フルメタル・パニック!
ご近所のサーベイヤー
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)日光が窓《まど》から
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半分|認《みと》めた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き][おしまい]
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[#挿絵(img3/m03_000.jpg)入る]
朝の日光が窓《まど》から射《さ》す。
千鳥《ちどり》かなめが目を覚《さ》ますと、もう七時四一分だった。始業時間《しぎょうじかん》まで五〇分しかない。このままでは遅刻《ちこく》する。それでも彼女がベッドから這《は》い出るまで、更《さら》に五分を要した。
「うー……」
昨夜《さくや》、風呂《ふろ》あがりのまま寝床《ねどこ》に倒《たお》れ込んだものだから、安物ショーツ一枚にブラウスを引っかけただけの格好《かっこう》だ。
ひとり暮《ぐ》らしを始めてからもう一年半。
最近は生活がだらけがちになっている。どうせだれも見ていない。毎朝『起きなさい、かなめ』と言ってくれた母親も、もういない。
朝シャンはあきらめた。まともな朝食もだ。着替《きが》えて洗顔《せんがん》、ブラッシング。こういうときは、自慢《じまん》の長髪《ちょうはつ》が疎《うと》ましくなる。時計の針《はり》は、すでに八時一分。最寄《もよ》り駅の電車の到着《とうちゃく》は六分。右手に鞄《かばん》、左手に燃《も》えないゴミの袋《ふくろ》をつかんで、かなめは部屋を飛び出した。
マンションのゴミ置き場に向かおうとすると、住民の一人とすれ違った。ブレザー姿《すがた》の男子中学生だ。
「おはようございまーす」
軽く挨拶《あいさつ》したが、少年は会釈《えしゃく》さえしてくれなかった。ひどい態度《たいど》だったが、珍《めずら》しいわけでもない。東京のマンション暮《ぐ》らしなんて、こんなものだ。ゴミ置き場には、すでに他の住民が出した袋が山積《やまづ》みになっていた。その山に自分の分を放《ほう》り込んで、さっさと駅へ走ろうとすると――
「あー、ちょっと! お待ちなさい!」
立ち止まって振り返ると、清掃員《せいそういん》のおばさんが、柱《はしら》の向こうから姿を見せた。
背丈《せたけ》はかなめよりずいぶん低い。緑《みどり》のジャージ。ゴムのエプロン、手袋《てぶくろ》、長靴《ながぐつ》姿。知らない顔ではなかった。平日の午前はいつもゴミの片づけや、マンションの共用部の清掃をしている人だ。
「はい?」
「困るんですよ! 燃えないゴミと生ゴミをいっしょ一緒に出されちゃ!」
そう言っておばさんは山をなすゴミ袋の一つを指さした。都推奨《とすいしょう》の半透明《はんとうめい》の袋の中に、ぐっしょりと湿《しめ》った生ゴミの袋が見える。かなめの出したゴミ袋ではなかった。
「あ、それ、あたしのゴミじゃないです」
「嘘《うそ》おっしゃい! あたしゃね、いま見てたんですからね!」
「そんな。勘違《かんちが》いですよ。あたしのゴミはそっちの――」
「言い訳《わけ》はおやめなさい! ほらほら!」
おばさんはそのゴミ袋をむんずと掴《つか》むと、有無《うむ》を言わさずかなめに押しつけてきた。
「いや、あの、ちょっと? 待ってください。あたし、いま急いでて――」
「あー、だめだめ、だめよ! きちんと分別《ぶんべつ》して、生ゴミは持ち帰ってちょうだい!」
かなめの鼻先に、黒ずんだトングがずいっと突《つ》きつけられた。単に『くさい』の一言では片づけられないような、年季《ねんき》の入った匂《にお》いが鼻をつく。あくまでおばさんは険《けわ》しい顔だ。どこかの発展途上国《はってんとじょうこく》の武装《ぶそう》民兵から、ライフルの銃口《じゅうこう》を向けられてるような心地《ここち》だった。
「で、ですからね……? あの……」
時計を見た。秒針が動く。あと三分で電車が来る。抗弁《こうべん》している時間はない。もちろん、自室に戻《もど》る時間もだ。
「くっ……!」
もはや是非《ぜひ》もない。かなめは歯を食いしばり、押しつけられたゴミ袋《ぷくろ》を抱《かか》えたまま、駅への道を走り出すしかなかった。
「あー、ムカつく! あンのクソババア!」
ぎりぎりで間にあった一時間目の授業の後、かなめは怒鳴《どな》り声をあげた。
「……人の話を聞こうともしないで……おかげでひどい大恥《おおはじ》を……ブツブツ……自分が絶対《ぜったい》に正しいと思ってて……ブツブツ……」
恨《うら》みがましくつぶやきながら、教室の後ろで持参品《じさんひん》のゴミ袋を開けて、中身をきびきび分別《ぶんべつ》する。たっぷり五〇分ばかり、その臭いに悩《なや》まされてきたクラスの面々《めんめん》は渋《しぶ》い顔だ。そんなかなめの様子を横から見て、クラスメートの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が言った。
「そのゴミ持って、満員電車に乗ったの?」
「だって、仕方《しかた》ないじゃない! もし途中《とちゅう》で捨《す》てたりしたら、あたしはこのゴミを捨てた奴《やつ》と同じ人種《じんしゅ》になるわ。ひいてはあのババアの言い分を半分|認《みと》めたことになっちゃうでしょ!? そんな屈辱はごめんよ!」
「変なところでプライドが高いね……」
「マンションの清掃員の話か?」
鼻をつまむ恭子のとなりで、平然《へいぜん》とした様子《ようす》の相良宗介《さがらそうすけ》が言った。
「そーよ。あのクソババア。人の話を聞こうともしない、根性が曲《ま》がった最悪の奴《やつ》!」
かなめが悪《あ》し様《ざま》に言うと、宗介は腕《うで》を組んで渋い顔をした。
「あの清掃員は真面目《まじめ》で勤勉《きんべん》な人物だ。おそらく、君になんらかの咎《とが》があったのだろう」
「冗談《じょうだん》じゃないわ! あたしはちゃんと分別《ぶんべつ》してるわよ! それをあのオバハンが……って、なんであんたが知ってるのよ」
「毎朝、近所をジョギングしていてな。たまに挨拶《あいさつ》することがある」
「はあ。そーだったの」
「そうだったのだ」
「どっちにしたって、あのオバハンは最悪よ。罪《つみ》もない清らかなあたしを、容赦《ようしゃ》なく犯人扱《はんにんあつか》いしたんだから。絶《ぜ》っ対《たい》、許せないわ!」
かなめは乱暴《らんぼう》な手つきで二つのポリ袋にそれそれの属性《ぞくせい》のゴミをぶちこんでいった。
その数日後。夕刻《ゆうこく》。
かなめはススだらけの制服姿《せいふくすがた》で帰宅《きたく》した。例によって宗介が、ドカンと一発、迷惑《めいわく》な騒《さわ》ぎを起こしたせいだったりするのだが――まあ今回、それはあまり重要《じゅうよう》な話ではない。
シャワーを浴《あ》びてから私服に着替《きが》え、冷蔵庫《れいぞうこ》の中の食材でどんな夕食が作れるか考えていると、部屋のインタフォンが鳴《な》った。
「はい」
『失礼、警察《けいさつ》のものです。泉川署《せんがわしょ》・凶悪犯罪《きょうあくはんざい》課の特命武装刑事《とくめいぶそうけいじ》、若菜《わかな》と申します。……二、三、お聞きしたいことが』
「きょ、凶悪犯罪課? 特命武装刑事?」
聞き覚えのある若い女の声だった。というか、そもそも、そんな部署や役職は、日本の警察には存在《そんざい》しない。
『いや失敬《しっけい》。市民の皆様《みなさま》に分かりやすく、自分の職分《しょくぶん》をご説明したまでです。ともかく、お話をうかがってよろしいでしょうかり』
「あのー……」
『もし拒否《きょひ》されるのでしたら、正式な令状《れいじょう》と、SWATと一緒《いっしょ》にお邪魔《じゃま》しますが』
「はいはいはい! わかったから、待っててください!」
かなめは玄関《げんかん》に向かい、ドアを開けた。案《あん》の定《じょう》、共通廊下《きょうつうろうか》には知った顔――泉川署の婦人警官、若菜|陽子《ようこ》が立っていた。以前から、いろいろと縁がある相手だ。ある意味、宗介並みに迷惑《めいわく》で非常識《ひじょうしき》な、不良《ふりょう》警官である。
黙《だま》っていれば美人。ジーンズにスタジャンの私服姿。警察|手帳《てちょう》のバッジを、映画のFBI|捜査官《そうさかん》みたいな感じで掲《かか》げている。
かなめの顔を見ると、若菜陽子は怪訝顔《けげんがお》で眉《まゆ》をひそめた。
「あら、おひさしぶり。っていうか、なんであなたがここにいるわけ?」
「…………。ここがあたしの家で、あたしはここに住んでるからです」
「そうだったの。偶然《ぐうぜん》ね」
たいした関心もない様子で言うと、陽子は厳《きび》しい目つきで、玄関《げんかん》をきびきびと見回す。
「あのー。それで、なんの用です?」
「聞き込みよ。けさ、このマンションに空《あ》き巣《す》が入ったの」
「空き巣? でも若菜さん、交通課《こうつうか》じゃ……」
「地域課《ちいきか》にパシリの巡査《じゅんさ》がいるのよ。そいつが任《まか》された仕事を横取りしたの」
「それはまた、強引《ごういん》な……」
そういうデタラメなやり方で、刑事ドラマのノリに浸《ひた》って市民に接《せっ》するこの婦警《ふけい》を、野放《のばな》しにしている泉川署というところは、かなりマズいのではないか? ……などと、かなめは善良な地域住民として心配になった。
「いいのよ。わたしみたいな美女の方が、聞き込みはスムーズに進むんだから。ちなみにとある脚本家《きゃくほんか》は、マジの殺人事件に巻き込まれて、本庁のおっかない刑事から犯人《はんにん》だと疑《うたが》われた上に、指紋《しもん》まで取られたそうよ。それに比《くら》べりゃ、可愛《かわい》いもんでしょうが」
「わけのわからんことを……」
「とにかく、空き巣なのよ。一〇三号室の山田さん夫妻が、朝のテニスに出かけてる間に入られたの。七時から九時半までの二時間半。その間に、タンス預金《よきん》の五万円と、一五万円|相当《そうとう》の宝石|類《るい》が盗《ぬす》まれたわ」
「一階の人ですか」
「そうよ。庭から侵入《しんにゅう》して、ガラス戸を割《わ》って。不審人物《ふしんじんぶつ》を見なかった?」
「さあ……。あたしはフツーにゴミ捨てて、学校行っただけですから」
「その間、だれかに会わなかった? 唐草模様《からくさもよう》の風呂敷《ふろしき》背負《せお》ったほっかむりの男とか、タキシードに仮面姿《かめんすがた》の怪盗風《かいとうふう》の男とか」
「そこまで分かりやすい不審人物《ふしんじんぶつ》がいたら、むしろ見てみたいくらいですが……」
「だれも見なかったわけね?」
「別に、怪《あや》しい人は見てないです。たまに顔を見るサラリーマン風のおじさんと、エレベーターで一緒《いっしょ》になったくらいで」
「その中年男、何号室の住人?」
「さあ。たぶん五階から上だと思うけど」
「名前は?」
「知りません」
「ブラウンのネクタイを着けてたのね?」
「そんなこと、一度も言ってませんが……」
警官というのは、いろいろ疑《うたが》ってる相手に向かって、よくわざと間違《まちが》った質問《しつもん》をする。後ろ暗いところのある人間は、とっさに『は、はい。そうです』などと相槌《あいづち》を打ってしまいがちだ。そういう効果《こうか》を狙《ねら》った、初歩的《しょほてき》な誘導尋問《ゆうどうじんもん》なのである。
「っつーか、なんであたしを疑《うたが》うんですか」
「気を悪くしないでね。これも捜査《そうさ》の手続きなのよ。……で? その男は三〇二号室の住人なのね?」
「だんだんムカついてきたんですけど……」
「冗談《じょうだん》よ、冗談」
陽子はアメリカ〜ンな仕草《しぐさ》で肩をすくめた。
「いずれにせよ、犯行は内部の者の仕業《しわざ》っぽいのよね」
「そりゃまた、なんで?」
「一階住人の庭の周囲には、防犯装置《ぼうはんそうち》が付けてあるのよ。防犯装置を避《さ》けて庭側に侵入《しんにゅう》しようと思ったら、マンションの中から非常階段《ひじょうかいだん》の脇《わき》を回り込んでいくしかないわ」
治安《ちあん》のいい東京|郊外《こうがい》の住宅街《じゅうたくがい》ではあったが、最近はいろいろと物騒《ぶっそう》だ。かなめのマンションも少し前に工事を行って、防犯装置を取り付けていた。おかげで不審人物が侵入《しんにゅう》するのは、前に比《くら》べてずっと難《むずか》しくなっている。
「……つまり、犯人はまずマンションの共用部分に怪《あや》しまれずに入っていなければならないわけなのよ」
「なるほど」
「わかった? ところで……最近、お金に困ったりしてない? 学校の友達から借金《しゃっきん》してたり、ブランド品にハマってたりとか」
「ええ。キョーコから五〇〇円借りてますけど……。って、いい加減《かげん》にしてください!」
陽子は心底|残念《ざんねん》そうな顔をした。
「ふむ。どうやらあなたは無関係《むかんけい》みたいね」
「当たり前です! っていうか、このマンションの住人が、そんなケチなドロボーなんかするとはとても思えないんですけど」
実のところ、このマンションは比較的《ひかくてき》グレードの高い部類《ぶるい》に入る。築《ちく》一二年だが、駅から近いし、設備《せつび》も充実《じゅうじつ》。駐車場《ちゅうしゃじょう》の車も、それなりに高級なモデルが多い。要《よう》するに、そこそこ裕福《ゆうふく》な家庭が多いのだ。意外なことに、陽子はあっさりとかなめの指摘《してき》を認《みと》めた。
「それが問題なのよね。……だもんだから、空き巣の現場に残された、これが真っ先に疑《うたが》われたわけで」
「?」
陽子が写真を差し出す。写っていたのは、タンスの横に転がる薄汚《うすよご》れたトングだった。
「これは……」
「証拠物件《しょうこぶっけん》のひとつってところね。このマンションの清掃員が使ってる道具」
「あのオバさんが? いくらなんでも、そんな分かりやすい物証《ぶっしょう》は――」
「あたしもどうかと思ってるわよ」
しかし、ほかに手がかりもない。凶悪事件というわけでもないので、本格的《ほんかくてき》な現場検証も行われずじまいだ。そんなこんなで、けさ、かなめが学校に出かけている間の午前中に、掃除《そうじ》のおばさんはいろいろ事情《じじょう》を聞かれて、署《しょ》の方に連れて行かれたとのことだった。
「管理《かんり》会社や保険《ほけん》会社の方にも連絡《れんらく》が行ったみたいでね。まあ……書類《しょるい》やらなにやら。背広着た連中が二、三人、署《しょ》に来てたわ」
「いまも警察署なんですか?」
「どうかしら。そっちには噛《か》んでないから。あたしは勝手に調べてるのよ。手柄《てがら》が欲《ほ》しくてね……くっくっく」
陽子は不敵《ふてき》に笑うと、去っていった。
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空き巣の件は心配だが、二度も同じマンションを狙《ねら》う犯人はいないだろう。ただ――掃除《そうじ》のおばさんのことは気になった。ムカつく相手ではあったが、それでも、盗みなんて真似をするとはなぜか思えなかったのだ。
(ただの間違《まちが》いならいいんだけど……)
まあ、自分には直接《ちょくせつ》関係ない話だ。
かなめはその後、冷蔵庫《れいぞうこ》の残り物をまとめてぶち込んで、唐辛子《とうがらし》とニンニクで強引《ごういん》に味付けしたスパゲティを作った。
すこし多めに作りすぎてしまったので、宗介に電話をしてみる。応答《おうとう》した彼は、『すまん。いま会食中だ』と言ってきた。どこかの古い戦友と、横田《よこた》の近所で会っているらしい。かなめは『ならいいの。じゃね』と言って、電話を切った。
テレビを見ながら、一人で食事。
若菜さんを誘《さそ》えば良かったかな、と思う。
でっちあげの料理にしては、まあまあの味付けだ。ただ、自分のこのセンスを自慢《じまん》する相手は、いま、だれもいない。
仕方《しかた》がないので、つぶやいてみた。
「ん。おいしい」
もちろん、同意《どうい》する者はだれもいなかった。
翌朝《よくあさ》。その日は燃《も》えるゴミの回収日《かいしゅうび》だったが、掃除のおばさんは見かけなかった。ゴミ置《お》き場《ば》に乱雑《らんざつ》に積《つ》まれたゴミ袋に、五、六羽のカラスが群《むら》がって、好き放題にその中身を路上《ろじょう》にぶちまけていた。
エレベーターのホール前で、主婦が三人、立ち話をしている。話題は空き巣のことだった。
(聞きました? あの清掃員ですってよ)
(まだ決まったわけじゃないんでしょう?)
(でも本当だったら、あきれちゃうわねえ)
そんな言葉が聞こえてきた。
(なんでも、前に働いてたところでも、問題を起こして辞《や》めてるらしいんですって)
(それ、本当かしら?)
(ええ、あたし聞きましたのよ。まったく、住人はいい面《つら》の皮《かわ》よねえ)
話題の中心になって、好き勝手なことを言っている一人は、四〇|過《す》ぎの小太りの主婦《しゅふ》だった。名前も顔も知っている。マンションの住人で作る管理組合の理事《りじ》を、何度かやっている奥さんだ。悪書追放運動《あくしょついほううんどう》みたいな活動《かつどう》にも参加《さんか》しているそうで、以前、かなめのところにも署名を求めに来たことがあった。
(また……根も葉もない憶測《おくそく》を……)
そう思っただけで、かなめは主婦たちの横を通り過《す》ぎ、学校への道を急いだ。
その日は放課後に、宗介と椿《つばき》一成《いっせい》がドタバタやった挙《あ》げ句《く》、窓ガラス三枚と教室の戸板《といた》一枚を破壊《はかい》したほかは、まあ、つつがない一日だった。
夕方の帰り道、宗介にさんざん説教《せっきょう》をしてから『ごはん食べてく?』と誘《さそ》うと、彼は尻尾《しっぽ》を振《ふ》ってついてきた。商店街の魚屋で買い物をしてから、二人でマンションに帰ってくると、ゴミ置き場の前で、路上《ろじょう》にホースで水まきをしている人物がいた。
あの掃除のおばさんである。釈放《しゃくほう》されたのだろうか? いや、若菜陽子の話では、そもそも逮捕《たいほ》とは違う様子《ようす》だったが――
「あ、こんにちは……」
先日、イヤな思いをした相手ではあったが、さすがにつっけんどんな態度《たいど》を取るのははばかられた。宗介も無言《むごん》で会釈《えしゃく》する。
掃除のおばさんはむっつりと振り返った。つん、とすましている。
警察に連《つ》れて行かれたというので、落ち込んでいるのではないかと思ったが、そういうわけでもない様子だ。ただ、顔ににじむ疲労《ひろう》の色は隠《かく》せない。
「……今夜の夕食?」
言われて、かなめは手にさげたビニールの買い物袋のことだと気付く。
「ええ。サンマ、安かったから」
「あら感心。自炊《じすい》してるのね」
「でも最近、大根が高くて。困ってます」
軽く笑うと、相手は鼻をふんと鳴らして、水まきに戻った。
「でも珍《めずら》しいですね。この時間にいるの」
このおばさんと顔を合わせるのは、いつも朝だけだった。夕方に会ったのは初めてだ。
「けさ、お仕事を休んでしまったものだからね。汚《よご》れてないが気になって」
「そうでしたか」
「案《あん》の定《じょう》、ひどい有様《ありさま》だわ。ネットはきちんとかけておいて欲しいと、いつも言ってるのに。まったく……」
ぶつぶつとこぼしながら、おばさんは路上のゴミくずを排水溝《はいすいこう》へと押し流す。
「あ……すみません。けさ、カラスがつついてるの、見かけたんですけど……」
「いいのよ。学校があったんでしょ?」
「え……はい」
「こないだのこと、後で気付いたわ。あなた、遅刻《ちこく》しそうで急いでたのよね?」
そっけない調子で、おばさんはそう言った。
「ええ。まあ」
「そう。今度から、ゴミはちゃんと分別して出しなさいよ?」
「いやね? ですから、あのゴミはあたしのじゃなくて――」
「はいはい。いいから、気を付けなさい」
「う………」
頑固《がんこ》さは相変《あいか》わらずだ。とりつく島もない。ただ、過《す》ぎたことをネチネチと蒸《む》し返すような態度《たいど》には見えなかった。さばさばとした口振りだ。あのゴミの件はこれきり。そういう宣言《せんげん》なのだろう。
まあ、いいか。
かなめはそう思って『それじゃ』と告げ、宗介と玄関《げんかん》ホールへ向かった。
「思ったより友好的《ゆうこうてき》ではないか。先日、学校では口汚《くちきたな》く罵《ののし》っていた様子だが……」
ずっと黙っていた宗介が言った。
「どーでもいいでしょ。朝だったり何だったりで、気が立ってたのよ」
「そうか」
玄関ホールに入ると、スーツ姿の若い男が、住人向けの掲示板《けいじばん》に貼《は》り紙《がみ》をしていた。たぶん、管理会社の人だろう。横から覗《のぞ》き込むと、例の空き巣事件のことと、戸締《とじ》まりに注意するよう呼びかける文章が書いてある。
「あのー。犯人、捕《つか》まったんですか?」
なんとなしにかなめが尋ねると、管理会社の男は首を振った。
「いえ。まあ……まだというか、これからというか。微妙《びみょう》でして」
そう言って、男はゴミ置き場の方角をちらりと見た。
「一度、被疑者《ひぎしゃ》は警察の方に連れて行かれたのですが……。一晩《ひとばん》、事情聴取《じじょうちょうしゅ》を受けても、頑《がん》として否認《ひにん》し通したそうでして。まあ……決め手に欠けるというか。とりあえずは、帰宅させたそうです」
「被疑者って……あの掃除のおばさんのことですか?」
「いや……まあ……。はい、そうです。いまも、向こうで仕事をしてますけどね。こちらは『しばらく休んでくれ』と言ったのですが、頑固《がんこ》な方でして。ですがこうして私が監視《かんし》してますので。どうかご安心ください」
監視という言葉が、かちんと来た。
「でも、変ですよ。そんなバカな遺留品《いりゅうひん》だけで犯人|扱《あつか》いだなんて。もう長いこと働いてる人でしょ? 庇《かば》ったりしないんですか?」
男は『そんなこと、ヒラの俺に言われてもなあ』という顔をした。
「まあ……ご意見はありがたく承《うけたまわ》っておきます。ただ、いろいろと不安に感じてらっしゃる住人の方々から、クレームも出ているんですよ。ですから――警察の捜査《そうさ》がどうなるにしても、あの清掃員には、今週いっぱいで辞《や》めてもらうことになると思います」
かなめはぽかんとした。
「クビにするんですか?」
「そういうことです」
「疑《うたが》われただけで?」
「遺憾《いかん》なことではありますが」
たちまち彼女は烈火《れっか》のごとく怒りだした。
「なにそれ!? バカみたい! ちょっと考えてみてくださいよ!? 自分が疑われるような商売道具を持って、わざわざドロボーに入る人がいるわけないじゃないですか! しかもそれを律儀《りちぎ》に置き去りにするなんて。絶対《ぜったい》ヘンよ!」
「ですがね? ひょっとしたら魔が差した、ということもあるかもしれません」
「そんなわけがないでしょ!? だれもそんなの、信じてないわよ!」
「やめろ、千鳥」
興奮《こうふん》したかなめの肩を、宗介がつかむ。それでも彼女は構《かま》わずにまくし立てた。
「あんたたち、本気で犯人が見つかると思ってないんでしょ!? だからテキトーに悪党《あくとう》をでっちあげて、臭《くさ》いものにはフタをしよう、って魂胆? 汚い。最低だわ!」
「千鳥。落ち着け」
背後でエレベーターのドアが開いた。
「事《こと》なかれ主義《しゅぎ》なんてクソくらえよ! それこそゴミ以下の根性じゃない!! 待ってよ、まだ言いたいことがあるの! 放しなさいったら! あー、もう!」
なおも噛《か》みつこうとするかなめを、宗介が半ば強引に引っ張っていく。取り残された管理会社の男は、その場に立ちつくしてぽかんとしていた。
帰宅《きたく》すると、かなめは憤懣《ふんまん》やるかたないまま、宗介にこれまでの経緯《けいい》を事細《ことこま》かにぶちまけた。
「なるほど、馬鹿《ばか》げた話だ」
「でしょう!? 絶っ対、おかしいってば。確《たし》かに口うるさいおばさんだけど、いくらなんでもかわいそうだよ!」
サンマをテキトーに真っ二つにして、乱暴な手つきでグリルにぶち込む。
「だが、反証《はんしょう》がないのも事実だ。住民の不安も理解《りかい》できないことではない。はっきりシロだと証明できない限り、管理会社の措置《そち》は順当《じゅんとう》なものだと言わざるをえんな」
「なんでそんな冷たいこと言うのよ」
「温度は関係ない。事実関係を評価《ひょうか》しただけだ」
淡々《たんたん》と言いながら、ダイニングの宗介は大根をすり下ろす。
「……だけどね? やっぱり納得《なっとく》いかないじゃない。あんたもあのおばさん、知ってるんでしょ?」
「肯定《こうてい》だ」
「気《き》の毒《どく》だと思わないの?」
「感情や同情でものを言っても、事態《じたい》は改善《かいぜん》しないと思うぞ」
「でも、悔《くや》しい。探偵物《たんていもの》のマンガとかだったら、真犯人《しんはんにん》を見つけてハッピーエンドなのに」
「そう、うまくはいかんだろう」
いちいち、宗介のコメントは正しかった。かなめはまったくの部外者で、しかも都合《つごう》のいい物証やらヒントやらもない。空き巣犯があのおばさんでないとして、じゃあ、だれなのか。そもそも、マンション内のだれかかどうかもわからないわけだし。縁《えん》もゆかりもない外国人|窃盗団《せっとうだん》だとしても、全然おかしくないのだ。
長い沈黙《ちんもく》。グリルのバーナー音と、宗介が大根をすり下ろす音だけが室内を支配《しはい》した。
「……でも、ムカつくのよ」
「あきらめろ。君の力ではどうにもならん。……出来たぞ」
大根おろしの詰《つ》まった調理具《ちょうりぐ》をかかげて、宗介が言った。
「じゃあ、あとはいいから。テレビでも見て待ってて」
「了解《りょうかい》した」
[#挿絵(img3/m03_002.jpg)入る]
空き巣の話題はそれきりだった。
サンマも焼けた。ほかのメニューは大根のみそ汁と炊《た》きたてのご飯、温め直した山芋《やまいも》の煮物《にもの》。それと雪花菜《おから》だった。
宗介はご飯とみそ汁をそれぞれ二杯おかわりした。食後はお茶を飲みながら、テレビの動物番組を一緒《いっしょ》に見た。
番組が終わると、彼は簡潔《かんけつ》に礼を述《の》べ、近所の自室へと帰っていった。
とたんに居間《いま》が、がらん、とする。
あとは朝まで一人の時間だ。
もし――母親が生きていてここにいたら、たぶん宗介の話をしているのだろう。『やっぱり男の子はたくさん食べるわね』とか、『あんまりお姉さん顔して威張《いば》り散《ち》らすと、嫌われちゃうわよ』とか。そうやって、一緒に笑ってくれる人がいないことが、物足《ものた》りないときもある。
いや。これで充分《じゅうぶん》。
独《ひと》り暮らしは気楽なものだ。別にさびしくなんかない。そう思い直して、かなめはソファーにごろりと横たわり、テレビをぼーっと見た。
画面の中で、お笑いタレントが絶妙のボケをかます。
かなめはひとしきりゲラゲラと笑う。
それから、ふと一緒《いっしょ》に笑ってくれる人がいないことに気付いて、小さなため息をついた。
数日後の朝。小雨のちらつくいやな天気。
いつもよりすこし早めに起床《きしょう》したかなめは、重たい古新聞の束《たば》を持ってゴミ置き場に向かった。
そこで、異変《いへん》に気付く。
掃除のおばさんが倒れていた。
正確《せいかく》には、ゴミ置き場から数メートル離《はな》れた柱《はしら》に寄りかかるようにして、しゃがみこみ、ぐったりとしていた。
「あの……? だ、大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
返事はない。あわてて周囲《しゅうい》をきょろきょろと見た。住人の一人と思《おぼ》しき若い主婦が、ちょうどゴミを捨てて、玄関ホールに引き返そうとしていた。こちらには気付いていない様子だ。いや――そんなはずはない。面倒《めんどう》に巻き込まれるのがいやで、気付かないふりをしているのだ。あの早足。絶対にそうだ。
かなめはあっけにとられていたが、すぐに思い直して、おばさんの様子を見た。
「ちょ、ちょっと待っててくださいね? いま、救急車呼んで来ますから!」
電話のある自室に駆《か》け戻ろうとすると、おばさんがそれを止めた。
「お待ちなさい。大丈夫だから」
「いや、でも」
「ただの立ちくらみよ。本当。ちょっと休めば、良くなりますから」
「…………」
「こないだ、いろいろお騒《さわ》がせしたばかりでしょ? だから……救急車とかは困るのよ」
「で、でも」
「いいから、放っておいてくださいな!」
弱り切っているのに、あくまでもおばさんは毅然《きぜん》としていた。まったく、気の強い人だ。
「……わかりました。でも、ここで座ってちゃ良くないですよ。うち、来てください」
おばさんは首を横に振った。
「余計《よけい》なお世話《せわ》です。あたしゃね、泥棒呼《どろぼうよ》ばわりされた上に、他人様《ひとさま》から情けを受けるほど落ちぶれちゃいませんよ。構わないでくださいな……!」
やっぱり、警察の件が相当《そうとう》こたえているのだ。無理《むり》もない話だった。それでもこうして、かなめの言うことを拒絶《きょぜつ》する。同情されるのが大嫌《だいきら》いなのだろう。まったく、あきれるくらいのプライドの高さだった。そう――この掃除のおばさんは、噂《うわさ》好きの主婦《しゅふ》たちなんかよりも、ずっと誇《ほこ》り高い人間なのだ。
とはいえ、やっぱり、ここに放置《ほうち》していくわけにもいかない。かなめは若さの腕力《わんりょく》にものを言わせて、強権《きょうけん》を発動した。
「いいから! こんな寒いところはだめですって!」
「あ、お待ちなさいな。ちょっと……」
「立てますか!? ほら、肩につかまって」
べたべたするゴム手袋《てぶくろ》の手首をつかんで、強引に肩を貸《か》す。相手の体重《たいじゅう》は、予想《よそう》よりもずっと軽かった。
それでも相手を自室《じしつ》のリビングまで引きずってくるのは、なかなか骨が折れた。『放しなさい』だの『構《かま》わないで』だの『仕事をしないと』だのと抵抗《ていこう》し、起き上がろうとするおばさんを、無理矢理《むりやり》ソファーに寝かしつける。宗介から没収《ぼっしゅう》した手錠《てじょう》を、本気で使おうかと思ったくらいだ。
ほったらかしの、ゴミ置き場のことも気になった。かなめは『とにかくそこで寝ててください、いいですね!?』と言い捨《す》ててから、傘《かさ》を持って部屋を出た。
案《あん》の定《じょう》、ゴミ置き場はすこしの間に古新聞や古雑誌、ガラス瓶《びん》などであふれんばかりになっていた。はみ出たゴミを片づけようとして、思い至《いた》る。
資源《しげん》ゴミの回収車は、八メートルばかり離《はな》れた都道沿《とどうぞ》いの場所までしか来ない。回収業者《かいしゅうぎょうしゃ》が来る前に、ゴミの山をそちらまで移動《いどう》させておかなければならないのだ。
たった一人で。この大量《たいりょう》のゴミを。
「ああっ、くそ……」
最初は傘を片手に、古新聞の束《たば》をひとつずつ持って運んだ。だがそれでは、何時間かかるか分かったものではない。諦めて傘を放り出し、両手でゴミを目一杯《めいっぱい》持ち、都道《とどう》とゴミ置き場とをいつまでも往復《おうふく》した。
高校の制服姿の少女が、雨に打たれて働いている様を見れば、少しは妙《みょう》に思うことだろう。だが、住人たちは彼女のことなど見えてもいない様子で、平然《へいぜん》とゴミを追加《ついか》していく。
息が上がる。汗《あせ》が流れる。腕《うで》が、指が、ひどくしびれる。ろくに縛《しば》ってなかった古雑誌の束が、ばらばらになって路面《ろめん》に落ちた。どこのどいつだろう? 悪態《あくたい》をついて、拾《ひろ》い集める。小雨で濡《ぬ》れた古新聞は、ずっしりと重たかった。まるで人生の重さだった。
なんということだろうか。
あのおばさんは、これを毎週《まいしゅう》のようにやってきたのだ。あの小さな体で。
住人の一人が、生ゴミの入ったゴミ袋を置いて立ち去ろうとした。きょうは資源《しげん》ゴミの日なのに……!
「ちょっと、待ちなさいよ!」
考えるより先に、罵声《ばせい》が出た。目を白黒させて立ち止まった若い主婦に、かなめはずけずけと歩み寄る。
「困るんですよ!? きょうは資源ゴミの日でしょ? 生ゴミは別の日です!」
「え? あ、あたしは……」
「ごまかそうったって、そうは行きませんよ!? すぐに持ち帰ってください! さあ!」
すごい剣幕《けんまく》でにらみつけ、生ゴミ入りの袋《ふくろ》を押しつける。その主婦《しゅふ》はゴミ袋を受け取り、逃《に》げ去っていった。
「……まったく!」
かなめは『ふんっ』と鼻を鳴《な》らした。
どうやら、とても登校時間には間に合いそうになかった。仕方《しかた》がない。きょうの一時間目の出席数は、まだ余裕《よゆう》があるし――
「千鳥《ちどり》。なにをしている」
その声に振《ふ》り返ると、宗介がいた。傘《かさ》を差《さ》し、小脇《こわき》に大きめのバッグを抱《かか》えている。
「どうもこうも……見ての通りよ。いろいろあってね。まったく……」
吐《は》き捨《す》てるように彼女が言う。
「大変そうだな」
「ええ。大変なのよ。良かったら、すこし手伝ってくれる?」
あまりにもくたくただったので、そう頼《たの》んでみる。だが宗介は腕時計《うでどけい》を見てから、すこし躊躇《ちゅうちょ》してこう言った。
「すまん。用事がある。行かねばならない」
「はあ? 登校前にどんな用事が――」
「健闘《けんとう》を祈《いの》る」
そう言って、宗介は無情にもその場を立ち去ってしまった。
「は……薄情者《はくじょうもの》!」
なんて冷たい奴《やつ》なんだろう。あんたも、あの住人たちと同じ人種なの!? 最低! 見損《みそこ》なったわ! 冷血漢《れいけつかん》! 人でなし!
内心で呪《のろ》いの言葉をひとしきりつぶやいてから、かなめは深いため息をついた。
いや、あいつのことは、いまはいい。とにかく、このゴミをどうにかしなければ。
けっきょく、ゴミを運び終わったのは午前九時|過《す》ぎだった。回収業者《かいしゅうぎょうしゃ》が来ている間も、かなめは最後の資源《しげん》ゴミを運び続ける。汗《あせ》と雨とで、全身ずぶ濡《ぬ》れになったかなめは、重たい足取りで自室《じしつ》に戻った。
リビングに入ると、おばさんはソファーの上で寝息を立てていた。汚《よご》れた制服を脱《ぬ》いでシャワーを浴《あ》び、学校のジャージに着替《きが》える。人心地《ひとごこち》ついてから、朝のワイドショーを見ていると、ようやくおばさんが目を覚《さ》ました。
「ああ、いけない……回収業者の方が……」
ソファーの上で、よろよろと身を起こすおばさんを、かなめはあわてて押しとどめた。
「あ、だめ。それなら、もう済《す》みましたから。もう少し休んでってください。ね?」
おばさんは部屋の時計を見た。それからため息をついてうつむき、こうつぶやいた。
「ああ……。運んでくれたの? 大変だったでしょう」
初めて聞くような、弱々しい声だった。
「いえいえ。平気ですよ。きょうは――まあ、量も少なかったみたいだし」
「本当?」
「ええ。ちょちょいのちょい、っと」
こういうときのかなめは、平気で嘘《うそ》がつける。やせ我慢《がまん》は得意《とくい》なのだ。
「ごめんなさいねぇ……。ここのところ、疲れ気味《ぎみ》だったようで」
「いえいえ、無理《むり》もないですよ。あんなことがあったんだから――あ。ごめんなさい」
「いいんですよ。住人のみなさんがどう思ってるのかは、知ってるつもりですから」
ぶっきらぼうではあったが、特に責《せ》めるような調子ではなかった。
「警察の方は、大丈夫だったんですか?」
「ええ。いろいろ聞かれましたけどね。身に覚えのないことですから。きっちりと説明して、帰していただきましたよ」
「そうでしたか……」
口で言うほど、楽観《らっかん》できる状況《じょうきょう》ではないのだろう。管理会社は疑惑《ぎわく》だけを理由に、この人をクビにしようとしているのだ。だがそれでも、かなめは努《つと》めて明るい声で言った。
「う……うん! やっぱり、変だと思ったんですよ! どこの悪党か知らないけど、馬鹿《ばか》ですよねぇ。きっと天罰《てんばつ》が下りますよ。それに、人の噂《うわさ》も四九日《しじゅうくにち》って言いますし!」
「それを言うなら七五日です」
真面目《まじめ》で厳格《げんかく》な教師のような口調《くちょう》で、おばさんは言った。
「あ、あははは。そうでしたね」
「ちゃんと勉強してるの? まったく」
「いやあ。恐縮《きょうしゅく》です」
かなめが後頭部《こうとうぶ》を掻《か》くと、おばさんは初めて肩《かた》の力を抜《ぬ》いて、ふっと笑った。
「ありがとうね。やっぱりかなめさんは優《やさ》しい子だわ」
「へ……?」
かなめは驚《おどろ》いた。相手が自分の名前を知っているとは思っていなかったからだ。表札にも『千鳥』としか出ていないのに。
「覚えてないとは思いますけどね。あたしゃ、あなたを小学生のころから知ってるんですよ。このマンションで、かれこれ一〇年ばかり働いているから」
「え?」
「よくお母さんに呼ばれてたでしょ?『かなめ、ランドセル忘れたわよ』って」
「あ……」
かなめは四歳から九歳までここで育って、そのあと家族と一緒にニューヨークに引っ越した。そして三年前、一三歳のときに帰ってきたのだ。渡米《とべい》の前にも、おばさんがここで働いていたとは。全然《ぜんぜん》覚えていなかった。
「学校行くのに、ランドセル忘れる子なんて珍《めずら》しいし。毎朝、元気に飛び出していって。あたしにも挨拶《あいさつ》してくれたけど、いつも駆《か》け足で、まともに顔も見てなかったでしょ」
「あ、あはは……。そうだったかも。すみません」
「その後あなたは引《ひ》っ越《こ》したけど、三年くらい前に帰ってきたわね。びっくりするほど綺麗《きれい》なお嬢《じょう》さんになって。でも、すぐに分かりましたよ。ああ、これはあのランドセルの子だ、って」
「そんな……き、綺麗なお嬢さんだなんて。やめてくださいよー」
顔から火が出そうだった。
「いいえ。あたしが言うんだから、間違《まちが》いありません。これでも人を見る目はあるつもりです。ずっと昔は銀座《ぎんざ》の女でしたからね」
「え……? ホント?」
おばさんは、胸を反《そ》らした。
「もちろんです。いまはこういう地味《じみ》な仕事をしてますけどね。あたしは、自分を卑下《ひげ》したりなどしてませんよ。食べるために、誇《ほこ》りを持ってやっています。ここの奥様方には、絶対《ぜったい》にできないことです。わかるかしら?」
「ええ。すごく」
疲れ切った腕《うで》の筋肉《きんにく》を揉《も》みながら、かなめは心からうなずいた。
「よろしい。そういうことが学べるから、あなたは綺麗なの。そういうものなの。覚えておきなさい。あなたのお母さんも素敵な方だったけど……あら、ごめんなさい」
おばさんは少し声を潜《ひそ》めた。かなめの母親が病死したことも、知っているのだろう。
「いえ。もう、平気ですから」
かなめは努めてにっこりと笑った。その笑顔を見て、おばさんもまた笑った。
「けっこう。いまのあなたは、前よりずっと元気になったみたいね。中学のときは、暗く沈《しず》んでいることが多かったけど」
「……ええ」
「いまは、いいお友達にも恵《めぐ》まれて」
「うん。その……まあ、おおむね。とっても。どっちなんだろ? ……ふふ」
こんな近くに、小さい頃からの自分を見てきた人がいることが――嬉《うれ》しくもあり、気恥《きは》ずかしくもあった。同い年の恭子に身の上話をするのとは、まったく違う感覚《かんかく》だった。こんな風に、自分のことを人に話したのはすごく久しぶりの気がした。
それからかなめは、たくさんの話をした。恭子たちクラスメートのこと。林水《はやしみず》たち生徒会のこと。嫌《きら》いな先生の悪口。友達と出かけたケーキ屋のこと。最近見た映画のこと。気になる男子がいるのだが、ついさっき、冷たい態度《たいど》を取られてムカついたこと――
なぜなのか、自分でも分からなかった。
まるでダムが決壊したように、かなめは喋《しゃべ》り続けた。いつまでも、いつまでも喋り続けた。だめだって。この人はお母さんじゃない。そう思っても、これまで何年も行き場をなくしていた、無数《むすう》の言葉があふれ続けた。やがて、ほんの少しだったが、涙までもがあふれてきた。
「かなめさん?」
おばさんの声で、我《われ》に返る。
「へ? あ……ええ。いや、なんでも。ちょっと……こんな風にたくさん話したの、久しぶりな気がして……。あはは」
そっぽを向いて、かなめは目尻《めじり》をぬぐった。
「そのご様子ね」
おばさんはしっとりとほほえんだ。初めて見るような、やさしい微笑《びしょう》だった。
「でも、一つだけ。残念《ざんねん》ながら、あたしは身に覚えのないことで、この仕事場を追われそうだけど……。さっき悪口を言ってたお友達――そのボーイフレンドは、大切になさい」
「え?」
「あの男の子は、そんなに薄情《はくじょう》な人ではありませんよ。さっきも言ったでしょう? あたしゃね、人を見る目には自信があるんです」
[#挿絵(img3/m03_003.jpg)入る]
●
簡単《かんたん》な用事《ようじ》ではあったが、警察署に潜《もぐ》り込むのは神経《しんけい》が疲れる。たとえ、多くの署員《しょいん》が出勤《しゅっきん》する前の朝でもだ。
用意してきた制服を着て、宗介は二階のオフィスに向かった。途中《とちゅう》で眠そうな目をした巡査《じゅんさ》とすれ違ったが、幸い、気付かれなかったようだ。
(ここか……)
閑散《かんさん》とした交通課のオフィスに踏《ふ》み込み、壁《かべ》の座席表《ざせきひょう》をちらりと見る。あった。『若菜』だ。目当ての机はすぐに見つかった。銃器雑誌《じゅうきざっし》と刑事ドラマのDVDが山積みになった、乱雑《らんざつ》なデスクだ。
宗介|属《ぞく》する傭兵部隊《ようへいぶたい》における彼の任務《にんむ》は、いちおう、かなめの護衛《ごえい》だ。そのため、彼の部隊は複数《ふくすう》の隠《かく》しカメラを、彼女のマンションとその周辺《しゅうへん》に仕掛《しか》けている。本職のセキュリティ関係者でも、そうおいそれとは発見できないハイテク装備《そうび》だ。
当然、侵入者《しんにゅうしゃ》はすべて記録される。
問題の朝、一〇三号室の庭から、ガラス戸を破って侵入《しんにゅう》する人間の姿も、きっちりと、鮮明《せんめい》に映《うつ》っていた。侵入者は同じマンションの中学生だ。悪書追放運動とやらにご執心《しゅうしん》の主婦――その息子である。なにが買いたかったのかは知らないが、幼稚《ようち》な犯行《はんこう》だった。
とはいえ、この件は自分の任務とは無関係な映像だ。警察に渡すのも、それなりのリスクが伴《ともな》う。正直、けちな空き巣など、見て見ぬふりをしたかった。かなめの前でも、そういう顔をしていたのだが――
宗介は、手にしたCD−Rのケースを、机《つくえ》の上に無造作《むぞうさ》に置いた。
(ルール違反《いはん》までしたのだ。きっちり働けよ)
彼は心中《しんちゅう》でつぶやいた。
さて、長居《ながい》は無用《むよう》だ。宗介はきびすを返し、交通課のオフィスを立ち去った。
[#地付き][おしまい]
底本:「月刊ドラゴンマガジン」富士見書房
2004(平成16)年1月号
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日作成
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。