フルメタル・パニック!
あてにならない六法全書?
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)相良《さがら》宗介《そうすけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)計画|進捗状況《しんちょくじょうきょう》について
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)あーんH[#「H」はハート(白)、1-6-29、Unicode2661]
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[#挿絵(img2/s06_000a.jpg)入る]
[#挿絵(img2/s06_000b.jpg)入る]
[#挿絵(img2/s06_000c.jpg)入る]
目 次
ままならないブルー・バード
的はずれのエモーション
間違いだらけのセンテンス
時間切れのロマンス
五時間目のホット・スポット
女神の来日(受難編)
ボーナストラック
『作者の極秘設定メモより』
あとがき
[#改丁]
ままならないブルー・バード
[#改ページ]
相良《さがら》宗介《そうすけ》が目を通しているその誌面《しめん》には、ずらずらと、一般人《いっぱんじん》には完璧《かんぺき》に意味不明《いみふめい》の用語が踊《おど》り回っているのだった。
<<米陸軍・海兵隊と Geotorn Electoronics 社が共同で開発を進めている M9 Gernsback の計画| 進捗 状況《しんちょくじょうきょう》について、パウエル国防長官《こくぼうちょうかん》が上院《じょういん》特別委員会で証言《しょうげん》した。M9 の EMD フェーズは、当初の予定通り12[#「12」は縦中横]月に終了《しゅうりょう》する見込み。今後、FY1999 予算でまず低率《ていりつ》初期生産分《しょきせいさんぶん》26[#「26」は縦中横]機が調達《ちょうたつ》され、最初の強襲機兵部隊《きょうしゅうきへいぶたい》が初期作戦能力を獲得《かくとく》する。また特殊《とくしゅ》作戦コマンドは、この FSD 機のいずれかに、DARPA で試験中の次世代型|電磁迷彩《でんじめいさい》システムが搭載《とうさい》されることを強く希望している>>
<<人民日報の記事によれは、北京《ペキン》の人民|解放《かいほう》委員会政府(北中国)は、ソ連|右派勢力《うはせいりょく》から最低でも33[#「33」は縦中横]機の Rk-96M を受領《じゅりょう》した模様《もよう》。Rk-96M は、おもに Rk-92 Savage の索敵能力《さくてきのうりょく》と火器|管制《かんせい》システムを向上させたものである。なおこの機種《きしゅ》の調達には、ユーゴスラビア政府やシリア政府も関心《かんしん》を示している>>
<<ドイツ陸軍は、強襲機兵 Drache G (Ko:nig Drache) の最初の8機の運用を開始した。Drache G は現用 Drache D の電子|兵装《へいそう》および駆動系《くどうけい》を換装《かんそう》したもので、耐弾機能《たいだんきのう》を備《そな》えた Einhorn Elektrotecnik 社の MMP-112 系マッスル・パッケージを全面|採用《さいよう》した、初の機体となる>>
<<英国の情報筋《じょうほうすじ》によれば、ソ連 Zeya 設計局《せっけいきょく》で試験中の新型強襲機兵は、M9 Gernsback と同様、イージス方式のパラジウム核融合電池《かくゆうごうでんち》を搭載、完全電気駆動を実現していると推測《すいそく》されている。おそらくは第三世代型の強襲機兵と目されるこの機体を、NATO 軍は Zy-98 Shadow と呼称《こしょう》している>>
<<米 Raytheon Missile Systems 社は、K1 Javelin 運動エネルギーミサイル300発を3800万ドルで英陸軍から受注《じゅちゅう》した。本来 M6 用に設計された K1 Javelin のインターフェイス群《ぐん》は、新たに開発された英軍 Cyclone 用のものに換装される>>
<<今年6月にインド洋での船舶《せんぱく》事故で失われた Mistral 2 強襲機兵計12[#「12」は縦中横]機の補償《ほしょう》問題で、仏 GTTO (Giat TTO) 社と Stingray 海運は、Stingray 側が約6120万ドルを支払《しはら》うことで合意《ごうい》した>>
<<ノルウェー陸軍は現在|配備中《はいびちゅう》の M6 Bushnell の標準携帯《ひょうじゅんけいたい》火器として、スイス Oerlikon Contraves 社の GEC-B 40ミリ機関砲《きかんほう》を採用すると表明《ひょうめい》した>>
「ふむ……」
教室の隅《すみ》で人知れず、あれこれと感嘆《かんたん》の声(普通《ふつう》の人にはどうでもいい感嘆の声)を漏《も》らしていると、常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が教室に入ってきて、宗介に声をかけた。
「あ、いたいた。相良くーん」
「なんだ」
天気のいい日の、昼休みのことだ。むっつりと軍事ニュースの専門誌《せんもんし》『ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー』のアーム・スレイブ関連記事を読んでいた彼は、いそいそとページを閉じた。
「あのね、ちょっと来て。頼《たの》みたいことがあって」
「了解《りょうかい》した」
ちょっと申《もう》し訳《わけ》なさそうに言う彼女に、宗介は唯々諾々《いいだくだく》とついていく。
教室を出て、二人は南校舎の用具室《ようぐしつ》前へと向かった。廊下《ろうか》には何人かの女子生徒が、不安げな表情で突っ立っている。恭子の所属《しょぞく》する女子ソフトボール部の部員たちだ。
「……なにか問題が?」
「うん。なんか……中から鍵《かぎ》がかかってるみたいで開かないの」
用具室の扉《とびら》を指差して、恭子が不安げに言った。
「物音と声も聞こえてきて……気味《きみ》が悪いの。それで、みんなが『相良くんに調べてもらおう』って」
「賢明《けんめい》な選択《せんたく》だ。今後もそうしろ」
宗介は扉の脇《わき》に立って、耳を澄《す》ました。確《たし》かに、用具室の中に誰《だれ》かがいるようだ。おそらく、男が三人。ひそひそと会話している。
(まだかよ。早くしろ)
(うん。……よし、いいよ)
(……はあー。たまらんぜ、これは)
どことなく恍惚《こうこつ》とした、ため息|混《ま》じりの声。
(いい感じだぁ。まったく、危険《きけん》を冒《おか》しただけのことはある)
(俺《おれ》たちだけで楽しむなんて、悪いよなあ。ほかの連中にもこっそり売りさばこうか)
(だめだよ。僕《ぼく》らがマズいよ)
宗介は眉《まゆ》をひそめた。密室《みっしつ》で人目を避《さ》け、何をしているのか? まさか――
(麻薬《まやく》か……?)
いや、間違《まちが》いない。校内で麻薬にうつつを抜《ぬ》かすとは――
これは安全|保障《ほしょう》問題|担当《たんとう》・生徒会長|補佐官《ほさかん》としては看過《かんか》できない行為《こうい》である。
宗介は超《ちょう》小型の散弾銃《さんだんじゅう》を引き抜いた。
「下がっていろ」
「へ? あの、相良くん。なにを――」
だんっ! だだんっ!
答えもせずに、彼はドアノブと蝶番《ちょうつがい》を吹《ふ》き飛ばした。間髪《かんぱつ》いれずに扉を蹴破《けやぶ》り、室内にスタン・グレネードを放《ほう》り込む。
「うわ――」
ばん!!
猛烈《もうれつ》な閃光《せんこう》と爆音《ばくおん》が、用具室の中で炸裂《さくれつ》した。宗介はすぐさま室内へと踏《ふ》み込んでいく。
「そこまでだ! 無駄《むだ》な抵抗《ていこう》はやめて、おとなしく……?」
室内には、三人の生徒たちがのびていた。
赤い照明《しょうめい》とたちこめる煙《けむり》。作りつけの卓上《たくじょう》には、写真の引き伸《の》ばし機と、ひっくり返った四角い現像皿《げんぞうざら》、床《ゆか》に落ちたフィルムやポリタンクがあった。飛び散った現像|液《えき》の強い匂《にお》いがつんと鼻をつく。
麻薬の類《たぐ》いは一切《いっさい》見当たらない。
「うー……」
倒《たお》れていた一人が、辛《つら》そうに身を起こした。同じクラスで、写真部に所属している風間《かざま》信二《しんじ》だ。
「さ、相良くん? 一体なにが……あっ!」
信二は血相《けっそう》を変えて、床に落ちたネガフィルムや印画紙《いんがし》に飛びついた。
「ああっ……なんてことをっ! 全滅《ぜんめつ》だ!」
「うう……。なんだって……?」
「げぇっ。本当だ……!」
ほかの二人も立ち上がり、悲嘆《ひたん》もあらわにフィルムを見る。
「風間。なにをしていた?」
『決まってるだろ、現像だよっ!!』
三人は異口同音《いくどうおん》に叫《さけ》んだ。
「苦労《くろう》して撮《と》り集めたのに……」
「くっ。屋上の手すり付近で無防備《むぼうび》にもくつろぐ女子を、一階中庭の超ローアングルから捉《とら》えた望遠《ぼうえん》ショットが……」
「ひどいよ相良くん。何の恨《うら》みがあって、こんな真似《まね》をするんだ!」
珍《めずら》しく、信二は宗介に食ってかかった。
「こんな作業《さぎょう》をしているとは思わなかった」
「だからって、スタン・グレネードを放り込むなんてあんまりだよ!」
「確実《かくじつ》な制圧《せいあつ》には必要だ。だが……それよりなぜ、こんな場所で現像を? 常盤たちが迷惑《めいわく》していたぞ」
光の射《さ》し込む戸口から、鼻をつまんだ恭子たちが激《はげ》しくうなずいて同意していた。
「え……」
信二たちは、しゅんとして肩《かた》を落としす。
「それは、すまないと思うけど……。僕ら写真部には、部室がないんだよ」
生徒会副会長たる千鳥《ちどり》かなめも放課後、写真部と似たような境遇《きょうぐう》のクラブが起こしたトラブルの処理《しょり》に駆《か》けずり回っていた。
軽音楽部が地学室を占領《せんりょう》して、ヴァン・ヘイレンを演奏《えんそう》しまくる。『曲』というよりはすさまじい騒音《そうおん》が響《ひび》き渡《わた》った。苦情《くじょう》を聞いたかなめは、すっ飛んでいってやめさせる。
「えー、でも」
「でもじゃないわよ! せめてアンプを外しなさい!」
ぶつぶつ言いながら、生徒たちは楽器《がっき》を片付《かたづ》け出す。ほっとして生徒会室に戻《もど》ると、また別の生徒が苦情を持ち込んだ。
「千鳥さーん……」
泣きそうな声でそう言ったのは、料理部の女子である。
「なに?」
「家庭科室に、生物部の人たちが。あたしたちがラザニア作ってる横で、ゴキブリの実験してるの。なんか言ってやって……」
さっそくかなめは家庭科室に走り、生物部の連中《れんちゅう》を怒鳴《どな》りつける。
「生物室があるでしょ!? 生物室が!」
「いやー、それが。空手《からて》同好会の人たちが占領してるもんだから」
のっぺりした顔の生物部部長は、へらへらと笑いながら言った。かなめは悪態《あくたい》をついてから、生物室に向かう。
「椿《つばき》くん!」
扉を開けて叫ぶと、ちょうどその空手同好会の部長・椿|一成《いっせい》が、テーブルを踏《ふ》み台にして跳躍《ちょうやく》しているところだった。部員の一人、丸坊主《まるぼうず》のごっつい男に、いましも飛び蹴りをかまそうとしていたところで――
「ちど……?」
一成はかなめに気付き、空中で思いきりバランスを崩《くず》した。
がしゃあんっ!
壁際《かべぎわ》の棚《たな》に、肩から突《つ》っ込む。標本《ひょうほん》が次々と床《ゆか》にぶちまけられ、音を立てて割《わ》れた。
「ぐ、ぐおお……」
猛烈《もうれつ》な保存液《ほぞんえき》の悪臭《あくしゅう》がたちこめる中、一成はよろよろと立ち上がる。太い眉《まゆ》に、切れ長の目。小柄《こがら》だが、端麗《たんれい》、精悍《せいかん》な顔立ちの若者だ。
「ち……千鳥じゃないか。どうした」
「ダメよ、こんなところで遊んでちゃっ!」
鼻をつまんで窓を開け、かなめは言った。一成はしどろもどろになりながら、
「あ……遊んでたわけじゃない。障害物《しょうがいぶつ》の多い場所での格闘術《かくとうじゅつ》を、こうして部員と研究してたところで――」
「やめなさい! みんなが迷惑してるでしょっ? 練習だったら、ほかの場所でも――」
『なにをぬかすか、女めっ!』
かなめを遮《さえぎ》り、三人の部員が同時に怒鳴《どな》った。
「そもそも、おぬし[#「おぬし」に傍点]が我ら[#「我ら」に傍点]を道場から追い出したのだろうがっ!?」
「我ら[#「我ら」に傍点]は被害者《ひがいしゃ》よ。いわば、あわれな迷《まよ》える子羊」
「さよう。我ら[#「我ら」に傍点]はかわいそうなのじゃ」
口々に言う大男たち。それを一成は、電光石火《でんこうせっか》の早業《はやわざ》で次々に殴《なぐ》り倒した。
『なにをする、椿くン?』
「やかましいっ! 堂々《どうどう》と胸を張《は》って、情けない科白《せりふ》をほざくなっ!」
一成が怒鳴ると、部員たちはそろって首をうなだれた。見ていたかなめはため息をついて、
「……とにかく。ここはダメだからね? 気の毒《どく》だとは思うけど」
「む……わかった。すまない、千鳥」
「ありがと。わかってくれればいいよ。椿くんは聞き分けいいしね」
にっこり告げる。
「そ、そうか……?」
「うん。それじゃ、よろしく」
かなめは生物室を出ていった。後ろで一成が部員たちに『なにをニヤニヤしてるっ!』と叫んでいるのが聞こえたが、彼女は特に気に留《と》めなかった。
「あー、もう。今日は次から次へと……」
生徒会室に戻ってから、かなめはぼやいた。読書にふけっている宗介を、ちらりと見る。
「ソースケ。キョーコから聞いたわよ? 昼休みに、また暴《あば》れたらしいじゃないの」
「いや。慎重《しんちょう》な措置《そち》をとったが、大事には至《いた》らなかっただけだ。暴れてなどいない」
「ああ、そう……」
疲れているせいか、かなめもそれ以上は追及《ついきゅう》しない。
「しかし、写真部も難儀《なんぎ》だな。部室がないので、用具室を勝手《かって》に使用していたぞ」
「また部室不足の話? ったく」
部室不足。この手の問題は、どこの学校も抱《かか》えているものだ。
陣代《じんだい》高校にも二階|建《だ》ての部室|棟《とう》があるのだが、それもいまでは満室状態《まんしつじょうたい》で、一つの部屋を二つのクラブが使っていることなど珍しくもない。ひどいところでは、一つの部屋を四つのクラブが共用している場合まである。
「ただでさえ来月になったら、予算のぶんどり合戦が始まるっていうのに。頭が痛いわ、ホント……」
「新たに屋上に部室棟でも建てるのはどうだろうか。中古の米軍の仮設兵舎《かせつへいしゃ》なら、捨《す》て値《ね》同然《どうぜん》で入手できるぞ。ただし窓がない上、通気が悪いので、夏はスチームサウナのような状態になるだろうが……」
「却下《きゃっか》よ、却下」
そこで、部屋に生徒会長の林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》が入って来た。長身《ちょうしん》、白皙《はくせき》。知的な風貌《ふうぼう》の青年である。書記の少女――美樹原《みきはら》蓮《れん》が後ろに付き従っているので、どこかの大企業《だいきぎょう》の社長さんみたいな貫禄《かんろく》がある。
「ご苦労だったな、千鳥くん」
林水が言った。部室不足の騒《さわ》ぎを聞いていると見える。
「ええ。どこに行ってたんです?」
「少々、相談事《そうだんごと》があってね」
「あー、そうですか。こっちは部室不足の件で、右往左往《うおうさおう》してたっていうのに」
「その件の相談だよ。実は部室棟の部屋が、ひとつ空《あ》いた。部員が二名だけの社会研究部が、立ち退《の》きを承諾《しょうだく》してくれてね」
「ほう。それはなにより」
「ついては、空いた部屋に入るクラブを決めなければならない。ルームレス[#「ルームレス」に傍点]のクラブは、こぞって応募《おうぼ》に参加《さんか》するだろう。私は単なる抽選会《ちゅうせんかい》を開けばいいと思っていたのだが――社会研究部が、立ち退《の》きに際《さい》して妙《みょう》が条件を出したのだ。入室するクラブの選定《せんてい》方法について」
「――と、言いますと?」
「社会研究部が決めた競争《きょうそう》をして、勝ったクラブに部室を与《あた》えることになった」
「はあ。なんの競争です?」
「街でひっかけた異性《いせい》の数を、競ってもらう。一番多い者が勝者だ」
しばらく、かなめは沈黙《ちんもく》した。
「あのー。それって……」
「うむ。いわゆる『ナンパ』だな」
大真面目《おおまじめ》な林水の言葉に、かなめは開《あ》いた口がふさがらなかった。
次の日曜日。繁華街《はんかがい》の吉祥寺《きちじょうじ》からほど近い、井《い》の頭《かしら》公園の一角に、三〇名あまりの陣高生たちが集合していた。
残らず私服で、それなりにお洒落《しゃれ》をしている。中にはこの競争に参加《さんか》することを、露骨《ろこつ》に嫌《いや》がっている者も多かったが、なにしろ勝てば部室がもらえるのだ。否《いな》も応《おう》もない。
ちなみに天気は快晴《かいせい》。空気も澄《す》んでいる。
社会研究部の部長――難波《なんば》志郎《しろう》が、拡声器《かくせいき》で一同に告げた。
「はい、みなさーん、おはようございます」
『うーい……』
弱小クラブの部員たちは、覇気《はき》のない声で応じる。
難波はいささか肥満気味《ひまんぎみ》の三年生だった。大きな両目がきょろきょろと動き、決して一つところに止まらない。
「きょうは絶好《ぜっこう》のナンパ日和《びより》ですね。ある統計《とうけい》では、晴れた日にはナンパやキャッチ・セールスの成功率《せいこうりつ》が高くなると言われています。部室の獲得《かくとく》目指して、みなさんも頑張《がんば》りましょう」
『うーい……』
またまた参加者が、気だるげな返事をする。
「ルールをもう一度|確認《かくにん》します。――ナンパの実行者は各クラブから三名。街《まち》の異性に声をかけて、引っかけた人数を競ってもらいます。きょうの夕方五時の時点で、この場所にいる異性をカウントします。連れてくるなり、呼び出すなり、あれこれ工夫《くふう》してください」
「どんな手でもいいんスかー?」
軽音楽部の一人が質問《しつもん》した。
「はい。正直にこの大会の趣旨《しゅし》を説明して、協力を乞《こ》うのもアリです。逆《ぎゃく》に、ウソを並べ立てても構いません。とにかく、見ず知らずの異性を連れてくること。これがポイントです。友人や家族をサクラにするのは不可《ふか》です。分かり次第《しだい》、失格《しっかく》とします。これについては、密告《みっこく》を奨励《しょうれい》いたします。さらに――」
難波はルールの諸《しょ》注意を一通りした。
「では、そちらの受け付けで参加者《さんかしゃ》を登録《とうろく》してから、街に繰り出してください。幸運を」
『うーい……』
ナンパ大会の参加者たちが、クリップ・ボードを持ったもう一人の社会研究部員へとわらわら集まっていった。
(あーあ。ホントに始めちゃった)
登録の様子を見守るかなめは、呆《あき》れかえっていた。彼女は生徒会から出向《しゅっこう》してきた、この大会のオブザーバー、という形でここにいる。特にすることもないが、見届《みとど》け人としてきょう一日を過《す》ごす予定だった。
参加者の中には、写真部の風間信二や空手同好会の椿一成もいた。特に一成はひどい不機嫌顔《ふきげんがお》をしており、このイベントが心底《しんそこ》気に食わない様子《ようす》だった。
宗介も姿《すがた》を見せていた。
特に呼んだわけでもなかったのだが、ふらりと会場に顔を見せたのだ。彼は弱小クラブの部室問題とは、なんの関係もないのに。
(ナンパに興味《きょうみ》でもあるのかしら……?)
怪訝《けげん》に思っていると、宗介はなぜか――登録《とうろく》を待つ参加者の列に並んだ。
「ソースケ? どこ並んでるのよ」
かなめの指摘《してき》で、ほかの者も彼に注目する。
「参加者の列だが?」
「だってあんた、クラブなんか入ってないじゃない」
「それは違う。俺《おれ》は昨日付けで、写真部に編入《へんにゅう》された。すでに書類も受理《じゅり》されている」
「なんですって……?」
「本当だよ、千鳥さん」
彼の横にいた風間信二がうなずいた。
「相良くんに助《すけ》っ人《と》を頼んだんだ。ルックスいいし、度胸《どきょう》もあるし。こないだのフィルムの件もあって、快諾《かいだく》してくれたよ。ね?」
「うむ。肯定《こうてい》だ」
そこで列の前にいた一成が、悔《くや》しそうに自分の手のひらを拳《こぶし》で叩《たた》いた。
「助っ人。くそっ、その手があったか!」
それを見て、宗介が鼻を小さく鳴《な》らし、不敵《ふてき》に告げた。
「気付くのが遅《おそ》かったようだな、椿。俺が名乗《なの》りを挙《あ》げた以上、おまえたちに勝ち目はない。新しい部室は写真部のものだ」
「なにを! 相良、きさまいったい、どこまでオレの邪魔《じゃま》をすれば……!……いや?」
一成はそこまで言って、宗介の戦闘服《せんとうふく》姿をじっと観察《かんさつ》し、肩の力を抜いた。
くたびれた都市|迷彩《めいさい》。色あせたブーツ。胸には手榴弾《しゅりゅうだん》を付けている。
「…………。ナンパの競争なのに、なんて格好《かっこう》をしてるんだ、おまえは……」
「?」
「まあ、せいぜい頑張《がんば》りな」
哀《あわ》れむように言ってから、宗介に背を向ける。周囲《しゅうい》の参加者《さんかしゃ》たちが、そのやり取りを見てゲラゲラと笑った。
「なぜ笑う?」
怪訝顔《けげんがお》の宗介。軽音楽部の連中が、互《たが》いに目配《めくば》せしながらうなずいた。
「だって……なあ?」
「あんた、その格好で女、引っかけるつもりかよ? ミリオタむき出しじゃん」
「機能優先《きのうゆうせん》だ。むしろ君たちの格好こそ愚《おろ》かだと思うぞ」
[#挿絵(img2/s06_023.jpg)入る]
「ほう?」
宗介の言葉に軽音楽部の面子《メンツ》が顔を見合わせ、挑《いど》むような目つきになった。
「はー、言ってくれるじゃないか。だったら、競争とは別に賭《か》けねーか? あんたが一人でも女をモノに出来たら、俺たちが二週間、あんたの昼飯《ひるめし》をおごってやるよ」
「ふむ」
「でも、たった一人さえ引っかけられなかったら……そうだな。あそこの池で、全裸《ぜんら》になって泳ぐとか。どうだ?」
「構《かま》わんが」
宗介はしれっと言ってのけた。聞いていた一同が手を叩《たた》き、はやしたてる。
「いいぞー、軽音部!」
「これは盛《も》り上がる!」
「聞いたからな! 全裸水泳だぞー!」
盛大《せいだい》な笑い声の中で、宗介だけは平然《へいぜん》と構《かま》えている。それまで黙《だま》っていたかなめは、困惑顔《こんわくがお》で彼に尋《たず》ねた。
「ちょ……ちょっとソースケ。変に余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》だけど。大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「問題ない」
「ナンパの意味、わかってるわけ?」
「うむ。風間から聞いた。ガール・ハントのことだ。造作《ぞうさ》もない」
宗介は自信たっぷりに答えた。
「造作も……ないわけ?」
「そうだ。俺の力をもってすれば……そう、『女などイチコロ』だ」
「…………」
なんとなく、かなめはその物言《ものい》いが面白《おもしろ》くなかった。
かくして競技は開始された。参加者が公園を出て、街に散《ち》っていく。
「社会研究の一環《いっかん》なわけですよ、これがね」
難波がかなめに説明した。
「ナンパ大会が、ですか……?」
「そう。どういう種類《しゅるい》の人間が、異性《いせい》から信用されやすいのか。正直者か、嘘つきか。美男子か、お調子者《ちょうしもの》か。あるいはもっと、別の法則《ほうそく》なのか。それらのサンプルを取ってみようと思いましてね」
「ははあ……」
「なにしろ部室のないクラブは、顔ぶれが多彩《たさい》なわけです。彼らになにかを強制《きょうせい》できる、せっかくの機会《きかい》なわけですから――まあ、利用しないと」
「なるほど……」
妙に納得《なっとく》する。
かなめたちは吉祥寺駅の南口にある、有名なデパートの前までやってきた。
「お、やってる……」
デパートの入り口近くで、さっそくナンパをしている模型《もけい》同好会《どうこうかい》を見かけた。生徒会の備品係《びひんがかり》――佐々木《ささき》博巳《ひろみ》の姿も見える。彼も生徒会とは別に、この大会に参加したのだった。
博巳たちが、見るからに頭の弱そうな二人組の娘を引きとめる。えらく控《ひか》えめに、もごもごと。
「あ、あのー、お嬢《じょう》さん……」
「はあ〜〜〜? なんだよ?」
ある意味、無理《むり》からぬことだったが――あからさまに小馬鹿《こばか》にしたような口調だった。たちまち博巳たちは気後《きおく》れして、一層《いっそう》、歯切れの悪いしゃべり方になる。
「あの、あの……い、一緒《いっしょ》にお茶でも……その、どうです?」
「宗教? ひょっとしてナンパ? バカにしてんの?」
当然といえば当然の反応。博巳はそれでも健気《けなげ》に、精一杯《せいいっぱい》の勇気(……と、おぼしきなにか)を振《ふ》り絞《しぼ》って続けた。
「じゃ、じゃあカラオケとか……その……」
「なにこいつら? カラオケ? アニソン縛《しば》りとか?」
「うわっ、ありそー! ヒャヒャヒャヒャ!」
二人組は歯茎《はぐき》を見せて大笑いする。
あまりにも痛々しい光景《こうけい》に、かなめが顔をしかめていると、難波はメモ帳《ちょう》とペンを取出《とりだ》し、『模型同好会。やはり苦戦……と』などとつぶやいた。
「あんだよ。イカくせー目で見てンじゃねーよ。キモいんだよ、おめーら」
「そ、その……すみません」
「三べん回ってワンって言えよ。そしたらメシくらい、おごられてやる[#「おごられてやる」に傍点]よ。ほら」
「それは……その、ひどいと思います……」
「うわっ。チョーイタ! 見てよ、こいつ、半泣きしてんの」
「な、泣いてなんかいませんよう……」
けなげにこらえ、『忍《にん》』の一字で話しかける彼らに、女たちが好き放題《ほうだい》の悪罵《あくば》をぶつける。そこで博巳が、いきなりブチ切れた。
「こ……こいつめぇっ!」
「ぎゃっ!」
相手の首につかみかかり、博巳は一気にまくしたてる。
「ふざけるな! 誰《だれ》が好きこのんで、おまえなんかと話したがるもんかっ! ボクは……ボクは。じっくりプラモを作れる部室が欲しいだけだ! 未完成《みかんせい》のキットたちが、毎晩ボクに『早く作って。僕《ぼく》を完成《かんせい》させて』と語りかけてくるんだよっ!? けなげなあいつらの悲しみが、おまえみたいな一分の一、パーフェクト・グレードブサイク肉人形にわかるのか!? カトキハジメだっておまえのリファインは不可能《ふかのう》だ! できるってんなら言ってみろっ! その汚《きたな》いメイクをセンチネル風のブルーで塗《ぬ》り潰《つぶ》して、『EFSF』とか『Vms-AWrs』とかマーキングしてやろうか!? えっ!? どうなんだ―――っ!!」
ほとんど号泣《ごうきゅう》に近い状態《じょうたい》の彼を、仲間の部員たちが、落涙《らくるい》しながら止めに入った。
「やめろ、やめるんだ、佐々木!」
「おまえの気持ちはよくわかった!」
「放してください、先輩《せんぱい》! あいつらの腐《くさ》った性根《しょうね》を修正《しゅうせい》してやるんです! モリモリで! ちくしょう、待て、許さないぞっ、この淫売《いんばい》め!」
気味《きみ》悪がって逃《に》げ出す二人組の背中《せなか》に、博巳はなおも意味不明《いみふめい》の罵声《ばせい》を投げつける。
(うわ……あれじゃあ、〇点ね)
ナンパしといて、相手を『淫売』と罵《ののし》る奴《やつ》にも困《こま》ったものである。
「ほぼ絶望的《ぜつぼうてき》……と。さ、行きましょうか、千鳥くん」
涼《すず》しげに難波が告げて、かなめたちはその場を後にした。
駅の周辺をぐるりと巡《めぐ》る。
どのチームも似《に》たり寄《よ》ったりで、慣《な》れないナンパに悪戦苦闘《あくせんくとう》していた。そもそも、クラブ活動《かつどう》に精《せい》を出すような生徒たちのほとんどは、女の尻を追い回すより、自分の趣味《しゅみ》に熱中している方が幸せなタイプなのだ。
そんな参加者の中で、軽音楽部の面子は比較的《ひかくてき》に健闘《けんとう》しているようだった。かなめが様子を見た昼過ぎには、軽音部は二、三人の女の子グループと意気投合《いきとうごう》するに至《いた》っていた。もっともこういう連中も、実はナンパの類《たぐ》いはあまり慣れていない。ルックスやら話術やらの問題よりも、日頃《ひごろ》つちかった舞台度胸《ぶたいどきょう》のおかげだろう。
(ほほう……さすが。八〇点ってとこ?)
かなめが感心していると、脇《わき》で難波がメモを取りつつ、コメントした。
「軽音部の皆《みな》さんもまだ甘いですね。ナンパの極意《ごくい》は、『数|撃《う》ちゃ当たる』にあります」
「そうなんですか……?」
「はい。たとえどんな男でも、身なりをきれいにして一〇人に声をかければ、最低でも一人は話を聞いてくれるもんです。そして話を聞いてくれた一〇人のうち一人は、たいてい最後まで付き合ってくれるもんです。実際《じっさい》、私はこんな容姿《ようし》ですが――」
そう言って、難波は自分の太鼓《たいこ》っ腹《ぱら》と二重《にじゅう》あごを交互《こうご》に叩《たた》いた。
「それでもナンパの的中率《てきちゅうりつ》は、一パーセントを切りません。一日歩き回れば、必ず一人は本物の電話番号を教えてくれます。つまり、一〇〇人に声をかける覚悟《かくご》があればいいのです。要は忍耐力《にんたいりょく》ですよ」
「はあ……」
「ちなみに平日の昼間は、人妻系《ひとづまけい》が狙《ねら》い目です。旦那《だんな》の目を盗《ぬす》んで遊びたい人が多いですから。若い子はダメですな。期待《きたい》や要求《ようきゅう》が大きすぎますので」
「さ、さようで……」
っていうか、あんたいつもナンパしてるのか?……と尋《たず》ねたくなるのをガマンしつつ、かなめは曖昧《あいまい》な相づちを打った。
「さて、私はほかの様子を見に行きます。千鳥さんはどうします?」
「え……じゃあ、あたしもテキトーにぶらついてきます」
「けっこう。それではまた後ほど」
かなめは難波と別れ、駅前のアーケード街を一人で歩いていった。
しばらくふらついていると、雑踏《ざっとう》の向こう側に、空手同好会の大男二人が見えた。デカいのですぐ分かる。
彼らは鋲《びょう》付《つ》きの革《かわ》ジャンと、トゲだらけの腕輪《うでわ》と、モヒカンのかつらを着けていた。ほとんど『北斗《ほくと》の拳《けん》』のザコ悪党《あくとう》状態《じょうたい》である。
(こ、コスプレ……?)
その二人が、中学生くらいの女の子三人に、手のひらをニギニギさせて迫《せま》っていた。遠いので声は聞こえなかったが、なにやらロクでもないことを言っている様子だ。その証拠《しょうこ》に、中学生のグループは露骨《ろこつ》に怯《おび》え、身を寄せ合い、一歩、二歩と後じさっている。
(ったく、あれじゃ、人さらいじゃないの)
止めようとして近付いていくと――
「待ちな……!」
大男たちの背後《はいご》に、一成がゆらりと現われた。二人は振《ふ》りかえり、なぜか彼に対して身構《みがま》えた。
「いやが……ってる……じゃ、ねえか。て、手を離《はな》して……やりな」
一成がすこし赤くなって、なんとなく棒読《ぼうよ》みっぽい口調で告げた。一方の大男たちはノリノリで、
「むう? なんじゃ、おぬしはぁ?」
「ちびすけめ。ひねり潰《つぶ》してくれるわっ!」
口々に叫《さけ》ぶと、鉄釘《てつくぎ》バットやらごっつい斧《おの》やらを取り出し、『ぬおー』と叫んで襲《おそ》いかかる。
「ふ……」
その後は一成の独壇場《どくだんじょう》だった。遊園地の戦隊《せんたい》ものアトラクションもかくや、といった調子で、見事《みごと》な体さばきと跳躍力《ちょうやくりょく》、鞭《むち》のような打撃技《だげきわざ》を披露《ひろう》する。大技、小技を取り混ぜた挙句《あげく》、大男たちは『ぐはあ!』と(わざとらしく)吹《ふ》き飛ばされ、『覚えていろ!』と(棒読みっぽく)叫び、すたこらと逃げていった。
「ははあ……そういう手か」
かなめは得心《とくしん》した。一成たちが選んだのは、古典的《こてんてき》な『正義の味方作戦』といったところだろう。
一成はギャラリーの視線《しせん》を感じて、ますます赤くなりつつも、少女たちに声をかける。
「け……怪我《けが》はねえか?」
[#挿絵(img2/s06_033.jpg)入る]
「あ……はい。ありがとう……ございます」
うっとりしていた三人娘は、辛《かろ》うじてそう答えた。
「そうか。じゃあ、その……感謝してくれるなら、頼みがあるんだが……」
「へ?」
「夕方の五時に、井の頭公園のステージ前まで来てくれねえか。みんなで」
「ど……どうしてです?」
「わ……訳《わけ》はそのとき話す。とにかく来てくれ。大事《だいじ》なことなんだ。それじゃ」
「あ。あの……!」
いたたまれなくなったように、一成は人ごみをかきわけ、その場を立ち去った。
(うーん……六〇点くらいかしらねえ)
ギャラリーの後ろでそれを見ていたかなめは、小さくうなる。
ゴツいほかの部員たちを、いっそ悪役にしてしまう着眼点《ちゃくがんてん》は良かったが、詰《つ》めが甘い。もっと確実《かくじつ》に約束を取り付けた方がいいのに。せっかくルックスはいいのだから。
とはいえ、あの一成にしては頑張《がんば》っている方だろう。もともと硬派《こうは》なのに、あそこまで無理《むり》して、芝居《しばい》をして。よほど部室が欲《ほ》しいと見える。むしろ、滑稽《こっけい》を通り越《こ》して哀《あわ》れを誘《さそ》うくらいだった。
ナンパ大会に出場したクラブの様子は、だいたい見終わった。あとは宗介の写真部くらいだろう。実のところ、かなめはこれが一番気になっていた。あの戦争ボケが、いったいどうやって女の子を引っかけるのだろうか……?
アーケード街を北の方へ向かうと、通りの向こう側で、風間信二が通行人の女に声をかけているのが見えた。
宗介はいない。なぜか彼一人きりだ。
相手の女は、さきほどの模型同好会が相手にしていたのよりひどいタイプだった。髪《かみ》を脱色《だっしょく》し、変なメイクを顔面に施《ほどこ》し、毒々《どくどく》しい色のアクセサリーで武装《ぶそう》している。
まるで妖怪《ようかい》か、首|狩《か》り族だった。
(うわ。風間くんも激《はげ》しいのを選ぶなー……)
信二はその女に、ひたすら頭を下げていた。遠いので会話は聞こえないが、ひどい言葉でバカにされているようにも見える。それでも信二は下手《したて》に出て、なにやら必死《ひっし》に拝《おが》み倒《たお》していた。
ひたすら平身低頭《へいしんていとう》作戦だろうか?
そう思って、遠くから眺《なが》めていると――信二はなんと、懐《ふところ》から万札を三枚取りだし、相手に手渡《てわた》したのである。
(ば、買収《ばいしゅう》……!?)
女は笑い、信二を小突《こづ》くようにして歩き出す。二人はそのまま近くの路地裏《ろじうら》へと消えていった。
情けない気持ちを抑《おさ》えつつ、声をかけた女を連れて路地裏《ろじうら》に入ると、風間信二は小型のFM無線機《むせんき》を取り出し、小声で呼びかけた。
「ゲドルからアシュケロスへ。エルサレム万歳《ばんざい》。|どうぞ《オーヴァ》」
『アシュケロス、了解。慎重《しんちょう》にいけ』
無線の向こうで宗介の声が答える。
それを見た女――名前は知らなかった――は、信二をもう一度小突いて、
「なに変なコトやってンだよ。キモいんだよ」
「はは……ごめんね。ちょっと、友達から電話入っちゃって」
「どんなトモダチだよ。ガイジンかよ?」
「そ、そんなとこかな。……っと、この辺にしようか」
路地裏のT字路の辺りまで来ると、信二は立ち止まり、鞄《かばん》から一眼《いちがん》レフを取り出した。
「どこでもいーよ。早く撮《と》んなよ、変態《へんたい》くん。あたし、トモダチ待たせてンだからよー」
「う、うん……。それじゃあ――」
信二は無線機につぶやいた。
「こちらゲドル。誘導完了《ゆうどうかんりょう》。GO」
『アシュケロス了解』
それにしてもひどい人だなぁ、と信二は思った。変な露悪癖《ろあくへき》があるし。自意識過剰《じいしきかじょう》だし。だいたい、三万も出してあんたのパンツを撮りたがるヤツはいないってば。
そんな信二の胸中などもちろん知るはずもなく、女は彼を急《せ》き立てた。
「いそげってーの。あんま待たせると、追加料金《ついかりょうきん》貰《もら》うよ? 三万じゃ安いよー、みたいな。ヒャヒャヒャ――」
きゅばっ!
瞬間《しゅんかん》、彼らの頭上からまばゆい閃光《せんこう》がほとばしった。
「ぎゃんっ!!」
女は一度、びくりと身体《からだ》を震《ふる》わせたあと、裏返《うらがえ》った悲鳴《ひめい》をあげてから、その場に突《つ》っ伏《ぷ》した。
「アシュケロス、成功」
見上げると、すぐそばのビルの非常階段《ひじょうかいだん》、その三階あたりの踊《おど》り場から、宗介が身を乗り出し、いましがた発砲《はっぽう》したばかりの電気銃《でんきじゅう》を構《かま》えていた。彼はロープを使ってするすると路地に降りてくると、女の手から万札《まんさつ》を奪《うば》い返した。
「これで六人目。大漁《たいりょう》だな」
女を肩《かた》に担《かつ》ぎ、彼は言った。いつも通りのむっつり顔だが、心なしか満足げにも見える。
「相良くん……なんかこれ、やっぱり違《ちが》うような気が」
「競技会側の説明では、『あらゆる手段《しゅだん》を使ってよい』とあった。エサで釣《つ》って罠《わな》にはめる。これがもっとも確実《かくじつ》な手段だ」
「そりゃあ部室は欲《ほ》しいけど。さすがにこれは……」
「なにを言う。『ナンパというのは、つまりガール・ハントだ』と説明したのは君だろう」
「ホントに狩猟《ハント》してるんだもんなぁ……」
信二がぼやくのを聞きもせず、宗介はふと、遠い目をした。
「昔はよく狩《か》りをしたものだ。南米の沼地《ぬまち》で体長二メートルのワニを仕留《しと》めたこともある。この程度《ていど》の獲物《えもの》では、イノシシの方がよほど手ごわいぞ」
気絶《きぜつ》した女の両手両足を頑丈《がんじょう》な針金《はりがね》で縛《しば》ると、路地の奥に隠《かく》してあったリアカーに放《ほう》り込む。荷台《にだい》には似たような感じの女が五人、ぐったりと横たわっていた。ときおりうめき声をあげ、『ちくしょー』だのとつぶやく者もいる。どれも信二が、『三万円でパンツ撮らせて』といって誘《さそ》い出した連中だった。
「あのー。ここまでやって言うのもなんだけど、僕《ぼく》ら、立派《りっぱ》な犯罪者《はんざいしゃ》なのでは?」
「いや、夕方には解放《かいほう》する。キャッチ&リリースだ。問題ない」
「大ありよっ!!」
突然《とつぜん》の新たな声に振り向くと、路地にかなめが仁王立《におうだ》ちしていた。
「ち、千鳥さん……!?」
「千鳥か。どうした?」
のほほんと言った宗介に、かなめがのしのしと近付いてくる。
「あんたって……あんたって……」
「? なにを――」
どすっ! ごっ! ずびしっ!
グーでみぞおちを殴《なぐ》られ、こめかみにフックをかまされ、とどめに地獄突《じごくづ》きを食らって、宗介はその場にくずおれた。うずくまった彼を踏《ふ》みつけるようにして、かなめはリアカーの女たちを指差し、信二をきっとにらみつけた。
「解放《かいほう》しなさい! いますぐ!」
「は……はい!」
すっかり怯《おび》えた信二は、涙目《なみだめ》になって拘束《こうそく》を外しにかかった。
「急ぎなさい! さっさと逃げるの! マジで警察《けいさつ》が来るわよ!?」
女たちの介抱《かいほう》もそこそこに、かなめたちはそそくさとその場を離《はな》れた。テナントビルのそばまで逃げてきて、肩でぜいぜい息したあと、改《あらた》めてかなめは宗介を蹴《け》り倒《たお》した。
「…………。痛いじゃないか」
「やかましいっ!! 自分の行動が、少しはヘンだと思わないの、あんたは!?」
「そう言われても、ナンパなどよく知らん」
困惑顔《こんわくがお》で宗介が身を起こす。
「……まったく! いい? ナンパっていうのはねえ!?」
かなめは注意深く、彼にナンパのなんたるかを説明した。
一般論《いっぱんろん》のついでに、彼女は自分が声をかけられたときのエピソードも話してやった。それを聞いているうちに、宗介はみるみる深刻《しんこく》な顔になっていき――顔面《がんめん》にびっしりと汗《あせ》を浮《う》かべた。
「そうだったのか……?」
「そうだったのよ!」
「俺には無理《むり》だ」
「すがるような目をするなっ!!」
宗介は相変わらずのむっつり顔のままだったが――いまや一挙手一投足《いっきょしゅいっとうそく》が、異様《いよう》にぎくしゃくとしていた。テロリストだと思って射殺《しゃさつ》した相手が、何の罪《つみ》もない一般市民だったと気付いたような――そんな様子だ。
かなめは肩を落とし、ため息をつく。
「ホントに知らなかったの? 救いようがないわね!?」
「まずい、まずいぞ。まったく予想外だ」
渋面《じゅうめん》を作ってうつむく宗介。ある意味、いちばん罪の重い信二が、ようやく焦燥《しょうそう》をあらわにする。
「ど……どうするんだよ、相良くん? 君、軽音楽部の人たちと、あんな約束しちゃったじゃないか。せめて一人でも引っかけないと、大恥《おおはじ》だよ? 全裸《ぜんら》で寒中《かんちゅう》水泳なんて……。ねえ、千鳥さん。さっきの方式で、せめて一人だけでも――」
「なに言ってんの!? ダメに決まってるでしょう?」
かなめはあっさりと却下《きゃっか》した。
「だって。僕のクラブはともかく、相良くんがピンチなんだよ!?」
かなめは一瞬、言葉に詰《つ》まった。
「そ……そんなの、知ったこっちゃないわよ。面倒《めんどう》見きれないわ」
「千鳥さん……!?」
「いい機会よ! すこし……反省すればいいんだわ! いつもいつもいつも。ひどい暴走《ぼうそう》ばかりして。さっきのなんて、ヘタしたらマジで大問題よ? ソースケだけじゃなくて、学校のみんなも迷惑《めいわく》するんだから!」
それはかなめの嘘偽《うそいつわ》らざる気持ちだった。本当に迷惑なのだ。そして、いつも自分が尻拭《しりぬぐ》いをする。もう、うんざりだった。
やがて、宗介は力なくつぶやいた。
「すまない。君の言う通りだ。自分でどうにかする」
「相良くん?」
「やむをえん。正攻法《せいこうほう》で行こう。普通《ふつう》に女に声をかける。もしかしたら、中にはミサイルや狙撃銃《そげきじゅう》について、並々ならぬ関心を持っている女もいるかもしれんからな……」
なにやら悲壮《ひそう》な決意をこめて、宗介は言った。
実際《じっさい》、宗介は正攻法を採用《さいよう》したようだった。
駅前を散々《さんざん》歩き回って、見かけた異性に片端《かたはし》から声をかける。
『失礼。新型ミサイル「ジャベリン」について、耳よりな情報があるのですが……』
『防衛庁《ぼうえいちょう》に浸透《しんとう》している、北中国軍のスパイの名前を知りたくありませんか?』
『効率《こうりつ》良く、標的《ひょうてき》を射殺《しゃさつ》する方法のノウハウを、すべて伝授《でんじゅ》してもいいのですが……』
そんな感じである。
しかも、異様《いよう》な気迫《きはく》と真剣《しんけん》さで話しかけるのだ。かてて加えて、迷彩服《めいさいふく》。いくら顔立ちが端正《たんせい》でも、これではただの危《あぶ》ない人だった。
声をかけられた女性のことごとくが、『はあ?』と不審《ふしん》な顔を見せ、足早《あしばや》に彼のそばから走り去っていく。社会学研の難波は『一〇〇人に声をかければ』と言っていたが、こと宗介に限《かぎ》っては――一万人に声をかけても、ただ一人さえ釣《つ》ることはできないだろう。
(あーあ……やっぱりダメか……)
ずっと遠目にその光景を見ていたかなめは、深いため息をついた。刻限《こくげん》の一七時まではまだ数時間あったが、いくらやっても無駄《むだ》だ。
それでも彼女は傍観《ぼうかん》を決め込んでいた。
助け船は出さない方がいい、と思っていた。いつまでたっても日本の生活に適応《てきおう》できない宗介は、一度ひどい目に遭《あ》って、自分を見つめ直した方がいいのだ。『こうした方がいい』『ああした方がいい』などと、助言《じょげん》をする気はもうなかった。
だが、しかし。
いつもは硬派《こうは》で、人に媚《こ》びるということを知らない宗介だけに、その姿はあまりにも哀《あわ》れで見ていられないくらいだ。なにについても一生懸命《いっしょうけんめい》な宗介の、ああいう姿を目《ま》の当たりにするのは、どうにも辛《つら》かった。
そうこうしているうちに、やっと一人、宗介の話を立ち止まって聞いてくれた『異性』がいた。
和服姿で、腰の曲がったお婆《ばあ》さんだった。
「――ソ連海軍の極東艦隊《きょくとうかんたい》が使用している暗号方式について、新しい情報《じょうほう》があります。あなたが協力してくれるなら、それを教えても構《かま》いません」
「ええ、ええ。おかげさまで今年、米寿《べいじゅ》を迎《むか》えましたよ。ほんにありがたいことで」
「自衛隊が使用している対艦《たいかん》ミサイルの、致命的《ちめいてき》な欠陥《けっかん》を知りたくありませんか? この情報を売れば、ちょっとした小遣《こづか》い稼《かせ》ぎになる」
「はい、はい。先日は娘夫婦《むすめふうふ》が、草津《くさつ》の温泉に連れて行ってくれまして。ほんにいい湯でございました。ええ」
「自分は嘘《うそ》などついていません。情報源《ソース》が知りたいのでしたら――」
「きょうは孫《まご》の誕生日祝《たんじょうびいわ》いを買いに来ましてねぇ。ちょうどあなたくらいの子なんですよ」
「…………。そうですか」
「ええ、ええ。ほんに優《やさ》しい、気だてのいい子で」
「それはなによりです」
けっきょく宗介はお婆さんの身の上話を三〇分ほど聞いてから、孫の誕生日祝いの買い物に付き添《そ》って、最後は丁重《ていちょう》に駅までお見送りした。
自分がせっぱ詰《つ》まっているのに。なにをやっているのやら。
(でも……)
ふっと、かなめはため息を漏《も》らす。
非常識《ひじょうしき》で、バカで、迷惑《めいわく》な奴《やつ》なんだけど――ああいう時に、わざわざお婆さんの面倒《めんどう》を見てしまうのもまた宗介なのだ。そういう彼を遠くから見ていると、おかしいような、かなしいような、不思議《ふしぎ》な気持ちになる。
彼女はポケットからPHSを取り出した。
番号を押して、待つことしばし。
「あ、もしもし。難波さん? あのー。ちょっと、具合《ぐあい》が悪くなって……。ええ。帰って寝《ね》たいんですけど。大丈夫《だいじょうぶ》……だと思います。ええ。……ええ。すいません。では……」
かなめはPHSを切ってから、いまだに駅前をうろつき回る宗介を一瞥《いちべつ》した。
「……じゃーね。せいぜい頑張《がんば》ってみなさい」
つぶやくと、彼女は帰りの電車の切符《きっぷ》売り場に向かって歩き出した。
一七時。夕闇《ゆうやみ》に包《つつ》まれつつある井の頭公園。
けさ集まった陣高生三〇名のほかに、彼らが連れてきた十数名の女の子が、その場を訪《おとず》れていた。ナンパだと思ってついてきたら、学校の行事《ぎょうじ》だと知ってぶうぶうと不平をもらす者。いまだに事情《じじょう》がわからず怪訝顔《けげんがお》の者。最初から説明を受けていたので、おとなしく待っている者……。
難波志郎が一同に告げる。
「みなさーん。きょうはご苦労《くろう》さまでした」
『うーい……』
一日中|駆《か》けずり回ったせいで、入室希望の部員たちは、えらく疲《つか》れた様子だった。
「集計がいま終了《しゅうりょう》しました。……というほどの人数もいないのですが――とにかく発表いたします。まず三位! 獲得《かくとく》数、三名! フィッシング同好会さんでーす」
まばらで投げやりな拍手《はくしゅ》。当たり前だった。三位でも別に賞品はないのだ。
しかし難波は構わず続ける。
「次、二位! 獲得数、五名! 軽音楽部さんでーす! 正直、もう少し行くと思ったのですが」
ぱらぱらとテキトーな拍手。軽音楽部の部員たちが、ふうっとため息をつく。一緒《いっしょ》にいた女の子グループは、露骨《ろこつ》に不愉快《ふゆかい》そうな顔をする。
「そして一位は、なんと! 空手同好会さんですっ! 獲得数、ダントツの一一名っ!」
『う……うおぉおぉ〜〜〜〜っ!』
しらけきった一同の前で、空手同好会の大男三人組が、感涙《かんるい》にむせんで飛び上がる。かたや一成は、総勢《そうぜい》一一人の少女たちにわいのわいのと取り囲まれて、居心地《いごこち》が悪そうに身をすぼめていた。
一成目当てでついてきた一一人は、口々に言う。
「けっこう美形だからついてきたのに。なんなのよ、この有象無象《うぞうむぞう》のオマケは……?」
「椿さん。……あのー、それで。これがあなたの言う『事情』なわけですか?」
「ねーねー。ここで昼のアトラクションの続き、やるんでしょ?」
などと言いながらも、一一人は彼にぴたりとくっついて離れない。一成はひたすら恐縮《きょうしゅく》するばかりだ。
(まさか、これほどが集まるとは……)
(あの椿って、実は超《チョー》モテる奴《やつ》……? フェロモン男……?)
(いやいや。時代は硬派に傾《かたむ》きつつある、ってことだよ。ふっ……)
周囲《しゅうい》の陣高生が、ひそひそとささやきあう。
「というわけで、部室は空手同好会さんのものです! とりあえず、この場の皆《みな》さんに証人となってもらいます。よろしく」
難波が宣言《せんげん》して、解散《かいさん》を告げた。
しかし、一同はその場を離れなかった。興味津々《きょうみしんしん》といった様子で、軽音楽部の面々と、ぽつんと立ち尽《つ》くす宗介に視線《しせん》を注《そそ》ぐ。
「相良くーん? どうだった、写真部は?」
にやにやして、ヴォーカルの生徒が聞く。
「…………。〇名だ」
肩《かた》を落とし、宗介が答えた。
「〇名! つまり、一人もナンパできなかったと? そういうことだね?」
「……肯定《こうてい》だ」
「はっはっ。じゃあ約束だぜ。そこの池に飛び込んで、全裸の寒中水泳。やってくれる?」
ほとんど全員がゲラゲラと笑って盛《も》り上がる。信二はハラハラとするばかり。一成は苦々《にがにが》しげに『それ見たことか』とつぶやいていた。
宗介はしばし沈黙《ちんもく》してから、小さなため息をついた。
「いいだろう。約束は約束だからな……」
『そら、脱《ぬ》ーげ、脱ーげ!』
はやしたてる一同の前で、宗介は迷彩服の上着を脱いだ。その場の少女たちが『きゃーっ』と面白《おもしろ》半分の悲鳴をあげる。宗介は構わずにシャツも脱いで、タンクトップの裾《すそ》に手をかけた。
だがそこで――
「あの……失礼?」
その場に、ふらりと和装《わそう》の女性が現われた。
歳はたぶん、二四、五といったところだろうか。切れ長の目に、潤《うる》んだような瞳《ひとみ》。完璧《かんぺき》に整《ととの》ったかんばせには、匂《にお》いたつようなたたずまいがある。およそこんな場所には相応《ふさわ》しくない、物静《ものしず》かな大人の女性だった。
上品な刺繍《ししゅう》が入った、桔梗色《ききょういろ》の着物姿。ていねいに結《ゆ》いあげた黒髪《くろかみ》は、濡《ぬ》れたようにつややかだ。白いうなじは、透《す》き通るように清らかで、肌《はだ》には一点のくもりもない。
「?」
怪訝顔の一同の前で、その美女が宗介にすすっと歩みより、しっとりとした声で言った。
「お待たせしてすみませんでした――相良さん」
「なっ……!?」
軽音楽部をはじめ、全員が驚愕《きょうがく》する。それは宗介も同じで、まったく見覚えのない相手に困惑《こんわく》しながら、口を開いた。
「? あなたは――」
言いさした彼の唇《くちびる》を、彼女は人差し指でそっと遮《さえぎ》った。
「もう、言わないで……。昼間は、あんなにはげしくわたしを誘《さそ》ってくださったじゃありませんか。主人の目を盗《ぬす》むのは、これでも大変でしたのよ……?」
主人! すなわち、このお姉さんは人妻《ひとづま》……!
陣高の面々が、さらに激《はげ》しく動揺《どうよう》した。彼女は小首をかしげて、恥《は》じらうようにほほ笑む。
「約束しましたよね……? お食事をご一緒《いっしょ》してくださると」
「? は、はあ……」
しどろもどろの宗介の胸に寄《よ》り添《そ》い、その美女は指先で『の』の字を描《か》いた。
「とても……楽しみにしてました。さあ、参《まい》りましょう……」
「は? あの……?」
彼の腕《うで》をそっと取り、たおやかな仕草《しぐさ》で歩きだす。宗介はあっけにとられたまま、のろのろと彼女の後に続くばかりだった。
「では、みなさん。ごきげんよう……」
棒立《ぼうだ》ちした陣高生たちに向かって、上品にお辞儀《じぎ》をしてから、美女は宗介を連れて、繁華街《はんかがい》の方角へと歩み去った。
「…………」
背後で『負けたー!』だの『人妻かよ!?』だの『やられたーっ!』だのと叫《さけ》ぶ声が聞こえたが、彼女は止まろうともしなかった。
(……だれだ?)
公園を出ても、宗介にはまったくわからなかった。並んでいると、朴念仁《ぼくねんじん》の彼でさえ、落ち着かない気分になるほどなのだ。こんな女性と知り合った経験は、まるで思い当たらなかった。
「命拾《いのちびろ》いしましたね、相良さん……?」
彼女がささやくように言った。
「は。その……あなたは?」
緊張《きんちょう》しながら、宗介がたずねる。
「まあ。覚えてらっしゃらないの? 毎日のように会《あ》っているのに。わたし……ちょっと哀《かな》しいです」
「も……申し訳ありません。しかし……どうも、記憶《きおく》が……」
「ホントにわからないの?」
「はっ。その……きょ、恐縮《きょうしゅく》です」
すると、その和服美人は――出しぬけに『ぶっ!』と吹《ふ》き出した。
「?」
「……っ。くっ。もうダメ……。ぷっ……あーはっはっはっはっ! やったわ。あたしってスゴい! サイっコーっ!! っていうか、大成功っ!!」
無遠慮《ぶえんりょ》で子供っぽいその声を聞いたとたん、宗介はぎょっとし、理解《りかい》した。
「ち……千鳥っ!?」
「うん! 気付かなかった? マジで気付かなかった!? やった。完璧《かんぺき》!」
握《にぎ》り拳《こぶし》で空を見上げ、凱歌《がいか》をあげる。こうなると、いくら大人っぽいメイクをしていても、あっという間にいつものかなめに戻《もど》るのだった。宗介は戦慄《せんりつ》するやらどぎまぎするやら、もう、なにがなんだか分からない状態《じょうたい》になる。
かなめはたっぷりと、その様子を楽しんでから言った。
「ふふふ……。感謝してよね。わざわざ家まで帰って、お蓮《れん》さんに手伝ってもらって、母さんの着物、着付けてきたんだから」
「そうだったのか……」
参《まい》った。一本取られた。
しかも助けられた上に、完璧にだまされてしまった。
「まったく……君にはいつも驚《おどろ》かされる」
「でしょ? ついでに、もう一つ言って欲しいことがあるんだけどー」
彼女はなにかを期待するように、瞳《ひとみ》をきらきらさせて彼の顔を覗《のぞ》きこんだ。
言って欲しいこと? なんだろう?
宗介は自信なさげに、
「その……『ありがとう』か?」
「はずれー」
「……『すまなかった』か?」
「バーカ」
だんだんと、かなめの顔が不機嫌《ふきげん》になってくる。
彼は黙考《もっこう》して、さんざん悩《なや》み抜《ぬ》いた末《すえ》、おそるおそる言ってみた。
「…………。『きれいだ』……か?」
「ふふ。はじめて、言ってくれたね……」
かなめは、満面《まんめん》の笑《え》みを浮《う》かべた。
実際、それはきれいな笑顔だった。
[#地付き]<ままならないブルー・バード おわり>
[#改丁]
的はずれのエモーション
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陰気《いんき》な放課後《ほうかご》であった。
くすんだ太陽。乾《かわ》いた空気。
敷地《しきち》のはずれの並木道《なみきみち》を、空手同好会の部長・椿《つばき》一成《いっせい》が力強い足取りで歩いていく。
色白で小柄《こがら》な風貌《ふうぼう》だったが、同時に精悍《せいかん》な若武者《わかむしゃ》のようでもある。切れ長の目と、一文字《いちもんじ》に引き結ばれた唇《くちびる》が印象的《いんしょうてき》だ。そして彼の瞳《ひとみ》には、尽《つ》きることのない静かな闘志《とうし》が、めらめらと燃《も》えさかっていた。
これから決闘《けっとう》の場に赴《おもむ》くのである。
きょうの昼、彼は性懲《しょうこ》りもなく、相良《さがら》宗介《そうすけ》に果たし状《じょう》を送りつけたのだった。どうしても、あの男と再戦《さいせん》したい気持ちを抑《おさ》えられなかったのだ。
幼い頃《ころ》から、身長、体重、視力《しりょく》……様々なハンデを、技を磨《みが》くことで乗り越《こ》えてきた彼である。劣等感《れっとうかん》をばねに弱点を克服《こくふく》し、ひたすら強さを追い求めてきた。その彼が、更《さら》なる高みを目指すためには、どうあっても、自分を敗北《はいぼく》させた宗介を倒《たお》さなければならない。
(そうだ……。不覚《ふかく》をとったあの日から、オレは一歩も進めない男になっちまった。だが、それも今日までだ。今日こそオレは――)
一成はくわっと両目を見開いた。
(相良を、倒す!)
その闘志にあおられたかのように、彼の周囲《しゅうい》でつむじ風が生まれ、土ぼこりと落ち葉が舞《ま》いあがる。
ほどなく、一成は決闘の場所に着いた。先日取り壊《こわ》された柔道場《じゅうどうじょう》の跡《あと》だ。まだ人の姿《すがた》が見えなかった。約束の時刻《じこく》より、すこし早く来てしまったようだ。
そこで一成はふと気付く。
すぐそばのケヤキに、妙《みょう》がものがあった。幹《みき》のちょうど胸あたりの高さに、白い紙がアーミー・ナイフで突《つ》き刺《さ》してあるのだ。
その紙には、なにかのメッセージらしきものが長々と書いてある。
(…………?)
近眼の彼には、その紙に書かれた文字がよく見えない。その樹《き》へと歩み寄って目を細めると、その紙にはこう記してあった。
<<椿一成へ
貴様《きさま》からの宣戦布告状《せんせんふこくじょう》は、確かに受け取った。
だがあいにく、今日は生徒会の重要《じゅうよう》な任務《にんむ》があるので、お前の相手をできそうにない。そこで申し訳ないが、足下《あしもと》のそいつ[#「そいつ」に傍点]が代わりに相手をする>>
(足下……?)
途中《とちゅう》まで読んで、わずかに身体《からだ》の重心を動かしたところで――
がちん。
足下の地中から、なにかの鈍《にぶ》い金属音《きんぞくおん》がした。いやな予感を覚えながら続きを読むと、そこに物音《ものおと》の正体が説明してあった。
<<――すでになにかの金属音を聞いたなら、足を上げない方がいい。そこに埋《う》まっているのは対人地雷《たいじんじらい》だ。足を離《はな》すと爆発《ばくはつ》する>>
「な…………!?」
ぎょっとして、足下を見おろす。
一成は戦慄《せんりつ》しつつも、慎重《しんちょう》に屈《かが》み込んだ。使い込んだスニーカーの下の土を、横からすこしだけ掘《ほ》り返してみる。CDくらいのサイズの地雷《じらい》が、わずかに顔を覗《のぞ》かせた。
しっかりと、踏《ふ》んでしまっている。
わなわなと震《ふる》えながら、彼はレポート用紙の残りを読んだ。
<<――このアーミー・ナイフを使え。足を離さず、地雷を解体《かいたい》してみろ。首尾《しゅび》良く無力化《むりょくか》して生き残ることができたら、お前の勝ちだ。
以上。健闘《けんとう》を祈《いの》る。
[#地付き]相良宗介>>
一成は幹にしがみつくようにして、悲痛《ひつう》なうめき声をあげた。
「相良……。ま、またしてもっ!!」
その相良宗介は同じ頃《ころ》、むっつり顔で、一心不乱《いっしんふらん》に、手にした紙束をホッチキスで綴《と》じていたのだった。生徒会室の大机《おおづくえ》には、印刷《いんさつ》済《ず》みのコピー紙の束《たば》が、うずたかく山をなしている。これがいまの彼の『重要な任務』だ。
今月分の会報――『陣高《じんこう》だより』の製本作業《せいほんさぎょう》の真《ま》っ最中《さいちゅう》なのである。
宗介のほかにも、数人の生徒たちが、黙々と作業に没頭《ぼっとう》している。陰気《いんき》な天気のせいか、たいした会話もない。
綴じた部数が二〇〇部を超《こ》えた頃――遠くで爆発音《ばくはつおん》がした。雷《かみなり》のようにこだまが響《ひび》き、生徒会室の窓《まど》がびりびりと震え――すぐに静寂《せいじゃく》が戻《もど》ってくる。
「…………?」
ほかの生徒たちが眉《まゆ》をひそめる中で、宗介は一人、瞑目《めいもく》した。
「失敗したか……」
千鳥《ちどり》かなめが怪訝顔《けげんがお》で彼を見る。
「なんの話よ。いまの音は?」
「気にするな。戦いに赴《おもむ》いた一人の男が、どこか遠くで命を落とした……。それだけのことだ」
おごそかに告げてから、ホッチキスをかちかちさせる。
「はあ。……変なの」
かなめもむっつりと作業に戻る。
しばらくして、製本を手伝っていた女子生徒の一人――稲葉《いなば》瑞樹《みずき》が不平《ふへい》をもらした。
「まったく……。なんで、こんな不毛《ふもう》な仕事に付き合わなきゃなんないのよ? あたし生徒会なんか、関係ないのに」
おかっぱセミロングの髪《かみ》。小柄《こがら》であどけない顔立ちだが、同時にきつめで頑固《がんこ》そうな雰囲気《ふんいき》の持ち主である。きょうは生徒会の面子《メンツ》の多くが、バイトや部活や家事で不在《ふざい》だった。人手が足りないので、かなめが下校しようとしていた瑞樹を、強引《ごういん》に引《ひ》っ張《ぱ》ってきたのである。
「つべこべ言わない。あんたには色々と貸《か》しがあるんだから。今日はヒマなんでしょ?」
「ふん、悪かったわね。どうせ帰って『影《かげ》の軍団《ぐんだん》・幕末編《ばくまつへん》』の再放送でも観《み》るしかない、虚《むな》しい青春を送ってるわよ。帰宅部《きたくぶ》だし、男もいないし」
「ああ、そう……」
「やんなっちゃうのよね。マナミもマドカもショーコも、最近、カレシが出来たって自慢《じまん》してきたのに」
「あの、中学の頃《ころ》の友達?」
「そーよ。あの三バカ、久しぶりに会ったらモスで三時間、ノロけまくって。こっちの境遇《きょうぐう》、知ってるクセに。マジでムカつくのよね。あいつらの恥ずかしい秘密《ひみつ》とか、相手の男どもにバラしてやろうかしら」
「相変わらず、いい性格してるわねー……」
呆《あき》れたようにかなめが言うと、生徒会室の扉《とびら》が『ばしんっ!』と荒々《あらあら》しく開け放たれた。
「?」
「相良ぁっ!!」
戸口にすがるようにして叫んだのは――ボロ雑巾《ぞうきん》状態《じょうたい》になった椿一成だった。
ひどい有様《ありさま》である。全身ススだらけ、擦《す》り傷《きず》だらけで、制服《せいふく》のあちこちが焼《や》け焦《こ》げ、頭からは煙《けむり》がぶすぶすと立ち昇《のぼ》っている。
「あ、椿くんだ。おっす」
かなめが挨拶《あいさつ》したが、一成はそれさえ眼中《がんちゅう》にない様子だった。ひびの入った眼鏡《めがね》をかけ直して、宗介の姿を確認《かくにん》すると、
「殺すっ!」
と言うなり、まっしぐらに彼へと突進《とっしん》した。同時に宗介も席を立ち、矢のような速さで繰《く》り出された拳《こぶし》を、ぎりぎりでかわす。冊子《さっし》の山がどさりと崩《くず》れ、たくさんの紙が宙《ちゅう》に舞《ま》いあがった。
「生きていたか。見上げた頑丈《がんじょう》さだ」
「黙《だま》れ! 今日という今日は、絶対《ぜったい》に許さねえっ!」
「爆発《ばくはつ》したなら、おまえの負けだぞ」
「勝手に決めるなっ!」
「わかったから明日にしろ。俺は会報の製本を――」
「知ったことかっ!!」
室内をひらり、ひらりと逃《に》げ回る宗介と、容赦《ようしゃ》ない打撃技《だげきわざ》を繰り出す一成。素手《すで》での戦いなら、宗介と一成はほぼ互角《ごかく》だったが、怒《いか》りに我《われ》を忘れた攻撃《こうげき》を避《さ》けるのは、そう難《むずか》しいことではないようだった。
「あー。また始まったわ……」
かなめが後頭部をぼりぼりと掻《か》く。この二人の仲の悪さには、彼女も手を焼いているのだ。
「なんなのよ。この逆《ぎゃく》ギレメガネ男は……? うっとおしいわねー」
迷惑顔《めいわくがお》で瑞樹が言った。
「うん。こないだ知り合った男子なんだけど。もー、なにかってーと、宗介に絡《から》みまくってさぁ……」
「はあ。で、いつもこうやってじゃれ合うわけ?」
「うん。まあ『じゃれ合ってる』って言うには、ちょっと過激《かげき》でシャレにならない攻撃の応酬《おうしゅう》なんだけど。……っと、そんな話してる場合じゃないか。……ちょっと、やめなさい二人とも」
「くぬっ! くぬっ!」
「ねえったら。こら。……椿くんっ!!」
どやしつけると、一成ははじめてかなめの存在に気付いた。
「ち……千鳥?」
ぴたりと拳を振《ふ》るうのを止めて、たちまち頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させる。かなめの前で取り乱《みだ》していたのを、ひどく恥《は》じている様子だった。
その隙《すき》を、宗介は見逃さなかった。素早《すばや》く間合いを詰《つ》めるやいなや、相手の腹《はら》めがけて、鋭《するど》い蹴《け》りを叩《たた》き込む。
「ぐおっ……!」
両腕《りょううで》を固め、宗介の一撃《いちげき》を辛《かろ》うじてガードした一成は、窓際《まどぎわ》に避難《ひなん》していたかなめたちの方へと吹《ふ》き飛ばされた。突《つ》っ込《こ》んできた一成の背中を、かなめがひょいっと避ける。ところがその後ろに棒立ちしていた瑞樹が、まともに彼の体当たりを食らってしまった。
「きゃっ……!」
そこで、事故《じこ》が起きた。
弾《はじ》き飛ばされ、よろめいた瑞樹の身体《からだ》が、その拍子《ひょうし》で、開けっぱなしになっていた背後《はいご》の窓枠《まどわく》を乗り越《こ》えてしまったのだ。
ここは四階である。
「あ……?」
瑞樹がぐらりと回転しながら、窓の外へと放《ほう》り出された。そのまま十数メートル下のアスファルトめがけて、小さな身体がまっさかさまに――
「くっ……!」
落下《らっか》しはじめた瑞樹の足首を、きわどいところで一成が『がしっ!』と掴《つか》んだ。上半身を窓の外に乗り出して、両足をつっぱり、辛うじて瑞樹を逆《さか》さ吊《づ》りにする。
ぎりぎり、間一髪《かんいっぱつ》であった。
「き……きゃあぁあぁあぁ〜〜〜〜っ!!」
一拍《いっぱく》遅《おく》れて、瑞樹が金切《かなき》り声をあげる。ひとしきり両手をばたばたさせてから、あられもなく逆さまになっていたスカートを押《お》さえつけ、じたばたと身をよじる。
「ひゃあっ!? ああっ!? いやぁあぁ〜〜っ!!」
「あ……暴《あば》れるなっ!」
「放して、放してー……じゃなくて、放さないで放さないで放さないでぇっ!!」
「わかってる! 放さないから! 落ち着け! じっとしろ!」
一成も必死《ひっし》の形相《ぎょうそう》になって、瑞樹の足首を両手で掴む。彼は他の面子に助けを求めようとして、なんとか後ろを振り向いた。
気付けば、宗介がじりじりと彼に迫《せま》っているところだった。
「さ、相良……?」
「これで動きを封《ふう》じられたな、椿」
「なに!?」
「いま手を放せば、稲葉は死ぬ。つまりお前は、もはや俺の攻撃を避けることができない。……チェックメイトだ」
「き、貴様っ……」
「潔《いさぎよ》く負けを認《みと》めろ。さもなくば――」
ごすっ!
かなめの猛烈《もうれつ》な鉄拳《てっけん》を横から食らって、宗介はその場にくずおれた。彼女は真っ青になって、窓際の一成をびしりと指差し、
「手伝いなさい! 助けなさい!」
「了解《りょうかい》」
むくりと起きて、宗介がいそいそと手を貸《か》す。かなめも加わり、慎重《しんちょう》に瑞樹を引っ張り上げ、どうにか事無《ことな》きを得た。
「ふむ……危ないところだったようだな」
「この、極悪人《ごくあくにん》っ!」
かなめは人心地《ひとごこち》つくと、改《あらた》めて宗介を張《は》り倒《たお》した。
「なかなか痛いぞ」
「うるさいっ! 危《あや》うくミズキがあの世行きだったじゃないの!? しかも、その機《き》に乗《じょう》じて椿くんを脅《おど》すなんて――あんた正気!? どうしてそう、卑怯《ひきょう》な手ばかり思いつくの!? なんっつーのか、根本的《こんぽんてき》に頭の回路《かいろ》がどっか欠損《けっそん》してるのよ、あんたは!」
「そうなのか?」
「そーよ! 帰りに駅前商店街の電器屋さんいって、見てもらいなさい!……まったく、あんたときたら、救いようのないバカでタコで非常識《ひじょうしき》で●チガイで――」
ガミガミと叱《しか》りつけるかなめと、あれこれ抗弁《こうべん》する宗介。例によってのやり取りの横で、瑞樹は床《ゆか》にぺたりとしゃがんだまま、放心状態《ほうしんじょうたい》でいた。自分が死にかけたことに衝撃《しょうげき》を受け、混乱《こんらん》し、ぼーっとしていると――
「おい……大丈夫《だいじょうぶ》か?」
落ち着きを取り戻した一成が、ひざまずいて右手をひらひらさせる。彼女は寝《ね》ぼけたように、相手の顔を見上げた。
そのとき、瑞樹が『はっ』として両目を見開く。
「え……」
これまでのドタバタで、いつの間にか眼鏡《めがね》が外れていた一成の素顔《すがお》。色白で端正《たんせい》な容貌《ようぼう》を目《ま》の当たりにして、彼女の様子が急変《きゅうへん》した。いつもはかたくなな瑞樹の瞳《ひとみ》が、みるみると熱っぽく潤《うる》んでいき、小さな口からため息がこぼれる。
「すまなかった。怪我《けが》はねえか」
「あ……あの。……だいじょぶ……です」
辛《かろ》うじて、瑞樹はそう答えた。これまた、いつもの彼女からは想像もつかないような、か細い声である。
「そうか。なら、いいがよ」
一成は立ちあがると、いまだに叱《しか》られっぱなしの宗介に向き直った。
「あー……相良。きょうは疲《つか》れた。見逃《みのが》してやる。だが……次こそは容赦《ようしゃ》しねえ」
「うむ」
「覚悟《かくご》してな」
言い捨《す》て、げっそりとした顔で、彼は生徒会室を出ていこうとする。その背中《せなか》にかなめが声をかけた。
「ちょっと、椿くん!」
「な……なんだ、千鳥?」
「あんまり、危ないことばかりしないでね。ただでさえ、ここに歩く危険物《きけんぶつ》がいるんだから」
「す……すまん。それじゃあ……」
一成は小さくうなずき、ばつが悪そうな様子で、部屋を立ち去っていった。なぜかかなめに対してだけは、妙《みょう》に素直《すなお》なのである。
「やれやれ……。ちょっとミズキ、平気?」
「うん……。平気」
瑞樹はなかば上の空でうなずいた。
「そお? なんかヘンよ?」
「うん。ヘンになったみたい……」
「はあ?」
「彼、椿クンっていうのね……。素敵《すてき》な名前。クールだわ。なんていうのか……そう、グルービーで、ソウルフルで、キュートでキッチュなのよね……。たくましいし。でも華奢《きゃしゃ》だし。かっこいい……」
瑞樹は夜空の星々に祈《いの》りを捧《ささ》げるかのように、両手を組んでうっとりとしていた。
かなめが思わず後じさる。
「こ、これは……」
いまの瑞樹は、完全な一目惚《ひとめぼ》れモードに移行《いこう》していた。
翌朝《よくあさ》、一成は浮《う》かない顔で、ひとり、駅から学校への通学路を歩いていた。
同じクラスの生徒にも出会うが、彼らは一成に軽く挨拶《あいさつ》するだけだ。宗介の前では激昂《げっこう》してばかりの彼だったが、普段《ふだん》はむしろ物静《ものしず》かで、冷たい雰囲気《ふんいき》の持ち主なのである。
クラスメートからは、椿一成はどこか近寄りがたい孤高《ここう》さを持つクールな美男子……といった目で見られていた(最近の宗介とのやりとりで、その評価《ひょうか》も変わりつつあるのが実際《じっさい》のところであったが)。
そんな彼が、『相良とまともに勝負するには、どうしたら良いものか……』などと思案《しあん》に暮《く》れつつ、曲がり角にさしかかると――
「危なーいっ!」
角から一人の少女が現われ、一成に猛烈《もうれつ》なショルダー・タックルをかました。
「うおっ……!?」
完全な不意打《ふいう》ちをまともに食らって、路上《ろじょう》に突《つ》き倒された彼は、すぐに身を起こして相手を『きっ』とにらんだ。
[#挿絵(img2/s06_071.jpg)入る]
「!! い、いきなり何をしやが……る?」
相手はついきのう、危うく転落死《てんらくし》させかけた二年の女子生徒だった。名前はよく知らないが――確か、ミズキとか呼ばれていた。
彼女も尻餅《しりもち》をついていた。しきりに自分の足首をさすり、どこか棒読《ぼうよ》みっぽい声で、
「いたたた。いたーい。足をくじいちゃった……っていうか、むしろ粉砕骨折《ふんさいこっせつ》?」
などと言いつつ、一成に目を向ける。
「はっ。あなたは、きのうの……」
「お……おう」
「偶然《ぐうぜん》ね。こんなところで出会うなんて」
「…………」
相手の意図《いと》がわからず、一成は返答に窮《きゅう》していた。その気まずい沈黙《ちんもく》にもめげずに、彼女は図々《ずうずう》しく両手を突き出す。
「?」
「おんぶ」
「な……なに?」
「おんぶして。歩けないから」
一成はきっかり三秒、呆《ほう》けたように口を半開きにしてから、
「ば、バカいうな。なんだってオレが……お前みたいな、ロクに知りもしない女を――」
「あー! いたい、いたい、いたいっ!!」
少女は思い出したように足首をさすり出し、なりふり構《かま》わず叫《さけ》び出した。通行人の視線《しせん》などお構いなしだ。
「お、おい……!?」
「足がいたーい! 陣代高校二年八組の椿一成クンに突き飛ばされた! 歩けないわ! 移動力ゼロ! 一時間目、古文の藤咲《ふじさき》なのに! 遅刻《ちこく》しちゃう! 欠席|扱《あつか》いよっ! 単位おとす! ダブる! もうおしまいだわーっ!」
「や……やめろっ! わかったから!」
走って逃げればいいものを、一成はそう答えてしまった。すると彼女はぴたりと泣き叫ぶのをやめて、上目遣《うわめづか》いにこう言った。
「ホント……?」
「え? あ……その」
「じゃあ、おんぶ」
にっこり笑い、改《あらた》めて両手を差し出した。
『あの椿一成が、二組の女子生徒と同伴《どうはん》登校した。しかも、おんぶ』
この噂《うわさ》を、かなめが常盤《ときわ》恭子《きょうこ》から聞いたのは、その日の昼休みになってからだった。
「ホントだよ! すっごい仲良さそうだったって」
クラスメートの常盤恭子が、井戸端会議《いどばたかいぎ》の奥《おく》さんモードで言った。
「ミズキちゃんが、椿くんのこと後ろからパフパフしてあげたら、椿くんは喜びのあまり、その場で彼女と一緒《いっしょ》に情熱的なフラメンコを踊《おど》り出した……とか。いや、まあ、あくまで噂なんだけど」
「は、早い……。電光石火《でんこうせっか》だわ」
瑞樹のアクションの素早《すばや》さに、かなめはただただ驚《おどろ》いていた。ああいう実行力、ああいう思い込みの激《はげ》しさこそが、稲葉瑞樹の真骨頂《しんこっちょう》でもあるのだ。そういう面では、自分はあの娘《むすめ》にとうてい及《およ》ばんな……と感嘆《かんたん》する。
横でその話を聞いていた宗介が、難《むずか》しい顔で顎《あご》に手をやった。
「椿と稲葉が接触《せっしょく》……? 妙な組み合わせだ。なにか陰謀《いんぼう》の匂《にお》いがするな……」
「……なわけないでしょ? それにしても、あの硬派《こうは》な椿くんが、こうもあっさりとねえ……。意外だわ」
恭子もなにやら感慨《かんがい》深げに、かなめを見つめる。
「うん。あたし、てっきり椿くんってカナちゃんのことが好きなんだと思ってた」
「ははは、まさか。……まあ、いいんじゃないの? ああいう組み合わせも面白《おもしろ》いと思うし。あたし的には、『二人とも、お幸せにね』って感じかな」
「はあ。あっさり言うねー」
「そう? なんで?」
そのとき、問題の椿一成が、彼らの教室にどたばたと踏《ふ》み込んできた。憔悴《しょうすい》しきった顔で、『お幸せ』にはほど遠い様子に見える。
「…………?」
彼は室内を見まわそうともせず、戸口の蔭《かげ》にさっと隠《かく》れた。ほどなく外の廊下《ろうか》を、瑞樹が駆《か》け足で通り過《す》ぎていく。
(イッセーくーん? どこいったのー?)
その足音が遠ざかると、一成は首をうなだれ、胸《むね》をなでおろした。
「椿くん、なにしてるの?」
恭子が声をかけると、彼ははじめてかなめたちに気付いた様子で、ぎょっとした。
「い……いや。別に」
「聞いたわよ。ミズキと付き合い出したんだって? よかったわ」
かなめが言うと、一成は激《はげ》しく頭《かぶり》を振った。
「ち……ちがう。それはちがうぞ!」
「え? だって、みんなそう言ってるけど」
「詳解だ! あの女が勝手に付きまとってるだけで……。千鳥……お前にまでそんなことを言われたら、オレは……オレは……」
必要以上に焦燥《しょうそう》をあらわにして、彼は言った。
「ははは。そんな照《て》れなくてもいいのに」
「千鳥……!」
一成の顔が絶望《ぜつぼう》の色に染《そ》まりかけたところで――
「あー、いた!」
いつのまにか引き返してきた瑞樹が、教室の戸口から彼を見つけて、明るく叫《さけ》んだ。
「……しまった」
「んー、もお! イッセーくんったら。こんなところで油売ってたの!? 一緒《いっしょ》にお昼食べようって、約束したじゃないのー!」
「オレがいつ、そんな約束をした!?」
一成は声を荒《あら》らげる。だが瑞樹はそれをあっさり聞き流し、ぽっと頬《ほお》を赤らめ、もじもじと身をゆすった。
「うふふ……。かわいい。照れちゃって」
「人の話を聞け!」
それも無視《むし》して、彼女は一成ににじり寄ると、いそいそと弁当箱《べんとうばこ》を差し出した。
「あのね、今日はね、イッセーくんのために早起きして、一生懸命《いっしょうけんめい》お弁当作ってきたの」
「お前とまともに知り合ったのは、今朝のはずだぞ……!?」
「いいの! 細かいことは気にしない! さあ、たっぷりと召《め》し上がれ」
言うなり、瑞樹は手にした弁当箱を開け、たこさんウィンナーを箸《はし》でつまんだ。
「意外。ミズキも料理、できるのね……」
「タコ型……。タコ型だぞ。あれはどんな味がするんだ……?」
傍観者《ぼうかんしゃ》のかなめと宗介が、口々につぶやく。
「はい、あーんH[#「H」はハート(白)、1-6-29、Unicode2661]」
甘い声でウィンナーを突き出す。一成はたまりかねたように、それを右手で乱暴《らんぼう》に払《はら》いのけた。
「いい加減《かげん》にしやがれっ!」
「あっ……」
たこさんウィンナーが宙《ちゅう》を舞《ま》い、べちゃりと床《ゆか》に落ちる。
「オレに付きまとうな! 迷惑《めいわく》だ! おかげで変な噂《うわさ》まで流されちまっただろうが!」
「…………」
「いいか。オレは女は殴《なぐ》らない主義《しゅぎ》だ。だがな……あんまりしつこいと、さすがのオレでも容赦《ようしゃ》しねえぞっ!?」
凄《すご》みのある声で一成が言うと、その場に気まずい沈黙《ちんもく》が訪《おとず》れた。瑞樹が無言《むごん》でうなだれている。かなめや恭子がはらはらとしている。宗介は床に転がったたこさんウィンナーを、真剣《しんけん》なまなざしで見つめている。
ややあって。
瑞樹が瞳《ひとみ》をじわりと潤《うる》ませた。
「いいわよ。どうせあたし、イッセーくんに殺されかけた身なのよね……」
「な、なに?」
「窓から落ちかけた時は、怖《こわ》かったわ……。あまりのショックで、一生消えない心の傷を負ったのよ……。PTSDよ。外傷後ストレス障害《しょうがい》って奴《やつ》よ。もうあたし、立ち直れないかもしれない……」
[#挿絵(img2/s06_079.jpg)入る]
めそめそとすすり泣く瑞樹。一成はうろたえ、あたふたとした。
「そ……それは悪かったが。しかしだな、オレだって別に――」
「ぱんつ見たくせに」
「うっ」
「あたしのぱんつ。あのとき見たでしょ。すっとぼけてもムダよ……?」
「い、いや。オレは……あのときは眼鏡《めがね》が外《はず》れてたし、ぼんやりとなにかが見えただけで……その、ちがうんだ。オレは無実《むじつ》だ……!」
一成は狼狽《ろうばい》もあらわに周囲《しゅうい》を見まわす。
かなめを含《ふく》めた教室内の生徒たちが、瑞樹の話を聞いて、あれこれとささやき合っていた。どうやら、口さがないことを言いまくっている様子である(ちなみに宗介は足下《あしもと》のウィンナーを凝視《ぎょうし》して、なにやら一人で苦悩《くのう》していた)。
「女の子を突《つ》き倒《たお》して、無理《むり》やりぱんつ見といて、知らんぷり? ひどいわ。男って、みんなそう……」
「そ、それは謝《あやま》る。すまなかった」
「……ホントに?」
「お……おう」
思わず彼が答えると、瑞樹はけろりとして、
「じゃあ、あーんして」
と、今度は弁当箱から卵焼《たまごや》きをつまみ、にこにこしながら差し出す。
「どうしてオレが……」
一成は涙《なみだ》ぐむと、衆目《しゅうもく》の中で、ぱくりと卵焼きをかじった。
その放課後、宗介が帰り支度《じたく》をしていると、またも一成が教室にやってきた。瑞樹はなんとか振《ふ》りきったらしく、一人の様子だ。
「顔を貸《か》せ」
「…………?」
また決闘《けっとう》か、懲《こ》りん奴だ……などと思いながら、宗介は彼の後に続く。北校舎の屋上まで来ると、一成は宗介に向き直って、おもむろに切り出した。
「相良。貴様《きさま》が黒幕か……?」
「なにがだ?」
「あの稲葉って女だ。オレへのいやがらせに、貴様が雇《やと》ったんだろう!?」
「いや。知らんが」
答えた宗介を、彼はじっと注視《ちゅうし》した。
「……本当だろうな?」
「嘘《うそ》をついても始まらん」
すると一成は、珍《めずら》しくため息をついた。
「確《たし》かに……考えてみれば、お前はこの手の攻《せ》め方はしないかもな。だとしたら……。くそっ。マジなのか、あの女」
独《ひと》り言のようにつぶやき、手のひらを拳《こぶし》でばしっと叩《たた》く。宗介は首をひねり、
「なにか問題が?」
「大ありだ!」
「昼食を馳走《ちそう》になることが、そんなに困ったことなのか? 確かに、あのタコ型ウィンナーの味は期待はずれだったが……」
食ったのか、おまえ。
……と指摘《してき》する者は、あいにくこの場にはいなかったが――
「馬鹿野郎《ばかやろう》。ロクに知りもしない女に付きまとわれて、勝手に女房面《にょうぼうづら》されてみろ。たまったもんじゃないぜ。オレが鼻の下を伸《の》ばしてるみたいな噂《うわさ》は流れるし、千鳥には誤解《ごかい》されるし……最悪だ」
一成は力なくつぶやく。瑞樹と知り合ったたった一日で、彼はずいぶんとくたびれた様子《ようす》だった。だが宗介は無関心《むかんしん》な声で、
「そうか、気の毒にな。用が済《す》んだなら、俺は帰るぞ」
そそくさとその場を立ち去ろうとした宗介の腕《うで》を、一成が『がしっ』とつかむ。
「待て」
「なんだ?」
「こうなったのには、お前にも責任があるんだぞ。他人事《ひとごと》みたいな顔するな……!」
「俺に? 責任? 話がよく分からんのだが」
「とぼけるな! あいつを窓から突き落としかけたのはおまえのせいだろうが!」
「はて……」
「こ、この野郎、あくまでしらばっくれるつもりか……?」
激昂《げっこう》した一成がつかみかかる。だが、彼の疲労《ひろう》は想像以上のものだったのだろう。体をかわされると、彼は無抵抗《むていこう》にふらりとよろめき、宗介の肩《かた》にすがりつくような格好《かっこう》になった。
ちょうどそのとき――
屋上の出入り口の扉《とびら》が、がちゃりと開いた。顔を見せたのは、おやつのポッキーと双眼鏡《そうがんきょう》を手にした恭子である。
「あれ……?」
恭子はとんぼメガネの奥の、大きな瞳《ひとみ》がぱちくりさせた。
一成が宗介を引きとめるように、彼の肩にすがりついているのを見て――彼女は小さな驚《おどろ》きを見せる。
「…………?」
「ご……ごめん。ジャマしたみたいだね」
作り笑いを浮《う》かべて、恭子はドアの向こうに消えてしまった。
「……なんだ?」
「知らん。それより、いい加減《かげん》に手を放せ」
「ん? おお」
一成はすぐに気を取りなおし、宗介から離《はな》れる。
「……つまりだ、相良。お前のせいで、オレはあの女に弱みを握《にぎ》られちまったんだ。すこしは手を貸せ。それまでは休戦だ」
なんとも勝手な言い草だったが、宗介はさして異論《いろん》を唱《とな》えなかった。特に断《ことわ》る理由もなかったからだ。
「顔の次は手を貸《か》すのか」
「つべこべ言うな。オレだって必死なんだ」
そう言う一成の表情は、まさしく『溺《おぼ》れる者は藁《わら》をもつかむ』といった風情《ふぜい》だった。ほとんど宿敵《しゅくてき》とさえ言える宗介を、こうして頼《たよ》ってくるほどなのだから――彼の窮状《きゅうじょう》はよほどのものなのだろう。
「では一応聞いてやるが、なにが望みだ?」
「あの女が、オレに興味《きょうみ》をなくすようにしたいんだが……オレはこういう方面にはめっぽう疎《うと》いんだ。どうしたらいいかわからん。なにかいいアイデアはないか?」
「ふむ……」
宗介は沈思黙考《ちんしもっこう》した。
「そうだな……。稲葉の見てる目の前で、なんの罪《つみ》もない妊婦《にんぷ》や年寄りを撲殺《ぼくさつ》してみたらどうだ。たぶん、嫌《きら》われるぞ」
「できるか!」
「だがお前の取り柄《え》は、人を殴《なぐ》り殺すことではないのか?」
身《み》も蓋《ふた》もない言いようである。
「オレの大動脈流《だいどうみゃくりゅう》 活殺術《かっさつじゅつ》は、おのれを殺すことが極意《ごくい》だ。人聞きの悪いことを言うな」
「前は『暗殺拳《あんさつけん》だ』とか言っていたような気がするのだが……」
「うるさい。とにかく、そんな手はダメだ」
すると宗介は腕組《うでぐ》みして、どことなくのんきな声で言った。
「ならば、俺から説得してやろう。稲葉のことは、多少は知っているしな……」
「説得?」
「そうだ。何事も対話が一番だ」
翌日《よくじつ》の昼休み。
かなめと恭子が教室で食事をとっていると、不景気《ふけいき》な顔の瑞樹がやってきた。
「あれ、ミズキ。椿くんと食べてるんじゃなかったの?」
「それが見失っちゃったのよ。教室にも部室にもいなくて……。せっかく、きょうも手製《てせい》のスペシャル弁当、作ってきたのに……」
ふう、とため息をつく。
「きっとまだ照れてるのね。あたしの顔見ると緊張《きんちょう》しちゃうから、どこかで雲でも見上げてるのよ。そういうところがまた、チャーミングで好きなんだけど。ふふふ……」
「…………」
知り合って二日しかたってないのに、ここまで言える図太《ずぶと》さを、かなめは心底《しんそこ》うらやましいと思った。
そのおり、少し離れた席でコッペパンをかじっていた宗介が、瑞樹に声をかけた。
「稲葉」
「なに?」
「大切な話がある。顔を貸してくれ」
「…………?」
なにやら、普段《ふだん》にも増してシリアスな雰囲気《ふんいき》である。瑞樹は怪訝顔《けげんがお》をしながらも、のろのろと立ちあがって、宗介の後についていった。その後ろ姿を、かなめはきょとんとして見送る。
「ソースケがミズキを……? 珍《めずら》しいわね。なんだろ」
かなめがつぶやくと、恭子も小刻《こきざ》みにうなずいた。
「確かに。……あ、そうそう。椿くんと相良くんっていえばね? きのうの放課後、変なところを見ちゃったんだけど……」
「変なところ?」
「うん。相良くんと椿くんが、屋上でね。いつもは仲悪そうなのに、二人きりで話してたの。それが、なんだか深刻《しんこく》な様子で――」
恭子が詳《くわ》しい目撃談《もくげきだん》を話す。あの二人が、屋上で人目を忍《しの》んで会っていた。しかもなぜか――互《たが》いにがっしりと、固く抱《だ》き合っていたらしい。
「……マジ?」
「マジだよ。あれは椿くんが、相良くんを引きとめてる感じだったな……」
「えぇ? だって、なんだってまた、いきなり……」
「わかんない。でもあの雰囲気《ふんいき》……ただごとじゃなかったと思う」
「ソースケとイッセーくんが? そんな……こっそり会って抱き合ってたなんて……」
眉間《みけん》に深い縦皺《たてじわ》を寄せて、かなめは腕組みした。
何の話をしていたのだろう? それに、宗介は瑞樹とどんな話を……? あれこれ考えていると、かなめの脳裏《のうり》に一つの仮定《かてい》が浮かんだ。
「はっ……!」
かなめは驚愕《きょうがく》に顔をこわばらせる。まさか……まさか……そんなことが……!
「カナちゃん、どうしたの?」
「ちょ……ちょっと、様子を見てくる!」
そう言って、彼女は席を立った。
教室からすこし離れた階段《かいだん》のあたりまで来ると、瑞樹が言った。
「……で、なによ? 大切な話って」
「うむ。実は……椿のことなのだが」
宗介は立ち止まり、彼女に背を向けたまま、切り出した。
「イッセーくんが? どうしたの?」
「あの男には気をつけろ」
「え?」
「素人の君にはわからないだろうが……奴《やつ》は危険《きけん》だ。無抵抗《むていこう》の人間をいたぶり、引き裂《さ》くことに無上《むじょう》の喜《よろこ》びを覚える殺人|嗜好者《しこうしゃ》だ」
「はあ?」
たっぷりと間をおいてから、宗介は重々しく、本格的《ほんかくてき》に切り出した。
「奴の生い立ちは血塗《ちぬ》られている。あの男がはじめて殺人の喜びを知ったのは、わずか六歳のときだ。酔《よ》っては自分の母親に乱暴する父親を、奴はある日、猟銃《りょうじゅう》で射殺《しゃさつ》した。腹《はら》に被弾《ひだん》して命乞《いのちご》いする父親の顔に、四発の銃弾を叩《たた》き込んだのだ」
「あ、そう……」
「そんな調子で味をしめ、奴は猟奇《りょうき》殺人を繰《く》り返した。これまで、二〇人の女性が椿一成の毒牙《どくが》にかかったという。下は四歳の幼女から、上は九〇歳の老婆《ろうば》まで……すべてに性的|暴行《ぼうこう》を加え、むごたらしく殺害《さつがい》した」
「きゅ、九〇歳まで……」
「そうだ。奴は獲物《えもの》に容赦しない」
おごそかな声で宗介は言った。
「ほかにも航空機の爆破《ばくは》を二回実行し、各国の要人《ようじん》を一〇人暗殺し、自転車の窃盗《せっとう》も二回行っている。血に飢《う》えた精神病質者……それが椿一成の正体だ」
「…………」
「もうわかっただろう。椿は救いようのない悪党《あくとう》なのだ。これ以上|関《かか》わるのは、やめておいた方がいい。さもないと――」
「あんたね、いい加減《かげん》にしなさいよ!?」
宗介の長広舌を、瑞樹がぴしゃりと遮《さえぎ》った。
「何の話かと思ったら……。要《よう》するに、イッセーくんと別れろって言いたいのね?」
「そういうことになる」
「冗談《じょうだん》じゃないわ! なんであんたに、そんなこと言う権利《けんり》があるのよ!?」
「それは――」
単に頼《たの》まれただけだ――そう告げるより早く、別の声がした。
「ミズキ……やめなさいよ」
かなめである。
輝《かがや》きを失った瞳《ひとみ》。彼女はどこか力|無《な》い足取りで、つかつかと二人の間に割《わ》って入った。
「カナメ。何の用?」
おそらくは、これまでの会話を立ち聞きしていたのだろう。かなめは大きなショックを受けた直後の人間|特有《とくゆう》の、どこか虚《うつ》ろなまなざしで、宗介と瑞樹を交互《こうご》に見やった。
「あたし……もう、わかったの。ソースケがなにを望んでるのか。それを説明してあげるわ……」
「はあ」
「あのね、ミズキ。ソースケは、嫉妬《しっと》してるのよ……」
「嫉妬? どういうこと?」
かなめはふっと、虚無的《きょむてき》なほほ笑《え》みを見せた。
「その……ね? あたしもこれまで、ずっと気付かなかったんだけど……どうも、ソースケと椿くんは、実は仲良しみたいなの。普段《ふだん》は殴《なぐ》ったり、爆弾《ばくだん》で吹《ふ》き飛ばしたりする仲だけど、本当は相手のことを、とっても大切に思ってるのね、きっと……」
宗介が小刻《こきざ》みに首を横に振り、『ちがう。それはありえんぞ』とつぶやいていたが、かなめはそれに構《かま》いもせず、続けた。
「あたしでさえ知らないところで、二人はいつも、いろいろ[#「いろいろ」に傍点]と仲良くしてたのよ……。そう、こっそりと、ね……。だから、ミズキが椿くんを独《ひと》り占《じ》めしちゃうことが、ソースケには耐《た》えられなかったの。それで――こんな風に『別れろ』といってきたのよ」
いくらかは合点《がてん》がいった様子《ようす》で、瑞樹が両手を合わせる。
「そ……そうなの?」
「うん……。あたしもびっくりしてるわ……。朴念仁《ぼくねんじん》にもほどがあるソースケを見ていて、前からずっと、『なにかがおかしい』とは思ってたけど……。やっぱり、そういうことだったのね……」
「? 話がよくわからないのだが……」
きっちりと無視《むし》して、かなめは深いため息をついた。
「でもやっぱり、そういう関係って大変だと思うの……。お互《たが》いが強く望んでるのなら、止めることはできないけど。世の中の目って……やっぱりあるでしょ? もし他の選択肢《せんたくし》があるなら、そういう道から抜《ぬ》けた方が、幸《しあわ》せな人生を送れると思うのよね……」
「千鳥。さっきから、なにを言っているんだ?」
「ううん! 気にしないで。あたしは……ソースケとはこれまで通り付き合って行けると思うから。そりゃあ、ちょっとはびっくりしたけど。……でもね、ソースケ? イッセーくんにまで、そういう生き方を押しつけるのは間違《まちが》ってると思う。せっかくこうして……ミズキみたいないい娘《コ》があらわれて、うまくいきそうなんだよ? 温かい目で、見送ってあげるべきじゃない?」
「カナメ……? つまり、なにが言いたいわけ?」
ミズキがたずねると、かなめは目尻《めじり》を袖《そで》で拭《ぬぐ》い、けなげに続けた。
「ん……いいの。あたしのことはもういいの。そういうことだから、ミズキ。気にする必要はないわよ。あなたと椿くん、お似合《にあ》いのカップルなんだから、がんばって。うまくやってね!」
精一杯《せいいっぱい》の気持ちをこめて、かなめが言う。なにか今ひとつ理解《りかい》できないものを感じながらも、ミズキは友達の優しい言葉に、瞳《ひとみ》をじわりとにじませた。
「ありがと……ぐすっ。カナメって、やっぱりいい奴よね……。あたし、がんばるわ」
「うんうん。がんばれ!」
当初の予定とはまったく異《こと》なる方向で、話がまとまりかけたそのとき。
「ど・う・し・て! そうなるんだっ!?」
近くの柱《はしら》の蔭《かげ》から、当の本人――一成が姿を現した。
肩《かた》でぜいぜいと息をする。
最初から話を立ち聞きしていた一成は、あれこれと混乱《こんらん》し、同時にキレる一歩手前だった。
宗介の請《う》け負《お》った『説得』とやらが、物騒《ぶっそう》な駄法螺《だぼら》に終始《しゅうし》したことに腹《はら》を立てていた。
こちらの気持ちや迷惑《めいわく》を考えもしない瑞樹の態度《たいど》に、ほとほと困《こま》り果てていた。
いきなり現われて、わけのわからない長広舌をぶって、話を丸く収《おさ》めてしまったかなめにも、強い怒《いか》りを感じていた。
そうだ――どうして千鳥かなめは、稲葉を応援《おうえん》したりするんだ。それでは、自分があまりにも惨《みじ》めすぎるではないか。
「椿くん。どしたの?」
なぜか同情するような笑顔《えがお》で、かなめが言う。
「どうしてなんだ……。千鳥。なぜ――」
それ以上は言葉にならない。
初めてあの路地裏《ろじうら》で出会い、拳《こぶし》に絆創膏《ばんそうこう》を貼《は》ってもらったあの日から、一成はかなめに淡《あわ》い慕情《ぼじょう》を募《つの》らせてきた。拳を磨《みが》くことにだけ専念《せんねん》してきた地味《じみ》な青春に、一筋《ひとすじ》の光を射《さ》した存在。それが千鳥かなめだったのだ。
もとより、普通《ふつう》の男のように口説《くど》く気などない。ただ遠くから、その笑顔を眺《なが》めていられれば、それで自分は満足だった。
だというのに。彼女のそばには、卑怯千万《ひきょうせんばん》の戦争バカがいつもいる。自分のそばには、猪突猛進《ちょとつもうしん》の恋愛《れんあい》バカが付きまとう。周りの世界すべてが、彼女から自分を遠ざけようとしている――
これは運命なのだろうか?
だとしたら、自分はその運命と対決しなければならない。自分はこれまでそうやって、あらゆる弱点を克服《こくふく》してきたのだ。
そうだ。逃げたりなどしない。
自分のかなめへの想《おも》い……。いま、それをはっきりとこの場で告白するべきだ。
たぶん、千鳥は困惑《こんわく》するだろう。稲葉は傷つくだろう。そして相良は――想像《そうぞう》がつかん。まあ、このバカはどうでもいい。
(よし……。言うぞ!)
椿一成は決心した。
これは人生の檜舞台《ひのきぶたい》。一世一代の挑戦《ちょうせん》である。闘《たたか》いとなれば、話は別だ。ここ数日ほど萎《な》えていた、彼の闘志《とうし》に火が点《つ》いた。
「どしたの、イッセーくん? ずーっと黙《だま》ってて……」
「いいか、おまえら……」
自分の真情を語るために、彼は分厚《ぶあつ》い眼鏡《めがね》をゆっくりと外し、鋭《するど》い二つ目をさらした。
近眼《きんがん》のせいで、たちまち三人の姿がぼんやりとしたものになったが、彼はそれを意に介《かい》さなかった。
「よく聞け……千鳥、稲葉。お前らは勘違《かんちが》いをしてる」
「…………?」
「オレは稲葉と付き合う気はない。すまないが、ほかを当たってくれ」
「ど……どうしてよ? だってあたし――」
「オレには、ほかに好きな奴がいるんだ!」
良く通る声で、一成は宣言《せんげん》した。
瑞樹が雷に撃《う》たれたように身を硬くし、かなめが辛《つら》そうに目を伏《ふ》せる。
[#挿絵(img2/s06_097.jpg)入る]
「出会ったときから、ずっとひそかに想っていた。そいつのためなら死んでもいい。それくらい、真剣《しんけん》に惚《ほ》れている。だからその辺の女と付き合うことなど、オレには、とても考えられない」
「…………。だ、だれなの? その人って……」
瑞樹が訊《き》いた。涙声だ。
「そいつはこの場にいる」
「え……」
彼は緊張《きんちょう》を鎮《しず》めるために、一度大きく深呼吸《しんこきゅう》してから――力強く、きっぱりと、その相手を指さした。
「!!」
一同が息を呑《の》む。
「そうだ! もうわかっただろう。オレは、お前のことが好きだったんだっ!」
「ああ……そんな……」
「あんまりだわ! ひどい……」
「椿……。お前は……」
口々につぶやく三人。短い沈黙《ちんもく》の後に、かなめが震《ふる》える声で言った。
「つ……椿くん」
「迷惑《めいわく》だとは思う。だが、この気持ちは止められないんだ。どうか……どうか、わかってくれ」
「やっぱり……そうだったのね。恭子から、きのうの屋上の件を聞いてたの……。だから……そうなんじゃないかと思ってて……。でも、ここまではっきり宣言《せんげん》されると……。あたし、応援していいのか悪いのか……困るわ」
「……なに?」
続いて瑞樹が言う。
「知らなかったわ。そういうことだったの……。まさかあなたたちが……ただのお友達以上だったなんて……」
「……え?」
不思議《ふしぎ》なリアクションに眉《まゆ》をひそめ、一成は外していた眼鏡《めがね》をおもむろにかけ直した。
たちまち世界が鮮明《せんめい》になる。
彼がたったいま『好きだ』と叫び、人差し指を向けたその先には――
相良宗介が立っていた。
「不潔《ふけつ》よっ! 不潔だわっ!!」
泣いて瑞樹が走り去る。その背中を見送ってから、宗介は青ざめた顔面《がんめん》に、びっしりと冷や汗《あせ》を浮《う》かべて言った。
「……………………。その。なんだ。……困る」
一成は言葉を失《うしな》い、金魚のように口をぱくぱくさせるばかりだった。
その日のうちに、『相良・椿ラブラブ疑惑《ぎわく》』の噂《うわさ》は、矢のような速さで学校中に広まった。この話題は以後数週間に渡って、女子生徒たちのおしゃべりの肴《さかな》となった。
いちばんの論争《ろんそう》の的となったのは、『相良と椿、どちらが攻《せ》めで、どちらが受けか』という問題である。かなめが、そっち方面の話題にも明るい恭子に話を振《ふ》ると――
「うーん。どうなんだろ? どっちも受けっぽいよね。まあ……見た目はあの通りだけど」
彼女は答え、廊下《ろうか》でいがみ合う二人を見て笑った。
(要するに、貴様が全部悪いんだっ!)
(人のせいにするな)
(うるさい! 這《は》いつくばって謝《あやま》れぇっ!!)
(貴様のミスだと言っているのだ!)
泣きながら拳を振《ふ》るう一成と、それをひらりひらりと避《よ》けまくる宗介。
その二人を、生徒たちは生暖《なまあたた》かい目で見守るのであった。
[#地付き]<的はずれのエモーション おわり>
[#改丁]
間違いだらけのセンテンス
[#改ページ]
[#ここから太字]
<<若い翼《つばさ》で、新たな飛躍《ひやく》を>>
昭和初期、府立《ふりつ》第一五高女として創立《そうりつ》され、戦後の学制|改革《かいかく》で都立高校となった本校は、歴史と伝統《でんとう》、そして自由な校風を誇《ほこ》りにしております。
進路《しんろ》に応じた授業が選択《せんたく》できるよう、平政六年度からは教育|課程《かてい》を大幅《おおはば》に改訂《かいてい》いたしました。生徒の個性や希望を生かせるよう、授業カリキュラムには様々な工夫《くふう》が施《ほどこ》してあります。
また本校指定の制服《せいふく》や体操服《たいそうふく》は、高名な服飾《ふくしょく》デザイナーであり、本校のOGでもあるドージー志岐《しき》先生のデザインによるものです。新しい時代にマッチした清潔《せいけつ》で品位のあるハイセンスなものとして、これらの制服は生徒からも高い人気を博《はく》しています。
さらに――
[#ここで太字終わり]
*********
原稿用紙《げんこうようし》の上を走っていた、坪井《つぼい》たか子の筆《ふで》が止まった。
(さらに……)
来年度に配布《はいふ》する予定の、学校案内のパンフレット。その原稿を、校長の彼女自らが執筆《しっぴつ》していたわけなのだが――早々《そうそう》と、書くことが思いつかなくなってしまったのである。
「さらに……」
さらに、何だというのだ。これ以上、なにか言うことなどあるだろうか? 自分の学校の売り文句《もんく》など、せいぜいこんなものなのではないだろうか?
進学率《しんがくりつ》は八〇パーセント。とはいうものの、これには半数近くの浪人《ろうにん》も含《ふく》まれている。現役《げんえき》で有名大学に進む生徒は、せいぜい一〇パーセント程度《ていど》だ。
野球部は二回戦で負けた。ラグビー部が強かったのは一〇年前のこと。テニス部も、バスケ部も、サッカー部も、みんな大して強くない。剣道《けんどう》部は去年、なかなかの成績を収めてくれたが、その原動力《げんどうりょく》となった主将《しゅしょう》は、もう卒業《そつぎょう》してしまった。
なるほど、変わった面《めん》はある。
生徒会が妙《みょう》に大きな影響力《えいきょうりょく》を持っていることだとか、校内で頻繁《ひんぱん》に銃器《じゅうき》や爆発物《ばくはつぶつ》が使用されていることだとか、異常《いじょう》な個性の持ち主が何人もいることだとか。
だが、そんな事実《じじつ》を学校案内のパンフレットに書けるわけがない。……というか、断《だん》じて表沙汰《おもてざた》にはできない。
そうした要素を取り除《のぞ》くと――
陣代《じんだい》高校は、えらく平凡《へいぼん》な高校になってしまうのである。学区内の中学生にアピールできるような要素《ようそ》は、まるで思い当たらない。かわいいことで有名《ゆうめい》な、女子の制服くらいのものなのだ。
そんな調子《ちょうし》で、坪井たか子が校長室で頭を抱《かか》えていると、そのドアをノックする者がいた。
「どうぞ……」
答えると、英語科の神楽坂《かぐらざか》恵里《えり》が入ってきた。細めの体型でスーツ姿《すがた》、ボブカットの若い女性教師である。
「失礼します。来週の進路《しんろ》ガイダンスの件ですが……校長? どうなさいました? なんだか、顔色が優《すぐ》れないようですが」
「ちょっとね……」
「あら。学校案内のパンフレットですね」
彼女は机上《きじょう》の原稿用紙を一瞥《いちべつ》して言った。
「ええ。……主の学校の魅力《みりょく》を、余《あま》すところなく伝えたいとは思うのだけど。いざ、それを書き出そうとすると、これがなかなか難《むずか》しくて」
坪井はため息をつく。
「あたくしは元々、数学を教えていたものでね。それを理由《りゆう》にするのも難《なん》ですが、どうもこういうのは苦手です。事務室《じむしつ》から頼《たの》まれて、安請《やすう》け合いしたまでは良かったけど……。いやはや、参《まい》ったわ」
「はあ」
たいして関心《かんしん》もなさそうな返事を返す恵里を、坪井はちらりと上目遣《うわめづか》いに見た。
「神楽坂さん。あなた、書いてみない?」
「は?」
「あなたはここのOGでしょう。青春の大半を過《す》ごしてきたわけですから、母校への愛着《あいちゃく》も人一倍だと思うのだけど……」
たちまち、恵里の顔がひきつった。無理《むり》もない。こんな退屈《たいくつ》な文章の執筆《しっぴつ》なんぞ、だれが好きこのんで引き受けるだろうか。
「い……いえ。わたしも、そういう文章の方は、ちょっと。むしろ客観性《きゃっかんせい》が損《そこ》なわれる恐《おそ》れもありますし……。それに、ここのところ多忙《たぼう》でして」
「多忙。多忙……ね」
「ええ。残念ですが……」
後じさりしながら恵里が答えると、校長はかけていた老眼鏡《ろうがんきょう》を外し、おもむろにレンズを磨《みが》きはじめた。
「そう。毎朝早起きして、同僚《どうりょう》のためのお弁当《べんとう》を作ってくる時間はあっても――こういう仕事をする時間はないのですね……」
「ぎくっ!」
わざわざ声まで出して、恵里が全身を硬直《こうちょく》させた。『なぜそれを!?』と言わんばかりに、大きく両目を見開いている。
「勤務《きんむ》帰りに、その同僚のアトリエに寄って、甲斐甲斐《かいがい》しく掃除《そうじ》をしたり夕食を用意する時間はあっても――あたくしの頼んだ仕事をやる時間はまったくない、と……」
「あ、あの……その……」
「職場恋愛《しょくばれんあい》もけっこうですけどねぇ……。公私《こうし》を踏《ふ》まえて、ほどほどにしていただかないと。いちおう、校則では不純異性交遊《ふじゅんいせいこうゆう》を禁じている手前ね。生徒に示しが付かないわけで。困るんですよねぇ……」
「ふ……不純なんかじゃありません。っていうか、それは……ほかの先生方もご存《ぞん》じなんですか!?」
「いいえ。だれも」
坪井が言うと、恵里はほっと胸《むね》をなで下ろした。
「もちろん、その問題はあたくしの胸にしまっておくつもりです。安心なさって、神楽坂さん」
「はい、ありがとうござ――」
礼を遮《さえぎ》り、原稿用紙をぬっと突《つ》き出す。
「そういうわけで、よろしく。なんなら、あなたからほかの人に頼んでもいいですよ?」
坪井たか子は晴れやかに微笑《ほほえ》んだ。
その放課後《ほうかご》、保健室で――
「最近、どうも風当たりが強くなったような気はしてたのよ……」
高校時代からの後輩《こうはい》で、養護教諭《ようごきょうゆ》を務《つと》めている西野《にしの》こずえに向かって、恵里はぶつぶつとこぼした。
「赴任《ふにん》したころはやたらと親切だったのに。最近、妙《みょう》に面倒《めんどう》な仕事ばかり押しつけてくるし、相良《さがら》くんのことでもチクチクとイヤミ言ってくるし。これも神が与《あた》え賜《たも》うた試練《しれん》だと信じて、ひたすら耐《た》え忍《しの》んで来たんだけど……。きっと、わたしにカレが出来たのを知って、ひがんでたのね……」
「はあ」
小さな眼鏡《めがね》をかけ直して、こずえが相槌《あいづち》を打つ。
「もちろん、立派《りっぱ》な方だとは思うけど。でもあの人、ずっと独身《どくしん》で、彼氏イナイ歴《れき》五十ウン年らしいから」
「だから校長先生、先輩《せんぱい》をいじめるんですか?」
「…………。わかんない。こずえはどう思う?」
「さあ。わたし、もてない人の気持ちはわかりませんから……」
無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》でこずえは言った。
「いい性格してるわね、あんた……」
「ええ、よく言われます。おもに男の人からですけど」
えらく図々《ずうずう》しい物言《ものい》いなのだが、それが嫌味《いやみ》にならないのが、この後輩だった。実際《じっさい》、彼女は昔から、やたらとモテるのである。子供っぽい顔つきのせいか、それとは対照的《たいしょうてき》に立派《りっぱ》なバストのせいか――たぶん、両者の相乗効果《そうじょうこうか》だろう。
「あーあ……。主《しゅ》よ、この自堕落《じだらく》な後輩を、どうかお許しください……」
どこぞに祈《いの》りを捧《ささ》げる恵里を後目《しりめ》に、こずえはのほほんと緑茶をすすって、
「それで、パンフレットの原稿は書いたんですか?」
「まだ。机《つくえ》に向かってはみたんだけど……実際《じっさい》、本当に書くことなくて。去年のパンフは、庵《いおり》さんが書いたから、全然|参考《さんこう》にならないし……」
ちなみに去年、美術科教師の水星《みずほし》庵が制作を担当した学校案内パンフレットは、こんな序文《じょぶん》から始まる。
[#ここから太字]
<<無矛盾性《むむじゅんせい》、完全性――無定義述語《むていぎじゅつご》の教育における一般概念《いっぱんがいねん》>>
高等教育の現場においてわれわれは、規則《きそく》に支配されている記号と現実世界のものごととの間に「同型対応」が存在《そんざい》する場合、意味がどのように立ち現れるかを、少なくとも形式システムの比較的《ひかくてき》簡単《かんたん》な文脈《ぶんみゃく》において観察《かんさつ》せねばならない。ホフスタッターの名著《めいちょ》の言《げん》を借りれば、人間の言語理解の底にある記号|処理《しょり》は、典型的《てんけいてき》な形式システムでの記号処理よりも意味を同型対応に媒介《ばいかい》されるものとして(以下略)
[#ここで太字終わり]
こんな調子がエンエンと続く。
いうまでもなく、このパンフレットは生徒の間では甚《はなは》だ不評《ふひょう》であったが、なぜか教師|陣《じん》や父母は難色《なんしょく》を示さなかった。えてして大人――特に高学歴の大人というのは、こうした難解《なんかい》な文章を「さっぱり分からん」と認《みと》めたがらないものなのである(ちなみに童話の世界では、こうした現象《げんしょう》は『裸《はだか》の王様』としてよく知られている)。
それはさておき。
「先輩。そこまで書けないんだったら――」
こずえが人差し指を立てた。
「こうしたらいかがでしょう? 生徒に原稿を募《つの》って、集まった中から、一番いいものを採用《さいよう》するんですよ」
「なるほど……。でも、わざわざこんな面倒《めんどう》なモノに、応募《おうぼ》してくれる生徒なんているかしら」
「賞品を用意すればいいと思います。DVDデッキとか、携帯《けいたい》電話とか、マウンテンバイクとか」
「そんな高いモノ、用意できるわけないでしょ? そもそも、聖職者《せいしょくしゃ》たる教師が、そんな手段《しゅだん》を使うのは間違《まちが》ってます」
お堅《かた》い口調で恵里は言った。
「でも先輩。けなげに人の善意《ぜんい》を頼《たよ》ってるだけでは、人間、何事《なにごと》も為《な》せませんよ?」
「う……」
「それに、労働《ろうどう》には正当な報酬《ほうしゅう》を支払《しはら》うべきです。子供たちに甘えてはいけません」
「い……いきなり正論《せいろん》を突いてくるわね。でもまあ、確かに……」
「でしょう?」
八年来の付き合いの後輩は、にっこりと笑った。
けっきょく、恵里はこずえの提案《ていあん》を、一部、採用《さいよう》することにした。生徒に原稿を募《つの》るのである。ただし用意する賞品は、図書券二〇〇〇円分ということにした。もちろん自腹《じばら》だが、無難《ぶなん》な線だろう。
(こんなことしちゃって、本当にいいのかしら……?)
などと思いつつも、彼女は原稿募集のプリントを、ワープロで作ってみた。プリントアウトした原版に、こずえが横から手を伸《の》ばす。
「賞品は図書券だけですか? それで応募、来ますかね……?」
「来るわよ」
「どうかなぁ……」
こずえは少しの間、眉根《まゆね》を曇《くも》らせていたものの、すぐに気を取り直し、
「じゃあ先輩。このプリント、わたしが印刷して、各クラスのポストに配布《はいふ》しておいてあげますねH[#「H」はハート(白)、1-6-29、Unicode2661]」
「あら、ありがと。親切ね」
「それはもう、先輩のためですから」
こずえは原版を手に、そそくさと立ち去っていった。
なにか引っかかるものを感じながらも、恵里はそれ以上考えず、生徒の反応を数日ばかり待つことにした。
「……いや、まったく」
その朝配られた、いくつかのプリントのうち一枚を読んで、千鳥《ちどり》かなめはうなるように言った。
「神楽坂先生も、ずいぶんと思い切ったことをするわねぇ……」
「うん。意外だよね。あたし、センセってもっと真面目《まじめ》だと思ってた」
隣《となり》で、常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が相槌を打つ。
そこには、学校案内のパンフレットに使う原稿の応募|要項《ようこう》と、採用された場合の謝礼《しゃれい》が記してあった。
その謝礼が、問題なのである。
<<謝礼:図書券二〇〇〇円分
[#地から1字上げ]&神楽坂センセと二人きりの、背徳的《はいとくてき》な課外《かがい》授業>>
なんとなく、後ろの『課外授業』のくだりは、後から付け加えたような、妙《みょう》に無理《むり》のあるレイアウトだった。
神楽坂恵里はかなめたち二年四組の担任《たんにん》なのだが、ホームルームのときはこれといって変わった風もなかった。プリントを見もせずに、『そういう募集をすることにしたから、よろしくね』と、そっけなくコメントしただけである。
「こーいう賞品って、やっぱり男の子は喜ぶのかな……?」
恭子が言った。
「さあね。なんか英語の構文《こうぶん》とか覚えさせられそうで、イヤな感じがするけど……。もし、あたしが男だったとしても、やっぱり遠慮《えんりょ》しておくかなぁ」
それにだいいち、自分の書いた文章が、パンフレットなんかになってしまったら、学校中のみんなに読まれてしまうではないか。そういうパンフは、みっともない愛校心をむき出しにしたモノと相場《そうば》が決まっている。そんな恥《は》ずかしい原稿の応募など、かなめはまったく興味《きょうみ》なかった。
「そうだね。神楽坂センセって、こう、『女教師〜っ』ってタイプとはちがうし」
「なによ、それ」
「ほら。ドラマとかマンガとかだと、若い女の先生って、たいてい『ばいんばいーん!』ってプロポーションで、短いスカートで、なんか自信たっぷりで、挑発的《ちょうはつてき》じゃない」
恭子が身振《みぶ》り手振《てぶ》りをまじえてイメージを再現《さいげん》し、最後に間抜《まぬ》けな『うっふーん』ポーズをとる。
「…………。どういうマンガを読んでるのかは知らないけど……。神楽坂先生が、そういうタイプにほど遠いのは確《たし》かよね」
「うん。男子よりは、女子に人気あるタイプなのにね。どうしたんだろ?……ところで関係ないけど、『女教師』だけじゃなくて、どんな職業《しょくぎょう》でも、頭に『女《おんな》』が付くと、なんとなくいやらしいタイトルみたいになると思わない? 弁護士《べんごし》とか外科医《げかい》とか刑事《けいじ》とかスパイとか――」
わけのわからないことを力説し出した恭子を捨《す》て置いて、かなめはその場にいたもう一人に声をかけた。
「どしたの、ソースケ? なんか、真剣《しんけん》に読んでるみたいだけど……」
その男子生徒――相良|宗介《そうすけ》は問題のプリントをじっと凝視《ぎょうし》していた。
いつも通りの、むっつり顔にへの字口。眉間《みけん》にしわを寄せ、何度も応募要項を読み返している。
「いや。謝礼に興味があってな」
「……は?」
宗介はそれには答えず、遠い目をした。
「学校案内……か。挑戦《ちょうせん》してみる価値《かち》はあるかもしれん」
「…………」
まさか宗介が? 神楽坂先生に……?
胸の奥で波立つものを感じながら、かなめはぽかんと口を開け、彼の横顔を眺《なが》めていた。
穴があったら入りたい――そういう気分になったとき、恵里はたいてい、保健室のベッドに潜《もぐ》り込む。
いまがその時だった。
全校生徒に配布してから数日も経《た》って、彼女は初めて、プリントの『謝礼』の部分に気付いたのである。もはや訂正《ていせい》のしようがない。
ここ数日、生徒たちの自分を見る目がおかしいとは思っていたのだ。早く気付くべきだった――そう思っても、もはや後の祭《まつ》りだった。
そんなわけで、彼女は保健室でシーツにくるまって、枕《まくら》に顔を埋《うず》め、みじめにすすり泣いているのだった。
「先輩《せんぱい》……」
こずえが心配そうに声をかける。
「……っく。ぐすっ……」
「先輩。元気を出してください。またそんなに落ち込んで……もう。今度はなにがあったんですか?」
次の瞬間《しゅんかん》、枕がこずえの顔に『ぼふっ!』と叩《たた》きつけられた。
「んむぅっ……」
「よっくも、そんな事が言えたものね!? あなたの仕業《しわざ》でしょう!? あなたの!!」
恵里は飛びつくようにして、後輩の白衣《はくい》をひっつかんだ。
「えっと……あの、あの、なんの話です?」
「学校案内の謝礼の話よ! わたしとデートだなんて、勝手《かって》に書き加えたでしょう!」
「ああ……。あれは、図書券だけじゃ、物足りないと思ったものですから。まずかったですか?」
こずえがおろおろする。
「当り前よ……! あれじゃあ、わたしが色情狂《しきじょうきょう》のバカ女みたいじゃないの!? 庵さんなんか、ショックで寝込《ねこ》んで、きのうから欠勤《けっきん》してるのよ!? 事情《じじょう》を説明するのにどれだけ苦労したと思ってるのよ!」
「あの、ちょっと、苦しいんですけど」
「まったく、なんて子なの……!? いっつもそう! 高校のときからずっとだわ!!」
「そ、そうでしたか?」
こずえが聞き返すと、恵里は怒《いか》りでこめかみをひくひくとさせた。
「忘れたの? わたしが片思いだった浅野《あさの》センパイに、勝手に下品なラブレターを送ったじゃないの!? しかも合宿のときの恥《は》ずかしい写真まで同封《どうふう》してっ!!」
その写真というのは、パジャマ代わりのTシャツを思い切りまくり上げて、おなかとパンツを盛大《せいだい》に見せたまま、ぐっすりと眠りこけている恵里(一七歳)の姿を激写《げきしゃ》したものだった。
「あ……あれは親切心ですよ。先輩、奥手《おくて》だから。あれなら悩殺《のうさつ》できると思って――」
ちなみに、こずえが勝手に代筆《だいひつ》したそのラブレターの文面は、こんな風に始まる。
[#ここから太字]
いきなり大胆《だいたん》な手紙を送りつけてごめんなさい。でも、恵里はもう、ガマンできないんです。浅野センパイのことを考えるだけで、体中が火照《ほて》って、とろけそうになります。見た目は地味《じみ》な恵里ですけど、本当はとってもいけない子なんです。ついさっきも、センパイの写真を見ながら(以下、自粛《じしゅく》)
[#ここで太字終わり]
「確《たし》かに効果《こうか》はあったわね……。初デートで、いきなりあの人が襲《おそ》いかかってきた時は、この世の終わりかと思ったわっ!!」
滝《たき》のような涙《なみだ》を流し、恵里は叫《さけ》んだ。
「そういえば、殴《なぐ》って逃《に》げちゃったんですよねー」
「おかげでわたしの初恋はボロボロよ!? 真相《しんそう》を知るまで、ひどい男性|不信《ふしん》に悩《なや》まされたんだからっ!」
「そうでした。ごめんなさい、先輩……。でも……先輩のためを思ってしたことが、まさか、あんな結果になるだなんて、わたし……わたし……ちっとも……」
「あれだけ凶悪《きょうあく》な真似《まね》をしておいて、涙ながらに釈明《しゃくめい》するなっ!!」
するとこずえは泣くのをぴたりと止《や》めて、困った様子で肩《かた》を落とし、
「でも先輩。やっぱり、図書券だけじゃ応募は来ないと思うんです。だからちょっとデートでもご褒美《ほうび》にすれば……」
「わかってるわよ、そんな理屈《りくつ》はわかってるの!」
うつむき、恵里は無念《むねん》そうにつぶやいた。
「仮に百歩ゆずって、デートOKだとしてみましょう。……でもね! 現実に、そういう告知《こくち》がしてあるのに、募集から五日、まったく生徒からの応募がないという事実《じじつ》が――」
抑《おさ》えつけていた声が震《ふる》えてくる。
「――全《ぜん》っ然《ぜん》、話題にも、騒《さわ》ぎにもならないというこの事実が……! むしろ、わたしにとってはショックなの……」
「ああ。なるほど」
これで男子からの応募が殺到《さっとう》でもしていたら、困った中にも、すこしは『参《まい》ったわねぇ。うふふ……』的な感情が介在《かいざい》する余地《よち》があっただろう。しかし、世間《せけん》はそこまで甘くはないのであった。
「それは痛《いた》いですね。微妙《びみょう》な人間|心理《しんり》がもたらす、恥辱《ちじょく》のダブルパンチといったところでしょうか」
冷静にコメントするこずえを、恵里は『この悪魔《あくま》……』とでも言いたげな目でにらんでから――全身の力を抜いて、深いため息をついた。
「あまりにも惨《みじ》めだわ。一人も応募してこないなんて……」
と、そのとき。保健室の戸をノックする者がいた。
「失礼します」
がらりと戸が開き、一人の男子生徒が入ってきた。相良|宗介《そうすけ》である。
「こちらにおいででしたか、先生」
あわてて涙を拭《ふ》いて、恵里は居住まいを正した。宗介はきびきびとした足取りで、二人のそばまで歩いてくると、『かっ』と踵《かかと》を揃《そろ》えて、直立不動《ちょくりつふどう》の姿勢《しせい》をとった。
「さ、相良くん……。どうしたの?」
「こちらを受理《じゅり》願います」
そう言って、宗介はA4サイズの封筒《ふうとう》を差し出した。
「これは……?」
「学校案内パンフレットの応募原稿です。自分で言うのも難《なん》ですが、労作《ろうさく》です。ぜひ御覧《ごらん》の上、採用《さいよう》をご一考ください」
「あ……ありがと」
突然《とつぜん》のことにあっけにとられながらも、恵里は封筒を受け取った。あまりにも意外な生徒が応募してきたので、感激《かんげき》する余裕《よゆう》さえなかった。
恵里とこずえは、おずおずと、宗介の書いてきた『新入生|勧誘《かんゆう》』の原稿を読んでみる。
[#ここから太字]
<<恐怖《きょうふ》、苦痛《くつう》、困難《こんなん》――あらゆる逆境《ぎゃっきょう》が、諸君《しょくん》らを非凡《ひぼん》な戦士にする>>
まず最初に宣言《せんげん》しておく。
本校は誰《だれ》にでも入れる高校ではない。過酷《かこく》な入学試験を突破《とっぱ》した、ベストの中のベスト、最良の戦士たる資質《ししつ》を持つ者にだけ、その狭《せま》き門戸が開かれているのである。
諸君には選択《せんたく》の権利《けんり》がある。調布《ちょうふ》西高校に行くのもいい。伏見台《ふしみだい》高校に行くのもいい。なんなら、腰抜《こしぬ》けぞろいの駒岡《こまおか》学園高校に行くのも自由だ(嘲笑《ちょうしょう》)。
だが真の男になりたいのなら、陣代高校を選べ。
血|沸《わ》き肉|踊《おど》も試練《しれん》と冒険《ぼうけん》の日々が、君を待っていることを約束しよう。
陣代高校の歴史は、昭和初期の時代にまでさかのぼることができる。太平洋戦争中は、米軍による数度の空爆《くうばく》を受けながらも、その類《たぐ》い希《まれ》なる生存能力によって、校舎全損の憂《う》き目を免《まぬが》れた。これもひとえに、当時の在校生による孤軍奮闘《こぐんふんとう》の賜物《たまもの》である。
我《わ》が校は、その伝統を今日に至るまで守り続けている。たゆまぬ鍛錬《たんれん》と修練《しゅうれん》を、日夜欠かさぬことによって、我が校の生徒は半世紀以上、戦死者ゼロという驚《おどろ》くべき記録を更新《こうしん》し続けている。学区内に無数《むすう》の高校あれど、我《われ》ら陣代高校こそが、神に選ばれし無敵《むてき》の高校なのである。
神を信じ、母校を信じ、生徒会長を信じよ。
『学校が諸君になにを奉仕《ほうし》できるか』ではない。『君が学校になにを奉仕できるか』こそが問われるのだ。
常《つね》に挑戦《ちょうせん》せよ。
陣代高校は、野心《やしん》ある若者を求めている。
[#ここで太字終わり]
……序文《じょぶん》だけで、この調子だ。
どよんとした目を原稿《げんこう》に落とす恵里たちの前で、宗介は直立不動《ちょくりつふどう》の姿勢《しせい》をとった。
「あのー。これが? 学校案内……?」
「そうですが。なにか問題が?」
「いえ、その……。ご、ごくろうさま」
「光栄《こうえい》です。では、失礼します」
宗介は回れ右して、その場を後にした。だがその前に、一度、戸口で立ち止まり、
「先生……」
と、なにか念《ねん》を押《お》すような口振《くちぶ》りで言った。
「はい?」
「謝礼《しゃれい》の件……くれぐれもお忘れなく」
[#挿絵(img2/s06_125.jpg)入る]
「…………」
静かだが、重々しい声。どことなく、暗に『約束を違《たが》えれば、然《しか》るべき報復《ほうふく》を覚悟《かくご》していただく』とでも言っているかのようだった。目つきも妙《みょう》に真剣《しんけん》だ。
「あ……あのね、相良くん? あのプリントに書いてあるのは、この西野先生が――」
「西野先生が?」
宗介がぴしっとこずえを見据《みす》える。本能的《ほんのうてき》に身の危険を感じて、彼女が肩《かた》を強《こわ》ばらせた。
「西野先生が、どうされました……?」
「い、いえ……なんでもないわ」
「そうですか。では」
宗介が保健室を退出《たいしゅつ》していった。
不吉《ふきつ》な静寂《せいじゃく》。恵里とこずえはしばらくの間、黙《だま》りこくって、互《たが》いの顔を見合わせていた。
「どうしよう。彼、本気にしてるわ……」
「しかもなんだか、目つきが恐《こわ》かったです」
「か、考えてみたら、彼って年頃《としごろ》の男の子なのよね……」
「やっぱり、先輩を連れ出して……二人きりになったらビースト・モードに……?」
「改造《かいぞう》モデルガンとかナイフとか……いろいろ持ってるし」
「そんなもの使われなくても、腕力《わんりょく》じゃとてもかないませんよ……!」
二人の背筋《せすじ》を、寒いものが走り抜《ぬ》けた。
一方で宗介は廊下に出るなり、頭の中であれこれと、神楽坂恵里が用意する謝礼について、想像《そうぞう》の翼《つばさ》を広げているのだった。
(果たして『図書券』とは、いったい、いかなる券なのだろう……?)
彼の関心はこの一点に尽《つ》きる。
食糧《しょくりょう》の配給《はいきゅう》チケットは、よく知っている。だが、よりにもよって書籍《しょせき》の配給チケットとは……?
(この国では、定期的《ていきてき》に深刻《しんこく》な紙不足でも発生するのだろうか?)
図書券。
丸いのだろうか? 四角いのだろうか?
硬いのか? 柔《やわ》らかいのか? どんな色をしているのだろう……?
気になって仕方《しかた》がない。しかし今更《いまさら》、それをかなめに訊《き》くのは気が引けた。ただでさえ、日頃から『あんたって、なんにも知らないのね』だのと、笑われたり怒《おこ》られたりしているのだ。たまには独力《どくりょく》で現物を入手して、堂々《どうどう》と『図書券くらい、知っているぞ』と胸を張《は》ってみたいのである。
きらきらした金色で、発行日がスタンプされた、切符《きっぷ》サイズの図書券(いまの彼の頭の中では、そういう姿だった)を、ポケットからさりげなく取り出して、『ちょっと配給所に行ってくる』と言ってみせる。そうすればかなめたちも、少しは自分がこの社会に適応《てきおう》しつつあることを認めるだろう。
(完璧《かんぺき》だな……)
そういう、それだけの動機《どうき》であった。
ちなみに、おまけの課外授業とやらについては――やはりというか当然《とうぜん》というか――ちっとも興味がなかった。
「ソースケ」
生徒会室に戻ってくると、かなめが声をかけてきた。
「学校案内のパンフ、ホントに応募するの?」
「もう、済《す》ませてきた。謝礼はいただきだな」
「あ、そう……」
そっけない返事だったが、なぜか彼女は、わずかに唇《くちびる》をとがらせていた。すこし、怒《おこ》っているようにも見える。
「意外ね。あんたああいうノリ、興味あるんだ」
「? なんのことだ?」
「んー? 別に。いいんじゃない? あんたの自由だし。あたしの知ったことじゃないし」
「…………?」
意味が分からない宗介は、怪訝顔《けげんがお》をするばかりだった。かなめはそれきり喋《しゃべ》らず、ノートパソコンに向かって、何かの書類仕事を黙々と続けていた。
「神楽坂さん。あなたはもう少し、真面目《まじめ》な人だと思ってたんですけどねぇ……」
放送で呼び出され、校長室に出向くなり、坪井校長はこう言った。
「見ましたよ、この募集プリント。背徳的《はいとくてき》な……課外授業? まったく、どうしてこういう破廉恥《はれんち》な語句《ごく》を思いつくのかしら」
「相済《あいす》みません……ちょっとした手違《てちが》いが起きまして」
恵里はひたすら小さくなる。言い訳《わけ》に西野こずえの名前を出さないところが、彼女の美点であった。
「ほかの人に回すのは構《かま》わない、とは言いましたけどね。物事《ものごと》には限度《げんど》があるでしょう。すこしは立場を考えなさい。だいたいあなたは、最近、気が弛《たる》んでいるんじゃありません? あたくしはこれでも、あなたには期待していたんですよ? だというのに、次から次へと――」
以後一〇分、エンエンと説教《せっきょう》を続けてから、校長は締《し》めくくった。
「わかりましたね!?」
「はい……」
「で? 応募はあったのかしら?」
「ええ、それが……実はまだ一人だけでして。やっぱり、その応募原稿は没《ぼつ》にして、わたしが執筆《しっぴつ》しようかと考えていたところです」
至極《しごく》真《ま》っ当《とう》な案だったが、それでも校長は不満げなうなり声をあげた。
「なにを言ってるんです。あなたが募集したのでしょう? 教育者らしく、ちゃんと責任を取りなさい」
「……と、申されますと?」
「その生徒の原稿を使うんです。約束は約束なんだから」
「で、ですが……!」
「もちろん、不適切《ふてきせつ》な表現や誤字《ごじ》脱字《だつじ》、正しい文法は指導《しどう》しなさい。でも、都合《つごう》が悪くなったからといって、熱意《ねつい》ある生徒の努力を無駄《むだ》にしてはいけません。いいですね!?」
恵里は目の前が真っ暗になった。
あの原稿を――相良宗介の『学校案内』を、どう指導しろというのだろう?
またまた保健室――
「困りましたねぇ……」
「本当……。いったいこれを、どういじれと言うのかしら……」
恵里とこずえは途方《とほう》に暮《く》れて、問題の原稿を見下ろした。言うまでもなく、宗介の応募《おうぼ》作である。まるで勇猛果敢《ゆうもうかかん》な海兵隊の新兵募集パンフレットである。
徹頭徹尾《てっとうてつび》、戦闘的《せんとうてき》な文句が踊《おど》る物騒《ぶっそう》な『学校案内』には、ご丁寧《ていねい》にレイアウトやフォントまで指定され、その場に入れる写真まで同封《どうふう》してあった。その指示《しじ》の細かいことといったら……。
「採用《さいよう》の見込みがない応募作に限って、こういう、やたらとうるさい指示が添付《てんぷ》されてくるんですよね……」
「どっかの出版社の新人賞みたい……」
しかも始末《しまつ》に負えないのは、文法のミスや誤字脱字などは、まったくないことだった。つまり、ケチが付けにくいのである。
「伏《ふ》せ字でも使ってみたらどうです?」
こずえの提案《ていあん》に、恵里は小さく首を振《ふ》った。
「無理《むり》よ、そんなの」
問題発言の方が、そうでない発言よりも圧倒的《あっとうてき》に多い――そんな原稿に、伏せ字でも入れてみたらどうなるか。
[#ここから太字]
■■、■■、■■――あらゆる■■が、諸君らを非凡《ひぼん》な■■にする
[#ここで太字終わり]
なんだかもう、いかがわしさ大爆発《だいばくはつ》である。『非凡な■■』になんか、されたくない。こんな学校、行きたくない。
そう思うのが普通《ふつう》だろう。
だというのに、校長はこの原稿を採用しろと言っている。ちなみに締め切りは明日だ。しかし、応募してきたのは未《いま》だに宗介のみだった。
「こ、こうなったら……謝礼をもっとつり上げましょう。こずえのデートも付ければ、少しは応募も出てくるかもしれないわ! 図書券の額《がく》も五〇〇〇円にして、ついでにカラオケ屋のタダ券も――」
「だんだん、なりふり構《かま》わなくなってきましたね……」
そんな調子《ちょうし》で、二人があれこれ話し合っていると――
「失礼。神楽坂先生はこちらですかな?」
保健室の戸が開き、三年生の男子生徒が入ってきた。
生徒会長の林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》である。
「林水くん?」
「学校案内のパンフレットを募集しているそうですな。僭越《せんえつ》ながら、私もその原稿を応募したいのですが……」
林水は真鍮縁《しんちゅうぶち》の眼鏡《めがね》をくいっと持ち上げた。
「あ、あなたが? どうして?」
「なにをおっしゃる。私はこれでも苦学生です。書籍代《しょせきだい》も馬鹿《ばか》になりませんのでね。もちろん、課外授業とかいう冗談《じょうだん》は辞退《じたい》しておきますが。はっは……」
なんら恥《は》じ入る様子もなく、彼は言った。
恵里とこずえは、同時にぱっと顔を明るくした。これこそ天の救《すく》いである。学校一の秀才《しゅうさい》である上、ウィットもセンスもある彼ならば、まず問題はないだろう。宗介も、林水の原稿が採用《さいよう》されるなら異存《いぞん》はないはずだ。
「ありがとう! 助かったわ。まさか、あなたが応募してくれるなんて……」
「なに、おやすい御用《ごよう》です。それにそのパンフレットは、母校の繁栄《はんえい》にとっても重要ですからな」
「ええ、まったくね。うふふ……」
安堵《あんど》の笑《え》みを浮《う》かべつつ、恵里は言った。
「それで、その原稿は?」
「はい。できるだけ後進の生徒たちを惹《ひ》きつけるよう、私なりに少々、工夫《くふう》をこらしてみました。どうぞご覧《らん》下さい」
そう言って、林水はプリントアウトしたばかりの応募原稿を恵里に手渡《てわた》した。
[#ここから太字]
<<陣代高校をまるごとエンジョイしよう!>>
一生に一度しかない高校生活。その三年間を楽しく送りたいなら、陣代高校がイチオシだ。のびのびとした校風で、教師はみんな放任主義《ほうにんしゅぎ》。自由な生活を大切にしたいキミには、ぴったりの学校といえるだろう。
共学なのも見逃《みのが》せないゾ。男子、女子が一緒《いっしょ》に机を並《なら》べる環境《かんきょう》だから、出会いの場は無数にある。新入生のうち八〇パーセントが、入学から三か月以内に気の合う異性《いせい》と結ばれている――そんなデータもあるくらいだ。男子校や女子校に行ったら、こんなチャンスは絶対《ぜったい》にないよね。運命の人に巡《めぐ》り会う場所……それが陣代高校なんだ!
学園祭、体育祭、修学旅行、球技大会など、楽しいイベントも目白《めじろ》押し! クールな賞品がキミを待っているぞ!
※入試ボーナス・キャンペーン実施中《じっしちゅう》!
いま陣代高校への受験に、キミの友達を誘うと、豪華《ごうか》な特典《とくてん》が付いてくるぞ。キミが紹介《しょうかい》してくれた友達一人につき、入学試験の各科目が五点プラス!
この特典をゲットしない手はない。いますぐ願書にSIGN UP!!
[#ここで太字終わり]
「もちろんパンフレットの写真に載《の》る生徒は、モデル事務所《じむしょ》から雇《やと》います」
浮《うわ》ついた文面とは正反対に、林水は淡々《たんたん》と補足《ほそく》した。
「教師のモデルも同様です。カメラマンにはつてがあるので、ご心配なく。老朽化《ろうきゅうか》の進んだ南校舎は、写らないように留意《りゅうい》します。水泳部および水泳の授業《じゅぎょう》の風景を水増《みずま》しすることで、男子の受験者は大幅《おおはば》アップが見込めるでしょう。ざっと大雑把《おおざっぱ》なマーケティングを行いましたが、これらすべての措置《そち》により、例年比《れいねんひ》で一五〜二〇パーセント程度《ていど》の受験者増が――先生?」
わなわなと肩《かた》を震《ふる》わせる恵里を見て、林水は眉《まゆ》をひそめた。
「…………。どうやら、お気に召《め》さないようですな」
「当り前ですっ!!」
またしても涙を『ぶわ――っ!』と流して、恵里は叫《さけ》んだ。
「なんなのよ!? この、いかがわしい商業主義《しょうぎょうしゅぎ》むき出しの内容は!?」
「商業主義ではありません。現実主義です。それにこの方が、たくさんの生徒を集められると確信《かくしん》しているのですが……」
「仮にそうだとしても、一個の教育|機関《きかん》が、こんなパンフを出せるわけありませんっ!」
すると林水は、彼女を哀《あわ》れむように見下ろした。
「先生……。そうした発想《はっそう》が、組織《そしき》を動脈硬化《どうみゃくこうか》させるのです。お言葉ですが、あなたたち教師には、柔軟性《じゅうなんせい》や生存|戦略《せんりゃく》が欠如《けつじょ》しておられる。官僚《かんりょう》主義の典型的《てんけいてき》な弊害《へいがい》ですな。すこしは資本《しほん》主義の荒波《あらなみ》に揉《も》まれるべきです」
いちいちもっともな話だったが、まさか同意するわけにもいかない。
「ああっ。もうっ……」
頭に血が上りすぎたのか、恵里はふらふらと机にすがった。林水は彼女が立ち直るのを気長に待ってから、尋《たず》ねた。
「それで。没《ぼつ》ですか?」
「没です!」
「ふむ。それは残念」
肩をすくめ、林水はその場を去った。
「もう、おしまいだわ……」
恵里は嘆息《たんそく》した。
「やっぱり、まともな原稿なんて来ないのね。さりとて自分で書くこともできず……わたしは一体、どうしたらいいのかしら……?」
「まあ、因果応報《いんがおうほう》ってところでしょうか」
のんきな声で答えたこずえを、恵里は枕《まくら》で叩《たた》きのめし、職員室に引き返した。
どうにもならない。
パンフの原稿は、今週中には提出《ていしゅつ》しなければならないし、一方でその原稿の目途《めど》がたたない。いっそ正直に校長に事情を話せば……いやいや、きっとまたイヤミを言われる。
だいいち、宗介の原稿を採用《さいよう》したら、彼とデートをしなければならないのだ。
悪い子だとは思わないけど、一方で、なにを考えているのか分からないところもある。
(謝礼の件……くれぐれもお忘れなく)
妙に迫力のあるあの言葉が、必要《ひつよう》以上に彼女の不安をかきたてているのだった。
「ふう……」
ため息をついて、英語科の自分の机に戻る。
……と。
その机に、真新しい封筒が置いてあった。
名前のない封筒の表には、どこかで見たような文字で、『学校案内パンフレット――応募原稿在中』とあった。
[#ここから太字]
<<のんびり、しっかり、時間を過《す》ごそう>>
高校生活というと、みなさんはどんなものを想像《そうぞう》するでしょうか? なにか中学時代とは違う、すこし大人っぽい感じの毎日を連想《れんそう》するかもしれません。
でも実のところは、そう変わりがないんです。朝起きて通学して、勉強して、友達と笑って、帰宅《きたく》する……と。みなさんも、多かれ少なかれ、そういう生活を送っているんじゃないかと思います。
強《し》いて言うなら、自由度が少しだけアップしたことくらいでしょうか。うちの学校の場合、先生はあまりうるさいことを言いません。自分のことは、自分の責任で。そういう、考えてみれば当り前のことが、それこそ当り前になっています。
モーレツな受験競争とか、そういうのはありません。メチャクチャ厳《きび》しい部活とか、そういうのもありません。そんな調子だから、こういうパンフレットで自慢《じまん》できるような、スゴい功績《こうせき》なども――実はあんまり、ありません。みんなが普通《ふつう》に暮らしている、普通の高校だと思います。
でも私は、そういう普通なこの学校が、けっこう気に入っています。
[#ここで太字終わり]
●
翌週《よくしゅう》、二年四組の教室で――
「……で? けっきょく、その匿名《とくめい》希望の人の原稿《げんこう》が採用《さいよう》されたの?」
募集《ぼしゅう》の結果が書いてある『陣高だより』を斜《なな》め読みして、恭子が言った。
「……そうみたいね。よく知らないけど」
かなめがそっけなく答える。
「ふーん……。じゃあその匿名希望の人、神楽坂センセとデートしたのかな?」
「よく読みなさいよ。あれ、冗談《じょうだん》だって書いてあるじゃない」
「あ、ホントだ。なぁんだ。つまんないの」
そう言って、恭子は笑った。かなめは小さなため息をついて、聞き取れないくらいの小さな声でつぶやいた。
「まったく……冗談だって知ってれば……」
「え?」
「ん。なんでもない」
投げやりに答えてから、彼女は教室の隅《すみ》の宗介に目を向けた。宗介は『陣高だより』を眺《なが》め――どことなく打ちひしがれたように、肩をすぼめていた。
「落選《らくせん》した気分はどう? 相良|軍曹《ぐんそう》どの」
近づいて、からかうように言ってやると、宗介はさらにしゅんとした。
「無念《むねん》だ。絶対《ぜったい》に勝てると思ったのだが」
「動機《どうき》が不純《ふじゅん》だからよ。下品な謝礼に釣《つ》られた報《むく》いね。はっはっは」
すると宗介は、すこしの間、躊躇《ちゅうちょ》してから、やがて観念《かんねん》したように尋《たず》ねた。
「千鳥。図書券というのは、下品なのか?」
「へ?」
「白状《はくじょう》すれば……俺は図書券という券を、見たことがないのだ。下品なものだとは知らなかった。それで応募を……」
「…………。ああ、なるほど……ね」
ようやく、かなめも合点《がてん》がいった。宗介の関心はそれだけだったのだ。変な課外授業なんて、元から眼中《がんちゅう》になかったのだろう。
悪いことしたな……。
そう思って、彼女は制服の内ポケットに手を伸《の》ばした。
「じゃあね。これ、あげる」
「?」
彼女が彼に手渡したのは、二〇〇〇円分の図書券だった。
「親戚《しんせき》からもらったの。たぶん使わないから」
宗介はあっけにとられてから、紙幣《しへい》サイズのその券を、穴《あな》があくほど凝視《ぎょうし》して――感慨《かんがい》深げなうなり声をあげた。
「これが……図書券か。しかし、下品には見えない。立派《りっぱ》な券だ」
宗介の横顔を眺《なが》めて、かなめは微笑《ほほえ》んだ。
「そう? じゃあ、大事にしなさいよ?」
[#地付き]<間違いだらけのセンテンス おわり>
[#改丁]
時間切れのロマンス
[#改ページ]
放課後《ほうかご》の廊下《ろうか》。視聴覚準備室《しちょうかくじゅんびしつ》の前でのことだ。資料《しりょう》のビデオを返却《へんきゃく》に来た千鳥《ちどり》かなめは、扉《とびら》にのばした手をぴたりと止めた。
「…………?」
扉の向こうから、よく知った男女の声が聞こえてくる。一人は仲良しの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》。もう一人は相良《さがら》宗介《そうすけ》だった。
『ねえ……もう、こんな関係、終わりにしない? やっぱり、よくないよ』
『なぜだ? いまになって……』
緊張《きんちょう》した空気と、ただならぬ気配《けはい》が、扉|越《ご》しに廊下《ろうか》まで伝わってくる。
恭子と宗介が、二人きりで何の相談《そうだん》を?
立ち聞きはいけない……そう思っても、かなめはその場に釘付《くぎづ》けになって、耳を澄《す》ませてしまった。
『俺《おれ》に興味《きょうみ》がなくなったのか』
『ううん。そうじゃないの。あなたのこと、いまでもとっても好きだよ? 昨夜《さくや》のことだって……あたし、ちっとも後悔《こうかい》してない』
(なっ……)
ばくんっ、とかなめの鼓動《こどう》が高まった。
キョーコが、ソースケのことを? あたしに内緒《ないしょ》で、二人が? そんなバカな。それに、昨夜のことって?
『俺だって、昨夜のことは忘れない。それでいいじゃないか』
『でも……』
『まさか、彼女のことを気にしてるのか?』
『……うん。だって、あたしの一番の友達なんだよ? あなたのこと、本気で想《おも》ってるし。もしあたしたちの本当の関係を知ったら、彼女、すごく傷つくと思うの』
顔からさっと血の気が引き、目の前が真っ暗になる。
普段《ふだん》の宗介や恭子を考えると、いささか不自然《ふしぜん》な言葉遣《ことばづか》いのような気もしたが、それでもかなめはひどく混乱《こんらん》した。
『あたし、親友を裏切《うらぎ》りたくない』
『俺の気持ちはどうなる。確かに彼女は魅力的《みりょくてき》だが、君には遠く及《およ》ばない。彼女にはもっと似合《にあ》いの奴《やつ》がいる』
『だ、だって……」
『きっと分かってくれるはずだ。彼女は強い子だからな』
ちっとも気づかなかった。
二人がデキてたなんて。そりゃあ、あたしは別にソースケと具体的《ぐたいてき》に特別な関係なわけじゃないし、キョーコがなにか遠慮《えんりょ》する理由なんてないかもしれないけど……。でも、こんなことって、こんなことって――
「ぁ……」
かなめは片手で抱《かか》えていたビデオテープの一本を、床《ゆか》に落としてしまった。乾《かわ》いた物音《ものおと》が廊下《ろうか》に響《ひび》き、宗介たちの会話が途切《とぎ》れる。
『……だれ!?』
恭子の声。かなめはその場でおろおろしてから、とっさにつぶやいた。
「ふ……ふもっふ」
『なんだ、ボン太くんか……』
『それより、聞かせてくれ。何度も言うが、やっぱり俺は――』
何事《なにごと》もなかったかのように、二人は会話に戻《もど》ろうとする。
……そこで、
『カーット、カット、カット!』
会話が奇妙《きみょう》な雲行きになってきたところで、まったく出し抜けに、部屋の中から新たな怒鳴《どな》り声がした。
『全《ぜん》っ然《ぜん》、ダメだ! 台本《だいほん》と違う! 勝手《かって》に間抜《まぬ》けなアドリブ入れないでくれ! それになんだ、さっきの「ふもっふ」は? そこ、だれかいるのか!? 出てこい!』
たちまちかなめの目の前で、扉が乱暴《らんぼう》に開け放たれた。
狭苦《せまくる》しい視聴覚準備室《しちょうかくじゅんびしつ》の中には、宗介と恭子のほかに、六人ほどの生徒たちがひしめいていた。それぞれ機材《きざい》を手にしている。照明《しょうめい》とレフ板、マイクとビデオカメラ。
「千鳥か?」
「あ、カナちゃんだ。おーい」
部屋の奥で、恭子が小刻《こきざ》みに手を振《ふ》った。いつも通りの、ほんわかした笑顔《えがお》である。
「…………?」
どうやら痴話喧嘩《ちわげんか》の類《たぐ》いとは、事情が異《こと》なるようだった。
扉を開けて、真っ正面から彼女をにらみつけているのは、よれよれの台本を握《にぎ》った男子生徒だ。
「なんだね、知り合いか?」
かなめは一同の顔を見回して、きっかり三秒、黙考《もっこう》してから、
「あの、これは? まさか映画の撮影《さつえい》とか、そういういうオチ?」
「まさかしなくても、撮影だよ。われわれ映画研究会の次回作だ。いまはこの作品のキモともいえる重要なシーンの収録中《しゅうろくちゅう》でね。邪魔《じゃま》をしないでいただきたい。いいね!?」
男子生徒――たぶん、監督《かんとく》だろう――は不機嫌《ふきげん》な声で告げると、くるりときびすを返し、カメラマンの生徒となにやら相談事《そうだんごと》をはじめた。かなめの姿など、すでに眼中《がんちゅう》にない様子《ようす》だ。
「カナちゃん、なにしにきたの?」
恭子と宗介が近寄ってきた。
「え? さ、狭山《さやま》先生に、このビデオ返してきてくれって言われて。……あんたたちこそ、なにやってんのよ?」
「えへへ。となりのクラスに阿部《あべ》くんっているでしょ? 彼、映研部員なんだけど、頼《たの》まれて出演することになっちゃったんだ。ね、相良くん?」
「肯定《こうてい》だ」
宗介が言った。むっつり顔にへの字口。ついさっきまで、形だけでも色恋沙汰《いろこいざた》を演じていたとは、とても思えないたたずまいである。
「タイトルは『恋する七人』っていうんだって。来月の西東京高校映画祭で上映予定なの。去年、賞をとったから、実行委員会から奨励金《しょうれいきん》が三〇万円も出てるらしいよ」
「三〇万も!?」
「うん。だから監督の小室《こむろ》さんも、スゴい必死《ひっし》になってるみたい」
そう言って恭子は、カメラマンと意見を闘わせている生徒を一瞥《いちべつ》した。彼がその小室という監督なのだろう。
「ははあ〜〜。本格的なのね……」
しきりに感心するかなめの横で、宗介が腕《うで》を組み、遠い目をした。
「本来の俺の仕事は、安全|保障《ほしょう》問題に目を光らせることだ。しかし時間の許《ゆる》す限りは、こうした活動《かつどう》にも協力すべきだと判断《はんだん》した」
「そうなの」
「うむ。かつてナチス・ドイツの宣伝相《せんでんしょう》ゲッペルスは、映画やラジオなどを戦意|高揚《こうよう》のため最大|活用《かつよう》した。大衆娯楽《たいしゅうごらく》の中に、ナチズムのイデオロギーを巧妙《こうみょう》に織《お》り込んだのだ。俺も生徒会の人間として、その手法《しゅほう》を研究しておく必要がある」
整然《せいぜん》と並んだナチの将兵《しょうへい》たちが、甘くせつない恋愛映画のスクリーンにむかって、高々と右腕を突《つ》き出している図を想像《そうぞう》し、かなめは首をひねった。
「…………。なんか、また例によって勘違《かんちが》いしてるような……」
「問題ない。学校にとって不都合《ふつごう》な内容があれば、検閲《けんえつ》の上、削除《さくじょ》させる」
「けっきょく全然わかってないし」
「?」
かなめは複雑《ふくざつ》な気分でため息をもらした。あれだけ生々しい演技《えんぎ》をしておきながら、自分の出ている映画の趣旨《しゅし》も理解《りかい》していないとは。これでは会話を立ち聞きして、はらはらしていた自分がバカみたいではないか。
まあ――ほっとしたのも、事実《じじつ》だが。
そのおり、件《くだん》の小室監督が彼らの背後《はいご》で声を張り上げた。
「あー、構図《こうず》がしっくり決まらん! レフ、もうちょっとそっちに寄《よ》れないのか!?」
「無理《むり》っすよ。フレームに入っちゃいます」
「ここはダークで背徳的《はいとくてき》な感じが欲しいんだ。最終的に、親友を裏切ってコウスケを横取りしてしまうショウコの、こう、ドロドロした感情というか……そういう、アレだよ!」
「スケジュールが厳《きび》しいっす。そこまでこだわってる余裕《よゆう》は――」
「いいや、こだわる。だからここまで悩《なや》むんだ。……っていうか、やっぱり役者がイメージに合わないのかもしれん。本来このショウコという役は、もっと大人《おとな》びた、影《かげ》のある雰囲気《ふんいき》の女なんだ。だが……」
そう言って、小室監督は恭子の童顔《どうがん》をしげしげと観察《かんさつ》した。とんぼメガネにおさげ髪《がみ》、小柄《こがら》な彼女はきょとんとして、無遠慮《ぶえんりょ》なその視線《しせん》を受け止める。
「…………?」
「常盤さん。台本は読んでるかね?」
「いえ、実はまだ全部は……」
「じゃあ決まりだ。キャストを変えよう。君にはショウコの親友のカナエの方をやってもらう。そっちの役の方が、むしろぴったりくるからな」
監督がそう宣言《せんげん》したとたん、周囲《しゅうい》が色めき立った。
「そんな、いまになって!」
「映画祭に間に合いませんよ!」
一斉《いっせい》に反発する映研部員たち。すると小室は顔を真っ赤にして怒鳴《どな》り返した。
「ええい、うるさい! おれがやるって言ったら、やるんだよ! 監督はエラいんだ、絶対《ぜったい》なんだ。撮影チームが徳川《とくがわ》幕府《ばくふ》なら、おれは征夷大将軍《せいいたいしょうぐん》だ。ご下命《かめい》いかにしても果《は》たすべし。死して屍《しかばね》 拾《ひろ》う者なし、だ!」
「滅茶苦茶《めちゃくちゃ》だ、あんた」
「だまれ。とにかくキャスト変更《へんこう》だ」
監督の断定口調《だんていくちょう》に、カメラマンは渋々《しぶしぶ》とうなずく。
「わかりましたよ……ったく。で、空いたキャストはどうするんスか? ショーコの役を探さないと」
「ショーコ役か。それなら、ぴったりの役者をいま見つけた」
「?」
監督の視線《しせん》の先には――黙《だま》って成りゆきを傍観《ぼうかん》していたかなめの姿《すがた》があった。
「な…………なに?」
一同にしげしげと眺《なが》め回され、彼女は当惑顔《とうわくがお》で後じさった。
小室の熱心《ねっしん》な説得《せっとく》の末、かなめは映画出演を引き受けることになってしまった。
(君こそがこの役に相応《ふさわ》しい)
(君は磨《みが》けば光る、ダイヤの原石だ)
(美しくも儚《はかな》げな、その横顔……!)
あれやこれや。これほど惜《お》しみのない賛辞《さんじ》を浴《あ》びれば、さすがに悪い気はしない。映画の撮影なんてまったく未知《みち》の世界だったし、好奇心《こうきしん》も大いにそそられる。
「そ、そう? えへへ、まいったなぁ。ど、どうしようか。ね、キョーコ?」
[#挿絵(img2/s06_153.jpg)入る]
だのと、やにさがってへらへらする彼女を、恭子はとろんとした横目で眺《なが》め、
「自分が役を奪《うば》った相手に、そーいうこと聞くわけ……?」
と、ぶすっとした声で言った。
かなめに渡《わた》された台本は、厚さが一センチほどあるコピー用紙の束《たば》だった。
タイトルは、恭子が言っていた通り『恋する七人』。七人の男女が繰り広げる、恋物語という趣向《しゅこう》だった。ざっと読んでみた感触《かんしょく》では、自主制作映画にしてはよくできた作りに思えた。
「学生映画っていうと、暗い情熱《じょうねつ》をほとばしらせたような『芸術的』な作品ばかりなんだけどね。おれは違う。身近《みぢか》な題材《だいざい》で、手堅《てがた》いものを撮《と》っていく。それがおれのポリシーだ」
……だのと、小室監督は自信たっぷりに豪語《ごうご》するのであった。
かなめは七人の男女のうち一人、文学部員のショウコという役で、サッカー部のキャプテン、コウスケと恋仲になる筋立《すじだ》てである。そのコウスケというのが、他ならぬ相良宗介なわけだ。
「まさか、キスシーンとかはないですよね?」
宗介をちらりと見てから、かなめがたずねた。監督は身を乗り出し、
「なに、やってくれるのかね!?」
「ち……ちがいます、確認《かくにん》しただけ」
「そう言わずに。君がその気なら、そういうシーンを入れるから――」
「いやです、絶対《ぜったい》いや!」
「ならば、ベッドシーンは――」
「もっといやですっ!!」
耳まで赤くなって、彼女は拒絶《きょぜつ》した。
翌日から、かなめを交えての撮影がはじまった。
監督の小室は三年生で、痩身矮躯《そうしんわいく》、額《ひたい》の生え際《ぎわ》が妙に後退《こうたい》している老《ふ》け顔の男だった。躁鬱《そううつ》の差がはげしく、陰気《いんき》になにか考え込んでいるかと思えば、いきなり情熱もあらわに怒鳴《どな》り散《ち》らして大暴れする。
「わがままで身勝手《みがって》な人っスけど――」
撮影前に、カメラマンにして助監督《じょかんとく》の須藤《すどう》という生徒が、こっそりかなめにささやいた。
「――去年の映画祭に入賞した才能は本物っスよ。それで奨励金《しょうれいきん》が出たから、小室さん、すっげえプレッシャー感じてるんス。なんか失礼なこと言うかもしれないけど、まあ、許してあげてくださいね」
「うん、わかった」
その日、最初に撮《と》ることになったのは、コウスケとショウコが二度目に出会うシーンである。図書室でのなにげない会話から、彼女は彼の意外な一面を知ることになる筋書《すじが》きなのだが――
「ショウコさん」
図書室の一角、書棚《しょだな》に挟《はさ》まれた通路《つうろ》で、宗介がかなめに声をかける。黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》をかけ、髪《かみ》を三つ編《あ》みに結《ゆ》った彼女は、はっとして彼を見つめる。
「こ……コウスケくん」
「やまた会ったじゃ元気かい」
「う、うん」
「ショウコさんてどんな本読むのだどれどれマジハリーポッターかははははくだらないもの読んでるな」
それは抑揚《よくよう》に欠け、感情のかけらも伺《うかが》えない、ひどく無感動《むかんどう》な声であった。……というか、ほとんど単なるヘタクソな棒読《ぼうよ》みである。
「ば、馬鹿《ばか》にしないで。わたしはこれが好きなの。そもそも、そういうあなたは、こんなところに何の用?」
「トルキンの本がないかと思てねこれでも指輪物語《ゆびわものがたり》がけこ好きなんだ部の連中には内緒《ないしょ》にしてるけどねははは」
「えっ……? その本、わたし大好きなの! あなたも?」
「そうさなんだその顔は意外か」
「ううん……。わたし、てっきりコウスケくんって――」
「カーット。カット、カット!!」
小室監督の叫《さけ》び声が、二人の会話を中断《ちゅうだん》させた。カメラが止まり、音響《おんきょう》や照明《しょうめい》のスタッフたちが一斉《いっせい》に緊張《きんちょう》を解《と》く。
「なにか問題が?」
「問題だらけだ。全っ然、演技《えんぎ》ができてない。台詞《せりふ》が棒読みじゃないか。もっと表情を変えて、声に起伏《きふく》をつけてくれ!」
そうなのである。戦場育ちの宗介には、演劇や映画に必要なある種《しゅ》の感受性《かんじゅせい》、ある種の想像力といったものが、まったく欠けているのだった。役者の才能ゼロと断言《だんげん》して構《かま》わないだろう。
「…………。だめなのか?」
宗介がかなめにたずねる。
「んー……確かに。ちょっと。っていうか、かなり。せめてセリフに句読点《くとうてん》くらい付けなさいよ」
「むう……」
「せっかく千鳥さんの演技はなかなかのものなのに。きのうの常盤さん相手のシーンでは、まだ自然な演技ができてたじゃないか。それがきょうは……なぜだね?」
「確かにヘンだよね。どうなってんの?」
記録係も兼務《けんむ》することになった恭子が、小首を傾《かし》げて言う。宗介は腕組《うでぐ》みして、しばしの間|黙考《もっこう》し、やがて口を開いた。
「俺も不思議だ。常盤を相手にしてる時は、自然に、よどみなく、虚構《きょこう》の台詞を暗唱《あんしょう》できたのだが。なぜか千鳥が相手だと……」
ギクシャクしてしまう。その説明に、かなめや監督たちは怪訝顔《けげんがお》できょとんとするだけだったが、なぜか恭子だけは、
「なるほど……本人も自覚がないんだろうけど、無意識《むいしき》に照《て》れが入って緊張《きんちょう》してるのかもしれないね……。キャラも全然違うし……」
だのと、ひとりでつぶやいた。
「ねえねえ。それだったらさ、アドリブでやらせてみたらどうです?」
台本を読み返しつつ、恭子が提案《ていあん》する。
「なに?」
「さわやか系の演技って、彼には難《むずか》しいと思うんですよ。シーンの筋《すじ》は押さえたまま、もう少し自然に、相良くんらしい感じで自由にやらせてあげたら……きのうの撮影のときみたいに、うまくやれるんじゃないかなあ」
「ふむ……」
監督たちは腕組みする。
「絶対《ぜったい》、その方がいいですよ。相良くんは、どう?」
「うむ……確かにきのうの場面に比《くら》べて、きょうのこれはやりにくくて困《こま》る。俺《おれ》が普段《ふだん》使わない口語表現が頻出《ひんしゅつ》するしな……。台本の表記通りに発音することはできるが……それを自然に見せることは困難《こんなん》かもしれん」
宗介が淡々《たんたん》と言う。
「では、どうすればいい?」
「簡潔《かんけつ》な表現。正確な語法《ごほう》。常盤の言う通り、俺なりに台詞をアレンジすれば、優《すぐ》れた演技が可能《かのう》になるだろう。試《ため》してみたい」
「自信があるんだな?」
「肯定《こうてい》だ」
きらりと宗介の目が光る。
小室監督は難《むずか》しい顔で悩《なや》んだ後に、不承不承《ふしょうぶしょう》うなずいた。
「……いいだろう。その熱意《ねつい》に賭《か》ける。やってみろ」
「了解《りょうかい》」
答えるなり、宗介はうつむいて目を閉じ、集中力を高める。なにやらそういうところだけは、本職《ほんしょく》の大俳優《だいはいゆう》そこのけの迫力《はくりょく》なのであった。
「千鳥さんは、とりあえず台本のままで。いいね? じゃあ撮《と》り直すぞ。本番、テイク2!」
スタッフが改《あらた》めて準備《じゅんび》に入る。かなめと宗介が立ち位置《いち》に戻り、深呼吸《しんこきゅう》する。カチンコが入って、カメラが回り、監督が告げた。
「アクション!」
あたりがしんとなる。
やや間をおいてから、宗介は一歩|踏《ふ》みだし、かなめの横顔に声をかけた。
「ショウコ」
いつも通りの落ち着いたしゃべり方。確かにこれなら、むしろ自然に聞こえる。かなめは指示《しじ》通りに、暗記《あんき》している台詞を返した。
「こ……コウスケくん?」
「また会ったな。元気だったか」
「う、うん」
「なんの資料だ?……『世界の拷問《ごうもん》テクニック』か。くだらないものを読んでいるな、おまえは」
脱力感《だつりょくかん》で腰《こし》がくだけそうになるところを、かなめはなんとかこらえた。監督の方を盗《ぬす》み見る。彼は身振《みぶ》りで『続けろ』と告げていた。
「っ……。ば、馬鹿にしないで。わたしはこの本が好きなの。そもそも、そういうあなたは、こんなところに何の用?」
「俺か。『図解《ずかい》・大量殺戮兵器《たいりょうさつりくへいき》』という資料を探している。核《かく》兵器や細菌《さいきん》兵器の情報を収集《しゅうしゅう》しているのだ」
「えっ? その本、わたし大好きなの! あなたも?」
「肯定だ。おかしいか?」
「ううん……。わたし、てっきりコウスケくんってその手の本、嫌いなのかと思ってた」
「俺も意外だ。君が中性子爆弾《ちゅうせいしばくだん》や神経《しんけい》ガスに関心を示《しめ》すとはな」
「もうっ。そういう世界に憧《あこが》れちゃいけないの? わたしだって普通の女の子なんだよ?」
「そうか。では同じ著者《ちょしゃ》の最新刊『エボラ・ウイルス/軍事利用の恐怖』は読んだか」
「うん! 読んでてすっごい、わくわくしちゃった。とっても幻想的《げんそうてき》だよね。頭の中で、その場の景色《けしき》が色|鮮《あざ》やかに浮かんでくるみたいで――って、いい加減《かげん》にしろっ!!」
がっ!!
かなめの真空《しんくう》飛《と》び膝蹴《ひざげ》りを食らって、宗介が書棚《しょだな》に激突《げきとつ》する。くずおれた彼の頭上に無数《むすう》の書籍が降《ふ》り注《そそ》ぎ、たちまち山をなして彼を生き埋《う》めにした。
「カットよ、カット! いつまでこんな狂気《きょうき》に満ちた会話を続けさせるつもり!?」
抗議《こうぎ》すると、小室監督とカメラマンは顔を見合わせた。
「いや、なんとなく……」
「これはこれで、シュールだよな……」
そう言って、思い出したようにカメラを止める。ややあって、宗介が書籍の山から顔を出し、むっつり顔で言った。
[#挿絵(img2/s06_163.jpg)入る]
「なにが不服《ふふく》だ、千鳥」
「やかましい! 拷問術や殺人ウイルスの話題にうっとりする女子高生が、この世界のどこにいるってのよ!?」
「…………。いないのか?」
「いないわよ」
「知らなかった」
「知ってなさいっ!」
怒鳴《どな》られ、宗介は考え込む。
「ああっ、もう。……みんな、よくこんなバカを役者にして、いろんなシーンを撮影してこれたわね。大変だったでしょ?」
かなめが同情もあらわに言うと、スタッフたちはなぜか気まずそうに、彼女の視線を避《さ》けようとした。
「…………?」
「いや、その。実は……」
そっぽを向いている監督の顔色を気遣《きづか》うようにして、カメラマンが言った。
「相良くんを使い出したのは、きのうのあのシーンがはじめてだったんス」
「なんですって……?」
「その前は、別の人にコウスケ役をやってもらってたんスけど……まあ、ちょっと揉《も》めちゃって。辞《や》められちゃったんス。ほかの役者さんもあれこれあって、次から次へと……」
「え? じゃあ今残ってる役者って……ひょっとして、あたしらだけ?」
無言《むごん》の肯定。
本当に、みんな逃げてしまったらしい。
恭子もその事実をはじめて知った様子で、口を半開きにしてぽかんとする。
「……ふん。連中は根性《こんじょう》なしだ。辞めてもらって正解だったよ」
ぶっきらぼうに小室監督が言った。するとカメラマンは泣きそうな顔になって、悲痛《ひつう》な声を絞《しぼ》り出す。
「なにをのんきに。これまで撮《と》ったフィルムの大半を、また撮り直さなきゃならないんスよ!? 予算もほとんど使いきったし、台本も最後まで書き上がってないし、映画祭まで時間もない。しかも役者はこの三人だけ。ほかに引き受けてくれる人もいない。いったいどうする気なんスか!?」
「なんとかなる。おれを信じろ」
「そう言われ続けて、ここまで来ちゃったんじゃないスか!」
泣きわめくカメラマン。ほかのスタッフたちは、疲《つか》れ切った顔でその場にへたりこむ。
「なんと、まあ……」
撮影の実状《じつじょう》をはじめて知って、かなめたちは唖然《あぜん》とした。
問題|山積《やまづ》み。せまる納期《のうき》。予算は赤字。完成《かんせい》の見通しもたっていない。こんな調子《ちょうし》で、大丈夫《だいじょうぶ》なのだろうか?
「案《あん》ずるな。この程度《ていど》のピンチなど、これまで何度もあった。それよりも、問題はこれからのことだ」
小室監督がゆらりと立ち上がる。なんとなく、ほの暗いオーラが立ちのぼっているような感じだった。
「……相良くん。おれはいま、重大な決断《けつだん》を迫《せま》られているような気がする。君をクビにして、またぞろ別の役者を探すか。それとも君の持つ可能性《かのうせい》に賭《か》け、互《たが》いの妥協点《だきょうてん》を探《さぐ》り合い、なんとかこのフィルムをモノにするか。二つに一つだ。どう思う」
「見損《みそこ》なってもらっては困《こま》る」
宗介は不敵《ふてき》に言った。
「俺とて数々の修羅場《しゅらば》をくぐり抜けてきた男だ。引き受けた任務《にんむ》は完遂《かんすい》する。いかなる手段《しゅだん》を用いてもな」
「ふふふ……上等《じょうとう》だ」
小室がにやりと笑った。
「覚悟《かくご》はできているようだな。この映画はバトルだ。監督と俳優《はいゆう》とのエゴのぶつかりあい――その仮借《かしゃく》なき闘争《とうそう》が、フィルムに生命的迫力を吹《ふ》き込む。われわれはそれに期待しようではないか」
「いいだろう」
視線《しせん》の火花を散らして、小室と宗介が大まじめににらみ合う。
「おお……。こ、これは……」
傑作《けっさく》誕生《たんじょう》の予感。
妙《みょう》な迫力にかなめが気圧《けお》されていると、恭子が横でぼそりと言った。
「そうはいっても、やっぱりヘタッピなんだよね……」
その通り。いかんせん、宗介は救いがたいほどの大根《だいこん》役者なのであった。
「カット3、テイク8! よーい、アクション!」
あらためて、カメラが回る。
「ショウコさんまた会たな元気かなんの本だハリポタか古い資料を読でるなおまえわ」
「馬鹿《ばか》にしないで。わたしはこの本が好きなの。そういうあなたは、こんなところに何の用?」
「俺か俺はトルキン本探してる昔から興味あてなむろんこれは機密事項《きみつじこう》だが」
「カーット! カット、カット!! 一度死んでこい、このヘボ役者めっ!!」
「むう……」
頭めがけてメガホンを投げつけられて、宗介は立ちつくす。
こんな調子で、その後の撮影は難航《なんこう》をきわめたのだった。一つのカットで、宗介は一〇回以上NGを出す。何度も何度も本番を繰り返し、『まだ、なんとかサマになっている』レベルが来るまで気長に待ち続ける。
「て……テイク28[#「28」は縦中横]。アクション……」
「ショウコ君だけだ俺は君なしでは生きられな行かなでくれ」
「カット……。も、もう一回……」
その撮影の困難《こんなん》さは、もはや恋愛《れんあい》映画というよりは、野生動物の記録《きろく》映画であった。極寒《ごっかん》のシベリアで虎を待ち受け、その虎が求愛行動《きゅうあいこうどう》を見せるまで、カメラマンは何日も、何週間も機材を構《かま》え続けるのだ。並々《なみなみ》ならぬ体力と、超人的《ちょうじんてき》な忍耐力《にんたいりょく》が、スタッフすべてに要求《ようきゅう》された。
かなめたちが撮影に参加《さんか》して三日目。小室監督はとうとうブチ切れた。
「もうやってられんっ!! やっぱりおまえはクビだ、クビ! とっとと帰れっ!!」
撮影現場の教室に、絶叫《ぜっきょう》がこだまする。
「俺が。クビだと?」
「そうだ! これ以上、おまえみたいなヘボ役者に関《かか》わってる時間はない! 映画祭は来週なんだぞ!?」
「ふっ……その程度《ていど》の理由《りゆう》で逃げるのか」
あくまでクールに宗介は言った。
「なに?」
「俺の演技に納得《なっとく》できない――それはそれでいい。だがその事実《じじつ》に背を向けて、安易《あんい》な道を自ら望むとは……。創作者《そうさくしゃ》としては二流だな。あんたの才能とやらも、所詮《しょせん》はその程度のものだということか」
「あんたがヘタクソなだけでしょうが、あんたが……!」
かなめが横からツツコミを入れるが、彼らはそれを聞いていない。
「よ、よくも! 言うに事欠《ことか》いて、このおれの才能にケチを付けるとは……! しかも、二流だと!? ぽっと出の貴様を使ってやったのは、だれだと思っている!?」
「頼《たの》んだ覚えはない」
「ふざけるなっ! フィルムのフィの字も知らんくせに! おまえなんかなぁ! おまえなんか、おまえなんか――――うっ?」
ぷつん。
激昂《げっこう》して両腕《りょううで》を振り上げていた小室が、その瞬間《しゅんかん》、凍《こお》り付いた。
「小室さん?」
返事《へんじ》なし。彼は彫像《ちょうぞう》のように四肢《しし》をこわばらせたまま、そのままぐらりと傾《かたむ》いて、『ぱたっ』と床《ゆか》に倒《たお》れ伏《ふ》した。
「小室さんっ!?」
「監督っ!!」
一同がわっと駆《か》け寄る。小室はなにやら怪《あや》しげな痙攣《けいれん》をはじめる。
「衛生兵《えいせいへい》はどこだっ!? 衛生兵っ!!」
「いないってば」
宗介が叫ぶ横で、かなめがてきぱきとPHSで『119』を呼《よ》び出した。
ぴぃーぽー、ぴぃーぽー……。
けだるいサイレンの音を響《ひび》かせて、救急車が校門から遠ざかっていく。その姿を力|無《な》く見送ったかなめは、ほとんど絶望的《ぜつぼうてき》ともいえるため息をついた。
「あーあ……。あの若さでぶっ倒れるとは。よほど精神的《せいしんてき》にこたえてたみたいね」
「おそらく、過労《かろう》だろう。情けない男だ。あの程度の試練《しれん》に屈《くっ》するとは」
すぱんっ!
例によってどこからともなく現れたハリセンが、宗介の脳天《のうてん》を直撃《ちょくげき》した。
「なにをする、千鳥」
「やかましい! あんたのせいでしょ、あんたの! 代役がいないのをいいことに、散々《さんざん》苦労かけて。おかげで監督がいなくなっちゃったじゃない!」
「ふむ……」
宗介はうつむき、毎度の『いちおう反省《はんせい》してるらしいけど、その反省が正しいかどうかはわからない』モードに入る。
「はあ……。いずれにしても、あれじゃあ、もうおしまいだよね」
恭子が横で落胆《らくたん》する。
「うん……。最低でも数日は入院するだろうし、映画祭は来週だし。もともと完成の見込みも立ってなかったし。残念だけど、こういうこともあるってことで。…………ん?」
ふと気づくと、カメラマンの須藤をはじめ、映画研究会のスタッフたちが、顔を青くしてぷるぷると震《ふる》えていた。
「も、もうおしまいだ……」
須藤がうめくように言った。
「どしたの?」
「実は去年の映画祭でもらったのは、『原粕賞《はらかすしょう》』っていうんス。あの凶暴《きょうぼう》なことで有名な演出家《えんしゅつか》、原粕|武《たけし》さんが選《えら》ぶ賞でして……」
「それが?」
「その賞の奨励金も、彼のポケットマネーから出たものなんス……。受賞の際、『がんばれよ、小僧《こぞう》ども。もし来年出品しなかったら、一人残らずアルゼンチン・バックブリーカーで背骨《せぼね》を折って、人間サンドバッグにしてやるからな。うわっはっは』と……」
「……さすがにそれは、冗談《じょうだん》では?」
「とんでもないっ!!」
やたらとむきになって、須藤は言った。
「過去《かこ》にも同じ目に遭《あ》った連中がいるとかいないとか。それにあの人は授賞のとき、小室|監督《かんとく》をはじめ、俺らの住所を全部聞き出してメモったッス。間違《まちが》いありません。彼は本気っス」
「…………」
「三〇万円ももらっておいて、出品せずにバックれたらどうなるか。想像するだに恐《おそ》ろしいっス!!」
『いやだ! 死ぬのはいやだ〜〜〜っ!』
ほかの映研部員たちも、パニックに陥《おちい》り絶叫《ぜっきょう》する。かなめは泣く子をあやすように、
「ちょ、ちょっと、落ち着きなさいよ?」
と、あわてて言った。
「まだそうなるとは決まったわけじゃないでしょ? 小室さん抜きでも、どうにかなるかもしれないじゃない」
「ど、どうにもならないっス! すべての責任を監督になすりつけ、僕らだけは無事《ぶじ》でいようと思っていたのに。このままでは、このままでは……!!」
「…………。なんか今、同情する気が失《う》せる発言があったような気が……」
「シナリオは未完成! フィルムの大半は使えない! タイトルは『恋する七人』なのに、残ってる役者はたった三人! もともと無理《むり》だったんスよ……!」
須藤たちは泣き叫《さけ》ぶ。
実際《じっさい》、『恋する七人』は八方塞《はっぽうふさ》がりなのだった。
ほかの出演者たちが逃げる以前に、とりあえず収録《しゅうろく》できたシーンがあるほかは、ほとんど使える素材《そざい》がない。それらのシーンでさえ、秩序《ちつじょ》だって撮《と》られたものではなく、てんでバラバラだった。もともと人物関係が複雑《ふくざつ》な映画なので、どうつなぎ合わせても一つのストーリーにはなりそうにない。
たとえば、登場人物の一人にキンジという少年がいる。キンジは優等生《ゆうとうせい》のサオリという少女に淡《あわ》い恋心を抱《いだ》いているのだが、実はサオリは売春行為《ばいしゅんこうい》に関わっていた。キンジはそれに衝撃《しょうげき》を受け、苦悩《くのう》するわけなのだが――
「……だってのに、実際《じっさい》に撮り終えてるのはキンジが泣きわめいて暴《あば》れるシーンと、彼がサオリをひっぱたくシーンだけっス」
「それだけだと、ただの迷惑《めいわく》な乱暴者《らんぼうもの》ね……」
「ほかのフィルムも似たような有様《ありさま》で。どのエピソードも完結《かんけつ》してません。打つ手がないっス!」
「うーん……」
黄昏時《たそがれどき》の校門で、膝《ひざ》を落として号泣《ごうきゅう》する映研部員たち。カラスが間抜《まぬ》けな鳴《な》き声を発しながら、彼らの上空を飛んでいく。
恭子もしょんぼりと肩《かた》を落としていた。なんだかんだで、この映画の制作《せいさく》を楽しんでいたのだろう。
「状況《じょうきょう》はよくわかった」
そのとき、宗介が口を開いた。一同が顔を上げ、ぼうっと彼を眺《なが》める。
「だが、降伏《こうふく》するにはまだ早い。闘《たたか》う意志《いし》が残っている限り、われわれは決して敗北《はいぼく》しない。死んでいった監督のためにも、この映画は完成《かんせい》させなければならないのだ」
「ソースケ……」
いつも通りの淡々《たんたん》とした声だったが、どこかに強い決意《けつい》と悲壮感《ひそうかん》がこもっていた。
「こうなった以上、今後の指揮《しき》は俺が執《と》る。すべてを託《たく》して、俺についてこい」
彼は決然《けつぜん》として宣言《せんげん》した。
五日後の日曜日――
ようやく退院《たいいん》した小室は、カメラマンの須藤から説得《せっとく》されて西東京高校映画祭に顔を出すことになった。さんざん『イヤだ』『死にたくない』だのと抵抗《ていこう》したのだが、最後は映研部員たちが自宅にまで押し掛《か》けてきて、彼を拉致《らち》するようにして映画祭の会場へと連《つ》れて行った。
会場は吉祥寺《きちじょうじ》にある独立系《どくりつけい》の映画館で、この日は映画祭のために一日|貸《か》し切りになっている。各地《かくち》から集った制作者《せいさくしゃ》たちで、正面ホールはごった返していた。
「千鳥さんたちは……?」
「来てます。あそこです」
見ると、喫煙所《きつえんじょ》のそばのベンチに横たわり、すうすうと寝息《ねいき》をたてているかなめと恭子の姿があった。その隣《となり》には、げんなりとした様子の宗介が座《すわ》っている。
「監督。退院《たいいん》したのか」
充血《じゅうけつ》した目で彼を見上げ、宗介が言った。
「ああ。……しかし、こんなところでなにやっとるんだ、君たちは」
「けさまで編集作業《へんしゅうさぎょう》をしていた。連日《れんじつ》の徹夜《てつや》で、さすがに彼女も参《まい》ったようだ」
そう言って、昏々《こんこん》と眠り続けるかなめたちを見下ろす。
「編集作業だと? まさか、あの映画のことか?」
「そうだ。ついさっき、完成した」
宗介がそう告げた直後《ちょくご》に、作品の上演を知らせるブザーが鳴《な》り響《ひび》いた。
スクリーンの中――
もの悲しいメロディに乗って、繊細《せんさい》な文字のタイトルが浮かび上がる。
<<恋する七人/La lutte de'cisive >>
タイトルがフェードアウト。
学校の屋上に、一人の少女が立っている。風になびく長い黒髪《くろかみ》。ほっそりとした可憐《かれん》な横顔。憂《うれ》いを秘《ひ》めた瞳《ひとみ》。
かなめである。
彼女は屋上の手すりにそっと指を這《は》わせ、小さな吐息《といき》をつく。そして染《し》み渡るような声で、モノローグが入るのだった。
『どうしてなんだろう……。知らなかった。愛がこんなに残酷《ざんこく》だなんて……』
その言葉の透明感《とうめいかん》。その言葉のせつなさ。否応《いやおう》もなく、観客《かんきゃく》がまだ見ぬ物語へと引き込まれていく。
溶《と》けるようにして、場面が移《うつ》り変わった。別の少女が現《あらわ》れる。彼女は泣いていた。華奢《きゃしゃ》な少年がたずねる。
『どうして泣いてるの? また親とケンカ?』
『ちがう。……そんなことで、涙《なみだ》なんか流さない』
そこでカットが切り替《か》わる。
宗介が遠くの物陰《ものかげ》から、二人の会話を眺《なが》めている構図《こうず》。
さらに場面が変わり、別の男女が現れる。
『あたし決めたんだ。これからは、もっと人を信じよう、って。だから……』
『ヒロミ……。すまない、ボクは……ボクは……』
その様子を、離《はな》れた校庭の隅《すみ》から監視《かんし》する宗介のカットがまた入った。
さらに場面が変わる。
『ひどい。ひどすぎるよっ! こんなことって、こんなことって……!!』
拳《こぶし》を震《ふる》わせ、むせび泣く少年。
それをひそかに監視する、あやしい宗介の影《かげ》。
そんなシーンがしばらく続いた。
断片的《だんぺんてき》な恋愛模様《れんあいもよう》。恋し、傷つく少年少女たちのモザイク。それはときに甘く、ときに悲しい。
そして、そんな彼らを常《つね》に無言《むごん》で見張《みは》り続ける、硝煙《しょうえん》の香《かお》りがする男。
やがてストーリーは急転直下《きゅうてんちょっか》を迎《むか》える。
ほかの男女と同じく、ウェットな会話を繰り広げるカップルが、またもや登場する。
『本当にいいの? わたしみたいなイヤな子で……。わたし、もう傷つきたくない』
『傷つくときは一緒《いっしょ》さ。だから怖《こわ》がらないで。ボクたち、似たもの同士だろ?』
『タカヤくん……!』
『ヒロミ……!』
そこで突然《とつぜん》の爆発《ばくはつ》。
飛び散《ち》るガラス。ふくれあがる炎《ほのお》。
黒煙《こくえん》が渦《うず》を巻き、ゆがんだ大気が画面を揺《ゆ》さぶる。悲鳴《ひめい》と怒号《どごう》、けたたましいサイレンが交錯《こうさく》し、消防隊員と警官《けいかん》が走る。救急車《きゅうきゅうしゃ》のサイレンと、泣き叫《さけ》ぶ市民たちの姿。なぜかみんな外人さんで、画面の隅《すみ》に『CNN』のロゴが入っていたりする。
シーンが変わってもう一度爆発。不鮮明《ふせんめい》な画像《がぞう》の中で、民家が吹《ふ》き飛んで燃《も》え上がる。
『キンジくーんっ!!』
なんの脈絡《みゃくらく》もなく、かなめの友人の稲葉《いなば》瑞樹《みずき》が出てきて絶叫《ぜっきょう》した。ついでにクラスメートの小野寺《おのでら》孝太郎《こうたろう》が出てきて叫ぶ。
『だめだ。骨《ほね》さえ残ってない……!』
爆発。爆発。さらに爆発。
なぜかF1の大事故《だいじこ》のシーンまで挿入《そうにゅう》される。紅蓮《ぐれん》の炎が嵐《あらし》となって、あらゆる登場人物を焼《や》き尽《つ》くした。
暗転《あんてん》。
廃墟《はいきょ》の病院が映し出された。瓦礫《がれき》のちらばる冷たい床《ゆか》に、血まみれのぎっとぎとになって横たわる恭子。その彼女に、かなめが泣きながら駆け寄っていく。
『カナエ!? しっかりして!』
『し……ショウコちゃん。よく聞いて。コウスケに……コウスケに気を付けなさい』
『な……なんですって?』
『彼こそが……みんなを爆殺《ばくさつ》した張本人《ちょうほんにん》よ。湾岸《わんがん》戦争で敵《てき》の拷問《ごうもん》にあったコウスケは、世界のすべてを憎《にく》むようになったの。彼を……彼の凶行《きょうこう》を止めなければ……ぐはっ』
『カナエ――――――っ!!』
雷鳴《らいめい》がとどろき、ショスターコビッチの重厚《じゅうこう》な音楽(無断使用《むだんしよう》)が鳴り響《ひび》く。
『許せない……。必ず仇《かたき》はとってやるわ!』
かなめの復讐《ふくしゅう》の旅がはじまった。
野心《やしん》うずまく夜の街。人も通わぬ危険なジャングル。戦禍《せんか》の爪痕《つめあと》が残る赤い荒野《こうや》……(だいたい『電波少年』あたりの流用)。蛇《へび》のごとき執念《しゅうねん》でかなめは宗介を追いつめていく。
そしてとうとう、どこかの廃墟《はいきょ》(よく見るとさっきの病院なのだが)で、完全|武装《ぶそう》の二人は対峙《たいじ》した。
『覚悟《かくご》しなさい、コウスケ。もうこれ以上、だれも傷つけさせないっ!!』
『よかろう。しょせんは血塗《ちぬ》られた道だ。俺を止められるものなら、止めてみせろっ!』
戦闘開始《せんとうかいし》。ジョン・ウーばりの銃撃戦《じゅうげきせん》。二丁拳銃《にちょうけんじゅう》でドカドカと発砲《はっぽう》し合うそのシーンだけは、異様《いよう》な迫力《はくりょく》がある。特に二人の使う拳銃は、まるで本物そっくりだった(……というか、実は本物だったりするのだが)。
壮絶《そうぜつ》な死闘《しとう》のその先で、辛《から》くも生を拾《ひろ》ったのはかなめであった。
『ぐっ……!』
胸《むね》を射抜《いぬ》かれ、くずおれる宗介。鮮血《せんけつ》にまみれ(少々、量が多すぎるのだが)、いのちの灯火《ともしび》を失っていく彼を見下ろし、かなめは言った。
『なぜなの……? なぜあなたは、あんな残忍《ざんにん》なテロを――』
『ふっ……。すべては愛。おまえを愛するがゆえの過《あやま》ちよ……』
はっきりいって説明になってないのだが、かなめははらはらと落涙《らくるい》する(こちらも少々、涙《なみだ》が量が多すぎたりする)。
『馬鹿《ばか》な人……。違《ちが》う愛も、あったでしょうに……』
『ショウコ…………許して……くれ』
そうして、宗介はこときれたのだった。
一人たたずむかなめ。冷たい風が、彼女の黒髪《くろかみ》をなびかせる(ほんの数コマだけ、フレームの隅《すみ》にうちわの先っぽが入っていたが、気付いた者はごく少数だった)。
そこに重なるモノローグ。
『どうしてなんだろう……。知らなかった。愛がこんなに残酷だなんて……』
ゆっくりと引いていくカメラ。『Fin』の文字。佐橋《さはし》俊彦《としひこ》の曲(無断使用)と共に、スタッフロールが流れ出す。そして最後にでかでかと――
<<監督 小室|隆宏《たかひろ》>>
こうして陣代《じんだい》高校映画研究会制作・『恋する七人/地獄の最終大決戦』は完結《かんけつ》した。
小室監督が泡《あわ》を吹《ふ》いて悶絶《もんぜつ》し、担架《たんか》で運ばれていく。そのさまを、宗介は感慨《かんがい》深げな目で見送った。
「苦労した甲斐があった。見ろ、千鳥。作品の傑出《けっしゅつ》した非凡《ひぼん》さに、監督が喜びのあまり、気を失《うしな》ったようだ」
「そう思えるあんたの感性《かんせい》っていうのは、確かに非凡かもしれないわね……」
そうぼやいて、かなめは最後列から、観客席《かんきゃくせき》をぐるりと見渡《みわた》した。
[#挿絵(img2/s06_183.jpg)入る]
当惑《とうわく》のざわめきと、投げやりな拍手《はくしゅ》。
ほぼ予想《よそう》通りの反応《はんのう》だった。
「まあ……ソースケの言う通りにやってみた割《わり》には、まだマシだったかな……。お茶を濁《にご》すことには成功した、ってことで」
そのおり、宗介たちの眼前に、一人の男が立ちふさがった。筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》、浅黒い肌《はだ》。モヒカン頭にいかつい顔。
須藤が以前に言っていた、原粕とかいう凶暴な演出家だ。
「あれを作ったのは、おまえらか……?」
刺《さ》すような厳しい目つき。熊《くま》を思わせる野太《のぶと》い声で、巨漢《きょかん》が言った。
「あ……あのですね。あれにはいろいろと、事情がありまして――」
「どっちだ!? はっきりせんかっ!!」
怒鳴《どな》られ、びくりと硬直《こうちょく》したかなめに代わって、宗介が堂々《どうどう》と答えた。
「肯定《こうてい》だ。われわれが作った」
「本当か!?」
「本当だ」
彼はえへんと胸を張《は》る。
すると原粕氏は顔をくわっとゆがめ、両肩をわなわなと震《ふる》わせた。そして――感極《かんきわ》まったように、両目から『ぶわーっ』と滝《たき》のような涙を流したのであった。
「…………?」
「うっ……うっぐ。すばらしい。こんなに心|揺《ゆ》さぶられたのは初めてだ。『違う愛もあっただろうに』。なんて……なんて美しいセリフなんだろう。俺は、俺はもう……お……おっ、おろろーんっ!」
かなめたちがぽかんとする前で、男は得体《えたい》のしれない泣き声をあげ、宗介にすがりつく。
なにやら、心の琴線《きんせん》に触《ふ》れたらしい。
「う……うそ?」
「よくわからんが、愛というのは便利《べんり》なものだな」
彼はすまし顔でうなずいた。
[#地付き]<時間切れのロマンス おわり>
[#改丁]
五時間目のホット・スポット
[#改ページ]
国際電話がつながると、英語のデジタル音声が一方的にこう告げた。
『ハロー。こちらは国防《こくぼう》産業の革命児《かくめいじ》、明日を創《つく》る戦士たちの友、ブリリアント・セーフテック社です。大変|申《もう》し訳《わけ》ございませんが、ただいま担当者《たんとうしゃ》が席を外しております。発信音のあとに、お名前とご用向き、ご連絡先《れんらくさき》をお知らせ下さい。ありがとうございました。お客様の幸運をお祈《いの》りしております』
ぴー。
「……ベアール。サガラだ。けさ小包《こづつみ》が届《とど》いたが、中身が間違《まちが》っている。俺《おれ》がおまえに頼《たの》んだのはバードマン・ウェポン・システムズ社のホームボーイ%チ殊《とくしゅ》サイトだ。そのはずが、妙《みょう》なボトルしか入っていなかったぞ。これはなんだ?」
携帯《けいたい》電話に話しかけながら、相良《さがら》宗介《そうすけ》は五〇〇ミリリットル缶《かん》くらいのサイズのボトルを手に取った。頑丈《がんじょう》なステンレス製《せい》で、円筒《えんとう》の両端《りょうはし》には強化プラスチックのカバーが付いている。強い衝撃《しょうげき》や熱にさらすことを禁じたマークが張《は》り付けられているほかは、これといった注意書きは見当たらなかった。
「マニュアルらしいものが添付《てんぷ》されているが、フランス語なので読めない。連絡をくれ。それと――例のマイアミ市警《しけい》からのクレームに反論《はんろん》するレポートを作成した。書類の送付先を知らせてくれ。以上だ」
電話を切る。昼休みの教室では、大勢《おおぜい》のクラスメートたちがわいわいと騒《さわ》ぎ、昼食を楽しんでいた。
「ソースケ。なにボソボソやってたの?」
すこし離《はな》れた席でカスタードパンをぱくついていた千鳥《ちどり》かなめが、彼に声をかけた。
「電話だ」
「そりゃそうだろうけど。どこに?」
「旧知《きゅうち》の武器商人の事務所《じむしょ》だ。ベルギーを拠点《きょてん》に、さまざまな武器取引や、新兵器の自社開発などをやっている男でな。会社は小さいが、たいていのものは仕入れてくる。『カネさえ払《はら》えば、クレムリンでも買ってきてみせる』というのが口癖《くちぐせ》でな」
「ふーん……」
「最近はソ連からの、少々|違法《いほう》な流出品《りゅうしゅつひん》も手がけているらしい。先日は『プルトニウムを買わないか』と持ちかけられた」
「ぶっ!」
かなめがカスタードを思い切り吹き出す。正面《しょうめん》に座《すわ》っていた常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が、イヤそうな顔をして席を移動《いどう》する。
「カナちゃ〜〜ん……」
「うっ。ごめん。でも、ぷ……プルトニウムって……」
「核物質《かくぶっしつ》のプルトニウムだ。だがあいにく、俺は核|爆弾《ばくだん》などに用はない。注文したのは、単なる拳銃《けんじゅう》の部品だったのだが……ベアールの奴《やつ》め。商品を間違えて発送してきたようだ。このような得体《えたい》のしれないボトルを……」
正体不明《しょうたいふめい》のボトルとフランス語の書類を、宗介は渋《しぶ》い顔で眺《なが》め回した。
「あんた、すこし自分の交友関係、考え直した方がいいんじゃない……?」
「なぜだ。ベアールはカネにはうるさく、間抜《まぬ》けなところも多いが、道義《どうぎ》は守る男だ。裏切《うらぎ》ったりはしない」
「いや、そういう問題じゃなくて――」
そのおり、校内放送のチャイムが鳴《な》った。
『二年四組の相良宗介くん!? 改修《かいしゅう》工事中の部室棟《ぶしつとう》の件で聞きたいことがあります! いますぐ職員室《しょくいんしつ》に来なさい! いい!? いますぐですよっ!?』
殺気《さっき》だった声。担任の神楽坂《かぐらざか》恵里《えり》だった。
「なんだか怒《おこ》ってるわね。あんた、またなにかやったの?」
「いや……心当たりはないが」
「工事中の部室棟、って言ってたわよ」
「…………。わからん。きのう、工事現場に『立入禁止』のロープが張《は》ってあったので、親切心から高圧電流《こうあつでんりゅう》の罠《わな》をしかけておいただけだ。まさか、それを咎《とが》めているとも思えんし――」
「咎めてるのよっ!」
すぱんっ!!
ハリセンの快音《かいおん》が響《ひび》き渡《わた》った。宗介は頭頂部《とうちょうぶ》をさすりながら、軽い舌打《したう》ちをする。
「……また見逃《みのが》した。教えてくれ千鳥。その武器は、いったいどこから――」
「やかましい! まったく、あんたは。きっと工事業者の人が罠にかかったのよ。それでカンカンになってるんだわ。ほら、立ちなさい! あたしからも説明してあげるから」
「む……」
かなめが宗介の腕《うで》をぐっとつかむ。
「もたもたしないの! さあっ!」
がたがたと宗介を引きずって、教室を出ていったかなめを、恭子はのほほんと見送った。
「行っちゃった。なんだかんだ言って、面倒見《めんどうみ》いいんだよねー、カナちゃん……」
そこでかなめたちと入れ違いに、クラスの男子の一人、小野寺《おのでら》孝太郎《こうたろう》が教室に戻《もど》ってくる。意気揚々《いきようよう》とした足取りで、えらく上機嫌《じょうきげん》の様子だった。
「いやー。買えた、買えた!」
「どしたの、オノD?」
「ハナマルパンの新製品。『爆熱《ばくねつ》・ゴッドカレーパン』。なぜか相良の声を思い出しちまうのはさておいて――いつも売り切れでさー。さっき、ようやく買えたんだ」
「変な商品名だね……」
きょとんとする恭子の前で、孝太郎はがさがさとカレーパンの包装紙《ほうそうし》を破《やぶ》った。
「半端《はんぱ》じゃない辛《から》さらしいぜ。とりあえず挑戦《ちょうせん》しとこうと思ってよぉ。では、いただきまーす! はむっ」
カレーパンにかじりつき、数秒が経過《けいか》する。もごもごさせていた口が、ぴたりと止まった。
「…………………………」
顔色が、青から赤へと変化する。恭子たちの眼前《がんぜん》で、彼はじたばたと手足を動かし、はげしく背筋《せすじ》をよじらせた。
「あー、やっぱり」
「そこまで辛いの?」
「み、水――」
震《ふる》える手が、女子の一人の小さな水筒《すいとう》をつかむ。
「あ、ごめん。それ、からっぽ」
「水……っ!!」
のたうち回るようにして、彼はすぐそばの机《つくえ》の上に放置《ほうち》してあった、ステンレス製《せい》の頑丈《がんじょう》なボトルに手を伸《の》ばした。
「あ。それ、相良くんの……」
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
恭子の制止《せいし》も開かずに、孝太郎はボトルをこねくり回し、どうにかフタを外して、栓《せん》をぐいっとねじ開けた。
ばしゅー……
空気の抜ける音。一気にその中身を飲もうと、彼は口をつけボトルをぐいっとあおる。
水やお茶は出てこなかった。
代わりに、どろりとした液体《えきたい》と、親指くらいの大きさの固形物《こけいぶつ》が口中に滑《すべ》りこんできた。
「あがっ……!? ぐっ?」
咬《か》んでみると、固形物はプラスチックかなにかのカプセルだった。液体の味も、ひどい苦さだ。ボトルの中身が飲料水《いんりょうすい》ではないことに気付いて、孝太郎は口の中身を教室の隅《すみ》のバケツの中へ吐き出した。
「なんだこりゃっ!? ぺっ……ぺっ!!」
「うわー、ばっちい」
「水をくれ〜〜っ!」
なおもあわてふためく彼を、クラスメートたちはのんきに笑った。
「ほらオノD、これ飲みなよ」
恭子が麦茶《むぎちゃ》の缶《かん》を差し出す。
「あぁっ、サンキュ。……ふう。いやー、参《まい》ったぜ。ちょっとこのカレーパン、辛すぎだよ!? ぜってぇムリ。二度と買わねえって。なに考えてんだ、あのパン屋」
「だってそういう触《ふ》れ込みなんでしょ? 辛いに決まってるじゃない。バカだなぁ、もう」
恭子が朗《ほが》らかに言うと、孝太郎はちょっとばつが悪そうに頭をかいた。
「ん。そうだよな。みっともないトコ見せちまった。ははは……」
周囲《しゅうい》の生徒たちものんきに笑う。
「これに懲《こ》りたら、気を付けなよ?」
「まあ、オノDらしいけどね」
「そうそう。せっかちなんだから」
「うへぇ、ひどいなあ。おれ、激辛《げきから》はもうコリゴリだよう」
『あっはっはっは』
……などと、教育テレビ系の学園ドラマのオチみたいなヌルめの会話を交わし、一同は快活《かいかつ》に笑った。
気のいい仲間たちの、憩《いこ》いのひととき。
窓の外は穏《おだ》やかな晴れで、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
平和な平和な昼休みであった。
ただひとつ――教室の隅のバケツの中で、その亀裂《きれつ》からぶくぶくと不気味《ぶきみ》な泡《あわ》を噴《ふ》くカプセルの存在《そんざい》を除《のぞ》けば。
●
「唐突《とうとつ》ですまないが――」
五時間目の英語の授業《じゅぎょう》がはじまってしばらくしてから、宗介がいきなり席を立ち、教室内の一同に大声で告げた。
「だれか。このボトルの中身がどうなったか知らないか……?」
右手にはからっぽのボトル、左手には図書室から借りてきたフランス語の辞書《じしょ》。彼の顔は真っ青で、脂汗《あぶらあせ》がびっしりと浮《う》かんでいた。なにやら、ただならぬ様子《ようす》である。
「なんです、相良くん? 授業中《じゅぎょうちゅう》ですよ? 終わってからにしなさい!」
英語の担当教師でもある神楽坂恵里が、厳《きび》しい口調《くちょう》で注意した。
「そのご命令《めいれい》には従《したが》えません」
「なにを――」
「非常《ひじょう》に重大な問題なんです。――だれか、正直に言ってくれ。このボトルの中身をどうした[#「このボトルの中身をどうした」に傍点]? 怒ったり、賠償《ばいしょう》を求めたりはしないと約束《やくそく》する。はやく名乗り出るんだ……!」
恭子たちの視線《しせん》が小野寺孝太郎に集まる。彼は気まずそうに、おずおずと手を挙《あ》げた。
「あー……。ごめんな、相良。それ、水筒と間違えちまってさ」
宗介はそれを咎めるというより、もっと切迫《せっぱく》した様子で、
「中身はどこだ!?」
と、叫《さけ》んだ。
「あそこだよ。掃除用具《そうじようぐ》入れの前のバケツに――」
孝太郎の言葉が終わらないうちに、宗介は大股《おおまた》でバケツのそばに歩み寄り、その中を覗《のぞ》くやいなや、
「……っ!!」
と、声にならない声を漏《も》らした。
「ソースケ? どうしたのよ?」
成《な》り行きを見ていたかなめがたずねる。
「あとで説明する。とにかく、この教室を出るな。ロッカーに行く。すぐ戻る。いいな、絶対《ぜったい》にこの部屋を出るなよ!?」
「? どういう――」
引き留《と》める間もなく、宗介は教室を飛び出していった。
「なんなのよ、あいつは?」
「ほっときなさい、千鳥さん……」
神楽坂恵里が肩を震《ふる》わせ、つぶやいた。
「さんざ騒《さわ》ぎ立てた挙《あ》げ句に授業|放棄《ほうき》だなんて……。なんて態度《たいど》かしら! そりゃあ海外育ちで、英語なんて勉強するまでもないんでしょうけどね、だからって、こんな……こんな……」
めらめらと、怒《いか》りのオーラを立ちのぼらせる恵里。ざわざわと、騒ぎ立てる生徒たち。
「静かに! 授業に戻りますよ!?」
恵里が宣言《せんげん》し、英語の授業が再開される。
だがその三分後、宗介は早々と教室に引き返してきた。
「相良くん!? なんなんです、出たり入ったり! いったい、どういう了見《りょうけん》で――」
扉《とびら》を開けて入ってきた宗介の姿を見て、恵里は言葉を失った。
真新しいガスマスク。全身をくまなく覆《おお》った、黄色の作業着《さぎょうぎ》。いや、これは――もっと特殊《とくしゅ》な防護服《ぼうごふく》だ。消防服を連想《れんそう》させる、ずんぐりしたシルエット。『物々《ものもの》しい』というよりは、『禍々《まがまが》しい』という形容の方がふさわしい風情であった。
『(ゴー……ホー)遅《おそ》くなりました、先生』
ガスマスク越《ご》しのくぐもった声で、宗介が言った。
「…………。なんなの、その格好《かっこう》は?」
『(ゴー……ホー)NBC防護服です』
説明になっていない。
「……だからなんなの、その格好は?」
[#挿絵(img2/s06_199.jpg)入る]
『待って下さい。その前に――』
「ちょ、ちょっと……?」
クラスの一同が見守る中、得体《えたい》のしれない防護服姿の宗介は、教室の奥へとのしのし歩いていった。分厚いビニールのバックを広げ、その中に、例のバケツを慎重《しんちょう》に入れる。
『みんな、下がっていろ』
消火器《しょうかき》によく似たボンベを取り出し、バケツのおいてあった辺りに、なにかの洗浄液《せんじょうえき》を吹き付ける。さらに教室のあちこちを歩き回り、黒いテープで、窓や戸などの隙間《すきま》をことごとく封《ふう》じて回った。
「なんだ……?」
「おいおい……」
いつもとは違う、彼の異様《いよう》な行動に、クラスの全員が気圧《けお》されていた。バケツの入ったビニールのバックをつまんで、宗介は教壇《きょうだん》の方へと戻っていく。
「相良くん、あなたね……!?」
『いま説明します』
恵里の叱責《しっせき》をさっと手で制《せい》し、宗介は厳《きび》しく告げた。
『二年四組の生徒|諸君《しょくん》。申し訳《わけ》ないが、英語の授業は急遽《きゅうきょ》中止させてもらう』
「なにを言ってるんです!?」
『みんな、落ち着いて聞いてくれ。この教室内で、重大な災害《さいがい》が発生した。某国《ぼうこく》の研究所で試作《しさく》された細菌兵器が、専用のカプセルから漏洩《ろうえい》したのだ』
そう言って、彼はビニール袋《ぶくろ》の中の汚染《おせん》されたバケツを掲《かか》げてみせた。
「……細菌兵器?」
『肯定《こうてい》です、先生。最先端《さいせんたん》のバイオテクノロジーが生み出した、非常《ひじょう》に危険なバクテリアです。貪欲《どんよく》にして獰猛《どうもう》。人体に空気感染したら、獲物《えもの》を食らい尽《つ》くすまで、決して活動をやめない……マニュアルにはそうあります』
「それが、この教室に?」
『はい』
「感染してるの? わたしも? わたしの生徒たちも?」
『おそらく。残念ながら』
沈痛《ちんつう》な声で宗介が答えると、恵里はしばらくの間、視線《しせん》を宙《ちゅう》に泳がせてから――
「……うーん」
ぱったりとその場に倒れ、動かなくなった。
『これはただの失神《しっしん》だ。静かに! みんな、落ち着くんだ!』
パニック状態《じょうたい》になって騒《さわ》ぎ立てる生徒たちに向かって、宗介は叫んだ。
「落ち着けるわけがないじゃないかっ!!」
「殺人ウイルスですって?」
「なんでそんな代物《しろもの》が学校に!?」
「どうなってんのよ!?」
生徒たちは口々に怒鳴《どな》った。ほとんど涙声《なみだごえ》である。
『いいから、取り乱すな! この教室を出ることもいかん! あわてても騒いでも、事態《じたい》は改善《かいぜん》しないぞ!』
「だまれ、相良!」
男子の一人が、ずんぐりとした格好の宗介をびしりと指さす。
「おまえ一人だけ、そんな立派《りっぱ》な防護服とマスクを着けといて……なにが『取り乱すな』だ!?」
『言いたいことはわかる。だが細菌兵器について、わずかなりとも知っているのは俺だけだ。すでに俺も感染している可能性《かのうせい》はあるが、少しでもその確率《かくりつ》を――』
「うるさい! 自分だけ助かればいいのか!? なんて奴《やつ》だ、見損《みそこ》なったぞっ!」
「そうだ、そうだっ!」
「本当、ゲンメツよねっ!?」
非難《ひなん》の集中|砲火《ほうか》。
宗介はしばしの間、教壇《きょうだん》に無言《むごん》でたたずんでいたが、やがて強い意志《いし》をこめて、こう言った。
『いいだろう』
一同の前で、彼はおもむろに仰々《ぎょうぎょう》しいガスマスクを外した。空気の漏《も》れる音がして、彼の素顔《すがお》が外気にさらされる。
「あ……」
「これで理解《りかい》してもらえたか。……俺は我《わ》が身かわいさで、こうして指図《さしず》しているわけではない。一人の戦闘《せんとう》のプロとして、ただ事態《じたい》を悪化させまいと努力しているだけだ」
『…………』
「いいか、みんな。憎《にく》しみを捨ててくれ。これからのことを考えるためにも、だれかを恨《うら》もうとするのはやめるんだ。この悲劇《ひげき》は、だれのせいでもないのだから……」
珍《めずら》しいくらいの真摯《しんし》な声で、切々《せつせつ》と諭《さと》して聞かせる宗介。それまで激昂《げっこう》していたクラスメートたちは、そろって口をつぐむと、肩を震わせ、うつむいた。
「相良……」
「わかってくれたか、みんな」
全員が彼をきっとにらんだ。
『お・ま・え・のっ!! せいだろうがっ!!』
約半数の生徒たちが教壇に殺到《さっとう》し、宗介に拳《こぶし》と蹴《け》りとハリセンの雨を降らせる。連載《れんさい》開始から六巻目にして最大級の、仮借《かしゃく》ない暴力《ぼうりょく》の嵐《あらし》に抗《こう》することもかなわず、彼はたちまち血を吐《は》いて昏絶《こんぜつ》した。
「……まったく!!」
暴徒《ぼうと》たちの先陣《せんじん》を切って、宗介にせっかんの限りを尽《つ》くしていたかなめが、ぜいぜいと肩で息して言った。
「銃《じゅう》や爆弾ならまだしも――細菌兵器ですって!? なんて物騒《ぶっそう》なモノを持ち込むのよ!?」
「いや、銃や爆弾も、じゅうぶん物騒だと思うけど……」
恭子がぼそりとそばでつぶやく。
「だいたい何なの? 獰猛《どうもう》な細菌ってだけじゃ、さっぱり事情がわからないわ。だれか、気分の悪い人いる!?」
かなめが一同にたずねる。手を挙《あ》げた者はいなかった。
「…………。保健室に行こっか。とりあえず、西野《にしの》センセに相談を――」
「それは、やめた方がいいと思うよ」
かなめの言葉を遮《さえぎ》り、暗〜い声で言ったのは風間《かざま》信二《しんじ》だった。宗介を除《のぞ》けば、クラス中では最もこの手の問題に詳《くわ》しい人物である。
「なんで?」
「相良くんが『この教室を出るな』って言ったのは、汚染《おせん》が広がるのを心配したからだよ。空気感染するって言ってたよね? 僕たちがぞろぞろと教室を出ていったら、ほかのクラスのみんなにも、細菌が感染するかもしれない。学校中が汚染|地域《ちいき》になってしまう」
しごく真面目《まじめ》な彼の話を聞いて、かなめたちは不安げに顔を見合わせた。
「で……でも、みんな、具合《ぐあい》とか悪くないわよ? いくらなんでも、そんな大げさな」
「細菌兵器の特徴《とくちょう》は、感染してから発症《はっしょう》するまで、ある程度《ていど》時間がかかることなんだ」
眼鏡《めがね》をきらりと光らせて、信二は言った。
「だから軍用としては、もともと実用性が低いわけなんだけど……。その殺傷力《さっしょうりょく》は恐ろしい。戦術目標はさておいても、戦略的《せんりゃくてき》には深刻《しんこく》で、『貧者《ひんじゃ》の核爆弾《かくばくだん》』なんて呼ばれることもあるくらいなんだ。中東の某国《ぼうこく》で、エボラ・ウイルスの軍事利用が研究されてると聞いたことがある。もしかしたら、それかもしれない」
「エボラ? あの、全身から血を噴《ふ》き出して死んじゃうっていう、アレ?」
「そう。別名『人食いウイルス』だよ。断定《だんてい》はできないけど、いずれにせよ、無事《ぶじ》では済まないだろうねぇ……フフフ」
不気味《ぶきみ》に笑って、ここぞとばかりに存在感をアピールする信二。クラスの一同は『こいつ、こんなキャラだったか?』と思いながらも、みな一様に戦慄《せんりつ》した。
「そんな……そんな……」
「いやだ、死にたくない」
「お、お母さぁ〜〜ん!」
一部の生徒たちが取り乱《みだ》し、われ先に教室の出口へと殺到《さっとう》する。だが宗介の施《ほどこ》した頑強《がんきょう》な封印《ふういん》テープは思いのほか頑丈《がんじょう》で、なかなか戸が開かなかった。
「みんな、待ちなさい! 話を聞いてなかったの!? 教室を出ちゃダメよっ!!」
戸の前で押《お》し合いへし合いをする級友《きゅうゆう》たちに向かって、かなめは怒鳴《どな》りつけた。それでも混乱《こんらん》は収まらない。
「ああ、もう! お・ち・つ・けって――」
彼女は教卓《きょうたく》を両手でつかみ、渾身《こんしん》の力で持ち上げた。たった一人で。
[#挿絵(img2/s06_207.jpg)入る]
「――言ってるでしょうがっ!!」
人の群《む》れめがけて、教卓をぶん投げる。机や椅子《いす》をなぎ倒《たお》し、床を弾《はず》む教卓が生徒たちを蹴散《けち》らした。
『うわぁあぁっ!』
「はあっ……はあっ……。もう一度言うわよ!? 見苦しいマネはやめなさいっ!!」
鬼気《きき》迫《せま》る形相《ぎょうそう》でかなめが叫ぶと、一同はとりあえず静かになった。
「刹那的《せつなてき》な行動で、ほかのクラスのみんなまで感染させる気? 被害《ひがい》が広がるだけよ!?」
「で、でもよう……」
男子の一人が半泣きで言った。
「『でも』じゃない! 考えてみなさい。この災害《さいがい》を、後の歴史がどう判断《はんだん》するか。ここであたしたちが取り乱して、汚染を学校中に広めたとしたら――人々はあたしたちを永遠に軽蔑《けいべつ》し続けるわ。それでもいいの!?」
「…………」
かなめは祈《いの》るように胸の前で両手をくみ、聴衆《ちょうしゅう》へと語りかけた。
「恐《こわ》いのはあたしも同じよ。どうせ死ぬのなら、その前に商店街の『おはいお屋』で、トライデント焼きを思うさま食べておきたい。駅前の立ち食いソバ屋に行って、前から一度やってみたかった――卵とコロッケと天ぷらとかき揚《あ》げとちくわ揚げとワカメ――およそ思いつく限りすべてのトッピングを施《ほどこ》した、超豪華《ちょうごうか》なソバを堪能《たんのう》してから、思い残すことなく死んでいきたい。そう思うわ……」
「案外《あんがい》、お手軽な人生だね……」
「しかしっ!」
恭子の指摘《してき》は無視《むし》して、かなめは拳《こぶし》をぎゅっと握りしめた。
「それではいけないのよ。滅《ほろ》びに直面しても、あたしたちは理性《りせい》をもって、それに立ち向かうべきなの。同胞《どうほう》たちの無事《ぶじ》を願いながら、我《わ》が身を『運命』という生け贄《にえ》の祭壇《さいだん》にささげる、その心。その高潔《こうけつ》な精神の輝《かがや》きこそが、この暗い世相《せそう》に光をもたらすのよ。それができてこそ、人間なんじゃないのっ!?」
『おお……』
一同は感嘆《かんたん》し、壇上《だんじょう》のかなめにまばらな拍手《はくしゅ》を送った。
「千鳥さん。君の言うとおりかもしれない」
「そうよね。みっともない真似《まね》はやめましょう……」
「辛《つら》いけど、俺たちが我慢《がまん》すればいいことなんだよな……」
瞳《ひとみ》をうるうるとさせて、二年四組の生徒たちはうなずき合う。かなめもぼろぼろとこぼれる涙《なみだ》を、袖口《そでぐち》で拭《ぬぐ》った。
「ありがとう、みんな……。あたしはみんなを誇《ほこ》りに思うわ。乱暴《らんぼう》なことばかり言って、ごめんね……」
「なにを言うの、千鳥さん。悪かったのはわたしたちよ」
「大丈夫《だいじょうぶ》さ。俺たちみんな、仲間じゃないか」
「一人で死ぬわけじゃないんだ。恐くなんかないよ……!」
美しくもはかない友情の発露《はつろ》。肩を抱《だ》き合い、四〇人の生徒たちがむせび泣く。
そこで、教室の片隅《かたすみ》にうち捨てられていた宗介が、むくりと起きあがった。
「…………。なにを泣いているのだ?」
「うるさいわね。あたしたちはいま、人間の善性《ぜんせい》を噛《か》みしめてる最中《さいちゅう》なの。っていうか、あんた、まだ生きてたの?」
「もちろんだ。まだワクチンの話をしてなかったしな」
「…………ワクチン?」
「送られてきた小包《こづつみ》には、この細菌兵器のワクチンが同包されていたのだ。非常時《ひじょうじ》のためだろう。これこの通り――」
宗介は、小さなアンプルと注射器《ちゅうしゃき》を取り出した。
「たった一人分だが[#「たった一人分だが」に傍点]」
教室内の四〇名が、一斉《いっせい》にぴたりと泣くのをやめた。肩を抱《だ》き合っていた者はその相手から離《はな》れ、じりじりと、身体を低《ひく》くして跳躍《ちょうやく》に備《そな》えた。
「…………」
一本のワクチンに、四〇人の視線《しせん》が集中する。互《たが》いを牽制《けんせい》し合うような目と目と目……。いまでは『美しい友情』という軒先《のきさき》に、ことごとく『本日休業』の札《ふだ》がかかっていた。
「どうしたんだ、みんな?」
怪訝顔の宗介の横で、かなめが目《め》の幅涙《はばなみだ》がぶわーっと流す。
「ソースケ。あんたって……あんたって……。本っ当に物事《ものごと》がマイナスになることしか、してくれないのね……」
「? なんのことだ?」
「もういい……」
何人かの、血気《けっき》にはやった生徒たちが飛びかかってくる前に、かなめは黒板を『ごんっ!』と叩《たた》いた。
「くじ引きで決めましょうっ!」
有無《うむ》をいわさぬ声で、高らかに宣言《せんげん》する。
「それで恨《うら》みっこなし! そのだれか一人だけでも、生き延《の》びることを良しとするの! いいわね!?」
「う……それは……」
「まあ……仕方《しかた》ないよね」
「当然だろ。それでいいよ」
それぞれ納得《なっとく》する生徒たち。
「よし! じゃあ、さっそく始めましょ!」
ノートの切れ端《はし》を四二枚用意して、一枚だけに赤丸を付ける。それから全部を紙袋《かみぶくろ》に入れて、念入りにかき回す。
準備完了《じゅんびかんりょう》。
かなめが持った紙袋に、生徒たちが一人ずつ手を突っ込んでは、くじを引いていく。
はずれ。はずれ。はずれ……。
そのたびに絶望的《ぜつぼうてき》な泣き声や、悲痛《ひつう》なうめき声、空虚《くうきょ》な笑い声があがる。
「うっ。もう……ダメだぁ〜〜」
「あたしクジ運、最悪なのよね……」
「ああ、やっぱり。……ははは」
はずれを引いた連中の、その後の行動《こうどう》は様々だった。肩を落として遺書《いしょ》をしたためる者、携帯《けいたい》電話で涙《なみだ》ながらに家族に別れを告げる者、意中《いちゅう》のクラスメートに愛を告白する者、未完成《みかんせい》の原稿《げんこう》を決死《けっし》の形相《ぎょうそう》で仕上《しあ》げにかかる漫研《まんけん》部員……。
だが、不平を漏《も》らす者は一人もいなかった。従容《しょうよう》とした態度《たいど》で、それぞれ運命を受け入れようと努めている。まことにもって、あっぱれな若者たちであった。
恭子もはずれだった。彼女は悲しそうに微笑《ほほえ》んで、『辛《つら》いけど平気だよ。楽しい毎日だったし……』と健気《けなげ》に言った。
かなめはこらえきれず、またも涙をはらはらとこぼした。
「ごめんねキョーコ……。ひどいよね。こんなことって……こんなことって……」
「いいから。カナちゃんも引きなよ。ね?」
「えっぐ……いいの。あたしは最後で。……あと一五人くらいかな。ソースケは……?」
「では、とりあえず」
宗介が、おもむろに紙袋の中を探《さぐ》った。彼がつまみ上げた紙片《しへん》を見ると――
「む……」
しっかりと、赤丸が書き込んであった。
「当たりだな」
「当たり……?」
「ああ。当たりだ」
クラスの全員が、口を半開きにして彼に注目《ちゅうもく》した。宗介は何度かうなずき、一同に向かって、同情のこもった声で言った。
「そういうわけだ。みんな、すまない」
すべての元凶《げんきょう》のこの物言《ものい》い。
瞬間《しゅんかん》、すさまじい怒《いか》りのオーラが教室中に満ちあふれる。羽虫《はむし》や蚊《か》だったら、そこを飛んでいるだけで気死《きし》するのではないかと思えるほどの、猛烈《もうれつ》な殺気《さっき》だった。
「……あのさ。それってさ。なんか、メッチャクチャ納得《なっとく》いかないんだけど……」
「大抵《たいてい》のことは我慢《がまん》できるけどね……こればっかりは……」
「細菌に冒《おか》されて死ぬ前に、この宇宙《うちゅう》の不条理《ふじょうり》で狂《くる》い死《じ》にしそうだわ……」
彼らは低く押し殺した声で言った。
宗介はむっつり顔のまま、彼らをなだめるように両手を挙《あ》げた。
「気持ちはよくわかる。だが約束しよう。俺はこの悲劇《ひげき》を決して忘れない。兵器の開発者にデータを送り、二度とこのような間違いが起きないように、きびしく通達《つうたつ》しておく。だから――」
『だから、なんだ……!?』
「運命を受け入れ、心静かに――」
『その前に、おまえが死ね―――っ!!』
ワクチンを握《にぎ》った宗介めがけて、激昂《げっこう》した生徒たちが四方八方から襲《おそ》いかかる。今度ばかりは本当に殺される――そう思ったらしく、宗介は手近な机《つくえ》を踏《ふ》み台にして、ひらりと彼らの突進《とっしん》を飛び越《こ》した。
「待て。それよりも――」
『問答無用《もんどうむよう》っ!!』
もはや是非《ぜひ》もない。ただ単純に、宗介に然《しか》るべき報復《ほうふく》をもたらそうとする者、それを止めようとする者、どさくさにまざれてワクチンを奪《うば》おうとする者――それぞれが入り乱れ、つかみ合い、手前勝手《てまえがって》に叫《さけ》び合う。教室の中を駆《か》けめぐる宗介と、鬼《おに》の形相《ぎょうそう》でそれを追う生徒たち。
阿鼻叫喚《あびきょうかん》、混乱《こんらん》のるつぼであった。
「この野郎《やろう》、抵抗《ていこう》する気かっ!?」
「そのワクチンを寄こせ!」
「あたしの青春を返して――っ!!」
ここまで来ると、かなめの力をもってしても、修羅道《しゅらどう》に墜《お》ちた級友たちを鎮《しず》めることは不可能《ふかのう》だった。彼女の悲痛《ひつう》な訴《うった》えも、彼らの耳には届《とど》かない。
「みんな、やめてよ!? これ以上あたしを失望《しつぼう》させないで! クジなんてやり直せばいいじゃない。……っていうか、いい加減《かげん》にしろってのよ、このバーローっ!!」
ついには彼女も逆《ぎゃく》ギレして、ひっつかんだパイプ椅子《いす》を振《ふ》り回した。事態《じたい》をおろおろと見守っていた気弱なタイプの生徒たちも、争乱《そうらん》に巻き込まれて走り回る。
そのおり――
「やかまし―――いっ!!」
教壇側《きょうだんがわ》の教室の戸が、勢《いきお》いよく『ばしんっ!!』と開け放たれた。宗介の貼《は》っておいたシールが、度重《たびかさ》なる酷使《こくし》ではがれたのだろう。
戸口に立っていたのは、古文担当の藤咲《ふじさき》教諭《きょうゆ》だった。となりの二年三組で、授業《じゅぎょう》をしていたはずだ。
「いったい、何の騒《さわ》ぎだっ!? 学級|崩壊《ほうかい》の小学校じゃあるまいし、教育をナメるのもたいがいにしろっ! 近頃《ちかごろ》のガキは殴《なぐ》られないからって調子《ちょうし》に乗りおって――貴様《きさま》ら全員、落第《らくだい》にしてやろうか、あぁっ!?」
こめかみに青筋《あおすじ》を立てた藤咲を、二年四組の全員がきっとにらみつけた。
「あ、開けちゃった。空気感染なのに……」
風間信二が絶望的《ぜつぼうてき》な声でつぶやく。
「なんてことを……」
「藤咲……やってくれたな、コラ」
「もうおしまいだ……」
一同の異様《いよう》な反応《はんのう》を見て、藤咲はわけもわからず後じさる。
「な、なんだ……?」
『も……もう汚染地域がどうのなんて、知ったことかぁ――――っ!』
古文の教師を思い切り突《つ》き飛ばして、何人かの生徒が廊下《ろうか》へと駆《か》けだしていく。
「ちょ……待ちなさい、みんな!!」
かなめの制止《せいし》も聞こうとしない。
「うるさーいっ! お、おれが告白したいのは、一組の佐伯《さえき》さんじゃぁ〜〜っ!」
「お、おれは六組の美樹原《みきはら》さんだっ!」
後先を顧《かえり》みない魂《たましい》叫《さけ》び。
「屋上で空を見つめて死にたい」
「せめてお茶を飲みたいわ……」
「職員室で暴れてやる……っ!!」
それぞれが秘《ひ》めた熱い想《おも》いを胸に――走る、走る、走る。ありていに言えば、走りすぎのきらいさえある。
なおもワクチンを狙《ねら》う連中《れんちゅう》をかわしながら、宗介は警告《けいこく》を発した。
「やめるんだ! 細菌兵器が……っ!」
「やかましいっ!!」
すっ飛んできた仏和《ふつわ》辞書を脳天《のうてん》に食らって、宗介が昏倒《こんとう》する。その拍子《ひょうし》に、手にしたワクチンが床《ゆか》に落ち、乾《かわ》いた音をたてて真っ二つに割れた。
「ワクチンが……!」
「おしまいだ!」
「ん……なんてこったぁ!!」
悲鳴《ひめい》をあげる何人かの生徒。しばし天をにらんだあと、すぐさま目的を考え直して、教室の外へとまっしぐらに走っていく。宗介の存在など、忘れたかのようだった。
この切り替《か》えの素早《すばや》さ。
「むう……恐《おそ》るべき状況判断力《じょうきょうはんだんりょく》だ……」
「感心してる場合じゃないでしょ!? 感染した連中が学校中に放たれちゃったのよ? どうする気っ!?」
気付けば、教室はがらんとしていた。みんな勝手に出ていってしまったのだ。部屋の片隅《かたすみ》で、神楽坂恵里が、いまだに昏々《こんこん》と眠っているのみだ。
「……参った」
「まいったじゃないわよ!」
かなめは宗介を蹴倒《けたお》した。
「……最後の最後までこの調子。なんて人生だったのかしら。でも、あんたの起こす厄介《やっかい》事《ごと》からも、これで解放《かいほう》されるわけよね。嬉《うれ》しいやら悲しいやら……ぐすっ……」
さめざめと泣くかなめの横で、宗介は冷静に仏和辞書を開き、フランス語のマニュアルを読み出した。
「……なにやってんの?」
「フランス語は知らないので、まだマニュアルの一部しか読めていなかったのだ。もうすこし調べれば、なにか対策《たいさく》が講《こう》じられるかもしれない。とにかく、この細菌兵器の具体的《ぐたいてき》な効果《こうか》を知らないことには……」
マニュアルをめくっていた手が、ぴたりと止まる。そのページの文章を、彼は辞書の助けな借りながら注意深く読んでいった。
「……千鳥」
「なによ」
「ついてきてくれ。今すぐだ」
「? ちょ、ちょっと……」
「急げ!」
宗介はかなめの手を引いて、早足で廊下を歩いていった。階段を下りて、南校舎の保健室《ほけんしつ》へ。養護教諭《ようごきょうゆ》は留守《るす》らしく、保健室にはだれもいなかった。
彼は部屋を仕切るカーテンをさっと引き、かなめに告げた。
「制服を脱《ぬ》いでくれ」
「え?」
「脱ぐんだ」
有無《うむ》をいわさぬ強い口調。彼の顔と、白いベッドとを交互《こうご》に眺《なが》め、かなめは思い切りうろたえた。
「な、なに言ってんのよ!? これから死ぬからって……そ、そんな、いきなり。あ、あたしにも心の準備《じゅんび》とか選ぶ権利《けんり》とか……。それに、こんな場所で……。だめ。やだよ……。いくらなんでも――」
「いいから、早く脱ぐんだ!!」
焦燥《しょうそう》をあらわにして、宗介が言った。
常盤恭子は、一人でふらふらと校舎内をさまよい歩いていた。
見慣《みな》れた校舎。よく知った空気。
これが見納《みおさ》めだと思うと、不思議《ふしぎ》なほどにいとおしく、切なく思えた。
自分が細菌兵器に感染しているなどとは、いまでもまるで実感《じっかん》がわかなかった。とはいえ、頭がなんとなく熱っぽいような気もする。これが殺人ウイルスの効果《こうか》なのだろうか?
「ん……う……」
そのおり、教室の近くの水飲み場に、生徒が一人、力なく膝《ひざ》をついているのが見えた。
小野寺孝太郎である。
「お……オノD?」
ただならぬ孝太郎の様子《ようす》に気づき、恭子は彼に取りすがった。
「よ……よお、常盤ぁ……」
熱に浮《う》かされたような声で、孝太郎は言った。たちまち、恭子は気付く。宗介の持ちこんだボトルから、問題の細菌を最初に漏洩《ろうえい》させたのはだれか? あまつさえ、それを口に入れてしまったのはだれだったか?
とうとう、発症の時が来たのだ。
「オノD! しっかりして!?」
「しっかりって……難《むずか》しい注文だなあ……」
「小野寺くん……!」
「なんだか……一番乗りで、悪いみたいだ。おれ……おまえが泣いてるの、はじめて見たような気がする」
「やだ、やだよう……。小野寺くん」
大きな瞳《ひとみ》から涙をこぼし、恭子は彼に取りすがった。
「最後だから言うよ。おれ……たぶんさ、おまえのこと……おまえのこと……」
「小野寺くん……」
告白魔《こくはくま》の孝太郎とはいえ、末期《まつご》の台詞《せりふ》だ。真摯《しんし》な気持ちで、恭子が次の言葉を待っていると、彼は不意《ふい》に眉《まゆ》をひそめ、声色《こわいろ》を変えた。
「おまえのこと。んー。あれ?」
おもむろに立ち上がり、首を上下左右にこきこきと鳴《な》らす。涙目で、次の言葉を待っていた恭子が、すがるようにたずねた。
「あたしのことが……なに? どしたの?」
「ん? ああ……おっかしいなぁ。妙《みょう》に肩《かた》やら腰《こし》やらが、すっきりとしたような……なんだか爽快《そうかい》な感じだ……お?」
孝太郎がすっくと立ち上がった。
その直後――彼の制服の右肩から下が、ぽろりと崩《くず》れ、地面に落ちた。
「……おっ?」
右の袖《そで》だけではない。左腕《ひだりうで》も、両足も、胸も、腰も――制服全体が、砂糖菓子《さとうがし》のように崩《くず》れ落ちていくのだ。
「え……あれっ? おいおいおい……」
残ったのは、虎縞《とらじま》のトランクスと白いタンクトップ一枚だけだった。
「せ、制服が……」
「ど、どうなってるの?」
恭子が顔を赤らめて困惑《こんわく》していると、半裸《はんら》の孝太郎が目を剥《む》き、彼女の肩を指さした。
「お……おい、常盤!」
「え?」
ごそっ。
恭子の制服が、同じようにして崩れはじめる。上着が、ブラウスが、スカートが――
「え? え? ええええ? やっ……!?」
くずれかけたチェックの下着だけを残して、彼女が身につけていたほとんどの衣類《いるい》が床《ゆか》に落ちていった。孝太郎の眼前で、恭子の白く、華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》がみるみるあらわになっていく。
たちまち水飲み場に、恭子の悲鳴《ひめい》がこだました。
『――いいか、サガーラ。ウイルスじゃない、バクテリアだ!』
電話の向こうで、<ブリリアント・セーフテック> 社のベアール社長が強調《きょうちょう》した。
「それがどう違うというんだ」
『知らないのか? プラスチックとかの石油製品を分解《ぶんかい》するバクテリアが、前から注目されてただろう。あれを軍事《ぐんじ》利用しようとした、バカな研究者がいたんだよ。その過程《かてい》で、変な性質《せいしつ》の細菌が生まれたんだ』
「それが、あの細菌兵器だというのか?」
『そうだ! あのバクテリアは、常温《じょうおん》ではほとんど無害《むがい》で脆弱《ぜいじゃく》な存在なんだが……ある特定の温度――摂氏《せっし》三六度付近でのみ、驚異的《きょういてき》なレベルで増殖《ぞうしょく》・活性化《かっせいか》するんだ。つまり人間の体温だよ。このフルモンティ・バクテリア≠ヘ宿主《やどぬし》にしがみつきながら、特定《とくてい》の石油|製品《せいひん》――ポリエステルやナイロン[#「ポリエステルやナイロン」に傍点]を、徹底的《てっていてき》に食い尽《つ》くす性質がある。そういう意味では、とてつもなく獰猛《どうもう》な細菌なんだ!』
ポリエステル。ナイロン。
いうまでもなく、人間の衣類を構成《こうせい》する繊維《せんい》のことだ。
「……対策は?」
『ない! ワクチンだけだ! ほぼ一二時間後には自死《じし》するが、それまで石油製品を身につけてはいかん! コットンやシルクじゃなきゃ、ダメだ! 特にポリエステルは、フルモンティ菌《きん》の最高の大好物なんだ!』
「やはり。そうだったか……」
『だが喜べ。副作用《ふくさよう》は肩こり、腰痛《ようつう》がとれることだ。だから――』
「おとしまえは後で付けよう」
電話を切る。
宗介もNBC防護服の下で、制服がぼろぼろになっているのがよくわかった。
「で? つまり、どういうことなのよ?」
カーテンの向こうでかなめが言った。脱いだ制服が、そばのハンガーにかかっている。保健室にあったタオルケットは綿《めん》一〇〇パーセントなので、それを身体《からだ》に巻いておくように、彼女には言っておいたのだが――
「少なくとも、死に至《いた》る病ではなかった、ということだ」
「はあ。そうなの」
「だが、いずれにしても――」
学校中のあちこちから、悲鳴と怒号《どごう》が聞こえてくる。細菌兵器の犠牲者《ぎせいしゃ》たちの断末魔《だんまつま》だ。
チャイムが鳴った。
五時間目が終わったほかのクラスの生徒たちが、廊下に出てきて騒《さわ》ぎはじめる。
さらなる感染が始まった合図《あいず》だ。
これから一時間後、どんな地獄絵図《じごくえず》がこの校内で繰《く》り広げられることか……。すべてが終わったその後に、自分がどんな袋叩《ふくろだた》きの目に遭《あ》うか……。
「いずれにしても――俺の命は、そう長くない」
絶望的な声で、宗介は言った。
[#地付き]<五時間目のホット・スポット>
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女神の来日(受難編)
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地下に設《もう》けられた広大な潜水艦《せんすいかん》ドックの上層に、質素《しっそ》な整備監督所《せいびかんとくじょ》がある。傷《きず》ついた巨大《きょだい》な艦を一望《いちぼう》の下《もと》に見渡《みわた》せるそのスペースに、一人の少女と一人の中年男がいた。
強襲揚陸《きょうしゅうようりく》潜水艦 <トゥアハー・デ・ダナン> の艦長、テレサ・テスタロッサ大佐《たいさ》と、副長のリチャード・マデューカス中佐である。
「――と。修理《しゅうり》の内容はこれで全部かしら」
クリップボード型の電子|端末《たんまつ》の液晶画面《えきしょうがめん》をつつきながら、テッサ――テレサ・テスタロッサが言った。
「はい。お疲《つか》れさまです、艦長」
マデューカスが言った。
ペリオ諸島での作戦の帰り道に遭遇《そうぐう》した事件で、深刻《しんこく》な損傷《そんしょう》を受けた艦は、大規模《だいきぼ》な修理工事を行う必要《ひつよう》があった。完全《かんぜん》自動モードの無茶《むちゃ》な使用、実用|限界深度《げんかいしんど》への強引《ごういん》な潜航《せんこう》、至近距離《しきんきょり》での魚雷《ぎょらい》の炸裂《さくれつ》。格納庫内《かくのうこない》でのASの戦闘《せんとう》。そんな出来事《できごと》の後の、長時間の無音高速航走《むおんこうそくこうそう》……。
ここまで無理《むり》をしたのだから、厳重《げんじゅう》な検査《けんさ》と整備《せいび》を行わなければならないのは当然のことだった。確かに <デ・ダナン> は <ミスリル> が保有《ほゆう》する『超《ちょう》兵器』の類《たぐ》いだが、しょせんは機械だ。しっかり面倒《めんどう》を見てやらなければ、ただの巨大ながらくたに過《す》ぎない。
AIの自己|診断《しんだん》とマンパワーを総動員《そうどういん》し、数日かけて整備|項目《こうもく》をリストアップしたところ、幸いにして動力炉《どうりょくろ》や船殻《せんかく》の損傷は軽微《けいび》だった。主な問題は左舷《さげん》の機関部《きかんぶ》と、空気系のすべてのパイプ類の点検・交換《こうかん》、そして格納《かくのう》甲板《かんぱん》の損傷した機材《きざい》の換装《かんそう》だ。整備性も考慮《こうりょ》した設計《せっけい》のおかげもあって――概算《がいさん》では三週間弱の修理で済みそうだった。最悪、もとの機能を回復《かいふく》するまで半年以上の工事と、数億ドルの予算が必要になるのではないかと思っていたテッサは、とりあえず胸をなで下ろした。
もっとも、過酷《かこく》な実戦《じっせん》を経験した兵器の常で、新品同様には戻《もど》りそうになかった。<トゥアハー・デ・ダナン> も、前よりは老いることになるだろう。撃沈《げきちん》や大事故の憂《う》き目でも見ない限りは、その寿命《じゅみょう》が尽《つ》きるのは、まだずっと先になるはずだったが。一般《いっぱん》の人々が漠然《ばくぜん》と想像しているよりも、船というのはとても長生きなのだ。ましてや、自分が再設計したこの艦である。信頼性《しんらいせい》やタフさには、こう言ってはなんだが自信がある。
この艦が幸運にも老朽化《ろうきゅうか》できるとしたら――自分は何歳になっているのだろう? 四〇歳か? それとも五〇歳か? 旦那《だんな》さんや子供はいるのだろうか?
いや。
正直なところ、この艦と運命を共にしている限り、だれかと恋をしたり結婚《けっこん》したり、子育てしたりなんて……とても考えられないことだった。現にこうして、自分は同年齢《どうねんれい》の少女たちとはかけ離れた生活をしている。普通《ふつう》なら、学校に通って級友たちと他愛《たあい》のない話題で盛《も》り上がっているところだろうに。
そんなことを思って、テッサはため息をついた。
彼女の様子に気付いた風もなく、マデューカスが言った。
「項目は以上ですが、実作業の細かな監督《かんとく》はほかの将校《しょうこう》たちに任《まか》せるべきかと。そろそろあなたに頼《たよ》らずに、艦を扱《あつか》えるようになっていい時期です」
「まあ、そうかもしれませんけど……」
「艦の修理が済むまで、半月以上はかかります。執務《しつむ》が一段落《いちだんらく》しましたら、休暇《きゅうか》をまとめて消化されてはいかがでしょうか」
「休暇……ですか?」
「はい。この基地《きち》では、気持ちの切り替《か》えも思うようにいかないでしょう。どこか遠くで、ゆっくりと過ごすのも良いかと存じますが」
「うーん……」
テッサは無骨《ぶこつ》な潜水艦ドックの天井《てんじょう》を、しばらく眺《なが》めてから、こくりとうなずいた。
「……そうですね。ここにいると、あれこれ思い悩《なや》んではかりだし……。いいでしょう。しばらく、休ませてもらいます」
「それはよかった。さっそく手配いたしましょう」
マデューカスは小脇《こわき》のファイルケースから、数冊の旅行パンフレットを取り出し、それをぱらぱらとめくっていった。まったく、手回しのいいことである。最初から、休暇旅行を強引《ごういん》に勧《すす》めるつもりだったのだろう。そそくさとした彼の仕草《しぐさ》を見て、テッサはこっそり苦笑した。
「私も少々調べておきました。タヒチなどはいかがです? お一人が退屈《たいくつ》でしたら、護衛《ごえい》も兼《か》ねてマオ曹長《そうちょう》を同行《どうこう》させてもいいでしょう。暑いところがお嫌いでしたら、南半球の――そう、ニュージーランドなどもいい。いやいや、いっそカナダに行ってもいいかもしれません。ヴァンクーヴァーに、海軍時代の部下が経営しているホテルがありましてな。それは見事《みごと》なバラード湾《わん》の夕日が――」
「はいはい。どうもご親切に」
にわかに饒舌《じょうぜつ》になった彼を、テッサがやんわりと遮《さえぎ》った。
それからちょっと考えて、いたずらっぽく言う。
「でも、前から行きたかった所がありますから。休暇なら、そこに滞在《たいざい》するつもりです」
「さようでしたか。では、ぜひそこにお行きなさい。私に手伝えることがありましたら、どうぞご遠慮《えんりょ》なくお申し付けを。なんでも協力します」
「本当ですか?」
「もちろんです、マム」
「そう。じゃあ、頼《たの》みますけど……」
すこしもったい付けてから、テッサは休暇旅行の滞在先《たいざいさき》を告げた。それを聞いたマデューカスは――
唖然《あぜん》とし、我《われ》に返って、猛然《もうぜん》と反発した。
「いけません、艦長。私は反対です!」
「どうしてです?」
「そ、それは……いや、ともかく駄目《だめ》です。だいいちあなたともあろう方が、なぜそのような場所に? 空気は悪いし、景色《けしき》も最悪。そもそも安全かどうかも――」
「うそつき」
ぶすっとして、テッサは彼をにらんだ。
「マデューカスさん。あなた、いま『なんでも協力する』っていったばかりでしょう?」
「そ、そうは申されましてもな……」
「『ぜひお行きなさい』とも言いました」
「ですが……」
「念を押したら、『もちろんです』とも」
「…………」
「はい、決まり。じゃあ、さっそく支度《したく》にかかりましょう!……うふふ」
小躍《こおど》りしながら、艦長は宣言《せんげん》した。
●
いろいろあった夏休みが終わり、二学期に入って五日ほど過ぎた土曜日の放課後《ほうかご》。
夏休みの宿題を提出《ていしゅつ》して、ほっとしていた宗介《そうすけ》に、千鳥《ちどり》かなめが声をかけてきた。
「ソースケ。なんか疲れてるみたいね。どうかしたの?」
どうも彼女は、宗介のコンディションを見抜《みぬ》く目が鋭《するど》い。それを不思議《ふしぎ》に思いながらも、彼は答えた。
「寝不足《ねぶそく》でな。古文の宿題に苦戦していた。ぎりぎりでセーフだ」
「まだやってたの? あんた、提出物《ていしゅつぶつ》とかはきっちりやっとくタイプだと思ってたけど」
「いつもはそうだが。おとといまで、本業の方の報告書《ほうこくしょ》に時間を取られていた」
その報告書は、夏休みの最後――つい先週《せんしゅう》に起きた事件の詳細《しょうさい》を記したものだった。宗介が属《ぞく》する極秘《ごくひ》の傭兵《ようへい》組織 <ミスリル> の、強襲揚陸潜水艦 <トゥアハー・デ・ダナン> 。その船で起きた事件の顛末《てんまつ》を、あれこれと報告しなければならなかったのだ。
「ふーん。書類仕事か……。ドンパチするだけじゃないんだ。大変ねー」
「大変なのだ」
そのおり、クラスメートの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が、血相《けっそう》を変えて教室に駆《か》け込んできた。
「あ、いた。ねえねえ!」
「どしたの、キョーコ?」
「チカンが出たの! 女子|更衣室《こういしつ》!」
息を切らしつつ、恭子は叫《さけ》んだ。
「へ、変なおじさんがね、更衣室に入ってくるなり『オーマイ』なんとかだの言って。みんなが悲鳴あげたら、すたこら逃げ出したの! なんか、わけわかんないことペラペラしゃべって……」
あたふたとする恭子を、かなめが『どう、どう』となだめる。
「ちょっと。あんたの言ってるコトの方が、わけわかんないわよ」
「だって、だって……!」
「なんなの? そのチカンってのは、うちの生徒じゃないのね?」
「うん。中年のおじさん。こう、ひょろっとしてて。メガネかけてて。いかにも電車でチカンとかしてそうな……」
「教職員《きょうしょくいん》ではないのだな? つまりは部外者か」
宗介は拳銃《けんじゅう》の弾倉《だんそう》と薬室をチェックしつつ、立ち上がった。
「大胆《だいたん》な奴《やつ》だ。校内に侵入《しんにゅう》するだけでは飽《あ》きたらず、生徒会の権限《けんげん》も及《およ》ばぬ不可侵領域《ふかしんりょういき》にまで踏《ふ》み込むとは。見上げた度胸《どきょう》だな」
「そーいう表現すると、ただの変質者《へんしつしゃ》が、妙《みょう》に立派《りっぱ》な潜入《せんにゅう》工作員みたいに聞こえてくるのよね……」
ぼやくかなめの横で、恭子が懇願《こんがん》する。
「ねえ、相良《さがら》くん、捕《つか》まえて! まだ南校舎の方をウロウロしてるみたいだから」
「了解《りょうかい》した。捕縛《ほばく》する」
彼が奮起《ふんき》し、早足で教室を出ていくと、かなめが彼の後を追ってきた。
「ちょっと、ソースケ。ケガさせちゃだめよ?」
「なぜだ? 不埒《ふらち》な侵入者に容赦《ようしゃ》する必要がどこにある?」
「まあ、チカン行為《こうい》は許せないけどね。でもだからって――」
「いや。一生忘れられないような苦痛《くつう》と恥辱《ちじょく》を与《あた》え、我《わ》が校への領土侵犯《りょうどしんぱん》が、いかに高くつくかを思い知らせるべきだ」
「また物騒《ぶっそう》なことを。穏《おだ》やかにいきなさい、穏やかに」
「了解。では、穏やかに苦痛を与える」
「…………」
などと話しながら、宗介たちが南校舎の二階、職員室の近所まで来ると――
「あ。あれじゃない? 見かけない人……」
見れば、廊下《ろうか》沿《ぞ》いに設《もう》けられた長い掲示板《けいじばん》の前に、一人の中年男が立っていた。
ひょろりとした痩《や》せ形で、背は高め。グレーの地味《じみ》なスーツ姿《すがた》だったが、顔はよく見えなかった。こちらに背を向け、掲示板に貼《は》り付けられた、写真部の作品を眺《なが》めている。
雰囲気《ふんいき》は、恭子の証言《しょうげん》と一致《いっち》している。だが痴漢|行為《こうい》を働いた直後にしては、妙《みょう》に堂々としたたたずまいだ。
「千鳥、ここにいろ」
「あ、ちょっと――」
かなめが止める間もなく、宗介はその中年男の背後《はいご》へ音もなく忍《しの》び寄り――ひとこと、声をかけた。
「おい」
「?」
男が振《ふ》り向いたその瞬間《しゅんかん》、宗介は相手を乱暴《らんぼう》に投げ倒した。床《ゆか》に仰向《あおむ》けに転ばせて、その鼻先に、いつの間にか抜《ぬ》いていた銃口《じゅうこう》をぴたりと突《つ》きつける。
「…………!」
くぐもったうなり声をあげた男に向かって、宗介は冷然《れいぜん》と告げた。
「この学校に何の用だ。返答次第《へんとうしだい》では――」
そこまで言って、凍《こお》り付く。仰向けに横たわった人物を、まっすぐに見下ろしたままの格好《かっこう》で、宗介は両目を『くわっ』と大きく見開いた。
「あー、もう。結局《けっきょく》乱暴《らんぼう》しちゃうんだから。ソースケ!? ケガさせるなって言ったばかりじゃない! ちょっと、聞いてるの!?」
後ろから駆《か》けつけてきたかなめが、叱《しか》りつけてくるのも耳に入らない。
「? ソースケ……?」
顔面にぶわっと汗《あせ》が噴《ふ》き出る。意志《いし》とは無関係《むかんけい》に、肩が、腕《うで》が、銃口が震《ふる》え出す。自分のしでかした真似《まね》を、どうやって取《と》り繕《つくろ》ったらいいのか分からず、彼は無言《むごん》でその場に凝固《ぎょうこ》していた。
『What kind of greeting is that, Sergent Sagara.(変わった挨拶《あいさつ》だな、サガラ軍曹《ぐんそう》)』
抑揚《よくよう》のない英語で、その男が言った。
『You always address your superior officers around here like that ?(君はここでは、いつもそうやって上官に接《せっ》しているのかね)』
「も……その。アイ……アー……」
宗介は苦労して、どうにか頭を英語モードに切り替《か》える。
『I…I'm sorry, Lt Colonel. I was really out of order. I don't know what to say…If…if I knew you were, I wouldn't have been…so…brash(も……申し訳《わけ》ありません、中佐殿《ちゅうさどの》。大変なご無礼《ぶれい》を。……自分も、当惑《とうわく》しております。ちゅ、中佐殿と知っていれば、決して……このような狼藉《ろうぜき》は)』
『Before you apologize, remove your weapon.(謝罪《しゃざい》の前に銃《じゅう》をどけてくれんかね)』
『Oh, yes sir! I'm sorry, sir!(はっ。失礼いたしました!)』
宗介ははじかれたように飛び退《の》き、自動|拳銃《けんじゅう》を引っ込めた。直立不動《ちょくりつふどう》の彼の前で、『中佐殿』は立ち上がると、スーツについた埃《ほこり》を払《はら》い、居住《いず》まいを正した。
遠目《とおめ》には日本のサラリーマン風だったが、その実、彼は日本人ではなかった。白人だ。頬《ほお》のこけた青白い顔。銀縁《ぎんぶち》の眼鏡《めがね》。陰気《いんき》で冷淡《れいたん》な雰囲気《ふんいき》の持ち主である。
「なに、どうしたっての?……あ」
宗介の豹変《ひょうへん》ぶりに目を丸くしていたかなめが、男を見て驚《おどろ》きの声を漏《も》らした。
その紳士《しんし》は、かなめを静かに見やると、
『You look full of vim, Ms. Chidori.(お元気そうですな、チドリさん)』
と、宗介とはうって変わって好意的《こういてき》な声で挨拶した。
「あなたは……あなたは……」
彼女は口をばくばくさせてから、言った。
「あなたは……号令係《ごうれいがかり》のおじさん!」
「ちがう!」
血相《けっそう》を変えて、宗介が否定《ひてい》した。
「こちらは <トゥアハー・デ・ダナン> の副長、リチャード・マデューカス中佐だ……!」
傭兵《ようへい》部隊 <ミスリル> における、マデューカスの階級《かいきゅう》は『中佐』である。かたや宗介は『軍曹』。これは『専務《せんむ》』と『係長』くらいの開きがあるのだったりする。
つまりこの英国人の上官は、宗介よりもはるかにエラいのだ。しかもマデューカスの副長という立場は、数百人の隊員の中では、最高位の戦隊長に次《つ》ぐ地位である。
かしこまった宗介を従《したが》え、マデューカスが悠然《ゆうぜん》と校内の廊下《ろうか》を歩いていく。ややあって、彼はぽつりと口を開いた。
「先刻《せんこく》、校長のツボーイと会ってきた」
「つ、坪井《つぼい》先生ですか」
その一言だけで、宗介は底知れない不安を感じた。
「そう。ツゥーボイ・センセー。善良《ぜんりょう》なご婦人《ふじん》だ。思想《しそう》や政治的|信条《しんじょう》などは、相容《あいい》れないものを感じるが」
「はあ……」
中佐が校長と、何の話を……? まさかわざわざ、イデオロギーの話をしに来たわけではあるまい。
「用件が済んで彼女の前を辞去《じきょ》してから、勝手《かって》に校内を見学させてもらっていた。ところがうっかり、更衣室《こういしつ》らしい部屋に入ってしまったようだ。謝罪《しゃざい》はしておいたが、果《は》たして、あの小さなレディたちに通じたかどうか」
たいして後ろ暗い様子も見せない。彼の目には、日本の女子高校生など、まだほんの子供にしか見えないのだろう。
「通訳《つうやく》はいないのですか? さすがに中佐お一人では……」
宗介の知る限りでは、マデューカスは日本語をまったく知らないはずだ。
「コックのカスヤ上等兵を連《つ》れてきたが、さきほど帰らせた。実家が近いそうでな。ちょうど今日は親族の命日《めいにち》なのだそうだ」
「さようですか」
「代わりに君を呼ぼうとしていたところだ。これからは君に通訳を務《つと》めてもらう」
「自分が……でありますか?」
「不服《ふふく》かね?」
「いえ、決してそのようなことは。何なりとお申し付けください、サー」
「よろしい」
にこりともせず、マデューカスは言った。
「私の名前はリチャード・マンティッサ。ケンブリッジの教授《きょうじゅ》で、これから数年間、トーキョーのある研究所に勤務《きんむ》する予定だ。専門は音響学《おんきょうがく》だが、教育問題にも関心がある。書類上の君の保護者《ほごしゃ》――亡命《ぼうめい》ロシア人のアンドレイ・プレミーニンとは旧知《きゅうち》の間柄《あいだがら》で、そのプレミーニンの紹介《しょうかい》でこの学校を訪《おとず》れた。日本の教育現場の実情《じつじょう》を知りたかったからだ」
本来の身分を隠すための『|でっちあげの話《カヴァー・ストーリー》』を、すらすらと説明していく。ちなみに『アンドレイ・プレミーニン』は、カリーニン少佐の偽名《ぎめい》である。
「私は君とも面識《めんしき》がある。プレミーニンと共に、何度か釣《つ》りをしたことがあるのだ。そのおり、私の娘[#「私の娘」に傍点]とも知り合っている。人に聞かれたらそう答えるように」
「は……? はっ」
ぴしりと宗介は直立して答えた。その肩を、ずっと黙《だま》ってついてきたかなめが、つんつんとつつき、日本語でささやいた。
(ねえ。この人、なにしに来たの?)
(わからん)
(ソースケの働きぶりとか、そーいうのをチェックしに来たのかしら)
(かもしれん)
(なんかあんた、この人にビビってない?)
(そ……そう見えるか?)
それから一時間ほど、宗介とかなめは、マデューカスを連れて放課後の校内を歩き回った。体育館、校庭、視聴覚室《しちょうかくしつ》、音楽室、生物室、美術室……そうしたすべてを、中佐は入念《にゅうねん》に見て回る。彼は物珍《ものめずら》しそうにあちこちを観察《かんさつ》し、あれこれと宗介に質問《しつもん》した。
「これは、なんと書いてあるのかね」
教室の黒板の落書きを指さし、彼は聞いた。
「『祝・ダイエー六連勝』です」
「どういう意味だ」
「自分にもわかりません」
「あ、それ、プロ野球のチームですよ。ファンの子が書いたのね」
かなめが代わりに説明すると、マデューカスは彼女に向かって微笑《ほほえ》んだ。
「ほう……なるほど。神秘的《しんぴてき》な文字なので、呪文《じゅもん》か何かかと思ったのだが。考えてみれば、当たり前の話ですな」
それからがらりと一変《いっぺん》して、冷たい目で宗介を一瞥《いちべつ》する。
「しかし、サガラ軍曹。野球のチームも知らないで、民間人の中にとけ込めるのかね」
「きょ……恐縮《きょうしゅく》です」
「不勉強だな。任務《にんむ》に熱意《ねつい》がないとみえる」
「いえ、決してそのようなことは――」
「弁解《べんかい》はいい。改善《かいぜん》したまえ。隊《たい》は君に、上官を暴行《ぼうこう》させるための給料を支払《しはら》っているのではない」
痛烈《つうれつ》なイヤミ。先刻《せんこく》の狼藉《ろうぜき》を大目に見てくれたのかと思ったところで、これである。
「い……イエッサー。鋭意《えいい》努力します」
宗介が応《こた》えるのを待ちもせず、マデューカスはさっさと窓べりに移動《いどう》していく。
「ところでここは君の教室だったな。保安は万全《ばんぜん》か」
「肯定《こうてい》であります」
「では、衛生状態《えいせいじょうたい》は? たちの悪い病原|菌《きん》や害虫《がいちゅう》はいないだろうな」
「はっ。それは……問題ないかと。学校に定められた基本的《きほんてき》な水準《すいじゅん》は満たしております」
「つまり、清潔《せいけつ》なのだな?」
「はい」
「間違いないな?」
「はっ」
マデューカスは手元の窓枠《まどわく》を人差し指ですうっ、となぞった。その指先についた埃《ほこり》を、陰険《いんけん》な舅《しゅうと》のような目つきでじっと眺《なが》めてから、『ふん……』と鼻を鳴《な》らしたりする。
「これが君のいう『清潔』か」
「…………」
「君のマンションもこの状態なら、さらに君の評価《ひょうか》を下げなければならない」
「肝《きも》に銘《めい》じます」
「…………。まったく、なぜ君のような男を艦長が……」
[#挿絵(img2/s06_245.jpg)入る]
「は?」
「うるさい。なんでもない。忘れろ」
「し、失礼しました」
わけがわからないまま、宗介は返答した。その横から、かなめが小声でささやく。
(もしかしてソースケ、この人に嫌《きら》われてるの?)
(わからん……)
確かにマデューカスは、宗介に対して辛辣《しんらつ》すぎる。もともと陰気な人物ではあるが、ほかの部下に対してはここまでうるさくない。だというのに――
(いったい俺《おれ》が、なにをした?)
懊悩《おうのう》する宗介をそっちのけに、マデューカスは窓から中庭を見下ろした。
「よかろう。ここはもういい。帰るぞ」
「は? どちらへ――」
「決まっとる。君のマンションだ」
宗介は一瞬《いっしゅん》、気が遠くなるような感覚に見舞《みま》われた。
悪夢のような週末であった。
マデューカス中佐を伴《ともな》って自分のマンション―― <ミスリル> のセーフ・ハウスに戻ると、宗介は彼から『徹底的《てっていてき》に部屋を掃除《そうじ》しろ」と命令された。几帳面《きちょうめん》な宗介は、もともと身の回りのものや自室はきれいにしておく質《たち》なのだったが、中佐はお構《かま》いなしだった。
掃除が済むと、さらに中佐はあれこれと注文をつけてきた。やれ『銃器類《じゅうきるい》は目立たないところにしまっておけ』、やれ『部屋が殺風景《さっぷうけい》すぎる』、やれ『もう少しまともな食材はないのか』。宗介は『恐縮《きょうしゅく》です』だの『改善《かいぜん》します』だのといった言葉を、何十回も口にするはめになった。
「思った通りだ。話にならん。明日はこの部屋を、徹底的に改造《かいぞう》する」
だのと、マデューカスは宣言した。
明けた日曜日、宗介たちは調布《ちょうふ》駅の近所まで出かけて、大量の買い物をした。カーテンやカーペット、上等なマットレス、布団《ふとん》類、テーブルクロス、上等な食材、食器類、調理器具、観葉植物《かんようしょくぶつ》、エトセトラ、エトセトラ……。宗介では勝手が分からない物品《ぶっぴん》も多かったので、かなめを電話で呼び出して、買い物に付き合ってもらうことになった。
その買い物の道すがら、マデューカスはかなめに向かってほがらかに言った。
「世話《せわ》になります、ミス・ティドーリ。あなたにはいつも助けられてばかりですな。いずれ、何らかの礼をしたいものです」
「いえ、お気遣《きづか》いなく。でも、なんでいきなり、こんなにあれこれ買うんですか?」
「なに、じきに分かりますよ。……軍曹、もたもたするな。早くしろ!」
「…………はっ」
小山のような荷物《にもつ》を抱《かか》えて、宗介はよたよたと付き従《したが》った。
買い物が済んだら、今度は部屋の模様《もよう》替《が》えである。マデューカスはインテリアのセンスがいまいちと見え、カーテンの色使いなどは、なかなかぴたりと決まらなかった。
「どう思われますかな、ミス・ティドーリ。単調《たんちょう》な白よりはベージュの方が、いささかくつろげると思うのだが」
「まあ、たぶんそうでしょうけど……」
そこに宗介が口を挟《はさ》む。
「中佐殿。お言葉ですが、どちらの色でもくつろげないでしょう。赤外線《せきがいせん》センサーを装備《そうび》した敵なら、そうした普通のカーテンでは、いずれにせよ室内は丸見えです」
「つまらんことを言うな、馬鹿者《ばかもの》」
「…………」
こんな調子である。夜の一〇時を過《す》ぎたころ、かなめは自宅に帰っていった。その後も作業は延々《えんえん》と続き、真夜中《まよなか》過ぎに、ようやく彼の部屋はそこそこ文明的な空間になった。
だがいったい、なぜこんなことを?
その疑問《ぎもん》は、早朝に明らかになった。マデューカスとみっちり二日間過ごし、徹底的に気疲れしたところで――
その部屋に、もっと偉い人[#「もっと偉い人」に傍点]がやって来たのである。
大きなスーツケースをよたよたと引っ張《ぱ》って玄関《げんかん》に入るなり、テレサ・テスタロッサ大佐はこう宣言したのだった。
「長期休暇《ちょうききゅうか》をもらって、あなたの学校に通うことにしたんです。そういうわけで、お世話になりますね!」
……と。
光沢《こうたく》を放つアッシュブロンドの髪《かみ》に、大きな灰色《はいいろ》の瞳《ひとみ》。いまは私服姿《しふくすがた》で、ノー・スリーブのワンピースを着ている。朝も早いというのに、やたらと元気いっぱいだ。
後ろには、輸送《ゆそう》ヘリ部隊のサントス少尉《しょうい》が、荷物持ちで付き従っていた。たぶんECS搭載型《とうさいがた》の大型ヘリで、近所の調布|飛行場《ひこうじょう》あたりまで来たのだろう。
部屋に上がると、テッサは事情《じじょう》を説明した。
先月末の一件で、<デ・ダナン> はいろいろとダメージを受けており、修理と整備に数週間を要するのだそうだ。そんなわけで、部隊は当分の間、よほどの緊急事態《きんきゅうじたい》が起きない限りは、テッサ抜きでも稼働《かどう》するのだという。
「それで……留学《りゅうがく》でありますか?」
宗介がおずおずと尋《たず》ねると、テッサはなにやら気恥《きは》ずかしげに、こう答えた。
「だって……。わたしだって一度くらい、サガラさんと同じ学校に通ってみたかったんです。……おかしいですか?」
「いえ、決してそのような。どうぞ、ご納得《なっとく》いただけるまでご通学ください、マム」
そう答えながら、彼は戦慄《せんりつ》していた。中佐のみならず、テスタロッサ大佐までもが直々に、東京での仕事ぶりをチェックしに来たとは。よほど自分の能力《のうりょく》が、隊の上層部《じょうそうぶ》で疑問視《ぎもんし》されているということか……!?
「じゃあさっそく、登校の支度《したく》をしますね」
着いて早々、テッサがシャワーを浴びにバスルームへ引きこもると、マデューカスが宗介を手招《てまね》きした。
ちょい、ちょい、と。
「な……なんでしょう」
「私はこれから、基地《きち》に帰らねばならん。仕事が山ほどあるのでな」
「さ……さようですか」
「さようだ。それで、いいかね、軍曹……。もちろん君も認識《にんしき》しているだろうが、テスタロッサ大佐は非常《ひじょう》に貴重《きちょう》な人材だ」
「はい」
「彼女なしでは <デ・ダナン> は母親を亡くした乳飲《ちの》み子|同然《どうぜん》といっていい。私は生命の価値《かち》に上下はないと考えているが、それでもあえてこう言おう。君のような下士官《かしかん》一〇〇人よりも、彼女一人の方が、はるかに重要《じゅうよう》な存在《そんざい》なのだと。わかるな……?」
「こ、肯定《こうてい》であります、サー」
おもむろに、マデューカスは部屋の天井《てんじょう》を見上げ、遠い目をした。
「……私は先日の事件で、彼女が心の底に大きな痛手《いたで》を負ったと考えている。部下の死は、最初のころはだれでもこたえるものだ。それが彼女のような、お優《やさ》しい心根《こころね》の持ち主なら、なおのことだ。だから、私はこのわがまま[#「わがまま」に傍点]も黙認《もくにん》した」
「は? それは、どういう……」
「だまって聞きたまえ。……しかるに、だ。君の元に滞在《たいざい》している期間中、彼女がなんらかの物理的《ぶつりてき》・心理的な苦痛《くつう》を被《こうむ》った場合、私は断固《だんこ》たる態度《たいど》をとるつもりだ。考えうる限《かぎ》りの厳《きび》しい処罰《しょばつ》を覚悟《かくご》したまえ。君はこれまで幾度《いくど》となく、命令《めいれい》違反《いはん》を犯《おか》しているのだ。そのことを忘れてはいかん。いいな!?」
「はっ、中佐殿《ちゅうさどの》……!!」
「よろしい。だが、最後にもう一つある」
「?」
「本日中に、応援《おうえん》としてマオ曹長《そうちょう》がここに来る予定だ。同性の彼女がいれば、心配は無用《むよう》だろう……とは思う。しかし、もし……万一、だ。ひとつ屋根の下で暮らすのをいいことに、君が彼女に対して、なんらかの破廉恥《はれんち》な行為《こうい》に及《およ》んだとしたら――」
マデューカスの背後《はいご》で、怒りとも不安とも焦燥《しょうそう》ともつかないような、ほの暗いオーラが揺《ゆ》れていた。めらめらと。ドス黒く。
なんとなく、自分を見失いかけているような感じさえする。
「――私は神と女王|陛下《へいか》に誓《ちか》って、君を八つ裂《ざ》きにしてやる。魚雷発射管《ぎょらいはっしゃかん》に君を詰《つ》めて、三〇〇キロの爆薬《ばくやく》と一緒《いっしょ》に射出《しゃしゅつ》する。それだけではない。精神の均衡《きんこう》を失うまで『|バカ歩き《シリー・ウォーク》』で基地内を行進させてから、訓練《くんれん》キャンプで『バナナやラズベリーで武装《ぶそう》した敵からの護身術《ごしんじゅつ》』の教官をやらせた挙《あ》げ句《く》、最後は『カミカゼ・スコットランド兵』としてクレムリンに特攻《とっこう》させてやる。わかったな……!?」
もう、なにがなんだか。
「め、滅相《めっそう》もありません。自分は決して――」
「わかったか、わからんのか!?」
「了解《りょうかい》いたしました、サー!」
もし、このときの宗介の顔をかなめが見たら、『ソースケ、泣きそうなボン太くんみたいな顔してる』とでも言ったかもしれない。
そのおり、バスルームからテッサが元気よく飛び出してきた。
「ほらほら、見てください!」
陣代《じんだい》高校の制服姿だ。彼女は廊下の向こうで、軽《かろ》やかにその身を翻《ひるがえ》した。ミニのスカートがふわりと広がり、赤のリボンがひらひら揺《ゆ》れる。
「どうです? ぴったりでしょう。サガラさんを驚《おどろ》かせようと思って、こっそり仕立てておいたんです。まだ冬服しかないんですけど、数日中には夏服の方も……って」
テッサがぴたりと言葉を切った。
「お二人とも、どうかしたんですか?」
宗介とマデューカスはしばしの間、『ぬぼーっ』とその場に立っていたが、やがて顔を見合わせ、同時に咳払《せきばら》いをして、クールな声でこう言った。
「いえ。よくお似合《にあ》いです、艦長《かんちょう》」
「同感《どうかん》であります、大佐殿」
両名そろって、がらりと日頃《ひごろ》の鉄面皮《てつめんぴ》に戻《もど》っていたりする。部屋の隅《すみ》っこで一部始終《いちぶしじゅう》を見ていたサントス少尉が、ぼそりと母国のポルトガル語で『変なやつら……』とつぶやいた。
で、その二時間後。二年四組の教室で――
「テレサ・マンティッサです。テッサと呼んでくださいねH[#「H」はハート(白)、1-6-29、Unicode2661]」
教壇《きょうだん》に上がり、こう自己|紹介《しょうかい》しただけで、クラスの男子のほとんどが、
『う……うおぉおぉぉ〜〜〜っ!!』
と、嬌声《きょうせい》をあげたのだった。
ちなみに女子は、半分くらいがやっぱり『きゃ、かわい〜〜』とはしゃぎ、もう半分くらいが『へー。ふん。ま、性格はどーだか知らないけどね……』だのと、なにやら懐疑的《かいぎてき》な視線を送っていた。
その中で、二人ほど異《こと》なる反応《はんのう》を見せていたのが、宗介とかなめである。宗介は厳《きび》しい表情で、窓の外や廊下に神経を配りまくっていた。かたやかなめは、ぽかんと大口を開け、驚くやらあきれるやら、といった表情でいた。
「な……なんてお約束な……」
そんな二人の様子には、級友たちは気付きもしない。
教壇の担任、神楽坂《かぐらざか》恵里《えり》は、盛《も》り上がる生徒たちを猛獣《もうじゅう》使いのようになだめてから、説明した。
「はい、静かにして!……ええと、マンティッサさんはこれから二週間、みなさんと一緒《いっしょ》にお勉強することになります。彼女のお父様は、有名な大学の教授さんだそうで、日本の教育現場にいたく興味《きょうみ》をお持ちになられているそうです。いうならば、国際|親善《しんぜん》ということですね。ですから……相良くん?」
「はっ?」
恵里は珍《めずら》しくドスのきいた声で、目を血走らせて警告《けいこく》した。
「まちがっても、あなたの慣《な》れ親しんだ、物騒な世界の常識[#「物騒な世界の常識」に傍点]を、彼女の前で見せないように。いいですね……?」
「…………。努力します」
宗介はそのときはじめて、皮肉《ひにく》混《ま》じりのユーモアというものを、理解《りかい》したような気がした。もちろん、彼は笑わなかったが。
休み時間に入るなり、テッサの席の周りには、黒山の人だかりができた。恭子を中心にした女子のグループと、小野寺《おのでら》孝太郎《こうたろう》を中心にした男子のグループが、彼女を取り囲んで質問《しつもん》や誘《さそ》いの集中砲火《しゅうちゅうほうか》を浴《あ》びせる。
すこしは敬遠《けいえん》でもされそうなものだが、ここの生徒はとにかく厚《あつ》かましい。たとえ近寄りがたいほどの美少女でも、まるで遠慮《えんりょ》もせずに、わいのわいのと騒《さわ》ぎ立てる。
「ねえねえ! いまはどこに住んでるの?」
「日本語、上手だよねー!」
「放課後《ほうかご》ヒマ? カラオケのタダ券が――」
「お父さんって、どんな人?」
「かわいー! お人形さんみたい!」
「あの、テッサさん。ぜひ一度ですね、写真部のモデルに――」
こんな調子《ちょうし》である。
一方で宗介は、どうにも落ち着かなかった。このクラスの連中が彼女に悪さを働くとも思えなかったが、さりとて、なにかのはずみで事故《じこ》が起きないとも限らない。
マデューカスの警告《けいこく》が脳裏《のうり》をよぎる。
(彼女がなんらかの物理的・心理的な苦痛を被《こうむ》った場合――)
人垣《ひとがき》の後ろに突っ立って、そわそわと周囲《しゅうい》に気を配るのは、とてつもない心労《しんろう》だった。
生徒たちからちやほやされ、にこやかに応対しているうちに、テッサがふと、感極《かんきわ》まったように目頭《めがしら》を熱くする。
「…………? どしたの、テッサちゃん?」
恭子がきょとんとしてたずねると、彼女はさめざめと目尻《めじり》を拭《ぬぐ》った。
「いえ……。ここまで同い年の皆《みな》さんに、歓迎《かんげい》されるとは思ってなかったものですから。その、なんだか、嬉《うれ》しくて……」
「…………。そうなんだー」
一同は腕組みして、神妙《しんみょう》な顔でうんうんとうなずいた。
「ま、とにかく元気だしなよ。困ったことがあったら、なんでも聞いてくれていいし。ね、カナちゃん?」
「へ?」
離《はな》れた席でしかめっ面《つら》をしていたかなめが、目を丸くした。
「テッサちゃん。あの人がね、学級委員の千鳥かなめさん。生徒会副会長もやってるの。英語もペラペラだし、頼《たよ》りになるから、なんかあったら彼女に相談するといいよ」
と言って、恭子はにこりとした。
「ほらほらカナちゃん。こっちきて」
「あー……。うん」
のろのろと近づいてから、かなめはヘボ役者が台本を棒読《ぼうよ》みするように告げた。
「えー……。はじめまして、マンティッサ[#「マンティッサ」に傍点]さん。あたしが学級委員です。和式トイレの使い方から、ガラクタ潜水艦《せんすいかん》の艦長の助け方まで、なんでもご相談ください」
それでもテッサは顔色一つ変えず、にっこりとした。
「ありがとうございます、カナメさん。わたしが異性《いせい》関係とかで悩《なや》みを抱《かか》えたら、ぜひ相談に乗ってくださいね?」
「ええ、そりゃあ、もう。ぐふふ……」
「たすかります。ふふふ……」
その場の異様《いよう》な空気に気圧《けお》されて、ほかの一同がわけも分からず身を引いた。
二時間目になるころには、二年四組に転がり込んだ留学生《りゅうがくせい》の話題は全校に知れ渡った。
(見てきた?)
(見た。マジだった)
(すっげーよ。噂《うわさ》以上!)
などといった会話が、男子生徒の間で交わされたのは言うまでもない。
授業においても、テッサは目覚ましい活躍《かつやく》を見せた。教科書や人から借りたノートを、数秒ほど『じっ』と読んだだけで、教師から出た質問にはことごとく完璧《かんぺき》に答えるのだ。特に三時間目の、物理《ぶつり》の教師は彼女の被害者《ひがいしゃ》だった。世界|最先端《さいせんたん》のハイテク潜水艦を設計した彼女に、熱力学のなんたるかを講義《こうぎ》したところで、釈迦《しゃか》に説法《せっぽう》だ。
テッサが目立つことを懸念《けねん》している宗介は、それだけでもひどく気疲《きづか》れしていた。
昼休みになっても、テッサは相変わらずあれこれと騒がれている。ほかのクラスから、彼女を見ようと顔を出す生徒も多く――その中には、あまり馴染《なじ》みのない一年生や三年生の顔もあった。顔も覚えていない三年生になりすまして、刺客《しかく》の類《たぐ》いが大佐に近づいたとしたら……?
「彼女に近づくな!」
ついつい叫んで銃を突きつけ、周囲《しゅうい》を当惑《とうわく》させたのは一度や二度ではなかった。
そわそわしながらも、宗介は昼食のパンと乾《ほ》し肉とトマトをかじった。なぜかうまくない。胃がうけつけないのだ。不快感《ふかいかん》を無視《むし》して、彼はオレンジジュースで強引《ごういん》に食料を流し込んだ。
(自分の疲労《ひろう》は相当|深刻《しんこく》なレベルだ……)
と、宗介は判断《はんだん》した。ここ四日ほど、ろくに眠っていない。報告書と宿題、マデューカスの来訪《らいほう》と――テッサの襲来《しゅうらい》。特にマデューカスが来た土曜からは、すさまじいストレス下で生活している。
もちろん彼はかつて、一週間、ほとんど不眠不休《ふみんふきゅう》で危険な敵地《てきち》を歩いた経験《けいけん》もあった。ASのコックピットで、何日間も食事をとらずに、敵《てき》を待ち伏《ぶ》せたこともある。
それに比べれば、この程度《ていど》の試練《しれん》など取るに足らないはずなのだが――
(死ぬかもしれんな……)
彼は漠然《ばくぜん》と思った。
そうこうしているうちに、えらく騒《さわ》がしい昼休みが終わる。
五時間目は体育だった。運動|音痴《おんち》のテッサにとっては、唯一《ゆいいつ》の苦手科目だ。
二学期に入って間もないこの時期、体育は水泳の授業である。北校舎の裏にあるプールに、水着姿の生徒たちがぞろぞろと集《つど》う。スタート台のすぐそばに、二年三組と四組の女子。その対岸《たいがん》に、同じクラスの男子の一団が整列《せいれつ》していた。
陣代高校指定の女子の競泳水着は、白地にオレンジという、少々風変わりなデザインだ。
そうした白一色の水着の中で、テッサ一人が、紺色《こんいろ》のスクール水着姿だった。ご丁寧《ていねい》に、『2―4てっさ』だのとマジックで書き込まれた白地の布まで縫《ぬ》いつけてある。小柄《こがら》な上に、まだいくらか幼《おさな》さが残る体つきなこともあって、その場でやたらと浮《う》いている。
『どーして? またそんな、妙《みょう》にマニアックなコスチュームを……』
かなめが英語でぼそりと言う。彼女の方がテッサよりも背が高いし、プロポーションも大人っぽい。そばのテッサは真っ赤になって、ほっそりとした肢体《したい》をもじもじとさせた。
『だって……。ウェーバーさんが、「日本の学校に通うなら、それ以外、絶対《ぜったい》に考えられない」って言うものですから……』
『あのスケベ外人……』
『そ、そうなんですか? でも、一緒《いっしょ》にいたヤン伍長《ごちょう》も、すごい真面目な顔で「じ、自分も、確かそうだったと記憶《きおく》してます」とか言ってたし……』
『…………。その人も共犯《きょうはん》なわけね』
『ああ。だから彼、後で「すみません、大佐殿……」とか涙《なみだ》ぐんでたんですね……。やっぱり、見学した方がいいのかしら』
テッサはまるで自分が裸《はだか》でいることにでも気付いたように、両腕《りょううで》で身体《からだ》を隠《かく》そうとする。
『いや。気にしなくていいわよ。とりあえず、似合ってるとは思うから』
『そうですか? じゃあ、きっとサガラさんも喜んでくれますね。うふふ……』
『…………』
二人は対岸に目を向けた。鼻の下を伸《の》ばした男子の群《む》れの向こうに、ひどく憔悴《しょうすい》した様子の宗介が見える。彼は制服姿のままで、授業を見学していた。青白い顔で、こちらをむっつりと眺《なが》めている。
女子の体育教師が、ホイッスルを『ぴーっ!』と鳴《な》らした。
「はい、私語はやめる! そこ、タオル羽織《はお》るのやめなさい! 夏休み明けにそーいうことやってると、男子に『全っ然、夏はケーケンとか無《な》かった』ってバレバレだよ」
半分くらいの女子が、けらけらと笑った。
「……で、今日はスタートの練習です。コンマ一秒を争う水泳競技では――」
ひとしきり解説《かいせつ》を済ませると、一同は準備《じゅんび》運動に入った。第一から第四までのコースを使って、数分ほど水に浸《つ》かってから、きょうの課題の飛び込みに移《うつ》る。水泳部員の実演《じつえん》のあと、女子一同はスタート台から順番《じゅんばん》に、飛び込みの練習を始めた。
『大丈夫《だいじょうぶ》なの?』
隣《となり》に並んだテッサへ、かなめが声をかけた。
『なにがですか?』
『溺《おぼ》れたりしない? あんた、歩いてるだけで転んだりするじゃない』
[#挿絵(img2/s06_263.jpg)入る]
『それは……まあ、ごくまれに[#「ごくまれに」に傍点]転びますけど。でも、大丈夫です。これでも息は長続きする方ですから。ふっふっふ……』
『いや、そういう問題じゃなくて』
そうこう言っているうちに、テッサがスタート台に昇《のぼ》る。かなめがはらはらと見守り、ほかの生徒が注視《ちゅうし》する中で、合図《あいず》のホイッスルが『ぴっ!』と鳴った。
「いきます!」
テッサは前へとよろめくように、小さな身体を投げ出した。『どぷんっ!』と水柱をあげて、水面下に姿を消してしまう。
ぼこぼこぼこ……。
細かな泡《あわ》がはじけたあと、彼女が飛び込んだ第二コースはしんとなった。
「………………」
一〇秒、二〇秒と、かなめたちは水面《みなも》を見守った。きらきらと、強い日差しが照《て》り返すほかは、まったくの静寂《せいじゃく》。どれだけ待っても、テッサは浮《う》かんでこない。
(ま、まさか……)
プールの底に、頭をぶつけて失神《しっしん》、溺死《できし》。このシーズン、三面記事を賑《にぎ》わす類《たぐ》いの事故《じこ》が、かなめの脳裏《のうり》をよぎった。
そのとき、だれよりも早く行動したのは宗介だった。
彼は制服姿のままだというのに、反対側のプールサイドから思い切り跳躍《ちょうやく》した。二コース分のコース・ロープを飛び越えて、派手《はで》に水面に飛び込むと、水中を弾丸《だんがん》のように突《つ》き進んでいく。
「ソースケ……!?」
一同があっけにとられる前で、宗介はテッサが沈《しず》んでいるはずの第二コースへと急いだ。タコが暴《あば》れるみたいにして水底をうろつき、必死に彼女を探《さが》し回っている様子だ。彼は一度『ぶはっ!』と水面に顔を出して、
「一緒《いっしょ》に捜せ!」
そう叫《さけ》ぶと、答えを聞きもしないで、ふたたび潜《もぐ》る。かなめや体育教師などの何人かが、プールに飛び込もうと身構《みがま》えた。
だがそのとき――
第二コースのずっと先、ほとんどゴールに近い辺りに、『ちゃぷん』と小さな頭が浮かび上がった。
テッサである。
彼女はぽかんとするかなめたちに向かって、片手をくるくると振《ふ》って見せた。
「どうですかー!? わたし、泳ぐのだけは得意《とくい》なんです!」
得意げな声。息継《いきつ》ぎなしで、二〇メートル以上を泳ぐのは、確《たし》かにそこそこ自慢《じまん》に値《あたい》する特技《とくぎ》ではある。そもそも、潜水艦の艦長が金槌《かなづち》では、あまりに格好《かっこう》が付かないだろう。
「もう。脅《おど》かさないでよ……」
かなめが胸をなで下ろしていると、後ろから恭子が、おそるおそる声をかけた。
「ねえ、カナちゃん。さっきから相良くん、浮かんでこないんだけど……」
「え……?」
「服って、水に濡《ぬ》れると鉛《なまり》みたいに重くなるんだよ。ついでになんだか、今日の彼、すごい体調悪そうだったし……」
目を凝《こ》らすと、プールの底に人影《ひとかげ》が力|無《な》くたゆたっている。まるで海草のように。
「……!!」
今度こそかなめは、あわてて水へと飛び込んだ。
その一分後。かなめのみならず、テッサにまでも助けられて、宗介はプールサイドに引き上げられた。
情けないことこの上ない。
横たわり、ぐったりとした宗介を、大勢の生徒たちが心配そうに見下ろす。
「サガラさん。わたしのために……」
テッサは瞳《ひとみ》をうるうるさせて、宗介のそばにしゃがみこんだ。それからいきなり、『きっ』と厳《きび》しい顔付きになって、
「みなさん、下がってください。責任をとって、わたしが介抱《かいほう》しますから……!」
「できるの? そんなこと?」
濡《ぬ》れた黒髪《くろかみ》をかき上げて、かなめが尋ねる。
「もちろんです。わたしは水商売の人です」
「それ、用法ちがう」
「気にしないで。それに合衆国海軍の応急処置《おうきゅうしょち》マニュアルは、すべて暗記しています。この場合、まずは人工呼吸です。絶対《ぜったい》そうです。要救助者《ようきゅうじょしゃ》の気道を確保《かくほ》。しかるのちに鼻をつまんで……く、唇《くちびる》を重ねます。恥《は》ずかしいけど、くじけません。では、失礼して――」
ときおり『むー……』だのと唸《うな》る宗介に、テッサは寄り添《そ》った。高鳴る胸を震《ふる》わせながら、うっすらと目を閉じて、顔を近づける。
「サガラさん……」
「待て、こら!」
そのテッサの三つ編《あ》みを、かなめが後ろからむんずと掴《つか》んだ。
「いたた……。なにをするんです。彼が死んでもいいんですか!?」
「死なないわよ! いま、『むー』って言ったばっかじゃないの。人工呼吸なんて要《い》らないでしょ!?」
耳まで赤くなってかなめが怒鳴《どな》った。
「そんな……。きっと、幻聴《げんちょう》です! わたしに彼を渡《わた》すまいとする、あなたのさもしい深層心理《しんそうしんり》が、ありもしない声を――」
「むー」
宗介が唸った。
「………………」
気まずい沈黙《ちんもく》が訪《おとず》れる。一同が注視《ちゅうし》する中で、テッサはこほんと咳払《せきばら》いしてから、快活《かいかつ》に言った。
「よかった。みなさんも、水の事故《じこ》には気を付けましょうね」
「全っ然、きれいにまとまってないわよ?」
「う……。困りました」
「一人で困ってなさい」
「そんな。薄情《はくじょう》です」
「泣いてすがるな……!」
水着のすそを、ひしと掴まれて、かなめはじたばたした。
「あのさー。もしかしてカナちゃんとテッサちゃんって、知り合いなの?」
はたで見ていた恭子が、ぼそりと尋ねた。
「へ……?」
「だって。なんか、ミョーに親しげに会話してるじゃない。よく英語でわけのわからないこと、ペラペラ喋《しゃべ》ってるし。前から友達みたいなノリで」
「えっと……そ、それは……」
かなめが答えに窮《きゅう》していると、テッサがあっさりとこう答えた。
「あ、それはですね。きのうの日曜日に、偶然《ぐうぜん》カナメさんとは知り合ってたんです。調布で道に迷ってたら、通りすがりの彼女があれこれと案内してくれて。……ね?」
「え? あ……うん」
「なーんだ、そうだったんだ! 人が悪いなぁ。学校に来る前に一度ばったり会う。つまり転校生ネタのお約束だね!」
合点《がてん》のいった様子で、一同が手を打った。
「でもさ……相良くんとは? 彼、今朝からやたらと、あなたの心配してるみたいに見えるんだけど。いまもこうして、見学者なのにプールに飛び込んだりして……」
「そうそう。怪《あや》しいよねー」
「うん。これはフツーじゃないわ」
恭子たちがうなずきあう。
「ええ、実は……」
テッサは改《あらた》めて咳払《せきばら》いした。
「実はもともと、わたしの父と彼の養父が、友人なんです。それで……小さい頃《ころ》から、サガラさんにはよく遊んでもらってました」
『ほほーう……』
一同が、朦朧《もうろう》としながらも身を起こしつつある宗介を、しげしげと見つめた。
「ピンチのときに助けてくれたし、苦しいときには励《はげ》ましてくれたし……。彼には、いろいろなことを教えてもらいました。わたしにとっては、その……」
テッサは幸せそうに、両の腕《かいな》で胸を抱《だ》いた。
「そう。特別な……男性なんです」
『ん、まあ〜〜〜〜っ!』
『聞いたざますか、奥さま?』だのといった調子で、一同がわっと盛《も》り上がる。
「大変だ。カナちゃんにライバル出現《しゅつげん》!?」
「な、なによそれ……!?」
かなめが血相《けっそう》を変える。
「またまた、無理《むり》しない! あ……ちょうど目を覚ました。ねえねえ、サガラくん!?」
「……なんだ?」
こめかみを押して、どうにか意識《いしき》をはっきりさせようとする宗介に、恭子が質問《しつもん》した。
「相良くんとテッサちゃんって、特別な関係なの?」
興味津々《きょうみしんしん》の顔ぶれを、彼は怪訝顔《けげんがお》で見回す。
「? それは……肯定《こうてい》だ。詳《くわ》しくは話せないが、君たちの想像《そうぞう》を遥《はる》かに上回る関係だ」
『きゃあ〜〜〜っ! 大《だい》っ胆《たん》!』
「…………?」
わけがわからず、宗介は首を小刻《こきざ》みに振った。一同が盛り上がり、テッサが『もう……。冷やかさないでください』だのと頬《ほお》を赤らめている。そして――かなめだけが一人、無表情《むひょうじょう》で宗介を見下ろしていた。
「ち、千鳥……?」
「あたし、飛び込み、次の番だから」
彼女はそっぽをぷいっ、と向くと、早足でスタート台の方に立ち去ってしまった。
宗介の精神力《せいしんりょく》は、もはやほとんど限界《げんかい》だった。なぜ、こうも降《ふ》ってわいたように、自分を苦しめる問題が噴出《ふんしゅつ》したのだろうか? なにがなにやら、さっぱりわからない。
しかも今夜から、テッサと一つ屋根の生活だ。その状況《じょうきょう》がもたらす精神的重圧《せいしんてきじゅうあつ》は、考えるだけでも空恐《そらおそ》ろしかった。
五時間目が終わるなり、宗介は携帯《けいたい》電話を利用した秘話《ひわ》回線《かいせん》を使って、直接《ちょくせつ》の上官、アンドレイ・カリーニン少佐《しょうさ》に連絡《れんらく》をとった。
『なんだ、軍曹《ぐんそう》?』
「アンドレイ・セルゲーイヴィチ。事情を聞かせてください。なにがいったい、どうなっているんです? さすがに俺でも限界だ」
『…………。どうもこうもない。同情的な気分にはなるが……。とにかく、粗相《そそう》のないようお仕えしろ』
カリーニンにしては珍《めずら》しい台詞《せりふ》であった。
「ですが、俺《おれ》ひとりでは――」
『心配するな。昼前に、マオ曹長が基地を出た。そろそろ部隊の機で、ハチジョー島あたりに着いているころだ。そこから民間のセスナ機に乗り換《か》えて、夜にはチョーフ飛行場に着くだろう』
「それは確かですか?」
『もちろんだ。今夜はゆっくり休め』
「助かります。では」
宗介は心の底からほっとした。
その五〇分後。なんとなく空の雲行きが怪《あや》しくなってきた……と思った放課後に、彼の携帯電話がぴりりと鳴った。
「はい。こちらサガラ」
『あ、もしもしー!? あたしだけどー!?』
電話の向こうで、同僚《どうりょう》のメリッサ・マオ曹長ががなりたてていた。その後ろでは、ごうごうとはげしい風の音が鳴っている。
「マオ? どこだ?」
『えーと、ハチジョー島の飛行場ー! さっき着いたんだけどー! なんかー! 台風が近づいてるらしくてー! トーキョー行きの便《びん》とかー! 全部|欠航《けっこう》なのー!』
「なんだと……!?」
『欠航ー! だから今夜はー! あたし、ここに泊《と》まるからー! テッサのこと、よろしく頼《たの》むねー!』
「待ってくれ、そんな――」
『ああ、二人っきりなのねー! なんなら押《お》し倒《たお》してもいいからー! あたしが許可《きょか》するー! きゃー! この色男ー!』
「なにを言ってる。戦友を見捨てるのか!?」
『水筒《すいとう》以外の使い方、ちゃんと調べときなさいよ!? じゃあねー!! がんばんなさいよー!!』
「聞こえないのか!? 応答せよ、ウルズ2!! 至急《しきゅう》増援《ぞうえん》を――ウルズ2!」
ぷつん。通信がとぎれた。帰り支度で騒《さわ》がしい教室の中で、宗介は一人、顔面|蒼白《そうはく》になっていた。それからふらふらと、鞄《かばん》に教科書を詰《つ》めるかなめに近づいていく。
「ち……千鳥」
「なによ……?」
「その……変なことを言うようだが……今晩《こんばん》、俺の部屋に泊《と》まってくれないだろうか。マオが来るはずだったのだが、些細《ささい》な……手違《てちが》いが……。君がいてくれると、非常《ひじょう》に……助かるのだが……」
「お断《ことわ》りよ。どうせ『特別な関係』なんでしょ?」
かなめは冷酷《れいこく》に告げた。
「いや、それは……」
「それにあたし、今夜は約束あるの。ジャニーズ系のハンサムが五〇人、あたしの部屋に泊まる予定でね。あんたみたいな戦争バカの相手なんか、してられないもん。そーいうことで。じゃあね」
「千鳥……!」
かなめはすたすたと行ってしまった。
もはや孤立無援《こりつむえん》である。
「どうしたんですか、サガラさん……?」
鞄を抱えた制服姿のテッサが、近づいてくる。
心配そうな、灰色の瞳《ひとみ》。美しいかんばせ。自分から見ても、魅力的《みりょくてき》な少女だ。だというのに、なぜ彼女は俺を困らせる? いや、そもそも、自分はなぜ困っているのだ? このすさまさじい精神的《せいしんてき》プレッシャーは、いったいどこから来るものなのか……?
わからない。まったく、わからない。
(もう……だめだ……)
目がかすむ。息苦しい。耳鳴りがして、頭の奥がごわんごわんと唸《うな》っている。立っていられるのが不思議《ふしぎ》なくらいだ。それよりも、自分は立っているのだろうか? なぜ教室の床が、みるみるとこちらに迫《せま》って――
「サガラさん!?」
ばったりと、宗介は床にくずおれた。
「|テスタロッサ大佐《アンスズ》から入電。|サガラ軍曹《ウルズ7》が倒れたそうです。ほとんど行動不能《こうどうふのう》とかで。原因は不明《ふめい》ですが、おそらく過労《かろう》かと……」
メリダ島基地の通信センターで、担当官のシノハラ軍曹が告げた。
「それ見たことか!」
マデューカス中佐が声を張《は》り上げた。
「あんな若造に、任せたこと自体がまちがいなのだ。大事な艦長がいるときに限って、あの体《てい》たらくとは……! まったく、なっとらん。彼にはとことん失望《しつぼう》した」
とはいうものの、なんとなく、むしろ『我が意を得たり』といった風情《ふぜい》である。
「だから私は反対したのだ。あのような軟弱者《なんじゃくもの》は、艦長にふさわしくない。休暇《きゅうか》が終わったら、彼女にはきっちりとその辺りをお諫《いさ》めしておかねはならんだろう。なんなら、私の甥《おい》っ子を紹介《しょうかい》してもいい。甥っ子は海兵隊の中尉《ちゅうい》で、どこに出しても恥ずかしくない男だ。実際、湾岸《わんがん》戦争でも――」
やたらと雄弁《ゆうべん》になって、べらべらと喋《しゃべ》る中佐の横で、カリーニン少佐はぼそりと言った。
「私が彼だったとしても、倒れているかもしれませんな……」
「なにか言ったかね、少佐?」
「いえ、なにも」
「そうだろう。とはいえ、艦長も年頃《としごろ》の少女だからな。こういう方面では間違いも犯《おか》すだろう。だいたいだ、私にいわせれば、近頃の若い娘《むすめ》というのはだな……!」
家族論、社会論、その他|諸々《もろもろ》にわたって、長々と演説をぶちはじめた中佐を眺《なが》めつつ、カリーニンは思った。
(あのサガラが、彼女に手を出せるとは思えんが……)
「なにか思ったかね、少佐!?」
「いえ、なにも」
ポーカーフェイスで答えると、カリーニンはそそくさと通信センターを後にした。
けっきょくその晩《ばん》、宗介はかなめとテッサに運ばれて、自室で半日|寝込《ねこ》むことになった。
その翌日からも、テッサと陣代高校の人々をめぐるドタバタが、あれこれとあったのだが――
それはまた、別の話である。
[#地付き]<女神の来日(受難編) おしまい>
[#改丁]
[#挿絵(img2/s06_279.jpg)入る]
ボーナストラック
『作者の極秘設定メモより』
(著者注)
※ほとんどの人にはどうでもいい、フルメタ世界にまつわるいろいろな裏設定《うらせってい》&裏話である。実はこの一〇倍くらい、いろいろな設定に関するメモがあり、それだけで一冊の本にできるのだが……完全な書き下ろしがないのは読者に申し訳ないので、発表しておいて差し支《つか》えのない項目《こうもく》を一部から抜粋《ばっすい》、発表しておく。
ミリタリーやメカに興味《きょうみ》がない方には申し訳ない内容だが、その辺りは平《ひら》にご容赦《ようしゃ》。
[#ここから太字]
▼アームスレイブ(armslave)
[#ここで太字終わり]
……AS、強襲機兵《きょうしゅうきへい》、アーマード・モービル・マスター・スレイブ・システム。
[歴史・運用|思想《しそう》]
ASはいわゆるパワード・スーツやエグゾスケルトン(強化|外骨格《がいこっかく》)の発想を拡張《かくちょう》した兵器である。最初に大型のロボットを作って、人を乗せたわけではない。当初の構想《こうそう》は1トン以下のサイズの分隊《ぶんたい》支援用装備《しえんようそうび》であり、あくまで兵士の筋力《きんりょく》や防御力《ぼうぎょりょく》を増強《ぞうきょう》する目的の設計《せっけい》だった。
開発当初の米軍のXM3までは、そうしたコンセプトで設計された『大型パワードスーツ』だったが、動力源《どうりょくげん》や出力、装甲《そうこう》防御力や火力などの問題から、むしろ運用上、中途半端《ちゅうとはんぱ》な兵器となり、開発も行き詰《づ》まっていた。XM3は全高3メートル程度《ていど》の人型兵器で、大型の動力源を持たないため、バッテリー駆動《くどう》方式で行動時間が短く、12[#「12」は縦中横]・7ミリ弾をストップするくらいの防御力が限度《げんど》で、使える火器も二〇ミリ機関砲《きかんほう》までだった。これでは、歩兵部隊と行動を共にさせるには扱《あつか》いが難《むずか》しく、機甲《きこう》部隊に同行させるには脆弱《ぜいじゃく》すぎる。対戦車戦に使うには機動力も足りず、けっきょくはロバのような使い道しかなかったのだ。
この中途半端なコンセプトに、まったく異《こと》なる概念《がいねん》を取り入れたのが、ジオトロン社の試作機、XM4であった。兵器というものは、可能《かのう》な限りのダウンサイジングを行うのが常識《じょうしき》なのだが、ジオトロン社の開発チームはこれをまったく反対に考えた。機体のサイズをドラスティックに大型化し、防御力や機動力、動力源や搭載《とうさい》兵器・電子|兵装《へいそう》などの搭載力を大幅《おおはば》に上げるというプランを提出《ていしゅつ》したのである。当時、爆発的《ばくはつてき》な加速で進歩していた素材系《そざいけい》、制御系《せいぎょけい》の技術が、このプランを可能にした。
これによってXM4は、歩兵部隊が運用できる規模《きぼ》の兵器ではなくなってしまった一方で、敵AFVや武装《ぶそう》ヘリコプターに充分《じゅうぶん》対抗《たいこう》できる攻撃力・機動力・索敵《さくてき》能力を持つことになった。しかもXM4は柔軟《じゅうなん》な四肢《しし》を駆使《くし》して、あらゆる地形を走破《そうは》することができる上、然《しか》るべき準備《じゅんび》を行えば充分なカモフラージュも可能である。つまりこの新兵器・ASは、あらゆる地上戦において、『どこにいてもおかしくない』AFVとなりうるのだ。この『戦闘空間における潜在性《せんざいせい》』は、ASを相手にする敵部隊にとって、大変な頭痛の種となる。ASは、海洋における潜水艦《せんすいかん》と同様の脅威《きょうい》なのだ。各種の演習で、XM4はそのことを十二分に証明し、『機甲《きこう》部隊の支援《しえん》兵器・M4』として小規模《しょうきぼ》に制式|採用《さいよう》される。
この段階《だんかい》では、ASは機甲部隊の中でイレギュラーな存在であり、おもに待ち伏《ぶ》せと市街戦だけで威力《いりょく》を発揮《はっき》する兵器にすぎなかった。だがこの次に開発されたM6 <ブッシュネル> は、より攻撃的な性格を持つことになる。『第二世代型AS』と称されるM6は、M4を大きく上回る運動性と汎用性《はんようせい》を与えられていた。反応が遅《おそ》く、移動《いどう》や姿勢変更《しせいへんこう》に時間のかかったM4に比べ、M6はよく訓練《くんれん》された歩兵以上の動きが可能で、待ち伏せや突撃《とつげき》よりも、さらに高度で有機的《ゆうきてき》な戦術を採《と》ることができるようになった。搭載可能な火器や電子兵装のバリエーションも激増《げきぞう》したため、その戦術も非常《ひじょう》に柔軟で多彩《たさい》なものになり、AS部隊を敵とした場合は、その対策《たいさく》を充分《じゅうぶん》に講《こう》じておくことが困難《こんなん》な例が多くなった。さらにM6の改良型《かいりょうがた》、M6A1型からは、革命的《かくめいてき》なステルス装置《そうち》『ECS』を装備《そうび》することになったため、レーダーや赤外線センサーによる遠距離《えんきょり》からの探知《たんち》が非常《ひじょう》に困難になる。接近戦や遭遇戦《そうぐうせん》の機会が激増《げきぞう》した戦場は、人型兵器であるASに対してさらに有利に働いた。
九〇年代の初めごろには、戦車や攻撃ヘリがASに対して完全な優位《ゆうい》に立てる地形は広大な平原や砂漠《さばく》のみになり、その他の起伏《きふく》に富《と》んだ陸地――つまり戦略《せんりゃく》的価値のあるほとんどの地域《ちいき》――は、この新兵器・アームスレイブで編成《へんせい》された部隊が圧倒的優位《あっとうてきゆうい》を誇《ほこ》るようになった。
このころには米国やソ連のみならず、一定以上の工業力を持つ先進国《せんしんこく》はこぞってASの導入《どうにゅう》と配備《はいび》に力を入れていた。イギリス、フランス、ドイツ、イスラエル、日本、中国などが独自《どくじ》のASを開発した。あらゆるメーカーはこの新たな兵器ジャンルに先を争って参入《さんにゅう》し、携帯火器《けいたいかき》やオプション装備などの種類が爆発的に増加《ぞうか》した。優《すぐ》れた装備もあったが、救いようがなく劣《おと》った装備もたくさん作られた。
そうした『M6ショック』が一段落《ひとだんらく》しかけた九〇年代後期になって、米軍はさらに発展したコンセプトのASの開発を始める。それが第三世代型AS――すなわちM9 <ガーンズバック> である。
M9はパラジウム・リアクターと新型のマッスル・パッケージによって、完全な電気|駆動《くどう》を実現《じつげん》している。これは機体の大幅な静粛性《せいしゅくせい》向上と、駆動系の革命的《かくめいてき》な軽量化《けいりょうか》をうながした。これによって、M9は従来《じゅうらい》のASや戦闘ヘリを圧倒《あっとう》する、高度な運動性を与えられている。基本重量が軽くなったため、ヘリや輸送機《ゆそうき》への搭載《とうさい》もより容易《ようい》になり、展開能力(機動性)も向上している。第二世代型までの余分《よぶん》な油圧系《ゆあつけい》のシステムを全廃《ぜんぱい》したため、ペイロードに大きな余裕が生まれ、それがこのM9の性能向上《せいのうこうじょう》にさらに寄与《きよ》している(<ミスリル> 使用のM9が、内蔵型《ないぞうがた》のウェポン・ラックやECS、贅沢《ぜいたく》なほどのセンサーやヴェトロニクスなどを搭載している理由はここにある)。新型のマッスル・パッケージはそれ自体が防弾性《ぼうだんせい》を持つため、第三世代型ASは装甲防御力もアップしている。加えて、次世代型のECSにより、より進んだステルス性を獲得《かくとく》。非常《ひじょう》に発達したデータリンク機能《きのう》や、AIの支援《しえん》による操縦《そうじゅう》ステムのか負担軽減《ふたんけいげん》も大きい。
このように、主人公たちの使用するM9という機体が、サベージやM6に対して圧倒的《あっとうてき》な優位《ゆうい》を誇《ほこ》っているのは、ただ単に『動きが速い』というだけの理由ではないのだ。
ASは、歩兵用の強化版という出自ではあるが、物語時点の現在ではもっとも先進的で有望《ゆうぼう》な機甲システムという位置づけになっている。とりわけゲリラ戦の盛《さか》んな第三世界においては重宝《ちょうほう》されるため、米国、ソ連、中国、フランスなどの兵器|輸出《ゆしゅつ》大国で生産されたASは、様々《さまざま》な地域《ちいき》で見ることができる。
そうして普及《ふきゅう》の進んだASは、旧型ならば、予算《よさん》に恵まれないゲリラやテロリストでも入手することが可能になりつつある。アフガン時代の宗介は、(敵《てき》であるソ連軍から略奪《りゃくだつ》したにせよ)そうしたゲリラの先駆《さきがけ》でもあるし、短編集の『エンゲージ〜』に出てきたゲリラや、A21[#「21」は縦中横]などもそうした例だ。たとえ旧型でも、ASを装備しない歩兵部隊や警察《けいさつ》などにとっては、ASはすさまじい脅威である。
ただし、M9級の最新鋭機は、よほど予算が潤沢《じゅんたく》でなければ運用することはできない。
[#ここから太字]
▼アルギュロス(Argyros)
[#ここで太字終わり]
…… <ミスリル> のカバー企業《きぎょう》の一つ。国際的な警備《けいび》会社で、企業の危機管理《ききかんり》に対する助言やコンサルタントなどを行うほか、実際の警備業務なども請《う》け負う。社員や役員には退役《たいえき》軍人が多いことで知られている。<ミスリル> の陸戦隊員の多くは、このアルギュロスに雇《やと》われている扱《あつか》いになっている。宗介やクルツ、マオなども、表向きはこのアルギュロスの社員。ちゃんと社員証も持ってるし、保険にも入っている。休暇《きゅうか》で都会などに出かけるときは、この身分。
ちなみにマデューカスなどの海軍関係者は、ここではなく『ウマンタック』という海運企業や、ジオトロンに関係した艦船《かんせん》メーカーに所属《しょぞく》しているケースが多い。
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▼音標記号[#[#「#」は縦中横]]
[#ここで太字終わり]
……アマチュア無線《むせん》をやる人はよく知っているが、劇中《げきちゅう》に出てくる『アルファ』や『ノヴェンバー』などの言葉は、通信中などに似た発音のアルファベットを間違いなく伝えるための記号である(『B』や『D』や『G』などは、雑音《ざつおん》がひどいと間違《まちが》えるおそれがある)。劇中で、通信機などを使っている人物が『アルファ・ワン』と言っている場合は、『A1』ということ。
いちおう、その音標記号を列記しておく。
A=アルファ(ALFA)/B=ブラボー(BRAVO)/C=チャーリー(CHARLIE)
D=デルタ(DELTA)/E=エコー(ECHO)/F=フォックストロット(FOXTROT)
G=ゴルフ(GOLF)/H=ホテル(HOTEL)/I=インディア(INDIA)
J=ジュリエット(JULIET)/K=キロ(KILO)/L=リマ(LIMA)
M=マイク(MIKE)/N=ノヴェンバー(NOVENBER)/O=オスカー(OSCAR)
P=パパ(PAPA)/Q=ケベック(QUEBEC)/R=ロメオ(ROMEO)
S=シエラ(SIERRA)/T=タンゴ(TANGO)/U=ユニフォーム(UNIFORM)
V=ヴィクター(VICTOR)/W=ウィスキー(WHISKY)/X=エックスレイ(X-RAY)
Y=ヤンキー(YANKEE)/Z=ズールー(ZULU)
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▼ガスタービン・エンジン
[#ここで太字終わり]
……おもな第二世代型ASは、このエンジンで駆動《くどう》する。取り込んだ外気をタービンで圧縮《あっしゅく》し、燃料《ねんりょう》を混《ま》ぜて燃焼《ねんしょう》させる方式のエンジン。力の取り出し方こそ違うが、ジェット機のターボファン・エンジンやヘリのターボシャフト・エンジンと同じ内燃機関《ないねんきかん》である。軽量《けいりょう》で出力に優《すぐ》れ、構造《こうぞう》が単純なため信頼性《しんらいせい》が高い。だがその反面で、燃費《ねんぴ》が悪い。
……のだが、フルメタ世界のガスタービン・エンジンはブラック・テクノロジーの恩恵《おんけい》で、非常《ひじょう》に熱に強い新素材《しんそざい》を援用《えんよう》しているため、現実のエンジンよりも遥《はる》かに部分|負荷《ふか》に対して強くなっている(←この辺の考証《こうしょう》は富士見書房の菅沼拓三氏のアイデア。この場を借りてサンクス)。冷却《れいきゃく》の問題が軽減《けいげん》されているため、燃費|効率《こうりつ》は現用のディーゼル・エンジンとそう変わらない。もちろん、同じ耐熱《たいねつ》素材を用いればディーゼルはもっと燃費がよくなってしまうのだろうけど……まあ、その辺は効率の差が縮まったおかげで、前述《ぜんじゅつ》のメリットが優先されている、ってことで。
ガスタービン・エンジンを採用《さいよう》しているため、第二世代型ASの作動音《さどうおん》はかなりうるさい(ジェット機とそっくり。『キイィィ……ン!』&『ゴオッ!』って感じ)。これはこれでカッコいいが。ただ、最新のM6A3(ITBでガウルンにやられた特殊《とくしゅ》部隊の連中)は大容量《だいようりょう》のコンデンサを搭載《とうさい》しているため、必要《ひつよう》なときは短時間の無音駆動《むおんくどう》が可能《かのう》。
第二世代型ASの場合、各関節《かくかんせつ》の駆動は電磁筋《でんじきん》の伸縮《しんしゅく》(エンジンに直結《ちょっけつ》された発電機による電力)と、流体触手《りゅうたいしょくしゅ》によるトルク伝達《でんたつ》との二種を併用《へいよう》することで必要な出力を得ている。第二世代型の時代の電磁筋は、瞬発力《しゅんぱつりょく》には優《すぐ》れるものの、総出力《そうしゅつりょく》はまだ不満足なものだったため、こうしたバイナリー駆動方式が採用された。(←これはアニメ版のメカデザイナーの一人、謂原《いはら》氏のアイデア。ラフ絵ですっばらしいサベージの動力|概念図《がいねんず》があるので、機会があったらぜひ見てください)。電磁筋の出力不足は近年になって改善《かいぜん》されたため、第三世代型AS(M9)は完全な電気駆動になっている。
最近のM6A3や、Rk―92[#「92」は縦中横]の改修機《かいしゅうき》は、最新の高出力マッスル・パッケージを採用しているため、持続的《じぞくてき》な最大出力のみに関していえば、このバイナリー式のおかげでM9にひけをとらない。骨格系《こっかくけい》の破損《はそん》を覚悟《かくご》して、がむしゃらに腕相撲《うでずもう》をやったとしたら、M6A3はM9に勝つかもしれない。
[#ここから太字]
▼強襲機兵《きょうしゅうきへい》
[#ここで太字終わり]
……ASを指す日本語。自衛隊《じえいたい》がASを導入《どうにゅう》する前に定着してしまった言葉である。八〇年代半ば、米軍のM4が世に出た当時、『AS』というのは『アッソールト・ソルジャー』の略《りゃく》だとする誤解《ごかい》がマスコミで広まり、それが『突撃《とつげき》兵士』→『強襲兵士』→『強襲機兵』と訳されていった。九〇年代|初頭《しょとう》、陸上自衛隊がASを導入したとき、防衛庁ではこの『強襲』という言葉の是非《ぜひ》をめぐって、しょーもない議論《ぎろん》がエンエンと続けられた(『destroyer』を『護衛艦《ごえいかん》』、『infantry』を『普通《ふつう》科』と訳さねばならないお国柄《くにがら》なので)。けっきょく当時の防衛庁長官が『主従機士《しゅじゅうきし》』という情けない言葉を考えたが、あたかも『E電』のようにまったく定着せず、いまだに一般では『強襲機兵』が主流である。『主従機士』という言葉は、現在ではごく一部の公文書でしか使われていない。ちなみに陸自の現場の人たちは、気取らずフツーに『エイエス』と呼んでいる。
[#ここから太字]
▼『水中における超音速|投射物《とうしゃぶつ》の流体力学』
[#ここで太字終わり]
……『〜R&R』でテッサが読んでた論文《ろんぶん》。数年前(97[#「97」は縦中横]?〜99[#「99」は縦中横]年ごろ)に、NUWC(米海軍水中戦センター)のサイトで紹介《しょうかい》されていた研究が元ネタ。水中でも『超音速の物体』というのは存在しうる。NUWCはDARPA(国防高等研究計画局)および民間企業と共同で、小型の投射物を水中で秒速1549メートルで射出《しゃしゅつ》する実験を行ったそうな。
まともに考えれば、『超音速潜水艦』というものを作るのは不可能《ふかのう》だろうが(必要もないし)、そういう発想自体はいちおう、あるらしい。設定上、世界最速の潜水艦であるTDDでさえ、音速にはほど遠い速度しか出せない。ひところ話題になったロシアの超高速|魚雷《ぎょらい》『シクヴァル』も、TDDの5〜6倍くらいの速度にすぎない(実用性もほとんどなさそうだし)。
水中の超音速投射物というのはあまりにも未知数・未開拓《みかいたく》な分野のため、その利用法さえはっきりしないところがあるが、接近中《せっきんちゅう》の魚雷を迎撃《げいげき》する防衛システムなどが、可能性として挙《あ》げられていた。つまり水中版のCIWS(近接防空迎撃システム。ファランクスとかゴールキーパーとか)である。そんなもんが実用化できるかどうかは知らないが。でもあったらいろいろ便利《べんり》かも(作劇的に)。
ただ、最近パタっと情報が出なくなってしまったので、ひょっとしたらそれなりに将来性が見込まれて予算が拠出《きょしゅつ》され、こっそりと研究が続いてるのかもしれない。
ちなみにTDDには、そんな便利なものは搭載されていない。魚雷を撃《う》たれたら、囮《おとり》を射出して逃《に》げるのみ、である。
でもテッサは超兵器オタクなので、こういう論文《ろんぶん》を読みながら『これ、なにかに使えないかしら。できれば手軽に、なるべく安価で……』などと空《むな》しい想像をいつもしている。
[#ここから太字]
▼ナンタケットのおじいさん
[#ここで太字終わり]
……ONSでテッサがTDDと連絡を取る際《さい》に使っていた識別《しきべつ》コード。リメリックという五行戯詩から。リメリックはふざけた調子で、駄洒落《だじゃれ》なんかもぽんぽん入る定型詩。ちなみに『ナンタケットのおじいさん』は、こんな詩である。対訳は賀東《がとう》のへタレ訳。
[#ここから1字下げ]
There was an old man of Nantucket(ナンタケットのおじいさんは)
Who kept all his cash in a bucket;(あり金ぜんぶをバケツに詰《つ》めてた)
But his daughter, named Nan,(でもその娘のナン嬢《じょう》が)
Ran away with a man――(男と駆《か》け落ちしてしまい)
And as for the buncket, Nantucket(バケツもナンが持ち逃げしたとさ)
[#ここで字下げ終わり]
英文の方を声に出して読めば、語呂《ごろ》のよさがよく分かるだろう。最後の Nantucket は、Nan took it にもじった駄酒落である。
なんとなくONSのシチュエーションに似ているので使ってみた。すなわち『おじいさん』はA21[#「21」は縦中横]で、『バケツ』がタクマで、『ナン』がテッサで、『駆け落ちした男』が宗介。
[#ここから太字]
▼ボクサー
[#ここで太字終わり]
……オットー・メララ社製のAS用57[#「57」は縦中横]ミリショット・キャノン。短銃身《たんじゅうしん》(砲身《ほうしん》)、威力《いりょく》バツグン。M6クラスの機体では取りまわし・命中|精度《せいど》などに難《なん》があるが、M9、ARX―7クラスの機体では近接戦《きんせつせん》でのケンカ・ショットに威力を発揮《はっき》する火器であり、宗介が好んで使う。構造的《こうぞうてき》にはモーゼル拳銃《けんじゅう》に似ている。APFSDS、00―HESHなど、多彩《たさい》な弾頭《だんとう》をセレクトできる。
ショットガンをもじった武器なだけあって、砲身にはライフリングが入っていない。クルツがよく使っている滑降砲《かっこうほう》を短くして、機構的《きこうてき》に変えただけのもの。
クセがあることで有名な銃で、業界関係者の間では賛否両論《さんぴりょうろん》。クルツは宗介に出会ってまもないころ、彼が自機《じき》の火器にボクサーを選ぶのを見て、たちまち『ええ〜〜?』という顔をした。人間の銃にたとえてみれば、SWATの隊員が44[#「44」は縦中横]マグナムのリボルバーを使うくらいヘンな話だからだ(もっとも、クルツのようなスナイパーあがりは、散弾銃《さんだんじゅう》をバカにしがちなところがある。その威力を侮《あなど》っているのではなく、あの散弾というコンセプトが美しくないから嫌《きら》いなのである)。
とはいうものの、宗介は劇中の通りにボクサーを使いこなしている。いまでは彼のセレクトに、文句《もんく》を言う隊員はいない。
ただし宗介いわく、『真似《まね》はしない方がいい』とのこと。
[#ここから太字]
▼マッスル・パッケージ
[#ここで太字終わり]
……ASの筋肉。第二世代以降はパッケージ化が図《はか》られており、交換《こうかん》が容易《ようい》なように工夫《くふう》されている。
油圧《ゆあつ》シリンダーや空気圧などは論外《ろんがい》で、微妙《びみょう》な動作・瞬発力《しゅんぱつりょく》・高出力の三条件を揃《そろ》えた、ASには必要不可欠《ひつようふかけつ》な部品である。断面積《だんめんせき》で比《くら》べても、人間の筋肉の数10[#「10」は縦中横]倍ものパワーをほこる。電圧をかけることで収縮《しゅうしゅく》する特殊《とくしゅ》な樹脂《じゅし》でできいている(形状《けいじょう》記憶プラスティック)。非常《ひじょう》に軽い素材《そざい》であり、おかげでASは陸戦兵器にもかかわらず航空機《こうくうき》並《な》みに軽い。出力はどんどん上がってきているほか、最近のそれは防弾性《ぼうだんせい》も兼《か》ね備《そな》えるようになってきている。
電圧《でんあつ》をかけることによって収縮する。ただデカい電圧をかければいいわけではなくて、適性《てきせい》な電力を適性なタイミングで供給《きょうきゅう》してやることが重要《じゅうよう》。あらゆるタイプのアクチュエーターには『最大適性電力』があり、これを超《こ》えた電気を流しても筋肉の出力は上がらず、ただひたすら組織が損傷《そんしょう》するだけだったりなどする。また、ASのマッスル・パッケージは、使えば使うだけ性能が落ち、どんどん効率《こうりつ》が悪くなっていく(FOE・筋繊維裂耗現象《きんせんいれつもうげんしょう》)。微細《びさい》な繊維が断裂《だんれつ》する、人間でいうところの筋肉痛と同じ症状《しょうじょう》なのだが、自然|治癒《ちゆ》の力がないため、悪化する一方なのである。目安としては、一般の実戦部隊で使われているASの場合、10[#「10」は縦中横]回の作戦(もしくは実戦|訓練《くんれん》)で交換《こうかん》が必要になる。10[#「10」は縦中横]回使うとFOEによって最大適性電力(≠最大出力)は新品の70[#「70」は縦中横]%程度まで落ちる。この辺はその部隊・軍隊の予算と整備態勢《せいびたいせい》の問題になってきて、20[#「20」は縦中横]回使っても交換しない軍隊もあれば、5回で交換してしまう自衛隊みたいな所もある。<ミスリル> など、そうした特殊《とくしゅ》部隊のASは常に最大の能力を発揮《はっき》する必要があるので、一回の実戦でマッスル・パッケージを全交換してしまう。
出力が低くとも、そうしたFOEを少なく抑《おさ》えるマッスル・パッケージもあり、一般《いっぱん》の部隊では訓練用として重宝《ちょうほう》されている。訓練用の出力は7〜8割程度だが、実戦用の2〜3倍も長もちする。
つまり高品質のマッスル・パッケージと、訓練用のマッスル・パッケージの二種があることになる。ノリはほとんど自動車のオイルやライフルの弾薬《だんやく》。スパゲティや弾薬みたいに様々な太さのマッスル・パッケージがある。整備士は「デルタ・ケミカル、56[#「56」は縦中横]ミリ・3番のMPを20[#「20」は縦中横]本」などといった調子でマッスル・パッケージを注文する。
地域紛争《ちいきふんそう》の危機《きき》が起こると、関係した軍のAS整備場は実戦用MPの交換作業で大忙《おおいそが》しになる。交換作業などの直後は、全身のMPのマッチングを調整する作業が必要で(整体)、これを実行するソフトウェアの性能はイスラエル製がピカ一。日本製はダメ。競争|原理《げんり》が働いていないため、システムに無駄《むだ》が多い。『ONS』で <ベヘモス> に撃破された自衛隊の九六式は、整体の時間がなくて訓練用のMPのまま派遣《はけん》されてしまった。実戦用のMPを積《つ》んでいれば、もう少し善戦できたかもしれない。
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▼CH―67[#「67」は縦中横](MH―67[#「67」は縦中横])
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……90[#「90」は縦中横]年代前半、シコルスキー、マーティン・マリエッタ社が中心となって共同開発した双発《そうはつ》の中型|輸送《ゆそう》ヘリ。主任務《しゅにんむ》はASを中心とした兵器システムの輸送。H―53[#「53」は縦中横]系のヘリをコンパクトにしたような構造《こうぞう》で、奇《き》をてらわないオーソドックスな設計思想《せっけいしそう》である。しかし90[#「90」は縦中横]年代の技術を導入《どうにゅう》ずる前提《ぜんてい》で新設計されたため、そのサイズにも拘《かか》わらずMH―53[#「53」は縦中横]と同クラスの離陸重量《りりくじゅうりょう》、速度、航続距離《こうぞくきょり》を持つ。信頼性《しんらいせい》・整備性もきわめて高い。
AS一機と各種|携帯《けいたい》火器を輸送《ゆそう》するのが普通の運用方法だが、緊急時《きんきゅうじ》にはAS二機を同時に輸送することも可能(この場合、携帯火器類などは投棄《とうき》する必要がある)。
TDDにはこのCH―67[#「67」は縦中横]に若干《じゃっかん》の改良を施《ほどこ》したMH―67[#「67」は縦中横]が、八機|搭載《とうさい》されている。TDDのMH―67[#「67」は縦中横]は、不可視《ふかし》モード付きECSを装備《そうび》。固定武装は12[#「12」は縦中横]・7ミリ機関銃《きかんじゅう》(M9の頭部機関銃と同タイプ)一門とM134[#「134」は縦中横]ミニガン二門。また必要に応じてヘルファイアAGMやスティンガー・ミサイルを発射する能力を持つ。
ちなみにMH―67[#「67」は縦中横]の通称《つうしょう》は『ペイブ・メア』。
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▼EMFC(Electron Magnetic Fluid Controller)
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……電磁《でんじ》流体|制御装置《せいぎょそうち》。<トゥアハー・デ・ダナン> の『賢《かしこ》い肌《はだ》(スマート・スキン)』。船体表面に無数《むすう》に配列された超《ちょう》小型の超|電導《でんどう》ディバイス群が、フレミングの左手の法則で海水を任意の方向に誘導《ゆうどう》する。水の抵抗をなくすほか、乱流の発生を抑《おさ》える効果《こうか》がある。超伝導|推進《すいしん》と併用《へいよう》することで、それまでの潜水艦にない静粛性《せいしゅくせい》と速度を実現する。
他の推進機関を使わずとも、TDDはこのEMFCだけで水中を前後左右上下に自由に動くことができる(せいぜい五ノット強くらいの低速だが)。ITBの冒頭部で <パサデナ> とのニアミス後、TDDが相手の索敵機動《さくてききどう》から身を隠《かく》したのは、このEMFCを使った『忍び歩き』で常に短波アレイの探知|範囲外《はんいがい》の背後やや下に回っていたからだったりする。あの状況《じょうきょう》でセイラーがTDDを探知したいのだったら、静粛|航行《こうこう》はやめて、うるさくてもまっすぐ高速で走り、突然《とつぜん》の一八〇度回頭――いわゆる『クレイジー・イワン』をやるのが効果的だったろう。ただ、もちろんテッサにもそれは分かっていたので、必ず船体を <パサデナ> の下に付けていたのだったりするが。こうなると、背後の乱流の痕跡《こんせき》を発見できるかどうかは、<パサデナ> のソナー員の腕次第《うでしだい》。
こんな具合で、EMFCはTDD最大の強みとさえ言える。本編でももっと詳《くわ》しく説明したかったのだが、そこまでやるとファンタジア文庫の趣旨《しゅし》から外れるので、グッとこらえてやめた。
ここまでは便利ではないが、似たような装置《そうち》は現実にNUWC(米海軍水中戦センター)で研究中。
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▼強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》
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……陸戦部隊を搭載《とうさい》して敵地《てきち》に侵入《しんにゅう》、速《すみ》やかな奇襲《きしゅう》攻撃を行うのが目的の潜水艦。TDDがそれにあたる。現実には存在しない(計画は実在)。リスク、運用コスト、対費用効果、技術的な難問《なんもん》など、真面目《まじめ》に考えると甚《はなは》だ不合理《ふごうり》なプラットフォームだからである(エンターテインメントとしては面白い艦なのだが)。
TDDの場合は、他の追随《ついずい》を許さない高速性能、潜航中《せんこうちゅう》・浮上時《ふじょうじ》の静粛性、浮上後のECS運用能力など、フィクションならではの『ズル』があるのではじめて使い物になる。
ちなみにこの世界には、こういう文書があったりする。
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<英国の軍事アナリスト T・ブルックスの著書《ちょしょ》『水面下の開発史』より抜粋《ばっすい》>
強襲揚陸潜水艦[anphibious assault submarine]
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――潜水艦に陸戦部隊を搭載《とうさい》し、敵地《てきち》にゲリラ的な奇襲攻撃《きしゅうこうげき》を行わせるという発想は意外に古い。すでに第二次世界大戦中にはアメリカ海軍が輸送潜水艦を数隻《すうせき》、運用している。旧日本海軍にも同様《どうよう》の計画は存在したが、実現《じつげん》には至《いた》らなかった。
この『揚陸潜水艦』が実用化されなかった理由は明らかである。潜水艦である以上、その搭載能力には大きな制限がある上、格納《かくのう》スペースを確保《かくほ》するために他の性能を犠牲《ぎせい》にしなければならない。特別な生産ラインを用意して建造《けんぞう》しても、運搬《うんぱん》できる陸戦部隊はせいぜい一個中隊であり、その巨費《きょひ》に見合った戦果や抑止力《よくしりょく》はほとんど期待できないのだ。
ところがソ連海軍は一九八〇年代後期、どう考えても不合理なこの艦種の建造に着手した。新兵器・アームスレイブの搭載を前提《ぜんてい》として、である。<プロジェクト985> と名付けられたその潜水艦は、七〇年代に存在した輸送《ゆそう》潜水艦計画をより洗練させ、最新技術でよみがえらせたものであった。三つの船殻《せんかく》を束ねたタフな構造で、その全長は推定《すいてい》で約一八〇メートル。完成していれば、タイフーン級|弾道《だんどう》ミサイル潜水艦を超《こ》える、世界最大の潜水艦となっていただろう。
だがこの <プロジェクト985> は、九〇年代初頭の政変《せいへん》と、それに続く内戦の影響《えいきょう》で建造がストップしてしまった。給料の未払《みばら》い、資材《しざい》の不足から、技術者や労働者たちはまったく働かず、未完成の船体は実に一四か月間、セヴェロドヴィンスクの造船所で埃《ほこり》をかぶっていた。完成の見込みはないと判断《はんだん》した軍部は、けっきょく <プロジェクト985> の建造中止を正式に決定。船体は北極海まで曳航《えいこう》され、そこで爆破《ばくは》、深度数千メートルの海底に遺棄《いき》されたという(この報告には、未確認《みかくにん》の部分が多い。未完成の船体はそのままどこかへ運ばれ、中国政府が引き取ったとするユニークな説もあるが、信憑性《しんぴょうせい》は低い)。
いずれにせよ、船体は失われた。
もし <プロジェクト985> が本当に戦略的|価値《かち》のある艦だったならば、こうした決定はなされなかったはずだ。つまるところ、『強襲揚陸潜水艦』は、子供じみた夢想家の巨大な玩具《おもちゃ》だったといえよう。
それを象徴《しょうちょう》する、小さなエピソードが一つある。
著者《ちょしゃ》が数年前、NUWC(米海軍水中戦センター)で行われた講演会《こうえんかい》において、この <プロジェクト985> の悲喜劇《ひきげき》を解説《かいせつ》した時のことだ。その聴衆《ちょうしゅう》の中に、なぜか一二、三歳くらいの少女がいた(おそらく、父親がNUWCの関係者だったのだろう)。アッシュブロンドの髪《かみ》がチャーミングな、その小さなレディは、挙手《きょしゅ》して私に言ったものだ。
『ミスタ・ブルックス。あなたはその船を「子供のおもちゃだ」なんて言ってますけど、その認識《にんしき》はまちがってると思います。わたしだったら、その船をすばらしいものに作り変えてみせますよ。そう、世界で最高の潜水艦にね』
それは罪《つみ》のない無邪気《むじゃき》な発言だったが、さすがに会場の全員が失笑《しっしょう》した。
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▼グロック19[#「19」は縦中横](Glock19)
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……オーストリアはグロック社の自動拳銃。口径《こうけい》9ミリ、装弾数《そうだんすう》15[#「15」は縦中横]+1発(……だったと記憶してるが、自信なし)。同社のグロック17[#「17」は縦中横]を、若干《じゃっかん》コンパクトにしたモデル。G17[#「17」は縦中横]はフレーム部分などのパーツで、ドラスティックに強化プラスティックを採用《さいよう》した最初のガンとして有名である。プラスティック部品が多いことから、当初は『空港のX線や金属|探知器《たんちき》に反応《はんのう》しない銃』などと報《ほう》じられたが、あれはウソ(『ダイハード2』でもマクレーンがそんなこと言ってて萎《な》えた)。スライド・グループなどの重要・主要な部品はあくまで金属なので、手荷物|検査機《けんさき》に通せば、係官には一発で銃だと分かる。
トリガー部分にのみセイフティを配した独特《どくとく》の機構《きこう》、撃鉄《げきてつ》のないダブル・アクション・オンリーの設計なども大きな特徴。つまりこの銃は、フィクションの劇中で玄人《くろうと》が素人《しろうと》に『銃を撃つには、セイフティを外しておかなければならんぞ』とかカッコよく言う描写《びょうしゃ》や、悪者が『これから撃つぞー』という記号として撃鉄(ハンマー)をかちっと上げる描写ができない、非常《ひじょう》に不便な銃なのである。そんなわけで、作者はこの銃を主人公に持たせたことを後悔《こうかい》している。
宗介の愛銃としてしばしば取り上げられるが、実は彼はいまのところ長編(DBD下巻まで)では、この銃を一度も発砲《はっぽう》していない(短編ではむやみやたらに発砲しているが)。つまり、このG19[#「19」は縦中横]は劇中で役に立った試《ため》しがない。そういう意味で、変な『主人公|御用達《ごようたし》の銃』である。
長編における宗介は、合理性《ごうりせい》をそれなりに重《おも》んじるタイプな上、直面する脅威《きょうい》もかなり大きいので、より強力な火力を持つ散弾銃《さんだんじゅう》やサブマシンガン、アサルトライフルなどをしっかり用意して使っている。
G19[#「19」は縦中横]はエリート・フォースの兵士にとっては、決してベストの銃とはいえない。しかし、携帯性、秘匿《ひとく》性、信頼性、装弾数《そうだんすう》について言えばG19[#「19」は縦中横]は及第点《きゅうだいてん》を与えていい銃だと思う。例のトリガー・セイフティ(引き金に指をかけるだけで、安全|装置《そうち》が解除《かいじょ》される仕組み)の件で、ホルスターから抜くときに暴発《ぼうはつ》させる事故《じこ》がある……なんて話も有名だが、そういう事故を起こした奴《やつ》をマヌケだと思ってしまう作者は不謹慎《ふきんしん》だろうか。いや、マヌケだなどとは言わないまでも、こういうフィクションの主人公級の人間が持っているであろうはずの技能《ぎのう》・経験・冷静さを考えれば、そういう事故は度外視《どがいし》して良いのではないかと(滅多《めった》に銃を抜く機会《きかい》がないお巡《まわ》りさんとは違うんだから。ねえ?)
宗介自身、G19[#「19」は縦中横]以上のこだわりは特にない様子である(そうではないのが超|贅沢《ぜいたく》で超高級なソーコムなんぞをわざわざ買ってるマオ)。
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あとがき
この本は月刊ドラゴンマガジン二〇〇〇年四、六、一一月号と、二〇〇一年三、六月号の連載《れんさい》短編、および二〇〇〇年一〇月|増刊号《ぞうかんごう》の特別編に加筆修正《かひつしゅうせい》し、若干《じゃっかん》のボーナストラックを加えたものです。
えー、それで。あの。その。次の新刊は書き下ろし長編ということだったのですが……延期《えんき》に延期を重ね、こういう形と相成ってしまいました。しかも完全な書き下ろしがない一冊……というこで、これまた、まったくもって申し訳ございません。すべて私の不徳《ふとく》と未熟《みじゅく》のなせる所業《しょぎょう》であります。本当にすみません(平身低頭《へいしんていとう》)。
この場を借りまして、〇二年六月現在のフルメタのシリーズ状況《じょうきょう》を説明いたします。
長編シリーズは、先月(二〇〇二年五月)末に発売された月刊ドラゴンマガジンから、連載形式でお送りすることになりました。これから半年強、長編を分割《ぶんかつ》形式でお届けしたあと、また一定期間、学園コメディの短編を連載するつもりです(ですので短編が好きな読者の方、コメディも続きますのでご安心ください)。
ここまでモタモタしていると、『賀東《がとう》はもうフルメタに飽《あ》きてしまったのではないか』などと指摘《してき》されてしまいそうなのですが――断《だん》じてそんなことはありません。むしろこのシリーズをどうやって納得《なっとく》のいくように収束《しゅうそく》させるべきかを悩《なや》むあまり、思考《しこう》の迷宮《めいきゅう》に迷い込んでしまったところがあります(現在進行中の長編は、かねてより申し上げていた通り、軽めの内容で終わりますが……)。
でも、ようやく最近、構想がまとまってきました。メインキャラの今後も、おおむね決心が付きました。非常《ひじょう》に自信のあるシーンも、一〇個くらい思いついてます。丁寧《ていねい》な作りを心がけて、どうにか続けていければ、かなりいい作品として完結できるのではないかな、と思っております。
いや、まあ……まだまだ先の話なんですが。
では気を取り直して、いつも通りの各話のコメントを。
『ままならないブルー・バード』
連載時の原稿《げんこう》を読み返したところ、ひどく雑《ざつ》な文章に驚《おどろ》いて、悲鳴《ひめい》をあげてパソコンの前を逃げ出し、しばらく布団を被ってガタガタ震えてました。そんなわけで、なにげに大幅《おおはば》改稿《かいこう》です。
ちなみに私自身はナンパの経験《けいけん》はありません。ずっと前、居酒屋《いざかや》で知り合ったどっかの姉ちゃんと遊びにいったことはありますが。ああいうのは、やっぱりどうも苦手ですね。
『的はずれのエモーション』
連載時の原稿を読み返したところ、ひどく雑なプロットに驚いて、悲鳴をあげて(以下|略《りゃく》)。これまた大幅改稿です。
椿《つばき》のような、いかにもマンガ然としたキャラは、実は私の引き出しにはあまりないタイプです。シリーズが長くなると、こういうキャラも必要になってくるよなー、と考え、意識《いしき》して無理矢理《むりやり》使ってきたのですが、おかげで最近はなんとなく馴染《なじ》んできました。
『間違《まちが》いだらけのセンテンス』
これは小説でなければ出来ないネタですね。いろんな文体のモノマネをするのは、文章書きにとってはなかなか楽しいものです。
ちなみに水星《みずほし》先生の今回の難解《なんかい》文章は、白揚社《はくようしゃ》の「ゲーデル、エッシャー、バッハ」という本の中からテキトーに見繕《みつくろ》って作ってあります。分厚くて難《むずか》しい本なのですが、割と面白い内容なので、チャレンジ精神《せいしん》の旺盛《おうせい》な方にはオススメです。
『時間切れのロマンス』
私は大学時代、映画研究会にも所属《しょぞく》しておりました。いつもしょーもないバカ映画ばっかり撮《と》ってたので楽しかったです(『奇跡《きせき》の猿《さる》人間』とか『おなら人間プー』とか、そういうタイトルを聞けば想像《そうぞう》は付くかと思います)。
でもって、こないだ『まぶらほ』の築地《つきじ》さんが「こないだ某所《ぼうしょ》の自主制作映画の上映会で、『犬●●ソ●●●ー』ってフィルムに、賀東さんが出てるって聞いたんだけど。ホント?」と聞いてきました。
知りません。
私は散弾銃《さんだんじゅう》を振り回したり、半裸《はんら》で蝶《ちょう》ネクタイして踊《おど》ったりなんか、していません。
『五時間目のホット・スポット』
これは、どシリアスなDBDの下巻の直後に書いた話でして。その反動か、なんかもう、無性《むしょう》にバカバカしくてくだらない話を書きたくてしょうがなかったのを覚えております。あと一歩|狂《くる》ってたら、「ハレンチ学園」の領域《りょういき》にまで踏《ふ》み込んでいたかもしれません。ああ、ヤバかった。シリーズ存亡《そんぼう》の危機《きき》でしたよ。ええ。
とかいって、全然この話は改稿してないのですが。しかも割と気に入ってたり。
『女神の来日(受難編《じゅなんへん》)』
書き下ろしがないのはあんまりなので、増刊号に載《の》った幻《まぼろし》の特別編を加筆修正《かひつしゅうせい》して収録しました。ITBの後日談《ごじつだん》にあたるお話です。コテコテなネタですが、まあ、こういうのもアリではないかと。ちなみにこの話の続きも準備《じゅんび》してます。『アルバイト編』とか『巨頭《きょとう》会談《かいだん》編《へん》』とか『三者面談編』とか。日頃《ひごろ》、顔を合わせない短編キャラと長編キャラが、もう、いろいろと。
『作者の極秘《ごくひ》設定メモより』
書き下ろしがないのはあんまりなので、設定メモから一部を抜粋《ばっすい》してみました。そのうち一冊にしてみたいものですねえ……。あまりこういうものに興味《きょうみ》のない方も多いかとは思いますが……。ご笑覧《しょうらん》いただければ幸いです。
……さて、前回の短編集『どうにもならない五里霧中《ごりむちゅう》?』のあとがきで募集《ぼしゅう》しました、『短編六巻のタイトル』の件なのですが、いまお手持ちの本の表紙の通りになりました。いい加減《かげん》な募集の仕方だったので、『せいぜい一〇通くらいが来ればいい方かな……』と思っていたのですが、とんでもない。数百通の応募《おうぼ》をいただきまして、感謝《かんしゃ》するやらぶったまげるやら、といった有様《ありさま》です。
このタイトル『あてにならない六法全書《ろっぽうぜんしょ》?』は多数の方が送ってくださったものでして、その皆様《みなさま》に、オリジナルのテレカとサイン入りの本書をお送りします。あと、次点で『役に立たない六法全書?』という案もたくさんありました。あまりにも惜《お》しくて気の毒《どく》なので、こちらで応募してくれた皆様にも賞品をお送りします。まあ、ニアピン賞ということで。
それから、残念ながら選に漏《も》れてしまった皆様《みなさま》、ごめんなさい。ありがとうございました。すべてこの目で読ませていただいております。
ちなみに『七』は……たぶん、いろいろありそうなので、自分で考えられそうです。次の難関《なんかん》は……『九』かなあ? 『八』はどうにかなりそうな感じだけど。
長いあとがきになってしまいました。
今回もまた、多数の方々のご忍耐《にんたい》とお力《ちから》添《ぞ》えを頂《いただ》いております。担当編集様、関係者の皆様、そしてなにより四季《しき》童子《どうじ》先生、いつもありがとうございます。それからボロッボロの精神状態《せいしんじょうたい》のときに温かく励《はげ》ましてくださった水野《みずの》良《りょう》先生、菅沼《すがぬま》拓三《たくぞう》氏には深い感謝《かんしゃ》を。
それでは、また。次回もかなめのハリセンがうなります。
[#地付き]二〇〇二年 五月 賀《が》 東《とう》 招《しょう》 二《じ》
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初出
「ままならないブルー・バード」月刊ドラゴンマガジン2000年4月号
「的はずれのエモーション」 月刊ドラゴンマガジン2000年6月号
「間違いだらけのセンテンス」 月刊ドラゴンマガジン2000年11[#「11」は縦中横]月号
「時間切れのロマンス」 月刊ドラゴンマガジン2001年3月号
「五時間目のホット・スポット」月刊ドラゴンマガジン2001年6月号
「女神の来日(受難編)」 月刊ドラゴンマガジン2000年10[#「10」は縦中横]月号増刊
底本:「フルメタル・パニック! あてにならない六法全書?」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2002(平成14)年6月25日初版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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使用した外字
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「H」……白抜きハートで、DFパブリフォントの外字(0xF048)を使用しています。
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本152頁2〜4行 ショーコ
ショウコ
底本275頁15行 このすさまさじい精神的《せいしんてき》プレッシャー
「すさまじい」では?
底本303頁10行 というこで、
ということで?