フルメタル・パニック!
せまるニック・オブ・タイム
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)砂《すな》の壁《かべ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ミスタ・|Ag[#「Ag」は縦中横]《シルバー》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ソウスキー[#「ソウスキー」に傍点]・セガール[#「セガール」に傍点]
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目 次
プロローグ
1:砂《すな》の壁《かべ》
2:旅の途中《とちゅう》
3:ヤムスク11[#「11」は縦中横]
4:タイム・ハザード
5:魔弾《まだん》の射手《しゃしゅ》
エピローグ
あとがき
[#改丁]
プロローグ
ニケーロでの戦闘《せんとう》からちょうど一四時間後。<アマルガム> 幹部《かんぶ》による三度目のオンライン会議が開かれていた。
「それで? ミスタ・|Ag[#「Ag」は縦中横]《シルバー》の容態《ようだい》はどうなのかね?」
『重態です』
ミスタ・|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》の質問《しつもん》に、ミスタ・|K《カリウム》――カリーニンが答えた。感情《かんじょう》のかけらもうかがえない、事実だけを告げる声。このロシア人と通信越《つうしんご》しに話すようになってすでに数か月が経《た》つが、カリーニンが皮肉や諧謔《かいぎゃく》を口にしたことは一度もなかった。特殊部隊《とくしゅぶたい》あがりの有能《ゆうのう》な指揮官《しきかん》、現場《げんば》を知り尽《つ》くした実直な戦士。政治《せいじ》にもカネにも興味《きょうみ》がない――そういった『よくいる兵隊』だ。
彼――ミスタ・|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》の配下が、『支援《しえん》』の名目で彼とレナードの部隊に攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けたことについては、一切《いっさい》触《ふ》れようとしない。自分たちが追い詰《つ》められていることについてもだ。この場で|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》の所業について告発しても、何の意味もないことが分かっているのだろう。すでに懐柔《かいじゅう》や恫喝《どうかつ》を駆使《くし》して、幹部の大半は|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》の側についている。
ミスタ・|K《カリウム》は報告《ほうこく》を続けた。
『アカプルコ郊外《こうがい》の病院で治療中《ちりょうちゅう》ですが、助かっても後遺症《こういしょう》が残るそうです。一人で立つこともできなくなるでしょう』
「残念だな、あの若《わか》さで。大きな損失《そんしつ》だ」
そうつぶやき、ミスタ・|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》はオンライン会議室の座席《ざせき》に背中《せなか》を沈《しず》めた。音声のみの交信なので彼の姿《すがた》は誰《だれ》にも見えなかっただろうが、それでも自分の頬《ほほ》がゆるまないように注意してしまった。
列席する幹部たちは、いまも世界各地に散《ち》らばっている。|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》がいるのは極東――東京だ。赤坂に建《た》つ高層《こうそう》ビルの一室。会議室を出て何歩か歩けば、超防弾仕様《ちょうぼうだんしよう》の窓《まど》から昼過《ひるす》ぎの永田町が軽々と見下ろせる位置にある。
彼は日本人だった。
表の顔でもすでに絶大《ぜつだい》な権力《けんりょく》を握《にぎ》っている男だが、同時に彼は愛国者でもあった。国内でのテロには強い規制《きせい》をかけていたし、あえて事件《じけん》を起《お》こす場合にも必ずコントロールを手放《てばな》さないように心がけていた。<ベヘモス> を東京で暴《あば》れさせることは許《ゆる》しても、核《かく》テロリズムなどは許さなかった。あのA21[#「21」は縦中横]というテロ組織《そしき》に <ベヘモス> を譲渡《じょうと》することを真っ先に承認《しょうにん》したのも彼だったが、同時に『安全装置《あんぜんそうち》』も仕掛《しか》けておいた。必要なときに作動させられる自爆《じばく》装置だ。|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》の考えでは、有明一帯で適度《てきど》に暴れて都心に向かうあたりで、あの <ベヘモス> には『退場《たいじょう》』してもらうつもりだった。
去年《きょねん》から起きたいくつもの国内での『些細《ささい》な』テロ事件で彼が得たのは、日本の安全保障部門《あんぜんほしょうぶもん》へのより強い影響力《えいきょうりょく》だった。実直で有能な公安担当者《こうあんたんとうしゃ》には責任《せきにん》をかぶせ、操《あやつ》りやすい人間には後釜《あとがま》のポストを与《あた》える。対外的な危機感《ききかん》をあおり、穏健《おんけん》な論調《ろんちょう》の者には『売国奴《ばいこくど》』のレッテルを貼《は》ってやる。
いや、実際《じっさい》に連中は売国奴だ。この世界は奪《うば》い合いと騙《だま》し合いで成り立っている。生き残り、富《とみ》を得るのは生半可《なまはんか》なことではない。資源《しげん》に乏《とぼ》しいこの島国が、五〇年以上たいした戦争にも巻《ま》き込《こ》まれずに繁栄《はんえい》して来られたのはそれだけで奇跡《きせき》なのだ。自分にはこの奇跡を存続《そんぞく》させる義務《ぎむ》がある。
そのために <アマルガム> を有効活用《ゆうこうかつよう》させてもらう。
この『八百長試合《やおちょうじあい》の会』に参加し、主導権《しゅどうけん》を手に入れることこそが彼にとっての愛国的|行為《こうい》だった。
いくつかの細かい報告を済《す》ませてから、カリーニンが言った。
『こちらは残存部隊《ざんぞんぶたい》を再編《さいへん》して、彼の警護《けいご》と <ミスリル> 残党《ざんとう》の情報収集に当たっています』
「けっこう。君はどこにいるのかね?」
『まだメキシコの病院です』
「そうか。彼に付いていてやるといい。われわれも無事を祈《いの》っているよ」
彼の同情的な言葉に、何人かの幹部たちが小さな含《ふく》み笑いを漏《も》らした。
「 <ミスリル> 残党の追跡《ついせき》については、われわれも進めている。例の潜水艦《せんすいかん》は合衆国海軍《がっしゅうこくかいぐん》の警戒網《けいかいもう》をすり抜《ぬ》け、またしても太平洋のどこかに消えたようだ。その白いラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》| A S 《アーム・スレイブ》と一緒《いっしょ》にな。まったく厄介《やっかい》な連中だ」
『いずれ姿は見せるかと。彼らは最後まで <アマルガム> に抵抗《ていこう》するでしょうから』
そこで幹部の一人――ミスタ・| Na[#「Na」は縦中横] 《ナトリウム》が口を挟《はさ》んだ。
『問題はその白いASだ。例の <アーバレスト> とやらの同型機《どうがたき》なのかね? <ベヘモス> 三機を数分で撃破《げきは》したなどとは、にわかには信じられないのだが』
「事実だよ」
|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》は不機嫌《ふきげん》な声で言った。
「だが驚《おどろ》くにはあたらない。ラムダ・ドライバ搭載機相手の戦闘となると、<ベヘモス> の優位性《ゆういせい》は一気に崩《くず》れるからな。それは前から分かっていたことだ」
<ベヘモス> の強みは、その圧倒的《あっとうてき》な防御力《ぼうぎょりょく》にある。ラムダ・ドライバによる防御力が無意味になれば、いかにあの巨体《きょたい》とはいえ現用兵器《げんようへいき》の破壊力《はかいりょく》に耐《た》え切れるものではない。しょせんは蹂躙《じゅうりん》目的の機体なのだ。
『いまやその潜水艦と白いASは座視《ざし》できない存在《そんざい》になっている。なんといっても――いつ、どこから出てくるのか分からないのが面倒《めんどう》だ。作戦立案の担当者《たんとうしゃ》からも散々《さんざん》うるさく言われている。何とかならんのかね』
ミスタ・| Na[#「Na」は縦中横] 《ナトリウム》はいらだたしげに言った。
「以前からの報告が正しければ、脅威《きょうい》らしい脅威はその一機だけだ。こちらの <コダール> で十分に対応《たいおう》できる。しかるべき時に、しかるべき数を投入すればな」
『軍事についてもお詳《くわ》しいようですな』
カリーニンが言った。軍人の出身ではない|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》の言葉を揶揄《やゆ》しているようにも聞こえたが、彼は鼻を鳴らすだけで済ませた。
「本質的《ほんしつてき》な点は他の畑でも同じことだよ、ミスタ・|K《カリウム》。投資《とうし》でも選挙でも裁判《さいばん》でも。君とミスタ・|Ag[#「Ag」は縦中横]《シルバー》はそれを読み間違《まちが》えたのだ」
『なるほど。そうかもしれません』
そのとき初めて、彼はカリーニンの声にある種のユーモアを感じ取った。せいぜい自嘲的《じちょうてき》なニュアンスなのだろうが、その言葉には乾《かわ》いた皮肉がこもっていた。
『確《たし》かに読み間違えた。彼も私も、あなたたちの悪意を看過《かんか》し過ぎていたらしい』
そこでミスタ・|Cu[#「Cu」は縦中横]《カッパー》が奇妙《きみょう》な裏返《うらがえ》った声をもらした。彼の発言を示《しめ》すホログラム上のインディケーターがせわしく明滅《めいめつ》し、彼の声以外の音――荒々《あらあら》しい足音といくつかの銃声《じゅうせい》が響《ひび》いた。
「どうした?」
ほとんど同時にミスタ・|Sn[#「Sn」は縦中横]《ティン》の回線を示す立体|映像《えいぞう》のシンボルが、一瞬《いっしゅん》強く明滅した。なにかの液体《えきたい》がぶちまけられたような異音《いおん》。あれは背後《はいご》から頭を撃《う》ちぬかれ、頭蓋骨《ずがいこつ》の内容物《ないようぶつ》が正面の机上《きじょう》にばら撒《ま》かれたときの音だろうか……
そしてミスタ・| Na[#「Na」は縦中横] 《ナトリウム》が命乞《いのちご》いをしている。インディケーターが小刻《こきざ》みに動き、回線の向こうで彼が発している息遣《いきづか》い、どもり、悲鳴などが、無機的な映像《えいぞう》の中に淡々《たんたん》と描《えが》かれている。
待《ま》て。撃つな。私は関係ない。どうか話を――
銃声。
こうして三人の幹部が沈黙《ちんもく》した。
残りの幹部たちの大半は、息《いき》を呑《の》み押《お》し黙《だま》っている。身じろぎと呼吸《こきゅう》。自分たちの周囲に同じことが起きていないか確認《かくにん》している声や物音。
『制圧《せいあつ》』
|Cu[#「Cu」は縦中横]《カッパー》の回線から、別の男の声がした。
『制圧』
|Sn[#「Sn」は縦中横]《ティン》の回線から、また別の男の声がした。
『制圧』
| Na[#「Na」は縦中横] 《ナトリウム》の回線から、若《わか》い女の声がした。
世界各地に散《ち》らばっているはずの、三人の幹部が同時に殺された。おそらくは、あのレナード・テスタロッサの配下の者によって。制圧された三人は|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》と共に、レナードを謀殺《ぼうさつ》しようとした主謀者たちだった。
「こ、これはいったい――」
「言っただろう、ミスタ・|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》。われわれは看過していたと」
音もなく|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》の背後《はいご》に忍《しの》び寄《よ》っていたカリーニンが、彼の肩越《かたご》しに告げる。ロシア人はそれまで使っていた携帯通信機《けいたいつうしんき》を彼の眼前《がんぜん》に差し出すと、親指でスイッチを切り、無造作《むぞうさ》に机上に放《ほう》り出した。
「警備《けいび》はすでに沈黙させている。助けは来ない」
自分の素性《すじょう》と居場所《いばしょ》を知られていたこともさることながら、カリーニンがいま、ここにいること自体が信じられなかった。ほんの半日前までは、確《たし》かにメキシコにいたはずなのだ。普通《ふつう》の旅客機なら二〇時間以上はかかる距離《きょり》である。これほどの短時間で南米から極東に移動《いどう》し、さらに厳重《げんじゅう》な警備を潜《くぐ》り抜け……ありえない、まったく想定外《そうていがい》のことだった。対応《たいおう》が早すぎる。
「国会議員のカネヤマ・タケシだったか。彼はダミーだ。君の意を受けて動いていただけに過ぎない。そして本当のミスタ・|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》 ――つまりあなたは、今夜のニュースの主役になる」
「待っ……」
人体の破壊《はかい》に精通《せいつう》しているカリーニンは、武器《ぶき》さえ使わなかった。恐《おそ》ろしい力で彼の顔面を机上に押し付けると、後頭部めがけてギロチンのように鋭《するど》く肘《ひじ》を打ち下ろした。
一瞬《いっしゅん》で脊髄《せきずい》が破壊され、全身の感覚が消《き》え失《う》せ、呼吸を含《ふく》めたすべての運動が不可能《ふかのう》になる。床《ゆか》に崩《くず》れ、金魚のように口をぱくぱくとさせながら、遠のく意識《いしき》の中で聞こえたのは、残った幹部たちに何かを告《つ》げているカリーニンの声だけだった。
[#挿絵(img/10_013.jpg)入る]
さすがに <アマルガム> の幹部だけあって、残った十数人はすぐに落ち着きを取り戻《もど》していた。この惨劇《さんげき》をある程度《ていど》予想《よそう》していた者さえいるようだ。
机上のマイクをつかみ、カリーニンは一同に告げた。
「ミスタ・|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》は他の三人と共謀《きょうぼう》し、『支援』の名目でわれわれを襲撃《しゅうげき》した。ミスタ・|Ag[#「Ag」は縦中横]《シルバー》を抹殺《まっさつ》し、彼の資産《しさん》を強奪《ごうだつ》しようと企《たくら》んだのだ。これはその裏切《うらぎ》りへの報復行為《ほうふくこうい》だ。……なにか異存《いぞん》は?」
一同は沈黙の形で承諾《しょうだく》した。
「けっこう。……だが私の知る限《かぎ》りでは、承認を得るべき人物がまだ一人残っていると思うのだが。いかがかな?」
カリーニンはそう告げると、相手が答えるのを辛抱強《しんぼうづよ》く待ち続けた。
その相手はこのオンライン会議の席上には表示《ひょうじ》されていない。これまで出席したこともほとんどない。
だが、いるはずなのだ。どこかでこの顛末《てんまつ》を聞いているのは間違いない。
幹部間での深刻《しんこく》な内紛《ないふん》が起き、下手《へた》をすればこれ以上の抗争《こうそう》に発展《はってん》しそうな問題が起きていれば――必ず『彼』は現《あらわ》れるはずだ。これだけのことを起《お》こせば。
<アマルガム> には実質的《じっしつてき》なトップがいない。あくまで網《あみ》の目状《めじょう》につながった、ゆるやかな合議制《ごうぎせい》の組織だ。しかしそれだけでは、ここまで組織としての主体を維持《いじ》することはできるわけがない。『管理者』だけはどうしても必要だ。決して自身の意志《いし》は出さず、姿を見せることもなく、ただ構成員《こうせいいん》たちにその場を提供《ていきょう》し、『調整』を行うだけの存在。さまざまな元素《げんそ》を結合させ、『水銀合金《アマルガム》』たらしめている者。
「ミスタ・| Hg[#「Hg」は縦中横] 《マーキュリー》」
カリーニンは彼の名を呼んだ。
「出てきていただきたい。いま沈黙を保《たも》てば、われわれはあなたへの信頼《しんらい》を根本的なところから見直さなければならなくなる」
オンライン会議の映像《えいぞう》が一瞬弱く明滅し、参加者を示《しめ》すシンボルの色が黄色くなった。普段《ふだん》使われない暗号方式が起動している表示だ。それはすなわち、この会議を傍聴《ぼうちょう》していた第三者が発言側にアクセスしてきたことを示している。
『問題のようだな』
電子的に変調された声で、『水銀《マーキュリー》』が告げた。
[#改ページ]
1:砂《すな》の壁《かべ》
マーティン・エスティス少佐がその悪い報告を受け取ったのは、砂漠《さばく》の熱さが頂点《ちょうてん》に達した一四時|過《す》ぎのことだった。
マリーン朝時代の遺跡《いせき》を利用したこの基地《きち》に、敵《てき》の大部隊が接近《せっきん》している。いまのところ、主力戦車《MBT》三〇両と第二世代型アーム・スレイブ四機が確認《かくにん》されており、さらに同数以上の部隊が敵戦力に加わることが予想されていた。
敵部隊とは <アマルガム> のことだ。もっと正確に表現《ひょうげん》するなら、モロッコ軍内で <アマルガム> の息がかかった部隊ということになる。例の大攻勢《だいこうせい》から難《なん》を逃《のが》れ、<ミスリル> の残存兵力《ざんぞんへいりょく》と物資《ぶっし》の一部をまとめ、反撃《はんげき》の機会をうかがっていたエスティスたちを、奴《やつ》らはとうとう叩《たた》き潰《つぶ》しにきた。
「くそったれめ」
彼はいまいましげにつぶやいてから、粗末《そまつ》な天幕《てんまく》の下で、鼻腔《びこう》から乾《かわ》ききった大気を吸《す》い込《こ》んだ。
ここはアフリカ北西部だ。モロッコ、アルジェリア、モーリタニア、西サハラの国境《こっきょう》が接する付近の砂漠地帯《さばくちたい》で、周囲数十キロには山らしい山もない。焼けつく太陽がひからびた大地を照りつけ、はるか地平線を陽炎《かげろう》の中にゆらめかせている。エスティスはいまでも、自分がいるのがアリゾナかネバダあたりなのではないかと思うことがよくあった。
まばらに並《なら》び立つ石柱の中に作られたカモフラージュ済《ず》みのテントや兵舎《へいしゃ》。
ひび割《わ》れた天然の平地を利用しただけの滑走路《かっそうろ》。
偵察衛星《ていさつえいせい》からの監視《かんし》をごまかせるくらいの偽装《ぎそう》を施《ほどこ》してあるが、基地と呼ぶにはひどく質素《しっそ》ではかないものだった。兵力は一〇〇人に届《とど》かず、|A S《アーム・スレイブ》は数機の第二世代型のみ。M6の部品もストックしているが、脚部《きゃくぶ》はあるのに股関節《こかんせつ》パーツがなかったり、胴体《どうたい》はあるのにコックピット部分がまるごとなかったり、といった有様だ。
こんな『抵抗拠点《ていこうきょてん》』を敵が発見したことにも呆《あき》れたが、わざわざそんな大兵力で潰しに来たことにも驚《おどろ》いていた。
「やれやれ。こんなあばら屋相手にぜいたくな戦争しやがって」
エスティスがぼやくと、報告を持ってきたジマー曹長《そうちょう》が肩《かた》をすくめた。
「そうとも言えませんな。敵がわれわれの戦力をすべて把握《はあく》しているとは考えにくいですから」
「過大評価《かだいひょうか》してるってのか。だったら光栄だな」
かつて中米の小国ベリーズに、<ミスリル> の作戦要員|選抜《せんばつ》キャンプがあった。
世界中から集められた傭兵《ようへい》をしごきあげて、じっくりと能力適性《のうりょくてきせい》をふるいわけ、残った者を各地の実戦部隊に送り込む。エスティスはその選抜キャンプの『校長』だった。一部の例外を除《のぞ》けば、<ミスリル> 作戦部内の陸戦ユニット要員は、たいていエスティスのキャンプを出ている。あの太平洋戦隊の三人組――メリッサ・マオやクルツ・ウェーバー、ソウスキー[#「ソウスキー」に傍点]・セガール[#「セガール」に傍点]もそうだ。
今年初頭の <アマルガム> の大攻勢によって、世界各地に点在《てんざい》する <ミスリル> の拠点が次々に壊滅《かいめつ》したとき、エスティスたちはすぐさまベリーズの湿地帯《しっちたい》に徒歩《とほ》で身を隠《かく》した。戦車や装甲車《そうこうしゃ》はもちろん、ASさえも湿地帯での行動には不自由を余儀なくされる。生身で逃《に》げた方が敵の追撃《ついげき》をかわすには有利《ゆうり》だったのだ。航空機による上空からの追跡《ついせき》も、密林《みつりん》とブッシュを利用して隠れることができる。
そうして彼らは三週間もの行軍の末、どうにかホンジュラスから空路でコロンビアへと脱出《だっしゅつ》したのだった。
コロンビアの都市メデジンまでたどり着いたあと、訓練生のほとんどはその足で故郷《こきょう》へと帰っていった。残ったのは <ミスリル> 所属《しょぞく》の教官十数名と、物好きな訓練生が四〜五名くらいだ。
わずか二〇名弱で強大な <アマルガム> に対し何かができるわけもなく、エスティスたちはしばらく北アフリカを拠点に小さな民間軍事会社を営《いとな》みつつ、他の仲間たちがどうなったのか情報《じょうほう》を集め続けた。
それから数か月は、一〇人前後の <ミスリル> の人間が合流したほかは、たいした成果も上がらなかった。自分たちのように少人数のままで様子を見ている仲間たちは多数いるようだったが、雌伏《しふく》している彼らの所在《しょざい》をつかむのは至難《しなん》の業《わざ》だった。コンタクトが取れた者たちですら、これからの成り行きには悲観的で、改めて結集する気持ちはないようだった。エスティス自身も再編成の希望が萎《な》えてきて、このままささやかな民間軍事会社の経営者として生きていくのもいい、と思い始めていた。
だがその矢先、サンフランシスコであの事件《じけん》が起きた。
ニュースは『港湾部《こうわんぶ》での爆発事故《ばくはつじこ》』と報じていたが、現場《げんば》の断片的《だんぺんてき》な写真を見ただけで、彼らはそれがただの爆発事故などではなく、AS同士の戦闘によるものだと直感した。
ジマー曹長と数名の部下がサンフランシスコに飛び、現地で港湾労働者の目撃証言《もくげきしょうげん》や監視《かんし》カメラの映像《えいぞう》、警察無線《けいさつむせん》の記録などを一日で手に入れてきた。たいした分析《ぶんせき》をするまでもなく、その事件が『黒いM9』と例の『ヴェノム』の一騎討《いっきう》ちだったことが分かった。しかもその戦闘中、黒いM9はどこからか[#「どこからか」に傍点]飛来した巡航《じゅんこう》ミサイルの支援を受け、単機であのヴェノムを撃破《げきは》したのだ。
おそらく黒いM9は元地中海戦隊のベン・クルーゾーだろう。そして巡航ミサイルをぶっ放《ぱな》したのは――まず間違いない、あの潜水艦 <トゥアハー・デ・ダナン> だ。会ったことはなかったが、えらいクソ度胸《どきょう》の女が指揮《しき》しているとかいう噂《うわさ》の。
それを知ったときの、エスティスたちの興奮《こうふん》は大変なものだった。
西太平洋戦隊のあいつら、まだしぶとく生きていやがった。しかも敵どもに手痛《ていた》いしっぺ返しまでカマしていやがる。
この事件は世界各地の元 <ミスリル> の面々にも知れ渡《わた》ったようだった。<トゥアハー・デ・ダナン> が果敢《かかん》な抵抗を続けている事実に勇気付けられた者の数は、エスティスの想像《そうぞう》以上で、『まだ一矢報《いっしむく》いてやれるかもしれない』と考え直してエスティスに再接触《さいせっしょく》してくる者が相次《あいつ》いだ。
それからわずか二ヶ月で、ささやかだった部下の数は三倍以上になり、こうしてサハラ砂漠のはずれに基地を構《かま》えるにまで至《いた》った。かつての訓練キャンプ用の予算を欧州《おうしゅう》の銀行から苦労して回収《かいしゅう》し、必要な物資の集積《しゅうせき》を始め、これから本格的《ほんかくてき》に戦力を拡充《かくじゅう》していこうという時期にさしかかっていたのだが――
こうしていま、敵が迫《せま》っている。
入念に偽装し秘匿《ひとく》していたこの基地を、敵がどうやって発見したのかは分からなかったが、いまとなってはどうでもいいことだった。
とにかく敵の兵力は圧倒的《あっとうてき》だ。さっさと撤退《てったい》したいところだったが、地上車両で逃げても追い詰《つ》められるのは目に見えていた。兵員と物資を運ぶ輸送機《ゆそうき》は一二〇〇キロの彼方《かなた》だ。現在《げんざい》こちらに急行しているものの、到着《とうちゃく》はどう早くても二時間後で、それまで持ちこたえるのはほとんど不可能《ふかのう》だった。
きわめて不利な戦闘が、もうすぐ始まろうとしている。
「悔《くや》しいな。もうちょっとがんばれると思ったんだが」
エスティスはつぶやいた。天幕の外の焼けつく大地を右往左往《うおうさおう》し、もはや無駄《むだ》な努力に近い迎撃準備《げいげきじゅんび》を進める部下たちを眺《なが》める。
「珍《めずら》しく弱気ですな。まあ、あんな数が相手では無理《むり》もありませんが」
ジマーが言った。
「ふん、だれが弱気なものか。連中に目にもの見せてやるぞ」
「ええ。せいぜい派手《はで》に暴《あば》れるとしましょう」
悲壮感《ひそうかん》のかけらもないニヤニヤ笑いを交《か》わすと、エスティスは手近に置いてあったアサルトライフルをつかんだ。砂漠迷彩《さばくめいさい》の帽子《ぼうし》をかぶって天幕の外に出ると、ぎらぎらとした日差しが彼の素肌《すはだ》を焼く。熱く乾いた微風《びふう》が頬《ほお》をなでたが、ドライヤーでもあてられたような暑苦しさだった。夜はあんなに寒いのに、この西サハラの昼間の暑さときたら。
部下たちに指示《しじ》を出してから、双眼鏡《そうがんきょう》で予想される敵の侵行方法を考える。
真っ白な砂漠と、熱にゆがんで揺《ゆ》れる大気。見えるのはそれだけだった。
いや――砂埃《すなぼこり》が見えた。
ゆるやかな砂丘《さきゅう》を越《こ》えて、一台の四輪駆動車《よんりんくどうしゃ》がこちらに向かってくる。不整地をものともせず、猛烈《もうれつ》な速度でまっすぐに。距離《きょり》は一キロちょっとといったところか。
「なんだ、ありゃ」
「撃ちましょうか? 当ててみせますぜ」
そばの塹壕《ざんごう》の中にいた部下が、五〇口径《こうけい》ライフルのスコープを覗《のぞ》きながら言った。
「いや。様子を見よう」
まさか自爆攻撃《じばくこうげき》というわけでもあるまい。よく見れば窓《まど》から運転手の男が身を乗り出し、こちらに大きく手を振《ふ》っている。はじめはカーキ色のシャツに黒い髪《かみ》ということぐらいしか分からなかったが、接近《せっきん》するにつれ顔も判別《はんべつ》できるようになってきた。
「あいつだ」
ジマーが言った。彼もベリーズの訓練キャンプで教官をしていた一人なので、心当たりがあるのだろう。
「だれだ?」
「あいつですよ、韓国人《かんこくじん》の。おととしの末に合格《ごうかく》した奴《やつ》です。たしか西太平洋戦隊に送りました」
「覚えとらん」
「ほら、あの。やる気がないくせに、何でもそつなくこなしてたあいつです」
「ああ、あの。目立たないくせに、いつのまにか合格点をしっかり出してくる変な奴か。いたなあ、確《たし》かに」
「そう。あいつです」
「名前は何だった?」
「それがなぜか思い出せなくて……ヨンだったかユンだったか」
「いまさら聞くのも気まずいな。うーむ……」
部下たちに『撃つな』と命じてから、エスティスは塹壕の前に出ていった。ジマーともう一人がライフルを片手《かたて》に後から従《したが》う。やがて基地の前までやって来た四輪駆動車は、ジマーから三〇メートルほど離《はな》れたところで停車《ていしゃ》した。東洋人の若者がエンジンをかけっぱなしで降《お》りてくる。
「エスティス少佐、お久《ひさ》しぶりです! ご無事でなによりでした!」
若者が息せき切って、彼らのそばへと走ってきた。
「おう。まあ。なんだ」
相手の名前が分からないとき特有の曖昧《あいまい》な態度《たいど》で、エスティスは答えた。
「古い暗号方式は危険《きけん》だったから、こうして直接《ちょくせつ》駆《か》けつけたんですよ。いやあ、間に合ってよかった!」
「その前に姓名《せいめい》と階級《かいきゅう》、所属《しょぞく》を報告《ほうこく》しろ! 最低限《さいていげん》のけじめだぞ!」
横からジマーが、ベテランの下士官らしく声を張《は》り上げた。すると若者はあわてて直立不動の姿勢《しせい》をとった。
「失礼しました。ヤン・ジュンギュ軍曹《ぐんそう》です。西太平洋戦隊所属、特別対応班《とくべつたいおうはん》。まだ <ミスリル> があると仮定《かてい》して、の話ですが」
そうそう、ヤンだった、ヤン。ナイスだ、ジマー。
「まあ堅《かた》い話は抜きだ。生きていてくれて嬉《うれ》しいぞ、ヤン」
「あ、ありがとうございます」
「で、おまえは何しに来たんだ? ここに敵が迫《せま》ってるのは知ってるみたいだが」
「ええ、それは――」
そのとき、大気を切り裂《さ》く耳障《みみざわ》りな音が響《ひび》き渡《わた》った。彼らがよく知っている音――砲弾《ほうだん》の飛来する音だ。近い。そう思った直後、ヤンが乗ってきた車が炎《ほのお》を吹《ふ》きあげ爆発《ばくはつ》し、一〇メートルほどの高さまで跳《は》ね上がった。外れたタイヤが放物線を描《えが》き、地面に落ちて転がっていく。
「おいでなすった」
いまのは試射《ししゃ》だ。車を狙《ねら》ったものではない。この一発を基準《きじゅん》に、地平線の向こうに控《ひか》えている砲兵部隊は照準《しょうじゅん》を何度か修正《しゅうせい》して、本格的《ほんかくてき》な効力射《こうりょくしゃ》を加えてくる。もたもたしている時間はなかった。
地面に伏《ふ》せていたエスティスたちは、頭や背中《せなか》にかぶった砂《すな》を払《はら》って立ち上がり、小走りで陣地《じんち》へと引き返す。ヤンの方は自分の車が吹き飛んだことに唖然《あぜん》としていたが、すぐに気を取り直して彼らを追ってきた。
「待ってください、少佐!」
「戦闘配置《せんとうはいち》! 近くに砲撃《ほうげき》を誘導管制《ゆうどうかんせい》してる敵がいるはずだ! 探《さが》してつぶせ! ジマー、おまえは西側の警戒《けいかい》だ!」
基地内《きちない》を走りながら指示《しじ》を下すエスティスの背後《はいご》で、ヤンが叫《さけ》んだ。
「エスティス少佐、話がまだです!」
「後にしろ、俺は忙《いそが》しい!」
敵の修正射が着弾した。今度の一発は前よりも基地に近かった。先ほどエスティスたちが立っていたあたりだ。基地内は敵の本格的な砲撃に備《そな》え、いよいよ騒然《そうぜん》としてきた。ありったけの弾薬を塹壕に運び込む者、対戦車ミサイルの発射準備《はっしゃじゅんび》をする者、なけなしのASに搭乗《とうじょう》する者――
「効力射が来るぞっ!」
だれかが叫んだ。部下たちが一斉《いっせい》に塹壕に駆《か》け込《こ》む。大空が震《ふる》え、わななき、砲弾の飛来するあの音がみるみる近《ちか》づいてきた。一発ではない。これまでとは比《くら》べ物にならない数だ。一〇発、いや二〇発以上だろう。
「少佐、僕《ぼく》がここに来たのは――」
「やかましい!」
着弾が迫《せま》る。
エスティスは手近な塹壕に飛び込んだ。ヤンをつかんで引っ張《ぱ》り込もうかとも思ったが、その必要はなかった。彼もさすがに素人《しろうと》ではない。まごつきもせずにエスティスの隣《となり》――決して広いとはいえない塹壕の中に滑《すべ》り込んでくると、耳をふさいで口を開き、着弾に備えた。
着弾。
どれだけ経験《けいけん》を積《つ》んでいようと、この瞬間《しゅんかん》ばかりは慣《な》れることができない。爆発の衝撃《しょうげき》は、重たい砂袋《すなぶくろ》を体に叩《たた》きつけてくるようなものだ。自分の意思とは無関係に肺《はい》から空気が漏れ、びりびりと頭蓋骨《ずがいこつ》がしびれ、全身に焼けるような熱さが走る。それが一度ではなく、何度となく襲《おそ》いかかるのだ。
「……くそっ」
敵の効力射が一段落《いちだんらく》するなり、エスティスは悪態《あくたい》をついた。
すぐさま損害《そんがい》を確認する。塹壕のおかげで負傷者《ふしょうしゃ》はわずかのようだった。ただし防護措置《ぼうごそち》を施《ほどこ》していない施設《しせつ》や車両、物資はあっさり破壊《はかい》され、黒煙《こくえん》と破片《はへん》をあたり一面に撒《ま》き散《ち》らしていた。助けを求める怒鳴《どな》り声と、初体験の砲撃でパニックに陥《おちい》った者の悲鳴が飛び交《か》っている。敵戦車の接近を誰かが報告し、その数をほかの誰かが告げた。
「すぐに第二波が来るぞ。じっくり下ごしらえってわけだ」
「しょ、少佐……」
ヤンがふらふらと塹壕から這《は》い出してくる。
「話なら後だ。おまえも武器《ぶき》を取れ」
接近中の敵戦車部隊が、熱く揺《ゆ》れる陽炎《かげろう》の向こうから発砲《はっぽう》してきた。榴弾《りゅうだん》が基地のはずれに命中し、大量の砂塵《さじん》を巻《ま》きあげる。二発、三発――四発目が無人の装甲車に命中し、燃《も》え上がる鉄塊《てっかい》となって空中できりもみした。
まったく容赦《ようしゃ》がない。
この調子では、まともに敵とやりあう頃《ころ》には味方の人員も半分くらいしか残っていないだろう。部下の前では威勢《いせい》のいいそぶりを見せているものの、エスティスの胸中《きょうちゅう》は穏《おだ》やかではなかった。
敵の動きを吟味《ぎんみ》してから、充分《じゅうぶん》に引きつけるよう命じる。戦車部隊はいくつかの方角から分散《ぶんさん》して接近中だった。
「ビビるな! この距離ならまともに当たらん! 引き付けてから撃《う》て!」
「少佐!」
性懲《しょうこ》りもなくヤンが話しかけてきた。
「後にしろ!」
首の後ろがひどく熱い。北側からの敵部隊が撃ってきた。目を細めれば、横一列に並《なら》んだ戦車――近代改修型のM60[#「60」は縦中横]の姿が識別《しきべつ》できる。数は――一二両以上か。がんばれば半数以下まで削《けず》ることができるかもしれなかったが、そこで終わりだろう。いずれこの陣地《じんち》はあのキャタピラに蹂躙《じゅうりん》される。
いや――
たちこめる煙《けむり》と陽炎の向こう。灼熱《しゃくねつ》の中で断続的《だんぞくてき》に砲煙《ほうえん》をあげる敵戦車のうち一両が、ひときわ大きな炎《ほのお》をあげた。
爆発したのだ。
一両だけではなかった。もう一両、さらにもう一両。次々に地平線の敵が、何者かの手で撃破《げきは》されていく。狙撃砲《そげきほう》、そして超高速《ちょうこうそく》ミサイル。どれも正確《せいかく》で効率的《こうりつてき》な射撃《しゃげき》だった。エスティスたちの陣地からは見えない、どこか遠くからの――
「これを知らせに来たんです」
目を丸くしたエスティスの背後で、ヤンが言った。
「増援《ぞうえん》があと一五分で到着《とうちゃく》するから、それまで持ちこたえてくれ、と。でも予定より早く来てくれたみたいで――」
「だったら早く言え、ばかもん!」
「言おうとしたのに聞いてくれなかったんですよ!」
「覚えとらん。おまえが悪い!」
「そっ……」
「で!? 増援の兵力は? どこにいるんだ!?」
『とりあえず一機はすぐそばよ!』
彼らの頭上から女の声がした。あたりには濃密《のうみつ》な煙がたちこめているので、声の正体が|電磁迷彩《ECS》で姿を消していたASだということはすぐに分かった。その空間だけが大きな人型のシルエットで不自然に歪《ゆが》んでいるのだ。
M9 <ガーンズバック> 。<ミスリル> が使用していた最新鋭《さいしんえい》の第三世代型ASだ。
「M9か? いつからそこに?」
『たった今です、少佐。間に合ってよかったわ』
「その声は覚えとるぞ。マオ。メリッサ・マオだな!?」
『ご名答』
ECSを解除《かいじょ》したM9が姿を見せ、両手で構えた超高速ミサイル・K1 <ジャベリン> を発射する。強力なロケットモーターでマッハ4・5まで加速したミサイルは地平線の敵戦車めがけて突進《とっしん》し、その砲塔部分《ほうとうぶぶん》を天高く吹《ふ》き飛《と》ばした。
『こちらは西太平洋戦隊 <トゥアハー・デ・ダナン> 、メリッサ・マオだ。諸君の支援《しえん》を行う前に、確認《かくにん》しておきたいことがある。この基地にビールはあるか?』
「あるぞ、たんまりとな!」
『ではたっぷりと冷やしておけ。交戦開始!』
[#挿絵(img/10_031.jpg)入る]
言うなりマオのM9は陣地を跳《と》び越《こ》し、戦闘機動《せんとうきどう》に入った。彼女の言葉に勇気づけられた兵士たちが歓声《かんせい》をあげる。後ろではヤンが肩《かた》を落として『けっきょく美味《おい》しいところ、全部持っていかれた……』だのとつぶやいていた。
「ヤン。支援はASのみか?」
「ええ。輸送ヘリもいますが、たいした火力は期待できません」
エスティスは誰にも聞こえないくらいの音で舌打《したう》ちした。
増援はありがたいが、ASだけなのは厳《きび》しい。なぜならここは砂漠――ASという兵器が最も苦手とする地形なのだ。
戦闘が本格化し、味方間の交信量がにわかに増《ふ》えてきたのを『彼』は認識《にんしき》した。
拠点《きょてん》の防衛《ぼうえい》についているほとんどのユニットが敵と交戦中になったのだ。
『こちらウルズ2。南西の戦車部隊から攻撃を受けている。現在《げんざい》応戦中《おうせんちゅう》』
『ウルズ6だ。四機目を撃破《げきは》したぜ。ポイント・ホテルに移動中《いどうちゅう》』
『テイワズ12[#「12」は縦中横]から全ユニットへ。04[#「04」は縦中横]―23[#「23」は縦中横]付近に新手だ。主力戦車六両、歩兵戦闘車《IFV》四両。北側から「アラモ砦《とりで》」に接近中』
『ウルズ1了解《りょうかい》。こちらは04[#「04」は縦中横]―23[#「23」は縦中横]の敵部隊を足止めする。ウルズ2の弾薬はどうだ?』
『こちらウルズ2。ジャベリンはあと三発よ。そろそろ厳《きび》しいわ』
『ゼータ3より <女神の一族> の諸君へ。これよりささやかな火力|支援《しえん》を行う。配送先のリクエストはあるか?』
『ウルズ2よりゼータ3へ。いま座標《ざひょう》を送ったわ』
『確認した、ウルズ2。素敵《すてき》な声だな。生き延《の》びたら夕食をご一緒《いっしょ》させてくれないか』
『やめておけ、ゼータ3。そいつはひどいじゃじゃ馬だぞ』
『あら、考えてもいいわよ? っ……! 二両を撃破。でも動けない。敵の砲撃が濃密《のうみつ》で、下手に動くと――』
きわめて深刻《しんこく》な状況《じょうきょう》にもかかわらず、各ユニットの声はごく冷静で落ち着いていた。彼らはいつもそうだ。危険な時ほど怒鳴《どな》らなくなる。うろたえも驚きもしなくなる。
まるでこの自分に[#「自分に」に傍点]――そう、機械のようになる。
ARX―8 <レーバテイン> 搭載の人工知能《じんこうちのう》、アルは耳を澄《す》まし続けた。
彼らの会話をはるかに上回る量の電子情報《でんしじょうほう》が、各ユニットの電子機器同士でやり取りされていく。敵味方《てきみかた》の位置、移動速度、移動方向、各種コンディション。詳《くわ》しい座標。レーダー、赤外線、光学センサのさまざまな情報。
きょうの戦場は二次元的だった。どこまでも続く砂漠。それ以外はいくらかの丘陵《きゅうりょう》と岩場があるだけの地形だ。
<レーバテイン> は待機を続けている。
|電磁迷彩《ECS》で透明化《とうめいか》したペイブ・メア輸送ヘリの格納庫内《かくのうこない》にうずくまり、味方部隊から受け取った情報を整理し、沈黙を保《たも》っている。
機体に搭載された特殊《とくしゅ》なマンマシン・インターフェイス――『TAROS』が、アルに操縦兵《そうじゅうへい》の精神状態《せいしんじょうたい》を伝えてくる。
彼は明らかに焦《じ》れていた。
味方が厳しい戦いを強《し》いられているというのに、自身は安全な高空にこそこそと隠《かく》れ、ただ戦況《せんきょう》を座視《ざし》していることが不満なのだろう。
この操縦兵が心理的ストレスから軽率《けいそつ》なミスや命令違反《めいれいいはん》を犯《おか》す可能性《かのうせい》はほとんどゼロに近い。だが出番が来たときラムダ・ドライバを確実に作動させるためにも、彼をよりリラックスさせておくことが、戦術的《せんじゅつてき》にプラスになるとアルは判断《はんだん》した。
<<軍曹|殿《どの》>>
「なんだ」
コックピット内の操縦兵――相良《さがら》宗介《そうすけ》が答えた。予測《よそく》していたよりも声のストレスが高かった。
<<音楽でもかけましょうか?>>
「かけるな」
<<はい>>
おおむね予想通りの返答だった。この操縦兵が『そうだな。ではゴキゲンなナンバーを一曲|頼《たの》む』と答える確率は〇・一パーセント以下だ。いまの提案《ていあん》は自身のコミュニケーション機能《きのう》に関する簡単《かんたん》なテストだった。
<<落ち着かないご様子でしたので。なにかお役に立てればと>>
「ならば黙っていろ。それが一番助かる」
<<いいジョークです>>
「ジョークではない。黙《だま》れ」
最近の相良宗介の『黙れ』は、ただの相槌《あいづち》と同じ意味だとアルは解釈《かいしゃく》していた。
<<味方部隊の心配でしょうか? リスクの高い戦闘ですが、ここは耐《た》えてもらうしかありません>>
平坦《へいたん》な砂漠での、戦車部隊相手の戦闘。これはアーム・スレイブという兵器が最も苦手とする状況の一つである。
いくら先端技術《せんたんぎじゅつ》の結晶《けっしょう》である|A S《アーム・スレイブ》であろうと、戦車の装甲《そうこう》と火力には絶対にかなわない。強力な戦車砲《せんしゃほう》の砲弾を跳《は》ね返すことは出来ないし、標準的《ひょうじゅんてき》なアサルトライフルでは戦車を正面から撃破することもできない。
『前面投影面積《ぜんめんとうえいめんせき》』――正面から見た面積の大きさは言わずもがなだ。
地を這《は》うように移動する戦車に比べ、直立歩行するASというヴィークルは発見されやすいし、被弾《ひだん》もしやすい。ASの最大の強みである運動性を発揮《はっき》して、複雑《ふくざつ》な地形を利用し接近することも砂漠では難しい。
戦車とまともに正面から撃ち合って、勝てるわけがないのだ。
だから味方のAS部隊は、味方基地――通称《つうしょう》『アラモ砦』の周辺に掘《ほ》った塹壕《ざんごう》を次々に移動しながら応戦《おうせん》する戦術をとっていた。数の限《かぎ》られた対戦車ミサイルを駆使《くし》しながら、煙幕《えんまく》やレーダー妨害《ぼうがい》、赤外線妨害を使って別の塹壕へ移動する。地味な戦術だったが、ほかにやりようがないのだ。
<<われわれは切り札《ふだ》です>>
アルは言った。
<<戦闘が始まっても姿を見せず、敵にとっての『潜在的《せんざいてき》な脅威《きょうい》』となることで、敵の戦術に多くの制限《せいげん》を強《し》いることができます>>
<レーバテイン> のすさまじい攻撃力については、すでにメキシコの戦闘で <アマルガム> 側も把握《はあく》しているはずだ。たった一機で <コダール> タイプ三機、<ベヘモス> タイプ三機を撃破したASの存在は、もはや敵にとっても笑って済ませられるものではなくなっている。警戒されるのはどうにもならないのだ。発見されれば総力《そうりょく》を挙《あ》げて潰《つぶ》しに来られるか、もしくは全速で退却《たいきゃく》されることになる。
つまり、まともに戦ってもらえない。
こうした状況での <レーバテイン> の最も有効《ゆうこう》な運用法は、敵にとって『どこに出てくるか分からない』存在になることだった。ECS搭載型のヘリに搭載されてどこかに隠れているだけで、敵はその戦力を自由に配分できなくなる。<レーバテイン> の出現に対応《たいおう》するために、本来ならば不要な警戒と予備兵力《よびへいりょく》の確保《かくほ》を強いられるのだ。
「分かっている。もし少佐が向こうにいるなら、力押《ちからお》しなど通用するわけがないしな」
その発音のニュアンスと単語の前後関係から、アルは『少佐』がどの人物をさしているのか類推《るいすい》し、第一候補《だいいちこうほ》の名前を挙げた。
<<アンドレイ・カリーニンが敵の指揮《しき》をとっていると?>>
「さあな。おまえはどう思う」
<<客観的な分析《ぶんせき》ではノーです。彼ならば、より慎重《しんちょう》な侵攻《しんこう》ルートを選ぶでしょう>>
「おまえ自慢《じまん》の『直感』ではどうだ」
<<そちらでもノーです>>
そのとき新たな敵部隊が出現したとの情報がテイワズ12[#「12」は縦中横]から入った。
戦車一五両、歩兵戦闘車四両、戦闘ヘリが二機。ASはいないものの、これまでで最大|規模《きぼ》の兵力だ。『アラモ砦』の南西、約一〇キロの岩場から進撃《しんげき》を始めている。
「出てきたな」
宗介がつぶやいた。
あれが敵の温存《おんぞん》してきた予備兵力だということは、まず間違いない。味方の粘《ねば》り強い抗戦《こうせん》によって、ようやく敵の指揮官がこの戦力を投入する気になったのだ。様々なデータに照らした結果、アルは敵の出現がこれで最後だと判断《はんだん》した。
データリンクで瞬間的に他のユニットとの討議《とうぎ》を行う。
ウルズ2のAI『フライデー』とウルズ1のAI『ドラゴンフライ』がアルの判断を支持《しじ》し、ウルズ6のAI『ユーカリ』が条件《じょうけん》付きで支持を示《しめ》した。討議の材料《ざいりょう》となった情報を簡潔化《かんけつか》して各操縦兵に知らせると、まずメリッサ・マオが言った。
『こちらウルズ2。南西の敵に対応《たいおう》する余力《よりょく》はない。「|抑えの切り札《ストッパー》」の登板を求む』
『ウルズ1、了解。聞こえたな、ウルズ7? 出番だ。ただちに07[#「07」は縦中横]―18[#「18」は縦中横]に――』
『あー、ちょっと待ってくれ!』
そこでウルズ6――クルツ・ウェーバーが口を挟《はさ》んだ。
『どうした、ウルズ6』
『その前に09[#「09」は縦中横]―18[#「18」は縦中横]あたりの丘陵を確認できるか? 微妙《びみょう》にクサいんだけど』
『どう臭《くさ》いんだ。説明しろ』
『いや……うまく言えないんだけど。なにも無《な》いならいいんだ。狙撃《そげき》に気をつけてくれ』
クルツ・ウェーバーの妙《みょう》な注文はそれだけだった。
「こちらウルズ7。南西の敵部隊を殲滅《せんめつ》する」
宗介が答え、<レーバテイン> を搭載した輸送ヘリのパイロットが所定の座標《ざひょう》へと飛行する旨《むね》を伝える。ターボシャフトエンジンのうなり声がひときわ高まった。ECSで透明化したヘリは高速で敵増援の前面へ飛び、カーゴベイのハッチを開放した。
速度、一六三ノット。高度、三九二フィート。眼下《がんか》を流れていく砂漠の地表。ヘリのECSのフィールド越《ご》しに見た光学センサの風景は、紫《むらさき》がかったモノトーンの世界だ。
降下地点《こうかちてん》が近づく。砂丘《さきゅう》を這うようにしてヘリが飛ぶ。
カウントダウン。五秒、四秒、三秒、二秒――
にぶい衝撃《しょうげき》。
アル側の信号を受けて機体を固定していた油圧《ゆあつ》ボルトが開放され、<レーバテイン> がヘリから切り離された。各関節のロックを解除《かいじょ》。
二コンマ三秒の自由落下。
激動《げきどう》する光ジャイロと人工三半規管《じんこうさんはんきかん》の数値《すうち》。対地速度は一四〇ノットから急減速中《きゅうげんそくちゅう》。速度ベクトル予測《よそく》。姿勢制御《しせいせいぎょ》。脚部を下に向け、|衝撃 吸収《しょうげききゅうしゅう》システムと人工|軟骨《なんこつ》ユニットを最長位置にすると、機体が九二八ミリ長くなる。地表の硬度《こうど》と摩擦係数《まさつけいすう》をデータバンクの地形ライブラリから類推《るいすい》する。最適《さいてき》の着地《ちゃくち》姿勢へ。
着地。
各関節ダンパー内の衝撃吸収剤が一瞬《いっしゅん》で蒸発《じょうはつ》。三〇Gの衝撃を受け止める。モーション・マネージャによるセミアクティブ関節制御。全身のマッスル・パッケージが有機的に伸縮《しんしゅく》して転倒《てんとう》を回避《かいひ》する。ARX―8 <レーバテイン> は脚部を膝下《ひざした》まで砂にめりこませて大地を踏《ふ》みしめ、機体の全高を上回る砂煙《すなけむり》を舞《ま》い上げた。
激しい着地だったが、操縦兵はすぐさま機体に戦闘機動をとらせた。
すばやく移動し、わずかな砂漠の起伏《きふく》へと機体の下半身を隠し、一〇時の方向に展開《てんかい》する敵戦車部隊に対峙《たいじ》する。着地の砂煙を察知《さっち》したらしく、敵部隊は即座《そくざ》に反応《はんのう》し、降下地点《こうかちてん》の周辺に榴弾を雨あられと叩き込んできた。
兵装選択《へいそうせんたく》。機体のハードポイントに搭載されていた大型|火砲《かほう》――一六五ミリ『デモリッション・ガン』を構《かま》え、補助腕《ほじょわん》が長大な砲身《ほうしん》を接続《せつぞく》する。この『ガンハウザー・モード』はデモリッション・ガンの射程《しゃてい》と精度《せいど》を飛躍的《ひやくてき》に向上させるための装備《そうび》であり、ラムダ・ドライバの補助によって戦車と正面から撃ち合うことすら可能にする装備だった。
ただし、この大砲《たいほう》自体はごくローテクな設計《せっけい》の武器だ。ASが使用する最新鋭《さいしんえい》の狙撃砲のように、独立《どくりつ》した弾道計算《だんどうけいさん》コンピュータも搭載されていないし、照準《しょうじゅん》システムもごく単純《たんじゅん》な光学センサしか積《つ》んでいない。
真っ白に焼きつく砂漠の彼方に敵影《てきえい》がゆらめく。
「始めるぞ」
<<了解《ラージャ・》、軍曹《サージ》>>
照準――発砲。
同時にラムダ・ドライバが駆動し、射撃の反動を抑《おさ》えこむ。それでも脚部が砂にめり込み、全身の骨格《こっかく》が異様な音を立てた。
大口径《だいこうけい》の砲弾は標的の戦車を逸《そ》れ、右後方の地表に当たって爆発《ばくはつ》した。
初弾《しょだん》が外《はず》れるのは分かっていた。上空のヘリからの観測《かんそく》データを取得。横調節《ウィンデージ》を左に一・五ミル、縦調節《エレベーション》を上に一・二ミル修正《しゅうせい》。砲弾の|横流れ《ドリフト》と放物線《ほうぶつせん》の予想値《よそうち》を入れ再計算《さいけいさん》。
次弾の装填中《そうてんちゅう》に敵戦車が応戦してきた。
二発。<レーバテイン> の四時方向・七メートル、九時方向・六メートルの位置に榴弾が命中した。衝撃波《しょうげきは》が白い装甲を横殴《よこなぐ》りにする。機体がよろめき、でたらめなリズムで震動《しんどう》する。
<<危険です。射撃位置《しゃげきいち》の変更《へんこう》を>>
「いいや、殴り合う」
<<了解>>
アルはあえて反対しなかった。
ARX―7を駆《か》っていた頃《ころ》に比べて、相良宗介の判断には躊躇《ちゅうちょ》がない。いや、かつての彼にも躊躇はなかったが、いまではより『強い意志《いし》』が伴《ともな》っている。
普通のAIならばそんな抽象的《ちゅうしょうてき》な概念《がいねん》は決して検出《けんしゅつ》できないだろうが、アルは違う。操縦兵の精神状態をダイレクトに読み取り、機体システムを同調させる機能を持っているからだ。もちろんアルは人間ではない。戦闘支援を目的とした計算機である本分を忘《わす》れているわけではなかったが――同時に複雑《ふくざつ》な人間の感情《かんじょう》を最も深く理解《りかい》し始めているマシンでもあった。
自己同一性《じこどういつせい》に似《に》た要素《ようそ》も備《そな》えつつある。
つい先日、クルツ・ウェーバーと整備《せいび》クルー数名の気まぐれで、アルの合成音声を女性の声にしようとする提案があった。『その方が愛嬌《あいきょう》が出る』というのが彼らの言い分だったが、アルほこの提案に強い抵抗を感じた。合理的な理由はまったくないのに、そうすべきではないと感じたのだ。けっきょくその変更は相良宗介の『気持ち悪い』という一言で却下《きゃっか》されたのだが、アルも彼とまったくの同意見だった。つまり自分の声――ただの対人インターフェイスにすぎないはずの合成音声が、別のものになるのが『気持ち悪い』と感じたのだ。しかも数々の激戦をくぐり抜けてきた歴戦の戦術支援《せんじゅつしえん》AIである『古強者《ベテラン》の私』に、ひ弱な女の声を使わせようとは。大変な侮蔑《ぶじょく》ではないか。
四キロの彼方《かなた》で砲煙《ほうえん》があがった。
敵の照準が正確になった。<レーバテイン> めがけて一二〇ミリ砲弾が殺到《さっとう》する。アルが警告音《けいこくおん》を出すのと同時に、TAROSが強い反応を見せる。操縦兵の反射的な――それでいてよく制御《せいぎょ》された防衛衝動《ぼうえいしょうどう》が機体を駆け抜け、前方の空間がぐらりと歪《ゆが》む。まるで『当たり前』のように。
確認できる限《かぎ》りで二発の敵砲弾が空中で停止《ていし》し、見えない力で粉々《こなごな》に砕《くだ》け散《ち》った。
<<成功。ラムダ・ドライバの駆動により――>>
「分かっている」
相良宗介がトリガーを引いた。今度は命中。隊列の真ん中の敵戦車が車体ごと吹《ふ》き飛び、紙細工の玩具《がんぐ》のように、くるくると回転して宙《ちゅう》に舞《ま》う。
再装填《さいそうてん》。発砲。二両目を撃破。
若干《じゃっかん》の位置|変更《へんこう》。敵弾が飛来する。
一発を防御《ぼうぎょ》し、デモリッション・ガンをさらに撃つ。
猛烈《もうれつ》な砲火。三両、四両、そして五両。次々に敵戦車が撃破されていく。通常《つうじょう》のASではありえない戦いだった。こちらがただの機体ではないことを察《さっ》したのだろう――残った敵部隊は牽制射撃《けんせいしゃげき》を繰り返しながら後退《こうたい》を始め、低い砂丘《さきゅう》の稜線《りょうせん》の向こうへと姿を隠していった。
『こちらゲーボ5だ。北西の敵部隊が撤退していく』
『ウルズ2了解。聞いたわね、あとひと踏《ふ》ん張《ば》りよ!』
予備兵力が大損害《だいそんがい》を受けたことで、敵は『アラモ砦』への攻撃をあきらめたのだろう。
<レーバテイン> が交戦していた相手だけでなく、各方面で戦闘中の敵部隊も次々に後退していく。アルは戦術マップを分析しつつ、機体のコンディションを点検《てんけん》し、コンデンサと冷却《れいきゃく》ユニットの出力を適時《てきじ》調節《ちょうせつ》した。
峠《とうげ》は越《こ》した。戦闘は味方の勝利に終わりつつある。
自機のセンサから得られるデータ。味方ユニットのADM(先進型データモデム)から送られてくるデータ。すべてのデータが潜在的脅威《せんざいてききょうい》の低下を示している。
そのとき、四キロ離れた岩場に異変《いへん》を察知した。
アルよりも早く相良宗介が反応《はんのう》し、いきなり機体を前のめりに前転させた。
「っ……!」
その岩場――予想外の方角から秒速一〇〇〇メートルの砲弾が襲《おそ》いかかったところを、<レーバテイン> はきわどいところで回避《かいひ》した。ラムダドライバ[#「ラムダドライバ」に傍点]の力場を破《やぶ》り、左肩部の装甲をかすめた砲弾は、およそ四〇メートル後方の地表に命中し大きな砂煙をあげた。あとコンマ五秒対応が遅《おく》れていれば、<レーバテイン> は胴体《どうたい》に敵弾を受けて真っ二つになっていたかもしれない。
ラムダドライバ搭載機による狙撃だ。
<<距離四〇、一〇時方向。ラムダ・ドライバ搭載機による――>>
「応戦する」
敵機の姿は見えなかったが、構わず宗介は射撃した。乱数機動《らんすうきどう》を織《お》り交《ま》ぜつつ、デモリッション・ガンをたて続けに発砲する。データリンクでアルからの情報を受けた味方ユニットのAIたちが、一斉に岩場へと対ECSセンサーを向け、超高速で正確な位置を割《わ》り出していく。
敵位置《てきいち》のデータを受け取った <レーバテイン> がさらに発砲。
その一発が至近距離《しきんきょり》に命中したのだろう。ラムダ・ドライバ検出装置《けんしゅつそうち》――『妖精《ようせい》の目』を搭載した味方機が、力場同士の強い干渉《かんしょう》を認《みと》めたと報告してきた。ダメージは与えられなかったものの、通常機なら致命傷《ちめいしょう》になっていたはずの攻撃《こうげき》だ。
敵機の判断は早かった。
それ以上の攻撃はあきらめ、ECSをフル稼動《かどう》したまま高速で撤退していく。追撃は無理《むり》だった。<レーバテイン> で追うには遠すぎるし、ほかの通常型ASやヘリで接近するのは危険すぎる。味方ユニットの操縦兵たちも同じ結論《けつろん》に達した様子で、新しい敵への警戒《けいかい》に集中していった。
『やっぱり出やがった』
無線の向こうでクルツ・ウェーバーがつぶやいていた。
『だから言っただろ? くさいってよ』
「ああ」
相良宗介が答えた。
「おかげで避《よ》けられた」
相良宗介の反応がアルのそれを上回《うわまわ》ったのは、クルツ・ウェーバーの曖昧《あいまい》な警告のおかげだった。彼は常《つね》に意識《いしき》の片隅《かたすみ》に、指示《しじ》された『09[#「09」は縦中横]―18[#「18」は縦中横]』への警戒を向けていたのだろう。そして敵の狙撃兵は、事実そこにいた。
クルツ・ウェーバーは冗談《じょうだん》ばかり飛ばしている操縦兵《そうじゅうへい》だ。でたらめな話も口にする。そうしたナンセンスな発言と、戦術的に重要な助言――『勘《かん》』や『直感』とを正確《せいかく》に見分けることは、いまだにベイズ統計学《とうけいがく》に頼《たよ》ってばかりのアルには出来ない芸当だった。
もっとも、そんな真似《まね》は人間自身にも出来ないことなのかもしれなかったが。
『問題は、その敵がなぜ最後まで撃ってこなかったのかだ』
ベルファンガン・クルーゾーが言った。
『奴《やつ》がその気になれば、最初から戦っていた俺たちのうち、最低でも一機は吹き飛ばせたはずだが……』
最後に現れた| L D 《ラムダ・ドライバ》搭載型ASの位置は、戦場の半分以上を射程に収《おさ》めているはずだった。あの敵機は戦車部隊が撃破されている間も、沈黙を保《たも》ったまま息を潜《ひそ》めていたのだ。
『簡単《かんたん》ね。<レーバテイン> のせいでしょ?』
と、メリッサ・マオが言った。
たとえ最初に数機のM9を撃破できたとしても、自機の所在《しょざい》が知られれば、どこかに隠れている <レーバテイン> からの攻撃を受けることになる。だから <レーバテイン> が姿を見せるまでは、ECSであの岩場に隠れているしかなかったのだろう。そして待ち受けていた <レーバテイン> が出現した。本来ならば最初の一撃でしとめることができたはずが、相良宗介はその一撃を回避《かいひ》した。奇襲《きしゅう》に失敗した以上、<レーバテイン> を撃破するチャンスはもうほとんどない。だから撤退した。
つまり <レーバテイン> の温存策《おんぞんさく》がきわどいところで功《こう》を奏《そう》した、ということだ。
<<すべての敵部隊が撤退していきます>>
全ユニットからのデータを分析し、アルは報告した。
「よし。マスターモード6。|対ECSセンサ《ECCS》で警戒しろ」
<<ですから、そうした装備はありません>>
「……そうだったな。この機体がポンコツなのを忘《わす》れていた」
<レーバテイン> は出力と運動性、そして攻撃力を徹底《てってい》強化した設計のため、M9系ASには当たり前に搭載してあるはずの電子兵装《でんしへいそう》がほとんどオミットしてある。相良宗介はそれを皮肉ったのだ。
<<あなたもポンコツです。聞けば負傷《ふしょう》の後遺症《こういしょう》で食餌制限付《しょくじせいげんつ》きだとか>>
「アルコールや塩分を控《ひか》えるよう言われているだけだ。別に困《こま》ってはいない」
<<そうでしょうか。『酒を飲めない人間は、人生の半分を損《そん》している』という言葉もあります>>
「そんな人生など願い下げだ。いちいちうるさいぞ」
<<あなたが私を中傷するからです>>
「黙《だま》れ」
<<ネガティブ。これからあなたに、この機体がポンコツではない三八|項目《こうもく》の理由をお聞かせします。まず第一。この機体は最新鋭の試作型《しさくがた》ジェネレータPRX――>>
「わかったから黙れ!」
<ミスリル> の部隊は、数時間と待たずに砂漠の基地を撤退してしまった。ありったけの物資《ぶっし》と兵力をECS付きの輸送機に詰《つ》め込《こ》み、西か南か――どこか遠くに姿を消した。残されたのは空《から》っぽのコンテナや中古の資材、大量のビールの空き瓶《びん》だけだった。
そのAS―― <エリゴール> の暗視《あんし》センサが捉《とら》えた基地|跡《あと》の風景を眺《なが》め、ヴィルヘルム・カスパーは小さく舌打《したう》ちした。
一個小隊はどの歩兵が兵舎《へいしゃ》や装甲車の残骸《ざんがい》を調べているが、大した成果は得られそうになかった。いや、それどころか――
爆発。
地面に転がっていたアタッシュケースを不用意に触《さわ》った兵士の一人が、仕掛《しか》け爆弾の罠《わな》にかかって吹き飛んだ。驚いた周囲の兵士たちが、わけも分からないまま伏せて周囲を警戒している。
「騒《さわ》ぐな、騒ぐな。ただの置き土産《みやげ》だ」
カスパーはうんざりとした声で兵たちに告げた。
<アマルガム> の兵隊のほとんどは現地調達《げんちちょうたつ》だ。質《しつ》はとうてい保証《ほしょう》できない。こうした初歩的な嫌がらせに引っかかるのも避《さ》けられないことだった。
敵はすでに千キロの彼方《かなた》だろう。
掃討《そうとう》部隊の指揮《しき》官――買収《ばいしゅう》された現地軍の将校《しょうこう》が、『話が違う』とこちらに向かって怒鳴《どな》っていた。すでに相当の金は受け取っているはずだったが、<ミスリル> の連中から予想外の反撃を受けて大きな損害を出している。その上、やっと占領《せんりょう》した基地はもぬけの殻《から》で、金目のものは一切《いっさい》ないのだ。文句《もんく》が出てくるのは無理もない。
だがカスパーには、そんな交渉《こうしょう》よりも前に確認しておきたいことがあった。
彼は機体を数百メートル離《はな》れた砂丘まで移動させ、コックピットハッチを開放し、熟練《じゅくれん》した身のこなしで機外に出た。複雑《ふくざつ》な曲面構成《きょくめんこうせい》の肩部――赤い装甲の上に立つと、日没《にちぼつ》直後の付近一帯を肉眼《にくがん》で見渡《みわた》す。昼の灼熱《しゃくねつ》がまだ残っていて、生ぬるい微風《びふう》があたりにそよいでいる。西の空はまだぼんやりとした紫色《むらさきいろ》だった。
ヘッドギアを取り、目を細める。
アーリア系らしい角ばった顔の造形《ぞうけい》で、目は青くフクロウのように透《す》き通っている。人生の大半を占《し》めてきた野外生活のせいか、短いブロンドの髪はところどころが黒ずんでいたが、年齢《ねんれい》はひと目では分からない。三〇代のようでもあり、五〇代のようでもある。軽くゆがめた口元には人を食ったような愛嬌が浮《う》かんでいたが、闇《やみ》を見通すその瞳《ひとみ》は、ハンター特有の冷酷《れいこく》きわまりない光が宿っていた。
ヴィルヘルム・カスパーは狙撃兵の目で周囲を観察した。
ひざまずいた機体から地表に降《お》り立ち、砂地《すなち》に残った敵AS――M9の足跡《あしあと》と伏射姿勢《ふくしゃしせい》の形跡《けいせき》を入念に調べる。各所に埋《う》もれた空薬莢《からやっきょう》の散乱具合《さんらんぐあい》を歩いて追っていき、この場にいたM9がどのように撃ち、どのように移動したのかを推察《すいさつ》する。
「やれやれ――」
そのM9に搭乗していたであろう狙撃兵の顔を思い出し、カスパーはつぶやいた。
射撃のたびに、大した移動をしていない。効率的《こうりつてき》ですばやい連射《れんしゃ》を重視《じゅうし》しており、『より多くの敵を倒すこと』に腐心《ふしん》している。自身の安全を軽く見ているのは、敵と自分との距離の遠さに頼《たよ》っているからだ。言い換《か》えれば、自分の射撃センスを過信《かしん》している。
「まだまだだな。あの坊主《ぼうず》」
だが、この自分の位置をあの白いラムダ・ドライバ搭載型ASに警告したのもあいつ[#「あいつ」に傍点]だろう。その点は褒《ほ》めてやってもよかった。おかげで確実に仕留《しと》められるはずの一撃を回避されてしまった。時速四三〇〇キロで飛ぶ砲弾といえども、四キロの距離では到達まで三秒かかる。警戒してさえいれば回避するのは難《むずか》しくない。
衛星回線《えいせいかいせん》から通信が入った。ヘッドギアを耳にあてて応答《おうとう》する。
『成果はあったかね、ミスタ・Sn[#「Sn」は縦中横]《ティン》』
相手は <アマルガム> の幹部『ミスタ・|K《カリウム》』ことアンドレイ・カリーニンだった。療養中《りょうようちゅう》のレナード・テスタロッサの意向を受けていくつもの作戦を取り仕切っているロシア人だ。
「いいや。初手で仕留めようとしたが、うまいこと避けられたよ。大したもんじゃないか、あんたの弟子《でし》は」
『どうかな。君の弟子のおかげではないのかね』
「もちろん、それもある」
カスパーは笑った。
『ウェーバーはいい狙撃兵だった』
「過去形《かこけい》か。まだ生きてるぞ」
『いずれ過去形になる』
とりたてて重みのない声で、カリーニンは言った。
放棄《ほうき》された基地の方で動きがあった。
多大な損害を出していながら、ろくな成果を得られなかった兵士たちが不満の声を漏《も》らしているのだ。将校たちが耳打ちし合い、こちらの <エリゴール> を指さしている。せめてもの『収益《しゅうえき》』として、この機体を狙《ねら》ってでもいるのだろう。
「あーっと。少し待ってくれ」
カスパーはそう告げると、機体の背中を這い登っていった。コックピットハッチの裏側《うらがわ》にある兵装ラックを開け、分厚《ぶあつ》い木綿《もめん》の布《ぬの》に巻《ま》かれた一挺《いっちょう》の三〇八|口径《こうけい》ライフルを取り出す。年季《ねんき》を経《へ》て各所が黒ずんだ木製《もくせい》のフレーム。この超ハイテク機に積《つ》んでおくにしては、あまりにもレトロで油臭《あぶらくさ》いボルトアクションの狩猟銃《しゅりょうじゅう》。
わざわざ慎重《しんちょう》にスコープを調節《ちょうせつ》するまでもなかった。二百メートルかそこらの距離だ。薬室《チェンバー》にカートリッジを滑《すべ》り込《こ》ませ、ボルトを前進、スムーズにひねってロックする。
照準。発砲。
二百メートルの向こうで、カスパーへの攻撃を命じようとしていた指揮官の男が、不意にうずくまり、両手で股間《こかん》を押さえ、ひどく無様《ぶざま》な声をあげた。周囲の部下たちがうろたえ、おろおろと頭を振《ふ》っている。
「やめとけ、次はもう片方《かたほう》の金玉を吹き飛ばすぞ!」
<エリゴール> の外部スピーカーを使って、カスパーは告げた。
指揮官の手当てをする者、棒立《ぼうだ》ちのままなにもしない者、あわててどこかに隠れる者などはいたが――彼に撃ち返そうとする者は皆無《かいむ》だった。
『なにか問題が?』
「いや。馬鹿《ばか》どもの手綱《たづな》を締《し》めただけだ」
カスパーは応《こた》え、硝煙《しょうえん》の立ち昇《のぼ》る銃をていねいに包み直した。
「とにかく成果なしだ。帰還《きかん》する」
カスパーはコックピットにもぐりこむと、機体を輸送ヘリとの合流地点へと走らせた。
最優先《さいゆうせん》の目標だった <レーバテイン> は仕損《しそん》じた。しぶとく <アマルガム> に逆《さか》らう勢力《せいりょく》――その一個中隊も見逃《みのが》した。もうここにいる理由はない。『計画』は進んでおり、いつまでも <ミスリル> に構ってはいられない。確実に敵側にいるはずの、かつての生徒のことも――
[#挿絵(img/10_055.jpg)入る]
いや。いずれ対峙《たいじ》することになるだろう。
そして互《たが》いに狩《か》りの興奮を味わい尽《つ》くしたあと、彼はすばらしい死を迎《むか》えることになる。
●
軟禁生活《なんきんせいかつ》は以前より厳《きび》しくなっていた。
千鳥《ちどり》かなめはニケーロから連れ去られたあと、各地を点々と移動させられていた。
まずテキサスのどこかの農場に二週間|滞在《たいざい》し、それからスイスに連れて行かれ、古い山荘《さんそう》に一週間|留《と》め置《お》かれた。どちらもニケーロの高級別荘とは、比《くら》べものにならないほど粗末《そまつ》な環境《かんきょう》だった。食事もろくなものがない。缶詰《かんづめ》や野戦食ばかりだった。
その後は数日おきに移動させられた。
ベルギー、デンマーク、イタリア北部。
トルコ経由《けいゆ》でリビアに行き、そこの安ホテルに一週間滞在した。
車やヘリでの移動がほとんどだったが、長時間の旅ばかりでくたくたになってしまった。寝床《ねどこ》や食事のひどさも相変わらずで、彼女は日に日に消耗していった。
一か月半以上を欧州と中東、北アフリカで過《す》ごしたあと、北米に戻《もど》った。
ラスベガスの超《ちょう》高級ホテルに一週間ほど泊《と》まったが、部屋からは一歩も出られなかった。それでもまともなベッドと食事、いつでもシャワーが浴《あ》びられる環境を、かなめは心底ありがたいと思った。
ところが、今度はいきなりスリランカに飛ばされた。
かなめはとうとう体調を崩《くず》して倒《たお》れてしまった。冷房《れいぼう》のよく利《き》いたネオゴシック調のホテルから、扇風機《せんぷうき》しかない熱帯のテロリスト養成キャンプに移《うつ》ったせいもある。気をゆるめていたところで、過酷《かこく》な場所に放《ほう》り込《こ》まれたせいもある。
高熱が出てなかなか下がらない。密林《みつりん》の中に設《もう》けられたそのキャンプの中では、まだ一番ましな小屋の粗末《そまつ》なパイプベッドに、彼女はずっと寝込《ねこ》んでいた。
ここはいままでで一番ひどい場所だった。暑いのはもちろんだが湿気《しっけ》がひどい。キャンプのどこかから悪臭《あくしゅう》が漂《ただよ》ってきて、かなめの閉じこめられた小屋に忍《しの》び込んでくる。生ゴミや安酒や吐瀉物《としゃぶつ》の発酵《はっこう》したような甘《あま》ったるい匂《にお》いが、硝煙《しょうえん》やオイルの刺激臭《しげきしゅう》と入り交じって鼻をつく。
昼夜を分かたず銃声《じゅうせい》や爆発音、離発着《りはっちゃく》するヘリやASのエンジン音が響き渡《わた》り、男たちの荒々《あらあら》しい罵声《ばせい》が聞こえてくる。心の安まる時などほとんどない。
そして虫だ。
床《ゆか》から、窓《まど》から、名前も知らない虫どもが侵入《しんにゅう》してきて、床や壁《かべ》をはい回り、電球の周囲を飛び回っている。しかも大きい。日本の倍以上のサイズの羽虫が、バクバタと背筋《せすじ》の寒くなるような音を立てて頭上を飛ぶのだからたまらない。いつのまにか、衣服の中に半メートルはありそうなムカデが忍び込んでいたこともあった。
悲鳴をあげて泣き叫《さけ》びたかったが、かなめはその衝動《しょうどう》をぐっとこらえた。
負けたくなかったからだ。自分が弱気なところを見せたら、奴らはきっと喜ぶ。虫を見て泣き叫ぶようなお嬢《じょう》ちゃんだと思われるのは、絶対《ぜったい》にいやだった。
(あいつらはあたしを弱らせようとしている――)
いまや彼女はそう確信《かくしん》するようになっていた。
詳《くわ》しい理由は分からなかったが、はっきりとした形での虐待《ぎゃくたい》はまずいのだろう。だからじわじわと締《し》め付《つ》ける。粗末《そまつ》な寝床《ねどこ》、まずい食事、不衛生《ふえいせい》な部屋だけでも、文明に慣《な》れきった小娘《こむすめ》には充分《じゅうぶん》な試練《しれん》だ。劣悪《れつあく》な環境を次から次へと移動して、疲労困憊《ひろうこんぱい》させようという腹《はら》なのだろう。どれだけ意地を張っていても、人間は体力が落ちれば知らず知らずのうちに従順《じゅうじゅん》になる。ラスベガスのホテルは気力を衰《な》えさせるための作戦だ。
レナードは生きているらしかった。
だが、あれ以来まったく姿を見せない。
こうした自分の待遇《たいぐう》を、レナードが命じているのかどうかは分からなかった。あのポーランド人の娘――サビーナ・レフニオはいつもかなめに付いてきているが、彼女はレナードの消息《しょうそく》について『生きている』ということしか教えてくれない。
一方、カリーニンには何度か会っていた。テキサスの農場で一度、ベルギーの小さな飛行場で一度、それからベガスのホテルで一度。どれも大した会話はできなかった。かなめに会いに来たというよりも、捕虜《ほりょ》の様子を確認しにきたような調子だ。近づいてきて彼女の顔を観察し、手足や首筋《くびすじ》が極度に痩《や》せていたりしないか、打撲《だぼく》や火傷《やけど》の痕跡《こんせき》はないかを確かめるだけだ。かなめ自身もカリーニンに何かをたずねたり、非難《ひなん》の言葉を浴《あ》びせようとはしなかった。もはや彼に何を言っても無意味だ。
高熱で倒《たお》れている最中、たくさんの悪夢《あくむ》を見た。
ある朝、彼女はいつも通りに高校に通っていた。すると銀色のASが校舎《こうしゃ》を破壊《はかい》している。中庭には級友たちの無数の死体が折り重なって、燃《も》え上がっている。目を逸《そ》らしたくても逸らせない。大粒《おおつぶ》の涙《なみだ》が流れるまま、彼女の視線《しせん》は黒こげになっていく常盤《ときわ》恭子《きょうこ》の死体に釘付《くぎづ》けになっている。
別の朝、彼女はマンションで目を覚ました。知らない男たちが彼女の寝室《しんしつ》に立って、にやにやとかなめを見下ろしている。飛び起きて逃げようとするが、逃げられない。つかまって組《く》み伏《ふ》せられ、無理矢理《むりやり》服を脱《ぬ》がされる。男たちの手がムカデの足になっている。助けて、ソースケ。そう叫ぶが、彼は来ない。『奴なら死んだよ』と、ムカデたちが笑いながら体中をはい回る。
ある朝は中学校にいた。たくさんの無関心な目。陰湿《いんしつ》なあの薄笑《うすわら》い。教科書がまた無くなっている。開いたノートから無数の罵声《ばせい》が響《ひび》く。死ね。臭い。ウザい。吐き気がしてきて、トイレに駆け込む。個室《こしつ》の上から汚水《おすい》をひっかけられた。主謀者《しゅぼうしゃ》の女子が笑っている。そいつが宗介と手をつないで歩いていく。許《ゆる》せない。それはあたしのものだ。彼女は泣きわめき、怒《いか》り狂《くる》う。死ねばいいのに。どいつもこいつも、みんな死ねばいいのに。
そうした数え切れないほどの陰鬱《いんうつ》な朝が、彼女に襲いかかった。
「う……」
強い光が目蓋《まぶた》を焼き、かなめは小さなうめき声を漏らした。
窓の隙間《すきま》から太陽の光が射《さ》しこみ、ベッドの上の彼女の頬にかかっている。シーツや衣服、髪がじめじめと濡れていて、べったりと肌《はだ》に貼《は》りついている。
いまは何時くらいだろうか? たぶん正午か、その前だ。
だがこのキャンプで倒《たお》れて何日が経《た》っているのか、彼女には判然としなかった。
熱は下がっているようだ。
ベッドから立とうとすると、バランスを崩《くず》してその場にへたりこんでしまった。そばの机《つくえ》につかまろうとして、空のマグカップを床に落としてしまう。その音を聞きつけたのだろう。扉《とびら》の鍵《かぎ》が音を立てて開き、サビーナ・レフニオが部屋に入ってきた。
さすがにスーツ姿ではない。無地の黒Tシャツにオリーブ色のパンツを着ているが、この蒸《む》し暑《あつ》い環境でも汗《あせ》ひとつかいていなかった。
「お目覚めのようですね」
サビーナが言った。
「ずいぶんとうなされているご様子でした」
「水を……ちょうだい」
「それは後で。熱を測《はか》ります」
「喉《のど》が渇《かわ》いたの」
かなめの言葉を無視《むし》して、サビーナは机上のバッグからデジタルの体温計を取り出した。耳に入れると、すぐに計測《けいそく》が終わる。ピッと小気味のいい電子音。この原始的な山小屋には場違《ばちが》いな響きだった。
「ねえ。水を……」
「下がりましたね」
サビーナが体温計の液晶《えきしょう》パネルを目の前に突《つ》き出す。『37[#「37」は縦中横]・30[#「30」は縦中横]』の数字。
「……今更《いまさら》だけど、サビーナ。あなたはあたしのことが嫌《きら》いみたいね」
「どうお答えすれば満足ですか?」
無感動に言うと、彼女は汚れたままのコップに水を注《そそ》ぎ、彼女に差し出した。
「もういい、よく分かったから」
コップのにごった水を飲む。冷たくもぬるくもない。なにも感じなかった。
「レナードがこうしろと命じたの?」
「なんのことでしょうか」
「こういうひどいところばかりに閉じこめて、あたしを消耗《しょうもう》させるようによ」
「あなたの身柄《みがら》を欲しがっている者は大勢《おおぜい》います」
質問には答えず、サビーナは淡々《たんたん》と告げた。
「あなたの安全を確保《かくほ》するためには、快適《かいてき》な場所に長居《ながい》してばかりはいられません。それにこのキャンプは、ベガスのホテルよりもずいぶんと安全ですから」
「そう」
「理由はそれだけです。慣《な》れていただくしかありません」
「でもレナードも薄情《はくじょう》よね。回復したなら一度くらい会いにくれはいいのに」
「彼に会いたいと?」
「いいえ。いまのは『あなたに会いにくれはいいのに』って意味よ」
サビーナの呼吸がほんの一瞬《いっしゅん》止まった。
「彼が恋《こい》しくないの?」
「意味が分かりません」
「普通《ふつう》ならムカつくわよね。好きな人を撃った女を世話するように、その好きな人自身から命令されるんだから。しかもその彼は、ろくに自分に会いに来てもくれない。いやがらせの一つもしたくなってくるでしょうね」
「なにか勘違《かんちが》いされているようですね」
彼女の声色《こわいろ》はどこまでも静かだった。
「レナード様が回復されたのはつい最近のことです。それまではご指示《しじ》をいただくことができませんでした。命令の変更がないので、私はこれまでと同じようにあなたのお世話をしているだけです」
「なるほど。どこまでも忠実《ちゅうじつ》なワンちゃんってわけ」
かなめは挑《いど》むように言った。サビーナを怒らせるにはどうしたらいいのか、まだぼんやりとしている頭で必死に考えてみた。
「レナード。あいつも情《なさ》けない男よね。こんなに尽《つ》くしてくれるガールフレンドがいるのに、必死であたしなんかのご機嫌ばかりとって。しまいにはカッコつけて、頭をズドン! とやられて。間抜《まぬ》けを通り越《こ》して哀《あわ》れを誘《さそ》うわ。ホント」
自分でも最悪の物言いだと思ったが、この場面では罪悪感《ざいあくかん》など何の役にも立たない。思い切りいやらしく言ってやらなければ、そもそも挑発《ちょうはつ》にならない。
「あ、わかった。だから顔を見せないのね? あんたにどんな言い訳《わけ》したらいいか分からないだろうし。体裁《ていさい》悪すぎて恥《は》ずかしがってるのよ、きっと――」
突然《とつぜん》、サビーナが握《にぎ》っていたガラスのコップが割《わ》れた。握力《あくりょく》だけで割ったのだ。
彼女はガラスの破片《はへん》を握りしめたまま、もう片方《かたほう》の手でかなめの喉首《のどくび》をつかみ、すさまじい力で後頭部をベッドに叩《たた》きつけた。
「彼の悪口は許さない」
サビーナが言った。喉からしぼり出すような怒りの声。右手に握ったガラスの破片から血液《けつえき》がしたたり、かなめの顔にぽたぽたと落ちる。
「特にあなたには。チドリ・カナメ。あなたは彼に選ばれていながら、それを拒絶《きょぜつ》し殺そうとした。その傲慢《ごうまん》ですら万死《ばんし》に値《あたい》するというのに、その上彼を侮蔑《ぶべつ》し、嘲笑《ちょうしょう》するのね。許せない。彼がなにを考えていようと、私はあなたが許せない」
抗弁《こうべん》しようにも声が出なかった。サビーナの体格《たいかく》は自分とそう変わらないのに、まるで体重一〇〇キロのレスラーが馬乗りになっているみたいだった。
「ウッチのゴミ溜《た》めみたいな町で生きてきた。最初に殺したのは名前も知らないSM趣味《しゅみ》の警官《けいかん》で、次に殺したのはそいつに私を売った母親。次の日から、私の仕事は殺しになった。ワルシャワのマフィアに飼《か》われて、たくさん殺したわ。人間|扱《あつか》いなんて誰にも期待していなかった。そんな私を拾《ひろ》って、包み込《こ》んでくれたのが彼。彼なら全部帳消しにできる[#「全部帳消しにできる」に傍点]。そう信じさせてくれるものが彼にはあった。愛してもらえなくてもいい。彼の役に立てればいい。私はそう思っている」
「っ……」
「これまで何度、護衛《ごえい》の男たちをあなたにけしかけてやろうと思ったか知れない。その世間知らずな鼻柱をへし折《お》るには、その程度《ていど》のことで充分だから。でも私はやらなかった。それもすべて、彼が望まなかったから。彼の態度をただ『気味が悪い』としか思っていないあなたは、救《すく》いようのない愚《おろ》か者。度《ど》し難《がた》いほどの傲慢な女。それが私には許せない。絶対に許せない」
サビーナがガラス片を振《ふ》りかざした。青白い顔がなにかの愉悦《ゆえつ》に染《そ》まり、その目はまっすぐにかなめの喉を見つめている。殺人者の目。自分の仕事によく慣《な》れた者が、手際《てぎわ》よく相手を片《かた》づけるときの目。これは人間を見る目じゃない。
「だから、もういい。あなたは殺す」
「やめ――」
「あなたが悪いのよ」
ガラス片が喉に突き立てられた。硬《かた》く、鋭《するど》く、冷たいものが奥深《おくふか》くに侵入《しんにゅう》してきて、気道に風穴《かざあな》を開ける。悲鳴の代わりにひゅうひゅうと息がもれ、口の中が暖《あたた》かい液体であふれかえった。
サビーナは傷口《きずぐち》をえぐり、引き抜《ぬ》き、さらに刺《さ》す。
喉だけでは満足できないようだった。彼女はかなめの顔を引き裂《さ》く。絶望《ぜつぼう》にゆがんだ頬を何度も突き刺し、鼻を削《そ》ぎ、口を裂き、目を潰《つぶ》し――千鳥かなめを表す肉体的な記号を、すべて消し去っていく。意志とは無関係に手足がひきつって、指先がけいれんし、血に濡れたシーツをかきむしった。
ごぼごぼと泡《あわ》を吹く肉塊《にくかい》と化した彼女を、サビーナがあざ笑っている。
狂《くる》ったような彼女の嬌声《きょうせい》が、ムカデたちの、中学生たちの笑い声と混《ま》じり合う。馬乗りになったサビーナが、別の少女になっていた。返り血を浴《あ》びて恍惚《こうこつ》の表情《ひょうじょう》を浮《う》かべている、黒髪《くろかみ》の少女。あれは自分だ。
「交代しましょうよ」
その千鳥かなめが、千鳥かなめだった肉塊に顔を寄《よ》せ、ささやきかける。
「そろそろあたしの好きにさせてくれてもいいと思わない?」
やっと悲鳴が出て、かなめはベッドから飛び起きた。
ここはスリランカのキャンプ。その一角の粗末《そまつ》な小屋。窓から日光が射しこんでいる。
息が荒《あら》い。頭が重い。汗と湿気《しっけ》で、下着までぐっしょりと濡れていた。
部屋の唯一《ゆいいつ》の扉が開き、サビーナ・レフニオが入ってきた。黒のタンクトップにオリーブ色のパンツ。この暑さの中で汗ひとつかいていない。
「お目覚めのようですね。ずいぶんとうなされているご様子でした」
「水を……ちょうだい」
「それは後で。熱を測ります」
「喉が渇《かわ》いたの」
サビーナがデジタルの体温計を取り出し、かなめの耳に入れた。覚えのある電子音。
「ねえ。水を……」
「下がりましたね」
体温計の液晶パネル。『37[#「37」は縦中横]・30[#「30」は縦中横]』の数字。夢《ゆめ》と同じだ。背筋《せすじ》が寒くなる。
「サビーナ」
「はい」
「ウッチって地名知ってる?」
サビーナは汚《よご》れたままのコップに水を注いでいる。その手が一瞬止まった。
「昔、住んでいた町です」
「そう」
「どこでそれを……?」
「わからない」
コップを強引《ごういん》に奪《うば》って、彼女は水を飲んだ。
●
C―130[#「130」は縦中横]輸送機がターボプロップの爆音《ばくおん》と共に、レークン島に着陸してきた。
一キロほど続く平坦な砂浜《すなはま》に、鉄板《てっぱん》を敷《し》きつめただけの滑走路だ。滑走路の距離も足りないので、離陸《りりく》には使《つか》い捨《す》てのロケットブースターの力を借《か》りなければならない。
未明からの発着作業で働きづめだった宗介は、昼下がりに久《ひさ》しぶりの休憩《きゅうけい》を得ていた。
ここレークン島は、カリブ海の一角に浮かぶ孤島《ことう》だ。
いまの強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》 <トゥアハー・デ・ダナン> が大西洋での活動に利用している物資《ぶっし》の集積《しゅうせき》ポイントであり、言わば暫定的《ざんていてき》な基地の役割《やくわり》を果《は》たしている。もちろん巨大な潜水艦が収納《しゅうのう》できるようなドックはないので、<デ・ダナン> はビーチから二キロほど離れた海上に待機し、飛行甲板《ひこうかんぱん》のハッチを全開にして輸送ヘリからの物資を大量に受け入れている。
宗介がこうやって海岸で釣《つ》りをするのは一年ぶりだ。
前の海釣りは、メリダ島で千鳥かなめと過《す》ごした短い時間だった。わずか三〇分間――それでもすばらしい三〇分間。彼女がここにいないことについて、宗介はなるべく考えないようにしていた。塞《ふさ》ぎこんでばかりいても消耗するだけだ。
リール付きの大きな竿《さお》を地面に突き立て、かかりそうもない魚を待ちながら、青空の下でゆっくりとジェーン年鑑《ねんかん》を読む。
釣竿《つりざお》は兵站《へいたん》ユニットのファルコウスキー二等兵からの借り物だった。どうせ一時間もたたない内にこの島を逃《に》げ出す支度《したく》を始めなければならないだろうが、それでもこんな贅沢《ぜいたく》ができるのなら、背後《はいご》の仮設《かせつ》滑走路を通り過ぎていく輸送機の爆音など、物の数ではなかった。
「ま、グァムのビーチみたいには行かないけどね」
と、宗介の横でメリッサ・マオが言った。
「こうして日光浴ができるだけでも、ずいぶんな進歩じゃないの?」
彼女は砂浜に敷いたマットの上に、水着姿《みずぎすがた》でごろんと横たわっている。その隣には技術将校《ぎじゅつしょうこう》のノーラ・レミング、さらにその向こうにはテッサの秘書官《ひしょかん》ジャクリーヌ・ヴィラン、通信下士官のサチ・シノハラが同様の姿で瑞々《みずみず》しい肢体《したい》を日光の下《もと》にさらしていた。そろいも揃《そろ》って、ブルーとグレーの迷彩柄《めいさいがら》のビキニ姿だ。四人が身じろぎするたび、たっぷりと日焼け止めオイルを塗《ぬ》った素肌《すはだ》がつややかに輝《かがや》き、玉の汗《あせ》がなめらかな曲面の上を流れていく。
ほとんど着の身着のままでメリダ島を脱出したため、水着など入手する機会はまったくなかったはずなのだが、艦内《かんない》での暇《ひま》な時間を利用して、余《あま》っていた都市迷彩《としめいさい》の生地から作ったらしい。
『着る時』が来ると思っていれば、先の見えない日々の生活にも張り合いが出るというわけだ。
<トゥアハー・デ・ダナン> 戦隊の女性《じょせい》将兵――とりわけ若《わか》い女性将兵の数はごく限られている。彼女たちには階級抜《かいきゅうぬ》きの不思議な連帯感が生まれている様子で、とりわけメリダ島を脱出してから結束が強まっているらしい。おそらく、東京で戦死したあの女性パイロット――エバ・サントスのこともあるのだろう。
「そうね。こんなの久しぶり」
と、レミングが豊《ゆた》かなバストに張り付くビキニの胸元《むなもと》を直しながら言った。
「ほら、作っといて良かったでしょ?」
とヴィランが言って、スポーツドリンクのストローに紅《あか》い唇《くちびる》をつけた。
「も……もう少し大人しいデザインでも良かったと思いますけどね。あはは……」
と、シノハラが落ち着きのない愛想笑《あいそわら》いを浮かべて言った。
シノハラは宗介と同じ日本人だ。普段《ふだん》は地味な化粧《けしょう》に黒縁眼鏡《くろぶちめがね》といった装《よそお》いの女性なのだが、今日はマオたちの流儀《りゅうぎ》に合わせているようだった。大学を出て航空自衛隊《こうくうじえいたい》で何年も過ごしてから <ミスリル> に入ったと聞いているので、もう二〇代後半のはずだったが、見た限りでは宗介と同年代でも何ら不思議のない容姿《ようし》だった。幼《おさな》さが残る容貌《ようぼう》な上に、この中ではいちばん階級の低い軍曹で、しかも控《ひか》えめな性格《せいかく》のため、シノハラはマオたちの妹的な位置になることが多かった。テッサがいない場では特にそうだ。本当はおそらく、いちばん年長のはずなのだが。
シノハラの様子を見てマオたちが笑った。
「なに言ってんの。滅多《めった》にない機会じゃない」
「日光も浴《あ》びずに死んだら後悔《こうかい》するでしょ?」
「楽しめる時に楽しまないとねえ……フフフ。見なさい、野郎《やろう》どもの視線《しせん》を」
「その視線が辛《つら》いんです!」
輸送機から補給物資《ほきゅうぶっし》の積《つ》み出《だ》し作業に取《と》り掛《か》かっている兵士たちが、遠くから口笛《くちぶえ》を吹いたり手を叩《たた》いたりしていた。
(そうした格好《かっこう》をするのは勝手だが。なぜ俺《おれ》のそばで日光浴をする必要があるのだ?)
宗介はひそかにそう思い、小さなため息をついた。
いや、理由はおおよそ察《さっ》しがつく。この海岸にはくつろぐのにちょうどいい広さの砂浜が三か所あり、そのすべてが男連中に占領《せんりょう》されているからだった。日光浴や食事を楽しむ者、技能《ぎのう》を維持《いじ》するため射撃の練習《れんしゅう》にいそしむ者、あれやこれやだ。
宗介は兵士たちの輪からはずれ、どうにか釣りができる砂地《すなち》で久々《ひさびさ》の孤独《こどく》を満喫《まんきつ》していたのだが(そう、孤独というのは贅沢品《ぜいたくひん》なのだと最近分かってきた)、そこにこのマオたちが押《お》しかけてきた。視線はともかく、大勢《おおぜい》の男からいちいち声をかけられるのはさすがに面倒《めんどう》だったらしい。
彼女らが言うには、『目の保養《ほよう》でしょ、感謝《かんしゃ》しなさい』『あんたはもう女がいるから気にならないし』とのことだった。
メキシコ南部、あのニケーロでの戦闘後の千鳥かなめとの会話のことがすでに知れ渡《わた》っているせいか、宗介は隊内の女たちにとって、前よりも気安い存在《そんざい》になっているようだ。それどころか、宗介の存在を気にもせずにあれこれと恋愛《れんあい》がらみ(と思《おぼ》しき)話を交《か》わしている。
たとえば、長くなるが――
「で、最近ブルーザーとはどうなの?」
「うまくいってるわよ。優《やさ》しいし」
「へえ。見た目は乱暴《らんぼう》そうなのに」
「そんなことないわよ! いえ、そういう方面の話じゃないけど。でもまあ、彼、整備兵《せいびへい》だし……フフフ」
「おおっ!」
「つまり手先が器用ってことですか!? ノーラさん!」
「まあねえ? なかなか時間とれないけど。ほら、そこはいろいろ。アルがらみで口実はいくらでも」
「ああっ……そうだったんだー」
「だったらウェーバーくんは? 狙撃《そげき》兵の指って柔《やわ》らかいって言うし。楽器やってたし」
「ああ、ギタリストはヤバいっていうよねー」
「それ都市伝説」
「だから下ネタやめろって。一応《いちおう》ソースケいるんだから。っつーか、なにそれ、クルツのことあたしに訊《き》いたの?」
「うん。ないの?」
「ないに決まってるでしょ!? やめてよ、あんなバカ」
「あ、そうだったんですか……」
「あら意外」
「ちょっ! 待ってよ、そんな噂《うわさ》広まってるの!?」
「いや、なんとなくそう思ってた」
「あたしもです。イケメンだしお似合《にあ》いじゃないですか」
「ええ――――! ちょっと、勘弁《かんべん》してよ――!」
「うそうそ、ごめんごめん。さすがに無いと思ってたよ」
「ホントやめてよー」
「ごめーん。あははは」
「ホントのとこ、どっちかっつーと弟っぽいしなー。やっぱそういうのじゃ……」
「え、じゃあ大尉《たいい》さんですか?」
「よくわかんないけど、どの大尉よ?」
「バカ。決まってるでしょ。ベンよ、ベン」
「いや、ベンはねー。いちおう直属《ちょくぞく》だし。いまはちょっとねえ……」
「まあ、器用なタイプではないわよね」
「っていうか、そういうの全然ないから」
「そっか」
「あー。でも大尉っていいですよねー。すっごいストイックっていうかー。なんかサムラーイっていうか」
「ほほう。サッチーはそうなのか」
「段取《だんど》りつけてあげようか?」
「ええ〜〜〜! い、いいですよー! でもどうしよう……困《こま》っちゃいますよー」
「はっきりしなよ、これだから日本人は……」
「でも、でも」
――こんな調子である。
だれがだれのことをどう言っているのかは、この際《さい》宗介にはどうでもいいことだった。別にこの会話の内容《ないよう》を人に話すつもりもないし、そもそも一割《いちわり》も理解《りかい》できていない。しかし、これだけは宗介にも理解できた。
どうやら俺は、狸《たぬき》の置物か地蔵《じぞう》のようにでも思われているらしい。
以前ならなんとも思わなかっただろうが、これはこれで空《むな》しいものがあることを、宗介はおぼろげに理解しつつあった。
その折――
サングラスの位置を直してから、マオが言った。
「そういえばエミリアとイエッタは?」
「まだ仕事から抜けられないみたい。たぶんもう無理《むり》ね。気の毒に」
レミングが言った。宗介の記憶《きおく》では、エミリアは発令所要員の通信士官で、イエッタは機関部のエンジニアのはずだった。この日光浴の会に加盟《かめい》していたのに、物資の搬入作業《はんにゅうさぎょう》が忙《いそが》しくて抜け出せなかったのだろう。
「彼女もやっぱり無理かしら」
「誰?」
「大佐よ」
「ああ、テッサね」
マオがつぶやき、すこし押《お》し黙《だま》った。
「……相談がたくさんあるだろうし。さすがにあの子は抜け出せないわね」
「ま、そっか……」
「ちゃんと彼女の分も水着作っといたのに」
「機会なら、またそのうちあるでしょ」
テッサの話が出ると、それまでの陽気なムードがなりを潜《ひそ》めた。彼女の激務《げきむ》を案《あん》じてのことなのだろう。
「大丈夫《だいじょうぶ》そうなんですか?」
と、シノハラが言った。
「んー。本人はそう言ってるけど」
「痩《や》せてきてない?」
と、レミングが言った。
「そうね。それに……なんていうのか……」
マオは口ごもってから、肩をすくめてみせた。
「なによ?」
「なんでもない。大丈夫だって。あの子もちょっと疲《つか》れてるだけよ」
レミングたちはおそらく気付かなかっただろうが、宗介はマオの声色《こわいろ》の変化を鋭く察した。いまのマオの喋《しゃべ》り方は、戦闘中の指揮官の声だった。部下たちの前で『心配するな、味方の増援はすぐに来る』と言っているときの、あの声だ。テッサと個人的《こじんてき》に親しいマオは、彼女がなにかの問題を抱《かか》えていることを感じ取っているのだろう。それを周囲の人間に気取られまいとしているのだ。
メキシコでの戦闘後、テッサとゆっくり話した機会はまだ一度もなかった。マデューカスや何人かの将校、マオやクルツ、クルーゾーたちを前にして、東京での戦闘やナムサクでの日々――そして彼らと再会《さいかい》するまでの話はしたが。
個人的な関係から、彼女の弱さを何度か目《ま》の当《あ》たりにしてきた宗介から見れば、いまのテッサの負担《ふたん》の大きさは容易《ようい》に想像《そうぞう》できた。<ミスリル> が壊滅状態《かいめつじょうたい》に追い込まれたというのに、部隊のほとんどを生き延《の》びさせた上で、こうして再編《さいへん》を図ろうとしているのだ。
昔、宗介が <トゥアハー・デ・ダナン> 戦隊に配属《はいぞく》されたころ、まだテッサは部下たちの信頼《しんらい》を勝ち得ているとは言えない状況だった。それからおよそ二年弱。いまの彼女は組織《そしき》にとって、なくてはならない存在になっている。軍事的な意味だけではなく、精神的な支柱《しちゅう》としてもだ。
彼女は天才だし、カリスマもある。指導者《しどうしゃ》として立派《りっぱ》にやっている。多くの将兵は彼女を『特別な人間』だと見なして、それ以上の想像をしていない。
だが、テレサ・テスタロッサとて決して超人《ちょうじん》ではないのだ。
たかだか一七歳の少女の才覚に依存《いぞん》しなければならないというのは、組織としてはもはや死んだも同然なのではないか? 彼女をよく知る人間たち――彼女の笑うところや泣くところを見たことがある数少ない部下たちは、それを大っぴらに口に出せずにいる。なぜなら、彼女自身がそれを望《のぞ》んでいないからだ。
基地のサイレンが鳴ったのはその時だった。
数百メートル彼方の物資集積所《ぶっししゅうせきじょ》の中心に設営《せつえい》された天幕――仮設《かせつ》本部のスピーカーから、ビーチ一帯にけたたましいアラーム音が響き渡る。
短く二回、長く一回。
これは『大至急《だいしきゅう》、撤退準備《てったいじゅんび》をせよ』の合図だ。艦船《かんせん》か航空機か――詳《くわ》しいことは分らなかったが、敵対的《てきたいてき》なユニットがこのレークン島に接近《せっきん》している。おそらくは周辺|空域《くういき》を哨戒中《しょうかいちゅう》のペイブ・メア輸送ヘリとスーパー・ハリアーが何らかの兆候《ちょうこう》を察知したのだろう。基地《きち》要員は作業を中止し <トゥアハー・デ・ダナン> に乗艦《じょうかん》。艦は緊急潜行《きんきゅうせんこう》して姿を消す。航空機は離陸し退去《たいきょ》。そして積み残した集積物資は爆破・焼却処分《しょうきゃくしょぶん》だ。補給物資を処分するのは惜《お》しいが、残された物資を調べた敵に、<デ・ダナン> にどんな物資があり、どんな物資がないのかを推測されるのはもっと困《こま》る。
遠くに見える兵士たち――ビーチでくつろいでいた者や射撃訓練《しゃげきくんれん》に明け暮れていた者が、あわてて撤収の準備を始めている。
「あーあ。短い休暇《きゅうか》だったわ」
「わずか三〇分のバカンス。次はいつかしら」
マオたちが不平を漏らしながら、水着の上にパーカーやTシャツを着て、飲食物をてきぱきと片付《かたづ》ける。
宗介も釣り道具を片付けにかかった。大急ぎでリールを巻《ま》き上げたが、針《はり》にかかっていたのは名前も知らない海草だけだった。
「深度六五〇。速力二五ノット。周辺二〇マイルに追尾《ついび》する艦船はありません」
副長のリチャード・マデューカスがテッサに告げた。
彼女は正面スクリーンの情報に目を走らせてから、副長の報告が正しいことを再確認し、ソナー室に警戒すべき方角を教える。甲板士官《かんぱんしかん》からいくつかの報告を受け、艦のコンディションについても問題がないことが分かるとやっとため息をついた。
「警戒レベルをイエロー3に。騒音規制《そうおんきせい》も解除《かいじょ》してください」
「アイ・マム。警戒レベルをイエロー3に移行《いこう》。騒音規制を解除します」
マデューカスが復唱《ふくしょう》し、甲板士官がその旨を艦内に告げる。
敵の接近を察知し、レークン島を離れて深海に姿を消してから、すでに五時間がたっていた。いまごろ格納甲板《かくのうかんぱん》では、息を潜めていた地上要員たちが、補給《ほきゅう》物資の整理に大急ぎで取りかかっていることだろう。
「おおむね想定《そうてい》の範囲内《はんいない》ですな」
マデューカスが言った。
「そうね。でも早かったわ」
いずれあのレークン島の基地が発見され、敵の攻撃を受けることは最初から分かっていた。基地に残した物資もあるが、大事なものはほとんど <デ・ダナン> に積み込んである。これで当分の間は――クルーの疲労を無視《むし》すれば――最大で四か月近くは無補給で航行《こうこう》が可能《かのう》になる。潜航さえできれば、<デ・ダナン> はいまでも世界最強の船だ。どこにいるのか、どこに向かうのか、そしてどこに現れることができるのか――それを知る者はこの発令所にしかいない。
とはいうものの、敵がレークン島を察知し戦力を派遣《はけん》してきた速さは不自然だった。数値《すうち》では表現《ひょうげん》できない、ごく微妙《びみょう》な敵の早さ。それをテッサは感じたのだ。
「敵が必死だというだけの理由ではないと?」
「ええ。西サハラの時だって、あそこまでギリギリだったでしょう?」
「そうですな。だとすれば――」
マデューカスはそれ以上なにも言わなかったが、テッサには彼の考えたことがよく分かっていた。
<アマルガム> の組織構成《そしきこうせい》に、何らかの異変《いへん》が起きている。
様々な面から考えて、もっともありそうな理由はそれしか考えられなかった。<アマルガム> の動きは以前よりも、より効率的《こうりつてき》・能動的になっている。
追われる身のテッサたちにしてみれば厳しい状況だが、これは悪いことばかりではない。<アマルガム> の意志決定機構《いしけっていきこう》に何らかの変化が起きた証拠《しょうこ》でもあるのだ。政策決定《せいさくけってい》が遅《おそ》いはずの組織が、よりすばやく攻撃の意志を決定して動いてくる。これは <アマルガム> がピラミッド状《じょう》の組織構成に変質《へんしつ》したということなのではないか? いや――そこまで劇的《げきてき》な変化ではなくとも、わずかにピラミッド状の組織に近づいたということなのではないか? その頂点《ちょうてん》がどこにあるのか、どの程度《ていど》のものなのかは分からないが。
言ってみれば、非常《ひじょう》にタフで防御力のある巨人に、初めて隙《すき》らしい隙が生まれたようなものだった。
その隙、その弱点がどこなのかはまだ分からない。それがアキレス腱《けん》なのか、眉間《みけん》なのか、心臓《しんぞう》なのか。ダメージを与《あた》えるのに銀《ぎん》の弾丸《だんがん》がいるのか。それもまだ分からない。
苦しい戦いは相変わらずだ。だがテッサは敵の動きに手ごたえを感じていた。それは水面から伸《の》びる釣り糸が、かすかに動いている程度のものに過ぎなかったが――
「いい兆候《ちょうこう》だわ」
テッサは艦長席《かんちょうせき》の上で、白い膝《ひざ》を組み直した。
敵が同じリングに上がろうとしている。対等の戦力になるのは望むべくもないことだったが、少なくとも鼻柱にきついパンチを叩《たた》き込んでやれる可能性は出てきた。
そうとなれば、次の段階《だんかい》に進まなければならない。
「ゴダートさん、操艦《そうかん》を頼《たの》みます。マデューカスさんは一緒《いっしょ》に来て」
「はい、艦長」
甲板士官に艦の指揮を任《まか》せてから、テッサは艦長席を立った。これからすべきこと、準備《じゅんび》すべきことのあれこれに思いを巡《めぐ》らせ、発令所を出て行こうとしたそのとき、通信士官が彼女を呼び止めた。
「艦長、待ってください」
「なんです?」
「電文です。DGSE(フランス対外情報部《たいがいじょうほうぶ》)のレモン氏から」
水面ぎりぎりの深度で通信情報を傍受《ぼうじゅ》している無人小型潜航艇《むじんこがたせんこうてい》『タートル』がキャッチした暗号通信が、コンソールのモニタに表示される。通信士官はすこし上体をずらし、テッサが読むのを待った。
電文の内容《ないよう》はごく短いものだった。
<<ヤムスク11[#「11」は縦中横]を確認>>
<<60。8'10.66"N 153。54'20.60"E / ファイル ed 1258-09-02>>
成果あり。おおむね予想通りの内容だった。連絡《れんらく》が来たのは思ったより早かったが。
ミシェル・レモンはモスクワにいるはずだ。どうしても調べておきたいことがあったため、危険を冒《おか》して潜入《せんにゅう》してもらっていた。いまごろは急いで撤収の準備をしていることだろう。明日にはハンガリーを経由《けいゆ》して西欧側《せいおうがわ》に脱出しているはずだ。
「いいわ。破棄《はき》して」
「はい」
記録が消去されるのを確認してから、テッサは発令所を後にした。
あのメリダ島の戦闘から八か月。テッサたちにも、ようやくそれなりの態勢《たいせい》が整いつつあった。
かつてのメリダ島で働いていた基地要員たちは各地で補給物資の供給《きょうきゅう》ルート、資金源《しきんげん》、情報網《じょうほうもう》などを再構築《さいこうちく》しつつある。ハンターやレイスら情報部の人間は各地で情報集めに動いている。エスティスたちのように各地に散《ち》っていた仲間も結集を進めており、急ピッチで戦力を拡充《かくじゅう》し続けている。
トップクラスの幹部《かんぶ》――作戦部長のボーダ提督《ていとく》、情報部長のアミット将軍《しょうぐん》や研究部長のペインローズ博士、マロリー卿《きょう》たちの行方《ゆくえ》は分からないままだ。死んだ者もいるだろうし、どこかで息を潜めている者もいるのだろう。
ただハンターの話では、アミット将軍は襲撃前《しゅうげきまえ》、情報部の機能《きのう》の大半をどこかに移転《いてん》し、いまも水面下で情報収集を続けているらしいとのことだった。コンタクトも取れないし、すでに <ミスリル> の味方であるのかどうかも判然としない。将軍から動くことを禁《きん》じられたハンターは、その方針《ほうしん》に反発して勝手にテッサたちに手を貸しているということだった。レイスも同様だ。
彼女とハンターは散り散りになっていた研究部の人間とコンタクトを取り、あの <レーバテイン> まで建造《けんぞう》してくれていた。かねてより極秘《ごくひ》に建造が進められていながら、様々な問題のため放棄《ほうき》されていた機体だとテッサは聞いている。普通なら完成を諦《あきら》めるしかなかったその機体に、ひそかに回収《かいしゅう》した <アーバレスト> のコアユニットを流用したのだという。回復《かいふく》したもう一人の『ウィスパード』であるミラの協力と、コアユニットを構成するAIのアル自身が機体を完成させた。
強力なラムダ・ドライバ搭載機ではあるが、間に合わせの流用品・試作品で建造した機体のため、<レーバテイン> には当初の計画が目指していたような万能性《ばんのうせい》がない。その昔、最初期のステルス戦闘機《せんとうき》の試作機『ハブ・ブルー』が製作《せいさく》されたとき、ロッキード社のエンジニアたちは機体のほとんどを既存《きそん》部品の流用ででっち上げたという逸話《いつわ》がある。その『故事《こじ》』にちなんで、サックスたち整備チームは <レーバテイン> のことを『ハブ・レッド』と渾名《あだな》していた。
その他の装備《そうび》も充実《じゅうじつ》させたいところだったが、あいにくテッサたちにはほとんど予算がなかった。補給物資や兵員の生活費《せいかつひ》ですら、持ち合わせの装備やダミー企業《きぎょう》、分散《ぶんさん》された資産を切り崩《くず》して用意しているのだ。
すでに二〇〇〇人を超《こ》える人員が <ミスリル> の再編成のために働き、限定的《げんていてき》ながらも <アマルガム> に損害を与えている。
この <トゥアハー・デ・ダナン> はそれらすべてを統合《とうごう》する移動本部《いどうほんぶ》だ。実質的な総司令官《そうしれいかん》は、その艦長であるテッサということになる。
部下たちの中には、心配顔を見せる者も少なくなかった。いくらなんでも年端《としは》もいかない彼女に、そこまでの重責《じゅうせき》を押し付けていいものか懸念《けねん》しているのだ。
しかし、現状でここまで的確に指揮をとれるのはテッサしかいない。マデューカスは有能な将校だし、テッサ並《な》みの仕事も充分にこなせる知性《ちせい》の持ち主だったが、いわゆる『カリスマ性』はない。口やかましい説教役がいちばん合っているのは本人も周囲もよく分かっている。そしてマデューカス以外の人間で、いまの <ミスリル> を束《たば》ねて指揮していける人間となると、なかなかいないのが現状だった。
カリーニンがいてくれたら、とテッサはよく思う。
彼も副官向きの男だが、ここにいてくれたら自分や部下たちの負担《ふたん》はずいぶんと軽減《けいげん》されたことだろう。
アンドレイ・カリーニン。
彼が <アマルガム> 側についたことは、テッサにも大きな衝撃を与えた。しょせんは傭兵《ようへい》、強い側・報酬《ほうしゅう》の大きい側につくのは珍《めずら》しくもないこと――そう解釈《かいしゃく》して納得《なっとく》するには、これまでの部隊内でのカリーニンの存在は大きすぎた。口数が少なく、滅多《めった》に個人的な考えや感情を表に出すことのない男だったが、その根本にある行動原理は信義《しんぎ》であり、戦士としての誇《ほこ》りであると誰《だれ》もが思っていたのだ。
それが、なぜ敵に?
メリダ島を脱出してから物資不足で立ち往生《おうじょう》しかけていた <デ・ダナン> に、とりあえずの補給物資を用意しておいてくれたのは、カリーニン以外には考えにくい。だとすれば、彼が敵につくことを決意したのはあのメリダ島での戦闘後だということになる。捕虜《ほりょ》になって、考えを変えたのか? いま思えば、あの戦闘のとき彼は珍しく躊躇《ちゅうちょ》のような態度《たいど》を見せていた。こうなることを知っていたような――あるいは、こうなることを聞かされていたような――そうした、かすかな動揺《どうよう》だ。
洗脳《せんのう》でもされたのだろうか? だれか大切な係累《けいるい》を人質《ひとじち》にとられているのかもしれない。実は <ミスリル> に入る前から <アマルガム> の息がかかっていた可能性《かのうせい》は? もっと複雑な理由があるのだろうか?
ただ一つはっきりしているのは、おそろしく手ごわい相手が <アマルガム> に加わっている、ということだった。
いや、そうではないのかもしれない。
カリーニンが味方についたのは、<アマルガム> ではなく兄なのだ。だとしたら、心当たりはある。ひょっとして、カリーニンが兄に協力しているのは――
「艦長?」
サックスの声で、テッサは我《われ》に返った。
「以上なんだが、これでいいかね」
状況説明室《じょうきょうせつめいしつ》に集まった一〇人ほどの部下たちが、怪訝顔《けげんがお》でテッサを見つめていた。いまは定例会議《ていれいかいぎ》の最中で、整備隊長のエド・『ブルーザー』・サックスが補給の進捗《しんちょく》状況を概説《がいせつ》していたところだった。
テッサは何事もなかったかのように小首をかしげた。
「ええ。他には?」
「M9がそろそろヤバい。ファルケとE系列《けいれつ》、三機ともすべてだ。スペアパーツは足がつきやすいからなかなか入手できない。しかも半年以上、まともなオーバーホールをやってないだろう。本当なら三機とも専門の工場で総点検《そうてんけん》すべきところを、騙《だま》し騙し運用してるから、あちこちにかなりのガタがきてる」
いま、テッサたちが保有《ほゆう》しているASは黒い <ファルケ> タイプ一機とE系列の二機、それから <レーバテイン> だけだった。<レーバテイン> は比較的《ひかくてき》最近になってから戦列に加わった機体なので、まだ部品の劣化《れつか》は軽かったが、残りの三機は度重《たびかさ》なる過酷《かこく》な作戦に疲労しきっている。
「どれくらいもちますか?」
「あと三回くらいの戦闘が限度《げんど》だ。それ以後はなにが起きてもおかしくない。戦闘中にパラジウム・リアクターが停止したり、フレームがいきなり『骨折《こっせつ》』したり、関節がロックして転倒《てんとう》したり……よりどりみどりだ。どれか一機を潰《つぶ》して予備《よび》パーツに回せば、これからも当分持ちこたえられるだろうが……」
「待って。これ以上、機数は減《へ》らせないわ」
マオが言った。
「いまでも普通なら六機以上でやってる戦闘を、三機プラス一機でどうにかこなしてるんだから。また一機減ったら、まともな作戦ができなくなるわよ」
「だが、このままじゃ三機とも潰れる」
「うーん……」
「それは大丈夫です」
テッサは言った。
「これから三回戦闘をこなすまでには、別ルートから部品を調達できると思いますから。このままで頑張《がんば》ってください」
実はM9の部品を調達する目処《めど》など立っていなかったのだが、テッサは自信たっぷりにそう言っておいた。対策《たいさく》のしようがないことで、みんなを悩《なや》ませておくだけ時間の無駄《むだ》だ。エスティスやハンターたちが朗報《ろうほう》を持ってきてくれるかもしれないが、そうならなければ <デ・ダナン> の戦闘能力は大幅《おおはば》に低下するだろう。
だが、いずれにしても――
(あと三回でほとんどの決着はついているはず……)
これからあの三機のM9が四回も五回も出撃《しゅつげき》することは、おそらくないだろう。もしそこまで戦いが長引いたら、こちらの負けだ。
「それで次の作戦は?」
クルツが言った。
「はぐれてた味方はだいたい集めた。とりあえずの補給もできたし、情報網も再構築《さいこうちく》できた。ところがレナードはどこにいるのか分からない。生きてるのか、死んでるのかもだ。<アマルガム> を潰すには、奴《やつ》の情報が必要なんだろ?」
「レナード・テスタロッサの生死に関する情報はありません。でも、わたしは生きていると思います」
「勘《かん》ってことか」
「ええ」
双子《ふたご》の妹で、同じ『|ささやかれた者《ウィスパード》』の言うことだ。論理的《ろんりてき》な話ではなかったが、それ以上わざわざ異論《いろん》を挟《はさ》む者はいなかった。経験豊富《けいけんほうふ》な兵隊ほど、勘の類《たぐい》を尊重《そんちょう》するものだ。
「ま、もともとカナメの話から『死んだかもしれない』ってだけだしな。生きてると考えといていいか」
「だとしても、その所在《しょざい》が分からない」
と、クルーゾーが言った。
「こちらの情報もまだ貧弱《ひんじゃく》だ。いまのところは効果的な攻撃は難しいだろうな」
「そうですね。前から言っていたウィルス問題については、ダーナとアルの間でもあれこれ討議をさせていますけど、結論は出ていません」
「それは初耳だ。討議なんて出来るのか」
サックスが言った。
「空いた時間を利用してですけど。でも駄目《だめ》ですね。アルの質問《しつもん》が難解《なんかい》すぎてダーナが付いていけません」
「ダーナの方が、ずっと強力なAIじゃなかったのか?」
「そういうことになっていますね」
「それにアルはチェスが滅茶苦茶《めちゃくちゃ》弱いんだ。フライデー――マオのM9のAIとやらせてみたら、一〇戦中九敗だった」
それはテッサが初耳だった。だがその話を聞くなり、テッサはおかしそうに肩を揺《ゆ》さぶってしまった。いろいろと合点《がてん》がいったのだ。
「そう。すごいAIですね、アルは」
「どうしてだ。弱いんだぞ?」
「互角《ごかく》の対戦になる思考方法を使ってないからです。わたしたちと同じやり方で勝負してるのね。それでも一勝を拾ってるなんて」
「同じやり方……?」
サックスが眉《まゆ》をひそめると、それまで黙っていたマデューカスが口を開いた。
「直感だ。チェスプレイヤーや数学者、頼まれなる戦術家《せんじゅつか》などは、難題《なんもん》を前にしたとき、まず最終的なイメージの方が先に浮かぶ。論理《ろんり》は後づけの説明に過ぎない。まるで『未来が見えている』かのように、『こう勝ちたい』というビジョンが先行するのだ。単純《たんじゅん》なゲームならノイマン型《がた》コンピュータの方が有利《ゆうり》だが、はるかに複雑な現実《げんじつ》に対処《たいしょ》するときは違う」
「ふむ……」
「知能《ちのう》の定義《ていぎ》については、将来《しょうらい》暇になったときに議諭《ぎろん》しましょう。それよりも、これからのことです」
膝《ひざ》の上に置いていたファイルケースを、わざと大きな音で閉《と》じてからテッサは言った。
「 <アマルガム> に微妙な変化があります。意志決定が早くなり、断固《だんこ》とした動きが目立つようになってきました。同時に混乱《こんらん》も。こちらのゲリラ戦がじわじわ効《き》いてきてるんだと思います」
「焦《あせ》ってきてるのか? そりゃいいニュースだ」
「ええ。ただし、これはわたしたちだけが原因《げんいん》ではないかもしれません」
「というと?」
「レナードです。もしくは、カリーニンさんか……。彼らが組織内で主導的《しゅどうてき》な立場を掌握《しょうあく》しつつあるとしたら? これまでわたしたちは、<アマルガム> の拠点をいくつも潰してきましたが、内紛《ないふん》らしき痕跡《こんせき》も見られます。では、内紛の原因、権力闘争《けんりょくとうそう》が起きている理由は何なのか? それを考える必要がありそうです」
「まだ何か秘密《ひみつ》がありそうですな」
クルーゾーが珍しくぼやくように言った。
「それについては、レモンさんたちのおかげで手がかりが掴《つか》めたので、あさってから調べにいくつもりです」
テッサの言葉にマデューカスが眉《まゆ》をひそめた。
「調べにいく? あなたが?」
「ええ。わたしでないと調査《ちょうさ》が難しい場所なんです。危険も予想《よそう》されるので、何人か一緒に来てください。遠いところです」
「どこでしょうか?」
「極東。ソ連領内《れんりょうない》にある廃墟《はいきょ》です」
いま <デ・ダナン> がいるのは大西洋だ。護衛《ごえい》にASを連れて行くなら、相当な長旅になってしまうだろう。全機は無理だ。がんばって二機というところか。
「そうですね……護衛はウェーバーさんとサガラさんにお願いします。その間、クルーゾーさんはウクライナの件《けん》の情報集めと例の根回し[#「根回し」に傍点]を。メリッサはコートニー氏と南米で敵拠点の殲滅。困《こま》ったお爺《じい》さんたちですけど、ちゃんと協力してあげてくださいね」
「へいへい」
マオが投げやりに答える。
「ちゃんと返事!」
「はっ、司令殿《しれいどの》」
「けっこう。そんなこんなで、よろしくです。これからもミスをしないように気をつけましょう。では解散《かいさん》」
テッサたちとの会議の翌朝《よくあさ》――メリッサ・マオは目を覚ますなり、自分がさっそくひどいミスを犯《おか》したことに気付いた。
このミスに比べれば、味方機を誤射《ごしゃ》したり、随伴《ずいはん》歩兵をうっかり踏んづけたり、オープン回線で機密情報《きみつじょうほう》を喋《しゃべ》ったりした方がまだマシなくらいだった。
ここは将校用《しょうこうよう》の小さな個室《こしつ》だ。書類仕事も増えたし、陸戦ユニットの実質的な副指揮官《ふくしきかん》になったということもあって、マオはこの小さな個室を一人で占有《せんゆう》することが許《ゆる》されていた。潜水艦内で生活する者にとって、これは大きな贅沢である。
その小さな個室の、小さなベッドで――
となりに裸《はだか》のクルツが寝ていた。
のんきな顔で、気持ちよさそうに寝息をたてている。
「…………っあ〜〜〜〜〜〜」
ため息ともうめき声ともつかない、長くて力ない声を漏らし、彼女はベッドの上でうずくまった。
再確認《さいかくにん》。やっぱりというか、当たり前というか、自分も下着一|枚《まい》つけてない。
別に酔《よ》った勢《いきお》いでそうなったわけでもないので、昨夜《さくや》のこともしっかり全部覚えている。ただ、目覚める瞬間に『夢だったらいいな』と思っていただけの話だ。
[#挿絵(img/10_097.jpg)入る]
そう、覚えている。
深夜、この部屋で補給物資の書類を片《かた》づけていたら、クルツが別の書類のサインをもらいに来た。そのついでに、PRT(初期対応班《しょきたいおうはん》)の連中のことで相談になった。クルツはPRTの経験不足《けいけんぶそく》な連中の面倒《めんどう》をよく見ているからだ。その話の流れで、あれやこれやと長い雑談《ざつだん》になった。
で、飲み物でも出してやるかい、ということで冷蔵庫からペリエを取り出したら、手が滑《すべ》って床にぶちまけてしまった。
思えばこれがいけなかった。
ペリエで床を濡《ぬ》らさなければ、あんなことにはならなかったのに。
こぼした飲み物を片づけてから、改めて二人でジンジャーエールをまったりと飲みつつ、いまの生活にも疲《つか》れたねー、とか、たまにはリゾート地でロマンスの一つも楽しみたいわー、とかいう話になった。するとロマンスの単語に反応《はんのう》して、クルツがまたセクハラまがいで肩に手を回してきた。『だったら姐《ねえ》さん。俺と濃密《のうみつ》なロマンスを今から楽しまないかい? ほれほれ』などと言って。
例によって殴《なぐ》り飛《と》ばそうとしたら、なにしろ部屋は狭《せま》いし、床は濡れていたしで――そう、ここで先ほどのペリエの出番だ――足を滑《すべ》らして転びかけた。クルツが手を出して支《ささ》えてくれたが、けっきょく二人で床に倒《たお》れてしまった。
倒れるとき、壁《かべ》に軽く頭をぶつけたみたいで、ちょっとだけクラクラした。ほんの二〜三秒くらいだったはずだ。で、目を開けたら視界一杯《しかいいっぱい》に心配そうな彼の顔。真面目《まじめ》な声で『悪い。大丈夫?』と言われた。
そうしたらなぜか、無性《むしょう》に泣けてきた。
いや、本当に泣いたわけではないが、どういうわけだか泣きたい気分になった。
あたし、こんな潜水艦の中でなにやってんだろ、こいつあたしのなにを心配してくれてるんだろ、という感じで。
メリダ島がやられてからこっち、ずっとため込んでいたものが溢《あふ》れかえってしまったのかもしれない。ものすごく寂《さび》しい気分になって、目の前で心配顔してくれてる男に甘《あま》えたい気分になった。彼はきょとんとしていたが、何秒か見つめあって――
そうだった。こっちからキスしたのだ。
もう、なんというのか。どうしようもない。カッコ悪すぎる。上官失格《じょうかんしっかく》もいいところだ。こんなベタな流れ、恥《は》ずかしくてノーラたちにはとても言えない。
でももし彼女たちが知ったら、興味津々《きょうみしんしん》で目を輝かせて、きっとこうたずねてくることだろう。『で、どうだった?』と。
いや、まあ――
それが、いやはや――
どうしよう。すごいよかった。まさかここまで相性《あいしょう》がいいとは思わなかった。
ちょっと我《われ》を忘《わす》れすぎた。おかげで体中の節々《ふしぶし》が痛《いた》い。っつーかこの部屋、防音性《ぼうおんせい》は高かったと思うけど、大丈夫だっただろうか。
……などと昨夜の記憶《きおく》を反芻《はんすう》して、マオが赤くなったり青くなったりしていると、横でクルツがうなり声をあげて目を覚ました。いまさら馬鹿げているとは分かっていたが、思わずシーツで胸を隠してしまった。
「うぅーん……ふぁ。……ん?」
クルツがこちらを見た。しばらくぼんやりしていたが、すぐに彼もまったく同じように、その場にうずくまって頭を抱《かか》えた。
「…………っあ〜〜〜〜〜〜。やべえ……」
深いため息をつかれたことがショックだった。さらに加えるなら、ショックを感じたこと自体がショックだった。
「な……なによ、その態度《たいど》」
するとクルツは顔を覆《おお》った指の隙間《すきま》から、ちょこっとこちらをうかがって、急ににんまりと笑ってみせた。
「うそうそ。ちょっとからかってみただけだって」
そう言って彼はマオの肩に手を回し、そっと頬《ほお》に口づけしてきた。ついでに空いた方の手で、首筋《くびすじ》や鎖骨《さこつ》のあたりを優しくなで回してくる。
「はあ? ちょっ……やめ……バカ……!」
「いやいや、こういうじゃれ合いって大事だと思うし」
「あんたねえ! やめなさ……あ……」
「かわいかったよ、メリッサ」
「ん……だめだってば……もう……って、いい加減《かげん》にしろ!」
昨夜の失敗を教訓に、彼女はしっかりと家具の縁《ふち》をつかんで体を固定し、その上でクルツを思い切りベッドから蹴《け》り落とした。
「うおっ。……なにすんだよ!?」
「あんた調子乗りすぎ。あとこっち見るな」
ずり落ちたシーツをたぐり寄せ、枕《まくら》をクルツの顔に叩《たた》きつける。
「はあ? なにそれ? だってゆうべはあんなに――」
「ゆうべはゆうべ、いまはいま。一回だけで恋人《こいびと》ヅラするな」
「一回じゃなくて三回だよ!」
「しっかり数えるな。っつーか、そういう話じゃない。それからメリッサ呼ぶな」
「そう呼べって言ったじゃん」
「言ってない!」
「言ったよー。そしたらすげえかわいい声でぐはっ」
マオが投げつけたマグカップを顔面に食らって、彼はその場で仰向《あおむ》けに倒《たお》れた。
「……あー、困《こま》ったわ。あたしどうかしてた。知らないうちに心が弱ってたのね」
「んー。確かにいろいろ弱気っぽかったかもな」
そう言ってクルツはからからと笑った。
「あんた……気付いててつけ込んだわね?」
「ひでえなあ。そこまで器用じゃねえよ、俺」
「でもなんか、ゆうべは最初から必要以上に優しかったもの」
「普通に心配だっただけだよ。俺だってまさかこういうことになるとは……いや」
クルツは真面目《まじめ》な顔で、すこしの間|黙考《もっこう》した。
「ふむ。すこしは下心もあったかもな」
「この……!」
マオは彼から枕を奪《うば》い返すと、力一杯《ちからいっぱい》その横面《よこつら》をひっぱたいた。一度では全然気が済《す》まなかったので、何度も枕で叩いてやった。
「よせってば、おい。あっはっは。くすぐったいなー、もう」
「なにその余裕《よゆう》? なんか超《ちょう》ムカつくんだけど!?」
「いいからいいから。平気平気」
踏《ふ》んでも蹴《け》っても、首を絞《し》めてもつねっても、クルツは朗《ほが》らかに笑っているばかりだった。さすがに疲れて乱暴《らんぼう》をやめ、ベッドの上でぜいぜい息をしていると、彼は神妙《しんみょう》な顔で彼女の横顔をのぞき込んだ。
「でも、大丈夫そうだな」
「?」
「すっきりしただろ? そんな顔してるよ」
クルツの言う通りだった。きのうまでの、どんよりとした気分がなくなっている。ビーチで日光浴をしても振《ふ》り払《はら》えなかった気分――もう一人の陰気《いんき》な自分が、澱《よど》んだ目で、肩越《かたご》しにのぞき込んでいるような強迫感《きょうはくかん》が雲散霧消《うんさんむしょう》している。たった一晩《ひとばん》でこうも気持ちがすっきりするとは。彼女は自分の単純《たんじゅん》さにあきれてしまった。
いや。しょせんそんなものなのだろう。おいしいものを食べたり、情熱的《じょうねつてき》な一晩を過《す》ごしたり。ほとんどの人間の問題は、それで解決《かいけつ》してしまうのだ。
テッサもそうなれればいいのに。
彼女はふと、あの少女にもこんな相手がいてくれたら……と思った。いちばんいいのは宗介なのだろうが、あいにく彼はかなめ一筋《ひとすじ》だ。彼の一途《いちず》さは本来、好ましい種類のものなのだが、端《はた》から見ていても時として疎《うと》ましく感じることがある。そこまで難しく、重たく考えなくてもいいのに……と。
クルツがなにか期待《きたい》するような顔をしているのに気付き、彼女はそっけなく言った。
「ま、すっきりしたかもね。出口はあっちよ」
「うわ、ひで! 冷たすぎだろ、いくらなんでも」
「だから調子乗るなって言ってるでしょ? あたしには立場ってもんがあるんだから。さっさと忘《わす》れて。だれかに話したらぶっ殺すわよ」
するとクルツは今度こそ本物の、深いため息をついて肩を落とした。
「なんだかなー。さすがに自信なくなってきた……。やれやれ……」
「なによ、それ」
「いや。うん……。さっきからの態度《たいど》。要するにだれでも良かったってことなんだろ? 俺は純粋《じゅんすい》に嬉《うれ》しかったんだけど……ま、わかったよ」
彼は力なく立ち上がり、のろのろとパンツをはいた。
「ちょ……べ、別にだれでもいいってわけじゃ……」
「そうかな……。でも、実はあんまり楽しくなかったんじゃない?」
「そんなこと言ってないでしょ?」
ちらりとクルツがこちらを盗《ぬす》み見た。
「じゃあよかった?」
「まあ……その……。って、そうじゃなくて! あたしが心配してるのは、こ、こんなことになっちゃって、他のみんなが知ったらどう思うか――」
シーツの端《はし》っこを指先でつまんでもじもじしていると、クルツがずいっと身を乗り出して、不意打ちのキスをした。長いキスだ。とてもシンプルな口づけなのに、なぜか濃厚《のうこう》で甘い味がした。
「……っん」
「かわいいとこあるなー、ほんと」
「もう……。あたしの話わかってんの?」
「大丈夫。言わねえしいつも通りにしてるから。そんな心配するなって」
「絶対よ? ホント困るんだから」
クルツが机上《きじょう》の時計《とけい》をちらりと見た。
「勤務《きんむ》シフトが八時だったよな。まだ一時間くらいある」
「……なにが言いたいわけ?」
「もう一回」
「バカ」
「いやか?」
彼女はすこし考えてから、彼の耳元にささやいた。
「一回だけよ?」
けっきょく二回になってしまった。
勤務時間にはぎりぎりで間に合った。
[#改ページ]
2:旅の途中《とちゅう》
『ミシェル・ダンビエ』という名の電気技師《でんきぎし》。ルノーに三年勤務している既婚者《きこんしゃ》で、モスクワ川|沿《ぞ》いのエクスポセンターで開かれている自動車の国際見本市《こくさいみほんいち》に出席した。ついでに新婚旅行《しんこんりょこう》も兼《か》ねて妻《つま》を伴《ともな》ってきたのだが、ロシア人の接客態度《せっきゃくたいど》にすっかり幻滅《げんめつ》している。不機嫌《ふきげん》になった新妻をなだめるのに苦労し、さっさと帰国してパリの料理とワインを楽しみたいと思っている男。
いまのレモンの表向きの身分はそんなところだった。
「ふあ……」
シュレメーチェボ国際空港《こくさいくうこう》のターミナルの一角に腰《こし》かけ、レモンはあくびをかみ殺した。
「よくあくびなど出るものだな」
ベンチの隣《となり》に座《すわ》っている彼の『表向きの妻』――レイスが言った。話す言葉は無愛想《ぶあいそう》そのものだったが、その表情《ひょうじょう》と仕草は甘《あま》く、やわらかかった。レモンの首筋《くびすじ》を優《やさ》しく撫《な》で、耳元に唇《くちびる》を寄せてくるのだ。周囲の旅行客から見れば、愛の言葉をささやいているようにしか見えないだろう。
落ち着いたペイズリー柄《がら》のワンピースと、シンプルなベージュのカーディガンを上品に着こなしているブルネットの女。鼻は高く、あごは尖《とが》り、目は深い灰色《はいいろ》で、どこからどう見ても東洋人には見えない。こんな変装《へんそう》を毎朝ほんの十数分で済《す》ませているのだから、彼女が本気になったら、どんな別人に化《ば》けてしまうのか分かったものではない。
レモンは愛《いと》しい妻のごきげんをとっているような調子で、この相棒《あいぼう》にささやいた。
「そりゃ、あくびも出るさ。ここ五日間、ほとんど寝《ね》てない。昼は観光客を演《えん》じて、夜はモスクワ中の図書館に忍《しの》び込んでたんだから」
「文書を調べたのは私だがな」
「僕だってすこしは手伝ったよ。でもロシア語は専門外《せんもんがい》なんだ」
彼らが <ミスリル> のテレサ・テスタロッサに頼《たの》まれた『調査《ちょうさ》』とは、ソ連の公文書・科学論文《かがくろんぶん》の調査だった。およそ一八年前、ソ連|領内《りょうない》で行われたはずの実験《じっけん》についての痕跡《こんせき》。電子化もされていない文書を調べるためには、こうしてモスクワまで足を運んでみるしかなかった。
「そもそもモスクワは初めてだし。君にとっては庭みたいなものなんだろ?」
「一時期住んでいただけだ」
「留学《りゅうがく》かな? ルムンバ大学とか」
「答える義務《ぎむ》はない」
「あ、そう」
レイスが元は北朝鮮《きたちょうせん》のエージェントだったことを、レモンはすでに漠然《ばくぜん》と察《さっ》していた。ルムンバ大学は第三世界の共産主義国家からの学生を受け入れていることで知られている。ここへの留学を名目にして、別の機関から『スパイ学』を叩《たた》き込《こ》まれる者もいることは、レモンたち諜報畑《ちょうほうばたけ》の人間にはよく知られていた。
この女の本名を、レモンはいまだに知らない。こちらの『レモン』も偽名《ぎめい》なので、とやかくいう義理もないのだが――ほんの興味《きょうみ》からこの旅の最中に彼女にたずねてみたことはあった。彼女いわく、『おまえには日本人の友人がいる。だから教えない』とのことだった。意味が分からないのでさらに問《と》い詰《つ》めると、なぜか顔を赤くして不機嫌になってしまった。
素顔《すがお》も美人だ。教養《きょうよう》もある。しかも頭脳派《ずのうは》スパイのレモンに比べて、彼女ははるかに行動力がある。これはこれでまた好みの女性《じょせい》だったが、残念なことに夫婦《ふうふ》として過《す》ごしたこの五日間、個人的《こじんてき》にお近付きになる機会は一度も訪《おとず》れていなかった。
さいわい遠出の成果はあった。科学アカデミーの図書館で二晩《ふたばん》苦労した挙句《あげく》、レイスは目的の文書とその中に記載《きさい》された地名を発見し、すでに衛星《えいせい》回線で <トゥアハー・デ・ダナン> に知らせている。あとは逃《に》げるだけだった。
搭乗時間《とうじょうじかん》はまだ先だ。レモンはその場で立ち上がった。
「どこに行く」
「ちょっとお腹《なか》すいた。なんか買ってくる。君は?」
「いらん。勝手に……いや」
レイスはすこし考えた。
「チョコレートを頼む。ハーシーズがあったらそれがいい」
「なにそれ。チョコから爆薬《ばくやく》かなんかでも作るのかい?」
「違《ちが》う。食べたいだけだ」
「ほほう。泣く子も黙る <ミスリル> のスパイにしてはかわいい好みだね」
「うるさい。さっさと行け」
罵《ののし》りの言葉を優しくささやき、彼女が彼の頬に口付けした。どこまで演技《えんぎ》なのか分からなかったが――いや、全部演技だろう。レモンは肩をすくめ、空港ターミナルの隅《すみ》にある売店に向かった。
ピロシキ二つとボルヴィック、それから適当《てきとう》なチョコを買う。あいにくハーシーズはなかった。余《あま》っていたルーブル紙幣《しへい》で払《はら》おうとすると、店員の中年女が訛《なま》りの強い英語で『ドルはないのか』と言ってきた。本当はドル紙幣も持っていたが『ない』と言ってルーブルを出すと、露骨《ろこつ》にいやな顔をされた。
会計を終えて売店を離《はな》れようとすると、ターミナルの入り口付近で異変《いへん》が起きていることに気付いた。スーツ姿《すがた》の男が数人、空港の係員と問答している。その物腰《ものごし》、横柄《おうへい》な態度《たいど》、射《い》るような眼光《がんこう》――あれは公安関係者だ。係員に写真を見せて何かをたずねている。
写真を見た係員がロビーの一角を指さした。レモンがさっきまで座っていたベンチの方角だ。
まずい。
すぐにそう感じた。レモンが思いつく限《かぎ》りでは、自分たちの素性《すじょう》がソ連当局に知られて追跡《ついせき》を受けるようなミスを犯《おか》した記憶《きおく》はない。いまこの時までそんな兆候《ちょうこう》はまったくなかった。しかしあの様子から察するに、彼らが探《さが》している相手は――
「我々《われわれ》に用らしいな」
いつの間《ま》にか彼のすぐ背後《はいご》に立っていたレイスがつぶやいた。驚《おどろ》いて声を出しそうになったレモンの襟首《えりくび》をつかんで、入り口の男たちの死角になっている観葉植物の陰《かげ》へと引っ張《ぱ》り込《こ》む。彼女はレモンより早く公安関係者の存在に気付き、ひそかにこちらに移動してきたのだろう。
「そのようだ。どうやって僕らのことを察知《さっち》したのかは分からないけど」
そもそもレモンたちがここに来ていることを知っているのは、テレサ・テスタロッサとギャビン・ハンターだけのはずだ。
「で、どうする?」
「そうだな……。どう転んだって、ひどい扱《あつか》いを受けるのは変わらないだろうし。だったら――」
「逃げられるところまで逃げてみるか」
レモンの手を握《にぎ》って、彼女はターミナルの片隅《かたすみ》にある職員用《しょくいんよう》の扉《とびら》へと歩き出す。
扉には鍵《かぎ》がかかっていた。レモンの体に隠《かく》れて、レイスが鍵をピッキングする。ただのシリンダー錠《じょう》にすぎないとはいえ、ほんの五秒くらいしかかからなかった。客や係員もまったく気付いていない。
「開いた」
「お見事」
まずレイスが扉の中に滑《すべ》り込み、ターミナルの客がだれも自分たちに注目していないことを確認してからレモンが後に続いた。
職員用の通路を小走りで進む。角を曲がり、階段《かいだん》を降《お》り、清掃具《せいそうぐ》の陰に隠れて、通りすがりの職員をやり過《す》ごす。大まかな見取り図しか覚えていないので、このターミナルビルの中からどこかに脱出できるかどうかはまったくの運任《うんまか》せだった。
「心当たりはあるか?」
小さな倉庫《そうこ》に隠れてから、レイスがささやいた。
「なにが」
「この状況《じょうきょう》だ。われわれのことを漏洩《リーク》した者がいる。ハンターはありえない」
「どうかな。あのテスタロッサ嬢《じょう》がヘマをするとも思えないし――」
言いかけた彼の胸《むな》ぐらをレイスがつかみ、するどく尖《とが》ったなにかを喉元《のどもと》に突きつけた。強化プラスチック製《せい》の隠しナイフだった。
「だとしたら、原因《げんいん》はおまえ以外に考えられない」
「おいおい……!」
「DGSEのだれかに報告《ほうこく》したのか? いや、そもそもおまえの所属《しょぞく》がDGSEだということ自体が疑《うたが》わしい。いずれにしても、ここでおまえを殺して逃げる方が安全な気がしてきたところだ」
「なるほど」
レモンは余裕《よゆう》の笑みを浮かべようとして失敗した。肌《はだ》に食い込む切っ先の痛《いた》みで、思わず顔がゆがんでしまった。
「だったら、もう僕はおしまいかな。なにしろ自分の無実を証明《しょうめい》する方法がない。弁護士《べんごし》もいなけりゃ陪審員《ばいしんいん》もいない。一度の公判で死刑判決《しけいはんけつ》、即日執行《そくじつしっこう》だ。文明とは縁遠《えんどお》い君の祖国《そこく》じゃ、いつものことなんだろうけどね」
レイスの目に静かな怒《いか》りが浮かんだ。しかし、いまやレモンはもっと怒《おこ》っていた。
このバカ女め。味方を疑《うたが》っている場合か。人を脅《おど》かす前に、協力して逃げる方法を考えたらどうなんだ。ついでに言わせてもらえば、この数日間|寝起《ねお》きを共にしてきたのに、全然、まったく、これっぽっちも僕に対して気がなかったことがよく分かった。こんなハンサムで紳士的《しんしてき》で知的でセクシーな僕に興味を持たないとは! この女、ひょっとしてレズビアンなのか?
「怒っているようだな」
「ああ、すごく怒ってるよ。ついでに君が死刑執行をしやすいように、ひとつ教えてやろう。僕は君の秘密《ひみつ》を知っている」
「なんだと?」
「きのう、暇《ひま》つぶしにネットで朝鮮《ちょうせん》の女性名《じょせいめい》を調べたんだ。語学的|才能《さいのう》にも恵《めぐ》まれている僕は、小一時間もしないうちにすぐ気付いた。君の本名のことさ。たぶん君のファミリーネームは『キム』だ。漢字だと『金《ゴールド》』と表記する。下の名前は美しいとかの意味の『ユン』じゃないのか? ほらやっぱり。顔に出た。これは漢字で『ボール』と表記するらしいね。玉《ボール》と姫《ガール》で『ユンヒ』とか、そんな名前だろ。つまりだ、君のフルネームを漢字で書くと、日本人にとっては爆笑必至《ばくしょうひっし》の――」
「やめろ……!」
「さあ、さっさと殺せよ。地獄《じごく》で言いふらしてやる」
レイスの腕《うで》に力がこもった。顔が紅潮《こうちょう》しているのは、怒りだけが理由ではなさそうだ。このままナイフで喉を引き裂かれそうな勢《いきお》いだったが、彼女はすぐに思いとどまり、苦々しげにため息をついた。
「馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。やめた」
「だったら最初からこんな真似《まね》しなきゃいいんだ」
乱《みだ》れた胸元を直しながらレモンは鼻息も荒《あら》くつぶやいた。レイスは構《かま》わず空港の見取り図が描《えが》かれた小冊子《しょうさっし》を手に取って脱出プランを吟味《ぎんみ》している。
「地下まで行けは、燃料《ねんりょう》や上下水を供給《きょうきゅう》するパイプラインがあるはずだ。そこを伝ってターミナルビルから脱出できるな」
「それは結構《けっこう》だね。でも他に言うことないのかい?」
「なにがだ」
「『すまなかった』とか『ごめんなさい』とか」
「うるさい」
ぶっきらぼうに告《つ》げてから、レイスは先を急いだ。粗末《そまつ》な従業員用の階段を駆《か》け下り、物資《ぶっし》の搬入路《はんにゅうろ》からさらに地下へ向かう。じめじめとした場所だった。通路の表示《ひょうじ》や案内図はロシア語のみで、長い歳月《さいげつ》を経《へ》たためにかすれて読みづらくなっている。
「あそこだ」
細い通路の奥にあった、床のハッチにレイスが駆けよる。ハッチは鎖《くさり》と南京錠《なんきんじょう》で施錠《せじょう》してあった。上の階《かい》、かなり遠くで複数《ふくすう》の足音。『|急げ《ダワイ》、|急げ《ダワイ》』と叫《さけ》ぶ将校《しょうこう》の声。訓練を受けた男たち特有のきびきびした足取り。何かの荒い息づかい――あれはたぶん警察犬《けいさつけん》だ。こちらが見つかるのは時間の問題だった。
「まずいな。犬を連れてる」
「わかっている。……開いた」
南京錠を開けて鎖を解《と》くと、二人がかりで重たいハッチを引っ張り開ける。このハッチを女一人で開けるのは、まず無理《むり》だったことだろう。
「ほら、一人じゃ逃げられなかった。生かしといて良かったろ?」
「だがもう用済《ようず》みだ。ネチネチしつこい男は殺していくか」
「なっ……」
「冗談《じょうだん》だ。行くぞ」
レイスが大急ぎでハッチからさらに地下へと降りていく。後から続いたレモンは、先ほどの売店で買ったチョコの銀紙《ぎんがみ》を適当《てきとう》な大きさにちぎり、ハッチを閉めるときに目立たないように挟《はさ》んでおいた。
「なにをしてる?」
「時間稼《じかんかせ》ぎさ」
追っ手がこのハッチを見つけたとき、あの銀紙に気付けば、なにかの罠《わな》があるのではないかと警戒してくれるかもしれない。
「もたもたしてると包囲されるぞ。急げ」
「急いでるよ」
地下通路は薄暗《うすぐら》く、大小のパイプとケーブルが空間の大半を占《し》めていた。ろくな整備《せいび》もしていないのだろう。パイプから水が漏れているのかうっすらと靄《もや》が漂《ただよ》っており、ジェット燃料《ねんりょう》のかすかな刺激臭《しげきしゅう》が鼻をついた。
三分ほど走る。視界《しかい》もろくにきかないのに、気を抜くとレイスの背中はどんどん遠くなっていってしまう。歩数を数えて推測《すいそく》した限りでは、すでに五〇〇メートル以上進んでいるはずだった。位置的には、すでにターミナルビルから出ている計算だったが――
「外に出るぞ」
レイスは一方的に告げると、さっさとそばの階段を上っていった。ほとんど息も乱れていない。一方のレモンはといえば、すでにくたくただった。なるべくジョギングはしているので、これくらいの距離《きょり》なら楽に走れるつもりだったのだが、極度《きょくど》の緊張《きんちょう》のせいかすぐに息が上がってきてしまう。
踊《おど》り場《ば》を何度も回って階段を上がり、突き当たりの扉の錠前《じょうまえ》を一苦労して開ける。扉を抜《ぬ》けると、そこは小さなコンクリート製《せい》の小屋になっていた。あちこちに積み上げられた誘導用《ゆうどうよう》の機材や防災用品《ぼうさいようひん》、無数のカラーコーン。
小屋を出ると、目の前が国際便《こくさいびん》の誘導路《ゆうどうろ》になっていた。青い誘導灯《ゆうどうとう》のまたたく夕闇《ゆうやみ》の中、ほんの一〇〇メートルほど先を、大型の旅客機がすさまじい爆音《ばくおん》をたてて通り過ぎていく。背後の方向に、空港外に面したフェンスがあった。
間近で見るジャンボ機の迫力《はくりょく》に気圧《けお》されているレモンの腕を、レイスが引っ張る。
「なにをしている。急げ!」
あわてて走り出すと、遠くの誘導路でいまのジャンボ機が急ブレーキをかけて停止しているのが見えた。管制塔《かんせいとう》の指示《しじ》で急停止を命じられたのだろう。さらにそのずっと向こう、ターミナルビルの方角から、数台の車両が回転灯を点《つ》けて走り出すのが見えた。こちらを追ってくる気だ。
「くそっ」
やはり嗅《か》ぎつけられていた。時間稼ぎも大した効果《こうか》はなかったようだ。
もう無理かもしれない――そう口に出しかけたが、意味がないのでやめておいた。前を走っている彼女だって、そんなことは分かっているはずなのだ。
行く手にそびえるフェンスは二メートル以上の高さで、よじ登って乗り越えるのは難《むずか》しい。自分の肩を踏《ふ》み台にしてもらって、彼女を逃がすしかあるまい。こういう格好《かっこう》つけは、できればしたくなかったが――
不意にレイスが立ち止まった。
「どうし――」
言いかけて気付いた。正面のフェンスは小さな土手の向こう側にそびえている。その土手に隠れて見えなくなっていた暗闇《くらやみ》の中から、一人の男が姿を見せたのだ。
まだ若《わか》い。少年だ。
夜風にたなびく銀色の髪《かみ》と、赤いコート。重たく、暗い、血のような赤さだ。
誘導灯の光が、その若者の横顔を照らした。ほっそりと整った輪郭《りんかく》で、切れ長の目は濡れたような輝《かがや》きを放っている。一瞬《いっしゅん》、レモンは女と見間違《みまちが》えたのではないかと思った。
レイスはこの相手を見知っている様子だった。ほとんど戦慄《せんりつ》に近い声で、彼女はとぎれとぎれにこうつぶやいていた。
「レナード……テスタロッサ……?」
なぜおまえが。なぜこんな場所に。いったいどうやって。
彼女が心の中でそうつぶやいているのが、レモンにも手に取るように分かった。あの若者がレナード・テスタロッサ。生死不明だった <アマルガム> の幹部で、テレサ・テスタロッサの兄でもある人物。
「久《ひさ》しぶりだね。<ミスリル> のエージェントさん」
レナードが言った。一歩、また一歩と前に出てくるその姿。端整《たんせい》な顔立ちに、どこか人を食った微笑《びしょう》を浮かべている。いや、これはもっと毒気のある笑顔だ。なにもかも見透《みす》かしたような――世の中のすべてを突《つ》き放《はな》して見ているような――
「ちょうど俺[#「俺」に傍点]も野暮用《やぼよう》でモスクワに来てたんだ。あの文書には注意していてね。君たちが興味深い調査をしていたみたいだから、ついでに詳《くわ》しい話を聞いておこうと思った。それで現地の公安担当者に協力を仰《あお》いでみたってわけさ」
[#挿絵(img/10_121.jpg)入る]
漏洩《リーク》ではなかった。どうやってかは分からないが、自分たちのことを嗅ぎつけたのはこの男だ。
彼の額《ひたい》には大きな傷跡《きずあと》があった。
優雅《ゆうが》にカールした前髪の下でも、その縦一文字《たていちもんじ》の傷はよく目立つ。まるで固く閉じられた第三の目のようだった。
「貴様《きさま》が連中にたれ込んだのか」
「うん。……こっそりと連れてくるように頼《たの》んでおいたんだけど、君たちが逃げ出してしまったからね。見当はついていたから、こうして先回りしたというわけ」
「そこをどけ」
レイスが言うと、レナードは『はっ』と一息分だけ笑って肩《かた》を揺《ゆ》らした。
「どかなかったらどうする? 隠しナイフ一本で、俺に襲《おそ》いかかるのかな」
「……っ」
レイスはすぐには動こうとしなかった。おそらくは経験《けいけん》から、彼に敵《かな》わないことをよく知っているのだ。彼女はレモンにささやきかけた。
「私が捨《す》て身で飛びかかる。その際《すき》に行け」
「なんだって?」
「おまえはなんとか逃げ延《の》びて仲間に知らせろ」
すでにターミナルビルを出た車は、すぐそこまで近づいていた。KGBだかどこだかは知らないが、こちらを捕《と》らえる気満々の連中が乗っているはずだ。
もう一秒の猶予《ゆうよ》もない。
「待ってくれ、そんなこと出来るわけが――」
「やるんだ」
言うなり、レイスはまっすぐに突進《とっしん》してしまった。
こんなヤケクソな戦法が通用するのか分からない。有刺鉄線《ゆうしてっせん》をものともせずに、一人であの高いフェンスを乗り越えられるかどうかも分からない。そして、仮《かり》にも女性を盾《たて》にして逃げることが、果《は》たして許《ゆる》されるのかどうかも分からない。
だが躊躇《ちゅうちょ》する余裕《よゆう》はまったくなかった。
レモンは舌打《したう》ちしながら前へ飛び出し、まっしぐらにフェンスへと走る。かたや彼女は、例のナイフを手に跳躍《ちょうやく》し、必殺の突《つ》きを敵《てき》めがけて繰り出した。
「!」
決して彼女の攻撃《こうげき》が弱々しかったわけではない。もちろん魔法《まほう》や手品でもない。レナードの動きはごくわずかだった。ナイフの切っ先はむなしく逸《そ》れ、次の瞬間には彼女の体が勢《いきお》いよく空中で一回転していた。片手《かたて》だけで手首をねじ上げられ、うつぶせに組み伏《ふ》せられ、レイスはくぐもったうめき声をあげた。
「かまうな、行け!」
走り続けるレモンに、彼女は叫んだ。フェンスは目の前だ。飛びつこうとして助走する。いきなり右脚の力ががくりと抜《ぬ》けた。太股《ふともも》に焼《や》き付《つ》くようなすさまじい痛みが走るのと、一発の乾《かわ》いた銃声《じゅうせい》が辺りに響くのは同時だった。
レナードが彼女をねじ伏せたまま、空いた左手で拳銃《けんじゅう》を抜きざまに撃《う》ったのだ。走っているレモンの脚《あし》を正確《せいかく》に狙《ねら》って。
「…………っ!」
レモンはそのまま前のめりに倒《たお》れ、フェンスに頭からぶつかった。がむしゃらに金網《かなあみ》をつかみ、なんとか立ち上がろうとしたが、まるで右足が動かない。丸太がぶら下がっているみたいだ。
「レモン……うっ!」
腕の関節をねじりあげられ、レイスが苦悶《くもん》の声をもらす。
「君たち、いまだになにか勘違《かんちが》いしてるみたいだね」
レイスの耳元にささやくように、レナードが言った。
「妹のことを知ってるからかな? 確かに頭はまあまあいいけど、運動はからきし、ひ弱で銃の使い方も知らない小娘《こむすめ》ってところか。あいつのイメージは」
「っ……放《はな》せ……」
「俺もそうだと思ってるのかなあ。だとしたら心外だよ。……すごく心外だ」
レナードが上体に体重をかけると、ぞっとするような音がレモンの耳に届《とど》いてきた。彼女の肩の関節が外されたのだ。
「あっ……ああああっ!!」
初めて聞いた彼女の女らしい声は、苦痛《くつう》によるものだった。いますぐ駆《か》けよってあの男に鉄拳《てっけん》を見舞《みま》ってやりたかったが、体が言うことをきいてくれなかった。
「意外とかわいい声だね。セクシーだよ」
そう言ってレナードは彼女の耳を優しく噛《か》み、その頬《ほお》にゆっくりと舌《した》を這《は》わせた。
まぶしいヘッドライトの光。警備車両がその場に到着《とうちゃく》し、サブマシンガンを手にした公安担当者たちがどやどやと降《お》りてきた。
「ここで何をしている」
軍服姿《ぐんぷくすがた》の男が訛《なま》りの強い英語で叫んだ。レモンたちにではなく、レナードに向かってだ。彼は流暢《りゅうちょう》なロシア語で将校に答えた。
「見ての通りさ。生け捕《ど》りにした」
「ここでは私にすべてを任《まか》せる話だったはずだぞ? 勝手はやめて、その二人を渡《わた》せ。貴様も武器《ぶき》を捨《す》てるんだ」
「ふむ。どうしてかな?」
「貴様には傷害《しょうがい》と不法侵入《ふほうしんにゅう》の容疑《ようぎ》がかかっている。一緒《いっしょ》に来てもらうぞ」
どんな経緯《けいい》があったのかは知らないが、どうやら彼らとレナードの関係も、決して友好的なものではないようだ。
「なるほど、心変わりか。だれの入れ知恵《ぢえ》かは想像《そうぞう》がつくけどね」
『拘束《こうそく》しろ! 抵抗するなら殺してかまわん!』
将校がロシア語で部下たちに命じた。一〇人近くの男たちが、武器を構えて前に出る。いくら射撃《しゃげき》がうまくても、あの数の銃口《じゅうこう》を前にしては抵抗などできるはずがない。滑走路の向こうからは、二両の装甲車《そうこうしゃ》まで近づいてきている。だがレナードはうろたえた様子もなく、肩をすくめてため息をついた。
「まったく」
レナードと将校たちとの距離は一〇メートル程度《ていど》だった。その真ん中の空間がぐらりと歪《ゆが》み、大量の青白《あおじろ》い燐光《りんこう》が辺りに舞《ま》い散《ち》る。ECSで不可視化《ふかしか》していたASが、彼らの間に割《わ》って入って姿を現したのだ。
見たことのない機体だ。
黒い装甲。鋭角的《えいかくてき》なフォルム。スマートな一方で力強い、逆《ぎゃく》三角形型のシルエット。あの <コダール> と呼ばれるタイプに近い気もしたが、このASからは種類の異《こと》なるものが漂っている。単なる兵器や工業製品《こうぎょうせいひん》にはない、もっと悪魔的《あくまてき》な何かが。
「き、貴様……! こんなものをどこから――」
レイスの腕を放して立ち上がると、レナードは右手をさっと前に出した。彼の動きとまったく同じように、黒いASが右腕部を前方に振《ふ》る。
「もういいよ。消えな」
ちょうどオーケストラの指揮者《しきしゃ》がそうするように、彼は前に突き出した右手を優雅《ゆうが》な仕草《しぐさ》で振り下ろした。黒いASが眼下《がんか》の男たちに右腕を向ける。下腕部《かわんぶ》がスライドし、内蔵《ないぞう》の機関砲《きかんほう》が露出《ろしゅつ》し――
発砲。
射撃《しゃげき》というよりは爆発《ばくはつ》に近かった。
車も一撃で粉々《こなごな》にするような大口径《だいこうけい》の機関砲|弾《だん》が、ほんの十数メートル先の地面に着弾したのだ。それも一秒の間に一〇発近く。将校たちは悲鳴さえあげる暇もなく、文字通り消し飛んでしまった。
「…………っ」
彼らを乗せてきた車両が吹き飛ばされ、爆発、炎上《えんじょう》していた。舞い散ったコンクリートの細かな破片が、レモンの体にまで降りかかってくる。射撃と爆発の残響《ざんきょう》で耳がおかしくなりそうだ。
どこかでだれかが笑っているような声が聞こえた。
笑っているのはレナードだった。
爆炎《ばくえん》に照らされた彼のシルエットが、大きく肩を揺すり、片手で顔を覆《おお》っていた。我慢《がまん》したいのに、こみあげてくるおかしさをどうしても抑《おさ》えきれない者の笑い声。その声色《こわいろ》には狂気《きょうき》など微塵《みじん》もない。まるで野球やサッカーの珍《ちん》プレー集でも見ているような笑い方だ。たったいま、十数人を皆殺《みなごろ》しにしたばかりなのに。
黒いASが振《ふ》り向いてひざまずき、手のひらを地面につけた。戦慄《せんりつ》するレモンには一瞥《いちべつ》もくれず、レナードは熟練《じゅくれん》した身のこなしで機体の胸に飛び移《うつ》って、あっという間に頭部の後ろのハッチからコックピットの中に滑《すべ》り込んでしまった。
二両の装甲車が攻撃してくる。旋回砲塔《ターレット》から突《つ》き出した機関銃は、頼《たよ》りない豆鉄砲《まめでっぽう》も同然だった。
ASが発砲。装甲車がまっぷたつに引き裂かれ、路面《ろめん》を横滑りしながら炎上した。続いてもう一両も被弾《ひだん》。火だるまになって空走する。
「めちゃくちゃだ……」
そうつぶやくのがやっとだった。モスクワの、しかも国際空港でこんな戦闘を繰り広げるなんて、正気の沙汰《さた》ではない。
「レモン!」
レイスが叫んだ。彼女は動かない右腕をかばいながら、どうにか身を起こしている。彼らからすこし離れた位置のフェンスが、一部だけ向こう側に倒れていた。爆発で吹き飛んだ自動車の破片《はへん》が、ぶつかってなぎ倒されたのだ。
自由な方の左腕で、彼女が手招《てまね》きした。『いまのうちに、あの穴《あな》から逃げよう』と言っているのだろう。
自分の右脚を見下ろす。ズボンが血に濡れてべったりと太股《ふともも》に貼《は》りついていた。つま先が痺《しび》れ、足首が痛《いた》い。神経《しんけい》がつながっているのはありがたいことだったが、走って逃げるのは無理《むり》そうだった。出血のせいか、意識《いしき》もはっきりしなくなってきている。
レモンは短く首を振《ふ》り、目線だけで『僕は無理だ。君だけで逃げろ』と彼女に伝えた。ほんの一〜二秒、彼女はためらいの表情を見せたが、すぐに思い直した様子で、短くうなずくとフェンスの穴へと走り出した。
息をするたびに激痛《げきつう》が襲《おそ》いかかっているはずなのに、レイスの動きは素早《すばや》かった。土手を越《こ》え、フェンスの穴をくぐり、その姿が暗闇の中に消えていく。
レナードの黒いASは、駆けつけてきた警備のAS――青い塗装《とそう》のRk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横] <サベージ> 二機と戦闘に入っていた。透明《とうめい》な力場が発生し、<サベージ> の砲撃を張《は》ね返す。あの『ラムダ・ドライバ』だ。以前、メキシコで宗介の <レーバテイン> が使っていたのは知っているが、こうして間近で見たのは初めてだった。
応射《おうしゃ》。たちまち二機が撃破《げきは》される。
空港は火の海だった。流れ弾《だま》を受けたビルや旅客機、撃破された車両・機体があちこちで燃え上がり、よどんだサイレンの音が響き渡っている。
黒いASは振り返ると、倒《たお》れたままのレモンの元に歩《あゆ》み寄《よ》り、彼を乱暴《らんぼう》につかみあげた。
「うっ……!」
『一人足りないな。彼女は?』
外部スピーカーからレナードの声。頭部センサが空港の外周をスキャンする。茂《しげ》みに隠れた程度では、レイスも赤外線センサで発見されてしまうだろう。
しかし、その反応《はんのう》はなかった様子だった。
『まあいいか。行くよ』
レモンを片手でつかんだまま、ASが上昇《じょうしょう》を始めた。
空を飛んでいるのだ。まるでヘリかなにかのように。ジェットエンジンでもリフトファンでもない。レモンの知っているいかなる動力も使わず、その機体は静かに高度一〇〇メートル程度まで上昇すると、西の方角めがけて急加速していった。
風が冷たい。傷が熱い。
レイスがどうやってレナードの目を逃《のが》れたのかは分からない。
肩を脱臼《だっきゅう》したまま、彼女は逃げおおせることができるだろうか。まだ彼女の方が土地勘《とちかん》はあるはずだったが――
(死にそうだ)
レモンは朦朧《もうろう》とした意識《いしき》の片隅《かたすみ》で、もう二度と会えない少女の横顔を思い出していた。
●
テッサが言うところの『調査』とやらに、宗介は同行していた。目的地は極東、ソ連領内の廃墟《はいきょ》だという。
何度かの給油と点検《てんけん》を挟《はさ》んだものの、二機の <ペイブ・メア> 輸送ヘリは四〇時間、ほとんどぶっ通しで飛行を続けている。
四〇時間だ。
長い旅になるのは避《さ》けられなかった。なにしろ大西洋にいる <デ・ダナン> から離陸して、北米大陸を横断《おうだん》してアラスカ経由《けいゆ》で太平洋を突《つ》っ切り、極東のマガダン州目指して飛んでいるのだから、ほとんど地球を半周しているも同然である。固定翼《こていよく》の輸送機なら三分の一の時間で済《す》む距離を、わざわざヘリで向かわなければならないのは、護衛《ごえい》に使う二機のAS―― <レーバテイン> とM9を現地《げんち》まで運ぶためだ。
いまの <ミスリル> には、便利な中継基地《ちゅうけいきち》や輸送機のネットワークがない。以前なら、こんな長い距離のASの輸送ならばヘリごとばらして輸送機に積み込み、現地に近い秘密拠点《ひみつきょてん》でふたたび組み上げてさあ出撃《しゅつげき》、という真似が出来た。
いまは違う。細々とした補給ルートをいくつか確保《かくほ》している程度が現状だ。
それでも宗介の目から見ると、この長旅はテッサにとってちょうどいい気分転換《きぶんてんかん》になってくれるのではないかと思っていた。
しかし彼女は機内でも仕事をやめない。ノートPCの画面とにらめっこをして、なにかを読み、なにかを打ち込み、空の彼方《かなた》の <デ・ダナン> のAIに指示《しじ》を出し、衛星回線を通じだれかと深刻《しんこく》な相談をしている。
ほとんど眠《ねむ》っている様子がない。
心配したヘリのクルーが休息《きゅうそく》を勧《すす》めると、テッサは素直《すなお》に従《したが》い座席《ざせき》の上で毛布《もうふ》にくるまっていた。だが窓に映《うつ》っている彼女の両目は開いたままで、機外に広がる深い闇《やみ》を、ただぼんやりと見つめていた。
どうしたらいいのか、宗介にはよく分からなかった。
何度か話しかけてはいる。健康を案じてみれば、彼女は笑って『大丈夫です』と答えるし、仕事の内容《ないよう》を尋《たず》ねれば、答えられる範囲《はんい》で丁寧《ていねい》に教えてくれる。だが、それだけだ。なにかの話題を向こうから振ってくることはない。柔和《にゅうわ》な物腰《ものごし》でこちらを見つめ、遠回しに『他になにか?』とでも言いたげな態度《たいど》でいる。宗介としては『……どうも』と礼を言って下がるよりほかにない。
それ以上、宗介は彼女になにも話せないままだった。
飛行ルートの最後の給油ポイントは、カムチャッカ半島沖《はんとうおき》のベーリング海を航行中の貨物船《かもつせん》 <バーニー・ウォーレル> だった。
表向きはリベリア船籍《せんせき》のコンテナ船ということになっているが、あちこちに散《ち》った元メリダ島の基地要員たちが、苦労して入手してきた偽装補給船《ぎそうほきゅうせん》だ。コンテナをどければ大型ヘリが同時に五機も着陸することができる。
はるばる大西洋から飛んできた二機の <ペイブ・メア> が着陸すると、機長たちが『給油の前に機体の点検をする』と言ってきた。これから先は、往復《おうふく》でほぼ二〇〇〇キロものフライトになるし、ソ連領内に侵犯《しんぱん》するので常《つね》にECSを作動させておかなければならない。機長たちが慎重《しんちょう》になるのも無理からぬことだった。
ヘリの点検には一時間以上かかるということだったので、宗介は機外に出て軽い運動をすることにした。全長三〇〇メートルのコンテナ船の甲板《かんぱん》を三周もすれば、ちょっとしたジョギングになる。もっとも、すれ違《ちが》う船員の中にはメリダ島時代に見知っていた顔も混《ま》じっており、彼らと会うたびに足を止めて立ち話をするはめになってしまったが。
きりがなさそうなので二周でジョギングを切り上げ、船橋近くの手すりに寄《よ》りかかって海を眺《なが》めていた。
いまは早朝だ。荒《あ》れがちなこの海域《かいいき》だったが、きょうの波は珍《めずら》しく穏《おだ》やかだった。東の水平線上に昇《のぼ》った太陽の光が、波間に反射《はんしゃ》してまばゆい輝きを放っている。冷たいがさわやかな潮風《しおかぜ》が心地良《ここちよ》かった。
「点検、しばらくかかるってよ」
クルツがやって来て言った。彼はもう一機の <ペイブ・メア> に乗り込んでいる。そちらに積んであるM9は彼の機体だ。今回はこの二機だけのミッションで、マオとクルーゾーはそれぞれ別の場所で別の任務《にんむ》についている。
「『しばらく』ではわからん。何分だ」
「さあ? しばらくはしばらくだろ。おー、いい眺め」
クルツが甲板からの景色《けしき》に感嘆《かんたん》の声をあげる。その横顔を見ていて、宗介は妙《みょう》な違和感《いわかん》を覚えた。なんというのか、顔がつやつやしているというか……変に活き活きとしているというか……。
「なんだよ。ジロジロと」
「いや……」
そういえば出発前も不自然だった。マオやクルーゾーたちとASのあれこれで相談事があったのだが、マオとクルツが互《たが》いにほとんど話をしないのだ。いきなりよそよそしくなった気がする。
「喧嘩《けんか》でもしたのか?」
「だれと」
「マオと」
「うっ……」
これまた奇妙《きみょう》な反応《はんのう》だった。クルツはなぜか言葉に詰《つ》まり、遠くを見たり、足下《あしもと》を見たり、背後の船橋を見上げたりしている。
「なんでそう思った?」
「いつもと違う気がした」
クルーゾーは特に気付いていない様子だった。ほかの面子《めんつ》もだ。だが宗介は二人の間の空気の変化を敏感《びんかん》に感じ取っていた。
「まあ、おまえは気付いてもおかしくないかもな……」
「だからなにかあったのか?」
「い、いや。別に喧嘩とかじゃねーよ。なんだその心配そうなツラ。やめろって、ホント何もねーから」
「ならいいが」
納得《なっとく》できたわけではなかったが、本人が話したくなさそうだったので、宗介はそれ以上の追及《ついきゅう》はしなかった。ところが、クルツの方が考えを変えたようで、しばらくぶつぶつ独《ひと》り言《ごと》をつぶやいてから、なにやら意を決したように手を叩《たた》いた。
「うん。やっぱ、よくねえな。おまえにだけは話しとこう」
「?」
ずいっと顔を寄せ、クルツは神妙《しんみょう》な面《おも》もちで切り出した。
「なあソースケ。おまえは空気を読まない天才だ」
「そうなのか」
「そうなのだ。だからもしかしたら、すごくしょーもない理由で、悪気もないのに秘密《ひみつ》を漏らしてしまう危険性《きけんせい》がある。俺はそういうリスクを冒《おか》した上で打ち明けるんだ。なぜかというと、俺たちは最強のトリオだからだ。いや、最強というのは言い過《す》ぎかもしれねえが、とにかくいいトリオだ。だからおまえに隠《かく》し事はよくないと思って話す。まずそれを理解《りかい》しろ」
「よくわからんが、理解した」
「『よくわからん』は余計《よけい》だ」
「理解した」
「よし。だれにも話すなよ。絶対《ぜったい》に」
「わかった」
こくこくと宗介はうなずく。なにやら重大な話のようなので、気を引き締《し》めて聞かねばならないようだ。マオが重病でも抱《かか》えているのだろうか? 親類が大量殺人でもやらかしたのか? 作戦中に非常《ひじょう》に珍しいUMA(未確認生物)でも目撃《もくげき》したのだろうか?
「……でだ、実はな……」
おほんと咳払《せきばら》い。クルツは指先をそわそわと動かしている。よほど重要な秘密なのだろう。宗介も緊張《きんちょう》して肩に力が入った。
「そのー、なんだ。実は……」
「実は?」
「実はな……こないだ……その、マオと寝《ね》ちまったんだ」
「そうか。それで?」
宗介が身を乗り出すと、クルツは眉《まゆ》をひそめた。
「それで……って。それで終わりだよ」
「?」
「驚かねえのか?」
「なにをだ?」
「いや、だから彼女と寝たんだよ。そういう話なんだ」
今度は宗介が眉《まゆ》をひそめた。
「さっぱり分からん。寝たからなんだというのだ」
「寝ちまったんだ。これはマズいだろってことなんだよ……!」
「任務中に、二人で居眠《いねむ》りしたということか?」
「ちがう、そういう意味で寝たって言ってるんじゃねえんだ。あー、そうか……分かんねえのか。おまえって……おまえって……」
クルツはうつむくと両手でブロンドの髪をかきむしり、ぶつぶつとなにかをつぶやく。ドイツ語と日本語と英語がごちゃ混《ま》ぜで、なにを言っているのかよく分からなかった。
「なんでもいいから、わかりやすく説明しろ」
宗介の物言いにかっとなったのか、クルツはとうとうヤケクソ気味《ぎみ》に叫んだ。
「だからセックスだよ、セックス!」
その声が辺りに響くのと、すぐそばの船橋の出入り口からテッサが姿を見せたのは、ほとんど同時だった。
「…………」
テッサはその場で足を止め、目を丸くして凍《こお》り付《つ》いていた。クルツと宗介も固まっていた。どうやら彼女は船内のシャワーでも借《か》りていたのだろう。だぶだぶの野戦服姿《やせんふくすがた》でバスタオルを首にかけている。
「あ……えーとだな……」
クルツの目が宙《ちゅう》を泳ぎ、言葉を探《さが》した。さすがにようやく意味を理解した宗介は、テッサの出現《しゅつげん》でさらに混乱《こんらん》し、なにも言えずに脂汗《あぶらあせ》をだらだらと垂《た》らすばかりだった。
「あ、あの……お邪魔《じゃま》だったみたいですね」
テッサが当惑《とうわく》もあらわに後じさった。
「いや、違うんだ、テッサ」
「そうです、大佐|殿《どの》。自分たちは、この船を沈《しず》めるなら何ポンドの爆弾が必要か考えていただけでして――」
「おまえは黙ってろ」
「つまりセムテックスの話です。プラスチック爆薬の」
「そうそう、セムテックス、セムテックス……って聞こえねえよ!」
宗介とクルツのやり取りに背中を向けて、テッサはそそくさと船橋の中へ駆《か》け戻《もど》ってしまった。気分を害《がい》したのか呆《あき》れたのか、それともその両方か。いずれにしても気まずい瞬間《しゅんかん》だった。
「ああ〜〜〜〜…………」
クルツががっくりとうなだれる。
「大丈夫だ、クルツ。マオとの話までは聞かれていないだろう」
「そういう問題じゃねえ。ばつの悪い思いさせやがって」
「過《す》ぎたことを悔やんでも仕方がない。話を戻《もど》そう」
すると疲《つか》れた様子でクルツが手を振った。
「もう分かっただろ? そういう関係になったんだよ」
「そうか」
「……あんまり驚かないんだな」
「いや、驚いた」
彼はしげしげと無遠慮《ぶえんりょ》に宗介のむっつり顔を観察した。
「全然そう見えねえんだけど」
「そういう話をされたとき、どんな顔をしたらいいのかよく分からんのだ」
「相変わらずだな、おまえは……」
「うむ」
「カナメといろいろあって、少しは進歩したかと思ったのに」
「…………」
かなめの顔を思い出すと、急に胸が締《し》め付《つ》けられたような気分になった。
彼女の消息については、ろくな手がかりも掴《つか》めていない。<デ・ダナン> の仲間から離れて、また単独《たんどく》で彼女を捜《さが》すことも考えたが、それでなにかの糸口を掴めるとはとても思えなかった。いまは余計なことを考えずに、仲間と共に <アマルガム> と戦っているのが一番いい。眼前《がんぜん》の敵の向こうにカリーニンがいて、さらにその向こうに彼女がいるのは間違いないのだから。
「急にしゅんとしたな」
「問題ない。それで、式はいつだ」
「は?」
「結婚《けっこん》式だ。姦淫《かんいん》したのなら責任《せきにん》を取るのが筋《すじ》だろう。マオは高給取りだから、羊《ひつじ》一〇〇頭くらいでは済まないかもしれんぞ」
「だんだん脳《のう》が疲れてきた……」
「結婚しないのか?」
「しねえよ! ……っつーか、よくわかんね。まあ、遊びで終わりって感じでもないみたいだけど。おとといも出発前にさー、ブリーフィング終わったら呼びつけられて……」
「ふむ」
それは宗介も覚えていた。ブリーフィングが終わって解散《かいさん》したら、マオがそっけない声でクルツを呼びつけた。『また書類に不備《ふび》がある』だの『弾薬《だんやく》の消費報告《しょうひほうこく》はまだか』だのと、険悪《けんあく》な様子で長々と文句《もんく》を垂《た》れ始めていた。宗介や他の面子は『また説教か』と思って、気にせず部屋を出ていった。
「……人がいなくなったら、『気を付けて行きなさいよ』とか言って、俺の首に腕回《うでまわ》してムチューっと。なんか盛《も》り上がっちゃって、そのまま隣の倉庫でこっそり一戦交えて。こんな場所じゃダメとか言うんだけど、そのシチュエーションがまた大興奮《だいこうふん》で」
「…………」
宗介は不思議に思っていた。さっきから、自分がこの相棒《あいぼう》に殺意を感じるのはなぜだろうか……? 嫉妬《しっと》とも違う感情《かんじょう》だ。どちらかというと、自分がひもじい思いをしている時に、横で豪勢《ごうせい》な料理に舌鼓《したつづみ》を打たれているような感覚がいちばん近い。
ああ。これが『ムカつく』という奴か。
「でもなー、『愛してる』とは言ってくれないんだよ。なにがなんでも言わないんだ。これってどういう意味なんだろうな?」
「愛してないという意味だろう」
「おい」
「そもそもだ、俺に聞くのが間違っている」
「……まあ、そうだな。でも他に話せる相手がいねーんだよ。マオからも絶対バラすなって言われてるし」
「俺に話してる」
「おまえは別だ。マオも承知《しょうち》してくれるさ」
「どうして俺だけはいいのだ?」
「さっきも言ったろ? 俺たちは相棒だ。チームの中では――」
「隠《かく》し事はよくない、と」
「そういうこと」
クルツが背中をぽんと叩き、後頭部をつかんで左右に揺すった。不思議と悪い気分ではなかった。
そのおり、彼方《かなた》からローター音がした。見ると、南東の空から一機のヘリが接近《せっきん》してくる。古いUH―46[#「46」は縦中横]だ。タンデムローターの輸送ヘリはそのままゆっくりと降下《こうか》してくると、甲板上《かんぱんじょう》に放電ケーブルを落としてから、<ペイブ・メア> の隣に着船した。
積み荷のコンテナと共に降りてきた一人には見覚えがあった。眼鏡《めがね》をかけた小太りの男。情報部《じょうほうぶ》のギャビン・ハンターだった。
ハンターは宗介の姿を認《みと》めると、ターボ・シャフトエンジンの爆音に負けないような大声で叫んだ。
「間に合ったようだな。君に美女からプレゼントだ」
「プレゼント?」
「『妖精《ようせい》の羽《はね》』だ。とりあえず完成した」
ヘリのクルーが総出《そうで》で、ハンターが運んできたユニット――『妖精の羽』を <レーバテイン> の肩部に取り付け、あわただしく接続状態《せつぞくじょうたい》の点検をしている。作業の責任者《せきにんしゃ》にあたるハンターは、船員やクルーと技術的《ぎじゅつてき》なやり取りをしており、ずっと甲板と船橋の間を行ったり来たりだ。
その合間に宗介はハンターと立ち話をした。主な話題は問題のユニットのことではなく、カリーニンのことだった。
「確かに彼は私を撃《う》った」
彼との遭遇《そうぐう》のことをたずねると、ハンターは事実を告げた。
「危《あや》うく死ぬところだった。ただ、本当に殺す気だったのかどうかは分からない」
「本気なら頭を撃っていたと?」
「そうだね。だが、彼にはどうでも良かったのかもしれない。私が生き延《の》びようが、くたばろうが」
「…………」
宗介とカリーニンの関係は知っているのだろう。ハンターは話題を変えた。
「それより、<レーバテイン> はどうだね?」
「悪くない」
言ってから、彼が死にかけたそもそもの理由を思い出して付け加えた。
「あんたには感謝《かんしゃ》している」
ハンターが笑った。
「礼儀作法《れいぎさほう》を覚えたようだな、少年。だが礼は彼女に言いたまえ」
彼が指さした先に、その少女がいた。ヘリポートの向こう、電源《でんげん》ユニットのそばでテッサと立ち話をしている。見たことのない相手だ。オレンジの作業着の上にオリーブ色のフライトジャケットを着て、やや赤みがかった黒髪を潮風《しおかぜ》になびかせていた。
「アルを救《すく》った名医《めいい》だぞ。マット・シェイドを覚えているかね?」
「ああ」
その男は去年《きょねん》の四月、まだ千鳥かなめと知り合う前に、シベリアで助け損《そこ》なった情報部のエージェントだ。KGBの研究施設から少女を連れて脱出しようとしていたが、M9で駆けつけた宗介たちが到着する前に死んでしまった。
「その時の彼女だよ。回復《かいふく》したんだ」
宗介の腕を軽く叩いて、ハンターは作業に戻っていった。
(あの時の……?)
すぐには分からなかった。記憶《きおく》の中の彼女はもっとやつれていたし、あんな風に人と話したりもできなかったのだ。薬物の影響《えいきょう》で、自分の力で立って歩けるかどうかも怪《あや》しいような状態《じょうたい》だった。
少女はテッサと話している。ただの立ち話のようだが、二人の様子はどこか奇妙《きみょう》だった。初対面の者同士の控《ひか》えめな雰囲気《ふんいき》が漂っているのにもかかわらず、それでいてずいぶん昔からの知り合いのような気やすさも感じさせる。あれと似た雰囲気を、宗介は前にも見たことがあるような気がした。
すぐに分かった。かなめとテッサの間の空気に似ているのだ。
まずテッサがこちらに気付き、続いて彼女がこちらを振り返った。テッサが小さく手招《てまね》きしたので、宗介は二人の元に小走りで駆けつけた。
「お呼びでしょうか」
直立不動の姿勢《しせい》でそう告げると、テッサが苦笑《くしょう》して『休んでください』と言った。休めの姿勢をとった宗介に、彼女は紹介《しょうかい》した。
「こちらはクダン・ミラさんです。ミラさん、こちらが――」
「知ってます」
ミラと紹介された少女が小さく微笑《ほほえ》んだ。
「サガラ・ソウスケさん。ずっと前に教えてもらいました。ずっと前に」
「……ああ」
記憶には残っていたが、その時の会話がまるで前世のもののように感じられた。たった一年半前のことなのに、あのころとはずいぶんと変わった人間になったことを、強く実感したのだ。
ミラが、ではない。
自分がだ。
不器用な会話を始めた宗介とミラの二人を置き去りにして、テッサは船橋に向かい、待っていたハンターといくつかの事項《じこう》を確認した。
「ミラから聞きましたかな。『妖精の羽』が作動するかどうかは、ぶっつけ本番です。やれることは総《すべ》てやりましたが、保証《ほしょう》はできない」
「いつものことです。それに、今回は使う機会もないはずですし」
「どうでしょうな。悪い知らせがあるんですよ」
その言葉と声色《こわいろ》だけで、ハンターの言おうとしていることが推測《すいそく》できた。
「モスクワの空港の爆発事件のこと?」
「ええ。レモン氏とレイスが現場にいたのは確実です。三〇時間以上たちますが、まだ連絡がありません」
「そう……」
「あなたたちがこれから向かう場所が、察知されている危険《きけん》が高くなりました」
ハンターが言外に『中止しろ』と言っていることはよく分かっている。だが彼女には引き返す気など毛頭なかった。
●
宗介たちの輸送ヘリは貨物船 <バーニー・ウォーレル> 号から飛び立ち、ベーリング海をさらに東へ向かった。昼間だったがECSが作動中のため、窓からの景色は紫《むらさき》がかったセピア色に染《そ》まっている。
船上での間抜《まぬ》けな出来事のせいで、ますますテッサに話しかけ辛《づら》くなってしまった。
いまさらあの件《けん》を蒸《む》し返すのも馬鹿馬鹿しいし、かといって――いや、そもそも自分が気にしていたのは、そういった問題ではないはずだ。
「少しいいですか?」
テッサの声がしてぎょっとした。いつの間にかそばに来ていた彼女が、座席《ざせき》の間からこちらをのぞき込んでいる。
「はい、大佐|殿《どの》」
いまだに彼女のことを『テッサ』と呼ぶのは抵抗があった。親近感の問題よりも、ただの違和感《いわかん》だ。階級で呼ぶのに慣《な》れてしまって、変えるとどうも調子が狂《くる》ってしまう。
「あなたがASに乗るのはいつごろから?」
「降下の三〇分前です」
「じゃあ当分先ですね。座《すわ》っていいかしら」
「どうぞ」
隣の座席に積み上げてあった書籍《しょせき》と書類をどけて、バッグに適当《てきとう》に放り込む。テッサは礼を言ってから、宗介の隣《となり》にちょこんと腰《こし》かけた。小柄《こがら》な少女だとは知っていたが、なぜか前よりも小さくなったように見えた。
宗介は彼女が喋《しゃべ》るのを待っていた。
一分かそれ以上の時間、彼女は黙って正面の座席の背もたれを見つめていた。いざとなるとすさまじい回転を見せるこの頭脳《ずのう》の中で、いったいどんなことを考えているのだろうか。想像《そうぞう》してみたが、なにも思いつかなかった。
「怪我《けが》はもういいの?」
「は?」
「あなたのことです。ナムサクという町で、ひどい怪我をしたって」
「あ……ええ。問題ありません」
「そう。よかったです」
それきりテッサはまた黙り込んでしまった。もしかしたら、彼女も何を言ったらいいのか分からないのかもしれない。彼は沈黙《ちんもく》の気まずさに耐《た》えきれなくなって、自分の方から話題を切り出した。
「大佐殿。先ほどは大変失礼しました」
「なにがですか?」
「コンテナ船でクルツと……」
すると彼女は小さく首を振った。
「ああ、そのこと。気にしないでください。ちょっとびっくりしたけど」
「いえ、あれは」
「よくあるんです、ああいうこと。<デ・ダナン> に乗り出して最初のころは、私がそばにいるのを分かってて、大声で話す人たちもいました。ささやかな嫌《いや》がらせだったんでしょうね。でも、とっくの昔に慣《な》れましたから」
「はあ……」
「でもサガラさんもそういう話をするんですね」
「違うんです。あれはクルツの奴《やつ》が勝手に――」
「わかってます。メリッサとのことでしょう?」
またしても驚いた宗介を見て、テッサはごく控《ひか》えめな微笑を浮かべた。もっと大きく表情をほころばせたいのに、自分にはそうする資格《しかく》がないと思っている者の笑い方だった。
「彼女から聞いたの。わたしにだけは話しておくって。メリッサにとってのわたしは、ウェーバーさんにとってのあなたと同じです」
「なるほど」
「とはいっても意外でした。あの二人なんて」
「ええ。自分も驚いています」
「まあ、ちゃんと付き合う気なのかどうかは知らないけど。メリッサはいろいろ気にしてるみたい。歳《とし》の差とか、浮気《うわき》されるんじゃないかとか」
「そうでしたか」
宗介はあり合わせの想像力《そうぞうりょく》を動員して、あの二人が『付き合っている』図を想像してみた。だがあまりポジティブなことは思いつかなかった。
「しかし、同じチームはもう無理かもしれません」
宗介が言うと、テッサもそれを予想していた様子でうなずいた。
「理由を聞かせてもらえますか?」
「仲間を大事に思うのは構わない。だが行き過ぎはいけません。必要ならコンマ数秒の間に、クルツや俺を捨《す》て駒《ごま》にする決断《けつだん》をしなければならないのがマオの仕事です。その判断《はんだん》にどんな形で曇《くも》りが出るか分からなくなります」
「そうね。メリッサが聞いたら怒《おこ》り出すでしょうけど」
「彼女の能力《のうりょく》や公正さを疑《うたが》っているわけではありません。ただ、もし俺だったら――」
そこまで言いかけたところで宗介は気付いた。
普通の人間ならとっくに分かっていたことなのだろうが、彼はそのときになって、ようやく理解《りかい》した。
テッサ自身が、かつて自分とのことで抱《かか》えていた葛藤《かっとう》のことだ。
テッサが自分に好意を寄《よ》せながら、けっきょく一線を越えてこなかったのは、なにも返ってくるはずの言葉に臆病《おくびょう》になっていたからというだけではない。彼女は自身の立場に縛《しば》り付けられてもいたのだ。こんな当たり前のことにも気付いていなかった自分に、彼はあきれかえってしまった。
そうして、あらためてテッサの立場の難《むずか》しさを知ったとき、宗介はふと思った。
(そこまで難しく考えなければよかったのに)
それが自分との問題だったことさえ忘《わす》れて、そう感じた。彼女はちょっと杓子定規《しゃくしじょうぎ》すぎたのではないか、と。
それは同時に、いまの自分の考えにも当てはまっていた。クルツとマオのことも、難しく考えすぎていないか? 確かに自分がいま話したこと――チームとしての機能《きのう》の話はまったく間違っていない。もしかしたらコンマ数秒の決断が遅《おく》れて、悲惨《ひさん》な結果が起きるかもしれない。だが、それがなんだというのだ。いま飛んでいるこのヘリだって、コンマ何パーセントの確率《かくりつ》で故障《こしょう》して墜落《ついらく》するかもしれないのに。
つまらない正論《せいろん》を並《なら》べ立てるのは、それこそつまらない――
「どうしました?」
彼のささやかな進歩に気付けるわけもなく、テッサは不思議そうな顔をしていた。
「いえ。なるようになるかと」
「?」
宗介はすこし大げさに肩をすくめてみせた。
「あれこれ気に病んでばかりでは身が持ちません。しばらくは今まで通りに組み続けて、もし何かまずいようだったら考えればいい」
「サガラさん、さっきと言ってること違います」
「ええ。気が変わりました」
「変なの……」
「そうですか?」
「『なるようになる』なんて適当《てきとう》な言葉、前のあなたは使わなかったです」
「なるほど」
言われてみれば、そうかもしれない。
「適当では問題でしょうか?」
「それで死者が出る可能性《かのうせい》がある場合はね。もっと真面目《まじめ》に考えてください」
「ふむ……」
彼はテッサの瞳《ひとみ》を無遠慮《ぶえんりょ》にのぞき込んだ。わずかな困惑《こんわく》の他には、深い疲労《ひろう》と苛立《いらだ》ちしか見て取れない。彼はそれを痛々《いたいた》しいと思った。
「俺はいつでも真面目です。昔も今も」
「そうかしら」
「むしろ問題はあなたのことです。あなたは世界を変えられると思っている。入念な思考と努力によって、不可能《ふかのう》を可能にできると。『真面目』に考え続けることで」
テッサの眉間《みけん》にしわが寄《よ》った。
「なにが言いたいの?」
「馬鹿にしてるわけではありません。実際《じっさい》、あなたは非凡《ひぼん》で優秀《ゆうしゅう》な人間です。俺のような凡人《ぼんじん》ではどう頑張《がんば》っても出来ないことを易々《やすやす》とやってのけている。だれよりも強い意志《いし》で。状況は依然《いぜん》として厳《きび》しいですが、たぶんあなたは勝つでしょう」
「もちろんそのつもりです。だからわたしはこれまで――」
「努力し、計画し、修正《しゅうせい》を加え、戦ってきた。それはもちろん知っています」
相手の言葉を遮《さえぎ》り、宗介は辛抱強《しんぼうづよ》く続けた。
「運命に戦いを挑《いど》むのはいい。しかし運命を支配《しはい》することは誰にもできない。天候《てんこう》を操《あやつ》り、地震《じしん》を起こす力があなたにありますか?」
「必要なら考えるわ。データと統計《とうけい》を駆使《くし》すれば、近い効果は得られるから」
「そこが問題なんです」
「それのどこがいけないの?」
「あなたは神ではない。不完全でかよわい人間だ。部下の命に責任《せきにん》を感じるのは当然だが、部下の運命まで支配できると勘違《かんちが》いしている。俺は何度も死にそうな場所から生還《せいかん》してるが、明日は道ばたの石につまずいて、転んで死ぬかもしれない。そんなことまで心配するのはやめろと言っているんです」
「よくわからないわ」
彼女の袖《そで》をつかむ指に力がこもった。
「いいえ、分かっているはずです。だれかが死ぬたび、あなたは自分を責《せ》めている。自分は罰《ばっ》せられるべきだと。そして敵《てき》への復讐《ふくしゅう》を誓《ちか》い、我《わ》が身を焼き尽《つ》くしてでも敵を滅《ほろ》ぼそうと思い詰《つ》めている」
「その通りよ。でも、ほかにどうしろというの?」
答えられるわけもない難しい質問《しつもん》だった。
自分だってそうなのだ。数多くのことで、自分自身を責めている。
だが宗介は嘘《うそ》をつくべきだと思った。こんなことを言っていいのかどうかと迷《まよ》いながら、極端《きょくたん》な答えを返してみることにした。
「もうやめましょう」
「え?」
「 <ミスリル> は解散《かいさん》。<デ・ダナン> はどこかに売り払《はら》って、そのカネでみんなで気楽な毎日を送るんです。別に <アマルガム> は世界を滅《ほろ》ぼそうとしているわけではない。放《ほう》っておいて陰謀《いんぼう》ごっこを楽しませてやればいい」
テッサはあきれ顔をした。
「カナメさんはどうするんです?」
「もういい。千鳥には悪いが、彼女のことは忘れる。それであなたにデートを申し込みます。またグアム島にでも行って、コートニー中佐たちと派手《はで》に騒《さわ》ぐのがいい」
「サガラさん……!」
顔を赤くして怒り出したテッサの叱責《しっせき》を、宗介は平然と受け止めた。
「冗談です」
「当たり前です!」
「面白《おもしろ》くなかったですか?」
「ええ。全然」
「そうですか。難しいものです、冗談というのは」
まともにうけるのを狙《ねら》って口に出した人生最初の冗談は、不発に終わった。
「変な人」
「よく言われます。ですが――最後はそうすべきだ」
「?」
「やることをやったら、あんな潜水艦やASはどこかに売り払ってしまえばいい。あとはみんなで人生を楽しむべきです。俺は千鳥と学校に通い直して勉強をします。そしていつかは当たり前の男になる。武器《ぶき》など必要ない男に」
テッサも驚いていたが、宗介自身も自分の口からこんな言葉が出たことに驚いていた。
「当たり前の……」
「あなたもいつかはなるべきです。武器など必要ない女に」
「…………」
「死んだ連中だって、そう願《ねが》ってるに決まっています」
テッサはもう反論《はんろん》しようとはしなかった。膝《ひざ》の上においた自分の手をじっと見つめて、力なくつぶやいた。
「……そうかもしれないですね」
「ええ」
深いため息をつくと、彼女は座席《ざせき》に深く座《すわ》り直した。
「サガラさん、変わりました」
「みんなそうです。あなたも変わらないと」
テッサは答えず、かぶっていた野戦帽《やせんぼう》のひさしを目深《まぶか》に動かして目を隠した。
「なんだか疲れました。サガラさんのせいです」
「すみません」
彼女が膝《ひざ》にかけていたフライトジャケットの下から、そっと手をのばして宗介の手を握《にぎ》った。周りからは見えないはずだったが、彼はどきりとした。
ほっそりとした指先。なめらかでひんやりとした感触《かんしょく》。
「わかってます。でも許《ゆる》して」
ささやくようにテッサは言った。
「これだけですから。これだけでいいの……」
それきり彼女は黙り込んでしまった。
三分待っても反応《はんのう》がない。声をかけてみると、彼女は穏《おだ》やかな寝息《ねいき》を立てていた。
(『武器など必要ない男』か……)
自分の言葉を思い出し、宗介は憂鬱《ゆううつ》な気分になった。
本当にそうなれたらいいのだが――たぶん、無理だろう。自分はたくさん人を殺しすぎている。けっきょくテッサに言ったことは、自分に言い聞かせている盲目《もうもく》の希望《きぼう》に過ぎないのかもしれない。
[#挿絵(img/10_161.jpg)入る]
●
やれやれ、どうやら生きているらしい。
レモンは安堵《あんど》のため息をつくと、低い天井《てんじょう》の蛍光灯《けいこうとう》をぼんやりと見上げた。肌寒《はだざむ》い。自分が寝《ね》ているのは担架《たんか》の上だ。揺《ゆ》れる点滴《てんてき》。脚《あし》にはきつく巻《ま》かれた包帯《ほうたい》の感触。くすんだ白い壁《かべ》と、医療用品《いりょうようひん》を詰《つ》め込んだたくさんのラック。
狭《せま》い部屋だった――いや、これは救急車《きゅうきゅうしゃ》の中だ。
がたがたと震動《しんどう》が伝わってくるが、それほどひどくはない。たぶん舗装道路《ほそうどうろ》の上を走っているのだろう。
視界《しかい》の片隅《かたすみ》で人が動くのが見えた。知らない男だ。レモンが目を覚ましたのに気付き、マスクをつけた顔を寄せてくる。
「痛《いた》むか?」
男が言った。仕事で患者《かんじゃ》を看《み》ているだけの、無関心な声。レモンは学生のころ通っていた歯医者のことを思いだした。歯石を削《けず》るよ、ジャン。痛いけど我慢《がまん》しな。ガリッ、ガリッ、ブチッ! 先生、僕はジャンじゃなくてポールです。
「歯医者は嫌《きら》いだ……っああ!」
傷《きず》を押《お》されてレモンは悲鳴をあげた。レナード・テスタロッサに撃《う》たれた銃創《じゅうそう》が、自分の仕事を思い出したように苦痛《くつう》を伝え始めていた。男は血圧《けつあつ》と脈拍《みゃくはく》をチェックし、彼の右目の下まぶたを親指でぐいっと押し下げ、ライトで強く照らした。
「名前は言えるか?」
「ここはどこだ」
「名前を言え」
「言えるが、言わない。ここはどこだ」
「ふん」
男はレモンの頬《ほお》を軽く叩《たた》くと、そのまま視界から消えていった。スライド式ドアの開け閉《し》めの音。車内から誰《だれ》もいなくなったようだ。おかしい。この救急車は走っているんじゃないのか? 男が出ていってからは、しばらくなにも起きなかった。
何十分、いや何時間が過ぎただろうか。混濁《こんだく》していた意識《いしき》がはっきりしてくるにつれ、レモンにもようやく分かってきた。
ここは輸送機の中だ。
ターボプロップのエンジン音が聞こえてくる。この救急車は貨物室《かもつしつ》に格納《かくのう》されているのだろう。その数十分後、彼の解釈《かいしゃく》を裏付《うらづ》けるように大きな揺れと衝撃《しょうげき》が来た。機体が着陸したのだ。がたがたと車内が左右に揺れ、その震動が静まっていく。あまり状態《じょうたい》のいい滑走路ではないようだ。
輸送機が停止し、機体後部のドアを開閉《かいへい》する油圧装置《ゆあつそうち》の音がした。救急車のエンジンがかかる。車は機外へ。少し走って停車し、ドアが開く。白く強い光が射《さ》しこみ、刺《さ》すような冷たい風が吹《ふ》き込んできた。
「っ……」
男が二人|踏《ふ》み込んできて、レモンを乗せた担架《たんか》を車外に引っ張りだそうとした。だがその手が止まる。だれかが車の外で『待ちなさい』と叫《さけ》んだからだ。女の声だ。若《わか》い。
「捨《す》てるってどういうこと!?」
女が言った。あれは日本語|訛《なま》りだろうか? レイスや宗介の訛りに似《に》ているような気がする。
「こんな寒い山奥《やまおく》で。殺すってことじゃない! 冗談《じょうだん》じゃないわ!」
「しかし、この車にはあなたを乗せろという命令でして……」
さっきレモンを看ていた男が、横柄《おうへい》な態度で答える。
「看病《かんびょう》なんて要らないわ。熱出して寝込《ねこ》んでただけって言ったでしょ?」
「こちらも急な話で困《こま》ってるんです。言うとおりにしてもらわないと――」
「トラブルかな?」
新しい声。雪を踏《ふ》みしめる足音。あれは知ってる。レナード・テスタロッサだ。
「あ……」
威勢《いせい》のよかった女の声が、突然《とつぜん》なりをひそめた。
「久《ひさ》しぶり。意外と元気みたいだね」
「あ……あんたこそ、死《し》に損《ぞこ》なったわりには元気そうじゃない」
「おかげでね。前よりもすっきりしてるよ。病み上がりのところを、急に呼び出してすまなかった……ね!」
平手打ちの音。小さな悲鳴。女が雪に膝《ひざ》をつく音。
「な……なにを……」
女はショックを隠《かく》せない様子だった。自分がそういう扱《あつか》いを受けたことに対してではなく、レナードがそうした暴力《ぼうりょく》を振《ふ》るったことに驚いているようだ。
「方針変更《ほうしんへんこう》の挨拶《あいさつ》だよ。俺は前ほど根気強くなくなったし、優《やさ》しい顔をするのも飽《あ》き飽きした。そして――これが重要なんだが、そろそろ時間も足りなくなってきた」
「そ……それが本性《ほんしょう》ってわけ? あなたおかしいわ」
「なんだっていいさ。これから俺たちは……おい、閉めておけ」
レナードが言うと、男の一人が救急車のドアをぴしゃりと閉めた。身を切るような寒風が入ってこなくなったのはありがたかったが、彼らの会話もほとんど聞こえなくなってしまった。分厚《ぶあつ》いドアと回りっぱなしのエンジン音に遮《さえぎ》られて、くぐもった声が辛《かろ》うじて聞き取れる程度《ていど》だ。
レナードがなにかを言う。女が強く抗弁《こうべん》する。
レナードが声を荒《あらら》げる。女が勇気をふりしぼって、さらになにかを主張《しゅちょう》する。
そして二人の間で、長く陰気《いんき》なやり取りが続く。それが自分の運命に関することだと、レモンにもおぼろげに察しがついた。まだ顔も見ていない、あの女はいったい誰なんだろう? けっきょくのところ、ここはどこなんだろう? 彼らはこれからどこに行こうとしているのだろう?
答えが出るわけもない疑問《ぎもん》を繰《く》り返していると、いきなり救急車のドアが開いた。男たちが踏み込んできて、彼を乗せた担架を乱暴《らんぼう》につかむ。このまま外に放り出されるのか。ほとんど衣服も着てないのに。
「待っ……」
だがその反対《はんたい》だった。男たちは担架を救急車の奥《おく》に押し戻《もど》し、床《ゆか》に金具で固定すると、さっさと車を出ていった。後から例の看護役《かんごやく》の男と護衛《ごえい》らしき大柄《おおがら》な男、そして一人の少女が入ってきた。
彼女がレナードやその部下たちと口論《こうろん》していたのだろう。
きれいな東洋|系《けい》の娘《むすめ》だった。
ぴっちりとしたジーンズに赤いダウンジャケット。腰《こし》まで届《とど》くほど長い、つややかな黒髪《くろかみ》。印象派《いんしょうは》の画家が筆《ふで》で引いたような流麗《りゅうれい》な眉《まゆ》。なめらかで整った輪郭《りんかく》を見ていると、この曲線を描《えが》く数式が作れたらフィールズ賞ものだろうな、と思う。
残念ながら顔色は良くない。さっきの会話から察するに病み上がりなのだろう。その上、平手打ちを受けたためか右の頬が赤く腫《は》れている。本来は大きく魅力的《みりょくてき》なはずの両目も充血《じゅうけつ》していて、目尻《めじり》にはかすかに涙《なみだ》の跡《あと》があった。
少女は寝たきりのレモンのそばに腰かけ、ジャケットの袖《そで》で自分の口あたりをしきりにごしごしとこすっていた。そんなに強くこすったら、唇《くちびる》が擦《す》り切れてしまうのではないかと心配になってくる。
「いちおう体温を――」
「余計《よけい》なお世話よ」
看護役の手を払《はら》いのけ、彼女は座席の上で背を丸くした。救急車がふたたび走り出し、車内は重苦しい沈黙《ちんもく》に包まれた。
「あのー……」
レモンがおずおずと声をかける。少女は返事をしなかった。
「もしもし、お嬢《じょう》さん」
「あたしに言ってるの?」
いまになってやっとレモンの存在《そんざい》に気付いたように、少女が言った。
「そのつもりだけど」
「なんか用?」
「いや……事情《じじょう》はよく分からないけど、君を命の恩人《おんじん》だと思っておいていいのかな?」
「別に。ほかの飛行機に乗り換《か》える前に、あなたを雪の中に放り出していくっていうから、やめるように頼《たの》んだだけ。あなたが何者《なにもの》なのかなんて知らないけど、尋問《じんもん》は終わって用済《ようず》みらしいわよ」
やはりそうか、とレモンは納得《なっとく》した。
目覚めてからずっと意識がはっきりしなかったのは、自白剤《じはくざい》を使われたからだ。知らないうちに、必要なことはすべて聞き出されてしまったのだろう。最新の自白剤を使われては、どんな強い意志《いし》でも抵抗《ていこう》は不可能だ。
自分の知っている暗号コードや隠《かく》れ家、脱出《だっしゅつ》ルートなどを、ハンターたちが速《すみ》やかに捨《す》てさってくれていることをレモンは祈《いの》った。いや、そちらはたぶん大丈夫だろうが、問題はモスクワで調べたあの廃墟《はいきょ》のことだ。記憶《きおく》はまったくないが、間違いなく自分はそのことも話してしまったはずだった。彼らはその廃墟に向かっているのかもしれない。
だとすれば、危《あぶ》ないのはテッサたちだ――
危機感《ききかん》は表に出さずに、レモンは少女に言った。
「つまりだ、君は命の恩人だね。どうもありがとう」
「ただの自己満足《じこまんぞく》よ。あなたなんて知り合いでもなんでもないし」
ぶっきらぼうに言って、少女はそっぽを向いた。
「じゃあこれから知り合いになろう。ミシェル・レモンだ。よろしく」
毛布《もうふ》の下から左手を出し、握手《あくしゅ》を求める。レモンが自分から名乗ったのを見て、例の看護役の男がふんと鼻を鳴らした。少女はため息をついてから、乾《かわ》いた血がこびりついた彼の手をきゅっと握り返した。
「はいはい、よろしく。気が済んだ?」
「なんとなく分かってきた。君がチドリ・カナメだね?」
「え?」
少女が目を丸くし、あらためてレモンをまじまじと見つめた。
「隠さなくていい。僕はソースケの友達だよ」
レモンは宗介から、彼女のこと――千鳥かなめのことを聞いている。写真は見たことがなかったが、年齢《ねんれい》も特徴《とくちょう》も知っている。レナードの手で拉致《らち》されているということも。おっかないスパイや傭兵《ようへい》だらけのこの畑で、場違《ばちが》いな日本人の少女が現れれば、おのずと推測《すいそく》もできようというものだ。
宗介の名前を聞いて、彼女はさらに驚いていた。
「ソースケを知ってるの? 彼は――」
そこまで言いかけたところで、千鳥かなめはとなりに座る監視《かんし》の男たちの存在を思い出して口をつぐんだ。
「構《かま》やしないよ。どうせ連中の手のひらの上だ」
皮肉っぽく笑ってやったが、男たちはまったくの無反応《むはんのう》だった。
「……無事なの?」
「ああ、ぴんぴんしてるよ。アルと一緒《いっしょ》に暴《あば》れまくってる。必ず君を取り戻すんだってさ」
すると彼女は耐《た》えきれなくなったらしく、両手で顔をおおった。ほとんど聞き取れないほどの小さな声で、なにかの日本語をつぶやく。『……ヨカッタ』と聞こえた。レモンには意味が分からなかったが、どんな一言《ひとこと》なのかは想像がついた。
そうか、この子が――
顔をおおったまましゃくり上げ、肩《かた》を震《ふる》わせている少女。その姿《すがた》を見上げ、レモンは言い知れないせつなさを感じていた。
きっといい子なのだろう。それに美しい。
本来なら元気で、陽気《ようき》で、勇気があって、周囲の人々に力を与《あた》えてくれるような娘なのだろう。そして宗介を愛している。
ナミだってそうだった。
これはひどいんじゃないのか、ソースケ。
(いや、駄目《だめ》だ駄目だ……)
胸《むね》の中で『この娘も傷つくべきだ』という暗い衝動がわいてくるのを感じて、レモンはそんな自分を強く恥《は》じた。
この子が悪いんじゃない。この子には何の責任もない。宗介と出会ってからの様々な出来事を、ありのままに話すのはやめておくべきだ――
彼はそう思い直して、無理に明るい声で言った。
「うらやましい限《かぎ》りだね。愛しちゃってるわけだ」
「……うん」
指先で涙を拭《ふ》きながら、彼女はかすかに微笑《ほほえ》んだ。
部下の一人に無線機の回線を開けっ放《ぱな》しにさせておいたので、かなめたちの会話はレナードに筒抜《つつぬ》けだった。どうせ向こうもそれは知っているだろうから、盗《ぬす》み聞きにはあたらない。
頭が痛《いた》い。
車内で繰り広げられるのんきなドラマを聞いていても、退屈《たいくつ》しのぎにはならなかった。彼はイヤホンを外して放《ほう》り出し、調子の外れた鼻歌を歌った。
ザ・フーの『ザ・リアル・ミー』。
本当の俺が見えるのかい、牧師《ぼくし》さん? 本当の俺が見えるのかい、ドクター? 本当の俺が見えるのかい、母《かあ》さん?
頭が痛い。
ここはシベリア南部のトゥヴァ共和国。モスクワから離《はな》れて四〇〇〇キロ。輸送機を乗り換《か》え、スリランカから連れて来させた千鳥かなめと合流し、これからさらにはるか東に向かう。一八年前の迷惑《めいわく》なクリスマス・プレゼント。破《やぶ》って捨てられた包み紙。きっとあの子もやってくる。
頭が痛くてしょうがない。
あのミシェル・レモンという男から、必要なことは聞き出していた。必要? 必要ではないかもしれない。得られたのは分かりきったことの再確認《さいかくにん》と、物事をスムーズに進めるための情報《じょうほう》に過ぎない。彼らがモスクワで何を調べていたのか――それはすなわち妹が何に気付いたのかを示《しめ》している。
もはやあのレモンという男には情報的な価値《かち》はなにもなかった。だから放り出せと命じたのだ。だが千鳥かなめを大人しく従《したが》わせるのに、あの男の命は利用できる。
赤の他人の命に、あの娘はいったいどこまで付き合うつもりなんだろう? これはこれで見物じゃないか――レナードは久々《ひさびさ》に味わった彼女の唇の感触を思い出し、ほくそ笑んだ。彼女がなにかを真面目に考えてくれて、自分の誠意《せいい》をくみ取ってくれることを期待していた自分が、いまでは信じられなかった。どこまでも紳士《しんし》的に。決して無理強いはしないで。そうすればいつかは――いや、馬鹿げていた。もういい。最初からこうするべきだったのだ。
ああ、そうだった。
女を殴《なぐ》ったのは生まれて初めてだ。手向かいする女を殺したり取り押さえたりしたことはあっても、ああいう風に殴ったのは初めてなんじゃないのか?
昔、一時期暮らしていたオースティンの貧困地区《ひんこんちく》では、路上に立つ娼婦《しょうふ》たちに必ず|ヒモ《ピンプ》がついていた。あのヒモの男たちみたいだったな、さっきの自分は。客からの上がりをごまかし、汚《きたな》い言葉で反抗《はんこう》する淫売女《いんばいおんな》を、殴りつける男たち。手荒《てあら》く扱《あつか》ってから妥協案《だきょうあん》を示《しめ》し、『殴って済まなかったね。愛してるよ、ベイビー』と優しく言ってやる。
まったく馬鹿げた手続《てつづ》きだと思ったが、あれでスムーズに回っていたのだ、あの世界は。掃《は》き溜《だ》めのような、底辺の、感情《かんじょう》と衝動《しょうどう》だけの世界。知性《ちせい》など必要ない世界。人間もしょせん動物にすぎないことを、レナードはあの街《まち》であらためて理解《りかい》した。千鳥かなめは違うのではないか――そう期待していたこと自体が馬鹿げていた。
彼女も同じだ。しょせんは動物。
落胆《らくたん》したわけではない。負傷《ふしょう》から回復《かいふく》し、ある夜そう悟《さと》ったとき、いろいろなことが腑《ふ》に落ちたのだ。それなら自分も、彼らと同じ流儀《りゅうぎ》で接《せっ》してやればいい。どうせこの世界はそう長くは続かないのだ。羽目を外したところで、いったいなにが自分に不都合だというのか?
どうしても頭痛《ずつう》は消えてくれない。
妙だった。なにかを忘《わす》れているような気がするのだが、どうしてもそれが思い出せない。かつての自分が持っていて、いまの自分が持っていないもの。
気にすることはない。
頭のどこかでだれかが言った。おまえが思い出したがっていたなにかとやらは、どうせ役に立たないし、ただの荷物にしかならない。着陸する予定のない飛行機は、脚《あし》はいらないだろう?
すでにおまえは飛び立っているのだ。
●
修羅場《しゅらば》と化した空港から命からがら逃《のが》れたレイスだったが、関節を外された肩を独力《どくりょく》で戻すのはとても無理だった。ハンターに連絡《れんらく》を取りたかったが、その手段《しゅだん》もまったくなかったし、苦痛と発熱《はつねつ》で意識を失《うしな》う寸前《すんぜん》だった。
けっきょく、空港から五キロ離れたアパート近くの車庫《しゃこ》に身を隠したところで、彼女は気絶《きぜつ》してしまった。何時間そうしていたのか、彼女自身にも分からなかった。おそらく、倒《たお》れている間に住民《じゅうみん》が自分を見つけて通報《つうほう》したのだろう。目を覚ますと数人の警官《けいかん》が車庫に入ってきて、彼女に銃口《じゅうこう》を向けていた。
抵抗して逃げるような余力《よりょく》は彼女にはなかった。
まず地元の署《しょ》に連行され、怪我《けが》の状態《じょうたい》が分かると監視《かんし》付きで近くの病院に移送《いそう》された。
手荒《てあら》な治療《ちりょう》で肩をはめ直され、素性《すじょう》も分からないような安物の鎮痛剤《ちんつうざい》と解熱剤《げねつざい》を投与《とうよ》され、病室でぐったりとしていると制服姿《せいふくすがた》の将校がやってきた。
空港で自分たちを追ってきたKGBではなく、軍の情報部――GRUの将校だった。
レナードたちに渡されるか、処刑《しょけい》されるか。いずれにしてもおしまいだろうと覚悟《かくご》していた彼女にとって、そのGRU将校の言葉は予想外だった。
「優秀《ゆうしゅう》な生徒だと思ってたんだが。見込《みこ》み違《ちが》いだったかな」
知っている人物だった。歳《とし》は四〇代《だい》。目は深い灰色《はいいろ》、頭髪《とうはつ》のないつるりとした頭で、印象的《いんしょうてき》な鷲鼻《わしばな》の持ち主だ。ずっと昔、まだ祖国《そこく》の正義《せいぎ》を信じている小娘だったころ、このモスクワに『留学』していたときの教官の一人だった。
「キリエンコ大尉《たいい》……」
レイスがつぶやくと、彼は制服の階級章《かいきゅうしょう》を指先《ゆびさき》でつついてにやりとした。
「いまは中佐だ、ユンヒ。私の到着《とうちゃく》が三分遅かったら、いまごろ|KGB《チェキスト》どもの車の中だったぞ」
●
『目標地点』の二キロ手前、標高八〇〇メートルの山頂付近《さんちょうふきん》に、まずクルツのM9が降下《こうか》した。
ECSを作動させたまま狙撃《そげき》ポジションに付き、周辺に脅威《きょうい》がないことを確認する。続いてクルツ機を落として身軽になったゲーボ4―― <ペイブ・メア> 輸送ヘリが目標地点の上空に飛び、あらゆるセンサで危険《きけん》の有無《うむ》を走査《そうさ》する。その間、万一の敵襲《てきしゅう》に備《そな》えてクルツ機は警戒《けいかい》を続ける。
五分後、ゲーボ4とクルツが『敵影《てきえい》なし』と告げた。
『けっこう。ではこちらも向かってください』
テッサが機内通話で機長に告げるのが、宗介の耳にも届《とど》いた。もう一機の <ペイブ・メア> ――ゲーボ6は宗介の <レーバテイン> とテッサを乗せて、低い山岳地帯《さんがくちたい》を飛び越えていく。ヘリの光学センサが捉《とら》えた映像《えいぞう》が、<レーバテイン> のコックピットにも転送されていた。
荒涼《こうりょう》とした光景だ。まるで世界の果《は》てだった。
オレンジ色の大地。樹木《じゅもく》はほとんど生えておらず、丈《たけ》の高い草におおわれている。いまはまだぎりぎり秋だったが、この一帯はすぐに深い雪の中に閉じこめられていることだろう。実際《じっさい》、この付近は一年のほとんどは厳《きび》しい寒さに見舞《みま》われているのだ。
時刻《じこく》は現地時間で一六三二時。西の稜線《りょうせん》に赤い太陽が沈《しず》もうとしている。目的地のほかにはほとんど人工物は見えない。道路の痕跡《こんせき》と送電線だけだ。
山間に町が見えた。
半径《はんけい》三キロくらいの盆地《ぼんち》に建設《けんせつ》された市街地。
平屋建《ひらやだ》ての住居《じゅうきょ》が並《なら》ぶ住宅街《じゅうたくがい》が街を取り巻《ま》くように建設され、その向こうには低いビルがまばらに建っている。町の中心部には広場があり、大きな銅像《どうぞう》があるのが見えた。ヘリが近づくにつれ、それがレーニン像なのだと分かってきた。
『ヤムスク11[#「11」は縦中横]』というのがこの町の名前だ。
ソ連領内に多数建設された『秘密都市《ひみつとし》』の一つ。おもに核兵器《かくへいき》や弾道《だんどう》ミサイル、その他の重要機密に属《ぞく》する研究を行うために、研究員とその家族を丸ごと移住《いじゅう》させたこれらの都市は、その名の通り地図にも載《の》っていない。『ヤムスク11[#「11」は縦中横]』といった名前も便宜上《べんぎじょう》のもので、近隣《きんりん》の主要都市の名に行政上の郵便番号《ゆうびんばんごう》を付けただけのものだ。警備《けいび》は厳重《げんじゅう》で、許可《きょか》無く出入りすることは禁《きん》じられている。
だが眼下《がんか》のこの都市に、警備は必要ないようだった。ずっと昔に放棄《ほうき》された、廃墟《はいきょ》の町だからだ。
人の姿はまったく見えなかった。赤黒く錆《さ》び、朽《く》ち果《は》てた自動車の残骸《ざんがい》が、路上のあちこちに放置されている。あちこちの割《わ》れたアスファルトの隙間《すきま》から草が伸《の》び、倒れた道路《どうろ》標識《ひょうしき》は苔《こけ》におおわれている。住居もひどい有様だった。よく見れば大半が壊《こわ》れかけている。壁は腐《くさ》り落ち、屋根には大穴《おおあな》が開いたままだ。プレス機に放り込まれたみたいにぺしゃんこになった住居もあった。冬の積雪《せきせつ》の重みに押しつぶされ、そのまま放置されているのだろう。
秘密裏《ひみつり》に建設され、秘密裏に放棄され、そのまま忘《わす》れられた町。
聞けば <ミスリル> のデータベースにさえ、この町の名前は存在しなかったという。テッサはつい先日になって、レモンたちの協力でやっとこの町の情報を入手したとのことだった。
敵どころか、普通の人間すら十年以上はここに寄《よ》りついていないようだった。脅威《きょうい》を探《さが》すのも無意味に思えるような荒《あ》れ方だ。
『くそっ、薄気味悪《うすきみわる》い場所だな』
ゲーボ6の機長がつぶやいた。
『ガキのころ住んでたネバダのド田舎《いなか》の町の近所に、こんな感じの廃墟があった。五〇〇〇人くらいの住民《じゅうみん》が、一晩《ひとばん》で消えちまったと言われてたよ。一晩で住民が皆殺しにされたって噂《うわさ》だった。なにかの実験《じっけん》で気の狂《くる》った陸軍の兵隊たちが、住民を襲《おそ》ったんだ。大人はみんなヨタ話だって笑ってたが、その町から隣の俺たちの町に移《うつ》り住んで来た奴《やつ》をだれも知らないんだ』
『おお、怖《こわ》い怖い』
無線の向こうでクルツが笑った。
『……まあ真相は、その町にあった唯一《ゆいいつ》の自動車工場が閉鎖《へいさ》されて、誰《だれ》も住まなくなっちまっただけなんだけどな』
『なんだ、つまらん』
そんなクルツたちのやり取りをよそに、宗介は奇妙な感覚に陥《おちい》っていた。
既視感《きしかん》。こんな景色を、自分も前に見たような気がする。いや――それどころか、こうしたクルツたちの会話さえ、前に聞いていたような気がする。この感覚はいったい何だろうか? このあと、確かテッサがなにかを言って――
<<妙な感覚です>>
勘違《かんちが》いのようだった。喋《しゃべ》ったのはテッサではなくアルだった。
<<私は前に、この場所に来たような気がします>>
「なんだそれは」
アルが自分と同じ感覚を持ったことに驚きながら、宗介は言った。
<<座標《ざひょう》、地形共に過去《かこ》の作戦データにはまったく該当《がいとう》しませんが、『見たことがある』と感じたのです>>
『でも確かに変だな。俺も前に来たような気がする』
クルツが言った。
『俺もだ。何かのニュースで見たのかな』
ゲーボ4の機長が言った。それだけでなく、他のクルーも次々に『自分もそう感じた』と訴《うった》えた。
『長旅で頭がぼんやりしているのかもしれませんけど、気を引き締《し》めてください。それから市街地のプラントには近づきすぎないように』
一同の声に不安が漂《ただよ》い始めてきたところで、テッサがぴしりと言った。
『いい加減《かげん》教えてくれてもいいんじゃないのか、テッサ? この廃墟になにがあるってんだ? だいたい――』
『申し訳《わけ》ないですけど、まだ言えません』
クルツの不平を遮《さえぎ》って、彼女は更《さら》に指示《しじ》を下した。
『わたしはこれからあの廃墟に降《お》ります。サガラさんは護衛《ごえい》を。<レーバテイン> はヘリに残しておいて』
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3:ヤムスク11[#「11」は縦中横]
宗介とテッサを降ろした輸送ヘリが飛び去ると、辺りには不気味な静けさが訪《おとず》れた。
<ペイブ・メア> 二機とクルツのM9は、この廃墟から五キロ離《はな》れた三つの地点にそれぞれ待機《たいき》し、テッサの連絡《れんらく》で迎《むか》えに来ることになっている。ゲーボ6の機長がこの場で待たせて欲《ほ》しいと要求すると、テッサはあっさり却下《きゃっか》した。万一敵が来たとき、離れた地点に隠れている方が、いざというとき対応《たいおう》しやすいという考えだった。
夕闇《ゆうやみ》の中で冷たい風がそよぎ、雑草《ざっそう》が揺れてかすかなささやき声をもらす。ヘリが残した下降気流《かこうきりゅう》の影響《えいきょう》か、そばの家屋の柱が一本、遅《おく》ればせながら薄気味悪い悲鳴をあげてまっぷたつに折れた。
「こっちです」
テッサは携帯端末《けいたいたんまつ》のデジタル・マップを操作《そうさ》してから、北西の方角へと歩き始めた。下はトレッキング・シューズとショートパンツ、上は厚手《あつで》のスウェット・シャツにだぶだぶのフライト・ジャケットといった服装《ふくそう》だ。爆薬《ばくやく》を納《おさ》めたバッグは肩《かた》にかけているが、銃《じゅう》は持っていない。場所が場所ならピクニックにでも来たように見えるだろうが、あいにくこの廃墟の景色に目を楽しませるものはなにもなかった。
宗介は黒いAS操縦服《そうじゅうふく》の上にタクティカル・ベストを着けている。武器は五・五六ミリ口径《こうけい》のカービン銃《じゅう》と予備弾倉《よびだんそう》を六本、手榴弾《しゅりゅうだん》と発煙弾《はつえんとう》、焼夷《しょうい》手榴弾を二つずつ。C4爆薬も持てるだけ持ってきている。
それからいつものグロック19[#「19」は縦中横]だ。ナムサクで死にかけた後も、レモンの仲間が拾っていて返してくれた。とりわけ優《すぐ》れた拳銃《けんじゅう》というわけでもないのだが、二年近く使ってきたせいか最近は愛着がわいている。
「これからどちらに?」
「北側のプラントです」
彼女は答え、街路の遠くを眺《なが》めて目を細め、思案顔でさっさと歩いていく。宗介は黙って後から付いていくしかなかった。確かに敵影はなかったが、自分一人を護衛につけるという措置《そち》も不自然に思える。念《ねん》のための護衛に過ぎないなら、ヘリのクルーに武装《ぶそう》させて同行させるだけで良かったはずだ。
そんな宗介の疑問《ぎもん》を見透《みす》かした様子で、テッサが言った。
「あなた一人を連れてきたことが不思議ですか?」
「はい」
「本当はわたしだけで来たかったくらいなんです。でも、だれか一人だけ選ぶならあなたが一番|適任《てきにん》だろうと思いました」
「?」
「ここには『|ささやかれた者《ウィスパード》』の秘密《ひみつ》が眠《ねむ》っています」
宗介が驚くのも構わず、テッサは続けた。
「あなたは唯一《ゆいいつ》の <レーバテイン> を使える人です。あの機体を作ってくれたのはミラさんですけど、アルと <アーバレスト> の基本《きほん》システムを流用したものです。その <アーバレスト> を作ったのはバニ・モラウタという人。ミラさんをシベリアで直接《ちょくせつ》助《たす》け出したのもあなた。わたしも何度もあなたに助けられました。そしてあなたがなんとしてでも取り戻《もど》そうとしているのはカナメさんです。ここまで『|ささやかれた者《ウィスパード》』に縁《えん》のある人は、世界中探してもサガラさんだけでしょうね」
言われてみればそうだった。
確証《かくしょう》があるわけではなかったが、ナムサクで生活を共にしたナミがもしそうだったら、さらにプラス一名ということになる。レナードもそうだ。よくは知らないが、彼も『ウィスパード』なのだろう。そうなると、滅多《めった》にいないはずの特殊能力者《とくしゅのうりょくしゃ》である『ウィスパード』六名と深く関わっていることになる。
相変わらず、このウィスパードとやらが何なのかは宗介にもよく分かっていない。だがここまでくると、偶然《ぐうぜん》では片《かた》づけられない、なにか運命めいたものさえ感じてくる。
「これが偶然なのか、一種の運命なのかはわたしにも分かりません。わたしはこう見えても神を信じています。どんな形であれ神という存在《そんざい》がいるのなら――サガラさん、あなたはわたしたち[#「わたしたち」に傍点]を救《すく》うために、神様がつかわしてくださった救世主なのかもしれませんね」
「そんな……」
救世主など冗談《じょうだん》ではない、と宗介は思った。確かに奇縁《きえん》はあるかもしれないが、自分はただの兵隊だ。銃弾《じゅうだん》を必要な場所に命中させることしか能《のう》がない、ただの男だ。ナミは助けられなかったし、かなめをこれから助けられるかどうかも分からない。
だが、宗介はあの船上で、あのミラという少女にも似《に》たような事を言われていた。
そう多くを話したわけではない。彼女はシベリアでのことで彼に礼を言い、彼はアルと <レーバテイン> のことで彼女に礼を言った。ミラは自分がおおむね回復《かいふく》していること、いまは情報部のハンターたちに協力して働いていることなどを話し、宗介も自分の近況《きんきょう》をかいつまんで説明した。
そして彼女は別れ際《ぎわ》に笑顔で言った。
(なんの根拠《こんきょ》もないけど、あなたはわたしたち[#「わたしたち」に傍点]を救ってくれるかもしれない)
――と。
「別にプレッシャーをかけてるわけじゃありません」
テッサが優《やさ》しく言った。
「ただ、そういう不思議な気持ちにさせてくれるんです、あなたの力は。中国の古いことわざに、『神は大きな使命を与《あた》える前に、その者に大きな苦難《くなん》を与えて力を試《ため》す』という意味の言葉があります。あなたのこれまでの人生は苦難の連続だった。でも、その苦難を通じて培《つちか》われた力があるはずです。わたしみたいなダメ女をたしなめてくれる優しさも。小さいころから戦場の狂気《きょうき》の中を生きてきたのに、あなたはなぜ優しい心を失《うしな》わずにいられたのかしら? それには何かの意味があるのかもしれない。あるいはわたしたち[#「わたしたち」に傍点]が破滅《はめつ》していくのを見届《みとど》けるのかもしれませんけど――」
彼女の『わたしみたいなダメ女』という言葉には驚いたが、そういう諧謔《かいぎゃく》を彼女がまだ保《たも》っているのはむしろ歓迎《かんげい》すべきことなのだろう。彼は無理にその言葉を否定《ひてい》せず、ただ感想だけを述《の》べた。
「よく分かりません」
「わたしもです。でも、サガラさんにはわたしの知っていることを、すべて聞いておいてもらっていいかもしれない。そう思いました」
テッサは立ち止まり、振《ふ》り返った。
「それがあなたをここに連れてきた理由です」
宗介が答えに窮《きゅう》していると、彼女は静かに微笑んでから先へと歩いていった。しばらくは二人の足音と風の音しかしなかった。
居住区《きょじゅうく》を抜けていくとき、宗介は路上の自動車の残骸《ざんがい》を見てすぐに気付いた。
弾痕《だんこん》がある。
その残骸だけではなかった。注意深く見れば、潰《つぶ》れた住居《じゅうきょ》やビル、路面などにも弾痕や爆発の跡《あと》がある。大きな火災《かさい》があったとおぼしき痕跡《こんせき》も。
(この町で戦闘《せんとう》が……?)
二人は棄《す》てられた秘密《ひみつ》都市の北側に近づいていった。
その一帯は広大な化学プラント跡《あと》になっていた。錆《さ》びつき、複雑《ふくざつ》にからみあった建造物《けんぞうぶつ》が林立し、居住区とは異《こと》なる薄気味悪さを漂わせている。無数に伸《の》びるパイプ類、黒い影《かげ》を落とすいくつもの煙突《えんとつ》、うつろに居並《いなら》ぶサイロやタンク。遠い昔に死んだ、未知の巨大《きょだい》な生物の死骸のようにも見える光景だった。
「大佐|殿《どの》。この町は……」
「いまのソ連《れん》政府内《せいふない》に、この都市のことを知っている人はほとんどいないはずです。クーデターと内戦で、記録もほとんど失われてしまいましたから。わたしも仕事のかたわら、ずっとこの都市が実在《じつざい》するのかどうかを調べていましたけど――ほとんど成果はありませんでした。でも最近になって、ようやくヒントが得られました。ミラさんです。彼女がシベリアで閉じこめられていた施設《しせつ》で見聞きした言葉から、ある人物の名前が出てきたんです。その人物の消息をたどって、レモンさんたちがモスクワの公文書を調べてくれた結果、この秘密都市 <ヤムスク11[#「11」は縦中横]> の存在を突《つ》き止めました」
この化学プラントでも戦闘があったようだ。
不自然な倒れ方をしているサイロが目に付いた。複数《ふくすう》のタンク類が基部《きぶ》から脱落《だつらく》してぶら下がっており、パイプや鉄骨《てっこつ》の破片がかなり手前の地面にまで転がっている。
「気を付けてくださいね、サガラさん」
テッサが言った。
「このプラントは、いわば『爆心地《ばくしんち》』のようなものなんです。人体にほとんど害はありませんし、もう一七年以上が経《た》っているので影響《えいきょう》も少ないと思いますけど、近付く者の精神《せいしん》を混乱《こんらん》させます」
「精神を?」
「ええ。ここで行われていた実験は、非常《ひじょう》に特殊《とくしゅ》なものだったんです。たぶん、地下にその施設《しせつ》があるはずなんですけど」
テッサはデジタルマップを操作し、プラントの全景を観察した。
「気を付けてくださいね、サガラさん」
テッサが言った。
「このプラントは、いわば『爆心地』のようなものなんです。人体にほとんど害はありませんし、もう一七年以上が経っているので影響も少ないと思いますけど、近付く者の精神を混乱させ――」
「ま……待ってください」
言い知れない不気味な感覚に襲われ、宗介は彼女の言葉を遮った。
「どうしました?」
「いま、同じ事を繰り返して言いませんでしたか?」
「ああ」
特に驚いた様子もなく、テッサはうなずいた。
「既視感《デジャブー》ですね。これも影響の一つです。さっきも降下前《こうかまえ》、ウェーバーさんたちが言っていたでしょう。あなたも感じませんでしたか?」
「感じました」
「みんなを遠ざけておいたのも、そのためです。気持ち悪いかもしれないけど、我慢《がまん》してください。気をしっかり保《たも》っていれば、普通《ふつう》でいられますから。ぼーっとすると既視感が来ることが多いです」
背中にじっとりと汗《あせ》が浮かんでくるのを宗介は感じた。なぜ彼女は平然としていられるのだろう?
「その……あなたは平気なんですか? こんな……」
「ええ。わたしたち[#「わたしたち」に傍点]には、たまに起きることです。わざわざ騒《さわ》いでたらきりがないので人には話しませんし、慣《な》れれば特に気になりませんけど。それに一般人《いっぱんじん》でも、もっと軽い既視感は日常的《にちじょうてき》に経験《けいけん》してるでしょう?」
テッサの口振《くちぶ》りから察するに、そう頻繁《ひんぱん》に起きる現象《げんしょう》ではないのだろう。それでも自分には到底《とうてい》慣れることはできそうになかったが。
「行きましょう。たぶんこの先です」
テッサは足下《あしもと》に気を付けながら、プラントの中に入っていった。
「なるべく会話をしていた方がいいかもしれませんね。弾痕とかには気付いてます?」
「ええ。ライフル弾、機関砲弾、RPGの爆発……かなり派手な撃ち合いがあったようです。いったい何があったのか……」
「たぶん、実験が原因《げんいん》でしょうね」
地面に転がっていたパイプをまたいで、テッサは言った。
「ひどく悲惨《ひさん》なことが起きたんだと思います。この秘密都市の住人は、実験の影響で精神を汚染《おせん》されてしまったのでしょう。いまの既視感なんかよりも、もっと深刻《しんこく》な状態になったはずです。錯乱《さくらん》した警備兵が撃ち合いを始め、それがどんどんエスカレートしていったのかもしれません。詳《くわ》しい記録もないし、証言《しょうげん》できる人も見つからなかったから、実際のところは分かりませんけど……」
テッサが痛《いた》ましい声で語る以上に、ここで起きた混乱は言語に絶《ぜっ》するものだったのだろう。正気を失った者たちが無制限《むせいげん》に暴力《ぼうりょく》を振《ふ》るったらどうなるか? まさしく地獄《じごく》だったに違いない。戦闘の痕跡を見れば、宗介にはある程度想像できた。
「いったい、ここでどんな実験が?」
「『ヴシェオジャヤ・スフェラ』の実験です」
「『ヴシェオジャヤ・スフェラ』?」
「英語だと『オムニ・スフィア』になります。……長い話になるけど、我慢《がまん》して聞いていてください」
テッサは前置きすると、歩きながら説明を始めた。
「『オムニ・スフィア』は人間の精神が作り上げている領域《りょういき》です。目にも見えず、触《ふ》れることもできない世界。オムニ・スフィアは普通の物理的なセンサでは観測《かんそく》できません。わたしたちが普段《ふだん》認識《にんしき》している世界とはまったく異《こと》なる次元のことです。同時にオムニ・スフィアは物質世界《ぶっしつせかい》と相互《そうご》に干渉《かんしょう》しあっています。化学的な回路に過《す》ぎないはずの人間の頭脳《ずのう》が、オムニ・スフィアにアクセスできるのはこのためです。逆《ぎゃく》もまたしかり、ということですね」
「よく分からないのですが……」
宗介の釈然《しゃくぜん》としない様子を見て、テッサはくすりと笑った。
「ごめんなさい。ちょっと先走っちゃいましたね。実はオムニ・スフィアに似た概念《がいねん》は昔からあるものなんです。それはあくまで仮想的《かそうてき》・哲学的《てつがくてき》な意味合いのものでしたけど。『霊界《れいかい》』というたとえ方もあります。ギリシア風に言うならイデア界。ユングが言うところの集合無意識なんかも近い概念です」
にわかにオカルトじみた話になってきたことに、宗介は困惑《こんわく》した。最新鋭《さいしんえい》の兵器を駆使《くし》した現代戦《げんだいせん》を指揮《しき》しているテッサには、およそ似《に》つかわしくない話題だ。だが『オムニ・スフィア』という言葉には聞き覚えがあった。<デ・ダナン> や <アーバレスト> ――いまでは <レーバテイン> などに搭載《とうさい》されている、『TAROS』と呼ばれるマンマシン・インターフェイスに関係する言葉だ。TAROSは確か『オムニ・スフィア転移反応《てんいはんのう》』の略《りゃく》だった。
「遠い昔から、様々な形で言い伝えられている精神の世界。それを脳量子論《のうりょうしろん》や複雑系科学《ふくざつけいかがく》、超大規模《ちょうだいきぼ》な演算装置《えんざんそうち》の発達によって、科学的に記述《きじゅつ》し利用できると考えた天才がいました。ドミトリー・ヴァロフという人物です。彼はその世界を便宜上《べんぎじょう》『|すべてを内包する領域《オムニ・スフィア》』と名付けていました。オムニ・スフィアに関する彼の論文《ろんぶん》は残っていませんけど、一九七〇年代の前半ごろまでは、ソビエトの科学アカデミーでテレパシーや未来予知などの研究をしていたようです」
「テレパシー、ですか」
「『フィラデルフィア実験』やら『エリア51[#「51」は縦中横]のUFO』やら。そういう怪《あや》しい話はいろいろあるでしょう? 確《たし》かにその手の話は疑《うたが》わしいんですけど、米ソの機関が超能力《ちょうのうりょく》の研究をしていたこと自体は本当なんです。もっとも、どれもまともな成果は挙《あ》げられませんでした。軍や情報機関《じょうほうきかん》の予算《よさん》欲《ほ》しさにでっちあげたような、でたらめな研究も多かったみたいですし」
それこそさっきのゲーボ6の機長が言っていたような、『軍の実験で狂った兵士たちが云々《うんぬん》』といった類《たぐい》の話だろう。東京で暮らしていたころ、かなめたちと見ていたテレビ番組でもそんな話題があったな、と宗介は思った。
「でも、ヴァロフ博士は違いました。彼は核《かく》エネルギーや情報工学、電子工学の分野などにも貢献《こうけん》していた、真っ当な研究者でもあったんです。たとえば初期の『パッシブな』ステルス技術には、彼の編《あ》み出した基礎理論《きそりろん》が応用《おうよう》されていたりします」
プラントの奥《おく》に進むにつれ、足場の悪いところが増《ふ》えてきた。半フロアほど下がる区域《くいき》の階段が腐り落ちていたので、宗介は先に降りてテッサに手を差し出した。彼女はもたつきながらも、宗介の腕《うで》の中に飛び降りて無事に着地した。
「ありがとう、サガラさん」
「いえ。足下《あしもと》に気を付けてください。火災《かさい》があったせいか、かなりあちこちが傷《いた》んでいるようですから」
「ええ」
テッサは懐中電灯《かいちゅうでんとう》を取り出すと、さらにプラントの奥へと進んでいった。
「ヴァロフ博士がどんなきっかけでオムニ・スフィアの存在《そんざい》に気付いたのかは分かりません。とにかく、彼は何らかの理由でその存在を確信《かくしん》しました。そして小規模な実験を成功させ、一九七〇年代の末期までには相当の成果を挙げていました。この時期になると、公《おおやけ》の文書や科学誌《かがくし》にヴァロフ博士の名前が出てくることが極端《きょくたん》に少なくなっています。傍目《はため》には老科学者が落ち目になっただけに見えるかもしれませんけど、彼の研究が国家の重要機密《じゅうようきみつ》として扱われるようになったと解釈《かいしゃく》した方が自然です。彼にはアカデミー内での政治力《せいじりょく》もあったようですから。そして彼の研究を一気に推《お》し進めるために、この秘密都市が建設された……と」
既視感がまた襲ってきた。ヴァロフ博士とやらの話を何度も聞いているような気がする。宗介は頭を振ってから、彼女に質問した。
「なぜその研究が重要機密に?」
「オムニ・スフィアの利用価値《りようかち》です。時間にも空間にも束縛《そくばく》されない世界があったとして、そこで自分の精神を自由に移動させ、わたしたちの物理世界に任意《にんい》にアクセスできるとしたら、どんなことが可能になると思いますか?」
「自分には想像もつきません」
想像どころか、テッサの言っていることが宗介には半分も理解《りかい》できない。面倒《めんどう》な理論や数式《すうしき》抜《ぬ》きで説明してもらっても、時間やら空間やら精神やらときては、現実主義者《げんじつしゅぎしゃ》の彼には手に余《あま》る難問《なんもん》だった。
「たとえば、非常《ひじょう》に高精度《こうせいど》な未来予知ができるようになるかもしれません。敵《てき》が核《かく》ミサイルを撃《う》つのかどうか。敵の重要な政治家がいつ死ぬのか。攻撃《こうげき》予定日の天候は? 地震《じしん》や――そう、大規模な太陽活動がいつあるのか? 敵に分からないはずのアクシデントが分かっていれば、それを利用してどんな戦争にも勝つことができるでしょう」
「なるほど……」
「テレパシー的な使い方もできます。通常《つうじょう》では交信不可能《こうしんふかのう》な地形や距離《きょり》でも、非常に大規模な情報をやり取りできるようになるでしょう。それどころか、一方的にだれかの頭の中を覗《のぞ》いたり、暗示《あんじ》をかけて操《あやつ》ったりできるかもしれません。合衆国大統領《がっしゅうこくだいとうりょう》や国防長官《こくぼうちょうかん》の頭脳《ずのう》を『ハッキング』すれば、戦争すら必要なくなります。思うように超大国の政策《せいさく》を操れるんですから」
「そんなことができるはずが――」
「あくまで可能性です。理屈《りくつ》からいえば可能だけど、越えるべき技術的ハードルは無数にあるでしょうし。でもオムニ・スフィアを利用すれば、決して絵空事ではないということなんです。国家の最重要機密にされたとしても、不思議ではないでしょう?」
「ええ」
「まだありますよ。比較的容易《ひかくてききょうい》だったのは、オムニ・スフィアを利用した物理世界への干渉技術《かんしょうぎじゅつ》です。使用者のイメージを物理的な力に変換《へんかん》するシステム。これはもう実用化されていますね」
「ひょとしてラムダ・ドライバですか?」
「その通り。ただし、あの装置《そうち》の名前は偽装《ぎそう》で付けられたものです。『|斥力Λを駆動する《ラムダ・》装置《ドライバ》』、または『虚弦斥力場生成《きょげんせきりょくばせいせい》装置』とか呼ばれることもありますけど、あの装置が生み出しているのはただの斥力ではありません。オムニ・スフィアの干渉《かんしょう》で生まれる擬似的《ぎじてき》な物理現象を、装置が増幅《ぞうふく》しているものなんです。本来の呼び名は『オムニ・スフィア高速連鎖《こうそくれんさ》干渉|炉《ろ》』です」
「『炉《リアクター》』?」
「ええ。あれには炉のような概念《がいねん》があるんです。本来、オムニ・スフィアから私たちの世界への物理的な干渉はごく弱いものです。微弱《びじゃく》な分子のふるまいに影響が出る程度の。わたしたちは日ごろから、自分たちでも知らずにオムニ・スフィアを通じて、自分の周囲の物質《ぶっしつ》とエネルギーに影響を与えています」
「それは……つまり自分が思うだけで、周囲の物質を動かしていると?」
「ええ。それ自体はだれもが無意識《むいしき》にやっていることです。ある意味では、人間はみんなエスパーということですね。ただ、その影響はほとんど観測できないほど微細《びさい》なものだし、目に見えるような形でなにかが起きることもないんですけど。残念なのは厳密《げんみつ》な実験でその現象をなかなか観測《かんそく》・証明《しょうめい》できないことです。外部環境《がいぶかんきょう》からの影響をすべて遮断《しゃだん》した部屋を作ることができたら、オムニ・スフィアの物理世界への干渉|反応《はんのう》を観測することができるかもしれません。でもその観測対象になる人間自体が化学的・電気的なマシンなので、周囲に必ずノイズを出してしまいますから、そのノイズを常時計測《じょうじけいそく》して――」
「すみません、大佐|殿《どの》。だんだん分からなくなってきたんですが……」
「あ……ごめんなさい。とにかく、人間はすごく小さな『念動力《ねんどうりょく》』のようなものを誰でも持っている、ということです」
「なるほど」
頭の血のめぐりが悪い相手にも、あくまで謙虚《けんきょ》に優《やさ》しく説明できるのは、彼女の人徳《じんとく》の一つだな、と宗介は思った。
「そうした日常的に起きているミクロな干渉反応を、連鎖的に増幅させているのがラムダ・ドライバです。人間の脳《のう》と全身の神経系《しんけいけい》は、オムニ・スフィアの干渉反応を生み出すエンジンのようなものです。ラムダ・ドライバ搭載《とうさい》型ASは、人間のそうした機能《きのう》を摸《も》した、疑似頭脳と疑似神経系を備《そな》えています。そのシステムに、人間の神経系ならとても耐えられないような莫大《ばくだい》な電力を加えることで、通常《つうじょう》の自然界ではあり得ない――非常に強力な干渉反応を引き出すわけです。以前、『 <アーバレスト> はあなたの分身だ』と言ったことがありますね。あれはそういう理由です。あなたの人格《じんかく》までコピーしているわけではありませんけど、あなたの神経活動の多くの部分を <アーバレスト> や <レーバテイン> はトレースしているんです」
「はあ……」
「サガラさんは『なぜ航空機や戦車、艦船《かんせん》などにラムダ・ドライバを搭載しないのだろう?』と考えたことがありますか?」
「あります。その方がはるかに効率的《こうりつてき》でしょう。いや……しかし……だとしたら、もしかしてそれは……」
「そうです。ラムダ・ドライバを駆動《くどう》させるためには、人間の機能を摸《も》した機体が必要だからです。しかもオムニ・スフィアから生まれる物理世界への干渉反応は、その触媒《しょくばい》となる人間がきわめて強い極限状況《きょくげんじょうきょう》にさらされ、なお理性的《りせいてき》に行動できる時に顕著《けんちょ》になるようです。熟練《じゅくれん》した戦士の比類なき集中力と、その精神|状態《じょうたい》を生み出す状況――つまり戦闘が不可欠《ふかけつ》なわけです。ですから、ラムダ・ドライバを搭載するマシンの条件《じょうけん》は、高出力の動力源《どうりょくげん》を持ち、危険な戦闘に参加し生還《せいかん》できる性能《せいのう》を持ち、かつ人体を模した構造の|乗り物《ヴィークル》ということになります」
「つまりASだと」
「そう。ASこそ、ラムダ・ドライバを搭載するのに理想的なマシンです。さて――そうなってくると、ASという兵器の存在自体が奇妙《きみょう》に思えてきませんか? そもそも人型《ひとがた》というのは戦闘には不効率なはずの形態なのに、ASはなぜか陸戦の主役になりつつあります。こんなに都合よく、理想的な兵器がたまたま出来ているなんて」
テッサはまるで、ASがラムダ・ドライバを搭載するために生まれ、進化してきたかのような物言いをしている。宗介はかつて北朝鮮からの脱出の後、カリーニンから言われた『こんなものがあるはずないのだ』という言葉を思い出していた。
「ですが……ASは実際《じっさい》に戦場で役立っています」
確かにASには、他の兵器にはない弱点がいくつもある。平地では敵に発見されやすいし、直立して歩行するため被弾《ひだん》もしやすい。複雑な機体システムのため整備も生産も容易《ようい》ではない。運用できる火器のサイズも装甲防御力《そうこうぼうぎょりょく》も、戦車には遠く及《およ》ばない。
しかし、それらの弱点を補《おぎな》ってあまりある利点も持っている。そうでなければ、だれもASを使わないだろう。
「そうですね。これはそれこそ『卵《たまご》が先か、ニワトリが先か』の話みたいなもので、なにかを断言《だんげん》できる人など、この世界に一人もいないのかもしれません」
「…………?」
「見えてきました」
話しながら進んでいるうちに、二人はプラントのかなり奥まで来ていた。
数々の鉄骨《てっこつ》や配管の隙間《すきま》から、わずかに射しこんでいたオレンジ色の空の光も、ほとんどここには届《とど》いていない。そのまま広いホール状《じょう》の空間に出ると、彼らの正面の床《ゆか》に、巨大《きょだい》な縦穴《たてあな》が口を開けていた。
直径《ちょっけい》で一五メートル近くはあるだろうか。ぽっかりと開いた縦穴は、そのまま地中深くへと続いている。ケーブルやパイプ類、作業用の足場が縦穴をぐるりと取り囲み、彼らの反対側には頑丈《がんじょう》なレール状のパーツが取り付けられている。
この縦穴は巨大なエレベーターのシャフトのようだった。上下に動くはずのパレット部分は、地下に降《お》りているのだろう。縁《ふち》から見下ろしても穴の下は暗闇《くらやみ》に閉《と》ざされていて、どれくらいの深さなのかは判然《はんぜん》としない。
「ここを降りるんですか?」
「ええ。目的の施設は、このシャフトの下――深い地下にあるはずですから」
もちろんエレベーターは故障《こしょう》しているだろうし、そもそもこの廃墟《はいきょ》には電力もない。シャフトの中には鉄パイプを組み合わせた頼《たよ》りない足場と階段、それから赤|錆《さ》びた梯子《はしご》がある。降りるならあの階段と梯子を使うしかないだろう。
とはいえ、一八年近く放置《ほうち》されてきた施設だ。老朽化《ろうきゅうか》が激《はげ》しいし、あちこちがふとしたきっかけで崩落《ほうらく》する危険がある。
「待ってください。あなたには外で待ってもらえませんか?」
「? どういうことですか?」
「ここを降りるのは危険です。自分が探索《たんさく》しますから、大佐殿は上から指示を出してください」
ザイルやカラビナなどの降下用具《こうかようぐ》は持ってきてあるものの、この縦穴を降りるのは決して楽な作業ではなさそうだった。自分一人ならまだどうにかなりそうだが、なにしろテッサがいる。こうした場所の降下経験などないだろうし、そもそも彼女の運動能力《うんどうのうりょく》は――失礼ながら――ひどく頼《たよ》りない。
そんな理屈《りくつ》はテッサも分かっているのだろう。だが彼女は宗介の提案《ていあん》を受け入れようとはしなかった。
「ごめんなさい。でもこればかりは、わたしが行くしかないんです。大変かもしれませんけど、どうにかわたしを下まで連れていってくれませんか?」
「ですが……」
「なるべく迷惑《めいわく》をかけないようにがんばりますから。もし、どうしても危険だと思ったらいったん諦《あきら》めて引き返します。だからお願い」
「……分かりました。ただし危険《きけん》かどうかの判断《はんだん》は自分がします。そのときはおとなしく従《したが》ってください」
「ええ。ありがとう」
二人はそれぞれ自前の暗視《あんし》ゴーグルを着け、ザイルで互いの体を結《むす》びつけると、シャフト内部へと降りていった。最初の数フロア分は階段を降りるだけで済んだが、そこからさらに下に進むには、シャフトの内壁《ないへき》を這《は》っている梯子を使うしかなさそうだった。
「自分の背中《せなか》に……」
「ええ」
テッサをおんぶする格好《かっこう》になり、ザイルで彼女の体をしっかりと固定する。彼女の柔《やわ》らかい胸《むね》が背中に密着《みっちゃく》して、すこし落ち着かない気分だった。
「よろしくお願いしますね、サガラさん」
「心なしか楽しそうな声なんですが……」
「たぶん気のせいでしょう。でもカナメさんと再会《さいかい》できたときは、このことは内緒《ないしょ》にしておいてあげます。ふふ……」
彼女がふざけるのを聞いて、宗介はひどく懐《なつ》かしい気分になった。テッサが陣代高校《じんだいこうこう》に短期留学《たんきりゅうがく》してきたころの、あの無邪気《むじゃき》さを思い出したのだ。あの時の彼女は、かなめやマオをからかったりして、いつもこんな笑い方をしていた。
テッサを背負《せお》って梯子を降りていく。
シャフトは相当な深さだった。四フロア分くらいを慎重《しんちょう》に降りていったが、シャフトの底はまだずっと下だ。
そのとき、二人の携帯《けいたい》無線が呼《よ》び出し音を鳴《な》らした。秘密《ひみつ》都市の外で待機中のクルツからの通信だ。地形と構造物の影響《えいきょう》で、ひどいノイズだった。
『こちらウルズ6。どうもやばい雲行きだ』
「どうした?」
『西から複数《ふくすう》のヘリが接近《せっきん》している。確認《かくにん》できる限りで三機。たぶん敵《てき》だ』
「くそったれ。多いぞ……」
三機のヘリが六機に増《ふ》えると、クルツはコックピット内で毒《どく》づいた。
問題のヘリ部隊は太陽を背《せ》にしていたので、M9のパッシブ・センサでは発見が遅《おく》れてしまったのだ。クルツがその機影《きえい》を探知《たんち》した時には、すでにそのヘリ部隊はわずか一二キロ足《た》らずの距離にまで接近していた。これではあの秘密都市の上空まで達するのに、三分もかからないだろう。
こちらの二機の <ペイブ・メア> 輸送ヘリは、燃料節約《ねんりょうせつやく》のために小さな山林の中に着陸してエンジンを停止《ていし》している。すでにクルツ機からの情報を受け取っていたゲーボ4、ゲーボ6それぞれの機長が、APU(補助《ほじょ》パワーユニット)を起動してエンジン始動の準備《じゅんび》を始めていた。
いや、まずい。クルツは直感的に警告《けいこく》した。
「ゲーボ4および6、エンジンをかけるな!」
『なぜだ、ウルズ6?』
「連中、たぶんECSも持ってる。だからここまで発見が遅れたんだ。ECCSも装備《そうび》してるだろうから、下手《へた》に離陸したらすぐに発見されるぞ。そのまま林に隠れてろ」
いま離陸したら、警戒中の敵ヘリ部隊がこちらの二機を探知する危険が非常に高い。対空兵器をろくに装備していない <ペイブ・メア> では、敵との戦闘になったらひとたまりもなく撃墜《げきつい》されてしまうだろう。
『だが、どうするんだ。このままじっとしていても埒《らち》があかないだろう』
ゲーボ4の機長が言った。反論《はんろん》はしているものの、ひとまずはエンジン起動を中止《ちゅうし》している。
「とにかく息を潜《ひそ》めていろ。連中が安心して着陸した時の方が隙ができる。そしたらまず俺がしかけるから、その間にテッサとソースケを拾《ひろ》いにいけ」
『ん……そうだな、わかった。だが敵なのは確かなのか?』
「ここら地元のソ連軍なら、もっと早く探知できたはずだ。あんな贅沢装備《ぜいたくそうび》でこんな僻地《へきち》にわざわざ来る連中ってことは――」
『 <アマルガム> だな、くそっ』
『近ごろはどこにでも湧《わ》いてきやがる。シラミどもめ』
二人の機長が毒づく。クルツは自機のECSをレーダー・赤外線隠蔽《せきがいせんいんぺい》モードから不可視《ふかし》モードに切り替えた。M9が透明化《とうめいか》し、モニター越《ご》しの風景が紫色《むらさきいろ》に変化する。
六機のヘリは依然《いぜん》として接近中だ。ふたたび宗介たちに呼びかける。
「聞いた通りだ、ウルズ7! すぐ戻《もど》ってこい。町の北東、ポイント・エコー付近の廃屋《はいおく》まで移動して隠れてろ」
『ウルズ7了解。だが時間がかかる』
「とにかく急げ」
真っ暗な縦穴の中、宗介はザイルの具合を確かめてから、元来た頭上へと登りはじめた。
「大佐殿。戻ります」
「待っ……」
背中のテッサが言いかけ、口をつぐんだ。
「クルツたちと合流しないと。ここは危険です」
「そうね、仕方ありません……」
無念そうに彼女は言った。このシャフトの下に眠《ねむ》る何かが、よほど重要らしい。
だがここでもたもたしていては、元も子もなくなる。すぐに敵の歩兵が来るだろう。宗介一人でテッサを守ることはとてもできない。彼女もそれはよく分かっているらしく、それ以上は無理を言わなかった。
梯子はひどく錆《さ》びつき、あちこちで腐食《ふしょく》が進んでいる。二人分の体重を支えられそうにない部分もあって、なかなか素早《すばや》く登っていくわけにはいかなかった。
「しっかりつかまっていてください」
「ええ」
言っているそばから、宗介が踏《ふ》ん張《ば》った梯子の一部が異音《いおん》を立てて脱落《だつらく》した。とっさに手すりをつかむ両手の力をこめ、崩《くず》れたバランスを回復《かいふく》しようとしたが、今度はその手すりが基部《きぶ》からぽっきりと折れてしまった。
「きゃっ……!」
がくりと体が宙《ちゅう》に投げ出される。縦穴の入り口にザイルを固定してあるので、そのまま落下することはなかったが、二人は暗闇の中に宙づりになってしまった。
「お怪我《けが》は?」
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》です。すみません」
「そのまま手を放《はな》さないで」
両足を壁面《へきめん》に踏《ふ》ん張《ば》り、渾身《こんしん》の力でザイルをたぐり、慎重《しんちょう》にシャフトを上がっていく。
(まずいな……)
シャフトを出るまで、あと三分以上はかかりそうだ。このままでは敵に包囲されてしまうかもしれない――
『――――着陸地点《LZ》を視認《しにん》。降下しますか?』
輸送ヘリのパイロットが機内通話越しにカリーニンに告げた。
「着陸はまだだ。周辺地域《しゅうへんちいき》の索敵《さくてき》が済むまで待て」
『了解』
カリーニンを乗せた輸送ヘリは秘密都市 <ヤムスク11[#「11」は縦中横]> の上空を、他の四機と共にゆるやかに旋回《せんかい》していた。Mi[#「Mi」は縦中横]―26[#「26」は縦中横]輸送ヘリ四機とMi[#「Mi」は縦中横]―24[#「24」は縦中横]攻撃ヘリ二機の編制《へんせい》だ。
変則的《へんそくてき》ではあったが、この六機を降下させるにあたって、カリーニンはかつてのアフガニスタン時代によく使っていた手法を採用《さいよう》していた。
ASや兵員を搭載した輸送ヘリは高空の安全な空域《くういき》に待機させ、残り一機は遠く離れた山岳《さんがく》の陰に隠しておく。そして攻撃力と運動性の高い <ハインド> 二機を、それぞれ目標地域の上空五〇〇メートルと一五〇〇メートルに配して哨戒《しょうかい》を行わせる。
対空兵器を持ったゲリラが攻撃を行ったとしても、低高度の一機が食われるだけで即座《そくざ》に猛烈《もうれつ》な攻撃を加えることができる。さらに隠しておいた輸送ヘリ一機を随時《ずいじ》に投入させ、地上兵力を展開《てんかい》することで強いプレッシャーをかけることもできる。
『噂通りの手堅《てがた》いやり方だな、ミスタ・|K《カリウム》』
無線の向こうでヴィルヘルム・カスパーが言った。あのドイツ人の狙撃兵だ。いまはもう一機の輸送ヘリの中で、あのラムダ・ドライバ搭載型AS <エリゴール> に搭乗して待機している。
『遊覧飛行《ゆうらんひこう》なら別の日にしたらどうだ。こんな辛気《しんき》くさい場所はさっさとおさらばしたいものだからな』
「遊覧飛行ではない。いつでも出られるように待機していたまえ」
カリーニンはそっけなく答えた。
こうした形のASと空挺《くうてい》部隊、攻撃ヘリの連携《れんけい》作戦は、カリーニンの所属《しょぞく》していた連隊では『ネズミ取り』と呼ばれていた。欲《ほ》しくて仕方ないチーズに手を出したが最後、ばねが弾《はじ》けてネズミは金具に挟《はさ》み込まれる。逃《のが》れる方法はない。
勇猛《ゆうもう》で知られたアフガニスタンのゲリラたちも、カリーニンたちが編《あ》み出したこの手法ばかりはひどく恐《おそ》れていた。
ソ連|製《せい》の重ヘリコプターであるこのMi[#「Mi」は縦中横]―26[#「26」は縦中横] <ヘイロー> やMi[#「Mi」は縦中横]―24[#「24」は縦中横] <ハインド> は、<アマルガム> 独自《どくじ》の改造《かいぞう》でECSとECCS、その他の各種センサーを搭載している。通常の正規軍《せいきぐん》部隊が相手ならば、いくらでも自由にその目をくらまし行動できるし、相手がどんな電子欺瞞手段《でんしぎまんしゅだん》を持っていようと即座《そくざ》に発見できるはずだった。
しかし予想される敵兵力は正規軍ではない。彼ら[#「彼ら」に傍点]だ。
いまのところ敵影は見えないが、降下前の入念な索敵《さくてき》は、いくらやっても決してやりすぎではない。
そこでレナード・テスタロッサから無線越しに声がかかった。彼は千鳥かなめとあのフランス人スパイと共に、もう一機の <ヘイロー> に乗っている。
『あなたの慎重《しんちょう》さは尊敬《そんけい》してるけどね、ミスタ・|K《カリウム》。俺もカスパー氏の意見に賛成《さんせい》かな。さっさと降りた方がいい』
「理由を聞かせてもらえますかな」
『そうだね……。そろそろ反応《はんのう》が出てくるはずなんだけど』
どこか悪戯《いたずら》っぽいレナードの声。カリーニンはこんな声を、前に聞いたことがあるような気がした。あれはいつだったか? いや、そんな昔ではない。それどころか――
『――意見に賛成かな。さっさと降りた方がいい』
「理由を聞かせ――」
たったいまだ。異様《いよう》な既視感にとらわれ、同じ言葉を繰り返しそうになったところで、彼は我《われ》に返った。
『ほらね。この町は特別なんだ。実験の影響がまだ残っていて、油断《ゆだん》するとすぐに時間の感覚が曖昧《あいまい》になる。乗客はまだいいが、パイロットがこれにかかると厄介《やっかい》なことになる』
そのとき、低空飛行をしていた <ハインド> が眼下《がんか》でぐらりと傾《かたむ》き、危《あや》うく化学プラントに激突《げきとつ》しそうになった。ヘリはぎりぎりで姿勢《しせい》を立て直し、最大出力で急上昇《きゅうじょうしょう》する。機体の腹《はら》がプラントからそびえる大型《おおがた》サイロの頂点《ちょうてん》をかすめ、夕闇の中に大きな火花が散《ち》った。
『あんな具合だよ』
レナードのうんざりした声。<ハインド> のパイロットたちが罵《ののし》りあっていた。
『馬鹿野郎《ばかやろう》、ぶつかるところだったぞ!?』
『いや、確かに左に振ったはずなんだ。なのに機体が元の位置に……』
『? なにを言ってる? おまえさっきも同じことを――』
どうやら彼らも得体のしれない既視感にとらわれているようだった。カリーニンは <ハインド> に高度をあげてプラントから離《はな》れるように命じると、輸送ヘリを降下させるのにちょうどいい場所を吟味した。町の外れの方がいいだろう。どうもあのプラントに近付くのは危険なようだ――
そこでカスパーが連絡してきた。
『南東の山地三キロ、中腹《ちゅうふく》にテラスのある山がそちらから見えるか? ロケット弾でも何でもいい。山頂付近に何発か撃《う》ちこんでみてくれ』
「可能だが、なぜだ」
『撃ってみれば分かる』
意地の悪い笑い声をもらして、カスパーが答える。カリーニンはそれ以上|詰問《きつもん》せず、ヘリのパイロットに言われた通りにするよう命じた。
いまだにプラントから離れられないでいる宗介たちに、上空のヘリの様子を教えていると、M9のコックピット内に鋭《するど》い警報音《けいほうおん》が鳴り響いた。
<<警告《けいこく》。二時。|無誘導のロケット弾《UGR》。複数。着弾まであと三、二……>>
「なっ……」
瞬間《しゅんかん》、クルツはかろうじて回避行動《かいひこうどう》を思いとどまる。あの距離からのロケット弾が命中するわけがない――そう判断する。
着弾。
一発はM9から三〇メートル離れた岩肌《いわはだ》に当たって爆炎《ばくえん》と破片《はへん》、そして轟音《ごうおん》をまき散らし、残りの数発はもっと離れた地点で爆発した。
「…………っ」
空中に舞《ま》い上がった土砂《どしゃ》がM9の上にまで降り注ぎ、装甲に当たってぱらぱらと乾《かわ》いた音を立てる。クルツは機体を伏射姿勢のまま身じろぎ一《ひと》つさせず、煙《けむり》の中から敵の様子をうかがった。
『発見されたのか?』
無線の向こうで宗介が言った。二機の味方ヘリは今も山陰《やまかげ》の林の中で息をひそめている。
「いや――」
続く攻撃がない。まだ敵はこちらを見つけていないはずだ。いまのは試《ため》し撃ちといったところだろう。自分の隠れているこの場所が臭《くさ》いとにらんで、でたらめにロケットをぶち込んできたのだ。このままじっとしていれば、やり過ごせるかもしれないが――
いや、だめだ。
「いずれ見つかる、その前に仕掛けるぞ。ゲーボ4、6。離陸準備を!」
普通の敵なら、この山頂にASがいるなどとは想像もしなかったはずだ。それをこうして撃ってきたということは、ただの相手ではない。だったら息を潜めていたところで無駄《むだ》だ。それに土砂が降りかかってしまったM9の姿は、不可視モードのECSを作動させていると肉眼《にくがん》では相当不自然に見えるはずだ。いずれにしても、自機が発見されるのは時間の問題だった。
マスター・アーム、オン。
七六ミリ狙撃砲の精密照準《せいみつしょうじゅん》センサが小さなうなりをあげる。望遠《ぼうえん》・対空モード。気温、湿度《しつど》、風速データが流れ込み、弾道計算《だんどうけいさん》ユニットが揺れ動く数値《すうち》を逐一《ちくいち》表示《ひょうじ》する。
『ウルズ6、敵ヘリのフォーメーションの話だが――』
宗介が言った。まだシャフト内とやらを登っているのだろう。雑音《ざつおん》がひどかった。
「後にしろ」
『聞け。それはアフガンのソ連軍が散々《さんざん》やってきた手法だ。敵の指揮《しき》官はカリーニン少佐だろう』
「くそっ。あのオヤジかよ……」
ターゲットを選択《せんたく》。高脅威目標《こうきょういもくひょう》を最優先《さいゆうせん》に。
まずは <ハインド> からだ。
より上空を旋回中の敵機、|M《マイク》3のターゲット・ボックスをポイント。
ヘリの距離と移動速度が小刻《こきざ》みに上下する。スクリーンに『VALID AIM(確実《かくじつ》な照準《しょうじゅん》)』の表示《ひょうじ》。
嘘《うそ》だ。その計算は間違《まちが》っている。
角度がきつい。ヘリが生み出す下降気流の影響を、直感的に修正《しゅうせい》する。
上に二ミル。左に一ミル。
そうだ、来たぞ――
発砲。
発射炎《はっしゃえん》でスクリーンが一瞬真っ白になった。超音速の七六ミリ砲弾でも、標的《ひょうてき》までは時間がかかる。およそ三秒。
命中。
大口径の砲弾《ほうだん》をまともに食らって、敵の <ハインド> が一瞬で粉々になった。ローターがすっ飛び、機体がひしゃげ――爆発。
「次……!」
敵機の破片が落ちていくのを、のんびり観察する暇はない。すぐさま次弾《じだん》を装填《そうてん》し、もう一機の <ハインド> に砲口《ほうこう》を向ける。
今度は高度が低いし距離も近い。弾道を修正。
照準、発砲――命中。
攻撃ヘリの尾部《びぶ》が吹き飛ぶ。トルク制御《せいぎょ》の利《き》かなくなった機体は狂ったように回転して姿勢を崩し、化学プラント群《ぐん》の一角へと墜落していった。攻撃ヘリは二機とも仕留《しと》めた。これで味方のヘリが逃げやすくなる。
「次……!」
もう敵はこちらの正確な位置をつかんでいる。あと一機は葬《ほうむ》っておきたかったが、残りの三機を狙うのは難しかった。
一機は秘密都市を挟んだはるか彼方の丘陵の向こうに隠れている。もう一機は高空から急降下中。遠いし速い。あれは狙えない。もう一機は低空飛行でプラント群の向こう側に身を隠そうとしていた。狙うならあれだ。
急降下したヘリが地表をかすめるように飛び、すでに開放していたハッチからASを吐《は》き出《だ》した。赤い装甲。あの <コダール> タイプの発展型《はってんがた》だ。長大な狙撃砲を持っているのがちらりと見えた。あの赤いAS――
心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》が一段《いちだん》と高くなるのを感じた。
着地直後を狙うか? いや、無駄《むだ》だ。こちらの攻撃を予想しているラムダ・ドライバ搭載機相手に、普通の攻撃は通用しない。だがあと数秒もしないうちに、奴《やつ》が撃ってくるのは確実だ。
クルツは即座《そくざ》に決断して、プラント群《ぐん》に隠《かく》れている輸送ヘリを狙った。
サイロと貯水《ちょすい》タンク、パイプ類の絡《から》み合う鉄塔《てっとう》の向こう側を飛行する大型ヘリ <ヘイロー> 。その位置を予測し、照準する。じっくり狙いたかったが、もう時間がない。
発砲する。飛翔《ひしょう》した砲弾がサイロを貫通《かんつう》したのが見えたが、標的に当たったのかどうかは分からなかった。
廃墟《はいきょ》に発射炎。来る。
機体を回転させジャックナイフ機動。ライフルを抱《だ》いた仰向《あおむ》けの姿勢から、背筋《はいきん》の力で短く跳躍《ちょうやく》する。直前までM9がいた空間に、敵の砲弾が突き刺《さ》さって猛烈《もうれつ》な土煙《つちけむり》をまき散らした。
「ちっ……!」
姿勢を制御し両足で着地。容赦《ようしゃ》なく敵からの次弾がきた。これは身をかがめ、ぎりぎりで回避《かいひ》。すさまじいまでの正確《せいかく》な射撃だ。この遠距離《えんきょり》では専用《せんよう》の火器管制《かきかんせい》コンピュータでも、もっと着弾点《ちゃくだんてん》にブレが生まれるはずなのに。
ここまでの射撃を可能とするのは、機体の性能ではない。射撃の道に極限まで熟達《じゅくたつ》した人間の、経験と勘《かん》だけにしかなしえない技《わざ》だ。
もう間違いない。奴だ。
「カスパーめ」
かなめが輸送ヘリのキャビンでレモンの様子を見ていると、いきなり遠くで爆発音がした。左舷《さげん》の窓から外を見る。さっきまで廃墟を旋回していた攻撃ヘリが、粉々に四散していた。
「爆発……? あっ……!」
機体が大きく揺れ、彼女は床に投げ出されそうになった。座席にしがみつき、どうにかふんばる。レモンの体は担架ごと固定してあったので大丈夫そうだった。
墜落《ついらく》ではないようだ。『敵』の攻撃を警戒して、ヘリが急降下しているのだろう。眼下に小さく見えていたはずの廃墟がみるみる迫《せま》ってくる。
『敵ASの狙撃だ! 北側のプラントを盾《たて》にして隠《かく》れます!』
機内通信でヘリの機長が叫んでいた。
『駄目《だめ》だ。プラントには近付くな。高度を上げろ』
貨物室《かもつしつ》のレナードが機長に告《つ》げるのが聞こえる。冷静な声だった。
『ですが、このままでは撃たれます! もう一機もやられた! あの距離から――とんでもない腕《うで》の野郎だ!』
『高度を上げるんだ。そうすればこのヘリは絶対《ぜったい》に安全だから』
と、レナードが断言《だんげん》する。
『なぜそう言い切れる!? だめだ、隠れるぞ!』
ヘリが旋回する。すぐ手が届きそうな近さにプラントの巨大な鉄塔が見えた。敵の射線《しゃせん》から身を隠しているのだ。
「ベルトを締《し》めろ、カナメさん」
寝《ね》たきりのレモンが青ざめた顔で言った。
『君のために言ってるんだ。高度を下げれば逆に危険が――』
衝撃と異音。窓の外に閃光《せんこう》。がくんと機体が傾《かたむ》き、歪んだ部品が高速でこすれ合うようなひどい音が機内に響き渡った。
なにが起きたのか、彼女にはよく分からなかった。盾にした建物越《たてものご》しに『敵』から撃たれたのだろうか? この異音はテールローターへのドライブシャフトが損傷《そんしょう》した音だろうか?
機内通信でパイロットが叫んでいた。
『ですが、このままでは撃たれます! もう一機もやられた! あの距離から――』
意味がわからない。さっきと同じ言葉を繰り返している。機体はでたらめに揺れながら、プラントの上空を横滑《よこすべ》りしていく。高度がさらに下がってきた。
機長と副《ふく》機長が怒鳴《どな》り合《あ》う。
『なにをやってるんだ、すぐに高度を――』
『だめだ、隠れるぞ! ……いや、なんだこれは? どうして損傷《そんしょう》を』
『スティックを引け、馬鹿野郎!』
『助《たす》けてくれ。わけがわからない。俺は大怪我《おおけが》をしたはずなんだ』
『何を言ってるんだ!?』
『なぜまだ飛んでるんだ。墜《お》ちたはずなのに』
恐怖《きょうふ》の声。機体が揺れる。プラントが迫る。いびつに絡《から》み合う鉄製《てつせい》の植物のようだ。暗闇の中に浮かぶ不気味な姿が、どんどん大きくなってくる。
ローターがなにかに接触した。
頭上で金属が引き裂かれ、大気がめちゃめちゃに切り裂かれる。亡霊《ぼうれい》の泣き叫《さけ》ぶような音。ひどい衝撃が小刻みに何度も襲いかかる。キャビンの照明が火花をたてて消える。真っ暗だ。体が浮き、座席に押しつけられ、また浮いた。ヘッドセットが頭からむしり取られる。レモンの苦痛の悲鳴。
ヘリがプラントの建造物を巻き込みながら、どんどん下へと落ちていく。それだけはどうにか分かった。いったいどこまで落ちるのだろう? この廃墟の奥には、地面などないのかもしれない――かなめはそう思った。
『――ちらウルズ6! 敵ASと交戦――』
クルツが無線で状況《じょうきょう》を報告《ほうこく》していたが、その内容《ないよう》をしっかり聞いている余裕《よゆう》など、宗介たちにはまったくなかった。まだ縦穴を登っている途中《とちゅう》なのに、すぐ頭上から巨大なヘリが落ちてきたのだ。
「なっ……」
ヘリは細かい火花を噴《ふ》きながら、縦穴の出口のさらに上――広大な吹き抜け部分《ぶぶん》をゆっくりと落ちてくる。機体にはプラントのパイプや鉄骨がいびつに歪《ゆが》んで絡み合っていた。ちょうどパイプ類がロープの役割《やくわり》になって、ヘリを吊《つる》しているような状態だ。だがヘリの自重に負けて、それらが次々に千切《ちぎ》れていく。
すぐにこの縦穴に落下してくる――一〇秒か、二〇秒か。迷《まよ》っている時間はない。
「降ります、つかまって!」
テッサに告げると、宗介は予備のザイルを手近な鉄骨にカラビナで固定し、壁を蹴《け》った。登って逃げるのはもう無理だ。ザイルを使って一気に縦穴の底まで懸垂降下《けんすいこうか》して、どこか横穴から避難《ひなん》するほかない。
ひと蹴りで二フロア分。さらにもうひと蹴り。もっと速く降りたかったが、二人分の体重なので無理はできない。
頭上で轟音《ごうおん》。ヘリが縦穴の入り口にぶつかっていた。ぎりぎりで引っかかっているが、次第《しだい》にこちらに傾《かたむ》いている。
機体やプラントの破片がばらばらとふってきて、宗介のそばをかすめていった。暗視スコープに黒い影。小さな枕《まくら》くらいの大きさの金属片がこちらに迫ってくる。壁面《へきめん》に両足を踏ん張り、背中のテッサをかばって上を向く。頭をかばった左腕に金属片《きんぞくへん》が当たった。
「くっ……!」
破片を受けてよろめきかけたのを、強引《ごういん》に引《ひ》っ張《ぱ》り戻《もど》してさらに降下《こうか》。壁を二度、三度と蹴る。テッサは悲鳴ひとつあげずにしがみついていた。
地面はまだか。見下ろすとあと三フロア分。円形の床が近付いてくる。
とうとうヘリが落ちてきた。縦穴全体にはまるように、無数の火花をまき散らして。まるでこの縦穴は巨大な砲身《ほうしん》だ。あのヘリの残骸《ざんがい》は、砲身の中を突き進んでくるいびつな砲弾《ほうだん》だった。
もうひと蹴り。いきなり空中でザイルの支《ささ》えがなくなった。頭上でザイルを固定していた鉄骨《てっこつ》が吹き飛ばされたのだ。
「!」
「きゃっ……」
テッサを背負ったまま、宗介は一フロアの高さを落下した。どうにか体をひねる。テッサを潰《つぶ》さずには済んだが、右半身を床に強打した。肺《はい》から息が勝手に漏《も》れて、頭がくらくらする。痛《いた》みは無視《むし》。ザイルを取り外しつつ身を起こす。ヘリが迫《せま》ってくる。もう頭上を見る余裕もない。テッサを負《お》ぶったまま、視界に入った通路めがけて駆け出す。ヘリが迫る。あと少し。あと四歩――三歩――
「ふっ……!!」
前のめりに跳躍《ちょうやく》。耳をつんざくような金属音と突風《とっぷう》が殴《なぐ》りつけてくる。
振り返ると、すぐ背後、通路の入り口がヘリの残骸でふさがれていた。
どうにか生きてる。
だがまだ安心は早い。すぐに宗介はうつぶせ状態から立ち上がって、先へと続く暗い通路をさらに走った。ジェット燃料《ねんりょう》の匂《にお》いがする。閉鎖《へいさ》空間のこんな近くでヘリが爆発したら、二人とも丸焼きだ。なるべく遠くに離れなければ。
「テッサ!?」
返事はなかった。気絶《きぜつ》しているようだ。とりあえず呼吸の感触は伝わってくる。しっかりロープで固定していたはずの彼女の体が、背中からずり落ちかけていた。担《かつ》ぎなおそうとしても、さっき破片を受けた左腕が痺《しび》れて言うことをきかない。彼女は力なく崩れ落ち、床に横たわった。
そのとき通路全体が大きく揺れた。足下《あしもと》が傾き、目の前の床が落ちていく。深い穴だ。この地下施設にはまだ下がある。墜落《ついらく》のショックで、周囲の構造物まで脆《もろ》くなったのか? 床に倒れているテッサに手をのばそうとすると、足下の通路が突然ばらばらになった。
「!」
とっさになにかに掴《つか》まろうとしたが、怪我をした左手はその仕事に失敗した。錆びついた鉄のパネルを巻き込み、彼は真っ暗《くら》な穴の中に落ちていった。
やっと墜落が終わった。そしてまだ生きてる。
「んぅ………」
暗闇の中で、かなめはうめき声をあげた。
シートベルトが肩《かた》と腰《こし》に食い込んで痛い。彼女を縛《しば》り付けている座席は、床から外れかけて宙ぶらりんになっていた。
鼻をつくジェット燃料《ねんりょう》の刺激臭《しげきしゅう》。いまだにターボシャフト・エンジンが轟音《ごうおん》が立てている。早くこの場所から逃《に》げ出さなくては。
「だれか? 生きてる!?」
「どうにかね……」
そばからレモンの声がした。かなめはシートベルトを外し、ほとんど垂直《すいちょく》になった床から落ちないように気を付けながら、手探《てさぐ》りでレモンの体を見つけた。むぎゅっとどこか[#「どこか」に傍点]をつかむと、彼が変な悲鳴をあげた。
「ひゃあっ!?」
「あ、ごめんなさい。って……ひゃあっ!?」
なにを握《にぎ》ったのか理解《りかい》するなり、彼女は変な悲鳴をあげて、何度も手のひらを衣服にこすりつけた。
「そんなイヤそうな反応《はんのう》しなくても……」
「それより、ここから逃げなきゃ」
かなめはレモンの体を担架《たんか》に固定しているベルトをもたもたと外《はず》しにかかった。
「賛成《さんせい》だけど、歩けるかどうか」
「歩くの! 死にたくないでしょ!?」
拘束具《こうそくぐ》を外し、レモンを支《ささ》える。傷《きず》が痛むのか、彼は歯を食いしばってうなり声をあげた。記憶《きおく》を頼《たよ》りにいくつかの座席《ざせき》の脇《わき》を探ると、非常《ひじょう》用の懐中電灯《かいちゅうでんとう》があった。点灯。ようやく周囲の状況が目に映《うつ》る。
機首を下にして墜落したようだ。このキャビンは原型をとどめていたものの、前方の操縦室《そうじゅうしつ》はぐしゃぐしゃに潰れているようだった。
「ハッチは……」
「あそこよ。行ける?」
「やってみる」
操縦室とキャビンを隔《へだ》てる隔壁《かくへき》のそばにハッチが見えた。落下の衝撃《しょうげき》でゆがんで外れかけている。九〇度下を向いた座席を足場代わりにして、かなめはハッチのそばまで降りていく。レモンは怪我した脚をかばいながら、どうにかその後から続いてくる。
先に降りると、かなめはハッチを蹴り飛ばした。扉《とびら》はすこしきしんだだけで、開いてくれそうにない。渾身《こんしん》の力でもう一回。膝《ひざ》が痺《しび》れて痛くなるほど思い切り蹴ったのに、やはり開かない。
「カナメさん、無理だ。どこか別の出口を探すしかない」
レモンの忠告《ちゅうこく》を無視して、そばの隔壁《かくへき》に取り付けてあった消火器を取り外す。その重さに驚《おどろ》きながら、振りかぶって力いっぱいハッチに叩《たた》きつける。まだ開かない。だが手応《てごた》えは感じた。さあ、もう一度!
「無駄《むだ》だって。別の場所を――」
「このおおおおおおっ!」
嫌《きら》いな連中の顔を思い浮《う》かべて、ハッチを殴りつける。がつんと何かの金属がひん曲《ま》がる音がして、ハッチが勢《いきお》いよく向こう側に開き、人がひとり通れるくらいの隙間《すきま》ができた。
「よし、逃げましょう!」
「たまげた」
出口から外をうかがう。燃料の刺激臭で目が痛い。いつ爆発が起きてもおかしくないくらいだ。すぐ目の前がコンクリートの壁《かべ》だった。ライトで下を照らすと地面まで二メートルくらいある。これならどうにか降りられそうだ。
「さあ行こう」
レモンが言うと、背後《はいご》からかすかなうめき声がした。見るとハッチの反対側《はんたいがわ》――キャビンの片隅《かたすみ》に男が倒《たお》れてうずくまっていた。かなめたちを監視《かんし》していた兵隊の一人だ。怪我をしているようだったが、まだ生きている。
「行こう、カナメさん」
「でも……」
「連中は敵《てき》だぞ! さあ!」
「やっぱりだめ。先に降りてて」
「あっ……」
レモンをヘリの外に押しやると、かなめは大急ぎで男に駆《か》け寄《よ》った。
「動ける? ここを出るわよ!」
「う……」
男は朦朧《もうろう》としている様子で、まともに受《う》け答《こた》えができなかった。脚を折《お》っているらしく、立ち上がるのも無理そうだ。
「痛いかもしれないけど我慢《がまん》して!」
かなめは男の襟首《えりくび》を両手でつかむと、その体を強引《ごういん》にハッチの方へと引きずり始めた。
とんでもない重さだった。全身に力を込めて、よたよたと後ろに歩いていく。すぐに息が上がってきたが、かまわず引っ張る。
「ふぬっ……ぬおおおおおお……!」
苦痛《くつう》にあえぐ男を出口まで運んで、ハッチの隙間から押し出す。
「急いで!」
すでに地面に降りていたレモンが下から手招《てまね》きした。男の上半身がぶらりと機外《きがい》に飛び出し、さらに下半身を持ち上げて押し出し――
「うわっ……!」
男がレモンを巻《ま》き込《こ》んで地面に落ちた。すぐさまかなめは機外に出て、機体の出《で》っ張《ぱ》りを足場にして下に降りる。
「行こう!」
脚を引きずるレモンと一緒に男の両肩《りょうかた》を支え、機体と壁の隙間を進んでいく。壁に大きな横穴《よこあな》が開いているのが見えた。トラック一台《いちだい》が通れそうなくらいのサイズだ。
「なにかのトンネルか?」
「とにかくあっちよ!」
ふらつきながらトンネルに飛び込む。墜落の衝撃のせいか、あちこちが崩れかけていた。天井《てんじょう》からパネルがぶら下がり、きいきいと音を立てている。かなめたちが数十メートルほどそのトンネルを進むと、後ろで炎《ほのお》があがっていた。
「脚《あし》の傷が……もう歩けない」
「だめ! がんばって!」
ヘリの残骸から火災が発生している。
トンネルの一角に古ぼけたトラックが放置してあった。赤錆《あかさび》だらけでタイヤは腐食《ふしょく》して無くなっている。かなめは最後の力を振り絞《しぼ》ると、レモンと男を引っ張るようにして、そのトラックの陰に逃げ込んだ。
ここまで来れば、ひとまずは大丈夫だろうか?
そう思った直後に、爆発が起きた。
熱波と衝撃波《しょうげきは》がこの距離《きょり》までやってきて、殺到《さっとう》した破片《はへん》がトンネル内を跳《は》ね回る。鋭《するど》い刃《やいば》と化したアルミ合金《ごうきん》がトラックの残骸に突き刺《さ》さり、周囲の大気がサウナみたいに熱くなってかなめたちをあぶった。
「っ…………!!」
かなめはうずくまり、息を止めて耐《た》えるしかなかった。心臓《しんぞう》が早鐘《はやがね》を打ち、背中にいやな汗《あせ》が浮《う》かぶのが感じられた。
じっとしていたのは、たぶん十秒かそこらだろう。
おそるおそる目を開ける。あえぐように呼吸《こきゅう》する。酸素《さんそ》が足りないのだろうか? 息が苦しい。だがそれも最初のわずかな時間だった。どこかから新鮮《しんせん》な空気が流れ込んできているようだ。煙《けむり》を吸い込まないように這いつくばったまま、彼女は肩をはげしく上下させてせき込んだ。
「レモンさん、大丈夫?」
「どうにかこうにか」
弱々しい声でレモンが答えた。
「しかし、なんというのか……ソースケが君に惚《ほ》れた理由が分かったような気がするね」
「? どうして?」
「たいした行動力だ。恐《おそ》れ入ったよ……ははっ」
やっと人心地《ひとごこち》ついてから、かなめはいまの自分の行動を思い起こしてみた。そんなに変なことをしたような覚えはなかったが――
「……そういえば久《ひさ》しぶりだわ、こういうの」
「?」
「こういうアクション。あいつといるときは不自由しなかったのよね」
床にぺっと唾《つば》を吐《は》き出してから、彼女は身を起こした。
レナードの <ベリアル> は空中に停止《ていし》し、脱出《だっしゅつ》したばかりのヘリが化学プラントの地下へと落ちていくのを静観していた。
墜落を防《ふせ》ぐこともできた。すぐに降下してヘリを引っ張り上げることもできた。そして、キャビンを引き裂《さ》いて千鳥かなめだけをつかみ出すこともできた。
だが、すべて実行しなかった。
大型エレベーターのシャフトの底に落着したヘリの残骸を、高解像度《こうかいぞうど》の赤外線センサで監視《かんし》していると、彼女とフランス人がハッチから出てきて、地下|施設《しせつ》の奥《おく》へと脱出していくのが見えた。なんとも涙《なみだ》ぐましいことに、助ける義理《ぎり》もないはずの負傷兵《ふしょうへい》にまで肩を貸《か》していた。
その後ほどなくヘリは爆発したが、まず彼女は無事だろう。レナードにはその確信《かくしん》があった。そう――無事でなければならないのだ。
『狙撃してきたM9は撤退したようだ』
<コダール> の改良型AS <エリゴール> で降下し、敵と交戦していたヴィルヘルム・カスパーが報告《ほうこく》した。
『奴《やつ》を輸送してきた <ペイブ・メア> の痕跡《こんせき》も探知《たんち》したが、そいつらも逃《に》げたな。こちらは警戒《けいかい》にあたる』
『了解《りょうかい》した。こちらは歩兵部隊が降下中《こうかちゅう》。町を制圧《せいあつ》する』
カリーニンが答える。
「じゃあ、そちらは諸君に任《まか》せるよ。俺は下に降りる」
『プラントの地下|施設《しせつ》に? 単独《たんどく》でですか?』
「ああ。勝手に探検《たんけん》させてもらうよ。千鳥かなめとフランス人が脱出して地下に逃げた」
『こちらからも兵を送りますが、結構《けっこう》ですかな』
「ご自由に」
簡潔《かんけつ》に答えて通信を切る。
レナードは機体を上昇させ、入手|済《ず》みのデータと実際の景色を照合してから、頭の中で地下施設の位置関係を吟味《ぎんみ》した。それからふたたび降下し、プラント中央部の大型エレベーターのシャフトに入っていく。
巨大《きょだい》な縦穴の底では、いまだにヘリが燃え上がっている。まるで燃えたぎる死の窯《かま》だ。
<ベリアル> が炎上《えんじょう》する残骸に近付くと、炎と煙が機体をよけていく。さらに接近。見えない力に大気が押しのけられ、燃える残骸が押しつぶされ、火災がみるみる鎮まっていく。熱、煙、炎、そして金属片――すべての事物がレナードに道を空けた。
シャフトの底に <ベリアル> の脚がつく。ごく静かな着地。
「さて……」
機体をひざまずかせると、彼はコックピット・ハッチを開放した。
テッサや宗介の携帯《けいたい》無線で交信可能なぎりぎりの距離――およそ一〇キロ東の山中まで撤退してから、クルツと <ペイブ・メア> のクルーたちはこれからの相談をすることにした。擬装《ぎそう》はすでに終え、周囲に振動感知式《しんどうかんちしき》の使い捨てセンサを散布《さんぷ》してあるので、あの赤いASの脅威《きょうい》は当面の間ないはずだった。
「……で、ソースケたちと連絡は?」
埃《ほこり》まみれのM9から降りてきたクルツは、林の中で駐機中《ちゅうきちゅう》の <ペイブ・メア> まで歩いていって、後部ハッチから出てきたパイロットに聞いた。ゲーボ4の機長で、サルヴィオというイタリア人だ。
「とれない。無事かどうかも分からん。あまり頻繁《ひんぱん》に呼びかけると、たとえ暗号化通信でもこちらの位置を敵に悟《さと》られかねないしな」
「 <デ・ダナン> の方は?」
「状況は説明したが、なにしろ地球の裏側《うらがわ》だ。増援をすぐには送れないし、マオやクルーゾーもそれぞれの仕事で手が離《はな》せないだろうな」
「くそっ、最悪だな」
「とりあえず逃げおおせたんだ、最悪でもないさ」
もう一機のゲーボ6の機長、アメリカ人のフィッシャー少尉《しょうい》がやってきて、ミネラル・ウォーター入りのボトルをクルツに投げた。無造作《むぞうさ》に受け取り、ヘッドギアを脱《ぬ》いで頭から水をかぶる。肌寒《はだざむ》いくらいの気候なのに、顔が熱くて仕方なかった。
「敵も二人が置き去りになっていることは知らないはずだ。なにしろ、あんなごちゃごちゃした廃墟だし。ソースケたちがどこかに隠れてじっとしているなら、そう簡単《かんたん》には見つからないと思う。それに大佐は『数時間で用は済む』と言ってた。もし連中の用事が同じなら、一晩《ひとばん》待てばやり過《す》ごせるんじゃないのか?」
「無理だな」
クルツは否定し、ボトルの残りの水を飲《の》み干《ほ》した。サルヴィオとフィッシャーは少尉なのだが、曹長のクルツは特に階級差《かいきゅうさ》を意識《いしき》した態度《たいど》をとらない。歳もそう離れていない上、一緒に降下《こうか》作戦をやるようになって二年近くの仲《なか》だし、なにより <ミスリル> がこうなっているいま、階級など便宜上《べんぎじょう》のものでしかない。サルヴィオたちもこういう難局《なんきょく》のときは、自分よりも実戦慣《じっせんな》れしたクルツの判断を尊重《そんちょう》している。
「……ぷはっ。敵もテッサとソースケを降ろした痕跡《こんせき》には気付いてるはずだ。あんな荒れた町だから、気を付けたってどうしても足跡《あしあと》は残る。よく訓練された兵士一人と、動きのトロい女が一人、プラントに入ったことも読みとるだろうな」
「そこまで分かるのかよ」
「相手は少佐だぞ?」
いまでも <デ・ダナン> の人々は、カリーニンのことを『少佐』と呼んでいる。未練がましく慕《した》っているのではなく、習慣《しゅうかん》を変えていないだけのことだ。
「それに……少佐以外にも、敵の中には奴がいる」
「奴? だれのことだよ」
「俺の師匠《ししょう》だ」
いまいましげにクルツは言った。
「ヴィルヘルム・カスパーって名前、知ってるか」
「ああ……なんとなく聞き覚えがある。けっこう前に読んだ専門誌《せんもんし》の記事で何度か見かけたような……。ドイツ人だったか」
「そう。代々スナイパーの家系《かけい》でな。爺《じい》さんは二次大戦で連合兵を殺しまくって、騎士十字章《きしじゅうじしょう》のすげえ奴もらったり。親父《おやじ》はインドシナやらアフリカやらでブイブイ言わせてたり。でもってそのヴィルヘルムは――ソ連内戦やレバノン、タジキスタンで一〇〇人以上殺してる。元東ドイツ軍だが、統合騒《とうごうさわ》ぎのあと傭兵《ようへい》になった」
「達人なのか」
「そんなレベルじゃねえ。『魔人《まじん》』だよ。……実戦の狙撃《スナイプ》での世界記録を知ってるか? 二五〇〇メートルだ。アメリカ海兵隊の軍曹がタジキスタンで成功させた。標的《ひょうてき》はイラク軍の将校。五〇口径(一二・七ミリ)の対物ライフルと最新の弾道予測装置《だんどうよそくそうち》で、ほぼ無風の条件下《じょうけんか》だった」
「たまげたもんだな。オリンピックの世界だ」
「悪い腕だとは思わないが、装備《そうび》のおかげもあるし、何発も撃《う》ってやっと一発という調子だった。かたやカスパーの記録は一五二〇メートルだ。その『世界記録』に一〇〇〇メートルも足《た》りない。ただし――銃は三〇八口径(七・六二ミリ)の木製《もくせい》ライフル。夜間《やかん》、降雨《こうう》、真横から風速一五メートルの風が吹いてる条件だった。それもただ一撃《いちげき》で」
「えーと……そっちの方が難しいのか?」
「はるかにな。五〇口径弾に比べて、三〇八口径弾はずっと軽く、エネルギーも小さい。しかも悪天候《あくてんこう》だ。弾道の放物線はひどく複雑になる。嵐《あらし》の中でホール・イン・ワンをきめるような芸当だよ。普通の同業者なら笑って信じないところだ」
暗い声でクルツは言った。
「だが俺は見ている。そのとき俺は、奴の隣で観測手《スポッター》をしていた」
脳裏《のうり》にあの夜の光景がよみがえる。
荒れ果てた街並《まちな》み。放置された各所の火災が、夜空を赤い血の色に染《そ》めている。じめじめとした雨。風に揺れる街路樹《がいろじゅ》。ずっと遠くから響いてくるイスラエル軍の砲声《ほうせい》。
半壊《はんかい》した洋館《ようかん》の一室。壁に空《あ》いた大穴から、彼らは標的を狙っていた。
一五二〇メートル。
見晴らしのいい丘に建つこの洋館から、標的が訪れている市内のホテル――その出入り口までの距離だ。敵の支配地域《しはいちいき》の外から狙うには、この位置とこの距離しかなかった。
標的は民兵組織《みんぺいそしき》の幹部。もうすぐ会合を終えてホテルから出てくる。表に待っている防弾仕様《ぼうだんしよう》のリムジンに姿を消してしまうまでの猶予《ゆうよ》は、わずか五秒かそこらもない。
一五二〇メートル。
射撃を生業《なりわい》とする者にとって、この条件でのこの距離は宇宙《うちゅう》の果《は》てだ。自分とは関係のない世界。だれにも手が届《とど》かない領域《りょういき》。
馬鹿馬鹿しい。狙えるわけがない。クルツはそう思っていた。憎《にく》たらしい言葉で彼をひやかし、さっさと野営地《やえいち》に帰って一杯《いっぱい》やろうと言った。
彼は答えなかった。クルツの言葉など、まったく耳に入っていなかった。
彼は雨に濡《ぬ》れた床《ゆか》に伏射姿勢で横たわり、まるで溶接《ようせつ》されたように銃《じゅう》と一体化し、スコープと右眼《みぎめ》とを接続《せつぞく》していた。とても静かな呼吸。地中海はすぐそこなのに、その夜はひどく冷え込んで湿度も高かった。彼の吐《は》く息の白さが、なぜかいやに印象に残っていた。
ロビーの奥で動きがあった。標的が出てくることを察知して、クルツは彼に報告した。
牡鹿《おじか》が来る。
彼らの部隊では、いつも標的をそう呼んでいた。聞こえているはずだが、彼は答えない。答えたら顎《あご》が動いてしまう。顎が動けば、精度《せいど》が狂《くる》う。
ホテルのドアが開く。そばの街路樹が揺れていた。護衛の男が出てくる。もちろんこちらには気付いていなかった。薄手《うすで》のコートの襟《えり》を立て、『牡鹿』が姿を現す。五〇過《す》ぎの髭面《ひげづら》の男。
待っていた車へ標的が歩く。
当たるはずがない――そのときでさえ、クルツは思っていた。
彼が撃った。
トリガーが引かれるその瞬間に起きることを、言葉で表すのは難しい。誇張《こちょう》ではなく、彼を取り巻く空間が歪《ゆが》んで、引き絞《しぼ》られたように明敏《めいびん》になる。少なくともクルツはそう感じる。集中力の極限の、さらに先の極限が、目に見えない何かを呼び寄せる。
彼らはそれを『幽霊《ゆうれい》が来る』と呼んでいる。
決して神頼《かみだの》みなどではない。すべての装置《そうち》――目、脳、指、トリガー、撃針《げきしん》、カートリッジ、バレル、ライフリング、マズル、そして弾頭《だんとう》は、物理法則《ぶつりほうそく》にのっとって機能《きのう》している。そこに神や幽霊の介在《かいざい》する余地《よち》はない。
何万発という銃弾を撃ち、そのつど記録し、学習し、火薬を自ら調合《ちょうごう》し、カートリッジを加工し、弾頭《だんとう》を削り、ありとあらゆる気象条件《きしょうじょうけん》と距離、角度を経験し、失敗、失敗、失敗を重ね、計算し、やり直し、計算する。その末につかみとった技能《ぎのう》だ。
神秘的《しんぴてき》な何かなど、彼らはまったく信用しない。すべてが機械的《きかいてき》に動作《どうさ》し、計算された所定の位置へと銃弾を飛ばす。
しかし、そのとき確かに何かが来るのだ。
『幽霊が来る』としか言いようがない、何かが。
その瞬間も幽霊は来た。なにかが降りてきた気配がして、次に銃《じゅう》の先端《せんたん》がまばゆく輝き、それからやっと銃声が耳に届いた。
一五二〇メートルだ。成功例など聞いたことがない。
だが当たるだろう――幽霊を感じて、ようやくクルツはそう思った。
雨風の中を飛んでいく弾丸《だんがん》は、もちろん見えなかった。だが発砲の二秒後、標的の頭が血煙《ちけむり》になるのが見えた。雨の中に舞《ま》う血しぶき。
驚いた護衛《ごえい》がなにかを叫んでいる。頭のない標的の体を二人がかりで座席に押し込み、その場から走り去ろうとする。
(行くぞ)
唖然《あぜん》としているクルツの肩《かた》を彼が叩《たた》く。なにかをやり遂《と》げた満足感も、自分の腕前《うでまえ》を誇《ほこ》る素振《そぶ》りも見せない。二人で洋館を出て撤収《てっしゅう》し、雨の中を歩いているとき、クルツは興奮気味《こうふんぎみ》に彼の技術を賞賛《しょうさん》した。
(真似《まね》しようなんて思うなよ、坊主《ぼうず》)
ヴィルヘルム・カスパーは立ち止まり、振り返って言った。哀《あわ》れむような目だった。
(おまえにはできない)
事実、それからクルツは一度も彼の真似はできないままでいる。
その一週間後、ある決定的な出来事が起きた。クルツは苦い気持ちのまま、カスパーの部隊を去ることになった。
「四年前のレバノンだった」
パイロットたちに詳《くわ》しい話をしたわけではない。クルツはほんの数秒、そのときのことをひそかに思い浮かべただけだった。
「あんな射撃は俺にはできない。経験とかセンスとか……そういう次元じゃないんだ。もっと決定的な何かが、奴にはあって、俺にはない」
「意志《いし》だとか、覚悟《かくご》だとか、そういう類《たぐい》か?」
サルヴィオがたずねた。
「どうなんだろうな。俺にもよく分からねえ。……まあ、素質《そしつ》だったら俺の方があるはずだ。なにしろライフルを初めて触《さわ》って、まだ五、六年かそこらなんだから」
「そいつは初耳《はつみみ》だぞ」
「別に隠してたわけじゃねえよ。最初の一年は中東の義勇兵《ぎゆうへい》に混《ま》じってあれこれあって、そこであいつに――カスパーの部隊に拾《ひろ》われた。そこで覚えたんだ」
「へえ。なんて部隊だ?」
「名前はない。ただの『カスパーの部隊』だ。世界中あちこち転戦してた狙撃《そげき》兵の集団《しゅうだん》で、まあ……言ってみれば『ベイリーの南アフリカ狙撃手隊』の現代版《げんだいばん》ってところだな」
「なんだそりゃ。ベイリーの……?」
「昔あったんだよ、そういう傭兵部隊が。だがそんなことはどうでもいい。問題は――俺はたぶん、あいつに勝てないってことだ」
もちろん戦術というものは、単なる射的《しゃてき》の競争ではない。
狙《ねら》える距離が敵より一〇〇メートル短いなら、一〇〇メートル前進《ぜんしん》すればいいだけの話だ。ほかにも擬装《ぎそう》、陽動、欺瞞《ぎまん》、挟撃《きょうげき》、様々な手段《しゅだん》を組み合わせ、敵を確実に倒す機会をひねり出す。それが戦術である。それらをすべて含《ふく》めた上で、クルツはカスパーに勝てないと言っているのだ。
「だが、大佐とソースケが取り残されている。まさか見捨《みす》てられるわけがない」
「そうなんだよな……」
クルツはため息をつこうとして、思いとどまった。仲間が不安がっているときに、ため息はまずい。
「ま、どうにかするさ。とにかく、チャンスを待とう」
「チャンスって、どんなだよ」
「二人と連絡が取れるか、脱出の動きがあるまでだ。陽動をかけて全力で支援《しえん》する」
立ち上がり、彼は自分のM9へと戻っていった。
コックピットハッチの裏に取り付けられた、小火器用の耐衝撃《たいしょうげき》コンテナを開き、中から厳重《げんじゅう》に梱包《こんぽう》されたライフルを取り出す。地面に降りて、包みを開き、姿を見せたライフルをむっつりと眺《なが》める。
ASでの戦闘は序曲《じょきょく》に過《す》ぎず、けっきょくはこいつの出番が来るかもしれない、と彼は思った。
暗い光沢《こうたく》を放《はな》つボルト・アクションのライフルだ。
古く、簡素《かんそ》だが、だからこそ芸術品的《げいじゅつひんてき》な美しさがある。黒みがかったクルミ材《ざい》で出来た木製部《もくせいぶ》。分厚《ぶあつ》い銃身は青黒く、後からテフロン加工を施《ほどこ》したために無数の白い粒状《つぶじょう》の模様《もよう》が浮かび上がっている。上部に取り付けられた三六倍スコープは、まるでもう一つの銃身のように長く、太い。
この銃がウィンチェスターの工場で製造されたのはほぼ五〇年前だが、現在の最新鋭の狙撃銃《そげきじゅう》も及《およ》ばない精度《せいど》をいまなお誇《ほこ》っている。これまでの所持者《しょじしゃ》のだれもが、入念な手入《てい》れと愛情《あいじょう》を注ぎ込んできたことはまず間違いない。もっとも優《すぐ》れた『ライフルの中のライフル』とでもいうべきものの一挺《いっちょう》であり、銃を握るようになって五年かそこらの若造《わかぞう》には、過《す》ぎた品といえるだろう。こういう銃はあの男の方がふさわしい。
一五二〇メートル。
この銃なら実現《じつげん》できるかもしれないのだが。
かなめが危険《きけん》を冒《おか》して助け出した男は、やはり重傷《じゅうしょう》を負《お》っていた。
「右腕に骨折《こっせつ》。右|脇腹《わきばら》に裂傷《れっしょう》。後頭部も打ってるみたいだが――これはどれくらいひどいか分からない」
怪我《けが》をざっと調べてから、レモンが言った。その負傷者は三〇くらいの黒人男性で、大柄ではなかったが引き締《し》まった筋肉《きんにく》の持ち主だった。もし元気だったら、かなめとレモンの二人とも取り押さえられてしまうだろう。
「助かるの?」
「どうかな。ちゃんとした手当をすぐに出来れば、まだどうにかなりそうだけど……。あいにく救急《きゅうきゅう》セットはないし。下手に動かさない方がいいのは確かだね」
「そう……」
男が朦朧《もうろう》とした様子でうめき声をもらした。意識は一応《いちおう》あるようだ。
「しっかりして。あなた、名前は?」
「……ブラウン」
「プラウンさん。ヘリが落ちて爆発《ばくはつ》しそうだったから、あなたを助け出したの。残念だけど、他の人たちはたぶん亡《な》くなったと思う。手当《てあて》をしてあげたいけど、ここには道具も薬もないわ。ここまでは分かる?」
男は弱々しくうなずき、唇《くちびる》を『分かる』と動かした。
「じきにあなたの仲間がここにも来ると思うわ。あたしたちの立場は分かるでしょ? だから、すまないけどあなたを置いて逃げないといけないの」
「行か……ないで……」
負傷で心細いのだろう。男は左手をのろのろと掲《かか》げ、彼女の腕をつかもうとした。彼の望《のぞ》みを叶《かな》えてやれないことに、かなめはなぜか罪悪感《ざいあくかん》を感じた。敵の手下のはずなのに。
男の手をやさしく握ってやってから、ハンカチで男の顔を拭《ふ》いてやる。
「ごめんなさい。これ、かけておくから。暖《あたた》かくしといて。がんばってね」
赤いダウンジャケットを脱《ぬ》ぐと、かなめは男の上にかけてやった。
「レモンさん、歩ける? 肩を貸すから」
「ああ、なんとかがんばってみるよ……いてて」
「行きましょう」
負傷した男を置き去りにして、二人はよたよたとその場を離れた。
通路をまっすぐ進んでいくと、行き止まりになっていた。経年劣化《けいねんれっか》で崩《くず》れた天井《てんじょう》が、通路を塞《ふさ》いでいる。すこし引き返してから、枝分《えだわ》かれした別の通路へ。
「寒くない?」
「僕《ぼく》は大丈夫。君こそ、あんな男に上着《うわぎ》を貸すなんて」
「偽善《ぎぜん》だって言いたいの?」
むっとして言うと、レモンはあわてて否定《ひてい》した。
「そうじゃない。ただ……よく分からなくてね。君は賢《かしこ》い子みたいだから、気付いてるはずだ。危険なことをしたって」
「どういうこと?」
「あのブラウンって男を、生かして目立つところに置いておいたら、味方に僕らが生き延《の》びて脱出したことを話すだろう。そうなったら逃げられるものも逃げられなくなる。他のクルーと一緒《いっしょ》に、丸焦《まるこ》げになったと思わせることもできたのに」
「あっ」
かなめは不意に立ち止まった。
「?」
「な……なんでもないわ。とにかく急ぎましょ」
「……もしかして、気付いてなかったの? なにも考えずにああいうことを?」
思い切り図星だった。かなめはまったくそこまで考えていなかった。考える前にああした挙《きょ》に出てしまったのだ。
「そうか。考えてなかったんだ」
「ち、違うわよ! ちゃんと考えたけど、やっぱりかわいそうだから見捨《みす》てないでおいてあげたのよ!」
「ふーん……。ま、そういうことにしといてあげるよ」
「なにそれ? だいたい気付いてたなら、ひとこと言ってくれたっていいじゃない!?」
「ほら、やっぱり」
「ううっ……」
レモンがくっくと笑う。ばつの悪い思いをしながらも、かなめは別の感慨《かんがい》も覚えていた。<ウィスパード> として急激《きゅうげき》に知性《ちせい》が上昇してきて、それなりに色々な知識《ちしき》も増えて、自分はえらく頭が回る人間になったと思いこんでいたが――
うおっ、すごい。あたし大ボケしちゃったよ。
でもなんなのだろうか、この安心感は。
あたしはあたし。ドジもやる。人も助けられる。まだまだ変わっていない――
だがそんな気持ちは、レモンの次の言葉でどこかに行ってしまった。
「そうじゃない。ただ……よく分からなくてね。君は賢い子みたいだから、気付いてるはずだ。危険なことを……あれ? いや、偽善っていうから……え?」
「なに言ってるの?」
立ち止まり、レモンは額《ひたい》を指先で押さえて低くうめいた。ひどく気分が悪そうだ。
かなめも妙な感覚にとらわれた。こうして混乱《こんらん》しているレモンを、前に何度も見ている気がする。いや、これが初めてじゃないのか? ああ、これは――
「既視感ね」
彼女はいましましげにつぶやいた。別に初めてのことではない。これまで何度も何度も経験している。それに既視感は一般人にもある現象だ。もう慣れたつもりだったが、この廃墟に来てから既視感の頻度《ひんど》が高くなってきているようだ。正確《せいかく》にその頻度を数えることはできないが、やはり、この廃墟はおかしい。
いったいここに何があるんだろう?
『オムニ・スフィア』に関連することかもしれない。いや、間違いなくそうだ。この既視感はオムニ・スフィアの影響《えいきょう》が強まることによって生まれる現象《げんしょう》だ。普段《ふだん》の生活ではほとんど無害《むがい》なこの『残響《ざんきょう》』を、一般人《いっぱんじん》のレモンまで感じている。あのヘリのパイロットも、墜落直前《ついらくちょくぜん》に妙なことを言っていた。あれもそうだ。
ほかの『ウィスパード』が近くにいるのだろうか? レナードと自分以外に。レナードはあの墜落したヘリの貨物室――あの <ベリアル> というASに乗り込んでいたはずだ。墜落くらいで死ぬはずがないから、まだこの廃墟のどこかにいるのだろう。
どこかの『ウィスパード』が、TAROSに類する増幅装置《ぞうふくそうち》を使えば、こうした『残響』や何らかの『妨害電波《ぼうがいでんぱ》』的な効果《こうか》を作れるかもしれない。いや――
(それどころじゃない)
もっと危険な何かがある。ここには。
既視感とは異《こと》なる別の感覚がやってきた。危機のたびに降りかかってきた、別の誰かが頭の中でささやいているあの感覚。
「カナメさん……?」
レモンの声で我《われ》に返る。
「……あ、ごめん。それより大丈夫?」
「大丈夫って……彼のことだよね?」
「え?」
気付くと、ヘリから救助してきた黒人男性が目の前に横たわっていた。かなめたちは、避難《ひなん》したトラックの残骸の陰にいる。彼の怪我を見ていたレモンが言った。
「右腕に骨折《こっせつ》。右|脇腹《わきばら》に裂傷《れっしょう》。後頭部も打ってるみたいだが――これはどれくらいひどいか分からない」
「助かるの?」
ああ、もうたくさんだ――意識の片隅でそれまでの記憶を追い出してから、彼女はレモンにたずねた。
「どうかな。ちゃんとした手当《てあて》をすぐに出来れば――」
彼の説明を聞くと、彼女はブラウンに事情を説明し、顔を拭いてやって、ダウンジャケットをかけ、レモンに肩を貸してその場を離れた。自分の無分別《むぶんべつ》をレモンに指摘《してき》され、彼女はそれをむきになって否定し、彼に笑われた。
「レモンさん」
「なんだい?」
「既視感が何度も来るけど、気をしっかり持って。たぶん、この施設のどこかにある何かが原因だと思う」
「……ああ。わかった」
頭を振りながらレモンが言った。
「ずいぶん物分かりいいのね。『どうして?』とか聞かないの?」
「この廃墟がどんな目的で建設されたのかについてなら、すこしは知っているつもりだからね。なにしろ僕とレイスが調べたんだから」
彼がレイスと共に行動していてレナードに囚《とら》われた話は、機内で聞いていた。レイスが逃亡《とうぼう》し、その後どうなったかは分からないことも。だがモスクワで何を調べていたのかについては聞かされていない。監視《かんし》の目があったからだ。
「この施設のことを?」
「テスタロッサ嬢《じょう》の頼みでね。こういう秘密都市があったことは彼女も推測《すいそく》してたらしいんだけど、場所が分からなかった。ここは七〇年代末期に建設された、極秘《ごくひ》の研究施設だ。テレパシーとか未来予知だとか、そういう怪《あや》しい実験のための。モスクワであれこれ調べた結果わかったのは、ここを作ったヴァロフって博士は掛《か》け値《ね》なしに優秀《ゆうしゅう》な科学者で、しかもここでの研究は真剣《しんけん》な国家プロジェクトだった、ってことだ」
「ヴァロフ博士……」
「それでも半信半疑《はんしんはんぎ》だったけど、だんだん信じる気になってきたよ。なにしろ <アマルガム> が本気で僕を捕《と》らえて尋問《じんもん》してきたわけだし、こうしてこの秘密都市まで足を運んでいる。そして――実際、君の言うとおり妙な既視感が襲《おそ》ってきた。もちろんどんなからくりなのかは分からない。でもここはヤバい場所みたいだ」
「さっきの墜落も、誰かの攻撃《こうげき》だけが原因じゃないと思う。きっとパイロットが混乱したんだわ」
「ああ。だとしても、誰が撃ってきたのやら……。僕たちまで殺されるところだった」
かなめは機内通話の内容《ないよう》を思い出した。『狙撃された』。『とんでもない腕』。そして <アマルガム> に敵対《てきたい》する相手。
もしかしたら、攻撃してきたのはクルツ・ウェーバーだったのかもしれない。
あのヘリにかなめが乗っていることなど、彼には知りようがなかったはずだ。クルツたちが近くにいるのだとすれば、ここを脱出できる見込《みこ》みはある。
それだけではない。もしかしたら、宗介もどこかにいるかも――
「とにかく出口を探《さが》しましょう」
「この研究施設の謎《なぞ》にも興味《きょうみ》はあるけど……贅沢《ぜいたく》は言ってられないか」
「そういうこと」
二人は真っ暗な通路を進んでいった。右へ、左へ。分岐《ぶんき》している箇所《かしょ》を適当《てきとう》な勘《かん》で進む。その先は行き止まりだったり、閉《と》ざされた鉄扉《てっぴ》に阻《はば》まれたりといった調子だった。まるで迷宮《めいきゅう》だ。施設内の見取り図もないし、長年放置されて腐食《ふしょく》したプレートが床に落ちているばかり。たまに見つけるエリア表示《ひょうじ》も『507[#「507」は縦中横]』だの『394[#「394」は縦中横]』だの、わけの分からない数字でしかない。ここが地下何階なのかさえはっきりとしない有様だ。
「参ったな。完全に迷子《まいご》だ」
崩れた天井でふさがれた通路の壁《かべ》に寄りかかり、レモンがつぶやいた。口には出さないが、脚の傷が相当痛むようだ。懐中電灯の光の中で浮かび上がる顔は、前よりもさらに青白くなっている。
「そうでもないわよ。一応、元の場所には戻れるから」
「覚えてるのかい?」
「どうにか。頭の中で地図書いてる。あっちに行ってみましょう」
昔なら、こんな芸当とても無理だっただろうな、とかなめは思った。
それから五分、さらに迷宮をさまよったところで、レモンが異変《いへん》に気付いた。肩を貸すかなめの腕をつかみ、急に立ち止まったのだ。
「どうしたの?」
「静かに。誰《だれ》か来る。明かりを消して」
声を潜《ひそ》めて告げると、彼は腰の後ろから拳銃《けんじゅう》を抜き出した。『いつの間にそんなものを?』と言いかけたが、口には出さなかった。たぶん、さっきのブラウン氏の怪我を見ていたときに彼から失敬《しっけい》したのだろう。
言われたとおりに懐中電灯のスイッチを切る。レモンが手を伸《の》ばしてきて、彼女から懐中電灯を取りあげる。そばに倒れたロッカーがあったので、二人でその陰に隠れて様子をうかがっていると、確かに遠くで足音が聞こえた。
相手は一人だけのようだ。
かなめたちのいる通路の先、T字路になった曲がり角の向こうから、誰かがゆっくりと近付いてくる。明かりはないようだ。暗視装置《あんしそうち》でも着けているのだろうか?
息を潜めていると、その何者かが角から出てきて立ち止まった。真っ暗闇《くらやみ》で姿は見えなかったが、音で分かった。
レモンが懐中電灯を点《つ》けて相手を照らし、拳銃を向けて鋭く言った。
「動くな!」
相手は驚いた様子で、暗視ゴーグルを着けた顔を手でおおって身をすくませた。
小柄《こがら》な女だ。ショートパンツにフライトジャケット。白くて細い脚に不釣《ふつ》り合いな、大きめのトレッキングブーツ。そして丁寧《ていねい》に三《み》つ編《あ》みにしたアッシュブロンドの髪。
「あ……」
[#挿絵(img/10_257.jpg)入る]
暗視ゴーグルを外し、まぶしい懐中電灯の光に目を細めて、こちらをうかがっている。
「テッサ……? テッサなの!?」
「その声……カナメさん?」
「うん。でもなんでこんな所に――」
「カナメさん!」
言い終わる前に、テッサが駆けよって抱《だ》きついてきた。驚いているレモンの存在《そんざい》もそっちのけだった。
「よかった……わたしずっと心配で……本当にカナメさんなんですね」
「そ、そりゃそうよ! ああ……テッサ、泣かないで。ほらほら」
「ごめんなさい。でも無事でよかったです。本当によかった……」
「うん。テッサも元気そう。すごく久《ひさ》しぶり」
彼女の胸に顔をうずめて、テッサはしばらく泣きじゃくっていた。かなめも嬉《うれ》しかったが、いきなりこんな場所に彼女が現れたことに度肝《どぎも》を抜《ぬ》かれて、感激《かんげき》するよりすっかり混乱してしまっていた。
[#改ページ]
4:タイム・ハザード
また死に損《そこ》なった。
目を覚まし、いつもの肉体チェックを済《す》ませてから、宗介はそう思った。
なぜか全身がずぶ濡《ぬ》れだ。体のあちこちが痛《いた》かったが、AS操縦服《そうじゅうふく》を着ていたおかげか、せいぜい打ち身で済んでいる。左腕だけがいまだに思う通り動かなかったが、これも軽い捻挫《ねんざ》のようだ。
「っ……」
水が流れる音がする。かすかな風の音も。だがまったくの暗闇でなにも見えない。暗視ゴーグルはどこかにいってしまったようだ。宗介はタクティカルベストに差していたマグライトを手で探《さぐ》った。
よし、まだある。
必要最低限《ひつようさいていげん》の明るさに絞《しぼ》ってライトを点《つ》ける。まず最初に見えたのは、むきだしの岩肌《いわはだ》だった。続いてぼろぼろになった発泡《はっぽう》スチロールやからまったワイヤー。ビニールシートやくずかご、木製《もくせい》の椅子《いす》、ずたずたのフェンス。がらくたの数々。
彼がいるのは丸い洞穴《どうけつ》のような空間だった。下水道の構造《こうぞう》に似《に》ている。底を水が流れており――たぶん膝《ひざ》くらいの深さだ――その汚水《おすい》に流されてきた様々な残骸《ざんがい》が、ここに溜《た》まって山をなしているようだった。
たぶん、季節や時間帯によっては激流《げきりゅう》になったりするのだろう。かなり大きな部品なども転がっている。宗介も穴に落ちて気を失ってから、ここに流されてきたらしい。水の流れは収《おさ》まりつつあるようで、水位も最初に見たときより下がってきているようだった。さしずめ自分は便器に流された汚物だ。
どれくらい離《はな》れたのだろうか? いまの時間は?
時計《とけい》を見る。気を失っていたのは、せいぜい一五分かそこらのようだ。流された距離《きょり》はわからなかったが、あたりの静けさから察するに、墜落現場《ついらくげんば》から相当離れてしまったのかもしれない。カービン銃もなかった。どこかに落としてしまったようだ。
「大佐|殿《どの》」
テッサを探す。見当たらない。
「……大佐殿……テッサ?」
叫《さけ》ばない程度《ていど》の声で呼びかけながら、周囲のがらくたを引っかき回す。
がらくたの中には白骨化《はっこつか》した死体もあった。ぼろぼろの作業服とネームプレート。性別《せいべつ》もわからない。ここで何があって、どんな死に方をしたのかも分からない。
やはりテッサはいない。
彼女は事故現場《じこげんば》に置き去りになったか、どこか別の場所に流されたかだ。生きているかどうかも分からないが――
(くそっ)
もちろん通信機はまったく役に立たなかった。多少の衝撃《しょうげき》や水で壊《こわ》れはしないが、こんな地底の閉鎖《へいさ》空間では電波が届《とど》かない。
とにかく上流だ。彼女を探さなければ。
宗介は早足で、水の流れとは反対方向に洞穴を引き返していった。しばらく進むと剥《む》きだしの岩肌が煉瓦作《れんがづく》りの壁になった。やはり下水道らしい。人間が生活しなくなって久《ひさ》しい廃墟《はいきょ》なので、雨やわき水《みず》などが集まってここに流れてくるのだろう。
三〇〇メートル以上は進んだだろうか。天井に大穴が開いているのを見つけた。崩れた煉瓦や鉄骨《てっこつ》類がうずたかく積《つ》もって斜面《しゃめん》になっている。彼はさしたる苦労《くろう》もなく大穴まで這《は》い上がり、下水道の上の層《そう》に出ていった。
そこは大きな縦穴《たてあな》だった。最初に降《お》りたエレベーターシャフトよりは狭《せま》いが、高さは五階建てのビルくらいある。ライトを強くして頭上を照らすと、縦穴を横に貫《つらぬ》くように、骨組《ほねぐ》みだけの通路やパイプが渡《わた》してあった。どれも老朽化《ろうきゅうか》でぼろぼろになっていて、そのうちいくつかは外れて縦穴にぶら下がっているような状態だ。目をこらすと、空洞《くうどう》の一番上あたりの空中に、四角い通路が渡してあり、床に大穴が開いていた。
自分はあそこから落ちたらしい。
よくこんな軽傷《けいしょう》で済んだものだ。落ちた通路の下に渡してあった足場や鉄骨、パイプ類やワイヤーに何度もぶつかったおかげで、五階分の高さをまっさかさまに墜落しないで済んだのだろう。
しかしテッサは別だ。落ちていたらただでは済まない。
マグライトの光を弱め、宗介はいまいる空洞の底部《ていぶ》――瓦礫《がれき》やパイプ類がすり鉢状《ばちじょう》に積もっている一帯《いったい》を探した。そこにもテッサはいなかったが、なくしていたカービン銃を見つけた。拾《ひろ》って作動を確認《かくにん》する。壊れてはいないようだが、あの高さから落としたのだから、撃ってみるまで保証《ほしょう》はなかった。
(彼女は上か……?)
自分が落ちたあの通路で、まだ気を失っているのかもしれない。ここからは見えないが、呼びかければ答えるだろうか?
いや、危険《きけん》だ。
声を聞かれるのはまずい。墜落からすでに三〇分以上が経《た》っている。敵《てき》の増援《ぞうえん》がこの近辺まで来ていてもおかしくない。上まで登っていって、あの通路の中を確認するしかないだろう。
(まったく、ついてない)
こんな穴を落ちた自分の不運をいまいましく思ったものの、彼はすぐに考え直した。本来ならあのヘリに押しつぶされて、ぺしゃんこになっていたところだ。それにテッサと一緒《いっしょ》にこの穴を落ちていたら、耐衝撃仕様《たいしょうげきしよう》のAS操縦服も着ていない彼女がどうなっていたことか。
ライトをくわえ、縦穴の壁を這《は》っているパイプや鉄骨を伝って、上に登っていく。三階分までは到達《とうたつ》できたが、そこから上に行くのは無理だった。いったんこの縦穴から出て、どこか別のルートを探すしかないようだ。
一番近くにあった横穴――元は通路だった四角い穴に飛び移《うつ》ると、彼は縦穴を後にして奥《おく》へと進んでいった。階段を見つけて上にいけば、テッサが残されたはずの場所まですぐのはずだ。左手にマグライト、右手にグロック19[#「19」は縦中横]拳銃を構《かま》える。カービン銃は故障《こしょう》している可能性があるので、最初の一発には使いたくなかった。なにしろ、いつ敵と出くわしてもおかしくない状況《じょうきょう》だから銃声《じゅうせい》は出せない。試射《ししゃ》はドンパチが始まってからでいい。
用心しながら荒れ放題の通路を進み、いくつかの角と岐路《きろ》を曲がっていく。通路の両側に戸口が並《なら》んでいた。中をのぞく。職員の詰《つ》め所だったのか宿舎《しゅくしゃ》だったのか。ほとんどなにもない部屋ばかりだった。
通路の奥に階段があった。
そして――その階段の前に、レナード・テスタロッサが立っていた。
「!」
AS操縦服の上に赤いコートを羽織《はお》った姿。波打つ銀色の髪《かみ》。右手には装飾《そうしょく》入りのコルト・ピースメーカー。暗視ゴーグルで顔は見えないが、間違いない。あの男だ。
問答も躊躇《ちゅうちょ》もない。宗介は即座《そくざ》に発砲《はっぽう》した。
瞬間的に赤いコートが動き、弾丸が即座に阻《はば》まれる。例のアクティブな防弾衣《ぼうだんい》だ。構わずたて続けに五発撃つ。すべて無効《むこう》になる。
「相変わらずの挨拶《あいさつ》だな――」
レナードが動いた。リボルバー拳銃が火を吹く。直前に宗介は手近な戸口に隠れ、敵の射撃をやり過ごす。ぎりぎりで外《はず》れた弾が壁に当たって、コンクリートの破片《はへん》を散《ち》らした。銃を突き出しすぐさま応射《おうしゃ》。弾倉《だんそう》に残っている全弾をたたき込む。激《はげ》しい射撃《しゃげき》が轟音《ごうおん》となって、あたりに響き渡った。
手応《てごた》えなし。すべて外れたか阻まれたかだ。
「――君のせっかちさには呆《あき》れるばかりだ」
貴様こそ相変わらずの気取りっぷりだな、奇襲《きしゅう》のチャンスをわざわざ見逃《みのが》すとは――そう思ったが、一言も喋《しゃべ》らなかった。弾倉を交換《こうかん》してからグロックをホルスターに戻し、すばやくカービン銃を構える。
ご自慢《じまん》の防弾衣だが、フルメタル・ジャケットのライフル弾ならどうだ。
セミオートで発砲。外れる。
さすがにライフル弾は防《ふせ》げないのを知っているのだろう。レナードは身を翻《ひるがえ》し、通路の向こうに姿を消す。壁越《かべご》しのダメージを期待して、宗介はさらに撃つ。手応えなし。応射が来る。直前に頭を引っ込めてやり過ごす。
「…………っ」
カービン銃の照準《しょうじゅん》が右上にばらついているようだ。五階の高さから落としたせいだろうが、ほかは問題なく作動していた。たいした頑丈《がんじょう》さだ。そのうち機会があったら、この銃のメーカーに感謝《かんしゃ》のメールでも送っておこう。
宗介が撃ち、レナードが撃つ。宗介が動き、レナードが動く。
その応酬《おうしゅう》が何度か続き、二人は広い部屋に出た。体育館くらいの空間に、大型の液体《えきたい》タンクや蒸留器《じょうりゅうき》、コンプレッサー、無数のパイプとバルブ類が敷《し》き詰《つ》められ、複雑《ふくざつ》に入り組んでいる。
向こうは暗視装置、こちらはマグライトなので分が悪い。狙《ねら》おうとするとマグライトの光が動くのが丸見えだ。これでは撃つ前に察知《さっち》されてしまう。
(いや……)
仕留《しと》められない理由はそれだけではない。レナードが強いのだ。
あの反応速度《はんのうそくど》、射撃の正確《せいかく》さ、無駄《むだ》のない冷静な動き。無分別なようでいて実は合理的な位置取り。平凡《へいぼん》な技能《ぎのう》ではなしえない技だ。それが彼の天賦《てんぷ》の才《さい》によるものなのか、訓練によるものなのかは分からないが、酔狂《すいきょう》な武器や言動《げんどう》に惑《まど》わされてはいけない。これまでの先入観から、ハイテク装備に守られているだけの『やわな坊《ぼう》や』だとばかり思っていたが、どうも違ったようだ。
「なかなかやるもんだろ?」
闇の中でレナードが笑った。
「がんばりなよ、ASじゃ敵《かな》わないんだから。いまがチャンスだぜ」
宗介は彼の挑発《ちょうはつ》に違和《いわ》感を覚えた。そう何度も話した相手ではないが、以前はもっと柔《やわ》らかい物腰《ものごし》だったはずだ。あれは演技《えんぎ》だったのだろうか? それとも彼を変える何かがあったのか?
「すこし下品になったようだな」
宗介はあえて話しかけてみた。かまうものか、どうせこちらの位置はマグライトでばれている。
「そうかい? 君と仲良くするには、この方がいいと思ってね」
銃声。レナードの弾丸《だんがん》がすぐそばをかすめる。腰の高さのパイプを盾《たて》にしつつ、相手にプレッシャーをかける位置へと移動する。
「貴様《きさま》の死体となら仲良くしてやる」
「ははっ、なかなか言うじゃん」
銃撃戦《じゅうげきせん》が始まって、すでに三分以上が経過《けいか》していた。これが時間|稼《かせ》ぎだとしたらまずい。レナードの配下の兵が到着してしまう。あくまで奴を倒すのにこだわるか、この場から撤退《てったい》するか、そろそろ決断《けつだん》しなければならない――
その決断の前に、はたして敵の増援が来た。宗介の隠れているタンクの一五メートルほど右、上の層からつながる階段のあたりから、サブマシンガンで武装《ぶそう》した男が四人|現《あらわ》れる。
「ミスタ・|Ag[#「Ag」は縦中横]《シルバー》!?」
男の一人が叫んだ。
「来るなと言ったはずだぞ。引き返せ」
「しかし、おひとりでは――」
「戻るんだ」
「いたぞ、あそこだ!」
男の一人が宗介を察知して発砲してきた。隠れていたタンクが引き裂かれ、なにかの液体《えきたい》が飛散《ひさん》する。
応戦《おうせん》する。一人が宗介の銃弾を胸に食らってのけぞり返った。
残りの三人が散開《さんかい》して射撃を加えてくる。跳弾《ちょうだん》がパイプやケーブルに当たって、周囲で激《はげ》しい火花を散らした。
よく訓練された敵だ。損害《そんがい》にも動じた様子がないし、援護《えんご》射撃と殺傷目的《さっしょうもくてき》の射撃との連携《れんけい》もよくとれている。だが攻撃と移動のリズムが単調だった。チームを組んで長いわけではなさそうだ。
予想通りの所に一人が出てきた。一発で仕留《しと》める。だがその男はこちらに手榴弾《しゅりゅうだん》を投げようとしていたようだった。倒れた男の手から、安全《あんぜん》ピンを抜《ぬ》いた筒型《つつがた》の手榴弾が転《ころ》げ落ちて――
「!」
爆発《ばくはつ》。焼夷《しょうい》手榴弾だった。
真っ白な閃光《せんこう》と爆炎《ばくえん》。それは超高温《ちょうこうおん》の炎で付近を焼き尽《つ》くすタイプの手榴弾で、特に屋内では強い効果《こうか》がある。
離れていた宗介に被害《ひがい》はなかったが、もっと深刻《しんこく》なことが起きた。
焼夷《しょうい》手榴弾が爆発したすぐそばに、液体タンクがあった。跳弾で穴が空き、中の液体が流れ出していたタンクが。一七年以上も放置されていて、ほとんど劣化《れっか》しない強燃性《きょうねんせい》の液体の名前など知らなかったが――とにかくその液体に手榴弾の炎が引火して、すさまじい勢《いきお》いで燃《も》え上がった。
炎はパイプを伝って室内のあちこちを駆けめぐり、その火災を受けて何かがさらに爆発した。衝撃で床が割《わ》れ、天井の鉄骨が落下し、宗介めがけて襲いかかってきた。ぎりぎりで避《よ》けて奥へと逃げる。この部屋にいたら蒸《む》し焼きか窒息《ちっそく》のどちらかだ。
敵の一人が悲鳴をあげ、火だるまになって床の隙間《すきま》から下の階へと落ちていった。
さらに背後で爆発。足下がぐらつく。またしてもこのフロア全体が崩壊しようとしている。床板《ゆかいた》が歪み、急斜面《きゅうしゃめん》へと変貌《へんぼう》した。転《ころ》んで起きあがり、また転ぶ。
もはや戦闘どころではない。宗介は這うようにして火災と崩落から逃げ続けた。
「また爆発だ……」
度重《たびかさ》なる銃声が続いたあと、大きな爆発音がした。びりびりと通路の天井が震《ふる》え、大量《たいりょう》の埃《ほこり》がかなめたちの頭上に降ってくる。
「たぶんサガラさんです。わたしを探していて敵と遭遇《そうぐう》したんだわ……」
テッサが言った。
かなめはすでにテッサから、これまでの経緯《けいい》は聞いていた。ヘリの墜落に巻き込まれて宗介とはぐれ、一人で彼を探しているところでかなめたちと出会ったのだという。
宗介がすぐそばにいる。
そう聞かされて、かなめはいてもたってもいられない気持ちだった。考えもなにもなく、その場から一人で駆け出したい衝動を必死に抑《おさ》えていた。『ここで慌《あわ》てても迷子になるだけだ』と自分に言い聞かせても、感情の方は道理をわきまえてくれなかった。
すぐに会いたい。もう一秒だって我慢《がまん》できない。
それに迷子になんかならない。大声で彼の名を叫び続ければ、きっとなんとかなる。敵に見つかるかもしれない? そんなはずない、絶対に彼の方が先に見つけてくれるはずだ――そんな理不尽《りふじん》な考えが、消しても消してもわき上がってくる。
そうして煩悶《はんもん》していると、あの爆発の音がしたのだ。
「探しにいこ! だいたいの方向は分かったし」
「ええ、でも……」
テッサがためらった。
「でも。なに?」
「爆発の方向に敵が展開《てんかい》しているのも確かです。レモンさんは脚《あし》を怪我《けが》しているし……サガラさんの前に敵と遭《あ》ったら逃げられません」
「そんなの分からないでしょ? ソースケがヤバいことになってるかもしれないし、放《ほう》っておけないわ」
「だから迷《まよ》ってるんです。わたしは、あなたとレモンさんの安全も――」
「そんな理屈《りくつ》、どうだっていいわ! あたしはあいつと会いたいの! 邪魔《じゃま》するんだったら一人で行くから!」
何度目かも分からない既視感。苛立《いらだ》ちが臨界点《りんかいてん》に達《たっ》して、かなめは思わず声を荒げた。
「落ち着いてください。わたしは何も――」
「落ち着けるわけないでしょ? やっと……ようやくすぐそばまで来てるのに。なんでそんなこと言うの? あたしと彼が会ったら、なんか都合悪《つごうわる》いわけ!? どうして――」
「カナメさん、やめるんだ」
そこでいきなりレモンが、彼女の腕をつかんだ。その強い力にかなめは驚き、すぐに我《われ》に返って、自分がひどく取り乱《みだ》していたことに気付いた。
「気持ちは分かるけど、冷静にならないと。ここで軽率《けいそつ》な真似《まね》をしたら、全部台無しになってしまう」
彼の言うとおりだ。ここはもっと慎重《しんちょう》にならないと。
「……ごめん、テッサ」
「いいんです。こんなことになってるのは、わたしの責任《せきにん》ですし……」
弱々しくつぶやくテッサを見ていて、かなめはひどい罪悪《ざいあく》感をおぼえた。テッサだって宗介のことが好きなのに、自分はなんて身勝手で無神経《むしんけい》なことを言ったのか。それでも彼女は耐《た》えている。自分が彼女の立場だったら、かんかんになって言い返していたかもしれないのに。
「なんか……もう本当にごめん。あたし、自分でも訳《わけ》わからなくなってるかも……」
「仕方ないです。だって、やっとサガラさんに会えそうなんですから」
「うん……」
「落ち着いたなら、すぐ移動《いどう》だ」
レモンが言った。深刻《しんこく》な声だ。
「ここにいても危険《きけん》だからね。なるべく敵から遠くに逃げないと。うまくすれば、どこか別の出口が見つかるかもしれない。なんとか地上に脱出《だっしゅつ》して、テスタロッサさんの無線で味方と連絡《れんらく》を取るのが一番だと思う」
「でも、ソースケが……」
「彼ならたぶん大丈夫だ。僕らみたいな足手まといがいない分、むしろ一人の方が動きやすいだろうし、いずれは地上を目指して無線で連絡をとろうとするだろうから。無理に合流しようとすると、双方《そうほう》共倒《ともだお》れになる危険の方が高い」
一見ヤワそうだが、レモンもそれなりの場数をこなしているのだろう。こういう場面では彼の判断に従《したが》った方が賢明《けんめい》のようだ。
「わかった。そうしよ」
いまだに残っている未練《みれん》――宗介のいるはずの方角へと駆け出したい気持ちをぐっと押し殺して、かなめはうなずいた。
「テッサは道分かる?」
「いちおう、大まかな構造くらいは。このまま下に降りて、最深部の研究施設を挟《はさ》んだ北側に非常階段《ひじょうかいだん》か排気《はいき》ダクトがあるはずです。そちらに敵が回り込んでいない保証《ほしょう》はありませんけど、南側に行くよりはまだ安全でしょうから……」
「北って……どっち?」
「こっちです。行きましょう」
いま三人がいるのは、通路が交叉《こうさ》する十字路《じゅうじろ》の真ん中だった。テッサとかなめが両脇《りょうわき》からレモンを支え、歩き出す。
暗闇の中で、レモンがかすかに笑い声を漏らした。
「どうしたの?」
「いや……。なかなか役得かなあ、って。美しい女性二人にぴったりと挟まれて。怪我してなかったら最高なのに」
「……テッサ。この人、置いてっちゃおうか?」
「そうですね……。でもせめて遺言《ゆいごん》くらいは聞いておいてあげても」
「ああっ。ごめんなさい。ごめんなさい。見捨《みす》てないで」
「まったく……」
平謝《ひらあやま》りするレモンの腕を担《かつ》ぎ直し、かなめたちは暗闇の中をよたよたと歩いていった。
閉じこめられた。
火災現場から脱出し、地下施設の中をしばらく歩き回った挙《あ》げ句《く》に、宗介はとうとう結論《けつろん》した。どこに行っても崩れた天井、閉ざされた鉄扉《てっぴ》が彼を阻《はば》んでいる。C4爆薬で吹き飛ばしたいところだったが、一帯にはなにかのガスの異臭《いしゅう》が漂《ただよ》っていて、下手に火器を使えばまたひどい爆発が起きそうだった。
先ほど戦闘《せんとう》があった部屋に警戒《けいかい》しながら引き返したが、そちらも崩れ落ちてきた鉄骨とパイプでふさがれていて戻れそうになかった。火災は一時的なもので、いまは収《おさ》まっている。酸素《さんそ》が奪《うば》われないのはありがたかったが、いつまでもこんな場所にとどまっていられなかった。
テッサのことも心配だ。この付近まで敵が来ているのなら、もう捕《と》らわれてしまったかもしれない。彼らの指揮官《しきかん》の妹なのだから、問答無用で殺されることはないだろうが、だからといってこのまま放置できるはずがなかった。
(一度脱出して、クルツたちと合流すべきか……)
あの強力な <レーバテイン> に乗ってクルツ機の支援《しえん》の下に攻撃すれば、テッサを奪還《だっかん》することも不可能《ふかのう》ではないだろう。レナードのASを敵に回して勝てるかどうかはまったく分からなかったが、少なくとも、照準《しょうじゅん》の狂《くる》ったカービン銃一挺で大勢《おおぜい》の敵に一人で立ち向かうよりはまだ現実的《げんじつてき》なプランだ。
では、テッサがまだ捕まっていなかったら?
そうだとしても、やはりクルツたちと合流すべきかもしれない。この迷宮を仲間とじっくり捜索《そうさく》するためには、敵を殲滅《せんめつ》する必要がある。そんなことができるのか、彼自身にもまるで見当が付かなかったが――
「……!」
行く手の角からレナードが現れた。あの爆発の中から逃げ延《の》びたようだ。しかも嫌《いや》みったらしいことに、ほとんど汚《よご》れていない。
宗介とレナードが互《たが》いの存在《そんざい》に気付いたのは、ほとんど同時だった。双方《そうほう》が銃を向け、引き金に指をかけたところで発砲を思いとどまる。
「おおっと」
レナードが笑った。
「撃ったら爆発が起きるかもしれない。お気付きのようだね」
さきほどから鼻をつく、タマネギの腐《くさ》ったような刺激臭《しげきしゅう》。これは可燃性《かねんせい》のLPガスなのではないか? だとしたら銃はまずい。
「あるいは、起きないかもしれない」
ぴたりと相手の頭に銃口をポイントして、宗介は言った。この距離なら外さない。一発で終わる。だがそれは向こうも同じだった。
「じゃあ試《ため》してみるかい? それもまた一興《いっきょう》じゃないか」
「魅力的《みりょくてき》な案《あん》だ」
「そう言いながら、いまの君は腰のナイフを抜こうかと思案している。それなら爆発の心配はない。ひ弱な俺を押さえつけて、喉首《のどくび》をかき切ろうか、ってね」
その通りだった。宗介の左手はいつでもナイフを抜ける位置に移動している。飛びかかって肉弾戦《にくだんせん》を挑《いど》めば、勝算は充分《じゅうぶん》にあるだろう。
「ところが、だ。こちらにはこんなものがあるんだな」
レナードがコートの下からナイフを取り出し、宗介に向けた。一見したところ鍔《つば》のないシンプルな刺突目的《しとつもくてき》のナイフのようだったが、ブレードの付け根に親指で操作《そうさ》するレバーがある。それを見て宗介は内心でひそかに舌打《したう》ちした。
「いわゆるスペツナズ・ナイフだ。知ってるよな」
そのナイフはソ連の特殊部隊用《とくしゅぶたいよう》に開発された武器だ。グリップ部分に強力なばねを内蔵《ないぞう》していて、レバーを押すと刃《やいば》の部分が丸ごと射出《しゃしゅつ》される仕組みになっている。まるで玩具《がんぐ》のような単純《たんじゅん》な仕組みだが、その威力《いりょく》はすさまじい。一〇メートル離れた電話帳を易々《やすやす》と貫通《かんつう》するほどの殺傷力《さっしょうりょく》だ。
形勢《けいせい》が不利になった。
このAS操縦服は防刃機能《ぼうじんきのう》も備《そな》えているが、ああした重い刺突武器を防《ふせ》ぐ力はない。当たれば死ぬか、ひどい深手を負うことになるだろう。しかも単純なばねの力を使った武器なので、爆発の危険はない。
だが、一発限りだ。その一発をしのげば、肉薄《にくはく》して仕留められる。
「なにを考えてるのか分かるよ」
宗介の考えを見透《みす》かしたように彼は言った。
「どんな手段《しゅだん》でも敵を殺す。銃がなければナイフで殺す。ナイフがなければ素手《すで》で殺す。両手が切り落とされれば――喉笛《のどぶえ》を噛《か》みちぎる。死んでも尖《とが》った骨《ほね》になって、敵が踏《ふ》むのを待っているようなタイプだ、君は。すこしは話し合おうとか考えないのかね……」
「なにを話し合う必要がある?」
「ここから脱出する方法さ。間抜《まぬ》けな話だが、お互い閉じこめられたようだからね」
「…………」
「さっきからプロパンが流れ込んできている。いまはまだ平気だが、あと二時間もしないうちに二人とも酸欠《さんけつ》か中毒《ちゅうどく》だ」
「戦う必要もないということか」
「どっちにしても死ぬからね。あちこち見て回ったが、向こうに瓦礫《がれき》で塞《ふさ》がった階段があった。二人がかりで瓦礫を取り除けば、くたばる前に脱出できそうなんだが」
「一時休戦、とでも言いたいのか」
「そういうこと。いま戦ったら、たとえどちらが勝ったにしても深手は免《まぬが》れない。怪我をした一人だけで、そんな作業がやり遂《と》げられるとも思えない。とりあえずは協力してここを抜け出し、その後はお互いで勝手に殺し合おう。提案《ていあん》は以上だ」
レナードの言葉に嘘《うそ》はなかった。ガスの話も脱出路《だっしゅつろ》の話も本当だ。休戦しなければ二人とも確実に死ぬということも。
「いいだろう。あくまで、ここを抜け出すためだけだ」
気を許《ゆる》すつもりなど微塵《みじん》もなかったが、ここはレナードの提案に乗るしかないようだ。二人は同時に武器を下げた。
「けっこう。握手《あくしゅ》はいるかな?」
「ふざけるな」
宗介はカービン銃を肩にかけると、早足で階段へと向かった。
カリーニンの指揮下にある <アマルガム> の空挺部隊《くうていぶたい》は、地上の廃墟の大半を制圧し終えていた。『制圧』とはいっても、敵影《てきえい》がないことを確認《かくにん》しただけのことだったが。
彼自身も地上に降りて、他勢力《たせいりょく》のヘリが降下した痕跡《こんせき》を調べた。そこで二人の人間が研究プラントへ徒歩で向かったことに気付き、さらにその二人が相良宗介とテレサ・テスタロッサであろうということまで看破《かんぱ》していた。
おそらく、あのプラントの地下にいる。
レナードはそのことに気付いていたのかもしれない。彼もまた単独《たんどく》でプラント内部に入っていき、それきり連絡が取れなくなっていた。その後に斥候《せっこう》に向かわせた四人も、『銃声を聞いた』との連絡を最後に音信不通になっている。宗介と戦闘になって、返り討《う》ちになったと考えるべきだろう。
ほんの数分後、部下からその推測を裏付《うらづ》ける報告があった。
ヘリの墜落とは別の区画で爆発と火災が起きたという。また、墜落現場の近くで生存者《せいぞんしゃ》を確保《かくほ》し、その証言から千鳥かなめとフランス人が生きていることが分かった。そしてレナードはいまなお行方不明《ゆくえふめい》で、宗介たちの動向も分からない。
どうも地下では妙なことになっているようだ。地上に残っている兵力の大半を割《さ》いて、プラント地下を捜索《そうさく》させるべきかもしれない。だが例の既視感の影響もあるので、あまりプラントに兵力を近づけたくなかった。
『上はこちらに任《まか》せておけ』
ASで待機中のカスパーが言った。
『近付く者がいたらすべて仕留める』
「……わかった。任せるぞ」
カリーニンはそう告げ、数名の兵士を引き連れてプラントの地下へと続くシャフトを降り始めた。
テッサの道案内がうまいおかげか、かなめたち三人は敵に出会うこともなくプラントの地下を進んでいくことができた。もっとも、敵のいる方角から逃げているのだから不自然というわけでもいない。
最深部を通り抜けて反対側から脱出する――そのプラン自体はかなめにも理解《りかい》できたが、この迷宮《めいきゅう》をさらに深く潜《もぐ》っていくのはひどく心細かった。
「本当にこっちでいいの?」
かなめはテッサに何度もたずねた。自分自身でも、それが何度目なのか分からなくなっていた。あの既視感が頻繁《ひんぱん》にやってくるからだ。
「ええ。そのはずなんですけど……」
テッサが口ごもる。道順とは別のことで、なにかに迷っている様子に見えた。
「……この湾曲《わんきょく》した道を進んでいけは、入ってきたのと反対側に出ます。そこから階段か梯子を探せば、地上に出られるはずです」
「それ以外に、なにか言いたそうだけど?」
「ええ」
テッサが立ち止まった。
「……やっぱり放っておけません。わたしは寄《よ》っていくところがあります。あなたたちはこのまま進んで、先に脱出していてください」
彼女の言葉に、かなめとレモンは驚《おどろ》いた。
「どういうことよ? 寄ってくところって……」
「いずれこの辺りにも敵が来る。君一人では危険だ」
「大丈夫《だいじょうぶ》です。それに、ここにきたのは元々《もともと》この用[#「この用」に傍点]があったからなんです。ここまで来たら、諦《あきら》めて通り過ぎることはできません」
「いったい何の用なんだ? 僕らも付き合うよ」
「そんな遠くないんでしょ? 行こ」
かなめとレモンが申し出ると、テッサは首を振った。
「いえ、ついてこないで。とにかく大事な用なんですけど……わたし一人で済《す》ませられますから」
テッサの説明は妙に歯切れの悪いものだった。なにかを知っているのに、それをかなめたちに話したくないようにも思える。いや――かなめにではない、レモンにだろう。いまはテッサたちに積極的《せっきょくてき》に協力してくれているが、そもそも彼はフランス情報部の人間だ。このプラントに大きな秘密《ひみつ》があるのだとしたら、その内容《ないよう》を組織《そしき》に伝えないという保証《ほしょう》はどこにもない。
レモン自身もそれに気付いたようだった。
「もしかして、僕には話せないってことかな?」
テッサは無言だった。つまりその通りだということだ。
「この秘密都市のことを、危険を冒《おか》して調べたのは僕とレイスだ。ここになにがあるのか、詳《くわ》しいことは知らないまま、黙《だま》ってあなたの頼《たの》み通りにモスクワに行った。そして僕はこのざまになって、レイスに至《いた》っては生死も分からない。それでもあなたは、僕に事情《じじょう》を話すことができない。そういうことなんだね?」
「あなたには感謝《かんしゃ》しています。でもこれは――」
「僕の所属《しょぞく》のことだろう? DGSEなら、きっともうクビになってるさ。上司にはずっと連絡していない」
「違《ちが》います。もちろんあなたの組織に情報が漏《も》れることも心配ですけど、問題はそれだけではないんです。ここにある秘密は、一国の安全保障問題《あんぜんほしょうもんだい》では済まないことなの。下手に扱《あつか》えばすべての――世界中のあらゆる人々の人生と運命を、翻弄《ほんろう》することになるかもしれません」
「そんな大げさな」
「いいえ。控《ひか》えめにみても、大げさではないわ。ここに眠《ねむ》る秘密の正体を知れば、ほとんどの人間はその力を利用することの魅力には勝てないでしょう。カナメさんには話してもいい。サガラさんも大丈夫でしょう。この二人とわたしは、これまでその秘密に翻弄されてきた、いわば当事者ですから。でも、レモンさん――あなたはその誘惑《ゆうわく》に勝てるかどうか、わたしには確信《かくしん》が持てません」
テッサの言葉に彼が当惑しているのが、かなめにもよく分かった。
「よく意味が分からない。僕がその秘密とやらを知ったら、君らをさしおいて独占《どくせん》しようとするっていうのかい?」
「そうしようとしても無理はない――それくらい重要な問題なんです。だから、カナメさんと一緒《いっしょ》に先に行っててくれませんか?」
「難《むずか》しい注文だな……。じゃあ、これならどうだろう」
そうつぶやくと、レモンはベルトに挟《はさ》んでいた自動拳銃を抜いた。
「ちょっ……」
かなめが血相を変える。だが彼は安全装置《あんぜんそうち》をかけたまま、銃をくるりと手の中で回してテッサに差し出した。
「持っていて。それで僕がおかしなことを考え始めたら、撃《う》てばいい」
「レモンさん、わたしは――」
「この先、無事に生還《せいかん》できるかどうかも分からないんだ。どうせならちゃんと知っておきたい。……頼むよ」
彼女は深く悩《なや》んでいるようだった。いままで見てきた範囲《はんい》では、レモンは好人物のようだが、それが演技《えんぎ》でないとは言い切れない。一分後に彼が豹変《ひょうへん》しないと、一体だれが言いきれるだろうか?
だが最終的には『やむをえない』と結諭《けつろん》したのだろう。テッサは深いため息をつくと、彼の差し出した拳銃を用心深く受け取った。
「……わかりました。ただし、変な気を起こしたら本当に撃ちます」
「ほ、本気なの?」
かなめがたずねると、テッサは深くうなずいた。
「本気です。全力で撃ちます。当たるかどうかは分からないけど……」
「そ、そう……」
「カナメさん。あなたにはいずれ話しておこうかと思ったことです。そうでなくても、ここに連れて来られたと言うことは、兄もあなたに話すつもりだったのでしょう。あるいはここで……」
「あるいは、なに?」
「いえ。とにかく、行くと決めたなら急ぎましょう。こっちです」
奇妙《きみょう》な共同作業が、暗闇の中で続いていた。
二人がかりで引っ張っても、びくともしない鉄骨に五分以上手こずった。周囲のコンクリートや岩をどけることを先にして、悪戦苦闘《あくせんくとう》すること一〇分間。ようやく問題の鉄骨は、蹴《け》ればすこしは動く程度《ていど》になってきた。
宗介とレナードは必要最低限のやり取りを交《か》わすだけで、ほとんどなにも話していなかった。『そこをどけろ』だとか『そっちを引っ張れ』だとか、その程度だ。
もちろん油断《ゆだん》もしていない。いつ相手の気が変わってもいいように、ナイフをすぐに抜けるようにしてあるし、必要以上に背中を向けたりもしないでいる。
事情がどうあろうとこの男は敵だ。それは決して忘れていない。
「やれやれ……」
レナードが手を休めてぼやいた。疲《つか》れた様子はなかったが、単純《たんじゅん》作業にうんざりしているようだった。
「勝手に休むな」
宗介の言葉で、肩《かた》をすくめて作業に戻る。
悪い手際《てぎわ》ではない。非力《ひりき》なわけでもない。スーツ姿《すがた》で気取っている姿しか知らなかったので、彼がこうした作業をしているのを見るのは妙な気分だった。
「テレサも来てるんだろう? そっちは心配じゃないのかい?」
退屈《たいくつ》な作業に我慢《がまん》できなくなったのか、レナードが話しかけてきた。
この口ぶりだと敵もテッサの身柄《みがら》を押さえていないようだ。はったりかもしれないが、彼女がこの廃墟《はいきょ》にいることも推測の域《いき》でしか知らないように思える。だがこちらから情報を提供《ていきょう》する義理《ぎり》はまったくないので、とぼけることにした。
「なんのことだか分からんな」
「君一人で来たわけじゃないだろう。ここに用があるのは彼女のはずだ」
「知らないし、答える気もない」
「ああ、そう」
鉄筋《てっきん》コンクリートの固まりを抱《かか》え上げ、階段の下に放り投げてから、レナードがこちらの様子を探るような声で言った。
「千鳥かなめがここにいると聞いたら、どう思う?」
配水管の破片《はへん》を握《にぎ》ろうとしていた宗介の手が、ぴたりと止まった。
「連れてきたのか? この廃墟に?」
「勝手に休むなよ。ほら」
さっきの意趣返《いしゅがえ》しのつもりなのだろう。レナードが暗闇の中でくっくと笑い声をもらした。いまいましく思いながらも、何も答えずに作業を再開《さいかい》する。
「大型エレベーターのシャフトにヘリが落ちてきただろう? あれに乗っていたんだ」
「なんだと?」
「その後ヘリは爆発《ばくはつ》、炎上《えんじょう》した。遺体《いたい》の確認はしてないが、君らの攻撃《こうげき》が原因《げんいん》だよ」
ほんの一瞬だけ背筋《せすじ》が寒くなったが、宗介はすぐに『どうせ嘘《うそ》だ』と決めつけた。かなめが本当に死んだのなら、ここでこんな気楽に話しているはずがない。こういう男がだれかの死を悲しむのかどうかは想像もつかないことだが、少なくともへらへら笑っていたりはしないだろう。
「信じてないみたいだね。いま言ったのは間違いない事実だ。俺はASでヘリの格納庫《かくのうこ》にいたけど、単独で脱出した。彼女は機体前部のキャビンにいた。それから彼女がどうなったのかは、俺にも分からない」
「でたらめだ」
「本当だって。千鳥かなめはあのヘリに乗っていたんだ」
「だとして、なぜそこまで呑気《のんき》に話していられる?」
「そう。いい質問《しつもん》だな。……っと、そろそろ動くかな。やってみよう」
「いくぞ」
どうあっても動かせなかった鉄骨を二人でつかみ、力いっぱい引っ張る。瓦礫《がれき》に埋《う》もれた基部《きぶ》がめりめりと動き、ようやく引っこ抜くことができた。
「これでよし。さて……どこまで話したっけな。そうそう、彼女の件《けん》だ」
それぞれの手作業《てさぎょう》に戻ると、レナードは話題を続けた。
「彼女が墜落したヘリに乗っていたのは事実だ。俺は助けもしなかったし、ヘリは爆発炎上した。それでも彼女は生きていると、俺は確信《かくしん》している。そこがポイントなんだ」
「なにが言いたい?」
レナードの言っていることの意味が、宗介には本当に分からなかった。仮《かり》にかなめがヘリに乗っていたのが事実なら、なぜそんな確信が持てるというのか? それに、どうしてわざわざそんな話を?
「前にも試《ため》したことがある。君が香港《ホンコン》で暴《あば》れた直前のことだ。彼女はガウルンの命令を受けた暗殺者に、東京の繁華街《はんかがい》で襲《おそ》われた。雨の中で。俺はその場に隠《かく》れていたが、なにもしないで様子を見ていた」
「…………」
「普通《ふつう》に考えてみな。ガウルン子飼《こが》いの暗殺者と、運動神経《うんどうしんけい》がいいだけの女子高生。どうあがいたって彼女はおしまいだろう。でも助かった」
「運が良かったんだ」
「そう、運が良かった――異常《いじょう》にね」
レナードの声には謎《なぞ》めいた含《ふく》みが込められていた。
「襲撃《しゅうげき》のとき、その暗殺者は最初に銃を使っていた。一発目はたまたま外れ、排莢口《はいきょうぐち》に空《から》薬莢が詰《つ》まった。その隙《すき》に彼女は逃げ出すことができた」
初めて聞く話だった。かなめからも、そのときのことは詳《くわ》しく聞いていなかったのだ。ただあの <アラストル> という小型ASのことと、レナードに出会って二、三の会話をしたということしか知らされていない。
「自動|拳銃《けんじゅう》の故障《こしょう》は珍《めずら》しくない」
「そうだな。だが君がだれかを銃で暗殺するとしたら、その前に何をする?」
「それは……」
銃の作動を確認し、弾薬《だんやく》にも異常《いじょう》がないか点検《てんけん》しておくことだろう。初手で仕損《しそん》じると、どんな標的《ひょうてき》でも無我夢中《むがむちゅう》で抵抗するからスムーズに殺害するのが困難《こんなん》になる。だから最初から確実に、標的をあの世に送れるよう注意深く準備《じゅんび》する。
その暗殺者も同様だったはずだ。
だというのに弾丸は偶然《ぐうぜん》外れ、銃は故障した。
「運がいいんだよ、彼女は。ちょっと、ありえないくらいにね」
「だからヘリの墜落からも生き延《の》びてると言いたいのか? どうかしている」
「そうかな? 君にも心当たりがあるはずだ。ほかにも彼女は、何度も危機一髪《ききいっぱつ》の目に遭《あ》っている。生きてる方がおかしいくらいだと思うんだがね」
「それは……」
彼の指摘《してき》を鼻で笑うことが、宗介にはできなかった。その通りなのだ。彼女と出会ってから、何度も危険をくぐり抜けてきた。中には、修羅場《しゅらば》には慣《な》れっこの宗介でもひやりとするような局面もあった。
それがただの運だと? いや、そんなはずがない。
「彼女はいつも諦《あきら》めずに行動してきた。自分に出来る範囲《はんい》のことを判断し、強い意志《いし》と信念に従《したが》って。その意味では、彼女は普通のベテラン兵士と同じだ」
もちろん宗介も『運』というものを否定《ひてい》するつもりはない。彼自身も運良くこれまで生き延びてきた。自分よりもずっと能力《のうりょく》のある兵士が、流《なが》れ弾《だま》一発であっさり死ぬのも見てきた。だが運はあくまで付随的《ふずいてき》な要素《ようそ》にすぎない。『人事を尽《つ》くして天命を待つ』という言葉があるが、運とはまさしくその『天命』だ。運不運を気にするのは、行動を尽くした後のことだ。
ウィスパードといういかがわしい能力のことを除《のぞ》けば、千鳥かなめは決して非凡《ひぼん》な人間ではない。ただ平均的《へいきんてき》な人間よりも、少しねばり強いだけだ。実はそれが難しいことなのだが、稀有《けう》な資質《ししつ》というわけでもない。
「彼女が優《すぐ》れた意志と行動力の持ち主だということは認《みと》めるよ。だが、こうは考えられないかな? そうした能力を持ち合わせていたこと自体も、彼女の幸運だと」
「ただの屁理屈《へりくつ》だ」
それなら天寿《てんじゅ》を全うした人間は、すべて幸運だということになる。無事に一生を終えるのに必要な環境《かんきょう》、必要な能力を持ち合わせていたことになるからだ。そういう人間は世界中に何十|億人《おくにん》といる。
「まあ、そうかもしれないね。堂々巡《どうどうめぐ》りの言葉遊びだ。それに彼女が死なずにこられたのは、運ではなく必然だよ」
「必然?」
「彼女は原因《げんいん》と結果の収束点《しゅうそくてん》だ。この世界がおかしくなったからいまの彼女がいるとも言えるし、彼女がいるからこの世界がおかしくなったとも言える。これから彼女は――たぶん、俺がなにかを仕組んだりしなくても、この『遺跡《いせき》』の最深部で亡霊《ぼうれい》と出会うことになるだろう。そこで彼女は歴史《れきし》に終止符《しゅうしふ》を打つ力と結合する。過去《かこ》も未来も現在《げんざい》もない世界を作る『|カナメ《キー・ストーン》』になるんだ」
「わけがわからん。なにを言っているんだ?」
「『オムニ・スフィア』と『ささやき』の話さ。世界の混乱《こんらん》はこの地から始まったんだ」
既視感の頻度が明らかに高まっている。
かなめはその細長い通路を何十回も歩いたような気分になり、レモンの小さな悪態《あくたい》やテッサの咳払《せきばら》いを何十回も聞いたように感じていた。既視感をやり過ごすのにはコツのようなものがあって、意識をはっきりと前へ集中させれば正気は保《たも》っていられる。だがそれでも、言葉では説明できない疲労《ひろう》が全身の神経の中に蓄積《ちくせき》していくようだった。
「頭がおかしくなりそうだ」
レモンがつぶやいた。その言葉も数え切れないほど聞いているように思える。
「確かに前には進んでいると思う。でもあの扉《とびら》がどんどん遠くなってきているような感覚だよ。登山家の気持ちがなんとなく分かるね……」
「大丈夫。ちゃんと着きますから」
テッサの声にも疲労の色がにじんでいた。
「この先にあるのは、この研究施設の中枢部《ちゅうすうぶ》です。かつてヴァロフ博士とその研究チームが作り上げた装置《そうち》が、ほとんど無傷《むきず》で眠《ねむ》っています」
「その装置の影響《えいきょう》なんだね?」
「ええ。でも厳密《げんみつ》にいえば、いまの装置のせいではありません。電力がないから稼働《かどう》していないはずですし」
「止まってる装置の影響って、よくわからないんだけど……」
「説明しづらいんですけど――その装置の影響は、ずっと過去《かこ》からのものです。一八年前、全力で稼働していたときの精神波《せいしんは》がこの時代にまで伝《つた》わっているの」
「過去? 精神波?」
「さっき説明した『オムニ・スフィア』の話です。この中枢部《ちゅうすうぶ》は爆心地《ばくしんち》。ここからすべてが始まったんです」
ようやく――本当にようやく、三人はその中枢部にたどり着いた。いくつかの分厚《ぶあつ》い扉を抜ける。さいわい鍵《かぎ》はかかっていなかったが、開けるにはテッサとかなめの二人がかりでもやっとの重さだった。
そこはホール状《じょう》の広大な空間だった。学校の体育館の数倍くらいはありそうな広さだ。内壁《ないへき》にはドラム型のユニットが、びっしりと無数に取り付けられている。一つ一つがトラックのタイヤくらいのサイズだ。
そしてその広大なホールの中央に、巨大《きょだい》なドーム型の構造物《こうぞうぶつ》が横たわっていた。日本でもよく見かける球形《きゅうけい》のガスタンクを、ちょうど半分に切ったくらいの大きさだ。その表面にも、ホールの内壁《ないへき》と同様のドラム型ユニットが何百と取り付けてあった。
「なんなんだ、ここは……?」
レモンが不安げに言った。
ぱっと見ただけでは、これが何の施設なのか普通の人間には分からないだろう。雰囲気《ふんいき》だけで言えば、むかし写真で見たニュートリノの観測設備《かんそくせつび》に似《に》ているところもある。地下深くに建設された、異様なほど大仰《おおぎょう》な――それでいてごくシンプルな目的のための実験装置《じっけんそうち》。莫大《ばくだい》な予算や代償《だいしょう》をいとわずに必要な仕様を突き詰《つ》めていったら、こんなに大規模《だいきぼ》な装置になってしまった――そう言わんばかりの傲然《ごうぜん》とした空間。整然としていながらも、この装置はなにか病的な偏執性《へんしつせい》さえ感じさせる。
科学的な設備というよりは、むしろ太古《たいこ》に滅《ほろ》んだ異端《いたん》の神殿《しんでん》のようだった。
老朽化《ろうきゅうか》のためか、ドラムのうちいくつかは内壁から脱落してかなめたちの前に転がっていた。たぶん、このドラムは増幅装置だ。中には人間の頭脳《ずのう》を代替《だいたい》するための特別な電子回路が封入《ふうにゅう》されているのだろう。
いや、その時代にそんな規模の回路など作れなかったはずだ。ひょっとしたら――
「カナメさん。このドラムの中が気になりますか?」
「うん。もしかして……」
「さすがに人間の脳ではないと思います」
生気のない声でテッサが言った。
「たぶん、ほかの高等|哺乳類《ほにゅうるい》の脳を使ったんでしょうね。ヴァロフ博士のチームには、イルカの脳の研究者もいたようですから、虐殺《ぎゃくさつ》の犠牲者《ぎせいしゃ》はたぶんその子たちです」
「ひどい……」
一頭や二頭分でも気分が悪くなる話なのに、この施設には同じドラムが数千個もあるのだ。かなめは吐《は》き気《け》がこみ上げてくるのを抑えようとして、何度か強くせき込んだ。
もう分かってきた。この廃墟は邪悪《じゃあく》や狂気《きょうき》の産物だ。
そうでなければ、たとえ犠牲になるのが人間ではないにしても、こんな残酷《ざんこく》な真似ができるはずがない。
「これはTAROSなのね?」
「ええ。この設備はヴァロフ博士が建設した、世界最初のTAROSです。彼は『精神通信機《せいしんつうしんき》』と呼んでいたようですけど。<レーバテイン> や <デ・ダナン> に搭載されている現在のTAROSは、最新技術による超大規模《ちょうだいきぼ》な演算素子《えんざんそし》――アルやダーナを増幅装置にして、オムニ・スフィアへの転移《てんい》・反応《はんのう》を可能にしてます」
「ところが、この設備が作られた時代にはそんなものはなかった。だから生身の脳を増幅装置にした、と……」
「そうです。大量に配置された脳組織《のうそしき》を死なせずに、その活動を化学的に制御《せいぎょ》するための多種多様な薬物を精製《せいせい》していたのが、このヤムスク11[#「11」は縦中横]のプラント群です。秘密を守るために生産施設《せいさんしせつ》のほとんどを都市内に集中させたんでしょうね。かつてのこの都市には、東側諸国から集められた優秀《ゆうしゅう》な専門家《せんもんか》が、大勢《おおぜい》住んでいました。その科学者たちの大半も、自分たちが関わっている実験の全容《ぜんよう》は知らなかったはずです。わたしもここまで調べるのは、ずいぶんと時間がかかりました。レモンさんたちに危険を冒してもらって、やっと様々なピースがはまったんです」
「テッサがそこまで苦労するなんて……いくら秘密都市っていっても、すこしは知ってる人が残ってなかったの?」
「まったく残っていませんでした。なぜならこの都市にいた人間は、およそ一八年前に一人残らず死んでしまったか、廃人同様《はいじんどうよう》になってしまったからです。わずか一晩で」
「……いったいなにがあったの?」
「全力稼働《ぜんりょくかどう》のテスト中に事故《じこ》が起きたようです。TAROSが暴走《ぼうそう》して、非常《ひじょう》に強力な精神波が放射《ほうしゃ》されました。この地点を中心にした半径三〇キロ程度の範囲《はんい》にいた人間は、深刻な精神汚染《せいしんおせん》を受けて……あとは外の廃墟の様子が示《しめ》す通りです。正気を失った隣人同士《りんじんどうし》が殺し合ったり、自殺《じさつ》をする者が続出したんだと思います。近い場所ではショック死した人間も多かったでしょうね」
かなめは町の様子を見ていなかったが、それでも何が起きたのか想像はついた。地獄《じごく》の光景が展開《てんかい》したに違いない。
「テレパシー版《ばん》のチェルノブイリ事故ってところか」
黙って話を聞いていたレモンがつぶやいた。
「そんなところです。オムニ・スフィアを通じて放射された精神波にはいくつか種類がありました。一つは距離と時間が遠くなるにつれ弱まっていく『イオタ波』。ヤムスク11[#「11」は縦中横]の住人を汚染したのはこのイオタ波で、影響は比較的狭い地域《ちいき》にとどまりました。そしてもう一つが『タウ波』です。これは距離や時間とは無関係に、ずっと遠くまで弱まることなく伝播《でんぱ》していく性質《せいしつ》の精神波です。一般人にはほとんど害がなくて、せいぜい瞬間的に既視感を生じさせる程度のものでした。ただ、このタウ波の影響はとても広かったんです。おそらく地球全土に伝播《でんぱ》したと考えられます」
「しかし、だれも気付かなかった……と」
「ええ。物理的な観測《かんそく》はできませんし、影響を受けた人間はほとんどいませんでしたから。ただ、例外の人間がいました。TAROSの暴走《ぼうそう》の時間は――これは推定《すいてい》ですが――およそ一八年前、一九八一年の一二月二四日、グリニッジ標準時で一一時五〇分ごろから約三分程度続いたようです。この間に影響を受けた地球全土の、例外的な人間。それがどういう人間だったか分かりますか?」
「さあ……。僕にはさっぱりだ」
レモンが首をひねる一方、かなめは深いため息をついていた。
これまでの人生でもっとも大きなため息だったかもしれない。そこまで聞いて、彼女はようやく理解したのだ。
自分の秘密《ひみつ》が。自分たちの秘密が。
「新生児ね。覚醒《かくせい》する瞬間《しゅんかん》の」
「そうです、わたしたちです」
いまでも覚えている。小学校のころ『あなたの生まれた日の出来事を調べましょう』とかいう研究課題があった。そのとき自分の出産記録を母親から見せてもらったのだ。一二月二四日、東京時間で二〇時五〇分だった。グリニッジ標準時なら一一時五〇分。
お母さん。
あと一分早く産んどいてよ……。
「なぜタウ波が、誕生《たんじょう》した瞬間の新生児に影響を与えたのか……それははっきりと分かっていません。アリス・ミラーという生理学者の説では、新生児は誕生の瞬間、大脳基底核《だいのうきていかく》と後頭葉に特殊《とくしゅ》な活動が見られるということです。ただ、いまのところ医学的な検証《けんしょう》はあんまりされていません。親の同意が得られなくて」
「まあそうよね……。生まれる直前の赤ちゃんの頭に、電極《でんきょく》やらなにやらを取り付けたがる母親はいないわ」
「もっと先進的な装置を使うことで、調べようはあると思うんですけどね……。特別な核磁気共鳴装置《かくじききょうめいそうち》の中で分娩《ぶんべん》するとか。もし将来《しょうらい》、カナメさんが赤ちゃんを産む機会があったら実験させてください」
「な、なに言ってるのよ。自分でやればいいでしょ!?」
「だって。わたしはたぶん、一生|独身《どくしん》だと思いますから……」
「なに、その恨《うら》めしそうな顔は」
「別に。でも、そうですね……。もしカナメさんがたまにサガラさんを貸《か》してくれるなら、自分で実験します」
「さらっとスゴいこと言うわね……」
「いやですか?」
「決まってるでしょ!? っていうか、だってまだあたし、あいつと別に……」
「冗談《じょうだん》です。そんな真面目《まじめ》に悩《なや》まないでください」
「……あんたねえ」
かなめが肩《かた》を震《ふる》わせていると、レモンが横からおずおずと声をかけた。
「あのー。いま、ものすごく重要で深刻《しんこく》な話をしてたはずなんだけど……」
「あ、そうだった」
「すみません、ちょと脱線《だっせん》しました」
かなめたちはホールの中央にある巨大なドームの傍《かたわ》らにまで来ていた。テッサは内部に通じる入り口を探《さが》している様子で、ドームの外周に沿《そ》って歩いていった。
「さて……生まれる瞬間にタウ波の情報を刷《す》り込《こ》まれた子供《こども》。それが『|ささやかれた者《ウィスパード》』です。とはいっても、わたしたちはその短時間に膨大《ぼうだい》な知識《ちしき》を受け取ったのではありません。オムニスフィアを通じて、どこかの未来から送られてくる別の精神波を受け取る能力を与《あた》えられたんだと思います」
「どこかの未来?」
「ええ。オムニ・スフィアでは、情報が時間を逆行《ぎゃっこう》することもあります。わたしたちは生まれながらに未知の技術情報を持っているのではなくて、未来から送られてきた精神波の情報を『受信《じゅしん》』しているんです。誕生の時に刷り込まれたのは、その受信のための必要最低限の能力なのでしょう」
「つまり、アクセスコードやプロトコルみたいなものね……。それで、その子供が成長して知能《ちのう》が高くなってきたり、なにかのきっかけがあったりで、怪《あや》しい電波を受信できるようになる、と」
「そういうことになります。……問題の三分間に生まれた子供は、記録上で把握《はあく》できている限りでは全世界で一七四人です。医療制度《いりょうせいど》の未発達《みはったつ》な国などで、正確《せいかく》な誕生時刻《たんじょうじこく》が記録されていない子供もいますから、実際にはもっと多いでしょう。概算《がいさん》ではたぶんその倍以上――三五〇人以上です。ところが、いまのところ確認《かくにん》されているウィスパードはそのうちほんの一握《ひとにぎ》り、一〇人以下です」
「それはなぜなの?」
「ウィスパードとしての能力を覚醒《かくせい》させる年齢《ねんれい》には、個人差《こじんさ》があるからなのかもしれません。それから誕生時間以外にも、ウィスパードになるには何らかの条件《じょうけん》がある可能性も考えられます。『素質《そしつ》』というと変ですけど。人間には生まれつきの個人差がたくさんありますから、タウ波に影響を受けなかった新生児がいたとしても不思議ではないですし。いまのところ『発症率《はっしょうりつ》』は三パーセント以下ということになりますけど、それも別に不自然な数字とはいえません。いずれにせよ――わたしたちは、何者かが未来から送ってきた技術情報をアウトプットする通信端末《つうしんたんまつ》だということです」
「とても信じられない話だ」
レモンがつぶやいた。顔が青ざめているのは、怪我《けが》のせいだけではないようだった。
「未来から送られた技術情報なんて。だとしたら、その情報から生まれた技術や兵器があるってことなのか」
「そうです。それがASを始めとした『|存在しない技術《ブラック・テクノロジー》』です」
テッサの言葉には抑揚《よくよう》がまるでなかった。三人だけしかいない広大な闇《やみ》の中で、彼女の声がどこかうつろな調子で響いていた。
「ブラック・テクノロジーの影響は、おそらく八〇年代|半《なか》ばから始まっていると私は考えています。わたしたちと同じウィスパードの子供が、わずか三|歳《さい》くらいでその能力を示し始めていた記録がありますから。わたしの父が、生前に調べていたことです」
「八〇年代から? だとしたら、いまの世界は……」
「ええ。この一五年間でブラック・テクノロジーが世界にどんな影響を与えたのか、想像するのは難《むずか》しくありませんね。コンピュータ技術のいびつで爆発的《ばくはつてき》な進歩《しんぽ》。エネルギー分野《ぶんや》での革新的発明《かくしんてきはつめい》。レーダー技術の劇的変化《げきてきへんか》……」
本来《ほんらい》なら、発展《はってん》するはずの企業《きぎょう》が発展しなかったかもしれない。没落《ぼつらく》するはずの企業が没落しなかったかもしれない。失敗するはずだった軍事作戦《ぐんじさくせん》が成功したかもしれない。国際経済《こくさいけいざい》は間違いなく影響を受けたはずだ。大国の選挙の結果が変わっていたかもしれないし、本来とは異《こと》なる政権《せいけん》が、本来とは異なる政策《せいさく》をとっていたかもしれない。
崩壊《ほうかい》するはずだった国家が、崩壊しなかったかもしれない。
統一《とういつ》を保《たも》つはずだった国家が、分裂《ぶんれつ》してしまったかもしれない。
そして、もしかしたら――米《べい》ソの冷戦が終わっていたかもしれない。
「仮《かり》に『本来の歴史』――ブラック・テクノロジーが存在《そんざい》しなかった歴史があったとしたら――これはあくまで推測するしかないことですけど――まだ科学技術は八〇年代初頭からそれほど変わっていなかったんじゃないかと思います。コンピュータは音声認識《おんせいにんしき》も怪しいレベルで、パラジウム・リアクターは存在せず、ロボット技術も二足歩行がやっと実現《じつげん》してるかどうか、というところでしょう」
「あくまでテクノロジーの話だろう?」
「ええ。それがもたらした政治経済《せいじけいざい》、軍事への影響については……複雑《ふくざつ》すぎて推測すら不可能です。全面核戦争《ぜんめんかくせんそう》が起きていたかもしれないし、逆に冷戦が終わっていたかもしれません。とにかく、わたしたちの知っているいまの世界とは違うものになっていたことでしょう。この事実を知っているごく一部の人々は、いまのこの状況を『時間災害《タイム・ハザード》』と呼んでいます。ただ、そもそも『本来の歴史』というものが、本当にあるのかどうかは分かりません。ウィスパードの出現とオムニスフィアの干渉《かんしょう》が必然だったなら、もともとこうなっている[#「こうなっている」に傍点]のが自然なことなのかもしれませんから」
「スケールが大きくて想像もできない話だ……。さっきから何度も既視感が来るし、本当に頭がおかしくなりそうだよ」
「気をしっかりもってください、レモンさん。わたしたちがいまいるのは、そのタイム・ハザードの起きた中心地なんです。精神にどんな影響が起きるのか予測《よそく》できないところがあります」
「中心地ね……。でもおかしくないか? 地球は自転し、公転している。太陽系《たいようけい》も銀河《ぎんが》の中を動いてる。厳密《げんみつ》な座標《ざひょう》でいったら、一八年前の『ここ』は宇宙《うちゅう》の彼方《かなた》にあるんじゃないのかな?」
「いいえ。オムニ・スフィアは精神の存在があって初めて活性化する領域《りょういき》ですし、そもそも物質世界の座標とは無関係な概念です。昔でいうエーテル宇宙的なものではないんです。だから人間の生活領域――つまり地球上で、『ここに存在している』としか説明できません。オムニ・スフィアが地球にくっついて一緒に移動《いどう》していて、その地球上の座標系ではこのヤムスク11[#「11」は縦中横]はいまなお爆心地、と表現《ひょうげん》するとまた語弊《ごへい》がありますけど……そんな状態《じょうたい》なのだと思っておけばいいです」
「難しいな……。だって、この廃墟はずっと無人だったはずじゃないか。人がいないなら、そのオムニ・スフィアも存在しないんだろ?」
「人がいないから存在しないわけではありません。『意味がない』という表現の方が正しいと思います。それにこの場所は別です。一八年前の事故の影響が、現代になっても残っている――いえ、届《とど》いているんです」
ドームの入り口が見つかった。テッサの背丈《せたけ》と同じくらいの、ごく狭いハッチだ。
「ああ……もうさっぱりわからない。カナメさん、君はどう?」
「あたしは……」
先ほどからずっと黙っていたかなめは、頭が重くなってくるのを感じていた。例の既視感のためだけではない。一歩一歩、前に進むのが辛《つら》い感覚なのだ。まるで重たい粘液《ねんえき》の中を歩いているような抵抗感《ていこうかん》と不快感《ふかいかん》。それが次第《しだい》に増《ま》していく。
「あたしは……わかるよ」
分かっていた。
ここは単なる無人の廃墟ではない。この先には何かが待っている。
「ああ……もうさっぱりわからない。カナメさん、君はどう?」
レモンが言った。
「レモンさん。繰り返してるわ」
「ああ……もうさっぱりわからない。カナメさん、君はどう?」
「レモンさん?」
「カナメさん、君はどう?」
「レモンさん!」
「君はどう? ……みはどう? どう? どう? う? う、う、うわわわうわうわ……うわああああああああっ!!」
背筋の凍《こお》りつく悲鳴だった。レモンが身もだえして頭をかきむしり、まるで電気ショックでも受けたように背筋をそらし、はげしく全身を震《ふる》わせた。
「ひっ……!?」
「やめろやめろやめろやめろやめろいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!!」
「レモンさん!!」
ただ戦慄《せんりつ》するばかりのかなめを尻目《しりめ》に、テッサが力いっぱい彼を突き飛ばした。レモンはよろめき、問題のドームからほんの数メートルほど離れて尻餅《しりもち》をつく。それでも彼は暴《あば》れるのをやめようとしなかった。
「引き離《はな》します! 手伝って!」
「え? あ、うん」
倒れてもなお悲鳴をあげ続けるレモンを、かなめとテッサは二人がかりでホールの外側《そとがわ》へと引きずっていく。やがて彼は錯乱《さくらん》をやめ、むせび泣《な》きともつかない声をもらしてぐったりとその場に横たわった。
「何なの? いったいこれは……」
「わかりません。でも、たぶん――」
はげしく肩で息をしながら、テッサはつぶやいた。
「この施設《しせつ》の中枢《ちゅうすう》から放射《ほうしゃ》されているイオタ波が、予想よりもずっと強いのかもしれません。オムニ・スフィアからの強いフィードバックで、レモンさんはパニックに陥《おちい》ったのかも。普通《ふつう》の人ですから」
「かもね。あたしも北|朝鮮《ちょうせん》で最初に電波来たときは、こんな感じだったらしいし。慣れてる[#「慣れてる」に傍点]あたしたちでも相当しんどいんだから、これは下手《へた》したらショック死するかもしれないわ……」
「想定外《そうていがい》でした。これ以上、彼を奥《おく》まで連れていけないわ」
無理に彼を連れて行かなければならない理由はない。むしろテッサにとっては好都合なのだろうが、彼女にそれを喜んでいる様子はまったくなかった。
「でもイオタ波ってことは、やっぱりこの奥にはなにかがいる[#「いる」に傍点]ってこと?」
「そうです。ただ、わたしの想定なんかよりも、はるかに強力な――」
テッサがうつむき、吐《は》き気をこらえるように咳《せ》き込《こ》んだ。
「テッサ、大丈夫?」
「ええ。レモンさんには待っていてもらいましょう。あなたも無理に付き合う必要はありません。ここで彼と――」
言いかけた彼女の手を、かなめは力強く握《にぎ》った。
「いいから。行こう」
「……ええ」
かなめの手を握り返すと、テッサはあらためてTAROSの――見棄《みす》てられたドームの中心部へと歩き始めた。
「歴史に終止符《しゅうしふ》。何の話だ」
宗介が問うと、レナードは深い暗闇《くらやみ》の中でなにかをつぶやいた。『マッヘンシャフト・アルス・ヘルシャフト・デス〜』。最後の方は聞き取れなかった。たぶんドイツ語なのだろうが、意味はまるで分からない。
「?」
「ハイデガーだったかな。『作ることと作り物の支配《しはい》としての工作機構《こうさくきこう》』。あるいは神の自己原因《コウザ・スイ》化ってところか。連想《れんそう》しただけだよ。原因と結果との連関が、いくところまでいくわけだ。まあ、哲学《てつがく》の話はいい。とにかく因果律《いんがりつ》のくさびを解《と》き放《はな》つことで、俺たちはこれまでとはまったく異なる世界を生きるようになる。運命や宿命といったものから真に自由になれるとしたら――人間はそのとき何を望《のぞ》むのか? 俺が進めてきたのはその準備《じゅんび》だ」
因果律? 運命?
宗介にはまるで意味が分からなかった。
「オムニ・スフィアのことは妹から聞いているのかな?」
「すこしは」
「TAROSのことも?」
「一応《いちおう》は。オムニ・スフィアにアクセスする機械で、ラムダ・ドライバを駆動《くどう》させる機能を持つと」
「ラムダ・ドライバなど、ただのおまけだよ。便利ではあるがね」
「そうらしいな」
「この廃墟《はいきょ》で世界最初のTAROSが作られ、暴走事故《ぼうそうじこ》が起きた。その結果、同時刻《どうじこく》に生まれた子供の中からいわゆる『ウィスパード』が出現した。……オムニ・スフィアの持つ本当の重要性は、その領域を伝播《でんぱ》するある種の波が、時間と空間の制約《せいやく》を受《う》けないということだ。ウィスパードというのは、過去や未来と情報のやり取りをできる能力者のことでね。その影響でこの世界は、『本来の世界』とは異なるものに成っている。別の歴史、別の時間軸《じかんじく》、別の世界だ。本来ならASなど存在《そんざい》しなかっただろうし、<ミスリル> もなかっただろう。<アマルガム> も違《ちが》う形の組織《そしき》になっていたはずだ」
「馬鹿《ばか》げている。そんなことが――」
「信じないのは勝手だ。ただこの話が真実だったとして――君はこの世界をどう処置《しょち》すべきだと思う?」
「処置もなにもない。放っておけばいい」
世界をどうこうするなど、宗介にとってはまったく興味《きょうみ》のない話だ。
歴史が変わった? だから何だというのか。仮《かり》にそれが事実だとしても、彼を取り巻《ま》く現実には何の変わりもない。
敵がいて、味方がいる。
戦術があって、作戦目標がある。
すべき行動、知るべき情報は目に見え、耳に聞こえる範囲《はんい》にしかない。
「このままでいいと?」
レナードが笑った。
「いいはずがないだろ。あるべきものがなく、ないべきものがある。生きているはずの人間が死に、死んでいるはずの人間がまだ生きている。この世界は狂《くる》っているんだ。正さなければならない。そうできる力を持つ者が」
「狂っているのはおまえだ。どんな手段《しゅだん》で世直しを考えているのかは知らんが――」
「世直しなんかじゃない」
暗闇の中にうんざりしたような軽蔑《けいべつ》の声が響《ひび》いた。
「くだらない政治《せいじ》の話じゃないんだ。地球の地軸《ちじく》が傾《かたむ》いて、天変地異《てんぺんちい》が起きているんだと考えてみろ。戻《もど》す方法があるなら、戻そうとするのが普通の考えだろう? 本来あるべき形に世界を戻す。それのどこが狂っているというんだ?」
「俺はおまえのようなご立派《りっぱ》な天才ではない。世界が狂ったなどと言われても、なんの実感も湧《わ》かない。よく分からんが、おまえの言う『世界を戻す』ということは、俺たちの生きている環境をすべて否定《ひてい》しているということではないのか? 敵も味方もだ。それが俺には気にくわない」
「じゃあ聞くが、君は戦友を死なせたことはあるか? 肉親や友人、周囲の仲間を失ったことは?」
「決まっている」
アフガン時代の戦友たち。その後知り合った傭兵《ようへい》たち。たくさんいる。
<ミスリル> で作戦を共にした仲間たち。情報部のマット・シェイド。前ウルズ1のゲイル・マッカラン。PRTのリャン・シャオピン。ゲーボ9の機長エバ・サントスと彼女のクルーたち。メリダ島の戦闘《せんとう》で死んだと聞かされた連中――キャステロ。スペック。何十人という西太平洋戦隊の将兵《しょうへい》たち。
そして――ナミ。
どうにもならなかった者もいるが、自分の力が足りなかったばかりに死なせてしまった者も少なくない。特にナムサクのナミのことは、彼女の名前をちらりと思い出すだけで胸《むね》が苦しくなった。ナミ。すまない。俺があと一秒早く助けに出れば――
「いるだろう。君はたくさん死なせているはずだ。後悔《こうかい》していないのか?」
「……答える義務《ぎむ》はない」
「いいや、後悔しているだろう。だが『本来』なら、彼らの大半はまだ生きてるはずだ。ウィスパードがもたらした『|暗 黒 技 術《ブラック・テクノロジー》』が戦争を変え、まさしくその周辺に生きる人々の運命こそが顕著《けんちょ》な影響を受けた。あるべきだった彼らの人生を、君は否定している。『放っておけ』と冷たく言い捨《す》てているんだ。狂っているのは、どっちなんだ?」
「俺は見捨ててなどいない……!」
相手の思う壷《つぼ》なのは分かっていたが、それでも宗介は声を荒《あらら》げてしまった。
「彼らにそう言ってやれるのか? 『君らが死んだのは不運だった、あきらめろ。助ける方法はあるが、試《ため》す気はない』と?」
「おまえの話はナンセンスだ。死んだ人間は助けられない。過去だの未来だの時間軸だの、そんな屁理屈《へりくつ》で蘇《よみがえ》るはずがない」
「ふむ。ただの石頭でそう言ってるわけじゃなさそうだね。なぜそう思うんだ?」
「俺が人殺しだからだ」
宗介はレナードを見据《みす》えて言った。
「以前、千鳥の前でおまえが言った通りだ。俺は一〇〇人以上殺している。正確な数字など知らない。知るわけもない。アフガンの峡谷《きょうこく》で吹《ふ》き飛ばしたソ連軍のトラックに何人乗ってたかなど、数えたことがないからな。とにかく俺は、数え切れないほどの人命を奪《うば》ってきた。だから分かる。実感として知っている」
「ふむ。つまり?」
「人間の死は絶対《ぜったい》的なものだ。二度と戻らない。なにかのからくりで同じ人間を再生《さいせい》できたとしても、それは別人だ」
「どうしてだ? 肉体も記憶《きおく》も環境も同じなら、それは同一人物だろう」
「違う。死そのものが人間の一部だからだ。最後の瞬間《しゅんかん》までがその人物のものだ。だから誰もが真剣《しんけん》になるし、全身全霊《ぜんしんぜんれい》をかけて戦う。それだけが唯一不変《ゆいいつふへん》の絶対的なルールだ。あのガウルンでさえ、それだけは守っていた。あの男は人間の屑だったが、同時に生命《せいめい》の儚《はかな》さも知っていた。奴《やつ》と俺の違いは、それを楽しんだか楽しまなかったかだけだ」
「興味深い意見《いけん》だね」
大儀《たいぎ》そうにコンクリートの塊《かたまり》を持ち上げながら、レナードは言った。
「ガウルンか。この話――狂った時間と運命の話は、彼にもしたことがある。彼は疑《うたが》わなかったよ。でも関心は示《しめ》さなかった。君と似たようなことを言ってね。宿敵《しゅくてき》だったはずなのに、ここまで意見が合うとは。なんとも皮肉なことじゃないか」
「皮肉でも何でもない。戦士の不文律《ふぶんりつ》だ」
「ガウルンは戦士だったと?」
「少なくともな。だがおまえは違うようだ」
侮蔑《ぶべつ》のつもりではなかった。宗介はただ自分が感じた事実を口に出しただけだ。『おまえは違う』と。だが彼の言葉はレナードの中にあるなにかを刺激《しげき》したようだった。
「なるほど。じゃあ――これは聞いておかなきゃならないだろうが、千鳥かなめが死んでも同じことが言えるのか?」
「…………」
宗介はなにも言えなかった。自分でも分からなかったのだ。
「分からないだろう」
レナードの声に、得意げな響きはまったくなかった。
「俺が君の立場だったら、まあ、受け入れられないだろうな。ルールだの不文律だの、そんな建前論《たてまえろん》が通用しないのが感情の世界だから。どうも君らは物事を単純《たんじゅん》に捉《とら》えすぎているんじゃないのか? 善悪や好悪や敵味方《てきみかた》や――そうした二元論《にげんろん》なんて君も信じてないだろう」
「何が言いたいんだ」
「さあね。案外、俺たちは戦う必要などないのかもしれないと思っただけさ」
意外な言葉だった。
戦う必要などない――なぜそんなことを言い出すのか? おまえたちは最初から俺たちの敵として現れた。任務《にんむ》の障害《しょうがい》として立ちふさがり、多くの仲間を死なせ、そしてかなめを連れ去っている。和解《わかい》など考えられないことではないのか。
「分かってるよ。別に和平の話を持ち出したわけじゃない。それになにを説明したところで、どうせ答えはノーなんだろ? とっくに分かってたから懐柔工作《かいじゅうこうさく》もしなかったんだ」
「当然だ」
「君たちの頑固《がんこ》さは、原理主義《げんりしゅぎ》のテロリストとそう変わらないよな。ところがカリーニン氏は違った。最初は迷《まよ》っていたようだがね」
「……少佐が?」
「最初に彼と接触《せっしょく》したのは、去年のクリスマスごろだった。いまの狂った世界の話を聞いても、彼はすぐには信用しなかった。だが、やがて考えを改めたようだ。一月の大攻勢を受けてね」
「おまえの世迷《よま》いごとで彼が寝返《ねがえ》るはずがない」
「証拠《しょうこ》を示したんだよ。普通なら予知不可能《よちふかのう》な自然現象を利用して、<アマルガム> は <ミスリル> に大打撃を与えるだろう、と言っておいた」
「自然現象?」
「太陽風のことさ。大|規模《きぼ》な太陽活動の影響で、ほとんどの通信がダウンすることは分かっていた。俺がTAROSで予知したんだ。地球上の気象や社会のふるまいを予知することはまだ無理だが、太陽活動の予知はさほど難《むずか》しくない。ちっぽけな地球の上で暮らす人間の活動なんて、太陽は何の影響も受けないからな。秒単位で時間が分かっていた。それを利用したんだ。そうでなければ、さすがに <アマルガム> でもあれだけの短期間で <ミスリル> に大打撃《だいだげき》を与えることはできなかったよ」
例の大攻勢の時、カリーニンの様子がおかしかったという話は聞いていた。
それはレナードの予言のためだったのだ。絶対に予測が不可能なはずの太陽活動を利用して <アマルガム> が攻撃を仕掛《しか》けてきた。これ以上の『証拠』はなかっただろう。TAROSとオムニ・スフィア、時間を越えた通信手段とそのためもたらされた歴史の異変《いへん》。それらがすべて真実だと。
「そして彼は納得《なっとく》した。間違いを是正《ぜせい》する手段《しゅだん》があることと、その力を俺が持っていることを。彼が味方についたのは、正確にいえば <アマルガム> にではない。この俺にだ」
「馬鹿《ばか》な……」
アンドレイ・カリーニンこそが、その『戦士の不文律』の体現者《たいげんしゃ》ではなかったのか。仮にその『狂った世界の修正《しゅうせい》』が可能だとして、彼がその企《たくら》みに乗るとはとても思えない。彼ならば失敗、敗北《はいぼく》、あらゆる打撃を受け入れ、その上で『次の作戦』を組み立てるはずだ。
そうでなければ。彼がそうであってくれなければ、彼の下で戦っていた俺[#「俺」に傍点]たちは、いったい何のために全力を尽《つ》くしていたのか。
「アンドレイ・カリーニンは現実的な男だ。君たちが納得しないこともよく分かっているだろう。だから何の説明もしないんだろうね」
「大佐は――テッサは知っているのか」
「知っているだろうね。その上で君たちに何の説明もせず、俺の目的を妨害《ぼうがい》しようとしているんだ。それはなぜか? 君にわかるか?」
「 <ミスリル> にも賛同《さんどう》する者が出てくる、と言いたいのか」
「その通り。だからテレサはすべてを説明しない。過去を受け入れ、このまま歴史を続けていくべきだと考えている。前向きで立派だし、自己陶酔《じことうすい》にはもってこいの理屈《りくつ》だ。<アマルガム> への復讐《ふくしゅう》もあるだろう。世界を制御《せいぎょ》することへの反発もあるだろう。だがあの娘《むすめ》のいちばんの動機は、俺への反発だよ。俺のやることを否定することでしか、自分の力を示せないと思っているんだ」
「彼女はそんな利己的《りこてき》な人間ではない」
「あの子は自分の本音に気付いていないだけだ。いまの話を言ったところで、かたくなに『違う』と主張《しゅちょう》するだけだろう。要するに、子供なんだよ。普通の人間より頭がいいから、なおさら始末におえない。自分の中でどうとでも理屈は付けられるだろうしね」
瓦礫《がれき》に埋《う》まった鉄パイプを引き抜くと、周囲のコンクリート片《へん》が音を立てて崩《くず》れてきた。腕の一本くらいが通りそうな穴ができ、そこから冷たい風が吹き込んできた。
あと少しだ。
周囲の瓦礫を取り除《のぞ》けば、向こう側の通路に脱出できそうだった。
「 <アマルガム> はいま、急激《きゅうげき》に衰退《すいたい》へと向かっている」
瓦礫を取り除きながら、レナードは驚くべきことを言った。
「だれも気付いていないことだがね。俺がやろうとしていること――狂った世界の歴史に終止符を打つ計画には、かなりの予算と資源《しげん》を必要とした。それまでの民主的なシステムでは不都合《ふつごう》だった。だから、俺がてこ入れをしている」
「てこ入れ?」
「独裁《どくさい》の導入《どうにゅう》だよ。均衡《きんこう》していた幹部《かんぶ》たちの力関係を崩し、疑心暗鬼《ぎしんあんき》と不安をはびこらせている。そこに目覚しい活躍《かつやく》をする者が現れ、暗《あん》にアメとムチを使い分けて味方に付くよう働きかける。地味で面倒《めんどう》な作業だったが、半年かけてどうにか形にしてきた。カリーニン氏の活躍のおかげもある」
「つまり、おまえが独裁者ということか」
「まだその段階《だんかい》までは行ってないけどね。重要な幹部の素性《すじょう》はおおむね把握《はあく》してあるし、彼らの通信網《つうしんもう》にウイルスのようなものを仕込《しこ》む作業も済《す》ませてある。通信網といってもインターネットじゃないよ。もっと原始的だが誰も気付いていない暗号システムだ。<アマルガム> は何十年も前からこのシステムを活用して静かに増殖《ぞうしょく》していた」
その暗号システムについて話すつもりはないようだったが、それでもレナードの話は重要な情報だった。自分の組織《そしき》の実情《じつじょう》をこうも気楽に話しているのだ。
「なぜそんなことを俺に?」
「教えておいてもいいかと思っただけさ。君たちが必死に戦わなくても、いずれ <アマルガム> は衰退するってことだ。いや――その表現もおかしいな。そうなる前に、この世界は違う形に是正されるわけだから」
ここまで来て、宗介はこの男がなにかの法螺《ほら》を吹《ふ》いているとは到底《とうてい》思えなくなってきていた。レナードが狂っているなら、それで済む話だ。だが不幸なことに、真実はそうではない。カリーニンは彼の側《がわ》についており、<アマルガム> には確かに妙な動きが目立ち、そしてこの世界の不自然な問題は――テッサの説明と一致《いっち》している。
嘘でもないし、狂ってもいない。
だとして、いったいどんな手段でその『計画』とやらを実行に移《うつ》すつもりなのか?
「千鳥を必要としているのは、その計画のためなのか」
「そういうことだよ。いま、別の場所に新しいTAROSを建造《けんぞう》している。これまでのTAROSなど、問題にならない規模の設備だ。その力で過去に干渉《かんしょう》するわけだが、触媒《しょくばい》となるのは普通のウィスパードではだめなんだ。最も大きな力を刷り込まれた、おそらくは唯一《ゆいいつ》の適任者《てきにんしゃ》が必要だ。長らくその適任者を探してきて、やっと見つけた。この <ヤムスク11[#「11」は縦中横]> の事故《じこ》で放射された精神波――タウ波の情報を最初から最後まで、もっとも大量に受け取ったのが彼女だ。未来からの技術情報をウィスパードに送ったのは、正体不明のだれかではない。彼女だ。彼女がこれから、そうするはずなんだ」
「千鳥が……?」
「彼女が『異常《いじょう》に幸運だ』といったのは、彼女が生きた『特異点』だからだ。彼女[#「彼女」に傍点]はそう出来ている。運命づけられている。だから彼女は『|ささやかれた者《ウィスパード》』ではない。仮《かり》に呼び名をつけるなら、千鳥かなめは『|ささやく者《ウィスパリング》』だ。そう、この世界をめちゃめちゃにした|暗 黒 技 術《ブラック・テクノロジー》を過去に送ったのは、彼女なんだよ」
「彼女はまともな人間だ」
宗介は苛立《いらだ》ちもあらわに語気を強めた。
「どんな理屈《りくつ》だろうが、人殺しの技術《ぎじゅつ》を喜んでどこかに送るような真似をするはずがない。……前後関係《ぜんごかんけい》がよくわからんが、とにかく彼女はそんなことはしない」
「それが不思議なんだよ」
そう言ってレナードは笑った。
「あそこまで強く、正しい少女がなぜ過去に干渉を? 彼女が受け入れられない過去というのは、いったい何なのか? ずっと昔に起きたことなのか? それともこれから[#「これから」に傍点]起きることなのか? そして、なぜ彼女はブラック・テクノロジーを送ったのか? いや、送るのか? だとしても、彼女が持つ情報を考案したのはそもそも誰なのか? どこにいるんだ? もっと未来に別の『ささやく者』がいるのか? それともいないのか? それが知りたかったから『放置』の方針《ほうしん》でここまで来たんだがね。君はどう思う?」
彼の疑問《ぎもん》の言葉は自嘲混《じちょうま》じりで、どこか寒々とした響きだった。悪魔《あくま》が目の前に降臨《こうりん》し、自分の理解すら超《こ》えた神の御業《みわざ》について笑っている――そんな薄気味悪《うすきみわる》さが漂《ただよ》っていた。
「俺にわかるものか……」
頭がおかしくなりそうだ。レナードの話は、時制《じせい》と前後関係が目茶目茶《めちゃくちゃ》だ。
ただ一つ分かるのは、千鳥かなめが――あの天真爛漫《てんしんらんまん》な少女が――本人の意思《いし》とは無関係に、どこかのだれかの勝手な理屈で、なにか巨大で傲慢《ごうまん》な計画の犠牲《ぎせい》にされそうになっている、ということだけだった。
「けっきょくのところ、君自身はどうしたいんだ? なにを目的に俺たちと戦っている? <アマルガム> への報復《ほうふく》とか、世界支配への反逆《はんぎゃく》とか、そういうお題目はやめろよ。できればシンプルな本音が聞きたいんだがね」
「千鳥を取り戻して、当たり前の生活に戻す。それだけだ」
「不可能だろ」
「そんなことはない」
「いいや、不可能だ。たとえ俺が放り出しても、彼女はいずれ他のだれかに狙《ねら》われる。あんな人間を、普通の一員として受け入れる社会があるはずがない。<ミスリル> だって怪《あや》しいものだ。世代が代わればいつかは彼女の力を渇望《かつぼう》し始めるだろう。組織《そしき》なんだから。絶対にだ」
「…………」
「だが狂った歴史を是正《ぜせい》すれば、彼女は普通の人間として人生を送ることになる。だれも彼女を狙わない。穏《おだ》やかに生き、恋《こい》をして、子供《こども》を産み、老いていく。君が望んでいるそのままに。これが唯一《ゆいいつ》の解決方法《かいけつほうほう》だ」
これまでの理屈からいえば、そうなるはずなのだろう。
混乱《こんらん》した頭の片隅《かたすみ》で、なにかが『この男の話は正しい』と言っていた。だが重要なことが抜けている。その解決策に対して、なぜ自分はこんなに拒否感《きょひかん》を覚えているのだろう?
いや、分かっている。
そうなった場合、彼女の人生には自分がいないからだ。レナードの言葉――『恋をして』『子供を産み』『老いていく』――それらの一つ一つが彼の胸《むね》を締《し》め付けた。
そこには自分がいない。
遠くから見守《みまも》ることさえできない。
「それでは……意味がない」
「厄介《やっかい》なジレンマだよな。俺だって悩んだ。あんたもせいぜい悩むといい」
レナードがコンクリート片《へん》を抱《かか》えあげて階下《かいか》へと放り投げた。宗介も同じように瓦礫を投げた。数分間、二人は無言で作業に没頭《ぼっとう》した。最後に二人がかりで鉄骨を引き抜くと、その弾《はず》みで階段をふさいでいた大量の瓦礫が崩れ落ちてきた。
もうもうと立《た》ち込《こ》める埃《ほこり》と煙《けむり》が晴れていくと、ちょうど一人が通り抜けられるくらいの大きさの穴《あな》が出来上がっていた。
「やれやれ、助かった」
レナードがつぶやき、勝手に穴へと潜《もぐ》りこんでいった。無防備《むぼうび》に背中をさらしていたが、攻撃する気にはなれなかった。宗介も後に続き、二人は無事に上の階――階段とT字路になった細長い通路に出た。
ここで協定は終わりだ。
敵同士の二人は数メートルの距離《きょり》をとって、暗闇の中で対峙《たいじ》した。
「さて。殺し合いをやり直すかな?」
「…………」
ここなら引火の心配もないだろう。銃《じゅう》も爆薬《ばくやく》も使える。
倒《たお》すならいまだ。
ASで対決すれば、たとえ <レーバテイン> でも勝てるかどうかは分からない。だが生身ならいくらでも勝算はある。いま倒さなければ、この男は必ず大きな脅威《きょうい》になるはずだ。
「いいんだぜ。遠慮《えんりょ》はするなよ」
埃の舞《ま》う薄闇《うすやみ》の向こう側で、レナード・テスタロッサが笑っている。
かつての気取った微笑《ほほえ》みではない。
いまの彼は、どこかぎらぎらとして見えた。まっすぐにこちらを見据《みす》え、闘争《とうそう》を期待している。現世《げんせ》への執着心《しゅうちゃくしん》など微塵《みじん》も感じられない、狂信者《きょうしんしゃ》の笑顔だ。
宗介はふと、この相手に自分が勝てないのではないかという思いに捕《とら》らわれた。
決して怖気《おじけ》づいたわけではない。ただ、先ほどまで自分の中にあった敵への明確《めいかく》な殺意が、いまはなくなってしまっていた。これまでレナードの話を聞いてきた結果、彼の中に迷いが生じたのだ。
もし――もし本当にレナードの計画が実現可能なものならば、それこそがかなめを平和な世界に戻す最善《さいぜん》の方法なのではないか? この男を殺傷《さっしょう》することで、その道が絶《た》たれるのだとしたら?
俺はどうすればいい。千鳥。なぜここにいない。
短い逡巡《しゅんじゅん》の末、宗介は言った。
「いまは……やめておく」
「けっこう。じゃあお互《たが》いのフラストレーションは、後日発散するとしようか」
背中を向け、レナードは宗介から離れていく。無防備《むぼうび》なうしろ姿。不意打ちならまだ間に合う。おそらくこれが最後の好機だ。
だが宗介は動かなかった。
レナードの姿が暗闇に消える。もう狙うことはできない。
「最後に言っておく。俺は全世界を敵に回してでも、自分の目的を完遂《かんすい》するぞ」
彼の声が通路に響いた。
「あんたが何もせずに傍観《ぼうかん》するならばそれでよし。だが次に俺の前に現れたら、手加減《てかげん》は一切《いっさい》しない。全力で殺す」
宗介は何も答えることができなかった。
悄然《しょうぜん》とその場に立ち尽《つ》くし、敵かどうかも分からなくなってきた男の足音が遠ざかっていくのを聞いていた。
世界を変えるだと?
一人きりで冷静になると、急に信じられなくなってきた。いまだに半信半疑《はんしんはんぎ》なのは、自分が正気を保《たも》っている証拠《しょうこ》なのだろう。
それよりも、いまはもっと大事な仕事が残っている。
「千鳥……」
この廃墟《はいきょ》のどこかにいるのなら、なんとしてでも敵《てき》より先に見つけなければ。
かなめたちはドームのハッチをくぐり、狭《せま》い通路を進んでいった。
レモンはドームの外に置き去りにしてある。彼が一緒《いっしょ》にここに入りたがるとは、とても思えなかった。
既視感《きしかん》。既視感。既視感。思考が果てしなく反復《はんぷく》する。
中心部へと近づくにつれ、形容《けいよう》しがたい重圧《じゅうあつ》と疲労《ひろう》感が増《ま》していく。
ほんの五メートルかそこらなのに。なぜあのゴール地点――ドームの奥《おく》の小さな部屋はこんなに遠いのか? どれだけ進んでも終わりが来ない。山頂《さんちょう》が見えているのに、いつまでたっても山頂にたどり着かない、九|合目《ごうめ》のあの絶望的《ぜつぼうてき》な感覚。それを二人はいま共有していた。
手をつなぎ、心を通わせる。
こわい。がんばって。あとすこし。
つらい。くるしい。あきらめないで。
でも、いったいどうして?
どちらの叱咤《しった》だったのか、どちらの弱音だったのかさえ判然《はんぜん》としない。永劫《えいごう》の旅にさえ思える数メートルを踏《ふ》みしめ、二人の少女はドームの中心部へとたどり着いた。
「これは……」
最古のTAROSの最深部にあったのは、大量の電極に取り囲まれた死体だった。
大きめのバスタブくらいの容器《ようき》に、無数のケーブルとパイプがつながっている。その容器の中央に、マネキン人形のような死体が直立して固定されていた。
女――それも若い女のようだ。
腐敗《ふはい》も白骨化《はっこつか》も、ミイラ化もしていない。いちばん近いのは白蝋化《はくろうか》か。
むしろ白濁《はくだく》化した氷に似た質感《しつかん》だった。その死体はつやつやとした光沢《こうたく》を保っている。豊《ゆた》かな胸、ほっそりとした腰《こし》のラインも完璧《かんぺき》なまま残っていた。死んだばかりの人間をニスがけしたら、こんな感じになるかもしれない――そんな空想が出てくるような、なめらかな曲線だった。
死体というよりは『彫像《ちょうぞう》』の方が近い。
まだ顔は見えなかった。『彫像』の頭部を取り囲む数十の電極は、極端に大きなヘルメットのような格好《かっこう》になっていた。この死者の頭部は、正確にドームの中心に位置している。実験の精度《せいど》を高めるためだったのだろう。
『だれなの?』
かなめとテッサは同時に口を開き、同時に互いの疑問に答えた。
『一八年前の被験者《ひけんしゃ》だわ。だれなのかは分からないけど』
『だとして、なぜ遺体《いたい》がこんな状態に?』
『いいえ。本来の遺体はとうの昔に朽《く》ち果《は》てている。ここにあるのは、彼女の存在《そんざい》の残滓《ざんし》。長い年月をかけて、彼女の精神が彼の形を、オムニ・スフィアを通じて物理世界に顕現《けんざい》させたのよ』
ちょうど鍾乳洞《しょうにゅうどう》にできる氷柱のように。この空間に残る力が、分子のひとつひとつを少しずつ組み立てて。
ここは時間の刻《きざ》み目《め》。
この結晶《けっしょう》――彼女の残滓こそが「ささやく者」。いまはまだ限《かぎ》られた力しか持っていないけど、いずれは――そう、だれにもわからないいつか[#「いつか」に傍点]の未来には復活《ふっかつ》する。より大きな力でいまのわたしを支配する。未来永劫ではない。一〇年? 一〇〇年? わからない。未知数の時間。
『準備を――』
彼女は手にしたバッグから、プラスチック爆薬を取り出した。電気雷管《でんきらいかん》を差し込み、彫像の足元に置く。リールからコードを伸ばし、発火装置《はっかそうち》に接続《せつぞく》する。
『爆破《ばくは》?』
『ええ。ここを破壊する』
それが彼女の目的だ。精神波を放射しているのはこの彫像――この結晶化した触媒だ。これが別の時代から届《とど》いているタウ波を、より高エネルギーなイオタ波に変換《へんかん》・転送している。ミシェル・レモンが正気を失ったのもその影響だ。これを破壊することで <ヤムスク11[#「11」は縦中横]> はその呪《のろ》いから解放《かいほう》される。またいずれ同じ結晶が育っていくのは防ぎようがないので、その都度《つど》破壊してやるしかない。
いいや――
それこそ大きな矛盾《むじゅん》、無駄《むだ》な努力なのではないのか? 『ささやく者』の出現《しゅつげん》は止められない。未来永劫だ。ならば――
声が聞こえてきた。
よくわかっているじゃないか、わが娘《むすめ》よ。よく来たわね。
知っている声だ。ずっと前から。
そう。おまえが来るのを待っていた。これまでも、何度もおまえを呼《よ》んでいた。そのたびにおまえは抵抗し、わたしの声に耳をふさいできたのよ。
だがこれは決められていたこと。おまえはここにやってきた。もはやわたしを拒絶《きょぜつ》することはできない。
受け取るがいい。わたしの力を。受け入れるがいい。わたしの魂《たましい》を。
もし神というものがいるのなら、わたしたちこそがその存在《そんざい》だ。おまえは一にして三なるモイライ。クロトでありラケシスでありアトロポスである。
もはや恐《おそ》れることはない。
手をのばせ。心をひらけ。
歓喜《かんき》とともに、無限《むげん》の愉悦《ゆえつ》をその胸にいだくがよい。
そうだ。わたしたちはいつもそうしてきた。迷ったところで時間[#「時間」に傍点]の浪費《ろうひ》だ――
「カナメさん!?」
テッサが叫んでいた。ひどく切迫《せっぱく》して。恐怖《きょうふ》とも絶望《ぜつぼう》ともつかない声で。
気付けばかなめはTAROSの中心に生成された『彫像』の正面に立っており、むき出しになった彼女の頬《ほお》をうっとりと撫《な》でていた。
「それ[#「それ」に傍点]を破壊します。下がってください!」
爆薬の起爆装置《きばくそうち》を握《にぎ》って、テッサが警告した。
「破壊……?」
かなめは熱に浮かされたようにつぶやいた。さっきまで頭蓋《ずがい》の中を反響《はんきょう》していた何かが、きれいさっぱり消え去っている。あの既視感もやってこない。視界《しかい》が鮮明《せんめい》になってくる。ちょうど鼻づまりがなくなったときの、あの爽快《そうかい》さに似《に》ていた。
「破壊する必要なら、もうないわよ」
「え?」
彫像を離れ、テッサのそばに歩いていく。どうするべきなのか、彼女にはよくわかっていた。当惑するテッサの腕を取り、起爆装置をそっと奪《うば》う。驚いた彼女が手をのばすのを押しのけ、起爆装置を放り投げる。
「なにを――」
テッサがベルトに挟《はさ》んでいた銃をすばやく奪い、彼女の横面《よこつら》を平手打ちする。よろめいた彼女の胸倉《むなぐら》をつかみ、力任《ちからまか》せにぐいっと引き寄せる。
「っ……!」
「行きましょう、テッサ。ここにはもう用なんてないんだから」
そうささやくかなめの背後《はいご》で、彫像が音をたててばらばらに砕《くだ》けていった。
[#改ページ]
5:魔弾《まだん》の射手《しゃしゅ》
地下|施設《しせつ》内に展開《てんかい》した敵兵《てきへい》の日をかすめ、宗介は最深部へと向かっていた。
もしかなめが無事に敵の手を逃《のが》れているのなら、最深部を通って反対側の出口を目指しているはずだ。テッサも同じだろう。自分の向かっている方角のどこかで、二人のいずれかと出会う確率《かくりつ》は決して低くはない。
地図もなしにこの地下|迷宮《めいきゅう》を進むのは大変な苦労だった。頼《たよ》りになるのはコンパスと勘《かん》だけだ。敵も馬鹿《ばか》ではないだろうから、いずれはかなめとテッサのいずれかを発見してしまうだろう。いや、すでに囚《とら》われているかもしれない。
急がなければ。
敵から発見される危険《きけん》もいとわずに、宗介は駆《か》け足で複雑《ふくざつ》に入り組んだ通路や階段を進んでいった。足音もマグライトの光もお構《かま》いなしだ。こうなってはゴリ押《お》しで彼女たちを探《さが》すしかない。
そんな調子で進んでいたので、その場所にたどり着くまで敵と鉢合《はちあ》わせしなかったのは、まったくの幸運だった。
地下施設の最深部らしきホールに出た。広い空間だ。
数メートルと歩かないうちに、彼は壁《かべ》にもたれてうずくまっている男を発見した。
「レモン……?」
周囲に警戒《けいかい》しながらレモンに駆け寄る。肩《かた》を揺《ゆ》り動かすと、彼はうめき声をあげて顔をあげた。
「ソースケ……」
「レモン。なぜおまえがこんな場所に?」
「こっちが聞きたいくらいさ。まあ……いろいろあってね。カナメさんもテスタロッサさんも一緒《いっしょ》だよ。ああ……頭が痛い。吐《は》きそうだ」
朦朧《もうろう》とした声。二日酔《ふつかよ》いにでも苦しんでいるような様子だった。
「一緒に? 二人とも無事なのか?」
「ああ。いまあそこに――」
ホールの中央に横たわる巨大なドーム状の設備を指さす。
「――あそこに入ってる。わけが分からないんだ。僕も一緒に行こうとしたんだけど、頭の中がおかしくなって……とても前に進めなかった。みっともない話だ」
「待っていろ。見てくる」
かなめがすぐそばにいる。そう思うだけでじっとしていられない気持ちだった。だがドームめがけて駆け出そうとした彼の腕《うで》を、レモンがつかんで制止《せいし》した。
「だめだ、ソースケ」
また既視感が来る。これで何度目だろう? 宗介は苛立《いらだ》ちもあらわに彼の手を振り払おうとしたが、レモンは彼の腕をしっかりとつかんで放さなかった。
「あそこは……おかしいんだ。近づいたら頭が変になる」
「なんだと?」
「詳《くわ》しい理屈《りくつ》はわからないけど、彼女たちしかダメなんだよ。たぶん、あのウィスパードでなければ」
「ウィスパードでなければ……?」
宗介は薄《うす》ら寒いものを感じながら、二人が入っていったというドームを見つめた。ブロック状《じょう》のユニットがびっしりと配置されたその姿が、超自然的ななにかを漂《ただよ》わせているように思えてくる。
この場に味方が揃《そろ》っているのは僥倖《ぎょうこう》だったが、幸運にいつまでも甘《あま》えてはいられない。いずれこの巨大なホールにも敵がやってくるだろう。もたもたしてはいられない。
「千鳥っ! いるのか!?」
宗介はドームに向かって叫んだ。
「聞こえるか!? ここは危険だ! 早く出て来い!」
返事はなかった。
「千鳥! 大佐! 脱出《だっしゅつ》しよう! 出てくるんだ!」
それでも反応《はんのう》はなかった。これだけ静かな場所なのだから、聞こえないはずがない。むしろ敵にこの声を聞かれることの方が心配だったが――
いや、動きがあった。
宗介がしびれを切らしてドームに駆け出そうとしたとき、その入り口から二人の人影《ひとかげ》が姿を見せた。かなめとテッサだ。ぴったりと寄り添《そ》うようにして、こちらへゆっくり向かってくる。
よかった、無事そうだ――胸から安堵《あんど》のため息が洩《も》れる。
およそ九か月ぶりにまともに見たかなめの姿は、前と変わっていないようだった。タイトなジーンズにタートルネックのセーター。印象的な長い黒髪《くろかみ》。すこし痩《や》せたような気もするが、間違いない。彼女だ。
やっと会えた。ようやくここまで来られた。
たくさん話したいことがあった。これまで抑《おさ》えこんできた感情が、無制限《むせいげん》に爆発《ばくはつ》しそうになった。再会《さいかい》できたら何を最初に話すか、考えもしていなかった自分に腹《はら》が立った。いままで言えなかったことをすべて伝えたい。いや、そんな言葉よりも、まず突っ走っていって彼女を抱《だ》きしめたい。強くそう思った。
足が前に出る。
ドームに近づくのが危険だという言葉など、どこかに飛んでいってしまった。すこしくらいなら大丈夫《だいじょうぶ》だ。もう待っていられない――
「千鳥……」
つぶやき、駆け出そうとする。だがそのとき、千鳥かなめが手にした拳銃《けんじゅう》をこちらに向け、一片の迷いもなく発砲《はっぽう》した。
「な……」
なにが起きているのか、宗介にはまるで理解《りかい》できなかった。
彼自身に当たったわけではない。かなめが撃《う》った弾丸《だんがん》は宗介のすぐ足元に命中《めいちゅう》し、鋭《するど》い残響《ざんきょう》と火花を残して消え去った。
それでも、彼女が彼めがけて発砲したのは事実だった。
「千鳥。俺だ、よく見ろ!」
立ち止まり、困惑《こんわく》しながら彼女に呼びかける。ここは薄暗い。なにかの間違《まちが》いで誤解《ごかい》して撃ったのではないか? きっとそうだ。
「そんな銃など下げろ。もう大丈夫だから――」
彼の言葉をさえぎり、かなめがふたたび発砲した。今度はもっと近くの足元に着弾した。
「動かないで」
かなめが言った。やさしい声で[#「やさしい声で」に傍点]。
「…………?」
ようやく気付く。かなめとテッサは寄り添っているわけではなかった。彼女がテッサを銃で脅《おど》し、後ろ手に連行[#「連行」に傍点]しているのだ。捕虜《ほりょ》か人質《ひとじち》でも扱《あつか》うように。
「なにをしてるんだ、千鳥? これはいったい――」
「あたしは動くなと言ったの。それ以上近づいたら、まずテッサを撃たなくちゃならない。だから近づかないで欲《ほ》しいの」
「すみません、サガラさん……」
朦朧《もうろう》としながらテッサがつぶやいた。口の端《はし》がわずかに腫《は》れて出血している。殴《なぐ》られたのだろうか? まさか、かなめが?
「わたしにもわけが分からなくて……でも、たぶんカナメさんは……」
「だめよ、テッサ。勝手にベラベラ喋《しゃべ》らないで」
「あっ……!」
手首をねじ上げられてテッサが小さな悲鳴をあげた。
「どういうことなんだ? 俺だ、千鳥。分からないのか?」
「もちろん分かってるわよ。久《ひさ》しぶりね、ソースケ」
やはり別人ではない。間違いなくかなめだ。
「すごく会いたかった。いまだって、あなたの胸の中に飛び込んでいきたい気持ちでいっぱいなの」
「……だったら、なぜこんな真似《まね》をするんだ?」
「あたしにはやらなくちゃならない、大事な仕事があるの。ソフィアから頼《たの》まれた大事な仕事。だから行かないと。あなたのことは大好きだけど、邪魔《じゃま》をするなら殺さなくちゃならないの」
ソフィア? 仕事? なんのことだ?
「千鳥、冗談ならやめろ。いまはそんな場合ではないんだぞ」
「うん、わかってるの。冗談だったらいいのに――そんな想《おも》いに、いまあなたは必死にすがってるんだよね? 困惑《こんわく》するのも無理はないと思う。でも勇気を出して、受け入れて欲しいの。だって、そうすることがこの世界を良くする力につながるんだから」
かなめは乱暴《らんぼう》な手つきで、テッサのこめかみに銃口を押し付けると、うるんだ瞳《ひとみ》で宗介に懇願《こんがん》した。
「お願い、ソースケ。あたしを信じて。このまま行かせて。そうじゃないと、テッサも殺してあなたも死ぬことになる。あたし、そんなのいや……!」
「わけの分からないことを言うな! 銃を下ろして彼女を放せ!」
「どうして分かってくれないの!?」
かなめはいきなりテッサの側頭部《そくとうぶ》を拳銃《けんじゅう》の台尻《だいじり》で殴りつけた。よろめき、倒《たお》れそうになった彼女の三つ編《あ》みをつかんでぐいっと引き戻し、彼女は言った。
「いやよ! あたしの行動はあたしが決める! だれにも支配《しはい》できない! たとえソースケでも、それだけは許《ゆる》せないわ!」
「千鳥……!?」
支離滅裂《しりめつれつ》だ。
ついさっきまで感じていた、胸の中の熱いものはどこかに消えうせてしまっていた。代わりに彼をとらえたのは、かつて感じたことのない悪寒《おかん》――これまで想像もしたことのない不気味な感覚だった。
あの声、あの語彙《ごい》、あの喋《しゃべ》り方。
いかにもかなめらしく[#「いかにもかなめらしく」に傍点]聞こえるが、行動がまったく矛盾《むじゅん》している。彼女を模倣《もほう》した機械かなにかと話しているような気分だ。無抵抗《むていこう》のテッサを殴りつけておいて、なぜあんな言葉が吐けるのか?
テッサを引き連れたまま、かなめはホールの出口へと歩いていった。まさか彼女を撃って止めるわけにもいかない。
「待て、どこに行くんだ」
「あたしのことが好きなんでしょう? だったら追わないで」
「説明くらいしてくれたっていいだろう! 君は自分のしていることが分かっているのか!?」
「もちろんよ! だから来ないで!」
「正気に戻るんだ、千鳥――」
宗介は大股《おおまた》で彼女へと向かっていった。
冗談ではない。ここまできて、こんな形で彼女を見送れるものか。テッサを撃つ? 俺を撃つ? はったりだ。そんなことが出来るわけがない。このまま彼女に飛びかかって、取り押さえてしまえばいい。すこしは暴《あば》れるかもしれないが、場合が場合だ。仕方がない。そうしたらすぐに脱出して、後でゆっくり事情を調べれば――
「ソースケ……っ!!」
銃声。
かなめがテッサの頭を撃ち抜いた。
九ミリ弾が彼女のこめかみに大穴《おおあな》を開け、反対側から肉片《にくへん》と脳《のう》の一部を撒《ま》き散《ち》らして飛び出していった。テッサの体が一瞬、短く痙攣《けいれん》してからその場にくずおれる。
床《ゆか》に大きな血だまりが広がっていく。断末魔《だんまつま》の声さえない。即死《そくし》だ。
「て……」
テッサ。馬鹿な。
その場に凍《こお》りついた宗介めがけて、彼女はさらに銃口を向けた。
「だから言ったのに! あなたがいけないのよ!? あれほど――あれほど来るなと言ったのに! あなたがこの子を殺したんだわ! どうしてくれるのよ!!」
なんてことを。わかっているのか。君は彼女を……!
もう考えもなにもない。頭の中が真っ白になる。とにかくかなめを取り押さえようと、宗介は全力で彼女めがけて駆け出した。
「あなたのせいよ!」
かなめが撃った。なんのためらいもなく。
胸の真ん中に重い衝撃《しょうげき》。息が詰《つ》まる。さらに彼女が撃つ。二発、三発と次々《つぎつぎ》に被弾《ひだん》。AS操縦服の防弾性能《ぼうだんせいのう》が、かろうじて銃弾を防《ふせ》いでくれた。
「千鳥……」
信じられない。
立ち止まってよろめいていると、彼女は拳銃を両手でしっかりと構え、彼の無防備《むぼうび》な頭を狙《ねら》った。
「やめ――」
「さようなら、ソースケ」
微笑《びしょう》。発砲。
銃口の炎《ほのお》を見たのが最後だった。額《ひたい》のすぐ上に銃弾が命中し、脳の一部が吹き飛ばされ、宗介はその場で即死した。絶望の悪態《あくたい》さえつく暇《ひま》がなかった。
無音の暗黒と虚無《こくう》。それ以外はなにもない世界が訪《おとず》れた。
いや――
どこかから声がした。
大丈夫。でも、もう無理はしないで。
必ずあたしは待っているから、心配しないで――
暗黒の中に小さな光が見えた。
「う……うあああっ!」
ひとつの点になるまで狭《せば》まっていた視界が急激《きゅうげき》に拡張《かくちょう》し、彼は悲鳴をあげて身を起こした。喉《のど》からひどいうなり声が洩《も》れる。怒《いか》りと哀《かな》しさとみじめさ、そして心臓《しんぞう》を鷲《わし》づかみにする恐怖《きょうふ》がないまぜになって、全身の筋肉《きんにく》がはげしく緊張《きんちょう》していた。
「ソースケ!?」
レモンが彼をのぞきこんでいる。戦慄《せんりつ》と疲労《ひろう》の入り混《ま》じった表情。
ここはあのホールだ。自分はいつの間にか倒れていた。レモンが彼のそばにしゃがみこんでいて、五メートルほど離れたところにテッサが横たわっている。頭に傷《きず》は見られない。
撃たれていない……? 失神しているだけなのか?
その場にかなめの姿《すがた》はなかった。
「死んで……いない……?」
額を触《さわ》る。無傷だ。
撃たれたはずの胸や腹《はら》をさする。被弾の痕跡《こんせき》は一切《いっさい》ない。
「どうなってるんだ……? それに……カナメは?」
「彼女は……行ってしまった。君が彼女に駆け寄ろうとしたとたん、急に気を失って倒れてしまったんだ」
「俺が……?」
「彼女はテスタロッサさんを突き飛ばして走り去った。この足じゃとても追えそうになかったし、僕には何もできなかったよ……たぶん」
なぜか自信のなさそうな声だった。彼も混乱している様子だ。宗介は肩で息をしながら立ち上がり、倒れたままのテッサに駆け寄った。
殴られたほかは怪我もない。もちろん撃たれた痕跡も。さいわい無事なようだが――
「いま『たぶん』と言っていたな。どういう意味だ?」
「撃ち殺されるのを見た気がしたんだ。テスタロッサさんと君が……彼女に。でも錯覚《さっかく》だったんだろう。あるいは……くそっ、あの既視感だ。これまでの話から考えると、いまのは『ありえた未来』だったのかもしれない。カナメさんが凶行《きょうこう》に及《およ》ぶのを、僕たちは見たんだ。既視感はさっきから急に消えていたのに。なぜだろう?」
その通りだった。いつのまにか、あの既視感がなくなっている。さっき、このホールに入ってくるときまでは、浜辺《はまべ》に打ち寄《よ》せる波濤《はとう》のように襲《おそ》いかかってきたというのに。
「千鳥……」
かなめが消えたはずのホールの出口に、宗介はふらふらと歩き出そうとした。いますぐ追わなくては。
彼女はおかしくなっている。そうでなくては、彼女が俺を撃つはずがない。
「待つんだ、ソースケ。もう三分以上たってる。彼女を追うのは無理だ」
「放せ……!」
片足を引きずりながら制止《せいし》してきたレモンの手を、宗介は振り払った。
「冷静になれ! ここでバラバラにはぐれたら収拾《しゅうしゅう》がつかなくなる」
「か……彼女は病気《びょうき》なんだ。きっと正気を失って――」
「危《あぶ》ない!」
レモンが宗介に飛びかかってきた。二人がもつれ合って倒れるのと、彼らの周囲で銃弾がはじけるのはほとんど同時だった。
「……!!」
はげしい銃声がホールの中でこだまする。南側の入り口から入ってきた敵兵が撃ってきたのだ。距離はおおよそ一〇〇メートル。人数ははっきりとは分からなかった。
「とうとう追いつかれた」
気が動転して、最低限の警戒《けいかい》さえ怠《おこた》っていた。宗介は自分の愚《おろ》かさに舌打《したう》ちしながら、カービン銃で応戦する。手ごたえはなかった。この位置からでは、暗いし遠すぎる。敵の位置さえ定かではない状態だ。
「逃《に》げよう」
「ああ……!」
片手撃ちで牽制射撃《けんせいしゃげき》を加えながら、焼夷《しょうい》手榴弾を放り投げる。閃光《せんこう》と爆発。彼我《ひが》の間をさえぎる形で、強い炎《ほのお》と煙《けむり》の壁《かべ》が作られた。これなら暗視装置《あんしそうち》も赤外線スコープも役に立たないはずだ。
不自由な足に苦労しながら、レモンがテッサを助け起こそうとしていた。宗介は二人に駆け寄り、テッサを肩にかつぐと、いちばん近くのホール出口へと向かう。
「急げ!」
別方向からも射撃が襲ってきた。このホールは包囲されつつある。
「レモン、方向は分かるか?」
「こっちだ」
ホールから出てレモンが通路を先導《せんどう》する。T字路に当たるとレモンは北方向に急いでいった。立ち止まり、逡巡《しゅんじゅん》している宗介に彼が叫ぶ。
「なにをしてる!? 敵が来るぞ!」
宗介はレモンが向かおうとしている反対側を見ていた。マグライトで照らすと、埃《ほこり》の積もった床に新しい足跡《あしあと》が残っている。かなめの足跡だ。いますぐ一人で、全速力で追えばどうにかなるかもしれない。
「ソースケ!?」
テッサとレモンを残して、かなめを追うのか? 彼女の消えた方向には、敵が展開《てんかい》しているのは間違いない。ここで追うのはもはや無謀《むぼう》だ。レナードの口ぶりからして、少なくともかなめが殺されることはないはずだ。それにテッサとレモンの二人だけでは、脱出《だっしゅつ》するのは無理だろう。情報源《じょうほうげん》として有用なテッサはともかく、レモンが殺されるのはまず間違いない。
だが、かなめが。やっと出会えた彼女が――
「くそっ!」
理性《りせい》が感情に辛勝《しんしょう》した。
宗介は強い未練《みれん》を振り切り、きびすを返してレモンたちへと走った。
これ以上、無理に追っても犬死にするだけだ。いまは三人で脱出することを最優先《さいゆうせん》に考えるしかない。かなめを救い出す機会はきっとまた来る、必ず来る――そう自分に言い聞かせた。
「こちらでいいんだな?」
「たぶんね。北側の階段を上っていけば、プラントの裏側から地上に出られるらしい」
通路の角から顔を出した敵めがけて弾丸《だんがん》をばらまく。出来る限りの足止めを繰《く》り出しながら、宗介たちは地下|施設《しせつ》の『裏口《うらぐち》』を目指した。
自分がなにをしたのか、かなめにはよく分かっているつもりだった。
宗介も殺した。テッサも殺した。
確かに自分が撃ち殺した――そう思っている。
かわいそうな宗介とテッサ。彼らのことを思うと、胸が苦しくなる。
それ自体は辛《つら》く哀《かな》しいことだったが、あの二人にはもう用などない。薄《うす》っぺらい友達ごっこ、悲運の恋人《こいびと》ごっこなど、これ以上続けたところで何になるというのか? どうせこの世界は、そう遠くない将来《しょうらい》にやり直すことになるのだ。
なにが起きようと、だれが死のうと気にする必要はない。究極的《きゅうきょくてき》には、この自分さえ生きていればいいのだ。
まず状況《じょうきょう》を知らなければならない。
<アマルガム> のレナード・テスタロッサ。あの男はこうなることを承知《しょうち》していたのだろう。きっとお膳立《ぜんだ》ても進めているはずだ。以前の自分なら――ほんの一〇分ばかり前の自分なら、あの男が求める協力など全力で拒《こば》んだのかもしれない。
だが、いまは違う。
ようやく分かったのだ。とてもシンプルな解決方法《かいけつほうほう》が。ソフィアから託《たく》された使命。自分はこの世界を救える唯一《ゆいいつ》の人間なのだと、やっと理解した。その使命の崇高《すうこう》さと誇《ほこ》らしさを思うだけで、胸が熱いもので満たされてくる。
広い通路を一人で歩いていくと、男が待っていた。
レナードだ。古いパイプ椅子を通路の真ん中に置き、脚《あし》を組んで腰《こし》かけている。
「待った?」
「いや、それほどでもないよ」
レナードがにんまりと笑った。
「やっとお目覚めのようだな」
「うん。待たせてごめん」
彼女はほほえみ返し、優雅《ゆうが》な仕草で歩み寄ると、彼の襟首《えりくび》を両手でつかんで立ち上がらせた。
「準備は出来てるの?」
「もう少しだ。半年前から進めている」
「じゃあ行きましょう」
「どこへなりと。|わが姫《マイ・レディ》」
「すこし寒いわ」
レナードが自身の紅《あか》いコートを脱《ぬ》ぎ、かなめの肩にかけた。
「ありがと。優《やさ》しいのね。もう乱暴《らんぼう》はしないの?」
「必要なくなったからね。そうだろう?」
「ええ。もうわがままは言わないわ」
もう諍《いさか》いの必要はない。
配下の兵士たちが待っている通路の奥へ、二人は歩きだした。
手荒《てあら》に担《かつ》いで走っていたせいか、テッサは思ったより早く息を吹《ふ》き返した。最初は足元がおぼつかない様子だったが、すぐに気を取り直して自分で歩けると主張《しゅちょう》してくる。
「大丈夫なんだね?」
レモンが念を押す。
「ええ。あなたの傷の方がよほどひどいですし。それよりも、カナメさんは……」
「彼女は行ってしまった。俺たちを置いて」
出口への道を急ぎながら、宗介は言った。
「理屈《りくつ》は分からないが正気じゃなかった。いったい何が起きたんだ?」
「それは……」
テッサが口ごもる。
「説明してくれ! 彼女はどうしてしまったんだ!?」
強い苛立《いらだ》ち。声を荒げて彼女の細い肩をつかむと、テッサは一瞬《いっしゅん》びくりとして、後悔《こうかい》と悲憤《ひふん》の入り混じった表情を見せた。
「……すみません、大佐。その……混乱《こんらん》して」
「いいんです。わたしも同じですから」
「ここに来る前にレナードと会いました。奴《やつ》はなにかを知っている様子だった。自分が手を下さなくても、千鳥は自然とあの最深部に行くだろう――そして亡霊《ぼうれい》に会うと」
「そう。……彼は確信《かくしん》していたんだわ」
「なにをです」
「彼女がああなることをです。わたしには予想できなかった。それに、いまでもうまく説明できないんです。あの施設の中枢部《ちゅうすうぶ》には、一八年前に事故《じこ》を起こしたTAROSの被験者《ひけんしゃ》の『影《かげ》』のようなものが育っていました。未来と過去《かこ》とを行き来する精神波《せいしんは》が、オムニ・スフィアを通じて意識《いしき》の結晶《けっしょう》を作り上げたんです。その結晶が『ささやく者』の正体のはずでした。現在のわたしたちに情報を伝えている中継《ちゅうけい》アンテナのような存在です。わたしはそのアンテナを破壊するために、この廃墟《はいきょ》まで来ました。『ささやく者』さえなくなれば、これ以上、本来ないはずのブラック・テクノロジーの流入は途絶《とだ》えるはずだと」
「レナードは千鳥が『ささやく者』だと言っていた」
「いまはそうです。どんな手段《しゅだん》だったのか、どんな力が働いたのか――わたしにも分かりません。なぜ彼女だったのかも……」
ここまで散々《さんざん》現実離《げんじつばな》れした話を聞いてきたためか、宗介はすでに彼女の言葉が意味するものを理解しつつあった。詳《くわ》しい理屈など分からないが、なにが起きたのか、彼女がどうなってしまったのかは想像がついた。
「彼女の精神が乗っ取られた? その『ささやく者』に?」
テッサは肯定も否定もしなかった。ただ彼の前を歩きながら、肩を震《ふる》わせ、喉《のど》からしぼり出すような声でこう言った。
「ごめんなさい……」
悔恨《かいこん》と恥辱《ちじょく》、そして深い罪悪《ざいあく》感。それらが彼女を一斉《いっせい》に苛《さいな》んでいるようだった。
「気付けませんでした。こんなことになると知っていれば、どんな手段でも彼女を近寄らせなかったのに……全部、わたしの責任《せきにん》だわ」
慰《なぐさ》めの言葉が出てこない。
だとしても、なんとかならなかったのか?
君が付いていながら、むざむざ彼女を。
いまの宗介はテッサを強く責《せ》めたい衝動《しょうどう》を抑《おさ》えつけるので精一杯《せいいっぱい》だった。それが分かっているのだろう。テッサもそれ以上はなにも言わなかった。こうなっては、弁明《べんめい》も謝罪《しゃざい》も何の役にも立たないことを知っているのだ。
気まずい沈黙《ちんもく》に耐《た》えられなくなったのか、レモンが彼女を慰めた。
「それは違う、テスタロッサさん。君に付いていきたいと無理を言い出したのはこの僕だ。それに、だれにも予想できないことなら不可抗力《ふかこうりょく》じゃないか」
「ありがとう。でも、取り返しはつきません……」
うつろな声でテッサは答えた。
俺は最低だな、と宗介は思った。なぜ彼女を励《はげ》ましてやれない。なぜレモンのように『君のせいじゃない』と言ってやれない。自分だってこれまで数え切れないほどのミスを犯《おか》してきたのに、どうして怒《いか》りを止められないのか。
わかっている。
すべて彼女のことだからだ。
そこまで物分りがよくなれるほど、まだ執着《しゅうちゃく》を捨《す》て切れていない。
暗い通路を進みながら、宗介はだれにも聞こえないほどの小声《こごえ》でつぶやいた。
「千鳥……」
あと少しだったのに。
次に君に会えるなら、そのとき俺はどうしたらいいんだ?
カリーニンの耳に無線が入る。
『こちらアルファ・リーダー。区域《くいき》F3で敵三名を発見。男性二名、女性一名。交戦したが見失った。死者なし。軽傷《けいしょう》一名。追跡《ついせき》を続行』
ようやく最深部に到達した部下から、宗介たちを取り逃がしたとの報告だった。『女性一名』とは、おそらくテレサ・テスタロッサのことだろう。
「そのまま追跡を続行しろ。無理に制圧《せいあつ》しようとするな。足を遅《おく》らせるだけでいい。女は可能な限《かぎ》り殺すな。情報になる」
『アルファ了解』
銃声混じりの無線が切れる。
中継機を介《かい》しても受信状態が悪い。こんな地下迷宮で数十人の部隊を動かすのは、彼にとってさえ骨《ほね》の折れる作業だった。しかもついさっきまでは、兵が混乱して施設の最深部に近づくことさえ困難《こんなん》だったのだ。
ほかでもない、あの正体不明の既視感のためだ。
兵が正気を失うほどの害ではなかったが、各ユニット間の通信と連携《れんけい》に支障《ししょう》が生じるのには十分すぎる問題だった。一度発した命令を聞き直してくる者が続出し、自分の位置や状況をうまく説明できない者が後を絶《た》たなかった。その混乱が、地下施設の奥に進めば進むほど頻発《ひんぱつ》してきたのだ。しまいにはあやうく同士討《どうしう》ちになりかけたチームも出てきたが、寸前《すんぜん》にカリーニンが警告を発して難《なん》を逃《のが》れる一幕《ひとまく》さえあった。
その既視感が、先刻《せんこく》から消えうせている。
施設の最深部で、名状《めいじょう》しがたいなにかが起きたのではないか――カリーニンは思考《しこう》の片隅《かたすみ》でそう推測していた。おそらくは、レナードから聞かされていたことが起きたのだ。千鳥かなめはやはりあのヘリの墜落《ついらく》からも無事で、いかなる運命の導《みちび》きか最深部に独力《どくりょく》で到達し、そこで『ささやく者』と――
(いや、深くは考えるまい……)
なにが起きたにせよ、おかげで各ユニット間の意思疎通《いしそつう》はスムーズになった。先行したアルファ・チームは宗介たちの逃走《とうそう》を許《ゆる》してしまったようだが、地下からの出口付近にはすでに別のチームを配置してある。どれだけ技能に優《すぐ》れていようと、宗介が単独《たんどく》で脱出する術《すべ》はない。
部下は躊躇《ちゅうちょ》なく彼を射殺《しゃさつ》するだろう。テレサ・テスタロッサも抵抗《ていこう》すれば同じ運命をたどるはずだ。
死なせてもいいのか?
何度も繰り返してきた自問が鎌首《かまくび》をもたげる。
構《かま》わない。これで死ぬなら、そこまでの話だろう。心のどこかにあった迷いもなくなって、いっそ好都合だとさえいえる。
あのメリダ島での襲撃《しゅうげき》のとき、彼は以前から独自《どくじ》に用意しておいた『最悪の場合』のための備蓄物資《びちくぶっし》の位置データを、<デ・ダナン> のデータバンクから削除《さくじょ》しないでおいた。レナードの予言――太陽活動を利用した襲撃が的中したことを知らされてもなお、まだ半信半疑《はんしんはんぎ》だったからだ。
結果として、あのときの迷いが <デ・ダナン> に必要な補給物資を与えることになり、彼らをここまで生き延《の》びさせている。
だが、いまは違う。手加減《てかげん》は一切《いっさい》加えない。
自分はレナードの目的に賛同し、彼のために働くと決めたのだ。かねてより消し去れなかったあの違和感。
こんな世界ではなかったはずだと、彼は感じている。
アンドレイ・カリーニンは強く感じている。
だからこれから先、なにがあろうと、彼らの目的を妨害《ぼうがい》する者は遅疑《ちぎ》なく排除《はいじょ》されなければならない。たとえそれが、かつての仲間たちであろうとだ。
そして宗介――おまえもその例外ではない。ここで死ぬ運命ならばそうなのだろう。だがそうでなかったのなら――その上で私を止めるつもりならば、おまえは覚悟《かくご》が必要になる。人間ならばだれでも直面するはずの、究極の覚悟と犠牲《ぎせい》が。
「止まれ!」
かたわらの部下の一人が、銃を構え叫んだ。
たちこめる埃《ほこり》と闇の向こうから、二人の男女が現れる。レナード・テスタロッサと千鳥かなめだった。
「撃つな」
強く制止《せいし》するまでもなかった。二人の姿がはっきりと見えて、その部下もすぐに銃を下ろす。AS操縦服姿のレナードと、紅いコートを羽織《はお》ったかなめが、しっかりとした足取りで向かってくる。どうやら合流に成功したようだ。
だが――
なんなのだろうか、千鳥かなめの不自然なまでの余裕《よゆう》は。まるで世界を支配する王者のような歩き方ではないか。わずか一七|歳《さい》の少女のはずなのに。
いや、事実なのだろう。彼女こそが王者なのだ。
自分やファウラーたちは、彼らの持つ力のおこぼれに預《あず》かろうとしている哀《あわ》れなしもべにすぎないのだから。
「ご無事でなによりです」
「ああ。君たちもね」
レナードが肩をすくめてみせた。
「サガラたちは北側の非常路《ひじょうろ》から脱出するつもりのようです。じきに包囲も完了《かんりょう》するでしょう」
「サガラ?」
[#挿絵(img/10_363.jpg)入る]
千鳥かなめが眉《まゆ》をひそめて口を挟んだ。
「カリーニンさん、間違ってるわ。ソースケとテッサはあたしが殺したから」
「なんですと?」
「確かよ。すぐ目の前で、きっちりと頭を撃《う》ちぬいたの」
それが部下からの報告《ほうこく》と違うことよりも、彼女がこうして平然と宗介たちの死を告げていることに彼は当惑《とうわく》した。
「ですが、部下はたったいま――」
言いかけたカリーニンを、レナードが片手《かたて》を挙《あ》げてさえぎった。
「どうだっていいだろう、そんなことは」
「しかし――」
「いいんだ。ミスタ・|K《カリウム》」
黙《だま》れというなら、従《したが》っておこう。カリーニンはそれ以上|反論《はんろん》しなかった。
「……身元不明の敵三名[#「身元不明の敵三名」に傍点]が逃走《とうそう》中です。いずれ制圧できるかと」
「そう。じゃあ……好きにしてくれよ」
「はい」
「この辛気臭《しんきくさ》い廃墟には、もう何の用もない。さっさと撤収《てっしゅう》の準備《じゅんび》も進めておいてくれよ」
「了解《りょうかい》しました」
「じゃあね、カリーニンさん」
悠然《ゆうぜん》とその場を去っていく二人の後ろ姿を見送りながら、カリーニンは言い知れない不吉《ふきつ》さを感じていた。
いや、それだけではない。喪失感《そうしつかん》もだ。
カリーニンは地上で待機中のカスパーに連絡《れんらく》をとった。
「ミスタ・|Sn[#「Sn」は縦中横]《ティン》。状況を」
『配置についている。まだウェーバーは見えない』
「いずれサガラたちの救援《きゅうえん》に来るはずだ。見つけ次第《しだい》、排除《はいじょ》しろ」
『もちろんだ――』
通信機の向こうでカスパーが笑った。
『――楽しませてもらうよ』
<<小火器による銃声を検出《けんしゅつ》。一一時。|E4《エコーフォー》に認定《にんてい》>>
AIの報告を受けて、コックピットのクルツがつぶやいた。
「動きがあったぞ」
いま、彼のM9は <ヤムスク11[#「11」は縦中横]> の北東三キロの地点に潜伏《せんぷく》している。二時間以上をかけて、敵に探知《たんち》されないよう、ゆっくりと匍匐前進《ほふくぜんしん》で接近《せっきん》してきたのだ。ECSと通常のカモフラージュを使い分け、データリンクも最小限《さいしょうげん》におさえ、極限まで注意深く。
接近できるぎりぎりの地点まで到達してから、クルツは機体を停止させ、近くに露出《ろしゅつ》した岩石にM9の両手をあて、超高感度《ちょうこうかんど》の振動《しんどう》センサで周辺の音響《おんきょう》を測定させていた。
そこで反応《はんのう》があったのだ。
プラントの地下に断続的《だんぞくてき》な銃撃音。足音まで検出することは出来ないが、異《こと》なる勢力《せいりょく》が交戦していることは間違いなかった。
特定の射撃音《しゃげきおん》――目標E4を抽出《ちゅうしゅつ》させ、増幅再生《ぞうふくさいせい》させる。
反響《はんきょう》のせいではっきりしないが、この銃声は宗介が持っていったはずのカービン銃の音だ。そしてこの射撃のリズム。ほとんどの人間には分からないだろうが、クルツには分かる。これは宗介のリズムだ。
「あの野郎《やろう》、やっぱり生きてやがった」
ほくそ笑むと、クルツは音声入力のスイッチを入れた。
「E4の詳《くわ》しい方位と距離《きょり》、ベクトルを推定《すいてい》しろ」
<<了解。……完了。推定、方位261。距離1800。ベクター73[#「73」は縦中横]―10[#「10」は縦中横]>>
スクリーン上のデジタルマップにデータが投影《とうえい》、拡大される。
深度は分からなかったが、宗介はこちらに移動《いどう》している。駆《か》け足で敵に射撃を加えながら。単独ならもっと足も速いはずだから、負傷者《ふしょうしゃ》か女子供を伴《ともな》っていると考えるのが自然だ。テッサも一緒《いっしょ》だと考えていいだろう。
プラントの裏口《うらぐち》から脱出しようとしているのだ。
だがまずい。<ヤムスク11[#「11」は縦中横]> の地下施設から通じる山稜《さんりょう》の出口付近には、すでに一個分隊《いっこぶんたい》の敵が展開している様子だった。こちらの支援がなければ、脱出は不可能だ。敵もそれを予想しているだろうし、当然のことだが――カスパーはどこかで自分が動きを見せるのを待っているはずだ。
味方の微弱《びじゃく》な電波を捕捉《ほそく》。
『ウル……り…ルズ6。……ルズ7より……6』
電波状態が悪いためにデジタルノイズが入っていたが、その声が宗介なのは間違いなかった。
『……こちらウルズ7。聞こえるか』
「ウルズ6だ。状況を」
軽口は抜《ぬ》きにして簡潔《かんけつ》に応《おう》じる。暗号化も発信源《はっしんげん》の秘匿措置《ひとくそち》も行っていたが、それでもこちらからの電波の発信は最低限にしたかった。
『プラントの地……から脱出中だ。現……地は32[#「32」は縦中横]a―71[#「71」は縦中横]a付近の地下通路。敵と…戦しながら西北西《せいほくせい》に向かっている。|テッサ《アンスズ》とレモンも……。レモンは負傷中。地上はどうなっている』
移動しながら喋《しゃべ》っているのだろう。次第に電波が強くなってきている。
「33[#「33」は縦中横]c―70[#「70」は縦中横]a付近に敵が待ち受けている。およそ一個分隊だ」
『支援《しえん》は可能か』
宗介がすぐに質問《しつもん》してきた。観測《かんそく》できるということは、射撃も可能なのだと判断したのだろう。
「可能だが、ラムダ・ドライバ搭載《とうさい》型ASがどこかに隠れている。狙撃《そげき》兵だ。先に片付ける必要がある」
このまま宗介たちを脱出させるための支援|射撃《しゃげき》を始めたら、クルツが位置を悟《さと》られてカスパーの餌食《えじき》になる。つまり、クルツがカスパーを仕留めてからでなければ、宗介たちは脱出できないということだ。
『狙撃兵だけではない。レナードの機体も出てくる可能性がある』
東京で <アーバレスト> を大破《たいは》させた、あの最強の機体がここにいる。どうやらテッサの兄貴《あにき》は生きていたらしい。どう控《ひか》えめに見ても厳しい状況だった。
「わかった。だが最初の脅威《きょうい》は狙撃兵だ。そいつさえ潰《つぶ》せば、どうにかおまえのところに <レーバテイン> を届《とど》けることができる」
こうなったらゲーボ6に危険《きけん》を冒《おか》してもらうしかないだろう。まずカスパーのASを仕留めてから、宗介たちを待ち伏せている敵を全力で排除《はいじょ》する。同時にECSで不可視化したゲーボ6が宗介の前に <レーバテイン> を落とす。レナードが対応する前に。
レナードの機体を倒せるかどうかは分からなかったが、<レーバテイン> さえ動けば脱出の道も開けるかもしれない。
『了解。こちらは出口付近で可能な限り持ちこたえてみる。幸運を』
「ああ。待っていろ」
返答しながらも、クルツは心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》が高まるのを感じていた。
俺が? あのカスパーを?
果たしてそんなことができるのか?
だが、やらなければ宗介たちがあの世行きだ……。
きょう一日で、どれくらい階段を上り下りしたのか見当もつかない。
追ってくる敵に射撃を加え、苦しげなレモンに肩《かた》を貸《か》し、階段を上がってからまた発砲《はっぽう》する。その繰り返しだ。
「クルツたちは無事です。いまのところは」
「ええ」
携帯端末《けいたいたんまつ》のデジタルマップを開き、テッサがうなずいた。
「いま彼の機体からデータが来ました。この先の地上に待っている敵兵力の配置|状況《じょうきょう》です。発見できている限りで一個分隊」
最適《さいてき》の倍率《ばいりつ》にしたデジタルマップをテッサが見せる。確認《かくにん》できる限りで一一名。いずれもクルツ機のパッシブセンサが捉《とら》えた敵兵とその位置が示されていた。
宗介は客観的に判断した。
このまま階段を上がっていけば、いずれ丘陵の斜面《しゃめん》に建設された非常口《ひじょうぐち》から出ることになる。その非常口の外にも多数の家屋が建っており、敵兵はその屋内に分散して配置されているようだ。
宗介たちが出てくるはずの非常口を扇状《おうぎじょう》に包囲する形である。
自分たちの損害《そんがい》を抑え、可能ならばこちらを生け捕《ど》りにするつもりなのだろう。そうでなければ、外の敵も一斉にこの通路になだれ込んできて挟《はさ》み討《う》ちをしかけてくるはずだ。
いずれにしても、地上に出ていけば一〇人分の火力が集中して襲いかかってくるのは確実だ。おいそれと頭を出すこともできそうにない。
しかも相手はあのカリーニンの部下だ。照準は正確だろうし、統制《とうせい》もとれていることは間違いなかった。
「突破は無理だ」
テッサもレモンも素人《しろうと》ではない。さすがに宗介から状況を知らされて取《と》り乱《みだ》すことはなかった。
地上に待機しているM9の支援があれば脱出は可能になる。クルツが周辺の家屋に砲弾を叩き込むことで、敵の半数以上が無力化されるだろう。それに爆煙《ばくえん》と埃が視界《しかい》をさえぎってくれるはずだ。その混乱に乗じて <ペイブ・メア> が全速力で接近、<レーバテイン> を投下する。宗介が乗り込むまで二〇秒もかからない。いまの <レーバテイン> の力なら、レナード相手に時間を稼《かせ》ぐこともできる――かもしれない。
だが、鍵《かぎ》となるクルツが攻撃を封《ふう》じられているのだ。
彼が発砲したとたん、その位置を見抜《みぬ》いて敵の狙撃型ASがクルツ機を撃破してしまうだろう。だから、まず彼は敵の狙撃兵を倒さなければならない。レナードはその後だ。
「じゃあ、どうするんだ?」
生気のない声でレモンが言った。負傷による消耗《しょうもう》と疲労がほとんど限界《げんかい》に近づいているようだ。
「クルツがなんとかしてくれるまで、出口で戦いながら待つ」
「彼次第か。腕は確かなのかい?」
「おまえの想像も及《およ》ばないレベルだ。だが……それでも厳《きび》しい」
通常型ASであるM9がラムダ・ドライバ搭載機《とうさいき》を倒す手段《しゅだん》はただひとつ、敵の不意を撃つことだけだ。初弾で仕留《しと》め損《そこ》なったら、それで終わりになる。しかもあの口ぶりからして、問題のラムダ・ドライバ搭載機はかなりの強敵らしい。
「弾薬はあとどれくらいもちます?」
テッサがたずねた。彼女の声にも疲れがにじんでいた。
「節約しても五分かそこらです」
宗介は答え、カービン銃のセレクターを連射《れんしゃ》から単射に切り替《か》える。そして拳銃をホルスターから抜き、くるりと回してレモンに渡した。消耗《しょうもう》はしているだろうが、テッサよりは射撃もうまいだろう。
「長く使っている銃だ。大事に使え」
「分かった」
「大佐|殿《どの》は通信と監視《かんし》を」
「……ええ」
テッサは不服を一切|唱《とな》えなかった。
細く長い上り坂のトンネルが続く。もうこの先に階段はないようだった。三人はよろめき、支《ささ》え合いながら暗い通路を進んでいく。宗介が時おり背後に向かって射撃を加え、その間にテッサがレモンに肩を貸して前へと急いだ。
行き止まりに着く。トラップがないことを確認してから腐《くさ》りかけた鉄扉《てっぴ》を蹴《け》り開けると、その先はじめじめとした小部屋だった。最低限の空調装置《くうちょうそうち》と清掃具のロッカーがあるだけの空間だ。彼らが出てきた対面に分厚《ぶあつ》い扉《とびら》があり、その向こうが地上のようだった。
「ここで食い止めるぞ。レモンは後ろだ」
「ああ」
外への扉は簡単《かんたん》に開いた。わずかな隙間《すきま》から新鮮《しんせん》な外気が流れ込んでくる。日没《にちぼつ》からずいぶんと時間が経《た》っているため、外も真っ暗だった。
「!」
すぐそばに着弾。非常口の外に布陣《ふじん》していた敵が撃ってきたのだ。ほんのすぐ手前で目もくらむような火花が散り、はげしい耳鳴りが襲ってくる。射手《しゃしゅ》は五〇メートルほど向こうの家屋の戸口から撃ってきているようだった。
銃弾を惜《お》しみながら応戦する。敵がこちらに殺到《さっとう》してこない程度《ていど》に。
「後ろからも来たぞ!」
元来た通路に拳銃を突き出し、レモンが鋭《するど》く叫んだ。
「時間を稼げ! 可能な限り――」
レモンをかすめ通路から飛び込んできた銃弾が、小部屋の中で跳《は》ね回《まわ》った。
「くそっ!」
レモンが発砲する。宗介が射撃する。テッサが小部屋の隅《すみ》でうずくまる。激しい銃声と轟音《ごうおん》、耳をつんざく金属音《きんぞくおん》が三人の周囲で暴《あば》れまわる。
敵の練度《れんど》は高い。こちらの時間稼ぎなどお見通しなのだろう。このままでは、じりじりと弾薬を消耗して制圧されてしまう。
「挟《はさ》まれて攻撃を受けている! クルツ、まだか!?」
ウルズ7[#「ウルズ7」に傍点]の催促《さいそく》は右から左へと通り抜けていった。
ゲーボ4と6からの報告も、自機のAI『ユーカリ』からのメッセージも、すべて彼の頭を通り過ぎていった。
スナイパー同士の戦いは、先に敵を発見できるかどうかで決まる。
入念な偽装《ぎそう》を凝《こ》らした者同士の、知恵《ちえ》と知恵、集中力と集中力がぶつかり合う神経戦《しんけいせん》だ。ほかの問題に意識《いしき》を奪《うば》われている余裕《よゆう》はまったくない。
スクリーン上の暗視映像《あんしえいぞう》と付近のマップ、電子情報《でんしじょうほう》、気象条件《きしょうじょうけん》、すべてのデータを見ながら、敵の位置を推測《すいそく》する。
どこだ――
熱源《ねつげん》は?
カスパーの機体がECSを搭載しているとしても、最低限のジェネレーターの排気熱《はいきねつ》はあるはずだ。人間の活動がほとんどないこの廃墟では、決して無視《むし》できない痕跡を残しているに違いない。だが赤外線センサの映像は、青から黄緑までの色彩《しきさい》が複雑に入り混じっているだけで、敵機の位置を明確《めいかく》に示してはくれなかった。
音は?
ここまで静かな廃墟なら、あるいはパラジウム・リアクターの冷却装置《れいきゃくそうち》の駆動音《くどうおん》を捉《とら》えることができるかもしれない。だがM9の高感度指向性《こうかんどしこうせい》マイクがキャッチした音源は、宗介たちの銃撃戦ばかりだった。敵がこちらの静粛性《せいしゅくせい》と同等だとすれば、音源で探知《たんち》することはやはり無理のようだ。
電子的手段《でんしてきしゅだん》は?
これも無理だ。当たり前の話だが、敵もレーダーを使っていない。アクティブ式の対ECSレーダーを使うのは、暗闇《くらやみ》の中でサーチライトを点《つ》けるようなものだった。そして『妖精《ようせい》の目』はラムダ・ドライバの力場をまったく検知《けんち》していない。発見されるのを避《さ》けるために停止しているのだろう。つまり初弾で仕留めることができれば勝てるわけだが。
どこなんだ――
地形と高低差、敵のクセを読むしかない。科学技術などくそくらえだ。
カスパーの立場で考えてみる。
廃墟の北東で宗介たちの戦闘が起きていることを、奴ももちろん知っている。自分と同様、必要ならば支援射撃が加えられるポジションにいるはずだ。だから宗介たちのいる地点が死角になっている一帯にはいない。丘陵の反対側はなしだ。
だとしても、可能な限りの高所に陣取《じんど》りたいだろう。それは間違いない。高所に位置しなければ、向こうもこちらを発見できないからだ。
廃墟の中のビルか? プラントの東面、パイプやサイロの隙間からか?
考えられる地点は十数か所だった。まだ考慮《こうりょ》する要素《ようそ》が足りない。
敵は自分だけでなく、輸送ヘリの接近も監視《かんし》しなければならないはずだ。それに他のM9がどこかに潜《ひそ》んでいる可能性も。だからプラントの奥深《おくふか》くに陣取っているとは考えにくい。これでまた候補《こうほ》が半分|減《へ》った。だがまだ足りない。
あの機体の自重と足場はどうだ? 射撃後の移動|経路《けいろ》は?
大口径の狙撃砲を撃てば、その射撃が周辺の土ぼこりを巻き上げ、二発目からの照準を困難《こんなん》にする。ビルの中は考えにくい。脆《もろ》くなった建材《けんざい》が崩れてくる問題もある。
その他の細かい要素を徹底的《てっていてき》に頭の中でリストアップしていって、クルツはおおよその見当をつけてみた。
「三か所だな」
廃墟の行政ビルの屋上付近。中心部の巨大なレーニン像《ぞう》。そして北部のプラントにそびえる鉄塔《てっとう》。そのいずれかなのではないか。
あとは奴の性格《せいかく》だろう。
奴は決して派手好《はでごの》みではない。その行動に関する限り、カスパーは昔からいるごく堅実《けんじつ》な狙撃手だ。もっとも発見されにくい場所に隠れ、もっとも狙いやすい位置から射撃する。たとえラムダ・ドライバ搭載機を使っていようが、ごり押しや運頼《うんだの》みはしない。
だとすれば、奴はあの行政ビルの屋上にいるのでは?
足場がしっかりしており、周辺の遮蔽物《しゃへいぶつ》に不自由せず、位置的にも最も広い射界《しゃかい》が確保できる。別方向からの攻撃にもすぐ対応でき、味方の輸送ヘリが離陸する際はその援護が最も容易な位置だ。
だが、そこまですんなりと予測できる場所にあの男が陣取るだろうか?
「最大望遠だ」
<<了解>>
問題のビルを拡大投影《かくだいとうえい》させる。赤外線、光増幅《ひかりぞうふく》、パッシブ電波、すべてのモードで監視してみたが、確信は持てなかった。いるようにも見えるし、いないようにも見える。ほかの二か所もパッシブセンサで監視したが、似たようなものだった。あとすこし観察していれば、分かりそうなのだが――
三つのうちのどれか。そう仮定《かてい》しておくとして、ここから先は勘《かん》の勝負だ。
カスパーは合理的な狙撃兵――それは間違いない。そして俺のことを知悉《ちしつ》している。ここまで考えてきた過程《かてい》についても、当然|予測《よそく》しているだろう。
だとしたら、別の場所か? いや、それすら読んでいたら?
『ウルズ6、まだか!? ソースケたちがやられちまう!』
切迫《せっぱく》したゲーボ6の声。彼らは山稜に隠れた位置で匍匐《ほふく》飛行して待機している。クルツはその催促《さいそく》を無視しようとして失敗した。どうにか抑えこんでいた焦《あせ》りの気持ちが、ふたたび胸の中で大きくなってくる。
「待ってくれ。あと少しだ」
敵にあって自分にない、勝敗を分ける決定的な要素がある。
それは時間だ。
奴はじっくりこちらを探《さが》せる。味方の危険を気にかける必要はない。だがクルツは違う。宗介がいくら腕利《うでき》きでも、弾薬には限りがある。抵抗ができなくなるまで、あと数分もないはずだ。それまでに――いや、今すぐにでも敵を倒さなければならない。
急がなければ。
中心街のビルか、プラントの鉄塔か。
すでにクルツはこの二か所に候補《こうほ》を絞《しぼ》っていた。カスパーはどちらかにいる。
ビルの屋上の赤外線映像に、わずかに温度の高い黄緑の領域《りょういき》。鉄塔の頂点付近にも、どうも匂《にお》う色違《いろちが》いのパターンがある。いずれもASのサイズにほぼ合致《がっち》している。
どっちなんだ? 奴《やつ》はどっちにいる……?
『ウルズ6、急いでくれ!』
ゲーボ6の催促。さらに焦燥感《しょうそうかん》が募《つの》る。
温度が高いのはビルの方だ。それに、あそこだけ風の流れが不自然な気がする。不可視化したASを、風に舞《ま》う埃《ほこり》が避《よ》けて通っているのではないか。温度|分布《ぶんぷ》の形も伏《ふ》せ撃《う》ち姿勢《しせい》の人型のようにも見える。いや、きっとそうだ。そうに違いない――
決断。瞬時《しゅんじ》に照準《しょうじゅん》する。
赤外線モード。二四倍。マニュアル制御《せいぎょ》。距離、三三九〇メートル。風速は南東から五ノット程度。湿度やコリオリ力は、七六ミリ砲弾のパワーならほとんど無視していい。誤差《ごさ》は三〇センチ以内だ。
温度分布の中心部から二メートル右を狙う。おそらくそこがコックピットだ。
(カスパー。もらったぜ)
心の中でつぶやき、トリガーを引く。
ずしん、と重たい衝撃。クルツ機の構えた七六ミリ砲が火を噴《ふ》き、周囲の低木が同心円|状《じょう》にしなった。眼前《がんぜん》で装弾筒《そうだんとう》が吹き飛び、ダーツ型の徹甲弾《てっこうだん》が闇夜《やみよ》を切り裂《さ》きまっしぐらに突き進んでいく。
命中。
いや――
コンクリートが粉々になるのが見えた。爆発的に舞い上がる大量の瓦礫と砂埃《すなぼこり》。だがASはいない。ただのビルを砲弾が吹き飛ばしただけだ。
だったら――
「…………っ!」
すぐさま鉄塔《てっとう》に照準を向けたが、もう遅かった。
彼が見たのは、鉄塔の頂点《ちょうてん》にぶら下がり、すでに発砲を終えた赤い機体の姿だった。やけにゆっくり、こちらへと向かってくる敵弾《てきだん》。
被弾。
クルツの射撃から、即座《そくざ》に彼の位置を察知し発砲したカスパーの砲弾は、的確《てきかく》に彼の機体に命中した。
彼のM9はうつ伏せの姿勢でいた。だから敵の砲弾は、まずM9の頭部――人間でいったら額《ひたい》の部分にあるレーダー機器を貫通《かんつう》し、後頭部の駆動系《くどうけい》と動力伝達系を引き裂《さ》きながら突進して、胴体《どうたい》上面の装甲《そうこう》から胸部《きょうぶ》のコックピット・ブロック後部に侵入《しんにゅう》し、爆発的な運動エネルギーと衝撃波《しょうげきは》で内部の電子機器と衝撃吸収《しょうげききゅうしゅう》システム、そしてその奥の操縦兵に破壊を撒《ま》き散らしながら、なお前進して機体の背中――腰部《ようぶ》のすぐ上から飛び出していって、空中に四散した。
クルツには眉《まゆ》ひとつ動かす時間も、舌打《したう》ちひとつする余裕《よゆう》もなかった。
ECSを解除《かいじょ》、ラムダ・ドライバの力場を展開しながら、他者からの攻撃がないか警戒する。敵ASがほかにいないことを確信すると、カスパーはカリーニンに報告した。
「ミスタ・|K《カリウム》。いまウェーバーを仕留めた」
『確かだな?』
「撃破した。あの損傷《そんしょう》では即死《そくし》だな」
『……そうか。では北東で抵抗中の敵を制圧してくれ』
「女は生かして捕らえろ、だったな?」
『可能な限りだ。あとは殺して構わん』
「了解」
交信を終えると、カスパーの <エリゴール> は鉄塔を蹴《け》って北東に跳躍《ちょうやく》した。
かつての部下が殺されたと聞いても、カリーニンの声に感傷《かんしょう》はなかった。そしてカスパー自身も、これといった後ろめたさを感じていなかった。むしろそれどころか、滅多《めった》に感じることのない高揚感《こうようかん》が彼を強く興奮《こうふん》させていた。
ウェーバー。惜《お》しかったな。
確かに中央街のあのビルは『第一候補《だいいちこうほ》』だった。相手がお前だと知っていなければ、俺もあそこに陣取《じんど》ったことだろう。だが避《さ》けた。必ずおまえが目を付けると思ったからだ。あのビルの屋上には、部下の一人に小さなコンロを焚《た》かせておいた。最低限の熱量《ねつりょう》だったろうが、おまえが疑《うたが》うには十分だったはずだ。
はたして、おまえは引っかかった。
時間が無かったのだろう。焦《あせ》っていたのだろう。
だがおまえのミスだ。おまえは二発目もどうにかなると、心の片隅《かたすみ》で期待していたのではないか? あの瞬間にもっとも必要な、究極の集中力が足りなかったのではないか? そう、おまえは決断が早すぎたのだ。せめてあと一分はじっくり吟味《ぎんみ》すべきだった。そうすれば俺のペテンにも頭が回ったかもしれないのに。
残念だ、わが生徒《せいと》よ。だが楽しかった。
おまえは天賦《てんぷ》の才の持ち主だったと言えるだろう。
五年前、雇《やと》い主の一人が『面白《おもしろ》いガキがいる』と言って連れてきたのがおまえだった。たしか、元日本赤軍のテロリストだったか? そいつに殺された家族の仇《かたき》を討《う》ちたいと言っていたな。試《ため》しに放り込んでみた実戦で、おまえはその片鱗《へんりん》を見せた。観察力と集中力、そして弾道をイメージする想像力において、おまえには稀有《けう》な素質《そしつ》があった。
だから入門を許《ゆる》したのだ。
なるほど、おまえは天才だった。われわれ狙撃手たちが二〇〇年の長きに亘《わた》って育ててきた技術《ぎじゅつ》と知恵《ちえ》を、おまえはみるみる吸収していった。ほんの一年――たった一年で、おまえは部隊でも並《なら》ぶ者のいない射手になることができた。
だが、『幽霊《ゆうれい》』は呼べなかった。
作戦立案、地図読解、通信、擬装《ぎそう》、観察……あらゆるノウハウを習得し、ライフルと弾薬、そして弾道の奥義《おうぎ》を学んだ。
だが生徒よ。おまえに『幽霊』は訪《おとず》れなかった。
すべてと一体化したあの瞬間。森羅万象《しんらばんしょう》、物質のすべてを掌握《しょうあく》したと確信し、時の流れの前後関係さえそこにはなく、空気分子の一つ一つの動きすら支配できるあの瞬間のことを、おまえは知らずに終わった。『神を見る』といってもいい。それは起きるべくして起きるのだ。
だから究極的には、いまのような駆け引きなど関係ない。おまえにはそれが分からない。そんなおまえだからこそ、『幽霊』は来なかったのだ。
おまえの復讐《ふくしゅう》にも手を貸してやった。技術のほとんどを伝授《でんじゅ》してやった。だがおまえは、そこまでしてくれた師《し》に背を向けて去っていった。クルツ・ウェーバー。おまえはとんだ半端者《はんぱもの》だ。
生徒よ。残念だった。
カスパーの <エリゴール> は廃墟を二度、三度と跳躍し、まっしぐらに廃墟の北東の戦闘現場へと急行した。
南側、かなりの遠くから大きな爆発音が連続《れんぞく》したのが宗介にも聞こえた。AS用の大口径狙撃砲の射撃音が二つ。
そして――機体が被弾した爆発音が一つ。
宗介の位置からでは見えないし、見ようと頭を出したらすぐに撃たれる。だから推測するしかないことだったが、どうやら瞬間的な狙撃戦の結果、ASが一機撃破された様子だった。
「ウルズ6。状況を」
応答はなかった。
「ウルズ6。敵はどうなった?」
やはり応答はなかった。まさか――
「クルツ、応答を――」
「ADM(先進型《せんしんがた》データモデム)のリンクが途切《とぎ》れました」
端末《たんまつ》を操作《そうさ》していたテッサがつぶやいた。
「すべてのデータ転送《てんそう》が止まってます。救難信号《きゅうなんしんごう》さえ出ていないわ。これはM9の機能が停止しているとしか……」
「やられたのか?」
背後に応戦中のレモンが怒鳴《どな》った。
「分かりません。でも、おそらく……撃破されて……」
「奴がそう簡単《かんたん》にやられるわけがない」
小屋の外へと射撃しながら宗介は言った。
「こんなことは何度もあった。大丈夫だ」
残弾がもうほとんど無かった。二〇発かそこらだ。これ以上、敵歩兵の攻撃を抑えつけるのは不可能だった。
「ええ。でも、この状況では――」
「あきらめるな、テッサ」
「…………」
「まだやることがあるんだろう。必ず連れて帰ってやる。弱音は吐くな」
「……はい」
だが宗介のやせ我慢《がまん》を打《う》ち砕《くだ》くかのように、敵の赤いASが襲来《らいしゅう》した。彼らの籠城《ろうじょう》する小屋の正面、開けた道路の真ん中に着地した。ラムダ・ドライバ搭載型の機体。<コダール> タイプの強化改良モデル、<エリゴール> と呼ばれているASだ。
(まさか……)
大口径の七六ミリ砲を装備《そうび》した、狙撃仕様。クルツが警戒していた狙撃兵が、こうして堂々と姿を見せたということは――
「クルツ――」
「ウェーバーさん。そんな……」
「伏せろ!」
赤い <エリゴール> が腕を振りかぶり、宗介たちの隠れている小屋をなぎ払《はら》った。老朽化《ろうきゅうか》したコンクリートの壁《かべ》と、さび付いた屋根がばらばらに引き裂かれる。とっさに伏せることで辛《かろ》うじて難《なん》を逃《のが》れた宗介たちの姿が、外から丸見えになってしまった。
「うっ……」
崩《くず》れたコンクリートの破片《はへん》に埋《う》もれて、レモンが弱々しいうめき声を漏らす。
『救援は来ない』
ASの外部スピーカーから男の声がした。
『クルツ・ウェーバーは死んだ。諦《あきら》めろ』
男の言葉を疑《うたが》う理由はなかった。なによりも、こうして狙撃兵が姿を見せているのだ。これは彼らの戦闘が終了したことを意味している。
「馬鹿《ばか》な……」
『女は助けてやる。こちらによこせ。差し出さないのなら、やむをえない。一緒に殺す』
テッサと目が合う。彼女はすでに精神《せいしん》的なショックを強引《ごういん》にねじ伏せていた。強い意志《いし》のもとに、かすかに首を振って唇《くちびる》を『|だめ《ノー》』の形にした。
味方の情報を渡さない――その意味では、確かにテッサを道連れにするのは理にかなっている。彼女自身もそれを望んでいる。しかし彼女が生きていれば、いずれ味方から救出されて <アマルガム> に反撃するチャンスも来るのではないか? そして、おかしくなってしまったかなめをどうにかしてくれるのではないか? ほとんど盲目《もうもく》の希望といってもいい心の動きが、宗介を迷わせた。
そのとき、耳につけた携帯《けいたい》用のFM無線のバンドにささやきかける者がいた。
『ソースケ……聞こえるか……』
途切《とぎ》れ途切れの弱々しい声。
クルツだ。生きていた。
「ああ、聞こえる」
『……ヘマやった。機体はオシャカだ。俺も……たぶん、もう長くない……』
目の前が暗くなる。奴が自分の体についてそう言っているのだ。その通りなのだろう。M9が撃破され、彼も致命傷《ちめいしょう》を負《お》ったのだ。
『だが……一発くらいは撃てる。……いいか、ソースケ。その赤いASの操縦兵《そうじゅうへい》を、なんとか……外に出せ』
「外に? どうやって――」
『なんでもいい、やるんだ』
「…………」
赤いASがこちらを見下ろしている。後方に控《ひか》える歩兵たちは、警戒は解《と》いていないが銃撃は止《や》めている。こちらの弾薬は、カービン銃に一五発かそこら。あとは発煙弾《はつえんだん》が一つだけ。それでどんなハッタリが出来るというのか? 顔も名前も知らないあの狙撃兵を、どうやって機体の外に? あの狙撃兵は――
狙撃兵。そうだ――
「……やってみる」
無線にささやくと、宗介はカービン銃を地面《じめん》に放り捨《す》てた。そして腰からナイフを抜くと、すばやくテッサの腕をつかんで引き寄せ、彼女の喉首《のどくび》にその切っ先を突《つ》きつけた。
「ソースケ!?」
驚《おどろ》くレモンに、宗介は一言『動くな』と鋭《するど》く告げた。わずかに残った建材を背に、テッサを正面の敵からの盾《たて》にして、巧妙《こうみょう》に自分の体を隠《かく》してやる。
テッサは抵抗らしい抵抗も見せず、ことの成り行きを見守る様子だった。
『ふん。どういうつもりだ?』
赤いASの操縦兵が言った。
「交渉《こうしょう》がしたい」
『交渉?』
「女が欲《ほ》しいならくれてやる。ただし俺の身の安全を保証《ほしょう》しろ。それがかなわないなら、まず彼女を殺す」
『言っただろう。その娘は「できれば」生かして捕らえたいだけだ。おまえたちが抵抗するなら、一緒に殺すのもやむをえない。その程度の価値《かち》だ』
「だとしても、生かしておくのに越したことはないはずだ。俺を逃がしてくれ。そうすれば彼女は無傷《むきず》で手に入るぞ」
『馬鹿か、おまえは?』
赤いASが肩を揺《ゆ》らした。操縦兵が失笑《しっしょう》した動作に反応《はんのう》したのだろう。
『サガラ・ソウスケだったな。おまえのことは聞いている。自分が助かるためだけに、その娘《むすめ》が殺せるわけがない。くだらんハッタリはやめることだ』
「ハッタリかどうかなど、問題ではない」
ぴたりとテッサに体を密着《みっちゃく》させ、宗介は告げた。
「俺はまだ死ぬわけにはいかないんだ。出来ることはなんでもやってやる。いますぐ道をあけろ」
『そのままおまえを行かせると?』
「できないなら、まとめて吹き飛ばせばいい。あっという間だ」
どうだ……?
もちろんおまえは俺たちを逃がす気などない。いま言った通り、俺たちをまとめて吹き飛ばしても構わないと思っている。そのASなら一瞬だ。これほど簡単《かんたん》なことはない。
そう。実に簡単なことだ[#「実に簡単なことだ」に傍点]。
だからこそ、おまえはその選択を嫌《きら》うはずだ。とりわけこの圧倒的《あっとうてき》に有利な状況では。
あえて『盾にした人質に当てず、俺だけを上手に撃ち抜く芸当など、貴様《きさま》にはできまい』とは告げたりしない。それはやりすぎの挑発《ちょうはつ》だろう。おまえを刺激《しげき》するには、この行動だけで十分なはずだ。
さあ、どうする? おまえの機体と装備では、俺だけを殺すことはできないぞ。
『ふん……』
来てみろ。
『やれやれ。強情《ごうじょう》なのも聞いてはいたが……』
来るんだ。
ひどく長い数秒間が経過《けいか》し、赤いASの胸部が鋭《するど》くスライドした。コックピット・ハッチの開放音。直立したままの機体が硬直《こうちょく》し、後頭部のハッチが開いていく。
来た。
操縦兵がライフルをつかんでハッチの奥《おく》から姿を見せた。日焼けしたアーリア系《けい》の男。ひと目見ただけで歴戦の兵士だと分かる顔だちと眼光《がんこう》。ぎょろりと大きな目、広い額と鷲鼻《わしばな》が印象深い男だった。
「サガラとかいったな。悪あがきにしても、度《ど》が過《す》ぎるんじゃないのか?」
ASの肩から男が言った。
「なんとでも言え。俺は絶対《ぜったい》に生き延《の》びてやる」
テッサも意図を察した様子だ。あの男が姿を見せたことで、別種の緊張《きんちょう》が彼女の体を駆け抜けていくのが感じられた。あとは待つだけ――
そう、自分にできるのはここまでだ。
もう銃はない。ナイフ一本と発煙弾だけだ。ASの肩に乗ったあの男にナイフを投げつけたところで意味はない。その前に蜂《はち》の巣《す》になるか、あの男の正確な射撃の餌食《えじき》になるか。そのどちらかだ。
男の手の中でライフルが鈍《にぶ》く光る。あれで撃つ気だ。盾にしたテッサには傷ひとつ与えずに。俺の額を撃ちぬくに違いない。
男が構える。無慈悲《むじひ》な瞳《ひとみ》。逃げる手段はない。
クルツ。
言われたとおりにしたぞ。
だがおまえがいるはずの場所は、ここからあまりに遠すぎる――
一六五〇メートル。
クルツ・ウェーバーがスコープの目盛《めも》りを基準《きじゅん》に割り出した標的への距離《きょり》は、およそ一六五〇メートルだった。便利なレーザー測距儀《そっきょぎ》もなければ、計算をしてくれる観測手《かんそくしゅ》もいないが、その数字で間違《まちが》いないはずだった。
体はボロボロだった。
右足がほとんど言うことをきかないし、左足は膝《ひざ》から下が変な方向を向いている。それどころか、下半身がつながっているのかどうかも分からない。金属《きんぞく》の破片《はへん》が背中を引き裂き、肋骨《ろっこつ》をばらばらにして内臓《ないぞう》までかき乱《みだ》している。頭からの出血は止まりそうにないし、右耳がまったく聞こえない。
もうどうにもならない。俺はこれから死ぬ。
それだけは分かっているつもりだった。
だが、まだ死んでいない。できることはあるだろうか? 俺にただひとつできること。
それなら決まっている。ライフルだ。
彼はまだ動かすことのできる両腕を使って、破壊されたM9のコックピットを這《は》い出していた。体を動かすたびに、すさまじい激痛《げきつう》が襲いかかってきたが、それすらどこか遠ざかっていった。
吹き飛んだ兵装ラックが転がっている地面まで這っていき、苦労して中のライフルを取り出した。古いボルトアクションのライフル。こいつもまだ生きていた。
緩衝材《かんしょうざい》の包みを取り、銃を構《かま》える。そしてスコープから距離を目測《もくそく》した。
一六五〇メートル。
だめだ、届《とど》かない。あと四〇〇メートル前進できれば、どうにかなるのに。
スコープの中で、赤いASのコックピットからカスパーが現れるのが見えた。宗介がうまくやってくれたのだ。だが距離が遠すぎる……。
どうにもならない。これで終わりだ。
ソースケ。すまない。後はてめえでどうにかしてくれ。俺には手が出せない。
テッサ。そんなネクラ男さっさと諦《あきら》めて、いい男見つけるんだぞ。
マオ。本当は寂《さび》しがり屋《や》なメリッサ。もっと可愛《かわい》がってやりたかった。おまえみたいな女でも泣くのかな。どうだろう。泣いて欲しいような、泣いて欲しくないような。やっぱり抱《だ》かない方が良かったかもな。
そして、カスパー。
確かに俺は落第生《らくだいせい》なのかもしれない。半端《はんぱ》者なのだろう。実際、最後まであんたには勝てなかった。『幽霊』は呼べなかったし、本当の狙撃兵にはなれなかった。
だがな、カスパー。
あの復讐の一撃のとき――レバノン南部の戦場で、捜《さが》し求めた家族の仇《かたき》をスコープに捉《とら》えたとき――俺は撃てなかった。階段に立つあの男の後ろに、なんの関係もないラナがいたからだ。わずか八|歳《さい》の女の子だ。あの男を貫通《かんつう》してラナを傷つけるのは明らかだった。
あんたは撃てと言った。最初で最後のチャンスだと。だが俺には無理だった。
そしてあんたが撃った。
ああ、そうさ。おかげで俺の獲物《えもの》は死んだよ。復讐は終わった。ただし、ラナの人生と引《ひ》き換《か》えにな。あんたの『正確な弾道』は男の頭を吹き飛ばしただけでなく、彼女の脊髄《せきずい》やいくつかの臓器《ぞうき》を道連れにした。
いまでも入院中だよ、彼女は。普通の病院なら、もうとっくに死んでいるところだ。
すべて知ってて撃ったんだ、あんたは。
だから去った。あれが『本物の狙撃兵』なのだとしたら、俺はそんな化け物になんかなりたくない。そうだ、あんたは|化け物《フリーク》なんだよ。
(だったら――)
クルツは思った。
仲間をこのまま奴《やつ》の手に委《ゆだ》ねるのか? あの化け物に? 諦めて見捨《みす》てるのか?
奴への距離が[#「奴への距離が」に傍点]、一六五〇メートルだというだけの理由で[#「一六五〇メートルだというだけの理由で」に傍点]?
(やってみるか……)
弾薬は一発だけだ。意識《いしき》を保《たも》っていられる時間も、残りわずかだろう。あと一〇秒か、三〇秒か。自分は消えかけた蝋燭《ろうそく》の火だ。いま、こうしてスコープをのぞいているだけでも、深い闇《やみ》の中に吸《す》い込まれていくような感覚が襲いかかっている。
いちばん安定する伏《ふ》せ撃《う》ちの姿勢《しせい》でライフルを構える。もっとも、いまの彼にはその姿勢しかできない。足がまともに動かないのだ。
一六五〇メートル。
このライフルの三〇八口径弾では、届くはずもない距離だ。そんな狙撃の記録など、彼も聞いたことがない。
彼が目撃したカスパーの記録よりも、さらに一三〇メートル遠い。
ストックを肩に密着《みっちゃく》させる。グリップを握《にぎ》り、ストックの下部を土にめりこませて安定させる。左手で右肩を抱き、上体をうずくまらせる姿勢をとる。右の頬骨《ほおぼね》をフレームに付け、右目とスコープを一直線の位置に。
風を読む。手前は北西から一五ノット。奥は北北西から一〇ノット。乱流《らんりゅう》もある。すべて計算して弾丸を送り込む必要がある。
もちろん温度と湿度も関係する。空気|抵抗《ていこう》、装薬《そうやく》の燃焼速度《ねんしょうそくど》、銃と弾頭の膨張度《ぼうちょうど》など、弾道に大きな影響を与える要素が数多く関係している。
弾頭の横転・前転はどの程度か? タンブリングと呼ばれるこの現象《げんしょう》は、距離の二|乗《じょう》に比例《ひれい》して大きくなっていく。ごくかすかな横転でも、この遠距離では大きな影響が出てくるのは間違いない。
さらに大きな要素がある。地球の自転により発生するコリオリ力も考えておかなければならない。特にここは北緯《ほくい》六〇度付近――高緯度《こういど》なのでコリオリ力の影響が非常に大きい。この場合なら東側に三〇センチ以上ずれるだろう。
ほかにも多数の、そして微細《びさい》な問題が存在《そんざい》し、それらすべてを勘案《かんあん》して最終的な照準を決定する。これは現在のコンピュータでも不可能なほど複雑な計算だ。こんな芸当ができるのは、人間だけである。
クルツはすべての要素を頭に入れた上で、それを一度きれいさっぱり忘れていった。残るのは弾道のイメージだけだ。
直感だけが導《みちび》き出してくれる、超計算・超数学のイメージ。
必要なポイント――標的から何メートルも離れた空中に十字線を合わせる。
だが、まだ十分ではない。
不規則《ふきそく》な呼吸のために、スコープ内の十字線が上下左右に擦れ動く。わずかな誤差《ごさ》も命取りになる。これから求められる集中は、針《はり》の穴《あな》に糸を通すどころではない。針に描《えが》かれた竜《りゅう》の絵に、瞳《ひとみ》を入れるようなものだ。
こんな照準《エイム》ができるわけがない。
[#挿絵(img/10_399.jpg)入る]
そう思うのが普通だったが、クルツの脳裏《のうり》に浮かんだのはまったく別の言葉だった。
(ああ。いけるな……)
驚きもなく、喜びもなく、ただ静かにそう感じる。
これまで見えなかったものが読み取れる。力を失いかけた筋肉の動きが。消えようとしている自身の血の熱さが。風の動きに色がついて見える。弾道のイメージが鮮明《せんめい》になり、周辺の分子の一つ一つ、すべてのエネルギーの働きが把握《はあく》でき、理解できる。
すでに彼は宗介たちの安全のことなど考えていなかった。
マオのことも考えなかった。入院中のラナのことも、死んだ家族のことも、中学時代の初恋《はつこい》の教師《きょうし》のことも、もちろんすべて忘《わす》れていた。それどころか、いま狙っている標的が何者なのかさえわからなくなっていた。
あれはだれだったか?
いや、別にだれでもいい。あそこに弾丸を送り込むだけだ。
もうすぐその瞬間が来る。自己《じこ》の全生命を標的に叩き込む至高《しこう》の瞬間《しゅんかん》が。
ああ、いやだな。
もっと遠くても狙えるのに――
なにかが彼の上に降りてきた。物質の裏側《うらがわ》にある、見えないなにか。彼を取り巻く空間が歪み、時間の前後が曖昧《あいまい》になった。
いつの間にかトリガーを引いていた。
撃発《げきはつ》。
すべてイメージ通りだった。撃針《げきしん》は思った通りに落ち、弾薬は想定《そうてい》した通りに燃焼《ねんしょう》し、弾頭は期待した通りに膨《ふく》らみ、銃身《じゅうしん》の中を回転しながら進んでいった。
魔弾《まだん》が飛ぶ。
それは大気を切り裂いて走り、やがて風を完璧《かんぺき》に読んで放物線を描き、まるで吸い込まれるように所定の位置へと収束《しゅうそく》していった。
一六五〇メートル。
命中するのはもう分かっている。
クルツ・ウェーバーは最後に『ざまあみろ』と思ってから、ライフルを抱きしめ、虚無《きょむ》の闇へと落ちていった。
撃たれる――
宗介がそう思った瞬間、敵の胸が血しぶきをあげた。
背中から胸へ。どこかから飛来した銃弾は、確実に男の心臓《しんぞう》を撃ちぬいていた。
「ば……」
驚きで双眸《そうぼう》が大きく見開かれている。彼は宗介を見ていなかった。かろうじて残った背筋《はいきん》の力で振り返り、はるか遠方《えんぽう》――撃破されたクルツのいる地点を見つめていた。
「…………っ」
届くわけがない。男の口がぱくぱくと動いてそうつぶやいていた。
だが届いたのだ。クルツの射撃が――
男が両足の力を失い、ASの肩から落ちていく。
クルツ――
宗介は同時に動いていた。最後に残された武器、ただ一発の発煙弾を放り投げ、テッサの襟首《えりくび》をねじ伏せながら、彼は叫んだ。
「ゲーボ6、狙撃手は片付けた! アルを寄越《よこ》せっ!!」
『了解……!』
ゲーボ6の機長、フィッシャーが無線から応じた。彼も状況を把握《はあく》していたはずだ。山稜《さんりょう》の向こう側で、ECSと静音モードを駆使して待機している。発見されないぎりぎりの距離まで接近しているはずだった。
狙撃兵を無力化できたのなら、強引《ごういん》に突っ込んできて <レーバテイン> を投下、即座《そくざ》に地形を盾にして退避《たいひ》することも不可能ではない。だがその一〇数秒間に、レナードのASが出現しないという前提《ぜんてい》での話だったが――
「テッサ、ビーコンを――」
「はい……!」
巻《ま》き上がる煙の中から、味方にこちらの位置を知らせる必要がある。テッサが這いつくばったまま端末《たんまつ》を操作《そうさ》し、無線標識《むせんひょうしき》で位置を発信した。
AS操縦兵が射殺《しゃさつ》された驚きから立ち直り、敵の歩兵たちが射撃してくる。頭上で弾丸が跳《は》ね回る。元来た地下道の方に発砲しながら、レモンが叫んだ。
「後ろからも来てる! 僕ももうすぐ弾切れだ!」
「なんとかしろ!」
応《こた》えながら宗介は瓦礫《がれき》の中を匍匐《ほふく》前進し、先ほど捨てたカービン銃を拾いあげた。あと一五発もない。煙の中に突進してくる敵の影。発砲。一発では当たらなかった。もう一発撃って仕留める。さらに後続《こうぞく》の敵に威嚇《いかく》射撃。
「ゲーボ6、まだですか!?」
テッサが叫んだ。するとゲーボ6より早く、無線越しに男の合成音声が応じた。
<<あと少しです、大佐殿。ETA、ファイブ・セカンズ>>
『なんだ? 勝手《かって》にカーゴハッチが――』
<<降下《こうか》します>>
ローター音とエンジンの爆音、油圧ボルトから切り離されるASの音がほとんど同時に響き渡った。上空に駆けつけたゲーボ6から、最良のタイミングで降下してきた <レーバテイン> が、頭部機関銃《とうぶきかんじゅう》をフルオート射撃しながら宗介のすぐ眼前《がんぜん》に着地した。
<<軍曹殿《ぐんそうどの》、お急ぎを>>
「アル!」
カービン銃を放り捨て、宗介は轟音《ごうおん》と爆煙《ばくえん》の中に飛び出す。<レーバテイン> がコックピット・ハッチを開放しながら右手を差し出した。ほんの一秒すらもどかしい。<レーバテイン> は彼を手に乗せ、ほとんど自分の後頭部に投げ込むように右腕を振った。
どうにか姿勢を保ってコックピットに滑《すべ》り込む。命令を出すまでもなくハッチが閉鎖《へいさ》される。アルが勝手に起動手順を進めていく。超特急《ちょうとっきゅう》だ。チェック項目はすべて省略《しょうりゃく》。いつもの設定、いつものマスターモード、いつもの索敵モード。まるで機体から急かされているようだった。
<<照準波を検出! 二、一………!>>
「……っ!」
跳躍。
ぎりぎりで南西から襲いかかった四〇ミリ弾を回避する。ラムダ・ドライバ付きの四〇ミリ砲弾。レナードの攻撃だ。廃墟《はいきょ》のどこかから撃ってきたのだろう。アルが強引に起動手順を進めてくれなかったら、あえなく撃破されていたことだろう。
<<敵AS、二時、距離八。あの野郎です[#「あの野郎です」に傍点]>>
「ああ、レナードだ」
空中で身をひねり、眼下の敵歩兵に頭部機関銃を素早《すばや》く見舞《みま》ってやる。残されたテッサたちを守らなければならない。五〇口径弾が敵分隊の頭上に降《ふ》り注《そそ》ぎ、あたり一面に着弾の煙が巻き上がった。
着地。
「二人を拾《ひろ》え」
<<了解>>
テッサたちの隠《かく》れた小屋の前でかがみこむ。<レーバテイン> の脇《わき》の下から一対の補助腕が伸び、ぐったりしたレモンとあわてるテッサをつかみ上げた。すでに山稜の向こうに逃げたゲーボ6を呼び戻して、テッサたちを乗り込ませている余裕など少しもない。
ふたたび攻撃が迫る。複数の四〇ミリ弾。予告通り、まったく手加減する気はないようだった。レナードは本気だ。
二人を抱えたまま初弾を回避し、続く砲弾をラムダ・ドライバの防壁《ぼうへき》で防ぐ。いや、決して完全に防げたわけではない。かろうじて逸《そ》らすことができた程度だ。
接近されたら防ぎきれないだろう。しかもこちらには対ECSセンサがない。レナードのASはすでに透明化しているはずだったが、発見する手段がほとんどない――
「『妖精《ようせい》の羽』は使えるか!?」
<<またぶっつけ本番ですか>>
「さっさとやれ!」
<<了解……!>>
<レーバテイン> の両一層に装備された大型の増設《ぞうせつ》ユニット――通称『妖精の羽』が短くスライドして展開《てんかい》した。機体のジェネレータがうなりをあげ、最大出力になる。莫大《ばくだい》な電力が両肩のユニットに流れ込み、周辺の大気が排気熱で歪んだ。
<<全パワーライン確保《かくほ》。LDC、電荷上昇中《でんかじょうしょうちゅう》。LBS、コンタクト。一番、起動成功。二番、起動成功。干渉半径増大中《かんしょうはんけいぞうだいちゅう》。五〇、一〇〇、二〇〇……>>
その通称《つうしょう》とは裏腹《うらはら》に、『妖精の羽』は飛行のための装置ではない。
かなめがニケーロの邸宅《ていたく》に残してくれたハードディスクの中の情報を元に、ミラたちが製作したこの増設ユニットは、本来は『ラムダ・ドライバ・キャンセラー』と呼ばれている。<レーバテイン> の周辺で駆動するラムダ・ドライバの機能を、一時的に無効化《むこうか》する能力があるという。
詳《くわ》しい原理など、宗介にはさっぱり分からない。『妖精の羽』はラムダ・ドライバを使用するときよりもさらに莫大な電力を消費することと、<レーバテイン> 自身もラムダ・ドライバを一切使えなくなることなどは説明されていた。
そしてもうひとつ。
この『妖精の羽』が最終的に効果を発揮《はっき》するためには、やはり操縦兵である宗介の意識が関係してくるという。砲弾を防ぐ盾のイメージや、その力場を貫く矢のイメージなどと同様、『そうした超常現象《ちょうじょうげんしょう》が起きることはない』というイメージを頭の中からひねり出さなければならない。
そんなイメージなど、最初に聞いたときはまったく想像もつかなかったが、いまの宗介には分かっていた。昔考えていた通りに想像すればいいだけなのだ。
すなわち『インチキだ、あんなものがあるはずがない』と。
(消えろ――)
その瞬間、宗介の思念《しねん》に『妖精の羽』が反応《はんのう》した。すでに周辺数百メートルに拡大《かくだい》していたキャンセラーの干渉領域《かんしょうりょういき》が発動し、一瞬だけすべての空間がかすかに歪《ゆが》んだ。
異変《いへん》はそれだけだった。
それ以上のことはなにも起きない。むしろそれが成功の証《あかし》とさえ言える。『なにも起きなくさせる』のがこのユニットの力なのだから――
「効《き》いたのか……?」
<レーバテイン> の前方、およそ三〇〇メートル先の廃墟に大きな土煙《つちけむり》が巻き上がった。透明化して飛行していたレナードの黒いASが、墜落《ついらく》してビルにぶつかったのだ。
効いている。敵はラムダ・ドライバの力を失った――
「!」
アラーム音。飛行状態《ひこうじょうたい》から地上に落ちたものの、レナード機は姿勢を立て直して着地に成功していたようだった。ECSは停止して、すぐさま地上から発砲してくる。こちらもラムダ・ドライバが使えなくなったことも読んでいるのだろう。
回避運動。しかしテッサたちを補助腕で握っているため、無茶《むちゃ》な動きはできない。パワーも足りなかった。機体が『妖精の羽』に電力を奪われているため、最低限の機動しかできない。
「くそっ……!」
宗介は機体背部《きたいはいぶ》のハードポイントから <ボクサー> 散弾砲《さんだんほう》を抜いて応戦した。
デモリッション・ガンは使えない。あの大口径砲はラムダ・ドライバの補助なしで発射できるような代物《しろもの》ではなかった。
しかもラムダ・ドライバがなくとも、レナードのASは俊敏《しゅんびん》だった。遮蔽物《しゃへいぶつ》から遮蔽物へと移動し、小刻《こきざ》みに射撃を加えてくる。こちらの攻撃を警戒してか、むやみに接近してくることはなかったが、まともに撃ちあっていてはいずれこちらが押《お》し切られる。
どうすれば――
<<警告。LDC―1に異常《いじょう》な温度|上昇《じょうしょう》が発生。干渉域減少中《かんしょういきげんしょうちゅう》>>
左肩側の『妖精の羽』が負荷《ふか》に耐え切れずオーバーヒートを起こしかけている。莫大《ばくだい》な電力による加熱に、冷却機構が追いつかないのだ。
もうすぐ壊れる。右肩の二番機も同じ運命をたどるのは時間の問題だった。
ラムダ・ドライバ・キャンセラーが停止してしまったら、もう終わりだ。レナード機とまともにやり合って勝利する方法は、現状ではまったくない。撤退することさえ不可能だろう。全員殺される。全員だ。
<<軍曹殿。もうお分かりだと思いますが……>>
「ああ」
応戦しながら宗介は応えた。
逃げるなら、いますぐしかない。
レナード機に牽制《けんせい》射撃を加えながら全力で後退し、山稜の向こう側で待っているゲーボ6につかまって、全速力で逃げるしか――
<<ウルズ6の収容は断念《だんねん》するしかありません。最終的なADMのデータとその状況から推測すれば――>>
「やめろ」
<<――彼はすでに死亡《しぼう》しています>>
「やめろっ!!」
そんなのはだれにも分からない。いまだって、まだ虫の息でも生きてるかもしれないではないか。すぐに手当てをすれば、どうにかなるかもしれない。助けられるかもしれない。俺だってあそこまでひどい怪我をして生き延びたんだ。あのしぶとい馬鹿野郎が、あのクルツがこんなことで死ぬなんて誰に言える?
このままあいつを置いて逃げるなんて。
そんなことができるわけがないじゃないか。
帰ったらマオになんと言えばいいんだ?
<<LDC―1、機能停止《きのうていし》。LDC―2も温度上昇中です>>
とうとう左肩のユニットのヒューズが焼きついて、その機能を失った。
時間がない。スクリーン内のデジタルマップが示す位置関係は、どこまでも冷酷《れいこく》だった。すべての要素が、彼のところまで駆けつけることはできないと教えている。
アルの言っていることは正しい。
まったく正しい。
<<決断を。軍曹>>
アルはそれ以上、催促《さいそく》しなかった。
辛抱強《しんぼうづよ》く、宗介の返答を待っていた。
「……撤退《てったい》する」
<<了解>>
散弾砲をフルオート射撃で発砲して牽制《けんせい》する。ありったけのグレネードをばらまき、頭部機関銃で空中爆発させる。敵機がひるんだ隙に、<レーバテイン> は余剰《よじょう》パワーをすべて使って跳躍し、山稜を越えた。
低空で待っていたゲーボ6が加速と上昇を始めている。
通常の収容《しゅうよう》シーケンスを無視して、宗介は <レーバテイン> を <ペイブ・メア> の機体下部の緊急用《きんきゅうよう》フックに飛びつかせた。ゲーボ6の機長は何も言わず最大出力でヘリを加速させる。
ヘリに片腕《かたうで》でぶら下がったまま、<レーバテイン> はヤムスク11[#「11」は縦中横]から東へと離脱《りだつ》していった。
「逃げたか……」
ラムダ・ドライバへの干渉が完全に消滅《しょうめつ》したと確信できたころには、相良宗介たちはヘリごと遠くに撤退を終えようとしていた。
追撃《ついげき》は無理だと判断して、レナードは機体を反転させた。
ふたたび浮遊飛行《ふゆうひこう》してヘリの速度に追いすがること自体は可能だったが、そこでまたあのキャンセラーを起動されたらたまったものではない。さすがにラムダ・ドライバなしで一〇〇〇メートルの高度から落下して無事に済むほど、この <ベリアル> は便利な機体ではない。
しかし、キャンセラーだと?
確かに理論上《りろんじょう》は実現可能だと分かっていたが、それをテレサたちが完成させていたのには正直驚かされていた。あの白と赤のAS自体も、以前戦った <アーバレスト> とやらに比べると手を焼かされた気がする。遠距離からの攻撃だったとはいえ、こちらのラムダ・ドライバ付きの砲撃を、あの機体は辛《かろ》うじて逸らしてみせたのだから。
もちろん、こちらの優位《ゆうい》は変わっていない。
途中《とちゅう》で気付いたことだったが、もしかしたらあの機体は対ECSセンサを搭載していないのかもしれない。第三世代型相手にECSを使っても効果は薄《うす》いだろうと思って不可視化を解除《かいじょ》していたのだが――
まあ、いい。
次に戦うときはより慎重《しんちょう》に、より万全《ばんぜん》の準備をもって、確実に撃破するとしよう。
「それにしても――」
カスパー。不覚をとったな。
レナードは内心でつぶやき、小屋のそばに倒れているヴィルヘルム・カスパーの遺体《いたい》を見て鼻を鳴らした。彼の乗機だった赤い <エリゴール> も大破《たいは》している。相良宗介が戦闘のどさくさで、操縦者がいないままの <エリゴール> にきっちり砲弾を撃ち込んでいったのだ。
カスパーを失ったのは少々|手痛《ていた》かった。ファウラーもサビーナも相当な腕前《うでまえ》の操縦兵《そうじゅうへい》だったが、狙撃においてカスパーを越えるものはいない。これからやってくるであろう、熱く激しい戦闘には欲《ほ》しい人材《じんざい》だったのだが。
地上に出てきたカリーニンから連絡が入った。
『南西からソ連軍の空挺《くうてい》部隊が接近中です。おそらく二個中隊|規模《きぼ》以上かと。交戦しますか?』
ソ連軍が迫《せま》っている。彼らがどうやってこの廃墟での戦闘を察知したのか分からなかったが、そう不自然なことでもない。なにしろここは彼らの領土《りょうど》だ。
「いや。もうここには何の用もない。撤収を急いでくれ」
『了解しました』
「ああ。それからカスパーが死んだよ。ただし <ミスリル> 側の狙撃兵は仕留めたようだ。君の元・部下らしいね」
ごくわずかな間、カリーニンが沈黙《ちんもく》した。
『だとすれば、向こうにとっても大きな痛手です。ウェーバーの技能は、むしろ相良宗介のASよりも脅威《きょうい》でしたからな』
「心は痛まない?」
『痛むような心なら、すでに捨てておりますので』
レナードとその配下たちは、素早く残存部隊をヘリに収容すると、棄《す》てられた都市を飛び去った。
[#改ページ]
エピローグ
ヤムスク11[#「11」は縦中横]からの脱出《だっしゅつ》後、その帰路《きろ》で。
意気消沈《いきしょうちん》したテッサを慰《なぐさ》めたりするほどの余裕は、宗介にも無かった。
かなめは自分に背を向け去った。そしてクルツは――
そのどちらについても、テッサは自分を強く責《せ》めている。自分のミスだ。自分の無能《むのう》だ。自分さえもっと先を読めていれば。
どうにもならなかったことなのに。
なにかの悲劇《ひげき》が起きたとき、当事者の責任《せきにん》をもっとも強く指摘《してき》するのは他者ではない。その当事者自身だ。聡明《そうめい》であればあるほど、善良《ぜんりょう》であればあるほど、自責の念に苦しめられる。そんな人間に対して、いったいどんな言葉をかけられるというのか?
機のクルーが睡眠薬《すいみんやく》を用意した。『要らない』というテッサに無理強《むりじ》いして飲ませ、そばにいてやるくらいが関の山だった。
レモンは消耗《しょうもう》しきっていたが、命に別状《べつじょう》はないようだった。クルーからようやくまともな傷の手当てを受けると、その後は昏々《こんこん》と眠《ねむ》り続けていた。
悪夢《あくむ》に苦しむテッサの手を握《にぎ》ってやりながら、宗介はずっとたくさんのことを考えていた。オムニ・スフィア。一八年前の事故《じこ》。ささやかれた者とささやく者。狂《くる》った世界。いまやその鍵《かぎ》として変貌《へんぼう》してしまった千鳥かなめ。
解決方法《かいけつほうほう》など想像もつかない。
クルツのことを考える。
脳裏《のうり》に浮かんでくるのは、胸から血を噴《ふ》き出し死んでいくあの敵の狙撃兵の姿だ。後でデジタルマップから推測した射程距離《しゃていきょり》は、一六五〇メートル。狙撃について少しは知っている宗介には、それが人間になせる業《わざ》ではないことがよくわかる。おそらく、彼の生涯《しょうがい》でも極大《きょくだい》の射撃だったはずだ。己《おのれ》の持てるすべての命をぶつけるような射撃が、宗介たちを救った。
死は人間の一部。あの闇の中で、宗介はレナードにそう言った。
こんな形で、自分自身が思い知らされるとは。
南回りで太平洋を目指している <トゥアハー・デ・ダナン> に帰還《きかん》できたのは、ヤムスク11[#「11」は縦中横]から脱出して五四時間後のことだった。
もう知らせは届いていて、<デ・ダナン> のクルーにも陰鬱《いんうつ》な空気が漂《ただよ》っていた。
すでに帰還していたクルーゾーは、なにも責めずに『ご苦労だった。いまは休め』と言った。マデューカスも同様で、『よく無事に連れ帰った。艦長《かんちょう》のことは心配するな』とだけ言った。戦友の死には彼らも慣れている。任せておけばいいのだろう。
そしてマオに会った。
ほかにはだれもいない状況説明室《じょうきょうせつめいしつ》で、二人だけで話をした。
最初、彼女は平静な態度《たいど》でそのときの詳しい状況を聞いていた。宗介の説明が終わると、彼女はため息をつき、『それじゃ、仕方なかったわよね』とつぶやいた。
それから長い沈黙のあと、彼女は言った。
「聞いたの? あたしとあいつとのこと」
「ああ」
「そう。……まあ、はずみでね。ドライな関係だったから。心配しなくてもいいわよ」
「そうか」
「ただの遊びよ。たいして盛《も》り上がってたわけでもないの。ま、ストレス解消《かいしょう》みたいなものよ。いい年こいてマジになったわけじゃないし、こういうことだってあるだろうから、やっぱり距離は置いときたかったしね。だから……」
彼自身やテッサから聞いていた話とあまりに違う態度が、むしろ痛々《いたいた》しかった。
「マオ」
「全然、本気なんかじゃなかったから。だって六つも年下でしょ? あのバカ、女好きだし、お調子者だし……ちょっと遊んでやっただけ。だから……」
「すまない」
「そんなこと言わないで」
もう限界《げんかい》だったのだろう。彼女はうつむいたまま、宗介の背中に両腕を回し、必死に声を押《お》し殺して言った。
「あなたは悪くない。あいつがバカなのよ。それで全部」
「マオ……」
「あのバカ。でも好きだったの……」
「わかってる」
「あなたは死なないで。お願い」
「大丈夫だ」
肩に彼女の涙《なみだ》がしみこんでくる。彼女の全身が震《ふる》え、わななき、抑《おさ》えきれない感情でせめぎあっている。嗚咽《おえつ》が彼の耳朶《じだ》を打つ。それ以上はなにも言えず、彼女の肩を抱いていてやることしかできなかった。
悲しみはない。慣れている。
いや、本当にそうなのだろうか……?
笑い方は、すこしは覚えたつもりだと思う。だが泣き方はまだ分からない。自分のような不完全《ふかんぜん》な人間が、肩を震わし、むせび泣くことができるとしたら――それはいったい、いつなのだろう?
千鳥。
どうしていないんだ?
君の前なら。君の腕の中なら、俺はもしかしたら泣けるかもしれないのに。
●
空の旅ばかりも悪くない。
ビジネスジェットのキャビン、そのゆったりとした椅子《いす》にその身を埋《うず》めながら、かなめはそう思っていた。
屈強《くっきょう》な護衛《ごえい》と従順《じゅうじゅん》なアテンダントに囲まれ、上等な食事を楽しみ、好きな映画《えいが》を見る。これほどリラックスできたのは、えらく久《ひさ》しぶりだ。どれくらい昔だろうか? よく分からない。
宗介もテッサも死んだ。聞いた話では、クルツ・ウェーバーも死んだらしい。
気の毒に。無理して戦おうとなんかするからいけないのだ。
なにもしないで、あたしに任せておけばよかったのに。そうすれば、すべて良くなる。面倒《めんどう》なことに頭を悩《なや》ませる必要もないし、毎日を楽しく暮らすことだってできただろうに。
「ミズ・チドリ。ほかに必要なものは?」
キャビンの奥からサビーナ・レフニオが来てたずねた。このビジネスジェットに乗り換《か》えるときに合流したのだ。南米にヤボ用があって出かけていたとのことだった。
「ん。特には。でも、そうね……大きなお風呂《ふろ》とか入りたいな」
「それはさすがに機内では無理です。ですが、現地に着いたらご用意できるかもしれません」
「そう。じゃあ温泉がいいわ」
「オンセン?」
「温泉よ。そこで準備[#「準備」に傍点]ができるまで、のんびりするのよ。露天風呂《ろてんぶろ》とかね。みんなで入ってはしゃぐと最高なんだから。そういえば、温泉とかずいぶん長いこと行ってないなー」
楽しい思い出のイメージが、どこかでじんわりと浮かんでくる。不安は抱《かか》えていたものの、心の底からその時間を楽しめた、あの懐《なつ》かしいイメージ。
前に温泉に入ったのは、いつごろだっただろうか? だれと行ったっけ? だれが発案して、だれが大騒《おおさわ》ぎを起こしたんだったっけ?
「…………?」
そのとき、自分の意志とは無関係に、頬《ほお》を熱いものが伝っていくのを感じた。二つの目からあふれかえってくる熱い液体《えきたい》。自分にはもう意味がないはずのそれが流れていくのを、彼女は心底不思議に思った。
「ミズ・チドリ……?」
「おかしいわね。そういうシチュエーションじゃないはずなんだけど。まあいいわ。もうすぐ着くんでしょ?」
「あと一五分だよ」
操縦室の方から戻ってきたレナードが言った。
「ちょうどそろそろ、左舷《さげん》に見えるはずだと思う。きょうは天気《てんき》もいいしね」
「どれどれ」
かなめは身を乗り出し、窓から機外を覗《のぞ》いてみた。
薄《うす》いもやのかかった大気の向こう――陽光《ようこう》の反射《はんしゃ》に輝《かがや》く大洋の中に、半月型《はんげつけい》の孤島《ことう》が浮かんでいる。
[#挿絵(img/10_423.jpg)入る]
彼女はその島に見覚えがあった。
「あそこで建造中《けんぞうちゅう》なわけね」
「そう。君のために――そして俺たちを救うための神殿《しんでん》というわけだ。いずれその意図を察して、たくさんの敵が来る。それを迎《むか》え撃《う》つための準備《じゅんび》をしなければ」
最大、最高のTAROS。それが自分を待っている。この世界を当たり前の形に是正《ぜせい》するために。すべての終わり、そしてすべての始まりがあそこにある。
熱く激しい戦い――歴史上最後の戦闘があるとしたら、あの島が中心になる。
その島の名はメリダ。
かつての <ミスリル> 西太平洋戦隊基地だ。
[#地付き][つづく]
[#改ページ]
あとがき
久々の書下ろしです。また分厚《ぶあつ》くなってしまいました。連載ペースでやっていたら今年の夏くらいの出版になっていたボリュームなので、まあ……その……結果的には、まだ早めに出せた方なんじゃないかなあ、と……。いえ、すみません。大変お待たせしてしまいました。次こそは。次こそは! (なんか悪の組織の中ボスみたいですね)
長いお話も終盤《しゅうばん》にさしかかってきたので、今回は風呂敷《ふろしき》たたみのための前フリとか、いろいろやってます。本当はコートニー爺《じい》さんたちとか、クルーゾーやマオ、ファウラーやサビーナがなにしてたのか描きたかったんですが、本筋からは逸《そ》れそうだったので省略《しょうりゃく》しました。本編が終わった後に、機会があったら外伝的な形で書けるといいですね。
今回はいろいろびっくりするエピソードもあるのではないかと思います。あれこれいまだに厳《きび》しい状況の宗介たちですが、なんとかしてくれるのではないかと(たぶん!)。
狙撃《そげき》の描写《びょうしゃ》について。七・六二ミリ弾でまともに狙える距離は、本来なら一〇〇〇メートル程度って感じみたいです。カスパー氏の記録は現実的に考えるとちょっと眉唾《まゆつば》なんですが、なんかすごいバケモノ級の人ならアリなんじゃないかなあ、と思ってあれくらいにしてみました。だったらもっと強力でよく飛ぶ一二・七ミリ弾にすりゃいいじゃん、ってことも考えました。でも、ほら。そういう現代戦のにおいプンプンの対物《たいぶつ》ライフルって、なんかロマンがないと思うんですよ! ああいうスーパーショットは、木製フレームの古いライフルが似合ってるんじゃないかと。レスポールのギターみたいな、そういう。
えーと。まだ一ページ半ですね。
そういえば今日、友人がやっている飲み屋に行ったんですが、その帰り際に店のボックス席がなぜかいつも寒いという話になりまして。これはきっと、なにか幽霊的なものがいるんじゃないかなあ、という怖い話になりました。僕は全然、霊感的なものはないものでして、皆の話題に水をさすようなことばかり言ってしまって反省しているところです。
でも、怪談《かいだん》とかに出てくる幽霊とか、なんかチートっぽいと思うんですよ、昔から。たとえ幽霊だろうと、それなりの戦闘力・精神力はあると思うので、そういう制限を無視したスペックの幽霊は正直どうなのでしょうか。オカルト番組では、幽霊は無敵扱いで、時間や空間とは無関係に力を振るい、普通の人間の人生を滅茶苦茶《めちゃくちゃ》にします。しかし、しかしです。心霊現象《しんれいげんしょう》(特に悪い方の)が実在《じつざい》するとして、どうして後ろ向きな理由でこの世に背を向けたような元・人間のエゴに、必死に人生と向き合って生きている生者《せいじゃ》のわれわれが振り回されなければならないのでしょうか!?
帰り道でそんなことを力説《りきせつ》して、「もし俺が幽霊と戦うことになっても絶対に負けるつもりはない。敵は強大《きょうだい》かもしれないが最後の最後まで戦い続けてやる」とか言って、自分が呪殺《じゅさつ》されそうになった瞬間になぜか愛車クーパーS(通称ボン太カー)がわが身を犠牲《ぎせい》に味方についてくれて九死《きゅうし》に一生《いっしょう》を拾うドラマチックな瞬間を想像して感涙《かんるい》にむせんだりした僕は、要するにただの酔っ払いです。
……というか、こういうシリアス展開を書いていると、その内容について熱く語ったりする気になれないものでして。もう『とりあえず読んでくれ』としか言いようがないというか。すみません。
次巻が長編本編のクライマックスのつもりです。本当にあと一巻で収まるのかどうか疑問ですが(汗)。ここまで読んでくださった方々に、『付き合ってきて良かった』と思っていただけるようにがんばりますので、なにとぞよろしくお願いいたします。
そんなこんなで、次回も宗介と……じゃなくて。この口上の元ネタに沿えば。
はるかな時に、すべてをかけて。
[#地付き]二〇〇八年一月 賀 東 招 二
[#改ページ]
[#挿絵(img/10_428.jpg)入る]
[#挿絵(img/10_429.jpg)入る]
底本:「フルメタル・パニック! せまるニック・オブ・タイム」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2008(平成20)年2月25日初版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本198頁2行 「ひょとしてラムダ・ドライバですか?」
ひょっとして
底本302頁1行 「すみません、ちょと脱線しました」
ちょっと