フルメタル・パニック!
どうにもならない五里霧中?
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)善意《ぜんい》のトレスパス
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)真空|飛《と》び
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)たやすくノ[#「ノ」に傍点]した
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目 次
純で不純なグラップラー
善意《ぜんい》のトレスパス
仁義《じんぎ》なきファンシー
放課後のピースキーパー
迷子《まいご》のオールド・ドッグ
わりとヒマな戦隊長の一日
あとがき
[#改丁]
純で不純なグラップラー
[#改ページ]
千鳥《ちどり》かなめと常盤《ときわ》恭子《きょうこ》は、逃げていた。
私服姿《しふくすがた》で、全身《ぜんしん》汗だく。ばたばたと、あわただしく、うす暗い路地裏《ろじうら》を転がるように走り抜《ぬ》ける。
一〇メートルほど後ろには、三人のヤンキーが目をぎらつかせて、かなめたちを猛追《もうつい》していた。タトゥーだらけのと、ピアスだらけのと、アイパッチつけてるのが――
「待てぇ、逃がさんぞォ!?」
「待たんと殺すぞォっ、ぉあっ!?」
「待っても殺すぞぉッ、コラぁっ!?」
あれやこれや、好き勝手に。こんな調子で、とても怒《おこ》っている。懐柔《かいじゅう》やら交渉《こうしょう》やらの余地《よち》は、まるでなさそうだった。
「ぜえっ、ぜえっ……ったく、なんてしつこい奴らなのよ!」
かなめは舌打《したう》ちした。整《ととの》った細面《ほそおもて》と長い黒髪《くろかみ》。パルコの紙袋《かみぶくろ》を小脇《こわき》に抱《かか》え、片手で恭子の腕《うで》を引く。
「はあっ、はあっ……。それはたぶん……カナちゃんが、あの人たちに……ジュースをぶっかけて……真空|飛《と》び膝蹴《ひざげ》りを入れたからじゃないかな……」
息を切らして、恭子が言った。とんぼメガネ。大きな瞳は半べそ状態で潤《うる》んでいる。
ここは日曜日の繁華街《はんかがい》である。
買い物に来ていた二人が、ファストフード店で食事していると、あのヤンキーどもがちょっかいを出してきたのだ。恭子を取り囲んで『かわいいねー』などと、つつきまわされたり、冗談《じょうだん》半分で抱《だ》きつかれたり。
たまたま席をはずしていたかなめは、戻《もど》ってくるなり、三人めがけて苛烈《かれつ》な奇襲攻撃《きしゅうこうげき》を敢行《かんこう》した。恭子の言う通り、ジュースをぶっかけて飛び膝蹴りをかまし、消火器《しょうかき》をぶっかけて空のタンクで殴打《おうだ》して、電撃的《でんげきてき》に逃走《とうそう》。そして現在に至《いた》るのだった。
さすがに、怒《おこ》るのも無理《むり》はなかったりする。
「はあっ、はあっ……も、もうダメ……」
恭子が息切れして、よろめく。ヒールの高い靴《くつ》を履《は》いているため、走ることさえままならない。
「ほら、キョーコ、しっかりして。捕《つか》まったら最後よ!? マグロ漁船に売られるわよ!」
「それはないと思うけど……ダメ……」
くたくたになった恭子を、かなめは引きずるようにして走る。積んであったダンボールの山をなぎ倒《たお》し、生ゴミにあやうく突《つ》っ込みそうになりながら、角を曲がると――
「ああっ――」
恭子が足をもつれさせ、ばたりと地面に転倒した。
「キョーコ!?」
かなめはあわてて駆《か》け戻《もど》り、彼女を助け起こそうとした。だがその間に、ヤンキー三人があっさりと追いついてしまう。
「くっ……ピィーンチ……」
「ごめんね……ごめんね……カナちゃん」
涙目《なみだめ》でわびる恭子。三人はかなめたちを取り囲むと、そろって口を半開きにして、首を左後方四五度に傾《かたむ》けた。
「このアマぁ……」
「手こずらせてんじゃねぇぞ、おお?」
「逃げられると思ってんのか、ああ?」
やはりとても、怒《おこ》っている。
「み、みなさん。争いはやめましょう。そして唱《とな》えるのです、平和と友愛を。アッサラーム・アレイコム。あなたの上に安らぎあれ」
かなめは右手を左胸にあてて、なだめるように言ってみた。
「……ッカにしてんのか、おめーわぁっ!?」
「うん、実は半分くらい……」
「っらあ! っすぉ、おぁあっ!?」
得体《えたい》のしれない声で怒鳴《どな》るなり、男の一人が腕《うで》を振《ふ》って、かなめを力いっぱい張り飛ばした。
いや――
張り飛ばすより早く、その腕を後ろから『がしっ!』とつかむ者がいた。
「おぁ……?」
男の腕をつかんだのは、彼女らと同じ年かさの少年だった。
背丈《せたけ》はやや小柄《こがら》。女のかなめと同じか、すこし低いくらいだろうか。
端整《たんせい》な白い顔。吊《つ》り上がった切れ長の目。長い黒髪をひっつめにして、赤いバンダナを着けている。なぜか、薄汚《うすよご》れた割烹着姿《かっぽうぎすがた》だった。
たぶん、近所の店の料理人かなにかなのだろう。
「…………。大の男が、女を殴《なぐ》るな」
少年の声は冷ややかだった。ただ、なにかそれだけでは済《す》まない力強さが、言葉の裏に見え隠《かく》れしている。
腕をつかまれたヤンキーは、顔をアンバランスにゆがめて見せた。
「ああ? なにスカしてんだ、おめー……わいたたたたたたっ!?」
威勢《いせい》のいい声が、たちまち情けない悲鳴《ひめい》に変わる。少年が相手の手首を巧《たく》みにねじ上げたのだ。
「い、いてっ! やめろコラ! やめて! いや、やめてください! やめて、やめて、やめてぇーっ!? いっ……やめてよ、ママぁ……もうぶたないで……ぼく、一生《いっしょう》懸命《けんめい》おけいこするから……もうぶたないで! えっ、えっぐ……」
耐《た》えがたい苦痛《くつう》が、なにかつらい過去の思い出と邂逅《かいこう》したのだろうか。ヤンキーは子供のように泣きじゃくった。
『てめ、やめろっつってんだろが、タコがぁっ!』
ハモってから、ほかの二人が跳躍《ちょうやく》した。
片《かた》や警棒《けいぼう》、片やナイフ。両脇《りょうわき》からまっしぐらに襲《おそ》いかかる。
「あ、危な――」
かなめと恭子が叫《さけ》ぶより早く、割烹着の少年は動いていた。
まず、左へ。次に右へ。
路地裏《ろじうら》に『ぱぱんっ!』と鋭《するど》い音が響《ひび》き渡《わた》った。震脚《しんきゃく》、とでもいう奴《やつ》だろうか。
気付いたときには、二人の男は武器を放《ほう》りだして、同時に両側の壁《かべ》へと叩《たた》きつけられていた。目にも留まらぬ早業《はやわざ》だ。
かなめには、なにが起きたのかさえ、はっきりと分からなかった。
「む……むうーん」
ばたり、と倒れる二人と、泣きながら逃げ出す一人。
問題の少年は、拳《こぶし》から青いオーラを立ちのばらせ、腰を落としていたが、やがてふっと構《かま》えを解《と》いた。
「ふん……」
つまらなそうに鼻を鳴らすと、足下に置いてあった生ゴミの袋《ふくろ》を拾い上げ、すたすたと歩きはじめた。
「あ、あのー……」
「なんだ、女」
オレンジ色のダスト・ボックスにゴミ袋を放り込み、少年がぶっきらぼうに言った。
「ありがとうございます。その。助けていただいて」
「勘違《かんちが》いするな」
「は?」
「ここはオレがバイトしている店の裏手だ。騒《さわ》ぎ立てられると、客が迷惑《めいわく》する」
すぐそばの扉《とびら》をあごで差す。換気扇《かんきせん》からおいしそうな餃子《ぎょうざ》の匂《にお》いが漂《ただよ》ってきた。中華《ちゅうか》料理屋かなにかのようだ。
「あ……そうですか」
「おまえらのようなチャラチャラした女なんぞ、だれが好き好んで助けるものか。わかったら――女、さっさと失せろ」
この態度《たいど》には、さすがにかなめもむっとした。無愛想《ぶあいそう》なのは、まだいい。身近にそういう奴《やつ》もいる。しかし、いちいち『女』と呼び捨てるのは――今日《きょう》び、かなり問題があるのでは?
「こ、この……」
いつもだったら『なによ、エッラそうに。あんた何様?』だのと言うところだったが、かなめはそれをぐっとこらえた。なにしろ、相手が恩人《おんじん》であることは事実《じじつ》なのだ。胸の中で、何度も何度も呪文《じゅもん》を唱《とな》える。
ガマンガマンガマン……
よし、ガマン成功。
かなめは一度|深呼吸《しんこきゅう》してから、
「でも……その前に、ちょっといいですか?」
「なんだ」
少年はすこしだけ意外そうな顔をした。普通《ふつう》、ああいう風に『失せろ』だのと言われたら、たいていの娘《むすめ》は怒《おこ》るか泣くかして立ち去るだろう……と決めてかかっていたのかもしれない。
「手、出して。血が出てますよ」
「? なにを――」
かなめは有無を言わさずに、相手の右手をぐいっと掴《つか》んだ。
拳《こぶし》のはじっこに、小さな擦《す》り傷ができていた。殴《なぐ》ったときに、ヤンキーが着けていた金属製の装飾品《そうしょくひん》にでも当たったのだろう。かなめはポケットからバンドエイドを取り出すと、それをぺたりと傷口に張りつけてやった。
「これでよし。一応《いちおう》、感謝《かんしゃ》の印ってことで」
「…………」
拳と、絆創膏《ばんそうこう》と、かなめのほっそりした指を見つめ、少年はぽかん、とする。そんな相手を、かなめはいたずらっぽい目でのぞきこんだ。
「でも、これだけです。もうすこし愛想《あいそ》よくしてくれたら、花輪《はなわ》とフラダンスと熱〜いキッスをあげたのに。損《そん》しちゃいましたねー、はっはっは」
「き……キス……? な……なにを」
「冗談《じょうだん》です。とにかく、ありがとね。それじゃ。行こう、キョーコ」
かなめは棒立《ぼうだ》ちした少年に背を向け、その場を立ち去った。その場を傍観《ぼうかん》していた恭子も、あたふたとしてから、ぺこりとお辞儀《じぎ》して、かなめの後に続いた。
すこし歩いてから、恭子が言う。
「もう、カナちゃんは……。ああいうタイプ見ると、すぐにからかいたがるよね……」
「そお?」
「うん。だけどスゴい強い人だったね。あれ、なんかの拳法《けんぽう》かな」
「さあ。空手《からて》とかとは、ちょっと違《ちが》う感じがしたけど」
そっけない口ぶりで言ったが、かなめもやはり気になっていた。自分の生活圏《せいかつけん》で、宗介《そうすけ》のほかにあれほど強い男がいたなどとは。これは純粋《じゅんすい》な驚《おどろ》きを感じる。
それを知ってか知らずか、恭子が言った。
「カッコよかったよねぇ。こう、バシバシーッと。相良《さがら》くんも、あんな風にキメてくれるといいのにね」
「なんであいつの話になるのよ? でも、まあ、たしかに……」
「たしかに?」
「ああいう武道少年ってのも、いいかもねー」
特に深い考えもなく、かなめはぽつりとつぶやく。恭子が後ろで『げげっ?』と驚いていたが、それにはまるで気付かなかった。
その翌日、放課後の校庭の隅《すみ》っこで――
「そんなことがあったのか」
相良宗介が言った。むっつり顔にへの字口、ざんばらの黒髪《くろかみ》で、眉根《まゆね》にしわを寄せている。
「うん。スゴかったわよ。なんかもう、ブルース・リーも真《ま》っ青《さお》って感じで。カッコよかったなー……」
いささか含《ふく》みのある声で、かなめは宗介を横目に見やった。
「やっぱ、男は素手《すで》よ、素手! 潔《いさぎよ》いっていうか、ストイックっていうか……」
相手の反応を、うかがうような口ぶりで言ってやると、宗介は真面目《まじめ》な顔で考えてから、冷静に言った。
「それは甘《あま》い見方だな」
「なんで?」
「思うに、その中華料理屋の店員は、ろくな武器を持っていなかったのだろう。だから素手で戦わざるをえなかったのだ」
「それは……ちょっと違うような」
「気の毒な話だ。ろくな武器|弾薬《だんやく》も入手できないとは……。感謝の意味もこめて、その男には突撃銃《とつげきじゅう》と対戦車《たいせんしゃ》ロケットでも供与《きょうよ》してやるべきか……」
「いや、たぶん喜ばないと思うけど……。だいたい、あたしが言ってるのはカッコよさの問題よ、カッコよさ」
すると宗介は首をひねった。
「よくわからん。かっこいいと、戦術的に有利《ゆうり》になるのか? それで砲爆撃《ほうばくげき》の精度《せいど》が向上したり、補給《ほきゅう》が円滑《えんかつ》になったりするとは思えんが……」
かなめはため息をついた。
「もういい。忘れて……」
「そうか。……それはともかく、この辺《あた》りだな」
二人は学校の敷地《しきち》のはずれにいた。
そこはまばらに桜の木が生え、小道が一本あるだけの、静かな場所だった。春になると桜が咲き乱れて、花見の生徒でにぎわうが、いまは人気もほとんどない。
その奥《おく》に、古い木造の建物があった。一階建ての、民家ほどの大きさだ。見るからにぼろぼろで、すりガラスは割れ、壁《かべ》には穴《あな》が開いている。
「うわ……ホントにボロい柔道場《じゅうどうじょう》ね」
かなめはあきれ声をあげた。
中からは、男の怒鳴《どな》り声やら、どすん、ばたんと激しい音やら、まあ……そういう類《たぐい》の練習らしき騒音《そうおん》が聞こえてくる。
この柔道場は現在、空手《からて》同好会《どうこうかい》が勝手に使っていた。柔道部は部員がいなくて、ほとんど廃部《はいぶ》同然《どうぜん》だからだ。
空手同好会。この団体に、宗介とかなめは用があるのだった。
空手『同好会』なのは、ほかにれっきとした『空手部』があるからだ。空手同好会は一年ほど前、空手部員の一部が退部して設立したものだった。『型やルールにとらわれない、実戦を前提《ぜんてい》とした総合格闘技《そうごうかくとうぎ》』……とやらを極めるのが目的だそうで――その実力は本家の空手部を軽くしのぐといわれている。
(……それはそれで結構《けっこう》なのだが)
と、二人に仕事を頼《たの》んだ生徒会長の林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》は言ったものだった。
(問題はあの柔道場でね。損傷《そんしょう》がはげしい上に、消防法《しょうぼうほう》に違反《いはん》した建物なのだ。これまでは消防署からも大目に見てもらっていたのだが……先月、所長が交代して以来《いらい》、注意がうるさくなってきた)
そこでその柔道場を、取り壊《こわ》すことになった……というわけだった。職員会議でも決定されたことで、林水も特に異存《いぞん》はないという。
ところが、空手同好会は承服《しょうふく》しない。
なにしろ唯一《ゆいいつ》の練習場所である。何度か生徒会から通知を送っても、まったく無視《むし》されている状態《じょうたい》なのだ。
そういうわけで、かなめと宗介は立ち退《の》きを勧告《かんこく》しに派遣《はけん》されたのだった。
「なんでこう、あたしって体育会系の変なクラブばっかに回されるのかしら……」
「適任《てきにん》だからだろう」
「否定《ひてい》できないのが悲しい……」
そんなやり取りをしながら、二人が柔道場の扉《とびら》を開けようとすると――
どがしゃあぁんっ!!
扉をぶち抜いて、巨漢《きょかん》が一人、吹き飛んできた。空中でくるくるときりもみして、かなめと宗介の頭上を飛びぬけ、背後の地面に思いきり激突《げきとつ》する。
次に気付いたときには、かなめは銃《じゅう》を抜《ぬ》いた宗介に押《お》し倒《たお》されていた。いつの間にか。
「ちょっ……重い! どいてよ」
銃口と視線《しせん》を三六〇度さまよわせてから、宗介は力を抜いて彼女を助け起こした。
「待て。……よし、いいぞ」
「まったく……いつもこれなんだから」
かなめはぶつぶつ言いながら、腕《うで》とお尻《しり》のほこりを払って、地面に半分めり込んだ男に声をかけた。
「あ、あのー。大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「あ……い、いいぃっ……」
涙《なみだ》と血に染まった顔面はぼこぼこで、手首は変な方向に曲がっている。空手着は半分|裂《さ》けて、あちこちが赤く張《は》れ上がっていた。
「い、ごめんなざい、ごめんなざいっ! 許してぇ〜〜っ!」
男は泣き叫《さけ》んで、這《は》うようにその場を走り去った。
「………………あー。え?」
あっけにとられていると、背後で低い笑い声がした。道場の中からだ。
「ふんっ……根性《こんじょう》なしが!」
「腕《うで》の一本くらいで泣き喚《わめ》きおって」
「身のほどを知らんと、ああなる」
見ると、うす暗い道場の奥に、三人の男がいる。
立っている者もあぐら座《ずわ》りの者もいたが、どれもえらく大柄《おおがら》だった。丸太のように太い首と、ぶあつい胸板《むないた》。高校生とは思えないほど、やたらとごっつい頬《ほほ》とあご。
全員の身体から、『闘気《とうき》』とでも呼ぶような猛烈《もうれつ》なオーラが発散《はっさん》されているようだった。しかも彼らの頭上には、『ゴゴゴゴゴ……』という書き文字までもが垂《た》れ込めていたりなどする。
「そこの二人! なにを覗《のぞ》いておるっ」
男の一人が野太《のぶと》い声で叫んだ。
『のんびりした校風』くらいしかウリのないこの学校に――こんなノリの生徒たちが存在《そんざい》したとは……!
「おお……」
かなめが戦慄《せんりつ》もあらわにうめいた。
「あれが空手同好会か」
宗介がのんきな声で言った。
靴《くつ》を脱《ぬ》いで道場へ。
かなめが『生徒会の者です』と名乗ると、空手同好会の三人はそろって表情を固くした。岩から削《けず》り出したような顔が、よりいっそうけわしくなる。
『して、用向きは?』
三人はハモって言った。
かなめはもったいぶった仕草《しぐさ》で、ファイルケースから書類を取り出し、債権《さいけん》を取り立てに来た銀行員みたいな口ぶりで説明した。
「えー、それでですね……。かねてから通知していた通り、職員会議および生徒会の決定で、この道場は取り壊《こわ》しちゃうんです。消防署からの要請《ようせい》もありまして。ですから、荷物《にもつ》をまとめて退去《たいきょ》して欲しいんですけど。できれば今日にでも」
すると三人はにまりと唇《くちびる》をゆがめた。
「それはできん相談だ」
「我《われ》らは、ほかに行くところがない」
「空手部の軟弱者《なんじゃくもの》どもを取り潰《つぶ》せばいいだろう」
並《なら》んで正座《せいざ》し、腕組みするその姿《すがた》は、まさしく山のようであった。態度《たいど》も妙《みょう》にエラそうで、ボスキャラ並《な》みの風格《ふうかく》がある。名前が分からなかったので、かなめは心の中でその三人を、右から順に『マロン』『ワッフル』『ショコラ』と名付けておいた。
「だからぁ……部を潰《つぶ》すとか、そういう問題じゃないんですよ。この道場のことで、消防署がいろいろ言ってきてるのっ!」
「知ったことか」とマロン。
「どうしてもここが欲しければ」とワッフル。
「力ずくで奪《うば》いに来い」とショコラ。
それぞれ言ってから、三人は『ぐはははは!』とうなるように笑った。
かなめがため息をついていると、宗介が横から彼女をつつく。
「なによ……?」
「千鳥。彼らは『力ずくならOKだ』と言っているではないか」
「それがどーしたの」
「その言葉に甘《あま》えて、実力|排除《はいじょ》させてもらうのはどうだ? 一番手っ取り早い手段《しゅだん》だと思うのだが……」
そのやり取りを聞いていた三人が、そろってこめかみに『ぴきん』と青筋《あおすじ》をたてた。
「ほほう……」とマロン。
「面白《おもしろ》いことを言う」とワッフル。
「貴様ごときに、我《われ》らを倒《たお》せると思うのか」とショコラ。
それを聞いた宗介は、への字口をさらに曲げた。
「残酷《ざんこく》なようだが、如何《いかん》ともしがたい事実《じじつ》だ。君たちは俺《おれ》には勝てない」
「ちょっとソースケ――」
どしんっ!!
かなめの言葉を、すさまじい轟音《ごうおん》が遮《さえぎ》った。
三人のうち一人――真ん中のワッフルが、立ちあがるなり、踵《かかと》を床《ゆか》にたたきつけたのだ。男の発した衝撃《しょうげき》が道場全体を震《ふる》わし、埃《ほこり》が一斉《いっせい》に舞《ま》い上がる。
見ると――畳《たたみ》をはずした床板に、大穴《おおあな》が開いていた。
老朽化《ろうきゅうか》した道場とはいえ、衝撃《しょうげき》にはことさら強く出来ているはずの床板を、いともたやすく、素足《すあし》でぶち抜《ぬ》くとは……!
「おぬし、相良とか言ったな……。この床や、先刻《せんこく》の空手部の跳《は》ねっ返りのようになりたくなかったら、そうした大言は慎《つつし》むことだ」
重々しい声でワッフルが言った。
「さよう。おぬしの目《まなこ》! 拳《けん》! 筋肉! すべてが力のほどを語っておる。思い上がった言葉を訂正《ていせい》し、この場で額《ぬか》ずき謝《あやま》れば、見逃《みのが》してやらんこともない」
マロンが言った。
「然《しか》り。『アマゾン川は多摩川《たまがわ》を叱《しか》らない』という格言《かくげん》もあるが、わしらの考えは違《ちが》う」
ショコラが言った。
宗介は難しい顔でうつむき、三人を哀《あわ》れむような目で、小さくため息をついた。
「よほどの自信があるようだな。この俺に倒されなければ、大海《たいかい》の広さを理解できんと見える」
『ほう……!?』
すると禿頭《はげあたま》の巨漢《きょかん》たちは、両目をぎらりとさせて凄絶《せいぜつ》な笑みを浮《う》かべた。
「よかろう……ちょうど退屈《たいくつ》しておったところだ。遊んでやらないこともない」
マロンが言った。
「我《われ》らのうち一人を選べ。もし貴様がその一人を倒すことができたら――潔《いさぎよ》くこの道場を明け渡《わた》してやろうではないか。――ただし!」
ワッフルが言って、人差し指を立てた。
「貴様が負けた場合は、それなりの代償《だいしょう》をいただこう。そうさな……」
ショコラが言って、思案《しあん》する仕草《しぐさ》を見せる。三人の視線《しせん》が、同時にかなめに集まった。
『その女をもらおうか』
異口同音《いくどうおん》に、三人は言った。
「へ……?」
「ちょうどマネイジャアが欲しかったのよ」
「なかなか清《きよ》げでめんこいしのう……」
「うむ。よい子を産みそうじゃ」
巌《いわお》のような顔のまま、ひでえことを言ってのける。かなめが思い切りたじろいでいると――
「よし、いいだろう」
だのと、宗介が勝手に即答してしまった。
「ちょっと、ソースケ!?」
「心配するな、千鳥。俺が勝てば済むことだ」
そう言って、宗介はすっくと立ちあがった。無造作《むぞうさ》に真ん中の男を指差し、
「では、あんたとやろう。後悔《こうかい》するなよ……」
「ふん。どこまでも減《へ》らず口を。少々なにかをかじってはいるようだが……」
どうやら彼らは、宗介に多少の武術《ぶじゅつ》のたしなみがあると見て取ったようだった。
真ん中のワッフルが獰猛《どうもう》な笑みを浮かべて、道場の奥《おく》へと歩いていった。さっそく試合をはじめる気のようだ。
向かい合うワッフルと宗介。静かな道場に、緊張《きんちょう》が走る。
「まず言っておこうか――」
首をこきこきと鳴らして、男は言った。
「我ら空手同好会は、実戦《じっせん》を想定《そうてい》した戦いの修行《しゅぎょう》しかしておらん。『空手』の名はあくまで表向きよ。投《とう》・極《きょく》・打《だ》すべてを含んだ総合的《そうごうてき》な格闘術《かくとうじゅつ》を研鑽《けんさん》する戦闘集団なのだ」
「ふむ……」
「つまり――防具《ぼうぐ》を着け、笑止千万《しょうしせんばん》の制限を設《もう》けた公式試合など、端《はな》から相手にしとらん。かみつきさえ認《みと》めておる。よって殺しはせんが、大怪我《おおけが》くらいは覚悟《かくご》してもらうぞ」
「実戦向きか。けっこうなことだ」
宗介は詰襟《つめえり》を脱《ぬ》ごうともせずに、リラックスした様子《ようす》で棒立《ぼうだ》ちしている。
(大丈夫《だいじょうぶ》かなぁ……)
かなめは、宗介がなにかの格闘技をやっていたなどとは聞いたことがなかった。だが幼《おさな》いころから海外の戦場で育ってきた彼が、なんらかの技術を身に付けているとしても、そう不自然なことではない。実際《じっさい》、宗介が屈強な男をたやすくノ[#「ノ」に傍点]した場面を、かなめは何度か見たことがある。
そうした軍隊流の格闘術を、いよいよここで披露《ひろう》してくれるのだろうか……?
(いや、待てよ……?)
彼女はふと気付いた。
戦場育ち。超実戦派《ちょうじつせんは》の宗介が、こういう場合にすることといったら――
「いつでも来い」
「うしっ! うおぉうおらぁっ!!」
男が自分の頬をばんばんと叩《たた》いてから、宗介へと突進《とっしん》した。
次の瞬間《しゅんかん》――
宗介は詰襟のすそを『ばっ!』と跳《は》ね上げて、背中に隠していた小型・短銃身《たんじゅうしん》のショットガンを引き抜《ぬ》いた。
どすんっ!!
雷鳴《らいめい》のような銃声《じゅうせい》と共に、男の巨体《きょたい》が勢《いきお》い良《よ》くひっくり返る。顔面に、ゴム・スタン弾《だん》が直撃《ちょくげき》したのだ。ヘビー級のハードパンチャー並《なみ》の威力《いりょく》。その一撃《いちげき》を食らって、男は指をぴくぴくとさせた。
「ま、待て。ちょっ……おい――」
どすんっ! どすんっ、どすんっ、どすんっ!
全弾倉を発射。痙攣《けいれん》する巨体。無慈悲《むじひ》な追い討ちを食らって、気の毒なワッフルは動かなくなった。白目を剥《む》いて、ぐったりと。
「俺の勝ちだな」
宗介はぴたりと銃を構えたまま、静かな声で告《つ》げた。
「実戦[#「実戦」に傍点]を想定《そうてい》するなら、敵《てき》の武装《ぶそう》もしっかりと見極《みきわ》めることだ」
「そう来ると思ってたわ……」
半《なか》ば義務のように、宗介の後頭部をハリセンではたいた。
当然といえば当然なのだが、残りの二人はかんかんに|怒《おこ》り、『こんなのは負けとは認めん』と主張《しゅちょう》した。
「この卑怯者《ひきょうもの》めっ!?」
「飛び道具など使いおって!」
男たちに非難《ひなん》され、宗介は額に脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべ、当惑《とうわく》をあらわにした。
「だが、しかし。相手よりすぐれた装備《そうび》を、適切《てきせつ》・効果的《こうかてき》に使用することの、いったいどこに問題が――」
「だまれっ! 銃など認《みと》めん!」
「それはおかしい。君たちは常に実戦を想定《そうてい》しているのだろう。自らの各種装備や地形、気象、練度《れんど》や情報を有効活用《ゆうこうかつよう》するのが実戦ではないのか?」
「じ……実戦なのだが、銃は反則なのだ!」
なぜか必要以上にむきになって、二人の男は彼を怒鳴《どな》りつけた。
「馬鹿《ばか》な。銃器の使用が禁止とは……そんな交戦規定《ROE》など聞いたことがないぞ。火気厳禁《かきげんきん》の精油所《せいゆじょ》やタンカーの制圧作戦ならそれもわかるが――ここはただの木造家屋《もくぞうかおく》ではないか。兵に死ねというのか!?」
「とにかく駄目《だめ》だ! 銃は禁止《きんし》!」
「むっ……」
「さあ、もう一度勝負せいっ!」
「……わかった。銃は使わん」
宗介はため息をついて、銃をかなめに預けた。
そんな調子で、宗介はもう一人の男、マロンと仕切りなおす。
「仲間の弔《とむら》い合戦《がっせん》じゃ。覚悟《かくご》せいよ!」
などと息巻いて、男は猛然《もうぜん》と挑《いど》みかかる。
宗介は身構《みがま》え、すばやく懐《ふところ》に手を伸《の》ばし――
ばしゅぅっ!!
取りだしたボンベから、大量の催涙《さいるい》ガスが噴出《ふんしゅつ》する。興奮《こうふん》した暴徒《ぼうと》でさえ、たちまち逃《に》げまどうほど強力な薬物である。白い噴煙《ふんえん》を顔面にまともに食らったマロンは、悲鳴をあげて道場の床《ゆか》にのたうち回った。
「げ……げふん、げふんっ! ひぎゃああぁっ!!」
涙《なみだ》と鼻水を流し、苦しむ相手に蹴《け》りをいれ、さらにしつこくガスを噴射《ふんしゃ》。マロンは『やめて』と泣き叫《さけ》ぶ。
どこから取りだしたのか、防毒《ぼうどく》マスクを顔にあて、宗介が言った。
「…………。勝った」
「ガスもいかーんっ!」
残った一人とかなめがが叫び、じたばたと足踏《あしぶ》みした。
「むう……。基準がわからん」
考え込む宗介。かなめはこめかみを押《お》さえつつ、
「あのね、ソースケ……。この人たちは、素手《すで》同士の闘《たたか》いでしか実力が出せないの。だから、それに合わせて欲しい、って言ってるのよ」
などと、身も蓋《ふた》もないことを説明した。
「素手のみ? しかし、彼らは実戦に備えているんだろう。そんな実戦など、世界中どこをさがしても――」
「とにかく、そうする決まりなの!」
「……わかった。素手でダメージを加えればいいのだな?」
「そういうこと」
「もう一度聞く。武器を使わず、殴《なぐ》ったり蹴ったりすればいいんだな?」
「そう。さあ、がんばる!」
「むう……」
またもや仕切りなおしである。最後の一人・ショコラと向かい合い、両者がすっと身構える。
「ゆくぞ!」
「了解《りょうかい》。……受け取れ」
言うなり、宗介は詰襟《つめえり》の下から一個の手榴弾《しゅりゅうだん》を取り出すと、相手めがけてぽいっと放《ほう》り投げた。
「ぬ、ぬおっ!?」
思わずキャッチした男は、手榴弾に驚《おどろ》き、扱《あつか》いに困ってお手玉し、それを窓の外に放り投げようとして――
げしっ!
宗介の飛び蹴りを真横からモロに食らって、ひっくり返った。鍛《きた》えぬかれた体でなければ、首がぽっきり折れていたかもしれないほどの――それはそれは鋭《するど》い蹴《け》りであった。
気の毒なショコラ氏はそのまま道場の柱に後頭部を打ちつけた。『むーん』と意識《いしき》が朦朧《もうろう》としたところに、宗介が馬乗りになる。
びしっ! どしっ! ずびしっ! どす、どす、どどどどどっ!?
目を覆《おお》わんばかりの連撃《れんげき》。残らず急所《きゅうしょ》狙《ねら》いである。
「ストップ! スト――――ップ!!」
後ろからかなめに羽交《はが》い締《じ》めにされて、ぐったりした相手から宗介は引き剥《は》がされた。
「やめなさいっての、あんたはっ!? また、卑怯《ひきょう》な手を……!!」
「いや、素手《すで》で倒《たお》したぞ」
「手榴弾を使ったでしょ!?」
宗介は床《ゆか》に転がった手榴弾を拾《ひろ》い上げ、のびた相手を冷然《れいぜん》と見下ろした。
「ただの囮《おとり》だ。安全ピンは抜いていないので、爆発の恐れはない。それを――観察力《かんさつりょく》と冷静さがなかったばかりに、度《ど》しがたい隙《すき》を作ってしまったな……」
げしっ!
かなめの飛び蹴りを真横からモロに食らって、宗介はひっくり返った。
「千鳥。いい蹴《け》りだな……」
「うるさいっ! せっかく、きょうは格闘《かくとう》マンガみたいなノリになるかと思ったのに……なんなのよ、その首尾一貫《しゅびいっかん》した姑息《こそく》さはっ!?」
悪質《あくしつ》な凶器《きょうき》攻撃《こうげき》の連続。そしてはったりと不意打《ふいう》ち。悪役のプロレスラーだって、ここまではやらないだろう。
「そう言われても、これが俺《おれ》の戦い方なのだが……」
「やっぱり戦争って罪悪ね……。こういうモラル|〇《ゼロ》の大バカを、大量生産しちゃうんだから……」
目の幅涙《はばなみだ》をぶわーっと流し、かなめが嘆《なげ》くのを聞いてもいない様子で、宗介はのびた男の身体《からだ》をひきずった。
「ともかく、これで制圧《せいあつ》完了《かんりょう》だ」
「なにバカ言ってるのよ。こんな勝ち方じゃ、空手《からて》同好会の人たちが納得《なっとく》するわけないじゃない」
かなめがぞんざいに言ったところで――新たな声がした。
「その通りだ。オレは承諾《しょうだく》してないぞ」
「?」
振《ふ》り向くと、道場の入り口に、一人の男子生徒が寄りかかっていた。
どちらかというと小柄《こがら》な方だった。袖《そで》に二本のラインが入った詰襟《つめえり》――つまり、宗介たちと同じ二年生。長髪《ちょうはつ》を後ろで束《たば》ね、赤いバンダナを巻き、容貌《ようぼう》は白皙《はくせき》、切れ長の吊《つ》り目で――
「あっ……」
きのう、かなめと恭子を助けた中華《ちゅうか》料理屋の少年だった。
たしかに学校からほど近い吉祥寺《きちじょうじ》でのこととはいえ、まさか同じ学校だったとは……!
驚《おどろ》きのあまり、かなめが口をぱくぱくさせていると、その二年生はかなめを無視《むし》して、ゆっくりと宗介に近づいていった。
「……君は?」
「オレか。オレは八組の椿《つばき》一成《いっせい》という者だ。おまえが生徒会の犬の、相良とかいう奴《やつ》だな」
男子生徒――椿一成は言った。かなめのことは、完全に目に入っていない様子《ようす》だ。
「ねえねえ、ちょっと」
声をかけると、一成はかなめの方を見もせずに、
「なんだ、女」
「あたしよ、あたし。覚えて――」
「黙《だま》っていろ。おまえのような、やかましい女なんぞ、知らん」
うるさげに、たったそれだけ言い捨てて、一成はふたたび宗介に向き直る。あまりにもそっけない態度《たいど》なので、本当にかなめのことなど知らないようにさえ見えた。
「…………?」
彼女はかかしのように突《つ》っ立って、ぽかんとした。
(そっくりさんかしら? それとも双子《ふたご》の人だとか……)
だが、確かに本人に相違《そうい》なかった。右の拳《こぶし》を見ると、きのう、かなめが貼《は》ってやった青い絆創膏《ばんそうこう》がまだあるのだ。忘れているとは思えないのだが……
「いつから見ていた?」
宗介がたずねた。
「ついさっきだ。事情《じじょう》は知らんが――おおかたこの三バカどもが、『俺《おれ》たちを倒《たお》したら、道場を明け渡《わた》してやろう』とでも約束《やくそく》したようだな」
「そうだ。そして俺が倒した。退去《たいきょ》してくれ」
「それはできねえな」
「なぜだ」
「部長のオレが、倒されてないからだ」
かなめはさらに驚いた。
(部長ですって……?)
あの、見るからに屈強《くっきょう》そうな三人を束《たば》ねるのが、宗介よりも小柄《こがら》な椿一成だとは。確かに、きのうの立ちまわりとその強さは、尋常《じんじょう》ではなかったが……。
一成が能面《のうめん》のような白い顔に、かすかな冷笑を浮かべていた。宗介がどういう男か知った上で、決して負けることはない――そう確信《かくしん》しているような顔だった。
「椿クン! 待ちかねたぞッ……!」
「どうか……どうか……わしら[#「わしら」に傍点]の仇《かたき》を取ってくれいッ!!」
「奴は卑劣《ひれつ》な技《わざ》を使うんじゃあ! うう……ごっついのう……」
男たちが椿一成に取りすがる。
「うるせえ、バカどもが。とにかく黙《だま》って引っこんでろ」
うっとおしそうに言う一成に、宗介がたずねた。
「つまり、君を倒せばいいわけか」
「そうだ。どんな手でも構わんぞ」
「いますぐでも?」
「ああ、やってみろ」
「…………」
宗介と一成は、袖《そで》が触《ふ》れ合いそうなほど近くに立っていた。二人とも両腕《りょううで》をぶらりと垂《た》れて、リラックスしているように見える。
すこしの沈黙《ちんもく》のあと――
二人が同時に動いた。
かなめの目には、二人ががちっと組み合ったように見えた。だが、実際にはもっと複雑《ふくざつ》な動作だった。両者が素早《すばや》く互《たが》いに手首を取り合い、それを弾《はじ》く。肘《ひじ》や膝《ひざ》を繰《く》り出して、それをしのぐ。うまく相手の姿勢《しせい》を崩《くず》そうとして、両者がそれに失敗する。
それらが数瞬《すうしゅん》の間に行われた。
そしてその直後、一成が全身を深く沈《しず》ませて――
どしんっ!
鈍《にぶ》く重たい音がして、宗介の身体《からだ》が――横っ飛びに吹《ふ》き飛ばされた。一成が、全身をばねにした猛烈《もうれつ》な掌底《しょうてい》を放《はな》ったのだ。
「……!!」
宗介の身体は空中に放物線《ほうぶつせん》を描《えが》き、壁《かべ》にぶつかって、ばたりと倒れた。うつぶせになったまま、ぴくりとも動かなくなる。
あの小柄《こがら》な体格で、この威力《いりょく》。
いったい、どこからそんなパワーが出てくるのか……!?
「一子相伝《いっしそうでん》の殺人拳《さつじんけん》……大導脈流《だいどうみゃくりゅう》の奥義《おうぎ》『血栓掌《けっせんしょう》』だ……。これを食らって、ふたたび立ちあがれた者はほとんどいない」
一成が技《わざ》の名前を口にする。
「ソースケ!?」
「女は下がっていろっ」
宗介に駆《か》け寄ろうとしたかなめを、一成がどやしつけた。
「オレは神聖な道場に、女がいるだけでも気に食わんのだ。同じ目に遭《あ》いたくなければ、とっとと失せろ、女」
かなめは相手をきっとにらみつけた。
「っ……なによ、女女女って! あたしにはね、千鳥かなめ、っていう立派《りっぱ》な名前があるんだから!?」
「ふん。おまえのような奴《やつ》など、ただの『女』で充分《じゅうぶん》だ!」
「なんて言い草なの!? きのうはいい人だと思ったのに!」
「きのう……? なんのことだ?」
眉《まゆ》をひそめる一成。彼は目を細めて、かなめを遠くからじーっと見つめたが、やがてふっと鼻を鳴らして、『まさかな……』とつぶやいた。
「ふん。おまえのような女など知るか。……とにかく! オレの勝ちだ。この道場を取り壊《こわ》すのは諦《あきら》めてもらおう!」
一成が宣言《せんげん》したそのとき――
「まだ……終わっていない」
宗介が低くつぶやき、ゆらりと立ちあがった。
「ソースケ?」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。少々、効《き》いたがな……」
そう言って、宗介は口からぺっと血の塊《かたまり》を吐《は》いた。一成は切れ長の目をさらに細めて、小さな感銘《かんめい》をもらした。
「ほう……。あの技《わざ》を食らって動ける者がいたとはな。面白い」
「もう二度と食らわん。それと――」
宗介はかなめに目を向けた。
「……素手《すで》だけで戦いたがる連中《れんちゅう》の気持ちが、すこし分かった。確かにこういう場合、銃《じゅう》は無粋《ぶすい》だな」
そう言うなり、宗介は詰襟《つめえり》を脱《ぬ》いだ。拳銃《けんじゅう》やナイフ、その他の装備《そうび》を床《ゆか》に放《ほう》り出す。どうやら、闘争心《とうそうしん》に火が付いたらしい。
「本気でやらせてもらおうか」
宗介の言葉に、かなめは感嘆《かんたん》の声をもらした。
「おお……エラい。なんか、ようやく格闘《かくとう》マンガっぽくなってきたわ」
「よくわからんが。問題ない」
「……はっ。ここまでタフな奴《やつ》が校内にいたとはな。最近のオレは出会いに恵《めぐ》まれているようだ。ついきのうも……ふっ」
一成は自分の拳《こぶし》に貼《は》りつけられた、青い絆創膏《ばんそうこう》を見下ろした。なぜかその瞬間《しゅんかん》だけ、彼の顔は妙《みょう》にうれしそうで、無邪気《むじゃき》に見えた。
「その絆創膏は?」
「おまえらには関係ない。ちょいと、女神に出会っただけさ」
「…………?」
変な台詞《せりふ》に、かなめが怪訝顔《けげんがお》をしている前で、一成は宗介にふらりと近付いた。
「さあ、かかって来い、相良宗介。いつでもいいぜ。ただし、次の一撃《いちげき》は――これまでとはわけが違《ちが》う。おまえは運が良かっただけだ」
一成は制服のポケットから、『すっ』と黒縁《くろぶち》の分厚《ぶあつ》い眼鏡《めがね》を取り出した。
「? どういうことだ?」
「こういうことさ」
自嘲気味《じちょうぎみ》に言うと、一成は眼鏡をかけた。切れ長の目が隠《かく》れて、なんとなく『ガリ勉くん』みたいな雰囲気《ふんいき》になる。どうやらこの男――格闘家のくせに目が悪いらしい。しかも眼鏡のレンズの厚《あつ》さは、相当なものだ。ド近眼《きんがん》なのだろうか……?
「勘違《かんちが》いするなよ。オレは眼鏡なしでも充分《じゅうぶん》強い。血のにじむような修行《しゅぎょう》の成果《せいか》だ。だが、それでも――近眼の都合《つごう》で技《わざ》の打点がズレることがある。わかるか? そのせいで、『血栓掌《けっせんしょう》』のダメージが半減されたのだ」
「…………」
「本気を出すときは、このみっともない眼鏡をかけることにしている。ま、ご愛嬌《あいきょう》といったところだな。では……」
眼鏡をかけた一成は、ゆっくりと息を吐いて、すうっと両腕《りょううで》を下ろした。
すると、たちまち道場の空気が静まり、あたりにぴりぴりとした緊張《きんちょう》が駆《か》けぬけた。
超高校級《ちょうこうこうきゅう》の戦闘力《せんとうりょく》を持つ二人が、真《ま》っ向《こう》から殺気《さっき》をぶつけあう。
「さあ、いくぜ……」
「む……」
棒立《ぼうだ》ちしているように見えて、一成には一分《いちぶ》の隙《すき》もなかった。周囲《しゅうい》の大気が彼の意のままに、見えない壁《かべ》を作っているかのようだ。
「構《かま》えあって構えなし。無構えこそ拳《けん》の極意《ごくい》なり……」
「…………」
「ふふ……。さあ、相良、どこから攻《せ》める」
一触即発《いっしょくそくはつ》。
激闘《げきとう》を控《ひか》え、はらはらと対峙《たいじ》した二人を見ながら、かなめはふと重要なことを思い出した。そういえば、宗介が負けたら自分がここのマネージャーにされてしまう……という件は、いまでも有効《ゆうこう》なのだろうか?
彼女は挙手《きょしゅ》して、間の抜《ぬ》けた声で言った。
「あのー、ちょっといい? さっきのマネージャーの――」
「あとにしてくれ、千鳥」
宗介が言った。一成も油断《ゆだん》なく、かなめをにらみつけ、
「女っ! オレは失せろと言ったはず……だ……ぞ……?」
どういうわけだか、一成の声から急に力がなくなっていった。
牛乳の瓶底《びんぞこ》メガネをかけた彼の視線《しせん》は、かなめに釘付《くぎづ》けになっており――顔色はみるみる白から青へ、次に赤へと転じていった。
信じられない。
そう思っているような顔だった。
「?」
「う……うちの学校……だったのか」
「ど、どうしたの?」
眼鏡をかけ、人並《ひとな》みの視力《しりょく》を身につけた一成は、かなめを凝視《ぎょうし》し、顔にびっしりと汗《あせ》を浮《う》かべていた。ほとんど、うって変わってしどろもどろになって――
「あ……いや。すまん。その……いろいろ、怒鳴《どな》りつけて……。悪気は……なかった」
「は?」
「ば、ばば、絆創膏には……感謝《かんしゃ》してる。うそじゃなくて、本当なんだが、その……。ちょっと、気付かなくて……」
ほとんど宗介など見えてもいない。見ていて痛々しいほどのうろたえようだった。
かなめはしばらく『ほけー』としてから、手をぽんと叩《たた》く。
「……あ。もしかして椿くん、いままで気付いてなかったの? 目が悪くて!?」
一成は露骨《ろこつ》にあたふたとした。
「い、いや! そんなことは……! その、声色《こわいろ》が、あまりに違《ちが》う感じだったし……オレは、その……てっきり……そうか。千鳥かなめっていうんだな……い、いい名前だな……はは」
たしかに、きのうのかなめの声は他人行儀《たにんぎょうぎ》だったが、きょうのかなめは普段《ふだん》の元気モードだ。気付かなかったのも不思議ではない。むしろ妙《みょう》なのは、一成の必要以上の取り乱しぶりだった。そこに立っているのは、もはや戦場育ちの男をも倒《たお》す猛者《もさ》ではなく――ただひたすら赤くなって、萎縮《いしゅく》しているだけの若者である。
「どうしたの? 大丈夫《だいじょうぶ》?」
「ん? あ、ああ……?」
もういいと判断《はんだん》したのか、宗介が握《にぎ》り拳《こぶし》で、どすどすと一成に歩み寄る。それを一成は、なにか他人事《ひとごと》のように――夢の中の出来事《できごと》のように眺《なが》めていた。
「では行くぞ、椿」
「行く? どこに――」
ごつんっ!
ぎゅるるるる、ぐしゃぁっ!
クリティカル・ヒット。まったくの無抵抗《むていこう》で、宗介の拳《こぶし》を食らった一成は、一瞬《いっしゅん》でHPをゼロにされた。
「隙《すき》だらけだぞ、椿とやら」
床《ゆか》にくずおれた彼の姿《すがた》を不思議《ふしぎ》そうに見下ろし、宗介は言った。
「っ……ひ、卑怯《ひきょう》な……」
「よくわからんが、俺《おれ》の勝ちのようだな」
「…………」
かなめも難《むずか》しい顔で歩み寄り、倒《たお》れた一成を観察《かんさつ》した。
「おかしいわね。こうもあっさり……。もっと強い人のはずなんだけど」
「これが無構《むがま》え――拳《けん》の極意《ごくい》なのか? 確《たし》かに構えてはいないようだったが……。やはり、素手《すで》で戦いたがる連中《れんちゅう》はわからん」
「ち……ちが……」
床《ゆか》に這《は》いつくばったまま、一成はうめくばかりだった。
[#挿絵(img2/s05_047.jpg)入る]
三日後。
かねてからの予定通り、老朽化《ろうきゅうか》した柔道場《じゅうどうじょう》は取り壊《こわ》された。
「不覚《ふかく》をとったとはいえ、負けは負けだ。道場は明け渡《わた》そう。己《おのれ》の修行《しゅぎょう》不足も思い知らされたしな……」
取り壊しの当日、工事現場の前で、一成は打ちひしがれた様子《ようす》で言った。
「しかしっ! 次はこうはいかんぞ、相良。あのような不覚《ふかく》は二度と取らん。オレは……オレは……! 貴様を倒して、必ずや千鳥かなめを同好会《どうこうかい》のマネージャーに迎《むか》え入れてやるっ!」
「いいだろう、椿。精進《しょうじん》しろ。千鳥もおまえを待ち焦《こ》がれているぞ」
宗介も一丁前《いっちょうまえ》に、相手を挑発《ちょうはつ》したりなどする。鼻が触《ふ》れ合いそうな距離《きょり》で、ばちばちと火花を散《ち》らす二人を見て、
「あのね、あんたたち! あたしの意思《いし》は、どこに行ったのよっ!?」
と、だれも聞いていない抗議《こうぎ》をわめき散らす。
だが宗介も一成も、彼女の声はまったく耳に届《とど》いていないのだった。
[#地付き]<純で不純なグラップラー おわり>
[#改丁]
善意《ぜんい》のトレスパス
[#改ページ]
椿《つばき》一成《いっせい》は待っていた。
肌寒《はださむ》い風がびゅうびゅうと、彼の髪《かみ》をなびかせている。鉛色《なまりいろ》の空はほの暗く、これからやって来る過酷《かこく》な対決の瞬間《しゅんかん》を、暗示《あんじ》しているかのようだった。
放課後《ほうかご》の屋上《おくじょう》である。
一成のほかは人の姿《すがた》もなく、ただ風の音と、グラウンドで練習中《れんしゅうちゅう》の野球部の掛け声、そしてブラスバンド部の合奏《がっそう》の音だけが響《ひび》いてくる。
彼は色白で小柄《こがら》な少年だった。背丈《せたけ》は一六〇センチ代の半ばくらいしかないだろう。ひっつめにした長髪《ちょうはつ》と、かみそりのように鋭《するど》い切れ長の眉目《びもく》。詰襟《つめえり》を脱《ぬ》いだTシャツ姿で、屋上の真ん中に仁王立《におうだ》ちしている。
(さあ、来い。相良《さがら》宗介《そうすけ》……)
一成は胸のうちで、宿敵《しゅくてき》の名をつぶやいた。
(きょうこそは、先日の雪辱《せつじょく》を果たしてやるぞ。全身全霊《ぜんしんぜんれい》をこめた一撃《いちげき》で、貴様《きさま》を秒殺《びょうさつ》してくれる……!)
総合格闘技《そうごうかくとうぎ》を好き勝手に個々人で磨《みが》くクラブ――『空手《からて》同好会《どうこうかい》』の部長である彼は、先週、一対一の戦いで相良宗介に敗北《はいぼく》を喫《きっ》していた。
油断《ゆだん》、というより完全《かんぜん》な不覚《ふかく》である。
自分の負けは認《みと》めたものの、だからといって決して納得《なっとく》したわけではない彼は、きょう、その相良宗介に改《あらた》めて再戦《さいせん》を申し込んだのだった。
この屋上で。
この放課後《ほうかご》。
他者を交《まじ》えず、決着をつける。
そうした旨《むね》を、すでに書状《しょじょう》で送りつけてあった。筆《ふで》できっちりと書きつけて、昼休みのうちに、相良宗介の靴箱に入れておいた[#「靴箱に入れておいた」に傍点]のだ。下校のときに、靴箱に入ったその『果《は》たし状《じょう》』を見れば、宗介は必ずやって来るはずだった。なにしろ、彼は一成に『いつでも相手になる』と言っているのだ。
(オレは……絶対に勝つ!)
一成は拳《こぶし》にぐっと力をこめた。その瞳《ひとみ》がくわっと見開かれ、たぎるような気迫《きはく》と闘志《とうし》が小さな身体《からだ》からほとばしる。
そのおり――
南校舎の一階から、『ずしんっ!』と重たい爆発音《ばくはつおん》が聞こえてきた。生徒用の靴箱がある、正面|玄関《げんかん》の方である。
「…………?」
一成は眉《まゆ》をひそめたものの、すぐに思いなおし、雑念《ざつねん》を払《はら》った。
(いや……そうだ。これからの勝負に集中しなければ)
奴《やつ》は必ずやって来る。いまは辛抱強《しんぼうづよ》く待ちつづけよう。奴がこの屋上に姿をあらわす、その瞬間《しゅんかん》まで。
何分だろうと何時間だろうと、たとえ何日だろうと……!
●
「こっのっ……人間爆弾《にんげんばくだん》っ!!」
千鳥《ちどり》かなめは天高く跳躍《ちょうやく》すると、両手でハリセンを頭上に構《かま》え、力いっぱい――相良宗介の頭に振《ふ》り下ろした。
すぱんっ!!
いまだ白煙《はくえん》の立ち込める正面|玄関《げんかん》に、抜《ぬ》けるような快音《かいおん》が響《ひび》き渡《わた》る。
「なかなか痛いぞ……」
「やかましいっ!!」
頭頂部《とうちょうぶ》をさする宗介を、かなめは思いきり怒鳴《どな》りつけた。
「いったい何十万回、同じことを繰り返せば気が済むの、あんたはっ!? でもって何百個の靴箱を爆破《ばくは》すれば満足できるの、あんたはーっ!?」
ぶすぶすと煙《けむり》をあげる、焼きたてほやほやの靴箱を『びしっ!』と指さす。
「……だが、俺《おれ》の靴箱に不審物《ふしんぶつ》が入っていたのは確《たし》かなのだ」
「だからって爆破することはないでしょっ!?」
「いや。例外を認《みと》めて用心を怠《おこた》れば、そういうときに限って危険《きけん》な罠《わな》が――」
「不審物!? また不審物!? いままで一度でも、バクダンなんかがあった試《ため》しがあるの? え、言ってみなさいよっ!」
「確かに、いまのも爆発物《ばくはつぶつ》ではなく、なにかの書状《しょじょう》のようだったが……」
宗介は焼け焦げた紙片を拾《ひろ》い上げた。至近距離《しきんきょり》で爆弾《ばくだん》に吹《ふ》き飛ばされたせいで、その半紙に書かれた文字は、ほとんど読めなくなっていた。
「どれ。見せてみなさいよ。ったく……! また読めなくなっちゃってるじゃないの。どうする気よ?」
「やむをえんだろう。とりあえず、持ち帰って復元作業《ふくげんさぎょう》はしてみるが……」
むっつり顔で、宗介が答えた。
「じゃあ、ちゃんと後片付けしなさいよ。あたしは先に帰るから」
「そうか」
「一雨来そうな雲行きだし。天気予報だと、今夜はずっと雨で、しかも冷え込むらしいわよ。あんたも早く帰りなさい。じゃあね」
そう言って、かなめは帰路《きろ》についた。
予報《よほう》通《どお》り、その晩《ばん》はずっと雨だった。
夜の寒さが深まってきて、かなめは押《お》し入れの毛布《もうふ》を引っ張り出し、ぐっすりと眠《ねむ》った。
翌朝《よくあさ》、二年四組の教室で――
「相良――ぁっ!!」
教室の入り口を『ばしんっ!』と開けて、椿一成が踏《ふ》み込んできた。
衣服《いふく》も髪《かみ》もくたびれて、まるでドブネズミだった。寒さと湿気《しっけ》で憔悴《しょうすい》しきった、青白い顔。唇《くちびる》が紫色《むらさきいろ》だ。切れ長の目だけがらんらんと血走り、激《はげ》しい怒《いか》りに燃えている。
教室の隅《すみ》に突《つ》っ立って、他愛《たあい》もない議論《ぎろん》をしていた宗介とかなめは、同時につぶやいた。
「椿か」
「椿くん?」
一成はどすどすと大股《おおまた》で教室に入ってくると、クラスの一人、風間《かざま》信二《しんじ》をびしりと指差した。
「なぜ逃げた、相良っ!? この卑怯者《ひきょうもの》め!」
いましも噛《か》みつきそうな勢《いきお》いで彼を怒鳴《どな》りつける。
信二は半分泣きそうな顔になった。
「す、すいません。お金はありません……」
「?」
言われて、ド近眼の一成は目を細め、じーっと彼を観察《かんさつ》した。
「…………。人違《ひとちが》いだ、すまん」
言うと、続いてそのそばの席に座《すわ》っていた常盤《ときわ》恭子《きょうこ》の前に立ちはだかった。
「相良っ! なぜ来なかった!? オレに恐《おそ》れをなしたのか!」
改《あらた》めて吠《ほ》えたてる。恭子は困った笑顔で後じさり、
「あ、あのー。あたしはトキワって名前なんだけど……」
「?」
一成はもう一度目を細め、じーっと彼女を観察《かんさつ》し、
「……人違いだ。すまん」
言ってから、険《けわ》しい目つきで辺《あた》りを見回した。生徒たちはその視線《しせん》を避《さ》けるように、そろってあさっての方向を見た。
「不思議《ふしぎ》な行動《こうどう》をとる男だな……」
「そういえは彼、ド近眼《きんがん》なのよね……」
宗介とかなめがつぶやく。その声を頼《たよ》りにしたのか、一成はようやく宗介の位置を把握《はあく》して、まっしぐらに近づいてきた。
「相良っ!」
「ひどいなりだな、椿」
「だまれっ! 勝負に背を向けた、臆病者《おくびょうもの》の恥知《はじし》らずめっ!」
そう叫《さけ》んで、一成はかなめをびしりと指差した。彼女はかたわらの宗介を親指で差して、
「ちがうってば。こっち、こっち」
「む……。ち、千鳥か。いい朝だな。いや……いまはこいつに用があるんだ!」
かなめに気付いて赤くなりながらも、一成はようやく正しい目標《もくひょう》――宗介に向き直った。
「相良。オレはずっと屋上で待っていたんだぞ。よもや靴箱《くつばこ》の果《は》たし状《じょう》を、読まなかったとは言わせないからな!」
かなめは宗介の横顔に目を向け、
「……果たし状だったの? あれ」
「いま知った。徹夜《てつや》で復元作業《ふくげんさぎょう》をしてみたのだが――けっきょく読めなかったのだ」
「なにをぼそぼそ話している!」
「椿。その果たし状なら――爆破《ばくは》してしまった。今後は正規《せいき》のルートを通じてアポをとれ」
官僚的《かんりょうてき》な口調で宗介が告げると、一成《いっせい》は濡《ぬ》れた肩《かた》を小刻《こきざ》みに震《ふる》わせた。
「ば、爆破だと……? バカな。オレは……オレは。あの屋上で、一晩中《ひとばんじゅう》雨に打たれて……ふっ、…。ぇっくしょん!」
くしゃみを一発。肩でぜいぜい息をする。
「まさか、ずっと待ってたの? きのうの放課後《ほうかご》から、いままで……!?」
かなめが唖然《あぜん》として言うと、一成は顔をうつむかせた。
「そうだ……」
「どれどれ? ちょっと――」
彼女は一成に歩み寄ると、彼のおでこに手のひらをあてる。一成はたちまち頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させる。その様子《ようす》を、クラスの一同と宗介が、神妙《しんみょう》な目でじーっと見ていた。
(ああいう行為は男を誤解させるのに)
(カナちゃんって、たまに無防備《むぼうび》なんだよね)
(見て、相良くん……! あれ、マジでむっとしてるよ?)
無責任《むせきにん》なひそひそ声を尻目《しりめ》に、かなめは彼から手を離《はな》した。
「あーあ、なんか熱っぽいわよ。風邪《かぜ》かしら。諦《あきら》めて帰れば良かったのに」
「お……オレだってそうしようと思った。でもだれかが、屋上の扉《とびら》に鍵《かぎ》をかけちまったみたいで……。扉は頑丈《がんじょう》で……殴《なぐ》っても殴っても壊《こわ》れなくて……っく……」
なにやらこみ上げるものがあったらしく、にわかに一成は涙《なみだ》ぐんだ。
「死ぬかと思った。寒かったんだ……とても……寒かった」
唇《くちびる》をきっと引き結び、血のにじむ拳《こぶし》をぎゅっと握《にぎ》る。かなめは『よしよし』と言わんばかりに彼の頭を叩《たた》いた。
「かわいそうに。ソースケ、あんたのせいでしょ? お詫《わ》びくらい言ってあげなさいよ」
宗介はしばしの間、かなめと一成を黙《だま》って眺《なが》めていたが、
「……了解《りょうかい》した」
むっつりと答えると、一成の前の机上《きじょう》に、変な干《ほ》し肉《にく》を『ぽん』と放《ほう》った。
「さぞ空腹《くうふく》だろう、椿。これでも食って、今日は帰れ」
[#挿絵(img2/s05_059.jpg)入る]
「…………」
「さあ、どうした。食え。うまいぞ。ごちそうだ。食うといい」
妙《みょう》に冷淡《れいたん》な声で告げる宗介と、全身をわなわなと震《ふる》わせる一成。険悪《けんあく》な空気にたじろいで、教室の生徒たちが静まりかえった。
「あげく、野良犬《のらいぬ》扱《あつか》いか……」
「案ずるな。毒など入っていない」
「殺すっ!!」
涙目《なみだめ》になって、一成は宗介へと突進《とっしん》した。猛烈《もうれつ》な正拳突《せいけんづ》き。宗介はすばやく身をかがめ、その一撃《いちげき》をかろうじてしのぐ。背後《はいご》の黒板に拳《こぶし》が当たり、『ばきゃっ!』と音を立てて大穴《おおあな》が開いた。
「まだ元気そうではないか」
「うるさい! 這《は》いつくばって謝《あやま》れっ!! くぬっ! くぬっ!」
「だが……さすがに疲労《ひろう》は隠《かく》せんようだな、椿よ。動きに前のようなキレがないぞ」
「くっ、ぬっ……おのれっ……!」
一成はだだっ子のように右へ左へと拳をふるい、逃《に》げる宗介を追いまわす。宗介は机《つくえ》や座席《ざせき》を盾《たて》にして、ひらりひらりとそれをかわし、教室の中を逃げ回った。
迷惑《めいわく》なことこの上ない。かなめはたまりかねて叫《さけ》んだ。
「……あのねぇ! もうすぐ授業《じゅぎょう》、始まっちゃうんですけど? ちょっと、二人とも、聞いてんの!?」
聞いていない。教壇《きょうだん》をひっくり返し、花瓶《かびん》を割《わ》って、掃除《そうじ》用具入れをぶち破《やぶ》り――宗介と一成は廊下《ろうか》へ飛び出した。
「もう許せん! オレの最大の技《わざ》で葬《ほうむ》り去ってやる!」
「来てみろ」
「おおぉおぉ……っ!」
一成は大きく深呼吸《しんこきゅう》をしてから、腰を落とし、弓を引き絞《しぼ》るように右の拳をぐっと構えた。
「大導脈流《だいどうみゃくりゅう》……究極奥義《きゅうきょくおうぎ》っ! 臨《りん》・死《し》・堆《たい》・拳《けん》っ!!」
ごおっ!
……という音がしたかどうか。一成の放った一撃《いちげき》は、大気をうならせ、風を切り、目の前の相手の胴体へと見事にめりこんだ。
たまたまその場を通りかかった、用務員《ようむいん》のおじさんの胴体《どうたい》に。
おじさんは吐血《とけつ》して、
「ぐふおぉっ……!」
と、迫力《はくりょく》満点のかっこいい悲鳴《ひめい》をあげて吹《ふ》き飛んだ。廊下《ろうか》の上を『ざあーっ』と滑《すべ》っていってから――それきり動かなくなる。
「ああ……なんてことを」
二人を追って教室から出てきたかなめが、口をあんぐりと開けた。
「くっくっく……」
一成はきれいに拳を突《つ》き出したままの格好で、目を伏《ふ》せ、静かな笑みを浮かべていた。
「どうだ……思い知ったか、相良!」
その宗介は、彼の隣《となり》に突っ立って、困り顔で腕組《うでぐ》みしていた。
放課後《ほうかご》の生徒会室で――
「全治《ぜんち》一週間だそうだ」
生徒会長・林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》は言った。白の詰襟《つめえり》、オールバックに真鍮縁《しんちゅうぶち》の眼鏡《めがね》。怜悧《れいり》な風貌《ふうぼう》の青年である。
「それって……実は大したケガじゃない、ってことですか?」
かなめが言った。
「負傷《ふしょう》の程度《ていど》は問題ではないのだよ、千鳥《ちどり》くん。生徒が用務員《ようむいん》の大貫《おおぬき》氏《し》を傷つけた――この事実こそが問題なのだ。もみ消しと懐柔《かいじゅう》、生徒会の関与《かんよ》の否定《ひてい》。そういった不愉快《ふゆかい》な工作に、私は一日を浪費《ろうひ》してしまった」
「それはなんとも……すみません」
「君が謝《あやま》ることはない。しかし――」
林水はかなめの両脇に立つ、宗介と一成を交互《こうご》に見た。
宗介はいつも通りに直立不動《ちょくりつふどう》で、胸を反《そ》らしていた。一方の一成は、さすがに打ちひしがれた様子《ようす》で、肩《かた》をすぼめて、頭をうなだれている。
「椿一成くん、といったな。君はなぜ、そう相良くんを倒《たお》すことに固執《こしつ》するのかね。聞けば柔道場《じゅうどうじょう》の立ち退《の》きの件で、妙《みょう》な賭《か》けをしたそうだが。確《たし》か――」
「ソースケに勝ったら、あたしを同好会《どうこうかい》のマネージャーにする、っていう話ですよ。勝手に決めちゃって」
「そうだったな。……だが椿くん、遺憾《いかん》ながら、その取り決めは無効《むこう》だよ。千鳥《ちどり》くんは生徒会副会長だ。彼女の身柄《みがら》を左右する権利《けんり》は、相良くんにはないのだからね」
「そう。センパイの言う通りよ」
かなめは鼻をふんと鳴らしてから、すこし感心したように林水を一瞥《いちべつ》した。珍《めずら》しく、自分の立場を尊重《そんちょう》するような発言をしてくれたからだ。
「ましてや、君の同好会が彼女を所有《しょゆう》できるなどと考えるのは大変な間違《まちが》いだ。反省してくれたまえ」
「そうそう」
「よく覚えておくように。彼女を支配できるのは、会長の私だけなのだ」
「その通りよ。……って、おい」
横目でかなめがにらむのも気にせず、林水は真面目《まじめ》な顔で一成の反応《はんのう》をうかがっていた。
ややあって――
「オレは……」
一成が口を開いた。
「オレは……マネージャーの件なんか、どうでもいい。不覚《ふかく》をとって、相良に負けた。それが我慢《がまん》ならないだけだ。こんな奴《やつ》に。こんな……卑怯《ひきょう》で、陰湿《いんしつ》で、非常識《ひじょうしき》で、生意気《なまいき》で、不愉快《ふゆかい》で、破廉恥《はれんち》で、臆病者《おくびょうもの》で、不誠実《ふせいじつ》で、無粋《ぶすい》で、人を小馬鹿《こばか》にした奴に……」
うつむいたまま、とつとつと語る一成。
「えらい言われようね……。まあ半分くらい、当たってるような気もするけど」
「むう……」
宗介は怒《おこ》るでもなく、こめかみに一筋《ひとすじ》、脂汗《あぶらあせ》を流していた。
「もう一度勝負がしたい。納得《なっとく》のいくように闘《たたか》ってみたい。それだけだ……!」
「なるほど。おおむね事情《じじょう》は理解《りかい》した」
林水が執務椅子《しつむいす》をきしませた。
「遺恨《いこん》を残したままでは、君たちにとっても良くないだろう。校内に対立の火種《ひだね》があるのは、安全保障《あんぜんほしょう》上好ましくないしな。よかろう――一度、真《ま》っ向《こう》から勝負してみたまえ。椿くんが勝てば、空手同好会に予備《よび》の部室を与《あた》えよう。ただし、相良くんが勝ったら、今後は彼を倒《たお》そうとは考えないこと。それでどうだね?」
「センパイ……?」
「了解《りょうかい》しました、会長|閣下《かっか》」
「感謝するぜ、会長さん……!」
かなめが驚《おどろ》き、その両脇で、宗介と一成が同時に身構《みがま》えた。かたや懐《ふところ》に手を伸《の》ばし、かたや拳《こぶし》を突《つ》き出して――
「まあ、待ちたまえ」
林水が二人を手で制した。
「なんでしょう」
「なんだよ?」
宗介と一成が怪訝顔《けげんがお》をする。
「何事も暴力《ぼうりょく》で解決しようとするのは感心せんな。もう少し頭脳《ずのう》と人格を駆使した勝負をしたらどうだね」
「?」
「人に尽くすのもまた、貴重《きちょう》な技能だ。銃《じゅう》や拳よりも、よほど尊いと思うのだがね。そこで、こういう趣向《しゅこう》はどうかな……?」
そう言って、生徒会長は書類の入った封筒《ふうとう》を取り出した。
●
陣代《じんだい》高校の用務員・大貫《おおぬき》善治《ぜんじ》は寝床《ねどこ》についていた。染みのついた布団《ふとん》をかぶり、ぺったんこの枕に頭をのせ――時折《ときおり》、苦しげなうめき声をあげる。
彼は五〇|過《す》ぎの男だった。バーコード頭に、不精髭《ぶしょうひげ》。腹やあごまわりには年相応《としそうおう》の贅肉《ぜいにく》がついていたが、毎日の労働《ろうどう》のためか、顔は日焼けし、下腕部《かわんぶ》にはたくましい筋肉がついていた。
勤続《きんぞく》二五年。
大貫はほとんどの教員よりも古株《ふるかぶ》であり、校舎やその他の施設《しせつ》は、彼にとって我《わ》が家のようなものだった。
「むう……ん」
朝に殴《なぐ》られたわき腹が痛む。そのせいか、そろそろ夕食の時間だというのに、まるで食欲がわかなかった。
血気《けっき》盛《さか》んな生徒に乱暴《らんぼう》された経験は、これまでの四半世紀に何度かあったが――それでも、これほど強烈《きょうれつ》な一撃《いちげき》は初めての経験だった。運が悪ければ、それこそ病院送りになっていたかもしれない。
(まったく、嘆《なげ》かわしいことだ……)
布団《ふとん》を引き寄せ、ため息をつく。
最近の生徒たちときたら、いったいどうなっているのか。こうした暴力沙汰《ぼうりょくざた》もさることながら、特に今年は悪質《あくしつ》な器物破損《きぶつはそん》が著《いちじる》しい。人やモノを大事《だいじ》にし、いたわる心が彼らには無《な》いのだろうか?
物質的《ぶっしつてき》には豊かになっても、子供たちの心は荒廃《こうはい》の一途《いっと》をたどっているのではないか。
自然、思いは過去《かこ》へと向かう。
(昔は良かった……)
生徒たちはみな純朴《じゅんぼく》で、情熱にあふれ、未来への希望に燃えていた。自分にも教師と分け隔《へだ》てなく接し、笑いながら仕事を手伝ってくれたものだ。
彼らの明るい声を思い出す。
(大貫さん、僕らも掃除《そうじ》を手伝いますよ!)
(わたしたちの大切な校舎ですものね!)
(うへえ! いつもこんな大変な仕事をしているんですか? スゴいや!)
(大貫さんは僕たちの親父《おやじ》さんだね!)
(いやあ、まったくだ。はははは!)
……なんて感じである。
暴力《ぼうりょく》事件をいつも起こしていたツッパリが、タイル貼りをしてくれたこともあった。半《なか》ば強引《ごういん》に、工具箱を大貫から取りあげ、
(……ったく、不器用《ぶきよう》で見てられねえぜ。貸しな。俺ぁ、親父が大工なんだよ)
などと言われたときには、目頭が熱くなったものだ。
そうした心根のやさしい生徒がいなくなってから、もう何年が経《た》つだろうか?
最近の生徒たちといったら、この自分を存在しないもののようにしか扱《あつか》わないし、ゴミも散らかしっぱなし、器物《きぶつ》も壊《こわ》して――それっきりだ。
なんと嘆《なげ》かわしいことだろうか。
そんな調子で布団《ふとん》にくるまり、大貫が過ぎ去りし日々を懐《なつ》かしんでいると――
ごんごん。
用務員室の扉《とびら》をノックする音がした。
「開いとるよ……」
こんな時間に誰《だれ》だろう、と不審《ふしん》に思いながら、大貫は告げた。
「失礼します」
「邪魔《じゃま》するぞ」
二人の男子生徒が入ってきた。その顔ぶれを見て、大貫は眉《まゆ》をひそめた。
一人は器物|破損《はそん》の常習犯《じょうしゅうはん》だった。確《たし》か、相良宗介とかいう名前だ。もう一人は今朝《けさ》、大貫を殴《なぐ》り飛ばした生徒だった。椿一成、とかいったか。いまは牛乳|瓶《びん》の底みたいなメガネをかけている。
二人は六畳間《ろくじょうま》にずけずけと上がり込んでくると、無言《むごん》で大貫を見下ろした。そろって、愛想《あいそう》のかけらもない仏頂面《ぶっちょうづら》である。
まさか、自分にとどめを……?
そう思っていると、二人がそれぞれ口を開いた。
「まだ痛みますか」
ぶっきらぼうに宗介がたずねた。
「なんだ、君たちは」
「痛むのか、痛まないのか。はっきりしな!」
焦《じ》れたように一成が言った。
「い、痛いことは確かだが……」
『よし』
ハモるなり、二人は大貫の布団を引っぺがし、彼の衣服《いふく》を脱《ぬ》がしにかかった。
「な、なにをする」
うろたえる大貫には構《かま》いもせず、宗介と一成は彼の身体を無遠慮《ぶえんりょ》に触《さわ》りまくり、乱暴《らんぼう》な手つきであれこれといじりまわした。
「内出血《ないしゅっけつ》しているな」
「湿布《しっぷ》だ、湿布。取って来い」
「冷やすなどもってのほかだ。頭を下にして、適切《てきせつ》な保温《ほおん》、それから検尿《けんにょう》を――」
「それより気分を聞け。脈《みゃく》は。めまいは。どうなんだ、用務員さん」
「痛い。くすぐったい。や……やめんかぁ!」
叫《さけ》ぶと、二人はぴたりと手を止めた。半裸《はんら》の中年男は布団《ふとん》を引き寄せ、真っ青な顔になって後じさる。
「い、いったい、なんの真似《まね》だ? はっ……! まさか……まさか。動けないのをいいことに、このわたしの熟《う》れた肉体を、力ずくで……!? 枝から落ちる直前の果実《かじつ》を、おもうさま味わおうと……!?」
なんという世の中だろうか。若者の心が荒廃《こうはい》しているとはいえ、ここまで……ここまで異常《いじょう》な行為《こうい》がまかり通っているとは!
戦慄《せんりつ》に身を震《ふる》わせる大貫。宗介と一成はむっつり顔を見合わせてから、
「なにか勘違《かんちが》いをしているようだが……」
「安心しな。危害《きがい》は加えねえ」
口々に言った。
「なに?」
「我々《われわれ》はあなたの看病《かんびょう》と仕事の代行に来たのです。怪我《けが》がよくなるまで、住みこみで働かせていただく」
「そうだ。校長と生徒会長の許可《きょか》もとってある。仕事はオレたちに任せて、せいぜい養生《ようじょう》しな」
「……ほ、本当か?」
二人はこくりとうなずいた。
大貫はしばしの間ぽかんとしていたが、やがてその目に涙《なみだ》をため、
「く……うっ……」
「?」
「用務員生活二五年ッ! わたしは……わたしは。これほど感激《かんげき》したことはないっ! この世紀末、人心が荒《すさ》み果てたなどと、なぜわたしは思い込んでいたのだろうか!? 鳴呼《ああ》、人の世の情けはまだあるのだ。ありがとうッ。ありがとうッ、君たち……!」
大貫は男泣きに泣きながら、二人とそれぞれ握手《あくしゅ》した。宗介はぞんざいに答えてから、改《あらた》まった様子《ようす》で、
「そういうわけで、これから数日間よろしく頼《たの》みます。その際《さい》、ぜひ自分――二年四組・相良宗介の任務遂行能力《にんむすいこうのうりょく》にご注目を」
「……は?」
「いや、用務員さん! こんな奴《やつ》の名前は覚えなくていいぞ。それよりこのオレ――二年八組・椿一成の勤勉《きんべん》な働きぶりを、しっかりと見届《みとど》けてくれ」
そろって、妙《みょう》なことを言う。
大貫がきょとんとしていると、宗介が立ちあがった。
「腹が減っていませんか。自分が食事を作りましょう。寝《ね》ていてください」
「待て、貴様の料理なぞ犬のエサだ。オレが作る。バイト先で覚えた包丁《ほうちょう》さばきを――」
「おまえに包丁など持たせられん。豚肉《ぶたにく》と間違《まちが》えて大貫氏を解体《かいたい》しかねないからな」
「するかっ」
「とにかく近眼《きんがん》は寝ていろ。邪魔《じゃま》なだけだ」
「ふん。貴様こそおとなしくしていろ」
「そうはいかん」
「あ、このっ」
あたふたとする大貫を尻目《しりめ》に、宗介と一成は我先《われさき》に台所へと突進《とっしん》し、調理|器具《きぐ》や食材を奪《うば》いあった。
「そのまな板をよこせ、相良!」
「欲しければ、冷蔵庫の前から退去《たいきょ》しろ」
「はっ、笑わせるな。鍋《なべ》もなしに、どうやってガスコンロを使うつもりだ!?」
「では、このピーマンは諦《あきら》めることだな」
「貴様、脅《おど》す気か……!」
狭《せま》い台所ではげしく罵《ののし》り合い、もみ合う二人。あまりのやかましさに、大貫善治は思わず顔をしかめた。
「き……君たち。気持ちは嬉《うれ》しいんだが、その、もう少し静かに――」
「力ずくで奪《うば》って欲しいのかっ!?」
「やってみろ。このハムをおまえの口にねじ込んで、ゆっくりと窒息死《ちっそくし》させてやる」
「上等だ!」
がしゃあんっ!
一成がボールを投げつける。宗介はまな板でそれを防《ふせ》ぎ、おたまで相手を殴《なぐ》りつける。その一撃《いちげき》を軽くしのいで、一成は大根で反撃《はんげき》。宗介はコショウと小麦粉で煙幕《えんまく》を張《は》る。
「ごはっ……や、やめ……」
力なくつぶやく大貫の声を、宗介と一成はまったく聞かずに、大乱闘《だいらんとう》を展開した。
翌日の昼休み、生徒会室で――
「本当に大丈夫《だいじょうぶ》なんですか?」
かなめが林水に言った。書記の美樹原《みきはら》蓮《れん》に口述筆記《こうじゅつひっき》をとらせていた彼は、ぴたりと喋《しゃべ》るのをやめて、ワープロを叩《たた》いていた少女に片手で『待つように』と示した。
「失礼。なんの話かね?」
「ソースケと椿くんの件ですよ。三日間も奉仕《ほうし》させて、その上で用務員さんに『どちらが役に立ったか、誠意《せいい》があったか』とか訊《き》くなんて」
「ふむ。平和主義者《へいわしゅぎしゃ》の私が、生徒の私闘《しとう》を奨励《しょうれい》するわけがないだろう。妙案《みょうあん》だと思ったのだが……」
「全然、妙案じゃないですよ。だって、あの二人でしょう? きっと三日間、『俺を選ばなければ、殺す』とか脅《おど》し続けておしまいです。用務員さんがかわいそう」
すると林水は静かに微笑《ほほえ》んだ。
「それは考え過ぎだよ、千鳥くん。彼らは基本的に真面目《まじめ》な人間だからね。ルールで『奉仕《ほうし》しろ」と決まっていたら、最低限《さいていげん》、それだけは遵守《じゅんしゅ》することだろう。仮にそれが行き過ぎて、何らかの問題を生んだとしても――なに、被害《ひがい》が校外に及《およ》ぶことはあるまい」
「はあ……」
「現に――見たまえ。彼らはよく働いている」
林水は窓の外をあごで差すと、話を一方的に打ち切って、口述筆記に戻っていった。
「こほん……このように、紛争解決《ふんそうかいけつ》の手段《しゅだん》として物理的《ぶつりてき》暴力《ぼうりょく》の行使《こうし》を禁ずるというルールは国家、民族、人種の違《ちが》いを越えた人間の生存《せいぞん》の確保《かくほ》というミニマムな共約可能性《きょうやくかのうせい》を基礎《きそ》とするがゆえに――」
かたかたとワープロを叩き、書記が得体《えたい》のしれない話を書きとめていく。かなめはそれを捨て置いて、生徒会室の窓《まど》からグラウンドを見下ろした。
(おや、ホントだわ……)
グラウンドの隅《すみ》っこを、細長い木材を肩《かた》にかついだ宗介がせかせかと小走りしていた。体育系クラブの部室棟の前まで来ると、彼は木材を地面に放《ほう》り出し、穴《あな》の空《あ》いたベンチの修繕《しゅうぜん》に取りかかろうとする。
そこに――同じく、木材と工具を抱《かか》えた椿一成が駆けつけてきて、ベンチを占領《せんりょう》してしまう。
宗介は構わず、一成の木材を脚《あし》で蹴《け》りのけて、自分の板切れをベンチに釘《くぎ》で打ちつける。一成はなにかを叫《さけ》び――横から宗介の板切れを金槌《かなづち》で叩き折る。
(働いてるの、あれで……?)
宗介は報復《ほうふく》とばかりに、拳銃《けんじゅう》を引き抜《ぬ》き、一成の木材を片《かた》っ端《ぱし》から撃《う》ち抜いてしまう。怒《おこ》った一成が拳を振《ふ》るい、宗介が板切れで応戦《おうせん》し、ちょこまかと立ちまわりを演じていると――
修繕するはずだったベンチが、いつの間にか真っ二つに折れていたりなどする。
ややあって二人はそれに気付き、その場で所在《しょざい》なげに棒立《ぼうだ》ちし、にらみ合って――見苦しいいがみ合いを再開する。
(けっきょく、普通《ふつう》に対決した方が早かったじゃないの……)
一部始終を見ていたかなめは、しかめっ面《つら》で首を横に振《ふ》るばかりだった。
夕刻《ゆうこく》の校内を、大貫善治はふらふらとさまよい歩いた。
本来ならば、自分が修繕し、清掃《せいそう》し、点検《てんけん》するべきだった施設《しせつ》や備品《びひん》を、見て回っているのだ。
宗介と一成が手を付《つ》けた箇所《かしょ》は、几帳面《きちょうめん》な性分《しょうぶん》の大貫には正視《せいし》できないほど無残《むざん》な状態《じょうたい》になっていた。
「…………なんと」
タイルが一枚だけ剥《は》がれていたはずの床は、三畳分《さんじょうぶん》ほど、ガチガチに固まった接着剤《せっちゃくざい》で塗《ぬ》り固められていた。
塗装が少々、落ちていただけの壁が、べたべたと迷彩模様《めいさいもよう》に塗り替《か》えられていた。
校舎のそばの花壇《かだん》は、大量の水を注ぎ込まれて、まるで底無《そこな》し沼《ぬま》のようになっていた。
直径五センチばかりの穴が開いていたグラウンドのはずれの金網《かなあみ》は、いびつな有刺鉄線《ゆうしてっせん》で補強《ほきょう》されて、あまつさえ高圧電流《こうあつでんりゅう》が流れるようになっていた。
部室棟前のペンチは傾《かたむ》いたL字型に修繕され、玄関《げんかん》近くの銅像《どうぞう》は首が一八〇度後ろを向いていた。ほかにもあれこれ。
「むう……」
あまりの惨状《さんじょう》で、うめき声を出すのがやっとだった。気力が萎《な》えて、一〇年来かわいがっている池の鯉《こい》の様子《ようす》を見にいくことさえできなかったほどだ。
(いやいや……)
怒ってはいかん……と大貫は自分に言い聞かせた。
彼らは彼らなりの善意で、きょう一日働いてくれたのだ。そのやり方がいくら不器用《ぶきよう》だとしても、それを責めるのはあまりにも不義《ふぎ》・不仁《ふじん》なのではないか。
(そう……そうだ、ここでこそ耐《た》えなければ。勤続《きんぞく》二五年。幾多《いくた》の屈辱《くつじょく》をこらえ、忍《しの》びがたきを忍んできた人生だ。こと忍耐力《にんたいりょく》において、わたしに勝る者はそういないのだから……!)
などと思いながらも、その顔はびっしりと脂汗《あぶらあせ》にまみれている。
よろめき、壁にすがるようにして用務員室に戻《もど》ると――
がしゃあぁんっ!!
いきなり扉《とびら》を突《つ》き破って、ちゃぶ台が飛んできた。ちゃぶ台が頭に直撃《ちょくげき》して、大貫はその場でひっくり返る。
「ぐおぉ……」
廊下《ろうか》に倒《たお》れ伏《ふ》していると、部屋の中から宗介と一成の罵《ののし》り合う声が聞こえてきた。
「どうして貴様はっ! そうやってオレの邪魔《じゃま》ばかりするんだっ!?」
「妙《みょう》なことを言う。邪魔をしているのはおまえだろう」
「だったらなぜ! オレがわざわざ買ってきた干しキクラゲをゴミ箱に捨てる?」
「食い物なのか、これが? 俺はシリコンかなにかの削《けず》りカスだとばかり――待て。大貫氏が……」
「む……?」
ようやく大貫の存在《そんざい》に気付いた二人が、いさかいをやめて駆《か》け寄ってくる。
「額《ひたい》が割れてるぞ。椿、おまえはなんという真似《まね》を……」
「貴様がちゃぶ台を避けたからだ……!」
「投げなければ、避ける必要もなかった」
「投げたくなるような真似《まね》ばかり、貴様がするからだろう!」
「責任転嫁《せきにんてんか》も甚《はなは》だしいな。大貫氏を殺した言い訳《わけ》にはならんぞ」
「まだ死んでいないっ!」
「…………。とにかく運べ」
性懲《しょうこ》りもなく言い争いを続けながら、二人は大貫を用務員室の寝床《ねどこ》へと運んだ。
一時間後、なんとか息を吹《ふ》き返した大貫は、超人的《ちょうじんてき》な忍耐《にんたい》と努力を伴《ともな》って、なんとか二人を怒鳴《どな》りつけずに済《す》ませた。
台所の文化包丁で宗介たちを切りつけたい衝動《しょうどう》にも駆られたが、それもぐっとこらえ抜いた。
(辛抱《しんぼう》だ、辛抱……)
そう。彼らに悪気はなかったのだから。現にこうして、彼らはいそいそと部屋を片付け、いくらか萎縮《いしゅく》した様子で自分の前に正座《せいざ》している。
だが、説教はしておく必要がある。ほかでもない、この二人のために、だ……!
大貫は身を起こすと、改まった口調で言った。
「二人とも、そこに座りなさい」
「座ってますが」
「いいから、座るんだ!」
「だから座ってるというのに……」
答えながら、宗介と一成は居心地《いごこち》が悪そうにその場で座りなおした。大貫はひとつ、咳《せき》払《ばら》いをしてから、いかにもオヤジっぽい抑揚《よくよう》をつけて、
「まず、最初に言っておこう。……君たちの熱意と親切心には、わたしは大っ変、感謝しとる。その内容はさておいても、過酷《かこく》で高等な用務員の仕事を肩代《かたが》わりしようという、その努力は大いに認めとるつもりだ」
「はあ」
「だが! ひとつ、どうしても許せないことがある。君たち二人は、どうしてそこまで、仲が悪いのだね。いがみあって、傷つけ合い、無意味《むいみ》なことまで張《は》り合って。まったく嘆《なげ》かわしい。昔からの親友ではないのかね?」
『とんでもない!』
二人は同時に全否定した。
「この男とは、先週知り合ったばかりです」
「それに、たとえ五〇年間|腐《くさ》れ縁《えん》が続いても、決して親友なんぞにはならん! なりえん!」
「そ……そうかね」
妙《みょう》に熱っぽい口調に気圧《けお》されながらも、大貫は気を取りなおして、
「だとしてもだ。もっと協調性を持てんのか。争いはなにも産み出さんよ。わたしとしても、君たちが協力してコトに当たってくれた方がなにかと助かるのだが……」
そう告げると、宗介と一成は互《たが》いに顔を見合わせた。
「ふむ。そういうことでしたら……」
「実はさっき、若干《じゃっかん》の協力をしていたところだ」
「ほう?」
宗介が立ち上がり、台所へと向かった。ガスコンロの脇に置いてあった皿を手に取り、ちゃぶ台の上に『とん』と置く。
それは魚の味噌煮《みそに》だった。
「きょうの夕食です」
「相良が食材を用意して、オレが調理した。うまいぜ。食うといい」
「…………」
言われるままに、大貫は差し出された箸《はし》で、魚の味噌煮を食べてみた。
「おお。う……うまい。これはなかなか……」
ほどほどに脂《あぶら》の乗った魚で、コクがあり、生姜《しょうが》の味がほどよかった。たちまち大貫は上《じょう》機嫌《きげん》になって、熱心に魚をぱくつきながら、
「なんだ。まともなこともできるんじゃないか。はっは……。ところで、この魚はなにかな? あまり知らない味だが――」
「鯉《こい》です。校舎裏の池で獲ってきました」
「…………」
「デカかったな。やたらと暴れるから、殺すのに手間《てま》取ったよ」
「…………」
大貫は笑顔を凍《こお》りつかせたまま、静かに箸を置いた。
それからゆらりと立ちあがって、部屋の押《お》し入れを開け、ひとしきりその中を探ってから――古ぼけたチェーンソーを引っ張り出した。
用務員はニコニコとしたまま、
「君たち。あの鯉はね……」
『あの鯉は?』
のんびりと構《かま》えたまま、二人が答えた。
「あの鯉は、わたしが一五年の歳月《さいげつ》をかけて、大切に、手塩《てしお》にかけて育てあげてきた鯉なのだよ。ゆくゆくは農林水産大臣賞《のうりんすいさんだいじんしょう》も夢ではない……そう思って可愛《かわい》がってきた。そういう、とても大切な鯉だったのだ。ちなみに名前はカトリーヌという。有名なフランスの女優からとった名だ」
「ははあ……」
「それを『獲ってきた』?『殺すのに手間取った』……だって? あまつさえ、このわたしにそれを食べさせたわけだ、君たちは」
「そうなりますな」
「うん、うん。おじさん、ようやくわかってしまったよ。君たちにあるのは悪意だけで、善意の類《たぐい》など決してない。きのうからの騒動《そうどう》も、すべてわたしに対する遠まわしな嫌《いや》がらせだったのだ、とね」
「? 大貫さん、それは――」
ぶるるおぉぉんっ! どっどっどっ……。
大貫がチェーンソーのエンジンを始動させた。パワフルな音がして、ぎざぎざの鋸《のこぎり》が高速で回転をはじめる。
「用務員さん……?」
「いとしいカトリーヌの無念《むねん》を晴らさなければならない。気の毒だけど、死んでもらうヨ。相良くン、椿くン」
血走った目で、チェーンソーを振《ふ》り上げる。
「待っ――」
「|死ね《ダーイ》」
ジャック・ニコルソン顔負けの、狂気《きょうき》に満ちた笑顔。大貫善治は跳躍《ちょうやく》した。
しとしとと霧雨《きりさめ》の降る朝。
かなめがあくびをかみ殺しつつ登校してくると――
校舎の内装《ないそう》がズタズタにされていた。壁《かべ》や天井《てんじょう》などの、鉄筋《てっきん》コンクリートではない部分がことごとく引き裂《さ》かれており、ガラスはあちこちが割れ、タイルは無残《むざん》に剥《は》がされていた。さらに手荒《てあら》に切断《せつだん》された送電ケーブルや水道管からは、火花と水がいまでも盛大に噴《ふ》き出していたりなどする。
不安げな生徒たちの何人かを、適当《てきとう》に捕《つか》まえてたずねてみても、どうも状況《じょうきょう》がよくわからない。
胸騒《むなさわ》ぎがしたかなめは、始業前に校内のあちこちをうろつき歩き――体育倉庫で、げっそりと痩《や》せた宗介と一成、そして気絶《きぜつ》した大貫善治を発見した。
「な、なにがあったのよ……!?」
彼女が問い詰《つ》めると、青ざめた顔の宗介は、
「一晩中、狂戦士化《バーサーク》した用務員と……。生身《なまみ》の男相手に、ここまでてこずったのは初めてだ……。銃《じゅう》が……銃弾が効《き》かないとは。信じられん」
などと、生気のない声で答えた。
一成の方はもっと重症《じゅうしょう》で、
「もうイヤだ……戦いはイヤだ。オレはもうゴメンだ。戦いたくない……」
などと、膝《ひざ》を抱《かか》えてぶつぶつとつぶやいていた。
いったい、いかなる修羅場《しゅらば》がこの校内で展開されたのか。そればかりは、昨夜《さくや》、その場にいなかった人間には想像のしようがなかった。
なんだかんだで、宗介との勝負の件は当面、うやむやになってしまった。
で。
肝心《かんじん》の大貫氏は、午後になって意識《いしき》を取り戻《もど》し、かなめに事情《じじょう》を聞かれると――あっけらかーんと、こう答えたのだった。
「えー? わたしがかね? 全っ然、覚えとらんなー……」
[#地付き]<善意のトレスパス おわり>
[#改丁]
仁義《じんぎ》なきファンシー
[#改ページ]
度重《たびかさ》なるいやがらせと、悪質《あくしつ》な|縄張り《シマ》荒《あ》らし。数名の子分・食客《しょっかく》を殺された挙句《あげく》、大切な木場《きば》に放火までされて――
義理人情《ぎりにんじょう》の木場政《きばまさ》組《ぐみ》は、卑劣《ひれつ》な沖山《おきやま》組に怒《いか》りを爆発《ばくはつ》させたのであった。
画面の中で、主演《しゅえん》の健《けん》さんが渋《しぶ》みたっぷりに言う。
『死んだオヤジさんの口癖《くちぐせ》だったな。「男の喧嘩《けんか》は一生に一度。命を捨てるつもりの喧嘩なら、許してやる」って……』
『兄貴《あにき》!』
『やるか……』
そういうわけで、健さんとその子分たちは、敵《てき》のヤクザに捨て身の殴《なぐ》り込みをかける。
いや、もう、殺すわ殺すわ。
その映画を観《み》ていた千鳥かなめが、『なにもそこまでしなくても』と思うくらいに殺しまくる。クライマックスなので、味方もどんどん死んでいく。松方《まつかた》弘樹《ひろき》(若い!)も死ぬ。そして健さんが敵の親分を追い回し、ドスで思い切りブッ殺して、物語はあっけなく終わるのだった。
登場人物は敵|味方《みかた》問わず、ほとんど全滅《ぜんめつ》。
なんとも救いのない結末《けつまつ》なのである。
「ヤクザ映画って、なんでみんな、こうなのかしらね……?」
テレビの前で、かなめはつぶやいた。
土曜の午後の生徒会室である。チャンネルを回したら放映していた古い任侠《にんきょう》映画を、だらだらと九〇分観てしまったのだ。
「……ああやって、ドス持って突撃《とつげき》してくだけなんて。もっとこう、敵をまとめて爆弾《ばくだん》で吹《ふ》き飛ばすとか、親分だけ狙撃《そげき》するとか、そういうスマートなやり方もありそうなもんだと思うけど」
すると、横で黙々と書類仕事をしていた美樹原《みきはら》蓮《れん》が、わずかに小首をかしげた。
しっとりとした黒髪《くろかみ》で、古風・端麗《たんれい》な風貌《ふうぼう》の少女である。生徒会の書記を務《つと》める、二年生だった。そのキャラクターから、『お蓮さん』と呼ばれ慕《した》われている。
「まあ、そんな物騒《ぶっそう》な……。千鳥《ちどり》さん。爆弾や狙撃だなんて、相良《さがら》さんのようなことを言わないでください」
「うっ……」
戦争ボケの問題児《もんだいじ》・相良|宗介《そうすけ》。
いやな喩《たと》えを出されて、かなめは言葉に詰《つ》まった。
「それに……ドスは良いものなのです。銃《チャカ》などに頼らず、あれを立派《りっぱ》に使いこなしてこそ、男の貫目《かんめ》が上がるというものなのですよ?」
おっとりと、諭《さと》すように言う。かなめはすこしたじろいでから、
「実はお蓮さんって、ヤクザ映画ファン?」
「いいえ。特にそういうわけでもありませんけど……」
穏《おだ》やかにほほ笑《え》み、蓮は答えた。
「…………。ま、いいか。それよりソースケは?」
帰り支度《じたく》をはじめながら、かなめは言った。相良宗介も、ついさっきまで一緒《いっしょ》に映画を観ていたのだ。それがいつの間にかいなくなっている。
「さっき携帯《けいたい》電話を持って、こそこそと廊下《ろうか》に出ていかれましたけど……」
「ふーん……」
そのおり、扉《とびら》ががらりと開く。
宗介が浮かない顔で生徒会室に戻《もど》ってきた。
「どこ行ってたのよ。健さんの映画、終わっちゃったよ」
「そうか」
覇気《はき》のない返事。映画などまったく関心《かんしん》がない様子《ようす》だ。彼は力なく椅子《いす》に腰《こし》かけ、肩《かた》を落とした。いつも通りのむっつり顔、への字口だったが――かなめの目には、どうも落胆《らくたん》しているように見えた。
「どうかしたの?」
「私財《しざい》の投資《とうし》に失敗してな。いま、その知らせを受けたところだ」
「投資? 株《かぶ》でもやってるの?」
「いや……旧知《きゅうち》の武器商と、軍・警察《けいさつ》向《む》けの新装備《しんそうび》を開発してな。数々のハイテクを盛り込んだ、画期的《かっきてき》な商品だったのだが……ほとんど買い手が付かなかった。FBIとマイアミ市警が買ってくれたほかは、さっぱりだったそうだ」
「ふーん……」
「売れ残りは、すべて俺《おれ》が引き取ることになってしまった」
かなめはからからと笑った。
「なんだかよく分かんないけど……まあ、人生、山あり谷ありよ。とにかく、元気を出す! 帰りに『おはいお屋』のトライデント焼きでもオゴってあげるから。ほら!」
背中を叩《たた》いて、腕《うで》を引く。宗介はのろのろと立ち上がり、帰り支度をはじめた。
「お蓮さんは? まだ帰らないの?」
「いえ……。ちょうどいま、終わりました。ご一緒《いっしょ》します」
書類の束《たば》を片付けながら、蓮が言った。
かなめと蓮と宗介の三人は、夕刻《ゆうこく》の商店街《しょうてんがい》の雑踏《ざっとう》を歩いていった。買い物中の主婦《しゅふ》でごった返す表通りを曲がって、細い道路《どうろ》沿《ぞ》いのたい焼き屋に寄る。
名物のトライデント焼き(ヨーグルト味)を宗介に食べさせると、彼は無表情《むひょうじょう》で『うまい』と一言もらした。もし尻尾《しっぽ》がついていたら、それをバタバタと左右に振《ふ》っていることだろう。
「やっぱり犬なのよね……」
「ですね……」
「? なんの話だ?」
ほくほくとトライデント焼きをかじりつつ、宗介が怪訝顔《けげんがお》をした。
そのおり――
「上等《じょうとう》じゃ、こン腐《くさ》れ極道《ごくどう》がぁ!」
たい焼き屋のはす向かいの居酒屋《いざかや》から、猛々《たけだけ》しい声がした。続いてガラスの割れる音。だれかの悲鳴《ひめい》。
出入り口の扉《とびら》が弾《はじ》けるように開いて、二人の男がまろび出てきた。
見るからに、『チンピラ〜』といった風情《ふぜい》である。スキンヘッドの中年男と、リーゼントの若者の二人組だ。
「出てこい!? 勝負すっぞ、コラぁ!?」
ビール瓶《びん》を片手に一人が怒鳴《どな》る。すると居酒屋の奥《おく》から、六人ばかりの似たような連中《れんちゅう》がどかどかと現れた。
どうやらこの二人と六人とが、喧嘩《けんか》をはじめた様子《ようす》である。
「ってんな、っらぁっそ、コラぁ!?」
「っめ、って、っちこんかぁ? あ!?」
「っらぁ! ってっと! っそぉ!?」
聞き取り不可能《ふかのう》の変な呪文《じゅもん》を吠《ほ》えまくって、男たちは殴《なぐ》り合いをはじめる。通行人が逃《に》げ出し、看板《かんばん》が叩《たた》き折《お》られ、居酒屋の店員があわてふためき――
「おおー、喧嘩だ。珍《めずら》しいわね……」
たい焼きをほお張《ば》り、かなめが言った。他人事《ひとごと》なので、完全に野次馬《やじうま》モードである。宗介も同様で、いつの間にか抜《ぬ》いていた拳銃《けんじゅう》を、いそいそとホルスターに戻《もど》している。
かなめは彼に向かって、マイクよろしくたい焼きを突《つ》き出した。
「プロの目から見ていかがです? 軍曹殿《ぐんそうどの》」
「なっとらんな。全員、動きが直線的《ちょくせんてき》だ。あれでは新兵《しんぺい》のダンスの方がましだ」
渋《しぶ》い顔で宗介が答える。
「なるほど……。おーっと。ヤクザ屋さんにあるまじき大技《おおわざ》。アックス・ボンバーです。痛い。これは痛い。……ちなみにどっちが勝つと思います?」
「双方《そうほう》に火器《かき》も技術もない。そうなると単純《たんじゅん》に、数の多い方が勝つだろう」
のんきなやり取り。
その一方で、蓮だけがおろおろとしていた。
「ははは。やっぱりお蓮さん、ああいうのは見てて怖《こわ》い?」
「はい……困りました」
「いいじゃない。どーせヤクザ屋さん同士だし。好きにやらせておけば」
「いえ。ですが、そういうわけにも……」
顔を曇《くも》らせ、蓮が口籠《くちご》もる。
「?」
そうこう言っているうちに、乱闘《らんとう》の結末《けつまつ》は宗介の予言通《よげんどお》りになった。
猪突猛進《ちょとつもうしん》するしか能《のう》のない二人組を、六人の方がケチョンケチョンにのして、蹴《け》たぐり回し、唾《つば》を吐《は》きかけ、ついでに財布の中身まで抜《ぬ》き取ってしまう。とどめとばかりに、それぞれ数人がかりで相手を担《かつ》ぎ上げ、愛と友情のパワーボム。
アスファルトに叩《たた》きつけられ、二人組は動かなくなる。
「けっ、シケてやがるぜ」
「これに懲《こ》りたら、二度とワシらのシノギに口ィ出すな」
「わかっとんのか、おお!?」
などと一通り罵《ののし》ってから、六人組はげらげらと笑ってその場を立ち去っていく。その去り際《ぎわ》に、チンピラの一人がこう言った。
「まったく美樹原組っちゅうのは、揃《そろ》いも揃って根性《こんじょう》なしばかりっスねぇ……ケケケ」
それを耳にしたかなめの顔が、『は?』とこわばった。
「ミキハラ……組?」
彼女は問うように、かたわらの蓮――美樹原蓮[#「美樹原蓮」に傍点]――の横顔を見やった。彼女はそれに気付きもせず、路上《ろじょう》に横たわったチンピラ二人へと駆《か》け寄る。
「柴田《しばた》さん……!?」
「お、おお……お嬢《じょう》さん?」
蓮に呼ばれて、スキンヘッドのヤクザ屋さんが苦しげにつぶやいた。
「こ……こいつぁ、みっともねえトコを見られちまった。は、はは……」
「柴田さん。お怪我《けが》はありませんか?」
怪我だらけの男に、蓮は寄り添った。
「…………。いえ、ご覧《らん》の通りなんスが……。とりあえず、大丈夫《だいじょうぶ》でさぁ。いてて……」
その男――柴田を蓮が助け起こす。
「いまの皆《みな》さんは? お友達ですか?」
「お嬢さん、なにをおっしゃるンですかい。奴《やつ》ら、龍神会《りゅうじんかい》の連中ですよ」
「まあ。そうでしたか……」
柴田が血の混《ま》じった唾《つば》を、ぺっと吐《は》き捨て、涙《なみだ》ぐんだ。
「龍神会の奴ら……最近、うちのシマへのちょっかいが、ヒドくなってきやがって。組長《オヤジ》が病気なのをいいことに。いまもそこの飲み屋から、別口のおしぼり代を搾《しぼ》り取ろうってぇ、魂胆《こんたん》でしてね? あっしらがナシ付けようとしたんですが……このザマでさ。まったく、情けねえ……。うっく」
「泣かないで、柴田さん。プロレスごっこに負けただけじゃありませんか……」
「すまねえ……。まったくすまねえ……」
なんとなく噛《か》み合わない会話。その後ろから、かなめが声をかけた。
「あ、あの。お蓮さん……? そのー。この人たちは?」
「ええ。父の部下です。わたしの家は、小さな会社を経営《けいえい》してまして……」
「か、会社……」
……というより、それは『組』という奴なのではないか? でもって、ここにいるのは『部下』というより、いわゆる『子分』という奴なのではないか……?
(つまりお蓮さんはヤクザ屋さんの娘《むすめ》さん……!?)
知り合ってから一年、いまのいままで知らなかった。かなめが青くなってざっと身を引くと、子分の一人、リーゼントの若者が、彼女を指さして出しぬけに叫《さけ》んだ。
「あーっ!!」
「どうしたんでぇ、滝川《たきがわ》」
柴田が眉《まゆ》をひそめる。
「兄貴《あにき》、お忘れですかい!? この女ですよ! いつぞや遊園地で、兄貴や俺《おれ》らにボン太くんをけしかけてきやがったのは……!」
『…………?……あっ』
言われて、かなめと柴田は同時に、相手に見覚えがあることに気付いた。
「あ、あんたたちは……!」
「おめーは……!」
互《たが》いが同時に身構《みがま》える。宗介もすばやく、腰《こし》の後ろのホルスターに手を伸《の》ばす。
両者の反応《はんのう》には理由《りゆう》があった。
かつてかなめと柴田たちは、ある遊園地でいざこざを起こしたことがあるのだ。このときかなめを助けたのが――遊園地の着ぐるみ『ボン太くん』に入った宗介だったのである。ボン太くんは獅子奮迅《ししふんじん》の働きを見せ、柴田たちを叩《たた》きのめした。徹底的《てっていてき》に。容赦《ようしゃ》なく。
その相手が、まさかこんな近くで暮らしていたとは……!
油断《ゆだん》なく鞄《かばん》を構《かま》えて、臨戦体勢《りんせんたいせい》に入ったかなめを、柴田たちがじーっとにらむ。
「な、なによ。やる気……!? またボン太くん呼ぶわよ? 泣くまでふもふもしてもらうわよ?」
ただのハッタリで彼女がそう言うと、二人は『はっ』とした。
「呼ぶのか……? あんた、呼べるのか?」
「そ……そーよ。笛《ふえ》を鳴《な》らすと飛んでくるのよ。ホントなんだから」
しばし、二人のヤクザは凍《こお》り付く。
若い方はたじろぐばかりだったが、柴田の方は、なにかを真剣《しんけん》に黙考《もっこう》している様子《ようす》だった。彼は一度、『よし』と大きくうなずくと、おもむろに両手を地面について――かなめの前に平伏《へいふく》した。
「お嬢《じょう》ちゃんっ!」
「へっ?」
「蓮お嬢さんのご学友とはつゆ知らず、いつぞやは、大変な失礼をいたしやした! どうか……どうか許しておくんなさいっ!」
「あ……兄貴!? いきなり、なにを?」
かなめは元より、傍《かたわ》らの若い方まで驚《おどろ》いた。相手の意図《いと》がわからずに、かなめがうろたえていると、柴田は咽《むせ》ぶようにして叫《さけ》ぶ。
「失礼ついでに、たってのお願いがございやす!」
「お、お願いって?」
「へい! 実は――」
柴田はその頼《たの》みを話した。
それを聞いて、かなめは脱力感《だつりょくかん》のあまり、その場で膝《ひざ》を落としてしまった。
七代目・美樹原組の組《くみ》事務所《じむしょ》は、泉川商店街《せんがわしょうてんがい》から一キロほど離《はな》れた住宅《じゅうたく》街の片隅《かたすみ》に建《た》っている。
事務所といっても、ひっそりとした古い民家《みんか》だ。木造《もくぞう》の平屋《ひらや》で、庭は広い。停《と》めてある車はトラックと、古い国産車だけだった。
この家のあるじ、美樹原組組長・美樹原|寛二《かんじ》もまた、質実《しつじつ》な人柄《ひとがら》であった。
短く刈りこんだ、白髪《しらが》混《ま》じりの頭。眉《まゆ》は太く、頬骨《ほおぼね》は高く、細い顎《あご》には一切、贅肉《ぜいにく》がない。病床《びょうしょう》にあっても、その目に宿る不屈《ふくつ》の光は、決して衰《おとろ》えてはいなかった。
寝床《ねどこ》から半身を起こし、庭の植木を黙然《もくねん》と眺《なが》めていた寛二親分のもとに、一人娘《ひとりむすめ》の蓮がやってきた。若頭の柴田も一緒《いっしょ》である。
「お父さん。お薬の時間ですよ」
「おう、いつもすまんな……」
エプロン姿《すがた》の蓮は、湯呑《ゆの》みにとくとくと茶を注《つ》ぎ、まず、錠剤《じょうざい》を差し出す。受け取り、ぬるめの茶で薬を飲み下すと、寛二が何度か、せき込んだ。
「お父さん……!?」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ……げほっ。いや、大丈夫」
「気をつけてくださいね。お布団《ふとん》にお茶の染《し》みがつくと、洗い落とすのが大変なんです」
「…………」
寛二が肩を落とすのに気付きもせずに、控《ひか》えていた若頭《わかがしら》をちらりと見る。
「それはともかく……。柴田さんが、お父さんにお話があるそうです」
[#挿絵(img2/s05_103.jpg)入る]
「……なんでえ、柴さん」
若頭の柴田は、三〇過ぎの男だった。忠義心《ちゅうぎしん》にあつく、一本気な質《たち》なのだが、酒癖《さけぐせ》が悪い上に喧嘩《けんか》っぱやい。今日も、つるりと剃《そ》りあげた頭に包帯《ほうたい》を巻き、顔のあちこちに絆創膏《ばんそうこう》を貼《は》りつけている。
寛二は柴田をぎろりと睨《にら》みつけた。
「また酔《よ》って喧嘩かい? いい加減《かげん》にしな。お前さんがそれじゃあ、若い衆《しゅう》に示しがつかねえだろう」
「へ。それは……」
「男の喧嘩は、一生に一度で充分《じゅうぶん》よ。それをお前さんは、週に一度はやってやがる。言ってみりゃあ、人生の大安売りよ。ガキも五歳になったってのに、みっともねえと思わねえのか、ええ?」
「へい。ですが……これは、いつもの奴《やつ》とはちょいと事情《じじょう》が違《ちが》いまして」
恐縮《きょうしゅく》しながらも、柴田は抗弁《こうべん》した。
「どう違うんでえ」
「龍神会の連中でさ。やつらきのうも、うちのシマを荒《あ》らしにきやがって……」
「む…………」
龍神会。近頃《ちかごろ》、勢力《せいりょく》を伸《の》ばしてきた新興《しんこう》の暴力団《ぼうりょくだん》である。関東一円を支配する広域《こういき》暴力団・角山組《かどやまぐみ》の後ろ盾《だて》を受けて、強引《ごういん》なシノギで暴利《ぼうり》をむさぼっている。
寛二の美樹原組は、組員わずか七名の弱小やくざであったが――江戸《えど》時代から守ってきた歴史と格式《かくしき》、義理人情を重んじる伝統のおかげで、周囲《しゅうい》の親分衆からは、ひとかどの敬意《けいい》を払《はら》われている。その美樹原組のささやかな|縄張り《シマ》にまで、龍神会の魔手《ましゅ》が伸びてきたのだ。
「親分《オヤジ》。こう言っちまうのもなんですが……正直、あっしらだけじゃあ、シマを守りきれませんぜ。もちろん心意気《こころいき》じゃ、あっしも若い衆も龍神会の連中にはひけをとらねえ。ですが、いかんせん数が違いすぎますわ。このままじゃ太刀打《たちう》ちできない……そのことが、きのうは骨身《ほねみ》に染みました」
「ふむ……」
「そこで……物は相談なんですがね? ちょいと、ここらで用心棒《ようじんぼう》を雇《やと》ってみるのはどうか、と。ちょうど、めっぽう腕《うで》の立つお方と知り合ったばかりでして」
用心棒。それは良い手かもしれない。寛二は身を乗り出して、
「強いのかい」
「へい、それはもう。なんでも長い間、外国で兵隊をやってたとかで」
「ほほう……」
「実は親分。もうそのお方を呼んであるんでさ。とりあえず、お会いになってくださいよ」
「急な話だね。……ま、いい。会うよ」
「へっ。善は急げ、ってことで……」
柴田は一度礼をすると、庭に面した縁側《えんがわ》から、玄関口《げんかんぐち》の方へと叫《さけ》んだ。
「先生っ! 組長がお会いになります! どうぞこちらへ!」
ややあって、その『先生』が庭に回ってくる。
つつじの茂《しげ》みの向こうから、その姿を見せたのは――
一匹《いっぴき》の変なぬいぐるみだった。
ずんぐりとした、まだら模様の二頭身。犬なんだかネズミなんだか、よくわからない頭。丸くて大きな二つの瞳《ひとみ》。おしゃれな帽子《ぼうし》と蝶《ちょう》ネクタイ。
後ろには、蓮と同《おな》い歳《どし》くらいのきれいな娘《むすめ》が付き従っている。
そのぬいぐるみは、寛二親分の前までのしのし歩いてくると、ひとこと、言った。
「ふもっふ」
「…………」
「親分。用心棒《ようじんぼう》のボン太くんでさ」
柴田が紹介《しょうかい》した。
「で、後ろにいる娘さんは、通訳《つうやく》の千鳥《ちどり》かなめさんです」
「どーも。よろしく」
かなめがぺこりと一礼する。ボン太くんも一緒《いっしょ》になって頭を下げ、なにやら口上《こうじょう》を述べ出した。
「ふもふもふもっふ、ふもー。ふもっふ、ふもっふ」
「えー……。ボン太くんはこう言ってます。『お目にかかれて光栄《こうえい》です、組長。戦闘《せんとう》インストラクターなら、自分にお任せを』」
かなめが同時通訳する。
「ふもふもっ、もっふる、ふもっふ――」
「えー。『あなたの部下を、一人前の戦士に育ててご覧《らん》にいれましょう。案ずることはありません。自分はプロフェッショナルです』」
黙《だま》って聞いていた寛二親分は、ぽつりと口を開いた。
「あのな……」
「へい」
次の瞬間《しゅんかん》、寛二は寝床《ねどこ》から『ばっ!』と跳《は》ね起きて、そばに置いてあった長ドスをつかむと、それをずんばらり、と抜《ぬ》き放った。
「親分……!?」
「お父さん……?」
凶行《きょうこう》の予感に、たちまち座《ざ》が緊迫《きんぱく》した。
「柴田よ……。病人をなぶるにしちゃあ、ずいぶんと手のこんだ悪戯《いたずら》じゃねえか、ええ? だがな……俺《おれ》とて、『仏滅《ぶつめつ》の寛二』とまで呼ばれた極道《ごくどう》よ。子に舐《な》められて、からかわれるまま、小さくなってるほどお人よしじゃねえんだっ!!」
寛二は肩《かた》を震《ふる》わせて、しゃがれた声を張《は》り上げる。
「お、親分……!」
「覚悟《かくご》しな、この親不孝モンがっ!」
後じさる柴田めがけて、寛二は長ドスで切りかかる。
あわやというところで――
「ふもっふ!」
風のごとく、床《とこ》の間《ま》へ踏《ふ》み込んできたボン太くんが、寛二に鮮《あざ》やかな跳《と》び蹴《げ》りを極《き》めた。
「がっ……!」
親分は吹《ふ》き飛ばされ、ふすまを突《つ》き破り、廊下の壁《かべ》に激突《げきとつ》する。
華麗《かれい》に着地し身を折っていたボン太くんは、ゆらりと立ち上がってから、動かなくなった組長に向かって不敵《ふてき》に告げた。
「ふもふも。ふもっふ……」
「『落ち着きなさい、親分さん……』」
かなめはあくまで通訳に徹《てっ》する。
「ふもっふ、ふもっふ。ふぅも、ふぅもぉ。もっふる」
「『人を外見で判断《はんだん》してはいけない。戦場では、それが命取りになる』」
「こっ……このぬいぐるみ風情《ふぜい》が……」
寛二は長ドスを杖代《つえが》わりに立ち上がろうとしたが――
「しかし……確《たし》かに、強い」
うめくと、がっくりとくず折《お》れた。
その後、寛二親分は寝床《ねどこ》に伏《ふ》せ、ひとこと、柴田に『好きにしな』と言った。なんとなく、捨《す》て鉢《ばち》な感じである。
あとで親分は『これで七代続いた組も、おしまいよ……』などと枕《まくら》を涙《なみだ》で濡《ぬ》らしたのだが、それは余人の知るところとはならなかった。
ともあれ、こうしてボン太くんは美樹原組の用心棒となったのである。
中に入っているのは、無論《むろん》、宗介だ。
ボン太くんに内蔵《ないぞう》された電子装備《でんしそうび》を起動《きどう》すると、変なボイスチェンジャーがなぜか勝手に作動してしまうので、かなめが通訳として同行している。彼女が小型の無線機《むせんき》を持ち、イヤホンで宗介の声を聞き取る、というからくりである。
ボン太くんの指示《しじ》で、美樹原組の若衆が庭に集められた。柴田を含《ふく》めてわずか七人だ。
「ふもっふ!」
若衆の前で、ボン太くんが叫《さけ》んだ。
「……なんて言ってんですかい?」
「『整列《せいれつ》』だそうです」
かなめの説明で、七人の組員がのろのろと並《なら》ぼうとする。するとボン太くんは、どこからともなく拳銃《けんじゅう》を取り出し、彼らの足下めがけて発砲《はっぽう》した。
ぱかんっ! ぱかんっ! ぱかんっ!
「わわっ……!」
「な、なにをなさるんで!?」
みっともないタップダンスを踊《おど》り、組員たちは悲鳴《ひめい》をあげた。
「ふもふも。ふもっふ、ふもっふ、もっふる――」
「えー……。『この拳銃は、ノリンコT54[#「54」は縦中横]という敵《てき》の主力武器だ。この銃声《じゅうせい》と威力《いりょく》を、よく覚えておけ』」
中国製のトカレフである。安価で手入れもしやすく、扱《あつか》いも簡単《かんたん》。まことに、日本のチンピラ向きの武器なのであった。
さらにボン太くんは続ける。
「ふもっふ。ふもふも。ふぅも、ふぅも。もっふる、ふもふも――」
「『貴様《きさま》ら一人一人は、どうしようもない役立たずのクズどもだが――然《しか》るべき訓練《くんれん》を受け、俺の編成《へんせい》に従えば、いかなる作戦も遂行可能《すいこうかのう》になる。そのつもりで真剣に――』……って」
刺《さ》すような視線《しせん》が自分に集まっていることに気付いて、かなめは口ごもった。
「怖《こわ》い顔しないでください。あたしじゃなくて、ボン太くんが言ってるんですよ?」
「いや、すまねえ……」
わざと泣きそうな顔をして見せると、組員たちは赤面し、うつむいた。そろって、照《て》れた様子である。
意外《いがい》に純情《じゅんじょう》な人たちだなー、とかなめは内心で思った。
「ふもっふ! ふもっふ!」
「『まずは基礎《きそ》体力だ。町内を一周!』」
「へい。それじゃあ……」
ぱかんっ! ぱかんっ!
「ひっ……」
「ふも〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
「『急げ』だそうです」
ボン太くんの拳銃に追いたてられて、組員たちは先を争うように走り出した。
それから一週間。放課後《ほうかご》に通い詰《づ》めで行われた美樹原組の特訓《とっくん》は、なかなかうまくいかなかった。
この組員たちときたら、人の話をまるで聞かないのである。
『常《つね》に周囲《しゅうい》三六〇度を警戒《けいかい》し、敵《てき》を倒《たお》すときは声を出すな』
……そう教えても、組員たちは真正面を見据《みす》え、雄《お》たけびをあげつつ走り出す。格闘術《かくとうじゅつ》の基本を教えてやっても、彼らはけっきょく、コンバット・ナイフを腰《こし》だめに構えて、『命《タマ》とったる』と突撃《とつげき》するのだった。
[#挿絵(img2/s05_113.jpg)入る]
「ふもっふ! ふもふも、ふもっふ!」
「『いい加減《かげん》にしろ。戦う時は頭を使え』だそうです」
通訳《つうやく》のかなめがその旨《むね》を伝えると、組員たちは困惑顔《こんわくがお》を浮《う》かべた。
「ですが先生。どうしても考えるより先に、体が動いちまうモンで……」
「ふもふも。ふもっふ、ふもふも」
「『ふざけるな。街のチンピラではあるまいし』」
「いえ。街のチンピラなんですが……」
「ふもっ……」
ボン太くんの中で、宗介は焦燥《しょうそう》した。
(いつぞやのラグビー部は臆病者《おくびょうもの》ぞろいで困ったが……。今度の連中はその反対だ)
血の気が多い分、それだけに始末《しまつ》が悪い。
宗介が彼らに戦いのイロハを教えているのは、それが抑止力《よくしりょく》につながると考えたからだ。なにも相手より強くなる必要はない。『屈服《くっぷく》させるには高くつく相手だ』と敵に認識《にんしき》させるだけで充分《じゅうぶん》なのである。これは弱小国家から、学校のいじめられっ子まで、すべてについて有効《ゆうこう》な生存戦略《せいぞんせんりゃく》の一つだった。
ところが、この美樹原組の連中ときたら。
「先生。あっしらも、ずいぶんとマシになってきたでしょうが?」
「これなら龍神会の連中も、一網打尽《いちもうだじん》にできますぜ。へっへっへ……」
一週間の訓練で、変な自信だけつけてしまったのだった。実情は弱いままなのに。
「ふもっふ」
ボン太くん(宗介)は厳《きび》しく告げた。
「『勘違《かんちが》いするな』だそうです」
「ふもふも、ふもっふ、ふもっふ」
「『お前たちなど、まだまだかわいいヒヨッコだ」と」
「先生に『かわいい』って言われても……」
「ふもっふ。もっふる。ふもっ、ふもふも。もっふる、もっふる――」
「『だまれ。俺がいい≠ニいうまで、敵との交戦は絶対《ぜったい》に避《さ》けろ。これは命令だ』だって」
「はあ……」
「ふもっふ!」
ぱかんっ!
中国製トカレフを空に向かって発砲《はっぽう》する。
「『わかったな!?』だって」
組員たちは背筋《せすじ》を伸《の》ばして、『りょ、了解《りょうかい》いたしやした!』と辛《かろ》うじて答えた。
その特訓風景《とっくんふうけい》を、遠くのビルの屋上から監視《かんし》している一団がいた。
いかにもなチンピラ風のネックレスや、ワニ皮のブーツ、スモーク入りの高級眼鏡《こうきゅうめがね》。一人残らず、悪役顔だ。
龍神会の構成員《こうせいいん》である。
「くっくっ……。美樹原組の奴《やつ》ら、なにを始めたかと思えば」
「ぬいぐるみとお遊戯《ゆうぎ》とは」
「『仏滅《ぶつめつ》の寛二』も地に堕《お》ちたな……」
口々に言って、男たちは冷ややかに笑った。
「うちの警告《けいこく》を何度も無視《むし》しやがって。少々、痛い目に遭《あ》わせるのが足りなかったな」
「へい、まったくで。ここはいっそ、もっと手ひどい思いを味わわせてやるべきかと」
「ふん……。言ってみな」
「あそこの組長には、年頃《としごろ》の一人娘《ひとりむすめ》がいたじゃあ、ありませんか。その娘を……」
「ほほう……?」
「いろいろと。うれしくて、おもしろいやらしいことを……クックック」
「ぐふふふ……。このエッチめ」
男たちの顔が下世話《げせわ》に歪《ゆが》んだ。
美樹原組に雇《やと》われて八日目の土曜。
午前の授業が終わると、宗介はかなめたちと一旦《いったん》別れ、自分のマンションへ、ボン太くんを取りに戻《もど》った。かさばる装備《そうび》一式を背負《せお》って、組事務所のそばの公園まで来ると、トイレの後ろでいそいそ装着する。
システムを起動。
センサー類、良好。駆動系《くどうけい》、良好。通信機器、良好。ボイス・チェンジャーは――どういじっても、いつも良好。
「ふもっふ(よし……)」
近所の小学生たちに突つかれながら、ボン太くんは組事務所へと向かった。
玄関口《げんかんぐち》をくぐると、組員たちが血相《けっそう》を変えて駆《か》け寄ってくる。
「あ! せ、先生……っ!」
「ふもっふ?(どうした)」
「お……お嬢《じょう》さんと、かなめちゃんを学校に迎《むか》えに行ってた滝川《たきがわ》が……。いま転がりこんできやがって――」
若頭《わかがしら》の柴田はひどく動揺《どうよう》した様子で、要領《ようりょう》をえない。しかし、ほかの組員たちに取り囲まれ、介抱《かいほう》されていた若衆《わかしゅ》の一人――滝川の姿《すがた》がそれを雄弁《ゆうべん》に語っていた。
「…………!」
全身ぼこぼこ。血だらけ、傷だらけなのである。とどめとばかりに、額《ひたい》にマジックで『肉』とまで落書きされている。
「せ、先生……。か、帰り道で……覆面《ふくめん》した連中にいきなり襲《おそ》われて……」
滝川は息も絶《た》え絶《だ》え、涙《なみだ》ながらに言った。
「すまねえ……先生。お嬢さんとかなめちゃんが……かどわかされちまった……。くっ。先生の……お、教えてくれた通りに、あっしも必死《ひっし》で戦ったんですが……」
「ふもっふ……(そうか……)」
「や、奴《やつ》ら……覆面はしてたが、龍神会の連中にちがいねえ。先生。どうか……どうか、お嬢さんたちを助けておくんなさい……!」
ボン太くんのもこもこした手を鷲《わし》づかみにして、滝川は男泣きした。つられて、ほかの組員たちも涙ぐむ。
「ふも……(むう……)」
かなめたちが誘拐《ゆうかい》されたと聞いて、宗介は焦燥《しょうそう》にかられた。
一刻《いっこく》も早く救出しなければならない。だが龍神会の構成員は四〇人である。たとえ宗介でも、一人では手加減して勝てる数ではない。分隊支援火器《ぶんたいしえんかき》と指向性散弾地雷《しこうせいさんだんじらい》、グレネード・ランチャーと高性能爆薬《こうせいのうばくやく》を駆使《くし》すれば、殲滅《せんめつ》できないことはないのだが――はっきりいって、血の雨が降って死体の山が築《きず》かれるのは必定《ひつじょう》であった。
少しでも味方がいれば、流血の少ない作戦も立てられるのだが……。
それを察《さっ》してか、柴田が言った。
「先生……! もちろん、あっしらもお供《とも》しやすぜ。多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》かもしれやせんが……。捨て身の覚悟《かくご》で、やらせていただきます」
「そうだ。やってみせますぜ」
「おれもだ。死んでもお嬢さんを……!」
若衆が口々に叫《さけ》ぶ。
「ふもっ……(だが……)」
宗介は考えあぐねた。
この連中は、弱い。遮蔽物《しゃへいぶつ》の有効利用《ゆうこうりよう》や、隠密接敵《おんみつせってき》さえできないのだ。連れていっても、犬死にするのは明らかだった。さりとて、自分一人では……。
(なにか適切《てきせつ》な装備《そうび》があれば……。いや?)
そうだった。
あるではないか。いい装備が。先日に開発して、販売《はんばい》に失敗したばかりの――
「ふもっふ。ふも(付いて来い。急げ)」
ボン太くんは手招《てまね》きして、組のトラックへと走り出した。
黒塗《くろぬ》りのベンツに押《お》し込まれて、かなめと蓮は、街のはずれの大きな屋敷《やしき》へと連れて行かれた。
おそらく、自分たちを拉致《らち》した連中のアジトだろう……かなめはそう見当をつけた。門や庭、邸内《ていない》のあちこちに、その筋《すじ》とおぼしき男たちが、うろうろとしている。警備は厳重《げんじゅう》で、堂々《どうどう》とサブマシンガンを肩《かた》に提《さ》げているような者までいた。
小突《こづ》かれるようにして、二人はじめじめした地下室に放《ほう》り込まれる。
肩《かた》を落として、かなめはつぶやいた。
「……とほほ。どうしてあたしって……こう、悪党に捕《と》らわれることが多いのかしら」
「まあ……。かなめさんは、こういう経験が豊富なのですか?」
自分の窮地《きゅうち》がいまいち分かっていないのか、蓮がのんびりした声で言った。
「うん。どこのバカのせいかは見当がついてるけど……」
「大変ですねぇ……。どうか、これからもお気をつけて」
「人の心配してる場合じゃないでしょ……」
一時間ほどして、その地下室に数人の男が入ってきた。
「おぉ……。なるほど、きれいなお嬢《じょう》さんたちだ」
先頭に立った一人が、感嘆《かんたん》の声を漏らした。緑のベストを着け、眼鏡《めがね》をかけ、首にタオルを巻いた男である。
「あのー。あなたは?」
「龍神会の組長、菅沼《すがぬま》です。ちなみに祖父《そふ》は、なぜか英軍の駆逐艦《くちくかん》に乗ってました。まあ、誰《だれ》にもわからないネタなんだけどね」
投げやりに言って、菅沼は手にしたビール瓶《びん》をラッパ飲みした。変な組長である。
「はあ……。いちおう聞きますが、あたしたちを、どうするおつもりで?」
たずねると、菅沼は笑った。
「決まってます。お約束《やくそく》です。美樹原組の皆さんに、縄張《なわば》りから手を引いてもらう材料になっていただこうと。……ふふ」
「材料。それって、もしかして……」
何人かの男たちが、地下室にいくつかの機材《きざい》を運び込んだ。照明器具《しょうめいきぐ》やビデオカメラ、そして――メイドさんや巫女《みこ》さん、看護婦《かんごふ》などの制服の数々。
「…………!」
「まずは彼らに、我々《われわれ》が本気だということを、知ってもらう必要があると思いましてね。ふふふ……。おい、工藤《くどう》、清野《せいの》!」
菅沼が指をぱちんと鳴《な》らすと、数人の男たちが、両手をにぎにぎさせて、かなめたちににじり寄った。
「ちょ……ちょっと?」
「あの。これは一体……?」
狼狽《ろうばい》するかなめと、事情《じじょう》のわからない蓮。その二人を、龍神会の連中はにやにやしながら組み伏《ふ》せようとして――
そのとき、遠くで轟音《ごうおん》がした。
地下室の天井《てんじょう》が震《ふる》えて、埃《ほこり》がばらばらと降ってくる。この邸宅《ていたく》のどこかで、爆発《ばくはつ》かなにかが起きたような音だった。
「……なんだ?」
菅沼は眉《まゆ》をひそめ、そばの舎弟《しゃてい》たちに『様子《ようす》を見て来い』と命じた。
邸宅の正門|付近《ふきん》では、悲鳴と怒号《どごう》が渦巻《うずま》いていた。
門を突《つ》き破って、五トントラックが敷地内《しきちない》に飛びこんできたのだ。
トラックはそのまま疾走《しっそう》し、屋敷の正面玄関に突《つ》っ込んだ。壁が粉々になって、瓦礫《がれき》と煙《けむり》を巻き上げる。
「何事《なにごと》じゃあ!?」
警備の組員たちは銃《じゅう》を抜《ぬ》き、怒鳴《どな》り合いながら、そのトラックへと殺到《さっとう》した。
だが、運転席は無人《むじん》だった。
だれもいない。当惑《とうわく》しながら、組員たちは辺《あた》りを見回し――一人、また一人と、破壊《はかい》された正門の方角に、視線《しせん》を釘付《くぎづ》けにした。
「なに……?」
「あ、あれは……!? 」
突風《とっぷう》を受け、渦《うず》を巻き、ゆっくりと晴れていく煙《けむり》の向こうに、七つの影《かげ》があった。
「!?」
そろって、ずんぐりとした二頭身だ。
犬だかねずみだかわからない頭。らんらんと、赤く輝《かがや》く二つの目。
重武装《じゅうぶそう》した、七匹《ななひき》のボン太くんであった。
彼らは手に手に強力な火器をたずさえ、怒りのオーラで大気をいびつに歪《ゆが》ませていた。
「ふもぉ……」
真ん中のボン太くんが、もこもこした手をさっと挙《あ》げた。両脇《りょうわき》の六匹のボン太くんが、手にした武器を龍神会の組員たちに向ける。散弾銃《さんだんじゅう》。ライフル、サブマシンガン、ガトリング砲《ほう》、グレネード・ランチャー……。
「ふもっふ!」
あらゆる武器が、火を吹《ふ》いた。
催涙弾《さいるいだん》やゴム弾、電気銃の閃光《せんこう》が、男たちへと襲《おそ》いかかる。
「がっ!?」
「ごお……」
「ごほっ、ごほっ……!」
次々と倒《たお》れていく男たち。嵐《あらし》のようなその猛攻《もうこう》に、龍神会は総崩《そうくず》れになった。一陣《いちじん》の風となったボン太くんズは、修羅《しゅら》のごとく屋敷《やしき》へ殺到《さっとう》する。
「おんどりゃあっ!」
正面ホールにいた組員の一人が、一匹のボン太くんに向かってトカレフを全弾|撃《う》ち込んだ。普通《ふつう》の人間ならば、即死《そくし》しているところだったが――ライフル弾さえストップする、超《ちょう》アラミド繊維《せんい》の防弾毛皮《ぼうだんけがわ》は堅牢《けんろう》であった。
「ふもふも……ふもっふ」
非力《ひりき》な銃弾など物ともせず、ボン太くんは不敵《ふてき》に笑って、その組員にゴム弾をしこたま叩《たた》き込む。『そんなぁ』と泣きながら、男は吹き飛んでいった。
ボン太くんズは、圧倒的《あっとうてき》な強さで屋内を掃討《そうとう》していく。
ドアや壁の陰《かげ》に隠《かく》れた敵《てき》でさえ、ボン太くんたちからは逃《のが》れられなかった。宗介が美樹原組に供与《きょうよ》した『量産型《りょうさんがた》ボン太くん』には、体温を感知《かんち》する赤外線《せきがいせん》カメラや、人間の心音を拾《ひろ》い上げる低周波《ていしゅうは》センサーが装備されている。さらに|A S《アーム・スレイブ》の操縦《そうじゅう》システムを応用《おうよう》した、筋力補助機能《パワー・アシストきのう》まで備《そな》えており――着用したものは、その重みさえ感じることはない。
しかも、この防弾性能《ぼうだんせいのう》だ。いまも味方には、一人の負傷者《ふしょうしゃ》さえ出ていない。
(……やはり使えるではないか。なぜ売れなかったのだろう?)
どう考えても、わからない。試作型《しさくがた》の中で、宗介は首をひねっていた。
ベルギーの武器商と組んで開発した、この強化服《きょうかふく》。強《し》いて問題点を挙《あ》げれば、試作品と同じ型のボイス・チェンジャーを接続《せつぞく》しないと、なぜか電子機器《でんしきき》がうまく動かないことだけだった。
宗介|率《ひき》いる突入班《とつにゅうはん》は、部屋という部屋を、次々に掃討していく。
「ふもっふ(クリアー)」
「ふもっふ!(クリアー!)」
「ふもっふ(クリアー)」
無線越《むせんご》しに、突入した組員が報告《ほうこく》した。
捕らえた敵《てき》の一人を締め上げて、かなめたちの居場所《いばしょ》を聞き出し、地下室へ。
「ふもっふ、ふも!(アルファ、GO!)」
ばぁんっ!
指向性爆薬で扉《とびら》を吹《ふ》き飛ばし、ボン太くんズは室内に踏《ふ》み込んだ。
中では龍神会の組長が、かなめと蓮を盾《たて》にして立っていた。手には拳銃を握《にぎ》っている。
「ば、馬鹿《ばか》な。ボン太くんだと!? 俺の部下が、ボン太くんで全滅《ぜんめつ》……!?」
突入してきた数匹を見て、男が恐怖《きょうふ》の悲鳴をあげた。その額《ひたい》にぴたりと銃口を向けて、宗介は告げる。
「ふぅも、ふぅも。ふもっふ(逃《に》げ場はない。降伏《こうふく》しろ)」
「……たぶん、『降参しろ』って言ってますけど」
人質《ひとじち》のかなめが、妙《みょう》に淡白《たんぱく》に通訳すると、その組長は悲痛《ひつう》な叫《さけ》び声をあげた。
「ふ、ふざけるな! ぬいぐるみ衆に負けたとあっちゃあ、ほかの極道《ごくどう》に舐《な》められる。この渡世《とせい》、シノいでいけねえんだよっ!?」
「ふもっふ……(そうか……)」
宗介は正確無比《せいかくむひ》の射撃《しゃげき》で、相手の顔面にゴム弾《だん》を叩《たた》き込んだ。
「ぐはっ……!」
倒れた組長を見下ろして、ボン太くんは冷酷《れいこく》に告げた。
「ふもふも、ふもっふ。ふうも、ふもっ(貴様は一つ、ミスを冒《おか》した。敵の戦力は過小評価《かしょうひょうか》しないことだ)」
「な、なに言ってるか、わかんねー……」
つぶやいて、龍神会の組長は悶絶《もんぜつ》した。
ボン太くん部隊が撤収《てっしゅう》した直後、『匿名《とくめい》の通報《つうほう》』を受けた警官隊が殺到《さっとう》してきた。
その結果――屋敷《やしき》に隠《かく》されていた銃器《じゅうき》や覚醒剤《かくせいざい》が明るみに出たり、裏金の帳簿《ちょうぼ》が見付かったりして、あっという間に龍神会は壊滅《かいめつ》してしまった。
恐怖《きょうふ》のあまり、『ボン太くんが、ボン太くんが……!』とうわ言のようにつぶやく組員たちに、警察はほとほと困《こま》り果てた(ただ一人、噂《うわさ》を聞いた泉川署《せんがわしょ》・交通課のある婦警《ふけい》が、『奴《やつ》だわ。また奴が出たのよっ!』とつぶやいた)。
関東一円を納《おさ》める角山組《かどやまぐみ》は、ぬいぐるみ風情《ふぜい》に潰《つぶ》された経緯を聞いて、龍神会を破門《はもん》してしまった。それでも評判《ひょうばん》は口づてに広まり、しばらくの間、関東の極道界ではボン太くんが畏敬《いけい》の対象《たいしょう》となった。
『あの龍神会が、ボン太くんに……!?』
『ボン太くんには気をつけろ』
『ボン太くんには逆《さか》らうな』
……てな調子である。
こうして問題は丸く収まるのだが――
「なんか、情けない助けられ方なのよね……」
量産型《りょうさんがた》ボン太くんを脱《ぬ》いだ柴田が運転する帰りのトラックの車中で、かなめはぼやいた。
「確《たし》かにこないだは、極道映画|観《み》て『全滅《ぜんめつ》は救われない』って言ったけど。突っ込んでくるのが健《けん》さんじゃなくて、大量のボン太くんってのは、どうも……」
どうにも不満《ふまん》がぬぐえないかなめの横顔を見て、蓮はにっこりと笑った。
「そうですか? わたしはいいと思いますけど。みんな、かわいいし……ふふ」
「ああ、そう……」
ため息をつく。
一方、トラックの荷台《にだい》では、そのボン太くんズが勝利の凱歌《がいか》をあげていた。
「ふもっふぅー! ふもっ! ふもっ!?」
「ふぅもふぅも。ふもぉ〜?」
「ふも、もっふる! ふもっふぅ!」
明るいが、なんだかわけのわからない笑い声が、夕刻《ゆうこく》の町内にこだましたのだった。
●
余談――
[数週間後、アメリカの某局《ぼうきょく》ニュース番組から]
キャスター:
『……本日夕方ごろ、マイアミ南部のショッピングモールにて、大規模《だいきぼ》な麻薬密売人《まやくみつばいにん》の摘発《てきはつ》が行われました。市警察は容疑者八名を逮捕《たいほ》し、コカイン五〇キロを押収《おうしゅう》しました。市警本部長の会見によれば、捜査チームは今回の摘発において、特別予算で購入《こうにゅう》した新装備《しんそうび》を使用したとのことです。この装備を着用した捜査員は、銃器《じゅうき》で武装した犯人グループをきわめて迅速《じんそく》に制圧≠オ、効果的に戦意を喪失《そうしつ》させた≠サうです。……当番組のリポーターは、摘発直後の現場で、新装備《しんそうび》を着用した捜査員《そうさいん》にインタビューすることに成功しました。こちらがその映像です――』
リポーター:
『(マイクを向け)大手柄《おおてがら》ですね。危険は感じませんでしたか?』
捜査員:
『ふもっふ!』
[#地付き]<仁義《じんぎ》なきファンシー おわり>
[#改丁]
放課後のピースキーパー
[#改ページ]
『聖地《せいち》』の領有権《りょうゆうけん》を主張《しゅちょう》する二つの勢力《せいりょく》は、いつ果《は》てるともない争いを繰り返してきた。
敵《てき》の根絶《こんぜつ》、聖地からの永久追放《えいきゅうついほう》こそが両者の望みであり、もはや妥協《だきょう》や交渉《こうしょう》の余地《よち》は一切《いっさい》ない。対立の根はあまりに深く、平和的な対話はとうてい実現《じつげん》しそうになかった。
彼らは憎《にく》みあい、さげすみあい、隙《すき》あらは敵をずたずたに引き裂《さ》こうと目論《もくろ》んでいたのだ。
そして、ついにその日――両勢力が雌雄《しゆう》を決するべく『聖地』に集結《しゅうけつ》した。
一触即発《いっしょくそくはつ》の状態《じょうたい》でにらみ合う両軍の兵力は、一個《いっこ》歩兵小隊《ほへいしょうたい》に相当する人数だった。小規模《しょうきぼ》なようだが、この種《しゅ》の戦場では異例《いれい》の大兵力である。
『聖地』――住宅街のただ中にある、児童公園[#「児童公園」に傍点]を挟《はさ》む形で、両軍は対峙《たいじ》していた。
片《かた》や、泉川《せんがわ》小学校・五年三組の男子を中核《ちゅうかく》にした三〇名。
片や、芝崎《しばさき》小学校・五年一組および四年生|有志《ゆうし》によって編成《へんせい》された三二名。
両軍、共に完全武装《かんぜんぶそう》である。
主な装備《そうび》はビニール・バットや古ぼけたモップ、ひびの入ったポリバケツや水風船など。分隊《ぶんたい》支援用《しえんよう》の重火器《じゅうかき》として、ロケット花火や爆竹《ばくちく》、かんしゃく玉なども実戦配備《じっせんはいび》されていた(ちなみに金属バットや石つぶてなどは、双方《そうほう》が全滅《ぜんめつ》する危険があるので、条約《じょうやく》によって禁止《きんし》されていた)。
冷静に評価《ひょうか》すれば、両軍の戦闘力《せんとうりょく》はほぼ互角《ごかく》だった。にもかかわらず、双方《そうほう》の指導者《しどうしゃ》は、それぞれ敵の戦力をあなどり、『我《わ》が方にこそ勝算《しょうさん》がある』と確信《かくしん》していた。
これは非常《ひじょう》によくない兆候《ちょうこう》である。
二〇世紀に起《お》きた泥沼《どろぬま》の大戦争は、こうした敵戦力の過小《かしょう》評価・誤算《ごさん》がきっかけになった場合がほとんどなのだ。
たとえば一九四一年、ソ連に侵攻《しんこう》したナチス・ドイツは当初、その戦争が短期間で自軍の勝利のうちに終わるだろうと考えていた。だからこそ戦端《せんたん》を切った。だがソ連軍の抵抗《ていこう》は思いのほか粘《ねば》り強く、けっきょく血みどろの戦争は予想に反して四年間も続き、その間に何百万という人命が失われたのである。
そうした歴史の教訓《きょうくん》を学ぶこともなく、彼ら小学生たちは、この公園において、愚《おろ》かな人類の歴史を繰《く》り返そうとしていた。
両軍の指揮官《しきかん》が、最後|通牒《つうちょう》を発した。
「とっとと失せな。このうんこ野郎《やろう》」
「おめーらこそ消えろ。ちんこ野郎」
きわめてオーソドックスな児童用語による、儀礼的《ぎれいてき》な勧告《かんこく》。
その時点で紛争《ふんそう》当事者の六二名は、この児童公園での軍事的|緊張《きんちょう》が、後戻《あともど》りのできない領域《りょういき》にまで達したことを知った。
両者の間を、湿《しめ》った風が吹《ふ》き抜《ぬ》けた。どこかでカラスが鳴いている。離《はな》れた道路《どうろ》に止まった、クレープ屋のライトバンが『イッツ・ア・スモールワールド』の曲を流している。
その沈黙《ちんもく》を破《やぶ》り――
「…………やっちまえっ!」
だれかが叫《さけ》び、両軍が激突《げきとつ》した。
竹ぼうきと画板《がばん》で武装《ぶそう》した兵士たちが、古代ギリシャの密集隊形《ファランクス》のように、整然《せいぜん》と並《なら》んで突進《とっしん》する。後方からは、小柄《こがら》な兵士たちが水風船と爆竹《ばくちく》を雨あられと投《な》げつける。
巧《たく》みな戦術《せんじゅつ》の応酬《おうしゅう》は、最初のうちだけだった。戦いはすぐに混戦模様《こんせんもよう》となり、無秩序《むちつじょ》な殴り合いと取っ組み合いに突入した。すさまじい鬨《とき》の声と、爆竹やかんしゃく玉の爆発音が交錯《こうさく》する。
「ぶっ叩《たた》け!」
「いてぇ。鼻血出た」
「返せよ、ドロボー! ボクのパンツ、返せよぉー……」
そこかしこで、凄惨《せいさん》きわまりない光景《こうけい》が展開された。逃げる者や泣き出す者や、数人がかりで衣服《いふく》をはぎ取られる者が続出する。
「にげるな! たたかえ!」
その混戦《こんせん》のまっただ中で、芝崎小学校側の指揮官《しきかん》――阿久津《あくつ》芳樹《よしき》は叫んだ。グリーンのバンダナを巻いた、利発《りはつ》そうな少年である。彼は折れたほうきを振《ふ》り回して、襲《おそ》いくる敵《てき》を投げ飛ばし、味方の兵たちを鼓舞《こぶ》した。
「今日という今日は、泉川小の奴《やつ》らをブッつぶすんだっ!」
そう怒鳴《どな》る芳樹のそばに、乱戦《らんせん》を縫《ぬ》うようにして、一人の少女が駆けつけた。
「ヨシキくん!」
「高美《たかみ》!? なにしに来たんだ。ここは危ねーぜ、さがってな!」
芳樹が告げても、高美と呼ばれた少女は逃げなかった。代わりに彼女は、彼の腕《うで》にひしとしがみつき、涙声《なみだごえ》で叫んだ。
「ねえヨシキくん! もうこんな争いごとはやめて!」
「うるせーよっ! 引っ込んでろ!」
「ダメだよ、ヨシキくん!……こんなの絶対《ぜったい》、間違《まちが》ってる!」
「なにワケのわかんねーこと言ってんだ。はなせ。はなせってば、こら!」
「だめ! あたし絶対、はなさないから!」
「動けねーんだよ! よせ、あぶな――」
がんっ!
次の瞬間《しゅんかん》、どこからともなくその場に飛んできた洗面器《せんめんき》が、彼の顔に直撃《ちょくげき》した。
うなり声をあげて倒《たお》れた彼に、高美はなおもすがりつく。
「ヨシキくん……? ねえ、ヨシキくんったら。やだ、返事《へんじ》してっ!?」
「く、首を絞め……るな……」
「死なないで、ヨシキくん!」
「死……ぬ……」
「やだ、ヨシキくん!? こんなのいやだよおっ! ヨシキくん。ヨシキくーんっ!!」
高美は半狂乱《はんきょうらん》になって泣き叫び、芳樹の首をぐいぐいと絞めあげる。泥仕合《どろじあい》と化した戦場のまっただ中で、少女の慟哭《どうこく》がこだました。
●
「飼《か》い犬が死んだんですよ」
佐々木《ささき》博巳《ひろみ》が言った。
一年生の備品係《びひんがかり》で、小柄《こがら》な少年だ。いつもは好奇心旺盛《こうきしんおうせい》なその瞳《ひとみ》も、いまは虚《うつ》ろに沈《しず》み、まるで死んだ魚のようだった。
場所は放課後《ほうかご》の生徒会室である。おなじみの大机《おおづくえ》の一角に腰掛《こしか》けて、彼は小さなため息をつく。
「一二年間、家族|同様《どうよう》に暮《く》らしてきたシーズー犬です。毎日|一緒《いっしょ》にじゃれ合ったり、ご飯《はん》を食べたり、眠《ねむ》ったりしてきました。自分の弟みたいな存在《そんざい》だった。それがおととい、心臓《しんぞう》マヒで死んだんです。僕の腕《うで》の中で。よだれを垂《た》れ流して、何度も痙攣《けいれん》して。大きな瞳が、僕に向かって『苦しいよ』と訴《うった》えてました。でも僕にはどうしようもなかった。強心剤《きょうしんざい》も心臓《しんぞう》マッサージも無駄《むだ》でした。後から来てくれた獣医《じゅうい》さんが言うには――もともと手の施《ほどこ》しようがなかったんだそうです。でも、一時間前までは、あんなにピンピンして僕におやつをねだってたのに」
「そ、そう……」
聞いていた千鳥《ちどり》かなめが、控《ひか》えめな声で相槌《あいづち》を打った。
「犬が死んでから、まる一日以上は茫然自失《ぼうぜんじしつ》状態《じょうたい》でした。何時間も、亡骸《なきがら》のそばにへたり込んで、ずっと空中を眺《なが》めていました」
「た、大変だったわね……」
「なんか……もう、自分のことや世の中のことが、どうでもいい気分になってしまって。指一本動かすことさえ、億劫《おっくう》で」
そこまで辛抱強《しんぼうづよ》く耳を傾《かたむ》けてから、かなめは問いかけた。
「だから、今月の生徒会の会報《かいほう》のエッセイ、書けないわけ?」
「ええ。すみません……」
佐々木博巳は、生徒会が毎月発行している会報・『陣高《じんこう》だより』にエッセイを書いている。ユーモラスな彼の文章は、生徒たちの間でも評判《ひょうばん》だ。その彼が、締め切りギリギリの時期になって学校を二日も休んだあげく、『もう書けない』だのと言い出したのだ。
「締め切りはとっくに過ぎてて、ほかの原稿《げんこう》は出そろってるのに。みんなにさんざん迷惑《めいわく》かけて。でも――あんたは『犬が死んだ』って理由で、原稿が書けないと?」
注意深く、押《お》し殺した声でたずねると、博巳は力|無《な》く頭《こうべ》をうなだれて、
「そうなんです。すみません……」
と、死人のような声で言った。
「いくら千鳥《ちどり》先輩《せんぱい》が僕をハリセンで殴《なぐ》ったり、うれし恥《は》ずかしい『BOYS BE…』的な手法《しゅほう》で慰《なぐさ》めたりしても、無駄《むだ》だと思います。校長先生がここに来て、『書かないとおまえは退学《たいがく》だ』とか脅《おど》しても、たぶん無理《むり》です。僕はもう、なにもする気になれないんだ。『甘《あま》ったれの言い訳《わけ》だ』と軽蔑《けいべつ》されても仕方《しかた》がありません。原稿なんかどうでもいい。一行も書けないんです。言葉がまったく思い浮《う》かばないんだ……」
「うー。困ったわね……」
かなめは小さなため息をついた。今月の編集長は彼女の番だったので、『陣高だより』の紙面に穴《あな》をあけるのはできるだけ避けたかったのだ。だが、いまの佐々木の状態《じょうたい》では、愉快《ゆかい》なエッセイを書くことなど無理だということは容易《ようい》に想像《そうぞう》できた。
「じゃあ、仕方《しかた》がないけど今回は――」
「千鳥。もう少し待ってみろ」
そこで、大机の反対側で黙々《もくもく》と編集作業をしていた相良《さがら》宗介《そうすけ》が、はじめて口を開いた。
「ソースケ?」
「『陣高だより』の完成の指揮《しき》は俺《おれ》に任されている。俺の任務《にんむ》は制作進行だからな」
宗介はすうっと立ち上がり、博巳のそばまで歩いていった。博巳はぼおっとした目で、宗介を見上げた。
「佐々木。たとえは敵地《てきち》での作戦行動中、おまえの仲間が地雷《じらい》を踏《ふ》んで死んだとしよう」
「はあ……」
「一二年間、一緒《いっしょ》に戦って来た戦友だ。だが、彼は死んでしまった。地雷の音を聞きつけて、敵のゲリラが大勢《おおぜい》その場にやってくるのは確実《かくじつ》だ。そのままでは、おまえは遠からずゲリラたちに捕《つか》まって、八《や》つ裂《ざ》きになるだろう。……さて佐々木。おまえはその場所で、戦友の遺体《いたい》を抱《かか》えたまま、なにもせずに動かないのか?」
「…………」
「だとしたら、おまえは死ぬ。生き延《の》びるチャンスはあるのに、だ。どれだけ疲労《ひろう》し、頭が働いてくれなくても――敵《てき》から逃《に》げることはできるはずだ。応戦《おうせん》するためにトリガーを引くこともできる。まだ、なにかができるだろう」
かなめがぽかんとして見守る前で、宗介は相変《あいか》わらずのむっつり顔のまま、訥々《とつとつ》と語り続けた。
「けっきょく逃げ切れず、くたばったおまえの死体を見て、他人は『間抜《まぬ》けな奴《やつ》だ』『根性《こんじょう》なしだ』と笑うかもしれない。だが、そんな奴らは放《ほう》っておけばいい。同じような敵地《てきち》から、生きて帰ったことのある奴にしか、わからないことはある。わかる奴は、おまえのために一言、それぞれの神に祈《いの》ってくれるだろう。おまえが最後まで戦ったにせよ、途中《とちゅう》で投げ出してしまったにせよ、本当の戦友たちはだれも責《せ》めはしない。問題はおまえ自身の気持ちだ」
「ソースケ……」
かなめがつぶやくのを、宗介はまるでかまいもせず、生気のない佐々木博巳の顔をのぞき込んだ。
「どうする。このままギブアップするか。それとも、もう少し悪あがきしてみるか。選ぶのはおまえだ」
締めくくってから、彼は何事《なにごと》もなかったかのように席に戻《もど》り、編集作業を再開した。
そして三〇秒くらいがたったころ――
のろのろと、佐々木博巳が立ち上がった。彼は大机の端《はし》に置いてあった、薄型《うすがた》のノートパソコンをつかむと、かなめに告げた。
「もう少し待ってください。とりあえず、文字だけ埋《う》めてみますから……」
彼は力なく、生徒会室を出て行った。
「なんと……」
彼女は驚愕《きょうがく》の表情もあらわに、宗介の横顔を凝視《ぎょうし》した。
「なんだ」
「びっくりしちゃった。あんたが……こう、なんか、まともなこと言って彼を励《はげ》ますなんて……。その、見直した、っていうか……」
口をぱくぱくさせて言うと、宗介はすこしの間、編集作業をぴたりと止めた。それから、人差し指で鼻の頭をぽりぽりと掻《か》いて、
「ただの……受け売りだ。以前、似《に》たようなことを、命の恩人《おんじん》に言われてな」
と、そしらぬ顔のまま答えた。
「へー。だれ?」
「それは秘密《ひみつ》だ」
「なによ。教えてくれたっていいじゃない」
面白《おもしろ》がってかなめが言うと、宗介はちらりと、横目で彼女を見た。
「本当に……わからないか?」
「え?」
「いや。なら、別にいい」
宗介は右手を振《ふ》って、別の話を切りだした。
「とはいえ、佐々木は意外《いがい》に見所のある奴《やつ》だ。ああ言われても、実際《じっさい》に行動するのは難《むずか》しい」
「うん。そうだね」
「もしあれでも効果《こうか》がなかったら、鼻柱《はなばしら》に銃《じゅう》を突《つ》きつけ、『貴様《きさま》が愉快《ゆかい》な原稿を書かなければ、右|膝《ひざ》から順に撃《う》ち抜いていく。さあ書け。愉快に』と脅《おど》すつもりだったが……」
「前言撤回《ぜんげんてっかい》……」
「なに?」
「いや、こっちのこと」
そのおり、部屋に生徒会長の林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》と、書記の美樹原《みきはら》蓮《れん》が入ってきた。いつものことだが、この二人が並《なら》んで歩くと、どこぞの青年|実業家《じつぎょうか》とその秘書《ひしょ》といった感じに見える。
「会報の編集は進んでいるかね?」
「肯定《こうてい》です。佐々木が少々、問題を抱《かか》えていますが――自分は楽観《らっかん》しております」
宗介が答えた。
すると蓮が眉《まゆ》をひそめ、憂《うれ》いに満ちた瞳《ひとみ》でつぶやいた。
「そうですか? いま佐々木くんと廊下《ろうか》ですれちがったんですけど……ひどく気落ちした様子《ようす》でした。まるで……まるで、組同士の抗争《こうそう》で舎弟《しゃてい》を殺された菅原《すがわら》文太《ぶんた》のように……」
「それなら心配はいらんよ、美樹原くん。芝居《しばい》のセオリーなら、そこで反撃《はんげき》が始まる。彼も一念発起《いちねんほっき》して、血みどろの殴《なぐ》り込みに突入《とつにゅう》することだろう」
「ええ。だといいのですが……」
「いいのか……?」
二人の会話を聞いていたかなめが、こめかみにつつと脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべた。
「それはともかく、来客《らいきゃく》だ」
「ほら……こっちですよ」
林水と蓮が、道を開けるようにすっと左右に分かれる。彼らの後ろから、一〇歳くらいの少女が姿《すがた》を見せた。ショートカットの髪で、大きな目をした女の子だ。小さな体に不釣《ふつ》り合いな、大きな鞄《かばん》を抱《かか》えている。
「だれ? お二人の娘《むすめ》さん?」
かなめが言うと、蓮が『まあ、千鳥さんったら……』と頬《ほほ》を赤らめた。一方の林水は涼《すず》しげな顔のまま、
「……と、道行く生徒に何度も訊《き》かれたよ。だがあいにく、これでも私は一八歳だ。一〇歳ちょっとの娘は、持ちようがない」
「そういえば、そうでしたね。意外な事実《じじつ》だけど……」
「ともあれ、問題はこのレディだ」
林水は紳士的《しんしてき》な物腰《ものごし》で、少女をかなめたちの眼前《がんぜん》へといざなった。
「校内をさまよっているのを見かけてね。聞けば、君と相良くんを探していたらしい」
「あたしらを……?」
すると少女が、はじめて口を開いた。
「あの……お久しぶりです。相良さん、千鳥さん」
と、言われても、かなめにはその少女にとんと見覚えがなかった。妹の友達だろうか……とも思ったが、やはり記憶《きおく》にない。
「え……と。あなたは……?」
「雨宮《あめみや》高美っていいます。覚えてませんか?」
「阿久津芳樹の友人だな。以前、病院の廃墟《はいきょ》で一度会った。身体的特徴《しんたいてきとくちょう》が合致《がっち》している」
宗介がきびきびと言った。この男の記憶力《きおくりょく》は、時として侮《あなど》りがたいものがある。
「はい。あのときは、変な幽霊《ゆうれい》のコスプレしてたから、覚えてないかもしれませんけど……」
少女が上目遣《うわめづか》いに言った。
「ああ、あの肝試《きもだめ》しのときの……」
かなめもようやく思い出した。阿久津芳樹は、宗介の知り合いの小学生である。たしかこの少女は、その芳樹のクラスメートだったはずだ。
「それで、ええと……雨宮高美ちゃん。こんなところまで、何の用?」
ほとんど他人の自分たちを探して、知らない人だらけの高校に踏《ふ》み込んでくるとは。特別な用事《ようじ》でもあるのだろうか……?
「ええ。あの。実は……。相良さんたちを見込んで、相談したいことがあって」
「と、言うと?」
「戦争を、とめて欲しいんです」
戦争とは、泉川小学校と芝崎小学校の児童たちの対立《たいりつ》のことだった。
この二校の子供たちは、市内の児童公園をめぐって、激《はげ》しい縄張《なわば》り争いを繰《く》り広げているのだという。高美と芳樹は芝崎小学校の児童で、特に芳樹は自軍の指導者《しどうしゃ》なのだそうな。
「単に、どっちも遊び場が欲しいだけなんですけど」
高美は淡々《たんたん》と説明した。
「あの公園の地面は真《ま》っ平《たい》らに舗装《ほそう》されてるから。ラジコンで遊んだりバスケやったりするのに、もってこいなんです」
砂場やブランコなどがある普通《ふつう》の公園だと、なかなかそうは行かないらしい。
「なんか、すごくつまんない理由で、最初に芝崎の子が泣かされて。仕返《しかえ》ししたら、またやり返されて。その繰り返しで、どんどんエスカレートしたんです」
「まるでヤクザの抗争ね……」
かなめがぼそりとコメントした。
「ええ。しまいには、お互《たが》いに『敵《てき》をほろぼせ』って感じになっちゃいました」
芝崎小側は『世に三悪あり。酒と賭博《とばく》と泉川小』と唱《とな》え、泉川小側は『芝崎小の者は人にあらず。経験値《けいけんち》五点のスライムなり』と唱える。
顔を合わせるだけで両者が衝突《しょうとつ》するので、公園の付近一帯《ふきんいったい》は、暴動《ぼうどう》とテロリズムの坩堝《るつぼ》と化しているそうだ。
「いまや児童公園は危険地帯です。近所の大人《おとな》たちも、累《るい》が及《およ》ぶのをおそれて見て見ぬふり。さながら東ティモールか北アイルランド、といったありさまでして……」
「小学生のくせに変なこと知ってるわね……」
「気にしないでください」
高美はしれっと言った。
「とにかく、このままじゃ、ヨシキくんたちはどちらかが全滅《ぜんめつ》するまで争い続けます。そうなる前に、相良さんと千鳥さんに仲裁《ちゅうさい》をしてもらいたいんです。前からお二人のことは、ヨシキくんから聞いていましたし、あの病院の仕掛《しか》けをことごとく突破《とっぱ》してきたほどの猛者《もさ》ですから……」
「『猛者』って、あんたね……」
あまり嬉《うれ》しくない評価《ひょうか》に顔を曇《くも》らせつつ、かなめは傍《かたわ》らの宗介に目を向けた。
「で、どうする? 高美ちゃんはこう言ってるけど」
「ふむ……」
宗介は腕組《うでぐ》みして、しばしの間|沈黙《ちんもく》してから、答えた。
「いいだろう。ヨシキ側の用心棒《ようじんぼう》の依頼《いらい》だったら、断《ことわ》ったところだが――仲裁《ちゅうさい》ならやってもかまわん。戦いはいけないことだ」
「本当ですか? ありがとう!」
高美の顔がぱっと明るくなる。一方でかなめは、疑《うたが》わしげな目で宗介を見て、ぼそりと言った。
「ほお。あんたの口から出るとも思えない台詞《せりふ》ね」
「なにを言う。俺《おれ》はいつも、こうした無益《むえき》な戦いには反対している」
「そうだっけ……?」
「そうだ。無計画《むけいかく》な素人《しろうと》同士の戦いには、俺は断固《だんこ》反対だ。どうせやるなら、まずは心理《しんり》効果《こうか》をねらって、敵《てき》の一人をなるべくむごたらしい方法で殺害《さつがい》する方がいい。血文字で『次はおまえの番だ』と――」
かなめの投げやりな蹴《け》りが入って、宗介は沈黙《ちんもく》した。
けっきょく、林水のお墨《すみ》付きが出たこともあって、二人は問題の児童公園に出向くことになった。彼が言うには、『地域《ちいき》全体の安全保障問題《あんぜんほしょうもんだい》でもある。いいだろう、行きたまえ』とのことだった。
陣代《じんだい》高校から、バスで移動《いどう》することおよそ一五分。宗介、かなめ、高美の三人は、児童公園に到着《とうちゃく》した。
がらんとした、正方形の広場だ。
地面は灰色のコンクリートで舗装《ほそう》され、両端《りょうはし》にバスケのボードが据《す》え付けてある。北側と南側には、大きなマンションがそびえていて、その殺風景《さっぷうけい》な側壁《そくへき》に、ちょうどこの広場が挟《はさ》まれる形になっていた。壁《かべ》相手の投球《とうきゅう》練習や、サッカーのシュート練習にも、もってこいのロケーションだ。
広さは学校の体育館の、半分くらいだろうか。遊具《ゆうぐ》の類《たぐい》はまったくないので、敷地《しきち》を取り囲む低いつつじの生《い》け垣《がき》さえなければ、すぐにでも駐車場《ちゅうしゃじょう》として使えそうな場所だった。
ただ、その広場の荒《あ》れ方が異様《いよう》だった。
まず、人気《ひとけ》がない。まだ日没《にちぼつ》には遠い時間で、公園で遊ぶ子供たちの笑い声が聞こえてきても長さそうなものなのだが――ここに響《ひび》くのは、冷え冷えとしたカラスの鳴《な》き声だけだった。
地面には、様々なゴミやガラクタ類が散乱《さんらん》している。折れたモップや、割《わ》れたポリバケツ、薄汚《うすよご》れた雑巾《ぞうきん》、ひしゃげたフライパン、壊《こわ》れた自転車、紙くず、破《やぶ》れた水風船、エトセトラ、エトセトラ……。
しかもあちこちにペンキが飛び散《ち》り、執拗《しつよう》な落書きが散在《さんざい》していた。
いわく、
<<すべての泉川小のやつに恐ふとこん乱を>>
<<芝さき小のブタどもは出ていけ>>
<<しんりゃく者・泉川小に抱腹せよ>>
<<芝さき小を皿まつりにあげろ>>
……といった調子《ちょうし》である。
「誤字《ごじ》や平仮名《ひらがな》の多さが、妙《みょう》な迫力《はくりょく》を醸《かも》し出してるわね……」
「うむ。快楽型《かいらくがた》の殺人鬼《さつじんき》か、破滅的《はめつてき》なカルト信者を彷彿《ほうふつ》とさせるな……」
うすら寒いものを感じて、宗介とかなめは顔を見合わせた。
「それで。高美ちゃん。なんでだれもいないの? ケンカしてる連中がいないんじゃ、説得とかのしようもないんだけど」
一人、のしのしと公園の中に入っていって、かなめがたずねた。
「ええ、それは――」
次の瞬間《しゅんかん》。
宗介が電光石火《でんこうせっか》の早業《はやわざ》で、自動拳銃《じどうけんじゅう》を腰《こし》から引き抜《ぬ》いた。彼は広場の真ん中に棒立《ぼうだ》ちしたかなめの頭上に銃口をぴたりと向け、
「動くな」
叫《さけ》ぶと同時に、一発、発砲《はっぽう》した。
突然《とつぜん》のことに立ちすくんだかなめの背後《はいご》、一メートルほど離《はな》れた場所に、空のポリバケツが落ちてきて、『こおんっ』と乾《かわ》いた音を立てた。
かなめに直撃《ちょくげき》するはずだったポリバケツの軌道《きどう》が、宗介の射撃《しゃげき》でそれたのだ。
「え……?」
驚《おどろ》き、頭上を見上げる。
公園を挟《はさ》むマンションの屋上に、複数《ふくすう》の人影《ひとかげ》が見えた。北側と南側、両方である。
無表情《むひょうじょう》な子供たちが、じっとかなめを見下ろしていた。
「あ、あの……?」
「…………」
子供たちは無言で、水風船やペットボトルを頭上に振《ふ》りかざし――ばらばらと、かなめ目がけて投下《とうか》してきた。
「逃《に》げろ、千鳥」
「わ、わわわ……!」
言われるまでもない。雨あられと降ってくる爆弾《ばくだん》を、右へ左へと避《よ》けながら、かなめは公園の外へと駆《か》け戻《もど》る。彼女の周囲に水風船が次々に着弾《ちゃくだん》して、水しぶきを散《ち》らした。
宗介たちのところまで、命からがら避難《ひなん》すると、屋上の子供たちは水風船の投下をぴたりとやめた。
「な、なんなのよ……!?」
「ええ……。今週はじめに開かれた総力戦《そうりょくせん》以来《いらい》、この公園では無差別攻撃《むさべつこうげき》が慣例《かんれい》になってるんです。だれであろうと、足を踏み入れれば水風船やバケツの洗礼を受けます。これまでも、何の罪《つみ》もない低学年の子やお年寄り、高校生のカップルが犠牲《ぎせい》になって……」
高美が冷静に解説《かいせつ》した。
「自由射撃地帯《フリー・ファイア・ゾーン》か……」
宗介はうなると、数歩、前に進み出た。
「どうするの?」
「まずは勧告《かんこく》だ」
彼は屋上に向かって声を張《は》り上げた。
「芝崎、および泉川小学校の兵士|諸君《しょくん》!」
「…………」
「こちらは陣代高校、生徒会|執行部《しっこうぶ》の者だ。この児童公園は、今日づけで我《わ》が校の管轄下《かんかつか》に置かれることとなった。以後《いご》は一切の戦闘行為《せんとうこうい》を禁《きん》じる。武装《ぶそう》を解除《かいじょ》し、速《すみ》やかにこちらに降りて来い」
屋上の暗がりの中で、たくさんの人影《ひとかげ》が身じろぎした。たくさんの目が、ぎらぎらとした殺気《さっき》の光を放っている。
『…………』
応答はなかった。
「むう……」
「そりゃ、そうよ。そんな高圧的《こうあつてき》な言い方したんじゃ……。いい? こういうときは世間《せけん》様《さま》の常識《じょうしき》にのっとって訴《うった》えればいいのよ」
かなめは宗介を押《お》しのけ前に出ると、大きく息を吸《す》い込んで叫んだ。
「ちょっと! あんたたち!? 事情《じじょう》は聞いたわよ! 無関係《むかんけい》の人まで巻き込んで……迷惑《めいわく》にもほどがあるでしょう!? 親御《おやご》さんが泣いてるわよ! いい加減《かげん》にして、こっちに降りてきなさい!」
「大して変わらん気もするが……」
宗介がぼやくのは無視《むし》して、かなめは繰《く》り返した。
「降りてきなさい! こら、聞いてるの!? 悪さも大概《たいがい》にしないと――」
その直後《ちょくご》、一個の水風船が、かなめの頭を直撃《ちょくげき》した。
「千鳥!?」
「っ……」
濡《ぬ》れねずみ状態《じょうたい》になった彼女に向かって、さらに追《お》い打ちの罵倒《ばとう》が投げかけられる。
「帰れ、ブス女」
「女子高生は援交《エンコー》でもしてろ。バカアマ」
「うぜーんだよ。消えろよ」
かなめはとろんとした目で、すこしの間|沈黙《ちんもく》を保《たも》っていた。だがすぐに、全身に怒りのオーラをほとばしらせ、他者には聞き取れないほどの小声でつぶやいた。
「こ……殺す……」
そう言って走り出そうとした彼女を、宗介が制止《せいし》した。
「なによ!?」
「落ち着け、千鳥」
「冗談《じょうだん》じゃないわ! こっちは善意《ぜんい》で仲裁《ちゅうさい》してあげようとしてるのに、なんなの、あの言い草《ぐさ》!? 絶対《ぜったい》に許せないわ……! 全員、あそこから引きずりおろして、泣いて『やめてください』というまで教育上|不適切《ふてきせつ》なお仕置《しお》きをしてやるんだから!」
「駄目《だめ》だ。君まで熱《あつ》くなってどうする」
断固《だんこ》たる口調で、宗介は言った。
「む……。で、でもね? あんな――」
「駄目だと言っている。仲裁者が冷静《れいせい》さを失えば、紛争《ふんそう》はさらに泥沼化《どろぬまか》だ。いいか? ここは俺《おれ》に任《まか》せろ」
「ど……どうするの?」
「交渉《こうしょう》だ。忍耐心《にんたいしん》をもって、それぞれの勢力《せいりょく》と辛抱《しんぼう》強く話し合えば、妥協点《だきょうてん》も見つかるだろう。それこそが平和|解決《かいけつ》への第一歩だ」
自信たっぷりに言うと、彼はかなめと高美を置き去りに、北側のマンションへ歩き出した。
宗介はまず手始めに、見知った顔のいる芝崎小学校の方に向かった。
非常階段《ひじょうかいだん》のフェンスを乗り越え、すいすいと屋上まで上がっていくと、一五人ばかりの小学生が、彼を待ち受けていた。
やはり完全武装《かんぜんぶそう》で、ビニールバットやら鍋《なべ》やらヤカンやらを手にしている。
「阿久津芳樹はいるか。話がある」
「なんだよ、サガラさん」
警戒心《けいかいしん》むき出しの子供たちをかき分けて、芳樹が前に出てきた。
「なにしに来たんだい? どうせ、高美が変なこと吹《ふ》き込んだんだろ」
「そんなところだ。仲裁を依頼《いらい》された」
すると周りの子供たちが、『タカミの奴《やつ》が?』だの『勝手なことを』だの『女にはわかんねーんだ!』だのと口々に不平を漏《も》らした。
芳樹も同様で、露骨《ろこつ》な不機嫌顔《ふきげんがお》を見せる。
「サガラさん。悪いけどさ、大きなお世話《せわ》だよ。オレたち、泉川小の奴らと話し合う気なんかないから。なにしろ、悪いのはあいつらなんだからね」
「言い分を聞こうか」
「この公園は、もともとオレらが使ってたんだ」
眼下《がんか》の広場《ひろば》と、対岸の屋上《おくじょう》に潜《ひそ》む敵《てき》を見やってから、芳樹は強調《きょうちょう》した。
「ウチの学校ではね、いま『ノリコン』が流行《はや》ってるんだよ」
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「ノリコン。なんだ、それは」
「ジオトロン・トイスって会社が出してる、新しいタイプのラジコンだよ。CCDカメラをのっけてて、リアルタイムで|ヘッド《H》・|マウント《M》・|ディスプレイ《D》に映像を送信するんだ。だから本物の車に乗ってる気分で、操縦《そうじゅう》ができる。すごい迫力《はくりょく》なんだよ。ミニ四駆《よんく》みたいにカスタムも自在《じざい》だし」
「それで、そのノリコンがどうした」
「ノリコンの車はオンロードが主流なんだよ。オフロードのでこぼこ道の映像《えいぞう》は、目が回ってイマイチなんだ。だから、この公園以外に走らせる場所がないのさ」
「なるほど」
「だってのに、泉川小の連中が後から来やがってさ。しかも――ケンジの車をバスケのボールで潰《つぶ》しやがったんだ。弁償《べんしょう》はもちろん、謝《あやま》りもしねーでさ。最低だろ?」
「それが揉《も》め事の原因か」
「ほかにもいろいろ。それに……あっちのボスの江原《えはら》ってバカは、高美に気があるから。それでわざわざちょっかい出して来るんだ」
それを聞いて、その場の子供たちがげらげらと笑った。
「では、向こうの意見を聞いてこよう」
宗介はきびすを返して、対岸《たいがん》――公園を挟《はさ》んだ南側のマンションの屋上へと向かった。
泉川小学校の方の陣地《じんち》も、芳樹たちの側とそう代わりのない様子《ようす》だった。スポーツ用品と台所用品で武装した児童一六人に向かって、宗介は告げた。
「江原はいるか。こちらの指導者《しどうしゃ》だと聞いているが」
すると人垣《ひとがき》をかきわけて、周りより頭一つ背の高い少年が姿《すがた》を見せた。目は切れ長でスポーツ刈《が》り、だぶだぶのプリントTシャツを着ている。どうやら彼が江原らしい。
「なんだよ、あんた」
「和平交渉《わへいこうしょう》の代理人《だいりにん》だ。諸君《しょくん》らの停戦《ていせん》を勧告しに来た」
「むずかしいこと言うなあ。つまり、なんなの」
「仲直りしろ」
すると江原は、くわっと目を見開いた。
「ジョーダン言ってんじゃねーぞ!? なんで芝崎小の奴《やつ》らなんかと、仲良くしなきゃなんねーんだよ。だいたい、あいつらが悪いんだぜ?」
「言い分を聞こうか」
「もともと、この公園はオレらの縄張《なわば》りだったんだよ。ずっと前、ここがただの空き地だったころから、代々、泉川小の高学年が使ってたんだ」
「ふむ」
「その空き地が『工事中』になったのが半年前。またマンションでも建つんだろう、って思ってさ、オレらはここを諦《あきら》めて、学校の狭いグラウンドでバスケやってたんだ。夕方の四時半になったら、先公《センコー》に追い出されて。そりゃあ不便《ふべん》な思いをしたもんさ」
「そうか」
「ところが、ここにはマンションが建たずに、見ての通りの公園になってた。最近それを知って戻《もど》ってきたら、芝崎小の連中がここを占領《せんりょう》してたんだ。くだんねーラジコンなんか走らせてよ。超《ちょう》ムカついたぜ」
「なるほど……」
「しかもあいつら、俺らがバスケやってるところに勝手にラジコン飛び込ませてさ。『壊《こわ》した。弁償《べんしょう》しろ』だのとほざくんだぜ? そんなの知るかよ。バカヤロー」
「つまり、昔は君らがここを占有《せんゆう》していたんだな? そして最近、帰還《きかん》した、と」
「そうだけど、ここはずっとオレらの公園さ。奴らが無断《むだん》でここを占領したんだ」
「…………。一日置きで、交互《こうご》に公園を利用することはできないのか?」
「ぜってーゴメンだね。阿久津がオレに土下座《どげざ》して、『週に一回、ここを使わせてください』って言ったら考えてやってもいいけどよー。……まあ、阿久津の奴《やつ》も、片思いしてる女がいる手前、そんなみっともねーマネはできないだろうけどな」
「女とは?」
「高美ってやつさ。阿久津はあいつの前でカッコつけてえんだよ」
それを聞いて、周りの少年たちがげらげらと笑った。
「了解《りょうかい》した。では」
宗介はうなずくと、その場から引き返した。
非常階段を下りて公園のそばを横切ると、ヒマを持て余していたかなめと高美が声をかけてきた。
「どうだった?」
「厄介《やっかい》だ。スウェーデンの外交官や、国連関係者の苦労が分かってきた……」
こめかみに脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべ、彼はふたたび芳樹ら芝崎小学校の陣地《じんち》に向かった。
かいつまんで向こう言い分を話すと、芳樹たちは憤激《ふんげき》をあらわにして、武器を振《ふ》り回したり床《ゆか》を踏《ふ》みならしたりした。
「ふざけんな! あいつらこそ、這《は》いつくばって謝《あやま》れよ。この公園はオレらのモンだ!」
「そこをこらえて、建設的《けんせつてき》な妥協案《だきょうあん》を出せないものだろうか。第一週は三日・四日で、第二週は四日・三日と。そういう割《わ》り振りなどはどうだ?」
「イヤだね。奴らを叩《たた》き出すまで、絶対《ぜったい》オレらは武器を捨《す》てない」
「そうか……」
宗介は重たげにうなずいて、またまた江原たちのいる屋上へ向かった。
事情《じじょう》を話すと、泉川小の児童たちはますます怒《いか》り狂《くる》った。
「バカにしてんのか!?」
「なに話してきたんだ。この無能《むのう》!」
「だらしねえ。ガキの使いかよ!?」
いまや怒りの矛先《ほこさき》は、半《なか》ば宗介に向いていた。だが彼は辛抱強く、子供たちをなだめすかすようにして告げる。
「どうすれば満足なんだ。現実《げんじつ》的な解決|策《さく》を一緒《いっしょ》に探ろう。敵《てき》の殲滅《せんめつ》など不可能《ふかのう》だし、無意味《むいみ》だ。柔軟《じゅうなん》な発想で、なんとか納得《なっとく》できる譲歩《じょうほ》を考えてくれないだろうか……」
だがそれでも、江原たちの態度《たいど》は軟化《なんか》することはなかった。
「うるせー! オレたちがゆずれば、連中はぜってーつけあがるに決まってるんだよ。だいたい、まずあいつらが謝るのが筋だろうがっ!?」
「む……」
で、宗介が性懲《しょうこ》りもなく芳樹たちのところに戻《もど》ると、今度はこちらの連中からも罵声《ばせい》を浴《あ》びせられる。
「つかえねー奴《やつ》……!」
「あんた、連中の味方《みかた》してんのか!?」
「とっとと帰れ!」
しまいには、紙くずやペットボトル、果ては生卵《なまたまご》を投げつけてくる者まで出てきた。
それでも宗介は、驚異的《きょういてき》な忍耐力《にんたいりょく》で妥協案《だきょうあん》を提示《ていじ》し、説得を繰り返し、何度も何度も両者の間を往復《おうふく》した。
交渉《こうしょう》の模様《もよう》を、かなめと高美は他人事《ひとごと》のように眺《なが》めていた。
何度も何度も、行ったり来たりする宗介。かなめたちは公園の入り口の生《い》け垣《がき》のそばにしゃがみ込み、あたかもテニスの試合のギャラリーよろしく、右へ左へと首《こうべ》を巡《めぐ》らす。
端《はた》からだと、宗介は次第《しだい》に疲労《ひろう》していくように見えた。片方の屋上から降りてくるたびに、あちこちが薄汚《うすよご》れていく始末《しまつ》だ。
なんとなく、蓄積《ちくせき》したストレスがぐつぐつと、体内で煮《に》えたぎっているようでもある。
「やっぱり無理《むり》みたいですね……」
高美が言った。
「どうかしら。でも……珍《めずら》しいわね。ソースケがこんな風にねはり強く、話し合いで解決《かいけつ》しようとするなんて」
「そうなんですか?」
「うん。いつもだったら、鉄砲《てっぽう》で相手を脅《おど》して、『大人《おとな》しく仲良くしろ』みたいなこと言うんだけど」
「ふーん……」
高美は夕焼けに染まり始めた空を見上げ、ぽつりと言った。
「それって、相良さんが千鳥さんの前で、いいとこ見せたいからだとか……そういう理由とか、ありません?」
「へっ?」
かなめは虚《きょ》をつかれて、つい、思わず目を丸くした。
「な……なにを。はは、まさか」
「そうですか。だったら、あたしも納得《なっとく》できたのになあ……」
ふうっと、高美はため息をつく。
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「どういうこと?」
「ええ。ヨシキくんと江原くんとあたし、もともと幼稚園《ようちえん》が一緒だったんです。そのころ、二人からそれぞれプロポーズされたことがあって」
「はあ……」
「いまもね、けっこう、あたしには優しくしてくれるんです。二人とも。だから、ヨシキくんと江原くんがお互《たが》い、絶対《ぜったい》に譲《ゆず》らないのは、あたしが見てるせいなんじゃないかなー……とか思ったりして。だって、なんかそういうの、嬉《うれ》しいじゃないですか」
高美は微笑《びしょう》を浮《う》かべてうつむいた。その横顔を見て、かなめは相手が自分よりもずっと年上のような錯覚《さっかく》に陥《おちい》った。
(ま……マセたガキ……)
かなめが閉口していると、高美はすぐに元の小学生の顔に戻《もど》った。
「あたし、変ですか?」
「いや別に。……でも案外《あんがい》、ヨシキくんたちが譲《ゆず》らない理由は当たりかもね。だったらますます、ソースケの努力は無駄《むだ》だってことだわ。高美ちゃんが直接《ちょくせつ》、『仲直りしろ』って言った方が早いんじゃない?」
「前からそうは言ってるんですけど。なかなか二人とも聞いてくれなくて……」
そのおり、宗介が南側のマンションからかなめたちの前に戻《もど》ってきた。
「どお、ソースケ? うまくいきそう?」
たぶん無理《むり》だろうな、と思いながらも尋《たず》ねてみると、案の定、彼はゆっくり頭を振《ふ》った。
「難《むずか》しい。彼らは……妥協《だきょう》というものを知らない」
すっかり憔悴《しょうすい》した様子である。マンガだったら、頭からぶすぶすと黒い煙《けむり》が噴《ふ》き出しているところだ。
「……こうなったら、俺としても別の手段《しゅだん》を選ばなければならない……」
「って、いうと?」
宗介はそれに答えず、一人で公園の敷地内《しきちない》に踏《ふ》み込んでいった。興奮《こうふん》した児童たちがあれこれと物騒《ぶっそう》なガラクタを投げつけてきたが、彼はそれにかまいもせず、のしのしとバスケのボードまで歩み寄り――なにやらごそごそと細工《さいく》をした。
「…………?」
反対側のボードにも、同じようになにかを細工する。それから彼は、公園の真ん中まで歩いていって、声を張《は》り上げた。
「聞け! 度重《たびかさ》なるアプローチにもかかわらず、諸君《しょくん》らはこちらの提案《ていあん》をまったく聞き入れようとしなかった。だが陣代高校としては、諸君らの紛争《ふんそう》の継続《けいぞく》は決して許容《きょよう》できないものである!」
そう叫《さけ》んだ彼のそばに、でかいカボチャが落ちてきて『ぱかんっ!』と割れた。
「なにエラそうなこと言ってんだ、バカ!」
「引っ込め、引っ込めー!」
「PTAに言いつけるぞー!」
罵声《ばせい》も相変わらずだ。ほとんど、学級|崩壊《ほうかい》のノリである。
それでも宗介はめげずに声を掛り上げた。
「――従《したが》って、俺は最大の紛争要因《ふんそうよういん》を除去《じょきょ》することにした。これによって、諸君らは無益《むえき》な争いを続ける意味がなくなるだろう!」
「…………?」
「では、覚悟《かくご》しろ!」
そう言うと、彼は鞄《かばん》から小型の散弾銃《さんだんじゅう》を引っ張り出した。
だんっ!
荒《あ》れ果てた公園に、銃声がこだまする。
一同は固唾《かたず》をのみ、静まりかえっていたが――宗介の銃弾が、足元のコンクリートの地面を削《けず》っていただけなことに気づいて、きょとんとした。
かなめたちが見守る前で、宗介は散弾銃の残弾を、でたらめに周囲《しゅうい》の地面に撃ち込んだ。
「これだけではないぞ」
彼はリモコンスイッチを取り出して、無造作《むぞうさ》にそれを作動《さどう》させた。
ばんっ!
公園の両側のバスケのポールが、根本から同時に吹《ふ》き飛んだ。鉄骨《てっこつ》が折れ、二つのバックボードがめきめきとその場にくずおれる。
さらに彼は、早足でかなめたちのそばまで来ると、二人に『伏《ふ》せろ』と言ってから、リモコンスイッチの別のボタンを押《お》した。
地面のあちこちに放ってあったプラスチック爆薬《ばくやく》が次々に炸裂《さくれつ》し、散弾銃など問題にならないほどの大穴《おおあな》が、そこかしこに出来上がった。
煙《けむり》が次第《しだい》に晴れていく。
両側のマンションの屋上で、ぽかんとしている芳樹や江原たちの顔が見えた。
宗介はこくりとうなずくと、宣言《せんげん》した。
「では、ここで好きなだけバスケでもラジコンでもやるがいい! 以上だ!」
破壊《はかい》された公園に背を向けて、宗介はつかつかと歩き出した。あまりのことに、すっかり言葉を失ったかなめの前まで来ると、彼はぴしりと言い放った。
「ようやく自分に戻《もど》った気がするな。ともかく、これで解決《かいけつ》だ。帰ろう」
その直後に、かなめはきっちりと宗介を蹴《け》たぐり回した。
――翌日《よくじつ》、高美からかなめに電話がかかってきた。彼女がいうには、遊び場を巡《めぐ》って戦う意義《いぎ》を失った芳樹たちは、実際《じっさい》、江原たちとの争いをやめたとのことだった。
その話を聞いて、宗介は『それ見たことか』とふんぞり返ったが――かなめとしては、さすがにそれを誉《ほ》める気にはなれなかった。
ちなみに佐々木博巳は、なんだかんだで会報の原稿《げんこう》を仕上げてきた。実験的なその内容は賛否両論《さんぴりょうろん》だったが、それでも彼は満足そうだった。
[#地付き]<放課後のピースキーパー おわり>
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迷子《まいご》のオールド・ドッグ
[#改ページ]
相良《さがら》宗介《そうすけ》がその尾行《びこう》に気付いたのは、学校帰りの夕方、駅からマンションへの道の途中《とちゅう》でのことだった。
「どしたの、ソースケ?」
と、聞いたのは千鳥《ちどり》かなめである。
彼女と宗介は、週に一〜二度くらいは、なんだかんだで一緒《いっしょ》に下校したりするのだった。生徒会の雑用《ざつよう》で帰りが遅《おそ》くなる金曜日などは、たいていそうなる。
きょうもその金曜日だった。
二人は道すがら、パンとコメ、そのどちらが真にカレーに相応《ふさわ》しいかという問題について、熱心な議論《ぎろん》を交わしていたところだった。駅を出たところで、かなめが『寄ってく? きょう、カレーでも作ろうかと思ってるんだけど』などと、珍《めずら》しく誘《さそ》ってくれたのだ。宗介は、二つ返事で『では、馳走《ちそう》になる』とこたえ、『できればパンがいい』とリクエストした。そのため言い合いがはじまったのだが――
「なによ。急に黙《だま》りこんで」
「…………」
「やっぱりコメの方がいいって納得《なっとく》したわけ?」
「いや……」
宗介は曖昧《あいまい》に答え、わずかに目を細めた。
彼らが歩いていたのは、車の通行量《つうこうりょう》が少ない市道だった。右手には、古い高層《こうそう》マンションがそびえたっている。駅前の喧騒《けんそう》から少し離《はな》れた、住宅街《じゅうたくがい》の入り口あたりだ。
人気《ひとけ》も少ない。
それだけに、宗介が後を尾《つ》けてくる者の気配《けはい》を感じるのは難《むずか》しくなかった。
「こっちだ」
彼はかなめの腕《うで》を引き、すぐそばの小さな薬局に入った。
「な、なによ」
「自然《しぜん》に振《ふ》る舞《ま》え。ただの買い物をしているようにな……」
「はあ?」
棚《たな》の医薬品を物色《ぶっしょく》するふりをする。ろくに見もせずに商品をつかみ取り、宗介はレジに向かった。
「ちょ、ちょっと」
かなめが落ち着かない声で言った。
「なんだ」
「そんなモン買って、どーするのよ!?」
彼がレジに出した医薬品は、妊娠検査《にんしんけんさ》セットだった。
レジのオバさんが、値踏《ねぶ》みするような視線《しせん》を二人に向けている。見るからに、『まったく、最近の若い子は……』とでも言いたげな顔である。
「気にするな。俺《おれ》に任《まか》せておけ」
「気にするわよ。あ、あのねぇ……!」
適当《てきとう》にあしらいながら、宗介は店の外に注意《ちゅうい》を払《はら》う。かなめは気付いていなかったが、コート姿《すがた》の人影《ひとかげ》が、薬局の入り口のガラス戸の向こうで、そっとこちらを窺《うかが》っていた。
駅から彼らを尾《つ》けてきた男だ。
(通り過ぎない。襲《おそ》ってくる気か……?)
その相手は、ベレー帽《ぼう》を目深《まぶか》にかぶった老人だった。かなりの高齢《こうれい》のようだったが、背筋《せすじ》はしゃきんと伸《の》びている。ふさふさの白い髭《ひげ》に覆《おお》われた唇《くちびる》を一文字に引き結び、こちらをじっと凝視《ぎょうし》している。
一瞬《いっしゅん》、宗介と老人の目が合った。
老人は眉《まゆ》をひそめてから、身を翻《ひるがえ》し、彼の視界《しかい》から消える。
(殺気《さっき》はないようだったが……。では、なにが狙《ねら》いだ?)
そのとき、レジのオバさんが宗介に小銭《こぜに》を手渡《てわた》した。
「はいよ、お釣《つ》り。四五〇円」
それから彼女は、かなめに向かって励《はげ》ますように、
「あんた。ちゃんと面倒《めんどう》みてもらいなさいよ。男ってのは、いざってとき、すぐに知らんぷりするんだからね」
「ち、ちがいます!」
「恥ずかしがることはないわよ。自分の身体《からだ》のことなんだから。気をしっかりもってね」
「だから、それは誤解《ごかい》で――ああ、もう」
がっくりと肩《かた》を落とす彼女を、宗介は横からつついた。
「行くぞ」
かなめが不平をこぼしながら、宗介に続いて薬局を出る。さっそく、かなめが猛烈《もうれつ》な抗議《こうぎ》をはじめた。
「……ったく、どーいうつもり!? ここの薬局、遅《おそ》くまでやってて便利《べんり》だったのに。恥ずかしくて来れなくなっちゃったじゃない!」
「なにが恥ずかしいのだ?」
「だーかーらー! 二人でそんなモン買ったら、まるで――」
「まるで?」
かなめが口ごもった。
「まるで……あ、あたしとあんたが……」
「俺と君が?」
「その……。えーと……あ、あれみたいじゃない……」
最初の剣幕《けんまく》が、なぜか尻すぼみになっていく。しどろもどろの彼女の様子《ようす》に、宗介は怪訝顔《けげんがお》をした。
「アレではわからん。もっと明確《めいかく》かつ具体的《ぐたいてき》に説明してくれないか。俺と君が、どうしたというのだ」
「い……言えるわけないでしょ?」
「それでは困《こま》る。詳《くわ》しい説明を」
「…………」
「どうした。顔が赤いぞ」
次の瞬間《しゅんかん》、かなめの目つきが『きっ』と険《けわ》しくなった。彼女は手にした鞄《かばん》で、宗介の横面《よこつら》を力いっぱい張り倒《たお》し、
「最っ低……!」
いまいましげにつぶやくと、自宅のマンションの方角へと走り去ってしまった。
ややあって、宗介は頭をさすりつつ身を起こした。
「むう……」
自分はただ、尾行《びこう》を牽制《けんせい》するために買い物のふりをしただけだというのに。いったい、それのどこに問題が? 内省《ないせい》してみるが、とんと心当たりがない。まったくもって、千鳥かなめという少女は不可解《ふかかい》である。
彼女の手製《てせい》カレーも、食べ逃《のが》したようだ。
これから彼女のマンションまで追っていっても無駄《むだ》だろうことは、さすがの彼でも想像《そうぞう》ができた。『犬のエサでも食べてなさいよ』だのと言われて、追い返されるのが関《せき》の山だろう。
無念《むねん》だった。質素《しっそ》な食生活しか知らない宗介にとって、かなめの料理は贅《ぜい》を尽《つ》くした大ご馳走《ちそう》なのだ。
(それより、さっきの老人は……?)
そう思ったとたん――
びしっ!
いきなり背後《はいご》から、彼の脳天《のうてん》にステッキを振《ふ》り下ろした者がいた。
「…………!?」
よろめき、泡《あわ》を食って振《ふ》りかえる。
そこには、先刻《せんこく》の老人が突《つ》っ立っていた。薬局の脇《わき》の路地《ろじ》にでも潜《ひそ》んでいたのだろうか。
(馬鹿《ばか》な)
これには、宗介も驚愕《きょうがく》した。カレーを食べ逃《のが》したショックに打ちひしがれていたとはいえ、この自分に忍び寄り、見事《みごと》に不意打《ふいう》ちを食らわせるとは。
「なにを――」
「やかましいっ!」
老人はぴしゃりと言った。
「ようわからんが、一個の男児が婦女子《ふじょし》を泣かせるとは、何事《なにごと》か!? 性根《しょうね》の腐《くさ》りきった貴様《きさま》に、わしが罰《ばつ》を加えたまでよ!」
朗々《ろうろう》とした声。必要以上に威勢《いせい》のいい老人であった。
「別に彼女は、泣いていたわけでは――」
「かー、黙《だま》らんか! 日本男児が、言い訳《わけ》などするな!」
老人は尊大《そんだい》に胸を張《は》り、堂々《どうどう》と宗介をにらみつけている。
こうしたタイプの人間を、宗介はよく知っていた。姿勢《しせい》がよく、ぴんと通った背筋。その目つきは、自分の視界《しかい》に入るものすべてを把握《はあく》しているような自信に満ちている。
これは軍人――
しかも、将校《しょうこう》の顔つきだ。
「それで……あなたは?」
いきなり慎重《しんちょう》になってたずねると、老人は鼻をふんと鳴《な》らし、ふんぞり返った。
「わしか? わしは小村《こむら》修二郎《しゅうじろう》というもんだ」
「はあ……」
「元・帝国海軍《ていこくかいぐん》中尉《ちゅうい》。ソロモンで全滅《ぜんめつ》した第三〇二|哨戒《しょうかい》中隊の、数少ない生き残りよ」
旧軍の中尉。いきなりこんなことを言い出す日本人は、宗介の目から見ても珍《めずら》しかった。しかも、中尉ときたものである。この人物は、五〇年以上前の太平洋戦争に参加《さんか》していたのだろうか?
「そうでしたか。では、失礼します」
これ以上関わると厄介《やっかい》だ……本能的《ほんのうてき》にそう感じて、宗介は回れ右をした。
「これ、またんか」
すかさず老人――小村修二郎が呼びとめる。
「なんでしょう」
「人に名乗らせておいて逃《に》げるでない! だいいち、貴様《きさま》こそ何者だ!? 姓名《せいめい》と階級、所属《しょぞく》を言ってみい」
「相良宗介|軍曹《ぐんそう》。所属はお話しできません」
下士官《かしかん》根性《こんじょう》とでもいおうか。反射的《はんしゃてき》に彼が答えると、小村老人は目を細め、自分のあごひげを撫《な》でまわした。
「軍曹じゃと?」
「軍曹です」
「学生ではないのか」
「学生ですが、軍曹です」
ほとんど説明になっていなかったが、老人はなにやら納得《なっとく》したようだった。宗介の持つ、独特《どくとく》の緊張感《きんちょうかん》や硝煙《しょうえん》の匂《にお》いを、敏感《びんかん》に感じ取ったのかもしれない。
「ふむ……。よくわからんが、そこいらの軟弱者《なんじゃくもの》よりは骨がありそうだの。相良軍曹とかいったな。付いて来い!」
「は?」
老人はさっときびすを返し、元来た駅の方角へと歩き出してしまった。一〇歩進んで振りかえり、棒立《ぼうだ》ちしたままの宗介に向かって、
「なにをグズグズしとる! 早くせんか!」
と、怒鳴《どな》りつける。
仕方《しかた》なく、宗介は老人の後を追った。
中尉というのは、軍曹よりもずっとエラいのである。たとえ所属《しょぞく》する軍隊が違《ちが》っても、ひとかどの敬意《けいい》を払《はら》わねばならない。
(それにしても……)
この老人。先刻《せんこく》、自分を尾《つ》けていたのは確かなのだ。だが、宗介にはまるで見覚えがない。向こうもこちらとは初対面《しょたいめん》の様子《ようす》だ。
ではいったい、どうして……?
イライラを募《つの》らせたまま、かなめは自分のマンションに帰宅《きたく》した。鞄《かばん》を放《ほう》り出すと、リビングのソファーにぼふっと横たわる。
(ったく、あのバカときたら……)
どうして、ああも野暮《やぼ》で鈍感《どんかん》で無粋《ぶすい》なのだろうか?
ああいうセクハラ行為《こうい》をわざとやっているとも思えないが。どうにかならないものなのだろうか? さすがにあの手の問題ばかりは、みっちり解説《かいせつ》するのは恥ずかしいし……。
ふっとため息をついてから、着替《きが》えようと身を起こしたときに、部屋の電話が鳴った。
「……ん?」
こんな時間に、なにかの勧誘《かんゆう》かしら……と思いつつ、彼女は受話器《じゅわき》をとった。
「はい、千鳥です」
ほがらかに言うと、それとは対照的《たいしょうてき》にぶっきらぼうな、女の声がした。
『かなめさん? お久しぶり』
一瞬《いっしゅん》、かなめの顔が曇った。
「あ……どうも。ごぶさたしてます」
相手は金沢《かなざわ》に住んでいる叔母《おば》だった。
三年前に病死したかなめの母親の、姉にあたる。葬式《そうしき》のときにも顔を見せず、後に電話で『大変でしたね』と言ってきたきりだ。実の妹が死んだというのに。こうして声を聞くのは、そのとき以来《いらい》だろうか。
『いまいるのは、あなただけ?』
「そうですけど」
『なら、用事《ようじ》はありません。それでは、ごめんあそばせ』
ぶつん。つー、つー、つー……。
相手は一方的に電話を切ってしまった。
「なんなのよ。ったく……」
叔母の態度《たいど》は無礼《ぶれい》きわまりないものだったが、かなめはとりたてて腹を立てなかった。
金沢の親戚筋《しんせきすじ》は、いつもああなのだ。かなめの両親が、むかし、駆け落ち同然《どうぜん》で結婚《けっこん》したせいだと聞いていた。そのため、かなめの家族と向こうの親戚とは、交流らしいものがほとんどない。
一度だけ、まだ小さいころ、母親に連れられて金沢の家に行ったことがあった。大きくて、静かな屋敷《やしき》だったのを覚えている。自分と母が、歓迎《かんげい》されていないことは幼《おさな》いかなめにもわかった。親戚たちの迷惑《めいわく》そうな視線《しせん》。冷たく、そっけない応対《おうたい》。母の話では、家のしきたりで祖父母《そふぼ》は会ってくれないそうだった。
唯一《ゆいいつ》、印象《いんしょう》に残っているのが、小柄《こがら》な老人の姿《すがた》だ。かなめが一人で、庭の池の大きな鯉《こい》に見とれていると、その老人がかなめをしかったのだった。
(危ないぞ。落ちたらおぼれる)
老人はむっつり顔で、腰《こし》をかがめてかなめの瞳《ひとみ》をのぞき込んだ。かなめはなにしろ小さかったので、その老人に脅《おび》えるあまり、あたふたと謝《あやま》ってその場を逃《に》げ去ってしまった。屋敷の方まで走ってから、一度ふりむくと、老人はまだ池のほとりにぽつんと立っていた。どこか、寂《さび》しそうに。
いまにして思うと、あの老人は――
そこでふと彼女は、電話の留守番《るすばん》ランプが点滅《てんめつ》していたことに初めて気付いた。
「…………?」
再生《さいせい》ボタンを押す。
<<九日。一五時五四分。一件です>>
電子音が留守|録《ろく》の日時を報告《ほうこく》してから、デジタル録音が再生された。
『……あー。ん、えへん』
だれかの咳払《せきばら》い。それきり、相手は無言《むごん》だった。駅のホームのサイレンと、電車の音が遠くから聞こえてくる。
それから一五秒ほどしたところで、
『む……!? こら、貴様っ!』
同じ人物が鋭《するど》く叱咤《しった》する。その直後《ちょくご》に、録音がぷつりと途切《とぎ》れてしまった。
<<再生を終わりました>>
ビープ音のあと、電話は沈黙《ちんもく》した。
数分歩いて、駅前の売店のそばまで来ると、小村老人が切り出した。
「ここじゃ。そもそもの問題は、ここから始まったのよ」
日も沈《しず》みかけ、薄暗《うすぐら》くなってきた町内は、学校帰りの学生や、買い物中の主婦でごった返していた。
「小村さん。話がわからないのですが――」
「中尉殿《ちゅういどの》と呼べ」
「……中尉殿」
「よろしい、軍曹」
「…………。それで、中尉殿。その問題というのは?」
宗介がたずねると、小村は険《けわ》しい目つきで空を見上げた。
「実は、ここで荷物を盗《ぬす》まれてな」
「荷物ですか」
「うむ。この駅で降りて、そこの自動電話[#「自動電話」に傍点]を使っておったら――」
そういって、そばの公衆電話《こうしゅうでんわ》を指さす。
「――足下に置いていた鞄《かばん》を、賊《ぞく》がかっさらっていきおった。お前さんとそう変わらない年の若造《わかぞう》だったな。妙《みょう》な形の学生服を着とったよ」
「学生服……」
この辺りの中学生か高校生だろうか?
「その犯人《はんにん》を、自分に探せと?」
すると相手は、当然《とうぜん》のようにうなずいた。
「さよう。お前さんは地元の人間じゃ。土地勘《とちかん》があるだろう」
「土地勘、と言われましても……。ほかに手がかりは?」
「ない。それだけよ」
小村はふんぞり返った。
「鞄《かばん》はあの、有名なブランドの奴《やつ》じゃ。なんといったか……さよう、確《たし》か、ルイビトとかいう」
「ルイビト。それで、中身は」
「貴重《きちょう》な品よ。そこいらの悪党に渡《わた》しておけば、深刻《しんこく》な事態《じたい》になる」
貴重。深刻。元軍人の老人が発したその言葉は、宗介を緊張《きんちょう》させた。
「銃《じゅう》か爆弾《ばくだん》ですか」
「たわけ。そんな下らん物ではない。もっと得がたい品だ」
日本では入手《にゅうしゅ》の難《むずか》しい銃器《じゅうき》や爆薬《ばくやく》などの通常《つうじょう》兵器よりも、さらに貴重で、得がたい物品とは……?
「では……?」
「うむ。たぶんじゃが――」
その前置《まえおき》に、宗介の顔色がさっと曇《くも》った。
「タブン……!」
「たぶん、じゃ。あの盗人《ぬすっと》には、あれの価値《かち》などわからんだろう。それだけに心配じゃ。ゴミ扱《あつか》いして、取り返しのつかない真似《まね》をしてくれるかもしれん」
「馬鹿《ばか》な。タブンとは……」
タブン。サリンやVXガスと並《なら》ぶ強力な神経《しんけい》ガスのことだ。国際条約《こくさいじょうやく》で使用が禁《きん》じられている、大量殺戮《たいりょうさつりく》兵器である。呼吸《こきゅう》や皮膚浸透《ひふしんとう》によって体内に吸収《きゅうしゅう》されると、神経組織の機能《きのう》を阻害《そがい》し、対象《たいしょう》をすぐさま死に至《いた》らしめる。
「……どうした、若いの?」
宗介が戦慄《せんりつ》に身をこわばらせるのを見て、老人は眉《まゆ》をひそめた。
「なぜそんなものを持ち歩いていたのですか。軽率《けいそつ》にもほどがある」
「そう言われてものう」
「警察の協力をあおぐべきです。独力《どくりょく》で回収《かいしゅう》しようなどとは、とんでもない話だ」
すると相手は顔をしかめた。
「官憲《かんけい》なんぞ、あてにならん。新聞を見てみい。汚職《おしょく》と職権乱用《しょっけんらんよう》で大賑《おおにぎ》わいではないか」
「それは一部の話です。地元警察に住民を避難《ひなん》させて、自衛隊《じえいたい》の専門《せんもん》部隊を呼びましょう。さもなければ、たくさんの死者が出る」
「なにを言っとるんじゃ、お前さんは?」
その態度《たいど》に、宗介は強い苛立《いらだ》ちを感じた。
「悠長《ゆうちょう》に構《かま》えている場合ではありません。すこしは責任《せきにん》を感じてください」
「? わけのわからんことを……」
「わかってないのは貴方《あなた》でしょう。現状《げんじょう》を正しく把握《はあく》してもらいたい」
「なんじゃと。おぬし、わしをバカにしとるな? 若造《わかぞう》の分際《ぶんざい》で――」
「若いかどうかは問題ではない! 自分は適切な処置《しょち》を提案《ていあん》しているだけです」
「やかましい! 下士官《かしかん》ごときが知った風な口をきくな!」
「貴方こそ中尉でしょう! 将校《しょうこう》なら将校らしく、適切《てきせつ》な指示《しじ》を下したらどうです!」
「かー! 貴様、言わせておけば!」
これほど両者の意図《いと》が噛《か》み合っていない口論《こうろん》も珍《めずら》しい。ついには小村が激昂《げっこう》し、宗介に掴《つか》みかかった。彼はじたばたとそれを振《ふ》りほどこうとしたが、あまり手荒《てあら》に扱《あつか》うわけにもいかず、なかなかうまく引き離《はな》せない。
「放してくれ。多くの人命《じんめい》がかかっているんだ」
「わしの知ったことか!」
「そんな調子だから、あなたたちは米軍に負けたんです」
「なにを!? 言ったなっ!」
不毛《ふもう》な言い争いをしながら、はげしくもみ合っていると、横から野太《のぶと》い声がした。
「ちょっと、君たち」
見ると制服|警官《けいかん》が二人ほど、その場に突《つ》っ立っていた。その巡査《じゅんさ》たちは険悪《けんあく》な目つきで宗介たちを見下ろし、口々に言った。
「こんな場所で喧嘩《けんか》かね」
「周りに迷惑《めいわく》だよ」
やたらと横柄《おうへい》な口調だったが、宗介は老人を押《お》しのけて警官たちに告げた。
「ちょうど良かった、非常事態《ひじょうじたい》だ。きわめて危険《きけん》な物質《ぶっしつ》を、この老人が搬送中《はんそうちゅう》に紛失《ふんしつ》した。殺傷力《さっしょうりょく》の高い軍事用《ぐんじよう》の神経《しんけい》ガスだ」
「はあ。なにを言っとるんだね」
「ルイビト[#「ルイビト」に傍点]のバッグに入っているのを、学生服の少年が盗《ぬす》んだそうだ。それしか分からないが、該当《がいとう》する人物を緊急手配《きんきゅうてはい》して捕《つか》まえてくれ。この際《さい》だ、生死は問わずに、あらゆる手段《しゅだん》で――」
「わかった、わかった。いいから派出所《はっしゅつじょ》まで来い。話はそっちで聞くから」
二人の巡査《じゅんさ》はうんざりしたように両手を振《ふ》って、宗介と小村の背中を押した。
「のんびり話している時間などない。今すぐ住民に避難勧告《ひなんかんこく》を」
「はいはい。それはまた今度ね」
「今度では遅《おそ》い。その間に神経《しんけい》ガスが流出したら、取り返しのつかないことになる」
「うるさい。ほら、さっさと歩け!」
巡査の一人が宗介を小突《こづ》く。
「なにをする」
「黙《だま》んなさい。君ね、あんまり困らせると、説教《せっきょう》だけじゃすまんよ」
「説教よりも、神経ガスを――」
「いい加減《かげん》にしろ!」
警官たちは二人がかりで、宗介を羽交《はが》い締《じ》めにしようとした。
「む……」
宗介が反射的《はんしゃてき》に体をかわすと、一人が肩透《かたす》かしを食って大きくよろめき、たたらを踏《ふ》む。もう一人が血相《けっそう》を変えて、鋭《するど》く叫《さけ》んだ。
「抵抗《ていこう》する気か!?」
「そうではない。ガスが――」
「貴様《きさま》っ!」
あくまで抗弁《こうべん》する宗介に、警官たちが飛びかかってきた。抵抗すべきか、おとなしく捕まるべきか、彼が迷《まよ》ったそのときに――
ばしゅぅっ!
彼らの横あいから、真っ白な煙《けむり》の噴流《ふんりゅう》が襲《おそ》いかかった。
「なんだ……!?」
「ごほっ……ごほっ!」
もうもうと煙がたちこめ、たちまち視界《しかい》がゼロになる。宗介はすぐさま、それが煙ではなく、粉末《ふんまつ》の消火剤《しょうかざい》であることに気付いた。
「おい、軍曹!」
小村が消火剤の霧《きり》の中から現われ、宗介をステッキでつついた。小脇《こわき》に使用済みの消火器を抱《かか》えている。
「ずらかるぞ。早くせい!」
言うなり、老人は消火器を放り捨てて、すたこらとその場を走り去る。宗介は一瞬の躊躇《ちゅうちょ》の後、仕方《しかた》なくその後を追った。
「うわっはっは! してやったり!」
近所の駐輪場《ちゅうりんじょう》の裏《うら》まで逃《に》げおおせ、一息つくと、小村は豪快《ごうかい》に笑った。
「なぜあんな真似《まね》を。これで警察を頼《たよ》れなくなってしまった」
宗介が言うと、老人は鼻をふんと鳴らした。
「やかましいっ。私がああせんかったら、お前さんはいまごろ留置場《りゅうちじょう》行きよ」
「それで、消火器ですか」
「うむ。憲兵《けんぺい》の類《たぐい》なんぞ、あれくらいしてやるのがちょうど良い」
「まあ、それは同感ですが……」
「ほう。話のわかるところもあるようだの」
この高齢《こうれい》で、あれだけ走っておきながら、こたえた様子《ようす》もほとんどない。まったく元気な年寄りである。
(それにしても……)
宗介は思った。この老人とはついさっき知り合ったばかりのはずなのだが、どうしても前から知っているような気がしてならない。
いや。むしろそれよりも、彼の持つ個性《こせい》に覚えがある……といった方が近いかもしれない。
握《にぎ》りこぶしで、ずけずけと歩くその仕草《しぐさ》。
なにかと『だまれ』『やかましい』を連発《れんぱつ》するところ。
変に頑固《がんこ》で強情《ごうじょう》な性格。
いざというときの爆発的《ばくはつてき》な行動力《こうどうりょく》。
そういう人間を、自分はよく知っているような気がするのだが――
(はて……?)
名前と顔が、喉《のど》のすぐ下まで出かかってきているのに、どうしてもそれが思い浮かばないのである。けっきょく彼は、思い出すのを諦《あきら》めた。もやもやした気分を頭から追い払《はら》って、老人に告げる。
「…………。ともかく、こうなったら独力で鞄《かばん》を探すしかありません。なんとしてでも、神経ガスの暴発を防《ふせ》がなければ」
「まだ妙《みょう》なことを言っとるのか。まあ、熱心《ねっしん》なのは助かるがの……」
「急ぎましょう。手遅《ておく》れになる前に」
宗介は早足で歩き出した。
とはいうものの――あまりに手がかりは少なかった。小村老人は、鞄を盗んだ犯人の後《うし》ろ姿しか見ていないのである。
しかも、先刻《せんこく》の警官たちが宗介たちを探しまわっているせいで、駅の周辺で聞き込みをすることさえ、ままならない。彼らは何度も、かんかんになった警官と鉢合《はちあ》わせしそうになり、そのたびにこそこそと物陰《ものかげ》や人ごみに隠れるはめになった。
「しつこい奴《やつ》らじゃ。それにしても……これはなかなか、やり辛《づら》いのう」
ニアミスの三度目、路駐《ろちゅう》してあったワゴン車の後ろに隠れてから、小村が言った。
「あなたが招《まね》いた事態《じたい》でしょう」
「なんじゃと? 人のせいにするのか」
「事実《じじつ》を言ったまでです」
「うるさい! 屁理屈《へりくつ》ばかりいいおって――」
車の陰でがたがたともみ合い、それぞれぜいぜいと息をする。
「と……とにかく、捜索《そうさく》を続けましょう」
「そ……そうじゃな……」
こんな調子《ちょうし》である。二人は懲《こ》りずに、聞き込みを再開した。
ようやく手がかりらしい手がかりが得られたのは、それから一時間後、すっかり日も暮《く》れた七時ごろのことだった。街頭《がいとう》で美容室のチラシを配っていた若者が、宗介の質問に『心当たりがあるかも』と言ったのだ。
「心当たりとは?」
「うん。何時ごろだったかな……。ここでチラシ配ってたら、バッグ抱《かか》えた奴が、こう、『どかっ!』ってぶつかってきてさぁ。文句《もんく》言おうとしたら、あのガキ、見向きもしないで走って行っちまいやがって」
「ルイビト[#「ルイビト」に傍点]のバッグじゃな?」
小村が問いつめた。
「爺《じい》さん、ちがうよ。それ、ルイ・ヴィトンのことだろ。ルイ、ヴィトン」
「そうか。……それで、その男は学生服姿のだったか?」
「どうだったかな。……たぶん、あれは調布《ちょうふ》西高校の制服だよ」
調布西高。この駅のすぐ近所にある、都立《とりつ》高校だ。
「……ほかには?」
「いや。それくらいかな。あんまり覚えてないから……」
「そうか。感謝《かんしゃ》する」
そう言って宗介と小村は、まったく同じタイミングできびすを返した。それを若者が、後ろから呼びとめる。
「ああっと、待った」
「なにか?」
「もし本当に西高《ニシコー》の奴《やつ》だったら、北口の向こうの『アラバマ』って喫茶店《きっさてん》を探すといいかもよ。あそこ、昔から西高のヤンキーのたまり場だから」
「よく知っているな」
するとチラシ配りの若者はにんまりとした。
「俺、東高《ヒガシ》のOBでさ。西の連中とは、よくやりあったもんさ」
「ふむ……」
「まあ、あそこは人畜無害《じんちくむがい》の陣高生《ジンコーせい》が行くところじゃないぜ。せいぜい気をつけな」
宗介たちは改《あらた》めて礼を言って、問題《もんだい》の喫茶店《きっさてん》がある北口方面へ向かった。
その喫茶店は、人気《ひとけ》の少ない商店街の一角にあった。一〇年近くも前、駅前に大きなテナントビルが建ってからというもの、そこらの店は客足が減《へ》り、寂《さび》れていく一方なのだと、宗介は以前にかなめから聞いていた。
「汚《きたな》い喫茶店じゃのう。なにかの病原菌《びょうげんきん》でも伝染《うつ》しそうじゃわい」
小村が眉《まゆ》をひそめた。
実際《じっさい》、その店の看板《かんばん》はもう何年も掃除《そうじ》されていないように見える。店内と外とを隔《へだ》てるガラスは、黄色いヤニが付着《ふちゃく》していて、中の様子がほとんど見えないありさまだった。
「とにかく、入りましょう」
「うむ」
扉《とびら》を開け、入り口をくぐる。
店内は想像通《そうぞうどお》り、タバコの煙《けむり》でもうもうとしていた。古臭《ふるくさ》いポーカーのTVゲーム台と、年季《ねんき》の入ったテーブルがいくつか並《なら》んでおり、客が七人、TVゲーム台の方にたむろしていた。全員、調布西高の制服姿だったが、真面目《まじめ》な生徒でないことは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。制服といっても改造《かいぞう》制服だったし、そろって目つきが妙《みょう》に悪い。
「見覚えのある男はいますか?」
「いや、わからんな……」
宗介がたずねると、小村は小さくかぶりを振《ふ》った。
「なんか用?」
男の一人が言った。とりたてて威圧的《いあつてき》ではないものの、ひどく横柄《おうへい》な声だ。
「盗人《ぬすっと》を探しておる」
宗介より早く、小村が行った。
「調べた限りでは、諸君《しょくん》らの学友である可能性《かのうせい》が高い。先刻《せんこく》、駅前でわしの鞄《かばん》をかすめおったのだが……」
宗介が言葉を継《つ》いだ。
「非常《ひじょう》に危険《きけん》な物質《ぶっしつ》が入っている。知っていることはすべて話せ」
「別に危険ではないがの。悪いようにはせん。協力してくれたまえ」
すると男たちは、ぼんやり顔を見合わせた。
「知ってる、おまえ?」
「いや、知らねえ」
「ジジイのヴィトンなんか、だれが盗むかよ。なあ?」
そう言って投げやりに笑う。
次の瞬間《しゅんかん》、宗介と小村の両目が、それぞれぎらりと光った。
「ビトン[#「ビトン」に傍点]じゃと……?」
「貴様《きさま》、それをどこで知った……?」
二人の実戦経験者《じっせんけいけんしゃ》が、不必要《ふひつよう》なまでに迫力《はくりょく》のある声で言った。
店内のヤンキーたちが、口を滑《すべ》らせた仲間の一人を、『この、バカ……!』と言わんばかりに睨《にら》みつけた。
「どうやら、意外《いがい》に大当たりのようじゃな」
「そのようです。あのチラシ配りには、後日《ごじつ》、礼を弾《はず》みましょう」
二人が一歩、同時に踏《ふ》み出した。
『出せ。いますぐ。おとなしく』
異口同音《いくどうおん》に言うと、七人の男がざっと立ち上がり、居直ってメンチを切った。
「へっ! 知らねえって言ってんだよ!」
「とっとと失せな! ッ殺すぞぉ!?」
「やっちゃうよ? やっちゃうよ?」
それでも宗介たちは不敵《ふてき》なまま、さらに一歩、踏《ふ》み出した。
『うっ……』
なにか異様《いよう》な迫力《はくりょく》に気圧《けお》されながらも、男たちはすぐさま気合いを入れなおし、二人をきっと睨みつけた。
「こ、この野郎《やろう》……!!」
だれかが叫《さけ》び、七人が一斉《いっせい》に躍《おど》りかかってくる。
宗介は銃《じゅう》を使おうとも考えなかった。先頭の一人が殴《なぐ》りかかってきたのを、最小限の動作でひらりとかわし、顎《あご》に掌底《しょうてい》を叩《たた》き込む。テーブルとゲーム台がひっくり返って、コップや灰皿《はいざら》やコーヒーカップが、床《ゆか》に落ちるなり音を立てて割《わ》れた。
「がっ……!」
倒《たお》したところで二人目が来る。これも見事《みごと》な体《たい》さばきで転倒《てんとう》させ、三人目の手首を猛烈《もうれつ》にねじ上げ、同時に四人目に肘打《ひじう》ちを叩き込む。相手は背中からガラス戸を突《つ》き破り、店の外へと吹《ふ》き飛んでいった。
「ふん……」
こと、こういうことにかけては百戦錬磨《ひゃくせんれんま》の宗介である。そこらのヤンキーでは、素手《すで》でも勝負にならない。
(中尉は……?)
五人目を昏倒《こんとう》させつつ、宗介が目を向けると、小村に男がつかみかかろうとしているところだった。
「ジジイ!」
「ふん」
老人は焦《あせ》らず騒《さわ》がず、すっと身を引くと、ステッキの取っ手を相手の足首に引っかける。次の瞬間《しゅんかん》、男は足をすくい上げられ、空中で半回転して、後頭部から床にぶつかっていた。
(ほう……?)
宗介は感心した。あのバランス感覚は、ただの運動神経だけではないだろう。柔術《じゅうじゅつ》かなにか――そういった武術の心得《こころえ》があるのかもしれない。
残った一人が、小村を前にして二の足を踏《ふ》んだ。
「どうした、若いの」
老人はにんまりとして言った。
「覇気《はき》が足らんの。それではせいぜい、子犬くらいしか殺せんぞ。わしが戦った米兵どもでさえ、もう少しはましだったが……」
老人は両手でステッキを床に突いて、仁王立《におうだ》ちしているだけだ。
それだけなのだが――若者はどうしても前に進めない。はじめて体験した未知《みち》の感覚に、うろたえるばかりだ。殺気《さっき》というものを知らないのだろう。
「な、なんだよ、この爺《じい》さん……!」
ほとんど涙目《なみだめ》になって、男は這《は》うようにして逃げ去った。
「なんじゃ、つまらん」
たちまち、何倍にも膨《ふく》れ上がって見えた老人の身体《からだ》が、本来の大きさにしゅんとしぼむ。
「嘆《なげ》かわしい連中よ。根性《こんじょう》なしめ」
「彼らにそれを求めるのは、酷《こく》というものです」
肩《かた》をすくめて宗介が言うと、小村老人は今度こそ楽しそうに笑った。
「だろうな。だが、おまえさんは違《ちが》うようじゃ。若造《わかぞう》のわりには、やるではないか」
「あなたも年寄りのわりには、いい仕事をします」
「言いおるわい」
老人はさらに快活《かいかつ》に笑った。
そのおり、粉々《こなごな》に割れたガラス戸の向こうから、横柄《おうへい》な声がした。
「また喧嘩《けんか》だって!? まったく。おい、店の者は……あっ、おまえらっ!?」
店に踏《ふ》み込んできた制服警官が、宗介たちを見て血相《けっそう》を変えた。
[#挿絵(img2/s05_203.jpg)入る]
二人の警官も、最初は問答無用《もんどうむよう》の態度《たいど》だったが、それ相応《そうおう》に身なりのしっかりした小村老人からあれこれと事情を聞くうちに、きょとんとして顔を見合わせた。
「おい、こりゃあ……」
「うん。あれだよ」
なんでも、ここのところ彼らの管轄下《かんかつか》では、高級|鞄《かばん》を狙《ねら》った引ったくりと置き引きが多発《たはつ》していたらしい。エルメス、ヴィトン、ハートマン……。質屋《しちや》に持っていけば、結構《けっこう》なカネになるブランド品だ。
そんな経緯もあって、警官たちとの消火器|騒《さわ》ぎの件は、自然とうやむやになった。
ついでに頼《たの》んで、その場でのびていた一人を詰問《きつもん》すると、盗《ぬす》んだバッグ類《るい》は、まとめて近くのビルの路地裏《ろじうら》に隠《かく》してあることが分かった。金目のモノ以外は、まだバッグの中に入れっぱなしだという。
特別《とくべつ》に目こぼしを願って、宗介たちは盗品《とうひん》を隠《かく》したビルの路地裏へと先に行かせてもらった。
ゴミ置き場のすぐ後ろに、ビニール・シートをかけた高級鞄の山が隠してあった。大小五〇近くはあるだろうか。これだけのものを売り払《はら》えば、結構《けっこう》な額《がく》になっただろう。
「だが、問題はタブン入りの鞄だ」
鞄の山をひっくり返しつつ、宗介が言う。
「まだ言っとるのか。おまえさんも妙《みょう》な奴《やつ》だのう」
小村老人は呆《あき》れ顔をした。
「ようやく分かってきたが――軍曹《ぐんそう》、お前さんは、わしの探し物がたちの悪い武器かなにかだと思っとるんじゃな?」
「あなたはそう言ったでしょう」
「言っとらん。あれは、そこいらの武器よりもはるかに大切なモノだよ」
「と、言いますと?」
ゼーガーのブリーフケースを放《ほう》り投げて、宗介は聞き返した。
「日記じゃよ。死んだ娘《むすめ》の、な」
すこしの間、宗介の手が止まった。
「娘さんですか」
「うん。三年ほど前に、病気でな。いきなり逝《い》ってしまいおった。私にはなにも知らせずに、突然《とつぜん》だよ。まったく……とことん、親不孝《おやふこう》な娘じゃった」
小村修二郎はすこし大儀《たいぎ》そうに、そばの非常階段《ひじょうかいだん》に腰《こし》を下ろした。路地から望める狭《せま》い夜空を見上げ、ぽつり、ぽつりと述懐《じゅっかい》する。
「……わしに似て、気の強い娘だったよ。早大《そうだい》出《で》の若造と駆《か》け落ちしおって。国連《こくれん》の職員《しょくいん》だかなんだか知らんが、くだらん男だ」
「カケオチ、とは……?」
タナー・クロールのバッグをぽいっと捨てて、宗介はたずねた。
「知らんのか? 駆け落ちとは、要するに……まあ、勝手に結婚するようなことじゃ。私は金沢の武家《ぶけ》の人間なのだがね。娘はそこを飛び出して、どこぞの馬の骨と東京に逃げた、と。そういうことよ」
「そうですか」
「うむ。その男と、子供を二人こさえておきながら、ろくにわしに会わせもせんかった。わしは孫《まご》の顔をほとんど見とらん。一〇年以上も前に、たった一度だけじゃ」
「困った人ですな」
「その通り。困った娘だったよ。……いや、ちがうな。わしも悪かった。家の体面《たいめん》やらなにやらで、はっきり『ゆるす』と言えなかった。死んでしまった今となっては、なにもかも遅《おそ》いが……」
小村老人の声が、すこし弱くなった。
「ところが先日、娘の高校時代の日記を、ひょんなことから見つけてしまった。……爾来《じらい》、娘のことと、残された孫が気になってのう……。わしも生い先短い身じゃ。くたばる前に、もう一度だけ……そう思って、娘の日記を手土産《てみやげ》に、こうして東京まで一人で来たのだが……」
「その日記の入った鞄《かばん》を、盗《ぬす》まれた、と?」
どうも化学兵器ではないらしいな、と宗介はようやく納得《なっとく》した。
「さよう。年を取ると弱気になるもんだよ。その手土産がないと、どうも……その孫に会うのに気が引けてな。親戚《しんせき》一同の、娘への仕打《しう》ちの責任はすべてわしにある。……たぶん、孫は私を恨《うら》んどるだろう。それどころか、覚えてさえいないかもしれん」
「…………」
「それで、鞄を盗まれた後に、あの駅前で鬱々《うつうつ》としておったのだ。すると偶然《ぐうぜん》、娘に生き写しの女学生を見かけてのう」
「生き写し……ですか」
「うむ。一目で孫とわかったよ。その女学生は、同級生とおぼしき若者と一緒に歩いておった。わしは声をかけることもままならず、ついつい、後を尾けてしまったのだ。その女学生は、その若者と一緒にいて――とても幸せそうに見えた。わしの目から見てもな。ついでにその若者には、いろいろと世話《せわ》になってしまった」
「そうですか」
生返事《なまへんじ》をしながら、宗介は鞄の山の奥《おく》から、ルイ・ヴィトンのバッグを見つけた。中には、衣類《いるい》と洗面具《せんめんぐ》と――
古ぼけた日記が入っていた。
「まことに天晴《あっぱ》れな若者だ。得体《えたい》のしれない老いぼれに、ここまで根気《こんき》よく付き合ってくれるとはのう……。孫のそばに彼がいて、私は心底《しんそこ》、安心しとる」
「はあ……」
この人はなにを言っているのだろう? 宗介がそう思いながら、『目的の品を見つけました』と告げようとすると、それより早く、老人が言った。
「もう充分《じゅうぶん》じゃろう。その若者の名前がわかるかね?」
「? いえ……」
「相良宗介くん」
小村老人は、年|相応《そうおう》の、深みのある笑顔で言った。
「きみのような武士《もののふ》は、まことにいまどき、|珍《めずら》しい」
かなめがカップ麺《めん》にお湯を注《そそ》いで、タイマーを三分に合わせた直後に、ドアの軽快《けいかい》な呼《よ》び鈴《りん》が鳴った。
「はーい……」
インタフォンを手に取り、こたえると、よく知った声がぼそりと言った。
『千鳥、俺《おれ》だ』
たちまち、かなめの顔が渋《しぶ》くなる。
「ソースケ? なにしに来たのよ。犬のエサでも食べてたら?」
『いや、食事はすでに諦《あきら》めたが……。すこし、いいだろうか』
「なによ」
『俺が思うに、君にとっては大切な用件だ』
「…………?」
かなめは不審《ふしん》に思いながらも、玄関《げんかん》に向かった。チェーンロックを外して、陰気《いんき》な顔をひょこりと出す。
マンションの共通廊下《きょうつうろうか》には、宗介のほかにもう一人、見知らぬ老人が突っ立っていた。
「あの……?」
「中尉殿《ちゅういどの》。突撃《とつげき》です。さあ」
宗介が老人をつつく。彼は所在《しょざい》なげに立ち尽《つ》くしていたが、一度、大きな咳払《せきばら》いをしてから、切り出した。
「あー、おほん。……わしは、金沢の……小村……修二郎という者なのだが」
「へ……?」
「その。きみの……母親の……父親にあたる者だ。わかりにくいとは思うが……その、最近、娘《むすめ》の日記を……見つけてな……。唐突《とうとつ》で迷惑《めいわく》かとは思ったのだが……あー、せめて、わしの元気なうちに……渡《わた》しておこうかと……その、思った次第《しだい》なのだが――」
えらく歯切《はぎ》れの悪い言葉を、とぎれとぎれにつなぎながら、老人は一冊の日記帳《にっきちょう》を差し出した。
「あの……お爺《じい》ちゃん?」
「う、うむ……」
「ホントにお爺ちゃんなの!? どうして? こんな時間に……!」
かなめは驚《おどろ》きに目を見開き、老人にすがり付かんばかりになった。
「いや。その……いろいろあって、な……」
「大変。早くあがってください。散《ち》らかってるけど。こんな……急に来ちゃって。電話してくれれば、迎《むか》えにいったのに。もう!」
「う……そ、そうかね」
「うん。母さんから、いろいろ聞いてました。頑固《がんこ》だけど、いい人だって。いつか分かってくれるって。だから……お爺ちゃん」
[#挿絵(img2/s05_211.jpg)入る]
声が詰《つ》まるところを、かなめは無理《むり》して言った。
「さあ早く。長旅で疲《つか》れてるでしょ? いま、お茶いれます。あと、お腹《なか》空《す》いてません? なにか作るから」
「い……いや、確《たし》かに。は、恥《は》ずかしながら……若干《じゃっかん》、空腹《くうふく》……気味《ぎみ》だが……。来て良かった。本当に、来て良かった……」
あとはほとんど声にならない。小村修二郎はその場でうつむき、目頭《めがしら》を押《お》さえて肩《かた》を震《ふる》わせる。突然《とつぜん》現われた祖父を、かなめはなだめるようにして招《しょう》じ入れながら、赤く腫《は》らした目を宗介に向けた。
「ど、どうなってるの……?」
「うむ」
宗介は感慨《かんがい》深げに天井《てんじょう》をにらみ、言った。
「いろいろと、下士官《かしかん》の務《つと》めを果たしたまでだ。問題ない。……では」
ぴっと敬礼《けいれい》して、きびすを返す。だが最後に、
「事情《じじょう》が事情なので、今夜はカレーを我慢《がまん》する」
と、すこし未練がましい声で付け加えた。
[#地付き]<迷子のオールド・ドッグ おわり>
[#改丁]
わりとヒマな戦隊長の一日
[#改ページ]
[#地付き]『――(〇七三六時、起床。TDD―1の発令所を点検《てんけん》。
[#地付き]問題なし。ソナー室で作業中の下士官と意見|交換《こうかん》』
[#地付き](T・テスタロッサ大佐《たいさ》の日誌から抜粋《ばっすい》)
自分の指揮《しき》する潜水艦《せんすいかん》が、沈没《ちんぼつ》する夢を見た。
六〇ノットの超《ちょう》高速|航行中《こうこうちゅう》、水中の巨大《きょだい》な突風《とっぷう》――『内部波』が船体を押《お》し下げた。すぐさま緊急浮上《きんきゅうふじょう》の措置《そち》をとるべきだったのに、彼女はその事態《じたい》を見誤《みあやま》って、通常《つうじょう》の操艦《そうかん》で深度を回復《かいふく》しようとした。だが高速航行中の艦は、彼女が緊急|処置《しょち》をためらったわずか一〇秒の間に、深度を二〇〇メートルも下げてしまった。
彼女が次の方策《ほうさく》を指示するより前に、艦が限界深度《げんかいしんど》を突《つ》き抜《ぬ》けた。
あっという間に水圧《すいあつ》に屈《くっ》し、船体が押しつぶされる。
一斉《いっせい》に誘爆《ゆうばく》する弾薬類《だんやくるい》。どっと押し寄せてくる大量の水。
大切な部下たちが、海底へとまき散らされていった。ジグソーパズルのピースのように、バラバラになった彼らの手足を、彼女は海底を這《は》い回って必死《ひっし》にかき集める。急いで組み立てようとするが、ピースが合わない。いますぐ組み立てれば、まだ何人かは救えるはずなのに。どれだけ頭を使っても、どれだけ指先を動かしても、絶対《ぜったい》に組み直せない。
知恵《ちえ》の輪《わ》を解《と》けない子供のように、彼女は苛立《いらだ》ち、泣きじゃくる。自分の愚鈍《ぐどん》さを恨《うら》みながら。自分の無力《むりょく》さに絶望《ぜつぼう》しながら。
「――――っ」
さんざんにうなされたあげく、テレサ・テスタロッサは自分のすすり泣きで目を覚ました。
何度も見てきた、おきまりの悪夢だ。
そう、何度も――何十回も、あまりにもたくさん見てきた夢なので、立ち直るのもわりと早い。もうろうとした頭のまま、『ああ、またか……』と納得《なっとく》するだけだ。
カウンセラー役も務《つと》めてくれている艦医のゴールドベリ大尉《たいい》が言うには、悪夢というのは健全《けんぜん》な精神活動なのだそうだ。日頃《ひごろ》の生活で強いストレスを感じている人間は、悪夢を見ることでそのストレスを消化している。むしろ、眠《ねむ》れなくなったら危険《きけん》信号だ。疲《つか》れてぐっすり眠れるうちは――まだ、それほど深刻《しんこく》な段階《だんかい》ではない。
テッサは今でもよく眠れるし、それ以上によく食べる。自分でもあきれるほどだ。問題はなかった。
「うー……」
寝《ね》ぼけまなこで不機嫌《ふきげん》な声を漏《も》らして、周囲に首を巡《めぐ》らせる。
よく見知った、簡素《かんそ》な机やキャビン。ここは強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》 <トゥアハー・デ・ダナン> の、こぢんまりとした艦長室《かんちょうしつ》だ。テッサは真っ白なシーツにくるまって、折《お》り畳《たた》み式ベッドからずり落ちそうになっていた。
「…………ん」
彼女はベッドからのろのろと起きあがろうとして――自分のシーツを踏《ふ》みつけ、転倒《てんとう》した。それでも健気《けなげ》に身を起こし、まどろみから覚めきらない意識《いしき》の片隅《かたすみ》で、こう思った。
(そうだ。艦《かん》の指揮《しき》をしなきゃ……)
熟睡《じゅくすい》していたらしい。どのくらいの時間、眠《ねむ》っていたのだろう。いま、この艦はどの海域《かいいき》にいるのだろうか?
思い出せない。
なかなか回転《かいてん》してくれない頭をさすりながら、彼女は机上の艦内電話《かんないでんわ》を手に取った。
発令所を呼び出す。だれも出ない。普段《ふだん》なら、三秒と待たずに当直士官《とうちょくしかん》が応《おう》じるはずなのだが。
妙《みょう》だった。それに静かすぎる。
テッサはシーツを引きずって、ふらふらと艦長室を出ると、発令所へと向かった。艦内の通路は薄暗《うすぐら》く、ひっそりとしずまり返っている。
クルーの姿がまるで見当たらない。
うすぼんやりとした視界《しかい》が、上下左右に移《ゆ》れる。何度も転びそうになりながら、彼女は発令所にたどり着いた。
発令所も、やはり真《ま》っ暗《くら》だった。
無人だ。艦のコントロールの中枢《ちゅうすう》である発令所に――だれもいない。正面スクリーンも真っ黒。大小さまざまなディスプレイや、コンソール類《るい》も完全《かんぜん》に沈黙《ちんもく》している。
「ダーナ?」
艦のAI <ダーナ> でさえ、彼女の声には答えなかった。
ぼやけた頭で、発令所の真ん中に立ちつくす。次になにをしたらいいのか思いつかなかったので、彼女は艦内|放送《ほうそう》のマイクをつかんだ。
「えーと……ふぁ……。艦長です。だれかいないの? 各部署《かくぶしょ》は……いますぐ報告《ほうこく》をしてくださーい……。当直士官は……なるべく急いで……発令所に戻ってほしいです……」
反応《はんのう》なし。艦内放送も死んだままだった。
「うー……」
どうなってるんだろう? みんな、どこにいったの? だれか返事をして……。
それともこれは――ああ、そうか。たぶん、夢の続きなのだ。
そこでふと、怪訝《けげん》そうな声が彼女を呼んだ。
「大佐殿《たいさどの》?」
発令所の奥《おく》のソナー室から、陸戦《りくせん》ユニットの下士官《かしかん》が顔を出した。東洋人《とうようじん》だ。むっつり顔にへの字口。オリーブ色の野戦服姿《やせんふくすがた》。
SRT(特別対応班《とくべつたいおうはん》)所属《しょぞく》の、相良《さがら》宗介《そうすけ》軍曹《ぐんそう》である。
彼はテッサを見ると、なぜか両目《りょうめ》をくわっと見開《みひら》き、彼女から顔をそむけた。
「た……大佐殿。なにか問題が?」
「サガラさん……?」
無人《むじん》の発令所に、陸戦ユニットの宗介がいる。
またもや不自然《ふしぜん》な状況《じょうきょう》だった。なぜ彼がソナー室などに? 陸戦隊の下士官である彼は、通常、この部屋にはまったく用がないはずだ。
やっぱりこれは、夢の続きみたいだ。
「サガラさーん……」
テッサは宗介に歩《あゆ》み寄《よ》ると、彼の胸に『ふにゃっ』と抱《だ》きついた。
「た、大佐……!?」
宗介の当惑《とうわく》した声。前髪《まえがみ》にかかる彼の息《いき》づかい。ほんのりと伝わってくる彼の体温《たいおん》。
「大佐。これは? 状況の説明《せつめい》をして欲しいのですが……」
「状況……? 言いたくありません。……さっきまで、すごいこわい夢だったから……あなたが出てきてくれて、とっても嬉《うれ》しいんでーす……」
「は? あの――」
「ついでに……ちょっと、お願《ねが》いしちゃおうかなあ……ふふ。ねえサガラさん。この前みたいに……テッサって、呼《よ》んでください。どうせ夢の続きだし、遠慮《えんりょ》はいらないでしょ? わたしだって、たまには……いい思いが……したいです」
目一杯《めいっぱい》甘《あま》えた声で言って、彼にすりすりと頬《ほお》ずりする。
もちろん現実だったら、こんな大胆《だいたん》な真似《まね》など、絶対《ぜったい》に出来《でき》ないことだろう。しかも艦長としての重責《じゅうせき》と権威《けんい》を象徴《しょうちょう》するような場所――発令所なんかで。
「ゆ、夢? すみません大佐、よく理解できないのですが――」
「もう。サガラさんのいじわる。どうしたらー……テッサって呼んでくれるんですか? 教えてください。わたし……なんでもしてみせますから。ふふふ……」
「で、では……テッ……サ。お気を確《たし》かに。いますぐ基地に電話して、軍医《ぐんい》を呼びますので。大丈夫《だいじょうぶ》です。決して他言《たごん》はいたしません。ですからとにかく――」
「…………?」
そこまできたあたりで。
普段《ふだん》の一万分の一くらいしか使っていなかった彼女の頭が、ようやく人並《ひとな》みの速度《そくど》で回転をはじめた。
徹底的《てっていてき》に――常軌《じょうき》を逸《いっ》するほどに寝《ね》ぼけまくり、豆腐《とうふ》のようにぐしゃぐしゃになっていた脳みそが、だんだんと日頃《ひごろ》の聡明《そうめい》さを取り戻《もど》していく。もしパソコンだったら、カリカリとハードディスクがはげしく動いているところだ。すべてのアプリケーションを強制《きょうせい》終了《しゅうりょう》。OSを再起動《さいきどう》。スキャンディスク。『エラーをチェックしています』。ウィルスもチェック。タスクバーにアイコンが一つずつ表示されていく。
視覚《しかく》、聴《ちょう》覚、触《しょっ》覚、嗅《きゅう》覚――それらが認識《にんしき》しているこの状況《じょうきょう》。夢にしては、ディテールがしっかりしすぎている。
夢ではない。
この相良宗介は、本物《ほんもの》だ。
「ひゃっ!?」
「うおっ……」
テッサは相手を突《つ》き飛ばすようにして、宗介から離《はな》れた。
「あ、あのあの。ちちち、ちがうんです。わたしは決してその――」
しどろもどろになりながら、いまの状況を再点検《さいてんけん》する。
そもそも、いまこの艦は航行中《こうこうちゅう》だったか?
ちがう。<トゥアハー・デ・ダナン> は、メリダ島基地の専用ドックで休眠中《きゅうみんちゅう》だ。きのうであらかたの整備《せいび》を終え、次《つぎ》の任務《にんむ》を待っている。クルーは基地へと上陸《じょうりく》しており――当然《とうぜん》、いくら呼び出してもこの艦内にはいない。
だれもいなくて当たり前なのだ。
ではなぜ、相良宗介がソナー室から出てきたのか?
これも覚えていた。M9 <ガーンズバック> の水中航走音《すいちゅうこうそうおん》を、ソナー員《いん》のデジラニ軍曹《ぐんそう》とチェックしていたのだ。きのう、宗介たちから機材の使用を求められ、彼女自身が許可した。たぶん徹夜《てつや》でデータの洗い直しをしていたのだろう。だから宗介がここにいるのもなんら不自然ではない。耳を澄《す》ませば、ソナー室の奥《おく》からデジラニ軍曹のものとおぼしき寝息《ねいき》が聞こえてくる。
寝ぼけて抱《だ》きついてしまった。しかも、あんなふぬけた声で。ひどく頭の悪いおねだりなんかして……!?
「大佐。具合《ぐあい》は――」
「で、ですからね!? 大丈夫《だいじょうぶ》なんです! わたし、そういうつもりじゃなくてですね、別に頭がおかしくなったわけじゃなくて、でも悪《わる》ふざけとか逆セクハラとかする意図《いと》もまったくなくて、だからといってサガラさんにそう呼んでほしいなと思うのは嘘《うそ》じゃないんですけど、それは決してああいうそんな意図ではなくて単《たん》に寝《ね》ぼけただけというには複雑《ふくざつ》な事情《じじょう》がきっとあるとわたしは確信《かくしん》しておりそれはわたしが常軌《じょうき》を逸《いっ》した低血圧《ていけつあつ》なこともあるのですが低血圧だと寝起きが悪いというのはよく言われる俗説《ぞくせつ》だとはもちろん知っていますし航海中《こうかいちゅう》はこんな失態《しったい》は絶対《ぜったい》にありえないんですけど陸《おか》にあがるとつい気がゆるんでしまうことがあって、でもそもそもなんで寄港《きこう》中なのにわたしが艦長室《かんちょうしつ》で寝ていたのかとかそういう疑問《ぎもん》もあるのですがそれはおいおい明らかにするとしてこれは指揮官《しきかん》としてはまったくよくないことだと重々《じゅうじゅう》承知《しょうち》してるんです本当です。だからわたしとしては――あの、サガラさん?」
頭の回転速度《かいてんそくど》というより、むしろ肺活量《はいかつりょう》が問われるような台詞《せりふ》をまくしたてたあと、テッサは宗介が必要以上《ひつよういじょう》に取り乱《みだ》していることに気付いた。
なぜだろう? どうして彼は、顔面一杯《がんめんいっぱい》に脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべて、あさっての方向《ほうこう》をにらんでいるのだろう? なぜわたしのことを、決して見ないようにして――
はっとして、自分の格好《かっこう》を見下ろす。
レース地の下着の上に、制服《せいふく》のブラウスをひっかけただけの姿《すがた》だった。しかも前が開いており――ほっそりした肢体《したい》があらわになっている。アッシュブロンドの髪の三《み》つ編《あ》みも、よれよれにほどけていた。着《き》の身《み》着のまま、この場所に来てしまったのだ。
「や、やだ。わたしったら……!?」
手にしたシーツをばっと引き寄せ、一歩、二歩と後じさると――かかとが段差《だんさ》につまずいた。
「あっ……」
彼女は勢《いきお》いよく『すてーん!』と転び、尻餅《しりもち》をつくと同時《どうじ》に、後頭部《こうとうぶ》をシートの肘掛《ひじか》けにぶつけてしまった。視界《しかい》が真《ま》っ暗《くら》になって、無数《むすう》の星《ほし》と火花《ひばな》がまたたく。
くるくると目を回す彼女に、血相《けっそう》を変えた宗介が駆《か》け寄った。
「大佐殿。しっかりしてください、大佐!?」
「へ、平気です。これくらい……」
介抱《かいほう》されるまでもなく、テッサはすぐさま身を起こす。その場を取り繕《つくろ》う言葉《ことば》さえ思いつかないまま、『大丈夫です、大丈夫です』を連発《れんぱつ》し、彼女はいそいそと発令所を逃《に》げ出した。
あとには、ぽかんと立ちつくす宗介が取り残された。
[#地付き]『(〇九四一時、AS用|格納庫《かくのうこ》を視察《しさつ》。特別対応班
[#地付き]SRTの一名および第11[#「11」は縦中横]AS整備《せいび》小隊《しょうたい》の主要構成員による
[#地付き]共同《きょうどう》プロジェクトについて、担当者《たんとうしゃ》から説明を受ける。
[#地付き]E―005、およびE―008号機《ごうき》にトラブル発生《はっせい》。
[#地付き]処理《しょり》は担当者《たんとうしゃ》に一任』
「起き抜けのあんたの奇行《きこう》はよく知ってるけど……。今度はまた、きわめつけね」
基地内の格納庫で、キーボードをせかせかと叩《たた》きながら、メリッサ・マオ曹長《そうちょう》が言った。すぐそばに、<ミスリル> のアーム・スレイブ、M9 <ガーンズバック> が降着姿勢《こうちゃくしせい》をとっている。
マオの背後《はいご》には、いまではきっちり身なりを整《ととの》えたテッサが立っていた。いつもと同じカーキ色の制服姿の上に、いまはフライトジャケットを羽織《はお》り、『TDD―1』と刺繍《ししゅう》された帽子《ぼうし》をかぶっていた。それだけで、すこし活動的《かつどうてき》な雰囲気《ふんいき》になる。基地内をたくさん歩き回るときの、彼女の定番《ていばん》ファッションだった。
マオが続ける。
「それで、なに? 意味不明《いみふめい》の言動《げんどう》のあと、部下《ぶか》に迫《せま》って、すっころんだ? もうメチャクチャ。ほとんどボケ老人《ろうじん》だわね」
「ボケ老人……」
「じゃなきゃ発情期《はつじょうき》の猫《ねこ》かなにか。ま、いずれにせよ、フォローはほとんど不可能《ふかのう》よ。潔《いさぎよ》く『すみません。わたし、病気《びょうき》なんです』とでも言っておいた方がいいんじゃない?」
マオの仮借《かしゃく》ないコメントに、テッサはむっと頬《ほほ》をふくらませた。
「わたし、病気なんかじゃありません。ただちょっと、寝起《ねお》きが悪いだけです。作戦中はもっとしっかりしてますし」
「それにしたって、限度《げんど》ってもんがあるでしょ。いくら寝ぼけてたって、半裸《はんら》で艦内を徘徊《はいかい》したりする、フツー?」
「メリッサだって、前にやったじゃないですか」
「あれは寝ぼけたんじゃなくて、薬のせいよ。……でも、良かったんじゃない? ほかのクルーには見られなかったんでしょ? ソースケはそういうの、言いふらすタイプじゃないし」
「よりにもよって、そのサガラさんの前で、未曾有《みぞう》の大醜態《だいしゅうたい》を演《えん》じてしまったから、わたしはこうして落ち込んでいるんです……」
帽子を目深《まぶか》にかぶり直し、テッサは顔を赤くした。ため息をついて、言葉を続ける。
「寝ぼけて甘《あま》えるにしたって、もうすこしやりようがあったのに……。カッコ悪すぎです。誘惑《ゆうわく》にさえなってません。きっと軽蔑《けいべつ》されました」
マオは液晶《えきしょう》ディスプレイの中のCG画像《がぞう》をマウスでいじりながら、のんきに鼻《はな》をならした。
「いいんじゃない? それで普通《ふつう》の娘《コ》だと認識してもらえれば」
「だって、あれじゃあ、普通以下です……!」
「んー。確《たし》かに」
くわえタバコで、マオは気のない返事をした。
「あのー。あっさり同意《どうい》しないで欲しいんですけど……」
「んー。それよりあんた、なんかきょうはヒマそうね」
「ええ。不幸なことに」
いつものように忙しければ、すこしは気も紛《まぎ》れるのだが。
きょうのテッサは、わりと暇《ひま》なのだった。
当然《とうぜん》だ。暇をつくろうと思って、きのうはあれだけがんばったのだから。
ちょうど昨夜《さくや》から、相良宗介がメリダ島に戻《もど》ってきている。普段のテッサなら、この機会《きかい》を利用《りよう》して宗介にあれこれ巧妙《こうみょう》なアプローチをかけようとするところだが――その気迫《きはく》も今朝《けさ》の一件《いっけん》で吹《ふ》き飛んでしまった。
恥《は》ずかしくて、顔を合わせる勇気《ゆうき》も出ない。
対テロ戦争《せんそう》においては、チャンスを最大限《さいだいげん》に活用《かつよう》する聡明《そうめい》さと決断力《けつだんりょく》を持つ指揮官《しきかん》だったが、それが恋愛《れんあい》のこととなると、満足《まんぞく》な状況判断《じょうきょうはんだん》さえできない新米《しんまい》少尉《しょうい》とそう変わらないレベルなのだった。
(まずい。まずいわ……)
自分がこうやってモタモタしているうちに、東京ではあの千鳥《ちどり》かなめが彼と距離《きょり》を縮《ちぢ》めているだろうに。『別にあたし、ソースケのことなんか、なんとも思ってないわよ?』などと、そしらぬ顔をしながら、晩《ばん》ごはんを作って彼を誘惑《ゆうわく》するのだ(なんて狡猾《こうかつ》な!)。
香港《ホンコン》の一件での、宗介の選択《せんたく》を受けて、テッサは絶望的《ぜつぼうてき》な気分になったりもしたが、なにしろあの唐変木《とうへんぼく》の宗介と、自分にもウソをつくひねくれ屋のかなめである。マオやクルツの話から総合《そうごう》しても、実のところ、関係はほとんど進展《しんてん》していないと見た。
かなめのことは好きだが、だからといって遠慮《えんりょ》するいわれはない。状況が許《ゆる》す限り、自分の気持ちに正直《しょうじき》になろう――それはこれまでの短い人生で得た、貴重《きちょう》な教訓《きょうくん》だった。
(そうよ。まだ戦いは終わってないわ……!)
意をあらためて、ぎゅっと小さな拳《こぶし》を握《にぎ》ったりするのが最近の彼女だった。
だというのに、今朝《けさ》のあの醜態《しゅうたい》は。
(も……もう、おしまいです……)
よよと一人で泣き崩《くず》れる。思考《しこう》はどうどうめぐりする。だから恋《こい》は難しい。
そんなわけで、だれかにこの胸の苦しさを聞いて欲しくて、こうしてマオの元を訪れてみたのだが――彼女は彼女で、別の作業《さぎょう》に夢中《むちゅう》と見え、あんまり真剣《しんけん》にとりあってくれないのだった。
「だいたいあんた、なんで艦《かん》の方なんかで寝《ね》てたのよ? きのうの晩は、基地の部屋にいたはずでしょ?」
「ええ。そのはずなんですけど……」
昨夜、テッサは大量《たいりょう》の執務《しつむ》を腕《うで》まくりでやっつけた。きょう一日、すこしのんびりしたかったので、できる作業はすべて片づけてしまったのだ。眠《ねむ》い目をこすりながら基地の自室に帰ると、例によってマオが部屋にあがりこんで、上機嫌《じょうきげん》でビールをぐびぐびとあおっていた。彼女に勧《すす》められるまま、テッサは缶《かん》ジュースを一本飲み――
その後のことが、どうもよく思い出せない。
「それがよく分からないんです。脱《ぬ》いだ制服は艦長室にあったから、さすがに裸《はだか》で基地をうろついたわけじゃなさそうですけど。それに……」
テッサは口ごもった。
「それに?」
「基地の方の部屋に帰ったら、あの子[#「あの子」に傍点]がいなくなってたんです」
「あの子って?」
「ぬいぐるみです。ベッドのそばにいつもいるでしょ?」
「ああ。あの子犬の」
「お気に入りの、大切《たいせつ》なぬいぐるみなんです。わたし、寝ぼけ半分で外出して、どこかにあの子を置いてきてしまったのかもしれません。きのうはメリッサ、いつごろ帰ったの?」
「あんたが帰ってきてから、すぐよ。おもしろ半分で缶チューハイを差し出したら、一息《ひといき》で飲んじゃったじゃない。そのすぐあと、着替《きが》えもしないで『こてん』と寝ちゃったから、つまらないんで帰ったけど。覚えてないの?」
「ええ、あいにく。……ところで、なんです、その缶チューハイって?」
「日本《にほん》のカクテルよ。焼酎《しょうちゅう》をジュースで割《わ》ったお酒《さけ》」
「なるほど、勉強《べんきょう》になりました。……って、お酒!? アルコールをわたしに飲ませたんですか!?」
テッサは肩《かた》をいからせた。
どうりで、起きてからずっと頭が痛かったり、そこはかとなく気分が悪かったり、鬱《うつ》な気分だったりするわけだ。
「いいじゃない。たまには」
「いーえ! アルコールは脳細胞《のうさいぼう》を破壊《はかい》します。この仕事を長く続《つづ》けたかったら――」
「あー、わかった、わかった。どこかの朴念仁《ぼくねんじん》みたいなこと言わないでよ」
マオはうるさそうに手を振《ふ》ってから、キーボードの『実行《じっこう》』キーをぽんと叩《たた》いて、M9の肩口《かたぐち》――コックピットハッチのそばに立っていた整備員《せいびいん》に向かって叫《さけ》んだ。
「できたよー! 起動《きどう》してー!」
「うぃーっす」
整備員がコックピットの方に接続《せつぞく》していたノート型《がた》の端末《たんまつ》のプラグを抜《ぬ》いて、ハッチを閉じた。こなれた身のこなしで地面《じめん》に降《お》りて、駆け足で機体《きたい》から離《はな》れる。
「いちおう聞いておきますけど。さっきから、なにをやってるんです?」
心なしか上目遣《うわめづか》いでテッサはたずねた。
「計画書《けいかくしょ》、送《おく》っておいたでしょ。M9の動作《どうさ》パターンの研究《けんきゅう》よ。より広範《こうはん》で、より高度《こうど》な機動《マニューバ》を無人《むじん》で行えるようにするの」
「でも、複雑《ふくざつ》な地形《ちけい》での戦闘《せんとう》を無人でやるのは、いまのAIにはとても無理です。瞬間的《しゅんかんてき》な意志決定《いしけってい》なら人間《にんげん》を上回《うわまわ》ることも可能でしょうが、大局《たいきょく》を見据《みす》えて、状況に応《おう》じ難《むずか》しい判断を下す力は、とうてい人間の直感《ちょっかん》には――」
「いやいや、そういうことじゃないの。あの計画書はただの口実《こうじつ》」
「?」
「まあ見てなさいよ」
マオのプログラムを流《なが》し込まれたM9が、すっくと立ち上がった。その向こう側に待機《たいき》していた、もう一機のM9も、同様《どうよう》に起動して立ち上がる。なぜかその一機には、腰部《ようぶ》に防水《ぼうすい》シートをつなぎ合わせた大きな布《ぬの》が巻《ま》いてあった。
「なんです、あのスカートは?」
そう、それはまるでスカートだった。
「気分よ、気分」
「…………?」
この格納庫は、地下基地の中でもひときわ広い。簡単な動作テストなら、その場でできるくらいのスペースがある。無人のM9二機は、ずしゅん、ずしゅんとテスト用スペースに歩いていき、ざっと向かい合った。
二機とも武器《ぶき》は持っていないが、円形闘技場《コロッシアム》で対峙《たいじ》する剣闘士《けんとうし》といったおもむきだった。
(格闘戦《かくとうせん》でも始めるのかしら?)
いくらテスト用のスペースが広いといっても、M9のパワーは半端《はんぱ》ではない。地上の演習場《えんしゅうじょう》以外で模擬戦闘《もぎせんとう》をやらせるのは、隊の規則《きそく》で禁《きん》じられている。念《ねん》のためにそれを警告《けいこく》しようとすると、その前にマオがふたたび叫《さけ》んだ。
「よーし! じゃあはじめてー!」
「ういーっす! では……スタート!!」
整備員の持ってきたCDラジカセから、古《ふる》めかしい音楽《おんがく》が流れた。
もの悲《かな》しげなオルガンのメロディ。これはタンゴだ。
その緩慢《かんまん》なイントロに合わせて、二機のM9がすすっと歩《あゆ》み寄《よ》っていく。片方は男性的《だんせいてき》な動作で。もう片方のスカート付きは、女性的《じょせいてき》な動作で。
オルガンの独奏《どくそう》に、大小の弦楽器《げんがっき》が加わって、曲が力強《ちからづよ》く、情熱的《じょうねつてき》になった。
じゃん! じゃじゃん、じゃん、じゃっ。
完璧《かんぺき》なタイミングで二機が『ばっ』と抱《だ》き合い、センサーとセンサーで見つめ合った。続いて手をつなぎ、同時に首を横に向け、抱き合ったまま、右へ左へとすいすい歩く。
やかましい足音をたてて、二機のM9はきびきびと舞《ま》い踊《おど》りつづけた。
「よおーし、よしよし。今度《こんど》こそうまくいきそうだわ」
遠巻《とおま》きに二機を見守り、上機嫌《じょうきげん》でうなずくマオと整備員たち。男役《おとこやく》の腕の中で、女役《おんなやく》のM9が華麗《かれい》に背中を反らした。ぐいっと引き起こされたかと思うと、回転しながら離れ、ふたたび男の腕《うで》の中に戻《もど》り、ふわりとスカートをひるがえす。
「ふっふっふ。どお? すごいでしょ」
「すごく変です……。これが研究ですか?」
「うん。せっかく人型《ひとがた》してるんだから。いろいろ遊《あそ》んでみたいじゃない」
「…………。数千万ドルもする最新鋭《さいしんえい》のハイテク兵器で、あんまり遊ばないで欲しいんですけど。なんというのか、戦隊長として」
大佐の階級章《かいきゅうしょう》を指先《ゆびさき》でいじりながら、上目遣《うわめづか》いに彼女は言った。
「さあ来るわよ! そこそこ…………よおっし! 成功!」
「あのー。聞いてます?」
「そのフレーズで、このターン……やったーっ! これでクリスマス・パーティの隠《かく》し芸《げい》大会《たいかい》はいただきね!」
聞いていない。
踊るM9。わっと盛《も》り上がる整備員たち。
次の瞬間《しゅんかん》、事故《じこ》が起きた。ほとんどフィギュア・スケートのノリでくるくると踊り回っていた二機の手が、『つるっ』とすべったのだ。外側《そとがわ》を回っていた女役のM9が、すさまじい遠心力《えんしんりょく》で吹《ふ》き飛ばされる。
「あ……」
空のコンテナをなぎ倒《たお》し、M9が壁《かべ》に激突《げきとつ》した。剥《む》き出しの鉄骨《てっこつ》やパイプ類が叩《たた》き折られて、耳を割るような騒音《そうおん》が反響《はんきょう》する。パイプの裂《さ》け目から大量の水やら蒸気やらが噴《ふ》き出し、けたたましい警報《けいほう》が鳴った。
「あー、なんてこった、ちくしょう!」
「ストップだ、ストップ!」
「バルブを閉めろ! おい危ない、感電《かんでん》するぞ!」
「警報を止めろ! 警報を!」
飛び交う悲鳴《ひめい》と怒号《どごう》。右往左往《うおうさおう》する整備員。試験場《しけんじょう》の真ん中で、相方《あいかた》を失いながらも、男役のM9は変な踊《おど》りを一機だけで続けている。
降《ふ》ってわいた大騒動《だいそうどう》を前に、マオはがっくりと肩《かた》を落とし、たたずんでいた。
「また失敗か……。今度こそはうまく行くと思ったのに……」
悲嘆《ひたん》をあらわにする彼女の背中を、テッサはぽんと軽く叩《たた》いた。
「そんなに落ち込まないで。元気を出してください、メリッサ」
「テッサ……。ありがと」
「いいえ。お礼《れい》なんていりませんよ。わたしが直々《じきじき》に、死に神の大鎌《おおがま》をふるってあげますから。戦隊《うち》はこう見えても、わりと貧乏《びんぼう》なんです」
しばらく凝固《ぎょうこ》したあと、マオがたずねた。
「……あのー。やっぱり減俸《げんぽう》?」
「関係者《かんけいしゃ》全員《ぜんいん》の始末書《しまつしょ》と被害評価《ひがいひょうか》。明日までに出してくださいね?」
女神《めがみ》のような微笑《ほほえ》みを浮《う》かべて、彼女は言った。
[#地付き]『一〇五六時まで執務《しつむ》。作戦部長《さくせんぶちょう》と電話。
[#地付き]栄誉《えいよ》ある誘《さそ》いを受けるが、丁重《ていちょう》に辞退《じたい》する』
事故の片づけで大わらわな格納庫を後にして、テッサは自分のオフィスに出勤《しゅっきん》した。昨夜のうちに、『明日は遅《おそ》めに出る』と秘書《ひしょ》に告げておいたので、問題はなかった。
メールの返事を何件か書いて、その他の小さな仕事をこなしていると、シドニーの作戦本部から電話がかかってきた。作戦部長のボーダ提督《ていとく》だ。あれこれと話し合ってから、提督がこう言った。
『ときにテレサ。再来週《さらいしゅう》の週末《しゅうまつ》は空いとるかね?』
「重要《じゅうよう》な用件《ようけん》でしたら、空けることもできますけど……なんです?」
『いやなに、海軍時代《かいぐんじだい》の旧友たちとちょっとした会合《かいごう》があってね。前に一度、連れて行ったことがあるだろう? 連中、すっかりおまえを気に入ったようでな。ぜひ今度も――』
「いやです」
彼女はきっぱりと言った。
『なぜだね? いずれ劣《おと》らぬ海の男ばかりだぞ』
「それはもちろん、そうなんですけど……」
一年ほど前、その会合に出席《しゅっせき》したときに、テッサは散々《さんざん》な思いをしたのだ。
集《あつ》まったのは提督と同じかその上の世代《せだい》のご年輩《ねんぱい》ばかり。朝鮮《ちょうせん》、ベトナム、湾岸《わんがん》と、二〇|世紀《せいき》後半《こうはん》の主だった戦争をすべてくぐり抜《ぬ》けてきた男たちなのだが――
なんというのか、相手をするのが疲《つか》れるのだ。
みんなマッチョなタイプだし、戦争大好き爺《じい》さんだし、葉巻《はまき》やタバコをプカプカ吸《す》うし、F言葉とかを連発《れんぱつ》しまくるし。とにかく元気で、少年のような連中なのである。並々《なみなみ》ならぬ敬意《けいい》を払《はら》うべき人々でもあるので、あんまり不快《ふかい》な顔もできない。
海戦《かいせん》や地政学《ちせいがく》の話題《わだい》についてこれる十代の娘《むすめ》というのが、また彼らには嬉《うれ》しいらしく、なかなか解放《かいほう》してくれない。最新鋭《さいしんえい》の兵器システムについても、あれこれ聞いてきて、ついでにそれにケチをつける。なんじゃ、それは。最近の水兵は、機械に頼《たよ》らんと海図《かいず》も読めんのか≠トな具合である。
徹底的《てっていてき》に神経《しんけい》がすり減《へ》るので、出席はごめん被《こうむ》りたかった。
『理由を教えてくれ。ケヴィンの女遊《おんなあそ》びの話がいやだったのか?』
「それだけじゃありません」
『じゃあ、ロイがサイゴンでもらった性病《せいびょう》の話かね?』
「失神《しっしん》するかと思いました」
『トーマスが自分のナニの入《い》れ墨《ずみ》を見せびらかしたことは?』
「もちろんです……! わたしの一生《いっしょう》のトラウマです! 立派《りっぱ》な潜水艦《せんすいかん》乗りとして尊敬《そんけい》していたのに。わたしの失望《しつぼう》と落胆《らくたん》を想像《そうぞう》してみてください!?」
みんな古いタイプの人間なので、セクハラという概念《がいねん》もいまいち理解《りかい》していない。魅力《みりょく》的な女の子には、ちょっかいを出すのが礼儀《れいぎ》だと思っているような節《ふし》がある。出席者の中には、ほとんど伝説《でんせつ》的な風評《ふうひょう》を持つ人物などもいるのだが、テッサが会った限りでは、たちの悪いエロじじいばかりだった。
『そう言うな。みんな気のいい連中《れんちゅう》だったろう』
「っていうか、あれはむしろ、さかりのついた不良少年の集団《しゅうだん》です……!」
『わかった、わかった。じゃあ連中にはきちんと紳士的《しんしてき》に振《ふ》る舞《ま》うよう、念《ねん》を押《お》しておくから。時間を作って参加《さんか》してくれんか』
「信用《しんよう》できません」
『勉強になることだってあるだろう? それに奴らは、ああ見えて心に傷を負ったナイーブな男たちなんだ。退役後《たいえきご》の空虚《くうきょ》な余生《よせい》の慰《なぐさ》みとして、可憐《かれん》な少女を囲んでささやかなパーティを開くくらい、許されると思うのだがね』
「ウソです。困惑《こんわく》するわたしを肴《さかな》にして、バカ騒《さわ》ぎがしたいだけじゃないですか」
『んー……まあ、そうなんだが。いやいや、テレサ! 切るな! 冗談《じょうだん》だ!』
受話器《じゅわき》を置こうとしていたテッサは、とりあえずその手をぴたりと止めた。
「もう用件《ようけん》はないでしょう? おじさまも忙《いそが》しいはずですけど」
『そう頑《かたく》なにならんでくれ。だいたいあの集まりに誘われるのは、名誉《めいよ》なことなんだぞ? 本来、マデューカス並《な》みの男でなければ、招待《しょうたい》はされんのに』
「じゃあ、彼を招待したらどうです?」
『|あいつ《ディック》はつまらん。きっと隅《すみ》っこで電卓《でんたく》を片手に、パーティの支出《ししゅつ》を計算してるだけだろう』
いかにもありそうな光景《こうけい》を想像《そうぞう》し、テッサは両目をどんよりとさせた。
ちなみに年配《ねんぱい》でアメリカ人の <ミスリル> 関係者《かんけいしゃ》は、リチャード・マデューカスのことをたまに『ディック』と呼ぶ。英国人《えいこくじん》たるマデューカス本人は、そう呼ばれることを嫌《きら》っているのだが。
「…………。とにかく、わたしは行きませんから。それに会場《かいじょう》が東海岸《ひがしかいがん》でしょう? そんな遠くまで出かける時間は、さすがにありません」
『わかった。つまり近所で開けばいいんだな? ハワイかグアムあたりで』
「やめてください。行きませんよ?」
『とにかく相談《そうだん》してみる。今年の幹事《かんじ》はジョンジーだから、融通《ゆうずう》は利《き》くだろうしな。また連絡《れんらく》するよ。じゃあな』
「待ってください。ちょっと? おじさま!?……ああ、もうっ」
切れた電話の受話器を見つめ、テッサは小さなため息をついた。
あとで念を押《お》すメールを送っておかなければ。自分のために会場を変更《へんこう》されたりなどしたら、さすがに断れなくなる。悪ガキの集団みたいな人たちだが、それでも立派《りっぱ》な経歴《けいれき》なのだ。艦隊司令《かんたいしれい》の経験者《けいけんしゃ》なども多いし、<ミスリル> の中にも、彼らの何人かを敬愛《けいあい》している者がいる。
「大佐殿《たいさどの》」
電話が終わるのを待っていたのだろう。執務室の出入り口から顔をのぞかせ、秘書官《ひしょかん》のジャクリーヌ・ヴィラン少尉《しょうい》が言った。ヴィランは二〇代半ばで、ブロンドの髪《かみ》に日焼《ひや》けした肌《はだ》が印象的《いんしょうてき》な女だった。スポーツ好きなタイプのようだが、漂《ただよ》う雰囲気《ふんいき》は図書館《としょかん》の司書《ししょ》といった感じだ。
「なんですか?」
「MM社の担当から伝言《でんごん》を預《あず》かりました。|MH―67[#「67」は縦中横]《ペイブ・メア》の改修工事《かいしゅうこうじ》の件で、新型減音《しんがたげんおん》システムの仕様書《しようしょ》をお送りしたそうです」
「そう。ほかに伝言は?」
「ありません」
事務《じむ》的に答えると、秘書官は部屋を出ていった。
ヴィランの態度《たいど》は、いつもそっけない。プライベートな会話《かいわ》など、ついぞしたことがないような気がする。最初のころは『もしかして、嫌《きら》われてるのかしら?』と何度も思ったものだったが、そういうわけでもないらしい。よく気を利《き》かせて紅茶《こうちゃ》を入れてくれるし、たまに手製《てせい》のシフォンケーキなどを持ってきてくれたりする。去年のクリスマスには、素敵《すてき》なオルゴールをプレゼントしてくれた。『ただ単に、淡泊《たんぱく》な性格《せいかく》なのだろう』と、いまでは納得《なっとく》している。
メーラーを立ち上げて、マーティン・マリエッタ社から送られてきた仕様書に目を通した。疑問点《ぎもんてん》をさっとリストアップして、返信。五分もかからなかった。
「さて……」
執務椅子《しつむいす》に座り直した。ほかの仕事が思いつかない。珍《めずら》しいことだ。
ヒマだ。
どうしたものやら。
手持ち無沙汰《ぶさた》に耐《た》えきれず、彼女はすっくと立ち上がった。
(そうだ、あのぬいぐるみ……)
部下たちの様子《ようす》をぶらぶらと視察《しさつ》しながら、行方不明《ゆくえふめい》のぬいぐるみを探《さが》そうと思いたった。さすがにヴィランに頼《たの》んで、私物《しぶつ》の捜索《そうさく》を手配《てはい》させるのは気が引ける。
仮《かり》に――
『少尉。施設中隊《しせつちゅうたい》に連絡《れんらく》して、わたしのぬいぐるみを探すように手配しておきなさい。最優先《さいゆうせん》よ』
『はっ、ただちに』
『茶色い子犬さんです。あれがないと、わたしは睡眠《すいみん》がとれません。いいですね?』
『了解《りょうかい》いたしました、大佐殿』
――などといった会話が交わされたとあっては、全将兵《ぜんしょうへい》の士気《しき》にかかわるというものだ。
制服の上にフライトジャケットをつっかけて、<トゥアハー・デ・ダナン> の帽子《ぼうし》をかぶり、パンプスを脱《ぬ》いでスニーカーをはく。
遺失物《いしつぶつ》を取り扱《あつか》っているところは、施設中隊のオフィスにある。ヴィランに『出かけてくる』と告げると、彼女は執務室を出ていった。
[#地付き]『一一四四時、施設科を訪問《ほうもん》。稼働状況《かどうじょうきょう》などを視察。
[#地付き]SRTの中尉《ちゅうい》と会う。
[#地付き]中尉の気質《きしつ》・性向《せいこう》について、理解《りかい》を深める』
「た、大佐殿。なにも、ここまでご足労《そくろう》いただかなくても……。一言《ひとこと》ご連絡《れんらく》いただければ、こちらの方で探してお届《とど》けにあがりましたのに」
遺失物の担当も兼《か》ねる施設中隊の二等兵《にとうへい》は、かちかちに緊張《きんちょう》した様子で言った。
いつもマデューカス中佐やカリーニン少佐などの古強者《ふるつわもの》を従《したが》えて、さっそうと戦隊の指揮《しき》をとっている彼女である。これくらいの兵の目には、テレサ・テスタロッサは神秘《しんぴ》と謎《なぞ》の象徴《しょうちょう》であった。テッサ自身は気付いていなかったが、二等兵の顔には『うわー。こんな近くで見たの、はじめてだよ』と書いてある。
柔《やわ》らかな微笑《びしょう》を浮《う》かべて、テッサが言った。
「いえ。ごく私的な持ち物ですから。近くを通《とお》ったついでです」
「そうでありますか。それで、お探しのものとは?」
「それは……ええと」
彼女が『ぬいぐるみだ』と告げるのをためらっていると、施設中隊のオフィスに野戦服姿の下士官が入ってきた。
金髪碧眼《きんぱつへきがん》のハンサム男。SRTのクルツ・ウェーバー軍曹《ぐんそう》である。
「ういーっす。あれ、テッサじゃん。なにやってんの、こんなところで」
「ウェーバーさん? いえ、ちょっと……」
「なんか忘れ物? 弁当箱《べんとうばこ》とか体操着《たいそうぎ》とか、教科書《きょうかしょ》とか筆箱《ふでばこ》とか」
「そういう小学生みたいなアイテムではないんですけど……。ちょっとした私物です」
「ふーん。まあいいや。それよりよ、あんた落とし物係?」
そう言って、クルツは二等兵に声をかけた。
「はい、軍曹殿。本来は備蓄管理員《ストアキーパー》ですが、今週は机仕事です」
「あ、そう。これ、拾《ひろ》ったんだけど」
デスクの上に、大きめの四角い紙袋《かみぶくろ》を置く。二等兵が紙袋の中を探ると、ビデオソフトが何本も入っていた。
「これは……?」
見ると、アニメばかりだった。『美女《びじょ》と野獣《やじゅう》』、『ヘラクレス』などのディズニー映画。『となりのトトロ』や『魔女《まじょ》の宅急便《たっきゅうびん》』などの日本の作品もある。
「ロッカー室に落ちてたんだよ。どっかのだれかが探し回ってるはずだから、返しといて」
「了解《りょうかい》しました。では、こちらの台帳《だいちょう》にサインをいただきたいのですが――」
「あー、悪い。俺いま、急いでるんだ」
「あの、軍曹殿? サインを――」
「あとテキトーに頼《たの》むわ。それじゃっ」
クルツは振《ふ》り返りもせずに、そそくさとオフィスを出ていってしまった。一部始終《いちぶしじゅう》をかたわらで見ていたテッサの様子《ようす》をうかがうように、二等兵がぼやく。
「参《まい》ったなあ。規則《きそく》なのに……」
「ふふ。まあ、大目《おおめ》に見ておいてあげます。大変な貴重品《きちょうひん》というわけでもないですしね」
「あ、ありがとうございます、大佐殿」
「どういたしまして。それで、わたしの落とし物なんですけど……」
「ああ、そうでした。申し訳ありません」
二等兵は台帳をさっと広げて、目を通した。
「ここ二日で届いた遺失物は、いまのビデオを除《のぞ》いて四件だけです。腕時計《うでどけい》とスケッチブック、化粧品《けしょうひん》とハードカバーの書籍《しょせき》……と。お心当《こころあ》たりは?」
「それだけですか?」
「ええ」
テッサは小さなため息をついた。
「じゃあ、ちがうみたいですね。他を当たってみることにします」
「なにを紛失《ふんしつ》されたのでしょうか? あとで届いたらお知らせしますが」
「い、いえ。いいんです。また来ますから」
作り笑いを浮かべて、テッサがその場を後にしようとすると、今度はベルファンガン・クルーゾー中尉《ちゅうい》が入ってきた。
クルーゾーは長身のアフリカ系カナダ人で、きりりと引き締まった風貌《ふうぼう》の男である。一〇月にSRTのチーム・リーダーに着任《ちゃくにん》したばかりで、忙《いそが》しい毎日を送っている。
「あら、クルーゾーさん」
「どうも、大佐殿」
クルーゾーの敬礼《けいれい》に答えてから、テッサは気付いた。どうも疲《つか》れている様子だ。クルーゾーは黒人なので、顔色の違《ちが》いはあまり分からなかったが、両目が充血《じゅうけつ》している。すらりと細い顎《あご》まわりに無精《ぶしょう》ひげが生えているし、日頃《ひごろ》はぱりっと着こなしている野戦服も、ずいぶんとくたびれて見えた。
「あなたも忘れ物? それになんだか、お疲《つか》れみたいですけど……」
テッサが心配顔《しんぱいがお》でたずねると、クルーゾーは恐縮《きょうしゅく》した様子で答えた。
「いえ。少々、徹夜《てつや》が重《かさ》なりまして。例の新機材《しんきざい》の件です。仕様はうかがいましたので、これまでの戦術《せんじゅつ》を一から洗《あら》い直しておりました」
その機材のことは、テッサも知っていた。外部《がいぶ》の協力《きょうりょく》者の手を借りて開発中《かいはつちゅう》の、M9向けの新装備《しんそうび》だ。武器……というわけでもなかったが、使い方次第ではずいぶんと便利なものである。
「そうでしたか。でも、あれ[#「あれ」に傍点]が完成するのはまだ先の話ですよ。彼女の気まぐれで仕様|変更《へんこう》する可能性もありますし。そんなに根《こん》を詰《つ》めると、クルーゾーさんが壊《こわ》れちゃいます」
するとクルーゾーは控《ひか》えめに微笑《ほほえ》んだ。
「お心遣《こころづか》い感謝《かんしゃ》します。ですが、この程度《ていど》の労働量《ろうどうりょう》ならば問題ありません。いつでも最良《さいりょう》のコンディションで作戦に従事《じゅうじ》できます」
などと言いながらも、クルーゾーの様子はどうにも覇気《はき》がなかった。『本当に大丈夫《だいじょうぶ》かしら?』と思っていると、それを察したらしく、彼は付け加えた。
「もちろん、きょうはゆっくりさせていただくつもりです。これから自室で、茶でも飲みながら、のんびり映画|鑑賞《かんしょう》を楽しもうと思っていたのですが……。肝心《かんじん》のビデオが行方不明《ゆくえふめい》でして」
「ビデオ?」
「ええ。前の任地《にんち》に忘れてきたビデオソフトが、きのうこちらに届いたのです。ロッカー室に置いてあったのですが……」
「ああ、それならついさっき、ここに届きましたよ。ね?」
振《ふ》り返って二等兵に声をかける。
「はい。こちらです」
クルーゾーはビデオソフトの収まった紙袋《かみぶくろ》を二等兵から受け取り、中身をあらためた。
「これでよろしいですか、中尉殿?」
「ん? あ、ああ……。確《たし》かに私の持ち物だ。面倒《めんどう》をかけた」
礼を言ってから、クルーゾーは二等兵に顔を寄せ、なにやらひそひそと耳打ちした。二等兵はきょとんとしてから、『了解《りょうかい》いたしました』と生真面目《きまじめ》に答えた。
続いて、彼はテッサに歩み寄った。
「……大佐殿」
なにやら|神妙《しんみょう》な声である。
「はい?」
「つかぬことをうかがいますが……貴女《あなた》はこの中身をご覧《らん》になりましたか?」
「ええ。まずかったですか?」
「いえ、その。なんと申しましょうか……もしよろしければ、私がこういった類《たぐい》の映画を観《み》ていることは、内密《ないみつ》にしていただきたいのですが」
「なぜです?」
ただの興味《きょうみ》でたずねると、クルーゾーは伏《ふ》し目がちにうつむいた。
「私はSRTのチーム・リーダーです」
「はあ」
「陸戦ユニットの中では、実質《じっしつ》上、カリーニン少佐に次ぐ地位の人間です。経験《けいけん》豊《ゆた》かな将兵《しょうへい》を束《たば》ねるためには、一人の戦士《せんし》として範《はん》を示《しめ》し続けねはなりません。私は自分がマッチョだと強調《きょうちょう》するような愚《おろ》か者《もの》ではないつもりですが、さりとて感傷的《かんしょうてき》な人間だと思われるのも困ります。私のような士官は、もっと地味《じみ》で退屈《たいくつ》な映画を観《み》ているべきなのです。社会派《しゃかいは》の問題作《もんだいさく》やドキュメンタリーなどを……」
「そ、そうなんですか?」
「はい。絶対《ぜったい》にそうです」
力強《ちからづよ》く、クルーゾーは断言《だんげん》した。
「しかるに……です。私が任務《にんむ》の後、ささくれだった気分を和《なご》ますために、欠かさずこの手の映画を鑑賞《かんしょう》する習慣《しゅうかん》があることや、新作をチェックするためにその手の雑誌《ざっし》をひそかに愛読《あいどく》していること、とあるネットの評論《ひょうろん》サイトの常連《じょうれん》であることなどを、部下《ぶか》たちに知られるのは……非常《ひじょう》に厄介《やっかい》なのです。その影響《えいきょう》は、部隊の士気の面からみてもはかり知れません」
額《ひたい》に脂汗《あぶらあせ》さえ浮《う》かべて、彼はくどくどと説明した。
それだったら、ぬいぐるみを探してここを訪れた自分の立場はどうなってしまうのだろうか……とテッサは思った。
「別にいいじゃないですか。アニメくらい」
「いいえ、よくないのです……!」
むきになってクルーゾーは言った。
「大佐殿。どうか御一考《ごいっこう》ください。陸戦ユニットの戦力を維持《いじ》するためにも、私の趣味《しゅみ》は伏《ふ》せておくべきなのです。決して自分の体面《たいめん》を気にしているわけではありません。あくまで部隊のことを考え、その士気と練度《れんど》を保《たも》つため、私はこうしてお願いを――」
「そこまで心配なら、いっそ観《み》るの、やめたらどうです……?」
テッサがぼそりと言うと、クルーゾーは雷《かみなり》に打たれたように、全身《ぜんしん》をくわっとこわばらせた。
長い――とても長い逡巡《しゅんじゅん》のあと、彼は喉《のど》を絞《しぼ》るようにして、こう答えた。
「それは……。ご、ご命令《めいれい》ならば、従《したが》いますが」
見るからに苦しげなその返事《へんじ》。まるで『罪《つみ》もない市民《しみん》を無差別《むさべつ》に射殺《しゃさつ》しろ』と命令されたような反応《はんのう》だった。
「…………冗談《じょうだん》ですよ。安心してください、クルーゾーさん。私はあなたのささやかな楽しみをやめろなんて言う気はありませんし、だれかに話す気もありませんから」
クルーゾーは安堵《あんど》のため息をもらした。
「ありがとうございます、大佐殿。いろいろとぶしつけなことばかり申し上げたことをお許しください。では。失礼いたします」
折り目正しく敬礼すると、彼は足早《あしばや》にその場を立ち去った。
(なんと、まあ……。あの彼が)
超《ちょう》エリート部隊のSAS出身で、ASの操縦技術《そうじゅうぎじゅつ》でも宗介さえ圧倒《あっとう》する実力を持つ彼に、こんな一面があったとは。テッサはしばらくの間、妙《みょう》な感慨《かんがい》にふけっていた。
[#地付き]『一三〇三時、今朝《けさ》よりの関心事《かんしんじ》について
[#地付き]若干《じゃっかん》の調査《ちょうさ》(内容は機密事項《きみつじこう》)。
[#地付き]陸戦ユニットの作戦指揮官と昼食・談話《だんわ》。
[#地付き]より一層《いっそう》の理解《りかい》を深める』
どこに忘れてきたのやら。
ぬいぐるみの所在《しょざい》に考えを巡《めぐ》らせながら、テッサは基地の大動脈《だいどうみゃく》にあたる『〇号通路』を、一人で歩いていた。電気駆動式《でんきくどうしき》の基地|車輌《しゃりょう》が余裕《よゆう》をもって行き来できるくらいの幅《はば》があり、その両脇《りょうわき》に一段高い歩行者用の通路が設けてある。
両翼《りょうよく》で二キロに及《およ》ぶメリダ島基地の大半は、地下に建設《けんせつ》されている。予算《よさん》の多くを強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》に持っていかれたせいで、その施設《しせつ》は質素《しっそ》そのものだ。いま彼女が歩いている通路《つうろ》も、コンクリートと鉄骨《てっこつ》、配管《はいかん》や配線《はいせん》が剥《む》き出しになった殺風景《さっぷうけい》な作りである。建設中のトンネルにそっくりで、数日に一度はひどい雨漏《あまも》りに見舞《みま》われる。排水設備《はいすいせつび》の一部が故障したときなど、基地要員|総出《そうで》でバケツリレーをやるはめになった。
地上に普通《ふつう》の基地施設を建設すれば、同じ予算でもっとましなものができたのだが、そうもいかない事情《じじょう》があった。<ミスリル> は極秘《ごくひ》の傭兵組織《ようへいそしき》だ。その作戦内容や日頃《ひごろ》の活動を、アメリカやソ連などの超大国《ちょうたいこく》から秘匿《ひとく》するには、基地を地下に建設するよりほかなかった。彼らが保有《ほゆう》する、偵察衛星《ていさつえいせい》の目を盗むためである。アメリカの『|鍵の穴《キー・ホール》』などはその代表格《だいひょうかく》だ。
現代の偵察衛星の多くは、数センチ単位の識別《しきべつ》が可能な赤外線《せきがいせん》センサーを装備《そうび》している。地上に基地を設けて、その上をジャングルの樹木《じゅもく》でカモフラージュした程度《ていど》では、彼らの目をごまかすことはできないのだ。さまざまな熱源《ねつげん》――稼働中《かどうちゅう》の人員や車輌《しゃりょう》を分析《ぶんせき》するだけで、専門家ならばどれくらいの規模《きぼ》の部隊《ぶたい》が、どういった状態《じょうたい》にあるかを推測《すいそく》することができる。
それはさておき。
〇号通路の歩道を歩いているうちに、テッサの頭に断片的《だんぺんてき》な記憶《きおく》がぼんやりとよみがえってきた。
もうすこし考えてみよう。きのうの夜。マオに騙《だま》されて酒を飲んだあと、自分はどうしただろうか? たしか、寝室《しんしつ》に移動した。制服を脱《ぬ》ぎもせず、大きなベッドにダイブして、ぬいぐるみをぎゅーっと抱《だ》いて――
その後は?
――思い出せない。常識《じょうしき》的に考えれば、そのまま眠《ねむ》りに落ちて朝を迎《むか》えそうなものなのだが。なぜ自分は、部屋を出ていったりしたのだろう? どうして一度眠ったのに、わざわざベッドから起きあがって――
(電話……)
そう。電話が鳴ったのだ。部屋の電話がりんりんと。
あれは――だれからの呼び出しだったろう?
それが思い出せなかった。こめかみに人差《ひとさ》し指を突きつけ、小さなうなり声をもらしながら、懸命《けんめい》に記憶《きおく》の糸《いと》をたどるが、成果《せいか》がない。仕方がないので、テッサは手近《てぢか》な基地車輌に相乗《あいの》りして、居住区《きょじゅうく》の自室《じしつ》にそそくさと戻った。
ベッドの脇《わき》の電話をいじり、着信《ちゃくしん》の履歴《りれき》を見てみる。いちばん新しい着信は、深夜の二時前だった。
<<0148 KALININ.A(MAJ)>>
陸戦隊の作戦指揮官、アンドレイ・カリーニン少佐《しょうさ》のことだ。
(はて……?)
〇一四八時。そんな時間に、なんの用だったのだろうか? あの少佐が、夜中に私用の電話をかけてくるとも思えない。あくまでも仕事の用件だとは思うが……。
少佐のオフィスに電話する。
秘書の伍長《ごちょう》が応対《おうたい》に出て、『きょうは少佐はお休みです』と言った。
テッサは何日か前の定例会議《ていれいかいぎ》のときに、『少佐もすこしは、たまってる休暇《きゅうか》を消化《しょうか》したらどうですか?』と言ったのを思い出した。さっそく律儀《りちぎ》に、休暇をとったわけなのだろう。
部屋に電話してもよかったのだが、将校用《しょうこうよう》の居住区なのですぐ近所だ。テッサは自室を後にして、カリーニンの部屋へと直接出かけることにした。
カリーニン少佐の部屋をノックすると、ややあって扉《とびら》がかちゃりと開いた。
ぬっと、大柄《おおがら》なロシア人が姿《すがた》を見せる。灰色の髪《かみ》に灰色の髭《ひげ》。一九〇センチ近くはある長身。なぜか、いつもの野戦服の上に、赤いチェックのエプロンをつけている。はっきり言って、似合ってなかった。
[#挿絵(img2/s05_257.jpg)入る]
「大佐殿? なにか?」
すこし驚《おどろ》いた様子で、カリーニンは言った。右手には大きな木製《もくせい》のおたま。左手にはワインのボトル。
「あの……カリーニンさん。すみませんでした。もしお邪魔《じゃま》でしたら――」
「いえ。決してそのようなことは」
「ちょっとヤボ用で、聞きたいことがあったんです」
「そうでしたか。どうぞお入りください」
さっと扉《とびら》の横《よこ》にどいて、カリーニンはテッサを部屋に通した。
はじめて足を踏み入れるカリーニンの私室は、落ち着いた色調《しきちょう》だった。どこから運び込んだのか、黒ずんだ樫材《かしざい》の家具《かぐ》と、壁の二方を囲む書棚《しょだな》が、その雰囲気をより深みのあるものにしている。
書棚に収まった本を見る。技術書《ぎじゅつしょ》だらけの <トゥアハー・デ・ダナン> の船室とは異《こと》なり、文芸書《ぶんげいしょ》がその大勢《たいせい》を占《し》めていた。ロシア文字が多かったが、英国の詩人《しじん》、ウィリアム・ブレイクの詩集なんぞも、机の端《はし》っこに置いてあった。
「大佐殿。お昼はまだでしょうか」
ダイニングに案内して、椅子《いす》を勧《すす》めてから、カリーニンが言った。
「ええ。そういえば、まだでしたね……」
「もしよろしければ、こちらで召《め》し上がっていかれませんか。ちょうど特製《とくせい》のボルシチを作っていたところです」
ダイニングの奥《おく》のキッチンから、ほんのりとおいしそうな香《かお》りが漂《ただよ》ってくる。
言うまでもなく、ボルシチは有名《ゆうめい》なロシアの料理だ。ビーツという赤カブの色が鮮《あざ》やかな、牛肉《ぎゅうにく》と野菜《やさい》を煮込《にこ》んだスープである。
カリーニンが料理とは。
意外に思いながらも、テッサはにっこりとして答えた。
「いいですね。じゃあ、ごちそうになります」
「光栄《こうえい》です。ちょうどですので、サガラ軍曹も呼んでみましょうか」
「え……」
テッサの反応を待たずに、カリーニンは部屋の電話を手に取った。番号を押して、待つことしばし――
「……私だ。……実は、また例のボルシチを作ったのだが。……うむ。……そうか。……わかった」
簡潔《かんけつ》なやりとりをしてから、受話器を置く。
「残念《ざんねん》ですな。『先約《せんやく》がある』などと申しまして。来られないそうです」
「そうですか……」
複雑《ふくざつ》な気持ちになって、テッサはつぶやいた。彼に顔を合わせるのは気が重い。だから、ほっとしたのも事実《じじつ》だ。でも、彼が来ないのはやっぱり寂《さび》しかった。
そんな彼女の思いを知ってか知らずか、カリーニンが淡々《たんたん》と言った。
「不思議《ふしぎ》と、いつもタイミングが悪いようでしてな。彼も損《そん》をしています」
「そうみたいですね……」
「では、少々お待ちください。あと、およそ――」
カリーニンは壁《かべ》の時計を見た。
「――二四五秒で完成《かんせい》の予定です」
「は?」
「二四一秒の予定です。では」
そう言って、彼はキッチンの方へと引っ込んでいった。
スープがぐつぐつと煮立《にた》つ音。おたまを突《つ》っ込んで中身をかき回す音が、定期的《ていきてき》に聞こえてくる。非常に正確な周期《しゅうき》だ。数えてみたら、一五秒おきだった。
(…………料理?)
それ以上深くは考えずに、テッサはさきに用件《ようけん》を済《す》ませることにした。ダイニングから、キッチンの方に声をかける。
「カリーニンさん」
「はい」
「……きのうの晩、わたしのところに電話をくれましたよね?」
「肯定《こうてい》です」
「その……言いにくいんですけど、どんな話をしたかしら。ちょっと寝《ね》ぼけていて、記憶《きおく》が曖昧《あいまい》だったから……」
後ろめたそうにたずねる。
「覚えていらっしゃらない?」
「ごめんなさい。こんなことは二度とないように気をつけますから」
「いえ……。それほど重要《じゅうよう》な用件ではありませんでしたので。基地の早期警戒《そうきけいかい》システムの簡単《かんたん》なテストを実施《じっし》するため、許可《きょか》を求めたのですが……」
言われたとたん、思い出した。
電話口でカリーニンにその旨《むね》を告《つ》げられて、テッサは朦朧《もうろう》としながら『うん。いいですよぉ……。好きにやっちゃってください』と答えたのだった。
「大佐殿が『これからそのテストの様子を見に行く』とおっしゃったので、私は『お手をわずらわせるまでもありません。お休みください』と。それでもあなたは『見に行く』と主張《しゅちょう》されました。『すこし遅《おく》れるかもしれないから、先にはじめておいてくれて結構《けっこう》だ』とも」
「そ……そうでしたか」
そのくだりは、いまでもあんまり思い出せなかった。
「許可もいただいたので、テストを行わせてもらいました。あとでマデューカス中佐から、『艦長《かんちょう》はお見えにならない』と連絡《れんらく》がありまして。日頃《ひごろ》の激務《げきむ》でお疲《つか》れだったのだろうと思い、撤収《てっしゅう》してしまったのですが……」
確《たし》かにどうということのないテストではあったが、それをきれいさっぱり忘《わす》れていた自分のボケっぷりに、テッサは深く恥《は》じ入った。それに――
「マデューカスさんが?」
「はい。〇三〇〇時ごろです」
「…………」
と、いうことは。
その電話のあと、自分はマデューカスに出会っていたのだろうか? 自分の体《てい》たらくを見て、『これは駄目《だめ》だ』と判断《はんだん》し、彼がカリーニンに連絡《れんらく》をしたのだろうか? つまり、いちばん口うるさいマデューカスに、へべれけになってる場面を目撃《もくげき》されてしまったのだろうか……!?
(なんてことかしら。よりによって……)
ずしんと、両肩が重くなる。
テッサは暗い気分になって、目の前のテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》した。
「大佐殿。なにか問題が?」
「いえ……。いいんです。いま、頭の中で一〇〇回ほど反省《はんせい》しましたから……」
「…………?」
ほどなく、コンロの音が消えた。カリーニンの最初《さいしょ》の予告《よこく》から、きっかり二四五秒後のことだった。
「完成です」
カリーニンがダイニングに戻ってきた。食器類《しょっきるい》とパンを卓上《たくじょう》に並べ、鍋しきを中央《ちゅうおう》に置く。彼はもう一度キッチンに引き返し、銅製《どうせい》の鍋《なべ》を持ってきた。妙《みょう》に慎重《しんちょう》な――まるで安全装置《あんぜんそうち》のはずれた爆弾《ばくだん》を扱《あつか》うような、そんな物腰《ものごし》だった。
「お口に合うといいのですが……」
言いながら、カリーニンは白い陶磁器《とうじき》の皿《さら》にボルシチをよそう。その手つきも、なんとなく危険《きけん》なニトログリセリンを扱《あつか》うような感じだった。
「ちょっと不思議《ふしぎ》な感じだけど、いい匂《にお》い……」
小鼻《こばな》をくんくんとさせて、テッサは言った。
「はい。香《かお》りについて言えば、これまでの試作品《しさくひん》の中で、もっとも成功《せいこう》した例だと自負《じふ》しております」
「し、試作品……?」
「実は私が家庭料理《かていりょうり》に手を染めたのは、ここ最近のことでして」
「…………」
「これは、亡《な》き妻《つま》が生前《せいぜん》に得意《とくい》としていた料理なのです。ソ連軍時代、任務《にんむ》が明けて家に戻ると、妻のイリーナは決まってこのボルシチを私にふるまってくれました」
そこはかとなく、カリーニンは遠《とお》い目をした。
「特製《とくせい》のレシピだったそうです。通常《つうじょう》のボルシチの材料《ざいりょう》に加え、なんらかの調味《ちょうみ》料を加えていたようなのですが――その調味料が、私にはわかりませんでした。それを聞く前に、妻は病気《びょうき》で死んでしまいましたので」
「そうだったんですか……」
しおらしく、テッサはつぶやいた。
「私は妻のボルシチの味を再現《さいげん》しようと、数々《かずかず》の実験《じっけん》を試《こころ》みました。さまざまな食材《しょくざい》を投入《とうにゅう》し、その都度《つど》、詳細《しょうさい》なデータを記録《きろく》……余暇《よか》を利用《りよう》して入念《にゅうねん》な分析《ぶんせき》を行ったのです」
「はあ」
「努力《どりょく》の甲斐《かい》あって、特製ボルシチは完成の域《いき》に達《たっ》しつつあります。そしてきょう、私はついに結論《けつろん》しました。これまでのボルシチに足りなかった素材《そざい》――それは、ココア・パウダーとミソ・ペーストなのです」
力強いカリーニンの言葉に、テッサはしばしの間《あいだ》、ぽかんとした。
「…………は?」
「ですから――ココア・パウダーとミソ・ペーストです。ご存《ぞん》じありませんか。日本のミソ・スープの材料です」
「だって、ボルシチなんでしょう?」
「はい。ですが、ココアとミソは欠かせません」
「…………」
なんとなく薄《うす》ら寒《さむ》いものを感じながら、テッサは卓上《たくじょう》のボルシチ――らしきものを見下《みお》ろした。こってりと煮込《にこ》まれた具と、真《ま》っ赤《か》なスープ。真ん中に広がる白いクリーム。見た限りでは、非の打ちどころのない出来なのだが……。いや、『真っ赤なスープ』と形容《けいよう》するには、これはちょっと茶色すぎないだろうか? それどころか、黒ずんでるような気さえするのだが……?
「どうぞ、お召《め》し上がりください、大佐殿。亡き妻の料理の完成型《かんせいけい》を、あなたに最初に味わっていただけることを、光栄《こうえい》に思います」
「そ、それはどうも……」
苦しげな微笑《びしょう》を浮《う》かべ、テッサはスプーンを手にとった。
ごくり、と喉を鳴《のど》らす。
もちろん、おいしそうだからではない。恐怖《きょうふ》と緊張《きんちょう》のためだ。
おそるおそる、スプーンでスープをすくって、くちびるの前まで運ぶ。一瞬《いっしゅん》の躊躇《ちゅうちょ》のあと、彼女はそれを上品《じょうひん》に、口腔《こうこう》の中へと注《そそ》ぎ入れた。
たちまち、なんとも形容《けいよう》しがたい甘《あま》みが口中に広がる。まったく未知《みち》の味だ。強《し》いていうなら、それはなぜか、以前に千鳥《ちどり》かなめの家で飲んだドクター・ペッパーに似ていた。しかも、あたたかいドクター・ペッパーだ。
すくなくとも、断《だん》じて、ボルシチの味ではなかった。
「…………っ? うっ……!?」
カリーニンは向かいの席《せき》に座《すわ》って、ゆったりとテッサの様子をうかがっていた。普段《ふだん》は陰気《いんき》で実直《じっちょく》なだけの彼だったが、この時ばかりは、ほのかに柔和《にゅうわ》でくつろいだ様子に見える。対テロ戦争という殺伐《さつばつ》とした日常を離《はな》れて、ひとときの、はかなく、えがたい平穏《へいおん》にひたっているような――そんな顔だ。
いったいどうして、頼《たよ》りにしているこの部下の、貴重《きちょう》な時間を破壊《はかい》できようか?
「お……おいしいです」
青《あお》ざめ、わなわなと震《ふる》えながらも、彼女は健気《けなげ》に言った。もしマオがその場にいたら、『あんたって本当にいい子ね……』と、感涙《かんるい》しながら背中を叩《たた》いてくれたことだろう。
「よかった」
カリーニンは自分の皿にふしぎなスープをよそい、なんの疑問《ぎもん》もない様子でスプーンを口に運んだ。テッサが彼の反応を、固唾《かたず》を飲んで見守《みまも》っていると――
彼は小さなため息をつき、
「うむ、これだ……」
と、つぶやいた。
「……長い期間、モスクワを離れて軍務《ぐんむ》についていると、イリーナはいつも私を責《せ》めたものです。人でなし呼ばわりもされました。それでも、任務を終えて家に帰ると、妻は黙《だま》ってこのボルシチを出してくれたのです。私が『うまい』と言うと、彼女はいつも『本当か』とたずねてきました。それもいまでは……いえ。女々《めめ》しい思い出話はよしましょう」
そう言って、カリーニンは変なスープの味を心から楽しんだ。
「あのー、それって……」
「なんでしょう」
「いえ、なんでもないです……」
つい、『それって、ただ単に奥《おく》さんのイヤガラセだったのでは?』とつっこみそうになるのを、テッサはぐっとこらえた。このスープでさえおいしく感じるような任務――食生活を送っていた彼に、心底《しんそこ》同情《どうじょう》したりもした。
「さあ、大佐殿。どんどん召《め》し上がってください。五人分くらいはありますので」
「え、ええ……」
絶望的《ぜつぼうてき》な気分になりながら、テッサは震《ふる》える手で、二口目のスプーンを口に運んだ。
宗介が『先約《せんやく》がうんぬん』と言って、この場に来なかった理由が、いまでは骨身《ほねみ》に染《し》みていた。
[#地付き]『一四二一時、D3区の〇号通路にて、
[#地付き]SRT将校と下士官の深刻《しんこく》なトラブルに遭遇《そうぐう》。
[#地付き]戦隊|指揮官《しきかん》の務《つと》めとして、裁定《さいてい》を試みる。
[#地付き]その後、戦隊副司令の助力《じょりょく》で事なきを得《え》る』
半皿までが限界《げんかい》だったが、それでも、よく頑張《がんば》ったと思う。
けっきょくダイエットを理由《りゆう》にして食事《しょくじ》を止《や》め、精一杯《せいいっぱい》に名残惜《なごりお》しそうなそぶりを見せて、テッサはカリーニンの部屋から立ち去った。
もともとの目的――昨夜の自分の行状《ぎょうじょう》について、再検討《さいけんとう》してみる。
昨夜、正体《しょうたい》をなくしてぬいぐるみを抱《かか》え、自室を出たあと――自分はマデューカスになにか世話《せわ》をかけたらしい。そうなると、やはり次に行くべきはマデューカスの執務室《しつむしつ》だった。電話で済《す》まそうかとも思ったが、電話口の彼は、日頃《ひごろ》の物腰《ものごし》に加えてさらに無愛想《ぶあいそう》なのだ。きっとなにを話したらいいのかわからなくなって、ぎくしゃくするに違《ちが》いない。
そんなわけで、彼女は居住区を離れ、またオフィスのある区画へと向かった。
ただ、今度は基地|車輌《しゃりょう》を拾おうともしない。自分の足で、〇号通路の歩道を、のろのろと歩いていく。どうせヒマだったこともあるし、なるべくマデューカスとの対面を先延《さきの》ばしにしたい心理《しんり》が働《はたら》いていた。
そのおり――
テッサの行く手、通路の角の向こうから、けたたましい足音が聞こえてきた。続いてさらに遠くから、だれかの怒鳴《どな》り声。
「……?」
テッサが立ち止まると、角からクルツが飛び出してきた。彼はテッサに会釈《えしゃく》さえせず、すぐそばの駐車《ちゅうしゃ》スペースに積《つ》んであった、小型コンテナの隙間《すきま》に潜《もぐ》り込む。
「あの、ウェーバーさん……?」
「しっ……! 俺《おれ》は向こうに走り去った。そういうことで。よろしく」
「どういう――」
答えず、クルツは防水《ぼうすい》シートをたぐり寄《よ》せ、頭から被《かぶ》って隠《かく》れてしまった。
テッサがおろおろしていると、ややあって、今度はクルーゾーがその場にやって来た。
手にはモップ。肩《かた》でぜいぜい息をして、血走《ちばし》った目をらんらんと光らせている。
「どうしたんです?」
「大佐殿。ウェーバーを見かけませんでしたか……!?」
ぎらぎらと、辺りを見回《みまわ》しながらクルーゾーが言った。よほど頭に血が昇《のぼ》っているのか、敬礼も忘れている。この部隊は、あまりそういう儀礼《ぎれい》にはこだわらない変な風潮《ふうちょう》があるのだが、堅物《かたぶつ》のクルーゾーにしては珍《めずら》しいことだった。
「ええと……。あっちに走っていったみたいですけど……」
躊躇《ちゅうちょ》しつつ答える。
「どうも。では――」
走り出そうとしたクルーゾーを、彼女は呼び止めた。
「待ちなさい、クルーゾーさん。なにがあったんです?」
「それは――」
立ち止まり、逡巡《しゅんじゅん》してから、彼は言った。
「例の……ビデオテープの件です。あれから自室に帰って鑑賞《かんしょう》していたのですが……それが……作品のいちばんいいところで……」
うつむき、わなわなと肩《かた》を震《ふる》わせる。全身から、怒りのオーラが立ちのぼるのを、必死《ひっし》に抑制《よくせい》しているように見えた。
それ以上の説明は困難と見え、彼は低《ひく》く、暗い声で、結果《けっか》だけ告げた。
「……見事《みごと》な心理作戦《しんりさくせん》です。私の情緒《じょうちょ》は、木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》に打ち砕《くだ》かれました。犯人は分かっています。捕らえて、名作《めいさく》を汚《けが》した罪《つみ》を償《つぐな》わせます。それでは」
「ちょ――」
テッサがなにかを言う間も与《あた》えず、クルーゾーはその場を駆《か》け去ってしまった。
「やれやれ、行ったか」
立ち尽《つ》くすテッサの後ろで、クルツが防水シートをごそごそとどけて、姿《すがた》を現《あらわ》した。
「あそこまでこたえたとはなあ。いや、愉快《ゆかい》、愉快。これで酒場《パブ》でのケンカの借りを返せたってもんだぜ。クックック……」
「どうなってるんです?」
テッサが訊《き》くと、クルツはにんまりとした。
「いやなに。遺失物係《いしつぶつがかり》に渡《わた》す前に、ちょっと細工をね。あのビデオのクライマックスに、いろいろとショッキングな映像《えいぞう》を重ね録《ど》りしておいたのさ。精肉場《せいにくじょう》の作業風景《さぎょうふうけい》やら、ハードコア・ゲイのポルノやら、アングラの死体《したい》ビデオやら」
「なんてひどいことを……」
言ってみれば、人のお気に入りのぬいぐるみの綿《わた》を抜《ぬ》いて、大量のミミズや汚物《おぶつ》を詰《つ》めておくようなものだ。ああ見えて感傷的《かんしょうてき》なところのあるクルーゾーにとっては、とてつもないショックだったに違《ちが》いない。
「ウェーバーさん、やりすぎです」
「そう?」
「そうです。もしわたしだったら、もっと穏健《おんけん》でウィットの利《き》いた映像にします。ロジャー・コーマンの最低《さいてい》映画とか、サダム・フセインの顔面《がんめん》のアップとか……」
「それのどの辺《へん》が穏健《おんけん》なんだ……?」
「とにかく、いけません。だれにだって大切《たいせつ》なものはあるんですから。あとでちゃんと謝《あやま》ってあげてください。命令しちゃいますよ?」
「…………。うーん、でもなあ。あの中尉《ちゅうい》がそう簡単に――」
「ウェーバー、ここにいたか!?」
鋭《するど》い声。振《ふ》り向くと、モップを手にしたクルーゾーが、大股《おおまた》でずけずけとこちらに向かってくるところだった。
「ふふん。ちょうどいいぜ。逃《に》げ隠《かく》れするのにも飽《あ》きてたところだ」
不敵《ふてき》に笑うと、クルツはどこからともなく、ごっついボール銃《じゅう》を取り出した。
「ちょ、ウェーバーさん……!?」
「これでも食らいな!!」
どすんっ!
拳大《こぶしだい》のゴムボールが、まっしぐらに標的《ひょうてき》へと飛翔《ひしょう》する。クルーゾーは慌《あわ》ても驚《おどろ》きもせずに、モップを腰《こし》だめにまっすぐ突《つ》き出し、その先端《せんたん》をボールにヒットさせた。瞬間《しゅんかん》、ボールがばらばらに四散《しさん》した。
常人《じょうじん》には到底《とうてい》不可能な、離《はな》れ技である。
「やるじゃねえか、中尉さんよ」
「正確《せいかく》な射撃《しゃげき》だな、軍曹《ぐんそう》。だがそれゆえに予測《よそく》しやすい」
「あ、あの? クルーゾーさん? ウェーバーさん?」
あたふたしているテッサの前で、戦隊でも屈指《くっし》の技能を誇《ほこ》る、最精鋭《さいせいえい》の戦士二人が向かい合い、一定の間合いでぱちぱちと視線《しせん》の火花を散らした。
「覚悟《かくご》は出来てるだろうな、軍曹……」
「へっ。なんだよ」
「貴様《きさま》の犯《おか》した罪《つみ》は海よりも深い。キキは……キキはな……。飛行船に宙《ちゅう》づりになったトンボを助けるために……必死《ひっし》になって……。そこに、よりにもよってヒンデンブルグ号の墜落《ついらく》シーンだと……? 人間には、やっていいことと悪いことがある」
「身に覚えがねえな。仮《かり》に、そうだったらどうするんだい」
「その減《へ》らず口を永久《えいきゅう》に封《ふう》じてやる」
両者が同時に動いた。
熟練《じゅくれん》した動きでゴムポール銃をぶっぱなすクルツ。風をうならせ、モップを振《ふ》り回すクルーゾー。ぶつかり合っては離れ、撃《う》っては避《よ》け、しのぎ――ふたたび激《はげ》しくぶつかり合う。格闘《かくとう》ではクルーゾーに一日《いちじつ》の長《ちょう》があったが、クルツとて並《なみ》の兵士ではない。狡猾《こうかつ》に相手《あいて》の攻撃《こうげき》をくぐりぬけ、ゴムボール弾《だん》をどてっ腹《ばら》に叩《たた》きこもうとする。
「ったく、大の男がムキになってんじゃねえぞっ!?」
「うるさい、貴様《きさま》だけは断《だん》じて許さん」
「くぬっ、くぬくぬっ……!」
「無駄《むだ》だ!!」
テッサには、もう、どちらがどう動いているのかさえわからない。その理由をさておけば、ほかの兵士に見せてやりたいほどの、ハイレベルな一騎打《いっきう》ちであった。
「ああっ、もう……! やめてください。聞こえないんですか!? 二人とも――」
「貴様ら、いい加減《かげん》にせんかっ!!」
烈火《れっか》のような怒鳴《どな》り声。
クルーゾーとクルツがぱたりと動きを止める。テッサがびっくりして振り向くと、そこには副長《ふくちょう》のリチャード・マデューカス中佐《ちゅうさ》が立っていた。
「……まったく。なにやら騒《さわ》がしいと思って来てみれば。これはいったいどういうことだ。艦長《かんちょう》のご命令が聞こえなかったのか!?」
両手を腰《こし》の後ろに回し、マデューカスは声を張り上げた。さすがに頭が冷《ひ》えたのか、クルーゾーは直立不動《ちょくりつふどう》の姿勢《しせい》をとる。
「申し訳ありません、中佐殿。いささか、羽目《はめ》を外しすぎました」
「クルーゾー。貴様はSRTのチーム・リーダーのはずだったな。兵の規範《きはん》とならねばならない人間が、なんたるザマだ!? すこしは恥《はじ》を知れ!!」
「はっ。……返す言葉もありません。猛省《もうせい》しております」
「そうだぜ。猛省しまくりな」
そう言ったクルツの頭めがけて、マデューカスは手にした書類《しょるい》の束《たば》を力いっぱい振り下ろした。
「いてっ。なにすんだよ!?」
「やかましいっ!! すこしは上官に敬意を払《はら》わんかっ!! また減俸《げんぽう》するぞ!?」
「ええ? それは困るなあ……」
「そういう態度《たいど》をどうにかしろ、と言っとるのだ!!」
こめかみに青筋《あおすじ》を立てて、戦隊副司令は怒鳴った。きりきりと痛《いた》む胃《い》を押《お》さえるように、左手をみぞおちにあて、ぜいぜい肩《かた》で息をする。
「あのー。大丈夫《だいじょうぶ》っすか、中佐?」
「う、うむ。大丈夫だ――ではなくて、心配《しんぱい》する前に姿勢を正さんか、姿勢を!」
乱暴《らんぼう》に腰やら膝《ひざ》やらを小突《こづ》かれて、クルツは渋々《しぶしぶ》と直立不動の姿勢をとった。
「……とにかく。どんな事情《じじょう》があったのかは知らんが、こんな場所での私闘《しとう》など、言語道断《ごんごどうだん》だ。私の目の黒い内は、決して認《みと》めん。もし次にこんなことがあったら、基地の排水施設《はいすいしせつ》の管理|要員《よういん》に転属させて、一生ドブさらいをさせてやる! これは本気だぞ!? それを肝《きも》に銘《めい》じておけ。いいな!!」
「はっ」
「ういっす」
クルーゾーとクルツは、それぞれ答えた。
「そもそも、だ。いまのような貴様らの行動は多大《ただい》な才能《さいのう》の浪費《ろうひ》だということになぜ気付かん。もっと別の方向にエネルギーを向けようとは思わんのか。若さは財産《ざいさん》なのだぞ? 二度とは返らない貴重《きちょう》な時間を、くだらん諍《いさか》いに費やしてどうする。私が貴様らくらいの歳《とし》のころは、容易《ようい》には得難《えがた》い知識と技能を修得《しゅうとく》しようと、必死《ひっし》になって努力したものだ。自分のことに一生《いっしょう》懸命《けんめい》で、だれかと喧嘩《けんか》する時間さえなかった。それを退屈《たいくつ》な青春《せいしゅん》と言いたければ言えはいい。だがな、時を重ねるにつれ、そうした努力は必ず報《むく》われるものなのだ。現に私は二〇年前、同じ艦《かん》に乗り組んでいた同期の男と競い合い、彼を実力でうち負かして当直士官に就任《しゅうにん》した。それはなぜか? 奴《やつ》が余暇《よか》を遊びに費《つい》やしている間、私は難解《なんかい》きわまりない技術書と論文に立ち向かっていたからだ。わかるかね。結果は必ず現われるのだ。つまりここで大事なことは――」
それからえんえん五分間、マデューカスの説教《せっきょう》は続いた。
本題から話がずれまくっていたので、頭脳明晰《ずのうめいせき》なテッサでさえ、もともと何の話をしていたのかわからなくなってしまうほどだった。
「――それがペルシャ湾《わん》で得た私の教訓《きょうくん》だ。すぐれた兵はすぐれた兵器に勝るのだ。つまり! そういうことなのだ!! わかったな!?」
『はい……』
クルツやクルーゾーはもとより、なぜかテッサまでもが揃《そろ》って力無く返事する。
三人とも『つまり、どういうことなのだろう?』と思っていたが、めんどくさいので口には出さなかった。
「うむ、よろしい。……では解散《かいさん》」
言うなり、クルツとクルーゾーがばっと離れて身構《みがま》える。
「聞こえなかったのか!? 解散だ、解散!!」
渋々《しぶしぶ》と、二人のSRT要員は別々の方向へと立ち去っていく。それぞれ『けっ……』だの『ふん……』だのと吐《は》き捨《す》てるようにつぶやいていたが、マデューカスがにらみを利かせていたので、それ以上の衝突《しょうとつ》はなかった。クルツたちがいなくなると、マデューカスは『おほん』と咳払《せきばら》いした。
「いやはや、連中にも困ったものですな……」
「へ?……あ、ええ。そうですね」
ぎくしゃくとした作り笑いを浮かべて、テッサはこたえた。自分がもともと、この通路をゆっくり歩いていた理由を思い出したのだ。
昨夜――寝《ね》ぼけ半分、酔《よ》っぱらい半分で部屋を出て、ふらふらと夜中の基地をさまよったことはカリーニンの証言《しょうげん》から推測《すいそく》できる。そのカリーニンに、『大佐は来ない』と告げたのは、マデューカスだったということも聞いている。
つまり、彼は自分の醜態《しゅうたい》を目撃《もくげき》しているはずなのだ。よりにもよって、いちばん口うるさいマデューカスに。しかも、この件は全面的に自分が悪いので、叱《しか》られたり説教されたら反論のしようがない。
(ど……どういう顔をすればいいのかしら……)
この戦隊には、指揮官《しきかん》たるテッサの権力に、拮抗《きっこう》しうる人物が二人いる。その一人が軍医《ぐんい》のゴールドベリ大尉《たいい》で、もう一人がマデューカスだった。
あの気のいいおばさん――ゴールドベリ大尉には、健康上《けんこうじょう》の理由さえ伴《ともな》えば、彼女の指揮権を停止《ていし》する権利が与《あた》えられている。そしてマデューカスには、テッサが正常《せいじょう》な判断力《はんだんりょく》を失っていると判断したとき、先任士官三名以上の承認《しょうにん》を得《え》て、彼女から指揮権を剥奪《はくだつ》する権利が認められている。
あまりにも強力な最新鋭潜水艦《さいしんえいせんすいかん》やASを預かる以上、これは当然《とうぜん》の措置《そち》だった。
医者であるゴールドベリはともかく、副長のマデューカスは、そういう意味ではこの戦隊のお目付役《めつけやく》なのだ。もちろん信頼《しんらい》も信用もしているが、自分の能力について彼が疑義《ぎぎ》を挟《はさ》むのは、テッサにとってはいちばん心配なことの一つだった。
いまその心配が、現実のものになろうとしている。
「どうされました、艦長? お加減《かげん》でも?」
「いえ……」
テッサは覇気《はき》のない声で言った。
「あの……昨夜のことなんですけど」
「はい。それがなにか?」
「本当にすみませんでした。反省してます。たくさんの部下を預かる身として、ゆるされないことだと思っています。もう二度と、こんなことはないようにしますから……今回だけは、大目《おおめ》に見てくれませんか……?」
こんな甘《あま》ったれた口上《こうじょう》が通じるとも思えなかったが、テッサはそう言わずにはいられなかった。
するとマデューカスは、銀縁《ぎんぶち》の眼鏡《めがね》をかけ直し、眉《まゆ》をひそめた。
「すみません。よくわからんのですが……。基地の早期警戒《そうきけいかい》システムのテストを見ないで、艦のソナー室のテストの方に行ったのが、それほど重大《じゅうだい》なミスなのですか?」
「え……?」
「私は電話で『ソナー室での相談《そうだん》があるので、テスタロッサ大佐は基地の司令センターには来られない。カリーニン少佐にも伝えて欲しい』と言われて、その通りに伝えたのですが」
「…………」
だれかほかの人が、マデューカスに『彼女は来ない』と告げていた? マデューカスはそれをカリーニンに伝えただけ? つまり――マデューカスは、昨夜にぬいぐるみを抱《かか》えて、ふらふら徘徊《はいかい》していたはずの自分を見ていない?
「えーと……」
「教えてください、艦長。なにか重大な問題が発生《はっせい》したのでしょうか?」
「いえ! ちがいます! わたしの勘違《かんちが》いです。忘れてください」
テッサは反射的《はんしゃてき》に断言《だんげん》していた。
この際《さい》だ。彼には内緒《ないしょ》にしておこう。これから気を付ければいいんだから。
「…………。そうですか。なら、結構《けっこう》ですが」
腑《ふ》に落ちないものを感じている様子だったが、マデューカスはそう答えた。
「ともあれ、SRTの扱《あつか》いは、カリーニンに任せておくのが吉《きち》です。あの連中は、なんだかんだでくせもの揃《ぞろ》いですからな。あなたでも手を焼くのは仕方がないことです。……では、失礼します」
「あ……待ってください、マデューカスさん」
「なんでしょうか?」
マデューカスが立ち止まり、振り返った。
「その……きのうの深夜に、私が来ないと伝えた人はだれですか?」
「ええ。それは――」
彼はすこし、顔を曇《くも》らせた。
「――サガラ軍曹です」
「サガラさんが?」
「ええ。……そういえば、彼はそろそろトーキョーに帰る時間でしたな」
騒音《そうおん》の真《ま》っ只中《ただなか》、テッサは息を切らして走っていた。
メリダ島基地の飛行場は、二〇〇〇メートル級の滑走路《かっそうろ》と地下の格納庫で構成《こうせい》されている。地上の滑走路は広葉樹《こうようじゅ》に偽装《ぎそう》した天蓋《てんがい》で覆《おお》われていて、航空機《こうくうき》の離発着時《りはっちゃくじ》のみ、管制《かんせい》センターの許可でその天蓋がスライドするようになっている。なにしろ長さ二キロメートルの天蓋が動くのだ。単純に面積《めんせき》にすれば一三万平方メートル。開閉機構《かいへいきこう》を持つ野球スタジアムなどの規模《きぼ》でさえ比《ひ》ではない。
騒音《そうおん》も並大抵《なみたいてい》のものではなく、地下にまで駆動音《くどうおん》が響《ひび》いてくる。
「はっ……はっ……」
滑走路の真下《ました》に建設された、広大な格納庫を、テッサは一心不乱《いっしんふらん》に走っていく。C―130[#「130」は縦中横]輸送機《ゆそうき》やC―17[#「17」は縦中横]輸送機、その他の様々《さまざま》な航空機が並び、補給物資《ほきゅうぶっし》の積み出し作業で慌《あわ》ただしい格納庫。<トゥアハー・デ・ダナン> の格納デッキを、数倍《すうばい》にしたような構造《こうぞう》だ。
その格納庫の端《はし》に、巨大《きょだい》なエレベーターがあった。輸送機がまるまる一機|載《の》るほどのサイズで、上下に可動する床板《ゆかいた》だ。いま格納庫には、そのエレベーターの上昇《じょうしょう》を告げる警報ブザーが鳴り響いていた。
格納庫で働くたくさんの基地要員が、怪訝顔《けげんがお》で彼女を見る。そんなことには構いもせず、テッサは走り続けた。
もう、おおよそ思い出していた。
真夜中に一人で部屋を出ていって、ふらふら基地をさまよって――まず出会ったのが、宗介だったのだ。
いろいろと、好《す》き勝手《かって》なことを言ってしまった。『わたしに構《かま》わないでください』だの、『サガラさんなんて大嫌《だいきら》い!』だの。それでも彼は甲斐甲斐《かいがい》しく、自分の面倒《めんどう》を見てくれたのだ。『放《ほう》っておけません』だの、『わかったから静《しず》かにしてください……!』だの。
すったもんだの挙《あ》げ句《く》、彼女は『家に帰る』と告げた。基地の部屋に行こうとした彼に、『そっちじゃありません!』とも言った。そうして、彼女が連れて行かせたのが――
<トゥアハー・デ・ダナン> の艦長室だったのだ。
小型のターボ・プロップ機を載《の》せた巨大エレベーターが、ゆっくりと上昇をはじめていた。彼女はぎりぎりで、そのエレベーターに飛び乗る。機体のそばで、離陸前の最終|点検《てんけん》をしていた基地要員が、それを見て目を丸《まる》くしていた。
「サガラさん!」
エンジンの爆音《ばくおん》に負けないように、テッサが叫《さけ》ぶ。相良宗介は、大きなバックパックを背負って、ちょうどプロペラ機へのタラップを踏《ふ》んでいるところだった。
宗介はきょとんとしてから、バックパックだけ機内《きない》に放り込み、タラップを降りて彼女に近付いてきた。テッサは両膝《りょうひざ》に両手を突《つ》いて、呼吸《こきゅう》を整《ととの》えようとする。
「その――」
そばまで来た彼に向かって、彼女は告げた。
「――その、きのうの晩……さんざん……迷惑《めいわく》かけちゃったみたいで。ひとこと、謝《あやま》りたくって……」
「…………」
「サガラさん、ごめんなさい」
マデューカスに詫《わ》びたときよりも、ずっと強《つよ》い気持ちをこめて、テッサは言った。全身|汗《あせ》だくで、三《み》つ編《あ》みの髪《かみ》はほつれ、肩《かた》をはげしく上下させたまま。
「大好きなの。だから――嫌いにならないで」
精一杯《せいいっぱい》の気持ちをこめて、彼女は言った。
宗介は神妙《しんみょう》な様子で、彼女を見つめていた。それから周囲《しゅうい》を見回して、だれもそばにいないことを確認《かくにん》すると、テッサに顔を近づけてこう告げた。
「すみません、大佐」
「え……」
「あなたが大好きなのはわかりましたが、俺《おれ》は違《ちが》います。どうか分かってください。嫌いなんです」
「…………!」
彼女がその場に凍《こお》り付いていると、彼はさらに続けた。
「……こういってはなんですが、人前《ひとまえ》で『酒が大好きだ』などと宣言《せんげん》すべきではありません。アルコールは脳細胞を破壊《はかい》します。この仕事を長く続けたかったら、ほどほどに控《ひか》えるべきだ。実は、俺も香港《ホンコン》の一件のときにすこしばかり飲んだのですが――あれは最悪《さいあく》です。正直申し上げて、二度と飲みたくありません」
「は……?」
「どうやら、料理長の細君《さいくん》が言っていた噂《うわさ》は本当のようだな……」
「あ、あの……?」
宗介はいつになく真摯《しんし》で、しかも力強い声で言った。
「友人として忠告《ちゅうこく》します。いいですか、テッサ。酒はやめるんです。マオやクルツみたいになりたくないでしょう。このことは、俺の胸にしまっておくから」
[#挿絵(img2/s05_287.jpg)入る]
「いや、そうじゃなくて――」
「軍曹《サージ》! 離陸《りりく》の時間ですっ!」
航空部隊《こうくうぶたい》所属《しょぞく》の兵が叫《さけ》んだ。
「了解《りょうかい》した!! いまいく!……では。ぬいぐるみはマオに預けておいたので。安心を――」
ぽんと彼女の肩《かた》を叩《たた》いてから、宗介が機体《きたい》へと走り出す。エンジンの爆音《ばくおん》がさらに大きくなった。テッサは『ちがうんです!』『聞いてください!』『っていうか、なんなんです!? それ、マジボケ!?』だのと叫んだが――それが彼の耳に届くことはなかった。
エレベーターが昇《のぼ》りきる。ハッチが閉じる。機体がするすると加速《かそく》をはじめる。
膝《ひざ》を落とし、あっけにとられている彼女の前で、宗介を乗せたプロペラ機は順調《じゅんちょう》に滑走《かっそう》、離陸《りりく》して、北の空へと遠ざかっていった。
[#地付き]『二二五八時、SRTの先任下士官とミーティング。
[#地付き]今後の戦略について意見を交換《こうかん》、協議《きょうぎ》した後、就寝《しゅうしん》』
その日の晩《ばん》、基地の自室で――
「やってられません……!!」
おしるこドリンクの缶《かん》をテーブルに叩《たた》きつけ、パジャマ姿《すがた》のテッサは嘆《なげ》いた。
「本気であの人、ダメっぽいです。精一杯《せいいっぱい》の勇気を出したのに……」
「んー。まあ、あのトーヘンボクが相手じゃ、押《お》しが弱すぎたかもねー」
ノートパソコンのキーボードをかたかたと叩きながら、マオが言った。
なんとなく、無関心《むかんしん》そうな感じである。
「なんか、他人事《ひとごと》みたいですね……」
「んー。まあね」
「もともと、あなたが変なお酒をわたしに飲ませたのが発端《ほったん》なんですよ?」
「んー。ごめんねー」
「……ところで、さっきからなにやってるんです?」
「んー。ちょっと。タンゴは無理《むり》でも、ランバダならできるかと思って」
「…………。もう寝《ね》ます……」
瞳《ひとみ》をうるうるとさせて、彼女は立ち上がる。力ない足どりで寝室に向かう彼女に、マオが後ろから声をかけた。
「テッサ」
「なんです……?」
「どんな一日だった?」
言われて、彼女はすこし考えた。何人もの――たくさんの部下たちの顔が、彼女の脳裏《のうり》に浮かぶ。
「散々《さんざん》な一日でした」
「そう」
「でも、こういう毎日がずっと続いたらいいな……と思いました」
「あたしもそう思う」
ようやくパソコンのディスプレイから目を離《はな》し、マオが微笑《ほほえ》んだ。
「じゃあ、おやすみなさい……」
「おやすみ、テッサ」
友の声に送られて、彼女は寝室《しんしつ》のベッドに沈《しず》み込み、子犬のぬいぐるみを抱《だ》きかかえて、深い眠《ねむ》りに落ちていった。
いずれまた、悪夢はやって来るだろう。
だが、自分には仲間がいる。
[#地付き]<わりとヒマな戦隊長の一日 おわり>
[#改ページ]
あとがき
この本は月刊ドラゴンマガジン九九年一一・一二月号、および〇〇年五・七・八月号の連載短編に加筆修整《かひつしゅうせい》し、書き下ろし一本を加えたものです。なんと二年前に書いた話なんぞも載《の》っていて、作者もびっくりのコンテンツですが、ともあれお楽しみください。
ちなみにこの本が出ている時点ではフルメタのアニメがお目見えしている予定だったのですが、諸般《しょはん》の事情《じじょう》で延期《えんき》になりました。いやはや残念。
で、せっかくなので、私が勝手にいま電話して、監督《かんとく》のチギラコウイチさんからコメントをいただいてきました。ではチギラさん、どぞ。
『はじめまして。ついさっきまで動画机《どうがづくえ》の下で眠りこけていたチギラです。スタジオでは、通路をカット袋《ぶくろ》を抱えた若い制作さんが元気に走っていき、隣《となり》の席からは総作監《そうかんとく》の掘内《ほりうち》さんが黙々《もくもく》とレイアウト修正《しゅうせい》する鉛筆《えんぴつ》の音が聞こえてきます。
スタジオも新しい場所に移り、心機一転。現場のテンションはむしろ上がっているように感じます。突然の放送延期は本当に残念ですが、アニメフルメタル・パニック!≠ヘ、いつGOサインが出ても良いようにみんながんばっていますので、みなさんこれからも応援してください」
はい、ありがとうございましたー。
なんだか、修羅場《しゅらば》ってます。置き換《か》えてみると、こんな感じでしょうか。
賀東「……というわけで、現在も北ベトナム軍の猛攻《もうこう》を受けているケサン基地《きち》より中継《ちゅうけい》です。基地を首尾《しゅび》する海兵隊のチギラ中佐《ちゅうさ》、コメントをどうぞ」
チ「(遠い砲声《ほうせい》。断続的《だんぞくてき》な銃声《じゅうせい》)あー、……守備隊《しゅびたい》のチギラ中佐です! たったいま、伝令の若い伍長《ごちょう》が走っていきました。隣の第861高地からは、ホリウチ大尉《たいい》が指揮《しき》するエコー中隊の戦闘音《せんとうおん》が聞こえてきます(迫撃砲《はくげきほう》の炸裂音《さくれつおん》。および航空機《こうくうき》の爆音《ばくおん》)。……北ベトナム軍の砲撃で、荻窪《おぎくぼ》から中隊|司令部《しれいぶ》を移動《いどう》して心機一転。我が軍の士気はますますもって盛んでありますが……えー、なに!? 聞こえない! 構わん! 撃て! 撃てっ!」
賀「もしもし……? もしもし、中佐?」
チ「……はい! 突然の撤退《てったい》命令は本当に残念ですが、我が隊はこの基地をいつでも奪還《だっかん》できるよう、常に備《そな》えております! 将兵《しょうへい》も死力を尽《つ》くしておりますので、支援《しえん》をお願いします! 聞こえますか!? 航空支援です! ありったけのナパーム弾《だん》を……なに!? ああ、俺の上に落とせ! わかってる!! 構うもんか!」
賀「中佐? 応答《おうとう》してください、中佐!?」
チ「ちくしょう、グークめ! 来やがれ! 相手をしてやるぞ!(銃声と怒号)」
賀「チギラ中佐っ!?」
……以上、壮絶《そうぜつ》なアニメ制作現場からでした。
では例によって、毎度の各話のコメントを。
『純で不純なグラップラー』
この話のテーマは『苦手《にがて》科目に挑戦《ちょうせん》しよう!』でした。個人的にはこういうのもアリなのではないかなーと今では思っております。ちなみに僕《ぼく》自身の武道の経験《けいけん》は剣道くらいしかありません。三|箇所《かしょ》しか攻撃できないあのルール(中学生は突きは禁止《きんし》なのです)に、えらいストレスを感じたのをいまでもよく覚えとります。
『善意《ぜんい》のトレスパス」
前回に引き続き、椿《つばき》&宗介《そうすけ》のエピソードです。話的には続編に当たる感じでしょうか。やはり、自分はオヤジキャラが好きなようです。男性キャラというのは、年齢を重ねた方がいい個性が出ると思うんですよね。哀感《あいかん》をはらんだ滑稽《こっけい》さ、とでも申しましょうか。それまでの人生の味が出る、というか。それと関係があるのかどうかは知りませんが、四季先生なども、オヤジキャラがお好みのようです。
『仁義《じんぎ》なきファンシー』
ボン太くんシリーズ第三|弾《だん》。ボン太くんのぬいぐるみ商品化は、いつになったら実現するのでしょうか。龍神《りゅうじん》会組長の菅沼《すがぬま》さんは「前向きに検討《けんとう》します。ふもっふ」とか言ってたのに(ややウソあり)。欲しい人は編集部に「ぬいぐるみ、ふもっふ!」と大書した葉書《はがき》を送りましょう。いや、それで実現するかどうかは知りませんが。
『放課後《ほうかご》のピースキーパー」
大幅《おおはば》改稿《かいこう》しようかとも思ったのですが、けっきょくほとんど、まんまで掲載《けいさい》です。この話のモチーフになった某地域《ぼうちいき》について、僕は当時(たったの二年前です)『これからはいい方向に向かうだろう』と楽観《らっかん》していました。ところが、二〇〇一年現在の今では……。問題の根の深さを思い知らされている今日このごろです。
『迷子《まいご》のオールド・ドッグ』
老人と若者の珍道中《ちんどうちゅう》というのは、なぜかドラマが生まれやすいものです。僕は以前、生前の祖母《そぼ》の付き添いで広島に旅行したことがありました。頑固《がんこ》で人の言うことをまるで聞きいれない祖母でしたが、彼女の過去《かこ》や人生の一端《いったん》に触《ふ》れて、いろんなことを考えさせられました。祖母はもう亡くなってしまいましたが、彼女からもっと昔のことを聞いておけばよかったなー……と今でも思っています。
『わりとヒマな戦隊長《せんたいちょう》の一日』
これまでの話とは全然ちがうスタイルですな。フルメタTCGの関係者の皆さんと大酒かっくらった翌日《よくじつ》、二日|酔《よ》いの状態《じょうたい》で思いついた話です。
色々なキャラの意外な一面&日頃《ひごろ》の長編では描《えが》けないネタの大掃除《おおそうじ》……といった話のつもりでしたが、キャラの弱点の暴露《ばくろ》大会と化してしまった感があります。特にクルーゾー。シリアスイメージ台《だい》無し。とはいうものの、実は元々、こういう設定《せってい》のキャラだったのです。クルツとの関係もデフォルトでああなっていました。DBDのノリとテンポの都合《つごう》から、そういう面を端折《はしょ》ってしまったわけなんですが。ま、いいよね。
さて、今回でとうとう五冊目になってしまった短編集なのですが、そろそろタイトルについて苦しいものを感じております。『五里霧中《ごりむちゅう》』くらいなら、まあ、どうにかなるんです。毎回、編集さんとああでもない、こうでもないと言って決めているのですが、さすがに『六』あたりになってくると……。ううっ、もう無理《むり》だ。俺ごときの愚鈍《ぐどん》な頭では、とても……とても……。そんなわけで、次巻のタイトルを募集《ぼしゅう》させてください。採用者《さいようしゃ》には、なんと! 激《げき》レア・テレカと、サイン入りの次期短編集を差し上げます。富士見ファンタジア文庫編集部『短編六巻はもらったぜ』係までお手紙を!
情けない募集はこれくらいにして。
次の新刊は、予告通りお気楽で軽めの長編の予定です。
それでは、また。次回もかなめのハリセンがうなります。
[#地付き]二〇〇一年九月 賀 東 招 二
[#改ページ]
初出 月刊ドラゴンマガジン1999年11[#「11」は縦中横]月号、12[#「12」は縦中横]月号
2000年5月号、7月号、8月号
「わりとヒマな戦隊長の一日」書き下ろし
底本:「フルメタル・パニック! どうにもならない五里霧中?」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2001(平成13)年10月25日初版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本30頁14行 残った一人とかなめがが叫び、
がが
底本60頁15行 逃《にげ》げる
ルビの間違え。このテキストでは修正しておきました。
底本76頁2行 たかたとワープロを叩き
「かたかたと」ではないかと。このテキストでは修正しておきました。
底本76頁6行 穴の空《あい》いたベンチ
ルビ間違え。このテキストでは修正しておきました。
底本266頁8行 喉を鳴《のど》らす。
ルビ間違え。
底本292頁14行 総作監《そうかんとく》の掘内
ルビ間違え。