フルメタル・パニック!
自慢にならない三冠王?
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)すれ違《ちが》いのホスティリティ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)猫《ねこ》と仔猫《こねこ》の|R&R《ロックン・ロール》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)事故[#「事故」に傍点]のあと、
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目 次
すれ違《ちが》いのホスティリティ
大迷惑《だいめいわく》のスーサイド
押《お》し売りのフェティッシュ
雄弁《ゆうべん》なポートレイト
暗闇《くらやみ》のペイシェント
猫《ねこ》と仔猫《こねこ》の|R&R《ロックン・ロール》
あとがき
[#改丁]
すれ違《ちが》いのホスティリティ
[#改ページ]
千鳥《ちどり》かなめは腕時計《うでどけい》をにらんでいた。
一二時二八分。文字盤《もじばん》の上を、ゆっくりと進んでいく秒針《びょうしん》。昼休みまであと一歩だが、まだ教室は授業中《じゅぎょうちゅう》だ。教壇《きょうだん》に立った現代国語の教師が、なぜかハイチの怪《あや》しい土俗宗教《どぞくしゅうきょう》について熱く語っている。
「――つまりブードゥーとは一つのライフスタイルであり、脈々《みゃくみゃく》と受け継《つ》がれてきた生活の知恵《ちえ》なのですね。いわゆるゾンビというのは、映画が作り出した虚像《きょぞう》にすぎず――」
つい三分前まで、夏目《なつめ》漱石《そうせき》の生涯《しょうがい》について話していたはずなのだが。
それがなぜ、ゾンビ?
(ったく。脱線《だっせん》するくらいなら、さっさと終わりにしろってのよね……)
殺気《さっき》だった目で教師をにらむが、彼は気付きもしない。
廊下《ろうか》から、ちらほらと話声や足音が聞こえてきた。早めに授業が終わったほかのクラスの連中だ。駆け出している奴《やつ》らもいる。
(くっ、まずいわ……)
かなめの整《ととの》った細面《ほそおもて》が、焦燥《しょうそう》にかげった。
学食がないこの陣代《じんだい》高校では、昼休みにパン屋が出張販売《しゅつちょうはんばい》に来る。駅前|商店街《しょうてんがい》の『ハナマルパン』である。
味はなかなかいい。ピザパンやコロッケパン、焼きそばロールなど、どれも及第点《きゅうだいてん》のうまさである。ただ一つ、大量に売れ残るコッペパンを除《のぞ》いては。
弁当《べんとう》のない生徒たちは、昼休みが終わるなりこの出張販売に殺到《さっとう》する。それこそゾンビのように。そしてその場に馳《は》せ参《さん》じるのがすこしでも遅《おく》れれば、悲惨《ひさん》な運命が待っているのだ。
売れ残ったコッペパン。
それだけはイヤだった。バターもジャムもなく、ただひたすら味気《あじけ》ない――コッペパン。貧《まず》しいランチタイム。想像《そうぞう》しただけで涙《なみだ》がこぼれそうになってくる。
(ああ……)
カスタードパンが食べたい。ほどよい甘《あま》さの、柔《やわ》らかい、舌《した》がとろけるようなカスタード。豊饒《ほうじょう》のランチタイム。想像しただけでよだれがこぼれそうになってくる。
だというのに、この教師は……!
「――このように、サム・ライミ監督《かんとく》というのはわけのわからん映画も撮《と》ってるのですね。私としては『クイック&デッド』などは、『必殺《ひっさつ》!』シリーズ的な馬鹿《ばか》っぽい殺しの演出が多発《たはつ》していて、非常《ひじょう》に好きなのですが――」
そこで四時間目|終了《しゅうりょう》のチャイムが鳴《な》った。
現国教師はぴたりと話すのをやめ、しばしの間、天井《てんじょう》を仰《あお》いだ。
かなめは指先で机《つくえ》をこつこつと叩《たた》く。ほか何名かの教室内の生徒も、椅子《いす》から腰《こし》を浮《う》かして、つま先をじりじりと動かしていた。
(はやく……)
「あー……ほかには……」
(さあ、はやく……!)
「ええと…」
(はやくって思ってるのが聞こえないの!?)
「ん、以上です」
相手が言い終わるか終わらないかのうちに、かなめは叫《さけ》んだ。
「起立《きりつ》!! 礼!!」
号令《ごうれい》した本人は礼さえせずに、教室の出口にすっ飛んでいく。廊下《ろうか》に出るなり猛《もう》ダッシュ。駆《か》け足の生徒を何人かごぼう抜《ぬ》きして、階段へと突進《とっしん》するが――
「く……っ!」
階段付近は体育の終わった生徒たちで混雑《こんざつ》していた。あんな人ごみをかきわけていたら、軽く一五秒はロスする。なんとか近道をしなければ……!
かなめは手近な窓《まど》をがらりと開けて、迷いもせずにそこから跳躍《ちょうやく》した。
「はっ!」
二階の窓から自転車置き場の屋根《やね》の上に飛び移《うつ》ると、ガンガンとけたたましい足音をたてて疾走《しっそう》する。下にいる男子生徒たちが、ぽかんと彼女を見上げていたが、問題ない。こんなこともあろうかと、すでにブルマーは装着《そうちゃく》済《ず》みだ。屋根の終わりでひらりと地面《じめん》に飛び降《お》りて、正面|玄関《げんかん》へとまっしぐら。角でぶつかりそうになった一年の女子を、驚異的《きょういてき》なフットワークで回避《かいひ》する。
(見えた……!)
正面玄関の脇《わき》で、『ハナマルパン』の出張販売が行われていた。出店はすでに飢《う》えた人垣《ひとがき》に包囲《ほうい》し尽《つ》くされ、いまなおその数は増殖《ぞうしょく》を続けている。
「おばちゃん、俺《おれ》、ウィンナーロールとピカチューパンね!」
「カレーパンとアンパンマン!」
「フレンチトーストと揚《あ》げパンをくれ!」
押し合いへし合い、怒号《どごう》が交錯《こうさく》する。まるで株価《かぶか》の大暴落《だいぼうらく》だ。
かなめは果敢《かかん》に五〇〇円玉を握《にぎ》り締《し》め、混乱《こんらん》のるつぼへと突入《とつにゅう》していった。どすん、とはげしい衝撃《しょうげき》が襲《おそ》う。しかし彼女はひるまない。人間の荒波《あらなみ》の中をもがくように前進し、熱気をかきわけ――力いっぱい叫《さけ》んだ。
「コロッケパンとカスタードパン!!」
ここで大事なのは気迫《きはく》である。すこしでも遠慮《えんりょ》のかげりがあろうものなら、パン屋のおばちゃんは見向きもしてくれない。
(届《とど》け、あたしの魂《たましい》の声……!!)
かなめにとっては永遠とさえ思えるような時間が過《す》ぎたあと――
「はいよ、二九〇円」
おばちゃんが応《こた》え、コロッケパンとカスタードパンを手早く袋《ふくろ》に入れはじめた。
貫《ぬ》けた、通った……!
かなめは安堵《あんど》して五〇〇円玉を手渡《てわた》し、お釣《つり》とパンを受け取る。会心《かいしん》の笑《え》みを浮かべながら、前と同じ苦労をして人ごみの外に出た。
「ふ……ふはは……。やった」
人心地《ひとごこち》ついてつぶやくと、目の前に同じクラスの相良《さがら》宗介《そうすけ》が立っていた。むっつり顔にへの字口。どこか考えあぐねたように、出張販売の人垣を遠巻きに眺《なが》めている。
「どしたの、ソースケ? あんたもパン?」
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かなめが声をかけると、宗介は腕組《うでぐ》みして、
「肯定《こうてい》だ。乾《ほ》し肉も野菜《やさい》も切らしてしまってな。しかし……この有《あ》り様《さま》では、とうていパンなど買えん」
戦場《せんじょう》育ちの宗介が尻込《しりご》みしている様子《ようす》を見て、かなめはからからと笑った。
「なーに言ってんのよ、あんたらしくもない。そんなトコでモタモタしてると、ホントに売り切れちゃうわよ?」
「それは困る」
「だったら突っ込めっ! ほらっ!」
かなめは宗介の背中をどん、と押《お》した。
「む……」
「でっかい声で注文しないと、あのおばちゃん、ずっとシカトだから。気迫《きはく》よ、気迫!」
「わかった。気迫だな」
うなずくと、彼は人ごみの最外郭《さいがいかく》まで歩いていった。背筋《せすじ》を伸《の》ばし、大きく息を吸《す》いこんで、声を張《は》り上げる。
「コッペパンをよこせっ!!」
「…………」
「コッペパンを要求《ようきゅう》するっ!」
「あのね、あんた。そのパンだったら――」
かなめがため息をついて口を挟《はさ》もうとすると、宗介は腰の後ろのホルスターから拳銃《けんじゅう》を引き抜いた。
「おとなしくコッペパンを出せ! さもなくば――射殺《しゃさつ》する!」
「ちょ……」
ぱかんっ!!
宗介が空に向かって威嚇射撃《いかくしゃげき》した。出店に群《むら》がっていた生徒たちが銃声《じゅうせい》に驚《おどろ》き、一斉《いっせい》に身をひるがえす。ぎゅうぎゅうに押し合っていた彼らのうち何人かが、だれかの足につまずいた。バランスを崩《くず》した何人かが、さらに何人かを強く押した。
連鎖反応《れんさはんのう》のように将棋倒《しょうぎだお》しが起きて――
「あ……」
どたたたっ! がらがら、ぐしゃっ!
パンを並《なら》べた机《つくえ》と、その向こう側《がわ》にいたおばちゃんが、十数人の生徒たちに押しつぶされた。
その日の放課後《ほうかご》、生徒会室で――
「――全治《ぜんち》二週間だそうだ」
生徒会長・林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》は言った。白の詰《つ》め襟《えり》。オールバックに真鍮《しんちゅう》フレームの眼鏡《めがね》。怜悧《れいり》な容貌《ようぼう》の青年である。
彼の執務机《しつむづくえ》の対面《たいめん》には、宗介とかなめがパイプ椅子《いす》に座《すわ》る。どちらもげっそりと疲れた顔だった。事故[#「事故」に傍点]のあと、かなめが散々《さんざん》に宗介を叱《しか》り飛ばしたせいである。
「二週間……ですか」
「うむ。応急処置《おうきゅうしょち》をした養護教諭《ようごきょうゆ》の話では、実際《じっさい》にはそう大げさな怪我《けが》でもないそうだが、パン屋側は『当分、出張販売を休業する』と言っている。遠回しな抗議《こうぎ》のつもりなのだろう」
「むう……」
かなめと宗介が同時にうなり、腕組みした。
「これは深刻《しんこく》な食糧《しょくりょう》問題だ」
林水は立ち上がると、背を向けて窓の外を眺《なが》めた。野球部と陸上部が練習にいそしんでいるグラウンドを見下ろして、
「信頼《しんらい》できる統計《とうけい》では、我《わ》が校の弁当|自給率《じきゅうりつ》は約八八パーセント。この数字にはコンビニ弁当の利用者も含《ふく》まれる。したがって、パンの出張販売に依存《いぞん》している一二〇名の生徒が飢えることになる。その結果は明らかだ。暴動《ぼうどう》と略奪《りゃくだつ》、人心《じんしん》の荒廃《こうはい》……校内の治安《ちあん》は一気《いっき》に低下《ていか》することだろう」
顔を曇《くも》らせうなずく宗介。その横でかなめは肩《かた》を落とす。
「あのー。陣高《うち》はアフリカの発展途上国《はってんとじょうこく》ですか……?」
「どこだろうと図式は同じだよ。倉廩実《そうりんみ》ちて則《すなわ》ち礼節《れいせつ》を知る。昼食抜きで殺気《さっき》立《だ》った生徒たちが、理性的に行動するとも思えん」
「でも、昼ごはんくらいでそこまで大騒《おおさわ》ぎする人なんて……」
生徒会長の目がきらりと光った。
「そうかね? しかし私は今日、パンを買うための近道に、自転車置き場の屋根を爆走《ばくそう》している女子生徒を見かけたのだが……」
「う……」
返答に詰《つ》まったかなめには一瞥《いちべつ》もくれず、林水は執務机《しつむづくえ》の引き出しに手をのばした。中から書類とメモを取り出し、
「そこで。校長と協議《きょうぎ》した結果、臨時《りんじ》に生徒会が食料の仕入れと販売を行うことになった。資本金《しほんきん》は正規の会計から出す。ついては、そのマネージャーを決めなければならないのだが……」
「あたしはイヤですよ」
さっそく身構《みがま》えると、宗介が眉間《みけん》のしわを一層《いっそう》深くした。
「千鳥。それは無責任《むせきにん》が過《す》ぎるのではないか? 事故《じこ》のいきさつを鑑《かんが》みると――やはりこれは俺《おれ》たちの役目だろう」
当たり前のように言う。かなめは『がたっ!』と立ち上がると、彼に躍《おど》りかかるやいなや、その首にスリーパー・ホールドをがっちりと極《き》めた。
「あ・ん・た! 一人のせいでしょうがっ!! あんた一人の!」
「うお……」
宗介の首を容赦《ようしゃ》なくギリギリと締《し》め付ける彼女を、林水は冷静に眺《なが》めながら、
「……しかし、千鳥くん。私は目撃者《もくげきしゃ》から、『千鳥が相良をけしかけた』と報告《ほうこく》を受けている。もし君が『自分には一切責任がない』と胸を張《は》り、身の潔白《けっぱく》を天に誓《ちか》えるのなら話は別だが……。どうなのだね?」
「うぅ……」
そう言われてしまうと、『絶対《ぜったい》に自分のせいではない』と言い切れなくなってしまった。宗介を制止《せいし》できなかった自分に、彼女も少しは負《お》い目を感じていたのだ。
彼女はスリーパー・ホールドをやめて、ぐったりとした宗介を放《ほう》ったまま、室内をウロウロした挙《あ》げ句《く》に、
「……わかりましたよ! やればいいんでしょ、やれば?」
「けっこう。書類はここだ。仕入れ先のリストもある。それではよろしく」
茶色いマニラ封筒《ぶうとう》を、林水が差し出した。
林水との相談が終わり、宗介とかなめは生徒会室を後にした。
「あー、もう、面倒《めんどう》くさ……」
「案ずることはない。仕事は俺がやっておこう。君は何もしなくていい」
飄々《ひょうひょう》と言う宗介を、かなめは横目でにらみつけた。
「ダメ。あんたに任《まか》せておいたら、ロクなことにはならないから」
「そんなことはないぞ」
「どうせクソまずい軍用食料とか、得体《えたい》のしれない変な干し肉くらいしか仕入れないつもりでしょ? 『安いから』とか言って」
「…………。なぜわかった?」
「わかるに決まってるでしょ。ったく」
宗介はおもむろに腕組みして、
「だが、野戦食《やせんしょく》がまずいと思うのは間違《まちが》いだぞ。特に米軍のMREレーションはなかなかのものだ。君にも食べさせたことがあるだろう」
以前のある昼休みに、かなめは彼が持ってきた米軍の野戦食を、興味《きょうみ》で食べたことがあったのだった。味は――ひどいものだった。
「あのブツ切りになったドロドロのツナ・ヌードル? あんなの、人間が食べるモンじゃないわよ。ビニール臭いし、歯ごたえも変だし。あんなモンばっか食ってるから、兵隊ってのは怒《おこ》りっぽくなって戦争するのよ」
「さすがに、それはないと思うが……」
「とにかく、パンの仕入れや販売はあたしが全部やるから、あんたは黙《だま》って見てなさい」
「む……」
二人がそんなやりとりをしていると――
「校長! 私は納得《なっとく》できませんぞっ!!」
廊下《ろうか》の角の向こうから、野太《のぶと》い男の声が聞こえてきた。すたすたと早足で歩く中年女性――校長の後に、大柄《おおがら》な教師が付き従っている。角刈り、ジャージ姿《すがた》で、年のころは三〇前後。
体育科の小暮《こぐれ》一郎《いちろう》教諭《きょうゆ》である。生活|指導《しどう》の担当《たんとう》でもあり、たいていの生徒から煙《けむ》たがられている人物だった。
「なにからなにまで生徒任せというのは、もはや『自主性の尊重《そんちょう》』とは呼びません。単なる野放《のばな》し、無法状態《むほうじょうたい》です!」
断固《だんこ》たる口調《くちょう》の小暮。一方の校長はしかめっ面《つら》で、
「いいではないですか、昼食の販売くらいなら……」
「いいえ! そもそも、事故《じこ》の原因は生徒側にあるのをお忘れですか? それを考えもせず、よりによって飲食物を生徒たちに売らせるなどとは……これは大問題ですぞ!」
「学園祭の延長《えんちょう》みたいなものですよ。そう目くじらをたてることはないでしょう」
「しかし――」
「これ以上話すことはありません!」
校長は『議論《ぎろん》はこれまでだ』とばかりに手を振《ふ》り、足早に校長室へと姿を消してしまった。小暮教諭は扉《とびら》の前に立ち尽《つ》くしたあと、なにか小声で悪態《あくたい》をついて――はじめてその場に宗介たちがいることに気付いた。
(なんか、こっちを見てるわよ。しかも怒ってる)
かなめがひそひそささやくと、宗介はむっつり顔のまま、
「そうなのか」
他人事《ひとごと》のようにつぶやく。その彼に、小暮が大股《おおまた》で近付いてきた。
「これはこれは、相良じゃないか。今日も元気そうだな。とても人ひとりを病院送りにした後には見えないぞ?」
目いっぱいの皮肉《ひにく》をこめて、小暮が言った。
「お褒《ほ》めにあずかり光栄《こうえい》です、先生」
「……だれも誉めたりなど、しとらん!」
「はっ、先生」
背筋《せすじ》を伸ばした宗介を、小暮は鬼《おに》のような形相《ぎょうそう》でにらみつけた。
「……ちょうどいい機会《きかい》だ。ここで言っておくぞ」
体育教師は人差し指で、宗介の胸を乱暴《らんぼう》に小突《こづ》いた。
「いいか、相良? おまえや林水のような生徒をのさばらせておくことが、私には我慢《がまん》ならんのだ。まったくおまえらときたら、そこらの不良生徒よりもタチが悪い。礼儀《れいぎ》正《ただ》しいフリをして、いつも腹の中では教師をバカにしとる。校長や職員会議の意向《いこう》には逆らえんが――私は私なりのやり方でプレッシャーを加えていくからな!」
「了解《りょうかい》しました」
宗介は直立|不動《ふどう》で応《こた》える。その反応がさらに神経を逆《さか》なでしたらしく、小暮は肩をぶるぶると震《ふる》わせた。
「と、とことん馬鹿《ばか》にしおって……! いまに見ておれよ!」
「はっ。いまに見ております」
「こ、このっ……!」
小暮はこめかみに血管を浮き立たせ、なにかを怒鳴《どな》ろうと口をぱくぱくさせた。けっきょく罵《ののし》り言葉が思い付かなかったらしく、きびすを返し、彼はその場をのしのしと立ち去っていく。
かなめはその後ろ姿を眺めながら、
「やーね。カルシウム不足かしら? 保健体育の先生なのに……」
「いや。小暮先生は|指 導 教 官《ドリル・インストラクター》としての責務《せきむ》を果たしているだけだ。あの激昂《げっこう》ぶり。さすがはプロだな」
これっぽっちの皮肉も交《まじ》えず、宗介は率直《そっちょく》な感想を漏《も》らした。かなめはその顔をしげしげとのぞきこんで、
「ひょっとしてあんた、実は他人の悪意にものすごい鈍感《どんかん》だったりしない……?」
「? なんの話だ?」
「いや、まあいいんだけど……。それにしても、とうとうソースケも小暮のオヤジににらまれたわけねぇ。こりゃ、大変だわ」
かなめは難《むずか》しい顔で腕組《うでぐ》みした。
「そうなのか」
「うん。気を付けた方がいいねよ。あの先生、かなり陰険《いんけん》なタイプだから。気に入らない生徒がいると体育の時間にナンクセつけて、『連帯責任《れんたいせきにん》だ!』とか言ってクラス全員に長距離走《ちょうきょりそう》させたりするの。もう最悪」
それを聞いて宗介は眉《まゆ》をひそめた。
「それのどこが悪いのだ。隊の一員の失態《しったい》は、全員で責任をとるのが常識《じょうしき》だろう」
「…………」
「クラスが一個の生物として機能《きのう》し、作戦目標を遂行《すいこう》できるように教育しているのだ、小暮先生は。立派《りっぱ》ではないか」
「……本人にそう言ってやったら? きっと感激《かんげき》するわよ」
あきれた声でかなめは言った。
体育教官室に戻《もど》った小暮教諭は、自分の椅子《いす》にどしっと腰を下ろした。
(まったく、気に入らん……)
この陣代高校に赴任《ふにん》してから二年。
いまだに小暮一郎は、この学校ののんびりとした校風に馴染《なじ》めずにいた。
彼が目の仇《かたき》にしているいくつかの事柄《ことがら》――飲酒や喫煙《きつえん》、服装の乱れ、公共物の破損《はそん》など――そうした真似《まね》をする生徒がいたとしても、それらをある程度《ていど》容認《ようにん》してしまうムードが、この学校にはあるのだ。
小暮一郎の音頭《おんど》取《と》りではじまった朝の持ち物検査も、ほかの教師たちの熱意《ねつい》がなくて、いつのまにやら雲散霧消《うんさんむしょう》してしまった。
だからといって、著《いちじる》しく風紀《ふうき》が乱れるわけでもない。学区内でやや高めのランクなせいか――入学してくる生徒たちも、比較的《ひかくてき》におっとりしている。
喫煙くらいはする者もいるが、薬物なんぞに手を出す者はまずいない。その危険性《きけんせい》を理解《りかい》するだけの頭があるし、手を出すほどの悩《なや》みもないからだ。
だれかが問題を起こしても、みんなの反応はだいたい決まっている。
――『またあいつか?』、『仕方《しかた》がないなあ』、『まあ、いいか』。
たいていこれで納得《なっとく》してしまうのである。教師も生徒も。変な学校である。
その校風。小暮一郎のような教師はたいして必要とされない世界。
そうしたイメージを具現化《ぐげんか》した存在こそが、相良宗介だった。あれだけ問題を起こしているのに、なぜこの学校の連中は奴《やつ》の存在が我慢《がまん》できるのか? 自分はぜったい、我慢できないのに。おかしいではないか。
そんなこんなで、小暮一郎は宗介がひどく気に入らないのだった。
不機嫌顔《ふきげんがお》で缶《かん》コーヒーをすすっていた小暮に、同僚《どうりょう》の教師が声をかけた。
「聞きましたか、小暮先生?」
「なにをです」
「明日からのパンの販売、あの相良がやることになったそうですよ。まあ、千鳥くんも付いてくれるそうですけど。また問題を起こさないといいんですがねぇ……」
「ほう……」
それは初耳だった。自分が猛反対《もうはんたい》していた、生徒によるパン販売を、相良宗介が担当するとは。これはますますもって――
(気に入らん……!)
なんとか邪魔《じゃま》してやりたい。表立《おもてだ》った妨害《ぼうがい》とまではいかなくとも、なんらかの嫌《いや》がらせくらいはしてやりたい。校長に咎《とが》められないような方法で。
「…………」
彼はしばらく沈思黙考《ちんしもっこう》してから、なにかぴんと閃《ひらめ》いたように手を打って、陰険な声で小さく笑った。
翌日《よくじつ》。二時間目と三時間目に挟《はさ》まれた、ちょっと長めの休み時間。
校舎の玄関前まで入ってきた軽トラックから、オレンジ色のケースが次々に積《つ》み下ろされる。運転手のパン屋と宗介が、ひょいひょいと力仕事をしている横には、クリップボードを握《にぎ》ったかなめの姿。
彼女はケースの中にずらりと並《なら》んだパンを、ざっと数えてから注文書の写しにチェックを入れていく。積《つ》み下ろしが終わると、かなめは難《むずか》しい顔でパン屋の青年に質問《しつもん》した。
「……焼きそばロールが一二コ足《た》りなくて、代わりにグラタンロールが一二コ多いみたいだけど?」
青年はぽりぽりと後頭部を掻《か》いて、
「あー。それはね、ちょっと手違いがありまして。価格《かかく》は同じですから、今日はそれでガマンしてもらいたいんですが」
「ふむ……。まあ、いいでしょ。急な発注を強引《ごういん》に引き受けさせたのはこっちだし。でも明日からは注文通りにお願いしますよ」
「そりゃあ、もう」
パン屋の青年はもみ手すり手でニコニコすると、軽トラックに乗って学校を出ていった。
「コッペパンがない」
ケースの中をのぞきこんで、宗介が言った。
「頼《たの》まなかったのよ。ほかにも人気のないパンはおしなべて少なめに。売れ残ると大変だから」
「そうか……」
かなめは、どことなく無念《むねん》そうな宗介の様子《ようす》を見て、
「もしかして、食べたかったの? コッペパン」
「いや」
宗介は素知《そし》らぬ顔で彼女に背を向け、生徒会室から持って来た防水《ぼうすい》シートを取り出した。洗濯機《せんたくき》ほどのサイズに積まれたケースの山に、がさがさとシートを被《かぶ》せて重りをのせる。
「これでよし。あとは昼休みに売るだけね」
かなめがぱんぱんと手をはたく。
「俺たちだけで販売するのか?」
「まさか。何人かに手伝いを頼んであるから。優先的に買える特典《とくてん》を付けたら、すぐ引き受けてくれたわよ」
クリップボードを小脇《こわき》に挟んで、彼女はとことこと教室に戻っていった。
しっかりしたものだ、と宗介は思った。手際《てぎわ》もいいし、そつもない。かなめが生徒会の副会長や学級委員を任《まか》されるのには、それなりに理由がある、ということか。
これでは自分がすることなど、なにもない。ただの役立たずだ。
(いや……)
彼は考え直すと、シートを被せて放置《ほうち》したままのケースを凝視《ぎょうし》した。
「三人一組でパスの練習! 一〇分やったら練習試合をはじめろ!」
四時間目の授業がはじまり、準備体操《じゅんびたいそう》が終わると、小暮教諭は生徒たちに告《つ》げた。ジャージ姿の男子たちが、好き勝手に散《ち》らばってサッカーボールを蹴《け》りはじめる。
「ちょっと用がある。すぐ戻るからな」
小暮はそばの生徒に言ってから、グラウンドを後にした。体育教官室に立ち寄《よ》って、自分の机《つくえ》の引き出しから、小さなビニール袋を取り出す。
「小暮先生、お探し物ですか?」
「いえ。ちょっと」
非番《ひばん》の同僚《どうりょう》の視線《しせん》を避《さ》けるように、ジャージのポケットに袋《ふくろ》を押《お》し込み、小暮は正面玄関へと向かった。授業中なので、あたりに人気《ひとけ》はまったくない。
その玄関の片隅《かたすみ》に、防水シートをかぶったケースがあった。宗介たちが仕入れたパンだ。
小暮はほくそ笑んだ。まったく、こんな場所に放置するとは、不用心《ぶようじん》にもほどがあるではないか……。
(ひとつ、教訓《きょうくん》を与《あた》えてやらんとな……)
持ってきたビニール袋の中身を確認《かくにん》すると、思わず邪悪《じゃあく》な笑い声がこぼれた。
昆虫《こんちゅう》の脚。それがおおよそ三〇本ほど。
実際《じっさい》にはペットショップで購入《こうにゅう》した、鳥の餌用《えさよう》のイナゴの脚だったが――ゴキブリの脚にそっくりである。
これをパンの中に混《ま》ぜておけば、たちまち悪評《あくひょう》が流れることだろう。宗介たちは非難《ひなん》され、パンはまったく売れなくなって、生徒会の予算も大打撃《だいだげき》。宗介はもちろん、あの鼻持ちならない林水の面子《めんつ》も丸つぶれだ。
「くっくっく……」
脚入りのパンを食べる生徒や、パンの製造業者《せいぞうぎょうしゃ》には気の毒《どく》だが、運が悪かったと諦《あきら》めてもらうしかない。ヒ素やら青酸《せいさん》やらを混ぜないだけ、感謝《かんしゃ》して欲しいくらいだ。
まさしくテロリストの発想《はっそう》であった。
「見ておれよ、相良め……」
小暮一郎は意気込《いきご》むと、ケースにかかった防水シートを手荒《てあら》に引き剥《は》がした。
四時間目が終わる五分前になると、宗介とかなめはその授業の担当教師に許可《きょか》を得て、早めに教室を出ていった。
「さーて、これからが大変よ。なにしろ一〇〇人以上が押しかけてくるわけなんだから」
エプロン片手にかなめが言った。
「俺はなにをすればいい?」
「黙《だま》って立ってて。だいいち、あんたパンの種類と名前、わかってないでしょ」
「むう……」
二人が正面玄関に出ると、すでに何人かの女子生徒がパンのケースの前に集まっていた。かなめが頼んだ手伝いの売り子だ。かなめが貸《か》しを作っておいた運動系クラブの生徒や、生徒会の後輩《こうはい》。持参《じさん》したエプロンをかけると、なかなか華《はな》やかでかわいらしい。
防水シートは、すでにはがしてあった。売り子の一人が、パンの詰《つ》まったケースに手を付けようとしているのを見て――
「触《さわ》るなっ!」
宗介が鋭《するど》く叫《さけ》んだ。その女子生徒は、肩をびくりと震《ふる》わせて手を止める。
「え、なに……!?」
「どしたの、ソースケ?」
「いや。誰《だれ》かがパンを盗《ぬす》むかもしれんと思ってな。ケースの取っ手に罠《わな》をしかけておいたのだ」
宗介はケースの裏に置いてあった自動車のバッテリーに手をのばし、クリップ付きのコードを外《はず》した。そのとなりの小型|変圧器《へんあつき》――物理室《ぶつりしつ》からでも調達《ちょうたつ》してきたのだろう――を突《つ》ついてみせて、
「高圧電流《こうあつでんりゅう》が流れて、獲物《えもの》を気絶《きぜつ》させる仕組《しく》みだ。アンペア数が高いので、引っかかれば失神《しっしん》するだけでは済《す》まん。意識《いしき》を回復した後も、頭痛や嘔吐《おうと》、動悸《どうき》や息切れ、倦怠感《けんたいかん》などの諸症状《しょしょうじょう》が――」
「あんたね……」
かなめがどこからかハリセンを取り出し、宗介の頭をはたき倒《たお》そうとしたところで。
「しっかり、小暮先生……!」
「いまタクシーが来ますからね。はやく病院に――」
一同のすぐそばを、数人の教師が通りかかった。青ざめ、ぐったりとした小暮教諭を、二人の体育教師が両脇《りょうわき》から支えている。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか、先生」
宗介が声をかけると、小暮はうつろな目で彼を見て、
「う……きさま……」
それだけ言うと、がっくりと首を折り、そのまま同僚《どうりょう》たちに正門まで運ばれていった。
かなめと宗介はその様子《ようす》を見送ってから、
「立ちくらみかしら? きっとビタミンも不足してるのね……」
「頻繁《ひんぱん》に怒鳴《どな》る過酷《かこく》な職務《しょくむ》だからな。過労《かろう》かもしれん。気の毒に」
口々にコメントして、パンを売る仕度《したく》に取りかかった。会議室から借りてきた長机の上に、ケースをずらりと並《なら》べ、小銭《こぜに》やビニール袋などの小物を用意する。
「言い忘れてたけどね。明日っからは、あんなモノしかけちゃダメよ」
「電気トラップのことか。しかし――」
「ダメって言ったらダメ!」
「…………。わかった」
チャイムが鳴り、やがて生徒が押しかけた。
すばらしいことに、パンはとどこおりなく順調《じゅんちょう》に売れ、その味も好評《こうひょう》だった。
その翌日《よくじつ》。
高圧電流のダメージも完全に癒《い》えず、ふらふらになりながら出勤《しゅっきん》してきた小暮は、なんとか三時間目までの授業を消化《しょうか》した。
体育教官室の自分の机に突《つ》っ伏《ぷ》して、げっそりとした声をもらす。
「ぬう……」
まさか、あんな悪質な罠がしかけてあるとは。なんと卑劣《ひれつ》な男だろう……!? 自分はただ、虫の脚をパンに混ぜてやろうとしただけなのに……!
四時間目開始のチャイムが鳴ると、同僚の体育教師たちは教官室を出ていった。小暮はこの日、この時間は休みである。
校内が静まり返ってから二〇分ほど待ち、彼は重たげに立ち上がった。用意しておいた紙袋を持って、正面玄関へと向かう。
きのうと同様、二時間目の後に運び込まれたパンのケースが、防水シートを被って放置してあった。
「相良め……今日は違うぞ」
つぶやくと、小暮は紙袋から二枚重ねのゴム手袋を取り出し、両手に装着《そうちゃく》した。絶縁体《ぜつえんたい》で防護《ぼうご》すれば、電気の罠など物の数ではない。これでパンに細工《さいく》ができる。
彼はポケットから取り出した小瓶《こびん》の中身を確認《かくにん》した。
白い粉末《ふんまつ》。下剤《げざい》の錠剤《じょうざい》を砕《くだ》いたものである。虫の脚など生《なま》ぬるい、と考え直して用意したのだ。
これを食らえば、腹《はら》をくだした生徒たちが騒《さわ》ぎたて、ほとんど食中毒に近い騒ぎになるはずだ。生徒会への校長の信用は失墜《しっつい》し、宗介たちもさぞや肩身《かたみ》の狭《せま》い思いをすることだろう。
「ふふ。覚悟《かくご》しろよ……」
陰湿《いんしつ》に笑うと、小暮はケースにかかった防水シートを引き剥《は》がした。
またも四時間目が終わる五分前、宗介とかなめは担当教師に断《こと》わりを入れ、早めに教室を出ていった。
その数学教師はいい顔をしなかったが、結局は『行きなさい』と言ってくれた。職員会議かなにかで、校長からのお墨付《すみつ》きが出たおかげだ。
「さあ、今日もじゃんじゃん売るわよ!」
かなめが威勢《いせい》のいい声を出す。仕事を押し付けられたときは、ひどく消極的《しょうきょくてき》だったのだが、いまはやる気|充分《じゅうぶん》、といった調子《ちょうし》だ。
「楽しそうだな」
「ん? そーね。けっこう向いてるのかな、こういう仕事」
正面玄関まで来ると、今日はまだだれも来ていなかった。二人が一番乗りだ。
「む……」
ケースにかけてあったはずの防水シートがはがれているのを見て、宗介が眉《まゆ》をひそめた。その様子に気付いたかなめが、
「どしたの? あ……シートが。風で飛んだのかな」
「わからん。盗難《とうなん》はされてないようだが」
言いながら、宗介はケースの一番上の段に取り付けてあった、濃緑色《のうりょくしょく》の小さなボンベを手に取った。
「なによ、これ」
「高圧電流を禁《きん》じられたので、別の罠をしかけておいたのだ」
「…………」
「防水シートをはがすと、このボンベから催涙《さいるい》ガスが一定の量、噴《ふ》き出すように細工しておいた。アダムサイトやDMなどと呼ばれる擾乱剤《じょうらんざい》だ。目や鼻、喉《のど》に激《はげ》しい痛みを与え、さらには呼吸困難《こきゅうこんなん》、頭痛や吐き気などの症状《しょうじょう》を――」
「あんたね……」
かなめがどこからかハリセンを取り出し、宗介の頭をはたき倒そうとすると。
「しっかり、小暮先生……!」
「もうすぐタクシーが来ます。安心してくださいね……!」
二人の同僚に引きずられるようにして、小暮教諭が彼らのそばを通りかかった。目と鼻を真《ま》っ赤《か》に腫《は》らし、涙《なみだ》と鼻水で顔をくしゃくしゃにして、今日もぐったりしている。
「先生。どうしましたか」
宗介が声をかけると、小暮は苦しげに顔をあげて、
「お、おのれ……」
それだけ言うと、がっくりとうなだれ、ずるずると正門へ運ばれていった。
二人はそれを見送ってから、それぞれ感想を述《の》べた。
「花粉症《かふんしょう》かしら? 重症の人って、大変らしいのよねぇ……」
「アレルギー性|鼻炎《びえん》の一種だな。持病《じびょう》をおして出勤してくるとは……やはり小暮先生は立派《りっぱ》だ」
気を取り直して、いそいそと店を広げにかかる。手伝いの生徒たちもやって来て、それぞれ仕度《したく》をはじめた。
かなめはエプロンを着けながら、
「……あ、そうそう。明日からは、そのアダムなんとかってのも禁止よ。電気とかガスとか、そーいうのを仕掛《しか》けるのはやめなさい」
宗介は眉間《みけん》にしわを寄せた。
「しかし、盗難防止《とうなんぼうし》を考えれば――」
「ダメだって言ってるでしょ。とにかく、罠の類《たぐ》いは一切《いっさい》、ダメ!」
「…………。わかった」
そこまで言うなら仕方がない。もう罠を仕掛けるのはやめよう、と宗介は思った。
ほどなく昼休みがはじまり、腹を空《す》かせた生徒たちが、わっと押し寄せる。
その日もパンは順調《じゅんちょう》に売れて、クレームの類いは一切なかった。
さらにその翌日。
ほとんど一晩中《ひとばんじゅう》、頭痛やら咳《せき》やらに悩まされた小暮教諭は、げっそりした顔で学校に出勤することになった。
(相良め……!)
電気の次は催涙ガス。なんと陰湿《いんしつ》な……なんとたちの悪い男なのだろう……? 被害者《ひがいしゃ》の気持ちを考えたことがあるのだろうか!? 自分はただ、生徒たちのパンに下剤を仕込《しこ》もうとしただけなのに……!
(もう許さんぞ……絶対に許さん!)
などと、小暮一郎は身勝手《みがって》な復讐心《ふくしゅうしん》に燃えるのだった。
四時間目の授業が始まると、彼は担当のクラスの生徒たちに怒鳴《どな》りつけた。
「校庭を二〇周! サボる奴がいたら、さらに一〇周追加だ!」
悲鳴に近い声を背にして、小暮はグラウンドを後にした。体育教官室に寄って、自分のバッグを携《たずさ》えて、パンの待つ正面玄関へと向かう。
彼は二枚重ねのゴム手袋を着け、防毒用のガスマスクを装着した。きのうの夕方、無理《むり》をおして街《まち》のミリタリー店まで出かけて買った品である。
(さらに……!)
ほかの罠に備《そな》えて、ついでに買ってきた防弾ベストとヘルメットを着ける。対閃光用《たいせんこうよう》のサングラスまでかける念《ねん》の入れようだ。これならば、爆弾《ばくだん》でも仕掛けてない限りは、まず問題ない。
(ふふっ……完璧《かんぺき》だ……!)
完全|防備《ぼうび》で身を固めた小暮は、紙袋から弾薬[#「弾薬」に傍点]を取り出した。
裁縫用《さいほうよう》の針《はり》を二〇本。もうこうなったら、これくらいの打撃《だげき》は与えてやらねば気が済まない。かてて加えて、きのう、おとといと使えなかった虫の脚と下剤も用意する。
「全部! ブチ込んでくれるわ……!」
ほとんど病的な声でつぶやくと、無造作《むぞうさ》に防水シートを引き剥がす。
罠はなかった。
続いて一番上のケースの蓋《ふた》を外す。
ここにも、罠はなかった。
無防備《むぼうび》なまま、カスタードパンがその姿をさらしている。
(はて……?)
すこし拍子《ひょうし》抜《ぬ》けしながらも、小暮は裁縫針《さいほうばり》を一本、手にとった。一度、ごくりと唾《つば》を飲み込んでから、カスタードパンの一つに針をぶすりと突き立て押し込む。
問題なし。成功《せいこう》だ。
心地《ここち》よい達成感《たっせいかん》が彼の心に押し寄せた。暗い情熱が胸を焦《こ》がす。
(どうだ、相良……!? 貴様はこれで、おしまいだ!)
もはや自分が見えていない。哄笑《こうしょう》をあげ、さらにもう一本。その隣《となり》にも、もう一本。
「ふははっ……食らえ!」
「もしもし」
「このっ、このっ! どうだっ!?」
「ちょっと」
「思い知ったか! 食ら……え?」
ふと顔を上げると、すぐそばにスーツ姿の中年女性が立っていた。
校長である。
彼女は青ざめた顔で、目を丸くし、まっすぐに小暮を凝視《ぎょうし》していた。
「……小暮先生。あなた、いったいなにをしてるんです……!?」
「は? あの。いえ、その……」
彼はもっともらしい、正当な事情をひねり出そうと、必死に頭を絞《しぼ》った。
しかし。
ゴム手袋とガスマスク、防弾《ぼうだん》ベストとヘルメットを着け、一心不乱《いっしんふらん》で生徒たちのパンに裁縫針を押し込んでいた男の事情――
そんなものが、あるわけなかった。
ハナマルパンが出張販売に復帰《ふっき》したのは、かなめたちがパンの販売をはじめてから一〇日後のことだった。
その間、かなめと宗介は、つつがなくパンを売り続け、いくばくかの利潤《りじゅん》を生み出すことにさえ成功した。四日目からは宗介も仕事を覚え、かなめの負担《ふたん》も軽減《けいげん》された。
「いやまったく!」
出張販売が再開した日の昼休み。かなめが大変な上機嫌《じょうきげん》で言った。
「今回は無難《ぶなん》に終わったわねぇ。ソースケがパンを吹き飛ばしたりするんじゃないかって、最初は心配してたけど。よかった、よかった!」
「まったくだ。俺も安全面以外で貢献《こうけん》できて満足している」
宗介はこくこくとうなずく。
そのおり、教室にクラスメイトの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が駆《か》け込んできた。
「ねえねえ、ニュースニュース!」
「どしたの?」
「小暮先生、先週からずっと休んでたでしょ? それがね、このまま休職《きゅうしょく》するんだって!」
知らせを聞いて、二人は顔を見あわせた。
「やっぱり、病気かしら」
「おそらくは……。先週もひどく体調を崩していたようだからな」
「こわいわねぇ……」
「残念《ざんねん》だ。立派な先生だったのだが……」
宗介は珍《めずら》しくしんみりつぶやいて、手にしたコッペパンをぱくりとかじった。
[#地付き]<すれ違いのホスティリティ おわり>
[#改丁]
大迷惑《だいめいわく》のスーサイド
[#改ページ]
放課後《ほうかご》のグラウンド。
野球のバッターボックスに、相良《さがら》宗介《そうすけ》が突《つ》っ立っている。
むっつり顔にへの字口。詰《つ》め襟《えり》を脱《ぬ》いだ、ワイシャツ姿《すがた》だ。なぜか彼はバットを持たず、そばにはキャッチャーもいない。
宗介が厳《きび》しい目を向けるマウンド上には、同じクラスの男子生徒、小野寺《おのでら》孝太郎《こうたろう》が立つ。スポーツ刈《が》りに、がっしりとした体つき。こちらもなぜかミットは持たず、両手に山ほどのボールを抱えている。
「おー。行くぞ、相良ぁ!」
「いつでも来い」
宗介が応《おう》じる。小野寺は一度、大きく息を吸《す》い込んでから、両手いっぱいの軟球《なんきゅう》を、まとめて空高く放《ほう》り投げた。
瞬転《しゅんてん》――
宗介は腰《こし》の後ろのホルスターから、黒い自動拳銃《じどうけんじゅう》を引き抜《ぬ》き、小野寺の頭上に銃口《じゅうこう》を向けた。
照準《しょうじゅん》。放物線《ほうぶつせん》の頂点《ちょうてん》にさしかかった六つのボールめがけて――
たん、たたたんっ! たたんっ!
銃弾《じゅうだん》に射抜《いぬ》かれ、すべてのボールが空中ではじけた。四散《しさん》したゴムが、ばらばらと地面に降《ふ》りそそぐ。それを見ていた八名あまりの男子生徒たちが、一斉《いっせい》に嘆声《たんせい》をあげた。
「おお〜〜。スゲえ!」
「全部だぞ、全部っ!?」
「オレの勝ちだ。よこせ、三〇〇円」
「くそっ……一コくらい外《はず》せよなっ!」
盛り上がる生徒たち。マウンドを降《お》りてきた小野寺が、しきりにうなずいて宗介の銃を見た。
「しっかし、すごい威力《いりょく》だな。どういう改造《かいぞう》してるんだ?」
「レーザー・サイトは内蔵《ないぞう》しているが、いまは使わなかった。ほかは摩耗《まもう》した部品を交換《こうかん》しただけだ」
淡々《たんたん》と答えて、宗介は銃をしまった。
宗介の拳銃はオーストリア製《せい》の9ミリ・オートで、『グロック19[#「19」は縦中横]』という。プラスティック製フレーム拳銃の先駆《さきが》けとなった、その筋《すじ》では有名《ゆうめい》な『グロック17[#「17」は縦中横]』を短くしたバージョンだ。
短いぶん、持ち歩くには都合《つごう》がいいが――特別《とくべつ》に精度《せいど》がいいわけでも、威力《いりょく》があるわけでもない。ほとんどカスタムもしていない、平凡《へいぼん》な量産品《りょうさんひん》だ。市販《しはん》されている超小型《ちょうこがた》のレーザー照準器《しょうじゅんき》(日本でも入手は容易《ようい》である)を仕込《しこ》んであるが、実際《じっさい》に撃《う》つときは使わない。レーザー照準器は、別の目的で使うのだ。
「俺も欲しいなー。それ、いくら?」
「おおよそ一〇万円といったところか」
「高いなぁ……本物みたいじゃん。やっぱ、いらねえや」
宗介が海外の戦場で育ち、平和な日本での常識《じょうしき》がまるでないことは、よく知られていた。しかし、いまだにほとんどの生徒たちは、宗介の銃を改造《かいぞう》モデルガンの類《たぐ》いだと思い込んでいる。
「ねえ、みんな。遊んでばっかりいないで、もうちょっと練習とかしようよ」
風間《かざま》信二《しんじ》が、あきれたように言った。小柄《こがら》でおとなしい容貌《ようぼう》の少年だ。
「せっかくグラウンド借りてるのに。球技《きゅうぎ》大会まであと二日なんだよ?」
球技大会。
あさってに催《もよお》される、陣代《じんだい》高校の行事《ぎょうじ》の一つである。その練習のためにここ数日、体育系《たいいくけい》クラブはグラウンドや体育館《たいいくかん》を、一般《いっぱん》生徒に譲《ゆず》っているのだった。
盛り上がっているクラスもあれば、まるでやる気のないクラスもある。宗介や小野寺、風間たちは、『野球部門(男子)』に出場する二年四組の代表チームであり――熱意《ねつい》がゼロの集団だった。
「でもなぁ……」
「練習なんて、タルいじゃん」
「そうそう。一回戦でとっとと負けて、あとは屋上《おくじょう》でウノでもやってようよ」
「だいたい風間。おめーが一番ヘタクソなんだろーが」
口々に言うクラスメイトたち。信二がうろたえ、助けを求めるように小野寺を見ると、彼は肩をすくめるだけだった。
「まあ仕方《しかた》ないさ。一回戦から、野球部員の多い七組と当たるんだからなぁ……。練習しても無駄《むだ》だって」
「まあ、そうかもしれないけど……」
「その点、うちの女子は違《ちが》うよな。なあ、相良?」
「そのようだ」
宗介は答えて、グラウンドの向こうの体育館に目を向けた。
「千鳥《ちどり》はやる気になっている」
その体育館《たいいくかん》で――
体操服姿《たいそうふくすがた》の千鳥かなめは、チームメイトと激《はげ》しい特訓《とっくん》を繰《く》り広げていた。
リボンで結《ゆ》わえた長い黒髪《くろかみ》を振《ふ》り乱《みだ》し、かなめは鋭《するど》く叫《さけ》ぶ。
「はい! そこでバック・チェンジするように見せかけ、いきなり猫《ねこ》だまし! ボールはぽとりと後ろに落として、ころころ〜っと!」
バスケットボールのコートの中で、かなめを含《ふく》めた五人の女子生徒が、ダンスのように走り回る。動きは激しい。だが、同時に妙《みょう》でもある。
見えない敵をあざ笑うようにステップしたり、相手チームの短パンをひきずり下ろす真似《まね》をしたり。いきなりボールをシャツの中にねじ込んで、身重《みおも》な妊婦《にんぷ》の真似をしたり。
はた目には、真面目《まじめ》に練習しているようには見えないのだ。
「よしよし、いいわよ……。あたしがパスを受け取ったら、無意味《むいみ》だけどカッコいい、クロスオーバー・ドリブルをこうやってキメるから――」
などと説明《せつめい》しながら、彼女はボールを何度も股下《またした》に潜《くぐ》り抜《ぬ》けさせる、激しいドリブルをやってみせる。
どこどこどこどこどこっ!
体育館にボールの跳《は》ねる音が響《ひび》き渡《わた》った。
「観客《かんきゃく》や相手チームが、あたしのテクに見とれながらも、だんだんと飽《あ》きてきた頃合《ころあい》をみてね? そこでキョーコが予備《よび》のボールを持ってきて――」
チームの一人の常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が、コートの外に置いてあったボールを拾《ひろ》ってかなめに近付いてくる。
「後ろから、ボールをあたしに『ばしっ!』とぶつける!」
「えいっ」
言われた通りに、恭子はかなめのお尻にボールを投げつけた。ぽてっ、とボールがぶつかって、力なくころころと転がっていく。
そのまま棒立《ぼうだ》ちした彼女を見て、かなめはドリブルをやめ、前髪《まえがみ》をくしゃくしゃと掻《か》いた。まるで芸術家肌《げいじゅつかはだ》の映画|監督《かんとく》みたいに。
「ちがーう!! そこは……ツッコミなのよ、ツッコミ! もっとはげしく、悪意をこめて投げる! そのあとに、こう、できるだけ……ひょうきんな(死語《しご》)リアクションを見せて!」
「どんな?」
「なんてのか、『えーん、ミスっちゃった』とか、『ごめんね、テヘH[#「H」はハート(白)、1-6-29、Unicode2661]』とか、そういう感じの仕草《しぐさ》!」
「うわ。それは……なんか、痛すぎるよ」
恭子が露骨《ろこつ》にイヤそうな顔をする。
「この場合のキョーコのキャラ立ちは『かわいこぶりっ子(古代精霊語《こだいせいれいご》)』でいいのっ! そうした方が、一部の観客《かんきゃく》にアピールできるんだからっ! 自分の姿を鏡《かがみ》で見なさい、鏡で!」
あまりにもあまりな言い草だったが、恭子は怒《おこ》った様子《ようす》も見せず、自分のおさげ髪と、愛敬《あいきょう》たっぷりの丸メガネを両手で触《さわ》った。
「うー……。そのノリはわかるような気もするけど。……でも、なんで球技大会でそこまでしなくちゃならないの? 普通《ふつう》にやっても勝てるのに」
かなめはもちろん、ほかの面子《めんつ》も運動の得意《とくい》な者が揃《そろ》っている(恭子だけは並《なみ》だが)。ありていにいって、かなめのチームは今回の優勝候補《ゆうしょうこうほ》でさえあるのだ。
恭子の疑問《ぎもん》に、かなめは『ムキーッ』となって、ぶんぶん湯気《ゆげ》を噴《ふ》き出して、
「だってみんな、チームが決まったときに、『どうせやるなら、楽しくしよう』って言ったじゃないー!」
「まあ、たしかに言ったけど……」
「観客を楽しませる芸を磨《みが》くには、血と汗《あせ》の代償《だいしょう》が不可欠《ふかけつ》なのよっ!? 人を笑わせる小説家が、どれくらいワープロの前で苦しんでるか、考えたことあるの、あんたたちはっ!?」
「なんか、カナちゃん、変なこと言ってる……」
イベント前のかなめは、いつも異常《いじょう》にテンションが高くなる。ともすれば周りが見えなくなり、一人で突っ走り過ぎることもしばしばなのだ。
「でもねぇ……。わざわざ、ドジやったり反則《はんそく》したり」
「見世物《みせもの》みたいなマネするなんて、スポーツマン・シップに反するんじゃない?」
「こーいうの、邪道《じゃどう》だよね」
チームメイトたちは口々にぶーぶーと言った。
「なにが邪道かっ!」
かなめは四人を一喝《いっかつ》した。
「七〇年もの歴史を持つ、ハーレム・グローブ・トロッターズを知らないのっ!? アメリカン・ショーバスケットの最高峰《さいこうほう》よ!? 観客を笑わせ妙技《みょうぎ》を披露《ひろう》。それでいてきっちり勝利する。ブルズなんかより、よっぽど子供に夢を与《あた》えてるチームなんだから。あたしたちが目指《めざ》すべきは、そういうアレなのよ、アレ! エンターテインメント!」
渾身《こんしん》の力説《りきせつ》。ただし、そのチームのテクニックや実力は、かなめたちの百億万倍に相当《そうとう》する。
こめかみを押《お》さえる恭子たちの前で、かなめはうっとりと天井《てんじょう》を仰《あお》いだ。
「昔、トロッターズの試合を見に行った時なんか。憧《あこが》れのマニー・ジャクソン様に握手《あくしゅ》してもらって、サインまでもらって。嬉《うれ》しかったなあ……ふふふ」
「始まったわ……このバカ」
「スポーツおたくだね……」
そのおり、となりのコートから、女の怒鳴《どな》り声が聞こえてきた。
「――何回言わせるのっ!? そんなヘナヘナなパスじゃ、敵にボールをあげてるようなものでしょっ!?」
「…………?」
見ると、そちらのコートでは二年二組のチームが練習をしているところだった。
怒鳴ったのは、リーダー格《かく》と思《おぼ》しき長身の少女。怒鳴られたのは、もたもたとボールを拾《ひろ》う小柄《こがら》な少女で――
「お、ミズキ……」
かなめは小柄な方の名前をつぶやいた。
セミロングの髪で、顔つきはあどけなく、同時に気が強そうに見える。背丈《せたけ》は恭子よりやや高い程度《ていど》だが、出るとこは出ているトランジスタ・グラマー。
その少女――稲葉《いなば》瑞樹《みずき》は、半分|涙目《なみだめ》になりながらも、きっと相手をにらみ上げていた。
「なによ、その目は? あなたがチームの足を引《ひ》っ張《ぱ》るから、こうして鍛《きた》えてあげてるんじゃない」
「…………」
「そう。じゃあ、知らない。壁《かべ》を相手に座《すわ》ってチェスト・パス。一人でやってなさい」
冷たく言うと、リーダー格の少女は瑞樹に背を向け、ほかのチームメイトたちへの指導《しどう》をはじめた。
瑞樹は何も言わずにコートを離《はな》れ、壁に向かって座ると、一人でパスの練習をはじめた。ボールを投げて、跳《は》ね返ってきたところをキャッチする。その繰《く》り返しだ。
「なに見てんのよ」
かなめの視線《しせん》に気付いて、瑞樹が顔をぶすっとさせた。かなめはとことこと歩いていって、彼女のそばにしゃがみこむ。
「あたしがパスの相手しよっか?」
かなめの言葉を聞いて、案《あん》の定《じょう》、瑞樹は怒《いか》りをあらわにした。
「なによ、あんた……!? 同情なんか――」
「冗談《じょうだん》よ、冗談」
にこりともせずかなめが言うと、瑞樹はさらに激昂《げっこう》しかけて――やおら、ふっと肩の力を抜いた。とろんとした横目でかなめを見やってから、ボールを壁に投げつける。
「ったく……。カナメと話してると、妙に調子《ちょうし》が狂《くる》うのよね」
「あんたが頑固《がんこ》なだけだってば」
かなめの指摘《してき》はおおむね正しかった。
プライドが高く、かたくなな性質《たち》で、しかもしばしば陰険《いんけん》な真似をするせいか、瑞樹にはあまり友達がいない。
そんな瑞樹と明《あ》け透《す》けな態度《たいど》で付き合えるのは、校内ではかなめくらいのものだった。
「……球技大会なんか大嫌《だいきら》い。野蛮《やばん》なスポーツで優劣《ゆうれつ》を競《きそ》うなんて、バカのすることよ」
パスの練習を続けながら、瑞樹はぶつぶつとこぼした。
「んー。まあ、苦手《にがて》な人は適当に楽しんでればいいんじゃないの?」
「楽しめるわけないでしょ? やりたい奴《やつ》だけ、やってればいいのに」
「あたしもマラソン大会のときは、そう思うわねー……」
「つぶしてやりたいわ。校舎《こうしゃ》とか体育館に火でもつけてやるのよ」
「こらこら……」
そこで先刻《せんこく》のリーダー格の女子が、かなめを指差して叫んだ。
「ちょっと、そこっ! 千鳥さんだったっけ? 練習の邪魔《じゃま》をしないでくれる?」
「んん……?」
かなめはその相手を知っていた。女子バスケ部の副部長をしている、東海林《しょうじ》未亜《みあ》という生徒だ。背丈《せたけ》はかなめよりもさらに高く、髪は活動的《かつどうてき》なショートカット。
去年の球技大会――やはりバスケの試合だった――で、彼女は未亜と対戦したことがある。結果はかなめ側《がわ》の勝利だった。洗練《せんれん》されたプレイにこだわる未亜のチームに対し、かなめのチームは『しょせんはガッコの球技大会』とたかをくくって、相当にラフでダーティなプレイをしたためだ(かなめは毒霧《どくきり》と栓抜《せんぬ》きまで用意していたのだが、さすがに使う機会《きかい》はなかった)。
その敗北《はいぼく》がひどくプライドを傷付けたらしく、以来《いらい》、東海林未亜はかなめを見かけると必ず不愉快《ふゆかい》そうな顔をする。最悪の別れ方をした元カレと、ばったり再会したような、そういう顔だ。今がまさしくその状態《じょうたい》だった。
「はいはい、これは失礼しました。……そんじゃね、ミズキ」
かなめが立ち去ろうとすると、その背中《せなか》に向かって、未亜が吐《は》き捨てるように言った。
「……しょせんは球技大会だけど。チャラチャラ練習してるの見てると、目障《めざわ》りで鬱陶《うっとう》しいのよね」
「む……」
「恥《は》ずかしくないのかしら、バカ丸出しで」
そこまで言われると、かなめもカチンときた。彼女はぴたりと立ち止まり、
「ふっ。そのバカ丸出しどもに、みじめな敗北を喫《きっ》するのよ。あんたたちは」
「なんですって……?」
未亜が語気《ごき》を強めると、かなめは邪悪《じゃあく》なテロリストのように笑った。
すでに勝負は始まっている。これはいわば心理戦《しんりせん》なのだ。なるべく相手の怒りをあおるなり、逆《ぎゃく》に怯《おび》えさせるなりしなければならない。ヘビー級のボクシングやらで、対戦者二人が同席する記者会見と同じである。
こんなヤツ、メじゃねぇ。ぶっつぶしてやるぜぇ!
「去年の倍の屈辱《くつじょく》を覚悟《かくご》することね。散々《さんざん》からかい尽《つ》くしたあげく、地獄《じごく》に叩《たた》き落としてくれるわ。うちの優勝に華《はな》を添《そ》える、あわれなピエロの運命をまっとうしてもらうわよ。くっくっく……」
未亜は一瞬《いっしゅん》、うろたえたものの、
「じょ……上等じゃないのっ!? そっちこそほえ面《づら》かくんじゃないわよっ!」
「ふ……はっはっはっ!」
かなめはそれを相手にもせず、大股《おおまた》で自分のコートに戻っていった。
その翌日《よくじつ》――つまり球技大会の前日。
昼休みになると、生徒会長の校内放送が、かなめと宗介を呼び出した。
かなめは生徒会の副会長。かたや宗介は『安全|保障問題担当《ほしょうもんだいたんとう》・生徒会長|補佐官《ほさかん》』という怪《あや》しい役職《やくしょく》である。
「……ったく、バスケの練習したいのに」
ぼやきつつ、かなめは生徒会室に向かった。無言《むごん》で付いて来る宗介をちらりと見て、
「そういや、ソースケは野球のチームだったよね。ポジションはどこやるの?」
「守備《しゅび》のことか?」
「そーよ」
「最前線《さいぜんせん》だ。風間から『敵の進撃《しんげき》を、最初に阻止《そし》する重要な拠点《きょてん》だ』と聞いている」
かなめは三秒ほど黙考《もっこう》した。
「それ、もしかしてファーストのこと?」
「そうとも言うらしいな」
「……大丈夫《だいじょうぶ》なのかしらね。ランナーを撃《う》ったり殴《なぐ》ったりしたらダメよ?」
宗介はわずかに心外《しんがい》そうな顔をした。
「俺《おれ》はそこまで馬鹿《ばか》ではない。敵への直接的暴力《ちょくせつてきぼうりょく》は、ルールで禁《きん》じられている」
「ほほう。わかってるじゃないの」
「うむ。だから敵の予想進撃《よそうしんげき》ルート――つまり一塁線上《いちるいせんじょう》に、複数《ふくすう》の地雷《じらい》を埋設《まいせつ》しようかと思っている。敵は必ずそこを通るからな」
「…………」
ヒットを打っては、一塁の手前であえなく爆死《ばくし》していく選手《せんしゅ》たちの姿《すがた》を、彼女は漠然《ばくぜん》と想像した。
「問題は敵がイラン軍式に人海戦術《じんかいせんじゅつ》をとった場合だ。敵チームの全員――九名が、まとめて一塁へと殺到《さっとう》してきたら――地雷だけでは支えきれない。なにかうまい方法があればいいのだが……」
真剣《しんけん》に考え込む宗介の横顔を、かなめは絶望的《ぜつぼうてき》な目で眺《なが》めた。
「? どうかしたか?」
「いや……。確《たし》かにルールには書いてないけど、地雷も禁止《きんし》よ?」
宗介はすこしの間、沈黙《ちんもく》した。
「火薬を減《へ》らし、殺傷力《さっしょうりょく》を抑《おさ》えるつもりだが。それでも――」
「ダメに決まってるでしょっ!?」
「むう……」
そうこう言っているうちに、二人は生徒会室に着く。扉《とびら》を開けて中に入ると、部屋には生徒会長の林水《はやしみず》一人しかいなかった。
「あれ? センパイだけなんですか?」
「そうだ。重要な相談なのでね」
林水が答えた。オールバックに真鍮《しんちゅう》フレームの眼鏡《めがね》。怜悧《れいり》な容貌《ようぼう》の青年である。
「副会長と補佐官には、話しておいた方が良いと考えたのだ。まあ、座《すわ》りたまえ」
二人が適当《てきとう》な椅子《いす》に腰掛《こしか》けると、生徒会長は用件を切り出した。
「実は明日の球技大会が、中止されることになった。校長が決定し、今日のホームルームで公表されることになる」
「ふむふむ。……………………は?」
かなめはしばらくの間、相手の言葉を理解《りかい》できないままでいた。
「聞こえなかったかね? 球技大会が[#「球技大会が」に傍点]、中止になるのだ[#「中止になるのだ」に傍点]」
中止。球技大会が。前から楽しみにしていた球技大会が――
「………なんですって!? 中止? そんな、どうして!? 理由はっ!?」
かなめは思わず立ち上がり、目の前の机を『ばんっ!』と叩《たた》いた。林水はその剣幕《けんまく》に動じることもなく、ワープロ文書が印刷《いんさつ》された、一枚のコピー紙を差し出した。
「これを読みたまえ。昨日《さくじつ》、生徒会室と校長室、それから職員室《しょくいんしつ》にファックスで送られてきたものだ」
「どれ……!?」
かなめが受け取り、宗介がそれを横からのぞきこんだ。
<<球技大会の関係者の人へ
――わたしは二年生の女子です。小さいころから運動が苦手《にがて》で、いつも周りのクラスメイトからバカにされてきました。体育祭とかマラソン大会とか。そういう行事が来るたびに、頭痛や胃痛に悩《なや》まされています。休みたいけど、わたしのチームの人が怒るし、親が絶対許さないので、休めません。
もう死にたいです。
どうか球技大会を中止してください。そうしないと、わたし死ぬかもしれません。
わがままですみません。でも、おねがいします。わたし死んじゃいます>>
読み終えるやいなや――
かなめはその紙を『ずぐしゃっ!!』と握《にぎ》りつぶすと、『どびしっ!』と床《ゆか》に叩き付け、『どたたたっ!』と踏《ふ》みつけまくった。さらにそれを蹴《け》り上げて、秒間一六発もの手刀《しゅとう》を繰《く》り出し、空中で八《や》つ裂《ざ》きにした。
「っ……」
それでも気が済《す》まず、彼女は部屋の備品《びひん》のライターとオイルスプレーを手に取って、それを即席《そくせき》の火炎放射器《かえんほうしゃき》とし、床に散《ち》らばった紙片を――怒《いか》りの炎《ほのお》で焼き尽くした。
「あたしがっ! 引導《いんどう》を渡してやるわっ!!」
めらめらと燃え上がる紙片の中に仁王立《におうだ》ちして、かなめは猛《たけ》り狂《くる》った。
「…………」
一方の宗介と林水は、落ち着いた物腰《ものごし》で立ち上がると、それぞれ近くの窓と扉を開けた。二人はそこらのファイルケースで、ばたばたと部屋から煙《けむり》を追い出しにかかる。
「程度《ていど》の差はさておき――」
淡々《たんたん》と換気《かんき》を続けながら、林水が言った。
「君の憤《いきどお》りは理解できる。言うならば、これは自《みずか》らの命を人質《ひとじち》にしたテロリズムだからな。だが校長は万一を考え、この文書の要求《ようきゅう》を呑《の》むと言っている」
かなめは額《ひたい》に青筋《あおすじ》を立てた。
「こんなの取り合ってたら、キリがないじゃないですかっ!?」
「その意見もよくわかる。だが、もしこの人物が、本当に精神的《せいしんてき》に追いつめられているとしたら? そして、われわれがこの文書を無視《むし》した結果、彼女の遺体《いたい》が明日《あす》にでも発見されたとしたら? 果たして、彼女の死の責任をだれがとるのかね?」
「う……。そ、それは……」
「校長か、あるいは私か。彼女の両親か。クラスメイトか。それともこの社会か。いったい、だれの責任だと思う?」
かなめは答えに詰《つ》まる。すると林水は宗介を見て、目線で『君はどう思うかね?』と告げた。
「その女の責任です」
あっさりと宗介は答えた。
「その通り。当たり前の話だ。だが、われわれはしばしば、その道理《どうり》を忘れてしまう。千鳥くん、ちょうどいまの君のようにな」
「むー……」
[#挿絵(img2/s03_063.jpg)入る]
ことこうした問題については、宗介の方がよほど常識《じょうしき》がある。かなめはそれに気付いて、ばつの悪い気分になった。
「相良くん。もちろん自分の人生《ライフ》は自分で面倒《めんどう》を見るしかないのだが、『そうではない』という幻想《げんそう》が不健全なまでに[#「不健全なまでに」に傍点]肥大化《ひだいか》しているのだよ、ここ[#「ここ」に傍点]では。あの校長が要求を呑んだのも、無理《むり》からぬことなのだ」
なにやらディープな話だった。林水が小難《こむずか》しいことを言うのはいつものことだが、かなめにはなぜか、彼が怒っているように思えた。普段《ふだん》と同じ、物静《ものしず》かな容貌《ようぼう》なのだが。
たぶん、気のせいだろう。
「ですが、自分には納得《なっとく》できません」
やおら宗介が強い調子《ちょうし》で言った。
「たとえどのような形にせよ、脅迫《きょうはく》は脅迫です。一度テロリストに譲歩《じょうほ》してしまえば、相手はどこまでも付け込んでくるでしょう。その女は、見つけ出して射殺《しゃさつ》すべきです」
すぱんっ!
かなめの手の中に、いつのまにか出現《しゅつげん》していたハリセンが、宗介の頭にヒットした。
「なかなか痛いぞ」
「……やかましいっ! あんた、実は全っ然、話が見えてないでしょ!?」
「むう……」
腕組《うでぐ》みして考え込む宗介を放置《ほうち》して、かなめはすがるような目を林水に向けた。
「どうにかならないんですか? こんな形で中止だなんて……」
「いや。まだそうと決まったわけではない。問題の生徒を見付け出し、自殺の心配が無《な》くなれば――おのずと中止の決定も翻《ひるがえ》されることだろう。校長の言質《げんち》もとってある」
「あたし、探しますっ!」
かなめは即答《そくとう》した。
「二年生で、運動の苦手な女子でしょ? それだったらかなり絞《しぼ》り込めるし」
「文書の通りだったら、の話だがね。それに――君が反感《はんかん》を買うことになるよ」
「構《かま》いません、やります。とにかく……こんなバカな理由で大会が中止だなんて、絶対に許せませんから……! それじゃ!」
かなめはすぐさま、生徒会室を飛び出していった。
かなめが出ていくと、部屋には宗介と林水の二人だけが残された。
「しかし、会長|閣下《かっか》。千鳥がいくら嗅《か》ぎまわっても、相手が愉快犯《ゆかいはん》だった場合は、とうてい見付からないのでは?」
釈然《しゃくぜん》としない様子で、宗介がたずねた。
「その点にぬかりはない。少々、陳腐《ちんぷ》ではあるが……こういうものを作った」
林水は自嘲気味《じちょうぎみ》に言うと、新たなコピー紙を差し出す。そこには同じくワープロで、短い文章が印刷してあった。
<<球技大会の関係者の人へ
――あれから色々と考えてみて、自分が馬鹿《ばか》だったと悟《さと》りました。
迷惑《めいわく》かけてすみません。死んだりなんかしませんから、中止のお願いは忘れてください。本当にすみませんでした>>
「なるほど、偽造《ぎぞう》文書ですか」
「うむ。敵の匿名性《とくめいせい》を逆手《さかて》にとるわけだよ。最悪の場合は、これを校長室と職員室に送り付ける。彼らを欺《あざむ》くことにはなるが――なに、脅迫文にさえ寛容《かんよう》な人々だ。遠慮《えんりょ》は要《い》らんだろう」
もしその場にかなめが残っていたら、『この極悪人《ごくあくにん》……』とでもつぶやいたことだろう。
「自分は千鳥に付いています」
宗介は立ち上がった。
「そうかね。しかし、君に手伝えることがあるとも思えんが――」
「いえ。千鳥が脅迫犯を暴《あば》いた場合、敵が彼女を亡《な》き者にしようと襲《おそ》いかかるかもしれません。万一の用心です」
「その確率《かくりつ》は天文学的《てんもんがくてき》だと思うが……まあ、君の好きにするといい」
「はっ。では……」
林水に奥《おく》の手があるとも知らず、かなめは肩を怒《いか》らせて、校舎内を駆《か》けずりまわっているのだった。
彼女はいちばん教室の近かった二年八組から順に、めぼしい生徒を当たってみた。そのクラスの友人や知人から、運動|音痴《おんち》の女子を何人か聞き出して、その相手にあれこれカマをかけてみる手に出たのだ。
やれ『明日、どの競技《きょうぎ》に出るの?』だの、『悩《なや》み事はない?』だの、『ファックスにあなたの番号、出てたよ』だの。どうにも気まずく、不愉快《ふゆかい》な作業《さぎょう》だったが、ほかにやりようがなかった。
昼休みのため教室にいない者も多く、そのたびに校内を探し回るはめになる。まったくもって手間のかかる作業だったが、いずれの場合も、たいていの答えは決まっていた。
『はあ? あんた、なに言ってるの?』
で、ある。ろくに話したこともない、ほかのクラスの生徒に、いきなり変なことを聞かれた者なら――だれでも見せる反応《はんのう》だ。
「ふう……」
二年のクラスの大半、八組から三組までの聞き込みを終えると、かなめはため息をついた。すでに昼休みは終盤《しゅうばん》にさしかかっている。
(いや……絶っ対、あきらめないわ!)
あんな怪文書で大会が中止になるなど。彼女にはとうてい受け入れられなかった。
ばしっと両手で自分の頬《ほほ》を打ち、気合いを入れ直す。
「苦戦しているようだな」
先刻《せんこく》から、彼女の後に付き従っていた宗介が言った。
「ふん、まだまだよ……! これから、いちばん怪《あや》しい容疑者《ようぎしゃ》に会うんだから」
「だれのことだ?」
「前科《ぜんか》持《も》ちよ。きのうだって、あたしの前で……まあ、いいわ」
体育館の入り口まで来て、彼女は答えた。
バスケのコートでは、たくさんの生徒たちが練習に明け暮れていた。
宗介を引き連れ、かなめはずけずけと体育館の隅《すみ》に向かう。そこにはきのうと同じく、壁に向かって一人でパスの練習をしている稲葉瑞樹の姿があった。
「なによ?」
瑞樹はかなめを一瞥《いちべつ》して、ボールを壁に投げつけた。そばに突っ立っている宗介にも気付いた様子だったが、彼女はすぐに彼から視線《しせん》をそらした。
「ミズキ。話があるんだけど」
「……手短《てみじか》にしてよね。うるさい奴《やつ》がそばにいるんだから」
ちらりと、コートの方でチームメイトを怒鳴《どな》りつけてる東海林未亜の方を盗《ぬす》み見た。
かなめは腰に手をあてて、切り出す。
「あたしね。ミズキのこと、そんなに悪い子じゃないと思ってる」
「? そう。ありがと」
「前、あなたがあたしにしたことも、いまは笑い話だと思ってるし」
「あれは……悪かったわよ」
すこし不愉快そうな顔をして、瑞樹はさらにボールを投げた。ばしっ、と鋭《するど》い音をたて、ボールが壁から跳ね返る。
「……だからね? もしあなたが、のっぴきならない事情《じじょう》で、また――」
そこまで言って、かなめは言葉を止めた。
(――またバカな真似をしたんだったら、正直にあたしに話してくれない? 悪いようにはしないから)
そう告《つ》げる前に、彼女は気付いたのだ。幸運にも。
瑞樹が投げるボールの軌道《きどう》が、きのうより鋭く、正確《せいかく》になっていた。
小柄な彼女は休むことなく、ボールを投げ、跳ね返ってきたところを受け取り、また投げる。顔には無数《むすう》の汗《あせ》が流れていたが、それを拭《ぬぐ》おうともしない。
黙々《もくもく》とパスの練習を続け、それなりに成果を挙《あ》げつつあるのだ。球技大会の中止を、あんな文書で要求するような人間が、いま、こんな努力をするだろうか……?
「どうしたんだ、千鳥」
「え……」
宗介が不審顔《ふしんがお》でこちらを見ている。瑞樹の方も、やや苛立《いらだ》った様子で、
「それで? あたしが変な事情で、なによ?」
「あ……。それは、その……」
背中に冷水でもひっかけられたような気分だった。
自分はいったい、なにをしていたのだろう? ただ『疑わしい』というだけで、友達をつかまえて犯人|扱《あつか》いしようとしていたなんて。カッとなって、頭がおかしくなっていたのかもしれない。普段《ふだん》はこんな真似、絶対にしないのに……!
たちまち恥《は》ずかしさと自己嫌悪《じこけんお》が押し寄せてきて、かなめはうつむき、赤面《せきめん》した。
「は、はは……練習、ちゃんとしてるんだね」
「そーよ。あいつらの足引っ掛《ぱ》るなんて、悔《くや》しいもん」
不機嫌顔《ふきげんがお》で答えた瑞樹に、かなめは思わず『がばっ!』と抱《だ》きついた。
「ちょ……!? な、なに!?」
「ごめん、ミズキ! あたしって最低だよね! あなたのこと、勝手《かって》に誤解《ごかい》して! すっごい、浅ましくて傲慢《ごうまん》で、身勝手《みがって》な思い込みして! ミズキだって、やる時はやるんだよねっ!?」
涙《なみだ》をぶわーっと流しながら、瑞樹をギリギリと絞《し》めつける。
「ぐう……。だ、だから……なに……よ?」
「あたし……ぐすっ。ミズキの心をズタズタに痛めつけて、苦しめるところだったのっ! 許して。この通り……!」
「痛い。苦しい。ん、うぅ〜〜……」
「千鳥……完全に極《き》まってるぞ。死ぬ。やめろ」
瑞樹は抗《あらが》い、指先を痙攣《けいれん》させ、必死《ひっし》に足をばたばたさせた。
「ちょっと、そこっ! 何回言ったらわかるの!? 練習の邪魔はするなって、きのうも言ったでしょう!?」
東海林未亜が叫んだ。
「あら」
かなめは、ぐったりとした瑞樹を床に横たえて(とりあえず宗介が介抱《かいほう》にかかった)、相手に向き直る。未亜がそばまで来て、嫌悪《けんお》もあらわに彼女をにらみつけた。
「まったく! た……大会で勝つ見込みがないからって、普通こういう嫌《いや》がらせをする? どこまで汚《きたな》いの、あなたは!?」
かなめは眉《まゆ》をひそめた。
「むー……。なにを言うかと思えば。あたしはその大会を実現《じつげん》するために、こうして校内を駆《か》け回ってるのよ?」
「なに?」
「匿名の生徒が球技大会の中止を、学校側に要求してきた。『さもなくば自殺する』という、甚《はなは》だ不合理《ふごうり》な脅迫だ。われわれ生徒会は、その生徒を内偵《ないてい》している」
[#挿絵(img2/s03_073.jpg)入る]
宗介が説明すると、未亜の剣幕《けんまく》は鳴りを潜《ひそ》めた。
「そう。それは……大変ね」
「その通り。大変なのよ」
えへん、とかなめは胸《むね》を反《そ》らした。実のところは、もうこんな見苦しい犯人探しはやめて、別の手を考えようとしていたのだが。
「それで。その生徒は見付かりそうなの?」
未亜の問いに、かなめは『いや、全然』と答えかけたが――ふと、思い直した。
「うん。もう見当はついたかな」
もちろん嘘である。あまり仲の良くない東海林未亜に、『私は無能《むのう》です』と言うみたいで、癪《しゃく》だったからだ。宗介がなにか口を挟《はさ》もうとしたので、彼女は彼の爪先《つまさき》を踏《ふ》んづけて黙《だま》らせた。
「それで、だれがそんな脅《おど》しを……?」
訊《き》かれて、かなめは内心うろたえた。
(くっ、聞いてくるか。ここは……冗談《じょうだん》でうやむやにしよう)
彼女はあえて、もったいぶった仕草で、『びしっ』と未亜を指さした。
「ふっ。それは東海林さん、あなたよ」
数秒間。
相手は無表情だった。眉ひとつ、口元ひとつ動かさずに、じっとかなめを|凝視《ぎょうし》している。
(あ……怒ってる)
かなめは頭の中で、素早《すばや》く損害《そんがい》を評価《ひょうか》して、無難《ぶなん》なフォローの検索《けんさく》をはじめた。『なーんてね、うそうそ。ひみつ。ははははは』あたりで手を打つか……と思って口を開こうとすると。
いきなり――
「どうしてわかったの……?」
血の気の失《う》せた顔で、未亜がつぶやいた。
「…………え?」
「なんで……? こうしてきちんと練習もやって……絶対にバレないと思ったのに……。いったい、どうやって? あたしだと……?」
まったく予想外の反応に、かなめどころか宗介さえも、その場でしばらく棒立ちしていた。
「あ、あなたが……?」
「もう……おしまいよ……!」
未亜は声をうわずらせ、体育館の出口めがけて、だっと駆け出す。二人はその背中を、ただ呆然《ぼうぜん》と見送っていた。
「驚《おどろ》いたぞ、千鳥。なぜわかったんだ?」
ほとんど尊敬《そんけい》に近いまなざしで、宗介が彼女にたずねた。
「え……? いや。あてずっぽうなんだけど」
「謙遜《けんそん》はしなくていい。見なおした。まったく、どんな推理《すいり》で――」
「本当にまぐれだったのっ! それより、彼女を追いかけるわよ。なんか――いやな予感がするの」
「稲葉はどうする」
宗介はいまだにのびている瑞樹を一瞥した。
「あー……。じゃあ、あんたが保健室に連れてって。じゃ、お願いっ!」
瑞樹と宗介を置き去りにして、かなめは未亜の後を追った。
廊下《ろうか》や階段で出会った生徒に、未亜の行き先をたずねつつ、駆け足で後を追う。四階で出会った一年生に、『こんな女子を見かけなかったか』とたずねると、彼はあっさりうなずいた。
「屋上《おくじょう》に行ったっスよ」
礼を言うなり、ふたたび疾走《しっそう》。屋上への階段を駆け上がる。どうしても胸騒《むなさわ》ぎが収まらなかった。
(まさか、とは思うけど……)
そのまさかだった。
屋上に出ると、東海林未亜がいた。すでに手すりとフェンスを乗り越えている。あと一歩前に踏《ふ》み出せば、彼女は地面にまっさかさまだ。
涼《すず》しい風がびゅうびゅうと、未亜の髪をなぶっている。彼女はすでに黄泉《よみ》の国に、半歩ばかり足を踏み入れたような――そんな顔をしていた。
「なんてバカな真似を……戻《もど》りなさい!」
かなめは一歩前に踏み出した。
「来ないでっ!」
片手でフェンスをつかんだまま、未亜は泣き叫んだ。
「来たら……死んでやるんだから! どうせ、わたし、退学《たいがく》だものっ! 生きてたって仕方《しかた》がないわっ!」
「いや、死ぬよりは退学の方がまだマシじゃないかと――」
「うわぁぁっ! やっぱり退学なのねっ!? もう死ぬ! 絶対死ぬ!」
その場で泣き崩《くず》れる未亜。下手《へた》をすると、そのまま屋上から転落《てんらく》してしまいそうだ。
自殺志願者《じさつしがんしゃ》と一対一。周囲《しゅうい》にはだれもいない。
(ああ、どうしよう。……どうすれば)
かなめはうろたえながらも、なんとか落ち着きを取り戻そうとして――質問した。
「しょ……東海林さん? あのね……? その前に、教えてくれないかな?」
「なによっ!?」
「どうして、あんなファックスを送ったの? その、あなたは――運動も得意《とくい》だし。球技大会なんか、むしろ大活躍の舞台《ぶたい》でしょ?」
「そうよ! そうだったわ!」
「じゃあ、いったいどうして――」
「あなたのせいよ、千鳥かなめっ!!」
日焼けした顔をくしゃくしゃにして、未亜は怒鳴った。
「え……」
「そう、わたし、あなたに勝てる気がしない! あなたの予告どおり、散々《さんざん》からかわれて、ボロ負けするに決まってる! 現役《げんえき》のバスケ部員なのにっ! みんなの前で大恥《おおはじ》をかくのっ! そんなの、絶対にイヤ!」
今度はかなめが真《ま》っ青《さお》になる番だった。
まさか、自分が原因《げんいん》だったとは……! 東海林未亜は、もっとタフなタイプだと思っていたのに。そこまで相手が精神的に追い詰められていたなどとは、目の前で言われても信じられなかった。
「そ……。あ……。だ、だったら、あなただけ休めば良かったのに。それを――」
「ふざけないで! 性格のドス黒いあなたのことよ。わたしが一人で休んだら、誰彼《だれかれ》かまわず『東海林は逃げた』って言いふらすに決まってるわっ!」
かなめは血相《けっそう》を変えた。
「ば……バカ言ってんじゃないわよっ!? あたし、そんなことしないわよ!?」
「うるさいっ! 素質《そしつ》があるのに、ロクな努力もしないでヘラヘラしてる……そんな奴の言うことなんか、信用できないわよ!」
「う……」
この言葉はぐさりときた。その言い分は、たしかに当たっていたからだ。
かなめはどちらかというと『器用貧乏《きようびんぼう》』タイプだった。なにをやらせても人より巧《うま》いが、真剣《しんけん》に打ちこんでいるものが一つもない。強《し》いて挙《あ》げれば料理くらいだが、これだって別に、趣味《しゅみ》でほいほいやっている程度《ていど》だ。
素質に恵《めぐ》まれ、本気でその道を極《きわ》めようとしている人間――たとえば宗介や林水――には勝てないが、平凡《へいぼん》な才能の努力家――たとえば未亜や瑞樹――には、しばしば相手の畑でも勝ってしまう。鼻歌|混《ま》じりで。
未亜のような人間から見れば、それは『卑怯《ひきょう》』以外のなにものでもないはずだった。
千鳥かなめ。ずるい奴。いやな女。あいつにだけは、絶対に負けたくない。でも、負けてしまう。どれだけ努力しても。
(あたしのせい……)
彼女の言う通りではないか? 自分の身勝手《みがって》なふるまいが、彼女を傷つけてしまった。鈍感《どんかん》で、不誠実《ふせいじつ》だったばかりに、彼女をここまで追い込んでしまった。いや、この考え自体が傲慢《ごうまん》なのかもしれない。でも、だったら自分はどうすれば……。
なにも言えなくなって立ち尽くすかなめを、未亜は複雑《ふくざつ》な表情でにらみつけていた。満足さ半分、みじめさ半分……といった泣き顔だ。
「わかったでしょ、千鳥さんっ! 全部、あなたの責任なのよっ!? 一生|後悔《こうかい》するといいわっ!」
「や、やめて……!」
「はっ……! やめて欲しかったら、その場で土下座《どげざ》してみなさいよっ! 素《す》っ裸《ぱだか》にでもなったら、考えてやってもいいわよ!?」
向こうもヤケになって、無茶《むちゃ》なことを言ってくる。いっそ本当に素っ裸になって、土下座でもなんでもしてみようか――そう思ったとき。
「妙な理屈《りくつ》だな」
宗介が屋上にやってきて、彼女の背後《はいご》から言った。
「ソースケ……?」
「稲葉は保健室に置いてきたぞ、千鳥。それはともかく……なぜ彼女は、あんな場所から君に命令しているのだ?」
眉間《みけん》にしわを寄せ、さも不思議《ふしぎ》そうに彼は言った。
「な……なにバカなこと言ってんのよ? 彼女、自殺しようとしてるの。なんとか止めないと……!」
「自殺を、止めればいいのか」
「うん。でも……」
「わかった。俺に任せろ。簡単《かんたん》だ」
「ちょ……大丈夫《だいじょうぶ》なの? ねえ……っ!」
「見てるといい。交渉《こうしょう》というのは、こうやるのだ」
わけもない、とでもいった様子で、宗介は歩き出した。最上に落ちていたバレーボール――どこかの生徒が体育倉庫からちょろまかしたのだろう――を途中《とちゅう》で拾いあげて、大股《おおまた》で屋上のフェンスへと向かう。
「こ、来ないでって言ってるでしょっ!? 飛び降りるわよ! ちょっと、聞いてるの!?」
未亜が彼に向かって叫ぶ。だが宗介はかまいもせず、ボールを小わきに抱《かか》えたまま、器用にフェンスを乗り越えた。未亜から五メートルばかり離れた屋上の縁《ふち》に、すっくと立つ。
「そ……それ以上来たら、本当に死んでやるんだから!」
「もう近付かん。約束しよう」
宗介は宣誓《せんせい》するように、片手を挙《あ》げた。
「ただし、これを見ろ」
彼は言うなり、手にしたバレーボールを屋上から放り投げた。
地面めがけて、ボールが落下を始める。
次の瞬間《しゅんかん》。
宗介は残像《ざんぞう》さえ浮《う》かびそうな早業《はやわざ》で、腰のホルスターから黒い自動拳銃を引き抜いた。落ちていくボールに銃口を向け――
たん、たん、たたん!
響く銃声。銃弾を受けたボールが空中ではじけ、ずたずたに引き裂かれて――それからやっと、ぽとりと地面に落ちた。
「…………!」
未亜は目を剥《む》き、凝固《ぎょうこ》した。
「よし、動くな」
彼は銃口を未亜に向けた。両手でしっかりとホールドし、レーザー照準器《しょうじゅんき》を作動《さどう》させ、ぴたりと彼女の胸にポイントする。未亜は胸に灯った赤いレーザーの点を見下ろして、未知《みち》の恐怖《きょうふ》に顔をひきつらせた。
「ちょ、ソースケ! どういうつもりよ!?」
かなめが叫んでも、宗介は銃口を微動《びどう》さえさせなかった。
「東海林未亜、と言ったな。俺は千鳥副会長から、君の自殺を絶対に阻止《そし》しろ、と命じられている。そのためならば、手段《しゅだん》は選ばないつもりだ」
「は……あの?」
事情が呑《の》み込めず、おろおろする未亜。
一方の宗介は、湖水《こすい》のように静かな声で、
「あのボールは、君の未来だ。もしその場から飛び降りたら、俺は最低で四発の特殊弾頭《とくしゅだんとう》を、君の頭部に叩《たた》き込むことができる。そう、君が地面に激突《げきとつ》する前にな……」
「え、あ……その? ちょっと、意味が……」
「わからないか? つまり君は、絶対に自殺できない[#「絶対に自殺できない」に傍点]」
かなめはようやく彼の意図《いと》を理解し、口をあんぐりと開けた。つまり宗介は、『自殺される前に射殺《しゃさつ》する』と言っているのだ。
「わ……わたしを撃つの? だって、わたし『死ぬ』って言ってるのよ!?」
「それは勝手《かって》だが、君の望み――すなわち自殺はさせない」
「無茶苦茶《むちゃくちゃ》だわっ!」
「残念だったな。君の負けだ」
宗介は『ふっ』と鼻息をもらし、どこか勝ち誇《ほこ》ったように言った。
「生きていれば、いつかは自殺の好機も来るだろう。それまで雌伏《しふく》するか、いま諦《あきら》めて殺されるか。それは君の自由だ」
「なんか、もう……え? あああ〜〜っ!」
混乱《こんらん》の極《きわ》みに達し悲鳴《ひめい》をあげる未亜。かたや、かなめは顔のデッサンをグシャグシャに崩《くず》して、がっくりと両膝《りょうひざ》を落とす。
「ソースケ……。あんたは……あんたって奴は……。いったい、どこまで……」
うめくようにつぶやくが、後はまるで言葉にならない。
宗介は右手で銃を構えたまま、左手でゆっくりと、死神のように手招《てまね》きした。
「では東海林。三秒の猶予《ゆうよ》を与えよう。死か恥《はじ》か、いずれかを選べ」
「ちょっ……」
「三……」
「まっ……」
「二……」
「ねえ……!」
「一……!」
そして、けっきょく――
東海林未亜は、恥を選んだ。
翌日《よくじつ》、球技大会は予定通りに実行された。
事情を聞いた林水の計《はか》らいで、未亜の件は校長には報告《ほうこく》されなかった。彼が用意しておいた偽造文書を送ることで、問題はあっさりと解決《かいけつ》してしまった。
前日の騒動《そうどう》で、東海林未亜はひどく憔悴《しょうすい》して、大会を欠席した。そのせいか、二年二組のチームは二回戦で敗退《はいたい》してしまった。負けはしたものの、稲葉瑞樹は何回か、得点《とくてん》につながるパスをつなぎ――いくらかクラス内で株を上げた。
かなめのチームは、けっきょく普通にプレイをして、そのおかげか快進撃《かいしんげき》を続け、予想通りに優勝した。
ただ、賞状《しょうじょう》をもらった彼女の顔は、みんなほど明るくなかった。
ちなみに宗介たちの野球チームは、一回戦でコールド負け。後は屋上《おくじょう》で遊んでいた。
その一日で、宗介はウノとカード麻雀《マージャン》のルールを完璧《かんぺき》にマスターしたのだった。
[#地付き]<大迷惑のスーサイド おわり>
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押《お》し売りのフェティッシュ
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「印刷機《いんさつき》の使い方?」
とある昼休み。教室でメロンパンを食べていた千鳥《ちどり》かなめは、怪訝顔《けげんがお》をした。
「そうだ。俺《おれ》に教えてくれ」
かなめにそう頼《たの》んだのは、クラスメートの相良《さがら》宗介《そうすけ》である。むっつり顔にへの字口。眉間《みけん》にしわを寄《よ》せ、神妙《しんみょう》な面持《おもも》ちで彼女をじっと見据《みす》えている。
なんとなく、大口でパンをかじるのが気恥《きは》ずかしくなった彼女は、口を右手で隠《かく》した。
「ん……別に構《かま》わないけど、なに刷《す》る気?」
「校内に配布《はいふ》するプリントだ。最近、市内で頻繁《ひんぱん》に痴漢《ちかん》が出るそうでな。警告《けいこく》とその対応《たいおう》を告知《こくち》する」
それを聞いて、かなめは素直《すなお》に感心した。
「ほほう? めずらしく人様《ひとさま》の役に立つ真似《まね》をしてるじゃない」
「当然《とうぜん》だ。それが俺の仕事だからな」
彼は生徒会で『安全|保障問題担当《ほしょうもんだいたんとう》・生徒会長|補佐官《ほさかん》』なる得体《えたい》の知れない役職《やくしょく》を授《さず》かっている。実際《じっさい》は体《てい》のいい雑用係《ざつようがかり》だが、ことあるごとに、彼はその使命《しめい》を果たそうと懸命《けんめい》になるのだった。
「それで、チカンだって? どんな奴《やつ》?」
「ここに書いてある」
好奇心《こうきしん》からかなめが訊《き》くと、宗介は一枚の書状《しょじょう》を差し出す。それは彼が配布するつもりのプリントの原版《げんばん》だった。
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生徒会からのおしらせ
機密《きみつ》(読後《どくご》、|焼却《しょうきゃく》のこと)
一二〇四一〇ZULU
発=生徒会長補佐官(安全保障問題担当)
宛=全校生徒
一 先週末より、学区内にて傷害未遂《しょうがいみすい》事件が多発《たはつ》。他八校より九件の報告《ほうこく》を確認《かくにん》。
二 うち『痴漢』との報告が七件。同一犯《どういつはん》の可能性《かのうせい》大。『ポニー』との報告があるが、意味は不明《ふめい》。装備《そうび》等も不明。
三 『痴漢』と遭遇時《そうぐうじ》の対応。
a:交戦し殲滅《せんめつ》せよ[#「a:交戦し殲滅せよ」は太字]
b:aが困難《こんなん》な場合、可能《かのう》な限《かぎ》りの情報を収集《しゅうしゅう》し離脱《りだつ》せよ[#「b:aが困難な場合、可能な限りの情報を収集し離脱せよ」は太字]
四 空爆《くうばく》・砲撃《ほうげき》等の支援《しえん》はない。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]以上
かなめはたっぷり一分ほど、その書状を黙読《もくどく》してからつぶやいた。
「どこの司令部《しれいぶ》の極秘命令書《ごくひめいれいしょ》よ……?」
「いや。あくまで生徒会からの通達《つうたつ》だ」
しごく真面目《まじめ》に宗介は言った。戦場育ちの転入生である彼には、平和な国での常識《じょうしき》がほとんど皆無《かいむ》なのだったりする。
「……あのね、ソースケ。こういう不親切な書き方じゃ、なにも伝わらないわよ」
「そんなはずはない。これ以上|簡潔《かんけつ》で明瞭《めいりょう》な記述《きじゅつ》は、考えられん」
「……なワケないでしょ? だいたい、全校生徒を相手に『機密』もへったくれもないじゃない。まったく――」
「どしたの、二人とも?」
かなめの言葉をさえぎって、そばにいたクラスメイトの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が、問題の書状を後ろからのぞきこんだ。
「なになに、『先週末より……』。へえー、チカン? やだ、こわいね」
あっさり事情《じじょう》を理解《りかい》して、恭子は感想を述《の》べた。
そこはかとなく気まずい雰囲気になった宗介とかなめを見て、彼女はとんぼメガネの奥《おく》の大きな目をぱちくりさせる。
「?」
「彼女はわかっている様子《ようす》だが……」
「……と、とにかく! 今度から、もうすこし平易《へいい》な文体を心がけるように! いい!?」
「うむ。とにかく、印刷機の使用法《しようほう》を」
かなめはうるさげに手を振《ふ》った。
「あー。もう少し待って。いま昼食中」
「了解《りょうかい》した。では待つ」
それきり押《お》し黙《だま》ると、彼はその場に棒立《ぼうだ》ちする。かなめは口を『あーん』と開けて、食べかけのパンにかじりつこうとしたが、宗介の静かな視線《しせん》を感じて、顔を赤くした。
「じ……ジロジロ見ないでよ、もうっ」
「?」
かなめに小突《こづ》かれ、宗介は怪訝顔《けげんがお》をする。横でその様子を眺《なが》めていた恭子が、くすくすと笑っていた。
その晩《ばん》。
うら寂《さび》しい夜道を、恭子は一人で歩いていた。すでに時刻《じこく》は一〇時半を回っている。
駅から自宅への帰り道。放課後《ほうかご》、かなめのマンションに寄り、夕飯をごちそうになって、ついでにTVの横浜=巨人戦を観戦《かんせん》してたら――だいぶ遅《おそ》くなってしまった。
あたりは暗い。人気《ひとけ》もない。
道の右側はうっそうとした雑木林《ぞうきばやし》で、左側は古びたアパートだった。死にかけた街灯《がいとう》が、目障《めざわ》りな明滅《めいめつ》をくりかえし、微風《びふう》がさわさわと木立《こだ》ちを揺《ゆ》らす。
道路《どうろ》の隅《すみ》に、地元のPTAが作った看板《かんばん》があった。
<<チカンにちゅうい!>>
……などと、ペンキで書きなぐってある。文字の下には、これ以上ないほどヘッタクソな絵。ランドセルを背負《せお》った女の子(……と思《おぼ》しき人の形)に、悪魔みたいな黒い影《かげ》が、ニヤつきながら忍《しの》び寄《よ》っている。どちらかというと、『虫歯に気を付けましょう』とかいうコピーを付けた方が、よく似合っていそうな絵だった。
(こういう看板、だれが描《か》くんだろ……?)
とりとめもないことを考えながら、その看板の前を通りすぎる。
彼女は昼に宗介が話していた痴漢のことを思い出した。コート一枚で、下は全裸《ぜんら》の中年男を想像《そうぞう》し、思わず背筋《せすじ》を震《ふる》わせる。
(やだなぁ……)
漠然《ばくぜん》と、不安をつのらせていた矢先《やさき》――
目の前の電柱《でんちゅう》の後ろから、ゆらりと人影《ひとかげ》が現《あらわ》れた。
「…………!」
恭子はぎくりと肩《かた》を震わせ、その場に立ちすくんだ。
うす闇《やみ》の中、人影が一歩前に進み出る。黒いコートにひょろりとした身体《からだ》つき。
「え……。あ、あの……?」
痴漢。やはり痴漢だろうか……?
だがその相手の姿《すがた》は、『痴漢』の一語で片付《かたづ》けるにはあまりにも異常《いじょう》だった。
男は頭にすっぽりと――大きな被《かぶ》りものをしていた。フェルト製《せい》の、ふかふかしたお馬さんのマスク。ビー玉のようなつぶらな瞳《ひとみ》が、じっと彼女を見下ろしている。
お馬さんのかぶりもの、である。
かてて加えて、手にはピアノ線と赤いリボン。そしてなぜか、ヘアブラシ。
(なに……? なんなの?)
恭子は当惑《とうわく》し、恐怖《きょうふ》した。
相手の意図《いと》が、まったく理解不能《りかいふのう》だった。全裸のおっさんの方が、まだなにをしたがっているのかわかる。しかしこの相手は――目的やら、主張《しゅちょう》やら、そういうものがまるで見えてこない。
「ひ……あ……」
凍《こお》りつき、釘付《くぎづ》けになった恭子の前で、その『お馬さん男』がつぶやいた。
「ぽに」
「………………は?」
ぽに。そんな日本語は、恭子の知る限り存在《そんざい》しない。意味不明《いみふめい》の言葉を聞いて、彼女はさらに混乱《こんらん》した。
「ぽに。ぽに……」
男がにじり寄って来た。恭子は後ずさる。さらに前に出る男。
死ぬ。殺される。あれこれと●●されて、埋《う》められる……! 身の危険《きけん》を感じ、恭子は涙目《なみだめ》でその場から逃げようとした。
「ぽに……!」
「きゃっ!」
走り出した彼女に、馬男が後ろから組み付いた。恭子はその手をふりほどこうと、必死《ひっし》にもがく。男はそれでも放さない。
「ぽに……ぽに……!」
「や……やだ、だれか!? だれかぁ〜〜!」
死にもの狂《ぐる》いで助けを求めたが――
その声を聞いた者は、どこにもいなかった。
翌朝《よくちょう》。
かなめが登校してくると、泉川《せんがわ》駅の改札《かいさつ》前に、宗介が突《つ》っ立っていた。いつも駅前で待ちあわせている、恭子の姿はまだ見えない。
「お、ソースケ。おはよ……」
朝の弱いかなめは、覇気《はき》のない声で挨拶《あいさつ》する。すると宗介は、どこか沈痛《ちんつう》な目で彼女を見据《みす》えた。
「なによ……?」
宗介の様子に、かなめは不審顔《ふしんがお》をする。彼はいつになく深刻《しんこく》で、なにから話したらいいのか、考えあぐねているように見えた。
「千鳥。実は……悪い知らせがある。俺もついさっき知ったのだが。きのう印刷を手伝ってもらった、あの痴漢の件だ」
「? それがなにか?」
「昨夜《さくや》、常盤が襲《おそ》われた」
「え……」
かなめの顔から、さっと血の気が失《う》せた。
「うそ……。キョーコが……? ……それで? どうなったの? 無事《ぶじ》なの!?」
ほとんど恐怖に近い感情に駆り立てられるように、彼女は宗介の両肩をつかんだ。だが彼は顔を曇《くも》らせ、うつむき、かなめから視線を逸《そ》らした。
「残念だ。どう説明していいかわからない」
「そんな……」
かなめは慄然《りつぜん》とする。
「国領駅からの帰り道だったそうだ。そこで異様《いよう》な扮装《ふんそう》の変質者《へんしつしゃ》に出会ったらしい。彼女は反撃《はんげき》もできずに捕《つか》まって――」
「…………」
「その場にむりやり組み伏《ふ》せられ、必死の抵抗《ていこう》もむなしく――」
「あ、あぁ……」
「ブラシで念入《ねんい》りに髪《かみ》を梳《す》かれた末に――」
「ひどい……」
「ポニーテールにされてしまった」
「なんてことを……! って……はい?」
かなめが眉《まゆ》をひそめると、宗介の背後《はいご》から恭子がひょこりと姿を見せた。
「あ、カナちゃんだ。おはよー」
いつもと同じ制服《せいふく》に、いつもと同じとんぼメガネ。ただ一つ、いつもと違《ちが》っていたのは――彼女の髪型だった。
ポニーテールなのだ。
普段《ふだん》のおさげ髪ではなく、ポニーテール。そして赤いリボン。ていねいにブラシの入った髪が、波打《なみう》ち、背中まで届《とど》いている。
「……なによ、これは?」
うって変わって、かなめはとろんとした声でたずねた。
「見てわからんか」
「ポニーテールだよ」
恭子は自分の髪を触《さわ》ってみせた。
「ひどいよね。針金《はりがね》とポンドで、むりやりギューって縛《しば》られて。一晩《ひとばん》たっても戻《もど》らないの。これじゃ、髪が傷《いた》んじゃうよ……」
ぼやいてから、小さなため息をつく。
「それだけ……?」
「うん。それだけだよ。怖《こわ》かったけど」
意外《いがい》にけろりとした顔。かなめはがっくりと肩を落とし、次に宗介をにらみつける。
「あんたねぇ……」
「不可解《ふかかい》だろう。まるで説明できん」
ごつんっ!
しれっと告げた宗介の頭を、かなめは鞄《かばん》ではたき倒《たお》した。
「……なかなか痛いぞ」
「うるさいっ! マジで……怖かったんだから!? おどかさないでよっ!」
ほとんど涙目になって、かなめは怒鳴《どな》りつけた。
恭子の髪型を見たクラスメイトの反応《はんのう》は、おおむね好意的《こういてき》だった。男子の小野寺《おのでら》に至《いた》っては、握《にぎ》りこぶしで感動して、
「いい! 絶対《ぜったい》いい! いつものガキっぽいおさげ髪よりも、こっちの方が絶対かわいいってば!」
などと、言ってはならないことを力説《りきせつ》してしまった。おかげでかなめは、久しぶりに宗介以外の男子を殴《なぐ》ることになった。
恭子はぱっと見は落ち込んでもいない様子だったが、その日、一度だけかなめに心情《しんじょう》をこぼした。
「困《こま》ったなぁ……おさげも気に入ってたんだけど、ね……」
すこし力のない声で、彼女はつぶやいた。
「ば……バカな男子のいうことなんか、気にしないで。おさげだろうがなんだろうが、あたし、キョーコは充分《じゅうぶん》かわいいと思うよ?」
かなめが言うと、恭子はにっこりと笑って、
「うん、そうだよね。ありがと、カナちゃん」
と、けなげに答えたのだった。
しかし、それでも、授業《じゅぎょう》が終わるなり、恭子はいつもより早くさっさと下校《げこう》してしまった。
かなめとしては、そっとしておくよりほかなかった。こういうときに、親友顔されてべったりとくっついていられても、むしろ本人は疲《つか》れる――それを昔《むかし》の経験《けいけん》で知っていたからだ。自分が本格的《ほんかくてき》に落ち込んでいるとき、恭子は必ずそっとしておいてくれる。一言だけ、『あたしはカナちゃんの味方《みかた》だからね』と告げて、あとはなにも言わないのだ。
(そう。……すっごい、いい子なのよ、キョーコは。それを……!)
その『ぽに男《お》』――取るに足らない馬鹿《ばか》げた変態《へんたい》だが、どうにも腹《はら》に据《す》えかねる。かなめは『見かけたらどうしてくれようか?』などと、ひそかに憤慨《ふんがい》しているのだった。
「……ともかく。我《わ》が校の生徒が被害《ひがい》にあったのだ。これは看過《かんか》できんと思うのだが」
生徒会の用事《ようじ》が終わった放課後の六時|過《す》ぎ。学校から駅への帰り道で、宗介がかなめに言った。
「まあ、たしかに見過《みす》ごせないわよね……」
「他校でも同じ被害が出ている。ここは犯人《はんにん》を捕《と》らえ、きびしく拷問《ごうもん》した末《すえ》に、真の狙《ねら》いを聞き出すべきだ」
「また物騒《ぶっそう》なコトを……」
「いまはまだ無害《むがい》なレベルだが、やがては一般《いっぱん》市民に怪我《けが》をさせるかもしれん。野放《のばな》しにすると危険《きけん》だ」
[#挿絵(img2/s03_101.jpg)入る]
「それはあんたでしょ、あんた」
「?」
「……ソースケ。こういう場合はね、生徒会の仕事はないの。わかる? コトが起きたのは学校の外なんだし」
「そうなのか」
「そーなの。だから、あそこに頼《たの》みましょ」
駅前|商店街《しょうてんがい》の手前で、かなめはぴたりと立ち止まった。横断歩道《おうだんほどう》の向こうに建《た》つ、こぎれいな交番に視線《しせん》を向ける。
「警察《けいさつ》か」
「うん。『友達がこーいう変態に襲《おそ》われた。なんとかしてくれ』って言っとくの。さっき電話で恭子から了解《りょうかい》もとったし。それでこの件は、とりあえず様子見《ようすみ》。いい?」
「ふむ……」
「じゃ、ソースケは外で待ってて。あんたがいると、一気《いっき》にややこしくなるから」
かなめが交番に入ると、若い制服警官が応対《おうたい》に出た。
彼女は事情《じじょう》を説明した。被害にあったときの状況《じょうきょう》や、恭子と自分の住所氏名、その他もろもろを要領《ようりょう》よく告げていく。
話が終わると、その巡査《じゅんさ》は書類《しょるい》にあれこれ記入しながら、困った顔をした。
「……うーん。これだけだとねぇ」
「あの。なにか問題が?」
「やっぱり被害者《ひがいしゃ》本人に来てもらわないと。それに、なんと言うのか……まあ、あんまり成果《せいか》は期待《きたい》しないでほしい、と」
巡査は次第《しだい》に横柄《おうへい》な口調《くちょう》になっていく。
「どういう意味です?」
「自業自得《じごうじとく》、とは言わないけどねぇ。夜道の一人歩きなんて、軽率《けいそつ》な真似《まね》をしたんだから。それくらいで済《す》んで、むしろ幸運だったと思うべきだよ。その――常盤さん? 本当にマジメな子なの? どうも話だけを聞いてると――」
「この……クソおまわり」
底冷《そこび》えのする声で言われて、巡査が言葉を切った。
「え?」
「ふざけんじゃねーわよ……。あたしのダチつかまえて、よっくもそんな口を――」
かなめが無謀《むぼう》にも、その巡査の胸倉《むなぐら》につかみかかろうとした瞬間《しゅんかん》、
「ちょっと待ったぁっ!!」
交番の奥から、新たな声がした。
見ると、休憩室《きゅうけいしつ》に通じる戸口に、一人の婦警《ふけい》が寄りかかっていた。シャープな顔だち。シャギーの入ったロングヘア。よれよれの制服姿で、目には隈《くま》ができている。
なにやら疲労《ひろう》の極《きわ》みにある様子だ。
「わ……若菜《わかな》さん。どうです、調べものは」
場を取り繕《つくろ》うように、巡査が言った。若菜と呼ばれた婦警は、同僚《どうりょう》のことなど眼中《がんちゅう》にない様子で、かなめのそばにすっ飛んできた。
「そこの子。話は聞いたわよ。かぶりものした変質者《へんしつしゃ》ですって? どこに出たの!?」
鬼気《きき》迫《せま》る形相《ぎょうそう》で詰問《きつもん》してくる。
「ええ。それは、さっき説明した通り――」
かなめが恭子から教えてもらっていた住所を告げる。すると婦警はいきなり天井《てんじょう》を仰《あお》ぎ、壁《かべ》の市内地図を見て、快哉《かいさい》をあげた。
「やったっ!! わたしの推理《すいり》通り! これで……これで……ふうっ」
ふらふらと机《つくえ》にもたれかかる婦警。妙《みょう》な雲行《くもゆ》きに気圧《けお》されながらも、かなめはおそるおそるたずねてみた。
「あ、あのー。推理って? なにか、ご存知《ぞんじ》なんですか……?」
女は憔悴《しょうすい》しきった顔を、ゆっくりと上げた。
「いい……質問《しつもん》ね。でも、ここでは話せないわ。付いてきなさい、お嬢《じょう》さん……!」
「はっ?……って、ちょっ」
婦警は『がばっ!』と飛び起きると、かなめの手を引いて外へ飛び出した。なぜか交番の前で待っていたはずの、宗介の姿は見えなかった。
「あの、ちょっと。なんか強引《ごういん》な……? 痛いんですけど……っていうか、放して〜〜」
「ガタガタ言わない! とにかく来る!」
ガタガタと引きずられて、かなめは駅前商店街へと連れて行かれてしまった。
婦警の名前は若菜|陽子《ようこ》といった。
本来《ほんらい》は泉川署・交通課のミニパト勤務《きんむ》なのだが、いまはその任《にん》から外《はず》されているという。
「――最近はデスクワークばかりだったんだけど。サボって変質者の調査《ちょうさ》をしてたのよ」
交番の近所の喫茶店《きっさてん》に入ると、若菜陽子は事情《じじょう》を話した。
「はあ」
「寝《ね》る間も惜《お》しんで日報《にっぽう》を当たったり、一人で勝手《かって》に聞き込みをしたり」
「そーですか。それはご苦労さまです」
「ご苦労さまなのよ。……でもって、わたしは犯人の出現《しゅつげん》に、ある一定のパターンがあることに気付いたの。これをごらんなさい」
陽子は『ばっ』と市内の地図を広げた。
「似たような被害届《ひがいとどけ》が、なんだかんだで八件。どれも帰宅中《きたくちゅう》の女子中高生。場所は……ほら、必ず市内の各駅から、歩いて二〇分くらいの距離《きょり》。北側と南側で交互《こうご》に出没《しゅつぼつ》して――」
地図を突つき、懇切丁寧《こんせつていねい》に説明していく。コンパスで円を入れると、犯人の行動範囲《こうどうはんい》はたしかに限られているのがわかる。
「――というわけよ。そのパターンに従《したが》えばきのうは……ここに出るはずだったの」
陽子は地図上の一点を赤ペンでくくった。
「……あ、それ」
「そう。あなたの友達が襲われた場所よ。だから今夜は――この辺《あた》りに出てくるはず」
思いのほか理路整然《りろせいぜん》とした推理に、かなめは思わずうなってしまった。
「ほお〜〜。……すごいですね」
「ふっ。まかせなさい。……ついては」
陽子は地図を折《お》りたたんだ。
「今晩《こんばん》、あなたにオトリ役をやってもらいたいのよ。わたしのささやかな手柄《てがら》のために」
「…………なる……ほど」
わざわざ交番からこんな喫茶店まで来て、親切にあれこれ教えてくれる理由が、ようやくわかった。
「変質者があなたを狙《ねら》って出てきて、あれこれと公序良俗《こうじょりょうぞく》に反する行為《こうい》に及《およ》んだところを、わたしが現行犯逮捕《げんこうはんたいほ》。面倒《めんどう》な手続きも礼状《れいじょう》もいらない。『偶然《ぐうぜん》通りかかった』って言い張《は》ればいいの。素晴《すば》らしい作戦でしょっ」
疲れた声を弾《はず》ませる。……そういう不思議《ふしぎ》な喋《しゃべ》り方だった。
「あのー。あたしの立場は……?」
「なに言ってるの、あなたは。友達が殺されたのよ? 仇《かたき》を討《う》たないでどうするの」
「いえ、死んでませんが……」
「『髪は女の命』っていうでしょ? 道徳的《どうとくてき》には殺人罪《さつじんざい》よ、これ」
「もう、なにがなんだか……。だいたい、なんでそこまで手柄《てがら》が欲しいんです?」
あきれながら、かなめは尋《たず》ねた。
「わたしはねえ……もともと刑事|志望《しぼう》なのよ。子供のころ観《み》た『マイアミ・バイス』が忘れられなくて。ドン・ジョンソン様が『|撃って来いよ《ゴー・アヘッド》、|モスカ《モスカ》。|その方が簡単だぜ《メイク・イット・イージー》』とかキメたときは、身体中《からだじゅう》が熱くなって、失神《しっしん》しかけたわ。ドン様の乗ってた白いフェラーリ・テスタロッサが欲しくて、水着モデルのバイトで稼《かせ》いだカネを、全部|貯金《ちょきん》にブチ込んでたこともあったのよ? 貯《た》まらなかったけど……」
かなめは、クールでカッコいいそのドラマを知らなかったので、頭の中で『マイアミ・スパイス? なにそれ?』などと怪訝《けげん》に思うだけだった。ついでに車の名前が、とある外人さんの友達の名前と同じだったので、ますます混乱した。
「はあ……」
「だってのに、交通課なんかに配属《はいぞく》されて。こないだは署長《しょちょう》の怒《いか》りを買って、机仕事に回されてね……。手柄でも立てれば、どうにかなるんじゃないかと思って」
「『署長の怒り』といいますと……?」
陽子は『ふっ』と遠くを見て、アイスコーヒーをズズズとすすった。
「みっともない話よ。チャリで二人乗りした高校生を、ミニパトで追っかけてたらね。これがまた手強《てごわ》い奴《やつ》らで――取り逃がした上に、民家《みんか》へ突っ込んじゃったの」
「ぶっ……!」
かなめは飲んでいたコーヒーを吹《ふ》き出しかけた。
思い当たりがありすぎる。その『二人乗りした高校生』とは、すなわちかなめと宗介のことだった。彼女があの時のミニパト婦警だったとは……!
かなめは真っ青《さお》になって、顔面《がんめん》にびっしりと冷《ひ》や汗《あせ》を浮かべ、
「そ、それは……ご愁傷《しゅうしょう》さまで」
「車は大破《たいは》。わたしはまったく無事《ぶじ》だったんだけど。助手席《じょしゅせき》の相棒《あいぼう》が全治《ぜんち》一ヵ月の大怪我《おおけが》で。いやー、まいったわ。……って、どうかしたの? 顔色悪いわよ?」
「いえ、その。なんというか」
「……悔《くや》しいわ。男の方だけは、しっかり顔を覚えてるんだけど。見付けたら、教育上|不適切《ふてきせつ》なお仕置《しお》きをたくさんしてやるのに。ふふふ……」
寝不足《ねぶそく》で陰《かげ》っていた瞳が、やおら陰惨《いんさん》にぎらぎらと輝《かがや》く。その陽子の背後《はいご》の席に――
「…………!!」
陽子が言うところの『男の方』、つまり宗介が座《すわ》っているのをかなめは発見した。さいわい陽子はまったく気付いていない。
宗介はむっつり顔のまま、ペーパーナプキンになにやら書き込み、婦警の肩越《かたご》しに掲《かか》げて見せた。
<<問題ない。続けろ>>
かなめが口をぱくぱくさせていると、彼はもう一枚、書き込んで見せた。
<<心配するな>>
さらにもう一枚。
<<気付かれたら始末《しまつ》する>>
「するなっ!」
思わず叫《さけ》んだかなめの顔を、陽子は『ぬぼーっ』とした目で眺《なが》めた。
「……ダメかしら、お仕置き」
「い……いえ。ほどほどに」
「そうね。ほどほどが一番ね。ともかく、そういうことで、千鳥さん。オトリ役を引き受けてくれた件、本当に感謝《かんしゃ》するわ」
「するんか、感謝っ!?」
「あら。どういうこと?」
「引き受けてません! そんな役!」
いきり立つかなめ。陽子の背後《はいご》で、またまた宗介がメモを見せる。
<<情報《じょうほう》は入手《にゅうしゅ》した。この女は用済みだ>>
「あんたも黙《だま》ってなさい!」
<<…………>>
陽子が背後を振《ふ》り向く。一瞬《いっしゅん》早く、背もたれの陰《かげ》に宗介が隠《かく》れる。間一髪《かんいっぱつ》、セーフ。
「どうしたの、あなた……?」
「い、いえ。たまに電波《でんぱ》が聞こえるんです。怪《あや》しいささやき声が。持病《じびょう》でして」
「そう……あなたも大変ね」
かなめはどっと疲《つか》れが押《お》し寄《よ》せてくるのを感じた。さっさとこの状況《じょうきょう》から逃《のが》れたい。その一心で、彼女はつぶやく。
「……あー。わかりましたよ。やります。ただし、今夜だけですよ?」
「充分《じゅうぶん》よ。助かるわ……ふふ」
陽子は徹夜《てつや》続きの人間|特有《とくゆう》の、あの薄《うす》ら笑いを浮かべた。感情とは無関係《むかんけい》に、脳内物質《のうないぶっしつ》の作用《さよう》だけで生まれる――そういう笑顔。
「じゃあ、あとで自宅《じたく》に迎《むか》えに行くから」
陽子は立ち上がった。
「どこに? もうすぐ夜ですよ」
「一度、署《しょ》へね。取りに行くモノがあるの」
千円札を卓上《たくじょう》に置くと、婦警はふらふらと喫茶店を出ていった。待ちかねたように、宗介が身を起こす。
「行ったか」
「……まったく、ヒヤヒヤさせて。あんた、いつからそこにいたのよ?」
「最初からだ。あの婦警には見覚えがあったのでな。ひそかに尾《つ》けたのだ」
「おお……それは正解《せいかい》。でかしたわ」
「造作《ぞうさ》もないことだ」
宗介は伏《ふ》し目がちに『ふっ』と鼻息をもらすと、コーヒーに付いてたシナモン・スティックをタバコのようにくわえた。
「しかし、千鳥。本当におとり役など引き受けるのか」
「うん……まあ」
かなめはこめかみをぽりぽりと掻《か》いた。
「普通《ふつう》に警察に言っても、キョーコの仇は討《う》てないし。それに、あの婦警さんが必死《ひっし》になってるのも、元はといえばあたしたちのせいなんだし……ね」
「危険《きけん》だ。やめた方がいい」
「……心配してくれてありがと。でも、大丈夫《だいじょうぶ》よ。あんたの本業の敵に比べれば、どうってことないもの」
ほほ笑んでみせると、宗介はしばらく彼女を見据《みす》え、それから何度かうなずいた。
「そうか……わかった。では念のために、俺も援護《カバー》についていよう。危険が迫《せま》ったら俺が相手を制圧《せいあつ》する」
「ダメよ。あんた、あの婦警さんに顔、覚えられてるのよ? バレたら大変じゃないの。それこそあたしたちがタイホされるかも」
言われて、彼は考え込んだ。
「では、顔が見えなければいいのか」
「うーん……。顔を隠《かく》しても、体型とかでバレるかもよ?」
「一理《いちり》あるな……。ならば、新装備《しんそうび》を使おう」
「新装備?」
「そうだ。先日|入手《にゅうしゅ》……いや、知人から譲《ゆず》られたある物品に、いくつかの改良《かいりょう》をほどこしてな。顔はもちろん、体格さえも巧妙《こうみょう》に隠《かく》せる衣服《いふく》だ。さらに各種《かくしゅ》センサーとデジタル通信機《つうしんき》……そしてライフル弾《だん》もストップする防弾性能《ぼうだんせいのう》を与えた」
「はあ……」
「一種の強化服《きょうかふく》だ。うまくすれば、現代戦《げんだいせん》の様相《ようそう》を一変させるかもしれん。ちょうど実戦《じっせん》テストがしたかったのだ。部屋に置いてあるので、取りにいく」
彼は立ち上がると、五〇〇円玉を卓上《たくじょう》において喫茶店を立ち去った。
それから数時間後。すっかり日の沈《しず》んだ住宅街《じゅうたくがい》の一角で――
「……と、いうわけで」
若菜陽子は切り出した。私服のジーパン姿である。
「ここら一帯《いったい》を、ふらふらとさまよって欲しいわけね。なるべく人気《ひとけ》のないところ」
「若菜さんはどうしてるんですか……?」
夕刻《ゆうこく》と同じ、制服姿のままのかなめがたずねる。二人がいるのはうら寂《さび》しい道路《どうろ》だった。近くに見えるのは、寂《さび》れた農地《のうち》と古いお寺。人の行き来もほとんどない。
「念の為《ため》に、わたしはこの近辺を調べてるわ。敵が出たら、大きな悲鳴《ひめい》でもあげてちょうだい。わたしが変質者を捕《と》らえるから」
あいかわらず、寝不足《ねぶそく》の疲れた声で陽子は言った。
「捕らえるって……どうやって?」
「これを使うの」
陽子はボストンバッグから、二挺《にちょう》の銃《じゅう》を取り出した。――いや、銃ではない。一つには先端《せんたん》に電極《でんきょく》が、もう一つには拳《こぶし》サイズのゴムボールが装着《そうちゃく》されている。
「署《しょ》からちょろまかしてきたのよ。暴徒鎮圧用《ぼうとちんあつよう》の電気銃《デイザー》と、ラバーボール銃。こいつをお見舞《みま》いしてやるわ」
その手の武器なら、宗介がよく使っているので、かなめの目には珍《めずら》しくなかった。
「言っときますけど。変態さんと一緒《いっしょ》に、あたしまで撃《う》たないでくださいよ」
「……ふふっ。では、行ってらっしゃい」
「笑ってないで、返事《へんじ》は……?」
両手を挙《あ》げて『大丈夫《だいじょうぶ》よ』とでもいった仕草《しぐさ》を見せる陽子。かなめはため息をついた。
(それにしても……)
彼女はそばの農地と、その向こうの雑木林《ぞうきばやし》に目を向けた。
(ソースケ、ホントにここに来てるのかしら……?『新装備《しんそうび》』とか言ってたけど……)
思い直してから、かなめはしぶしぶと暗い夜道を歩きはじめた。
そのかなめから、五〇メートルほど離《はな》れた茂《しげ》みの中。うっすらと射しこむ月光の下に、一匹《いっぴき》の変な生き物がいた。
正確《せいかく》には、変な生き物のぬいぐるみだ。
犬だかねずみだか、よくわからない頭。ずんぐりとした二頭身。蝶《ちょう》ネクタイに、くりくりと大きな瞳《ひとみ》。
ぬいぐるみの名前は『ボン太くん』。某遊園地《ぼうゆうえんち》のマスコット・キャラクターだった。
ボン太くんは頭にカモフラージュ・ネットを被《かぶ》り、ぴたりと散弾銃を構《かま》えていた。見事《みごと》に夜闇《よやみ》と一体化したその姿は、獲物《えもの》を待ち伏《ぶ》せる獰猛《どうもう》な肉食獣《にくしょくじゅう》、危険で残酷《ざんこく》な食虫植物を、ほうふつと――させた。たぶん。
(動き出したな……)
そのぬいぐるみの中に収《おさ》まっていた宗介は、胸のうちでつぶやいた。
以前、遊園地での乱闘《らんとう》事件を起こした際《さい》、なりゆきで失敬《しっけい》することになってしまったボン太くん。いま、このぬいぐるみは宗介の手で生まれ変わっていた。
いわば『ボン太くんマークU』である。
闇を見通すボン太くんの暗視《あんし》センサーが、かなめと婦警のシルエットを|ヘッド《H》・|マウント《M》・|ディスプレイ《D》に投影《とうえい》する。耳に仕込んだ高感度指向性《こうかんどしこうせい》マイクは、かなめの息遣《いきづか》いさえ拾《ひろ》うことができた。その気になれば、内蔵《ないぞう》のデジタル通信機《つうしんき》で、警察|無線《むせん》の傍受《ぼうじゅ》さえ可能だ。シルエットが人間|離《ばな》れしているので、遠距離《えんきょり》からの発見も困難《こんなん》なはずだった。
ちなみに、変なボイスチェンジャー機能《きのう》は眠《ねむ》らせてある。
(では、追うか……)
宗介はそろそろと、茂みの中を移動《いどう》した。かなめと一定の距離《きょり》を保ちながら、注意深く、音をたてずに……。
[#挿絵(img2/s03_117.jpg)入る]
かなめがやる気なく歩き続ける。ボン太くんが追う。婦警は角の向こうに消えて以来、姿は見えない。
変質者は出てこなかった。
ウロウロと、かなめは同じ道を何度も回り続ける。そんな調子《ちょうし》で、すさまじく不毛《ふもう》な三〇分が過《す》ぎた。
(今夜は動きなしか……?)
宗介は雑木林の中に放置《ほうち》してあった、錆《さ》びついた五トントラックの脇《わき》を歩いていく。
その角で――
「きゃっ!?」
例の婦警――若菜陽子と、ばったり鉢合《はちあ》わせになった。変質者が潜《ひそ》むには、ちょうどいい場所だとでも思って、調べに来たのかもしれない。
彼女は一瞬《いっしゅん》ぽかんとしてから、頭をぶるぶると振《ふ》って電気銃を構えた。
「証言《しょうげん》じゃ馬のぬいぐるみだと聞いてたけど……まさか、ボン太くんとはね。覚悟《かくご》しなさい、変態さん!」
「まて、俺は」
「問答無用《もんどうむよう》!」
陽子の電気銃がスパークした。電光がほとばしり、高圧電流《こうあつでんりゅう》がボン太くんにヒットする。厚手《あつで》の生地《きじ》のおかげで、彼にはショックが及《およ》ばなかったが――
ばりばり、ざ、ざぁ―――――!!
電流のショックで、ぬいぐるみに仕込んでいた電子機器の大半が故障した。暗視《あんし》センサーの画像が真っ白になって、イヤホンから頭の割れそうな雑音《ざつおん》がほとばしる。
「――――!!」
夜の雑木林の中、ボン太くんはのけぞり、よろめき、たたらを踏《ふ》んだ。宗介は『やめろ!』と叫ぼうとしたが、
『ふもっふ!』
故障《こしょう》の影響《えいきょう》か、ボイスチェンジャーが勝手に作動して、彼の言葉を『ボン太くん語』に変換《へんかん》してしまった。
「ま……まだ動けるの!? しぶといわね!」
『ふもっ……(くっ……)」
やむなく宗介は応戦《おうせん》した。ボン太くんが散弾銃を鋭《するど》く突《つ》き出し、陽子めがけて発砲《はっぽう》する。
殺傷力《さっしょうりょく》はないが、ヘビー級ボクサーのパンチほどの威力《いりょく》があるゴム・スタン弾《だん》だ。
ところが視界《しかい》が真っ白なせいで、狙《ねら》いがまるで逸《そ》れてしまった。ゴム・スタン弾は、陽子のそばの幹《みき》に当たって四散《しさん》する。
「っう……抵抗《ていこう》する気!? ただの痴漢のくせに! 負けないわよっ」
陽子は続いて、ゴムボール銃を抜いた。ボン太くんに銃口を向け――発砲。
こちらもヘビー級のストレート並《な》みの威力《いりょく》だ。ボン太くんは身をかがめ、その一撃をなんとかしのぐ。
(いかん、このままでは……)
頭の中の雑音《ざつおん》と騒音《そうおん》に苦しみながらも、ボン太くんは地面を転がり、散弾銃を立て続けに二連射した。
じゃき、どかっ! じゃき、どかっ!
「わ、おわっ……! 痛っ!」
ゴム弾の一発が、陽子の肩をかすった。彼女はあたふたとトラックの陰《かげ》に隠れる。
『ふもっ、ふもっふ(くっ、照準《しょうじゅん》が)』
「よっくも、やってくれたわねっ!? もう絶対、許さない。わたしの手柄《てがら》のために……死んでもらうわ!」
陽子は叫ぶと、ゴムボール銃に玉を再装填《さいそうてん》し、ふたたび発砲《はっぽう》してきた。よろよろと立ち上がったボン太くんの頭に、ゴムボールが命中する。
『ふもっ!(うおっ!)』
悲鳴《ひめい》をあげて、ボン太くんは地面をごろごろと転がった。なんとか素早《すばや》く起き上がると、独特《どくとく》の走法《そうほう》で陽子から逃げ出す。
「逃がさないわよっ! 女の敵!」
陽子がそれを追跡《ついせき》する。
夜の雑木林の中。両手に変な銃を持った女が、ずんぐりしたぬいぐるみを追い回し、どかどかと武器で撃《う》ち合う――
それはある意味、すさまじい光景《こうけい》だった。
逃げながら、宗介は深く反省《はんせい》する。
(あれこれ改良《かいりょう》したものの……やはり、このぬいぐるみは実用性《じつようせい》ゼロだ)
全然後ろが見えないし。振り返るのも一苦労。重たくて疲れるだけなのだ、実際《じっさい》。
――外見は気に入っているのだが。
向こうの雑木林から、激《はげ》しい銃撃の音が聞こえてくると――かなめはその場で頭を抱《かか》えた。
(はじまった……。きっとソースケだわ)
だれと撃《う》ち合っているのだろう? そういえば、若菜さんの姿《すがた》が見えないが。
そもそも、自分はなぜこんな場所をうろついているのだろう? たしか、恭子を襲った変質者を、おびき寄せるためのオトリとして、この暗い夜道を……。
「ホントに出てくるのかしら……?」
なんとなく、バカバカしくなってきた。
それよりも、宗介を止めるべきだ。若菜さんとドンパチしているのだとしたら、相手に大怪我《おおけが》させる前に――
(急ご……)
かなめはきびすを返した。銃声のする方角へ向かおうと、元来た道を逆戻《ぎゃくもど》りする。
そこで。
ゆらりと、彼女の前に人影《ひとかげ》が現《あらわ》れた。
黒のコート。手にはピアノ線とヘアブラシ。そして頭に、お馬さんのかぶりもの。うつろな視線と、不気味《ぶきみ》な手つき。
まちがいない。恭子を襲った変質者――『ぽに男《お》』だ。
「ぽに……」
「う……」
かなめは立ち止まり、後ずさった。その姿を聞いてはいたが、やはり、こうして、実際《じっさい》に間近《まぢか》で見ると……。
「へ……変態……」
「ぽに……?」
「だれかっ!? 変態ですっ! それも、きわめて特殊《とくしゅ》な変態ですっ! 助けてっ!」
かなめは叫び、逃げ出した。
ぽに男は両手をあげて、それを追う。背筋《せすじ》を伸《の》ばし、高速で。もしも『素早《すばや》いゾンビ』がこの世にいたら、たぶんこんな感じだろう。
それだけに、かなめの恐怖《きょうふ》はすさまじかった。捕まったところで、髪型を変えられるだけだということも、忘れてしまうほど。
「い、いやあぁ〜〜〜〜〜っ!!」
「ぽに、ぽに……」
逃げるかなめ。追う変態。
夜道では追跡劇《ついせきげき》。林の中では銃撃戦。
頭のどこか――良識《りょうしき》をつかさどる部分が、『なにやっとるんだ、あたしらは……』と深く嘆いていた。
激闘《げきとう》は続いていた。センサーがいくらか回復《かいふく》したボン太くんと、アドレナリンでバリバリに興奮《こうふん》した若菜陽子が、互《たが》いを撃ち合い、しのぎ合う。
「ふ……ふははははははっ!」
木々の間を駆《か》け抜けながら、若菜陽子は高笑いした。もはや自分が見えていない。
「楽しいっ! 楽しいわよ、ボン太くんっ!? もっとわたしを楽しませてっ!!」
「ふもっふ!」
陽子の叫びに応《こた》えるように、ボン太くんは散弾銃を撃った。惜《お》しいところで外れた弾《たま》が、あじさいの茂みをずたずたに引き裂《さ》く。
「甘《あま》い、甘いわっ!」
陽子が腰からスタン・バトンを抜き、まっすぐに急接近《きゅうせっきん》してきた。高圧《こうあつ》電流のショックで、敵を気絶《きぜつ》させる警棒《けいぼう》だ。だがボン太くんも負けじと、自分が装備していたスタン・バトンを引き抜き突進《とっしん》する。
両者、バトンの電源をオン。高圧電流が牙《きば》を剥《む》く。
「おお〜〜〜っ!!」
「ふも〜〜〜っ!!」
ばしいっ!!
二つのバトンがぶつかり合う。ビームサーベルのように、スパークしながらつば競合《ぜりあ》い。青白い電光があたりを照《て》らし、夜の大気を熱く焦がした。
「……歯がゆいねぇっ! 墜《お》ちろっ!」
「ふもっふ、ふもっふ」
「ぬいぐるみ風情《ふぜい》が、よく言うっ!」
「ふもっ?」
陽子が力任《ちからまか》せに、スパークするバトンをぐいぐいと押してきた。
「ぬうぅうぅ……!」
「ふもっふ……!」
ボン太くんも容赦《ようしゃ》しない。全体重をかけて、若菜陽子を押し返す。体重で負けている陽子は、じりじりと背中を反らした。
「うっ……く……!」
彼女は巧《たく》みにボン太くんのバトンを反らし、その脇腹《わきばら》に重たい膝蹴《ひざげ》りを入れた。
「ふもっ……!」
姿勢《しせい》を崩《くず》し、吹き飛ぶボン太くん。茂みを突《つ》き破《やぶ》り、雑木林を飛び出す。そのまま林に面した道路の上を転がって、反対側の塀《へい》に背中からぶつかった。陽子がそれを追って林から姿を見せ、ゴムボール銃を突き出す。
ちょうど道路を挟《はさ》む格好《かっこう》で、若菜陽子とボン太くんは対峙《たいじ》していた。
「これで終わりよ! 覚悟《かくご》なさいっ!!」
「ふもっふ……!」
両者が互《たが》いに照準《しょうじゅん》を合わせる。
その射線《しゃせん》の間を――
「変態だってば! 助けて〜〜〜〜〜っ!!」
と、かなめが駆《か》け抜けていった。馬男から逃げて来た、かなめである。
はげしい戦いに没入《ぼつにゅう》していた宗介と陽子は、そんなことなど構《かま》いもしなかった。かなめが通り過《す》ぎた直後《ちょくご》、二人は同時に、銃の引き金を絞《しぼ》る。
どどん!
その結果《けっか》――両者のゴム弾は、かなめを追って、直後に射線上《しゃせんじょう》に飛びこんできたお馬さんの変質者に、両側から命中した。
顔面に。両側から。同時に。
繰《く》り返すが、どちらの撃った弾も、ヘビー級ボクサーのストレート並みの威力だった。
一分後。
路上《ろじょう》にぐったりと横たわる黒コートの男。それをかなめと陽子、そしてボン太くんが見下ろしていた。
「これが問題の変質者。……じゃあ、こっちのこれは?」
ようやく冷静《れいせい》さを取り戻し、肩で息した陽子が、かなめに聞いた。
「あたしの友達です。ね、ボン太くん?」
「ふもっふ」
「そう……。強いお友達がいるのね……」
なにか悪夢でも見ているような顔で、陽子はつぶやいた。ボン太くんの銃刀法違反《じゅうとうほういはん》は気にもかけない。
かなめはため息をついた。まったく、どんな『新兵器』かと思っていれば……。確かに、このぬいぐるみのおかげで、陽子が正体に気付いていないのは事実《じじつ》だが。
「…………」
ボン太くんがかがみ込み、おもむろに馬男を揺《ゆ》する。かぶりものをした変質者は、身じろぎして意識《いしき》を取り戻《もど》すと、つぶやいた。
「ぽに……?」
「ふもっふ」
「ぽに? ぽに?」
「ふもっふ、ふもっふ」
「ぽにぃ……」
ボン太くんが馬男の肩を、やさしく『ふもっ』と叩《たた》いた。かなめはその頭を後ろから乱暴《らんぼう》に小突《こづ》いて、
「得体《えたい》のしれない問答《もんどう》で、わかり合うな!」
「ふもっふ……」
短い腕《うで》で、頭をさすりながらボン太くんは後ろに下がる。気を取り直し、陽子が言った。
「……いずれにせよ、わたしの活躍《かつやく》で犯人はこうして捕まったわけよ。良かったわ」
「若菜さん。あんた、暴《あば》れただけじゃ……」
それには応《こた》えもせず、陽子はその場にかがみこむと、『馬男』のマスクを取り払《はら》った。中から現れたのは、別にどうということのない、平凡《へいぼん》な顔だちの若者だった。
「う……うう」
男ははじめてまともなうめき声をあげた。陽子はカッコよく警察|手帳《てちょう》を見せて、
「変態さん。あなたを逮捕《たいほ》するわ。あなたには黙秘権《もくひけん》も弁護士《べんごし》を呼《よ》ぶ権利《けんり》もありません。だからこの場で洗いざらいゲロしなさい」
「…………」
この時かなめは、本気で『この人に宗介の正体がバレなくて良かった』と思った。
「う……そうなんですか。じゃあ喋《しゃべ》ります」
青年は朦朧《もうろう》としたままつぶやいた。
「言いなさい、どうしてこんな真似《まね》を?」
「だって……ポニーは最高じゃないスか。ショートのうなじの色っぽさ。ロングのしっとりとした女の子らしさ。一見|矛盾《むじゅん》するこの二|要素《ようそ》を、完璧《かんぺき》に兼《か》ね備《そな》えてるんスよ……?」
青年はせつなそうに力説した。
「だってのに……最近電車に乗ってると、もう全然ポニーの子見かけないもんだから……。オレはもう、悲しくて悲しくて」
「だから、こんな猟奇犯罪《りょうきはんざい》を?」
「ええ……。だけど、刑事さん。オレは本望《ほんもう》っス。だってオレは、自分に正直に生きたんだから……。問題ないっス」
「そう。長くなるとは思うけど、ム所でも身体《からだ》に気を付けなさいよ」
「はい。ご面倒《めんどう》かけます」
そのやり取りを聞きながら、かなめはだらだらと額《ひたい》に脂汗《あぶらあせ》を流していた。
(まちがってる……なにかが激しくまちがってるわ……)
頭を抱《かか》える彼女のとなりで、ボン太くんが腕組《うでぐ》みして、なにやら感心《かんしん》したようにうなずいていた。
[#地付き]<押し売りのフェティッシュ おわり>
[#改丁]
雄弁《ゆうべん》なポートレイト
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爆発寸前《ばくはつすんぜん》の情熱《じょうねつ》が、陣代《じんだい》高校美術科|教師《きょうし》・水星《みずほし》庵《いおり》の筆先《ふでさき》をわなわなと震わせていた。
振《ふ》り乱《みだ》した長髪《ちょうはつ》に、無精髭《ぶしょうひげ》。教師というより、むしろミュージシャン然《ぜん》とした風貌《ふうぼう》である。
彼が向き合う亜麻布製《あまぬのせい》のキャンバスは、さまざまな色彩《しきさい》をたたえていた。雪のような白と薄墨色《うすずみいろ》。静謐《せいひつ》のムーンライト・ブルー。寒色《かんしょく》がほとんどなのに、不思議《ふしぎ》な明るさ、温かさが漂《ただよ》っている。
描《えが》かれているのは、女性の立ち姿《すがた》だった。
まず、印象的《いんしょうてき》な絵ではあったが――
「……駄目《だめ》だ」
水星は小さくうめいた。
「……駄目だ。駄目駄目駄目駄目(中略)駄目駄目無駄無駄無駄駄目駄目……だぁーめぇーだぁ〜〜っ!!」
絶叫《ぜっきょう》して、彼は絵筆《えふで》とパレットを、手近のガラス棚《だな》に向かって投げつけた。ガラスが割《わ》れて、リンシード油がぶちまけられる。
「ああ……なぜだ!? なぜうまくできんっ! こんな……こんな絵ではっ! 私の脊髄《せきずい》が切断《せつだん》される! 魂《たましい》がはげしく嘔吐《おうと》するっ! いわば、汚水《おすい》にまみれた捨《す》てるべき梯子《はしご》なのだぁっ!」
がしゃあぁんっ!!
水星庵はキャンバスを壁《かべ》に叩《たた》き付け、手近の石膏《せっこう》モデルを張《は》り倒《たお》すと、美術|準備室《じゅんびしつ》の床《ゆか》をごろごろと転《ころ》がり回った。
イーゼルが派手《はで》に倒れる。棚から教材のデスマスクが落ちて割れる。
「ああ……ど、う、し、てっ! 私は! 万分の一も彼女の美の断片《だんぺん》を切り取り、その上で他物の混交《こんこう》を永久に防《ふせ》いだ全《まった》きステイタスを具有《ぐゆう》なさしめる(中略)なのだっ!? わからない。これは精神的不能《せいしんてきふのう》なのか? 球体《きゅうたい》のごとき虚飾《きょしょく》なのか? つまり……もっと、こう、あれは……彼女は、ああなのにっ!!」
ほとばしる狂気《きょうき》。
ちなみにいまは授業《じゅぎょう》時間なのだが、水星は受け持ちの生徒たちをほったらかしにして、この準備室に引きこもっている。どうあっても、はやくこの絵を完成《かんせい》させたかったのだ。
いとしく、せつない、彼女の姿を。
そうしなければ、自分は死んでしまう。
それは魂の補完行為《ほかんこうい》であり、行き場のない激情《げきじょう》を静《しず》めるための、唯一《ゆいいつ》の手段《しゅだん》だった。
だがしかし、いやはやまったく、その作業《さぎょう》のなんと困難《こんなん》なことか……!
そんな調子《ちょうし》で難解《なんかい》・奇怪《きかい》な言葉をぶちまけ、せまく薄暗《うすぐら》い部屋《へや》の中で暴《あば》れていると。
ばあんっ!
隣室《りんしつ》――美術室にいた男子生徒が、騒音《そうおん》を聞きつけ、扉《とびら》をぶち破《やぶ》って飛び込んできた。
「先生、敵《てき》はっ!?」
拳銃《けんじゅう》を片手に、緊迫《きんぱく》した声で叫《さけ》んだのは、二年四組の相良《さがら》宗介《そうすけ》だった。むっつり顔にへの字口。最大限の警戒《けいかい》をしているためか、眉根《まゆね》のしわが一層《いっそう》深い。
水星は血走った目で、宗介をくわっとにらみつけた。
「敵、敵だと……!?」
「そうです、敵はどこにっ!?」
「敵。そう、敵は……ここにいるっ! 私のいる、この空間こそが敵なのだっ!」
水星は『ばっ!』と両腕《りょううで》を広げた。宗介はせわしく全方位に銃口《じゅうこう》を向けながら、
「つまり、どこです?」
「わからんか、ここだっ!」
「だからどこですっ?」
「ここは、ここなのだぁっ!」
興奮《こうふん》し、天井《てんじょう》を仰《あお》いで絶叫《ぜっきょう》する。その仕草《しぐさ》に反応《はんのう》して、宗介が銃口を水星の頭上に向けた。
「上かっ……!?」
たん、たたたたんっ!!
五発の銃弾《じゅうだん》が、天井に撃《う》ちこまれる。小さな弾痕《だんこん》が穿《うが》たれ、なにかの金属が潰《つぶ》れる音がした。
「…………」
つかの間。
二人は沈黙《ちんもく》して、その場に棒立《ぼうだ》ちしていた。銃口から立ちのぼる白煙《はくえん》。水星がただ呆然《ぼうぜん》とする一方で、宗介は油断《ゆだん》なく天井の弾痕をにらみつけている。
そこで――
「ソースケぇっ!!」
続いて部屋に駆《か》け込んできた女子生徒――千鳥《ちどり》かなめが、宗介の背中を『がすっ!』と蹴《け》り飛ばした。
腰《こし》まで届《とど》くロングの黒髪《くろかみ》。腕《うで》まくりをして、面相筆《めんそうふで》を握《にぎ》り締《し》めている。
前のめりに倒れた宗介は、床《ゆか》に手をつき、振《ふ》り返った。
「なにをする、千鳥」
「うるさいっ! いい加減《かげん》に、むやみやたらと発砲《はっぽう》する習慣《しゅうかん》を直しなさいっ!」
怒鳴《どな》りつけられても、彼は大真面目《おおまじめ》にかなめを見据《みす》えた。
「下がっていろ。まだ天井裏に、水星先生を狙《ねら》った刺客《しかく》が潜《ひそ》んでいる可能性《かのうせい》が――」
「刺客? 天井裏? あんた、いったいなにを……って、あ、冷たい。……なに?」
ぽたりと、首筋《くびすじ》に落ちてきた水滴《すいてき》を片手でぬぐって、かなめが天井を見上げた。宗介と水星も、それに習った。
天井の弾痕、そして石膏ボードの隙間《すきま》から、ぽたぽたと水が漏れていた。
「…………?」
次の瞬間《しゅんかん》。
天井の石膏ボードが『ばりんっ!』と割《わ》れて、大量の水が三人に降《ふ》り注《そそ》いだ。どしゃ降《ぶ》りの雨どころか、滝のような勢《いきお》いだった。
天井裏の水道管が、宗介の銃弾で破裂《はれつ》したのだ。
「うぉっ」
「う……きゃあぁ〜〜〜〜っ!!」
落ちてきた建材《けんざい》で頭を打ち、宗介が昏倒《こんとう》する。かなめが悲鳴《ひめい》をあげ、すべって転ぶ。二人はもつれ合い、あたかも水洗便所《すいせんべんじょ》の雲古《うんこ》のごとく、部屋の隅《すみ》へと押《お》し流されていった。
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「ああ……」
かたや水星は、激流《げきりゅう》に身を打たれながら、呆《ほう》けたようにその場に突《つ》っ立っていた。
「そうだ……なにもかも洗い流してくれ……私の心から、あの女《ひと》を覆《おお》い隠《かく》す暗雲《あんうん》を……きれいさっぱり、消し去ってくれ……」
深く病《や》んだ目で、ぶつぶつとつぶやく彼の声を、宗介とかなめはまったく聞いていなかった。
二〇分後の放課後《ほうかご》。人気《ひとけ》のない女子|更衣室《こういしつ》で――
「へっくしっ……! えーい、ちきしょ!」
オヤジくさいくしゃみを一発かますと、かなめは肌《はだ》に張《は》りつくブラウスをいそいそと脱《ぬ》いだ。ロッカーの戸板《といた》に、濡《ぬ》れた衣類《いるい》をべちゃり、とひっかける。
水のしたたる、しなやかな肢体《したい》。肌《はだ》が透《す》けて見える白の下着。男子が見たら、反り返って悶絶《もんぜつ》しそうな艶姿《あですがた》である。
もっとも、この場にいるのはかなめともう一人、教師の神楽坂《かぐらざか》恵里《えり》だけだったが。
「ほら、これで拭《ふ》いて」
そばに立っていた恵里が、バスタオルをよこした。
「あ、どうも」
かなめは礼を言ってから、タオルでていねいに髪《かみ》を拭《ふ》く。その様子《ようす》を眺《なが》めながら、恵里が言った。
「いつもすまないわね、千鳥さん。あなたにばかり、彼の面倒《めんどう》を見させてしまって」
「いえ? まあ、毎度のことですし」
「そう。ならいいんだけど……」
「いや、別にいいわけでは」
「ふう……」
恵里はかなめの言葉に耳も貸《か》さずに、一人、ため息をついた。
神楽坂恵里は英語科の教師で、かなめのクラスの担任《たんにん》だった。年は二十代の半《なか》ば。ショートのボブカットに、ベージュのスーツ姿《すがた》。眉目《びもく》のきりりとした、生真面目《きまじめ》そうな容貌《ようぼう》の持ち主だ。
実際《じっさい》、恵里は真面目な教師だった。
いつも宗介が騒《さわ》ぎを起こした後は、かなめと一緒《いっしょ》になって彼をガミガミと叱《しか》ったり、一人で天を仰《あお》いで大声で嘆《なげ》いたりする。
(ああ、主《しゅ》よ、彼をわたしのクラスに遣《つか》わしたのも試練《しれん》だというのですか!? それならばわたしは耐《た》えてみせます! ですけど、できれば、もうすこし違《ちが》った趣向《しゅこう》にならないのでしょうか? ここまでトリッキーな試練はちょっと。およそ物事《ものごと》には限度《げんど》というものがあるはずです!)
……とか、そんな感じである。
その彼女が、最近どうも元気がない。
なにが起きても上《うわ》の空《そら》で、英語の授業中もぼおーっとしている。きのうなどは、黒板に過激《かげき》で暴力的《ぼうりょくてき》なラップを書き連ねて、『千鳥さん、訳《やく》しなさい』とかのたまったりした。
(えーと……。俺《おれ》はモノホンのギャングだぜー。警官《けいかん》を殺せ、白人を殺せ。俺のアレは最高だぜ、イエー)
かなめがそのラップを正確に訳したら、彼女は『なんてことを言うんです、あなたは!?』とか言って真《ま》っ青《さお》になった。
ともかく、変なのである。
それが気になったかなめは、体育のジャージを着ながら彼女にたずねた。
「先生。なんか心配事でもあるんですか?」
「え……?」
「最近、元気ないから。あたしで良かったら、相談《そうだん》に乗りますよ」
かなめが気軽に言うと、恵里はすこしの沈黙《ちんもく》のあと、いきなり涙《なみだ》ぐんだ。
「先生……?」
「ご、ごめんなさい……。生徒のあなたに、そんな気を遣《つか》ってもらうなんて。先生、とってもうれしいわ」
「はあ」
「でも、いけないっ。これは先生が一人で解決《かいけつ》しなきゃならないことなんだから。生徒の手を借りて、この問題をどうこうしようだなんて……それこそプロ失格《しっかく》だと思うの。だけど、だけど、ああっ……! やっぱり話すわけにはいかないわっ!」
宝塚《たからづか》風《ふう》の大仰《おおぎょう》なジェスチャーをまじえて苦悩《くのう》する。着替《きが》えの終わったかなめは、その横顔を『ほけー』と眺《なが》めていたが、やがて気を取り直して言った。
「そーですか。じゃ、あたしはこれで」
そそくさとロッカー室から出て行こうとする彼女の袖《そで》を、恵里がはっしとつかんだ。
「待って、千鳥さん」
「なんです。話せないんじゃなかったんですか」
「それはそうなんだけど……でも、やっぱり。だって……」
「じゃあ早く話してください。あたし、コンビニにパンツ買いに行きたいんです」
「ああ……そんなこと言わないで。わたしのぱんつ、あげるから」
「いりません……!!」
おろおろと、スカートのすそに手を伸《の》ばした恵里を、かなめは赤くなってどやしつけた。
「正気ですか!? そんな下品なボケを……先生らしくもない!」
「そ、そんなに怒《おこ》らなくても……」
うろたえる恵里。これではどちらが教え子かわかったものではない。こんなに弱気になった恵里を見るのは初めてだった。
「……いったい、なにがあったんです? ソースケとは関係なさそうですけど。やっぱり話してください」
「それは……その。職場《しょくば》の……人間関係のことなの」
「人間関係、ですか」
「実は……。美術の……水星先生のことなんだけど」
ためらいがちに、恵里は事情《じじょう》を話した。
神楽坂恵里と水星庵は、『単なる同僚《どうりょう》』といってさしつかえない間柄《あいだがら》だった。科目《かもく》も違《ちが》うし、担任《たんにん》を務《つと》める学年も違う。顔を合わせることも、日に一度か二度くらいだ。
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その二人が先月、退職《たいしょく》した地学教師の送別会の幹事《かんじ》を務めた。水星はそういう仕事が不慣《ふな》れだったのだが、恵里があれこれと面倒《めんどう》を見て、送別会はつつがなく終わった。
それがきっかけで、恵里と水星は前よりもいくらか親しくなった。
で……つい先週の日曜日、水星は『世話《せわ》になったお礼です』と言って、彼女を映画と食事に誘ったのだったりする。
恵里は喜んでそれに応《おう》じたそうな。
「着ていく服に悩《なや》んだのなんて、久しぶりだったわ。本当、楽しかった……」
心なしか、うっとりとした声で説明する。
その様子を見て、かなめは驚《おどろ》きを隠《かく》せないでいた。あの半分マッドな水星先生と、マジメ人間の神楽坂恵里とが、ごく個人的にデートをしていたとは……!
「ははあ……。先生がねえ……。やっぱり人の子だった、ってことですか」
「え?」
「だって、好きなんでしょ?」
「そ、それは……! 別に、決して、そういう次元じゃなくて。でも、なんとなく、その。いい人だなぁ、と思っただけで……」
恵里はしどろもどろになる。教師の威厳《いげん》などあったものではない。
「まあいいや。で……それのどこに問題があるんです?」
たずねると、にわかに恵里の顔が曇《くも》った。
「その日は……良かったんだけど。翌日《よくじつ》から、急に水星先生がよそよそしくなって」
「はあ」
「顔を合わせても会釈《えしゃく》するだけで、すぐにその場から立ち去ってしまうの。まるで……まるで……わたしを避《さ》けてるみたい」
しゅんとする恵里。
かなめは、水星がきょうの授業中、ほとんど美術準備室に引きこもっていたことを思い出した。それがなにか関係あるとも思えないが――
「なんかマズいことしたんですか? ユダヤ人|陰謀説《いんぼうせつ》を力説《りきせつ》したとか、『昔、ジュリアナ東京で扇子《せんす》振《ふ》って踊《おど》ってた』と告白したとか」
「まさか! わたしはそんな異常者《いじょうしゃ》じゃないわ! ただ、ちょっと……映画の途中《とちゅう》で居眠《いねむ》りして、サーロイン・ステーキを四人前食べたのは……良くなかったと思ってるけど」
「……そりゃ、怒《おこ》りますよ」
かなめが肩《かた》を落とすと、恵里はまたまた泣きそうな顔をする。
「う……やっぱりそうかしら」
「ええ。あたしだったら、三人前でやめときますね」
「そうよね、それが普通《ふつう》よね……」
「そうです、それが普通です」
二人はしみじみとうなずいた。
「だからね……。彼、きっとわたしに幻滅《げんめつ》したと思うの。誠実《せいじつ》さのかけらもない、貪欲《どんよく》な女だと思ったかも。もうダメだわ……」
いよいよ恵里が落ち込んでいく。かなめはそれを見るに見かねて、フォローしてやった。
「まあ、そこまで気に病《や》むこともないんじゃないですか? 避けられてる、っていうのも、ひょっとしたら気のせいかもしれないし」
「そう……? だといいんだけど」
「なんだったら、あたしがさりげなく探《さぐ》りを入れてあげましょうか。水星先生に」
彼女は目を丸くした。
「まあ……本当?」
「ええ。どうせきょうはヒマだし」
そう言って、かなめはにっこりと笑った。
宗介と水星は、水浸《みずびた》しになった美術準備室の床《ゆか》を黙々《もくもく》と雑巾《ぞうきん》がけしていた。
不景気《ふけいき》な顔で、たっぷりと水をふくんだ雑巾を、バケツの上で絞《しぼ》っては――また床を拭く。その繰《く》り返しである。
「……相良くん」
ようやく床がきれいになってきたところで、ぽつりと水星が言った。
「なんでしょう」
野戦服姿《やせんふくすがた》の宗介は、雑巾がけの手を休めることなく答えた。
「あの絵を……どう思うかね?」
水星は壁際《かべぎわ》に立てかけられた、一枚の油絵を指さした。授業中、彼が取り組んでいたのとは別の――もっと古い絵だ。
それは風景画だった。うすい霧のたちこめた、静かな朝の森林が描《えが》かれており、ミストグリーンと灰色のバランスが美しい。見ているだけで、その場に一人でたたずんでいる気になるような――そんな絵だった。
「これですか」
宗介はその油彩画《ゆさいが》のそばまで歩いていって、注意深い目で観察《かんさつ》した。キャンバスの木枠《きわく》をつつき、その裏側《うらがわ》を覗《のぞ》きこむ。
「緊急時《きんきゅうじ》の盾《たて》には使えないでしょう。ただの布では、二二|口径弾《こうけいだん》さえ防げません」
「…………」
「裏側に超《ちょう》アラミド繊維《せんい》とセラミック・プレートを貼《は》ってみてはいかがです。そうすれば、五・五六ミリ弾まではストップできるかと思いますが」
「いや。私が聞いているのは……絵そのものの内容のことなのだが」
言われて、彼はようやく油彩画そのものに注目した。まるでその存在に、はじめて気付いたような風情《ふぜい》である。
三〇秒ほど、宗介はその風景画を眺《なが》めた。
「森林ですね」
「……それだけかね?」
「一見、安全な森です。毒《どく》ヘビやヒルなどの危険《きけん》な生物もいない。地雷《じらい》などの罠《わな》もなさそうですが――ただ、この奥《おく》の茂《しげ》みが、どうもくさいかと」
宗介は絵の中の一点を指さした。そこは狡猾《こうかつ》な狙撃兵《そげきへい》が潜《ひそ》むのに、絶好《ぜっこう》のポジションだったからだ。
宗介の見解《けんかい》を聞いて、水星は落胆《らくたん》した。
「そうか……くさい[#「くさい」に傍点]か。陳腐《ちんぷ》なのだね。残念だ」
「気を落とすことはありません、先生。まず素人《しろうと》には見抜《みぬ》けないでしょう」
この二人は、いつも顔を合わせるたびに、一見まともで、実はまったく噛み合っていない会話を繰り広げるのだった。
それはともかく。
「この絵は……私が学生時代に描いたものでね。ちょっとした自信作なのだが。それでもこの反応《はんのう》だ。たぶん、私には才能がないのだろうな。これでは、いま取り組んでいる絵を完成させることなど、とうてい……」
水星はため息をついた。
宗介はすぐそばのイーゼルに乗った、問題の絵の方に目を向けた。絵には埃《ほこり》よけのシートが被《かぶ》せてあるので、中身は見えない。
「どういった絵ですか」
「いや……! 見ないでくれ」
シートを外《はず》そうとした宗介を、水星が手で制《せい》する。
「なぜです」
すると水星は、なぜか狼狽《ろうばい》しながら、
「……み、未完成《みかんせい》の作品は、人には見せない主義《しゅぎ》なのだよ。ただ、その……端的《たんてき》な説明はしてもいいだろう。その絵は……言うならば、私の内在から来たラディカルなフォルムに、かりそめの躍動《やくどう》を与《あた》える企《くわだ》てなのだよ。そう。それはすなわち自然に対して奴碑《ぬひ》の感を抱《いだ》かず、常にどこか小さきゴッドのような気宇《けう》を有《ゆう》するという……これは漱石《そうせき》の言葉でもあるのだが、つまりそういう作品なのだ。わかるね?」
「わかりません……」
宗介は、こめかみに脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべて即答した。
「むう……。しかし、こうやって君に説明してみたら、そこはかとなく創作意欲《そうさくいよく》がわいてきた気がするよ。そう、ちょうど東の空の薄明《はくめい》のように……」
水星はどこか遠くを見るように、目を細めた。
「それはなによりです」
「うん。よし、もうひと頑張《がんば》りしてみるかな」
「では、自分にも手伝わせてください。先生の作業を妨《さまた》げたのは、自分の責任でもありますので――」
律義《りちぎ》に言うと、水星は笑って手を振《ふ》った。
「はっはっは。ならば私を一人にしてくれたまえ。集中したいのでね」
「了解《りょうかい》しました。先生をお一人にすべく、力を尽《つ》くします。それでは」
敬礼《けいれい》すると、宗介は部屋を出ていった。
美術準備室への廊下《ろうか》を歩くうちに、かなめはだんだんと後悔《こうかい》の念《ねん》にとらわれはじめた。
『探りを入れる』などと、無邪気《むじゃき》に安請《やすう》け合いしてしまったものの――
(うー……。考えてみたら、あたし、水星センセって苦手《にがて》なのよね……)
それも無理《むり》からぬことだった。
水星教諭と話すのは、疲《つか》れるのだ。やたらと小難《こむずか》しいゲージツ用語やらブンガク用語やらを並《なら》べ立て、持って回った表現を多用《たよう》し、けっきょくのところ、なにが言いたいのかまるでわからない。
(まあ、他《ほか》ならぬ神楽坂センセのためなんだから。ガマンしなくちゃ)
などと、自分に言い聞かせる。ドジで迂闊《うかつ》で融通《ゆうずう》のきかない神楽坂恵里だったが、かなめやほかの生徒たちは、彼女を教師として信用し、また好きでいられる強い理由があったのだ。それは中止になった修学旅行での、彼女がとった、ある行為《こうい》のおかげだった。恵里が生徒を大事に思っているのは、口先だけではないのだ。
美術準備室まで来ると、宗介が扉の前で腕《うで》を組み、棒立ちしていた。野戦服姿で、歩哨《ほしょう》のように背筋《せすじ》を反《そ》らしている。
「ソースケ。もう片付いたの?」
声をかけると、宗介はうなずいた。
「肯定《こうてい》だ。水星先生は、ふたたび絵画に取り組んでいる。一人で集中したいそうだ」
「あ、そう。ちょっとごめんねー」
準備室に入ろうとすると、宗介が彼女を通せんぼした。
「?……なによ?」
「先生は取り込み中だ。入ってはいけない」
「あたしはその先生に用があるのよ。通してちょうだい」
「駄目だ。申《もう》し訳《わけ》ないが……」
「もう。ちょっと聞きたいことがあるだけなの! いいでしょっ!?」
かなめが頬《ほほ》をふくらませると、宗介は考えあぐねた様子で、
「では……俺が用件《ようけん》を聞こう。水星先生に伝えてやる」
「はあ? ……ったく」
などと言いながらも、かなめは宗介が水星教諭と比較的《ひかくてき》親しいのを思い出した。苦手な自分よりも、宗介に探りを入れさせてみた方が本音《ほんね》が聞き出しやすいかもしれない……そう考えて、彼女はしぶしぶうなずく。
「じゃあ……あたしの代わりにね、先生から聞いてきて欲しいことがあるんだけど」
「構《かま》わんぞ。なんだ」
かなめは恵里の名前を伏《ふ》せて、かいつまんだ事情を話した。
「ふむ」
「――要するに、はじめてデートする相手がやたらと食欲旺盛《しょくよくおうせい》だったりしたら、どう思うか。たぶん『なんとも思わない』『元気でいい』とか、そんな答えだろうけど、それとなく聞き出して」
「了解《りょうかい》した。待っていろ」
宗介はうなずき、美術準備室の奥に姿を消した。
宗介が部屋に入ると、水星は例の絵に取り組んでいる真っ最中だった。
「先生」
「なんだね」
乱れた長髪《ちょうはつ》を右手でくしゃくしゃと掻《か》いて、水星は答えた。
「大食いの女をどう思います」
「…………なに?」
「大食いの女、です。あなたが見ている目の前で、生焼けの肉二ポンドをむさぼり食い、きれいに平らげる。そういう女をどう思いますか」
宗介は彫刻《ちょうこく》の一つをそれとなく手に取り、それとなく聞いた。声色《こわいろ》に限《かぎ》ってのみ言えば、まことに見事《みごと》なそれとなさ[#「それとなさ」に傍点]であった。
「よくわからんが……それは下品だね」
水星は渋《しぶ》い顔で答えた。
「下品、ですか」
「ああ。およそ獣性《じゅうせい》というものにも貴賤《きせん》があると私は思う。そこに必ずしも霊長的《れいちょうてき》、かつ文明的なコモンセンスを持ち込むことは(中略)だが、(中略)なのだ。なぜか。それはハエの交尾《こうび》にさえ、(中略)な自然の持つ優美さや秩序《ちつじょ》が存在するからだよ。要はその存在の本質的なノビリティなのだ」
「なるほど。お邪魔《じゃま》しました」
彼は廊下に戻っていった。
「あ……早かったね」
離《はな》れた廊下で待っていたかなめが、宗介を出迎《でむか》えた。
「どうだった? なんて言ってた?」
特別に興味津々《きょうみしんしん》、といったわけでもなかったが、かなめはたずねた。
「うむ。『下品だ』と」
「え……」
「いろいろ言っていたが、その一語に尽《つ》きるな。ほかにはハエの……そう、そんな女に比べれば、交尾中のハエの方が美しい、とも言っていた」
「な、なんと……」
深刻《しんこく》な面持《おもも》ちで腕組《うでぐ》みしたかなめを見て、宗介は眉《まゆ》をひそめた。
「なにか問題があるのか?」
「うーん……。いや、別にいいの。とにかく、ありがと」
礼を言って、かなめはその場を立ち去った。
どう話したらいいものか。
職員室のそばで、かなめが頭を悩《なや》ませていると――背後《はいご》からいきなり声をかけられた。
「千鳥さん?」
「ひゃっ……」
飛び上がって振《ふ》り返ると、教材のプリントを抱えた恵里が立っていた。
「どうしたの、そんなに驚《おどろ》いて。大丈夫《だいじょうぶ》?」
「いえ。別に。その」
動揺《どうよう》を取り繕《つくろ》うかなめを、恵里は上目遣《うわめづか》いに見た。
「それで……どうだった?」
「あー。その件なんですが……」
かなめは一瞬《いっしゅん》迷《まよ》ったが、やはりここは正直に教えてやるべきだろう、と考えた。
「なんと申しましょうか。水星先生は……その、やっぱり、少食な女性の方が好みみたいです。残念ながら、どうも……上品な印象《いんしょう》は……与《あた》えていないようで」
しばらくの間、恵里は無反応《むはんのう》だった。
そして五秒後、いきなりプリントをどさどさと落とすと、ふらふらとよろめき、壁にすがりついた。
「せ、先生……!?」
「だ……大丈夫。大丈夫よ、千鳥さん。ただ、ちょっとめまいがしただけ……。そう、ちょっと天地がひっくり返って、時間と空間の区別が曖昧《あいまい》になって、全身の血液が工業|廃液《はいえき》に入れ替わったような――そんな気がしただけだから」
「先生、それ、深刻《しんこく》です」
「いいの。平気よ。全然、平気なんだから。う……ぐすっ」
などと言いながらも、露骨《ろこつ》に打ちひしがれた恵里を見て、かなめはおろおろした。
「あの、でも。先生の名前を出したわけじゃないから、単に一般論《いっぱんろん》だったのかもしれませんよ? だから、それほど悲観《ひかん》しないで」
「ああ……でも。え……そうなの?」
恵里は顔を上げた。
「ええ。それにほら、『あばたもえくぼ』って言うじゃないですか! たとえ先生がどれだけ迂闊《うかつ》だったり、大食いだったり、その割にあんまり胸がなかったりしても……水星先生は気にしないかもしれませんよ? 神楽坂先生なら、全部オッケーって思うかも」
「そ……そうかしら」
気を悪くすることも忘れて、恵里は頬を赤くする。
「そうですよ! ともかく、こうなったら、もっと直接的に『神楽坂先生をどう思うか』って聞いてみましょうか」
「そ、それは……! ちょっと、困るわ」
「でも、このままじゃスッキリしないでしょう? 白黒つけて、今夜はグッスリ眠《ねむ》る、と。ダメならヤケ酒あおってみる。やっぱりそうするべきですよ」
「うーん……でも」
かなめは人差し指をあごにやって、
「だったら……そうですね。『生徒会の機関紙《きかんし》の企画で、いろんな先生同士の相性《あいしょう》を星占《ほしうらな》いしたら、神楽坂先生と水星先生が一番良かった』……とか、そういう口実《こうじつ》で聞きますから。それなら不自然じゃないでしょ? ね? ね?」
すると恵里は小さな吐息《といき》を洩《も》らし、こくり、とうなずいた。
「そうね。それなら……お願いしようかしら」
「よし、決まり! じゃっ!」
かなめはふたたび美術準備室へと向かった。
準備室までやってくると、いまだに宗介が扉の正面で仁王立《におうだ》ちしていた。
「……やっぱり、まだ入っちゃ駄目なの?」
「うむ。すまないが。当分は無理《むり》だと思ってくれ」
背筋《せすじ》を伸ばし、『休め』の姿勢《しせい》のまま、宗介は答えた。
「じゃあ……もう一回聞いてきてくれない? 今度はね――」
かなめはざっと説明した。
「了解《りょうかい》した。『神楽坂先生をどう思うか』だな」
「そう。お願い」
「待っていろ」
宗介は扉の奥に消えた。
相変わらず、水星は未完成の絵に必死で取り組んでいた。宗介はすまないと思いながらも、声をかける。
「先生」
「う……なんだね」
「他愛《たあい》のない質問《しつもん》かもしれませんが――神楽坂先生をどう思いますか?」
「…………なに?」
水星はぴたりと手を休め、キャンバスの向こうから宗介をうかがった。
「な……なぜそんなことを聞くんだね」
「生徒会が実施《じっし》した占星術《せんせいじゅつ》で、興味深《きょうみぶか》い結果が出ました。あなたと相性がいいそうです。それについてコメントを」
「か、神楽坂さんはなんと言ってる……?」
「まだ聞いていません」
水星はなにやら難《むずか》しい顔をしていたが、やがて――重たげに口を開いた。
「そんな占いは……信じられん。彼女など……とても釣《つ》り合わんよ」
「釣り合いませんか」
「ああ。私は……彼女の横顔を見ると、心臓《しんぞう》に針《はり》を突《つ》き立てられたような気分になる。ただの美への憧憬《しょうけい》ではないのだ。もっと違《ちが》った……ほとんど怪物的《かいぶつてき》ともいえるような……そういう、強いものだ。プリミティブな。……そう、私にとって、彼女は原始的なのだ。それは人間が抱《かか》えたエロスとタナトスの葛藤《かっとう》を軸《じく》に据《す》えた、いわば神経症的《しんけいしょうてき》なパラドックスを越える(中略)で、これはフロイトの言葉を借りれば(中略)ということだ。それはつまり彼女が――」
要するに、好きなのか嫌いなのか。
それさえ宗介にはわからなかった。ただ、彼は自前の知性と感性を総動員《そうどういん》して、水星の言葉を要約《ようやく》・記憶《きおく》することに努めた。
「――と、思うのだが。これでいいかな?」
と、言われても。
宗介は珍《めずら》しく、こめかみの辺《あた》りを指先で押さえながら、苦しそうにうなずいた。
「……はっ。これで結構《けっこう》……だと思います。ありがとうございました」
額《ひたい》に汗《あせ》を浮《う》かべ、難しい顔で出てきた宗介を見て、かなめはたちまち不安になった。
「……どう言ってた?」
「うむ……どう表現したらいいのか」
宗介は腕組《うでぐ》みし、小さくうなり、なんとか頭の中を消化しようと努めるように、小刻《こきざ》みにうなずいた。
「水星先生は……神楽坂先生の顔を見ると、死ぬほど気分が悪くなるらしい」
「は……?」
「まるで怪物みたいに思えるそうだ。あまりにも原始的で……エロスと……あと、なにやらがあって、とにかくエロい。神経症を患《わずら》っているような人間にも見えて……とても自分とは釣り合わない……? そのようなことを……言っていたように思う」
最後の方は、妙《みょう》に小さな声だった。
「それって『嫌い』ってことなの?」
「俺もいま思ったが……どうも好意ではなさそうだな」
「うー……そうかしら、やっぱり」
「よくわからんが、水星先生は神楽坂先生のことを『怪物みたいで、原始人で、エロくて、神経症患者で、気分が悪くなる[#「怪物みたいで、原始人で、エロくて、神経症患者で、気分が悪くなる」は太字]』と言っているのだぞ」
「それ、なにか間違ってるような気が……」
そのとき、背後に小さなすすり泣きの声を聞いて、かなめははっと振り返った。
「せ、先生……!?」
そこに立っていたのは、ほかならぬ神楽坂恵里だった。迷子《まいご》の子供みたいに頼《たよ》りなげな様子で、両目を真っ赤に腫《は》らしている。
「い、いつからそこに?」
「……『それって「嫌い」』のあたりから」
「うっ……」
「やっぱり止《や》めてもらおうと思って、ここまで来たの……」
どこか恨《うら》めしそうに、恵里はつぶやいた。
「あ……あのですね? これはまだ、はっきりとした話じゃなくて――」
「滑稽《こっけい》でしょう……? いっつも生徒たちには、したり顔でエラそうなコト言ってるのに。けっきょく、ただのみっともないバカ女だってことなのよ。どうせ世間知《せけんし》らずだし、大食いだし、いまだに処女《しょじょ》だし……。わたしって……わたしって……」
自虐《じぎゃく》モードに入った恵里を、かなめは必死になってなだめる。
「そんな。先生、自分を責《せ》めないで」
「そうです、先生。それに原始人は、食べられる時にたくさん食べておく必要があったのです。気に病《や》むことはありません」
「あんたは黙《だま》ってなさいっ!」
かなめが怒鳴《どな》りつけ、宗介が首をすくめる。そして恵里はふらふらと、その場を去ろうと後ずさり――
美術準備室の扉が、勢《いきお》い良くがらりと開き、水星が飛び出してきた。
「なんだね、騒々《そうぞう》しい! いま取り込み中だ、騒《さわ》ぐならほかで……。……?」
かなめたちを叱《しか》り付けようとして、水星は途中《とちゅう》で口籠《くちご》もった。恵里の存在に気付いたからだ。彼女が泣いているのを見て、彼はぎょっとした。
「か……神楽坂先生。どうしたんです?」
狼狽《ろうばい》して、説明を求めるように宗介とかなめを見る。二人は顔を見合わせてから、ばらばらにそっぽを向いた。かなめは口笛《くちぶえ》を吹《ふ》き、宗介は銃《じゅう》の解体整備《かいたいせいび》をはじめる。
「水星先生……。わたし……あなたに謝《あやま》らないといけませんね……」
背中を向けて、恵里は苦しそうに言った。
「は……?」
「気を利《き》かせて断われば良かったのに、食事のお誘《さそ》いなんかに応じてしまって……。図々《ずうずう》しかったと思ってますわ、本当に」
「な……なにをおっしゃるんです。僕は決して――」
「いいえ! いいんです。たしかに、わたしって地味《じみ》で退屈《たいくつ》な女だし。でも……だけど」
前置きしてから、恵里は振《ふ》り返って、水星を涙目《なみだめ》できっとにらみつけた。
「『エロい』とか『原始人』とか『神経症』とか、そういう中傷《ちゅうしょう》はあんまりですっ! そんな陰口《かげぐち》は、絶対に言わない人だと思ってたのに! わたし、あなたを軽蔑《けいべつ》しますっ!」
「な……」
そのとき宗介とかなめは、水星の頭上に巨大な『ドギャアァァン』という書き文字が出現《しゅつげん》したのを、たしかに目撃《もくげき》した。
「二度と話しかけないでください! では、失礼しますっ!!」
涙を拭《ふ》くと、恵里はその場から走り去った。
置き去りにされた水星は、ただ呆然《ぼうぜん》と、天井を見上げていた。
「あのー……。先生?」
無反応《むはんのう》。……いや、彼はゆっくりと宗介を見やって、言った。
「ライターを……持っているかね?」
「ありますが」
「貸《か》してくれたまえ」
宗介からジッポー・ライターを受け取ると、水星はふらふらと美術準備室に引き返していく。彼は部屋の奥まで歩いていって、ついさっきまで取り組んでいた絵画に――火を点《つ》けようとした。
「ちょ……!!」
真っ青になって、かなめが止めに入る。
「止めないでくれ、千鳥くん!」
「なにをするんです!? 火事になっちゃいますよっ!」
「いいんだ、すべて燃えてしまえばいい! こんな絵など……こんな世界など! もはや……もはやっ! くっ、うおぉ〜〜〜っ!」
ぶわーっと涙を流して、水星は絶叫《ぜっきょう》した。宗介が彼を羽交《はが》い絞《じ》めにして、かなめがライターを取り上げる。
「……ったく、なんだって言うんです!? だって先生、神楽坂先生のこと、別に――」
そこまで言って、かなめは口をつぐんだ。水星の絵に、はじめて目がとまったのだ。
「こ、これは……」
「なるほど」
その絵を見て、かなめはもとより、朴念仁《ぼくねんじん》の宗介さえもが納得《なっとく》した。
保健室のベッドに潜《もぐ》り込んで、恵里はぐずぐずと泣いていた。
「あのー、先輩《せんぱい》。大丈夫ですか?」
養護《ようご》教諭の西野《にしの》こずえが心配顔でたずねる。彼女と恵里は高校時代からの付き合いで、ブラスバンド部で一年違いの先輩後輩なのだったりする(しかもこの学校の出身だった)。
「ぐすっ。あんまり……大丈夫じゃないかも。自分が情けなくて情けなくて……」
「よくわからないけど……先輩って、高校の時から思い込み激《はげ》しかったですものね……」
「ほっといてよ。あなたみたいにモテた子には、わからない苦労だってたくさんあるんだから……。ぐすっ……」
そのおり。
「すいませーん……」
「神楽坂先生はいますか」
がらがらと保健室の扉が開いて、かなめと宗介の声がした。西野こずえが『どうします?』と恵里に目線《めせん》でたずねる。
(いない、って言って……)
首を振ってみせると、こずえは戸口に向かって告《つ》げた。
「ええ、ここにいますよ」
「……ちょっと!」
こずえはほほ笑んで、カーテンの向こうに消える。入れ替《か》わりで、かなめと宗介が姿を見せた。
「……また。そんなふてくされて」
かなめが言った。実際《じっさい》、枕《まくら》に顔を埋《うず》め、シーツを被《かぶ》った恵里の姿は、ほとんどだだをこねた小学生だった。
「別に……いいでしょう? わたしだって、一人で落ち込みたいときもあるの。放っておいてちょうだい」
「そうもいきません。我々《われわれ》には責任《せきにん》がありますので」
そう言うと、宗介はごそごそと一枚の絵画を取り出した。すうっと、生乾《なまかわ》きの油絵の匂《にお》いが鼻をつく。
「あ……」
その絵は未完成の人物画だった。どこかの街《まち》の、ビルの前――たぶん、待ち合わせ場所だろう。そこでそわそわと、腕時計を見ながらだれかを待っている若い女性。
まぎれもなく、神楽坂恵里の姿だった。
絵の中の彼女は、どことなく不安そうで、それでいてわくわくしていた。彼女を見ている者――この絵を描《か》いた者――の、優しい視線《しせん》が感じられる。青や緑、灰色が主体なのに、なぜか温かい印象の――不思議《ふしぎ》な絵だった。
「ここ数日、水星先生はこの絵の製作に夢中《むちゅう》になっていたそうです」
「無愛想《ぶあいそう》だったのは、デートの時のイメージを大切にしたかったからだ……って言ってましたよ」
「…………」
恵里はぽおっとして、その絵を眺《なが》めていた。すべて誤解《ごかい》。なんの説明をされなくても、これを見ればすぐにわかった。
「水星先生って、実のところスゴい口ベタなんですね。すこし見直しちゃった」
かなめがにっこりと笑った。
「ええ……」
耳まで真《ま》っ赤《か》になって、恵里は言った。
「だから好きなの」
[#地付き]<雄弁なポートレイト おわり>
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暗闇《くらやみ》のペイシェント
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やたらと蒸《む》し暑い夜のことである。
マンションのうす暗い一室、食堂のテーブルの上で、一本のロウソクの火が揺《ゆ》れていた。オレンジ色の弱々しい光が、不気味《ぶきみ》にうごめく黒い影《かげ》を、部屋《へや》の壁《かべ》に投げかける。
テーブルを囲《かこ》んで座《すわ》るのは、四人の男女だった。三人は女、一人は男。どれも深刻《しんこく》な面持《おもも》ちで、玉の汗《あせ》を浮《う》かべている。
淡々《たんたん》と、怪談《かいだん》を語る少女の声だけが、静寂《せいじゃく》の中に響《ひび》きわたっていた。
怪談――
粘《ねば》りつくような空気。張《は》り詰《つ》めた緊張《きんちょう》と恐怖《きょうふ》の匂《にお》いが、室内に充満《じゅうまん》する。
「それでね……」
千鳥《ちどり》かなめが陰気《いんき》に言った。
「その人は、『そんなはずがない』と思いながら、何度もシューマイの箱《はこ》を開けたの。すると……フタを開けるたびに、箱の中のシューマイは……一つずつ消えていったのよ……。そして……とうとう、一二コのシューマイ全部が箱から消え失せて……」
彼女の整《ととの》った顔に、ロウソクの灯《あ》かりが不気味な陰影《いんえい》を刻《きざ》んでいた。テーブルを囲む一人――稲葉《いなば》瑞樹《みずき》が、喉《のど》をごくりと鳴《な》らす。
「それで……?」
かなめは青ざめた顔で、たっぷりタメの時間を入れてから、
「そう……。最後に……その人は気付いたのよ。消えたシューマイ。それが全部……フタの裏側《うらがわ》に貼《は》りついていたことに……!」
どじゃあぁーん!……と水戸《みと》黄門《こうもん》の旧アイキャッチみたいな音が、どこからともなく響き渡《わた》った(……ような気がした)。
「やだっ……!」
「い……いやあぁっ! いやあぁぁっ!」
瑞樹ともう一人の少女――常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が、そろって絶望《ぜつぼう》の悲鳴《ひめい》をあげた。恐《おそ》れおののき、互《たが》いに『ひしっ』とすがりつく。
「しっ! 怖《こわ》がるのはまだ早いわっ……! この話には続きがあるのっ」
かなめが神妙《しんみょう》に人差し指を突《つ》き立てると、瑞樹と恭子はあわてて悲鳴を呑《の》みこんだ。
「続き。どんな続きなの……?」
恭子がたずねると、かなめは充分《じゅうぶん》にもったいつけてから、おもむろに口を開いた。
「……ところ変わって。あるところに、シューマイが大好きなお爺《じい》さんがいたのよ。毎日のように……シューマイを食べて。そのお爺さんがある日、とうとうシューマイを喉《のど》に詰まらせて……死んでしまったの」
「そう……」
「しめやかにお葬式が行われたわ……。お供《そな》え物も、シューマイばかりだった……」
「…………」
「それで……最後の出棺《しゅっかん》の前に、参列者《さんれつしゃ》と故人《こじん》が対面《たいめん》することになったのよ。『これでお別れですから』って。葬儀屋《そうぎや》がみんなの前で、お爺さんの収まった棺桶《かんおけ》のフタを、おもむろに開けたの。すると……ああ、すると。棺桶のフタを開けると……」
「開けると……?」
一同が固唾《かたず》を呑む前で、かなめは真の結末《けつまつ》を告《つ》げた。
「お爺さんの遺体《いたい》が、消えていたのよ」
それを聞いて、瑞樹と恭子は青ざめた。
「そんな。まさか、まさか……」
「フタの裏側に!?」
どじゃああぁーんっ!
……と、また変な音がどこからともなく響いた(……みたいな感じがした)。
「ああ、神様っ!」
「いやあぁっ! いやあぁぁーっ!!」
瑞樹と恭子は半狂乱《はんきょうらん》になって脅《おび》え、悲痛《ひつう》な声で泣き叫《さけ》ぶ。
かなめと恭子と瑞樹。
この三人は、今夜、真夏のお泊まり会を決行中なのだった。一人暮らしのかなめのマンションは、こういうイベントでは必ず会場になる。ちなみに瑞樹と恭子は、もともと付き合いがなかったのだが――最近はかなめを間に挟《はさ》んで、たまに遊ぶようになっていた。
しかし。
その場でただ一人の男子――相良《さがら》宗介《そうすけ》だけが、むっつり顔のままで、頭上にいくつもの『?』マークを浮かべていた。
かなめの部屋に、彼がいる理由は単純《たんじゅん》だった。歩いて一分の近所に住んでいるものだから、おもしろ半分で呼ばれたのだ。
「どう、ソースケ? この話は」
かなめたち三人は興味津々《きょうみしんしん》といった様子《ようす》で、宗介の反応《はんのう》をうかがう。しかし彼は、渋《しぶ》い顔でへの字口をさらに曲げて、
「よくわからん……」
ただ不思議《ふしぎ》そうに首をひねった。
娘《むすめ》三人はそろって『ああ〜〜〜』とうめき、失望《しつぼう》と落胆《らくたん》をあらわにする。
「うー。この話もダメか……」
「感受性《かんじゅせい》が爬虫類《はちゅうるい》並《な》みじゃないの、こいつ?」
「……それ以前に、このシューマイ話は、怪談と呼ぶにはシュールすぎるような気がするんだけど……」
これまで三人は宗介に、それぞれ持ちネタの怪談話を語って聞かせたのだが、どれも反応《はんのう》はいま一つだった。
それも仕方《しかた》のない話である。海外の戦場育ちである彼は、怪談などより、よっぽど死者が身近な世界で暮らしてきたのだ。ワビサビたっぷりな超常現象《ちょうじょうげんしょう》などを聞かされても、ピンとこないのは当然《とうぜん》といえた。
「相良くん、本当に怖くないの?」
「そもそも、俺《おれ》には『怪談』という概念《がいねん》が理解《りかい》できん。先ほどの『ハーモニカを吹く口裂《くちさ》け女』や『すばやいG・馬場《ばば》』といい、ナンセンスな話ばかりだ。もっと危険《きけん》で不可解《ふかかい》な話なら、俺はいくらでも知っている」
「ほう? だったら話してみなさいよ。ほれ」
かなめが挑《いど》むように告げると、宗介は『ふっ』と小鼻《こばな》を鳴《な》らした。
「いいだろう、覚悟《かくご》しろ」
「ごくり……」
三人が喉《のど》を鳴らす前で、宗介はおもむろに語りはじめた。
「そう……あれはカンボジアでの偵察作戦中《ていさつさくせんちゅう》のことだった。俺は戦闘中《せんとうちゅう》に味方《みかた》とはぐれ、一人でジャングルを歩いていた。すると、たまたま通りかかった敵ゲリラの一個中隊一〇〇人と出くわしてしまったのだ。すでに弾薬《だんやく》は残り少なく、通信機《つうしんき》は故障《こしょう》していた。発見されたら最後だ。そこで俺は――」
『だあぁ〜〜〜っ!!』
かなめと瑞樹が同時に怒鳴《どな》った。
「だれが武勇譚《ぶゆうたん》を聞きたいって言ったのよ!?」
「どうしてあんたは、そう、アレなのっ!?」
口々に言われて、宗介は肩《かた》を落とした。
「……危険だったんだぞ?」
「そーよね、いろんな意味で」
「しかも、不可解だったのだ。東側《ひがしがわ》の武器《ぶき》供与《きょうよ》を受けているはずの連中が、米国製のスティンガー・ミサイルを装備《そうび》しており、しかも最新の対AS地雷《じらい》を――」
「いい加減《かげん》にしなさい!」
かなめはぴしゃりと遮《さえぎ》った。
「あのね。『怖い話』っていうのは、そーいうのとは違《ちが》うの! なんていうのかな、こう……あー、くそっ。だったら、とっておきのネタを話してやるわ。絶っっ対、ビビらせてやるんだから。題して『のっぺらぼうと口裂け女のディープキス』って話でね――」
「それって物理的《ぶつりてき》に不可能《ふかのう》なんじゃ……」
恭子がつぶやく横で、瑞樹がうんざりとした様子《ようす》で手を振《ふ》った。
「あー、ダメダメ。カナメ、無駄《むだ》だってば。そもそもこいつには想像力《そうぞうりょく》がないのよ。『お話』っていう形式じゃ、全然通じないのね、きっと」
「むう……」
「あたしもそう思う。もっと具体的《ぐたいてき》にオバケでも見せてあげたら、すこしは相良くんも怖いかもね」
「それは……一理《いちり》あるわね」
かなめは腕組《うでぐ》みした。なんとかこのムッツリ男が、まともになにかに怖がる姿《すがた》を見てみたい。妙案《みょうあん》はないものだろうか?……そう思っていると、ふっと小さな記憶《きおく》が蘇《よみがえ》った。
「そういえば」
「なによ?」
「となり町に、潰《つぶ》れた病院があったわよね。だれもいなくて、荒《あ》れ放題《ほうだい》になってる……」
その廃虚《はいきょ》は、かなめのマンションから自転車で一五分ほどの距離にある。
かつては立派《りっぱ》な病院だったが、一〇年近く前に大火事が起きて、死傷者《ししょうしゃ》もずいぶん出たという。院長が節税《せつぜい》のために、防災設備《ぼうさいせつび》に手抜《てぬ》きをしていたのが原因だった。訴訟《そしょう》の嵐《あらし》と平政《へいせい》不況《ふきょう》のあおりで再建《さいけん》はされず、いまも放置《ほうち》されたままだ。
「ふーん。面白《おもしろ》そうじゃない」
瑞樹がつぶやく横で、恭子が不安げな顔をする。
「まさか、カナちゃん……」
「そう。これからソースケを、あの病院に連れてく、ってのはどう? 怪談の雰囲気《ふんいき》を味わってもらうわけ」
かなめはにんまりとして、怪訝顔《けげんがお》の宗介を見やった。
「病院の廃虚か」
「行ってみない?」
「別に構《かま》わんぞ。だがそんな場所に、なにがあるのだ?」
「ふふふ……。恐怖よ、恐怖」
邪悪《じゃあく》な顔で笑うかなめの袖《そで》を、恭子が横からくいくいと引いた。
「ねえ、カナちゃん……やめない? あたし、あの病院の怖い噂《うわさ》、けっこう聞いてるの」
彼女の声はあくまでも真面目《まじめ》で、いつものお気楽な感じが鳴《な》りをひそめていた。
「自殺したはずの院長さんが、病院の前に立ってるのを見た人の話とか……。冷やかしで踏《ふ》み込んだ中学生が、そのまま行方不明《ゆくえふめい》になった話とか……」
「そんなの、あの手のスポットには必ずある話じゃない。平気平気」
「ホントになんかが『出る』んだよ!?」
「けっこうじゃないの。それでソースケがビビってくれれば」
かなめはまるで取り合わず、笑って席を立ち、出かける仕度《したく》をはじめた。ところが恭子は椅子《いす》に腰掛《こしか》けたまま、
「あたし、行きたくない」
「え、本気で?」
かなめたちはきょとん、とした。
「うん。留守番《るすばん》してるから、カナちゃんたちだけで行って来て」
彼女にしては珍《めずら》しく、かたくなな態度《たいど》だ。
「そ……じゃ、お願いするわ。ミズキは? 行こうよ、面白《おもしろ》いから」
「いーわよ。付き合ってあげる」
瑞樹がカーディガンに袖《そで》を通す横で、宗介が拳銃《けんじゅう》の弾《たま》をチェックしていた。
自転車二台に分乗《ぶんじょう》して、宗介たちは問題の廃虚の前まで来た。
破《やぶ》れたフェンスと『立入禁止』の札。その奥《おく》にそびえる、荒涼《こうりょう》とした鉄筋《てっきん》コンクリートの病院。火災の時の煤《すす》が、いまだにこびり付いているようだった。
湿気《しっけ》を伴《ともな》なった風が、三人の間をさわさわと吹《ふ》き抜けていく。暑苦しい大気が、急に冷え込んだような気がした。
「まるで爆撃《ばくげき》のあとだな」
四階|建《だ》ての建物《たてもの》を見上げ、宗介が言った。
窓ガラスがことごとく割れており、地上近くの壁《かべ》はスプレーの落書きで埋《う》め尽《つ》くされている。『喧嘩上等』だの『武者頑駄無特攻隊』だの『梵太勳参上』だの。どこぞのヤンキーの仕業《しわざ》だろう。
「いつも不思議《ふしぎ》に思うんだけどさ……。なんで暴《ボー》ヤンとかって、ああいう難《むずか》しい漢字を知ってるのかな……」
「漢和辞典を常備《じょうび》しているのだろう」
落書きの中には、ナチス・ドイツの|鈎 十 字《ハーケン・クロイツ》を堂々《どうどう》と間違《まちが》えた、お寺の『卍《まんじ》』マークもあった。
あたりに人気《ひとけ》はない。廃虚の中にもだ。この季節《きせつ》、この時間なら、かなめたちと同じ動機《どうき》で遊びに来る地元の若者がいてもおかしくはないのだが。
「ともかく入ろ、入ろ」
すこしはしゃぎながら、かなめがフェンスの穴《あな》を潜《くぐ》り抜けた。腰のホルスターに手を当てつつ、宗介が後に続く。
ところが――瑞樹だけがフェンスの外に突っ立って、顔にびっしり脂汗《あぶらあせ》を浮かべていた。
「どしたの、ミズキ?」
「あ、あそこ……」
廃虚の四階、右から二番目の窓のあたりを、瑞樹は指さす。
「あそこの窓に……。いま、変なお婆《ばあ》さんが……。こっちを見下ろして……」
「んあ?」
かなめは病院を見上げた。だがそんな老人の姿《すがた》など、影《かげ》も形も見えない。
「またまた」
「いたのよ! いま! 見たんだから! 笑ってたの! こっち見て!」
[#挿絵(img2/s03_183.jpg)入る]
ひどく取り乱した様子《ようす》で、瑞樹は叫《さけ》んだ。
「面白《おもしろ》い面白い。そのアクションはポイント高いわよ。いやぁ、盛《も》り上がるわ」
「バカ! なに言ってるの!? ヤバいわよ、ここ。本当に。なんか、いる……。い、いるわよ、絶対……!」
「?……ははは、大丈夫《だいじょうぶ》だってば。気のせいよ、気のせい」
かなめが笑って手を振《ふ》ると、瑞樹はさっときびすを返した。
「あたし、先に帰ってる!」
「へ?」
「ここに入るなんて、とんでもない話ね! 絶対にゴメンよっ!」
「ちょっと――」
引き止める暇《ひま》もない。瑞樹は自転車に飛び乗ると、あわてて元来た方角へと走り去ってしまった。
「まったく、どいつもこいつも……」
かなめはぶつぶつ言いながら、荒れ放題《ほうだい》の狭《せま》い庭を歩いていった。
「度胸《どきょう》が無《な》いというか、迷信深《めいしんぶか》いというか。入る前にあれじゃあ、興ざめもいいトコよね。本当に、もう……」
「しかし、わからんな」
うしろを歩く宗介が言った。
「どうしてあそこまで稲葉が脅《おび》えたのか、俺には理解《りかい》できん」
「うん。あたしも」
「あの老婆《ろうば》は、ただ立っていただけだ。狙撃銃《そげきじゅう》やロケット・ランチャーを持っていれば話は別だが」
若干《じゃっかん》の沈黙《ちんもく》。かなめは宗介の言葉に反応《はんのう》するのに、かなりの時間を要《よう》した。
「……なんですって?」
「窓《まど》にいた老人は、非武装《ひぶそう》だった、と言っているのだ」
かなめは喉《のど》をごくりとさせた。
「ソースケも……見たの?」
「うむ。稲葉が気付いて、俺が気付かんわけがないだろう」
こともなげに言う。ほかの者ならいざ知らず、宗介は冗談《じょうだん》でこういうことを言うタイプでは決してなかった。
つまり――本当にお婆さんが窓にいた。
その事実《じじつ》を知って、さすがにかなめも背筋《せすじ》が寒くなった。
「どうした、千鳥。気分が悪いのか」
さも不思議《ふしぎ》そうに宗介がたずねた。
「あ……あんた、こわくないの?」
「? なにがだ?」
「だって! こんな時間の、こんな場所に! お年寄《としよ》りがいるなんて変じゃない!?」
「……近所に住む痴呆症《ちほうしょう》の老人が、徘徊《はいかい》して迷《まよ》い込んだのかもしれん。見付けたら交番に連れていってやろう」
「そ……それは確《たし》かに、もっともらしいオチだけど……」
その顔には恐怖の色がまるでうかがえなかった。まったくもって、腹立《はらだ》たしいほどに、宗介は平然《へいぜん》としている。
「それで、入らんのか」
「え……」
病院の入り口の手前で、躊躇《ちゅうちょ》しているかなめを見て、宗介が言った。
「よくわからんが、怖いのなら帰ってもいいぞ。精神的《せいしんてき》ストレスは健康によくない」
「く……ううっ……」
「君はずいぶんと脅《おび》えて見える。いつもの元気がまるでないな」
「むっ……」
邪心《じゃしん》が無いだけ、妙《みょう》にムカつく言い方だった。
こう言われると、かなめにも意地《いじ》が出てくる。そもそも、この病院に来たのは宗介を怖がらせるためだったのだ。だというのに、いいだしっぺの自分がビビって『帰ろう』などと言うのは、どうにも悔《くや》しかった。
こうなったら、宗介が青ざめて『帰ろう』と言い出すまで、徹底的《てっていてき》にこの病院をうろついてやろう。そこまで行かずとも、不安そうな顔くらいはさせてやろう――
かなめはひそかに決意《けつい》した。
「ぜ、全然平気よ……!? いいわよ、入ったろうじゃない!」
「なにを怒《おこ》っているのだ」
「怒ってないわよ。さあ、付いてきなさい!」
かなめは瓦礫《がれき》を踏《ふ》みつけ、がらんとした正面ホールに入っていく。入り口のあたりは、まだ外の灯《あ》かりが射し込んで、すこしは明るいのだが――ホールの奥は真《ま》っ暗《くら》だ。
かなめはぴたりと立ち止まった。
「待って」
「なんだ」
「や……やっぱり、先に行って」
彼女はそそくさと宗介の背中に回った。
二人はとりあえず、四階の病室を目指して歩くことにした。謎《なぞ》の老婆が顔を見せたという部屋だ。正面ホール脇の階段は壊《こわ》れていたので、二人は奥の階段に向かった。
いくつもの黒い戸口が並《なら》ぶ通路《つうろ》。その奥は、完全《かんぜん》な闇《やみ》に閉《と》ざされている。
なにも見えない。だというのに、なにかがいそうな存在感《そんざいかん》。じめじめとした微風《びふう》が、かなめの頬《ほほ》を、髪《かみ》を、首筋《くびすじ》を撫《な》でていく。
マグライトを逆手《さかて》に掲《かか》げ、宗介が廊下《ろうか》を進んでいった。右手には黒い自動拳銃《じどうけんじゅう》。一分《いちぶ》の隙《すき》もない物腰《ものごし》である。
「なんで銃なんか抜《ぬ》くの……?」
「念《ねん》のためだ」
宗介は落ち着いた声で答えた。
一階の廊下は、すえたような匂《にお》いが漂《ただよ》っていた。うす暗闇《くらやみ》の中を、マグライトの光がちらちらと動く。
壊《こわ》れた車椅子《くるまいす》が転がっていた。
使い捨て注射器《ちゅうしゃき》が散《ち》らばっていた。
脚《あし》のちぎれたフランス人形が落ちていた。
荒涼《こうりょう》としたこの景色《けしき》。これはなんとも、いやはや相当《そうとう》――
「どう? こ……こわくない?」
「なにがだ」
やはり宗介は不思議そうに答えるだけだった。全然|効《き》いていない様子だ。
(うー、雰囲気だけじゃ、だめか……)
かなめが焦《あせ》っていると、宗介が一〇メートルほど先の廊下の角に、ライトを向けた。
「…………?」
曲がり角から、包帯《ほうたい》を巻いた子供がひょこりと顔だけを出していた。
子供の頭は、ほとんど天井《てんじょう》に近い高さにあった。ライトの光を受けても目を細めず、ただ無表情《むひょうじょう》にこちらを見下ろしている。打撲《だぼく》と思《おぼ》しき傷で、顔の右半分が変に脹《は》れていた。
「…………」
数瞬《すうしゅん》のあと。背後《はいご》でいきなり、なにかが割れるけたたましい音がした。振り返って見ると、廊下の真ん中に、割れたガラス瓶《びん》の破片《はへん》が飛び散っていた。
天井の穴から落ちてきたのか、窓から投げ込まれたのかはわからない。人の姿は見えなかった。
もう一度角を見ると、子供の頭は消えていた。なにもない。影も形も。
それきり、廃虚は元の静寂《せいじゃく》に包《つつ》まれた。
かなめを片手で引き寄せていた宗介が、最初に口を開いた。
「妙だな」
テレビのニュースで、『最近、女子高生の間で盆栽《ぼんさい》が大流行《だいりゅうこう》している』とでも聞いたような――それくらいの声だった。
「妙……? 妙ですって……!?」
一方、かなめの声はひどくかすれていた。絶叫《ぜっきょう》してその場から逃げ出さないのは――まことにもって天晴《あっぱれ》だった。
「それだけ? ほかになんとも思わないの? いま……こ、子供が! ガラスが……!」
「だから妙だと言っている」
「こわいでしょっ? ねえ、こわいよね! こわかったよねっ……!?」
だから帰ろう――そう叫びたい衝動《しょうどう》を抑《おさ》えながら、かなめはすがるように同意を求める。しかし宗介は首をひねって、
「そう言われてもな……。ただの子供だぞ? あらゆる武器に精通《せいつう》した、この俺を倒《たお》すことなどできん」
「だ――――っ!!」
かなめはそばの壁を蹴《け》り飛ばした。
「い、異常《いじょう》よ、あんた! あんなのを見て、そんな風に。そこまで……そこまで……いつも通りのバカだなんて!」
「……。よくわからんが、ひどく失礼《しつれい》な物言《ものい》いのようだな……」
宗介はこめかみに脂汗《あぶらあせ》を浮かべた。取り乱したかなめが、必死《ひっし》で動揺《どうよう》を鎮《しず》めるのを待ってから、彼は告《つ》げる。
「それで、どうする」
「え……」
「俺は四階にいた老婆が気になるのだ。君が怖《お》じ気《け》づいて一歩も前に進めないのなら、先に帰ってもらっても構《かま》わんが」
またしても、えらく癪《しゃく》に障《さわ》る言い方である。
「くっ……」
かなめは一度、宗介をきっとにらみつけ、次に頭をぶるぶると振《ふ》ると、自分を勇気づけるように言った。
「な……なに言ってんの? 怖じ気づいてなんかいないわよっ! ちょっと、びっくりしただけなんだから……!」
「そうか。では行こう」
宗介は何事《なにごと》もなかったかのように歩きだす。
二人は曲がり角の向こうを覗《のぞ》いてみたが、そこはなにもない廊下だった。子供が乗るような脚立《きゃたつ》の類《たぐ》いさえ、なかった。
二階へ続く階段には、なぜかマネキン人形が転がっていた。胸のあたりに、赤いペンキで『怨《おん》』と書き殴《なぐ》ってあり――これがまた薄気味《うすきみ》悪い。
三階への階段を上ろうとすると、途中《とちゅう》に壊れたベッドやロッカーが積《つ》み上げられ、進めないようになっていた。
「塞《ふさ》がってるわ……」
「別の階段を探すか」
引き返し、二階の廊下を歩き出す。
四階まで遠回りなことはもちろん、帰り道も当然《とうぜん》――長くなる。なにかあっても、すぐには外に飛び出せないのだ。だんだんと、迷宮《ダンジョン》の奥へ引きずり込まれていくような気分だった。
すこし進むと、ベッドと机《つくえ》、薬品棚《やくひんだな》などで廊下が塞《ふさ》がっていた。階段の時と同じように。
「い、行き止まりみたいね。残念、やっぱり帰――」
宗介がすぐそばの扉《とびら》を押してみた。ぎいっ、と音がして、扉がぎこちなく向こう側に開く。
「この部屋から抜けられるぞ。向こうにもう一つ扉がある」
部屋の中を覗いて、宗介が言った。
「行こう」
「…………」
その部屋は、元は事務室《じむしつ》かなにかだったのだろう。煤《すす》けた机と椅子《いす》がばらばらに放置《ほうち》されていた。腐《くさ》った紙の山と、ぼろぼろのソファー。天井から宙《ちゅう》づりになった蛍光灯《けいこうとう》が、微風《びふう》にゆらゆらと揺《ゆ》れていた。
「こ……こういうトコ来ても、やっぱり不安にならないの?」
「うむ。用心すれば、地雷《じらい》や仕掛《しか》け爆弾《ばくだん》の位置はある程度《ていど》見抜《みぬ》けるからな」
「いや、そういう意味じゃなくて――」
そのとき、なんの前触《まえぶ》れもなく、室内にけたたましいベルの音が鳴り響《ひび》いた。
すぐそばの机の上に、古ぼけた電話が載っていた。それが突然《とつぜん》、鳴り出したのだ。
「わっ……」
「下がっていろ」
その場に釘付《くぎづ》けになったかなめを押《お》しのけ、宗介が電話に近付いた。りんりんと喚《わめ》きたてる電話機を注意深く観察《かんさつ》する。それから充分に離《はな》れると、そばに落ちていたコーヒーカップを投げつけた。
カップが当たると、電話は横倒《よこだお》しになって受話器《じゅわき》が外れ、沈黙《ちんもく》した。
「……な、なにしてるの?」
「用心のためだ。興味《きょうみ》半分に受話器を取ると、その下に仕掛けられた爆弾が爆発する――そういうトラップがあってな。レバノンの廃虚で、味方《みかた》がやられた」
「…………」
「だが、罠《わな》はないようだ」
「そりゃ、ないわよ……」
かなめの言葉には答えずに、彼は受話器を取って、耳にあてた。
黙《だま》って耳を傾《かたむ》ける。特に不審《ふしん》そうな様子はなく、時報《じほう》か天気予報でも聞いているような顔だった。
宗介はおもむろに告《つ》げた。
「……もしもし。残念ですが、この病院は数年前から閉鎖《へいさ》されています。急患《きゅうかん》でしたら、一一九番へ。救急車が向かいますので、そちらで必要な医療措置《いりょうそち》を……もしもし?」
首をひねる。
「……聞いていないようだな」
「だ、だれか出てるの?」
「うむ。聞いてみるか」
差し出された受話器を、かなめは恐《おそ》る恐る耳にあてる。ラジオのノイズみたいな音の向こうに、だれかの声が聞こえた。
「……苦しいよぉ……熱いよお……タスケテ。イタイイタイイタイ……』
絞《しぼ》り出すような子供の声。その背後で、『ヒャー』とか『キィー』とかいった遠い悲鳴《ひめい》が重なる。
「ひっ……!」
かなめは青くなって受話器を放り出した。
「な……なんなのよ、これはっ!?」
「急患だろう。病院に電話をかけてきて『苦しい』と言ってるのだ。この病院が潰《つぶ》れたことを知らずに――」
「そういう問題じゃないでしょっ!? あんた……なんか、おかしいと思わないのっ!?」
窓の老人。廊下の子供。そして、この電話。
どう考えても異常な現象《げんしょう》だ。一生分の心霊体験《しんれいたいけん》を、わずか一晩で経験《けいけん》しているようなものだった。だというのに――
「妙だとは思っているぞ」
「だったら! もう少しこわそうな顔しなさいよっ!? オバケなのよ!? ユーレイが出てるの! この病院でっ!」
両手をニギニギとさせて、かなめは声を張《は》り上げた。
「そうなのか?」
「そうなのよっ! 怪奇《かいき》現象のオンパレードじゃないのっ!」
断言《だんげん》して、ぜいぜいと肩《かた》で息をした。宗介は冷静《れいせい》な目で彼女を眺《なが》め、
「…………。やはり君は帰った方がいいのではないか? たぶん、疲《つか》れているのだ」
などと、静かに告げた。彼女を気遣《きづか》うような、それでいて哀《あわ》れみのこもったような――そんな視線《しせん》。
「あ、くそっ。なんかその目、すっげームカつくっ……!」
「……? 俺は君の心配を――」
「うるさいっ! 心配なんてしなくていいっ! いくわよ、先にっ!? 帰ろうなんて、絶っ対、言わないんだから! くそっ」
かなめはいまや、自分たちを取り巻く怪奇現象に対して、理不尽《りふじん》な怒《いか》りを抱《いだ》きはじめていた。
(なんであたしばっかり、怖《こわ》がらなきゃならないわけ!?)
……などと、思うのだ。
宗介相手に、控《ひか》えめな心霊現象は全然通じない。だったら、もっと違った趣向《しゅこう》で、パワフルに、こちらをビビらせてくれてもいいではないか!? だというのに、遭遇《そうぐう》するのは宗介に理解《りかい》できない文脈《ぶんみゃく》ばかり。もう少し考えてくれ、と言いたくなる。
「これ絶対、不公平《ふこうへい》よっ……!」
「?」
ぶつぶつこぼしながら歩き出すかなめを、宗介は怪訝顔で見ていた。
二階から三階へ。
四階への階段は、またしても家具類でふさがっていたので、三階の廊下を歩いていく。
すると窓の外を、なにかが横切っていった。
視界《しかい》の片隅《かたすみ》を、さっと通り過《す》ぎていっただけなので、かなめにはそれが『なにか、白いかたまり』くらいにしか認識《にんしき》できなかった。
「見た、いまの……?」
「うむ。人の首のようだったな。それが飛んでいたようだったが……」
「…………首ィ?」
空を飛ぶ生首。おびえるより前に、かなめは苛立《いらだ》ちをおぼえた。
そんなチープな。首ごときで、宗介が怖がるわけがないではないか……!
彼女はなにもない窓の外をにらみながら、
「で、感想は? こわかった?」
「いや。爆弾《ばくだん》でなくて安心したが……」
宗介が答えると、かなめは天井をきっとにらみあげ、叫《さけ》んだ。
「……こんなのが、こいつに通じると思ってるわけ!? 出直しなさい!」
「だれに向かって言っている?」
「うるさい、先に進む!」
かなめは握《にぎ》りこぶしの大股《おおまた》で、ずけずけと廊下を先導《せんどう》していった。
四階への階段を見付けて上がっていくと、どこからともなく笑い声が聞こえてきた。
くすっ……くすっくすっ……。
声はホールを反響《はんきょう》して、音源《おんげん》の位置はわからなかった。
くすくす……うふふ……くすっ……。
ノイズが混じっているのが不自然《ふしぜん》だったが、ともかく、薄気味悪《うすきみわる》い笑い声ではあった。だが同時に、これまでとは異《こと》なった疑念《ぎねん》が浮かんでくる。
本当にこれ、心霊《しんれい》現象なの? と。
「……これはどう? こわくない?」
「そう言われてもな……笑っているだけでは」
宗介が申《もう》し訳《わけ》なさそうに言う。かなめは舌打《したう》ちして悪態《あくたい》を吐《つ》くと、また大声で叫んだ。
「これもボツっ! 覇気《はき》が足りないのよ、覇気がっ! やる気あんの!?」
すると奇妙《きみょう》なことに、笑い声はかき消えてしまった。
「ふん。根性《こんじょう》なしが……!」
「だから、だれに向かって言ってるのだ」
「うるさいっ! 次っ!」
幽霊《ゆうれい》でもなんでもいい。だれかこいつを怖がらせてよ……! そう思いながら、彼女は前進していった。
ようやく着いた四階は、ずいぶんと荒れ果てていた。壁のコンクリートがくずれ、穴が空いている。床もぼろぼろで、板切れが申し訳|程度《ていど》に補強《ほきょう》として敷《し》かれていた。
すこし進んで、大きめの病室に入る。
すると部屋の反対側の戸口に、一〇歳くらいの少女が一人、突っ立っていた。
パジャマ姿に白い顔。
ぶらんと両腕を垂れ下げて、血まみれの金槌《かなづち》を握っている。虚無《きょむ》に沈《しず》み、茫洋《ぼうよう》とした瞳《ひとみ》が、こちらを向いた。静かで、凄惨《せいさん》なたたずまいだ。
小さな唇《くちびる》がわずかに動く。
カエレ……シンジャエ……カエレ……シンジャエ……。
ささやくような声が、室内に反響する。
二人はその場に棒立《ぼうだ》ちした。
「こ……これは? これならどう!?」
ほとんどむきになって、かなめが問う。宗介は顎《あご》に手をやり、考えるそぶりを見せた。
「難《むずか》しいな……。やはり金槌では。せめて焼夷手榴弾《しょういしゅりゅうだん》くらいを持っていれば……」
「あー、もうっ!」
幽霊少女などそっちのけにして、かなめは地団太《じだんだ》を踏《ふ》んだ。
「武器の問題じゃないのよっ! こんな場所に、血まみれの女の子がいるの! 変でしょう!? 気味が悪いのよ、フツーはっ!」
「むう……」
困った様子の宗介。かなめはうなり、行く手に立つ少女をびしっと指さした。
「だいたい、あんたもあんたよっ! ブツブツ言ってないで、ほかの真似《まね》もしたらどうなの!? 毒霧《どくきり》を吹くとか、不思議なおどりを踊《おど》るとかっ! いろいろあるでしょっ!?」
怒鳴りつけると、少女がぬらり、と唇を歪《ゆが》めた。それは確かに、ぞっとするような笑顔だったのだが――
「くっ……ば、バカにしてっ!」
かなめはむしろ逆上《ぎゃくじょう》してしまった。両手の指をぽきぽきと言わせて、大股で少女へと歩き出す。
「どうする気だ」
その背中に向かって宗介が言った。
「首根っこ掴《つか》んで、意見してやるのよっ! あたしだけビビるのなんて、もう飽《あ》き飽きだわっ!」
はたして幽霊を捕《つか》まえることができるかどうかなど、彼女は考えもしなかった。もはやほとんどヤケクソである。人間、度《ど》し難《がた》い恐怖を通り越すと、次に生まれる感情はおおむね二種類だ。諦念《ていねん》か、怒《いか》りである。いまのかなめは後者だった。
「危《あぶ》ないぞ、千鳥。あまり先に――」
「うるさいっ!」
かなめが部屋を横切っていくと、少女はゆらりと身を翻《ひるがえ》し、戸口の向こうに姿を消そうとした。
「待ちなさいっ!」
叫んで、走り出す。すると――
突然《とつぜん》、身体《からだ》がぐっと沈《しず》みこんだ。
「へ……?」
自分の足下が、崩《くず》れていた。タイルもリノリウムもなくなった、もろい床が。ぼろぼろのトタンを踏み抜いて、かなめは建材《けんざい》や板切れもろとも、まっさかさまに下の階へと転落していった。
「あ……」
どすんっ!!
激《はげ》しい衝撃《しょうげき》が襲《おそ》って、彼女は動けなくなった。息ができない。自分が三階の床に、叩《たた》き付けられたことだけは分かったが――頭がもうろうとしていた。
(あ……あれ……?)
指先が痙攣《けいれん》し、咳《せき》が出た。
後頭部から首にかけてが、べったりと濡《ぬ》れている。赤い。血だろうか。その液体《えきたい》は、みるみる床に広がっていく。
すごい血の量だ。それこそスプラッタ映画並みだった。これが頭から流れているなんて。きっと自分は、ひどい怪我《けが》をしたに違いない。
(あ、あたし、死んじゃうのかな……)
ぼおーっとしながら、そんなことを思っていると。
(ち……千鳥っ!?)
だれかが叫《さけ》んでいた。
(千鳥っ!? しっかりしろ! 返事を……いや、動くな、喋《しゃべ》るな! いま、そちらに行くからな………)
その声は、明らかに恐怖で震《ふる》えていた。
いま喋ったの、だれだろう? そう思いながら視線《しせん》をさまよわせていると、うす暗がりの中で、真《ま》っ青《さお》な顔が近付いてきた。
「千鳥っ……!」
相手が彼女を抱《だ》き起こした。彼は両目を見開いて、びっしりと汗《あせ》を流し、唇をかすかに震わせていた。
(なにをそんなに怖がってるんだろ……? どんなユーレイにも……ビビらなかったくせに……)
不思議に思いながら、かなめは相手の名前を呼んだ。
「ソースケ……? なにがあったの?」
今度は、自然に声が出た。すると彼――宗介は、はっとした様子で、
「千鳥。怪我は。大丈夫《だいじょうぶ》なのか」
「え? あ……。ちょっと、背中打ったみたいだけど……いたた」
答えて、周囲《しゅうい》を見回す。
そこは下の階の病室だった。彼女の周りには、のりや絵の具やダンボール、様々《さまざま》な工具類、木材や電源コードなどが散乱《さんらん》していた。竹竿《たけざお》の先っぽに刺《さ》された、作り物の生首――一階で見かけた子供の頭――も転がっている。中古の電話機や、CDラジカセ、アンプやカーバッテリーなども。
これらのがらくたが、落ちてきた彼女のクッションになったのだろう。小さな擦《す》り傷はあったが、ほかはほとんど無傷だった。
「なによ……これ?」
かなめは首筋《くびすじ》の液体を手でぬぐった。赤かったが、血ではなかった。特殊《とくしゅ》メイクなどで使う、作りものの血のりだ。
「あ、あのー。……大丈夫ですか?」
天井《てんじょう》の穴から声がした。
先刻《せんこく》の幽霊少女だ。すでに不気味《ぶきみ》な面影《おもかげ》はなく、ただ心配そうにこちらを見下ろしているだけだった。
その横から、別の少年――これも小学生くらいだった――が顔を突き出す。
「うっわー! 控《ひか》え室がメチャメチャだよ。ひどいや……! あ? なんだ、サガラさんじゃないか!?」
利発《りはつ》そうな目に、チェックのバンダナ。かなめと宗介には、見覚えのある顔だった。
「ヨシキか?」
「うん、オレだよー」
少年はあっけらかんと答えた。さらに、その彼のとなりから、
「もしもし。ご無事《ぶじ》ですか」
みすぼらしい風貌《ふうぼう》の、中年男が顔を見せた。
黒縁《くろぶち》メガネに、もじゃもじゃの頭髪《とうはつ》、もじゃもじゃのヒゲ。ぼろぼろの服を着た男が、二人に椅子《いす》を勧《すす》めた。
「ま、座ってくださいな」
宗介とかなめは、椅子のほこりを払《はら》ってから、おずおずと腰掛《こしか》けた。五人ほどの小学生たちが、ぞろぞろと後ろに座りこむ。
先ほどの四階の病室のとなり。すこしは床のしっかりした、別の部屋である。そこはこの廃虚に住む、ホームレスのおじさんのねぐらだった。食器類やインスタント食品、そして無数の書籍《しょせき》が積み上げられており、ベッドも机もある。考えようによっては、なかなか快適《かいてき》な空間だ。
「梅酒があるんですがね。飲みますか。別に汚《きたな》くはないですよ」
「いえ……」
二人は丁重《ていちょう》に断《こと》わった。
「……それで、つまり。ヨシキくんたちは、このおじさんのために、あんな芝居《しばい》を打ってたわけ?」
かなめが言うと、子供たちのリーダー格の少年がうなずいた。彼の名前は阿久津《あくつ》芳樹《よしき》という。以前、ちょっとした事件のおりに、二人と知り合った小学生だった。
「そーだよ。この病院、近所のアベックとかヤンキーとかがよく来てさ。いじめるんだ、ゲンさんを。この部屋もよく荒《あ》らされてね」
ゲンさん。このメガネのレゲエおじさんの名前だろう。
「だからさ、ホンモノの幽霊が出る、って噂《うわさ》が立てば、そういう連中が来なくなると思って。いろいろ仕掛けをしたんだ」
「ははあ」
「私は反対したんですがね。この子たちの熱意に負けて、つい協力を。まあ実際《じっさい》、効果《こうか》はあったようで……めっきり人も来なくなりまして。ありがたいことです」
妙《みょう》に知的な雰囲気《ふんいき》のレゲエおじさんである。
「普通《ふつう》は二階の電話あたりで、まず逃げ出すんだけどね。次々に突破《とっぱ》されて、参《まい》っちゃったよ。……まあ、相手がサガラさんとカナメさんじゃ仕方《しかた》がないけど」
そう言って芳樹は笑った。
「ふむ……つまり、あれは一種《いっしゅ》の心理戦《しんりせん》だったのか。ハノイ・ハンナやバグダッド・ベディの同類だな。ようやく合点《がてん》がいったぞ」
「なによ、それ」
「だから、心理戦だ。敵の士気をくじくために、放送を流す。女の声で『あなたたちは残らず死ぬ』だの『となりの師団《しだん》は全滅《ぜんめつ》した』だのとささやくのだ。似たようなことは、どこの軍でもやっている。いわば戦場の風物詩《ふうぶつし》だな……」
そう言って、宗介は違い目をした。
「いやな風物詩もあったもんね……。でもヨシキくん。小学生が、こんな夜中にうろついて。ご家族はなんて言ってるの?」
すると阿久津芳樹は胸を張《は》った。
「もちろん内緒《ないしょ》さ! ベッドに入ってから、こっそり窓を抜け出してね。チョロいもんだよ? おかげで、ここはゲンさんとオレたちだけの秘密基地《ひみつきち》なんだ。スゴいだろ」
「なるほど。まあ確《たし》かに……最初のあたりの仕掛けはマジで怖かったわね。窓のお婆《ばあ》さんだけで、ミズキは逃げちゃったし」
「え……?」
「いや、ほら。窓際《まどぎわ》にお婆さんを立たせてたんでしょ。マネキンかなにかでも使ったの?」
かなめの言葉に、芳樹たちは顔を見合わせた。
「そんなの、知らないよ」
「だってソースケ、見たんでしょ? お婆さん」
「うむ。間違いない」
するとたちまち子供たちの間に、静かな緊張《きんちょう》の空気が漂《ただよ》った。
「ああ、それですね」
ゲンさんがのんびりと言った。
「たぶん、一〇年前の火災で亡《な》くなった方でしょう。前から、たまに出るんですよ」
今度は芳樹たちが青ざめる番だった。
先を争うようにして、病院から走り去っていく少年たちを、ゲンさんは窓から見下ろしていた。失神《しっしん》したかなめを負ぶった宗介が、とことこと病院の敷地《しきち》を出ていくのも見える。
すこしたって――部屋の奥の扉が開き、老婆《ろうば》が一人、姿《すがた》を見せた。
「子供たちは帰ったかね」
「ああ、母さん。帰りましたよ」
ゲンさんは答えた。
自分の母親――自殺した院長の妻《つま》――が住んでいることを、彼は子供たちに伏《ふ》せていたのだ。この奥の部屋に、彼らを近付けたこともなかった。
「たぶん、あの子たちも、ここにはあまり寄り付かなくなるでしょう」
「ありがたいことだねえ」
「いやまったく」
男はうなずくと、ひびの入った茶碗《ちゃわん》に梅酒をとくとく注《つ》いだ。
「これで当分、静かに過《す》ごせますねぇ……」
かなめがふっと目を覚ますと、自分がだれかの肩に担《かつ》がれていることに気付いた。
宗介だった。彼は左方だけで彼女をかつぎ、右手で自転車を押していた。すでに病院の廃虚は数ブロックの彼方《かなた》だ。
マンションへの帰り道のようだった。
「うー……」
「起きたか」
たいして心配もしていない声で、宗介が言った。
「うん……もう歩ける。降《お》ろして」
「まだ歩かん方がいい。あの浮浪者《ふろうしゃ》の言葉くらいで気を失ったのは、転落《てんらく》したときのショックが残っていたからだ」
「……とにかく降りる」
米袋《こめぶくろ》みたいに運ばれてるのは、さすがに情けない。地面《じめん》に脚《あし》を下ろすと、ふらふらした。宗介に手を貸されて、彼女は自転車の後ろにお尻を乗せた。
「つかまっていろ」
そう言うと、宗介は自転車にまたがり、二人乗りで走り出した。
「ねえ、ソースケ……」
「なんだ」
「こわかった?」
「なにがだ」
「あたしが落っこちて。ぎとぎとの血まみれになって……」
宗介は答えなかった。顔が見えないので、もしかしたら怒ってるのかもしれない――かなめはそう思って、なんとなく落胆《らくたん》した。あのとき、あんな頼《たよ》りなさそうな顔をしたのは、単に驚《おどろ》いただけだったのだろうか? でも自分には、彼がもっと、それ以上にうろたえたように見えたのだが……。
二人は、しばらく無言《むごん》だった。コンビニの前を通りすぎ、駐車場《ちゅうしゃじょう》でたむろしていた近所の高校生たちの声が聞こえなくなったあたりで、宗介がぽつりと言った。
「そうだな」
「……え?」
「なんでもない」
それきり、また黙《だま》り込む。かなめはすこしの間ぽかんとしていたが、やがてうれしそうな――それでいて意地《いじ》の悪い顔になって、
「ねー。よく聞こえなかったんだけど」
「気にするな。忘れろ」
「やだ! ねえ、いまなんて言ったの? ねーってば……!」
ちょっと甘《あま》えるような声で、宗介の首に腕《うで》を回して、ぐいぐいとゆすってやる。
「暴《あば》れるな、千鳥。倒《たお》れる。俺はなにも――」
「言いなさいよ! もー一回言わないと、たった今から第二の恐怖を味わわせるわよっ!? ほらっ、さあっ!」
「やめてくれ……!」
二人を乗せた自転車は、ふらふらと左右によろめきながら、夜道を走っていった。
[#地付き]<暗闇のペイシェント おわり>
[#改丁]
猫《ねこ》と仔猫《こねこ》の|R & R《ロックン・ロール》
[#改ページ]
その日、テッサはことのほか多忙《たぼう》だった。
極秘《ごくひ》のハイテク傭兵部隊《ようへいぶたい》 <ミスリル> の大佐《たいさ》であり、水陸両用戦隊《すいりくりょうようせんたい》の総指揮官《そうしきかん》である彼女――テレサ・テスタロッサは、数百名の隊員《たいいん》のトップである。当然《とうぜん》、いそがしい毎日を送っているわけだが、その日はやたらと細かい仕事が多かった。
いちいち挙《あ》げてみるならば――
朝は、強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》 <トゥアハー・デ・ダナン> の整備《せいび》を監督《かんとく》し、クルーからの要望書《ようぼうしょ》や報告書《ほうこくしょ》を山ほど処理《しょり》した。
艦内格納庫《かんないかくのうこ》の自動|消火《しょうか》システムが思ったほどうまく作動《さどう》しないことにいらだち、可変《かへん》トルク・スクリューの金属|疲労《ひろう》が予想《よそう》通り進んでいることに落胆《らくたん》して、調理室《ちょうりしつ》が『電子レンジをあと二台|増設《ぞうせつ》したいから配電盤《はいでんばん》をいじらせろ』とゴネてきたことに腹を立てた。
昼は、<ミスリル> の作戦部長・ボーダ提督《ていとく》と衛星通信《えいせいつうしん》であれこれ相談《そうだん》した。
東シナ海がキナくさくなってきている話題に暗澹《あんたん》とし、部隊での|A S《アーム・スレイブ》の損失《そんしつ》が多いことについていやみを言われ、『そろそろ私のところに戻《もど》らんかね』という提案《ていあん》を、毎度のごとく、苦労してつっぱねた。
夕方は、水陸両用戦での高等|戦術《せんじゅつ》について、数名の将校《しょうこう》と討議《とうぎ》を重ねた。
<デ・ダナン> に搭載《とうさい》できる兵器を総動員《そうどういん》する場合、その能力を充分《じゅうぶん》に発揮《はっき》できるのはせいぜい一〇〇キロ程度《ていど》の内陸部までで、それより奥になると相当の危険《きけん》を覚悟《かくご》せねばならない、これは艦が戦力を依存《いぞん》するASという兵器の展開能力の限界《げんかい》が云々《うんぬん》、どうのこうの。
要《よう》するに、たのしい話ではなかった。
南国のメリダ島―― <ミスリル> の西太平洋|基地《きち》で日が沈《しず》んでも、雑務《ざつむ》はつづく。
部下との相談事《そうだんごと》、論争《ろんそう》、海図や設計図《せっけいず》とのにらめっこ。情報部からのレポートに目を通し、民間のニュースを見て、専門誌《せんもんし》やネットメールもチェックした。
さらにいくつかの論文《ろんぶん》を読む。『水中における超音速投射物《ちょうおんそくとうしゃぶつ》の流体力学《りゅうたいりきがく》・その技術的可能性《きじゅつてきかのうせい》』などといった代物《しろもの》に没頭《ぼっとう》する一六の娘は、世界で自分ひとりだけだろうな……などと悲しい空想《くうそう》をしてみたりもする。
すったもんだの挙句《あげく》。その日は夜の一一時を回ったころに、おおよその仕事が片付いた。
テッサの生活は、だいたいこんな調子《ちょうし》なのだった。
夕食はたいていサンドイッチだ。ストレスのせいか、小さな身体《からだ》のわりによく食べる。睡眠《すいみん》時間は、平均で四〜五時間|程度《ていど》。しかも不規則《ふきそく》だ。
これは健康によくないし、美容《びよう》にもよくない。さいわい、いまのところ、彼女の柔和《にゅうわ》な美貌《びぼう》やほっそりとした体型に、その影響《えいきょう》は現《あらわ》れていなかったが――それも若さのなせるわざだろう。
二〇歳以上の女性隊員たちは、決まって彼女に予言《よげん》する。邪悪《じゃあく》な笑みを浮かべて。
「いまのうちだけですよ、大佐。……ふふふ」
「まず腰まわりから来るんですよ。……ふふふ」
「ほら、特にイタリア系って歳取ると。……ふふふ」
最後に関して、テッサは反論《はんろん》する。イタリア系の中年女性が総じて太っているのは、高カロリーの食生活のせいだ。それに実のところ、自分の家系はスイス・オーストリア系の血が濃《こ》い。灰色《はいいろ》の瞳《ひとみ》やアッシュ・ブロンドはその証左《しょうさ》だ。
……なのだが、やはり。小さいころに亡くなった祖母の肥満体《ひまんたい》を思い出すと、テッサは『近い将来、世界が滅亡《めつぼう》する』と宣告《せんこく》されたような気分になるのだった。
それはさておき。
さすがにテッサはヘトヘトだった。すでに消灯《しょうとう》された地下|基地《きち》の通路《つうろ》をふらふらと歩き、途中《とちゅう》の自販機《じはんき》で『おしるこドリンク』を買って、基地の警備兵《けいびへい》にジープを運転してもらい、将校用《しょうこうよう》の居住区画《きょじゅうくかく》へと帰る。
彼女の部屋は小奇麗《こぎれい》な2LDKだった。余裕《よゆう》のある間取《まど》りに、高い天井《てんじょう》。地上からの採光窓《さいこうまど》があるので、昼間などは自然光がほどよい加減《かげん》で射《さ》しこんでくる。
基地の中では、いちばん上等な部類《ぶるい》に入る部屋である。
このメリダ島基地に住み出した当初《とうしょ》、『どうせ寝《ね》るだけの部屋だし、もっと質素なところでいい』……とテッサは主張《しゅちょう》したのだが、副長のマデューカス中佐ほか数名の佐官《さかん》たちは、『それでは示《しめ》しがつかない』と、彼女をこの部屋に押しこんだのだった。何度|修繕《しゅうぜん》しても雨漏《あまも》りの直らない兵舎《へいしゃ》に住んでいる兵士・下士官《かしかん》たちのことを思うと、どうにもいたたまれない気分になるので、テッサはこの部屋があまり好きではなかった。
「ふう……」
ネクタイを緩《ゆる》めつつ、リビングに入っていくと、テレビが点《つ》いていた。CBSのドキュメンタリー番組『48[#「48」は縦中横]時間』が映っている。
「…………?」
そこでようやく気付く。ソファーに野戦服姿《やせんふくすがた》の女が寝そべっていた。バドワイザーの缶《かん》を片手に、だらだらと。
そこにごろごろしていたのは、陸戦隊《りくせんたい》のメリッサ・マオ曹長《そうちょう》だった。
マオはテッサとは対極《たいきょく》といってもいい、活動的《かつどうてき》な印象《いんしょう》の女性だった。
中国系のアメリカ人で、二〇代なかば。ベリーショートの黒髪《くろかみ》と、吊《つ》り気味《ぎみ》の大きな目。部隊の精鋭《せいえい》・特殊対応班《SRT》に所属《しょぞく》し、ASの操縦《そうじゅう》にかけては一、二を争う腕前《うでまえ》の持ち主だ。
テッサは相手を見下ろして、
「来てたんですか……」
「んー、お帰り」
別に同居《どうきょ》しているわけではない。部屋の合い鍵《かぎ》を預《あず》けてあるので、勝手《かって》に入ってきてくつろいでいたのだろう。そう珍《めずら》しいことではなかった。一〇近く歳が離《はな》れているものの、マオは彼女の友人で、あれこれと悩《なや》み事《ごと》の相談にも乗ってもらっている。
「ただいま。どうりでタバコくさいと思ったら……」
「ん〜? 換気扇《かんきせん》は回してるよ」
テッサの方を振《ふ》りかえろうともせず、ぞんざいな声でマオが言った。
部下の目があるところでは、いちおうは『大佐』と『曹長』の階級差をふまえて、そこそこのけじめをつけてはいるが、プライベートになると、こんなものである。互《たが》いに信頼《しんらい》しあっているし、部隊の男どもの無神経《むしんけい》さについて、共感《きょうかん》もしあっている。恋愛の話に華《はな》を咲かせたりもするし、一緒《いっしょ》にわいわいと通販《つうはん》カタログを見たりもする。
まず、仲良しといっていい間柄《あいだがら》なのだ。
とはいえ、きょうのテッサはいつになく疲《つか》れていた。彼女は不機嫌顔《ふきげんがお》で対面《たいめん》のソファーに『ぼふっ』と座《すわ》ると、乱暴《らんぼう》な手つきでおしるこドリンクのタップを開け、
「……それにしたって、考えて欲しいものです。グロリアおばさまが変に思って、あれこれ喋《しゃべ》ると厄介《やっかい》なのに」
「だれだっけ、その人」
「料理長の奥さんです。週一回、この部屋の掃除《そうじ》を頼《たの》んでるでしょう?」
「ああ、あの噂《うわさ》好きの」
「そう。その噂好きのグロリアおばさまが、わたしの部屋に掃除に来て、大量《たいりょう》のビールの空き缶と、メンソール・タバコの吸殻《すいがら》を見つけるわけです。すると――メリッサ、どうなると思いますか?」
「さあ?」
気のない返事《へんじ》。テッサは目を伏《ふ》せ、こめかみをぴくぴくとさせて、
「わたしが戦隊長としてのストレスに追い詰《つ》められて、この若さで飲酒《いんしゅ》・喫煙《きつえん》に耽《ふけ》っているという噂が流れるんです……! 深く、静かに! きのうはマデューカス中佐が執務室《しつむしつ》に来て、遠まわしに『どうかくれぐれも、不健康な習慣《しゅうかん》には手を出さないように』なんて言ってきました」
「ふーん……」
「たしかにわたしは、カフェインを摂《と》りすぎてる傾向《けいこう》があります。でも、それだけです。安っぽい娼婦[#「安っぽい娼婦」に傍点]みたいに、酒をあおってタバコを吸ってるとみんなに思われるのは、とても我慢《がまん》できません……!」
そう言ったのは言葉のあや[#「あや」に傍点]だった。しかし、仕事の疲れのせいか――神経が高ぶっていたのかもしれない。必要以上にとげとげしい声になってしまった。
「なによ。それ、あたしのこと言ってるわけ?」
マオは眉間《みけん》にしわを寄せ、はじめてテッサに目を向けた。
「あなた以外に、だれがいると言うんです?」
「へえ……。ずいぶんじゃないの。おえらいテスタロッサ嬢《じょう》にとっては、酒飲んでヤニ吸ってりゃ、女はみんな淫売《ビッチ》ってわけ?」
いきなり汚《きたな》い言葉を使われて、テッサはかっと頭に血が昇《のぼ》った。その体温とは反比例《はんぴれい》するように、ひどく冷ややかな声で、
「そういう言葉|遣《づか》い、やめてもらえます? 低俗《ていぞく》映画のギャングみたい」
「ナニ言ってんのよ。あんたはギャングの親玉みたいなもんでしょ」
この言いようがまた――ひどく癇《かん》に触《さわ》った。テッサはおしるこドリンクを『ごつん!』とテーブルに置いて、
「心外《しんがい》だわ。わたしはこの組織が、そうは言われないように毎日努力しているのに。下《した》っ端《ぱ》のあなたがその調子じゃ、わたしがどれだけがんばっても無駄《むだ》でしょうね……!」
「下っ端。下っ端だって!? よくもまあ、そんなナメた口がきけたもんだね!」
すでにマオも、怒りをあらわにしていた。ビールの缶を放りだし、ソファーの上でがばっと起きあがる。テッサは気丈《きじょう》に、それをきっとにらみあげ、
「だってそうでしょう!? その無責任《むせきにん》な根性が下っ端なんです! すこしは自覚《じかく》を持ってください!」
「うわっ、エっラそうに! 小娘がしたり顔で、クソ将校のサル真似《まね》ってわけ?」
「ひどい侮蔑《ぶべつ》だわ! わたしの仕事の何たるかも知らないくせにっ!」
「はっ!? こそこそと海の底に隠《かく》れて、ふんぞり返って命令してるだけじゃないの!」
「なんて馬鹿《ばか》な人なのかしら!? まあ、無理《むり》もないですけど。脳《のう》が筋肉《きんにく》でできてるような、海兵隊出のあなたには、わたしの責任《せきにん》は想像《そうぞう》もできないでしょうね!」
ここまで来ると、売り言葉に買い言葉だった。
もはや当初のきっかけなど、どうでもいい。互いの欠点《けってん》をあげつらい、言葉|尻《じり》の揚《あ》げ足をとり、辛辣《しんらつ》な言葉をぶつけ合う。しかもこの部屋には二人だけなので、『まあまあ』と割《わ》って入る第三者がいない。
ひとしきり罵《ののし》り合った挙句に、とうとう両者は立ちあがった。
「最低! なんでそういう下品なことしか言えないんですっ!?」
「おだまりっ! たまには身体|張《は》って、鉄砲玉《てっぽうだま》の前に出てみなっ!」
「M9の高性能《こうせいのう》に頼《たよ》っておいて、いっぱしの勇者気取りですか!? それこそ大いなる勘違《かんちが》いです!」
「はっ、まともにASに乗れもしない奴《やつ》に、なにがわかるってのよ!?」
「いーえ、乗れます! でも、乗らないだけです!」
「ほおー、そうだったわけ!?」
「ええ! 直感《ちょっかん》に頼るだけの、野蛮《やばん》なあなたの戦い方なんかより、ずっとうまくやれます! はっきり言って、あなたはM9の性能をまったく生かしきれてないわ。わたし、傍《はた》から見てていつもイライラしてるもの!」
「こっ……このガキャ……」
額《ひたい》に青筋《あおすじ》を浮かべて、いまにもテッサに飛びかかりそうな形相《ぎょうそう》をした。
「……だったら見せてみなよ」
にわかに押し殺した声で、彼女は言った。テッサは身を固くして、
「な、なにをです」
「ASの腕《うで》さ。そこまで言うなら、あたしよりうまいんでしょ……? 演習場《えんしゅうじょう》で勝負してみようじゃない。あたしが負けたら、これからはあんたに、なに言われようが口答えしないわ。命令も全部聞いてあげる。『死ね』と言われたら死ぬし、『土下座《どげざ》しろ』といわれたら土下座するわよ」
「そ………」
「ただし、あんたが負けたら――そうね、基地内を裸《はだか》で一周ってのはどう? いや、下着姿くらいで許してあげようか。やったら、必ず負けるもんね……ふふふ」
そう言ってマオはにんまりと笑った。チェスで王手をかけたような、勝ち誇《ほこ》った目。こんな提案《ていあん》では、まず降《お》りるしかないだろう……そう決めてかかっている様子《ようす》だった。
さあどうするの、お嬢ちゃん。逃げ口上《こうじょう》は考えた? 人の分野《ぶんや》に土足で踏《ふ》み込んだのがまずかったわね。いきがってると、こういうしっぺ返しが来るのよ。おわかり?
相手が内心でそう思っているのが、手に取るように伝わってきたからこそ――テッサは反射的《はんしゃてき》に答えてしまった。
「いいでしょう。上等《じょうとう》です」
「……は?」
「勝負しようじゃありませんか、ASで。あなたのその思いあがりを、このわたしが正してあげましょう。負けたら裸で一周でもなんでもしてみせます!」
「バカ? あんた、本気で――」
「あなたなんか、物の数ではありません! 基地中の笑い者にしてあげます! 首を洗って待っているといいわ!」
「こっ……」
「勝負は三日後! 詳細《しょうさい》は追って通達《つうたつ》します! わかったら、さっさと出ていってください!」
テッサは部屋の出口をぴしりと指《ゆび》さした。
マオはすこしの間ぽかんとしてから、『ふんっ』と鼻を鳴《な》らして、どすどすと部屋を出ていった。玄関《げんかん》の方から、乱暴《らんぼう》に戸を閉める音がして、室内が静まり返る。
ふと気付くと、ソファーの脇《わき》に忘れ物があった。
ランコムのファンデーション。
そういえば先週、雑談《ざつだん》のついでに『使い方を教えてください』と彼女に頼《たの》んだのだった。マオは今夜、そのつもりでここで待っていてくれたのだろう。
彼女も残業ばかりで疲れていたはずなのに。
いや、そんなことなど、もはやどうでもいい。
よくわかった。彼女はわたしの立場なんか、まるで分かってくれてない。エゴイスティックで、独善的《どくぜんてき》で、恩着《おんき》せがましくて。わたしのこと、バカだと思ってるみたいだし。世間知《せけんし》らずの小娘で、なにも苦労してないと決めつけてるのだ。そうにちがいない。なんて鈍感《どんかん》でいやな人なんだろう……!
「メリッサなんか……大《だい》っ嫌《きら》い……!」
いまだに頭の冷めないまま、テッサは一人でつぶやいた。
買った喧嘩《けんか》に不可欠《ふかけつ》な『アーム・スレイブを操縦《そうじゅう》する』という作業《さぎょう》が、自分にとってどれだけ困難《こんなん》かを思い出したのは――ずいぶん後になってからだった。
『あんたが悪い』
相良《さがら》宗介《そうすけ》とクルツ・ウェーバーは、ハモって言うと、同時《どうじ》にマオを指さした。
朝、基地の食堂でのことである。二人の同僚《どうりょう》とテーブルを挟《はさ》んで座っていた彼女は、朝食のベーコン・エッグをフォークでつついていた手を、ぴたりと止めた。
「な……なによ、二人そろって……」
クルツが『どうした』としつこく聞いてきたので、かいつまんで昨夜《さくや》のテッサとの一件を話したのだ。すると――この感想《かんそう》である。
宗介は真っ赤なトマトをコンバット・ナイフで切りながら、
「将校《しょうこう》がシロだと言ったら、とりあえずはシロだと認《みと》めておく。これは下士官として当然のことだ」
「う……」
その横に座るクルツが、ほかほかのご飯《はん》にひき割り納豆《なっとう》をのせつつ、
「この朴念仁《ぼくねんじん》のコメントはさて置いてもだな。そーいう場合は年の功《こう》ってもんがあるだろ。年の功ってもんが。なんってのか、大人げないし、みっともねーよ」
まさしく他人事《ひとごと》のように投げやりに言って、クルツは幸せそうにご飯をかきこんだ。金髪碧眼《きんぱつへきがん》、ハンサムな男なのだが――こういう食事をしていると、日本のバラエティ番組に出てくる外人タレントみたいである。
「ま、アレだね……んー、うまい。テッサは忙しい身だから……はふはふ。疲れてたんじゃねーの? かわいそうに……ふもふも」
「あたしだって疲れてたわよ。きのうだって遅《おそ》くまで報告書《ほうこくしょ》を……」
「はっはっは。姐《ねえ》さんは書類の片付《かたづ》けかたがヘタクソなんだよ。だから残業《ざんぎょう》ばっかりなんだ」
クルツがつやつやとした笑顔で、さわやかに言った。するとマオはいきなり『がたっ!』と身を乗り出し、彼の首をぐいぐいと絞めだした。
「うぐっ……」
「あ・ん・た・が……! いつもいつも! 余計《よけい》に部品を壊《こわ》したり、使った弾薬《だんやく》をドンプリ勘定《かんじょう》したり、デタラメな報告書を書いたりするからでしょうが! ええ!?」
「ぐ、ぐるじい……やめで……」
白目を剥《む》くクルツ。宗介はそのとなりで、物静《ものしず》かにトマトをぱくりとかじって、
「それで、マオ。その勝負とやらは、本当に実行《じっこう》するのか?」
「え? ああ、それねえ……」
肩《かた》で息していたマオは、ぐったりとしたクルツから手を離《はな》した。
「けさメールが届《とど》いてて。これなんだけど……」
マオは胸ポケットに入れていた、手帳型《てちょうがた》の携帯端末《けいたいたんまつ》を取り出すと、スイッチを入れて宗介に見せた。携帯端末の液晶画面《えきしょうがめん》には、テッサからのメッセージが表示《ひょうじ》されていた。
<<メリッサ・マオ様へ
昨夜《さくや》の件。二一日一八〇〇時、第一演習場・区域《くいき》B5の『双子岩《ふたごいわ》』へ、M9(E―006号機)搭乗《とうじょう》の上、来られたし。
主武装《しゅぶそう》は以下のものをご自由に。
▼GDC―B  アサルト・ライフル
▼<ボクサー>  ショット・キャノン
▼ASG96[#「96」は縦中横]―b 滑腔砲《かっくうほう》
これら装備《そうび》と、ペイント弾、訓練用《くんれんよう》ATD、訓練用カッター等の持ち出し、消費《しょうひ》は手配《てはい》済《ず》み。
[#地付き]テレサ・テスタロッサ
追伸《ついしん》:逃げないように。>>
正式な命令書の書式ではなかった。ごく個人的なメッセージだ。弾薬代などは、彼女が自腹《じばら》で負担《ふたん》するということなのだろう。それにしても、簡潔《かんけつ》きわまりない文面なだけに、最後の追伸のとげとげしさときたら――
「うわっ、本気だぜ、おい。こえぇ……」
早くも立ち直ったクルツが、横から端末《たんまつ》をのぞきこんで言った。
「あの大佐殿が……」
そのメールを見ると、宗介ですらも、なにかうすら寒いものを感じたりする。しばしば、千鳥かなめに感じるのと同種《どうしゅ》の――異性《いせい》に対する小さな戦慄《せんりつ》、とでもいおうか。女は暴力《ぼうりょく》や怒鳴《どな》り声を使わずに、男をふるえあがらせることができるのだ。
こめかみに冷《ひ》や汗《あせ》を浮かべつつ、宗介は端末をかえした。
「受けるのか?」
「受けるわよ。さすがにここまで言われちゃね……くくく、く……」
マオはぎこちなく顔をゆがめた。余裕《よゆう》の笑みを浮かべようとしているのに、胸の内でふくれあがる憤激《ふんげき》が、それをじゃましているような表情だった。
これがまた、こわい顔だったりする。
「しかし、大佐殿にはASの操縦|経験《けいけん》などなかったと記憶《きおく》しているが」
「そーね。ないわね」
「 <ミスリル> 仕様のM9は超《ちょう》・上級者向けの機体《きたい》だ。こう言っては何だが――普通《ふつう》の人間にはとうてい乗りこなせないと思うぞ」
「そーね。それにあの子、救いようのない運動音痴だし」
「では、勝負など成立《せいりつ》しないではないか」
「そーね。成立しないわね」
その通りだった。
仮にテッサがASを動かすことができたとしても、優劣《ゆうれつ》は変わらない。マオの技能《ぎのう》が桁《けた》外《はず》れだからだ。一般《いっぱん》の正規軍《せいきぐん》でASを専門《せんもん》に操縦している兵士でさえ、彼女の操《あやつ》る機体《きたい》にはとてもかなわないだろう。
単なる動物的|勘《かん》や才能《さいのう》だけではない。あらゆる機体の持つ特性《とくせい》や長所、弱点を、彼女は熟知《じゅくち》しているのだ。
こう見えても、マオは工学の修士号《しゅうしごう》を持っている。ASのシステムや戦術に通じた専門家であり、その気になれば設計《せっけい》・開発プロジェクトに参画《さんかく》できるほどの知識《ちしき》がある。事実《じじつ》、<ミスリル> が最新鋭のM9を導入《どうにゅう》した時には、その仕様にマオの意見が多数取り入れられたいきさつがある。しかも実戦経験者。どのメーカーでも欲しがるような、非常《ひじょう》に貴重《きちょう》な人材なのだ。
テッサもASについてはそれなりに詳《くわ》しかったが、実際《じっさい》に乗るとなると――まるで話が違ってくる。ありていに言って、テッサがマオに勝つ可能性《かのうせい》はゼロだった。
「やめとけよ。かわいそうだよ、彼女」
「そうだ。無駄な時間だ」
「そうはいかないわ。ま、せいぜいからかってあげるつもり。ベソかいて『ごめんなさい』っていうまで、さんざん小突《こづ》き回してやるわ。ふふふふ……」
その場面を想像《そうぞう》して、なにか嗜虐的《しぎゃくてき》な悦《よろこ》びを感じたらしく、マオは暗い笑い声をもらす。なんとなく、彼女の脳裏《のうり》では変な煩悩《ぼんのう》が大爆発《だいばくはつ》しているように見えた。
宗介とクルツは顔をしかめて、
「妙《みょう》にうれしそうだな……」
「やっぱりSかい。……にしても、ホントに大人げねえな」
「それはあっちも同じよ。ガキなんだから」
そのとき――
「だれがガキですって?」
静かな声に三人が振《ふ》りかえると、そこにはテッサが立っていた。
いつもと同じ、カーキ色の制服姿《せいふくすがた》。小脇《こわき》にはノートパソコンとファイルケースを抱《かか》えている。身なりはきちっとしていたが、目の下に濃《こ》い隈《くま》ができていた。あまり寝《ね》ていないのかもしれない。
「うっぷす。……これはこれは、大佐殿」
マオがむっつり顔になって言う。宗介とクルツは硬直《こうちょく》していたが、やがてテッサに軽く会釈《えしゃく》――あるいは敬礼《けいれい》してから、ひどく居心地《いごこち》が悪そうに、それぞれの朝食へと向き直った。
「いやあ、やっぱ納豆《なっとう》はカリフォルニア産だなぁ」
「トマトはどうして赤いのだろう」
わけのわからないことを口走る二人を尻目《しりめ》に、マオとテッサはしばしの間、無言《むごん》でにらみ合っていた。ただならぬ気配を察《さっ》したらしく、食堂にいたほかの隊員《たいいん》たちも静かになる。ばちばちと火花の散《ち》る音だけが、辺《あた》りに鳴《な》り響《ひび》いていた。
最初にその沈黙《ちんもく》を破《やぶ》ったのは、テッサの方だった。
「軽くひねってやる、とでも思っているんでしょう?」
「…………。まあ、そうなるだろうしね」
「そうは行きませんよ。せいぜい慢心《まんしん》してるといいわ」
「ふん。それよりも、裸で基地一周。あんたにできるの?」
「心配しなくていいですよ。わたしもあなたに同じことを命じるつもりですから」
「むっ……」
テッサは話を打ち切って、いきなり宗介に目を向けた。
「サガラ軍曹《ぐんそう》?」
「はっ」
呼ばれた宗介は弾《はじ》かれたように、その場で背筋《せすじ》をぴんとのばした。自分はなにか、彼女の気に触《さわ》ることでもしていただろうか……? そう思って青くなっていると、
「話があります。付いて来てください」
言うなり、テッサはとことこと食堂を出ていってしまった。
食堂からやや離《はな》れた、人気のない通路まで来ると、宗介は控《ひか》えめな声でたずねてみた。
「大佐殿。……お話とは?」
彼女の肩《かた》は、なぜか小さく震《ふる》えていた。怒っているのだろうか? それは無理《むり》からぬことだったが、しかし、自分はこの件とはなんの関係も――
「実は、あなたにお願いがあるんです」
背中を向けたまま、テッサが言った。
「は。お願い……ですか」
「ええ。あなたにしか頼《たの》めないことなんです。公私混同《こうしこんどう》だということは分かってるんですけど……どうか軽蔑《けいべつ》しないでください」
「いえ、決してそのようなことは。自分にできることでしたら、なんなりとお申《もう》し付《つ》けください」
するとテッサはくるりと振《ふ》りかえり、まっすぐに宗介を見つめた。疲れた灰色の瞳《ひとみ》が、わずかに潤《うる》んでいる。
「本当ですか……?」
「肯定《こうてい》です。どうぞご遠慮《えんりょ》なく」
「ありがとう。とっても……うれしいです」
「いえ……当然のことであります」
そう言いながらも、宗介は緊張《きんちょう》していた。
(どうやら大変なことになってきたぞ……)
彼女がもし『マオを殺せ』だの『二度と立てない身体にしてやれ』だのと言ってきたら、自分はどうすればいいのだろう? やはり断《ことわ》るべきだろうか? それとも、マオをこっそりと南米にでも逃がして、『確《たし》かに殺した』と証言《しょうげん》すべきだろうか? だとしたら、どこかからマオに似た体格の死体を入手する必要《ひつよう》がある。巧妙《こうみょう》な爆発事故《ばくはつじこ》を演出《えんしゅつ》し、遺体《いたい》と彼女をすり変えて、逃走経路《とうそうけいろ》と偽造旅券《ぎぞうりょけん》を用意してやり――
(これは大仕事だ)
きょうの午後には東京に帰って、かなめや恭子たちと映画を見に行く予定だったのに。もはやそんな暇《ひま》など、微塵《みじん》もないではないか……!
「あの、サガラさん?」
むっつり顔のまま青ざめ、だらだらと脂汗《あぶらあせ》を流す彼を見て、テッサが眉《まゆ》をひそめた。
「は?」
「どうしたんですか? どうも顔色が……」
「いえ。それより、その……やはり、殺せと?」
「なに変なことを言ってるんですか、あなたは……」
テッサは肩をがっくりと落として、深いため息をついた。その様子《ようす》に、宗介はうろたえ半分、胸をなでおろす。
「それでは、いったい?」
「ええ。わたしがあなたに頼みたいのはですね、コーチなんです」
「は?」
訊《き》きかえすと、テッサはやおら両の拳《こぶし》にぐっと力をこめた。
「ASの操縦法のコーチです。あなたの腕なら、彼女と互角《ごかく》でしょう? だからあの人に勝てるように、このわたしを、しごいて欲しいんです……!」
宗介は愕然《がくぜん》とした。
やっぱり、大仕事ではないか。
その昼|過《す》ぎ、<トゥアハー・デ・ダナン> の陸戦隊|指揮官《しきかん》、アンドレイ・カリーニン少佐が、例によって書類の束《たば》を山ほど抱《かか》え、テッサの執務室《しつむしつ》をたずねると――
「申《もう》し訳《わけ》ありません、少佐殿」
テッサの秘書官《ひしょかん》、ジャクリーヌ・ヴィラン少尉《しょうい》が彼に告げた。ショートのブロンドで日焼けした、背の高い女性である。
「アポのあった方にはお知らせしておいたのですが……。テスタロッサ大佐は二一日までの三日間、午後の執務をお休みすることになりました。ですから、いまは不在《ふざい》です」
カリーニンはわずかに眉《まゆ》をひそめた。
「午後だけ。それはどういうことだね」
「私も説明を受けておりません。ただ、ずいぶんお疲れのご様子でした」
「ふむ……」
たまっている休暇《きゅうか》を消化《しょうか》することにしたのかもしれんな、とカリーニンは考えた。
実際《じっさい》、彼女は働き過ぎている。彼女でなければ決められない事柄《ことがら》が、この部隊には多すぎるのだ。『優秀』の一言では片付けられないほど、容易《ようい》には得《え》がたい人材である彼女を、部隊はもっと大事に扱《あつか》わねばならない。来週は <デ・ダナン> が修理《しゅうり》と整備《せいび》の工事を終え、しばらく海に出る予定でもあるし――
「結構《けっこう》なことだ。マデューカス中佐はこのことを?」
「ご存知《ぞんじ》のはずですが」
「ならば、いい」
カリーニンはその場を去り、すこし離《はな》れたマデューカス中佐の執務室へと向かった。
最近小耳に挟《はさ》んだ、彼女が酒を覚えたらしいという噂。いま知った妙《みょう》な休養の件。二、三、話して、確認《かくにん》をとっておく必要があるだろう。
「うむ……いや、すまない。……そうだ。緊急《きんきゅう》の……ああ、別に危険《きけん》ではないのだが。……とにかく、常盤《ときわ》と小野寺《おのでら》と三人で行ってくれ。あした?……いや、しばらく戻《もど》れん。まだ流動的《りゅうどうてき》だ。……ああ、頼む。それでは」
宗介は衛星《えいせい》電話を切り、一度、大きく息をついた。
そこはメリダ島の東側にある砂浜だった。背の高いやしの木と、どこまでも続く水平線。空は抜けるように青く、打ち寄《よ》せる波《なみ》の音が心地《ここち》よい。旅行|代理店《だいりてん》のパンフレットに出てきそうな、それはそれは美しい海岸の景色《けしき》である。
その砂浜に、一機のASが座っていた。
M9 <ガーンズバック> 。<ミスリル> が運用する、最新鋭機《さいしんえいき》である。
灰色の機体。すらりとした敏捷《びんしょう》そうなシルエット。複雑《ふくざつ》な曲面と直線の組み合わせ。その頭部は、ヘルメットをかぶった戦闘機パイロットのようにも見える。
宗介はM9のそばで、腰《こし》に手をあて、しばしの間うつむいていた。それから気分を入れ返るように、何度かうなずいて、
「そろそろ、はじめましょうか」
どことなく、気の乗らない顔で振《ふ》りかえる。
砂の上で、運動着姿のテッサが準備体操《じゅんびたいそう》をしていた。だぶだぶのTシャツに、黒のスパッツ。ぴかぴかのナイキのスニーカー。アッシュブロンドの髪は、後ろでまとめて結《ゆ》い上げている。ASに乗るというより、バスケかなにかでも始めるような風情《ふぜい》ではあったが――サイズの合う操縦服がなかったのだから、仕方《しかた》がない。
「はい。お願いします、コーチ」
妙に力《りき》んだ声でテッサが言った。宗介と基地を出てきたあたりから、彼女はにわかに元気付いている。執務の疲労《ひろう》などどこ吹《ふ》く風、といった様子で、傍目《はため》にも上機嫌《じょうきげん》そうに見えた。
「その、大佐殿。コーチという呼び方は、どうも……」
「でも、コーチです。イヤならサガラさんにしますけど……」
「……そうしていただけると助かるのですが」
「はい、サガラさん☆」
にっこりとほほ笑《え》む。
宗介はといえば、どうにも不安で仕方《しかた》がなかった。
もしなにかの間違《まちが》いで、彼女に怪我《けが》でもさせてしまったらどうしようか?
かなめとの約束《やくそく》もキャンセルしてしまった。『いいわよ、うん。仕事じゃしょーがないわよね。はははのはー』などと言ってはいたが――あれは少々、むっと来ている声だった。
いったい俺が、なにをした?
テッサがらみで厄介事《やっかいごと》が起きるとき、宗介は必ずこう思うのだった。
彼女のことは、決して嫌いなわけではない。かなめとはまた違《ちが》った意味で、あれこれと考えさせられる女性であり、声をかけられると光栄《こうえい》にも思う。しかしテッサは宗介の前で、やたらと奔放《ほんぽう》に振舞《ふるま》うところがあり――それが彼を当惑《とうわく》させるのだ。
(いかん……とにかく訓練《くんれん》だ)
雑念《ざつねん》を振り払《はら》い、宗介は咳払《せきばら》いした。
「まず、搭乗法です」
宗介はM9の装甲をぽんと叩《たた》いた。
「もちろんご存知《ぞんじ》でしょうが、M9をはじめ、多くのASのコックピット・ハッチは胸の頂上部《ちょうじょうぶ》――首の後ろか前にあります。転倒《てんとう》して動けなくなった際《さい》、操縦者の脱出《だっしゅつ》を容易《ようい》にするための設計《せっけい》です。高いところにありますので、乗り込むときは十分に気をつけなければなりません。この降着姿勢《こうちゃくしせい》でも、頭の高さは四メートル――ビルの二階くらいはあります。どうか、くれぐれも――」
「ええ、知ってますよ。アメリカ陸軍の統計《とうけい》では、転落|事故《じこ》で年間三〇名が重軽傷を負うそうです。さいわい死者はまだないようですけど」
えへん、といわんばかりにテッサが付け足した。
初耳だった。そういうことは、いろいろ知っているのだな……と宗介はなかばあきれてしまう。
いま、M9は正座《せいざ》をして両腕を垂《た》れるような、いささか情けない格好《かっこう》をしていた。しかし、この格好がASを格納《かくのう》する際の基本的な姿勢《しせい》なのだ。立っていると不安定で危《あぶ》ないし、寝そべっていると場所をとる。格納庫などで、ASがこの姿勢でずらりと並んでいる風景《ふうけい》などは――なかなか壮観《そうかん》だった。柔道《じゅうどう》かなにかの授業《じゅぎょう》で、教師から説教をされてうなだれている生徒たちのように見えるのだ。
「足首に昇降用装置《しょうこうようそうち》のレバーがあります。引いてみてください」
「はい」
テッサが従《したが》った。装甲《そうこう》の裏側、ちょうど人間のズボンでいったら裾《すそ》の縫《ぬ》い合わせのあたりに、野太《のぶと》いレバーが隠されている。安全|装置《そうち》をはずして、それをねじるように引くと、『ぱしゅっ』と高圧空気《こうあつくうき》の抜ける音が頭上でした。
機体の背中のてっぺんから、ポリマー樹脂製《じゅしせい》の黒い縄《なわ》ばしごが射ち出されたのだ。
「熟練者《じゅくれんしゃ》は、このはしごを使わずによじ登れるのですが――絶対《ぜったい》に真似《まね》はしないように。では、上がってください」
「はい」
テッサが機体の背中にぶらりと垂れ下がった縄ばしごを、もたもたとよじ登りはじめた。
「よ……っと。こ、これはなかなか……むずかしい、です、ね」
縄ばしごがぶらぶらと揺れる。テッサは一段、一段、苦労《くろう》しながら登っていったが、機体の腰のあたりまで来たところで、
「きゃっ……」
つるりと足を踏《ふ》み外して、まっさかさまに転落してしまった。
どしんっ!
とっさに受けとめようとした宗介を、テッサが勢《いきお》いあまって押《お》しつぶす。砂浜で練習をはじめたのは、まことに正解《せいかい》だった。
「大佐殿、お怪我《けが》は」
下敷《したじ》きにされながらも、宗介はけなげにそうたずねた。
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》です、これくらい……。ごめんなさい」
二人はもつれ合うようにして、砂の上に横たわっていた。だれもいない砂浜で、二人きり。ぴったりと抱《だ》き合うような格好である。それに気付いたテッサが、頬《ほほ》をほんのり赤くする。
「それに……ちょっと得した気分ですし……」
とろけそうな声。テッサはなかなか退《ど》こうとしない。彼女のやわらかい体の感触《かんしょく》と、わずかな汗《あせ》の匂《にお》い、そして体温がほんのりと伝わってきた。
(いかん。これは……非常《ひじょう》によくない……)
得体《えたい》の知れない感覚《かんかく》と、猛烈《もうれつ》な後ろめたさが襲《おそ》いかかる。宗介はその場で岩のように凍《こお》りつき、困《こま》り果てていた。
[#挿絵(img2/s03_245.jpg)入る]
その後の練習は――宗介としては、ただひたすら頭を抱《かか》えるしかなかった。
どうあっても、テッサはハッチまで登るのにまごついた。下手《へた》をしたら今度こそ大怪我をしかねないので、宗介は仕方なくM9を操作し、うつぶせに這《は》いつくばるような姿勢《しせい》をとらせてやった。その格好ならば、縄ばしごを使わなくてもハッチに潜《もぐ》り込むことができるからだ。
乗り込んでから、動力源《ジェネレーター》や電子機器《ヴェトロニクス》、各種センサーなどを起動《きどう》する作業《さぎょう》は――まあ、スムーズにいった。こちらが教えられることさえあったほどだ。そのあたりはさすが、といったところだろうか。
だが、そこからが大変だった。
宗介たちはM9を自動で立ちあがらせてから、もっとも基本的な『歩く』という動作《どうさ》の練習をはじめた。簡単《かんたん》なようだが、これが曲者《くせもの》なのだ。
少々、専門的な話をする。
|A S《アーム・スレイブ》の語源《ごげん》は『アーマード・モービル・マスター・スレイブ・システム』という。日本語に直すなら『主従追随式機甲《しゅじゅうついずいしききこう》システム』といったところか。その名の通り、ロボット工学ではポピュラーな『|主人と奴隷《マスター・スレイブ》』システムで操作する。基本的には、操縦者《マスター》の動きを機体《スレイブ》がまねるだけの単純《たんじゅん》な仕組《しく》みだ。
ただ、操縦者《オペレータ》がバタバタと大きく手足を振りまわせるような空間は、兵器としては大変な無駄《むだ》となるので――ASの場合、もうすこし工夫《くふう》した『セミ・マスター・スレイブ』と呼ばれる方式が使われている。
コックピットは狭い。……というより、人間ひとりがぴったりと納まる空間しかない。
搭乗者はその空間に納まって、機体にさせたい動きを、ほんのすこしだけ演《えん》じてみせる。機体の肘《ひじ》を九〇度曲げたかったら、操縦者は自分の肘を二〇〜三〇度くらい曲げてやる。機体はそれを読み取り、操縦者の動作を数倍にして実行《じっこう》する。その間、動作がスムーズになるように、コンピュータがある種の『翻訳《ほんやく》』と『均《なら》し』のような処理《しょり》をする(実は、この処理の優劣《ゆうれつ》が機体の性能《せいのう》を左右する重要なファクターだったりする)。
要《よう》するに。
操縦者が『ちょこっ』と動くだけで、機体の方は『ずばっ!』とカッコよく動いてくれるわけである。
そういう機械に運動音痴の娘が乗ると、はたしてどういうことになるか。
「では――まず一歩、踏《ふ》み出してください」
小型のFM無線機《むせんき》に向かって、宗介は告げた。
『はい。それじゃあ……』
すでに機上[#「機上」に傍点]の人となったテッサが、外部スピーカー越《ご》しに答えて、宗介の指示《しじ》を実行《じっこう》した。
彼女はたぶん、ひょいっと足を踏み出しただけのつもりだったのだろう。ひょっとしたら、いくらかの気負《きお》いがあったのかもしれない。いずれにせよ、彼女は普通の感覚で歩こうとした。
するとその動作を、最新鋭のM9は――律儀《りちぎ》に、力強く、大々的に増幅《ぞうふく》した。
柔軟《じゅうなん》な脚部《きゃくぶ》が『ぎゅおっ!』と風を切って跳《は》ね上がり、自分自身の胸に、猛烈《もうれつ》な膝蹴《ひざげ》りを叩《たた》き込んだ。
『ひあ……!?』
人間ならば、決してありえない動作《どうさ》だ。M9は完全にバランスを崩《くず》し、空中で半回転して背中から転倒《てんとう》した。巨体が地面につっこんで、砂埃《すなぼこり》が盛大《せいだい》に舞《ま》い上がる。
「大佐殿!?」
『う、あ……、ご、ごほっ!』
転倒のショックで、テッサは大きく咳《せ》きこみ、むせ返った。
その動作も、M9はしっかりと増幅《ぞうふく》してしまう。背筋《はいきん》の力だけで、数メートルは浮かび上がる機体《きたい》。その衝撃《しょうげき》がさらにテッサを混乱《こんらん》させ、彼女は手足をばたつかせる。M9はそれを忠実《ちゅうじつ》に増幅《ぞうふく》。
あわてるテッサ。もっとあわてるM9。その繰《く》り返しだ。
陸《おか》に釣《つ》り上げられた魚のように、灰色の機体《きたい》がバタバタと暴《あば》れる様《さま》は――壮絶《そうぜつ》な間抜《まぬ》けっぷりだった。M9はごろごろと砂浜を転がり、ヤシの木をぶち折って、砂塵《さじん》を巻き上げ、海に突《つ》っ込み、水しぶきをあげて、それでもなお、激しくもがき続けた。
「大佐殿! 動くのをやめてください! 大佐殿!」
危《あぶ》なくてとうてい近づけたものではない。宗介は無線機《むせんき》に向かって叫《さけ》ぶしかなかった。
『た、助けて……!』
「じっとするんです! 動かないで!」
『止まらない! 止まらないんですっ……!』
「大佐っ!」
一日目の訓練は、こんな調子《ちょうし》だった。
基地で唯一《ゆいいつ》の居酒屋《パブ》、『ダーザ』のSRT要員《よういん》指定席《していせき》――つまりカウンターの隅《すみ》っこの狭苦《せまくる》しい席で、マオはうだうだとビールを飲んでいた。
すでにジョッキで五杯目である。
いい加減《かげん》、なにか別の酒に切り替えてもよさそうなものだったが、マオはひたすらビールばかり飲む。ほかの酒を飲んでいるときに限《かぎ》って、なぜかいつもイヤな出来事《できごと》が起きるというジンクスが、彼女にはあるのだ。
自分を可愛《かわい》がってくれていた叔母《おば》が、交通事故で死んだ知らせを受けたとき、マオはワインを飲んでいた。むかし付き合っていた日系の海兵隊員と、別れ話をしたときはバーボンだった。フローズン・ダイキリを飲んでいるときに、酔《よ》っ払《ぱら》いからブラッディ・マリーを引っかけられて、お気に入りのイブニング・ドレスを台無《だいな》しにしたこともあった。ほかにもあれこれ。思い出したくもないようなことが、いくつかある。
ビールだけは安心だったのだ。そう、ビールだけは。
だというのに、その牙城《がじょう》もまた、崩れ去《さ》ってしまったようだ。昨晩《さくばん》、あの娘の部屋で、自分はまちがいなくビールを飲んでいた。
これから自分はなにを飲んだらいいのだろう? 考えてもわからなかったので、彼女は仕方《しかた》なく六杯目のジョッキを注文《ちゅうもん》した。
「またか。いい加減、別のもんを頼《たの》め」
パブのマスターがだみ声で言った。
「いいの。じーさん。さっさと注《つ》いで」
「ばかもん。じーさんとはなんだ、じーさんとは。わしゃ、まだ若い。その気になれば、おまえさんごとき小娘なんぞ、一晩中《ひとばんじゅう》――」
「いいから。ちょうだい、おじさまぁ。……げふっ」
「ふん……まったく」
マスターは泡《あわ》のこぼれるジョッキを乱暴に置いた。その手つきは、まるで猫に餌《えさ》をやる飼《か》い主《ぬし》のようだった。
飽《あ》きもせずに、その六杯目を飲んでいると、隣《となり》の席にクルツがやってきて腰かけた。
「うわっ、洒くせー。やってるねぇ、姐さん」
「なによ……?」
大きな吊《つ》り目をとろんとさせて、マオは言った。クルツはマスターに『いつものー』だのと注文《ちゅうもん》してから、彼女をのぞきこむ。
「本気で練習してるみたいだぜ、彼女」
「だれが。なにを」
「テッサが、ASを」
「バカな子……。ソースケも気《き》の毒《どく》に」
無関心《むかんしん》な声でつぶやく。クルツは呆《あき》れ顔で、
「バカって、あんた。テッサとしては、そうするしかねーだろ」
「なんでよー」
「あの子はな、『お前にはできない』といわれたら、『できる』と証明《しょうめい》しなきゃならない生活をずっとして来たんだよ。これまで。それに向かって、よりによってあんたが、『ASには乗れまい』だなんてよ……禁句《きんく》だよ、禁句。バカは姐さんさ」
相手のしたり顔にマオはむっとして、
「知ってるわよ。あたしはねー、あの子のことは大概《たいがい》知ってるの。好きなおやつも、嫌《きら》いな虫も、ブラのサイズも。それでもって、あたしはあの子の、ああいう風に、不必要《ふひつよう》なところまで肩肘張《かたひじは》ってるところが気に食わなかったのよ、前から」
「そうなの?」
「そーよ。変な悲壮感《ひそうかん》、背負っちゃってさ。自分が世界を変えられると思い込んでるんだわ。あたしもその一つ。支配《しはい》したがってるのよ。ガキってのはこれだから……」
「姐さんがあれくらいのころは、どうだったんだよ」
「…………」
そう訊《き》かれると、マオは考え込んだ。ニューヨークで悪ガキやって、それでも自分を主義主張《しゅぎしゅちょう》のある『いい不良』だと思い込みたがっていたあのころ。薬には手を出さない。仲間の結束《けっそく》は血よりも濃い。弱いものは守ってやれ。立派《りっぱ》なことだ。
あのとき、自分は世界を変えられると思っていただろうか? あの少女ほどなにかを考えていただろうか?
最初の疑問《ぎもん》はイエスで、次の疑問はノーだった。
「まあ、たぶん。あの子よりずっとバカだったわね」
正直な感想を漏《も》らすと、なぜかクルツはげらげらと笑った。
「なによ」
「いや。それが本音《ほんね》か」
マオは怒るでもなく、カウンターに突《つ》っ伏《ぷ》した。
「そうね。そうかもね。あたし、あの子に劣等感《れっとうかん》、感じてるんだわ」
訓練の二日目。
テッサはとりあえず、M9を普通に歩かせるところまでは来ていた。操縦モードを半自動に切り替えて、動作の増幅度――専門的には『バイラテラル角』といった――を最低に設定《せってい》したのだ。
白い砂浜には、無数《むすう》の足跡《あしあと》が残っていた。杖《つえ》を失った老人のように、M9はよたよたと歩きつづけ、決められたコースを何|往復《おうふく》もして、ときたまバランスを崩しながらも――ぐっと踏みとどまる。
最初の七転八倒《しちてんばっとう》に比《くら》べれば、ずいぶんな進歩といえるだろう。
「小休止《しょうきゅうし》をとりましょう」
教官ぶりが板についてきた宗介が、時計をちらりと見てテッサに告げた。
『はい。……よっ……っと』
M9は苦労して膝《ひざ》をつき、両手をつき、ぎこちない動きで地面に這《は》いつくばった。
胸と頭が一緒にスライドして、コックピット・ハッチが開放《かいほう》される。
「ふう……」
汗だくになってコックピットから這い出してきたテッサに、宗介が手を貸《か》した。足がふらつき、倒《たお》れかかるのを、横から支えてやる。
「ありがとう。なんだか……自分の足で歩くのが変な気分だわ」
「たいていはそうなります」
「読んだ話だと、転落事故の大半は、搭乗前でなく搭乗後に起きるそうです。こうやってみると、その理由《りゆう》がよくわかりますね。ふふ……」
彼女はひどく疲れ、げっそりとしていたが、それなりの成果《せいか》を収《おさ》めていることに満足しているようだった。
(しかし……)
だからといって、テッサがマオに勝てるわけがなかった。歩けるだけ[#「歩けるだけ」に傍点]では。この調子で行けば、走れるくらいのレベルまでには持っていけそうだが――それがなんの足しになるだろう? 照準《しょうじゅん》動作、跳躍《ちょうやく》、回避《かいひ》運動、遮蔽物《しゃへいぶつ》の有効活用。『戦闘じみたもの』をやるにしても、覚えねばならないことはあまりにも多い。
ここまで付き合っているのだ。宗介としては、やはりテッサを勝たせてやりたかったが、事実《じじつ》はどう見ても明らかだった。
その胸のうちを見透《みす》かしたように、テッサは言った。
「サガラさんも『勝てるわけがない』と思っているんでしょう?」
「は……? それは――」
「いいんです。無理しないで」
そう言いながらも、不思議《ふしぎ》なことに、テッサの声はそれほど沈《しず》んではいなかった。
「でも、わたしだってバカじゃないし、いちおうは戦いのABCくらい知ってるつもりです。こうして彼女に挑《いど》むのは、別にカミカゼ精神《せいしん》ではないんですよ」
「では、勝つつもりだと?」
「ええ」
テッサはわけもない様子《ようす》で言った。
「おとといから、ずっと作戦を考えてきたの。サガラさんにコーチを頼んだのは、いろいろ意見を聞きたかったからでもあるんです」
そう言って、テッサは近くに置いてあったバッグまで歩き、中から一枚の紙片を取《と》り出《だ》すと、砂の上に広げて見せた。
それはメリダ島の詳《くわ》しい地図だった。第一演習場、区域B5のあたりに集中して、あれこれと赤ペンで書き込みがしてある。
「いいですか? この付近はプッシュが濃くて、見通しが悪いんです。しかも土が柔《やわ》らかくて――」
テッサは要点《ようてん》をしぼり、自分の考えを一つ一つ宗介に説明した。地図のあちこちをつつき、現場《げんば》の写真を見せ、よどみなく作戦を話していく。
それを聞いて、宗介は素直《すなお》に驚《おどろ》いた。
そう奇抜《きばつ》な作戦だったわけではない。おびき出しと待《ま》ち伏《ぶ》せを合わせた、簡単《かんたん》な不意打《ふいう》ち戦法だ。だいいち、超初心者《ちょうしょしんしゃ》のテッサにできることなど、たかが知れている。だが、宗介自身も『彼女ならこうするしかないだろう……』と考えていた内容《ないよう》と、テッサのそれはぴたりと合致《がっち》していた。
宗介はASの戦闘に関してプロである。その彼の考えに、こうもあっさり追随《ついずい》してくるとは――
(やはり、ただ者ではないということか)
<トゥアハー・デ・ダナン> の戦隊長を務《つと》めているのは、伊達《だて》ではないわけだった。
「いいやり方です」
「そうですか。良かった。苦労して考えた甲斐《かい》があったわ」
「その手で行くならば、針路《しんろ》はこちらにした方がいいかもしれません。時刻《じこく》を考えれば、逆光《ぎゃっこう》になるはずですから」
「なるほど……」
「ただ、いずれにしても、チャンスは一度しかありませんが」
宗介が言うと、テッサは肩をすくめてみせた。
「一度もらえれば御《おん》の字《じ》ですよ。やってみてダメなら、諦《あきら》めます」
テッサの様子は、なにか憑《つ》き物《もの》が落ちたような――すっきりとした感じだった。この二日、あれこれとやっているうちに、最初のころのマオに対する怒りや不満《ふまん》が、きれいに抜け落ちてしまったようにも見える。作戦を相談《そうだん》している最中《さなか》に、彼女は何度かマオの名前を口にしたが――すでに、その名前に悪意や敵意《てきい》はこもっていなかった。どちらかというと、懐《なつ》かしい名前を口にしているように思えた。
「メリッサをびっくりさせてやるの」
地図をたたんで、テッサは言った。
「びっくり……ですか」
「ええ。それさえできれば、裸で基地を一周くらい、どうってことないです。本当よ」
彼女の小さな顔が、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
小高い岩山が、黄昏《たそがれ》の色に染まっている。
その小山のてっぺんに、妙な形の岩があった。頭でっかちで傾《かたむ》いた大きな岩を、すこし小さめの岩が支えるようにしてそびえている。サイズはASの半分くらい。この二つが、開けた山頂《さんちょう》にぽつんと立っているので、演習場《えんしゅうじょう》の利用者《りようしゃ》からは目印《めじるし》として、簡単《かんたん》に『双子岩』と呼ばれていた。
双子岩の前に、M9が一機、ひざまずいていた。マオの機体である。ペイント弾を装填《そうてん》した、四〇ミリライフルを一挺《いっちょう》たずさえてはいたが、そのほかはなにも持っていない。予備弾倉《よびだんそう》さえも、だ。そんな装備など、必要ないからだった。
「…………」
マオは黒の操縦服姿で、岩にもたれて腕組《うでぐ》みしていた。時計をちらりと見ると、一八三一時。約束の時刻《じこく》から、すでに三〇分も過《す》ぎている。
「遅《おそ》いわね……」
焦《じ》れたようにつぶやくと、そばにあぐらをかいていたクルツが、小さくあくびをした。彼はこの件とは無関係《むかんけい》なのだが、結果が気になったので見物《けんぶつ》に来たのである。
「あのさー」
「なによ」
「姐さん、『宮本|武蔵《むさし》』って読んだことある?」
「なにそれ? 戦艦《せんかん》の話?」
「いや。ならいいんだ。気にしないでくれ」
そう言ってクルツは低く笑った。
ほどなく。
新たなASがやって来た。茂《しげ》みの向こうで姿は見えないが、まちがいなく、歩行音が聞こえてくる。ずしゅん、ずしゅんと駆動系《くどうけい》の音が響《ひび》き、ガスタービン・エンジンの低いうなり声が近付いてくる。
「?」
いや、ガスタービン・エンジン……? M9の動力源《どうりょくげん》はほとんど無音《むおん》のパラジウム・リアクターのはずだ。だとしたら、これは――
高い茂《しげ》みをかきわけて、ASが姿を見せた。
救命胴衣《きゅうめいどうい》を着《つ》けたような、ややずんぐりとした胴体《どうたい》。がっしりと太い上腕部《じょうわんぶ》と大腿部《だいたいぶ》。頭部は細長く、なにかの昆虫《こんちゅう》を連想《れんそう》させる形だった。腕にはテッサが乗っている。ここまで操縦してきたのは、宗介だろう。
「M6かよ、おい」
クルツがつぶやいた。
やってきたのは、M6 <ブッシュネル> だった。M9よりも、一世代ほど古い機種《きしゅ》である。普通の軍隊ではいまでも第一線の機体だが、M9に比べれば、運動性、静粛性《せいしゅくせい》、パワー、どれをとっても劣《おと》っている。
にもかかわらず、マオは納得《なっとく》していた。
「なるほど……。まあ、そうだろうね」
ほとんどの面でM9に劣るM6だが、少ないながら利点《りてん》もある。その一つが、M9とは比べ物にならない『扱《あつか》いやすさ』だった。どうせM9のスペックを活かせないのなら、いっそのことこのベストセラー機に乗り換えてしまえ……宗介がそう提案《ていあん》したのだろう。
M6が停止《ていし》してひざまずくと、運動着姿のテッサが腕から降りてきた。
「ずいぶん待たせるじゃないの」
マオが言うと、テッサは小さく微笑んだ。
「ごめんなさいね。おなかが空《す》いてたから、軽く食事を済《す》ませてきたの」
「…………」
これが一種の挑発《ちょうはつ》であることを、彼女はすでに見抜《みぬ》いていた。だが、わかっていても、イライラするのは鎮《しず》めようがない。かわいい顔をして、味な真似をしてくれるものだ。いや。これは宗介の入れ知恵だろうか……?
テッサは落ちついた様子だった。喧嘩した当初のような、苛立《いらだ》ちや焦《あせ》りや怒りはもうない。ただ、その瞳にはなにか強い意思が宿っており――決して『勝負なんかやめよう』と言い出せるような雰囲気《ふんいき》ではなかった。
ひょっとして、本気であたしに勝つ気なのかしら、この子は……?
マオはいぶかしんだ。
「じゃあ、始めましょうか。八〇〇ヤード離《はな》れて、用意スタート、っていう方式でどうです? 審判《しんぱん》はサガラさんで」
「別にいいけど」
宗介ならば、変な不正《ふせい》はしないだろう。クルツは少々、信用できないが。
「けっこう。いいですね、サガラさん?」
M6から降りてきた宗介が、こくりとうなずいた。
「では仕度《したく》を」
そう言って、テッサはM6へと向かった。そこで一度立ち止まり、
「メリッサ?」
「なに」
「手加減《てかげん》は無用《むよう》ですからね」
「そのつもりよ」
実際《じっさい》、マオはさっさと彼女をやっつけて、基地に帰ろうと思っていた。もとより、勝ちを譲《ゆず》る気はない。さりとて熱意《ねつい》があったかというと――なかった。
(バカバカしい……)
M6に乗った素人《しろうと》とやりあうなんて。こんな演習に熱《あつ》くなれるわけがないではないか。
なんで喧嘩なんかしてしまったのだろう。
宗介がリボルバー拳銃《けんじゅう》を、空に向けて、発砲《はっぽう》した。
銃声《じゅうせい》が演習場にこだまし、決闘《けっとう》の開始を宣言《せんげん》する。
「さて……」
たちまちマオのM9が動いた。
〇・八キロほど離《はな》れたテッサの機体は、こちらからでは岩山が邪魔《じゃま》になってまだ見えない。しかし、二、三度跳躍すると、それだけで密林《みつりん》の木々をかきわけ、もたもたと移動《いどう》するM6の姿が夕闇《ゆうやみ》の中に見えた。
<<一一時、距離《きょり》六。目標|捕捉《ほそく》。AS一機。|A《アルファ》1に認定《にんてい》>>
M9のAIが簡単な報告をする。この場合、わざわざ言われるまでもないことだったが、実戦《じっせん》――特に混戦模様《こんせんもよう》のときは、意外にこの音声メッセージは役に立つのだ。
その機能《きのう》でさえ、向こうのM6には付いていない。会話式の高度なAIシステムは、<ミスリル> のM9と戦闘ヘリだけが装備しているものだった。
距離はおおよそ六二〇メートル。
四〇ミリライフルの射程《しゃてい》では、充分《じゅうぶん》すぎるほどの近さだった。
機体を軽く振《ふ》って、岩山の高台に膝をつき、無造作《むぞうさ》にライフルをテッサ機に向ける。もたもたと動くM6は、ただのうすのろな標的《ひょうてき》だった。
「はい、これでおしまい……と」
セミオートで、一発|撃《う》つ。
ペイント弾がM6に飛んでいき――手前《てまえ》の木の枝に当たって四散《しさん》した。赤いペンキの飛沫《ひまつ》が、テッサ機の肩にこびりつく。
ところが――
『はずれだ』
無線機|越《ご》しに、宗介が言った。彼は双子岩のてっぺんに乗って、双眼鏡《そうがんきょう》を片手にテッサの機体を観察《かんさつ》していた。
「はあ? なんでよ?」
『直撃《ちょくげき》していない。手前の木に当たった』
「なに言ってんの。実弾《じつだん》だったら、木なんか一緒《いっしょ》に吹き飛ばしてるわよ!?」
『だが、あんたが撃ったのは実弾ではない。ペイント弾だ』
そう言われると、反論《はんろん》できなかった。『実戦を想定《そうてい》して』という理屈《りくつ》も、テッサの乗ったM6が相手では通らない。なにしろ、こんな実戦、あるわけないからだ。
「あー、……ったく!」
面倒《めんどう》くさそうに舌打ちすると、マオはさらにテッサ機に向かって、三発ほどペイント弾を撃ちこんでやった。しかしM6を取り囲む密林は濃く、枝《えだ》や葉っぱに当てずにペイント弾を命中させることは至難《しなん》だった。
至近《しきん》距離で炸裂《さくれつ》する、赤い霧《きり》に追い立てられるようにして、テッサのM6はあたふたと西の方へ逃げていく。
『すべて、はずれだ。直撃していない』
「なんなのよ、それは……!?」
あっちは散々《さんざん》、こちらのペンキを引っかぶっているのに。なんだってまた――
ぱんっ!
森の中から、M6が一発、撃ち返してきた。マオ機の至近距離でペイント弾が炸裂して、青い霧がばっと広がる。
「おわっと……」
我《われ》に返って、マオ機は岩陰《いわかげ》に身を隠《かく》す。どうやら、照準《しょうじゅん》と発砲くらいはできるところまでこじつけたようだ。
『これもはずれだ。運が良かったな、マオ。実弾だったら、破片《はへん》でセンサーをやられていたかもしれんぞ』
妙に神経《しんけい》を逆《さか》なですることを言う。さらにクルツが、横から口を挟んだ。
『そうそう。やるねえ、テッサも! がんばれー!』
「あ、あんたたちねぇ……!」
どうやら、宗介に審判《しんぱん》を任《まか》せたのは間違《まちが》いだったようだ。だが――
「まあいいわ。要《よう》するに、直撃させればいいわけでしょう?」
『肯定だ』
「じゃあ見てなさい」
次の瞬間《しゅんかん》、マオのM9は大きく跳躍した。視界《しかい》の開けた岩山を一瞬《いっしゅん》で駆《か》け下り、テッサの方に向かって機体を突進《とっしん》させる。それまでとは、うってかわって激しい動きだった。猫が虎《とら》にでもなったかのようだ。
みるみると、マオ機はテッサのM6へと接近《せっきん》していく。
(覚悟《かくご》しなさい、ベイビー……)
相手の首根っこをつかんで、零《れい》距離から撃ってやるつもりだった。そうすれば宗介でも文句《もんく》は言えないだろう。
とうとう追って来た。
スクリーンの表示を見て、テッサは緊張《きんちょう》に顔をこわばらせた。
すでに彼女の息は荒《あら》く、顔にはびっしりと玉の汗が浮かんでいる。
でこぼこした地面を歩くのは、ひどく骨《ほね》の折《お》れる作業《さぎょう》なのに、もっと早く歩かなければならない。いや、走らなければ……! しかも相手の位置を忘れないようにして、決めていたとおりのコースをたどり、障害物《しょうがいぶつ》をかきわけて――
転んだら終わりだ。立つのにはまだ、一分近くかかってしまうから。絶対《ぜったい》に、転ぶわけにはいかない。そう。転んだら彼女に負けてしまう。
「はあ……はあ……」
あまりにもたくさんのことに神経を配《くば》らなければならなかった。混乱《こんらん》して、頭が爆発《ばくはつ》しそうだ。狭いし、暑いし、気分が悪い。歩行に伴《ともな》う機体のたて揺《ゆ》れがひどくて、目玉が零《こぼ》れ落ちてしまいそうだった。ASでの戦闘とは、なんと過酷《かこく》なのだろう……? みんな、こんな戦いを平気な顔でしているなんて……!
これまでも、何度か聞いた警報《けいほう》が鳴る。
ばしっ! と鋭《するど》い音がして、すぐそばでまたもやペイント弾がはじけた。マオが撃ってきたのだ。
さらにもう一発。いずれも直撃ではないようだったが、自分が追い詰《つ》められているのがよくわかった。驚いて身をこわばらせた拍子《ひょうし》に、機体ががくんと傾《かたむ》いてしまう。倒れそうになるところを、手近な木にしがみついて、どうにか踏《ふ》ん張《ば》る。殴《なぐ》りつけるような衝撃《しょうげき》。首がひどく痛《いた》んだ。膝と、肘と、おしりがひりひりする。
「っ……あっ……」
あれが実弾だったらどうなっていただろう? 自分は何回死んでいるのだろうか? 彼女はいつも、こんな場所にいるのだ。いや、もっとひどい場所に。
すごい人。同じ女なのに。次元《じげん》がちがう。
かなわない。とても――かなわない……!
『大佐殿、動きが鈍《にぶ》ってます。落ちついて移動《いどう》を』
まるでAIの代わりのように、宗介が無線機から告げた。
「わ、わかってます。でも……」
『大丈夫。あなたならやれるはずだ。俺が保証《ほしょう》します』
後にして思えば、その一言が、どれほどの力を授《さず》けてくれたことか。
「はいっ……!」
テッサは歯を食いしばって、機体を前へと駆《か》り立てた。
目的地《もくてきち》まであと少し。あと少しなのだ。
一方で、マオはわずかに感心《かんしん》していた。
「意外に……速いな」
最初はもたもたしていたが、テッサの操《あやつ》るM6の速度は、次第に速くなってきていた。一度、本気で当ててやろうと発砲したのだが――それは冗談《じょうだん》抜《ぬ》きではずれてしまった。
まあ、運が良かったということもあるが、それにしてもよく頑張《がんば》っている。
だが、それもそろそろ終わりだった。いまやマオ機とテッサ機の距離はわずか二〇〇メートルまで近づいている。さらに接近すれば、密林の木々も盾《たて》にはならないだろう。
「さあ、終わらせるよ……」
そうつぶやいたとき――異変《いへん》が起きた。
西へと沈《しず》みかけた太陽へ向かって、必死に走っていたテッサの機体が、突然《とつぜん》かき消えてしまったのだ。
「?」
<<|A《アルファ》1を失索《ロスト》>>
AIが報告する。
逆光《ぎゃっこう》で、その姿が捉《とら》えにくかったのは確《たし》かだ。しかし、いきなり消えてしまうとは。ここらには、身を隠せるほど太い樹は見当たらない。樹木《じゅもく》のほかにも、身を隠すような自然物はまったくなかった。
「どういう手品《てじな》かしらね……」
電磁迷彩《ECS》とも思えないが。それに、M6には不可視《ふかし》モードはついていない。マオは機体を停止《ていし》させ、用心深く|対ECSセンサー《ECCS》を作動《さどう》させた。電磁波《でんじは》の隠《かく》れ蓑《みの》に対抗する、短距離・超広帯域《ちょうこうたいいき》のインパルス・レーダー波が、テッサ機の消えたあたりを走査《そうさ》する。
反応《はんのう》なし。
高感度《こうかんど》マイクを作動させる。
反応なし。ジェネレーターの駆動音《くどうおん》さえしてこない。どうやらテッサはエンジンを停止《ていし》させたようだ。
正面が太陽なので、赤外線《せきがいせん》センサーは使い物にならない。
(どういうこと……?)
どうやら自分は、なにかの罠《わな》にはまりかけているようだ。確《たし》かに、テッサのような頭のいい娘が、無謀《むぼう》に真正面からぶつかってくるわけもない。
マオは用心深く、M9を前に進めていった。
樹木が折《お》れ、めきめきと耳障《みみざわ》りな音を立てる。こうなると狩る側は不利《ふり》だな、と彼女は思った。どうやら本気にならざるをえないようだ。油断《ゆだん》すれば、たぶん、負ける。嗅覚《きゅうかく》がそう告げている。
彼女は最大に警戒《けいかい》した。集中力を総動員《そうどういん》した。つまり――本気になった。
これも宗介の入れ知恵だろうか? どちらにしても、たいした娘だ。
(えらいわ、ホント。でも、ね……)
マオはライフルの砲口《ほうこう》を、すこし先の地面に向けた。
彼女は、見つけてしまったのだ。この位置からではまず気付かないようにしてあったが――穴《あな》があった。テッサのM6は、地面にあらかじめ掘ってあった[#「あらかじめ掘ってあった」に傍点]たこつぼに隠れていたのだ。AS一機が、きれいにすっぽりとはまるほどの、深い穴。
たぶん、昨夜のうちに掘《ほ》っておいたのだろう。
ここまで誘《さそ》い込んで、この穴に飛び込み、近づいてきたところを一発でしとめる。そういう作戦だ。単純《たんじゅん》だったが、視界が開けていないことや逆光なことを考えれば――かなりうまい手だった。うっかりしていたら、引っかかっていたかもしれない。森の植生が不自然だからこそ、ようやく気付けたくらいの……巧妙《こうみょう》な偽装《ぎそう》だった。
しかし、ベテランのマオを破《やぶ》るほどではなかった。よくがんばったとは思うが、これでゲームセットだ。
(かわいそうだとは思うけど、ね……)
彼女はM9を穴の上へと跳躍させた。
スクリーンの照準円《しょうじゅんえん》の中に、たこつぼの中で、それでもなんとかこちらに銃口《じゅうこう》を向けようとしているテッサ機の姿があった。
「無駄よ……」
マオがトリガーを引き絞《しぼ》ろうとした次の瞬間――強い光が、真下からM9に襲《おそ》いかかった。
「……!?」
マオ機を照《て》らしたのは、基地が所有《しょゆう》するもっとも強力なストロボライトだった。穴の中に仕掛《しか》けてあったのだ。人間の目で直接《ちょくせつ》見たら、視力《しりょく》を失いかねないほどのすさまじい明るさ。その光が、M9のセンサーをわずかな瞬間、真っ白にさせた。
発砲はもちろん、バランスをとることさえできずに、マオ機は左半身から地面にぶつかった。強い衝撃《しょうげき》が襲《おそ》いかかる。
「くっ……!」
センサーがあわてて明度《めいど》を補正《ほせい》し、視界を回復《かいふく》させようとする。それを待つのももどかしく、マオは機体を起き上がらせようとした。
ぱっと顔をあげると。
スクリーンの正面には、光のあふれる穴から身を乗り出し、こちらに向かってライフルを構《かま》えたテッサのM6が映っていた。
距離はわずか二〇メートルだった。
かかった。うまくいった……!
二段|構《がま》えのこの作戦でも、彼女に通じるかどうか確信《かくしん》が持てなかったが――神は自分に味方《みかた》してくれたらしい。
テッサは無我夢中《むがむちゅう》になって、立ちあがろうとするマオのM9にライフルを向けた。照準円の中に敵機が入ると、コックピット内にぴぴぴ、とアラームがなった。
射撃《しゃげき》OK。発砲せよ。
(当たって……!)
アラームの命じるままに、彼女はぐいっとトリガーを引いた。
フルオート射撃。
青い霧が、目の前で弾ける。テッサは肩で息して、まっすぐに前を見据《みす》えた。トリガーを何度も引き、何度も引き、弾が切れていることに気付いた。
霧が晴れると――
一四発のペイント弾が、灰色のM9を真っ青に染め上げていた。
「負けたわよ。完敗《かんぱい》。ケチなんか付けないわ」
M9から降《お》りると、マオはそう言って肩をすくめた。
「罠を用意《ようい》しとくのなんてズルいとか、審判がひいきばっかりしてるとか、基地のストロボライトを使うなんてアレだとか、そういう文句も言わないわよ。みんなでテッサの味方して、あたしはなんて不幸で孤独《こどく》なんだろう……とか、そういうグチもこぼさない。これが実戦《じっせん》だったなら、やっぱり勝ったのはあたしだろう……とか、そういう見苦しい主張《しゅちょう》もしないわ」
などと、マオはぶつぶつつぶやいた。
「思いきり不満《ふまん》があるみてえだな……」
眉をひそめて、クルツが言った。
「油断大敵《ゆだんたいてき》。いい教訓《きょうくん》だ」
なぜか偉《えら》そうに反《そ》り返って、宗介が言った。
「そーね。油断大敵ってことよね。ふん。もう。なんか……。あたし、なにやってんのかしらね。ったく……やれやれ。とほほ……」
その場にぺたりとしゃがみ込んで、これ以上ないほどいじけまくるマオ。
M6が、遅《おく》れて双子岩のところに戻《もど》ってきた。もたもたしながら、テッサが降りてくる。
彼女は全身、汗でびしょ濡《ぬ》れだった。
「メリッサ……」
勝ち誇《ほこ》る風でもなく、テッサはふらふらとマオのそばに歩いていった。その顔はほうけたようにぽかんとしており、いまだに自分が勝ったことに、実感《じっかん》が持てない様子だった。
テッサとマオは、無言《むごん》で見詰《みつ》め合っていた。
なにか、また刺々《とげとげ》しいやり取りが出てくるのではないかと、宗介は気が気でなかった。
やがて、マオの万が口を開いた。すこしぎこちなく。
「いろいろ、ひどいこと言ってごめんね」
「…………」
「よくがんばったわね。あんたには脱帽《だつぼう》よ」
マオがそう言ってから、きっかり五秒後。テッサの瞳から、大粒《おおつぶ》の涙《なみだ》がぽろぽろと零れ落ちた。
「ごめんなさい。わたし……わたし……」
上《うわ》ずった声を出すと、テッサはマオに『ひしっ』とすがりついた。
「ひどいこと言ってたのは、わたしの方です……! なんだか、カッとなってしまって。でも、わたし、どうにかメリッサに認《みと》めてほしくて。むきになって、こんなバカなことして。本当、ごめんなさいっ」
テッサはぐすぐすと泣きながら、マオの胸に顔をうずめた。その頭を、マオは『よしよし』と撫《な》でてやる。
「いや。負けて良かったわ。この方が、たぶん自然なのよ。でも、もうこれっきりにしましょうね」
「ええ。もうASはこりごりです……ぐすっ」
「くすっ。ほんと、かわいいわねー、あんたは」
「そんな。やめてください……」
なにやら仲直りしたらしい。
「あのー、それで。裸で基地を一周、って件は? ねえ」
クルツがおずおずとたずねた。目を輝かせる彼を見て、マオとテッサは異口同音《いくどうおん》に、
『最低……』
と、つぶやいた。
それきり、傍観者《ぼうかんしゃ》の存在など忘れたように、『このこの』だの『や、くすぐったいです』だのとじゃれ合う二人。その様子を宗介とクルツはぽかん、として眺めていた。
[#挿絵(img2/s03_277.jpg)入る]
「なんか……あれだな」
「うむ。最初からああできないものなのか?」
泥《どろ》だらけ、ペイントまみれになった二機のASを、宗介たちは見上げた。
M6とM9は心なしか肩を落とした姿勢《しせい》で、どことなく『トホホ』とつぶやいているように見えた。
「俺も上官とかとモメたら、ああいう手使おうかなー」
「どういう手だ」
するとクルツは、宗介の腕にいきなりしがみつき、薄気味《うすきみ》悪い猫なで声を出した。
「ごめんなさいっ! わたし。わたしい……!」
「…………」
「わたし、ソースケに認《みと》めてほしくてェ! むきになって……って、ん?」
クルツはがらりと元の声に戻って、宗介からさっと間合《まあ》いをとった。
「…………。おまえ、いま本気で俺のこと撃《う》ち殺《ころ》そうと思っただろ」
「よくわかったな」
冷え冷えとした声で、宗介は言った。
双子岩から六キロほど離れた、基地《きち》の通信《つうしん》センターで――
「一件落着《いっけんらくちゃく》ですな」
カリーニン少佐が言った。彼が見下ろす小型のモニターには、マオのM9(E―006号機)から転送されたリアルタイムの映像と音声が流れている。クルツ・ウェーバーに命じて、機体の電子機器にちょっとした細工をさせたのだ。マオたちはこのことを知らないはずだった。
「あの少女には、いつも驚《おどろ》かされる」
カリーニンと共に生中継《なまちゅうけい》を見ていたマデューカス中佐が言った。
「まさか実力で勝つとは。ただの幸運では片づけられない、必然的《ひつぜんてき》ななにかが彼女にはある……ということかね?」
「それは断定《だんてい》できません。今のはあくまでゲームです。命のやりとりで顕《あらわ》れる要素《ようそ》とは、根本的に質《しつ》が異《こと》なりますので」
「そうだろうな」
マデューカスは小さく鼻を鳴らしてから、渋《しぶ》い顔をした。
「それにしても……大佐にも困ったものだ。機材の私的な持ち出しについては目をつむるがね。少々、ご自愛《じあい》が足りなさすぎる。本来、ゆっくりと休養すべき時間を、あのような戯《たわむ》れで浪費《ろうひ》するとは。明日にでも諌言《かんげん》しなければ……」
「その必要はないでしょう」
カリーニンが淡々《たんたん》とした声で言った。
「なぜだね」
「彼女の顔をご覧《らん》なさい」
言われて、マデューカスは暗い視線《しせん》をモニターに送った。
画面の中に、テッサの輝《かがや》くような笑顔があった。玉の汗《あせ》と、涙の痕《あと》。心地よい疲労感《ひろうかん》と達成感《たっせいかん》。いつもの気品はまるきり影をひそめていたが、その代わりに、はち切れんばかりの生命力が、彼女の中からあふれ出している。
「なるほど」
あいも変わらず陰気《いんき》な顔で、マデューカスは言った。
「まちがいなく、彼女は回復したようだ。君の部下たちに感謝《かんしゃ》せんとな」
[#地付き]<猫と仔猫のR&R おわり>
[#改ページ]
あとがき
この本は月刊ドラゴンマガジン99[#「99」は縦中横]年5月号から99[#「99」は縦中横]年9月号まで掲載《けいさい》された『フルメタル・パニック!』の連載《れんさい》短編《たんぺん》に加筆修正《かひつしゅうせい》し、さらに書き下ろし一本を加えたものです。
それでー。その。
『本気になれない二死満塁?』のあとがきで、「次は長編で、秋頃発売」などと書いてしまったのですが……作品のクオリティを維持《いじ》するために、もう少々、時間を頂《いただ》くことになってしまいました。ひとえに私の未熟《みじゅく》さゆえであります。長編第三弾は近日中に発刊《はっかん》できるかと思いますので、どうかご辛抱《しんぼう》のほどを。ホント、すみません。とほほ。
とにかく、各話のコメントをば。
『すれ違《ちが》いのホスティリティ』
パンといえば、私はコンビニで売ってるようなコロッケパンあたりなどが結構《けっこう》お気に入りだったりします。ところが最近、話題の本『買ってはいけない」を読んでしまいまして。「コンビニのパンは危《あぶ》ない!」とか書かれているのを見て、単純《たんじゅん》な私はさっそくコロッケパンを控《ひか》えるようになってしまいました。
そう。合成着色料《ごうせいちゃくしょくりょう》はよくない。やはり健康は大切です。
だというのに、タバコは毎日プカプカ吸《す》ってたりするのですが。
『大迷惑《だいめいわく》のスーサイド』
みなさんはこれまで、「死にたい」と思うほど辛《つら》い思いをしたことがあるでしょうか。
私はあります。そう、あれは忘れもしないある冬の夜……。
居酒屋《いざかや》で変な海産物《かいさんぶつ》を食ったせいか、夜中に猛烈《もうれつ》な吐《は》き気と腹痛に襲《おそ》われました。凍《こご》えるようなトイレの中でのたうち回り、半狂乱《はんきょうらん》でうめき声をあげ、全身|汗《あせ》だくになって五時間以上苦しみぬいたあのときは、本気で『だれか……だれか俺を殺してくれ!』と思いましたねぇ……。
まあ、それだけなんですが。生きてるってすばらしいなあ。
『押《お》し売りのフェティッシュ』
若菜《わかな》洋子《ようこ》には実在《じつざい》のモデルがいるのですが、別にあんな不良警官《ふりょうけいかん》ではありません。真面目《まじめ》な普通の婦警《ふけい》さんです。どれくらい真面目かというと、私の友人をキリキリと駐車違反《ちゅうしゃいはん》で取り締まるくらい真面目《まじめ》です。
ぽに男《お》のセリフ『ぽに』については、友人の井上よしひさ氏に感謝《かんしゃ》を。連載がうまくゲットできるよう祈《いの》っております(←完全に私信《ししん》)。
それにしても、四季《しき》さんの描くボン太くんはかわいいなあ。ホントにどこかで、ぬいぐるみとか作ってくれないかなあ。ふもっふ。
『雄弁《ゆうべん》なポートレイト』
職場恋愛《しょくばれんあい》というものは、私にはおよそ縁《えん》のない世界の話だったりします。なにしろ職場は俺ひとりだし。以前働いていた遊演体《ゆうえんたい》という会社には、男しかいなかったし。その前は学生だったし。
酒飲み話で担当《たんとう》編集のSさんと話してたら、「わたしもそういうの、全然ないんですよー。だれも声かけてくれないし。とほほ……」などと嘆《なげ》いてました。まあこの人の場合は、それ以前にも疾《はし》る〜』のあとがさで書いたようなノリを、どーにかする必要があるとは思いますが。ともあれ、これはチャンスですぞ、富士見|編集部《へんしゅうぶ》の独身《どくしん》男性の皆《みな》さん! 彼女にアタックする際《さい》には、ぜひこの私に仲介役《ちゅうかいやく》を! 宗介のように、見事《みごと》問題をこじれさせてご覧にいれます!
『暗闇《くらやみ》のペイシェント』
宗介《そうすけ》同様《どうよう》、私もいわゆる「霊感《れいかん》」というものがまるでないタイプです。そういう方面に強い友人が「出る。あそこは、本当になにかがいるんだ!」とか力説《りきせつ》している工事|現場《げんば》に、夜中、酒飲んで酔《よ》っ払《ぱら》って遊びに行ったことがあります。真っ暗な部屋をひとりで歩いていたら、遠くの柱《はしら》の向こうで、赤い光が鬼火《おにび》みたいに、ふらふらとさまよってるのを目撃《もくげき》しました。
「やべっ、警備員《けいびいん》か……!?」とか思って隠《かく》れたところ、赤い光は音も無《な》く、一〇分以上はその付近《ふきん》をうろうろしていました。それから光は私の方に近づいてきたのですが、途中《とちゅう》でいきなり、なんの前触《まえぶ》れもなく消えてしまったのです。跡形《あとかた》もなく。
オチがないんですが、ホントの話です。あれは不思議《ふしぎ》な出来事《できごと》でした。
『猫《ねこ》と仔猫《こねこ》の|R&R《ロックン・ロール》』
こちらは予告通り、テッサのエピソードです。長編ではあまり描《えが》く機会《きかい》のない、彼女とマオとの関係を描く内容《ないよう》でもあります。
単なる個人的な感想なのですが、女の子同士の喧嘩《けんか》というのは、傍《はた》で男の目から見ていると妙《みょう》にハラハラしますね。なぜでしょう。作品の方は、あんまりリアルにやると、笑えなくなるので劇中《げきちゅう》ではほどほどにしてはありますが。
ちなみに「R&R」には、軍事用語《ぐんじようご》で「休養と回復《かいふく》」という意味《いみ》があったりします。
さて。今回も多数の方々に感謝の意を捧げます。いつもお世話《せわ》になっている皆《みな》さん、そしてご迷惑《めいわく》をおかけしている皆さん、本当にありがとうございます。遅《おく》れがちなペース等、なんとかリカバーしてみせますので、なにとぞお許しください。
では、また。次回もかなめのハリセンがうなります。
[#地付き]一九九九年九月 賀東招二
[#地付き]http://www.tk.xaxon.ne.jp/~irineseo/gatoh/
[#改ページ]
初 出 月刊ドラゴンマガジン1999年5月号〜1999年9月号
「猫と仔猫のR&R」書き下ろし
底本:「フルメタル・パニック! 自慢にならない三冠王?」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
1999(平成11)年10月25日初版発行
2000(平成12)年10月15日6版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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使用したWindows機種依存文字
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「U」……ローマ数字2、Unicode2161
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使用した外字
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「H」……白抜きハートで、DFパブリフォントの外字(0xF048)を使用しています。
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注意点
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あとがきの最後にURLが記載されていますが、現在2009年6月現在の賀東招二の公式サイトは http://www.gatoh.com/ です。