フルメタル・パニック!
放っておけない一匹狼?
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)愛憎《あいぞう》のプロパガンダ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)相良|宗介《そうすけ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ソ連[#「ソ連」に傍点]KGBの暗殺者
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目 次
南から来た男
愛憎《あいぞう》のプロパガンダ
鋼鉄《こうてつ》のサマー・イリュージョン
恋人はスペシャリスト
芸術のハンバーガーヒル
シンデレラ・パニック!(特別書き下ろし)
あとがき
[#改丁]
南から来た男
[#改ページ]
あなたが好きです。
真摯《しんし》なまなざし。凛々《りり》しい横顔。力強い立ち居《い》ふるまい……。遠くから見ていて、いつもため息を洩《も》らしています。
どうやって気持ちを伝えたらいいのか分からなくて、こうして手紙を書きました。臆病者《おくびょうもの》の私を笑って下さい。
あなたのことを考えるだけで、胸《むね》がはち切れそうになります。心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》を止められたら、すこしは心も楽になるのに……。
どうか一度、会って話をさせてもらえないでしょうか。私の想《おも》いが伝わらなくても構《かま》いません。一度だけ……。
放課後《ほうかご》、体育館の裏《うら》で待っています。
細面《ほそおもて》の教頭が、扉《とびら》を開けるなり叫《さけ》んだ。
「校長先生っ!」
……などというだけあって、ここは校長室である。その中央、執務《しつむ》椅子《いす》に腰《こし》かけていた校長は、
「なんです、騒々《そうぞう》しい」
読みかけの朝刊《ちょうかん》を机上《きじょう》に置いて、うるさげに言った。校長は小柄《こがら》な中年女性で、上等な赤のスーツで身を固めていた。
教頭は書類の束《たば》を無遠慮《ぶえんりょ》に突きつけた。
「校長、これを御覧《ごらん》になりましたかっ!?」
「どれ?……ふむふむ」
それは請求書《せいきゅうしょ》の数々だった。窓ガラス代二〇万、床《ゆか》タイル代六万、壁《かべ》の修理費《しゅうりひ》一一万、使った消火器の補充《ほじゅう》で六万五〇〇〇……。
総額《そうがく》で四三万五〇〇〇円。
「おやまあ……。これは先月分?」
「先週分ですっ!! あの生徒が転入《てんにゅう》して来て以来、ずっとこんな調子なんですぞ!?」
「あの生徒。だれです」
「相良《さがら》です! 相良|宗介《そうすけ》っ!!」
教頭は顔写真付きの身上書《しんじょうしょ》を突き出した。
「おや、この子ね」
むっつり顔にへの字口。ざんばらの黒髪《くろかみ》で、きびしく眉根《まゆね》を寄せている。視線《しせん》は鋭《するど》く、高校生には不似合《ふにあ》いな緊張感《きんちょうかん》と殺気《さっき》が、写真の中からもぷんぷんと漂《ただよ》っていた。
「校長。私はかつて、都内でも悪名《あくめい》高い工業高校に勤務《きんむ》した経験《けいけん》がありますが、あそこにさえ、相良宗介ほどの問題児はいませんでした。器物《きぶつ》破損《はそん》や授業《じゅぎょう》妨害《ぼうがい》の数では、おそらく我《わ》が校の歴史に残るほどの――」
「……先生。相良宗介くんの境遇《きょうぐう》については、前にも説明したじゃないですか」
「海外で育ったことですか」
「そうです。しかもただの外国ではなく、世界中の紛争《ふんそう》地帯《ちたい》を転々と……。保護者の方が、ロシア人の傭兵《ようへい》だったとか何だとか」
「だからといって、教室の窓ガラスを割っていい理由にはなりませんぞ!? 聞けば昨日《きのう》も、あの生徒は校庭から飛びこんできたソフトボールを、手榴弾《しゅりゅうだん》と勘違《かんちが》いして――」
「教頭先生……!」
校長は相手の話をぴしゃりと遮《さえぎ》った。
「相良くんは、戦争の被害者《ひがいしゃ》なのです。むごたらしい戦いの中ですさんだ彼の心を、我々《われわれ》は癒《いや》してやらねばなりません。よく『日本人は平和ボケ』などと言われますが――」
「あの生徒の場合は戦争ボケですな」
「そう。戦争に染《そ》まりきった彼を受け入れ、指導《しどう》していく……それこそが、すばらしい平和を享受《きょうじゅ》している我々の務《つと》めなのです」
校長は机上の朝刊(朝日新聞)を折りたたんだ。
「……だから目をつぶって良いと?」
「そういうことです」
「もしかして、教育|委《い》で噂《うわさ》になっている、出所《しゅっしょ》不明《ふめい》の寄付金《きふきん》は……」
「関係ありません」
「相当な額だと聞いておりますが……」
「行ってよし!」
強引《ごういん》に話を終えて、校長は出口を指さした。
「あ〜、ねむ……」
晴れ渡った青空の下で、千鳥《ちどり》かなめはぼそりとつぶやいた。
ほっそりした、線の薄い顔。やや切れ長の目だけが、鮮明《せんめい》に浮かび上がっている。端《はし》っこを結《ゆ》わえた長い黒髪が、歩調《ほちょう》に合わせて左右に揺れた。
「あ〜、ホント、マジねむぃ……」
背丈《せたけ》は一六五センチほどだろうか。隣《となり》を並んで歩くクラスメートが小柄《こがら》なせいもあって、実際《じっさい》よりも長身に見えた。
「カナちゃん、ホントに朝ヨワいね」
クラスメートの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が言った。
「んー。そーね。弱いね。眠たいね」
かなめが通《かよ》う陣代《じんだい》高校は、東京|郊外《こうがい》の私鉄|沿線《えんせん》にある。駅前商店街からほど近い、雑木林《ぞうきばやし》とお寺に挟《はさ》まれた、ごく普通の高校だ。
二人は校門を抜けて、校舎《こうしゃ》の正面|玄関《げんかん》へと入っていった。
「小テストのベンキョー、やってきた?」
丸メガネをかけた恭子は、手にした単語帳を鞄《かばん》にしまいながらたずねた。
「はっはっは……。バッチリ。あたしにかかればね、毛唐《けとう》の言語なんざー、朝メシ前のうんこみたいなモンだから、うん」
恭子のメガネが、はげしくずり落ちた。
「カナちゃん……。朝からおげれつだね」
「いーのよ。朝は……ふぁ……テンション落ちるから。会話にはインパクトを……お?」
かなめは言葉を切った。
玄関ホールの一角に、不穏《ふおん》な人垣《ひとがき》が生まれていた。ホールにずらりと並ぶ、靴箱《くつばこ》の列の真ん中あたりだ。
「なんだろ? あたしたちのクラスの靴箱のへんだよ」
「このパターンは……あいつね」
「あいつ? ああ、彼ね」
かなめは大股《おおまた》で、野次馬《やじうま》たちをかきわけていった。ようやく自分のクラスの靴箱のそばまで来ると、
「ソースケ!」
靴箱の一つに聴診器《ちょうしんき》をあて、聞き耳を立てている男子生徒を怒鳴《どな》りつけた。
むっつり顔にへの字口。他の男子と同じく、詰《つ》め襟《えり》の学生服を着ている。彼はいきなり呼び付けられたのに驚《おどろ》いたらしく、びくりと肩《かた》を震《ふる》わせた。
「大きな声を出すな、千鳥」
かなめのクラスメート、相良宗介はどこか切迫《せっぱく》した声で言った。彼の周囲五メートルには、黒字で『危険《きけん》:立入禁止』と印刷《いんさつ》された、黄色いテープが張《は》り渡してあった。
「なによ、こんなモン勝手《かって》に張って。みんなに迷惑《めいわく》じゃない!」
テープを乱暴《らんぼう》にくぐって、ずけずけと宗介のそばまで歩く。彼はそれを手で制《せい》し、
「来るな、危険だ」
「なにが危険なのよ」
宗介は額《ひたい》に浮かんだ汗《あせ》をぬぐい、自分の靴箱を指さした。
「爆弾《ばくだん》だ」
「はあ?」
「俺《おれ》以外の何者かが、この靴箱を開閉《かいへい》した形跡《けいせき》がある。仕掛《しか》け爆弾かもしれん。不用意《ふようい》に開けたら、ドカンだ」
気勢《きせい》を削《そ》がれて、かなめは棒立《ぼうだ》ちになった。
「あ、えーと……。あんたの靴箱を、だれかが勝手にいじったわけ?」
「そうだ」
「だからって、爆弾?」
「その通りだ」
論理《ろんり》が異様《いよう》に飛躍《ひやく》している。……というより、もはや論理がワープしている。かなめはこめかみのあたりを押さえながら、
「……ソースケ。あんたがボスニアだかアフガンだか、そーいう物騒《ぶっそう》なところで育った事情《じじょう》はわかるわよ? だからってね、この平和な日本で、人の靴箱にバクダンを仕掛ける●チガイがどこにいるっての?」
「君は甘い」
よく見ると宗介の顔は強《こわ》ばり、強い緊張《きんちょう》とストレスのせいで青ざめていた。
「こういう形のテロこそ、安全な国での最大の脅威《きょうい》なのだ。つい最近もアメリカで、海軍の退役《たいえき》大佐が自宅の郵便《ゆうびん》受けを開けて、上半身を吹き飛ばされる事件があった。俺とて油断《ゆだん》は許《ゆる》されない」
「……あんた、よっぽど後ろめたい人生を送ってきたのね」
「うむ」
皮肉《ひにく》とも気付かず、彼はうなずいた。
「俺を恨《うら》んでいる者は多いからな。ソ連[#「ソ連」に傍点]KGBの暗殺者《あんさつしゃ》かもしれんし、麻薬《まやく》カルテルの傭兵《ようへい》かもしれん。イスラム原理《げんり》主義《しゅぎ》のテロリストという可能性も……」
「はあ。変わった友達が多いわけね……。だいたいそもそも、だれかが靴箱に触《さわ》ったなんて、どうしてわかるのよ?」
「俺は普段《ふだん》から、目立たないように髪の毛を挟《はさ》んでいる。それが落ちていた」
「……いつも? わざわざ?」
「ああ。そういう習慣《しゅうかん》は珍《めずら》しいのか?」
大丈夫《だいじょうぶ》かしら?
かなめは本気で心配した。以前、ある事件で、実際に宗介の活躍《かつやく》を見たことのある彼女でも、ときどき彼がただの誇大《こだい》妄想狂《もうそうきょう》に見えてくる。
「とにかく俺は、この靴箱の中を検査《けんさ》する。裏側からファイバー・スコープを挿入《そうにゅう》して、トラップの種類《しゅるい》を判別《はんべつ》するつもりだ」
「そんなモン持ち歩いてるの?」
「ロッカーに機材《きざい》一式を置いてある。こういう時のための用心だ」
「こういう時ってどーいう時よ……」
宗介は八ミリビデオに似《に》た機械に黒い管《くだ》を取り付け、その先端《せんたん》のライトを明滅《めいめつ》させた。電動ドリルのバッテリーもチェックし、検査の準備《じゅんび》を慎重《しんちょう》に進める。
「ねえ、ソースケ。もうすぐ授業《じゅぎょう》が始まっちゃうじゃない。どうせ爆弾なんて無《な》いわよ。開けるのが怖《こわ》いなら、ほっといたら?」
「そうはいかない。危険だ」
そう言われても、素人《しろうと》のかなめには仕掛け爆弾の危険さなど、想像《そうぞう》もつかなかった。
「だったら、さっさと片付けてよ。のんきに胃カメラなんて使ってないで」
「そーよ、そーよ!」
「とっとと終わらせろ、相良!」
「いつまで待たせる気!?」
遠まきに様子《ようす》を見守っていた生徒たちが、かなめに同意して口々に叫《さけ》ぶ。ブーイングの嵐《あらし》に、宗介は小さくうなずいた。
「そうか。では、手荒《てあら》だが……」
宗介は鞄《かばん》から、大きなチューブを取り出すと、茶色の粘土《ねんど》をひねり出し、自分の靴箱の表面に盛《も》りつけていった。
「なにそれ? 歯磨《はみが》き粉《こ》?」
「いや」
盛りつけの済《す》んだ粘土に、単四電池に似たなにかを埋《う》め込むと、次にカセット・ケースほどのリモコン装置《そうち》を取り出す。
「下がってくれ。もっとだ」
機材一式を肩にかけ、かなめの背中を押して、充分《じゅうぶん》に靴箱から離《はな》れる。彼女は戸惑《とまど》いながら、
「ねえ。だからあの粘土、なんなのよ?」
「プラスチック爆薬《ばくやく》だ」
「な……」
宗介はリモコンの安全装置を解除《かいじょ》して、野次馬《やじうま》たちに向かって叫んだ。
「爆破《ばくは》するぞ! 全員、耳をふさぎ、口を半開きにしろ! いいな!? 行くぞ!!」
……などと言われたくらいで、準備のできる生徒など一人もいない。かなめの制止も間に合わず、宗介はリモコンの赤いボタンをぐいっと押し込んだ。
「やめ――」
ばぁんっ!!
玄関ホールの大気が震《ふる》え、その場の一同は残らず床《ゆか》にひっくり返った。小さな炎《ほのお》が天井《てんじょう》を照《て》らし、木片が飛び散《ち》り、白い煙《けむり》がぶわっと広がる。爆発の反動で二年四組の靴箱は反対方向に倒れて、数十足の上《うわ》ばきを、四方八方にまき散らした。
煙《けむり》を吸《す》いこみ咳《せ》きこむ者、爆音のショックでひきつけを起こす者、焼けただれた自分のエアマックスを見て号泣《ごうきゅう》する者……。
「む……」
宗介はきびきびと立ち上がり、
「どうやら爆弾はなかったらしい」
「どうして……?」
かなめが、ぎくしゃくと身を起こした。彼女はあまりの出来事《できごと》に、怒《おこ》ることさえ忘れてしまっていた。
「爆発音は一度きりだった。それに、靴箱の対面を見ろ。ほとんど無傷《むきず》だ。俺を狙《ねら》った爆弾があったのなら、ふつうは対面に爆風がいくはずだ。殺傷力《さっしょうりょく》を増すためのネジクギなどをまき散らして……」
彼は身振りを交《まじ》えて、みずから招《まね》いた惨事《さんじ》を正確《せいかく》に説明した。
「……つまり、空|騒《さわ》ぎだったわけね?」
宗介はしばし押し黙《だま》り、
「いや、必要な措置《そち》だった。不審物《ふしんぶつ》のもっとも安全な処理《しょり》方法《ほうほう》は、こうして爆破することなのだ。やはり俺の判断《はんだん》は正しい」
「あんたねぇ……」
かなめは拾《ひろ》いあげた上ばきで、宗介の頭を力いっぱいはたき倒した。
「痛いじゃないか」
「やかましいっ!! 先生にどうやって説明するつもりなのよ!?」
「君は生徒会の副会長だ。その権力《けんりょく》をもってすれば――」
「知るか! なんであたしが……わわ!?」
めらめらと燃える紙切れが、かなめの肩に舞《ま》い落ちてきた。あわててそれを払《はら》いのけ、床に落ちたところを踏《ふ》み消す。
「む……待て」
いきなり宗介がひざまずき、彼女の足首をつかみ上げた。
「きゃっ……ナニすんのよ!」
よろめくかなめの脚《あし》には一瞥《いちべつ》もくれず、ボロボロになった紙片《しへん》を拾いあげる。
「ちょ……どうしたの?」
宗介は紙切れを凝視《ぎょうし》して、
「俺の名前が書いてある。手紙のようだ」
「手紙?……あ、ホントだ」
焼けただれた紙切れの一部には、ススで半分ほど隠《かく》れた『相良〜』の文字が読み取れた。
「では千鳥くん。今朝《けさ》の火災《かさい》を説明してもらおうか」
昼の陽光が射《さ》し込む窓を背に、生徒会長・林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》は告げた。
髪はオールバックで、面長《おもなが》の顔だち。真鍮《しんちゅう》フレームの眼鏡《めがね》の奥で、細い両眼が知的な光を放《はな》つ。宗介とは種類の異《こと》なる、静かな威厳《いげん》が漂《ただよ》っていた。かなめと宗介が不景気《ふけいき》な顔で、安物のスチール机《づくえ》の前に座《すわ》っていても、その貫禄《かんろく》は決して揺るがないように思える。
この生徒会室は南校舎の四階に位置し、校庭を一望のもとに見渡せた。
「……なんであたしが説明しなきゃならないんですか、センパイ?」
かなめは不服そうに言った。いまは昼休みで、彼女と宗介はこの生徒会室に校内放送で呼び出されたところだった。
「君は事件の目撃者であり、なおかつ私の片腕《かたうで》だ」
「片腕じゃなくて、ただの副会長です……!」
「だとしても、客観的に事情を説明できる人間が必要だ。見たままを供述《きょうじゅつ》すればいい」
「そー言われましても……」
――宗介が靴箱を爆破した。
これ以外に説明することがあるだろうか?
彼女が返答に困《こま》っていると、
「会長、自分が説明します」
それまで黙《だま》っていた宗介が口を開いた。
「そうしたまえ」
「はい。本日〇八一五時、自分が登校して来たところ、靴箱に不審物の存在を察知《さっち》しました」
「不審物とは?」
「不明ですが、当初は爆発物を想定していました。いずれにせよ、何者かが自分の靴箱に細工《さいく》をしたのは間違いありません。検査を行《おこな》おうとしたところ、千鳥副会長ほか十数名の生徒が反対したため、もっとも確実な処理方法を実施《じっし》しました」
「ふむ。それは?」
「高性能爆薬による爆破処理です」
「爆破、だと……!?」
林水の目がぎらりと光った。
その様子《ようす》を見て、かなめは確信した。
きっと怒っているに違いない。これはいい機会だ。宗介は、この会長には一目《いちもく》置いている。センパイがきびしく叱《しか》ってやれば、彼の暴走《ぼうそう》もすこしは落ち着くかも……。
彼女が期待して見守る前で、林水は深く息を吸い込んだ。そして重々しい口ぶりで、
「なるほど。それなら確実だ」
かなめ一人が『がたーん!』と倒れて、部屋の机をひっくり返した。
「はぁっ、はぁっ……」
[#挿絵(img2/s01_021.jpg)入る]
「どうした、千鳥」
「騒々《そうぞう》しい娘《むすめ》だね、君は」
二人の変人は不快《ふかい》そうに眉《まゆ》をひそめた。
「……センパイ! ちょっとは異常だとか思わないんですか!? 学校の靴箱を爆破する高校生が、この世界のどこにいるんですっ!?」
「ここにいるではないか」
「そーじゃなくて! 反語表現!」
「そんなことはわかっておる。……どうも君には理解が不足しているようだな」
林水は人差し指で、眼鏡の縁《ふち》をくいっ、と押し上げた。それは得意《とくい》のヘリクツが始まる合図《あいず》だった。
「千鳥くん。たとえば、君の自宅の玄関《げんかん》先に、見知らぬ男からの小包《こづつみ》が置いてあったとしよう。手に取ってみると、中で大勢の何かがガサガサとうごめく音がする。卑猥《ひわい》な悪臭《あくしゅう》や、ほのかな温《あたた》かみでもいい。とにかく、そういう小包だ。さて、それでも君は、その小包を開けて中を見るかね?」
かなめは嫌悪《けんお》をあらわにした。
「……開けません。捨《す》てます」
「自分の部屋《へや》のクズカゴに?」
「いーえ、マンションの前のゴミ捨て場に!」
「そうだろう。ましてやそれが小包でなく、移動のできない靴箱だったら、もはや爆破でもするしかあるまい」
「そ、そーいうもんですか?」
「そういうものだ」
生徒会長は大仰《おおぎょう》な仕草《しぐさ》で天井《てんじょう》を見上げた。
「思うに、彼が爆破した靴箱の中には、ろくでもないモノが入っていたに違いない。吹き飛ばされて当然の代物《しろもの》だ」
「はあ……」
「そういうわけで、教職員は私が言いくるめておこう」
「助かります」
宗介は敬礼した。
「うむ。では、以上だ」
林水は自分の椅子《いす》に座《すわ》ると、背中を向けて、読みかけの日経新聞に目を落とした。
教室に戻《もど》ってから。
あやしい干《ほ》し肉を食べ終わると、宗介は朝に拾《ひろ》った紙片をおもむろに観察《かんさつ》した。それはピンク色の便箋《びんせん》のようだったが、ほとんどの文面は読めそうになかった。
「なんかわかった?」
屋上《おくじょう》で友達と食事をとり、いましがた戻ってきたかなめが、そばまで来てたずねた。
「いや。俺|宛《あて》てなのは確かだが……」
焼けこげた紙片の一角を指さす。宛名とおぼしきその文字は、やはり『相良』としか読めそうになかった。
「ふーん……。じゃあ、靴箱に入ってたモノって、その手紙なんじゃない?」
「おそらく、な」
目を細めると、いくつかの単語はかろうじて判別《はんべつ》することができた。
――『遠くから見〜』『臆病者《おくびょうもの》〜』『心臓の鼓動《こどう》を止め〜』『楽に〜』『放課後、〜育館の裏で待〜』。
「やはり、敵意《てきい》ある第三者の仕業《しわざ》だ」
――相良宗介。いつも遠くから見ているぞ。この臆病者め。きさまの心臓の鼓動を止めて、楽にしてやる。放課後、体育館の裏で待っていろ。おまえを殺《ころ》す。
「……などといった内容に違いない」
彼は断定《だんてい》した。
「なんでそーなるのよ……。これ、女の子の字だよ」
「甘《あま》い。これは筆跡《ひっせき》鑑定《かんてい》を逃《のが》れるための偽装《ぎそう》工作だ。相手はプロかもしれん」
「やだなあ、そんなプロ……」
ごっつい殺し屋が、かわいいピンクの便箋に、いそいそと少女文字を書き連《つら》ねている姿《すがた》を想像し、かなめは背筋《せすじ》を震《ふる》わせた。
「……やっぱラブレターじゃない? この学校のだれかが書いた」
「|のちほど強奪《ロブ・レイター》。なんだ、それは」
「だからぁ、なんでそーゆー方向に頭がいくの? これは恋文《こいぶみ》! 恋する人に想《おも》いを伝える手紙のこと!」
自分を想う女性の存在を告げられても、宗介の両目はまばたき一つしなかった。
「わかる? ソースケのことを、好きな子がいるかもしれないのよ。その……う、うれしくないの?」
ためらいがちな質問《しつもん》に、彼は遠い目をした。
「ああ。……以前、似《に》たようなケースがあった。数年前のカンボジアでのことだ。ある部隊の真面目《まじめ》な下士官《かしかん》が作戦中、現地の娘と親しくなってな。俺も含《ふく》め、周囲の仲間は祝福《しゅくふく》した。ところがその女が、実はゲリラ側のスパイだったのだ」
「はあ……」
「奇襲《きしゅう》作戦の情報が洩《も》れ、部隊は壊滅《かいめつ》寸前《すんぜん》の打撃《だげき》を受けた。責任を感じた下士官は、その日のうちに拳銃《けんじゅう》で自殺してしまった」
「そ、そーですか……」
このラブレターとその下士官の悲劇の、どこがどう似ているのか分からなかったが、なにやら深刻《しんこく》そうな話題だったため、かなめはとりあえず相槌《あいづち》を打っておいた。
「懐《なつ》かしいな。俺と少佐はその部隊で、強襲機兵《アーム・スレイブ》の訓練《くんれん》教官を務《つと》めていた」
『少佐』って誰? 彼女は思ったが、面倒《めんどう》くさいのでたずねるのはやめた。ちなみに『アーム・スレイブ』とは、最近の戦争で幅《はば》を利《き》かせている人型|攻撃《こうげき》兵器《へいき》のことである。
宗介は紙片を机にしまうと、すっくと立ち上がった。
「どっか行くの?」
「ああ。脅迫《きょうはく》にせよ誘惑《ゆうわく》にせよ、放課後、体育館裏で誰かが待っているはずだ。そのための準備[#「準備」に傍点]を始める」
「準備ってなによ。ちょっと……」
彼は答えずに、彼女に背中を向けた。
「ソースケ! もう五時間目、始まっちゃうわよ?」
「安全|優先《ゆうせん》。残りの授業は欠席だ」
それだけ言って、彼は教室を立ち去った。
六時間目の数学Uが終わると、クラスメートの常盤恭子がかなめの肩を叩《たた》いた。
「ねえねえ、カナちゃん。相良くん、どこ行っちゃったの?」
「……あたしが知るわけないでしょ。保護者《ほごしゃ》でも飼育係《しいくがかり》でもないんだから」
うんざりとした様子《ようす》で答える。
「彼がラブレターもらったって噂《うわさ》、ホント?」
「うん。あたし見たもん。いったいあんなバカを、どこの物好きが……ったく」
机の中から取り出した教科書と辞書《じしょ》の束《たば》を、机上《きじょう》に『ばんっ!』と置く。
「……カナちゃん、なんか不機嫌《ふきげん》だね」
「あたしが? なんで!?」
思わず語気《ごき》を荒げる。恭子は熟《こな》れた仕草《しぐさ》でそれをあしらい、
「ほら、不機嫌じゃない」
「うぅ……。そお?」
「気になるんでしょ、相良くんのこと。男子の中で、いちばん仲いいもんね」
「ちがう、ちがう! 絶っっっ対にちがう!」
かなめは渾身《こんしん》の力をこめて否定《ひてい》した。
「仲良くなんてないわよ! あたしはねぇ、あいつがしょっちゅう暴走《ぼうそう》するモンだから、副会長の立場上、やむを得ず――」
「はいはい。どっちにしても、いちおう様子でも見に行ってみない? 面白《おもしろ》そうじゃない」
かなめは意固地《いこじ》になって、
「行かない。あたしの知ったことじゃないもん。だいいち、あんな戦争バカがまともな恋愛《れんあい》なんてできるわけないじゃない」
それでも恭子は食い下がり、かなめの不安を煽《あお》ろうとした。
「わかんないよ。相良くんって、遠目に見ればフツーの人じゃない? けっこうハンサムだし」
かなめはそれをせせら笑った。
「ははん。喋《しゃべ》りだしたら終わりだもの。あのバカ、頭の中は『スパイ大作戦』と『プラトーン』の世界でギッシリでしょ」
「じゃあ、やっぱり行かないわけ?」
「そーよ、バカバカしい」
教科書とノートを鞄《かばん》に詰《つ》め終え、彼女は立ち上がった。
「あたしは生徒会の用があるから、遅《おそ》くなるわよ。キョーコは先に帰ってる?」
「うーん……そうしようかな」
「じゃ、明日《あした》ね」
二人は廊下《ろうか》で手を振って別れた。
その一〇分後、体育館裏の柱《はしら》のかげで――
「カナちゃん」
「ひゃっ……!」
いきなり背中から声をかけられて、かなめは思わずすくみ上がった。
「きょ、キョーコ! おどかさないでよ!!」
声をひそめて抗議《こうぎ》する。恭子は意地の悪い笑みをたっぷりと浮かべ、
「あれ〜? ほかの用があるんじゃなかったのかな?」
「そ、そのはずだったんだけど、林水センパイが『様子を見て来い』って……本当よ!?」
「ふーん……」
疑惑《ぎわく》の視線《しせん》。かなめは目をそらし、
「だいたい、そーいうあんたは帰ったんじゃなかったの……?」
「気が変わったんだよ」
「あー、そう。いい性格してるわね」
彼女は柱のかげから顔を出し、体育館裏の様子をうかがった。
陣代高校の体育館裏は、校舎《こうしゃ》の方からは見えない構造《こうぞう》になっていた。あたりはつつじとあじさいの茂《しげ》みが連《つら》なっていて、放課後は人気《ひとけ》などほとんどない。
その一角、二人の隠《かく》れている柱から二〇メートルほど離《はな》れた場所に――
「あ……ホントにいた」
柱のかげから頭を半分だけ突き出し、恭子が小声でつぶやいた。
豊《ゆた》かに緑が生《お》い茂る、五月の桜《さくら》の木の下に、二年生の女子が立っていた。肩まで伸びる栗色《くりいろ》の髪を、内向きのシャギーにカットした、どことなくグラマーな身体《からだ》付きの少女だ。
かなめは、小刻《こきざ》みに眉《まゆ》をひくつかせた。
「き……きれーじゃないの。なかなか」
しかもその少女には、恋する者に特有《とくゆう》の、匂《にお》い立つような恥《は》じらいと艶《つや》やかさが漂《ただよ》っていた。いつもにぎり拳《こぶし》でずけずけ歩くかなめと比《くら》べれば、残念ながら、性的|魅力《みりょく》ではあちらの方に軍配《ぐんばい》が上がりそうだった。
「あの子、一組の佐伯《さえき》恵那《えな》さんって人だよ。去年、学園祭のミス陣高《ジンコー》で二位になった……」
恭子が言った。
「へー、そーなの。ふん……」
ちなみにそのミスコンには、かなめは出場していなかった。彼女は前日準備の徹夜《てつや》がたたって、生徒会の倉庫《そうこ》で爆睡《ばくすい》していたからだったりなどする。クラスの男子はかなめを出場させようとしたのだが、ジャージ姿で材木《ざいもく》に埋《うず》もれ、幸せそうに大いびきをかく彼女の姿を見て、推薦《すいせん》をとりやめたという。
「い……いかにも男ウケしそうな顔よね。きっとノーミソの代わりにフェロモン袋《ぶくろ》が入ってんのよ、あの頭に」
刺々《とげとげ》しい口調《くちょう》に恭子は首を振り、
「ベンキョーもできるらしいよ。学年末のテストで五番くらいだったかな……」
「うぅ。く、くっそぉ……」
ちなみにかなめは一六〇番だった。三二〇人の生徒の中の、ど真ん中である。英語と社会科は得意《とくい》なのに、理科と国語科で破滅的《はめつてき》な点を取ってしまったせいだった。
「肝心《かんじん》の相良くんはまだみたいだね」
恭子がぽつりと言った。体育館裏にいるのは、落ち着かない様子の佐伯恵那だけで、宗介が現れる気配《けはい》はまったくない。
「彼、来るって言ってたんでしょ?」
「『準備をする』とは言ってたけど……」
「準備? どんな?」
「知らない。戦車か戦闘《せんとう》ロボットでも取りにいってるんじゃないの?」
恭子は小さく笑った。
「ありそー。……とにかく待とうよ」
「ん。そーね」
二人は鞄《かばん》を抱《かか》えると、その場にしゃがみこんだ。
だが、六時を過《す》ぎても宗介は現れなかった。
「おそい……」
茜色《あかねいろ》に染《そ》まっていた空も、すでに暗い紫色《むらさきいろ》へと移り変わりつつある。運動系クラブの練習のかけ声も消え、街灯《がいとう》の光が体育館をやわらかく照《て》らしだした。
「本当に来るのかしらね、あいつ」
「どうかなー。だって、もう二時間もたってるよ?……ふあ」
恭子は小さなあくびをした。
「あたし、おなかすいちゃった。もう帰ろうかな……」
「そう。じゃあ、今度こそ明日ね」
「カナちゃんも帰ろうよ。相良くん、きっと来ないよ、もう」
もっともな意見だった。だが、かなめは腕《うで》を組み、すこし迷《まよ》ってから、
「あたしは、もう少しここにいる」
「そお。じゃ、行くね。風邪《かぜ》ひかないように気をつけてね」
恭子が去ると、かなめは改《あらた》めて体育館裏の様子をうかがった。
あいも変わらず、佐伯恵那は立ち尽《つ》くしている。顔をうつむかせ、壁《かべ》に寄《よ》りかかるその姿が、痛々しいほど寂《さび》しげだった。
なにしろ、すでに二時間も待っているのだ。
もう相手は来ないだろう……そう思いながら、待ち続けている彼女の気持ちが、かなめにもじんわりと伝わってきた。
だが、それでも宗介は来ない。
さらに一時間が過ぎてしまった。もう七時過ぎだ。完全に日も暮《く》れた。
やはり、彼は帰ってしまったのだろう。
いつのまにか佐伯恵那への反発が、不思議《ふしぎ》な共感に変わっていった。自分まですっぽかしを食らったような、そんな不条理《ふじょうり》な心細さが、ゆっくりと胸に広がっていく。
「最っ低ね……あいつ」
腹が立つ。どれだけ過激《かげき》で暴走《ぼうそう》気味《ぎみ》でも、本当は優《やさ》しい奴《やつ》だと思っていたのに。すっぽかしなんてあんまりではないか。
彼女がそう思った時――
「おをっ? だれかいるじゃん、こんな時間によー」
向こうで男の声がした。
「え。だれだれ?」
「おほー! かわいーじゃん!」
「なにしてんの、お姉さん」
かなめのことではないようだった。見ると、体育館裏の薄暗がりの中で、四、五人の男子生徒たちが、佐伯恵那を取り囲《かこ》んでいる。
「あ、あの……。わたし……」
男たちは困惑《こんわく》する彼女の様子など構《かま》わず、
「一組の子じゃない? 佐伯さんだったっけ」
「夜は怖《こわ》いよー。ほら、俺らみたいなのがいるからさー」
「そっ。たとえばさ、こんな具合《ぐあい》に……!」
一人が、いきなり佐伯恵那に抱《だ》きついた。
「や、やめて下さい……!」
男たちはげらげらと笑うばかりだった。
「うおー!『やめてくださ〜い★』だってよ。俺、こーいうの燃え燃え!」
「あ、やべ、もーたまんないっす」
男たちはいやがる彼女を壁に押し付け、髪やらスカートやらをふざけ半分に触《さわ》った。
「ああ、なんてこと……」
かなめはうめいた。
どんな学校にも不良《ふりょう》グループというのは存在《そんざい》する。この陣代高校は比較的《ひかくてき》平和で、温厚《おんこう》な生徒ばかりだったが、やはり例外ではなかった。しかも彼らは、この地域《ちいき》でも札付《ふだつ》きのグループだ。悪い噂《うわさ》も後を絶《た》たない。このままでは……。
自分が出ていって怒鳴《どな》りつけるか? いや、それを聞き入れるような連中ではない。
人を呼びにいくべきだろうか? いや、職員室の明かりはすでに消えている。
では、見て見ぬふりをするべきか?
「…………」
それが賢明《けんめい》だろう。彼女を助ける義理《ぎり》など、自分にはない。副会長だが、関係ない。それにあの娘《こ》は――
「……なんて言ってられないか。くそっ」
かなめは考えるのをやめて、柱のかげから飛び出し、叫《さけ》んだ。
「待ちなさいよっ!」
『ああん?』
男たちは一斉《いっせい》に振り向いた。街灯《がいとう》の明かりが落とす影《かげ》のせいか、彼らの顔は必要以上に邪悪《じゃあく》で、狂暴《きょうぼう》に見えた。
(ううっ、いきなり大|後悔《こうかい》……やっぱり逃げればよかった)
思いながらも、足は勝手《かって》に前へと進む。
「か……彼女、イヤがってるじゃない! 放してあげなさい!」
[#挿絵(img2/s01_037.jpg)入る]
要はナメられないことだ。強気で行こう、強気で。そうすればなんとかなるかも……。
リーダー格らしいスキンヘッドの男が、彼女の前に進み出た。
「そう怒《おこ》るなよ。このコとはさ、ちょっとフザけてただけだって」
「ウソよ! あたし見てたんだから!」
「そんなこと言って〜。ホントは仲間に入れて欲しいんじゃないの〜? ねえ?」
スキンヘッド男は、馴《な》れ馴れしくかなめの肩に手を回そうとした。
「触《さわ》るんじゃ……ねーわよっ!」
相手の手を払って、鼻柱《はなばしら》をグーで殴《なぐ》りつける。たまらず男はよろめいた。
「お……」
それまで笑っていた連中が黙《だま》りこみ、たちまち険悪《けんあく》なムードになった。
「なにこのアマ? なにこのアマ?」
「だいじょぶ〜?、タカちゃん?」
取り巻きの一人がスキンヘッドの男にたずねた。彼はしばらく顔を押さえ、黙りこんでいたが、
「……ってえ。鼻血でた」
すごみのある目で、かなめを睨《にら》みつけた。
「この女よ……マジでムイちまおうか?」
リーダー格の鶴《つる》の一声。一同の間で、にわかに切迫《せっぱく》した雰囲気《ふんいき》が生まれた。
「マジで?」
それぞれが、かなめの全身を真剣《しんけん》なまなざしでねめまわす。
「え……? って……ホントに……冗談《じょうだん》だった……わけ?」
そしていまは、冗談ではなくなった。
男たちはずいっと一歩、前に大きく踏《ふ》み出してくる。かなめは後ずさり、
「あのー。不幸な誤解《ごかい》があったようで……」
もはや返事もしてくれない。不良連中はにじり寄ると、一斉に飛びかかってきた。
「や……ちょっ! やめてよ!! ホント!」
「いまさらやめるかよ……!」
女の細腕で逃《のが》れられるわけもなく、かなめはたちまちその場に組み伏《ふ》せられた。気の強い彼女も、さすがに涙目《なみだめ》になって、
「放せーっ! チカン! ヘンタイ! レイパーっ!! ひ、人を呼んで〜〜っ!!」
……などと叫《さけ》ぶが、周囲にはだれも見当たらない。タイミングよく宗介がこの場に駆《か》けつけるなどとは、とても思えなかった。
「うるせえよ、黙らせろ」
一人が彼女のみぞおちを殴《なぐ》ろうと、拳《こぶし》を振り上げた。その刹那《せつな》――
だんっ!!
轟音《ごうおん》。拳を振り上げていた男が、なにかに横から殴りつけられた。そのまま勢《いきお》いよくはじき飛ばされ、体育館の外壁《がいへき》にぶつかって気絶《きぜつ》する。
「…………!?」
あたりには、彼らのほかはだれもいない。
なにが起きたのか理解できた者は、ひとりもいなかった。
さらに続いて――
だんっ!! だんっ!! だだんっ!!
容赦《ようしゃ》ない、謎《なぞ》の連撃《れんげき》。
男たちはたて続けに吹き飛ばされた。空中できりもみして地面に激突《げきとつ》する者、柱を抱《だ》くように昏倒《こんとう》する者、夜空に尻《しり》を向けて動かなくなる者……。
「…………?」
それきり、あたりは静かになった。
かなめは乱れた着衣をなおしてから、のろのろと身を起こした。
佐伯恵那は頼《たよ》りなげに突っ立ったまま、
「あ、あの……これは一体……」
「いやー。こっちが聞きたいわよ……」
気絶した連中の周《まわ》りには、パチンコ玉ほどの大きさのゴムボールが、いくつも散らばっていた。それと、ほのかに漂《ただよ》う火薬《かやく》の匂《にお》い。
そこで――
手の届《とど》くほどそばに生《は》えたつつじの茂《しげ》みが、がさがさと動き出した。
「まさか……」
茂みをかきわけて、全身に細《こま》かいボロ切れをまとった人間が現れた。迷彩服《めいさいふく》の上にカモフラージュ用のネットを被り、草木と区別がつかないように、身体《からだ》の輪郭《りんかく》さえも巧妙《こうみょう》に隠《かく》している。
業界[#「業界」に傍点]用語でいうところの、ゲイリー・スーツという姿だ。
「怪我《けが》はないか、千鳥」
ボロ切れ男は言った。
手にはイタリア製のセミオート式ショットガン。こちらも周到《しゅうとう》にカモフラージュしてある。頭に被ったネットを外《はず》すと、中から黒い顔が現れた。顔料《がんりょう》を塗《ぬ》りたくっているらしく、鋭《するど》い目だけが闇《やみ》に浮かび上がっている。
宗介の姿に、かなめは唖然《あぜん》として、
「……もしかして、ずっとそこにいたの?」
「肯定《こうてい》だ。五時限目から待ち伏《ぶ》せしていた」
思わず足下《あしもと》がふらつく。
「じゃあ、彼女の二メートル手前で、ずっと潜《ひそ》んでたわけ……!?」
「造作《ぞうさ》もないことだ」
こころなしか胸を張っているようにも思えたが、カモフラージュのせいで、ゴミの塊《かたまり》が反《そ》り返っただけにしか見えなかった。
「俺の偽装《ぎそう》は完璧《かんぺき》だった。そこの彼女も、まったく気付かなかったようだな。不審《ふしん》な素振《そぶ》りを見せたら、このショットガンのゴム・スタン弾《だん》で、すかさずノックアウトしてやるつもりだった」
何時間も、何時間も……。ぴくりとも動かず、草木の一部となって、彼女に銃口《じゅうこう》を向けていたとは……。マヌケを通り越《こ》して、もはや壮絶《そうぜつ》ですらある。
「ところが彼女は、いつまでたっても立ち去らない。いい加減《かげん》に先制|攻撃《こうげき》を仕掛けようかと迷《まよ》っていたところで、その連中が――」
がすっ!
かなめは宗介を蹴《け》り飛ばした。ゴミの塊はぶざまに倒れ、地面をわさわさと転《ころ》がった。
「痛いじゃないか」
「黙《だま》れっ! いたんだったら、もっと早くなんとかしなさいよっ!」
「それは無理だった。そこの連中と彼女がグルかもしれないと――」
「言《い》い訳《わけ》するなっ! あたしがどれだけ……。くぬっ、くぬっ!」
何度も蹴たぐり、右へ左へと転げ回す。
「む……。立ち上がれん。ネットがからまって……」
「知るかっ!」
もぞもぞともがく宗介を、佐伯恵那|嬢《じょう》は呆然《ぼうぜん》と見下ろした。
「この人が……相良くん?」
「いかにも。俺が相良宗介だ」
「だって……こんな……」
その顔に、みるみる失望《しつぼう》が浮かんでくる。
「さ……相良くん。わたしの手紙、読んでもらえましたか?」
宗介は苦労して立ち上がり、
「あの脅迫状《きょうはくじょう》のことか」
「違います! ピンク色の……」
「それなら、爆破《ばくは》してしまった」
「ば、爆破って……」
恵那は衝撃《しょうげき》を受け、ふらふらとよろめいた。
(それにしても、なんつー会話かしら……)
かなめは頭を抱《かか》えた。
「そもそも君は何者だ。どうやら敵《てき》ではないようだが……。真の狙《ねら》いはなんだ?」
「狙いって……」
「おとなしく話せ。隠《かく》すとためにならんぞ」
言って、ショットガンのポンプを『じゃきんっ!』と前後させる。こんな態度《たいど》をとられて、それでも相手に恋慕《れんぼ》の念を抱《いだ》ける少女などいるはずもない。
「あんまりだわ……。ひどい……!」
佐伯恵那は泣きながら、その場を走り去っていった。かなめには、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
「ああ、気の毒《どく》に……」
しかしまあ、これはこれで良かったのかもしれない。この世の中、もっとマシな男はいくらでもいるわけだし……。
宗介は偽装《ぎそう》ネットを脱《ぬ》ぎながら、
「おかしな女だ。人を呼びつけておいて『ひどい』だと? 被害《ひがい》妄想《もうそう》の精神病質者か?」
「それはあんたのことでしょ……」
かなめは深〜いため息をつくと、宗介を置き去りにして家路《いえじ》についた。
翌朝《よくあさ》、宗介が登校してくると、またしても(直ったばかりの)靴箱に不審物《ふしんぶつ》の存在を察知《さっち》した。
「またか……」
彼は鞄《かばん》からプラスチック爆薬《ばくやく》を取り出し、手早く爆破|処理《しょり》を行《おこな》おうと――
「やめんかっ!」
かなめが横から現れて、宗介をはたき倒した。彼は頭をさすりながら、
「千鳥。痛いじゃないか」
「……おはよ。爆破はダメ。根性《こんじょう》入れて、いますぐ開けてみなさいよ」
「いかん。危険《きけん》だ」
「そお?」
かなめはいきなり宗介の靴箱に手を伸ばすと、パタパタと何度も開閉《かいへい》して見せた。
「やめ……」
思わず身構《みがま》えた宗介は、なにも起きないのを見てきょとんとした。
「どう、平気でしょ? じゃあ教室でね」
かなめはそのまま行ってしまった。
「…………」
恐《おそ》る恐る、靴箱を開ける。罠《わな》はない。ただし新品の上《うわ》ばきの上に、ふろしき包《づつ》みの弁当箱が乗っていた。
取り出すとメモが挟《はさ》んであった。その文面は――
<<これはささやかなお礼。とりあえず、昨日《きのう》は助けてくれてありがとね。干《ほ》し肉ばかりだと、身体《からだ》こわすよ! 謎《なぞ》のテロリストより>>
「ふむ……」
宗介はメモをポケットにしまい、弁当箱を大切に抱《かか》えると、上ばきをはいて、教室へと向かった。
[#地付き]<南から来た男 おわり>
[#改丁]
愛憎《あいぞう》のプロパガンダ
[#改ページ]
ベランダに妙《みょう》な物音を聞いた気がして、千鳥《ちどり》かなめは目を覚《さ》ました。
チカンかしら?
彼女は枕元《まくらもと》の目覚《めざ》まし時計《どけい》に手を伸ばした。三年近く愛用《あいよう》してきた、英国製のペンギン時計だ。
もう七時過ぎだ。朝日がまぶしい。こんな朝っぱらにチカンはないだろう。
「う〜〜……」
かなめはむくりと起き上がり、腫《は》れぼったいまぶたをごしごしと擦《こす》りながら、パジャマ姿《すがた》のままマンションのベランダに出た。
エアコンの室外機《しつがいき》の上に、近所の白猫《しろねこ》が乗っていた。
「にゃあ」
「あ。おはよー……」
猫はしばらく彼女を眺《なが》め、隣《となり》の部屋のベランダへと立ち去った。
かなめはのろのろとシャワーを浴《あ》びた。ぬるま湯を浴びているうちに、意識《いしき》がもうろうとしてきて、あやうく浴室《よくしつ》の中で眠《ねむ》ってしまうところだった。
なんとか脱衣所《だついじょ》まで這《は》い出して、裸《はだか》のまま、腰《こし》までとどく黒髪《くろかみ》を拭《ふ》いているうちに、だんだんと目が覚めてくる。洗顔《せんがん》を済《す》ませ、下着を選《えら》び、制服《せいふく》を着る。
三分間、鏡《かがみ》をのぞく。
ほっそりした、線の薄い顔。黙《だま》っていると、どこか冷たく、大人《おとな》びて見えた。
「ふっ。はっはっはっ……」
わざわざ笑ってみると、なんとか愛嬌《あいきょう》が出てきた。まあ、こんなところだろう。
朝食をとってから歯《は》を磨《みが》き、鞄《かばん》の中身を総点検《そうてんけん》した。
手帳《てちょう》、生徒《せいと》手帳、PHS、リップスティック、コンパクト、コットン・パフ、ティッシュ、ハンカチ、バンドエイド、ベビー・オイル、爪《つめ》みがき、飴玉《あめだま》、頭痛薬《ずつうやく》……。
すべて問題なし。
引き出しから金色の腕《うで》時計を取り出し、左手首に着《つ》ける。高校生にはいささか不似合《ふにあ》いな、アダルトな意匠《いしょう》だった。
「……うっし、完璧《かんぺき》」
彼女は机《つくえ》の上の写真立てに目を向けた。写真の中で、三〇過ぎの女性が微笑《ほほえ》んでいた。しっとりとした印象《いんしょう》の美女で、目鼻《めはな》だちがかなめによく似《に》ている。場所はどこかの海岸《かいがん》で、九歳ほどの少女を抱《だ》いていた。
「じゃ、行ってくるね、母さん」
かなめは写真に向かって微笑むと、いつもと変わらぬ通学路《つうがくろ》へと出ていった。
さあ、急ごう。一時限目は古文《こぶん》の小テストだ!
ベランダに不審《ふしん》な物音を聞いた気がして、相良《さがら》宗介《そうすけ》は目を覚ました。
敵《てき》か?
彼は枕元の九ミリ拳銃《けんじゅう》に手を伸ばした。三年近く愛用してきた、オーストリア製のグロック19[#「19」は縦中横]だ。
時計を見ると、朝の七時二分だった。
「…………」
相良宗介は音もなくベッドの下[#「ベッドの下」に傍点]から這い出し、聞き耳を立ててから、思い切ってベランダに踏《ふ》み出した。
向けた銃口《じゅうこう》の先、エアコンの室外機の上に、黒い猫が鎮座《ちんざ》していた。
「にゃあ」
「…………」
猫はしばらく彼を眺め、隣の部屋のベランダへと立ち去った。
そろそろ出かける時間だ。
彼は朝食をとった。ハム一切れとトマト一個、ミネラル・ウォーター、塩と砂糖《さとう》が一つまみ。なかなか豪華《ごうか》な朝食だった。中央アジアの戦場《せんじょう》で、一週間近く飲まず食わずだった経験《けいけん》を思い出せば、なおさらのことだ。
続いて、宗介は手短《てみじか》に洗面と歯磨きを済ませた。
三秒間、鏡をのぞく。
きびしく引《ひ》き締《し》まったむっつり顔。適当に刈《か》り込んだ黒髪。鋭《するど》い目付きで、眉間《みけん》にしわを寄せ、口はへの字に引き結んでいる。
「…………」
顔色・肌《はだ》に問題はない。内臓《ないぞう》器官《きかん》は健康《けんこう》だ。
彼は装備《そうび》の点検を始めた。
自動拳銃、リボルバー、コンバット・ナイフ、アーミー・ナイフ、投《な》げナイフ、手榴弾《しゅりゅうだん》、スタン・グレネード、プラスチック爆薬《ばくやく》、万能《ばんのう》デジタル通信機《つうしんき》、暗視《あんし》スコープ、特殊《とくしゅ》対人《たいじん》地雷《じらい》、サバイバル・キット、予備《よび》の弾薬《だんやく》、各種《かくしゅ》薬物《やくぶつ》……。
「……よし。完璧」
いまや、出発の準備《じゅんび》は整《ととの》った。
彼は壁《かべ》に貼《は》りつけた写真に目を向けた。
色あせた写真の中で、迷彩服《めいさいふく》の男たちが並《なら》んでいた。傷だらけの強襲機兵《アーム・スレイブ》の腕に腰《こし》かけ、自動|小銃《しょうじゅう》を掲《かか》げている。
彼はその場で背筋《せすじ》を伸ばした。
「では、行ってくる」
相良宗介は詰《つ》め襟《えり》の学生服に袖《そで》を通し、教科書とノートを鞄に詰め、朝の通学路へと出ていった。
さあ、気合《きあ》いを入れよう。一時限目は古文の小テストだ!
かなめは東京|郊外《こうがい》の京王線《けいおうせん》・泉川《せんがわ》駅で電車を降《お》りた。
女子大や短大、高校などが多い地域《ちいき》のため、ホームは若い女の子が多く、通勤前《つうきんまえ》のサラリーマンと半々、といったところだった。
「千鳥さん!」
「ん?」
駅のホームで彼女を呼《よ》び止めたのは、ハンサム顔の少年だった。かなめと同じ陣代《じんだい》高校の生徒だ。
「あ。白井《しらい》くんだったっけ? おはよ」
かなめはそっけない挨拶《あいさつ》をして、相手に背中を向けた。
「待ってよ。きのうの話、考えてくれたんだろ? 返事《へんじ》を聞かせてよ」
「なんのこと?」
「俺とさ、付き合って欲《ほ》しいって言ったじゃないか」
「おー、その件《けん》ね。ダメ。ボツ。却下《きゃっか》。あしからず」
すたすたとその場を立ち去ろうとする。
「ちょ……待てよ!」
白井|某《なにがし》は、彼女の肩《かた》を後ろからつかんだ。かなめは露骨《ろこつ》に不快《ふかい》そうな顔を見せて、
「しつこいわね。ヤだって言ってるでしょ?」
「なんでだよ!? いまの彼女とも別れるからさぁ……」
「ンなの知ったこっちゃないわよ」
かなめは相手の手を払《はら》いのけた。それでも相手は食い下がり、
「待てって言ってるだろ!」
今度は彼女の手首を乱暴《らんぼう》につかんだ。
「いたっ……!」
「この俺がこれだけ頼《たの》んでんだぞ!? すこしはマジメに考えろよ。俺は本気で……お?」
首筋《くびすじ》にひんやりとした感触《かんしょく》をおぼえて、白井は黙《だま》り込んだ。
「…………な?」
いつのまにか、彼は何者かに後ろからはがいじめにされて、首に鋭利《えいり》なコンバット・ナイフを突《つ》きつけられていた。
「そこまでだ、怪《あや》しい奴《やつ》め」
それ以上に怪しいナイフの主《あるじ》は、おごそかに告《つ》げた。かなめはそれを見て、
「あ、ソースケ。おはよ」
と、あいさつした。
白井の肩の向こうに、見慣《みな》れた顔が見え隠《かく》れしている。
むっつり顔にへの字口。陣代高校の学生服。彼女のクラスメートの相良宗介だった。
「千鳥。この男は?」
「きのうね、放課後《ほうかご》に声をかけられた二組の白井くんって人。それだけだよ」
「間違《まちが》いないか?」
宗介は耳元でささやいた。相手は小さく何度もうなずいて、
「……そ、そうだよ」
「なぜ彼女に近付いた。政治《せいじ》目的《もくてき》か? 誘拐《ゆうかい》か? 包《つつ》み隠さず、すべて話せ」
「は……はあ? ひっ……!」
氷のような刃先《はさき》が数ミリ、肌《はだ》に食い込んだ。
「俺はすべてを話せと言ったのだ」
かなめは青ざめた白井の様子《ようす》を見るに見かねて、宗介をなだめにかかった。
「いいの、ソースケ。その人はフツーの民間人《みんかんじん》よ。放《はな》してあげて」
宗介は彼女に疑惑《ぎわく》のまなざしを向けた。
「本当か?」
「本当だってば」
「だれかが人質《ひとじち》になっていて、無理《むり》にそう言わされているのではないか?」
「ンなわけないでしょっ!!」
「ふむ……」
彼はナイフを持つ力をゆるめて、震《ふる》える相手にゆっくりと語りかけた。
「聞け。おまえが手を出した彼女は、我《わ》が校の生徒会《せいとかい》副会長《ふくかいちょう》だ。つまり、学校で二番目に地位の高い要人《ようじん》なのだ」
「は、はあ……」
「今回は見逃《みのが》してやる。だが、もう一度同じような真似《まね》をしてみろ。貴様《きさま》の親類《しんるい》縁者《えんじゃ》さえも無事《ぶじ》では済《す》まさんぞ。いいな?」
「そ、そんなぁ……」
「生爪《なまづめ》を剥《は》ぐなど序《じょ》の口《くち》だ。およそこの世で考えうる限りの苦痛《くつう》を、貴様の妻《つま》や子供に与《あた》えてやる」
「いねーってば、おい」
かなめがツッコむのも気にせず、宗介は相手を放し、
「わかったな。では行け」
白井は這《は》うようにその場から逃れ、野次馬《やじうま》の人垣《ひとがき》をかきわけて走り去っていった。
「まったく……。もうすこし穏《おだ》やかな止め方できないのかしらね、この戦争《せんそう》ボケ男は」
「別に本気ではなかった」
なにがどこまで本気なのやら、かなめにはさっぱりわからなかった。
幼《おさな》い頃《ころ》から海外――それもひどく物騒《ぶっそう》な紛争《ふんそう》地帯《ちたい》で育ち、最近になって転校《てんこう》してきた宗介は、いまだに平和な日本での常識《じょうしき》を身につけていない。
かなめはため息をついてから、
「はいはい。一応、ありがと。さ、はやく学校いこ。一時限目は古文だよ」
「む……」
かなめは宗介の袖《そで》をひっぱり、すたすたとホームを後にした。
その日の昼休み――
「どーも今日《きょう》は、妙《みょう》な視線《しせん》を感じるのよね」
ぼそりとかなめはつぶやいた。
青空を背にして、窓際《まどぎわ》の席にふんぞり返り、味気《あじけ》ないメロンパンをかじる。その彼女の前には、同じクラスの女子が数人ほど座《すわ》り、弁当箱《べんとうばこ》をつついていた。
「ミョーな視線? 男の子の?」
バナナ・オレをストローですすりつつ、かなめの友達の一人がたずねた。
「さあ? ただ……なんというのか、こう、肩の辺《あた》りがこるような……」
そう言って、かなめは首をぐるぐると回して見せた。
「ふーん……。きのうの帰りに声かけて来た人とか? 白井とかいう……」
友人の言葉に、かなめははっとした。
「おー、そうそう! そいつがね、今朝《けさ》、泉川駅のホームで待《ま》ち伏《ぶ》せしてたのよ。ね、ソースケ!?」
離れた席で食事をとっていた宗介に、声をかける。宗介は得体《えたい》のしれない肉の燻製《くんせい》をコンバット・ナイフで削《けず》り取って、直接口に運んでいるところだった。
「聞いていなかった。なんの話だ」
「だからぁ、今朝の……」
そのおり、教室の入口に一人の男子生徒が姿《すがた》を見せ、
「千鳥くんはいるかね?」
穏《おだ》やかだがよく通る声で言った。
「あ、林水《はやしみず》センパイ」
その男子は長身《ちょうしん》痩躯《そうく》の三年生で、静かな威厳《いげん》を漂《ただよ》わせた風貌《ふうぼう》の持ち主だった。真鍮《しんちゅう》の眼鏡《めがね》をかけ、髪はオールバックに撫《な》でつけている。学生服よりも、英国製の高級《こうきゅう》スーツが似合《にあ》いそうな若者《わかもの》だ。
彼――林水|敦信《あつのぶ》は、この高校の生徒会長だった。
「なんです? わざわざ教室まで」
露骨《ろこつ》に疎《うと》ましげな顔で、かなめはたずねた。林水は、宗介の会釈《えしゃく》に軽く応《こた》えてから、
「ふむ。迷惑《めいわく》だったかね?」
「別にぃ……」
「だが君の顔は、『敬愛《けいあい》する上司《じょうし》にして偉大《いだい》なる指導者《しどうしゃ》・林水生徒会長|閣下《かっか》が、足を運んで下さった。私は東洋一の幸せ者だ』などと思っている風には見えんが……」
「あんたは北●鮮の映画オタクですか」
「彼《か》の者と私を一緒《いっしょ》にしないで欲しいな。私は自由を尊重《そんちょう》している。ポルノ・コミックの局部《きょくぶ》描写《びょうしゃ》にさえ賛成《さんせい》なほどだ」
「そーいうことを、こーいう場所で言うから迷惑なんです!」
かなめはクラスメートの視線に焦《あせ》り、顔を赤くして怒鳴《どな》った。
「落ち着きたまえ、千鳥くん。私は君への忠告《ちゅうこく》を携《たずさ》えて来たのだ」
「忠告……?」
「うむ。その様子《ようす》だと、やはりまだ知らないようだな。まず、これを見たまえ」
林水は持っていた封筒《ふうとう》を彼女に手渡した。不審顔《ふしんがお》の彼女が中をあらためると、封筒にはポラロイド写真の束《たば》が入っていた。そこに写《うつ》っていたのは――
「トイレの壁《かべ》ばっかり……なにこれ」
灰色《はいいろ》のタイルの壁と、個室《こしつ》の仕切《しき》り板《いた》ばかりを写したものが、全部で二二枚。写真の裏《うら》には撮影《さつえい》場所《ばしょ》を記《しる》したメモが、マジックで書き込んである。
いずれの壁も、愚《ぐ》にもつかない内容の落書《らくが》きだらけだった。やれ『仏血《ぶっち》義理《ぎり》・喧嘩《けんか》上等《じょうとう》』だの、『恋人|募集中《ぼしゅうちゅう》! 連絡《れんらく》は三組のゴンへ』だの……。
「これがなにか?」
「壁の赤文字に注目《ちゅうもく》したまえ。ひときわ新しい落書きだ」
かなめの口許《くちもと》がわずかに強《こわ》ばった。
どの写真の壁にも、赤いマジックで落書きがしてあった。その内容は――
『副会長のK・Tは、選挙《せんきょ》委員《いいん》に票《ひょう》の水増《みずま》しをしてもらって当選《とうせん》したらしい。その謝礼《しゃれい》として脱《ぬ》ぎたてパンツを提供《ていきょう》したそうだ』
『四組の千鳥かなめは、後輩《こうはい》の女子を自宅《じたく》に連れ込んでテゴメにしてるらしいぞ』
『千鳥かなめ(2―4)が着《つ》けてるカルチェの腕時計《うでどけい》は、援助《えんじょ》交際中《こうさいちゅう》の会社社長から買ってもらったものらしい』
『K・Tは一人《ひとり》暮《ぐ》らしが寂《さび》しいので、頼《たの》めば誰《だれ》でも泊《と》まらせてくれる』
『二年四組の千鳥かなめは歌舞伎町《かぶきちょう》の売人《ばいにん》からSを買ってるらしいぞ』
どれも似たりよったりだった。
周《まわ》りの友人たちはその写真を回し読みして、
「うわ、えげつな……」
「ひどいよ、これ……」
などと口々に言い合った。
「おもに南校舎《みなみこうしゃ》の西側と北校舎の男子用・女子用トイレのものだ。昼前に通報《つうほう》を受けて、部下に撮影《さつえい》させた」
林水は淡々《たんたん》と説明《せつめい》した。
「あのー。撮《と》ってきただけですか……?」
「心配ない。落書きそのものは、張《は》り紙で隠《かく》しておいた」
「それはどうも」
「うむ。言うまでもなく、これらは根も葉もない誹謗《ひぼう》中傷《ちゅうしょう》だ。良識《りょうしき》ある者は歯牙《しが》にもかけんだろう。だが残念《ざんねん》ながら、すべての生徒がそうだとは言えない」
「こんな大ボラ、信じる子がいるわけないじゃないですか」
『そーよ、そーよ』と言わんばかりに、周りの女子はうなずいた。
「こんなのデタラメに決まってます!」
「カナちゃんはそんな人じゃありません!」
黄色い抗議《こうぎ》を林水は涼《すず》しげに聞き流して、
「美しい友情《ゆうじょう》だが、青いな。信じる愚者《ぐしゃ》が一人でもいれば話は違う。そして多くの場合、悪貨《あっか》は良貨を駆逐《くちく》するのだ」
バカはお利口《りこう》さんよりも強し。そういうことを言いたいらしい。しかしいくらなんでも、援助交際だの覚醒剤《かくせいざい》だの……そんな話を真《ま》に受ける者がいるわけない。
ふと気付くと、離れて昼食をとっていたはずの宗介が、ポラロイド写真を手に取って、その内容に読みふけっていた。
「……どしたの、ソースケ?」
彼は落書きの内容に衝撃《しょうげき》を受けた様子《ようす》で、驚《おどろ》きと疑惑《ぎわく》に満ちた目でかなめを見た。
「千鳥。まさか……まさか君は……」
「真っ先に信じるなっ!!」
かなめは宗介を力いっぱい蹴《け》り飛《と》ばした。彼は教室の机《つくえ》を八席ぶんほど薙《な》ぎ倒《たお》して、食事中の男子を突き飛ばし、海苔《のり》弁当《べんとう》を頭から被《かぶ》って昏倒《こんとう》した。
「はぁっ……はぁっ……」
肩で息をするかなめが落ち着くのを、林水は気長に待ってから、
「それで、千鳥くん。犯人《はんにん》に心当たりはあるかね?」
「さあ……。ここまで激《はげ》しいコトされると、逆《ぎゃく》に思い浮かびませんね、マジで」
「どんな小さな可能性《かのうせい》でも構《かま》わん。言ってみたまえ」
「だって……知りたくもないですよ」
「悪いようにはせんよ」
こう見えても、林水会長は切れ者で通っていた。校内の不良生徒や、教師《きょうし》たちさえ一目《いちもく》置いている。しかし、彼になにかをしてもらったところで、自分が納得《なっとく》いくとは思えなかった。それで相手の悪意が、消えるわけではないのだし……。
「ホントにいいんです。犯人なんて探《さが》さないで下さい」
かなめは立ち上がった。
「あ、カナちゃん。ねえ……」
「ごめん。ちょっと気分悪いの」
話を強引《ごういん》に打ち切り、彼女は教室を出ていった。倒れた机の山に埋《う》もれたままの宗介には、一瞥《いちべつ》もくれなかった。
かなめがいなくなると、林水会長は彼女のクラスメートの一人、常盤《ときわ》恭子《きょうこ》に五〇〇〇円|札《さつ》二枚を押し付け、一方的《いっぽうてき》に告《つ》げた。
「放課後《ほうかご》になったら、彼女と一杯飲《いっぱいや》って帰りなさい。領収書《りょうしゅうしょ》を忘れないように」
おさげ髪にトンボメガネの恭子は困惑《こんわく》して、
「あのー。お気持ちはありがたいんですが、私たち、仮《かり》にも高校生なんですけど……」
「気にするな。では、失敬《しっけい》」
「ちょっと、センパイ……!」
恭子が止めるのも聞かずに、林水は教室を出ていってしまった。途方《とほう》にくれた一同の横では、宗介が倒れた机を直し終わったところだった。
「相良くん、生きてたの?」
「なかなか痛かったがな……」
彼は床《ゆか》に落ちた写真を拾《ひろ》い集めると、勝手《かって》に自分のポケットへねじこんだ。それから、すこし考え込む素振《そぶ》りを見せて、
「俺の育った環境[#「俺の育った環境」に傍点]では、ニセの命令《めいれい》やデマを流すことは重罪《じゅうざい》だった。指揮《しき》系統《けいとう》を混乱《こんらん》させたり、社会不安を増大《ぞうだい》させたりした人間は、銃殺刑《じゅうさつけい》に処されるのが常識《じょうしき》だ」
「いや、そこまで大げさな話じゃないと思うけど……」
ここにも一人、林水会長を越《こ》える変人がいたのを忘れてたわ……と恭子は頭を抱《かか》えた。
「にも拘《かか》わらず、彼女は犯人探しに消極的《しょうきょくてき》だ。これにはなにか、裏《うら》があるように思えてならないのだが……」
「……ウラってなに?」
「千鳥は、犯人に弱味《よわみ》を握《にぎ》られているのだ」
彼は断定《だんてい》した。
かなめが『犯人を探さなくていい』と言ったのは、犯人が見つかると都合《つごう》が悪いからでは? この落書きはほとんどがデマだが、ごく一部に真実《しんじつ》も含《ふく》まれていると考えたら? そしてこの落書きは、『次は総《すべ》てを全生徒にバラす』という警告《けいこく》なのではないか?
「……つまり千鳥は犯人を知っていて、ひそかに脅迫《きょうはく》を受けているのだ。だれにも知られたくない、忌《い》まわしい秘密《ひみつ》を握られてな」
殊勝《しゅしょう》にも耳を傾《かたむ》けていた恭子は、素直《すなお》に感心《かんしん》した。
「スゴいなぁ……」
「造作《ぞうさ》もないことだ」
「そうじゃなくて。自分のクラスメートをここまで悪《あ》しざまに疑《うたが》えるのは、相良くんくらいのモンだろうね」
「…………。だが、彼女が消極的な理由は、これで説明がつくだろう」
「そお? もっと簡単《かんたん》な理由があるのに」
「なんだ、それは」
眉《まゆ》をひそめる宗介を、恭子は絶望《ぜつぼう》しきった顔で眺《なが》めた。
「だめだ、こりゃ。あーあ、カナちゃん、かわいそ……」
それでも彼は胸《むね》を張《は》り、
「千鳥の秘密が、どれほど陰惨《いんさん》で怖《おそ》ろしかろうと、俺は動揺《どうよう》しない。武装《ぶそう》強盗《ごうとう》や薬物《やくぶつ》濫用《らんよう》の前歴《ぜんれき》、さらにゴルバチョフ大統領の暗殺犯[#「ゴルバチョフ大統領の暗殺犯」に傍点]だったとしても……」
「そんなワケがないでしょ!」
「いずれにしても、彼女の弱味を知る必要がある。政権《せいけん》の基盤《きばん》を揺《ゆ》るがしかねない醜聞《しゅうぶん》ならば、それを察知《さっち》して抹消《まっしょう》すべきだ」
宗介は腰《こし》から拳銃《けんじゅう》を抜いて、
「さいわい、犯人には心当たりがある」
スライドをずらし、薬室《やくしつ》内の弾《たま》の有無《うむ》を確認《かくにん》する。
「犯人って……。いちおう聞くけど、だれ?」
「けさ出会った二組の男だ」
「あの白井って人のこと? どうして?」
「駅で千鳥を引《ひ》き留《と》め、強い調子でなにかを要求《ようきゅう》していた。『真面目《まじめ》に考えろ、俺は本気だ』とも言っていたな」
恭子のメガネが激《はげ》しくずり落ちた。
「それ、ぜったい、ちがうと思う……」
「無理《むり》もない。君は素人《しろうと》だからな」
「いや、そーいう問題じゃなくて……って、相良くん、どこ行くの?」
「会長|閣下《かっか》のところだ。白井に千鳥の秘密を吐《は》かせ、対策《たいさく》を講《こう》じるよう進言《しんげん》しに行く」
恭子は呆《あき》れ顔で、彼の背中を見送った。
「まったく。そんなこと、林水センパイが許すわけないじゃない……」
しかし、彼女は間違っていた。
その日の放課後――
廊下《ろうか》を歩くかなめに、声をかける者がいた。
「あ、あの、千鳥さん……」
「ん、なに? 風間《かざま》くん」
相手は、おとなしそうな男子生徒だった。同じクラスの風間|信二《しんじ》だ。彼は大事に持っていた茶封筒《ちゃぶうとう》を、かなめにおずおずと差し出した。
「これは?」
風間信二は照《て》れ臭《くさ》そうに、
「ええと……中に八〇〇〇円入ってます。こ、これでいいんだよね?」
「はあ? なにが?」
彼はデジタル・カメラを取り出して、もじもじとはにかみながら、
「その、千鳥さんの恥《は》ずかしい写真を、一枚二〇〇〇円で撮《と》らせてもらえるって……」
かなめは鞄を振《ふ》り上げると、相手の頭を(角《かど》で)殴《なぐ》りつけた。少年はデジカメを放《ほう》り出して、壁《かべ》に顔面から激突《げきとつ》した。
「失《う》せろ、このさわやか変態《へんたい》野郎《やろう》っ!!」
倒れた相手に現金入りの茶封筒を叩《たた》きつけると、大股《おおまた》でずけずけと歩き出す。そばで様子《ようす》を見ていた常盤恭子が、あわててその後に続いた。
「ったく、これで四人目よ? 林水センパイの予言《よげん》が的中《てきちゅう》したわね」
午前から感じていた視線の正体《しょうたい》も、けっきょくあの落書きのせいだったのだ。
「ねえカナちゃん、ホントに大丈夫《だいじょうぶ》?」
恭子は心配顔でたずねた。かなめはうっとおしげに手を振って、
「平気よ。こんな噂《うわさ》、二、三日すればみんな忘れちゃうもの。それにね、あたし、こーいうのけっこう免疫《めんえき》あるから」
「……そうなの?」
「そっ。昔からね。はっはっは」
わざわざ笑ってみせるが、それでも恭子の顔は晴れなかった。彼女はそこで思い出したように、
「そういえばね、カナちゃん。昼休みの時、相良くんが――」
その時、鋭《するど》い悲鳴《ひめい》が廊下に響《ひび》き渡った。
「お……?」
二人の行く手、一〇メートルほど先の角から、相良宗介が姿を見せた。男子生徒に自動|拳銃《けんじゅう》を突《つ》きつけ、ほとんど強引《ごういん》にひきずり回している。その相手は――
「白井くんだ」
宗介は白井をひったて、すぐ近くの男子トイレに入ろうとしていた。
「た、助けて!」
「黙《だま》れ。おとなしくついて来い」
気《き》の毒《どく》に、白井は涙《なみだ》で顔をグシャグシャにして、トイレの入口にしがみついた。
「だってオレ、知らないんだよ! 本当だ、信じてよ!」
「俺は黙れと言っている」
宗介は白井の腕《うで》をこっぴどく打ちすえると、とうとう彼を男子トイレの中に引《ひ》っ張《ぱ》りこんでしまった。
「このことを話そうと思ってたんだけど」
と、恭子。
「……ったく、あのバカ」
かなめたちは男子トイレの入口まで走ると、中の様子をうかがった。
宗介は白井を個室《こしつ》にひきずりこみ、扉《とびら》を閉めたところだった。彼らの姿はここからは見えない。ただ、物騒《ぶっそう》な物音と悲痛《ひつう》な叫《さけ》び声《ごえ》ばかりが聞こえてくる。
『殺さないで! 殺さないで! (バタバタと暴《あば》れる音)』
『まだ殺さん。貴様《きさま》がどれだけ協力的《きょうりょくてき》になれるかで、それは決まる(手錠《てじょう》がかかる音)』
『そんなぁ……(うわずった泣き声)』
『千鳥の秘密を話せば、名誉《めいよ》ある扱《あつか》いを保証《ほしょう》しよう。温《あたた》かい食事と寝床《ねどこ》も提供《ていきょう》してやる。だが、あくまで隠《かく》す気ならば……(拳銃のスライドが動く音)』
『うわーっ!(なぜか便器《べんき》の水が流れる音)』
中が見えないだけに、なおのこと個室内の惨状《さんじょう》が案じられた。
「あー。いかんわ、こりゃ」
「カナちゃん、相良くんを止めないと」
「そうね。……うー、仕方《しかた》ないわよね」
男子トイレに入ったことなんて、生まれてこのかた一度もなかったが……。かなめは意を決すると、第一歩を踏《ふ》み出す。タイルに右足を降《お》ろしたその瞬間《しゅんかん》、『ああ、あたしって、汚《よご》れちゃったんだ……』などと、やるせない喪失感《そうしつかん》が彼女の胸に押し寄せてきた。
……が、まあ、それはともかく、
「ソースケ!!」
かなめはトイレの個室の前まで行くと、戸板《といた》を乱暴《らんぼう》に開け放《はな》った。宗介は白井を洋式便器に座《すわ》らせて、その頭に麻袋《あさぶくろ》をすっぽり被《かぶ》せ、コンバット・ナイフを引き抜いたところだった。
「千鳥か。女子トイレは隣《となり》だぞ」
「ンなこたー、わかってるわよ。あんた彼をどうする気なの!?」
彼は不躾《ぶしつけ》けな目で、かなめの顔を凝視《ぎょうし》した。
「……君には気の毒だが、脅迫《きょうはく》の内容を聞き出すことになった」
「はあ? 脅迫?」
「隠さずともいい。おおよその事情《じじょう》は、すでに心得《こころえ》ている」
「いったいなにを……」
宗介は一枚の書類《しょるい》を差し出した。そこには簡潔《かんけつ》な内容で、次のように記《しる》してあった。
<<相良宗介(安全|保障《ほしょう》問題《もんだい》担当《たんとう》・生徒会長|補佐《ほさ》官《かん》)
千鳥副会長の醜聞《しゅうぶん》の調査《ちょうさ》に関して、右の者にあらゆる権限《けんげん》を与える。
[#地付き]陣代高校生徒会長・林水敦信>>
「……なにこれ?」
会長補佐官・相良宗介は胸を張り、
「会長|閣下《かっか》の委任状《いにんじょう》だ。この問題に限り、俺はだれの指図《さしず》も受けん」
「なんか、話が見えないんだけど……」
怪訝顔《けげんがお》のかなめを、彼は片手で遮《さえぎ》って、
「だれにでも触《ふ》れられたくない過去《かこ》はある。だが学校の秩序《ちつじょ》を守るためには、それさえも明らかにせねばならない。君の秘密《ひみつ》が、たとえどれだけ破廉恥《はれんち》だろうとな」
「あんたがひどく人聞きの悪い、失礼なことを考えてるのだけは理解《りかい》できるわよ……」
「そうか、わかってくれるか」
二人の間には、ほとんどコミュニケーションが成立していなかった。
「千鳥さん、助けて!!」
白井は彼女に泣きついた。
「はいはい。……ねえ、ソースケ。なんか勘違《かんちが》いしてるみたいだけど、やめてくれない? 白井くんは、あの落書きとは無関係よ」
「君がそう主張《しゅちょう》するのは無理もない。秘密が明るみに出るのを恐れているのだ」
「だ〜か〜らぁ! あたしには秘密なんてないってばっ!!」
「絶対にそう言えるのか? 人に隠していることは一つもない……そう断言できると?」
「う……」
その時、かなめの脳裏《のうり》にまず浮かんだのは、去年の秋に起こしたボヤ事件のことだった。学校裏の林で、焼きイモをやろうとして火事になり、消防署が出動する騒《さわ》ぎになったのだ。彼女ほか数名の友人は現場から逃走《とうそう》して、いまだに犯人は不明とされている。
「……やはりそうか。君には恐ろしい秘密があるのだな」
「な、なにを……。ちょっと、ヘンな想像やめてよ!」
彼は『議論《ぎろん》はこれまでだ』とばかりに手を振《ふ》り、白井に向き直った。
「千鳥は向こうに行っていろ。女子供が見るものではない。……さて白井とやら、彼女の秘密を吐《は》いてもらおう」
あやしい拷問《ごうもん》を再開《さいかい》しようとする。
「やめなさいって! ちょっとソースケ、聞いてるの?」
彼女が詰《つ》め寄ろうとした時――
「やめてぇ!!」
かなめを押しのけて、一人の女子生徒がトイレの個室に飛びこんで来た。小柄《こがら》でおかっぱセミロングの髪、あどけないが、きつい目つきの少女だった。
「なによ、あんたたち、なんなのよ!! あたしの白井クンにナニしてるのっ!? ああ、ひどいよ、あんまりよっ!! 白井クン、しっかりして!!」
麻袋《あさぶくろ》を被《かぶ》ったままの白井に抱《だ》きつき、ヒステリックに泣《な》きわめく。
「うう……瑞樹《みずき》か。どうしてここに……?」
「四組のサガラが白井クンをひきずり回してる、って聞いたの。ねえ、だいじょぶ!?」
「ああ。なんとか……」
瑞樹と呼《よ》ばれた娘《むすめ》は、安堵《あんど》のため息を洩《も》らした。かなめは不審顔《ふしんがお》で、
「あなたは?」
「あたしは白井クンのカノジョよ! とってもラブラブなんだかんね? 彼に手を出したら、あたしが許《ゆる》さないんだから!!」
それを聞いた宗介の目がきらりと光った。
「彼女。ラブラブ。……つまり、白井の女なのだな? それはちょうどいい。おまえを尋問《じんもん》の道具として……」
瑞樹ににじり寄る宗介の後頭部《こうとうぶ》を、かなめは鞄《かばん》で殴《なぐ》り倒《たお》した。
「しばらく黙《だま》ってなさい、あんたは」
うんざりした声で言うと、彼女は瑞樹に向き直る。
「えーと。迷惑《めいわく》かけたね、ごめん」
だが瑞樹は、怒りをあらわにして、
「あんた、千鳥かなめでしょう?」
「ええ、そうだけど……」
「ちょっと最っ低じゃない……? 自分の悪い噂《うわさ》広められたもんだからって、腹いせに白井くんを犯人|扱《あつか》いして、手下《てした》だか愛人だか知らないけど、こんな奴《やつ》に襲《おそ》わせるなんて!」
「え?」
当惑《とうわく》するかなめを、瑞樹は見下げ果《は》てたように罵《ののし》った。
「汚《きたな》い女。覚悟《かくご》してなさいよ。あたしのパパは、校長センセとも仲いいんだから。問題にしてやるわよ!」
「ちょっと待ってよ。あたしはただ……」
「うるさい、このメギツネ!」
「…………」
瑞樹は勝《か》ち誇《ほこ》って続けた。
「本当にヒドい女ね。案外《あんがい》、あのトイレの落書きなんかも、半分くらいはホントの話じゃないの? 援助《えんじょ》交際《こうさい》の相手から、腕時計を買ってもらっただとか。あんたのその時計、妙《みょう》に高そうじゃ――痛っ!!」
頭のてっぺんを襲ったゲンコツに、瑞樹は小さな悲鳴《ひめい》をあげた。
かなめは自分の握《にぎ》りこぶしを、勝手に動いたのが不思議《ふしぎ》だとでも思っているように、しげしげと眺《なが》めた。
「悪いけど、この時計だけは馬鹿《ばか》にしないでくれる……?」
「ぶ、ぶったわね!? パパにもブたれたことないのに!! 許さないわよ!」
「えーと、そのー。……も一回、ぶつ?」
事態《じたい》がそれなりに緊迫《きんぱく》してきたところで、個室の外にくずおれていた宗介が、なんの前触《まえぶ》れもなくむくりと起き上がった。
「あんたは寝《ね》てなさいよ。……ちょっと寄らないで、なんかクサい」
「匂《にお》いなど重要《じゅうよう》ではない。それよりも君だ。瑞樹とかいったな」
「馴《な》れ馴れしく呼ばないでよ。名字《みょうじ》は稲葉《いなば》っていうの」
稲葉瑞樹は腕《うで》を組み、鼻を鳴らした。
「では稲葉瑞樹。君はいま、千鳥の時計の話をしていたな。それはだれから聞いた?」
「聞いたんじゃないわ。トイレで見たの。似たようなことが、アチコチに書いてあるわよ。ホント、お笑いよね」
「ふむ。確かに面白《おもしろ》い話だ」
宗介は彼女を穏《おだ》やかに押《お》し退《の》け、白井を押し込んだ個室に入った。
「二人とも、こちらに来い」
かなめと瑞樹を手招《てまね》きする。
「なによ、こいつ?」
「ソースケ、どうしたの……?」
二人が身を乗り出すと、彼は個室の壁《かべ》の、『トイレはきれいに使いましょう/生徒会』と書かれた張り紙に手をかけた。
「これを見ろ」
言うと、真新しい張り紙を破《やぶ》り取る。その下から、赤いマジックの落書きが現れた。その内容は――
『千鳥かなめ(2─4)が着《つ》けてるカルチェの腕時計は、援助交際中の会社社長から買ってもらったものらしい』
「…………!!」
たちまち稲葉瑞樹の顔が蒼白《そうはく》になった。
「妙《みょう》な話だな。この落書きを君が見たとは。ちなみにここは男子トイレだ」
「そっ……あっ……しまっ……」
瑞樹は何度も口をぱくぱくさせた。
「これらの落書きは今日の午前、授業《じゅぎょう》時間中に書かれたものだそうだ。たぶん犯人は『気分が悪い』などと口実《こうじつ》を設《もう》けて、一時間ほど授業を抜け出したのだろう」
「しょ、証拠《しょうこ》は――」
「調《しら》べればすぐにはっきりする。出席簿《しゅっせきぼ》。容疑者《ようぎしゃ》の鞄《かばん》、机《つくえ》、ロッカー……。語るに落ちたな、稲葉瑞樹よ」
宗介たちのやり取りを聞いていた白井は、うろたえる瑞樹の顔を呆然《ぼうぜん》と眺《なが》めた。
「瑞樹……おまえが? どうして……」
「許せなかったのよっ!!」
少女は泣き叫《さけ》んだ。
「だって白井くん、駅でこの女のこと口説《くど》いてたでしょう!? あたし見てたんだから!」
今度は白井が青ざめた。
「なんだって……! ちょ……それは」
「あたしのこと、嫌《きら》いになっちゃったの? ひどいよ! 誕生日《たんじょうび》にPC─FX買ってあげたし、お弁当作ってきてあげてるし、JBのコンサート代だってオゴってあげたのに!!」
たちまち白井はうるさげな顔をして、
「……だって、PC─FXなんか貰《もら》ってもなぁ」
かなめはこの会話を聞いただけで、二人のぎくしゃくした関係を、おおよそ察《さっ》することができた。
一方《いっぽう》、宗介は新たな手錠《てじょう》を取り出して、
「紆余《うよ》曲折《きょくせつ》はあったが、真犯人《しんはんにん》は判明《はんめい》した。では稲葉よ、話してもらおうか。千鳥かなめの、恐るべき秘密をな」
「まだ言ってるの、あんたは……?」
かなめが失望《しつぼう》しきった顔を見せると、宗介もさすがに自分の考えが揺《ゆ》らいだ様子《ようす》で、
「……脅迫《きょうはく》ではないのか?」
「最初からそう言ってるでしょ!!」
宗介はしぶしぶと納得《なっとく》した。
「ふむ……。だが、それでもデマを流した罪《つみ》は残る。職員《しょくいん》会議《かいぎ》に送検[#「送検」に傍点]して、停学《ていがく》処分《しょぶん》にでもさせるか?」
『停学』の二文字に、瑞樹の肩《かた》がぴくりと震《ふる》えた。かなめは顔をしかめて、
「いいよ、そんな……」
「ならば報復《ほうふく》として、あらゆるトイレにこの娘の中傷《ちゅうしょう》を書きこむのはどうだ。『稲葉瑞樹は共産《きょうさん》主義者《しゅぎしゃ》だ』などと……」
「却下《きゃっか》。……にしても、あんたの思いつく中傷って、ホントそーいう次元《じげん》なのよね……」
「では、どうする」
「どーもしない。ほっときましょ」
瑞樹の顔に小さな驚《おどろ》きが浮かんだ。
「え……?」
「もういい、って言ってるの」
さばさばした調子で言う。
かなめは正直《しょうじき》なところ、瑞樹の気持ちがすこしは理解《りかい》できた。たぶん、彼女は白井のことが本当に好きなのだろう。そういう気持ちをストレートに出せて、これほどなりふり構《かま》わない真似《まね》ができる彼女を、かなめは素直《すなお》にうらやましい、と思った。
だから、もういい。
(そう。自分で納得できたんだから……)
ところが宗介は食い下がる。
「だが、それでは見せしめの効果《こうか》が。ここは一つ、非情《ひじょう》に徹《てっ》して教訓《きょうくん》を与えねば」
想《おも》いに耽《ふ》けっていたかなめのこめかみが、ひくひくと痙攣《けいれん》した。
「あんたね。あたしのキモチとかオトメゴコロとか、そーいうの考えたことある……?」
「? なんの話だ?」
彼女は宗介を張《は》り倒《たお》そうかと思ったが、ぐっとこらえて、
「……で、稲葉さんだっけ。もう気も済《す》んだでしょ? あたし、白井くんと付き合う気なんて全然ないし。安心して」
「あ、安心ですって……?」
瑞樹は泣き腫《は》らした目をぬぐった。
「千鳥かなめ! あんた、すっげームカつくのよ!! 特にそういうところ! ちょっとモテてるからって、調子に乗ってるんじゃないわよ! 覚《おぼ》えてなさいっ!」
盗人《ぬすっと》猛々《たけだけ》しいとはこのことだ。彼女はかなめを突き飛ばし、逃げるように走り去っていった。
「ああ、いっちゃった……」
「身元《みもと》は割れている。いま追う必要はない」
「いや、そーいう意味じゃなくて……。それよりソースケ、白井くんに謝《あやま》ったら? 彼は無実《むじつ》だったんだから」
「ああ。そうだな」
宗介は憔悴《しょうすい》しきった白井から手錠《てじょう》を外《はず》して、その肩をぽんと叩《たた》いた。
「ご苦労《くろう》だった。後日、会長|閣下《かっか》から感謝状《かんしゃじょう》が送られることだろう。よかったな」
「……なにがいいのよっ!!」
けっきょく、かなめは宗介を張り倒した。
翌日《よくじつ》の昼休み。
かなめが教室で激辛《げきから》カレーパンをかじっていると、トイレから戻《もど》ってきた恭子が彼女を手招《てまね》きした。
「カナちゃん、ちょっと来て。すぐだから」
恭子に連れられ、かなめは教室近くの女子トイレへと向かった。
[#挿絵(img2/s01_085.jpg)入る]
「どしたの?」
「ほら、これ」
恭子は個室の壁《かべ》の落書《らくが》きを指差した。生徒会の張り紙は、すでに破り取られている。そこには赤文字で、『四組の千鳥かなめは、後輩《こうはい》の女子を自宅に連れ込んでテゴメにしてるらしいぞ』
とあった。写真にあった落書きの一つだ。
「これがなにか?」
「違うよ、その下」
そこには同じ筆跡《ひっせき》の赤文字で、『……というのはウソだった。千鳥カナメは意外《いがい》といい奴《やつ》かもしれない。ウワサを信じちゃいけないぞ!』
と、書き加えてあった。
「ほかのトイレも全部こうなってるって」
「そうなの? ふーん……」
かなめは腕組《うでぐ》みしてから、
「情《なさ》けは人のためならず、ってとこ?」
嫌味《いやみ》なしに、にっこりと笑った。
[#地付き]<愛憎のプロパガンダ おわり>
[#改丁]
鋼鉄《こうてつ》のサマー・イリュージョン
[#改ページ]
青い空。輝《かがや》く太陽。千変《せんぺん》万化《ばんか》する波の色。
砂浜を、一人の少女が歩いている。
清《きよ》らかな後ろ姿《すがた》。腰《こし》まで届《とど》く黒髪《くろかみ》と、陽射《ひざ》しに映《は》える白の水着。西瓜《すいか》の入った手提《てさ》げ袋《ぶくろ》を三つほど持ち、よたよたと歩く。彼女の髪が揺《ゆ》れるたび、やさしい潮風《しおかぜ》がその場にそよぐ気がした。
「会いたい……」
小高い屋敷《やしき》のバルコニー。望遠鏡《ぼうえんきょう》から目を離《はな》さず、彼[#「彼」に傍点]はぽつりとつぶやいた。
「どなたに、で、ございますか?」
背後《はいご》に控《ひか》えていた男が、彼にたずねた。
「あの女《ひと》だよ。ぜひ……」
「しかし、柾民《まさたみ》さま――」
「鷲尾《わしお》。僕《ぼく》は会いたい、と言ったんだ」
「……はっ」
一礼《いちれい》し、男は屋敷の奥へと下がる。
「ああ……。まるで、さわやかな海風のようなひとだ……」
彼は小さなため息をついた。
自分の姿を『清らか』だの『さわやか』だのと思っている人間がいるとも知らず、千鳥《ちどり》かなめはうめき声を洩《も》らした。
「あっつい……」
全身|汗《あせ》だく。目も虚《うつ》ろ。
スイカ三つを引きずるように、やっと目当てのビーチ・パラソルへたどり着く。六人分の手荷物《てにもつ》が放置《ほうち》され、人の姿はなかった。
「ったく。人に買い出し任《まか》せといて、みんなどこ行っちゃったのよ……」
腰を下ろしたところで、陽気《ようき》な笑い声が近付いてきた。見ると、一緒《いっしょ》に海に遊びに来た、陣代《じんだい》高校《こうこう》のクラスメートたちがぞろぞろと戻《もど》ってくるところだった。男女が半々。どれも水着姿だ。
浮《う》き輪《わ》を抱《かか》えた常磐《ときわ》恭子《きょうこ》が、真っ先に駆《か》け寄ってきた。
「カナちゃん遅《おそ》〜い! もう、ひと泳ぎしてきちゃったよ! スイカは買ってきた?」
かなめはスイカをポンポンと叩《たた》き、
「ここ。……それにしても、ちょっと不用心《ぶようじん》じゃない? 留守番《るすばん》もなしに、荷物をほったらかして。財布《さいふ》とかも入ってるのよ?」
「それなら心配はない」
恭子たちの後ろで、さっきから黙《だま》っていた相良《さがら》宗介《そうすけ》が言った。むっつり顔にへの字口。迷彩柄《めいさいがら》のボクサー・パンツ姿。身体《からだ》はきりりと引《ひ》き締《し》まり、無駄《むだ》な筋肉《きんにく》は一切《いっさい》ない。
「心配ないって、どういうこと?」
彼は手荷物の山に手を伸《の》ばし、奥から野球ボールほどの対人《たいじん》手榴弾《しゅりゅうだん》を取り出した。
「な……」
「古典的《こてんてき》なトラップだ。鞄《かばん》を動かせば爆発《ばくはつ》する。盗難《とうなん》を試《こころ》みた犯人《はんにん》は、手痛い教訓《きょうくん》を学ぶことになっただろう」
宗介は幼《おさな》い頃《ころ》から海外の戦場で育ってきた。重度《じゅうど》の戦争ボケで、平和な国での常識《じょうしき》がまったく身に付いていない。
かなめは、こめかみの辺《あた》りを押さえつつ、
「その泥棒《どろぼう》と一緒に、あたしたちの財布や荷物が吹き飛ぶとは考えなかったわけ?」
宗介は額《ひたい》に脂|汗《あせ》を浮かべ、押し黙った。かなめはその沈黙《ちんもく》を肯定《こうてい》と受け取った。
「あんたね……」
「……だが、こうして『盗難|行為《こうい》は高くつく』と見せしめれば、地域《ちいき》の防犯《ぼうはん》対策《たいさく》にも貢献《こうけん》できるだろう。いわば大事の前の――」
かなめは彼の頭をはたき倒した。
……が、きょうは暑さとけだるさのためか、スイングの切れがいまいちだった。
「ヘリクツはやめなさい」
突っ込む声にも覇気《はき》がない。
「むう……」
「……だいたいね、あたしが引っかかったらどうする気だったの? 危ないじゃない」
「その点は抜《ぬ》かりない。君には分かるよう、目印を付けておいた」
そう言って宗介は、手荷物の上にさりげなく[#「さりげなく」に傍点]置いてあった手榴弾の安全ピンを手に取った。どうやら、このピンを見て『気付け』とでも言いたいらしい。
「そんなので気付くわけないでしょっ!?」
「そうか。では、以後注意してくれ」
「ああっ、もう……」
そんな二人のやり取りなど気にもせずに、あくまで恭子はハイテンションで、
「じゃあ、さっそくスイカ割りしよ! ね、ねっ、カナちゃん」
「はいはい。よっこらしょ……っと」
かなめは手ごろな砂上に古新聞を敷《し》くと、スイカを安置《あんち》した。恭子が鞄《かばん》から金属《きんぞく》バットを引っ張り出し、
「じゃ、だれからやる? 相良くんは?」
「やってやって! 面白《おもしろ》そう」
恭子たちは宗介の腕《うで》を引いた。
「なにをするんだ?」
「スイカを割るの。ばしゃーん、と。目隠《めかく》ししたままでね!」
「それだけか。簡単《かんたん》すぎるな」
「へえー、言うね。だったら、ほらほら、目隠し、目隠し! そしたら回す、回す!」
「むっ……」
恭子たちははしゃぎ立て、宗介の身体《からだ》をさんざん回転させてから、
「これくらいやってもいいよね。簡単なんでしょ? じゃあスタート!」
宗介はバットを引っさげ、スイカとはまったく見当違いの方角へと突き進んでいった。みんなの荷物が置いてある、ビーチ・パラソルの方だ。恭子たちは忍《しの》び笑いを洩《も》らし、『もっと右』だの『そのまままっすぐ!』だのと無責任《むせきにん》にはやしたてる。
一方でかなめは、喜ぶ恭子たちの輪《わ》から外《はず》れ、スイカの傍《かたわ》らに棒立《ぼうだ》ちしていた。
「やれやれ……」
どうも面白くない。
この砂浜に来てからというもの、宗介は恭子たちに引っ張り回されて、まったくかなめを気にかけていないのだ。彼女の水着姿にも、まるで関心《かんしん》を示そうとしない。
(けっこう自信《じしん》あるのに……)
すべすべの肌《はだ》。すらりとした脚線《きゃくせん》。きゅっと締《し》まったウェスト。ほどほどに豊《ゆた》かなバスト。魅惑的《みわくてき》なプロポーションに、白いレース地の水着がよく似合《にあ》っている。先週、店でさんざん悩《なや》んだ末に選んだもので、かなり気に入っていたのだが――
どかんっ!!
突然《とつぜん》の轟音《ごうおん》と共に、すぐそばのスイカが爆発した。猛烈《もうれつ》な勢《いきお》いでぶちまけられた破片《はへん》と水しぶきが、横からかなめを殴《なぐ》りつけた。
「…………っ!」
目隠しのままビーチ・パラソルまで歩いた宗介が、自分の鞄《かばん》からショットガンを取り出し、スイカめがけて発砲《はっぽう》したのだ。
絶句《ぜっく》した恭子たちの見守る中、宗介は目隠しを外した。
「命中《めいちゅう》。俺《おれ》にはちょうど、これくらいの難易度《なんいど》が――」
言いかけ、黙《だま》り込む。標的《ひょうてき》の隣《となり》にいた、かなめの様子《ようす》に気付いたのだ。
全身、スイカまみれ。白の水着は見る影もない。流れるような黒髪には、スイカの皮がべったりとこびりついていた。
「…………」
気まずい沈黙《ちんもく》の中、かなめは無言《むごん》でビーチ・パラソルまで歩くと、自分の鞄からタオルを取り出した。
「……考えが及《およ》ばなかった」
宗介はコメントした。
「だが、スイカは無毒《むどく》だ。そもそも汚れて構わんような[#「汚れて構わんような」に傍点]水着姿でもあるわけだし――」
その一言で堪忍《かんにん》袋《ぶくろ》の緒《お》が切れた。
かなめはバットを拾《ひろ》い上げると、宗介の脇腹《わきばら》めがけてフルスイングした。身を折ってくずおれた宗介を、彼女は涙目《なみだめ》でにらみつけ、
「最っっ低!」
Tシャツを引っつかむと、早足でその場を立ち去った。
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その三〇分後。人通りの少ない防波堤《ぼうはてい》の上で――
「ねえねえ、ちょっといい? キミさ、ひとり? どっか遊びに行かない?」
底抜《そこぬ》けに陽気な男の声。かなめはゆっくり、殺意《さつい》むき出しの視線《しせん》を相手に向けると、底冷《そこび》えのする声で、
「消えなさい」
「……………………はい」
男は従《したが》い、立ち去った。かなめはぬるくなったドクター・ペッパーを一口すすり、
「ふん……」
吐《は》き捨《す》てるようにつぶやく。
あんな風に飛び出して、恭子たちには悪いと思っていたが、宗介のそばにいるのが疎《うと》ましくて仕方がなかった。
あいつがああいう奴《やつ》なのは、わかる。
水着姿を誉《ほ》めろだとか、どぎまぎしろだとか、そういう期待《きたい》が無駄《むだ》なのも、わかる。
だが、感情は納得《なっとく》してくれない。
きのうの晩《ばん》、自宅でこの水着を試着《しちゃく》してみた。なんとなくうきうきしながら、姿見の前で、グラビア雑誌のアイドルみたいな、バカなポーズを取ってみたりもした。
そういう自分がひどく滑稽《こっけい》で、どうしようもなく惨《みじ》めに思えてきて、人前にいるのがいやになるのだ。
(あたし、なにしに来たんだろ……)
そんな調子で、防波堤の上で鬱々《うつうつ》としていると――
「お嬢《じょう》さん、お暇《ひま》ですか」
かなめに声をかける者がいた。またか、とうんざりしながら振り向き、
「ったく、いい加減《かげん》に……し、て?」
おもわず声が裏《うら》がえる。
そこに立っていたのは、思い切り怪《あや》しい『謎《なぞ》の東洋人』だった。身体《からだ》は大きく、丸々と太り、ナマズのような口髭《くちひげ》を生《は》やしている。この炎天下《えんてんか》で黒のスーツを着て、ほとんど汗《あせ》をかいていない。
「お茶でもいかがです」
謎の東洋人はずいっと進み出て、異様《いよう》な迫力《はくりょく》のある声で言った。
「あ……あたし、そーいうの、ちょっと」
「そこを曲げて、ぜひ。貴女《あなた》に断《ことわ》られれば、私は腹《はら》を切らねばなりません」
むんむんと漂《ただよ》ってくる暑苦《あつくる》しいオーラに、かなめは『うっ』と気圧《けお》されながら、
「は、ははは。変わった口説《くど》き文句《もんく》で、お、面白《おもしろ》いとは思うんですけど。その、あたし、どっちかっていうと、細めの男性の方が好みだったり……」
「ならば問題ありません。私の主人《あるじ》は細身《ほそみ》です」
「は、はあ?」
男は岬《みさき》の方角を指さした。目を細めると、高台に大きな邸宅《ていたく》が建《た》っているのがわかる。
「ぜひ。貴女にお会いしたいと申しておりまして」
『ぷっ』とスイカの種《たね》を飛ばすと、恭子は浜辺をぐるりと見回した。
「なかなか戻《もど》って来ないね、カナちゃん」
肉厚のグルカ・ナイフでスイカを切り刻《きざ》んでいた宗介は、恭子の言葉に小さくうなずいた。
「ああ。長いシャワーだ」
「うーん。ほかに理由があるんじゃない? やっぱり」
「どんな理由だ」
恭子は困《こま》ったような笑顔《えがお》で、
「相良くん、ホントに分からないの?」
「む……」
宗介の脳裏《のうり》で、様々《さまざま》な可能性《かのうせい》が検討《けんとう》された。
事故《じこ》。急性《きゅうせい》疾患《しっかん》。警察《けいさつ》の不当《ふとう》逮捕《たいほ》。地雷《じらい》を踏《ふ》んだ。旧敵《きゅうてき》を発見し尾行中《びこうちゅう》。あるいは逆《ぎゃく》に尾行を撒《ま》いている。そして……誘拐《ゆうかい》。
いちばんありそうなのは――
「やはり地雷か……?」
「頭のどこをどーいう風に使ったのか知らないけど……。違うでしょ。カナちゃんは、相良くんに怒《おこ》ってるの! あたしとかにも責任あるけど、やっぱり相良くんが悪いんだから。行って探《さが》して来てあげなよ」
「そうそう」
「相良、お前が悪い」
他のメンツも口々に言う。
それなりに納得《なっとく》するものはあったようで、彼は目を閉じ、何度かうなずいた。
「よし。では、そうしよう」
宗介はヨットパーカーに袖《そで》を通し、すっくと立ち上がった。
岬の邸宅で――
『謎の東洋人』の案内で、かなめは白いリビングに通された。清潔《せいけつ》で、天井《てんじょう》は高く、窓からの光が室内に満ちあふれている。
「しばしお待ちを」
男は告げて、リビングを出ていった。
好奇心《こうきしん》から招待《しょうたい》に応じた彼女だったが、内心では『ヤバそうだったらすぐ逃げよう』とも思っていた。しかし――
(これはホンモノの金持ちね……)
ここに来るまでの間、かなめは庭の広さに驚《おどろ》き、邸宅の大きさに驚き、ガレージの高級車《こうきゅうしゃ》に驚いた。内装の趣味《しゅみ》も良く、イタリアの現代|建築《けんちく》の雑誌にでも出てきそうな雰囲気《ふんいき》だ。
ここまで来たら、自分を呼び付けた物好きなオッサンの顔くらいは見ておいても損《そん》はなかろう……かなめはそう考え、リビングのソファーにちょこん、と座《すわ》っていた。
五分ほど待っていると――
リビングの戸口に一人の少年が現れた。
年は一三、四歳くらいか。身ぎれいなワイシャツ姿で、肌《はだ》は雪のように白く、華奢《きゃしゃ》で繊細《せんさい》な印象《いんしょう》の持ち主だった。
彼はティーセットの乗った盆《ぼん》を手に、かなめを見てぽかん、とした。
召使《めしつか》いの一人だろうか? かなめはそう思いながら、ひとこと、
「あの……」
言った瞬間《しゅんかん》、少年が盆をがしゃりと落とした。見るからに高級そうな陶磁器《とうじき》が割れ、床《ゆか》にお湯がぶちまけられても、少年の目は彼女に釘付《くぎづ》けのままだった。
「ああ、貴女《あなた》は……」
なにかに憑《つ》かれたように、少年は一歩前へと踏み出した。そしていきなり、
「うわあぁ〜〜〜〜っ!!」
ティーカップの破片《はへん》を踏みつけた痛みと、熱湯《ねっとう》の熱さに身をよじり、床をごろごろ転《ころ》げ回った。彼はそのまま壁《かべ》に激突《げきとつ》して、ドレッサーをひっくり返し、それきりぱたりと動かなくなった。
(な、なんなの、この子……?)
かなめは半《なか》ば戦慄《せんりつ》しながら、恐《おそ》る恐る少年に近付いた。
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》……?」
「は、はい。お……お見苦しいところをお見せしました」
少年はむくりと身を起こし、
「僕は日向《ひゅうが》柾民《まさたみ》という者です」
「はあ」
「このような形でお連れしたことを、どうかお許《ゆる》しください。本来なら、僕が直接お誘《さそ》いにうかがうべきだったのでしょうが、主治医《しゅじい》から外出を止められているのです。病《やまい》を患《わずら》い、この別荘で静養中《せいようちゅう》の身でして」
「……って、え? じゃあ、あなたが」
少年――日向柾民は顔を赤くして、小さくこくりとうなずいた。
お金持ちの病弱な坊《ぼっ》ちゃん。
(へえー。本当にいるんだ、こーいうの)
かなめは妙《みょう》に感心し、初めて出会った珍獣《ちんじゅう》でも見るような目で、柾民をしげしげと観察《かんさつ》した。彼は落ち着かない様子《ようす》で、
「い、いきなりの話で、ご当惑《とうわく》なさってらっしゃるかもしれませんが……よろしければ、その、お茶でもいかがでしょう? いますぐ替《か》わりを持たせますので……」
要《よう》するに、これもナンパの一種である。
「ふむ。どうしようかなぁ……」
かなめの言葉に、柾民は固唾《かたず》を呑《の》んだ。いたいけな顔は真剣《しんけん》そのもので、見ていて気《き》の毒《どく》に思えてくるほどだった。
(おお。かわいいじゃない)
ちょっとたれ気味《ぎみ》の大きな目が、そこはかとなく彼女の母性《ぼせい》本能をくすぐる。闘争《とうそう》本能と疑心《ぎしん》暗鬼《あんき》のカタマリみたいな、どこぞの戦争バカとは大違いだ。
どうせヒマなわけでもあるし――
「ん。いいよ。ごちそうになります」
かなめがにっこりと答えると、柾民の顔がぱっと晴れた。
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます。それじゃあ、ええと――」
「かなめ。千鳥かなめっていいます」
「かなめさん。ああ、なんて素敵《すてき》な名前なんだろう。まるで、まるで……なめくじのようにしっとりとした……」
「………………」
そのとき、部屋《へや》の片隅《かたすみ》のインタフォンが電子音《でんしおん》を奏《かな》でた。柾民はスイッチを入れて、
「なんだ?」
『訪問者《ほうもんしゃ》です』
スピーカーから響《ひび》いたのは、例の『謎《なぞ》の東洋人』の声だった。
液晶《えきしょう》画面《がめん》に監視《かんし》カメラの映像《えいぞう》が映《うつ》し出される。正門前に、ヨットパーカーを着た若い男が立っていた。
(ソースケ?)
見間違えるはずもない。鋭《するど》い目が、カメラをじっと見上げている。
『「千鳥かなめという娘《むすめ》が、ここにいるはずだ」などと申しておりますが。いかがいたしましょう』
スピーカー越《ご》しに召使《めしつか》いが告げた。どうやってこの場所を突きとめたのかは知らないが、宗介は自分を探《さが》しに来たらしい。
「お知り合いですか?」
「え? あいつは……」
『学校の友達』と言いかけて、かなめは思いとどまった。宗介となんか、口もききたくない……そう思ったとたん、
「あ、あいつは凶悪な変態[#「凶悪な変態」に傍点]よ。ストーカーみたいに付きまとわれて、困《こま》ってるの。追い払って!」
深く考えもせずに、口からでまかせを言ってしまった。
「凶悪《きょうあく》な変態《へんたい》ですか」
「そう、凶悪な変態」
「なるほど。そのような輩《やから》に、うちの敷居《しきい》をまたがせるわけにはいきません。……おい、鷲尾。そいつを追い払うんだ。そんな娘はいない、と言ってな」
『かしこまりました』
柾民はインタフォンを切って、
「これでよし。さあ、かなめさん、こちらへ。眺《なが》めのいい部屋があります」
「え……? あ、うん」
すこし後ろ暗い気分を感じながら、かなめは柾民の後に続いた。
『そのような方はおりません』
「それはおかしい。もう一度|確認《かくにん》してくれ。身長一六五センチ強、年齢《ねんれい》一六歳の日本人女性だ。髪は長い。白、レース地の水着姿で、体格は理想的《りそうてき》な健康体《けんこうたい》。出産|経験《けいけん》はない。きょうの装飾品《そうしょくひん》は赤いリボンとピアスだ。爪《つめ》をマニキュアで彩色《さいしょく》しており、その色は――」
宗介はすらすらと説明した。見てないようで、しっかり見ているところが侮《あなど》れない。
だが返事はそっけないものだった。
『おりません。どうかお引き取りを』
近所の聞き込みで得《え》られた証言《しょうげん》では、かなめがこの屋敷《やしき》に連れていかれたのは明らかだった。この男は嘘《うそ》をついているのだ。
「…………」
彼はそれ以上、あえて問《と》い詰《つ》めなかった。正門前から立ち去ると、敷地《しきち》を取り囲《かこ》む塀《へい》に沿《そ》ってぶらぶらと歩いてみる。
(さて、どうするか……)
塀のあちこちに監視《かんし》カメラが見えた。敷地内には、おそらく赤外線《せきがいせん》式の動体センサーが設置《せっち》されているだろう。対人《たいじん》地雷《じらい》もあるかもしれない。
(正面から侵入《しんにゅう》するのは困難《こんなん》だな)
……などと考えているだけあって、すでに屋敷に乗り込むつもりでいる。
彼はぐるりと屋敷の周囲を歩いてから、駆《か》け足で海水《かいすい》浴場《よくじょう》へと戻《もど》っていった。
(とにかく、装備《そうび》を整《ととの》えねば……)
「監禁《かんきん》されてるぅ?」
恭子が素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげた。
「そうだ」
宗介は戦闘服《せんとうふく》に袖《そで》を通し、コンバット・ブーツをはくと、バックパックから次々に得体《えたい》のしれない道具《どうぐ》や武器《ぶき》を取り出した。
「詳《くわ》しい事情《じじょう》は分からんが、間違いない。急いで救出《きゅうしゅつ》しなければ、千鳥の身が危ない」
「でも、だって――」
「君が手伝う必要はない。アマチュアが付いてくれば、むしろ足手まといだ」
「いや、そーいうことじゃなくて。いくらなんでも、そんな、拉致《らち》だの監禁だの……」
宗介は装備をてきぱきと身に付けながら、
「希望的《きぼうてき》観測《かんそく》は危険《きけん》だ。呑気《のんき》に構《かま》えていたら、彼女は――」
言いかけ、口ごもる。
はた目には冷静に見える宗介だったが、その実、心中は穏《おだ》やかではなかった。
かなめが監禁されている。敵[#「敵」に傍点]が何者かは知らないが、手ひどい責《せ》め苦《く》を受けているかもしれない。
(いかん。いかんぞ……)
宗介の脳裏《のうり》で、豊富《ほうふ》な知識《ちしき》を総動員《そうどういん》した一大《いちだい》拷問《ごうもん》シーンが展開《てんかい》された。
三角|頭巾《ずきん》を被《かぶ》った暴漢《ぼうかん》たち。かなめは荒縄《あらなわ》で縛《しば》られて、火責め、水責め、電気責め。しまいには、薬物で理性を剥《は》ぎ取られ……。
「くっ。下衆《げす》どもめ……」
そんな彼を、恭子は冷ややかな横目で眺《なが》めた。
「相良くん……。なんか、カナちゃんをダシにして、ものすごくエッチなコト考えてない?」
かなめに出された紅茶の香りは、見事《みごと》なものだった。なんでもインド直送の葉を使った、この家|秘伝《ひでん》のブレンドなのだそうだ。
「うーん。おいしい」
「喜んでいただけて光栄《こうえい》です」
柾民はにこにこしている。
「ほんと最高。眺《なが》めもいいし……」
大きなガラス戸|越《ご》しに、この付近の海岸一帯が見渡せる。望遠鏡《ぼうえんきょう》があれば、恭子たちの姿《すがた》もここから判別《はんべつ》できるだろう。
(ソースケはどうしたかな……)
ふと、思い出す。いまごろは、ふたたび恭子たちのオモチャにされて、ほいほい遊んでいるのだろうが――
いや。あの宗介が、そうあっさりと引き下がるだろうか?
かなめがむっつり黙《だま》っていると、
「どうしました、かなめさん?」
「え? いや……」
「あの変質者《へんしつしゃ》のことでしたら、ご心配には及《およ》びませんよ。この屋敷には、二重三重の警備《けいび》装置《そうち》が張《は》り巡《めぐ》らしてあります。並《なみ》の人間では決して忍び込めません」
「並の人間、ね……」
少なくとも、宗介が並のバカでないことだけは確かだった。
そこで部屋の戸口に、例の『謎《なぞ》の東洋人』が現れた。柾民はやや不機嫌顔《ふきげんがお》になって、
「なんだ? 鷲尾」
「崖側《がけがわ》に侵入者《しんにゅうしゃ》の反応です。いかがいたしましょう?」
「変質者め。さっそく来たな……」
(やっぱり。あのバカ……)
宗介だ。何のつもりかは知らないが、どうあっても自分に用があるらしい。
かなめが頭を抱《かか》えている上、柾民はそれをなだめるように、
「どうかご安心を。……鮫島《さめじま》! 豹堂《ひょうどう》!」
叫《さけ》び、手を打ち鳴らすと、五秒と待たず、新たに二人の男が姿を見せた。一人はのっぽで、もう一人はちび。どちらも陰気《いんき》な顔で、どこか危ない目つきをしている。
「運転手の鷲尾にはもうお会いになっていますね。背の高い方がコックの鮫島、低い方が庭師の豹堂と申します」
「はあ……」
三人の召使《めしつか》いは、そろってかなめに一礼した。柾民は誇《ほこ》らしげに、
「彼らは僕のボディーガードも兼《か》ねているのです。鷲尾は中国|拳法《けんぽう》の使い手で、鮫島はナイフの達人《たつじん》、豹堂はボウガンを使います。三人とも、フランス外人部隊にいた経験《けいけん》を持つ、戦闘《せんとう》のプロですよ」
「うげぇっ……」
本来なら『まあ、頼《たの》もしいわ!』とか言う場面だったのだろうが、かなめは場違いなうめき声をもらしてしまった。
「うげえ?」
「え、いや……。あははは」
「? まあいいや。……では、鷲尾、鮫島、豹堂!」
『はっ』
「すみやかに曲者《くせもの》を排除《はいじょ》して来い! あの男は、かなめさんを付け狙《ねら》っている変態《へんたい》だ。ぬかるなよ!」
『ははっ!!』
召使いたちが覇気《はき》に満ち満ちた声で答えた。かなめは思わぬ雲行きにうろたえながら、
「いや、あの、実はね――」
「実は、なんです?」
『なんです?』
柾民とその召使いたちが、一斉《いっせい》にかなめを凝視《ぎょうし》する。彼女は『実はウソなの、ごめんなさい』と言おうとしたのだが、その場の雰囲気《ふんいき》に気圧《けお》されて、けっきょく、
「実はその……がんばってください」
などと、変な声援《せいえん》を飛ばしてしまった。
『お任《まか》せ下さい、かなめさま!』
三人の召使いたちは意気込《いきご》んで、部屋から飛び出していった。柾民はそれを上機嫌《じょうきげん》で見送り、
「驚《おどろ》きましたね。鷲尾たちは、かなめさんのことを気に入ったようです」
「そ、そうなの?」
「ええ。ほかの客には、いつもそっけないのですが。気合いが入ってますね」
「う、うう……」
ばっちりと、火に油を注《そそ》いでしまった。
(こうなったら……どうかあの三人が、首尾《しゅび》よくソースケを撃退してくれますように!)
かなめは天に祈《いの》らずにはいられなかった。
身のすくむような断崖《だんがい》を、宗介はロープ一本ですいすいと登っていく。
(むっ……)
断崖の中ほどを過ぎたあたりで、崖《がけ》のてっぺんに小柄《こがら》な男が姿を見せた。手にはボウガン。冷酷《れいこく》な笑みを浮かべ、こちらに向かって狙《ねら》いを定める。
「ひっひっひ。くたばれ、変態めっ!」
叫《さけ》ぶや、頭上から矢が飛んできた。吹き上げる風のおかげか、危《あや》うい所で矢は外《はず》れる。
(変態。だれのことだ……?)
不審《ふしん》に思いつつ、彼は背中からグレネード・ランチャーを抜いた。器用にロープを脚《あし》で挟《はさ》み、両手でランチャーを構《かま》えると――
しゅぽんっ!
ずんぐり大きなグレネード弾《だん》が、銃口《じゅうこう》から飛び出し小男の顔面に直撃《ちょくげき》した。訓練《くんれん》弾だったので、爆発はなし。ただ、相手にとってはサガットのタイガー・アッパー・カットを食らったに等しかった。
「ごがっ! う、うわああぁぁぃ……」
小男は前のめりに倒れ、崖から海へと転落《てんらく》していった。はるか眼下《がんか》で水しぶき。
宗介は何事もなかったかのように、ふたたび崖を登りはじめた。
(待っていろ、千鳥……!)
かなめの落ち着かない様子《ようす》を見て、柾民は笑った。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、かなめさん」
そう言われても全然安心できないのだが、彼女としては、無理に作り笑いでもしているしかなかった。
「そ……そういえば柾民くん、病気で静養中《せいようちゅう》って言ってたよね。いまでも具合《ぐあい》、悪かったりするの?」
「いえ。いまはそれほど……。病気といっても、心因的《しんいんてき》なものでして。いわゆる自律《じりつ》神経《しんけい》失調症《しっちょうしょう》というやつです」
「あ、それ知ってる。悩《なや》み事《ごと》やストレスで、便秘《べんぴ》やら下痢《げり》やらになるアレでしょ?」
柾民は少したじろぎながらも、
「ぼ、僕の場合は、主《おも》に偏頭痛《へんずつう》と息切れです。おかげで勉強にも集中できず……」
「ふーん。立ち入った質問《しつもん》かもしれないけど、柾民くんって、なんで悩んでるの?」
「そ、それは……。かなめさんだからお話ししますが……」
「うん」
『ゆーてみ、ゆーてみ』と手招《てまね》きする。
「僕には、六つ年上の従姉妹《いとこ》がいまして」
「そーなの」
「ええ。その従姉妹と僕は、幼《おさな》い頃《ころ》からよく一緒《いっしょ》に遊んでいました。相思《そうし》相愛《そうあい》で、『大人《おとな》になったら結婚《けっこん》しよう』と、五歳の時に誓《ちか》い合ったほどの仲だったのです」
「はあ……」
「美しい女性でした。ところがその従姉妹が、二ヵ月ほど前……突然《とつぜん》、交通事故で……」
柾民は言葉を呑《の》み込んだ。白い細面《ほそおもて》に、苦渋《くじゅう》の色が浮かび上がる。
それを見て、かなめははっとした。
(亡《な》くなったのね……)
なぐさめの言葉《ことば》も見付からず、彼女が沈黙《ちんもく》していると、柾民は半分|涙声《なみだこえ》で、
「彼女は突然……交通事故で知り合った花屋の店員と、駆《か》け落《お》ちしてしまったのです」
「…………は?」
敷地内の松林を進んでいくと、宗介の眼前にひょろりと背の高い男が現れた。
「ホーホッホッホッ! ここまで来るとは、見上げた変態ですね。だが、この私を倒すことはできるかな?」
男は蛇《へび》のような身のこなしで、小ぶりなナイフを二本、ぬらりと両手に構えた。
「この長いリーチを生かした、ムチのような斬撃《ざんげき》から逃《のが》れえた者はかつていません。私はコックの鮫島。傭兵《ようへい》時代は『切《き》り裂《さ》きサミー』の異名《いみょう》で恐れられ――」
しゅぽんっ!
宗介の撃《う》ったグレネード弾が、男のどてっ腹《ぱら》に直撃した。やはり訓練弾で、爆発はない。
それでもナイフ使いはきりもみして倒れ、松の木に激突《げきとつ》して動かなくなった。
「ま、待て……こら……」
痙攣《けいれん》する男を踏《ふ》みつけて、宗介は邸宅《ていたく》めざして走った。
(待っていろ、千鳥……!)
「いきなり、駆け落ちですよ?」
恨《うら》みがましい声で、柾民は言った。
「つい先日、彼女からオランダの絵葉書《えはがき》が届《とど》きました。『私はとっても幸せです。マーくんもそのうち遊びに来てね』と。僕を裏切《うらぎ》っておきながら! よくも抜けぬけと……!」
「…………はあ」
要するに、勝手《かって》に恋心を抱《いだ》き続けて、相手にもされないで終わったということらしい。たぶんその年上のイトコさんは、柾民を傷つけた自覚《じかく》さえないだろう。
「あのー。心因性の病気の理由って、もしかして、それだけ?」
かなめがたずねると、
「『それだけ』ですって?」
柾民は力いっぱい腕《うで》を振り上げ、テーブルを『どげんっ!!』と叩《たた》いた。
「僕はもっとも信頼《しんらい》していた女性に裏切られたんですよっ!? もうだれも信じられない――決定的な人間|不信《ふしん》に追いつめられたんです!」
「でも、五歳の時の約束《やくそく》なんでしょ?」
「それでも約束は約束ですっ! 彼女は僕を騙《だま》した。傷つけたんだ、この僕を! 絶対に許せない! 今度会ったら、必ず八《や》つ裂《ざ》きにしてやるっ!」
「お、おいおい……」
そのキレ具合《ぐあい》が、いささか尋常《じんじょう》ではない。柾民はぜいぜいと肩で息していたが、やがて落ち着いてきたらしく、
「……も、申《もう》し訳《わけ》ありません。この問題を考えると、ついつい興奮《こうふん》してしまいまして。僕は人に騙されるのが死ぬほど嫌いなんです[#「僕は人に騙されるのが死ぬほど嫌いなんです」に傍点]」
かなめは思い切りたじろぎながら、
「まあ、思い出すだけでムカつくことはだれにでもあるし。べ、別にいいんじゃないの?」
柾民はほっと胸をなで下ろした。
「そう言っていただけると助かります。ああ、やっぱりかなめさんは素敵《すてき》な人だ!」
一気に夢心地《ゆめごこち》へと戻《もど》っていく。かなめが引きつった笑顔でいると――
屋敷《やしき》の階下《かいか》で物騒《ぶっそう》な物音がした。
宗介が邸内に侵入《しんにゅう》すると、今度はヌンチャク使いが襲《おそ》いかかってきた。丸々とした大兵《たいひょう》だが、その身のこなしはえらく素早《すばや》い。
「ヒュウッ!!」
うなるヌンチャクを、宗介は二度、三度としのいだ。飛びすさって距離《きょり》をとると、グレネード・ランチャーを腰だめに構え――
しゅぽんっ!
発砲《はっぽう》。が、驚《おどろ》くべきことに、ヌンチャク使いはグレネード弾を見事《みごと》にかわした。超人的《ちょうじんてき》な動体《どうたい》視力《しりょく》と反射《はんしゃ》神経《しんけい》である……!
「ふっ、馬鹿《ばか》め。そんな飛び道具など――」
どぱぁんっ!!
男の背後《はいご》で、壁《かべ》に当たったグレネード弾が爆発した。爆風が建材《けんざい》をまき散らし、邸宅を激《はげ》しく揺《ゆ》さぶる。その衝撃《しょうげき》で、天井《てんじょう》の石膏《せっこう》ボードが落ちてきて、男の禿頭《とくとう》を直撃《ちょくげき》した。
「どはっ!!」
倒れた男は、驚きに両目を見開いて、
「く……恐ろしい奴《やつ》。まさか、これを狙《ねら》ってグレネードを撃ったというのか!? 建材の落下する位置まで計算して……」
だが、宗介は苦々《にがにが》しい顔で自分のランチャーを眺《なが》めるばかりだった。
「いや……。ついうっかり、訓練弾と間違えて実弾を使ってしまっただけだ」
弘法《こうぼう》も筆《ふで》の誤《あやま》り、である。
「おのれ……変態《へんたい》……め」
がっくりと息絶《いきた》えた男を踏《ふ》み越《こ》え、宗介はなおも前進する。
(待っていろ、千鳥……!)
「な、何事だ……?」
柾民は狼狽《ろうばい》をあらわにした。爆発音は一度だけで、それきり邸内は静かになる。
(ああ、ダメだったか……)
かなめはテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》した。
「わ、鷲尾っ!!」
返事はない。
「鮫島っ!!」
応答なし。
「豹堂っ!?」
不気味《ぶきみ》なほどの静寂《せいじゃく》。
柾民はごくりと唾《つば》を飲み込み、
「か、かなめさん。ここを動かないで」
「え?」
「僕だって武器は持ってるんです。これさえあれば……」
柾民はポケットから最終兵器を取り出した。それは蝶々に似ていることが名前の由来になった[#「それは蝶々に似ていることが名前の由来になった」に傍点]、折りたたみ式の刃物[#「折りたたみ式の刃物」に傍点]だった!
「ま、柾民くん!? それ[#「それ」に傍点]はいろんな意味でヤバいわっ!」
かなめがいろんな意味で青くなっていると、部屋《へや》の扉《とびら》が『ばしんっ!』と弾《はじ》けて、戦闘《せんとう》服姿の宗介が踏み込んできた。
「ここにいたか……」
宗介はガラスの破片を踏みつけて、一歩、また一歩と近付いてくる。かなめが止めるより早く、柾民は刃物[#「刃物」に傍点]を振りかざし、
「う、うわああぁぁぁぁ〜〜〜〜〜っ!?」
宗介めがけて突進《とっしん》した。
「ふっ……」
宗介は腰から特大グルカナイフを引き抜き、無造作《むぞうさ》に一閃《いっせん》した。たちまち柾民の手から刃物が弾け飛び、天井《てんじょう》に突き刺さった。
「そ、そんな……!」
うろたえる柾民。宗介は静かな声で、
「素人《しろうと》か。おまえのナイフは、片手での手作業《てさぎょう》のために設計《せっけい》されたものだ。戦闘に使うのなら――」
牛の首でも一撃で切断《せつだん》できそうなグルカナイフを、柾民にぴたりと突きつけて、
「――こういう武器を選べ」
おごそかに告げる。その宗介の横面《よこつら》に――
ごすっ!!
かなめの拳《こぶし》がクリーンヒットした。
「千鳥。痛いじゃないか」
「うるさいっ! エラそうなゴタク並べて、中学生を脅《おど》してんじゃないわよっ!」
「なにを言う。俺は君を助けに来たんだぞ」
「あーそう。謝《あやま》ったりしに来たわけじゃないのね。ほんっと最低のネクラ男ね……!」
「それより、拷問《ごうもん》はなかったのか?」
「だから何の話よ、それは!? あたしは彼とお茶してたの! だから邪魔《じゃま》しな――ん?」
二人のやりとりを見て呆然《ぼうぜん》としている柾民に、かなめはやっと気付いた。
「かなめさん。これは……? 貴女《あなた》はこの人に狙《ねら》われてるんじゃ……」
「あ、あのね。説明しようとは思ってたんだけど……その、本当は……友達なの……」
自分のついた嘘《うそ》が急に恥《は》ずかしくなってきて、かなめの声はみるみる小さくなった。
「ひどいや……」
「ご……ごめんなさい」
「貴女だけは違うと思っていたのに。けっきょく僕をからかってたんですね……」
「そ、そんなつもりは……」
「だってそうじゃないですか。貴女を助けようと張り切ってた僕を、内心であざ笑って! 裏切り、騙《だま》していたんでしょう!?」
かなめはまったく反論《はんろん》できなかった。
「最低だ……。信じていたのに。貴女は僕の真心《まごころ》を踏みつけて――うわあっ!」
いきなり宗介の背負《せお》い投《な》げを食らって、柾民は床《ゆか》に叩《たた》き付けられた。
「ソースケ!?」
「……なんだかよくわからんが、騙される貴様《きさま》が悪い」
「う、ううっ……」
「無能《むのう》な部下に守られ、判断《はんだん》を曇《くも》らせた貴様自身の失策《しっさく》だ。ここがアフガニスタンなら、貴様はすでに一〇回以上死んでいる」
「そういう問題じゃ……って、あ」
宗介はかなめの手をひき、バルコニーの手すりに足をかけた。その先は、海に面した断崖《だんがい》絶壁《ぜっぺき》だ。
「ちょっと、まさか飛び降りる気じゃ……」
彼はかなめの問いには答えず、
「だが――ナイフ一本で俺に立ち向かった度胸《どきょう》は認《みと》めてやる。見上げたガッツだ」
『え……?』と、柾民は顔を上げた。
「いまの貴様に足《た》りないのは、感情を制御《せいぎょ》する心構えだ。騙すな、騙されるな。隙《すき》を見せずに気迫《きはく》を見せろ。以上。さらばだ」
ばっ!
宗介はかなめを強引《ごういん》に抱きかかえ、断崖絶壁へと身を投げ出した。
「っっっきゃああぁぁぁ〜〜〜〜〜!!」
自由落下に絶叫《ぜっきょう》する、かなめの声が海岸に響《ひび》き渡った。
痛む頭をさすりつつ、鷲尾は三階のリビングへと入っていった。柾民がバルコニーに棒立《ぼうだ》ちしているのを見て、胸をなで下ろす。
「柾民さま、ご無事《ぶじ》で!? あの曲者《くせもの》は?」
「あそこだよ……」
彼が指さした先、はるか彼方《かなた》の海上に、ゆっくりと降下《こうか》していく黒い風船があった。
「鷲尾。たしかに僕は、甘《あま》かったのかもしれない」
「は?」
「隙を見せずに気迫を見せろ、か。そうでなければ、愛する女性さえ守れないんだ。きっと……」
などと、わけの分からんうちに納得《なっとく》している柾民だった。
[#挿絵(img2/s01_127.jpg)入る]
「おわびの手紙くらい、送らないとね……」
宗介の腕に抱かれたまま、かなめは言った。二人は直径数メートルのバルーンにぶら下がり、徐々《じょじょ》に海面へと近付いていくところだった。
「なぜ詫《わ》びる必要がある」
「だって、きっと落ち込んでるもん。あの年頃《としごろ》の子って、すごい傷つきやすいんだよ?」
「そうなのか」
「そうよ。あたしだって……。ソースケは、そーいうのなかったの?」
「怪我《けが》ならしたぞ」
「言うと思った。……ところでソースケ。なんだかんだ言って、けっきょく、あたしを助けに来たんだったよね?」
「そうだ」
「……心配してくれたんだ」
「ああ」
かなめはすこし黙《だま》ったあと、
「ごめんね」
「無事《ぶじ》なら、いい」
「うん。ふふ……」
かなめは彼の肩に頬《ほほ》をのせ、気持ちよさそうに微笑《ほほえ》んだ。
[#地付き]<鋼鉄のサマー・イリュージョン おわり>
[#改丁]
恋人はスペシャリスト
[#改ページ]
その少女は、両目から涙《なみだ》をはらはらとこぼしていた。
「……っく。ひっく……」
ベッドの上に身を投げ出し、電話帳《でんわちょう》をめくりながら、今日の放課後《ほうかご》を思い出す。
(ごめんな、瑞樹《みずき》)
彼と交際《こうさい》をはじめて半年、あれほどシラけきった声を聞いたのは初めてだった。
(やっぱさ、オレとおまえって、合わないと思うんだよ。なんていうのか……価値観《かちかん》? みたいなモンがさ……)
まさか、あの四組の千鳥《ちどり》かなめと付き合い出したの!?
(いや、違うよ……。別のクラスの……まあ、誰《だれ》でもいいじゃん)
よくないわ。だってあたし、白井《しらい》くんがいなくちゃ生きていけない。
(そんなことないさ。おまえだったら、もっとお似合《にあ》いの奴《やつ》がいるよ)
あたしのこと、『好きだ』って言ってくれたのに! どうして今になってそんな……!
(あ、あの時は本気だったさ。でも今は……。ほんと、ごめんな)
「ひどいよ、白井くん……。勝手《かって》すぎるよ」
うわずった声でつぶやき、携帯《けいたい》電話を取り出して、電話帳に載《の》った『ピザーレ芝崎店《しばさきてん》』の番号を押《お》した。
「ひっく……あ、ピザの配達《はいたつ》をお願いしたいんですけど。カレー・マントレーのLサイズを一〇枚。それからネッソーのLサイズも一〇枚。名前? あ、白井です。住所は……」
住所と電話番号を告げ、彼女は電話を切った。続いてそば屋の『霧島屋《きりしまや》』、寿司屋《すしや》の『灘潮《なだしお》』、さらに中華の『円羅大凶殺《えんらだいきょうさつ》』に同様の注文《ちゅうもん》をする。
「……っく。ええ、二丁目三番地の白井です。待ってますから。どうも」
頬《ほほ》を伝う涙をぬぐって、彼女は携帯電話を置いた。
「さようなら、白井くん……。ちょっぴり悔《くや》しいけど、幸せになってね……」
つぶやいて、小刻《こきざ》みに肩《かた》を震《ふる》わせる。
枕《まくら》に顔をうずめて三分ほど泣いた後、彼女はふとなにかを思い出したように、ふたたび携帯電話を手に取って、おもむろに一一〇番をプッシュした。
「……えっぐ。あ、もしもし。隣《となり》の家から、動物の腐《くさ》ったような臭《にお》いがするんです。きのうから。……はい。芝崎二丁目三番地の白井さんのお宅《たく》でして……」
六月の雨がさらさらと、窓の外で降《ふ》りしきる。まだ四時過ぎなのに空はすっかり暗く、校庭の向こうの銀杏《いちょう》の並木《なみき》が、雨の中でおぼろな影《かげ》を浮かべていた。
陰気《いんき》な放課後。
廊下《ろうか》には人気《ひとけ》もなく、吹奏楽部《すいそうがくぶ》の練習の音が、どこか遠くから響《ひび》いてくる。
生徒会室《せいとかいしつ》の窓際《まどぎわ》に座《すわ》り、ぼおっと校庭を眺《なが》めていた千鳥かなめは、
「なーんか、やな天気……」
誰に言うともなく、ぽつりとつぶやいた。整《ととの》った顔が、雨で煙《けむ》る景色《けしき》を背負《せお》って、いつもとは違った雰囲気《ふんいき》を醸《かも》している。
同じ部屋の一角では、先日『安全《あんぜん》保障《ほしょう》問題《もんだい》担当《たんとう》・生徒会長|補佐《ほさ》官《かん》』なる怪《あや》しい役職《やくしょく》に就任《しゅうにん》したばかりの相良《さがら》宗介《そうすけ》がいた。生徒会|所有《しょゆう》のノート・パソコンを前にして、淡々《たんたん》とマウスを操《あやつ》っている。
「雨が降るのはいいことだ。水源《すいげん》をめぐって、激《はげ》しい戦闘《せんとう》が繰《く》り広げられることもない」
パソコンのホロ・スクリーンから目を放《はな》さず、宗介は言った。いつもと同じ、むっつり顔にへの字口である。
「また、わけのわからんことを……。『日本では、水と安全はタダ』って言葉《ことば》、あんた知らないの?」
「知らない。だいいち水と安全が無料《ただ》の国など、この地球上にあるわけがない。その言葉は日本政府の巧妙《こうみょう》なプロパガンダだ」
これでも宗介は、真面目《まじめ》に答えているつもりなのだろう。戦場育ちの彼が転校して来てから数ヵ月。平和という言葉を知らない彼のメンタリティにも、かなめはいい加減《かげん》慣《な》れてきた今日《きょう》このごろである。
「ああ、そーかもね。……ところで、さっきからなにしてるの?」
戦争ゲームでもしてるのかしら? そう思って近付き、肩越《かたご》しに画面《がめん》をのぞきこむ。
だが、そこには、あろうことかアニメ絵の美少女キャラクターが、バストアップで映《うつ》っていた。
「……なによ、これ」
「恋愛《れんあい》シミュレーションだ。備品係《びひんがかり》の一年に薦《すす》められてな。高校生の恋愛の習慣《しゅうかん》について、多くのことが学べるそうだ」
「こんなので学べるかなぁ……。それより、あんたが恋愛のコトなんか勉強してどうするの?」
言ってから、非常《ひじょう》に失礼な質問《しつもん》だなー、と思ったが、宗介はまったく気にしていない様子《ようす》だった。
「俺《おれ》は安全保障問題担当の、会長|閣下《かっか》のブレーンだ。一般《いっぱん》生徒の行動《こうどう》様式《ようしき》を深く理解《りかい》することは、治安《ちあん》対策《たいさく》に役立つ。それにはまず『恋愛』だそうだ。恋愛という、特殊《とくしゅ》なストレス下に置かれた人間の行動を知る上で、こうしたシミュレーションは有効《ゆうこう》だ」
「…………。まあ、がんばりなさい」
「ああ。がんばろう」
画面の中の美少女は、不愉快《ふゆかい》そうに眉《まゆ》をひそめていた。相手の台詞《せりふ》が表示されていて、
<<宗介くんって、冷たいね>>
とある。
「様々《さまざま》な会話を選択《せんたく》していくシステムだ。いまはデートの最中《さいちゅう》でな。この女が水着を買いに行きたいと言うので、『一人で行け』と答えたら、いきなり怒《おこ》り出した」
「まあ、そうでしょうね……」
「理解できん」
「……あのね。この子は、あんたに水着を選《えら》んで欲しかったのよ、きっと」
「自分で選ぶ能力がないのか」
「いや、そーいうことじゃなくて……」
「各種|兵装《へいそう》についてなら助言《じょげん》できるが、民間人の服飾《ふくしょく》に関して俺は素人《しろうと》だ。だから断《ことわ》った。なのになぜ怒る?」
「だから、それは――」
そこで、部屋の扉《とびら》がガラガラと開いた。
二人が振り向くと、戸口には小柄《こがら》な女子生徒が立っていた。髪《かみ》はおかっぱセミロング。あどけない顔だちだったが、目つきはきつく、強気《つよき》でかたくなな印象《いんしょう》だ。
「あ。稲葉《いなば》瑞樹《みずき》さん……だったっけ?」
数週間前に、とある事件で知り合った二組の生徒である。かなめとも宗介とも、特に親しい間柄《あいだがら》ではない。
稲葉瑞樹はなにも言わず、ずけずけと部屋の中に入ってきた。そして宗介を値踏《ねぶ》みするように、ぶしつけな目で凝視《ぎょうし》して、
「……まあまあね、ふん」
勝手《かって》に納得《なっとく》すると、小さく鼻を鳴《な》らした。
「あんた、相良とかいったわね」
「そうだが、なんの用だ?」
「明日《あした》の午後、あたしとデートしてくれる?」
かなめは呆《あき》れて、怒る気力も失《う》せていた。
事情《じじょう》はこういうことだった。
稲葉瑞樹には、ついおとといまで彼氏がいた。同じクラスの白井《しらい》悟《さとる》という生徒で、ほかの女子からも人気がある。美形で、おしゃれで、まあ、とにかくモテる男だ。
で、いろいろと紆余《うよ》曲折《きょくせつ》があったらしく、瑞樹と白井は別れることになった。ヨリが戻《もど》ることは、あり得ないらしい。
(それはいいの。もういいの。心の整理《せいり》もついたし、後始末[#「後始末」に傍点]も済《す》んだから)
具体的《ぐたいてき》になにをしたのかは知らないが、さっぱり未練《みれん》は断《た》ち切ったという。
では、なにが問題なのか?
それに瑞樹はこう答える。
(中学時代の友達に、彼氏を紹介《しょうかい》する約束《やくそく》をしてたの)
彼女はこれまでその友達に、さんざん彼氏の自慢話《じまんばなし》をしていたらしい。やれセンスがいい、やれ歌がうまい、やれハンサムだ。ところが、相手はそれを疑《うたが》ってかかる。ならば直接《ちょくせつ》会わせよう……ということで、その約束の日が明日――日曜日の午後だというのだ。
いまになって『別れた』などと言っても、信じてもらえるわけがない。だったら今回一度だけは、替《か》え玉《だま》をでっちあげてやり過ごそう。そしてその後、『別れた』と説明《せつめい》すればいい。
つまり。
瑞樹は、その替え玉を宗介にやらせるつもりなのだ。ほとんど他人の宗介に!
(ちょっとヤボったいけど、まあハンサムだし。それになにしろ、カレとあたしの間にヒビが入ったのは、もともとはあんたたちが原因《げんいん》なんだから。これくらいの償《つぐな》いはしてもらって、当たり前じゃない?)
などと言い切る。
はっきりいって、言いがかりも甚《はなは》だしい。そんな身勝手な要求《ようきゅう》、断《ことわ》るべきだ。
かなめは忠告《ちゅうこく》しようとしたが、それよりも早く、宗介は答えていた。
(よかろう。おまえとデートしてやる)
ちょっとソースケ、あんた正気!?
彼女が驚《おどろ》くと、宗介はパソコンの画面を差して言ったものだった。
(このゲームが下手《へた》なのは、俺が実戦《じっせん》を知らないからだ。実戦の一日は訓練《くんれん》の一週間に相当《そうとう》する。一般生徒の行動様式を知る上で、これはまたとない機会《きかい》だ)
そう言われてしまっては、かなめがあれこれ口を挟《はさ》む余地《よち》はなかった。自分は、宗介と付き合っているわけではない。デートがしたけりゃ、勝手にすればいい。あたしは関係ないんだから。
そう納得して、かなめはさっさと帰宅《きたく》した。
それが四時間前のことだ。
「なのにね……どーして、こういうことになるわけ?」
長い回想《かいそう》を打ち切り、包丁《ほうちょう》を振るう手を休めて、彼女はリビングの方へと目を向けた。
革張《かわば》りのソファーが並んだリビングでは、宗介と瑞樹が向かい合い、熱っぽい問答《もんどう》を繰《く》り返していた。
「だーかーらぁ!! あんたが最近買ったパンツのブランドは、ポロ・ジーンズ・カンパニーなのっ! いい加減《かげん》に覚《おぼ》えてよ、もう!」
「もう覚えた。俺の基本《きほん》装備《そうび》はポロのジーンズ会社。ブラックスェードのウェスタンシャツと黒のチノパンツを組み合わせ、夜間における低視認性《ていしにんせい》を実現《じつげん》している」
「なんだか後半がヘンだけど……とにかく、いい? 服のことを聞かれたら、これまで教えた通りに答えるのよ?」
「了解《りょうかい》。俺は服には金をかける。最近もエルメネジルドの高価《こうか》なブルゾンを購入《こうにゅう》した。このブルゾンの価格《かかく》は、オーストリア陸軍《りくぐん》採用《さいよう》のステアーAUGライフルとほぼ同額《どうがく》であり、また四〇ミリ対AS砲弾《ほうだん》六発分の――」
「ヘンな能書《のうが》きは付けない! じゃあ次、あんたの特技《とくぎ》は?」
「偵察《ていさつ》と爆破《ばくは》、および|強襲機兵《アーム・スレイブ》の操縦《そうじゅう》だ」
「そうじゃなくて! 白井くんの特技!」
ずっとこんな調子である。
瑞樹は宗介を、なんとか前の彼氏らしく仕立《した》てあげようと努力しているが、どれだけの成果《せいか》を挙《あ》げるかは、はなはだ疑問《ぎもん》であった。
かなめはトマトを切り終えて、しゃきしゃきのレタスの上に盛《も》りつけると、
「ほら。エサができたわよ」
ダイニングのテーブルに食器を並べながら言った。瑞樹は立ち上がり、ぶつぶつとこぼしながら食卓《しょくたく》についた。
「続きは後よ。ホント、あんたって使えない男ねー」
「面目《めんぼく》ない」
三人が囲《かこ》んだテーブルの上には、ビーフ・カレーとトマト・サラダが鎮座《ちんざ》していた。
「へえ……おいしそうじゃない。カナメって料理、得意《とくい》なわけ?」
いつの間にか、瑞樹は彼女を『カナメ』と呼《よ》び捨《す》てるようになっていた。
「一人|暮《ぐ》らしだからね。なるべく自炊《じすい》しないと、すぐにレトルトとそうざい漬《づ》けになっちゃうのよ」
かなめの母親はすでに亡《な》く、父親と妹はニューヨーク郊外《こうがい》で暮らしていた。父親の転勤《てんきん》が決まった時、彼女はすでに陣代《じんだい》高校に合格していたため、東京を離れず一人で家を守っている。
「ふーん……。カレーとか、よく作るの?」
「あんまり。人数がいないと、こーいう料理って減《へ》らないから」
「ふふん。じゃあ、感謝《かんしゃ》して欲しいわね。あたしと宗介がいるから、珍《めずら》しくカレーにありつけたのよ」
こういうことを本気で言うあたり、この瑞樹も相当《そうとう》な娘である。
「だいたいねえ……。どうしてあんたたちが、あたしんちで勉強会しなくちゃならないわけ……?」
かなめがぼやくと、瑞樹はトマト・サラダを自分の小皿《こざら》に盛りつけながら、
「さっきも言ったでしょ。これから一夜漬《いちやづ》けするのよ? あたしの家に、男子なんか泊《と》められないもの。パパが激怒《げきど》するわ」
「ソースケんちに泊まればいいじゃない。そいつも一人暮らしよ」
「二人きりなんて、とんでもない! 夜中になっていきなり押し倒されたら、どう責任《せきにん》取ってくれるの? カナメと違って、あたしはとってもか弱いんだからね!」
フォークの先で、宗介を差す。
「俺は危害《きがい》など加えないぞ」
「ふん。男はみんなそー言うのよ。特にあんたなんて、そのむっつり顔の下に、どんなアブない欲望《よくぼう》を秘《ひ》めてるか、わかったもんじゃないわ」
宗介は顔色一つ変えなかったが、
(あ、傷《きず》ついてる)
その微妙《びみょう》な変化を見てとり、かなめはひそかに口許《くちもと》をほころばせた。
ふと目を覚《さ》まし枕元《まくらもと》の時計を見ると、まだ午前の三時だった。窓の外は暗く、どこか遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。
「ん……」
かなめはトレーナーとキュロット・スカートを着たままで、自分のベッドに横になっていた。
いつの間にか、寝てしまったようだ。
隣《となり》の居間からは、いまだに瑞樹たちの話し声が聞こえてくる。
(そういえば、ここの壁《かべ》、けっこう薄いのよね……)
しかも深夜で、近所はひっそりと静まりかえっている。ちょっと耳を澄《す》ますだけで、二人の会話は容易《ようい》に聞き取ることができた。
『……いい? これから、本気であたしのカレになったつもりで会話するのよ?』
どこか神妙《しんみょう》な様子《ようす》の瑞樹。それに淡々《たんたん》とした宗介の声が応じる。
『了解《りょうかい》だ。いつでも来い』
瑞樹がソファーに座《すわ》り直す、衣《きぬ》ずれの音が聞こえてくる。
どうやら、これまでの復習にとりかかるつもりらしい。果《は》たして、どこまで成果が挙《あ》がったものやら。
ほんの数秒の沈黙《ちんもく》の後、二人の恋人ごっこが始まった。
『じゃあ……。ねえねえ、白井くん。今度の日曜、どこに遊びに行こっか?』
『映画が観《み》たい。この前は恋愛もののポバティーズ・パラダイス≠観たから、今度は違ったジャンルがいい。スニーカーズ2≠ネどはどうだ』
『うんうん、観たい観たい!』
『あれはいい映画らしい。君の好きなリバー・フェニックスも好演《こうえん》している』
口調はいつもの宗介のままだが、なかなかいい調子である。彼は彼なりに、相当熱心に勉強したようだった。
彼は饒舌《じょうぜつ》に映画の紹介《しょうかい》を続ける。
『雑誌の記事を読んだ限りでは、ハッキング技術の描写《びょうしゃ》もリアルで、サスペンス満点だそうだ。……ただ難を言えば、民間のハッカーが米NSAに対抗できるコンピューターを持っているとは思えないのだが』
『……なんのこと、それ?』
『NSAは国家安全保障局のことだ。CIAを上回《うわまわ》る、世界最大の情報収集機関だ』
だんだんボロが出てきた。
『……わかんないよ、そんなの』
『無理《むり》もない。君は素人《しろうと》だからな』
『……白井くんはシロートじゃないわけ?』
『それに答える義務はない』
やっぱり駄目《だめ》だ……。どだい、宗介に普通の男子高校生を演じさせることに無理があるのだ。かなめは小さなため息をつき、暗闇《くらやみ》の中で首を振った。
『ったくもう、マジメにやってよ!! どこの世界に、自分の彼女にそんな口きく男がいるつての!?』
瑞樹も怒《いか》りの声をあげ、リビングのガラス・テーブルを『がしゃん!』と叩《たた》いた。
『俺はいつでも真面目《まじめ》だ。さあ、来い。もっと質問しろ』
あくまで冷静な様子の宗介。
『それじゃあね。……白井くん。あたしのこと、好き?』
瑞樹は気を取り直し、甘《あま》えるような声で言った。
『ああ、好きだ』
『ねえ、そんな冷たい言い方じゃなくて、いつもみたいに言ってよ』
『ああ。そうだな。……好きだ、瑞樹』
神妙《しんみょう》な宗介の口ぶりに、かなめは思わずどきりとした。
『もっと言って、白井くん』
『好きだ、瑞樹』
『もっと』
『好きだ、瑞樹』
それは思いのほか穏《おだ》やかで、温《あたた》かい響《ひび》きだった。かなめは宗介の顔が見れないのを不満に感じ、なにか言い知れない疎外感《そがいかん》を覚《おぼ》えた。
『白井くん……。いまでも、あたしのこと、好き?』
『いまでも好きだ、瑞樹』
『これからも? ずっと好き……?』
『ああ。これからも、ずっと好きだ、瑞樹』
『…………』
瑞樹が黙《だま》りこみ、会話は途絶《とだ》えた。ときおり、彼女が鼻をすする音だけがリビングに響く。すこしたって、宗介がいつも通りのぶっきらぼうな声でたずねた。
『なぜ泣く。稲葉』
『っるさいわね……。あんたなんて、大嫌《だいきら》いよ!』
『だが、君はさっきまで――』
『うるさいって言ってるでしょ!? ジロジロ見るんじゃないわよ!!』
『理解に苦しむ』
わけがわからず、うろたえる宗介の顔が目に浮かぶ。
なんとなく複雑な気分のままで、かなめは布団をかぶり直した。
翌日は快晴《かいせい》だった。
濡《ぬ》れた路面《ろめん》から立ち昇《のぼ》る湿気《しっけ》のせいか、六月にしては蒸《む》し暑い。
京王井《けいおうい》の頭《かしら》線の吉祥寺駅《きちじょうじえき》。その改札《かいさつ》に近い南口の階段《かいだん》の下に、かなめと瑞樹は立っていた。あたりの人の行《い》き交《か》いは激《はげ》しく、彼女らと似《に》たような待ち合わせの若者が、あちこちに棒立《ぼうだ》ちしている。
「そろそろ時間ね」
ヒールの高いサンダルをこつこつと鳴らし、瑞樹はつぶやいた。スリーブレスの青いワンピースに、黒いレース地のカーディガン。ブレスレットをごてごてと着《つ》けて、グッチのバッグを肩にかけている。
「三人だっけ? みんな同じ学校なの?」
かなめがたずねた。彼女の方は、プリントTシャツにデニムのタイトミニ、着古《きふる》した黒のブルゾンといった、夜に近所のビデオ屋に出かけるくらいのラフな格好《かっこう》である。
もともと付いてくるつもりはなかったのだが、瑞樹に無理強《むりじ》いされて、急いで身支度《みじたく》をしたせいだった。
「同じ高校よ。引《ひ》っ越《こ》しのせいで、あたしだけ学区が別になっちゃったの」
「ふーん。……ところで」
かなめは隣《となり》に立っている宗介を見た。
「よくこれだけ、らしい服をそろえられたわね」
シックな茶色のニットに、シャープな黒のパンツ。アクセント程度《ていど》に、くすんだシルバーのネックレスをかけている。靴《くつ》はブラウンのショートブーツ。全部あわせれば一〇万はする格好だ。
「クルツ[#「クルツ」に傍点]に頼《たの》んでな。物々《ぶつぶつ》交換《こうかん》で入手《にゅうしゅ》した」
「ああ、彼ね。なにと交換したの?」
「ビンテージもののガバメントだ」
「なにそれ?」
「古い銃《じゅう》だ。実用《じつよう》価値《かち》はあまりない」
「ふーん……」
かなめは頭の中で、ルパンV世が使っている銃を思い描《えが》いた(実際《じっさい》には、銭形《ぜにがた》警部《けいぶ》の使っている銃こそがその『ガバメント』だったのだが)。
「みーずきっ!! お待たせっ!」
元気のいい声に振り向くと、私服姿の少女が三人、瑞樹に手を振り近付いてくるところだった。
「三ヵ月ぶりね! 元気だった?」
「そのサンダルかわいいですぅ!」
「瑞樹ー、ちょっと痩《や》せたんじゃないー?」
三人は瑞樹を取《と》り囲《かこ》み口々に言った。
「ところで、問題のカレは? 白井さんだっけ? まだ来てないの?」
そこで宗介が一歩前に進み出て、背筋《せすじ》を伸《の》ばし、『休め』の姿勢《しせい》ではっきりと告げた。
「俺が白井悟だ。よろしく頼む」
一瞬《いっしゅん》、気圧《けお》され、三人は黙《だま》りこむ。
大丈夫《だいじょうぶ》かなぁ……と、かなめは思った。
その後、瑞樹がかなめを紹介《しょうかい》すると、三人娘は彼女の同行を快諾《かいだく》して、それぞれ手短《てみじか》に自己《じこ》紹介した。
活発《かっぱつ》そうで、はきはきした笑顔の赤城《あかぎ》真奈美《まなみ》。子供っぽい感じで、舌《した》っ足《た》らずの喋《しゃべ》り方をする黄楊《つげ》まどか。涼《すず》しげな目に、瓢々《ひょうひょう》とした物腰《ものごし》の碧川《みどりかわ》祥子《しょうこ》。
(信号機みたい……)
人の名前を覚《おぼ》えるのが苦手《にがて》なかなめは、とりあえず赤、黄色、緑とだけ、頭の中に書きこんでおいた。
一同はまず、昼食を採《と》ることにした。
わいのわいのと騒《さわ》ぎながら、人混《ひとご》みの中を五分ほど歩き、繁華街《はんかがい》のはずれの小さなイタリア料理屋の前まで来る。
「ここ、ここ! 懐《なつ》かしいねー」
「一年ぶりくらい?」
宗介とかなめをそっちのけに、瑞樹たちは盛《も》り上がる。どうやら以前はよく来た店らしい。ぞろぞろと入ると、店内はまだ空《す》いていた。落ち着いた雰囲気《ふんいき》の内装《ないそう》で、窓からの自然光《しぜんこう》が温《あたた》かい。
ウェイターの青年が出てきて応対《おうたい》した。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「六人よ。窓際《まどぎわ》の席にしてくれる?」
瑞樹が尊大《そんだい》に答えると、ウェイターはいやな顔ひとつせず、
「かしこまりました。ではこちらに……」
「駄目《だめ》だ」
なんの前触《まえぶ》れもなく、宗介が言った。彼は店の奥まった一角を指差し、
「あの席にしよう。テーブルのランプも切ってくれ。明るすぎる」
「は?」
ウェイターはしばらく沈黙《ちんもく》した後、助けを求めるような目で瑞樹を見た。
「そ……白井くん。なに言ってるの?」
「路上《ろじょう》に面した窓際の席は危険《きけん》だ。出入口もよく見えない」
「なにが危険なのよ」
「昔、俺の戦友……いや、中学時代の担任《たんにん》が、食事中に襲《おそ》われたことがある。窓ガラス越《ご》しに、テロリストにマシンガンで射《う》たれてな。防弾《ぼうだん》ベストのおかげで命拾《いのちびろ》いした」
あっけに取られる三人の視線《しせん》を、宗介は平然と受け入れて続けた。
「嘘《うそ》ではない。陣代中学の大隅《おおすみ》先生だ。右肩に九ミリ弾の抜《ぬ》けた傷跡《きずあと》がある。進路《しんろ》指導《しどう》で世話《せわ》になった。いい先生だ」
そんな中学教師、聞いたことない。
瑞樹とかなめが絶句《ぜっく》していると、信号機トリオは一斉《いっせい》に、
「あははははっ!」
「白井さんっておもしろいですぅ!」
「なんだかよくわからないけど、いい先生なんですねー」
あっけらかんと笑い出した。
(あんたの友達って、頭のネジがどっか緩《ゆる》んでるんじゃないの……?)
かなめが耳打ちすると、瑞樹はため息をつくばかりだった。
けっきょく座《すわ》った窓際の席で――
「白井さんって、瑞樹の話とだいぶイメージが違うのね」
「マドカもそう思いますぅ! えとね、えとね、なんていうのかな、すごく……」
「質実《しつじつ》剛健《ごうけん》っていうんですかねー」
パスタの皿《さら》をつつきながら、三人は口々に言った。
「それは間違った認識《にんしき》だ。俺は実用的《じつようてき》価値《かち》のまったくない、たわけた服飾品《ふくしょくひん》を好《この》んで着る。愚《ぐ》にもつかない会話を好み、女性と無為《むい》に時間を過ごすことに無上《むじょう》の喜びを感じる……そういう種類の人間だ」
これ以上はないほどの実直《じっちょく》な口調《くちょう》で、宗介は答えた。
「でもぉ、そうは見えないですぅ……」
「無理もない。君たちは素人《しろうと》だからな」
「なんのシロウトよ……?」
かなめがぼそりとつぶやいたが、彼はそれを聞き流して、
「こんな俺だが、瑞樹はかけがえのない恋人だ。彼女は素晴《すば》らしい」
言うと、隣《となり》に座った瑞樹の背中を叩《たた》く。
「あー! いきなり見せつけて!」
「うらやましいですぅ!」
「アツアツなんですねー。ほんと」
三人娘は一斉《いっせい》にはやしたてた。
「や……やだな、白井くん。みんなの前で恥《は》ずかしいじゃないの」
「なにを恥じることがある。君は俺の大切な女性だ。どれくらい大切かというと……」
「いうと?」
「核兵器《かくへいき》の政治的《せいじてき》価値と同じくらい大切だ」
そんな調子でデート参観《さんかん》は続いた。
食事の後にカラオケ屋に入ると、三人娘は『オザケンとか好きなんですよね? 聴《き》かせてくださいよー』と宗介に迫《せま》った。
もちろん宗介は、日本の歌など知らない。
「今日は別の歌を披露《ひろう》しよう」
と彼は告げ、流暢《りゅうちょう》なロシア語で、民謡《みんよう》『モスクワ郊外《こうがい》のゆうべ』を唄《うた》い出した。調子|外《はず》れで陰気《いんき》な歌声は、聴く者の心を寒々《さむざむ》とさせるのに充分《じゅうぶん》だったが、三人はケラケラと笑うばかりだった。
あとで瑞樹が『なんであんな歌なのよ!?』と詰問《きつもん》すると、宗介は『俺が知っている唯一《ゆいいつ》の歌だ』と答えた。
[#挿絵(img2/s01_153.jpg)入る]
カラオケの次は映画館に行った。
上映中の邦画《ほうが》は、いま人気の男性アイドルが主演していることで話題になっている作品だった。第二次大戦中の中国を舞台《ぶたい》にしたラブ・ロマンスで、愛し合う男女が戦火に引《ひ》き裂《さ》かれていく悲劇《ひげき》が描《えが》かれている。
特に主人公の指揮《しき》する部隊《ぶたい》が、日本本土へ引《ひ》き揚《あ》げる民間人を守るために、迫《せま》り来る敵軍《てきぐん》と戦って散《ち》っていくあたりなど、涙《なみだ》なしには観《み》られない場面だった。……が、
「あの男は死んで当然だ」
映画館を出た宗介は、戦死した主人公を評《ひょう》して言った。
「弾薬《だんやく》が余《あま》っているのに、銃剣《じゅうけん》で突撃《とつげき》するとは愚《おろ》かにもほどがある。なぜ後方の丘陵《きゅうりょう》地帯《ちたい》まで敵を誘《さそ》いこみ、戦線が伸《の》び切ったところで各個|撃破《げきは》しないのだ」
「あのね、あれはそういう映画じゃないのよ」
「映画の種類など問題ではない。死ぬ必要のない部下を死なせ、高価な軍の機材《きざい》を失い、自己《じこ》満足の突撃死とは。ああいう男が士官になるから、日本は負けたのだ」
三人娘は『また冗談《じょうだん》ばかり』と笑ったが、その声にはなにか釈然《しゃくぜん》としない、乾《かわ》いた響《ひび》きが宿りはじめていた。
ゲームセンターにも行った。
店頭のプリクラで記念《きねん》撮影《さつえい》をして、その場でシールを分け合った。宗介は腰《こし》の後ろのホルスターから九ミリ拳銃《けんじゅう》を引き抜くと、スライドの側面《そくめん》にそのシールを貼《は》りつけた。
「あの……それ、モデルガンですよね?」
赤城真奈美がたずねると、宗介は首を横に振り、
「いや。これは俺の携帯《けいたい》電話だ」
事もなげに答え、黒いスチールのかたまりをホルスターに戻《もど》した。
UFOキャッチャーで遊びもした。
黄楊まどかが『白井さん、うまいんですよね!? 取ってください〜』などと指差したぬいぐるみを、宗介は一〇回やっても取れなかった。業《ごう》を煮《に》やし、銃のグリップでガラスを叩《たた》き割《わ》ろうとするのを、かなめと瑞樹が背後《はいご》から殴《なぐ》り倒《たお》して止めた。
三択《さんたく》方式の心理ゲームもやった。
『あなたが森を歩いていると、壁《かべ》に突き当たりました。さて、あなたはその壁の向こうにどうやって行きますか? a…乗り越える b…迂回《うかい》する c…諦《あきら》めて引き返す』
思案《しあん》に暮《く》れている宗介の後ろで、碧川祥子がかなめにささやいた。
(これはねー、自分のプライドを、どうやって処理《しょり》するのかを聞いてるんですよー)
たとえば、『c』を選べばプライドに背を向けてなにもできない人……そういうニュアンスなのだろう。彼女は以前に、このゲームをやったことがあるらしい。
「困《こま》った。三つの中にはない」
宗介が言うと、祥子は興味《きょうみ》顔でたずねた。
「白井さんだったら、どうしますかー?」
「俺なら爆破《ばくは》する」
アクセサリー屋、CD屋、大型書店などをうろつき終えたころには、三人の顔には明らかな疑惑《ぎわく》と困惑《こんわく》が浮かんでいた。
最初ほど能天気《のうてんき》に笑わなくなったし、宗介を見る目も注意深くなった。言葉も選ぶし、ときおり離《はな》れて固まって、ひそひそとなにかを話している。
「……いい加減《かげん》、バレてるんじゃないの?」
井《い》の頭《かしら》公園の池のほとり。かなめが呑気《のんき》に言うと、隣《となり》の瑞樹はきっと彼女をにらんだ。
「まだ大丈夫《だいじょうぶ》よ。この公園を出るまで保《も》てば、それでなんとかごまかせるわ!」
「そうかなぁ……」
すでに日は西の空を落ちていくところで、池の水面がちらちらと、赤銅色《しゃくどういろ》の光に輝《かがや》いていた。宗介と三人娘は、すこし離れたベンチに座《すわ》り、ぎこちない会話を続けている。
そこで宗介が立ち上がり、こちらに向かってきた。
「……どしたの?」
「ジュースを買ってくるよう頼《たの》まれた。君たちはなにを飲む」
「じゃ、あたしドクター・ペッパー」
「あたしはお茶なら、なんでもいいわ」
「了解《りょうかい》した」
宗介はそのまま買い物に行ってしまった。
見ると、赤城真奈美が手招《てまね》きしている。かなめたちがそばまで来ると、彼女はすこしためらってから、
「……ねえ、瑞樹。彼、あなたの話と違いすぎない?」
「たまにスゴいコワいこと言うんですぅ。バクハするとかぁ、ソゲキされるとかぁ……」
「いちおう、ドラマの話や音楽の話はするんですけどねー」
会話の内容が不自然で、生《なま》の知識《ちしき》に聞こえないと言いたいのだろう。まあ、無理《むり》もない。なにしろ実際《じっさい》、ただ暗記《あんき》した言葉を並《なら》べたてているだけなのだから。
「な……なに言ってるのよ。いつも話してる白井くんよ、彼は」
「いや、白井さんは白井さん[#「白井さんは白井さん」に傍点]なんだろうけど。あなた、彼になにか無理させてない?」
「む……ムリなんかさせてないわ! 彼がおかしいなんて言うんだったら、きっとあんたたちの方がどうかしてるのよ!」
さすがに三人もむっとした様子《ようす》だった。
「そんな言い方って、ないと思いますぅ……」
「だってそうじゃない! あんたたちが『会わせろ、会わせろ』って騒《さわ》いだから呼《よ》んだのよ? なのにそんなケチつけて、いったい何様よ?」
「またヒステリー? 瑞樹、ぜんぜん進歩《しんぽ》してないのねー」
「あたし、ヒステリーなんかじゃないわ! そっちこそ、なにスカしてるのよ!?」
いさかいが積《つ》み重なり、四人はみるみる険悪《けんあく》なムードになっていく。かなめが『あっちゃー……』と顔をしかめていると、背後《はいご》からめりはりのない男の声がした。
「あっ、瑞樹? なあ、そこにいるの、瑞樹じゃないのか?」
振り返ると、五人ほどの男女がこちらに向かって歩いてくるところだった。その先頭に、見知った少年がいる。鼻筋《はなすじ》の通ったハンサム顔。
かなめは運命の残酷《ざんこく》さに嘆息《たんそく》した。なんだってまた、こんなタイミングで……!
彼の名前は白井悟。正真《しょうしん》正銘《しょうめい》、瑞樹の元彼氏だった。
「おい、おまえさ、オレに恨《うら》みでもあるわけ!? なんのマネだよ、ありゃ!?」
どういうわけだか、白井悟は鼻息も荒《あら》く、瑞樹に詰《つ》め寄《よ》った。
「え? あの、そ……」
瑞樹はその場で凍《こお》りつき、どもりとも稔《うな》り声ともつかない吐息《といき》を漏《も》らす。
「えーと、その……あなただれ?」
「はあ? とぼけんなよ! ピザ屋もソバ屋も警察《けいさつ》も、みんな『若い女の声だった』って言ってたぜ! こら、なんとか言えよ!?」
「あのー。な、なんとか」
「あした学校で問い詰めてやろうと思ってたんだけどよ、ちょうどいいよ。なあ、おまえの仕業《しわざ》だろ? やっぱ根に持ってるわけ? オレがおまえをフっ――がっ!!」
気付いた時には、かなめは白井悟の後頭部にチョップを叩《たた》きこんでいた。
「ってえ! な、なにすんだよ、千鳥さん」
ようやくかなめの存在《そんざい》に気付いた様子で、白井は抗議《こうぎ》した。
「はははは。悪い悪い。ま、ピザとかソバとか何の話か知らないけど、詳《くわ》しくはむこうで話さない? ね? 建設的《けんせつてき》に」
「ヤだよ。俺は瑞樹に用があるんだ」
そこにジュースの缶《かん》を抱《かか》えた宗介が戻《もど》ってきたので、話はさらにややこしくなる。
「あ……。さ、相良もいたのか!?」
驚《おどろ》く白井の言葉を聞いて、三人娘は一斉《いっせい》に『サガラ』を注視《ちゅうし》する。宗介はたちまち状況《じょうきょう》を理解したようで、三人に告げた。
「あの男は……精神《せいしん》異常者《いじょうしゃ》だ。一年前に専門《せんもん》の病院に移され、学校を去った。瑞樹を自分の恋人だと思いこんでいて、しかも被害《ひがい》妄想《もうそう》の性癖《せいへき》がある」
「ちょっと、相良、おまえさ――」
「奴《やつ》の言うことに耳を貸《か》すな。卑猥《ひわい》な言葉を口にするぞ。女性が困《こま》るのを見て喜ぶサディストだ」
「誰がサディストだ?」
「黙《だま》れ、サイコめ。いつ戻ってきた。また瑞樹に付きまとうつもりか?」
「付きまとうもなにも、オレはそいつの――」
「えいっ!」
またしてもかなめが、横から白井の首筋《くびすじ》に肘打《ひじう》ちを入れた。が、今度はちょっとマズいところに入ったらしく、白井は白目をむいてその場にくずおれてしまった。
「あ。……だ、だいじょぶ?」
「白井っ!」
「やるのか、おい!?」
「なによー! 超《ちょう》ムカつく――!」
連れの男女は喧嘩腰《けんかごし》になる。宗介は舌打《したう》ちして拳銃《けんじゅう》(プリクラシール付き)を引き抜くと、彼らの足下《あしもと》に銃口《じゅうこう》を向け、
たたんっ! たたたたたんっ!
合計七発の九ミリ弾を叩きこみ、命じた。
「失《う》せろ、殺すぞっ」
彼らは血相《けっそう》を変え、失神《しっしん》した白井をひきずるようにして逃げ去った。
路面《ろめん》にうがたれた七つの弾痕《だんこん》を隠《かく》すように立って、かなめは三人に説明した。
「つまり、相良っていうのは、お父さんの方の姓《せい》なの。ね? ソー……サトルくん?」
「そうだ。父の名字が相良なのだ」
「それで両親が離婚《りこん》して、お母さん方の『白井』になったの。ね? 瑞樹?」
「そ……そうね。説明するのを忘れてたわ。あの男は一年近く入院してたから、そーいう事情《じじょう》を知らないのよ」
「そうそう、ホントやだわ。ああいう危険《きけん》人物が野放《のばな》しなんて、ひどい世の中ねぇ」
「ああ。まったくだ」
つい一分前に、実弾七発を民間人に向かって発砲《はっぽう》した男が同意した。
かなめたちはなんとかそれらしい弁解をしようと悪戦《あくせん》苦闘《くとう》したが、三人娘の顔から不信《ふしん》の色をぬぐい去ることはできなかった。
「な、なによ、その目は? あたしたちがウソついてるとでも思ってるわけ?」
瑞樹が声を荒げると、三人は互《たが》いに顔を見合わせ、意地の悪い笑《え》みを浮かべた。
「うーん……。別に、あなたたちの関係を疑《うたが》ってるわけじゃないけど」
「ラブラブなところが見たいですぅ」
「そうですねー。例《たと》えばー……」
そして三人で声をそろえ、言った。
『キスとか』
瑞樹とかなめが青ざめる一方、宗介はひとり、頭上に『?』マークを浮かべていた。
「そんな、人の見てる前でキスなんか……」
「できないの? 恋人|同士《どうし》なのに」
「そ、それは……」
「おかしいですねー、それー」
その横で、宗介はかなめにひそひそと、
(千鳥。キスというのは、あの、口と口とを重ねるキスのことか?)
「そ……そうじゃない?」
(よし)
宗介は瑞樹のそばまで歩み寄ると、彼女の腰《こし》を抱《だ》き寄せて、反応《はんのう》する暇《ひま》さえ与えずに、
「ちょっ……んぅ!」
相手の鼻をつまんでから、堂々と、赤裸々《せきらら》に、唇《くちびる》と唇とを重ね合わせた!
瑞樹は驚《おどろ》きに両目を見開いていたが、やがて全身の強《こわ》ばりが抜けて、へなへなと彼にもたれかかる格好《かっこう》になった。
一秒、二秒、三秒。
四秒ちょっとで、宗介は瑞樹の身体《からだ》を離《はな》し、あっけにとられる三人娘に向き直った。
「どうだ。これで信用したか」
その声には、勝ち誇《ほこ》った響《ひび》きさえある。
「キスなど造作《ぞうさ》もない。子犬を射《う》ち殺すよりも簡単《かんたん》だ」
そりゃあ、まあ、そうだろうが……。
瑞樹はしだいに理性を取り戻したらしく、自分の唇に手をあてて、わなわなと震《ふる》え出し、
「なにすんのよ!?」
宗介の横つらに平手《ひらて》を三発入れ、とどめとばかりに気を溜《た》めると、鼻柱《はなばしら》に掌底《しょうてい》を叩きこんだ。彼はよろめき、手すりを越《こ》え、池に落ちて水柱を上げた。
「最低! 誰があんたなんかとキスしていいって言った!? よくも勝手《かって》に……はっ」
気付くと、三人の視線《しせん》。
「瑞樹……」
赤城真奈美が一歩前に出ると、瑞樹は一歩後ずさる。彼女の両目はじわじわと潤《うる》み、しまいには大粒《おおつぶ》の涙《なみだ》がぽろぽろとこぼれた。
「みんな……みんな大っきらいよっ!」
「あっ、瑞樹……」
止める間もなく、瑞樹は逃げるように走り去っていった。取り残された三人とかなめは、気まずそうに顔を見合わせた。
「千鳥さん。……さっきの人が、本当の白井さんってことなの?」
「……そういうこと。そこに沈《しず》んでるのは、相良宗介っていうバカなの。瑞樹とは恋人でもなんでもない、戦争ボケの●チガイよ。大ボケの、ヘンタイの、クズの、タコの……」
「なにもそこまで言わなくてもー……」
「いいの。なによ、こいつ。あんな簡単《かんたん》に、言われるままに……ほんと、最低よね。あたしも――大っ嫌い」
肩まで水に浸《つ》かって、彼女を見上げている宗介に、よく聞こえるように言う。なぜかは分からなかったが、かなめも泣きたい気分だった。
そこで碧川祥子が赤城真奈美をつついた。
「ねー、真奈美。早く行かないと……」
「あ、そうね。急ご」
三人はあわてて立ち上がった。
「帰るの?」
「ううん、瑞樹を追うの。あの子、きっとすごい落ちこんでると思うから」
「わがままでー、強情《ごうじょう》でー、陰険《いんけん》でー、見栄《みえ》っぱりだけどー……」
「本当は寂《さび》しがり屋なだけなんですぅ……」
三人は顔を見合わせ、ほほえんだ。
「じゃあね、千鳥さん。サガラさんと仲良くね!」
「え? いや、そーじゃなくて……」
かなめが否定《ひてい》するより早く、三人は手を振り、その場を足早に去っていった。
「やれやれ……。ところで……」
いまだに池に浸かっている、宗介を見下ろす。うつむき加減《かげん》の彼の姿を見て、彼女はなぜか、こっぴどく叱《しか》られた後のシベリアン・ハスキーを連想《れんそう》した。
「いつまでそこにいるつもり?」
「いや……」
珍《めずら》しく、宗介は口ごもった。
「俺は……そんなに悪いことをしたのか?」
「乙女《おとめ》の唇を無許可《むきょか》で奪《うば》ったのよ。これって一種のレイプじゃない?」
「そんなつもりではなかった」
「じゃあ、どういうつもりよ? あんた、誰とでも簡単にキスできるわけ?」
[#挿絵(img2/s01_167.jpg)入る]
かなめの声はどこまでも刺々《とげとげ》しかった。
「必要ならば、そうだ。俺は様々《さまざま》な男たちとキスをしてきた」
「へ……?」
「銃弾《じゅうだん》を腹《はら》に受けたトルコ人の傭兵《ようへい》……。爆風《ばくふう》に吹き飛ばされたタジク族の老人、八メートルの高さから転落した整備兵《せいびへい》……。助かった者もいれば、死んだ者もいる」
どうやら宗介にとっては、人工《じんこう》呼吸《こきゅう》とキスの区別が曖昧《あいまい》らしい。唇を重ねる行為《こうい》に、特別な意味があるとは思っていないのだ。だからあんなに簡単に……。
「……もういい。上がって来なさいよ」
「だが、君は怒《おこ》っている」
「いいから上がりなさい。カゼひくわよ」
宗介は従《したが》い、のろのろと岸《きし》に這《は》い上がった。かなめは、いつにも増してお姉さんぶった口調《くちょう》で、
「まったくひどいザマねぇ……。ほら、ちょっとその顔、貸しなさいよ」
ハンカチを取り出すと、泥《どろ》のついた宗介の頬《ほほ》を拭《ふ》いてやる。二人の顔が近付いて、わずか一〇センチばかりの距離《きょり》になった。
(ちょっと背伸びすれば、届《とど》くかな……)
そんな図式《ずしき》を想像《そうぞう》する。
彼の肩に手をかけて、顔を上げ、かかとを浮かせ、そっと目を閉じて――
「……どうした、千鳥?」
宗介の声で、彼女は我《われ》に返った。
「顔が赤いぞ」
「そ、そう……? はい、拭き終わった」
かなめは離れて、公園の出口へと歩き出した。宗介は後を追い、
「どこか具合《ぐあい》が悪いのか?」
「な、なんでもないわよ。う、うははは」
「いや、それは循環器系《じゅんかんきけい》の障害《しょうがい》かもしれん。一度医者に診《み》てもらった方が――」
「なんでもないって言ってるでしょ!? も、もう知らないわよ!」
「やはりまだ怒っている」
「違うってば!」
二人はあれこれと言い合いながら、暗い公園を歩いていった。
[#地付き]<恋人はスペシャリスト おわり>
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芸術のハンバーガーヒル
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『ほらほらほら! さっさと集合してっ!』
教え子たちに拡声器《かくせいき》を向け、神楽《かぐら》坂《ざか》恵里《えり》は叫《さけ》んだ。
彼女は二〇代|半《なか》ばの女性で、ボブカットの黒髪《くろかみ》にチェックのブラウス、ストーン・ウォッシュのジーンズといった出立《いでた》ちだった。
陽光《ようこう》がそそぐ緑《みどり》の中、画板《がばん》を抱《かか》えた生徒《せいと》たちが、神楽坂|教諭《きょうゆ》の前に集《あつ》まってくる。彼女が担任《たんにん》を務《つと》める二年四組と、ほかの一〜三組まで、あわせておおよそ一六〇名。
陣代《じんだい》高校の写生会《しゃせいかい》は、一日四クラスずつが参加《さんか》して、ほかのクラスは学校でいつも通りの授業《じゅぎょう》をする。それがおよそ一週間続き、全校生徒が参加したことになるという、風変《ふうが》わりな仕組《しく》みだった。
『……はい。みなさん、おはようございます。今日は写生会ですね。野外《やがい》活動《かつどう》ということで、解放的《かいほうてき》な気分になりがちですが、あくまでも陣高生としての自覚を忘れず、節度《せつど》ある行動《こうどう》を守ってください』
言って、彼女は教え子の中の一人、相良《さがら》宗介《そうすけ》に目を向ける。
むっつり顔にへの字口。鋭《するど》い目つきで、その物腰《ものごし》にはまったく隙《すき》がない。
幼《おさな》い頃《ころ》から、世界中の紛争《ふんそう》地帯《ちたい》で育ったという経歴《けいれき》を持つ問題児《もんだいじ》は、静かに神楽坂教諭の話に傾注《けいちゅう》していた。
それでも彼女は不安を覚《おぼ》え、
「わかってる、相良くん?」
「はっ。磨《みが》かれた技能《ぎのう》を役に立て、母校の安全を守り抜《ぬ》きます」
上官の命令《めいれい》に応《おう》じる一兵士のように、宗介は直立《ちょくりつ》不動《ふどう》のまま言った。
「いや、あの、そんなにリキまなくていいから。節度ですよ、節度? いいわね?」
「はっ。仮《かり》に武力《ぶりょく》行使《こうし》が必要《ひつよう》としても、最低限《さいていげん》に留《とど》めるよう努力《どりょく》します」
「仮にもなにも、絵を描《か》くのに武力行使なんか要《い》りません!」
彼女は思わず声を荒《あら》げたが、ほかの生徒たちが見ていることを思い出し、
『……えー、こほん。それでは、美術科の水星《みずほし》先生から、諸注意《しょちゅうい》があります』
背後《はいご》に立っていた、美術科教師に拡声器を渡す。長髪《ちょうはつ》に無精髭《ぶしょうひげ》、どこかミュージシャン然とした容貌《ようぼう》の水星教諭は、
『テーマは自然《しぜん》と人間≠ナす』
開口《かいこう》一番、一同に告《つ》げた。
『あー。環境《かんきょう》問題が取りざたされて久しい今日《こんにち》です。われわれ人間の自然への関《かか》わりを、諸君《しょくん》の若々しい感性で、鋭く、多彩《たさい》に、額縁《がくぶち》の中に繋《つな》ぎとめるのは、民族的にもたいへん意義《いぎ》のあることです。あえてモンドリアンをひきあいに出すまでもなく、(中略)部分ではなく全体の印象《いんしょう》と調和《ちょうわ》を洗い、真のウィズダムとして観《み》る者に伝える。それはまさしく、三度目の核爆発《かくばくはつ》を知ることとなった私たちにとって――(後略)』
その場のだれひとりとして理解《りかい》できない説明《せつめい》を、水星教諭はえんえんと続けた。
「あ……あの、水星先生」
『かつて認《みと》めたくないものだな、若さゆえの過《あやま》ちは≠ニ言った大人物《だいじんぶつ》がいましたが、諸君にはぜひそんな大人《おとな》、修正《しゅうせい》してやる≠ニ鉄拳《てっけん》を……なんです、神楽坂先生』
「具体的《ぐたいてき》になにを描いたらいいのか、生徒たちに説明していただけませんか?」
水星教諭は眉間《みけん》にしわを寄《よ》せて、宙《ちゅう》に視線《しせん》をさまよわせ、五秒間ほど沈黙《ちんもく》した。そして自分の額《ひたい》をぱちりと叩《たた》いて、
『ああ、そうでした。……つまり、今回のテーマは自然と人間≠ネのです。環境問題が叫《さけ》ばれて久しい今日、個を失ったわれわれ人間の在《あ》り方を、諸君の若々しい感性で――』
ふりだしに戻《もど》る。
神楽坂教諭はため息をついた。
三〇分近い講釈《こうしゃく》の後、解散《かいさん》が告《つ》げられた。
「……よーするに、モデルと風景《ふうけい》を一緒《いっしょ》に描くわけね」
千鳥《ちどり》かなめが言った。
いつもと同じ制服《せいふく》姿《すがた》にロングの黒髪。小脇《こわき》には年季《ねんき》の入った画板を抱えている。ちなみに画板の隅《すみ》には稚拙《ちせつ》な平仮名《ひらがな》で、ぶどうぐみ・ちどりかなぬ[#「ぬ」に傍点]≠ニあった。
「で、クラスの中から、モデルを一人選ぶ、と。そーいうことでしょ?」
二年四組の面々《めんめん》を、ぐるりと見渡す。かなめは生徒会の副会長であると同時に、このクラスの学級委員だった。彼女は平政《へいせい》一〇年度・陣代高校写生会のしおり≠ニ題された紙に目を通し、
「それでモデル役の人は、クラスのみんなの絵を元に、CマイナーからAプラスまでの評価《ひょうか》をしてもらえる……だって? なんだか横暴《おうぼう》なシステムねー」
「まあ、水星だしなぁ。だってあいつ、バカじゃん」
男子の一人が言った。
「……とにかく、モデルを決めましょ。だれか、立候補者《りっこうほしゃ》はいる?」
かなめがたずねると、二年四組の一同は互《たが》いに顔を見あわせた。
「他人の絵でCになったらヤだし……」
「ずっと立ってなきゃいけないんだろ?」
「モデルって退屈《たいくつ》だし、動けないしぃ……」
そろって気の進まない様子《ようす》である。
そこでクラスメートの一人、おさげ髪《がみ》にトンボメガネの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が、
「相良くんは? 彼、じっとしてるのとか、得意《とくい》なんでしょ」
後ろで黙《だま》っている宗介を振《ふ》り返って言った。
待ち伏《ぶ》せやら監視《かんし》やら。そういう異常《いじょう》な特技《とくぎ》の持ち主は、彼をおいて他《ほか》にいない。
「よくわからんが、俺《おれ》で役に立つのなら協力しよう」
「お、エラい。じゃ、ソースケで決まりってことでいい?」
かなめが確認《かくにん》する。『男なんぞ描いてもつまらん』とこぼす者もいたが、ほかになり手もいないので、けっきょく一同は賛成《さんせい》した。
「次は場所ね。どこにする?」
「んー。ここでいいんじゃない?」
写生会の会場は、学校から五キロほど離《はな》れた市営《しえい》のキャンプ場だった。丘陵《きゅうりょう》の林をそのまま残した公園なので、起伏《きふく》は激《はげ》しく、どこかの田舎《いなか》のハイキングコースのようでもある。そのキャンプ場の林の中に開《ひら》けた、楕円形《だえんけい》の広場に彼らはいた。
「東側に眺《なが》めのいい場所があるけど、さっき二組の連中が占領《せんりょう》しに走ってたよ」
「そう。じゃあ、ここにしようか」
これにも異議《いぎ》を唱《とな》える者はなく、四〇人の生徒たちは、さっそく画材道具を広げにかかった。
鳥のさえずりが心地《ここち》よい。
すこし歩けば騒《さわ》がしい市街地《しがいち》だが、この辺《あた》りに限《かぎ》れば、緑は豊《ゆた》かで、民家も少ない。かなめは小学生の頃《ころ》、よく自転車《じてんしゃ》に乗ってこのキャンプ場に遊びに来ていた。湧《わ》き水から出た小川もあって、男子に混《ま》じってザリガニを捕《と》ったりしたこともある。
「ちょっとソースケ、なにしてんの?」
コンバット・ナイフで鉛筆《えんぴつ》を削《けず》っている宗介に気付いて、かなめはたずねた。
「写生の準備《じゅんび》だが。なにか問題が?」
「あんたはモデルでしょ」
「モデルは鉛筆を使わんのか?」
「絵の具も画用紙も使わないわよ。立ってればいいんだから」
「しかし、それでは絵が描けん」
「当たり前でしょ。とにかくそこで待ってなさいよ」
そうとだけ言って、かなめは準備に戻った。
宗介は合点《がてん》のいかない様子《ようす》で、自分が持ってきた新品の画材を見下ろした。
「…………」
彼は絵を描いた経験《けいけん》がない。戦場《せんじょう》で作戦《さくせん》の内容を伝えるために、地図を描いたことなら山ほどあったが、絵の具などは見たことさえなかった。
絵の模範《モデル》なのに、絵を描かない。これはいったいどういうことか?
やがて準備の済《す》んだ四〇人は、悩《なや》む宗介をそっちのけにして、モデルにどんな姿勢《しせい》をさせるかで相談《そうだん》を始める。これについては、各自それぞれの考えがあって、意見はなかなかまとまらない様子だった。
「だって、一日じゅう逆立《さかだ》ちしてるなんて無理《むり》に決まってるじゃない!」
「逆エビ反《ぞ》りもダメかな」
「そーいう上海《シャンハイ》雑技団《ざつぎだん》なのはダメだって!」
「じゃ、ツインテールの真似《まね》なら……」
「なによ、それ……?」
そんな調子で議論《ぎろん》は続いた。クラスの四分の一を占《し》める『どーでもいいや』派《は》の生徒たちの世間《せけん》話《ばなし》にも加わらず、宗介が棒立《ぼうだ》ちしていると、
「君たちは、ここで描くのかね?」
美術教師の水星がやってきて声をかけた。
「どうやらそのようです」
水星教諭の存在《そんざい》に気付いたかなめは、
「あ、先生。モデルは彼ですから。以上、報告《ほうこく》おわり」
それだけ言って、ふたたび議論に没頭《ぼっとう》した。
宗介は水星と並《なら》んで、かなめたちの相談を傍観《ぼうかん》しながら、
「……先生。自分はモデルの役割《やくわり》を果《は》たさねばなりません。しかし、その役目のなんたるかがわからないのですが」
「ふむ。モデルのなんたるか、ね……。実にいい質問《しつもん》だ。そうした疑問《ぎもん》を抱《いだ》けるというのは、普通の生徒にはできんことだよ」
「恐縮《きょうしゅく》です」
「いやいや、まったく素晴《すば》らしい」
水星は宗介に好感《こうかん》を持ったようだった。彼は厳《きび》しい目つきで天を仰《あお》ぎ、
「実は今日《きょう》のテーマにおいて、君の役割をモデルと呼ぶのはふさわしくない。実際《じっさい》にはモデルなどより、はるかに大きな仕事だ」
「……と言いますと?」
「なんと形容《けいよう》すべきか。言葉《ことば》は全能《ぜんのう》ではない。私はそれに失望《しつぼう》を覚《おぼ》え、頽廃《たいはい》に澱《よど》む廃墟《はいきょ》の匂《にお》いすら(中略)……語り尽《つ》くせぬ事について、我々《われわれ》は沈黙《ちんもく》せねばならない。だが、あえて端的《たんてき》に示すならば、君は彼ら画家にとって、濃緑《のうりょく》の深奥《しんおう》より来《きた》るアンタイテェゼたるべきなのだ。(中略)……君が純然《じゅんぜん》たる存在を否定《ひてい》し、自然《しぜん》の実存《じつぞん》を相対化《そうたいか》して見せるケダモノ、そして同時に無力《むりょく》なエモノとして――」
一般人《いっぱんじん》と同様、宗介にとっても、その説明は難解《なんかい》・奇怪《きかい》であった。ただ、自分の役目が想像《そうぞう》以上に重大らしいことは感じて、
「では、自分はどうすれば?」
緊張《きんちょう》もあらわにたずねる。
「君は自然と一体化するのだ。草木に溶《と》け込み、画家の目を欺《あざむ》く実存でなければならない。なるほど、君は彼らの前から消えることはできない。だが、それでも本質的《ほんしつてき》に、君は彼らの目に映《うつ》らない実存となる……それが私の真意《しんい》なのだよ。なぜなら(後略)」
熱っぽい口調《くちょう》で水星は語った。
「……というわけだ。わかったかな?」
わかるわけなどないのだが、宗介は誠実《せいじつ》に答えた。
「完全ではありませんが、可能《かのう》な限り実践《じっせん》します」
水星は台帳《だいちょう》とボールペンを取り出し、
「それで、君の名前は?」
「相良宗介です」
「ん。四組、モデルは相良……と。ではきょう一日、頑張《がんば》ってくれたまえ」
「はっ。全力を尽《つ》くし、自然と一体化するべく努力します」
彼は直立《ちょくりつ》不動《ふどう》で答え、水星教諭の背中を見送った。この会話の場にかなめがいれば、後々の面倒は起きなかったのだが、あいにく彼女は王《おう》貞治《さだはる》の一本足|打法《だほう》について、激《はげ》しく熱弁《ねつべん》をふるっている最中《さいちゅう》だった。
「……じゃあ、あそこの樹《き》の下に座《すわ》らせとくってことで」
奇《き》をてらったポーズを考えるのが面倒になって、一同の結論《けつろん》は無難《ぶなん》な方向に落ち着いた。
「じゃあソースケ、あそこに座っ……あれ?」
かなめが振《ふ》り返ると、宗介はその場から消えていた。ついさっきまで、鞄《かばん》を抱《かか》えて所在《しょざい》なげに突っ立っていたのだが……。
「ねえ、ソースケはどこ?」
「さあ? そういえば、いつの間にか……」
「さっき水星先生と話してたけど」
四組の生徒たちは辺《あた》りを見回し、宗介を探《さが》したが、彼の姿は跡形《あとかた》もなかった。
「トイレでも行ってるんじゃない?」
「うん。そうかもね」
一同は宗介の帰りを待つことにしたが、三〇分が過ぎても、彼は現れなかった。
「来ないね」
恭子がぼやく。
「うん。ここって、ピッチは……」
かなめは自分のPHSの液晶《えきしょう》表示《ひょうじ》を見て、
「あ、使える。これは意外」
感心しながらジョグダイヤルを回して、宗介の番号を呼び出した。軽快《けいかい》な呼び出し音の後、無愛想《ぶあいそう》な宗介の声が応《おう》じる。
『はい』
「ソースケ? なにやってるのよ。みんな待ってるんだから、早く帰ってきて」
『それはできない』
「はあ?」
『俺《おれ》はモデルだ。自然に溶け込み、画家の目を欺《あざむ》く実存とならねばいけない。すごすごと君たちの前に出ていったら、モデルの任務《にんむ》が果《は》たせないだろう』
ガカのメをアザムくジツゾンと来たものだ。またなにか勘違《かんちが》いしている様子《ようす》だった。
「ゴタクはいいから戻《もど》ってきなさい。あんたがいなくちゃ、絵が描けないでしょう?」
『いや、目に見えないだけで、俺はここにいる。君たちにとって俺は、本質的に、濃緑《のうりょく》の深奥《しんおう》より来《きた》る……対戦車ミサイルとか、なにかそういったモノなのだ』
「あんたはモデル! ただそれだけ!」
『それは違う。俺はモデル以上の存在だ。純然たる混沌《こんとん》を否定し……その、おそらく電波《でんぱ》妨害《ぼうがい》ポッドのような重大な役割を果《は》たす』
「あんたねえ……」
『とにかく、そういうことだ。さあ、絵を描け。俺はここから見守っている』
「ちょっ……」
電話は一方的に切れた。
リダイヤルしてみても、今度はまったくつながらない。『見守っている』と言っている以上、そう遠くにはいないはずだが……。
「どうなの?」
「どーもこーも……ダメね、こりゃ。仕方ないわ。ほかのモデルにしよ」
「って、誰が?」
消極的《しょうきょくてき》な顔の四〇人を見回し、かなめはため息をついた。
「わかった。あたしがやるわよ。もう……」
四組の面々は惜《お》しみない拍手《はくしゅ》を送った。
で、その旨《むね》を水星教諭に報告《ほうこく》しにいくと、
「駄目《だめ》だ駄目だ駄目だ! モデルの変更《へんこう》など認《みと》められん!」
彼はこめかみに血管が浮き立つほどの剣幕《けんまく》で、かなめほか数名を怒鳴《どな》りつけた。
「そんなこと言ったって、相良くんがいないんですよ」
「ええい、黙《だま》れ! そんな口実《こうじつ》は通用せん! 私は彼に、心血《しんけつ》を注《そそ》いでモデルのなんたるかを教えた。彼は全身《ぜんしん》全霊《ぜんれい》で、私の情熱《じょうねつ》を受けとめた。それを外《はず》すなどと……君たちはなにを企《たくら》んでいるのだ?」
「企んでなんかいません! あたしたちは、ただ!」
「ただ、なんだ? 君たち大衆《たいしゅう》はいつもそうだ。芸術の真髄《しんずい》をゆがめ、安易《あんい》な俗悪性《ぞくあくせい》を(中略)なのだ! この商業主義者めっ!」
「あんた、生徒に向かってなに言ってんですか……!」
水星は頭の配線《はいせん》がおかしくなっているらしく、決然と拳《こぶし》を振り上げ、
「とにかく! 彼が正確《せいかく》に描かれていなければ、四組は全員Cマイナーだ! 美術の単位《たんい》もやらん! 留年《りゅうねん》を覚悟《かくご》しろっ!」
「ええーっ!?」
「なによそれっ!?」
「それがいやなら、彼を描け! 題材《だいざい》を選《よ》り好《ごの》みするんじゃない! わかったね?」
もはや取りつく島《しま》もない。
水星教諭はブツブツと怒《いか》りをもらしながら、大股《おおまた》でその場を去っていった。
『そんな無茶《むちゃ》苦茶《くちゃ》なっ!!』
帰ってきたかなめの報告を聞いて、四組の生徒たちは悲鳴《ひめい》をあげた。
「横暴《おうぼう》にもほどがあるわっ!」
「ちっくしょー。水星め、半殺しだ!」
「……でも、そうしたら留年しなくて済《す》むな。なにしろ退学《たいがく》だ」
口々に不平をぶちまける。かなめは手のひらでメガホンを作って、
「みんな落ち着いて! なにか方策《ほうさく》を考えようよ。そうね……ソースケと似《に》た感じの男子をモデルにするってのは? 顔は記憶《きおく》に頼《たよ》るってことで」
四〇人はそろって『ぽん』と手を打った。
「おお、名案《めいあん》!」
「そうね! 写真|撮《と》るわけじゃないんだし、相良くんじゃなくてもバレないわよね!」
「だけど……」
常盤恭子が覇気《はき》のない声で言った。
「きょう一日、ここで描くわけでしょ? 途中《とちゅう》で水星先生が見回りに来たらどうするの? 相良くんがいないと、やっぱりバレると思うんだけど……」
『ああ〜……』
四〇人はそろってため息をついた。
「うー……。こうなったら、みんなでソースケを探《さが》しましょう。どうも遠くには行ってないみたいだし」
かなめの提案《ていあん》を聞いた一同は、
「そうだな……」
「この人数なら、すぐ見つかるかもね」
口々に同意《どうい》した。
「じゃあ、さっそく。電話やポケベル持ってない人は、持ってる人と一緒《いっしょ》に行動して。もしソースケを見付けたら、あたしのピッチに電話してね」
かなめはてきぱきと指示《しじ》を下した。
「あと、ソースケは隠《かく》れるのが得意《とくい》よ。木の上とか、地面の下とかにも気を配《くば》ってね」
『へーい』
「じゃ、解散《かいさん》!」
男子四名が連れ立って、草深い小道を上《のぼ》ってくる。
(来たな……)
宗介は、ちょうど数種類のトラップを仕掛《しか》け終わったところだった。
モデルとしての責務《せきむ》を妨害《ぼうがい》する者には、しかるべき教訓《きょうくん》を与えてやらねばならない。だが四〇人の目を盗《ぬす》み、一日を過《す》ごすことは、戦場育ちの彼にとっても相当《そうとう》な試練《しれん》だった。
(芸術とは、かくも厳《きび》しい道か……)
一人で勝手に驚嘆《きょうたん》する。
ゴッホは偉《えら》い。片耳を失ったと聞いたことがあるが、きっと戦闘《せんとう》による負傷《ふしょう》だろう。クリムトもルノワールも、みんな歴戦《れきせん》の勇者だったのだ。有名な画家の多くが短命なのは、芸術が危険《きけん》に満ちているからに違いない。
クラスメートたちは、なにも知らずに近付いてきた。足音が大きく、動きもバラバラだ。前衛《PM》・指揮官《TL》・通信担当《RTO》・後衛《TG》の役割分担さえしていない。これでは素人が待ち伏せただけでも、あっさり殲滅《せんめつ》されてしまうことだろう。なんと愚《おろ》かな。
(この道は、これで充分《じゅうぶん》だ……)
彼はそそくさと、森の奥へ消えていった。
その四人のうち一人、先頭を歩いていた男子生徒が、いきなり転《ころ》んで悲鳴をあげた。
「なんだ、どうした!?」
「あ、穴が……」
すねくらいの深さの小さな落とし穴に、彼の右足首がすっぽりとはまっていた。雑草《ざっそう》で巧妙《こうみょう》に隠してあったようだ。
「こんな小さな穴で、一体なんの……」
足を穴から引き抜こうとするが、
「抜けないぞ……。うわ、なんだこりゃ!!」
穴の中にはドロドロの粘液《ねんえき》が満たしてあった。それが彼らの見ている前で、みるみる硬化《こうか》していく。
「接着剤《せっちゃくざい》か? なんだよ、これ」
もがいても、謎《なぞ》の樹脂《じゅし》はびくりともしない。
「相良の仕業《しわざ》だ……! おい、行こうぜ! きっと奴《やつ》はこの先だ!!」
「待ってくれよ! おい、坂田《さかた》!」
坂田と呼ばれた生徒は薄情《はくじょう》にも、動けない友人に背を向けた。
「あとで助けてやる。まずは――うおっ!?」
まったく同じ落とし穴に、今度は坂田が『ずぼっ!!』とはまった。
「ぬ、抜けねえぞっ!! くそーっ!」
「わはは、俺を見捨《みす》てた天罰《てんばつ》だ」
残った二人は当惑顔《とうわくがお》で、
「この道さ、ヤバくない?」
「ああ。こいつら置いて、迂回《うかい》しようか?」
そう言って、小道から離《はな》れるように、脇《わき》の茂《しげ》みに後ずさる。その瞬間《しゅんかん》、足がなにかのワイヤーを引っかけた。すると真横から、枯《か》れ木の丸太が『ぶぅん!』と振り子のように迫《せま》ってきて、
「どぅわぁっ!!」
一人を薙《な》ぎ倒《たお》し、もう一人を木の幹《みき》に挟《はさ》みこんだ。さらに悪質《あくしつ》なことに、その枯れ木にも、あの得体《えたい》のしれない樹脂が塗《ぬ》りたくってある。
「た、助けて!」
「やるか、フツーここまで……?」
「千鳥に電話だ! 相良の奴は、この山の上にいるぞ!」
「電話って、ほんと届《とど》くのかよ!?」
「助けて! 助けて! 助けて!」
四人はパニック状態《じょうたい》で泣きわめいた。
「え!? なんですって? 聞こえない!!」
『だから……ザッ……ガラがしかけ……ザッ……ワナ……とかしてよ!』
「あー、もういいわ、戻って来て」
かなめは電話を切った。
四〇人分の荷物《にもつ》が放置《ほうち》された広場で、彼女は前線《ぜんせん》指揮官《しきかん》よろしく仁王立《におうだ》ちしていた。周《まわ》りには通信オペレーターと化した女子三名が、前線|部隊《ぶたい》の連中と叫《さけ》びあっている。
罠《わな》だか何だかで行動《こうどう》不能《ふのう》になったグループは、すでに四チームを越《こ》えていた。
「え〜い、くそっ。あのバカ、徹底的《てっていてき》に逃げ切るつもりだわ」
どうやら宗介は、木々の生《お》い茂《しげ》る正面の小山の中に潜《ひそ》んでいるようだった。そちらに向かった連中が、片《かた》っ端《ぱし》からトラブルに見舞《みま》われているからだ。
そこで、またしてもかなめのPHSが呼び出し音を奏《かな》でた。
「はいはい、あたしよ」
『千鳥か!? 相良を見付けたぞ!』
息を弾《はず》ませ報告したのは、バスケ部員の小野寺《おのでら》という生徒だった。彼のグループは、腕っぷしの強い体育系の連中が揃《そろ》っている。これは期待《きたい》できるかも……。
「でかした、オノD! 捕《つか》まえて!」
『任《まか》せな、四人がかりなら――』
ばりっ!! ざ、ざざっ!
いきなり電話にすさまじい雑音《ざつおん》が入る。すこし遅《おく》れて遠くから、
どぱぁんっ!!
大気を震《ふる》わす爆音《ばくおん》が、広場のかなめたちに届いた。正面の小山の中腹《ちゅうふく》から、無数の小鳥が一斉《いっせい》に空に向かって飛び立ち、白い煙《けむり》がもうもうと上がった。
「ば、爆発《ばくはつ》――!?」
かなめは唖然《あぜん》としたが、すぐに我《われ》に返って、
「ちょっと、オノD! 生きてる? 返事《へんじ》して!」
『ハメられた……地雷原《じらいげん》だ。全滅《ぜんめつ》だ……』
「ああ、なんてこと……」
小野寺は息も絶《た》えだえの声で、
『なあ、千鳥……。オレ、一年の時、おまえに告白《こくはく》しただろ……? けっきょくフられちまったけど……今でもけっこう、マジなんだぜ。ぐっ、ぐほっ……』
「やだ、オノD! 死なないで!」
かなめは涙声《なみだこえ》で叫《さけ》んだ。
『へへ、うれしいなぁ……。じゃ、もし……もし生きて帰れたら、オレのカノジョになってくれるかい? それで……オレとさ……』
「あー。それはまた別の問題ね。却下《きゃっか》」
『ひでぇ……ガクッ』
小野寺はこと切れた様子《ようす》だった。かなめはおごそかに電話を切って、
「ソースケ……。あんただけは、絶対《ぜったい》に許《ゆる》さないわ。見てなさい!」
拳《こぶし》を震《ふる》わせ、小山のてっぺんを睨《にら》みつけた。
「……でよー、相良ぁ。これ、なんとかならねえのかよ?」
オノDこと小野寺は、全身にこびりついた黒い樹脂《じゅし》を見下ろした。彼は携帯《けいたい》電話《でんわ》を耳にあてたままの姿勢《しせい》で、べったりと木の幹《みき》に接着《せっちゃく》されていた。爆発に巻き込まれたほかの三人も似《に》たような状態《じょうたい》で、さながらスライムに食われてる冒険者《ぼうけんしゃ》だった。
「当分は無理《むり》だ。しかし……予想《よそう》以上の効果《こうか》だな」
ビールの缶みたいな形の地雷を眺《なが》めて、宗介はつぶやいた。
「なんなんだよ、それ?」
「対人《たいじん》粘着《ねんちゃく》地雷。非致死性兵器《ノン・リーサル・ウエポン》専門の武器商人から送られてきた試供品《しきょうひん》でな。空気に反応して八〇〇倍に膨張《ぼうちょう》する特殊《とくしゅ》なウレタンを、周囲《しゅうい》に散布《さんぷ》する爆弾《ばくだん》だ」
「はあ……」
「もっと持ってくればよかった。接着剤の缶も底《そこ》を尽きたし……」
「なあ、外《はず》してくれよ。オレ、もう疲れたよ」
「泣きごとを言うな。芸術のためだぞ」
そう言って、宗介はふたたび森の中へと消えていった。
五体満足で広場に残っているのは、おおよそ二〇人|程度《ていど》だった。
「もうすぐお弁当《べんとう》の時間よ」
残存《ざんぞん》兵力《へいりょく》を前にして、かなめは告《つ》げた。
「これ以上あいつの捕獲《ほかく》が長引くと、下書きさえできないわ。あたしたちは――破滅《はめつ》よ」
一同の間に、重い空気が垂《た》れ込めた。
「あの山の上にソースケがいる。登りの小道は危険《きけん》なワナだらけ。だが、しかし!」
彼女は決然《けつぜん》と拳を振り上げ、
「なにがなんでも、捕《つか》まえなくちゃ! 犠牲《ぎせい》になった仲間のためにも! われわれ人類の尊厳《そんげん》のためにも! そしてなにより……あたしたちの単位のために!」
『おお……』
檄《げき》を飛ばされ、一同の間に生気《せいき》がみなぎってくる。かなめはその空気を見事《みごと》に捉《と》らえて、力強く叫んだ。
「いざ! これより我《われ》らは修羅《しゅら》に入るっ!! 人と会っては人を斬《き》り、神と会っては神を斬れっ!! 問答《もんどう》無用《むよう》! 容赦《ようしゃ》無用! 大敵《たいてき》・相良の首を取れっ!!」
『お、おお――っ!!』
男女を問《と》わず、覇気《はき》に満ち満ちた返事。かつてこのクラスが、これほど団結《だんけつ》したことがあっただろうか!?
彼女は戦いの女神《めがみ》さながらに、雄々《おお》しく、美しく、髪《かみ》をなびかせ、手にした面相《めんそう》筆《ふで》で、そびえ立つ小山をびしっと差した。
「損害《そんがい》にかまわず前進せよ! あたしがヴァルハラに送ってやるぞっ!!」
『おうっ!!』
「総員《そういん》突撃《とつげき》っ!! 続け――っ!!」
かなめ以下二〇人は土煙《つちけむり》をあげ、小山に向かって突進《とっしん》をはじめた。
[#挿絵(img2/s01_195.jpg)入る]
その様子を、小型|望遠鏡《ぼうえんきょう》で監視《かんし》していた宗介は、誰に言うともなくつぶやいた。
「愚《おろ》かな……」
ありとあらゆるルートに、入念《にゅうねん》な罠《わな》が仕掛《しか》けてある。自分が潜《ひそ》むこの山頂《さんちょう》に、到達《とうたつ》することはまず不可能《ふかのう》だ。どれだけ士気《しき》が高かろうと、無理《むり》なものは無理……それが彼らにはわかっていない。
これならば、夕方まで逃げ切ることはたやすい。任務《にんむ》達成《たっせい》まであと少しだ。
(それにしても……)
こんな事をしていて、いつになったら絵が描けるのだろう?
「ひるむな! 進め!」
かなめは険《けわ》しい坂を駆《か》け登り、周囲《しゅうい》の仲間を叱咤《しった》した。
女子の一人がワイヤーに足首を取られ、悲鳴をあげて樹上《じゅじょう》に飛んでいく。どこからともなく丸太が飛んできて、隣《となり》の男子を殴《なぐ》り飛ばす。落とし穴にはまった生徒が、後続の仲間を巻き込んで倒れる。
「構うな! 突撃っ! 突撃っ!」
頭上から落ちてきた泥《どろ》の塊《かたまり》を、驚異的《きょういてき》な瞬発力《しゅんぱつりょく》でかわす。すぐ背後《はいご》の仲間が、泥をかぶって転倒《てんとう》し、坂道を転《ころ》げ落ちていった。
つるで編《あ》んだ網《あみ》が襲《おそ》いかかる。素早《すばや》く前転し、網をよける。またしても背後に被害《ひがい》。
「か……カナちゃんっ……!」
「なん……の、これしき!!」
坂の上から、がらがらとドラムカンが転がり落ちて来た。
「とうっ!!」
高々とジャンプしてこれもクリア。休まず山頂をめざして走る。続いて黒い粘液《ねんえき》のつぶてが、雨のように飛んできた。
「くぬっ、くぬっ、くぬっ!!」
画板《がばん》で防《ふせ》いで突進する。樹脂に手足をとられ、行動《こうどう》不能《ふのう》になる者が続出《ぞくしゅつ》。かなめはそれでも突進する。
足がワイヤーをひっかけた。目の前の地面から、なにかが空中に射《う》ち出される。ジュースの缶? いや、これは缶ではなく――
どぱぁんっ!!
二メートルの高さで、地雷《ぢらい》が爆発した。黒いトリモチが降り注《そそ》ぐより早く、かなめは身をかがめ、画板を盾《たて》にしてなんとかしのいだ。
「ま……っけるもんかぁっ!」
樹脂でガチガチになった画板を放《ほう》り捨《す》て、それでも彼女は突進した。いまや緑のトンネルは終わりに近い。その先に光が――白い光が、彼女にみるみる近付いてくる。
あと少し、あと少しで……!!
がらがら、がっしゃん、べちゃっ!!
最後のトラップのけたたましい音が消えると、小山に静寂《せいじゃく》が戻《もど》ってきた。
(終わったか……)
山頂近くに潜《ひそ》んでいた宗介は、茂《しげ》みの向こう、坂の下へと目を向けた。ここからは見えないが、おそらく敵《てき》は全滅《ぜんめつ》のはずだ。
最後のトラップは、木の枝を組んだ吊《つ》り天井《てんじょう》だった。例《れい》の速乾性《そっかんせい》ウレタンが塗《ぬ》りたくってあるため、犠牲者《ぎせいしゃ》はハンバーガーのように地面と吊り天井に挟《はさ》まれていることだろう。
(芸術は残酷《ざんこく》だ)
彼は冥目《めいもく》するかのようにうつむいた。
戦果《せんか》を確認《かくにん》すべく坂を降りていくと、吊り天井のトラップをしかけた場所が見えた。
「…………?」
彼は眉《まゆ》をひそめた。落ちているはずの吊り天井が、影《かげ》も形もなくなっているのだ。地面には硬化《こうか》したウレタンと、破《やぶ》れた衣類《いるい》がこびりついている。
不審《ふしん》に思い、不気味《ぶきみ》に静まりかえった木々を見回すと――
「ソースケぇっ!!」
右手の茂みから、かなめが躍《おど》り出た。スカートとブラウスはボロボロで、衣服の裂《さ》け目から白い肌《はだ》が露出《ろしゅつ》していた。背中に貼《は》りついた吊り天井の重みによろめきながら、一歩、また一歩と近付いてくる。
(馬鹿《ばか》な。あの罠《わな》にかかって動けるとは)
驚《おどろ》く宗介に、彼女は告《つ》げた。
「ずいっぶん、タチの悪いワナを用意してくれたじゃないの。ええ……?」
続いて、同じようにボロ切れ同然《どうぜん》になった二年四組の生徒たちが、あちこちの茂みから一人、また一人と姿を見せた。さらには小道の下から、坂を這《は》いのぼって来る者もいる。
「……よーやく会えたな」
「さんざん手こずらせやがって……」
「覚悟《かくご》はできてるわね……?」
総勢《そうぜい》で一〇名弱。彼らの目は据《す》わっていて、鬼気《きき》せまる殺気《さっき》をらんらんと放《はな》っていた。そのすさまじい迫力《はくりょく》たるや、戦場育ちの宗介をして戦慄《せんりつ》せしめるなにかがあった。
(俺は殺される)
宗介は身の危険《きけん》を感じ、二歩、三歩と後ずさり、ついには背を向け、脱兎《だっと》のごとく逃げ出した。
「逃がさーんっ!!」
かなめたちは茂みを踏《ふ》み散《ち》らし、彼を追いかけ突進《とっしん》した。
「はい先生、お茶が入りましたよ」
「ああ、これはどうも」
湯気《ゆげ》の立ちのぼる湯飲み茶碗《ぢゃわん》を、神楽坂恵里はていねいに受け取った。ほうじ茶を出したのは、作務衣《さむえ》姿の老婦人である。
彼女がいるのは、古びた民家の縁側《えんがわ》だった。神楽坂教諭のほかには、二年一組から三組までの担任《たんにん》と、美術科の水星教諭が、のほほんとお茶をすすっている。
「はあ。平和ですねぇ……」
縁側から見えるのは、手入れの行《い》き届《とど》いた端正《たんせい》な庭と、その向こうにそびえる緑色の小山、そして雲ひとつない青い空だった。この民家はキャンプ場に隣接《りんせつ》していて、小山の裏手に位置している。生徒たちが写生に勤《いそ》しんでいる場所からは、歩いてせいぜい五分の距離《きょり》だった。
「水星先生のご自宅《じたく》が、こんな近くにあるなんて、びっくりしましたわ」
「ああ、神楽坂先生は初めてでしたか。この家は、親父《おやじ》が残した唯一《ゆいいつ》の財産《ざいさん》でしてね」
「そうでしたの。素敵《すてき》な環境《かんきょう》ですのね。都会に残されたオアシスみたい。なんだか空気もきれいな気がするし……」
「はっは。私は昔から、この庭のレイアウトに心血《しんけつ》を注《そそ》いでいます。有機的《ゆうきてき》なゆらぎを重んじ、静≠ニ動≠フ狭間《はざま》に(中略)なのです。それはつまり(後略)」
神楽坂は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべ、水星の話にわざわざ相槌《あいづち》を打った。
(このお喋《しゃべ》りさえなければ、けっこういい男なんだけどなぁ……)
などとも思うが、おくびにも出さない。代わりに腕時計《うでどけい》をちらりと見て、
「……ああ。そろそろ、生徒たちの様子《ようす》を見に行かないと」
「そうですか。でも、四組ならば大丈夫《だいじょうぶ》でしょう。モデルの生徒もやる気満々だし、私が叱咤《しった》激励《げきれい》しておきましたからね」
「はあ。そういえば、モデルは誰が?」
「礼儀《れいぎ》正しく、真面目《まじめ》な感じの男子でしたよ。名前は、ええと……相良でしたか」
「相良……!?」
彼女は頭上の青空に、鉛色《なまりいろ》の雲がたちこめてきたような錯覚《さっかく》におちいった。今日は絵を描くだけだから、まさか問題は起こさないとは思うが……。しかし……。
「やっぱり、様子を見に行っ――」
そこまで言いかけたところで、どこからともなく声が聞こえた。攻撃的《こうげきてき》な怒鳴《どな》り声。それも複数《ふくすう》。声は次第《しだい》に近付いてくる。
「待たんか、コラっ!?」
あの声は? うちのクラスの――
ざっ!
庭の垣根《かきね》を飛《と》び越《こ》えて、相良宗介が出現した。植木の間を走り抜け、一直線にこちらへと向かってくる。
「相良くんっ!? あなたはここで――」
どどどっ! さばっ!
宗介の背後《はいご》に、今度は一〇人の生徒たちが現れた。垣根を突き破り、植木や草を踏み散らかして、猛牛《もうぎゅう》の群《む》れのように突進してくる。
その先頭には、ぼろぼろの制服姿の千鳥かなめがいた。彼らは宗介の後ろ姿以外、まったく視界《しかい》に入っていない様子だった。
「ちょっと、あなたたち――」
宗介はそのまま縁側までやって来て、驚《おどろ》く水星たちの脇《わき》をすり抜け、土足《どそく》で家の中へと飛び込んだ。
教師の誰かが叱《しか》ろうとするより早く、かなめ以下一〇名も、どかどかと民家にあがりこみ、きれいな和室を蹂躙《じゅうりん》した。
「そっちに行ったぞっ!!」
「廊下《ろうか》よ!」
「いや、台所だっ!」
「捕《つか》まえ……ああっ、くそっ!!」
「風呂場《ふろば》だ、風呂場だ!!」
ふすまを突き破り、たたみをひっくり返し、たんすとちゃぶ台《だい》を薙《な》ぎ倒《たお》す。平和だった民家は、たちまち騒乱《そうらん》の坩堝《るつぼ》と化した。
「や、やめたまえ、君たちは……わぁっ!」
水星は興奮《こうふん》した生徒に突き飛ばされ、庭先に落ちると昏倒《こんとう》した。
「追い詰《つ》めろ! もう一息だっ!」
宗介は追跡者《ついせきしゃ》たちの手を逃《のが》れ、さんざん家の中を駆けめぐった挙《あ》げ句《く》に、神楽坂の隣《となり》で身を縮《ちぢ》めている老婦人――水星の母親――に手を伸《の》ばした。
「ひっ!」
彼は後ろから迫《せま》るかなめたちに向かって、老婦人を盾《たて》にして、コンバット・ナイフを首筋《くびすじ》に突きつけた。
「動くなっ! この女を――」
彼の言葉はそこまでだった。かなめが床《ゆか》に転《ころ》がった湯呑《ゆの》みを拾《ひろ》い上げ、見事《みごと》なフォームで宗介の頭に投げつけたのだ。
どがしゃっ!
彼はナイフと老婦人を放り出し、障子《しょうじ》を破って背中から倒れた。ほかの生徒たちがすぐさま殺到《さっとう》し、宗介を強引《ごういん》にねじ伏《ふ》せる。
「観念《かんねん》しろ、このっ!」
「あ、やだ、風間《かざま》くん、どこ触《さわ》ってんの!?」
「そこは俺のケツだ!」
組み伏せられた宗介の目の先に、かなめが仁王立《におうだ》ちした。
「とうとう捕《つか》まえたわよ、ソースケ」
「くっ……殺せ」
「ふっ。なかなか潔《いさぎよ》いじゃない。でもね、あんたには義務《ぎむ》があるのよ。それまでは生かしておいてやるわ」
悪の女|幹部《かんぶ》みたいに冷酷《れいこく》に言うと、彼女は一同に命じた。
「さあ、連行して。いますぐ下書きに取りかかるわよ!」
宗介は手荒《てあら》にひったてられた。そこでかなめは、やっと周囲の顔ぶれに気付いたらしく、
「あ、先生」
唖然《あぜん》とする教師たちを見回した。
「どうもお騒《さわ》がせしました。あたしたち四組は、必ずや夕方までに絵を描き終えます。ええ、そりゃもう、ばっちりと」
妙《みょう》にアグレッシブな口調で請《う》け負《お》うと、彼女は満足げにその場を去っていった。
その一週間後。
職員室《しょくいんしつ》のそばの廊下《ろうか》に、長〜い掲示板《けいじばん》がある。端《はし》から端まで一五メートルはあろうか。その掲示板に、たくさんの水彩画《すいさいが》が貼《は》りつけてあった。各クラスから三名ずつ、代表の作品が展示《てんじ》されているのだ。
「ほんと、素晴《すば》らしいですわね……!」
作品を眺《なが》めて歩きながら、陣代高校の校長は嘆息《たんそく》した。その後ろに、教頭と水星教諭が付き従《したが》う。
どの作品も、緑あふれる景色《けしき》の中に、モデルの生徒がていねいに描《えが》かれていた。
「見事ですわ。思春期《ししゅんき》の繊細《せんさい》さと、若々しい活力《かつりょく》! あたくしはこの行事《ぎょうじ》が毎年楽しみなんです」
惜《お》しみない賞賛《しょうさん》。だが水星は不景気《ふけいき》な声で、
「ええ、まあ、その、恐縮《きょうしゅく》です」
気のない返事をするばかりだった。
校長はやがて、二年四組の作品の前まで来る。
「まあ! これは……ええ、これは……」
校長は褒《ほ》めようと思ったのだろうが、続く言葉《ことば》が見つからない様子《ようす》だった。
「……これは一体?」
四組の出展した三点の作品は、技巧的《ぎこうてき》には他のクラスとなんら変わるところがなかった。ただ異様《いよう》なのは、絵の中の人物が荒縄《あらなわ》で乱暴《らんぼう》に縛《しば》られて、木の枝から逆《さか》さ吊《づ》りにされていることだった。周囲《しゅうい》の景色《けしき》が明るいので、なおのこと不気味《ぶきみ》なオーラを放《はな》っている。
「その……彼らは、非常《ひじょう》に前衛的《ぜんえいてき》な試《こころ》みをしたようで。T・アウスラーの影響《えいきょう》が見られます。力を剥奪《はくだつ》された人間の虚無感《きょむかん》と言いますか、まあ、そんな気分を……(後略)」
「はあ……」
ちなみに三点それぞれのタイトルは、『狩《か》りの成果《せいか》』『因果《いんが》応報《おうほう》』『馬鹿《ばか》の末路《まつろ》』とあった。
[#地付き]<芸術のハンバーガーヒル おわり>
[#改丁]
シンデレラ・パニック!(特別書き下ろし)
[#改ページ]
むかし、ある国にとてもうつくしい女の子がおりました。
その女の子はちょっと気がつよそうな顔だちで、腰《こし》まで届《とど》くみごとな黒髪《くろかみ》、利発《りはつ》そうなひとみのかがやきを持っていました。
大きなお屋敷《やしき》に住み、やさしい両親に育てられた女の子は、なにひとつ不自由のないしあわせな暮らしをおくっていました。
ところが大好きなお母さんが、病気になって死んでしまったのです。タフさがとりえのかなめちゃん……もとい、女の子でしたが、さすがにこの出来事《できごと》はこたえました。
お父さんは、悲しみ泣きくらすむすめのために、あたらしいお母さんをむかえました。
『思えば、あれがすべての間違いだったのよね』と、のちに女の子は親しい友人に語ったものですが――まま母は、とにかくひどい悪女でした。みえっぱりで、底意地《そこいじ》がわるく、よくばりで、くわえて三人の連れ子がいて、あまつさえその三人|姉妹《しまい》もたちのわるい性格だったのです。
『そんなのと再婚《さいこん》するか、普通《ふつう》?』とだれでも思うでしょうが、お父さんもこの時ばかりは、やもめぐらしのさびしさに、目をくもらせていたとしか言いようがありません。
まま母と三人姉妹は、女の子がたいそう美しいのをひがんで、お父さんの目を盗《ぬす》んではしつようないやがらせをしました。お屋敷のトイレに女の子の悪口を書きつらねたり、お母さんの形見《かたみ》の大切な時計《とけい》をバカにしたりしたのです。
人生のつねと申しましょうか、しんどい時期にはしんどい出来事が重なるものです。ほどなくお父さんも、とつぜんの急病でばったりと死んでしまいました。
まま母はこれさいわいと、女の子のきれいなドレスや持ち物をすべてとりあげ、きたない屋根裏|部屋《べや》に住まわせました。
包囲網《ほういもう》のかんせいです。
「う、うはははは……」
女の子としては、もはや笑うしかありません。くる日もくる日もはたらかされ、ごはんもろくに与えられず、まんぞくな教育も受けられない日々がつづきました。
つらい3K仕事をこなしているうちに、女の子はかまどの灰でうすよごれ、いつしかフランス語で「|灰まみれのむすめ《シンデレラ》」と呼ばれるようになりました。さよう、シンデレラという名前には、そういう由来《ゆらい》があったのです。べんきょうになりましたね。
それはともかく、こうしてシンデレラはあわれな毎日をおくっていたのです。
「し〜〜ん〜〜で〜〜れ〜〜らぁ〜〜っ!」
まま母のミズキは叫《さけ》ぶなり、シンデレラのおしりに蹴《け》りを食らわせました。廊下《ろうか》の雑巾《ぞうきん》がけをしていたシンデレラは、つんのめって床《ゆか》にキスして、口に入ったゴミをぺっぺとはき出しました。
「いったぁ……。なにすんのよ!?」
「おだまり! あたしはこの家のあるじよ!? 目の前に気に入らないケツがあったら、好きな時に蹴《け》っ飛《と》ばしていいのよっ! そしてシンデレラ――あんたのケツは特に気に入らないわっ! くぬっ、くぬっ!」
まま母のミズキはスタンピングの雨をふらしました。かわいそうなシンデレラは、ダンゴムシのように身を丸め、ひたすら『忍《にん》』の一字です。
「おっ……おのれ」
「あぁ、楽しい。ちょいと、娘たち! おまえたちもここに来て、シンデレラをいぢめておやり!」
『はぁ〜〜〜い、お母さま!』
ミズキの三人のむすめたち――マナミとマドカとショーコが、手に手に大小のハリセンを持ち、シンデレラへとさっとうします。
「えいっ!」
「このっ!」
「やあっ!」
びしっ! ずびしっ! ばしんっ!
それは家庭内《かていない》暴力《ぼうりょく》というより、もはや一方的な私刑《リンチ》でした。このお屋敷ではよく見られる、いんさんな光景《こうけい》です。
「よしっ、打ち方やめっ!」
ころあいを見て、まま母のミズキが言います。まい上がったほこりが晴れると、シンデレラは床にはいつくばっていました。
「くっ……くそ……」
ぼろぼろのシンデレラの目の先に、ミズキが冷酷《れいこく》に仁王立《におうだ》ちしました。
「ふふん。いいザマね、シンデレラ。これに懲《こ》りたら、二度とあたしに口答えするんじゃないわよ。わかった?」
「…………」
実のところ、シンデレラの反骨《はんこつ》精神《せいしん》はいまだに健在《けんざい》だったのですが、痛いのもイヤなのでだまっていました。
「わかったのなら、さっさと雑巾がけを済《す》ませなさい。それが終わったらトイレ掃除《そうじ》よ。ほおずりしても平気なくらいまできれいになさい。あとで便器《べんき》を舐《な》めさせるわよっ!」
いくらいじわるなまま母でも、ふつう、ここまでは言いません。
「ううっ。そんなぁ……」
「おだまりっ。きょうは夕飯のしたくがないだけ、ありがたいと思いなさい!」
「へ……どうして?」
シンデレラはきょとんとしました。夕ごはんのしたくは、彼女の日課《にっか》なのです。
「知らないの? シンデレラ」
一ばん上の姉の、マナミが言いました。
「今夜はお城で、とっても大きな舞踏会《ぶとうかい》が催《もよお》されるんですぅ!」
二ばんめの姉、マドカが言いました。
「王子さまの花嫁《はなよめ》を選ぶためにー、国中の若い娘が招待《しょうたい》されてるんですねー」
三ばんめの姉、ショーコが言いました。
「な、なんと……」
「そういうことよ。あたしたちは舞踏会に出かけるから、あんたは昨日《きのう》の残りのメザシと冷や飯《めし》でも食べてなさい。まあ気が向いたら、お城のごちそうを折詰《おりづめ》にしてもらって来てあげるわよ。おっほっほっ」
「あ、あのー。あたしも行きたいなぁ……」
『だめ』
ミズキたちは異口《いく》同音《どうおん》に言いました。
「だよね、やっぱ……」
しゅんとしたシンデレラを、いじわるな四人はゆかいそうに見下ろします。そういう役がらとはいえ、あまりの仕打《しう》ちでした。
「さて。そろそろしたくよ、娘たち! がんばっておめかしして、王子さまのハートを射止《いと》めるの。そうすれば、この国の権力は思いのまま。影から政治を操《あやつ》って、土建屋《どけんや》や銀行屋からたっぷりと接待《せったい》を受けるのよっ!」
『はぁ〜〜〜〜いっ!』
元気よくこたえる三人むすめをつれて、ミズキはその場を去っていきました。
「じゃあ、留守番《るすばん》たのんだわよ」
りっぱな馬車《ばしゃ》にのりこむと、まま母のミズキはシンデレラに言いつけました。はなやかなドレスでおめかしした、三人のむすめたちもいっしょです。
「窓拭《まどふ》きと玄関《げんかん》の掃除《そうじ》が済んだら、さっさと寝なさい。いいわね?」
「はあ……」
不景気《ふけいき》な声でシンデレラはこたえました。
「言っておくけど、あとからこっそり舞踏会に来ようったって無駄《むだ》よ。なにしろシンデレラ、あんたには招待状《しょうたいじょう》もドレスもないんですもの。ふふふのふ」
ミズキはおもいきり陰険《いんけん》に笑って、
「うす汚《ぎたな》いコムスメが入りこむなんて、まず不可能《ふかのう》。お城の守りは堅牢《けんろう》で、おまけに最精鋭《さいせいえい》の対テロ特殊《とくしゅ》部隊《ぶたい》が警備《けいび》についてるわ」
「どーいうお城よ……?」
「おだまり。……では出発して!」
ミズキに命じられ、御者《ぎょしゃ》がムチをくれます。馬車はすなぼこりをまき上げ、お屋敷から遠ざかっていきました。
「……行っちゃった」
シンデレラはほっとしました。なにしろいじわるな四人がいなくなり、つかの間の休息《きゅうそく》がえられたのですから。
仕事はさっさと済ませて、うすぐらい屋根裏部屋に戻《もど》ります。シンデレラはおんぼろベッドにこしかけて、窓から見えるお城をぼんやりとながめました。
「はーあ……」
夜のうすやみの中、お城はきらびやかにライトアップされ、さながら東京ディズニーランドのようでした。あのお城の中で今夜、すてきな王子さまが花嫁《はなよめ》をえらぶのです。ごうかな料理にグルーブ感あふれる音楽……それはそれは楽しい舞踏会でしょう。
「ふん……うらやましくなんか、ないわよ」
シンデレラは負けおしみを言いました。
「ああいうナンパ連中は、勝手《かって》に群《む》れてりゃいいのよ……。吐《は》き気《け》がするわ」
もはや、ひがみモードです。
「どうせ……どうせあたしなんか。この屋根裏部屋があたしの世界。それが宿命《しゅくめい》。そう、しょせんは血塗《ちぬ》られた道。吹きすさぶ風がよく似合《にあ》うのね……」
などと、えたいの知れないことをつぶやいていると、気分もどんどんみじめになってきて、さすがに涙《なみだ》がこぼれてきます。
「ああ……天国のお母さん、お父さん。どうして死んでしまったの? あたしにツケを残すだけ残して……あんまりよ。ぐすっ」
そんな調子でシンデレラが悲しみにくれていると、
「そろそろ泣くのはやめにしろ」
とつぜん、無愛想《ぶあいそう》な男の声がしました。
シンデレラがふりかえると、そこには魔法使いの若者が立っていました。
むっつり顔にへの字口。とんがり帽子《ぼうし》と都市《とし》迷彩《めいさい》のローブを身にまとい、つえの代わりにパンツァー・ファウスト――使い捨《す》ての対戦車《たいせんしゃ》ロケット弾を手にしていました。彼なりにファンタジーのつもりみたいです。
「あなたは……?」
シンデレラはたずねました。
「俺《おれ》は魔法使いのサガラ・ソースケ軍曹《ぐんそう》だ。いかなる国家にも所属《しょぞく》しない、極秘《ごくひ》の魔法使い協会 <ミスリル> から派遣《はけん》された。認識《にんしき》番号《ばんごう》、B―3128。コールサインはウルズ|7《セブン》だ」
「はあ」
魔法使いのサガラ軍曹はきびしい目つきで、油断《ゆだん》なく屋根裏部屋を見まわしてから、
「恵《めぐ》まれない人間の多角的《たかくてき》支援《しえん》が俺の任務《にんむ》だ。舞踏会に行きたいのなら、俺の力で行かせてやるぞ、千鳥《ちどり》」
「あたし、シンデレラなんだけど……」
「そうとも言うらしいな」
魔法使いは臆面《おくめん》もなく受け流しました。
[#挿絵(img2/s01_219.jpg)入る]
「…………。で、でも信じられないわ。いきなり魔法使いだなんて」
「そうか?」
「そーよ。特にあんたには魔法使いとしての貫禄《かんろく》が全然ないわ。なんかもう、バッタもんって感じ?」
シンデレラの言うとおりでした。その魔法使いには、それ系の人びとによくある神秘的《しんぴてき》な雰囲気《ふんいき》などは微塵《みじん》もなく、ただ火薬《かやく》と硝煙《しょうえん》のにおいが漂《ただよ》っているばかりでした。
「だが、俺は本物だ」
「口だけじゃ納得《なっとく》できないのよね。証拠《しょうこ》を見せなさい、証拠を。そうね……その魔法とやらを見せてよ」
「魔法か……。では見せてやろう」
魔法使いは不敵《ふてき》に言うと、ローブの下から小さなスプーンをおもむろに取り出しました。
「ビビデバビデブー」
魔法の呪文《じゅもん》を唱えると、スプーンはくねっと曲がりました。
それだけでした。
「…………おしまい?」
「まだあるぞ」
魔法使いが小さなフォークを取り出したのを見て、シンデレラはうんざり顔で手を振りました。
「もういい……」
「ほかにも、あぐら座《ずわ》りの姿勢《しせい》から、一瞬だけ空中|浮遊《ふゆう》する術などがあるが」
「どうしてそういう方向に行くのよ。せっかくの機会なんだから、手から火の玉くらい出せばいいのに……」
「? なんの話だ?」
「いいの、気にしないで」
この問題についてこれ以上ふれると、さすがにひんしゅくを買いそうだったので、シンデレラは話題を変えることにしました。
ため息をついて、ベッドの上でぞんざいにあぐらをかくと、
「……で? あたしを舞踏会に連れていってくれるって言ってたわよね」
「肯定《こうてい》だ」
「気持ちはうれしいけど、どうやって? あたしにはドレスもないし、招待《しょうたい》状も馬車《ばしゃ》もないのよ?」
うすよごれた服を見下ろして、シンデレラは皮肉《ひにく》っぽく言いました。
「問題ない。まず、以下のモノを用意しろ」
魔法使いはローブの下からメモ用紙をとりだし、淡々《たんたん》と読み上げました。
「まず、カボチャ一個とハツカネズミを四|匹《ひき》、トカゲを一匹……」
「ふむふむ……」
「さらにアサルト・ライフルとショットガンを一|挺《ちょう》ずつ……」
「はあ?」
「対人《たいじん》手榴弾《しゅりゅうだん》二ダースと五・五六ミリ弾一六〇発、C4爆薬《ばくやく》三ケースとクレイモア地雷《じらい》を六つ……」
「なんなのよ、それは?」
言われた魔法使いは、不審《ふしん》そうにメモを読み返し、ちょっとばつが悪そうに、
「間違いだ。下の物品は俺の買い物リストだった。必要なのはカボチャとネズミとトカゲだけだ」
「ああ、そう……」
こんなやつを信頼《しんらい》していいのかしら、とシンデレラは不安になりました。
お屋敷《やしき》の中をさがしまわり、シンデレラは言われたものを用意しました。玄関先《げんかんさき》で、ネズミとトカゲを閉じ込めたかご、そしてカボチャを地面におき、魔法使いに告げます。
「集めたわよ。で?」
「よし。ではそこに立て。カボチャやネズミから離《はな》れるなよ」
魔法使いは言うと、きびきびとした足どりで、シンデレラから離れていきました。持っていたつえ代わりの対戦車《たいせんしゃ》ロケットをいじって、発射《はっしゃ》レバーと照準《しょうじゅん》を引き起こします。
「なにする気?」
「魔法を使う。この杖《つえ》は一見すると単なるパンツァー・ファウストだが、実は魔法のロケット弾なのだ。通常《つうじょう》炸薬《さくやく》の代わりに、最新の魔法テクノロジーを駆使《くし》した魔法炸薬が封入《ふうにゅう》してある。操作《そうさ》は簡単《かんたん》。魔法|照準器《しょうじゅんき》を覗《のぞ》いて、魔法レバーを押すだけだ」
『魔法』が付けば、なんでも許されると思っている様子《ようす》です。
魔法使いのサガラ軍曹は充分《じゅうぶん》に離れると、おもむろに片ひざをつき、対戦車ロケットをかまえました。ぶっそうな武器で狙《ねら》われたシンデレラは血相《けっそう》を変えて、
「ちょ……! なにするのよっ!?」
「逃げるな! 使い捨《す》てだから、一回しか撃《う》てんのだ」
すなわち失敗は許されません。魔法使いは真剣《しんけん》でした。
照準を覗き、ぴたりとシンデレラに――そしてそのそばのカボチャやネズミに――狙いを定めます。
「あ、あんた殺す気!? そんなので撃たれたら――」
「問答《もんどう》無用《むよう》、ファイア!」
魔法使いは発砲《はっぽう》しました。
対戦車ロケットの弾頭《だんとう》が、猛然《もうぜん》とシンデレラへと突進《とっしん》します。かわいそうなシンデレラは、悲鳴《ひめい》をあげるばかりでした。次の瞬間《しゅんかん》、紅蓮《ぐれん》の炎《ほのお》が彼女とカボチャ、ネズミとトカゲをのみこみます。
「命中……!」
爆風《ばくふう》にローブをはためかせ、魔法使いは空《から》のロケット・チューブを放《ほう》り捨てました。そういう仕草《しぐさ》だけは妙《みょう》に貫禄《かんろく》があります。
さて、シンデレラは壮絶《そうぜつ》な爆死《ばくし》をとげてしまったのでしょうか?
いいえ、そんなことはありませんでした。
炎と煙《けむり》が晴れると、そこにはすてきなドレスに身を包《つつ》んだ、美しいむすめが立っていたのです。ロケット弾の魔法で華麗《かれい》に早変わりした、シンデレラの姿《すがた》でした。
「げほっ、ごほっ」
同時にカボチャは馬車へ、ネズミは馬へ、そしてトカゲは御者《ぎょしゃ》へと変身していました。
シンデレラはびっくりして、自分の姿を見下ろしました。
「これが……あたし?」
純白《じゅんぱく》のドレスにガラスの靴《くつ》。きらびやかなネックレスにダイヤのティアラ。しっとりとした黒髪が、可憐《かれん》な衣装《いしょう》にマッチしています。もともと素材《そざい》のいいむすめですから、本気で着飾《きかざ》ると冗談《じょうだん》抜きの超絶《ちょうぜつ》美少女《びしょうじょ》でした。
その美少女を前にして、魔法使いは偉《えら》そうにふんぞり返りました。
「見たか。これが最新鋭《さいしんえい》の魔法テクノロジーの威力《いりょく》だ」
シンデレラはすこし肩《かた》を落として、
「『きれいだよ』とか『似合《にあ》ってるよ』とか、それくらいのこと言えないのかしらね、この戦争ボケ男は……」
「? なんの話だ?」
「別に。……それはともかく、スゴいのは納得《なっとく》。これで舞踏会《ぶとうかい》に行けるわ。ありがと!」
「礼には及《およ》ばん。任務だからな。あとは……これを持っていけ」
魔法使いは羊皮紙《ようひし》を一枚、手渡しました。
「これは?」
「舞踏会の招待《しょうたい》状だ。俺が偽造《ぎぞう》した」
「はあ」
「では行け、シンデレラ。舞踏会のなにが楽しいのかは知らんが、気が済《す》むまで踊ってくるがいい」
「いちいち癇《かん》にさわる言い方なのよね……」
ぶつぶつと言いながら、シンデレラは馬車にのりこみました。それを魔法使いは呼び止めます。
「なお、この魔法は〇〇〇〇時を過《す》ぎると自動的に消滅《しょうめつ》する。それまでに目的を達成し、すみやかに撤収《てっしゅう》することだ。さもないと正体が露呈《ろてい》し、お城のGIGNに拘束《こうそく》されるぞ」
「わかったけど……なんなのよ、そのGIGNってのは?」
「フランスの特殊《とくしゅ》部隊だ。優秀だぞ」
「ここ、フランスだったの……?」
「あまり深く考えないことだ」
「…………」
そんなこんなで、シンデレラを乗せたカボチャの馬車は、お城に向けて出発したのでした。
思い思いに着飾ったむすめたちが、お城の大広間に集《つど》っていました。
本気で王子さまのハートをゲットしようと狙《ねら》っている者や、ただ単に冷やかしで来た者、お弁当やお茶を売りさばく者、トトカルチョをはじめている者など、その目的はさまざまです。
国でいちばんの交響《こうきょう》楽団《がくだん》が奏《かな》でる音楽が、明るい広間に流れていました。女の子が集う舞踏会なのに、なぜか曲目はベートーベンの『運命』です。重厚《じゅうこう》で暗い曲ですから、みんなはとても踊《おど》りにくそうでした。
「あのー、お父さま。もうちょっと、別の曲にできないんですか……?」
この舞踏会の主役、キョーコ王子が言いました。いちおう王子さまなのですが、トンボメガネにおさげ髪の、かわいらしい女の子です(支離《しり》滅裂《めつれつ》な文章ですが、あまり気にしてはいけません)。
「ふむ。単に私の趣味《しゅみ》なのだが……なにか問題が?」
この国の王さま、ハヤシミズ陛下《へいか》が言いました。頭の良さそうな男性で、オールバックに真鍮縁《しんちゅうぶち》のメガネがよく似合《にあ》っています。
「だってこの舞踏会、あたしの奥さんを選ぶんでしょ? こーいう重たい曲でかわいく踊れる感性の人とは、ちょっと結婚したくないんですけど……」
「そうかね。だがいずれにせよ、君の花嫁《はなよめ》だ。君が好きに選べばいい」
「そのつもりですけど」
「けっこう。ただし――誰《だれ》でも良いわけではない」
ハヤシミズ王はメガネのブリッジを人差し指でくいっと持ち上げました。
「花嫁に思想《しそう》的な偏向《へんこう》があるのは困《こま》る。共和《きょうわ》主義者《しゅぎしゃ》や共産主義者は即退場《そくたいじょう》だ。なにしろ私は王様なのだから。宗教《しゅうきょう》原理《げんり》主義者《しゅぎしゃ》もお断《ことわ》りだ。浪費家《ろうひか》や日和《ひより》見《み》主義者も許さん。高等教育を受けていることが望ましいが、経済学者は絶対にいかん」
「はあ」
キョーコ王子は、王さまの言っていることが半分もわかりませんでした。
「とにかく私としては、将来《しょうらい》の王妃《おうひ》が国政に害を及ぼさないことが第一なのだよ。したがってこの際、花嫁の社交性はさして重要ではない」
「だったら、舞踏会なんか開かなきゃいいのに……」
「私もそう思うが、この行事《ぎょうじ》は八代前からの慣習《かんしゅう》でね。現実的な範囲《はんい》で伝統《でんとう》を尊重《そんちょう》するのも、また君主《くんしゅ》の勤《つと》めなのだ」
ハヤシミズ王の理屈《りくつ》っぽさは、近隣《きんりん》諸国《しょこく》にもあまねく知れ渡っているほどだったので、キョーコ王子はそれ以上つっこむのをやめにしました。
「以上を踏《ふ》まえた上で――キョーコ王子、めぼしい女性は見付かったかね?」
「うーん、そうですねぇ……」
舞踏会がはじまってからというもの、たくさんのむすめたちがキョーコ王子にあいさつしてきましたが、これといってハートにキュンとくる女の子はいませんでした。
「ちょっと、まだ。みんなかわいい子だとは思いますけど」
「そうかね。さきほどの三人|姉妹《しまい》などはどうかな? 元気があって良かったと思うが」
「ダメですよぉ。友達付き合いするぶんにはいいかもしれないけど」
ついさっきあいさつしてきた、ミズキと名乗る未亡人《みぼうじん》のむすめたちのことでした。もっとも、三人はキョーコ王子を取り合って喧嘩《けんか》をはじめ、母親ともどもお城の兵士に連行されてしまいましたが。
そこで広間にいた人びとの間から、静かなざわめきが起こりました。
(おお、なんと美しい……!)
(どこの貴族《きぞく》のむすめだろう?)
(ヘップバーン級だぞ、かの女は)
ひそひそとささやき合う人垣《ひとがき》の群《む》れが、ゆっくりと二つに分かれていきます。その中から、ひとりのむすめがしずしずとキョーコ王子の前に進み出ました。
そのむすめこそ、サガラ軍曹《ぐんそう》の魔法で変身したシンデレラでした。
「うわぁ……」
その姿を見て、キョーコ王子はため息を漏《も》らしてしまいました。
絹《きぬ》の風合いを持つ純白のドレス。黒いつややかな髪。澄《す》んだ瞳《ひとみ》。くもりひとつない、なめらかな肌《はだ》。それはそれはつつましく、たおやかな乙女《おとめ》でした。
「はじめまして、王子さま」
シンデレラは軽く目を伏《ふ》せて、行儀《ぎょうぎ》よくおじぎしました。あまりに可憐《かれん》なその姿に、キョーコ王子はうっとりとして、
「カナちゃん……きれい」
せつなそうにつぶやき、頬《ほほ》をほんのりと上気させてしまいました。下手《へた》をするとそのまま身も世もなく、シンデレラにすがりついていきそうな気配《けはい》です。
[#挿絵(img2/s01_231.jpg)入る]
予想外の反応に、シンデレラは一瞬《いっしゅん》、思い切りたじろぎましたが、小さく咳払《せきばら》いして気を取り直しました。
「あー、こほん。王子さま、わたしと踊っていただけますか?」
そうたずねると、夢見《ゆめみ》心地《ごこち》のキョーコ王子はこくりとうなずきました。
「うん……踊ろ、カナちゃん……」
「いえ、その。あの。わたしはカナちゃんではありませんわ」
「うん……そうだね、カナちゃん……」
シンデレラの美しさに骨抜《ほねぬ》きになってしまったキョーコ王子は、もはやすっかりダメな人でした。
ちょうど広間の演奏《えんそう》もひと区切りついて、ようやくまともなワルツが流れはじめました。
優美《ゆうび》なしらべにのって、王子さまとシンデレラは軽《かろ》やかに踊ります。まわりの人たちも二人の踊りをほれぼれと眺《なが》めていました。
シンデレラのほうが背が高くて、王子さまをリードしているように見えるのは、如何《いかん》ともしがたい事実でしたが、いちおう二人はしあわせいっぱいでした。
いっぽう、王さまのハヤシミズ陛下《へいか》は、側近《そっきん》の王立情報室長に『あのむすめの経歴《けいれき》と背後《はいご》関係を調べろ。あとで尾行《びこう》も忘れるな』などとこっそり指示《しじ》を下していました。
さすがは一国一城のあるじです。
大広間の音楽は、休むことなく続きました。ワルツが終わると次にタンゴが流れ、さらにジャズ、ロック、レゲエ、ヒップホップへと移り変わりました。しまいにはソウルの帝王ジェームズ・ブラウンが出てきて、二人を祝福《しゅくふく》するように『げらっぱ』とシャウトしてくれました。
シンデレラと王子さまは、あらゆるジャンルを踊りぬきました。あまりにも楽しかったものですから、シンデレラは時のたつのも忘れていました。
上機嫌《じょうきげん》でツイストを踊っていると、そのとき、一二時の鐘《かね》が、リンゴーン、リンゴーンと鳴りはじめました。
「はっ!」
シンデレラは青くなりました。魔法使いのサガラ軍曹《ぐんそう》のことばを思い出したのです。
(――なお、この魔法は〇〇〇〇時を過ぎると自動的に消滅《しょうめつ》する――)
さあピンチです。もたもたしていると、みんなの目の前で魔法が解《と》けて、大恥《おおはじ》をかいた上にお城の兵士に捕《つか》まってしまいます。
踊りをやめたシンデレラを見て、キョーコ王子は不思議《ふしぎ》そうな顔をしました。
「どしたの?」
「ご、ごめんなさい……! 急に用事を思い出して。うちのネコにエサをあげなきゃならないの」
ふつう、貴族のむすめにそういう急用はありません。
「へ?」
「楽しかったですわ、王子さま。では、おさらば!」
キョーコ王子が止めるよりはやく、シンデレラは身をひるがえすと、逃げるように大広間を駆《か》け抜けていきました。大きな廊下《ろうか》を突っ切って、たちまち階段までやってきます。
「待って!」
王子が後を追ってきました。しかしわれらのシンデレラは、待てと言われて待つような愚《おろ》か者ではありません。
「えい、くそっ。走りにくいわっ」
悪態《あくたい》をつくと、シンデレラは大事なガラスの靴《くつ》をあっさりと脱《ぬ》ぎ捨《す》てました。それからあらためて猛《もう》ダッシュします。
その速いこと、速いこと。王子の足ではとても追いつきません。
「衛兵《えいへい》! だれか! 彼女を止めて!」
王子さまが叫《さけ》ぶと、お城の衛兵がシンデレラの前に立ちふさがりました。
相手は屈強《くっきょう》なプロフェッショナルです。戦闘《せんとう》については素人《しろうと》のシンデレラが勝てるわけがありません。
「くっ……万事休《ばんじきゅう》すだわっ」
シンデレラが覚悟《かくご》を決めたとき――
どすんっ! どすんっ!!
とつぜん轟音《ごうおん》が鳴り響《ひび》き、衛兵たちが次々に倒れました。
「え……?」
おどろくシンデレラの前に、どこからともなく魔法使いのサガラ軍曹があらわれました。都市《とし》迷彩《めいさい》のローブにとんがり帽子《ぼうし》の格好《かっこう》のままでしたが、手には無骨《ぶこつ》なショットガンを持っています。
「走れるか?」
「え……あ、うん」
「では俺に続け」
魔法使いは走り出しました。あわててシンデレラは後に続きます。
「あ、あんたどうしてここに――」
「アフターケアだ。偽造《ぎぞう》招待状《しょうたいじょう》なしに侵入《しんにゅう》するのは骨が折れたぞ」
「その武器は?」
「魔法のレミントンM870だ。ラバーボール・スラッグ弾を装填《そうてん》してある」
「…………」
お城の門へと急ぐ二人の前に、またもや衛兵があらわれました。
どすんっ! どすんっ!
魔法使いは恐ろしいほど正確な射撃《しゃげき》で、衛兵を撃《う》ち倒していきます。魔法のスタン弾を食らった衛兵たちは、バタバタと気絶《きぜつ》していきました。
「す、すごい……」
「こっちだ」
お城の庭に走ると、カボチャの馬車《ばしゃ》が待っていました。
「乗れ! 早くしろ!」
向かってくる衛兵に発砲《はっぽう》しながら、魔法使いは叫びました。シンデレラはあわてて馬車に飛びこみます。
「乗ったわよ!」
「よし、出せ!」
御者《ぎょしゃ》がムチをくれると、カボチャの馬車は車輪《しゃりん》をきしらせ急発進しました。間一髪《かんいっぱつ》、魔法使いも馬車に飛び乗ります。
しかしお城の門はすでに閉ざされ、馬車に逃げ道はありませんでした。
「くそっ、逃げ場がないわっ!」
シンデレラが悪態《あくたい》をつくと、魔法使いはローブの下から手榴弾《しゅりゅうだん》を取り出し、ピンを抜きました。
「それも魔法の手榴弾ってわけ?」
「いや、これは聖なる手榴弾だ。かつてアーサー王が使ったという伝説もある」
「…………」
言うなり、魔法使いは手榴弾を門に向けて投げつけました。たちまち大きな爆発が起きて、お城の門は吹き飛びます。
「突っ切れ!」
うずまく煙《けむり》と破片《はへん》の中を、カボチャの馬車は一気に駆《か》け抜け、見事《みごと》にお城から脱出しました。
その直後――
一二時の鐘《かね》が鳴り終わりました。魔法が解《と》けて馬車はカボチャに、馬はネズミに、御者はトカゲへと戻《もど》っていきます。
「きゃっ……!」
乗っていた馬車がいきなり消え、シンデレラが虚空《こくう》に投げ出されました。
魔法使いは空中で器用《きよう》に身をひねると、すばやく彼女を抱《だ》き寄せて、地面に背中から落ちました。そのままごろごろと転《ころ》がって、道路《どうろ》沿《ぞ》いの川へとまっ逆《さか》さまです。大きな水柱が立ったあと、川面《かわも》は静かになりました。
そのおかげで、二人は追っ手の騎兵隊《きへいたい》をやり過ごすことができたのでした。
魔法使いに助けられ、シンデレラは岸辺《きしべ》へと這《は》い上がりました。
「えほっ……えほっ……」
「危ないところだったな」
全身ずぶ濡《ぬ》れです。きれいなドレスも元どおりの、うす汚《よご》れたぼろ服になっていました。
「あーあ……」
自分のひどいありさまを見て、シンデレラはため息をつきました。
「せっかく王子さまと仲良くなれたのに……。また明日《あした》からは、いままでどおりのつらい毎日が待ってるのね」
「では、毎日|舞踏会《ぶとうかい》があればいいのか?」
魔法使いはたずねました。
「いや、そーいう問題じゃなくて――」
「あんな催《もよお》しを毎日していたら、国の財政《ざいせい》が破綻《はたん》するぞ」
「……だからぁ。あの調子だったら、あたし、王子さまの花嫁《はなよめ》になれたかもしれなかったのよ? そうしたら、いまのひどい生活からも抜け出せたのに。やっぱり人間、夢なんか見ないほうが幸せなのよね……」
しゅんとしたシンデレラを、魔法使いのサガラ軍曹《ぐんそう》はじっと見つめました。
「な、なによ……?」
「シンデレラ。それは敗北《はいぼく》主義だ」
相変わらずのむっつり顔のまま、魔法使いは言いました。
「え……」
「不利な戦況《せんきょう》を覆《くつがえ》すのに、援軍《えんぐん》ばかりを頼《たよ》っていてはいけない。地形と天候《てんこう》を読み、敵の強みと弱みを知り、時には耐《た》え忍び、その中で最善の選択《せんたく》をとることが生きのびる道だ。それをあきらめた兵士に未来はない」
はじめて魔法使いがまともなことを言ったので、シンデレラはぽかん、としました。
「あの城で暮《く》らしても同じことだ。どこへ行っても敵はいるだろう。君はそのたびに王子をあてにするのか?」
「そ、それは……」
シンデレラが答えに困《こま》っていると、魔法使いは立ち上がりました。
「頭を使え。工夫《くふう》しろ。魔法がなくともできるはずだ」
「ちょ、ちょっと……」
「では、さらばだ」
魔法使いは去っていきます。その背中に、シンデレラは呼びかけました。
「魔法使いさんっ!」
「なんだ」
彼は立ち止まりませんでした。
「あなたは……どこへ行くの?」
「西へ。次の任務《にんむ》が待っている」
分《ぶん》不《ふ》相応《そうおう》なほどにかっこよく言うと、魔法使いは夜の闇《やみ》の中に消えていきました。
「……行っちゃった」
置き去りにされたシンデレラは、彼の言葉《ことば》を吟味《ぎんみ》してみました。
(たしかに、あたしには人の力に頼りすぎてるところがあったわ)
シンデレラは思いました。
(それによくよく考えてみれば、あたしなんかが王子さまと一緒《いっしょ》になれるわけないのよね。ありもしない夢を思い焦《こ》がれるよりも、今後の自分の人生について考えなくっちゃ。男って肝心《かんじん》な時は頼りにならないし。それは死んだ親父《おやじ》の件で実証《じっしょう》ずみじゃない)
シンデレラの考えは、みるみる現実的になっていきます。
(だいたいそもそも、あのお屋敷《やしき》はあたしの両親のものだったのよ? なのになんで赤の他人のあいつらが、あんなにデカい顔してるわけ? たとえ民法でそうと定められていても、そんな法律には従《したが》えないわ。そう! あたしがバカだったのよ……!)
ふつふつとこみ上げる怒《いか》りを抱《かか》えつつ、裸足《はだし》のシンデレラは家路《いえじ》につきました。
シンデレラのことがすっかり気に入ってしまったキョーコ王子は、なんとしてでも彼女を花嫁に迎《むか》えたいと思いました。
でも王子は、シンデレラの住所も氏名も電話番号も知りません。残された手がかりは、シンデレラがお城に残したガラスの靴《くつ》だけです。お父さんのハヤシミズ王はなにやら情報をつかんでいる様子《ようす》でしたが、息子《むすこ》の手並《てな》みを知りたいらしく、なにも教えてくれませんでした。
そんなわけで、キョーコ王子は家来たちに命じました。
「国中の女の子にこの靴をはかせてみて、ぴったりはける子を探《さが》しだしてきて! 正確な複製品《ふくせいひん》を一二八セット作って、一二八チームがかりで手分けして探すの!」
おとぎ話にあるまじき合理的《ごうりてき》な指示《しじ》ですが、それだけ王子も真剣だった、ということでしょう。
その日のうちに、靴のレプリカを持った家来たちが国中に散《ち》っていきました。その家来の一人・カザマ卿《きょう》は、お城にほど近いシンデレラの家にやって来ました。
家来のカザマ卿が靴を持ってお屋敷の扉《とびら》をノックすると、まま母のミズキが応対に出ました。
「はい……」
ミズキはひどく疲れ、途方《とほう》にくれた様子でした。家来は不思議《ふしぎ》に思いながら、入っていいか、と聞きました。
「ええ、まあ、どうぞ……」
家来が入ると、お屋敷の中はがらんとしていました。応接室をはじめとして、どの部屋《へや》も閑散《かんさん》としており、家具や調度類《ちょうどるい》は一切《いっさい》ありませんでした。
お屋敷の三人のむすめたちも、部屋のすみっこにしゃがみ込んで、舞踏会のドレス姿のまましょぼんとしています。
「あのー、これは……?」
「シンデレラの仕業《しわざ》ですわ……」
こみ上げる怒りをこらえるように、まま母は言いました。
「お城の留置場《りゅうちじょう》で一日|拘留《こうりゅう》されて、帰ってきたらこの始末《しまつ》よ……! お屋敷の家財《かざい》を一切《いっさい》合財《がっさい》、街で売り払《はら》って! お金を持って高飛びしたのっ! あの性悪女《しょうわるおんな》、ごていねいにあたしやむすめたちの下着さえ、ブルセラ・ショップにたたき売ってくれたわっ……!! そこまでやる、フツー?」
たまらなくなったように、まま母は歯ぎしりして泣き叫《さけ》びました。
「ははあ……それはまた、スゴいね」
「警察《けいさつ》に行ったら『あきらめろ』ですって! 税金《ぜいきん》泥棒《どろぼう》よ! あんたもそのクチ!? え!? 言ってみなさいよぉっ!!」
つかみかかってくるまま母を、家来のカザマ卿は必死でなだめました。
「と……とにかく。この靴なんだけど。はいてみますか?」
まま母とむすめたちは、力なく顔を見合わせました。
「いちおう……試《ため》させてもらうわ」
言うまでもなく、靴のサイズはだれにも合いませんでした。
ものさびしい街道《かいどう》を、魔法使いのサガラ軍曹《ぐんそう》は歩いていました。
下士官《かしかん》の彼は、テレポートの呪文《じゅもん》とか、そういう便利なものは使えません。次の任地《にんち》へ向けて、ただ黙々《もくもく》と歩くのみです。
お日さまが西に沈《しず》みかけたころ、一台の馬車が後ろからやって来て、彼の横に止まりました。質素《しっそ》だけど頑丈《がんじょう》そうな馬車です。
「む……?」
御者台《ぎょしゃだい》に一人で座《すわ》っていた女の子を見て、魔法使いはちょっとおどろきました。
「こんにちは、魔法使いさん」
シンデレラは言いました。新品の旅装束《たびしょうぞく》で身を固め、丈夫《じょうぶ》な革《かわ》のブーツをはいています。
「どういうことだ?」
「あなたの言う通りにしたのよ。頭を使って、工夫《くふう》したの。意外とどうにかなるもんだわ」
「そうか」
彼は腕《うで》を組み、何度かうんうんとうなずきました。
「それはけっこうなことだ」
言われて、彼女はにっこりと笑いました。
「あなたはこれからどうするの?」
「言った通りだ。西へ行く」
「偶然《ぐうぜん》ね。あたしも西へ旅するつもりなの。乗っていく?」
彼はすこし考えてから、答えました。
「では、同乗させてもらおう」
「素直《すなお》でよろしい。じゃあ、行きましょう」
彼が御者台にこしかけると、シンデレラは馬車を出発させました。二人を乗せた馬車は、ごとごとと夕日に向かって走っていきます。
「ところで――」
サガラ軍曹は言いました。
「君のことはなんと呼べばいい?」
「そーいえば、そうね。もう『|灰かぶり《シンデレラ》』ってのは合わないもの。……ま、あわてて考えることもないだろうけど」
「そうか」
「そうよ。なにしろ先は長いんだから、ね」
そう言ってほほ笑む彼女の横顔は、夕日に照《て》らされてとても魅力的《みりょくてき》でした。
ガラスの靴《くつ》がぴったり合うむすめはけっきょく見付からず、キョーコ王子はひどく落胆《らくたん》しました。
しかし王さまにたくさんの仕事や勉強を押し付けられ、いそがしい毎日を送るうちに、王子もけっこう元気になりました。
さらに、自分にも手に入らないものがあることを学《まな》んだおかげで、王子は後世《こうせい》に名君《めいくん》として名を残すことになったのでした。
めでたし、めでたし。
[#地付き]<シンデレラ・パニック! おわり>
[#改ページ]
あとがき
この本は月刊ドラゴンマガジン7月号から11月号まで掲載《けいさい》された「フルメタル・パニック!」の連載短編に加筆《かひつ》修正《しゅうせい》し、さらに書き下ろし一本を加えたものです。
すでに発売されている長編「戦うボーイ・ミーツ・ガール」と共通する舞台《ぶたい》・人物設定ではありますが、ほとんど別物のシリーズとして楽しめる内容になっています。長編の大道具・ <ミスリル> やASはちっとも出てこない、純然《じゅんぜん》たる学園コメディです。お年寄りからお孫《まご》さんまでお楽しみ下さい。……などと言いつつ、うちのバーさんはさすがに楽しめんだろうなー、とか思ってみたりします。
それでは各話のコメントを。
『南から来た男』
ラブレター話です。全然関係ないのですが、私も中学時代、匿名《とくめい》のラブレターをもらったことがあります。便箋《びんせん》や文面、文字など、どれをとってもかわいらしい女の子のものに見えましたが、なぜか最後のイニシャルだけは『J・D』でした。私は「……大豪院《だいごういん》邪鬼《じゃき》? いや、ジャイ子か?」などと不安になり、けっきょく手紙を無視しました。後にその手紙は級友の手間《てま》暇《ひま》かけたイタズラだったことが判明し、私は妙《みょう》にほっとしました(イニシャルの問題は、「んー、ただ、なんとなく」とのことでした。詰めの甘《あま》い奴です)。
『愛憎のプロパガンダ』
やっぱり本編とはあんまり関係ないのですが、校舎とかの落書きってのは面白いですよねー。だいたい出版物には載《の》せられないような内容ばかりなんですが、たまにキラリと光るものがあったりします。私が通っていた大学のサークル棟《とう》には、「神に祝福されし花の子供たち、朝焼けの中に舞《ま》え」だとか「帝国《ていこく》主義《しゅぎ》の現日本政府を打倒《だとう》し、室町《むろまち》幕府《ばくふ》を再興せよ!」だとか、作家の端《はし》くれたる私でも到底思い付かない秀逸《しゅういつ》なフレーズが多数ありました。みなさんも探してみましょう。
『鋼鉄のサマーイリュージョン』
GUN雑誌なんかを見ると、よくライフルとかでスイカを吹き飛ばしてる写真がありますね。もったいないことをするものです。食べ物を粗末《そまつ》にして、お百姓さんに申し訳ないと思わないのでしょうか。……ってのは、単なる言いがかりですね、すいません。
ところで時節《じせつ》がら、某《ぼう》ナイフはギリギリのヤバさだったようです。主人公が刃渡り一メートル以上もある刃物を振り回してる小説なんか、周りにはたくさんあるのに。……ってのも、やっぱり言いがかりですね、すいません。
『恋人はスペシャリスト』
私はカラオケ屋に行くとアニソンしか歌わない主義《しゅぎ》です。ポップスや演歌《えんか》には「戦え」とか「正義」とかいった言葉が出てこないからです。最近のアニソンも――なんと申しましょうか、愛ばかり唄《うた》っていて大いに不満です(力説)。愛ごときでは血潮《ちしお》が熱くなりません。もっと好戦的な歌はないのでしょうか、好戦的な歌は。「敵は地獄《じごく》のデ●●ロン」とか「いまに見ていろハ●ワ原人、全滅《ぜんめつ》だ」とか、そういうの。
でもポケモンとかの歌で「全滅だ」はまずいでしょうね。いろいろ。
『芸術のハンバーガーヒル』
私自身は絵心がイマイチだったりします。根気がないのが最大の理由でしょうか。中学時代の写生会でも、ラクしようとして会場に落ちていたジュースの空缶をどアップで描いて、怒られたりしてました。
『シンデレラ・パニック!』
書き下ろしです。果たして小説でこれはアリか? もともとパロディみたいなシリーズなのに、作者がそれをさらにパロっていいのか? 禁《きん》じ手続出の安直きわまりない内容ですが、つい、思わずやってしまいました。作者個人としましては、いろいろと手に汗握《あせにぎ》る一本であります。……ごくり。
……全然、まともなコメントになってませんね。長編「戦う〜」のあとがきで「なるべくプロらしく、スマートにクールに終わらせよう」などとガマンした反動が出てしまいました。ガマンは体に良くないので、たぶん次巻からのあとがきも、ずっとこんな感じです。ご了承《りょうしょう》ください。
さて。今回も原稿《げんこう》執筆《しっぴつ》や連載の実現等に様々なみなさんの助言《じょげん》とご協力をいただきました。この場で改《あらた》めて感謝させていただきます。ありがとうございました。
では、また。次回もかなめのハリセンがうなります(いつうなった?)。
[#地から2字上げ]一九九八年一一月  賀 東 招 二
追記:友人が私のホームページなるものを作ってくれました。別にフルメタのマル秘情報や秘蔵《ひぞう》イラストなどはありませんが、わたくし賀東が月一で書いてるエッセイとか、変な潜入《せんにゅう》ルポとか、うさんくさい会社案内だとか、そういうのがあります。ヒマな人は覗《のぞ》いてみるといいかもしれません。アドレスは次の通りです。
http://www.tk.xaxon.ne.jp/~irineseo/gatoh/index.html
[#改ページ]
初 出 月刊ドラゴンマガジン
1998年7月号〜1998年11[#「11」は縦中横]月号
「シンデレラ・パニック!」書き下ろし
底本:「フルメタル・パニック! 放っておけない一匹狼?」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
1998(平成10)年12月25日初版発行
2001(平成13)年02月10日12版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
入力:ぴよこ
校正:ぴよこ、暇な人z7hc3WxNqc
2006年10月19日入力、校正
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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使用したWindows機種依存文字
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「U」……ローマ数字2、Unicode2161
「V」……ローマ数字3、Unicode2162
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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注意点
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あとがきの最後にURLが記載されていますが、現在2009年6月現在の賀東招二の公式サイトは http://www.gatoh.com/ です。