプクプの冒険』で数多い小学生ファンを獲得した。うちのチビ助などは北が始めて遊びに来た時、まるでわれわれ中年男のところに園まりが現われたように眼を赫《かがや》かせ、北をじいっと憬れの眼で見ていたものである。(この子は父である私が外で働き働いて足を曳きずるようにして帰宅しても、お帰りなさいの一言も言ったことはない)
北の出す本で版を重ねなかったものはない。『楡家の人びと』といい『白きたおやかな峰』といい『怪盗ジバコ』と言い、それ悉《ことごと》くベスト・セラーでなければベター・セラーである。それなのにこの男はいつも不精髭をボシャボシャとはやし、見ばえのせん服を着てウロウロしている。なぜだか、わからぬ。とにかく、奇妙な男だ。
家は小さいが、夫人はすごく美人である。夫人は毛利元就の一族、吉川元春の子孫で、北はこの夫人を「どくとるマンボウ」時代、ハンブルグで獲得した。私はこの間ポルトガルに行った時、コインブラの古道具屋で古い純金の宝石箱をみつけ、それを夫人へのプレゼントとして買ったくらいである。
北がこの夫人と始めて知合ったのは、今書いたように彼が何を思いけん、船医として貨物船に乗って波濤万里、ヨーロッパをまわってハンブルグに上陸した時である。『どくとるマンボウ航海記』をひらくと、ハンブルグのこの部分は実にアイマイに書いてある。次がそのすべてである。
「ハンブルグにはAともベントさんとも知合のY氏という日本人がおり、そこに送金して貰えば万事好都合なので、Aに紹介の手紙を出してもらっていた。私はただその金を受けとるだけのつもりだったのに[#「ただその金を受けとるだけのつもりだったのに」に傍点]、Y氏からはカユいところを孫の手十本でひっかくほどの世話をうけた[#「Y氏からはカユいところを孫の手十本でひっかくほどの世話をうけた」に傍点]」(傍点は周作)
ピタリ! 私の第六感
これだけしか書いてない。だが六年前私は始めてここを読んだ時、他の頁にくらべて北の描写に何となく奥歯にもののはさまったような感じがあり、北独得の精彩あるユーモアに欠けているのでハテな、と首をひねった記憶がある。(ナニカ、カクシテイルナ)と、そこは同じ筆もつ身、第六感にぴいんと来たのだ。後年、北と親しくなってから色々と陰で調べてみると、果せるかな、この六感は当っていた。何かなければ「私はただその金を受けとるだけのつもりだったのに」などと態※[#二の字点、unicode303b]、書く筈はない。
文中に出てくるAという人は北と同じ精神科医の相場博士のことで、その夫人は民芸の高田敏江さんである。北はこの相場博士の紹介状をもらってハンブルグの日本人、Y氏の宅をその日、たずねたのであった。呼鈴をチリンチリンと鳴らすと、誰かの足音がして扉があいた。扉をあけたのが、他ならぬ後の北夫人――Y氏の令嬢だった。北はその日は温和《おとな》しく振舞い、出された紅茶などもズウズウ音をたてんよう飲んで船に引きあげたが、夜半、決するところあり、翌日、またY氏の家をたずねた。
Y家ではヨレヨレのズボンこそはいておるが、育ちよさげなこの青年に令嬢とその妹君をつけて町を案内させた。夜半一同ナイトクラブに赴いたが、ここで北は令嬢とダンスをおどり、三度、彼女の靴をふみつけ、その美しい顔をしかめさせた。令嬢には全く、この男に関心はなかった。
この黙殺に憤激した北はその夜一人になるとハンブルグの町でかなり痛飲したらしいが翌日、出帆を前にしてまたY家を訪問した。仏の顔も三度とやら、令嬢は笑顔こそみせていたが心中、「早く帰ってくれないかなア、この人」と考えていた。令嬢は自分が将来、文士などになる男と結婚するとは夢にも考えていなかったし、文士になる男などは三悪――肺病、貧乏、極道――をやる連中で、そんな男の生涯の伴侶になるなど真平ゴメンだったそうである。(以上、夫人の談話による)
北はアルコールの力を借り勇気をつけると歌を歌うと言い、美空ひばりの『マドロスさん』と『ステテン節』などを歌った。北はあれで歌はなかなかウマく、子供の時、学芸会でよく独唱などしたと言う。令嬢は哀調ある彼の日本の歌を聞き、思わず涙ぐんだ。感傷は愛情と変り、こうして二人は婚約したのだが、このことは『どくとるマンボウ航海記』には一行も書いていない。
「どくとるマンボウ」が出て、『夜と霧の隅で』で彼が芥川賞を受け、その令嬢と結婚式をあげた頃、悲しい哉、私は病床に伏す身であり慶応病院の一室で療養中でめでたい二つの式にも出席できなかった。私の隣室にはKという慶応の神経科の若い医師がやはり入院していたが、このK先生は自分は北杜夫とかつて同じ研究室にいたと言い、
「あの人は、変ってましたなア」
としみじみ呟いた。どう変っているかと聞くと、北はここの研究室にいた頃から、もう一人の変った男と二人で新宿で飲んでは伊勢丹の前で一人が逆立ちをしたり猿の真似をしたりすると、もう一人が通行人に手を差しのべて見物料を要求したと言うのである。
厚情は身にしみたが
その病院である夜、消燈後に長い時間がたっても眠れぬ私が闇のなかに眼を開き、あれこれ行末のことを心細く考えていると、突然、看護婦の駆けてくる跫音《あしおと》がして病室の扉をひらき、
「遠藤さん、起きてますか。あんたの知合いだという変な酔払いがねえ、看護婦室に来て、会わせろ、会わせろと怒鳴っているのですよ。しかし消燈後ですから面会をあたしたち、ゆるせないんです。わかって下さいね」
と怒鳴ると、また、廊下をバタバタと駆け戻っていった。何のことやらワケがわからず、私は一応、ベッドから起きあがってそっと扉をひらいて顔を出すと、暗い灯のともった向うの看護婦室の前に酔払った北が立ち、体を団扇《うちわ》のように動かしながら、
「ここは、ぼくの勤めていた病院ですぞ、そのぼくが患者に会いたいと言っているんですぞ。あんた、会わしてくれんですか」
と叫んでいる姿が見えた。小心な私は看護婦に叱られるのがこわさにオロオロと扉のかげにかくれていたが、やがて諦めた北の影は階段の入口に消えていった。病院のきびしい規則とは言いながら、折角たずねてくれた彼に一言も語れなかったのも悲しく、彼の厚情も身にしみてそのうしろ姿を見送っていると、突然、「アァーッ」という悲鳴とダ、ダ、ダ、ダダ、ババンというすさまじい音が階段からひびいた。酔払った彼が足を滑らせて、ころげ落ちたのである。私はほんとにすまない気がした。なぜなら、その頃になると始めは足しげく通ってくれた見舞客も数少なくなり、私は同じ病棟にいるタクシーの若い運転手から、
「あっちの病棟には石原裕次郎が足を折って入院しているがね、あそこには女優が毎日十人もくるぜ。あんたは同じ芸能人なのに、女優なんか一人も来んじゃないか」
と不当な侮辱を受けて泣いていた頃だったからである。
漸くにして退院した私はその夏、軽井沢に小さな家を借り、病後の体を養っていた。軽井沢には先輩文士たちがみな避暑にやってくる。ちょっと町を歩けば、その人たちとすぐ顔が会う。一番、若い私はそのたびごとにペコペコ頭をさげねばならぬのが辛いので散歩の折なども出来るだけ表通りに出ず、裏の細い道を日陰者のように歩いていたため、叢《くさむら》に巣くうブヨにかまれて足をはらし一向に面白くない毎日だった。のみならず、こうした先輩文士を訪ねた雑誌社の人たちが、気らくな私の家を休み場所にして、
「ああ疲れたよ。疲れたな。室生犀星先生のところで一時間、畏っていたら膝がしびれた。ちょっと何か飲まして下さい」
と駆けこんできては飲物を飲み、私には原稿を書けとは一言も言わずに東京の編集長に川端先生や、室生先生の原稿はまだできぬと高い電話をかけるのだった。私は遂に腹をたて川端家と室生家に飲物代と電話賃を請求したいと意気まいたが、妻にみっともないからおよし下さいと叱られて黙りこんでしまっていた。
では五分、では一杯
その時、突然、北が私の山小屋にあらわれたのである。昨日まで先輩に道でペコペコ頭をさげていた私は、はじめて頭をさげなくてもいい友人に出会ったことを大いに悦び「友あり、遠方より、来たる。また楽しからずや」と手を打ったほどだった。しかし北は、礼儀正しく、ここで失礼すると答えた。聞くと、家族は東京に残して、すぐ近くの某家の一室を借り『楡家の人びと』を執筆中ということだった。私が「まあ、いいじゃありませんか」と奨めると、北はしばらく考えていたが、
「そうですか。では五分、お邪魔しましょう」
そう言って家のなかにあがってきた。私が高級なるウイスキーを出すと北は手をふり「かまわんで下さい。五分で失礼します」と叫んだが、無理矢理、一杯、注ぐと、
「そうですか。では一杯だけ」
そしてたちまち一杯、飲みほしてしまった。二杯目をつごうとすると、首をふったが、まもなく、
「そうですか、では二杯で終りにします」
と言った。
こうした動作がわれわれの間に幾回か繰りかえされた後、北は六杯目、七杯目をいつの間にか飲みほし顔は赤黒くなってきたが、突然、今までの謙譲な態度がガラリと変り、ともすればウイスキーの瓶をもう引っこめようとする私の手から(なにしろ、そのウイスキーは高くて私も惜しくなってきたのである)瓶をひったくり、ドクドクドクッとコップの一番上までついで、
「あんた、こんなものを飲んどるですか。ぼくは平生、フランスのコニャックの銘柄しか飲まんですぞ。人間、飲みものにケチケチしていてはいいもの書けんですな。ぼくはあんたや山口瞳と同じようにエロ場面など絶対、小説に書かんが、やがてみんながビックリする大場面を書く決心がありますぞ。火星の女と地球の男の恋愛場面ですな。これを読んだら、あんたたちは腰をぬかして驚くですぞ」
レロレロの舌でレロレロロと三時間も演説し、のみならず、
「いい匂いがする。何を食っとるですか、お宅は。ぼくも食ってやるですぞ」
夕食も食べて引きあげたのだった。
さあ、それからと言うものは翌日もくる。翌々日もくる。玄関では愁いにみちた顔で、「いや、ここで失礼します」と呟くのが、一度部屋に入って酒を飲むと、
「ぼくはもう大人の小説はあんたや安岡さんや吉行さんに委せるですぞ。ぼくは子供の小説を書くですぞ。これはホンヤクしやすいから、たちまち全世界にホンヤクされ、ぼくは世界的大作家になるですぞ、今はぼくは三文作家にも及ばん二・五文作家ですが、十年したら百文作家になって、レマン湖畔に仕事部屋をたてるですが、あんたはいつまでもこんな陋屋《ろうおく》にくすぶっとるですか」
とレロレロとしゃべり続け、晩飯を食って帰っていくのだった。
病後のこととて、私は当時、仕事をあまりせず、従って、北に毎日、大飯をくわれるのが辛く、夕暮になると子供を門の前にたたせて警戒させていると、子供は間もなく息をきらせて家に駆け戻り、
「キタさん、きたよ。きたよ」
「きたかッ」
私は作家のペンネームにはこだわらぬほうだが、この時ばかりは北のきた[#「きた」に傍点]が「来たッ」に聞え、杜夫という名から、飯の「盛り[#「盛り」に傍点]」を連想したぐらいである。もちろん北杜夫はそんな意味でペンネームをつけたのではなく、彼は東北大学の医学部を卒《お》えたので、北の都、杜の都、仙台からこの名を考えたらしい。
言葉とか発音とかはこのように復雑なものだが、先年、北とこの問題で言い争ったことがある。
二年前、北はお尻にデキモノをこしらえて入院したことがある。かつて階段をころげ落ちて見舞に来てくれた彼の友情を思いだし、私は都内の某高級洋菓子店から砂糖漬の栗――つまりマロン・グラッセを十個買い、病院を訪れたのであった。北は手術前のこととて、憂いにみちた顔でまずそうに病院の飯を食っていたが、私をみると嬉しそうに起きあがった。私は帰りがけに彼のまくらもとにマロン・グラッセの包みを、さりげなく、おいて、病室を出た。
メロンとムエロンと
その夕暮、別のAという友人から電話があり、北に何を見舞品として持っていったか、あれは吉良上野介のように見舞品を手帖に書きこんで毎夜、ニタニタ笑っているという報告があった。私は砂糖漬の栗――つまりマロンを贈った、と正直に答えた。
だが四、五日して、その北から突然、葉書が舞いこみ、
「ぼくは栗十個はもらったが、メロン十個はもらっておらぬ、あんた、またホラ吹いたですか。ひどいですぞ」
という抗議が来たのである。このヌレギヌにびっくりした私が色々と調査してみて、その事情がおぼろげながら、わかってきた。外国語はよく読めるがハチオンの方は弱い北もAも、外国語ではトマトのことをトムエトと発音することを知らない。栗《マロン》の場合も、私のようにハチオンの強い人間はムエロンとうまく発音する。私はAに「栗《ムエロン》を十個ばかり贈ったよ」と言ったにかかわらず、Aはメロン十個を贈ったと聞きちがえ、それが北に伝わったらしいのである。私はこのように善意あるにかかわらず、友人たちより言葉や発音に正確なため、かえって誤解をまねき、「ほらふき遠藤」などと言われる。私の不徳のいたすところだが新年からは注意しなければならない。
北は最近、鬱《うつ》病にかかり、三日間、壁にむかって、じっと坐ってブツブツ何か呟いたりしていたそうだが、Aという医者からもらった薬を飲んだところ、薬があまりきつすぎて、今度は騒ぎまわる躁《そう》病にかかったと言う話をきいた。それは北自身がみなに触れまわっており、
「ぼくは今、躁病で、躁病の特徴の一つは何でもかでもパッパと人にくれてやるらしいですな」
と言っておるので、ある友人が心配して彼の家に出かけたところ、キュウリ三本しかくれなかったというので、あの躁病もたいしたことはないという結論になってしまった。
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出発のころ 焼け野原の東京をうごめく[#「焼け野原の東京をうごめく」はゴシック体]
長い長い戦争が終り、東京はすっかり焼け野原になってしまった。私は当時、三田の仏文科の学生だったが、久しぶりで戻った大学は講堂も図書館も悉《ことごと》く瓦礫《がれき》となり、わずかに残った校舎もその半分を進駐軍に使われているという状態だった。
ひもじかったし、寒かった。窓硝子の破れた教室で空腹を我慢しながら、やはり空腹のため、弱々しい先生たちの声を聞いていると、おのずと貧乏ゆすりが出はじめた。私も友人たちもアルバイトをしない者はほとんどいなかった。
大学予科に入った時、父の命ずる医科ではなく文科にやっと補欠で入学したため家を追出された私はアルバイトは前からやっていた。学業成績は宜しくなくても、ことアルバイトに関してはかなりベテランだった。
そこで日吉の予科からこの三田に進んだ時、アルバイト馴れをしていない級友たちが、
「なあ、何か仕事を考えろよ」
と四、五人、私の下宿に集まってきた。彼等は宮城前でモッコかつぎをやって、すっかり悲鳴をあげていたのである。こうして遠藤商会がすぐ結成された。
遠藤商会で私たちがやった仕事は三つあった。一つは代返《だいへん》であり一つはノート写しであり最後に靴みがきだった。代返というのは余儀ない事情で教室に出られぬもののため、出席の返事を代りにやってやることである。読者のなかにも経験者がおありだろう。簡単なようだがこれは技術がいる。声色《こわいろ》を一人一人について変化させていかねばならぬからはなはだムツカしい。
「田中君」「ハイ」「山田君」「ホイ」「木村君」「ヘーイ」「吉川君」「ヒャーイ」報酬をもらって代返を引受けた以上、それを成功さすべく苦心惨憺して大声、間のびのした声、女のような声を次から次へと我々は出したものであるが、代返の料金は一人二円で、当時の二円は今の四十円ぐらいに相当したろう。
「ノート写し」というのは授業に出られなかった連中のために試験前、ノートを写しておいてやることである。原本になるノートは女子学生から借りたが、我々こそ大学が男女共学になった最初の学生だった。三田には圧倒的に皇太子妃さまの出身校である聖心や白百合へ行くべきような学生が入学し、彼女たちは何でも言葉の上にオをつけるので育ちの悪い我々は甚だ当惑した。たとえば次のごときである。
不器用なバイト学生
「次のお講義のお教室はお廊下の向うでございますわね」
「いいえ、お、お廊下のお向うじゃありません」
と我々はオドオドして答えたものだ。
「お便所のお向い側でございます」
しかしこれらの女子学生は男子学生とちがい、真面目に教室に出席し、丹念に講義をノートにとっていた。そして教授の声は一つ残らずノートにとっているため、それを筆写していると、しばしば理解困難な箇所にぶつかった。
「実存主義はサルトルがえへん唱えた説ではなく既に独逸《ドイツ》の哲学者がえへん考えていたのである」
私たちはその中に幾度も「えへん」「えへん」という文字があるのに困惑したが、やがてそれらは教授が咳ばらいをしている声であることを了解し、聖心、白百合出身の女子学生の真面目さに深く深く頭をさげた次第だった。えへん。
ノート写し部は試験が迫るにつれ、申込みが殺到してきた。一冊五円だったと思う。当時は今の大学のようにプリントなどをする者はいなかったから、この仕事は遠藤商会の独占だった。我々は一人で一冊のノートを五人の申込者のために写したが、五回も写せば、いかに頭の悪い我々でもそのノートの内容はほとんど暗記できる。おかげでアルバイトをしながら試験準備もやれるのだった。
靴みがきを考えたのは私だった。私は田町駅前の闇市の前に並んだ靴みがき屋から地廻りが場代を集めているのを見て、この事業を思いたったのである。
(どうしてボクらが靴みがきをしてはいけないだろうか)と。
靴みがきを三田の大学内でやろう。そうすれば地廻りから場代を取られることもない。それに同じ大学の先生や学生たちは他で磨かせるぐらいなら、我々に磨かせようと思うだろう。そう仲間に話すと二人の男が賛成した。その一人に今、三田の哲学科の教授となり、マルセルやリュバックの学者である三雲夏生もいた。
三雲と私とは図書館の焼けあとから煉瓦を二つひろい、赤と黒の靴墨と歯ブラシ一個、ブラッシ一つを並べ、じっと腰かけていた。風の吹きさらしの中で空腹を我慢していると一人の学生が来て、びっくりしたように我々を眺め、それから意を決したごとく、
「お願いします」
と言った。自分の靴さえろくに磨かぬ我々は不器用な手つきで彼の黒靴を磨きはじめたが、そのズボンをまくってやるのを忘れていたため、あわれ彼のズボンの裾に靴墨がベットリついてしまった。それでも怒りもせず、この学生は十円をおいて去っていったのである。
だが次の客になった男はもっと悲劇的だった。なぜなら私たちにはブラッシは一つしかなかったから、さきほど黒靴を磨いたブラッシでこすられたこの客の赤靴はたちまちにして奇妙にも赤黒く変ってしまったのである。しかしこの学生も文句を言わず金をおいてくれた。
あの頃の我々は互いに顔を知らなくても妙な連帯感があった。お互い、戦後学校に行くことがどんなにむつかしいか、わかっていたからであろう。なかには「いや、とても同じ学生に足など磨かせられねえや」と言って自分で自分の靴を磨いて代金をおこうとした男もいた。すると三雲がソレデハイカン、金ヲトルワケニハイカンと彼と哲学的に大議論をし、靴墨代だけもらうことで決着がついた。
時には、我々のうしろで遊んでいた幼稚舎(慶応の小学校)の生徒が三人、
「ほくら倖せだなア、こんなことしなくても学校に行けるんだもん」
そう呟いて、翌日、国電のシートを切り取って持ってきた。そして、
「大学生さん、これを使うと靴がよく光るよ」
と言ったので三雲は感激のあまり、自分は倫理学を今後、専攻するといいはじめた。今日彼が倫理学教授になったのは、これが原因の一つなのかもしれぬ。
フランキー堺だった
ある日、顔の四角な学生が我々のそばに来て靴を磨くと、
「俺も仲間に入れてくれねえか。俺、困ってんだ」
と言った。私は三雲とコソコソ相談しこの将棋の駒のような顔をした学生を断ることにした。三人では儲けが薄くなるからである。
この男が後のフランキー堺氏である。スクリーンで彼の顔を見た時、私は思わず、
「あッ。あいつだ」
と叫んだが、その後、フランキー氏と再会した時、彼もこの靴みがきの件を憶えていたのである。
大学を出たが就職口はなかった。ある日、新聞を見ていると「松竹助監督募集」という広告が出ていた。私は子供の時から映画スターに妙に憬《あこが》れる心理があり、撮影所などときくと薔薇《ばら》色の殿堂を感じていた。中学生の時、嵐寛寿郎の弟子になろうと思い、手紙を出して返事をもらえなかったこともある。
早速、願書を出して受験した。口頭試問の時、試験官は巨匠、吉村公三郎氏だった。助監督らしいのが私の前の受験生に、
「どんな本を読んでいるかい」
と訊ねると、その男は、
「野間宏を読んでます」
と答え、更に「野間宏の何を読んでいるかね」と追及されて「ウ、ウ、ウ」と呻《うめ》いた。それを後ろで見ていた私はすっかり、アガってしまい、同じ助監督から、
「どんな本を読んでいるかね」
ときかれた時、
「ギリシャのヘラクリトリスを読んでいます」
と出鱈目《でたらめ》を答えてしまった。今でも考えると私の頭の中から、なぜ実在もしない、こんな架空の名前が飛出したのかわからない。だがその助監督氏は、ふしぎにも、
「うん、あれは面白い」
と言った。今もって私はこの助監督がいかなる心境でかかる出鱈目な返事をしたのかもわからない。彼は私を助けてくれようとしたのか、それとも周りの試験官におのが学あるところを見せようとハッタリをやったのかもしれぬ。
その結果、私は落第してしまった。当時、この試験に合格した人に松山善三氏がいる。そしてもし私を松竹が採用してくれていたなら、私は今ごろ、岡田茉莉子さんや倍賞千恵子さんなどに演技をさせ「なんだ、それで女優のつもりか」と怒鳴れる身になれただろう。そしてあるいは彼女たちの一人と結婚し、プールもあり、便所なんかも四つぐらいある家にすみ、安岡章太郎や吉行淳之介や阿川弘之が遊びにくれば、便所が四つもあることを(彼等の家には一つしかない)自慢できる身になっていたかもしれぬ。
松竹にこうして落ちたあと、鬱々としている私を見て遠藤商会の仲間だった友人たちが、「奴を慰める会」をやってくれた。
ランボオに集う群像
当時、我々はアチコチで飲み歩いたが、飲み歩いたと言っても当時、学生や学生に毛の生えた連中が行くのは闇市のなかの飲み屋だった。焼いた鯨肉の臭いが尿や油の臭気といっしょにその闇市のなかにたちこめ、葦簀《よしず》張りの飲み屋ではコップ三十円の焼酎か、二十円のバクダンをあおるのである。
その日もそういう所をまわって、我々の一人が、
「ランボオという店に行こう」
と言った。小説家や芸術家が集まる店だと言うのである。私は酔っていたから、すぐに賛成をした。
ランボオは神田の冨山房のうしろにあった。この何の変哲もない酒場はしかし戦後文学を知っているものには忘れ難い場所であろう。そして私にとってもその後、このランボオに行くことで毎日の情熱を燃やすようになったのである。
我々が店に入ると、店は入口近くが狭く、奥が広くなっていた。そしてその広い場所に白いテーブルがおいてあって、その周りに五、六人の男が腰かけ、酒を飲んでいた。友人は私の耳に口をよせ、
「知ってるか」
と囁いた。知らぬと言うと彼は得意そうに、
「ほら、右に少し顔を妙に傾けた人がいるだろ。あれが野間宏。その隣の頭の少しはげた人は椎名麟三。三番目のキョトンとした人が梅崎春生。こちらに背をむけているのが佐々木基一と埴谷雄高さ」
そして彼は視線を窓ぎわに移し、窓ぎわのそばに椅子を二つ並べて、そこにうたた寝をしている男を見ながら、
「あの人は武田泰淳だよ」
と教えた。
怠け者の私だったが、その人たちの名は勿論、知っていた。戦後、これらの若い作家や評論家が矢つぎ早に登場して、次から次へと新鮮な作品を発表していた。これらの人の作品や評論はちょうど今の学生が大江健三郎のものをむさぼり読むように、我々に読まれていたからである。私はコワイものを見るように彼等を眺めていた。
その時、横の席から一人の女が出てきて何かを埴谷雄高氏に言い、突然、唄を歌いはじめた。私はこの雰囲気にすっかり感激感動してしまい、何て芸術家の集りは素晴らしいんだろうと滑稽にも思ったくらいだった。
梅崎氏と私の出合い
それから毎日、ランボオに出かけた。金がなかったから一杯の焼酎で一時間も二時間もねばり、扉を押して入ってくる作家や評論家をじっと眺めていた。しかし勿論、こちらから声をかける勇気など、毛頭、なかったのである。
ある日、私が店から外に出ようとすると、鳥打帽をかむって憂鬱な顔をした梅崎春生氏と出合いがしらにぶつかった。彼は店をちょっとのぞいただけで、ヨロヨロ歩きはじめ、私がそのあとをついていくと、
「あなたは毎日、この店に来てますね」
と妙な声で言った。そして突然、
「ぼくの知っている易者のところに連れていってあげましょう」
と誘った。梅崎氏は大分、酔っていた。
その易者は新宿の街頭にたっている街頭易者だった。
梅崎氏はこの易者に私の手を見させながら、
「この人は小説家になりたがっているけどネ、なれますかねエ」
と妙な声をだして訊ねた。易者は私の手をひねくりまわし、
「駄目だね。才能もないし、第一、怠け者だよ。この青年は」
と傲慢無礼な答えをした。梅崎氏は私の背後でフーンと酒くさい息をはきながら考えこんでいた。
易者に金を払うと、彼は私をつれて五、六歩、歩きだし、
「君、きいたでしょ。君は小説家になれないそうだよ。まア、そういうことです。ではさようなら」
そう言ってヒョロヒョロと人ゴミのなかに消えていった。私はしばらくそこに立ち、何も小説家になるなどと言ったことはないのに、こんな易者に人の手を見させ、私のことを才能もないし、怠け者だと言わせたこの奇妙な作家のうしろ姿を、茫然とみつめていた。
これが梅崎氏に会った始まりだが、また私にとっては文壇という奇妙な世界にふれた最初でもあったのである。
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梅崎春生氏の巻 懐かしくもヘンテコな兄貴[#「懐かしくもヘンテコな兄貴」はゴシック体]
実際、私もその後、色々な先輩文士と知合ったが、この梅崎春生氏ほど最初にケッタイな印象を与えた人はほとんどいない。夢も希望もある青年を街頭易者につれていって、未来を占わせ、その街頭易者がまた変な男で、
「駄目だナ、これは。とても小説家になれん。怠けものの手相だ」
などと言うのを背後でジッと陰鬱な眼を光らせて聞いた揚句、
「君は小説家になれぬそうですよ。では、さようなら」と呟いて街頭におきざりにするような奇妙な先輩はそう滅多にあるものではない。私は正直言って、その時、ポカンとしながら氏のうしろ姿を見送りつつ、
(なんと意地悪な人だ)
つくづく思ったのである。
のみならず、それからふたたびあのランボオの店で氏と顔を合わせることがあっても、梅崎さんは陰鬱な眼で人をジッと見るだけで、あの出来事も私という人間もすっかり忘れた風なのである。私はしまいには可笑《おか》しくなり、彼とすれちがうたびにオボエテイロと心のなかで呟いたくらいであった。
こうしてその後、梅崎さんから話しかけられることも、こちらから挨拶することもなく四年の歳月がたった。
その四年のあいだ、私はヒョンなことから仏蘭西《フランス》に留学して日本に戻り、はじめて短編小説を書いて『三田文学』に発表してもらった。
ところが、自分では一生懸命書いた二十枚の処女作だったが、合評会である先輩から手きびしい批評をうけて首でもくくって死にたいような気持になった。家に戻っても、あまり癪にさわるので煎餅《せんべい》布団にもぐりこんでブツブツ呟いていると突然、電話がかかってきた。四年ぶりで聞く梅崎さんの声だった。
「あの……君の小説が悪口言われたそうですね。あの……ぼくもたびたび悪口、言われたことがありますが、まア、おたがい頑張りましょう。では、さようなら」
その時の梅崎さんの短い言葉には、滅入っているこちらの気持にジインとしみこむ優しさがあって、今でも忘れられない。私は受話器をおいたあと、一体、梅崎春生氏は本当は意地悪なのか、今のように心優しい人なのか、しばらく考えこんだほどだった。
やさしさと意地悪と
だがこうして梅崎さんとの交際が復活しはじめると、私は次々と、彼のこの優しさと意地悪爺さんとの両面にぶつかったものである。それは氏と酒を飲んでいる時にしばしば、あらわれた。この人の酒の酔い方には三段のプロセスがあって、はじめは機嫌よく飲んでいる。そんな時は実に心優しいのである。思いやりがあって、こんないい先輩はまたといないと思われるほどである。だがある所までくると、その眼がいびつに光りはじめる。突然、こちらの弱点を意地悪く苛《いじ》めだす。寸鉄、人を刺すような批評をあびせるのだ。こんな意地悪爺さんはないと思われるほどである。それがすむと彼はトロンと眠りこけてしまうのだった。
そのくせ、この『幻化』や『砂時計』の作者は私たち後輩に妙に慕われた。少なくとも私などはヘンテコな懐かしい兄貴という感じを彼にずっともちつづけたものだった。
ヘンテコな兄貴などと書くと、今は地下にいる梅崎さんはまたブツブツ怒るかもしれぬ。しかしこの原稿を書くために、数年前の私の日記をめくってみると、その至るところに彼の名前と、彼から受けた被害が多少の恨みつらみをこめて書きこまれているのである。読者はもし彼のような先輩をもったとしたら、私のように懐かしくもヘンテコと思われないだろうか。その日記の一部をえらんでここに写してみたい。
某月某日
梅崎さんの家に行く。梅崎さんは新しくできた書斎に私をつれこみ、嬉しそうに箱型の器具をとりだして、
「あのネ、これは肝臓が悪いかどうか調べる医療器具です。この上に手をおいて中の電気がつかなければ君の肝臓は丈夫です。電気がつけば悪いのです。やってみなさい」
言われる儘に手をおくと、奇妙にも箱の豆電球に灯がついた。自分は肝臓など悪くないつもりだがと言うと、梅崎さんはムキになって、
「だって電気がつくじゃないか。ぼくなんか、いくら手をのせてもつきませんよ」
と言い、手をおいてみせる。本当に今度は豆電球はそのままである。こっちは嫌アな気がして黙っていると、
「君、医者に行ったほうがいいですよ」
と奨《すす》める。だがその時、彼が変な姿勢をしているので、ひそかに窺うと、何と、彼は座布団の下で箱から出たコードのスイッチを操作しているのだ。自分が手をおく時はスイッチを切り、私が手をおく時は、電気をつけていたのである。一体、何のためにこの人はこんなことをやるのかさっぱりわからず、首ひねりつつ帰宅する。
某月某日
先日の肝臓判定器なるものについて安岡章太郎に話すと、安岡も首ひねり、フシギな人物だなあ、自分も同じような経験があると言う。安岡の家の庭にモグラが跋扈《ばつこ》して困っていた時、それをどこからか伝え聞いた梅崎さんから電話があって、
「あのネ、安全カミソリの刃を地面に埋めておくと、いいですよ」
と教えてくれたそうだ。なぜ良いのですかと安岡がきくと、モグラは盲目だから、地面をすさまじい勢いでメチャメチャに進行する。そして埋めておいた安全カミソリの刃に頭をコツンと当てる。そして死んでしまうのだと梅崎さんは答えたと言う。
某月某日
留守中、酔った梅崎さんから電話があり、女中が「だれもいませんのです」と答えると、
「君の月給いくらですか。そんな安月給でそんな男の家で働くことはありません。早く出ていったほうがいいですよ」
としきりにヤメロ、ヤメロと奨めた由。お手伝い払底の折、大迷惑の話なり。
酒はショウユに変る
某月某日
酔った梅崎さん、某大衆流行作家の家に電話をかけ、お宅はかせいだ金を壁のなかか壺の中に入れてかくしているのですかと、奥さんに長々とたずねたという話をS氏から聞く。
某月某日
近所の酒屋(うちで買う酒屋とはちがう酒屋)から突然、小僧が酒瓶一本と手紙とをたずさえて来る。手紙を開くと「私はあなたのファンの新劇女優ですが、御近所まで用事でまいりましたついでに、失礼とは存じましたが御挨拶がわりにお届けさせて頂きました。これからもますます、いいお仕事をして下さい」と書いてある。このようなファンの手紙をもらったのは初めてなので、大|悦《よろこ》びで家人に刺身を買いにやらせ、庭に打ち水などして縁側で一杯飲もうと、贈られた酒の紙をはぐと、何と酒にはあらずして真黒な醤油瓶である。あまりのことに憤激し、配達してきた酒屋に怒鳴りこむと、主人恐縮して「ある方から頼まれましたが、その人の名を言うのはカンベンして下さい」としきりにあやまる。ブツブツ怒って家に戻ると梅崎さんから電話があり、素知らぬ声で、
「あのね、君の家で今日、何か妙なことありましたか」
としきりにたずねてくる。直観的に、梅崎さんの仕業と感じ、わざと不機嫌に「何もありませんよ」と答えれば、
「そうかな、そうかなア」
と首をひねっている様子。あまりの馬鹿馬鹿しさに「あなたでしょう」と言うと、
「何を君、言うか。ぼくじゃない。ぼくじゃない」
そのままガチャリと電話を切ってしまった。
某月某日
梅崎さんから突然、河童が酒を飲んでいる絵を送ってくる。酔狂おもむくままに描いたのだそうで、なかなかウマいが、悪いことには自分の筆で横にわざわざ「三万二千円也」と代金まで書きくわえてあるのが頂けない。
家人が折角、頂いたのですから表装しましょうと言い、駒場の表具師のところに持っていったが、夕刻、ションボリして帰宅したので、
「どうだった」
とたずねると、溜息をつきながら、表具師の薬罐頭《やかんあたま》の親父がチラッと見ただけで、
「ふん、こんなもの、表装するだけ勿体《もつたい》ねえや」と言ったそうである。
私の日記のなかには、この作家とのさまざまな思い出がまだまだ沢山、書きこまれているのだが、その三つ四つを手あたり次第に紹介しただけでも、読者は私の友人たちが梅崎さんに「懐かしくもヘンテコな兄貴」という感情を抱いた理由が少しはわかって頂けたであろう。だが誤解のないように言っておこう。この戦後派作家のなかでも最も小説家らしい小説家だった梅崎さんは、こうしたトボけた行為を友人や親しい後輩たちだけにはみせたが、その神経は実にセンサイで、胸の底には暗澹としたニヒリズムがベッタリくっついていたのである。小説家だった梅崎さんは人間の心の裏側には敏感すぎるほど敏感であったが、同時に自他をふくめた人間の俗物根性にぶつかると、猛然、意地悪く当る人だったのである。ある冬の日、ある文壇パーティの帰りに、彼とタクシーで銀座を通りかかった時、梅崎さんは流行作家たちのよく行くバーをみて、
「文士文士というが、結局は、あの連中、俗物さ。だからこんなバーで先生、先生とおだてられて悦んでいるんだ」
とひとりでブツブツ呟いているのを私は耳にしたことがある。
そのせいか梅崎さんには人見知りをするところが多く、多くの文士が集まる軽井沢などには絶対いかず、夏になると草ぶかい蓼科に住み、自らを「蓼科大王」と称し、自分の家を「蜘蛛の巣城」と呼んでいた。
蓼科大王、流浪の姿
彼はある日、得意そうに自ら製作するところのこの「蜘蛛の巣城」の絵図面を私と三浦朱門とに見せてくれたが、それによればその門には「大手門」と書かれ、庭には「獅子岩」という岩があるごとくであった。私と三浦とは驚いて、この蜘蛛の巣城を見物すべく、蓼科まで赴いてみたが、大手門というのは丸太棒を二本たてた門ともいえぬ入口であり、獅子岩とよぶのは岩どころか汚ない山石のことであった。そして蓼科大王は夕方になると鳥打帽をかぶり、背をまげ、アンマさんのように杖をついて、当時まだ二、三軒しかなかった下の土産物屋にヒョコヒョコ酒を買いにいくのであった。それは大王というより、国を追われたリヤ王流浪の姿を私と三浦とにむしろ連想させた。
その頃から梅崎さんの健康は次第に蝕まれはじめていた。肝臓がおかされていたのである。医者の命令で酒は厳禁されていたにかかわらず、梅崎さんは本箱のうしろにウイスキーの瓶をかくし、夫人や家族の方たちに見つからぬようにそっと飲んでいたそうである。
体が衰弱していったにかかわらず、梅崎さんはその頃からまるで自分の死を予感したように作品にとりくみはじめた。晩年の二名作『狂い凧』と『幻化』とがそれである。特に『幻化』を書きはじめた時は、
「ぼくは君に小説の書き方を教えてあげますよ」
と嬉しそうに言っていた。
その頃、彼は毎晩のように仕事を終えては私の家に電話をくれたが、その内容はテレビで中継されるボクシングの賭であった。ボクシングをあまり知らぬ私は、酒をのめなくなったこの先輩を慰めるつもりでその賭に応じていたが、奇妙なことに、私の賭けたほうがたいてい負けるのである。
「あのネ、君の借金はもう千五百円ですよ」
梅崎さんは嬉しそうに声をはずませ、私はどうも妙だと首をひねっていたが、ある日、彼が三浦に洩らした一言でこのカラクリがばれてしまった。梅崎さんが賭を申込んでくるボクシングはみな再放送のものばかりであり、あらかじめ、彼はどちらが勝ったかを知っていたのである。その話を三浦から知らされて私は憤激したが、その日に梅崎さんは大量の吐血をして病院に運ばれていった。
かけつけた時は、もう彼は半ば意識がなかった。まだ文壇の友人も雑誌社の人もだれも来てはいなかった。私は三浦と手わけしてアチコチに電話をかけたが、やがてみんな集まった頃、容態は絶望的になってしまった。
賭金はあの世で払う
それは消毒薬の匂いのする大学病院の廊下に夏の夕暮の陽が照りつけている午後だった。医者が頭をさげて病室を出た時も私にはまだ、この先輩が死んだと信じられなかった。彼の小説のことはもとより、彼とのさまざまな思い出が頭に次々と甦《よみがえ》ってくる。初めてこの先輩と会った時に街頭易者のところにつれていかれて、才能、未来を占わさせられたことまではっきり思いだされてくる。
安岡と三浦と廊下にションボリ腰かけていると、安岡が、
「いつか、俺たちも一人一人、こうなっていくんだなア」
と呟いた。私は私で、彼にボクシングの賭で負けた二千円をまだ払っていなかったことも考えていた。そしてやがて安岡の言うようにメイドに行くようになった時は、その二千円をもっていこうと思った。
梅崎さんが死んで、私は彼の卒業した九州|修猷館《しゆうゆうかん》高校の文芸部から一冊の会誌をもらったが、それには中学二年の時の梅崎さんの作文がのっている。『武丸の正助翁』という題だが、お世辞にもウマい作文とはいえぬ。この正助翁というのは親に孝行した人らしいが、二年生、梅崎春生はその墓に参って「今からきっと孝をつくし父母の心を安んじなければならぬと決心した」ところ、効験あらたかにも最近「叱言を受くることも減ずるようになった」という作文で、私はそれを読み、爆笑した。もしこの作文をもっと早く手に入れられたならば、どんなにあのイジワル先輩をからかうことができたかと、まことに残念でならなかったのである。
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三浦朱門氏の巻 この彼にホラはあり得ない[#「この彼にホラはあり得ない」はゴシック体]
正月元旦から風邪をひいて寝こんでしまった。タチの悪い風邪で今日に至るまで、まだ本復しない。煎餅《せんべい》布団から首だけ出して、ハナばかり、しきりにかんでいると、飛んで火に入る夏の虫のたとえ通り、三浦朱門から電話が突然かかってきた。
「へえー。俺かて風邪ひいとるんや。まだ咳が出よんねん」
三浦はヨソ行きの人には標準語で話すが、我々友人には標準語と関西弁とのチャンポンでものを言う。彼は東京の生れだが、旧制の高知高校を卒業しているので、関西弁もその時、憶えたのであろう。
「そやけど、お前みたいに寝てへんワ。元旦から原稿、書いとるんや。俺、二月からアメリカ行くよってん、今のうち仕事しとるのや」
昨年、三浦は『箱庭』で文学賞をうけた。今年の彼はアレコレと忙しくなるであろう。
「お前、紙のいらへん便器、知っとるか」
突然、彼は妙なことを言う。
「紙のいらへん便器、買わへんか、水上勉さんも買《こ》うたで」
三浦の話によると、その紙のいらへん[#「いらへん」に傍点]便器は湯と熱風が吹出るようになっていて、用がすむと、便器の中から吹出した湯が尻を洗ってくれ、さらに洗った尻を熱風が乾かすという仕組みになっているのだそうだ。
「お前、買う気か」
と私がびっくりしてたずねると、三浦は、
「俺、買いたいねんけど、女房がイヤや言いよんねん」
しかし私の友人たちはそろいもそろってなぜ「シモ」の話がこうも好きなのであろう。シモの話になると眼の色をかがやかせて彼らが話すのを、私は長い歳月いつもその横できかされてきたものだ。
「お前は」とある日、吉行淳之介が非常にシンコクな顔をして私にたずねたことがある。
「便所に行って電車切符一枚ぐらいの小さな紙きれしかない時、これでどう尻を始末するか知っとるか。アーン、知っとるかね」
私がもちろん知らぬと言うと、吉行は一生懸命教えてくれたものだ。電車切符一枚ぐらいの小さな紙で始末をする方法を……
学識豊かな純潔紳士
だが三浦はシモの話は好きだが、我々仲間のうちでは学識豊かなジェントルマンで通っている男である。小説家のくせに、もう長い長い間日本大学で教えている。一日に一冊は必ず本を読みあげる。きくところによると、授業態度は非常にきびしいそうで、
「俺、自分の義務をキチンと守らん奴、嫌いやねん」
とある日、彼は私に呟いたことがあるが、私はその言葉をきいて、むかし彼の教えている日本大学を受験して落っこった経験があるだけに、あの時浪人三年の俺を落した試験官は彼ではなかったろうか、いやそれでは年数が合わぬがと、ぼんやり考えることがある。そんな彼だから時折、バーなどに誘っても、居心地が悪いらしくツマらなそうな顔をしている。彼が最近だした随筆のなかに「自分は身も心も浄《きよ》らかなままで結婚した」と書いてあったが、これは本当であろう。結婚前も結婚後も浮気など一度もしたことのない男――それが三浦朱門なのである。
彼がある日、私にシンコクな顔をしてこう言ったことがある。
「小説の場面で、温泉マークを書く必要があるんやけど、俺、温泉マーク行ったことないねん」
「そんなら奥さん(曽野綾子)と見物に行ってみたら、ええじゃないか」
とこっちがすすめると、四、五日して情けなさそうに、
「女房に、俺、何もせえへんから[#「何もせえへんから」に傍点]、温泉マーク行こ、言うたら、イヤやと首ふりよるねん」
と嘆いていた。で私は思わず笑いだしてしまったが、笑ったのは彼が夫婦で温泉マークを見物に行こうとしたことではなく、「俺、何もせえへんから」とわざわざ女房に断った点である。全世界広しといえども、自分の女房にむかって自分は指一本ふれないから逆さクラゲに行こうと頼んだのはわが三浦ぐらいのものであろう。
酒はのまんが、この男、大飯ぐらいで、
「朱門は茶碗で食わぬ。おヒツで食う」と我々の間では評判があるくらいだ。その彼の大飯ぐらいのために、私は数年前、ひどい目に会ったことがある。
それはその年も終ろうとするかなり寒い日だった。我々文士は大体毎月、二十日から二十三、四日ごろまではたいてい忙しい。このころ、締切りが重なるからである。特に十二月は印刷所の関係でメチャメチャになる。
だからあれは二十四日以後の寒い日だった。ともかくも一年の仕事を終えた私は、急に温泉でも行って手足を思いきり伸ばしたくなり、三浦を誘うと彼も行くと言う。
そういうわけで汽車にのって伊豆に出かけることにしたのであるが、私の気持としては熱川ぐらいに行って、ノンビリ一晩を休養するつもりだった。
ところが小田原をすぎたころから例によって三浦が「腹がすいた」と言いはじめた。小田原で彼はすでに駅弁をたいらげたはずだが、何か食うとかえってすぐ空腹になる男だから仕方がない。やむをえず私は熱海でおりて、ここで一泊することにしたのである。
前置きが少し長くなったが、許して頂きたい。実際、この時、三浦の腹の虫が泣きはじめなければ、我々は熱海におりることはなく、熱海でおりなければ、我々は世にもふしぎなあの出来事にぶつからないですんだのである。
熱海におりると、風のつめたい駅前広場は既に夕暮で、旗をもった客引たちが五、六人、改札口を出た我々のそばによってきた。それがウットウしいので私と三浦はわざと広場をぬけて、東海道線のガードをくぐり、北側の山にむかう坂路をのぼりはじめた。そちらのほうが閑静な旅館があるような気がしたからである。
線路を左にみおろせる崖ぞいの路を歩いていると、向うに日の暮れた熱海の町と暗い海と燈台の灯がみえた。曲り角に一軒、イキな作りをした宿屋があったので、我々はそこに泊ることにした。
それは宿屋というよりはむしろ、大きな別荘といったほうがいい家で、門を入ると玄関まで石段があり、石段の右は竹藪になっていた。そしてこの竹藪のなかにやがて問題になる離れがあったのである。
ともかく、我々はこの家で風呂にはいることができ、晩飯をくった。久しぶりに仕事をはなれて、熱い湯にのびのびと手足を伸ばし、もう今年は締切りもなくなったと思うと気持がよかった。
湿った男のささやき
晩飯をくったあと三浦をさそって町までパチンコをしにいった。成績あまり芳しからず、羊カンと煙草一つずつしか賞品がもらえなかったのは今でも覚えている。少し寒さにふるえながら宿屋に戻ると女中が、「お床は離れにとってございます」と言う。さきほど見た石段の右側の離れである。三浦と私は庭下駄をつっかけてその離れに行った。
離れは四畳半と八畳とがつづき、手洗いがついていた。八畳の部屋にはすでに布団が二つ敷かれ、真中に行燈《あんどん》風のスタンドと、灰皿とコップをかぶせた水差しとがおいてある。おそらくここは新婚さん用の特別室なのであろうが、客がないので我々に使わせてくれたのであろう。
「便所が鬼門の方向にあるワ」
用をたしていた三浦が部屋に戻ってきて、すでに寝床にもぐりこんで煙草をすっている私に言った。三浦が鬼門などというのはおかしかったが、何事も用意周到なこの男は一緒に旅行してホテルや旅館に泊ると、必ず火事の際の逃げ道を調べる癖があるので、私は黙っていた。
時刻は十二時ちょっと前であった。私と三浦とは寝床で腹ばいになりながらクダらん話をしていたが、やがて、どちらからともなく寝ようと言いだし、灯を消した。灯を消すと向うの障子に竹藪の影がうつるのがみえた。そして遠くから「二番線を上り東京行急行が通過しまあすウ」という駅員の声がきこえてきた。その声をききながら、私はウトウトと眠りに入ったのである。
断っておくが、この時の私は精神的にも肉体的にも疲れていなかった。久しぶりに仕事をおえた解放感と友人との楽しい旅とで、むしろ心がはずんでいたと言ってよい。決して幻覚をみたり幻聴をきいたりする状態ではなかったと、今でも言うことができる。
私はまず胸がひどく重いのを感じた。ちょうど布団でグルグルと体をまかれて手足の自由がきかぬ――そんな感じにそれは似ていた。そして自分が覚醒しているのか、半ば眠っているのか、自分でも判別できずにモガいている気がした。ただわかっているのは、男が私の耳にベッタリ口を当てて、囁いているということだった。
「俺は……」その声はこう言っていた。
「ここで自殺したのだ」
「自殺した」と言ったのか「死んだ」と言ったのか、今はその記憶は曖昧《あいまい》である。いずれにしろ声はそのような意味のことを三、四度くりかえして言った。
私は眼をあけた。闇である。向うの障子に竹藪の影が依然としてみえる。三浦はもう眠ったのであろう、石のように静かだ。
イヤな夢をみた――と当然、その時、私は思った。幽霊とかお化けなどというものを勿論、私は信じてなぞいない。そんな子供じみたものは存在するはずはない。だから私はまた眼をつむって眠りに入ろうとした。
と、ふたたび同じことが始まったのである。息ぐるしくなり、体がしびれるような感じがして身動きができず、またもや耳に湿った男の口がよせられ、
「俺は……ここで……自殺……したのだ」
恨むがごとく、呪うがごとく言うのである。そして私は眼をあけた。
今度はさすが薄気味が悪かった。よほど三浦を起そうかと思ったが、そんなことを言っても、
「またウソこくな」
と怒るにちがいない。だから私は無理矢理に眼をつむって眠ろうとした。
なかなか眠れない。時折、窓をならす風と竹藪のきしむ音が急に耳についてくる。私はできるだけ他のことを考え、やがて考えることがなくなると、ふたたび浅い眠りに入った。そして、例のことがまた始まったのである。「俺は……ここで……自殺……したのだ」
二人とも腰がぬける
私ははね起きた。もうたまらなかったからである。
「三浦」と私は闇のなかで叫んだ。「変な声がするんだ。自殺したとか、なんとか、言うんだ」
すると、眠っていたはずの三浦が、パッと電気をつけた。顔が紙のように蒼白である。
「ほんまか」
「本当だとも」
「俺、見たんやでえ」
「何を見たんや」
三浦は怯《おび》えた声で話した。眠りについた彼は私の呻き声で眼をあけた。(私はウナされていたそうである)――と、部屋全体は真暗なのに二人の布団の間だけ、ほの白くなっていて、そこに誰かがうしろ向きに坐っている。灰色のセルの着物を着た男の背中なのだ。すぐ三浦はスタンドをひねったが、何も存在していなかった。
幻覚だなと三浦は思い、灯を消しふたたび眠りについた。だが、また眠りからさめて眼をひらくと、灰色のセルの着物を着た男の姿が、二人の布団のあいだにみえた。思わず布団に顔を埋めた時、私が叫んだのである。
断っておくが、堅物の三浦はこんな時決して嘘をつく男ではない。私のような男ならそういう時、相手をオドかすために俺も見たなぞと言いかねまいが、何しろ温泉マークに「何もせえへんから」と女房を誘って断られた男である。私は彼が決して嘘を言っているのではないと、その蒼白な顔とふるえ声とでわかった。
私たちはしばらく、じっとしていた。スタンドの灯が部屋をほの暗く照らしている。一体どうしていいのかわからない。三浦も私もただ布団に俯《うつぶ》せになって随分ながい間、じっと黙っていた。こんな異様なヘンてこな出来事には生れてはじめてぶつかったので、どう行動していいか、わからないのである。
「お前え……」彼は突然、言った。「お祈りせえや」
「そんなもん、効くかい」
突然、私の頭に始めて、逃げる[#「逃げる」に傍点]という考えが浮んだ。なぜこの名案が始めから我々二人に浮ばなかったのか。
「逃げよッ」
私はそう叫ぶと布団をとび出たが、驚いたことに腰がいうことをきかぬ。ヌケていたのである。三浦も腰がヌケていたのである。二人は中風の爺さまのように畳に四つ這いになり、四畳半のむこうにある出口に向って懸命に這い出ようとした。
這っている三浦の尻が寝まきから出ている。私も同じ格好だったにちがいない。三浦より遅れると、うしろから冷たい手でつかまれそうな気がして、私は夢中で三浦を追いぬいた。すると三浦が左手で私をうしろにやろう、やろうとするのである。彼も同じ思いだったにちがいない。
やっと外に出ると、私は思わず樹の根に吐いた。人間、異常な目にあうと嘔《は》き気を催すものらしい。
この話は本当なんだ
三浦は母家のベルをならし、女中をよんだ。寝まき姿の女中はねぼけ眼で、「変なことがありまして」と言った三浦に「ああ、そうですか」と答えただけである。そして黙って母家の部屋に寝床を敷いてくれた。こちらも黙ってそこに横になった。口に出すのも不快な嫌な気がしたからである。
翌朝、空は切りぬいたように碧《あお》かった。私と三浦は離れにおいた荷物をとりに入ったが、あの部屋にも冬の陽がさしていた。何も変ったことはないのである。とすると、あれは私の幻聴で、三浦の幻覚なのであろうか。しかしそうだとしても、同じ場所で同じ時刻、幻覚、幻聴が二人の人間に同時にありうるか、今もってわからない。
我々は早々に東京に引きあげてきた。温泉に手足を伸ばすどころではなかったからである。帰宅すると、私は原因不明の熱をだして三日間ねこんでしまった。
三浦は奥さんの曽野綾子に事の次第を話したが彼女は信じなかった。
「あなた、遠藤さんとどこかでワルいことしてきたから、そんなこと二人で作ったんでしょ」
と彼女は言ったそうだが、曽野さんよ、この話は本当なんです。
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柴田錬三郎氏の巻 錬さんの教えを守り芥川賞[#「錬さんの教えを守り芥川賞」はゴシック体]
あれは梅崎さんが易者に私をつれていった頃である。私は本屋の店頭で『三田文学』をパラパラと立読みしていた。正直な話、その時まで自分の母校である三田にどのような若い作家が出ているのか、あまり関心がなく、その雑誌を手にとったのも買うためではなく、ただ軽い好奇心にかられたためにすぎなかった。
と、編集後記に柴田錬三郎という名で次のような意味の文章が書かれているのが眼についた。
「新人のいかに稚拙な原稿でもそれが真剣に書かれているたならば、襟をただして読むであろう」
私が柴田さんの名を知ったのはこの時が初めてである。今でこそ『眠狂四郎』の作者の名は世にひろく知られているが、当時の柴田さんはまだ無名の作家だった。小説を書くかたわら、読書新聞の編集をしていた頃なのである。
私は走って家に帰り、それから『三田文学』に電話して、原稿をみてもらうにはどのような手続きをすればよいのかを訊ねた。電話にでてきたのは女の人だったが、親切に、次の土曜日に同人の方たちの集まりがあるから、邪魔にならぬよう、そっと出席してもいいと教えてくれた。
六月の梅雨の季節でその土曜日は霧雨だった。私としては先輩の集まりなどに出るのは初めての経験だったから、これでもかなり緊張していたものとみえる。神田のN書店の一室でその『三田文学』の集まりがあったのだが、私がついた時は既にその会合は始まっていた。十四、五人ほどの先輩たちが車座になって話しあっていて、若僧の私が一礼して末席についても誰一人として見てくれる人はない。こちらはひどく場違いな所に来た気がして、足の痺《しび》れるのを我慢しながらそっとこれら先輩の顔をうかがっていた。
ふたりの笑わない男
教えられなくてもすぐ問題の柴田錬三郎氏はわかった。戦後まもない頃で他の人々が皆くたびれた洋服を着ているのにたいし、一人、真白なワイシャツと蝶ネクタイをしめ、縁なし眼鏡をかけて口をへの字にまげた人が真向いにいたからである。安岡(章太郎)はこの柴田さんの顔を「梅干を噛みしめているような顔」と書いていたが、これは言いえて妙である。
他の人が笑っても彼は口をへの字にまげたまま、「くだらん」という表情をたえずつづけていたし、特に私を驚かせたのは彼の黒々とした長髪だった。要するに縦から見ても横から見てもこの人は、勤め人とはどこか違う風貌と雰囲気とを持っていた。私はその時、「文士」とはこのようなものであるのだなという気がして、この間みた『三田文学』の「新人のいかに稚拙な原稿でもそれが真剣に書かれているならば、襟をただして読むであろう」という言葉をふたたび思いだしたのだった。
座がわいてもほとんど笑わない柴田さんのすぐそばに一人、柴田さん以上に――もうこれは頬も唇も絶対にうごかさぬ人がいた。その人はむかしの小学校の小使さんの着たような古い黒の詰襟の服を着ていたが、私はそれよりも彼の蝋のように蒼白な顔に驚いた。その人は陰鬱そうに大きく眼をみひらき、虚空の一点をじっと見つめている。まるで周りの者の話は彼の耳に入らぬかのごとくである。(こういう比較は失礼かもしれぬが、林家三平がいくらワメいても、観客を笑わせても、彼のアコーディオン伴奏者で絶対笑わぬ人がそばに立っている。あの人をみるたび、私はこの最初の日のこの先輩の顔を思いだす)
私は一体、この人は誰だろうと思っていると座の一人が、
「なあ、原民喜さん、そうじゃありませんか」
と話しかけた。驚いたことには話しかけられたにかかわらず、その原さんと呼ばれた人は返事をしなかった。石のように黙っていた。
会はどうやら前号の『三田文学』の合評会らしかったが、私にはよくわからなかった。会が終って原さんのところにいき、自己紹介をしたが、この人は私の顔を大きな暗い眼でじっと見つめたきり、ウンともスンとも言わなかった。
こうして『三田文学』の集まりに出られるようになると、余り人見知りをしない私はこれら先輩のところによく遊びにいくようになった。中でも私が一番、出かけたのはあの集まりで終始「笑わず」に口をへの字にしたままの柴田さんと、これは笑わぬどころか化石のごとく全く無表情のまま一言も発しなかった原民喜さんのところであった。その理由は色々あったが、私のようにシャベリまくる男には、こういう二先輩はまこと不思議そのものの存在であり、一体、なぜ口をへの字にまげて笑わぬのか、あるいは化石のように無表情なのか、それが知りたかったからである。
ところが柴田さんの家にたびたび行くようになると、彼、必ずしも笑わぬ人ではないことが判明した。柴錬さんにははなはだ恥ずかしがり屋の面があり、笑うとその顔に照れくさげな人なつっこい表情が浮ぶ。おそらく柴田さんはそれゆえに口をへの字にいつもまげているのかもしれない。
当時の柴田さんは奥さまが御病気で入院されていたため新宿柏木にお嬢さんと二人で住んでいた。今でこそあのあたりは家がこんでいるが、その頃は戦災で一面に焼け野ガ原となり、夏など、暑くるしくキリギリスの鳴くトウモロコシ畠に彼の家がポツンと立っていた。まだ直木賞をとっていなかったこの先輩にとっては、生活のために子供むけの名作物語を次々と書いている悪戦苦闘の時代であった。私がその彼のところに行ってはペラペラペラとしゃべりつづける間、錬さんは口をへの字にまげてそれを聞いており、最後にただ一言「くだらん」と吐き棄てるように言うのだった。
彼にとっては私のペラペラ話がくだらんのみならず、あり余る自分の才能をまだ発揮させてくれない世間とジャーナリズムにたいする不満をこの言葉にこめて言っているようだった。
当時、私は目白の女子大を出たある娘にゾッコン熱をあげはじめていた。その女性は当時、日本橋にあって川端康成氏や久米正雄氏が役員となっている鎌倉文庫という出版社に勤めており、その関係で柴田さんとも何となく知っているようであった。
「汁粉のみにいこう」
私は彼女の退社時刻を狙ってはその勤め先のまわりをウロつき、彼女が出てくると電信柱のかげからあらわれて「汁粉のみにいこう」と誘っては、まだバラック建ての喫茶店で大熱弁をふるうのであるが、彼女はどうしても首を縦にふらない。私は親友の三雲夏生(現・慶大教授。本稿第二回目に出た男)に相談すると、三雲はシンコクな顔をして自分が言うてきかせようと言い、二人で彼女を屋台の焼鳥屋につれて行き、私が泣きマネをすると三雲が約束通り、重々しい声で、
「ああ泣いておるが、あなたは何も思いませんか」
と言っても、彼女は「何も思いません」と冷たい返事をするのだった。そこで三雲が、
「君は一体、どんな男に心ひかれるのですか」
とたずねると、初めてニッコリ笑い、
「柴田錬三郎さんみたいなしっとりした中年の人」
と答えたのである。
ムッとした私は早速、柴田さんのところに駆けていき、この中年男の魅力が一体どこにあるのかを今までとは違った眼で観察してみた。柴田さんは相変らず、キリギリスの鳴くトウモロコシ畠の一軒屋で、人も世も「くだらん」という表情で煙草をふかしながら子供向けの名作物語を書いていた。が、私はその横でジロジロ見てみると、彼は相変らず口をへの字にまげているのみならず、時折、鼻をフンフンとならしながら、卓上の煙草を一本とっては口にくわえ、細長い指でライターをパチンとつけるのである。何でもない仕草なのだが、そこにはいかにも人生に飽き飽きしたという雰囲気があり、それが一種の魅力になっているように私には思われた。
私はその娘のことは一言もしゃべらず、家に戻ると、鏡の前にたってさきほど見た錬さんの表情を思いだして口をへの字にまげ、煙草を横ぐわえにくわえてライターをパチンとつけ、鼻をフンフンとならしてみた。と、何となく自分にも中年男のしっとりとした魅力が出てきたように思われたのだった。
半年も蓄膿をマネる
今考えてみると、あの頃の自分は実に馬鹿だったと思う。しかし読者にもきっと経験があると思うが、恋をした若者とは全体、馬鹿と同じようになるものであって、あの頃の自分もそう思えば仕方がない。ともかく、私はそれから二週間ほどは錬さん的ポーズと錬さん的表情をたえず、とっていた。友人が話しかけてもムッとし、人生社会これ悉《ことごと》く面白くないように口をへの字にまげ、
「そうかね、フン。くだらんな、フン」
とフンフン鼻をならしていたわけである。
後年、私は柴田さんと雑談していた時、|偶※[#二の字点、unicode303b]《たまたま》、あの娘のことが話題にのぼった。もちろんその娘は私の懸命だが愚かしい努力にもかかわらず、別の男性と結婚して今は幸福な結婚生活を送っていることを私も聞いていたのであるが、私があの頃、自分はフンフンと鼻をならすことまで、あなたを真似たのですと言うと、柴田さんはびっくりしたように私の顔をみた。
「おめえ、ほんとかね」
「ほんとです。あまり真似をしたため」と私は答えた。「それがすっかり癖みたいになって、半年ほどの間、鼻をならしつづけるのが治りませんでした」
「おまえ」
柴田さんは甚だ困ったような、照れくさげな笑いを頬にうかべた。そしてひくい声で、
「おまえ……俺あ、あの頃、蓄膿症だったんだよ。だから鼻をフンフンいつもならしていたんだぞ」
驚愕したのは私だった。十年まえ私はこの先輩の蓄膿症を中年男の魅力とまちがえて半年も真似をしていたのだから。
トウモロコシ畠の一軒屋で雌伏しているこの先輩は非常にお洒落をして外出する時と、そうでない時との二種類があった。洒落る時は蝶ネクタイをしめ、黒いスーツを着て銀の柄のついたステッキを持って歩いた。当時の柴田さんはボードレールやリラダンが好きだった。特にリラダンの巧妙な反俗的な短篇のことがしばしば、彼の口にのぼった。
「おまえ。面白い小説というのはドンデン返しが一つだけじゃあ駄目だ。一度ドンデンがえしをしておいて、更にもう一回、それをひっくりかえす。結んで開いて、また結ぶ」
洒落ない時は柴田さんは家で着ていた丹前姿のまま新宿に出かけることもあった。「俺は体中、病気だらけだ。どうせ長く生きんだろう」そう彼が呟くと、私は本当にこの人は長くないのではないかと思った。安岡も書いていたが、私も一度、柴田さんが地面にペッと唾を吐いて、
「うむ、血痰だ」
と五、六歩、歩いてから言ったのを聞いたことがある。しかし、あとでわかったが、柴田さんは一度も胸をわずらったことはなかったのである。これも彼の創作だったわけだ。
だが、ある日、私はこの先輩の物語をつくる素晴らしい才能をまのあたりに見たことがあった。ある日、彼のうしろから歩いていると、道で子供が輪投げをして遊んでいた。彼はそれをジロッと見て通りすぎた。もちろん、私も平凡な街の夕暮の風景の一つとしてしか見なかったのである。
小説技術の一ヒント
けれども、それから、しばらくして、彼の書いた小説にその場面が、変容されて使われているのを私は発見し、あらためてびっくりしたのである。どのようにそれは変容されて使われていたか。これは錬さんの小説技術の一ヒントになるかもしれぬので書いておこう。
一人の女が旅をしていた。彼女はある森のそばで雲助たちにつかまって乱暴されかかったのである。着ているものを次々とはがれ、あわや腰巻までとられた時、突然、むこうの叢から一つの笠が舞いあがり、それは裸にされんとした彼女のお腹の上にフワリとかぶさり、かくすべき所をかくしてくれたのである。そして叢から、一人の虚無僧がスックと立上ったのであった。
私はそれを読んだ時、思わず「ウム」とうなってしまった。そしてきいてみると、はたせるかな柴田さんは照れくさそうに、
「ああ、あの子供の輪投げを一寸、使ったのさ」
と答えた。子供の輪投げから、こうした場面を作れるというのは柴田さんでなくてはできぬことであろう。
私は自分にこのような面白い小説を作る才能はないとしみじみわかったので、二十枚ほどの地味な小説を書いてこの先輩に見てもらうことにした。「それが真剣に書かれているならば、襟をただして読むであろう」という彼の言葉を憶えていたからである。
忙しい錬さんだから、まだ読んでくれていないだろうと思ったが、矢もたてもたまらず二、三日して出かけてみると、錬さんは相変らず口をへの字にまげ机に坐っていたが引出しから私の小説をとり出した。みると朱筆がギッシリ入っている。私はその日、二時間、この先輩から小説のデッサンの仕方を教わった。その教わったことは今でもハッキリ憶えているし、今日『三田文学』の編集をやるようになって若い後輩の原稿を読むたび、自分にも、忙しくてもギッシリ朱筆を入れてくれた先輩があったことを思い出す。
この朱筆を入れてもらってから半年後に私は芥川賞をもらった。すぐ錬さんのところに報告にいくと、彼は私が今までみたことのないような笑顔で、
「ああ、とったな」
ただ一言、そう言ってくれたが、私は嬉しかった。芥川賞をもらった小説は錬さんに教えてもらったことを注意しながら書いていたからである。
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原民喜氏の巻 あまりに無垢で哀しい人[#「あまりに無垢で哀しい人」はゴシック体]
『三田文学』の集まりに、はじめて私が出席した時、誰にも話しかけず、話しかけられてもほとんど口をきかぬ奇妙な人のことは前回で少しふれた。その人はまわりの声もほとんど耳に入らぬように、大きな哀しそうな眼をみひらいて、どこか遠くの一点を見つめていた。それが原民喜《はらたみき》という作家だった。
原民喜の名はおそらく今日、多くの読者は御存知ないかも知れぬ。彼の作品はごく僅かだし、あまりに早く死んだからだ。しかし読者よ、もしこの一文によって原民喜の名を記憶されたならば、彼の『夏の花』という作品を読んで下さい。あるいは数少ないその短編をひらいて下さい。『夏の花』は、戦後いくつも書かれた広島原爆の日を語る作品のなかで、最高のものである。そこには大声も大きな身ぶりもない。そこにあるのはその日を体験して、大きな哀しい眼で全てを目撃した語り手の声である。
原さんは原爆の日、広島であの地獄のような一日をおくった。私がその原さんを知ったのはそれから三年目、妻も子供もいない彼がたった一人で先輩の丸岡明氏の家に『三田文学』を手伝いながら下宿していた時だったのである。
原さんという人物の外形をどう説明したらよいだろう。たとえば皆さんに、外に出かける時でも電車に乗る時でも一緒につれていってやらねば、こちらが心配でならぬというような小さな弟がおられるだろうか。それは、その弟が世間のことにいっさい馴れていないためだけではなく、あまりに清らかで、あまりに無垢《むく》なために、それを傷つけてやりたくない――そんな気がして、いつもそばに寄りそってやってしまうような弟。そんな弟がおられるだろうか。
もしそんな弟がいるとしたら――それが原さんの周りの人々に与える印象だったのである。二十歳もちがう先輩の原さんのことを弟などと比較するのはおかしいが、文学のことを除けば、原さんは私のようなずっと下の後輩も、そばに寄りそっていなければあぶなっかしくて見ておられぬ気持を起してしまう――そんな人だった。
佐藤春夫氏がこのことにふれて、はじめて佐藤春夫氏の門をたたいた時、原さんは、奥さんに連れてきてもらって、彼女のかげに、まるで子供のようにかくれ、奥さんに何もかもしゃべってもらっていたと語っておられたが、この光景は、我々には眼にみえるようである。
天上が憧れの世界に
原さんの奥さんは評論家、佐々木基一氏の姉上にあたる美しい人だったが、彼女は病気でなくなる前、自分が死んでしまえばこの人はどうなるだろう、とても死ねないと言ったそうだ。電車一つ乗るにも、切符を買ってやり、この次の次で降りるんですよと念には念を入れて教え、いや、この人のことだから、もし間違ったら子供のように哀しそうな顔をして、途方にくれるだけだと思うとついに一緒に電車に乗ってしまったその時の夫人の気持が、私にはよくわかるような気がする。
原さんは、懐中に死んだその夫人の写真をいつも持っていた。私はそれを見たことがあるが、娘のように若く美しい人で、酒によった原さんは、
「これは、ボクの姉です。姉です」
と呟いていたけれども、それはたんに照れかくしだけでなく、この奥さんが生前、何もできぬ原さんを姉のように保護し、かばったからであろう。そしてその夫人を失った彼にはますます彼女と、彼女の住む天上の世界が憧憬の対象となったにちがいない。子供のような彼の細やかな心を傷つける地上のものがあまり多ければ多いほど彼は夫人のいる天上の世界に一日も早く行きたいと考えていたにちがいないのである。
にもかかわらず、原さんがまだ生き[#「生き」に傍点]つづけていたのは、原爆の日のことを人々に語っておかねばならないからだった。それを語り終えた日、彼はこの地上にさようならを言い、遠くに旅だつであろう。
私はこんな光景を見たことがあった。ある夕暮、私は外食券食堂に一人さびしく食事にいく原さんと神保町を歩いていた。ヨレヨレの合オーバーに、よごれた鳥打帽というのが原さんのいつもの服装だったが、少し猫背気味でポケットに両手を入れて歩く彼に私はペチャクチャと、くだらん話をしかけていた。その時、都電が私たちの横を通過した。そして電線から火花が散ったのである。
その時、原さんの体は突然|痙攣《けいれん》した。いつもは哀しげなその眼が恐怖で大きくみひらかれ、痙攣した体はそのまま、しばらく硬直していた。
「どうしたんですか。原さん」
私はびっくりしてたずねた。
「あのネ」しばらくして原さんは呟いた。
「あのネ、ぼくはネ、原爆の時、あんな光をみたもんだからネ」
ところが、たった一人ぼっちの原民喜の寒い生活に、ある日、灯をともすような出来事が起ったのである。彼は一人の少女と知合いになったのだ。
それは夏の夕暮のことだった。私は今、NETにいる根岸茂一と、原さんを真中に入れて神田の裏道を歩いていた。私と根岸は声をはりあげて「伊豆のやまア、やまア、つきイあわくウ」という流行歌を歌い、原さんにも歌えとしつこく誘っていた。
「あのネ、ボクはネ、歌えないヨ」
と原さんは断り、困ったようにうしろからついてきていた。
その時、突然、一羽の鶏がバタバタと羽ばたきながら横道から飛出てきた。そして大きな籠をもった十七、八の可愛い少女が、その鶏を追いかけて走り出てきた。私と根岸とがバッタのように鶏にとびかかり、つかまえてやると、少女は顔を赤らめて礼を言った。
「なア、遊びにこいよ、来いったら」
と私たちは厚かましく誘い、原さんの住んでいる場所を教えてやる間、当の原民喜は、我々後輩のうしろでハニかんでモジモジとしていた。
原さんと少女の交遊
その日から少女と原さんとの父と子のような交遊がはじまった。少女は夜おそくまで机の前に坐っている原さんの部屋の窓をコツコツと叩いてふかした芋を手わたした。すると原さんは書棚から本をだして、
「これ、読みなさい」
と貸し与えるのだった。
そのくせ彼は自分一人ではとてもこの少女に会いにいくことはできなかった。その都度、彼は我々後輩に一緒についていってくれと頼むのだった。当時、原さんの面倒をアレコレみていた元『群像』編集長、大久保房男氏が一番そのデートに立会わさせられた。大久保氏は後々までも「あんなにアホくさい役目をさせられたのは初めてだった」と言っていたが、それは無理もなかろう。喫茶店でその少女を前にしても原さんはただ牡蠣《かき》のように口を閉じているきりで、立会わされた大久保氏はそのたびに、原さんの代りにしゃべらねばならず、こんなアホくさい役目はないだろう。
私も一度、原さんにたのまれて少女の家まで彼をつれていったが、彼女はあいにく、風呂屋にいって留守だった。
「帰りましょう」
と言うと原民喜は、
「あのネ、風呂屋は近いけどネ」
と小声で言う。仕方なしに風呂屋まで伴い、女湯の前でじっと立っていると、金ダライを持って出てくる女客がうさんくさそうに我々を眺めるのでホトホト閉口したことがあった。
断っておくが、原さんのその少女にたいする愛情は父親のようなものであり、それ以外ではなかった。地上の地獄絵をみた彼はそんな少女が二度と、火にやかれ、むごたらしい人生を終ることのないのを、せつなく願っていたのであろう。そしてその少女の存在は、ちょうど原さんの氷のような孤独な夜にわずかだが小さな灯をともす洋燈の役割をしたのだろう。
だが、それがいつまでも続くものではないことを彼は知っていた。あの地獄絵を語った作品を完成し、その静かな証言をおえた彼には、あとは死を急ぐ気持が少しずつ起っていたにちがいない。しかし彼が死を決心したことを、我々周りのものの誰もが気づかなかったし、感じもしなかった。私自身といえばその年、思いがけぬことから仏蘭西《フランス》留学がきまり、その嬉しさと準備とで夢中になっていた。原さんの心の秘密を見ぬく余裕がなかったのである。
春になったら雲雀に
その年の冬は原さんにとって長く、辛いものだったにちがいない。婦人雑誌などから高い稿料で注文がきても断るほどの彼は、収入も少なかったし、貯金も使い果していた。私はそんな彼を元気づけるため、少女をつれて原さんと三人で多摩川の河原に行き、茶店でおでんを食い、ボートを漕いだ。陰鬱な原さんの顔がその時、少し晴れ、少女はボートから手をだして、川の水をすくい、
「春が近いわ。水がこんなに暖かくなっているもの」
と言った。私は春がくれば、この日本を去って遠い国に勉強をしにいくのだなと思った。原さんはその時、ポツリと言った。
「あのネ、ボクは春になったら雲雀《ひばり》になって天に昇るかもしれないね」
少女も私も声をだして笑ったが、二人とも原民喜がその言葉で何を言おうとしているのか、わからなかったのである。
その春がやってきた。私の出発はいよいよ間近くなった。
明後日、ついに船に乗るという日、急に思いたって彼の下宿まで出かけた。原さんはその頃、神田を引きはらって吉祥寺に下宿していたのである。その吉祥寺駅までの道を一緒に歩きながら、彼は暗い顔をして呟いた。
「あのネ、ぼくもあることを近くやるけどね」
「あること? 何をやるんですか。長編を書くんですか」
うかつにも私はそのあること[#「あること」に傍点]を彼の自殺とは気づかなかった。仕事だとばかり考えていた。
「今は言えないね。やがて、わかるだろ」
彼は駅にくるまでついにそのあることを伏せた。さようなら、と言い、うしろをふりかえると鳥打帽に灰色の古背広をきた彼の背中がさみしかった。
出発の日は雨がふっていた。私は一人で横浜にいくと、先輩や友人たちが沢山、見送りに来てくれていた。今とちがって、敗戦国の日本の青年が海外に行くのは至難の頃だったからである。どこの国にも日本大使館はなく、私はビザを手に入れるまで一年かかった。
私の船室は船室といえる場所ではなかった。それは船荷をつむ船艙《せんそう》であった。そしてそこには、ベトナムから日本兵の戦犯を護送してきた仏蘭西外人部隊の、顔に白い入墨をした黒人兵が二十人ほどゴロ寝をしていた。送りにきてくれた柴田錬三郎氏が、私をそっとものかげによび、
「お前、食われてしまうぞ。仏蘭西につく前に」
真面目な顔をして忠告してくれたほどである。
デッキにもたれていると、ドラの鳴るのがやみ、船がしずかに岸壁から離れはじめた。先輩たちの真中に、鳥打帽に灰色の古背広を着た原さんがじっとこっちを見つめているのに気がついた。
「おーい、原さあーん」
と私は手をふったが、彼はまるでその声も耳に入らぬように一点を見ていた。『三田文学』の集まりではじめて彼に出合った時と同じように何か遠いものを見つめている表情である。原さんは私の船出の場面を絶筆ともいうべき作品のなかに書いているが、原さんはその時、こう思っていたのだ。「去っていくのは彼ではない、わたしなのだ」と。原さんは陸を静かに離れていく私の船をみながら、間もなく自分が去っていくことを考えていたのである。
翌年の三月の夜、彼は吉祥寺の国電線路に身を横たえて、電車のくるのをじっと待った。そして間もなくその生命を断った。
その時、私は仏蘭西のリヨンという町で独《ひと》りぽっちの、かなり辛い留学生活を送っていた。日本人はこの町には一人しかいなかった。もちろん領事館も大使館もパリにはなかった。
リヨンで遺書を見る
下宿に、大久保房男氏からの二通の手紙が届いた。一通は大久保氏自身で原さんの死を知らせてくれた手紙であり、もう一通は原さん自身の遺書だった。原さんは大久保氏に、友人たちあてに遺書と遺品として自分のネクタイを一本ずつ送るよう頼んだのである。
「去年の春はたのしかったね」
遺書はその言葉ではじまっていた。多摩川に、あの少女とボートを漕ぎにいったことを言っているのである。そして最後に彼の詩が書いてあった。
遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ墜《お》つ 天地のまなか
一輪の花の幻
それから十年以上もたった。原さんの名も、原さんの名作『夏の花』も今は語る人は少ない。しかし、読者よ、もし機会あれば、この孤高で清純だった作家の本を開いてください。人間にはその人のことを思いだせば、胸がいたみ、その人が自分にとって一つの良心であるような存在にめぐりあうことがあるものだ。私にとって原さんとは、そのような人だったのである。
二年前、あの少女に縁談がおきた時、柴田錬三郎氏と大久保房男氏が彼女にそんな縁談はやめろと言っているのを横で聞いたことがある。
「やめろと、おっしゃっても」と、その少女は言った。「その人、いい方なんですもの」
「いい方か、どうか知らんが、そいつはリン病だから、やめろ」
錬さんは相手の名も人物も知らぬのに、目茶苦茶を言っていた。読者はとんでもない話だと思われるかもしれぬが、私にはよくわかる。大久保房男氏も錬さんも、その少女をいつまでも原さんと結びつけておきたかったのである。
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安岡章太郎氏の巻 せせら笑う黄金賞≠フ男[#「せせら笑う黄金賞≠フ男」はゴシック体]
三年間の仏蘭西《フランス》留学から戻った時、私はその年の芥川賞が安岡章太郎だと耳にした。安岡はその著書『良友、悪友』で、自分が三田時代知っていた遠藤周作というガラの悪い男がいち早く留学生になるなんて思ってもいなかったと書いていたが、私のほうも、芥川賞受賞者の安岡章太郎を、かつて見た安岡のイメージと結びあわせるのに、しばし時間がかかったぐらいだった。
たしかに三田時代の私はガラが良かったとは言えぬ。ここにも書いたように靴みがき、代返、闇屋、なんでもやったし、教室では大声でわめき散らしていたのも、安岡ののべていた通りである。
しかし安岡だってガラがいいとは言えなかった。私が三田の教室で時折みた安岡はほとんど授業には出席せずに、昼休みなどブクブクの復員服に大きなマスクを口にかけ、ボストンバッグを手にぶらさげて姿をみせる変な男であった。そして、
「君い、文学をやるためには、まず江戸趣味を養わねばいかんな。うん、そうだよ」
と周りの者に大声で言いきかせるのであったが、彼に声をかけられた者はただキョトンとして何と返事をしていいのか困りきっているのであった。なぜなら我々、仏文科の教室にいる者はほとんど当時、日本にも流行しはじめたサルトルに熱中するか、あるいは進歩的文学こそ文学であると考えている連中ばかりであったから、そこにやってきて、古くさい江戸趣味を養わねばいかんよオと話しかけられても、ただもうポカンとするのが当り前だったのである。
それに江戸趣味と言ったって戦災で焼けただれた占領下の東京のどこにそれを見つけるべきであろう。のみならず、こう言っちゃ悪いが、ブクブクした古びた復員服をきて大きなマスクをした当の安岡自身の格好には、江戸趣味もヘッタクレもあったものではなかったからである。だが断っておくが、それに気づかなかったのは安岡一人の罪ではない。話は少しそれるが、かの大宅壮一氏は生れてから顔を洗ったこともなければ歯をみがいたこともない。それは大宅氏自身の口から私がうかがったことだから嘘ではないだろう。その時も「うん。そうだ、近頃は料亭でおシボリがでるから、日中それで顔をふくこともあるが……」と呟いておられた。その氏が東京都を美化する委員会の席で都を美しくする方法を論じられた時、横の席にいた戸塚文子氏は大宅氏の肩がフケだらけなので思わず心のなかで「東京ヲ美化スル前ニ、マズ大宅氏自身ヲ美化サレタシ」と叫んだそうである。(これは戸塚さん自身からきいた話だから本当である)大宅氏のような大評論家でさえしかり。まして安岡や私のような小説家においてをやである。
彼の江戸趣味修業
だが安岡は我々に口だけで江戸趣味を養えと言うのではなかった。実は自身で、その江戸趣味をひそかに実践していたのである。その話は彼の『築地小田原町』という作品に詳しいが、作品は別として彼自身が白状した話によると、江戸趣味を養うべく、まずそれまで住んでいた家を引きはらって、下町に部屋を借りようと思いたったそうである。安岡としてはまず小股の切れあがった三味線のお師匠さんの二階をかり、前は白魚泳ぐ隅田川、遠くに桜の花かすみ、昼さがり近所の子供たちのおさらいする三味の音ききながら、徳利を枕元においてうたたねをする――まるで『若さま侍』の冒頭に出てくるような江戸趣味あふれた情況を胸に描きつつ下町を捜しまわったのであるが、やっとみつけた部屋は寒く、わびしく、聞えるのはブリキを叩く散文的な音。そして夜ともなれば、首と胸とが、痛がゆくなり、あわてて灯をつければ南京虫が逃げ走る。とてもとても「江戸趣味は辛かった」そうである。
そういうわけで留学を終えて帰国した私にはかつてダブダブの復員服を着て「文学をやるには、まず江戸趣味を養わねばいかんな」そう怒鳴っていた彼が『悪い仲間』や『ガラスの靴』の作者だとはどうしても思えなかったのは当然である。
だが久しぶりに会った彼はすぐ自分の仲間に私を紹介してくれた。それは「構想の会」というグループで後の「第三の新人」の母胎となったものである。目黒の飲み屋の二階で毎月一度ひらかれるその集まりは庄野潤三、小島信夫、近藤啓太郎、三浦朱門、それに安岡、そして評論家の進藤純孝や谷田昇平の八人で結成されていた。吉行淳之介はもちろんこの会の一人だったが清瀬の療養所で病を養い、手術後しばらくしてからやっと顔を出せるようになった。
庄野や小島のほうは文学の話を好んでしていたが、近藤や吉行や三浦や安岡だけだと、ウンチやオシッコの話でその会合は始まり、かつ終ることがよくあった。安岡が二週間も便秘でくるしんだあと、あるビルのトイレで一時間もかかって頑張ると、グワーンというすごい音がしてビール瓶の形とそっくりのウンコが出たという話をすると、皆はひどく感動し、
「うーん。ビール瓶みたいな糞かアー」
とふかくふかく、うなずくのであった。また吉行は女性の前で好んでシモの話をする男がよくいるが、男というものは嫌いな女には決してシモの話をしないものだ。多少でも好意をもった女だけにするものだとその心理を説きあかし、皆を感心させた。このように我々は他の文学者グループのように高邁《こうまい》な論議は一向にせず、ウンチの話ばかりしていたので、ある時、我々に一席もうけてくれた出版社などはビックラして、もう招いてはくれなくなったぐらいである。
安岡は私より一年先輩だったから、私には文学以外のことでも色々と教えてくれた。教えてくれるのはいいが、彼には人のことにケチをつける悪い癖があり、その眼からみると私の服装、趣味、言葉づかい、何でもダメなのであった。私がやっと貯金して洋服をつくり、それを着て彼にみせると、彼はひどく悪趣味だとケチをつけた。私がやっと古ぼけた家を手に入れ、友人たちを招待すると、安岡は私が死んだ時の葬式を想像し、この部屋を控室にしてお棺はここから庭に運ぼうなどと梅崎氏などと大声で相談しあい、嫌がらせをするのだった。そしてそれにくらべ、彼は自分の持物はすべて立派で趣味がいいのだと力説していた。
ある日、私は若い女性と神田のロシア料理店で食事をしていた。そのロシア料理店はかなり雰囲気があり、甘い音楽なども演奏されて、その女の子はすっかり陶然としはじめた。私も私で木石ではないから、いい気持で食事をしていたが、突然、理由もないのに不吉な予感が胸を横切ったのである。それはまるでドストエフスキーの小説心理のように原因もないのに、その不幸がまもなく襲ってくることが一つの確信となって咽喉《のど》もとにうかんできたのであった。私は思わず顔を食卓からあげ入口に眼をやった。果せるかな、そこにまるで黄金仮面のように安岡が眼を細め、うすら笑いをしながら、こちらを見ていたのである。
ハラマキを持出す男
「おや、お前、こんなところに来てたの」
安岡はアリョーシャに会ったイワン・カラマーゾフのごとく、もみ手をして猫なで声をだした。それから、
「俺を紹介してくれよ。この人に」
私は心のなかで、あっちに行け、こいつメ、と念じているにかかわらず、しつこく卓子《テーブル》にへばりついた彼は、我々の注文したロシア漬をまずパリパリと食べ、じっと眼を細めていたが、
「ところで、お前、例のハラマキ、まだやってるのか」
と突然、たずねた。
「えっ、ハラマキ」
私はわけがわからず、驚愕して叫んだ。
「ハラマキって何だね」
「なにを言う。憶えてないのか。お前、いつもしてたじゃないか、ラクダ色のハラマキを。モモヒキの上に。お腹をひやすといけないっと言ってさ。ねっ。こいつったら子供みたいなんですよ。ハ、ハ、ハ、ハ。夏になるとキントキハラマキなんか家でしてるんだ。冬はラクダ色のハラマキをするんだ」
それから彼は、「じゃあ俺、失敬する」と呟き、ロシア漬を一つ口に入れて不機嫌に向うに去ってしまった。
彼が去ると苦しい沈黙が続いた。雰囲気はすっかり変ってしまったのである。私の同伴者である若い女性は何とか微笑《ほほえ》もうとするのだが、安岡の言葉をすっかり信じたらしく、その微笑もすぐ消えて浮かぬ顔になる。きっとまぶたにうかぶ、モモヒキにラクダ色のハラマキをした男の影像を追払おう、追払おうとしているのであろう。それを感じてこちらもすっかり腐ってしまった。
私の家にもケチをつけ、嫌がらせを言った安岡は尾山台にある自分の家をひどく自慢し、近くに引越してこいとしきりに奨めた。彼によれば、その家は彼の設計によって箪笥《たんす》なども、あらかじめ壁にはめこめるようになっていたそうであった。そしてさほどに彼は建築学にも詳しいのだと自慢した。
だがその時は黙ってはいたが、私は三浦にきいて真相を知っていたのである。安岡は建築の知識などあるどころか、普請中、作業場を歩きまわり、よせば良いのに一人の大工に、
「駄目だな、こんな、悪い材料を使っては」
と言うと、その大工は憤然として、
「旦那、これはあんたの家で一番、いい材木だよ」
と怒鳴った。すっかりショゲた安岡は裏手にまわり、別の大工に今度こそはとばかり、
「なかなか、いい木を使っているね。よろしい、よろしい」
とほめてみると、今度はこの大工、うすら笑いをうかべて、
「へえー。これは、ベニヤ板だがね」
と言ったという。のみならず、その家が出来あがった時、三浦がお祝いにたずねて行くと、安岡の設計にしたがって壁にはめこむはずの箪笥が壁の前にドッカとおかれている。おい、おい、一体どうしたのだ、と三浦はふしぎがってたずねたところ、
「ウー」
安岡はただもう不機嫌な顔をして口をモグモグさせている。ようやく白状したところによるとなんと、彼は箪笥をはめこむべき壁のくりぬき場所を箪笥と全く同じ高さ、全く同じ幅に作らせたため、いくらウンウン押しても中にはいらない。はいらぬも当然。一|糎《センチ》ほどの余裕を作っておくのを忘れたのである。
「いやあ、あいつのその時の仏頂面を見せたかったワ」
と三浦は笑っていたが、私は小学校で習う工作の原理のイロハさえ知らぬ安岡の建築知識とやらにホトホト呆れてしまったのである。
大声で私を叱咤する
それからしばらくすると彼は何を思ったか急に写真機にこりはじめ、いつもポケットにカメラを入れて人を見ればパチリ、道ばたで犬がウンコをしているのを見ればパチリ。そして私の顔をみれば、写真をやれ、写真をやれと言いはじめた。彼には自分の趣味を押しつける癖があるので私は渋々、古カメラを買い、教えをこうた。
正直いうと機械には弱い私はそれまで写真機の操作など全く興味なく、露出が何やらシボリが何を意味するのかもわからなかった。そして写真機について無知であることは人間として恥ずかしいことではないと思っていた。しかし安岡はその私を大声で叱りつけ、無知|蒙昧《もうまい》の代表のように取扱うのだった。
「え。いくら教えてもわからないのか。太陽の方にカメラを向ければ逆光になるんだ。え。逆光が何かも知らんのか。箸にも棒にもかからん奴だな。お前は」
私は心の中で「何をこの浪人三年めえ」と罵ったが(大きな声ではいえぬが安岡は私と同じように中学を出てもどこにも入学できず、浪人を三年しているのである)どこで憶えてきたのか彼からペラペラとレンズの種類や望遠とかフラッシュなどという専門用語をふりまわされると、頭が混乱して黙りこんでしまうのだった。のみならず私はレンズの蓋をはめたまま撮影していた現場を彼に見られたことがあるので、ことカメラに関しては反駁できぬのである。
「お前にはカメラを教えるのは諦めた」
安岡は遂に情けなさそうに言った。
「お前にカメラを奨めた自分の不明を恥じるくらいだ」
だがその頃、あるカメラ会社で我々文士に自社製品のカメラを渡し、それで撮った作品のコンクールをやる催しがひらかれたのである。
「俺も出してみようかしらん」
そう言った私を安岡はせせら笑って、
「お前が……。まあ、よしたほうがいいですよ」
「君は出すのか」
安岡は自信ありげに深くうなずいた。私は仕方なく、そのせせら笑っている安岡の顔を力ない手で一枚、パチリと撮って家に戻った。
だが、カメラ会社がそんな自信のない私にも作品を出すよう執拗に言うので、仕方なく私は『海辺の光景』の作者には内緒で「せせら笑っている安岡」と題し、この間の写真を手わたした。
私は金賞、彼はボツ
ところが半月ほどたって、朝、私は突然、電話で眠りから起された。
「おめでとうございます」受話器の向うでカメラ会社の人の爽やかな声がきこえた。
「あなたの写真『せせら笑っている安岡』がコンクールで金賞です。木村伊兵衛先生はじめ写真の専門家たちが全員一致で決められたのです」
「ほ、ほんとですか」私は煎餅布団から飛上って「ゆ、ゆめじゃないでしょうね」
「本当ですよ。賞品授与式には是非おいで下さい。あなたには当社のカメラ、その他、テレビなど差上げます」
私は胸が潰れそうな気になったが、その時、一体、安岡の写真はどうなったのかと思いだした。私が金賞なら安岡は黄金賞かもしれない。
「ほかにどんな人がどんな賞をとったんです」
「あなたの金賞以外はみんなサービスですよ。たとえば北先生などは、ナントカシテアゲマ賞をおもらいになりましたがね」
「いや、や……やす……安岡は何賞をもらったんです」
「ああ、安岡さんですか」
カメラ会社の人はちょっと、考え、声をひくめて答えた。
「あの方はどの賞にもお入りになりませんでしたよ。はじめからボツでした。お気の毒です」
私はこの時ほど笑ったことはなかった。私の写真技術を「せせら笑っている安岡」が一等となり、うつされた彼が落選したとは……
「もしもし」私は早速、彼に電話をかけた。
「ぼくの入賞作品をあんたに送りたいのだが。書斎に飾ってくれませんかね」
「ウー」
安岡はゴリラがほえるような声をだした。そしてガチャンと電話を切ってしまった。
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吉行淳之介氏の巻 傘はり浪人≠フ面影いずこ[#「 傘はり浪人≠フ面影いずこ」はゴシック体]
先日、阿川弘之とある酒場に寄ったら、そこのホステスがうっとりとした口調で言った。
「飲んだ吉行さんって、すごく色気があるわ。こわいくらい。眼のふちなんかポーッと赤くなって、あの眼でじいっ[#「じいっ」に傍点]と見られると、引きこまれそうになるの」
阿川も私も男だから吉行に色気があるのか、どうかわからぬ。しかし私は時々、考えるのだが、もし我々の友人が女性だったら吉行は普通の嫁さんなどにならず、柳橋の芸者か銀座のバーのマダムかナンバー・ワンなどになっていたかもしれん。そしてその吉行の店に、もし近藤啓太郎があらわれマダム吉行に惚れたら、こりゃ一体、どういうことになるだろう。そう考えると面白くなり、私は心ひそかにこれら友人たちが女だったらどんな将来になっていただろうと想像してみた。その結果は左の通りである。
[#ここから1字下げ]
吉行淳之介……銀座バー「蘭」のマダム
阿川 弘之……防衛大学食堂のおばさん(軍艦婆さんなどと言われ、戦争中新聞などにも載ったことあり)
三浦 朱門……建築技師の妻、傍ら家庭裁判所などにも勤務す
[#ここで字下げ終わり]
その他もろもろの先輩友人について想像したのであったが、それをそのまま書くと後がこわいから略することにする。
しかし吉行に色気がぐーんと出てきたのはここ数年来で、我々がたがいに知りあった頃の彼は病みあがりで鶏のように痩せこけていた。「第三の新人」といわれる友人たちは相前後して芥川賞をもらい、文壇にデビューしたが、その頃、芥川賞は今のように華々しいものではなく、貧乏生活にそう変りあるはずはなかった。私が吉行の家に行くと、彼は憂鬱《ゆううつ》そうな顔をして横にチリ紙の束をおき、婦人雑誌に名作ダイジェストの話があるが、あれをやれば二ヵ月は何とか食えるかもしれぬなどとボソボソ呟き、ハナ紙で鼻をたえずかむ。そしてふりかえりもせずそのハナ紙を、肩ごしにうしろにポンと放る。ところが奇妙なことにその放ったハナ紙は部屋の隅においてある紙屑籠にスポッと入るのである。私はまるで手品でも見るように吉行のその手つきを眺め、
「どうして、そんなことができるのだ」
と言うと、自分は喘息《ぜんそく》もちでこれを何百回もやったから、できるのだとこれまた憂鬱そうに呟くのだった。
通人≠フ大変な修業
吉行はその頃、自分は今、傘はり浪人の心境だなアと言い、一緒に出かけたおでん屋でも、私が話しかけると苦しそうに笑い、黙っていると割箸で皿を叩きながら、
「ああ、ゼニコが降ってこんかなア。鼠《ねずみ》がチューと走るたびに、天井からゼニコがバラバラ降ってこんかなあ」
とひとり言をいっている。このひとり言をきいていると妙にこちらもワビしく暗い気持になり、心の底からネズミがチューと走るとその天井裏からゼニコがバラバラ降ってこんかいな、と思うくらいであった。
その頃のことである。ある日、彼は私にむかってお前はクリスチャンだから新宿の赤線、青線など知らんだろうなと言った。私は三浦朱門と同様、全くその方面には無知なのでうなずくと、彼はじゃあ、あのあたりをぐるりと見物させてやろうと言った。かねてから吉行が、その方面の通であることを小説からも知っていたので、早速彼のうしろからついていった。吉行はこちらが赤線で、あっちが青線なのだと説明してくれ、暗い道をフラフラと歩いた。両側の風呂場のようなタイル張りの家の中から女の子が厚化粧の顔をそっと出して、
「あら、淳ちゃん。寄ってよ」
などと気やすく呼びかける。私はすっかり感心して、
「君は本当に顔だなア」
と言うと、
「これでも長年、修業しておる」
と吉行はうなずき一軒の店の前に立ちどまった。
「この家は俺がついこの間、寄った店だ。お前ここで待っとれ。俺は女の子にちょっと挨拶してこよう」
それはいかにも馴れた格好だった。一人になると私は心細くなり、そっと中をのぞいていると一階にのぼる階段の上の方で突然、騒がしい物音と争う声がきこえてきた。
「ゲンくそ悪い。あんたなんか出ていってよ」
女の子の怒鳴る声にまじって、
「ああッ、無茶するな。いかん。それはいかんぞ、お前」
悲鳴をあげているのは確かに、吉行である。こっちは何もわからぬので、あれがこうした世界の挨拶の仕方かなと思っていると、突然、雪だるまがころげるように顔も肩も白くなった吉行が女の子に蹴とばされて階段からガラガラ、ズドーンと転げ落ちてきた。そし茫然としている私の前で、女の子は更に吉行に塩をパッパッとぶっかけては、
「出ていけッ、ゲンくそ悪い男」
と叫ぶ。吉行は髪も顔も婆さまのごとく塩で真白になり、
「ペッペッ、こりゃいかん。乱暴である。ペッペッ」
何のことか理解できぬ私は、とにかく、尻もちついた吉行を外につれだし、一体どうしたのだとたずねると、吉行はまだあたりかまわずペッペッと唾を吐き、
「ああ塩からい、これも修業の一つなのだ」
と口惜しそうに呟いていたが後になって、その理由を教えてくれた。吉行はその前々日、この家に行ったが、病みあがりのため遊ばずに戻った。それが縁起をかつぐ女たちの機嫌を損じ、ああなったのだという。通人になるには成程、大変な修業がいるものである。
三浦とちがって女子学生は大嫌いな吉行は、女子学生は偽善者だが、それにくらべ娼婦たちはいつか俺がゴミだめの横で死ぬような時がくると、俺の唇を筆で湿してくれるような気がするとも、いつもいっていた。
彼の言葉に涙ぐむ女
そのせいか、吉行は水商売の女の子にはひどく優しく思いやりがあった。ホステスの誕生日もよくおぼえていて香水をさりげなく出がけにやったりする。するとその女の子はたちまち吉行が好きになるのである。私はある料亭で吉行が芸者のすわりダコをなでてやりながら、
「タコができておる。苦労しとるなア、お前も」
しんみり言い、芸者が涙ぐんでいる光景をみて、モテル秘訣はこれだ、これだと考え、別の芸者の首の変色部分をなでて、
「タコができておる。苦労しとるなア、お前も」
と同じようにしんみり呟いたら、
「恥かかさないでよ。デキモノの痕ですよッ」
と言いかえされ腐ったことがあった。モテぬ男は何をしても駄目なのさ。
四、五年前、吉行は六本木の交差点ちかくに甚だ珍妙なマダムのいる小さなバーを見つけてきた。このマダムは小柄の美人だったが出所不明にしてその言動ことごとく素頓狂《すつとんきよう》で人が好く、店の酒を飲んで酔うと客にむかい「シトをバカにしないでよ。あたしは学問はありませんけどね。わかることはわかるんだから」と大声でわめく酒乱癖があると思えば、気に入れば客にタダ酒をのませて悦《よろこ》ぶという妙な性格であった。
ある冬の夜、旅館で仕事をしていた私は友人のKを誘ってこの酒場に寄ってみると吉行が止り木に腰かけ、向うのボックスに年ごろ、二十七、八のアストラカンの外套を着て真珠の首飾りをした令嬢風の女性がコニャックを一人のんでいた。
私は吉行とKとマダムにもう看板時刻だから俺の旅館で飲みなおそうやと誘い、くだんの令嬢風の女性にも「行きませんか」と声をかけると、大きな眼で人の顔を見つめてうなずいた。
あの女性は誰だと、そっとマダムにきくと、かなり酔ったマダムは、
「あのシトは伯爵のお嬢さまだから。お父さんだって支店長なんだから。あんたたちと違うわよ」
と言った。
吉行が車を動かし、私はマダムと伯爵令嬢の間におそるおそる腰かけた。車が走りだしてから、お名前はとたずねると、令嬢はキッと体を起し、
「妙子でございます。田子の浦……うちいでてみれば白妙[#「白妙」に傍点]の、富士のたかねに雪はふりつつ。その妙子でございます」
と一気に答えた。我々はびっくりした。
吉行もKも私も伯爵令嬢などと一度も交際したことがない。ないからただ恐縮して黙っていると、
「皆さま。ゴルフ遊ばしますの。父が御殿場にゴルフ場、持っておりますから何時でもお使い遊ばしてね」
と更に我々を心細くさせるようなことを言う。こちらは心の中でこんなやんごとない令嬢をむさくるしい仕事場などに誘うのではなかったと後悔しはじめた。
私の旅館についたがそんなわけで吉行もKも気勢があがらない。令嬢はオーバーをぬがず酒をしずかに飲み、
「私、ちかくソルボンヌ大学に勉強しにいきますの」
などと言っていたが、急にハンドバッグから扇を出し、立ちあがると部屋を出ていこうとした。そしてニッコリしながら、
「ちょっと、蛍をみに行って参りますわ」
と呟いた。季節は冬だし蛍などこの辺にいるはずはなく、我々がキョトンとしていると、やがて部屋の横にある水洗便所でジャーという音がきこえた。
「ふーむ。扇をもって便所に行く。しかもそれを蛍を見にいくと言うのか。やはり高貴なお方は違うなア」
と私が感心し、
「では、ぼくも蛍を見にいってくべい。その渋|団扇《うちわ》を貸しておくれ。蛍こーい。蛍こーい」
と部屋を出た。もっとも私の場合は当時、尻にタムシができていたから、便所でヨーチンをつけ、バタバタあおぐために団扇が必要だったわけである。
トッピな伯爵令嬢
その夜、かなり更けて一同は引きあげたが好奇心を燃やしたKはタクシーで彼女のあとを尾行してみた。さっきまでの話によると彼女はスターのように素晴らしい豪奢な生活を送っているようで「時折、楽団をよんでそれに演奏させながら食事をすることもありますの」などと言っていたからである。ところが彼女をのせたタクシーは目黒の国電線路ぎわにとまり、Kが窺っているとは知らぬ伯爵令嬢は、そばのわびしい古アパートに姿を消し、まもなく二階の一部屋に灯がともって窓ぎわにぶらさげた洗濯物をとり入れているのをKは見たのである。楽団をよんで食事をとるなど、とんでもない話だったのだ。
Kから聞いた私はこの話を早速、吉行に伝えて相談した結果、今度、伯爵令嬢に会ってもだまされたふりをしていようと決めた。彼女が一体何者であるかも知りたかったし、あれだけ迷演技をやってくれる以上、怒るのも可哀相だし野暮と思ったからである。
だから吉行はその次、あのバーで彼女に再会した時も、知らん顔をしていた。その夜、彼女はかなり酒を飲んで相変らず、夢に出てくる王女さまのような出鱈目《でたらめ》ばかり言っていたが、ふとしたはずみに首にかけた真珠の首飾りの糸が切れて、バラバラと真珠は床に散った。
「まア」と彼女はオロオロして叫んだ。
「五十万円もする真珠ですわ。みなさま、拾って下さい」
彼女をまだ伯爵令嬢と信じているボーイも、この店にいる二人のホステスもあわてて椅子のかげ、テーブルの下を這いまわり落ちた真珠をひろい集めたが、ボーイ君だけは、その一つをそっとポケットに失敬していた。そして彼女がかえったあと、吉行に言った。
「先生、これは五万円ぐらいに売れるでしょうか」
そこで吉行は早速、翌朝そのボーイと一人のホステスとを車に乗せて、この一粒の真珠を宝石店に持っていったところ、主人は「こんなニセモノ」と苦笑したそうである。ここに至って、あの自称伯爵令嬢の言うこと、全くの嘘デタラメだとわかってしまった。
また別のある日、ママとこの伯爵令嬢とが突然、喧嘩をはじめた場面に我々は出くわした。喧嘩の原因は令嬢がママに、
「あなた、もう少し上品に遊ばしてよ。一緒にいると、恥ずかしいわ」
と言ったことから始まった。カーッとなったママは負けずに怒鳴りかえした。
「なにさ。人がだまっていればいい気になって。あんたなんか、水洗便所の使い方も知らないんじゃないか」
「失礼なこと、おっしゃるのね。どうしてあたしが水洗便所の使い方も知らないの。おっしゃってよ」
「だってさ。いつかあんたがおシッコしているの見たら、あんた便器の台の上にとび乗って、やってたじゃないか。水洗便所はね、便器にまたがってするんですよーだ。上にとび乗ってするんじゃないよ」
彼の部屋に押掛ける
そこに居合わせたKと私とはあわてて二人の仲裁に入ったが、こうなっても伯爵令嬢は相変らず、ホラを吹くのをやめない。ある夜など彼女は吉行が仕事をしている山の上ホテルに酔っぱらってママと一緒に出かけ、酔うと泣き上戸になるらしく、ワアワア泣きながら、
「あたしが何の香水をつけているか、おわかりになったら、あたしのバージンを差上げますわ」
と、くだをまきはじめた。すっかり面倒くさくなった吉行は、
「あなたは伯爵令嬢でしょうが、ぼくの祖父は侯爵でした」
と言った。すると彼女は泣くのをやめ、
「あたしは華族はみんな知っていますけど吉行なんて華族はおりませんわ。お祖父さまは何とおっしゃいますの」
吉行は、そばにあった新聞紙をクルクルとまいて目にあて、
「我は大正天皇のヒイ孫、狸小路子爵であります」
しかし、このユーモアは一向に彼女には通じず、
「そんな華族はおりません。嘘をつかないで頂戴」
「しかし、あなたは先程、自分の香水をあてればバージンをくれると言った。あんたのは夜間飛行という香水だろ」
すると伯爵令嬢はワアワア泣きながら、
「当りましたわ。でも、やはりそれだけはお許しになって」
とわびたのである。
こんな話を読まれた方はあまりにトッピすぎるのできっと私の作り話と思われるかもしれぬ。しかし吉行自身、この伯爵令嬢の話はむかし他の雑誌に書いておるから嘘だとお思いなら、その文章もあわせて読まれるといい。
その酒場は六本木の交差点からちょっと奥に入ったところにあった。私も色々な友人に紹介したため、一時、NETの人や私の親類の岡田英次なども出没していたが、マダムがあまり人が好くてトンチンカンであったため、遂になくなってしまった。吉行とも惜しい、惜しいと言っているのである。
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村松剛氏の巻 会津の若様≠ノコロリと参る[#「会津の若様≠ノコロリと参る」はゴシック体]
先週号で吉行淳之介と私とが伯爵令嬢と称する娘にだまされた話を語ったが、あれを書きながら、私は村松剛にも同じような事件のあったことを急に思いだした。
実をいうと、この連載が始まるや、先輩・友人たちの中には自分が今度は俎上《そじよう》にのせられるのではないかという不安がますます拡がり、中には「俺のことを書くと承知しないぞ」という葉書や電話による脅迫もしばしばであるが、ペンはいかなる暴力にも屈せず真実を語らねばならん。村松剛もおそらく、その不安に怯《おび》えた一人であろうが、私の連想が彼にとって運の尽きだったのである。
村松剛。立教大学助教授、文芸評論家、テレビでアルジェリアやド・ゴール問題について語っている彼を、もちろん読者は御存知であろう。たとえ彼を知らない方も村松英子という美しい女優ならすぐおわかりになるだろう。村松剛は、この村松英子さんの兄貴なのである。兄妹、隣あわせに住んでいるが、もちろん女優の英子さんの家はプールもあり、コッカースパニエルもすんでいそうな立派な家。それにくらべて隣の兄貴の家は、最近建てましをしたがやっぱり貧弱だ。
両者の収入のちがいは訪問した時に出してくれる酒によってもハッキリわかる。妹の村松英子さんのほうに遊びにいくと、スコッチを飲ませてくれるが、兄の剛のほうではいつもトリスである。
この兄妹とのつきあいも長い。村松は私が仏蘭西《フランス》留学から帰国した頃は、杉並区成宗の都電停留所近くに住んでいて、時々、御両親や妹さんのいる実家に帰っていた。当時、我々は「ヒトの家はボクの家」という考えをもっていた青年時代だったから、酔っぱらうと相手かまわず友人の家に押しかけ勝手に布団など出してグウグウ寝たものである。御両親や村松の奥さんは、今考えるとさぞかし御迷惑だったと思うが、彼の二軒の家にも幾度、泊ったかしれない。
酔っぱらって昼ちかく眼をさまし、水ほしさに一人、階下におりると、色の白い可愛い少女がコタツにあたり、英語の勉強をしている。こちらがゲップなどしながらその横に坐ると嫌アな顔をする。十三、四の少女には兄さんの友だちは皆、酔っぱらいで不潔にみえたのかもしれぬ。
ズボンなしで都電に
「学校はどうした」
こちらは照れかくしにこの少女に説教をはじめる。
「学校に行かなくちゃ駄目じゃないか」
すると少女はツンと怒って、
「今日は日曜日です」
それがまだ中学生時代の村松英子さんだった。その英子さんがみるみるうちに大人になり、新劇の女優になろうとは、あの頃、私は想像もしなかった。
兄妹そろって秀才であり才女だが、どこか一点ソソッかしいところがある。兄の剛はたずねていくと着物を平気で裏返しで着ていて、話に夢中になってそれに気づかない。ある日、彼が大学に講義にいくために都電に飛びのったところ、乗客全部がヘンな顔をしてジロジロ見る。なぜジロジロ見られるのか、わからない。しばらくして、やっとわかってアッと叫んだ。アッと叫ぶも道理、彼はネクタイをしめ上衣を着、鞄をもって電車に乗ったはいいが、ズボンをはくのを忘れていたのである。読者諸氏も、電車の中に突然、ネクタイ、上衣をつけているが、下はモモ引きに靴という男がノコノコ乗ってくれば仰天してジロジロ見るでしょう。
いつだったか、村松たちと伊豆に旅行したことがあったが、帰りがけのバスが天城山にさしかかったところ、大きな声で、
「ここに国定忠治がとじこもったのか」
と言ったのには閉口した。天城山と赤城山とを間違えているのである。村松はヴァレリイの専門家としても有名だし、アルジェリア、イスラエル問題には詳しいが、「美空ひばりが別れた俳優は誰だ」ときくと眼を白黒させて「坂本九」と答える。小林旭も坂本九もこの男には全く同じなのであり、もちろん巨人軍の監督の名も長島選手の奥さんの名前もしらない。
妹の村松英子さんのほうも兄貴を上まわる方角音痴の上に笑い上戸で、だましやすきこと赤子の手をひねるごときお嬢さんだった。いつか私が夜店から買ったハンコを彫った指輪をしていたところ、ジーッと羨ましそうに見ているので、これはねえ、九州、島原で見つかった切支丹の指輪なんだよ。英子さんにあげようか、と言うと、感激して指にはめていた。彼女は長いことそれを信じていたらしく、いつか『サド侯爵夫人』の舞台を見にいったら、この指輪をはめて堂々と演技していたので、やった私のほうがビックラしたくらいである。
若様はパクパク食う
そこで今日は、この村松剛の前に大サギ師があらわれた話をしよう。
もう十年ほど前になるが、ある夏の日、私が昼寝をしていると、女中がお客さまですと起しにきた。着ながしの痩せた青年が玄関に立っていた。文芸評論家のY氏の紹介状をもっているので私は書斎に通した。
その男は非常な能弁家だった。こちらにはほとんど何も話させずにペラペラ、ベラペラ、文学論をしゃベり続けているのである。唖然として私はそのパクパク開閉する彼の口もとを見ていると、おや、前歯が三、四本ない。
「この歯ですか」と私の視線に気づいて彼はニヤリと笑い、「これは金歯が入れてあったのですが、売払いましてね。実は俺は親から勘当の身なのです。俺は会津の松平の三男です」
私はびっくりした。というのは私の父親は養子に行ったのだが、その実家は会津藩士で一族の中には会津若松城を死守するために戦った者もいたからである。いわば昔の殿様の若様が突然、来られたからで、番茶しか出していなかった私はあわてて、天丼《てんどん》を近所のそば屋から彼のためにとった。ちょうど祖母が来ており、これが昔風の女。恐縮して天丼をおすすめすると、パクパク若様は食うのである。
「俺は海軍兵学校から終戦後、東大の仏文に入ったんだが、放蕩がすぎて勘当されましてね。むかし馴染んだ芸者の実家で、いま厄介になっているんです」
「で、どこにもお勤めにならず?」と祖母がいたわしげにうかがうと、大きくうなずき、
「親類の者が映画会社の宣伝部に世話してくれたんですがね。一人の女優があまり無礼なことを言ったので、手打ちにするぞッと怒鳴りつけたのが問題になりましてねえ。やめましたよ。面倒臭えから」
そんな話を二時間ほどやってから懐手をしたまま引きあげた。
さあ、それからというものはこの青年、毎日やってくる。来ては「今度、あんたを箱根の松平の別荘につれていこう」とか、「近日、駿府《すんぷ》(静岡と言わず駿府などと言うところが彼のウマイところだった)に出かけてくる」と言ったり、あるいは私のヨレヨレの浴衣《ゆかた》を軽蔑したように見て、
「俺の着物を一枚、進呈したい。文士がそんな着物を着ちゃいかんですよ。もっとも俺の着物にはアオイの紋がついているが、いいですか」
などと呟いたりするのだった。私も仕事はあるし、毎日二時間も勉強時間を妨げられてはたまらぬので、ある日、たまりかねて近所に住んでいられる評論家の山本健吉氏の家につれていった。山本氏は加賀藩の家老、横山家の子孫だから話があうかもしれぬと思ったのである。山本氏が、
「それでは舞いなどもやられますか」
とたずねると、彼はうなずき、
「舞いは仏蘭西語と共に子供の時からやりましたよ」
などと平然と答えるのだった。
私はとにかく、彼の連続的訪問とおしゃべりから逃げるため、村松に紹介状を書いた。村松には悪いが、半分、引きうけてもらおうと思ったのである。
名人芸的なだまし方
坊っちゃん育ちの村松は人を疑うことを余り知らない。たちまちにしてこの自称、松平の言うことをコロリと信じてしまった。(もっともその頃は私も本当だと思っていたのだから村松を笑うわけにはいかない)
「あのね、スケールの大きいことを言うよ」
ある日、村松は苦笑しながら私に言った。
「この間もね、あれと宮城前を歩いていたら、突然、たちどまって、僕にこういうんだ。世が世なら、あの宮城は俺のものです。売れば五年は食えたでしょうなって……」
「なるほど」
ある日、彼は村松と私のところにまたやって来て、「近く結婚することになった。相手は京都の公卿の三条の娘だが、まだ会ったことはないのです」と言った。会ったことのない女性と結婚するのかとビックリした私たちがたずねると、
「俺たちは先祖代々、政略結婚ですからね。惚れたとかハレたとかはあんたたち庶民の感情ですよ」
と冷笑するのである。そして婚約報告のため、日光東照宮に行ってこねばならね。旅費を貸してくれぬかと言って、私たちから多少の金をかりた。
断っておくが、後にも先にもこの男が我々から金銭をだましとったのはこれ一回だけであった。彼はサギ師だが、むしろ自分の嘘をたのしんでいたらしい。
五、六日して朝早く、突然、彼は私の家に現われた。みると顔面蒼白である。私の書斎で腕をくんだまま眼をつぶり黙っている。
「どうしたのです」
とたずねると、やっと口をひらいて事情を説明しはじめた。自分は婚約を祖先、家康公の霊に報告すべく婚約者と水戸徳川家の子孫にあたる従兄をつれて日光に赴いた。霊前で報告し、精進料理をたべ、その夜、そこに泊ったが朝方、隣室で物音がするので眼をさました。すると「月光が閾《しきい》の簾にさしており、その簾ごしに従兄が自分の婚約者を犯している影が見えた」。そこで自分は黙ったまま、朝をまち一番電車で帰京したのである――と、こう言うのである。
「だから、この婚約は俺は破棄します」
今、考えると、何て、まア馬鹿馬鹿しい話を信じたものかと我ながら呆れるし、読者もアホらしくなられるだろう。しかしこの男の嘘のつき方やダマシ方は名人芸的なところがあり、私や村松のみならず、紹介状を書いたY氏や、その他二、三人の文士もコロリとダマされているぐらいである。だから私は本気でその話を聞き、聞いているうちにムラムラと腹がたってきた。
「何だと」と私は怒鳴った。「松平か、徳川か知らないが、あんたは自分の婚約者が犯されているのを黙って見ているような男か。なぜ婚約者のためにその時戦わないんだ。しかもそれで彼女との婚約を破棄するとは何だ。帰れ。この野郎」
平生、私は怒鳴ったりすることはほとんどない。その私が大声をあげたのは余程、立腹したからにちがいない。その私の顔を彼はジーッと見ていた。そしてうすら笑いを浮べ、ただ一言、こう言った。
「庶民の感覚は、どうも俺には理解できんなア」
こうして私のところには来なくなったこの青年は、私より寛大な村松の家に足しげく通いはじめた。今日は自分の師匠である石川淳氏のところに行ってきたとか、小林秀雄氏とこんな話をしてきたとか、出鱈目《でたらめ》を相変らず言っていたのである。
親切にも村松はこの男の原稿を某出版社に紹介してやる約束をした。そしてそのために石川淳氏のところに相談にいったところ、石川氏はそんな男は知らぬと言う。
びっくりした村松剛は帰り道、東大仏文の名簿をしらべてみた。松平などという名はない。海軍兵学校の名簿にもその名はみつからない。さすがの剛も仰天し、憤然として我が家に戻ると、今日も、この青年が遊びにきて彼を待っていた。
「村松さん。今度、俺の伯父がカナダ大使になってね。カナダに来い来いと言うんだ」
例によって例のごとき出鱈目を言う。村松は相手に言わせるまで言わせておき、人をダマすのもいい加減にしろと言った。青年はまたジーッと村松の顔をみて呟いた。
「こういう世の中だから、嘘でもつかねば面白くねえや」
仏像泥の知人となる
以来、この男は姿を消して行方不明となってしまった。しかし村松も私もなぜか、この男を心の底から憎む気にはなれない。ダマされたあとは腹もたっていたが、時間を経るにしたがって可笑《おか》しさがこみあげてくるのである。
青年が姿を消してから二年ほどたって、ある朝、私は私の兄の電話で仰天した。
「おいおい」と私の兄は言った。「困るねえ、お前さんは、仏像泥棒の一味になったのか」
「なんだって。冗談じゃないよ」
「今朝のM新聞をみろよ。仏像泥棒がお前のことを語っているぞ」
私はあわてて家人に命じM新聞を買ってこさせた。
するとその社会面に、「芝の増上寺の仏像泥棒がつかまる」という見出しと共にあの青年の写真が出ているではないか。その事件は私にも記憶があった。二週間ほど前、増上寺の大事な仏像がぬすまれて犯人がわからぬという記事を読んでいたからである。そして、この朝刊にはその仏像をもった男が会津若松で逮捕され、新聞社の人たちに、「遠藤周作もよく知っているが、今は何も語りたくない」
と言っている、という記事がのせられていたのである。兄が心配したのも無理はなかった。
私はその日一日、刑事さんでもやってこないかと少し張切って待っていたが、誰も来なかった。すると今度は、「何も俺一人の名を出さなくてもいいじゃないか。村松剛もよく知っていると、何故、あの男、言わないんだ」と腹がたってきた。
この男のため最大の被害?をうけたのは以上のように村松と私だが、この男のため最大の利益をあげた人がいる。それは梅崎春生氏である。彼は我々からこの話をきくや、早速それを新聞小説の主人公にしたからである。『つむじ風』という梅崎さんの小説に出てくる松平という青年は、この男をモデルにしたのである。
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亀井勝一郎氏の巻 自分の弱さを叱咤し続ける[#「自分の弱さを叱咤し続ける」はゴシック体]
留学から戻って私は二冊の本を書いた。一冊は『フランスの大学生』という留学時代の記録であり、もう一冊は私が勉強している西欧の基督《キリスト》教作家を扱った『カトリック作家の問題』という本だった。
本が出て、しばらくしてからである。突然、私は亀井勝一郎先生から葉書を頂いた。君の本を読んで会いたいと思っていると先生は言われるのである。私は大変、恐縮した。
先生は御記憶ないかもしれぬが、私は戦争中に一度、そのお宅に伺ったことがあるのである。戦争中、私は親から勘当されて、あっちこっちを転々としたが、一番ながくいたのは哲学者の吉満義彦先生が舎監をしていられた学生寮だった。吉満先生はジャック・マリタンの弟子で、東大の講師をされていたが、終戦直前に亡くなられてしまった方である。
この寮で私は今、キリンビールの社員になっている東大生の松井慶訓と仲がよかった。私はその松井に日本浪曼派の人たちの色々な本を教えてもらったが、その中に亀井先生の『大和古寺風物誌』や『美貌の皇后』があったのである。
のみならず、この寮には偶然、亀井先生の近所に住んでいる安井君という学生がいた。安井は松井と私とが先生の本を読んでいるのを見て、
「なら、僕が亀井さんのところに、つれていってあげようかな」
と言った。その口ぶりは、まるで親類のオジさんに会わせようというようなので、私たちはびっくりして彼の顔をみつめ、
「本当かね」
「本当だよ」
しかし私たちは半信半疑だった。亀井先生が学生にたやすく会ってくださるとは、とても考えられなかったのである。けれどもそれから一週間ほどすると安井は、
「亀井さんのところに今度の日曜、行こうよ」
とこの間と同じように平然と言った。
日曜日の午後、その安井につれられて吉祥寺の先生のお宅に伺った。門の前に防火用水や火たたきがおいてあったのを今でも憶えている。
「僕はね」と安井は得意そうに言った。
「亀井さんと防空演習の時、一緒に屋根にのぼることがあるんだ」
ヴィナスとマリアと
玄関の前の廊下に書棚があって、そこに『島崎藤村全集』が並んでいた。左手に応接間があり、そこに亀井先生は微笑をたたえながら我々を通して下さった。
私はカチカチになってほとんど沈黙をまもり、松井だけが色々な質問をした。話題は近代と言うことが中心で、それは三ヵ月ほど前に『近代の超克』という座談会がひらかれ、小林秀雄氏や河上徹太郎氏とともに亀井先生も出席されたからであった。我々の寮の舎監である吉満先生も対談者の一人だった。
亀井家を辞した時は夕暮だったが、松井と私とはまだ興奮していた。先生の話の内容もさることながら、我々のような学生に忍耐づよく、うちとけて話をしてくださった先生に私はひどく感動していた。
その日の記憶はそれから十年たった後にも頭に残っていたので、葉書を頂いた時、考えたのはまず、
(あの時のウスぎたない学生が、俺だということを先生、おわかりになるまいな)
と言うことだった。
それから一ヵ月ほどして、文芸春秋社のサロンで先生におめにかかった。一緒にいたのは村松剛と奥野健男だったと思う。先生は私の顔をごらんになって、
「憶えてますよ、君のことは。むかし私の家に来たでしょう」
食事をしながら先生は私の留学時代のことを色々たずねられた。私が仏蘭西の田舎にはちょうど地蔵さまのように至るところに聖母マリアの像が立っている話を申しあげると、先生は急に、うつむかれ、
「そこだな。ぼくにとっては、長い間理想的女性はヴィナスだったが、向うの人にはマリアなんだな。そこがちがうんだ」
と呟かれた。私はその言葉をハッとしてきき、亀井先生の秘密の一端にぶつかったような気がして顔をあげた。
と言うのは私は先生の本――特に数々の宗教論を読みながら、これほど日本の知識人のなかでも一番宗教に関心をもち、宗教心理の罠《わな》にも鋭い分析をされ、現代の悲劇を信仰の欠如と考えておられる先生は、それでは一体、どの宗教を信じておられるのか――基督教なら基督教をなぜ選ばないのかという疑問がいつも心にひっかかっていたからだった。先生はかつて山形高等学校時代、マルキシズムに心ひかれ、それは東大まで続いた。しかも先生はマルキシズムに充《み》たされなかった。芸術が先生の心を片一方では惹きつけていたからである。先生が東大の美学をえらばれたのは私にとってその点、とても興味のあることだった。
裏にかくれた苦しみ
マルキシズムと同様、後に宗教にあれほどの関心を持ちながら、先生は一方では宗教とは矛盾する芸術を棄《す》てることはできなかった。先生の『大和古寺風物誌』や『美貌の皇后』を読みながら、私はそこにいつも先生の苦しみと矛盾を感じていた。大和の古寺や仏像――それは往時、信仰の対象だった。しかし先生がそれらにひきつけられるのは信仰よりむしろそれら仏像が美しいからであり、芸術的であるからである。和辻哲郎の『古寺巡礼』が我々にあたえた毒を先生も文学者として飲んでいられるのだ――そう私はひそかに考えていたのである。多くの読者は先生の『大和古寺風物誌』や『美貌の皇后』のあの美しい文章に酔う。しかしその裏にかくれた先生の苦しみと傷に気づかない。
「ぼくにとって、長い間、理想的女性はヴィナスだったが、向うの人にはマリアなんだな」
その時、私はそう呟かれた先生の顔をみた。午後の光のなかで微笑は先生の顔から消えさり、表情はひきしまっている。この言葉が先生にとってどれほど切実だったかを知りたい読者は、その後書かれた『私の美術遍歴』という本を読まれるといい。そこで先生はマリアとヴィナスを対比されているからである。
それから数年後、私は病気をして入院していた。ある日、突然、先生が見舞にきて下さって、少し照れくさそうに、
「これは、ぼくが中国旅行の時、スケッチした北京の風景なんだが」
一枚のクレヨン画を枕元においてくださった。私は、その絵を今でも大事に持っているが、その後、その同じ病院に先生が癌《がん》で入院されるとは夢にも思わなかったのである。
病床についている間、その病院には先輩の文士が癌のため幾人か入院し、あるいは恢復《かいふく》し、あるいは息を引きとっていった。平林たい子さんのようにみごと乳癌を治療されて退院されたような人もあれば、吉川英治氏や青野季吉氏のように帰らぬ旅につかれた方もいる。ある雨の日、大分、体のよくなった私が散歩していると、暗い検査室の前に心細そうに並んだ数人の外来患者のなかに私は正宗白鳥氏の姿をみつけた。氏は背をまげ、ビーカーをもち、ひどく沈んで寂しそうに私の眼にはうつった。
吉川英治氏は肺癌で私とは別の病棟に入院されたが、時折、私のところに秘書の方をよこされて、沢山の花や果物などを届けて下さるのだった。
氏の付添いだった婆さまが後に私に付添ってくれたが、看護婦に注射一本うたれるたびに、
「痛て、てて、痛てえぞオッ」
と大声でわめく私をみて、
「あなたも小説家でしょうが。あたしはね、吉川先生につきましたけどね、あのお方は大手術をうけられたあとも、痛いなど一回も言わんかったですよ。それにくらべて、あんたは何です。注射ぐらい何です」
とたしなめる。それでも私は痛て、ててと叫びながら、吉川さんを半ば偉いと思い、半ば恨んだ。というのはこの付添いだけではなく、この病院の看護婦たちまで私をみるたびに、
「あなたみたいに病院をぬけ出て無断外出するような患者は、吉川先生を少しは見習ったらどうですか。あなたも小説を書く人でしょう」
といつも怒ったからである。
評論家の青野季吉氏が入院された時は辛かった。氏が胃癌だとは友人から耳にしていたが、青野氏自身はたんなる胃病だと思っておられたのである。病室に見舞にうかがうと、大変、よろこばれて、
「君はいつまで入院せねばならぬのかね。ぼくはもうすぐ退院らしいよ」
と、少しドモリながら言われる。癌とは知らずにそう言われる青野さんを前にして、見舞客の一人である私はただ、うつむくより仕方がない。のみならず暇《いとま》ごいをしようとした時、入室してきた主治医らしい医者が聴診器をあてながら、
「大分、よくなりましたね。もう一週間したら歩けますよ」
などと、やむを得ぬ嘘を言い、それを青野氏がうなずいて聞いているのを見たのがとても辛かったのである。
ぼくはガンなんだよ
だから亀井先生が癌にかかられて、かつて私の入院した病院にはいられたと知った時、私は自分の表情に感情があらわれないかと考え、見舞に伺うのがためらわれた。明日、行こう、明日、行こうと考えたのち、やっと勇気を出して、その病室の扉を叩いた。先生は窓ぎわに向って何か書きものをしていられたのだが、私を見ると微笑された。そして口ごもっている私に間髪を入れず、
「君、ぼくは癌なんだよ」と言われた。
「しかし手術で完全にとれたんだ。あとはもう大丈夫だ」
「そうでしたか」
私はホッとして今までの胸のしこりが一時に解放されたような気がした。
「それは良かったですね。早期発見だったのですね」
帰り道この会話を噛みしめ、急に、先生が進んで自分の口から癌だと言って下さったのは、見舞客の苦しさをとり除くためではなかったのかと気がついた。おそらく先生は青野氏や高見順氏や正宗先生などを見舞にいかれるたびに私と同じ辛さを味わわれたにちがいない。だからその自分がかつて感じた辛さを見舞客に与えないため、進んで「癌だ。手術でとれた。大丈夫だ」と言われたのではないかと考えたのだった。
その頃から私は先生の本を少しずつ再読してみた。そして先生が決して本質的には「強者」ではなく「弱者」ではないのかと思いはじめた。先生の書かれた宗教論はことごとく、読者にむかって言いきかせているのではなく、御自分の弱さにたいする叱咤の声であるような気がしてきた。先生は宗教と信仰のためには芸術を拒否する内村鑑三の強靭さをほめたたえられた。しかしそれは先生が内村鑑三のような強者ではないからである。先生は宗教のために芸術を結局、棄てることのできなかった文学者だった。
先生は基督教のなかに、信仰のきびしさへの要求を好んでみつけられた。そしてそれを賞讃された。しかし先生は基督教徒にはなれなかった。この宗教のもつ父性的厳格さよりも親鸞《しんらん》のとくような母性的なやさしさに先生は結局、むすびつかれたのである。
「自分は親鸞の教えを信ずるものである」という言葉を後期の作品のなかから発見した時、私は先生の傷を感じた。先生は自分の弱者であることを自覚されつつ、生涯強者たるべく努め励まれた方だった。
先生が二度目の手術を受けられて、しばらくしてからのことだった。文壇のあるパーティで私は先生の姿をみた。ひどく痩《や》せられ、顔色も蒼白かった。
「君。麻酔というものはいけないね。あれはいけない」
先生は私に突然言われた。
「どうしてですか」
「麻酔をかけられたため、ぼくは手術の時、死と向きあうよい経験を失ってしまったよ」
先生の北京の風景画
それから、また時間がたって、別の文壇のパーティがあった。たしかそれは吉行淳之介が文学賞をうけたパーティだったと思う。
「君、切支丹《きりしたん》の本を貸してくれないか。ぼくの日本人の精神史研究もいよいよ切支丹時代に入らなければならないんだ」
私は先生が病床にあってもこのライフ・ワークにとりくまれていることを知っていた。切支丹時代を背景にした『沈黙』を書いた私は、先生がこの時代をどう分析されるか心待ちにしていた。悦《よろこ》んで持っている文献はすべてお貸ししますと申しあげながら、私はふと、先生に強者と弱者の問題をうかがいたくなった。
「切支丹時代というのは、基督教のきびしさを強者でなかった弱者がどう受けとめたかという点に――私の興味の一つがあるんです」
私はそう言って先生の顔をみつめた。
「それは、切支丹だけじゃない」先生は肩をそびやかすようにして答えられた。「すべての宗教が結局、ぶつかるところだよ」
だが私が心待ちにしていた『日本人の精神史研究』の切支丹時代は遂に完成されなかった。先生は亡くなられたからである。
私の書斎には先生の描かれた北京の風景画が飾られている。五月の樹木のむこうに北京城の赤い壁がみえる。その風景画を御存命の頃、私は文春主催の「芥川賞作家展覧会」に出品したことがある。係の人が書斎にあるものを何でもいいから出品してくれと言ってきた時、ふと悪戯《いたずら》心を起し、先生には無断で出品したのだ。
「君、びっくりしたよ。あれを出すなんて」
先生は半ば恥ずかしそうに、しかし半ば嬉しそうにそう言われた。
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阿川弘之氏の巻 狂の字がつくアンパン坊や[#「狂の字がつくアンパン坊や」はゴシック体]
狂という言葉がある。キチガイという意味ではない。あることに夢中になりすぎて、その言動、はたから見ると常軌を逸した御仁を言うのである。
私の友人の中でも阿川弘之はまさしくこの意味にふさわしいお方である。彼には四つの狂がある。乗物狂。食物狂。軍艦狂。そして賭博狂である。もし彼が小説家に非ずんば、競輪の選手か、阿川飯店の親爺かになっていたであろう。もし彼が不幸にして女性と生れていたならば、呉か、佐世保に住みつき、軍艦婆さんなどと呼ばれ、軍艦が来るたび、用もないのに日の丸をもって港をウロウロとしている老婆となったであろう。
と言えば、人は私が誇張していると思われるかもしれぬ。実は私も彼を深く知るまでは、このお方をたんに趣味多き人と考えていたのである。たとえば食物に関しても口うるさい食道楽の一人と思っていたのである。
だが、二年前のことである。某社の講演旅行があって曽野綾子と阿川弘之と私と三人が講師となり東海地方を歩きまわった。あれはたしか静岡だったと思う。
講演おわって三人で食事をした。季節は秋、マツタケが出た。三人で同じ鍋をかこんだが、私は最後の講演者だったから少し遅れて、座敷に入った。既にその時、二人は食事を半ばすませていた。
こういう時は、普通、遅れてきた者のためにマツタケを一人前、残しておくのが礼儀である。流石《さすが》、心ある曽野さんは私のために一人前、マツタケを残しておいてくれた。なぜなら彼女と阿川とは自分たちの分を既に食べ終っていたからである。(読者はクドいと思われるかもしれぬが、この点が大事である。了解されたし)
鍋の中で格闘する箸
したがって私は自分の分と考えたところのマツタケを鍋に入れ、品よく食事をはじめた。しかるに阿川は厚顔にも黙ったまま鍋に箸を入れ、私の食い分であるマツタケをムシャムシャと食べはじめるではないか。
私は思わずムッとしたが礼節をわきまえる者の一人として不満を表にあらわさなかった。(読者はクドいと思われるかもしれぬが、この点も大事である)
にもかかわらず、阿川は私がマツタケを一片、箸でとるたびにジロリと私を睨み、そして大急ぎで二片、つまむ。私が二片、口に入れれば、ジロリと睨み、三片をおのが皿にうつす。それはさながら、私より少なく食ってなるものか、と言うがごときである。
私が三片とると彼はすばやく四片をたいらげ、我、四片、食すれば、彼五片をばあわてて口に入れる。私はあまりのことに思わず箸をおき、彼の顔をみつめ、黙ってその反省を促した。しかるに『山本五十六』の作者の顔には毫《ごう》も慚愧《ざんき》の色が浮ばない。
鍋の中には既に二片のマツタケしか残っておらぬ。私はこの二片までコヤツに食われてなるものかと思い電光石火の如く箸を鍋につっこんだ。と、阿川は憤然として自分の箸でわが箸を押えつけた。鍋中に両者の箸が格闘し飛沫は飛び散り、曽野さんは呆れたように阿川を見つめていた。私も、この男の小児的な食物執着にびっくりし、ただ茫然としたものである。
子供の頃、私の近所にアンパン坊やとあだ名のある男の子がいたが、この子はパン屋の前にくると「アンパン買えー。買ってくれエ」とわめき叫び、母親が叱ると泥んこの中にひっくりかえり手足をバタバタさせて、なおも「アンパン買え」とわめき散らしたものである。そして母親がアンパンを買うまでこの動作をやめなかった。彼は私と仲良しであったが、今日阿川をみるたびに、私はこのアンパン坊やを思いだしてならぬのである。
坊やというとこの図体の大きな男には相応《ふさわ》しくないが、よくみると阿川の顔は坊やの顔である。新聞や雑誌にのる著者紹介などでは彼はいかにも大人びた顔をしてうつっているが、如何せん、性格は面貌に出るもので、実物はアンパンのためなら泥んこの中で手足をバタバタさせるきかん坊そっくりの顔であるから、酸いも甘いも噛みわけた吉行とはまこと対照的である。
きかん坊だから、この男はすぐカッと怒る。友人の間では、阿川は瞬間湯わかし器だというあだ名があるくらいだ。一瞬にしてポッポと熱くなるからである。だから勝負ごとをしても負けこんでくるとカーッとなり、カーッとなると勝負ごとは更に負けるから相手は彼を怒らせればいい。
私は無調法で花札もトランプもほとんどいじらない。だから阿川のその方の実力はよく知らぬが、時々、彼の家を訪れると、一室でアメリカギャングの親玉のような真赤なガウンを着た阿川と、刑務所の囚人服そっくりのパジャマをきた吉行がトランプを罵りながらやっている。下品なること、きわまりない。そしてその隣の部屋では五歳になる彼の坊やが一人でトランプをして遊んでいる。孟母《もうぼ》三|遷《せん》という言葉があるが、阿川の坊やは可哀相に賭博好きの父親のため、年端もゆかぬのにトランプや花札をいじるようになったのである。
幼児体験は恐ろしい
いつだったか信州から東京に戻る汽車に乗っていたら、うしろで大声でわめきちらしている声がする。ふりむくと、阿川とそれから、なんと新劇俳優芦田伸介氏とが夢中になってトランプをふりまわしているのである。話をきくと前夜、徹夜でトランプをやったが、まだ勝負がつかずに汽車の中まで試合を続行しているそうで、両人、山男のように無精髭をのばし、口も洗っていない。
「ヒッ、ヒッ、ヒッヒ、顔なんか惜しくて、顔なんか、洗えるかい」
「ヒッヒッ、ヒ、さあ、もう一勝負やるべい。やるべい」
二人は東京まで、わめきながらトランプをふりまわし続けていた。
食物やトランプだけではない。時々、航空会社などが、あたらしい飛行機に各界の人を招待して乗せることがあるが、ああいう時、文壇で必ずえらばれるのは乗物キチガイの阿川である。テレビなどで、そういうニュースがうつされる時、画面に彼がニタニターッとカラマーゾフの親爺のように笑いながらスチュワーデスのだした料理をパクついているのを読者は時々、御覧になるでしょう。航空会社はなぜ阿川ばかり招待して、品のいい私を呼ばないのか。
もし読者は阿川と列車などに乗合わせたら汽車の話など話しかけるのは避けられたほうがいい。たちまちにして眼を三角にして、貴方は言いまかされるであろうから。
いつだったか、同じ列車に乗っていて、私はしずかに本を読んでいた。本から顔をあげ、ふと空をみると、飛行機が飛んでいるのがみえたから、
「あれは大阪行の日航かなア」
こちらはわざと一人で呟いてみせると、瞬間湯わかし器はたちまちにしてわが作戦にのってカッとなり、眼を三角にして、
「何を言うか。あれは全日空四三三便十四時、大村行、型はフレンドシップだ。知らぬくせに、知ったような口をきくな」
私にとっては空飛ぶ飛行機が大阪行であろうが、熊本行であろうが、そんなことはどうでもいいのだが、彼には絶対にそれは間違っていてはならぬのである。すれ違う列車があれば、パッと腕時計をみて、
「ふーむ。十時、大阪発の急行だが、一分、遅れているな、ふーむ」
何が面白いのか一人でつぶやいている。一体どうして、こういう変テコな趣味が君にあるのかときいてみると、子供の頃、大人につれられて汽車を見にゆき「バンザイ、バンザイ」と叫んでいるうち、こうなったのだそうだ。私は何だか急に阿川が可哀相な気がして、じーっとその顔をみつめていた。皆さんも幼児体験ということを考えるとお子さまをあまり線路のそばなどにつれて行き、バンザイ、バンザイなどと叫ばさないほうが、およろしいのではないかな。
私の友人たちの中で一番早く自動車運転を習ったのは三浦朱門だが、乗物キチガイの阿川がやらずにすます筈はない。彼はいつの間にかオンボロのルノーを夢中になって乗りまわすようになったが、誰も恐れて乗るものはなかった。その運転が駄々っ子運転ですごいからである。温厚な三浦や慎重な吉行のそれに比べると、阿川の車は疾風のごとくビューッと走り、ギイーッと停るのである。
私は箱根で阿川の車に乗ったため、味わわさせられた恐怖の三十分を決して忘れることはできぬ。今でも夜、夢にみるくらいだ。
それは先に語ったマツタケ事件の三日後であった。講演旅行の最終日で最後の会場が小田原だったから、我々は箱根の旅館に休息をした。
夜の講演まであと三時間ある。陽はまだあかるいので、私と阿川とはその辺を散歩することにした。
しばらく歩くと左側にレンタカーの事務所があり、真赤なホンダのスポーツカーなどがおいてある。夕陽にあたり狐色に光る箱根の山々を眺め、芦ノ湖をみたいと阿川に言った。と彼は、
「そんなら、あの車、借りよやないか」
私はお前さんの運転はすごいそうだから、こわいと答えると眼を細めて、
「なア心配するなよ、温和《おとな》しゅう運転してやるから」
私は一度、赤いスポーツカーに乗ってみたいとかねがね思っていた。その気持と黄昏《たそがれ》の芦ノ湖をみたいという気持とが重なりあって、
「そんなら、乗せてもらおうか」
阿川が早速、借りてきたホンダのスポーツカーに腰をおろした。
本当はうまいんだな
阿川の運転は人の噂とはちがって、うまかった。ビューッと疾風のように走り、ギイーッと嫌な音をたてて急停車するどころか、安全な速度で慎重そのものであり、私は思わず、
「本当はうまいんだな」
そう賞讃したくらいである。
冬の山は人影少なく、ドライブウエーにも車の数は少ない。私は阿川のおかげで思いがけなく快適なドライブを楽しめたことを感謝し、
「有難うよ」
マツタケを奪られた恨みも忘れて彼に礼を言った。その私の顔を阿川は黄金仮面のように眼を細めてじっと眺めると、
「どういたしまして」
いつもとはガラリと違う声をだすのである。
冬の湖をぐるりとまわり、新しくできたという箱根ターンパイクをまわって帰ることにした。こちらは先程の道よりももっと寂寥《せきりよう》として通る車さえない。
「君は人の噂とはちがうね」
と私は言った。
「どうして」
「人の噂だと、君の運転は神風運転だというが、実際、こう乗ってみると、なめらかだ。僕はひとつも、こわくないよ」
「そうかね」
「僕は東京に戻ったら、君の運転についての誤解を弁じたいぐらいだ」
「そうかね」
そうかね、そうかねと返事をしながら彼は少しずつアクセルに力をかけていたのである。私は車のスピードが刻一刻と増していくのを感じた。
「何だか、早くなったようだが」
「そうかね」
「そのくらいで、もうスピードはあげぬほうが、良いと思うが……」
「そうかね」
眼の前の道、両側の林、標識が矢のように飛びはじめた。下り坂がアッという間に眼の前に迫ると、たちまち上り坂となり、息つく間もなく頂上が迫る。
「君、何をするのだ。やめたまえ」
「そうかね」
「冗談はよしなさい。馬鹿はやめろ」
「そうかね」
私は額から汗が出はじめた。私はこれでも自分の家に女房一匹、金魚五匹、犬二匹、息子一匹、メダカ二十匹――合計二十九匹の生命を養う身である。もし私がこの阿川の目茶苦茶運転のため生命を失うとすれば、これら二十九の生命は明日からでも飢えるであろう。
お願い、助けてくれ
「よせ。よさんか」
「そうかね」
「助けてくれッ。お願いします」
「そうかね」
そこで初めて阿川はアクセルを少しゆるめた。
「じゃあ、お前、レストランMで奢《おご》るか」
Mというレストランは巴里《パリ》の有名な料理屋の出店で、料理はともかく値段がベラ棒に張ると聞いている。そこで自分に奢れと阿川は言うのである。私はしばし、ためらった。
ためらっている私を見ると、阿川はふたたびアクセルを強くふんだ。眼前の道、両側の林は逆まく濁流のように流れはじめた。クルクルクルクル、眼がまわる。
「奢るのか。奢らないのか。イエスか。ノーか」
「イエス、イエス」
「俺のほかに、女房もつれていくがいいか」
「か、かまわん」
「息子もつれていくがいいか」
「いい。いい」
「娘もつれていくがいいか」
「いい。いい」
「赤ん坊もつれていくが、いいか」
「いい、いい」
「メニューを見て、食べるものを選ぶのは俺の家族だが、いいか」
「イエス、イエス」
車の速度がやっと元に戻った時、私は頭がくらくらとして物もしばし言えなかった。私が絶対に自動車運転を習おうと心に誓ったのはその時である。
一週間後、阿川は奥さんをつれて、しょんぼり料理店Mで待っている私の前にあらわれた。そして食うこと、食うこと。夫婦してパクパク、パクパク、食べちらかしたのである。
おかげで私の息子はそのあとにあった運動会で運動靴も買ってもらえず、裸足で走らねばならなかった。
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近藤啓太郎氏の巻 泣く子とこの男には勝てぬ[#「泣く子とこの男には勝てぬ」はゴシック体]
われらがコンケイこと近藤啓太郎は『海人舟』で昭和三十一年の芥川賞を受けた。海や漁師を書く小説は現代日本文学にはあまりないが、近藤が海を書く時、その筆は色彩と生命感に溢れ、他の追従を許さない。彼はもう長いこと東京から離れ、千葉県の漁港鴨川に住んでいるので、この町で近藤啓太郎と言えば、まず知らぬ人はいないだろう。
それはともかく、コンケイに会うたびに私は「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」という歌を思いだす。「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺があるが、我々友人の間では「泣く子とコンケイには勝てぬ」と言うほうがピタリとするくらいだ。コンケイにはこわいものはないのである。
コンケイにはじめてあったのは、安岡が私をつれていってくれた「構想の会」だった。いわゆる第三の新人と今日いわれている小説家たちが、まだ芥川賞をもらって文壇にデビューしなかったころ作っていた会である。目黒の小料理屋の二階で毎月一回ひらかれるその会に私がはじめて出席すると、畳の上に寝ころんでいた日焼けした男が、
「おめえが遠藤かア。おめえのリヨンでの大学生活を書いた話、あれ読んだがよオ、面白かっただなア」
と大声で話しかけてくれ、私は彼に親愛感をもった。それがコンケイとの最初の出合いだった。
既に書いたようにこの会では高尚な人生論、文学論をする者ほとんどなく、もっぱら話題はウンコの話やオシッコの話ばかりであったが、近藤は自分ほどオシッコを遠くへ飛ばすことのできる者はないと言うのであった。そして誰か、俺に勝つ者はいないかと彼が言うと我々は自信なさそうな顔をして黙りこむのであった。実際、近藤の強そうな顔をみると誰もが肉体的に非力を感じるからである。
天衣無縫のやさしさ
それでも会がはねると、我々は暗い裏路の塀の前に一列にならび、近藤の指示にしたがってオシッコをできるだけ遠くへ飛ばす競争を無理矢理にさせられた。なぜなら「泣く子とコンケイには勝てぬ」からであった。
自分で自慢する通り、コンケイのそれはまるで宇宙ロケットのように大きな抛物線《ほうぶつせん》を描き、遠くに飛んだ。他の連中とくると、もう栓をとめた直後の水道ホースのごとく、力なく、かぼそく、弱々しい。と、近藤は顔を昂然とあげ、いかにも軽蔑したように一同を見まわし、
「なんだおめえらはヨオ。情けねえナア」
と言うのであった。
女性読者はここを読んで何とまア男たちは大きくなっても馬鹿馬鹿しいことをするものだと思われるであろうが、あなたたちの御主人や兄弟にきいてごらんなさい。この競争はたいていの男ならやった経験があるのです。そしてちょうど小さな犬が土佐犬の前でたちすくむように、オシッコの余り飛ばぬ男はよく飛ぶ男に劣等感を感じるものなのである。
閑話休題《それはさておき》、この競争で我々はすっかり「泣く子とコンケイには勝てぬ」という気持を植えつけられてしまった。のみならず、近藤には天衣無縫《てんいむほう》な一面があり、他の者のようにビクビクするところがない。阿川弘之が彼の師である志賀直哉先生の邸に近藤をつれていったところ、かしこまっている阿川の横で、近藤は出された食事をパクパクたべ、
「これはウマイねえ。もう一杯、くれないかなア」
と大声で志賀先生に言うので阿川はヒヤヒヤしたという。もっとも先生はかえってそんなコンケイが気に入られたようでニコニコ笑っておられたそうだ。
コンケイは当時、鴨川から上京するたびに吉行の家を常宿として三日ほど泊っては帰っていったが、自分の家にいると同じように吉行の家族の前でもフンドシ一枚で歩きまわり、
「茶が飲みてえ。茶をおくれ」
そして一日、フンドシ一つで吉行と花札をやるのであった。その吉行が私に語るところによると、
「コンケイは実に面白い」
「なぜ」
「あいつは俺の家から帰る時な、必ず、便器にちょっとだけウンコをつけて帰る」
「うーむ。それは面白い」
私は泊った家の便器に必ず、ちょっとだけウンコをつけて帰るという近藤に感心したのであった。
こう書くと傍若無人にみえるコンケイだが、必ずしもそうではない。この男には顔に似ぬやさしさと細い神経があって、喘息で時折苦しむ吉行に、鴨川から魚をポタポタ水をたらし、持ってくる。
「俺あ、お前に今度、ブリ、持ってきてやるからよオ」
時には、そのブリの半分はあるが、裏の半分はすっかりなくなっている。吉行がふしぎそうな顔をすると、近藤は、
「俺、お前によオ、このブリ持ってこようと思ったらよオ、あんまりウマそうなので、半分、食っちまっただ」
と言うのであった。
我儘亭主と不良児童
私が入院をした時、一番目に見舞に来てくれたのも近藤であった。彼は生卵を並べた箱をまず出し、
「これはダチョウの卵だア。このダチョウの卵をよオ、毎日、飯の時、一個ずつ食べると精気がつくぞオ」
と説明し、さらに風呂敷包みから女のヌードを表紙にした雑誌を幾冊かだして、
「精気のついたところでよオ、このヌードをみると、おめえ、早くよくなって娑婆《しやば》に戻り、こんな女を見てえと思うだろ。え、そうだろ。それでよオ療養に精だすちゅうわけだ」
と大声で言った。ちょうど検温に来ていた若い看護婦はエロ雑誌をふりまわして大声で私に話しかけているコンケイに仰天し、あわてて廊下に飛出していったが、私には彼のやさしさがじいんと胸にしみた。
卵+ヌード雑誌=回復というのはもちろんコンケイのアイディアだったが、彼の論理にも型破りなものが多かった。彼は自宅で眼前に灰皿があっても「おーい、灰皿」、そばの机に煙草があっても「おい、タバコ」と怒鳴って家人にとらせ、決して自分でとろうとしない。この暴君ぶりも不良児童を日本にはびこらせぬための行為なのだとどこかの雑誌にコンケイが書いていたのを、私は読んだことがある。我儘《わがまま》亭主と不良児童防止とはどうしても我々には結びつかぬが、近藤は、亭主が威張っていない家では子供が父親を馬鹿にして言いつけをきかなくなり、やがて不良になるのだ。だから亭主たるものは眼前に灰皿があっても威張って家族にとらすべきであると言張るのだった。
私はそれを読んだ時、首をひねり、可笑《おか》しくもあったが、その後、近藤の鴨川の家に遊びにいくと、なるほど彼の子供たちは日に焼けて心身ともに健康そのものであり、なるほど親爺は眼前に灰皿があっても「おい、灰皿もってこい」と大声をあげているのであった。そういえば彼は鴨川の中学で絵の教師をしたことがあるが、その指導をうけた生徒はみるみるうちに上達してコンクールなどに入選したという話だ。
そのコンケイがある日、私に趣味向上のため碁を習うことを奨めた。私は賭事は不得手だが碁なら憶えてもいいな、という気になりうなずいた。
当日、コンケイの命令で集まったのは吉行淳之介と梶山季之に野坂昭如に私、それに先輩の杉森久英氏だった。私たちはプロ二段の女の先生からまず碁の初歩ルールを習ったが、それは複雑でよくのみこめず吉行も野坂もポカンとし、杉森氏は眼をパチパチさせているだけだった。
それでも三回目ぐらいになり相手の石を囲めばいいのだということもわかると、吉行と私とはすぐ金を賭けて勝負をしはじめた。そこへ一人の痩せた顔の長い人がフラリと入ってきて我々の碁を横で眺め、さらに梶山と打っている杉森さんの横に坐った。
杉森さんは首を右にまげたり左にまげたりしながら、
「ここかな、ここに打てばいいかな」
ひとり呟き、石をおいた。するとその痩せた、顔の長い人は笑いながら扇子をパチリパチリならし、
「そこでは少し、ねえ……」
すると杉森さんはイライラとして、その人を見つめ、
「あんた、碁を知っとるんですか、知らないなら黙ってて下さいよ」
と怒った。男の人は苦笑し、コンケイがびっくりして叫んだ。
「杉森さん、この人は名人だワア」
「名人」杉森さんはまだキョトンとして、
「名人ってなんですか」
「坂田名人だよオ。碁では一番えらい人を本因坊名人というが、その人だア」
杉森さんはもちろん、我々も畳から一尺、飛びあがるほど驚いた。坂田名人をつかまえて碁を習ったばかりのくせに「あんた、碁を知っとるんですか、知らないなら黙ってて下さいよ」と言ったのは古今、東西、杉森久英氏ぐらいなものであろう。さすがの坂田名人も苦笑するより仕方なかったにちがいない。
われらがコンケイは我々の碁熱をたかめるため、おだてることもうまかった。「吉行の碁は坂田流で遠藤のは高川流だア」と言ってくれたり、「いや、この前にくらべると、格段、うまくなっただ」と我々を悦ばせた。
「そういえばおめえの顔も品よくなってきたなア」
この碁の集まりは楽しかったが、先生がアメリカに行かれてしまったため、なくなったのは残念である。読者のなかで若くて美人の女性で我々に碁をまた教えてくださる方はおらぬであろうか。(ただし、若くて美人の先生に限る)
映画監督はよきかな
コンケイはまたある日、電話をかけてきて私と吉行にすぐ来るように言った。私と吉行とが彼の命じた旅館に飛んでいくと、ニコニコした彼が座敷の中であぐらをかき「いやはア、耳よりな話があるだア」
そして間もなく有名な大女優、Yさんなどが所属しているプロダクションのS氏が姿をみせた。S氏は、
「実は」と声をひそめた。「現在、映画界の不況を打開するために、私は三先生にひとつ監督をやって頂き、それぞれ御自分の作品を映画化して頂きたいと思い、近藤先生に今日の集まりをお願いしたわけです」
「監督?」
「そうです。もっとも先生たちの一人一人には専門の助監督さんをつけますから技術的にも心配はいりません。どうです、その気持はありませんか」
私は横目で吉行をみると吉行はクチビルをとがらせ、嬉しさをこらえているようである。コンケイはもちろん膝をのりだし、私は私で松竹助監督を受けてあわれや落っこちた経験があるだけに長年の夢、やっとかなえられる幸福感にうっとりとしていた。
「いかがですな」
「やらせてもらいましょう」
それから三人でS氏をまじえ、自分の映画にしていい作品の内容を相談しはじめた。
その相談が終って外に出た時も我々の興奮いまださめやらず、
「少し飲んで帰ろうか。君は主演女優は誰にするつもりだ」
「ぼくはN嬢がいい」
「遠藤はA嬢がいいのではないか」
かくて三人、銀座のバーにおもむいてホステスたちに、
「ひょっとすると映画の監督をするかもしれん」
と何げなく呟くと、驚いたことには平生とはサービスががらりと違ってくるのである。吉行はともかく、私のように平生からモテない客までも煙草をだせばパッと火をつけてくれるのである。そして一人のホステスが私の耳もとでそっとささやいた。
「ねえ、あたしをその映画にだしてくれない」
「うん、だしてやるぞ」
吉行や近藤も盛んにそばのホステスに、
「君を主演女優の候補者の一人としよう」
と、さっきにまして我々の待遇はいやましに向上し、さながら竜宮城にて乙姫さまたちにとり囲まれた浦島太郎の心境である。
「ケッ、ケッ、ケッ、こりゃあ愉快だア」
その酒場を出ると我々三人は肩を叩きあって悦び、
「もう、二、三軒この手でまわろう」
あっちのバーでも、こっちのバーでも、
「君を主演女優の候補者として考えたい」
そう言っては大いに酒を飲み、大いにもて、やっと外に出て、
「お前は主演女優が何人できた?」
「三人」
「俺は四人」
夢はむなしく消えた
だがそれから一ヵ月たっても二ヵ月たっても肝心のS氏からは連絡がなく、たまりかねて近藤を通して打診してみると、
「いやア、あの企画を某映画会社にもちこんだのですが、どうも向うが頭が古くてですねえ、冒険を好まんのです」
かくて我々の夢はむなしく消えたが、承知しないのは主演女優候補を夢想していたホステス諸君で、当分の間、そのことばかり我々は彼女たちからブツブツ言われたものである。事情やむないものあるとは言え、あれはホステスさんたちに本当に申しわけないことをしたものだ。ごめんなさい。
近藤は先年から、犬にこりはじめ、紀州犬と柴犬の立派なのを飼いはじめた。彼はその犬の一匹を品評会につれていったところ、体格、健康、ずばぬけているにかかわらず、鴨川のような静かなところに育ったこの犬はラウドスピーカーの大きな音に馴れてない。ビックラして暴れたため、無念、落選してしまった。
切歯したわれらがコンケイは、以来、この犬をテレビの前にすわらせ、テレビの音のボリュームをものすごくあげて、大音響にも驚かぬという訓練をやりはじめた。
吉行と私とはこのコンケイの犬の子供を先年おのおの一匹ずつもらったが、胎教というものは怖ろしいもので、この仔犬は、多少の音などには一向に動じない。体格、健康、親に似てずばぬけているが、喜怒哀楽の表情がほとんどない。近藤が母親をテレビの前に坐らせて訓練したおかげなのである。
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女優さんたちの巻 誰も見てない素顔が見たい[#「誰も見てない素顔が見たい」はゴシック体]
私は舞台の人であれ、映画の役者であれ俳優ときくとはなはだしい好奇心と興味を今でもおぼえる。自分でもその理由がよくわからない。それは中学生の頃、教師や親にかくれて西宮の敷島劇場という映画館に足しげく通い、今は亡き桑野通子に胸ときめかし、そのブロマイドを買ったり、嵐寛寿郎に傾倒する余り、長い間その顔をまね唇をゆがめて物を言った時代から今日まで続いているのである。恥ずかしい話だが今日でも私は吉永小百合ファンクラブの一会員である。おそらく吉永さんは私が彼女のファンクラブの会員だとは知らないだろうが、会員番号は四三〇八。会員になるとサユリ手帖という真白な手帖やブロマイドをくれるほか、『さゆり』という会報を送ってくれる。
この『さゆり』という会報には涙ぐましいファンの手紙が掲載されているが、私はそこを読むのがはなはだ楽しい。紅白歌合戦に吉永さんが洩れた時などは、この欄には憤激するファンの手紙がずらりと並んで、たとえば、
「昨日、紅白歌合戦の出場者が発表されましたが、その中に吉永小百合さんの名前がありません。私はこのニュースをきいた時、畳に伏して泣き出してしまいました。自分の事以上にくやしくて夕飯も喉に通らず、涙があとからあとから流れました」
などという手紙を読むと嬉しくなるのである。こういうファンをミーハーというかもしれぬが、私はミーハーの女の子のほうが、なまじ教養あるようなことを言う女性たちよりはるかに好きである。
そんな私だから、もう十一年前になるけれども芥川賞をもらった直後、某週刊誌から早速、有馬さんと対談してほしいという話を受けた時、受賞第一作の仕事でフウフウ言っていたにかかわらず、二つ返事で引受けたのだった。なにしろ私はそのころ、宝塚から映画入りをした有馬稲子さんの映画をかなり近所の映画館でみていたからである。
有馬違いでがっくり
私は当時、独身で父の家にいたが、そこのお手伝いさんが私に輪をかけた映画キチガイで二人して日曜日、成城の俳優宅を見物してまわり、高峰秀子さんの家の牛乳瓶を失敬した経験がある。その彼女は私に有馬さんのサインを必ず必ずもらってきて下さいよッ、とたのみ、私は、自分用のと色紙を二枚もって迎えの車に乗った。同乗した新聞社の人に「有馬さん、忙しいでしょう」とたずねると「かなり忙しいですね」という返事であった。私は更に、
「あの人は恋人がいるのですか」
「さあ、よく知らんですが、いないでしょう」
「しかし恋人がいないというのはおかしい」
「そりゃア、いるかもしれませんが」と新聞社の人は浮かぬ声で答えた。「僕はあまり関心がないんです」
「関心がない? じゃア、あんたはああいうタイプの顔は嫌いなんですか」
「好きも嫌いも有馬さんの顔には興味が特にないですよ」
私はこの新聞社の人はよほどの堅物か石部金吉だと思い黙りこんでしまった。なにしろ、当時売出しの有馬稲子に今から会うというのに、その顔に全く関心も興味もないという心理が私にはよくわからなかったからである。
対談をする中国料理屋につくと、この人は、
「有馬さん、もう来てられるそうですよ」
と私に言った。胸をときめかしながら私は勢いよく個室の扉をあけた。長い顔の男の人が腰かけていた。その長い顔の人はたちあがり、
「やア、僕が有馬頼義です」
私のこのソソッかしさは、たちまち友人たちに拡がり安岡章太郎は早速、随筆の枕にしたが、しかしその安岡だってまだ芥川賞をもらわぬころ、女優と対談があるのだと我々を羨ましがらせて大威張りで出かけたが、対談場所についてみると、そこに飯田蝶子さんがチョコンと坐っていたという経験の持主だ。
なぜ私は女優や俳優に疼《うず》くような好奇心を持つのか。その理由は沢山あるが一つには、この人たちの素顔がみたいという欲望である。
この人たちはスクリーンの上で本当の自分ではない別の姿を演ずる。それは純情だったり、可憐だったり、人格高尚だったり、強いタフガイだったり、それぞれによってさまざまだろうが、そうした「作りあげられた」イメージをまるで本当の自分であるかのように装って生きている方たちだ。吉永小百合さんは、可愛くて質素で頭のいい娘をスクリーンでもファンの前でも演じて当分生きていかねばならぬだろうし、野川由美子君は不良っぽくヴァンプな仮面をファンや新聞社の人の見ている時は決してはずしてはならぬだろう。だがそれらは要するに仮面であって素顔ではない。あるいは仮面がもう本当の素顔になりかかっているかもしれぬ。
要するにこの人たちは夜、一人で布団にはいる時――もう誰も見ていないとわかった時、どんな顔をするのか。「ああ、ああ、今日も一日おわりました。くたびれたなア」ときっと溜息をつくにちがいない。そう思うと、私は女優や俳優に好奇心がたまらなく起きるのである。
私が山本富士子さんと会った時も、この好奇心が多分に疼いていた。私の考えでは山本富士子という名からして「清く、正しく、美しく」みたいであり、正月元旦という感じであり、ショーウインドーの洋服でいえば見本というようであり、こういう名前をつけた以上、この人は清く正しく美しく生きることをファンから要求され、きっと一人で布団にはいった時、
「アーくたびれたわ」と溜息をつく第一人者ではないかと、かねがね想像していたからである。
待ち望んでいた素顔
だが私は会見以前に二つのことで山本さんに感心していた。一つはずっと昔、ある場所で私は山本さんを見た。彼女はお母さんと一緒だった。十メートルぐらい私と彼女は離れて歩いていたのだが、外に出るため彼女は、硝子扉をあけ、ふと十メートルうしろに私が歩いてくるのに気がつくと、そのまま扉をじっと手でもったまま私の来るのを待ってくれたのである。我々は知合いではなかったし、向うにとって私はたんなる通行人にすぎなかった。私はその時、なんと礼儀正しい人だろうと思ったのである。
もう一つは入院中のころである。私の入院した病院には一ヵ月前、彼女の婚約者である古屋丈晴氏が胸の大手術をうけて退院したばかりだった。好奇心のつよい私は看護婦や古い患者に色々きいてみると、山本さんは撮影でおそくなっても、夜おそくバラの花をもって婚約者の見舞にそっと来たそうである。しかし私はこれはどんな女でも惚れた男のためならすることであって当然だと思う。しかし古屋氏が手術をうけるべきか迷っていた時、彼女は手紙を書いた。あなたの足にデキモノができていればあなたは切るでしょう。あなたの胸に病巣があれば、あなたは男らしく切るべきです。そういう文面だったそうで、古屋氏はそれを入院仲間たちにみせ「決心がついた」と言っていたそうである。私はこの話をきき何だか感動した。
しかし山本富士子=「清く正しく美しく」、正月元旦という気持はどこかにあったらしく、会うとたずねてみた。
「貴方の御主人は貴方をブン撲《なぐ》りますか」
山本さんは愕然として叫んだ。
「まア、タケハルさんはそんなことはしませんわ」
それからしばらく黙っていたが、
「遠藤さんは、奥さまをお撲りになりますの」
「もちろんです」私は照れて答えた。「今日もここに来る前、階段から蹴落してやりました」
その時の彼女の顔は忘れられない。清く正しく美しい彼女の顔が曇り、この人の、可哀相な奥さん、こんな野蛮な御主人もってというように私を非難する表情が一瞬だが浮んだのである。それは私の待っていた素顔だった。いいな、この人は、と私はその時思った。
「ぼくはあなたの名前が気にくわん」
「まア、どうしてですの」
「十たす十は二十みたいな気がする。山本――これだけだって大日本という感じなのにわざわざ富士子とまでつけなくていいじゃありませんか。何から何まで完全なのがケシからんですなア」
「だって本名なんですもの」
「タテからみてもヨコからみても完全というのは良くない。すべてが清く正しく美しくとはけしからん。あなたは完全すぎる。何かコンプレックスがないのですか」
「あたしだって……コンプレックス、ありますわ」
「それは何ですか」
「言えませんわ」
「御主人にはおっしゃいましたか」
「はい、それは申しました」
読者は私の質問を無礼とお思いになるだろう。だがそんな無礼な私の質問にも素直に一生懸命、答える山本さんを好きにならぬ者があろうか。近く赤ちゃんがお生れになるそうだが、山本富士子さんの赤ちゃんなら桃太郎のように気はやさしくて力持ちだろう。御安産を祈る。
瑳峨三智子さんとの対談
妖艶な外観をしているが話しているうちに意外に女らしさを感じたのは瑳峨三智子さんである。ミーハーの一人である私と彼女との対談の一部を抜すいするので読者もそれを感じて頂きたい。
遠藤「一般のファンには女優さんがイワシ食べるのもふしぎな気がするミーハー的気持があります」
瑳峨「どうしてイワシ食べるのがふしぎなんですの」
遠藤「もったいない。おそれ多い。女房がイワシ食べてるのはいいが、あなたがイワシたべるのはふしぎだ」
瑳峨「わたしイワシ好きです」
遠藤「わからないかなあ。一般のファンにはねえ、あなたがたが便所に行くことさえふしぎな気持がするものなんです」
瑳峨「便所で出さなかったら、どこへ行くでしょう」
遠藤「ファンにとってはあなた方が出すということが、あり得べからざることです」
瑳峨「そんなの困りますよ。分りません」
遠藤「それ分りませんかなあ。そうかなあ」
瑳峨「そうですよ」
遠藤「ぼくの家に、ある有名な女優さんが遊びに来てトイレを使ったのでぼくはトイレに貼紙をしました。『このトイレはもったいなくも女優の××さんが御使用されました。皆さん、慎んで使って下さい』。家人にも大切に使用するよう命じてあります」
瑳峨「へーえ」(キョトンとした表情)
遠藤「しかし家に来る若い者の十人中、三人ぐらいはこの便所を使って『ぼ、ぼく、光栄でしたッ』と言っていますよ。もっとも、そういうことを言う奴は話せるけど、出世しないねえ」
瑳峨「はア」(浮かぬ顔)
遠藤「ところで瑳峨さんは道でトイレに行きたくなったらどうします」
瑳峨「行きません。女優って商売をしていると行かないという訓練ではなく行けないという習慣が身につくんです。だから水分もあまり採りません」
遠藤「体が悪くならないかなア。しかしそれでは便所に行かれた時、すごいでしょう」
瑳峨「出ますねえ。生きているってことを痛感いたします」
遠藤「いい話だなあ。あなたのお話で多くのファンも、女優また人間であると認識したでしょう。有難うございました」
女優たちの深い溜息
ところで私は女優さんたちが意外に小遣いを少ししか持っていないことにもビックラしたものである。
吉永小百合さんが卒論のことで私の家に相談にこられた。私は小説家で別に教師でもないが、彼女は早大で歴史を勉強しているので、東西交渉史の一つともいうべき切支丹時代のテーマをたずねてこられたのだ。私はその時、彼女を女優として扱わず学生として扱い、ない知恵をしぼって色々、考えをのべたり、人には見せない本棚も見せたので、そのかわり、こんな不躾《ぶしつけ》な質問をしてもいいと思った。
「あなたは、今、いくら持ってますか」
すると彼女はちょっと、困ったような表情になり、「あの……千円です」と答えた。
私は彼女が質素可憐のファン・イメージにあわせて、そんな答えをしているのではないかと思い、財布の中の全部出してみてくれないかと頼むと、本当に千円札一枚しかはいってなかった。財布を出す時ポケットから南京豆の皮がゴミクズと一緒にこぼれ出たのが可憐だった。私が吉永さんのファンクラブにひそかにはいろうと決心したのはその時である。
緑魔子さんに「今、あなたはいくら持っていますか」とたずねると「いくらかなア」と言い、化粧箱の中から財布を開いたところ三千円ぐらいしかなかった。桑野みゆきさんは六千円であった。女優さんになると世話する人がみな払ってくれて自分は金をもたないのか、あるいはどこの店でもツケになるのかと思ったが、それにしても小遣いは少ないのかもしれない。
私は女優や男優をみて飽きることがない。ファンや社会のイメージにあわせて生きていかねばならず、たえずマスクを顔につけている存在は非常に興味がある。もし読者のみなさんが万一、美男か美女に生れて女優か男優になり、ファンから、
あなたのつぶらな瞳
やさしくボクに微笑んでいる
ボクはあなたを胸にもって
一生懸命 生きていく
などという詩や手紙をもらったら、それこそ照れくさく、息ぐるしく、そのイメージをぶっこわすために、わざとおナラなどをしてしまわれるだろう。だが女優になるにはそれを平気で受けとめる強い神経か、鈍感かのいずれかが必要である。だから一人で布団にはいった時、「アー、今日も一日、終りました」とふかい溜息をついていると考えたい。
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瀬戸内晴美さんの巻 アネゴ肌のさえずり姉さん[#「アネゴ肌のさえずり姉さん」はゴシック体]
数年前のこと、わが風流の友、講談研究家の田辺|日念暮亭《ひねくれてい》がその庵を増築し、客を招いた。
私はその祝いに何を持っていこうかと思案した末、ポンと膝をたたいて、
(そうだ。あのレコードがいい)
レコードと言うとメンデルスゾーンとかハイドンなどと考えて頂いては困る。そんな無風流なものを狐狸庵山人が友人に持参する筈があろうか。私が日念暮亭主人のために進呈しようと思ったのは「寝小便のトマるレコード」と「タバコの嫌いになるレコード」の二枚だったのである。
この珍妙なレコードをどのように入手したか。その一ヵ月前、私は某週刊誌をパラパラ見ていると、このレコードの広告が眼についた。発売元はN催眠学会という余り聞いたことのない会社だったが、推薦者に佐々木久子さんの写真まで載っていたのでふと好奇心にかられた。「なんの労力も入《い》りません。あなたが眠っている間にこのレコードをかければ、御病気も悩みもすべて治るのです」とその広告には書いてあった。
注文一週間後入手したのはレコードというより、薄っぺらなソノシートで、たとえば「タバコの嫌いになるレコード」は表が男性用、裏が女性用、試みに男性用のほうをかけてみると、甘ったるい女の声が、
「あなたは……タバコが大嫌い。タバコは苦くてまずいの。あなたは……タバコが大嫌い。タバコは苦くてまずいの。あなたは……」
繰りかえし繰りかえし同じ言葉を呪文のように呟いている。使用法をみるとこれを眠りっぱなに、かけろ、と書いてある。つまりこれを毎日毎日、たえず聞いていれば次第に自己暗示にかかり、本当にタバコが嫌いになってくるというのである。
私は「タバコの嫌いになるレコード」のほか六枚ほど買ったが、寝床につけばバタン、グウの身には肝心の声を耳にするかしないうちにもう眠りについていて一向に役にたたん。その上、「精神病患者、テンカンの方は睡眠二十分後にかけて下さい」というただし書が癪にさわり、押入れの中にエイッと放りこんでしまった。
姉弟の盃をとり交す
日念暮亭主人の増築祝に、この珍レコードを進呈するほうがかえって風流と思った私はその日、その二枚を紙につつみ、我家を出た。曇った寒い日であった。だが木の香のにおう日念暮亭には既に二十人ほどの客が火をかこみ徳利傾けて談論風発、なかに瀬戸内晴美さんと河野多恵子さんの二人の姿がみえた。
お二人に会うのはこれが始めてだったが、かねてから日念暮亭主人を通してこの二女性に親愛感をもっていた私はレコードを膝におき、そっと二人を窺《うかが》うと、まあ、何と対照的であろう。瀬戸内さんのほうはパパッ、パパッと酒をのみ、たえず周りの人に話しかけ、その口の開閉、さながら機関銃のごときである。一方、河野さんのほうは全く口をきかず、さながら嵐寛寿郎のように口をまげ、ただタバコをプカー、プカーとふかし、酒をグビリ、グビリと飲むだけなのである。思わず、
(さえずり娘にダンマリ娘!)
心のなかで私は叫んだのであった。
酒をのむと私もおしゃべりになる。かけつけ三杯からはじまって次第にピッチをあげた私は、たえず瀬戸内さんの口の開閉をうかがい、
(さえずりでは彼女に負けんぞ)
負けじとペチャクチャしゃべりだしたが、私の口の開閉速度をマッハ五十とすると、瀬戸内さんは九十ぐらいらしく、次第に彼女の弁舌に押されはじめ、口がくたびれてきた。私は最後に降参し、
「いやア、参りました。さえずりの点では人後に落ちぬと自負しておりましたが、あなたさまのようによくしゃべるお方は始めてでござる。とても拙者の太刀打ちできるところではござらん。この上は潔《いさぎよ》く、兜《かぶと》をぬぎ、以後、姉弟の間柄となりたい」
というようなことを現代口語で言い、ここに瀬戸内晴美と姉弟の盃をとりかわしたわけである。
さてこうして姉弟となると、この姉は私以上に好奇心が強く、妙チクリンなこともよう知っていることがわかってきた。チリンチリンと電話をかけてきて、
「あんた、わたし電気アンマ機械を手に入れたの。いえ、買ったんじゃないのよ。向うが二、三日、試しにおいて下さいと言うからおいてるの。坐っただけで体がブルブルっと動く機械よ。あんた使いにいらっしゃいよ」
あるいはまたチリンチリン、
「あんた。面白い女祈祷師がいるわよ。口から真珠がドンドン出てくるの。あなたが生菓子を持っていって祈祷してもらえば、その生菓子からも真珠がドンドンでるのよ。空《から》の徳利に祈祷してもらえば、徳利に酒がドンドンいっぱいになるの」
女房の神通力は困る
こういう話を聞けば生来、好奇心の強い狐狸庵としては矢も楯もたまらない。早速、晴美姉さんの教えてくれた真珠を出すという女をたずねてみた。こういうことをトリックだの嘘だろうと考えるのは野暮の骨頂で、それ自体、面白ければ一つのショーである。裏の裏までセンサクする必要はない。
私は生菓子を箱に入れてこの女祈祷師の前にさしだした。彼女は汗をたらして祈祷したがその日は調子が悪くていくら生菓子をちぎっても真珠は出てこなかった。そのかわり、突然、その小さな口からパラパラ、パラパラ、七、八粒の小さな真珠がこぼれ、机の上に散乱した。瀬戸内さんの言った通りであった。
「ふむウ」
感嘆している私に彼女は、
「さわってごらんなさい、唾なんかで濡れてない筈ですよ」
「なるほど、秋の空のように爽やかに乾いておる。ふむウ」
彼女の御亭主というのがこれまた愉快な男で、彼女の祈祷で空の徳利から湧いたという御神酒を私にすすめつつ、
「え? こういう女房をもてば酒代がタダになるって? いや、世の中はよくしたもんで僕は下戸なんですワ」
「しかし、そのほか色々、便利なことがあるでしょうが……」
「とんでもない。浮気一つできませんワ。なんでも女房に見通されるんですからな」
御亭主の語るところによれば、一度浮気をすべエと女の子と浅草のバーで会っていると突然、奥方からそこに電話がかかってきた。おどろくべし、奥方は彼女の透視力によって御亭主のいる場所、相手の女の顔までアリアリと見えたのである。だからすぐ電話をかけたというわけだ。
「わたしはねえ、眼をつぶれば」と彼女は「主人の財布に今、いくら入っているのかわかるのですよ」
「そうなんですワ。だから浮気一つもできませんワ」
便利なようで不便なのが世の習い。私はつくづくこのような神通力女房を持たなかった我が身の倖せを感謝したのである。
三年ほど前、私は石原慎太郎と安岡章太郎と三人で四国に文芸講演会に行ったことがある。徳島は瀬戸内さんの故郷である。その徳島に来た時、私は宿屋の手すりから下の夕暮の狭い道路をみおろし、この路を瀬戸内さんも文学少女時代に歩いたのだろうかと考えた。この町で彼女はどんな本を愛読し、どんな風に文学に眼ざめていったのか知りたかった。彼女は学校時代は非常に成績がよく、東京に出て東京女子大に入ったあとも、抜群の成績だったと人に聞いたことがあったからである。余談になるがこの講演旅行では石原慎太郎のモテることすさまじいものがあり、徳島の町を彼と安岡と散歩していると、
「あッ、慎太郎よ」
「えッ、慎太郎」
通行の若い女性も店の前にたっている女子店員も一瞬ゴクリと唾をのむのがよくわかるぐらいだった。今治などでは海べりの料亭で食事していると女子中学生がズラリと並び、「裕ちゃん(石原裕次郎のこと)の兄さん。裕ちゃんの兄さん」
と連呼し、
「顔みせてよ」
と叫ぶのであった。そこで私が窓から顔を出し、
「ぼくが裕ちゃんの兄さんだが、何か用か、アーん」
と言うと彼女たちはキョトンとして黙ったのち、吐きすてるように、
「ちがう、ちがうやんか。あんたみたいな人やないよ」
と騒ぎはじめ、私はすっかりクサってしまった。
徳島から東京に戻って前号に書いた瑳峨三智子さんにあった。この女優さんは瀬戸内さんと親しいので、私はついホラを吹く気になり、
「いや、驚きましたなア、徳島ではこの町出身の瀬戸内さんは実に人気があります。駅前の土産物屋に晴美人形とか、晴美饅頭なんか売っているのですから」
と出鱈目を言うと瑳峨さんは「へえー」と本気にするのである。私はますます調子にのり、声をひそめて、
「いや、瀬戸内さんの家の前に――今は瀬戸内仏壇店と看板が出てますがね――観光バスもとまるくらいなのです」
「ほんとですの」
「その家の横に古い井戸があり、瀬戸内さんの初湯《うぶゆ》の井戸と立札も出ています。井戸はこのくらいの大きさです」
「まア」
ところがこの話がそれを本気にして傍聴していた雑誌社の人から彼女の耳に入り、彼女のことだからもちろん怒りはしなかったけれども私は恐縮してしまった。
睡眠薬に酔って散財
私は昨年、ある雑誌に晴美姉さんと二人で毎回ゲストを呼び一年間、対談をした。彼女はその特、京都に引っこしをしていたけれども、この対談には一回も欠席したことはない。私もたのしいから風邪で一度だけ欠席しただけである。
その対談でかのデビ夫人が出席した時、私はこの有名な夫人にスカルノの話をきいたあと、
「今の話には嘘はありませんか」
とたずねると決して自分は嘘はつかないとキッパリ言われる。そこで私はちょっと、悪戯心を起し、今からあなたさまが正直者か否かのテストをしたいとのべ、
「では伺いますが、奥様はお風呂でおナラをされたことがおありでございましょうか」
とうかがうと、夫人はしばし絶句されたが、やがて蚊のなくような声で、
「し……したこと……ございます」
当時、日本のジャーナリズムではこの夫人にきびしく、必ずしもその評判は良いとは言えなかったが、この一言で私は彼女に親愛感を感じたのは事実である。
新宿のフーテン娘と対談した時、彼女は睡眠薬遊び用の睡眠薬を我々も飲まなければイヤだと言いはじめた。私はこの種の薬は平生、使ったことがないのでためらっていると、わが晴美姉さんは大胆にもこの娘がわたした多量の錠剤を口に放りこみ、ビールと一緒にグイと飲みほしてしまった。
私はビックラし、いや、さすが立派であると感心していたが、やがて対談が終り、二次会に喫茶店にみなでいくと、瀬戸内さんがどうもおかしい。酒にでも酔ったように顔が上気し、眼がうるんでいる。機嫌はますますよくなっていたが、そのうち急に立ちあがると、その喫茶店で同時に陳列している婦人ものの服や肩かけをフーテン娘のためにパッパッ買いはじめた。
フーテン娘はすっかり感激し、
「あたし、瀬戸内先生、好きになっちゃったなア」
と大声で叫び、彼女にだきついて悦んでいた。
ステキな大根でした
瀬戸内さんにはこのようにアネゴ肌のところがあり、だから私は彼女を晴美姉さんともよぶ次第である。もし彼女にして江戸時代に生れていたならば、大前田英五郎の奥さんにでもなって若い者から「ネエさん、ネエさん」と慕われていたことであろう。
昨年、私は『季刊芸術』の古山編集長と話をしているうちに急に芝居をやりたくなり、友人、知人を誘ったところ、たちまち四十人以上の男女が集まってきた。だれ一人として芝居をやった経験などないサラリーマンや画家や学生などで、出しものの相談をすれば、
「え? リア王? これはやったことがあります」
「へえ、どこで」
「小学校の学芸会の時です」
あとは軍隊の軍旗祭で馬方《うまかた》の役をしたというのが最高の役者で、これでシェークスピア原作『ロミオとジュリエット』をやろうと言うのである。
さすがの心臓の私も恥ずかしく、文壇の友人たちにはできるだけ秘密にしておいたが、早耳の晴美姉さんはいち早くかぎつけ、当日、超満員の客席で田辺日念暮亭とともに、「頑張れエ」「とってもステキー、狐狸庵ちゃん」
大声をあげているのが舞台上汗だらけの私の耳にも聞えてきた。もっとも自分の役をおえて、化粧を落し休憩時間に客の右往左往しているロビーに出てみると、
「遠藤周作さん江、瀬戸内晴美」
大きな籠に大きな大根をいっぱい載せたのが、受付ちかくに飾ってあって、客たちの笑いを誘っていた。
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狐狸庵山人の巻 好奇心旺盛な意地悪爺さん[#「好奇心旺盛な意地悪爺さん」はゴシック体]
十四回にわたって連載してきたこの「周作口談」もいよいよ今回が最終回である。あの先輩についても、この友人についても書きたかったのであるが、引きぎわのいいのも男というから、このあたりで退散しよう。そしてこの最終回は、狐狸庵山人について話をすることにする。私はかつてこのふしぎな老人について次のように説明したことがあった。
「実をいうと我々文士のあいだでは狐狸庵山人について折々、話題になることがあるが、その話はいつもたいてい次の言葉から始まるのである。
『一体どんな人だね』
と言うのは我々の中で山人と特に親しく交わった者は一人もいないからである。その年齢についてもある者は六十歳といい、他の者はすでに七十歳をすぎていると語るが、定かではない。とにかく、かなりの老人であることは確からしい。
その上、この老人は『世を厭うた』と称し相州|柿生《かきお》の山里に草廬、狐狸庵をあみ、ほとんど東京に出てこない。もちろん文壇の会合、出版パーティ、その他もろもろの集まりにも顔を出したことはない。だからその声に接したものも非常に稀《まれ》である。
それではそれまでの山人は何をしていたのかと言うとこれまた不明。一説では彼は京都の公卿、田抜小路子爵の息子であり、若い折、遊蕩にふけり云々というが、他方、四谷三丁目で薬罐《やかん》屋をやっていたという話もある。山人の文章をよむと行間から俗臭フンプンたるものがちらつく。がこれは育ちのいい人間でないことを証明するもので、私のような作家ならこのくらい、すぐわかるのである。田抜小路子爵といえば一条家、近衛家とならぶ堂上公卿の名門だから、その子孫がかかる俗臭フンプンたる文章を書くはずはない。彼は自分は俗塵を棄てた世捨人、花鳥風月を愛するばかりである、としきりに言っているが、実は世捨人どころか好奇心ばかり強い意地悪爺さんでなかろうかと言うのが私の意見である」
これを書いたのは今から二年前であったがその後私はある機会からこの狐狸庵山人にインタビューをすることができ、以後、折あるごとに柿生の山ふかい彼の庵をたずねるようにした。
鹿追い≠ニ秋の鶯
小田急、鶴川の駅をおりて左にしばらく歩くと次第に丘陵となる。鶴川、柿生のあたりはその地名のごとく柿の木がいたるところにあるのだが、なかでもM村は全村、これ柿の老木に埋まり、秋におとなうとその実の色が実に鮮やかである。
山人はこの村からさらにしばし山をわけ入った雑木林に草廬をあんでいるが、諸君がもしたずねられたいならば、その林のなかにたって、まず土産物は何をもってきたかを大声でいったほうがいい。山人は世を捨てたなどと言っているが、あれでなかなか慾ぶかで吉良上野介のようなところがあり、客の土産物によって、待遇がかなり違ってくるからである。
もう一つ、訪問客が注意せねばならぬことは、面会中たとえ、奇妙なことに気がついても決してそれを口に出してはならない。あくまで山人を花鳥風月のみを相手にする世捨人のように扱い、自分は俗人でまことに無風流だと言う顔をすべきである。それでないと狐狸庵山人の機嫌はたちまち悪くなるのである。
私ははじめ、それを知らぬため、失敗したことがあった。
その一つは山人自慢の鹿追いの音をきいていた時である、彼は庵をとりまく雑木林に竹と石とで鹿追いをつくり、それがひどく自慢げであった。
京都詩仙堂に遊ばれた方はあの静寂たる庭に規則ただしくカーンとひびく音をきっと耳にされたであろう。あれはその昔ここの堂主が書見の折、庭にまぎれこんだ野鹿をわざわざ立って追いはらわずともすむよう、流れに竹と石をおき、水の重さではねかえる竹が石を打つ音をひびかせたのである。狐狸庵山人もどうやら昔それにいたく感激したらしく、それをマネて作ったらしいのだが、だがマネたところでこのあたりに第一、鹿などおるはずがない。野鹿もおらぬところに鹿追いはそれ自体、滑稽である。しかし山人は、
「うーむウ、ききなさい、静寂、石うつ竹の響きに深まりますナ」
などと諸君につぶやくであろう。だが京都詩仙堂の鹿追いは、
カーン
鋭い爽やかな音であるのに、ここのそれは、
ボコン
鈍い、阿呆臭い、スカ屁のような音で、静寂、石うつ竹の響きにとても深まるとは思えない。しかし、もしそのようなことを諸君が口にだせば、山人の機嫌はたちまち悪くなり、諸君を無風流の俗人と罵《ののし》り、野暮で夢がないと言いはじめるから黙ってその阿呆くさい音にも眼をつぶり、感にたえたような顔をすべきなのである。
また、山人の随筆にしばしば、「雑木林に集まる野鳥の声は朝の眠りを起す」という言葉が出てくるのもあまり期待しすぎてはならない。
私は某日、山人とその庵で談笑しておると、山鳩のわびしく鳴く声がきこえてきた。折しも秋の夕暮であり、言いようのない寂寞たる心地がして、
「ああ、山鳩が……」
と叫ぶと、山人は得意気に鼻をピクピクさせ、
「さよう。私は今、花鳥風月のみを友として世を過しております。濁りきった市井にはもう飽きた。この山里で風雅の道を送ることこそ、私の生甲斐でありますなア」
などと例によって例のごとくつぶやいていたが、突然、山鳩の声がやみ、
ホー ホケキョ
たからかに鶯の声がきこえてきたのである。
秋に鶯の声とはハテふしぎなと思った私が思わず立ちあがると、山人も周章狼狽、あわてて障子をしめたが、ホケキョの声はなおも聞えつづける。
「うーむ。季節はずれの山鶯も時折おります」
山人はしどろもどろに弁解されるが、私はどうも腑におちない。早速、靴をひっかけ、雑木林におりていくと、何と鼻たれ小僧が二人、温泉地などで売っている鳥笛をいくつも持ち、ホケキョと吹きならしておるではないか。この子供らは山人から十円をもらって、客が庵にたずねてくると、吹きならし、あたかも野鳥の群れが遊びにくるがごとき雰囲気をこしらえていたのである。もっともこの事実を私は山人には知らん顔をしておいたから、今後も狐狸庵閑話などを読まれる向きは、私同様、だまされた顔をしておやんなさい。そのほうが本当の風流というものでござる。
わが将来ここにあり
私の調査した限りでは山人はその鼻たれ時代から怠け者のグウタラで親も先生も匙を投げていたようである。将来みどころのある子供はその頃から才気煥発か、あるいは社長の伝記や英雄伝によくあるように、近所の餓鬼大将として頭角をあらわすのが常であるが、この狐狸庵山人というと、学ばず、遊ばず、ただ、縁側でゴロリと横になり、グウグウ眠るだけで、根っからの怠け者だったらしい。変っているところと言えば、ワラジ虫を見るのが大好きで、ある日、その友だちが、
「なぜ、そんなにワラジ虫が好きなのか」
とたずねると、
「ワラジ虫は石の下でいつも丸くなって眠っている。何もせんでもいい。あんな風になりたい。来世、生れ変ったらワラジ虫になりたいなア」
とこう答えたと言う。
このグウタラな狐狸庵山人が理想にめざめたのは十七歳の時で、そのことについて山人自身がこう書いている。
「当時、拙者《やつがれ》は十七歳、神戸に住んでおりましたが、ある日、古本屋にて十返舎一九先生の『東海道中膝栗毛』という本を見つけ、退屈しのぎに縁側にねころんで読みはじめた」
読みはじめたところ、山人は感激興奮のあまり、一晩ねむれなかったという。怠け者の山人にしては珍しいことでござる。ともかく、この世に全く役にもたたぬ二人の人間、ヤジロベエ、キタハチの生き方をみて、
「これぞ、わが将来」
ポンと膝を叩いて叫んだのである。私自身も山人の口からそのことを聞いたことがあるが、ヤジロベエとキタハチの、
「世のため、人のため全く役にもたたず、あってもなくてもいいようなくせに好奇心だけが人一倍つよい」点が全く自分と同じだと気にいって、将来、そんな人間になりたいと考えたそうである。と同時にこの憂き世をば面白おかしく、たっぷり楽しむヤジキタの心がけも気に入り、二人こそ理想的人物と思いはじめたらしいのである。
「ヤジロベエと、キタハチのほかには心を動かされた人物はおりませんでしたかな」
「わしが尊敬する文士は式亭三馬先生に鯉丈《りじよう》先生、金鵞《きんが》先生ぐらいなものだ」
「ほう鯉丈に金鵞ねえ。三馬や一九ならまだ、わかりますが」
「なにを言うか」狐狸庵先生はいたく私を軽蔑し「だから君らの書くものにはゆとりがない。人物が荒い。鯉丈の『八笑人』、金鵞の『七偏人』をよみなさい」
私は山人にそう言われて、早速、家にとんでかえり鯉丈の『八笑人』、金鵞の『七偏人』を読んでみると、これも登場人物これことごとく、脳の少し足りんような連中ばかりで、それが竹林ならぬ裏長屋に集まり、一日中ワイワイガヤガヤ、愚にもつかん馬鹿話をやったり、キャッキャッ笑いころげたりしている話であって、とてもこんな脳足りんではこの世智がらい世の中を渡れぬと思ったぐらいである。
「あれは落語に出てくる八っつぁん、熊さんの元祖のようなもんではありませんか」
「だからこそ、若かりし頃はあの八笑人こそわが理想人間と思うたもんだ」
「ほほう」
「せめてあの八笑人たちの心境に達してみたいとあれこれ修業したが、まだそこまでいかん。何とも情けないことである」
風雅の道を歩む者?
山人は「若かりし頃」八笑人をも理想としたと言っているが、後年、年よりになるまでこの憧れをもち続けたらしく、今から数年前文士に手紙をだし、今後は風雅の道をたがいに歩むべく、本名とは別に雅号をつけ、八笑人の境地を味わわんと書き送ったのであるが、数人以外はこの馬鹿馬鹿しい申出を相手にする人はいなかった。その数人のなかには、私が今まで書いた梅崎春生氏や安岡章太郎氏、三浦朱門氏、曽野綾子氏などがあり、安岡章太郎氏はその後、窓雨亭黄斎と名のり、梅崎氏は練馬大王、三浦氏は白鬼庵、曽野氏は眠女と称しているようである。もっとも梅崎氏が自分を大王と後輩によばせるのは我々には甚だ迷惑であり、安岡氏の窓雨亭黄斎というのは何やら「くさい」を連想させて頂けない。
狐狸庵は前記のごとく、鹿追いの音、珍妙にして、季節ならぬ山鶯の声に驚かされることはあるが、それでも春になると雑木林に桃花、点々として、その雑木林の上を流るる流れにメダカは泳ぎ、ツクシ、セリはあまたとれる。狐狸庵山人はヘチマを好み、夏にはヘチマ棚の下でしばしば仮眠をむさぼり、午睡よりさめた後、渓流にひやした西瓜、瓜を私にたべさせてくれたことであったが、それはいかなる冷蔵庫のものよりも冷えていて、うまかった。また庭の竹をきってそのなかに酒を入れ暖めて飲ませてくれたこともあったが、竹の匂い酒にしみて、これまた風流であった。かかる生活は次第に今の東都では味わえぬので、山人の花鳥風月のみを友とすると言う言葉には多少首をひねるところもあるが、まあ諸君も見のがしてやってください。山人についてはその風雅の友、田辺|日念暮亭《ひねくれてい》主人が記述するものがあるので、次にそれを写しておこう。
三寸の胸、一寸の眼
「往昔唐竹林ニ七賢人アリ。近世和朝ニ垂迹《スイジヤク》シテ妙竹林中ニ七偏人ヲ生ズ。爰《ココ》ニ当代ノ珍奇人狐狸庵先生ト謂ヘルアリ。行屎送尿ニ至ルマデ七偏人ヲ以テ師宗ト鑑ミムトス。然リト雖モ竹林既ニ求メ難シ依テ雑叢中ニ一個ノ草廬ヲ営ミ以テ狐狸庵ト号ス。而シテソノ日録ヲ狐狸庵日乗ト称シソノ雑藁ヲ狐狸庵閑話ト題ス」
また滋蔓子亭主人の書くものにも、
「古語に曰く丈夫は齢五十にして色を好むこと未だ懈《おこた》らざるにと。狐狸庵先生頽齢頑禿の翁となり給いて上に揺銭《ようせん》樹を散す陀々羅《だだら》遊より、下は小合半酒《こなからさけ》を飲む困々愉快まで究め其情に通じ其義理に粋《くわし》く、此首《ここ》に遊び彼所《かしこ》に浮れ、三寸の胸に浮世の人生を蔵《おさ》め、一寸の眼に天下の形勢を窺う」
とある。
山人の門下に堅井雲子なる娘がいるが、その娘が「山人に奉るの歌」と題し、
大ぼら気ウソの狐狸庵たえだえに
あらわれわたるちぢの出鱈目
これにたいし山人の返歌は次の通りである。
あわれとも言うべき人もおもほえで
禿いたずらに広がりゆくかな
世の中は道こそなけれ思いいる
山の奥へと狐狸庵かくれ
それではこの回をもって「周作口談」を終る。また機会あらば再びお目にかからん。
[#地付き](『周作口談』改題)
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現代の快人物
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キャバレー界の風雲児[#「キャバレー界の風雲児」はゴシック体]・福富太郎
我輩のようなグウタラ男は世のため、人のため何の役に立つこともせず、一日中、布団のなかにワラジ虫のように丸くなって鼻毛ひきぬきながら、もし自分が一匹のノミであって女の背中にまぎれこんだら甚だ愉快であろうなどと言うようなことを黄昏《たそがれ》ちかくまで迷想するのを理想生活と考えるのであるが、読者の中にも私と同じようなグウタラ男がきっといるにちがいない。
そこで我輩は日本中のグウタラ生活愛好者の代表として、非グウタラ人間をたずね、その生活と意見とを聞いてまわることにした。非グウタラ人間とは我輩と違って仕事に夢中、研究に没頭、金儲けに身を賭けられるふしぎな人種たちのことである。言葉を変えていえばなにかに憑《つ》かれた「熱中人種」のことである。
人生どうせ幻のごとし。どうあろうと結局は同じだんべいというのがグウタラ生活者の口実であるが、熱中人種は蟻のようにセッセと動きまわる。どっちの生き方が正しいか、グウタラ人生がよいか、熱中人生が勝《まさ》るか、その結論はこのシリーズの最終回で我輩だしてみたいと考える。
御紹介するが我輩の助手はOと言う。オカッパ頭のロイド眼鏡、大人か子供かわからんような妙ちきりんな顔をした彼は私ほどグウタラではないが、さりとて熱中人間でもない。もちろん女好きであることを私は謹んで保証する。
第一回目に訪問する熱中人間は新宿のキャバレーのボーイから身を起し、機智縦横、今や三十四歳の身でありながら二十億の資産をもち、池袋、新橋、銀座、横浜などで諸君も一度はそのネオンの赫《かがや》きを眼にしたであろうキャバレー・ハリウッドの会長、福富太郎である。のんべんだらりと訪問しても仕方がないから、
(1) このお方の出世の秘訣はどこにあったか。
(2) 彼は人生の目的を何と考えておるか。
以上の二つを調べてみようと私は助手O青年と共に福富太郎青年が本城と称する銀座ハリウッドをおそるおそる訪問した。
夕暮の銀座は師走のように忙しく物哀しい。あっちの路、こっちの路から着物、洋服、色とりどりのホステスたちがそれぞれ集まる出勤時。諸君がモテたいならこの時間にバーに行くのがいいのである。初客は水商売では縁起よしとて悦ばるると俳聖芭蕉も言っている。
「まだ御飯前だろ。ラーメンとってやろか」
「嬉しいわ。本当の話、お腹すいてたの」
ラーメン一杯で銀座のホステスえびす顔。何をくだらんことを書いておるか。だからグウタラ男の訪問記はまとまりがない。勉強だ勉強だ。
キャバレー・ハリウッドの会長室、広さ十五畳、片一方は硝子戸のついた本箱。中に本はぎっしりと言いたいが、ぎっしりとまではいかない。正面にヒットラーとドモンジョのかなり大きな写真が飾ってある。
キャバレー王福富太郎氏はまだ三十四歳。喜劇俳優の藤村有弘と巨人軍の王選手とを足して二で割ったような顔だちである。笑うと子供のように可愛い。
福富太郎の出世物語はジャーナリズムの好材料になるとみえ、いろんな雑誌に書かれているから既に御存知の向きも多かろう。東京の大井町に生れた彼は十五歳で、新宿「処女林」の看板広告をみてそこのドア・ボーイに採用してもらった。彼の所謂《いわゆる》「日吉丸」の時代である。客の心理を掴む機智は福富太郎の天分らしく、この天分はこの時代にも発揮された。マルクス髭を鼻の下にはりつけて呼びこみをやったのである。おしぼりがまだなかった時代だが、彼はホステスの捨てた香水の空ビンに水を入れて匂いをつけたものをしみこませた。これが客の人気をよんだ。
やがてマネージャーに抜擢される。マネージャーになった後はケチ根性に徹し洋服一着、猿股なしという倹約生活をつづけ金をためた。株にも手を出した。
三十一年、神田今川橋の小さなキャバレーが税金の差押えになっているのを耳にしてこれを自分に引き受けさせろと頼みこんだ。客の心理を掴むため「大部屋女優二十七人の店」というキャッチフレーズで葉書をくばり、これが当った。大キャバレー「処女林」の経営者にこれを認められ支配人になってくれんかと頼まれた。当時、処女林は経営不振でどうにもならなかったからである。
彼はそこでまず店の改革にのりだした。日劇の看板をみて思いついたアイディアを生かして、店の表をショーウインドーに改築、そこにホステスたちの写真、ストリッパーの写真、雑誌グラビアのヌードをくまなく貼りつけた。お色気戦法である。
これが当って二年後に処女林の負債は全部返還されたと言う。
三十五年、福富太郎は独力で新橋「ハリウッド」を開業した。彼は宝ビールと契約して一年間無償で宝ビールを融通するかわりにハリウッドではこのビール以外を使用しない約束をした。月給二万円のサラリーマンが手前の小遣いで月に二度は遊べる店にしようと言うのが彼の目的だった。
ハリウッドが当ると神田のミルク・ローズを買収、つづいて渋谷、横浜、池袋と支店を出していった。
これが大体の彼の十五年間の見とり図である。見とり図であるから太郎さんがこれを読んだら、これだけではないぞと舌打ちするかもしれない。一見、このようにトントン拍子に見える出世物語の背後には人に打ちあけられぬ努力、アイディア、思い出が数限りなく転がっているにちがいない。
「ぼくという男は絶対に他人にはわかりませんよ」
対談中、酔ってきた太郎さんはたびたび、そう念を押した。言われなくてもそんなことはわかっている。だが彼が面白おかしくしゃべってくれた出世物語の中からその成功の秘訣を幾つかとり出すのもこちらの自由だ。
その成功の秘訣は努力とツキももちろんあるだろうが、次の三つも重要な要素をなしているように我輩には思えてきた。
(1) 名前
まず名前である。彼は本名を中村勇志智というが、この名前はどうも客に印象鮮烈ではない。他人に強烈な「印象」を与えるというのは彼の戦法の一つだが、この時も彼はその戦法を使っている。処女林の支配人時代、近衛|千代麿《ちよまろ》と名のったのはそのためである。これでは誰でも本物の近衛家の子孫かと首をひねる。ホステスからも何となく畏敬《いけい》の眼で眺められる。もっとも近衛家から抗議が出ると、これを捨て、ハリウッドを開業するにあたって今日の福富太郎と改名した。福富――太郎、まことに印象鮮烈である。のみならず我々は多かれ少なかれ自分や他人の名から毎日、暗示を受けるという効果がある。福富、いかにも金の儲かる名だ。
「この名に変えてから、ぼくはジャンジャン、金が入ってきた」と太郎さんは言っている。
(2) 自己暗示をかける
名による自己暗示と同じように本からも彼は暗示をうける。本好きの太郎さんは素人にしてはかなりの読書家だと自称している。今でも阿川弘之の『雲の墓標』、山本有三の小説は再三再読しているそうだが、ボーイ時代から吉川英治の『太閤記』は暗記するほど読んだという。読むのは誰だって読むが、このキャバレー王の面白いところは作中人物にすぐ自分を移し変えるところだ。いわば自己暗示をかけるのである。新宿のボーイ時代、彼は日吉丸のつもりだった。上役の眼がつこうがつくまいが信長の草履を毎日あたためていた日吉丸を読んで、彼は早速その真似をした。朝、早く、勤めているキャバレーの掃除を一人で毎日やったのである。これが偶※[#二の字点、unicode303b]ある朝、社長の眼にとまり、眼の中に入れてもいたくないほど可愛がられたのだと言う。
「自己催眠術ですな」
「そうです。ぼくはこれをテレパシーと呼んでます」と太郎さんは言った。「ぼくは何かをやる時、必ずこのテレパシーを自分にかけるんです。誰か有用な人物に会いたいと思った時、テレパシーをかける。そうすると必ず成功するね。ここで働く女の子にもかけてやる。君は大美人だぞと。そうするとふしぎに美しくなりますよ。その女の子が」
もっとも我輩、家にかえり古女房にこのテレパシーとやらをかけてみたが、女房は一向に奇麗にはならなんだ。
(3) 意表をつく策戦と客の心理を掴む即妙の機智
新橋ハリウッドのショー・ウインドーにはホステスの写真がずらりと並んでいる。ずらりと並んでいるところに「松井須磨子から加賀まりこまで」というキャッチフレーズが書いてある。この心憎いフレーズは太郎さん自身考えたものだそうだ。昭和三十二年、神田今川橋に初めて店をもった時もさきほど書いたように「大部屋女優二十七人の店」というふれこみでPRした。スターならば手が届かぬが大部屋女優ならば俺にも、という客のすき心を誘ったのである。
「この即妙の機智はどこで思いつくのですか」
「本です。だからぼくは本を読むんです」
秀吉、紀国屋文左衛門、河村|瑞軒《ずいけん》、次から次へと太郎さんの口から昔の人物の名が出てくる。あの男はこういう場合どうしたか、どういう機智で危機を切りぬけたか、引潮をどう逆手につかったか、それらの人物に太郎さんは例の自己催眠によってなりきろうとする。
以上三つを書きながら、私はあることに気がついた。こうサラサラッと書けばこういうことは誰にでもできるように見える。できるように見えるが実際、やってみようとすると誰にもできないのである。(1)はできる。(2)も実行しうる。しかし(3)にはたしかに努力のつみかさねと、努力では解決できぬ天与の才能が必要だ。「松井須磨子から加賀まりこまで」「大部屋女優二十七人の店」こういうフレーズはいささか下品だが、大会社の宣伝課員でも思いつかぬ。寿屋の宣伝部にいた作家の山口瞳がこのフレーズに感心したという福富太郎氏の自慢話はあながちウソではないと思う。
「見て下さい、この店を。客は安心して飲めるんです。自分の飲んだり食ったりした額がすぐわかるようになったキャバレーだからです。いいですか。キャバレーにきたらビールだけ飲んでなさい。そうすれば決してボラれない」
太郎さんの月給は三十五万円だが、太郎さんのキャバレーは日に千万円位軽く吸いあげると言う。
「ぼくのやったことは十万人に一人しかできんことですよ」
嬉しそうに自慢するが、その自慢がこの青年の場合、嫌味ではない。人に好意をもたれるコツを知っている。
「あんたは独身でしたね。なぜ結婚せんのです」
福富太郎氏はいとも明快に答えた。
「ぼくが今日まで努力して作りあげたこの財産をくれてやっても惜しくない女がおらんからです」
私はそばにいたホステスたちに太郎さんをどう思うかと聞いてみた。
「ステキすぎてステキすぎて」
だが待てよ。我輩も酔ってきた。そろそろ、太郎さんの弱味に探りも入れてやるべい。人間万事が思い通りにならぬことも確かだ。この快男児にもアキレス腱のあることはたしかだろう。
「太郎さん、あんた、この金を儲けて、一体なにがほしいんですね」
酔ったふりをして彼の耳もとで囁いた。
「もう限界点じゃないか。これ以上、キャバレーを作っていってもあんたの人生には量をふやすことだけじゃないですか。質じゃあないよ」
「そうなんだ。それは知っている」
「じゃあ、どうしようって言うんだ」
「俺は」と太郎さんは突然、寂しそうな顔をした。「名がほしい」
「しかしキャバレー王の名はあんたが死んじゃえばそれでお終いだぞ。一年後にはみんなすぐ忘れらあ」
我輩この時、決して嫌味を言ったのではなかった。我輩はなんだか彼にさっきから好意をもちはじめていたのである。好意を感じたから本気のところをチラッと口に出したわけである。
「それも知っている。じゃあ、どうすればいいんです」
そう答えた時の太郎さんの寂しそうな横顔に我々グウタラ人間と同じ表情が出る。
「あんたの部屋にドモンジョの写真があったですな」
「あれは俺の理想の女……です」
「日本にドモンジョが来た時、会いましたか」
「会いません。とても手が届かないと思ったんだ」
「へえ……あんた、さっき自分がテレパシーをかければ、どんな人にも会えたと言ったじゃないか」
「俺のテレパシーもド……ドモンジョだけには駄目だ。ああ、ドモンジョと握手できたら俺、百万円だしてもいいがなあ」
「キッスできたら」
「五百万円だすがなあ」
この声をあげた時の彼の顔はキャバレー王福富太郎氏というよりは三十四歳の独身青年、中村勇志智君であって、海のむこうのドモンジョもこの純情な声をきいたら、きっと逆立ちして悦んだであろう。
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星占いの予言者[#「星占いの予言者」はゴシック体]・トービス星図《せいと》
「一たす一は二にして三にあらず。二たす二は四にして六にも七にもあらず。太陽、東より出て、西に沈み、南に落ちることなし。猫はニャンとないてワンと吠えることなく、娘はパンティをはきて猿股を着用することなし。
万事、かくの如く合理主義、科学万能の御世《みよ》にして、満月の夜、お月さまに兎が餅つきしておりますよなどと言えば三歳の童子もせせら笑う近頃なり。杖引きて庵を出ずれど、花鳥風月の楽しみなど味わうべくもなく、眼前を自動車ブーブ、トラック、ガタガタ。一杯の茶をしずかに喫さんと思えど、茶店に愛くるしき娘の盆もつ姿は見当らず、バケツ、洗面器叩きまわしたるようなエレキ・ギターの騒音に仰天せずんばあらず。ああ、息苦しき世なるかな。固くるしき世なるかな」
以上は江戸の三文文士、遠藤|狐狸庵《こりあん》先生の日記の一節を謹写したものであるが、まこと、その文章には心うたれるものがある。再読三読に価するとは、けだし、このような迷文を言うのであろう。よろしく中等学校以上の教科書に採用し、生徒諸君の教材にしたい。
ところで狐狸庵先生と同じようにこの「息苦しき」世のなか、万事が一たす一は二で割りきる安直な合理主義時代に慨嘆する読者もさぞかし多いことであろう。お心持、察するに余りある。
だが待たれよ。絶望するにはまだ早い。夜あけはやがてやってくる。このような世のなかでもカネ、タイコを鳴らして探せば、埋もれたる人材、話せる男、夢みる人間がポツリ、ポツリとかくれているもので、このようなお方にめぐりおうた時こそ、まるで暗い梅雨の雨空にポッカリ小さな青空をみいだしたような悦びを感ずるものである。
たとえばこれから御紹介するトービス星図氏のごときはこの息苦しき世の中で我等にひと息つかせてくれる君子の一人であろう。
正直いって、一年ほど前、トービス星図氏にお会いしたことがあったが、その時は我が量見の狭さから氏を誤解すること甚だしきものがあった。氏を巷間《こうかん》の占師たちと同様に考え、その人柄をみることを忘れておった。今、考えれば、甚だ、顔の赤らむ思いである。
一年後第二回目の面談をして、私は氏を貴重な人だと思うようになった。これは決してからかいや皮肉で言っているのではない。会見後、私は氏に本心から好意と懐かしさとをおぼえたことを告白しておきたい。
諸君がもし、この合理主義支配の世のなかに窒息感をおぼえたならば、渋谷よりバスに乗って、池尻住宅前でおりられるがよい。時刻はできうれば、夕暮の、それもあたりがほの暗くなる頃あいを選ばれるがよい。
バス停留所より徒歩、二分ほど、紫色の夕靄の中にぽっかり青くうるんだ光が丸くかがやいた奇妙な西洋館が浮び上っている。夢幻的なこの西洋館の入口には「トービス星図、天文館、占星《せんせい》学研究所」としるされた表札を見出すことができる。そしてこの時代離れのした洋館の二階に、銀髪のトービス氏は哀しげな顔をして机にむかい、青い地球儀と天体図やコンパスなどがその机におかれている。
この部屋は妙に神秘的である。ストーブの音だけが乾いた音をたて、その音が部屋に入ることを許された者を、更にねむたく更に夢みる心地にする。
氏のそばには二人の美しい秘書がいる。グラビア写真にみられるミス・アメディア嬢と星ユリカ嬢であるが、この二人の女性と氏との奇妙な関係については後ほど書くであろう。
ともあれ、ここでトービス星図氏の優雅にして夢みる生活にふれる前に氏から聞いた今日までの経歴《キヤリエール》に簡単にふれておきましょう。
トービス氏は、十菱愛彦《じゆうびしよしひこ》というペンネームで大正の頃、小説などを書いていた人だそうだが、不幸にして私はその作品を読んではおらぬ。聞くところによると、それらは恋愛至上主義とロマンチックなプラトニック・ラブ礼讃の小説で、いかにも大正時代の青年たちが愛好しそうな雰囲気をもったものだったらしい。
ところが大正十一年、香港で氏は一人のイラン人に出会った。神秘家と称するこの男は湖のように青い眼をもち、その青い眼でじっとトービス氏を見て呟いた。「ああ。この人は中年以後、世界的な星占いとなるだろう」
やがてこの予言はピタリと適中。氏は小説家の道をすて、占星学に熱中した。まずアーマット・S・アリ博士の助手となり彼からその道の手ほどきを受けたのである。
「このアリ博士によると、私はね」
ストーブの乾いた音をたてる幻想的にして夢みる部屋で氏は荘重に私に言った。
「九百年前、ペルシャに生れた詩人で天文学者オマル・ハイヤームの生れ変りだそうです。あんたはハイヤームを知っとりますかな」
「いえいえ、知りませぬ」
「知らぬ? 近頃の小説家は情けないな。ハイヤームは虚無主義者で生前、女と酒を愛した詩人です。私も女は今でも好きですな。神に通ずるはあなた、芸術とセックスとラブとの三つだと思うとります」
「なるほど、なるほど。ごもっとも」
横で我々の話をきいていた美しい秘書、ミス・アメディアが言った。
「先生は本当に女好きですわ。先生のお考えによると、女性は男のなかでも高い霊をもったものにすべてを与えたほうがいいと言われますの」
「私はずっと前、夢をみました。その夢によると、私とこのアメディア、星ユリカの二人は前世に関係があったらしいですな」
「関係? とすると先生がペルシャで天文学者オマル・ハイヤームとして活躍されていた時代に彼女たちは先生のおそばで……」
「かもしれません。あるいは別の単純な関係だったかもしれませんな」
私のまぶたの裏にはペルシャの華麗な広間、強い香の匂い、神秘的な音楽、そしてそこに寝そべる先生とそのそばにヴェールで裸身を包み酒を運ぶミス・アメディアの姿が浮びあがった。
「するとアメディア嬢は前世、先生の寵姫の一人で」
と私が思わず羨ましそうに言うと、
「冗談じゃないわ。だれがこんなお爺ちゃんと」
アメディア嬢はまことに現実的な声で叫んだ。「あたしがオイランで先生はあたしのハコヤだったんでしょ」
するとトービス氏はひどく哀しそうな眼で私をみつめ、私はそんな氏がはなはだ好きになった。
私はトービス氏は大正時代のロマンチシズムを今日まで持ちつづけている人だな、と思う。氏がプラトニック・ラブ礼讃の小説を若い頃、書いたような心情が、六十七歳の今日も空の星をみあげ、地球儀をまわし、ミス・アメディアや星ユリカ嬢と前世で知りあったのだと思いこむ心根に展開していったのである。衆議院で氏と同じ年齢の老人たちがおのが出世利慾でつかみ合いをやっておるような時代、こういう心情をひたすら守りつづけたトービス氏のほうが、はるかに私には好ましい。
「失礼ですが、先生は」と私は言った。「時代をまちがって生れられたなあ」
「私も、そう思っとります」
「先生は十八世紀のフランスに生きかえられていたなら、もっと楽しかったでしょう」
私がそう言ったのは氏の本箱に『快楽主義の哲学』という新書版の本が眼についたからである。
「そうです。しかし私も年とりました。心は女性に絶えずラブを感じますが、体が言うことをききません」
「今、お弟子の数は」
「全国に二、三十人。見てあげた相手は数千人おります。米国の占星学会からも来い来いと言われていますが」
「なぜ、行かないんです」
「金がないからね」先生は寂しそうに呟いた。「米国とちがって日本は見料が安い」
「ぼくが考えるに」と横からわが助手O青年が言った。「先生はもうチト、演出をうまくすればええんや。そしたら金かて入りまっさ。たとえば上流社会に売りこむとか、どこかのホテルに部屋をもつとか考えればええのや」
「わしもそう思うとるがね」先生はO青年の不躾《ぶしつけ》にも腹もたてられず、「しかし内気な性格でねえ。人見知りをします」
私はO青年の無邪気だが、多少の非礼を先生にふかくふかく詑び、一九六六年の世界と日本の運命について占星学の回答をたずねた。すると左のような結果が出たのである。
(1) 国内政治は佐藤内閣、崩壊せず。日韓・日米関係等、巧みな言いのがれをする――公明党による反政府運動起る。
(2) ヴェトナム問題は米国が無条件に手を引かぬ限り終結しない。
(3) 米国では次の選挙を待たず、ジョンソン大統領が病死する。ソ連でもシェレーピンが次期の首相になる。この二人で第三次世界大戦が起る可能性が強くなるかもしれない。
(4) ガンの新薬。決定的かどうか、わからぬが適応薬はあらわれる。これは既にできあがっているのだが、慎重を期して発表をさしひかえているのである。
(5) 今年(一九六五年)の十二月中旬、カリフォルニア、チリーの中央部に大地震がある。
五つの質問のうち(1) (2)は新聞をよんでいる者には誰だって答えられるような答えである。トービス氏には失礼かも知らぬが、この私にだって回答できそうだ。
しかし(3)と(4)と(5)との予言はなかなか思いきったもので、果して当るか、当らんか、読者も記憶しておいて調べて下さい。
(残念ながらこの(3) (4) (5)は一年後の今日当らなかったことを御報告する)
もっとも、昨年、トービス氏に会った時、
「当らない場合もありますか」
そう質問すると、
「当らん時も近頃、あります」氏は正直にうなずいた。「原因は人工衛星です。人工衛星のため、地球に及ぼす星の作用が狂いましてなあ」
そういうお答えでありましたから、当らなかったからと言って、トービス氏を恨むのは通人のするところではない。
「それでは先生、私について占星学的調査をおねがいいたします」
「お生れはいつですか」
「三月二十七日であります。高峰秀子の生れた日、ショパンの死んだ日であります」
先生はそれから長い間かかって私の今後及び現在について計算されていたが、
「もう少し時間がいるのですが、大体のことはわかりました」
「お答え下さい」
「正直に言いますから、腹をたてんで下さい。あなたは生来のナマケ者、こう申せば失礼かも知れぬが、世のため人のため全く役に立たぬ人である。これは私が言っとるのではないのだ。あなたの星がそうさせるのです」
「グウタラはよう存じとります」
「ただ人なつこいので、友人、先輩から助けられ、それで糊口はどうやらしのげるでしょう。多少、狡いところがあるが、これは弱気のせいなのです。精力はなはだ強く女は色白ポッチャリ型を好み、妻もそういうタイプをめとる」
「ひゃあ、当りました、当りました。もっとも、愚妻は色黒のポッチャリですが」
「女性運には恵まれぬが、分を知っとるからそれを不満とはしない。しかし怠け虫がいつも働くから何をやらしても中途半端で投げだしてしまう。したがって大人物にはなれそうにはない」
同行したO青年についての結果は次の如しである。
「この人、財運ある家庭に生れ、先天的には利発にして眼から鼻にぬけるような頭をもっているが、後天的には、女に眼がなくなり、世に言うワダ・ヘイスケのたぐいなれば、異性のために運命に狂うところがある。友人にもワダ・ヘイスケ型が多く、類をなしてワイワイ騒ぐ傾向がある」
それからトービス氏は結論を出した。
「こちらをヤジさんとすれば、あなたはキタハチである」
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舞踊界の異端児[#「舞踊界の異端児」はゴシック体]・土方巽
昭和四十年の師走。
時計は零時半をさし、世界の魔都、大東京も寝しずまったこの時刻、人影たえた路を今一台のボロ車が音をたてて走っている。この車は一体どこに向うのか。この車に乗っているのは一体だれであろうか。
言うまでもない。このボロ車にはおなじみの二人の男――シャーロック・ホームズならぬ、迷探偵、狐狸庵と仕事のためなら殺人も辞さぬという助手のO青年が乗っているのであった。
昼間からの疲れで、ともすればコックリコックリする狐狸庵を助手のO青年はこづきながら、ええ、また怠けようとすると舌打ちする。
可哀相なメリーさんは……じゃない……可哀相な狐狸庵は鼻から出たチョウチンを手でふきながら、
「眠たい、ひもじい」
と言ったがO青年は働けば眠らせてやるワ、働けば食わせてやるワと言わんばかりにジロリと狐狸庵を眺めるだけ。
「ああ、辛い。辛い……我輩は……今夜、どこにつれて行かれるのかね」
狐狸庵は鼻汁のついた掌を気づかれぬようにO青年の外套になすりつけ、ニタッとうすら笑いをうかべて訊ねたが、
「行けば、わかります」
そういう冷たい返事である。
権之助坂をおり、更に坂をのぼりガランとした住宅街に入った車は、やがてある辻で停車した。こんな時刻、もう人影は一つもない。どの家も真暗でシーンとしている。O青年は狐狸庵の手を引っ張り、その迷路のような住宅街をだまって歩いていく。すると、一軒だけ、コウコウと灯をつけた建物が見えたのである。O青年は、おお、これだと呟き、何やら謎めいたこの建物の前に立ったんである。
そも、この家は一体なんであろうか。しかしてこの家には一体だれが住んでいるのであろうか。眼をこすりながら何気なくそっと硝子窓に顔を押しあてた狐狸庵、内部の光景に接するや思わずアッと叫んだ。
見よ。狐狸庵がその時、目撃した光景は左の如きである。壁には裸でおどりまわる四人の男女の影がうつっている。しかもその四人のうち、二人の若い男は眼も鼻も新聞紙と紐とでグルグル巻きにして、まるで空飛ぶ円盤からおりた火星人のようにみえる。しかして彼等はあるいは靴を頭に乗せ、口にくわえ、感情ほとばしるままに時には床に寝そべり、芋虫のようにゴロゴロころげまわり、飛び上り、天井からぶらさげた破れ太鼓の中に首を突っこみ、あるいは号泣し、あるいは恍惚陶酔しているのであった。
時に昭和四十年十二月二十四日、午前零時半。
「ホワット、イズ、ディス?」
狐狸庵は思わず両手を高くさしあげて叫んだ。ホワット、イズ、ディス?
翻訳しよう。それはこの家は一体何であろうかという意味である。はたまた、この家には一体、だれが住んでいるのであろうかという意味である。
「ホワット、イズ、ディス?」
流暢なる狐狸庵の英語にたいし、O青年も気張って、
「ディス、イズ、ザ、ハウス、オブ、ザ、マスター、オブ、アヴァン・ギャルド・ダンス」だが、何という下手糞な英語であろうか。読者諸君がおわかりにならなかったとしても、それは諸君の罪ではない。「これは前衛舞踊《アヴアン・ギヤルド・ダンス》の先生《マスター》の家《ハウス》だ」ときっとO青年は言いたかったにちがいない。
「君、前衛芸術って」狐狸庵は心細そうに「わかる?」
「え?」
O青年は肩をそびやかせて、
「当り前ですよ。前衛芸術がわからんようでは現代人とは言えませんからね」
そしてツカツカと、舞踊をやめた四人の男女にちかづき、このグループの指導者に是非お目にかかりたいと、臆面もなく言うたのであった。
待つこと、しばし、やがてグリーンのタイツの上に褞袍《どてら》を羽織り、襟巻を首にまいた三十七、八歳の男性があらわれる。これがリーダー土方氏。椅子の上にどっかとあぐらをかき、さきほどの男女や氏の片腕ともいうべきO氏にとりかこまれた。その有様は梁山泊《りようざんぱく》の面影あり。いや梁山泊というより秋田県の農家で生れたという氏の訥々《とつとつ》としたしゃべり方、その雰囲気はまるで冬の夜、東北の農家のイロリばたで若い衆たちが集まっている感じである。その話は深遠にして哲学的、かつ直観的にして飛躍的。前衛芸術などサッパリわからん狐狸庵はただ鼠のように小さくなり畏る。しばし、O青年と土方氏の問答をそのまま記述しよう。
土方「ぼくの考えはな……生活している状態そのものを、踊りへ移行しようとしているな。たとえば田舎じゃあ刈り入れと田植時だけが踊りだが草取りや水引きなどが踊りから除外されている。そのリズムはジャンプじゃないね。はじまろうとしてはじまらない状態だな。ぼくの踊りは祭りをぬき去ったようなものだ」
O青年(キョトンとした顔で)「リズムはジャンプでない? うんうん、リズムはジャンプでないことですね」
土方「つまりインポテントな状態だあ」
O青年「インポテントの状態。わかりますな。ぼかあ時々、酒のむと、そういう傾向になるから」
土方「そうだ……インポなリズム。田舎では……石の上に坐って……堕胎するぞ。その表現の踊り。だからぼかあ……黒人の踊りは嫌いです。……汗をかくような踊りや体中の血が逃げていくような踊りは好かないな」
O青年「インポなリズム。インポのリズム。うむウ」(顔をしかめて考えこむ)
土方「それにぼくは……ありがたさ、めでたさが物の中にないようなものを……表現したいね」
O青年「なるほどねえ。マルクス的な所もあるんだな」(うなずく)
土方「たとえば空腹。食い気の舞踊をやりたい。それから母親の背中におぶさられて寒くて、恐くて立っていられない恐怖。それもいい。また眠りね。子供がコタツの中で饅頭食いながらいつの間にか眠るような状態。ぼかあ踊りのクライマックスでも即興で眠るね」
O青年「ふむ。ふむ」
土方「棟方志功は行事や祭りと乳くりあっているところが気にくわんね。インポなリズムとは行事と行事の間に横たわっている草取りや労働ね……、その中で用意されている休息だね」
O青年「二十世紀の実存的な踊りだな。この考えは」
読者諸君はこのふかい問答をどこまで理解されたであろうか。O青年は成程、成程とうなずいている。一方、狐狸庵のほうはキョトンと狐に屁をかまされた顔をして坐っておるだけ。何が何やらサッパリわからんのである。狐狸庵には土方氏の前衛舞踊家というよりは、東北の農民的な表情を見ていると、そこに日本の農民の長い間の忍従というものがそのまま顔になったように感じられてくる。要するに土方氏は「インポなリズム」とか「めでたさぬき」というヤヤこしい言葉で言っているのかもしれんが、東北での幼い頃の感覚を手さぐりでポツリ、ポツリとしゃべっているように見える。重い石を背中に背負わされた男の恰好、そのにぶい苦しげな動き、それをリズムだと言うているのかもしれん。しかし、とに角、よくわからん。
O青年「ところで、銀座なんかで裸でおどられるが。あれは?」
土方「銀座では不幸になるからね。手当り次第、たべるものがない。人が多くいた方が安心して眠れるからな。素ッ裸になるのは衣装の欠落的過程を表現したいからです」
ますます、何を言おうとしているのか狐狸庵の鈍い頭では理解しがたくなっていく。
土方「要するにぼかあ、行為を含むものを一切、拒否したい……。一、二、三の号令で動くのでなければならないな」
O青年「なるほど、なるほど」
狐狸庵はおそるおそる舞踊のほうをみせて頂きたいとおねがいする。百聞は一見にしかずと思ったからである。
うむとうなずいて上半身、裸になった氏と、パンツ一枚の青年とが、さきほどと同じように床にころがり、両手をあげ、あるいは太鼓に首を入れる。時刻はもう午前二時ちかい。
「君、わかってんの」
狐狸庵はオドオドしながら、O青年にたずねる。
「何ですって!」O青年はまこと軽蔑したような眼で狐狸庵をみて、
「実存的じゃないですか、実に実存的だ」
「そんなもんかなあ……」
「これがわからんようではダメだ。あんたは二十世紀の芸術的感覚がゼロだ。時代遅れだ」
狐狸庵はこの舞踊の意味を理解せんものと、眼を両手でコスリコスリ眺むれば……。
土方氏は壁を両手で押してウンウンとうめき、今度はギターを持って外に走り出て、
「ホイ、ホイ、ウォーッ」
と咆哮する。この声におどろいて寝しずまった近所の犬がワンワン、ワンワン、近所の人は何が起ったかとびっくりしたのかもしれない。
更に女の着物をひっかけた氏は、台所に入り、水道の蛇口をひねれば、水はジャアジャア流れ出る。
頭も顔もビショぬれになって現われ、今度は広間にあった大きな風船の中にもぐりこみ、その風船で体をすっぽり包み、床の上のあっちをゴロゴロ、こうちをゴロゴロ。
「どういう意味なんだ.教えてくれ」
狐狸庵たまりかねてO青年にたずねれば、
「まだわからんか。二十世紀の反抗を表現しているんです」
「そうかなあ。しかしあの水をジャア、ジャア流しっぱなしにしているのは」
「リズムの破壊です。普通のリズムを水に流しているんです」
「ふむウ」
O青年の説明ではますます、ワケがわからなくなってくる。
「とめてこようか、水道を」
「なぜです」
「水を出しっぱなしで、水道料がもったいない」
「あんたバカですか。この前衛的雰囲気がこわれますよ」
「そんなもんかなあ」
「そうですよ。とにかく俗人は温和《おとな》しくして下さい」
風船の中で芋虫のように転がっていた土方氏が苦しそうな呻き声を出す。ウ、ウーッ、ウオーッ。これがそのインポのリズムという奴であろうか。はじまろうとしてはじまらん状態の舞踊的表現という奴であろうか。
やがて風船から出てくると土方氏は玄関に走っていって、そこに偶然おいてあった握り寿司をムシャムシャたべはじめる。
「ねえ。これはおどり[#「おどり」に傍点]? それとも本当に寿司を食べているだけのこと?」
「うるさいなあ、さっき空腹の表現と言ったでしょう。あれですよ。わからんのですか」
O青年に小声で怒鳴られても、ワケのわからんものはどうもワカらん。頭の古い人間は仕方がない。
「やめだ」
土方氏は踊りをやめ、O青年とみなは拍手する。狐狸庵も拍手をする。
「まだまだ続くですが、途中ではしょりました」
「なるほど、なるほど」とO青年。
「ぼくだけがおどったんじゃない。君たちもおどったんだ」
土方氏は我々にそう説明する。そうか。こちらもおどったのか。道理で、心も体もクタクタになったような気がする。ドブロク飲んだあとのように頭が重く痛い。
「俺、さきに帰っていいだろうか」
小声でそっとO青年にたずねると、
「帰んなさい、帰んなさい。あんたら俗人はさっさと引きあげればいいんだ。ぼくはね、朝までこの芸術とつきあうぞオ」
吐きすてるように怒鳴る。
コメカミを指でもみながら、そっと靴をはき外に出る。靴の中がビショビショだ。土方氏がさっき玄関に行った時、この靴の中に水を入れたのかもしれない。しかしそうであってもそれは前衛舞踊の一つの仕草だから、文句をいうすじ合いではない。ねしずまった路を歩きつつ、狐狸庵はふかい溜息をつく。
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催眠術の教祖[#「催眠術の教祖」はゴシック体]・田村霊祥
江戸は雑司ケ谷に天真道|至心《ししん》会という道場があり、この道場では五十人もの男女を集め、悉くこれを催眠術によってコロリ、コロリと眠らせてしまう――。
こういうふしぎな話を耳にして、O青年が息切らせながら狐狸庵に駈けこんできたのは、二月にしては珍しく暖かい午後のこと。
折しも狐狸庵先生は例によって例のごとく、ひじ枕でうつら、うつらとうたた寝をしている。陽差しポカポカ、盆栽の梅ものどかに咲きほこりけり。
どうも、こういう書き出しは時代小説『旗本退屈男』か『人形佐七捕物帳』の真似みたいで、よくない。
「その至心会の道場主は田村霊祥と言われる人でね」
O青年はふところから紙を出して得意顔に読みあげる。
「なんでも、明治二十三年に生れ、若くして郷里館林を離れた後、官吏として朝鮮にあった時、徐晦輔《じよかいほ》という翁から、東洋古来の深遠にして高大な哲学を学ぶ。かくて官職を退き、現地の烽台山《ほうたいさん》にこもり修行すること数年、独自の信念を胸にひめて東京に戻り、昭和二年、霊感によって天真道教団を創立、道主となったお方である、と」
「その道主が五十人の人間を集めて、コロリ、コロリと眠らせるのかね」
はじめて狐狸庵は眼をあけ、何か考えこみながら、そう訊ねると、
「そうですよ。僕ア、この眼でチャンと見てきたんだ。バッタ、バッタとみな冬の熊のように眠っていったんです」
「ふむ。しかしその連中、道場でかり出したサクラではなかろうかの」
「飛んでもない。そんなことはありませんや。もし、そう疑うなら、こっちから人を集めて、連れていけばいいじゃないですか」
「同じ集めるなら、若い女の子がいいの」
「なるほど」
「コロリと眠った時、美しい娘たちがどんな顔で眠るか、それが見たいな。イ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」
四日後の夜、狐狸庵はO青年と五人の若い女の子とにつれられて、雑司ケ谷は至心会の道場を訪《おとな》った。
五人の若い女性はO青年の言葉をかりるならば、いずれも彼を心の底から慕うている娘たちだそうで、世の中には奇特な女もあればあったものである。名前もキミ子にサチ子にヨシエにイスズにベレルと言う。
「キミ子やサチ子はとも角、イスズとかベレルとかは、少し名がつき過ぎているようだが」
「いや、あれは、僕が彼女たちを呼ぶ時の愛称で、マイ・ダーリンと言うような意味です」
狐狸庵はニッコと笑い、イスズとベレルとの二人をそばに呼びよせ、
「それではイスズちゃんにベレルちゃん」
「はい」
「もしもねえ。君たちがねえ、田村霊祥先生の催眠術にかからなければ賞金をあげるんだけど」
「ほんとですかア」
イスズは眼をかがやかせて飛びあがり、
「くれるの? 賞金」
「あげるとも。あげるとも」
「嬉しいな。ランランランラン。嬉しいな、ランランランラン」
狐狸庵の考えはこうであった。狐狸庵は今日まで催眠術が決して奇怪な魔術ではなく、心理的法則に則した技術であることを承知しておる。教育大学の心理学教室でもその実験をみたことはあるし、九大の医学部の心療研究室ではこの方法を使ってさまざまな病気を治療していることも聞いている。つまり催眠術に毫も疑うところはない。
だから、今日、狐狸庵が田村霊祥先生の道場で見たいのは、「かからなければ賞金をやる」というような一言が、若い女性にどういう心理的効力を及ぼすか――若き女性の物慾、はたして催眠術に勝つか――催眠術の暗示力、賞金を狙うイスズやベレルを圧するか――という興味しんしん、サスペンスに富んだ闘争なのである。
彼女たちは口々に、あたしたちが頑張れば賞金をせしめられるのよ、とたがいに励ましあっている。あたし耐えるわ、どんな術をかけられても耐えるわ。あたしもよ。頑張りましょうね。手に手を握りあって激励しあうその姿、まこと、大和《やまと》なでし子の雄々しさ、思わず胸うたれるのであった。
さて道場におもむけば、電燈煌々としたる大広間に既に二十人ほどの人々が集まっている。中年の婦人あり、学生あり、サラリーマンあり。この大広間の正面には天真道教の祭壇がある。
霊祥先生、羽織、袴に威儀をただし、片手に棒を持たれ、しずしずと着座し、先年、某所にて講演、実験されたスライドを白布にうつさせて説明をされる。狐狸庵はこれが、既に催眠術をかける前に必要な準備だとすぐわかった。
つまりスライドで誰もがコロリと催眠状態に入る模様をみせておき、この力の威大なことを暗示するのである。
「では、実験にとりかかりますかな」
スライドが終ると、そういわれた先生、我々の中から一人、椅子に坐るよう命じられた。さきほどのベレルちゃんが少し不安げな表情で、着座する。彼女に催眠術をかけるのは霊祥先生ではなく弟子のT氏である。
狐狸庵はポケットから急いで百円銀貨二枚をよりだし、ひそかに掌に握りしめた。(その理由はあとで書く)
「さあ、肩の力をぬいて。両手をこう、そろえて、指先をじっと見つめてごらんなさい」
T氏はベレルちゃんの両手を合わせ、その指の先端を注目するよう命じた。あとでわかったのだが、これは催眠術の最初の準備で、一点を注視することによって心を集中させ、視神経に軽い疲労を与え、脳に一寸した貧血作用を促すのである。
「はい、カカろうとか、カカルまいとか考えず、楽ウな気分で……両手をこう……じいッと見ていると……おのずと……あなたの手は近づいていきますよ」
T氏はやさしく、しかし力ある声でベレルちゃんにそう命ずる。ベレルちゃんは必死になって両手を見つめている。
「さあ、だんだん、近づいていく。手と手に磁石がついたように……近……づいて……近……づいて」
狐狸庵、この時、掌の百円銀貨をベレルちゃんに聞えるようにチャラ、チャラッと鳴らした。つまり彼女の連想作用に訴えたのである。
この音がきこえるか。これは銀貨の音であるよ。彼女がこの催眠術にかからねば、獲得するであろう賞金の一部の音であるよ。
父よ、あなたは強かった。若い女性の物慾はすさまじかった。眼をとじかけたベレルちゃん、この銀貨の音を耳にするや、パッチリ瞳をひらく。
「だんだん、近づいていく。だんだん、近……づいて……いくウ」
T氏がいくら声を高め、声をひくめ、遠くから近くから暗示をかけるべく努力されても平気のヘイザ。ニタニタとうす笑いさえ浮べて一向に催眠状態に入らない。
「何をしておるのだ」
とたまりかねた霊祥先生、そばに近より、
「これまで」
T氏の術をそこで、ぴたりとさし止められる。ベレルちゃんはニッコリ、こちらをむいて指で丸をつくる。ショウキン、ヨコセの合図である。
「では、人まかせにせず、このわし自身が実験してごらんに入れよう」
今度は霊祥先生みずからの実験。キミ子にサチ子、ヨシエにイスズにベレル、五人の娘たちは円陣をつくって正座し、手と手をつなぐよう命ぜられ、
「わしが手を拍ったら、息を深く吸いこむ。また手を拍ったら、その息をしずかに吐く。わかったかね」
先生、手を叩けば五人の娘たち鼻穴ふくらませて息を吸う。また手を叩けば、口をあけて息を吐く。さながら金魚が水面にてパクパクしたような表情である。イスズの鼻の穴は鼻糞で真黒だ。これではお嫁にいけないであろう。
「かるウく……眼をとじ」
全員かるウく眼をとじる。
「両手を前にあげる」
狐狸庵ふたたび、この五人の娘たちにそれとなく聞えるよう二枚の銀貨をチャラチャラと鳴らせば、ふしぎや彼女たちの眼はパッチリとあき、玄妙なる先生の暗示に抵抗しようと必死である。
「私の眼をズーッと見て……ホッホッホー、まばたきをしない……ハイ眼をつむって、ホッホッホー、はいソレソレ、ソウソウ、よく分っておるじゃろ、ホッホッホー手が寄ってくる。ほれ、ほれ、寄ってきた、寄ってきた。ホッホッ、ホー」
寄ってきたと先生は言うが、五人の娘の手は相変らず動かない。その上時々、先生がホッホッホーと笛のような声を出されると、彼女たちの一人がたまらず吹きだしてしまう。まこと、こういう厳粛な場所で笑うとは失礼なきわみである。
「いかん。今晩はだめだ」
先生はうんざりした顔で、
「どうもワカらん。こんなことははじめてです」
狐狸庵は心のなかで先生に、申し訳ありませぬ。催眠術が決して非合理的なインチキではないことも、先生の術力の偉大さも充分、拙者、承知しております。ただ現代娘の物慾のすさまじさが催眠術を上まわったのです、とふかく失礼をわびたのであった。
それが証拠にはその直後、行われた集団催眠では大広間に集まった二十人の男女中、ほぼ七、八人が、先生の話をきいただけでコロリ、コロリと倒れていったのである。
この時はヒプノボックスという先生発明になる催眠器を一同、注目させられたのであったが、この催眠器はちょうど散髪屋の飴ん棒のように二つの色がグルグル絡みあって回転するもので、
「ほうれ、眠る」
先生、やがて促されれば、あっちでコロリ、こっちでドタン、中にはうしろの柱に頭をコツンとぶつける学生あり、あるいは狐つきのように体を震わせ、何やらわけのわからぬ言葉をつぶやく婦人あり、まことに催眠術の力の偉大さに我々も心をうたれた次第であった。
もっとも、かの娘たちはこの時も一向にかからず、会がすんだあと、
「賞金!」
「くれるんでしょ。賞金」
生れたての子雀のようにさわぎはじめたのには流石の狐狸庵もびっくりした次第である。
誤解のないようにつけ加えておくが、彼女たちが催眠術にかからなかったのは、先生及びT氏の術力の乏しさではない。
T氏はその後一週間ほどたって、狐狸庵の再度の願いに応じられ、別の五、六人の娘を相手に神技を披露されたが、その時はみごとやみごと、
「あなたは手が動かない」
そう一言、言うと、もうその娘の手は硬直して動かない。
「君はものが言えない」
そう言われると、その娘は金魚のように口をパクパクさせるだけで、言葉が口から出ないのである。
霊祥先生のお話によると、ノイローゼ、寝小便のたぐいはこの催眠術でピタリと治るそうであるから、先生が天真道という宗教に催眠術を普及させる仕事をやっていられるのは、計算された上ではあろうが、決して悪いことではあるまい。
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爬虫類マニア[#「爬虫類マニア」はゴシック体]・高田栄一
めっきり暖かくなりましたな。
惰眠をむさぼるには、モッテこいの季節だ。諸君、やってますか。我輩ちかごろ、毎日うつらうつらでございます。我輩だけではない。わが狐狸庵にはダー坊、トー坊というガマが棲息しておりましてな。冬の間は雑木林のいずれかにひそみおりましたが、冬眠さめてノソリ、ノソリと池のほとりに坐りこみ、まだ眠いのか、しきりと眼をパチクリさせておる。
古池や 蛙とびこむ 水の音
俳聖芭蕉の句など舌の上で口ずさみつつ、しばし東洋的閑寂を瞑想しつつあるところに、
「爺さん。爺さん」
チンドン屋のような洋服を着たO青年が大声あげて飛びこんできた。この青年、そう悪い若者ではありませんが、洋服の趣味と発声とが実に下品でして、
「爺さんと呼ぶのは止してもらいたい」我輩しずかにたしなめた。
「せめて翁《おきな》とでも言ってもらいたい」
「あッ、ガマだ。蹴とばしてやれ」
「何と言うことを口に出すのだ。生命あるもの、これ悉く我等と同じ。愛さずんば非ず。法然上人もそう申されておる……」
「あれエ、爺さんは動物や虫が好きなんですか」
「ああ、好きだとも。一日、見て飽きることがないね、動くのが面倒な我輩には。動物は読んで字のごとし、動く物とある。こちらの代りに動いてくれるものゆえ」
「それじゃ教えるけどね、動物を友とし、動物と共に暮しておられる方が江戸は本郷に住んでいますよ。その名は高田栄一」
「おお、高田栄一さん」狐狸庵、思わず膝を叩き、「高名かねてより承る。前々より何とかしてお目にかかりたいと思うておった方だ」
かくてその翌日、O青年につれられ、狐狸庵主人はまがれる腰をのばし、杖ひきて、高田邸を訪うたのであった。花鳥風月を友とし、俗塵棄てたる狐狸庵と、人間世界を嫌い、蛇、亀、猿を友とする高田栄一氏とは一目会うなり通じあい、胸襟ひらいて語りあう。
その庵《いおり》を綺亀喜亀窓と名づけ、庭の一角に蛇三十匹、亀二百匹、トカゲ七匹などの爬虫類諸君の住家をつくり、禽舎《きんしや》を備え、リス、ハナグマ、トビを飼う高田氏はフクロウと手長猿とを遊ばせた書屋《しよおく》に狐狸庵を招き入れた。
狐狸庵は以前より一つのことに興味を持っておった。小説のなかでも動物と人間との関係を扱った動物小説がかなり多い。
ところでそういう動物小説は二種の型がある。第一種の型は、人間のイヤラシサに吐き気をもよおした男が、犬だの狼だの虎だの、あるいは蛇などに、何とも言えぬ純粋さと美しさをみつけるという小説である。
もう数年前になるが狐狸庵の若い友人で、この型の動物小説を書いた人があった。この友人は皮膚癌の手術のために容貌をいちじるしく変形せねばならなかったのであるが、彼はその哀しみを一匹の蛇に托してその小説を書いた。人間からみにくいゆえに嫌われる蛇――その蛇に自分の今の姿をみつける主人公の哀しみ――そしてその主人公と蛇とのひそかな心の交流――それが彼の小説ににじみ出ていて狐狸庵はふかい感動をうけた記憶がある。その若い友人はやがて病で倒れてしまったのも痛々しかった。
この種の型の動物小説のほかに、主人公が動物や虫になって、われら人間社会の偽善やウソを面白おかしく皮肉るという小説もある。
ガーネットと申す異国の作家の『狐になった奥さん』はその代表的なもの。
ムツかしい話はこれくらいにして、狐狸庵がこの綺亀喜亀窓主人に好奇心をもった理由の第一は、氏が動物小説主人公のいずれに属するやと言うことであった。
「私はねえ、小学校に上がるまえ、動物園で錦蛇を見たのですよ。その時、筆舌につくしがたい興奮を憶えたんです」
錦蛇の発散するすさまじい生命力と美しさは少年の高田氏を完全に圧倒し、捉えたのである。狐狸庵もそれほどではないが同じような経験をしたことがある。若かりし頃、マレーのペナンという町に出かけたことがあったが、そのペナンに蛇を祭る蛇寺という寺があり、天井も床も熱帯産のさまざまな蛇がからんでいた。その中に一匹、自動車のタイヤほどの太さをした錦蛇がトグロを巻いていた。熱帯の強烈な光がその胴体に反射して、その宝石のような眼、その巨大なトグロから狐狸庵は生命の塊を連想したことがある。
「わかります、わかります。その感じ」
「わかりますか。それは、いい。じゃあ、ぼくのペットであるボア君をここにつれてきましょう。体長二・五メートル、胴の太いところで直径十センチはありますよ。知っているでしょう、ボアは南米産の大蛇です」
狐狸庵はニッコリうなずいたが、それまでこわごわ手長猿をみていたO青年が、
「大蛇を……ここに……つれて……くるんですかア」
「そうです」
「ゆ、ゆるしてください。ぼかア、死んだ母親の遺言で……蛇と部屋を共にすることは……」
周章狼狽、コマネズミのように逃げださんとする姿勢をとったのであった。
「まあ、そういわずに見て下さい」高田氏はニッコリ笑って、
「人間は意味もなく蛇をなぜ嫌うのでしょう。蛇ほど可愛い、純な奴はいませんな。人間が蛇を嫌うのは、ただ彼に足がないからです。人間という奴は自分と同じような足がある動物ならまだ親しみをもちますが、自分と次元のちがう足のない蛇には理由のない恐怖や不安を感ずるんですな」
そう一言、言い残すとスタスタと書屋を出ていかれた。待つこと三分、やがて驚くべし、首に南米産のボアをまきつけ、体長二・五メートルの両端を手で支えながら氏が悠々とあらわれたからたまらない。O青年は見るも無残なほど顔面蒼白、膝をガタガタふるわせて、
「なむまいだ、なむまいだ」
歯の根もあわぬ状態である。
人間の本当の勇気というものはこういう時にあらわれる。平生は大言壮語するO青年は、おそれおののくが、平生はグウタラな狐狸庵が動揺の色すら見せずニッコリ笑うさまは、奥ゆかしいというか、立派というか、真の大人物とはこのような人のことを言うのであろう。
「いやア、これは見ごとな蛇でありますなあ。ボアちゃんか。いいお名前だ、ボアちゃん」
「気に入りましたか。ひとつ、だいてみませんか」
「だく? この大蛇を? この拙者が? うむ。だきたい、だきたいですが……左手が近頃……中風で……まことに残念」
「なに、左手を使わなくて大丈夫ですよ」
それではと狐狸庵、手をそっとさしのばし、大蛇ボアの胴体にふれると、まるで蝋のようにひんやりとした感覚である。しかしたんにひんやりとしているのではない。生命のある陶器にふれたあの感覚に似ておる。
「首にまきつけてごらんなさい」
「首に? この大蛇を? この拙者が? まきつけたい。まきつけたいが、首が……近頃、中風で、まことに残念」
「なに、じっとしておれば大丈夫」
ヌルヌル、スルスル、いや、そうではない。音もなく大蛇ボアは狐狸庵の膝から首に這いあがり、その小さな頭をしきりと首にすりつける。
「い、い、や、あ、かわい……も、もんだ」
流石の狐狸庵も体を硬直させて震え声である。彼が感じたことは、大蛇の重さというのは相当なものであるということと、そして首のまわりを一回転した時、かなりの圧力が血管に加わったということで、もしボアが本気で体をしめたら大の男ももがきようがないことがこれでハッキリハッキリわかりました。
余談ではあるが、この時かの時、問題のO青年は部屋の片隅で小さくなって震えておった。
高田氏がこのボア君の次に見せてくれたのは南米産のテグ(Tegu)という大トカゲである。
全長五十センチ、黒地に白い斑点が散っていて、その光沢が素晴らしい。時々、炎のように二つにわれた長い舌を出す。高田氏が卵の黄身をあたえると、その舌を矢のように素早く出して、なめる。
「こういう蛇やトカゲのエサ代だけでも大変でしょうが」
「二百円の白ネズミを一週間、一匹の蛇が十もたべるんですから」
「高田さんにはこの蛇君やトカゲ君の感情の動きがわかりますか」
「わかりますねえ。彼等の感情は食べたい時、食べている時の満足感、警戒している時、怒っている時などに分れますが、じっと見ていると、今、どういう感情を持っているか、すぐわかりますよ」
しばらくしてから蛇舎に足をふみいれて、錦蛇が怒った時、どういう声をあげるかを聞かせてもらった。我々の体臭をかいだ錦蛇は、まるでこわれたモーターのような声をあげて威嚇した。
「しかし、まあ、よく仲良くなったもんですなあ、爬虫類と」
「こういう爬虫類は最初から決して苛めたり、こわがらせてはダメなんです。虎やライオンのような高等動物なら先に人間をコワがらせるよう訓練すべきですが」
高田さんはこうした爬虫類を趣味で飼うことに反対する。本当に彼等に好かれたいなら、彼等のために自分の日常生活を犠牲にしなければならないのだと、力説された。
「ぼくはねえ、人間にくらべてこの蛇やトカゲのほうが、ずっとずっと純粋だと思いますねえ。ぼくの気持をわかってくれるのも、この蛇やトカゲですよ」
この言葉で、狐狸庵は高田氏と動物との関係が大体、わかったような気がした。かつて美しい蛇の物語を書いて死んでいった若い友人の気持がふっと思いだされたのである。
「ぼくはね、だからハンターが嫌いです。自分の快楽のため、獣を殺す奴は大嫌いです」
「なるほど」
「夜なんか、こいつらをこの部屋に自由に遊ばせながら、酒を一人のんでいると、たまらん気持ですなあ」
高田さんは詩人である。詩人だからなにもこの人間社会が大嫌いというわけではなかろうが、しかし高田さんの心にはどこか人間嫌いの傾向がひそんでいるにちがいない。ウソと偽善とにみちみちた人間にたいする嫌悪感があるにちがいない。その嫌悪感が強まれば強まるほど、ボア君やテグ君にたいする愛着はましていくのである。
「ぼくの理想はねえ。象にまたがって、自分の友人である動物や爬虫類を引きつれて、都大路をのしあるくことですよ。これほど大きな社会諷刺はありませんからねえ」
さきほどから狐狸庵は高田さんの顔をみながら少し奇妙なことに気がついていた。
犬は飼主に似る、という諺がある。あれは本当だ。怒りっぽい飼主に飼われた犬は怒りっぽくなる。弱気のサラリーマンの家の犬はどこか神経質で気が小さい。
性格だけではなく、家畜と飼主とはその顔まで似るものである。
狐狸庵の知っておる猫キチガイのお婆さんは彼女の飼っているドラ猫とだんだん顔がよく似てきた。あるいは猫のほうがお婆さんの顔に似てきたのかもしれん。
そう言うと高田さんに失礼かもしれないが、氏の顔は、どこか表情ゆたかな可愛い蛇のようではないだろうか。これはなにも高田さんにとって不名誉なことではない、むしろ顔に相似形をおびるまで、氏と爬虫類との間には我々の立ち入ることのできん友情がむすばれている証拠である。
「岡本太郎さん。あの人、カラスを飼っているでしょう。だんだん、カラスに似た表情をされるようになりましたよ」
狐狸庵は下をむいて呟いたが、高田さんにはこの言葉はきこえなかったらしい。
狐狸庵はまだ卵をペロリ、ペロリ長い舌をだして食べているトカゲ君のそばで、自分も同じ表情をして舌をだしてみた。
遠いむかし、我々は同じ祖先から生れたのであり、環境のおかげで、狐狸庵は人間、テグ君はトカゲにわかれたが、元は一緒なのである。どこか似ていない筈はないと思う。
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刺青浮世絵師[#「刺青浮世絵師」はゴシック体]・北島秀松
三、四年前、東京の下町に部屋を借りようと思った。長唄のお師匠さんの家で――そのお師匠さんが小股の切れあがったような下町の美人――二階の障子をあけると隅田川がずっと見わたせる。午後になると、可愛いお弟子さんたちが三人、四人、つれだって、
「先生、今日はア」
「おねがいします。お稽古」
「お二階の狐狸庵さんにこれ、お菓子、買ってきたんですけど……」
とか、なんとか雀のようにさえずる声がひとしきり、玄関で聞えて、それがやむと、
ツテ、シャン、シャンシャン
お稽古の声が階下から聞えてくる。片ひじついてその音曲に耳かたむけているとウツラ、ウツラと眠気がやってまいります。外では、
いもむしア こウろころ
ひょうたん ぽッくりこ
いもむしア こウろころ
子供たちが四、五人、遊びながら唄っている。
「おや、コウちゃん、おころびじゃないよ」
「危ないってば」
物売りの声のどかにして、四海波立たず、吹く風は枝をならさず……。
てな、部屋はどこかにないかいな、とあちこち探しましたが、当節の下町は全く駄目。日本橋より真白き富士を眺め、隅田の川に白魚むれ泳ぐと聞きし昔日《せきじつ》の面影、いずこをみても見当りませんなあ。町工場の機械の音やかましく、アスファルトの道に車輛のガス臭く、夢も懐古趣味も満足させられたものではない。
それにねえ、狐狸庵は自称「江戸ッ子」と称する手合いはあまり好きじゃあない。こういう連中は二代前ぐらいから東京に住みついたくせに、おのが祖先が地方人であることをひたかくし、
「あいつア、田舎ッぺえだ」
「なんだ。あの田舎言葉は」
なんて田舎者をみくだしたようなことを言う。しかしよく考えてみれば、江戸ッ子は別に偉いんでもなんでもない。「大阪ッ子」であろうが「福岡ッ子」であろうがみな同列である。東京に偶然住んでいるからいわゆる「江戸ッ子」だけのことで、それは彼が別に努力して作った功績でも何でもない。それに、厳密に言えば、むかし「江戸ッ子」とは「山王大権現、神田大明神の氏子」をさした(菊地貴一郎『絵本江戸風俗往来』)そうで、これが正しければ、その氏子でない者は江戸ッ子でないということになる。三田村|鳶魚《えんぎよ》先生の『江戸生活事典』よると定義は更に厳密で「江戸で生れた者なら江戸ッ子と言いそうなものだが、店を構えている町人は江戸ッ子とは自称しなかった。これは半纏を着ている者に限る」とある。
とすると、銀座なんかの食い物屋で、「これだから田舎者は味がわからねえ」横柄に舌打ちする主人なんかは江戸ッ子の資格なしと言うことになりますな。
だから狐狸庵は今の東都には大体、江戸ッ子はおらんのではないかと考えておる。狐狸庵はむしろ江戸ッ子よりも下町ッ子の方なら見つけることはできるのではないかと思うておるのであります。だがその下町も戦災後はむかしと違って地方から移住してきた人が多く住みつくようになり、代々、神田、浅草にいた人の数も減ってきたようである。
そういう意味で本当の下町ッ子、江戸職人の面影をまだ残した御仁はおらぬものと、諦めて草ぶかい柿生《かきお》の里の草庵で昼寝をたのしんでおりますと、例のO青年がひょっくりたずねてきた。
「久しぶりじゃなア。達者かの」
「なに言ってやがんでエ。べらんめえ。元気も元気、大元気。おテント様が西から出る日はあっても、こちとらが風邪をひくことはねえや。爺さん」
「そうかそうか。江戸ッ子に会ったな」
このO青年は他人にすぐ影響される悪癖があり、ジェイムズ・ボンドの映画をみればすぐに右肩をあげて歩くようになり、ゲイ・ボーイと話をすれば途端にシナシナと気持わるい体つきをなすのであるから、今の口調をきいただけで慧眼《けいがん》の狐狸庵には彼が誰に会ってきたかぐらいパッとわかるのでござる。
「ひゃア、爺さん、どうして見ぬいた」
「ハッハッハ。女賢うして牛売りそこなうだ。この意味がわかるかの。だてには長生きしとらんよ」
「なるほど。実はねえ、昨日、江戸ッ子中の江戸ッ子みたいなお方にあいましてね」
渋茶ガブガブ飲みながらO青年の会った御仁の話をきくと、そのお方の名は北島秀松。六十一歳。代々家業の浮世絵版画師をついだ純粋の浅草ッ子だと言う。
「それが」
「うん」
「体中に実にイキな金太郎の彫物があって……、鯉の滝のぼりの図が背中から腰、胸と、目がさめるようでしてね。しかも北島さんだけじゃあない。奥さんもまたこの御主人にならって山姥《やまうば》と金太郎のみごとな彫物を背中にやっておられるんで……」
「彫物をねえ。今どきでも彫物を体にされる方がおられるのかなあ」
「おるらしいですね、その彫物師がまた北島さんの幼なじみで、彫勇会という会を作っているそうで。爺さん、早速、出かけませんか」
そこで早速、早びるをすませ庵の戸をとじて柿生の里からはるばる東都浅草まで赴いた。
ここは浅草にも近い幸福にも焼けのこった一角、下谷神吉町、これぞ昔ながらの下町中の下町といったしっとりした狭い道に、子供たちが遊んでいる。窓に植木鉢ならべた家々の一つで、
「ごめんなさいまし」
「どなた」
「先刻、お電話申上げました狐狸庵にてございます」
「やア。あがんなせエ、あがんなせエ」
階段ギシギシ、ごめんなさいましと二階にのぼれば、狐狸庵、夢かとおどろいた。三、四年前、下町に住みたい、江戸情緒にふれたいと思うておりましたころ、もしよき部屋あらば、それを借りうけ、かく調度などととのえたいと思うたそれ、その如き部屋に、血色よろしき北島さんと小股の切れあがったようなイキな奥さんとが坐っておられたからである。
その部屋のさまを描けば、窓ぎわにはさまざまの金魚泳ぐ水槽をならべ、十幾つの鳥籠にウグイスを飼い、長火鉢に厚い座布団、壁には浅草のお祭りによくみる熊手を飾り、千社札ずらりと並べ、まこと江戸時代の下町の家はかくあらんと思われるばかりである。
「ウグイスがおりますな」
「あたしゃ、朝、眼をさました時、このウグイスの声を寝床でじっと聞いているのが楽しみでしてな」
北島さんは着物から出た腕をさすりながらそう言う。その袖口から何やら彫物らしいものがチラリとみえる。
「お仕事は浮世絵の版画で」
「代々、そうだったんでね。もっともあたしゃ、なかなか働かない。仕事が迫ってくればこれらを(と、顎で金魚、ウグイスなどを示して)養わなくちゃあならないから、仕事を始めるけど」
「あとは何しとられます」
「色々な寄り合いがあるからね。それに出たり、夜はテレビで拳闘と外国映画を必ずみる」
まこと結構な生活で、これぞ、できれば狐狸庵も毎日、送りたいような毎日である。
「あたしゃ、かせいだおアシはパッと使っちゃう。シミッタれた真似はイヤだ」
ああ、その点は狐狸庵にはちとできぬ。狐狸庵の場合はかせいだ?おアシを壺の中に入れて庵の壁の中にかくし、真夜中一枚、二枚とかぞえてニタニタと笑うのが何よりの趣味。
可愛いチンコロが部屋に飛びこんでくる。
「もう一匹、犬がいますよ」
「仕事場を一寸、拝見」
版木や和紙の雑多につまれた仕事場である。
「北島さんの彫物を見せて下さいますか」
パッと裸になると、アッとおどろくようなみごとな金太郎。金太郎が鯉をだいて滝をのぼる様が――写真ではおわかりになるまいが黒と朱とでとても人間の皮膚にこういうものが描けるとは思えない。
「何やら伺うところでは奥さんも背中に山姥と金太郎の彫物をされているとか」
小股の切れあがったようなイキな奥さんはニッコリ笑い、
「ええ。この人がやれ、やれと言うもんですから」
「そりゃア、御結婚後ですか」
「ええ、お嫁にきてからです」
奥さん、北島さんに随分、惚れておられたナと狐狸庵、咄嗟に考える。女が痛い彫物を背中にするのは、よくよく御亭主に惚れておられなければ、とてもできるものではない。
「なあに」北島さんもうなずいて、
「亭主の好きな赤エボシ」
「ごもっとも、ごもっとも」
目のさめるような背中と腕の絵をサッと着物で包むと、
「どうです。ひとつ、実際に彫物やっておるところを見ませんか」
「できますでしょうか」
「わたしの友だちが彫文《ほりぶん》という彫物師でね。今仕事場にいる筈だ」
午後の光がのどかにさしている道をぶらりぶらりと歩いて、一軒の家をまた訪ねる。
「いるかい。仕事中かい」
「仕事中だよ」
彫文の山田文三さんの仕事部屋は六畳、おりしも若い一人の娘が背中に彫物の前の下絵を描いてもらっている最中であった。
俯せになった娘の背中に山田さんは筆で巧みに浮世絵の版画をみながら、女を描いていく。
「くすぐったいワア」
「もう少しの辛抱」
「あのね」と北島さんはこちらをみて、
「こっちあ、狐狸庵さんというお方だ。そのままそのまま。仕事をつづけておくれ」
山田さんの道具箱にはこれから彫物を入れる針がある。筆の先に五、六本の針をぎっしりつめたものでこれに墨や絵具をつけてチクリチクリと絵具を皮膚に流していく。
「痛いですか」
「痛いなんていうもんじゃないですよ。一時間すれば、脂汗が出て気分が悪くなるという人がいる」
「そんな痛い彫物をどんな人がやるんです」
「いや、若い連中でも来ますよ。こんな娘さんでも是非なんて頼みにくるんだから」
むかし吉原の女郎衆の中にはいとしい男の名と命《いのち》という字を体に彫らせて――当時は絵というものはなくみな字を彫ったと何かの本で狐狸庵、読んだことがあった。その頃は彫物とは言わず
「入痣《いれぼくろ》」とか「掘入《ほりいれ》」とか申したそうである。
ああ、狐狸庵も今、二十若ければ「狐狸庵―命」と女の腕に彫らしてみたかった。だがもう年老いて、塩鼻すすり、足腰も冷えるこの頃では狐狸庵のために入痣をしてくれる女などどこにもおりませんわい。
「しっかりせんか、アーン」
何やら急に癪にさわりましてな、娘の裸体にニヤニヤしておるO青年を叱りつける。
「なんですか」ムッとしましたよ、この若者。
「君も若いなら、女にそのくらいの字を彫らせてみい」
「こんど、訊いてみましょ。イスズかベレルに」
お断りしておくがと山田文三さん。世の中には彫物と入墨とを間違えておられる方が多いようであるが、入墨とは罪人にしたもの。彫物とはちがうことを知って頂きたい、とのお話である。
「彫勇会の連中はね、四十人いますが自分の彫物にかけてもわるいことはできませんねえ」
と北島さんもうなずく。
「かえって、毎日を気をつけるようになるもんですよ」
この彫物のお値段はどのくらいだろう。背中いっぱいに彫って大体、五、六万円はかかるという山田さんの話であった。
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異色の画家[#「異色の画家」はゴシック体]・交楽竜弾
世にも役立たず、人のためにも無益無用の我なれど、「年よりの古さよ」「時代遅れよ」と若い奴等に言わるるが悲しさに、時折、杖引きて、現代の空気にも触れてみんものと思い、モダン・ジャズ、モダン・バレーなど訪うてはみる。されど、
「爺さん、わかったかい」
唇まげたるO青年に言われ、苦虫かみつぶしたような顔になり、
「う、うん。オモチロかったの」
と答えてはみるものの、正直申せば何が何やらさっぱりにして、バケツ叩きたるようなエレキ・ギター、ドブ鼠の走りまわるようなモダン・バレー、これ悉く、わけのわからんことばかり。
諦めまして、世捨人、柿生《かきお》の里の草ぶかき庵《いおり》の中にたれこめて、古き書ひもとくか、小鳥の囀り聞くかしておりますと、頭はますます古くなる。
そこで本日、思いたちまして、東京の一角に住まわれます新しき抽象画家、交楽《まずら》竜弾画伯をおたずね申すことにした。
抽象画家は日本には雨後のタケノコのようにあるのに、なぜ交楽竜弾氏を選んだか。
このお方の絵に狐狸庵がホレこんだからか。さにあらず。実は狐狸庵、その日までこの御仁の絵は一枚も拝見しておりませぬ。
交楽氏を選んだのはまずその名が何やら舌を噛みそうな、それに何やら曰くありげな意味シンチョウに受けとられたからである。
第二には、聞きつたえると、このお方、頭の毛をジョリジョリと切られましてな、モヒカン刈りにしておられるとか。
それを知った時、狐狸庵、実は内心こう思いました。(ははア。このえかきサンはハッタリ屋さんとちがうかいな)
竜弾さん。ゴメンなさいよ。狐狸庵がそう考えましたのは時々、テレビや週刊誌に体中、絵具ぬって床にころげまわり、これを「芸術」と称するグループの記事などが出ておるからでございます。その絵をみた時、狐狸庵はこいつアハッタリだア、インチキだアと思うたものです。そのグループの一人に、やはり、あんたと同じようなモヒカン刈りをした青年がいましてな。だから連想作用がふと浮んだわけである。
一体、狐狸庵は、芸術家と称する青年がワケのわからん身なりや頭髪をするのが理解でけんな。あれは自分の実力をカバーするために人眼をひく恰好をするんじゃないかいな。いつぞや、やはり素っ裸になって、お尻の穴にロウソクを入れて「芸術だッ!」と称しているグループの写真もどこかで見たが、このお方たちのどこが芸術か、狐狸庵にはわからんばい。彼等、これをもって反俗反社会精神を、象徴しておるそうだが、われわれ俗人、社会人はこういう手合いを「阿呆か、キチガイか」と思うだけで、ショックを与えられぬ。ショックを与えられぬ以上、そこには芸術的要素がないのである。おわかりか、この原理。
それから洋傘さして、いつか宮城のお濠にドボンと飛びこんだ自称芸術家もいましたなあ。こんなのは、こっちに鑑賞[#「鑑賞」に傍点]しろと命ぜられたって鑑賞[#「鑑賞」に傍点]のしようがありません。もっともこのドボン氏、警察の干渉[#「干渉」に傍点]を受ける身とおなりだったが。
要するにモヒカン刈りなども狐狸庵みたい頭のふうるい爺イからみますれば、旧制高校生の長髪と同じこと――虚栄心か、ハッタリかのどちらかと思われる。
そこで、まず、こういうことを、あんた、どういう神経でおやりかの、という質問を用意しつつ、交楽氏のアトリエに伺ったわけである。
アトリエには煌々と電気が光り、四枚の大作が並べられ、赤いスポーツシャツ着た交楽氏のかたわらに、いずこより来られけん、三人の美女が腰かけておられましてな。聞けばお一人は交楽氏のフィアンセ。このお方は実にうつくしい娘御であるからO青年、例によって小声で舌打をした。
「チェッ、アンチクショウ、うめえこと、やりやがったな、チェッ」
「これ、馬鹿を言うではない」
きびしく、たしなめておきました。
あとのお二人も可憐というか楚々というか、狐狸庵若かりしならばミルクホールか活動写真でもおつきあい願っただろうと、そう思うほど。ところがあんた、この二人のお嬢さまが交楽氏の大ファンだとおっしゃいます。
「ほう、大ファン二人に、フィアンセお一人」
早速、質問にとりかかる。彼女たちはモヒカン刈りに惚れたのか。それとも交楽氏の絵そのものに熱をあげているのか。もし前者ならば、諸君ら、今日より全て頭髪の両側をジョキジョキ切りてモヒカン刈りにされるべし。あの頭髪は猫にまたたび[#「またたび」に傍点]と同じこと、娘心のどこかをくすぐるのかもしれません。
「フィアンセさん。あんた、このモヒカン刈りに惚れなさったかの」
不躾《ぶしつけ》は百も承知でこの質問、申しあげましたるところ、フィアンセのお嬢さまは花もあざむく美しい顔をハッと曇らせ給う風情、秋の紅葉《もみじ》にふりかかる時雨《しぐれ》を思わせる。
「ちがいます、ちがいます。あたし嫌なんです。このモヒカン刈り」
「ほう。おいやかの」
「この人に、よして下さいと何度も頼んでいるんです。一度は切るなんて約束したんですけど、駄目ですわ」
芸術家だって別に人眼をひくような恰好をすべきではない。芸術家なればこそ、人眼めだたぬ服装風態をなし、作品にこそアッと驚くものを織りこむべきではないか。このフィアンセの言やよし。同感、同感。
「そちらのお二人のお嬢さん。いかがでござる。大将のモヒカン刈り」
「まア。大将なんてひどいわ。あたしたち気にしてませんの。気にもならないの。むしろ彼らしくて。彼ならおかしくないわ」
ファンというものは有難いもの。何でもかんでも善く良くとって下さる。ファンは大事にしなければいけんの。
モヒカン刈りは、彼らしくておかしくないと言われ、狐狸庵、つぶさに交楽氏をながむれば成程、世のアカじみた、靴下の裏の臭き芸術青年たちとちがい、交楽氏の顔にどこか育ちのよさ、おっとりとしたところがあり、そのモヒカン刈りもそう嫌味ではなくなってきた。
「で、しょう」えたりや応と二嬢は声をつよめ、「彼がしたら、悪くはたないの」
「いやいかん。こんな奇矯な頭髪はいかん」
国粋主義者の狐狸庵はあくまで強情、日本文化のために断乎として首をふる。
「あんた、そんな頭はよしなされ。悪いことは言わん。結婚式やられるなら、その時、一緒に断髪式もやんなされ。一体全体、なんのためにそんな頭をしておるのかね。ああ、身体|髪膚《はつぷ》これ全て父母にうく。そう思われんかの」
「でも剃ったあとに、生命力が残るかなあ」
やさしい、むしろ女性的な声で交楽氏は頭に手をやって、
「ぼくは、これを作品と思ってるんですよ」
「作品ならば人を不断に驚かせねばならんが、そんなものは馴れてしまえば見る人も阿呆らしくなる。さっきから爺もその頭を拝見して阿呆くさと思うてしまいました。阿呆くさと思われる以上はゲイジュツではなく軽術だ。お切りなされ。お切りなされ」
何やらブツブツ口の中で交楽氏、切ればかえっておかしいと、断髪すすめた人は皆言うたなどと呟いておられる。
「でもねえ、ぼくは昔、女性のパンティをはいてみたことがありましたが、途端に性の意慾がなくなりましたよ。それと同じでこのモヒカン刈りをしていると生命感というか、生《なま》な生き方というか、そういうもんを感じるんです」
だが、狐狸庵、アトリエに並べられた四つの大作品をそっと窺うに、色彩、構図で交楽氏の狙うところはわかるが大きなものが欠けている。それは芸術作品に必要な緊張である。どうも、しまりが一本、欠けておるようだな。
「爺はこの絵はあまり感心せん。お嬢さんたち、いかがかな」
二人のお嬢さんのうち、一人が、
「あたしもこの作品、余り好きじゃない。こっちの小さい方のがいいわ」
なるほど、このお嬢さんはなかなか絵をみる眼をおもちだ。彼女の言う通り、大作よりも小品のほうに生命感のみなぎったものがある。
「ほうれ、ごらん。あんたがモヒカン刈りをしても効験《ききめ》あらたかならずだ。いい絵はどんな平凡な恰好をして描いてもいいものだが、悪い絵はどんなモヒカン刈りをしても悪いもんだ」
交楽氏は掃除用のモップで絵を描いたことがあったといったが、こういうことはモダーンでも何でもない。実にクダらんことだと狐狸庵は考える。
しかし、今日は交楽氏の作品よりも、むしろ人間を観察にきたのであるから、美しいフィアンセと並んだ交楽氏をチラッ、チラッと拝見するに、なかなかの美男子である。美男子というのは元来嫌味なものだが、交楽氏にはそんな嫌味はない。むしろ育ちのいいお坊っちゃんの要素があるようだ。
狐狸庵が折角の大作に歯にキヌ着せぬ批評をしても、
「そうかな。そうかなア」
ニコニコしながら聞いているところは人柄のよさというか、つきあいやすいというか、お公卿さまの御令息といったオットリさが感じられるなあ。
「ところでフィアンセさん。交楽さんとはどういう風に、婚約なさったのでございますか」
悪びれず、恥ずかしがらず、彼女は、
「姉が彼と高校の同級生だったんです。家に遊びに来て、翌日、プロポしスされました、そしてその日すぐ婚約したんです」
「ひゃッ、翌日!」とO青年は感嘆して、「翌日にはもう婚約か」
「だまらッしゃい」狐狸庵、O青年をかるくたしなめて、「人には色々、生き方がある。ごぶれいしました。で、あなた、どんな気持でござったかな」
「あたし」
と蚊のなくような声で、
「何が何だかワカんなくて。無我夢中で」
「そうであろう。そうであろう」
この間、交楽氏、耳のあたりをポーッと紅くしてうつむいている。その二人をみて、狐狸庵、感ずるところあり。
「交楽さん」
「はい」
「あなた、芯は気の弱いお方じゃな」
本当は更に突っこんで、あんたにはファーザー・コンプレックスがおありじゃないかなと聞きたかったのだが、それは失礼ゆえ言葉をひかえました。
「そうなんです。実は」
「そこで、御自分の気の弱さと闘うために色々なことをされましたな。たとえばそのモヒカン刈りもその一つでありましょう」
「そうなんです。実は」
「それなら、ようわかる。さっきからあなた、そのお髪に色々、ゲイジュツだの何だの理窟をおつけだったが、今、言ったようなことなら、はじめからそう説明して下さればよかったに」
話をしているうちに、狐狸庵、この交楽氏の心やさしい部分もだんだん、わかってまいりました。きけば彼は精神病院の患者を慰めるため、色々な恰好を彼等の前でやってみせたともいう。
「いい方だなあ、あんたは」
狐狸庵は、訪問前、この交楽氏にチョッピリ抱いていた疑惑が心のなかで消えるのを感じ、むかし読んだ小さな物語を思いだしました。一人の男が貧しい子供たちを慰めるため、道化となって逆立ちをしたり、ひっくりかえったりした物語を。
「ところで、最後に一つ質問」
「なんでしょうか」
「あなたのお名前は、どういう理由でおつけになられましたのかな」
交楽氏、気の弱そうな笑いをうかべて、
「読んだ時のイメージで判断して下さい。まあ、そんなお固いことを言わず、麦酒でも飲んで下さい」
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ストリップ宗教[#「ストリップ宗教」はゴシック体]・神田五朗
皆さんおなじみの吉行淳之介氏が、まだ浪々の身の頃、一杯飲屋で飲んでおりますたびに、よう欠け茶碗を箸で叩きながら、世にも恨めしげに歌うた唄がございましてな。その唄というのが、
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※[#歌記号、unicode303d]アアー(声を張りあげて)アアー おちてこんかなア ねずみがチュウとヨオー 天井裏を走るたびによオ ゼニコがよオー バラバラとオー おちてこんかなアー
[#ここで字下げ終わり]
吉行氏、歌うところのこれを横で酒のみながらつらつら考えるに、実に人生の奥義に徹した唄である。われも亦、心ならずも一日の糧《かて》を獲んために働くことなどやめて、庵に日がな一日寝そべり天井ポカンと眺めおる時、ねずみチュウと鳴いて、穴より札束バラバラ落ちてこんかいなと思うこと、しばしばあり。まこと人の心はふしぎなもの、考えることは同じであったと、ハタと膝を叩いて思いました。
だが、この世の中に、こうしたわが厚かましい願いをかなえて下さる人はもとより、神仏もおらぬとみえて、どの宗教をたずねても、まず努力せよ、勤めよと申されるばかり。我々グウタラにむいた「グウタラ教」はないとみえます。諦めて鼻くそほじくり、考えこんでおりますと、例のO青年、木戸を押して、
「爺さんけったいな宗教が世間にはあるもんだなア」
「ほう。また、ヘンなものを探しだしてきたな」
このO青年のS很暫・/T-FONT>精神と好奇心の強きこと、驚くべきものがある。
「あのな、爺さん」O青年ニヤッとうす笑いをうかべて、「伊豆は熱川に生活教という新興宗教があるのを知ってか、知らないでか」
「知らんワイ」
こいつ、またロクでもない話をしおると腕枕に狸寝入りを装うておると、O青年、声をひそめて、
「これがストリップ教とか言うてね、信者はみな素ッ裸になる。そして祈りを唱えるから妙だて。年頃の娘もこの宗教に入れば生れた時と同じ恰好になる。一糸まとわん裸体でな……」
「なに!」と狐狸庵起きあがり、「若い娘が生れた時と同じ恰好? 怪しからん。何ということだ」
「そうよ。爺さん、変な顔をしなさんな」
「しかと証拠でもあるのかね」
「あるとも、これだ。これだ」
持って来た写真を畳の上にひろげてみせると、爺も驚きましたなあ。O青年の言う通り三人の娘が素ッ裸の背をこちらにむけ、正面で眼鏡をかけたオッさんが、何やら祈りを唱えておる光景がうつっておるではないか。
年甲斐もなく爺は顔をあからめて、
「これがストリップ教? それで祈りを唱えておるこの仁は何者だあ」
「このお方こそ世界生活教大司教、神田五朗さん。爺さん、会うてそのお話をきかんか」
世の中は広いようで狭い。何もないようで何かがある。狐狸庵のようにとも角も年を重ね、シンラバンショウ悉く見尽したと思うておる者も稀にはこういうけったいな話にぶちあたるものである。長生きこそはするべけれ。
さてそれより一週間目――
霧雨そぼふる新宿の某料亭で、このストリップ宗教の神田五朗大司教にお目にかかった。司教は狐狸庵到着前に既に待ち合わせ場所に到着されていて、
「これはこれは、遅れまして」狐狸庵、両手をついてふかぶかと頭をさげる。「御無礼つかまつる」
つらつら神田大司教の容貌、風体を拝見するに、大司教の名にふさわしき聖者の面影なく、頭より後光はささず、まこと我等庶民に近づきやすき面《つら》にして、大阪人の申すオッちゃん的なお方である。この人が夏の日曜日などステテコ一枚にて鼻糞ほじくり、ラジオの野球中継など聞き入る姿こそ想いうかべやすく、とてもとても宗教の教祖とはみえぬところが、かえってオクゆかしい。
「ずっと前から……」大司教重々しく申さるるには、「わたしとあんたとがやがて会うべき運命にあると知っておりました」
まるで佐々木小次郎と宮本武蔵との宿命的な対決のように我ら二人の遅邂逅を前から予見されていたというのだから、さすがの狐狸庵びっくりして、
「ヘエ、我々二人が会うことを」
「さよう。既にわたしにお告げがあったのです」
狐狸庵はそっと神田氏の顔を窺《うかが》い見たが、大司教は大真面目のクソ真面目、少しも動ずる色がない。やはり一つの宗教の教祖ともなれば、我々俗人には馬鹿馬鹿しくてとても信じられんことを口に出しても、平然とした表情をしておらねばならぬのである。
「このストリップ教の教義とはいかん」
狐狸庵のこの質問に、大司教、うん[#「うん」に傍点]とうなずき、
「そもそも、人間の心臓は何回うつと思われますか。手の脈は幾つと思われますか」
まるで医者のようなことを言うから、O青年も狐狸庵もポカンとしておると、
「心臓の循環法則は一分間七三回、体温は三六度五分、呼吸量は一八・二回、この定めを無視して、定め以上のことに慾をもやせば罪や非道になる。この方法を信じないものはワカラズやにして、我々はこの心臓や脈の法則を決して越えてはならんのである」
「それがストリップ教の教義でござりますか」
「教義の中心となる考えであります。わたくしは満州において憲兵などし、その後帰国してヌードのほうのプロダクションなどを経営しておったが、その間、考えに考えぬき、この宇宙の大法則に思い当ったのである」
狐狸庵、そっとO青年を見ると、平生は天地万物のこと何でも知ったかぶりをするこの男も、まるで狐に屁をかまされたような顔をしてござる。
「つ、つまりですな。心臓が早くなったり、脈が早くなったりするようなことは、してはいかん――こういうお考えですな」
「さよう。それが宇宙の大法則ですから」
なんじゃい。要するにそれだけのことか。しかし真理は常に複雑にあらず、簡単なりとは、かのショーベンホエル先生も言っておられる。
「でも大司教さんよオ」とO青年、横から亀の子のように首をのばし、
「さっきから見とると、あんたはビールをチビチビ飲まれ、煙草パクパク吸っておるやないか……。アルコールやニコチンは心臓を刺激し、脈を早くするんやでえ。教祖みずから、自分の教義を実行しとらんように見えるけどなアー」
それ始まったよ。読者も既にご存知のように、このO青年は長上や目上を敬うことを知らん、こういう一宗教の大教祖にも狎々《なれなれ》しくものを言う。全く困った奴であるから、狐狸庵、眼で言葉をつつしむように注意したが、
「え? なんでや。なんでや」
としつこく聞く。大司教、この時、一時はハッと顔色を変えられたが、流石《さすが》は宇宙の大法則を悟られたお方、
「俗人にはアルコール、ニコチンは危険がある。しかし、私のようにすべてを知った者には宇宙の定めをみださずして、酒をのみ、煙草をすうことができるのである」
ジロリ、O青年に侮蔑の眼をむけ、軽くいなした態度、狐狸庵、心から敬服いたしました。
「このストリップ教の信者の数は?」
「ただ今、全国にて七万五千人、各都市に支部があります」
「ほんとかいな」O青年、また横から不満そうに口を出して、「でも、俺、熱川に行ってみたけど、あんたの本部か本殿はチャチなもんやないか。そこらの煙草屋よりもずっと小さいでえ。とても七万五千人、信者があると思えんけどなあ」
「なにを言うか」大司教、流石にムッとされて、「本殿とか本部とかは建物の大きさできまるのではない。人間の心そのものが本殿であり、本部である」
孔子か、マホメッドのように立派なこの言葉、じいん[#「じいん」に傍点]と狐狸庵の心にしみるのであった。
「そやけど、あんたの宗教は信者を裸にするというがホンマでっか」
「男女、仲よく。衣という虚飾をすて裸一貫で宇宙の大法則とむきあう。だからみんな裸になります」
「男も裸になるか」
「なる」
「女も裸になるか」
「なる」
「娘も裸になるか」
「なる」
「うーむ」O青年、いやしげに唾をゴクリとのみ、「しかし、そんなことをしよったら、心臓が早くなり、脈が早うならんかな。あんたの教義とはウラハラの結果にならんやろかなあ」
「初心者はなる!」
大司教は大声で一喝、
「あんたのような不心得ものや初心者はなる! しかし、わが宗教によって訓練されていくと、たとえ、女の裸をみても、脈も平静、心臓も平静である!」
「ひゃア、それではツマらんやないか」
「ツマらんことはないッ!」
「すると神田さん。あんたのような教祖は娘の裸をみても平静でっか」
「平静です」
「ふーむウ。信じられんけどなあ。神田さん。いや大司教は現在まで、浮気などしたことがないんでっか」
「ないッ」
「ほんまかいな」
「浮気などする暇はないッ」
「でも花もはじらう娘が、ほんまに裸になるのやろか」
「なるッ!」
「信じられんけどなア。一度、みせてくれへんか。その光景を」
「あんたのような心の腐った男には見せられん。しかし、こちらの」
と大司教は、狐狸庵に顔をむけ、
「こちらのように人品いやしからず、人格高尚なお方には見せてもよろし」
やはり大司教ともなられれば、人を見ぬく力はおありである。O青年と狐狸庵との人格のちがい、パッと識別されたのである。
「しかし、あんた、ストリップ教などと名をつけたのは、あれは客寄せとちがうか」
「わたしはストリップ教などとは言わんです。生活教と名のっておる」
「しかし、ヌードを表むきにしたのは客寄せの手段とちがうやろか」
狐狸庵、このO青年のあまりの不躾《ぶしつけ》にハッとしたが、しかしそれこそ聞きたかった質問であった。
「どや。どうでっか」
「客寄せではないッ。しかし支部長には生活もあるゆえ、まずヌードによって信者を集めるようには考えておる」
「結局、同じやないか」
「あんた、顔の色がわるいな。そういう顔の色をしとると、長生きできんです。四十歳ぐらいで癌で死ぬという顔色をしておる」
大司教、何を思いけん、突然O青年の未来を予言しはじめた。癌になるといわれて今まで攻勢だったO青年、急に不安そうになり、
「ほんとでっか」
「ほんとです」
「どないすればええやろ」
「歩きなッさい。一日、二十分、歩く。規則ただしく歩くッ。宇宙の法則にしたがって歩く。これッ。マジメにききなッさい。あんたはフマジメだ」
「歩けば顔色が、よくなりまっか」
「なるッ」
この問答、果しなくダラダラとつづき、狐狸庵なにやら世のなかの全てが阿呆くさくなり、お先に失礼と申し、雨のなかコソコソと退出した次第である。
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真向法代表[#「真向法代表」はゴシック体]・長井洞
三日ほど前から胃の調子が悪うなりましてな、庵の戸をとじ、臥せっておりました。別に痛みがあるというでないが、腹がもたれるような鈍い重さで、
(癌じゃないかの)
年が年だけに、やはり気になるでなあ。鏡で顔をみると、あんた、あんまり宜《よろ》しゅうないな。
そのうち、胸まで痛くなってきた。胸が痛いのは肺癌かもしれん。そう思うと急に死神が足音しのばせて来たような気がして、
「西方浄土、往生楽死、冷飯禁物、一発放屁」
経文心に念じつつ、センベイ布団、頭からひっかぶっておると、
「ちアー」
来たよ。うるさいあの若僧が。
「ちア、ちア、ちア、いないんかなア。爺さんは」
戸をガンガンならしおって、ズカズカあがりこんで、
「おや、病気ですかい」
「病気じゃあないが……」
「爺さんは一日、庵にたれこめて体を動かさんからいかんよ。それじゃア、どんな人間でも体がなまってしまうさ。少しア、運動でもしなさいよ」
いつになく誠意こめた口調でそう言うからこっちも、ちと心を動かされ、
「そうか、運動か」
「水泳にでも行かんですか」
水泳は嫌だ。若い頃は隅田川にて相馬小坪流のみごとな抜き手を切ってみせ、あのあたりの茶屋の娘からヤンヤといわれた狐狸庵であるが、今は若いものがウクレレなどもちこんでおるプールは嫌だ。
「ゴルフはやらんですか」
馬鹿いわっしゃい。あんな金のかかるものをやってたまるか。御先祖さまに相すまんワ。
「そうか。爺さん」
とO青年は、
(1) 金もかからず
(2) 時間もとらず
(3) 子供でも老人でもできて
(4) メキメキ効果のあがる
健康法を指示する人を、狐狸庵のため探すことになったから、あいつも意外と親切だな。
三日後――
「ちアー」
ふたたび姿をみせたO青年。
「見つかったかの」
「うん。渋谷にね、真向法《まつこうほう》という独得の体操、教えるお方がいてね。長井|洞《はるか》と申される。その方の健康体操が爺さんの言う金もかからず、時間もとらず、子供でも老人でもできるから、行ってみませんか」
「メキメキ効果があがるか」
「さア、それはわからんが、しかしあるのでしょう。財界のお歴々をはじめ、押すな押すなの盛況ですから」
「断っておくが、わしゃPRはいやじゃよ」
「何をいうか、爺さん。世界の平和は個人の健康な肉体からと、日夜普及活動に粉骨砕身なさっているお方だ」
例によって、O青年、いささか興奮しはじめてきた。
というわけでその翌日、渋谷の上通り、ちょと登ったところにある真向法の長井氏のお宅をおたずねした。路地裏のしもたや風、一見どこにもあるような二階家、軒燈に真向法と書かれてあるだけの何の奇もないお宅である。
さて、現われいでたる長井洞氏は堂々たる体格、狐狸庵よりはもちろんお若いが、それでも五十歳くらいと思われるのに、その血色のよいこと青年のごときである。
「さア、どうぞ、どうぞ」
そこで早速、氏に話をうけたまわることにしましたが。
「実は私の父がこの体操をあみだしたのです」
「真向という名のいわれは?」
「ひたすら無念無想の思いで対象に真っすぐ向いあう、これぞ真向法の本意です」
長井氏の父上は四十二歳の時、中風で倒れられ、左半身が不自由であった。そこでその苦しさから何とかして健康をとり戻したいと考えられ、脳外科に通ったり、高僧を訪問したりしたが、どうしても効果がない。ところがある日、「勝鬘《しようまん》経」を読んでいるうち、「勝鬘及一家眷族頭面接足礼」という言葉に接し、この頭面接足礼とは何かと、学者や宗教家にただしたり、印度の古い像を見たりして、これから一つの天啓を得られたという。
「ほう、それが真向法の体操になったわけで?」
「そうです。基本動作は四種類、これを朝晩合わせて七分ほどくり返しさえすればいいのです。まず第一動作です」
この体操は写真でもあればハッキリわかるのだが、長井氏が試みてみた第一の動作はむかしの武将の坐る恰好、あるいは内裏雛の坐る、あれですな。あぐらをかくようにして、ただ両足の先をピタリと合わせる。しかし、その時、膝が畳についていなければならん。
「やってごらんなさい」
何をこのくらい朝飯前と思うたが、それがあんた、できんもんだて。
「イテ、テ、テテ」
「痛いですか」
「イテ、テテテ」
狐狸庵はもちろんのこと、O青年も、
「イテ、テ、テテ」
「できんですか。いいですか。その坐り方はもともと赤ちゃんの坐り方」
「はい」
「赤ちゃんというのは、体の細胞がまだ真新しい――いわば新車ともいうべき時です。その新車時代と同じことができんというのはあんたらの肉体機械が中古車と同じようになっていると言うべきで」
「ごもっとも、ごもっとも」
「だから、その中古車をまた昔と同じように新車同様にせねばならん」
「なるほど」
「その新車同様つまり三歳の童児の身体にするのが、この真向法の体操なのです」
そして長井氏がみずからやってみせると驚くべし、膝はピタリと畳につき、そのままおじぎをすれば、頭も畳につき、「頭面接足礼」という言葉にピタリとあてはまる。
「第二動作はこれ」
第二動作は大無量寿経の中にある五体投地礼からとったものだそうで、足を前に投げ出したまま、上体を前に倒し、顔を足先にできるだけ近づけるというもの、ボートを漕ぐような形である。
「なんだ、そのくらい俺だってやれら」
O青年、頑張ってみたが、これまた駄目。夜ふかし、マージャン、酒でもちくずしたこの青年の体は哀れむべし、中古車どころかポンコツ車に近いて。
「ひゃア、とてもできん」
「ところが、これを毎日、七分やっておれば、だれでもやれるようになるのです」
と長井氏は言われる。
「わしのような老人にもできますかな?」
「もちろん。老人にもできます」
「一日、七分で」
「そうです。一日、七分で結構」
たった一日七分のこの体操で、健康メキメキ増進するならば、こんなうまい話はない。それに金もかからん。場所もいらん。
「これを三年おやりになれば、新車と同じピチピチした肉体になりますよ」
「三日や五ン日《ち》ではダメですか」
「もちろん。歯を磨くのと同じように、朝晩習慣づければいいのですよ」
意志薄弱なるO青年、狐狸庵の方をチラと見て、首をすくめた。
われわれがこうして長井氏の話を伺っている間にも、少し中風で体の不自由なお年寄りや、若い娘二人がこの体操を受けにきておりましてな。
若い娘二人は初めてらしく、長井氏の助手に指示されて、一見、モンペ風の寝巻に着かえさせられ、例の第一、第二動作をやらされたが、これもやはりできん。だれもできんのであるから、狐狸庵がイテ、テと叫んだとて決して恥ではない。
「お嬢さんたち、補助マッサージを行いましょ」
助手諸君が、それぞれこの娘たちに補助マッサージを行う。
「あれをやると、筋肉も幾分やわらかくなって、真向法の体操もさっきよりはできる筈です」
狐狸庵じっと見ておると、お嬢さんたち、イヤらしい爺いねえ、という風に、胸元などかきあわせる。なにを、安心しゃっさい。若い娘の胸などみたいものか。伊達には年とらんて。それに一人の娘はオカメの大根足。もう一人の娘は狐づらの骨皮スジエモンであるから、誰が覗くものかね。
「この体操は美容にもききますか」
「さあ。体は肥り気味、やせ気味の人があっていいのであって、わざわざ無理して体力消耗をやることはありますまい。近ごろの流行の美容体操のように」
長井氏は苦笑される。
補助マッサージがすむと、もう一度.第一動作をさせてみる。すると、なるほど、さっきよりははるかに膝が畳につくようだ。
「いわゆる体操とわれわれの真向法の体操と違うところは、今までの体操は体を操《あやつ》ることと考えた。しかし私たちは体の操と考えています」
「ほう」
「體という字は、豊な働きをする肉体という意味で、操という字は、木の上に沢山の果物が結実し、それを持ち続けるという象形文字です。つまりわれわれの肉体も、生命あふれていた頃の少年時代には、伸びるべき筋は完全に伸び、曲るべき関節は完全に曲っていたが、あのように、いつまでもフレキシビリティとモビリティを保つように心掛けたいものですよ」
「ごもっともです」
しかし筋や関節の若がえりということはよくわかるが、この体操によって内臓は若がえるかな。それから、頭脳――こいつは年とればこの狐狸庵のようにボケてくるもんであるが、こいつはどうかな。
「でも天命には逆らえんでしょう」
「天命、寿命には逆らえません」
長井氏はうなずいて、
「しかし、人それぞれの天命までは健康でありたいものですな」
長井氏のお宅を辞去すると、小雨がふっておった。
「爺さん。あの娘二人がうしろから来ますぜ」
ふりかえると、さっきのオカメ娘にキツネ娘がヒョコ、ヒョコ歩いてくる。
「お嬢さん、お嬢さん」
O青年はそばに近より、
「一寸、おうかがいいたしますがね」
「まア、何ですの。失礼ね」
「いえいえ、我々はジャパン・ジムナスティック・ソサエティの者で、こちらはかの御存知狐狸庵先生」
「まア、こちらが狐狸庵先生ですの」
キツネ娘もオカメ娘も急にニコニコ。
「あたし、先生のファンですのよ。先生の随筆、大好き」
「いやいや、お恥ずかしいことだ。お恥ずかしいことだ」
「まあ。そう顔をポッと赤らめられるところが素敵ですわ」
「ところで、そんなクダランことよりも」とO青年は妬み心に燃えた顔で、
「さきほどの体操の調子はどうでした」
「なんだか、体がグーンと伸びたような感じ」
「足が軽くなって歩きやすい感じ」
二人とも口をそろえて、真向法をこれから続けていきたいと言う。
庵に戻って、それより狐狸庵、曲った腰を折れんばかりに、毎日、長井氏に教えられた四つの基本動作をやりつづける。
「イテ、テ、テテ」
はじめは痛かった筋肉も五日たち六日たつと、あなふしぎ、それほど痛みもなくなって、近頃は膝も畳につくようになりました。ホントかいな。
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巨人軍応援団長[#「巨人軍応援団長」はゴシック体]・関矢文栄
狐狸庵の友人にこんな男がおりましてな。いつぞや、彼がタクシーに乗っておりましたところ、運ちゃんがラジオの野球中継をかけておる。
巨人と広島との試合でしてな、そうそう前半戦の、まだ広島の景気のよかった頃だ。七回までいったが巨人の敗色濃し。王さんも長島さんもサエない。
「君、道がちがうようだが……」
彼、ふと気がついてみると行き先とは少し違う方向を走っているようなので、
「世田谷上町だよ。こっちだと淡島のほうに行くんじゃないかな」
そう言ったが運ちゃん返事もしない。
「もしもし」
「…………」
「聞えないのかね」
「…………」
「どうしたんだ。気分でも悪いのですか」
「お客さん、すみません。気分が悪いんです。他の車に乗って下さい」
「そりゃいかん。他の車に乗るのは一向かまわんが頭痛ですか。それとも腹でもくだしたのか」
「いや、お客さんが乗ってからね、巨人が負けだした。どうもゲンがわるいな。おりて下さい」
そう言われて降ろされたという。
しかしこういう熱狂的な巨人ファンは多いらしいな。いつだったか新聞にも載っておった。飲屋でアンチ巨人の男がテレビをみながら巨人の悪口を言っていると、
「この野郎」
横にいた別の男から頭をどつかれて、撲り合いになったという。
しかし考えてみると、自分が熱狂できるものを持っとると言うのは悪うないな。巨人が勝った日には一日元気、巨人が敗けた日はゲンナリする人は、なまじ利口ぶって、
「野球など、なにが面白い」
などとつぶやくエセ・インテリにくらべると、はるかに人間味があって、狐狸庵はそういう御仁のほうが好きであるな。文化人と称するインテリやエセ・インテリにくらべると……。
「爺さん、野球知ってんのかい」
あのO青年がまた生意気なことを言いよる。
「知らいでか。むかしベース・ボールが初めてアメリカから輸入された時、キャッチャーをつとめたのは、この狐狸庵よ」
あんた、当時はキャッチャー・ミットなんかなかったからね。素手で受けとめたものよ、素手で。むかし懐かしいな。狐狸庵若かりし頃、隅田川がまだ奇麗で桜がパッと咲いて、二〇三高地という髪ゆった女学生が日傘さして、
「狐狸庵ちゃん、狐狸庵ちゃん」
応援してくれたものであるな。命みじーかあし、恋せよー、おとめエ。
「そんならプロ野球の大洋―巨人戦にいこか、爺さん。巨人の応援席に行って、大洋の応援してやるべい」
「お前は大洋のファンかね」
「そうだ」
「よしなさい」
狐狸庵、首をふって、
「巨人の応援席にはな、関矢文栄ちゅう有名な、おっかない応援団長がいるぞ。そのお人の近くで大洋の応援などすれば、一喝のもとにつまみだされるぞ」
そう忠告したにかかわらず、O青年は無理矢理に狐狸庵を引っぱって、夜の川崎球場とやらに連れていった。
断っておくが、その昔、ベース・ボールの名キャッチャーであった狐狸庵には、どれといってひいき[#「ひいき」に傍点]チームはない。阪神勝とうがよし。中日勝とうがそれ亦よし。淡々として勝敗にこだわらぬ心境である。だから、青々とした芝生にライトが光って、選手たちをみても、
「ほう、やっとるな。純粋にしっかりやりなさいよ。若人たちッ」
そう両者に激励する心境であるから、巨人の応援席で大洋を応援し、周囲をイヤがらせてやろうなどというO青年の心がニガニガしくてならぬのである。
ところが悪いことにその日は今まで最下位の大洋が何の風の吹きまわしか、元気ハツラツ、巨人をかきみだしておる最中であった。巨人さんのピッチャーが渡辺なのにたいし大洋は一線級のスタンカを投入して(もっとも頼みの佐々木が前々日、負傷したせいもあろうが)、その上、近藤(和)がホームランを打った時であるから、
「ヒャー、これはうまい。これは愉快」
よせばよいのにO青年、両手両足ふみならし、あたりかまわず奇声、喚声あげるから、周りにいた巨人ファンの温厚な人々はイヤあな顔をして、とりわけ我々の横にすわっている四人のお嬢さんたちは、
「感じわるい男ね」
「ほんと。ここに来て大洋の応援するなんて。あっちに行けばいいのに」
「人相だってイヤらしいわ。与太者みたい」
そう蔭口つかれているとは知らず、
「ヒャー、また打った、打った。あな嬉し、悦ばし。都の西北、ワセダの森に、白雲なびく、スルガ台、眉ひいでたーる若人が……」
この男にはプロ野球も六大学野球も区別がつかんらしい。
周囲のヒンシュクをかくも買い、本人のみ得意満面ますます大騒ぎしている時、二十貫以上もある巨体にGとかいた野球帽、応援旗をかつぎ、さながらベンケイの再来かと思われる御仁が突如としてのっしのっし[#「のっしのっし」に傍点]あらわれ、
「バカもんッ」
万雷のような声で、大喝一声、
「ここをどこだと思うておる。畏くも、もったいなくも巨人応援席だ」
「ぼ、ぼ、ぼくは、ぐ、ぐう偶然」
「そんなら、向うに行け。行かんか」
子ネズミのように縮みあがったO青年をあわれと思った狐狸庵、ゆっくりと立ちあがり、
「関矢さんではありませぬかな」
挨拶すれば、英雄は英雄を知る、莞爾《かんじ》と笑い、
「おっ、狐狸庵先生ですか」
乃木将軍とステッセル将軍のごとく、たがいに固く固く握手したのであった。
巨人軍応援団長関矢文栄氏は今更紹介する必要もないと思うが、大正十二年新潟県に生る。幼少より巨人の熱烈なファン。川上監督の現役時代、そのホームラン第一号さえ見ておるくらいである。終戦後、復員して上京するや、巨人好きが昂じて読売新聞京橋販売店に入店。現在東京葛飾と直江津に販売店を経営していられる。二十六年二リーグに分裂後、晴れて巨人軍私設応援団長に就任、夫人と二人暮しだが、東京における巨人軍の試合にはすべて駆けつける。地方での試合も暇がゆるす限りできるだけ廻って歩く。それに要する費用はすべて自前であって、巨人軍からもらっているのではないから、心の底から純粋なるファン気質と言うべきであろう。
さて、狐狸庵と握手の終った関矢団長は、ぎっしりとつまった観客席を一睨みするや、
「さア、諸君、巨人軍のために拍手を送りましょう」
折しも試合は巨人の守備、大洋の攻撃、近藤(昭)がバッター・ボックスに入っておるのをみて、高らかに叫ぶ。
関矢「少年野球にかえれッ。同じ背番号の一番でも王さんとは違うッ。ニセモノの一番、坊や、お母さんからその番号、買ってもらったの」
咽喉を幾分つぶしておられると思われるが、ひろい球場によく通る。今まで大洋に押され気味でシメリがちだった三塁側スタンドがこの声によってまるで旱天の慈雨をえた稲穂のように活気をとり戻すから妙だナ。
さっきの女の子「おじさん。素敵、もっと言って!」
関矢「ようし、次は長田《おさだ》か。みなさん。この男は力がつよい。力がつよい男には頭のいい人はいないヨ。野球より喧嘩の好きなひとオー」
野球より喧嘩の好きな人とは言うまでもなく、かつて野次にカッときた長田が観客席に飛びこんだことを言うのであろう。
女の子「うまいわ、おじさん」
関矢「アスプロ、お前はアスフロだ。今日の風呂に入れ」
女の子「ひやひや」
関矢「土井くん。背番号39。さんざん苦労して三振だ。来年は四十歳で停年だよオ」
当意即妙、大洋キャッチャー土井の背番号39をみて、それにひっかけ四十停年とひやかすあたり、並のファンのできることではないな。というのは時々、アッチ、コッチからエピゴーネンとも言うべき二、三のおっさんたちが調子にのって、野次を飛ばしとるが、団長のそれにくらべるとどうも声の通りもわるい。野次の内容もありきたりで一向にサエん。やはり関矢氏ならでは真の巨人軍応援団長はつとまらんと、狐狸庵もすべての観客も思いましたな。
あとでそっと観客席におられた団長夫人にうかがうと、
夫人「はい。別に前からああした言葉は考えておるのではないようです。その場、その場で思いつくのです」
狐狸庵「奥さまも巨人ファンで……?」
夫人「わたくし広島の育ちですから、広島カープのファンでしたけど、主人に圧倒されてしまいまして巨人ファン……に」
狐狸庵「圧倒……なるほど。わかりますな。ところで団長の巨人熱については奥さまはどう考えてござります」
夫人「もう、諦めました。別に悪いことではありませんし、ああして大声をだすのも体によいそうですし」
夫人は試合前の夜には、関矢団長のために紙吹雪をせっせと作られるそうで、それにタオルも二十五本、用意せねばならぬ。試合中団長の巨体が流す汗をぬぐうには五本や十本のタオルでは足りぬからである。酷暑のグラウンドで試合する選手は楽ではなかろうが、それにはそれ相応の報酬がある。しかしこっちの団長はすべて商売やすんでの自家放出だから、全く無償の行為、立派なもんだな。
関矢「さあ、諸君。巨人軍のために拍手を送りましょう」
狐狸庵さきほどより、O青年のことをすっかり忘れておったに気がついて、彼はいずこにと探すと、あれだけ鼻っ柱の強い男もさきほどの団長の一喝以来、すっかり縮みあがり観客席のなかで小さくなっておる。それどころではない。団長の指揮のもと、男女観客が大悦びで拍手をすれば、O青年も仕方なく、一緒になって渋々手を拍っているのが、いかにも憐れで、
狐狸庵「これ、お前は大洋ファンじゃなかったのか。それに、ここでイヤがらせをするつもりではなかったのか」
そうヒヤかすと下をむいて舌打ちしておる。
関矢(大洋ベンチにむかって)「最下位の大洋! 川崎駅前のサイカイ屋がわるいぞ。大洋は来年はノンプロだ。下関代表マルハとなるッ」
狐狸庵(O青年にむかって)「ああまで言われて、口惜しくないかの。猫でもニャアと鳴く。犬でもワンと吠える。大洋のため何とか言ったらどうだ」
O青年(やけのヤンパチになり)「ああ、俺は大洋応援団のためにこの関矢さんを買いたい。三原さんにそう進言しましょウ……」
巨人ファンの中には試合そのものよりも関矢団長の雄姿、その当意即妙の応援名文句をききたさに、球場に行くという人がいるそうだからな。たとえば巨人の敗色がそろそろ濃厚になると、
関矢「さあ、諸君。野球は勝負にこだわらず純粋にプレーをたのしもう。しかし何となく残念だな。何となく」
そう言ってみんなの気をひきたたせておる。
関矢団長、弥次名文句集より、その、二、三を披露すれば、
村山に(球が早すぎる時)「もう少し、いい球をなげろ、王ちゃんが打ちづらいじゃないかッ。王ちゃんに失礼じゃないかッ」
マーシャルに「コマーシャルは邪魔だッ」
スタンカに「スカタン、へんな外人」
しかし何だな。現在のように人間、なにごとも情熱がもてず、何かに夢中になり、そのことのために我を忘れるということのない時、この関矢団長のような人はやはり稀にみる快人物と言うべきであろうな。
たとえば関矢氏にはこういうエピソードがある。近所の「梅の湯」という銭湯で一人の歌手志望の高校生に会い、これに惚れこんだ団長は早速、近くに住む安藤鶴夫氏に頼みコロムビア・レコードに世話してやった。
この高校生が後の舟木一夫で、団長は現在、舟木一夫の後援会の副会長も兼任しておる。
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体当りヌード[#「体当りヌード」はゴシック体]・豊原路子
豊原路子――
本音を申せば、狐狸庵、この種の女性に会うのはどうも苦手でな。苦手というより苦痛でなア。「現代快人物研究」で狐狸庵は、できるだけこの息ぐるしい世のなかで、諸君らをホッと息つかせてくれるような御仁ばかりほじくり選りだし、お目にかけたろうが。占星術のトービス先生、ヌード宗教の大司祭、はたまた催眠術の大教祖、いずれも珍にして妙、妙にして言うに言われんユーモアがあるお方たちばかりであってな、何やら人間ちゅうもんがなつかしいような気がさせられたものである。お目にかかり話をして、その駄ボラ、大ボラを拝聴していても、どこか憎めず、憎めぬどころか、
「ああ、人間はええなあ」
好感まで持てたもんである。だから狐狸庵、たとえばトービス先生などとはその後もつきおうておるよ。先生のお宅に夜ふけなどな、時折寄って薬罐チンチン君子の清談つきることがない。
しかしなあ、今度は正直いうて、そういう気持になれんでなあ。O青年は豊原路子について書いてある色々な雑誌をもちこんで、
「爺さん。おもろいワ。大阪へ行こ、行こ」
そう言うんやが、雑誌をみただけでどうも心が動かんのだなあ。
この豊原さんという女が、そりゃまあ、ジャーナリズムの種になるような女であることはわかっても、辛《つら》いでなあ、どこかユーモアが欠けておる。こちらに微笑を催させるだけの余裕がないお方は狐狸庵、どうも心が重くなってくる。会っても人間のなつかしさを感じぬのではないかと思うてな。
それでもO青年があまり行こ行こ言うから雨の日、汽車に乗って大阪まで出かけた。梅田のミュージック・ホールでこの女性の原作をヌード・ショーにし、彼女自身がそれに出演しとるからでなあ。
今更、言う必要もなかろうが、この豊原路子さんの経歴を。世を棄てた狐狸庵でも知っとるんだから、諸君なんか、暗記《そら》んじとるんではなかろうかな。
「豊原路子、三十三歳。学歴、一説には大谷短大卒とあるが不明。今日までの職歴、秘書、通訳、バー・ホステス、作家、タイピスト、トルコブロ・ホステスその他。三十三年以後『銀座のエロス』『体当りマンハント』その他の著作をなす。昨年、海外に男性体当り旅行を行う」
こう書けば忘れておる諸君も、あああの女性か、ぼくも何処かで彼女についての記事を読んだことがあったと思いだされるであろう。それ以上は書かんよ。
大阪は雨。その雨でも梅田ミュージックは満員だ。(興行師の話によると、今度は豊原路子の出演とて、ここ三年にない大入りだそうで)今しも舞台では踊子たちの連舞が終り、豊原路子にインタビューの場という寸劇がくりひろげられておった。
司会者「豊原さん、豊原さん。あんたは海外各国を旅行されたそうですが、どこの国の男が一番スケベですか」
豊原「伊太利《イタリ》です。あの国はお巡りまであたしが道をきくと誘惑します。おい、俺と一緒に遊ぼじゃないかと、裏路につれていって、そう言うんです」
観客席より声あり「ウソをこけ、お前そんなに伊太利語できる筈ないやないか」
司会者「その次はどこの国の男がエッチでしょう」
豊原「仏蘭西《フランス》です。仏蘭西の男は女とキスする時、相手を髭でくすぐるよう口髭をはやしています。それほど心がけがいいのです」
観客席より声あり「日本人かて加藤清正みたいな男がおるでえ」
大阪の観客はキビしいな。豊原路子がハッタリをかませればカラかい、知ったかぶりをするとチャカすわ。しかし何を言われようと彼女は表情一つ変えん。まるで能面のような顔をして、抑揚のない声だす。狐狸庵はこういう表情の女性はどうも苦手だて。
ショウが終る。霧雨がまだ降っている、暗い裏口から楽屋にまわると、裸の女優たちに出会う。この子たちもさっき舞台をはねまわっていた時とちがって化粧をおとせば、そこらのラーメン屋の善良そうな娘と同じ顔になるなあ。狐狸庵はこのウラぶれた、なにか寂しい楽屋が好きだて。
豊原路子の化粧室で彼女の戻ってくるのをO青年と待っておった。雨が硝子窓を叩いてなあ。染みのついた壁に落書があって、そこに彼女のシュミーズなんかかけてあったわ。机の上に化粧瓶と一緒に、食い残しの弁当があって、「キジ飯くうとるわ」とO青年が言うた。「半分だけ食うとるわ」
「コレ、やめんさい。他人の飯をのぞくのは」
「こんにちハ」
豊原路子がはいってきた。失礼しますわと言うて、よこをむき、着ているものをぬいで、白いパンツ一枚の裸になり――お腹がやっぱり出ておるな。年は三十をこしとるな、と狐狸庵、頭で計算する。
「近来にない大入りだそうで、おメデトございます」
「はい」洋服をきかえながら「あっちこっちのキャバレーから申込みがもう殺到してますワ」
「それはそれは」とO青年、「ところで外国はどちらにおまわりで」
すると彼女の口からスラスラと、
「ハワイ、サンフランシスコ、ロス、ボストン、ワシントン、フロリダ、ケープケネディ、ニューヨーク、イギリス、フランス、イタリ……」
ととどまるところを知らない。
「で、その旅費は」
「旅費は航空運賃だけ。滞在費は向うでかせぎましたわ」
「かせいだ方法は?」
狐狸庵、O青年のうしろから彼女の表情をじっと観察しておった。O青年のきくことは、みなどこかの週刊誌が彼女について書いておること。彼女も待っておりましたとばかり、こちらのドギモをぬくような返事を例の能面のような無表情と抑揚のない声とでペラペラ返事をしてくれるが、狐狸庵そんなことは興味なかった。
狐狸庵の知りたいのは、なぜこの女性がこんな感情のない表情をして物を言うのかと言うことである。なぜ、他の女なら決して口には出さぬことを男にむかって、露骨に陰惨にしゃべるかと言うことである。ああ、仕事とはいえ、もっとユーモアある材料がほしいな。我も笑い人も笑うてもらえる話を書きたいな。
「豊原さん、あんた、冷感症じゃろうがえ」
こんな不躾な質問を狐狸庵、ききとうはなかったが、心を鬼にしてたずねた。この女性のな かには二つの秘密があると、さっきショウをみながら考えておったからである。
その一つは彼女のなかにひそんでおる男性への不信感、憎悪感、侮蔑感でな。彼女が男について話す時の、唇のまげよう、冷笑は、狐狸庵の考えではそのためであり、かつて自分を「そのように取扱った」男性たちへの無意識の報復ではなかろうかと思うたこと。今一つはこの女性は男性を軽蔑しているゆえに、たいていの場合は、男を心《しん》の心から愛することはできんのではないかと言うこと。
「豊原さんのなかにはなあ、一種の露出趣味がおありだが……これは男性を軽蔑してやろうというお気持と、不感症との二つがまじり合っておるせいではなかろうかね」
すると豊原路子さんの眼が光って、狐狸庵をじっとみつめたなあ。
「な。そうじゃろが」
「そうね。あたし冷感症かもしれないわね」
冷感症だから自分は陶酔できん。陶酔できんからこの傾向の女性はおおむね、自分の肉体によって男がバカ面になるのを見る傾向がある。あるいは自分が仲介した女によって男がノボせるのを観察して楽しむ性癖がある。豊原さんがヌード・ショウの舞台にのぼり、トルコブロのホステスになるのはたんに「金」ほしさだけではなかろうと、狐狸庵考えておると、
「この楽屋は家ダニが多いのよ」
突如としてこの女性、股をひろげて、腿《もも》をボリボリとかきはじめたな。
「D・D・Tをまいたから家ダニが一ヵ所に集まってきたの。二十匹、三十匹、そこらにうごめいてるワ」
豊原さんとしては、自分の露わな腿をみて我々二人がビックリ狼狽するかというデモンストレーションも無意識のうちに計算されていたのだろうが、
「ワッ、家ダニッ。本当かあ、家ダニかあ」
悲しいかな、豊原さんの裸体より、家ダニの恐怖がつよかったか、O青年はびっくら仰天。
「そう言われれば、さっきから足がもずもず痒《かゆ》い。出よ。出ましょ。こんなとこ出ましょ」
「待ってよ。あたし、薬つけてるんだから」
足から腿にかけて、ポツポツポツとできた赤いあとに悠々と彼女は薬をぬって、唇にうす笑いを浮べておる。
雨のなか、三人つれだって外に出た。豊原さんは時々、ショーウインドーにうつる自分の姿をみている。
「あんた、男がいつから嫌いになった」
狐狸庵また、不躾とは思うが、致し方なく質問をした。
「わたし?」
「ああ」
「わたし二十五歳の時、アメリカ人と婚約したんだけど、彼は国に帰って戻らなかったわ。裁判して六十万円の借金ができたわ」
「その時かの。男がつくづくイヤと思ったのは」
「いいえ、そのあと。その次の男でね。その男が、あたしに子供生ませたの」
狐狸庵、彼女がその時、話した言葉をここに書きとうない。本当はこういう個人的なことは彼女のためにも黙っていたいと思うが、いたるところの週刊誌で彼女自身が公表しているから、少しだけ書いても、もう差支えないであろう。
「その男、あたしが赤ン坊かかえている時、姿くらましてね……。一円の送金もしてくれなかった。男っていうのはみんな……。あたし男運がつくづく悪いと思うわね」
雨がビショビショふって、梅田の広場がよごれて嫌だの。みんな疲れたような表情で歩いておるな。狐狸庵、なんやら、柿生《かきお》の山里、ささやかな我が庵に戻りとうなってきたワ。
裏路の小さなトンカツ屋にはいって、
「酒飲もか」
「あたし、トンカツたべます」
「その時だの。男というものが心から信じられんようになったのは。金は信じとるかね」
「金だけ信じているわよ。あたし、千万円を目標にして貯めるの」
「今いくら溜まった」
「六百万円」
「すげえの。赤ン坊、可愛いだろ」
「赤ン坊は可愛いわ。人にあずけてあるんだけど、もう三つ。私が会いに行って別れる時。母ちゃんと離れるの、イヤだイヤだというの」
狐狸庵じっと彼女をみた。さっきから感じとったのだが、彼女は相手によって話をツクったり誇張したりする傾向があるな。どこまで本当か嘘かわからん。しかしこの男の話と子供の話には最低、疑えぬ部分はある。こっちをホロリとさせ、お泪頂戴でない部分がある。
「あと、いくら溜める」
「千万円までは子供のため。そのあとはわたしのため」
「しかし女手一つで六百万円とは、頑張ったのオ。あんた」
トンカツを口にほおばりながら、彼女は突然、
「トルコ風呂が終って……、後始末して、帰ろうとすれば朝がた二時か三時よ。みんなはタクシーでかえるんだけど……、あたしはそのタクシー代三百円があれば子供のシャツも買えると思って夜道を歩いたものよ。歩きながら、これもみな、あの男のせいだ。あの男がいなければ、あたしはこんな辛い思いをしないでもすんだんだと思ったわ」
しゃべりながら彼女の眼が怒りに光っておる。あの男のせい、あの男のせい。
「しかし、今まで色々男にだまされた女が」とO青年が横から口をだして、「山ほどいるが、みんな、あんたのようになったとは限らんしなあ」
彼女はだまって返事をせん。トンカツ屋を出て、
「さよなら」
と言うと、さよならと言い、雨のなかを消えていった。
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変装人間の快感[#「変装人間の快感」はゴシック体]・渋井博士
もう、四、五年前になる。狐狸庵、ある日理由なく、突然扮装がしたくなった。知人にたのみ、茶の宗匠の着るような衣服に、白髪のカツラ、白い髭などを用意してもらい、それを身につけて鏡の前にたつと、一人のイヤラしい狐狸庵老人の姿がそこにうつった。
妙な快感があった。その恰好で友人と一緒に東都に赴き、知っているあるビルの酒亭に入ってみようと思ったのである。ビルの一階でエレベーターを待っていると、ちょうど三階の酒場からおりてきた三、四人の中年紳士が、老人姿の拙者を見て、異様な顔をしたが、その一人が、
「こんな年寄りでも頑張っておる。我々も大いにやりましょう」
と呟いたのは、甚だ可笑《おか》しかった。
酒場では五分ぐらい、誰も老人が狐狸庵だとは気がつかなかった。声を出せばバレるし、動けば見破られそうだから、拙者はじっと椅子に坐り、友人が代って注文し、ホステスと話をした。周りの客もホステスたちもこんなところに場違いな白髪、白髭の老人の存在に困惑して、はじめはどのボックスも静まりかえっていた。そのうち、
「あれは――奴じゃないか」
とヒソヒソ、わが名をあげて囁く声がきこえた。そして間もなく、全員がこの老人の正体を見破った。だが、見破られるまでの快感は言いようがなかった。扮装し、仮面をかぶることの興味を久しぶりに味わった。
久しぶりにと言うのは、子供の頃、狐狸庵は、何かに化けることが好きだったからである。玩具の面、ひとつ、かぶれば自分がテングになった気がした。犬になった。セルロイドで作った犬の面をかぶり、四つん這いになってワン、ワンと言うと私は犬になり、我が家で飼っていた雑種の犬と話ができるような気持がしたのである。
その楽しみは幼年時代が終ると消え去った。自由な変身を信じない馬鹿な年齢になったからである。少年時代とは俗悪な合理主義に一番おちいりやすい季節である。拙者は、テングになったり犬になったりするあの遊びを捨てた。それから歳月が流れた。そして狐狸庵、この年になって道を歩いている時、酒を飲んでいる時、ふと思うことがある。
「もし、自分が別の人間になれたら。もし自分が女になれたら……」
扮装するということは、自分が別な人間に変るという……あの変身欲望のささやかなあらわれである。髭をつける。かつらをかぶる。道を歩く。向うから友人がくる、友人はすれちがった狐狸庵を狐狸庵だとは気づきはしない。その時の快感は言いようがない。
この時の快感を分析してみると次のようなものになる。我々は他人という鏡を通して日常生活のなかで生きている。他人は拙者をみてそれぞれのイメージを持つ。Aは狐狸庵のことを「世俗を捨てた風流人」と思い、Bは拙者を「実は俗臭ふんぷんたる人物」と思い、C子は「イキで素敵なよい男」と思い――そういう風に私という存在は他人の持つ色々なイメージによって創られている(伝記文学の欠陥とはそんなものだ)。そうしたイメージの集積のなかで、拙者が「俺はちがうで。俺はあんたたちの考えている人間ではないでえ」と叫んでも、こりゃどうにもならんのである。
変身したいという欲望の第一は、こうした他人の押しつけてくるわがイメージから逃れるということだ。
それから、もう一つある。ある夕方、狐狸庵、ある女とぼんやり、窓の手すりに凭れて夕焼のうつくしい空に見惚れていたことがあった。
「きれいだのオ」と狐狸庵が言った。
「きれいねえ」と女が答えた。
だがその時、狐狸庵、突然、こう思った。同じように夕暮の空をみて、「きれいだのオ」「きれいねえ」と同じ言葉を使いながら一人の女と一人の男の心理、別の思い出、いや、別の感覚でそれを受けとめているのかも知れぬ。ただそれを表現するには言葉があまりに貧弱で、言いたいことがあまりに複雑なため、同じように「きれい」と言っているのかも知れぬ。その時も狐狸庵、一生一度は女になってみたいと思った。女の感覚で一日だけでもいい、夕焼を、町を、世界を味わいたい好奇心に駆られた。
前から興味ある人が一人いた。
その人は美学者だった。狐狸庵が若かりし頃、学んだ三田の慶応義塾で美学を講じられている文学博士である。狐狸庵は不幸にしてその御講義には出席しなかったから、後輩にきくと、浮世絵と仏像の授業はとりわけ面白かったという。
「謹厳な先生で」とその後輩は言った。「時間通りピタリと来られ、最後まで授業をきちっとなさいます」
その美学者、渋井博士は明治三十二年のお生れというから、今年、七十一歳になられる。だが博士に狐狸庵が前からお目にかかりたいと思っていたのは、もう一つ別の理由《わけ》があった。
あれはたしか、昨年の春だったと思うがある女性週刊誌に先生のことが掲載されていたからである。それによると七十一歳の先生は、夜になるとカツラをかぶり、サングラスをかけ、細身のズボンをはかれて、二十代の青年の恰好をされ、夜の新宿に出て若い男女とダンスをされると書いてあったからである。その記事を読んだ後輩は「信じられぬ」と首をふった。教室でのきびしい御授業からみて、先生がそんな物好きなことをされるとは信じられぬと言うのである。
だが狐狸庵には、それがなぜか本当のように思えた。先にも書いたように、扮装や変身に多少の興味も経験もある身だったから、先生が「昼は謹厳な」方であればあるほど、それと百八十度ちがった扮装をされる御気持もありうることだし、そうして楽しまれることもわかるような気がしたからである。
それ以上、狐狸庵はむしろ感動した。七十一歳といえば、普通なら盆栽チョキチョキ、茶器でもいじるのが好きな年である。その七十一歳で、夜がくれば二十歳代の若者の扮装をして新宿を遅くまで徘徊する先生を何と好奇心のつよい人だろうと思ったのである。
狐狸庵はその時、ふと、亡くなられた奥野信太郎教授のことを思いうかべた。奥野教授もまた周知のように、亡くなられるまで非常に好奇心の旺盛な先生だった。そして亦、先生は自分で楽しみを見つけることを知っておられた。狐狸庵は先生に二、三、酒と肴のうまい店を教えて頂いたが、それらはいわゆる食通などの書く本には絶対にのっていない、渋谷や新宿のガード横にある小さな汚い店だった。小さな汚い店であったが、実際、訪れてみると美味だった。その時、狐狸庵は先生がこの店を発見されるためには、自分の足で二十軒、三十軒の同じような店を歩きまわられたにちがいないと思った。そしてまた先生は他人の舌ではなく、自分の舌で味わうまでは承知しない本当の食通だと思った。
渋井博士の話を聞いた時、同じことが狐狸庵の心に浮んだ。この人はタダ者ではあるまい。七十一歳まで好奇心を失わず、しかも自分だけで楽しみを発見する人は稀だからである。以来、渋井博士にいつかお目にかかりたいと思うようになったのである。
その機会がやっと来た。狐狸庵がお目にかかった先生はその日は残念ながらカツラにサングラス、細いズボンという扮装ではなくて、しゃれた老紳士の服装であった。そして狐狸庵が先生のお話をうかがい、先生行きつけの店にお供する段になると、先生は、
「ぼくのことは今から先生と言わないでくれ給え。ヨノちゃんと呼んでくれないか。新宿ではぼくはそういうことになっている」
恐縮して狐狸庵がうなずいたあと、先生は一軒のスナックにまず入られた。外人をふくめた五、六人の若い先客で店はもういっぱいで、ステレオがガンガン鳴っていた。先生より若い狐狸庵が、頭が痛む感じなのに、博士は嬉しそうに、その細長い指でリズムをとっておられるのである。
「ヨノちゃん、この間、もう一度、くるくるって言って、来なかったじゃんよオ」
若者の一人が言った。
「ヨノちゃん、あんた、土建屋だろ」
「土建屋か。そう見えるかい」博士は苦笑しておられる。「そう見えるかねえ」
「ヨノちゃんとゴオゴオ、おどったことあるかね」
と狐狸庵、そばの女の子にきいた。新宿を夜おそくまでウロウロしている女の子の一人である。
「おどったわよ」
「うまいか」
「すごく、上手。ヨノちゃんは体がやわらかいんだわ」
このスナックの若い男女はヨノちゃんが浮世絵と仏像を講じる謹厳な大学教授だとは知らない。もちろんヨノちゃんもそんなことを一言も言う筈はない。若い連中は一体、この七十一歳の老人を――そして毎夜、二時ちかくまで自分たちと同じゴオゴオ酒場やスナックや裏路を徘徊する老人をどう思っているのであろうか。
「やはり、午前二時になると、くたびれますねえ。だから帰りますよ」
「でも、毎晩、来られるんでしょう」
「ええ。毎晩、来ます」
先生は下町っ子である。向柳原――と言っても今の読者にはおわかりにならぬかも知れぬが、浅草橋のあたりである。
先生は子供の時から皆と一緒に遊べぬ子だった。一寸お目にかかっただけで、こんな想像をするのは失礼かも知れぬが、狐狸庵はスナック・バーのなかで先生の幼年時代のことを一寸考える。下町の裕福な家庭のなかでおそらくお祖母《ばあ》さんっ子だったから体もあまり強くなく、近所の悪童たちと一緒に遊ぶには、気だてがデリケートで、みんなから大事にされても結局はついていけないそんな幼年時代を先生は送られたのではないか。そんな幼年時代を送った子供は、たいてい自分一人だけの遊びをみつけたり、あるいは動物のなかに友だちを見つけるのである。
こういう子供は小さい時から美しいものに敏感である。狐狸庵のところにくる一人の青年にもそんな男がいる。彼は子供の時から自分だけの夢の世界に逃避しよう、しようとしていた。その夢の世界とは、大人が決してこわしてはならぬ、大事な美しい世界である。
先生はその点、何もおっしゃらなかったが狐狸庵はこんなことを空想する。下町育ちの先生の家の土蔵にはおそらく沢山の浮世絵や錦絵があったのだろう。子供の時先生はその土蔵のなかでこれらの絵のつくりだす幻想の世界を楽しまれたことだろう。先生はまた大人たちにつれられて小さい時から芝居小屋によく行かれたろう。今の東京都民にはそういう習慣はすっかりなくなってしまったが、下町の大きな商家では、巴里の人が週一回、芝居を見に行くように、歌舞伎に出かけたのである。そんな雰囲気のなかで先生の感受性がどう育てられたか、狐狸庵にもおぼろげながらわかるような気がする。
「ぼくは」と先生はふと言われた。「その頃、虫が好きでした。みんなとあまり遊べなかったものだから――当時の下町にはまだトンボや蝶々が沢山、とんでいまして……ある時、あの黄色と黒との鮮やかな女郎|蜘蛛《ぐも》に夢中になって、この女郎蜘蛛を家に持ってかえったんです。もちろん、叱られましたけれどね」
女郎蜘蛛のうつくしさはどこか浮世絵の彩色に通ずるものがある。妙な生命力とそれからデカダンスの美とがまじりあったあの恍惚感が女郎蜘蛛の黄色と黒とのなかにまじっている。
「それ以後、ぼくは女郎蜘蛛をずっと忘れていましたが……年をこう、とって、ある夜、新宿に出て、ふたたび女郎蜘蛛のうつくしさを発見したんです」
「え?」
「十六、七の少女たちですよ。真夜中の新宿に集まってくるあの十六、七の少女たちのなかに、子供の頃みた、女郎蜘蛛のうつくしさを見つけたんです」
先生はこの言葉をまるで歌うように言われた。その時、先生のなかに大正時代のロマンチシズムの匂いを感じた。我々がもはや持っていない、あの大正から昭和はじめの文学に残っているロマンチシズムの匂いである。
少年時代に先生を恍惚とさせた鮮やかな色彩をもった女郎蜘蛛、そのイメージを夜の新宿に群がる少女たちのなかに見つけて七十一歳の渋井博士は二十代の扮装をして、あちらのスナックや、こちらの酒場を歩きまわる。
扮装をするのはもちろん、少女たちの世界に同化したい欲望からだ。だが同時に、先生の頭のどこかに死の意識がまつわりついているからだと狐狸庵は思う。七十一歳という年齢に死の意識がまつわりつかぬ筈はない。先生が少女たちと一緒に酒をのみ、ゴオゴオをおどるのは、御自分が今日、一日一日、失いつつある生命を少女たちによって忘れるためであり、そしてまた、十六、七の少女たちの持っている言いようのないあのエネルギーや生命力を吸いこみたいという衝動ではないかと狐狸庵は考える。
そのことは、先生の次の言葉から感じられる。
「ぼくは十六、七歳の娘でないと嫌なんです」
「二十歳の娘では?」
「二十歳の娘は興味がないんです。ふけています。女のなかで一番、うつくしいのは十六、七の娘です。あんなにうつくしいものはない」
子供から大人に変る十六、七の少女たち。まだ完全に彼女たちは大人ではない。なぜなら大人になるということは既に凋落と下降と衰弱が同時にはじまることだからだ。彼女たちはまた、固い、青くさい子供でもない。十六、七の少女は人間のなかで一番生命力と美とが花のように匂う短い期間である。先生がそれを本能的に感じられたのは、先生が美に生きる人であるからだが、同時に七十一歳のお年齢《とし》であるためだ。二十代や三十代や四十代には、まだ十六、七歳の少女の微妙な生命感や美しさを吸いあげようとする気持はない。
「ぼくがおどるでしょ。おどる時は向うもこちらも黙っています。声を出さぬから年齢も感じない。だから彼女たちもぼくを二十代と思いながらゴオゴオをおどってくれるんです」
「なるほど」
「やがて年齢を忘れて彼女たちがぼくに好意をもってくれる時がありますね。そんな時、変るんですよ。彼女たちが」
「どう変るんですか」
「首からあごにかけてが、ほのかな薔薇色になるんです。匂いも変ります」
狐狸庵は感動しながらこの七十一歳の老美学者の話をきいていた。今日までこの事実を全く知らなかった。狐狸庵が感動したのは先生の話というよりは、自らの人生の短さを自覚した老人の感受性にたいしてである。
先生はこの時も歌うようにしゃべられた。
「けれども……」
けれども先生にはやはり勝てぬ瞬間がくる。扮装は結局扮装なのだ。仮面はやがてぬがねばならぬ、シミのついた皮膚、皺、肉のそげた四肢、そういう現実が悪魔のように嗤《わら》う瞬間がくる。
「その時、彼女たちの意識がさめます、彼女たちが離れます」
「その時、先生は孤独でしょう」
「ひどく孤独です」
狐狸庵は背すじに震えが走るのを感じた。悪寒《おかん》ではない。先生のその時の孤独が自分にもなにやらわかったような気がしたからだ。
「そして?」
「そして、また翌日、あたらしい女郎蜘蛛をさがして新宿にくるんです」
先生とその夜、その新宿でわかれた。狐狸庵は何やら一篇のすぐれた短篇を読んだあとのようた気持でふりかえった。先生は歌舞伎町の人ごみのなかに姿を消した。
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マッチの軸で貯めたケチの哲学[#「マッチの軸で貯めたケチの哲学」はゴシック体]・西岡義憲
その人は私のそばにいる「潮」編集部の若い人に説教しはじめた。
「あんたのような事をしてたら、金は貯らんで」
「なぜですか」
「本当はここに来るにも、駅から何もタクシーに乗らんでバス使《つこ》うても良かったのや。それをあんた、わたしをつれてタクシーの……それも小型やなく、中型に乗りましたやろ。小型の乗場に五人ほど客がたっとったさかい、わしはその時、思うたんや。ああ、ああ、僅か五、六分待っても小型に乗れば十円か、二十円、うくのに、この人、モッタイないことしはるなあ。こんなことでは、お金《あし》に羽がはえて逃げていきよるわ……」
編集部のその人は私の顔をみてマイッタという表情をしてみせた。私もさっきからマイッタ、マイッタと言う気持だった。
日本一のケチ男に会いたいと言うのが私のかねての宿願で、前からそれを編集部に申し入れていたのである。そしてその結果、編集部は、この西岡義憲さんに白羽の矢をたてたのだ。
何しろ西岡さんは現在、四億の資産がある人である。
それも若い頃は巡査をやっておられ、自分で衣料品問屋の店を持たれたのは中年をすぎてからと言われるから、いかに彼がゼイタクをせず、せっせと貯蓄に励まれたか想像できるだろう。
明日が大晦日という日、私は仕事で京都に来ていた。本来ならば、私が大阪の西岡さんのお店なり、芦屋のお宅に伺うべきなのであるが、どうしても時間が作れない。で、失礼とは思ったが、編集部の人に御自宅までお迎えに行ってもらって、私の投宿しているホテルまで御足労願ったのだ。
ところが京都駅をおりて、編集部の人は私との約束時間に遅れるといけないと思ったのだろう、駅前の客の並んでいる小型タクシー乗り場をさけて空車のある中型乗り場に行った。
西岡さんはそれがモッタイない、モッタイないと口惜しそうに言われるのである。
「たった十円、馬鹿にしたら、あきまへんで。十円かて積もれば百円になる。百円は千円になる」
わたしはねえ……と西岡さんは一つの例をだした。「電車に乗りますと、必ず左右を見ますねん。あみ棚も見ますねん。すると客の読み捨てた新聞があちこちにありますやろ。わたしはアレを集めて家に持って帰りますウ。家族にもさしてます。それを集めて屑屋に売るんやったら、誰かてすることや。だがわたしは人と話をしとる時、テレビを見とる時、遊んどる手を働かせてこの新聞の皺をば奇麗にのばし、キチンとたたんで、配達された時と同じよにしときますねん。するとそれを買う屑屋かて気持をようして、十円、余計にくれまんがな」
「その十円が大事だす」
私は何だか子供の時、読んだ二宮尊徳の話を聞いているような気がした。遠い昔のことであるいは記憶が間違っているかもしれないが、二宮尊徳も子供の頃、道におちている縄一つでも拾って、それをキチンと集めていたそうである。
貧乏人の見栄っ張り。金持のケチという言葉がある。
貧乏人ほど浪費家が多く、やたらと見栄で友だちに奢ったり、身分不相応なものを買ったりするそうだ。六畳一間のアパートに生活しているのにカラーテレビやトランジスタラジオを買ったり、なかには車まで持っているのは日本人だけだそうだが、私をふくめてそんな連中は、生涯決して金持になれぬものらしい。
それにくらべて金持はたしかにケチである。実はこの西岡さんと会う前々日、私は京都でも指折りの金持の家を訪れたのだが、立派な応接間で一時間、私が出されたのはたった番茶一杯だけだった。前日、私はこの家の娘姉妹に食事を奢り、彼女たちはそれこそパクパクたべたくせに、いざ逆に自分たちが饗応する段になると番茶一杯というのは余りといえば余りだったという話をすると、西岡さんは我意をえたりとうなずいて、
「わたしの家でもお客さんには、番茶しかだしません。その代り、何もおもてなし出来んで失礼しますと言います。言葉はいくら言うてもただやからな」
西岡さんは現在、船場問屋の連合会会長である。年齢はうかがうのを忘れたが、六十代ぐらいであろう。だが先にも書いたように大阪で長い間、警官として働いていたこの人が巨額の資産を貯いえたのは「一円を笑うものは一円に泣く」「貧乏人は浪費をし、金持はケチなり」という鉄則を守ったからである。
「あんた、金を貯めるということは、己に克《か》つということですっせ。欲しゅうても我慢する。飲みとうても飲まん。これは努力がいりますウ。たとえばあんたはんのその着とられる洋服、いつ買われたんでっか」
「さア。昨年かなア」
「ごらん。わたしのこの洋服は十年前のものや。十年前でもキチンとしてまっしゃろ。わたしは毎日、ブラシ、かけますねん。あと二十年ぐらいは使うたろと思うてます」
「その靴は?」
「これは二年前です」
「大分、イタんどるな。使い方が悪いのや。わたしら、路あるく時も靴がイタまん所をえらんで歩くから、これで五年目やが、まだはけますな」
私は編集部の人の顔をソッと見た。これは大変な人に会ったという気持である。さっきから、こちら二人は叱られてばかりいる。取材どころではない。
ようし。そんならこっちも負けるもんか。向うがケチなら、こっちもケチでいこう。そう思ったからちょうど食事時、ホテルの和食堂で鰻を食うことにしたが、椅子に腰かけてから私はこう言ってやった。
「特、上、並と三種類ありますが、西岡さん、我々は並でいいでしょう」
「ああ、結構。何も特を食うことはおまへん。しかしゼイタクな話でんな。(女中が持ってきた鰻をみて)こんなところは栄養がないワ。うちではこんなもん食う時、ハンスケかカモの皮買わしまんねん。栄養ある上、安いさかいな」
「西岡さんは毎日、どんなもの食べておられますか」
「朝はトースト一枚。それに紅茶バッグあれ一袋で三人、使えますからな。三人を一袋でやっとります。昼はうどん。夜はハンスケみたいなもので一汁一菜」
「そんなもので栄養とれますか」
「よく噛む。噛めばみんな栄養になります。噛むのは金がかかりません」
食事が終ってロビーで編集部の人がケーキと紅茶をたのむ。食堂で少し漬物を残したため、
「あんた全部、たべなさいな。残してカッコええとこ見せる必要ないがな」
と叱られたばかりの私たちは紅茶も全部、飲みほし、ケーキもすべて平らげて、
「今度は文句ないでしょう。西岡さん」
いささかザマミロという気持でそう言うと彼はジッと皿をみて、おもむろに首をふった。
「まだケーキを包んだ銀紙が残ってま。わたしなら、その銀紙、持って帰る。子供の運動会の時、役だちまんがな。弁当箱のおカズをつつめます」
「はアー」
もう恐れ入るばかりなり。
「それにあんたら、さっき鰻食うたあと、食堂を手ぶらで出ましたやろ」
「へえ」
「その心がけが悪い。わたしはこのように(ポケットからいつの間に取ったのやら、爪楊枝《つまようじ》十本とマッチ三コを出して)ちゃーんと、もろうて来てます。この爪楊枝かて家に持ってかえれば使える。マッチのジクかて、あんたらさっきからポンポン捨ててるようやが」
「いや、捨ててません。勿論、火をつけてから捨ててますがな」
「あれを持ってかえりなされや。風呂たく時、ツケ木の代りになりまっせ」
私は思わず吹きだしてしまった。
しかし話をきいているうちに、私もケチが面白くなってきた。ケチをやると言うことはアイディアがいる。それにユーモアがある。たとえば西岡さんはこう言う。
「うちの娘の普段着など、私の洋服の裏地で作ってやりましてん。イヤや言うてましたがな。嫁にいってから、その精神がわかったと申してます。店の者にも歩けるところは電話かけたらいかん。歩いて用を言いに行け、京都、名古屋への用件なら急用でない限り、電話代より葉書のほうが安うつく、コンポウの縄も全部、捨てるな、そう命じてます」
「それで、店の人がやめませんか」
「やめまへん。若いもんはなキビしゅう仕付ければやめまへん。甘やかすとやめるもんだす」
こういうのは生活訓である。合理的である。
「よし、俺も今日からケチになるぞ。君もなれよ」
編集部の人にそう奨めると、この人も大きくうなずき、一九七〇年はケチに徹すると誓った。その二人の決意を満足げに笑いながら聞いていた西岡さん、ケチ志望の初心者に与える四ヵ条の秘伝を教えてくれた。
読者にもお伝えしよう。
一、収入が入れば考えこまず、全部、銀行に入れよ。人間、金がなければ何とかする。決して死にはせん。手元にあるから使うのである。
二、株に手を出すな。銀行に入れろ。貯ったら当分、土地を買え。
三、一円が十枚たまったら十円にすぐ変えよ、十円が十枚たまったら百円にすぐ変えよ。百円が十枚たまったら千円札に変えて銀行に入れよ。人間、小銭だとすぐ使う気持になるが、これが札《さつ》になると使う気にならぬからである。(西岡さんは私の小銭入れをみてその心がけが全くないと叱った)
四、誕生日、結婚記念日などで女房、子供が何ぞ買ってくれと言ったら「次の収入の時、買ってやる」と言え。そうすれば(と西岡さんはニヤッと笑い声をひそめて)そのうち女房、子供も自分の言いだしたことを忘れます。
以上の四ヵ条がケチを今年から志す初心者向けの第一課程なのだそうである。
西岡さんは更に続けて、
「金使いの荒いのとシマリ屋とはこれは生れつきでんなア。だから、わたしは店の者を採用する時も、学歴とか成績表は見ません。その代り……小学校、中学校の時、使うたノートと鉛筆もてこいと、こう言いますウ」
「ほオ……それは何故ですか」
「そりゃ、あんた鉛筆一本、見ただけでわかりますがな。チビても小そうなっても鉛筆大事にとっとく男はこれ、シマリ屋や。わたしはその男は経理の方に採用しますねん」
「なるほど。で金使いの派手なのは」
「外交のほうにまわします」
そう言って西岡さんはニヤリと笑った。
「しかし、あなたのようなやり方だと友だちとつき合えなくなるでしょう」
西岡さんが映画も芝居もほとんど見に行かぬというので、私は彼が友人とどのように交際するのか、興味をもった。
「交際でっか。相手を見きわめます」
「と言うと」
「相手もわたしと同じシマリ屋やったら、ワリカンでつき合います。相手が金使いの荒い男やったら……何とか口実つけて、逃げることにしてますねん」
「はア。逃げることに」
「当り前ですがな」
「しかし店の経営上、客を接待することはあるでしょ」
「これは、あんた違います。この接待は儲けるための接待や。だから言うなれば、こっちが奢っとるんやない。向うが奢っとるようなものですがな、接待した分の十倍、儲ければええのですがな」
西岡さんの話によると船場というのは大体、シマリ屋精神で貫かれているという。ただ、自分はその中でも格別、シマリ屋なので有名になったのだと呟いた。
「だから、わたしの家は家計簿などありません。大体、あんた、家計簿には収入と支出と二つの項目がある。うちは出費さえ睨んどけばええのや」
「あなたが家庭のなかで一番、出費するので残念だと思っているものは」
「電気代でんなア。ほんま。正直いうて一部屋だけに灯つけて家族はそこだけに集まって、あとは全部、消せばええやねが、そうもいかんわ。子供は独りで勉強せねば気が散る言うし、夜中、便所のそばの廊下には灯もつけとかなあかんし――電気代だけはかかるなあ」
「あなたの考えでは、今の若夫婦は、全部でいくらあったら暮せると思いますか」
「二万五千円で暮せます。それ以上は貯金すべきですウ」
私は最後に西岡さんに、最も聞きたいと思っていた質問をした。
「しかし……西岡さん。あなた、何のためにそう金を貯めるんですか」
この質問は今まで色々な人からされたのであろう。彼は大きくうなずき、あごをひきしめて力強く答えたのである。
「金を貯めるのに何のためか[#「何のためか」に傍点]、考える必要はあらしまへん。とにかく貯める[#「とにかく貯める」に傍点]。貯めるために貯める[#「貯めるために貯める」に傍点]」
「うむッ」
今日まで私も色々な人物と出会ってきたが、しかし今日の西岡さんのような発想法をする人に会ったのは始めてである。
他人からの影響をすぐ受けやすい私は、もうすっかり面白くなり、先ほども書いたように、今年はこの人を師として自分もケチに徹しようと考えたのである。
西岡さんと同行した「潮」編集部の若い人も、自分もケチ男に変身すると宣言したくらいだった。
だが東京に戻って、一週間、ケチに徹するべく努めて見たが、諸君、これはなかなかムツかしいものである。マッチ一本すってもその燃えかすを取っておくだけでも努力を要する。家の者には、
「新聞の広告も捨てるな。あとで包紙にする。封筒だって裏返せばメモになるぞ」
西岡さんに教えられた通り、やってみたが、それは手数がかかる。くたびれる。外に出ればできるだけバスもタクシーも使わず、「靴のへらぬ場所をえらんで」歩いてみたが、結局は足が棒みたいになって帰宅するとグッタリだ。
「ほれ、ごらんなさい。いい加減にすればいいのに」
家人に笑われ、結局、一週間後にはモトのモクアミになってしまった。
私と同じようにケチ男に変身すると言った編集部の人のほうは、どうなったか、まだ聞いていない。
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巷談・ヘビを食う仙人[#「巷談・ヘビを食う仙人」はゴシック体]・田中一刻
子供の頃、講談本を読んで、家出をして山に入ろうかと考えたことがある。宮本武蔵がまだ武者修行の頃、深山にわけ入ると、幽谷のほとりにきこりの住むような小屋があり、そこに眼光ケイケイ、白髪の老人がいたのである。武蔵はその老人を見ると、ヒョイ、ヒョイと渓流の小石を飛ぶ時もスキがなく、
(うーむ。面妖な。こ奴は何者。狐か狸か)
そこでスキあらば、打ちかからんと考えていた。
一宿一飯を乞うと老人は気持よく、小屋のなかに入れてくれた。が、一向にスキがない。だがその夜、晩飯の支度に囲炉裏にうつむいている老人に木刀をもって打ってかかると、鍋の蓋をとってパッと受けとめた。流石の武蔵も恐れ入りの助と両手をつき、老人の名を問うと、
「塚原卜伝」
と微笑しながら名のったと言う。
多少の違いはあるかも知れぬが大要、右のごとき話をば私のような年齢の者は吉川英治氏の『宮本武蔵』ではなく、親にかくれて講談本で読んだ記憶があるのである。
その話を読んだ時、子供心にも私はどこか山深くわけ入ればそんな白髪の老人にめぐりあえるかもしれぬとワクワクしたのを今でも憶えている。
山のなかに老人が住むという伝説は日本でも中国でも多い。その老人は講談では塚原ボクデンのような剣聖になるのだが、中国の本では悟りをひらいた仙人とか、俗臭を捨てた翁として語られているようである。これは我々の心のどこかにある夢であり、その夢を多くの芸術家は文に絵に描いてくれたのであった。
編集部のO君がその日、例によって例のごとくセンベイ布団のなかで世のため人のために一向ならぬことばかり考えている狐狸庵のところをたずね、
「仙人に会いませんか」
と言った時は、真実びっくりして、
「仙人? 仙人と会うのかな」
「さよう。八王子のずっと山のなかに仙人と言われる御仁が庵《いおり》を結んで住んでおるそうです。あんたのように俗臭ふんぷんたる男はそうした仙人と対面し、その爪の垢《あか》でも飲むべきですな」
狐狸庵、思わず膝をたたき、なるほど、もっとも、ぜひ、その仙人と話したいものであると答えた。私のまぶたの裏には一本の曲った杖をもち、白髪三千丈山道を歩く老人の姿が何とはなしに浮んだのである。
O君の話によると、この仙人は二、三年前から甲州街道よりそれた深山に住み、木を削って仏像を作り、深山の霊気、生命に合致するような生活を送っているのだそうである。
そこで八王子の人々は彼を呼ぶに「仙人」の名をもってすると言う。名は田中一刻。日本彫刻会会長、最近はこの人のことはテレビ、週刊誌でも語られているそうである。
五日ほどたったある日、八王子のその深山にのぼるには老骨とても耐えられぬ狐狸庵は東都某所に仙人においで願うことにした。
本来ならばこちらが伺うのが礼儀であるが、老いさらばえた身にはとても木をのぼり岩など這う力がなかったからである。姪を二人つれていった。姪たちも仙人さまを一生のうち一度、おがみたいと思ったのであろう。
待つことしばし。
O君が先にあらわれ、
「今、来られます」
と言う。私はかなり緊張して、非礼のないように便所に走り、用を足し、席に駆け戻ってきた。
するとやがて、羽織、はかまに、長い髪に顎髪をはやし、一見、五味康祐氏のようなお方が右手に沢山の紙をかかえながら現われた。これが八王子の仙人であった。仙人といえば先にも書いたように杖をもち白衣をまとい痩せた翁を想像していた私は少しびっくりして頭をさげた。
「普通はこんな恰好はせんのじゃがのウ、あんたに会うというので衣服を改めてきた」
そう言われて席につかれた。お年はと伺うと四十六歳。四十六にしては血色よく、髪くろぐろとして、とても私などの比ではない。
「なあに、テッペンのほうは薄うなっとるよ。なに血色がいい。それはマムシ酒を飲むからだ。効くねえ、あれは。今度、持ってきてやろう。あんたはクタびれとるね。わかるよ。マムシ酒のみなさい」
なんで山などに住まわれておるのですか。
「それは言わんでもわかるだろう。あんたも小説家ならな。私の彫刻は山にこもって自分に集中せねばならんからだ。私の彫刻はね、一本の木を使ってそれを削りつくる、寄木じゃないよ。日本では私一人。私一人しかやらん。山のなかで弟子たちと一緒に住んでおる」
弟子はほうぼうにおられるのですか。
「全世界にいるよ。弟子の数? 全世界で千八人」
もってきた紙づつみから御自分の写真、あるいは自分の写真と記事との載っている週刊誌などを出し、
「これは××誌に出た写真。日本テレビもうつしに来たね」
その写真をみると山小屋の上で日なたボッコする仙人、蛇をかじろうとする仙人、イタチをつかまえている仙人などの写真がある。
「私は東京にも家がある。女房? いますよ。子供? いるよ。女房は何も文句はいわん。東京のほかに八王子にも家がある。月の三分の二は山のほうに住む。食糧? これは山のものを食う。若芽などうまいね。見なさい、この英文の手紙」
写真の下から皮表紙のカバーに入れた英文の手紙を出され、
「私はベトナムで死んだ米国兵のため仏像を三体、作った。米国空軍にたのまれてね、その礼状がこれだ」
狐狸庵は英語のほうはカラキシわからぬので折角の英語の手紙もチンプンカンプン何が何やらわからないから話題を変えた。
若芽のほかにどんなものを食べていますか。
「蛇も食う、うまいね。なに? 蛇は食ったことがあるがまずいって? マムシを食ったか。マムシはうまいよ。主食はイモ・米。イモなんか畠にあるものをもろうて食う。八王子の農家じゃ仙人さんにと届けてくれるからね。見なさい。先年、ホテル・オータニで個展をやった。これがそのプログラム」
個展のプログラムをみせてくださる。
しかし私はプログラムを見せてもらうよりも仙人生活のほうをききたくて――そんなら食費はかからんでしょうな。
「いや。そうでもない。弟子たち十人で三万円ぐらい。味噌などは自家製だ。外人などは非常によろこぶねえ。えっ。味噌じゃない。私の作品をだ。ドンドン欲しいと言ってくる。しかし私は注文主がきまっておるから、その注文で作る」
そんなことより山小屋は御自分で作られたのですか。
「もろうたのだ。むかしそこに家があってね。捨ててあったのを持主がただでくれたのだ。どんな生活をしとるかって。弟子も私も朝おきると黙々と仕事だね。話などせん。飯は自分で粥を煮て食う。めったに話さん。この間、テレビの人が来た時、弟子の女の子が物を言わんかったら、あれは唖かと聞いとったが唖じゃない。皆、物を言わんのだ。さみしくないね。冬だって寝る時、布団は使わん。そのままで寝る。弟子たちもそうだよ。私は彫刻のほかに絵もかく。これがその下絵だ」
絵の話もいいけれど、仙人としての話はこれ以上はないだろうか。
山におられると寂しくないでしょうか。
「寂しくなんかないね。寂しいなんて思うている暇もない。弟子たちも寂しいなんて言わんね。それよりあんたにいつか仏像をやろう。私がベトナムで死んだ米国兵のために三体つくった仏像のひな型。この一つをやろう。私は仏像が専門だ。外人なんか、非常に悦んで求めていく」
私はだんだん、この方が仙人というよりは野武士の親方のような気がしてきた。仙人というのは枯れきった老人だが、このお方は逞しく、野心にみちている。とてもアクを落した翁のイメージではない。掌なども非常に厚い。腕に傷あとさえある。
その傷あとは?
「山で木を切るからだ」
その木はあなたのものですか。
「そうじゃない。人の木だ。しかし持主だって別に怒らない。みな理解してくれる」
あなたは仙人というより、野武士の親方みたいです。枯れておらんです。
「野武士の親方? 私が仙人みたいではない? あんた小説家のくせに物を知らんね。仙人というのは何もあなたのいうように枯れた老人を言うのではない」
本当ですか。私が多少、仙人について知っている知識では仙人とは仏教と道教のほうで使う言葉の筈ですが、いずれにしろ、穀物さえ食べぬほど人間世界と接触を断った人を言う。
ところが、あなたは米は召上る。魚も食べる、食べませんか。
「魚は食べる」
その上、マムシ酒は飲む、蛇さえ召上る。
「そうだ」
それなら、やっぱり仙人じゃないようです、と私は言いながら背後にいる姪たちにも、
「この方は仙人と言われている方だが仙人とみえるかね」
姪たちは悪いと思ったのか黙っているので、
「仙人よりは野武士の親玉みたいだろう」
と私が言うと、大きくうなずいた。
仙人、意外と照れた顔をして、
「ひでえなあ。しかし、そういう意味では私は仙人ではないな。いや。むしろ、みんなから仙人、仙人といわれて迷惑しとるんだ。だから私は町に出て酒も飲むよ。人間界とも大いに接触する。それでなきゃ、彫刻はでけん」
そうです。そうです。その通りです。
「だから、私は、今日、あんたと会うと聞いたから、山からおりて出てきたんだ。あんたのものを読んで、この人なら私をわかってくれると思ったからね。あんたなら私が仙人ではないと書いてくれると思ったからね」
そりゃ始めからふしぎに思いましたよ。世俗をすてた仙人がプログラムや英文の手紙や週刊誌をかかえて下界におりる筈はないし、枯れきった仙人ならジャーナリズムなど相手にする筈はないですもんなア。だから、あなたは仙人じゃない。
野武士の親分みたいであると思いましたわ。
「うむウ。そういえば、わが山に夏など、アベックがやって来る。いつか夜中に変な音がするから、俺あ弟子たちに武器をもって配置につけと言うたね……」
へえ、武器などあるのですか。
「彫刻をやるために色々な道具があるな。山の木を切るためにもナタなんか用意しとるぞ」
私はアベックたちに警告する。ナタでぶんなぐられたらタンコブだけではすまないぞ。君子、危うきに近よらずだ。
仙人はわかれぎわに、弟子が作った女体の像をくださった。アフリカで買った土産ものに少し似ている。
私はそれをもらって姪たちと一緒に車に乗った。
狐狸庵からは夕暮、大山、足柄、箱根の山々が見える。これらの山は西の方角にあるから冬の黄昏、特にこのように晴天の日がつづくと空は茜色にそまる。
むかし江戸時代、大山詣でという習慣があって町内の八ッさん、熊さんはこの大山詣でをやって藤沢で女郎と遊んで帰宅したそうである。
いわば江戸時代のハイキングだが、しかしその由来は西方浄土を拝むということからきているのであろう。
狐狸庵からこうした山をみるたびに、私も次第に俗っぽくなったここから離れ、あの山のなかに新しく庵を結ぼうかとさえ思うことがある。
八王子の仙人の話によると、山に住むだけで体の調子がちがうそうである。山イモ、若芽を食い、マムシ酒を飲み、スモッグなどこれきりもない新鮮そのものの空気を吸っておれば元気になるのも当り前だ。仙人の顔は実に血色がよかった。羨ましい限りである。
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????[#「????」はゴシック体]・狐狸庵山人
実を言うと、我々文士のあいだで狐狸庵氏について折々、話題になることがあるが、その話はいつもたいてい次の言葉から始まるのである。
「一体どんな人だね」
というのは、我々のなかで氏と親しく交わった者は一人もいないからである。年齢も幾歳かわからない。ある者は五十歳といい、ある者は六十歳をすぎていると言うが定《さだ》かのことはわからない。とに角、かなりの老人であることは確からしい。
その上、この老人は「世ヲ厭《イト》ウタ」と称して、柿生《かきお》の山里に草廬《そうろ》をあみ、ほとんど東京に出てこない。もちろん文壇の会合、出版記念パーティ、その他もろもろの集まりにも顔をだされたことはない。だからその顔をみたものは非常に少なく、その声に接したものは稀である。
氏は『狐狸庵閑話』で、いわば文壇にデビューしたのであるが、デビューというのは普通、二十代三十代の若い作家や評論家にたいして当てはまる言葉であるから、ここに使うのは不適当かもしれぬ。とに角、氏の名が我々文壇に刻みこまれたのはつい二、三年前のことである。
それではそれまで氏は何をしていたのかと言うと、これまた不明。一説では彼は京都は田抜小路子爵の息子であり、若い折、遊蕩にふけり云々ということであり、他方、四谷三丁目で薬罐屋をあきなっていた親爺であったという説もある。氏の文章を読むと、行間から俗臭フンプンたるものがちらつく。がこれは、育ちのいい人間ではないことを証明づけるもので、作家ならこのくらいのことはよくわかるのである。田抜小路子爵といえば一条公、近衛公と並ぶ堂上公卿の名門であるから、その子孫がかかる俗臭フンプンたる文章を書く筈はない。氏はおそらく四谷三丁目の薬罐屋の主人であったろう。これは氏の他の著作『古今百馬鹿』『人間万事|嘘《うそ》誕計《ばつかり》』についても同じことがいえるのであり、一方では花鳥風月を愛する世捨人のごとく装うているが、実は世捨人どころか好奇心盛んな慾フカ爺さんではなかろうか、というのが私の意見である。
しかし正直、百聞は一見に|不レ如《しかず》であるから直接、氏の柿生の里の庵を訪れて、この眼でその人を見、この耳でその人の声をきくことにした。以下はその訪問記である。
小田急を柿生でおりると、流石《さすが》このあたりは空気も甘く樹木も爽やかである。折しも季節は秋であったから、いたるところの農家に柿が色づき、文字通りこの里が柿生の里であることがわかった。
東京の郊外にまだこのようなひなびた所があったのかと、私は同行のカメラマン田沼氏としばし見とれたぐらいであるが、狐狸庵翁の住む柿生三輪村は一村ことごとく柿の樹にうもれ、その樹もすべて樹齢百年を越したかと思わるる老木である。村は静まりかえり、遠くで鶏の声のみ、のどかに聞えるだけであった。
村はずれに老大木が風に爽々となる寺社があった。村の鎮守さまだが、そこで遊んでいる子守女に、
「狐狸庵先生はどこに住んでおられるの」
そうたずねると、クスッと笑って、あっちと指さした。村の背後にある小さな山の中だというのである。その顔に「あのイヤラシイ爺さん」という表情あきらかに読みとれた。
山の中腹には、既に皆さんおなじみのO青年が迎えにきてくれていた。O青年は黒ぶちの真ン丸な眼鏡をかけ、一見、若いのか年寄りなのかわからぬ顔の男であるが「狐狸庵氏は」とたずねると、
「もうすぐ起きるでしょう。なにしろ爺さん、午後二時ごろまで猫みたいに居眠りをしておりますから今行ってもどうかなあ」
といかにも自分の許可がなければ、狐狸庵氏と会えぬ口ぶりである。道を歩きながらO青年は栗を盛んにひろう。この辺は取っても取りきれぬほど栗が多い。
栗、樫、榎の雑木林をぬけ、やっと庵についた。庵は山の斜面に建てられていて、写真でみられるごとく、雑木林に面して露台があり、その奥に狐狸庵氏の寝起きする一ト間、あとは一室その他らしい。我々がついた時、狐狸庵山人は杖を引きつつ、ちょうど露台から庭におりてこられた。
狐狸庵の顔をみたのは、私としてもこれがはじめてだが、この時少年時代『宮本武蔵』という少年講談でよくよんだ塚原ボクデンの姿を心に思いうかべた。白眉、白髯、杖をつき、さながら仙人のような面影で、眼光ケイケイとしていると言いたいが、居眠りをしていたあとか、涎がきたならしくあごのあたりにつき、トロンとした表情で、脱俗の雰囲気はない。
「あ、あ」
ひどく照れくさいらしく、すぐ庵の中に引っこんだ。
「機嫌わるいらしいなあ。チェッ」
とO青年が舌打ちする。
「どうしてですか」
「言いたくないがね、あんたらが手に土産物一つもってこなかったでしょ」
O青年は我々の手のあたりをチロリチロリとみてそう言った。手ブラじゃないかと言わんばかりである。
「何だ。まるで吉良コーズケノスケみたいだ……」
カメラマンの田沼氏は憤慨してそう怒ったが、私はまあ、まあとなだめ、O青年に千円札をわたして、
「それは失敬しました。では、これでウイスキーなりと買って下さい」
とわびたのである。O青年はその千円札をもって庵の中にはいり、しばし狐狸庵山人と話していたらしいが、やっと機嫌もなおったらしく、
「会うそうですよ」
庵の中に入って驚いた。万年床のまわりに食いさしの茶碗あり、湯呑あり。鼻紙散乱し、壁の両側には何やらウスぎたなきフンドシのぶらさがり、これを写真にとるには読者にも失礼かと思い、我々で大掃除した次第である。
「お目覚めのところを恐縮ですが、どういう動機でこんな山里に庵を結ばれたのですか」
「西行法師の心境」とまだ不機嫌な狐狸庵氏は言った。
「昼は経をよみ、夜は風の音に耳傾ける毎日だの」
そのくせ氏は我々の出した千円札をさっき急いで枕元の壺にしまいこんだようである。
「しかしこの雑木林には色々、樹木がありますなあ」
「うん。晴れた日にはこの林がわしの書斎になる。ここで書をひもとく、文も書く」
「羨ましいですね」
そのうちボコ、ボコンと何やらにぶい洗濯物でも叩くような音がした。
「あれは、何ですか」
「京都詩仙堂を御存知かの。あの庭にある鹿追いそのままを、作ってみたのであるよ」
鹿追いなら私だって知っている。詩仙堂だって行ったこともある。山人の言うように、あの庭にはたしかに竹筒に水が流れ、その竹筒が石にあたってカーン、カーンと爽やかな音をたてていた。だが、この狐狸庵のそれの音はボコ、ボコンと、きたならしい響きだ。
「音のひびきが違うようですね」
「そんなことはないぞ。それは貴公の心が澄んでおらんからであろうな。わが耳にはあの音、えもいわれん」
耳をすましたが、相変らずボコ、ボコンであるが、これ以上機嫌を損じるもどうかと思い、
「かような所では鳥も多うございましょう」
「うむ。花鳥風月みなわが輩《とも》である。色々な鳥がくる。平家物語に出てくるホトトギス、雨月物語に描かれたクイナ、あるいは秋のキツツキ。何とも言えんわびしさの中におのずと風趣があるな」
なるほど、そのうちに鳥の声もきこえてきた。カアカア、カア。ホーホケキョ。
「晩秋だというのに烏はわかりますが、鶯とはちと季節はずれですな」
「なに、ここのは人里とちがい山鶯でな。季節にかまわず、我が独り生活《ぐらし》をたのしませてくれるのさ」
そのうちコケコッコーという鶏の声までまじりはじめた。
「おや、鶏を飼っておられますか」
「なに? 鶏」
突然、狐狸庵氏の顔に狼狽の色うかんだのを私はみのがさなかった。だがその時、外でO青年であろうか、
「バカ。笛、まちがえる奴があるかッ」
何やら叱りつけているのがきこえた。それに応じて、子供たちの声が、
「でもおっさんよオ、鳥笛をふけばよオ、十円やるというてさ、五円しか、くれんじゃないかよオ」
「しっ、声がたかい、声が」
私には、ははあ、これは本当の鳥ではなく、子供たちに鳥笛吹かせているのだなとすぐわかったが、左様な色は少しも顔には出さず、
「御風流なことで……」
一時間ほど庵にいたが、山人は一杯のお茶も出してはくれなかった。それだけではなく、カメラマンの田沼氏がシガレット・ケースをだすと、
「すまんがの。切らしておるで一本」
そういって煙草までこっちのものを喫ったぐらいである。
私はこの狐狸庵山人を、遁世の風流人ではなく、俗臭フンプンたるヒヒ爺だと感じた次第である。
そのうち、O青年がさっきの千円札で酒を買ってきて、山の竹を切った。何をするのかと見ているとこの竹のなかに酒を入れ、落葉集めて暖めるのである。
「ほほう。故事に習い、林間の紅葉で酒を暖むの図ですか」
竹の香が酒にしみこんでこれがウマいそうである。ここに来る途中、路でひろった栗をその焚火のなかで焼く。
「栗のほうをたべなさい」
狐狸庵氏は我々に栗をすすめてはくれたが、酒のほうは自分の膝に引きよせ、チビリ、チビリと独酌で一向に振舞ってくれん。しかし酔がややまわったか、機嫌もよくなってきたようで、こちらが「文壇のほうにはあまり御接触ありませんな」とたずねると、
「興味ないでの。わしが日本文壇といえば、尊敬するのは十返舎一九先生。式亭三馬先生それに鯉丈《りじよう》先生に金鵞《きんが》先生ぐらいなものだ」
「ほう、鯉丈に金鵞もねえ。三馬や一九なら、わかりますが」
「なにを言うか」狐狸庵先生ジロリと私をねめつけ、「だから君らの書くものには、ゆとりがない。人物が荒いのだ。鯉丈の『八笑人』、金鵞の『七偏人』を読みなさい」
「あれは長屋の花見のクマさん、八ッつぁんの元祖のような気がして」
「なんの、ああいう人物をつくりだしたことこそ鯉丈の天才があるのだな。金鵞はこれにくらべれば流石にちと落ちる。しかしそれでも悪くはないな」
「狐狸庵氏の師ですか」
「師とはいわんが影響うけたことは確かであるな。少なくとも若かりし折は、あの八笑人こそわが理想の人間と思うたもんだ」
「ほほう」
「せめて、あの八笑人たちの心境に達してみたいとあれこれ修業したが、まだそこまでいかん。何とも情けないものである」
これは氏の本音がチョッピリ出た言葉かと思えた。なるほど、この男、八笑人の心境を狙っとるわけか。
「しかし『狐狸庵閑話』は洛陽の紙価をたかめましたよ」
「その割にはゼニコが入ってこんのだ」
ふたたび、俗臭フンプンたる顔に戻り、情けなさそうな表情をする。
「ああ、働かんでも食えんかのオ」
「それができりゃあ、苦労しません」
突然、狐狸庵氏は茶碗を箸で叩きながら歌を歌いはじめた。
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※[#歌記号、unicode303d]ああネズミがチュウとないてよ
天井走ればよオ ゼニコがよオ
パラパラと 落ちてこんかよオ
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「あッ、それはわが友人の、吉行淳之介の作詞です。御存知ですか」
「そうか。しかし、これは今のわが心境でもあるの」
また歌った唄は左の通り。
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※[#歌記号、unicode303d]親亀の背中に 子亀をのせて
子亀の背中に 孫亀のせて
孫亀の背中に 孫々亀のせて
親亀こけたら みなこけた
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氏は、粛然として「これもわが心境であるな」と言うが、私には何の心境かさっぱりわからなかった。
〈掲載誌・発表年月一覧〉
ぐうたら交友録
「週刊朝日」一九六八年一月五日〜四月十二日
現代の快人物
「小説現代」一九六六年一月〜十二月