フルメタル・パニック!
本気になれない二死満塁?
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)妥協《だきょう》無用のホステージ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自由|電子《でんし》レーザー兵器
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)殺一※[#「にんべん+敬」、第3水準1-14-42、Unicode5106]百
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[#挿絵(img2/s02_000.jpg)入る]
[#挿絵(img2/s02_000a.jpg)入る]
[#挿絵(img2/s02_000b.jpg)入る]
[#挿絵(img2/s02_000c.jpg)入る]
目 次
妥協《だきょう》無用のホステージ
空回《からまわ》りのランチタイム
罰《ばち》当たりなリーサル・ウェポン
やりすぎのウォークライ
一途《いちず》なステイク・アウト
キャプテン・アミーゴと黄金《おうごん》の日々
あとがき
[#改丁]
妥協《だきょう》無用のホステージ
[#改ページ]
うす暗い倉庫《そうこ》の中――ライフルを手にした黒服の男が、戸口の後ろから現《あらわ》れた。
「…………!」
敵の銃口《じゅうこう》がこちらを向く。相良《さがら》宗介《そうすけ》はすばやく反応し、敵に向かって拳銃《けんじゅう》を撃《う》った。たて続けに三発。黒服の男は胸《むね》と頭から血しぶきをあげ、銃を放《ほう》り出して絶命《ぜつめい》した。
さらに、壁際《かべぎわ》に並んだドラム缶のかげからも、マシンガンを手にした男が躍《おど》り出る。
発砲《はっぽう》! やはり三連射。敵は身もだえして息絶《いきた》える。続いてもう一人、ライフルの男が出現《しゅつげん》した。宗介は新たな敵に銃を向け――
『リロード』
引き金を引くが、弾《たま》が出ない! 彼が愕然《がくぜん》とした瞬間《しゅんかん》、敵のライフルが火を噴《ふ》いた。
「っ……!」
『リロード』
視界が真っ赤に染まる。しかし、まだだ。致命傷《ちめいしょう》ではない。こうしているうちにも、敵の仲間が次々と出てくる。早く、連中を倒さなければ……!
『リロード』
この銃ではだめだ。
彼は役立たずの青い[#「青い」に傍点]拳銃を捨《す》て、腰の後ろのホルスターから愛用の九ミリオートを引き抜いた。そして目にも止まらぬ早業《はやわざ》で、黒い銃口を敵に向けると――
「くたばれ」
『リロ―――』
たたんっ!! たたたたたたんっっっ!!
まばゆい炎《ほのお》と乾《かわ》いた銃声。画面の中の黒服たちを、鉛《なまり》の弾丸《だんがん》が貫《つらぬ》いた。
ゲームセンターの客たちは、レバーを動かす手を休め、ただ呆然《ぼうぜん》と店の一角を眺《なが》めた。
穴だらけになって火花を散らすスクリーンと、拳銃を手にして立ちつくす、詰《つ》め襟《えり》姿《すがた》の高校生。その背後《はいご》で、うんざりしたように頭を抱《かか》える同じ高校の女の子……。
ガン・シューティングのゲーム筐体《きょうたい》そのものは生きているらしく、スピーカーの声は繰《く》り返す。
『リロード……リロード……リロード……』
宗介はおもむろに拳銃をしまい、後ろでゲームを観戦《かんせん》していた少女――千鳥《ちどり》かなめに向き直った。
「……よく出来《でき》たシミュレーターだ。つい実戦を思い出し、本気になってしまった」
かなめは深〜いため息をついて、
「そうよね……。面白《おもしろ》がってあんたにやらせた、あたしがバカだったのよね……」
そこでスピーカーが、渋《しぶ》い声で宣言《せんげん》した。
『ゲーム・オーバー』
事務室《じむしつ》で店長にこってりと絞《しぼ》られ、学校や住所を書かされて、ついでに模範的《もはんてき》なゲーマーのなんたるかを説《と》かれた挙《あ》げ句に、なぜか景品《けいひん》のキーホルダーを渡され、宗介とかなめは解放された。
「二度と来られないわよ、もう……」
事務室の外に出てから、かなめが言った。
「ここのUFOキャッチャー、取りやすいことで有名だったのに……」
彼女はハイティーンの女子にしては背が高い方で、ファッション誌のモデルでも通用しそうな容貌《ようぼう》だった。だが説教《せっきょう》を聞くのに疲《つか》れきったせいか、いまは新聞《しんぶん》の折り込み広告のモデルがせいぜい、といったところだ。
店内の人ごみをかきわけて歩き出すと、腰まで届《とど》く黒髪《くろかみ》が左右に揺れる。
宗介は黙《だま》りこくったまま、かなめの後に続いた。
彼の方は、むっつり顔にへの字口、ざんばらの髪に鋭《するど》い視線、といった風貌《ふうぼう》で、全身から無言《むごん》の緊張感《きんちょうかん》を漂《ただよ》わせている。
「ちゃんと説明したじゃない! 画面の外にテッポーを向けて、引き金を引けばリロードだ、って!」
店内のゲームの音楽と効果音《こうかおん》に負けないように、彼女は声を張り上げた。
「だが、危険ではないか。銃口《マズル》をよそに向けて引き金《トリガー》を絞るなど。弾《たま》が残っていて、暴発《ぼうはつ》したらどうする」
「するわけないでしょ!? あれはただのビーム銃よ!」
宗介の瞳《ひとみ》がきらりと光った。
「ビーム銃。『ジェーン年鑑《ねんかん》』で読んだことがあるぞ。地上からスパイ衛星《えいせい》を破壊《はかい》することが可能な、自由|電子《でんし》レーザー兵器だ。かつて八〇年代、レーガン大統領がスーパー・トルーパー計画と並行《へいこう》して――」
「うるさいっ!」
つい最近まで海外――しかも、ひどく物騒《ぶっそう》な紛争《ふんそう》地帯――で育ってきた宗介に、一般常識《いっぱんじょうしき》を説明する無謀《むぼう》さを思い出し、かなめは問答《もんどう》を打ち切った。
「ホントに……。あんたなんかと、もう絶っ対、ゲーセンなんか来ないから!」
「ふむ……」
『故障《こしょう》中』の張り紙が貼《は》られたガン・シューティングの筐体《きょうたい》の前を通り過ぎ、二人はゲームセンターの外に出た。
そこで――
「おう、待たんかコラ?」
四、五人ほどの若者が、宗介とかなめを取り囲《かこ》んだ。同じ陣代《じんだい》高校の生徒で、見覚《みおぼ》えのある顔ぶれだ。
「あ。あんたたちは、いつぞやあたしを押し倒そうとした痴漢《ちかん》変態《へんたい》ヤンキー軍団!」
かなめが指をさして叫《さけ》んだ。
「だれが痴漢変態ヤンキーじゃっ!?」
「……じゃあ、性犯罪《せいはんざい》チーマー連合」
「それもやめろ……!」
「だったら、下半身《かはんしん》不良グループ」
「なんなんだよ、そりゃ……」
リーダー格らしきスキンヘッドの男が、一歩前に進み出た。
「な、なによ、やる気?」
かなめは鞄《かばん》を掲《かか》げて身構《みがま》えた。だが、スキンヘッド男は予想に反し、
「るっせえな。……用があんのは、おめぇじゃねえ、そいつだよ」
「俺《おれ》か」
敵意《てきい》のこもった視線を、宗介は平然と受け止めた。
「相良だったか? 顔かせや、なあ」
男はゲームセンターのはす向かい、マクドナルドと古本屋《ふるほんや》に挟《はさ》まれた路地《ろじ》を、あごでしゃくって見せた。
「ついて来い、という意味か?」
「決まってっだろーが、タコ。来な」
男たちは宗介を伴《ともな》い、路地へと歩き出した。取り残されたかなめは不安そうに、
「ソースケ……!」
「俺のことなら心配するな」
宗介は一度だけ振り返って言うと、男たちと一緒《いっしょ》に路地裏へと消えていった。
「そうじゃないのよ、ソースケ……」
彼女が心配していたのは、相手の連中のことだった。
路地のアスファルトの上には、うす汚《よご》れた水たまりが点々とあって、建物《たてもの》の隙間《すきま》からわずかにのぞく、夕焼け空を映《うつ》し出していた。
宗介と向かいあった若者たちの一人が、さっそく切り出す。
「てめえよ……相良っていったか? 転校してきてから、ずいぶんイキがってるらしいじゃねーか、コラ」
「イキガッテルとは、どういう意味だ」
「気にくわねーって言ってるんだよ、コラ」
「そうか。では今後、お互《たが》いなるべく顔を合わせないことにしよう」
用件はそれだけだと判断して、宗介はさっさとその場を去ろうとした。
「待てよ、コラ!」
一人が宗介を引き止めようと、彼の肩に手をのばした。
「む……」
宗介は反射的にその手をつかみ返し、関節《かんせつ》をねじ曲げるやいなや、相手の身体《からだ》を水たまりの上に放《ほう》り倒してしまった。
「おうっ……!」
「っにコイツ? コラぁ!?」
「……やるわけ? るわけ?」
たちまち男たちは臨戦《りんせん》体勢に入る。
「さっきから思っていたのだが……。つまり、君たちは俺にどうして欲しいんだ?」
「ぶっタタかせろ、コラ」
「カネ出せ、コラ」
次々に答えが返ってくる。叩《たた》かせろ。金を出せ。やたらと出てくる『コラ』の意味は判然としないが、おそらく彼らは強盗《ごうとう》なのだ。
「なるほど。よくわかった」
彼はうなずくと、ついさっきゲーム機を壊《こわ》した九ミリ拳銃《けんじゅう》を、無造作《むぞうさ》に引き抜いた。
たんたんたたたんっ!
路地裏《ろじうら》の方から銃声《じゅうせい》がした。
「ああ、やっぱり……」
ゲーセンの前で待っていたかなめが、救急車を呼ぼうか、それとも知らんぷりして帰ろうか……などと迷《まよ》っていると、
「待たせたな」
宗介が路地裏から一人で現《あらわ》れた。まるで用でも足《た》してきたような気軽さだった。
「あんた、まさか、皆殺《みなごろ》しに……」
「いや。足下《あしもと》に数発|撃《う》ち込んでやっただけだ。すんなりと通してくれたぞ」
宗介の過激《かげき》さに慣《な》れっこの彼女は、あっさりと納得《なっとく》して、
「あ、そ。じゃあ帰ろ」
二人は商店街《しょうてんがい》の通りを、駅《えき》に向かって歩き出した。
「でもさぁ……なんかアレじゃない?」
すこしたってから、かなめが口を開く。
「なんの話だ」
「鉄砲《てっぽう》なんか使って。相手は丸腰《まるごし》でしょ?」
「そうだな。連中はナイフ類や警棒《けいぼう》しか装備《そうび》していなかった。火力《かりょく》において俺が勝っているなどとは、予想していなかったようだ」
「だから、そーじゃなくて……」
彼はかまわず続けた。
「もしあの程度の装備で俺を倒すつもりならば、一〇倍の人数、およそ五〇人が必要になるだろう」
「……ふーん。すごい自信ね」
「いや。ただ単に、いま持っている予備《よび》の弾《たま》が五〇発だからだ」
彼は事もなげに答えた。
「…………」
戸口の後ろやドラム缶のかげから、鉄クギバットを持って現れては、次々に射殺《しゃさつ》されていくヤンキー連中の姿《すがた》(ポリゴン)を、かなめは漠然《ばくぜん》と想像した。
「どうした、千鳥」
「あー。……別にいいんだけどね」
駅の改札口《かいさつぐち》の前で、彼女は定期《ていき》入れを取り出した。
その晩、市内の小さな公園で――
「で……あっさり帰しちまったわけ?」
スクーターにまたがった人影が、ベンチに座《すわ》る五人の若者に言った。
「ええ……まあ……」
「なっさけないね。サイテーじゃん」
馬鹿《ばか》にしきった様子《ようす》で言うと、マルボロを取り出し、一〇〇円ライターで火を点《つ》ける。
小さな炎《ほのお》に照《て》らされて、その人物の姿が暗がりに浮かび上がった。
女だった。しかも、かなりの背丈《せたけ》だ。ゆうに一八〇センチは越している。Gパンと革ジャン、肩の線でそろえたソバージュの黒髪《くろかみ》。顔だちは美人の部類に入るが、大味《おおあじ》できつい印象《いんしょう》だった。
「でもテッポーなんて持ってるんスよ?」
取り巻きの一人、アフロヘアーの細身《ほそみ》な若者が言った。
「それがどーしたってのよ」
「阿久津《あくつ》さん。テッポーをナメてはいけないっす。かつて天正《てんしょう》三年、長篠《ながしの》の合戦《かっせん》において、武田《たけだ》の騎馬《きば》軍団を撃破《げきは》したのは、まさしく信長《のぶなが》の鉄砲隊だったんスよ?」
「なんだよ、そりゃ……」
アフロ男はかまわず解説《かいせつ》を続けた。
「武田の騎馬軍団は戦国《せんごく》最強だったっス。それが三〇〇〇丁《ちょう》の種子島《たねがしま》によって、ことごとく設楽原《せだらはら》の野に――って、阿久津さん、なにしてるんスか?」
女は立ち上がると、自分が腰かけていたスクーターのグリップをつかんで、無造作《むぞうさ》に空中に持ち上げた。そのままスクーターを横ざまに振り回して、若者の横《よこ》っ面《つら》を後輪《こうりん》で殴《なぐ》り倒す。
「……ぶっ!」
殴られた男の身体《からだ》は、空中を二回、三回……四回ほどきりもみして、公園のくずかごに頭から突っ込んだ。
「コ難《むずか》しい理屈《りくつ》ばっかコネてんじゃないよ。ったく……」
「理屈じゃないっス。ウンチクっス……」
空《から》のコンビニ弁当《べんとう》に顔をうずめ、アフロ男は涙声《なみだごえ》でつぶやいた。それを見ていたほかの連中は、隣《となり》同士でひそひそと、
(あそこまでやるか? フツー?)
(だってほら、阿久津さん、日本史の単位でダブったから……)
(うっそ、マジ? オレ家庭科《かていか》だって聞いてたよ……?)
女はスクーターを乱暴に置いて、
「なんだい、言いたいことあんのかい!?」
『いえ、なんにもないっス』
四人はそろって首を横に振った。
「……ふん。だいたいね、その相良とかいう奴《やつ》がなにげに強くて、テッポー持ってんなら、それなりに頭を絞《しぼ》れよ。え?」
「頭を絞れって……どんな?」
スキンヘッドのヤンキー男がたずねた。
「盾《たて》だよ、盾。女《スケ》がいるんだろ、そいつ」
「いや、女かどうかは……」
「ダチなんだったら、どーでもいいよ。そいつを人質《ひとじち》にするわけさ。そうすりゃ武器だって使えないだろ」
「ははぁ……なるほど」
取り巻き連中は手を打った。
「それと、人数集めな。久しぶりに他校の連中にも召集《しょうしゅう》かけるよ」
「……どれっくらいっスか?」
「そおだねえ……。ちょっと多めにイってみる? 五〇人くらい」
男たちは顔色を変えた。彼女の名前を出せば、それだけの人数を集めるのも造作《ぞうさ》はないことを知っていたからだった。
「忘れずに伝えるんだよ。このあたしが……阿久津|万里《まり》が、すっげー退屈《たいくつ》してるってな」
彼女――阿久津万里はキーを回し、スクーターのエンジンをかけた。
「じゃ、あたしは行くよ」
「え、もうっスか?」
「うちの弟に買い物|頼《たの》まれてるんだよ。コンビニで墨汁《ぼくじゅう》って売ってたっけ?」
男たちは顔を見合わせ、
「さあ……?」
ぴーんぽーんぱーんぽーん……。
昼休みの校舎《こうしゃ》内に、校内放送のチャイムが響《ひび》いた。
『あー、テストテスト。千鳥かなめ副会長は至急《しきゅう》、生徒会室に出頭《しゅっとう》のこと。これは会長命令である。以上』
卓上《たくじょう》マイクのスイッチを切ると、林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》は読みかけの文庫本に目を落とした。
ここは陣代高校の南|校舎《こうしゃ》・四階に位置する生徒会室である。そして彼――林水敦信こそが、この部屋《へや》を支配する(つまり火元《ひもと》責任者の)生徒会長だった。
髪《かみ》はオールバックで、面長《おもなが》の顔だち。真鍮《しんちゅう》フレームの眼鏡《めがね》の奥で、細い両眼《りょうがん》が知的な光を放《はな》つ。高校生とは思えない、静かな威厳《いげん》の持ち主《ぬし》だった。
校内放送からおよそ二分後、部屋の扉《とびら》をだれかがノックした。
「入りたまえ」
生徒会室に入ってきたのは、かなめではなく宗介だった。
「相良くんか。どうした?」
「千鳥は朝から欠席です。会長|閣下《かっか》」
宗介が彼に対して馬鹿丁寧《ばかていねい》なのは、以前にかなめから『生徒会長は一番エラい人なのよ』と教えられたせいだった。
「それはご苦労だったな。まあ座《すわ》りたまえ。ちょうど君に関する用件だったのだ」
「はっ」
宗介は従《したが》い、林水の向かいに腰かけた。
「泉川《せんがわ》駅近くのゲームセンターから、校長|経由《けいゆ》で苦情が届《とど》いてね。君と千鳥くんが、店のゲーム機を破損《はそん》したそうだな」
「はい」
「校長は君に反省文《はんせいぶん》二〇枚の執筆《しっぴつ》を要求している。そうすれば学校側で弁償金《べんしょうきん》を立て替《か》えておくそうだが、どうするかね?」
「お断《ことわ》りします」
「理由を聞かせてもらおう」
「反省の必要がないからです。暴発《ぼうはつ》の危険がある銃器《じゅうき》を使うより、自分の使い慣《な》れた銃を使うのは当然のことです。もし自分が今後、あの時と同じ状況《じょうきょう》に置かれたとしたら、やはり同じ選択《せんたく》をするでしょう」
宗介はきびきびと答えた。本気で言っているあたり、彼の病根《びょうこん》も相当深い。
「ふむ。よくも言えたものだ」
林水の瞳《ひとみ》が、眼鏡の奥できらりと光った。
生徒会室の片隅《かたすみ》で、二人のやりとりに耳を傾《かたむ》けていた生徒会スタッフ数名は、これから宗介がきびしい処分《しょぶん》を受けるものだと確信し、固唾《かたず》を飲んだ。
「けっこう。弁償金は生徒会が立て替えよう」
「どうも」
室内の生徒一同が『がたーん!』と倒れて、スチール机《づくえ》をひっくり返した。
「はあっ……はあっ……」
「どうしたのかね? 諸君《しょくん》」
「い、いえ……。そういうのって、アリですか?」
壁《かべ》にすがるようにして身を起こしながら、会計|係《がかり》の男子が言った。
「心配ない。金は『C会計』から出す」
C会計。それは陣代高校生徒会に代々伝わる、教師には秘密の隠《かく》し予算だった。もともとは大した額ではなかったのだが、林水が一年のころに会計|補佐《ほさ》に就任《しゅうにん》すると、たちまち一〇倍に脹《ふく》れ上がった。どんな資産運用をしたのかは、いまだに謎《なぞ》である。
「そうではなく、公私混同《こうしこんどう》のよーな……」
「甘《あま》いな、岡田くん」
会計係を哀《あわ》れむように、林水は言った。
「私は全生徒の利益《りえき》代表者だ。校長から『反省文か、弁償か』という脅《おど》しが来た以上、それに応じるわけにはいかない。いちど教師側にイニシアチブを渡せば、悪《あ》しき先例を作ることになる」
「いいじゃないスか、反省文くらい」
「いかん。文書として残るのが特にいかん。五〇年後の生徒会に禍根《かこん》を残しかねないぞ」
「はあ……」
この会長にヘリクツでは絶対に勝てないことを思い出し、生徒たちはそれ以上突っ込むのをやめた。
そこで、廊下《ろうか》側の扉《とびら》が勢《いきお》いよく開く。
「おう、相良はいるかぁ!?」
横柄《おうへい》に言いながら生徒会室に入ってきたのは、ピアスだらけの顔の男子生徒だった。きのう宗介に絡《から》んできた連中の一人だ。
「何の用だ」
宗介は悠然《ゆうぜん》と向き直った。相手の顔の装飾品《そうしょくひん》を不思議《ふしぎ》に思ったが、おそらく宗教的《しゅうきょうてき》な意味があるのだろう、と勝手《かって》に納得《なっとく》した。
「きのうは世話《せわ》ンなったな。ッイブンとナメたマネしてくれんじゃんよぉ。ンでよぉ、その礼《れい》? みてえなのがしてんだよ……あ?」
思いきり顔を反《そ》らせて、メンチを切りまくる。その意味がわからない宗介は、相手が自律神経《じりつしんけい》に障害を抱《かか》えているのだと解釈《かいしゃく》した。
「そうか。君も大変だな」
「あぁん?」
「俺の知人にも、君に似《に》た傷病兵《しょうびょうへい》がいる。勇敢《ゆうかん》な男だったが、頭を負傷《ふしょう》してな。後遺症《こういしょう》で、顔面《がんめん》の麻痺《まひ》が治《なお》らないんだ」
「……ニ言ってんだ、っめえわ!? あぁ?」
「まあ、待ちたまえ」
見かねた林水が口を挟《はさ》んだ。
「相良くん。彼は君に敵意《てきい》を持っているそうだ。昨日《さくじつ》、君から受けた仕打ちとやらを恨《うら》んでおり、その報復《ほうふく》をしたいと言っている」
「そうでしたか。では彼にこう伝えてください。『私の装備《そうび》・技能は、諸君《しょくん》らのそれを圧倒的《あっとうてき》に凌駕《りょうが》している。報復など無意味だ』」
林水はうなずき、ピアス男に告げた。
「君、相良くんはこう言っている。『このヘタレが。ワシをいわすなんざ一〇億万年早いんじゃ、コラ』」
抑揚《よくよう》もなく、ただ淡々《たんたん》とヤンキー語を操《あやつ》る林水の姿《すがた》に、宗介は深い感銘《かんめい》を受けた。
「見事《みごと》な語学力です、会長|閣下《かっか》」
「なに、書物《しょもつ》で少々かじっただけだ。これは西部方言《せいぶほうげん》の亜流《ありゅう》なので、通じるかどうか不安だが……」
「……ちょっ、待たんか、コラぁ!?」
未開地《みかいち》の原住民《げんじゅうみん》扱《あつか》いされたピアス男は、部屋《へや》の事務机《じむづくえ》を乱暴に叩《たた》く。宗介は目にも止まらぬすばやさで腰から拳銃《けんじゅう》を引き抜き、男の額《ひたい》にぴたりと狙《ねら》いを定《さだ》めた。
「この部屋での狼藉《ろうぜき》は控《ひか》えろ」
男はその場に凍《こお》りついた。
「……ま、待てよ。そーはいかねんだよ、きょうはよ。これを聞きな」
なんとか気を取り直して、おずおずと携帯《けいたい》電話を取り出す。どこかの番号を呼び出すと、相手と二、三会話してから、宗介に手渡した。
[#挿絵(img2/s02_025.jpg)入る]
「もしもし」
『あんたが相良って奴《やつ》かい?』
聞いたことのない女の声だった。
「そうだ。おまえは?」
『後で教えてやるよ。話があるから、放課後《ほうかご》に顔|貸《か》しな』
「断《ことわ》る」
宗介ははっきりと告げた。
『はん、ビビってんのかい?』
「いや。美術の課題の彫刻《ちょうこく》を、居残《いのこ》りで仕上げねばならないのだ」
『ああ、そう……。でもねぇ、これを聞いても来ないのかい?』
やや間《ま》を置いて、よく知った声が宗介の耳に届《とど》いた。
『ソースケ……。あたしよ』
「千鳥か。なぜ君がいる」
『けさ、駅前でこの人たちに捕《つか》まったの。きょうの体育、ソフトだから出たかったのに……』
「怪我《けが》はないか? どこにいる?」
『ケガとかはないけど……あ』
ふたたび最初の声に替わる。
『これでわかったろ? 来ないと、このキレーな姉《ねえ》ちゃんがどうなるか保証できないよ』
「なんだと?」
『あたしは女には興味《きょうみ》ないけどね。いろいろヤリたがってる連中が、周《まわ》りに山ほどいるからねぇ……』
電話の向こう側で、大勢《おおぜい》の笑い声が響《ひび》いた。
『午後五時に泉川《せんがわ》町の <大川|精機《せいき》> まで一人で来な。聖城《せいじょう》通り沿《ぞ》いの廃工場《はいこうじょう》だよ』
電話は切れた。
「どーだ、ちっとはコタえたかよ、あ?」
メッセンジャーの男は愉快《ゆかい》そうに言った。
「……人質《ひとじち》、というわけだな」
「そーいうことだよ。てめえがいくらハジキなんて持っててもな、これなら――」
男が得意《とくい》げにしゃべるのを無視し、宗介は林水に向かって、
「会長|閣下《かっか》?」
「うむ」
林水は心得《こころえ》たもので、生徒会室にいるスタッフ全員に向かって告げた。
「諸君《しょくん》。少々、席を外《はず》していただけるかな? 三人で話がしたいのだ」
生徒たちは不安げに顔を見合わせたが、けっきょく林水の言葉に従《したが》い、ぞろぞろと部屋を出ていった。最後の一人が出ると、宗介が扉《とびら》を後ろ手に閉め、レバー式の鍵《かぎ》を『がちゃっ!』と下《お》ろす。
「……ナニしてんだ、コラ?」
不審《ふしん》顔のヤンキー生徒。林水は心から沈痛《ちんつう》そうに、
「気の毒《どく》にな。我《わ》が校の副会長を人質に取るなどとは、愚《おろ》かなことをしたものだ」
「てめ、ナニ言ってんだぁ? お、おい……」
宗介が男に向かって一歩、また一歩とにじり寄る。ポケットからピアノ線と手錠《てじょう》を取り出した彼を見て、ヤンキー生徒は恐怖《きょうふ》もあらわに後《あと》ずさった。
「な、なンのつもりだ、コラ? おめ、ちょっ……おい!」
「では、貴様《きさま》の黒幕《くろまく》を吐《は》いてもらおう」
宗介はコンバット・ナイフを抜きはなった。
夕刻《ゆうこく》。ほこりの漂《ただよ》う廃工場。
「どうした、不安かい?」
かなめに向かって、阿久津万里がたずねた。
かなめは身体《からだ》をビニール紐《ひも》でぐるぐる巻きにされ、大きな木箱《きばこ》の上に座《すわ》らされている。
「いや、それよりも……」
彼女のおでこには『人質・手出し厳禁《げんきん》』と書かれた張り紙が、キョンシーのお札《ふだ》みたいに貼《は》ってあった。
「これ、なんとかなんないの?」
「そーしないと困るだろ、あんたも」
万里はそう言って、彼女のポケットからあふれんばかりの紙切れの束《たば》を、あごで指す。それはこの場に集《つど》ったヤンキー連中が、無理矢理かなめに押し付けた、各自の電話番号のメモだった。
「うーむ。……確かにプリクラで一緒《いっしょ》に写《うつ》っても、自慢《じまん》できない友達ばかりよね。しかし、まあ……」
だだっぴろい廃工場にひしめく若者たちを見渡し、かなめはつぶやいた。
「みんな相当なヒマ人なのね」
この場に集った連中は、総勢《そうぜい》五〇人あまり。スクーターやら改造バイクやらにまたがる者、鉄パイプやら釘《くぎ》バットやらを手にした者、日本刀《にほんとう》を手にした者までいる。
「これ全部、あなたが束《たば》ねてるわけ?」
「まあね」
万里はそっけなく答えた。
「言っとくけど、相良が来なかったらマジであんたを連中の好きにさせるよ。わざわざ呼びつけたんだから、それなりに楽しませてやらなきゃならんし」
「うう、やだなぁ……」
それから二〇分。午後五時をすこしばかり回ったところで、外にいた一人が叫《さけ》んだ。
「阿久津さん、来たっスよ」
「おう」
夕日の射《さ》し込む、高さ三メートルほどの大きな戸口を抜けて、相良宗介が入ってきた。
「へえ……なかなかいい男じゃん」
万里は口笛《くちぶえ》を吹いた。
五〇人のヤンキー連中は、遠まきに宗介を取り囲《かこ》み、力いっぱいガンをたれて、そろって口を半開きにした。少年マガジンの世界ならば、間違《まちが》いなく彼らの頭上《ずじょう》には『!?』の写植《しゃしょく》が打ってあることだろう。
並《な》みの人物なら萎縮《いしゅく》するか爆笑《ばくしょう》するかの空間を、宗介は悠々《ゆうゆう》と進んでいく。彼は赤錆《あかさ》びたコンテナに寄りかかった万里の、一〇歩手前で立ち止まり、
「来たぞ。千鳥を放《はな》せ」
静かだが、よく通る声で告げた。
「その前に、武器を捨《す》てな。てめー、いろいろ物騒《ぶっそう》なモン持ってるらしいじゃん」
万里はかなめの身体《からだ》を引き寄せると、彼女の細いあごを猛烈《もうれつ》な力でつかみ上げた。
「ひ、ひたた……」
さらに万里は、木工用のノコギリをかなめの頬《ほほ》にあてて、
「カッターだと、すぐ治《なお》っちまうんだけどね。これで傷つけると、一生|跡《あと》が残るわけ。それでもいい?」
「ふわぁー! やめれぇ!」
宗介は腰の自動|拳銃《けんじゅう》を抜いて、ほこりだらけの床《ゆか》に放《ほう》り投げた。
「それだけかい? 全部だよ、全部」
「全部か。しばし待て」
学生服のボタンを外《はず》して、彼はその他の装備《そうび》を外しはじめた。
するとまあ、出てくる出てくる。
九ミリオートの予備《よび》マガジンが四つ、三八|口径《こうけい》のリボルバーが一|挺《ちょう》、コンバット・ナイフとグルカ・ナイフ、投げナイフが二つ、手榴弾《しゅりゅうだん》が二つ、スタン・グレネードが二つ、高性能|爆薬《ばくやく》と起爆信管《きばくしんかん》、スタンガンに催涙《さいるい》ガス、小型|注射器《ちゅうしゃき》に各種|薬物《やくぶつ》。他にも、使い方のよくわからない物騒な代物《しろもの》がごっそりと……。
唖然《あぜん》として見守る一同の前で、彼は上着《うわぎ》を脱《ぬ》ぎ、逆《さか》さまに振って見せた。
「要求には従《したが》ったぞ。千鳥を放せ」
「おやぁ? あたし、そんなこと言ったっけ。なあ?」
芝居《しばい》がかった調子で万里が叫《さけ》ぶと、男たちはゲラゲラと笑った。
「そんな……。ズルいわよ!」
かなめが抗議《こうぎ》する。万里は彼女の髪《かみ》を鷲《わし》づかみにして、
「その通り。あたしはズルい奴《やつ》さ。で、腕《うで》っぷしも強いし、頭も切れる。ついでに人数も集められるし、向かうところ敵なし、ってわけ。文句《もんく》ある?」
手下のヤンキー連中は、そんな万里に心酔《しんすい》した様子《ようす》で、『イカすぅ!』だの『超《ちょう》燃えっス!』だのと、口々に奇声をあげた。
「……さてと。じゃあ、そこのバカを可愛《かわい》がってやんな」
総勢《そうぜい》五〇名のヤンキー集団は宗介を取り囲《かこ》み、各々《おのおの》のエモノを構《かま》えると、じりじりと歩み寄った。
「ソースケ、逃げて!」
戦場育ちの宗介とはいえ、さすがに超人ではない。四、五人程度なら難《なん》なく倒せるだろうが、五〇人ともなると話が違う。たちまち全身の骨を叩《たた》き折られて、病院送りになるのは確実だった。武器も逃げ場もまったくない。まさに絶体絶命《ぜったいぜつめい》……!
ところが宗介は少しも動揺《どうよう》せずに、右腕を振り上げ、天井《てんじょう》を指さした。
「全員、頭上《ずじょう》を見ろ」
『ああん?』
一同は天井を見上げた。
彼らの八メートルほど頭上、廃工場《はいこうじょう》の屋根を支《ささ》える鉄骨《てっこつ》に、小柄《こがら》な少年が吊《つ》り下げられていた。年は一〇|歳《さい》くらいだろうか。意識を失《うしな》っているらしく、ぴくりとも動かない。
「なんだ、あのガキ?」
男たちは怪訝《けげん》そうに顔を歪《ゆが》めた。だが一人だけ、少年を見て愕然《がくぜん》とした者がいた。
だれあろう、阿久津万里である。
「よ、ヨシキ……!」
「そうだ、阿久津万里。おまえの弟だ。つい先ほど、俺がひそかに吊るしておいた」
なんと、宗介は現れる前からこの場にいたのだ。だれにも気付かれず、天井に貼《は》りつき、頭上でこっそり作業をしていたとは……!
「おまえは両親との折り合いは悪いが、あの弟にだけは心を許《ゆる》しているそうだな。彼がどうなってもいいのか?」
「な、なにを……」
「隠《かく》しても無駄《むだ》だ。調べはついている。薬物《やくぶつ》で眠らせ、小学校から拉致《らち》したのが九〇分前。そろそろ目覚《めざ》めるころだ」
あたかもその言葉に反応したかのように、少年は目を開け、自分が置かれた状況《じょうきょう》に気付くと、甲高《かんだか》い悲鳴《ひめい》をあげた。
「ひっ!? あっ、ね、姉《ねえ》ちゃん……!?」
身体《からだ》をよじり、ぶらぶらと揺《ゆ》れる。危《あぶ》なっかしいことこの上ない。万里は青ざめ、
「ヨシキっ! ちょっ、暴《あば》れちゃダメだよ、暴れるなっ!」
「案ずることはない。普通に暴れただけでは、あの縄《なわ》はまず切れない。そう、普通に暴れただけ[#「普通に暴れただけ」に傍点]ではな……」
彼はズボンのポケットから、小さなリモコン装置《そうち》を出し、スイッチの一つを押した。
ぱんっ!
少年を吊るした鉄骨の近くで、盛大《せいだい》な火花が散った。数本の縄のうち一本が焼き切られ、小さな身体が五〇センチほど降下《こうか》した。
「うわぁあぁ〜〜〜〜!!」
廃工場に轟《とどろ》く少年の絶叫《ぜっきょう》。
「このリモコンに反応する五つの信管《しんかん》のうち一つは、あの少年の衣服に仕込んである。破裂《はれつ》すれば大怪我《おおけが》だ。だが、それがどのスイッチかは俺にもわからん。運が良かったな」
こんな主人公、見たことない。
あまりのド汚《ぎたな》さに、その場の五〇人は戦慄《せんりつ》、あるいは絶句《ぜっく》した。
万里は半分|涙目《なみだめ》になって、
「やめろ、てめえ! ヨシキを降《お》ろしな! さもねえと……」
「さもないと、どうする気だ?」
宗介はふたたびスイッチを押した。またしても小さな爆発。少年の身体が、さらに五〇センチ落下する。
「こわいよ、姉ちゃん! 助けて!」
「ヨシキ―――っ!」
「あの高さから落ちれば、ただでは済《す》まんだろうな。ちなみにスイッチはあと三つだ」
恐怖《きょうふ》の悲鳴などどこ吹く風、とでもいった様子《ようす》で、宗介は告げた。
「てめえ……! この女がどうなってもいいってのかい!?」
かなめの首筋《くびすじ》にノコギリを押しあてる。
「殺すか。それもやむなし、だ」
「ちょっ……ソースケ!」
「千鳥。すまんが、あの少年と運命を共にしてくれ。君も副会長ならわかるだろう。再発を防ぐためにも、テロリストには譲歩《じょうほ》しない。これは国際|常識《じょうしき》なんだ」
「ナニよ、それ!?」
「心配するな。遺族《いぞく》への手紙は俺が書く」
「書くな、おい!」
宗介はそれを無視して、
「さて、阿久津万里よ。あの少年を助けたければ、千鳥を放《はな》して部下を解散させろ。二人とも助けるか、二人とも殺すかだ」
「ぐっ……くくっ……」
一同が固唾《かたず》を飲んで見守る中で、万里は弟と手下たちとを交互《こうご》に見た。私情《しじょう》を挟《はさ》めば、この場にいる連中の尊敬《そんけい》を失うのは明らかだ。だがしかし、だからと言って……。
宗介は彼女の苦悩《くのう》を見透《みす》かしたように、
「だれにでも大切《たいせつ》なものはある」
一同によく聞こえる声で言った。
「例《たと》えばおまえ。……そう、そこのおまえだ」
鉄パイプを握《にぎ》った、大柄《おおがら》な男を指さす。
「おまえの名前は高山《たかやま》清司《きよし》。硝子山《がらすやま》高校二年。西山中学に通《かよ》う、一四歳の妹を可愛《かわい》がっている。その妹は普段《ふだん》、夕方六時ごろに弁天《べんてん》通りを通って帰宅する。人通りが少ない道だ。どこかの悪党に狙《ねら》われないか、心配だな」
「な、な……!」
初対面の相手にそこまで言われて、男は真っ青になった。
「それから……おまえだ、伊達《だて》悠太《ゆうた》」
彼はパンチパーマの男に告げた。
「ボタンインコを飼《か》っているそうだな。一一歳の時に、親に懇願《こんがん》して買ってもらった。名前は『ポンちゃん』だ。聞いた話では、ボタンインコはすぐに死ぬらしい。窓の隙間《すきま》から部屋《へや》に殺虫剤《さっちゅうざい》を流し込まれただけで、もだえ苦しみ痙攣《けいれん》した挙《あ》げ句に――」
「や、やめろ……! やめてくれ!」
「おびえることはない。俺はおまえのインコの話をしただけだ。ほかには……」
宗介は自分を取り囲《かこ》む五〇人の顔を、ぐるりと見渡した。男たちは冷《ひ》や汗《あせ》を浮かべ、彼の視線を避けようと顔を伏《ふ》せた。
それでも彼は容赦《ようしゃ》なく、
「……おまえは五十嵐《いがらし》功一《こういち》。汗水たらして、やっと購入《こうにゅう》したバイクがある。……そこのおまえは遠藤《えんどう》敬志《たかし》。元女優の母親に女手一つで育てられた。そこの菅谷《すがや》茂《しげる》は最近、一つ年下の恋人が出来《でき》た。その隣《となり》の五代《ごだい》政義《まさよし》もそうだ。さらにそこ、中島《なかじま》慎太郎《しんたろう》の姉は――」
五分後――
五〇人のヤンキーは意気消沈《いきしょうちん》して、ぞろぞろと廃工場《はいこうじょう》を去っていった。
「……これで気が済《す》んだろ。さあ、弟を降《お》ろしな」
一人残った阿久津万里は、憔悴《しょうすい》しきった様子《ようす》で言った。
「千鳥が先だ」
宗介は自分のナイフで、かなめを縛《しば》っていたビニール紐《ひも》を切断《せつだん》した。
「サンキュ。でも、なんというのか……」
かなめの物言いたげな様子を見て、宗介はうなずいた。
「君の言いたいことはよくわかる。回りくどい手は使わずに、奇襲《きしゅう》をかけて全員|射殺《しゃさつ》すべきだったと……」、
「違うわよ。なんの罪《つみ》もない男の子をあんな目に遭《あ》わせて、ヒドいんじゃない? そりゃ、あたしは助かったけど……」
「ふむ。その件か……」
宗介は例のリモコンスイッチの一つを押した。すると鉄骨《てっこつ》の上で電動ウィンチの作動《さどう》する音がして、少年の身体《からだ》がするすると降りてきた。
「え……?」
少年は静かに床《ゆか》に足を下ろすと、宗介の手を借りて、身体に巻きついた麻縄《あさなわ》、そして目立たないよう巧妙《こうみょう》に着《つ》けてあった頑丈《がんじょう》なザイルを解いた。
「サガラさん。これでいいんだね?」
「そうだ。ご苦労だった」
「どうだった? オレの演技《えんぎ》は」
「対テロ訓練《くんれん》の人質《ひとじち》役でも、ああはいかない。なかなかのものだった」
「えへへ。でも、やっぱ怖《こわ》かったなぁ。ちゃんと約束《やくそく》、守ってよね」
「『光る超電磁《ちょうでんじ》ヨーヨー』だったな。買っておこう」
かなめと万里は、そのやりとりをぽかん、と眺《なが》めていた。
「……てめえ、相良! ペテンかよ、え!?」
万里は宗介に食ってかかり、その胸倉《むなぐら》をむんずとつかむ。
「そんなところだ。俺の発案した作戦に、会長|閣下《かっか》が助言《じょげん》してくれてな。手下どもの情報も、彼の提供《ていきょう》だ」
「会長? 林水のヤローかい!?」
宗介は万里の手を解《ほど》き、
「おまえに『よろしく』と言っていたぞ」
「ちくしょう。あのキザ野郎《やろう》……!」
「阿久津万里。……俺は安全には気を配《くば》ったが、おまえの弟もそれなりの危険を冒《おか》したのだ。彼になにか言うことはないのか?」
「なんだとお!? このクソガキはなぁ……!」
万里は弟をきっとにらんだ。だが少年は彼女の剣幕《けんまく》をものともせず、
「ねーちゃんこそバカじゃんか。人質なんかとって、大人数で脅《おど》かしてさ。いつもオレに『強くなれ』だとか言ってるクセに。オレ、情《なさ》けないよ」
「た、退屈《たいくつ》しのぎにからかってただけだよ! ったく、このガキ、いい加減《かげん》にしろよ!? あたしはテメエのせいで、大恥《おおはじ》かいたんだかンね!?」
「自分で招《まね》いたことじゃん」
「うっ……」
口論《こうろん》ではとうてい勝てないと見て、万里はその場で唾《つば》を飲み込んだ。
「……相良。この落とし前は、キッチリ付けてやるからね。覚悟《かくご》してなよ」
「いいだろう。ただし、おまえも覚悟しろ」
宗介は、自分より背の高い相手の顔をのぞき込み、
「実力以上の敵を倒すには、なにかしら犠牲《ぎせい》を伴《ともな》うものだ。おまえが俺を過小評価《かしょうひょうか》してなければいいがな……」
妙《みょう》な迫力《はくりょく》のある口ぶりに、万里は思わず息を呑《の》んだ。その宗介を、かなめが後ろから小突《こづ》いて、
「ほらほら、そこ。あんたねー、仲直りするとか、そういう発想はないの?」
「仲直りもなにも、この女とは初対面だ」
「理屈《りくつ》をコネない。……まーいいわ。もう帰ろ。お礼《れい》に夕御飯《ゆうごはん》、オゴったげるから」
かなめは宗介の手を引き、すたすたと歩きはじめた。
「じゃあね、万里ちゃん。ヨシキくんも、元気でね」
「さらばだ、阿久津万里。ヨシキも健康管理《けんこうかんり》に細心《さいしん》の注意を」
かなめに半《なか》ば引きずられ、宗介は廃工場《はいこうじょう》から姿《すがた》を消した。取り残された万里は、
「なんなんだい、あいつは?」
棒立《ぼうだ》ちになってぽかんとした。
「おもしろい人だよ。いきなり授業中に踏《ふ》み込んで来てさ、『人助けをする気はあるか』だって」
「小学校に?」
「うん。先生が怒《おこ》ったら、ピストル突きつけて『緊急事態《きんきゅうじたい》だ』って。よっぽどあのお姉さんが心配だったんだろうね」
宗介の言動がすべてハッタリだったことを、万里はようやく理解した。あの状況《じょうきょう》で、あれだけ平然と『かなめを見捨《みす》てる』などと嘘をついた度胸《どきょう》を考えると――
「まあ……たいした奴《やつ》かもね」
小さくつぶやく。
「え?」
「なんでもない。もうクタクタだわ。帰るよ、ヨシキ」
「うん」
万里は弟を伴《ともな》い、廃工場を後にした。
[#地付き]<妥協無用のホステージ おわり>
[#改丁]
空回《からまわ》りのランチタイム
[#改ページ]
『わが背子《せこ》を大和《やまと》へ遣《や》るとさ夜ふけて暁《あかつき》露《つゆ》にわが立ちぬれし』
万葉集《まんようしゅう》の中の短歌である。
古典のプリントのこの一文を見ただけで、相良《さがら》宗介《そうすけ》は頭を抱《かか》えてしまうのだった。
むっつり顔に脂汗《あぶらあせ》が浮かび、引き結んだへの手口が焦燥《しょうそう》に震《ふる》える。休み時間の明るい喧騒《けんそう》など、彼の耳には入っていない。
(わからん……)
『わが背子を――』。背中にいる子供のことだろうか? つまりこの歌の作者は、負傷《ふしょう》した子供を背負《せお》っている?
だが、その子供を『大和へ遣る』とは?
『大和』と言ったら、太平洋戦争中の超弩級《ちょうどきゅう》戦艦《せんかん》のことだ。つまり負傷者を戦艦に移送して……なぜ戦艦なのだ? 近くに野戦《やせん》病院がなかったのか? いや、そもそもこの万葉集の時代は、第二次大戦とは無関係のはずでは?
(まったくわからん……)
幼《おさな》い頃《ころ》から海外の紛争《ふんそう》地帯で育ち、日本の歴史などほとんど知らない宗介にとって、古典は最大の苦手《にがて》科目だった。
『古典U』の藤咲《ふじさき》教諭《きょうゆ》が出した宿題《しゅくだい》は、こうした短歌を計一八ほど品詞《ひんし》分解《ぶんかい》し、現代語|訳《やく》してくることだった。
締め切りは明日《あした》だ。
宿題が出てから四日間、寝る間《ま》も惜《お》しんで取り組んできた彼だが、いまだに一文も訳せていない。未提出《みていしゅつ》や白紙《はくし》の場合は、次の試験《しけん》休みで補習《ほしゅう》を受けなければならないのに。
(絶望的だ)
頭脳《ずのう》の酷使《こくし》に疲《つか》れ果《は》て、全身にひどいだるさを感じ、机《つくえ》に突《つ》っ伏《ぷ》したところで――
「どしたの、ソースケ?」
クラスメートの千鳥《ちどり》かなめが声をかけてきた。腰《こし》まで届《とど》くロングの黒髪《くろかみ》、赤いリボン。ちょっと大人《おとな》びた顔だちの少女である。
彼女は宗介をしげしげと眺《なが》め、
「なーんか具合《ぐあい》悪そうね。顔色悪いし。ヘンなモンでも拾《ひろ》い食いした?」
「いや。体調に問題はない」
「ホント?」
「本当だ」
宗介はそれだけ答えて、プリントを机の中にしまおうとする。ところがかなめはそれより早く、彼からさっとプリントを奪《うば》い取ってしまった。
「む……」
「なに隠《かく》してんのよ。どれどれ……? ははん。これが原因なわけね」
早々《はやばや》と事情を察した様子《ようす》で、彼女は笑ってプリントを突き返した。
「ソースケって古典、苦手なんだ」
なぜか愉快《ゆかい》そうなかなめの言葉に、宗介はいくらか憮然《ぶぜん》とした。
「仕方《しかた》がない。アフガンでもカンボジアでも、俺《おれ》の周囲には万葉集や土佐日記を読める人間などいなかった」
「まあ、戦闘《せんとう》の合間《あいま》に土佐日記を読んでるアフガン・ゲリラってのも、あんまり聞かないわよね……」
「うむ。コーランならば暗唱《あんしょう》さえできるのだが」
「あ、そう……。それより提出、明日の五時間目でしょ? 藤咲先生って、スゴい締め切り厳《きび》しいよ。間に合うの?」
「君が案ずる必要はない。これは俺の戦いだ」
「戦いって、また大げさな……」
「いや。これは戦いだ」
宗介はあくまで真剣だった。かなめはすこし考える素振《そぶ》りを見せてから、
「ちょっと待ってて」
きびすを返し、自分の席に小走りすると、一|冊《さつ》のノートを抱《かか》えて戻《もど》ってきた。
「ほら」
ぽんとノートを机上《きじょう》に置く。
「これは?」
「あたしの古典のノート。宿題は済《す》んでるから、明日まで貸《か》してあげる。丸写《まるうつ》ししたらバレちゃうからタメだけど、一度答えを知っとけば訳《やく》すのも楽でしょ?」
「ふむ。しかし――」
「あー。お節介《せっかい》……かな?」
かなめの声がわずかに曇《くも》った。
「いや……」
宗介は状況《じょうきょう》を吟味《ぎんみ》した。たいていの危機は独力《どくりょく》で切り抜けてきた彼だったが、どう考えてもこの問題については、かなめの助力《じょりょく》にすがるよりほかなさそうだった。
「では借りよう。助かる」
「素直《すなお》でよろしい。じゃ、がんばりなさい」
かなめは笑顔を見せてから、そそくさと自分の席に戻ろうとした。ただ、その前に一度だけ振り返って、
「ただし、明日ちゃんと持って来てよ。そのノート忘れたら、あたしまで補習《ほしゅう》なんだから。いいわね?」
ぴしりと人差し指をつきつけ、念を押す。
「忘れん。安心しろ」
宗介はしっかりと請《う》け負《お》った。
かなめのノートは大変な援軍《えんぐん》になった。
彼女は最初の歌をこう訳していた。
『大切《たいせつ》な弟が大和《やまと》へ帰るので見送っていると、夜がふけて、私は明け方の露《つゆ》に立ちぬれてしまったことだ。あーあ、なんてかわいそうな私。るーるーるー』
「なるほど。るーるーるー、か……」
なにかが間違《まちが》っている気もしたが、それでも大きな指針《ししん》にはなる。一度トリックを知ってしまえば、どんな手品でも見抜くのは難《むずか》しくない。
いまや突破口《とっぱこう》は見えた。反撃開始だ。
マンションの自室に帰るなり、宗介は夜どおし宿題に取り組み、艱難辛苦《かんなんしんく》の旅路《たびじ》を経《へ》て――ついに翌朝《よくあさ》、最後の短歌を訳し終えたのであった。
「任務……完了《かんりょう》……」
肩で息して、宗介はつぶやいた。身体《からだ》が重い。視界がなぜかぼんやりしている。
窓から朝日が射《さ》し込んでいた。
苦しい作業だった。これほどの窮地《きゅうち》はかつてなかったかもしれない。だがきょうもまた、俺は生き延《の》びた。こうして朝日を拝《おが》むことができたのだ。しかし、次の宿題の時は……。
――などと、しばし独《ひと》りで感慨《かんがい》にふけってみたりする。
時計を見ると、〇七四五時だった。急がないと学校に遅刻《ちこく》する。さっそく出発しようと、かなめのノートを閉じたところで――
「き……きゃぁあぁあぁぁぁ〜〜〜〜〜!!」
この世のものとも思えぬ悲鳴《ひめい》が、宗介の耳に届《とど》いた。
女の声。となりの五〇六号室からだ。
(強盗《ごうとう》か……!?)
彼は自動|拳銃《けんじゅう》を引っつかみ、玄関《げんかん》めがけて駆《か》け出した。
四時間目が終わり、昼休みのチャイムが鳴り響《ひび》く。いつも通りの騒《さわ》がしい教室で――
「……で、ドアをぶち抜いて突入《とつにゅう》しちゃったわけ? おとなりさんに」
常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が言った。いつもと同じ、とんぼメガネにおさげ髪《がみ》。席に座《すわ》ったままの宗介を、あきれ顔で眺《なが》めている。
「一刻《いっこく》を争《あらそ》うと思ったのだ。仕方《しかた》がない」
そう答えた宗介の目は真っ赤だった。寝不足以外の疲労《ひろう》もにじみ出ている。
「それで暴漢《ぼうかん》と間違《まちが》えられて、部屋《へや》の奥さんに殺虫剤《さっちゅうざい》をかけられちゃったんだね。ゴキブリの代わりに」
「そういうことだ。催涙弾《さいるいだん》より効《き》いた」
恭子は困ったような笑顔を見せて、
「そりゃ、相良くんが悪いよ、やっぱ」
「虫を見ただけで、あんな大声を出すほうがおかしい。夫の射殺体《しゃさつたい》ならまだしも――」
「えー! でも、あたしも叫《さけ》んじゃうよ。朝、枕元《まくらもと》にゴキブリなんかいたら」
なぜかはしゃぐ恭子だったが、宗介は大真面目《おおまじめ》に彼女を凝視《ぎょうし》した。
「常盤。それが命取りになることもある」
「なんで?」
「かつてペルーでの極秘《ごくひ》作戦に従事《じゅうじ》していた時のことだ。徒歩《とほ》でジャングルを偵察《ていさつ》中、俺のポケットにいつのまにか体長一〇センチの毒《どく》サソリが潜《もぐ》り込んでいたことがあった」
「はあ……」
「残忍《ざんにん》なゲリラの勢力圏内《せいりょくけんない》だ。あのとき俺が叫んでいたら、偵察チームは敵に発見されて全滅《ぜんめつ》していただろう」
「……そうですか」
「虫ごときで悲鳴をあげるのでは話にならない。残念だが、君とはチームを組めないな」
「組みたくないなぁ……あたしも」
二人の間に非建設《ひけんせつ》的な合意《ごうい》が成立したところで、その場にかなめがやってきた。きょうは朝から上機嫌《じょうきげん》のようで、足取りも妙《みょう》に軽い。
「あ、カナちゃん」
「二人でなーに話してんの? ソースケ、宿題《しゅくだい》はできた?」
「できた。君のおかげだ」
かなめはにっこりと笑った。
「そう、よかった。じゃあノート返してくれる?」
「ああ。しばし待て」
宗介は鞄《かばん》に手を伸《の》ばした。しばらく中を探《さぐ》ってから――
「……ぬかった」
「ん?」
にこにこ顔のかなめが聞きかえす。一方の宗介は、額《ひたい》に脂汗《あぶらあせ》を浮かべ、
「千鳥。非常に言いにくいことなのだが……」
「なぁに?」
「この問題は、弾薬《だんやく》切れや通信機の故障《こしょう》と同じように、冷静に対処《たいしょ》する必要がある」
「え?」
「どれだけ絶望的《ぜつぼうてき》だろうと、激昂《げっこう》したり、パニック状態になってはいけない。それは破滅《はめつ》への一本道だ」
「なんの話?」
「おそらく、今朝《けさ》の騒動《そうどう》が原因だ」
「だから……なによ?」
さすがにかなめも焦《じ》れてきた様子《ようす》だった。
「包《つつ》み隠《かく》さずに言えば――」
宗介は唾《つば》をごくりと飲みこみ、
「君のノートを自宅に忘れてきてしまった」
宗介の前置きにもかかわらず、かなめは激昂し、パニックに陥《おちい》った。
「どどど……どーするつもりなのよぉっ!?」
相手の胸倉《むなぐら》を乱暴につかんで、がくがくと頭をシェイクする。彼女の顔は真っ青で、はげしい動揺《どうよう》からデッサンが狂いまくっていた。
「どうにかする。落ち着け、千鳥」
「落ち着けるわけないでしょ!? このままじゃ補習《ほしゅう》よ!! 絶望よ! 試験《しけん》休みにバイトしないと、来月《らいげつ》のお小遣《こづか》い全然ないのに! なのに、なのに……ああっ! あんたはっ!」
次の瞬間《しゅんかん》、かなめは跳躍《ちょうやく》した。電光石火《でんこうせっか》の早業《はやわざ》で、宗介の背中に飛び乗ると、彼の両|腕《うで》をたくみにねじり上げ、
「ど・う・し・てっ! あ・ん・た・はっ! そんな冷静でいられるのよっ!!」
「ぅおっ……!」
異様《いよう》な関節技《かんせつわざ》だった。その姿《すがた》は、あたかも翼《つばさ》を広げた大鷲《おおわし》のごとく――
「それは伝説のパロ・スペシャル……!? こんな身近に使い手がいたなんて!」
恭子が興奮《こうふん》して叫《さけ》ぶ。
ぎりぎりと両肩を襲《おそ》う激痛に耐《た》えつつ、宗介はかなめをなだめるように、
「とにかく……行動だ。いまから職員室に行って、藤咲先生に事情を話そう。君の……宿題の提出を待ってもらう……ように。きっとわかってくれるはず……だ……」
「ふむぅ……」
かなめは『ばっ』と宗介から離れると、
「行ってきなさい! いますぐっ!」
教室の出口をびしっと指さす。宗介はうなずくと、矢のように廊下《ろうか》へと飛び出していった。
それから三分後。
出ていった時とまったく同じ勢《いきお》いで、宗介は教室に戻《もど》ってきた。
「行ってきたぞ、千鳥っ」
「どうだった!?」
「駄目《だめ》だった」
すぱんっ!
[#挿絵(img2/s02_057.jpg)入る]
その三分の間に作っておいたハリセンで、かなめは宗介をはたき倒した。
「胸《むね》を張って絶望的なコト言ってんじゃないわよ、あんたは!」
「…………。正確に言うと、藤咲先生は不在だった。ほかの先生から聞き出した情報によれば、藤咲先生は――」
しばし口ごもる。
「先生は?」
「……いや、ありえんな。とにかく、藤咲先生は五時間目までに戻ってくるだろう」
「カナちゃん、どうするの?」
「くっ……まいったわ」
ワーニン、ワーニン。緊急事態《きんきゅうじたい》発生、緊急事態発生……。心の警報《けいほう》が鳴り響《ひび》く中、かなめは必死に考えた。
古典の授業は五時間目だ。
宿題は授業の最初に集める。それ以外は受け付けない方針《ほうしん》で、しかも遅刻者《ちこくしゃ》は欠席として扱《あつか》われる。藤咲先生はキビしいのである。いくら事情を話しても、大目《おおめ》に見てはくれないかもしれない。
いまは一二時三八分。五時間目の一時三〇分まで、まだ五二分ほど猶予《ゆうよ》がある。
五二分。
微妙《びみょう》な時間だ。しかし、こうして迷《まよ》っている間にも――
「こうなったらソースケ、ノートを取りに行くわよ!」
「俺の部屋《へや》にか」
「決まってるじゃない。さあ早く!」
「あ、カナちゃん……!」
かなめは宗介の首根っこをつかむと、衝撃波《しょうげきは》が発生しそうな勢いで教室を飛び出した。
宗介をバタバタと引きずったまま、廊下《ろうか》と階段を爆走《ばくそう》する。
靴《くつ》も替《か》えずに正門を突破《とっぱ》すると、
「タクシ―――――っ!!」
車道の真ん中に宗介を放《ほう》り投げて、通りかかったタクシーを急停車させた。ブレーキの悲鳴《ひめい》。あと一〇センチで、宗介はバンパーの錆《さび》と消えるところだった。
さすがの彼も戦慄《せんりつ》し、
「殺す気か……!?」
「うるさい、早く乗る!」
かなめは宗介をタクシーに押し込むと、運転手の抗議《こうぎ》を遮《さえぎ》って、
「多摩川《たまがわ》町のタイガーズ・マンション! テニスクラブのすぐそばよ! ゴーゴーゴー!」
ごつごつとアクリルの仕切り板を叩《たた》く。乱暴に急《せ》かされて、あわてた運転手はぐいっとアクセルを踏《ふ》みこんだ。
うってかわって、その後の移動は静かに、かつ緩慢《かんまん》に進んだ。
かなめはむっつりと押し黙《だま》り、外の景色《けしき》と腕時計を交互《こうご》ににらむ。ときおり苛立《いらだ》たしげに舌打《したう》ちして、小さな悪態《あくたい》をぶつぶつと漏《も》らしたりもする。
一方の宗介は肩身が狭《せま》そうに、
「千鳥。俺は――」
「うるさい。言い訳《わけ》なんか聞きたくない。あんたの責任感なんて、けっきょくその程度のもんなのよ。マジであきれたわ」
刺々《とげとげ》しい声でたたみかける。
「すまないとは思っている」
「ゴメンで済《す》んだら戦争は起きないし兵隊も要《い》らないのよ。おわかり? 専門家の相良軍曹どの[#「専門家の相良軍曹どの」に傍点]」
この皮肉《ひにく》は相当こたえたようで、宗介はそれ以上なにも言えなくなってしまった。かなめも頭に血が上《のぼ》っているので、自分の言い過ぎを考え直しもしない。
険悪《けんあく》なままの十数分が過ぎ、やがてタクシーは宗介のマンションの前に停車した。
時刻《じこく》は一二時五六分。
意外に早く到着《とうちゃく》した。同じ市内だから当然といえば当然だ。この調子なら、余裕《よゆう》で帰れるかもしれない……
「はいよ、一二八〇円」
運転手が告げる。
「俺が払おう」
「あたりまえよ。それより、帰りも乗るから待っててもらって」
言い捨《す》て、かなめはタクシーを降りた。運転手が宗介に『あんたも大変だねぇ』などとささやいているのが聞こえたが、かなめは無視してエレベーター・ホールへ走った。
五〇五号室に着《つ》くと、宗介は靴《くつ》も脱《ぬ》がずに自分の部屋に上がり込んでいった。
「急ぎなさいっ!」
「了解《りょうかい》」
かなめは部屋には入らず、共通|廊下《ろうか》で彼を待つ。そこで彼女は、となりの五〇六号室のドアが壊《こわ》れていることに気付いた。蝶番《ちょうつがい》が吹き飛ばされたドアが、とりあえず……といった感じで戸口にたてかけてある。
「…………?」
怪訝《けげん》に思っていると、宗介が二|冊《さつ》のノートを手に部屋から出てきた。
「あったぞ、戻《もど》ろう」
「え? あぁ、そうそう、行こ!」
二人はエレベーター・ホールへと走った。待たせてあったエレベーターに駆《か》けこみ、一階へ降《お》りて、ホールを飛び出して――
マンションの玄関《げんかん》を出ると、彼らを待っているはずのタクシーが消えていた。
「うそ……」
影も形もない。棒立《ぼうだ》ちした二人の前を、酒屋《さかや》の軽トラックが通り過ぎていった。
「待つように言ったのよね……?」
かなめが問うと、宗介はきびしい顔つきで、
「ああ。しっかりと言い含《ふく》めた。俺たちが戻るまで決してここを離れるな、と」
「だったら、なんで?」
「わからん。銃《じゅう》をちらつかせて、『逃げたら殺す』とまで脅《おど》しておいたのだが――」
すぱんっ!!
しっかりと持ってきていたハリセンで、かなめは宗介をはたき倒した。
「逃げるに決まってるでしょっ!?」
「むう……」
彼女はたまらなくなったように、両手で顔を覆《おお》い、悲痛《ひつう》な涙声《なみだごえ》で、
「もうやだ。ぐすっ。どうして、あんたってそうなの……? なんであたしを苦しめるの? たまには平穏《へいおん》無事《ぶじ》で、なにもかもスムーズにコトを運ばせてくれて、最後にピシっと『問題ない』とかキメてくれたっていいじゃないの。なのにもう、いつもいつもいつも、要《い》らない面倒《めんどう》ばっかり起こして……! つまり、あんたは! 徹底的《てっていてき》に! 主人公とかヒーローとか白馬《はくば》の王子さまとかの資質が、欠けまくってるのよっ!!」
最後は路上で地団太《じだんだ》を踏《ふ》み、はげしく怒鳴《どな》りちらす。一方の宗介は、青ざめた顔で腕時計の秒針《びょうしん》を見つめて、
「君の言い分はよくわかったが、いまの口上《こうじょう》で二六秒|浪費《ろうひ》したぞ。どうする。タクシーなどもう拾《ひろ》えん」
あたりの交通量は少なく、新たなタクシーがやって来る気配《けはい》などまったくない。
かなめはたちまち正気《しょうき》に戻《もど》り、
「くっ……ヒステリってる場合じゃないのよね。どうしたものか――」
「こうしよう」
宗介は大股《おおまた》でマンションの駐輪場《ちゅうりんじょう》まで歩くと、自動|拳銃《けんじゅう》を引き抜いた。
たたん!
いきなり発砲《はっぽう》。停《と》めてあった自転車の鍵《かぎ》とチェーンが吹き飛ぶ。ひらりと自転車にまたがると、かなめの前にそれをこぎ付け、
「乗れ」
「ちょっと、これって犯罪《はんざい》よ!?」
「借りるだけだ。後で修理して返す。急げ」
「ったく、信じらんない……!」
などと言いながらも、かなめは自転車の後ろに腰《こし》かけた。さすがにまたがったりはせず、両足をそろえた女の子|座《ずわ》りである。
「あたしのマンション、すぐそこだし、自転車だって持ってるのに――」
「時間が惜《お》しい。行くぞ」
「ひゃっ……」
急発進した自転車から振り落とされそうになって、彼女は宗介の腰にしがみついた。
宗介の脚力《きゃくりょく》は相当なものだった。
人ひとりを乗せているのに、みるみる路上を加速していく。かなめの体重など感じていないかのような、力強い走りだった。
午後ののどかな住宅街《じゅうたくがい》。東京|郊外《こうがい》ならどこにでもあるような景色《けしき》の中を、自転車はすいすいと走り抜けていく。
のろのろ運転のスクーターを追い抜き、信号を無視して交差点を突っ切って――
「これで間に合うの?」
「わからんが……ほかに手はない」
二人を乗せた自転車は、やがて上《のぼ》りの坂道までやって来た。極端《きょくたん》に急な勾配《こうばい》ではなかったが、代わりに距離《きょり》が長い。二人乗りではかなりきつそうだった。
「このまま……行くぞ」
「感心。それ行けっ!」
宗介はサドルから腰を浮かすと、さらに力強くペダルを踏《ふ》み込んだ。
最初のうちは、すいすいと坂を上がっていった。だが――坂の中ほどまで来ると、さすがに自転車のスピードが鈍《にぶ》ってくる。宗介の息も次第《しだい》に荒くなってきた。
「降《お》りようか?」
「その必要はない」
答える声にも、やせ我慢《がまん》が見え隠《かく》れする。
「あのねー、あんま無理してヘバられても困《こま》るんだけど」
「俺が倒れたら……君だけで行け」
「はあ」
「もともと俺のミスだ。気にするな」
「あ、あたりまえよ。気にしないし、さっさと見捨《みす》てて行くから」
宗介は懸命《けんめい》にペダルを踏み続ける。彼の筋肉《きんにく》のきしみが伝わってきて、かなめはなぜか気恥《きは》ずかしくなった。
(やっぱ男の子なのよねー……)
風になびく髪《かみ》を片手で押さえながら、彼女はふと思った。
苦労の甲斐あってか、二人の自転車は坂道を上りきり、平坦《へいたん》な住宅街を滑走《かっそう》しはじめる。
「おおー、がんばったわね」
「いや、まだ先は長い。これから都道を――」
『そこの二人乗り! 止まりなさい!』
スピーカー越《ご》しの女の声。背後《はいご》から、警察《けいさつ》のミニパトがこちらに向かって走ってくるところだった。
「……あっちゃ〜〜」
「警察か……」
つぶやき、宗介は自転車を止めるどころか――一気に加速させた。
「ちょっ、ソースケ!?」
『はん、逃げる気ね!? させないわよっ!』
妙《みょう》に不敵《ふてき》な婦警《ふけい》の声。ミニパトはエンジンを唸《うな》らせ、すぐさま二人を追跡《ついせき》する。
「追ってきてる! どーするのよ!?」
「捕《つか》まったら……最後だ。盗難《とうなん》車輌《しゃりょう》に二人乗り。留置所《りゅうちじょ》で一泊《いっぱく》するはめになるぞ」
「いや……さすがに留置所はないと思うけど――きゃっ!」
強引《ごういん》に角《かど》を曲がり、細めの市道に入っていく。犬と散歩していた老婦人に、危《あや》うく激突《げきとつ》しそうになった。ミニパトも市道に飛び込んで、きわどいところで通行人をパスする。
『甘《あま》い、甘いわっ!!』
ミニパトは歩道に半分乗り上げたまま、急加速して二人に迫《せま》る。まるで『捕まえる』というより――
「ひき殺す気だわっ!!」
かなめが悲鳴《ひめい》をあげた。
『ふはははっ! 覚悟《かくご》おしっ!!』
どういう婦警なのか知らないが、相当に過激《かげき》な性格のようだ。これみよがしに道交法《どうこうほう》を無視して、歩道に乗り上げ二人に迫る。
「やるな……」
T字路が目前《もくぜん》に迫っていた。
「千鳥。俺が合図《あいず》したら、自転車から飛び降りろ」
「はあ? あんたなにを――」
宗介は答えず、いきなりハンドルを切って後輪《こうりん》を横滑《よこすべ》りさせ、
「いまだっ!!」
有無《うむ》をいわさず鋭《するど》く叫《さけ》ぶ。かなめは考えるヒマもなく、言われた通りに自転車から跳《と》んだ。
「わ……わわっ!」
遠心力《えんしんりょく》が働いて、彼女の身体《からだ》は進行方向に放《ほう》り投げられた。なんとか着地するが、勢《いきお》いは止まらない。彼女は路上に転倒《てんとう》し、二回、三回と前回り受け身をするはめになった。
その間に宗介のほうは、自転車を一八〇度|回頭《かいとう》し、迫りくるミニパトに向かって突進《とっしん》させていた。
『なにっ!?』
十分に加速してから、ひらりと飛び降りる。無人の自転車はそのまままっすぐ、ミニパトへ向かって走っていった。
激突《げきとつ》。ミニパトは自転車を踏み潰《つぶ》して、右へ左へ蛇行《だこう》した。
『ば……馬鹿《ばか》なぁ〜〜っ!!』
なぜか悪役っぽい悲鳴。
すばやく電柱に飛び移った宗介の足下《あしもと》を、ミニパトは通り過ぎていく。かなめもあわてて手近の塀《へい》に飛びついて、暴走《ぼうそう》してくる車をどうにかしのいだ。
ミニパトは制御《せいぎょ》を失《うしな》ったまま、T字路へと突進し、民家の塀《へい》を突き破った。けたたましい騒音《そうおん》と衝突音《しょうとつおん》。悲鳴と犬の吠《ほ》える声。ラジエーターから立ち昇《のぼ》る蒸気《じょうき》……。
「な、なんと……」
塀のてっぺんにしがみつき、あっけにとられるかなめの腕を、宗介がくいくいと引っ張った。
「逃げるぞ」
「へっ? あ、うん」
ここまでやってしまっては、ますます捕《つか》まるわけにはいかない。かなめは路上に飛び降りて、宗介とその場を走り去った。
「……まったく、あたしがひかれたらどーする気だったのよ!?」
すたこらと走りながら、かなめは宗介に抗議した。
「だが、君はひかれなかった」
「結果でモノを言うんじゃないっ!」
「君ならあれくらいの真似《まね》はできると信頼《しんらい》したのだ」
「ったく。それより……」
かなめは目下《もっか》の最重要課題を思い出した。はやく学校に帰らなければ、補習《ほしゅう》の運命が待っているのだ。
「こうなったら、電車しかないわね。自転車で距離《きょり》は稼《かせ》いでるから、途中《とちゅう》の駅《えき》から快速に乗れば――」
かなめは時計をちらりと見た。
[#挿絵(img2/s02_071.jpg)入る]
一時一一分。授業まであと一九分……!
「まだ……なんとか間に合うな」
「急げっ!」
二人は一気《いっき》にペースを上げた。
宗介は言うまでもないことだが、かなめも相当な体力派である。瞬発力《しゅんぱつりょく》と運動|神経《しんけい》では学内の女子でもトップクラスだ。入学以来、数々の運動部から熱心な勧誘《かんゆう》を受けている。
とにかく足が速い。通行人はみな一様《いちよう》に目を丸くし、爆走《ばくそう》する二人を振り返る。
なぜか遅れがちな宗介を、かなめは急《せ》かして、
「モタモタしないっ!!」
「……していない」
住宅街から繁華街《はんかがい》へ。二人は渋滞《じゅうたい》した道路を横切り、乗用車のボンネットを踏み台にして、駅前商店街へと跳躍《ちょうやく》した。
滞空《たいくう》。着地。ふたたび疾走《しっそう》。きれいに並んで大通りを突っ走る。クラクションの猛《もう》抗議など気にもしない。
「いま時刻表《じこくひょう》を見たのだが……」
ペースを緩《ゆる》めることなく、宗介が言った。手にはポケット時刻表の入った定期《ていき》入れ。
「あと三〇秒ほどで……駅から電車が出発する。それから当分……快速は来ない」
「あー、なんてこと……!」
駅が近付いてくる。見ると、すでにホームには上《のぼ》り方面の電車が停《と》まっていた。
「あの電車だ……乗り損《そこ》ねたら終わりだ」
発車まであとわずかだ。これから改札口《かいさつぐち》に向かって、定期を出して、階段を上り下《お》りしてホームに出て――そんな手順を踏んでいたら、絶対に間に合わない!
「強行突破《きょうこうとっぱ》よっ! 直接突っ込む!」
「了解《りょうかい》……」
二人は猛然《もうぜん》とスパートをかけた。バス・ターミナルを突っ切って、駅のフェンスまで突進《とっしん》する。フェンスの高さは二メートルちょっと。よじ登るには骨が折れそうだったが――
「いくわよっ!」
「来い」
宗介の肩を踏み台にして、かなめは高々とジャンプした。フェンスのてっぺんに飛びつくと、下の宗介に手をさしのべる。互《たが》いにがっちりと手を握《にぎ》り合うと、
「せーのっ……!」
渾身《こんしん》の力で引っ張り上げると、宗介の脚力《きゃくりょく》がそれを助けた。フェンスを乗り越えた宗介とかなめは、もつれあうように線路の上へと転落する。
「いたっ……!」
さいわい駅員には見付かっていない。ホームには発車のベルが鳴り響《ひび》いていた。上り電車が行ってしまう……!
「急いでっ!」
「わかってる……」
その後の二人の動きは神業《かみわざ》に近かった。
転がるように線路を突っ切り、ホームにひらりと跳び上がり、いましも発車しようとしている電車に向かって、弾丸《だんがん》のようにまっしぐらに――
「ま・に・あ・えぇ〜〜〜っ!!」
二人が乗車口に飛び込むのと、電車の扉《とびら》が閉まったのはほとんど同時だった。
彼らはそのまま床《ゆか》に倒れ込み、勢《いきお》いあまって反対側の扉に激突《げきとつ》した。
「はぁっ……はぁっ……」
「…………」
がたごとと電車が走り出した。
驚《おどろ》く乗客の見守る中、汗《あせ》だくになって肩で息をし、二人はゆっくりと身を起こす。
「間に合ったな……」
さすがに宗介も息が上がっていた。
「はぁっ……はぁっ……はははっ。いやー、もう、駄目《だめ》かと思ったわ」
立ち上がり、乱れた着衣を直して、閉じた扉によりかかる。
かなめは腕時計を見た。
いまの時刻《じこく》は一時一六分。五時間目まで一四分ある。この快速に乗っていけば、陣代《じんだい》高校の最寄《もよ》り駅・泉川《せんがわ》に着くのは六分後だ。
「おし余裕《よゆう》じゃない! 泉川駅から学校までなんて、歩いてもすぐだし」
明るい声で感嘆《かんたん》する。
「どうやら、なんとか切り抜けたようだな。かなりきわどかったが」
「ほんと。無茶《むちゃ》したよね」
「君の行動力には、ときどき驚かされる」
宗介にしては珍《めずら》しい言葉だった。
「なんにしろ、ちょうど快速があって良かった……。塞翁《さいおう》が馬ってやつ?」
「サイオウというのがなにかは知らんが、ともかく快速に感謝《かんしゃ》だ」
「ヘンなの」
かなめは明るく笑い、宗介も小刻《こきざ》みにうなずいた。
「でもあたしたち、けっこう息合ってたよね。最後とか」
「そうだな。なかなかのコンビだった」
二人は顔を見合わせた。
宗介は例によってのむっつり顔だった。しかしよくよく観察してみると、いつもはきびしく逆八の字になっている眉《まゆ》が、こころなしか弛《ゆる》んでいるようにも見える。
宗介もそれなりに喜んでいるのだ……同じ感情を共有していることに気付いて、かなめは妙《みょう》に嬉《うれ》しくなった。つい一〇分前まで、絞《し》め殺してやりたいほど彼に腹を立てていたことなど、すっかり忘れていた。
電車はみるみる加速していく。快速なら、泉川駅にはすぐ着《つ》くことだろう。
アナウンスが車内に響《ひび》く。
『え〜、本日は京王《けいおう》線をご利用いただきまして〜、まことにありがとうございます。この車輌《しゃりょう》は〜、特急[#「特急」に傍点]ぅ〜、新宿《しんじゅく》行きです。次の停車駅は明大前《めいだいまえ》〜。明大前に〜……』
二人が同時に凍《こお》りついた。
「特……急……?」
こわばった笑顔のまま、かなめは宗介を凝視《ぎょうし》する。彼は元通りの、険《けわ》しいむっつり顔に戻《もど》っていた。顔にはたっぷりと脂汗《あぶらあせ》。
「ソースケ。あんた……この電車、快速だって言ったわよね?」
「言ったな。……認めがたいことだが」
かなめは床《ゆか》を指さして、
「でもこれ、特急なのよね?」
「そのようだ」
「特急っていうのは、快速よりも速い電車のことで――しかも泉川駅には停《と》まらないってことは、知ってる?」
「知っている。……残念なことだが」
「説明してくれる?」
「どうやら、休日のダイヤを見ていたようだ。俺らしくもない。単純なミスだ」
「あはは……は」
かなめは宗介の胸倉《むなぐら》をつかむと、手近にあった列車の窓をがらりと開けた。
「一度死ななきゃ、あんたのバカは絶っ対に治《なお》らないわ……!」
「落ち着け、千鳥」
「死になさいっ! いますぐここで死になさいっ!! あたしをすこしでも哀《あわ》れに思うなら、お願いだから、いっぺん死んでっ!」
加速中の列車から、彼の身体《からだ》を放《ほう》り出そうとする。周囲の乗客が真っ青になって、彼女の凶行《きょうこう》を止めに入った。
二人を乗せた特急は、陣代高校の最寄り駅・泉川駅を順調[#「順調」に傍点]に通過し、七駅ほど先の明大前駅に停車した。
下《くだ》り方面の電車に乗り換えて、すこしたったところで――時計の針《はり》が一時三〇分を差した。
「終わったわ……なにもかも」
くたびれたハリセンとノートを握《にぎ》り締《し》め、かなめはつぶやいた。
「……申し訳《わけ》ない」
がっくりと肩を落とし、宗介は重たげに言った。目の下には隈《くま》ができ、全身から脱力感《だつりょくかん》が漂《ただよ》っている。
「きょうの俺は……どうかしていた。こうも致命的《ちめいてき》なミスを繰《く》り返したことなど、これまでの人生で一度も――」
言いかけて、それを弁解がましいと思ったらしく、
「いや……。とにかく、すまない」
その様子《ようす》があまりにも弱々しく、憔悴《しょうすい》しきって見えたので、かなめは不審《ふしん》に思った。
「ソースケ……ホントに具合《ぐあい》悪いんじゃないの? なんかヘンよ、やっぱり」
「そんなことはない。どこも体調は――」
かなめは有無《うむ》をいわさずに、手のひらを宗介のおでこにあてた。
「ちょっと。すごい熱じゃない……!」
軽く三九度を超《こ》えているだろう。普通だったら寝込んでいる体温だ。こんな状態で、あれほどはげしい運動をしていたとは……。
「ただの風邪《かぜ》だ。問題ない」
「なんで黙《だま》ってたのよ? こんな熱で走り回ったりして……あんた正気《しょうき》!?」
「この程度ならば、死にはしない」
「死ぬわよ、バカっ! なんだってまた、こんな無茶《むちゃ》を……」
そこまで言って、彼女は気付いた。宗介が無理をした理由――それは言うまでもなく、かなめが原因だった。かなめに対して負《お》い目がなければ、彼もここまで無理はしなかっただろう。
「ったく、もう……。これじゃ、あたしの方が悪者みたいじゃない」
「面目《めんぼく》ない」
「そうじゃなくて。具合が悪いって言ってくれれば、あんな怒《おこ》ったりしなかったのに」
宗介は意外そうに顔を上げ、
「そうなのか……?」
「そーよ。あたしだって、そこまで冷たくないわよ」
もちろんノートを忘れたのは腹が立つが、仕方がない。それに『貸してあげる』と言い出したのも、元はといえばかなめだったのだ。考えてみれば、宗介を一方的に責《せ》めるわけにもいかない。
彼女は深いため息をついた。
「もういいから。気にするの、やめよ」
「……許《ゆる》してくれるのか?」
「間に合わなかったものは仕方ないし。あんたの誠意《せいい》も――まあ、わかったし。いっしょに補習《ほしゅう》、受けてあげるわよ」
そう宣言《せんげん》すると、なぜか気分がすっきりとしてきた。ぽかんとしている宗介に、かなめは小さく微笑《ほほえ》んで、
「その代わり、学校に戻《もど》ったら保健室《ほけんしつ》で寝ること。いい?」
「わかった。寝る」
こくこくと宗介はうなずいた。
五時間目の授業でひっそりとした校舎《こうしゃ》に、二人は入っていった。ふらふらの宗介を支えるように保健室へ向かう。
「……にしても、あんたでも風邪《かぜ》とかひくのよねぇ。驚《おどろ》いたわ、ホント」
「俺もだ」
保健室の養護《ようご》教諭《きょうゆ》に事情を話すと、
「運が良かったわね。ベッドの空《あ》きはあと一つだったのよ」
笑って言った。きょうは病人で盛況《せいきょう》らしい。
養護教諭とかなめとで、ぐったりとした宗介をベッドに運ぶ。そのはずみで、ベッドを仕切っていたカーテンに、宗介の腕が引っかかってしまった。さっとカーテンがひるがえり、となりのベッドの病人が姿《すがた》を見せる。そこに寝ていた人物――四〇過ぎの教師――を見て、かなめは目を丸くした。
「ふ……藤咲先生!?」
「お、おー……。千鳥かぁ、どうした」
かすれた声で、『古典U』担当の藤咲教諭は言った。
「先生、これは?」
「風邪をひいて……。三時間目にばったり倒れてなぁ……いや、情《なさ》けない。四組の連中は、ちゃんと自習してるかぁ?」
「じ……自習?」
「そうだー……。伝言を忘れとったがぁ……宿題《しゅくだい》はぁ……千鳥、学級委員の……おまえが集めておくんだぞぉ……いいなぁ?」
「え、えぇ!?」
「放課後《ほうかご》までに……俺の机《つくえ》に置いといてくれ。頼《たの》んだぞぉー……」
なんと。助かった。かなめは唖然《あぜん》としながら、宗介と顔を見合わせた。彼はのろのろとベッドに潜《もぐ》り込み、
「やはり……先生も動けなかったか」
辛《つら》そうな声で言った。その言葉を聞いて、かなめは眉《まゆ》をひそめる。
「『やはり[#「やはり」に傍点]、先生も[#「先生も」に傍点]』……ですって?」
「昼休み……職員室に行った時……『藤咲先生が三時間目に熱で倒れた』とは聞いていたのだが……。風邪くらいで……任務を放棄《ほうき》するはずがないと……思ったのだ……。だが、やはり……これは……こたえる……」
「なぜそれを……どうしてそれを、最初に言わなかったのよ!? たった一言《ひとこと》、『先生が風邪で自習かも』と!」
かなめが病人の首をぐいぐいと絞めだしたのに驚《おどろ》き、養護《ようご》教諭があわててそれを引き離した。
「千鳥……それが命取りになることもある」
「なにがよぉ!?」
涙声《なみだごえ》でかなめは叫《さけ》んだ。
「……俺がミャンマーでの……極秘《ごくひ》作戦に従事《じゅうじ》していた時の……ことだ。敵の有能な指揮官《しきかん》が……負傷《ふしょう》で後送《こうそう》されたという噂《うわさ》が流れて……それを信じた味方が……」
うわごとのような宗介の説明を、かなめはほとんど聞いていなかった。
なぜなら――すべての努力が徒労《とろう》だったと知って、彼女は怒《いか》りと脱力感《だつりょくかん》のあまり、その場で気を失《うしな》ってしまったのだ。
養護教諭だけがその場に棒立《ぼうだ》ちし、空《あ》きのベッドがないことに困《こま》り果《は》てていた。
[#地付き]<空回りのランチタイム おわり>
[#改丁]
罰《ばち》当たりなリーサル・ウェポン
[#改ページ]
まるで飾《かざ》り気《け》のないリビングの床《ゆか》に、ずらりと銃器《じゅうき》類が並べられていた。
手のひらサイズの小型ピストルから、重さ五八キロの重機関銃《じゅうきかんじゅう》まで、その大きさはまちまちだ。ざっと数えてみただけで、五〇|挺《ちょう》以上はあるだろう。
このすべてが、相良《さがら》宗介《そうすけ》の所有する銃器の数々だった。
「…………」
いつも通りのむっつり顔にへの字口で、宗介はそれら銃器を分解|整備《せいび》する。彼もこれほど本格的に、自分の銃器類すべてを掃除《そうじ》することは滅多《めった》になかった。日頃《ひごろ》、まったく使わない銃がほとんどだからだ。戦友の形見《かたみ》だったり、買ってはみたが不満な性能だったり、破壊《はかい》力がありすぎて使う機会がなかったり――そういう代物《しろもの》ばかりである。
しかし、なんとしてでも、すべての銃をきちんと掃除しなければならない。
なぜならきょうは、大晦日《おおみそか》なのだ。
一年を終えるにあたって、生活の節目《ふしめ》として身の回りのもの[#「身の回りのもの」に傍点]を整理整頓《せいりせいとん》する。戦場育ちの宗介といえど、これくらいの常識《じょうしき》は一応あるのだった。
そうして居並《いなら》ぶ銃と格闘《かくとう》していると、そばの携帯《けいたい》電話が呼び出し音を奏《かな》でた。宗介はすぐさま応答する。
「はい」
『もしもし相良くん? 常盤《ときわ》ですけどー』
相手は宗介が通《かよ》う陣代《じんだい》高校のクラスメートの常盤|恭子《きょうこ》だった。
「常盤か。どうした」
『あのねぇ、いまいい? いい? ヒマ?』
「暇《ひま》ではないが、話なら聞くぞ」
肩と頬《ほほ》で携帯電話をはさみ、空《あ》いた両手で作業を続けながら、宗介は答えた。
『うんふん、だいじょふだよね! 良かった。ちょっとぉ、頼《たの》みたいことがあって。相良ふんじゃないと、ひょっと無理っぽいの。でね、どーいうことかって言うとね、女の子しかいなふてぇ、困ってるの。助けて〜〜。……そう、あたしは助けて欲しいのだぁ』
「………………?」
恭子の様子《ようす》がどうもおかしい。彼はリボルバー拳銃《けんじゅう》――世界一の威力《いりょく》を誇《ほこ》る454カスール――を磨《みが》く手をばたりと止めた。
「なにかあったのか、常盤」
『ないよー。あるかな。ははは。それでねそれでね、あと一人男の子がいればぁ、なんとかなると思うんだなぁ。だからね、電話ひたの。そ。つまり、そーいうことなの!』
「……事情がよくわからんのだが」
『うん! だからね、助けに来てひょーだい! だいじょぶだよぉ、すぐに済《す》むから。お菓子《かし》いっぱいあげるから。お願いよぉ、ソースケぇ。来てぇ。うっふん。あはは』
「と……常盤?」
彼が当惑《とうわく》していると、いきなり彼女は涙声《なみだごえ》になって、
『あのね……あのね……ぐすっ。ごめんね。でも相良くんしか頼《たよ》れないの。だから助けに来て。じゃあね。お願いね』
「おい、常盤――」
『アラハバ神社《じんじゃ》にいるから。アラハバさんだよ。頼んだからね。来てね……相良くん』
ぷつん。つー、つー、つー……。
(神社だと……?)
頭のおかしくなったクラスメートが、どこぞの神社から助けを求めている。詳《くわ》しい事情はわからないが、『相良くんにしか頼れない』というのだ。
あらゆる武器を使いこなし、数々の戦場を潜《くぐ》り抜けてきた自分でなければ解決できない問題とは……いったい?
(これはただ事ではない)
宗介の脳裏《のうり》に、邪教《じゃきょう》の神殿《しんでん》に囚《とら》われた恭子の姿《すがた》が思い浮かんだ。薬物《やくぶつ》で恐怖心《きょうふしん》を奪《うば》われた彼女は、数百人の狂った信徒《しんと》たちに囲《かこ》まれ、残忍《ざんにん》な儀式《ぎしき》のいけにえに――
「いかん……」
彼は机《つくえ》の引き出しから、市内の地図を引っ張り出した。銃器の整理は後回しだ。まずは恭子を邪教徒から救い出さなければ……。
「♪わーお。あぃふぃーるぐっ、ばらららららら……♪」
のんきに歌を口ずさみながら、千鳥《ちどり》かなめは竹ぼうきで、石畳《いしだたみ》の上を掃《は》き清《きよ》めていた。
市街地《しがいち》からさほど離れてもいない、雑木林《ぞうきばやし》に覆《おお》われた丘陵地《きゅうりょうち》。大きなケヤキの木々に囲まれた、小さな神社の境内《けいだい》である。
空は青く、澄《す》んだ空気が心地《ここち》よい。
かなめは巫女《みこ》さん姿だった。白の小袖《こそで》に赤の袴《はかま》。腰まで届《とど》く黒髪《くろかみ》を、今日はポニーテールに結《ゆ》わいている。
この神社の名は『荒羽場《あらはば》神社』といった。彼女はここで、なにかと忙《いそが》しい年末年始《ねんまつねんし》、掃除《そうじ》や神事《しんじ》を手伝うバイトをしているのだ。
「……よし、おしまい」
落ち葉やゴミを集めて捨《す》てて、かなめは社務所《しゃむしょ》へと戻《もど》っていった。
裏手から中に入ると、畳敷《たたみじ》きの部屋《へや》の中で、こたつに入った常盤恭子が眠りこけていた。いつもと同じとんぼメガネにおさげ髪だったが、やはり服装は巫女さん姿だ。
「キョーコ。まだダメなの?」
「うー。もう飲めないよぉ……」
ろれつの回らない声で、恭子が答えた。
「……ったく。普通、お神酒《みき》一杯でここまで酔《よ》う? もしかして体《てい》よくあたしに仕事押し付けてない?」
「そんなことないよお……。すまないと思ってるもん……。思ってるからぁ……」
恭子はのろのろとした手つきで、こたつの上の携帯電話をつついた。
「応援《おうえん》を呼んだよー……」
「応援?」
「そう。応援〜〜。来てって頼んだのぉ……。たぶん……もうすぐ来るよー……」
「なに言ってんの? だれかに電話したの?」
「うん」
「だれに?」
「うふふ。カナちゃんがねぇ……大好きな人」
「はあ? あんた、なにを――」
ばあんっ!!
なんの前触《まえぶ》れもなく、かなめの背後《はいご》の壁《かべ》が吹き飛んだ。木片《もくへん》が飛び散り、煙《けむり》が広がる。
「きゃっ……!」
かなめは前のめりに倒れ、恭子とこたつを巻き込んでひっくり返った。間髪《かんぱつ》を容《い》れず、壁にうがたれた大穴から、黒い人影が飛び込んでくる。
「伏《ふ》せていろ!」
散弾銃《さんだんじゅう》を構《かま》えた人影が、鋭《するど》く叫《さけ》んだ。
その声を聞くやいなや、かなめは逆に床《ゆか》から跳《は》ね起きて――男めがけて、猛烈《もうれつ》な勢《いきお》いで突進《とっしん》した。
「聞こえなかったのか、伏せていろと――」
がすっ!
巫女さんパンチがヒットした。侵入者《しんにゅうしゃ》は空中できりもみしてから、床に激突《げきとつ》する。
「こーなるだろうと思ってたから、ここでのバイトはあんたには黙《だま》ってたのよ……」
「千鳥……?」
黒い戦闘服《せんとうふく》に身を固めた相良宗介が、重たげに身を起こした。その前にかなめは仁王立《におうだ》ちして、両の拳《こぶし》を震《ふる》わせつつ、
「年の瀬《せ》くらい穏《おだ》やかに過ごせないの、あんたは!? どうしてこーいう真似《まね》をするのよ!」
「しかし。屋内《おくない》に突入《とつにゅう》する場合、入り口からのエントリーは避け、指向性爆薬《しこうせいばくやく》で壁に突入口を開けるのは常識《じょうしき》だ」
巫女さんキックが炸裂《さくれつ》。宗介は畳《たたみ》に叩《たた》き付けられた。
「全然説明になってない!」
「だが。特にこの場合、邪教徒《じゃきょうと》が常盤を餌《えさ》にして、俺《おれ》をおびき寄せている可能性も捨《す》て切れなかったので――」
「こ、この……」
巫女さんタイフーンがうなった。敵を高速回転させて放《ほう》り投げる、人外《じんがい》の荒技《あらわざ》である。宗介は窓を突き破り、社務所の外へと吹き飛んでいった。
[#挿絵(img2/s02_093.jpg)入る]
荒羽場神社の神主《かんぬし》・檜川《ひかわ》義勝《よしかつ》の前で、かなめは深々と頭を下げた。
「……ほんとーに、もう、すみません。ほら、あんたも謝《あやま》るのよっ」
となりでふんぞり返っている宗介の首根っこをつかみ、むりやりお辞儀《じぎ》させる。
「申し訳《わけ》ない」
「敬語で!」
「申し訳ないです」
いまいち誠意《せいい》が足《た》りない。しかし神主の檜川氏は、それを豪快《ごうかい》に笑ってのけた。
「いやいや、友達の身を案じて、ということなら赦《ゆる》しましょう」
檜川は初老の小柄《こがら》な男性だった。つるりとした禿頭《とくとう》。がっしりした短い手足に、太鼓腹《たいこばら》。袴姿《はかますがた》のよく似合《にあ》う、典型的《てんけいてき》な日本人体型だ。
檜川の寛大《かんだい》な態度に、かなめは驚《おどろ》いた。
「え……本当ですか?」
「いかにも。たいした怪我《けが》もないようだしね」
「あ、ありがとうございます!」
「……ただし、できれば彼には神社の仕事を手伝ってもらいたいな。常盤さんはあの状態だし、人手《ひとで》が欲しいのは確かなのでねぇ」
「は……。ソースケが、手伝いを?」
「そうだが。いかんかな?」
かなめは内心でうろたえた。経験《けいけん》からいって、こういう場合はさっさと宗介を追い払った方がいいに決まっているのだ。
「いえ、もちろんそうするのが筋《すじ》でしょうが……あんまりお勧《すす》めできません。あたしが頑張《がんば》って二人分働きますから、このバカは帰らせたほうが得策《とくさく》かと――」
「いえ、手伝います」
宗介がはっきりと答え、かなめの控《ひか》えめな努力を台無《だいな》しにした。
「おお。そうかね、それは助かったよ! では、あなたは千鳥さんの指示《しじ》に従《したが》っていただきたい。それでいいかね、千鳥さん?」
「で、ですが……」
「では、頼《たの》んだよ。相良くんといったね。千鳥さんにも言ってあるが、本殿《ほんでん》には決して立ち入らないでくれ。おっと……?」
「あ……」
社務所のほうで電話のベルが鳴り出したのに気付き、檜川は小走りでその場を離れた。
仕方《しかた》なく、かなめは宗介を巫女《みこ》さん助手として使うことにした。恭子はといえば、紅白《こうはく》の幕で穴を塞《ふさ》いだ社務所の中で、いまだにすやすやと寝入っている。
どこの神社でも行《おこな》われる大祓《おおはらえ》の儀式《ぎしき》は午前に済《す》んでいるので、いまは除夜祭《じょやさい》の準備中だった。……とはいえ大きな神社でもないので、それほど大げさな仕事はない。古い破魔矢《はまや》を焼いたり、新しく仕入れたおみくじを整理したり、参拝者《さんぱいしゃ》にふるまう菓子《かし》やお神酒《みき》を用意したり――そんな具合《ぐあい》だ。
社殿《しゃでん》の清掃《せいそう》など、本来《ほんらい》ならばきのうまでに済ませておくような仕事も残っている。いい加減《かげん》なようだが、地元の小神社なんてそんなものなのである。
かなめと宗介は、冷たい水の入ったバケツを持って本殿の方へと歩いていく。ふと彼女は、うろんげな顔で宗介を眺《なが》めた。
「どういうつもりよ」
「なにがだ」
「たいして悪いとも思ってないクセに、『手伝います』だなんて。あんた、なにを企《たくら》んでるわけ?」
「企んでなどいない。ただ、この神社はなにかが匂《にお》う。君たちを放《ほう》っておくのは危険だと思ったのだ」
「さっきも説明したでしょう? キョーコは単に酔《よ》っ払《ぱら》ってただけで、困ってることなんて何にもないって」
「それは理解した。問題は別のことだ。ここはただの神殿《しんでん》にしては警戒《けいかい》が厳重《げんじゅう》すぎる」
「はあ?」
「ここに来る時、俺は正面《しょうめん》の石段を避《さ》けて裏の林から侵入《しんにゅう》したのだが……そこは罠《わな》だらけだった。並《なみ》の人間ではとうてい侵入できないようになっていたのだ」
「罠って、あんたねぇ……」
かなめはあきれ顔で周囲を見回した。静かな境内《けいだい》のたたずまいは、平和そのものだ。宗介の言うようなものものしさは――当たり前だが――まったく感じられない。
「うそ。そんなの気のせいよ」
「嘘《うそ》などつかん。警戒が厳《きび》しかったからこそ、俺は常盤が囚《とら》われていると疑ったのだ。この神殿は異常だ」
宗介の物言いに、かなめは眉《まゆ》をひそめた。バイトとはいえ、巫女さんたる自分の立場を意識しながら、やんわりと諭《さと》す。
「ソースケ。ここはね、『神殿』じゃなくて『神社《じんじゃ》』です」
「似たようなものだろう」
「ちがうわよ。それから神社の中ではね、あんまりヒドいことを口にしちゃいけないの。神様の来るところで『ここは異常だ』なんて。バチが当たるわよ?」
「神罰《しんばつ》が下《くだ》る、ということか」
「そーよ。特にこの神社は、スサノオっていう戦いの神様も祀《まつ》ってあるんだから。ツキが落ちても知らないわよ」
「その程度で落ちるツキなら、元から頼《たよ》りにならん」
「……もう。ああ言えばこう言うんだから。とにかく、お願いだから大人《おとな》しくしててよ。また騒動《そうどう》起こしたら、あたしもクビになっちゃうもん」
「しかし、本当にトラップが――」
「しつこいわね! ここの神主《かんぬし》さんは、それはそれは立派《りっぱ》な方よ。あんたと違って、そこかしこにトラップを仕掛けまくるような異常者じゃないの!」
そのとき。
なんの前触《まえぶ》れもなく、林の中から男の悲鳴《ひめい》が聞こえてきた。
「ひ……ひゃあぁあぁっ!!」
ざざっ、と落ち葉の舞《ま》う音。革《かわ》ジャン姿《すがた》の若い男が木々の間、およそ三メートルくらいの高さに跳《は》ね上がるのが見えた。足首に巻き付いた荒縄《あらなわ》が、樹上《じゅじょう》から彼を吊《つ》り上げたのだ。
林に仕掛けられた巧妙《こうみょう》なトラップだった。
「見ろ。ああいう具合《ぐあい》だ」
やたらと冷静に宗介が言った。男は悲鳴をあげながら、狂った振り子のように、空中を上下左右に揺れ動く。
かなめはあっけにとられながらも、
「あ、あんたが仕掛けたんでしょ!?」
「いや、俺ではない。ずっと以前から設置《せっち》されていたものだ」
「そんな。そもそもあの人、だれよ?」
「知らん」
「私のせがれだよ」
いつのまにか神主の檜川《ひかわ》がふらりとやってきて言った。
「ここの神職《しんしょく》を継《つ》がせようと思って、国學院《こくがくいん》の神道学科《しんとうがっか》にまで通《かよ》わせたのだがねぇ……。悪い仲間と付き合って、放蕩三昧《ほうとうざんまい》だよ。家を飛び出し、けっきょく大学も中退して、時たま金目《かねめ》のものを盗《ぬす》みにやってくる」
「はあ……」
「どれだけ叱《しか》っても聞こうとしない。ほとほと困《こま》り果《は》てていてねぇ……」
「それでトラップですか」
おもいきり失望した声でかなめが言った。
「そうだが。おかしいかね?」
「いえ……。まあ、いいんじゃないですか」
投げやりに答える。
「ちくしょう、このクソ親父《おやじ》!」
そんな彼らを見下ろして、檜川氏の放蕩|息子《むすこ》は泣き叫《さけ》んだ。
「さっさと降ろせ! エラそうに腕組んで見てんじゃねぇ! 聞こえてんのか、こら!?」
息子の罵声《ばせい》を、檜川は涼《すず》しげに受け流した。
「これ勝彦《かつひこ》。いい加減《かげん》に懲《こ》りんのか? お前が何度来ようと、このお社《やしろ》の御神宝《ごしんぽう》は決して盗むことはできんぞ。そんなことをしようとすれば、必ずや神罰《しんばつ》が下《くだ》る。さよう、ちょうどいまのようにな」
「おめーが仕掛けたワナだろうがっ!」
「黙《だま》るがいい。大晦日《おおみそか》でもあるし良い機会だ。おのが不徳《ふとく》を見つめなおし、そこで新年を迎《むか》えなさい」
「なんだと?」
「元日《がんじつ》の朝、お前の心が清《きよ》らかになっていたら降ろしてあげよう」
「お、おい……!」
檜川はくるりと背を向けると、宙吊《ちゅうづ》りの息子を置き去りにして、その場を立ち去ろうとした。
「ちょっと、檜川さん。息子さんをあのままにしておくんですか?」
「そうだよ。なにを言われても相手にしないでいただきたい」
「でも、夜になったら凍《こご》えちゃいますよ」
「せがれには良い薬《くすり》だよ。もっともこの程度で治《なお》る病《やまい》なら、とうの昔《むかし》に治っているだろうがねぇ……」
初老の神主《かんぬし》はしんみりとした声で言った。
「とにかく、あなたたちは気にせずに仕事をなさい。それから何度も言うようだが、本殿《ほんでん》には決して立ち入らないように。みだりに足を踏み入れると、あなたのような優《やさ》しい娘《むすめ》さんにも災《わざわ》いが降《ふ》りかかるよ」
最後のあたりは妙《みょう》に重々しい口ぶりである。なぜそこまで本殿にこだわるのか、かなめにはわからなかった。よほど大切《たいせつ》な宝物《たからもの》がしまってあるのだろうか?
彼女は小さな好奇心《こうきしん》を覚《おぼ》えたが、檜川の態度に気圧《けお》されて、けっきょく、
「はあ。わかりました」
とだけ答えた。
ぶら下がったままの放蕩《ほうとう》息子――檜川勝彦を放《ほう》ったまま、かなめたちはそれぞれの仕事に精《せい》を出すことにした。
「しかし――」
宗介がぽつりと言った。
「しかし、なによ?」
「檜川氏は『本殿には決して入るな』と言っていたが……その本殿というのはどれだ?」
「あんたの目の前にあるわよ。これ」
かなめはすぐそばの切妻《きりづま》屋根・白木造《しらきづくり》の簡素《かんそ》な建物《たてもの》を親指でさした。ちょっと大きめの民家くらいの大きさである。
宗介は意味ありげにうなずいた。
「なるほど。つまり、この中に神社《じんじゃ》の宝物が隠《かく》されているのだな」
「そうだけど……どうかしたの?」
「見たところ、この本殿にも多数の防犯装置《ぼうはんそうち》が仕掛けてある。林の中よりも、さらに高度なものだ。電子制御《でんしせいぎょ》されたセンサーと、それに連動する複数のトラップ。最新とまではいかないが、プロでも手を焼く代物《しろもの》だな」
「ここに? そんなものが?」
かなめは疑わしげな眼《め》で本殿を眺《なが》めた。どう見ても普通の建物だったが、宗介にはそうでないことがわかるらしい。
「もし本当だとしたら、あんたって一種の超能力者《ちょうのうりょくしゃ》よね……」
「単なる観察《かんさつ》力だ。それよりも、ここまでして守る宝とはいったい何なのか? それが非常に気になるところだ。金目《かねめ》のものというだけでは説明がつかん。もっと危険な物品《ぶっぴん》ではないだろうか」
宗介の指摘《してき》を聞いて、彼女は腕組みした。
「むー……。そりゃあ、あたしも気になるけど。でも、そんな大したモノじゃないんじゃないの? 古い鏡《かがみ》とか剣とかよ、きっと」
「剣。武器か。ありうるな」
「武器って、あんた……」
「俺が戦ったカンボジアでは、ゲリラが武器|弾薬《だんやく》を神殿《しんでん》に隠していることがよくあった。ここにも強力な武器があると考えれば――警戒《けいかい》が厳《きび》しいのも納得《なっとく》できる」
「するなってば」
「小型で高性能な大量|破壊《はかい》兵器……きっと化学兵器だ。有事《ゆうじ》の際の切り札《ふだ》として、VXガスのタンクでも保管してあるのだろう」
「毒《どく》ガスをうやうやしく祀《まつ》ってる神社が、この日本のどこにあるのよ……?」
かなめのつぶやきなど気にもせず、宗介は大真面目《おおまじめ》に、
「やはり中を探《さぐ》ってみるべきだ。もし俺の推測《すいそく》通りだったら、強引《ごういん》にでも持ち出して、<ミスリル> のメリダ島|基地《きち》に送って処分《しょぶん》してもらおう」
「あのー」
「それがいい。宗教者《しゅうきょうしゃ》が化学兵器を保有するなど、危険この上ないからな」
「その発言こそ危険なのでは……?」
額《ひたい》に脂汗《あぶらあせ》を浮かべるかなめをそっちのけに、宗介は注意深い眼で本殿の観察をはじめた。
どうやら本気で侵入《しんにゅう》する気らしい。
「ちょ……待ちなさいよ!」
かなめは我《われ》に返って宗介を引き止めた。
「なんだ、千鳥」
「あれだけ『入るな』って言われたんだから、入っちゃだめ! それに、いくらなんでも毒ガスなんてあるわけないでしょ!?」
「しかし――」
「あたしはダメって言ったのよ」
かなめににらみつけられて、宗介は不承不承《ふしょうぶしょう》うなずいた。
「……そこまで言うなら、仕方《しかた》がない」
「けっこう。じゃあ、馬鹿《ばか》なこと考えるのはやめて、仕事しよ。いいわね?」
かなめが立ち去ると、宗介は言われた通りに境内《けいだい》の清掃《せいそう》にとりかかった。
まずは本殿の近くの石碑《せきひ》を、ごしごしと雑巾《ぞうきん》でこすっていく。石碑をすっかりきれいにしたところで――
「なあ、あんた」
いまだに逆《さか》さ吊《づ》りの檜川《ひかわ》勝彦が、林の中から宗介に声をかけた。
「ここから降ろしてくれないかな。足が痛くて……ちぎれそうなんだよ。頼《たの》むよ」
それを無視して、宗介は掃除《そうじ》に専念する。
「おい、無視するなよ」
「…………」
「雇《やと》われてるからって、親父《おやじ》に義理《ぎり》立てしてるのか? だったら馬鹿げてるぜ。あのタコ親父ときたら、ひどいドケチなんだ。バイトの時給《じきゅう》なんてその辺のスーパーより低いんだぜ? もっとあんたにも払えるのに、ケチってるんだよ。なあ、聞いてるのか?」
聞いてはいたが、宗介は答えなかった。自分は雇われているわけではない、ということも説明しない。
「家も車もボロでよ、テレビなんか二〇年前の中古品なんだぜ? バカなジジイだ。本殿のお宝《たから》を売れば、もう少しマシな生活ができるってのに。だからさ、あんなケチの命令なんてシカトして――」
そこで宗介はくるりと振り返って、林の中の勝彦を見上げた。
「お、わかってくれた?」
「いや。いま、『本殿のお宝』と言ったな。中になにがあるのか知っているのか?」
勝彦の期待《きたい》した顔が一瞬《いっしゅん》、曇《くも》った。しかし彼はすぐに思い直して、
「あ……ああ、知ってるぜ!」
「なんだ、その宝というのは」
「それは……。話してもいいけどよ、まずここから降ろしてもらわないとなあ。へっへ」
宗介は右手を一閃《いっせん》させた。
ナイフが空気を切り裂《さ》いて飛ぶ。勝彦を吊り下げた縄《なわ》が断《た》ち切られ、彼の身体《からだ》はまっ逆《さか》さまに落下した。
「ひ……あああ……ぎゃんっ!」
ひどく背中を打ちつけて、地面に大の字になった勝彦に、宗介はのしのしと近付いていった。痛そうに腰《こし》をさすりながら、勝彦は身を起こす。
「す……すごい特技《とくぎ》だな」
「降ろしたぞ。言え」
「お宝のことか。とにかく、えらい高価なモンらしい。いくらになるか……オレもよく知らないんだけどさ、親父《おやじ》は『売らん』って」
「ウラン。ウランだと……!?」
宗介の顔がこわばった。
「ああ。売らんってさ。あんたもおかしいと思うだろう?」
「形は。中身を見たことはあるのか」
宗介にがっしと肩をつかまれて、勝彦はやや当惑《とうわく》しながら、
「昔《むかし》、ちらっと見ただけだからなぁ……。こう、ポットとか樽《たる》みたいな形で……丈夫《じょうぶ》な袋《ふくろ》に包《つつ》んであったよ。大きさは……これくらいだったかな」
両手でサッカーボール二つ分くらいの大きさを示してみせる。それを見て、宗介は戦慄《せんりつ》に身を凍《こお》らせた。
「……|SADM《セイダム》だ」
「なんだ、そりゃ?」
「破壊用《はかいよう》特殊原子地雷《とくしゅげんしじらい》の略《りゃく》だ。遠隔起爆《えんかくきばく》も可能な超小型の核爆弾《かくばくだん》で、重さはわずか二〇キロ程度しかない。だがその威力《いりょく》は四・五キロトン――広島型|原爆《げんばく》の約半分の爆発エネルギーに相当する」
ナレーション口調《くちょう》で、宗介は独白《どくはく》した。
「はあ? なんのことだよ?」
「かつて八〇年代、米軍が東ドイツ領内にSADMを極秘裏《ごくひり》に埋設《まいせつ》しようとして、その作戦中に事故で数|基《き》を紛失《ふんしつ》した噂《うわさ》を聞いたことがある。それが紆余曲折《うよきょくせつ》を経《へ》て、あの神主《かんぬし》の元に転《ころ》がり込んだとすれば……これは……」
「おーい。大丈夫《だいじょうぶ》かー?」
勝彦が宗介の目の前で片手をひらひらさせた。宗介はそれを気にもせず、厳《きび》しい目付きで神社の本殿を凝視《ぎょうし》した。
「あの本殿の中の構造が分かるか?」
「そりゃあ、少しは。でも親父が物騒《ぶっそう》な防犯|装置《そうち》を仕掛けまくったからなぁ。危《あぶ》なくって近づけないよ」
「俺なら突破《とっぱ》できる。案内してくれ」
言われて、勝彦はぱっと明るい顔をした。
「おおっ。あんたが来るなら百人力《ひゃくにんりき》だ。お宝《たから》を売ったら七・三の分け前でどうだい?」
宗介は『売るなど論外だ』と言いかけて、思いとどまった。ここは適当に同意しておいて、問題の核地雷を確認してから、後で説得《せっとく》した方がいい。
「いいだろう。待っていろ」
宗介は一度その場を離れると、社務所《しゃむしょ》から各種|装備《そうび》の詰まったバックパックを持ってきた。中から衛星《えいせい》データリンク機能のついた多目的ゴーグルを取り出し、作動《さどう》させる。
「行くぞ」
「お、おう」
二人は気を引き締め、本殿の瑞垣《みずがき》を乗り越《こ》えた。
「檜川《ひかわ》さん。お夕飯《ゆうはん》、いつごろにしますか?」
社務所の一室、本棚《ほんだな》で囲《かこ》まれた部屋《へや》に入ってかなめが言った。神主の檜川は、お札《ふだ》に参拝者《さんぱいしゃ》の名前を書き込んでいるところだった。
「おお。そうだね、すこし早めにしておこうか。簡単《かんたん》なものでいいよ」
「わかりました。あと、息子《むすこ》さんの分はどうします?」
「要《い》らんよ」
「でも……」
ためらうかなめを見て、檜川はほほ笑んだ。
「お気遣《きづか》いはありがたい。だがけっこう。用意する箸《はし》は四人分でいいからね」
「そうですか……」
かなめは少しかしこまって、机上《きじょう》の写真立てを見た。白黒の写真の中で、四〇過ぎくらいの上品そうな婦人がほほ笑んでいた。
「奥さんですか?」
「うん。もう一五年になるかな。癌《がん》を患《わずら》ってねえ」
さして感慨《かんがい》もないような声で檜川は言った。
「爾来《じらい》、この神社《じんじゃ》で親一人、子一人で暮らしてきたのだが……たしかに私は、母親の役を果たしていなかった。叱《しか》ることしか知らなくてね」
「はあ……」
「その報《むく》いが今のせがれだ。本殿の御神宝《ごしんぽう》を付け狙《ねら》うなど――なにを考えているのやら」
筆《ふで》を置き、ふうっとため息をつく。
「そのことなんですけど。あの本殿、本当に罠《わな》とか仕掛けてあるんですか?」
「千鳥さん。あそこに入ってはいけないと言ったはずだが」
檜川は両目をぎょろりと動かして、かなめを凝視《ぎょうし》した。その迫力《はくりょく》に、思わず彼女は息を呑《の》む。
「は、入りませんよ。ただソー……相良くんが、そーいうことを言ってたもので。本当なら気を付けなきゃなぁ、と……」
「防犯装置があるのは本当だが、勝手《かって》に入らなければ良いことだ。本殿には絶対に近付いてはいけない。いいかね?」
断固《だんこ》とした口調《くちょう》で言われて、かなめはこくこくとうなずいた。
「も……もちろんですよ。じゃあ、あたし、お夕飯の仕度《したく》しますから。失礼します」
そそくさと部屋を出ていく。背中に刺《さ》すような視線を感じたが、彼女はあえて気付かないふりをした。
(うー……やっぱり変よね)
かなめは思った。
(いつもは温厚《おんこう》な檜川さんが、本殿のことになるといきなり人が変わったみたいになるんだから。もし黙《だま》って本殿に入ったりしたら、クビだけじゃ済《す》まないかも)
そう考えると、急に宗介のことが思い浮かんで不安になった。雑用《ざつよう》に追われていて、かれこれ一時間以上ほったらかしにしている。
そろそろ様子《ようす》を見ておいた方がいいだろうと思い、かなめは社務所《しゃむしょ》を出ていった。
実際、本殿の中は防犯装置の巣《そう》くつだった。
専門の業者にでも依頼《いらい》したのだろう。肉眼《にくがん》では見えない赤外線《せきがいせん》レーザーの網《あみ》と、感圧式《かんあつしき》センサーだらけの床《ゆか》。震動《しんどう》感知器や高感度マイクもひそかに設置《せっち》してある。
侵入者《しんにゅうしゃ》を撃退する電気銃《テイザー》やワイヤー・ネットの発射装置、催涙《さいるい》ガスの噴霧器《ふんむき》などもあった。
これらの警備《けいび》システムだけでも、相当の予算がかかっているはずだった。
(やはり、普通ではない……)
宗介は苦労して、それらのセンサーを一つ一つだまし、無力化し、迂回《うかい》できるものは迂回していった。後から続く勝彦のために、足を踏《ふ》み下ろしていい位置に、マジックで印を付けておく。
「印の場所以外は、絶対に踏むなよ」
「あ、ああ。わかった」
警報機の配線をいじったりしたので、いまや本殿の床や壁《かべ》は小さな穴だらけだった。
彼も神主《かんぬし》に直接『あれは核地雷《かくじらい》だな?』と詰問《きつもん》することは考えたが、それはむしろ危険だと判断した。もし相手が追いつめられたと思い込み、隠《かく》し持っていた核地雷の遠隔《えんかく》スイッチを押したら――
(一巻の終わりだ)
自分はもちろん、かなめも恭子も一瞬《いっしゅん》で原子《げんし》にまで分解されてしまう。神社《じんじゃ》は消し飛び、小山の代わりにちょっとしたクレーターが生まれることだろう。それを避《さ》けるには、ひそかに核地雷の起爆《きばく》装置を無力化しなければならない。
おっかなびっくり足を運ぶ勝彦を従《したが》え、宗介は本殿の奥の部屋までやってきた。
そっけない板の間《ま》の中央に、簡素《かんそ》な箱《はこ》が二つあった。子供の背丈《せたけ》ほどの大きな箱と、そのとなりにやや小さい箱が一つ。
「すげえな……ここまで来られたのなんて、初めてだよ!」
「静かに。それから息をはく時は入り口の方を向け」
「どうしてだよ?」
「箱の後ろにもセンサーがある。人体から放射《ほうしゃ》される、わずかな二酸化炭素を検出する装置だ」
「……あのオヤジ。偏執狂《へんしゅうきょう》か?」
あきれる勝彦の袖口《そでぐち》を、宗介はくいくいと引っ張った。
「問題の宝《たから》はどっちだ?」
「大きい方の中身はつまらない石ころだよ。小さい方だったと思うけど……」
「では、そちらから開けよう」
宗介が膝《ひざ》の高さに張られたレーザーをまたいだ。勝彦も後に続き、そろりとレーザーをまたごうとする。そのとき――
「ソースケ! なにやってんのよっ!?」
彼らの背後《はいご》から、いきなりかなめがどやしつけてきた。戸口の向こう、本殿の外に立って、宗介たちをにらみつけている。
「千鳥……!」
「わわっ……」
驚《おどろ》いた勝彦がバランスを崩《くず》し、右足でレーザー光を遮《さえぎ》ってしまった。
「しまっ……」
次の瞬間、天井《てんじょう》から『じゃきんっ!』と黒い電気銃《テイザー》が突き出した。
ばしんっ!!
先端の電極《でんきょく》がスパークする。宗介たちめがけて、まばゆい電光が発射された。
「ぎゃんっ!!」
髪《かみ》を逆立《さかだ》たせて、勝彦は昏倒《こんとう》した。宗介は反射的に飛びすさり、電光を避《よ》けた。
……が、その動作が別のセンサーに引っかかってしまった。
どすんっ!!
壁《かべ》に開いた隙間《すきま》から、ワイヤー・ネットが撃ち出された。今度は避けることもできず、ネットに殴《なぐ》り付けられて、彼は反対側の壁にはりつけになった。
「くっ……!」
たちまち警報のサイレンが鳴り響《ひび》く。
「あ、あれほど入るなって言ったのに、どういうつもりよ!? これであたし、クビ確定だわ! どうしてくれるのっ!?」
危険なトラップに驚いたのもつかの間、かなめは泣き叫《さけ》んだ。宗介はその場に釘付《くぎづ》けになって、
「事情が事情だったのだ」
「事情ですって!? どんな事情が――」
(何事だっ!?)
外から神主《かんぬし》の檜川《ひかわ》の声がした。砂利《じゃり》を踏《ふ》みしめる足音が、本殿《ほんでん》へと近付いてくる。
「いかん……」
侵入《しんにゅう》が知れた以上、檜川は今にも逆上《ぎゃくじょう》して、核地雷《かくじらい》の遠隔《えんかく》スイッチを押すかもしれない。その前に、なんとしてでも核地雷を無力化しなければ……!
(こうなったら……)
宗介は決断した。不自由な姿勢《しせい》のまま、胸《むね》の手榴弾《しゅりゅうだん》を手にとって、口でピンを抜く。
「千鳥、核地雷を破壊《はかい》する! 君は常盤《ときわ》を連れて、可能な限り遠くへ逃げろっ!!」
「はあ?」
「外側の容器を破壊すれば、核爆発は起きない。しかし、この境内《けいだい》は核物質の放射能で汚染《おせん》される。逃げるんだ!」
「あのー。話がよく見えないんだけど……」
「お別れだ、千鳥。君に会えて良かった」
「あー。それはどうも。……って、なにそれ?」
その時、戸口に檜川が現《あらわ》れた。その顔は真っ青でこわばり、明らかになにかを恐れているようだった。もはや猶予《ゆうよ》はない。
「さあ、逃げろっ!!」
叫《さけ》ぶと、宗介は部屋《へや》の対面《たいめん》の木箱《きばこ》めがけて、手榴弾を放《ほう》り投げた。
「ちょっ……! あんたなにを――」
かなめが血相《けっそう》を変え、檜川が息を呑《の》み――
ばあんっ!
手榴弾が爆発し、木箱が真っ二つに引き裂《さ》かれた。
『核地雷』は破壊された。
すぐに襲《おそ》ってくるだろう放射能を覚悟《かくご》し、宗介は眼《め》を閉じた。死と破壊に彩《いろど》られた一生だったが、最後に核爆発を阻止《そし》できて良かった、と彼は思った。
しばらく眼を閉じたまま、宗介が静かに死を待っていると――
「こら!」
壁に張り付いたままの彼の頭を、かなめがごつんと叩《たた》いた。防犯|装置《そうち》はすでに解除《かいじょ》されたらしく、檜川氏も板の間に入り込み、息子《むすこ》を助け起こしている。
「なぜ逃げない。ここにいたら核地雷の放射能が――」
もう一度、彼女は宗介の頭を小突《こづ》いた。
「核地雷? 放射能? そんなものがどこにあるってのよ? 大切《たいせつ》な御神宝《ごしんぽう》を吹き飛ばして……わけわかんないこと言ってるんじゃないわよ!」
かなめが壊《こわ》れた木箱をびしりと指差した。核地雷の残骸《ざんがい》など影も形もない。木箱の中には、一部が焼け焦げ、穴だらけになったアルバムが数|冊《さつ》収《おさ》まっていた。
「あれが御神宝とやらか」
「え……? あ、あれ?」
かなめは首をかしげて木箱へと近づき、ぼろぼろのアルバムを手に取った。宗介もほどなく自力でネットを抜け、かなめの後ろからアルバムをのぞき込む。
「…………?」
アルバムの写真には、リーゼントにサングラス、アロハシャツといった格好《かっこう》の若者が写《うつ》っていた。
挑戦《ちょうせん》的なポーズで、似たような感じの仲間たちとカメラに向かって笑っている。彼らはスポーツカーに箱乗りし、鉄パイプで自販機《じはんき》を叩き壊し、『立ち小便《しょうべん》するな』と書かれた看板《かんばん》の前で立ちションしていた。
「親父《おやじ》……これは?」
いつのまにか意識を取り戻《もど》し、横からアルバムを見ていた勝彦が、檜川氏にたずねた。初老の神主《かんぬし》は困《こま》った顔で、
「ばれてしまっては仕方がない。それは、私の若いころの写真だよ……。もう三〇年以上|昔《むかし》になるかな」
「これが……檜川さん!?」
かなめが愕然《がくぜん》とする。
「ああ……。私も若いころは向こうみずで愚《おろ》かだった。父親に反発し、悪い仲間と付き合って……。どうしようもないチンピラだったが、妻《つま》と出会い、勝彦――おまえが生まれ、真面目《まじめ》に生きようと決意したのだ」
「…………」
「驚《おどろ》いたか、せがれよ。私とて、最初から神職《しんしょく》に相応《ふさわ》しい人間ではなかったのだ。しかし――いつまでもそんな生活を続けられるわけがない。人は老《お》いる。生きている限りな。本当に大切なものは金銭《きんせん》や豊《ゆた》かな生活ではない……おまえがそれを悟《さと》った時に、このアルバムを見せてやろうと思っていたのだが……」
「と、父さん……」
「私の気持ちが、すこしは分かってくれたか」
「ああ。こんな……オレ、知らなかったよ」
「うん、うん……」
優《やさ》しく息子の肩を叩《たた》く。親子の間に、温《あたた》かい空気が漂《ただよ》った。
――が。
「……ちょっと待ってくださいよ」
かなめがぼそりと言った。
「なんだね、千鳥さん」
「あのー。きれいにまとまりかけたところで申し訳ないんですが。……なんだってまた、御神宝《ごしんぽう》の箱にアルバムが? 本当の御神宝はどこなんです」
「うむ。もともと御神宝は、室町《むろまち》期より伝わる鼓《つづみ》だったのだが……」
「だったのだが?」
檜川氏は違い目をした。
「金に困って売ってしまった」
かなめ一人が『がたーん!』と倒れ、ぼろぼろのアルバムをひっくり返した。
「あ、ああ……あの、あの……」
「もともと御神宝を守るために防犯|装置《そうち》を付けたのだが……ついつい装置に凝《こ》ってしまってね。後でとてつもない金額を請求《せいきゅう》されてしまったのだよ」
宗介は『さもあらん』とばかりに、こくこくとうなずいた。
「仕方がないので、鼓を売った。箱が空《から》になって寂《さび》しかったから、代わりに人には見せられない物をしまっておいたわけだ。せっかくの防犯装置だしねえ」
「ひ、檜川さん……。『本末転倒《ほんまつてんとう》』って言葉、知ってます?」
「もちろん知ってるよ。それがなにか?」
「…………」
がっくりとしたかなめの肩を、宗介がぽんと叩いた。
「いいではないか、千鳥。核地雷《かくじらい》ではなかったから、俺も安心した」
「オレは……おかげで、父さんのことが身近に思えるようになった」
「うむ。私も人に見られて、むしろ肩の荷が降《お》りた気分だ。不思議《ふしぎ》なものだよ」
檜川親子が快活《かいかつ》に笑い、宗介もうんうんとうなずいた。
三者三様《さんしゃさんよう》に納得《なっとく》した格好《かっこう》である。
「こ、この……バチ当たりども……」
かなめだけが一人、怒《いか》りと恐れと失望の入り混じった顔で、うつむき肩を震《ふる》わせていた。
[#地付き]<罰当たりなリーサル・ウェポン おわり>
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やりすぎのウォークライ
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「僕《ぼく》たちが……僕たちが、いったいなにをしたっていうんです?」
その男子生徒は、いまにも泣き出しそうな様子《ようす》で言った。弱々しい声に似合《にあ》わず、身体《からだ》は大きい。ぶあつい胸板《むないた》が、詰《つ》め襟《えり》の制服からはちきれそうだ。
正面《しょうめん》、執務机《しつむづくえ》に座《すわ》る中年女性に、彼はすがるような目を向けた。
「校長先生。僕たちのクラブは……これまでずっと真面目《まじめ》にやってきました。信じてください、本当です」
「それはわかっています」
校長は重々しい声で答えた。
「ではなぜ『廃部《はいぶ》だ』などと? 僕たちがだれかに迷惑《めいわく》をかけたことなんて、ただの一度もありません。部室|棟《とう》の修繕《しゅうぜん》をしたり、グラウンドの整備をしたり、かわいいウサギたちの面倒《めんどう》を見たり……」
「知っています」
「地元の子供たちと遊んであげたり、孤独《こどく》なお年寄りの家を訪問《ほうもん》したり……」
「立派《りっぱ》なことです」
「ほかにも沢山《たくさん》の奉仕《ほうし》活動をしてきました。なのに、なぜです? 僕たちにいったいどんな落ち度が? どうか教えてください」
彼は乞《こ》うように言った。
「では教えてあげましょう」
校長は深いため息をついてから、言った。
「廃部の理由。それはあなたたちが、ラグビー部[#「ラグビー部」に傍点]だからよ」
暇《ひま》な放課後《ほうかご》。場所は生徒会室である。
生徒会副会長の千鳥《ちどり》かなめは、頬杖《はおづえ》をついて、ぼけーっと型遅れの液晶《えきしょう》テレビを眺《なが》めていた。いつもと同じ制服|姿《すがた》に、腰まで届《とど》く黒髪《くろかみ》、赤のリボン。
画面には、ずいぶん昔《むかし》の青春ドラマの再放送が流れている。
夕暮《ゆうぐ》れの海岸で涙《なみだ》ぐむ若者たち。見ているだけで、いたたまれない気分になってくるような、そういうヘアスタイルだ。そんな若者たちが、そろってラグビーのユニフォームを着ている。
『先生……!』
目の前の熱血《ねっけつ》教師に向かって、若者の一人が言った。
『オレたちが間違《まちが》ってました! 先生はいつもオレたちのことを、本気で考えていてくれたのに……。許してくださいっ』
熱血教師はうんうんとうなずき、
『いいんだ。おまえたちがわかってくれたのなら――俺《おれ》は満足だよ』
『せ、先生〜〜っ!』
歳若い教師は、ぶわっと泣いてすがりついてくる教え子たちの肩を優《やさ》しくたたく。
『大丈夫《だいじょうぶ》だ。おまえたちなら、きっと明日《あす》の試合にも勝てるさ』
『でも、先生……!』
『元気を出せ。さあ、あの夕日に向かって競走だ!』
『は……はいっ!!』
どういう脈絡《みゃくらく》なのかは知らないが、若者たちは一斉《いっせい》に砂浜《すなはま》を走り出し、画面の奥へと遠ざかっていくのであった。
つづく。
ドラマが終わると、和田アキ子が出演する『永谷園《ながたにえん》の麻婆春雨《マーボはるさめ》』のCMが流れる。
「うーん。いい話よねぇ……」
おもむろに腕を組み、かなめは感想を漏《も》らした。オリバー・ストーンかスパイク・リーの問題作でも観《み》たかのように、思慮《しりょ》深げにうなずいてみたりする。
「てんでダメな連中が、栄冠《えいかん》を勝ち取るこのプロセス。努力、友情、勝利ってやつよ。スポ根《こん》っていうのは、こうでなくっちゃ」
したり顔でかなめは語る。すこし離れた椅子《いす》に座《すわ》り、黙然《もくねん》と読書をしていた相良《さがら》宗介《そうすけ》が、彼女の横顔を不思議《ふしぎ》そうに眺《なが》めた。
「よくわからんのだが」
例によってのむっつり顔で、宗介は言った。
「無能な連中が勝つのを見るのが、そんなに楽しいのか?」
身も蓋《ふた》もない物言いである。宗介は幼《おさな》い頃《ころ》から海外の戦場で育ち、日本の常識《じょうしき》などまるで知らない。スポ根のお約束事《やくそくごと》なんかも、もちろん理解していない。
かなめはすこしむっとした。
「ええ、そーよ。弱いけど見所《みどころ》のある人たちが頑張《がんば》ってたら、応援したくなるのが人情ってもんじゃないの」
「ふむ……」
宗介は手にしたノベルズを見下ろした。
「そういう民族性なのかもしれんな……」
「なんの話よ?」
不審《ふしん》に思ったかなめは、宗介の読んでいた本をのぞき込む。そのノベルズのタイトルは、『大逆転! 沈黙《ちんもく》の太平洋戦争』とあった。
「…………」
「備品係《びひんがかり》の一年生に勧《すす》められてな。架空戦史《かくうせんし》ものという奴《やつ》だ。第二次大戦で、なぜか日本軍が米軍に勝つ話らしい」
「いや、それはスポ根とはなにかが違うような気が……」
「弱い方が勝つぞ」
「まあ、それはそうだけど……」
議論が続かない状態になったところで、部屋《へや》の扉《とびら》ががらりと開き、生徒会長の林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》が入ってきた。
オールバックに真鍮縁《しんちゅうぶち》の眼鏡《めがね》。すらりと背は高く、静かな威厳《いげん》が漂《ただよ》っている。
「ふむ。待たせたかね?」
かなめと宗介を見て、林水は言った。
「ええ、けっこう。人を呼び出しておいて、どこ行ってたんです?」
「校長室だ。折衝《せっしょう》があってね」
気取った風もなく、林水は答えた。小脇《こわき》に抱《かか》えていた書類の束《たば》を、自分の執務机《しつむづくえ》にどさっと置いて、優雅《ゆうが》な動作で椅子《いす》に座《すわ》る。
背もたれをきしませると、彼は用件を切り出した。
「……さて。君たちを呼び出した用件はほかでもない。我が校のラグビー部の問題なのだが――」
「あのー。そんなクラブ、うちの学校にあったんですか?」
「あるのだよ。あまり知られていないことなのだが」
「へえー……」
かなめは、中国の奥地に首狩り族がいる、とでも聞いたような顔をした。
「それで、そのラグビー部がどうかしたんですか?」
「どうかしたのだよ。つまり――」
林水は事情を説明した。
陣代《じんだい》高校のラグビー部は、弱小《じゃくしょう》である。
五〇年近い伝統《でんとう》があり、二〇年前には花園《はなぞの》まであとすこし、というところまで勝ち進んだこともあるのだが――ここ一〇年以上、あらゆる対外試合で一勝もあげていない。
あまりにも成績《せいせき》不良で、試合への熱心さも欠けるため、先週、このラグビー部の廃部《はいぶ》が職員会議で決定された。
「――しかし、これは生徒会の自治権《じちけん》に対する明らかな干渉《かんしょう》だ」
林水は言った。
「私も職員側の決定は妥当《だとう》だと思うが、やはりこういう形での廃部は避《さ》けたい。そこで校長と取り引きして、ある条件を設《もう》けた」
「条件、と言いますと?」
「来週、ラグビー部は練習試合をする。強豪《きょうごう》・硝子山《がらすやま》高校との恒例《こうれい》試合だ。それに勝利すれば、廃部は一年間見合わせる。負けたら即廃部……という条件だ」
「なるほど。で、勝つ見込みは?」
「ない。おそらく、負けるだろう」
飄々《ひょうひょう》とした口ぶりで林水は言った。
「…………」
「硝子山とはこれまで四九試合が行《おこな》われ、陣代が四九敗している。しかも部員は一四人しかいない。ラグビーは一チームに必要な人数が一五人なのだが……」
「ぜんぜんチャンスになってないじゃないですか」
「チャンスというのは与えられるものではない。掴《つか》むものだ。あとは彼ら次第《しだい》、ということだよ」
「まあ、それはそうでしょうけど……」
「ただ、いちおうはテコ入れをしてやろうと思う。そこで生徒会|執行部《しっこうぶ》から、助《すけ》っ人《と》の補充《ほじゅう》選手とマネージャーを派遣《はけん》することにした」
「は?」
かなめは目を丸くした。
「聞こえなかったかね? 補充選手と――」
宗介を指さし、
「マネージャーだよ」
次に、かなめを指さす。
彼女は、ほけっと林水の指先を眺《なが》めていたが、数秒後には我《われ》に返って、
「どーして、そうなるんです!?」
がたっと立ち上がり、抗議《こうぎ》した。
林水はその反応を予期していたかのように、『さもあらん』とうなずいてみせた。
「私は明日から用があるのでね。多自連《たじれん》――多摩地区《たまちく》高校自治連絡会《こうこうじちれんらくかい》――の首脳《しゅのう》会議で議長を務《つと》めなければならない。五日間連続の退屈《たいくつ》きわまりない集会だ。君が代わってくれるのなら、それでもいいのだが?」
「うっ……」
その自治連絡会の会議の不毛《ふもう》さは、彼女も一度出席してよく知っていた。『高校生の喫煙《きつえん》をどう防ぐか』などといった、どーにもならないような議題がエンエンと繰《く》り返されるのだ。ましてやその議長など……!
かなめは憮然《ぶぜん》として、
「わかりましたよ。ったく。……ところで、ソースケ。あんたはイヤじゃないの?」
「別に。閣下《かっか》には色々《いろいろ》と借《か》りがある」
当然のように宗介は答えた。
「助かるよ、相良くん」
「いえ。お安い御用《ごよう》です」
なぜかこの二人の変人の間には、奇妙《きみょう》な信頼《しんらい》関係があるようだ。感傷《かんしょう》的な『友情』やら『絆《きずな》』やらとは違う――強いて言うなら『共感《シンパシー》』だろうか。ある分野に秀《ひい》でた者同士の持つ、利害を超《こ》えた敬意が成立しているのだ。
女の子同士だと、あんまりこうはいかないだろうなぁ……と、かなめは思った。
「では二人とも、ラグビー部に出向《しゅっこう》してくれたまえ。それと千鳥くん……これを持っていくのだ」
林水は机《つくえ》の下から、黄金色《こがねいろ》の大きなヤカンを引っ張り出した。
「これは?」
「女子マネージャーの必須《ひっす》アイテムだ」
「…………」
「それからもう一つ。美しい脚線《きゃくせん》だとは思うが――」
彼は腕組みして、かなめのすらりとした脚《あし》をしげしげと眺《なが》めた。決していやらしい視線ではなく、なにか場違いなものに難色《なんしょく》を示すような目付きだった。
「な、なんです?」
かなめは思わずすそを押さえた。
「スカートの丈《たけ》が短すぎるな。およそ女子マネージャーたるもの、スカートの丈は膝《ひざ》より下と相場《そうば》が決まっている」
「それって、スゴい偏見《へんけん》では……?」
「偏見ではない。こだわりと美学だよ。君も大人《おとな》になればわかる」
「いえ。……一生わかりたくありません」
そう言ってかなめは立ち上がった。
けっきょくかなめは家庭科《かていか》室で、丈の長いスカートを借りた。さっさと着替《きが》えてヤカンをたずさえ、体育系クラブの部室棟へと向かう。
「千鳥。君はラグビーというスポーツを知っているのか?」
並んで歩く宗介がたずねた。かなめは小首《こくび》を傾《かし》げてから、
「いや、あんまり。暑苦《あつくる》しい男たちが泥《どろ》だらけになって、組んずほぐれつすることくらいしか知らないなぁ……」
「つまり、格闘技《かくとうぎ》か」
「いや、いちおうボールは使うみたいだけど。にしても……う〜〜。やだなぁ」
宗介は、露骨《ろこつ》に気の進まない様子《ようす》の彼女を見て眉《まゆ》をひそめた。
「なぜそこまで嫌《いや》がる? 昔《むかし》、ラグビー選手に捕《つか》まって、きびしく拷問《ごうもん》された経験《けいけん》でもあるのか?」
「どこの秘密警察よ、それは?……まあ、戦争ボケのあんたには、ピンとこないかもしれないけどね。なんというのか……クサそうじゃないの」
かなめにも偏見はあった。ラグビーというと、とにかく汗臭《あせくさ》く、男臭いイメージがつきまとう(そしてそれはおおむね正しい)。
「ごっつ〜〜い兄ちゃんたちが、きったならし〜〜い部室でスシ詰《づ》めになって。もう、近付いただけで妊娠《にんしん》しちゃいそうな感じで」
「そうなのか」
「ん。きっとそーよ」
かなめは決め付けると、部室棟の一角、ラグビー部の部室の前に立った。
すこしためらってから、ノックする。
「はい」
扉《とびら》の向こうから弱々しい返事。
「あのー、ですね。生徒会から来たんですけど。練習の手伝いを仰《おお》せつかりまして」
「あ……これはどうも」
扉が開き、大柄《おおがら》な生徒が姿《すがた》を見せた。ごつい容貌《ようぼう》ではあったが、清潔感《せいけつかん》のある、こざっぱりとした青年だった。
「千鳥さんと相良さんですね。話は林水|先輩《せんぱい》から聞いています。僕たちに力を貸《か》してくれるそうで……とても感謝《かんしゃ》しています」
「いえ、まあ」
「がんばって硝子山《がらすやま》との試合に勝ちましょう。……あ、申し遅れました。僕は部長の郷田《ごうだ》優《ゆう》です。どうぞよろしく」
そう言って、郷田優は二人を部室に招《まね》き入れた。
「さあ、どうぞ。汚《きたな》いところですが……」
「はあ……」
郷田の言葉とはうらはらに、部室はとてもきれいだった。
隅々《すみずみ》までがていねいに清掃《せいそう》されている。木目《もくめ》調の調度類《ちょうどるい》と籐《とう》家具に、いくつもの観葉《かんよう》植物。壁《かべ》には印象派《いんしょうは》の絵画《かいが》の絵葉書《えはがき》が、上品に散りばめられていた。部屋《へや》の照明《しょうめい》は明るく柔《やわ》らかく、いる者の心を和《なご》ませる。
何人かの部員たちが、清潔なテーブルを囲《かこ》んで座《すわ》っていた。彼らはかなめと宗介を見て、友好的なほほ笑《え》みを浮かべた。
「……あの、ここ、ラグビー部よね?」
「そうですが。それがなにか?」
「でも、だって……」
泥《どろ》だらけの縞《しま》ジャージは? 汗《あせ》だくの男たちは? なぜこの部屋には、ほのかなラベンダーの香《かお》りが漂《ただよ》っているのか?
「まあ、おかけになってください。お二人とも、お茶はいかがですか? 肩凝《かたこ》りと腰痛《ようつう》に効《き》くハーブ・ティーがあるんですよ」
「あ、あの……」
「いま部員の者を、駅前のコージーコーナーに買い物に行かせてます。あそこのガトー・ショコラがおいしいんですよ。なあ、みんな?」
「そうそう」
「楽しみだなぁ、うふふ……」
ラグビー部員たちはにこにこと笑って、うなずいた。席に座って唖然《あぜん》とするかなめの肩を、宗介が横からつついた。
「いい場所ではないか」
「それは認めるけど……」
「ラグビーか。きっと平和なスポーツなのだろうな」
「なにかが違う……」
「わあっ!」
お茶をいれていた郷田が、いきなり小さな悲鳴《ひめい》をあげた。その声に反応し、拳銃《けんじゅう》を引き抜いた宗介が飛びかかってくるのを、かなめはひらりとかわした。
宗介は宙《ちゅう》を泳ぎ、ポインセチアの鉢《はち》に頭から突っ込んで沈黙《ちんもく》する。
「やあ、危《あぶ》ない。大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「気を付けて。怪我《けが》をしたら大変ですよ」
脳天《のうてん》からぶすぶすと煙《けむり》をあげる宗介を、部員たちが心配そうにのぞき込む。一方のかなめは何事もなかったかのように、
「どうしたの、郷田くん?」
「い、いえ。クモがいたものだから、ついびっくりして……」
見ると、小指の爪《つめ》ほどのサイズのクモが、壁《かべ》をさかさかと這《は》っていた。
「…………」
「ど、どうしましょう、千鳥さん。部屋の中にいられると恐《こわ》いし、でも殺すのはかわいそうだし……」
「……本気で困ってるみたいね」
あたふたとする郷田を見て、かなめは深いため息をついた。
翌日から硝子山《がらすやま》高校との試合に向けた練習がはじまった。
まったく、陣代高校ラグビー部の軟弱《なんじゃく》さときたら、もはや天然《てんねん》記念物級ですらあった。
一四人の部員たちは総じて大柄《おおがら》で、脚力《きゃくりょく》もあり、見るからに頑丈《がんじょう》そうなのだが――とにかく気が弱い。
着替《きが》える時は扉《とびら》にしっかり鍵《かぎ》をかける。
ボールを生まれたての赤ん坊のように扱《あつか》う。
練習の前には全員でグラウンド中を歩き回り、直径五ミリ以上の小石を見つけたら取り除《のぞ》く。転《ころ》んだ時に危ないからである。
パスの練習をする時は、互《たが》いに何度も声をかけ合い、万一にもボールを相手の顔にぶつけたりしないよう、細心《さいしん》の注意を払う。
タックルの練習はしない方針《ほうしん》である。
「……どうして?」
夕暮《ゆうぐ》れ時のグラウンドで、かなめが郷田にたずねた。
「だって、危ないじゃないですか。走っているところに飛びかかるなんて」
郷田は当然のように答えた。
「……こ・ん・な・調子でやってたら、いつまでたっても強くなれないわよっ!!」
イライラが頂点に達して、彼女は叫《さけ》んだ。ヤカンとハリセンを振り回し、ラグビー部員たちに食ってかかる。
郷田はたちまち泣きそうな顔をした。
「そ、そんなこと言われても……。僕たちはこれまで、ずっとこうやってきたんです」
「だから負けてばっかりなんでしょっ? もっとシャキっとしなさい、シャキっと! 男でしょ、あんたたちは!?」
ラグビー部員たちは顔を見あわせ、
「千鳥さん、その発言はおかしいです」
「そうですよ。いまの社会は男女|平等《びょうどう》のはずだ」
「『男らしく』『女らしく』という考え方が、不当な差別の温床《おんしょう》になっているのに」
だのと、口々に反論した。
「こ、こいつらは……」
かなめは肩をわなわなと震《ふる》わせて、
「ちょっとソースケ!? あんたもなんか言ってやりなさいよ!」
グラウンドの隅《すみ》で、ルールの勉強をしている宗介に向かって叫ぶ。ちなみにテキストは吉田《よしだ》聡《さとし》の『ちょっとヨロシク!』だった。
「ん。怪我《けが》をしないようにな」
漫画本《まんがぼん》から目も離さず、彼は答えた。カロリーメイトのフルーツ味を、ぽりっとかじって、もぐもぐする。
[#挿絵(img2/s02_141.jpg)入る]
「あー、もう。……とにかく、練習試合まであと一週間なのよ? 硝子山高校に負けちゃったら、廃部《はいぶ》だっていうのに。それでもいいわけ、あんたたちは?」
「そ、それは……」
郷田は口ごもった。
「もちろん廃部はいやです。でも、人を傷つけるのもいやだし……」
「傷つけるんじゃなくて、試合に勝つだけよ。部の存続《そんぞく》がかかった正念場《しょうねんば》なんだから、覚悟《かくご》を決めなさい! さあ、気合いを入れて練習練習っ!」
それなりに自分の役目を果《は》たすべく、かなめはハリセンでヤカンを叩《たた》き、部員たちを叱咤《しった》する。
「は、はい。それじゃあ、みんな、スクラムの練習をしよう」
「よろしい」
郷田たちの巨体を考えれば、力がものをいうスクラムの強化は賢明《けんめい》な選択《せんたく》だ。
が。
ラグビー部員たちはグラウンドの一角に集まって、おもむろに円陣《えんじん》を組んだ。それからみんなでうつむいて、それぞれ胸《むね》の前で手を組み、静かに目を閉じる。
「…………?」
かなめがいぶかしんでいると、郷田がぶつぶつとなにかの文句《もんく》をつぶやき出した。なにやら厳粛《げんしゅく》な雰囲気《ふんいき》である。
三分近くはそうしていただろうか。
「……あのー。なにやってるの?」
かなめが遠慮《えんりょ》がちにたずねると、瞑目《めいもく》していた一同が、すうっと顔をあげた。
「スクラムの練習の無事《ぶじ》と成功を、神に祈《いの》っているんです。そうしないと不安で……」
郷田が真面目《まじめ》な声で言った。
日没《にちぼつ》後の商店街《しょうてんがい》。ぞろぞろと入ったハンバーガー屋で――
「こりゃもう、絶望《ぜつぼう》的ね」
かなめは不機嫌《ふきげん》な声で言った。雁首《がんくび》そろえたラグビー部員たちが、周囲の席でしゅんとしている。
「で、でも。僕たちだって一生|懸命《けんめい》なんです」
郷田が弱々しく言った。
「あれを『一生懸命』なんて言うんだったら、コアラの一生だって壮絶《そうぜつ》に見えちゃうわよ。なんとゆーのか、もう、闘志ゼロ? スポーツっていうより、単なる傷の舐《な》め合いね」
「ひどい……。それに、コアラはああ見えて気の荒い動物なんですよ?」
「どーでもいいわよ、そんなこと」
「し、しかし――」
「理屈《りくつ》を言わない! 行動であたしを納得《なっとく》させてみなさいよ!」
かなめはいきなり立ち上がると、隅《すみ》っこに座《すわ》った宗介を『びしっ』と指さした。
彼は相変わらず、むっつりと漫画本《まんがぼん》を読みふけっていた。
「見なさい。彼だってルールを覚《おぼ》えようと必死になってるのよ!? 自分にできることをやろうとしてるの。どれだけ苦しくても! そうでしょ、ソースケ?」
宗介はやはり漫画から目を離さず、
「ん。なかなかうまいぞ」
言ってから、Mサイズのコーラをストローでずるずるとすすった。
「…………」
「そこはかとなく、満ち足《た》りた様子《ようす》に見えますが……」
「なんか今回はマイペースなのよね、あいつ……」
かなめが肩を落とし、席に座り直したところで――
「くっ……はーはっはっはっはっ!!」
「ヒャハハハハハハハっ!!」
「ぐわっはっはっはっはっ!!」
大勢《おおせい》の笑い声。振り向くと、かなめたちから離れた喫煙席《きつえんせき》で、大柄《おおがら》な男たちがこちらを見てにやにやしていた。顔が傷痕《きずあと》だらけだったり、前歯がなかったり……それが総勢で一〇名あまり。着崩《きくず》したブレザー姿《すがた》である。
「だれ……?」
「あ、あれは……硝子山《がらすやま》高校のラグビー部」
「あれが? へえ……強そうね、やっぱ」
かなめが素直《すなお》に感心していると、硝子山高の男たちはがたがたと席を立ち上がり、陣代の面子《めんつ》を取り囲《かこ》んだ。
リーダー格とおぼしき角刈《かくが》りの男が、下卑《げび》た笑顔で彼女を見下ろす。
「なあ、お嬢《じょう》ちゃん。こんな屁《へ》みたいな連中に説教《せっきょう》たれても無駄《むだ》だぜ。骨の髄《ずい》まで負け犬|根性《こんじょう》が染《し》み付いてるんだからよ」
こういう場合は『そんなことないわ!』とか言うべきだったのだろうが、
「……いや、まったくその通りね」
などと、かなめは思わず同意してしまった。
「強豪《きょうごう》同士だった時代からの伝統《でんとう》でよ、ずっと練習試合に付き合わされて――俺たちも迷惑《めいわく》だったわけ。わかる?」
「うん。わかる」
「それも来週で終わりだけどな。俺たちがこいつらをぶちのめし、有終《ゆうしゅう》の美を飾《かざ》ってやろうじゃねえか」
「それはどうも」
「ま、クズはなにやってもクズってことよ。なあ? うわっはっはっは」
「はっはっは」
かなめと男たちは豪快《ごうかい》に笑った。
郷田たちはその場でうなだれ、みるみる小さくなっていく。中にはさっそく涙《なみだ》ぐんでいる者までいた(宗介は相変わらず漫画を読んでいた)。
「物分かりがいいな、お嬢ちゃん」
「いえいえ。人|並《な》みに分別《ふんべつ》があるだけです」
「気に入ったぜぇ。こいつらといても時間の無駄だろ? これから俺たちと、どっか遊びにいかねえ?」
「それはダメ」
笑顔のまま、かなめはあっさりと答えた。
「そんなこと言わずによ。いいカラオケ屋、知ってんだ。楽しませてやるからさ……」
角刈りの男は、かなめの肩に手を回した。
「あー。えーとぉ……」
「なあ。いいじゃんか。な、な?」
さすがにかなめも嫌悪《けんお》を覚《おぼ》えた。
「手をどけてくれません? なんとゆーのか……あたし、ムツゴロウさんじゃないし、ゴリラと遊ぶ趣味《しゅみ》ないのよ」
「ゴリラ?」
男はきょとんとした。
「俺のこと言ってんのか?」
「そう。聞けばルワンダじゃ、内戦のせいで絶滅寸前《ぜつめつすんぜん》らしいですよ。こんなところに棲息《せいそく》してるなんて、驚《おどろ》きよねぇ。あはははは」
「わ……わっはっはっは」
「はっはっはっは」
かなめとゴリラ男はひとしきり笑った。それから一秒、沈黙《ちんもく》して――
「このアマ……!」
激怒《げきど》した男が、かなめの腕を力|任《まか》せにねじ上げようとした瞬間《しゅんかん》、一枚のトレイが高速回転して飛んできた。角《かど》が男のこめかみに『かつんっ!』と突き刺《さ》さる。
「がっ……」
巨体がよろめき、ずしんと倒れた。
「ミーティング中だ。向こうへ行け」
トレイを投げた宗介が言った。
『や……やんのか、コラぁっ!?』
硝子山《がらすやま》のラグビー部員たちが、たちまち臨戦態勢《りんせんたいせい》に移る。腰の後ろ、ホルスターの位置に手をのばした宗介に、かなめが叫《さけ》んだ。
「銃《じゅう》はダメっ!」
宗介が凍《こお》り付く。郷田たちが縮《ちぢ》こまる。男たちが殺到《さっとう》する。
大乱闘《だいらんとう》が開幕《かいまく》した。
その五分後――
「楽しみにしてっからなっ! 逃げんじゃねえぞっ!?」
ハンバーガー屋からの去り際《ぎわ》に、硝子山高校の面々は怒鳴《どな》った。
半数はふらふらとよろめき、残りの半数は意気揚々《いきようよう》と、めちゃめちゃになった店を出ていく。一方的に郷田たちを痛めつけた連中と、素手《すで》の宗介一人にのされた連中との明暗が、くっきりと分かれた格好《かっこう》だ。
いちおう、乱闘は引き分けという形だったが――郷田らラグビー部員たちは例外なくボコボコにされていた。
その場に立っているのは宗介と、ひたすら店中を逃げ回っていたかなめだけだ。
「あー、おもしろ恐《こわ》かった……」
肩で息して、かなめはつぶやいた。
「怪我《けが》はないか、千鳥?」
「うん。全然」
けろっと答える。彼女は自分が宗介にぴたりと寄り添《そ》っていたことに気付いて、さりげない足取りで彼から離れた。
「それにしても気の荒い連中ねー。ちょっとからかっただけなのに。みんな、大丈夫《だいじょうぶ》?」
床《ゆか》に這《は》いつくばった郷田たちを、かなめは心配そうにのぞき込む。
「ぼ、僕たちが……僕たちが、なにをしたっていうんですっ!?」
郷田の声は号泣《ごうきゅう》に近かった。
「硝子山高校ラグビー部……なんて人たちだろう! 僕らが必死になって平和を説《と》いたのに……。それを、それを、ぶつなんて!」
「せめて『殴《なぐ》る』と表現しなさいよ……」
「千鳥さん。僕はいま、はじめて『悔《くや》しい』という気持ちが分かったような気がします。このままでは終われない。そう、僕は彼らに勝ちたい……!」
「そ、そうだ。僕も悔しい」
「ぐすっ。勝ちたいよお……」
「廃部《はいぶ》はいやだよお……うっうっ」
涙《なみだ》と鼻血《はなぢ》で顔をくしゃくしゃにした部員たちが、郷田の言葉に同調した。
すこしは前向きになったのかしら、とかなめは思った。しかしこの体《てい》たらくでは、とうていあの荒くれ男たちに勝つことなど……。
そこで。
「それほど勝ちたいのか」
宗介が言った。
「も、もちろんです。僕たちだって、人間なんだ」
「本気で勝ちたいんだな?」
「ええ。このままじゃ、このままじゃ……」
すすり泣く郷田。
宗介はひざまずき、彼の肩に手を置いた。
「それなら、俺が鍛《きた》えてやる」
四日後の日曜日。
秩父《ちちぶ》多摩《たま》国立公園、鷹丸山《たかまるやま》。東京都の最果《さいは》て、山梨《やまなし》との県境《けんきょう》のあたり。
深く、切れ目のない針葉樹《しんようじゅ》の森と、険《けわ》しい斜面《しゃめん》。頼《たよ》りない登山道《とざんどう》もあるにはあるが、それ以外の人造物などほとんどない。
春はまだ遠く、大気は冷たい。
「カナちゃん……ほんとにこの道でいいの?」
かなめの友人、常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が疲《つか》れた声でたずねた。とんぼメガネにおさげ髪《がみ》。ダウンジャケットにハイキング・ブーツ姿《すがた》だ。
「たぶん。このあたりのはずなんだけど」
同じくハイキング姿のかなめが答えた。手には携帯《けいたい》式のGPS搭載《とうさい》型デジタル・マップ。
宗介からの借り物である。
「こんな山で特訓《とっくん》だなんて。ボール投げるような場所もないじゃない」
「そうよねぇ……。学校もサボって、なに考えてるんだか」
宗介とラグビー部員たちは、三日前からこの山中《さんちゅう》で合宿《がっしゅく》をしている。かなめはその合宿をパスしたが、きょうは日曜日なので様子《ようす》を見に来たのだった。
そのとき――
静かな森の中に、鋭《するど》い罵声《ばせい》が響《ひび》き渡った。
「このクズどもめっ。トロトロと走るんじゃないっ」
「あ……」
木々の向こうに、郷田ほかラグビー部貞たちの姿が見えた。野戦服《やせんふく》姿で、どでかい丸太をかつぎ、よろよろと走っている。
「まったく、なんたるザマだ! 貴様《きさま》らは最低のうじ虫だっ! ダニだっ! この宇宙で、もっとも劣《おと》った生き物だっ!」
彼らを罵倒《ばとう》するのは宗介である。同じく野戦服姿でメモ帳[#「メモ帳」に傍点]を片手に、ラグビー部員たちと並走《へいそう》している。
「ひい……はあ……」
「し……死んじゃうよ……」
ラグビー部員たちは泥《どろ》と汗《あせ》と涙《なみだ》にまみれ、疲労《ひろう》と恐怖《きょうふ》で顔を歪《ゆが》ませていた。
「いいか、くそ虫どもっ! 俺の楽しみは貴様らが苦しむ顔を見ることだ! じじいの●●●●みたいにひいひい言いおって、みっともないと思わんのか、この●●の●め!? ●●が●●たいなら、この場で●●●を●ってみろっ! ●●持ちの●●どもっ!」
宗介はときおりメモ帳に目を落としながら、『教育上、不適切な表現』を機関銃《きかんじゅう》のように連発する。それを聞いたかなめと恭子は唖然《あぜん》として、次に顔を赤くした。
「相良くん、おげれつ……」
「っていうか、意味わかって言ってるのかしら……?」
そこで、ラグビー部員の一人が転倒《てんとう》した。丸太を放《ほう》り出し、冷たい地面に身を投げ出す。
「も、もう駄目《だめ》だ……」
四つんばいになってあえぐ部員の前に、宗介が立ちはだかった。
「どうした石原、もうギブアップか」
「ぜえ……ぜえ……」
「しょせん貴様の根性《こんじょう》など、その程度のものだ。家に帰って、おまえが大好きな広●涼子とやらの写真を抱いて寝るがいい」
「くっ……」
「もっとも、おまえのような腰抜けが惚《ほ》れてるアイドルのことだ。さぞや救いようのないあばずれなのだろうな」
宗介の仮借《かしゃく》ない言葉に、部員はくわっと目を見開いた。
「ひ……広●の悪口を言うなぁっ!!」
涙目で殴《なぐ》りかかってきた彼を、宗介は『がっ!』と脚《あし》で蹴《け》り払った。
「うぐうっ……!」
「何度でも言ってやる。広●涼子はあばずれだ。ちがうと言うならガッツを見せろ! 丸太をかついであと一〇|往復《おうふく》だっ!」
「ち、ちくしょう……!」
よほどそのアイドルを愛しているのだろう。その部員は泣きながら、転《ころ》がった丸太に這《は》っていく。ほかの部員たちは、必死の形相《ぎょうそう》で斜面《しゃめん》を駆《か》けのぼる。
宗介は厳《きび》しい目付きで彼らを眺《なが》めてから、かなめたちのそばに歩いてきた。
「二人とも。道に迷《まよ》わなかったか」
うってかわって落ち着いた声で、彼は言った。
「うん。それにしても……あんた、なんて下品《げひん》なコト口走ってるのよ? なんなの、そのメモは? 見せなさい」
宗介が持っていたメモ帳を、かなめは取り上げた。ありとあらゆる罵詈雑言《ばりぞうごん》が書き込まれたメモ帳の表紙には、『マオお姉さんの海兵隊《かいへいたい》式ののしり手帳(新兵訓練《しんぺいくんれん》編)/照《て》れずに力いっぱい叫《さけ》んでみようねH[#「H」はハート、1-6-30、Unicode2665]』とあった。
「…………。あの人は……」
「問題ない」
「……だいたい、こんなので効果あるの?」
「気迫《きはく》と自信はつく。彼らの弱さは技術以前の問題だ」
「まあ、そうだろうけど……。ところで、お腹《なか》すいてない? キョーコとおにぎり作ってきたんだけど」
「そうそう、たくさんあるよ。オカカとシャケと梅干《うめぼ》しと……」
やおら明るい声で、恭子がリュックからアルミホイルの包《つつ》みを次々に取り出す。だが宗介はそれを見て、なぜか難《むずか》しい顔をした。
「ふむ……」
「どしたの、相良くん? もしかして、もうお昼ご飯《はん》、食べちゃった?」
「いや。上等な食事を与えて良いものかどうか、考えてな」
「もう……。わざわざ早起きして作ってきたんだから。『要《い》らない』なんて言わないでよ」
「……そうだな」
宗介はうなずくと、斜面《しゃめん》を往復《おうふく》するラグビー部員たちに向かって叫んだ。
「よろこべ、ブタどもっ! マネージャーが食事を持ってきた! 三二時間ぶりのメシだぞっ! 終わった者から食ってよし!」
部員たちは一度立ち止まり、その目をぎらりと光らせると、いきなり猪《いのしし》のように猛《もう》スパートをかけた。
『三二時間……?』
かなめと恭子はあっけにとられ、異口同音《いくどうおん》に言った。
「そうだが。やはり、もう少し飢《う》えさせた方がいいだろうか?」
試合当日、世田谷《せたがや》区のラグビー場――
空はどんよりと曇《くも》り、いまにも雨が降ってきそうだった。季節《きせつ》外《はず》れの雷鳴《らいめい》が、遠くでごろごろと轟《とどろ》いている。
グラウンドには硝子山《がらすやま》高校ラグビー部の面々。強豪《きょうごう》ニュージーランド・チームを彷彿《ほうふつ》とさせる、黒一色のユニフォームである。
陣代高校チームの姿《すがた》は見えない。かなめと恭子がグラウンドの隅《すみ》に立っているだけだ。
「はん。逃げちまったんじゃねえのか?」
例のゴリラ男が言うと、周囲の男たちがげらげらと笑った。
「うー、それはないと思うけど――」
「あ……カナちゃん、来たよ」
競技場《きょうぎじょう》の入り口に、一五人の男たちが現《あらわ》れた。宗介と郷田たち陣代高校チームだ。山から直接来たらしく、全身が泥《どろ》だらけ、生傷《なまきず》だらけだった。
「待たせたな」
先頭の宗介は言うと、どでかいバックパックを地面にどさりと落とした。
郷田たちは無言《むごん》だ。ひどく憔悴《しょうすい》して見えたが、目だけがぎらぎらと異様《いよう》な光を放《はな》っている。彼らは背筋《せすじ》を反《そ》らし、ゆっくりとグラウンドを睥睨《へいげい》した。
「あのー、郷田くん。だいじょぶ?」
「はっ。自分[#「自分」に傍点]は大丈夫《だいじょうぶ》であります」
「じ……自分?」
かなめがぽかんとしていると、その場に硝子山高校の選手たちが近付いてきた。
「よく来たじゃねえか」
ゴリラ男が言った。
「覚悟《かくご》しな。どうせきょうで廃部《はいぶ》だ。全員病院送りになっても、別に困《こま》らねえだろ?」
「…………」
「ひとり残らず腕をへし折ってやる。泣いてもわめいても許《ゆる》さねえ。いいな?」
郷田たちはおびえた様子《ようす》もなく、ただ胸を張って相手チームをにらんでいるだけだった。
「はじめるぞっ!」
審判《しんぱん》が叫《さけ》んだ。硝子山の選手たちは自陣《じじん》へと去っていく。
「よし。戦闘《せんとう》準備だ」
宗介が言うと、一同はその場で野戦服《やせんふく》を『ばっ!』と脱《ぬ》いだ。その下から、ぴかぴかのユニフォームが現れる。紅白《こうはく》の横縞《よこじま》ジャージの胸《むね》には、陣代高校の校章が燦然《さんぜん》と輝《かがや》いていた。
一矢《いっし》乱れず整列し、直立不動の姿勢《しせい》をとった郷田たちの前を、同じくユニフォーム姿の宗介が行き来する。
「いまこの時をもって、貴様《きさま》らはウジ虫を卒業《そつぎょう》する。貴様らはラガーマンだ」
『サー、イエッサーっ!!』
地も割れんばかりの声で、郷田たちがこたえた。
「さて……貴様らはこれから、最大の試練《しれん》と戦う。もちろん逃げ場はない。すべてを得るか、地獄《じごく》に落ちるかの瀬戸際《せとぎわ》だ。どうだ、楽しいか?」
『サー、イエッサーっ!!」
「いい声だ。では……」
宗介は力強くうなずくと、ぴたりと立ち止まった。すこし間《ま》を置いてから、彼らに向かって声を張り上げる。
「野郎《やろう》ども! 俺たちの特技《とくぎ》はなんだっ!?」
『殺せっ!!殺せっ!! 殺せっ!!』[#原文では4倍角フォント]
「この試合の目的はなんだっ!?」
『殺せっ!! 殺せっ!! 殺せっ!!』[#原文では4倍角フォント]
「俺たちは学校を愛しているか!? ラグビー部を愛しているかっ!? クソ野郎ども!!」
『ガンホー!! ガンホー!! ガンホー!!』[#原文では4倍角フォント]
「OK! 行くぞっ!!」
陣代高校ラグビー部は、フィールドに向かって突進《とっしん》していった。
取り残されたかなめと恭子は、その場で呆《ほう》けたように棒立《ぼうだ》ちするばかりだった。
「これって一種の悪質な洗脳《せんのう》だよね……」
恭子がぽつりと言う。
「それもそうだけど……。ソースケ、本当にルールとか分かってるのかしら?」
かなめの懸念《けねん》は正しかった。
試合開始直後。
スクラムから飛び出したボールを、郷田が拾《ひろ》って宗介にパスした。たちまち硝子山《がらすやま》のフォワード陣《じん》が、宗介めがけて殺到《さっとう》する。
「くたばれやぁっ!!」
先頭には例のゴリラ男。敵意《てきい》むき出しで、重戦車のように突っ込んでくる。
「軍曹殿《ぐんそうどの》、パントです!!」
「なんだ、それは」
「キックですっ!! キックっ!!」
「了解《りょうかい》」
次の瞬間《しゅんかん》、宗介は跳躍《ちょうやく》した。牛若丸《うしわかまる》かクライング・フリーマンのように滞空《たいくう》して――
かっ!!
宗介の飛び蹴《げ》りが、ゴリラ男の顔面《がんめん》に炸裂《さくれつ》した。男は一度大きくのけぞり、それから二度、三度とよろめいて……フィールド上に轟沈《ごうちん》した。
背中を反《そ》らし、痙攣《けいれん》するゴリラ男。
「次はだれだ? 前に出ろ」
宗介は不敵《ふてき》につぶやく。
その場に突進してきたかなめがハリセンを振り下ろし、同時に審判《しんぱん》が『退場っ!!』と叫《さけ》んだ。
「………………」
かなめに腕を引っ張られ、宗介がとぼとぼと下がっていく。
フィールドは静寂《せいじゃく》に包《つつ》まれていたが、やがて郷田が狂暴《きょうぼう》な叫び声をあげた。
「う……うおぉおぉおぉっ!! 軍曹殿が目にもの見せたぞっ!! 野郎ども、あとに続けぇっ!!」
『おぉうっ!!』
大気を震《ふる》わす鬨《とき》の声。
硝子山の選手たちが青ざめ、そろって半歩、後《あと》ずさった。
中国に『殺一※[#「にんべん+敬」、第3水準1-14-42、Unicode5106]百《シャーイージンパイ》』という言葉がある。
一人を無残《むざん》に殺して、百人の敵に警告《けいこく》するという意味だ。宗介の暴挙《ぼうきょ》は、図《はか》らずも同じ効果をもたらした。
要するに、硝子山の選手たちはビビりまくったのである。
おびえた兎《うさぎ》を狩ることなど、狼《おおかみ》となった郷田たちには造作《ぞうさ》もないことだった。なにしろ『死ぬつもり』ではなく、『殺すつもり』でプレイしているのである。タックルで押しつぶした相手が泡《あわ》を吹いているのを見て、『くそっ、生きてやがる』などと吐《は》き捨《す》てるほどだ。
『悪質な反則』で、宗介に続いて四名もの退場者が出たが、相手チームの負傷《ふしょう》退場者はその倍に上《のぼ》った。気迫《きはく》に負けて、硝子山はペナルティ・キックさえものにできない。
そんなわけで六〇分の試合後――
陣代高校ラグビー部は、硝子山高校に圧勝《あっしょう》した。
「これほど残虐《ざんぎゃく》で悲惨《ひさん》な試合を、私はかつて見たことがない」
と、審判は後《のち》に述懐《じゅっかい》したりした。
花園《はなぞの》の常連・硝子山高校はこの敗戦のショックから立ち直れず、以後長期にわたって成績不振《せいせきふしん》が続くことになる。また、この試合は『二子玉川《ふたこたまがわ》の悪夢《あくむ》』として語り継《つ》がれ、しばらくの間、高校ラグビー界では陣代高校が恐怖《きょうふ》の代名詞となった。
[#挿絵(img2/s02_163.jpg)入る]
「……でも、これでいいの?」
試合後、勝利の雄《お》たけびをあげて猛《たけ》り狂う郷田たちを眺《なが》めて、かなめがつぶやいた。
「二週間前は『だれも傷つけたくない』なんて言ってたのに。なんか、あたし悲しい」
「うむ」
宗介がうなずいた。
「戦いとはいつも空《むな》しい。彼らは身をもってそれを俺に教えてくれた」
「……あんたね。きれいにまとめてんじゃないわよっ!」
かなめは宗介の頭をはたき倒す。
一方の郷田たちは――縮《ちぢ》こまって震《ふる》える敗戦チームを罵倒《ばとう》しまくっていた。
「終わりか、このクソッタレどもが!? さあ立て、もう一度|勝負《しょうぶ》してやる! ガッツを見せてみろ、●●●●野郎! 貴様らは●●くさい●●●にも劣《おと》った●●だっ!! 悔《くや》しいかっ!? 悔しかったら俺たちの●●●を――」
[#地付き]<やりすぎのウォークライ おわり>
[#改丁]
一途《いちず》なステイク・アウト
[#改ページ]
中学校の卒業式《そつぎょうしき》のあと。
だれもいない部室に、彼女は一人で立っていた。床《ゆか》に転《ころ》がったままのバスケットボール。ぼろぼろのシューズが、からっぽのロッカーにひっかけてある。
彼のロッカー。もう卒業してしまった、先輩《せんぱい》のロッカー。四月からは遠くの高校に行く、先輩の――
(なにやってるんだろ、あたし……)
その場に突っ立って、彼女は思った。
先輩は、もうここには来ないのに。いまごろは他の仲間や、ファンの女子に囲《かこ》まれて、校門を出ているころだ。その輪の中に、自分の居場所はない。
けっきょく、一言《ひとこと》も話せなかった。『卒業おめでとうございます』とも、『あたしは元気にやっていきます』とも――
『好きです』とも。
彼女はロッカーの縁《ふち》に指を這《は》わせ、ため息をついた。
もう帰ろう。そう思ったとき、部室の扉《とびら》が開いて、いきなり彼が現《あらわ》れた。
「……先輩?」
「やっぱりいた」
そう言って、彼は笑った。
「みんながいる場所には、絶対いないと思ってたんだ。千鳥《ちどり》はへそ曲がりだからね」
「わ……悪かったですね。どうせあたしはへそ曲がりのヤな子ですよ……!」
彼女は頬《ほほ》を膨《ふく》らませてそっぽを向いた。彼の前で、いつもそうしてきたように。
「でも、いてくれて良かったよ。最後に、どうしても会いたかったからね」
「え……」
驚《おどろ》く彼女を前にして、彼はきまりが悪そうな顔をした。
「おかしいかな?」
「いえ……別に。おかしく……ないです」
長い沈黙《ちんもく》が訪《おとず》れた。彼女はなにを言うべきか分からなかった。さっきまでは、言いたいことが山ほどあったはずなのに。
「せ、先輩……?」
「な、なんだ?」
「あたし……その……先輩と……」
声が出ない。勇気が出せない。
けっきょく、彼女は逃げてしまった。うって変わって明るい声で、間《ま》が保《も》たないのを取り繕《つくろ》うように、
「き……記念|撮影《さつえい》しません? せっかくだし。あたし、カメラ持ってるんです」
「あ……いいよ」
「じゃあ……ここで」
彼女は机《つくえ》の上にカメラを置いて、タイマーをセットした。それから彼のとなりに走って、ちょこんと並んだ。
カメラのフラッシュが光った。
二人は離れ、そこに別の部員がやってきて、彼女は礼を言って、部室を去り――
彼は過去《かこ》の存在になった。
「あー、授業中だぞ、私語《しご》はやめなさい……!!」
がやがやと騒《さわ》ぐ四〇名を前にして、その数学教師は声を張り上げた。
「えー……。静かにしろ!」
生徒たちは、わいのわいのと喋《しゃべ》り合い、きのう観《み》たドラマのことやら、不倫《ふりん》が発覚《はっかく》した局アナの話題やらで盛《も》り上がる。
小柄《こがら》で風采《ふうさい》もあがらず、話も退屈《たいくつ》な彼の授業は、いつもこの調子だった。
「ここ試験範囲《しけんはんい》なんだけどね……!」
それでも私語と雑談の嵐《あらし》はやまない。
「このクラスはどうなっとるんだ!? 私を馬鹿《ばか》にして! え? まったく……!」
教諭《きょうゆ》はだだっ子のように地団太《じだんだ》を踏《ふ》む。
「あのー。もう一度、あたしが注意しましょうか?」
学級委員の千鳥かなめが言った。
いつもと同じ制服|姿《すがた》。ロングの黒髪《くろかみ》の端《はし》っこを、赤いリボンで結《ゆ》わえた少女である。
かなめが親切《しんせつ》に提案しても、数学教師は苛立《いらだ》ちをあらわにするばかりだった。
「そう言ったって、君が叫《さけ》んでも全然効果がないじゃないか!? え?」
「まあ、そうですけど……」
彼女は何度か『みんな、静かにしなさいよ!』などと注意をしたのだが、沈黙《ちんもく》はせいぜい三〇秒ほどしか続かなかった。
「君じゃ駄目《だめ》だ! ほかにだれかいないのか? 日直《にっちょく》はだれだ!? 言え!」
「えー……。相良《さがら》くんです。でも――」
「よし、そいつだ! 相良! いるか!?」
「ここに」
教室の隅《すみ》の席で、分厚《ぶあつ》い洋書を読んでいた相良|宗介《そうすけ》が顔をあげた。むっつり顔にへの字口。油断《ゆだん》のない緊張感《きんちょうかん》が全身に漂《ただよ》っている、戦場育ちの転校生である。
「君は日直だな!? こいつらを黙《だま》らせろ!」
「は。しかし、日直にはそういった職務はないはずですが――」
「いいから静かにさせろっ!」
半分キレかけた数学教師は、自分の理不尽《りふじん》な怒《いか》りを宗介にぶちまけた。
「……了解《りょうかい》しました」
宗介は鞄《かばん》の中をごそごそと探《さぐ》り出す。それを横から見ていたかなめは、
「ちょっとソースケ」
「なんだ、千鳥」
「鉄砲《てっぽう》とかで天井《てんじょう》をガガガガーって撃って『静かにしろ!』ってのは駄目よ」
宗介は首を横に振った。
「安心しろ。銃《じゅう》など使わん」
「本当?……ならいいけど」
「目を閉じ、耳を塞《ふさ》いでいろ。……先生も同様にお願いします」
「へ? って、なにを――」
彼は鞄から手榴弾《しゅりゅうだん》を取り出すと、ピンを抜いて空中に放《ほう》った。
[#挿絵(img2/s02_171.jpg)入る]
わいわい、がやがや――
どかんっ!!
教室の中央、高度二メートルの空中で手榴弾が破裂《はれつ》した。危険な破片や炎《ほのお》はまったく出ない。ただその代わりに、猛烈《もうれつ》な閃光《せんこう》と爆発音が、教室中の全員に襲《おそ》いかかった。
しーん……。
晴れていく煙《けむり》の中、机《つくえ》や床《ゆか》に突《つ》っ伏《ぷ》して、気を失《うしな》った生徒、生徒、生徒……。それまで教室に横溢《おういつ》していた、私語と雑談の嵐《あらし》が、その一撃で完全に消え失《う》せた。
テロリストを殺さずに無力化する、非致死性《ひちしせい》のスタン・グレネード。その威力《いりょく》たるや絶大であった。
「よし……」
宗介は膝《ひざ》を付き、教壇《きょうだん》の下に倒れた数学教師の肩を揺《ゆ》すった。
「ご命令通り、静かにしました。……先生?」
数学教師が口から泡《あわ》を吹き、失神《しっしん》しているのを見て、彼は静かに瞑目《めいもく》した。
「愚《おろ》かな……」
「愚かは……あんたよっ!!」
最初にダメージから立ち直ったかなめが、その場に突進《とっしん》してきて、宗介の背中を蹴《け》り飛ばした。
その放課後《ほうかご》、帰り道の電車の中。
「まったく……。三日に一度はああいう騒《さわ》ぎになるんだから……。いつになったら適応できるのかしらね、あのバカは」
疲《つか》れた声で、かなめは言った。
「んー。でも、転校したてのころは一日に三度くらいだったよね。いちおう進歩してるんじゃない?」
隣《となり》に座《すわ》ったクラスメートの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が言った。とんぼメガネにおさげ髪《がみ》の小柄《こがら》な少女だ。自分もひどい目に遭《あ》ったというのに、どこかおかしそうな様子《ようす》にも見える。
「心が広いのね、キョーコは」
「うん。よく言われるよ」
あっさり認めるあたり、いい性格である。頭の上に輪《わ》っかを浮かべて、背中に小さな翼《つばさ》をくっつけたら、さぞや似合《にあ》うことだろう。
「…………。とにかく、こっちはいい迷惑《めいわく》よ。叱《しか》ったり尻拭《しりぬぐ》いしたりする、あたしの立場にもなって欲しいわよね、まったく」
「じゃあ、しなきゃいいじゃない」
「それは……あたしは学級委員だし、副会長でもあるからして――」
毎度のいいわけを聞いて、恭子は『はいはい』と手を振った。
「なによ、その態度」
かなめがむっとし、恭子がそっぽを向く。
「別に……。ただ、カナちゃんも進歩がないなぁ、と思っただけ。自分の気持ちに全然|素直《すなお》になれないっていうか……」
「あのね、キョーコ」
かなめは恭子に顔を近付けた。相手が一言一句《いちごんいっく》聞き逃《のが》さないように、注意深い声で、
「マジな話でね。恋愛対象《れんあいたいしょう》とか、そういう次元《じげん》の住人じゃないのよ、ソースケは」
「そうなの?」
「そう。最初からはっきりしてるでしょ? 戦争ボケの迷惑男で、デリカシーとかそういうモノが全っ然ないんだから」
「まあ、それはわかるけど。でもね、カナちゃんと相良くんって、一緒《いっしょ》にいると、二人ともすごく楽しそうに見えるから……」
恭子の言葉に彼女はすこし戸惑《とまど》ったが、すぐに気を取り直して鼻《はな》をふんと鳴らした。
「み、見えるだけ。錯覚《さっかく》よ」
「あ、そう……」
電車が調布駅《ちょうふえき》で停車した。
駅前のパルコで買い物をすることになっていたので、かなめと恭子は電車を降《お》りようとする。その車輌《しゃりょう》の乗車口で――
「あ……」
ばったりと鉢合《はちあ》わせになった相手を見て、かなめはぽかんとした。
「不破《ふわ》……先輩《せんぱい》」
ブレザーの制服に、さらさらの髪。意志の強そうな、きりりとした眉目《びもく》。前より背が高く、肩幅《かたはば》も広くなったような気がする。
「千鳥。驚《おどろ》いたな……」
かなめとその若者――不破は、互《たが》いに目を丸くして、長い間見つめ合っていた。電車が走り去り、ホームに三人が取り残される。
「かわいい制服だな。それ、陣代《じんだい》だろ?」
「え? あ……はい。そうです」
我《われ》に返ったかなめが答えると、不破はすこしだけ、意地《いじ》の悪い顔をした。
「千鳥、けっこう成績《せいせき》ヒドかったのにな。陣代なんかに入れたんだ。へえー」
「もう。馬鹿《ばか》にしないでくださいよ……!」
「はは。悪い悪い」
ごく自然に、かなめはその先輩――不破の腕を小突《こづ》くことができた。不破は笑って、それを受け流した。
「でも……元気そうだな。良かった」
「それはどーも。先輩も元気そう」
「ああ。……もし良かったら、どこかでお茶でもどうだ? あ、友達がいるのか」
「え? あ……いい、キョーコ?」
「うん……いいけど」
恭子が不安顔でいることには、かなめはまるで気付いていなかった。
ここ数日、かなめの様子《ようす》がおかしい。
日常会話の機微《きび》にかけては恐竜《きょうりゅう》並《な》みに鈍感《どんかん》な宗介でも、それくらいはうすうすと感じることができるのだった。
たとえば朝。
駅からの通学路で、かなめが物思いに沈《しず》みながら歩いている。声をかけると、彼女はなぜかぎょっとしてから、妙《みょう》に明るい声で『お、おはよ!』と挨拶《あいさつ》する。朝の弱い彼女は、いつもは『うー。おはよ……』と不機嫌《ふきげん》に答えるだけなのに。
たとえば昼。
武器の手入れをしていたところ、級友の一人が発煙弾《はつえんだん》を勝手《かって》にいじって、暴発《ぼうはつ》させてしまった。それを見ても、かなめはただ『気を付けなさいよ』とうわの空で言うだけだった。いつもなら『あんたの管理責任よ!』だのと頭をはたかれるところなのに。
そして夕方。
たいした用の無い日は、かなめはよく生徒会室でダベっている。しかしここ数日の彼女は、屋上《おくじょう》で一人、ぼーっとしているのだ。
機嫌が良さそうにも見えるし、なにか悩《なや》み事があるようにも見える。なんとも形容しがたい、微妙《びみょう》な不協和音。
「千鳥」
そんな三日目の昼休み。かなめがヤボ用で生徒会室に出かけようとするところに、彼は声をかけた。
「なに、ソースケ?」
立ち止まって、かなめが答える。無言《むごん》で凝視《ぎょうし》していると、彼女はそわそわとして、
「あ、あたしの顔になにか付いてる?」
「いや。なにか問題があるのか?」
「え?」
「厄介事《やっかいごと》があるなら、俺《おれ》が力になるが」
そう言ったとたん、彼女の作り笑いが鳴りを潜《ひそ》めた。当惑《とうわく》を隠《かく》しきれないように目をそむけて、
「別に……。そういうのじゃないの。その、気にしなくていいから。ごめん」
謝《あやま》ってから、かなめは教室を後にした。
「……やはりおかしい。そう思わんか」
そばで弁当箱《べんとうばこ》をつついていた恭子に、宗介は話しかけた。
「おかしいって……なにが?」
ぱくりと卵焼きを口に入れてから、恭子がたずねる。
「千鳥のことだ。様子《ようす》が変だ」
「そう……かもね」
「常盤はなにか知っているのか?」
「え……。知らないよ」
恭子の顔が曇《くも》った。ぴょこんと頭から突き出したおさげ髪《がみ》までもが、心なしか、しなっと垂《た》れ下がったように見える。
「またいつぞやのように、だれかの脅迫《きょうはく》でも受けているのだろうか」
「それは違うと思うな……」
「ならば、薬物《やくぶつ》の依存症《いぞんしょう》かもしれん」
「それ、絶対ちがう」
「会長|閣下《かっか》の密命《みつめい》を受けて、極秘《ごくひ》の特殊《とくしゅ》作戦に従事《じゅうじ》している……というのはどうだ?」
「あのねえ、相良くん……」
恭子が困《こま》ったような笑顔を見せると、宗介は腕組みした。
「常盤。君に頼《たの》みがあるのだが」
「なに?」
「もし君がなにか気付いたら、俺に教えてくれないか。どんな些細《ささい》なことでもいい」
「…………」
「どうも気になる。心配だ」
言ってから、彼は机《つくえ》の下から弁当――変な干し肉とトマトを取り出して、コンバット・ナイフで切りはじめた。
その間、恭子は弁当に箸《はし》も付けずにうつむいていた。長いためらいのあと、
「相良くん……」
「なんだ」
「あのね……あさっての日曜日、ヒマ?」
「空《あ》けることはできるが」
「じゃあ、あたしと出かけない? カナちゃんがおかしい理由、見せてあげるから」
東京|郊外《こうがい》に位置するその遊園地《ゆうえんち》は、ありていにいって不人気《ふにんき》だった。
赤錆《あかさび》の浮かんだジェット・コースター。古い病院を思わせる建物《たてもの》。ゲームコーナーには『ゼビウス』や『スパルタンX』などといった、骨董品《こっとうひん》級のビデオゲームが平然と置きっぱなしになっている。従業員の態度もいい加減《かげん》で、日曜だというのに客足もまばら。まるでやる気がうかがえない遊園地なのである。
かなめと不破《ふわ》がそんな場所をデートに選んだのは、二人でここに来た思い出があったからだ。
「授業、サボって来たんだったよな」
遊園地の入場口を抜けてから、私服姿《しふくすがた》の不破が言った。
「朝、通学路で会ったらさ、千鳥が『学校に行きたくない』って言って。あの時はびっくりしたよ」
「でも、ちゃんと付き合ってくれましたよね、先輩」
かなめはいつもの活動的な私服ではなかった。ふんわりとした手編《てあ》みのセーターに、淡《あわ》いブラウンのフレアスカート。髪はポニーテールに結《ゆ》わえている。
「そうだな。だから、今度は千鳥に付き合ってもらったわけだ」
「だけどいいんですか? 先輩、受験なんでしょう?」
「ああ……。ま、たまには息抜きしたかったから。千鳥が気にすることはないよ」
「なら、いいんですけど」
偶然《ぐうぜん》出会ったあの日、不破に『また会わないか』と言われ、かなめはそれをOKした。それ以来ずっと、心のどこかがもやもやとしている。不破と会うのは楽しみだったのだが、同時に後ろめたいような――いやな感じがどうしても消えないのだ。
宗介に『厄介事《やっかいごと》か?』と聞かれた時の、あの罪悪感《ざいあくかん》。悪いことなど、自分はなにひとつしていないはずなのに。
かなめは一度|深呼吸《しんこきゅう》して、そういう気分を頭から追い出した。そう、自分は別に、悪いことはしていない……。
「……とにかく楽しみましょ。せっかく来たんですから、ね」
「ああ、そうだな」
二人は並んで歩き出した。
「……と、いうわけなんだけど」
入場口の柱の蔭《かげ》に隠《かく》れて、恭子が言った。黒ずくめのスーツに丸いサングラス、ロングコートといった怪《あや》しい扮装《ふんそう》である。
一緒《いっしょ》に隠れる宗介はといえば――同様に黒ずくめのコート姿だった。二人で並ぶと、まるでブルース・ブラザーズの出来損《できそこ》ないみたいである。
すぐそばには、この遊園地のマスコット・キャラクター『ボン太くん』のぬいぐるみが棒立《ぼうだ》ちしていた。変な生き物がくりくりっとした大きな目で、宗介たちを不思議《ふしぎ》そうに眺《なが》めていたが――とりあえず二人はその視線を無視しておいた。
「あの人ね、カナちゃんが中学のころ付き合ってた[#「付き合ってた」に傍点]先輩なんだって。こないだ学校の帰りに、ばったり出会ったの」
恭子が説明する。
「付き合ってた、とは……?」
「ただの先輩|後輩《こうはい》じゃなかった、ってことでしょ?」
宗介はあごに手をやった。
「あの男は、別の高校の生徒らしいな」
「そうだけど」
「千鳥は陣代《うち》の副会長だ。あの男が我《わ》が校の機密《きみつ》情報を盗《ぬす》むために、千鳥に接触《せっしょく》しているとすれば……説明はつくな」
恭子ががっくりと肩を落とした。
「もう、そんなわけないでしょ? だいたいうちのガッコの生徒会に、そんな秘密なんてあるわけないじゃない」
「いや。あるのだ」
「へ?……どんな秘密?」
「いろいろだ。一部の予算の運用法や、教職員や教育委員の弱み、不良グループに溶《と》け込んでいる潜入捜査官《アンダーカバー》の名前など……他者に渡ると危険なものばかりだ」
「まったく、林水《はやしみず》センパイは……」
あきれる恭子には構《かま》いもせず、宗介はあくまで深刻《しんこく》な様子《ようす》で、
「ともかく。千鳥がどこまで関《かか》わっているのかはわからんが……。やはり情報が渡る前に、この場で締《し》め上げよう」
宗介はコートの下に隠していた散弾銃《さんだんじゅう》を抜き、遠ざかっていく二人を追いかけようとした。その腕を、恭子が思い切り『がしっ!』とつかむ。
「ダメ! 相良くん、それは絶対にダメ!」
「常盤?」
「そんなことしたら相良くん、本当にカナちゃんに嫌われちゃうよ!? 絶対、あの人に手を出しちゃ、ダメ!」
これほど強い剣幕《けんまく》で恭子がなにかを言うのは、はじめてのことだった。さすがに宗介も気圧《けお》される。彼女は我《われ》に返ってから、
「と……とにかく、あの二人はスパイなんかしてないよ。もっと様子を見てから、もう一度考えてみて。ね?」
「ふむ……。そこまで言うなら、もう少し泳がせてみよう」
宗介が散弾銃をしまうと、恭子はほっと胸をなで下ろした。
「ありがと。じゃ、こっそり尾《つ》けよ」
「うむ。では、ぬかるなよ、常盤」
二人はこそこそとかなめたちの後を追った。
実際、かなめとその先輩――不破《ふわ》の様子は、スパイの密談《みつだん》には程遠《ほどとお》い雰囲気《ふんいき》だった。
ジェット・コースターから降《お》りてきたかなめたちは、心から楽しそうに笑っていた。彼女がなにやらせがんで、彼の腕を引き、もう一度乗ったりもしていた。
コーヒーカップでぐるぐる回ったあと、気分が悪くなったかなめを、彼がおかしそうに介抱《かいほう》していた。
ボン太くんが売っている風船《ふうせん》も買った。かなめはにこにこ顔でボン太くんの頭を撫《な》で、ツーショットの記念|撮影《さつえい》までしてもらっていた。
ゲームコーナーでパンチ力の計測《けいそく》ゲームもやっていた。彼が一発で一三〇キロの記録をたたき出したのに感心して、かなめは惜《お》しみない拍手《はくしゅ》を送っていた。
最初は距離《きょり》をおいて歩いていた二人だったが、いまはかなり近付いているようにも見えた。ときおり、ほんの一瞬《いっしゅん》、なぜか彼女は寂《さび》しそうな目をしていたが、ほかはまるで――恋人同士のようだった。
ひとしきり遊んだあと、かなめたちは売店《ばいてん》でスナック菓子《がし》とジュースを買い、近くのベンチに腰掛《こしか》けた。
「……確かに、見込み違いだったようだ」
恭子と一緒《いっしょ》に植え込みのしげみに隠《かく》れたまま、宗介はようやく認めた。
「スパイ行為《こうい》や脅迫《きょうはく》などはないな。あの二人は親《した》しいだけだ。そう、非常に……楽しんでる。けっこうなことだ」
しっかりとした声で言ってから、サングラスの位置を直す。
「相良くん……だいじょぶ?」
「もちろんだ。だいじょぶだ。安心がよくわかった。事情した」
「そう? なんか、言葉がヘン……」
「気のせいだろう。俺は冷静だ。熱《あつ》く燃えさかるほどにな」
そう言ってから、宗介はいきなりその場で拳銃《けんじゅう》の分解|整備《せいび》をはじめた。
「このように、正確な動作もできる。たとえ目をつぶろうとも――」
ばいん、と間抜《まぬ》けな音がして、彼の手から部品のひとつのリコイル・スプリングが飛んでいってしまった。
「……部品を飛ばすこともできる」
恭子は申し訳《わけ》なさそうに、
「……口で説明しても、たぶん分からないと思ったから。だから連れてきたの。そうしないと相良くん、ドツボにハマっちゃいそうに思えて」
「そうか」
「やっぱり残酷《ざんこく》だったかな。……ごめん」
「いや。問題ない」
彼はいい加減《かげん》に銃を組み直して、ホルスターに押し込んだ。
「とにかく偵察《ていさつ》は終了《しゅうりょう》したのだから、帰還《きかん》しよう。退路《たいろ》を確保、足跡《あしあと》を消す。爆薬《ばくやく》はここで放棄《ほうき》。常盤は <デ・ダナン> に連絡しろ。|RV《ランデヴー》はポイント|A《アルファ》。ヘリの到着予定時刻《ETA》を聞くのを忘れるなよ」
宗介はきびきびと、得体《えたい》の知れない指示《しじ》を恭子に下《くだ》した。
「かなり動揺《どうよう》してるみたいだね……」
「とにかく、帰るのだ」
ぎくしゃくとした動きで、宗介はその場を離れようとした。
そのとき。
「くぉおぅらあぁっ!」
下品なダミ声がした。見ると、ベンチに座《すわ》ったかなめと不破《ふわ》に、数人の男たちが因縁《いんねん》をつけていた。パンチパーマの中年ばかり。酔《よ》っ払《ぱら》いのようで、足がふらついている。
「昼間っから、いちゃいちゃいちゃいちゃとしおってぇ。おまーら、学生だろがぁ? 勉強しろ、勉強ぅっ!」
昼間から遊園地《ゆうえんち》で飲んだくれてる人間の方が、相当問題があるのだが、とにかく男たちはそう言ってかなめたちに絡《から》んでいた。
かなめは皮肉《ひにく》っぽい顔で、男たちに向かってなにやら告げていた。ここからでは聞こえないが――
「ンだとお? このガキぃぃ!」
たぶん、ひどい憎《にく》まれ口を叩《たた》いたのだろう。パンチパーマのおっさんたちは、にわかに色めきだって、かなめたちを取り囲《かこ》む。
「あれ……ヤクザ屋さんかな。まずいよ」
恭子がはらはらして言った。
「問題ない。こちらは戦争屋だ」
「助けるの?」
「そうだ。彼女がだれと親《した》しかろうと……それは関係ない。俺は彼女を護《まも》る。もとより恩《おん》を売る気などない」
うつむき加減《かげん》でそう言うと、恭子がじわーっと瞳《ひとみ》をうるませた。
「相良くん……エラい!」
「うむ。では、行く」
「あ、でも待って。それくらいの変装《へんそう》じゃ、カナちゃんにバレちゃうよ?」
「む……」
スーツ姿《すがた》にサングラス程度では、さすがに近付けばすぐわかってしまう。宗介は後頭部を掻《か》きながら、あたりを早足でうろうろしてみた。売店の裏側に回ってみると、ランニング姿の老人が目にとまる。
その老人は、重たいぬいぐるみを脱《ぬ》いで、一服《いっぷく》しているところだった。
「大人《おとな》をナメんのもたいがいにせいよぉ!?」
かなめに向かって、その酔っ払いは怒鳴《どな》りつけた。ビールくさいその息に思わず『うっ』としながらも、彼女はひるまず、
「酔ってからんで、なにが大人よ!? だいたいさっきの発言は聞き捨《ず》てならないわね。なんなの、その『女子高生=援交《えんこう》』って発想は? 頭悪すぎよっ!」
「ち、千鳥。あんまり……」
不破が横からなだめようとするが、かなめはそれを聞いていなかった。
「とにかくね、向こうに行ってて! あたしはともかく、受験生の先輩《せんぱい》に、バカが感染《かんせん》したら大変なんだから!」
『なんじゃとぉ、こらぁ!?』
きれいにハモって、男たちはかなめにつかみかかろうとした。不破がそれを邪魔《じゃま》しようとし、彼女が身を固くしたところで。
それを制止する鋭《するど》い声が――
「ふもっふ」
訂正《ていせい》。変な声がした。
「…………?」
見ると、道路を挟《はさ》んだ売店の屋根の上に、変な生き物のぬいぐるみが立っていた。
「………ボン太……くん?」
かなめがぽつりと言った。
犬なんだか何なんだか、よくわからない頭。ずんぐりとしたオバQ風の二頭身。くりくりと大きな丸い瞳《ひとみ》。いちおう、愛くるしい感じではある。
『ふもっ。ふもっふ。ふもぉ〜〜?』
前口上《まえこうじょう》らしいなにかを言ってから、ボン太くんは不敵《ふてき》に両|腕《うで》を組もうとして――失敗した。腕が短いせいである。
『ふもっ、ふもっふ、ふもっ!』
今度はなにやら強い調子で、ボン太くんは一同を叱《しか》り付けた。
「……なんだ?」
『ふもっふ! ふもっふ! ふもっふ!』
不審顔《ふしんがお》の酔《よ》っ払《ばら》いたちに、ボン太くんはなおも怒《いか》りの言葉をぶつける。
「…………」
どうにも自分の意思《いし》が伝わらないことに業《ごう》を煮《に》やしたボン太くんは、どこからか小石を取り出すと、『ふもっ』とばかり投げつけた。
小石がこつん、と酔っ払いの頭に当たる。
「いてっ。なにすんじゃ、こら!」
『ふもっふ』
ボン太くんがばたばたと手招《てまね》きした。なんとなく偉《えら》そうな態度である。
「上等じゃぁっ! 下りてこんかぁ!?」
男の一人が激怒《げきど》して、のしのしと売店に向かっていく。
『ふもっ……。ふもっふ』
ボン太くんは一度下がると、『てくてくてく〜っ!』と助走をつけて、売店の屋根から跳躍《ちょうやく》した。
「お……」
べしゃんっ!
ボン太くんのボディ・プレスを食らって、男はその場に叩《たた》き潰《つぶ》された。
「わ……若頭《わかがしら》ぁっ!」
やはりヤクザ屋さんだったらしい。ほかの男たちは血相《けっそう》を変え、地面に寝そべったままのボン太くんに殺到《さっとう》する。
「覚悟《かくご》せいやぁっ!」
ボン太くんはすぐさま身を起こそうとして、また失敗した。足が短くて、お饅頭《まんじゅう》みたいな形だからである。
『ふもっふ……』
[#挿絵(img2/s02_193.jpg)入る]
それでも彼は冷静に、地面をごろごろと転《ころ》がって、その勢《いきお》いをもって起き上がり小法師《こぼし》のごとく立ち上がった。
「器用な……」
半分あきれるかなめたちの前で、ボン太くんは大立ち回りを演じた。
一人にぽこんと頭突《ずつ》きをかまし、もう一人をぽいっと放《はう》り投げ、それぞれに扁平足《へんぺいそく》でスタンピングしまくる。男たちが『痛いよ』『やめてよ』と頼《たの》んでも、『ふもっ、ふもっ』と容赦《ようしゃ》のない連撃。
まことに、鬼神《きしん》のごときボン太くんの戦いぶりであった。
「ひ、ひいっ……!」
なにがなんだかわからなくなって、逆上《ぎゃくじょう》した最後の一人が、ボン太くんから泣いて逃《のが》れ、ドスを抜いてかなめへと突進《とっしん》してきた。人質《ひとじち》か盾《たて》にでもしようという気らしい。
「あ……」
「千鳥……!」
不破《ふわ》が彼女をかばう。そこに男が、白刃《はくじん》を閃《ひらめ》かせて突っ込んできて――
じゃきっ、どかんっ!
重たい銃声《じゅうせい》と共に、男がもんどりうって倒れた。背中にゴム弾《だん》を食らったらしく、男は地面の上でのけぞって悶絶《もんぜつ》する。
かなめが驚《おどろ》いて顔をあげると、ボン太くんが白煙《はくえん》の立ちのぼるショットガンを、腰《こし》だめに構《かま》えていた。
(え……?)
彼女の視線に気付くと、ボン太くんはあわててショットガンをすその下にしまい込んだ。
そこで、その場にやってきた子供が素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげる。
「あ〜〜、母《かあ》ちゃん! 父ちゃんたちが、またこんなところでお酒飲んで寝てるう〜!」
「ああ? なんだい、まったく……」
どうやら酔《よ》っ払《ばら》いの家族らしい。ほかの野次馬《やじうま》もわらわらと集まってきた。かてて加えて、遊園地の警備員《けいびいん》たちまでやってくる。
「あ、あいつですじゃ! わしの大切《たいせつ》なボン太くんを勝手《かって》に着て――」
ランニング姿《すがた》の老人が、警備員の一団の後ろから叫《さけ》んだ。
『ふもっふ……』
うろたえるような仕草《しぐさ》を見せて、ボン太くんはその場から逃げ出した。すでに独特の走法をマスターしたらしく、その短足には似合《にあ》わない高速移動である。
「こ、待ちなさい……!」
それを追って、警備員たちが駆《か》け出していった。取り残されたかなめたちは、しばらくの間ぽかんとしていた。
かなめと不破は気を取り直し、すこし園内を歩いてから観覧車《かんらんしゃ》に乗った。
「なんだったんだろうな、あれは。新手《あらて》のアトラクションか?」
二人きりになり、不破がようやく人心地《ひとごこち》ついた様子《ようす》で言った。
「……にしては過激《かげき》でしたよね。はは……」
「ああ。でも、千鳥の啖呵《たんか》も過激だったよな。ただの酔っ払いだったのに、火に油を注ぐような真似《まね》をして……」
「あ……ごめんなさい。あたしのせいで、先輩《せんぱい》まで危《あぶ》ない目に遭《あ》わせちゃって」
かなめがあわてて頭を下げると、不破は笑って手を振った。
「いいんだよ。スリルもあったしね。それになんか……千鳥らしいじゃないか。俺、おまえのそういうところも、好きだから」
「え……」
かなめはどきりとした。自分の欠点だと思っていた面を、そんな風に言われたのははじめてだった。
時計でいったら二時のあたりに、観覧車のゴンドラがさしかかったころ。
「あのさ……」
すこし改《あらた》まって不破が切り出した。
「昔《むかし》――あの時は言えなかったんだけど。俺と付き合わないか、千鳥」
「先輩……」
「俺、おまえのこと……好きだと思う。前から。いまでも。だから……千鳥」
ずっと昔、彼女はその言葉を待ち望んでいたはずだった。そしていまでも、そう言われて嬉《うれ》しかった。
だというのに――
「ごめんなさい」
まったく悩《なや》まなかった。こう言われたら、そう答えるのはわかりきっていた。ここで『ええ、喜んで』と自分が答えるわけがない……そういう違和感《いわかん》が、なぜかはじめからあったのだ。
でも、どうしてだろう?
「そうか」
不破は深いため息をついた。三秒ほど苦しそうな顔をして、それからふっと、すっきりしたようにほほ笑む。
「ほかに好きな奴《やつ》がいるのか?」
「え……?」
「なんか、そんな気がしたんだ。きょうは楽しかったけど……たまに、だれかのことを思い出してるみたいな顔をしてたから」
そう指摘《してき》されて、かなめはあわてた。
「あっと……それは、その……」
「どんな奴? 興味《きょうみ》あるな」
「いえ、別に……そういう人は……」
いない。
そう断言することが、彼女にはできなかった。普段《ふだん》なら平然と『そんな人、いません』と答えられるはずなのだが。
そんな彼女の躊躇《ちゅうちょ》を、不破は肯定《こうてい》――『いる』と受け取ったようだった。
「千鳥が気になるような奴だから――よっぽどしっかりしてて、大人《おとな》なんだろうな」
「それは違います。ええ、もう、絶対!」
いきなり断固《だんこ》たる口調《くちょう》で否定《ひてい》すると、不破はきょとんとした。かなめはいたたまれなくなって、彼から目をそらし、ゴンドラの外を眺《なが》めた。
窓からは、遊園地の全景がよく見えた。
メリーゴーラウンドの周《まわ》りを、豆粒《まめつぶ》のようなボン太くんが必死になって走っている。それを追う警備《けいび》員の一団。先回りして飛びかかってきた一人を、ひょいっとかわして木馬《もくば》に飛び乗り、なお逃げる。
(あのバカ……)
たぶん、恭子の入れ知恵《ぢえ》で尾《つ》けてきたのだろう。普通だったら腹を立てるところだったが――なぜか、嬉《うれ》しい気分だった。
(まったく。どこに来ても、ああなんだから……)
懸命《けんめい》に逃げ続けるボン太くんを見て、かなめは顔をほころばせた。
このぬいぐるみ。
なにしろ重い。動きにくい。先刻《せんこく》の格闘《かくとう》で金具《かなぐ》が壊《こわ》れたのか、脱《ぬ》ぐこともままならない。いちおう警備員の追跡《ついせき》はまいたが、この目立つ格好《かっこう》ではすぐに見付かってしまうだろう。
(まいった……)
焦《あせ》りながら、宗介が人気《ひとけ》のない一本道を走っていると――
その真ん中に、かなめが一人で突っ立っていた。どういうわけか、あの不破《ふわ》とかいう先輩《せんぱい》の姿は見えない。彼女は宗介を待ち受けていたように、両手を広げて通せんぼした。
「…………?」
「そこの茂《しげ》みに隠《かく》れて。はやく」
深く考えもせずに、彼は従《したが》った。植え込みの低木にずんぐりとした身を隠すと、一瞬《いっしゅん》遅れで警備員たちがやってきた。
「お客さん! 散弾銃《さんだんじゅう》で武装《ぶそう》したボン太くんを見ませんでしたか? こちらに走って来たはずですが――」
「あっちに行きましたよ」
かなめが告げると、警備員たちはまるで見当外《けんとうはず》れな方角へと突進《とっしん》していった。
その場には宗介とかなめだけになる。
「さて……ひと安心ね。ボン太くん」
「ああ。助かった」
息も荒げにそう答えたものの、変なボイスチェンジャーが勝手《かって》に機能して、『ふも。ふもっふ』という声しか出せなかった。
かなめはおかしそうに笑ってから、
「さっきはありがとね」
『ふも、ふもっふ(いや、別に)』
「人助けのついでに、あたしの身《み》の上《うえ》話《ばなし》聞いてくれる?」
『ふもっ(構《かま》わんが)』
不審《ふしん》に思いながら答えると、彼女は手近なベンチに腰掛けた。
「きょうね……あたし、昔《むかし》好きだった人とデートしたの」
『……ふもっ(……そうか)』
ボン太くんがしゅんと肩を落とす。その仕草《しぐさ》を見るかなめの目は、どこか楽しげだった。
「その人、中学のころの先輩でね――」
かなめはゆっくりと、その先輩と自分とのことを語っていった。部活の助《すけ》っ人《と》で知り合ったこと。ずっと片思いだったこと。最近になって、ひょっこりと再会したこと。そしてついさっき、交際《こうさい》を申し込まれ、それを断《こと》わってきたこと……。
まったく予想外のなりゆきに、宗介は唖然《あぜん》とするばかりだった。
「なんで断わったか、ボン太くんにはわかる?」
『ふも……(いや……)』
「あたしもよくわかんない。……でもね、最近、そのことであれこれ悩《なや》んでたら、クラスメートが心配してくれたの。いつもは全っ然、鈍感《どんかん》なくせに。珍《めずら》しく『なにか問題があるのか?』とか言って」
クラスメート。いつも鈍感。だれのことだろうか?
いぶかるボン太くんのもこもこした手を、彼女がそっと握《にぎ》った。
「すごく嬉《うれ》しかったな……」
『ふもっふ……?(千鳥……?)』
「……いや、本当はちょっと、後ろめたかったけどね」
そう言って、かなめはまた笑った。なにやらすっきりとした様子《ようす》で、彼女はベンチから立ち上がり、
「……とまあ、そういうこと。明日《あした》っからは、いつも通りのあたしだから。安心してね[#「安心してね」に傍点]、ボン太くん[#「ボン太くん」に傍点]。それじゃ」
ぬいぐるみの頭をぽんぽんと叩《たた》いて、かなめはその場から立ち去っていく。軽い足取りで遠ざかっていく彼女を、宗介は棒立《ぼうだ》ちしたまま見送るばかりだった。
『ふも……(ふむ……)』
明日っからはいつも通り。
その言葉を反芻《はんすう》すると、どういうわけだか、ぬいぐるみの重さが消えたような気がした。
それはとても不思議《ふしぎ》な感覚だった。
「いたぞっ! こっちだ!」
叫《さけ》び声と、複数の足音が近付いてくる。
さて、脱出《だっしゅつ》だ。
ボン太くんは意気込《いきご》み、突風《とっぷう》のように駆《か》け出した。
[#地付き]<一途なステイク・アウト おわり>
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キャプテン・アミーゴと黄金《おうごん》の日々
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そこに行くには、すこしばかり時間がかかる。
ある連休前の木曜日。
六時間目の授業が終わると、相良《さがら》宗介《そうすけ》は学校を飛び出し、同じ市内の調布《ちょうふ》飛行場へと向かった。口が堅《かた》く、詮索《せんさく》もしない小さな航空会社が用意していたセスナ機に乗り込み、彼はあわただしく離陸《りりく》する。
セスナ機は南へ飛び続け、太平洋に出た。
二時間ちょっとで、八丈島《はちじょうじま》の小さな空港に到着《とうちゃく》。むっつりと押し黙《だま》ったままの高校生が、どうしてそう頻繁《ひんぱん》に八丈島に用があるのか――年配《ねんぱい》のパイロットはたずねようとはしない。宗介もまったく説明しない。
実のところ、宗介は八丈島に用があるわけではなかった。その空港で待っている、別のプロペラ機に乗り換えるだけである。
その機体のパイロットは、宗介に軽く敬礼《けいれい》し、こう告げた。
「きょうは快適《かいてき》ですよ、軍曹《ぐんそう》。空は快晴《かいせい》。風も穏《おだ》やかです」
「ああ。出してくれ」
宗介は機のキャビンで学校の制服を脱《ぬ》ぎながら、パイロットにこたえた。
その双発《そうはつ》のターボ・プロップ機―― <キングエア> は見るからに古臭《ふるくさ》く、ゆうに二〇年以上は使われていそうに見えた。しかし、中身はそうでもない。エンジンや航法|装置《そうち》をそっくり新品に載《の》せ換えて、時速五〇〇キロ以上の巡航《じゅんこう》速度が出せるようにいじってある。タフな作りで、嵐《あらし》にも強い。
夕闇《ゆうやみ》に暗くなりはじめた空港を飛び立ち、さらに南へ。三時間半ほど空を飛ぶ。宗介はその間に、キャビンで数学の宿題《しゅくだい》を済《す》ませた。
頭上《ずじょう》には満天の星ぼし。眼下《がんか》はどこまでも黒い海だ。
東京から二千数百キロの南。日本の最果《さいは》て。硫黄島《いおうじま》や沖《おき》ノ鳥島《とりしま》さえ、数百キロの彼方《かなた》である。様々《さまざま》な航空機や艦船《かんせん》の航路からも遠い。ここで墜落《ついらく》したら、およそ一般《いっぱん》の救助は望むべくもなかった。
「そろそろです」
パイロットが告げてから数分すると、なにもない真っ暗な海の一点に、孤島が見えた。月明かりの下で、ぼうっと浮かび上がる半円形の島。両翼の長さは一〇キロ近くあるだろうか。
パイロットが着陸|許可《きょか》を要請《ようせい》する交信《こうしん》をはじめた。いくつかのやり取りのあと、無線の向こうの相手が告げる。
『我《わ》が家へようこそ、ゲーボ|30[#「30」は縦中横]《サーティ》。着陸を許可する』
すると明かり一つない真っ暗な島に、異変《いへん》が起きた。
密林《みつりん》に覆《おお》われた島の西側、広葉樹《こうようじゅ》の天蓋《てんがい》が左右に分かれていく。ぽつり、ぽつりと、着陸灯がともり、黒い密林の真ん中に、一本の滑走路《かっそうろ》が出現した。全長は二〇〇〇メートルほど。それが次第《しだい》に近付いてくる。
「さて……と」
パイロットは上唇《うわくちびる》をぺろりと舐《な》めてから、機体を着陸体勢に入らせた。フラップを下ろし、スロットルを絞《しぼ》り、高度を下げ――どれも問題なかった。ジャングルに挟《はさ》まれた滑走路に、プロペラ機はのんびりと降《お》りていく。
やっと着《つ》いた。そう思いながら、宗介は肩のこりをほぐして背筋《せすじ》を伸《の》ばした。
コンソールの上に据《す》えつけられたGPSの表示は、北緯《ほくい》二〇度五〇分、東経《とうけい》一四〇度三一分。この島は、一般の地図には載っていない。
宗介やパイロット、ほかの関係者たちは、この島を『メリダ島』と呼んでいる。
メリダ島。上空から見れば、そこはただの無人島だ。だが地下は違った。
様々な最新|装備《そうび》や武器|弾薬《だんやく》の備蓄《びちく》、戦闘員《せんとういん》の日常|訓練《くんれん》。そして超《ちょう》ハイテクの|強襲 揚陸《きょうしゅうようりく》潜水艦《せんすいかん》 <トゥアハー・デ・ダナン> の整備|基地《きち》。そういった施設《しせつ》が、このメリダ島には建設《けんせつ》されている。
そこは彼が属する極秘《ごくひ》の傭兵《ようへい》部隊、<ミスリル> の西太平洋基地だった。
「……だってのに、なんなんだ、この雨漏《あまも》りは?」
コーヒーカップにたまった雨水をバケツに捨《す》てて、クルツ・ウェーバー軍曹《ぐんそう》は叫《さけ》び声をあげた。
オリーブ色の野戦服姿《やせんふくすがた》で、胸《むね》には <ミスリル> のIDカードを着けている。肩で揃《そろ》えたブロンドの長髪《ちょうはつ》。深いブルーの眼《め》。細く整《ととの》った顔立ち。黙《だま》っていれば、映画スター並《な》みの美青年だ。
しかし、彼はいま黙っていなかった。
「なにが最新の秘密基地だ? どこが超ハイテクの要塞《ようさい》だ? 昼間の雨がいまだに漏って来てるじゃねえか。おかげで俺《おれ》のデスク、水びたしだぞ? あんなドでかい変な潜水艦にカネぶち込む前に、天井《てんじょう》の穴をどうにかしろ!」
クルツはうなり、人のまばらなオフィスを行ったり来たりする。
天井の石膏《せっこう》ボードの隙間《すきま》から、地上の水が漏ってくるのだ。
一〇人分ほどの簡素《かんそ》な机《つくえ》。電子端末《でんしたんまつ》と資料のファイル、くしゃくしゃになったコピー紙や地図。壁《かべ》には大きな液晶《えきしょう》パネルが貼《は》られ、西太平洋の大きな地図とスケジュール表が投影《とうえい》されている。
そこは島の地下に設《もう》けられた、特殊対応班《SRT》のオフィスだった。荒事《あらごと》を受け持つSRT要員でも、机仕事はある。作戦後の報告書やら、新装備の仕様《しよう》要求やら、作戦や戦術の提案書やら。そしてもっとも重要な――必要経費の明細書《めいさいしょ》。
「……食いもんはマズい、ロクな日本酒が置いてない。シャワーの水がお湯になるまで一分かかる。排水パイプから変な油の臭《にお》いがするし、兵舎《へいしゃ》には格納庫《かくのうこ》の騒音《そうおん》が響《ひび》いてくる。一〇〇段もある階段の横で、エレベーターには『故障《こしょう》中』の張り紙だ。俺様みたいな貴公子《きこうし》を扱《あつか》う場所じゃねえぞ、実際。ここは?」
クルツがぶつぶつ言っていると、離れたデスクで傘《かさ》をたてかけ、仕事をしていたメリッサ・マオ曹長《そうちょう》が、彼の後頭部《こうとうぶ》に消しゴムを投げつけた。
「いてっ。なにすんだよ」
「うるさい上に見苦しいのよ、あんたは……! 仕事がないならどっか行ってな」
マオは中国系のアメリカ人女性である。ベリーショートの黒髪《くろかみ》に、猫《ねこ》を思わせる大きな瞳《ひとみ》。黒いタンクトップの胸に、IDカードをとめている。
「どっか行けったって……兵舎の雨漏《あまも》りはもっとひどいしよー」
「娯楽室《ごらくしつ》でも行ってたら? さっきロジャーがヒマそうにたたずんでたわよ」
「いやだ。あそこは卓球《たっきゅう》台と『テトリス』しかない。ひなびた温泉宿《おんせんやど》みたいで空《むな》しい」
「酒場《パブ》は? ビリヤード台があるじゃない」
「あれはヘリのパイロット連中が占領《せんりょう》してる。こないだカモってやったら、『もうお前とはやりたくない』だと」
「ガキねぇ……どっちも」
ため息をついて仕事に戻《もど》るマオ。クルツは構《かま》わず不機嫌《ふきげん》な独白《どくはく》を続ける。
「最近はドンパチもなくて、退屈《たいくつ》な訓練と演習ばかりだ。ああ、都会に帰りたい。だがしかし、休暇《きゅうか》はまだまだ先なのだった。ソースケの野郎《やろう》がうらやましいぜ……」
「俺がどうかしたか」
いつの間にかオフィスに入ってきた相良宗介が、クルツに声をかけた。
むっつり顔にへの字口。野戦服姿《やせんふくすがた》で学生|鞄《かばん》を引っさげている。彼はマオに目線で挨拶《あいさつ》してから、クルツの横を通りすぎた。
「お? いつ戻ったんだ」
「いまだ。それにしても……」
宗介は、じめじめしたオフィスを見回して、
「なぜ俺の机《つくえ》が、こうも散らかっているのだ」
自分のデスクにうずたかく績まれた、ゴミくずや書類の束《たば》、雑誌や専門誌の山を指さす。ちなみにクルツのデスクはその隣《となり》で、やはりひどく散らかっていた。『乱雑』という名の歩兵部隊が仕切り板を乗り越《こ》えて、宗介のデスクを完全制圧しようとしている――そういう状態だ。
「来るたびにひどくなっているぞ」
「気にするな。どーせ使ってねえんだから」
クルツが笑って、同僚《どうりょう》の肩をぽんぽんと叩《たた》く。宗介は眉間《みけん》のしわを一層《いっそう》深くしてから、荷物をデスクの下に押し込んだ。
「それで。降下《こうか》演習は予定通り二三〇〇時からだな?」
「あー、その件なんだけどね……」
マオが椅子《いす》をきしらせて宗介の方を向いた。タブレット用の電子ペンで、自分のこめかみをつんつんとつつき、
「今夜はその、無理みたいなの。ちょっと、M9がね。整備|班《はん》に大腿部《だいたいぶ》と腰回《こしまわ》りのマッスル・パッケージ、全交換してもらってたんだけど――エラい遅れてて。ソースケに連絡しようとした時には、もうハチジョー島を出た後だったから……」
演習で使うはずだったM9 <ガーンズバック> ―― <ミスリル> が運用する主力アーム・スレイブの整備が大幅《おおはば》に遅れている。緊急《きんきゅう》の作戦用に常備《じょうび》してある整備|済《ず》みの機体はもちろんあるのだが、まさかそれに手を付けるわけにはいかない。したがって、予定されていた演習はできない。
つまり学校が終わるなり、大急ぎで二五〇〇キロの距離《きょり》を飛んできた宗介の行為《こうい》はまったくの徒労《とろう》だった、ということだ。
「ゴメン! あたしがうっかりしてた!」
マオがぱちんと両手を合わせた。どこで覚《おぼ》えたのやら、およそアメリカ人らしからぬ仕草《しぐさ》ではあるが――なぜか妙《みょう》に板についている。
「いや……。できないのなら、仕方《しかた》がない」
わずかに肩を落とした宗介を見て、クルツが不思議《ふしぎ》そうな顔をした。
「変な奴《やつ》だな。演習の延期《えんき》でそんなにガックリするか、普通?」
「いや。ただ夕食の誘《さそ》いを断《こと》わってきたものでな……」
「だれの誘いだよ」
「カナメとキョウコだ。はじめて本物のハッシュ・ド・ビーフを食べる機会だったのだが……」
宗介が説明すると、マオがくすりと笑った。クルツは無関心に『ふーん』と鼻《はな》を鳴らすと、
「そーかそーか、気の毒《どく》にな。じゃあパブに行こう。なんか飲もう」
有無《うむ》を言わさずに、宗介の背中を押してオフィスの出口へと歩き出す。
「俺は酒など飲まん」
「だーっ! そう硬《かた》いコト言うなよ。どーせ今夜はヒマなんだし」
「アルコールは脳細胞《のうさいぼう》を破壊《はかい》する。この仕事を長く続けたかったら――」
「いいからパブだ。付き合え」
ああだこうだと言い合いながら、二人はオフィスを出ていった。後に残されたマオは、首をひねってから机《つくえ》に向かう。
(暇《ひま》なら本でも読んでればいいのに)
彼女は思った。用もなく基地《きち》内をウロウロして、さんざん不平をこぼした後、遊び友達が戻《もど》って来たら急に上機嫌《じょうきげん》になる。
「……ホント、ガキなのよね」
マオはぽつりとつぶやいた。
どういうわけだか、そのパブは雨漏《あまも》りしていなかった。
琥珀《こはく》色の照明《しょうめい》の中で、一日の仕事を終えた基地の兵士たちがくつろいでいる。だいたいは部署《ぶしょ》ごとの人間で固まって、四方山話《よもやまばなし》に花を咲かせ、酒をあおって嬌声《きょうせい》をあげるのだ。
自然と縄張《なわば》り意識が出てくるので、宗介たちのようなSRT所属の下士官《かしかん》は――いささか肩身《かたみ》が狭《せま》い思いをする。絶対的に人数が少ないせいでもあるし、最精鋭《さいせいえい》の戦闘員《せんとういん》ということで、基地の人間からやや距離《きょり》を置かれているせいもある。
実際、SRTの人間は総じて寡黙《かもく》で、言動も慎重《しんちょう》だ。リラックスしているように見えても、常にどこかに緊張感《きんちょうかん》が漂《ただよ》っている。さすがに宗介ほど無愛想《ぶあいそう》な者は珍《めずら》しかったが、クルツのように開《あ》けっぴろげなタイプは少数派なのだ。愛飲家《あいいんか》も少ない。
そういった事情で、宗介とクルツの二人は、パブのカウンターの隅《すみ》っこに陣取《じんど》っていた。
「ここに来たのははじめてだ」
オレンジジュースのグラスを片手に、宗介が言った。
「そうだったか?」
「そうだ。こういう場所は健康《けんこう》に悪い。煙草《たばこ》の煙《けむり》が強すぎる」
「はっ。健康が心配なら兵隊|稼業《かぎょう》なんかやってるなよ。不規則《ふきそく》な生活に貧《まず》しい食生活、ストレスだらけの危険な毎日。お肌《はだ》が荒れるぜ?」
鼻で笑うと、クルツはスコッチをぐいっと煽《あお》った。ショットグラスが空《から》になると、彼はバーテンにお代わりを注文して、小さなため息をついた。
「……しっかし。カネがあったらなー。俺もこんなヤバい商売やめて、どっかで居酒屋《いざかや》でも始めるのに」
ぼやくクルツの横顔を、宗介は不審顔《ふしんがお》で一瞥《いちべつ》した。
「それくらいの資金なら稼《かせ》いでいるはずだぞ。基本給に上乗《うわの》せして、危険手当が山ほど付いてくる。順安《スンアン》の一件では戦傷《せんしょう》手当も出たはずだ」
事実だった。<ミスリル> は人材を重んじる。SRT要員ともなると、その年俸《ねんぽう》はかなりのもので、中堅《ちゅうけん》どころのプロ野球選手くらいは稼いでいるのだ。なにしろ並《なみ》の人間では務《つと》まらない仕事だし、いつも危険がつきまとう。
「あー。そうなんだけどな。俺、もともとスゲえ借金《しゃっきん》ある身だし。稼いでも稼いでも、貯《た》まらないんだよ、これが」
「それは初耳だ」
「ここだけの話だけどな。……なモンだから、もう。当分はここでクサい飯《めし》食わなきゃならないんだ。M9に乗れるのはいいけどな」
「…………」
特に感想も漏《も》らさない宗介を、クルツはちらりと盗《ぬす》み見るように、
「おまえ、かなり貯め込んでるんだろ?」
なにかを期待《きたい》してたずねた。
「貯金《ちょきん》か。たしかにそうだったが……激減《げきげん》している。最近、出費が激しくてな」
「出費? 何に使ってるんだよ」
「学校で破損《はそん》した器物《きぶつ》の弁償《べんしょう》だ。本格的に東京に居着《いつ》いてから二週間ほどで――部隊の経理担当者が『もう経費では落とさん。自腹《じばら》で返せ』と」
「……そんなに壊《こわ》してんのか?」
「好き好《この》んで壊しているわけではない。安全のためだ」
あきれ顔のクルツの横で、宗介が平然とオレンジジュースをすすった。
「…………。だいたい、<ミスリル> のカネの使い方は変なんだよな。基地《きち》の雨漏《あまも》りはほったらかしなのに、ロクでもねえ武器にはしこたま出費するんだ。先週の試射《ししゃ》なんか俺、二〇万ドル(二四〇〇万円)のミサイルを四発|撃《う》ったぞ? その俺がいま、二ドル(二四〇円)のおつまみを注文するかどうかで悩《なや》んでるんだ。狂ってるよ、これ」
「対戦車ミサイルとおつまみのピーナッツを、同じ次元《じげん》で考えるおまえの頭の方が狂っていると思うが……」
「……おまえにそういうこと言われると、なんかこう、妙《みょう》に腹が立つな」
「俺は軍事力というものの特殊《とくしゅ》性を指摘《してき》しているだけだ」
「ホント理屈《りくつ》っぽいな。カナメはよくガマンできるもんだ」
「いや。よく『うるさい」とか『黙《だま》れ』とか言って殴《なぐ》られる」
「だったら改《あらた》めろよ、おまえはよ」
そんな調子でダラダラと不毛《ふもう》な会話を続けていると、手の空《あ》いた酒場《さかば》のマスターが二人に近付いてきた。
恰幅《かっぷく》のいい初老の白人男性で、右足をわずかに引きずるような歩き方をする。丸い赤ら顔で、灰色の髪《かみ》。今は亡《な》き名優《めいゆう》、アーネスト・ボーグナインにそっくりである。
このマスターも元は傭兵《ようへい》で、不自由な足は過去《かこ》の戦闘で負傷《ふしょう》したものだ……とクルツは聞いていた。なんでも『コンゴやローデシアじゃあ、わしを知らん者はおらんかった』とかいう話だった。もっともクルツは、コンゴはともかくローデシアという国など知らなかったが。
「なんだ、いい若いもんが。雁首《がんくび》そろえて不景気《ふけいき》な顔しおって」
マスターがだみ声で言った。
「ほっといてくれ。実際、俺たち不景気なんだよ」
クルツが投げやりに答える。こういったやり取りは、二人にとっては挨拶《あいさつ》のようなものだった。マスターはカウンターの向こう側で腰を落ち着けると、手にしたショットグラスにワイルド・ターキーの一二年をとくとくと注《つ》ぐ。
「なに、オゴってくれんの?」
「ばかもん。わしが飲むんだ」
ぽかんとするクルツの前で、マスターはうまそうにバーボンを飲み干した。
「…………」
「ぶはっ。……だいたいだな、おまえさんたち。さっきから聞いとれば――」
「聞いてるなよ……」
クルツがつぶやくが、マスターは気にせず、
「――うだうだとカネ勘定《かんじょう》の話ばかりしおって。情《なさ》けないと思わんのか? 世の中には、理想のために戦う若者たちが――」
「聞いてないな……」
宗介がつぶやいても、マスターは気にせず、
「――ごまんとおるのだぞ? ハイテク兵器にばかり頼《たよ》っとると、そういう風になっちまうんだ。わしに言わせれば誘導《ゆうどう》ミサイルや、あのたわけた人型兵器など要《い》らん。敵一人を倒すにはただ一発の銃弾《じゅうだん》でよく、さらに多くの敵を倒すには、やはりただ一発の銃弾でよいのだ。わかるか? いいや、わからんだろう」
「狙撃屋《そげきや》出身の俺に、よくそーいう事が言えるな、爺《じい》さん……」
クルツが肩を落とすと、老人は彼をきっとにらんだ。
「ばかもん。わしは精神性の話をしとるのだ。理想を成《な》し遂《と》げる意志、生きる糧《かて》となる希望――それをロマンと呼んでもいい。そういうもんが、おまえさんたちにはごっそり欠けとるのだ。だから無気力《むきりょく》になる。いまこの時を楽しもうとせず、ピーナッツもサラミも頼《たの》もうとせんのだ」
「なにが言いたいのか全然わからねーぞ」
「察《さっ》するに、追加《ついか》注文の催促《さいそく》か」
クルツと宗介が口々に言う。老人は目をむき『かーっ』と変な声を出して、
「ばかもん。要するにわしは、『酒飲む時くらい、楽しそうな顔をしろ』と言っとる」
「すさまじい回り道だな」
宗介がむっつり顔のまま言った。一方のクルツは天井《てんじょう》を仰《あお》ぎ見て嘆息《たんそく》する。
「ンなコト言われてもなぁ……。カネが無いんだからしょうがないじゃん。自分の将来《しょうらい》の見通しも立たないし。潰《つぶ》しても潰してもテロ屋は出てくるし。いい女もいないし。酒が楽しいわけもないし、ロマンもへったくれもないよ」
マスターはクルツを注意深い目で凝視《ぎょうし》した。それからやぶにらみで首を小刻《こきざ》みに動かし、顎《あご》を左右に動かす。どうやらこれが、この老人の黙考《もっこう》の仕草《しぐさ》らしかった。
やがて彼はうなずき、言った。
「ふむ。よかろう、わしがおまえさんたちにロマンを授《さず》けてやる」
「はあ? なに言ってんだ。おい――」
老人は答えずに背を向けて、調理室の奥に姿《すがた》を消してしまった。
「なんなんだ、あの爺さん」
「わからん。頭に負傷《ふしょう》の形跡《けいせき》はないようだったが……」
それから一時間ほど、二人はとりとめのない会話を続けた。マスターとの話など忘れかけ、『そろそろ出るか』という話になったころ、
「ばかもん。どこに行く気だ」
足を引きずり、老人が戻《もど》ってきた。
「どこって、兵舎《へいしゃ》だよ。ごちそうさん」
「ばかもん。待たんか」
「……ったく。バカモン、バカモンって、あんたは自動車教習所の教官か? たいがいにしてくれよ」
二人が席を立つと、マスターは彼らの前にぐいっと右手を突き出した。節《ふし》くれだったその手には、古ぼけた羊皮紙《ようひし》が握《にぎ》られていた。
「持ってけ、若いの。これがそのロマンよ」
「なんだよ、こりゃ」
クルツが眉《まゆ》をひそめると、老人はにんまりと笑った。
「このメリダ島に眠る、財宝《ざいほう》のありかを記《しる》した地図だわい。一七世紀の大海賊《だいかいぞく》、『キャプテン・アミーゴ』の遺産《いさん》でな」
クルツと宗介はしばらく黙《だま》っていた。が、やがて相手の目が本気なのを見てとり、二人で同時につぶやいた。
『衛生兵《メディック》を呼ぶ?』
ちなみに衛生兵《メディック》とは、負傷者や病人の面倒《めんどう》を見る兵士のことである。
――翌朝。クルツが言った。
「アミーゴはねえだろ、アミーゴは……。どこの覆面《ふくめん》レスラーだ? うさん臭いとか、そういう次元《じげん》をブッちぎりで超越《ちょうえつ》してるぞ」
うなずいて、宗介が言った。
「とてつもなく弱そうな海賊だ。仮《かり》に実在していたとしても、まともな略奪《りゃくだつ》行為《こうい》ができたとは思えん」
「そうそう。もし宝箱《たからばこ》なんかがあっても、中には友達との思い出の品が詰《つ》まってるんだろうな。卒業生《そつぎょうせい》のタイムカプセルみたいなノリでよ」
「ああ。いずれにせよ、ろくなものではないだろう」
「あの爺《じい》さんも相当キてるよな。もうすぐ二一世紀だってのに……『海賊の財宝』だと? そんなヨタ、だれが信じるってんだよ」
「そう思っているのなら――」
宗介がぴたりと立ち止まった。
「なぜ俺たちはこんな場所にいるのだ?」
二人がいるのは、じっとりと蒸《む》し暑《あつ》いジャングルの中だった。四階|建《だ》てのビルくらいはあろうかという高さの広葉樹《こうようじゅ》が、空を覆《おお》い隠《かく》している。わずかな木漏《こも》れ日と、鳥の鳴き声。すぐそばの幹《みき》で、やたらと大きな蛾《が》の一種(らしきもの)が羽《はね》を休めている。
<ミスリル> の地下|基地《きち》から三キロほど離れた、メリダ島の密林《みつりん》地帯。ここは偵察《ていさつ》作戦などの演習場としても利用されている。
宗介とクルツは野戦服《やせんふく》にジャングルブーツとブッシュ・ハット、軽めの各種|装備《そうび》にナイフ類、といったいでたちだった。敵がいるわけでもないので、武器もリボルバー拳銃《けんじゅう》だけだ。
「あー……。まあ、ピクニックみたいなもんさ」
問題の地図を片手に、クルツが答えた。
たしかに二人にとってはピクニックのようなものだったが――密林での偵察行動に長《た》けた彼らでなければ、たちまち迷子《まいご》になった末、どこぞで野垂《のた》れ死《じ》んでしまうだろう。道は皆無《かいむ》で、視界は最悪。そこは太古《たいこ》からほとんど人が手を付けたことのない、地球上に残された最後の秘境《ひきょう》のようでさえあった。
「それに、な? もしかしたら、万一って場合もあるだろ」
「万一にもありえん。時間の浪費《ろうひ》だ」
「いいじゃねえか。どうせきょうも暇《ひま》なんだし。おまえは月曜までに帰れればいいんだろ?」
「たしかにその通りだが……」
宗介はどうにも気が進まなかった。きょうはひさしぶりに基地の近くの岬《みさき》に出かけて、海釣《うみづ》りをしようと考えていたのだ。整備中のM9に新たなトラブル――今度は電子兵装《でんしへいそう》だった――が発見されて、きょうも演習は中止になっていた。
宗介の様子《ようす》を見て、クルツは熱心な説得《せっとく》をはじめた。
「なあ。もし……もしだよ? なにかの間違《まちが》いで金目《かねめ》のモンがあったとしたら、きっといい気分になると思うんだよ、俺は」
「そうなのか?」
「金額は関係ないぞ。別に一生遊んで暮らせるほどのカネじゃなくていい。古道具屋に売ったら、ちょっと豪勢《ごうせい》な晩飯《ばんめし》が食えるくらいの――そういうモノだ。わかるか? 財宝《ざいほう》なんか無かったとしても、それはたいして重要じゃないのさ。つまり、問題は結果じゃない、過程だ。おまえが好きな釣りと一緒《いっしょ》だよ」
「釣り、か」
「そうさ。それにな、あの爺《じい》さんの言ってたことにも一理あると思うんだ。ロマン。これだよ。俺らみたいな因果《いんが》な商売でも、たまには夢を見るべきだ。そう思わねーか?」
「ふむ……」
宗介には、ロマンという概念《がいねん》がいまいちわからなかった。とはいえ、釣りの喩《たと》えはよくわかった。波間《なみま》に釣糸《つりいと》を垂《た》れる代わりに、ジャングルを歩く。運がいい時の商品は、魚の代わりに海賊《かいぞく》の財宝。つまりはそういうことだった。
「しかし、そんな古い地図があてになるのか」
「ん? たぶんな。いちおう当たりは付けてあるから――」
「貸《か》してくれ」
宗介は問題の羊皮紙《ようひし》と、<ミスリル> が作成した最新の精密な地図とを受け取り、注意深い目で照《て》らし合わせた。
『キャプテン・アミーゴ』の地図はひどく不正確で、このメリダ島の海岸線と、おおざっぱな山の位置が記されている程度だった。海の部分には、潮《しお》を吹くクジラと楽しげにたわむれる海竜《かいりゅう》の絵が描いてあり――ますますもってうさん臭い。財宝の位置は島の南東で、目印になる渓流《けいりゅう》や岩が周囲に記してあった。
地図のあちこちには、古いスペイン語であれこれと注意書きがしてある。スペイン語は簡単《かんたん》な会話くらいしか使えない宗介には、ほとんどの文面は読めなかった。
が――
「なんなのだ、この『セニョリータの山』というのは……」
馬鹿《ばか》にしてるとしか思えない。だいたい、この地図を描いた奴《やつ》は本当に一七世紀のスペイン人なのか? 実のところ、頭の悪い日本人なのではないだろうか?
[#挿絵(img2/s02_227.jpg)入る]
「ああ。その山だったら、D3の射爆場《しゃばくじょう》だよ。西側にあるだろ、低い山が」
「そういう問題ではない。こんな地図が信用できるのか、と言っているのだ」
「ああ?……ったく、ちょっとよこせ」
クルツは二つの地図を取り返すと、指先で突ついて説明をはじめた。
「いいか。この地図はいい加減《かげん》だが、位置関係はだいたい合ってるんだよ。ここ見ろ。E8からE9にかけて、小川が流れてるだろ。何百年もたってるから場所がずれてるとしても、この辺《あた》りはほかに川がない。……でもって、ここ、F8に低めの断崖《だんがい》がある。アミーゴの地図にもだ。その東側に、この岩が――」
ひとしきり解説《かいせつ》を終えてから、クルツは地図を折りたたんだ。
「――と、まあそういうわけだ。宝《たから》をしまった洞窟《どうくつ》に、岩で蓋《ふた》がしてある。あとは現場に行ってから、直接|探《さが》してみるまでさ」
それでも宗介は顔を曇《くも》らせたまま、
「俺はこの地図の出自《しゅつじ》そのものを疑っているのだが……」
「あの爺《じい》さんがでっちあげた、ってのか? でも、この地図の古さはホンモノだぜ」
下手《へた》をすると崩《くず》れてしまいそうな羊皮紙を、クルツはひらひらさせた。
「む……」
「わかったな? よし、それじゃあ行こう」
返事を待ちもせず、クルツは山刀《マチェット》で茂みを薙《な》ぎ払いながら前進をはじめた。
(そう都合《つごう》よく、地図の通りの地形が見付かるわけないではないか……)
首をひねってから、宗介は彼の後に続いた。
特殊《とくしゅ》部隊の兵士にとって、ランド・ナビゲーションの技術は基本中の基本である。彼らの技能をもってすれば、ただの秘境《ひきょう》は秘境と呼べない。単なる熱帯雨林《ねったいうりん》である。
とはいえ、急な斜面《しゃめん》から転落しそうになったり、沼《ぬま》にはまりそうになったり、でかいハチに襲《おそ》われたり――そういう目には遭《あ》った。茂《しげ》みから野生化した大きなブタが飛び出してきて、危《あや》うく大怪我《おおけが》しそうにもなった。
「ぷぎぃ――っ!」
「どうわっ!」
二人が飛びのくと、ブタはそのまま走り去ろうとしたが――
だんっ!
宗介がその黒ブタ――イノシシに近かったが――をリボルバーで撃った。ブタは悲鳴《ひめい》をあげて、よろめき、息絶《いきた》える。
「なにも殺すことねーだろ」
クルツが言うと、宗介は死んだブタを肩に担《かつ》いだ。
「本部の通達《つうたつ》を知らんのか。『地上でブタを発見した場合は、可能な限り駆除《くじょ》、あるいは捕獲《ほかく》すること』と掲示板《けいじばん》にも貼《は》り出してあるぞ」
「そりゃまた、なんで?」
「生態系《せいたいけい》の維持《いじ》のためだ。このブタは昔《むかし》、ヨーロッパ人が持ち込んだ外来種《がいらいしゅ》でな。ブタがエサの幼虫《ようちゅう》を求めて木の根を掘《ほ》り起こし、森林を破壊《はかい》する。さらには死んだ木の空洞《くうどう》に雨水《あまみず》が溜《た》まり、蚊が大量発生する。蚊はマラリアを媒介《ばいかい》する。そのマラリアで、この島固有の動物が絶滅《ぜつめつ》していく。そういうことらしい」
宗介がよどみなくうんちくを垂《た》れる。
「戦争屋がエコロジー気にしてどうするんだよ……?」
「単に演習場の保全が目的だろう」
「しょうもねえ。でもなんか可哀想《かわいそう》だな。ブタも」
クルツがブタをつんつんと突つく。
「全滅させるわけではない。できるだけ数を減《へ》らすだけだ」
「ふーん……。昼メシにするか。可哀想だから」
「そうだな」
二人はさっそくブタを血抜《ちぬ》きして器用《きよう》にさばき、火にかけた上で食べてしまった。余《あま》った肉は持っていく。こういう手際《てぎわ》の良さや神経の図太《ずぶと》さも、彼らのような兵士には必須《ひっす》のものだった。
実際、ブタの味はなかなかのものだった。
予想に反し、目当ての地形はあっさりと見付かった。
島の南東。密林《みつりん》の中に横たわる低めの断崖《だんがい》。そばには小川が流れている。そしてその断崖のふもとに、直径七メートルほどの巨岩《きょがん》がひとつ鎮座《ちんざ》していた。
「あれだ。あの岩の裏側」
二つの地図を交互《こうご》に眺《なが》め、クルツが言った。
「そんな簡単《かんたん》なものなのか……?」
「アミーゴはそう言ってるぜ。あの岩をどければ、洞窟《どうくつ》がある。その奥に宝箱《たからばこ》が――」
問題の巨岩を見て、クルツは口ごもった。
「あんなデカい岩、どうやって動かすんだよ……?」
「俺もそう思うぞ」
もし地図の通りだとすると、この崖には真横に向かって洞窟がくり貫《ぬ》かれているはずだった。それを巨岩が塞《ふさ》いでいるのだ。
「なるほどな。謎《なぞ》かけじゃなくて、単純な力技《ちからわざ》ってとこか。この隠《かく》し場所は」
「おそらく崖《がけ》の上から、この岩を落として洞窟を塞いだのだろうな」
ちょっとした民家ほどもある大きさの巨岩。二人はその周《まわ》りをうろうろと歩きまわってみた。やはり、奥に入ることができるほどの隙間《すきま》は一切《いっさい》ない。
「うーん……。爆破《ばくは》、かな。これはやっぱり」
「それはやめておいた方がいい」
巨岩が寄りかかった崖の表面を撫《な》でながら、宗介が言った。
「なんでだよ?」
「この岩はともかく、崖の地質が問題だ。見たところ、意外に脆《もろ》い構造になっている。岩を取り除《のぞ》くのに必要なだけの爆薬《ばくやく》をしかけることはできるが――爆破の衝撃《しょうげき》で洞窟が崩《くず》れるかもしれん」
「むう、そうか……」
こと爆発物の取り扱《あつか》いと破壊《はかい》工作については、宗介の方が詳《くわ》しい。クルツは相棒《あいぼう》の意見をあっさり受け入れ――だからこそ、困った顔をした。
「参《まい》ったな。ブルドーザーでも借《か》りて来るか? いや、無理だな。こんな山の中じゃ」
「ヘリでここまで運搬《うんぱん》することは可能だな」
「冗談《じょうだん》じゃねえ。パイロット連中に借りなんか作りたくねえよ。それにだいいち、笑われる。まず間違《まちが》いない」
「では、諦《あきら》めるしかないな」
「…………。あー、くそっ!」
クルツは悪態《あくたい》をついて、巨岩をブーツで蹴った。一回だけでは気が済《す》まない様子《ようす》で、何度も何度も蹴りをくれる。しかし、当然巨岩はぴくりとも動かなかった。
無念《むねん》そうな彼の様子を見て、宗介は怪訝顔《けげんがお》をした。
「なぜそこまで悔《くや》しがるのだ。おまえは『結果ではなく、過程が問題だ』と言っていただろう」
「だー、うるせえ! それにしたって、こんなオチは許《ゆる》せねーんだよ! もっと、こう、あるだろ!? 宝|探《さが》しってのには、劇的ななにかが!? 原住民《げんじゅうみん》の妨害《ぼうがい》だとか、謎の美少女との恋だとか、そういうの!」
この島はもともと無人島だったから、ブタはいても原住民はいない。謎の美少女ならこの島にもいるが、その彼女は基地《きち》の中で戦隊|指揮官《しきかん》としての執務《しつむ》に忙殺《ぼうさつ》されている。
「そうなのか」
「そうだ! それが――『ちょっと演習場の向こうまで出かけて、ブタ一頭を殺して食ってきました。宝物? いやあ、諦めました』……って感じで終わるのは、俺の美学が! ロマンが許さないんだよっ!」
両の手のひらを空に向け、指をにぎにぎとさせて身悶《みもだ》えする。
「またロマンか……。よくわからん」
腕組《うでぐ》みする宗介。クルツはぜいぜいと肩で息して、しばらくその場に突っ立ったあと、
「くっ……。仕方《しかた》がねえ。夢を見るのはおしまいだ。やっぱり世の中、こういう風に出来《でき》てるんだよ。明日《あした》からは、またつまんねえ訓練《くんれん》、不毛《ふもう》な作戦の繰り返しだ。そして俺は借金《しゃっきん》を返し続けて、きっとバカな事故でくたばって――いや?」
はたとなにかに思い当たったように、目を見開く。
「どうした」
「あ……俺はバカか? そーか、そーか。ははははっ! なに考えてたんだろうな? こんな単純なやり方に気付かねえとは! いや、こりゃ間抜《まぬ》けだ」
「だからどうしたのだ」
「だまれ、バカ二号。いったん基地に帰るぞ」
告げるやいなや、クルツはきびすを返して早足で歩き出した。
夕刻《ゆうこく》。
泥《どろ》だらけになって帰還《きかん》した二人は、荷物とブタ肉を兵舎《へいしゃ》に放《ほう》り出し、そのまま基地の第一二|格納庫《かくのうこ》へと向かった。途中《とちゅう》でマオに出会ったが、キャプテン・アミーゴの財宝《ざいほう》のことは話さなかった。
「ブタ狩りに行ってたんだよ、ブタ狩り」
「そうだ。ブタ狩りだ」
「はあ……。そうなの」
マオは眉《まゆ》をひそめたものの、それ以上は追及《ついきゅう》しなかった。彼女は演習スケジュールの遅れや、整備トラブルのことで頭がいっぱいのようだった。
コンクリートがむき出しの通路をしばらく歩いて、がらんとした格納庫へと入る。
そこには左右の壁沿《かべぞ》いに三機ずつ、灰色のアーム・スレイブが保管されていた。
全高八メートルの巨人。大小|様々《さまざま》な火器《かき》を操《あやつ》り、きわめて高い運動性を持つ、現代最強の陸戦兵器だ。それが両|膝《ひざ》を床《ゆか》について、うなだれるような姿勢《しせい》で静止している。
並んでいるのはM6 <ブッシュネル> という機体だった。
宗介たちが普段《ふだん》の任務で使っている、M9 <ガーンズバック> より一世代ほど古い機種だ。性能的にはM9より劣《おと》るが、いまでも西側の各国陸軍では主力 |A S《アーム・スレイブ》として第一線で使用されている。バリエーションも非常に多い。
厚手のダウンベストを着込んだような、ややずんぐりとしたシルエット。がっしりと太い大腿部《だいたいぶ》と上腕部《じょうわんぶ》。曲面構成の装甲には、細かい傷があちこちに走っている。
「ふっふ。こいつのパワーならイチコロだぜ」
クルツは腕組みして、いちばんそばの一機を見上げた。
「本当に使うのか? 無断使用になるぞ。中古とはいえ、元は一〇〇〇万ドル(一二億円)もする高価な機材だ」
宗介が渋《しぶ》い顔で言った。
「構《かま》わねーって。どうせ型遅れで埃《ほこり》かぶってるんだ。あとでなんか言われたら、『第二世代型ASの走破《そうは》特性を再|検討《けんとう》していた』とか、適当に答えりゃいいのさ」
「しかし――」
「ちょっと借《か》りるだけだ。洗って返せば文句《もんく》はねえだろ」
「ふむ……」
「おまえだって、お宝《たから》の正体《しょうたい》には興味《きょうみ》があるだろ?」
すでにクルツは、あの巨岩《きょがん》の奥になにかが眠っていると半《なか》ば信じている様子《ようす》だった。
徒歩《とほ》で三時間の行程《こうてい》も、|A S《アーム・スレイブ》ならば三〇分とかからなかった。
重く、力強い足音と、ガスタービン・エンジンの咆哮《ほうこう》が密林《みつりん》に響《ひび》く。M6 <ブッシュネル> は低木をかきわけ、山稜《さんりょう》や谷間を軽々と駆《か》け抜け、元の崖下《がけした》に到着《とうちゃく》した。M9ほどではないが、M6にも人間以上の運動性がある。
すでに日は沈《しず》んでいた。
偉《えら》そうにふんぞり返ったクルツを左腕に抱《かか》え、M6は問題の巨岩の前で立ち止まる。肩と頭部の強力なライトに照らされて、巨岩が不敵《ふてき》な面構《つらがま》えを見せていた。まるで『ふん、ブリキ細工《ざいく》め。動かせるもんなら動かしてみろ』とでも言っているようだ。
M6の腕からひらりと飛び降《お》りて、クルツが告げた。
「よーし。やってくれたまえ、サガラくん」
『下がっていろ』
機体を操縦《そうじゅう》する宗介が、外部スピーカー越《ご》しに言った。
M6は巨岩の右側に回り込み、右半身をぴたりとくっつけ踏《ふ》ん張《ば》りをさかせる。
巨岩はM6よりやや背が低い程度だった。ただし、重さは五、六〇トンのはずだ。対するM6は自重一一トン。人間の尺度《しゃくど》で考えれば、ブレーキのかかった大型バイクを強引《ごういん》に動かすようなものである。
『いくぞ』
M6がエンジンの出力《しゅつりょく》を上げた。きーん、とタービンの回転音が高まり、背中の排気口《はいきこう》がごおっ、とうなる。発電機から生まれた莫大《ばくだい》な電力が、全身の筋肉《きんにく》――特殊《とくしゅ》な形状記憶プラスティック――に注ぎ込まれる。
たちまち巨岩が震《ふる》え、その表面から小石や苔《こけ》がばらばらと落ちた。
「よし行け! やれ! かませ!」
M6の足下《あしもと》が、ぐっと地面に沈み込んだ。一度踏ん張り直してから、さらに巨岩を押していく。関節《かんせつ》がこわばり、装甲と骨格がみしみしと鳴った。巨岩は半ば地面にはまっていて、とうてい動きそうには見えなかったが――
「お……」
やはりASのパワーはすさまじかった。
巨岩はぐらりと傾《かたむ》いて、数十センチほど地面をすべり――がまん比《くら》べに降参《こうさん》したように、轟音《ごうおん》をたててM6の反対側へと倒れていった。土砂《どしゃ》が空中に跳《は》ね上がり、埃《ほこり》と煙《けむり》があたり一帯にたちこめる。
「やった……!」
『見ろ、クルツ」
次第《しだい》に晴れていく土煙。M6のライトに照らされて、大きなほら穴がその姿《すがた》を現《あらわ》した。
「おお……マジであったぜ」
その洞窟《どうくつ》の高さは五メートル少々。天井《てんじょう》から、ばらばらと小石が降《ふ》り――ときたま、人の拳《こぶし》ほどはありそうな石も落ちてくる。岩を取り除《のぞ》いたせいで、崖《がけ》の地盤《じばん》が弛《ゆる》んでいるのかもしれない。
『崩《くず》れてきそうだな。危険だぞ』
「ここまでやったんだ。入らずに帰れるかっての」
『とりあえず、ASで支《ささ》えておくか』
「そうだな。そうしてくれ」
宗介の操《あやつ》るM6は、洞窟の入り口に中腰《ちゅうごし》で入っていくと、その天井を背中全体で支えるようにして立った。つっかえ棒《ぼう》のようなものだ。関節をロックしてからコックピットハッチを開き、宗介が機体から降りてくる。
真っ暗な洞窟は、ゆるやかな下《くだ》り坂になっていた。二人はマグライトを手にして、奥へと進んでいく。
洞窟は意外に短かった。五〇メートルほどで、あっさりと行き止まりになっている。大きな水|溜《た》まりがあり、その向こう側、一段高くなった岩の上に――
錆《さ》びついた宝箱《たからばこ》が、堂々と鎮座《ちんざ》していた。
「おお。わかりやすいぜ」
「ここまで安易《あんい》でいいのか……? まるでありがたみがないぞ」
宗介が額《ひたい》に汗《あせ》を浮かべた。
「きっと親切《しんせつ》な海賊《かいぞく》だったんだよ」
「…………。海賊など嘘《うそ》で、酒場《パブ》のマスターが自分で用意したのではないか? 彼が俺たちを担《かつ》ごうと考えて――」
「こんな事の込んだ冗談《じょうだん》があるかって」
いちおう罠《わな》には注意しつつ、二人はざぶざぶと水溜まりを越えて、宝箱の前に立った。錠前《じょうまえ》を銃《じゅう》で壊《こわ》して、蓋《ふた》に手をかける。
「さて、なにが出てくるかな……」
「腐《くさ》った書物《しょもつ》や胡椒《こしょう》の瓶《びん》、そんなところだろう」
「惚《ほ》れた女|宛《あ》てに山ほど送った、恥ずかしいラブレターとか、な」
「とにかく、どうせろくなものではない」
「ふふん。じゃあ、開けるぞ」
クルツが宝箱を開けた。
マグライトの光の中、財宝の正体《しょうたい》があらわになる。それを見て、二人は絶句《ぜっく》した。
「…………」
それはある意味、二人がもっとも予期せぬ物品《ぶっぴん》だった。まずありえない。そう考えていたものだった。宝箱の中身が、あまりにも想像とかけ離れていたものだから、宗介もクルツもしばらくの間、それが何なのか理解できないでいた。
「………な」
財宝の正体――それは、財宝[#「財宝」に傍点]だった。
きらきらと光る無数の金貨《きんか》。宝石細工《ほうせきざいく》。ダイアモンドがはめこまれた、きらびやかな短剣。美しい紋様《もんよう》の施《ほどこ》された銀食器。それらがまとめてごっそりと……。
クルツは震《ふる》える手で金貨をつかんでみた。本物だ。まちがいない。
「おい……。一〇〇万や二〇〇万ドルじゃ済《す》まねえぞ、こりゃ……」
呆《ほう》けたように、クルツは言った。その声に興奮《こうふん》はない。なにが起きているのか、自分でも把握《はあく》できなかったのだ。
「キャプテン・アミーゴ。……いったい何者なんだ?」
「わからん。この世界は謎《なぞ》だらけだ」
青ざめた顔で宗介が言った。
まず、宝箱を運び出すことにした。
洞窟《どうくつ》の天井《てんじょう》はもろく、いまにも崩《くず》れてきそうだった。二人がかりでよたよたと、宝箱を抱《かか》えて洞窟の出口へ。一歩、一歩を踏《ふ》み出すごとに、だんだんと実感が湧《わ》いてくる。飛び上がって喜ぶような――そういう感じではなかった。
まず困惑《こんわく》。次にすこしずつ、希望や展望、そういったものが芽《め》を吹いてくる。
「どうするよ、おい。俺たち、大金持ちだぜ……?」
「そのようだな……。おそらく、ゆうに一〇〇〇万ドル(一二億円)はあるだろう」
「山分けだ。ひとり五〇〇万ドル(六億円)。いやいや、あの爺《じい》さんにも分け前をやらんと……!」
クルツが興奮する横で、宗介は思案顔《しあんがお》をした。
「使い道が思い付かん」
「なに言ってんだよ。豪華《ごうか》なヨット、高級別荘。毎日遊んでも釣《つ》りが出るぞ? すげえ。こんな商売ともおさらばだ」
「ヨットにも別荘にも興味《きょうみ》はないが、釣り[#「釣り」に傍点]ができるのはなによりだ」
そう言ったあとに、宗介はなんとなく、ヨットの上でむっつりと釣りをしている自分の姿《すがた》を思い浮かべた。穏《おだ》やかな海。青い空。なぜかそのヨットには千鳥《ちどり》かなめも乗っていて、彼が釣った魚を料理しているのだった。
「悪くない」
「そうさ、悪くない。最高だよ!」
いよいよクルツは声を弾《はず》ませた。
「これまで俺、散々《さんざん》な目にばかり遭《あ》ってきたけどよ。全部、この時のための帳尻《ちょうじり》合わせだったんだ。神様なんていないと思ってたけど――まちがいだったな。いるよ、絶対」
「あるいは、そうかもしれん」
宗介は本心から同意した。
そのとき。
洞窟の中ほどまで来た彼らのすぐ右手、わずか二メートルばかりのところに、『ばかんっ!』と岩が落ちてきた。人の頭ほどもある岩だ。
続いて背後《はいご》でも。目の前にも。ほかに細かい石などが、次々に天井から降《ふ》り注《そそ》いでくる。
「崩れる」
「ヤバい……!」
重たい宝箱によろめきながら、二人は早足で出口を目指《めざ》す。そうしている間にも、洞窟の全面的な崩落《ほうらく》がはじまっていた。なにか地鳴《じな》りのような音がして、背後で大量の土砂《どしゃ》が落ちてきた。
全速で駆ければ、まず助かる。しかし、こんな荷物を抱《かか》えたままでは――
「捨《す》てよう。危険だ……!」
「なに言ってんだ、おまえ正気《しょうき》か!?」
「命とカネと、どちらが大事だ!?」
「どっちも大事だ! 急げっ!」
宗介は宝箱を放《ほう》り出して、自分一人で逃げようか……とも思った。しかし相棒《あいぼう》の必死の形相《ぎょうそう》を見て、思いとどまった。こいつは宝箱と心中《しんじゅう》しかねない。ひどく危険だが、なんとか二人で道を急げば……。
ばらばらと石が降ってくる。足が重い。宝箱を持つ指が、千切《ちぎ》れそうだった。
「あとすこしだ!」
超人的とさえ言える瞬発力《しゅんぱつりょく》。ぴたりとそろった足|並《な》みで、二人はばたばたと斜面《しゃめん》を駆け上がり、M6の足の間を潜り抜け、まろぶようにして洞窟を脱出《だっしゅつ》した。
「っ……!」
直後、彼らの後ろで轟音《ごうおん》が響《ひび》いた。土砂と岩と石が一斉《いっせい》に、二人のいた洞窟を押しつぶす。間一髪《かんいっぱつ》だった。
宗介とクルツは充分《じゅうぶん》に崖《がけ》から離れて、ようやく人心地《ひとごこち》ついた。
「ああ……きわどかった。死ぬかと思ったぜ」
「危《あや》うくおまえと心中するところだったぞ……!」
汗《あせ》だくになって宗介は言った。
地面に置いた宝箱の上に、クルツが笑って腰を下《お》ろす。
「まあ、そう怒《おこ》るな。こうしてお宝も無事《ぶじ》だったんだしな。結果がすべてだ!」
「今朝《けさ》言ってたことと正反対だな……」
「気にしない。なにしろ俺たちは大金持ちだ。最低でも一〇〇〇万ドルだぜ? 考えてみろよ、おい!」
「一〇〇〇万ドル……か」
その額のすさまじさに、宗介は改《あらた》めて戦慄《せんりつ》を覚《おぼ》えた。自分の人生の歯車が、なにか違う方向へと回りはじめたような、そんな予感。まったく違う生活。そういうものがすぐそばに待っているような気がした。
「まず、こっそり現金に換《か》える方法を考えないとな。とにかく基地《きち》に帰ろうぜ」
「うむ。…………?」
そのとき、二人は気付いた。
完全に崩落《ほうらく》した洞窟の入り口で、M6 <ブッシュネル> が数百トンの土砂と岩に押しつぶされていた。ねじ曲がった腕《うで》と脚《あし》が、変な角度で突き出ている。わずかに露出《ろしゅつ》した胴体の奥から、白い煙《けむり》がぶすぶすと立ち昇《のぼ》り――
「あ……」
爆発、炎上《えんじょう》。
土砂をまきちらして、M6は木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》になる。夜の密林《みつりん》を、赤い炎《ほのお》が鮮《あざ》やかに照《て》らし出した。
あっけにとられて棒立《ぼうだ》ちする二人。しばらくたって、クルツがつぶやいた。
「M6ってよ……。いくらだっけ?」
「……おおよそ一〇〇〇万ドルだ」
[#挿絵(img2/s02_247.jpg)入る]
▼収入
キャプテン・アミーゴの財宝《ざいほう》/一〇三一万五五〇〇ドル(<ミスリル> の鑑定《かんてい》額)
ブタ一頭/換金不能
▼支出
M6A2 <ブッシュネル> /一〇三一万五五〇〇ドル(<ミスリル> の請求《せいきゅう》額)
「……こんな馬鹿《ばか》げた話って、あるか?」
基地の酒場《さかば》。その隅《すみ》っこのカウンターに突《つ》っ伏《ぷ》して、クルツが言った。手には安物のスコッチ。
「全部|没収《ぼっしゅう》。海賊《かいぞく》の財宝も、けっきょくは中古のAS一機分しか値打ちがない、ってことだよ。夢もロマンもへったくれもない。最悪だ……」
「評価額は司令本部のさじ加減《かげん》ひとつだ。大目に見てもらった、と考えるべきだろうな」
グレープジュースを片手に、宗介が言った。
「そりゃあな。自分とこの裏庭に、あんな財宝が眠ってたって知ったら……喜ぶよりは恥《は》ずかしがるよな。俺たち、みんなそろって大間抜《おおまぬ》けだ」
「そもそも、本来《ほんらい》なら営倉《えいそう》入りだ。そこを大佐殿《たいさどの》が弁護《べんご》してくれたそうだ」
「ふーん……。いい娘《コ》だよなぁ。もう少しM6を値引きして、差額を俺らにくれたら、もっといい娘だと思ったのに」
「それは贅沢《ぜいたく》というものだ」
それ以上は会話も弾《はず》まず、どんよりと暗いムードのままだった。そこに酒場《さかば》のマスターが、足を引きずり近付いてくる。
「聞いたぞ、若いの。なかなか楽しい経験《けいけん》をしたそうだな」
赤ら顔をにんまりとさせ、老人はだみ声で言った。
「なにが楽しいもんかよ? 散々《さんざん》だったぜ」
「ばかもん。五体満足で帰ってきただけ、ありがたいと思わんか」
そう言って、老人は自分のショットグラスにバーボンを注《つ》ぐ。『けっ』とそっぽを向くクルツの横で、宗介が挙手《きょしゅ》した。
「しかし、マスター。あんたはあの地図が本物だと知っていたのか?」
「いいや、知らんかった。だから探《さが》しもせんかったのだ」
「…………」
「あの地図は昔《むかし》、戦友からポーカーでまきあげたもんでな。なんでも、一九世紀ごろにだれかが別の地図を写《うつ》したものだったらしいわ。『キャプテン・アミーゴ』なんて名前も、でっちあげよ」
「だが、財宝は本当にあった」
「それにはわしも驚《おどろ》いとる。不思議《ふしぎ》なもんだ。とても不思議だ」
心から楽しそうに、老人はバーボンをくいっと飲み干した。
「いいか、おまえさんたち。世の中ってのは、つまるところ不条理《ふじょうり》・不思議だらけなのよ。その一端《いったん》を、激烈《げきれつ》に体験したわけだぞ? 喜びこそすれ、嘆《なげ》いたり憤《いきどお》るいわれはない。そう思えば気楽なもんだろうが。ええ?」
「ものは言いようだな、おい」
不機嫌《ふきげん》な声でクルツが言った。
マスターはそれには答えもせず、二人の前に二枚の金貨を放《ほう》った。ちりん、と小気味《こきみ》のいい音をたてて、金貨はカウンターの上で小刻《こきざ》みに回転する。それは二人があの洞窟で見つけた、財宝の一部だった。
宗介とクルツはきょとん、とする。
「これは……?」
「おまえさんたちの上官――ほれ、あのロシア人よ。あれに頼《たの》んで、三枚ほど譲《ゆず》ってもらったんじゃ。一枚はわしの分。残りの二枚はおまえさんたちのだ」
老人は自分の一枚を、彼らの前でひらひらさせた。
「持っとけ。これはな、ロマンのかけらじゃよ。ポケットに入れておけば、見えない力をおまえさんたちに授《さず》ける。生きて、笑ったあかしよ。いつか道に迷《まよ》い、途方《とほう》にくれたとき、その金貨がしるべとなるのだ」
「はあ……」
「わかるか? いいや、わかるまい。が――持っておけ」
二人の若い兵士は、それぞれの金貨を手に取って眺《なが》めた。なにか、はじめて出会った変な食べ物でも見るように。
「もらっておこう。感謝《かんしゃ》する」
宗介は生真面目《きまじめ》にうなずいた。
「まあ……バカな暇《ひま》つぶしの記念品、ってとこだな」
クルツは苦笑した。それは本当にほろ苦《にが》く――それでいて曇《くも》りのない笑顔だった。
老人は満足そうに破顔《はがん》すると、自分のグラスにもう一度バーボンを注《つ》ぎ、二人の前に掲《かか》げた。
「では乾杯《かんぱい》じゃ。変な海賊《かいぞく》と黄金《おうごん》の記憶《きおく》に」
「乾杯」
「乾杯」
三人はグラスを合わせてから、ひとしきり酒席を楽しんだ。
[#地付き]<キャプテン・アミーゴと黄金の日々 おわり>
[#改ページ]
あとがき
この本は月刊ドラゴンマガジン98[#「98」は縦中横]年12[#「12」は縦中横]月号から99[#「99」は縦中横]年4月号まで掲載《けいさい》された「フルメタル・パニック!」の連載《れんさい》短編《たんぺん》に加筆修正《かひつしゅうせい》し、書き下ろし一本を加えたものです。
例によってのお気楽コメディ、とくとお楽しみください。
……んでもって、この本のタイトル。すでにお気づきかと思いますが、「本気になれない二死満塁?」ということでして、短編集の冊数に対応《たいおう》しております。3巻やら4巻はまだいいですが、このまま行くと6巻や9巻あたりのタイトルで苦しみそうな予感。ちなみに「?」が付くのは、本屋さんで棚《たな》に差してある場合、この記号があればフルメタを見付けやすかろー、などという作者の浅知恵《あさぢえ》だったりします。
では各話のコメントを。
『妥協《だきょう》無用のホステージ』
せっかくの「ヤンキー軍団VS主人公」ネタも、こいつにかかるとこのザマです。まあ、仕方《しかた》ないか……普段《ふだん》の相手は重武装《じゅうぶそう》のテロリストだし。
皆《みな》さんのお友達やガールフレンドが悪い連中《れんちゅう》にさらわれたら、宗介《そうすけ》のマネはしないで警察《けいさつ》へ行きましょう。たいていのお巡《まわ》りさんはいい人です。ただし、罪《つみ》も無《な》い私を駐車違反《ちゅうしゃいはん》で取り締まった、●●署《しょ》の●●●●という巡査《じゅんさ》だけは別ですが。あの野郎、俺が有色人種《ゆうしょくじんしゅ》だからって差別してるんだ。弁護士《べんごし》を呼べー。
冗談《じょうだん》です。逮捕《たいほ》しないでください。
『空回りのランチタイム』
私も古文は大の苦手でした。あの「一を聞いて十を知れ」というノリに、どうしても付いていけなくて。同じ理由で受験《じゅけん》向けの現代文も大嫌いでした。あと、作文の点も悪かったです。「将来《しょうらい》の夢」みたいな題材《だいざい》で、「生命工学を極《きわ》めて小型の愛玩用《あいがんよう》パンダを量産《りょうさん》し、大儲《おおもう》けしたいです。絶対《ぜったい》売れるから」とか書いたら、教師《きょうし》からは相手にもされませんでした。いい案だと思うんだけどなぁ……。
つまり、国語は総じてダメだったのですね。ふっ。
『罰《ばち》当たりなリーサル・ウェポン』
この話を書くにあたり、近所の神社に出かけて簡単《かんたん》な取材《しゅざい》をしました。
で、平日の昼間に、徹夜《てつや》明けで無精《ぶしょう》ヒゲ生《は》やした、ラフな格好《かっこう》のデカい男が、境内《けいだい》をウロウロするわけです。神社の構造《こうぞう》や、周囲《しゅうい》の植生、社務所《しゃむしょ》の位置なんかを確認《かくにん》する私の姿《すがた》は、どこからどう見ても「賀東《がとう》招二《しょうじ》容疑者《ようぎしゃ》(二〇代・無職《むしょく》)」でした。
神主《かんぬし》さんが「なにか御用《ごよう》ですか?」とか言ってきたので、私はこれ幸いと、彼にあれこれたずねました。「あのー、本堂《ほんどう》の御神体《ごしんたい》って、なにが入ってるんですか?」とか、「それって高価なものですか?」とか、「防犯設備《ぼうはんせつび》は?」とか。
神主さんは教えてくれませんでした。代わりに、私の住所と名前を聞いてきました。
『やりすぎのウォークライ』
実はラグビーのこと、あんまり知りません。マジメにラグビーやってる方、ごめんなさい。でも、やっぱり、むさっ苦しいと思います。
あと、広●涼子ファンの方もごめんなさい。でも、やっぱり(以下略)
いや、冗談です。本当はマジメないい子だと思います。だから刺《さ》さないでください。
『一途《いちず》なステイク・アウト』
ラブコメ全開《ぜんかい》フルスロットルの話ですね。ふもっふ。
活字のせいか、しばしば間違って発音されるのですが、ボン太くんのボは「BO」であって、「PO」ではありません。ましてや「GO」などでは決してありません。どうかご注意を……!
『キャプテン・アミーゴと黄金の日々』
今回の書き下ろしは長編キャラの短編コメディです。クルツ・ウェーバーなる男や <ミスリル> については、長編の方をご覧《らん》ください。たまには、こういう男二人のダラダラした話もよろしいのではないかと(え、だめ……?)。BGMにはブルースを推奨《すいしょう》。全編を貫《つらぬ》く倦怠感《けんたいかん》が、イイ感じだと自分で勝手《かって》に思ってます。次はテッサの話……かな?
さて。今回も多数《たすう》の方々の助言《じょげん》とご協力をいただきました。またまた感謝《かんしゃ》いたします。とりわけ多忙な四季《しき》童子《どうじ》氏に大感謝を。
次巻は長編第三弾になるわけですが、ちょっと間が開き、秋|頃《ごろ》刊行《かんこう》の予定です。それまではドラマガの連載《れんさい》の方でお会いいたしましょう。
では、また。次回もかなめのハリセンがうなります。
[#地から2字上げ]一九九九年四月  賀 東 招 二
[#地付き]http://www.tk.xaxon.ne.jp/~irineseo/gatoh/index.html
追記《ついき》:私がつるんでるエルスウェアという会社が、郵便《ゆうびん》で遊ぶメイルゲーム、『海賊《かいぞく》王女の凱旋《がいせん》』を開催《かいさい》します。キャプテン・アミーゴは出てきませんが、大海原で血わき肉おどる大冒険《だいぼうけん》が、あなたを待っている!
……と思うので、興味《きょうみ》のある方は住所(郵便番号)、氏名、電話番号をハガキに御記入の上、次の住所までごお送りください(注:これは九九年五月の時点での募集です)。
[#地付き]〒168―0081 東京都杉並区宮前2―1―16[#「16」は縦中横] カサ・デ宮前220
[#地付き]泣Gルスウェア「網〜戸、アミーゴ」係
[#改ページ]
初 出 月刊ドラゴンマガジン1998年12[#「12」は縦中横]月号〜1999年4月号
「キャプテン・アミーゴと黄金の日々」書き下ろし
底本:「フルメタル・パニック! 本気になれない二死満塁?」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
1999(平成11)年05月25日初版発行
2000(平成12)年10月15日7版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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使用したWindows機種依存文字
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「U」……ローマ数字2、Unicode2161
「求v……全角括弧付き有、Unicode3232
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使用した外字
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「H」……白抜きハートで、DFパブリフォントの外字(0xF048)を使用しています。
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注意点
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あとがきの最後にURLが記載されていますが、現在2009年6月現在の賀東招二の公式サイトは http://www.gatoh.com/ です。
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本158頁12行 一矢《いっし》乱れず
「一糸乱れず」が正しいのでは?
底本232頁3行 単純な力技《ちからわざ》ってとこか。
「力業」が正しいのでは?