フルメタル・パニック!
安心できない七つ道具?
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)身勝手《みがって》なブルース
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)英語|教師《きょうし》にして二年四組の担任
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)危険な武器の持ち歩き[#「危険な武器の持ち歩き」に傍点]などです
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[#挿絵(img2/s07_000.jpg)入る]
[#挿絵(img2/s07_000a.jpg)入る]
[#挿絵(img2/s07_000b.jpg)入る]
[#挿絵(img2/s07_000c.jpg)入る]
目 次
穴だらけのコンシール
身勝手《みがって》なブルース
ミイラとりのドランカー
義理人情《ぎりにんじょう》のアンダーカバー
真夜中のレイダース
老兵たちのフーガ
あとがき
[#改丁]
穴だらけのコンシール
[#改ページ]
校長室の応接《おうせつ》スペース。
四角いテーブルを、むずかしい顔の四人が取り囲んでいた。校長と二年四組の担任《たんにん》、生徒会長と副会長……。
「――と、以上のように」
陣代《じんだい》高校の校長、坪井《つぼい》たか子が言った。
「あした我《わ》が校に視察《しさつ》にくる、都議会議員《とぎかいぎいん》の速見《はやみ》伸彦《のぶひこ》先生は……非《ひ》っっ常《じょ》ぉ〜〜〜に真面目《まじめ》な方なのです。特に教育問題については、常日頃《つねひごろ》から深い憂慮《ゆうりょ》を抱《いだ》いてるご様子です」
「――と、いいますと?」
英語|教師《きょうし》にして二年四組の担任、神楽坂《かぐらざか》恵里《えり》がたずねた。
「たとえば青少年の凶悪犯罪《きょうあくはんざい》――つまり暴力《ぼうりょく》事件や薬物の乱用《らんよう》、そして……危険な武器の持ち歩き[#「危険な武器の持ち歩き」に傍点]などです」
『…………』
「我が校は、健全きわまりない普通《ふつう》の学校ですが――ひとつ、表沙汰《おもてざた》にできない深刻《しんこく》な問題を抱《かか》えています。みなさんよくご存《ぞん》じの、ある生徒[#「ある生徒」に傍点]のことです」
「ある、生徒……」
生徒会副会長の千鳥《ちどり》かなめが言った。
「……さよう。危険な海外の紛争地帯《ふんそうちたい》で育った結果《けっか》、日本社会の常識《じょうしき》に、どうしても適応《てきおう》できなくなってしまった気の毒《どく》な生徒。彼自身には何の罪《つみ》もありません。しかし、どう考えても、あした視察に見える速見先生が、彼に好意的《こういてき》な印象《いんしょう》を持つとは思えないのです」
「その、つまり?」
かなめがたずねると、坪井校長は咳《せき》ばらいしてから、こう言った。
「つまりあたくしは……ですね? なんとか、あした一日、彼を欠席にできないものだろうか、と考えております」
「ははあ」
「だって、想像《そうぞう》してごらんなさい。もし……もしもです。彼が速見先生の前で、銃《じゅう》を乱射《らんしゃ》したり、対人地雷《たいじんじらい》を炸裂《さくれつ》させたり、戦闘用《せんとうよう》ナイフを振《ふ》り回したりしたら……?」
いかにもありそうなその光景《こうけい》を想像《そうぞう》し、かなめと恵里は背筋《せすじ》を震《ふる》わせた。
脳裏《のうり》をよぎる銃声と爆音《ばくおん》。飛《と》び散《ち》る血《ち》しぶき。議員先生の断末魔《だんまつま》……。
<<男子高校生、都議会議員にけん銃を発砲《はっぽう》>>
<<担任教師、日頃《ひごろ》の凶行《きょうこう》を見て見ぬふり>>
<<ゲームやアニメの影響《えいきょう》か>>
新聞の社会面に躍《おど》るであろう、頭の悪い記者がなにも取材せず脊髄反射《せきずいはんしゃ》で書いたような、いかにもな見出し文を想像し、かなめたちは背筋を震わせた。
『破滅《はめつ》だわ……』
「そう、破滅です! ですから、明日だけは、彼を学校から遠ざけておきたいのです。もちろん、仮《かり》にも教育者たる私が、ひとりの生徒を差別《さべつ》することは許されない。……しかし、しかしですね!? 人間、生きるためには仕方《しかた》ないことだってあるのです! 腐ったミカンを取り除《のぞ》くとか、そういう話ではありません。ちょっと、異様《いよう》に禍々《まがまが》しい形のミカンを、見えないところに隠《かく》しておくだけです。場合が場合ですから、これはもう例外的《れいがいてき》にアリなのではないかと。そう思いますよね? ね!?」
同意《どうい》を乞《こ》う校長に、かなめと恵里は青ざめた顔で、こくこくとうなずく。
「その通りですわ、校長先生……!」
「無難《ぶなん》に行きましょう、無難に……!」
三人の意見が一致《いっち》したところで、それまで黙《だま》って話を聞いていた生徒会長・林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》が口を開いた。
「私はあまり賛成《さんせい》できませんな」
校長、恵里、かなめの三人が、一斉《いっせい》に彼を『きっ!』とにらむ。
「林水くん。なぜです?」
長身・白皙《はくせき》、怜悧《れいり》な風貌《ふうぼう》の彼は、眼鏡《めがね》のブリッジを人差し指でくいっと持ち上げた。
「……確かに彼は、みなさんとは異《こと》なる論理《ろんり》で行動する男です。しかし同時に、決して悪意の人ではない。人語《じんご》を解《かい》さない猛獣《もうじゅう》でもありません。……事情をよく話せば、自重《じちょう》くらいは出来ると思いますが」
校長がばしっとテーブルを叩《たた》いた。
「甘《あま》い。甘すぎます! いいですか。万一があってからでは、遅《おそ》すぎるのですよ!?」
「校長先生の言うとおりよ、林水くん! 彼を野放《のばな》しにするのは危険《きけん》すぎます!」
「そうですよ、センパイ。それにあいつは人語を解さない猛獣というより、融通《ゆうずう》のかけらもない戦闘《せんとう》ロボットです。血も涙《なみだ》もないターミネーターなんです!」
「勢《いきお》いに任せて言いたい放題《ほうだい》ですな……」
めずらしく、こめかみに汗《あせ》を一筋《ひとすじ》浮《う》かべて、林水はつぶやいた。
「それにですな。その議員《ぎいん》はたしかに頭が硬《かた》くて、融通の利《き》かない人物ですが、我《わ》が校を指名したのはおそらく――」
「理屈《りくつ》はけっこうですっ!!」
校長がびしっと言った。
「とにかく! 生徒会長のあなたがなんと言おうと、今回ばかりは譲《ゆず》れませんからね? 卑劣《ひれつ》な小細工《こざいく》を弄《ろう》してでも、彼の出席を阻止《そし》します。相良《さがら》宗介《そうすけ》くんの出席を!」
およそ教育者にあるまじきことを、彼女は声高らかに宣言《せんげん》した。
その朝、相良宗介が身支度《みじたく》を整え、教科書やノート、各種装備《かくしゅそうび》や予備弾倉《よびだんそう》などの詰《つ》まった鞄《かばん》を掴《つか》んでマンションを出ると、千鳥かなめが正面ホールの前に立っていた。
「おはよ、ソースケ」
いつもと同じ、ほっそりとした制服姿。ロングの黒髪《くろかみ》に、赤のリボン。両手を後ろに回して、なぜか、はにかんだような微笑《びしょう》を浮かべている。
「千鳥。どうした?」
「ん……なんとなく、ね。一緒《いっしょ》に歩きたくなっちゃって……。へへ」
「…………?」
宗介の経験《けいけん》では、これは異常事態《いじょうじたい》であった。朝のかなめはこうではない。どんよりとした目で、口をだらしなく半開きにして、動く死体のように歩き、うつろな声で『うーっす。あー……だりぃ』とつぶやくのが、朝の正しいかなめなのである。
「ね、ソースケ……。きょうさ、学校サボらない? 水族館でも行こうよH[#「H」はハート(白)、1-6-29、Unicode2661]」
「なに?」
「きょうは学校行く気分じゃなくてさ。なんか、ぶらりとあちこちふらつきたいなぁ……って。でも、一人だと寂《さび》しいから……ね?」
上目遣《うわめづか》いに宗介を見る。普通《ふつう》の少年ならどきりとするような、それはそれは魅惑的《みわくてき》な表情だったが――
彼はおもむろにかなめの顔に手を伸《の》ばすと、彼女のほっぺたを左右に『ぎゅいーっ』と引《ひ》っ張《ぱ》った。
「っ!? いぎぎぎ! ひあっ!? い……いきなり、ナニすんのよっ!?」
両手をふりほどき、鞄で宗介をはり倒《たお》す。
「…………。やはり、本物か」
「当たり前でしょ!?」
「敵《てき》の変装《へんそう》かと思った」
「あたしなりに、可愛《かわい》く迫《せま》ってみたつもりなんだけど……そう言われると、なんかすっげームカつくわね……」
宗介は立ち上がって腰《こし》のほこりをはらった。
「それで――学校を休んで水族館とか言っていたな。せっかくだが、答えは否定《ネガティブ》だ。ただでさえ <ミスリル> の仕事で単位《たんい》がまずいのでな。授業《じゅぎょう》をおろそかにするわけにはいかん」
「で、でもさ、一日くらい――」
「その一日が命取りなのだ」
宗介はぴしりと言い放った。
「教育は財産《ざいさん》だ。俺《おれ》が見てきた貧《まず》しい国々では、高等教育を受けたくても受けられない人々がたくさんいた。それに比《くら》べて、日本は恵《めぐ》まれている。せっかくの機会《きかい》を与《あた》えられているのに、ただの気まぐれで学校を休むなどとは……。千鳥、すこし反省しろ」
「こ、こういう日に限《かぎ》って、絵に描《か》いたような正論《せいろん》を……」
「こういう日?」
「いや、こっちのこと」
かなめはそっぽを向いて口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いた。
「…………。とにかく、そういうことだ。放課後なら、どこへでも付き合ってやろう。水族館でも動物園でも、スミソニアン博物館《はくぶつかん》でも。しかし今は学校だ」
ぐいっとかなめの手を引いて、宗介は大股《おおまた》で歩き出した。
「ちょ、ちょっと――」
[#挿絵(img2/s07_013.jpg)入る]
「もたもたするな。遅刻《ちこく》するぞ」
「で、でもね、あたし風邪気味《かぜぎみ》で。それに頭も痛いし、吐《は》き気もするし。きょう一日、だれかに付きっきりで看病《かんびょう》してもらわないとマジで死ぬかなーとか思って――って、ソースケ、聞いてる!?」
「急げ。電車が来る」
彼女を引きずるようにして、宗介は通学路《つうがくろ》を歩いていった。
異様《いよう》に登校に消極的《しょうきょくてき》なかなめを連れたまま、宗介が正面|玄関《げんかん》までやって来ると、担任教師の神楽坂恵里が声をかけてきた。
「相良くん!?」
「はい、先生」
「ごめんなさい! 実は前に言い忘れてたことがあって。来月の生徒会の合宿の件なの」
「なんでしょう」
「実はね? まだ合宿先の宿の、下見《したみ》が済んでなくて。生徒のだれかに足を運んでもらって、旅館の人にご挨拶《あいさつ》しておいてもらおう、って話だったのよ」
「そうでしたか」
「それで……ね? ぜひ、相良くんに行って来て欲《ほ》しいんだけど」
宗介の記憶《きおく》では、その合宿先は、電車で往復《おうふく》すれば半日はかかる距離《きょり》だった。
「…………。これから、ですか?」
「ええ。これから。いますぐ」
「しかし、授業が――」
「大丈夫《だいじょうぶ》! わたしから、全部の先生に話して、出席|扱《あつか》いにしてもらうから。……ね? いい話だと思わない? 授業を休んでのんびりと、遠出《とおで》を楽しめるんだし」
「ですが先生。なにもこんな平日に、慌《あわ》てて出発する必要《ひつよう》は――」
「あります! 大ありです!」
つかみかからんばかりに、恵里は言った。
「旅館のご主人には、きょう伺《うかが》うって伝えてしまったの。それに宿泊先の安全が確認《かくにん》できるのは、あなただけよ! 来月の合宿の成否《せいひ》は、あなたにかかっているんです!」
「そうなのですか」
「そうなのです! ぜひ行きなさい!」
宗介はすこしの間、沈思黙考《ちんしもっこう》していたが、やがてぴしりと背筋《せすじ》を伸《の》ばして答えた。
「了解《りょうかい》しました。ご命令とあれば、ただちに出発いたします。……千鳥?」
固唾《かたず》を飲んで、なりゆきを見守っていたかなめに声をかける。
「な、なに?」
「そういうわけだ。きょうは学校に戻《もど》れないかもしれないが、君は勉学に励《はげ》んでくれ」
「う……うん。がんばってね」
「では、失礼する」
宗介はきびすを返し、学校を出ていった。その背中を見送り、かなめと恵里が『ほっ……』と胸をなで下ろしていることには、気付きようもなかった。
「ようこそいらっしゃいました、速見先生! あたくしが校長の坪井でございます。道路は混《こ》んでいませんでしたか? 心配しておりましたのよ? 二〇号線のあたりは、いつも渋滞《じゅうたい》している上に、死亡事故の多発する交差点などがありましてね。おほほほ……」
必要以上に明るい声で、坪井校長がゲストを出迎《でむか》えた。
「こちらこそ厄介《やっかい》になります。坪井さん」
黒塗《くろぬ》りのハイヤーを降《お》りてきた速見|議員《ぎいん》は五〇前の、こざっぱりとした男だった。グレーのスーツに黒縁眼鏡《くろぶちめがね》。二人の秘書《ひしょ》を従《したが》え、背筋を伸ばし、肩《かた》で風を切るようにして歩く――そんなタイプだ。
校長と速見は、型どおりの馬鹿丁寧《ばかていねい》な挨拶《あいさつ》を交《か》わしながら、職員用《しょくいんよう》の玄関《げんかん》へと向かった。
いまは四時間目の授業がはじまった直後だ。校内は静まりかえり、廊下《ろうか》や中庭にも生徒の姿は見えない。
「本当に光栄《こうえい》ですわ。速見先生ほどのお方に、あたくしどもの学校をご覧《らん》になっていただけるのですから。職員も生徒も、みんな喜んでおります。本当、歓迎《かんげい》の式典のひとつも出来ずに、申《もう》し訳《わけ》なく思ってますの」
「いえ、お気遣《きづか》いなく。私は飾《かざ》ることのない、普段《ふだん》のこの学校を拝見《はいけん》したいのです」
淡々《たんたん》とした声で、速見が言った。
「ええ、ええ。それはもう! ご立派《りっぱ》なお心がけだと存じますわ。おほほ……」
「そう言っていただけると助かります」
すっと、人差し指で眼鏡のブリッジを持ち上げる。
「こうした訪問《ほうもん》は過去《かこ》にも何度か行っているのですが、どの学校も私の評判に身構えてしまうようでしてね。本来の日常《にちじょう》を見せてくれないのです。近頃《ちかごろ》は正直、いささかの失望《しつぼう》と憤《いきどお》りを感じておりまして……」
速見の声が、心なしか熱っぽいものになる。
「さ、さようですか」
「上《うわ》っ面《つら》を取り繕《つくろ》って、嵐《あらし》が過《す》ぎ去るのを待つような態度《たいど》には怒《いか》りを覚えます。教育者がそれで、子供たちに範《はん》を示すことができるでしょうか? どんな場所にも、問題というものはある。私は、その問題こそをこの目で見て、確かめたいのです」
校長はその横顔を盗《ぬす》み見ながら、じんわりと背中に汗《あせ》が浮《う》かぶのを感じていた。
――いや。だって。
――見たら絶対《ぜったい》、怒《おこ》るでしょ、あんた。
などと思いながらも、坪井校長は咳払《せきばら》いして、自分を励《はげ》ます。
大丈夫《だいじょうぶ》だ。きょう、宗介はここにはいない。恵里たちが、どうにか彼を言いくるめてくれた。心配することはなにもない。
「……す。すばらしいことだと思いますわ、速見先生」
「どうも。ところで――」
速見が廊下で立ち止まり、天井《てんじょう》近くの壁《かべ》を指さした。
「あれはなんですかな?」
「は?」
小さな穴《あな》と、放射状《ほうしゃじょう》のひび。宗介のぶっ放した拳銃《けんじゅう》によるものであった。
「先ほどから気になっていたのです。校舎のあちこちに、似たような破損《はそん》が……。まるで弾痕《だんこん》のようだ」
「まさか! そんなことはありません!」
声を大にして校長は否定《ひてい》した。
「弾痕などと……そんな恐《おそ》ろしいものは我《わ》が校には存在しません。断《だん》じて、あれは拳銃の弾《たま》が当たった痕《あと》などではありませんわ! 私の生徒たちは皆《みな》おとなしく、決して銃火器《じゅうかき》など持ち歩きません!」
過剰《かじょう》な反応。気圧《けお》された速見と秘書たちの様子に気付き、校長は『はっ』と我《われ》に返った。
「いえ、その……」
「当たり前でしょう。ただの喩《たと》えです」
「そ、そうですわね。ほほほ……。たぶん、建材《けんざい》の中の気泡《きほう》が原因でしょう。この校舎も、そろそろ古くなってきていますから」
「なるほど。しかし、あの窓《まど》は?」
今度は廊下《ろうか》の窓を指さす。そのガラス窓には、見事《みごと》な蜘蛛《くも》の巣《す》状《じょう》のひびと、その上に貼《は》られたガムテープがあった。
これも宗介による被害《ひがい》のひとつである。
「や、野球部のボールですわ。有望《ゆうぼう》な長打者がおりまして。たまにグラウンドの方からここまで届《とど》くんですの」
「そうでしたか。……とはいうものの、本当によく似ていますな。以前に見た弾痕と、そっくりですよ」
「え?」
「なに。前にとある政治結社と揉《も》めましてね。いやがらせで、事務所《じむしょ》に銃弾を撃《う》ちこまれたことがあるのですよ」
「はあ……」
「いえいえご心配なく。犯人《はんにん》は逮捕《たいほ》されましたよ。いまでも檻《おり》の中です」
「そ、それは良かったですわ」
「ええ。その犯人の属していた組織のトップ[#「その犯人の属していた組織のトップ」に傍点]も、然《しか》るべき社会的|制裁《せいさい》を受けました」
「と、当然《とうぜん》の報《むく》いだと思いますわ」
相良宗介の属《ぞく》する学校の校長は、震《ふる》える声で同意《どうい》した。
「まったくです。この法治《ほうち》国家で、銃器などを使うような輩《やから》は許せません。そういう輩を見て見ぬ振《ふ》りをする連中も、刑務所《けいむしょ》に行って然るべきです」
「…………」
「おっと、物騒《ぶっそう》な話になってしまいましたね。失礼しました。……では、陣代高校さんの授業|風景《ふうけい》を拝見《はいけん》させてください」
「は、はい。こここ、こちらです……」
どもりまくる校長を先頭に、速見一行はふたたび廊下を歩き出した。
神楽坂恵里が、黒板に英語の構文《こうぶん》を書いていると、教室の後ろの戸板《といた》ががらりと開いた。かなめや恭子《きょうこ》や風間《かざま》や小野寺《おのでら》、二年四組の面々が、くるりと背後《はいご》を振り返る。
「はい。失礼しますよ」
坪井校長が顔を見せる。
続いて、問題の速見議員が教室に入ってきた。一応、生徒たちには事前《じぜん》に話してあるので、驚《おどろ》いたり騒《さわ》いだりする様子《ようす》は見せていない。それよりもむしろ、『相良がいなくて良かった……』という安堵《あんど》の空気の方が、この教室の中では支配的《しはいてき》だった。
「お邪魔《じゃま》します、みなさん。どうぞ授業を続けてください。これまで通りに」
速見が言う。その場のほとんど全員が、同時に『無茶《むちゃ》言うなって……』と思った。
恵里はひきつったほほえみを浮かべ、
「みなさん、速見先生のおっしゃるとおり、いつも通りにお勉強しましょう。このクラスには、教科書を立てて早弁《はやべん》をしたり、ファンタジア文庫を読んだり、爆睡《ばくすい》して大いびきをかいたりするような子はいませんよね?」
『はい、先生!』
クラスの一同が元気よく答える。
「けっこう。では、次の文です。紀元《きげん》七九年、ローマの都市ポンペイは、ヴェスヴィオ火山の大噴火《だいふんか》によって、一夜で失われた=B……英訳できましたか、千鳥さん?」
「はい。ええと……In the year of 0079, Zeon declared war against Earth Federal Government for its independence.=v
涼《すず》やかな声で、かなめがノートを読み上げる。
「よくできました。さすがですね」
そんな調子で、授業がしばらく続いた。どこか遠くでヘリの飛ぶ音が聞こえてきたほかは、静かそのものだ。速見や校長たちは、教室の後ろにしつらえたパイプ椅子《いす》に腰掛《こしか》けて、おとなしく授業を傍聴《ぼうちょう》している。
(よし、大丈夫《だいじょうぶ》だわ……)
緊張《きんちょう》はするものの、問題はない。なんとなく、速見は授業に退屈《たいくつ》しているようだったが、怒《いか》りを買うよりはずっとましである。このまま行けば、どうにか乗《の》り切れそうだ。
恵里がそう思ったところで――
今度は教室の前の戸が勢いよく開き、一人の男子生徒が入ってきた。
だれあろう、相良宗介である。
「ただいま戻《もど》りました」
『ひっ!』
恵里とかなめたちと校長が、同時にのけぞり、うめき声をあげた。驚《おどろ》きと当惑《とうわく》にゆがんだ一同の顔を見回し、宗介は怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》をひそめる。
「…………? なにか?」
「い、いえ……。ささ、相良くん。は、早かったわね」
「はい。|MH―67[#「67」は縦中横]《ペイヴ・メア》で往復《おうふく》すれば、九〇分もかかりませんので」
「ペイヴ……なんですって?」
「輸送《ゆそう》ヘリです。たまたま近くに来ていたので、相乗《あいの》りさせてもらいました。ヘリの所属《しょぞく》や任務《にんむ》についてはお話しできませんが」
「よく分からないけど……もう見てきたの? 合宿先の旅館を?」
「はい。証拠《しょうこ》はここに」
宗介は一枚のポラロイド写真を差し出した。『ひかげ荘』なる看板《かんばん》の前で、二人の人物が写っている。旅館の主人がひきつった笑顔《えがお》で、きょうの朝刊を掲《かか》げて見せ、むっつり顔の宗介と握手《あくしゅ》していた。
「…………」
「チェックは万全《ばんぜん》です。万一の場合の撤退《てったい》ルートと、防衛拠点《ぼうえいきょてん》に使えそうなポイントも撮影《さつえい》してきました。後ほど、詳《くわ》しく説明《せつめい》いたします。ところで――」
宗介は教室の後ろに注目し、速見議員を無遠慮《ぶえんりょ》に指さした。
「――あの男は?」
いきなり『あの男』と来たものだ。
速見と秘書たちが顔を曇《くも》らせ、校長やかなめたちが蒼白《そうはく》になった。
「さ、相良くん? あの方はね、都議会議員《とぎかいぎいん》の速見先生といって、大事《だいじ》なお客様なの」
「政治家が我《わ》が校に何の用です」
「教育現場の視察《しさつ》です!」
「ふむ……」
一同がはらはらと見守る中で、宗介は用心深く速見を観察《かんさつ》した。
「……いいでしょう。いまのところ、怪《あや》しい点は見当たりませんので」
「当たり前です! さっさと席に着きなさい。い、いいですか? くれぐれも……くれぐれも失礼のないようにするんですよ!?」
「了解《りょうかい》。鋭意《えいい》努力します」
そそくさと、宗介は自分の席に向かった。最悪なことに、彼の席――最後列の真ん中あたりは、速見たちのすぐ近くだった。
恵里が授業を再開する。宗介は自分の席に着き、鞄《かばん》を開いて中身を取り出した。
教科書。ノート。ポケット辞書《じしょ》に筆箱《ふでばこ》。デジタル無線機《むせんき》に救命セット、発煙筒《はつえんとう》にストロボ・ライト……。
それをそばで見ていた速見が、小声でひそひそと彼に話しかけた。
「君、ちょっといいかね?」
「なんでしょう」
手を止め、宗介も小声で答える。
「最近の高校生の持ち物が知りたくてね。すこし、見せてもらえないかな?」
周囲《しゅうい》の生徒と校長が、一斉《いっせい》に『びくっ!』と身をこわばらせる。
「どうぞ」
手にしていた発煙筒を、宗介は差し出した。速見はそれを物珍《ものめずら》しそうに眺《なが》め回す。
「? なんでまた、いまの子はこんな物を持ち歩いてるんだね」
校長が目線で『だめです! やめなさい!』と信号を送っているのにも気付かず、宗介はすらすらと説明した。
「用途は様々です。開豁《かいかつ》地の移動《いどう》や、LZのマーカー、FACへの目標の指示《しじ》。状況次第《じょうきょうしだい》ではCOINなどにも。その他、使い道は工夫《くふう》次第です」
速見は困った顔をした。
「うーん。若者の流行語はよくわからんな。LZというのは?」
「着陸地点《ランディング・ゾーン》のことです」
「……FACは?」
「前線航空統制官《フォワード・エア・コントローラー》です」
「それで……その、COINとは?」
「|暴 動 鎮 圧《カウンター・インサージェンシー》の略《りゃく》です」
「………………」
長い、長い沈黙《ちんもく》。
恵里がテキストの英文を読み上げる声だけが、教室の中に響《ひび》き渡《わた》る。ほとんどの生徒は、彼女の授業など聞きもせず、教室の後ろで繰《く》り広げられる緊迫《きんぱく》したやりとりに、固唾《かたず》を飲んでいた。
その異様《いよう》な空気といったら。
「やっぱり、よくわからんね」
けっきょく速見は解釈《かいしゃく》を断念した様子で、別の装備に興味《きょうみ》を示した。衛星通信《えいせいつうしん》が可能な、デジタル通信機である。
「ずいぶんと大きな携帯《けいたい》電話だね。知ってるぞ。iモードってやつだろう。見せてもらえるかな?」
「お断《ことわ》りします」
にべもない宗介の返事《へんじ》に、速見と秘書たちは顔を見合わせた。
「その……なぜかな?」
「このデジタル通信機に入力された数値は、機密《きみつ》情報です。使用する周波帯《しゅうはたい》や暗号方式を、部外者に見せるわけには行きません」
「どういう意味だね」
「あなたには、この機材《きざい》に触《ふ》れる資格《しかく》がない、ということです」
頭の巡《めぐ》りが悪い男を哀《あわ》れむような目で、宗介は言った。
「資格だと? いいか、私はだね――」
「いいえ。あなたがたとえ合衆国《がっしゅうこく》大統領《だいとうりょう》だとしても、ご要望《ようぼう》には添《そ》いかねます」
「変な奴《やつ》だな。いったい君は――」
「あの、速見先生?」
教壇《きょうだん》の恵里が呼びかけた。
「すみません。その、授業中ですので。できれば、生徒へのご質問は後ほど……」
申し訳《わけ》なさそうに恵里が言うと、速見は咳払《せきばら》いして、自分の椅子《いす》に座《すわ》り直した。
「いや、これは失礼しました。どうぞお続けください」
恵里がぎくしゃくと授業に戻《もど》る。校長と生徒たちがほっとする。そして宗介は、何事もなかったように鞄《かばん》の中から新たなアイテムを取り出した。
(君。もう一つだけ、聞きたいのだが)
性懲《しょうこ》りもなく、速見がささやいた。
(なんです)
(その四角いのは?)
机上《きじょう》のプラスチック爆薬《ばくやく》を指さす。それは筆箱サイズの粘土《ねんど》の塊《かたまり》にしか見えなかったが、その実は――この教室の全員を皆殺《みなごろ》しにできるくらいの破壊力《はかいりょく》があった。
(コンポジションC4です)
(なんだね、そのコンポ……なんとやらは)
(トリニトロトルエンその他の混合物《こんごうぶつ》に、可塑剤《かそざい》を加えたものです)
(つまり、何なのだね? 友達もみんな持っているのかな?)
(どうでしょう。日本では入手が困難《こんなん》な、高性能|爆薬《ばくやく》ですので)
(高性能……なんだと?)
宗介はため息をつき、改《あらた》めてゆっくりと、やや大きな声で説明した。
「ですから、このC4は、きわめて破壊力の高い、プラスチック爆――」
ずびしっ!
横から飛んできたかなめのフライング・クロスチョップを食らって、宗介は昏倒《こんとう》した。倒《たお》れる机《つくえ》と椅子。けたたましい騒音《そうおん》。
「!?」
「あ、あははは……。ご、ごめんなさい!」
後じさった速見たちの前で、かなめは立ち上がってケラケラと笑った。
「ええと……その、持病《じびょう》でして。日に何度か、空を自由に飛びたくなるんです」
「じ、持病?」
そこで生徒の一人、とんぼ眼鏡《めがね》におさげ髪《がみ》の常盤《ときわ》恭子が立ち上がって叫《さけ》んだ。
「そ、そうなんです! 千鳥さん、突発性《とっぱつせい》ミル・マスカラス症候群《しょうこうぐん》≠チていう奇病《きびょう》にかかってるの! そうだよね? みんなっ!?」
得体《えたい》のしれないフォローに、数瞬《すうしゅん》、だれもが固まった。
ミル・マスカラス。別名、千の顔を持つ男=Bメキシコプロレス界の歴史に燦然《さんぜん》と輝《かがや》く、偉大《いだい》なる|レスラー《ルチャ・ドール》。華麗《かれい》な空中|殺法《さっぽう》を得意とする彼の、芸術的なフライング・クロスチョップはあまりに有名である――
それはともかく。
「あ、ああ……! そう、そうだった!」
「本当! カナちゃんってかわいそう!」
「仕方がないよね! その、みみみ、ミルなんとかのせいなんだから……!」
時間が動き出し、一同が口々に同意する。
「でも、もう大丈夫《だいじょうぶ》です。発作《ほっさ》は収まりましたから。ごめんね、相良くん、大丈夫?」
速見たちの前で作り笑いを浮かべながら、かなめが宗介を助け起こす。
「いきなり、何だ……」
「もう。ダメじゃない、授業中に私語なんかしてちゃ。とにかくその無害《むがい》きわまりない持ち物をしまって? ね?」
「だが千鳥。もともとこの客人が、俺のプラスチック爆《ばく》――」
ばくっ!
おもいきり体重をのせたエルボーを後頭部に食らって、宗介はふたたび床《ゆか》にたたきつけられた。
「き、君!?」
「あ、あはははっ! あれ? おかしいな! きょうは不思議《ふしぎ》と、何度も発作が……」
目を白黒させる速見たちの前で、かなめは『ボッ! バボッ!』とカンフー映画風の音をうならせ、両腕《りょううで》を振《ふ》り回した。
「…………。奇病の発作にしては、妙《みょう》に洗練《せんれん》された動作《どうさ》だね。傍観者《ぼうかんしゃ》の私でさえ、彼に対する明白な闘志《とうし》と殺意《さつい》を感じたのだが……」
「そんな。錯覚《さっかく》ですよ。わたしだって、だれも傷つけたくないんです。普通《ふつう》の女の子でいたいの。だけど……だけど……」
宗介が三たび、身を起こした。
「わからん。なぜプラスチック爆――」
ずきゃっ!
鮮《あざ》やかなローリング・ソバットがきまって、宗介のヒットポイントはゼロになった。
「ああっ、またしても、あたしったら何て真似《まね》を……。相良くん、しっかりして!?」
応答《おうとう》なし。
「神楽坂先生! あたし、彼を保健室に連れていきます! 学級委員として。副会長として。そしてなにより、人として!」
「えらいわ、千鳥さん! では可及的《かきゅうてき》すみやかに、彼を連行《れんこう》してください。いいですか、確実《かくじつ》にですよ!?」
「はい!」
即答《そくとう》。あっけにとられる速見たちを尻目《しりめ》に、かなめは宗介を引きずっていった。
(ナイスだよ、カナちゃん……!)
(ヨゴレを演じるのもためらわずに……)
(おまえこそ学校の救世主《きゅうせいしゅ》だ……!)
などと胸の内で想《おも》いながら、二年四組の生徒たちはひそかに拳《こぶし》をグーにするのだった。
(……これは?)
目覚めるなり、宗介は自分が保健室のベッドに、手錠《てじょう》でがっちり拘束《こうそく》されていることを発見した。
「悪く思わないでね、ソースケ」
「千鳥……!?」
わきのパイプ椅子《いす》に腰《こし》かけ、かなめが静かに宗介を見下ろしていた。
「これもみんな、学校のためなの。あの議員センセに、あんたの本性《ほんしょう》を知られるわけにはいかないのよ……」
「俺の本性? どういうことだ。俺は学校の平和を望む、模範的《もはんてき》な高校生だぞ」
「最近気付いたんだけど……。あんた、マジでそう思ってる節《ふし》があるのよね……」
こめかみをひくひくさせつつ、かなめが彼の顔を覗《のぞ》きこんだ。鼻息がかかるほどの至近《しきん》距離で。
「いずれにせよ、ここでおとなしくしててもらうから。あの議員センセが、この学校を立ち去るまでね」
「なぜだ」
「――あのね、いい? 最近の世間様《せけんさま》ってのは、エラい窮屈《きゅうくつ》なのよ。前はおもしろおかしい与太話《よたばなし》で済んでた『校内で銃《じゅう》乱射』とか『下駄箱《げたばこ》を爆破《ばくは》』とか、そういうノリが最近はシャレにならなくなってきてるの!」
「そうなのか?」
「そうなのっ! しかもアレでしょ!? 二度目のアレでいろいろと注目が集まる時期《じき》なの! だからせめてこの巻は、人畜無害《じんちくむがい》な青春学園ものを装《よそお》う必要があるのよ! すこしは考えて自重《じちょう》しなさいっ!!」
宗介は脂汗《あぶらあせ》をつつと流した。
「君はごくまれに、本当に意味不明《いみふめい》のことを口走るな……」
「うるさい。……とにかく、そういうことだから」
「……どういうことなのだ?」
それを無視《むし》して、かなめは肩《かた》でぜいぜいと息しながら立ち上がった。
「いい、そこを動くんじゃないわよ!?……じゃあこずえセンセ、あとはお願いします」
部屋の隅《すみ》で二人のやりとりを聞いていた、養護《ようご》教諭の西野《にしの》こずえがにっこりとうなずく。
かなめが出ていき、戸が閉まって足音が遠ざかると、こずえがたずねた。
「さて、相良くん。なにか欲《ほ》しいものはある? お腹《なか》は空《す》かない? あなたがそうしてる間、必要なものは取りそろえてあげるつもりだけど」
「では、針金をいただけますか」
「針金?」
「はい。できるだけ頑丈《がんじょう》な、針金です」
そう言って、宗介は両手首をベッドにつなぎ止めている手錠《てじょう》の鍵穴《かぎあな》を見上げた。
二年四組の参観《さんかん》のあと、速見議員とその一行は、ほかいくつかのクラスの授業を見て回った。こちらはスムーズに進行する。宗介以外の問題児も、幸いにして、これといったトラブルは起こさなかった。
そうこうしているうちに、昼休みになった。そろそろ、速見たちが学校からいとまを告げる頃合《ころあ》いだった。
一連の視察《しさつ》を終えて、正面|玄関《げんかん》を出る速見と秘書。それを校長や教師|陣《じん》、かなめと生徒会の面々が見送りに出た。
ハイヤーが玄関の前に来て、ドアが開く。
「それでは、失礼します」
車の前で速見が頭を下げると、校長や恵里はあわてて深々とお辞儀《じぎ》した。それにならって、かなめたち生徒も頭を下げる。
「本当、名残惜《なごりお》しいですわ。先生には、我《わ》が校の実情をもっとご覧になっていただきたかったのですけど……」
校長がにこにこと言う。かなめたちは全員同時に、『心にもないことを……』と腹の中でつぶやいた。
「申し訳ない。あれこれと多忙《たぼう》な身でして」
そう言って、速見はかなめたち生徒の顔ぶれをちらりと見回した。
「ところで、この学校の生徒会長はお休みでしょうか?」
「は?……な、なにやら都合《つごう》が悪いようでして。残念ながら……」
生徒会長の林水は、なぜか『私がわざわざ行くこともあるまい』だのと言って、顔を見せていなかった。
「ならば、結構《けっこう》です。……とにかく、きょうはありがとうございました。また機会《きかい》がありましたら、ぜひ」
「ええ! 心待ちにしておりますわ」
「そこの君も。授業中に話しかけてすまなかったね。反省《はんせい》しているよ」
「いえ。わかればいいのです」
聞き慣《な》れた声。かなめたち一同は背後を振《ふ》り返り、『ざっ』と血相《けっそう》を変えて身構《みがま》える。そこには当然のように、宗介が立っていた。
「過《す》ぎた好奇心《こうきしん》は身を滅《ほろ》ぼします、議員先生。くれぐれも、我が校の秘密《ひみつ》には深入りしないことです。お達者《たっしゃ》で」
「…………。よくわからんが、なんとなく脅迫《きょうはく》じみた台詞《せりふ》のようだな」
「いえ。忠告《ちゅうこく》です」
「ほう……」
さすがに気分を害《がい》したようで、速見は一歩、前に出た。正門を抜《ぬ》けて、ラーメン屋の出前と思《おぼ》しきスーパーカブが入ってきたが、だれもそれには注目しなかった。
「速見先生。あの、あのですね……? この生徒は少々、礼儀《れいぎ》のなんたるかを知らないところがありまして――」
「そうなんです。担任の私からもよく言い聞かせておきますので、ここはひとつ――」
「ええ、彼、映画の見過ぎなんです! でも悪い奴《やつ》じゃないんで、どうにか大目に――」
校長と恵里とかなめが、口々に言う。
「――と、みなさんは言っているようだが。君から最後にコメントはあるかね?」
「コメント、ですか」
出前のバイクが、近付いてくる。
「強いて言うなら――すこしは有能《ゆうのう》な護衛《ごえい》を雇《やと》うことです」
眉《まゆ》ひとつ動かさずに言うと、宗介は次の瞬間《しゅんかん》、『ばっ!!』と速見の胸《むな》ぐらをつかみ、力任せに引き倒《たお》した。
「!?」
だれかが反応する暇《ひま》もない。彼は制服の裾《そで》を跳《は》ね上げ、腰のホルスターから自動|拳銃《けんじゅう》を引き抜き――
たんっ! たたたんっ!
そばまで来ていたラーメン屋のバイクめがけて、容赦《ようしゃ》なく発砲《はっぽう》した。ホイールやエンジン、カウルやライトに銃弾《じゅうだん》が当たり、運転手は泡《あわ》を食って転倒《てんとう》する。
「……………………あ?」
そのときのかなめたちの、デッサンの崩《くず》れまくった顔といったら。
「あ、ああっ……!?」
世界|滅亡《めつぼう》の瞬間に立ち会ったように、言葉を失った一同の前で、宗介は倒れたバイクの運転手に駆《か》けより――猛烈《もうれつ》な蹴《け》りを見舞《みま》った。
くぐもった悲鳴をあげ、動かなくなるラーメン屋の兄ちゃん。
「そ、ソースケ? なんてことを……!」
かなめが涙目《なみだめ》で、よろよろと進み出た。
「あたし、学校のことだけ考えてたわけじゃないのよ? 本当は、あんたの立場を心配して……。これじゃ、あたしと一緒《いっしょ》に、もう学校通えなくなるじゃない! あたし、そんなのイヤだったから……。なのに、なのに……。なんの罪《つみ》もないラーメン屋さんを……!」
[#挿絵(img2/s07_039.jpg)入る]
「よく見ろ」
横たわったラーメン屋のそばの地面を、宗介が軽く蹴った。小型のサブマシンガンが、回転しながらかなめの足下《あしもと》にすべってくる。
「え……」
「Vz61[#「61」は縦中横]。<スコーピオン> とも呼ばれるチェコ製のサブマシンガンだ。日本のテロ屋にも出回っているようだな」
冷静に解説《かいせつ》する宗介の前で、速見が真っ青になって、サブマシンガンと宗介を交互《こうご》に見回していた。
「え……? どど、どういうこと?」
「車に乗り降《お》りする瞬間というのは、VIPを暗殺《あんさつ》する絶好《ぜっこう》の機会だ。出前を装《よそお》って彼に近づき、射殺《しゃさつ》するつもりだったのだろう」
「まさか、以前にもめた政治結社が……?」
速見がつぶやく。
かなめのみならず、校長やその他の面々が、そろってぽかんとした。
『つまり……マジの襲撃《しゅうげき》?』
「俺はいつでも真面目《まじめ》だ」
宗介はいつになく胸を張《は》り、『えっへん』とふんぞり返る。毎度のむっつり顔だが、心の底から『どうだ。今回ばかりは俺が正しかったぞ!!』と言わんばかりのオーラが、全身からめらめらと立ちのぼっていた。
恐《おそ》ろしい事件が起きたはずなのに、なんとなく、嬉《うれ》しそうだったりする。
一方のかなめたちは、ほとんどパニックになった。本物の襲撃犯! 冗談《じょうだん》抜《ぬ》きで、本当の暗殺《あんさつ》計画……!!
「た、たた、大変だわ。消防署《しょうぼうしょ》に電話を!」
「ちがいます先生! 自衛隊《じえいたい》でしょ!?」
「そうじゃないです! しゅ、修学旅行の件を忘れたんですか!? 国連軍ですよ!!」
取り乱して、あれこれ言い合うかなめたちの横で、恭子がため息をつきながら、一一〇番をプッシュした。
とはいえ、問題は解決《かいけつ》していなかった。
事情がどうであれ、宗介が速見の眼前《がんぜん》で、銃器《じゅうき》を発砲《はっぽう》した事実は、動かしようもない。そして速見が、その事実を警察に話さないわけがないのだった。
だったのだが――
「『――容疑者《ようぎしゃ》はその場で取り押《お》さえられ、怪我人《けがにん》はいなかった』だけ?」
昼休みの生徒会室。新聞の社会面、右側の小さな記事を読み上げ、かなめが心底《しんそこ》、不思議そうな顔をした。
「どうなってるの?」
「これで解決、ということだよ。千鳥くん」
生徒会室に入ってきた林水が、そしらぬ顔で言った。襲撃事件の直後、彼がふらりとその現場にやってきて、速見議員になにかをささやいたのは、かなめも見ていたが――
「バイクの弾痕《だんこん》も、犯人の銃によるもの……となっている。安心したまえ」
「いや、でも、だって……」
「あの先生[#「あの先生」に傍点]については、いろいろと知っていてね。だれでも叩《たた》けば、埃《ほこり》は出るということだ」
「へ?」
「ご立派な人物のようだが、彼にも世間に知られると困ることがある。そういうわけで、最悪の場合に備《そな》えた手札《てふだ》を使わせてもらった。あとは政治の話だ」
そう言って、林水は大机の一角を陣取《じんど》っていた宗介に声をかけた。
「相良くん、すこし話がある」
生徒会室から人払《ひとばら》いをして二人きりになると、林水は宗介に言った。
「すこし調べれば分かることだが、あの鼻持ちならない速見伸彦先生は、政治屋になる前――作家時代から筆名《ひつめい》を使っていたのだ。世間《せけん》に知られていない本名の方は、『林水[#「林水」に傍点]信彦』といってね」
「は……?」
「二年以上交流がなく、憎《にく》みあうだけの関係だが……それでも父親は父親だ。彼の命を救った君に、礼を言わせて欲《ほ》しい」
いくらか自嘲気味《じちょうぎみ》に、林水は肩《かた》をすくめる。これにはさすがに、宗介も目を丸くした。
[#地付き]<穴だらけのコンシール おしまい>
[#改丁]
身勝手《みがって》なブルース
[#改ページ]
個性的で活発《かっぱつ》なタイプではあるが、さりとてどの学校にもいそうな――そんな若者。
それが小野寺《おのでら》孝太郎《こうたろう》であった。
通称《つうしょう》は『オノD』。
深い意味はない。だれかがなんとなく使い出し、みんなもそう呼ぶようになった。それだけのあだ名だ。
背は高めで、肩幅《かたはば》が広い。日に焼《や》けた肌《はだ》と、濃《こ》い眉《まゆ》、細い目。スポーツ刈《が》りの髪《かみ》は黄色くしている。彼が所属《しょぞく》するバスケ部の連中は、『デニス・ロッドマンかよ』だのと笑うが、自分ではなかなか似合《にあ》っていると思う。
その日の昼休み、孝太郎は教室でまったりとした時間を過《す》ごしていた。
外はどしゃ降《ぶ》りの雨だ。
教室の隅《すみ》に放置《ほうち》してあった、きょう発売の青年|漫画誌《まんがし》をだらだらと読む。格闘《かくとう》もの、冒険《ぼうけん》もの、エッチもの……あれやこれや。一通りの連載《れんさい》を読み終えて、ぱらぱらと巻頭カラーのグラビアを眺《なが》める。
写っているのは、いわゆるセクシー・アイドルというやつだった。はちきれんばかりの肢体《したい》に、シャープな顔立ち。扇情的《せんじょうてき》な脚線《きゃくせん》と、挑発的《ちょうはつてき》な視線《しせん》が印象的《いんしょうてき》な美女だった。
「いいよなー」
ぼそりと、孝太郎はつぶやいた。
「こういう大人っぽい女。どどーん、とさ。出るとこ出てて。ミステリアスで、なんでも知ってそうな感じでよぉ。うーん……」
「どれ? ああ、この人かー」
弁当《べんとう》を食べ終わった風間《かざま》信二《しんじ》が、横からグラビアをのぞき込んで言った。
信二は孝太郎のクラスメートだ。坊《ぼっ》ちゃん刈りのさらさらヘアーに、フレームレスの眼鏡《めがね》。小柄《こがら》で運動もからきしダメなタイプなのだが、なぜかクラス内では孝太郎と親しい。
「風間、知ってんのかよ?」
「うん。最近売れてるみたいだし。しかも現役《げんえき》の女子大生らしいよ。慶応《けいおう》だったかな」
「はーっ。ついでに頭もいいのか。俺《おれ》じゃあ手に負えないなあ。困ったぜ」
「なんで君が困るのさ……」
信二は渋《しぶ》い顔をしてから、ふとなにかに気付いた様子で、眼鏡の位置を直した。
「そういえば……このタレントって、なんとなく千鳥《ちどり》さんに似てない?」
「千鳥に? うーん……」
確《たし》かに、シャープな目鼻立ちや体つきは、似ているかもしれない。千鳥かなめのこういう水着|姿《すがた》は見たことがないが、ぐいっとくびれた腰つきや、豊《ゆた》かなバストも、彼女のイメージを彷彿《ほうふつ》とさせる。
孝太郎がそう思った直後、廊下《ろうか》から――
「死・ん・でっ! 反省《はんせい》しろ―――っ!!」
がしゃあんっ!
教卓側《きょうたくがわ》の扉《とびら》を突《つ》き破《やぶ》って、一人の男子生徒――相良《さがら》宗介《そうすけ》が教室に転がり込んできた。
「うおっ……」
「なにが『治安維持《ちあんいじ》』よ!? なにが『効果的《こうかてき》』よ!? もー、いい加減《かげん》、そういうパターンから決別《けつべつ》しなさい!」
……と、怒鳴《どな》りながら教室に踏《ふ》み込んできたのはかなめである。教卓に激突《げきとつ》して、よろよろと身を起《お》こす宗介の首根っこを、彼女はむんずとつかみあげた。
「なかなか苦しいぞ……」
「うるさいっ! あんたみたいなサイテー野郎《やろう》なんか、さんざん苦しみのたうち回って、最後はパーになって東京|音頭《おんど》でも踊《おど》ってればいいのよ! さあ踊るがいい、狂気《きょうき》の舞《ま》いを! 踏《ふ》むがいい、死のステップを!」
容赦《ようしゃ》なくぐいぐいと絞《し》めあげる。
「……だが、女子トイレで隠《かく》れてタバコを吸《す》っている犯人を特定《とくてい》するには、この方法が一番|確実《かくじつ》な――」
「だからって、隠しカメラを設置《せっち》するバカが、この宇宙《うちゅう》のどこにいるのよっ!? シオリなんか、『もうお嫁《よめ》にいけない』なんて、一昔前のマンガみたいなこと言って泣いてたわよ!?」
「それは誤解《ごかい》だ。カメラを付けたのは入り口だけだ。個室の方には、超《ちょう》小型の煙探知機《けむりたんちき》とマイクを――」
「それだって覗《のぞ》いてるよーなもんよ!」
叫《さけ》ぶなり、かなめは相手にヘッドロックをかけて、黒板にごつごつとぶつけまくった。衝撃《しょうげき》でチョークの粉が、ぱっと飛び散る。周りの女子生徒も『やっちゃえ、やっちゃえ』とはやし立てた。
「……痛い。痛い。痛い」
「痛がりなさい、苦しみなさい! 地獄《じごく》の業火《ごうか》に焼かれなさい……!」
せっかんの限《かぎ》りを尽《つ》くす彼女の横顔を、孝太郎と信二は『ぼーっ』と眺《なが》めていた。
手元のグラビアの、セクシー・アイドルと見比《みくら》べてみる。
「似てねーよ、やっぱ」
「うん、そうだね……」
宗介を小突《こづ》く彼女らの姿は、アマゾネス軍団か女囚《じょしゅう》コマンドー……とでもいった趣《おもむき》だ。粗暴《そぼう》で乱暴《らんぼう》なその様子に、孝太郎たちはため息をついた。
「……なんかなー。うちのクラスの女どもって、どうしてこう、ガキっぽいんだろうな」
「そうかな」
「そうだよ。中坊《ちゅうぼう》みてえにさ、いつもやたらとハイテンションで、キャーキャーやかましいし。なんか、幻滅《げんめつ》しちまうよなあ。こういう狂暴性《きょうぼうせい》を目《ま》の当たりにするとさー」
すると。
「だれが狂暴ですって?」
千鳥イヤーは地獄耳。宗介に乱暴《らんぼう》する手をぴたりと止めて、かなめは孝太郎たちをきっとにらみつけた。たちまち、信二はさっと身を引き、そっぽを向いて口笛《くちぶえ》を吹《ふ》く。
孝太郎も普段《ふだん》なら、『いや、別に』とでも答えているところだったが――
「おめーのことだよ、千鳥」
と、なぜか答えてしまった。
「お、オノD……」
「なんつーのかさー。おめーら女だろ? もうちょっとどうにかならねーのか。ガキみたいにギャーギャー騒《さわ》ぐんじゃねえ。もっと大人っぽくなれ、大人っぽく」
うんざりした口調《くちょう》で孝太郎が言うと、かなめはそれにたじろぐどころか、挑戦的《ちょうせんてき》な笑《え》みを浮かべた。もはや抵抗《ていこう》の意志を失っている、哀《あわ》れな宗介(主人公)を放《ほう》り出して、腰《こし》に手を当て孝太郎をにらむ。
「へえ。大人っぽく?」
「そーだよ。見てて悲しいんだ。なんとかしろ」
「ふふん。あんたがそーいう発言をするとは、珍《めずら》しいわね。おおかたどっかのOLか女子大生にでも、一目惚《ひとめぼ》れしたわけ?」
「む……」
当たらずとも遠からず。かなめの勘《かん》の鋭《するど》さに、孝太郎は言葉を一瞬《いっしゅん》、詰《つ》まらせた。
「な、なに言ってんだ。そんなんじゃねえよ」
「ふっ、どうだか。あんたの言動《げんどう》は、たいてい不純《ふじゅん》な動機《どうき》から来るのよね。だいたい、いやなら見なきゃいいじゃない。いやらしー目でジロジロ見られる、こっちの方が迷惑《めいわく》よ」
「お、俺は別に――」
「男でしょ? 言い訳《わけ》してんじゃないわよ」
『そーだ、そーだー! はっはっは!』
女子一同が、一斉《いっせい》にケラケラと笑う。
「くっ……」
言い返す言葉も思いつかず、彼が口をばくばくさせていると、そこに常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が割って入った。クラスメートの一人で、とんぼメガネにおさげ髪《がみ》の小柄《こがら》な少女だ。
「ねえみんな、それくらいにしとこうよ。あんまり苛《いじ》めちゃ、オノDがかわいそうだよ」
恭子にしてみれば、助け船のつもりだったのだろう。だが孝太郎にとっては、それが皮肉《ひにく》をきかせた嘲《あざけ》りの一種に聞こえた。
「…………。ふざけんな」
「へ?」
「ふざけんなって言ってんだ! おめーみてえなチビにまで、バカにされるいわれはねえ!」
いきなり孝太郎に怒鳴《どな》りつけられ、恭子はああてて両手を振る。
「ち、ちがうよ。あたしは……」
「えーい、うるさいうるさいうるさいっ! おまえらみたいなガキなんか、知らん! もう俺にかまうな!」
ガキのように叫《さけ》んでから、孝太郎は早足で教室を出ていく。残された一同はしばしの間、きょとんとしていた。
「…………? 変ね。オノDの奴《やつ》、本当になんかあったの?」
怪訝顔《けげんがお》でかなめがたずねると、信二が小首を傾《かし》げた。
「いや、なにもないと思うけど。そういう年頃《としごろ》なんじゃないのかなあ」
「ふーん……。ま、いっか。それよりキョーコ、大丈夫《だいじょうぶ》? あのバカ、ひどいこと言ってたけど。気にしちゃダメだよ?」
おさげ髪をしなっとさせて、肩《かた》を落としていた恭子に声をかける。
「……え? だ、大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけだから」
作り笑いを浮《う》かべて、恭子は答えた。
ちなみに宗介は、チョークで真っ白になった頭をぼふぼふと叩《たた》いて、周りの生徒からいやがられていた。
その翌朝《よくあさ》――
「おっはよう。諸君《しょくん》! いい朝だなあ」
始業《しぎょう》前の教室に入ってくるなり、孝太郎はつやつやとした笑顔《えがお》で言った。きのうとはうって変わって、いたく上機嫌《じょうきげん》の様子だ。
「やあ風間くん! 相変《あいか》わらず不景気《ふけいき》な顔だねえ! けっこう、大いにけっこう!」
席でうとうとしている信二の肩を、乱暴《らんぼう》にぴしゃりと叩く。
「やあ相良くん! 元気に戦争してるかね! けっこう、大いにけっこう!」
怪《あや》しい電子|回路《かいろ》をいじっていた宗介の肩を、やっぱり乱暴にぴしゃりと叩く。
「……妙《みょう》に陽気《ようき》だな。なにかあったのか」
叩かれた弾《はず》みで手元を狂《くる》わせ、ICチップの足をひん曲げてしまった宗介が、恨めしげな目で孝太郎を見上げた。
「大ありさ。こっち来な。ほら、はやく」
などと言いつつ、彼は宗介と信二の腕《うで》を引き、教室の隅《すみ》っこへ連れて行った。
「どうしたのさ、オノD。僕、眠《ねむ》いよ……」
「授業が始まるまでに、新しい起爆《きばく》回路を完成《かんせい》させたいのだが……」
口々に不平《ふへい》をいう二人。孝太郎はそれに構いもせず、人目をはばかるように一枚の写真を差し出した。
「ほら、これ見ろ」
「?」
その写真には、女が三人ほど写っていた。
年齢《ねんれい》は二〇前後くらいだろうか。ありていにいって、美女ばかりである。どこかのテニスコートで撮影《さつえい》したものらしく、三人ともテニスウェア姿だ。
「このお姉さんたちが、どうかしたの?」
「へっへっへ……この三人はな、水蓮女子大の三年生だ。みんなフリーで、彼氏|募集中《ぼしゅうちゅう》なんだとさ」
「はあ……」
怪訝顔《けげんがお》の信二。一方の宗介は、穴が空《あ》くほど写真を凝視《ぎょうし》する。
「本当に学生か? 左端《ひだりはし》の女は、フランス当局が国際|手配中《てはいちゅう》の女テロリストに似ているのだが……。気のせいだろうか」
『気のせいだよ』
孝太郎と信二がハモって言った。
「間違《まちが》いないか? 警官《けいかん》二名を射殺《しゃさつ》し、NATO軍の施設《しせつ》を爆破した女だ。現在、東アジアのどこかに潜伏中《せんぷくちゅう》という情報が――」
「ちがうってば。それに、会えばわかるよ」
「会う? 話がよくわからんのだが」
「バカだな。合コンだよ、合コン……! 約束を取り付けたんだ。バスケ部のダチの姉ちゃんが、右端のコでさー。紹介《しょうかい》してくれて。もー、いきなりトントン拍子《びょうし》で……ククク」
ほくそ笑《え》む孝太郎の横顔をのぞき込み、信二が怪訝顔をした。
「合コンって……?」
「そーだよ。オレと、あと二人。『同級生でかわいー子を連れてきて』って言われてな。だけどバスケ部のダチは、ゴツいのはっかだし、ガツガツしてるからよ。そこで――」
「ぼ、僕たちに来いっての!?」
すると孝太郎はにんまりとした。
「感謝《かんしゃ》しろよ。おまえらは色気とかそーいうのは全然ないけど、とりあえず見てくれはまあまあだからな」
実際《じっさい》、そうなのだった。
宗介は戦士|特有《とくゆう》のギラギラしたノリを抜《ぬ》けば、まあ、なかなかイイ感じのクールなハンサム男である。信二もヲタク特有のヘラヘラしたノリを抜けば、守ってあげたい感じの、はかなげな美少年たりうるのだ。
「それはその……嬉《うれ》しいけど。でも……僕、そういうのって全然|経験《けいけん》ないよ? 緊張《きんちょう》して、なんにもしゃべれなくなっちゃうかも」
不安顔の信二の背中を、孝太郎はぽんぽんと叩《たた》く。
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、気にすんな。オレがリードしてやっから」
「リードって……オノD、合コンとか、そういう経験あるわけ?」
「ま、まあな。チョロいもんさ」
「どもったね? いま、どもっただろ!?」
「な、なに言ってんだ。変な心配すんなよ。ははは……」
「またどもった!」
たちまち涙目《なみだめ》になった信二に、孝太郎ががっしとヘッドロックした。
「グダグダ言うな。黙《だま》って来い!」
「いたた……」
「おめーだってきのう、クラスの女どもに幻滅《げんめつ》してたじゃねーか!」
「そ、それはそうだけど」
「オレは誓《ちか》ったんだ。もうガキっぽい女は相手にしない。年上がいい。人を殴《なぐ》ったり暴《あば》れたりしないような、大人の女だ……!」
「ふむ……」
それを聞いていた宗介は、自分の知っている『大人の女』をふと、思い浮《う》かべた。その女は二六|歳《さい》・独身の中国系アメリカ人(元|海兵隊《かいへいたい》)で――同僚《どうりょう》を、よく殴る。
そんな宗介の述懐《じゅっかい》をよそに、孝太郎は続けた。
「――いいか、おまえら、よく考えろ。女子大生だぞ、女子大生? こんなチャンスなんて、滅多《めった》にないだろうが。ここは一発、ビシッと決めるんだ。……相良、お前もちゃんと来るんだぞ!?」
「その、ゴー……なんとやらにか」
「そうだ。きょうの午後六時、吉祥寺《きちじょうじ》。めかしこんで来いよ」
言われて、宗介は考え込んだ。
「めかしこむとは、どういう格好《かっこう》だ?」
「それはだな……あー、とにかく、いっちばん高い服着てくりゃいいよ。わかったな?」
「了解《りょうかい》した」
放課後になって、宗介がいそいそと帰り支度《じたく》をしていると、かなめが声をかけてきた。
「ソースケ。今晩《こんばん》さー、キョーコとミズキが遊びにくるの。なんかおいしいもの作ろうと思ってるんだけど。食べにくる?」
かなめと宗介のマンションはごく近くだ。こういう誘《さそ》いは珍《めずら》しいことではなかった。普段《ふだん》なら、一も二もなく応《おう》じる宗介だったが――
「む……。残念だが、今夜は行けない。先約《せんやく》があってな」
とりわけがっかりした様子もみせず、かなめが肩《かた》をすくめた。
「あ、そう。ちなみに先約って?」
「小野寺たちと、吉祥寺へゴーカンにいく」
かなめの全身が凍《こお》り付く。
「ご……なに?」
「ゴーカンだ。……確《たし》か。たぶん。そういうわけで、急ぐ。では」
「ちょ、ちょっと……待ちなさいよ! ゴー……って、あんた正気!? ソースケ! ああ、行っちゃった……」
制止《せいし》を聞きもせず、彼は教室を飛び出していった。
で、その夕刻《ゆうこく》の吉祥寺。
駅前の待ち合わせ場所にやってきた女子大生たちは、実際《じっさい》、とびきり魅力的《みりょくてき》なのだった。
派手《はで》に着飾《きかざ》っているわけではない。むしろ普段着にちょっとアクセントを付けたくらいの、気取らない良さがある。その一方で、匂《にお》い立つような色香《いろか》が、ほんのりと漂《ただよ》っているのであった。
「陸奥《むつ》睦実《むつみ》です。はじめまして!」
「海津《かいづ》蚕子《かいこ》です。きょうは楽しみましょーね!」
「空条《くうじょう》久美《くみ》です。よろしく」
それぞれ自己紹介《じこしょうかい》。元気のいいお姉さんたちである。先に待ち合わせ場所に来ていた孝太郎と信二は、ひそひそとささやきあった。
(陸海空。軍隊みたいな名前だね……)
(いいじゃねーか。覚えやすくて)
そこでセミロングで活動的《かつどうてき》な雰囲気《ふんいき》の、陸奥睦実がたずねる。
「ところで……小野寺くんだったよね。二人だけ? そっちも三人って聞いてたけど」
宗介はまだ、この場に現《あらわ》れていなかった。ついさっき孝太郎に『五分ほど遅《おく》れる』と電話してきたので、じきにやってくるはずだ。妙《みょう》な迷彩服《めいさいふく》やら、そういう格好をしてこなければいいが……と孝太郎は心配していた。一応《いちおう》は、いちばんのおしゃれをしてこい、とは言い聞かせておいたが……
そんな心配はおくびにも出さず、孝太郎はにこやかに告げた。
「あ、もう一人来るっすよ! ちょっとだけ遅れるって言ってたから、そろそろ――」
そのおり、そばで変な声がした。
「ふもっふ」
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一同が目を向けると、柱《はしら》の脇《わき》にボン太くんが立っていた。
「…………」
「ふもっふ。ふもっふ。ふーも、ふぅも」
犬なんだかネズミなんだか、よくわからない二頭身。おしゃれな帽子《ぼうし》と蝶《ちょう》ネクタイ。ボン太くんはのこのこと近づいてくると、なにやら親しげに孝太郎の背中をばんばんと叩《たた》く。
長い沈黙《ちんもく》のあと、女子大生の一人はもごもごと言った。
「あの……小野寺くん? もう一人って、もしかして、その……」
「もっふる」
『肯定《こうてい》だ』と言わんばかりに、ボン太くんがふんぞり返る。長らく硬直《こうちょく》していた孝太郎は、ぎくしゃくしながら前に出た。
「ちょ、ちょっと待っててください。ボン太くん、来なよ。ほら。こっち……」
「ふも?」
孝太郎と信二は、ボン太くんのもこもこした腕《うで》を引いて、その場から遠ざかった。相手から見えない場所まで来ると、『外せ。その頭』と告げる。ボン太くんは素直《すなお》に従《したが》った。
案《あん》の定《じょう》、中身はむっつり顔の宗介であった。
「やっぱりおめーかっ!!」
「? なにか問題が?」
「問題だらけだ! なんだよ、その着ぐるみは!?」
「…………。言われた通り、最も高価《こうか》な服を用意した。この強化服には、少なくとも二万ドル以上を投資している。最近は対BC防御《ぼうぎょ》やパワー・アシスト機能《きのう》なども……」
「え、本当? 見せて見せて」
信二がたちまち目を輝《かがや》かせる。
「見るなって。とにかく脱《ぬ》いで、どっかに預《あず》けておけよ。風間のダチが近所のゲーセンでバイトしてただろ? あそこがいい」
「うん、そうだね」
「よし。それで相良、下はどんな格好だ?」
「野戦服《やせんふく》とタンクトップだが」
めかし込んできたボン太くんスーツにボツを出されたせいか、いささか落ち込んだ様子の宗介が答えた。
「うー。ミリタリー風ってことでごまかすか。それにしても相良、おまえって奴《やつ》は……」
頭を抱《かか》える孝太郎の横で、信二が感慨《かんがい》深げにうなずく。
「いやー。でもちょっと考えれば、ある程度《ていど》は予測《よそく》できたような気もするよね……。こうしてみると、普段《ふだん》の千鳥さんの苦労がよくわかるなあ……」
「まあ、いい。とにかく、仕切《しき》り直しだ。今夜はバッチリ決めてやる。気合い入れるぜ! いいな!? 二人とも、返事《へんじ》はどうした!?」
『…………。おー』
ひどく熱意《ねつい》に欠ける声で、宗介と信二がぼそりと答えた。
合コンの会場はちょっと暗めの洋風|居酒屋《いざかや》だった。手頃《てごろ》な価格で、あれこれ食べられるような店だ。
意外なことに、その宴席《えんせき》で大きなトラブルは起きなかった。
孝太郎はもともと、クラスではお調子者《ちょうしもの》のキャラクターだ。ノリは軽いし、話題も豊富《ほうふ》。愚《ぐ》にも付かない戯言《ざれごと》を口走っているうちに、『小野寺くんって、すっげーバカ』だのと、笑って許してもらえる地位を、あっさり確立《かくりつ》してしまった。
これは予想外《よそうがい》であった。
そして信二は最初、コチコチに緊張《きんちょう》していたが――むしろそれがウケた。『風間くんて、かわいー!』だのと言われてあたふたするのは、まことに彼にはぴったりのキャラクターなのである。カメラ小僧《こぞう》だとか、オタクだとかいうことは、伏《ふ》せておけばバレずに済む。
これも予想外だった。
最大の問題――宗介は、事前に『あまり喋《しゃべ》るな』と言い含《ふく》められていたおかげで、ボロを出さずに済んだ。無言《むごん》でうなずき、たまに『ああ』だの『いや』だの答えるだけ。はからずも『寡黙《かもく》で影《かげ》のある少年』を演じることさえできた。
これまた、まったく想定外《そうていがい》だった。
つまり、うまくいってるのだ。
この役立たず・彼女イナイ歴《れき》一六年の三人組で……!
「……っと。ちょっと、失礼するね」
宴《えん》もたけなわというところで、女性|陣《じん》が席を立った。
「あ、みんなでどこ行くの? オレも連れてってくださいよー。陸奥さーん」
「ははは。バーカ」
三人は笑って化粧室《けしょうしつ》の方角へと歩いていった。その後ろ姿、ヒップラインのなんと魅惑《みわく》的なことか……!
ぼそりと信二がつぶやく。
「でも女の入って、なんでいっつも、一緒《いっしょ》にトイレ行くんだろーね……」
「バカ! あれは作戦会議だ。いまごろ俺らのこと寸評《すんぴょう》してるぞ。だれだれを気に入った、とか。この店出たら、どうするか、とか」
「ええ? なんか、怖《こわ》いなあ」
「怖がってんなよ。ほら、こっちも作戦会議だ」
言うなり、孝太郎は二人の肩《かた》をぐいっと引き寄せた。
同じころ、女子化粧室の方では、三人のうち二人が無責任《むせきにん》な会話を交《か》わしていた。
「蚕子はどうする?」
「ああ。あたしは……あの風間ってコかなー。ちょっと遊んでもいいかも」
「マジで? ああいうタイプって、後がしつこいじゃん。知らないよ?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。それに最近、たまってんだ」
「うわ、サイッテー。あんた、そればっかや」
「えっへっへ。そーいうムッちゃんは? もう帰んの? あしたバイトっしょ?」
「いや、まあ……。どうしようかな。あの相良ってコがね、たまにすっげーマジな目でこっち見んのよ。それで……なんか、困るなー、っていうのか」
まさかその彼が自分を、危険なテロリストと疑《うたが》っていることなど、神ならぬ陸奥睦美は知りようがなかった。
「ああ。でも彼、一番イケてるよね。ちょっとヤバめなとこも」
「だから困るんだって。あの深い瞳《ひとみ》で見据《みす》えられると、ついこう、グラッとね……」
「ぎゃははははは! 高校生相手に!」
「いやー、お恥ずかしい」
化粧を直しながら、陸奥睦実と海津蚕子が盛《も》り上がる。なんのことはない。孝太郎の幻想《げんそう》とは裏腹《うらはら》に、女子大生だのといっても、けっきょくはまだまだ子供である。ただ――その横で、残りの一人――空条久美だけが、小さなため息をついていた。
「クーちゃん。やっぱダメ?」
睦実がすこし真面目《まじめ》な声で言った。
「え……? ううん、楽しいよ」
「クーもさぁ、もうあんな男のこと、忘れなよ。悩《なや》んでも損《そん》するだけだって。な? 風間が欲《ほ》しけりゃ、譲《ゆず》ってやっから」
「いや、いらないって……。あはは……」
そう答えながらも、空条久美の表情は晴れなかった。
一方、男子の作戦会議では――
「……っと。つまり、オレは海津さんがいい。あの肉感的《にくかんてき》な感じが……。だが、陸奥さんも捨《す》てがたい。さりとて空条さんも……ふふふ。いやー、こまった」
カルピス・サワーの入ったジョッキを振《ふ》りながら、孝太郎は鼻の下を伸《の》ばす。
「けっきょく全員じゃないか。まったく」
「なんだよ。じゃあ風間はだれがいいんだ?」
聞かれて、信二は赤くなった。
「え……。ぼ、僕は……その、海津さんとか、いいなあ……って。なんか、包容力《ほうようりょく》とかありそうで……」
「そーか、そーか。よし、譲る! がんばれ!……で、おまえはどーだ、相良? 気になる女、いたかよ?」
すると宗介は腕組《うでぐ》みして、ひどく深刻《しんこく》な苦悩《くのう》をあらわにした。
「うむ……。やはりあの女……陸奥睦実とかいったか。どうも気になる」
『ほう!?』
孝太郎と信二が、『まさか、宗介が千鳥かなめ以外の女に興味《きょうみ》を……!?』とばかり、ぐっと身を乗り出した。
「陸奥さんか。マジで?」
「ああ。……日本語のイントネーションは完璧《かんぺき》だ。こちらから何度か殺気《さっき》を放ってみたが、それも無反応《むはんのう》だった。だが、どうしてもフランス当局の手配《てはい》写真に似《に》ているようで……」
「まだ言ってんのか、こいつは」
二人ががっくりと肩《かた》を落としたところで、
『おまたせー!』
三人|娘《むすめ》が帰ってきた。
「ねえ、そろそろ河岸《かし》変えない? まあ、定番《ていばん》でカラオケとか」
「お、いいっすねー。行く行く!」
真っ先に孝太郎が手を挙《あ》げた。
その後|会計《かいけい》を済《す》ませ、一同がぞろぞろ店を出ると、海津蚕子が言った。
「えーと、ごめん。あたしねー、実はまだ飲み足りないんだ」
「そうなんスか?」
「うん。だからさー……ちょっと付き合ってくんないかな。――カ・ザ・マ・くん?」
いきなりご指名《しめい》。彼女は妖艶《ようえん》な微笑《ほほえ》みを浮《う》かべ、信二の腕《うで》をぐいっとつかんだ。三人の中でもっとも立派《りっぱ》なバストを、むにゅ、っと押《お》しつけることも忘れない。
女性|経験《けいけん》がゼロの信二は、もちろん混乱《こんらん》し、あたふたとする。
「え……え……!? あの、ボク、その」
「雰囲気《ふんいき》いい店知ってるんだー。大丈夫《だいじょうぶ》、そんな高くないから。ね? ちょっとあたしのグチでも聞いてくんないかなー、なんて」
「いや……えと……そ、そうですか? ええ、まあ、ご相談でしたら……はい、ええ」
「そ! ありがと。じゃあね〜〜〜」
ほとんど有無《うむ》を言わせない。石のように固まった信二を引《ひ》っ張《ぱ》って、海津香子は夜の街に消えていった。
(風間。あ、あいつ……!)
(案ずるな、小野寺。あの女は安全だ。それよりも問題は、あの陸奥という女だろう)
(全っ然、そーいう意味じゃねーよ!)
孝太郎は涙目《なみだめ》で、ひそひそとささやいた。
カラオケ屋に入り、二時間ほど盛《も》り上がる。宗介は『最近、思い出した』だのと言って、アカペラのソ連《れん》国歌《こっか》を流暢《りゅうちょう》なロシア語で披露《ひろう》した。
当然、二人の女子大生は引きまくった。
フォローとばかり、孝太郎が当たり障《さわ》りのないJ―POPを見事《みごと》に歌い上げる。
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ノリが普通《ふつう》に戻《もど》った。
次に宗介がアフガンの民謡《みんよう》を歌う。座《ざ》が引きまくる。負けじと孝太郎も、ヴァン・ヘイレンを熱唱《ねっしょう》し、どうにかノリが回復《かいふく》する。
最初はバタバタしていたものの、そのギャップがいい方に作用して、二人の女子大生はウケまくった。酒の手助けもあったのかもしれない。
「あー、おかしかった!」
カラオケ屋を出てから、陸奥睦実が言った。
「相良くんって、変な子だよねー。よく言われない?」
「肯定《こうてい》だ。もっとも、罪《つみ》もない警官を射殺するような人間に言われたことはないがな」
「え?」
宗介は冷徹《れいてつ》な目で相手をちらりと見て、つぶやく。
「…………。演技《えんぎ》なら、大したものだ」
「よくわかんないけど……。ねえ相良くん。公園の方でも散歩《さんぽ》しない? あたし少し、酔《よ》っぱらっちゃったみたい。ほら、この辺って人が多いし……ね?」
そう言って、睦実は宗介の腕《うで》をそっと握《にぎ》った。
彼はきっかり一秒半、沈思黙考《ちんしもっこう》してから、
「いいだろう。ここでは巻《ま》き添《ぞ》えも出るだろうからな……」
などと、渋《しぶ》みたっぷりに返答し、歩き出した。
「……お、おい。相良?」
「心配するな、小野寺。俺はベテランだ」
「いや、そーいうことじゃなくて――」
「学校で会おう」
そんな調子で、宗介と睦実は去っていった。
その場には、孝太郎と空条久美の二人だけが取り残された。
「えーと、その……」
孝太郎は口ごもった。それまでの軽いノリが、どうもうまく出てこない。相手を意識《いしき》しすぎるからだ。彼女はきょうの合コン中、いちばん地味《じみ》で内気に見えた人だった。
「み、みんな行っちゃったっスね。どうしましょうか。帰ります?」
「え、うん……」
久美がうつむいた。三人の中で一番長い髪《かみ》が、ふわりと揺《ゆ》れる。
白のブラウスと、膝丈《ひざたけ》のスカート。どちらかというと、清楚《せいそ》な感じの美女である。
その桜色の唇《くちびる》から、意外な言葉がもれた。
「あの。わたしのアパート来ます? すぐ近くなの。良かったらコーヒーでも……」
「え? でも……いいんスか?」
「…………。いやだったら、言わないけど」
「あ……す、すんません。行きます。コーヒー大好き。いやマジで」
そう答えながら、右手と右足を同時に踏《ふ》み出し、孝太郎はぎくしゃくと歩き出した。
(ま、マジかよ……)
足が震《ふる》える。視界が狭《せば》まる。耳鳴りがする。自分がどこにいるのかも、まるでわからない。久美と会話している自分の声が、だれか別の男が話しているように思える。
いまは夜だ。
空が暗い。
街灯《がいとう》に照《て》らされ、きれいなアパートが見える。
階段《かいだん》を上った。廊下《ろうか》を歩いた。
彼女が鍵《かぎ》を取り出して、扉《とびら》を開いて――中に入る。
(う、うわー……うわー!!)
普通《ふつう》の、ロフト付きのワンルーム。落ち着いた内装《ないそう》だ。ポーカーフェイスを保《たも》ったまま、孝太郎はベッドの横に腰掛《こしか》ける。彼女がコーヒーを出した。礼を言って一口すする。
「ただのインスタントだけど。ごめんね」
「そんな。う、うまいっすよ。ホント」
「うん。ありがと……」
空条久美がふっと笑って、彼のそばに腰を下ろした。
長い沈黙《ちんもく》のあと、やがて空条久美が口を開いた。
「あのさ。小野寺くんってさ……」
「はい」
「小野寺くんって、好きな人、いる?」
「いや、その、いまは特に。ママゴトみたいなのは……まあ、あったスけど」
「そうなんだ。でも、そういう好きな人が、こんな風にほかの男の人、部屋に入れてたりしたら……やっぱイヤだよね」
自嘲的《じちょうてき》に彼女は言った。
「は? え、ええと……」
「ごめんね。そういうことじゃないの」
「あ、はい。ええ。はは」
そういうことって、なによ?
さっぱり文脈《ぶんみゃく》がわからないまま、孝太郎はへこへこと頭を下げるしかなかった。
「……最近ね。いろいろ落ち込んじゃうことがあって。ムッちゃんたちが、遊びに誘《さそ》ってくれたの。なんか、あんな感じの合コンみたいなのも何度かしたんだけど、そういうのに来る男の人って、ちょっと軽すぎて。ああいうことしか、頭になくて」
「は、はあ……」
「だから『だったら年下とかは?』なんて話でね。……ふふ。笑っちゃうよね」
「? わ、笑っちゃいますよね?」
わけもわからず、孝太郎は同意《どうい》した(本当は、ここは怒《おこ》るところである)。
久美が姿勢《しせい》を崩《くず》した。スカートの裾《すそ》が動いて、白い太股《ふともも》がすこしだけ露出《ろしゅつ》する。いつも見慣《みな》れてる学校の女子の制服の方が、よほど素足《すあし》を見せているはずなのだが――なぜか孝太郎は、やたらと鼻息が荒《あら》くなった。
「優《やさ》しいんだね、孝太郎くん。ねえ……孝太郎くんって呼んでいいかな……?」
「え、ええ。チョロいっすよ?」
とりあえず、孝太郎は親指を立てて見せた。そっと、久美が孝太郎の肩《かた》に手を添えた。
「ふふ。じゃ、わたしはクミでいいよ」
「了解《りょうかい》。く、クミさん……」
「ドキドキしちゃってるね。なんか、変な感じ……」
「ういっす、変な感じっす」
「孝太郎くん……いいよ」
たちまち、孝太郎の脳髄《のうずい》が真っ白になった。
いいよ! いいよ! いいよ、である!!
なにしろ、いいのである。男が備《そな》えるあらゆるリミッターを、解除《かいじょ》しても構《かま》わないのである。ビースト・モードにトランスフォームしてもいいのである。ここに至《いた》っては、遠慮《えんりょ》会釈《えしゃく》もいらないのだ。もう、あとは好き放題でOKなのだ!
マスター・アーム、オン。シーカー作動《さどう》。エンジン出力をミリタリーからマックスへ。レティクルとベロシティ・ベクターが激《はげ》しく動く。下腹部《かふくぶ》をGが襲《おそ》う。ハイ・ヨーヨー機動《きどう》。敵機《てっき》を捉《とら》える。標的《ひょうてき》をロック。フォックス2(意味不明)。
「失礼しまっす!」
鼻息も荒く、孝太郎は空条久美を押《お》し倒《たお》した。
もう、だれも俺を止められない。ついにここまで来た。ガッコのバカどもに、決定的な差を付けるときが、いま、ここに! 俺はこれから、大人の階段を怒濤《どとう》となって駆け上がるのだ! 中学時代の恩師《おんし》の木内先生、見ていますか。俺はこれから、人生の新しいステージを迎《むか》えます。孝太郎は、孝太郎は、立派《りっぱ》な大人になります。
……などと脳裏《のうり》で独白《どくはく》しながら、唇《くちびる》をタコみたいにムニューっと尖《とが》らせていると。
そのおり、玄関《げんかん》の扉《とびら》が乱暴《らんぼう》に開け放たれた。
「久美っ!」
そう叫《さけ》び、戸口に立っていたのは、身長一八〇センチの筋骨《きんこつ》たくましい男だった。
暴漢《ぼうかん》……というわけでもなさそうだ。空条久美は驚《おどろ》きながらも、孝太郎をさっと押しのけ、その名を叫んだ。
「り……リュージ? どうして――」
「久美! 許してくれ! 俺が馬鹿《ばか》だった!」
孝太郎のことなど目にも入っていない様子である。リュージと呼ばれた男は、ずけずけと部屋に踏《ふ》み込んでくるなり、一方的にまくしたてた。
「やっぱり俺はお前なしじゃ、やっていけねえんだ! だから、だからお願いだ!! やり直そう! な!? パチンコもやめたし、競馬《けいば》もやめた! もう浮気《うわき》なんか、絶対《ぜったい》にしない! 誓《ちか》うよ。これからは真面目《まじめ》に生きる。だから……だから……。もう一度だけ、もう一度だけ考えてくれ、頼《たの》むっ!」
などと、リュージと呼ばれた男は、好き勝手に――そして力|一杯《いっぱい》、独白した。どうも、ろくでなしの類《たぐい》らしい。
「そ、そんな。いまさらなによ。だって……だって……」
一方の彼女はそっぽを向いて、ぐすぐすと鼻をすする。
「じ、自分の都合《つごう》だけ押しつけないでよ。あたしだって……。ぐすっ……ば、ばか……」
「でも愛してるんだ、心から! やっとわかったんだ!」
「リュ……リュージ……」
「く……久美っ!」
もう、何がなにやら。
孝太郎が壁《かべ》に張《は》り付いてあたふたしている前で、両者は泣きながら突進《とっしん》し、ぶつかり合うように抱《だ》き合った。熱い抱擁《ほうよう》と、たぎるような号泣《ごうきゅう》。
そんな調子で唐突《とうとつ》かつ劇的《げきてき》に、二人はヨリを戻《もど》したのだった。
なんか、これまでいろいろあったらしい。
そして――
「ところで……だれ、こいつ?」
リュージとかいう男は、ふと孝太郎を見てつぶやいた。まるで彼の姿に、初めて気づいたかのような風情《ふぜい》である。
空条久美ははっとする。かつて遭遇《そうぐう》したことのない状況《じょうきょう》に、孝太郎もまったく言葉を失っている。
気まずい沈黙《ちんもく》。
だがその直後、久美はそっぽを向き、冷酷《れいこく》にも――こう言った。
「そのー……。居酒屋《いざかや》で会った、よく知らない人。『いやだ』って言ったのに、ほとんど無理矢理《むりやり》、部屋にあがってきたの」
後ろめたいような、突《つ》き放《はな》したような、そういう表情。その瞬間《しゅんかん》の彼女の目を、孝太郎は一生忘れなかった。
「へ……?」
唖然《あぜん》とする彼の前で、彼女はいけしゃあしゃあとこう続けた。
「ちょ……ちょっとね? しつこくて。ちょうど警察《けいさつ》、呼ぼうと思ってたところなの」
「な……? そ……それは?」
開いた口がふさがらない彼の前に、ごっつい彼氏が立ちふさがった。
「おー。いー度胸《どきょう》してんじゃねーか。え? 俺様のクミちゃんに手ェ出してよー」
「いや……だって。そんなのって……」
「殺す」
がっ!
後じさり、弁明《べんめい》しようとした孝太郎の顔面に、男の拳《こぶし》がめりこんだ。
その一発で、玄関《げんかん》まで吹《ふ》き飛ばされる。とんでもないパワーだ。脳《のう》を揺《ゆ》さぶる衝撃《しょうげき》に、孝太郎がふらふらとしていると――
ごっ!
もう一発、きれいに入った。たまらず共通|廊下《ろうか》まで、孝太郎はまろび出る。
「これくらいじゃ、終わらんぞ、コラぁ!?」
男が追って、近づいてくる。
(うおっ……こ、こりゃ痛ぇ……。中坊ン時のケンカ以来だよ……ったく)
朦朧《もうろう》としながら、彼は思った。平均的な高校生よりは、孝太郎は腕《うで》っ節《ぷし》の強いタイプだったが、さりとて喧嘩慣《けんかな》れしているわけでもない。それに、次から次へと未知のシチュエーションが押《お》し寄せてきて、頭はすっかり混乱《こんらん》するばかりだった。
ただ、あの彼女のデタラメさだけは、よく分かった。
自分の馬鹿《ばか》さ加減《かげん》を思い知り、どうしようもない情けなさを感じ、もう一つ――癒《いや》しがたいほどの哀《かな》しさを覚えながら、ぼんやりと、目の前の男が拳を振り上げるのを眺《なが》めていた。
次の瞬間――
だんっ!
銃声《じゅうせい》と共に男の方が吹き飛び、共通廊下のフェンスに激突《げきとつ》していた。
「……っ。…………?」
きょとんとして、頭上を見上げる。
そこには、小型のショットガンを構えた宗介が立っていた。なぜか全身ずぶぬれで、頭や肩《かた》に葉っぱやツタがこびりついている。
「……相良?」
「無事《ぶじ》でなによりだ。探したぞ」
ショットガンの銃口《じゅうこう》を下げて、彼はクールに言った。
孝太郎を助け起こしてから、宗介が説明した。
「けっきょく、陸奥睦実は無実《むじつ》だった。例の女テロリストとは無関係《むかんけい》だ」
「最初から言ってるだろ?……ったく」
共通廊下にしゃがみこんで、孝太郎は悪態《あくたい》をつく。
「自白を迫《せま》ったら、彼女はいたく腹を立ててな。代償《だいしょう》に『着衣のまま井《い》の頭《かしら》公園の池を横断《おうだん》』なる試練《しれん》に挑戦《ちょうせん》しなければならなかったが……。俺には造作《ぞうさ》もないことだ」
「ああ。だからびしょ濡《ぬ》れなんだな……」
「うむ。そのまま帰っても良かったのだが、ちょうど陸奥睦実に電話が入った。そこの男からだ。なんでも『これから空条に会いに行く』と。陸奥の話では、その男はたいそう狂暴《きょうぼう》らしくてな。こうして様子を見に来た次第《しだい》だ」
「そうかい。まったく、いいタイミングだよな……。くそっ」
事情《じじょう》を聞いても、孝太郎は楽しい気分にはならなかった。だいいち、こんなことがあって、ヘラヘラ笑ってられるわけがない。
そのアパートの玄関《げんかん》先に、ふらふらと風間信二がやって来た。
「風間? おまえ、どーしたんだよ?」
「うん。聞いてよ。実は僕さ……海津さんの部屋まで行ったんだけど……」
彼は覇気《はき》のない声で答えた。
「そ……それで?」
「それで……海津さん、あれこれと迫《せま》ってきて……。もう、それはそれはダイナマイツな手法で……。女体の神秘《しんぴ》って奴《やつ》の手前まで、確《たし》かに僕は行ったんだ。でも……」
信二は『ふっ』と、虚無的《きょむてき》な目で夜空を仰《あお》いだ。
「でも?」
「あの豊満《ほうまん》なバスト。パッドだった」
「…………」
「あと脇腹《わきばら》に、大きなおできがあった。それから彼女、便秘気味《べんぴぎみ》らしくて、おなかが妙《みょう》にぽっこりとしてて。そばに寄ったら、居酒屋で食べたニンニク料理の匂《にお》いが……。なんか、無性《むしょう》に悲しくなって、逃げてきた。いや……基本的にはきれいな、いい人なんだよ? でもね? やっぱり、脇《わき》の下の剃《そ》り残しとか見ちゃうと……ね?」
それはなんつーのか、そういう年頃《としごろ》の少年として、いちばん目をつむっておきたいたぐいの現実《げんじつ》であった。女の人というのは、ものすごく美しくて光り輝《かがや》く何かを、どこかに隠《かく》しているに違《ちが》いない――そういう幻想《げんそう》に冷や水をかけるような、イヤーな証言《しょうげん》であった。
わかっている。仕方《しかた》がないのである。避《さ》けられないのである。彼女らだって、人間なのだから。そういう細かいことを、あれこれ気にしてしまう方が、男としてはいかがなものか……というのも真実なのである。
しかし頭を抱《かか》えて、孝太郎は哀《あわ》れっぽく叫《さけ》んだ。
「もういい、やめてくれぇ!」
「うん、やめるね、こういう話題。だれも幸せにならないもんね……。だけど、僕はもう見てしまったんだ……」
悲哀《ひあい》をたっぷりとこめて、信二は言った。彼の青春の一段階が、この夜、終わりを告げたといっても良いのだろう……。
「さて、小野寺。この男はどうする?」
一人だけ、けろっとしていた宗介がたずねた(←こいつはただ単に会話の流れと意味が分かっていないだけである)。
玄関《げんかん》先に横たわる男。空条久美は、その彼氏にひしと寄《よ》り添《そ》っていた。ときおり落ち着かない目で、孝太郎を見上げるが――それだけだ。
宗介はおごそかに言った。
「血は血であがなえばいい。この連中に、おまえを敵にしたことを後悔《こうかい》させるのも一つの手段《しゅだん》だ。武器はここにあるぞ」
ラバーボール弾《だん》を装填《そうてん》した小型のショットガンを差し出す。孝太郎は、口の中の血を『ぺっ』と吐《は》き出して、銃《じゅう》を受け取った。それを見て、空条久美が『びくり』と肩《かた》を震《ふる》わせる。ほんの数分前まで、あんなに自分といいムードだった彼女が――
(なんだかなぁ……)
無性に悲しかった。それがどれだけ自堕落《じだらく》な男でも、彼女は彼を選んだのだ。いろいろあったのだろう。仕方がなかったのだろう。それにしても、この変わり身の早さ。泣きたくなる。だが彼女にとって、もはや自分は侵略者《しんりゃくしゃ》でしかない。
だとしたら、自分のすることは限《かぎ》られている。
彼は相手の胸《むな》ぐらをつかみ、ショットガンの銃口を突《つ》きつけて、言った。
「こら、デカブツ」
「う……んう?」
「いいか、よく覚えとけ。そこの彼女を、二度と裏切《うらぎ》んなよ? もしまた、なんかをやりくさったら――オレら陣高《じんこう》三兄弟がたちまち出現《しゅつげん》して、泣いて『やめてください』というまで、てめーの尻を電動ドリルで掘《ほ》ってやる。いいな?」
「わ……わかったよ。マジだったら……」
「敬語《けいご》で言え」
「わかりました。マジです……!」
「よし」
そう告げる孝太郎の横顔を、空条久美はぽかんとして見守っていた。
「こ……孝太郎くん?」
「ふん。馴《な》れ馴れしく呼んでんじゃねーよ」
不機嫌《ふきげん》な声で言って、彼はショットガンを宗介に突き返した。
「ゆ、許して。わたし、ああするしか――」
「だまれ、このドブス!!」
いきなり、孝太郎は怒鳴《どな》りつけた。
「そっ……」
「おめーなんか、大《だい》っ嫌《きら》いだ。二度とオレの前に現れるな、バカ。死んじまえ!」
言い捨てると、彼は大股《おおまた》でその場から歩き出した。
宗介と信二が、その後に続く。
「お……オノD」
信二が言った。
「なんだよ」
「なんか……いまのオノD、マジでカッコいいよ? 背中が煤《すす》けてるっていうのか……そういう良さが……」
「負け犬の哀愁《あいしゅう》といったところか」
「あ、そういう感じ」
「うるせー! おめーらも黙《だま》ってろ!」
半分ばかり涙目《なみだめ》になって、小野寺孝太郎はぴしゃりと言った。
散々《さんざん》だった合コンツアーの帰り道。宗介、孝太郎、信二の三人は、肩《かた》を落として歩いていた。
「けっきょく……ゲンメツだったよね」
「ああ」
「実のところ、年齢《ねんれい》とかは関係ないのかもね」
「まあ、そうかもな」
「こういうことした僕たちのこと、千鳥さんたちはどう言うかな……」
「鼻で笑って、言いふらすだろうな」
夜の井の頭線の駅には、コンパで悪酔《わるよ》いした学生ばかりが、ごちゃごちゃとたむろしている。人混《ひとご》みをかきわけ、孝太郎たちは、二番ホームの先頭当たりまで来た。
そこで――
「お。マジでいたわ、こいつら」
「あ、ホントだ! おーい、小野寺くん!」
後ろから、聞き覚えのある声がした。振《ふ》り返ると、そこには私服姿の千鳥かなめと、常盤恭子が立っていた。
「お、おまえら、なにしてんだ……?」
孝太郎がたずねると、かなめは頭をぽりぽりと掻《か》いた。
「いやー。ソースケがあんたたちとゴーカンがどうだとか、変なこと言ってたから。心配になって様子見にきてたのよ」
「そうそう。相良くんが暴れれば、すぐ分かると思ってたんだけど。意外と大変だったよね?」
「……ま、なんにも無《な》いみたいで良かったわ。あんたたちって、たまにスッゴいバカやるから。これでもけっこう、心配してたんだよ? ははは」
恭子が言う。あっけにとられてる男子三人の前で、かなめたちは晴れやかに微笑《ほほえ》んだ。その笑顔ときたら、どんな画家《がか》の描《えが》く女神《めがみ》像でさえ、かないそうにないほどだった。
目頭《めがしら》が熱くなってくるのを感じながら、孝太郎はつぶやく。
「ぐすっ……。ご、ごめんな」
「?」
孝太郎は膝《ひざ》を落とし、目の幅涙《はばなみだ》をぶわーっと流した。
「ごめん! オレが馬鹿《ばか》だった!」
「な、なに……?」
「悪かった。オレたちが悪かった。これからは真面目《まじめ》に生きる。もう浮気《うわき》はしないっ!! 大人がどうとか、バカなことは言わないよ。だから……だから、見捨《みす》てないで!」
『おろろーん』と号泣《ごうきゅう》し、孝太郎はいちばん近くにいた恭子にすがりついた。
「ちょ……オノD? どうしたの?」
「常盤ぁ! おまえの方が、百億万倍いい! きのうはごめん! 許してぇ――!」
赤くなって困る恭子と泣く孝太郎。かなめが気味《きみ》悪そうにつぶやいた。
「なんだっての、こいつは……?」
「いろいろあったのだ。いろいろとな……」
怪訝顔《けげんがお》の彼女の横で、宗介は感慨《かんがい》深げにうなずいた。
「大人の女は手強《てごわ》いのだ」
[#地付き]<身勝手なブルース おしまい>
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ミイラとりのドランカー
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生徒会室での定例《ていれい》会議の席で――
「さて諸君《しょくん》。明後日《みょうごにち》に実施《じっし》される芸術|鑑賞会《かんしょうかい》についてだが……ごほん」
林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》が話しかけて、咳《せ》き込んだ。
白皙《はくせき》、長身の青年である。真鍮縁《しんちゅうぶち》の眼鏡《めがね》をかけた知的な風貌《ふうぼう》の持ち主で、背筋《せすじ》はしゃんと伸《の》びているのだが――こころなしか、元気がないように見える。
いや、元気がないというよりは、視線《しせん》の焦点《しょうてん》が微妙《びみょう》に合っていないのだ。まるで、大机《おおづくえ》を囲んで座《すわ》る生徒会役員たちの姿《すがた》がよく見えないかのように、眉間《みけん》にしわを寄せ、言葉を失って沈黙《ちんもく》している。
「センパイ?」
千鳥《ちどり》かなめが呼びかけると、林水は我《われ》に返った様子《ようす》で小さく首を振《ふ》った。
「ん……。いや、失敬《しっけい》。なんでもない。それで、芸術鑑賞についてなのだが……えふっ。ん……ごほん……!」
ふたたび咳き込み、机に手をついて、重たそうに首を垂《た》れる。
「会長|閣下《かっか》?」
相良《さがら》宗介《そうすけ》が言うと、彼は右手を振った。
「いや……心配|無用《むよう》だ。少々、風邪気味《かぜぎみ》でね」
「意外。センパイでも、やっぱり風邪ひくんですか」
かなめが言うと、林水はこめかみの辺りを指先で押《お》しながら、だるそうな目を向けた。
「それは例の『馬鹿《ばか》は風邪をひかない』とかいう迷信《めいしん》の話かね」
「いや別に。まあ、『馬鹿と天才は紙一重《かみひとえ》』っていいますし」
「私とてただの人間だ。食事もとるし、睡眠《すいみん》もとる。年に一度くらいは風邪もひくよ」
「ふーん……」
「それより、明後日の芸術鑑賞だ」
気を取り直し、林水は言った。
「今年は劇団雨期のミュージカル『愛と青春の特攻野郎《とっこうやろう》・地獄《じごく》のケサン攻防戦《こうぼうせん》』を、全校生徒で鑑賞する。ホールは貸《か》し切り状態《じょうたい》だ。公演|終了後《しゅうりょうご》、役者と演出家《えんしゅつか》に花束を贈呈《ぞうてい》するわけなのだが――それを生徒会役員の諸君にやってもらう。異存《いぞん》はないね?」
かなめたちは、特に異を唱《とな》えなかった。
「けっこう。さらにその後、短い質問会を行うことになった。その司会を務《つと》める生徒を、ここで選ばなければならないのだが……」
林水の視線に気付いて、かなめは身を固くした。
「あたしはイヤですよ」
「安心したまえ。私が司会をする。その劇団の演出家・原粕《はらかす》武《たけし》氏は、非常《ひじょう》に厳《きび》しい人物で、たとえ高校生だろうと愚問《ぐもん》や失言は決して許さないそうだ。以前にもそうしたイベントで、こざかしい質問をした中学生を、ステージ上で張《は》り倒《たお》したことがあるらしい」
「ははあ……」
「それだけではない。その中学生にパイル・ドライバーをきめたあと、さらに隠《かく》し持っていた栓抜《せんぬ》きで凶器攻撃《きょうきこうげき》を行い、止めに入った周囲《しゅうい》の人間も殴《なぐ》り倒して、最後は『大統領《だいとうりょう》でもぶん殴ってみせらあ。だけど飛行機だけは勘弁《かんべん》な』とマイク・アピールしたそうだ」
「それって、演出家……?」
「そういうわけで、千鳥くん。君には少々、荷《に》が重い。司会は私がやる」
「喜んで譲《ゆず》りますけど……大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「なにがだね」
「センパイのことだから、すっごい慇懃無礼《いんぎんぶれい》な態度で、その悪役レスラーみたいな演出家を逆《ぎゃく》ギレさせそうで……」
「そんな真似《まね》はせんよ。せいぜい善良な一高校生を装《よそお》い、心にもない世辞《せじ》を並《なら》べ立てるつもりだ」
「そういうこと言うから、心配になるんですけど……」
構《かま》わず、林水は手元の書類《しょるい》をめくった。
「当日は早めに集まって、花束を購入《こうにゅう》する。集合時間の三〇分前だ。その後に会場の『調布《ちょうふ》バーニング・ホール』へ移動《いどう》し……ごほんっ。ん……えほっ!」
咳《せ》き込む彼を見て、書記の美樹原《みきはら》蓮《れん》が顔を曇《くも》らせた。
「先輩《せんぱい》。本当にお辛《つら》そうに見えますけど……」
「いや、なに。この程度《ていど》ならば、執務《しつむ》に支障《ししょう》は――ごほんっ!」
「先輩……!?」
ふらふらと机《つくえ》に突《つ》っ伏《ぷ》した林水に、蓮がさっと寄《よ》り添《そ》った。
「気を付けてください、先輩。書類に唾《つば》を飛ばすと、後で紙がごわごわになります」
「…………」
林水はのろのろと机上《きじょう》の書類を脇《わき》にどけた。
「とにかく……明後日は集合時間に遅《おく》れないように。以上だ」
その翌日《よくじつ》の放課後、宗介は顔見知りの放送委員から、林水が学校を休んでいることを聞いた。
「風邪《かぜ》をこじらせたらしいよ。明日の芸術|鑑賞《かんしょう》も、来れるかどうか」
「そうか……」
「対策《たいさく》を考えといた方がいいんじゃない? それじゃ」
「助言《じょげん》に感謝する」
その生徒と別れて、宗介は生徒会室へ向かって廊下《ろうか》を歩き出した。
「ソースケ。きょう、林水センパイみた?」
かなめが後ろから追いついてきて、彼にたずねた。
「いや。きょうは休んでいるそうだ」
「やっぱり風邪?」
「ああ。だとしたら、明日の芸術鑑賞をどうするべきか……。ミュージカルとやらの公演後、閣下《かっか》が質問会の司会をする手はずだっただろう」
「あ……」
かなめが口に手をあてる。やおら重々しい声で、宗介は続けた。
「会長閣下が風邪で欠席となれば、代役《だいやく》を務《つと》めるのは副会長――つまり君だ。俺《おれ》も君は勇敢《ゆうかん》な少女だと思うが、果《は》たしてその凶暴《きょうぼう》な演出家を御《ぎょ》することができるかどうか……。閣下にどのような秘策《ひさく》があったのかは知らない。だがいずれにせよ、君では……。どうにも心配だ。全校生徒の眼前《がんぜん》で身ぐるみはがれ、正視《せいし》に耐《た》えない暴行《ぼうこう》を受けるかもしれん。想像《そうぞう》を絶《ぜっ》する屈辱《くつじょく》だ。物心両面での度《ど》し難《がた》い苦痛《くつう》は、君の心に決して癒《いや》されぬ傷跡《きずあと》を残し、恐怖《きょうふ》の記憶《きおく》に一生|責《せ》めさいなまれることだろう。それだけではない。君はその思い出を憎《にく》むあまり、ミュージカルというイベントそのものを敵《てき》と見なすようになる。やがては無関係《むかんけい》な演出家や劇場《げきじょう》までをも標的《ひょうてき》に、残虐《ざんぎゃく》で無軌道《むきどう》なテロを行うようになるかもしれない。もちろん、治安当局《ちあんとうきょく》もそれを野放《のばな》しにはしないだろう。君が組織した同志《どうし》たちも、次々に逮捕《たいほ》、あるいは射殺《しゃさつ》されていく。個人の活動など、国家の強大な力の前ではむなしいものだ。厳《きび》しい包囲網《ほういもう》に追いつめられ、君はいずれ最後の手段《しゅだん》に出るだろう。腹《はら》に爆薬《ばくやく》を山ほど巻き付けて、ステージに突《つ》っ込んでいく君の姿《すがた》が目に浮《う》かぶ……。死傷者は五〇〇人を越えるだろう。なんの罪《つみ》もない女子供が犠牲《ぎせい》になり、その怨念《おんねん》がやがて、新たなテロの火種《ひだね》となって、演劇界を席巻《せっけん》するのだ。さらに――」
がっ!!
かなめに思い切り尻《しり》を蹴飛《けと》ばされて、宗介はよろめいた。
「なにをする」
「うるさい! 延々《えんえん》と人聞きの悪い妄想《もうそう》を展開してるんじゃないわよ!」
「むう……」
腰《こし》をさすり、こめかみに脂汗《あぶらあせ》を浮かべる宗介の横で、かなめは頭を抱《かか》えた。
「ああ〜……でも困った」
「困ったのか」
「さすがにそこまでされなくとも、気むずかしいおっさんと話すのは疲《つか》れるしなぁ……。みんなの前で恥《はじ》をかくのはイヤだし」
「安心しろ。君は俺が護《まも》る。いざとなったら、その演出家は射殺しよう」
「するな!」
「ならば、ステージ上でサブマシンガンを突きつけておくのはどうだろうか。数人で包囲し、銃口《じゅうこう》で無言《むごん》の圧力《あつりょく》を加えれば、相手も君の質問にスムーズに答えるはずだ」
「それ、質問会ちがう。ただの尋問《じんもん》」
宗介はしかめっ面《つら》でため息をついた。
「まったく……文句《もんく》ばかりだな」
「あんたのせいでしょ!……っていうか、なに、そのイヤそうなツラ? そこはかとなく、ムカつくんだけど」
かなめがこめかみに青筋《あおすじ》をたてる。彼は険《けわ》しい視線を涼《すず》しげに受け流した。
「それより明日の司会の件だ。どうする」
「…………。どうするって。そうねぇ。とりあえず電話してみよっか」
歩き出しつつ、かなめがPHSを取り出して、林水の携帯《けいたい》電話をプッシュした。
「どうだ?」
「……つながらない。あんたのケータイは?」
宗介は自分の携帯電話を使ってみた。
「だめだ。電源を切っているのかもしれん」
「参ったわね。こりゃ、いよいよ心配になってきたわ」
そうこう言っているうちに、生徒会室に到着《とうちゃく》する。部屋には会計係の岡田《おかだ》隼人《はやと》と、備品《びひん》係の佐々木《ささき》博巳《ひろみ》がダベっていた。
「ねえ。林水センパイ、どうしてるか知らない?」
「いんや。知らねーけど」
「そういえは、今日は姿を見かけませんね」
隼人と博巳が口々に言った。
「ほかのみんなは? お蓮さんとか」
「帰りましたよ。きょうは急ぎの用があるとか言って」
「ふむ……」
「では、これから見舞《みま》いに行くのはどうだ」
宗介が提案《ていあん》した。
「お見舞い?」
「うむ。電話がつながらないなら、直接《ちょくせつ》会いに行けばいい。明日の対策を考えるには、それが手っ取り早いと思うが」
「そうね……ドリンク剤《ざい》でも買って行こっか。それで元気が出れば、明日の芸術|鑑賞《かんしょう》も、どうにか来られるかもしれないし」
「無難《ぶなん》な線だな」
「よし決まり。住所録どこだったっけ? 確《たし》か吉祥寺《きちじょうじ》の近くに住んでるんだったよね?」
かなめがいそいそと、書棚《しょだな》の引き出しをかき回した。
林水の自宅《じたく》に出かけると聞くと、隼人と博巳が『一緒《いっしょ》にいく』と言い出した。
岡田隼人は髪《かみ》をドレッドロックにした、ストリート風の浅黒い少年。佐々木博巳はさらさらの髪をした、色白な美少年タイプである。二人とも体格は小柄《こがら》だ。
彼らがかなめと宗介に同行した理由は、単なる好奇心《こうきしん》からだった。実はかなめたちは林水の自宅を訪《おとず》れたことが一度もないのだ。
以前、かなめたちが吉祥寺に出かけたおり、同道していた林水に『センパイのうち、行っていいですかー』と話を振《ふ》ったことがある。しかし彼は、
(あまりお勧《すす》めできんよ)
と言って、難色《なんしょく》を示《しめ》したものだった。
(あえて多くは語らないが、ろくなことにはならないだろう。おそらく後悔《こうかい》するだけだ)
……と。そこまで言われると、むしろ気になる。生徒会の面々の多くは、機会《きかい》があれば林水の自宅を急襲《きゅうしゅう》してやろうと、常々《つねづね》思っていたのだ。
見舞いという大義名分《たいぎめいぶん》を得《え》たいま、このチャンスを逃《のが》す手はなかった。
四人がバスを降《お》りたのは、JR吉祥寺駅と西荻窪《にしおぎくぼ》駅との中間あたりにある、五日市街道|沿《ぞ》いの停留所《ていりゅうじょ》だった。住所録によれば、林水の自宅はこの近所にあるらしい。
黄昏時《たそがれどき》。立派《りっぱ》な邸宅《ていたく》の並ぶ住宅街である。その中を、かなめたちは住所のメモを頼《たよ》りにさまよう。
「スゴい大豪邸《だいごうてい》に住んでたりしてな」
「いや。案外《あんがい》、平凡《へいぼん》な一戸建《いっこだ》てかもしれませんよ」
隼人と博巳が好き勝手に言っていると、道路《どうろ》の向こうから、彼らと同じ陣代《じんだい》高校の生徒が歩いてきた。しっとりとした黒髪で、古風なたたずまいの少女――書記の美樹原蓮だ。右手に通学用の鞄《かばん》、左手にスーパーの手提《てさ》げ袋《ぶくろ》を持って、重たげに歩いてくる。
「お蓬さん?」
かなめが言うの同時に、蓮の方も四人に気付いて立ち止まった。
「まあ……」
蓮は小さく驚《おどろ》き、おろおろとする。
「なにしてるの、こんなところで? きょうは帰ったと思ってたのに」
「いえ……。その。特に目的もないのですが、そこはかとなく、寄り道でこの辺りを散歩《さんぽ》しようかと思いまして……」
「お蓮さんの家、全然、反対方向じゃない」
「そういえばそうでしたね。わたしとしたことが、帰り道を間違《まちが》えたようです。それでは、ごきげんよう……」
足早に立ち去ろうとした蓮の腕《うで》を、かなめが『はっし』とつかむ。
「センパイのお見舞《みま》いに来たんでしょ?」
「……実は、そうなのです」
意外と正直に蓮は認《みと》めた。
「書記として、それなりにお仕《つか》えしようと思いたちまして……。ですが、わたしも林水|先輩《せんぱい》のご自宅を訪《おと》なったことはないんです。住所録を頼《たよ》りに探し歩いたのですが、どうも道に迷ってしまったようで……」
……などと言いつつ、蓮は頬《ほお》を赤らめる。
「ふーん……。書記として、ねえ」
かなめたちは『うぷぷ』と意地《いじ》の悪い笑《え》みを浮《う》かべた。
「ちなみに、会長|閣下《かっか》の自宅はここだな」
住所のメモと地図を見下ろしていた宗介が、ぽつりと言った。
『…………?』
彼らが立ち止まっていたのは、一軒《いっけん》の古びた洋館の前だった。
相当に年季《ねんき》の入った、赤煉瓦造《あかれんがづく》りの建物《たてもの》だ。塀《へい》や壁《かべ》にはびっしりと蔦《つた》が這《は》い回っており、周囲《しゅうい》の現代的な邸宅《ていたく》に比《くら》べて異彩《いさい》をぷんぷんと放っている。さして広くもない庭は、雑草《ざっそう》が生《は》え放題《ほうだい》で、まともな手入れなどついぞされていないかのようだった。
「間違《まちが》いないの?」
「三丁目の三〇番地ならば、ここしかない」
そばの電柱《でんちゅう》と、手元のメモとを見直して、宗介が言った。
「ともかく、入ってみよう」
宗介がさびついた門を開け、すたすたと玄関《げんかん》の扉《とびら》に歩み寄っていった。
「ちょっと、ソースケ?」
「トラップの心配ならないぞ。来い」
言うなり、宗介は扉をノックした。
待つことしばし。
分厚い扉がゆっくりと開き、若い女が顔を出した。
日本人ではなかった。タンクトップとショートパンツ姿の、セクシ〜〜〜な白人のお姉さまである。金髪《きんぱつ》、碧眼《へきがん》。ぼさぼさのロングヘアで、眠《ねむ》たそうな目付きをしている。
「あの……」
「なんか用?」
いきなり流暢《りゅうちょう》な日本語で言われて、驚《おどろ》いた隼人と博巳がさっと身を引いた。
「言っとくけど、募金《ぼきん》とかならお断《ことわ》りよ。そんな余裕《よゆう》、こっちはないんだから」
「いえ……あの。こちらに、林水敦信さんが住んでるはずなんですけど……」
かなめが言うと、女はブロンドの髪《かみ》をぼりぼりとかいて、
「……ああ、アツノフ[#「アツノフ」に傍点]ね。それがなにか? あんたたち、だれ?」
「高校の後輩《こうはい》です。それで……その、失礼ですが、あなたは?」
すると、女は扇情的《せんじょうてき》な微笑《ほほえ》みを浮《う》かべて、ぱちりとウィンクした。
「彼のオ・ン・ナよ。あたしたち、一緒《いっしょ》に住んでるの」
『な……!?』
「?」
宗介を除《のぞ》く四人が、まったく同時に衝撃《しょうげき》にうち震《ふる》えた。
オンナ。林水敦信の、女!
学校一の優等生《ゆうとうせい》で、生徒会長としての信頼《しんらい》も厚いあの林水敦信が、ブロンド美女と同棲《どうせい》とは……!
「同棲ですよ先輩! 『神田川《かんだがわ》』の世界だ!」
と、博巳。
「大人だ。やっぱり先輩は大人だぜ。しかもグローバルな大人だ……」
と、隼人。
「ああ、神様……! 世の中って、世の中って、どうなってるんですかぁ!?」
慟哭《どうこく》のように叫《さけ》んで、かなめが天を振《ふ》りあおぐと、女が肩《かた》をすくめた。
「いや、まあ、ウソなんだけど」
『…………』
三人ががっくりと片膝《かたひざ》をついた。
「ウソですか」
「ええ。一緒に住んでるのは本当だけどね。あたしはナタリヤ・チュダーコワ。出稼《でかせ》ぎで内戦中のシベリアから――って。ちょっと、そこの彼女、大丈夫《だいじょうぶ》?」
ナタリヤ嬢《じょう》の視線《しせん》を追って、かなめたちは背後《はいご》を振り返った。
「お蓮さん……?」
応答《おうとう》なし。無表情《むひょうじょう》。
一同がぽかんと見守る前で、蓮はふらりと後ろへ倒《たお》れ――
ごちんっ。
玄関《げんかん》前の柱《はしら》に後頭部を激突《げきとつ》させ、それきり動かなくなった。
たまたまそばの電柱に立てかけてあった、交通安全の立て看板《かんばん》を担架《たんか》代わりにして、かなめたちは蓮を屋敷《やしき》の中へと運び込んだ。
「早く! 救急箱《きゅうきゅうばこ》とか救急車とか、ERのグリーン先生とか、そういうのを用意して!」
「美樹原|先輩《せんぱい》、聞こえますか……!? 僕たちが必ず治します!」
[#挿絵(img2/s07_107.jpg)入る]
「患者《かんじゃ》は一六|歳《さい》の女性。後頭部に打撲《だぼく》。血圧《けつあつ》は上が一一〇、下が六〇。呼吸は三〇――」
「Oマイナス4単位! 清食二リットルを点滴《てんてき》しろ。挿管《そうかん》セットを準備!」
「おめーら、意味わかって言ってるのか……?」
それこそ緊急《きんきゅう》救命室のような騒《さわ》ぎで、かなめたちはぐったりとした蓮を屋敷の中へと運び込んだ。
中身もやっぱり洋館だった。
がらんとした、だだっ広い、吹《ふ》き抜《ぬ》けの玄関ホール。そのホールを取り囲むようにして、一階、二階にいくつもの扉《とびら》がある。ホラー映画にでも出てきそうな光景だ。ホールの天井《てんじょう》からは、大きなシャンデリアが吊《つ》り下がっており――その真下に、なぜかおんぼろのソファーとテーブルが置いてあった。
「そこに寝《ね》かしたら?」
「よし。移《うつ》すわよ!? 一、二、三っ!」
どさっ、と蓮をソファーに移す。宗介が脇《わき》にひざまずき、手早く蓮の様子を見た。
「……どお?」
「特に問題ない。じきに目を覚ます。心配なら、念《ねん》のために数日中に病院で精密検査《せいみつけんさ》をすればいいだろう」
冷静に宗介が答えた。
「よっぽど、さっきの同棲《どうせい》発言がショックだったんでしょうねぇ……」
「きのうの態度《たいど》見て、『やっぱり気がないのか』とか思ったんだけど……なかなか、これはどうして……」
「うん。手料理作る気で、食材とかまで買って来てたみたいだしねぇ……」
感慨《かんがい》深げにうなずいてから、かなめは周囲《しゅうい》を見渡《みわた》し、ナタリヤ嬢《じょう》にたずねた。
「ところで、この家って何なんですか?」
「ああ、それはね――」
ナタリヤが説明しようとしたところで、ホールに面した部屋の戸が開く音がした。二階の通路《つうろ》沿《ぞ》いの扉だ。
「ウー……。ナンノ、サワーギデスカー?」
訛《なま》りの強い日本語。顔を出したのは、浅黒い肌《はだ》の青年だった。眠《ねむ》たそうに目をこすっている。
「ダーメ。ダーメデス、ミナサン。イマ、何時ダト思テンノ。ボク、眠レナイネ」
次に隣《となり》の戸が開き、白人男性が姿を見せた。髪《かみ》はぼさぼさ、部屋着はよれよれのその男は、ぶつぶつと文句を言った。
「やかましなぁ……。ナタリヤちゃん。わし、寝《ね》る時はメッチャ、デリケートやねん。頼《たの》むわ、いやホンマに」
さらに別の戸が開き、スキンヘッドの黒人|牧師《ぼくし》が現れる。丸いサングラスに詰《つ》め襟《えり》の僧服《そうふく》。小脇《こわき》にはノートパソコンを抱えている。
「エーイメン! おはよう、諸君! きょうも絶好調《ぜっこうちょう》。グルーヴ感あふれる神の声が、そこかしこから聞こえてくるようだ。そしてようこそ、見知らぬ客人たち! よく分からんが、適当《てきとう》に座《すわ》ってくれたまえ。そして魂《たましい》の底からくつろぐといい!」
朗々《ろうろう》とした演説調の声。
ぞろぞろと姿を見せた住民――すべて外国人である――を、かなめたちはぽかんとして見上げた。
世の中|不景気《ふけいき》なのである。
平政《へいせい》不況《ふきょう》のせいか、最近では普通《ふつう》のアパートさえも、入居者《にゅうきょしゃ》がいなくて困っているのだそうだ。どうせ空室だらけなのなら、日頃《ひごろ》、不動産《ふどうさん》関係で冷遇《れいぐう》されっぱなしの外国人に、部屋を貸してしまえばいい――そういう大家が増《ふ》えているらしい。
いわゆる、『外国人ハウス』という奴《やつ》である。この洋館は、そうした下宿の変わりダネなのだということだった。間取《まど》りは昔の屋敷《やしき》のままで、改装《かいそう》はほとんどされていない。住民は空き部屋を勝手に使い、バスやトイレ、キッチンなどは共同使用。蓮を運び込んだホールは、下宿人たちの共用スペース……というわけである。
「それで、林水センパイはいるんですか?」
ぞろぞろとホールに降りてきて、正面のソファーに腰掛《こしか》けた、変な外人さんたち。彼らを前にして、かなめはたずねた。
「ああ。確《たし》かにきのう、『風邪《かぜ》気味だ』とか言ってたわね。それきり見てないけど。あんたたち、知ってる?」
ナタリヤ嬢が一同にたずねた。
「知ラナイネー」
「わしもや」
「まさしく神のみぞ知る、だ!」
三人の下宿人たちは首を横に振《ふ》った。
「彼の部屋はどこ?」
「二階のあそこ。一番はしっこ」
「ども」
かなめはとことこと階段を上り、林水の部屋の戸をノックした。反応《はんのう》なし。耳を澄《す》ましてみるが、人のいる気配はなかった。
「いないみたい」
ホールに戻《もど》って報告《ほうこく》する。
「どこに行ったか、心当たりは?」
「さあ。あたしもさっきまで寝《ね》てたから。病院にでも行ってるのかもね。遅《おそ》くまでやってる内科が、近所にあるのよ。なんなら、しばらく待ってみる?」
「ふむ……」
相談の末《すえ》、四人はしばらく林水を待ってみることにした。いまだに失神《しっしん》したままの、蓮のこともある。
「じゃあ、そうさせてもらいます」
かなめが言うと、下宿人《げしゅくにん》たちは顔を見合わせ、小さな笑《え》みを浮《う》かべた。
「そうかね! ではゆっくりするといい。私のかわいい子供たち!」
あやしい黒人牧師が手を打ち、ぐいっと身を乗り出した。
「自己紹介《じこしょうかい》がまだだったね。私の名前はビズ・オニール。見ての通り、神に仕《つか》える身だ。退屈《たいくつ》だろうから、我々《われわれ》が諸君を歓待《かんたい》しようではないか。なに、気にする必要はない。きょうはみんな暇《ひま》なのだ。なにか飲むかね? いろいろあるぞ。クアーズにバドワイザー、ハイネケンにスーパードライ……」
ソファーの後ろに置いてあった冷蔵庫《れいぞうこ》から、牧師が色とりどりの缶《かん》を取り出し、テーブルの上に並べていく。
「ビールばっかじゃないですか」
「嫌《きら》いかね?」
「っていうか、あたしたち、未成年《みせいねん》なんですけど」
「それがなにか?」
「未成年は飲酒しちゃいけないんですよ」
するとオニール牧師は、丸いサングラスのブリッジを、くいっと押《お》し上げた。
「美しい少女よ。それは政府の決めた法律《ほうりつ》だ。人間のあるがままの欲求《よっきゅう》を否定《ひてい》するのが、サタンの手先たる為政者《いせいしゃ》のやり口なのだよ。そうやって、彼らは全世界のブラザーたちを搾取《さくしゅ》してきたのだ」
「はあ」
「だが少女よ、彼らの権謀《けんぼう》に屈《くっ》してはいけない。彼らが禁《きん》じるのならば、われわれは雄々《おお》しく、勇気を持って立ち向かうべきだ。このようにタブを引き――」
ぷしゅっ、と缶ビールがさわやかな吐息《といき》をつく。
「飲み口に、情熱的な接吻《せっぷん》をして――」
ごっきゅ。ごっきゅ。ごっきゅ。
「っ…………ぷは―――――っ! グッレイトッ!! 実にうまい! 神よ、今日の糧《かて》に感謝《かんしゃ》します」
こころゆくまで痛飲《つういん》し、彼は恍惚《こうこつ》として天を仰《あお》いだ。
「わかったかね。これが反逆《はんぎゃく》だ。若い力で、君たちも続いてくれたまえ」
「あんたホントに聖職者《せいしょくしゃ》?」
かなめがつぶやく横で、隼人があっさりと卓上《たくじょう》のビールに手を伸《の》ばした。
「じゃあ、いただきまーす」
「ちょっと、岡田くん?」
「カタいこと言うなって。いまどき珍《めずら》しくもねーよ。うちのクラスだって、球技大会とかの後に打ち上げコンパやってるぜ?」
「そうそう。ちょっとくらいなら、別にいいじゃありませんか」
同意して、博巳も缶《かん》ビールを手に取る。
「すばらしい! 君たちは、悪しき谷間を照《て》らす真の勇者だ! さあ飲みたまえ、ぐぐぐっと!」
あおり立てるオニールの前で、隼人と博巳は缶を打ち合わせた。
「乾杯《かんぱい》――。ほらほら、千鳥|先輩《せんぱい》と相良先輩も、無理《むり》しないで」
「さよう。君たちも踏《ふ》み出したまえ、偉大《いだい》なる第一歩を!」
スーパードライのタブを開けて、オニールがかなめと宗介の前に缶を突《つ》き出す。
「…………」
たっぷりと冷えた、銀色の缶。透《す》き通るような無数の水滴《すいてき》。泡《あわ》がはじける心地《ここち》よい音。そういえば、ちょっと喉《のど》が渇《かわ》いているような気もする。
ついでに言えば、好奇心《こうきしん》もある。
「……じゃあ、ちょっとだけね」
そう言って、かなめは缶を両手で握《にぎ》ると、申し訳《わけ》程度《ていど》にちょこっと飲んだ。
『おお〜〜〜〜っ』
宗介を除《のぞ》く一同が、やんややんやと拍手《はくしゅ》した。見れば、オニールのほかの下宿人たちも、めいめいにタブを開けて飲み始めている。
「なんか、キュートな飲みっぷりよねぇ」
「ホンマ。初々《ういうい》しいなぁ。これはたまらんでしかし〜」
「エ? ボク、見テナカタヨ。カワイイオジョーサン、モイチド飲ンデチョウダイ」
意外なことで誉《ほ》められて、かなめはうろたえた。
「え? あの、その……」
『飲ーめ、飲ーめ、飲ーめ!』
飲め飲めコールに抗《あらが》う術《すべ》を知らず、かなめはピールをもう一口飲んだ。
『おお〜〜〜っ』
惜《お》しみない喝采《かっさい》。かなめは照《て》れ笑いする。
「は……ははっ。ソースケ、あんたは?」
「俺は遠慮《えんりょ》しておく」
宗介が淡々《たんたん》と言うと、ナタリヤが身を乗り出した。
「どうしても?」
「うむ。アルコールは脳細胞《のうさいぼう》を破壊《はかい》する」
「…………。じゃあ、オレンジジュースでも飲んどく?」
彼女は冷蔵庫からジュースのボトルを引《ひ》っ張《ぱ》り出して、タンブラーグラスにとくとくと注《つ》いだ。
「それなら、ありがたくいただいておこう」
グラスをうやうやしく受け取り、宗介はジュースをくいっと飲んだ。
「……変わった味だな」
「それが真のオレンジジュース。太陽の光と、愛媛《えひめ》農家の真心がこもってるのよ。その辺のジュースとはひと味ちがうのよね」
「……そうだったのか。勉強になる」
「もうちょっと飲む?」
「そうだな。では、もう一杯《いっぱい》」
宗介がグラスを差し出すと、ナタリヤ嬢《じょう》はにんまりと笑った。
それから一時間ほど、一同はダラダラと飲み会を続けた。オニールがCDラジカセを持って来て、ジェームズ・ブラウンの名曲を流すと、かなめはずいぶんとご機嫌《きげん》になった。
オニールの言う通り、退屈《たいくつ》な待ち時間はそれなりに楽しい宴《うたげ》となっていた。
林水は、依然《いぜん》行方不明《ゆくえふめい》のままだ。
「そういえば――」
三本目のビールを片手に、かなめが言った。
「こんな下宿……っていうと失礼だけど、なんでまたセンパイがここに?」
「モチロン、家賃《やちん》ガ安イカラネ」
「別に日本人が住んで悪いわけやないし」
「クールなことに、彼はあの若さで、学費と生活費をすべて自分で稼《かせ》いでいるのだよ。いやはや、感動的《かんどうてき》な話ではないか! 全能《ぜんのう》なる神も、きっと草葉《くさば》の陰《かげ》で泣いておられることだろう!」
変な外人さんたちが、上機嫌で証言《しょうげん》した。
以前に林水が『親からは勘当《かんどう》同然になっている』と話したことを、かなめは思い出した。私立の進学校に行くのが当然と思われていた彼は、とある事情から、周囲《しゅうい》の反対を押《お》し切って陣代高校に入学したのだ。
「先輩《せんぱい》って、意外に苦労人なんですね……」
顔を赤くした博巳がつぶやく。かなめはとろんとした目で微笑《ほほえ》み、
「うーん。確かに立派《りっぱ》だよね。親の金に頼《たよ》らずに、一人でこうして生活してるっていうのは。なんていうのか、かっこいいなぁ……。見直しちゃった」
かなめがしきりに感心する横で、宗介が自分の存在《そんざい》をアピールするように、首と腕《うで》を小刻《こきざ》みに振《ふ》った。
「なに? パントマイムの真似《まね》?」
「…………。いや……」
心なしか打ちひしがれたように、うつむく宗介をそっちのけに、かなめはさらにビールの缶《かん》を『んぐんぐ』とあおった。
「んー。でも苦労人ってのはどうかしらねぇ。なにやって稼《かせ》いでるかは知らないけど、下宿人の中では一番|羽振《はぶ》りが良さそうよ、彼」
ナタリヤが腕組みしてつぶやく。
「そうなんですか?」
「うん。毎朝、ここで日経《にっけい》新聞読んでるし。株でもやってるのかしら。あたしたちとのポーカーや麻雀《マージャン》には、負けたことがないし」
「いかにもな収入源《しゅうにゅうげん》ですね……」
これで新聞|配達《はいたつ》でもやってれば、もっと感心したところなのだが。そう思ってかなめが肩《かた》を落としていると――
「ワ――オっ!! アフィーゥグッ!! ぱららららららっ! アニューザアワンナィ! ぱららららららっ……!」
すでに缶ビールを六本開けた岡田隼人が、ラジカセの曲に合わせて踊《おど》り、歌い、シャウトした。下宿人たちがそれに合わせて、野次《やじ》を飛ばしたり拍手《はくしゅ》したりする。
「あーあー。岡ピーったら調子に乗って。ほどほどにしなさいよ? はっはっは!」
げらげら笑ってから、かなめは向かいの席の佐々木博巳に目を向けた。彼は関西弁の白人さんと、なにやら熱心に話し込んでいる様子だったが――いきなり『がたっ!』と立ち上がって、声を張《は》り上げた。
「わかってないな、あんたは!?」
「なんやと?」
「VF―0やSV―51[#「51」は縦中横]はそれまでの戦闘機《せんとうき》とは違《ちが》うんだよ! ECSみたいに電子的なステルス性能もすでに備《そな》えてるから、従来《じゅうらい》のレーダーでは捕捉《ほそく》できないっての!」
「だったらVF―17[#「17」は縦中横]の外見はどうなるんや!? 辻褄《つじつま》が合わんわ!」
「あれはVF―0からの次世代《じせだい》型電子|探知手段《たんちしゅだん》を殺すためのステルス形状《けいじょう》だと解釈《かいしゃく》するのが礼儀《れいぎ》だろう!? つまりAVFのアクティブ・ステルスは二世代先を行ってる、ってことだよ! VF―1の機首《きしゅ》レーダーも、きっと従来とは違う方式なんだ。たぶん超広帯域《ちょうこうたいいき》レーダーみたいなECCSの一種だろうね。だからフェイズド・アレイ方式じゃないんだよ。……まったく! 昔の良心的なマニアが必死《ひっし》に知恵《ちえ》を絞《しぼ》ってたのに。最近の若いオタクは揚《あ》げ足をとって喜んでばかりだ! それでちっぽけな自分が浮かばれたつもりか? 恥《はじ》を知ったらどうなんだ!?」
「い、言いおったなぁ!? わしは! おどれがっ!」
「ああ! 憎《にく》んでくれて結構《けっこう》だよ!」
わけのわからない口論《こうろん》から、取っ組み合いをはじめた二人を、かなめたちは捨《す》て置いた。おそらく当人たちにしか理解《りかい》できない、深遠《しんえん》な対立《たいりつ》があるのだろう。
「そっちも、ほどほどにしときなさいよー」
けらけら笑って、ビールを飲み干す。
いい気分だった。明日は朝が早いこととか、ここでだれかを待っていることとか――そういうこともついつい忘れてしまう。
うん。いい感じだ。
なんだかとろーんとしたような。体がぽかぽか暖《あたた》かい感じで。そういえば、ちょっと暑いかなあ。上着、脱《ぬ》いじゃおっと。リボンタイも息苦しいし。これも外してしまえ。ブラウスのボタンもいくつか外して……と。胸《むね》の谷間が丸見えだなー。まー、いいか。あー、つま先も暑苦しい。靴下《くつした》も脱いでしまおー。おなかを締め付けるスカートも鬱陶《うっとう》しいな。いや、まあ、これはやめとこー。あはは。
だらしなく相好《そうごう》を崩《くず》してソファーにもたれ、かなめは新たな缶《かん》のタブを引いた。
喧噪《けんそう》の中、ふと宗介を見ると彼は一人でオレンジジュースをちびちびと飲んでいた。
「まだジュース飲んでるの? あんたも往生際《おうじょうぎわ》悪いわねー。このー」
かなめはいつになく馴《な》れ馴れしい手つきで、宗介の後頭部をぐっと小突《こづ》いた。
「……これでも一応、イスラム教徒だからな」
「はっはっは。そうだったの」
「『一応』程度《ていど》の話だが。俺が育ったのはアフガンだ。ゲリラは例外なくイスラームだ」
「初耳だわ、それ。はっはっは」
日頃《ひごろ》なら、意外な事実に少しは驚《おどろ》きそうなものだったが、いまのかなめはあっさりとそれを笑い飛ばした。
宗介はぶつぶつと続ける。
「……特別、戒律《かいりつ》に厳《きび》しいわけではなかったが、それでも最低限の決まりはあった」
「ふーん。じゃあ、お酒とか、絶対だめなんだー」
「いや。厳密《げんみつ》にいえば、すべての酒が禁じられているわけではない」
「だったらいいじゃない」
「そうはいかん。酒を飲むのは愚《おろ》かな習慣《しゅうかん》だ。酒もそうだが――女もだ。特にだ、そういう――それだ」
彼はふらふらと、人差し指をかなめの白い脚《あし》に向けた。
「俺が……日本の学校に来て……驚いたことがたくさんある。そのうちの一つが……女性の服装《ふくそう》だ。そろいもそろって、そんな短いスカートを……」
「はあ?」
「誤解《ごかい》しないでもらいたい。あー。……その、なんだ。アフガンには、そういう女はいなかった。俺に言わせれば、まるで裸《はだか》みたいだ。任務《にんむ》やらなにやらのせいで、あまり意識しないでこれたし、最近はさすがに慣《な》れたが……。といえは、海水浴《かいすいよく》にいったときもそうだ。あの水着姿。正直にいえば、驚くよりもなによりも……いささか、どうかと思った。自分の夫でもない男が、周りにたくさんいるのだぞ。直射《ちょくしゃ》日光もさることながら……えー……そうだ。やはり、あまり肌《はだ》を露出《ろしゅつ》するのは……どうかと思う」
どことなく、ろれつが回っていない。
そもそも。宗介がこんなことをぼやくのは、かつてなかったことだ。かなめがどんな格好《かっこう》をしていても、ポーカーフェイスで平然《へいぜん》としているのが、彼女の知っている宗介だというのに!
しかしかなめも、頭の回転速度《かいてんそくど》が極端《きょくたん》に落ちていた。変な奴《やつ》ねー、と思うだけだ。
「んー。……なんかよく分かんないけど」
「もちろん……君をせめる気はない。だが、すこし自覚《じかく》してもらいたい。たまに……落ち着かなくなるのだ。特に君は……」
「あたしは?」
「…………。なんだったか。……忘れた」
「なによぉ〜〜。気になるじゃない〜」
かなめは宗介の背中をどすん、と叩《たた》いた。
「面目《めんぼく》ない。どうも……このジュース、アルコールが混《ま》らっているような……。とにらく……君はいい奴ということら」
「そんなの決まってるれしょ〜〜。変なやつー。あはははー」
「千鳥、らきつくな」
「あはははー。照《て》れてるー。ボン太くんみたいー。可愛い〜〜〜!」
彼女は宗介をぎゅーっと抱《だ》きすくめて、その背中をばしばしと叩いたりした。宗介は顔を真っ赤にして、じたばたと腕《うで》を振《ふ》り回す。
一方。
『わーはっはっはっはっ!!』
隼人たちが下品な宴会芸《えんかいげい》に大爆笑《だいばくしょう》していた。博巳と関西弁の兄さんがなにやら和解《わかい》したらしく、『あんた、やるな』『おまえもな』だのと言い合って固い握手《あくしゅ》を交《か》わしていた。いつの間にか目を覚ましていた美樹原蓮が、オニールに勧《すす》められるままに日本酒をちびちびやっていた。混ぜものの酒に悪酔《わるよ》いしたのか、宗介は元気がなくなった。ナタリヤ嬢《じょう》の職業《しょくぎょう》がトップレス・ダンサーだと聞いて、なぜか一同は拍手喝采《はくしゅかっさい》を送った。
「すっごーい! アレ!? やっぱり、垂直《すいちょく》な棒《ぼう》に抱《だ》きついて、グイングイン腰《こし》振ったりするの? 昔のアメリカの刑事《けいじ》もの映画みたいに!?」
「そーよー。それが作法《さほう》なの。カナメちゃんも働いてみる? 高校なんか、やめちゃいなさいよー」
「あっはっはっは! いいね、それ!」
架空《かくう》の鉄棒《てつぼう》につかまったつもりで、ナタリヤと一緒《いっしょ》にくねくねダンスの物まねをしてると、宗介が苦しげに彼女の腕をつかんだ。
「いかん……俺は……絶対《ぜったい》に許さんぞ……千鳥……」
「じょーだんよ、じょーだん! なにマジになってんの!?」
陽気《ようき》に後頭部をひっぱたき、かなめはゲラゲラと笑った。視界《しかい》が狭《せま》い。奇妙《きみょう》な浮遊感《ふゆうかん》。なんだか頭が、ぐにゃぐにゃになってきた。
なんとなく、彼女は一同にこう告げた。
「最高ですか〜〜?」
『最低で〜〜す』
一同は投げやりにこう答えた。
「楽しいわねぇー。いま何時〜〜?」
「知らなーい。でもさっき、テレビでプロ野球ニュースやってた〜〜」
っつーことは、夜の一一時はしっかり過《す》ぎてるわけだ。まあいいや。まだ林水センパイ、帰ってこないし。
「いいぞ、いいぞ〜〜」
「一番、千鳥かなめー。脱《ぬ》ぎまーす」
『おお――っ?』
「やめろ……ちろり」
宗介がうめく。
「うっそー。脱ぎませーん」
『ぶ〜〜っ、ぶ〜〜っ』
ブーイングの嵐《あらし》。宗介はがっくりとくずおれる。その脇《わき》で、蓮がいきなり声を張り上げた。
「同棲《どうせい》なんれ、ひどすぎます……!」
「その話、ずっと前に終わった〜」
「そうれすか……これは……たいへん失礼しました」
蓮はその場にへたり込む。続いて博巳が叫《さけ》んだ。
「だから、VF―0のステルス性能が」
「それも終わったのら〜〜」
「でも、ステルス――」
「うるさい、だまれ〜〜」
たたんっ! たたたんっ!
博巳の足下《あしもと》目がけて、かなめが自動|拳銃《けんじゅう》を発砲《はっぽう》した。飛《と》び散《ち》る火花と、コンクリートの破片《はへん》。黒い銃口《じゅうこう》から煙《けむり》が立ち上る。
「うわぁ。千鳥せんぱい、やめれくださいよ〜〜」
「んん……?」
いつのまにか自分の手中にあった、宗介の拳銃をながめ、かなめは首をかしげた。その肩《かた》をふらふらと、宗介がつかむ。
「ちどり……銃を返してくれ」
「やら。いつもの仕返し〜。あははははっ」
たたんっ! たたたたたたたたたんっ!
調子に乗って、天井《てんじょう》に乱射《らんしゃ》しまくる。跳弾《ちょうだん》が頭上の鎖《くさり》を断《た》ち切り、巨大《きょだい》なシャンデリアがまっしぐらに落ちてきた。
がしゃあんっ!
一同が取り囲むテーブルが押《お》しつぶされ、ガラスの破片とビールのしぶき、そして柿《かき》ピーナッツが辺り一面に飛び散る。
「みんな、無事《ぶじ》〜〜?」
『無事〜〜』
一同がお気楽にこたえた。
「そ。じゃあ次、これ行こっか〜〜」
かなめは弾《たま》切れの銃を放《ほう》り出し、いつのまにか持っていた手榴弾《しゅりゅうだん》を、燦然《さんぜん》と掲《かか》げた。
「ちどり……それは、洒落《しゃれ》にならない。危険ら。返せ……」
青ざめ、息も絶《た》え絶《だ》えになって警告《けいこく》する宗介の顔を、かなめは鼻がくっつきそうなほどの近さでのぞき込んだ。ちょっとだけ、意地《いじ》の悪い気持ちになって。
「やーよ」
上気した頬《ほお》。とろんとした瞳《ひとみ》。
熱っぽい顔で、彼の視界|一杯《いっぱい》に顔を近づける。
「いつもいつも、あんたはこうやって、あたしを苦しめてるのら。ほんろにいっつも。どれらけあたしが、あんたのころ心配してると思ってんの。みんなに迷惑《めいわく》かかるとか、そーいうのだけらないのよ?」
「それは……もうしわけない。もーしわけないから、返せ……」
「あらしの足に、じつはみとれてたのはゆるしたげる。っつーか、けっこううれしいかなー。あははは。もう」
「ちろりー……」
「でもだめー。たまには同じ気分を味わいなさぁい。いい?」
宗介は身を乗り出した。
「だが――」
ちゅっ。
鼻の頭にキスされて、宗介は固まった。脳《のう》の全機能《ぜんきのう》がフリーズして、一切《いっさい》の行動が不可能《ふかのう》になる。
「ふふ……」
さっと彼から離《はな》れると、かなめは何事《なにごと》もなかったかのように、一同へと叫《さけ》んだ。
「じゃあ行くわよ〜〜。爆破《ばくは》、爆破〜〜!」
『よくわからんけど、ゴー、ゴー』
一同が手を振《ふ》った。
「はい、ピン抜《ぬ》いた〜。えいっ、と投げる〜。みんな、伏《ふ》せて〜〜〜」
一同が従った。手榴弾《しゅりゅうだん》が床《ゆか》をころころと転がっていく。
ばぁんっ!
轟音《ごうおん》と共に、手榴弾が爆発《ばくはつ》した。衝撃波《しょうげきは》と破片《はへん》が、館《やかた》を震《ふる》わせる。窓《まど》ガラスが割れ、天井《てんじょう》の建材《けんざい》がばらばらと落ちてくる。
『たーまや〜〜〜〜っ』
一同は拍手《はくしゅ》した。
「ち、千鳥――」
「実はまだたくさんあるのら〜。伏せろ、伏せろ、伏せろ〜〜」
さらにいくつかの手榴弾を取り出し、かなめはそれをぽいぽいと、ホールのあちこちに放《ほう》りはじめた。
[#挿絵(img2/s07_131.jpg)入る]
●
早朝の六時ごろ。西荻窪から西へ向かった路上《ろじょう》にて――
「ここ、右折《うせつ》だったな!?」
「そうだ。右折だ!」
バイクの運転手――日下部《くさかべ》侠也《きょうや》に大声で聞かれて、サイドカーに座《すわ》る林水敦信は声を張《は》り上げた。ヘルメットをかぶっている上に、風も強いのでよく声が聞こえないのだ。
「それで!? まっすぐかよ!?」
「次の交差点の向こう。そこでいい!」
朝の住宅街の真ん中、古びた洋館の手前で、二人を乗せたバイクが止まる。小気味《こきみ》のいいエンジン音が消えて、あたりはにわかに『しん』っとなった。
「……泊《と》めてもらった上に、わざわざすまなかったな。感謝するよ」
ヘルメットを脱《ぬ》いでサイドカーを降《お》りると、林水は言った。
日下部は渋《しぶ》い顔でそっぽを向くと、ばつが悪そうに言った。
「礼なんか言うな。気持ち悪ィんだよ。……で? これがいまの敦信ん家《ち》か」
「そうだ」
日下部はしげしげと、林水の住む下宿の全景を眺《なが》め回し、鼻を鳴《な》らした。
「なんだよ。汚《きた》ねえけど、立派な屋敷《やしき》じゃんか。『あそこにいると、風邪《かぜ》をこじらせる』だなんて言ってたから、よっぽどひどいボロアパートだと思ってたのによ」
「嘘《うそ》は言っていない。理由をつけては、毎晩のように酒宴《しゅえん》を開いて、大騒《おおさわ》ぎする住民ばかりでね。油断《ゆだん》すると部屋にまで踏《ふ》み込んでくるのだよ。彼らに抵抗《ていこう》するには、ある程度の気力が必要なのだ」
「ふーん……」
「風邪もだいぶよくなった。きょうの学校|行事《ぎょうじ》にも出席できそうだ。もっとも今夜からは、また住民たちの酒宴の誘いから逃《に》げ回る毎日だがな」
「やれやれ。おめえも大変だな」
「なに。社会勉強だよ。それより、すこし寄っていくかね?」
林水が誘うと、日下部侠也はすこしの間考え込んでから、肩《かた》をすくめた。
「……そうだな。ちょうどいいから、昔|貸《か》してたCD返せ」
「CD?」
「知子《ともこ》から又借《またが》りしてたアルバムだよ」
「…………。又貸しだったのか……」
二人はバイクを離《はな》れて、その洋館へと向かった。門をくぐって玄関《げんかん》までくると――
両開きの扉《とびら》が、ばらばらになって庭に散乱《さんらん》していた。煤《すす》だらけの破片《はへん》から察するに、内側から爆破《ばくは》かなにかでもされたように見える。
「なんだ?」
「わからん」
眉《まゆ》をひそめて、二人はがらんどうの戸口をくぐった。
「…………」
玄関ホールは、惨憺《さんたん》たるありさまだった。
つぶれたテーブル。粉々になったシャンデリア。大穴《おおあな》の空いた壁《かべ》。天井《てんじょう》や床《ゆか》の、無惨《むざん》な弾痕《だんこん》。室内には硝煙《しょうえん》と酒の匂《にお》いが、むんむんと立ちこめていた。
そして、ホールや階段のあちこちに横たわる、人、人、人……。
死屍累々《ししるいるい》である。ときおりだれかが苦しげなうめき声をあげ、それがホール内で虚《うつ》ろに反響《はんきょう》した。
「苦しい……苦しいよー……」
「水……水をくれ……」
いつもの住民のほかに、かなめたち生徒会の役員が、折《お》り重なるようにして倒《たお》れているのが見えた。
「はて……一体、なにがあったのか」
「第三次世界大戦か……?」
玄関に立ちつくし、林水たちはつぶやいた。
けっきょく、その日の芸術|鑑賞《かんしょう》に出席した生徒会役員は、林水敦信ただ一人だった。欠席者は全員『風邪《かぜ》』という扱《あつか》いになったが、実際《じっさい》は単なる二日酔《ふつかよ》いである。
件《くだん》の演出家は、実際《じっさい》にはそれほど物騒《ぶっそう》な人物ではなかった。噂《うわさ》に尾《お》ひれ背びれが付いただけだったようだ。
ちなみに。
昼|頃《ごろ》になんとか復活《ふっかつ》したかなめは、昨夜《さくや》の記憶《きおく》をほとんど失っていた。彼女はアパートの惨状《さんじょう》を見て大激怒《だいげきど》すると、『またやったわね!?』と宗介を蹴《け》たぐり回した。
宗介も記憶が曖昧《あいまい》だったので、なにか釈然《しゃくぜん》としないものを感じながらも、その折檻《せっかん》を甘《あま》んじて受け入れた。なぜか、その叱責《しっせき》はえらく理不尽《りふじん》な気がしたが――まあ、いつものことである。
ただ、洋館の被害《ひがい》はさておいても、彼には一つだけ腑《ふ》に落ちないことがあった。
すなわち――
ぼんやりと鼻の頭に残る、この甘い感覚はなんだろう……?
[#地付き]<ミイラとりのドランカー おわり>
[#改丁]
義理人情《ぎりにんじょう》のアンダーカバー
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その日の昼休み。
千鳥《ちどり》かなめと常盤《ときわ》恭子《きょうこ》は、天気が良かったので屋上《おくじょう》で昼食をとることにした。昨夜《さくや》テレビで観《み》たK1の試合について、熱い論戦《ろんせん》を繰《く》り広げながら屋上に出ると――
クラスメートの風間《かざま》信二《しんじ》が、四、五人の男子生徒たちに取り囲まれていた。
「おや……?」
着崩《きくず》した制服に、スキンヘッドやらパンチパーマやら。けばけばしいアクセサリーをごっそり付けた者や、頬《ほお》にタトゥーを入れた者。
この陣代《じんだい》高校では少数派の、ヤンキー生徒たちである。
「あ、あの……壊《こわ》さないでね。それ、高かったんだ。一生懸命《いっしょうけんめい》バイトして……」
見事《みごと》なまでの気弱な声で、信二は男たちに哀願《あいがん》する。見れば愛用の一眼《いちがん》レフを奪《うば》われ、好き勝手《かって》にいじり回されている様子だ。
「るっせーよ、心配すんな」
「ケチくせえこと言ってんじゃねえって」
「壊れたら『写るンです』でも買ってやるよ」
その生徒たちは遠慮会釈《えんりょえしゃく》なく中庭の景色《けしき》をバシャバシャと撮《と》りまくる。信二はその様子を、はらはらしながら見守るばかりだ。
「ど、どうする、カナちゃん……?」
「放《ほ》っておけばいいんじゃない? バシっと断《ことわ》らない彼がいけないんだし」
「それは、そうかもしれないけど。でもなんか、気になっちゃうよ」
「……まあ、昼飯がマズくなるのは確《たし》かよね」
かなめはため息をつくと、信二を取り囲む男たちの方へと歩き出した。
「こらこら、そこ」
「ああ? なんだよ」
カメラのレンズをべたべたと触《さわ》っていた男が、軽薄《けいはく》な笑顔《えがお》で言った。いまどき珍《めずら》しいリーゼント。中肉中背の平凡《へいぼん》な顔つき。
あまり話したことはなかったが、かなめはその相手の名前を覚えていた。たしか前田《まえだ》英二《えいじ》とかいう二年生だ。
「持ち主が困ってるじゃないの。返してあげなさいよ」
すると前田は、「はっ!」と笑い、信二の肩《かた》に腕《うで》を回した。
「困ってる? まさか! そんなことねえっスよ。なあ、風間君よ?」
「え……え? いや、その……うん」
「そうだろ? あ? ああ!?」
「う……うん」
にんまりと、前田はかなめを睨《ね》め据《す》える。
「そういうわけだよ。わかったらあっちいきなって。副会長だか副腎皮質《ふくじんひしつ》ホルモンだか知らねえけどよ、いちいちうるせーんだよ」
「や、ヤンキーの分際《ぶんざい》で妙《みょう》に難《むずか》しい言葉を知ってるわね……」
「それとも何? ひょっとしてこいつで撮って欲《ほ》しいわけ?」
前田が腰《こし》を低くしてカメラを構《かま》える。
「いいっスよ、さっさと脱《ぬ》ぎなよ。ただし一枚一枚、気分たっぷりに頼《たの》むぜぇ」
げらげらと笑う周囲《しゅうい》の不良たち。かなめは憮然《ぶぜん》としていたが、ふっと微笑《ほほえ》むと、こう言った。
「いいわよ。きれいに撮ってね」
「…………?」
「ほらほら。なにやってんの。一回きりよ」
「う……」
制服のボタンを一つ外す。前田は意表《いひょう》をつかれながらも、カメラを構えたまま、ついつい前のめりになった。すかさずかなめはカメラのレンズ部分に、『がっ!』と膝蹴《ひざげ》りを叩《たた》きこむ。鼻の頭を強打《きょうだ》して、前田がくぐもったうめき声をあげた。
「ふははは。引っかかったわね」
「っ……なにしやがる!」
「CMでやってるでしょ。『セクハラには血の報復《ほうふく》を。公共広告|機構《きこう》です』」
「そんな好戦的《こうせんてき》なCMがあるかっ!」
前田がかなめにつかみかかろうとしてきた。彼女はぬっと伸《の》びてきた手をひらりとかわし、小気味《こきみ》のいいフットワークを見せる。いかにもK1っぽく拳《こぶし》を構え、彼女は不敵《ふてき》に言った。
「ちょうどいいわ。見てなさい、キョーコ。きのうの第三ラウンドを、ここに再現《さいげん》してあげるから」
「無理《むり》だよ、カナちゃん……!」
実際《じっさい》、無理だった。
直後に左右から飛びかかられて、かなめはあっさりと男たちに捕《と》らえられてしまった。
「くっ……変だわ。いまのあたしには、サップ様の生霊《いきりょう》が乗り移《うつ》ってるはずなのに」
「……いるんだよね。格闘技《かくとうぎ》を観戦《かんせん》した後、自分まで強くなったと信じ込む人……」
ついでにまとめて捕《つか》まった恭子が、目の幅涙《はばなみだ》をぶわーっと流す。
「やってくれたよな、姉ちゃん。ここはキツ〜いお灸《きゅう》をすえてやんねえと」
前田が言った。
「おー、やっちまえ前田ァ」
「俺が許す。やれ、やれ!」
ほかのヤンキーたちが、揃《そろ》って下卑《げび》た笑い声をあげる。野次《やじ》に後押《あとお》しされて、前田はさらに下劣《げれつ》な笑《え》みを浮《う》かべたが――なぜか一筋、こめかみに小さな脂汗《あぶらあせ》を浮かべた。
かすかな躊躇《ちゅうちょ》。かすかな焦燥《しょうそう》。
そうしたあれこれを隠《かく》すかのように、前田はにやにやと笑ってみせる。
「…………。うっす。せっかくカメラがあるんだし。ぱ……パンチラ写真くらいは撮《と》らせてもらおうかな。こう、グッとくるような」
「や、やめなさいよっ! っていうか、なんて志《こころざし》の低いヤンキーなの、あんたたち!?」
「じゃあ覚悟《かくご》しな。お……おとなしく、俺の青春の一ページになれっ!」
「きゃああ〜〜〜〜っ!」
前田がカメラを両手で構え、地を這《は》い飛ぶ燕《つばめ》のようにかなめへと迫《せま》る。と――
どかんっ!!
すさまじい閃光《せんこう》と爆音《ばくおん》が、前田とかなめの間で炸裂《さくれつ》した。一同は残らずその場でひっくり返り、コンクリートの床《ゆか》に這いつくばる。
閃光|手榴弾《しゅりゅうだん》の爆発であった。
『この区域での戦闘《せんとう》は禁止《きんし》されている』
もくもくと立ちこめた煙《けむり》の中から、拡声器《かくせいき》を手にした男子生徒が一人、姿《すがた》を現した。
むっつり顔にへの字口。相良《さがら》宗介《そうすけ》である。
『こちらは安全|保障《ほしょう》問題担当・生徒会長|補佐官《ほさかん》だ。校内の治安《ちあん》・風紀《ふうき》を預《あず》かる身として、君たちの乱暴狼藉《らんぼうろうぜき》を座視《ざし》するわけにはいかない。ただでさえ職員《しょくいん》会議で、屋上の立ち入り制限《せいげん》が検討《けんとう》されているこの時期《じき》だ。無分別《むふんべつ》な行動は控《ひか》えて、ただちに――』
「無分別はあんたよっ!!」
すぱんっ!
失神《しっしん》していた一同の中で、まっさきに回復《かいふく》したかなめが、天高く舞《ま》い上がり、どこからともなく取り出したハリセンを振《ふ》り下ろした。
「…………。また見逃《みのが》した」
「やかましいっ!!」
力いっぱい怒鳴《どな》りつける。
「せめて『待て!』とか『やめろ!』とか叫《さけ》ぶ程度《ていど》にしなさいよ! そもそも被害者《ひがいしゃ》のあたしたちまで巻き込んでくれて――あんたには良識《りょうしき》って概念《がいねん》がないのっ!?」
「被害者? 先制攻撃《せんせいこうげき》をかけたのは君のように見えたが……」
「そこまで見といて、ギリギリまで隠《かく》れてんじゃないわよっ!!」
かなめが宗介を蹴《け》たぐり倒《たお》していると、前田たちがよろよろと起きあがった。
「む、むぅ〜〜ん……」
「ふん。ようやくお目覚《めざ》め? デカいなりして、けっこうヤワなのね」
『なんだと、コルァあ!?』
力いっぱいスゴんでみせる前田たち。そこに、新たな声がした。
「よしな」
一同が振《ふ》り返る。屋上の出入り口に、一人の女子生徒が立っていた。
大柄《おおがら》な女だ。身長は一八〇センチくらいはあるだろうか。ソバージュの黒髪《くろかみ》に、美人だが大味《おおあじ》な顔だち。どことなく、日本人|離《ばな》れした風貌《ふうぼう》だ。いちおう、女子の制服を着ていたが、スカートの下には黒いスパッツをはいており、リボンタイも付けていない。
「あ、阿久津《あくつ》さん……」
ヤンキーの一人がその名を口にした。
その大女のことは、かなめも知っていた。彼女の名前は阿久津|万里《まり》という。近隣《きんりん》一帯のヤンキー連中を束《たば》ねる女傑《じょけつ》で、以前に一度、転校して間もないころの宗介とモメたことがある。
「万里ちゃん……?」
かなめが言った。
「ふん。馴《な》れ馴れしく呼《よ》ぶんじゃないよ」
「あ、そう。じゃあ、阿久津さん。あなたって、うちの生徒だったの?」
「そうだよ。悪いかい」
「だって、全然校内で見かけないから」
万里は肩《かた》をすくめた。
「旅に出てたんだよ。あちこちとね。バイトも忙《いそが》しかったし。どうせあたしはダブリだから、残りの単位は楽勝だし」
「そうだったの。それにしても――」
万里の制服姿をしげしげと見やってから、かなめは感嘆《かんたん》のうなり声をあげた。
「陣高《ジンコー》の制服着ると、万里ちゃんもけっこうかわいいね」
あっけらかんとしたかなめの言葉に、ヤンキーたちが戦慄《せんりつ》する。
「こ、この女……?」
「阿久津さんがガッコに来たがらない最大の理由を、あっさりと……!」
「阿久津さんがダブったのは、それが原因《げんいん》なんだぞ、おい!?」
好き勝手な手下どもの言葉を聞いても、阿久津万里は拳《こぶし》をわなわなと震《ふる》わせているだけだった。彼女はゆっくりと深呼吸《しんこきゅう》をして気を沈《しず》める。
「まあいいさ。それより前田ァ……」
そう言って、カメラを握《にぎ》った前田英二たちをじろりとにらみつける。
「みっともねえ真似《まね》はやめな。そこの戦争バカはともかく、女一人に雁首《がんくび》そろえて。もうちょっとバシッとしろってんだよ。バシッと」
「で、でもよぉ……。いてっ!」
万里に後頭部をごちんとやられて、前田が身をすくめた。
「ナンパ野郎《やろう》は嫌《きら》いなんだよ。久しぶりに様子を見に来てみれば……。一回、気合い入れ直してやろっか? あ?」
「す、すんません……」
「ったく」
前田の手からカメラを奪《うば》うと、万里はそれを信二へと放《ほう》ってよこした。
「あ、ありがとう……」
万里は鼻を『ふん』と鳴《な》らし、宗介を一瞥《いちべつ》してから、屋上を去っていった。前田たちもあたふたとそれに続く。
取り残されたかなめたちは、しばしの間、ぽかんとしていた。
「やっぱ、すごいわねー。あのヤンキーどもが、あんな従順《じゅうじゅん》に。よほど万里ちゃんのことが恐《こわ》いのかな……」
「かつては、な。だが長期にわたってこの学校を留守《るす》にしていたのだ。かつての地位を、今後も維持《いじ》できるかどうか……」
野球の解説者《かいせつしゃ》よろしく、宗介が言った。
「彼女が陣高の生徒だって知ってたの?」
「当然《とうぜん》だ。阿久津万里の情報は、複数《ふくすう》のルートを通じて入手している。弟の芳樹《よしき》を『光る超電磁《ちょうでんじ》ベーゴマ』で買収《ばいしゅう》したほか、さらに――」
そこまで言って、宗介はぴたりと口を閉《と》ざした。その場に棒立《ぼうだ》ちしていた恭子と信二を眺《なが》めてから、
「あとは機密事項《きみつじこう》だ」
と、取って付けたように言う。
「なによ。その妙《みょう》に含《ふく》みのある物言《ものい》いは」
「気にするな」
「気になるわよ。ったく……」
そう言いつつも、かなめはそれ以上宗介を追及《ついきゅう》しようとはしなかった。
宗介の言った『機密事項』をかなめが知ったのは、それから数日後のことだった。
その放課後《ほうかご》、かなめと宗介は生徒会長の林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》に呼び出された。林水は商店街《しょうてんがい》のカラオケ屋のサービス・チケットを二枚差し出し、こう言ったのだった。
「急ぎの用件だ。いますぐ、君たち二人でこのカラオケ屋に行きたまえ」
「なぜです?」
「以前から生徒会が重宝《ちょうほう》していた協力者が、身の危険《きけん》を訴《うった》えてきた。彼はいま、この店の八号室で待っている。保護《ほご》して、事情《じじょう》を聞き、彼の身の安全を確保《かくほ》してもらいたい」
「身の危険って……だれかに狙《ねら》われてるんですか、その人?」
『協力者』というくだりを訝《いぶか》りながらも、かなめは言った。
「それがよく分からんのだよ。なにやら興奮《こうふん》している様子でね。どうも電話口では要領《ようりょう》をえないのだ」
「だったら、センパイが行ってくれはいいじゃないですか。近所なんだし」
「それは別に構《かま》わんのだが――」
林水は腕組《うでぐ》みすると、自身の執務机《しつむづくえ》にうずたかく積《つ》み上げられた書類の山を見やった。
「――多自連《たじれん》の加盟校《かめいこう》に送るこの書類を、君が今日中に処理《しょり》してくれるかね?」
「行ってきます……」
「けっこう。……そもそも、人目に付く場で私と『彼』が顔を合わせるのは、いろいろと問題がある。表向きは、何ら付き合いがないことになっているからな」
「はあ……」
林水は宗介に目配《めくば》せした。
「……相良くん、例の彼だ。よろしく頼《たの》むよ」
「はっ。お任《まか》せください、会長|閣下《かっか》」
ため息をつくかなめの横で、宗介がぴしりと直立不動《ちょくりつふどう》の姿勢《しせい》をとった。
さっそく二人は、駅前商店街のカラオケ屋『ばるばる』に、いそいそとおもむいた。
「なんだってまた、こんなカラオケ屋に」
「人目を避《さ》けてのことだ。彼が生徒会関係者と接触《せっしょく》しているところを見られると、なにかと厄介《やっかい》だ」
「ソースケ。さっきの口ぶりだと、相手のこと、知ってるみたいね。だれなの?」
「すぐわかる。君も一応は面識《めんしき》があるぞ」
「…………?」
エレベータを使って四階へ。店内の八号室にとことこと向かう。防音《ぼうおん》のガラス戸を開けて中に入ると――
前田英二が一人で座《すわ》っていた。
先日、かなめと一悶着《ひともんちゃく》を起こしたあのヤンキーである。
「お、遅《おそ》かったじゃねえか……」
そわそわとしながら、前田が言った。
「待たせたな、前田。もう心配するな。察《さっ》するに、素性《すじょう》が割《わ》れたらしいが……」
「ああ。このままだと、オレは消される。なんとかしてくれ……!」
知った仲のように話す二人を見て、かなめは眉《まゆ》をひそめた。
「この人なの? 協力者って」
「肯定《こうてい》だ。正確には、会長閣下が不良グループに潜《もぐ》り込ませておいた、潜入捜査官《せんにゅうそうさかん》だ。悪質《あくしつ》な問題行動――一般《いっぱん》生徒への暴行《ぼうこう》やいじめ行為《こうい》、女子への狼藉《ろうぜき》などを早期《そうき》に察知《さっち》し、防止《ぼうし》するために――」
饒舌《じょうぜつ》に解説する宗介の横で、かなめは頭を抱《かか》えて突《つ》っ伏《ぷ》した。
「あんたたちって……あんたたちって……」
「なにか問題が?」
「大ありよ! アメリカの麻薬《まやく》捜査官じゃあるまいし。ヤンキーの中にスパイを送り込む生徒会が、どこの世界にあるっていうの!?」
「これは異《い》な事を。以前、君が廃工場《はいこうじょう》に囚《とら》われたときにも、前田のもたらした情報《じょうほう》が、大きな助けになったのだぞ? 俺《おれ》は会長|閣下《かっか》の慧眼《けいがん》に、いたく感銘《かんめい》を受けたものだが……」
「おう。ちょっとは感謝してくれよな」
前田が横柄《おうへい》な声で言った。
「こないだだって、乱暴《らんぼう》は避《さ》けてパンチラ写真でお茶を濁《にご》そうとしたんだぜ? 俺の苦労も、ちったあ察《さっ》して欲《ほ》しいね」
「う……そうだったの。でも、なんだってまたそんな仕事を引き受けたわけ?」
「林水さんは中学時代の先輩《せんぱい》なんだよ。いろいろと世話《せわ》になった恩《おん》もあるからよー。こうして大役を務《つと》めて来たんだぜよ」
「はあ」
「もともとは進学校育ちの、ヤンキー世界とは縁《えん》もゆかりもなかったオレだけどよ。一念《いちねん》発起《ほっき》して高校デビューを果《は》たしたわけよ。いまや言葉|遣《づか》いや立ち居振《いふ》る舞《ま》い、どれもこれも立派《りっぱ》なヤンキーってわけ。わかる?」
そう言ってふんぞり返り、チョコ・シガレットをくわえてふーっと息を吐《は》く。
「昔はおとなしい普通《ふつう》の子だったろうに……」
「けっ。うるせえよ」
「それで、前田。『危険が迫《せま》っている』という話だったな。事情を説明してくれ」
「そ……そうだった! ヤバいんだよ! 助けてくれよっ!!」
いきなり思い出したように恐慌《きょうこう》し、前田は身をよじらせて訴《うった》えた。
「落ち着け。順を追って説明するんだ」
「れ、連中にバレちまったみたいなんだよ。オレの正体が」
「なんだと? だが情報の漏洩《ろうえい》はありえない」
「オレのミスだよ。ついうっかり不注意で、自分のカバンの中身を、阿久津さんに見られちまったみたいなんだ……!」
「それなら心配は要《い》らん。作戦には細心の注意を払《はら》っている。エージェントだと分かるような物品《ぶっぴん》――盗聴器《とうちょうき》や小型カメラなどは、一切《いっさい》持たないことにしているはずだぞ」
「それが……それがよぉ!」
なおも前田は取りすがる。
「なにか、まずいものでも入っていたのか?」
「そ、そうなんだよ。あれを見られたら、オレがヤンキーじゃねえことが絶対《ぜったい》バレる。頭のいい阿久津さんのことだ。まず間違《まちが》いねえよ。ヤバい」
「なにを鞄《かばん》に入れていたんだ」
「『まぶらほ』の最新刊」
「…………」
宗介はしばし絶句《ぜっく》してから、『くそっ』と悪態《あくたい》をついた。
「なんて愚《おろ》かな真似《まね》を。そんなものを持ち歩く不良がいるものか!」
「発売日だったんだよ……!」
「それくらい我慢《がまん》しろ! 自分の命に関わる問題だぞ!?」
きびしく叱責《しっせき》する宗介と、必死に抗弁《こうべん》する前田。
その傍《かたわ》らで、かなめは両肩《りょうかた》をがっくりと落としていた。
「とにかく、これはまずい状況《じょうきょう》だ」
ぜいぜいと肩を大きく上下させ、宗介はうつむいた。
「対策《たいさく》を考えなければ。阿久津たちのような人間が、裏切り者をどうするかは明らかだ」
「ねえ、ちょっと。そこまで焦《あせ》らなくてもいいんじゃないの? ちょっと持ち物を見られただけでしょ? それだけでスパイだなんて、分かるわけないわよ」
「千鳥。君は甘《あま》い」
眼光《がんこう》鋭《するど》く宗介は言った。
「かつて俺の部隊が潰《つぶ》した、あるヘロイン王は、部下の一人をただ『ふるまいが農村出身のチンピラらしくない』というだけの理由《りゆう》で処刑《しょけい》した。当局の潜入捜査官《せんにゅうそうさかん》を恐《おそ》れ、疑心暗鬼《ぎしんあんき》になっていたのだ」
「はあ」
「前田とて例外ではない。おそらく阿久津は、まず彼を厳《きび》しい拷問《ごうもん》にかけるだろう。生爪《なまづめ》を剥《は》ぎ、傷口に塩を塗《ぬ》りこめ、麻酔《ますい》なしで奥歯を引き抜《ぬ》き(以下|自粛《じしゅく》)」
がちがちと歯を鳴らす前田の前で、宗介は饒舌《じょうぜつ》に、ありとあらゆる残忍《ざんにん》な拷問術を並べ立てていった。彼の顔が、みるみる青くなっていく。いまにも卒倒《そっとう》せんばかりだ。
「――こうして、望みの答えが出てくるまで、徹底的《てっていてき》にいたぶり続けるのだ。暗黒社会では証拠《しょうこ》など必要ない。いまや前田の命は、風前《ふうぜん》の灯火《ともしび》だ」
「う……ひ……や、やだよ……」
「困ったわねぇ……」
のんきな声でぼやくかなめ。渋面《じゅうめん》の宗介。泣き出す寸前《すんぜん》の前田。重苦しい沈黙《ちんもく》が、カラオケ部屋を支配《しはい》する。
やがて宗介が言った。
「……こうなったら、やむをえん。急いで脱出《だっしゅつ》の準備《じゅんび》をするんだ」
「脱出って……どういうことだよ?」
当惑《とうわく》して前田がたずねる。
「転校だ。どこか遠く……阿久津たちの報復《ほうふく》の手が届《とど》かない地域《ちいき》におまえを逃《に》がす。俺のつてを紹介《しょうかい》してやろう。パキスタン、カンボジア、コロンビア――好きな国を選べ」
「物騒《ぶっそう》なトコばっかじゃねえか!?」
「そう言うな。地雷《じらい》や爆弾《ばくだん》テロは、気を付ければなんとかなる。自然は豊かだし、夜空も美しい。それに、なにより物価《ぶっか》が安いぞ」
「ううっ、なんてこった……」
気休めにもならない気休めを、滔々《とうとう》と宗介が聞かせていると、前田の懐《ふところ》から軽快《けいかい》な電子音が鳴り響《ひび》いた。携帯《けいたい》電話の着メロだ。
「…………。阿久津さんからだ」
液晶画面《えきしょうがめん》をにらみ、前田はうめくように言った。
『前田ァ。いま、どこにいる?』
阿久津万里が言った。
「え……いえ。商店街っス」
『そうかい。昼休みにいきなり姿消したから、帰っちまったのかと思ったよ。……それで? 商店街の、どこにいるんだよ』
「その。カラオケ屋のばるばる≠チス」
『だれかいんのか、そこ』
「いえ! いないッス。レパートリー増やそうと思って。ちょっと一人で練習を……」
『ふーん……』
電話の向こうの阿久津万里の声は、いつもと変わらないように聞こえた。いや、こころなしか、空々しい響《ひび》きがあるような気もする。なにか腹《はら》に一物隠《いちもつかく》し持ってるときの声色《こわいろ》だ。
『おまえ、いますぐ出てきな。これからそっち行くから』
「えっ!?」
『あたしら、すぐ近所にいるんだよ』
「あ、あの。ですがね、ボク……じゃなくてオレ、さっき入ったばかりで。その――」
『出てこい、つってんだよ。コラ』
にわかにドスのきいた声になる。
『捜《さが》してたって言ったろ? フケるんじゃねえぞ? マジ殺すよ?』
「は、はい……。それじゃ」
電話を切ると、かなめがたずねた。
「なんて言ってたの?」
「ヤバいよ。いますぐこのビルの前まで来るって……! どうすりゃいいんだ。お、オレ、殺されちまうよぉっ!?」
前田が宗介にすがりつく。宗介は険《けわ》しい顔つきで自分の腕時計《うでどけい》をにらんでから、
「あわてるな。これは一見、苦境《くきょう》だが、裏を返せば好機《こうき》でもある」
と言って、身を乗り出した。
「?」
「こうしよう。阿久津たちがおまえを拷問《ごうもん》しようとする経緯《けいい》を、隠しマイクで録音《ろくおん》するのだ。本格的な暴力の前に俺が奴《やつ》らを制圧《せいあつ》し、それら悪事《あくじ》の証拠《しょうこ》を職員会議に提出《ていしゅつ》する。会長|閣下《かっか》の力で、生徒会側からも圧力《あつりょく》をかければ、連中の退学《たいがく》さえ可能《かのう》だろう」
「…………。な、なるほど」
「連中を退学させずとも、脅《おど》しの材料にはなるはずだ。それで奴《やつ》らはおまえに手が出せなくなる」
「で、でもよ……。そこまでやるのも、なんか……」
どこか後ろめたそうな様子で、前田はうつむいた。
「阿久津さんたちだって、普段《ふだん》はいい連中なんだよ。そりゃあ乱暴なトコはあるけどよ、なんていうのか……」
彼の弱気な言葉に、宗介は『いまさらなにを言うのか』と渋面《じゅうめん》を作った。一方でかなめは――むしろ前田のその反応を、興味《きょうみ》深そうな目で見つめていた。
「どうした、千鳥?」
「ん? 別に……。ちょっと」
「とにかく、実行だ。これを持っていけ」
宗介は録音|機能《きのう》付きのMDウォークマンと、小型の発信機《はっしんき》を前田に渡《わた》した。
「MDは最初から録音しておくんだ。それから、危険が迫《せま》ったら発信器の赤いスイッチを押《お》せ。すぐに俺が突入《とつにゅう》し、おまえを救出《きゅうしゅつ》してやる。いいな?」
「でも……」
「ほかに方法はない。学校生活を捨《す》てたくないだろう」
「ん……。わ、わかったよ」
前田は力なく答えた。
雑居《ざっきょ》ビルの正面から、前田英二が一人で出ていく。その後ろ姿を、宗介とかなめは物陰《ものかげ》からひっそりと見守っていた。
ビルの前で待っていた阿久津万里が、前田の首にがっしと腕《うで》を回し、引きずるようにして彼を連れていく。万里の周囲の取り巻きたちは、なにか含《ふく》みのある笑いを浮《う》かべて、ぞろぞろと彼女に付いていく。
確かに、なにか企《たくら》んでいる風だった。
万里たちの姿が見えなくなってから、かなめがぽつりと言った。
「ホントに大丈夫《だいじょうぶ》かしら……?」
「問題ない。こうして俺が付いているのだ。前田が拷問《ごうもん》にかけられるとしても、指の一本か歯の一本で済《す》むことだろう」
「…………」
「それよりぬかるなよ、千鳥。俺たちの尾行《びこう》を感づかれることが、いまは一番問題だ」
電柱《でんちゅう》の陰に隠《かく》れ、しごく真面目《まじめ》な顔で言った宗介を、かなめはため息|混《ま》じりに眺《なが》めてから言った。
「やっぱり、あたしは付いていかない方がいいかもね」
「なに?」
「だって、あたしケンカとかそういうの、基本的《きほんてき》には嫌《きら》いだもの。それに……退学《たいがく》とかを脅《おど》しにするなんて。ちょっとやりすぎだと思う。荒事《あらごと》はあんたに任《まか》せるわ。いや、皮肉とかそーいうのじゃなくて」
「…………」
「と、いうわけで。あんまり早まるんじゃないわよ。あたしはガッコに戻《もど》るから」
宗介を置き去りにして、かなめはその場を足早に立ち去った。
万里たちは前日をがっちりと取り囲み、有無《うむ》を言わさず商店街の北の方へと引き連れていった。ヤンキーのふりをして入学してから幾年月《いくとしつき》。万里たちからこんな扱《あつか》いを受けたのははじめてのことだった。
「あ、あの……?」
「うるせえ。だまって付いてきな」
ぶっきらぼうに万里が言う。周囲の取り巻きたちも、彼女に追従《ついしょう》するように薄笑《うすわら》いを浮かべるだけだった。
「いったい、どういうわけで? ねえ、姐《あね》さん。オレ、なんかマズいことしたっスか? こういうのって、その、あの」
すると万里が一度その場に立ち止まり、薄笑いを浮かべて彼の瞳《ひとみ》をのぞき込んだ。
「おまえ、マジで言ってんのかよ?」
「へ……?」
『くっ……ひーひっひっひっひ』
取り巻きたちが肩《かた》を震《ふる》わせる。これからの前田の運命を見透《みす》かしたような、陰湿《いんしつ》な笑い声だった。
「とんでもねえマヌケだな、おまえ」
「さすがに俺も呆《あき》れたぜ?」
「前田クンよォ。なんてのか、おめでたい奴《やつ》だね、おまえは……! クック……」
一同はどす黒い嬌声《きょうせい》をあげると、ふたたびのしのしと歩き出した。商店街の一角にある、地下のパブへとぞろぞろ向かう。逃《に》げることなど、一切《いっさい》許さない雰囲気《ふんいき》だ。
階段を下りるその前に、前田は確信《かくしん》した。
(殺される……!)
かつてこの地下のパブで、いきがった空手部の男を、万里が再起不能《さいきふのう》なまでに叩《たた》きのめした場面を、前田は見たことがあった。彼女はただの大女ではないのだ。『大導脈流《だいどうみゃくりゅう》』と呼ばれる総合武術《そうごうぶじゅつ》を修得《しゅうとく》した、恐《おそ》ろしいまでの喧嘩《けんか》上手なのである。だからこそ、いままで女の身で近隣《きんりん》一帯の不良たちを取り仕切《しき》ってこれたのだ。
まさか。
人体の急所を熟知《じゅくち》した万里が、あの地下で残忍《ざんにん》な拷問《ごうもん》を……?
もはや迷うことはなかった。前田は懐《ふところ》にしまった発信器の赤ボタンを、脂汗《あぶらあせ》の浮《う》かぶ親指でぐいっと押《お》し込んだ。
万里たちに小突《こづ》かれるようにして、前田は地下のパブに入っていった。
「ひっひっひ……。ここなら、いくら騒《さわ》いでも警察《けいさつ》は来ないぜぇ……? 貸《か》し切《き》り状態《じょうたい》だからな……」
ヤンキーの一人が言う通り、暗い店内に普通《ふつう》の客は見当たらなかった。彼らと同じ類《たぐい》の、ガラの悪い連中がたむろしているばかりだ。そのすべては、彼が見知った顔だった。
(なんてこった……)
前田は知っていた。この学校のヤンキー連中のOBがこの店のオーナーらしく、必要なときにはいくらでも人払《ひとばら》いができるのだ。ここでいくら助けを求めたとしても、その声が外に届《とど》くことは、決してない。
もうおしまいだ。
彼はそう覚悟《かくご》し、歯を食いしばった。錯乱《さくらん》の一歩手前まで追いつめられ、悲痛《ひつう》な叫《さけ》び声が漏《も》れそうになる。
そのとき――一人がこう叫んだ。
「ヒュ―――ッ!! 前田英二くん! お誕生日《たんじょうび》、おめでとぉ〜〜〜〜っ!!」
滝のような拍手喝采《はくしゅかっさい》。鳴り響《ひび》くクラッカー。舞《ま》い散《ち》るテープと紙吹雪《かみふぶき》。
「え……?」
ばっと照明《しょうめい》が明るくなる。
見ればその飲み屋のテーブルの上には、大きなケーキや贅《ぜい》を尽《つ》くした料理の数々が、堂々と並んでいる。それまで気むずかしい顔をしていたヤンキーたちも、満面の笑《え》みを浮かべて彼をはやしたてた。
「へっへっへっ!! 驚《おどろ》いたろ!?」
「マジで自分の誕生日、忘れてたってツラだね、こいつは!」
「見ろよ! 完璧《かんぺき》にあっけにとられてるぜ!? ヒ―――ヒッヒッヒ……!」
誕生日。
確《たし》かにすっかり忘れていた。棒立《ぼうだ》ちで呆《ほう》けていた前田に、大きな包《つつ》みを抱《かか》えた一人が歩み寄る。
「さて! 前田がいちばん喜びそうなナニって言ったらよぉ、これしかねえよなぁ!? ほら、見てみろっての!」
ぽかんとして、包装紙《ほうそうし》を破《やぶ》く。
中から出てきたのは、背中の部分にドラゴンの刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》された、立派《りっぱ》な革《かわ》ジャンだった。
以前、彼らの前で、雑誌《ざっし》の広告を見て『俺ァ、この柄《がら》が最高だと思うね』と言い張《は》った品物だ。それを覚えていてくれたどころか――こうして、わざわざ自分にプレゼントしてくれるなんて……!
「感謝しろよ、前田ァ。みんなでカンパしたときよぉ。万札出したのは、阿久津|姐《ねえ》さんだけだったんだぜ?」
「ば、馬鹿野郎《ばかやろう》! 黙《だま》ってろって言ったじゃねえか!? やめろってんだよ、みっともねえ」
万里が赤面して叫《さけ》んだ。
「へへっ、なぁに照れてんだよぉ。前田のこと一番かわいがってるのは、他《ほか》ならぬ姐さんじゃァねえか」
「よ、よせってんだ。ちくしょう」
万里は人差し指の腹で、鼻の下を照れくさそうに掻《か》いた。
「あ、姐さん……」
万里がばしっと背中を叩《たた》く。
「ま、そーいうことだ。きょうはきっちり楽しんでくんな!」
『おおお〜〜〜っ!』
店内の一同がグラスをかかげた。
「うっ……」
もはや限界《げんかい》だった。両目から涙《なみだ》があふれ出す。視界《しかい》がにじみ、胸の中が熱くなった。
「……前田?」
「うっ……すんません、姐さん。すんません。すんません……!」
声をうわずらせて、彼は涙をぬぐった。
「おいおい。どーしたんだよ。前田よぉ」
「なにシメっぽくなってんだよ!?」
「おまえらしくねえぞ? まあ飲め、な?」
口々に言うヤンキーたち。
なんて――なんて気持ちのいい連中なんだろう。どうして自分は、彼らを権力《けんりょく》の側に売るような真似《まね》なんかを、これまでやってきたんだろう……!?
もういい。僕はこのまま、ヤンキーとして生きる。林水|先輩《せんぱい》には悪いが、生徒会の仕事はもう辞《や》める。ここでこのまま、みんなと一緒《いっしょ》にやっていくのだ。
そう決意した直後。
彼はふと思い出した。ついさっき、相良宗介に『助けて』コールを送ってしまったことを。
もう彼の助けは、必要ないのに。
いま、ここで宗介が踏《ふ》み込んできてしまったら……!
「ヤバい……」
「ん、どうした?」
「す、すんません。ちょっとオレ、さっきのカラオケ屋に忘れモンを――」
「ンなもん、あとにすりゃいいだろ」
「いや、でも。大事なモノなんです。えーと……そう! 親父《おやじ》の形見《かたみ》っす! 親父の残したキャッチャー・ミットで――」
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「おめーの親父さん、市役所の勤務《きんむ》じゃなかったか? 先週、草野球に出たとか出なかったとか……」
「あ、いやいや。お袋《ふくろ》の形見でした。お袋の残したペンダントで――」
「おめーのお袋、マルゼン・マートでパートしてるじゃねえか。おととい、レジにいるの見かけたぞ?」
「……すみません、兄の残した形見でした。兄は考古学者でして、エジプトのピラミッドから出土したモアイ像を――」
「いくらなんでも、それはねーだろ」
「はい。実は妹の形見です。オレには血のつながっていない妹がいまして、毎朝、想《おも》いのこもった弁当を作ってくれるんです。その弁当を――」
「それって、形見なのか……?」
「ううっ……」
そんなこんなで答えに窮《きゅう》し、前田がわなわなと震《ふる》えていると――
どかんっ!!
いきなりパブの出入り口が爆発《ばくはつ》した。
吹《ふ》き飛ぶ木材とガラス片。破片《はへん》の中、散弾銃《さんだんじゅう》を構《かま》えた男が踏み込んでくる。
他《ほか》でもない、相良宗介であった。
「全員、動くな!」
「なんだ、てめえはぁっ!?」
つかみかかろうとしたヤンキーに、宗介は容赦《ようしゃ》なくゴム弾《だん》を叩《たた》きこんだ。男は派手《はで》にひっくり返って、床《ゆか》の上に大の字になる。
「動くなと言った」
『て、てめえ……!』
いきり立つ男たちを手で制して、万里が一歩前に出た。
「なんの真似《まね》だい、相良?」
「簡単《かんたん》なことだ。前田英二を引き渡《わた》してもらおう。彼の身柄《みがら》は生徒会が保護《ほご》する」
宗介はぴたりと散弾銃を構えたまま、冷酷《れいこく》な声で言った。
「なにィ?」
「前田がこちらのスパイだと気付いたところまでは誉《ほ》めてやろう。だが、詰《つ》めが甘《あま》かったようだな」
「す、スパイだって……!?」
言ってしまった。あっさりと。
それまで慌《あわ》てるばかりだった前田は、万里たちの視線《しせん》が一身に集まってくると、がっくりと膝《ひざ》を落とした。
「マジかよ、前田?」
ヤンキーの一人が言った。
「え……。そ、それは……」
「嘘《うそ》だろ? それって最悪じゃねえか。ちがうって言ってくれよ、前田」
「ち、ちが――」
「違《ちが》わない」
宗介が力強く断定《だんてい》した。きっぱりと。
「前田はスパイだ。おまえたちと前田との親交は、あくまでかりそめのものでしかない。すべては我《わ》が校の治安《ちあん》のためだ。彼はおまえたちの秘密《ひみつ》を探《さぐ》るため、こうして――」
「いい加減《かげん》に……しなさいっ!!」
ぺらぺらと致命的《ちめいてき》な言葉を並べ立てる宗介を、疾風《しっぷう》のように現われたかなめが、後ろから蹴《け》り倒《たお》した。
「…………。千鳥。なにをしにきた」
かなめは腕組《うでぐ》みして『ふん』と鼻を鳴《な》らす。
「あたしなりに解決策《かいけつさく》を考えたのよ。とにかく銃《じゅう》を引っ込めなさい」
「…………?」
「センパイ。こっちです」
かなめが振《ふ》り返って言うと、店内に白い学生服を着た男が入ってくる。
「失礼するよ、諸君《しょくん》」
だれあろう、生徒会長の林水敦信だった。
「林水。こりゃ、どういうことだい」
万里が林水をにらみつける。険《けん》のあるその視線を、彼は涼《すず》しげに受け流して、よく通る声で言った。
「どうも状況《じょうきょう》が複雑《ふくざつ》になってきたようなのでね。私から直接話を付けにきた」
「?」
「あらためてお願いしよう。そこの前田英二を、われわれに引き渡《わた》してもらいたい」
「はん。それですんなりと渡すと思ってるのかい。それに――いま聞いた話じゃ、こいつが? スパイだって? 説明して欲《ほ》しいね」
前田の首根っこを鷲《わし》づかみにして、万里が言った。
「その通り。スパイだ」
林水までもがあっさりと認《みと》める。前田は絶望《ぜつぼう》した様子で、首をうなだれた。
だがその直後、林水はこう訂正《ていせい》した。
「――いや。スパイではないな。結果《けっか》として、我々《われわれ》は彼に裏切《うらぎ》られたのだから」
「なに?」
「……一か月ほど前のことだ。私は生徒会長として、君たちの素性《すじょう》をより詳《くわ》しく調べ上げようと思い立った。そのために、君たちの中の一人を抱《だ》き込んで、情報提供者《じょうほうていきょうしゃ》にしようと決めたのだよ。それが――」
「前田だってのか?」
「そうだ。当初は金品で買収するつもりだったが、前田英二は私の誘いをすべてはねつけた。愚《おろ》かな男だよ。『仲間』だの『仁義《じんぎ》』だの――くだらん概念《がいねん》を持ち出して、私の善意《ぜんい》を無視《むし》したのだ。そこで私は、この相良宗介を使うことにした」
林水は宗介の肩《かた》をぽんと叩《たた》いた。そこはかとなく、邪悪《じゃあく》な笑《え》みを浮かべて。
「『協力しなければ、この戦場帰りの男が、おまえの家族になにをするか分からんぞ』と言ってね。陳腐《ちんぷ》な手だが、前田には効《き》いたようだ」
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眼鏡《めがね》のブリッジを人差し指で押《お》し上げる。見事《みごと》なまでの悪役っぷりであった。
「てめえ。なんて汚《きた》ねえ真似《まね》を……」
「汚い? 冗談《じょうだん》はよしてくれたまえ。なにしろその男は、この私をものの見事に欺《あざむ》いてくれたのだからな」
「なんだと?」
「前田英二は私に協力するふりをして、生徒会の重要|機密《きみつ》を盗《ぬす》み出したのだ。私と校長との秘密《ひみつ》会談を盗聴《とうちょう》し、MDに録音《ろくおん》してな。そのMDが君たちの手に渡《わた》ると――さすがの私も困ったことになる」
鼻持ちならない経済《けいざい》ヤクザっぽさを、思い切り見せつけて、彼は前田を蔑《さげす》むように見つめた。
「前田くん。君にはまったく失望《しつぼう》したよ。この私を、最後まで出し抜《ぬ》けるとでも思ったのかね?」
「…………」
「わかったな。つまりは、そういう事情だ。その男を引き渡したまえ。……相良くん?」
「…………。了解《りょうかい》しました」
かなめからひそひそと、何かを耳打ちされていた宗介がうなずいた。散弾銃《さんだんじゅう》を構えたまま、前田へとのしのし近付いていった。その前に、万里が立ちふさがる。
「どけ、阿久津」
「そうは行かないよ。こいつは渡さねえ」
「どかねば、撃《う》つ」
「好きにしな。あたしはそんな豆鉄砲《まめでっぽう》じゃ、簡単《かんたん》にはブッ倒《たお》れないよ。よしんばあたしが倒れても、ほかの連中が代わりに立つ。仲間だからな。そうだろ、おめーら?」
万里が周囲を見渡すと、ヤンキーたちがはげしくうなずいた。
「そうだ、そうだ! とっとと帰りな!」
「前田は渡さねえぞっ!」
渦巻《うずま》く怒号《どごう》のただ中で、林水はしばらく黙《だま》っていたが、やがて片手をすっと挙《あ》げて、こう言った。
「いいだろう。わかった」
「ほう……?」
「私とて、無益《むえき》な争いは好まない。前田英二はあきらめよう。ただし、彼が持っているMDは渡してもらいたい。これだけは譲《ゆず》れん」
「はん。けっこうだよ。もともとテメエらのヒソヒソ話なんざ、興味《きょうみ》ねえさ。……渡《わた》してやんな、前田」
「え……?」
前田がきょとんとする。
「そのMDとやらさ。苦労して録《と》ったのかもしれねえけどよ、おめーの気持ちだけで充分《じゅうぶん》だよ。渡してやんな」
「あ、姐《あね》さん……。わかりました」
前田はいそいそと、ポケットからMDプレイヤーを取り出し、宗介に手渡した。宗介がそのプレイヤーを林水に渡す。
「うむ。確かに」
MDプレイヤーのイヤホンを耳にあてて、林水は言った。
「これで手打ちにしといてやるよ。今度、こんな汚《きた》ねえマネをしてみな? さすがのあたしも黙《だま》っちゃいないよ」
腰《こし》に手をやり、万里が言う。
「ふむ。どうやら……今回は私の負けのようだ。君たちの結束力《けっそくりょく》を過小評価《かしょうひょうか》していたのかもしれん」
「当然《とうぜん》さ。あたしらをナメるんじゃないよ」
「覚えておこう」
肩《かた》をすくめてから、林水はきびすを返した。宗介とかなめがその後に続く。
『ヒャッホ―――!!』
『ザマあみやがれっ!!』
『さあさあ、飲み直しだぁ――っ!!』
三人が店を出ていくと、背後からどっと歓声《かんせい》が沸《わ》き上がるのが聞こえた。
「これで一件落着《いっけんらくちゃく》だな」
夕方の商店街を歩きつつ、林水が言った。
「すみません、センパイ。なんか、汚《よご》れ役|押《お》しつけちゃって」
かなめが言った。
先刻《せんこく》の一幕《ひとまく》は、芝居《しばい》にたとえれば『構成《こうせい》・脚本《きゃくほん》:千鳥かなめ/演出・主演:林水教信』といったところだった。
ちなみに宗介はただの『手下A』である。
「なに。もともと私のまいた種《たね》だ。前田くんもそろそろ限界《げんかい》だろうとは思っていたしね。ちょうどスパイ役からの引退《いんたい》を勧《すす》めようと考えていた時期《じき》だったのだよ」
「そうだったんですか」
「中学時代の彼は、ほとんど友達のいない少年でね。ああして親しい友人達が出来たことを、私も素直《すなお》に喜んでいる」
「ふーん……」
「しかし千鳥。前田と阿久津たちとの信頼《しんらい》関係を、よく見抜《みぬ》いたな。君が気付かなければ、あんな芝居は思いつかなかったはずだ」
しきりに感心した様子で、宗介が言った。
「人間|観察《かんさつ》の力の差よ。人間観察の」
「人間観察……か?」
「そっ。たとえは、いまのあたしを見てみなさい。よく観察して」
宗介は目を細め、にこにこしながら歩くかなめをじっと観察した。
「ぱっと見て、なにがわかる?」
「一〇代後半の日本人女性。身長《しんちょう》は約一六五センチ、体重は約五〇キロ。非武装《ひぶそう》。軍に所属《しょぞく》した経験《けいけん》はない。戦闘訓練《せんとうくんれん》もなし。内臓《ないぞう》に疾患《しっかん》は抱《かか》えていない。出産経験《しゅっさんけいけん》も、おそらくなし。さらに――」
眉根《まゆね》にしわを作りはじめた彼女の顔を見て、宗介は付け加えた。
「たったいま、機嫌《きげん》が悪くなってきた」
「正解よ」
そう言って、彼女は宗介の後頭部を小突《こづ》いた。
[#地付き]<義理人情のアンダーカバー おしまい>
[#改丁]
真夜中のレイダース
[#改ページ]
警察《けいさつ》は実にすばやく非常線《ひじょうせん》を張《は》っていた。
走り回り、連絡《れんらく》を取り合う警官たち。道という道にはパトカーの姿《すがた》がある。
やっぱり宝石|強盗《ごうとう》なんかするんじゃなかった……と、男は絶望的《ぜつぼうてき》な気分になった。
とある豪邸《ごうてい》に仲間と押《お》し入り、住人を縛《しば》り上げ、宝石類を納《おさ》めた金庫を破《やぶ》ったまでは良かったが、けっきょくこの始末《しまつ》である。男とその相棒《あいぼう》は、二手に別れて逃《に》げた。そうして警察は、相棒ではなく、自分の方を追いつめつつある――
夜の住宅街《じゅうたくがい》はひっそりとしていた。その中を、あせり、うろたえ、彼は走る。いくつもの角を曲がり、目に入ったフェンスに飛びつくと、がむしゃらにそれを乗り越《こ》えた。
柵《さく》の向こうは、どこかの学校だった。
暗闇《くらやみ》の中、無人《むじん》の校舎がぼんやりとそびえている。
「はあっ……はあっ……」
男はその学校のグラウンドの外周をまっすぐ走ると、敷地《しきち》の反対側《はんたいがわ》を目指した。だがそのフェンスの向こうに、回転灯《かいてんとう》をともしたパトカーが現《あらわ》れ、急停車《きゅうていしゃ》するのが見えた。
「!」
挟《はさ》まれている。
背後《はいご》からも、何人かの警官の声と、落ち葉を踏《ふ》む足音が迫《せま》っていた。
なんてツイてないんだろう。せっかく盗《ぬす》んだ宝石をじっくり拝《おが》む暇《ひま》さえなく、捕《つか》まってしまうとは。こいつさえあれば、一〇年は遊んで暮らせるのに!
いや、待て? そうだ。
もう時間がない。彼はその場にかがみ込むと、安物のナイフであわただしく地面を堀《ほ》り返した。穴《あな》が適当《てきとう》な深さになると、大切にしまっていた金属製《きんぞくせい》の缶《かん》を取り出す。ちょうどジュースの三五〇ml[#「ml」は縦中横]缶くらいのサイズだ。
何年後に再会できるやら。
中の宝石に別れを告げる余裕《よゆう》もなく、男はその缶を地面に埋め、落ち葉を蹴立《けた》ててその痕跡《こんせき》を隠《かく》した。
ナイフを遠くに放《ほう》り投《な》げてから、反対方向へ走りだす。グラウンドを突《つ》っ切《き》っていると、『いたぞ!』とだれかが叫《さけ》んだ。
かまわず彼は走り続け、その三分後、逃げ込んだ校舎の中でお縄《なわ》になった。
その後、男は刑事《けいじ》や検事《けんじ》や裁判官《さいばんかん》に、あくまでも『宝石は、逃げた相棒が持っていた』と主張《しゅちょう》し続け、奇跡的《きせきてき》にそれを信じ込ませることに成功《せいこう》した。
塀《へい》の中にぶち込まれ、一日千秋《いちじつせんしゅう》の思いで模範囚《もはんしゅう》として過《す》ごし――
釈放《しゃくほう》の日がやってきた。
●
「いやまったく、あの夜は大変だったよ」
こたつの上の鍋《なべ》を箸《はし》でつつき、大貫《おおぬき》善治《ぜんじ》は述懐《じゅっかい》した。
五〇代|半《なか》ば、バーコード頭に日焼けした顔。野暮《やぼ》ったい眼鏡《めがね》をかけたおじさんである。住み込みの用務員《ようむいん》として、陣代《じんだい》高校に勤務《きんむ》すること二五年。その間起きた事件について、大貫氏はだれよりも詳《くわ》しい人物なのであった。
大貫は熱燗《あつかん》をくいっと飲む。
「警官が山ほど校内に押《お》しかけてきてねぇ。けっきょく犯人《はんにん》は、地学室で取り押さえられたのだが――その後も現場検証《げんばけんしょう》やら何やらで、なかなか寝《ね》かせてももらえなかったよ」
「へえ……。そんなことがあったんだ」
こたつを挟《はさ》んだ反対側で、やはり鍋をつつきながら、千鳥《ちどり》かなめが言った。いまは陣代高校の制服の上に、しま模様のはんてんを着込んでいる。
「ふん。チンピラ一人に、大層《たいそう》な騒《さわ》ぎだな」
不機嫌《ふきげん》な声で言いつつ、土鍋の中のエノキ茸《だけ》をつまんだのは、椿《つばき》一成《いっせい》である。色白で小柄《こがら》、ひっつめの髪《かみ》にバンダナを巻いている。
彼はちらりと、自分の対面《たいめん》に座る相良《さがら》宗介《そうすけ》を見た。
「そもそも、こういう悪質《あくしつ》なバカがいるいまのこの高校に、なぜ警官隊が押し寄せてこないのか、オレには不思議《ふしぎ》でならん……」
「そうだな」
鍋に舌鼓《したつづみ》を打っていた宗介が、なかば上《うわ》の空《そら》で言った。
大貫、かなめ、一成、宗介。
この四人は、夜の用務員室でこたつを囲み、キムチ鍋を味わっているところなのだった。ほどよいとろみで、ぐつぐつと煮立《にた》つ真っ赤なキムチ汁《じる》。その中に浸《ひた》った白菜《はくさい》や湯豆腐《ゆどうふ》が、うまそうな湯気《ゆげ》を立ちのぼらせている。
あつあつの湯豆腐をゆっくり味わってから、一成はぶつぶつと続けた。
「ケチな強盗《ごうとう》より、まずこいつを牢屋《ろうや》にぶち込むべきだ。その方が世の中のためになる」
「ああ、そうだな」
はふはふとしながら、宗介はキムチ汁のしたたる豚肉《ぶたにく》を口に運んだ。
「相良。オレは貴様《きさま》のことを言ってるんだがな……」
「うむ。そうだな」
「馬鹿《ばか》にしてるのか?」
「いや、うまいぞ」
「相良!」
一成の鋭《するど》い声で、宗介ははじめて相手の存在に気付いたかのように顔をあげた。
「すまん。長ネギが……なんだと?」
「だれが長ネギの話をしていた!? いったい、いつその単語が出た!?」
「ふむ……」
宗介はすこし考えてから――けっきょくなにも答えず、すみやかに鍋《なべ》料理の世界へと戻《もど》っていった。
「こ、この男……」
完全に無視《むし》され、わなわなと震《ふる》える一成の肩《かた》を、かなめが笑いながらばんと叩《たた》く。
「まあまあ、そう絡《から》まないで。もっと食べなよ。あーそこ、大貫さん、はやく湯豆腐さらってください。いまちょうどいいから。イッセーくん、そこにシラタキ入れちゃだめ。あたしがやるから――こらソースケ、あんたさっきから、肉ばっか食べてるでしょ!? バランスを考えなさい、バランスを!」
かなめは生まれついての鍋|奉行《ぶぎょう》であった。
豚肉の包《つつ》み紙をめくり、彼女は叫《さけ》ぶ。
「あれ、もう肉ないじゃない!? なんで!? あたしまだ二切れしか食べてないのに!」
「んむ……問題ない」
もぐもぐと口を動かし、宗介が言った。
「ちょっと! あんた、イスラムじゃなかったの!? 豚肉は禁止《きんし》でしょ!?」
宗介はぴたりと箸《はし》を止めた。
「…………。これは、豚肉なのか?」
「決まってるじゃない」
「ふむ……」
宗介はすこし考えてから――またしても無言《むごん》で、すばやく鍋に箸をつっこみ、最後の豚肉をひょいぱくと食べてしまった。
『あ――――っ!!』
かなめと一成が同時に叫ぶ。
宗介はいちおうイスラム教徒なのだが、とりたてて厳密《げんみつ》な戒律《かいりつ》を守っているタイプではなかった。日本人の大半は仏教徒《ぶっきょうと》だが、肉は食うし酒も飲む。それと同じノリのイスラム教徒も、世界にはたくさんいるのである(もちろん厳格《げんかく》な地域《ちいき》はあるが)。とかく日本のメディアでは、宗教指導者《しゅうきょうしどうしゃ》が暗殺指令《あんさつしれい》を出したり、原理主義者《げんりしゅぎしゃ》が爆弾《ばくだん》テロを起こしたりと、堅苦《かたくる》しくて過激《かげき》なイメージが目立つのだが、本来はもっとおおらかで平和的な宗教なのだ。中東|地域《ちいき》がいろいろ物騒《ぶっそう》なのは、宗教のせいではない。貧困《ひんこん》のせいである。
閑話《かんわ》休題――
最後の肉をさらわれて、かなめと一成《いっせい》はいきり立った。
「な、なんて奴《やつ》なの!? 反省ゼロ? あらゆる面で反省ゼロ!?」
「お、オレだって三切れしか食ってないんだぞ……! それを、貴様っ!?」
「まあ待て」
宗介はそこはかとなく満ち足りた表情で、こう言った。
「……実は夕方、日本通のドイツ人|傭兵《ようへい》に電話してな。鍋《なべ》料理の作法《さほう》を聞いてみた。彼が言うには、『鍋は戦争だ』とのことだった」
「……それで?」
「つまり戦場では、食うか食われるかということだ。諸君《しょくん》もこの教訓《きょうくん》を糧《かて》に、次の戦いでは――」
『その前に殺してやる!』
まずかなめが宗介の顔面をはり倒《たお》し、続いて一成がスタンピングの雨を降らせ、最後は二人でその身体《からだ》を抱《かか》え上げて、台所方向めがけてバックドロップを極《き》めた。
「なにが『食うか食われるか』だ!」
「笑点《しょうてん》なら座布団《ざぶとん》ぜんぶ没収《ぼっしゅう》よっ!?」
ぐったりした宗介を追い、なおも執拗《しつよう》な暴行《ぼうこう》を加える二人に向かって、大貫が叫《さけ》ぶ。
「こらこら、君たち! やめなさい! せっかくの鍋がひっくり返るところだったぞ!? ああ、まったく! 肉ならまた買ってくれはいいだろう! お金は出してあげるから!」
かなめたちの拳《こぶし》がぴたりと止まる。
「……ホントですか?」
「商店街のスーパーは、まだ営業中のはずだよ。これで相良くんに買いに行かせなさい」
さすがに大人なもので、大貫は惜《お》しげもなく財布《さいふ》から二千円を差し出した。
「わーい、ありがと! 大貫さん、ステキ☆」
「う……うむ。とにかく暴力はいかんよ」
「はい、わかりました!」
かなめはにっこりと言ってから、がらりと蔑《さげす》んだ目を宗介に向け、
「ふん、命|拾《びろ》いしたわね……」
と、吐《は》き捨《す》てるように言った。一成に至《いた》っては、ぺっと唾《つば》まで吐きかけていたりなどする。普通《ふつう》、主人公にここまでの仕打ちはしない。それほどまでに、鍋というのは対人関係における重大な危険性《きけんせい》をはらんでいるのである(力説)。
「まったく……手間かけさせるんだから」
かなめはぶつぶつとこぼしながら、通用口で靴《くつ》をはく。それを見て一成が言った。
「相良に買いに行かせないのか?」
「ダメダメ。ソースケはスーパーの買い物、下手《へた》だから」
「そうか……。ならオレも行く。女の夜道の一人歩きは――」
「あー、いいって。大丈夫《だいじょうぶ》。すぐそこの商店街だから。それより鍋の番、イッセーくんに任《まか》せたよ。それじゃ」
商店街のスーパーで、いちばんましなしゃぶしゃぶ用の豚肉《ぶたにく》を買い、かなめは学校へと引き返した。
夜空を見上げると、満天《まんてん》の星々。
空気が冷たく、息が白い。
正門を抜《ぬ》け、校舎の外側を用務員室《ようむいんしつ》へと向かっていると――かなめはかすかな光を見た。
[#挿絵(img2/s07_191.jpg)入る]
ずっと向こう、グラウンドの反対側――敷地《しきち》の南の『はずれの林』と呼ばれている辺りだ。真っ暗な林の奥《おく》で、小さな光がゆらめいている。
(だれかいるのかな……?)
うちの生徒が、夜中に入り込んでなにか悪さをしているのかもしれない。
タバコでも吸《す》われて、火事を起こされては面倒《めんどう》だ。
かなめはグラウンドを突《つ》っ切《き》り、光源の方へと歩いていく。林に入ったあたりで、その光はふっと消え失せてしまった。
不審《ふしん》に思いながら、真っ暗な林を見回してみる。そのおり――
「う、動くんじゃねえ……!」
背後の暗闇《くらやみ》からだれかが飛び出してきて、かなめに組み付いた。
「!」
「い、いいか、叫《さけ》ぶなよ? おとなしくしてくれりゃ、乱暴《らんぼう》はしねえ。すぐに帰してやる。わかったな?」
その声から察《さっ》するに、相手はうちの生徒ではないようだ。さらに正面の木の陰《かげ》から、もうひとつの人影《ひとかげ》が現れ、こう言った。
「アニキの言う通りっス。用が済んだら、サヨナラっス。だから静かにするっス」
「えーと……。いちおう、わかりました」
ふっと相手の力が弛《ゆる》んだ。
「ほっ……。ありがとよ。嬢《じょう》ちゃ――」
「キャーッ!! チカンよっ! 変態《へんたい》よっ! 侵入者《しんにゅうしゃ》よっ!? 敵っ! 敵っ! 敵――むぐぐぐ、もが……」
血相《けっそう》を変えた男たちが、二人がかりでかなめの口を押《お》さえつけた。
「もぐ……ふも―――っ!」
暴《あば》れるかなめの拳《こぶし》や肘《ひじ》が、男たちにヒットしまくる。
「痛いっス。鼻血でたっス」
「なんてガキだ。静かにしろって言ってんだろ、このっ!」
「アニキ。こんなこともあろうかと、ガムテープを持ってきたっス。縛《しば》りましょう。完膚《かんぷ》無《な》きまでに」
「でかしたぞ、ジョニー。よし、まずは手首を――こら、暴れるな!」
「ふも―――っ! ふもっふ!」
「なんかこの女の子、キムチくさいっス」
じたばたと抵抗《ていこう》するかなめから顔をそむけるようにして、男たちは彼女をガムテープでぐるぐる巻きにしてしまった。
「遅《おそ》いな」
腕時計《うでどけい》を見下ろし、宗介が言った。
「そんなに豚肉《ぶたにく》が待ち遠しいのか? 言っておくが、貴様の食う分はないからな」
一成が言った。
「だが、一切れくらいは――」
「うるさい! 貴様は白菜の芯《しん》でもかじってろ」
「…………」
一成は妙《みょう》な義務感《ぎむかん》に駆《か》られているかのように、きっちりと土鍋《どなべ》にお湯を足しながら、つぶやいた。
「そもそもオレは疑問《ぎもん》でならないのだが……なぜ貴様が、この席に呼ばれているんだ?」
「それはこちちのセリフだ」
「貴様が来ると知っていれば、千鳥の誘いは断《ことわ》っていた」
「俺もだ」
「相良、貴様は千鳥の厚意《こうい》に甘《あま》えすぎだ。いい加減《かげん》、身の程《ほど》をわきまえたらどうだ」
「おまえこそ分際《ぶんざい》をわきまえろ。おおかた自分の食生活に絶望《ぜつぼう》して、千鳥にすがって物乞《ものご》いのような真似《まね》をしたのだろうが……」
「……おっと。手がすべった」
一成が土鍋に白菜の束《たば》を放《ほう》り込む。大きく跳《は》ねたキムチ汁《じる》が、対面《たいめん》に座《すわ》っていた宗介の顔にまでかかった。
「…………。椎茸《しいたけ》がまだ余《あま》っていたな」
宗介が鍋に椎茸を力強く放り込んだ。真っ赤な汁の飛沫《しぶき》を顔中にかぶった一成は、
「おっと、また手が」
と、エノキを宗介に直接《ちょくせつ》叩《たた》きつけた。
「これも食べてしまおう。遠慮《えんりょ》するな」
宗介がシラタキを投げつける。
「どんどん食らえ、うどんはどうだ?」
「長ネギは口に合うかな」
「豆腐《とうふ》もあるぜ?」
鍋の上空を、食材が行き来する。やがて両者が『がたっ!』と席を立とうとすると――
「食べ物を粗末《そまつ》にするなっ!!」
それまでずっと、肩《かた》を震《ふる》わせ沈黙《ちんもく》していた大貫が叫《さけ》んだ。
二人はぴたりと手を止める。
「まったく、君たちは相変わらず犬猿《けんえん》の仲のようだな。だがこれ以上の狼藉《ろうぜき》は、わたしも黙《だま》っていないぞ!? さあ、すぐに片づけて! 洗えるものは台所で洗ってくるんだ!」
『…………』
二人はおとなしく、いそいそと従《したが》った。大貫を本気で怒《おこ》らせると、恐《おそ》ろしい惨劇《さんげき》が起きることを、骨身《ほねみ》に染《し》みて知っていたのだ。
「ああ、それから、千鳥くんが遅《おそ》いのも気になる。椿くん、君が様子を見に行きなさい」
「わかった、行ってくるぜ」
「大貫さん、そういうことなら自分が――」
言いさした宗介を、大貫は手で遮《さえぎ》った。
「いや、相良くんは後かたづけをしなさい」
「しかし――」
「いいから! 言うとおりにしたまえ!」
きびしく告げる大貫。一成は『ふふん』と薄笑《うすわら》いを浮《う》かべて、用務員室を出ていった。
校内に忍《しの》び込んだ賊《ぞく》たちは、スコップを手に、暗闇《くらやみ》の中をうろうろしては、林のあちこちを掘り返していた。
かなめの見たところ、二人きりのようだ。
一人は大柄《おおがら》な割《わり》に気の小さい、『アニキ』と呼ばれている男。もう一人は、小柄な割にマイペースな『ジョニー』と呼ばれている男。
どう見ても、抜《ぬ》け目のないタイプのようではなかった。なにしろ縛《しば》られたかなめの前で、自分たちの目的やら事情《じじょう》やら――そういうあれこれを堂々と話している。
「アニキ。あの宝石を埋《う》めたのは、ホントにこの学校なんスか?」
「間違《まちが》いねえ!……と、思うんだが。なにしろ三年も前の話だし、警察に捕《つか》まる間際《まぎわ》で、余裕《よゆう》もなかったからなぁ……」
「この辺、ガッコが多いじゃないスか。女子大とか短大とか。近所に似たような場所がないか、このキムチ女に聞いてみましょうよ」
「ふむーっ! ふむぇも、ふもむんむも!?」
だれがキムチ女よ!?
そう言ったつもりだったが、周到《しゅうとう》な猿《さる》ぐつわをかまされているため、かなめの言葉もボン太くんのそれとそう変わりない。
「だめだ。また叫《さけ》ばれたらかなわん。地道に探すしかねえ」
「カンベンして欲《ほ》しいっス。オレ、もう堅気《かたぎ》なんス。あしたも店あるんスよ? 豚骨《とんこつ》スープの仕込み、やらなきゃならないのに」
「うるせえ。そもそも、なんであの時ドジ踏《ふ》んだおまえが逃《に》げ延《の》びて、俺《おれ》が網走《あばしり》で三年ぶたれなきゃならねえんだ? しかもその間に、自分の持って逃げた分の宝石で、新しい戸籍《こせき》買ってラーメン屋なんぞ開業しやがって」
「うっス。『東京ウォーカー』でも紹介《しょうかい》されました。客足も上々っス」
「あまつさえ嫁《よめ》さんもらって、ガキ一人までこさえてるときたもんだ。なんなんだそりゃ。しあわせの絶頂《ぜっちょう》じゃねえか、え?」
「ええ。超《ちょう》しあわせっス。だから、あの宝石は兄貴《あにき》にあげるっス」
「当たりめえだ。いいから手伝え! 闇《やみ》で売りゃ、五〇〇〇万はする代物《しろもの》なんだぞ!?」
五〇〇〇万!
これにはかなめもたまげた。本当にそんなすごい宝石が、この学校に?
そう思った矢先、新たな声がした。
「なるほど。おおよその事情《じじょう》は飲み込めたぜ」
男たちが振《ふ》りかえる。木の陰《かげ》から、小柄な少年がすっと姿を見せた。逆光《ぎゃっこう》で顔はよく見えなかったが――
「むっむーむん!」
イッセーくん。口をもごもごさせて、かなめは叫んだ。
「安心しな、千鳥。すぐに助けてやるぜ。……おい、貴様ら。おとなしく降参《こうさん》すりゃ、痛い目には遭《あ》わせねえ。だが抵抗《ていこう》するなら――」
一成が腰を落とし、半身にかまえた。
「大導脈流《だいどうみゃくりゅう》の奥義《おうぎ》を、たっぷりと馳走《ちそう》してやるぜ……」
すっと突《つ》き出した拳《こぶし》から、闘志《とうし》がゆらゆらと立ちのぼる。
「アニキ。なんか、ヤバそうっス」
「ちくしょう。次から次へと……やい、ガキ! 邪魔《じゃま》するんじゃねえ!!」
アニキはスコップを振りかざすと、一成めがけて襲《おそ》いかかった。
「ふっ……」
振り下ろされるスコップ。だがその一撃《いちげき》はむなしく空を切り、地面にめり込む。次の瞬間《しゅんかん》――いやそれよりも早く、一成が猛烈《もうれつ》な掌底《しょうてい》を男にたたきこんだ。
どしんっ!
地響《じひび》きのような音と共に、男は吹《ふ》き飛ばされ、木の幹《みき》に背中からぶち当たった。
「ぐふおぉ……!」
「秘技《ひぎ》、致砲掌《ちほうしょう》……。雑魚《ざこ》にはもったいない技《わざ》だ。感謝しな」
やはり一成はめっぽう強い。喧嘩《けんか》で彼にかなう者など、そう滅多《めった》にはいないだろう。
「さあ、次は貴様だ。覚悟《かくご》はいいか?」
「よくないっス」
ジョニーが、かなめを盾《たて》にして言った。
「不肖《ふしょう》、この自分もアニキにはいくばくかの借りがあるっス。邪魔はさせないっス」
「貴様……」
「おっと、動かない方がいいっスよ? それ以上近付けば、この女の乳《ちち》を揉《も》みます。情け容赦《ようしゃ》なく、一八|禁《きん》の要領《ようりょう》で揉みしだくっス。たとえ一瞬でも、そんなことをされたら、一生消えないトラウマが……。あなたはそれを、どうやって償《つぐな》う気っスか? 端的《たんてき》にいえば、心のケアの問題っス」
かなめが悲鳴《ひめい》をあげ、一成が耳まで真っ赤になった。
「ふも―――っ!」
「ば、ばば、馬鹿野郎《ばかやろう》! そんな脅迫《きょうはく》があってたまるかっ!? いますぐ彼女を放さねえと殺すぞ! 脅《おど》しじゃねえ、マジで殺すっ!!」
しかしジョニーは老獪《ろうかい》だった。
「ふふふ。でも少年、あなたは動けないっス。若い、脆《もろ》い。下品なお色気が許せない。そんなことでは、学園の平和は守れないっスよ?」
「ち、ちくしょう……」
「このジョニー、妻《つま》も子供もある身っス。できればこんなことはしたくないっスが、これも大義《たいぎ》のため、アニキのため。さあ、おとなしくそこに転がってるガムテープで、己《おの》が身をぐるぐる巻きにするっス」
「断《ことわ》る……!」
一成は拳をわなわなと震《ふる》わせた。
「ほほう。ではこの女は見殺しっスね?」
ジョニーは両手をわきわきさせた。
「くっ……千鳥、すまない。一瞬《いっしゅん》だ。一瞬だけ我慢《がまん》してくれ。次の瞬間、その男は必ず地獄《じごく》に送ってやる!」
「? むぐっ、むぐ――っ!!」
かなめが一成の背後をにらみ、なにかを警告するように|叫《さけ》ぶ。しかし一成はうつむいたまま、せつなそうにつぶやいた。
「わかっている。その後は……俺も腹を切るつもりだ」
「むっむ! むー! むー! むー!」
「そんな……そんな辛《つら》そうな声を出さないでくれ。俺だって君を――」
がつんっ!
いつのまにか息を吹《ふ》き返していたアニキが、背後から忍《しの》びより、一成の頭めがけてスコップを振《ふ》り下ろしていた。
「む……うーん」
くずおれる一成。
男はぜいぜいと肩《かた》で息しながら、そばのガムテープを拾《ひろ》いあげる。
「……ったく、なんてガキだ」
「詰《つ》めの甘《あま》い少年っス。きっと、いつもそれで損《そん》をしてるっス」
たしかに。かなめは内心で同意した。
「はやくこいつを縛《しば》るんだ。おお……いてて。死ぬかと思ったぜ」
「アニキは昔から打たれ強いっス。喧嘩《けんか》に勝てなくても、決して負けもしないタイプっスね」
「うるせえ。……それより、この二人はなにかと邪魔《じゃま》だな。うるさそうだし。あそこになんかの倉庫がある。放《ほう》り込んでおこう」
[#挿絵(img2/s07_203.jpg)入る]
林のはずれに立っていた倉庫を、アニキは指さした。
「遅《おそ》いな」
ふたたび腕時計《うでどけい》をにらみ、宗介が言った。
一成はともかく、かなめが帰らないのが気になる。彼女が買ってくるはずの肉も、それなりに気になる。
「んー? 何ぞ二人で、こみ入った話でもしとるんじゃないのかね。恋《こい》や進路の悩《なや》みだとか。青春だねぇ。うんうん」
イイ感じに酔《よ》っぱらいつつある大貫が、燗酒《かんざけ》をぐいぐいとやりながら言った。土鍋《どなべ》を載《の》せたコンロの火は、すでに止まっている。
携帯《けいたい》電話でかなめのPHSにかけてみると、すぐそばのバッグの中から、軽快《けいかい》な着信音が流れてきた。さらに、いろいろこみ入った事情で彼女に持ち歩かせている発信器の位置も、この部屋だった。やはり同じバッグの中だ。
「肌身《はだみ》はなさず持っていろと言ったのに……」
「んー? どうしたね」
「いえ。自分も様子を見に行ってきます」
宗介は立ち上がった。
「あー、ついでに酒、買ってきてくれんか。いちばん安いのでいいから。君に任せる。聞いとるのかね、相良くん、わたしは君を見込んどるんだぞ!? 君はいろいろ素行《そこう》には問題があるが、いずれは私の後継者《こうけいしゃ》としてだね――」
好き勝手なことを言い出す大貫を捨て置いて、宗介は部屋を出ていった。
商店街を駆《か》け回ったが、かなめの姿《すがた》は見えなかった。
顔見知りのたこ焼き屋の親父《おやじ》に聞いてみると、一時間ほど前、スーパーの袋《ふくろ》をぶら下げて学校の方へ歩いていくのを見たという。
学校の周辺《しゅうへん》を探していると、敷地《しきち》内の南側、『はずれの林』に、不審者《ふしんしゃ》を見つけた。暗闇《くらやみ》の中、なにやらぶつぶつ言って地面を掘《ほ》り返している。人数は二人。おそらく非武装《ひぶそう》。無警戒《むけいかい》。軍の訓練《くんれん》は受けていない。
宗介は音もなくフェンスを越《こ》えて、影《かげ》のように林を走り、男たちに忍《しの》び寄った。
「動くな」
自動|拳銃《けんじゅう》の銃口を向け、彼は告げた。
『!?』
男たちは泡《あわ》を食って飛び上がり、宗介のいる方に向き直った。
「銃で狙《ねら》っている。抵抗《ていこう》や逃亡《とうぼう》はするな」
「あ、ああ? なにをバカなことを――」
たんっ!
足下《あしもと》に一発、威嚇射撃《いかくしゃげき》を受けて、男たちはふたたび飛び上がった。
「次は射殺《しゃさつ》する。わかったらむこうを向け。ゆっくりスコップを地面に置いて、両手をあげろ。……それでいい。次はひざまずき、両足を交差させるんだ」
わけもわからず、男たちは従った。
ああもあっさり。
さすが、と言わざるを得《え》ない。
放《ほう》り込まれた倉庫の、鉄格子《てつごうし》付きの窓《まど》から、その様子を遠く望んでいたかなめは、目を丸くしていた。
いまだに両手両足を縛《しば》られたままで、猿ぐつわ状態《じょうたい》である。それでも壁《かべ》を使ってどうにか立ち上がり、かなめはこの小さな窓を覗《のぞ》き込んでいるのだった。
宗介は男たちになにかを問いただしているようだったが、その会話はここからでは聞き取れなかった。
だがいずれにせよ、じきに連中の目的も露呈《ろてい》することだろう。そうすれば、ここに自分たちが閉じこめられていることも判《わか》る。
やれやれ、もうすぐ一件|落着《らくちゃく》だ。
「捜《さが》し物?」
宗介は眉《まゆ》をひそめた。
「そうっス。実はわれわれ、ここの卒業生で――卒業式の日に埋《う》めた、思い出深〜い品を掘《ほ》り返してたっス」
「そう、そう! OBなんだ!」
それでも宗介は用心深くたずねる。
「何年度の卒業生だ?」
「え、えーと……九二年度」
「…………。九二年度の生徒会長は風間《かざま》信二《しんじ》先輩《せんぱい》だったな。彼のとった政策《せいさく》、生徒会の活動|方針《ほうしん》について言ってみろ」
「は? それは、そのー」
「あの当時の生徒なら、わかるはずだぞ」
せっぱ詰《つ》まって、ほとんどやけくそになった様子で、男の一人が叫《さけ》んだ。
「そ、そんなのわかるか!」
「アニキ、それはマズいっス……!」
「うるせー! カザマなんて野郎《やろう》、知らねえよ!? 生徒会なんて、知るか、くそっ!」
すると宗介は『ふっ』と肩《かた》の力を抜《ぬ》き、銃《じゅう》を下ろした。
「合格です、|先輩《せんぱい》」
「へ?」
「ご存《ぞん》じの通り、九一年から九四年までの期間《きかん》、我《わ》が校の生徒会は学校側の圧力《あつりょく》で長らく活動を休止しておりました。今日《こんにち》では『陣高《じんこう》大空位時代』として、現会長・林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》閣下《かっか》の編纂《へんさん》による生徒会史に記述されております。つまり、風間信二などという生徒会長は存在《そんざい》しません」
男たちはきょとんとした。
「あ、そう……」
「その存在しない会長について、知っているそぶりをすこしでも見せれば、賊《ぞく》とみなして射殺する所存《しょぞん》でした。これも母校の安全|保障《ほしょう》のためです。無礼《ぶれい》をお許しください」
「え……? いや、まあ、その……」
「分かればいいっス。分かれば」
すかさず小柄《こがら》な方の男が言った。
「恐縮《きょうしゅく》です。それで、こんな時間になにをお捜《さが》しでしょうか。お教えいただければ、明日にでも現役生を動員して捜索《そうさく》しますが」
「いや、それは困る!」
大柄《おおがら》な方が言うと、宗介は眉《まゆ》をひそめた。
「なぜです」
「それは……その、だな……」
「目当ての缶《かん》には、この先輩の、恥ずかしい写真が入ってるっス! 文化祭で全裸《ぜんら》・蝶《ちょう》ネクタイになって、もうひとりの全裸男とランバダを踊《おど》ったときの写真っス。先輩は最近|所帯《しょたい》を持たれて、若気の至《いた》りを反省したっス。で、唯一《ゆいいつ》信用できる自分を連れ、こっそり回収に来た次第《しだい》っスよ」
それを聞いて、宗介は深々とうなずいた。
「おおよそ理解《りかい》しました。ランバダという舞踊《ぶよう》は分かりませんが、人に知られたくない過去《かこ》というのは、だれにでもあるものです。お察《さっ》しします、先輩」
「あー……。うん。どうも」
「自分も先輩をお手伝いしたいところですが、あいにく現在、連絡《れんらく》のとれない生徒会副会長の捜索を行っているところでして――」
そのおり、宗介の携帯《けいたい》電話が鳴った。
「しばしお待ちを――もしもし」
『相良くん! 酒はまだかね!?』
「大貫さん。いまはそれどころではありません。それに、アルコールは脳細胞《のうさいぼう》を破壊《はかい》します。用務員を長く続けたかったら――」
『あー、つべこべ言うな! ヒック。いいから酒ェ、買ってきなさい。千鳥くんもおかんむりだぞ!? 君が彼女に頭が上がらんのは、えー……さよう、わたしも知っとる!」
「千鳥が? もうそちらに?」
「んー?……んあー。……そう、そうだ! もう、帰っとる! だから酒ェ、買ってきなさい! いいね!?』
電話が切れる。
宗介はしばしの間、自分の携帯電話を眺《なが》めてから、気を取り直して告げた。
「どうやら、問題は解決《かいけつ》したようです。自分も捜《さが》し物を手伝いましょう」
倉庫の窓からその様子を見ていたかなめは、憤怒《ふんぬ》とも焦燥《しょうそう》ともつかないうなり声をあげた。
(な……!? あのバカ!)
賊を引《ひ》っ捕《と》らえて尋問《じんもん》して、助けに来てくれるかとばかり期待《きたい》していたのに――あろうことか、宗介は男たちの穴掘《あなほ》りの手伝いなんぞをはじめたのだ。
「ふんぐ! ふーぐーむー、ん――っ!!」
かなめと同様、両手両足を縛《しば》られていた一成が、やはり窓から宗介たちの様子を見て、はげしく憤《いきどお》っていた。その様子がまた、尋常《じんじょう》ではない。
「むぐぐ……」
一成は、窓にはまった赤錆《あかさび》だらけの鉄格子《てつごうし》に、ごりごりと自分の顔を押《お》しっける。
そんなことをしたら、顔が傷だらけになってしまいそうだったが、彼はおかまいなしに顔を上下し、猿ぐつわになっていたガムテープを強引にはがした。
「むぐ……ぷはっ。相良の奴《やつ》、あの男たちに抱《だ》き込まれたんだ……!」
興奮気味《こうふんぎみ》に一成は言った。
「ふむっ?」
「決まってるぜ。五〇〇〇万の宝石とやらが本当なら、ああいうクソ野郎《やろう》を買収《ばいしゅう》するのは造作《ぞうさ》もないことだからな……!」
まさか。そんなわけがないでしょ。
かなめはそう主張《しゅちょう》しようとしたが、喉《のど》から出たのは、『む――っ! むーっ!』という声ばかりだった。
「千鳥。気持ちはわかる。だが考えてみろ、奴は、俺たちの豚肉《ぶたにく》をひとり占《じ》めして平らげるような男なんだぞ!?」
「んむ……」
「もう許せねえ。あの野郎だけは、絶対にこの拳《こぶし》で再起不能《さいきふのう》にしてやる! そう、たったいまだ……!」
一成の全身から怒《いか》りのオーラが立ちのぼる。たぎる闘志。怒りのパワー。彼の体の奥底《おくそこ》に眠《ねむ》っていた、真の力が呼びさまされた。……ような、気がした。
「ふおぉぉぉ……っ! 憤《ふん》っ!!」
烈迫《れっぱく》の気合いと共に、ばちん、と何かが弾《はじ》けるような音がした。
「んむー!?」
見れば、一成を縛っていたガムテープのほとんどが、ばらばらに千切《ちぎ》れて垂《た》れ下がっている。いかなる力を使ったのか、自力でいましめをうち破《やぶ》ったのだ……!
「で……できたぜ、親父《おやじ》。大導脈流・究極奥義《きゅうきょくおうぎ》、韻内貫閃《いんないかんせん》……!」
つぶやき、ふらりと膝《ひざ》を折《お》る。
なにやら、そういう便利《べんり》な奥義があるらしい。
「……ここで待ってな、千鳥。いまから相良とあの連中を、血祭りにあげてくるぜ」
「んむ――っ! ふんむ、ふんも!」
いまの技《わざ》で気力を大量に消耗したのか、一成はよろめきながら倉庫の出口へ向かう。かなめのガムテープを解《と》くことさえ、彼の頭にはないようだった。
「やっぱり見つからないっスねぇ……」
「こら、サボってんじゃねえ。きびきび掘《ほ》れ!」
アニキとジョニーと宗介は、林の中のあちこちをほじくり返していた。
いちばんの有力|候補《こうほ》だった場所には、人の背丈《せたけ》くらいの低木が生えていたので、三人がかりで根本を掘りかえし、しまいには強引に引っこ抜《ぬ》いてしまった。
「やれやれ、邪魔《じゃま》な木だな。あのときはこんなもの、生えてなかった気が……」
「アニキ、ここにもないっス」
「くそっ!」
地面に転がった低木を蹴《け》り飛ばす。
「先輩《せんぱい》。その埋蔵物《まいぞうぶつ》というのは、どんな外見です」
宗介が訊《き》いた。
「え? それは……あー。だいたいこれくらいの、黒っぽい円筒形《えんとうけい》の缶《かん》なんだが」
ジュースの三五〇ml[#「ml」は縦中横]缶ほどの四角形を、指で作ってみせる。
「ふむ……」
「あ、アニキっ!」
すこし離《はな》れた地面を掘り返していた、ジョニーが叫《さけ》んだ。掘り出した土の塊《かたまり》から泥《どろ》を落とすと、黒ずんだ円筒形の金属《きんぞく》が現れる。
「ありましたよ! 缶が出てきました。これっスね!?」
「なにっ!? でかした!」
ジョニーが掲《かか》げた泥まみれの缶に、アニキは大喜びで飛びつこうとした。
……が、
「む、それは……」
宗介がすかさず横から手を伸《の》ばし、その缶をさっと奪《うば》ってしまった。
「おい、なにをしやがる! それは俺のもんだぞ!?」
「いえ。これは――」
「先輩に逆《さか》らう気か!? 返しやがれ!」
興奮《こうふん》した男が組み付いてこようとするのを、宗介はひらりとかわした。
「こ、この野郎《やろう》!」
「待ってください。これは――」
そこで林のはずれの倉庫から、けたたましい騒音《そうおん》がした。頑丈《がんじょう》な錠前《じょうまえ》がかけてあったはずの倉庫の扉《とびら》が、中からの衝撃《しょうげき》で吹《ふ》き飛ばされたのだ。
「?」
倒《たお》れた鉄扉《てっぴ》を踏《ふ》みつけ、一つの影《かげ》が、疾風《しっぷう》となってこちらへ突進《とっしん》してくる。
椿一成であった。
「相良ぁっ! このクソ野郎っ!!」
自称《じしょう》OBの二人が、血相《けっそう》を変えた。
「あ、あいつ、どうやって……!?」
「なんかマズいっス。さっきよりパワーアップしてるっス」
「うおおぉおぉっ! 覚悟《かくご》しやがれっ!!」
まっしぐらに迫《せま》ってきた一成が跳躍《ちょうやく》し、なぜか宗介めがけて猛烈《もうれつ》な蹴《け》りを放った。
「むっ……?」
きわどいところで、その蹴りを宗介が避ける。土煙《つちけむり》と共に着地した一成が、すかさず身を翻《ひるがえ》して宗介を猛追《もうつい》した。
「なんのつもりだ、椿」
「やかましい! 賊《ぞく》に味方《みかた》する恥《はじ》知らずめ!」
「賊とはどういうことだ」
「豚肉《ぶたにく》を食い尽《つ》くした挙《あ》げ句《く》、今度はお宝まで独《ひと》り占《じ》めか!? なんて欲深《よくぶか》な男なんだ、貴様はっ!」
「お宝? よくわからんが、おまえが肉を食いたかった気持ちは理解《りかい》した。そこまで飢《う》えていたとは、さすがに俺も――」
「だまれ! 貴様を鍋《なべ》にぶちこんでやる!」
……などといったやりとりをしつつ、二人は激《はげ》しい攻防《こうぼう》を繰《く》り広げた。
機関銃《きかんじゅう》のような貫《ぬ》き手をくぐり抜《ぬ》け、宗介が回し蹴りを繰り出す。一成がかわし、渾身《こんしん》の掌底《しょうてい》を放つ。
しっかり反撃《はんげき》しているので、宗介の説得も全然|効果《こうか》がない。
部外者の二人はおろおろと、宗介たちのバトルを眺《なが》めるばかりだ。
「マズいっス、アニキ。なんとか宝石を――」
「わ、わかってるよ。ちくしょう、危なくて近づけねえ。なんなんだ、こいつら!?」
「ハイレベルかつ見苦しいケンカっス」
そこでまた、新たな一喝《いっかつ》。
「こらっ!! そこでなにをしとるんだ!?」
一同が振《ふ》り向くと、そこには用務員の大貫氏が立っていた。
「大貫さんかい。ちょうど良かった、この相良の野郎《やろう》が、こともあろうに――」
「言い訳なんぞ、聞かん!」
大貫はぴしゃりと言った。
「みんな遅《おそ》いから妙《みょう》だと思っていたら――この騒《さわ》ぎだ! まったく、酔《よ》いなど一気に醒《さ》めてしまったよ。ご近所に迷惑《めいわく》だと思わんのかね!?」
「大貫さん、椿の方が異常《いじょう》なのです。この男はいきなり――」
「君も黙《だま》りたまえ! それより千鳥くんはどこにいる。彼女が『二人を仲直りさせる』といったから、ああした鍋の席を設けたというのに――あっ!?」
そこで大貫の言葉が、ぴたりと止まった。
『…………?』
一同が怪訝顔《けげんがお》をする。大貫の視線《しせん》は、先ほど宗介たちが乱暴《らんぼう》に引き抜《ぬ》いた低木と、その脇《わき》に転がる小さな立て札へとまっすぐ注《そそ》がれていた。
「そ……その木は……」
『この貧相《ひんそう》な木が、なにか?』
四人が異口同音《いくどうおん》に言った。
「君たち。その木はね……」
『この木は?』
「二年半ほど前、都知事《とちじ》から贈《おく》られ、盛大《せいだい》な式典を経《へ》て植林された桜の木なのだよ。以来、わたしは誠心誠意《せいしんせいい》を込めて、その木の世話《せわ》をしてきたつもりだ」
『そうですか……』
「ゆくゆくは、天をも突《つ》くような巨木《きょぼく》に育ち、美しい花々を咲かせる日が来るだろう、と思っていた。ちなみに名前はグレースという。有名なアメリカの女優からとったものだ」
『はあ……』
「わかったかね? わたしの話を理解《りかい》してもらえたかね?……では、すこしここで待っていてくれたまえ」
きょとんとする四人に背を向けて、大貫は静かに向こうの倉庫へと歩いていった。
「んぐ……むぐ……ふもっ……」
縛《しば》られっぱなしのかなめが、吹《ふ》き飛ばされた倉庫の出口へと這《は》っていくと、そこに大貫が入ってきた。
「ふもっ!? ふんぐ、ふんも!」
叫《さけ》ぶかなめを無視《むし》して、大貫は倉庫の中を引っかき回し、奥《おく》からごっついチェーンソーを引っ張り出した。
「ふむうっ!?」
大貫にはかなめが見えていない様子だった。その目は暗闇《くらやみ》の中で、らんらんと赤い光を放っている。
「グレースの無念《むねん》を晴らさねばならない」
「ふ……ふもっ。むんぐ……」
ぶるるおんっ!! どっどっどっ……。
チェーンソーのエンジンが始動《しどう》する。
「ふっ、ふも――――っ!!」
「|皆殺しだ《キルゼムオール》」
大貫がつぶやき、ひとつの修羅《しゅら》と化して倉庫から出撃《しゅつげき》していく。
やがて宗介たちのいた方角から、すさまじい悲鳴《ひめい》と騒音《そうおん》が響《ひび》いた。
『今度こそ死ぬかと思った……』
体中傷だらけで、体育館の壁《かべ》によりかかり、宗介と一成は息も荒《あら》げに言った。
グレネード・ランチャーと五〇口径《こうけい》ライフル、そして散弾地雷《さんだんじらい》を駆使《くし》した挙《あ》げ句《く》、一成の超《ちょう》・究極奥義《きゅうきょくおうぎ》『心浮漸《しんふぜん》』が芸術的なコンビネーションで炸裂《さくれつ》し――ようやく大貫善治は沈黙《ちんもく》した。
まことにきわどく、過酷《かこく》な戦いであった。
「まったく、学校職員にしておくには惜《お》しい逸材《いつざい》だ。別の人生を歩んでいれば、史上《しじょう》最強の傭兵《ようへい》として名を残しただろうに……」
「冗談《じょうだん》じゃねえ……。このおっさんは、すみやかにコンクリ詰《づ》めにして、深度二万メートルの海底に沈《しず》めるべきだ」
「ああ。だが果たして、それで本当に倒《たお》せるかどうか……」
「へっ。違《ちが》いねえ……」
一成が含《ふく》み笑いをもらし、宗介も『ふっ』と鼻を鳴《な》らす。
曲がりなりにも、強大な敵相手に共同|戦線《せんせん》を張《は》り、辛《から》くも生き残った者同士である。相棒《バディ》ムービーの結末《けつまつ》を思わせる、すがすがしい空気がその場を吹《ふ》き抜《ぬ》けた。
「……って、なにを達成感《たっせいかん》にひたってんのよ、あんたたちは!?」
苦労の末、ようやく自力で縛《いまし》めを破ってきたかなめが、駆《か》けつけてきて怒鳴《どな》った。
「三人でバタバタやってる間に、ドロボーが逃《に》げちゃったじゃないの!」
我《われ》に返って、一成がさっと身を起こす。
「くっ……しまった。あの連中、相良の持ってた宝石入りの缶《かん》まで、どさくさで持ち逃げしやがったぞ」
かたや宗介は怪訝顔《けげんがお》をする。
「缶?」
「とぼけるな。おまえが一緒《いっしょ》になって掘《ほ》り返してただろうが」
「ああ、あれのことか……。あれを、先輩《せんぱい》たちが持ち去ったと?……まずいな」
「『まずいな』じゃねえ。いったいどうするんだ、この不始末《ふしまつ》をっ!?」
「彼らをはやく捜《さが》して、警告しなければ」
「警告? どういうことよ?」
かなめがたずねる。
「彼らが持ち去ったのは、缶ではない。よく似た形だが、特殊仕様《とくしゅしよう》の対人地雷《たいじんじらい》だ」
「じ、地雷……!?」
「俺がかつて文化祭の前夜、保安措置《ほあんそち》で埋設《まいせつ》したものだ。千鳥に叱《しか》られ、すべてを除去《じょきょ》したつもりだったが――手違いで、一つだけ回収し残していたらしい。彼らにそれを説明しようとしたところで、椿の邪魔《じゃま》が入って――」
ず……どおぉ……ん。
ずっと遠くで、なにかが爆発《ばくはつ》する音がした。その遠雷《えんらい》のような爆音は一度きりで、夜の町はすぐに静かになった。
長い沈黙《ちんもく》のあと、宗介は瞑目《めいもく》する。
「どうやら、遅《おそ》かったようだな……」
すぱんっ!
どこからともなく出現したハリセンが、宗介の頭をしばき倒《たお》した。
「痛いじゃないか」
「やかましい!」
[#挿絵(img2/s07_223.jpg)入る]
とりあえずどやしつけてから、かなめは小さなため息をついた。
「ま……因果応報《いんがおうほう》だとは思うけどね。それに五〇〇〇万の宝石ってのは……さすがにヨタ話でしょ。さ、とにかく用務員室に戻《もど》ろ。大貫さん、こんなところに寝《ね》かせといたら風邪《かぜ》ひいちゃうよ」
通常《つうじょう》モードに戻って、その場にぐったりとしている大貫氏を連れて、かなめたちは用務員室へと引き返していった。
陣代高校から数百メートル離《はな》れた公園の一角で、アニキとジョニーは黒こげになって、地面にめりこんでいた。
「っ……。なぜ俺の宝石が爆発する? っつーか、あの学校はいったい何なんだ?」
「……痛いっス。鼻血でたっス」
「教えろ。いいから、教えてみろ!!」
「帰って豚骨《とんこつ》スープ仕込まなきゃ……」
「だれか説明してくれ……」
号泣《ごうきゅう》するアニキを捨て置いて、ジョニーはよろよろと家路《いえじ》についた。
●
その数週間後――
生徒会長の林水敦信は、放課後《ほうかご》、はずれの林を散策《さんさく》しているときに、泥《どろ》にまみれた半透明《はんとうめい》の石を拾《ひろ》った。なかば地面に埋もれ、腐食《ふしょく》で崩《くず》れかけた缶《かん》の中で、かすかに光を放っていたのだ。
(ふむ? 固形肥料《こけいひりょう》にしては妙《みょう》だが……)
そう思いつつ、軽く指先でぬぐってみる。泥の落ちたその部分だけ、思いのほか美しい輝《かがや》きがこぼれた。
「先輩《せんぱい》? どうされました?」
たまたま同道していた、書記の美樹原《みきはら》蓮《れん》がふらりと近付いてくる。
「いやなに。これを拾ってね」
「まあ……きれいなガラス玉ですね」
すこし思案《しあん》してから、林水は言った。
「美樹原くん。要《い》るかね?」
「え……? あ……はい。いただきます。大切にしますね」
泥にくすんだ灰色の石を受け取って、蓮はしっとりと微笑《ほほえ》んだ。
[#地付き]<真夜中のレイダース おわり>
[#改丁]
老兵たちのフーガ
[#改ページ]
『大佐』などという階級《かいきゅう》を与《あた》えられていても、けっきょくは一六の小娘《こむすめ》だ。<ミスリル> 作戦郡長の権謀術数《けんぼうじゅっすう》と老獪《ろうかい》さには、抵抗《ていこう》できるわけがない。
まったく、ボーダ提督《ていとく》の手回しの良さときたら!
彼女の周りのすべてが、『一月九日、および一〇日』の週末を暇《ひま》なものにするべく動いていた。いちいち例を挙《あ》げてみれば――
各戦隊の上級|将校《しょうこう》によって行われる机上《きじょう》演習の予定は、提督の裁量《さいりょう》で翌週に延期《えんき》された。準備《じゅんび》で大わらわになるその前日――八日を空けるためだ。
基地《きち》の警戒《けいかい》システムに必要な資材《しざい》の納入《のうにゅう》予定日を、九日に合わせておいたら、本部の補給《ほきゅう》担当者が『すみません。一一日|以降《いこう》でお願いします』と言ってきた。
こうなったら……とばかり、自分の権限《けんげん》で強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》の航行《こうこう》テストを九日に実施《じっし》しようと計画してみた。おりよく、研究部の技術者が『こちらの都合で、TDD―1のリアクター検査《けんさ》を九日に行いたい』と打診《だしん》してきた。これは好都合《こうつごう》だと思って、それを理由にテッサは『九日は私の艦の検査があるので、休めません』と言っておいたのだが……直前になって、研究部はその予定をキャンセルしてきた。
これでチェックメイトだ。
ほとんど芸術的とさえ言える陰謀《いんぼう》テクニックである。
ひょっとしたら <ミスリル> のすべての部隊が――いや、それどころか西太平洋|地域《ちいき》の国際|情勢《じょうせい》すべてが――テッサに新年の休暇《きゅうか》を取らせるべく、有機的《ゆうきてき》かつ効果《こうか》的に動いたようにさえ思えた。
『……というわけで、テレサ』
電話の向こうで、ジェローム・ボーダ提督は勝ち誇《ほこ》った声で言った。
『明日とあさってはヒマだな? 隠《かく》しても無駄《むだ》だぞ。私にはわかっとる。|マデューカス《ディック》も、おまえの秘書《ひしょ》も否定《ひてい》しなかった。重要な仕事はなに一つない。その上で、だ。私の持てるすべての権限と親交の情をもって、おまえに命令し、懇願《こんがん》する。――グァム島に来るのだ[#「グァム島に来るのだ」に傍点]。パーティがおまえを待っているぞ』
パーティ。ボーダ提督が旧友たちと、一一月に催《もよお》す予定だったパーティである。
しつこい誘いから逃《に》げ回っていたら、ある時期を境《さかい》にぱったりと言ってこなくなったので、『もう諦《あきら》めたのだろう』と思っていた。ところが、去年末にクリスマスの騒《さわ》ぎが済んだあと、いきなり『おまえのために一月まで延期したのだ。場所もグァムに変更《へんこう》した。だから来い』だのと言ってきたのであった。
「…………」
テッサがぶすっと黙《だま》っていると、ボーダ提督《ていとく》はそわそわとして言った。
『なんだ、その沈黙《ちんもく》は。お……怒《おこ》ってもムダだぞ? もう出席者の連中にも話してしまったからな? とにかく来るんだぞ!? いいな!?」
ぷつん。つー、つー、つー……。
テッサは卓上《たくじょう》に受話器を置き、彼女の執務室《しつむしつ》にいた二人の部下――副長のマデューカス中佐《ちゅうさ》と、秘書官のヴィラン少尉《しょうい》をにらみ付けた。
二人そろって直立|不動《ふどう》だ。
「私は提督に事実をお伝えしたまでです、艦長《かんちょう》」
と、マデューカス。
「お留守《るす》の間は、私どもにお任せください、大佐|殿《どの》」
と、ヴィラン。
それぞれ、あさっての方向を向いて、しれっと言う。
「…………裏切り者」
「では、私どもは仕事がありますので。失礼いたします」
「裏切り者っ!!」
背筋を伸《の》ばしたままそそくさと、マデューカスたちは彼女の執務室を退散《たいさん》していく。その閉じた扉《とびら》めがけて、テッサは力いっぱい手元のメモ帳《ちょう》を投げつけた。
●
年が明けてから二度目の週末、相良《さがら》宗介《そうすけ》はメリダ島基地に顔を出した。
東京での都会暮らしで鈍《にぶ》りがちな、ジャングルでの偵察技能《ていさつぎのう》を磨《みが》き直すためである。装備《そうび》を担《かつ》いで、メリダ島の密林《みつりん》地帯をうろつき回れば、ついつい薄《うす》れがちな勘《かん》や嗅覚《きゅうかく》も、戻《もど》ってこようというものだ。射撃《しゃげき》の腕《うで》もなまっているし、ASの操縦感覚《そうじゅうかんかく》も落ちてきているような気がする。
これは由々《ゆゆ》しき事態《じたい》だ。すぐさま自分を鍛《きた》え直さねばならない。
そんなわけで彼は、かなめたちからのボーリングの誘いもグッとこらえて、数千キロを飛んできたのである。
六時間以上の長旅を経《へ》て、ようやく着陸したばかりのおんぼろプロペラ機。大きな荷物を背負って、そのタラップを宗介は降りる。
「…………?」
天蓋《てんがい》に覆《おお》われた駐機《ちゅうき》スペースに、テレサ・テスタロッサが立っていた。
なぜか私服姿だ。ロングのワンピースにカーディガン。アッシュブロンドの髪《かみ》は、簡単なポニーテールに結《ゆ》い上げている。
クリスマスの事件のときにいろいろあってから、彼女とはまともに話していなかった。単純にお互《たが》い忙《いそが》しかったこともある。それに、やはり気まずかった。宗介は彼女の好意に対して、きっぱりとけじめをつけてしまったのだ。
しかし、彼女のことが嫌《きら》いになったわけではない。可憐《かれん》だとも思うし、尊敬《そんけい》もしてるし、力になりたいとも思う。できれば、いままで通りに付き合いたいとも思っている。そういうのが男の勝手な言いぐさであって、むしろ相手を傷つけてしまうこともある……などというところまでは、さすがに気が回らない。
どんな挨拶《あいさつ》をしたらいいのか分からなかったので、宗介はとりあえず、ぎくしゃくと背筋をのばして敬礼《けいれい》した。
すると彼女は答礼《とうれい》もそこそこに、大したわだかまりも見せずに切り出した。
「サガラさん。任務《にんむ》です」
「は?」
「護衛《ごえい》任務です。付いてきてください」
「は。しかし、聞いておりません。自分は演習場で訓練《くんれん》を――」
「キャンセルです。さあ、早く」
宗介の袖《そで》をつかんで、テッサがとことこと歩き出す。まったく、有無《うむ》を言わさない。
「た……大佐|殿《どの》? どちらへ?」
テッサは答えず、今しがた宗介が乗ってきたプロペラ機を離《はな》れていった。そのすぐ隣《となり》に待機《たいき》し、これからの離陸《りりく》を控《ひか》えている中型のジェット・ヘリへと向かう。タービンの甲高《かんだか》い叫《さけ》び声と、大気を叩《たた》くローターの音があたりに響《ひび》いていた。
わけのわからない宗介を引っ張り、彼女は機内へのタラップをのしのし上がっていく。
「すみません、大佐殿。よく分からないのですが。この機体はこれから――」
「つべこべ言わずに、乗ってください!」
ぶっきらぼうな口調。といっても宗介が原因なわけではなさそうで、なにか他のことが腹に据《す》えかねている様子だ。
「大佐殿? これは……? おい待て、スタンリー一等兵。なぜ扉《とびら》を閉めるんだ。俺《おれ》はたったいま基地《きち》に着いたばかりなんだぞ」
機内に引っ張り込まれた宗介が、基地の航空|施設《しせつ》要員に抗議《こうぎ》する。その一等兵は淡々《たんたん》と『行ってらっしゃい、軍曹《ぐんそう》』と言ってから――ハッチをがちゃりと閉じてしまった。
テッサはずんずんとキャビンの奥《おく》へと向かう。
「早く座《すわ》って。ベルトをしめてください」
「いえ、ですが、自分は――」
さらに無視して、テッサは粗末《そまつ》な座席の横にぶら下がっていたヘッドセットを取ると、操縦席《そうじゅうせき》の機長《きちょう》に告げた。
「お待たせしました、サントス中尉《ちゅうい》」
『了解《りょうかい》です、大佐|殿《どの》。これより離陸します。……メリダ・コントロールへ、こちら第二《だいに》強襲輸送《きょうしゅうゆそう》隊〇三号機アルファ、コールサインゲーボ9=Bメリダ・コントロール、応答せよ。……ゲーボ9はショート・フィールドによる離陸許可を要求する。飛行任務はTSF02[#「02」は縦中横]。飛行計画はA―0351……』
ヘリの機長が基地の管制室《かんせいしつ》との交信を始める。エンジンの爆音《ばくおん》が更《さら》に高まる。機体がゆっくりと前進し、ヘリ用の離陸エリアへと入っていく。
「大佐殿、待ってください。どういうことですか? 自分は――いや、それよりも、自分の荷物《にもつ》が、まだ外なのですが」
機の窓から、駐機場《ちゅうきじょう》の地面に置きっぱなしのバッグを見つめ、宗介が言った。
「あの中には、月曜|提出《ていしゅつ》の数学の宿題が――」
「軍曹! 着席してベルトを締《し》めてください!」
キャビンのクルーが怒鳴《どな》る。テッサはむっつりと、窓の外を見ているばかりだ。
「しかし、俺の宿題が。というか訓練が――」
「聞こえなかったんですか、軍曹!?」
「だれか説明してくれ!」
そうこう言っているうちに、宗介を乗せたヘリはさっさとメリダ島から離陸《りりく》してしまった。
宗介のような現場の下士官や兵というのは、わけもわからないまま、いきなり戦場に放《ほう》り込まれることがままある。作戦の大局やら背景やらを、将校たちはほとんど説明してくれない。『どこそこに行って、こういう敵を追い払《はら》え』だとか、『あそこの丘を確保《かくほ》して、なにがあろうと絶対《ぜったい》に守れ』だとか。その程度《ていど》だ。宗介としては、そういう突然《とつぜん》の不条理《ふじょうり》な命令には、まだ慣《な》れっこな方だった。
だとしても、これはあまりに唐突《とうとつ》だ。彼が当惑《とうわく》するのも無理《むり》はない。
西太平洋の空を、ヘリは飛ぶ。
テッサは相変わらず不機嫌顔《ふきげんがお》だった。すねたように唇《くちびる》を尖《とが》らせて、ときおり、ぶつぶつと独《ひと》り言を漏《も》らしたりしている。宗介は彼女の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れるのを恐《おそ》れて、三〇分ほど発言を控《ひか》えていたが、やがて意を決してたずねてみた。
「大佐殿。質問が」
「なんです?」
「その……このヘリはどこに?」
「すぐ近所ですよ。グァム島です」
<ミスリル> の基地があるメリダ島は、西太平洋に浮《う》かぶ絶海《ぜっかい》の孤島《ことう》であるが――そこから一番近い文明|圏《けん》が、グァム島だった。宗介たちを乗せた多目的ヘリ――MH―67[#「67」は縦中横] <ペイブ・メア> なら、わずか数時間で着いてしまう距離だ。無給油《むきゅうゆ》で往復《おうふく》できてしまう。東京よりもよほど近いのである。
メリダ島|勤務《きんむ》の隊員たちは、非番《ひばん》のとき、たいていグァムかサイパンへと遊びに繰《く》り出す。観光地《かんこうち》なだけに、どんな人間がうろついても目立たないし、食べ物はおいしくてメニューも豊富。のんびりできるビーチもたくさんある。ナンパもショッピングもし放題。まことになにかと都合《つごう》がいいのである。既婚者《きこんしゃ》の隊員の中には、妻子《さいし》をこのグァムに住まわせている者までいるくらいだ(もちろん、彼の勤務地は巧妙《こうみょう》に秘匿《ひとく》されているのだが)。
「グァムになんの用です」
宗介がたずねると、テッサは両|膝《ひざ》の上に乗せた拳《こぶし》を、ぎゅっと固くした。
「高度に政治的な会合です。その結果いかんでは、わが戦隊はとてつもないダメージを被《こうむ》るかもしれません。今後の作戦行動にも大きな支障《ししょう》が出るでしょう」
「は……はあ」
「わたしは孤立無援《こりつむえん》です。マデューカスさんもカリーニンさんもメリッサも……みんなわたしを見捨てました。上官思いのいい部下たちだと思ってたのに。まさか、彼らがあそこまで薄情《はくじょう》だったとは……!」
悔《くや》し涙《なみだ》をにじませて、テッサは吐《は》き捨てるように言った。
「た、大佐|殿《どの》?」
「ですが! わたしは義務《ぎむ》を果たさねばなりません。この不愉快《ふゆかい》な会合を、なんとか乗り切らねばならないのです。そんなわけなので、付き合ってください、サガラさん」
「しかし、大佐殿。自分にはまだ事情が……」
「カナメさんが困ったときは、いっつも手助けしてるんでしょ!? それにずいぶん前ですけど、わたしが困ったらいつでも助けになる、って言ってました!」
「は。その」
びっしりと脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべた宗介を、彼女はどよんとした目で見上げる。
「先日、あなたとはああいうことがありました。でも約束は約束です」
「…………」
「お気遣《きづか》いなく。一晩、わんわん泣いたら、わりと元気になりましたから。その件であなたを責めてるわけじゃありません」
本人が言うほど簡単な話ではなかったのかもしれないが――
実際、たくましい。
考えてみれば、テッサとて数百人の強者《つわもの》を立派《りっぱ》に束《たば》ねる女傑《じょけつ》である。ただのかよわいお姫《ひめ》さまではないのだ。
「ということで、付いてきてください。じゃないと命令しちゃいます。容赦《ようしゃ》なく」
このヘリに放《ほう》り込まれたいま、すでに命令もへったくれもない状況《じょうきょう》なのでは……? というか、なんで彼女はこんなに不機嫌《ふきげん》なのだ……? そもそも、彼女の言う『高度に政治的な会合』というのは……?
そう思いつつも、宗介は姿勢《しせい》を正してこう答えた。
「いえ。なんなりと」
いつもだったら、せめてこう答えたときくらいは、にっこり笑って『ありがとう、サガラさん』などと言うのが彼女のはずなのだが――
「どーも。じゃあ、あっちに座《すわ》って鋭気《えいき》でも養っといてください」
それきり黙《だま》り込んで、窓の外に憂鬱《ゆううつ》な視線《しせん》を投げかける。まったく、宗介には関心がなくなった様子に見えた。
宗介はただただ言葉を失って、座席の中でそわそわとしているしかないのだった。
ほどなく、機長が告げる。
『大佐|殿《どの》、たったいまポイント・エコーを通過《つうか》しました。予定通り、LZはポイント・デルタ。ETA、ファイブ・ミニッツ。準備《じゅんび》をお願いします』
もうすぐヘリがグァムに到着《とうちゃく》する。臨時便《りんじびん》のため、郊外《こうがい》の路上《ろじょう》にこっそり着陸する予定のようだ。これが定期便だと、平凡《へいぼん》な固定|翼機《よくき》で民間の飛行場に着陸することになる。<ミスリル> の情報部が、管制室のスケジュールを細工しているのだ。
時刻はすでに一八時過ぎだったが、グァムはまだまだ明るく、たそがれの気配も当分先のようだった。もっとも、ヘリの窓から見えるグァムは、セピア調の写真に紫《むらさき》のフィルターをかけたような、地味《じみ》で陰気《いんき》な色だ。すでに不可視《ふかし》モードのECS(電磁迷彩《でんじめいさい》システム)が作動《さどう》しているためである。
ほどなく、ヘリは島の南部にある別荘地《べっそうち》のそば――広い道路に着陸した。丘陵地帯《きゅうりょうちたい》の真ん中の、まったく人や車の行き来がない場所だ。
「降《お》りますよ、サガラさん」
「はっ」
クルーの手を貸《か》りて、テッサがヘリを降りていく。宗介もテッサのスーツケースをつかんで、いそいそと後に従《したが》った。道路を挟《はさ》む広葉樹《こうようじゅ》が、ローターの強風でばたばたと震《ふる》えていた。テッサの髪《かみ》とスカートもだ。
クルーに礼を告げる暇《ひま》もなく、ヘリはふたたび空へと舞《ま》い上がっていく。ただし、その姿は見えなかった。ECSの影響《えいきょう》も消え、抜《ぬ》けるように青い空と、鮮《あざ》やかな樹木の色が戻《もど》ってくる。
たちまち、あたりはしん、となった。
静まりかえった道路の真ん中に、立ちつくした二人。
五分ほどたつと、丘《おか》の向こうから、一台のピックアップ・トラックが走ってきた。運転席と荷台《にだい》に、男たちの姿が五人ほど。
全員、年輩《ねんぱい》だ。六〇過ぎから七〇|歳《さい》代までといったところか。ごま塩頭や、はげ頭。そろいもそろって、派手《はで》なアロハシャツにサングラス。ブレスレットやら、ネックレスやら。ビール瓶《びん》を片手に持った者もいる。
「おーう! 来とる、来とる!」
そのおっさんたちは、テッサに大きく手を振《ふ》った。
「テッサたんじゃ、テッサたん! 会いたかったぞい!」
「きょ……今日はポニーテールなのじゃな。若い頃《ころ》のカミさんに生き写しじゃ……」
「まったく。ういのう、めんこいのう!」
「●ァッキン・グッドじゃ!」
なにやら、一斉《いっせい》に盛《も》り上がる。指笛を吹《ふ》いたり、手を叩《たた》いたり、足を踏《ふ》みならしたり、ボンネットをガンガンと叩いたり。
異様《いよう》なハイテンションであった。
「大佐|殿《どの》。彼らは……?」
「彼らに言わせれば、友人です」
むすっとしたまま、テッサは言った。
「よく来た、テレサ!」
それまで、五人の中で黙《だま》ってニコニコ笑っていた初老の男が、のしのし歩いてきた。
年相応の恰幅《かっぷく》と、灰色の髪《かみ》。ミラー・サングラスと花|柄《がら》のアロハシャツ。どこかのいかがわしい芸能プロモーターとでもいった風情《ふぜい》である。
「私もついさっき合流したところでな! あっはっは!」
なにが面白《おもしろ》いのか分からないのだが、そのおっさんは大笑いした。
「まーとにかく、ここを離《はな》れよう! ホテルにいい部屋をとってある。荷物はそこに預《あず》けなさい。それからレストランでメシだ。トーマスの艦《ふね》で、コックやってた奴《やつ》がシェフなんだ。うまいらしいぞぉ。こんな――こーんな、な? でっかいロブスターが食えるそうだ」
常識的《じょうしきてき》なロブスターの体長を遥《はる》かに越《こ》えるサイズを、そのおっさんは心から嬉《うれ》しそうに両手で表現した。
「はあ」
「小さなおまえじゃ、食いきれんかもしれんが――まあ、そりゃあ仕方ない。そこの若いの! 軍曹《ぐんそう》! おまえさんが手伝ってやればいい。食べ盛《ざか》りだろう。感謝しろよ? きょうは遠慮《えんりょ》なく楽しんでいけ! あっはっは!」
野戦服姿の宗介を気安く指さして、そのおっさんは言った。
それに対する宗介の言葉は、ただ一つだった。
「あんたはだれだ?」
「ん?」
すると男は、サングラスに隠《かく》れた目をすぼめた。後ろのおっさんたちも、陽気に笑うのをぴたりと止め、興味《きょうみ》深そうな目を宗介にそそぐ。
「あんたはだれなのだ、と言った。そもそも大佐殿に対して、馴《な》れ馴れしすぎるぞ。すこしは分をわきまえたらどうなのだ。言っておくが、彼女は貴様のようなチンピラなど及《およ》びも付かない地位の――なんでしょうか、大佐|殿《どの》?」
横からつんつんとテッサにつつかれて、宗介は言葉を止めた。
「提督《ていとく》ですよ、サガラさん」
「は?」
「ボーダ提督です。<|ミスリル《うち》> の作戦部長の」
提督。ジェローム・ボーダ提督。<ミスリル> の戦闘《せんとう》部隊をすべて統括《とうかつ》する、作戦本部の責任者。ありていに言って、テッサよりもさらに偉《えら》い人である。
「そ……その……」
そういえば以前に一度だけ、オンライン会議の立体映像で見たことがある。とはいえ画像は不鮮明《ふせんめい》だったし、略綬《リボン・バー》のごってり付いた将校用の制服を着ていたので、いまの姿とは似ても似つかないのだが――
提督は悠然《ゆうぜん》と構えている。
「も……申し訳《わけ》ありません、提督|閣下《かっか》。じ、自分は……」
たちまち、ボーダ提督と爺《じい》さんどもが、どっと笑い出した。
「おーう、困っとる、困っとる!」
「見ろ、あの顔! 本気でブルっとるぞ!?」
「ジェリーも偉《えら》くなったもんじゃわい!」
「テッサたんの前で、カッコ悪いのう……」
指を指してゲラゲラ笑う。無礼千万《ぶれいせんばん》、失礼きわまりない態度《たいど》であった。
悔《くや》しかったが、黙《だま》ってうつむくよりほかない。その宗介の背中をばんばんと叩《たた》いて、ボーダ提督は言った。
「ほらほら、さっさと車に乗れ、軍曹! きょうは無礼講《ぶれいこう》だ!」
ボーダ提督と四人の年寄りどもは、アメリカ海軍時代の旧友なのだということだった。
海軍兵学校《アナポリス》時代の同期もいれば、その後、いくつかの戦争などで知り合った者などもいる。いちばん年長の者などは、第二次世界大戦で日本海軍とドンパチをやっていたというのだから驚《おどろ》きである。
その五人は年に一度集まって、旧交を温めている。去年はメリーランドでゴルフやらなにやらを楽しんだそうで、その最後の酒席に、ひょんなことからテッサが呼ばれたのだそうだ。
「それはもう、地獄《じごく》のような宴《うたげ》でした……」
中心街のホテルで車を降り、部屋へ荷物を置きにいった帰り、テッサが宗介に言った。ボーダたちは、下のロビーでわいのわいのと騒《さわ》ぎながら待っている。
「高級ホテルのレストランで、ビール瓶《びん》をラッパ飲みして大笑い。マネージャーに注意されたら、おまえはベトナムに行ったのか≠セのと問いつめて、説教モードです。あんまり態度が悪いので、警備員《けいびいん》が来て追い出されてしまいました。普通《ふつう》なら、ちょっとは落ち込んでおとなしくなりそうなものですが――彼らはレストランの入り口|脇《わき》で、抗議《こうぎ》の意味をこめて、その……非常《ひじょう》に汚《けが》らわしい行為《こうい》を」
「? と言いますと?」
するとテッサの顔が赤くなった。
「……みんなで一列に並んで……ごそごそと……壁《かべ》に向かって……。駄目《だめ》です、わたしの口からはとても言えません」
「はあ」
「その後はホテルを飛び出して、コルベットに箱乗りです。町中を流して、道行く女性に卑猥《ひわい》な野次《やじ》を。ついでにバスと併走《へいそう》して、乗客に向かってお尻を見せたりしてました……。しまいには、いやがるわたしを無理矢理《むりやり》引っ張って、人生勉強だ≠ニばかりにトップレス・バーへ。ダンサーの人に腕《うで》を引かれて、危《あや》うくステージに上《のぼ》るハメになるところでした。酔《よ》っぱらって口説《くど》いてくるわ、なんやかんやで大変でした……」
その惨状《さんじょう》は、宗介にも想像できた。ヘリの降下ポイントからこのホテルまでの道中、あのじじいどものハイテンションっぷりといったら、尋常《じんじょう》ではなかったのだ。テッサの登場に大喜びして、走行中のトラックの荷台から飛び降りそうな勢《いきお》いであった。
「理解《りかい》できません。ボーダ提督《ていとく》ともあろう方が、なぜそのようなチンピラ集団と?」
ロビーへのエレベータに乗りながら、宗介はたずねた。
「ただのチンピラ集団なら、苦労しません。彼らはああ見えても、いずれ名のある退役《たいえき》軍人なんです。二〇世紀後半の主だった戦争をくぐり抜《ぬ》け、たぐい希《まれ》なる功績《こうせき》を納《おさ》めてきました。わたしも書物や論文《ろんぶん》で彼らの名前や戦歴は知っていましたから、招かれたときは光栄な気持ちでいっぱいだったんです。それが……」
テッサはつぶやいた。
「それが……あんな……始末《しまつ》に負えないヤンキーどもだとは……」
あとは言葉にならないと見え、うつむいて、肩《かた》をわなわなと震《ふる》わせる。
まあ、日頃《ひごろ》の仕事で、脇《わき》を固めるのがマデューカスやカリーニンである。イギリス人やロシア人の中でも、ひときわクソ真面目《まじめ》で陰気《いんき》なタイプのあの二人に慣れた彼女が、ああいうヤンキー親父《おやじ》どもに遭遇《そうぐう》したショックは並大抵《なみたいてい》ではなかったのだろう。
「しかし、大佐|殿《どの》もアメリカ人では?」
「わたしは東部の古い町の出身です! あんな西海岸《カルフォルニア》ノリの、頭からヤシの木が生えてるような人たちと一緒《いっしょ》にしないでください!」
「はあ。すみません」
宗介は間の抜けた返事をした。
「……去年はショックのあまり、メリダ島に帰ってから二日ほど寝込《ねこ》んでしまいました。ヴェノムやらなにやら、いろいろと懸案事項《けんあんじこう》の多い昨今《さっこん》です。わたしがまた行動不能《こうどうふのう》になったら、部隊にとっても大きなマイナスになります。……そんなわけなので、サガラさん。あなたはわたしの護衛ということで連れてきましたが、もし、あのおじさんたちが何か狼藉《ろうぜき》を働こうとしたら、容赦《ようしゃ》なく止めてください」
「ですが……」
「いいんです! もう、バシっと。責任はわたしがとりますから」
「了解《りょうかい》しました」
「けっこう。じゃあ、行きますよ……!」
鼻息も荒《あら》く、テッサは気合いを入れる。半|袖《そで》の私服でなかったら、腕《うで》まくりでもしそうな勢いだ。
二人を乗せた下りのエレベータが、一階についた。
ドアが開くと、たちまちロビーのけたたましい喧噪《けんそう》が耳に入ってくる。女性の悲鳴《ひめい》やら、モノの壊《こわ》れる騒音《そうおん》やら。ありていにいって、喧嘩《けんか》である。
「?」
あわてて二人が駆《か》けつけると、五〜六人の若い日本人が、床《ゆか》にのびていた。椅子《いす》やら花瓶《かびん》やらの破片《はへん》が、あたり一面に飛び散っている。そして、いましも最後の一人が、五人のオヤジどもによって、片づけられるところであった。
「そーれ!」
かけ声とともに、朦朧《もうろう》とした若者がロビーの噴水《ふんすい》に投げ込まれる。水柱が立ち、その若者は仰向《あおむ》けに浮かんだまま、ぐったりと動かなくなった。
「ざまあみろい! チンピラめが!」
「年寄りだと思ってナメたのが、運の尽《つ》きじゃい!」
「さあ立て! それとも貴様らは、●ィックを●ックするしか能のないお嬢《じょう》さんどもなのか!? ガッツを見せてみんか!」
好き勝手に叫《さけ》んでいるオヤジどもに、テッサが駆け寄って言う。
「ちょっと! 何の騒《さわ》ぎですか、これは?」
「ん? テッサたんかい。いささか、心得知らずのガキどもがおったのでな。ちょいと思い知らせてやったのよ」
なんでも、その日本人たちはフロント係の女性に因縁《いんねん》をつけて、あれこれと無茶《むちゃ》な要求をがなり立てていたらしい。
「まあ、そういうことだ。別に私たちが暴《あば》れ始めたわけじゃないぞ、テレサ」
ぜいぜいと息して、ボーダ提督《ていとく》が言った。鼻血が出ている。いまでも重要な地位にある彼まで、一緒《いっしょ》になって暴れた様子である。
「ジェリーの言うとおりよ。テッサたんが、あと一分はやく来てくれればなぁ」
「まったくよ! わしらのクソ格好いいところを、目ん玉が●ァックするほど見せてやれたのに!」
「……残念じゃ」
「まあ、いいわ。ちょうどいい景気《けいき》づけになったしな。で、次はメシじゃ、メシ! ロブスターが待っとるぞ!」
得意げに凱歌《がいか》を上げるオヤジたちの前で、テッサは肩《かた》を落とし、深いため息をついた。
で、一時間後。
ボーダが主張《しゅちょう》したほどのサイズではなかったが、それでも卓上《たくじょう》に出されたロブスターは、ちょっと『うっ』とくるほどの大きさだった。その他にも、どでかいスペアリブやら、山をなすマッシュポテトやら、フライドチキンやらローストビーフやら。
脂《あぶら》ぎらぎら。カロリー満点。一週間で体重が一・五倍になりそうなメニューを前にして、テッサがげんなりしたのは言うまでもない。
そうしたメニューを、おっさんどもは、げらげら笑いながらむさぼり食う。いまどきは当たり前の低カロリーや低コレステロール食なんぞ、知ったことはない風情《ふぜい》だ。
会話の勢いも相変わらずだった。
たそがれに染まる海を、一望《いちぼう》の下《もと》に見渡《みわた》すレストラン――風通しのいい、地中海風の内装《ないそう》の店で、彼らはテッサを取り囲み、他愛《たあい》もない話題で異様《いよう》な盛り上がりを見せている。他の客が眉《まゆ》をひそめることなど、おかまいなしだ。
末席で、あれこれとおとなしく話を聞いているうちに、宗介にも彼らの経歴がわかってきた。
まず、いちばん近い席のケヴィン・スカイレイ退役中将は、元|戦闘機《せんとうき》乗りだ。ベトナム戦争では数え切れないほどの死線をくぐり抜《ぬ》けてきた。後に航空団《こうくうだん》の司令、さらに空母の艦長《かんちょう》まで務《つと》め上げたという。さらにケヴィン氏は、射出《しゃしゅつ》座席を使用した経験のある者だけが参加を許される、『|芋虫の会《キャタピラーズ・クラブ》』の会員でもある。無数に襲《おそ》いかかってくる北ベトナム軍の対空ミサイルに撃墜《げきつい》され、緊急脱出《きんきゅうだっしゅつ》で敵地《てきち》のジャングルに降下し、一週間ほど敵の大軍から逃《に》げ回ったことがあるそうな。
パイロット時代はスリムな体型と甘《あま》いマスクで、あれこれ浮《う》き名を流したらしい。嫌われ者の上官の愛人を寝取《ねと》ったせいで、シルバー・スター勲章《くんしょう》を一個もらいそこねたこともあるそうな。もっともいまのケヴィン氏は、髪《かみ》の薄《うす》くなった、まるまるとした二重|顎《あご》のおっさんなのだったりする。本人はいまだに自分のことを色男だと思っている節《ふし》があるようで、『どうじゃい、テッサたん。危険な恋《こい》ってやつを、経験してみんか?』などと口説いたりしてる。テッサは冷たく『遠慮《えんりょ》しときます』と言うばかりだ。
(クルツが歳《とし》を取ったら、こうなるかもしれんな……)
などと、宗介は失礼な想像をした。
次。
このパーティの幹事《かんじ》であるジョン・ジョージ・コートニー退役海兵中佐は、この中でただ一人、海兵隊の人間だった。立派《りっぱ》な口ひげを生やした、戦争大好き熱血中年である。なにやら複雑怪奇《ふくざつかいき》な経歴の持ち主で、ボーダとは兵学校で同期だったそうな。本来なら、ほかの連中と同じく将軍クラスの階級になっていたところなのだが、現場から離《はな》れるのを嫌って、わざわざ嫌いな上官をぶん殴《なぐ》って昇進《しょうしん》を取りやめにさせたことまであるという。退役したいまでも、近所の海兵隊基地まで出かけていって、いやがる部下を押《お》しのけて最新鋭《さいしんえい》のアーム・スレイブを乗り回し、すっかりご満悦《まんえつ》らしい。
彼はあんまりスケベではない。しかし言葉|遣《づか》いがひどく下品だ。声がでかくて、言葉のはしばしにF言葉が入るのである。
『――つまり、あの●ァッキン・ASは、クソの役にも立たない●ァッキン・アーマライトと変わらんのだ。わかるか、テッサたん。それをあの、●ァッキン・エアフォースが使ってる●ァッキン・チョッパーに搭載《とうさい》しようってんだから、もうガッデム・アスホールだ。あいつらの●ァッキン・エンジンは●ァッキン・ジオトロンの――』
エンエン、こういう調子である。テッサは『わかりましたから、普通に喋《しゃべ》ってください……!』とつぶやき、わなわな震《ふる》えていた。
(マオはたまに悪酔いすると、似た感じになるな……)
などと、宗介はきわめて正当な感想を胸中《きょうちゅう》でつぶやいた。
こわもてのロイ・シールズ退役大佐は、海軍の特殊《とくしゅ》部隊で長い間戦ってきた古強者《ふるつわもの》だ。つい五年前まで、特殊作戦コマンドで要職につき、数多くの極秘《ごくひ》作戦を指揮してきたという。やはりベトナムではいろいろあったらしく――彼らの話では、いまだに事情が話せない勲章《くんしょう》をいくつも持っているらしい。死にかけたことは、二度や三度ではないのだろう。たっぷりたくわえたあごひげに隠れているものの、頬《ほお》には大きな傷跡《きずあと》がある。よく見れば、右耳もちょっと欠けていたりする。
そんなおっかないシールズ氏なのだが、隙《すき》あらはテッサの袖《そで》をくいくいと引いて、『て、テッサたん。どうじゃね、これから二人きりで散歩《さんぽ》でも』などとハアハアしながらささやいたりする。これがますます、別の意味でおっかない。『いえ、それは……また別の機会《きかい》に』と、テッサは身を引きながら言っていた。
(カリーニン少佐が色ボケしたら、こういう感じになるかもしれん……)
などと、宗介はこれまた失礼千万な想像をした。
トーマス・ロス退役少将は、潜水艦《せんすいかん》乗りである。自ら指揮する攻撃原潜《こうげきげんせん》で、ソ連海軍の潜水艦相手に、いろいろと危ない橋を渡《わた》ったらしい。緻密《ちみつ》な戦術と大胆《だいたん》な操艦《そうかん》でも知られた名手だったが、上官の不興《ふきょう》を買って、五〇年前のオンボロ艦の艦長|職《しょく》に飛ばされたこともあるそうな。だがなんだかんだで最新鋭艦に復帰《ふっき》して、その後は艦隊司令まで務めたということだ。
このおっさんはひたすらハイテンションで、テッサの前でやたらと脱《ぬ》ぎたがる。ズボンをごそごそやって、『去年は見せられなかったんだがな! 実はケツにもイレズミがあるんじゃ。ほれほれテッサちゃん、見てみい! ほれ!』てな調子である。かなり駄目《だめ》な人だ。テッサはかたく目をつむり、『しまってください! しまってください!』と懇願《こんがん》している。
(マデューカス中佐が発狂《はっきょう》したら、こういう感じか……?)
などと、本人が聞いたら怒《おこ》るだけでは済まされないようなことを、宗介は想像した。
ともかく、そんな感じの四人であった。
まだ日も沈《しず》みきっていないというのに、公共の場でのこのていたらくだ。かなり問題なのだが、いちばんまともなボーダさえも、ビール片手に『わはは』と笑ってばかり。まるで頼りにならない。
「なあテッサちゃん。見るだけなら構《かま》わんじゃろーが!? な? ほれ!?」
潜水艦乗りのトーマス氏は、なおも懲《こ》りずに汚《きた》ねえケツを掘《ほ》り出そうとしている。なんだか、心から楽しそうだ(かわいそうに……)。
テッサが宗介の腕《うで》をつかんだ。
「もうダメです。サガラさん、やっちゃってください……!」
「了解《りょうかい》です」
宗介は唯々諾々《いいだくだく》と、履《は》いていたビーチ・サンダルを右手に握《にぎ》り――
すぱーんっ!
トーマス・ロス退役少将[#「少将」に傍点]の後頭部を、思い切りはたき倒《たお》した。
正直、なかなか気分がよかった。
「いきなり、なにをするんじゃ、おまえさんは!?」
こてっとテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》したトーマス氏を介抱《かいほう》しながら、自称《じしょう》色男のケヴィン氏が言った。
「いえ……ボーダ閣下《かっか》から無礼講《ぶれいこう》と聞いていましたので」
千鳥《ちどり》だったら、ここで『やかましいっ!』とか怒鳴《どな》り返すのだろうなあ、と思いながら、宗介は淡々《たんたん》と答えた。
「自分のことは、監視役《かんしやく》と考えていただきたい。彼女に狼藉《ろうぜき》を働いた方には、容赦《ようしゃ》なくこのサンダルを振《ふ》り下ろす所存《しょぞん》です、サー」
「そうです。バカやった人にはペナルティです。軍隊の人なら、当然でしょ?」
テッサがぶすっと言うと、ケヴィンたちは『むむう……』とうなった。
「く……なんという。わしらのような、かよわくデリケェトな老人をいじめて、なにが楽しいというのか……」
涙《なみだ》ぐむじじいども。テッサはたちまち肩《かた》を怒《いか》らせる。
「ついさっき! 若者五人と乱闘《らんとう》を演じて、完勝したばっかりじゃないですか!?」
「はて……?」
「知らんのう……」
ぼんやりと宙《ちゅう》を見上げ、老人力を発揮《はっき》する一同であった。
「…………。とにかく。これ以上なんか下品なことしたら、このサガラさんが黙《だま》っていませんよ? っていうか、むしろ黙ってスパーンと殴《なぐ》ります。そうでしょ、サガラさん?」
宗介は黙ってうなずいた。
「納得《なっとく》いかんぞ、テッサたん! そこの若いのに、そこまでエラそうにする権利があるのかね。ただの付き人じゃろうが!?」
ボーダを除《のぞ》く四人には、テッサはボーダが関係する、とある研究|機関《きかん》のスタッフで、宗介はそこに出入りしているどこぞの護衛要員だということで紹介《しょうかい》されていた。
「その認識は間違《まちが》ってます。これはなるべく言いたくなかったのですが……」
テッサは咳払《せきばら》いをした。
「――このサガラさんは、わたしの恋人《こいびと》なんです」
衝撃《しょうげき》の発言。驚愕《きょうがく》する一同。もちろん、宗介もだ。
『なに――――っ!?』
「そういうわけなので、わたしにモーションかけても無駄《むだ》です。ね、サガラさん?」
「は?」
「はいと言えばいいんです」
「は、はい」
顔面にびっしり脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべて宗介が答えると、男たちはたちまち号泣《ごうきゅう》した。
「そんな、そんな……!」
「あんまりじゃ!」
「あっけなさすぎる!」
「ブラフじゃ! ●ァッキン・ブラフじゃ!」
テーブルに突《つ》っ伏《ぷ》して泣きわめいたり、天を仰《あお》いだり、慰《なぐさ》め合ったり。なぜかボーダまでもが、顔を赤くして宗介をにらみつけていた。
「軍曹《ぐんそう》! 君には失望《しつぼう》したぞ!?」
「て、提督《ていとく》……?」
「見所のある若者だと思っていたのに! コソ泥《どろ》のような真似《まね》をしおって! あの世でカールの奴《やつ》になんと詫《わ》びればいいのやら。いつからだ!? え!? いつからなんだ!?」
胸《むな》ぐらをつかんで、ぐいぐいと締《し》め上げてくる。
「お、落ち着いてください、提督|閣下《かっか》――」
「九月の休暇《きゅうか》のときからですよ」
しれっとテッサが言った。
「毎日、彼のマンションで寝起《ねお》きしてましたし。そりゃあもう、機会《きかい》はたくさんありました。サガラさんったら、毎晩わたしを眠《ねむ》らせてくれなくて……。すっごく情熱的に愛してくれて……おかげで昼間が眠くて大変でした」
がっくりと肩《かた》を落とす男たちの様を楽しむように、テッサはでたらめな話をとうとうと続けた。最後に『ふふん。ざまあみろです』とでも言わんばかりに、小鼻を鳴らしたりまでする。
宗介がひそひそと日本語で彼女に抗議《こうぎ》した。
(大佐|殿《どの》、困ります……!)
(どうしてです?)
(部外者はともかく、ボーダ提督まで信じているのですが……。あの打ちひしがれた横顔を見てください。今後のわれわれの立場が……)
(いいんです。ほっときましょう)
なにやら今回、テッサは容赦《ようしゃ》というものを知らない。
(しかし、大佐殿……)
(だってこの人たち、わたしを困らせて喜んでるだけなんですから! ここらでバシッと、ケジメをつけるべきなんです!)
(はあ)
(だいたいあなたも何なんです、そのイヤそうな顔は……!? そんなにわたしの彼氏を演じるのが不服《ふふく》ですか?)
(いえ、決して、そのような)
(じゃあ黙《だま》って、そういう顔しといてください。……それに、こうやって一発、ガツンとやっておけば、彼らも落ち込んでおとなしくなります。わたしの狙《ねら》いは、まさしくそこにあるのです)
(ふむ……)
それはもっともな話だった。実際、彼らはどんよりと沈《しず》んだまま、陰気《いんき》なすすり泣きを漏《も》らしている。
(納得《なっとく》しました)
(でしょう?)
テッサが得意《とくい》げに胸を反《そ》らす。
だがその直後に、じじいどもはジョッキを掲《かか》げて、涙声《なみだごえ》でこう叫《さけ》んだのだった。
「ええーい! こうなったら今夜はヤケ洒じゃぁあぁっ!」
「気を失うまで飲んで暴《あば》れてやるわいっ!」
「例年|比《ひ》で一・八倍あたりを目標に!」
「あと若いの! あとで思いっきり絡《から》んでやるからの。覚悟《かくご》しとれ!?」
たちまち、元通りのらんちき騒《さわ》ぎ。
策士、策に溺《おぼ》れる……というほどの策でもなかったが、完全に裏目《うらめ》に出てしまった。宗介とテッサは、同時にテーブルに突っ伏す。
そこで――
「キャ―――ッ!!」
レストランの入り口近くから、食器のひっくり返る騒音《そうおん》と、ウェイトレスの鋭《するど》い悲鳴が聞こえた。ひょろりとした男が、店内に踏《ふ》み込んできてこう叫んだ。
「おまえら! う、動くんじゃない!!」
驚《おどろ》いて座席に伏せる一般客《いっぱんきゃく》たち。頭を抱《かか》えてうずくまるウェイトレス。
(強盗か?)
日頃《ひごろ》の生活が生活だけに、宗介もテッサもあわてない。二人は目立たぬ仕草で、ちらりと乱入者《らんにゅうしゃ》の様子をうかがった。
プリントTシャツにジーンズ姿の、三〇過ぎの白人男だった。手には安っぽいリボルバー拳銃《けんじゅう》。全身|汗《あせ》だくで、髪《かみ》の毛はくしゃくしゃ、見るからに興奮《こうふん》している。
「くそっ! 席を立つんじゃないぞ!? 変なマネをしたら鉛弾《なまりだま》をブチ込んでやる! こら、そこの女! 携帯《けいたい》電話を捨てるんだっ!」
店内は恐怖《きょうふ》に静まりかえった。――いや、静まりかえっていなかった。
宗介のそばの五人だけは、あいかわらず幸せそうに、ジョッキを掲げてとある映画の『君はあの愛を失った』なる曲を大合唱《だいがっしょう》していたりなどする。
『バッ、ベイビー! ベイビー! アイ、ノ――――イッ! ユゥヴロス! ザッ、ラーヴィン、フィ――――リンッ!! ウォアッ、ザッ、ラーヴィン、フィ――リン!』
気付いてない。
その気まずい空気といったら。客たちの視線《しせん》を痛いほど感じて、テッサが耳まで赤くなっていた。
ほんの三〇秒とたたない内に、数台のパトカーがレストランの前に急停車《きゅうていしゃ》した。
問題の拳銃男は、追われてここに逃《に》げ込んだと見える。けたたましいサイレン。地元|警察《けいさつ》の巡査《じゅんさ》たちが、パトカーを盾《たて》にしてショットガンやら拳銃やらをぴしりと構える。応援《おうえん》のパトカーも続々と駆《か》けつけ、たちまちレストランは包囲《ほうい》されてしまった。
拳銃男は窓から外の様子をうかがって、何度も『クソッ! クソッ、クソッ、クソッ!』などと悪態《あくたい》をついていた。
「面倒《めんどう》なことになりました……」
「大佐|殿《どの》。もしよければ、自分が片づけますが」
宗介の腕《うで》ならば、テーブルのナイフ一本だけで男を無力化《むりょくか》できるだろう。それがよくわかった上で、テッサはどうしたものやら≠ニ思案顔《しあんがお》をした。
「そうですねえ……。でも、目立つとあとで警察にいろいろ訊《き》かれるでしょうし。事情《じじょう》聴取《ちょうしゅ》やらなにやら――」
『ユゥヴロス、ザッ、ラーヴィン、フィリンッ!! ウォウザッ! ラーヴィ――』
「下手《へた》すると、明日も帰れなくなるかもしれないし――」
『ナウイッ! ゴーンッ! ゴ――ンッ! ゴ――ンッ……ウォウ、ウォウ、ウォウ!』
「彼が人を傷つけようとしない限りは、なるべくこのまま関《かか》わり合いにならずに――」
『ナゥゼァズ! ノー、ウェルコ、ルッキン、ヨアーイズ! ウェナリーフォユー!!』
「――って、みなさん!? ちょっと静かにしてください!!」
しょうこりもなく飲めや歌えやを続けるじじいどもに向かって、テッサはどやしつけた。
「なんじゃね、テッサたん」
「怒《おこ》った顔が、またかわいいのう」
「●ァッキン・グッドだ……」
「のんきに顔をほころばせないでください! あれが見えないんですか、あれが!」
焦燥感《しょうそうかん》に駆られたように、店内をうろうろしているTシャツ男を、テッサは指さした。
「なんじゃい、あいつは。便所《べんじょ》でも探しとるのか」
「違《ちが》います! ってゆーか、銃《じゅう》を持ってるでしょう!? それと店の外! あのパトカーが見えないんですか!?」
老人たちは言われたとおりに窓の外を見て、『ふむ?』と鼻を鳴らした。
「おまえだ、ケヴィン。きのうの晩、あの●ァッキン・ホテルの●ァッキン・ガラスを割って逃《に》げたからだ」
「なに言っとる。あれはおまえさんの乱暴《らんぼう》運転のせいよ。けさ、ビーチを突《つ》っ走《ぱし》って水着ギャルを轢《ひ》きそうになっただろが」
「それよりも、ロイが海軍基地のゲートで生意気《なまいき》な憲兵《MP》をぶん殴《なぐ》って逃げたせいだと思うがのう……」
口々に、ここ一日の罪状《ざいじょう》を述懐《じゅっかい》する。
「そ、そこまでやっていたんですか……」
テッサがそれきり絶句《ぜっく》していると、拳銃男《けんじゅうおとこ》がこちらにずけずけ近づいてきた。
「おい、おまえら! さっきからギャーギャーと……静かにしろって言ってるのが聞こえなかったのか!? じじいどもめ!」
すると爺《じい》さんたちは、顔を見合わせ肩《かた》をすくめた。
「どうやら、表の連中はこやつが目当てらしいの」
「なんじゃ、つまらん」
「こんなチンピラ相手に、一個中隊の●ァッキン・ポリスが必要なのか?」
心から退屈《たいくつ》そうなコメント。たちまち男は激昂《げっこう》し、三八口径のリボルバーを彼らに向けた。ウェイトレスが悲鳴をあげる。
「こいつが見えないのか!? この場で脳《のう》ミソをぶちまけてやるぞっ!!」
爺さんたちはけろりとしていた。
「ひえええ!。殺さないでくれーい」
「どうかお助けを〜〜〜〜」
「このロブスターを差し上げます〜〜。だからあっち行ってくだされ〜〜」
からかうように空々しく言って、ゲラゲラと笑う。
「こ、この小娘《こむすめ》がどうなってもいいのか!?」
男が銃口をテッサに向けた。すると老人たちはテッサをかばうように、みんなでいーかげんに両手を広げて、
『彼女だけは! 彼女だけは助けてくだされ〜〜〜!』
だのと言って、またゲラゲラと笑った。
「う、撃《う》つぞ!? 本当に撃つからな!?」
怒《いか》りの臨界点《りんかいてん》を越《こ》えたのだろう。男はびっしりと顔面に脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべながら、両手でしっかりと拳銃を構えた。目が本気だ。
「あー、撃て撃て。遠慮《えんりょ》するな」
「しっかり狙《ねら》えよー、若いの」
フライドポテトやスペアリブをかじりながら、やんややんやと野次《やじ》を飛ばす。
「う……うう……」
「どうした。ビビっとるのか?」
元|特殊《とくしゅ》作戦群の指揮官《しきかん》・ロイが言った。
「女を撃つのに抵抗《ていこう》があるなら、わしを狙え。ほら」
「う、くっ……」
「そうだ。肩《かた》の力を抜《ぬ》いて。安全|装置《そうち》は外してあるか? よし。ならいつでも撃てるぞ。ケツの穴に力をこめろ。こらこら、どこを見とる。ターゲットをまっすぐに捉《とら》えるんだ。そう! まっすぐ! ここじゃ!」
自分の額《ひたい》を、ロイは指先でつついた。
「ひ……う……」
「それでいい。では撃て!」
男は涙目《なみだめ》で、銃口《じゅうこう》をわなわなと震《ふる》わせている。
「なにをしとる。撃て!」
「ほらほら! 急げ急げ!」
「●ァッキン・ガッツを見せてみろ!」
「はやく撃てっての!」
もはやハッタリの次元ではない。じいさんどもは本気で、相手が撃つのを急《せ》かしていた。食器をロブスターの殻《から》で打ち鳴らし、『|撃て!《ファイア!》 |撃て!《ファイア!》』とはやしたてる。
ロイはステーキ用のナイフを突《つ》きだした。
「三秒やる。撃たなきゃおまえさんを刺《さ》し殺すぞ! さあ撃て!! 三!」
「くっ……うっ……ううっ……!」
「二!……一!」
「ひっ……」
「撃てぇ――――っ!!」
「うっ、うわあぁぁあぁぁあぁぁ―――――っ!!」
男は涙のにじむ両目をかたく閉じ、力|一杯《いっぱい》、トリガーを引いた。
かちん。
乾《かわ》いた金属の音が鳴った。それだけだ。
「〜〜〜〜っ! うっ! んん……っ?」
泣き顔をくしゃくしゃにしながら、男が何度もトリガーを引く。何度引いても、弾《たま》は出ない。ひどく混乱《こんらん》した様子で、彼は『え……? ええ? う……ええ!?』だのと拳銃《けんじゅう》を眺《なが》め回した。
「ぎゃ―――――――はっはっはっはっ!!」
たちまち爺《じい》さんたちは大爆笑《だいばくしょう》した。核爆発《かくばくはつ》みたいな勢いだった。
『ギャ――――ハッハッハッ! ギャ――ハッハッハ! ギャヒ―――ッ!! ヒィ――! ウゥ――ッヒッヒ! ニ――ヒッヒッ! ヒック! ウゥヒ――ハァ――ハッハッハッ! ギャ――ハッ! クックック! ウーヒッヒ! クッヒ! ドヒイイイイ―――――!! ヒック、ウック! ケヒィ――ヒッヒッヒ!! ギャ――――ッ! ドヒィ―――ッヒッヒッヒ! ギ、ギャアァ―――ッ!!』
なんか、意味《いみ》もなくムカついてくるほどの笑い方である。
いやっていうほど手を叩《たた》いたり、テーブルをガンガン殴《なぐ》ったり。泣きそうな拳銃男のモノマネをしたり。
ぽかんとする拳銃男。
さすがに見かねて、宗介が親切心から教えてやった。
「銃のシリンダーをよく見ろ」
「へ?」
「その手のリボルバー拳銃はな……正面から見ると、残弾《ざんだん》が丸見えなのだ」
弾《たま》切れ。
彼らは最初から、わかっていてからかったのだ。
立ちつくし、赤面する男を指さして、たちの悪いじじいどもはしつこく、しつこく笑い続けた。
「ヒー、クック……。……それで? おまえさん、何をやらかした?」
およそ一分、散々《さんざん》に笑いのめしてやってから、潜水艦《せんすいかん》乗りのトーマスが目尻《めじり》を拭《ぬぐ》いながらたずねた。
「はあ……その……。観光客向けの……両替所《りょうがえじょ》を強盗《ごうとう》しまして……。あ、どうも」
すっかり意気消沈《いきしょうちん》した男は、テッサが勧《すす》めるまま、空いた座席に腰かけた。
「とりあえずカネをひっつかんで逃《に》げたんですが……いろいろあって。追ってくるパトカーのタイヤに向かって撃ったりしたんですが……なんつーのか、映画みたいには行かないものですねぇ……あ、どうも」
空のコップに、テッサがとくとくと冷水を注《つ》いで出してやると、男は恐縮《きょうしゅく》して後頭部を掻《か》いた。
「とりあえず、落ち着いてくださいな」
「恐縮です」
言われるままにコップをあおる。
「ぷは。うまい。……で、まあ。とにかくこうなった次第《しだい》でして」
男が持っているのは弾切れの銃《じゅう》だけなのだが、それを知らない地元警察は、依然《いぜん》、彼らのレストランを十重二十重《とえはたえ》に包囲している状態《じょうたい》だったりする。
「いくら盗《ぬす》んだのじゃ?」
「さあ……なにしろ余裕《よゆう》がなかったんで、まだ数えてないんですが……なるべく一〇〇〇ドル札を狙《ねら》ったつもりです」
ジーンズのポケットをごそごそと探《さぐ》り、卓上《たくじょう》にくしゃくしゃの紙幣《しへい》を出していく。『1000』の数字が印刷《いんさつ》された紙幣が、一三枚。一〇〇〇ドル札なら、およそ一五〇万円といったところなのだが――
「これは一〇〇〇円札だな……」
宗介がつぶやいた。
計、一万三千円。
数十人の警官に包囲される理由としては、かなり割に合わない額であった。
「普通《ふつう》にこういうレストランでも|強盗した《タタいた》方が、まだマシじゃったろうに……」
「はい。なんか、泣けてきました……」
うるうると両手をテーブルにつき、卓上の一万三千円を見下ろして、男は同意した。
「その拳銃《けんじゅう》、ストリートでチンピラから買いまして。一三〇ドル(約一万五千円)だったんです。約二〇ドルの赤字です……」
テッサが差し出した紙ナプキンを受け取って、涙《なみだ》を拭《ふ》いて鼻をかむ。
「ありがとう、やさしいお嬢《じょう》さん。さっきは脅《おど》かしてすみませんでした」
「いえ……。それであなた……えーと、お名前は?」
「デニスです。デニス・ファルコウスキー」
男があっさり名乗ると、爺《じい》さんどもはわずかに目を細めた。
「ファルコウスキーさん。出身は?」
「ハワイです。いろいろあって、|グァム《こっち》でトラックの運転手やってました」
「それでデニスとやら。これからどうするつもりだね」
元|戦闘機《せんとうき》乗りのケヴィンがたずねると、デニスは途方《とほう》に暮《く》れた様子でため息をついた。
「わかりません……。この一一〇ドルじゃ、何の解決《かいけつ》にもならないし……。そもそも、これじゃあ刑務所《けいむしょ》行きです」
うつむいて、ぽろぽろと涙をこぼす。
「くそう……ダニー……すまん。俺は駄目《だめ》な父親だ……」
「息子《むすこ》さんがいるんですか?」
テッサがたずねると、デニスはうなだれた。
「ええ……。別れた女房《にょうぼう》とサイパンに住んでまして。月に一度は必ず会っていたんです。ところが……先日、女房の弁護士《べんごし》から連絡《れんらく》がありまして。もう息子とは会わせられないって言うんです……。養育費《よういくひ》を半年も滞納《たいのう》してまして」
「まさか、それで強盗《ごうとう》なんて真似《まね》を?」
「仕方がなかったんです。事業に失敗して、勤《つと》めていた運送会社もクビになりました。どうしてもカネが必要だったんです! 月曜の朝までに、五〇〇〇ドル」
「ふん。自業自得《じごうじとく》じゃな」
元|潜水艦《せんすいかん》乗りのトーマスは言うと、ソースのたっぷりかかった地中海風シーフード・タコスをかじった。
「これまでの無能無策《むのうむさく》が招《まね》いた結末よ。息子のことはあきらめて、おとなしくお縄《なわ》にかかるこった。塀《へい》の中で反省してこい。負け犬にはお似合《にあ》いの人生じゃ」
「ロス少将。いくらなんでも、言い過《す》ぎです」
「いいや、テッサたん。トーマスの言うとおりだ。この●ァッキン・ガイが●ァッキン・ガンを振《ふ》り回して、わしらを●ァックしようとしたのは事実だぞ」
「しかり、しかり。こういうバカの数が減《へ》らんから、銃|規制《きせい》が必要になるんじゃ」
「酒がまずくなったのう……」
そろって冷たい態度《たいど》である。この問題についてばかりは、まったくの正論なので、テッサもそれ以上告げる言葉がない。陰気《いんき》なデニスのすすり泣きだけがあたりに響《ひび》く。さすがに興《きょう》ざめしたとみえ、爺《じい》さんたちはむっつりと黙《だま》り込んだ。
そのおり、店の電話がりんりんと鳴った。
電話のそばにいたウェイトレスが受話器をとり、ひそひそと受け答えする。彼女はデニスに目を向け、受話器を指しながら、遠慮《えんりょ》がちに言った。
「あのー。警察の人です。話がしたいと……」
デニスが肩《かた》をびくりと震《ふる》わせる。
「ど、どうしよう……」
「どうもこうもあるかい。さっさと話して、謝《あやま》って出ていかんか」
「……はい。あの……でもその前に、みなさんを見込んでお願いがあるんです」
「言うてみい」
デニスはあたふたしながら、ポケットから古びた腕時計《うでどけい》を取り出した。くすんだ金色で、文字盤《もじばん》のガラスが曇《くも》っている。
「これをダニーに……サイパンに住む僕の息子《むすこ》に届けてもらえませんか? 死んだ親父《おやじ》の形見《かたみ》なんです。いつか、あいつに譲《ゆず》り渡《わた》そうと思っていまして……でも、それももう叶《かな》わないでしょうから」
「郵送《ゆうそう》すればいいじゃろうが」
「無理です。元妻は、中身も見ないで捨てるでしょうから」
「ふむ……」
「それで、息子に伝えて欲しいんです。僕はこの通りの負け犬ですけど、親父は……あいつのお祖父《じい》さんは、立派《りっぱ》な男だったって……そう伝えて欲しいんです。息子はこれから思春期《ししゅんき》です。負い目を背負って育つよりも、少しだけ――わずかなりとも、あいつに誇《ほこ》りのようなものを与《あた》えてやりたいんです」
老人たちは黙り込んだ。腕組みして、考え込み、それぞれ目配せしあった。最後に一同はボーダ提督《ていとく》の顔をうかがった。
「まあ……無理ではないが……」
しぶしぶとボーダはそう言った。
「よし、決まりじゃ!」
テッサや宗介にはまったくうかがい知れない無言の会議が、終了《しゅうりょう》してしまったようだった。
「あのー。さっきから、警察の人が『まだか』って……」
ウェイトレスが言った。
「わしが出よう」
有無《うむ》を言わさず、元|特殊《とくしゅ》部隊のロイが立ち上がった。驚《おどろ》くデニスが後を追おうとすると、元海兵のジョンがそれを押《お》しとどめる。ロイはずけずけ電話まで歩くと、ウェイトレスから受話器を受け取って話しはじめた。
「ハロー。……いやいや、私は客だ。犯人の代わりに話すことになった。……ん? 大丈夫《だいじょうぶ》だ、怪我人《けがにん》は一人もいない。それで――」
おそらく、電話の相手は現場を指揮する警官なのだろう。ロイは気楽なようでいて、実は慎重《しんちょう》な返事を繰り返した。『わからん』だの『なんとも言えない』だの『見ていない』だの。後でどうとでも解釈《かいしゃく》できるような、そういう曖昧《あいまい》な答えばかりだった。
しかし、最後にこう言った。
「……武器? ああ、犯人の武器か。それは……すごい武装だ。いいか、よく聞いてメモっとけよ。……まずM4カービン。拳銃《けんじゅう》はデザートイーグルの五〇口径《こうけい》とスミス&ウェッソンの44[#「44」は縦中横]マグナムだ。あと入り口と裏口に、クレイモア地雷《じらい》が仕掛《しか》けてあるぞ。客には全員、C4爆薬《ばくやく》がそれぞれ一ポンドずつ仕掛《しか》けてある。犯人の心臓が止まると、客が全員、同時に爆発する仕組みだ。これは、おいそれと手は出せん」
「え……?」
あっけにとられるテッサと宗介、そしてデニス。かたや爺《じい》さんどもは、ゲラゲラと笑っている。
「馬鹿者《ばかもの》、ふざけてなどいない。……要求? 犯人の要求か? えー……要求はだな……」
ロイが受話器を左手でおさえて『どうしよう?』という顔をする。ケヴィンとジョンが、同時に両手を広げて見せた。
「うむ……二〇万ドルだ。二〇万ドル(約二千四〇〇万円)。一セントも負からん。わかったら、上司と相談しろ」
電話の向こうで交渉人《こうしょうにん》がなにかを叫《さけ》んでいるのが目に見えるようだった。
「あー、やかましい。切るぞ」
ロイはうるさげに耳を押《お》さえて、受話器を戻《もど》した。
「さ、騒《さわ》ぎを大きくしてどうするんですか!? これじゃあ僕、本当の凶悪犯《きょうあくはん》ですよ!? っていうか、むしろ重武装《じゅうぶそう》のテロリストです!」
たちまちデニス氏は血相《けっそう》を変えて抗議《こうぎ》した。
「あんなデタラメ、信じるわけがないじゃろーが」
これまたうるさげに耳を押さえて、トーマスが言った。
「でも、微妙《びみょう》にホントっぽいウソでしたよね。いったい、どうされるおつもりなんです?」
テッサが冷ややかにたずねた。ロイたちの考えは分かっていたものの――さりとて、賛成《さんせい》する気にはとてもなれなかったからだ。
ロイが言った。
「ちょっと話して分かったぞい。電話の相手は場慣《ばな》れしとらん。絵に描《か》いたような交渉のマニュアルに従っとる。ついでに言うなら、典型的《てんけいてき》なお役人じゃ。あんなヨタ話でも、数分間は判断《はんだん》が鈍《にぶ》くなる。いまごろ上にお伺《うかが》いを立てとるところだろう」
「つまり?」
「いますぐ、わしらが人質《ひとじち》の顔してこいつと出ていけば、必ずあの指揮官は言うじゃろうな。撃《う》つな! そのまま行かせろ≠ニな」
実際《じっさい》、そうなった。
『撃つな! そのまま行かせろ!』
緊張《きんちょう》した警部の声が、拡声器《かくせいき》から響《ひび》き渡《わた》る。びしりとショットガンやライフルを構えた警官たちは、店から出てきた老人たちとテッサと宗介、そしてその真ん中のデニスを見据《みす》え、脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべている。その塊《かたまり》がのろのろと、手近なピックアップ・トラックに向かうのを、内心|忸怩《じくじ》たる思いで見つめている若い警官もいたが――
「ひええ―――。お助け――」
「撃たないでくだされー!」
「爆弾《ばくだん》じゃ! 爆弾がわしの腹に!」
――だのと、いい加減《かげん》に爺《じい》さんどもが叫《さけ》んでいるものだから、引き金を引くほどの決心はつかない。元海兵のジョンに言われて、デニスはただの携帯《けいたい》電話を天に向けて突《つ》きだしている。遠くから見れば、それはまるで爆薬の起爆装置《きばくそうち》のようにも――まあ、見えないことはなかった。
元|戦闘機《せんとうき》乗りのケヴィンが運転席に駆《か》け込み、ほかの一同は荷台へ飛び乗る。
「ええぞ。出せ、出せ!」
「うっし、つかまっとれよ!?」
それこそ空母のカタパルトから発進する戦闘機のような勢いで、トラックは爆走をはじめた。植木を踏《ふ》みつぶして、はげしく左右に揺《ゆ》れながら、たちまちトラックは大通りに飛び出していく。
もちろん、パトカーはサイレンをかき鳴らして追ってくる。
「ほれみい。脱出《だっしゅつ》できたじゃろが!?」
ロイが叫ぶ。
「これから先はどうするんですか、これから先は!?」
突風《とっぷう》に吹《ふ》かれ、滝《たき》の涙《なみだ》を流しながらデニスが叫んだ。
「よくよく考えてみれば、素直《すなお》に自首すれば刑期だって短くなったかもしれないのに! 罪《つみ》に罪を重ねて――だいたい、ここは島なんですよ!? 島! 一時間で一周できるくらいの、狭《せま》い島なんです! 逃げられるわけありません!」
「とことん悲観主義者《ひかんしゅぎしゃ》じゃのう。おまえさんは。そもそもデニスよ。これはおまえさんが始めたことなんじゃぞ?」
「もうやだ! 降ろしてくれ―――っ!!」
高速走行中のトラックから飛び降りようとするデニスを、宗介があわてて引き留《と》める。スピードのあまり、一同のトラックが対向《たいこう》車線に飛び出す。対向車が迫《せま》る。
『わああぁぁぁぁあぁぁぁぁっ!!』
きわどいところでパス。後方ではげしい衝突音《しょうとつおん》。パトカーがはじけたようにひっくり返って宙に浮《う》かぶ。
「神様! ああっ、神様! もうバカな真似《まね》はしません! 強盗《ごうとう》なんて、絶対にしません! 助けてください! 助けて……っ!!」
『わ―――はっはっは! 飛ばせ、飛ばせっ!!』
もはや、どっちが悪党なのかわからない始末《しまつ》である。泣きわめくデニスと、高笑いするじじいども。宗介は荷台にしがみつきながら、そばのボーダ提督《ていとく》に声をかけた。
「提督っ! 提督|閣下《かっか》!」
「ん――っ!? なんだ、軍曹《ぐんそう》!?」
「スカイレイ中将の運転技術は見事《みごと》ですが、どのみち逃げ切ることはできません! 警察にはヘリがあります! ヘリがいずれ追跡《ついせき》にきます!」
「ああ、わかっとる!」
赤外線《せきがいせん》センサを搭載《とうさい》したヘリの目からは、どれだけ走ろうと逃《のが》れることはできない。宗介の警告《けいこく》に手を振《ふ》ると、ボーダは荷台の真ん中で携帯|端末《たんまつ》のコンピュータと必死に格闘《かくとう》しているテッサに目を向けた。激《はげ》しい振動《しんどう》にめげずに、かたかたとキーボードを叩《たた》いている。
「テレサ! 首尾《しゅび》はどうだ!?」
「話しかけないでください! いまダーナと交信中です!」
「そういうことだ、軍曹! 心配はいらんぞ!」
そう言って提督は宗介の肩《かた》を叩いた。
しばしば忘れられがちなことなのだが―― <ミスリル> は各国のあらゆるコンピュータ・システムに侵入《しんにゅう》する能力を持っている。アメリカ軍の衛星監視《えいせいかんし》システムから、<トゥアハー・デ・ダナン> の様々な情報を消去してしまうことさえできるくらいなので、その気になれば、地方警察の警戒網《けいかいもう》に干渉《かんしょう》することも難《むずか》しくはない。有明《ありあけ》の <ベヘモス> の事件のときも、<ミスリル> のこの能力がものをいった。
もっとも、そうした犯罪行為《はんざいこうい》は <ミスリル> 作戦部長の許可《きょか》がなければできないことになっているのだが――
「ほれほれ、がんばれ、テレサ!」
その作戦部長のボーダ提督が犯罪行為に加担《かたん》しているので、どうしようもないわけである。
「……ヘリは遠ざけました! 警察の通信網も混乱中《こんらんちゅう》です。しばらくこっちには来ないはずですけど――っていうか、ジェリーおじさま!? こんなメチャクチャやっちゃって……知りませんからね、わたしは!」
「あー、気にするな! いまは逃《に》げることだけ考えろ!」
「もうたくさん! 絶っ対! わたし、来年は参加しませんからねっ!?」
「わ―――はっはっはっ!」
走る、走る、走る。一同を乗せたトラックは、観光客《かんこうきゃく》が出歩く大通りをくねくねと抜《ぬ》けて、近くのヨットクラブに飛び込んでいった。大小さまざまな船が停泊《ていはく》している港である。
トラックが急停車する。いやがるデニスとテッサを引きずるようにして、じじいどもは小型のボートに飛び乗った。まったく縁《えん》もゆかりもない、他人様《ひとさま》の船である。元|潜水艦《せんすいかん》乗りのトーマスと、元水上艦乗りのボーダがあれこれと細工《さいく》して、エンジンを始動させてしまう。
「出航《しゅっこう》っ!!」
だれが叫《さけ》んだのか定かでもない。たちまちじじいどもは綱《つな》をほどいて錨《いかり》をあげて、どかどかと船を発進させてしまった。
「降ろしてくれぇぇぇぇえぇぇぇぇっ!」
デニスの悲痛《ひつう》な叫びが、港にこだまする。ぎりぎりでかけつけた警官たちは、この声を人質の悲鳴と解釈《かいしゃく》した。宗介のあきらめろ≠ニいう言葉は、だれにも聞かれなかった。しっかりトラックから持ってきたビールを空けて、じじいどもはしてやったり≠ニ乾杯《かんぱい》する。いきおいでテッサは操舵手《そうだしゅ》までやらされてしまう。
「ほれはれテッサたん! 面舵《おもかじ》じゃ、面舵!」
「もうイヤです……!」
目の幅涙《はばなみだ》を流しながら、テッサは舵を切る。なんだかんだで、基本的な操船技術《そうせんぎじゅつ》は押《お》さえている彼女だった。
水上警察の追跡《ついせき》さえもやり過ごし、盗《ぬす》んだ船を浅瀬《あさせ》に近づけて、一同はその場で船を捨てる。ゴムボートに乗り移《うつ》った一同に尻を向けて、船は沖合《おきあい》へゆっくりと遠ざかっていった。その後ろ姿に、じじいどもはぴしりと敬礼《けいれい》する。
『さらば。母なる船よ……』
「三〇分も乗ってない盗難船《とうなんせん》に、なに気分出してるんですか!?」
テッサのつっこみに、爺《じい》さんどもは気分を害《がい》した様子で眉《まゆ》をひそめた。
「なんじゃ、つまらん……」
「ロマンちゅうものがわからんのか?」
「テッサたんはマジメじゃのう」
口々につぶやくじじいども。
「っていうか! いいかげん、その『テッサたん』っていうの、やめてください! どこで覚えたんですか!?」
「気にするな。それより――向こうの海岸に急ごう」
けろっと言うなり、ボーダはゴムボートに付属《ふぞく》していたオールを握《にぎ》って、ほど近い陸地へとこぎ出しはじめた。
彼らのゴムボートが流れついた海岸は、湾状《わんじょう》になった岩場の奥《おく》だった。観光客がうろつく中心街から遠く離《はな》れた、人気《ひとけ》のない場所である。月明かりの中、よたよたと岩場にとりつき、ゴムボートを沈《しず》めてから、じいさんの一人――ケヴィンが言った。
「……で? とりあえず、警察どもは撒《ま》いたようだが?」
「そのようです。周囲に気配はありません」
今回は流されっぱなしで、いいとこなしの宗介が、夜闇《よやみ》を見渡《みわた》しつぶやいた。
「それでいい。とりあえずは、デニスに目隠《めかく》しをしてくれ」
ボーダ提督《ていとく》が言った。じいさんどもは、ぐったりと疲《つか》れ切ったデニスを取り囲んで、タオルやらゴム紐《ひも》やらで、たちまち目隠しをしてしまった。
「あ……あの?」
「よし。あとは待つだけだな」
腕時計《うでどけい》を見つめ、ボーダが言う。数分とたたない内に、聞き慣《な》れたローター音が近づいてきた。このグァムまで宗介とテッサを運んできた、MH―67[#「67」は縦中横] <ペイヴ・メア> 輸送ヘリの音である。
「な……なんですか、これ!? 僕は……その……」
「若いの。黙《だま》っとれ。あんまり分別《ふんべつ》がないようなら、おまえを殺して捨てて帰るぞ」
「は、はい……」
デニスがだまりこむ。ECSの不可視《ふかし》モードは作動させたままだが、<ミスリル> の輸送ヘリは確実《かくじつ》に、ロイやジョン、トーマスやケヴィンの眼前に降下しつつあった。
宗介はテッサに目を向けた。<ミスリル> 部外者の人間までもが、このローター音や機関音《きかんおん》まで耳にしているからだ。
「大佐|殿《どの》。よろしいのですか?」
「提督に聞いてください」
テッサは肩《かた》をすくめてみせた。
「提督|閣下《かっか》?」
「構わんよ、軍曹《ぐんそう》。ここの連中は、不可視ECS搭載型《とうさいがた》のヘリが、わたしが関《かか》わる極秘《ごくひ》の部隊で運用されていることまでは知っている。……というか、口は堅《かた》いし。いろいろうちの作戦部も世話《せわ》になっとるし。あんまり気にしないでいいのだ。な、おまいら?」
『うーい』
じいさんどもは投げやりにうなずいた。
「たとえばベリルダオブ島の件では、トーマスのコネがモノを言ったのだ。いやマジで」
「ええっ!?」
驚《おどろ》くテッサの顔をのぞきこみ、トーマス・ロス少将はにやにやした。
「ホントじゃぞい、テッサたん。わしがパンツ降ろす以外、能のないセクハラ親父《おやじ》だと思っとったか? んん?」
「ええ。かなり」
容赦《ようしゃ》ないテッサの言葉に、トーマスはがっくりと肩を落とした。
「あんまりじゃ……」
「あのー、お歴々《れきれき》。ともかく、ヘリが降下しますが」
星空をゆがませて、ゆっくりと降りてくるヘリを見上げて、宗介は告げた。
目隠《めかく》し状態のデニスと、わりと放任《ほうにん》状態のじいさんどもを乗せた <ペイブ・メア> はすぐさま高度を上げて飛び、グァムからほど近いサイパン島へと向かった。ロイやケヴィンやトーマスやジョン……それらの爺《じい》さんどもは、ヘリのキャビンは目にしたものの、それ以上、あれこれと詮索《せんさく》するような真似《まね》は一切《いっさい》しなかった。
「ジェリーの仕事の邪魔《じゃま》をする気はないわい」
それでも大丈夫《だいじょうぶ》なのかなあ、とテッサは思ったが、ほかでもないボーダが大丈夫だと言っているのだ。口を挟《はさ》む余地《よち》もない。
一同を乗せたヘリは、サイパン島の平凡《へいぼん》な住宅地に接近《せっきん》し、デニス・ファルコウスキーの告げた住所のそばへと降下《こうか》していった。ヘリが一同を降ろしてから離陸《りりく》、一時的に上空へと舞《ま》い上がっていく。
目隠しを外《はず》されたデニスが、ぽかんとした。
「ここは……サイパンじゃないか」
「だから、そう言ったじゃろ」
「しかも、ダニーの……息子《むすこ》の住んでる家の近くです!」
「だから、さっき聞いたじゃろが」
退屈《たいくつ》そうに爺さんどもが言った。
「ここまで来れば充分《じゅうぶん》じゃろ。さっさとせがれに別れを告げてこい。その腕時計《うでどけい》とやらを、渡《わた》せば満足なのだろうが?」
「は……」
デニスは口ごもった。
「さ……さっぱりわかりません。みなさんは一体……」
「いまは聞かんでいい」
ボーダ提督《ていとく》が言った。
「警察に自首して檻《おり》に入るか。別の世界でやり直してみるか。その気があるなら――この電話番号へ連絡《れんらく》してみろ」
「え……」
作戦部に関係した電話番号のひとつをメモした紙片を、ボーダはデニスに押《お》しつけた。
「ただし、もしおまえさんがここに電話したら――それ以降《いこう》、おまえの自由は消える。おまえさんは別の生き方を選ばねはならなくなる。いずれにせよ、こんな――きょうみたいな都合《つごう》のいい出来事《できごと》は、もう二度と起きないと知れ。いいな?」
「は……はい」
「ではさらばだ。礼はいい。行け」
それでも何度も礼をしながら、夜闇《よやみ》に沈《しず》む住宅街へと走っていくデニス。その後ろ姿を見つめながら、テッサはつぶやいた。
「ジェリーおじさま。本当にいいんですか、あれで?」
「かまわん」
ボーダが言った。
「あの程度の男が何かを言ったくらいで、差し障《さわ》りが生じるような <ミスリル> ではないよ」
「だとしても、ここまでノリの軽いおじさんたちの前で……」
「それも、かまわん」
ボーダは重ねて言った。
「さっきも言ったが、この四人は信用できる。<ミスリル> の作戦行動や尻拭《しりぬぐ》いに、あれこれと力を貸してくれたこともある。わしが言うんだ。おまえが心配する必要はない」
「はあ……」
テッサは気のない返事をした。一時的に上空に待機していた <ミスリル> のヘリが、大気を叩《たた》きながらふたたび降下《こうか》してきた。降下に備《そな》えて、宗介が路上の平坦《へいたん》なあたり――着陸地点へと走っていく。
「でも、やっぱりわかりません」
テッサはそれでも言った。
「あんな……こう言っては失礼ですけど、ダメダメなチンピラさんみたいなデニスさんを、ここまで助けるなんて。わたしでも、ここまで彼の力になろうとは考えませんよ? なにか事情《じじょう》があるんじゃないですか?」
「まあ、そうだな」
提督《ていとく》はいささか後ろめたそうに言った。
「あいつは……あのデニスの親父《おやじ》は、ルイス・ファルコウスキーといってな。私と海軍兵学校《アナポリス》で同期だった男だ。ベトナムで死んだ」
「…………」
「勇敢《ゆうかん》で真面目《まじめ》だが、冗談《じょうだん》の大好きな男だった。きょう来たわたしの仲間たちは、みんなあいつを知っとる。三〇年前、ラオスの国境でくたばる前、ルイスはいつも自慢《じまん》しとった。出来たての息子《むすこ》――デニスのことをな。いずれは自分の腕時計《うでどけい》を、息子に譲《ゆず》るつもりだとも。そういうことだ」
テッサはなにも言えなかった。
いま、はじめて、たちの悪いセクハラ親父にしか思えなかった男たちが――宗介やカリーニン、マデューカスたちと同じく、ひとかどの戦士だったのだと悟《さと》った。
「おじさま……」
「いいんだ、テレサ。だができれば、奴《やつ》らには優《やさ》しくしてやってくれ。あいつらはみんな、戦争の傷跡《きずあと》に苦しんでいる。おまえのほほえみが、彼らにとっては大きな安らぎなのだ」
「ええ……」
テッサは目を伏《ふ》せ、小さくつぶやいた。
しかし、その直後。
「ああー! テッサたんが色っぽい顔しとるぞ!」
「あれはなんか、いやらしいこと考えとる顔じゃの」
「●ァッキン・グッドじゃ!」
じじいどもが、口々に、好き放題《ほうだい》に叫《さけ》んで近づいてきた。テッサは肩《かた》をぶるぶると震《ふる》わせて、怒《いか》りを押《お》さえ込むよりほかなかった。
なにしろ片道六十分の距離《きょり》である。
サイパンからグァムに戻《もど》るなり、じいさんどもは改めて飲めや歌えやの騒《さわ》ぎを再開した。普通《ふつう》だったら警察の追及《ついきゅう》くらい気になりそうなものだったが――なんだかんだで、そういう嫌疑《けんぎ》や騒ぎさえ起きなかった。
テッサの恋人《こいびと》ということにされてしまった宗介は、残りの一日、散々《さんざん》じいさんどもに絡《から》まれ、好き放題にいびられたり怒鳴《どな》られたりするはめになった。もちろん、学校の宿題もできずじまいである。ひどい災難《さいなん》となってしまった。
数週間後、テッサもボーダから小さな面倒《めんどう》を押しつけられた。
<トゥアハー・デ・ダナン> 戦隊の基地要員――兵站《へいたん》グループの兵站|支援《しえん》中隊に、新しい隊員の名前を見つけたとき、彼女は秘書《ひしょ》の前で苦笑《くしょう》がこぼれるのを押さえるのに苦労した。
D・ファルコウスキー
その名前が記入された書類《しょるい》にサインするとき、テッサはこの二等兵に会うとき、どんな顔をしたらいいのかしら≠ニ思った。
[#地付き]<老兵たちのフーガ おわり>
[#改ページ]
あとがき
この本は月刊ドラゴンマガジン二〇〇〇年一〇月号と、二〇〇一年一、七、一一月号、二〇〇二年四月号の連載《れんさい》短編に加筆修正《かひつしゅうせい》し、書き下ろし一本を加えたものです。
なんか、いつもとはまた違った意味で不道徳《ふどうとく》な内容の話が集まってしまった感がありますが、なにかヘンな意図《いと》があるわけではありません。っつーか、出てくる連中、酒飲んでばっかりですな。作者みたい。
この本が出る翌月《よくげつ》、八月四日の二六時二八分から、フジテレビさんにてアニメ第二弾の『フルメタル・パニック? ふもっふ』が放映予定です。短編コメディのみに特化《とっか》した作品となります。すでに何話かの絵コンテを拝見《はいけん》しておりますが、ボン太くんや用務員《ようむいん》さんのアクションは必見《ひっけん》。群《むら》がって襲《おそ》いかかる一〇〇匹のボン太くんを、救世主《ザ・ワン》として覚醒《かくせい》した用務員さんが次々になぎ倒していくシーンは圧巻《あっかん》です(嘘《うそ》)。監督《かんとく》の武本《たけもと》さんはこれらのアクションシーンのために、渡米《とべい》してガンカタを修得《しゅうとく》したり、神技《かみわざ》セガール拳《けん》を修得したりしました(これも嘘)。
それはさておき、各話のコメントを。
『穴《あな》だらけのコンシール』
これはアニメ第一弾の放映に合わせて二〇〇一年九月末[#「二〇〇一年九月末」に傍点]発売のDMに載《の》せた話だったりします。アニメ化で注目が集まっているところで、こういうネタをやったら笑えるかなー、などと思っていたのですが、テロやら延期《えんき》やらでいろいろと洒落《しゃれ》にならない……もとい、思い出深いエピソードになりました。今度は校内で銃《じゅう》を乱射《らんしゃ》するバカが出てこないことを祈《いの》るばかりです。
『身勝手《みがって》なブルース』
ものすごく夢のないことを風間《かざま》くんに言わせてしまいましたが、私はなにも若い男性読者を絶望《ぜつぼう》させたいのではありません。いいですか、その現実《げんじつ》との対面《たいめん》は、あくまで新たな旅路《たびじ》の始まりにしか過《す》ぎないのです。そういう、ゲンナリしちゃうようなあれこれを越《こ》えた先に、目指す何かがあるのです。その道は長く、険《けわ》しいものですが――
ラピュタは本当にあるのです!
絶対《ぜったい》に! きっと! たぶん! もしかしたら……(だんだん弱気)
『ミイラとりのドランカー』
林水《はやしみず》閣下《かっか》のお宅《たく》拝見《はいけん》、な話です。あの下宿には実際《じっさい》にモデルがあったりするのですが、あそこまで変な人たちが住んでいるわけではありません。あとで友人に『●ぞん一刻《いっこく》みたい』と言われて、自分でも初めて気付いたり。まあ、刷り込まれてるんでしょうな。
それから、未成年《みせいねん》の飲酒は法律《ほうりつ》で禁《きん》じられています。コンパやって先生やお巡《まわ》りさんに見つかったときに、『フルメタっていう小説のせいだ』とか言わないでください。そもそもですな、高校生は、酒やタバコははこっそり(以下|略《りゃく》)
『義理人情《ぎりにんじょう》のアンダーカバー』
私がヤクザや不良キャラを描《えが》くと、なぜかいい人たちになってしまう傾向《けいこう》があるようです。タチの悪い人間にはいろいろ出会ってるから、変な幻想《げんそう》は持ってないのですが。まあ、爆弾《ばくだん》テロやったり、無茶《むちゃ》な難癖《なんくせ》つけて戦争はじめる連中よりはマシということでしょうか。
どーでもいいことなんですが、陣代《じんだい》高校のモデルになった私の母校は、昔ジャンプで連載《れんさい》してた不良マンガの『ろくでなしブルース』にも出演してたりします。作者の方が、何年か上の先輩《せんぱい》なのですね(面識《めんしき》はありませんが)。
『真夜中のレイダース」
無性《むしょう》に鍋《なべ》が食いたかったときに書いた話です。
連載開始当初は陣代高校って普通《ふつう》のガッコのつもりだったのですが、エピソードを重ねていくうちに、ふと気づくと宗介がいなくてもかなり異常《いじょう》な学校になってしまいましたな。学園コメディの宿命っていえば宿命なんですが。
これまたどーでもいいことですが、自分的には、制服の上にはんてんを着たかなめというのは、なんとなく萌《も》えると思います。アイドルっぽい格好《かっこう》よりも、所帯《しょたい》じみたアイテムの方が似合《にあ》うような気がしたり。エプロンとか。ジャージとか。おばさんサンダルとか。
『老兵たちのフーガ』
書き下ろしです。クリスマスの長編でテッサがああだったのに、いきなりこれかよ、なんてブーイングが来そうな気もしますが、私的には、いつまでもメソメソしてるより、こういうサバサバしたところもあるテッサの方が好きだったりします。
……というよりは、今回は得体《えたい》のしれないオヤジどもの話になってしまいましたが。つくづく自分は、オヤジキャラの方が好きなのだなあ、と思うことしきりです。じじい五人の代わりに萌え美少女五人が出てくる話をやろうとしたら、たぶん倍以上の執筆《しっぴつ》エネルギーと苦痛を伴《ともな》うことでしょう。築地《つきじ》さんの苦労が忍《しの》ばれます。
ちなみに私も何度かグァムには行ったことがあるのですが、日本語の看板《かんばん》だらけで、日本人だらけで、外国というよりは伊豆《いず》あたりの観光地《かんこうち》に行ったみたいでした。
さて。今回も多数の皆様《みなさま》から多大なるご支援《しえん》、ご忍耐《にんたい》をいただきました。いつもありがとうございます。
次は長編になるかと思います。敵《てき》の姿《すがた》も本格的に見えてきて、戦いも苦しくなってくることでしょう。これまでの宗介《そうすけ》とかなめの生活も、そろそろ限界《げんかい》に達します。
それではまた。次回もかなめのハリセンがうなります。
[#地付き]二〇〇三年六月 賀《が》 東《とう》 招《しょう》 二《じ》
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初 出
「穴だらけのコンシール」 月刊ドラゴンマガジン 2001年11月号
「身勝手《みがって》なブルース」 月刊ドラゴンマガジン 2000年10月号
「ミイラとりのドランカー」 月刊ドラゴンマガジン 2001年1月号
「義理人情《ぎりにんじょう》のアンダーカバー」月刊ドラゴンマガジン 2001年7月号
「真夜中のレイダース」 月刊ドラゴンマガジン 2002年4月号
「老兵たちのフーガ」 書き下ろし
底本:「フルメタル・パニック! 安心できない七つ道具?」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2003(平成15)年7月25日初版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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使用した外字
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「H」……白抜きハートで、DFパブリフォントの外字(0xF048)を使用しています。
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本103頁2行 自宅を訪《おと》なったこと
おとなった?
底本295頁7行 酒やタバコははこっそり
はは?