フルメタル・パニック!
同情できない四面楚歌?
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)磯《いそ》の香《かお》り
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)神楽坂|恵里《えり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)不審な[#「不審な」に傍点]宅急便
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目 次
磯《いそ》の香《かお》りのクックロビン
追憶《ついおく》のイノセント(前編)
追憶《ついおく》のイノセント(後編)
おとなのスニーキング・ミッション
エンゲージ、シックス、セブン
あとがき
[#改丁]
磯《いそ》の香《かお》りのクックロビン
[#改ページ]
その放課後《ほうかご》。生徒会室《せいとかいしつ》に届《とど》けられてきた不審な[#「不審な」に傍点]宅急便《たっきゅうびん》を、相良《さがら》宗介《そうすけ》はむっつりと見下ろしていた。
例《れい》によって例のごとく。
疑惑《ぎわく》むき出しの目で、穴《あな》が空きそうなほどに、じ〜〜〜〜っと観察《かんさつ》する。
宅急便のラベルを読むと、送り主は『熊本県立《くまもとけんりつ》麻留《まりゅう》中学・台空島《たいくうじま》分校《ぶんこう》』とあった。聞き覚《おぼ》えのない学校だ。
「…………」
小包《こづつみ》は発泡《はっぽう》スチロール製《せい》で、大きめの靴箱《くつばこ》ほどの大きさだった。手に取ると、意外に重たい。水が入っているような手応《てごた》えがある。こういったモノが生徒会に送られてきたのは、宗介の知る限《かぎ》りはじめてのことだった。
室内《しつない》には、まだ彼一人しかいない。
軽《かる》はずみに開封《かいふう》するのは危険《きけん》だった。箱の中身が、強力な二液混合《バイナリー》式の液体爆薬《えきたいばくやく》でないという保証《ほしょう》はどこにもない。
(さて、どうすべきか……)
確実《かくじつ》なのは、これを校庭の安全な場所に運び出し、関係者《かんけいしゃ》を遠ざけ、一人で検査《けんさ》する手段《しゅだん》だろう。
ドリルで小さな穴《あな》を空け、中にファイバースコープを挿入《そうにゅう》する。もし爆弾《ばくだん》の可能性《かのうせい》が高かったら、外部から爆破《ばくは》・処理《しょり》する。
だが、その爆弾を作った奴《やつ》が狡猾《こうかつ》だったら、その程度《ていど》の検査《けんさ》では危険《きけん》だ。
(そう。もし、俺《おれ》なら……)
箱の中を与圧《よあつ》しておくだろう。相手が無分別《むふんべつ》に穴を空けたら、箱の中の気圧《きあつ》が下がり、それに爆弾が反応《はんのう》して――ドカンだ。炭酸飲料《たんさんいんりょう》とアルミホイル、ありふれた電子部品《でんしぶひん》と薬品《やくひん》があれば、簡単《かんたん》に作れる仕掛《しか》けだった。
(やはり、検査も危険か。ならば――)
けっきょく毎度《まいど》の結論《けつろん》に達《たっ》し、宗介が小包を持ち出そうとすると――
「お……お待ちなさあぁぁいっ!」
スーツ姿《すがた》の若い女が、生徒会室に飛び込んできた。
「神楽坂《かぐらざか》先生?」
その女性――宗介の担任《たんにん》の神楽坂|恵里《えり》教諭《きょうゆ》は、戸口にすがりつき、肩《かた》でぜいぜいと息をしていた。見たところ、一階からここまで走ってきたとみえる。
「さ、相良くん。あなた、その小包をどうする気です!? まさかやっぱり、例によって爆破とか爆破とか爆破とか……」
「はい。危険物の可能性《かのうせい》がありますので」
「やめなさいっ! そういうことは!」
「ですが、用心《ようじん》に越《こ》したことはありません」
「そういう用心は要《い》りませんっ」
言うなり、彼女は宗介から小包をひったくってしまった。それこそ爆発物でも扱《あつか》うように、大事《だいじ》に両手で抱《かか》える。
「これはね……陣高《うち》の元|職員《しょくいん》で生物学者の、小金井《こがねい》先生が贈《おく》ってくださった大切なものなの。先週《せんしゅう》、先生から職員室に電話がかかってきて、『よろしく頼《たの》む』と言われて。だから、危険物なんか入ってません」
「……ふむ」
「まったく。事務室《じむしつ》じゃなくて生徒会室《こっち》に届《とど》いていたなんて。危ないところだったわ……」
安堵《あんど》のため息を漏《も》らす恵里。その横顔を、宗介は注意深い目で凝視《ぎょうし》した。
「……まだ、なにか言いたそうな様子《ようす》ね、相良くん」
「はい。念《ねん》のためにお訊《き》きしますが――その小金井という人物は清潔[#「清潔」に傍点]ですか?」
[#挿絵(img2/s04_009.jpg)入る]
「……え?」
「数年間、行方《ゆくえ》が知れない時期《じき》があったり、思想的《しそうてき》に偏向《へんこう》のある人物だったり……そういうことはありませんか?」
「ないと思うけど……」
「経済的《けいざいてき》に困窮《こんきゅう》していたり、薬物依存症《やくぶついぞんしょう》の家族がいたり、自殺|未遂《みすい》の前歴《ぜんれき》があったり……そういった問題は?」
「ありません。なにが言いたいんです」
「いえ……。元職員であろうと学者であろうと、人間、寝返《ねがえ》る時は寝返りますので」
「あなたねぇ……」
「ご存知《ぞんじ》でしょうか。以前《いぜん》、欧州《おうしゅう》でこういう事件《じけん》がありました。ある政府《せいふ》の高官が、『おまえの同性愛《どうせいあい》の趣味《しゅみ》を暴露《ばくろ》するぞ』とテロリストに脅《おど》され、大統領《だいとうりょう》の愛玩犬《あいがんけん》に爆発物を仕込《しこ》んだ事件がありました。そのときは――」
「いいかげんにしなさいっ!」
懇切丁寧《こんせつていねい》に説明する宗介の言葉を、恵里はぴしゃりと遮《さえぎ》った。
「本当、嘆《なげ》かわしいわ。どうしてあなたは、そういう風に疑《うたぐ》り深いんです。たまには、まだ見ぬ隣人《りんじん》のことを信じられないの?」
「残念《ざんねん》ながら」
宗介は堂々《どうどう》と胸《むね》を張《は》った。
「『たまには』などといった例外《れいがい》を認《みと》めれば、敵《てき》は必ずそこに付けこんできます」
「ああっ、もう……」
彼女は苦《にが》りきった顔で、小包を開封《かいふう》しはじめた。せわしげな手つきで紐《ひも》を解《と》き、蓋《ふた》を開けて中身を見せる。
「とにかく。いい? これが危険物なわけないでしょう。ほら、ごらんなさい!」
箱の中には、貝が詰《つ》まっていた。
半分|融《と》けた氷水の中に、巻き貝が八つ。人のこぶしよりやや小さいくらいで、たくさんのツノが突《つ》き出している。
「貝ですか」
「そう。貝よ」
「生きているようですが」
「そうでなくては困ります。とても貴重《きちょう》な生き物なんだから。これは、ダイクウマリュウキングガイという貝でね」
「長い上に胡散《うさん》臭《くさ》い名前ですな……」
「地味《じみ》だけど趣《おもむ》きのある色でしょ。西九州の台空島にしか棲息《せいそく》していない、それはそれは珍《めずら》しい貝だそうです。小金井先生は、学会では有名な腹足類《ふくそくるい》の権威《けんい》なの。『大事《だいじ》に育てる』って約束《やくそく》で、校長先生が特別《とくべつ》に分けていただいたそうよ」
そう言って彼女は貝を見下ろす。
碧色《へきしょく》、とでもいうのだろうか。うすく、不透明《ふとうめい》な緑色と、たなびく雲のような消炭色《けしずみいろ》の縞。貝というよりは、まるで鉱物《こうぶつ》のような模様《もよう》だった。
「ちゃんと面倒《めんどう》をみれば、ゆくゆくは三〇センチ大にまで育つそうよ。……まあ、そこまで大きくなるのはずっと先の話だけど――」
そのおり、短いチャイムの後に、事務室《じむしつ》からの校内放送が流れた。
『神楽坂先生、神楽坂先生。南部《なんぶ》百貨店《ひゃっかてん》さんからご注文《ちゅうもん》の水槽《すいそう》が届《とど》いたそうです。至急《しきゅう》、正門までおいでください。南部百貨店さんから、ご注文の水槽が――』
「あら、もう水槽が届いたのね。受け取りにいかないと」
貝を飼育《しいく》する特注品《とくちゅうひん》でも、購入《こうにゅう》したのだろう。恵里はふと彼を見やって、
「相良くん、運び込むのを手伝ってくれないかしら。ちょっと一人じゃ運べないし」
「了解《りょうかい》しました」
宗介が即答《そくとう》すると、ふたたび校内放送が急《せ》かすように告げた。
『神楽坂先生。業者《ぎょうしゃ》の方のトラックが道をふさいでいます。大至急《だいしきゅう》、正門前まで――」
「ああっ、いけない。急がないと」
恵里はあたふたとして、氷の詰《つ》まったポリ袋《ぶくろ》と巻貝を箱に詰め直そうとした。ところが一度出した中身を箱に収《おさ》めるのには要領《ようりょう》がいるようで、なかなかうまくいかない。
「うーん、まどろっこしいわ。とりあえずここに置いておきましょう」
宗介は眉《まゆ》をひそめた。
「ですが、よろしいのですか? 貴重品《きちょうひん》なのでしょう」
「すこしの間なら大丈夫《だいじょうぶ》よ。危険人物[#「危険人物」に傍点]は私のそばだし。じゃあ、行きましょう!」
宗介の背中《せなか》を押《お》して、恵里は生徒会室を後にする。ぴしゃりと扉《とびら》が閉《し》まると、だれもいない生徒会室に、変で貴重な貝だけが取り残された。
その三分後。副会長の千鳥《ちどり》かなめが、ひょこりと生徒会室に顔を出した。
宗介と同じクラスの女子生徒である。腰《こし》まで届く長い黒髪《くろかみ》に、トレードマークの赤リボン。気は強そうだが線の細い、きれいな少女だった。
「うい〜〜っす。って、だれも来てないか」
部屋は無人《むじん》だった。放課後《ほうかご》になると、たいていはだれかが先に来て、テレビやパソコンあたりを占領《せんりょう》しているものなのだが。
「ん?」
一人で部屋に入っていくと、大机《おおづくえ》の上にのった発泡《はっぽう》スチロールの箱に目が止まった。何の気なしに蓋《ふた》をどけると、中には巻き貝が詰まっている。
貝はどこかの中学からの贈《おく》り物のようだった。
「おおっ、これは……」
かなめは瞠目《どうもく》した。どういう中学なのかは知らないが、粋《いき》なはからいをしてくれるではないか。普通《ふつう》、他校への贈呈品《ぞうていひん》といったら、つまらん彫刻《ちょうこく》や絵画《かいが》と相場《そうば》が決まっているものだ。『青年の像』だとか『乙女《おとめ》の祈《いの》り』だとか、そういう工夫《くふう》のかけらもないタイトルで、地元の売れない彫刻家先生が作ったような。
だというのに。
こんなにおいしそうなサザエ[#「サザエ」は太字][#「サザエ」に傍点]を送ってくれるとは……!
「なんと、すばらしい……」
見たところ、サザエはまだ生きている様子だった。
新鮮《しんせん》。とれたて。産地《さんち》直送《ちょくそう》。磯《いそ》の香《かお》りが漂《ただよ》ってくる。これがまた、なんとも実に――
「ごくり……」
おもわず生唾《なまつば》を飲み込む。彼女は貝の詰まった箱を小脇《こわき》に抱《かか》え、さっときびすを返し、生徒会室を飛び出した。
「♪ほ〜らっ、ほぉ〜らぁ、みぃんなのぉ〜、こ〜えがぁ、すうる〜〜……っと♪」
自然とスキップを踏《ふ》みながら、かなめは歌まで口ずさんだりした。
善《ぜん》は急げ。海産物《かいさんぶつ》は鮮度《せんど》が命である。
目指《めざ》すは家庭科室《かていかしつ》だった。なにしろあそこには――ガスコンロや網《あみ》や醤油《しょうゆ》がある。
「まったく、もう! 本当に!」
ぷりぷりと怒《おこ》りながら、恵里が生徒会室への廊下《ろうか》を歩いていく。水槽《すいそう》の納入《のうにゅう》も終わり、置《お》き去りにしてきた貝を取りに戻《もど》っているところだった。
「どうしてあなたは――反省《はんせい》ってものを知らないの!? ついさっき、注意したばっかりでしょう!」
宗介が彼女の後に続《つづ》く。怒られてるのに、なんとなく偉《えら》そうな態度《たいど》であった。
「は……。しかし、やはり。先生や一般生徒《いっぱんせいと》の安全を考えますと。最低限《さいていげん》の用心はしておく必要《ひつよう》が――」
恵里はきっと彼をにらみつけた。
「だから!? だから宅配業者《たくはいぎょうしゃ》の人たちに拳銃《けんじゅう》を突《つ》きつけて、あちこちをくすぐり回したの!?」
「ボディ・チェックです。あの二人が一瞬《いっしゅん》、自分を見て、意味《いみ》ありげな目配《めくば》せをしたものですから」
「ただの高校生が、いきなりあんな大きなナイフで荷物《にもつ》を開封《かいふう》し出したら――目配せのひとつくらいするに決まってるでしょ!?」
「そういうものですか」
「そういうものなんですっ!」
そんなやり取りをしながら、二人は生徒会室の|扉《とびら》をがらりと開け、部屋にのしのしと入っていった。
「…………」
たちまち気付く。
置いてあったはずの貝が、なかった。箱ごと消えている。影《かげ》も形もない。
室内では、すでに数名の生徒がだらだらとダベっていた。
「岡田《おかだ》くん。こ、ここにあった宅急便は……? 貝が入ってたんだけど……」
恵里は会計係《かいけいがかり》の男子に声をかけた。
「いえ。知ってるか?」
会計係は眉《まゆ》をひそめ、その場にいた残りの二人に目をむけた。
「さあ?」
「えと、知らないです……」
二年生の書記《しょき》と一年生の備品係《びひんがかり》が首を横に振《ふ》る。
「なんてこと……!」
恵里の顔が、みるみる青ざめていった。彼女は早くも涙目《なみだめ》になって、おろおろと部屋中を見まわす。
「捜索《そうさく》しますか?」
宗介が落ち着き払《はら》った声で言った。
「ええっ、お願い! あの貝に、もしものことがあったら――大変だわ。校長先生が発狂《はっきょう》するかも……!」
「それは穏《おだ》やかではない」
「ああ……神様。どうか……どうかあの貝が無事《ぶじ》ですように……」
両手を組み、恵里が天井《てんじょう》を仰《あお》いで祈《いの》った。
そんな彼女の祈りもむなしく――
八つの巻貝は、網《あみ》の上で火にくべられ、ことこととおいしそうな泡《あわ》を吹《ふ》いていた。醤油《しょうゆ》と日本酒を少量《しょうりょう》、注《そそ》いでやると――これがまた実にかぐわしい匂《にお》いを発したりする。
この部屋は家庭科室なのだが、それでも調味用《ちょうみよう》という名目で、ワインやら日本酒やらが置いてあるのだ。室内にはだれもいない。家庭科教師も今日は休みだ。つまり、かなめは、この部屋を勝手《かって》に使っているのだった。
「ふふふ……」
かなめは上機嫌《じょうきげん》で、つぼ焼きのひとつに爪楊枝《つまようじ》を刺《さ》し、ぱくり、と味見《あじみ》した。こりこりとした歯ざわり。ほどよい苦味《にがみ》と肉汁《にくじる》の風味《ふうみ》が、舌《した》の上に広がっていく。
「ん、おいしっ!」
思わず何度も殻《から》をつつき、ひとつ分ほど平《たい》らげてしまった。
なんとなく普通《ふつう》のサザエとは違《ちが》う味のような気がしたが、まあ、問題《もんだい》ない。実際《じっさい》、近所の魚屋で買ったサザエよりも、ずっとおいしいのだから。
かなめはコンロの火を消すと、生徒会室のみんなを呼《よ》ぼうと、家庭科室を出ていった。直接《ちょくせつ》、つぼ焼きを持っていこうかとも思ったが、運ぶ最中に殻から汁がこぼれてしまいそうなので、やっぱりやめた。
途中《とちゅう》、南|校舎《こうしゃ》から北校舎への渡《わた》り廊下《ろうか》まで来たところで、彼女は会計係の男子・岡田《おかだ》隼人《はやと》と鉢合《はちあ》わせした。
小柄《こがら》で色黒《いろぐろ》、ドレッドヘアーの、すばしっこそうな少年だ。ぱっと見、日本人というよりはLAあたりのストリートにいそうな風貌《ふうぼう》である。
「あ、岡田くん。ちょうど良かった。いまヒマ?」
みんなを呼んできてくれ、と頼《たの》もうと思って声をかけると、彼は小刻《こきざ》みに首を振《ふ》った。
「ノッ。ヒマじゃないぜ。オレさ、いまちょっと探しものしてるんだ」
「探しもの?」
「おう。生徒会室に行ってみな。相良が大騒《おおさわ》ぎしてるぜ」
それだけ言って、岡田隼人はさっさと立ち去ってしまった。
(…………?)
不審《ふしん》に思いながらも、かなめはそのまま生徒会室に向かう。
扉《とびら》の前には、張《は》り紙がしてあった。でかでかと書かれた毛筆《もうひつ》の黒文字が、否応《いやおう》なしに目に飛び込んでくる。
<<ダイクウマリュウキングガイ特別《とくべつ》捜索本部《そうさくほんぶ》>>
「なによ、これ? ったく、またあいつは得体《えたい》のしれないことを……」
ぶつぶつ言いながら部屋に入ると、そこには相良宗介と、担任《たんにん》の神楽坂恵里がいた。大机の上に学校内の見取《みと》り図《ず》を広げ、なにやらぼそぼそと相談事《そうだんごと》をしている。いずれも深刻《しんこく》な様子だった。
「千鳥か」
彼女を一瞥《いちべつ》し、宗介がつぶやいた。
「……? どうかしたの? 二人でそんな陰気《いんき》な顔して」
たずねると、宗介は口元に手をやり、
「うむ。実は問題が発生《はっせい》してな」
「問題?」
「非常《ひじょう》に貴重な物品《ぶっぴん》が、何者かの手によって持ち去られてしまったのだ。いま、美樹原や佐々木たちに聞き込みをしてもらっているところなのだが……」
貴重な物品。なんのことだろう?
「ふーん。貴重品って?」
のんきな声でたずねると、恵里が代わりに答えた。
「……巻貝よ。発砲《はっぽう》スチロールの箱に入ってたの。八つほど」
かなめの身体《からだ》が、コンマ数秒ほどの瞬間《しゅんかん》、固くこわばった。
「ほ…………ほう」
「値段《ねだん》が付けられないほど貴重な貝だそうだ。その筋《すじ》では高名《こうめい》な小金井|教授《きょうじゅ》が、特別《とくべつ》に我《わ》が校に譲《ゆず》ってくれたもので――絶滅寸前《ぜつめつすんぜん》の稀少種《きしょうしゅ》らしい」
重々しい声で、宗介が付け加える。
「……そう、なん、ですか……」
「だれが盗《ぬす》んだのかは分からないが……貝にもしものことがあれば、その生徒は厳《きび》しい処分《しょぶん》を免《まぬか》れないだろうな。――どうかしたのか、千鳥?」
彼女の顔面にびっしりと脂汗《あぶらあせ》が浮《う》かんでいるのに気付いて、宗介が眉《まゆ》をひそめた。
「気分が悪そうだが」
「ううん? そ、ん、な、コトは。壮快《そうかい》だよ。もう。ホント」
操《あやつ》り人形のように、あごをかくかく上下させ、かすれた声をしぼり出す。
「そうか? どう見ても普通《ふつう》ではないが」
「いやいや、とても普通なのよ。これ以上ないくらい、異常《いじょう》なまでに普通なの。う、うはははは……は」
「ふむ……」
宗介は射《い》るような目で彼女の顔を凝視《ぎょうし》していたが、やがて首を振《ふ》り、
「まあ、いい。現在《げんざい》の明白《めいはく》な危機《きき》は、ダイクウマリュウキングガイの行方《ゆくえ》にこそあるのだからな」
腕組《うでぐ》みして、校内の見取り図に目を落とす。かなめはやたらと遠慮《えんりょ》がちに、
「あのー。林水《はやしみず》センパイは?」
「会長|閣下《かっか》は校長室だ。事情《じじょう》を聞いて、今後の対応《たいおう》を相談しに行った」
「そ……そう」
「俺はこの件《けん》について、捜査《そうさ》の全権《ぜんけん》をゆだねられている。安全|保障《ほしょう》問題|担当《たんとう》・生徒会長|補佐官《ほさかん》としてな」
「…………」
宗介はかなめをそっちのけにして、恵里との相談を再開した。見取り図を指してあれこれと推測《すいそく》を告《つ》げる。彼がゴミ捨《す》て場やトイレ、植え込みなどに捨てられている可能性《かのうせい》を指摘《してき》すると、恵里は『ああ、それでも無事《ぶじ》でさえいてくれれば……』などと悲痛《ひつう》な声をあげた。
一方のかなめは壁《かべ》にもたれかかり、うつむいて、苦しげに肩《かた》で息をしていた。
(う、うう……どうしよう……)
まさか、そんな大切な貝だったとは。
正直に告白《こくはく》して、頭を下げた方がいいだろうか。そうすれば、大目《おおめ》に見てもらえるだろうか? なにしろ、自分は知らなかったんだから。ただのサザエだと勘違《かんちが》いしただけで、悪意《あくい》はなかったのだから。
(そうだわ……)
思い切って『ごめんなさいっ! 知らなかったの!』と言ったら、みんな――校長や恵里や宗介や林水は、どんな顔をするだろう?
たぶん、怒《いか》りを保留《ほりゅう》して、こうたずねるはずだ。
『それで、あの貝は? 他校から譲《ゆず》られた大事《だいじ》な品は?』
……と。そうしたら自分は、答えなければならない。
――食った。
――とてもおいしかった。
(言えない。絶対《ぜったい》言えないわ……!)
かなめは青くなって首を振《ふ》った。
怒《おこ》られたり停学《ていがく》を食らったりするだけでは済《す》まない。きっと校内で、たちまち評判《ひょうばん》になることだろう。
あたかも級友《きゅうゆう》たちの声が聞こえてくるようだった。
『カナちゃん、よっぽどお腹《なか》が空《す》いてたんだろうね』
『そもそも、いきなり食うか、普通《ふつう》?』
『近所の猫《ねこ》も、たまに捕《つか》まえて食ってるらしいぞ』
あることないこと。好き勝手に。
そして自分は『贈呈品《ぞうていひん》イーター』として、一生|十字架《じゅうじか》を背負《せお》って生きていくのだ。ただでさえ、陣高《じんこう》の『恋人《こいびと》にしたくないアイドル・ベスト・ワン』などという、ありがたくもなんともない称号《しょうごう》を押《お》し付けられているのに……! 合成《ごうせい》すれば、さしずめ『恋人にしたくない贈呈品イーター』か。もはやほとんど妖怪《ようかい》である。
(いや。そんなのイヤよ……! あたしまだ一六なのよ!? きれいなドレスも着たいし、ステキな恋もしてみたいの!……っていうたわけたセリフをほざいてみたくなるほどに……イヤだわっ!)
……などと懊悩《おうのう》し、一人でごつごつとおでこを壁《かべ》に打ち付けていると。
例の会計係――岡田隼人が扉《とびら》を蹴破《けやぶ》るようにして、生徒会室に飛び込んできた。
「大変だぜ、本部長[#「本部長」に傍点]!」
「どうした、岡田」
さながら故《こ》・石原《いしはら》裕次郎《ゆうじろう》のように、宗介が悠然《ゆうぜん》と答える。
「家庭科室で遺体《いたい》が発見された!」
「…………! 何体だ?」
「八体だ。みんな死んでる。全滅《ぜんめつ》だ!」
「そうか、遅《おそ》かったか……」
その言葉を聞くなり、恵里が『がたっ』と机に突《つ》っ伏《ぷ》し、意識《いしき》を失った。
「先生。しっかりしてください、先生。……だれか、衛生兵《えいせいへい》を呼べ!」
宗介がゆさゆさと恵里の肩《かた》をゆする後ろで、かなめは湯気の立ち上る頭を抱《かか》え、その場に力なくうずくまった。
ぱしゃっ!
フラッシュが光り、卓上《たくじょう》の遺体――ダイクウマリュウキングガイのつぼ焼きを照《て》らし出す。
無人《むじん》の家庭科室で発見されたガスコンロや醤油《しょうゆ》、箸《はし》や包丁《ほうちょう》、爪楊枝《つまようじ》などの遺留品《いりゅうひん》は、それぞれチョークで円く囲まれ、そばに『A』やら『B』やらといった札が添《そ》え置かれてあった。『鑑識《かんしき》』の腕章《わんしょう》を付けた備品係《びひんがかり》の少年が、カメラを持ってテーブルの周囲《しゅうい》をうろつきまわり、あらゆる角度《かくど》から被害者《ひがいしゃ》の無残《むざん》な姿を撮影《さつえい》する。
宗介とかなめがその脇《わき》に立って、難《むずか》しい顔でつぼ焼きを見下ろした。
「……死亡|推定時刻《すいていじこく》は三〇分前。直接《ちょくせつ》の凶器《きょうき》はアイスピックだ。犯人《はんにん》はアイスピックで貝殻《かいがら》から中身を引きずり出し――文化包丁でバラバラにした。その後、ふたたび殻の中に戻《もど》して、冷酷《れいこく》にも火にかけたのだ」
殺害《さつがい》の模様《もよう》(つぼ焼きの料理法)を、宗介が淡々《たんたん》と語る。かなめはその横で、両の目をとろんとさせていた。
「確実《かくじつ》に殺そうとしたのだろう。執念《しゅうねん》さえ感じられる、残忍《ざんにん》な手口だ。いったい、犯人はこの貝にどんな恨《うら》みがあったのか……」
「ただ単に、食おうとしてただけなんじゃねーのか?」
後ろで聞いていた会計係の岡田隼人が、ぼそりとつぶやいた。
「…………」
宗介はしばらく無言《むごん》で、つぼ焼きと、その脇《わき》の醤油の瓶《びん》を観察《かんさつ》した。
「……あるいは、そうかもしれん」
「っていうか、そうだよ。これは」
[#挿絵(img2/s04_027.jpg)入る]
「いや。偽装《ぎそう》の可能性もある。怨恨《えんこん》の線を隠《かく》すために、あえて被害者の家を荒《あ》らして強盗《ごうとう》と見せかける……どこにでもある手口だ」
「…………」
いまや『ダイクウマリュウキングガイ殺害事件・捜査《そうさ》本部』の本部長となった宗介は、深い息をついて腕組《うでぐ》みした。
「いずれにせよ、貝は殺された。我々は犯人を見つけ出し、その報《むく》いを受けさせてやらねばならない」
すると、かなめがまたも遠慮《えんりょ》がちに、
「あのー。さ、捜すの? 犯人」
「当然《とうぜん》だ。草の根分けても捜し出し、貴重な贈呈品《ぞうていひん》を殺したことを後悔《こうかい》させてやらねばならない」
「……どんな風に?」
「そうだな。校内を引き回した上で、鞭《むち》打ちの刑にでも処《しょ》するか。もちろん公開刑《こうかいけい》だ」
「…………」
「三日間ほど、正門のそばに吊《つ》るして、さらしものにするのもいいかもしれん」
しごく真面目《まじめ》な声で言う宗介から、かなめは思わず、半歩、後ずさった。
「そ、それは……ちょっと、厳《きび》しすぎるんじゃないかな……。だって、その人だって、悪気があったとは限らないし。なにかの間違《まちが》いだったかもしれないでしょ?」
控《ひか》えめに言うと、宗介は首を横に振《ふ》り、
「副会長の君がそれでどうするのだ。故意《こい》かどうかは問題ではない。『そんなつもりではなかった』で許されては、社会は機能《きのう》しないだろう」
「それは……そうかもしれないけど」
「血は血であがなうしかない。これは何千年も昔から続いてきたことだ」
妙《みょう》な迫力《はくりょく》のある声で言うと、彼は現場《げんば》を観察《かんさつ》すべく、おもむろに家庭科室を練《ね》り歩きはじめた。
「あー……。ちょっと、失礼するわ……」
かなめは足を引きずるようにして、のろのろと家庭科室を出ていった。
そばの水飲み場まで歩いて、からからに渇《かわ》いた喉《のど》をうるおす。唇《くちびる》をぬぐって、どうしたものか、と苦慮《くりょ》していると――
「カ・ナ・メ・ちゃん……」
会計係の岡田隼人が、水飲み場までやって来た。なぜか、ニヤニヤとしている。
「……なによ?」
「あの貝食ったの、カナメちゃんだろ」
「!!」
なぜそれを!?……と訊《き》きたくなる衝動《しょうどう》を必死《ひっし》に抑《おさ》え、かなめはそっぽを向いた。
「な……なんの話かしら?」
「ふっふっふ。しらばっくれても無駄《むだ》だぜ。さっき渡《わた》り廊下《ろうか》で会ったとき、爪楊枝《つまようじ》くわえてただろ。家庭科室の方から歩いてきてたしなぁ」
「う……」
「それに、生徒会室に出入りする面子《メンツ》の中で、いちばん料理が上手なのもカナメちゃんだ。これはもう、ピンと来たね、オレ」
「くっ……」
終わりだわ、とかなめは半《なか》ば観念《かんねん》した。ところが岡田は、意味深《いみしん》な目つきで、
「安心しなって。なんなら、相良たちには黙《だま》っててやってもいいぜー」
「え……?」
「ただし、条件《じょうけん》がある」
岡田はぴしりと人差し指を立てた。
「な……なによ。条件って」
かなめは不安におののきながら、固唾《かたず》を飲んだ。小柄《こがら》な脅迫者《きょうはくしゃ》は、必要以上に下卑《げび》た笑《え》みをばっちりと浮かべ、
「へへへ……。たしかカナメちゃんは、JB直筆《じきひつ》のサイン入りCDを持ってたよな。ニューヨークにいたころ入手したっていう……超《ちょう》レア・アイテムだ」
「う……!」
かなめの顔面が激《はげ》しくひきつった。
「欲《ほ》しいなぁ〜〜〜〜」
「だ、ダメよっ! あれは……あれは……あたしの命なんだからっ!」
「どうしても?」
「当たり前でしょっ!? 冗談《じょうだん》じゃないわよ!」
「あ、そ……。じゃ、バラしてこよ」
さっときびすを返し、家庭科室に戻《もど》ろうとする岡田の腕《うで》を、かなめははっしとつかんだ。
「待って、岡田くん」
「なんだよー。だって、くれないんだろー」
「ほ、ほかのモノはどう? 来日公演のときのポスターとか、全然《ぜんぜん》関係ないけど『ふもふも動くボン太くん人形』とか、いいもんあるわよ? ね?……ね!?」
ほとんどすがりつくように、かなめは懇願《こんがん》した。岡田は笑って、
「えー? いらないよ、そんなの」
「そう言わずに。お願い! ほかのモノで勘弁《かんべん》して!」
「だめ。さ、放してくれ」
「ねえ、見逃《みのが》してっ。あたし、ホントに悪気なかったんだからっ……!」
瞳《ひとみ》をうるうるとさせて、かなめは彼の腕を思わず――『ぐいっ!』と引《ひ》っ張《ぱ》った。その拍子《ひょうし》で、岡田は濡《ぬ》れた水飲み場の床《ゆか》に足を滑《すべ》らせてしまった。
「お……?」
彼の身体《からだ》が宙《ちゅう》に浮き、空中できれいに半回転して――
ごきんっ!
にぶい音がひびく。岡田の後頭部が、床にヒットしたのだ。彼はその場に大の字になって、それきり動かなくなった。
「お……岡田くん?」
かなめは目をむき、その場にかがみ込んで、彼の身体をゆすってみた。だが彼はぐったりとしたまま、ときおり『むぅ――ん……』などと声を漏《も》らすだけだ。
水飲み場の周囲《しゅうい》には、だれもいなかった。すなわち、目撃者《もくげきしゃ》はいない。
(こ……これは)
図《はか》らずも、口封《くちふう》じをしてしまった。なにしろ自分の犯行《はんこう》を知り、脅迫《きょうはく》しようとした人物が、こうして床に倒《たお》れている。
ほとんど殺人犯の気持ちになって、かなめはおろおろと辺《あた》りを見まわした。
(ど……どうしよう? 遺体《いたい》をどこかに運んで、埋《う》めて……ああ、ちがう! そうじゃなくて保健室に運んで事情《じじょう》を話して……いやいや、それじゃああたしの犯行《はんこう》がバレる!)
おりもおり、家庭科室の方から足音が近づいてきたりする。まだ角の向こうで、姿は見えない。
「岡田、千鳥。遺留品を回収《かいしゅう》するから手伝ってくれ。……どこにいった?」
宗介だ。戻《もど》ってこないので様子を見に来たのだろう。
(う……やばい。ああ……どうすれば、どうすれば……)
たて続けの異常事態《いじょうじたい》にすっかり混乱《こんらん》してしまった彼女は、あたふたと、岡田の足を持ってひきずろうとしたり、宗介の方に駆《か》け出そうとしたり、いきなりその場でタップダンスを踊《おど》ろうとしたり、制服を脱《ぬ》ごうとしてやめたりして――
たっ!
けっきょく、一人で反対方向に逃《に》げ出してしまった。階段《かいだん》を駆《か》け下りていくと、後ろから宗介の声が聞こえてくる。
「岡田……!? どうしたんだ。だれにやられた。言え! 岡田――」
内心ではげしく『ごめんなさいっ!』を繰り返しながら、彼女は涙《なみだ》を振《ふ》り払《はら》い、すたこらと逃走した。
妙《みょう》な放課後《ほうかご》でも日は暮《く》れる。
校舎が夕日に照《て》らされるころ。グラウンドの野球部やサッカー部が練習《れんしゅう》を終え、ブラスバンド部のサックス吹《ふ》きが、屋上で物悲《ものがな》しいメロディを奏《かな》でたりしていた。
生徒会室には、宗介や生徒会のスタッフ六名と、ようやくショックから立ち直った神楽坂恵里が集まっていた。会計の岡田は保健室でまだ眠《ねむ》っており、生徒会長の林水も校長室に行ったきり戻《もど》ってこない。
かなめもいる。
彼女はひどく憔悴《しょうすい》した様子で、肩《かた》をすぼめ、浮かない顔をしていたが――とりあえずは校内放送の呼び出しに応《おう》じて、どこからか生徒会室に戻ってきたのだった。
「さて、みなさん」
『本部長』の腕章《わんしょう》を付けた宗介が、一同を前にして切り出した。
「現場検証《げんばけんしょう》や聞き込みを終え、いくらかの情報《じょうほう》も集まりました。捜査《そうさ》の途上《とじょう》で痛ましい犠牲者《ぎせいしゃ》も出ましたが――この『ダイクウマリュウキングガイ殺害事件』の謎《なぞ》を解《と》く鍵《かぎ》は、すでにわれわれの掌中《しょうちゅう》にあると考えていいでしょう」
彼の口調は丁寧《ていねい》だったが、同時にえらく重々しく、厳格《げんかく》な響《ひび》きだった。
「……さて。捜査をはじめる前に言ったとおり、この事件は内部の者の犯行の線が濃厚《のうこう》です。つまり、この部屋の中に犯人がいると考えていいでしょう。いくつかの判断《はんだん》材料、そして自分の直感《ちょっかん》もそう告げています」
一同が不安げな顔をする中、かなめだけが苦《にが》りきったように首を振っていた。
「この中に、ですって……? 本当なの、相良くん?」
恵里が念《ねん》を押《お》すようにたずねた。
「そうです、先生。自分としましても、非常《ひじょう》に残念なことですが……。そう考えざるをえません」
「それで、犯人は?」
「はい。その犯人は……」
一同が身を乗り出す。宗介はいくらかもったいつけて、『びしっ』と人差し指を突《つ》きつけた。
「その犯人は――あなただ、神楽坂先生」
恵里に向かって、宗介は力強く告げた。
三秒間。
恵里を含《ふく》めて、一同は無反応《むはんのう》だった。
「………………は?」
彼女は眉《まゆ》をひそめて、小首をかしげる。
宗介は大真面目《おおまじめ》にうなずくと、|両腕《りょううで》を組み、長広舌《ちょうこうぜつ》をぶちはじめた。
「もう少しでだまされるところでした、先生。もっとも、最初にあなたがあの貝を『置いていく』と言ったとき、気付くべきだった。なぜ、わざわざ貴重な貝を放置《ほうち》するのか? よくよく考えてみれば、これほど不自然なことはありません」
「ちょっと……」
「――そう。あのとき、自分と先生のほかに、生徒会室にはすでにもう一人の犯人が潜《ひそ》んでいたのです。神楽坂先生と共謀《きょうぼう》し、貝を亡《な》き者にしようと企《たくら》んだ生徒。それはだれか?」
「あなたねぇ……」
「――それは岡田です。彼のクラスは六時間目、あなたの英語の授業《じゅぎょう》だった。あなたの権限《けんげん》をもってすれば、放課後の生徒会室に一番乗りさせることは難《むずか》しくなかったでしょう。だが、そこでトラブルが生じた。自分が部屋に入ってきたのです。岡田は慌《あわ》てて机の下に潜んだ。自分が小包に興味《きょうみ》を示したときには、さぞや焦《あせ》ったことでしょう」
「待ちなさい……」
「――駆《か》けつけたあなたの機転《きてん》で、首尾《しゅび》良く自分を遠ざけたあと――岡田は貝を盗《ぬす》み出し、殺害し、なにくわぬ顔で生徒会室に戻《もど》った。しかし捜査《そうさ》が始まると、彼は良心の呵責《かしゃく》に耐《た》えられなかったのでしょう。自首して、主犯《しゅはん》である神楽坂先生の名前を告げようとしたのです。それを察知《さっち》したあなたは――あろうことか、彼を口封《くちふう》じに消そうとした」
「なんでそうなるんです……?」
「――あなたは水飲み場で喉《のど》を潤《うるお》している岡田の背後《はいご》に忍《しの》び寄ると、サディスティックな笑《え》みを浮《う》かべ、教え子の後頭部めがけて、手にした鈍器《どんき》を力いっぱい振《ふ》り下ろし――」
「人聞きの悪いことを言わないでちょうだいっ!!」
とうとう、恵里は立ち上がって怒鳴《どな》った。
「わたしは保健室で寝《ね》てたのよ? それに、なんなんです、その穴《あな》だらけな推理《すいり》はっ!?」
「…………。穴だらけ、ですか」
むっつり顔のまま、宗介は額《ひたい》に汗《あせ》を浮かべる。備品係や書記、会計|監査《かんさ》などに目を向けると、彼らは一様にうなずいた。
「なんか、強引《ごういん》です」
「ぜんぜん納得《なっとく》できません」
「そもそも動機《どうき》がないです」
口々に言われて、宗介はあごに手をやり、うめき声をあげた。
「むう……」
そのとき。
それまで、ずっと黙《だま》ってうつむいていたかなめが、いきなり立ち上がった。
「もう……やめてっ!」
「千鳥?」
宗介をはじめとして、その場の全員がぎょっとする。
「もうたくさん……! こんなことして何になるの!? あたし、疲《つか》れた。もう疲れたのよっ! どうなったっていいわっ!」
「どうした千鳥。急になにを――」
かなめは黒髪《くろかみ》を振《ふ》り乱《みだ》して、両目から涙《なみだ》を『ぶわ――っ』と流し、上ずった声で衝撃《しょうげき》の告白をした。
「あたしが……あたしが殺したのよっ!!」
一同は驚愕《きょうがく》し、くわっと目を見開いた。
「なんだと……!?」
「千鳥さん? まさか、あなたが……!?」
「ええ、そうよ! あたしが殺したの! 八人[#「八人」に傍点]とも! 中には抵抗《ていこう》した者もいた。それでもあたしは、アイスピックを突《つ》き刺《さ》して、包丁《ほうちょう》で切り刻《きざ》んで……! 一人残らず、み、皆《みな》殺《ごろ》しにしてしまったのよぉ……! うっ、うっ……」
あとは声にならない。その場に突《つ》っ伏《ぷ》して、わんわんと号泣《ごうきゅう》する。
「馬鹿《ばか》な。なぜそんなことを……!」
まさかかなめが犯人などとは、夢にも思っていなかった宗介は、血相《けっそう》を変えて彼女に詰《つ》め寄《よ》った。
「だって……だって……!」
かなめは肩《かた》を震《ふる》わせ、泣きじゃくった。
「なぜなんだ、千鳥? どうして……どうして殺したんだ!?」
すると彼女はばたりと泣きやみ、
「だって、おいしそうだったんだもん」
●
同じころ、夕日の差し込む校長室で――
陣代《じんだい》高校校長・坪井《つぼい》たか子と生徒会長・林水|敦信《あつのぶ》は、応接用《おうせつよう》のテーブルをはさみ、向かい合って座《すわ》っていた。
「しかし……その小金井先生にも困ったものですな、校長」
せわしく箸《はし》を動かし、林水が言った。
「ええ、まったく。昔は聡明《そうめい》な人だったんですがねぇ……。最近はお年のせいか、物忘《ものわす》れがひどいようで」
やはり箸を動かしながら、校長が言った。
「ただのサザエを『新種《しんしゅ》だ』だの『絶滅《ぜつめつ》危惧種《きぐしゅ》だ』だのといって、毎年送ってくるのですよ。頼《たの》みもしないのに」
「今年は生徒会の方にも届いてましたぞ。その件で神楽坂先生が、なにやら騒《さわ》いでおられましたが」
「あら、そうだったの。そういえば先週、小金井先生からの電話を受け取ったのは彼女だったわね。……まあいいでしょ、みんなでおいしく召《め》し上がってちょうだい」
そう言って、校長は『わはは』とおばさん笑いをした。
「はっはっは……。もっとも、私はこうして充分《じゅうぶん》、馳走《ちそう》になっておりますが」
林水は卓上《たくじょう》のコンロでことことと泡《あわ》を吹《ふ》く、サザエのつぼ焼きを箸で突《つ》ついた。小金井先生の命名に従《したが》えば、ダイクウマリュウキングガイのつぼ焼き――である。
「うむ、実にうまい。こうなると、ぬる燗《かん》が欲《ほ》しいところですな。さよう、和歌山《わかやま》の酒『黒牛《くろうし》』など……」
「『高校生の飲酒がどうの』とかいう以前に、どうしてそういう渋《しぶ》い趣味《しゅみ》なのかしらねぇ、あなたは……」
いまさら咎《とが》めようともせず、校長はしみじみとつぶやいた。
[#地付き]<磯の香りのクックロビン おわり>
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追憶《ついおく》のイノセント(前編)
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よく似た校舎《こうしゃ》。
よく似た廊下《ろうか》。
窓《まど》の外の景色《けしき》も、自分の学校とよく似ている。
とはいえ――他人の学校の中を歩くのは、まったくもって落ち着かないのだった。
その金曜日の午後、千鳥《ちどり》かなめと相良《さがら》宗介《そうすけ》は、となりの市にある駒岡《こまおか》学園高校にいた。生徒会《せいとかい》の人間である彼らは、多摩《たま》地区《ちく》高校|自治連絡会《じちれんらくかい》――通称『多自連《たじれん》』の用事《ようじ》があったのだ。
多自連は、おもに西東京の高校の生徒会約四〇校が集まって構成《こうせい》されている。
それぞれの学校代表が顔を合わせ、あれこれ話し合ったり、いろいろ助け合ったり、親睦《しんぼく》を深めてみたりしよう……という、なんとなくコンセプトのはっきりしない組織だ。
その多自連が、来月に一|泊《ぱく》二日の合宿を計画している。きょうはその打ちあわせ、というわけだった。
「あー、落ち着かんわ……」
駒岡学園の生徒会室に向かって歩きながら、かなめはぼそりとつぶやいた。
彼女はいつもと同じ陣代《じんだい》高校の制服姿《せいふくすがた》だった。白のブレザーに青のスカート。清潔《せいけつ》な色使いの中で、リボンタイの赤がチャーミングなアクセントになっている。
地域《ちいき》の女子には人気《にんき》の、なかなか有名な制服で、本や雑誌《ざっし》で紹介《しょうかい》されたことさえあった。一〇年前、このデザインが採用《さいよう》された翌年《よくとし》には、入学|試験《しけん》の女子の倍率《ばいりつ》が五割も跳《は》ね上がったほどなのだ。
対するに。
この駒岡学園の制服は、地味ィ〜〜な茶色のブレザーだった。ネクタイは面白《おもしろ》みのない小豆色《あずきいろ》。校則が厳《きび》しいらしく、藍色《あいいろ》のスカートは例外なく膝丈《ひざたけ》より下だ。
あまりに風采《ふうさい》のあがらないデザインなので、他校の生徒たちからは、『チャバネゴキブリ』などとささやかれている。駒岡学園の生徒たちもそれを知っており、しかもその形容《けいよう》は正しいと認《みと》めざるをえず、でもって屈折《くっせつ》した感情を抱《いだ》いているものだから――
他校の制服を校内で見かけると、なんとなく不機嫌《ふきげん》そうな顔をする。
しかも陣代。彼らのテリトリーに侵入《しんにゅう》してきたのは、陣代高校の生徒なのである。
駒岡学園は、地域《ちいき》ではトップの進学校だ。学力的には彼らより下で、ただ女子の制服がかわいいだけという――そういう高校の生徒がいると、敵意《てきい》とまではいかないが、
(なにしに来たのよ、この子は……)
とか、
(ふん。チャラチャラしちゃってさ……)
とか、
(男|漁《あさ》りでもする気かしらね……?)
とか、そんな感じの目で見られているような気がする。
これは若干《じゃっかん》、かなめの被害妄想《ひがいもうそう》も入っているのだが、とにかく、四方八方から視線《しせん》が自分に降《ふ》り注《そそ》いでいるのは事実《じじつ》だ。
そんなわけで、かなめはどうも落ち着かない気分なのだった。
落ち着かないのは宗介も同様《どうよう》だった。
なにしろ、ここは他校の領土《りょうど》である。
校舎の構造《こうぞう》や配置《はいち》などを、彼はほとんど把握《はあく》していない。いざ、何者かに襲《おそ》われたとしたら――戦術的《せんじゅつてき》に有利《ゆうり》なポジションや逃走経路《とうそうけいろ》を確保《かくほ》する自信がなかった。
しかも自分は、この学校が抱《かか》える治安状況《ちあんじょうきょう》、政治的|傾向《けいこう》などもよく知らないのだ。
陣代高校の生徒に対して偏見《へんけん》を持つ、極右勢力《きょくうせいりょく》の人間が、自分たちを狙《ねら》ってこないとも限らない。
こうしてかなめの後に付き従《したが》って歩いているだけで、茶色のブレザー姿の生徒たちの、刺《さ》すような視線を感じる。
(なにが狙いだ、この連中《れんちゅう》は……)
とか、
(ふん、異民族《いみんぞく》め……)
とか、
(我《わ》が校の重要|機密《きみつ》が目当てか……?)
とか、そんな目で見られている気がしてならないのだ。
これは完全に宗介の被害妄想なのだが、とにかく、四方八方から視線が自分たちに注がれているのは事実だった。
「どうも落ち着かん」
宗介がつぶやくと、かなめがうなずいた。
「同感。珍《めずら》しく意見が一致《いっち》したわね」
「君もそう思うか。では、気を抜《ぬ》くなよ」
「はあ?」
「なにかあったら、荷物《にもつ》は捨《す》てろ。俺《おれ》がこの連中を引きつけるから、全力で脱出《だっしゅつ》するんだ。いいな?」
「よくわかんないけど、一致してたわけじゃないみたいね……」
噛《か》み合っていないやり取りをしながら、二人は階段を上って、二階の生徒会室に到着《とうちゃく》した。
「こんにちはー。陣代の千鳥ですけど……」
駒岡学園の生徒会室は、陣代のそれとは違《ちが》い、妙《みょう》に殺風景《さっぷうけい》だった。書棚《しょだな》が二つ、机《つくえ》が一つ。パイプ椅子《いす》がちらほらと。
それだけだ。
二年生の男子が一人、その部屋でかなめたちを待っていた。坊《ぼっ》ちゃん刈りで、えらの張《は》った顔の男だった。
「生徒会長の塩原《しおばら》です」
静かな声で彼は言った。
「どうもー。お時間を取らせちゃって。ほかの人は?」
かなめがたずねる。
「多忙《たぼう》なので。僕だけです」
「あ、そう……」
「うちの生徒はあなたたちのところと違って、一〇〇パーセント、大学に行くから。みんな勉強で忙《いそが》しいの。遊んでるヒマないんですよ」
まるで応対《おうたい》をするのが、迷惑《めいわく》だとでも思っている様子だった。
かなめはむっとしながらも、書類《しょるい》と宿泊先《しゅくはくさき》のパンフを取り出した。
「……じゃ、さっさと始めますか」
さっそく合宿の打ち合わせが始まる。スケジュールの調整《ちょうせい》と、大雑把《おおざっぱ》な係の割《わ》り振《ふ》り。かなめが『こうしましょう』と提案《ていあん》すると、塩原が『好きにしてください』と答える。念を入れて細かいところを確認《かくにん》しようとすると、『それくらい考えれば分かることじゃないですか』と言う。
そんな調子《ちょうし》で三〇分が過《す》ぎた。
人を小バカにしたような相手に、かなめは内心《ないしん》でイライラしたが、どうにか我慢《がまん》して確認事項《かくにんじこう》をチェックし終えた。
「これで全部ですか」
「うん。以上ですね。では、よろしく」
かなめが言うと、塩原はそっぽを向いてうなずいただけで、そそくさと帰り支度《じたく》をはじめた。『こちらこそ』の一言もない。
コンビニでパンを買って、店員から『ありがとうございましたー』と言われただけみたいな――そんな態度《たいど》だった。
「…………」
こちらから、わざわざ出向いてきたのに、この応対《おうたい》。礼節《れいせつ》もへったくれもあったものではない。
かなめは、さすがに腹《はら》に据《す》えかねて、
「ちょっと、あんたね……」
「なんです」
「なにか言うことくらい、ないわけ?」
刺々《とげとげ》しい声で告げる。塩原は眉《まゆ》ひとつ動かさずに、
「おっしゃる意味《いみ》がよくわかりませんね。だって、用はもう済《す》んだでしょう」
「あたしが言ってるのは礼儀《れいぎ》の問題です。すこしは人間相手の応対をしたらどう?……ったく、どーいう育て方されたのよ」
すると塩原はため息をついた。
「その質問《しつもん》は中級以下ですね」
「はあ?」
「僕があなたのご機嫌《きげん》をとらなければならない根拠《こんきょ》は、どこにあるんですか。ないでしょう。だからあなたの抗議《こうぎ》はまったくナンセンスです。第一、他人のあなたに僕の人生を、とやかく言う権利《けんり》はありません。すこし考えてから物《もの》を言ってください」
「っ……」
あまりの物言いに、かなめは二の句《く》が継《つ》げなくなってしまった。その様子を見て、塩原ははじめて笑顔《えがお》――の、ようなものを浮かべた。
「まあ、やっぱり陣代の人ってことですか。そういうレベルの学校には、そういうレベルの人が集まる、と」
「…………」
「おたくの会長――林水《はやしみず》さん。あの人も、中学は僕と同じ晃征《こうせい》だったんですけどね。今じゃ落伍《らくご》してしまって。お山の大将、という奴《やつ》ですか」
それは初耳だった。『晃征』というのは、全国でもトップクラスの私立・晃征中学のことである。
「なんでも、かなりガラの悪い連中と付き合ってたらしいですよ。ノミ屋やシンナーの売買で稼《かせ》いでたのがバレて、学校側の怒《いか》りを買ったとか。お気の毒《どく》に」
あの林水が?
かなめは内心で動揺《どうよう》しながらも、相手をきっとにらみつけ、
「あんた、あたしらにケンカ売ってるわけ……?」
「いえいえ。同情《どうじょう》申し上げているだけです。まあ、気に触《さわ》ったのなら謝《あやま》っておいてもいいですよ。すみませんでした」
空々《そらぞら》しい声で言ってから、ふかぶかと頭を下げる。歯車《はぐるま》かシリンダーで動いているような、感情のない動作《どうさ》だった。
「…………」
かなめがあっけにとられている前で、駒岡学園の生徒会長は顔をあげた。
「気が済《す》みましたか? 僕はこれから予備校《よびこう》があるんです。では――」
どすんっ!!
突然《とつぜん》の銃声《じゅうせい》と共に、塩原がのけぞり、背中から床《ゆか》に倒《たお》れた。宗介が散弾銃《さんだんじゅう》を抜《ぬ》きざま、彼の顔面にゴムスタン弾《だん》を叩《たた》き込んだのだ。
「ソースケッ!?」
「残念《ざんねん》だったな、塩原とやら。会長|閣下《かっか》の名前を出した程度《ていど》では、俺の目はごまかせんぞ」
悶絶《もんぜつ》し、口から泡《あわ》を吹《ふ》く塩原に、宗介は油断《ゆだん》なく銃口《じゅうこう》を向けた。
「ちょっ……あんた、いきなりナニすんのよ!?」
「下がっていろ、千鳥。こいつは偽者《にせもの》だ」
「は?」
「俺の知る限《かぎ》り、生徒会長というのは紳士的《しんしてき》で聡明《そうめい》な人格者《じんかくしゃ》だ。こんな男が会長なわけがない。面識《めんしき》がないのを利用して、この学校の会長に成りすまし、俺たちから合宿のスケジュール情報を盗《ぬす》もうとしたのだ。おそらく本物の会長は、すでに殺されているだろう」
「なワケないでしょっ!? だいたい盗んでどーするのよ、盗んで!」
宗介はあきれたように眉《まゆ》をひそめ、
「わからんのか。多自連の討論《とうろん》合宿は、各校の首脳《しゅのう》が集まる重要《じゅうよう》イベントだぞ? 会場にTNT爆薬《ばくやく》を一〇〇キロほど仕掛《しか》ければ、出席者すべてを亡《な》き者にできる。つまり、格好《かっこう》のテロのターゲットということだ」
「世の中、もっとマシなターゲットもあるだろうに……」
「もし首脳が全滅《ぜんめつ》したら――その結果は明らかだ。各校が疑心暗鬼《ぎしんあんき》に陥《おちい》り、血で血を洗うような抗争《こうそう》が起きることだろう」
「討論《とうろん》合宿はヤクザ屋さんの集会か……?」
「とにかく、背後《はいご》関係を洗う必要がある。これからこの男を締《し》め上げて――」
「あんたねぇ……」
[#挿絵(img2/s04_053.jpg)入る]
すぱんっ!
どこからともなく現《あらわ》れたハリセンが、宗介の頭をはたき倒《たお》した。彼は頭のてっぺんをさすりながら、
「…………。いつも思うのだが……その武器《ぶき》はどこに隠《かく》し持っているんだ?」
「うるさいっ!」
答えず、かなめはぴしゃりと言った。
「とにかく全《ぜん》っ然《ぜん》、はずれ! 〇点! この人は本物!」
「そうなのか? しかし――」
「前に一度、定例会《ていれいかい》で見かけたことくらいはあるの。ヤな奴《やつ》だけど、このガッコの生徒会長よ!」
「むう……」
「ほら、介抱《かいほう》しなきゃ。白目むいてるじゃない。ああ……なんか、痙攣《けいれん》してる。ついでに変なうわ言まで……」
「は……はうっく。大変だ……大変だよママ……。ボン太くんが……ボン太くんがモスクワで……長嶋《ながしま》監督《かんとく》と……」
得体《えたい》のしれない言葉を漏《も》らす塩原を、宗介たちはいそいそと介抱した。それでも彼は朦朧《もうろう》としていて、自分の身になにが起きたのかわからない様子だった。
二人は手短に謝罪《しゃざい》すると、その学校からあわただしく立ち去った。
そんな調子《ちょうし》の他校|訪問《ほうもん》だったのだが――帰り道の途中《とちゅう》で、かなめは宗介に向かってこう言った。
「まあ……でも、あんたの一発には、珍《めずら》しくスカっとしたわよ」
「そうか」
「うん。ここだけの話だけど、ね」
彼女はからからと笑った。
数日後の放課後《ほうかご》――
かなめは陣代の生徒会室で、来年度予算の書類を黙然《もくねん》と読んでいた。
外はどしゃぶりの雨だ。冷たく、激《はげ》しい雨音が響《ひび》くほかは、校内はひっそりと静まり、これといった喧騒《けんそう》もない。
大机の隅《すみ》っこでは、宗介と備品係《びひんがかり》の一年生――佐々木《ささき》博己《ひろみ》が陣取《じんど》って、ロボットのプラモデルをいじっている。プラモのあちこちを見て、宗介はしきりに感心したうなり声をあげていた。
(驚《おどろ》きだ。光学センサーの自動|洗浄《せんじょう》ノズルまで再現されているとは……)
(ね? スゴいでしょ)
(うむ。かなりテスト中のEMD機に近いな。M9の情報は米軍でもまだ公開が制限《せいげん》されているのだが……)
(ジオトロン社にコネがあるらしいですよ。ディテールで言ったら、ASのキットはタミヤが一番!)
(これで関節《かんせつ》が動けば、文句《もんく》なしなのだが)
なにやら熱心《ねっしん》なやり取りを横目に、かなめはふっと息をつく。
生徒会長の椅子《いす》には、林水|敦信《あつのぶ》がいた。
きょうはこれといった急用もないと見え、静かにお茶をすすり、なにかの雑誌《ざっし》を読んでいる。
また難《むずか》しそうな経済誌《けいざいし》でも読んでいるのかと思ったら、違《ちが》った。ちらりと見えた表紙の文字は、『週刊|鉱石《こうせき》』。ヌードグラビアなんかも載《の》っている、お世辞《せじ》にも上品とは言えない男性誌である。
「…………」
「なにか用かね? 千鳥くん」
かなめの視線に気付いたのか、雑誌に目を落としたまま、林水が言った。
「いえ、別に……」
「ちょうどいい。ひとつ聞きたいのだが」
「なんです」
林水は眼鏡《めがね》のブリッジを、くいっと指先で押し上げた。
「もし君が、どうしてもオーストラリアに語学|留学《りゅうがく》したい……と仮定《かてい》しよう」
「はあ」
「だが、君にはその金がないとする」
「はあ」
「そこで、だ。君はその学費《がくひ》を稼《かせ》ぐためならば、発行部数五〇万の雑誌で、自身の体毛を公共にさらすことも厭《いと》わないかね?」
「なに言ってんですか、あんたは……!?」
かなめは耳まで真っ赤になった。すると林水は冷静《れいせい》に彼女を観察《かんさつ》して、
「では、君はさらさない、と?」
「当たり前です!」
「ふむ。やはり、それが常識的《じょうしきてき》な反応《はんのう》なのだろうな……」
なにやら納得《なっとく》した様子で、雑誌に視線《しせん》を戻《もど》し、難しい顔で黙《だま》り込む。
(まったく……ホントにワケのわかんない人なのよね……)
この浮世《うきよ》離《ばな》れした言動《げんどう》は、宗介とあい通じるものがある。どうのこうの言って、実はヘリクツがうまいだけの単なるバカなのではないか……とも思ったりする。
数日前の一件|以来《いらい》、その疑問《ぎもん》が彼女の頭から離《はな》れないのだ。
駒岡《こまおか》学園での狼藉《ろうぜき》の件は、結局《けっきょく》あれきりだった。向こうから抗議《こうぎ》が来なかったので、ほとんど沙汰《さた》やみの状態《じょうたい》である。
あの学校の会長・塩原は、宗介に撃《う》たれたことを覚えていないのかもしれない。仮に覚えていたとしても、宗介が怖《こわ》くなって、関《かか》わり合いになるのを避《さ》けようとした……とは充分《じゅうぶん》に考えられる。
とにかく、問題にはならなかった。
ただ、あのときの塩原との会話――林水の話から、かなめの心には、ひとつ引っかかるものが残ったのだ。
すなわち、
(なんで林水センパイは、うちのガッコにいるのかしら……?)
という疑問《ぎもん》である。
林水敦信。
オールバックに真鍮縁《しんちゅうぶち》の眼鏡。白皙《はくせき》・長身で細面《ほそおもて》。その怜悧《れいり》な風貌《ふうぼう》の通り、非常《ひじょう》に頭の切れる青年である。
一高校の生徒会長として有能《ゆうのう》なばかりでなく、機知《きち》と駆《か》け引きに長《た》け、教職員《きょうしょくいん》や不良生徒からも一目《いちもく》置かれている。その情報力、交渉力《こうしょうりょく》、知性や品格《ひんかく》、清濁《せいだく》あわせのむ信念《しんねん》は、欧州《おうしゅう》あたりの老獪《ろうかい》な政治家を彷彿《ほうふつ》とさせる。
与党的《よとうてき》な風格《ふうかく》の持ち主……とでもいうべきか。
先天的にエラそうで、変な貫禄《かんろく》がある。そして有無《うむ》をいわきぬヘリクツが得意《とくい》。その静かな自信、能力のためか、宗介とは妙《みょう》に馬が合う。
『変人』の一言で片付けてしまえばそれまでなのだが――彼は同時に秀才《しゅうさい》・優等生《ゆうとうせい》でもある。学力は常《つね》に学年のトップを独走《どくそう》しており、全国|模試《もし》でもトップクラスの成績を納《おさ》めているらしい。このままどこかの有名な国公立大に進学するのは、まず確実《かくじつ》だといわれている。
つまるところ。
林水は確《たし》かに変わり者だが、この学校の生徒にしては出来が良すぎる[#「出来が良すぎる」に傍点]のだ。もっとレベルの高い進学校は、いくらでもあるだろうに。
それが、かなめにはどうしても腑《ふ》に落ちなかった。
彼女は別に、|偏差値《へんさち》教育やら学歴社会やら、そういうものを全|肯定《こうてい》しているわけではない。ただ、『ガッコの勉強ができる、できない』で、進路《しんろ》がおのずと限られてくるのは、この社会の厳然《げんぜん》たる事実《じじつ》として受け止めていた。
いいか悪いかは別にして、世の中はそういう風にできているのだ。
その仕組みに照《て》らしてみれば、この陣代高校は――『上の下』程度《ていど》のランクだった。普通《ふつう》の子がちゃんと頑張《がんば》れば、合格するのはそう難《むずか》しくないくらいの学校だ。
その陣代に、この林水。
よくよく考えてみると、これは不自然なことなのではないか。
(そう。変なのよね……)
そんなかなめの黙考《もっこう》をよそに、当の林水は次の雑誌を取りだし、ページを開いていた。
今度のそれは、デコトラ専門誌『カミオン』だった。
(また妙《みょう》な雑誌を……。節操《せっそう》のない人だなあ)
乱読家《らんどくか》なのは確《たし》かみたいだが。そういうところが、ますます得体《えたい》が知れないのである。
「……と、思ったんだけど」
帰り道の電車の中で、かなめは言った。
「なんか事情《じじょう》でもあるのかしら? 本命の高校を受けるときに、高熱《こうねつ》を出してぶっ倒《たお》れたとか。そういう話、聞いてない?」
電車に同乗《どうじょう》し、話を聞いていたのは、家が近所の宗介と、生徒会で書記《しょき》をしている美樹原《みきはら》蓮《れん》の二人である。
「いや。聞いていないな」
宗介がかぶりを振《ふ》った。
「俺はいまのいままで、閣下《かっか》は乞《こ》われて時代高校に入ったのだとばかり思っていた。学校の質的向上《しつてきこうじょう》を図《はか》るために、巨額《きょがく》の契約金《けいやくきん》と校長じきじきの要請《ようせい》で――」
「センパイはドラフト一位の野球選手か……?」
「そもそも、俺は受験|制度《せいど》というのをよく知らんのだ」
「あ、そうか。あんたってホントは……ん、こほん。お蓮さんは?」
「いえ。わたしは……そういうお話はうかがっていませんけど」
しっとりとした声で、蓮が言った。
彼女は二年生――つまりかなめたちとタメなのだが、なぜか折《お》り目の正しい敬語《けいご》を使ってくる。見るからに品のいい、古風《こふう》なたたずまいの少女で、つややかな黒髪《くろかみ》が印象的《いんしょうてき》だった。シャンプーのCMにでも出てきそうなタイプである。
「林水|先輩《せんぱい》は、あまり昔の話はなさらないですし……。あの方は常《つね》に未来を見据《みす》えておられますから。それに、そこがミステリアスで……素敵《すてき》なのだと思います」
「…………」
かなめと宗介が神妙《しんみょう》な顔でじっと見ているのに気付いて、蓮はぽっと頬《ほほ》を赤らめた。
「まあ、わたしったら……。そういう意味ではないのですよ? ごめんなさい」
「いや……別にいいけど。しかし、この面子《メンツ》が知らないんじゃ、ほかの子に聞いても同じかなー」
この場の三人は、生徒会の中では林水にいちばん距離《きょり》の近い人物だった。
「だが、確《たし》かに気になる。あの塩原の話……俺は最初、ただのハッタリだと思っていたのだが」
「ああ。ノミ屋やシンナーの仲買《なかがい》をやってたっていう。それはさすがにウソよ、きっと」
「敵の多い閣下のことだ。何者かが、そういった風評《ふうひょう》を意図的《いとてき》に流している可能性《かのうせい》は考えられるな」
「ま、噂《うわさ》はあくまで噂だから」
聞いていた蓮の横顔に、ふと憂《うれ》いの影《かげ》がよぎった。
「だと良いのですが……」
ため息まじりでつぶやく。
「どうしたの?」
「いえ……その。実は……」
「?」
蓮は迷いを見せ、すこしの間、躊躇《ちゅうちょ》していた。それから思い立ったように、
「このことは、くれぐれも内密にしていただきたいのですが」
「うん」
「了解《りょうかい》」
「わたし……見てしまったのです」
「見た。なにを」
「その……。林水先輩が……悪い不良の人たちと、黒い交際《こうさい》をしている場面を」
かなめと宗介は数秒間、無反応《むはんのう》だった。それから、たいして|驚《おどろ》いてもいない声で、
『黒い交際……?』
と、異口同音《いくどうおん》に言った。
「ええ、実は――」
蓮が話すには、こういうことだった。
先週の土曜日に、蓮と林水は、二人で連《つ》れ立って新宿に出かけた。
生徒会で使うパソコン・ソフトの物色《ぶっしょく》が目的《もくてき》だったのが、ついでにデパートの美術館で開かれていたエゴン・シーレ展《てん》に行ったり、お茶を飲んだりもしたそうな。
「それはそれは、楽しいひとときでした……」
心なしかうっとりとした声で、蓮は言った。
「…………。むしろ『黒い交際』うんぬんよりも、そのデートの事実の方があたしには驚《おどろ》きなんだけど」
かなめがしげしげと、蓮の顔をのぞきこむ。すると彼女はほほえんで、
「デートとは違《ちが》います。生徒会の用ですから。それに……先輩《せんぱい》とは、画家の趣味《しゅみ》が合うのです」
「ふーん……。それで?」
「はい。その帰り道のことなのですが――」
喫茶店《きっさてん》を出て、新宿駅へと歩いている途中《とちゅう》のことだったという。
林水に、声をかけてくる者がいた。
それが蓮が言うところの『悪い不良の人たち』だったのだ。丸刈《まるが》りで刺青《いれずみ》をしていたり、顔が傷跡《きずあと》だらけだったり、その数は三名。
彼らは林水を取り囲み、必要《ひつよう》以上に馴《な》れ馴れしい態度《たいど》で話しかけてきた。いわく、
『久しぶりじゃねえか』
だの、
『まだ生きてたわけ?』
だの、
『今度はこの女が餌食《えじき》かよ』
だのと。
林水はいつもと変わらず、落ち着いた様子だった。彼はその三人とひとしきり話してから、蓮に『すまないが、先に帰ってもらえないだろうか』と告げ、男たちと連れ立って、その場から立ち去ってしまったのだそうだ。
「ちょっと待ってよ」
そこでかなめが口を挟《はさ》んだ。
「どういうこと? その、『餌食』だのなんだのって」
「さあ……。その不良の人は、先輩《せんぱい》の下で働《はたら》く私が、ひどく苦労《くろう》していると勘違《かんちが》いなさったのかもしれません。生徒会のお仕事は忙《いそが》しいですから」
「いや、それはさすがに無《な》いと思うけど……」
「それで、君はそのまま帰ったのか」
宗介がたずねると、蓬は首を小さく振《ふ》った。
「いいえ。恥ずかしながら、こっそり後を尾《つ》けさせていただきました。林水先輩が心配だったものですから……」
「良い判断《はんだん》だ」
「ありがとうございます。それで――」
人ごみにまぎれ、蓮は林水たちの後を尾けた。彼らは歌舞伎町《かぶきちょう》を通りぬけ、ひどく柄《がら》が悪い歓楽街《かんらくがい》の外れの、小さなビルの地下へと入っていったという。バーかクラブの入り口らしかった。その前には、これまたひどく柄の悪い連中がたむろしていて、彼女にはとうてい近づくことができなかったそうだ。
「仕方なく、すこし離《はな》れた角で先輩が出てくるのを待っていたのですが……。別の殿方《とのがた》に声をかけられてしまいまして。お食事の誘《さそ》いを受けたので、丁重《ていちょう》にお断《ことわ》りしました。すこしたって、また別の方が……。今度は、お給金《きゅうきん》の高いアルバイトをしてみませんか、と。興味《きょうみ》はありましたが、とりあえずお断りを。さらに似《に》たような申し入れが次から次へ――どうなさいました、かなめさん?」
口をぱくぱくさせ、冷や汗《あせ》をかいているかなめに気付き、蓮が不思議《ふしぎ》そうな顔をした。
「つ、ついハラハラして……。あのね、お蓮さんみたいな子はね、今度からそういう場所、一人で行っちゃダメだよ? いやマジで」
「はあ……」
蓮はきょとんとしてから、
「とにかく、そうしているうちに、林水先輩はご無事《ぶじ》の様子でビルから出てきて、立ち去ってしまったのです。後を追おうにも、映像関係のお仕事をなさっている方が、熱心にわたしを引きとめるもので……」
「ちゃ、ちゃんと断った!? 電話番号とか、教えてないでしょうね?」
「ええ。いちおう……」
かなめは胸をなでおろす。
「ふう……。で? けっきょく、その連中と、どういう関係だったのかは分からずじまい……と」
「はい。残念《ざんねん》ながら……。ただ――」
「ただ?」
蓮の横顔に、苦渋《くじゅう》のような表情がよぎった。
「ビルの地下から出てきたところで、先輩《せんぱい》が……不良の人に、お金を渡《わた》していたんです」
『カネ?』
同時に言って、かなめと宗介は顔を見合わせた。
「ええ。さすがにその金額までは、遠くて見えませんでしたけど……」
そのおり、三人を乗せた電車が、ちょうど調布《ちょうふ》駅に停車《ていしゃ》した。
その翌日の放課後《ほうかご》――
かなめは自分の教室で、教科書とノートをいそいそと鞄《かばん》に詰《つ》めていた。
外は快晴《かいせい》だ。六時間目が終わった直後《ちょくご》で、まだ辺《あた》りはわやわやと騒《さわ》がしい。
掃除《そうじ》当番の生徒が、掃除用具を引っ張《ぱ》り出していた。
部活動の身支度《みじたく》をする者が、難儀《なんぎ》そうな不平をもらしていた。
帰宅部の生徒が、冗談《じょうだん》を言い合ってけらけらと笑っていた。
「ねえねえ、カナちゃん、カナちゃん!」
クラスメートの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》と工藤《くどう》詩織《しおり》が、かなめの元に駆《か》け寄《よ》ってきた。
「んー、どしたの?」
「あのね、あのね。シオリちゃんが、商店街の福引《ふくびき》でカラオケ屋のタダ券当てたの。八人まで無料《タダ》なんだって!」
「ほほう。それはまたラッキーな」
「これから行こうよ。オノDと風間《かざま》くんと、ユカちゃんとミズキちゃんも誘《さそ》ったら来るって。あと相良くんも呼んでさ!」
「久しぶりに、こうパーっと! ね? ね? 歌いまくろーよ!」
二人とも、なにやら妙《みょう》にハイテンションである。ここ数日、天気が悪かったし、退屈《たいくつ》でうざったい数学の授業《じゅぎょう》がたったいま終わったせいかもしれない。
「んー、悪い。きょうはちょっと」
「ええ〜〜〜! なんで?」
恭子と詩織は、身体《からだ》全体で落胆《らくたん》をあらわにした。
「ぶー。つまんない……!」
「カナちゃんの中島みゆき、聞きたかったのに……」
「ヤボ用でね、行くトコあるの。……ソースケ?」
窓際《まどぎわ》の席の宗介に声をかける。彼も帰り支度《じたく》を済《す》ませて、自動拳銃《じどうけんじゅう》の点検《てんけん》をしているところだった。
「行くか」
「うん」
かなめは鞄《かばん》のふたをぱちん、と閉じた。
「……相良くんも? 生徒会の用事《ようじ》?」
「うむ。すまんな」
「ホント、ごめんね。次は必ず行くから。じゃっ」
ぽかんとした恭子たちに手を振《ふ》って、彼女は宗介と共に教室を後にした。
[#挿絵(img2/s04_071.jpg)入る]
かなめと宗介は陣代高校の最寄《もより》駅・泉川《せんがわ》まで行くと、いつもの帰りとは逆方向――つまり上り方面のホームに向かった。
電車に揺《ゆ》られること二〇分。二人は新宿に到着《とうちゃく》する。
いうまでもなく、大都会である。
雑踏《ざっとう》の中を、必要以上にきょろきょろしながら歩く宗介を見て、かなめは顔をしかめた。
「ったく、やめてよ。田舎《いなか》モンみたいじゃない」
「用心のためだ。それに実際《じっさい》、俺は田舎育ちだから問題ない」
「はあ。アフガニスタンって田舎なの?」
「うむ。自然が豊かだ。地雷《じらい》も多いが」
「イヤな田舎もあったもんね……」
間の抜《ぬ》けたやり取りをしながら、二人は靖国《やすくに》通《どお》りを渡る。東洋最大の歓楽街《かんらくがい》・歌舞伎町《かぶきちょう》に入って、えっちな店が建《た》ち並《なら》ぶあたりを通りぬけ、人通りの少ない裏手に出た。
すでに辺りは夕闇《ゆうやみ》に包《つつ》まれようとしていた。
「この辺ね……」
「あのビルだ」
蓮の言っていた問題の建物《たてもの》――林水が入っていったというビルが、そこにあった。
二人がここまでやって来たのは、林水の過去《かこ》が、どうにも気になったからだ。
駒岡学園の塩原が言っていた、『ノミ屋やシンナーの売買〜』という話。
美樹原蓮が聞いた『悪い不良の人』とのやり取りの話。
いずれも穏《おだ》やかな内容ではない。
かなめはこれまで、林水を『本当はいい人』と思ってきた。宗介は彼を『善意の現実主義者《げんじつしゅぎしゃ》』として敬意《けいい》を払《はら》ってきた。だから二人は、あれこれと彼に無理難題《むりなんだい》を押《お》し付けられても、それなりの誠意《せいい》をもって接《せっ》してきたのだ。
しかし。
その確信《かくしん》が、ここ最近の出来事《できごと》で、にわかに揺《ゆ》らいできたのは事実だった。
火のないところに煙《けむり》は立たない。そういう言葉もある。純粋《じゅんすい》・真っ正直に『センパイはそんな人じゃない!』と信じるほど、かなめも宗介も無邪気《むじゃき》ではなかった。『疑《うたが》う』というのは、ヘルシーな精神《せいしん》活動なのだ。そういう二人だからこそ、林水は彼らを買っているのだといえる。
まず、なにかの誤解《ごかい》だろう――
そう思いながらも、どうしてもモヤモヤ感が抜《ぬ》けない。ならば、事情を知っている人間のいそうな場所に行ってみよう……。
かなめと宗介は、暗黙《あんもく》のうちにそう結論《けつろん》したのだった。
「見た目は普通《ふつう》だが……」
「そーね」
くすんだ灰色の雑居《ざっきょ》ビルだった。
一階は薬局、二階は台湾人《たいわんじん》向けビデオ店、三階は消費者金融《しょうひしゃきんゆう》。四階にもなにかの業者《ぎょうしゃ》が入っているようだったが、看板《かんばん》はない。
そして、薬局の脇《わき》に地下への入り口があった。素《そ》っ気《け》ない立て看板《かんばん》には、『688(T)』とある。それだけだ。ほかは何の説明もない。
「なるほど。いかにも一見さんお断り、って感じ……」
「これは何の店なのだ」
「いちおう、クラブかなんかみたいだけど」
「クラブとは?」
「まあ、飲んで踊《おど》れる溜《た》まり場みたいなもんよ。ただ、ここは……どうなのかな。どっちかっていうと飲み屋に近い感じがする」
「よく分かるな」
「ん、当てずっぽう。あたし、そんな遊ぶお金ないし」
「では、入るか」
「うん」
二人は細い階段を降りていった。両脇《りょうわき》の壁《かべ》は、張《は》り紙と落書きだらけだ。
その階段の一番下、店の入り口の扉《とびら》の前に、二人の少年がダベっていた。空のビール瓶《びん》が納《おさ》まったケースに腰《こし》かけ、タバコをぷかぷかと吸《す》っている。
少年たちは最初、|笑顔《えがお》を|浮《う》かべていたが、部外者の宗介たちに気付くと、たちまち無表情になった。
「あのー、すいません……」
かなめが声をかける。しかし相手は返事《へんじ》もせず、じっと彼女を凝視《ぎょうし》しているだけだ。それでも彼女はめげずに、定期《ていき》入れから林水の写真を取り出し、慇懃丁寧《いんぎんていねい》な口調でたずねた。
「ちょっと伺《うかが》いたいんですけど。この人、知ってますか?」
すると片方の男が写真を一瞥《いちべつ》し、唇《くちびる》をゆがめた。
「知るか。帰《けー》れ、バカ」
さらに、もう一人がぼおっとした目で彼女を見つめて言った。
「んんー。ここは立ち入り禁止《きんし》なのよ、おねーさん。キミみたいな子は、早く出てってくれないと、ボクたち、お●●●●が●っちゃうの。ね? わかる? わかるよね?」
かなめは嫌悪感《けんおかん》がこみ上げてくるのをぐっとこらえて、
「あー。知らないわけね。じゃあそこ、どいてください」
「だから帰れ、つってんだろ、コラ」
「そう、そうだよ? このままだとボクたち、キミの●●●●に●●しちゃうの。イヤでしょ? イヤだよね?……んんー」
男たちが立ちあがる。つい、かなめが気おされて一歩下がると、その前に宗介が割って入った。
「彼女は『どけ』と言ってるのだ。邪魔《じゃま》はしないでもらおう。さもなくば……教訓《きょうくん》を学ぶことになる」
二人の男の表情が、さっと険《けわ》しくなった。
「……んー。おもしろいコト言うね、キミ。じゃあ、じゃあ、こんなのどう?」
片方の男の右手に、いつのまにかナイフが握《にぎ》られていた。男は間髪《かんぱつ》を容《い》れずに、その右手で宗介の顔を切り裂《さ》いた。
「…………!」
いや、切り裂いたように見えただけだった。宗介はそれより早く上体をそらして刃風《はかぜ》を避《さ》け、次の瞬間《しゅんかん》には相手の手首をねじり上げていた。
「っ……!?」
相手が驚《おどろ》くのも待たず、宗介は空いた腕《うで》で肘鉄《ひじてつ》を叩《たた》きこむ。吹《ふ》き飛ぶ男。けたたましい音をたてて、ビール瓶《びん》のケースの山が崩《くず》れ落ちる。
「これが教訓だ」
相変わらずのむっつり顔で、宗介が言った。残った一人は血相《けっそう》を変え、
「っ……こっのヤロ……!」
腰《こし》の後ろから特殊警棒《とくしゅけいぼう》を抜《ぬ》こうとした。……が、
がしゃあぁんっ!!
次の瞬間には、その男が背後の扉《とびら》と一緒《いっしょ》に、まとめて吹き飛ばされていた。かなめの目から見ても、なにをどうしたのか、わからないほどの手際《てぎわ》だった。
『688(T)』の店内に弾《はじ》き飛ばされ、床《ゆか》に|倒《たお》れた男を見て、かなめは小さなうなり声をあげた。
「そういえば、あんたって実は強かったのよね……」
「うむ。自分でも最近、忘れがちなのだが……」
こめかみに脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべつつ、宗介が中に踏《ふ》みこんでいく。
その『688(T)』の店内は、外から想像《そうぞう》していたより広かった。
むっと鼻をつくタバコの匂《にお》い。
照明《しょうめい》は暗い。三〇畳《じょう》くらいの広間の向こうに、低めのテーブルと座席《ざせき》――そしてバー・カウンターがある。年季《ねんき》の入った壁《かべ》には、ウイスキーやジン、ウォッカのラベルが貼《は》り付けられ、天井《てんじょう》近くのあちこちに、ラウド・スピーカーが据《す》え付けてあった。
そして――
店内には、いま相手をした少年二人と似た類《たぐ》いの連中が、およそ二〇人、険悪《けんあく》な目つきでたむろしていた。
全員、腰を浮《う》かして臨戦態勢《りんせんたいせい》だ。
「……ンの騒《さわ》ぎだ、おぉ?」
座席の奥《おく》、暗がりの中から声がした。
宗介に倒された男の一人が、
「す……すんません、日下部《くさかべ》さん。なんか……林水のツレみたいなのが……」
息も絶《た》え絶《だ》え、といった調子《ちょうし》で言う。
「林水ゥ……? いやがらせにどっかのバカでも送りつけてきたか……!? 奴らしいじゃねえの。汚《きた》ねえやり方だよ。ったく……」
横柄《おうへい》で、傲岸不遜《ごうがんふそん》な男の声だった。宗介とかなめは、その声の主に向かって、
「そう言うあんたは誰《だれ》だ」
「そう言うあんたは誰よ」
それぞれ、とげとげしい口調でたずねた。すると暗がりの中から、中肉中背《ちゅうにくちゅうぜい》の男が姿を見せる。照明《しょうめい》の中で、短ランにクルーカット、色黒の顔、アーモンド型の目が浮《う》かび上がった。
「あんた、林水センパイのこと、知ってるの?」
「ふん、ぬけぬけと。よく言うぜ……」
男は吐《は》き捨《す》てるように言った。
「俺ぁ、日下部ってもんだ。その林水に、殺された女のお友達だよ」
「…………なに?」
「殺し……え?」
宗介とかなめが耳を疑う。その二人を、エモノを手にした二〇人の男たちが、じりじりと取り囲《かこ》んでいった。
[#地付き]<追憶のイノセント(前編) おわり>
[#改丁]
追憶《ついおく》のイノセント(後編)
[#改ページ]
思えば、その店は日ごろ過《す》ごしている学校から、ずいぶんと遠い場所だった。
日光が届《とど》かない地の底。
鼻をつく退廃《たいはい》の匂《にお》い。
不機嫌《ふきげん》と退屈《たいくつ》の吹《ふ》き溜《だ》まり。
『魔窟《まくつ》』とでも呼んだ方がしっくりくる、そんな空間《くうかん》だ。
かなめと宗介《そうすけ》は、いま、この店で、二つの問題に直面《ちょくめん》していた。
一つは、日下部《くさかべ》と名乗る男とその仲間二〇人が、とうてい友好的とはいえない様子《ようす》でかなめと宗介を取り囲《かこ》んでいること。
もう一つは、その日下部が告げた林水《はやしみず》の過去《かこ》の断片《だんぺん》。彼がだれかを殺したなどと。そんな馬鹿《ばか》な話があるのだろうか?
「林水センパイが? うそ……」
「どうも事情《じじょう》があるようだが」
棒立《ぼうだ》ちしている二人を見て、日下部は皮肉《ひにく》っぽい笑《え》みを浮《う》かべた。
「どうした、あ? おつかいの用事《ようじ》を忘れちまったってか? ボクたちは」
「あー……。実はあたしたち、その林水センパイのことを聞きたくて来たんだけど。別に暴《あば》れに来たわけじゃなくて……」
そこまで言ってから、かなめは口をつぐんだ。宗介に倒《たお》され、床《ゆか》にのびたままの二人をちらりと見る。
「これは、まあ、不幸な事故《じこ》ってことで」
「そうかい。だったら、てめえらに『不幸な事故』が起きても……これまた、仕方《しかた》ないわけだよな」
「いや、それは別の話で――」
「これからおめえらは、ここで半殺しの目に遭《あ》う。ついでに素《す》っ裸《ぱだか》にひん剥《む》かれて、一晩中《ひとばんじゅう》いたぶられた挙句《あげく》、コマ劇前に逆《さか》さ吊《づ》りにされる。不幸だよな。ひどい事故だよ」
どこまで本気かは分からないが、いずれにせよ、ただで帰す気はなさそうだ。
「え、ええと。あのー……」
相手は二〇人。いかな宗介でも、この人数では手に余る。彼は例によってゴム弾《だん》を装填《そうてん》した小型の散弾銃《さんだんじゅう》を隠《かく》し持っていたが、その弾数《だんすう》は、せいぜい五、六発のはずだった。
しかし、宗介は余裕《よゆう》のある声で言った。
「千鳥《ちどり》、いいか?」
「やっぱり、こうなるわけね……とほほ」
かなめは自分の鞄《かばん》に手を突《つ》っ込んだ。時を同じくして、日下部が指をぱちん、と鳴《な》らす。
「やっちまいな」
それを合図《あいず》に、二〇人が動いた。大半は素手《すで》だが、中には警棒《けいぼう》やナイフ、バイクのチェーンなどを手にした者もいる。
「死ね、コラ」
「チョーシこいてンじゃねえぞ……?」
「危ないよー、危なーい」
四方八方から、物騒《ぶっそう》な少年たちが、声を荒《あら》げて殺到《さっとう》してくる。
その時にはすでに、宗介は一つの手榴弾《しゅりゅうだん》を取り出していた。そのピンを抜《ぬ》き、ぽいっと床に放《ほう》り投げる。
数瞬後《すうしゅんご》――
手榴弾から真っ白な煙《けむり》が噴《ふ》き出した。
「…………っ!?」
ただの煙ではない。暴徒鎮圧用《ぼうとちんあつよう》の催涙《さいるい》ガスだ。これに晒《さら》された人間は、目や鼻、喉《のど》などに猛烈《もうれつ》な刺激《しげき》を受け、まともな行動《こうどう》ができなくなる。
かなめは事前《じぜん》に宗介からそれを知らされていたので、自分の顔の高さまでガスが舞《ま》いあがってきたころには、鞄から取り出したガスマスクを、ちゃっかりと装着《そうちゃく》し終えていた。宗介もやや遅《おく》れて、マスクを難《なん》なく装着する。
その一方で、まともにガスを食らった周囲《しゅうい》の連中《れんちゅう》は、たまったものではなかった。
ただでさえ換気《かんき》の寒い地下である。たちまち催涙ガスが充満《じゅうまん》し、店内は悲鳴《ひめい》と怒号《どごう》のるつぼと化した。
「なんだこりゃ……、おほっ!」
「うっ……ごっ、ごほっ……!?」
男たちはむせ返り、よろめいた。椅子《いす》や柱《はしら》、壁《かべ》にすがりつく者。先を争い、店の外へとまろび出る者。ヤケクソになって、バットをでたらめに振《ふ》りまわす者……。
火災報知器《かさいほうちき》が反応《はんのう》して、けたたましいベルの音が鳴《な》り響《ひび》いた。……が、スプリンクラーは作動《さどう》しない。もともと煙《けむ》たい店内だ。誤作動《ごさどう》を嫌《きら》って、この店の主人が消火装置《しょうかそうち》をオフにしていたのだろう。
マスクの下で、かなめが舌打《したう》ちした。
「まずいわね……。騒《さわ》ぎを聞いて、おまわりさんとかが来るかも」
地上の出口には、ガスから逃《のが》れた連中が大勢《おおぜい》へたり込んでいるはずだ。近所の交番から警官が、いつ駆《か》けつけてきてもおかしくない状況《じょうきょう》だった。
「では撤収《てっしゅう》だな。あの日下部という男を連れ出そう。尋問《じんもん》は後だ」
「うん。まだ店内に……あ、いた」
いくらか晴れてきたガスの中で、例のリーダー格――日下部が、四つん這《ば》いになってあえぎ、苦悶《くもん》の声をあげていた。
「げほっ。く……くそっ……」
宗介が日下部に歩み寄り、その首筋《くびすじ》にスタンガンを押《お》し付けた。八万ボルトの電流《でんりゅう》を食らって、彼はたちまち失神《しっしん》する。
「よし。行こう」
「どうでもいいけど。考えてみると、あたしらのやってることって、ほとんど押し込み強盗《ごうとう》と人さらいよね……」
二人はぐったりとした日下部を両脇《りょうわき》から担《かつ》いで、混乱《こんらん》さめやらぬ店内を後にした。
宗介とかなめは日下部を連れて、数百メートル離《はな》れた花園《はなぞの》神社《じんじゃ》へと移動《いどう》した。
動かない男を引きずって、人ごみの中を歩いても、特に不審《ふしん》な目では見られなかった。まだ宵《よい》の口ではあったが、酔《よ》いつぶれたコンパ仲間を運んでいるように見えたおかげかもしれない。
神社の境内《けいだい》は人気《ひとけ》も少なく、すぐ近くの繁華街《はんかがい》の喧騒《けんそう》など嘘《うそ》のようだった。階段に腰《こし》かけて、二人は日下部を介抱《かいほう》する。一〇分ほどして、ようやく彼は息を吹《ふ》き返した。
「大丈夫《だいじょうぶ》?」
「……大丈夫なわけねーだろ。ったく、無茶《むちゃ》な真似《まね》しやがって。いったいてめえら、何者なんだよ……」
覇気《はき》のない声で応《こた》える日下部。不思議《ふしぎ》と怒《おこ》っている様子《ようす》はない。殴《なぐ》ったり、殴られたり、そういう生活に慣《な》れているのだろう。どちらかというと、宗介とかなめに好奇心《こうきしん》を抱《いだ》いている様子だった。
だが宗介は、高圧的《こうあつてき》な声で告げた。
「捕虜《ほりょ》のおまえが知る必要《ひつよう》はない。だが、われわれが今後、友好的になるか敵対的《てきたいてき》になるかは、おまえの態度次第《たいどしだい》だ」
「はあ」
「おとなしく林水|閣下《かっか》の情報を話せば、名誉《めいよ》ある扱《あつか》いを保証《ほしょう》しよう。暖《あたた》かい寝床《ねどこ》も提供《ていきょう》してやる」
「よくわかんねえけど、この辺、ラブホテルしかねえぞ?」
「よくわからんが問題ない。だが、あくまで協力を拒《こば》むなら――」
言いつつ、彼は黒いコンバット・ナイフをずらりと抜《ぬ》いた。
「――おまえは二度と、朝日を拝《おが》むことはないだろう。おまえの遺体《いたい》は野にさらされ、付近のカラスの豊潤《ほうじゅん》な栄養源《えいようげん》となる。それが嫌《いや》ならば――」
「やめなさいってば、こら」
かなめが宗介の後頭部《こうとうぶ》をはたいた。
「…………。しかし、この男が簡単《かんたん》に口を割《わ》るとも思えん」
「いいから、あたしに任《まか》せて。ねえ、日下部さんって言ったわよね。三年生なの?」
「一応《いちおう》な」
不機嫌《ふきげん》な声で日下部は答えた。
「あ、そう……。さっきも言ったけど、あたしたち、林水さんのガッコの後輩《こうはい》なの。それで彼の昔のことが聞きたくて、あのお店に入っただけなんだけど」
「はっ。あのクソ野郎《やろう》の昔話なんざ、別に楽しかねえぜ」
「あの人は『クソ野郎』なんかじゃないわ。そりゃあ……変人だし、ヘリクツ魔だし、陰謀屋《いんぼうや》だし、人を人とも思ってないところがあるし、まるきり信用できないタイプだけど」
「そーいうのを世間《せけん》ではクソ野郎って言うんだよ、お嬢《じょう》ちゃん」
「むむ……。確かに……」
[#挿絵(img2/s04_089.jpg)入る]
「千鳥。そういうものなのか?」
反論《はんろん》もできず、かなめと宗介が腕組《うでぐ》みしていると、日下部は小さく笑った。
「?」
「なんか調子《ちょうし》狂《くる》うんだよな、おめーら……。だいたい、なんでそんな話を知りたがるんだよ? 俺《おれ》から聞いてどうする気だ?」
「どうもしないわよ。ただ最近、たて続けに妙《みょう》な噂《うわさ》を聞いて。詮索《せんさく》するのはよくないとは思うけど……どうしても気になって」
自信のない声で答えるかなめを、日下部は注意深い目で観察《かんさつ》した。
「本当に知りたいのか?」
「うん」
「どこかで言いふらしたりしないと誓《ちか》えるか?」
「うん、誓う。……ソースケ?」
「誓おう。約束する」
宗介が片手をあげる。日下部は鼻を鳴《な》らしてから、肩《かた》をすくめてみせた。
「……まあ、いいか。だったら教えてやるよ。これを見な」
財布《さいふ》から一枚の写真を取り出す。
四隅《よすみ》がぼろぼろになったその写真には、三人の男女が写っていた。
一人は日下部だった。いまより若く、中学生くらいに見える。髪《かみ》はドレッドロックだ。
もう一人は、彼よりも背の高い若者だった。きちっとしたブレザーの制服姿《せいふくすがた》だったが――顔がなかった。その部分だけ、黒く塗《ぬ》りつぶしてあるのだ。
その二人の間に立って、やはり一四・五歳くらいの娘《むすめ》が、満面《まんめん》の笑《え》みを浮《う》かべていた。
「この女の子は?」
「新浦《にいうら》知子《ともこ》。いまは墓《はか》の下だよ」
日下部の口ぶりは、まるできのうの天気でも話しているかのように素《そ》っ気《け》なかった。
「墓の下……」
かなめは写真の中の新浦知子を、改《あらた》めて観察《かんさつ》した。
太い眉毛《まゆげ》と、ベリーショートの茶髪《ちゃぱつ》。歯並《はなら》びはいま一つだ。とりたてて美しい少女ではなかったが、人なつっこい容貌《ようぼう》だった。虚心坦懐《きょしんたんかい》、という形容《けいよう》がぴったりくる。裏表のない、陽気《ようき》な笑顔……。
この人物が死んだといわれても、かなめにはまるで実感《じっかん》がわかなかった。
「となりの男は林水だよ。ムカつくから、ツラは塗りつぶしちまったけどな」
「あんたたちは、どういう関係《かんけい》だったんだ」
宗介がたずねる。
「さあ、どうだったんだろうな。変な間柄《あいだがら》だったよ。もう三年も前になるけどな――」
ぽつぽつと、彼は昔話を語りはじめた。
その当時も、彼――日下部|侠也《きょうや》は、いまと大して変わらない生活を送っていた。似《に》たような仲間とダラダラ遊び、金がなくなればカツアゲをして、誰彼《だれかれ》かまわず喧嘩《けんか》をふっかけた。
そんな彼が、ある日、風変《ふうが》わりな少女と出会う。
それが新浦知子だった。
「中三の夏ごろだったかな」
日下部は遠い記憶《きおく》をたどるように言った。
「知子はタメだったが、学校には通ってなかった。不登校児《ふとうこうじ》って奴《やつ》か。家にもほとんど帰ってなかったみたいだな。毎晩毎晩、俺ン家《チ》に厄介《やっかい》になって。野宿もしょっちゅう、してたらしい」
「野宿」
「知り合ったときもそうだったよ。そう……ちょうど、こんな神社だったな。夜中に一人で座《すわ》ってるから、からかい半分で声をかけたんだ。ビビって逃《に》げるかと思ったら、俺にくっついてきやがったよ。『泊《と》めてくれ、お礼はするから」ってな。それで――」
日下部は好奇心《こうきしん》から、新浦知子を泊めてやった。彼の父親はすでに亡《な》く、看護婦《かんごふ》の母親は夜勤《やきん》の毎日。なんら問題はなかった。
以来《いらい》、知子は日下部の家に入り浸《びた》り、ほとんど居候《いそうろう》状態《じょうたい》になった。
「毎晩|一緒《いっしょ》だったの? その……新浦さんと二人きりで?」
「毎晩ってわけじゃなかったが……まあ、だいたいな。不思議《ふしぎ》と、なにもしなかったけど。……なんかヤってたと思った?」
日下部が笑う。自分の好奇心《こうきしん》を見透《みす》かされたような気がして、かなめはうつむき、赤くなった。
「知子はな、そーいう、女っぽい魅力《みりょく》とかは全然なかったね。ただ、面白い奴だった。はじめて泊めた次の朝、一人でどっかに出かけていってな。夕方になると、ジュースやらスナック菓子《がし》やらレトルトやらを、ごっそり持って帰ってきたわけ。それこそ両手いっぱい。で、『お礼だよ』って。金なんか、ほとんど持ってねえのに。……どうやって手に入れたと思う?」
「…………。やっぱ、万引《まんび》き?」
「そう。しかもあきれちまうのは――あの量を全部、近所のコンビニ一|軒《けん》から盗《ぬす》んだっていうんだから。店内と外を、何度も往復《おうふく》したらしい。どんなボンクラ店員だったんだろうな」
「うそ? ぷっ……」
もちろん万引きは立派《りっぱ》な犯罪行為《はんざいこうい》なのだが、それでもかなめは失笑《しっしょう》してしまった。
「な? 笑えるだろ?」
「はは……うん。確《たし》かに。変な子」
かなめと日下部が静かに笑う横で、宗介一人が頭上に『?』マークを浮かべていた。
「ほかにもケンタッキーの人形を勝手《かって》に持ってきたり、駅のホームのマジックハンドを盗《ぬす》んで来たり。あと、どうやったのかは知らねえけど、交番からジュラルミンの盾《たて》までかっぱらってきたり、な」
「メチャクチャねー……」
「盗みの才能《さいのう》があったんだよ。そんなこんなで……な。俺的には、捨《す》て猫《ねこ》拾《ひろ》った気分だったよ。家に帰っても一人じゃないってのは、けっこういいもんだな。ダチにも会わせて、一緒《いっしょ》に遊んだり。なかなか楽しい毎日だった」
日下部と知子の、付かず離《はな》れずな共同生活は、一か月以上は続いたという。
「あいつは、原《げん》チャリをガメるのもうまかった。器用《きよう》だったんだろうな。……電車代がねえから、俺ン家のある野方《のがた》から、駅前でスクーターを盗んで、新宿や中野まで遊びに行くわけ。そこで乗り捨て。帰りは別の原チャリな。無免許《むめんきょ》にノーヘルで、よく捕《つか》まらなかったもんだよ」
「はっは。ねえ、聞いたソースケ? あんた並みにヒドいわ、その知子ってコ」
「別に俺は窃盗《せっとう》などせんが……。しかし、その娘《むすめ》と林水|閣下《かっか》と、どういう関係が?」
宗介が訊《き》くと、穏《おだ》やかになりかけていた日下部の顔が、にわかに曇《くも》った。
「……林水。あいつに会ってから、知子はおかしくなっちまったんだよ」
すこし重たい口調《くちょう》になって、日下部は話を続けた。
きっかけは日下部のトラブルだった。
ある日、彼はヤクザの舎弟《しゃてい》といざこざを起こしてしまったのだ。
そう大した怪我《けが》を負わせたわけではなかったが――数日後に街角《まちかど》で捕まって、『治療費《ちりょうひ》』として三〇万円を要求《ようきゅう》された。あまつさえ、そのときに彼と一緒《いっしょ》にいた知子が、そのヤクザの事務所《じむしょ》に監禁《かんきん》されてしまったのだ。
要《よう》するに、人質《ひとじち》である。
「三〇万!?」
「医療保険《いりょうほけん》に入っていなかったのか……?」
かなめが目を剥《む》き、宗介が眉《まゆ》をひそめる。
「治療費は、治療費さ。でもな、いま考えると、大目に見てもらった方だと思うよ」
「そ、そういうもんなの?」
「そういうもんだ。ヤクザはヤバい。マジでヤバい。カネで済《す》むなら済ますべきだ」
そうつぶやく日下部の横顔は、かなめの目からは妙《みょう》に大人に見えた。
「で、払《はら》ったの?」
「……と、いってもな。なにしろ、そんな大金あるわけねえ。困り果てて、マリってダチに相談したわけよ」
「マリ?」
「ああ。女だけど、腕《うで》っぷしが強くて頼《たよ》りになる奴《やつ》だった。で、そのマリが『近所の幼《おさな》なじみで、そういうトラブルにうってつけの奴がいる』と。それで連れてこられたのが――林水だったんだよ」
「ははあ……」
日下部の前に現れた林水|敦信《あつのぶ》は、超《ちょう》エリートの私立校・晃征《こうせい》中学の三年生だった。
長身で細面《ほそおもて》、射《い》るような切れ長の目が印象深く――どことなく冷たい雰囲気《ふんいき》の持ち主だったという。
彼は迷惑顔《めいわくがお》の様子《ようす》だったが、事情《じじょう》を聞き、けっきょく協力することを承諾《しょうだく》した。
日下部はヤミ賭博《とばく》につてがあった。毎夜あるマンションの一室で開かれる、異様《いよう》に掛《か》け率《りつ》の高いポーカーだ。林水は『そこに自分を連れていけ』と告げ、賭博場に出かけていくと――三万円の元手を、たった一晩で一〇倍にしてしまった。
「まるで魔法《まほう》だったよ」
その日の奇跡《きせき》を懐《なつ》かしむように、彼は言った。
「ポーカーフェイスって言葉は、あいつのためにあるようなもんだ。『確率《かくりつ》をざっと計算しておけば、相手の手を読むのはそう難《むずか》しくない』だのと言ってたが……にしても、中三のガキが、百戦錬磨《ひゃくせんれんま》の大人相手にだぜ? とんでもねえ悪党だよ、ったく」
とにかく、こうして稼《かせ》いだ三〇万円を支払《しはら》い、知子は傷一つなく、ヤクザ屋さんから解放《かいほう》されたという。
「そう。それは……良かった」
固唾《かたず》を飲んで話を聞いていたかなめは、ほっと胸をなでおろした。
「俺ももちろん感謝《かんしゃ》したが――知子のはしゃぎっぷりときたら無《な》かったね。すっかり林水になついちまった」
それから、三人の付き合いがはじまったという。
優等生《ゆうとうせい》と、不良少年と、家出少女。思えば奇妙《きみょう》な組み合わせだ。
牽引役《けんいんやく》は、いつも知子だった。
夕方になると、彼女は林水の学校の正門で彼を待ちうけ、ほとんど強引《ごういん》に街へと連れ出した。日下部についても似たようなもので、知子は彼を、林水と共にあちこち引きずりまわした。繁華街《はんかがい》、水族館、公園、図書館、エトセトラエトセトラ……。
日下部も林水も、渋々《しぶしぶ》ながら、けっきょく知子に付き合った。彼女を挟《はさ》んで、二人の少年は次第《しだい》に打ち解《と》けていった。……いや、すくなくとも、当時の日下部はそう思っていた。
そんな関係が、しばらくつづいたという。
「それが変になってきたのは、一〇月くらいだったかな……」
「変になった?」
「ああ。知子が、急に『遊ぼう』といわなくなったんだ。相変わらず、あいつは俺ン家に居候《いそうろう》してたんだが……ほとんど帰ってこないんだよ。朝にふらりと戻《もど》ってきて、三、四時間だけ寝《ね》て、また出て行く。この繰《く》り返し」
「どこに行ってたの?」
「林水のところだった」
にわかに陰気《いんき》な声になって、日下部は答えた。夜の神社の薄暗《うすくら》がりの中で、彼の顔に深い陰影《いんえい》が刻《きざ》まれていた。
日下部がいくら『どこに行ってた』『なにをしてるんだ』と詰問《きつもん》しても、知子は答えなかったそうだ。『男のところ』だの『疲《つか》れてるから』だのと言うだけで――
「さすがにな、俺も面白《おもしろ》くなかったよ。ほかのダチに話したら、『あの野郎《やろう》とよろしくやってるンだろ』って。俺もそう思った」
「…………」
「二人でなにをしてたのか……それはいまも知らねえ。知りたくもねえ。ただ、知子は日に日に消耗《しょうもう》していった。見てて痛々しいくらいに、な」
「なにかの勘違《かんちが》いじゃないの? どっかでバイトしてたとか」
「それはない。あいつは相変わらず文無しだったしな。林水の家に入り浸《びた》ってた――それは確かだよ。一度、尾《つ》けたんだ」
日下部はポケットから煙草《たばこ》を取り出して、火をつけた。一度、ゆっくりと紫煙《しえん》を吐《は》き出してから、
「俺は知子を……別に女としちゃ、なんとも思ってなかったよ。でもな、気に食わなかった。ひどく気に食わなかった。あの野郎は、知子を――あんなにフラフラにして。いったいなにをやってるんだ……ってな」
「それで?」
「はは……。『それで?』か。でも、これでこの話はおしまいだ。あっけないし、くだんねえオチだが――知子は死んじまった」
「死ん……だ」
その結末《けつまつ》は最初から知っていたはずなのに、かなめは胸がちくりと痛むのを感じた。
「事故《じこ》でな。例によって、盗《ぬす》んだ原チャリに乗って、ふらふら走ってたら――交差点《こうさてん》でダンプにぶつかったそうだ。首の骨が、きれいにぽっきり折《お》れてたってさ。遺体はきれいなもんだった。せめてもの救いだよ」
きのうの天気の話でもするような、そっけない喋《しゃべ》り方だった。
「じゃあ、林水センパイは……」
「そう。『殺した』っていうのは、言い過《す》ぎなんだろうよ。無免許《むめんきょ》、ノーヘルで環七《かんなな》走ってた知子が悪いんだ。でもな……あいつは、林水と会ってた帰り道で、あんな事故にあった。いつも寝《ね》不足で、疲れてたんだ。事故と無関係とは思えねえ。林水がすこしだけでも、あいつを気遣《きづか》ってれば――あんなことにはならなかったはずだ。俺はそれが……どうしても……」
しばし、黙《だま》り込む。日下部のくわえた煙草の先から、灰の塊《かたまり》がぽとりと落ちた。
「あいつを半殺しにしなかったのは、借りがあるからだよ。でなきゃ、生かしちゃおけねえ。ツラも見たくなかったから、電話で『死んだ』と教えてやって、それきりさ。もう二度と会うこともないと思ってた」
「でも、先週に――」
「ああ。先週、あいつを知ってるダチが、あの店に連れてきた。三年ぶりの再会ってわけだ。余計《よけい》な真似《まね》をしやがってよ……」
その声に怒気《どき》がこもる。彼は煙草をぶちりと噛《か》みきって、フィルターを地面に吐《は》き捨《す》てた。
「あの野郎、会うなりいけしゃあしゃあと、『知子の実家《じっか》の住所を教えろ』だのと抜《ぬ》かしやがった。墓参《はかまい》りでもする気かね。くだらねえ」
「実家って……日下部さん、知ってるの?」
「いちおうな。遺族《いぞく》への連絡《れんらく》とか、そういうのは警察《けいさつ》任《まか》せだったけどよ。知子の親とも、会ったことはねえし」
「その住所の情報は、提供《ていきょう》したのか?」
長いこと黙《だま》って話を聞いていた宗介が、ふとたずねた。すると日下部はかぶりを振《ふ》り、
「いや。突《つ》っぱねて、追い返した。俺もブチ切れそうだったからな。奴《やつ》の目の前でイスを叩《たた》き壊《こわ》してやったら――あの野郎《やろう》、ご丁寧《ていねい》にイス代を弁償《べんしょう》していきやがった。お高く止まりやがってよ……」
「ああ。そうだったのね……」
林水が金を払《はら》っていたのは、そういう事情《じじょう》だったのだ。そこはかとなく、安堵《あんど》したようなかなめに、日下部は険《けわ》しい視線《しせん》を向けた。
「なにがうれしいんだ、おい?」
「え……」
「あいつはクソ野郎だ。三年ぶりに顔を見ても、野郎は『知子の実家の住所は?』としか言わなかった。昔のことを話して、『残念だった』とさえ言わない。あの冷血漢《れいけつかん》。根性《こんじょう》が腐《くさ》ってるんだよ」
「でも、それは――」
異論《いろん》を挟《はさ》もうとしたかなめに、彼は人差し指をぴしりと突きつけた。まるでピストルの銃口《じゅうこう》のように。
「でも、でも、なんだ? でも、そうなんだよ。あいつはクズだ。エリート面《づら》して、俺らを見下してたんだよ。あのツラ、あの声、あの物腰《ものごし》。なにもかもが気に食わねえ」
反論《はんろん》する者にはいつでも飛びかかりそうな様子だった。普通《ふつう》の人間なら、ただただすくみ上がるほどの迫力《はくりょく》だったが――
「日下部さん。あんた、バカよ」
考えるより先に、かなめは言ってしまった。日下部が、じろりと彼女をにらみつける。
「……ンだと?」
「だって、三年もたってるのに、自分の気持ちに整理《せいり》がついてないじゃない。なんでもかんでも林水センパイのせいにして。肝心《かんじん》なことでは、自分にウソついてない?」
ほとんど殺気《さっき》に近いものが、日下部の身体《からだ》から陽炎《かげろう》のように立ち昇《のぼ》った。それでもかなめはたじろがずに、
「エラそうで悪いけど。あたしには分かる。あなたはセンパイに嫉妬《しっと》してたの。あなたは、彼女のことが――」
「やめろ」
「好きだったんでしょ?」
その瞬間《しゅんかん》、日下部は右手を振《ふ》り上げ、かなめの横面《よこつら》を張《は》り飛ばそうとした。
だがそれより早く、その腕《うで》を宗介が横からがっちりと掴《つか》む。
「っ……」
かなめは身を固くしていた。宗介は無表情《むひょうじょう》のままだった。そして日下部は――振り上げた自分の腕を眺《なが》め、ややあって、夢から醒《さ》めたような顔をした。
「……くだらねえ」
つぶやき、力をゆるめ、日下部はゆっくりと立ちあがった。一度、大きく息を吐《は》いてから、尻《しり》についた小石を払《はら》う。
「……なワケねえだろ? バカ女が知った風な口、きいてんじゃねえよ……。てめえ、何様だ?」
「…………。ごめんなさい」
かなめは素直《すなお》に謝《あやま》った。
「とにかく……これで全部だ。もう話すことはねえ。満足かよ」
「うん。……っていうか、とりあえず。どうもありがと」
「いや。いいよ」
日下部はすこし疲《つか》れた顔で彼女を見下ろし、
「おめーら、あの野郎《やろう》の後輩《こうはい》だって言ってたよな。どこの学校だ?」
「都立の陣代《じんだい》高校だけど」
「ジン……ダイ?」
それを聞いて、日下部は一瞬《いっしゅん》、眉《まゆ》をひそめた。それから、なにかの記憶《きおく》をたどるように夜空を見上げたが――すぐにかぶりを振《ふ》った。
「知らねえ学校だな。まあ、いいか」
彼はかなめたちに背を向けた。
「それじゃあな。あと、奴《やつ》に伝えとけ。『次に会ったら、もう我慢《がまん》できねえ』ってな」
「それって……」
「マジで半殺しにするってことだ。もう、昔の借りなんか関係ねえ」
冷たい声で告げると、日下部侠也は彼らの前から立ち去った。
置《お》き去りにされた宗介とかなめは、しばらく所在《しょざい》なげに座《すわ》り込んでいた。その場にいても仕方《しかた》がなかったので、二人はおずおずと立ちあがり、帰途《きと》につく。
帰りの電車――京王線《けいおうせん》は、一日の仕事を終えた人々で満員だった。
人ごみの中で、二人はぴたりと密着《みっちゃく》するように立つ。身体《からだ》の間に鞄《かばん》を挟《はさ》んではいたが、それでも腕や膝《ひざ》が触《ふ》れ合って、かなめはすこし落ち着かない気分だった。
「なんか……シリアスよね」
笹塚《ささづか》駅を過《す》ぎたあたりで、はじめて彼女は口を開いた。
「センパイって、もっと要領よく人生|渡《わた》ってきた人だと思ってたのに。ああいうエピソードがあったなんて……」
駒岡《こまおか》学園の生徒会長、塩原《しおばら》が言っていた林水の悪評《あくひょう》も、あの日下部たちとの付き合いから生まれ育った噂《うわさ》なのだろう。書記《しょき》の美樹原《みきはら》蓮《れん》が目撃《もくげき》した話も、おおむね合点《がてん》がいった。
「でも、まだ……わかんないことがあるわよね。二人でなにしてたんだろ……」
三年前、林水が新浦知子と二人きりでなにをしていたのか――それはわからずじまいのままだ。日下部の憶測《おくそく》に従《したが》えば、なにやらいかがわしい雰囲気《ふんいき》が漂《ただよ》っていたが。
それに、彼は知子が死んだことをどう思っているのだろう? 悲しくなかったのだろうか? なにかの責任《せきにん》を感じてはいないのだろうか?
「千鳥」
神社からずっと沈黙《ちんもく》を保っていた宗介が、久しぶりに口を開いた。
「なに?」
「もうやめよう」
「やめるって……かぎまわるのを?」
「そうだ」
「どうしてよ? だって、まだ――」
ふと見上げると、彼の横顔が驚《おどろ》くほど間近《まぢか》にあった。それはいつもと同じ、無愛想《ぶあいそう》なむっつり顔だったが、彼女はその微妙《びみょう》な変化に気付いた。
宗介が、苛立《いらだ》っている。
「…………」
「自分の過去《かこ》を詮索《せんさく》されるのは、気分のいいものではない」
そのときかなめは、自分が宗介の過去をほとんど知らないことを思い出した。『地雷《じらい》だらけの田舎《いなか》育ち』なんて、本人の口から聞いても笑い話にしか思えないが、本当は、そんなはずないのだ。たぶん、人には話したくも知られたくもないような、辛《つら》い思いや嫌《いや》な思いをしてきたに違《ちが》いない。
彼は林水の問題そのものより、自分の古傷があぶり出されるような不快感《ふかいかん》を感じているのではないか……?
「……そうね。じゃあ、やめとこっか」
「ああ」
ごとごとと揺《ゆ》れる満員電車の中で、かなめは宗介の肩《かた》に頭をあずけた。
「ごめんね」
「いや……。別に、君は悪くない」
二人はそれきり、なにも言わなかった。
翌日《よくじつ》の放課後《ほうかご》。天気は快晴《かいせい》だった。
校内は、生徒たちの活気《かっき》にあふれている。まだ騒《さわ》がしい教室内で、かなめは授業中《じゅぎょうちゅう》から続けていた作業――例の合宿に持っていく、備品《びひん》のリストアップに悪戦苦闘《あくせんくとう》していた。
「えーと……アンプが一台、スピーカーが二台、プロジェクターも持ち込むから、必要《ひつよう》な延長《えんちょう》コードは全部で五、六、七……あー、ややこし!」
ぼりぼりと後頭部をかく。さらに書類をめくっていくと、彼女は小さな舌打《したう》ちをした。
「ちょっと、ソースケ!?」
「なんだ?」
離《はな》れた席で、鞄《かばん》にいそいそと手榴弾《しゅりゅうだん》を詰《つ》めていた宗介が答えた。
「なんなのよ、この『金属|探知機《たんちき》』って? それから、ここにある『犬』ってのはなに、『犬』ってのは!?」
「会場|警備《けいび》に必要な備品だ。従順《じゅうじゅん》なドーベルマンを三頭ほど調達《ちょうたつ》すれば――」
「没《ぼつ》! 一人で番犬やってなさい!」
「むう……」
そのおり――
常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が、息を切らして教室に飛び込んできた。
「カナちゃん、大変っ!」
「どしたの?」
「校門にね、どっかの不良の人たちが大勢《おおぜい》たむろしてて。スゴいこわい顔して、『林水を呼べ』って――」
かなめと宗介は顔を見合わせた。
駆《か》けつけると、すでに校門には黒山の人だかりができていた。
二人が人ごみをかきわけ、前に出る。
どでかいバイクにまたがった、日下部侠也がいた。
ほかにもバイクが八台。一〇人ほどのヤンキーがエンジンを空ぶかしして、遠巻きに様子を見守る生徒たちを睥睨《へいげい》している。
林水敦信も、すでにその場に現《あらわ》れていた。
なんら臆《おく》した風もなく、日下部たちと対峙《たいじ》している。
「余裕《よゆう》コイてんじゃねえぞ、オルルァ?」
「どうした、あ!?」
「ビビっちまって、声も出ねえってか?」
取り巻きの何人かが林水に罵声《ばせい》を浴《あ》びせ、ほかの連中がゲラゲラと笑った。
「いかんな……」
「うん、行こ」
かなめと宗介が出て行こうとすると――
「相良くん、千鳥くん」
あくまでも落ち着いた声で、林水が告げた。
「センパイ?」
「善意には感謝しておこう。だが、彼らには手を出さないように」
「でも――」
「心配はいらんよ」
日光が眼鏡《めがね》に反射《はんしゃ》して、林水の表情は読み取れなかった。ただ――すくなくとも、遠目に見た限りでは、いつもの彼と変わりないようだった。
「……静かにしな」
日下部が言ったとたんに、やかましいエンジン音がばたりと止まった。不思議な静寂《せいじゃく》が辺りを支配《しはい》する。
その沈黙《ちんもく》の中で、日下部は大儀《たいぎ》そうに自分のバイクから降《お》りて、ゆっくりと林水へ近づいていった。
「よくここがわかったな」
林水が言うと、日下部はちらりとかなめたちを見た。
「まあな。てめえみてえなろくでなしにも、先輩《せんぱい》思いの後輩がいるってことだよ」
「なるほど」
林水もかなめたちを一瞥《いちべつ》して、静かな微笑《びしょう》を浮《う》かべる。
「それで、用件は?」
「てめえを半殺しにしにきた。連中が見てる目の前でな。泣いて『ごめんなさい』というまで、フクロにしてやる」
底冷えのする声で、日下部は言った。
すると林水は彼をまっすぐに見据《みす》えて、かすかに――ほんのかすかに――哀《かな》しそうな表情を浮かべた。
「君にはできないよ」
「……ンだと?」
「わかっているはずだ。やったところで意味《いみ》がない。どうにもならない。それが君の――おれたちの、最大の悲劇《ひげき》なんだ」
「この野郎……」
日下部がかっと目を見開き、拳《こぶし》を振《ふ》り上げた。
宗介は、なにもしなかった。かなめやほかの生徒たちは、身をこわばらせて目を閉じた。
だが――林水の予言通り、日下部は相手を殴《なぐ》らなかった。
「そうさ。冗談《じょうだん》だよ」
彼は腕《うで》をゆっくりと降《お》ろし、その拳を開いた。そこには一枚のメモ用紙があった。
「あいつの実家の住所だ。線香《せんこう》でもあげてやんな。もっとも、仏壇《ぶつだん》なんかあるのかどうかは知らねえけどな」
吐《は》き捨てるように言うと、彼はメモ用紙を林水に押《お》し付け、自分のバイクに引き返して行った。
「侠也」
その背中に、林水は声をかけた。
「なんだよ?」
「ありがとう」
すると日下部はきょとんとして、不思議そうな目で林水を見つめた。それからこめかみを指先でこすり、
「うるせえ。だったら、ちったあビビってみせろ。てめえのそういうところが、ムカつくんだよ。ったく……」
バイクにまたがり、彼は走り去った。
校門|付近《ふきん》に集まっていた野次馬《やじうま》たちが散《ち》り散《ぢ》りになると、林水はその場に突《つ》っ立ったまま、手の中のメモ用紙に目を落としていた。
それからふと、そばで棒立ちしたかなめと宗介に向かって、
「付いてきたまえ」
なにもなかったように言うと、校門の外へと一人で歩き出した。かなめと宗介は互《たが》いに顔を見合わせてから、彼の後に続く。
「どうやら、彼からおおよその事情は聞いているようだね」
学校|沿《ぞ》いの歩道を歩き、林水は言った。
「ええ、その、まあ……。ごめんなさい」
「構《かま》わんよ。おおむね事実《じじつ》だ。私はかつて、彼が言う通りの人間だった」
「…………」
「韜晦《とうかい》しても無意味《むいみ》なので認《みと》めるがね。あの頃の私は、親類縁者《しんるいえんじゃ》や教師から、神童《しんどう》として将来《しょうらい》を期待《きたい》されていたよ。恥《は》ずかしいことに、私もそれを鼻にかけていた。あのままだったら、おそらく君たちのような人間さえも見下していたことだろう」
そう言われて、かなめはふと、あの駒岡学園の塩原のことを思い出した。
「新浦知子のことは聞いたかな?」
「ええ」
「彼女はユニークな人間だった。そう、実に――ユニークだった。常《つね》に型破りで、社会の秩序《ちつじょ》などものともせず、孤独《こどく》や悲哀《ひあい》とは無縁《むえん》の存在《そんざい》に思えた。すくなくとも、あの頃の私には。だから最初、私は彼女を疎《うと》んじていた。毛嫌《けぎら》いしていたと言ってもいい」
「毛嫌い……ですか」
「なにかと迷惑《めいわく》も被《こうむ》ったからね。何度も彼女に諭《さと》したものだよ。『盗《ぬす》みなどやめろ』と。『心を入れ替《か》え、勉強をして、高校に進むべきだ』『そうしなければ、まともな職《しょく》につくこともできんぞ』ともね。我ながら噴飯《ふんぱん》ものだが」
「ははあ……」
「すると彼女はある日、いきなり――」
彼は一度、言葉を切った。
「私にこう宣言《せんげん》してきた。『あんたの言う通り、高校に入る』と」
「その、知子さんが?」
「そうだ。ちょうど、ある学校に、昔からどうしても入りたかった、とね。それで私に『勉強を教えろ、秀才《しゅうさい》なんだろう』と要求《ようきゅう》してきたのだ」
しかしその志望校《しぼうこう》は、彼女の学力ではとても合格できないレベルだったという。
「もともと不登校児《ふとうこうじ》だ。学業成績は最悪だった。私は何度も『その学校はあきらめろ』と言ったが、それでも彼女は引き下がらない。仕方《しかた》なく、私は彼女を徹底的《てっていてき》にしごいた。膨大《ぼうだい》な問題集を押《お》し付け、『これを明日までにやっておけ』と告《つ》げたのだ」
驚《おどろ》くべきことに、新浦知子はその課題《かだい》を必《かなら》ずこなして来たという。
夕方になると、彼女は林水の自宅《じたく》までやって来て、宿題を提出《ていしゅつ》する。それから夜|遅《おそ》くまで彼の部屋に入り浸《びた》り、分からない問題を林水に教わり、帰っていく。
その繰り返しだったそうだ。
知子は『日下部には絶対《ぜったい》に内緒《ないしょ》にしておいてくれ』と言っていた。
「どうして……?」
「『笑われるから』といっていた。だが、たぶん、理由はそれだけではなかっただろうね。『知子は俺よりもバカだからな。だから俺が面倒《めんどう》みてやるんだ』――それが侠也の口癖《くちぐせ》だった。彼女はそう言われて、いつも笑っているだけだったが……実のところは、それが不服《ふふく》だったのかもしれない。……いずれにせよ、彼女の熱意《ねつい》は本物だった」
努力というのは恐《おそ》ろしい。
客観的《きゃっかんてき》にみて、彼女の学力は飛躍的《ひやくてき》に上がってきていた。わずか一か月で。
ひょっとしたら、彼女が志望《しぼう》していた学校にも、補欠《ほけつ》で合格できるかもしれない。林水はそう思って、彼女への指導《しどう》に熱を入れた。
「それが――まちがいだった」
痛切《つうせつ》な声で彼は言った。先を歩いているので、その表情は読み取れなかった。
「その夕方、彼女は来なかった。その次の日も。そして日下部侠也から、電話がかかってきた。彼女が事故で死んだ、とね」
「…………」
「電話の向こうで、彼は泣いていた。だが、私は泣かなかった。電話を切ると、いつものように予習をして、ニュースを見てから、ぐっすりと眠《ねむ》った。翌日《よくじつ》も。その翌日も。ずっとだ。平穏《へいおん》な毎日が戻《もど》ってきたよ」
林水はそれまで通りに、学年トップの成績を取りつづけた。すこしは悪い噂《うわさ》も流れてしまったが、彼のエリート人生は揺《ゆ》るぎもしなかった。そのままいけば、どこかの一流進学校に合格するのは間違《まちが》いなかったそうだ。
いま三人は、学校の敷地《しきち》をぐるりと回って、裏手の細い市道を歩いていた。右側は学校、左側はマンションだ。
なぜこんな場所に来るのだろう? かなめは不審《ふしん》に思っていると、林水が立ち止まり、振《ふ》りかえった。
「彼女が『どうしても入りたい』と言っていた高校――それがどこだか分かるかね?」
「さあ……」
「都立・陣代高校だ」
かなめと宗介は、同時に目を丸くした。
「陣代《うち》に……? そりゃまた、どうして?」
「わからない。彼女はどうしても、それを教えてくれなかった。『たいした理由ではない』といってね」
林水は憂鬱《ゆううつ》な顔で、わずかにうつむいた。
「こうして、その陣代高校で二年半を過《す》ごしてみたが。やはり、わからない」
「じゃあ。センパイは……センパイが陣代に入った理由って……」
「そういうことだ。周囲には猛《もう》反対され、親からは勘当《かんどう》同然になったがね」
彼は自嘲気味《じちょうぎみ》に微笑《ほほえ》むと、一度、大きく息をついた。
「さて」
一転して、さっぱりとした声で言うと、林水はさきほどのメモ用紙を取り出した。すでに、いつもの彼だった。
「さきほど私は幸運にも、彼女の実家の住所を入手した。それによると――彼女はもともと、ここ[#「ここ」に傍点]に住んでいたようだ。まさか――これほど近くだったとは」
彼は市道を挟《はさ》んで学校の向かいに立つ、五階|建《だ》ての古びたマンションを指差した。
「ハイム泉川《せんがわ》。四〇三号室。ついてくるかね?」
その四〇三号室のチャイムを鳴らすと、四〇過ぎの中年女性が顔を見せた。
彼女は知子の家族ではなく、赤の他人だった。聞けば、新浦という住民は、二年前にどこかへ引っ越してしまったという。
「お隣《とな》りさんの話じゃね、旦那《だんな》がひどい暴力亭主《ぼうりょくていしゅ》だったそうで。昼間っから飲んだくれて、ロクに働きもしなかったらしいわよ」
そのオバさんは、なにやら神妙《しんみょう》な声で言った。
「少々、あがってもよろしいですかな?」
「? ええ、まあ。すこしなら……」
林水に続いて、かなめと宗介も部屋にあがる。三人はリビングを抜《ぬ》けて、その部屋のベランダに出た。
そのベランダからは、陣代高校が鮮《あざ》やかに一望《いちぼう》できた。
グラウンドでは、野球部とサッカー部、そして陸上部が練習に励《はげ》んでいる。校庭の隅《すみ》では、ラガーシャツを着た男たちがいそいそと掃除《そうじ》をしていた。テニスコートでは、女子生徒の一団が明るく笑っている。
校舎の中もよく見えた。
教室で数人の男子生徒が、ふざけあっている。プリントを抱《かか》えた女性|教師《きょうし》が、廊下《ろうか》で転んで書類《しょるい》をぶちまけ、そばにいた同僚《どうりょう》に助けられていた。屋上《おくじょう》では、一組のカップルが仲|睦《むつ》まじく、西の夕日を眺《なが》めていた。
そこは――世界で一番平和な場所だった。
三人はしばらく、無言《むごん》でその景色《けしき》を眺《なが》めていた。おそらく、彼女が幼《おさな》いころから見てきたのと、同じ光景《こうけい》を。
「いい眺《なが》めですね」
かなめがぽつりと言うと、宗介がうなずいた。
「ああ。たぶん、俺は幸運な男だ」
「私もその類《たぐ》いだよ」
林水が言った。
「感謝《かんしゃ》したいが残念《ざんねん》だ。彼女が私を、ここに連れてきてくれたのに」
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[#地付き]<追憶のイノセント(後編) おわり>
[#改丁]
おとなのスニーキング・ミッション
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『スレンダーバディに美巨乳《びきょにゅう》!』
……こういう下品な見だしが堂々《どうどう》と、千鳥《ちどり》かなめの眼前《がんぜん》で踊《おど》っているのだった。
朝の通学電車。めずらしく席に座《すわ》れた彼女の前に、乗客の男が立ち、スポーツ新聞を広げていた。
その新聞の男性向け風俗記事《ふうぞくきじ》が、こちら側《がわ》を向いているわけである。
『特薦《とくせん》:オトコのパラダイス』
『罠《わな》に堕《お》ちた不倫《ふりん》人妻』
『メイドさんで昇天《しょうてん》させて!』
『入会金|無料《むりょう》・一時間八〇〇円!』
『魅惑《みわく》のプリプリヒップ』
『カナちゃんの絶頂《ぜっちょう》テクニック』
活字《かつじ》だけではない。いろいろと写真も載《の》っていた。自分とそう変わらない年代の女の人が、こう、なんというのか、あんな風に、アレな状態《じょうたい》だったりする。
かなめは赤くなって、視線《しせん》を自分の膝《ひざ》に落とした。
(……ったく、こんな公共の場で)
内心でひそかに憤《いきどお》る。
特《とく》に『カナちゃんの絶頂テクニック』のフレーズが気に食わない。そこに写っているランジェリー姿《すがた》の『カナちゃん(短大生・19[#「19」は縦中横])』は、小麦色《こむぎいろ》の肌《はだ》で太め、髪《かみ》を染めており、かなめとは似ても似つかない娘《むすめ》だった。……が、だからといって、気分のいいものではない。ちなみに『絶頂テクニック』というのが、いかなる最終|奥義《おうぎ》なのかは、彼女には想像《そうぞう》も及《およ》ばなかった。
(これはもう、完全《かんぜん》にセクハラよね……)
満員電車というのは、これだからイヤなのだ。チカンもいるし。
いっそのこと、通勤《つうきん》・通学の時間帯は電車の車輛編成《しゃりょうへんせい》を『男性車輛』『女性車輛』にわけてくれればいいのに。見ず知らずのおじさんと、身体《からだ》をぴったり密着《みっちゃく》させるような――そういう状況《じょうきょう》を強《し》いるこの輸送《ゆそう》システムは、なにかが間違《まちが》っているのではないのか?
……などと思っていると、電車がにわかに混《こ》んできた。
立っている乗客が押《お》し合いへし合い、車内はどんどん狭苦《せまくる》しくなってくる。
スポーツ新聞がぐっとせり出し、彼女の視界《しかい》がその紙面で一杯《いっぱい》になった。
『フェロモン女優のドッキリ私生活』
『美少女|艦長《かんちょう》・全身|微息《びそく》』
『韓国《かんこく》フーゾク最前線《さいぜんせん》をゆく!』
あれや、これや。
もはや目を閉じるしかない。こらえて待つことしばし、ようやく電車が学校の最寄《もより》駅・泉川《せんがわ》に到着《とうちゃく》する。
(あー、もう……!)
かなめはこの不快《ふかい》な状態から一刻も早く逃《のが》れようと、目の前のスポーツ新聞を押しのけ、立ちあがった。
すると――
目の前によく知った顔があった。
むっつり顔にへの字口。ざんばらの黒髪《くろかみ》。
相良《さがら》宗介《そうすけ》である。
右手には、問題《もんだい》のスポーツ新聞。左手には、その新聞に隠《かく》されていた自動拳銃《じどうけんじゅう》。ごていねいにサイレンサー付きである。
どうやらこの男は、別に記事《きじ》を読んでいたわけではないらしい。
「千鳥。偶然《ぐうぜん》だな」
淡々《たんたん》と、宗介は言った。
「…………」
かなめは無言《むごん》で宗介の腕《うで》を引き、人ごみをかき分け、電車を下りた。ホームに出ると、宗介の手からスポーツ新聞を取り上げる。
「おっ……」
その新聞を棒状《ぼうじょう》に丸めると、彼女はそれを振《ふ》り上げて――
べしっ!
宗介の頭をはたき倒《たお》した。
彼は頭頂部《とうちょうぶ》をさすりながら、
「…………。理由を聞こうか」
「やかましいっ!」
かなめは怒鳴《どな》りつけ、ふたたび広げた新聞を、宗介に突《つ》きつけた。
「……朝っぱらから、こーいうモノを人の顔に押し付けてんじゃないわよっ! テッポー隠《かく》し持ってるのは、この際《さい》置いといて、もーちょっと気配《きくば》りをしなさい、気配りをっ!」
「この新聞に、なにか問題が?」
「大ありよっ! 見てみなさい!」
宗介はがさがさと紙面をめくり、
「ふむ……。『IWGPヘビー級|選手権《せんしゅけん》/天龍《てんりゅう》vs[#「vs」は縦中横]佐々木《ささき》/王座|奪取《だっしゅ》なるか』……?」
「ちがうっ! そこはプロレス!」
「『T小室《こむろ》、怪《あや》しい単身《たんしん》ハワイ入り?』」
「それは芸能《げいのう》っ!」
そこで宗介は記事を読むのをやめて、渋《しぶ》い顔をした。
「よくわからんが、記事の内容は問題ではない。銃器《じゅうき》が隠《かく》せて、しかも持っていて目立たない紙――それが重要なのだ」
「ああっ、もう……! あんた、ひょっとしてわざとやってない!?」
「? なんのことだ?」
……などと、ホームの雑踏《ざっとう》の中で、不毛《ふもう》に言い合いをしていると。
「あの……き、きみたち……」
二人に声をかける者がいた。宗介とかなめは同時に相手をにらみつけて、
「なんだ」
「なによっ!?」
それぞれ言うと、その男はびくりと肩《かた》を震《ふる》わせた。
スーツ姿《すがた》の中年男だ。痩《や》せ型で、猫背気味《ねこぜぎみ》で、頭髪《とうはつ》も少々|薄《うす》くなっている。気の弱そうな、さえない容貌《ようぼう》のおじさんだった。なんとなく、満員電車でチカンを働いたりしそうなタイプにも見える。
[#挿絵(img2/s04_129.jpg)入る]
「その……こ、こういう公共の場でだね、周囲を顧《かえり》みず口論《こうろん》をするのは……ちょ、ちょっと、よくないんじゃ……ないのかな……?」
遠慮《えんりょ》がちにおじさんが言った。
かなめが『だれ、あなた?』と言おうとすると、その前に宗介が口を開いた。
「何者だ、貴様《きさま》は」
「え? わ、私は……そのぅ……」
「われわれは、通学路における安全|保障《ほしょう》問題について討議《とうぎ》している。邪魔《じゃま》はしないでもらおうか」
「そ……そうかね。じゃあ……」
おじさんは弱々しい微笑《びしょう》を浮《う》かべると、すごすごとその場を去っていった。
覇気《はき》のないその背中《せなか》を見て、かなめはぽんと手を打った。
「あ、思い出した」
「どうした」
「あの人、うちのガッコの先生だったわ。倫理《りんり》かなにかの担当《たんとう》で……確《たし》か、名前は臼井《うすい》とか……」
「そうなのか? 見覚えがないが」
「うん。なんか、影《かげ》の薄《うす》い人だから……」
その目立たない中年教師の姿が、人ごみの向こうに消えていった。
その日の昼休み、教室で――
かなめは友人の常盤《ときわ》恭子《きょうこ》と稲葉《いなば》瑞樹《みずき》に、けさの出来事《できごと》をかいつまんで話した。臼井|教諭《きょうゆ》のことではなく、宗介のスポーツ新聞の件である。
恭子はかなめのクラスメートで、とんぼメガネにおさげ髪《がみ》の、小柄《こがら》な少女だ。
もう一人の瑞樹は別のクラスの生徒だったが、最近はたまに、この二年四組の教室にぶらりと遊びに来る。髪はセミロング、勝気《かちき》な顔だちの少女だった。
「……と。そーいう、ムカつくことがあってねぇ……」
かなめは不機嫌《ふきげん》顔でコッペパンをかじり、缶《かん》コーヒーをずるずるすすった。
「ああいう記事を剥《む》き出しにする、その神経《しんけい》が分かんないわ。朝っぱらから。なに考えてんのかしらね」
聞いていた恭子は、小さな弁当箱《べんとうばこ》を突《つ》つきながら、困ったような笑顔《えがお》を見せた。
「うーん。まあ、サガラくんにも悪気《わるぎ》はなかったんじゃない?」
「ンなことは知ってるわよ。あたしが問題にしてるのはね、ああいう品性下劣《ひんせいげれつ》な記事とか、ああいう……その、やらしい商売とかが、堂々《どうどう》とまかり通ってることなの! しかも、いいオヤジどもが夢中《むちゅう》になって。嘆《なげ》かわしいったらないわね、いやマジで」
いわゆるポルノだとか、性風俗産業《せいふうぞくさんぎょう》だとか。世の男たちがああいったモノを喜ぶことが、一六歳のかなめにはどうしても理解《りかい》できなかった。
汚《けが》らわしい……とまでは言わない。だが、情けない……とは強く思う。
「確《たし》かにヤだよねー」
その意見《いけん》には、恭子もあっさり同意した。
「コンビニとかの、そういう雑誌コーナーの前って、通りづらいもん。お兄ちゃんの部屋にそーいうビデオとかあると、捨《す》てちゃおうかなー、とか思うよね」
「捨てなさい、捨てなさい。あんなモノ、全部|禁止《きんし》しちゃえばいいのよ」
かなめと恭子がうなずき合うと、それまで黙《だま》っていた瑞樹が、ほとんど驚愕《きょうがく》に近い顔で二人を眺《なが》めた。
「なんと、まあ……」
飽《あ》きれたようにうめく。
「?」
「キョーコはともかく、カナメもそーいうタイプだったとは。これは意外《いがい》ね……」
「どういうことよ?」
瑞樹はため息をつくと、おもむろに長広舌《ちょうこうぜつ》をぶちはじめた。
「わかってない。あんたたち、男の生理《せいり》が全《ぜん》っ然《ぜん》、わかってないわ。あのね、男ってのは、一人残らずオオカミなのよ。頭の中は、もー、救《すく》いようがなくエッチなことだらけ。隙《すき》あらば、あたしみたいな可愛《かわい》い子に襲《おそ》いかかって、ドス黒い禁断《きんだん》のライフ・フォースを爆発《ばくはつ》させようと企《たくら》んでるのよ」
「ははあ。ドス黒い禁断の……ですか」
「そーよ。男は全員、暗黒|魔術《まじゅつ》で合成《ごうせい》された、悪の超《ちょう》エネルギー生命体なのよ。ビースト・モードにチェンジするのよ」
「そ、そうだったの……」
彼氏イナイ歴《れき》一六年のかなめと恭子は、イナイ歴ンか月の瑞樹の言葉を、真摯《しんし》に受け止めた。
「……で、そのドス黒いパワーを分解処理《ぶんかいしょり》して、無害《むがい》にするのがそーいう商売なの。善悪|抜《ぬ》きで、必要《ひつよう》なの。つまり、あんたたちの主張《しゅちょう》は『日本から核廃棄物《かくはいきぶつ》の処理施設《しょりしせつ》をなくせ』と言ってるのと同じことなのよ。わかった?」
『はい……』
なんとなく釈然《しゃくぜん》としないものを感じながらも、かなめと恭子はうなずいた。
「でも、じゃあ……高校生で、援交《エンコー》とか、そういうアルバイトしてる子たちって、エラいことになっちゃうじゃない」
すると瑞樹は『ふふん』と笑って、
「そーいうことになるわね。エラいのよ。あたしはまっぴらごめんだけど。ただ、社会に貢献《こうけん》している彼女らには、ひとかどの敬意《けいい》を表《ひょう》さなければならないと思うわ」
「ミズキちゃん……それ、絶対《ぜったい》ちがうと思う」
そのおり、教室に宗介が入ってきた。
彼はきびきびとした足取りで近付いてくると、かなめに言った。
「千鳥。会長|閣下《かっか》が呼んでいる。生徒会室《せいとかいしつ》だ」
「…………」
かなめたちは無言《むごん》で、宗介の顔を注意深く凝視《ぎょうし》した。
オオカミ。悪のエネルギー生命体。
この宗介も、だろうか? やはり彼も、例外ではなく、ああいうものが好きなのだろうか?
とてもそうは見えないのだが。
いや、だが、しかし……。
三人に『じい〜〜〜〜〜〜っ』と見つめられて、宗介が一歩後ずさった。
「……なんだ?」
『いや、別にィ』
かなめたちは冷淡《れいたん》な声で、異口同音《いくどうおん》にこたえた。
「さて……相良くん、千鳥くん。今回の任務《にんむ》なのだが――」
生徒会室で、会長・林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》が言った。いつもと変わらぬ、長身、白皙《はくせき》、怜悧《れいり》な風貌《ふうぼう》の青年である。
「あのー、『今回の任務』って。なんでそういう切り出し方なんです?」
肩《かた》を落としてかなめが言うと、林水は『平和』と大書《たいしょ》された扇子《せんす》を開いて、優雅《ゆうが》に微笑《ほほえ》んだ。
「この方が、君たちもやる気が出るのではないかと思ったのだが……。ちがうかな?」
かなめが『ちがう』と言うよりはやく、宗介が言った。
「そんなことはありません、閣下《かっか》。千鳥も自分も、お心遣《こころづか》いに感謝《かんしゃ》しております」
「おい」
「けっこう。それで、今回の任務なのだが……まず、これを見たまえ」
林水は何事《なにごと》もなかったかのように言うと、一枚のチラシを差し出した。
「…………?」
かなめが手にとってそれを読む。
<<会員制メンズ・イメージ・サロン
『C&J』
開店記念:お試《ため》しキャンペーン実施中《じっしちゅう》!
▼入会金……三〇〇〇〇円
▼プレイ料金……一時間八〇〇〇円
▼お試し料金……三〇分四〇〇〇円
日々の仕事に疲《つか》れた貴方《あなた》が抱《いだ》く、秘《ひ》めやかな欲望《よくぼう》。男として生まれたならば、あなたにも必ずあの[#「あの」に傍点]願望《がんぼう》があるはずです。
でも、仕事や家族、社会的地位のある貴方、内気でシャイな貴方にとって、その願望は夢のまた夢ではありませんか?
当店は、そんな貴方のひそかな欲望《よくぼう》を充足《じゅうそく》させてご覧《らん》にいれます。
多彩《たさい》なシチュエーションと、充実《じゅうじつ》したコスチューム、そして質《しつ》の高いコンパニオンたちが、貴方の望《のぞ》むままに!
悩《なや》む前にぜひお試しを。従業員《じゅうぎょういん》一同、心より貴方をお待ちしております。
さあご一緒《いっしょ》に、夢の世界へ!
☆コンパニオンも募集中《ぼしゅうちゅう》です。一六歳から二〇歳の女性は特に大歓迎《だいかんげい》!>>
あとは住所・電話番号、その店への地図が書いてあった。
「…………」
かなめはチラシを宗介に押《お》し付けてから、うつむき、拳《こぶし》をわなわなと震《ふる》わせた。
「どうしたのかね、千鳥くん?」
「いや……どうして、今日はたてつづけに……こーいう、いやらしいモノばかりが、あたしに近付いてくるんでしょーね……?」
にらみつけると、林水はその視線《しせん》を涼《すず》しげに受け止めた。
「ふむ。事情《じじょう》がよく分からんが……。ともあれ、そのチラシだ。住所から分かる通り、その店は泉川《せんがわ》商店街のはずれ、第一|丸山《まるやま》ビルにある。我《わ》が校のすぐ近所だ」
「それがどーしたって言うんです。こんな怪《あや》しいイメクラなんか、放《ほう》っておけばいいじゃないですか」
周囲《しゅうい》の商店主にとっては迷惑《めいわく》な話かもしれなかったが、かなめたちの与《あず》かり知るところではない。
「そうもいかん」
林水は、ゆっくりとかぶりを振《ふ》った。
「私の得《え》た情報によれば――その店に我が校の人間が、複数《ふくすう》出入りしているらしい。女子生徒が数名。おそらく、働いているかと思われる」
「その……イメクラで?」
「ほぼ確実《かくじつ》だ」
「マジで? うわー、最っ低……」
「道徳《どうとく》ではなく、経済《けいざい》の問題だよ、千鳥くん。需要《じゅよう》がある限《かぎ》り、供給《きょうきゅう》もまたある。私個人としては、そうした内職《ないしょく》をする生徒を、完全《かんぜん》に止めることはできないと思っている。……だが、この件が明るみに出るのはまずい。教職員《きょうしょくいん》が知れば、綱紀粛正《こうきしゅくせい》に名を借《か》りた、生徒会の自治権侵害《じちけんしんがい》が始まるのは確実だろう。そうなる前に、手を打つ必要《ひつよう》がある」
「ははあ……」
なんとなく話が見えてきた。林水は、『その女子生徒たちを説得《せっとく》して、仕事をやめさせろ』というつもりなのだろう。
「了解《りょうかい》しました、会長|閣下《かっか》。その件は自分たちが適切《てきせつ》に処理《しょり》します。ご安心を」
宗介が自信たっぷりに言うのを聞いて、かなめは横で眉《まゆ》をひそめた。
「ちょっと、ソースケ。あんたホントにわかってるの?」
「当然《とうぜん》だ。俺《おれ》は馬鹿《ばか》ではない」
「いちおう聞くけど、どうする気?」
宗介は『ふっ』と不敵《ふてき》に鼻を鳴《な》らした。
「わからんのか。つまり閣下は、学益《がくえき》を損《そこ》なう恐《おそ》れのあるその生徒たちを、事故《じこ》に見せかけ、すみやかに抹殺《まっさつ》せよ……と言っておられるのだ」
やはり宗介は馬鹿であった。
かなめはその馬鹿に飛びかかると、首にがっちりスリーパー・ホールドを極《き》めた。
「こ・ろ・し・て、どうするの、殺して!?」
「む……う……」
「ったく! センパイもなにか言ってやってくださいよ!」
「ふむ……? それも一つの独創的《どくそうてき》な手段《しゅだん》かもしれんな……」
「ああっ、もう……」
ぐったりとした宗介を放《ほう》りだし、かなめはその場にしゃがみ込んだ。林水は二人が回復《かいふく》するのを気長に待ってから、
「……実のところ、私の頼《たの》みは説得《せっとく》や暗殺《あんさつ》ではない。明るみに出た場合の『切り札』が欲《ほ》しいだけなのだよ」
「……と、いいますと?」
「実はこの店には、我《わ》が校の教師も出入りしているらしい。その証拠《しょうこ》をつかんでおけば、校長への取り引き材料《ざいりょう》になる」
「ははあ……。いやはや。まったく……」
「そこで、諸君《しょくん》の出番《でばん》だ。潜入《せんにゅう》して証拠《しょうこ》をつかんで欲しい。『コンパニオン募集《ぼしゅう》』――容姿端麗《ようしたんれい》な千鳥くんならば、即《そく》採用《さいよう》だろう」
「へ?」
「相良くんには、万一《まんいち》の場合《ばあい》の彼女の救出役《きゅうしゅつやく》を担《にな》ってもらう。よろしく頼むよ」
「はっ、了解《りょうかい》しました」
宗介が敬礼《けいれい》する。かなめはしばしあっけにとられたあと、
「どうしてそうなるんですっ!?」
と、思い出したように怒鳴《どな》った。
「いやかね?」
「いやです! 力いっぱい!」
「では仕方《しかた》ない。……美樹原《みきはら》くん?」
林水は、室内で書類《しょるい》仕事をしていた書記の少女――美樹原|蓮《れん》に呼《よ》びかけた。しっとりとした黒髪《くろかみ》、古風《こふう》で端麗《たんれい》な容貌《ようぼう》の少女である。
「はい?」
蓮は小首《こくび》をかしげた。
「君に仕事を頼《たの》みたい。いま千鳥くんに断《ことわ》られた件なのだが、この店に――」
「だ――――っ!」
血相《けっそう》を変えて、かなめはそれを遮《さえぎ》った。世間《せけん》知らずの『お蓮さん』を、そんな店に潜《もぐ》り込ませるなど、飢《う》えたピラニアの池に松阪牛《まつざかぎゅう》を放り込むようなものである。
「なんだね、千鳥くん?」
「わ……わかりましたよっ! やればいいんでしょ、やれば!?」
ほとんど涙目《なみだめ》になって、かなめは叫《さけ》んだ。
泉川町の駅前商店街は、東京|郊外《こうがい》ならどこにでもあるような街《まち》だ。
強《し》いて特徴《とくちょう》を挙《あ》げるなら――近所に高校や女子大・短大が集中しているため、若い人向けの飲食店が多いことくらいか。かなめの知る限《かぎ》り、このチラシの類《たぐ》いの怪《あや》しい店は、これまでこの商店街には一|軒《けん》もなかった。
問題の店『C&J』は、学校から歩いてわずか五分の距離《きょり》にあった。商店街のメイン・ストリートから外れた、四階|建《だ》てのビル。その最上階である。
すでに日は暮《く》れ、あたりは暗かった。
「俺の記憶《きおく》では、あの階には学習|塾《じゅく》が入っていたはずだ。それが今では、テロリストの訓練《くんれん》キャンプになっているとは……」
ビルを見上げて、宗介が言った。それをかなめは横目でにらんで、
「実はあんた、センパイの話、全然《ぜんぜん》聞いてなかったんでしょ……?」
「? あのチラシを見た限りでは、社会に不満《ふまん》を持つ男たちがここに集《つど》って、日夜、殺人技術を磨《みが》いているように読めたが……」
「なんだか壮絶《そうぜつ》な読解力《どっかいりょく》ね。……っお?」
宗介がいきなりかなめの腕《うで》をとり、そばの立て看板《かんばん》の陰《かげ》へと引っ掛り込んだ。
「な、なによ」
「静かに。見ろ」
ビルの入り口に、少女が一人、通りかかった。陣代《じんだい》高校の制服《せいふく》姿だ。内向きのシャギーにカットした栗色《くりいろ》の髪《かみ》。ほっそりしているように見えて、なかなかグラマーな体つき。
(あ。あの子は……)
かなめは彼女を知っていた。二年一組の佐伯《さえき》恵那《えな》という生徒だ。確《たし》か、演劇部《えんげきぶ》の部長もしていたはずである。以前《いぜん》、宗介にラブレターを送って、その恋心《こいごころ》を宗介自身によってズッタズタにされた前歴《ぜんれき》があった。
佐伯恵那は鞄《かばん》を抱《かか》えて、周囲《しゅうい》の人目がないのを確認《かくにん》してから、そそくさとビルのエレベーターの中に消えていった。
後からエレベーターの表示《ひょうじ》を見た限りでは、彼女は四階――問題のそのイメクラで降《お》りた様子《ようす》だった。
かなめは驚愕《きょうがく》した。よりによって、彼女だとは……!
「信じられないわ。なんてこと……」
「うむ。やはり彼女は、テロリストの卵《たまご》だったか……」
つくづく最低《さいてい》の男である。
かなめはため息をつくだけで、あえてコメントせず、宗介に念押《ねんお》しした。
「じゃあ、行くけど。ちゃんとこの辺で待っててよ?」
「了解《りょうかい》」
「あたしがこの発信機《はっしんき》のボタンを押したら、すぐに助けにきてね?」
「了解」
「逆《ぎゃく》にいうと、押さない限《かぎ》りは踏《ふ》み込んできちゃダメよ?」
「了解。では、行ってこい。幸運を」
宗介がぴっと、こめかみをこする敬礼《けいれい》を送った。『大丈夫《だいじょうぶ》か』とも『気をつけろ』とも言ってこない。
「……ったく、もうちょっと心配してくれてもいいのに……」
ぶつぶつとこぼしながら、かなめは四階の店へと向かった。
『教師が遊んでる証拠《しょうこ》』というのも目的ではあったが、彼女としては、佐伯恵那を見かけたら『そんなバイトはやめろ』と説得《せっとく》するつもりだった。
その怪《あや》しい店――男性向けイメージ・サロン『C&J』は、ばっと見、まともな内装《ないそう》だった。
待合室《まちあいしつ》は白が基調《きちょう》で、落ちついたグレーのソファーと、ガラスのテーブルがある。壁《かべ》には名画『民衆《みんしゅう》を率《ひき》いる自由の女神《めがみ》』なんぞがかけてあった。確《たし》かにそれは裸婦《らふ》の絵だったが、別にいやらしいものではない。
エッチな店というよりは、歯科医《しかい》か整体師《せいたいし》の待合室みたいな雰囲気《ふんいき》である。
ほとんど死を覚悟《かくご》して乗り込んできたかなめは、まずそれで拍子《ひょうし》抜《ぬ》けした。
(いやいや、外見に騙《だま》されちゃいけないわ)
思い直して、かなめはおずおずと受け付けのデスクに近付く。
「あのー……」
「はい?」
受け付けにいたのは、大柄《おおがら》な短髪《たんぱつ》の男だった。一重《ひとえ》の目は細く、耳が大きい。変な顔だが、声だけは妙にシブかった。
「チラシを見て来たんですけど……。なんか、コンパニオン募集《ぼしゅう》って……」
「おお……! これはこれは。ようこそ。さ、さ、こちらへ」
男はしきりにうなずくと、かなめを奥《おく》の、狭苦《せまくる》しい事務所《じむしょ》の方へと案内した。
「さあ座《すわ》って。いやー、ちょうど良かった。君くらいの女の子がね、足りなかったんですよ。うん。お茶は? お菓子《かし》は?」
「いえ、その……けっこうです」
こんな場所では、どんな好物も喉《のど》を通らないだろう。
「あー、そう。申《もう》し遅《おく》れました。私はこの店のマネージャーで、後藤《ごとう》正二《しょうじ》という者です。よろしく。ええと……?」
「あ……日取《ひどり》です。日取|加奈《かな》」
後々のことを考えて、かなめはいい加減《かげん》な偽名《ぎめい》を名乗《なの》った。
「日取さん、ね。うん。その制服は、陣代高校だね?」
「ええ、まあ」
「陣代の子は、何人かここで働いてるよ。みんな、お客さんの扱《あつか》いが上手《じょうず》でねえ。かわいいし。大好評《だいこうひょう》だよ。はっはっは」
言うなり、後藤正二は断りも入れずに煙草《たばこ》を取りだし、火をつけた。
「えほっ……」
「んー、うまい。……で? 日取さんはうちの仕事の内容《ないよう》、知ってる?」
「それが……その、あんまり」
「そうかー。……ま、簡単《かんたん》にいうとね、仕事に疲《つか》れたおじさんたちと、ゴッコ遊びをしてあげるようなものなんだけど。けっこう本格的《ほんかくてき》でね。ちゃんと制服とかセットとか、いろいろ用意してあるんだよ。もー、これにカネがかかってねえ。経営《けいえい》も苦しいんだけど」
「はあ……」
「お客さんは大体、三〇代から五〇代くらいの、働き盛《ざか》り。社会的に地位《ちい》のある人が多いね。医者、弁護士《べんごし》、官僚《かんりょう》、警察官《けいさつかん》……。あとは学校の先生とか」
やはり、いかがわしいイメクラのようだ。回れ右して帰りたい気分だった。
まったく嘆《なげ》かわしい。そんな立派《りっぱ》な仕事の人たちが。なんだってまた、いやらしいゴッコ遊びなんかに……!
かなめが内心で憤慨《ふんがい》していると、受け付けのチャイムが鳴《な》った。
「あ……っと。お客さんだ。ちょっと待っててね」
後藤が事務所を出ていった。ほどなく、彼と客とが笑い合う声がする。
(? この声は……?)
かなめは戸口までそっと忍《しの》び歩くと、受け付けの方を覗《のぞ》きこんだ。
(あ……)
後藤と話をしていた客は、けさ、駅のホームで会ったあの教師――臼井だった。まちがいない。気弱で、印象《いんしょう》の薄《うす》いあの先生が、こんな店に通っていたとは……!
かなめはあわてて制服のポケットから、生徒会の備品《びひん》のコンパクト・カメラを取り出した。フラッシュをオフにして、ぱしゃりと一枚。さらにもう一枚。
(おお……これはスリリングだわ。なんとゆーのか、『スパイ大作戦』って感じ?)
単独潜入《たんどくせんにゅう》の緊迫感《きんぱくかん》を、いまや楽しみつつあるかなめであった。
後藤が内線《ないせん》電話をとって、だれかに呼びかけていた。たぶん、従業員《じゅうぎょういん》の控《ひか》え室だろう。
「あ、佐伯さん? いまお客さん来たから。うん、三号室。それじゃ、よろしくー」
佐伯――佐伯恵那のことだ。あの彼女が。これから『仕事』を……? あろうことか、臼井|教諭《きょうゆ》と……!?
去年度の学園祭《がくえんさい》・ミス陣高二位の佐伯さんが! 学年末テストで、総合《そうごう》五位だった佐伯さんが! あの真面目《まじめ》で、演劇部でも活躍《かつやく》している佐伯さんが……!!
(ああ、神様……! 世の中って、世の中って、どうなってるんですかぁ!?)
すでに驚愕《きょうがく》というより、戦慄《せんりつ》であった。自分の信じていた世界|観《かん》が、根底《こんてい》から崩壊《ほうかい》していく滅《ほろ》びの音。かなめは確《たし》かに、それを聞いた。
後藤が事務所に引き返してきた。かなめは動揺《どうよう》覚《さ》めやらぬまま、あたふたと自分の席に戻《もど》り、辛《かろ》うじて何食わぬ顔をした。
一瞬《いっしゅん》遅《おく》れて、後藤が戻《もど》る。
「すまないね、待たせちゃって。この時間|帯《たい》から、けっこう混《こ》んでくるんだよ」
「そ、そうですか……」
「うん。ちょっとあぶく銭《ぜに》が入ったもんで、単なる思いつきで始めたアイデア商売だったんだけどねぇ。それが……まあ、予想以上に需要《じゅよう》があって」
「はあ……」
「これは俺の持論《じろん》なんだけどね。男って生き物には、ああいう願望《がんぼう》が必ずあるんだ。それが実行《じっこう》できなくて、みんな苦しんでる。それをかりそめに実現《じつげん》してあげるのが、このお店なんだよ。それだけ社会が病《や》んでいる、ってことなんだろうねえ。うん、うん」
後藤は感慨《かんがい》深げにうなずいてから、
「えーと……何の話だったかな? そうだった、仕事だ。……まあ、最初は見習いとして、いろいろとお客さんを喜ばせるテクニックを覚えてもらうことになる。ちょっとしたコツと、演技力が要《い》るんだ。あと――羞恥心《しゅうちしん》をなくすこと。これが重要《じゅうよう》だね」
「しゅ、羞恥心……ですか……」
「そう。ここに来るお客さんは、照《て》れ屋の人が多いから。恥《は》ずかしがらずに、ちゃんとお客さんをリードしてあげて欲《ほ》しい。わかるね?」
「う……」
気分が悪くなってきた。かなめがどよんとした目をしていると、後藤が怪訝《けげん》そうな顔をする。
「どうかした? 大丈夫《だいじょうぶ》?」
「いえ……。ちょっと……お手洗い借りていいですか?」
「ああ。店の奥《おく》の方だけど……案内しようか?」
「い、いえ……一人で……行けます」
かなめは立ちあがると、ふらふら店の奥へ歩いていった。
手洗いで、ばしゃばしゃと顔を洗う。
こういう場所は自分向きではない、とかなめは心底《しんそこ》思った。
あの後藤という店長は温厚《おんこう》だし、店の雰囲気《ふんいき》も退廃的《たいはいてき》ではない。宗介に助けを求める必要も、今回はないだろう。
しかし、それでも……。
(長居《ながい》はゴメンだわ。さっさと帰ろ。それが一番よね)
しかし、受け付けで店長と話している写真だけでは。いわゆる『証拠《しょうこ》』には程《ほど》遠い。もっと決定的《けっていてき》な素材《そざい》が必要《ひつよう》なのだ。
(確《たし》か、三号室とか言ってたわよね……)
その部屋に、白井|教諭《きょうゆ》と佐伯恵那がいる。まさかそこに乗り込んで、パパラッチみたいに写真を撮《と》るわけにもいかないだろうが……。
どうしたものか。
思案《しあん》に暮《く》れながら、かなめは手洗いを出た。
店内はカラオケ屋によく似た構造《こうぞう》だった。細長い通路《つうろ》があって、その両脇《りょうわき》にずらりと個室《こしつ》が並ぶ。一号室、二号室、三、五、六、七、八……と。
問題の三号室は、かなめが出てきたトイレのすぐそばだった。受け付けや待合室の方からは、まったく見えない場所だ。
「………………」
通り過《す》ぎようとしたところで、ふと立ち止まる。考えもなく、扉《とびら》のノブを握《にぎ》ってみる。
驚《おどろ》くべきことに、鍵《かぎ》はかかっていなかった。
(こ、これは……)
かなめは高|鳴《な》る胸の鼓動《こどう》を感じながら、そっとその扉を、三センチばかり開けてしまった。反応《はんのう》はない。いけないことだと思いながらも、中腰《ちゅうごし》になって覗《のぞ》いてしまう。
室内はちょうど、学習|塾《じゅく》の教室のようになっていた。黒板《こくばん》と机《つくえ》。壁《かべ》のスピーカーから、彼女がよく知った音――放課後《ほうかご》の静かな教室の音が流れている。
その室内に、佐伯恵那と臼井教諭がいた。
二人はいくらか距離《きょり》をとって立ち、向かい合っている。臼井がきっと相手をにらんでいるのに対し、恵那の方はそっぽを向いていた。
かなめの存在《そんざい》には気付いていない様子だ。
「いつまで……いつまで、こんなアルバイトを続けるつもりだね、佐伯くん?」
臼井教諭が言った。
すると恵那はそっけない声で、
「そんなこと……わたしの勝手じゃないですか。どうせ生きてたって、意味《いみ》なんか無《な》いんです。おためごかし[#「おためごかし」に傍点]はやめてくれません? 臼井先生……」
「そうはいかん……! キミは私の生徒だ。その生徒が道を踏《ふ》み外すのを、教師の私が座視《ざし》するわけにはいかンのだよ!」
妙《みょう》にリキの入った声で言う。だが恵那は、それでも相手をせせら笑って、
「フフ……バカみたい。大人の言うことなんて、嘘《うそ》ばっかり。けっきょく先生だって、わたしの身体《からだ》が目当《めあ》てなんでしょう?」
「な、なにを言うんだ。私はキミの身を案《あん》じて――」
「よして。それより……立場なんか忘れて、楽しみましょうよ、先生……フフ」
[#挿絵(img2/s04_153.jpg)入る]
恵那が妖艶《ようえん》に微笑《ほほえ》んだ。それは――同性《どうせい》のかなめでさえ、『どきっ』とするほど色っぽい口調《くちょう》だった。
(ああ……佐伯さん……マジなの……?)
はらはらしながら、かなめはその場面《ばめん》に釘付《くぎづ》けになっていた。
「遅《おそ》い……」
ビルの向かい、電柱《でんちゅう》の蔭《かげ》に潜《ひそ》んでいた宗介は、腕《うで》時計をにらんでつぶやいた。
彼の見たてでは、かなめが入ってからそう経《た》たないうちに、救助要請《きゅうじょようせい》の信号が入ると考えていたのだ。ところが、いつまでたってもそれが来ない。
(これは、やはり……)
テロリストに捕《と》らわれ、いましも拷問《ごうもん》を受けようとしている……と考えて間違《まちが》いないだろう。渡《わた》しておいた発信機《はっしんき》は、スイッチを入れる前に奪《うば》われたのだ。
(千鳥……!)
そう判断《はんだん》すれば、彼の反応《はんのう》は早かった。エレベーターを待つのももどかしく、階段《かいだん》を疾風《しっぷう》のごとく駆《か》け上がる。四階の店――『C&J』の前まで来ると、躊躇《ちゅうちょ》もせずに踏《ふ》み込んだ。
「ちょっと、なんです? あんた――」
受け付けのコーナーにいた大柄《おおがら》な男が、しかめっ面《つら》で近付いてきた。宗介はその男の腕《うで》をつかむと、すばやくねじ伏《ふ》せ、腰《こし》から抜《ぬ》いた自動拳銃《じどうけんじゅう》をその後頭部に突《つ》きつけた。
「わ……わっ! なにすんだ!? おい!」
「千鳥かなめをどこに隠《かく》した。言え! 隠せば命はないぞ!」
宗介は容赦《ようしゃ》なく告げた。
「はあ? だれだ、そりゃ」
「とぼけるな……!」
「知らないってば! 落ちつけって!」
「…………?」
「あ……あんた、もしかして日取さんのこと言ってるの? 彼女なら、ちょっとトイレに行ってるよ。気分が悪い、とかなんとか。すぐ戻《もど》ってくると思うけど」
男に言われて、宗介はふと、その室内を見渡《みわた》した。
待合室に腰|掛《か》けていた中高年の男たちが、不安げな顔で彼を見ていた。なぜか――揃《そろ》いも揃って気弱そうで、おとなしい風貌《ふうぼう》の連中《れんちゅう》だった。宗介の目から見ても、とうていテロ活動をしそうな人間には見えない。
「……間違《まちが》いないか?」
待合室の全員が、こくりとうなずいた。ややあって、宗介は男から銃口を外し、
「ふむ……。とうてい、ここはテロリストの訓練《くんれん》キャンプには見えんが……」
「なんだ、人聞きの悪いことを……。いいかい、きみ、この店はだねぇ……!」
男は立ち上がり、彼にこの店の趣旨《しゅし》を話して聞かせた。宗介は恐縮《きょうしゅく》し、その男――後藤に謝罪《しゃざい》した。
「申し訳《わけ》ない」
「わかればいい。……で。ついでだから、当店のサービスを体験《たいけん》してみないかね?」
「体験……か?」
「うん。気持ちいいぞぉ。保証《ほしょう》する」
そう言って、後藤はにんまりした。
かなめはなおも、教諭と教え子の禁断《きんだん》の授業《じゅぎょう》を凝視《ぎょうし》していた。
だれもいない仮想《かそう》の教室で、臼井教諭はなおも恵那の誘惑《ゆうわく》に抵抗《ていこう》しようとしている。
「ば……バカをいうな! 私とキミは、教師と教え子じゃないか!」
「もう……。ふふ。だからわたしは『立場なんか忘れて、楽しみましょう』って言ったんです。ね、先生……?」
「サ、佐伯クン……!」
「先生、ほら……いらっしゃい……」
恵那が机の上に腰かけて、臼井教諭を手招《てまね》きした。
ああ、とうとう始まるのだ。
かなめはその現実《げんじつ》に怯《おび》えながらも、二人から目を離《はな》すことができずにいた。
だが、そこで――
「こンの……バァカもぉーんっっ!!」
いきなり臼井が、ハリセンを取り出し恵那の頭を『べしっ!』とひっぱたいた。
「きゃっ……!」
よろめく恵那。
かなめは、『は?』と口を半開きにする。
「いいかねっ!? もっと自分を大事《だいじ》にしたまえっ! キミには無限《むげん》の未来が開けている! いまは『生きていても仕方がない』などと思っていても、いつかは必《かなら》ず、あの七色の虹《にじ》のように、すばらしい太陽の光――人の心に涙《なみだ》を流すそのときがやってくるのだ! 佐伯クン、それがわからんのか!? わからんのなら、先生は悲しい!」
鼻息も荒《あら》く、臼井は一気にぶちまけた。
「せ、先生……」
「『大人は嘘《うそ》ばっかり』だなどと、哀《かな》しいことは言わないでくれ。まだやり直しは利《き》く。それを思うと、先生は、先生は……」
涙《なみだ》ぐむ臼井。それにつられたかのように、恵那は『ぐっ』と顔をしかめて、
「先生……わたし、まちがってました!」
「うん、うん……」
「ご……ごめんなさい。わたし、先生のつらい気持ちも知らずに……。勝手なことばかり言って。本当に……」
「そうか。わかってくれたか」
「はい!」
「よし。じゃあ、親御《おやご》さんがきっと心配しているぞ。……さあ、あの夕日に向かって競争だ!」
などと、学園ドラマのように号泣《ごうきゅう》するのであった。
(は、はあ……?)
かなめは首をひねりながら、ふと、となりの部屋からも似《に》たような声が聞こえてくるのに気付いた。この際だから覗《のぞ》いてしまう。
その五号室は高級感《こうきゅうかん》のある応接室《おうせつしつ》になっており、二人の中年男がいた。その部屋には、恵那のような女の子さえいない。
「――しゃる意味がわかりませんな。あなたがたのしていることは、立派《りっぱ》な犯罪行為《はんざいこうい》だ」
片方が毅然《きぜん》として言った。
「まあまあ、刑事《けいじ》さん。ここは一つ、これで水に流していただけませんか」
見るからに腹黒《はらぐろ》そうな片方の男が、卓上《たくじょう》に分厚《ぶあつ》い茶封筒《ちゃぶうとう》を差し出す。
「……これは?」
「いえ、これは我々《われわれ》のほんの気持ちです。どうかお納《おさ》めください」
「なに?」
「いやいや、決して汚《きたな》いカネではありませんよ。どうか。これでひとつ、よしなに……」
すると片方は、その茶封筒を相手に『ばしいっ!』と叩《たた》きつけた。
「ふざけるなっ!」
「な、なにをっ……」
「だまれッ! 腐《くさ》っても私は法の番人だ。カネや脅《おど》しで動きはしないぞ!」
「む、むう……。こ、こんな真似《まね》をしていいと思っているのかね? わたしには衆院議員《しゅういんぎいん》の金山《かなやま》先生がついておられるのだ。貴様のような下《した》っ端《ぱ》の刑事など――」
「好きにするがいい。だが、この私の誇《ほこ》り、人間の尊厳《そんげん》を買収《ばいしゅう》することは決してできん!」
「くっ……おのれ……」
「この街は俺が守るっ! 貴様の悪事《あくじ》は、これでおしまいだっ!!」
「あ、ああ……」
狼狽《ろうばい》しまくる腹黒おじさん。
かなめはあっけにとられながらも、続いてそのとなり――六号室を覗《のぞ》いてみた。
その部屋は病院のオフィスだった。
「い、院長先生。それは……しかし……」
「まあ、まあ、佐々木先生。……浜松《はままつ》製薬《せいやく》の件、よろしく頼《たの》むよ? あそこにはいつも世話《せわ》になっているからねえ……ククク」
「……お断りします」
「なに?」
「お断りだ、と言ったのです。患者《かんじゃ》の命を助けることが、私の仕事だ。私は、あなたやあの腐《くさ》りきった製薬会社を助けるために、医学を志《こころざ》したわけではないっ!」
「なんだと!? キミぃ、そんなことを言って、この病院にいられると思っているのかね!」
「だまれっ! 医者の魂《たましい》を売るくらいなら、路頭《ろとう》に迷った方がマシだっ!」
「き、きさま……!」
こんな調子《ちょうし》である。
次の部屋も、その次の部屋も。
ぱっと見は気弱な客が、役者とおぼしき悪役――見事な演技力だった――に、正義《せいぎ》の怒《いか》りをぶつけまくる。
「なにやってるの、日取さん……?」
はっと気付くと、店長の後藤が、扉《とびら》に張《は》りついたかなめをじっと見ていた。覗きに夢中《むちゅう》になってしまって、まったく彼の存在《そんざい》に気付かなかったのだ。
「え? あ、あの……これは、その……」
「ダメだよ。見付かったら、お客さんが興《きょう》ざめしちゃうだろ。まったく……」
などと言いつつも、後藤は特に怒《おこ》った様子ではなかった。
「あの、後藤さん。これは……?」
「だから言ったでしょ。仕事に疲《つか》れたおじさんたちと、ゴッコ遊びをするんだ、って」
「え、でも……」
「なんか分かってないみたいだな。……ここはね、思うさま正義|漢《かん》ぶりたい願望《がんぼう》を持つ、気弱な大人のためのお店なんだよ。ちなみに『C&J』はカレッジ&ジャスティス――『勇気《ゆうき》と正義』の略《りゃく》だ」
「はあ?」
「分からないかなあ。男ってのはね、みんな、正義の味方《みかた》になりたいんだ。強くありたい、正しくありたい……そういう願望があるんだよ。でもね、やっぱり社会に出ると、思うようにいかないことがたくさんあるんだ。上司には逆らえないし、クロをシロだと言わなきゃならない場合もある。きれいごとだけじゃ、生きてはいけないんだよ。医者だろうが警官だろうが小説家だろうが、みんな同じなのさ。うん、うん……」
男はひとしきりうなずく。
「……あ、もちろん、編集《へんしゅう》さんも営業《えいぎょう》さんも、印刷所《いんさつじょ》の人も校正《こうせい》の人も挿絵画家《さしえがか》さんもみんなそうだよ。大人はみんな辛《つら》いんだ」
などと、変なフォローまでいれたりする後藤正二であった。
(ば、バカバカしい……。これは……エッチな店より情けないわ……)
あまりのことに、かなめはまさしく、グウの音も出なかった。
「ところで、きみの友達が来てるよ。そこの八号室で、サビのところだけ試《ため》してもらってるけど」
「友達?」
かなめはすぐそばの八号室を、そっと覗《のぞ》いてみた。後藤は特に止めようとしなかった。
「…………?」
そこは軍隊《ぐんたい》かなにかの司令部みたいな部屋だった。立派《りっぱ》な軍服に身を包《つつ》んだ、四〇がらみの役者――コンパニオンが、直立不動《ちょくりつふどう》の宗介に向かって、なにやら怒鳴《どな》りつけている。
「軍曹《ぐんそう》っ! 貴様《きさま》には失望《しつぼう》したぞっ!? 私はあの村の人間を、一人残らず殺すように命じたはずだ!」
「そのような命令には従《したが》えません、サー!」
宗介が怒鳴り返した。
「なんだと!? 貴様、軍法会議がこわくないのかっ!? 銃殺刑《じゅうさつけい》だぞ!」
「勝手にしろ。あの村はゲリラとは無関係《むかんけい》だ。あんたは正常《せいじょう》な判断力《はんだんりょく》を失っている!」
「ぬ、ぬう……」
「ソースケっ!?」
かなめがその部屋に踏《ふ》み込むと、役者のおじさんと宗介が、そろって普通《ふつう》の顔に戻《もど》り、彼女を見る。
「千鳥か。どうした」
「な……何やってんのよ? あんたまで」
「これか? ふむ……」
宗介は顎《あご》に手をやり、思案《しあん》してから、
「いや。なかなか面白《おもしろ》いぞ。君もどうだ?」
かなめは呆《あき》れきって、その場にしゃがみ込み、深いため息をつくよりほかなかった。
[#地付き]<おとなのスニーキング・ミッション おわり>
[#改丁]
エンゲージ、シックス、セブン
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それほど困難《こんなん》でもない|A S《アーム・スレイブ》での降下訓練中《こうかくんれんちゅう》に、その事故《じこ》は起きた。
ウルズ2――タナン・アマサート中尉《ちゅうい》によって指揮されていたBチームは、M6A2 <ブッシュネル> の三機|編成《へんせい》だった。
高度《こうど》一二〇〇〇メートルの高空から飛《と》び降《お》り、地上近くのぎりぎりの高度一二〇〇メートルでパラシュートを開く、HALO(高高度降下・低高度|開傘《かいさん》)という降下|方法《ほうほう》だ。アマサート中尉のM6に付き従《したが》ってC―17[#「17」は縦中横]輸送機《ゆそうき》から飛び降りたのは、メリッサ・マオ軍曹[#「軍曹」に傍点]とジャック・ウェイン伍長《ごちょう》。それぞれウルズ6、7のコールサインを持つこの二人も、ASでの降下|経験《けいけん》は十分|豊富《ほうふ》だった。
だったのだが――
三機の開傘|直後《ちょくご》に、彼らのいた高度一〇〇〇メートルあたりで強い突風《とっぷう》が吹《ふ》いた。
その突風はある程度《ていど》予測《よそく》できた事態《じたい》だったので、アマサート中尉(ウルズ2)とマオ軍曹《ぐんそう》(ウルズ6)は、すばやくパラシュートのトグルを操作し、なんとか姿勢《しせい》を立て直すことができた。
だがウェイン伍長(ウルズ7)が、それに失敗《しっぱい》した。
ウェイン伍長のM6は横風にあおられ、大きくバランスを崩《くず》し、右下にいたアマサート中尉のM6のパラシュートに飛び込んでしまった。たちまちワイヤーが絡《から》みあい、パラシュートがしぼむと、二機のASはDNAさながらの二重|螺旋《らせん》を描《えが》きながら、地表《ちひょう》めがけて絶望的《ぜつぼうてき》な落下《らっか》をはじめた。
難《なん》を逃《のが》れたマオ軍曹は、無線《むせん》で『トラブル発生《はっせい》』と叫《さけ》んでから、詳《くわ》しい状況《じょうきょう》と同僚《どうりょう》たちの落ちていった座標《ざひょう》を本部へ通報《つうほう》した。
かたや、当事者《とうじしゃ》の二人は悪態《あくたい》をつくのももどかしく、自機《じき》のパラシュートを切り離《はな》し、予備《よび》を開傘した。その頃《ころ》にはすでに、地表までの距離《きょり》はわずか四〇〇メートルに迫《せま》っていた。
予備のパラシュートが十分に開く間もなく、M6の胴体《どうたい》に取り付けられた制動用《せいどうよう》の固体《こたい》ロケットモーターが、自動的《じどうてき》に作動《さどう》した。盛大《せいだい》な炎《ほのお》が機体の前後、斜《なな》め下方に向かって吐《は》き出されたが、それでも結局《けっきょく》――二機のM6は密林《みつりん》に覆《おお》われた山岳《さんがく》の斜面《しゃめん》に激突《げきとつ》してしまった。
同じメリダ島内の基地《きち》から飛び立った、救難《きゅうなん》ヘリが墜落現場《ついらくげんば》に到着《とうちゃく》したのは、それから四分後のことだった。
●
「助かったのが不思議《ふしぎ》なくらいだ」
メリダ島|基地《きち》のオフィスで事故《じこ》の報告書《ほうこくしょ》をさっと読んでから、ゲイル・マッカラン大尉《たいい》がコメントした。
「私がオーストラリア軍にいたころ、別のチームで似たような事故が起《お》きたがね。そのときの二人は助からなかった。駆動系《くどうけい》はぐしゃぐしゃ、燃料《ねんりょう》タンクが引火《いんか》して――とにかくひどいものだったよ」
「はあ」
気のない声で、メリッサ・マオ軍曹は答えた。
マオは中国系のアメリカ人である。ベリーショートの黒髪《くろかみ》に、大きな吊《つ》り気味《ぎみ》の目。優雅《ゆうが》な猫《ねこ》を思わせる容貌《ようぼう》の持ち主で、体つきや身のこなしもしなやかだ。海兵隊《かいへいたい》の出身《しゅっしん》だったが、いまは多国籍《たこくせき》の対テロ軍事組織《ぐんじそしき》 <ミスリル> に所属《しょぞく》している。もっと詳《くわ》しく、大仰《おおぎょう》にいうならば――その <ミスリル> の、作戦部の、水陸両用戦隊《すいりくりょうようせんたい》 <トゥアハー・デ・ダナン> の、強襲陸戦隊《きょうしゅうりくせんたい》の、特別対応班《SRT》の所属になる。
マッカラン大尉はそのSRTのチーム・リーダーであり、『ウルズ1』のコールサインを持つ。マオとそう変わらない背丈《せたけ》の、小柄《こがら》な白人男だ。
「まあ……アマサートもウェインも腕利《うでき》きですから」
「腕利きだった[#「だった」に傍点]、だ」
マオの言葉をマッカランが訂正《ていせい》し、足下に置いてあった空のバケツを意味もなくこつこつと蹴《け》った。島の地下に設《もう》けられたこの基地は、豪雨《ごうう》のあとによく雨漏《あまも》りが起きるのだ。このSRTのオフィスも、バケツの世話《せわ》にならざるをえない部屋の一つだった。
「アマサートは重傷《じゅうしょう》で――たぶん、右|脚《あし》と腰《こし》に障害《しょうがい》が残るだろう。日常《にちじょう》生活に支障《ししょう》はないが、さすがにSRTの任務《にんむ》は無理《むり》だ。情報部《じょうほうぶ》に転属《てんぞく》してもらおうかと思っている」
「そうですか」
惜《お》しいことだ、とマオは思った。アマサート中尉《ちゅうい》は掛《か》け値《ね》なしに優秀《ゆうしゅう》で、人心掌握《じんしんしょうあく》やバランス感覚にも優《すぐ》れ、経験|豊富《ほうふ》な人物だったのだが。
「かたやウェイン伍長《ごちょう》は軽傷《けいしょう》で済《す》んだが――彼も、もはやSRT要員《よういん》としては使い物にならん」
「なぜです?」
「墜落《ついらく》の瞬間《しゅんかん》、神に出会ったそうだ」
マッカランがうつむき、片眉《かたまゆ》をひくひくとさせた。
「奴《やつ》の眼前《がんぜん》に白い光が現《あらわ》れ、『汝《なんじ》、迷《まよ》える子羊よ。武器《ぶき》を捨《す》てて、エビを獲《と》れ』と告げたらしい。違約金《いやくきん》を払《はら》ってでも除隊《じょたい》して、フロリダに移住《いじゅう》すると言っとる」
「…………。きっといい漁師《りょうし》になりますよ」
とろんとした目でマオが言うと、マッカランはいまいましげにつぶやいた。
「ウェインめ。なにがエビだ。貴重《きちょう》な技能《ぎのう》を無駄《むだ》にしおって」
「確《たし》かに、意外《いがい》な反応《はんのう》ですねぇ……」
「ともかく、早めに分かって良かった。知らずに奴を使っていたら、いずれ実戦《じっせん》のときに困《こま》ったことになっていたかもしれん」
「いやまったく」
二人は同時《どうじ》にため息をついた。
そのおり、オフィスの隅《すみ》のうす暗がりに腰掛《こしか》けて、むっつりと二人の会話を聞いていた男が、はじめて口を開いた。
「訓練中《くんれんちゅう》の事故で人材を失うことは珍《めずら》しくない」
苔《こけ》むした岩を思わせる、静かな低い声。大柄《おおがら》で肩幅《かたはば》が広く、顔の彫《ほ》りは深い。
アンドレイ・カリーニン少佐である。マッカランの直接《ちょくせつ》の上司《じょうし》で、<トゥアハー・デ・ダナン> のすべての強襲陸戦部隊を統率《とうそつ》する、作戦指揮官だ。
「問題はSRTの欠員だ。抜《ぬ》けたアマサート中尉……ウルズ2の後には、マオ軍曹《ぐんそう》を入れることになるが――」
「はい?」
マオは思わず声を出すと、マッカランが説明した。
「まだ言ってなかったな。明日付けで、お前のコールサインはウルズ2になる」
「…………」
これにはマオも驚《おどろ》いた。『ウルズ2』のコールサインは、文字通りSRTのナンバー・ツーを意味《いみ》する。つまりはマッカランに次ぐ地位《ちい》であり、異例《いれい》の抜擢《ばってき》といってもいい人事《じんじ》だ。
<トゥアハー・デ・ダナン> のSRT――|特 別 対 応 班《スペシャル・リスポンス・チーム》は、最優秀《さいゆうしゅう》の万能選手《ばんのうせんしゅ》が集まった精鋭《せいえい》チームだ。もっとも危険《きけん》で、柔軟性《じゅうなんせい》が要求《ようきゅう》され、かつデリケートな任務《にんむ》をこなすために、数ある <ミスリル> の隊員の中から選《えら》び抜《ぬ》かれたエリートといってもいい。
SRT要員《よういん》のほとんどは、歩兵として優秀なだけでなく、同時に他の機器《きき》の運用についてもトップクラスの技能《ぎのう》を持っている。<トゥアハー・デ・ダナン> の場合は、その部隊の性質上《せいしつじょう》、ASのスペシャリストが多い。またそうでない者は、AS以外のものに精通《せいつう》している。たとえばウルズ9――韓国《かんこく》出身のヤン・ジュンギュ伍長《ごちょう》は、ASの操縦《そうじゅう》経験はほとんどないが、車の運転|技術《ぎじゅつ》についてならプロのレーサー級《きゅう》の腕前《うでまえ》だ。
マオはASと電子戦の専門家《せんもんか》で、その能力《のうりょく》を買われて、こうしてSRTの中で任務をこなしている。同僚《どうりょう》たちに決して劣《おと》らない技能を持っているという自負心《じふしん》はあったが、それでも、この人事には当惑《とうわく》を隠《かく》せなかった。
「どうした。顔に『なぜ?』と書いてあるぞ」
マッカランがにやりとした。
「ええ、まあ。だって、ほかにも適材《てきざい》はいるでしょう」
「そうでもない。ウルズ3のキャステロはPRTの指揮官だし、4のハマーはヘリ部隊の指揮官。5のサングラプタ軍曹は、腕は確《たし》かだがリーダー向きではない。そう来ると、6のお前になるわけだ」
SRT要員の名を指おり挙《あ》げながら、マッカランは言った。
「所詮《しょせん》は背番号に過《す》ぎんがな。前から考えていたことだ。お前はまだ若いが、協調性《きょうちょうせい》もバランス感覚もある。それに――」
そこまで言いかけて、マッカランは言葉を切った。
「――まあ、いろいろだ」
「そりゃどうも」
どうせろくでもない、『女ならではの細やかな配慮《はいりょ》ができる』みたいな発言《はつげん》をしかけたのだろう……とマオは邪推《じゃすい》した。とはいえ、もし彼がそう判断《はんだん》したのだとしても、大きな間違《まちが》いではないかもしれない。実際《じっさい》、性別《せいべつ》を抜《ぬ》きにしても、自分は細やかな配慮をする方だろう。人が思っている以上に。
マオは男社会によくいる『マッチョな女』タイプではなかった。そういう態度《たいど》ばかりでは、むしろ男たちの敬意《けいい》は勝ち取れないことを、経験からよく知っていた。
大切なのはしなやかさと協調性、そしてミスをしないことだ。たとえ嫌《いや》がらせの類《たぐ》いを受けても、それをさらりと受け流して、自分を見失わず、仕事を黙々《もくもく》とこなせばいい。それこそが難《むずか》しい作業《さぎょう》なのだが、それだけに見る者はそこを見ている。うまく行けば、見返りも大きい。
もっとも <ミスリル> では、そうした経験がどれほど役に立つかは怪《あや》しいものだった。この組織は、時々ひどく非常識《ひじょうしき》な辞令《じれい》を説明もなしに下すのだ。三か月前、作戦本部から派遣《はけん》されてきた一五歳の少女を、戦隊指揮官に就任《しゅうにん》させた時には――さすがにマオも、開いた口が塞《ふさ》がらなかった。
その戦隊指揮官、テレサ・テスタロッサ大佐[#「大佐」に傍点]は、いまもこの基地《きち》で新型潜水艦《しんがたせんすいかん》『TDD―1』の整備作業《せいびさぎょう》を監督《かんとく》している。マオが聞いた限《かぎ》りでは、まだミスらしいミスは犯《おか》していないそうだった。それどころか、非常《ひじょう》に優能《ゆうのう》だという風評《ふうひょう》も、何度か聞いている。
「君は曹長《そうちょう》に昇進《しょうしん》する」
カリーニンが言った。
「ただ、それでもSRTは欠員《けついん》二名のままだ。相応《そうおう》の技能を持った優秀な兵士を、二人ほど選抜《せんばつ》しなければならん」
「そうおいそれと、いるもんですかね」
「探さなければならん。いまは大事《だいじ》な時期だ。部隊はこれから、本格的《ほんかくてき》な実効《じっこう》戦力を獲得《かくとく》する。TDD―1の処女航海《しょじょこうかい》が無事《ぶじ》に終わったばかりで、例の新型《しんがた》ASも、週末にはこちらのメリダ島|基地《きち》に搬入《はんにゅう》される予定だ」
それを聞いて、マオはぱっと顔を明るくした。
「わお! XM9ですね?」
「その名称《めいしょう》は、一昨日《おととい》から『M9』になった。通称《つうしょう》は <ガーンズバック> だ」
「すてき」
新しいおもちゃが届《とど》く期待《きたい》に、マオは小躍《こおど》りした。その新型ASの設計《せっけい》には、彼女もあれこれと関《かか》わっているのだ。機体が届いたら、いの一番で触《さわ》って、いじって、乗り回すことができるだろう。なにしろ隊では、自分がいちばんあの新型のことを熟知《じゅくち》している。週末《しゅうまつ》の休みは、グァムまで出かけて買い物をするつもりだったが、もちろんすべてキャンセルだ。決まっている。
ところが、次にカリーニンがこう言った。
「使えるかどうか分からない新型よりも、欠員の補充《ほじゅう》が重要《じゅうよう》だ。君はすぐに中米へ飛べ。ベリーズの訓練《くんれん》キャンプだ」
「…………は?」
「昇進後の初仕事だ。一週間ほど教官に同行《どうこう》して、訓練生の中から最優秀の二名を選んで来い。その二名でウルズ6と7の穴《あな》を埋《う》める」
「でも、XM……もといM9のテストは」
「あとだ」
カリーニンはきっぱりと言った。
マオが肩《かた》を落としてオフィスから立ち去ると、マッカランが言った。
「彼女が『はずれ』を引いてきたら、どうします?」
「そうはならんだろう」
カリーニンは飄々《ひょうひょう》と答えた。
「選ぶのは、自分と組むことになる相手《あいて》だからな」
「確《たし》かに、おのずと見る目も厳《きび》しくなるでしょうが……」
マッカランは書類《しょるい》の束《たば》を、とんとん、と揃《そろ》えて、別の話題《わだい》を口にした。
「そういえば先週、あの訓練キャンプの司令官《しれいかん》と、電話口で世間話《せけんばなし》をしましてな。キャンプに変わり種《だね》が入ったらしいですぞ。わずか一五、六歳の少年で、東洋人《とうようじん》だそうです」
「一五、六歳……?」
「ええ。スカウト屋が東南アジアで拾《ひろ》った傭兵《ようへい》らしいですがね。そんな子供を連れてくるとは、なにを考えているのやら」
「日本人かね?」
カリーニンの妙《みょう》な質問《しつもん》に、マッカランは怪訝顔《けげんがお》をした。
「そこまでは聞いていません。なにか?」
「いや……思い過《す》ごしだろう。気にするな」
カリーニンは小さく首を振《ふ》って、椅子《いす》の背もたれをきしませた。
●
メリダ島からグァム、カリフォルニア、メキシコを経由《けいゆ》して、ベリーズの都市ベリーズ[#「ベリーズの都市ベリーズ」に傍点]に到着《とうちゃく》し、さらにそこからおんぼろの輸送《ゆそう》ヘリに乗って二時間。マヤ山脈《さんみゃく》の北方《ほっぽう》、グアテマラとの国境《こっきょう》にほど近い密林地帯《みつりんちたい》に、その訓練キャンプはあった。
一日をかけて、ようやくたどり着いた <ミスリル> の特殊戦闘員《とくしゅせんとういん》選抜《せんばつ》センターは、マオが厄介《やっかい》になっていたころと、そう変わりなかった。
「一年ぶりか……」
着陸《ちゃくりく》したばかりのヘリから、湿《しめ》った大地に足を踏《ふ》み下ろすと、彼女はつぶやいた。いまは着古《きふる》したオリーブの野戦服姿《やせんふくすがた》で、レイバンのサングラスをかけている。
そこはジャングルの中に開けた訓練キャンプだった。
強い陽射《ひざ》しと、蒸《む》すような熱気。濃密《のうみつ》な緑と泥《どろ》の匂《にお》い。耳をつんざく銃声《じゅうせい》と、激《はげ》しい怒声《どせい》、おんぼろヘリのすさまじい轟音《ごうおん》。
この訓練キャンプがあるベリーズは、メキシコ湾《わん》に面した、中米の小さな国家だ。
人口はわずか二二万。イギリス領《りょう》から独立《どくりつ》して、まだ二〇年もたっていない。産業《さんぎょう》は農業《のうぎょう》と林業がほとんどで、国民の大半は貧《まず》しい。国土の大半は湿地帯《しっちたい》と密林地帯だ。九月のいまは雨季《うき》の真っ最中で、一日一度はすさまじい豪雨《ごうう》がキャンプを襲《おそ》う。
キャンプに居並《いなら》ぶ建物《たてもの》はプレハブの兵舎《へいしゃ》が大半で、質素《しっそ》そのものだった。置いてある兵器《へいき》もほとんどが旧式《きゅうしき》の中古品《ちゅうこひん》である。ASもあったが、使い古された初期型のM6とRk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]がそれぞれ二機ずつあるだけだった。マオが日頃《ひごろ》、メリダ島で接《せっ》しているハイテク兵器とはえらい格差《かくさ》だ。
もっとも、この訓練キャンプの装備《そうび》が慎《つつ》ましいのには、まっとうな理由《りゆう》があった。
ここに集められた傭兵《ようへい》たちは、訓練だけではなく、同時に適性《てきせい》テストも受けていることになる。決められた訓練をこなし、その都度《つど》合格していくことが出来《でき》なければ、その訓練生はいずれ失格《しっかく》となり、わずかな報酬《ほうしゅう》を受け取ってキャンプを去《さ》る。
落伍《らくご》した彼は、自分の入ろうとしていた組織の名前さえ知ることはない。もちろん、その傭兵部隊が世界の一〇年先を行くハイテク兵器を運用《うんよう》していることも、知らずに終わる。その彼は、母国に帰っても友人知人に『ベテランばかりかき集めた、異様《いよう》に厳《きび》しい訓練キャンプに行ったことがある』としか説明することができず――かくして、<ミスリル> の存在《そんざい》は表に出ない。
「さて……」
マオはキャンプに到着《とうちゃく》してからすぐに、キャンプ責任者《せきにんしゃ》であるエスティス少佐《しょうさ》のオフィスへ顔を出した。
挨拶《あいさつ》が済《す》んでからカリーニンの書類を渡《わた》すと、プエルト・リコ人の少佐は『勝手《かって》に探して連れていけ』と言った。日焼《ひや》けした肌《はだ》で、こめかみに大きな傷跡《きずあと》がなければ、ガラクタだらけの博物館《はくぶつかん》の管理人《かんりにん》、といった風情《ふぜい》に見えることだろう。
「ただし、責任は持たんからな。こちとら忙《いそが》しいんだ」
頭上を飛び回る蝿《はえ》を、受け取ったばかりの書類で追い払《はら》いつつ、エスティス少佐は言った。背後《はいご》の窓《まど》に、なぜか放射状《ほうしゃじょう》のひびが入っている。その窓の前に、真っ二つになったトロフィー――なにかの射撃《しゃげき》大会の優勝カップ――が置いてあった。
「ここにはあちこちから、食い詰《つ》めの傭兵やら退役《たいえき》軍人やらが集まってくる。だが使い物になる奴《やつ》ときたら、ほんの一握《ひとにぎ》りだ。おまえさんみたいなピカ一の野郎[#「野郎」に傍点]なんて、そうゴロゴロしてるもんじゃない」
「はあ……」
「早いもんだ。もう一年になるのか。最初はおまえさんが、真っ先に脱落《だつらく》すると思ったんだがなあ」
「そういう油断《ゆだん》を、私はいつも利用《りよう》させてもらってます、サー」
「そこがおまえさんのいいところだ」
エスティスは愉快《ゆかい》そうに笑った。
このキャンプに来るのは、『訓練生』と呼《よ》ぶのが似つかわしくないようなベテラン兵士ばかりであったが――それでも半数以上が脱落する。訓練の内容《ないよう》は過酷《かこく》きわまりなく、傭兵たちは徹底的《てっていてき》に肉体を酷使され、ストレスの強い環境《かんきょう》にさらされる。
例《たと》えば訓練生は、教官たちが『敵役《かたきやく》』として、てぐすね引いて待ち構《かま》えている山岳地帯《さんがくちたい》を、重さ二〇キロの装備《そうび》を担《かつ》いで単独偵察《たんどくていさつ》しなければならない。距離《きょり》にして二〇キロの行程《こうてい》だ。しかも、制限《せいげん》時間はわずか二〇時間。時間に遅《おく》れてもいけないし、教官に発見されてもいけない。もちろん、装備を捨《す》てることも許《ゆる》されない。ここまでシビアなテストだと、腕《うで》に自信《じしん》がある者でも多くが脱落する。遭難《そうなん》して湿地帯《しっちたい》をさまよった挙《あ》げ句《く》、瀕死《ひんし》の状態《じょうたい》で救助《きゅうじょ》される者さえいる。
苦労《くろう》して時間以内にゴール地点に達《たっ》した者には、次の試練《しれん》が待ちうけている。一睡《いっすい》もしておらず、疲労困憊《ひろうこんぱい》した訓練生に向かって、教官はこう告《つ》げるのだ。
『おめでとう。だが残念《ざんねん》なことに、予定《よてい》が変わった。君はこのまま二〇キロの装備を担いで、二〇キロ西のポイント|D《デルタ》に向かってもらう。いまから二〇時間以内だ』
これは精神力《せいしんりょく》のテストである。艱難辛苦《かんなんしんく》を乗り越えてゴールしたばかりの者は、その段階《だんかい》で安堵《あんど》し、気を抜《ぬ》いてしまっている。その状態からふたたび緊張《きんちょう》を取り戻《もど》し、絶望的《ぜつぼうてき》な強行軍《きょうこうぐん》への気力を奮《ふる》い起こすのは――非常《ひじょう》に難《むずか》しい。そこから一キロと歩かないうちに、さらに多くの者がギブアップしてしまう。
それでも強靱《きょうじん》な精神力を持つ者は、力を振《ふ》り絞《しぼ》って歩き続ける。
そうして彼が五キロを歩いた時点《じてん》で、その場に待ち受けていた教官がこう告げるのだ。
『おめでとう。君は今度こそ合格《ごうかく》だ。向こうにジープが止めてある。乗って休みたまえ』
これはほんの一例《いちれい》だ。
こうした、えらく人の悪い訓練《くんれん》を、マオもクリアしてきたのである。
よれよれの両切りタバコを胸《むね》ポケットから取り出して、エスティス少佐は言った。
「『これは』と見込んだ男でも、案外《あんがい》、変《へん》な理由で脱落《だつらく》するもんだ。この前も、デルタ・フォース出身のタフガイが入って来たが……山岳地帯で遭難しちまってな」
『デルタ・フォース』とは、米陸軍《べいりくぐん》の特殊《とくしゅ》部隊のことである。
「遭難ですか。デルタの人が」
「運が悪かったんだ。突然《とつぜん》の土砂崩《どしゃくず》れで大木に挟《はさ》まれて、三日間も身動きが取れなかったそうだ。まあ……豪雨《ごうう》の中、飲まず食わずでじっと耐《た》え続けていたのは見上げたもんだし、それまでの成績も満点だったから、俺《おれ》も親切心《しんせつしん》で『訓練を続けるか?』と言ってやったら、『もう辞《や》める』と」
「そりゃまた、どうして?」
「遭難中に、神に出会ったそうだ」
「…………」
「荘厳《そうごん》なファンファーレと共に真っ白なエルビス・プレスリーが現れて、『汝《なんじ》、武器を捨ててマイクを取れ』と。救出された翌日《よくじつ》には、メンフィスへの巡礼《じゅんれい》に旅立ってしまった」
ちなみにメンフィスは、プレスリー生誕《せいたん》の地である。
「……きっといい歌手になりますよ」
マオが両目をとろんとさせて言うと、エスティス少佐はいまいましげにつぶやいた。
「あの野郎《やろう》め。なにがエルビスだ。貴重な技能を無駄《むだ》にしおって」
「流行《はや》ってるのかしらね……そういうの」
「あ?」
「いえ、こちらのことです。……それでは仰《おお》せの通りに、勝手に探させてもらいますが。よろしいですか?」
「いや。案内に訓練生の一人を付ける。外に待たせてあるから、分からないことは彼に聞け」
「感謝《かんしゃ》します」
敬礼《けいれい》してから、マオはエスティスのオフィスを後にした。
少佐の言った通り、外には野戦服姿の訓練生が待っていた。
まだ若い白人だ。歳は二〇前後といったところだろうか。
こんな僻地《へきち》の亜熱帯《あねったい》には似合《にあ》わない、はっとするような美形だった。深いブルーの瞳《ひとみ》に、さらさらの金髪《きんぱつ》。見事《みごと》に均整《きんせい》のとれた顔立ちで、鼻筋《はなすじ》も顎《あご》もぴしりと整《ととの》っている。ゲルマン的な美青年でありながら、同時に憂《うれ》いを秘《ひ》めたまなざしが、どことなく東洋的な雰囲気《ふんいき》を漂《ただよ》わせている。
(あら、まあ……)
うっとりとしかけている自分に気付いて、マオは口を一文字に引き結《むす》び、サングラスをかけ直した。ここに来たのは選抜《せんばつ》のためだ。ナンパではない。とはいえ、このハンサムくんの魅力《みりょく》は、なんとも……。
「メリッサ・マオ曹長《そうちょう》ですね?」
若者《わかもの》が言った。思った通り、その声も優雅《ゆうが》な響《ひび》きだった。
「ええ。あなたは?」
「自分は訓練生のクルツ・ウェーバーです。あなたの案内をするように、エスティス少佐から命《めい》じられました。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。ウェーバー」
マオはウェーバー訓練生と握手《あくしゅ》した。彼の指はやわらかく、しなやかで、ピアニストの繊細《せんさい》さを連想《れんそう》させた。
(あー、いかんいかん……)
顔が弛《ゆる》みそうになったのを、どうにかこらえる。
「では、参《まい》りましょうか。こちらへ」
歩き出したウェーバーの後に、彼女は続《つづ》いた。
「教官から聞きましたが、貴女《あなた》はこちらのキャンプを卒業《そつぎょう》されたそうですね」
「そうよ。一年くらい前だけど」
「すごいな。自分の周りは脱落者《だつらくしゃ》ばかりですよ」
「あなたはどう? 無事《ぶじ》に出られそう?」
すると彼は、はにかむように笑った。
「ええ、頑張《がんば》ってはいるんですけど、わかりませんね。ここを出たあとの配属先《はいぞくさき》とかは、まるで知らせてもらえないし。ここの人たちは、みんな自分よりも優秀《ゆうしゅう》な気がしてしまって」
「弱気《よわき》は禁物《きんもつ》よ」
「はい。ですが、自分には何の取《と》り柄《え》もないから……。ライフルとかは、特《とく》に苦手《にがて》で」
「そんなことは言わないで。あたしみたいな奴《やつ》でも出られたんだから。自信を持ちなさい」
「ありがとうございます。すこし、元気が出ました」
ウェーバーはもう一度ほほ笑《え》んだ。
素直《すなお》ないい子だな……とマオは思った。正直なところ、こんなナイーブそうな青年がこのキャンプでやっていけているのかは疑問《ぎもん》だったが――人は見かけによらない[#「人は見かけによらない」に傍点]ものだ。案外《あんがい》、このハンサムな外見の下には、鋼鉄《こうてつ》の意志《いし》を秘《ひ》めているかもしれないではないか。
歩きながら二、三の思い出話と、最近の訓練キャンプの出来事《できごと》などを語り合ったあと、マオは切り出した。
「それで――訓練生の中で、とびきり優秀な人を知りたいんだけど」
「はい、もちろんご説明します。ですがその前に、まずはこちらへ」
そう告げて、ウェーバーは小さな倉庫《そうこ》へと彼女を案内した。その倉庫は兵舎《へいしゃ》からすこし離《はな》れた、三〇〇ヤードの射撃場《しゃげきじょう》のそばにあった。いまも銃声《じゅうせい》が、断続的《だんぞくてき》にこだましてくる。
「?」
「さあ、どうぞ。足下に気を付けてください。中は暗《くら》いですから」
怪訝《けげん》に思いながら、マオはのこのこと倉庫に入った。背後《はいご》でウェーバーが、無言《むごん》で倉庫の扉《とびら》を閉める。中には射撃の標的《ひょうてき》や木材、ワイヤーなどが、乱雑《らんざつ》に押《お》し込んであった。
「どういうこと?」
「ほかの訓練生や教官の目を避《さ》けたかったんです」
うす暗がりの中でウェーバーが言った。いく筋《すじ》かの光が、壁《かべ》や扉の隙間《すきま》から射し込んでいたが、逆光《ぎゃっこう》で彼の顔はよく見えなかった。
「実は曹長殿《そうちょうどの》を見込んで、折《お》り入って御相談《ごそうだん》したいことがありまして」
「なによ……?」
妙《みょう》な雲行《くもゆ》きに気圧《けお》されつつ、マオはたずねた。するとウェーバーは咳払《せきばら》いをしてから、深刻《しんこく》な声で切り出した。
「自分はこの訓練キャンプに来て、ちょうど四週間になります」
「ああ、そう」
「その前は中東の片田舎《かたいなか》で、傭兵《ようへい》をやっていました。もともとは都会育ちなのですが、かれこれ三年以上も辺境《へんきょう》で暮《く》らしておりまして。文明らしい場所に帰ったのは、合計《ごうけい》しても数日|程度《ていど》です」
「まあ、そういうこともあるでしょうね」
「ええ。愚《おろ》かな戦いで、二度とは返らない青春を浪費《ろうひ》しているわけです。キャンプにいるのは、粗野《そや》な荒《あら》くれ男ばかり。優《やさ》しい女性など、どこにもいません。孤独《こどく》の影《かげ》を背負《せお》った、寂《さび》しい毎日……。ほかの訓練生はどうだか知りませんが、自分にはこんな生活、とても耐《た》えられそうにありません。正直にいって、もう訓練キャンプを辞《や》めようかとも思ったりします」
「残念《ざんねん》ね」
なんだ、つまり根性《こんじょう》なしなのね……とマオは納得《なっとく》した。里心《さとごころ》がついたところで、なんでも話せそうな先輩《せんぱい》が現れたので、泣《な》き言《ごと》を聞いてもらおう、ということなのだろう。これにはいささか、がっかりした。
でも、なんでこんな場所で?
「ですが……ですが、です」
にわかにウェーバーの声に熱がこもった。
「いま、この場で……美しく聡明《そうめい》で頼《たよ》りになる曹長殿の……ほどよく見事なそのバスト[#「ほどよく見事なそのバスト」に傍点][#「ほどよく見事なそのバスト」は太字]に、顔を埋《うず》めて泣くことができたら。自分はひょっとしたら、この訓練キャンプを最優秀《さいゆうしゅう》の成績《せいせき》で卒業《そつぎょう》できるかもしれません……!」
「な……」
「つまり自分には、訓練ではなく愛が必要《ひつよう》なのです。愛と温《ぬく》もりが! もっと端的《たんてき》にいえば、人肌《ひとはだ》の温もりってゆーか!」
「ちょ……ちょっと」
にじりよるウェーバーと、胸《むね》を抱《かか》えるようにして後じさるマオ。
「曹長殿、一生のお願いです。その胸で泣かせてください! もちろん生《ナマ》で!」
「あ、あんたねぇ!」
「曹長殿〜〜〜〜っ!」
ぶわーっと涙《なみだ》を流しながら、ウェーバーが飛びかかってきた。マオはさっと身をひき、相手の突進《とっしん》をかわそうとしたが、床《ゆか》に転がっていた材木《ざいもく》につまずき、尻餅《しりもち》をついてしまった。そこにウェーバーが覆《おお》い被《かぶ》さるようにして抱《だ》き付く。
「うわあ、オッケーっすね? オッケー? うれしいなあ、いやホント」
「どきなさい! こら! あ……」
「大丈夫《だいじょうぶ》っすよ。俺《おれ》、優《やさ》しいタイプだから。うんうん、安心して」
「や、やだ……」
「ねえメリッサ。二人で愛を語ろう。まったりと幸せになろうよー。はふうーん」
ウェーバーが甘《あま》えるようにマオの胸元《むなもと》に頬《ほほ》をすり寄せてきた。不思議《ふしぎ》と悪寒《おかん》は走らなかったが、だからといってヘラヘラと『もう、しようのない子ねえ』だのと、のたまうような柄《がら》でもない。
[#挿絵(img2/s04_189.jpg)入る]
我《われ》に返ったマオの目付きが、きっと険《けわ》しくなった。
「いい加減《かげん》に――しろっ!!」
「おごっ!」
下腹部《かふくぶ》に膝蹴《ひざげ》りが入って、ウェーバーがくぐもった声をもらした。マオは間髪《かんぱつ》容《い》れずに相手の襟《えり》をつかんで首をねじ上げると、空いた左手で鋭《するど》い手刀《しゅとう》を叩《たた》き込んだ。
「う……おおっ……」
「全部ネコかぶってたってわけね!? このスケベ野郎《やろう》……!」
ふらふらと起き上がり、よろめいたウェーバーめがけて、マオは助走《じょそう》し突進《とっしん》した。
「お、おいおい。待っ――」
がしゃあんっ!!
マオの飛び蹴りを顔面《がんめん》に食らって、ウェーバーが吹《ふ》き飛んだ。背後の扉《とびら》をぶち破《やぶ》って、倉庫の外へと転がり出る。泥《どろ》の上を二転三転してから、男はばったりと大の字になって動かなくなった。
「はあっ……はあっ……」
肩《かた》で息して、マオは明るい陽射《ひざ》しの下に出ていった。真っ二つになった扉を踏《ふ》みつけて、乱《みだ》れた着衣《ちゃくい》を直していると、ウェーバーがむくりと身を起こした。
「あー、いってぇーなあ。ったく」
袖口《そでぐち》で泥のついた顔を拭《ぬぐ》いながら、ウェーバーが言った。出会ったときの慇懃《いんぎん》さなどかけらも残っていない、横柄《おうへい》な声だ。顔つきも、なんとなく世を拗《す》ねたような感じに豹変《ひょうへん》している。
「正気《しょうき》か、あんた。いきなりナニすんだよ?」
「それはこっちのセリフよ……! どういうつもり!?」
「いや、だって、ほら。妙《みょう》に優《やさ》しいから、俺に気があるんだと思って」
しれっと言ってのける。
「……なワケないでしょ! それにだいいち、あんた、最初からあたしを騙《だま》してたじゃないの!」
「なんのこと?」
「虫も殺さないような顔して、バカ丁寧《ていねい》な態度《たいど》をとってたでしょ」
「ん〜……ああ、あれね。ああいう顔してると、トクすること多いんだよ。特に年上相手だとね。たまにやるんだ。ははははは」
「こ、こいつは……」
そのおり、そばの射撃場《しゃげきじょう》から五、六人の男が駆《か》けつけてきた。
「なんだ、なんだ?」
「ウェーバーじゃねえか。またなんかやったのか?」
「お、いい女っ」
口々に言う野次馬《やじうま》たち。すこし遅《おく》れて、教官とおぼしき黒人の軍曹《ぐんそう》がやってきた。
「なんの騒《さわ》ぎだ!? そこの女、説明しろ!」
「どうもこうもないわよ! 文句《もんく》だったら、あたしにこのバカを付けたエスティス少佐に言ってちょうだい!」
怒鳴《どな》り返すと、その軍曹は目を細めた。マオの腕《うで》についた新品の階級章《かいきゅうしょう》を見てから、次に地面にしゃがんだままのウェーバーを見て、もう一度マオを観察《かんさつ》し――
「失礼《しつれい》しました、曹長」
と、一転《いってん》して丁寧な口調《くちょう》で言った。
「おおよその察《さっ》しはつきます。訓練生が大変《たいへん》なご迷惑《めいわく》を。……ウェーバー!」
「はいよ」
「貴様には便所掃除《べんじょそうじ》と穴掘《あなほ》りが命じられていたはずだぞ。ここでなにをしている!?」
「いや。このお姉さんの案内役《あんないやく》を命じられたラガヴリンの奴《やつ》が、急に体調《たいちょう》の不良《ふりょう》を訴《うった》えたもんスから。俺《おれ》が代わりに」
素知《そし》らぬ顔で、ウェーバーが答えた。
「そうか。つまりラガヴリンは、自分の職務《しょくむ》を放棄《ほうき》したわけだな」
「ですねぇ」
「ではラガヴリンにペナルティを与《あた》えなければならん。だが奴は体調不良だ。お前が代わりにペナルティを受けろ。M6二機の清掃《せいそう》だ。便所掃除と穴掘りが終わり次第《しだい》、とりかかれ」
「ええ? だって、雨が降ったらまた泥《どろ》だらけっスよ」
「だまれ。全部終えるまで、休むことは許さん!」
「へいへい……」
ウェーバーは肩《かた》をすくめて立ち上がると、尻の泥をはらってから歩き出した。だが去り際《ぎわ》に、彼はマオをちらりと一瞥《いちべつ》してから、にこりとした。
「でもお姉さん。寂《さび》しかったのはホントだぜ? それに俺は、魅力的《みりょくてき》なご婦人《ふじん》にしか手を出さない。誓《ちか》ってもいいね」
「あー、そう」
ウインクして、さらりと言ったその台詞《せりふ》が――なぜかマオにはキザったらしく思えなかった。むしろ一番チャーミングなくらいだ。たぶん、これが彼の本当の持《も》ち味《あじ》なのだろう。
「さっさと行かんか!」
怒鳴《どな》りつけられ、クルツ・ウェーバーはその場をすたこらと走り去った。
エスティス少佐と電話口であれこれやり取りした挙げ句、けっきょく、ウェーバーを叱《しか》り飛ばした黒人の教官がマオを案内することになった。
そのジマー軍曹《ぐんそう》がこのキャンプで教官をするようになって、もう一〇か月だという。マオがここを出た後に着任《ちゃくにん》した人物なので、面識《めんしき》はなかった。歳は四〇前、背はあまり高くないが、骨太《ほねぶと》でがっしりした体型《たいけい》だ。ぴしりとしたつば付きの帽子《ぼうし》をかぶり、豊《ゆた》かな口髭《くちひげ》をたくわえている。
「……まったく、手際《てぎわ》が悪くて申し訳《わけ》ない」
改めてジマーが謝罪《しゃざい》した。
「ここは普通《ふつう》のキャンプとは勝手《かって》が違《ちが》いまして。どうもクセのある奴《やつ》が多いんです」
「それは知ってるけど。……ところで、さっきの彼――ウェーバーも訓練生なんでしょう?」
「ええ。一番の問題児《もんだいじ》ですよ。成績《せいせき》は平凡《へいぼん》ですが、規律《きりつ》というものをまるで知らない奴でしてな。きのうもトラブルを起こしたので、ペナルティを与《あた》えたんですが……それをサボって、あなたにまでちょっかいを」
「トラブルって、どんな?」
「少佐の大切なトロフィーを、ライフルで吹《ふ》き飛ばしたんです」
ジマーは肩をすくめた。
「北に市街戦《しがいせん》の訓練場があるでしょう。あそこの塔のてっぺんから、留守中《るすちゅう》の少佐のオフィスに三〇八|口径弾《こうけいだん》を叩《たた》き込みおったのですよ。どうやらほかの訓練生と賭《か》けをしたようでして……。本人たちは『流れ弾《だま》だ』と言い張《は》ってましたが、少佐がカンカンになりましてね」
「あの塔から……?」
マオは北を見た。緩《ゆる》やかな丘《おか》に面した密林のずっと向こう――見えるか見えないかくらいの彼方《かなた》に、粗末《そまつ》な鉄塔《てっとう》の先端《せんたん》が、木々の間からぴょこりと頭をのぞかせていた。
「…………」
振《ふ》りかえって、エスティス少佐のオフィスに目を向ける。密林の中に切り開かれたキャンプの南端《なんたん》にある、小さなプレハブの建物《たてもの》だ。
北の鉄塔から少佐のオフィスまでは、ゆうに一キロ近くはあるだろう。
これだけの遠距離《えんきょり》で、あの小さなトロフィーを……?
「もちろん、まぐれですよ」
マオの様子《ようす》に気付いて、ジマーが付け加えた。
「並《な》みの腕《うで》では、象《ぞう》の尻《しり》に命中《めいちゅう》させることさえ難《むずか》しい距離ですからな。まず、狙《ねら》ってできるものではありません」
「そりゃあ、そうよね……」
伝説的《でんせつてき》なスナイパーの噂《うわさ》は、マオもこの業界[#「業界」に傍点]に入ってから何度か聞いていたが、そんな芸当《げいとう》ができる人間など、世界中を探しても数人しかいないだろう。そうした男たちは決まって寡黙《かもく》で、忍耐《にんたい》強く、どこか仙人《せんにん》めいた神秘的《しんぴてき》な眼差《まなざ》しを持っている。まちがっても、ウェーバーのような軽薄《けいはく》なタイプではない。
「では行きましょうか。少佐はどう言ったか知りませんが、ここには優秀《ゆうしゅう》な奴《やつ》もたくさんいます。偵察《ていさつ》訓練中で、今日中に帰ってくるかわからない奴もいますが……とにかく見てやってください」
ジマーが言って、歩き出した。
それから一日中、マオは訓練生を見て回った。
受け取った成績表と経歴書《けいれきしょ》を見比《みくら》べ、そのうち気になった人物は直接《ちょくせつ》観察《かんさつ》しに出かけ、会って話してみて、もう一度ジマーにあれこれと質問《しつもん》し――そうこうしているうちに、日もすっかり暮《く》れてしまった。
夕方からすさまじいスコールが基地《きち》を|襲《おそ》ったが、それでも訓練スケジュールは休むことなく続く。ざあーっ、と響《ひび》く雨音の向こうから、教官たちの叱咤《しった》と遠い銃声《じゅうせい》が聞こえる。キャンプの西の広場では、二機のASが模擬戦用《もぎせんよう》の単分子《たんぶんし》カッターを手にして、取っ組み合いの格闘《かくとう》を演《えん》じている。
さすがにマオも疲《つか》れたので、ジマーに『残りは明日ね』と告げて、教官用の宿舎《しゅくしゃ》に引き返した。
間借《まが》りした個室には粗末《そまつ》なベッドがあるだけで、シャワーなど付いていない。共用のシャワー室が空いているのを見計《みはか》らい、そそくさと素《す》っ裸《ぱだか》になって汗《あせ》と埃《ほこり》を洗い落とす。バスタオル姿のまま部屋に戻《もど》り、冷《ひ》やしておいた缶《かん》ビールを一杯《いっぱい》やると、ようやく人心地《ひとごこち》ついた気分になった。
「さて……」
彼女はベッドに寝転《ねころ》び、その日に出会《であ》った訓練生たちの経歴書《けいれきしょ》をもう一度読み返した。
様々《さまざま》な男たちの、様々な人生。
(いや、まったく、おもしろい……)
選《よ》り取《ど》り見取《みど》りだ。ハンサムもいる。高学歴《こうがくれき》もいる。金持ちもいる。子持ちもいる。体毛の濃《こ》そうな男もいるし、なんとなく変態趣味《へんたいしゅみ》がありそうな男もいる。
ジマーの言う通り、訓練生の中には申《もう》し分《ぶん》ない技能の持ち主が何人もいた。それまで見た二十数名のうち、成績や技能が抜《ぬ》きんでている者は三名ほど。
まず、元イスラエル軍の空挺隊員《くうていたいいん》、ヨナタン・ハレル。
この彼はピカ一だ。経済学《けいざいがく》と工学の修士号《しゅうしごう》を持つインテリで、もちろん空挺隊員としての技能《ぎのう》もほぼ満点。実戦経験《じっせんけいけん》も豊富《ほうふ》で、レバノン南部で多数《たすう》の極秘《ごくひ》作戦に従事《じゅうじ》した(その内容には触《ふ》れられていないが)。AS部隊にも在席《ざいせき》していた時期が長く、その間にシリア軍のRk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]三機を撃破《げきは》している。イスラエル情報部《じょうほうぶ》のモサドでも訓練を受けていたようだ。もしかしたら、いまもつながりがあるかもしれない。
次。元ペルー軍の特殊《とくしゅ》部隊員、リカルド・プラド。
彼も優秀だ。空挺|降下《こうか》、水中作戦、偵察《ていさつ》作戦に造詣《ぞうけい》が深く、さらには爆発物《ばくはつぶつ》のエキスパートでもある。双発飛行機《そうはつひこうき》とヘリの操縦《そうじゅう》ライセンスも持っており、飛行時間は合わせておおよそ二〇〇〇時間。ASの操縦|経験《けいけん》はないが、それを除《のぞ》けばどこに出しても活躍《かつやく》できそうな万能選手だ。悪名高い左翼《さよく》ゲリラ <|輝ける道《センデロ・ルミノソ》> 相手に、かなりの場数《ばかず》をこなしている。
元イタリア車の対テロ部隊員、ダニエレ・ブリアッシ。
警察官《けいさつかん》から対テロ部隊のGISに抜擢《ばってき》された彼は、CQB――屋内《おくない》での超接近戦《ちょうせっきんせん》に長《ちょう》じている。突入要員《とつにゅうよういん》としてのキャリアが長いにもかかわらず、ASの操縦経験も立派《りっぱ》なものだ。九五年、ローマでのASを使ったテロ事件の際《さい》は、市民に一人の死傷者《ししょうしゃ》も出さずに敵機《てっき》を無力化《むりょくか》させている。カラテの達人《たつじん》。その趣味《しゅみ》のおかげで、日本語もある程度《ていど》使える。東アジアで行動《こうどう》する機会《きかい》の多い <デ・ダナン> では、日本語や中国語が使える隊員は重宝《ちょうほう》される。
どれも立派《りっぱ》な経歴《けいれき》の持ち主だった。話してみたが、性格的《せいかくてき》にも問題はなさそうだ。紳士的《しんしてき》で、自信にあふれ、マオを侮《あなど》った態度《たいど》も見せない。
(このうち二人で手を打っても、いいんじゃないかな……)
ぱらぱらと紙をめくりながら、マオは心の中でつぶやいた。
本音《ほんね》をいってしまえば、さっさと補充《ほじゅう》要員を決めて、メリダ島に帰りたかったのだ。明日の今ごろには、基地に新型ASが届いているだろう。
だが――
どうも、引っかかる。
直感的《ちょっかんてき》に、ぴぴぴっと、『こいつだ!』という感じが来ないのである。
もしこの三人のだれかと、一緒《いっしょ》に作戦をこなしたとしたら……? 自分は彼らの命について、責任《せきにん》を持ち切れるだろうか? それに、彼らが自分を信頼《しんらい》してくれるだろうか? この連中《れんちゅう》のために自分が大怪我《おおけが》をしても、自分は彼らを許せるだろうか?
果《は》たして彼らは、あたしの人生を託《たく》すに足る人間なのだろうか……?
結婚相談所《けっこんそうだんじょ》の客にでもなったような気分だった。なにしろ、自分が命を預《あず》ける同僚《どうりょう》を選《えら》ぶのだ。生涯《しょうがい》の伴侶《はんりょ》を選ぶのと、重要性《じゅうようせい》においてはそう違《ちが》わない。
(むー…………)
ウェディング・ドレスを着たつもりになって、マオは改《あらた》めてじっくりと書類を吟味《ぎんみ》したが、どうあっても結論《けつろん》は出てこない。確信《かくしん》が持てないのだ。
ほかにいい男はいないかしら……そう思って、三人以外の訓練生も再度《さいど》チェックする。例の問題児《もんだいじ》――クルツ・ウェーバーの書類もあったが、マオはそれをろくに読もうともしなかった。あんなお調子者《ちょうしもの》の口先男と組むほど、自分は馬鹿《ばか》ではない。
(……ん?)
書類を再チェックしているうちに、一人、風変《ふうが》わりな人物を見落としていたことに気付いた。とりたてて目立つ成績もない上、昼間はバタバタとしていたので、ジマーから書類を受け取ったときは気にもかけなかったのだ。
『Sousky Seagal』
ソウスキー・セガール。変な名前だ。
アフガニスタン出身。正規軍《せいきぐん》にいた経験はなく、ゲリラ上がりの傭兵《ようへい》らしい。にもかかわらず、なぜかASの操縦《そうじゅう》経験はあるようで、偵察《ていさつ》作戦については経験が豊富とある。生年月日の欄《らん》が未記入《みきにゅう》なので、年齢《ねんれい》はわからない。実戦経験の欄《らん》も、『あり』とそっけなく書いてあるだけ。クリップで添付《てんぷ》してあったはずの顔写真も、なにかのはずみで取れてしまったのか、ここにはない。
ソウスキー・セガールの訓練所での成績は――中の下といったところだった。あらゆる項目《こうもく》が平均《へいきん》以下。合格点を、わずかに上回る程度《ていど》でしかない。
ただ一つ気になったのは、ASによる模擬戦《もぎせん》の結果《けっか》だった。
このソウスキー・セガールは、さきほどの最優秀|候補者《こうほしゃ》三人の中の一人――イスラエル人のハレルが搭乗《とうじょう》するM6を、より旧式のRk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]で『撃破《げきは》』している。
これは素人目《しろうとめ》にはさして目立つ成績ではなかったが、マオにとっては驚《おどろ》きに値《あたい》することだった。一対一で、熟練者《じゅくれんしゃ》の操縦する高性能《こうせいのう》な機体を、それよりも劣《おと》った機体で倒《たお》すのは、よほどの腕《うで》でなければできないことだ。さもなくば、よほどの幸運か――
(ハレルが油断《ゆだん》したのかしら……?)
だとしたら、ハレルの評価《ひょうか》をすこし下げなければならない。
だが万一《まんいち》、それがソウスキー・セガールの実力《じつりょく》だとしたら……?
マオはちょっとした興味《きょうみ》から、部屋に備《そな》え付けのおんぼろ電話に手を伸《の》ばした。ダイヤルを回して待つことしばし、教官室で机《つくえ》仕事をしていたジマー軍曹《ぐんそう》につながる。
「あたしだけど」
「ああ。なんでしょうか、曹長?』
「ごめんなさい。聞き忘れてたことがあったんだけど。この……ソウスキー・セガールって訓練生。知ってる?」
するとジマーは電話の向こうで、小さなうなり声をあげた。
『セガールですか。ええ、知っています。ミスはしない奴《やつ》ですが、お勧《すす》めはできませんよ。熱意《ねつい》も足りませんしな。すくなくとも、あなたの部隊が要求《ようきゅう》している水準《すいじゅん》にあるとは思えませんね。それになにより……なんというのか、彼は……』
「彼は?」
『いえ。フェアではないので、言いません。もちろんあなたもご承知《しょうち》でしょうが、性別や人種《じんしゅ》や年齢《ねんれい》などは、能力《のうりょく》とは切り離《はな》して考えねばなりませんからな』
「あ、そう……」
『とにかく、セガールはお勧めしませんよ。もっと優秀《ゆうしゅう》な奴はたくさんいます。では』
「ありがと」
マオは受話器《じゅわき》を置いて、腕組みした。
「ふむ」
ジマーの歯切《はぎ》れの悪い説明は、むしろ彼女の好奇心《こうきしん》を煽《あお》ってしまった。
どんな男で、どんな問題があるのだろう? たとえ <トゥアハー・デ・ダナン> のSRTに迎《むか》え入れることはなくても、なんとなく、顔くらいは見ておきたいような気がする。すこし話して、問題の模擬戦《もぎせん》のときの詳《くわ》しい経緯《けいい》を聞いてから、礼《れい》を言って別れを告げればいいだけの話ではないか。
そう思うと、行動《こうどう》するのは早い。マオは野戦服に袖《そで》を通してから、部屋を出ていった。
通りかかった教官にたずねて、マオは訓練生用の兵舎の一つへと向かった。ソウスキー・セガールの属《ぞく》する班《はん》は、ちょうど先ほど市街戦《しがいせん》演習場《えんしゅうじょう》での訓練から戻《もど》ってきたところだという。
その兵舎もまた、ほかの施設《しせつ》同様《どうよう》に質素《しっそ》な造りだった。米軍|払《はら》い下ろしの仮設兵舎《かせつへいしゃ》で、ASの手を借《か》りれば、数時間で設営《せつえい》や撤去《てっきょ》ができるような代物《しろもの》だ。歩けば床《ゆか》がぎしぎしうなるし、壁《かべ》も扉《とびら》も薄《うす》っぺらい。
まだ日が沈《しず》んで間もないころだ。その班の人間は食堂にでも出かけているのか、室内は薄暗く、ほとんど無人《むじん》だった。屋根を叩《たた》くはげしい雨音は相変《あいか》わらずだったが、ほかはひっそりとしている。
ずらりと並《なら》んだ、粗末《そまつ》な二段ベッドとロッカー。新兵向けの訓練キャンプとはちがって、なにからなにまで整然《せいぜん》としているわけではなく、訓練生の私物や装備が、適当《てきとう》にベッドの上に投げ出してある。卑猥《ひわい》なグラビアが貼《は》り付けてあったり、色|鮮《あざ》やかな花が飾《かざ》ってあったり。ここを使っている者たちの、個性《こせい》が偲《しの》ばれるものばかりだ。
(懐《なつ》かしいなー……)
マオも訓練生のころは、この兵舎で男たちと寝起《ねお》きを共にしたものだ。真っ先に思い出したのは、着替《きが》えのときの、背中に刺さる好奇《こうき》の視線《しせん》。同じベッドの上の段《だん》に寝《ね》ていたタイ人は、なにかと彼女を気遣《きづか》ってくれたが、となりのベッドのアメリカ人二人は、露骨《ろこつ》に下品な嫌《いや》がらせをしてきた。当時は内心で憤慨《ふんがい》したものだったが、いまとなってはどうでもいい思い出だ。あのタイ人の彼にはあれこれと迷惑《めいわく》をかけてしまったな、と思って、ふとほほ笑《え》む。
室内に人気がないので、彼女は出直《でなお》そうかと思ったが、部屋の奥《おく》にだれかがいることに気付いた。こちらに背中を向けて、二段ベッドの下で、がちゃがちゃとなにかをいじっている。よく見ると、それは古びたライフルだった。
「…………」
マオはふらりと、その訓練生に近付いていった。
持久力《じきゅうりょく》が問われる兵隊にはよくいる、痩《や》せ型の体型。動きは妙《みょう》にきびきびとしていた。
「ちょっといい?」
声をかけると、その訓練生が振《ふ》り返った。
相手の顔を見て、マオは小さく驚《おどろ》いた。その訓練生は、まだ一五、六歳くらいの東洋人だったのだ。
その少年は眉間《みけん》にしわを寄《よ》せ、彼女をむっつりと見上げていた。黒い瞳《ひとみ》と、ぼさぼさの黒髪《くろかみ》。口をへの字に引き結び、感情の起伏《きふく》をまったく見せようとしない。その顔立ちは、間違《まちが》いなく少年の幼《おさな》さを残していたが、その年代の者に漂《ただよ》うあどけなさ、頼《たよ》りなさはまるでうかがえなかった。
こんな子供を連れてくるなんて。<ミスリル> のスカウト屋は、いったいなにを考えているのだろう? マオが内心であきれていると――
「なんでしょうか」
すこし訛《なま》りのある英語で、少年が言った。
「…………。あなたの班《はん》の人たちは、食事かしら?」
「肯定《こうてい》です」
それだけ言って、少年はぷいっと前を向き、ライフルを分解《ぶんかい》する作業《さぎょう》に戻《もど》った。
見ると、彼の腰掛《こしか》けたベッドには、五、六|挺《ちょう》のライフルがたてかけてある。泥《どろ》だらけの銃《じゅう》と、きれいに掃除されたライフルの二種類だ。
「ずいぶんたくさんあるのね。みんなあなたの銃?」
「いえ。班の連中の銃です」
「なんであなたが掃除してるの?」
「頼《たの》まれたのです。特に断《こと》わる理由もありませんでしたので」
少年はライフルのボルト・グループを引《ひ》っ張《ぱ》り出し、黒ずんだ金属の部品をぼろぼろの歯ブラシでこすりはじめた。
「だって、自分の銃の掃除は、自分でやるもんでしょ」
「基本的《きほんてき》にはそうですが、彼らの整備で暴発《ぼうはつ》や作動不良《さどうふりょう》をやられてはたまりません。それならば、自分が確実《かくじつ》に整備した方が安全です」
淡々《たんたん》とした口調だった。特に皮肉《ひにく》をこめた様子《ようす》もない。
「あ、そう……」
なんだかんだ言って、体《てい》よくパシリにされているだけではないか……そう思いながらも、マオはそれ以上|追及《ついきゅう》しなかった。
[#挿絵(img2/s04_207.jpg)入る]
「あのね。あなたの班の人について、聞きたいことがあるんだけど」
「どうぞ」
「ASの操縦《そうじゅう》でピカ一の訓練生がいるでしょ? 彼のこと、知ってる?」
「いえ。そうした人材は、自分の記憶《きおく》にはありません」
「そう? おかしいな。ソウスキー・セガールって名前なんだけど」
部品をこする少年の手が、一瞬《いっしゅん》、ぴたりと止まった。
「…………」
「アフガニスタンのゲリラ出身で、偵察《ていさつ》作戦の経験が豊富らしいの。年はいくつか知らないんだけど……心当たりある?」
「あるといえば、あります」
こめかみのあたりをぽりぽりと掻《か》いて、少年は答えた。マオは身を乗り出して、
「その彼、|Rk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]《サベージ》でベテランの乗った|M6《ブッシュネル》を倒《たお》したらしいのよ。あたしもすこしはASのことを知ってるつもりだけど、これは大したことだと思うの。もしまぐれとかじゃなかったら、セガールにそのときの話を聞いてみたいのよね」
「そうですか」
「あなたはその模擬戦《もぎせん》の場にいた?」
「いたといえば、いました」
「彼の動きはどうだった? よく見えた?」
「…………。おそらく、これ以上ないほどによく見えたかと」
妙《みょう》な含《ふく》みのある物言《ものい》いに、マオは怪訝顔《けげんがお》をした。ベッドの向こうに回りこみ、少年の横顔を覗《のぞ》きこんで、彼女は静かにたずねた。
「失礼だけど……あなたの名前は?」
「ソウスキー・セガールです。正確《せいかく》に表記《ひょうき》し発音《はつおん》すれば、ソウスケ・サガラですが」
「…………」
この少年がソウスキー・セガールだとは。マオは驚《おどろ》きを隠《かく》せなかった。アフガン・ゲリラ出身だというくらいだから、口まわりにたっぷりと髭《ひげ》をたくわえた、色黒のごっつい古強者《ふるつわもの》だろう……などと、勝手に想像《そうぞう》していたのだ。
「あ……あなたが?」
「肯定《こうてい》です」
そっけなく答えて、ソウスキー・セガール――ソウスケ・サガラは銃《じゅう》の掃除《そうじ》を再開《さいかい》した。
マオはようやく、ジマー軍曹《ぐんそう》が『おすすめできない』と言った理由を理解《りかい》した。ジマーは、彼が『あまりに若すぎる』と言いたかったのだろう。
しかも正確な名前は、ソウスケ・サガラ。
これは日本人の名前だ。マオは読み書きが苦手《にがて》なものの、会話ならばかなりのレベルで日本語を使いこなせるので、すぐにわかった。
「その……それじゃあ、あなたがハレルのM6を倒したわけね?」
「そうなります」
「その模擬戦のときの状況《じょうきょう》を話して欲《ほ》しいんだけど」
「話すほどのことはありません」
「そう言わずに。少しでいいわ」
「運が良かっただけです」
「うそよ。運だけじゃ無理《むり》ね」
「では、相手のミスです」
サガラの返事《へんじ》は簡潔《かんけつ》で、無愛想《ぶあいそう》だった。必要《ひつよう》がなければ、まるで補足《ほそく》らしいことを付け加えようとしないので、ひどく会話が続けにくい。決して反抗的《はんこうてき》ではないが、さりとて友好的《ゆうこうてき》でもない。
(ダメだわ、こりゃ)
ほとんど自閉症《じへいしょう》みたいなガキである。
これくらいの年頃《としごろ》だったら、目を輝《かがや》かせて自分の手柄《てがら》を雄弁《ゆうべん》に語ってくれてもよさそうなものではないか。だというのに、このサガラはまるでこちらに関心《かんしん》を示《しめ》さず、コミュニケーションを拒《こば》んでいるようにさえ思える。ただ黙々と、ライフルを掃除するばかりだ。
にわかに相手への興味が失《う》せてきた。質素《しっそ》なこの基地のASのことだ。ハレルのM6の方に、些細《ささい》な故障《こしょう》か整備不良があったのかもしれない。
「……そ。じゃあ、きっとそうなんでしょうね」
肩《かた》をすくめて、彼女がその場を立ち去ろうとしたとき、別の訓練生が兵舎にどたばたと駆《か》け込んできた。
「あーあ、ひでー雨だよ。ったく……おっ?」
クルツ・ウェーバーだった。頭からつま先までびしょ濡《ぬ》れで、大きなスコップを握《にぎ》っている。マオの存在《そんざい》に気付いたウェーバーは、水滴《すいてき》を滴《したた》らせつつ、のしのしと彼女の元に近寄ってきた。
「そこにいるのはメリッサちゃんじゃない。なにやってんの、こんなトコで。俺のパンツでも盗《ぬす》みに来たとか?」
つくづく下品な男だ。第一|印象《いんしょう》と本性《ほんしょう》とが、これほどかけ離《はな》れているタイプも珍《めずら》しい。彼女は相手をきっとにらみつけて、
「マオよ。マオ曹長殿《そうちょうどの》と呼びなさい」
「おうおう。ごめんよ、メリッ――いっ!」
コンバット・ブーツのかかとで相手のつま先を思いきり踏《ふ》みつけると同時に、彼女はすばやく腰《こし》のホルスターから四五口径の自動拳銃《じどうけんじゅう》を引き抜《ぬ》き、その銃口を相手の顎《あご》に突きつけた。
「調子に乗るのも大概《たいがい》にしなさい」
思いきりドスのきいた声で、マオはささやいた。
「さっきは大目に見てやったけどね。あんまナメると、こいつを口に突っ込んで、ケツから鉛《なまり》のクソをさせてやるわよ。血便《けつべん》ブチまけてくたばりたいんだったら、もう二度『メリッサ』って呼んでみな」
海兵隊出身の彼女は、この手の語彙《ごい》も豊富だったりする。
繰《く》り返すが――マオはいわゆるマッチョではない。だが、そうでいられるのにも限度《げんど》がある。この手の男は、実力行使《じつりょくこうし》をしないといつまでもこちらを馬鹿《ばか》にし続けるものだ。目下《めした》の者のこういう態度《たいど》を、いつまでもヘラヘラと許しておけるほど、マオはお人好《ひとよ》しではなかった。
ウェーバーはスコップを床《ゆか》に放《ほう》り出して両手を挙《あ》げた。
「うわー、おっかねえ。降参《こうさん》。許してー」
「反省《はんせい》が足りないわね。あたしはナメるな、って言ったのよ」
拳銃の撃鉄《げきてつ》を、がちりと親指《おやゆび》で引き起こす。
「参《まい》ったね。どうすれば許してもらえるのかな」
「そこに這《は》いつくばって、床にキスでもしたら? そしたら考えてやってもいいわよ」
するとウェーバーの青い瞳《ひとみ》に、はじめて冷たい光が宿った。彼は口の端《はし》をアンバランスに吊《つ》り上げて、どこか楽しそうにマオを見下ろす。
「はん。いやだと言ったら?」
「言ったでしょ。マジで殺すわ」
実はこの拳銃《けんじゅう》の薬室《チェンバー》には初弾《しょだん》が装填《そうてん》されていないので、引き金を引いても弾《たま》は出ない。だがこのとき彼女は、半《なか》ば本気だった。銃を使わなくとも、自分の格闘術《かくとうじゅつ》ならこの男を病院送りにしてやることができる。薄笑《うすわら》いを浮《う》かべた二枚目顔を吹《ふ》き飛ばしてやったら、さぞや気分がいいことだろう。
相手もその気になったようだ。隙《すき》あらばマオの銃を払《はら》いのけ、腕《うで》の一本でもへし折ろうとでもしているのかもしれない。全身から、『じゃあ俺も容赦《ようしゃ》しないぜ』とでも言っているかのような気配《けはい》が、じわじわと漂《ただよ》いはじめている。
「怪我《けが》するぜ、お嬢《じょう》さん」
「させてみな、坊《ぼう》や」
一触即発《いっしょくそくはつ》。そんな状態《じょうたい》が、何秒続いただろうか。いましもどちらかが動こうかというそのとき――
にらみ合う二人の間に、ぬっと、無骨《ぶこつ》なライフルの銃身が割《わ》って入った。
「そのくらいにしておけ」
汚《よご》れたライフルを無造作《むぞうさ》に突《つ》き出したまま、セガール――サガラが言った。いつの間にか立ちあがって、二人のかたわらまで来ていたのだ。音もなく。気配もなく。マオにもウェーバーにも、気付かれることなく。
この兵舎の床《ゆか》は、歩くだけでぎしぎしとやかましい音がするはずなのに。
マオがあっけに取られていると、サガラは無関心《むかんしん》な目をウェーバーに向けた。
「ウェーバーとか言ったな。下士官《かしかん》をからかうのはやめろ。ほかの兵士が迷惑《めいわく》する」
「お……おう」
ウェーバーもさすがに驚《おどろ》いたのか、思わずうなずいてしまう。
次にサガラは、ゆっくりとマオを見据《みす》えた。
「曹長殿《そうちょうどの》。ご気分《きぶん》を害《がい》されたのはごもっともですが、この男はエスティス少佐の管理下《かんりか》にあります。抗議《こうぎ》や叱責《しっせき》はそちらを通されてはいかがかと」
「え……? うん」
マオもつい気圧《けお》されて、間抜《まぬ》けな返事をしてしまった。
サガラは何事《なにごと》もなかったかのように、床をきしませ、自分のベッドへと戻《もど》ると、手にしたライフルをバラしはじめた。二人はしばらくその少年兵をぽかんと見つめていたが、やがてもう一度にらみ合って、
「けっ……」
「ふん……」
互《たが》いに吐《は》き捨《す》てるようにつぶやくと、そっぽを向く。
これ以上、こんな場所にいても仕方《しかた》がない。マオは無言《むごん》で彼らから離《はな》れ、大股《おおまた》で兵舎を出ていった。
強い苛立《いらだ》ちを感じながら、どしゃぶりの雨の中を歩いていく。
クルツ・ウェーバー。なんてムカつく男なのだろう。一瞬《いっしゅん》でもチャーミングだと思った自分が腹立《はらだ》たしい。
ソウスケ・サガラ。あいつもわけのわからないガキだ。なんだか気味《きみ》が悪いし。あんなネクラに興味を持った自分が馬鹿《ばか》だった。
(ふん……。まあ、いいけどね)
すくなくとも、あの二人がウルズ6と7になることはない。なにしろ、自分が選ばないのだから。
そう。このキャンプでの、これきりの縁《えん》だ。
メリッサ・マオが立ち去ったあと、ウェーバーは一度|悪態《あくたい》をついて、ちらりと最年少の訓練生に目を向けた。
「なあ、おい」
好奇心《こうきしん》から、声をかけてみる。この東洋人とは班《はん》も違《ちが》うし、ベッドも離《はな》れているので、これまでろくに話したことがなかったのだ。それに、さっきの仲裁《ちゅうさい》の件《けん》がどうも気になる。マオも気付いていた様子だったが、この少年兵は、ひょっとしたら常人《じょうじん》離れした忍《しの》び歩きの技能《ぎのう》を持っているのかもしれない。
「俺はクルツ・ウェーバー。あんたは?」
「ソウスキー・セガール」
「ひょっとしておまえ、日本人?」
「一応、そうだが」
「じゃあ……ホントはソースケ・サガラっていうとか?」
少年はわずかに意外そうな顔をした。白人男が、正しく日本語の名前を発音したことに、驚《おどろ》いたのだろう。
ウェーバーはにんまりとして、
「へっへ。実は俺、東京育ちでね。ドイツ語より日本語の方が得意《とくい》なくらいでさ」
「トウキョウ。日本の首都《しゅと》だな」
「そりゃあ……決まってるだろ。おまえはどこ住んでた?」
「いや。住んだことはない」
「へ?」
「もしかしたら住んでいた時期《じき》もあったのかもしれないが、|記憶《きおく》にはない」
「ふーん……」
彼はすこし拍子《ひょうし》抜《ぬ》けした。珍《めずら》しく日本人に出会ったので、地元《じもと》ネタで盛《も》り上がれるのではないかと期待《きたい》していたのだ。サガラは相変《あいか》わらず、ライフルの掃除《そうじ》を続けている。熟練《じゅくれん》したその手つきをぼんやりと眺《なが》めつつ、ウェーバーはつぶやいた。
「まあ、いろいろあるわけだな」
「肯定《こうてい》だ」
「俺もさ。いろいろあってね」
「そうか」
それ以上相手の過去《かこ》を詮索《せんさく》せず、ウェーバーはちらりと兵舎の戸口の方を振《ふ》りかえってから、別の話題をふってみた。
「しかしあの曹長《そうちょう》。ムカつく女だよな。なにかってぇと、すぐに殴《なぐ》るわ蹴《け》るわでよ」
「あんたが挑発《ちょうはつ》するからだ」
「してねーさ。親しみをこめて接《せっ》してるだけだよ。それに……ほら、やっぱこう、女|日照《ひで》りの生活が長いとな。ちょっかい出したくなるじゃんか。男ならわかるだろ?」
「いや。わからん」
「あ、そう……」
つまらん奴《やつ》だ、とウェーバーは思った。
「そういえばあの姉ちゃん、おまえに何の用だったんだ?」
「俺が参加《さんか》したASの模擬戦《もぎせん》の状況《じょうきょう》を知りたかったらしい」
「へー。おまえもAS乗れるの」
「一応《いちおう》は」
「腕《うで》はどうよ。うまい?」
「いや。平凡《へいぼん》だ」
そのときウェーバーは直感的《ちょっかんてき》に、相手が嘘《うそ》を言っているのではないかと思った。共感《きょうかん》といってもいい。ひょっとしたら、こいつは自分と同じ考えかもしれない……そう疑《うたが》って、彼はサガラにたずねてみた。
「なあ、サガラっていったよな。おまえさ、教官たちに隠《かく》してることねーか?」
「ない。気のせいだろう」
サガラはそしらぬ顔で言った。
「どうかな。俺はさ、このキャンプを運営《うんえい》してる傭兵《ようへい》部隊が、うさん臭《くさ》くてしょうがないんだよ」
「…………」
あのメリッサ・マオが優秀《ゆうしゅう》な人員を引きぬきに来たことは聞いていたが、彼女がどこからやってきたのか、ウェーバーはまったく知らなかった。それに『卒業』といっても、その後にどこに派遣《はけん》されて、なにをするのか?
組織の全貌《ぜんぼう》がまるで見えないのだ。名前さえわからない。
その目的は? 実際《じっさい》の規模《きぼ》は? 資金源《しきんげん》は? いったいどうして、これだけ厳《きび》しい訓練を課《か》すのか?
すべて謎《なぞ》のままだ。
中東の、とある国でのドンパチが終わって、傭兵として食いはぐれていたウェーバーに、このキャンプを|紹介《しょうかい》した男は、こう言った。
『詳《くわ》しいことは話せないが、とにかく、行ってみろ。あそこは凄《すご》いところだ。いい意味《いみ》でぶったまげるぞ』
ほかに稼《かせ》ぐあてもなかったので、『じゃあ、とりあえずは行ってみるか』と、このベリーズまで来てみた。だが残念ながら、この粗末《そまつ》なキャンプに入って以来《いらい》、ウェーバーがぶったまげたことは一度もなかった。
ひょっとしたら、どこかの国が支援《しえん》しているテロリスト養成《ようせい》キャンプだという可能性《かのうせい》だって、まだ捨《す》てきれないのだ。そんな五里霧中《ごりむちゅう》の状態《じょうたい》にあっては、自分の真の実力を人前で見せつけることは、あまり賢明《けんめい》とはいえない。ウェーバーはこのサガラが、自分と同じ考えなのではないかとにらんだのだ。
「確かに見通《みとお》しは悪い」
サガラが言った。
「だが、この稼業《かぎょう》はえてしてそういうものだ。気に病《や》んでもはじまらないだろう。やばくなったら逃《に》げればいい。それに――」
「それに?」
「おまえは俺を買い被《かぶ》っている。俺は合格点を取るのがやっとの、平凡《へいぼん》な雇《やと》われ兵だ」
それを聞いて、ウェーバーは笑った。
「俺もだよ。ただのチンピラさ」
それから二日、マオはさらにキャンプに滞在《たいざい》し、訓練生を見ていった。
しかし、初日に選《え》り抜《ぬ》いた三名よりも|優秀《ゆうしゅう》な訓練生は、やはり見当たらなかった。どれか一つの分野《ぶんや》だけに秀《ひい》でたタイプもいるにはいたが、SRTが欲しいのは万能選手だ。それにできれば、AS乗りとしての経験も豊富であって欲しい。
メリダ島基地には、もう最新鋭《さいしんえい》のM9が届いていることだろう。そう思うと気もそぞろだったが、さりとて同僚《どうりょう》を選ぶ手を抜くわけにもいかない。
どうしたものかと考えあぐねているうちに、その日も暮れてしまった。
例によって共用シャワー室で泥《どろ》と汗《あせ》を洗い落として、いそいそと部屋に戻《もど》ると、備え付けの電話が鳴る。
相手はエスティス少佐で、『すぐに来てくれ』とのことだった。
(やれやれ……)
洗ったばかりで乾《かわ》いてもいない下着をつけて、泥だらけの野戦服をもう一度着てから、彼女はエスティス少佐のオフィスに向かった。
部屋にはエスティスのほかに、ジマー軍曹《ぐんそう》を含《ふく》めた十数名の教官たちが待っていた。これだけ大勢《おおぜい》いると、広い部屋も狭苦《せまくる》しくなる。
それとは別に、上等な軍服を着た初老の男もいた。痩《や》せ型で白髪《しらが》混《ま》じり、銀縁《ぎんぶち》の眼鏡《めがね》をかけている。
「マオ曹長。こちらはベリーズ陸軍のフェルナンデス大佐《たいさ》だ」
エスティスが紹介《しょうかい》した。
地元の陸軍の将校《しょうこう》? こんなゴロツキだらけのキャンプに、なんの用だろう? 訝《いぶか》しく思いながらも、マオは背筋《せすじ》を伸《の》ばして敬礼《けいれい》した。
「……よろしく」
フェルナンデス大佐はどうも落ち着かない様子で、そわそわと室内を見まわし、しきりに貧乏《びんぼう》ゆすりをしている。ひどくなにかに焦《あせ》り、時間を気にしているようにも見えた。
「さて、これで全員そろったな」
エスティスは自分の執務椅子《しつむいす》に深く腰かけ、机上《きじょう》の箱から自分の葉巻《はまき》を取り出した。フェルナンデス大佐に『一本いかが?』と勧《すす》めて見せたが、彼は神経質《しんけいしつ》そうに手首を振《ふ》り、それを断《ことわ》った。
「さっさと本題を話そう。……実はおととい、首都のベルモパンでベリーズ大統領《だいとうりょう》の一人|娘《むすめ》が誘拐《ゆうかい》された」
葉巻に火をつけ、茶飲み話のように言う。
「ご学友との買い物中、AKライフルと投げ網《あみ》とパンティ・ストッキングで武装《ぶそう》した一団に襲《おそ》われたらしい。ボディガードはストッキングでぐるぐる巻きにされて川に放《ほう》り込まれ、車で追跡《ついせき》した警官《けいかん》は事故《じこ》を起こして――やっぱり川に落っこちた。重軽傷者《じゅうけいしょうしゃ》は計三〇名。死者は〇名の大追跡劇《だいついせきげき》だったそうだ。まあ、けっきょく逃《に》がしちまったんだがな」
『はあ……』
マオと教官たちが、そろって間の抜《ぬ》けた相槌《あいづち》を打った。
「大統領|令嬢《れいじょう》を誘拐した犯人《はんにん》は、グアテマラ共和国《きょうわこく》との国境地帯《こっきょうちたい》に潜伏《せんぷく》している左翼《さよく》ゲリラの一派《いっぱ》だ。『こだわりのある革命家《かくめいか》の集《つど》い』と名乗《なの》っており、政府《せいふ》に身代金《みのしろきん》を要求《ようきゅう》している。その額はアメリカドルで、五一二万一〇七六ドル二五セントだ」
「妙《みょう》に半端《はんぱ》な額ですね……」
「なんか、こだわりがあるらしい」
エスティスは葉巻の煙《けむり》をぷーっと吹《ふ》き出した。
「明日までに払《はら》わなければ、大統領令嬢はただでは済《す》まないそうだ。その証拠《しょうこ》とばかりに、ビデオテープを送ってきた。……大佐? テープを」
「は……はい」
それまで黙《だま》っていたフェルナンデス大佐が、大事《だいじ》そうに抱《かか》えていたアタッシュケースから一本のVHSテープを取り出した。彼はぶるぶると震《ふる》えながら、そのテープをジマー軍曹《ぐんそう》に手渡《てわた》す。ジマーは怪訝顔《けげんがお》をしながら、オフィスのビデオデッキにテープを差しこみ、再生ボタンを押《お》した。
「み、見るに耐《た》えないショッキングな映像《えいぞう》ですが……。どうかご覧《らん》ください」
フェルナンデスは辛《つら》そうな声で前置《まえお》きした。この中では一番えらい大佐なのに、妙に腰の低いおっさんである。
ライフルを肩《かた》にかけ、スカーフで顔の下半分を隠《かく》した男が映《うつ》った。場所はどこかの、殺風景《さっぷうけい》な石造《いしづく》りの部屋だ。
『私は「こだわりのある革命家の集い」の暫定的永久指導者《ざんていてきえいきゅうしどうしゃ》、ダイクストラ議長《ぎちょう》である』
男は訛《なま》りの強い英語で言った。
『昨日《さくじつ》われわれは、電撃的《でんげきてき》な奇襲《きしゅう》によって、傀儡政権《かいらいせいけん》の大統領令嬢を捕《と》らえることに成功した。彼女を返して欲《ほ》しければ、すみやかに五一二万一〇七六ドル二五セントを支払《しはら》っていただく。これはわれわれ評議会《ひょうぎかい》の決定事項《けっていじこう》である。一セントたりとも負ける気はない。さもなくば、大統領令嬢の身の安全は保証《ほしょう》できないのである。裏切《うらぎ》りや駆《か》け引きは、悲惨《ひさん》な結果《けっか》をもたらすことを、ここで警告《けいこく》しておこう。……見るがいい!』
そこでカメラがパンする。
がらんとした、なにもない部屋の中央に、一六、七歳の少女が突《つ》っ立っていた。きのう付けの夕刊を持たされ、胸の前に掲《かか》げている。カールのかかった黒髪《くろかみ》で、スタイル抜群《ばつぐん》の娘《むすめ》だ。きゅっとしまったウェストで、バストは九〇センチ近くあるだろう。
なぜそんなことがわかるのかというと――少女の格好《かっこう》が、バニー・ガールだからだ。
バニー・ガールである。
黒のボディスーツと、黒の網《あみ》タイツ。ピンヒールの靴《くつ》と、ウサ耳のカチューシャ。見事《みごと》なまでの、バニーさんっぷりだった。
「…………」
見ていた教官たちの間に、なにか居たたまれないような、気まずい沈黙《ちんもく》が漂《ただよ》う。
よほど恥《は》ずかしいのか、画面《がめん》の中の少女は顔を真っ赤に染《そ》め、上目遣《うわめづか》いにカメラを見てつぶやいた。
『パパ。助けて……』
直後《ちょくご》にカメラは先はどのリーダー――ダイクストラ議長に戻《もど》る。
「どうだ。これでわれわれが、本気だということが分かっただろう』
教官の一人が「どんな本気だ、おい」とつぶやいた。
『支払いを遅《おく》らせれば、毎日別のコスチュームをさせてビデオを送る。奥《おく》ゆかしいゲイシャ・ガールからカーニバルのサンバ娘まで、各種《かくしゅ》用意《ようい》してある。これがテレビで公開されれば、現《げん》政権は致命的《ちめいてき》な打撃《だけき》を被《こうむ》ることだろう。覚悟《かくご》するといい』
そこでビデオの映像は終わった。画面がぶつ切れになって、灰色《はいいろ》のノイズがざーっとちらつき――アニメ番組の途中《とちゅう》からの映像がはじまる。赤いコンボイがロボットに変形《へんけい》して、『思い知れ、メガトロン!』だのと叫《さけ》びつつ、敵ロボットの軍団にビーム銃《じゅう》をチュンチュンと撃《う》っていた。
「中古のテープに上書きするか、普通《ふつう》……?」
ジマーがうめくように言うと、その横でフェルナンデス大佐が声を震《ふる》わせた。
「私は……大統領とは古くからの付き合いでして。……ご幼少《ようしょう》のころから、マリアお嬢様《じょうさま》とはよく遊んでさしあげたものです。まったく、あんなご立派《りっぱ》に成長《せいちょう》されて……。いや、それはともかく、このままでは……このままではお嬢様が!」
感極《かんきわ》まったように、大佐は泣き|崩《くず》れた。
「恥《は》ずかしながら、我《わ》が軍には人質救出《ひとじちきゅうしゅつ》のノウハウが足りません。そこであなた方 <ミスリル> に、助けを求めに参《まい》った次第《しだい》でして。どうか……どうか、マリアお嬢様を救《すく》っていただきたい!」
エスティスが葉巻の火をもみ消して、はーっとため息をついた。
「ですがね、大佐。このキャンプは <ミスリル> の作戦部隊ではありません。あくまで、その戦闘員《せんとういん》を養成《ようせい》・選抜《せんばつ》する訓練|施設《しせつ》です。正式な隊員《たいいん》はここにいる者で全部なんですよ。あなたと大統領の御厚意《ごこうい》で、こうして国土の一部を借用《しゃくよう》させていただいているのには感謝《かんしゃ》してますが……」
「そこを曲げて、なんとか! 時間がないんです! こうしている間にも、テロリストどもはお嬢様にどんな恥ずかしい格好をさせることか……!」
「……と、いうわけだ」
エスティスは一同を見まわした。
「統合《とうごう》作戦本部に相談《そうだん》してみたら、南大西洋戦隊の <ネヴェズ> は、いま西アフリカの方に出張《でば》っていて手一杯《ていっぱい》だそうだ。助けるんだったら、われわれだけでやらねばならん。……まあ、シャレを抜《ぬ》きにすれば、彼女がヤバいのは本当だろう。まだ大丈夫《だいじょうぶ》みたいだが、暴行《ぼうこう》でもされたら後味《あとあじ》が悪い」
『暴行』という言葉を聞くなり、フェルナンデス大佐は『うーん』とうなって失神《しっしん》してしまった。椅子《いす》から落ちた初老《しょろう》の紳士《しんし》を見ようともせず、エスティスは一同に告げる。
「ともかく大家《おおや》が囲ってるんだ。店子《たなこ》が断るわけにもいかんだろう。『やってもいい』という奴《やつ》は、志願《しがん》してくれないか」
すぐに志願する者は一人もいなかった。
その場の全員が、なんとなく『いやだなあ……』という顔をした。それからひどく気の進まない様子で、全員がぱらぱらと手を挙《あ》げていった。マオは最後まで粘《ねば》っていたが、みんなの視線《しせん》が集まってきたことに根負《こんま》けして、けっきょくおずおずと右手を挙げた。
「よし。では、作戦|立案《りつあん》とチーム編成《へんせい》だ。訓練生からも志願者を募《つの》って、頭数を揃《そろ》えよう」
エスティスが立ち上がって、壁《かべ》に貼《は》りつけられた大きな地図へと歩き出した。
それから八時間後。
月の明かりも届《とど》かない、深い闇《やみ》に覆《おお》われた密林の中。細い小道を見下ろす山間《やまあい》の斜面《しゃめん》にうずくまって、マオはぼそりとつぶやいた。
「なんだってまた、こういうことになるのよ……?」
迷彩服《めいさいふく》姿だ。顔も黒と深緑の塗料《とりょう》でカモフラージュし、M16[#「16」は縦中横]ライフルを握《にぎ》り、じめじめとした土の上にしゃがみこんでいる。虫の鳴《な》き声と、微風《びふう》にゆれる草と葉の音。それ以外はまったくの無音《むおん》だ。あまりにも静かで、耳鳴りが聞こえてきそうなくらいだった。
彼女の率《ひき》いる『チーム・トパーズ』がいるのは、グアテマラとの国境地帯にあるツァコル遺跡《いせき》から、五キロほど東の山中だった。
ベリーズ陸軍の調《しら》べでは、例の『こだわりのある革命家《かくめいか》の集《つど》い』はツァコル遺跡をアジトにしていることがわかっていた。捕《と》らわれた大統領|令嬢《れいじょう》もそこにいるらしい。作戦プランが立てられた結果《けっか》、エスティス率《ひき》いる救出部隊が、徒歩《とほ》でツァコル遺跡まで接近《せっきん》し、夜明け前に奇襲攻撃《きしゅうこうげき》を敢行《かんこう》、女の子を助けてすみやかに脱出《だっしゅつ》する手はずになっていた。
マオのチームの任務は、その脱出路の確保《かくほ》である。
つまり肝心《かんじん》の救出劇から遠く離《はな》れた、だれもいないジャングルの中で、エスティスたちが逃《に》げてくるまで待つだけの仕事だ。野球でいったらライトのポジションか。あんまりボールが飛んでこないが、それでも一応はだれかを配置《はいち》しておかなければならない……そういう場所である。
まあ、それは我慢《がまん》できる。だれかが、やらねばならないことだ。
問題《もんだい》なのは、彼女のチーム四名の顔ぶれだった。
ジマー軍曹《ぐんそう》。これはいい。だが、残りが最悪《さいあく》に気に入らない。
クルツ・ウェーバーとソースケ・サガラなのである。エスティスが訓練生からの手伝いを募ったところ、それぞれ頼《たの》みもしないのに志願してきたのだ。二人とも平凡《へいぼん》な成績だったし、若い上に協調性《きょうちょうせい》も欠けるので、マオとジマーは彼らを使うことに反対《はんたい》した。――が、エスティスは首を横に振《ふ》り、彼女にこう言ったのだった。
『志願者が少なくて、人手《ひとで》不足だからな。あの変な誘拐《ゆうかい》グループのことを話したのがまずかった。まあ……トパーズの仕事なら、やらせてみても問題はないだろ。ただし、お守《も》りは付ける必要がある。キャンプの人間ではない、経験豊富な下士官がいい。つまりおまえさんだ、マオ』
そんなわけで、このメンツになった。
マオが <トゥアハー・デ・ダナン> に迎《むか》え入れようかと思っている、最優秀《さいゆうしゅう》の三人も作戦に参加《さんか》していたが、その三人は大統領令嬢を救うチームの方に組み込まれている。彼らの働きぶりを直接《ちょくせつ》見れないのは、彼女としても非常《ひじょう》に無念《むねん》だった。
無線封鎖中《むせんふうさちゅう》なので、救出チームの様子はわからない。時刻《じこく》を見た限《かぎ》りでは、すでにチームはツァコル遺跡に侵入《しんにゅう》し、ひそかに少女を連れ出しているころだった。
それにいまごろ、一万数千キロも離《はな》れたメリダ島では、マッカランたちが新型ASを嬉々《きき》としてテストしていることだろう。M9 <ガーンズバック> 。革命的な不可視《ふかし》モード付きECS、ほとんど無音《むおん》のパラジウム・リアクター、超《ちょう》高性能のAIシステムなどを搭載《とうさい》した、次世代型の最新鋭機《さいしんえいき》……!
だというのに、あたしは一体、こんなところでなにをやっているのか?
「不条理《ふじょうり》だわ……」
未明の密林の静寂《せいじゃく》は、彼女の疑問《ぎもん》に答えてはくれなかった。かわりに、三メートルばかり右に腰《こし》かけたウェーバーが、やはり不服《ふふく》そうな声をもらした。
「あー、つまんね……。退屈《たいくつ》だよ」
小声だったが、その声はチーム全員に届いた。
「バニーさんに会えるって聞いたから志願したのに。こんな場所に送られるんだったら、やめときゃよかった」
「うるさいよ。黙《だま》りな」
マオはぴしゃりと言った。
「へっ。最初にブツブツ言い出したのは、あんただろうが」
「ガキみたいな理屈《りくつ》、コネてんじゃないわよ。その減《へ》らず口を閉《と》じなさい」
「機嫌《きげん》悪いねぇ。まだ怒《おこ》ってんの? 根に持つ女はモテないよ?」
「怒ってないわよ。ただ単に、あんたみたいな軽薄男《けいはくおとこ》が大っ嫌《きら》いなの」
しっかりと怒った声で、マオは言った。それから、左の方でじっとしているサガラをちらりと見て、付け加える。
「極端《きょくたん》に無愛想《ぶあいそう》なガキも嫌いだけどね」
「…………」
サガラが暗闇《くらやみ》の中でしゅんとした――ような、気がした。
「そーいやサガラ。おまえはなんで志願したんだ?」
「念《ねん》のためだ」
ウェーバーに聞かれて、サガラは短く答えた。その言葉が、いまのマオには妙《みょう》にカチンときた。
「どんな『念のため』よ。あたしが急性盲腸炎《きゅうせいもうちょうえん》にでもかかるっての? お節介《せっかい》以前《いぜん》の問題ね。迷惑《めいわく》だわ」
「…………」
空気がみるみる険悪《けんあく》になっていった。
「おい、姉さん。そこまで言うこたぁ、ねーだろ。あんた一応《いちおう》、チームリーダーなんだからよ」
「ええ、そーよ。あんたらがでしゃばってきたおかげでね……!」
「俺はでしゃばったわけではない。ウェーバーと一緒《いっしょ》にしないでくれ」
「あ、この野郎《やろう》。フォローしてやったのに!」
「頼《たの》んではいない」
「うるさいって言ってんのよ。黙《だま》りな!」
「やかましい、クソアマ。俺だっておめーなんか、大っ嫌いだよ!」
「口論《こうろん》はやめろ」
「あんたがあおってんでしょう!?」
「わかった、あの日だな? だからガミガミと――」
「最っ低……!」
「あの日とはなんだ?」
「やかましい!」
もはや、とりとめがない。暗闇の中で、三人が不毛《ふもう》な口論をぼそぼそと続けていると、
「いい加減《かげん》にしろ……!」[#原文では4倍角フォント]
押《お》し殺《ころ》した、妙《みょう》に迫力《はくりょく》のある声で、それまで黙っていたジマー軍曹《ぐんそう》が言った。
『…………』
三人が黙り込む。
最年長者の軍曹は、咳払《せきばら》いをしてから、説教《せっきょう》した。
「曹長。いまは仮《かり》にも作戦中ですぞ。哨戒中《しょうかいちゅう》の敵にでも発見されたら、どうするんです。どうしてあなたは、この二人の前だとそうなるんだ。あまり私を失望《しつぼう》させないでいただきたい」
「ごめんなさい」
「ウェーバー、セガール。貴様らもだ。作戦の邪魔《じゃま》をしに来たのなら、いますぐ帰れ。さもなければ、この場で私が射殺《しゃさつ》してやるぞ……!」
「すんませーん……」
「申《もう》し訳《わけ》ありません……」
二人がそれぞれ答える。
「まったく、なんてチームだ」
ため息をもらして、ジマーが配置《はいち》に戻《もど》ったその直後。
すでに救出作戦をはじめているはずのエスティスたちのチームから、無線《むせん》で連絡《れんらく》が入った。
『こちらチーム・サファイア。まずいことになった。非常に重大な事態《じたい》だ』
ノイズ混《ま》じりの電波《でんぱ》の向こうに、ひどく切迫《せっぱく》した声が響《ひび》く。
『チーム・ルビーが大統領|令嬢《れいじょう》を救出した。損害《そんがい》ゼロ。チーム・ダイヤモンド、およびエメラルドと合流《ごうりゅう》、ポイント|E《エコー》に移動中《いどうちゅう》だが、敵の追撃《ついげき》を振《ふ》りきれそうにない。敵はASを装備《そうび》している。繰《く》り返す――敵は、アーム・スレイブを装備している! 確認《かくにん》できた限《かぎ》りでは、三機だ!』
マオは耳を疑《うたが》った。
あの間抜《まぬ》けな誘拐犯《ゆうかいはん》たちが、ASを? しかも三機!?
『徒歩では逃《に》げられん! いますぐ待機《たいき》中のヘリとASを――なっ!?』
ノイズが強くなり、無線の向こうでばりばりと轟音《ごうおん》がした。きーん、ごおっ、とガスタービン・エンジンのうなる声。ずしゅん、ずしゅん、と重たげな足音。男たちの怒鳴《どな》り声と、女の子の悲鳴《ひめい》。
チームのだれかが叫《さけ》んでいた。
『撃《う》つな撃つな! 無駄《むだ》だ! ばらばらになってポイント| F 《フォックストロット》へ――うわっ! ちくしょっ! はなせ、この野郎《やろう》!』
『抵抗《ていこう》はー、無駄である。銃《じゅう》を捨てて降伏《こうふく》しなさい。あと、おとなしく、われわれの愛《いと》しい彼女を返しなさい』
ASの外部スピーカーとおぼしき声。無線《むせん》を使っていた者が、敵のASにつかまってしまったのかもしれない。
『なにを言ってやがるんだ、このスケベ野郎! い、いてててて……、ごめんなさい、ごめんなさーいっ!!』
『わかればよろしい』
そこでぶつりと、無線は切れてしまった。
交信《こうしん》が途絶《とぜつ》すると、うって変わって重苦《おもくる》しい沈黙《ちんもく》がチーム・トパーズを支配《しはい》した。
「まいったわ……」
「最悪ですな」
「やれやれだぜ」
「深刻《しんこく》な事態だ」
四人は口々につぶやいた。
敵の機種はわからなかった。だがいずれにしても、ASは現代《げんだい》最強の陸戦兵器だ。全高八メートルの人型をしており、あらゆる地形を走破《そうは》する能力がある。しかも、戦車《せんしゃ》さえ撃破《げきは》できるような重火器《じゅうかき》を持ち、攻撃《こうげき》ヘリもうかつに近付けない。
この兵器にかかっては、生身《なまみ》の兵士などひとたまりもない。救出チームが生き延《の》びる道は、降伏する以外にないだろう。
エスティスの作戦ミスというのは酷《こく》な話だった。身代金五〇〇万ドルを要求するような連中が、ASを持っていること自体《じたい》が異常《いじょう》なのだ。ベリーズ陸軍の情報将校からも、そんな事実《じじつ》は聞いていなかったし、事前に遺跡《いせき》を偵察《ていさつ》したチームも、ASの存在《そんざい》など察知《さっち》していなかった。
だから、こちらもASを持ってきていなかったのだ。いまのASの動力源《どうりょくげん》は、ガスタービン・エンジンが主流《しゅりゅう》で、音がうるさい。一キロ先からでも、そのエンジン音が聞こえてしまう場合がある。エンジンを止めてバッテリー駆動《くどう》することも可能だったが、それができるのはごく短い時間だけだ。人質救出などの隠密《おんみつ》作戦には、あまり向いていないのである。
ところが向こうは持っていた。
どこから手に入れ、どこに隠《かく》していたのかはわからないが、結果として作戦は失敗。エスティスを含《ふく》めた味方《みかた》一六名は、おそらく捕らわれの身だ。
残っているのは、この場にいる四名だけだった。
「キャンプに戻《もど》りましょう」
ジマーが提案《ていあん》した。
「われわれ四名では如何《いかん》ともしがたい。キャンプにはM6とRk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]があります。旧式ですが、搭乗者《とうじょうしゃ》を募《つの》って出直《でなお》せば――」
「そんな時間、ないわよ。戻ってくるまでに敵は態勢《たいせい》を立て直すだろうし、たぶん、アジトも引き払《はら》うわ。だいいち、仮《かり》に敵が移動《いどう》しなくても、訓練キャンプのASじゃ、近付く前に、敵に察知されてしまうでしょうね。そうなったら、人質やエスティス少佐たちが盾《たて》にされるか殺されるわ」
「ですが、こちらには対人用の小火器しかないのですぞ? AS三機など、相手にできるわけがありません!」
さすがにジマーもうろたえていた。無理《むり》もない。どう考えたって、この場の四人で出来《でき》ることなど、あるはずないのだ。
だがマオは厳しい顔で、ジマーをにらみつけた。
「そこをなんとかするのよ。エスティスたちを助けないと」
「し、しかしですな……」
「戦いには流れがある。その流れを掴《つか》み損《そこ》なったら、今度こそ本当の敗北《はいぼく》が来るわ。いまはまだ、どうにかなる」
確かに、いまはこちらが絶望的《ぜつぼうてき》だ。だが同時に、敵が勝利に酔《よ》いしれ、油断《ゆだん》している絶好《ぜっこう》の好機《こうき》でもあるのだ。攻《せ》めるのだったら、いましかない。
「頭を使うの。工夫《くふう》しましょう。きっとうまい手があるはずよ」
ぴしりと言い放《はな》ったマオの横顔を、ウェーバーとサガラは意外《いがい》そうな目で眺《なが》めていた。まだあたりは暗かったので、彼女は気付いていなかったが――この若い傭兵《ようへい》二人は、同時に『ほお……』と唇《くちびる》を丸め、なにかに感銘《かんめい》を受けた様子だった。
「あんたたちの意見は? 聞かせてちょうだい」
マオが二人に声をかける。
「え? いや、その……」
「曹長《そうちょう》。あなたの言う通りだ」
サガラの言葉に、あわててウェーバーがうんうんとうなずく。だがマオは不満《ふまん》を隠《かく》そうともせず、
「追従《ついしょう》なんかどうでもいいわよ。建設的《けんせつてき》な意見を聞かせなさい。この状況《じょうきょう》で、あなたたちに出来そうなことは? 思いつく限り列挙《れっきょ》して。どんなに小さなこと、どんなに難しそうなことでもいい。あたしがそれを実現する。さあ!」
きびきびと言われて、二人は気圧《けお》され、言葉を失った。
「あー……」
少しの沈黙《ちんもく》のあとに、ウェーバーとサガラはおずおずと、自分の考えを述《の》べた。これまで伏《ふ》せていた、自分の得意分野についても正直に話した。それを用《もち》いて、できそうなことも提案《ていあん》してみた。
それらの意見は驚《おどろ》くべきものだった。だが誰が聞いても、『それだけでは使い物にならない』とコメントするような内容でしかなかった。
しかし、マオはそうは思わなかった。
「あんたたちはユニークね。とてもユニークだわ」
『はあ』
「だったら、こうしましょう。いい? まず――」
マオは自分の作戦の青写真《あおじゃしん》を、一同に語って聞かせた。
「どう? できる?」
「難しいな。だが――不可能じゃない」
「保証《ほしょう》はしかねますが。たぶん、やれるでしょう」
「やるのよ。腹立たしいけど、あんたたちに託《たく》すわ。だから――」
『だから?』
二人に向かい、マオは腕組《うでぐ》みして、にっと笑った。
「責任とってね。男でしょ?」
かつてない戦果《せんか》に『こだわりのある革命家《かくめいか》の集《つど》い』は沸《わ》き立っていた。
なにしろ大統領|令嬢《れいじょう》を奪還《だっかん》しにきた傭兵《ようへい》部隊を、一人残らず捕虜《ほりょ》にしたのである。『こだわりのある革命家の集い(長いので以下『コダ革』)』の構成員《こうせいいん》は、総勢《そうぜい》で三〇名。それを考えれば、この快挙《かいきょ》はすばらしいものだった。
「思い知ったか! 帝国主義者《ていこくしゅぎしゃ》の犬め!」
コダ革の暫定的《ざんていてき》永久指導者、ダイクストラ議長は叫《さけ》んだ。
ここはツァコル遺跡《いせき》の球技場《きゅうぎじょう》。大きく開けた広場の真ん中である。
すでに夜は明け、あたりは明るい。
目の前には、武装|解除《かいじょ》されてぐるぐる巻きに縛《しば》られた傭兵たちが、車座《くるますわ》りしていた。コダ革のゲリラたちは傭兵部隊を取り囲み、勝利の凱歌《がいか》をあげている。さらにその外側には、ソ連製のアーム・スレイブ――Rk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横] <サベージ> が三機も突《つ》っ立って、右手を突き上げ、ぐるぐると振《ふ》りまわしていた。卵型《たまごがた》をした胴体《どうたい》の、無骨《ぶこつ》な機体である。
「卑劣《ひれつ》にも、われわれの革命の花嫁《はなよめ》を盗《ぬす》もうとしたようだが、そうはいかん! 相手が悪かったようだな。うわっはっはっは」
「いつから彼女は『革命の花嫁』になったんだ……?」
ストッキングで縛《しば》り付けられた上に、おでこにマジックで『|IDIOT《バカ》』と落書《らくが》きされたエスティスは、ぼやくように言った。
けっきょくまた捕《つか》まってしまった大統領令嬢は、現在《げんざい》、チャイナ・ドレス姿だった。はらはらと涙《なみだ》を流しながら、ビール瓶《びん》を抱《かか》えて男たちの中を飛びまわっている。酌《しゃく》をしないと怒鳴《どな》られるので、彼女も必死《ひっし》である。
「人質だとか言ってたのに。あれじゃあ、まるでウェイトレスじゃないか」
「やかましい!」
「うおっ」
議長の蹴《け》りが入って、エスティスはひっくり返る。
「計画|変更《へんこう》だ。お前らを人質にする。マリア嬢とは違《ちが》って、お前らはきっちり見せしめに殺しまくってやる。たくさんいるし。男だし」
「ひでえな」
「さらに評議会のメンバーと協議《きょうぎ》して、一人ずつ身代金《みのしろきん》を決定しなければならんだろう。大変な作業《さぎょう》だが、やり遂《と》げなければならん。私としては、貴様の身代金は五〇万ドル前後がよろしいのではないかと思っておる」
「娘《むすめ》さんの一〇分の一か。安く見られたもんだ」
そこでゲリラの一人が挙手《きょしゅ》した。
「議長! その男の身代金は、三〇万ドルくらいが妥当《だとう》かと思います!」
「いやいや、もっとふっかけましょう! 六五万ドルくらいが良いかと」
「分かってないな、同志諸君《どうししょくん》。こんな男など、五〇〇〇ドルが関《せき》の山だ」
「電卓《でんたく》を持って来い! 評価額《ひょうかがく》を平均化しなければならんからな!」
ほかの男たちが口々に言った。
「なるほど……」
大統領|令嬢《れいじょう》の身代金が異常《いじょう》に半端《はんぱ》だった理由が、エスティスにもようやく分かった。
「困りましたね、少佐」
となりの教官がつぶやいた。
「マズいですよ。ベリーズ政府や <ミスリル> が、おとなしく身代金を払《はら》うとは思えないし……なんとか脱出《だっしゅつ》しないと」
「そうは言ってもな。あれがいたんじゃあ……」
三機の <サベージ> をあごで指す。さして高性能のASでもなかったが、整備は怠《おこた》っていないようだ。走れば時速《じそく》一〇〇キロ以上のあの機体から、逃《に》げて逃げ切れるものではない。
あのうち一機をどうにか奪《うば》って、ほかの二機を倒《たお》すことも考えたが、それはとうてい無理《むり》だった。<サベージ> はいまも起動中《きどうちゅう》で、しっかり操縦兵《オペレーター》が乗っている。突《つ》っ立っているから、頭の後ろのハッチまで、登ることさえできないだろう。
「録画《ろくが》の準備《じゅんび》をしろ。公開処刑《こうかいしょけい》を収録《しゅうろく》するぞ! カメラが捕《と》らえた決定的|瞬間《しゅんかん》。茶の間も真っ青だ!」
こりゃあ、いよいよいかんかもな……。
エスティス少佐がそう思った矢先《やさき》。
一発の銃弾《じゅうだん》が、彼と議長との間の地面に着弾《ちゃくだん》した。泥《どろ》が飛び散《ち》るのとほぼ同時に、乾《かわ》いた銃声が遺跡《いせき》に響《ひび》く。
ゲリラたちが一斉《いっせい》に身を固くし、遅《おく》れてわらわらとライフルを構《かま》えた。
「そこまでよ!」
鋭《するど》い声。半壊《はんかい》した遺跡の西側――野球場でいったら、ちょうどライト・スタンドの観客席《かんきゃくせき》にあたる高いところに、ライフルを抱《かか》えた女が仁王立《におうだ》ちしていた。
東洋系の女だった。雌豹《めひょう》を思わせるエキゾチックな魅力《みりょく》の持ち主で、迷彩柄《めいさいがら》のズボンにタンクトップ姿だ。それを見て、コダ革の男たちは『おー』と妙《みょう》な感嘆《かんたん》をもらす。
(マオ曹長……?)
たった一人きりだ。ライフル一|挺《ちょう》でどうするつもりなのか――エスティスがそう思っていると、彼女はゲリラたちに向かって声を張り上げた。
「死にたくなかったら、全員武器を捨てなさい! 間抜《まぬ》けなあんたたちには分からないでしょうけど、もうすぐここには援軍《えんぐん》が到着《とうちゃく》するの。一分で全員を壊滅《かいめつ》させる戦力よ!」
「なんだと……?」
議長が眉《まゆ》をひそめた。
「いますぐ人質を全員|解放《かいほう》して、この場を立ち去れば、あんたたちは見逃《みのが》してあげるわ。どうせ西に行けばグアテマラでしょ? 命は助けてあげるわよ」
マオは悠然《ゆうぜん》とほほ笑《え》み、言った。
「……あと一メートルくらいだ。姐《ねえ》さんから見て左側の機体。どうにか左へ動かせろ」
小型無線機に向かって、ウェーバーはささやいた。
『わかってる。待って』
マオがささやくように答えた。その直後に、別の声が入る。
『こちらセガール。配置《はいち》についた。気付かれていない』
『こちらジマー。配置についた。いつでもいけるぞ』
いまウェーバーは、草深い茂《しげ》みの中でうつぶせに横たわって、愛用の銃を構えている。
三〇八口径の、ボルト・アクション式ライフル。年季《ねんき》の入った銃だ。ストックやフレームなどの木製部は、頑丈《がんじょう》なクルミの木で出来ている。傍目《はため》には、ただの古臭《ふるくさ》い安物のライフルに見えるかもしれない。周囲《しゅうい》の訓練生たちも、そう思っていたことだろう。
だが、そうではないのだ。
いま彼がいるのは、マオや議長たちの背後――遺跡《いせき》の外のブッシュだった。距離はおおよそ二〇〇メートル。球技場の遺跡の外壁《がいへき》は、長い年月を経《へ》てぼろぼろに崩《くず》れており、あちこちに大きな隙間《すきま》がある。マオたちから離《はな》れたその場所でも、球技場のほとんどを望《のぞ》むことができた。
二〇〇メートル。そう遠い距離ではない。
だが彼のスコープが狙《ねら》う標的は、あまりにも小さかった。
遺跡の中に立つ <サベージ> の、腰の後ろ側《がわ》――尻《しり》にあたる部分のわずか上に、逆《ぎゃく》三角形型の放熱口《ほうねつこう》がある。その中央、わずか二センチほどのスリットの隙間に、銃弾《じゅうだん》を叩《たた》き込んでやらねばならない。
その場所のずっと奥《おく》に、<サベージ> の重要な部品が納《おさ》まっているのだ。
下半身の動作《どうさ》を統括《とうかつ》し、中央のシステムとやり取りをするコントロール・ボックス。小さなその部品につながるケーブルを正・副同時に断《た》ち切れば、あのASは脚《あし》が動かせなくなる。機体のバランスを考えれば、そのとき <サベージ> は背中の方へと転倒《てんとう》するはずだった。
だが――その放熱口《ほうねつこう》が、微妙《びみょう》にこちらを向いてくれないのだ。
「降参しろだと? 馬鹿《ばか》か、お前は! 一人しかいないくせに」
ダイクストラ議長が豪快《ごうかい》に笑った。
「どうせこいつらの中の生き残りだろう。ハッタリをかまそうとしたって、そうはいかんぞ!」
「ハッタリ? どうかしら。六機のM6に囲まれて、袋叩《ふくろだた》きにされてからじゃ遅《おそ》いわよ? そこにいるオンボロの <サベージ> なんか、何もできないうちに吹《ふ》き飛ばされるでしょうね……!」
マオはできるだけ憎《にく》ったらしい仕草《しぐさ》で、あざけるように言った。
もっとも内心では、だらだらと冷や汗《あせ》をかいている。二〇人以上のゲリラの銃《じゅう》が、いま、まっすぐにこちらを向いているのだ。そのうち一人が気まぐれを起こしただけで、こんな目立つ場所に立っている自分は、あっさりと射殺《しゃさつ》されてしまうことだろう。
だが、これでいいのだ。敵は一斉《いっせい》にこちらに注目《ちゅうもく》している。左端の <サベージ> の背後ぎりぎりまで忍《しの》びより、石柱《せきちゅう》の陰《かげ》に隠《かく》れているサガラには、まだ誰《だれ》も気付いていない。
まったく、あのサガラの度胸《どきょう》と忍び足には驚《おどろ》かされる。
「……特にそこ! そのポンコツ! あんたなんか、真っ先にやられそうだわ」
マオはぴしりと、ゲリラたちの後ろ、左側に突《つ》っ立っていた <サベージ> を指差《ゆびさ》した。
『な、なに?』
その機体の外部スピーカーから、声がした。
「あたしもASには詳《くわ》しいから、わかるのよ。這《は》いつくばって、じたばたして、泣いて命|乞《ご》いするのが関の山ね。どう見たって、腕《うで》の悪そうなツラしてるわ!」
『ツラって……おい。わかるのか?」
「う……。そ、そういう動き方する機体には、ブ男が乗ってるって相場《そうば》が決まってんのよ! どう? 図星《ずぼし》でしょう!」
『なんだと! オレはブ男なんかじゃない!」
「いーえ、ブ男よ! しかも胸毛《むなげ》が濃《こ》くて体臭《たいしゅう》がキツくて、女にはフラれてばかりの、どうしようもないクソ野郎《やろう》なのよ! 絶対《ぜったい》そう! 断言《だんげん》する!」
これだけ挑発《ちょうはつ》しても、<サベージ> は動こうとしなかった。
そのころには遺跡《いせき》にいるほとんどの人々が、『なぜあの女は、あの機体の操縦者《オペレーター》ばかりバカにしようとするのだろう?』と疑問《ぎもん》に思い始めていた。
「おまえ……なにしに来たんだ?」
議長がぼそりと言う。だがマオはそれを無視《むし》して、ほとんどヤケクソになって、握《にぎ》りこぶしで――絶叫《ぜっきょう》した。
「認《みと》めなさい! だれがなんといおうと! あんたはブ男! 親父《おやじ》はアル中で、お袋《ふくろ》さんは淫売《いんばい》で、あんた自身は救いようのない早●野郎なのよっ!!」
『こ、この……』
次の瞬間《しゅんかん》――
『だれが……だれが●漏だぁっ!!」
怒鳴《どな》り声と同時に、その <サベージ> は全身をわなわなと震《ふる》わせて、右足を一歩、踏《ふ》み出した。
(見えたぜ……)
スコープを覗《のぞ》くウェーバーの目が、大きく見開かれた。
<サベージ> の尻《しり》が、こちらを向く。ギリギリの角度《かくど》だ。
集中力が極限《きょくげん》まで高められ、一瞬が永遠に引き伸《の》ばされる。腰部《ようぶ》のスリットのわずかな隙間《すきま》――その向こうにあるコントロール・ボックスまでもが、はっきりと見えた気がした。
鉄《てつ》と大気、クルミの木の感触《かんしょく》。呼吸《こきゅう》は無意識《むいしき》に止まっていた。自身と一体化したライフルを、精密機械《せいみつきかい》そのものとなって微動《びどう》させ、身体《からだ》が自動的に引き金を引く。
次の瞬間、銃弾《じゅうだん》が発射《はっしゃ》された。
白い硝煙《しょうえん》の向こうに、飛んでいく弾丸を感じる。それは彼が思い描《えが》いたイメージの通りに、風を切り裂《さ》き飛翔《ひしょう》して――
アーム・スレイブの腰部、その奥《おく》深くに叩《たた》き込まれた。
激昂《げっこう》し、叫《さけ》んだ <サベージ> がその直後《ちょくご》に、がくりとその身を硬直《こうちょく》させた。
それを見て、コダ革の面々、エスティスたち、チャイナ服の少女までもが目を丸くした。
『な……? な……?』
足の裏が地面に貼《は》りついたかのように、下半身がまったく動かなくなる。ASは腕《うで》と頭をじたばたと振《ふ》りまわし、どうにか姿勢《しせい》を立てなおそうとした。だがその努力もむなしく、機体は前へ、次に後ろへと傾《かたむ》いて――
どしゃあっ!
泥《どろ》を跳《は》ね上げ、背中《せなか》から地面へとひっくり返った。
(やった……!)
内心で小躍《こおど》りしながらも、マオは半信半疑《はんしんはんぎ》だった。ウェーバーが『できる』といったから、この超《ちょう》・高難度《こうなんど》の狙撃《そげき》を任《まか》せてみたのだが……それでも、ここまで見事に決まるとは。
『ドンピシャだ。あとはご随意《ずいい》に』
無線ごしに、ちょっとすました声が入る。
クルツ・ウェーバー。恐《おそ》ろしい射撃の腕前である。一キロの距離《きょり》から、少佐のトロフィーを吹《ふ》き飛ばしたのは、決してまぐれではなかった。
ただの軽薄《けいはく》なバカ男ではなかったのだ。それどころか――
(いやいや。急がんと……)
驚《おどろ》いてばかりもいられない。マオは自分のライフルを構えなおすと、無線機に向かって叫んだ。
「ジマー!」
『了解《りょうかい》!』
直後に、マオから五〇メートルほど離《はな》れた遺跡《いせき》の陰《かげ》から、ジマー軍曹《ぐんそう》が身を乗り出した。巨大《きょだい》な石のブロックの上にミニミ機関銃《きかんじゅう》をがちゃりと乗せて、すぐさまフルオート射撃をはじめる。
遠慮会釈《えんりょえしゃく》ない銃弾の雨が、ゲリラやエスティスたちの周《まわ》りに降《ふ》り注《そそ》いだ。
「お……応戦《おうせん》しろーっ!!」
我《われ》に返ったゲリラたちが、倒《たお》れた <サベージ> などそっちのけにして、ばりばりとライフルを撃ち返してきた。マオは素早《すばや》く石柱の陰に走りこむ。周囲に銃弾《じゅうだん》の嵐《あらし》が襲《おそ》いかかり、砕《くだ》けた石の破片《はへん》が飛びまわった。
「うお……わっ、わっ!」
エスティス少佐たちが、縛《しば》られた格好のまま地面に伏《ふ》せ、イモ虫のように這《は》いまわっている。チャイナ服の大統領|令嬢《れいじょう》は、意外に冷静にその場を退避《たいひ》し、地面のくぼみに隠《かく》れていた。
いまや古代のスタジアムには、滝《たき》のような銃声が渦巻《うずま》いていた。
「よーし、そうよ。じゃんじゃん撃ってきな……!」
マオはライフルだけを遮蔽物《しゃへいぶつ》の陰から突《つ》き出して、銃弾を惜《お》しむように応戦した。もとより、敵に当てる必要などない。彼らの注意《ちゅうい》を、倒れた <サベージ> からこちらに引き寄せるのが重要なのだ。ジマーにも、その旨《むね》を申し渡《わた》してある。彼もいまは陰に引っ込み、でたらめな応射《おうしゃ》を繰《く》り返していることだろう。
(あとはサガラ次第《しだい》ね……)
あの少年の実力が本当なら、こちらのチェック・メイトだ。そうでなかったら――降伏するか、殺《や》られるしかないだろう。
そのとき、無事《ぶじ》なままの <サベージ> 二機のうち一機が、マオの方へと向かってきた。もう一機は、ジマーの隠れている遺跡《いせき》の方へ。
(まずいわ……)
このままでは、自分とジマーの命は、あと一分ももたないだろう。
倒れた <サベージ> のすぐそばに、サガラはしっかりと潜《ひそ》んでいた。
機体が後ろ向きに倒れてきたときは、そのまま隠れている石柱ごと押《お》しつぶされてしまうのではないかと思ったほどの近さだ。
(よし……)
彼は身を低くして、石柱の陰から走り出た。
動かない脚《あし》に難儀《なんぎ》しながら、なんとか起きあがろうと無駄《むだ》な努力を試《こころ》みる <サベージ> の頭の方へと、全速力で疾走《しっそう》する。
ばたばたと動く巨大《きょだい》な両腕《りょううで》は、生身の人間にはひどく危険だ。だがサガラはこの機種《きしゅ》の、腕部《わんぶ》の可動範囲《かどうはんい》を熟知《じゅくち》していた。アフガン時代の、自分の愛機《あいき》だからだ。頭のてっぺんの方向から近付けば、その腕に叩《たた》き潰《つぶ》される確率《かくりつ》はぐんと減《へ》る。
彼は首尾《しゅび》良く、あお向けに倒《たお》れた <サベージ> のそばに走り寄った。暴《あば》れる機体が跳《は》ね上げる泥《どろ》をかぶりながらも、頭に取りつき、人間でいったら鎖骨《さこつ》のあたりに位置するパネルを跳ね上げる。
B5版の雑誌《ざっし》サイズのパネルが開くと、中にはハッチの強制《きょうせい》開放レバーがあった。
機体がさらに暴れる。彼は跳ね飛ばされそうになりながらも、どうにか装甲《そうこう》のへりにしがみつき、レバーを握《にぎ》ると、安全ピンを弾《はじ》いてぐっと右に回した。
「…………!」
たちまち <サベージ> は動作を停止《ていし》する。圧縮《あっしゅく》空気が吹《ふ》き出して、カエルを思わせる大きな頭部がスライドした。
首の後ろのハッチが開く。人間一人がぴったりと納《おさ》まるコックピットには、汗《あせ》だくになった操縦兵《オペレーター》が入っていた。彼の容姿《ようし》は、なんというのか――ブ男だった。
「…………あれ?」
こちらを見上げ、あっけに取られる操縦兵。
「出ろ」
男の顔に自動拳銃《じどうけんじゅう》を突《つ》きつけて、サガラは告げた。
「は……はい」
急がねばならない。もたもたとコックピットから這《は》い出そうとする男の首根っこを、彼は乱暴《らんぼう》につかんで、力|任《まか》せに引《ひ》っ張《ぱ》り出した。
「わひっ……!」
男の鳩尾《みぞおち》にかかとで蹴《け》りを入れてから、サガラは <サベージ> のコックピットに滑《すべ》り込んだ。腕《うで》を通す筒《つつ》の奥《おく》の、スティックを握って手早《てばや》く操作《そうさ》。
ハッチ閉鎖《へいさ》。ジェネレーター再起動《さいきどう》。下半身への電力|供給《きょうきゅう》カット。バイラテラル角調整。マスター・モード設定《せってい》。一切《いっさい》の無駄《むだ》がないこの手際《てぎわ》を、訓練キャンプの教官が見ていたら、『君が今日からここの教官だ』と泣いて認《みと》めていたことだろう。
<<コンバット・マニューバー、オープン>>
モノクロのスクリーンに表示が出ると、サガラはすぐさま、機体を動かした。
<サベージ> はマオのすぐそばまで迫《せま》っていた。
遺跡《いせき》の残骸《ざんがい》が作り出す迷路《めいろ》を、たくみに利用して逃《に》げ回るが、それも些細《ささい》な時間|稼《かせ》ぎにしかならない。<サベージ> は障害物《しょうがいぶつ》などものともせずに、石畳《いしだたみ》の床《ゆか》を踏《ふ》みぬき、柱を潰《つぶ》し、まっすぐにマオを追ってくる。
『抵抗《ていこう》はー、無駄《むだ》である! おとなしく捕《つか》まらなければー、強引《ごういん》に捕まえた上でー、スモー・レスラーの格好をー、させてやる。それでもいいのか!』
機体の操縦兵が外部スピーカーで告げた。
「絶っ対、ゴメンよ……!」
マオはさっと振《ふ》り返って、<サベージ> めがけてライフルを撃《う》った。だがASの分厚《ぶあつ》い装甲《そうこう》には、歩兵のライフル弾《だん》などまったく効《き》かない。ウェーバーのようなピンポイント射撃《しゃげき》なら話は別だったが、そんな離《はな》れ業《わざ》ができるのは彼だけだ。
ほかのゲリラたちも、<サベージ> に付き従って追ってくる。容赦《ようしゃ》ない銃撃が襲《おそ》いかかるのを、彼女はきわどいところで逃げつづけていた。
耳のすぐそばを、跳弾《ちょうだん》がかすめていった。抜群《ばつぐん》の運動|神経《しんけい》で塀《へい》を飛び越え、飛ぶようにして遺跡の中を駆《か》け抜《ぬ》ける。並みの男なら、何度もすっ転んで銃弾を食らい、とっくに絶命《ぜつめい》していることだろう。
だが、そんな彼女でもAS相手では分《ぶ》が悪かった。
『あくまで、逃げる気か! だったら死んでしまえ!』
<サベージ> が跳躍《ちょうやく》し、マオが飛び込んだ石のトンネルを蹴《け》り飛ばした。
強い衝撃《しょうげき》。
周囲のブロックが粉々《こなごな》に砕《くだ》け、マオ自身も三メートルほど吹《ふ》き飛ばされた。固い地面に身体《からだ》を打ち付けると、頭が一瞬《いっしゅん》、真っ白になる。息が詰《つ》まり、肋骨《ろっこつ》と手首に痛みが走り、喉《のど》から勝手に声がもれた。
「あっ……」
それでも身体の苦痛を無視《むし》して、すぐさま身を起こそうとする。だが、半壊《はんかい》した遺跡《いせき》に這いつくばった彼女の眼前に、<サベージ> の巨大《きょだい》な脚《あし》が踏《ふ》み降ろされた。
見上げると、卵型の機体が彼女を見下ろしている。
『観念《かんねん》しろ! 女めっ』
ああ、こりゃダメだわ。死ぬ前に、一度でいいからM9に乗りたかった……と、彼女が思ったその瞬間。
目の前の <サベージ> が、背後からなにかに組みつかれて、大きくよろめいた。
『なにっ!?』
それはもう一機の <サベージ> だった。サガラの奪《うば》った機体だ。彼の <サベージ> は両足をだらりとさせたまま、がっちりと敵機にしがみつき、ぎりぎりと相手の右|膝《ひざ》を締《し》め付けている。まるでゾンビだ。
『は、放せ……うおっ!』
ぎぎ……ばきんっ!!
鉄がひしゃげる轟音《ごうおん》と共に、火花が散《ち》ってオイルが飛び散った。サガラの <サベージ> が両腕《りょううで》の力で、敵の右膝のフレームをへし折ったのだ。この機種の脚の骨格《こっかく》は、縦《たて》方向には強固《きょうこ》だが、横方向の圧力《あつりょく》には意外に弱い。サガラがやったのは、その構造《こうぞう》を利用した、いわばAS版のサブミッションだった。
(たまげたわ……)
こんな芸当《げいとう》は、よほど機体の扱《あつか》いに熟練《じゅくち》していなければ不可能である。しかも、サガラの機体は両足が動かないのだ。
がっくりと膝をつく敵の <サベージ> 。そこにジマーを追っていたはずの、もう一機の <サベージ> が駆《か》け付ける。
サガラ機は無言のまま身を起こした。なんという器用《きよう》さか、彼の <サベージ> は両腕を使って、ゴリラのように移動《いどう》する。普通《ふつう》の脚で歩くのと、そう変わらない速度《そくど》だ。
それでも敵機はエンジンの咆哮《ほうこう》をあげ、イスラエル製《せい》の単分子カッターを構えて、サガラ機へと肉薄《にくはく》した。
「…………」
サガラの <サベージ> は地面の上でしゃがむようにして身構えると、敵の繰《く》り出したナイフをすんでのところで受け流した。敵機《てっき》の手首を片手でつかみ、相手の勢《いきお》いを利用して、脚の動かない機体を上手にさばくと――敵の <サベージ> は、たちまちバランスを崩《くず》した。そのまま前のめりにつまずいた脚《あし》を、残った片手ですくいあげてやる。
どしゃあっ!
敵の <サベージ> は空中で回転し、頭から地面に突《つ》っ込んだ。すさまじい衝突音《しょうとつおん》と共に、崩れた石が、煙《けむり》となって舞《ま》いあがる。
今度はAS版の柔術《じゅうじゅつ》だ。こんな真似《まね》をやるには、桁外《けたはず》れの操縦《そうじゅう》センスが要求《ようきゅう》される。ましてや――繰り返すが――サガラ機の脚は、故障中《こしょうちゅう》なのだ。サガラが『できる』と言ったから、大博打《おおばくち》のつもりでこの作戦を採《と》ったのだが、彼女は正直なところ、ここまでは期待《きたい》していなかった。
まさか、これほどだったとは。あのイスラエル人――ハレルも問題にならない操縦技能《そうじゅうぎのう》だ。ひょっとしたら、自分よりも上かもしれない。
(なんと、まあ……)
マオどころか、ゲリラの男たちも呆然《ぼうぜん》としている。彼らの目の前で、サガラの <サベージ> は転倒《てんとう》した敵機から単分子カッターを奪《うば》うと、それを敵の背部、制御系《せいぎょけい》の納まった位置に手早く突き刺し、あっという間に機能を停止《ていし》させてしまった。
そのころには、最初に右|膝《ひざ》を折った機体が、ぎくしゃくとした動きでサガラ機に迫《せま》った。
サガラの <サベージ> はナイフを引き抜《ぬ》き、左|腕《うで》でバランスをとりながら、相手に向かって軽く手招《てまね》きした。
『来てみろ。機体損傷時の機動テクニックを伝授《でんじゅ》してやる』
『お、おのれぇ……!』
半ばやけくそになって、敵の <サベージ> が突っ込む。
だが、もはや結果は明らかだった。
素人《しろうと》に毛が生えた程度の男と、スペシャリストとでは勝負にならない。サガラ機はわけもなく敵の腕をとり、さっさと組み伏《ふ》せると、一機目と同様に背部の制御システムを単分子カッターで破壊《はかい》してしまった。
敵のASを倒《たお》してから、サガラの <サベージ> は両手だけで移動し、コダ革の構成員《こうせいいん》たちに向かって、頭部の重機関銃《じゅうきかんじゅう》を威嚇射撃《いかくしゃげき》した。男たちは逃《に》げ惑《まど》い、右往左往《うおうさおう》し、銃を捨てて『名誉《めいよ》ある扱《あつか》いを望む!』だのと、勝手なことをほざいた。
「抵抗《ていこう》してもいいわよ」
崩《くず》れた石柱の上にふんぞり返って、マオは言った。あちこち擦《す》り傷だらけで、軽い捻挫《ねんざ》もしているようだし、なによりひどく疲《つか》れていたが――それでも彼女は上機嫌《じょうきげん》だった。
「何回でも相手してやるわ。でも覚えておきなさい。あたしたちのチームは、最高なんだから!」
胸を張って言う彼女に、抵抗する男はいなかった。
エスティス少佐たちの戒《いまし》めを解《と》いて、大統領|令嬢《れいじょう》も無事《ぶじ》に保護《ほご》して、コダ革――『こだわりのある革命家《かくめいか》の集《つど》い』をきっちりと全員|拘束《こうそく》した。もちろんマオはその場のヒーロー――いやヒロインだったので、エスティスたちは惜《お》しみない賞賛《しょうさん》を彼女たちに送った。
「ただし、今度はもう少し穏《おだ》やかにやってくれ」
そう言ってエスティスは笑った。
それから、マオたちはダイクストラ議長に手短な尋問《じんもん》をした。
チンピラの彼らが、なぜASなんぞを三機も持っていたのか問い詰《つ》めたところ、議長はこう答えた。
「いや。私のハトコの友達が、キューバのカストロ議長でして。頼《たの》んでみたら、送ってくれたんですよ。ははは……」
「嘘《うそ》つけ、この!」
「本当ですってば。『どうせ中古だし、有効活用《ゆうこうかつよう》してくれ』と。ところがASという奴《やつ》は、やたらと維持費《いじひ》がかかりましてね。そこで資金《しきん》を稼《かせ》ぐために、大統領令嬢を……」
機体を隠《かく》していたのは、遺跡《いせき》の奥《おく》の神殿《しんでん》だったらしい。偵察《ていさつ》チームでも、調べようがなかった場所だ。
いくら脅《おど》してみても、ダイクストラは『カストロにもらった』としか言わないので、マオたちは尋問《じんもん》を打ち切った。案外《あんがい》、本当かもしれない。それに、どうせあとはベリーズ陸軍の仕事だ。
その後、マオは自分の部下たち――『チーム・トパーズ』の面々と、ようやく話すことができた。
ジマーは軽い怪我《けが》をしていたものの、無事だった。
「いやあ。死ぬかと思いましたよ」
そう言ってジマーは笑った。
「無茶苦茶《むちゃくちゃ》な作戦でしたがね。まったく、あんたたちは大した兵隊だ」
「ありがと。そのうち、あなたにもまた頼《たの》もうかしら」
「勘弁《かんべん》してください。私だって、もう若くないんだからね。はっは……」
次にウェーバーがやって来て言った。
「いやー、死ぬかと思ったぜ」
「なんでよ」
「狙撃《そげき》ポジションのすぐそばをさ、でっけーヘビがのたくってたんだ。ありゃあ、きっと毒《どく》ヘビだな。噛《か》まれなくてよかった」
「あ、そう……」
淡々《たんたん》と答えながらも、マオは意外に思い、同時に胸の中で笑っていた。ウェーバーのようなタイプの男なら、やって来るなり、自分の手柄《てがら》をさんざん自慢《じまん》するのではないかと思っていたのだ。
だが、そうではない。彼はあたしが思っていたより、ずっとまともな男なのだ。いや、それどころか――
(もしかしたら、照《て》れ屋なのかしら……?)
だとしたら、かわいいではないか。なんとなく、いままでのことも全部許せそうな気がしてくる。
「ま、うまくいって良かったよな。あんたも大したタマだよ」
ウェーバーは腕《うで》組《ぐ》みして、しきりにうんうんとうなずいた。
最後にサガラがASから降《お》りてくる。彼は青い顔をして、ぼそりと言った。
「死ぬかと思った」
「……そうなの? あたしには、そうは見えなかったけど」
「いえ……。奪《うば》ったASのコックピットが、臭《くさ》かったんです。前の操縦兵《オペレーター》の体臭《たいしゅう》がこもっていて……」
気分の悪そうなサガラの様子を見て、マオは思わず吹《ふ》き出してしまった。
ぶっきらぼうで、ロボットかなにかみたいな奴《やつ》だと思ってたけど――やっぱり、こういう普通《ふつう》のところはあるのだ。だとしたら、やっぱり、かわいい気がする。
「ともかく曹長《そうちょう》。あなたはいい下士官だ」
「へ? そ……そう?」
「あなたがいなければ、少佐たちは無事ではすまなかったでしょう。ああいう状況《じょうきょう》での決断力《けつだんりょく》は、簡単《かんたん》に身につくものではありません」
むっつり顔のまま、サガラは言った。あまりに起伏《きふく》のない喋《しゃべ》り方だったので、取りようによっては嫌味《いやみ》にさえ聞こえたが、そうではないことが、いまのマオにはなぜかわかった。
「…………。ありがと」
「では、失礼します。幸運を」
「達者《たっしゃ》でな、マオ姐さん[#「マオ姐さん」に傍点]。楽しかったぜ」
サガラが敬礼《けいれい》し、ウェーバーがにっと笑う。二人はなにやら雑談《ざつだん》をしながら、彼女の前から去っていった。
その背中が遠ざかっていくのが、マオにはなぜか切なく思えた。
「…………」
すこしたって、撤収《てっしゅう》の手はずを指示《しじ》し終えたエスティスが近付いてきた。
「曹長。おまえさんは夕方に、メリダ島へ帰る予定だったな」
「ええ」
「俺はこれから、捕虜《ほりょ》とマリア嬢《じょう》を連れて首都に向かわにゃならん。だから、ここでお別れだ」
「そうですか。では、お元気で。お世話になりました」
マオが言うと、エスティス少佐は渋《しぶ》い顔でうなり声をあげた。
「忘れちまったのか、おい? おまえさんは、訓練生の引き抜《ぬ》きに来たんだろうが」
「あ。そういえば……」
すっかり忘れてた。なにしろ、きのうの夕方からあまりにもバタバタしていたから、自分の本来《ほんらい》の仕事を忘れてしまっていたのだ。
「それで。連れてく二人は、決まってるのか? できればここで言っておいてくれ」
「うーん……」
マオは腕組《うでぐ》みした。徹底的《てっていてき》に悩《なや》むような素振《そぶ》りを見せ、ぶつぶつと言葉にならないなにかをつぶやいた。
だが、実際《じっさい》のところ、彼女の本心は決まっていた。
「それじゃあですね――」
「うむ」
「もしかしたら、向こうで反対されるかもしれませんけど。あたしとしては、この二人とやってみたいんです。ずっと待っていて、どうしても来なかった直感《ちょっかん》が、やっと来た感じでして。もしかしたら……この二人となら……あたしはチーム・リーダーをやっていけるかも。そう思った相手がいます」
長い前置きを聞いて、エスティスはにやりとした。
「つまり、そいつらに惚《ほ》れたわけだな?」
「ええ。たぶん、とても」
にっこりとして、彼女は肯定《こうてい》した。
「けっこう。で、そのクソうらやましい野郎《やろう》どもは、どいつだ?」
「ふふ……。その二人はですね――」
すこしもったいぶってから、マオは彼らの名を告げた。
[#地付き]<エンゲージ、シックス、セブン おわり>
[#改ページ]
あとがき
この本は月刊ドラゴンマガジン99[#「99」は縦中横]年10[#「10」は縦中横]月号、および00[#「00」は縦中横]年1月号から3月号までに掲載《けいさい》された連載《れんさい》短編《たんぺん》に加筆修正《かひつしゅうせい》し、さらに書き下ろし短編(中編?)一本を加えたものです。
なぜかニュー・レギュラーの椿《つばき》くんが登場する回は後回しになっていたり、連載分の掲載が四話分になっていたりしますが、いろいろと複雑《ふくざつ》で込み入った事情《じじょう》がありまして……次の短編集はいつも通りになるのではないかと思います。なにとぞ、ご了承《りょうしょう》ください。あと、勘《かん》ぐりたい方は勘ぐってください。でもたぶん、ハズレです。
さて。ともかくあとがきなわけですが。
前巻の『揺《ゆ》れるイントゥ・ザ・ブルー』のあとがきを、出版後に読み返したところ、さんざんのたうち回りました。『ぐはあ。なにを訳《わけ》のわからん事、連発《れんぱつ》してるんだ、こいつは。●チガイか!?』ってな調子《ちょうし》です。正気を失ってますな、あれは。かなりイってた私に、精神《せいしん》カウンセラーのごとく付き合ってくださった新城《しんじょう》センセ、改めてありがとうございました。あとJラップの方、ごめんなさい。ホントは嫌いじゃありません。たまたまそのときFMで流れてた●●●●●●●●の青二才な歌詞《かし》に、ムカついてただけです。たぶん、みなさんも納得《なっとく》していただけるんじゃないかと思います。
なんと申しましょうか、作品の方に全力|投球《とうきゅう》すると、どうもあとがきがおろそかになりがちでして。サービス不足《ぶそく》ですね。ごめんなさい。今度はがんばります。
では、さようなら!
……って、まだ一ページちょっとですね。ならば、例によって各話のコメントをば。
『磯《いそ》の香《かお》りのクックロビン』
本誌《ほんし》連載での、かなめがヨダレ垂《た》らしてる四季《しき》先生のイラストがお気に入りの一本です。連載時のイラストは単行本《たんこうぼん》とは違うので、そのとき限《かぎ》りのレアものがたくさんあります。再録《さいろく》の予定も今のところありませんので、連載版もゲット、ゲットー。単行本には載《の》ってない脇役《わきやく》さんたちの絵も、よく登場してますよー。たとえば阿久津《あくつ》万里《まり》とか東海林《しょうじ》未亜《みあ》とか西野《にしの》こずえとか(そんなマイナーキャラ、誰《だれ》が覚えとるんだ?)。
ちなみに『黒牛』というお酒は、私が以前にたまに出かけたマニアックな酒屋さんに教えてもらったものでして、ちょうどこの本の初版《しょはん》が出た季節《きせつ》がおいしいそうです。
『追憶《ついおく》のイノセント(前編・後編)』
短編では珍《めずら》しくシリアスなお話です。まあ、これ書いてた時期《じき》はあれこれと実験《じっけん》してたようなところがありまして。いかがなもんでしょうか。
なんとなく、昔《むかし》の私の気分《きぶん》が、林水《はやしみず》と日下部《くさかべ》の両方に表裏一体《ひょうりいったい》となって反映《はんえい》されてるような気がします。それだけに、わかりにくい感じかもしれなくて恐縮《きょうしゅく》なのですが。やはり異性《いせい》との出会いやら別れやらというのは、自分の価値観《かちかん》や人生観を揺《ゆ》さぶりまくるものなのだよなー、などと思ってみたり。そんなわけで、もしかしたらここを読んでるかもしれないあなたへ。林水の最後の台詞《せりふ》は、あなたに贈ります。
あ、キザすぎ。ごめんなさい。でもマジで。
『おとなのスニーキング・ミッション』
前の話がシリアスだったので、とりあえずバカなネタを一発。
なんか、しょーもない話ですが、男ってのはああいうモノなのではないかと。いや、そんなことねーか。あるか。瑞樹《みずき》のいうとおりか。そうでもないか。どーだろ?
とはいえ、かなめの言ってた『男性|車輛《しゃりょう》』『女性車輛』ってのは、なかなかいいアイデアだと思うんですが。女の人はチカンが回避《かいひ》できていいし、男の人は変に疑《うたが》われなくていいし。以前《いぜん》に満員電車《まんいんでんしゃ》に乗ってたら、隣《となり》にぴたりと密着《みっちゃく》してきたOL風の人が、なんにもしてないのに私を『きっ!』とにらんできました。あれは傷ついたなー、うんうん……。
あと、後藤《ごとう》の言ってた『小説家うんぬん』は、あくまで冗談《じょうだん》です。変に勘ぐらないように。よろしく。
『エンゲージ、シックス、セブン』
今回の書き下ろしは過去《かこ》のお話です。宗介、クルツ、マオが出会ったエピソードをコミカルタッチで。はからずもこの巻は、過去のエピソードが多くなりましたね。
実はフルメタのキャラの過去のエピソードは、あれこれとたくさんあったりするのですが、普段《ふだん》は話の流れが阻害《そがい》されるのであんまり描写《びょうしゃ》していません。宗介《そうすけ》とカリーニンが出会ったり別れたりした数年間とか、マオが海兵隊《かいへいたい》を不名誉除隊《ふめいよじょたい》になった事情とか、クルツがなぜ借金《しゃっきん》だらけなのかとか。テッサが|TDD《デ・タナン》に関わり、クルーに艦長《かんちょう》として認《みと》められるまでの経緯《けいい》とか、カリーニンが宗介にあんな無茶《むちゃ》な任務《にんむ》をやらせている真意《しんい》がわかる話とか、かなめの中学のころの暗黒《あんこく》時代の話とか、宗介の傭兵《ようへい》のころの暗黒時代の話とか。
いろいろあるんですが、どれもかなりシリアスなんですよね……。どうしたものやら。
ちなみに南米のベリーズは実在《じつざい》の国家《こっか》ですが、あんな変態《へんたい》ゲリラがいたり、あんな腰《こし》の低い大佐《たいさ》がいる変な国ではありません。ただ、この話を書いて『擬似現代《ぎじげんだい》が舞台《ぶたい》でも、なんか、けっこうファンタジーRPG的な単純《たんじゅん》な構図《こうず》はできるんだなー』って思いました。読者がよく知ってる日本が舞台だと、なかなかそうはいかないところですが。
あと、また私信《ししん》。この話を書くにあたって私を叱咤激励《しったげきれい》してくれた、あきくんに感謝《かんしゃ》。あんまりご主人のベッドから落ちないように。鋭意努力《えいいどりょく》せよ。
……と、こんなところでしょうか。それから、いつもあとがきで書こうとしながら、ついつい書けないでいたのですが――
ファンレターをくださった皆《みな》さん。お返事《へんじ》を送れなくてすみません。中には切手まで同封《どうふう》してくだきっている方までいらっしゃるのですが、現在《げんざい》、到底《とうてい》すべての方にお返事を書いているゆとりがない状態《じょうたい》でして。本当、ごめんなさい。でも全部読んでます。
いかに私のキャラを気に入ってくれたのか熱《あつ》く語ってくれたあなた。冷静《れいせい》に作品を分析《ぶんせき》してくれたあなた。感謝してます。あなたのおかげでやる気が出ました。
学校や進路《しんろ》、友人関係の悩《なや》みをうち明けてくれたあなた。あなたなら大丈夫《だいじょうぶ》。手紙を書くというのは、それだけで立派《りっぱ》な創作活動《そうさくかつどう》です。だれにでもできることではありません。慎重《しんちょう》に、注意深く、時には大胆《だいたん》に。撤退《てったい》も立派な戦術《せんじゅつ》です。私にはこれくらいしか言えませんが、どうにか辛《つら》いことを乗り越えてください。
あ。……なんか今回のあとがさは、妙《みょう》に辛気《しんき》くさくなってしまいました。外の天気が悪いからいけないんだー。雨だよ。とほほ。やな空模様《そらもよう》。
じゃあ景気《けいき》づけに、テッサ嬢《じょう》から伝言《でんごん》を。
テ『 さん。わたしもこの巻は全然《ぜんぜん》出番《でばん》がなくて、落ち込んでますけど……。でも元気出してくださいね。一緒《いっしょ》にがんばりましょう!』
……だ、そうです。空白にはあなたの名前を入れましょう。よかったな!
いてっ。石を投げないで。
最後に、例によってご迷惑《めいわく》をかけた方々、クールな才能《さいのう》を提供《ていきょう》してくれた方々に大感謝を捧《ささ》げます。ありがとうございました。
では、また。次回もかなめのハリセンがうなります。
[#地から2字上げ]二〇〇〇年五月 賀 東 招 二
[#改ページ]
初 出 月刊ドラゴンマガジン1999年10[#「10」は縦中横]月号、2000年1月号〜3月号
「エンゲージ、シックス、セブン」書き下ろし
底本:「フルメタル・パニック! 同情できない四面楚歌?」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2000(平成12)年06月25日初版発行
2001(平成13)年10月05日6版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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使用したWindows機種依存文字
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「T」……ローマ数字1、Unicode2160
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本174頁1行 非常《ひじょう》に優能《ゆうのう》だという
有能
底本258頁12行 熟練《じゅくち》していなければ
「じゅくれん」