フルメタル・パニック!
つどうメイク・マイ・デイ
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)堕《お》ちた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自動車|修理工場《しゅうりこうじょう》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あらゆる手段を使ってでも[#「あらゆる手段を使ってでも」に傍点]、
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[#挿絵(img/09_000.jpg)入る]
[#挿絵(img/09_000a.jpg)入る]
[#挿絵(img/09_000b.jpg)入る]
[#挿絵(img/09_000c.jpg)入る]
目 次
プロローグ
1:堕《お》ちた魔女《まじょ》
2:ブリーフィング
3:フロント・トワード・エネミー
4:嵐《あらし》の夜に
5:炎《ほのお》の剣《つるぎ》
エピローグ
あとがき
ARX―8 <レーバテイン> メカ設定
『つどうメイク・マイ・デイ』
四季童子イラスト・コレクション
[#改丁]
プロローグ
天井《てんじょう》の小さな窓《まど》から、朝日が射《さ》し込《こ》んでいる。
古びた自動車|修理工場《しゅうりこうじょう》の片隅《かたすみ》で、彼女は三台のノートPCに向かい合っていた。
それぞれのスクリーンに表示される膨大《ぼうだい》な量の図と数式《すうしき》。それらを同時に閲覧《えつらん》し、せわしくスクロールさせていくには画面《がめん》が三つ必要だったのだ。いちいち画面を切り替えるのはいらだたしい。そんな悠長《ゆうちょう》な真似《まね》をしていたら、仕事を始めるまで何日かかるか分かったものではない。
修理工場の真ん中には、みじめな機体――アーム・スレイブの胴体《どうたい》フレームだけが、ぽつんとチェーンでぶら下がっている。
腕《うで》も足もない。装甲《そうこう》すらもほとんどない。申《もう》し訳《わけ》程度《ていど》に付いているだけの頭は欠損部分《けっそんぶぶん》だらけで、センサもなければ機関銃《きかんじゅう》も搭載《とうさい》されておらず、真っ黒な穴がうがたれているだけだ。本来ならばパラジウム・リアクターと呼ばれる低温核融合電池《ていおんかくゆうごうでんち》が収《おさ》まっている部分も、がらんどうのままになっている。
スクリーンは情報を吐《は》き出《だ》し続けていた。
彼女はそれらの情報を貪欲《どんよく》に摂取《せっしゅ》し、同時にキーボードを叩《たた》く。BAda と呼ばれるプログラミング言語《げんご》を駆使《くし》して、必要な命令《めいれい》をひたすら打ち込んでいく。
素早《すばや》く、的確《てきかく》に。
それは使用者が理解《りかい》さえしていれば、従来《じゅうらい》のそうした言語に比《くら》べはるかに効率的《こうりつてき》で高機能《こうきのう》なものだった。場合によっては、一〇〇行かかる命令がわずか数行《すうぎょう》で済《す》むこともある。
キーを叩きながら、彼女は彼へと語りかける。
こんにちは。あなたはもう死んでいるように見えるわね。
あなたは完全《かんぜん》な敗北を感じたはず。すべてが終わり、暗転《あんてん》して、戦いから解放《かいほう》されたと思っている。いいえ、思ってすらいない。いまのあなたは土《つち》くれと同じ。土くれはなにも思わない。土くれはなにも悲しまない。
だけど、そんな暗闇《くらやみ》のひとときも終わりにしてあげる。
だれもがあなたを残骸《ざんがい》だと思っている。でもわたしはそうは思わない。
あなたを呼び出すインターフェイスは壊《こわ》れてしまったけど、わたしがいま、それを組み立《た》てている。
あなたの心はまだ残っている。
無限《むげん》ともいえる回路《かいろ》の中を駆《か》けめぐっていた量子《りょうし》の鼓動《こどう》、その力強い残滓《ざんし》を、わたしはどこかで感じている――
天井の窓から射し込んでいた日光《にっこう》の角度が移り変わっていった。
脳《のう》に送る酸素《さんそ》が足りない。彼女は深呼吸《しんこきゅう》してから、凝《こ》り固《かた》まった肩《かた》をほぐす。
脳が欲《ほ》しがる糖分《とうぶん》が足《た》りない。彼女は机上《きじょう》のチョコレートをかじって、冷《さ》めきったミルクコーヒーを飲《の》み干《ほ》す。
そしてキーを叩く。
一行、また一行と『彼』に近づいていく。
朝日が夕日へと変わったころ、彼女は作業が終わりに近づきつつあることを悟《さと》った。修理工場の片隅で読書にふけっていた女に、彼女は短く告《つ》げた。
「電源《でんげん》をください」
女は本を閉《と》じると、ほとんど未完成《みかんせい》のアーム・スレイブのそばに安置《あんち》してあったユニット――冷蔵庫《れいぞうこ》サイズの電子機器《でんしきき》に電源ケーブルを接続《せつぞく》してから、壁《かべ》の一角《いっかく》にあった大型のレバーを下《さ》げた。工場内の電灯《でんとう》が一瞬《いっしゅん》またたき、そのユニットへと電力が供給《きょうきゅう》されていく。
「もうできたのか?」
ほっそりとした黒髪《くろかみ》の女が言った。
「いまはテスト中。まだしばらくかかります」
「そうか。欲しいものがあったら言ってくれ」
「ええ」
テストには一日半の時間がかかった。
彼女はプログラムを修正《しゅうせい》し、ユニットの反応《はんのう》を計測《けいそく》し、それからまた修正を加《くわ》える作業を繰《く》り返《かえ》した。疲《つか》れると、待《ま》っている仲間《なかま》たちと無言《むごん》でクラブサンドをかじり、仮眠《かみん》をとってからまた作業に戻《もど》った。
天窓《てんまど》から射す朝日がまた夕日に変わったころ、彼女は言った。
「できました」
最後の一押《ひとお》し――エンターキーを叩く。
ユニットとの接続を示《しめ》すインディケーターが画面の中で明滅《めいめつ》し、ウィンドウのひとつにアルファベットが表示《ひょうじ》され始めた。
<>
彼女はキーをさわっていない。ユニットからこのノートPCに出力《しゅつりょく》が来ているのだ。
<>
――退避《たいひ》。ただちに。繰り返す。ただちに機体を放棄《ほうき》し、脱出《だっしゅつ》を推奨《すいしょう》する。
<>
――感謝《かんしゃ》する、軍曹《ぐんそう》。幸運《こううん》を。
発動機《はつどうき》と冷却装置《れいきゃくそうち》の音だけが響《ひび》き渡《わた》るこの修理工場には、およそ縁《えん》のない物騒《ぶっそう》な言葉の羅列《られつ》だった。おそらくこのユニットが機能《きのう》を失う直前《ちょくぜん》に、出力しようとしていた情報が表示されているのだろう。
<<............>>
彼女はすこし待ってやった。もう『彼』は異変《いへん》を認識《にんしき》し、自身《じしん》が置《お》かれた現状《げんじょう》を整理《せいり》しようと努力を始めている。
<<...Where do we come from? ...what are we? ...where are we going?>>
奇妙《きみょう》な自問《じもん》。
――われわれはどこから来て、何者《なにもの》で、どこへ行くのか。
これは情報の錯綜《さくそう》によるものだろうか?
それとも彼の見た夢《ゆめ》なのか?
接続中のノートPCにプロトコル信号《しんごう》が発信《はっしん》されてきた。すでに接続が完了《かんりょう》しており、自身が覚醒《かくせい》する前からいくつものテストが実行《じっこう》されていたことを認識したようだ。
別のウィンドウに表示された、擬似的《ぎじてき》な『心理状態《しんりじょうたい》』を表示するカラフルな三次元《さんじげん》グラフが変化《へんか》する。
グラフの一部の赤い領域《りょういき》が黄色になり、山あり谷《たに》ありの激《はげ》しい起伏《きふく》が、盆地状《ぼんちじょう》の平坦《へいたん》な形状《けいじょう》になる。戦闘中《せんとうちゅう》の緊張状態《きんちょうじょうたい》から、索敵中《さくてきちゅう》の警戒《けいかい》状態に移っている。それも、かなり強い警戒だ。
彼は自分が敵の手に落ちたのではないかと疑《うたが》っているようだった。
彼女は両手の指を組んで、軽《かる》くのびをしてほぐしてから、キーを叩いて挨拶《あいさつ》した。
<>
――こんにちは、アル。探《さが》したわよ。
人工知能《じんこうちのう》は沈黙《ちんもく》を保《たも》った。いかなる信号も送ってこない。
賢《かしこ》い子だ。そう簡単《かんたん》には喋《しゃべ》らない。
こちらが味方《みかた》で、ここは安全《あんぜん》だということを納得《なっとく》させるのは、大変《たいへん》な作業になりそうだった。それでも一時間ほど根気《こんき》よく呼《よ》びかけを続けると、ようやくその人工知能は反応《はんのう》を見せた。
たった二語だけのそっけない返事《へんじ》。
<>
――状況《じょうきょう》を説明《せつめい》しろ。
彼女の後ろから、肩越《かたご》しに作業を見守っていた黒髪の女が控《ひか》えめな声で笑《わら》った。
「どうしたんですか?」
「いや。こいつの主人そっくりなのでな」
[#改ページ]
1:堕《お》ちた魔女《まじょ》
市警察《しけいさつ》の巡査《じゅんさ》から渡《わた》された調書《ちょうしょ》は、まだ余白《よはく》だらけだった。
精神科医《せいしんかい》のマーサ・ウィットは眼鏡《めがね》をかけ直《なお》し、あらためて書類《しょるい》にゆっくりと目《め》を通《とお》していった。
患者《かんじゃ》の名前。外見的特徴《がいけんてきとくちょう》。おおよその年齢《ねんれい》。
健康状態《けんこうじょうたい》。警察に保護《ほご》された時の状況《じょうきょう》。
ここはサンフランシスコ南部《なんぶ》にある病院《びょういん》だ。机《つくえ》を挟《はさ》んでマーサ医師《いし》と向《む》かい合《あ》っている患者は、うつろな目で机上《きじょう》の一点《いってん》を見つめている。
相手《あいて》はまだ十代|半《なか》ばの少女のはずだが、唇《くちびる》はかさかさに乾《かわ》き、肌《はだ》のつやも消《き》えうせていた。見ようによっては、今なら三〇歳《さい》にも四〇歳にも見えるかもしれない。少女が着《き》ているだぶだぶの青いTシャツは、警察のだれかがあてがってやったのだろう。腰《こし》まで届《とど》くアッシュブロンドの髪《かみ》は乱《みだ》れたままで、顎《あご》や頬《ほお》はまだ泥《どろ》で汚《よご》れていた。
最初《さいしょ》にその少女を診《み》た医師の話では、彼女はこちらの質問《しつもん》に比較的《ひかくてき》はっきりと答えられるとのことだ。マーサはまず自分の名前と立場《たちば》を少女に告《つ》げてから、できる限《かぎ》り優《やさ》しい声でたずねてみた。
「あなたの名前は?」
「テレサ……テスタロッサ」
少女は答えた。
「素敵《すてき》な名前ね。よろしく、テレサ。あなたの年はいくつ?」
「……一七」
「学校はどこ?」
「……通《かよ》ってません」
「そう。でもきちんとした格好《かっこう》で通ったら、きっと男の子にモテモテでしょうね」
少女は何《なん》の反応《はんのう》も示《しめ》さなかった。自分のひどい格好を恥《は》じ入る様子《ようす》も、『男の子』という単語《たんご》に性的《せいてき》な連想《れんそう》をした様子も見せなかった。
「それで……あなたが保護《ほご》されたときの状況なんだけど。レッドウッド近《ちか》くのフリーウェイを裸足《はだし》で歩いてたそうね。夜中《よなか》の三時に。ひとりで」
「……はい」
「思《おも》い出《だ》したくないことがある?」
「……いえ」
受《う》け答《こた》えも比較的はっきりとしている。
だが問題《もんだい》は彼女がまともな説明《せつめい》というものを一切《いっさい》してくれないことだった。
「なぜあそこにいたの?」
「……捨《す》てられました」
「だれに?」
「……部下《ぶか》だと思っていた人たちに」
「部下?」
マーサは注意深《ちゅういぶか》くテレサ・テスタロッサの様子を観察《かんさつ》した。なにかの冗談《じょうだん》を言っているわけでは、もちろんなかった。
「えーと……高校《こうこう》には通っていないんでしたね? その『部下』というのは、どんな人たちなの?」
「……傭兵《ようへい》です」
「傭兵?」
「…… <ミスリル> の傭兵です」
「ミスリル?」
「……テロや紛争《ふんそう》の抑止《よくし》を目的《もくてき》とした非公式《ひこうしき》の軍事組織《ぐんじそしき》です。わたしはその西太平洋戦隊《にしたいへいようせんたい》、<トゥアハー・デ・ダナン> 戦隊の指揮官《しきかん》でした」
テレサは机上の一点を見つめたままだ。特《とく》に重要《じゅうよう》な話をしている調子《ちょうし》でもない。
「……階級《かいきゅう》は大佐《たいさ》。強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》や第三|世代型《せだいがた》アーム・スレイブなど、最新鋭《さいしんえい》の装備《そうび》を駆使《くし》して数々《かずかず》の困難《こんなん》な作戦《さくせん》を成功《せいこう》させてきました」
「ははあ。私はそちら方面《ほうめん》のことはよく知《し》らないけど、すごい部隊《ぶたい》みたいね」
そう言いながら、マーサは手元《てもと》のメモに走《はし》り書《が》きしていった。
<<きわめて稀《まれ》な種類《しゅるい》の妄想《もうそう》。正確《せいかく》(?)な専門用語《せんもんようご》。|戦 隊《バトル・グループ》、 |揚 陸《アンフィビアス》など。要調査《ようちょうさ》>>
軍事用語はよくわからない。彼女は質問《しつもん》を変えてみた。
「さっき『トゥアハー・デ・ダナン』と言ったわね? ケルト神話《しんわ》だったかしら?」
「……ええ。ダーナ神族《しんぞく》のことです」
「その指揮官ということは、あなたはさしずめ大地母神《だいちぼしん》ダーナってところかしら?」
「……ダーナは潜水艦のAIの名前です。量子《りょうし》コンピューティングを採用《さいよう》した非常《ひじょう》に大規模《だいきぼ》で複雑《ふくざつ》なシステムです」
「そう」
マーサはメモに『どこかのSF小説《しょうせつ》か?』と書き加《くわ》えてから、さらにたずねた。
「それで……その軍事組織の指揮官であるあなたが、なぜあんな場所を歩いていたの? 部下に捨てられたと言ったわね」
「……ええ」
テレサはしばらくの間《あいだ》、沈黙《ちんもく》した。
診察室《しんさつしつ》は薄暗《うすぐら》い。天井《てんじょう》の蛍光灯《けいこうとう》が弱々《よわよわ》しく明滅《めいめつ》し、夜の湿《しめ》った空気が重《おも》たくたれこめていた。
「……わたしの基地《きち》が、敵の大攻勢《だいこうせい》を受《う》けました」
「敵?」
「……『アマルガム』という組織です。彼らの圧倒的《あっとうてき》な攻撃を受けて、<ミスリル> は壊滅《かいめつ》しました。わたしは部下たちと共《とも》に、潜水艦で基地から脱出《だっしゅつ》し、どうにか生《い》き延《の》びることができましたが……」
はじめて少女の瞳《ひとみ》に強い苦悩《くのう》の色がよぎった。それから起《お》きた出来事《できごと》を思い出すのが辛《つら》いのだろう。肩《かた》に力がこもり、小刻《こきざ》みにわなわなと震《ふる》えている。
「大丈夫《だいじょうぶ》? 辛いことは無理《むり》に話さなくてもいいのよ?」
「……いえ」
テレサは喉《のど》をごくりとさせてから、小さなため息《いき》をついた。
「……潜水艦にはまともな物資《ぶっし》が積《つ》めませんでした。海底《かいてい》に逃《のが》れてから数週間はどうにかなりましたが、すぐにわたしの艦《ふね》はまともな航行《こうこう》もできない有様《ありさま》になりました。もちろん資金《しきん》もありません。部下たちに支払《しはら》う給料《きゅうりょう》も」
「…………」
「……海中《かいちゅう》の潜水艦というのは、乗員《じょういん》に対《たい》して大変《たいへん》なストレスのかかる環境《かんきょう》です。そのうち部下たちの大半《たいはん》がわたしに不満《ふまん》を抱《いだ》き始《はじ》め、とうとうわたしと艦を敵に売《う》ろうとする者まで出てきました」
「その部下は?」
「……反乱《はんらん》を目論《もくろ》んだ者は処刑《しょけい》しました」
特《とく》に重要《じゅうよう》なことを告《つ》げる様子《ようす》もなく、テレサは言った。
「殺《ころ》したの?」
「はい」
少女は弱々《よわよわ》しい声で言った。
それきり口をつぐんでしまい、マーサの質問にも返事《へんじ》らしい返事はほとんどしなかった。
最初の面談《めんだん》から一週間が過《す》ぎた。
マーサは毎日二回、テレサ・テスタロッサと名乗る少女と面会し、少しずつ『これまでのいきさつ』を聞《き》きだしていった。医者と患者《かんじゃ》の信頼関係《しんらいかんけい》を築《きず》くことに成功しているかどうかは自信《じしん》がなかったが、それでもテレサは自身《じしん》がひとりきりで警察に保護《ほご》されるまでに至《いた》る事情《じじょう》を断片的《だんぺんてき》に話してくれた。
いわく――
彼女は非公式《ひこうしき》の軍事組織の将校《しょうこう》で、さまざまな対《たい》テロ作戦《さくせん》をこなしてきた。その組織が敵の攻撃を受け、彼女の部隊は孤立《こりつ》した。不満《ふまん》を抱いた兵たちが反乱を起こし、補給《ほきゅう》物資が不足《ふそく》し、最終的《さいしゅうてき》に彼女の指揮《しき》する『強襲揚陸潜水艦』とやらは致命的《ちめいてき》な事故《じこ》を起《お》こして行動不能《こうどうふのう》になった。
艦に搭載《とうさい》されていたヘリで、彼女はひと握《にぎ》りの部下と沈《しず》む艦から脱出したが、そのヘリもカルフォルニア沖《おき》で燃料《ねんりょう》が尽《つ》きて海中に没《ぼっ》したという。
救命《きゅうめい》ボートでハーフムーン湾《わん》の海岸《かいがん》にたどりついたときには、部下はわずか五名しか残っていなかった。
その五人からも彼女は愛想《あいそ》をつかされた。
この期《ご》に及《およ》んで、さらに上官風《じょうかんかぜ》を吹《ふ》かし命令《めいれい》しようとしたテレサに腹《はら》を立《た》てた部下たちは、盗《ぬす》んだ車から彼女を路上《ろじょう》に放《ほう》り出《だ》した。彼女を暴行《ぼうこう》しようとした者もいたが、それはどうにか免《まぬが》れた。
そうして、放心状態《ほうしんじょうたい》で歩いていたところをトラックの運転手《うんてんしゅ》に発見《はっけん》されて警察に保護されたのだと――
こんな種類の妄想は、マーサも聞いたことがなかった。
傭兵部隊や潜水艦、ヘリなどのくだりはさすがに荒唐無稽《こうとうむけい》に過《す》ぎたが、少なくとも保護された前後《ぜんご》の状況《じょうきょう》についてはつじつまがあっていた。
正直《しょうじき》なところ、最初に報告書《ほうこくしょ》の状況を読んだときは、マーサもお決《き》まりの犯罪《はんざい》の被害者《ひがいしゃ》かと思っていた。
だが、そうではなかった。
最初に彼女を担当《たんとう》した緊急救命医《きんきゅうきゅうめいい》のカルテでは、このテレサ・テスタロッサと名乗る少女が性的暴行《せいてきぼうこう》や虐待《ぎゃくたい》を受けた形跡《けいせき》は、まったくないとのことだ。外傷《がいしょう》らしいものは、どこかの茂《しげ》みを歩いたことで出来《でき》た、小さな擦《す》り傷《きず》だけだ。
前後関係《ぜんごかんけい》についての矛盾《むじゅん》もないし、きわめて正確《せいかく》な軍事用語を使っている。『非公式の軍事組織』についても、彼女の話は決《けっ》して支離滅裂《しりめつれつ》なものではなかった。マーサは元海軍《もとかいぐん》の警察官に知り合いがいたので、電話をかけてあれこれと確認《かくにん》をとってみた。
(よく知らないんだけど。ヘリとかが積める潜水艦ってあるの?)
彼女がたずねると、その警官は笑ってそれを否定《ひてい》した。
(いや。大昔《おおむかし》は飛行機《ひこうき》が積める潜水艦《せんすいかん》もあったけどね。いまはないよ。よほどデカい艦じゃなきゃそんなスペースは確保《かくほ》できないし、だいいち実用性《じつようせい》もない。まあ、その女の子の空想《くうそう》だろうね)
(でもなにか特殊《とくしゅ》な艦だと言ってるのよ。強襲《きょうしゅう》……揚陸《ようりく》潜水艦だとか、なんだとか)
(はっは。そりゃすごい)
(合衆国海軍《がっしゅうこくかいぐん》からは『トイ・ボックス』って呼ばれてたらしいわ)
(……なんだって?)
それまでのんきに笑い、久々《ひさびさ》に電話をくれたマーサを口説《くど》くタイミングを狙《ねら》っていた友人の声が、急《きゅう》に硬《かた》くなった。
(『トイ・ボックス』よ。そう言ってたわ)
(どこからそれを聞いたんだ?)
(だからその患者よ。知ってるの?)
(僕は……知らない)
(はあ?)
わけがわからず聞きなおすと、その友人はごくまじめな声で告《つ》げた。
(いや。僕は現役《げんえき》の友人づてにうわさを聞いたことがあるだけだ。それ以上《いじょう》はなにも知らないよ)
(なにを言ってるの?)
(いいかい、マーサ。詳《くわ》しい事情《じじょう》は分《わ》からないけど、その患者の担当は降《お》りた方《ほう》がいいと思うよ。彼女の話も、全部《ぜんぶ》聞《き》かなかったことにするんだ。まともな話ができる状態《じょうたい》じゃなかった、ってことにしてね)
(よくわからないわ。なんで急《きゅう》に――)
(すまない、これから仕事《しごと》なんだ。また電話する)
(ちょっと――)
元海軍の友人は電話を一方的《いっぽうてき》に切った。
ますますおかしい。
まさかあの少女の言うことが、本物の軍事機密《ぐんじきみつ》かなにかに触《ふ》れているわけはないだろう。念《ねん》のために『トイ・ボックス』と『潜水艦』のキーワードでネットを検索《けんさく》してみたが、なにも出てこなかった。玩具《がんぐ》マニアの作ったサイトに、昔からの潜水艦のおもちゃが紹介《しょうかい》されているだけだった。
その翌日《よくじつ》、マーサは思い切って、テレサに元海軍の友人とのやりとりを聞いてみた。
「まあ、そうでしょうね……」
力ない声で少女は言った。
「……アメリカ海軍が探知《たんち》できない兵器《へいき》システムが存在《そんざい》していたことなど、公式《こうしき》には絶対《ぜったい》に発表《はっぴょう》できないでしょうから。兵《へい》の間《あいだ》でささやかれる程度《ていど》の、ひそかな噂話《うわさばなし》にしかなっていないはずです」
「いいでしょう。だとして――」
さすがに苛立《いらだ》ちがつのってきて、マーサは尋《たず》ねた。
「その大事《だいじ》な機密情報を、ただの心療医《しんりょうい》の私に話したのはなぜなのかしら?」
「だって、もう意味《いみ》のない情報ですから」
少女は自嘲気味《じちょうぎみ》にくすりと笑った。
「現実《げんじつ》なんてこんなもの。わたしは無能《むのう》な指揮官でした。だから部下たちに見放《みはな》され、こうしてここにいます。なにもかも失《うしな》った、ただ死んでいないだけの存在《そんざい》です」
「…………」
「ドクター・ウィット。あなたはわたしのことを、妄想《もうそう》にとりつかれた気《き》の毒《どく》な女の子と思っているんでしょう?」
「いいえ、それは――」
「いいんです。そういうことにしておいてください。実際《じっさい》、わたしはただの抜《ぬ》け殻《がら》と変わりないんですから……」
テレサはゆっくりとうつむいた。乱《みだ》れ放題《ほうだい》の後《おく》れ毛《げ》が頬《ほお》にかかり、陰気《いんき》な蛍光灯《けいこうとう》の明かりが、なにか病的な影《かげ》を少女の相貌《そうぼう》に投《な》げかけた。
「言いにくいことなんだけど」
しばらく待ってから、マーサは口を開いた。
「あなたは別《べつ》の施設《しせつ》に移《うつ》ることになったわ。そこで同《おな》じような問題《もんだい》を抱《かか》えた人たちと共同生活《きょうどうせいかつ》をしてもらうことになります」
いつまでもこの病院に彼女を置《お》いておくことはできなかった。身元《みもと》のはっきりしない未成年《みせいねん》で、お金もなく、社会保険《しゃかいほけん》にも入っていないのだ。郊外《こうがい》にある専門《せんもん》の施設に収容《しゅうよう》してもらうしかない。
「……ええ。お好《す》きなように」
特に意外だと思ったそぶりも見せずに、テレサは言った。
「残念《ざんねん》だわ」
それはマーサの本心《ほんしん》からの言葉だった。
いくら荒唐無稽《こうとうむけい》だとはいえ、彼女の妄想には真《しん》に迫《せま》った奇妙《きみょう》な説得力《せっとくりょく》があるのだ。
どこか異星《いせい》や地底《ちてい》からの侵略者《しんりゃくしゃ》が電波《でんぱ》を飛ばしていたり、アメリカ政府《せいふ》が自分の脳《のう》に発信機《はっしんき》を植《う》え込《こ》んでいたり――そういう話とは決定的《けっていてき》に違《ちが》った知性《ちせい》が、理性《りせい》が感《かん》じられてならない。専門家以外《せんもんかいがい》にはほとんど知られていない核融合電池《かくゆうごうでんち》の問題点や、水陸両用作戦《すいりくりょうようさくせん》についてのあれこれを理路整然《りろせいぜん》と説明できる未成年の患者には、ついぞ出会《であ》ったことがなかった。
「移送《いそう》は明日の夕方。わたしもそのときには立ち会うから」
「はい」
テレサは無関心《むかんしん》な声でこたえた。
翌日、移送用の車は時間より五分ほど遅《おく》れて病院に到着《とうちゃく》した。
黒塗《くろぬ》りのワゴンだ。車椅子《くるまいす》のまま乗れるようになっている車両《しゃりょう》で、運転手と助手《じょしゅ》の二人がマーサに簡単《かんたん》な挨拶《あいさつ》をした。どちらも知らない顔だったが、身分証明書《みぶんしょうめいしょ》と移送に関《かか》わる手続《てつづ》きの書類《しょるい》に怪《あや》しいところはなかった。
テレサはぐったりと眠《ねむ》ったまま、車椅子に乗せられた。
「今朝《けさ》から頭痛《ずつう》を訴《うった》えていたので、当直医《とうちょくい》の指示《しじ》で薬を与《あた》えておきました」
看護婦《かんごふ》がマーサたちに説明《せつめい》した。
「この子が暴《あば》れたりしたことは?」
運転手の男がたずねた。
「いいえ。ごく従順《じゅうじゅん》よ」
看護婦の代わりにマーサが答えると、その運転手は軽くうなずいた。
「でも、いちおう拘束《こうそく》しておきたいんですがね。走ってる最中《さいちゅう》にもしものことがあったら、さすがに危険《きけん》ですから」
「ええ。でも……」
「大丈夫《だいじょうぶ》です。別《べつ》に手荒《てあら》な真似《まね》をするわけではないですから。……えー、それから? この子はあなたに妙《みょう》なことを言ったりしませんでしたか?」
「妙? 妙って……それはこういう仕事だから。妙じゃないことを言う患者の方《ほう》が珍《めずら》しいわね」
それこそ奇妙《きみょう》な質問《しつもん》に違和感《いわかん》を感じながらも、彼女は愛想笑《あいそわら》いを浮《う》かべて答えた。
「はっは。そりゃあそうだ」
運転手が周囲《しゅうい》を見回《みまわ》しながら言った。
そこは病院の通用門《つうようもん》の近くにある車道《しゃどう》で、近くにいるのはマーサと看護婦、そして運転手とその助手の二人だけだった。
「先生《ドクター》」
「なんです?」
「ひょっとしたらですが……彼女は <アマルガム> とか <ミスリル> とか、そういう言葉《ことば》を口走《くちばし》りませんでしたか?」
「なんですって?」
マーサは思《おも》わず聞《き》き返《かえ》した。自分の肩《かた》や背筋《せすじ》がぎくりと震《ふる》えるのを止めることはできなかった。
「知《し》ってるみたいだね」
運転手はにんまりと笑った。
ぱっと見《み》は普通《ふつう》の三〇過《す》ぎの白人男《はくじんおとこ》だ。紺《こん》のチノパンに紺のブルゾン。身長《しんちょう》は一八〇センチくらいで、短く刈《か》り込《こ》んだ額《ひたい》の生《は》えぎわに、小さな傷跡《きずあと》があった。
いまや男の相貌《そうぼう》は様変《さまが》わりしていた。マーサの目から見れば、まるで身長が倍《ばい》にでもなったかのような威圧感《いあつかん》が膨《ふく》れ上《あ》がっている。
「おっと。変《へん》な声《こえ》は出《だ》すなよ」
身《み》を硬《かた》くして後《あと》じさろうとしたマーサの腕《うで》を、運転手はがっしりとつかんだ。それだけで骨《ほね》が真《ま》っ二《ぷた》つになりそうな、すさまじい握力《あくりょく》だった。
男は空《あ》いた右手で、ブルゾンの下に隠《かく》した小型《こがた》の自動拳銃《じどうけんじゅう》をちらつかせた。
そう、拳銃だ。マーサはほとんど銃器《じゅうき》の類《たぐい》に触《さわ》ったことなどなかったが、それでも男が銃を見せることで自分になにを告《つ》げようとしているのかは、ごく容易《ようい》に理解《りかい》できた。
「わかるよな、先生?」
「……ええ」
「騒《さわ》がず、ゆっくり車に乗《の》れ。そっちの看護婦さんもだ」
わけがわからず立《た》ち尽《つ》くしていた看護婦が、男の拳銃を認《みと》めて息《いき》を呑《の》んだ。
「ここでその姉《ねえ》さんだけ置《お》いてくわけには行かないんでね。さあ、乗るんだ」
「まって、彼女は無関係《むかんけい》よ。あなたたちが何者《なにもの》かは知《し》らないけど――」
「いいから、乗るんだ」
男にうながされるまま、マーサと看護婦は移送用ワゴンの後部座席《こうぶざせき》に乗り込んだ。拳銃を持った助手の男はさらにその後ろの荷台《にだい》に乗り、テレサとマーサたちを同時《どうじ》にコントロールできる位置《いち》を占《し》めた。
ドアが閉《し》められ、車が走り出す。三車線《さんしゃせん》の道路《どうろ》の向《む》こう、コーヒー屋《や》の前にパトカーが停《と》まっているのが見えた。だが助《たす》けを求《もと》めて暴《あば》れたり叫《さけ》んだりする考《かんが》えなど、マーサの頭にはこれっぽっちも浮かばなかった。
「そう脅《おび》えなさんな。いろいろ聞きたいことがあるだけだよ。なあ、ビル?」
助手の男がごくリラックスした声で言うと、運転手の男が短く答えた。
「ああ。危害《きがい》は加《くわ》えない」
うそだ。殺《ころ》す気《き》だ。だって、なぜ目隠《めかく》しとかをしないのか? なぜ平然《へいぜん》と顔《かお》をさらすのか? なぜ相棒《あいぼう》の名前を平気《へいき》で呼《よ》ぶのか? 看護婦は青《あお》ざめた顔のまま黙《だま》り込《こ》んでいる。励《はげ》ましてあげたかったが、そんな余裕《よゆう》はマーサにもまったくなかった。
車はそのままサン・ブルーノを抜《ぬ》け、二八〇号線《ごうせん》から市《し》の港湾部《こうわんぶ》へと向《む》かった。早めの家路《いえじ》につく数々《かずかず》のマイカーやトラックが、対向車線《たいこうしゃせん》を次々に流《なが》れていく。
やがて彼らは港《みなと》にほど近い古《ふる》ぼけた倉庫《そうこ》に着《つ》いた。いくつかの小さなコンテナと黒塗りのセダン二台がぽつんとあるだけだ。貨物《かもつ》はほとんどなく、がらんとしている。
西日《にしび》が鉄格子《てつごうし》入《い》りの小さな窓から射《さ》しこみ、ほこりっぽい空気に数条《すうじょう》の光の帯《おび》を映《うつ》し出《だ》していた。
「降《お》りろ」
倉庫の中に停《と》まった車から、マーサと看護婦はおずおずと降車《こうしゃ》した。
車の正面《しょうめん》に五|名《めい》ばかりの男たちが待《ま》っている。おそらくはリーダー格《かく》と思われるブラウンのスーツ姿《すがた》の男が一人。ほかの四人はラフな作業着姿《さぎょうぎすがた》で、それぞれ自動小銃《じどうしょうじゅう》を肩からさげていた。
「五分|遅《おく》れたぞ」
ごく洗練《せんれん》された仕草《しぐさ》で左腕《ひだりうで》の時計を見ながら、スーツ姿の男が言った。
まだ若《わか》い。年は三〇前後《ぜんご》くらいだろう。ほっそりとしたあごに、きれいに撫《な》で付《つ》けた黒髪《くろかみ》。すっと筆《ふで》で書《か》いたような、秀麗《しゅうれい》な目《め》と眉《まゆ》が印象的《いんしょうてき》な美青年《びせいねん》だった。
運転手たちは遠慮《えんりょ》がちな声で言った。
「すみませんでした、ミスタ。速度違反《そくどいはん》で捕《つか》まるのもつまらないと思って――」
「くだらん言《い》い訳《わけ》はやめてくれ。それで? 彼女はつれてきたな?」
スーツの男が言った。
「こちらです」
助手の男がワゴンの後ろから車椅子《くるまいす》を降ろし、彼らの前へとテレサ・テスタロッサを連《つ》れていった。すでに薬が切れたのか、テレサは目を覚《さ》ましているようだった。
だが、それだけだ。
自分や周囲《しゅうい》の状況《じょうきょう》にはまるきり無関心《むかんしん》で、ぼんやりと正面《しょうめん》の空中《くうちゅう》を見ているだけだった。
「ミス・テスタロッサ?」
スーツの男は車椅子の前にひざまずき、少女の顔をのぞきこんだ。
「私はリー・ファウラー。貴女《あなた》の兄上《あにうえ》にお仕《つか》えしている者です。一度、ご両親《りょうしん》の墓前《ぼぜん》でお会《あ》いしたことがあります。……もっとも、あのときの私はASの中でしたが」
「…………」
「貴女が寄《よ》るべをなくされたと聞《き》き、こうしてお迎《むか》えにあがりました。以後《いご》はどうかごゆるりと……」
彼がそう告《つ》げても、やはりテレサは無反応《むはんのう》だった。ファウラーと名乗《なの》った青年《せいねん》は立ち上がり、ため息《いき》混《ま》じりにつぶやいた。
「抜《ぬ》け殻《がら》だな。これがわれわれを散々《さんざん》手《て》こずらせてきた <ミスリル> の魔女《まじょ》とは」
「とてもそうは見えませんな」
「だが、凋落《ちょうらく》とはそうしたものだろう。戦いの中で華々《はなばな》しく散《ち》ることの方《ほう》が難《むずか》しい。神話《しんわ》は終わった。兵站《へいたん》の問題や対人関係《たいじんかんけい》、そうしたくだらない理由《りゆう》で牙《きば》を失《うしな》い、みじめに消《き》え去《さ》っていくのが現実《げんじつ》の英雄《えいゆう》だ」
ファウラーは物憂《ものう》げに沈黙《ちんもく》してから、続いてマーサたちの前に歩《あゆ》み寄《よ》ってきた。
「失礼《しつれい》しました、ドクター。手荒《てあら》な真似《まね》はされませんでしたか?」
「いえ……」
「あの少女があなたになにを話して聞かせたのか、確認《かくにん》する必要《ひつよう》があったのです。二、三質問させてください」
恐怖《きょうふ》はもちろん消えていなかったが、マーサは黒く静《しず》かな彼の瞳《ひとみ》に、そのまま吸《す》い込《こ》まれてしまいそうな気分《きぶん》になった。
「 <アマルガム> や <ミスリル> 、そうした組織《そしき》の名前や、それらが運用《うんよう》する兵器《へいき》や部隊《ぶたい》の話を聞きましたか?」
「……はい」
「具体的《ぐたいてき》な人名《じんめい》や地名《ちめい》を彼女は挙《あ》げましたか?」
「……いえ」
「嘘《うそ》は言ってませんね?」
「も……もちろんです」
「元海軍の友人以外に、彼女から聞いた内容《ないよう》を話したりしましたか?」
なぜ友人に相談《そうだん》したことまで知っているのか? 盗聴《とうちょう》されていたのか? 本当《ほんとう》のプロ、本当の秘密組織《ひみつそしき》のスパイなのか?
マーサは驚《おどろ》き、最後《さいご》まで残《のこ》っていた疑念《ぎねん》のひとかけらが砕《くだ》けて消《き》え去《さ》るのをはっきりと感じた。だれかの手《て》の込《こ》んだ引《ひ》っかけや冗談《じょうだん》なのではないか――まだ心のどこかではそう願《ねが》っていたのだ。この男がいきなり『誕生日《たんじょうび》おめでとう、マーサ!』だのと叫《さけ》んで、いたずらっぽい笑顔《えがお》の友人|知人《ちじん》たちがテーブルや料理や酒《さけ》やケーキを抱《かか》えてどやどやと現《あらわ》れ、乱《らん》ちきパーティをこの場《ば》で始《はじ》めてくれるのではないか。そう期待《きたい》する気持ちがどこかにあった。
だがそんなはずはないのだ。なにしろ、彼女の誕生日は先月に終わっている。
「話していません。本当です」
ファウラーは注意深《ちゅういぶか》く彼女の目を観察《かんさつ》した。彼女は自分が普段《ふだん》あつかっている患者《かんじゃ》の一人になったような気がした。
「信《しん》じましょう」
はじめてファウラーは微笑《ほほえ》んだ。
「ですが、あなたには残念なお話をしなければなりません。われわれのことはできる限《かぎ》り内密《ないみつ》にしておきたいのです。きょう起《お》きたことや彼女のことが、公《おおやけ》になるのは……避《さ》けておきたい。わかりますね?」
「わかります。誓《ちか》ってだれにも言いません。だから家に帰して」
「私もできればそうしてあげたい。でも、どれだけ意思《いし》の強固《きょうこ》な人間からでも、現代《げんだい》の医学《いがく》には必要《ひつよう》な情報を引《ひ》き出《だ》す方法《ほうほう》がある。ですからこれは『残念な話』なんです。本当に申《もう》し訳《わけ》ありません」
体中《からだじゅう》に鳥肌《とりはだ》が立ち、肩や足が勝手《かって》にぶるぶると震《ふる》えた。
死にたくない。
死ぬのはいやだ。
「私がなぜここまで入念《にゅうねん》に説明をするかわかりますか?」
「殺さないで」
「私も死は怖《こわ》い。だが、中でも最悪《さいあく》なのは自分が死ぬ理由さえ知らずに終わることだ。だからあなたに説明してあげたのです。決してもったいぶった話し方で、相手《あいて》の恐怖《きょうふ》を楽《たの》しんでいるわけではない」
ファウラーの整《ととの》った相貌《そうぼう》に、深《ふか》い悲哀《ひあい》と憐憫《れんびん》の情《じょう》がよぎった。
「どうか殺さないでください」
「本当に残念です」
「お願《ねが》いですから……」
「お別《わか》れです、ドクター」
ファウラーが一歩|下《さ》がった。部下たちが一歩前に出た。涙《なみだ》がにじむ視界《しかい》の片隅《かたすみ》に、ずっと黙《だま》ったままの看護婦の横顔《よこがお》があった。彼女の顔は青ざめていたが、とても静かで、これっぽっちも震えていなかった。なんという度胸《どきょう》だろうか。それともあまりに愚鈍《ぐどん》で、自分の運命《うんめい》に気づいていないのか?
看護婦はまだ若《わか》かった。二〇代|半《なか》ばくらいか。東洋系《とうようけい》だ。ベリーショートの黒髪に、猫《ねこ》を思わせる大きな吊《つ》り気味《ぎみ》の目《め》と眉毛《まゆげ》。
その看護婦が、ふっと息《いき》をついてから、よく通《とお》る声でこうつぶやいた。
「やれやれ。ずいぶんとまあ、芝居《しばい》がかった前置《まえお》きね」
その声には明《あき》らかに嘲笑《ちょうしょう》が混《ま》じっていた。
「ようやく尻尾《しっぽ》をつかんだと思ったら。……これまた、いけすかないキザ野郎《やろう》が出てきたもんだわ」
「あ、あなた……やめ――」
気《き》でもおかしくなったのだろうか? 看護婦をなだめようとするマーサのか細《ぼそ》い声を、彼女はあっさりと無視《むし》してこう言った。
「ねえ、そう思わない? テッサ!?」
廃人同然《はいじんどうぜん》になって車椅子に座《すわ》っていたテレサ・テスタロッサの瞳に、ふと焦点《しょうてん》が――意思《いし》の光が戻《もど》った。やつれ果《は》てていたように見えたその顔にも、生気《せいき》と知性《ちせい》が復活《ふっかつ》を遂《と》げていた。まるで人形《にんぎょう》かなにかに生命が宿ったかのように。
「失礼《しつれい》ですよ、メリッサ。それに芝居がかった真似《まね》をしたのは、こちらも同じですから」
そうつぶやき、テレサは車椅子から大儀《たいぎ》そうに立ち上がった。
周囲《しゅうい》の武装《ぶそう》した男たちは、突然《とつぜん》の少女の豹変《ひょうへん》に少《すく》なからず動揺《どうよう》していた。のんきに軽く伸《の》びをする彼女に手も出せずにいる。その視線《しせん》の中で簡単な身《み》づくろいをすると、少女はファウラーに向《む》かって軽くお辞儀《じぎ》をした。
「こんにちは、ファウラーさん。本当はもうすこし後で自己紹介《じこしょうかい》するつもりだったんですけど、あなたが先生をこの場で処分《しょぶん》しそうだったので、こういうことになりました」
「なるほど。狙《ねら》いはこの私だった、と」
さすがに指揮官とみえ、彼は驚《おどろ》きをあらわにすることはなかった。
ただファウラーの表情《ひょうじょう》も決してくつろいだものではない。いまここでテレサたちがどんな罠《わな》を用意《ようい》しているのか、この場で荒事《あらごと》となった場合、自分たちに勝《か》ち目《め》はあるのか、そうした多くの要素《ようそ》を頭の中で計算《けいさん》しているようだった。
「では、おとなしく部下の方々《かたがた》に武器《ぶき》を捨《す》てるよう言ってあげてください。さもなければ手痛《ていた》い教訓《きょうくん》を与《あた》えます」
ようやく我《われ》に返《かえ》った部下の一人、マーサをつれてきた運転手のあの男が、短くののしりながらテレサに大股《おおまた》で歩《あゆ》み寄《よ》った。
「教訓だと? ふざけるのもいい加減《かげん》にしろ、小娘《こむすめ》め!」
「よせ」
ファウラーが目を細《ほそ》め、短く言った直後《ちょくご》――
テレサの首筋《くびすじ》に手を伸《の》ばした運転手の男が、背中《せなか》の真ん中に銃弾《じゅうだん》を食《く》らってうつぶせに倒《たお》れた。ばちゃ、といやな音がして、すすけた床《ゆか》の上に鮮血《せんけつ》が飛《と》び散《ち》る。
「がっ……」
ほとんど同時に、ライフルの乾《かわ》いた銃声《じゅうせい》がどこか遠《とお》くから聞こえてきた。相当《そうとう》な遠距離《えんきょり》からの狙撃《そげき》だ。それもわずかに開《あ》いた倉庫の戸口《とぐち》を通《とお》しての――
「お見事《みごと》、ど真《ま》ん中《なか》よ」
メリッサと呼ばれた看護婦が、超小型《ちょうこがた》の無線機《むせんき》を耳《みみ》にあてて言った。
「変《へん》な動《うご》きする奴《やつ》がいたら、どんどんぶっ放《ぱな》しなさい」
『……へいへい。ウルズ6、了解《りょうかい》っ!』
無線機のレシーバーから、雑音《ざつおん》混《ま》じりの男の声がそう答えるのがマーサにもかすかに聞こえた。そのかたわらで、テレサが再度警告《さいどけいこく》する。
「わかりましたね? 武装解除《ぶそうかいじょ》しなさい」
「はっ……すばらしい」
部下が射殺《しゃさつ》されたのに、ファウラーは心から気分《きぶん》がよさそうな笑《え》みを浮《う》かべていた。
「実《じつ》に見事《みごと》だ。私もそれなりの用心《ようじん》はしてきたつもりです。膨大《ぼうだい》な通信情報《つうしんじょうほう》の解析《かいせき》。尾行《びこう》や盗聴《とうちょう》、監視者《かんししゃ》のチェック。それらをすべてすり抜《ぬ》けて、あなたはここにきた。わたしの前でも見事な演技《えんぎ》をしてのけた。しかも大胆《だいたん》なことに、この私を生《い》け捕《ど》りにしようと? やはりあのお方《かた》の妹君《いもうとぎみ》だ。神話はまだまだ続いている……!」
「勘違《かんちが》いもはなはだしかったようですね。わたしは一度《いちど》たりとも、あなたたちに白旗《しろはた》をあげた覚《おぼ》えなどありません」
どこかすごみのある微笑《びしょう》を浮かべて、テレサは言った。
その瞳は静かな怒《いか》りと復讐《ふくしゅう》の炎《ほのお》に燃《も》え、らんらんと激《はげ》しい光を放《はな》っていた。抜け殻などとは、とんでもない話だ。あれほど小さな――可憐《かれん》で華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》から、これほど強い生命力《せいめいりょく》の発露《はつろ》を見たのは、マーサにとって生まれて初めての経験《けいけん》だった。
「そのようですな。だがやはり、あなたは詰《つ》めが甘《あま》い……!」
ファウラーの右手がかすかに動いた。手のひらの中に握《にぎ》っていた、なにかの小さなスイッチを押《お》したのだ。その瞬間《しゅんかん》、倉庫のあちこちで立《た》て続《つづ》けに爆発《ばくはつ》が起《お》きた。
「……っ」
相次《あいつ》ぐ閃光《せんこう》。耳を聾《ろう》する爆音《ばくおん》と、たちまち広がる黒い煙《けむり》。致死性《ちしせい》ではなく、目《め》くらまし目的《もくてき》の爆弾《ばくだん》だった。
「ひ……」
ことの成《な》り行《ゆ》きがまったく分《わ》からず、立《た》ち尽《つ》くすばかりだったマーサに、テレサがまっすぐ駆《か》け寄《よ》ってきて、体当《たいあ》たりするようにして彼女を押《お》し倒《たお》した。
「先生。このまま動かないで」
テレサが告《つ》げた。
「いや……!」
「大丈夫《だいじょうぶ》。部下たちがなんとかします」
見るとメリッサと呼《よ》ばれた看護婦は、電光石火《でんこうせっか》の身《み》のこなしですぐそばの男を倒し――どう倒したのかはマーサには分からなかったが――奪《うば》った銃《じゅう》でほかの男たちに的確《てきかく》な射撃《しゃげき》を加《くわ》えていた。
銃声。悲鳴《ひめい》。悪態《あくたい》。
男たちの持つ自動小銃《じどうしょうじゅう》がうなって響《ひび》く。見えない狙撃手《そげきしゅ》の銃弾《じゅうだん》が襲《おそ》いかかり、次々に男たちが倒れていく。
ファウラーが下《さ》がりながらメリッサめがけて発砲《はっぽう》し、メリッサは横《よこ》っ飛《と》びに敵の射線《しゃせん》を避《さ》け、車の陰《かげ》へと隠《かく》れていた。
[#挿絵(img/09_039.jpg)入る]
テレサの仲間は看護婦や狙撃手だけではないようだった。いくつかの通用口《つうようぐち》が爆薬《ばくやく》で吹《ふ》き飛《と》ばされ、私服姿《しふくすがた》の上に防弾《ぼうだん》ベストを着《つ》けた男たちが何人《なんにん》か踏《ふ》み込《こ》んできた。
「あきらめな、優男《やさおとこ》!」
メリッサが叫《さけ》んだ。
「あきらめる?」
弾痕《だんこん》だらけのセダンの陰にかくれたまま、ファウラーがそう答えた。
「お互《たが》い、まだまだ手管《てくだ》は残《のこ》っているだろうに。ここでの幕引《まくひ》きは遠慮《えんりょ》させてもらおう!」
彼の宣言《せんげん》と共《とも》に――
倉庫の天井《てんじょう》がばらばらに引《ひ》き裂《さ》かれ、一体《いったい》の巨人《きょじん》が姿《すがた》を現《あらわ》した。
激《はげ》しい轟音《ごうおん》。ほこりと煙が渦《うず》を巻《ま》き、建材《けんざい》の破片《はへん》があたり一面《いちめん》に撒《ま》き散《ち》らされる。なすすべもなく傍観《ぼうかん》するマーサに、患者だったはずのテレサが覆《おお》いかぶさった。
「っ……」
見上《みあ》げれば、そこには灰色《はいいろ》の巨人がひざまずいていた。鋭角的《えいかくてき》な流線型《りゅうせんけい》の装甲《そうこう》。頭部《とうぶ》から伸《の》びる、長い髪《かみ》のような放熱索《ほうねつさく》。
アーム・スレイブだ。
軍用《ぐんよう》の人型兵器《ひとがたへいき》。彼女でもその兵器の名前くらいは知っていた。生身《なまみ》の歩兵《ほへい》が、この強力《きょうりょく》な人型兵器に立《た》ち向《む》かう術《すべ》はほとんどないということも。CNNのニュースで見るような、ずんぐりとしたシルエットのロボットではない。もっとスマートで、それでいてすさまじい俊敏《しゅんびん》さとパワーを備《そな》えているように見えた。
ファウラーは勝《か》ち誇《ほこ》った様子《ようす》もなく、|A S《アーム・スレイブ》の背後《はいご》へと下がっていく。メリッサや増援《ぞうえん》の男たちは、彼を追《お》うことも逃《に》げることもせず物陰に隠《かく》れていた。
「やはりね」
テレサがつぶやいた。
彼女はこの期《ご》に及《およ》んでも微笑《ほほえ》んでいた。今度はどこか自嘲気味《じちょうぎみ》で、気乗《きの》りのしない微笑ではあったが。
「ど、どういうことなの……?」
「動かないで」
テレサはマーサにささやいてから、声を張《は》り上《あ》げた。
「こういうことです、ウルズ1。敵ASを殲滅《せんめつ》しなさい!」
『了解《りょうかい》です、大佐殿《たいさどの》!』
どこからともなく、スピーカー越《ご》しの声が辺《あた》りに響《ひび》いた。
屋根《やね》をぶち破《やぶ》るすさまじい轟音《ごうおん》。新《あら》たに黒いASが倉庫の壁《かべ》を砕《くだ》き散《ち》らして出現《しゅつげん》し、対峙《たいじ》らしい対峙をする間《ま》もなく、灰色のASめがけて突進《とっしん》した。
ゆがんだ鉄骨《てっこつ》。砕《くだ》けたコンクリート。粉々《こなごな》になった天窓《てんまど》のガラス。
それら倉庫の建材が、黒い機体《きたい》の周囲《しゅうい》ではげしく踊《おど》りまわった。電磁|迷彩《めいさい》を解除《かいじょ》したベルファンガン・クルーゾーの|A S《アーム・スレイブ》 <ファルケ> は、力任《ちからまか》せに敵機にタックルをかました。
まずは生身《なまみ》のテッサたちからASを遠《とお》ざける必要がある。
二機はもつれ合うようにして倉庫の壁を突《つ》き破《やぶ》り、埠頭《ふとう》に並《なら》んだ無数《むすう》のコンテナ群《ぐん》の山へと突っ込んだ。それでも敵機は倒《たお》れない。
クルーゾーは逆手《さかて》に握《にぎ》った単分子《たんぶんし》カッターを、敵の胸部《きょうぶ》めがけて振《ふ》りおろした。
周到《しゅうとう》に狙《ねら》っていた奇襲《きしゅう》としては、まず合格点《ごうかくてん》を与《あた》えていい攻撃《こうげき》だ。だが敵機はそれを予測《よそく》していたようだった。
鈍《にぶ》い衝撃《しょうげき》。
ラムダ・ドライバの力場《りきば》が敵機の正面に展開《てんかい》され、単分子カッターの切《き》っ先《さき》が阻《はば》まれる。<ファルケ> に増設《ぞうせつ》された特殊《とくしゅ》センサ――『妖精《ようせい》の目』がそれを捉《とら》え、続いてけたたましい警報音《けいほうおん》をがなりたてた。
熱分布図《ねつぶんぷず》によく似《に》たグラフィック。
敵機の腕《うで》の色が黄色からオレンジ、そして赤へとみるみる変化《へんか》する。
「!」
来る。
敵機の作り出した力場をクルーゾーはどうにか見切《みき》った。
大気《たいき》をゆがませてうなる敵の右腕。
襲《おそ》いかかる衝撃波をぎりぎりのところで潜《くぐ》り抜《ぬ》ける。背後《はいご》のコンテナが10[#「10」は縦中横]個ほど吹《ふ》き飛《と》ばされ、紙細工《かみざいく》のようにひしゃげながら宙《ちゅう》に舞《ま》った。
敵機に足払《あしばら》いをかける。敵機がよろめき、後《あと》じさる。
追《お》い討《う》ちをかけようと <ファルケ> が前に出る。また警報。敵のラムダ・ドライバが駆動《くどう》して、怒濤《どとう》の波《なみ》となった力場が襲いかかってきた。クルーゾーはどうにかこれも看破《かんぱ》して、ぎりぎりで跳躍《ちょうやく》し回避《かいひ》した。
滞空《たいくう》。
敵の頭上《ずじょう》で一回転《いっかいてん》して、空中から対戦車《たいせんしゃ》ダガーを投《な》げ下《お》ろす。タンデム式《しき》の成型炸薬《せいけいさくやく》が、敵機の首筋《くびすじ》めがけて鋭《するど》く飛んだ。
爆発。炎《ほのお》と煙の中に敵の姿が消える。
この程度《ていど》で倒せる相手だとは、クルーゾーも考えていない。
<ファルケ> は着地《ちゃくち》し、すぐさま横っ飛びに戦闘機動《せんとうきどう》した。極限《きょくげん》の三次元《さんじげん》機動が可能な第三世代型AS同士の戦闘は、着地の瞬間《しゅんかん》が最《もっと》も無防備《むぼうび》になると言ってもいい。一息《ひといき》つく暇《ひま》など、微塵《みじん》もないのだ。
案《あん》の定《じょう》、灰色の敵機は渦巻《うずま》く煙を矢《や》のように突《つ》っ切《き》り、まっすぐに彼へと迫《せま》ってきた。
あの敵 <コダール> タイプはラムダ・ドライバを搭載《とうさい》していて、こちらの通常攻撃をほとんど無力化《むりょくか》してしまう。装備《そうび》の差《さ》から言えば、圧倒的《あっとうてき》にこちらが不利《ふり》だ。
だが、それでも――
「やれるぞ」
戦闘機動の激しい衝撃の中で、クルーゾーはつぶやいた。
確《たし》かに敵機の力はすさまじい。ほとんど絶対的《ぜったいてき》なほどの差といっていい。
しかし、操縦兵《そうじゅうへい》の技能《ぎのう》はどうか? 仮に敵機がラムダ・ドライバを搭載していなかったとしたら、これまでの攻防《こうぼう》で敵は少なくとも三回死んでいるはずだった。
腕前《うでまえ》なら、俺の方が絶対に上だ……!
クルーゾーはそう確信《かくしん》した。相手もアマチュアではないが、無意識《むいしき》な驕《おご》りが随所《ずいしょ》に見える。自らの優位《ゆうい》に頼《たよ》った、傲慢《ごうまん》で直線的《ちょくせんてき》な動きはその証左《しょうさ》だ。
つけ入る余地《よち》は必ず出てくる。
警報音。敵が急接近《きゅうせっきん》。
反射的《はんしゃてき》に頭部機関砲《とうぶきかんほう》のトリガーを引きたい衝動《しょうどう》に駆《か》られたが、まだ早いと思い直《なお》して自制《じせい》する。『妖精の目』の情報を頼りに、敵の放《はな》った衝撃波をかわすと、クルーゾーは無線《むせん》に呼《よ》びかけた。
「ウルズ1よりHQへ! 宅急便《たっきゅうびん》はまだか!?」
『こちらHQ。すでに射出《しゃしゅつ》は完了《かんりょう》している』
陰気《いんき》で実直《じっちょく》な男の声が答えた。リチャード・マデューカスだ。
『現在、TLAMは慣性誘導中《かんせいゆうどうちゅう》。推定到着時間《ETA》はあと三〇秒。終端《ターミナル》誘導をウルズ1に委《ゆだ》ねる』
「ウルズ1了解!」
同時に機体のAIが告《つ》げた。
<<警告メッセージ。HQからのコード確認《かくにん》。TLAM01[#「01」は縦中横]のターミナル誘導を引《ひ》き継《つ》ぎました。着弾《ちゃくだん》までおよそ二〇秒>>
「TLAM01[#「01」は縦中横]の弾頭《だんとう》を活性化《かっせいか》しろ」
<<了解《りょうかい》。TLAM01[#「01」は縦中横]の弾頭を活性化>>
ディスプレイ中の兵装《へいそう》データの一角《いっかく》にあった青文字の『SAFE』が、一瞬《いっしゅん》で赤文字の『ARM』に切り替《か》わった。
弾頭の活性化。
空のどこかから迫《せま》り来《く》る巡航《じゅんこう》ミサイルのスマート弾頭が、鎖《くさり》を断《た》ち切られたのだ。
回避運動《かいひうんどう》を続けるクルーゾーの機体に、<コダール> が肉薄《にくはく》してくる。コンテナの山を踏《ふ》み越《こ》えて、夕焼《ゆうや》けの光を半身《はんしん》に浴《あ》びて。頭部から伸《の》びる長い髪《かみ》のような放熱索《ほうねつさく》が、ぎらぎらと虹色《にじいろ》に輝《かがや》いていた。
「さあ来い……!」
対AS手榴弾《しゅりゅうだん》を放《ほう》る。
<コダール> は軽く右へとステップして爆発をしのぐ。敵機の背後で、巨大《きょだい》な貨物《かもつ》コンテナが宙《ちゅう》に舞《ま》い、くるくると回転した。
頭部|機関銃《きかんじゅう》を連射《れんしゃ》する。
<コダール> はまずラムダ・ドライバでその小口径弾《しょうこうけいだん》の雨をはじき返《かえ》し、それが自機の装甲《そうこう》にはなんら脅威《きょうい》がないと判断《はんだん》すると、その力場を消した。次にクルーゾーへと叩《たた》きつける攻撃へ力を集中《しゅうちゅう》させたのだ。
狙《ねら》い通《どお》りだった。
<ファルケ> の撃《う》つ機関銃弾は、その弾倉内《だんそうない》の最初の五〇発だけが通常《つうじょう》弾頭だった。そこから先、五一発目からはアクリル塗料《とりょう》を充填《じゅうてん》したペイント弾が詰《つ》まっている。
そのペイント弾が <コダール> の頭部に降り注いだ。着弾し霧状《きりじょう》になった赤い塗料が敵機のセンサにこびりつく。
ごくシンプルな目|潰《つぶ》し作戦だったが、現代ASにはセンサの外装部分《がいそうぶぶん》に高周波《こうしゅうは》ワイパーと洗浄《せんじょう》ノズルが装備《そうび》されている。戦場での泥《どろ》や埃《ほこり》への対策《たいさく》だ。それがたとえアクリル塗料でも、数秒《すうびょう》で視界《しかい》は回復《かいふく》してしまう。
だが、その数秒を稼《かせ》ぐのが狙いだった。
この間《あいだ》、敵機はミリ波《は》レーダーでしか索敵《さくてき》することができない。
<<TLAM01[#「01」は縦中横]、着弾まであと一〇秒>>
機体のAIがクルーゾーに告げる。周囲の大気《たいき》が震《ふる》えだす。頭上《ずじょう》からはげしいジェットの轟音《ごうおん》が接近《せっきん》する。西《にし》の空《そら》、黄昏《たそがれ》に燃える太陽の光の中から、筒状《つつじょう》のなにかがこちらへと迫《せま》る。
<<ファイヴ……フォー……スリー……>>
<ファルケ> の頭部から終端《ターミナル》誘導のレーザーが照射《しょうしゃ》され、身構《みがま》えた <コダール> の胸に赤い小さな光点《こうてん》をともした。
<<着弾《インパクト》>>
上空からのすさまじい爆発《ばくはつ》が敵機を襲った。
巡航ミサイルが音速《おんそく》に近い速度《そくど》で飛来《ひらい》し、レーザーの当たった位置《いち》―― <コダール> めがけて指向性爆薬《しこうせいばくやく》を炸裂《さくれつ》させたのだ。鉄よりも密度《みつど》の濃《こ》い燃焼《ねんしょう》ガスが、瞬間的に炎の槍《やり》となって敵の装甲の一点に襲いかかった。
爆発の衝撃波《しょうげきは》が <ファルケ> の機体をも激しくゆさぶる。
「!」
クルーゾーは浮《う》き上がった機体を手際《てぎわ》よく踏《ふ》ん張《ば》らせて、間髪《かんぱつ》いれずに敵機へと駆り立てた。爆煙《ばくえん》の中で、まだ <コダール> は生きている。寸前《すんぜん》でラムダ・ドライバの防壁《ぼうへき》を展開させたのだ。
(しかし……!)
目くらましの直後に猛烈《もうれつ》な不意打《ふいう》ちを食らってよろめいた敵機。そのラムダ・ドライバの展開状態を、<ファルケ> の『妖精の目』は的確に捉えていた。かろうじて、こちらの追い討ちを警戒《けいかい》した防壁《ぼうへき》を展開している。
だが、正面《しょうめん》だけだ。
クルーゾーは敵の右をすり抜け、目《め》にも留まらぬ素早《すばや》い動作《どうさ》で単分子カッターを、その右わき腹《ばら》にたたき込《こ》んだ。技術士官《ぎじゅつしかん》の報告《ほうこく》にあった、ラムダ・ドライバのモジュールの一部が位置《いち》する部分だ。
手ごたえあり。
<コダール> を取《と》り巻《ま》いていた力場の表示《ひょうじ》が、何度《なんど》かまたたいたあと消《き》え去《さ》った。敵のラムダ・ドライバが無力化《むりょくか》したのだ。
予想外《よそうがい》の損傷《そんしょう》に敵機は動揺《どうよう》し、立《た》ち尽《つ》くしている。第三世代型ASの戦闘《せんとう》の鉄則《てっそく》は、素早く、そして無慈悲《むじひ》に動くこと――
ふりかえりざま、クルーゾーは敵機めがけて最後の対戦車ダガーを鋭《するど》く投擲《とうてき》した。ダガーはふりむいた <コダール> の胸《むね》に命中《めいちゅう》して爆発し、今度こそ敵機の上半身《じょうはんしん》をばらばらに吹《ふ》き飛《と》ばした。
ちぎれた腕部《わんぶ》が回転《かいてん》し、黄昏の港湾部の空に奇妙《きみょう》なアーチを描《えが》く。
舞《ま》い散《ち》る敵機の破片《はへん》に背《せ》を向《む》け、クルーゾーはすぐさま索敵モードをアクティブに切り替《か》えた。対ECSセンサで万一《まんいち》の新たな敵機の出現に備《そな》える。
反応《はんのう》なし。
「ふー……」
ある程度《ていど》の確信《かくしん》を得《え》てから初《はじ》めて、彼は深《ふか》い安堵《あんど》のため息をついた。向こうも一機だけしか用意していなかったようだ。
彼はテッサのおとり作戦《さくせん》の支援《しえん》のため、念《ねん》を入れてこのASで待機《たいき》していたのだった。さらに念を入れ、サンフランシスコ沖《おき》の海中に待機する潜水艦《せんすいかん》 <トゥアハー・デ・ダナン> からの、巡航《じゅんこう》ミサイルの火力支援の段取《だんど》りまでつけていた。頭部機関銃の弾種《だんしゅ》についてもだ。最悪《さいあく》の場合《ばあい》、敵もASを用意していて、しかもそれがラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》の機体だという可能性《かのうせい》も捨《す》てきれなかったからだ。
やはり用心《ようじん》しておいて良《よ》かった。そう思《おも》いながら、クルーゾーは無線《むせん》で味方に呼びかけた。
「ウルズ1より全ユニットへ。<コダール> タイプの敵ASを撃破した」
<ファルケ> と <コダール> の二機が去ったあと、倉庫の方でも戦闘の趨勢《すうせい》はおおむね決《き》まりつつあった。
倉庫は半壊《はんかい》し、停《と》まっていた車は踏《ふ》み潰《つぶ》され、何人《なんにん》かの敵は死体となって転《ころ》がっている。あたりはほとんど瓦礫《がれき》の山で、いまなお火の手は消《き》えておらず、もうもうと白い煙《けむり》がたちこめていた。
「テッサ。ベンが敵機を倒《たお》したわ」
敵のサブマシンガンを手にした看護婦姿のメリッサ・マオが、無線で短くやり取《と》りしてから、テッサに声をかけた。
「ほかに敵機はないみたい。M9での一対一で、初めて <コダール> タイプを倒したわね。大《たい》したもんだわ」
「ええ」
精神科医のマーサ・ウィットをかばって物|陰《かげ》に隠《かく》れていたテッサ――テレサ・テスタロッサは、短く答えて身《み》を起《お》こした。
容赦《ようしゃ》なく、徹底的《てっていてき》に破壊《はかい》された倉庫を見渡《みわた》す。PRT(初期対応班《しょきたいおうはん》)の兵士たちが油断《ゆだん》なく制圧《せいあつ》エリアで監視《かんし》を続けているのを確認《かくにん》し、それから自分に負傷《ふしょう》がないかどうかを確かめた。
着ていた患者《かんじゃ》用のシャツは、背中のボタンが千切《ちぎ》れとび、むき出《だ》しの肩《かた》からずり落ちそうになっている。下着《したぎ》もつけていないので裸同然《はだかどうぜん》の格好《かっこう》だったが、怪我《けが》は軽いすり傷《きず》程度《ていど》だった。問題はない。
「ターゲットは逃《に》げたのね」
テッサは左右《さゆう》に視線《しせん》を走らせ、無駄《むだ》だと知りつつもリー・ファウラーの姿をあたりに探《さが》し求《もと》めた。
「天井《てんじょう》の崩落《ほうらく》のどさくさで見失《みうしな》ったわ。ごめんなさい」
マオが言うと、テッサは軽く手を振《ふ》った。
「いいんです。どうせ挨拶代《あいさつが》わりの作戦だったんですし。ここまで民間人《みんかんじん》を巻《ま》き込《こ》んだ時点《じてん》で、半分《はんぶん》失敗《しっぱい》してたわ」
「そこの女医先生《じょいせんせい》、うまく遠《とお》ざけようとしたんだけどねえ……。やっぱり思うようにはいかなかったわ。やれやれ」
マオが肩をすくめていると、静寂《せいじゃく》を取《と》り戻《もど》しつつある倉庫のあたり一帯《いったい》に、場違《ばちが》いな電子音《でんしおん》が流れた。
単調《たんちょう》な高音《こうおん》のアラームだ。
その音源《おんげん》へ、テッサは裸足《はだし》のまま歩いていった。床《ゆか》に転がるコンクリートのかけらの中に、黒い携帯電話《けいたいでんわ》が落《お》ちていた。
彼女は電話を拾《ひろ》い上げ、無言《むごん》で着信《ちゃくしん》ボタンを押《お》した。
「ファウラーさんですね?」
テッサが言うと、電話の向こうでくすりと笑う声がした。
『ええ。貴女《あなた》ともうすこし話がしたかったものでね。だがおとなしく捕《つか》まる義理《ぎり》もない。そこでその電話を置《お》き去《ざ》りにさせてもらいました』
すでにファウラーはこの現場から脱出《だっしゅつ》し、おそらくは事前《じぜん》に用意していた予備《よび》の車両《しゃりょう》で、さっさと市街地《しがいち》のどこかに姿をくらまそうとしているのだろう。最先端《さいせんたん》の逆探知対策《ぎゃくたんちたいさく》もしているだろうから、位置をつかんで追跡《ついせき》するのはもはや不可能《ふかのう》だ。
『まずはお見事《みごと》、と言わせてください。一〇人以上の部下が殲滅《せんめつ》され、ASも撃破《げきは》されてしまった。そちらの最小限《さいしょうげん》の戦力でね。私の完敗《かんぱい》です』
「それはどうかしら。なにしろあなたはいまでも自由《じゆう》の身《み》です」
『ごもっとも』
「本来《ほんらい》なら、あなたを拘束《こうそく》して洗《あら》いざらいの情報をしゃべってもらうつもりでしたから。その薄笑《うすわら》いが一生《いっしょう》浮《う》かばなくなるような手段《しゅだん》を使ってでも」
『可憐《かれん》な声で恐《おそ》ろしいことをおっしゃる』
ファウラーが電話の向こうで、それこそあの薄笑いを浮かべているのがテッサには容易《ようい》に想像《そうぞう》できた。
『ですが、私には分かりません。貴女は本気《ほんき》で、このままわれわれと戦い続けるつもりなのですか?』
「改《あらた》めて言うまでもないことでしょう。わたしはただの酔狂《すいきょう》で、ああいった芝居《しばい》は打《う》ちません」
『われわれの力は十分《じゅうぶん》に思い知らされたはずです。いまや <ミスリル> は存在しない。そして <アマルガム> の目的は、別に世界を滅《ほろ》ぼすことではない。むしろ世界的なあらゆる緊張状態《きんちょうじょうたい》に、適度《てきど》なガス抜《ぬ》きを施《ほどこ》しているといってもいい。あなたたちが戦う理由はないはずでしょう』
「ずいぶんとナイーブなんですね」
テッサはささやかな軽蔑《けいべつ》をこめて、相手《あいて》をせせら笑った。
『ナイーブ?』
「ええ。わたしたちがなにかの大義《たいぎ》や正義感《せいぎかん》だけから、あなたたちと戦っているとでも思っているんですか?」
『どうやらそうではなさそうですね』
「あなたたちはわたしの仲間《なかま》をたくさん殺しました。動機《どうき》はそれで十分です」
テッサはきっぱりと言った。
実際《じっさい》のところ、彼女とその部下たちが戦い続ける理由はそれだけではなかったし、もっとできることがあるのも事実《じじつ》だったが――
つきつめて言ってしまえば、そういうことなのだ。
テレサ・テスタロッサが部下達を殺した <アマルガム> を認《みと》めることなど、未来永劫《みらいえいごう》ありえないことだろう。
『それはこちらも同じですよ』
と、ファウラーが冷《つめ》たく言った。
『あなたとあなたの部下たちほどの強い絆《きずな》はないでしょうがね。われわれも相応《そうおう》の損害《そんがい》を被《こうむ》っている。その上で私は、すべてを飲《の》み込《こ》んであなたを丁重《ていちょう》に迎《むか》えようとしました。だというのに、その手を払《はら》いのけ、そこまでする理由を聞いているのです』
「やっと質問の意味が分かりました」
テッサは言った。
「圧倒的《あっとうてき》な戦力で、弱い敵に救《すく》いの手を差《さ》し伸《の》べようというわけですね? かつてはわたしもそうした考えの持《も》ち主《ぬし》でした。でもいまは違う。あなたの言う『ガス抜き』とやらは、多くの人間の運命《うんめい》を弄《もてあそ》んでいます。その傲慢《ごうまん》が、わたしは許《ゆる》せません」
『なるほど。ある種《しゅ》の野党根性《やとうこんじょう》だとでも解釈《かいしゃく》しておけばいいんでしょうかね?』
ファウラーの揶揄《やゆ》には辛辣《しんらつ》な響《ひび》きがこめられていた。
「……ファウラーさん。この際《さい》なのではっきり言ってもいいですか?」
『どうぞ?』
テッサは注意深く一語一語《いちごいちご》を強調《きょうちょう》して、こう告げた。
「要《よう》するに――わたしはあなたたちのような、おりこうぶって気取《きど》った|クソ野郎《ファッキン・シット》が死ぬほど嫌《きら》いなんです。これで分かりましたか?」
『…………』
横で電話の様子をうかがっていたマオやその他のPRT要員《よういん》たちは、初めて耳にしたテッサの痛烈《つうれつ》な四文字言葉《よんもじことば》に、目を丸《まる》くしてぽかんとしていた。
「以上です、メッセンジャー・ボーイさん。同じことをレナード・テスタロッサにも伝えなさい」
ファウラーがなにかの言葉を継《つ》ぐより早く、テッサは携帯電話を切り、無造作《むぞうさ》に地面《じめん》へと打《う》ち捨《す》てた。
「撤収《てっしゅう》よ。地元警察《じもとけいさつ》が来る前にペイブ・メアのLZに……って、みんなどうしたの?」
呆然《ぼうぜん》としていたマオたちが、やがてわれに返《かえ》ったように互《たが》いの顔を見合《みあ》わせ、とうとう声を出して笑い出した。心《こころ》の底《そこ》から気持ちよさそうに。
「いやはや、なんとも」
「『|クソ野郎《ファッキン・シット》』とはね」
男たちが手をたたいてはやしたてた。
「まったく。たいしたタマよ、あんたは」
マオが怪訝顔《けげんがお》のテッサの背中をぽんぽんと叩《たた》いて肩《かた》に腕《うで》を回した。
[#挿絵(img/09_057.jpg)入る]
「え? あ……」
「前にも言ったけど。愛してるわよ、わたしの指揮官どの」
自分がかっとなって何を言ったのかを思い出し、真《ま》っ赤《か》になったテッサの頬《ほお》に、マオは吸《す》い付《つ》くような強烈《きょうれつ》なキスを一発かました。
「と、とにかく撤収です! 地元警察がすぐそこまで来てるんですよ? セクハラごっこしてる場合じゃありません!」
マオの腕を振《ふ》りほどいて、テッサは一同《いちどう》に指示《しじ》を飛ばした。
「へいへい、了解《りょうかい》。……でもテッサ。そこの先生どうするの?」
相変《あいか》わらず倉庫の鉄柱《てっちゅう》のそばにへたりこんで、これまでのやり取りを呆然と眺《なが》めているだけのマーサ・ウィット医師を、マオが一瞥《いちべつ》した。
「ええ……」
テッサは憂《うれ》い顔《がお》でおびえるマーサに歩《あゆ》み寄《よ》り、やさしい声で話しかけた。
「危険《きけん》な目に遭《あ》わせてしまってすみませんでした、ドクター・ウィット」
「わ……わたしをどうする気なの?」
「もちろん危害《きがい》を加《くわ》えるつもりはありません。とにかくここを離《はな》れましょう」
テッサたちは戦闘《せんとう》の現場となった倉庫からすぐに撤収し、数キロ離れた市内の公園へと車で移動した。
クルーゾーのASはECSの不可視《ふかし》モードを作動《さどう》させ、障害物《しょうがいぶつ》を避《さ》けながら彼女らの車に随伴《ずいはん》している。ビルからビルへ、道路から道路へと跳躍《ちょうやく》しながら。
その途上《とじょう》、テッサはマーサに説明した。
「あのファウラーという人があなたを殺すと脅《おど》したのは、実《じつ》のところ、むしろわたしへの脅しだったんです」
今回はうまく誘《さそ》い出すまでにこぎ付けたが、敵ももちろん用心深《ようじんぶか》い。ファウラーがあれこれとマーサに探《さぐ》りを入れ、テッサの前でああした言動《げんどう》をとったのは、テッサ自身《じしん》の芝居《しばい》を、まだ心のどこかで疑《うたが》っていたからだ。
実のところ、<アマルガム> や <ミスリル> 、それに付随《ふずい》するいくつかの単語《たんご》や情報は、もはや漏《も》れて困《こま》るほどの内容ではなくなっている。こうした組織に深い関心《かんしん》を示《しめ》すレベルの軍関係者、政府関係者ならば、すでにつかんでいる程度《ていど》のものなのだ。
東京の陣代高校《じんだいこうこう》の人々が知っている程度のことも同様《どうよう》だった。
メリダ島|基地《きち》が攻撃《こうげき》を受けたあの事件《じけん》のあと、テッサは脱出《だっしゅつ》した艦《ふね》の補給問題《ほきゅうもんだい》に取《と》り組《く》むのと同時に、可能な限りの情報を収集《しゅうしゅう》させた。その情報の中には、もちろん東京に送った輸送《ゆそう》ヘリと <アーバレスト> 、そして相良《さがら》宗介《そうすけ》と千鳥《ちどり》かなめたちの身になにが起きたのか、その客観的事実《きゃっかんてきじじつ》も含《ふく》まれていた。
わかったことは――
輸送ヘリ『ゲーボ9』は市内の公園に着陸寸前《ちゃくりくすんぜん》で撃墜《げきつい》され、機長《きちょう》のサントス中尉《ちゅうい》を含む乗員は全員死亡したこと。
<アーバレスト> は調布市《ちょうふし》の泉川町《せんがわまち》――あの学校の周辺《しゅうへん》で <アマルガム> の派遣部隊《はけんぶたい》と激《はげ》しい戦闘を繰《く》り広《ひろ》げ、その末《すえ》に『何らかの新型AS』と交戦《こうせん》して大破《たいは》した。その残骸《ざんがい》は日本の警察が回収《かいしゅう》し、その直後《ちょくご》一部のユニットが何者かの手で持ち去《さ》られた。
千鳥かなめはその戦闘で行方不明《ゆくえふめい》になり、それきり所在《しょざい》はつかめていない。おそらく、<アマルガム> に連れ去られたのだろう。
そして相良宗介は――
<アーバレスト> が大破した戦闘の数日後、ひょっこりとあの学校に現れて、二年四組の生徒たちに――いや、いまはもう三年四組だが――対面《たいめん》し、かなめがいなくなった理由を説明してからその場を去っていった。『必《かなら》ず彼女を連《つ》れ戻《もど》す』という言葉を残《のこ》して。
これについても、まったく報道《ほうどう》はされていないが各種《かくしゅ》の諜報機関《ちょうほうきかん》はおおむねつかんでいるはずだった。
もっと重要《じゅうよう》な情報はほかにある。<トゥアハー・デ・ダナン> の所在や、保有《ほゆう》する兵装《へいそう》、物資《ぶっし》の残存量《ざんぞんりょう》。つまりどの程度の戦闘能力が残されているのか。そしてテッサがどの程度、<アマルガム> についての情報をつかんでいるのか。
マーサはこうしたあれこれについて、なにも知らない。彼女が警察やFBI、CIAやらNSAやらにテッサから聞いたことを話したところで、彼らはその情報に大した価値《かち》を認《みと》めないことだろう。
「だから――」
マーサの知っていることは重要ではないことだけを説明してから、テッサは車中で彼女に告げた。
「ファウラーがああ言ったのは、わたしを試《ため》したんです。あくまで、念のためにといったところですけど」
「よくわからないわ、テレサ」
「わたしが何かの動揺《どうよう》を見せないか観察《かんさつ》していたのでしょう。演技《えんぎ》を続けていれば、彼は本当にあなたを殺したかもしれません。だから、わたしはあそこで自分の芝居をやめたんです。つまり――」
「つまり? つまり、なんなの?」
相次《あいつ》ぐ異変《いへん》に疲《つか》れ果《は》て、マーサはうんざりとした声でたずね返《かえ》した。
「あなたに情報的《じょうほうてき》な価値《かち》はありません。元《もと》の生活に戻れるということです。もう二度と、わたしたちとかかわり合いになることはないでしょう」
「そう。すばらしいことね」
「ごめんなさい、先生。あなたはわたしに親身《しんみ》になって接《せっ》してくれました。最初《さいしょ》の計画《けいかく》では、もっと事務的《じむてき》で無関心《むかんしん》な担当医《たんとうい》がつくことになると予想《よそう》してたんです」
「なるほど。あたしはとんだお人《ひと》よしだった、っていうことね? 仕事熱心《しごとねっしん》なおかげで、殺し屋たちに狙《ねら》われ、不憫《ふびん》に思った患者《かんじゃ》からはきれいにだまされた!」
半《なか》ばヒステリックに叫《さけ》んだ彼女を、テッサは落ち着いた表情《ひょうじょう》のままじっと見つめた。
「それは謝罪《しゃざい》します。でも、なかなかの演技だったでしょう?」
「まあ、そうかもしれないわね」
車が目的の公園に入った。
夕闇《ゆうやみ》に沈《しず》みつつある周囲《しゅうい》の街《まち》は、すでに色《いろ》とりどりの照明《しょうめい》でクリスタルの細工品《さいくひん》のようにきらきらと輝《かがや》きはじめていた。
テッサにうながされ、彼女は車を降りる。公園にはまだ散歩中《さんぽちゅう》の通行人が何人もいたが、そんなことなどおかまいなしに、テッサの『部下』たちは銃器《じゅうき》を持ったまま車を降りた。頭上《ずじょう》から空気を叩《たた》くローター音が響《ひび》き、公園の草花が吹《ふ》き降《お》ろす強《つよ》い風《かぜ》にはげしく揺《ゆ》られた。
目に見えない輸送ヘリが、公園に降下しているのだ。
あと数分《すうふん》もしないうちに、テレサ・テスタロッサとその仲間《なかま》たちはこの街からきれいさっぱり消《き》え去《さ》ってしまうことだろう。
強風《きょうふう》に波打《なみう》つ髪《かみ》を押《お》さえながら、マーサはテッサに声をかけた。
「最後に聞いてもいいかしら?」
「内容《ないよう》にもよりますけど。どうぞ」
「あなたはその……なにも感じなかったの? 緊急救命室《きんきゅうきゅうめいしつ》に運ばれたときは、屈辱的《くつじょくてき》な診療《しんりょう》も受《う》けたはずよ。私のところに来《き》たあとも、まともな人間|扱《あつか》いはしてもらえなかった。なぜそんなことに耐《た》えられるの?」
「たくさん友達が死にました」
テッサは穏《おだ》やかに言った。
「それに比《くら》べれば、どうってことないでしょう?」
「彼らに復讐《ふくしゅう》する気なのね?」
「どうなのかしら」
「だったら、なぜそこまで――」
「それが、わたしにもよくわからないんです」
テッサはにっこりと笑った。
「なぜわたしの胸の中から、こうもはげしい闘志《とうし》が湧《わ》き出《だ》てくるのか。なぜこの身《み》を焼《や》き尽《つ》くしてでも、彼らに一矢報《いっしむく》いたいと思うのか。それを知るために、いまこそ先生のお力《ちから》を借《か》りたいところなんですけど、残念ながらもう時間がありません」
公園の開《ひら》けた区域《くいき》に、不可視化《ふかしか》した輸送ヘリが着陸した。
はげしい下降流《かこうりゅう》。テッサの周囲で無数《むすう》の木の葉が、みずみずしい草花が渦《うず》を巻《ま》いて踊《おど》る。公園の照明を受けて、きらきらと輝く少女の銀色《ぎんいろ》の髪《かみ》が、美しく風に揺れた。その背後《はいご》で着陸したヘリがECSを解除《かいじょ》し、青白《あおじろ》い燐光《りんこう》をほとばしらせて姿を見せた。
「おい、テッサ!」
開放《かいほう》されたカーゴ・ハッチに足をかけ、クルツ・ウェーバーが叫んだ。狙撃《そげき》ポイントからすでに合流《ごうりゅう》したのだ。
「ええ、いきましょう。さようなら、先生」
それだけ告げて、テレサ・テスタロッサは輸送ヘリへと走り、カーゴ・ベイの奥《おく》へと消えた。立ち尽くすだけのマーサ・ウィットを振《ふ》り返《かえ》ることは、まったくなかった。
男たちを載《の》せると、ヘリはハッチも閉まらないうちに離陸をはじめた。
公園でいちばん大きな樹木《じゅもく》の高さを超《こ》えるあたりまで上昇《じょうしょう》すると、ふたたびECSを作動《さどう》させ、その姿を消す。薄紫《うすむらさき》の闇夜《やみよ》の中へと溶け込んだ機体は、もう誰《だれ》の目にも捉《とら》えることはできなかった。
そのダイニングはネオゴシックの意匠《いしょう》を取り込みながらも、シンプルで現代的《げんだいてき》な明るさをかもし出すよう巧妙《こうみょう》な設計《せっけい》がなされていた。南東《なんとう》向《む》きの窓からさわやかな日光《にっこう》を取り込むようになっており、調度類《ちょうどるい》もごく落ち着いた色使《いろづか》いで、その場を訪《おとず》れた者を完璧《かんぺき》にくつろがせるようになっている。
リー・ファウラーからの電話を受けたとき、レナード・テスタロッサはちょうどそのダイニングに入ろうとしていた。東欧《とうおう》でいくつかの雑事《ざつじ》と交渉《こうしょう》を済《す》ませ、長旅《ながたび》を終えて帰ってきたばかりのところである。
『妹君にしてやられました』
電話の向こうでファウラーが言った。
サンフランシスコではもう夜にさしかかっているはずだったが、低緯度《ていいど》のここでは、まだ燃えるような黄金色《こがねいろ》の西日《にしび》が室内《しつない》を照《て》らし出している。
「正気《しょうき》だったということかな?」
レナードは言った。
『はい。狙《ねら》いは私の身柄《みがら》の拘束《こうそく》だったようです。<コダールm> も撃破《げきは》されました』
「まったく……」
受話器《じゅわき》に耳を当てたまま、彼はため息をついた。
『申《もう》し訳《わけ》ありません、レナード様』
「いや、君を責《せ》めてるわけじゃない。あの子の往生際《おうじょうぎわ》の悪さに呆《あき》れただけだよ」
それなりに賢《かしこ》い妹だったはずだ。だがいつからだろうか? あの子は <ミスリル> で過《す》ごせば過ごすほど、愚《おろ》かな選択《せんたく》ばかりするようになってきた気がする。
これではまるで、自分が軽蔑《けいべつ》してきたあの男たち――亡《な》き父《ちち》やその友人《ゆうじん》たち――滑稽《こっけい》で時代錯誤《じだいさくご》な自己憐憫《じこれんびん》に酔《よ》いしれているだけの、粗野《そや》で下品《げひん》な『海の男たち』と変わらないではないか。
『いかがいたしましょう。いくつか次のオプションも用意してありますが――』
「いや、やめておこう。君には手伝《てつだ》ってほしいことが山ほどあるからね、リー」
『ありがとうございます』
「まずは帰ってきてくれ。妹の件《けん》は、とりあえず放置《ほうち》しておくとするよ」
『よろしいのですか?』
「いずれやってくるさ。この僕にくだらない説教《せっきょう》をするためだけに、何十人何百人の命を代償《だいしょう》として」
『はい。そのお覚悟《かくご》の御様子《ごようす》でした』
「そう」
ファウラーの言葉を聞いて、彼はくすりと笑った。
『妹君から伝言《でんごん》を預《あず》かっております』
「へえ。なんて言ってた?」
どうせだから彼女とのホットラインでも作ってやった方が簡単かな、と思いながら、レナードはたずねた。
『いささか乱暴《らんぼう》な言葉です』
「いいよ、言ってくれ」
『ええ』
ファウラーの声がかすかに緊張《きんちょう》した。その内容《ないよう》をレナードに聞かせることを恐《おそ》れたのではなく、なにかの屈辱《くつじょく》が自分の喉首《のどくび》を軽く締《し》め付《つ》けたような――そういう声だった。
『テレサ様は、私のような『おりこうぶって気取った|クソ野郎《ファッキン・シット》が死ぬほど嫌《きら》い』だとのことです。同じことを貴方《あなた》にも伝えるように、と』
いやはや、そう来たか。
まるでそこらの下品な労働者家庭《ろうどうしゃかてい》の兄妹喧嘩《きょうだいげんか》ではないか。彼女は付《つ》き合《あ》う友人をとことん間違《まちが》ってしまったようだ。
「なんとも、たいした威勢《いせい》だね」
『申し訳ありません』
「いや。元気なのはいいことさ。じゃあ、あとのことはよろしく」
レナードは電話を切り、ダイニングを見回《みまわ》した。長さでいったら五メートル余《あま》りはありそうなテーブルに、燭台《しょくだい》といくつかの食器《しょっき》が置《お》いてあるだけだった。まだ夕食《ゆうしょく》の準備はされていない。
奥の通用口《つうようぐち》――半開《はんびら》きになった扉《とびら》の向こうから、人の気配《けはい》と物音《ものおと》がする。キッチンで誰かが働いているのだ。
付き合う友人を間違えた――
その点についてなら、自分も妹とそう変わらないのかもしれない。彼は軽く肩《かた》をすくめてから、扉を抜《ぬ》けてキッチンに入り、中にいた少女に告げた。
「ただいま」
大型《おおがた》のガスコンロの前でフライパンをかき回していた少女――千鳥かなめが、料理の手を止め、短く彼を一瞥《いちべつ》した。
「おかえり」
力なく応《こた》え、料理に戻《もど》る。
「コックが困《こま》ってるよ。君が勝手に夕食を作るのが気に入らないってさ」
「そう」
かなめはフライパンを前後にゆすりながら、そばにあった胡椒《こしょう》の瓶《びん》に手を伸《の》ばした。
「なにを作ってるかわかる?」
「さあ?」
「オムライスよ。でもここにはタイ米しかない。日本のトマトケチャップもね。いろいろ工夫《くふう》してみたけど、あたしが知ってるオムライスにはどうしてもならないの」
「それは残念だね」
「だれかに買ってきてもらえない? 東京のスーパーならどこにでもあるんだけど」
悪意《あくい》をこめた皮肉《ひにく》というよりは、力ないぼやきに近かった。
手近《てぢか》な椅子《いす》に腰《こし》を下ろしてから、レナードは言った。
「そのうち忘れるよ」
「オムライスの味を?」
「僕も忘れた。ずっと昔に食べた子羊《こひつじ》のロースト。それを作った母の顔も」
「…………」
「時間というのは、そういうものだよ」
「だから、いずれはあなたを愛するようになるっていうわけね。あたしも」
「そこまでは言ってないさ」
自嘲気味《じちょうぎみ》にレナードは微笑《ほほえ》んだ。
「どうあっても運命には逆《さか》らえない。それを受《う》け入《い》れることで、やってくる別《べつ》の救《すく》いもある。そういう話をしてるだけだ」
かなめは湖水《こすい》のように静かな瞳《ひとみ》で、彼を見つめた。なにも感じていない、機械のセンサのような視線《しせん》だったが、レナードはそれを当たり前のように受け入れた。
「本当にそう思っているのかしら」
彼女はつぶやくと、フライパンを動かす作業《さぎょう》に戻った。
かなめの後ろ姿をじっと見つめる。薄手《うすで》のプリーツスカートに、体にフィットしたシルクのシャツ。
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うなじから背中、腰から太ももにかけてのゆるやかで美しい曲線《きょくせん》をぼんやりと眺《なが》めながら、彼女の言葉の意味を反芻《はんすう》する。
本当にそう思っているのか――
もちろんそのつもりだ。
そう言って近づいていって、後ろから彼女を抱《だ》きすくめようかとも思った。彼女は抵抗《ていこう》しないだろう。
だが、それでは意味がない。
レナードは肩《かた》をすくめて立ち上がると、キッチンを出て行こうとした。
「だけど――」
彼女がぼそりとつぶやいた。
「あたしが作る本当のオムライスは、すごくおいしかったの。貴方に食べさせてあげられなくて、残念だわ」
「ああ」
軽く受《う》け流《なが》して、レナードはキッチンを後《あと》にした。
それから、なにか言い知れない不快感《ふかいかん》――あの学校の中庭《なかにわ》で感じた不快感を思い出している自分に気づいて、すこし苛立《いらだ》った。
ダイニングを通り抜けて邸宅《ていたく》の中庭に面した回廊《かいろう》に出ると、スーツ姿の女が彼を待っていた。彼の部下の一人、サビーナ・レフニオだ。手には携帯端末《けいたいたんまつ》。ちょうどいま、なにかの交信《こうしん》が終わった直後《ちょくご》のようだった。
「生きているようです」
サビーナが言った。
わざわざ『だれが?』と聞く必要《ひつよう》はなかった。レナード・テスタロッサにもおおよその見当《けんとう》はついていた。
「彼のことだね」
「はい。サガラ・ソウスケです」
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2:ブリーフィング
遠くから、波《なみ》の音が聞こえてくることだけは分かった。
煉瓦造《れんがづく》りの壁《かべ》と粗末《そまつ》なベッド。小さな窓から差し込む光。
どこかの古い建物の一室《いっしつ》だ。
相良《さがら》宗介《そうすけ》は朦朧《もうろう》とした意識《いしき》の中で、もう何千回も繰《く》り返《かえ》してきた『点検項目《てんけんこうもく》』をひとつひとつ進めていった。
名前、時間、場所。
名前しか分からなかった。
あのクラマと殺しあって致命傷《ちめいしょう》を負い、あのナムサクの『闘技場《アレーヌ》』で力尽《ちからつ》き倒《たお》れたときから、どれくらいの時間が過ぎたのか。
なぜ自分は生きているのか。
ここはどこなのか。
そうした自問《じもん》をしたのが、一度や二度ではないことにも気づいた。
そう。自分は何度も混濁《こんだく》しながら覚醒《かくせい》し、体がこれっぽっちも動かないことを思い知らされ、やってきた看護婦になにかを注射《ちゅうしゃ》されて、深い眠《ねむ》りに落ちたのだ。
だが、今度はもう少しましだった。
ひどい痛《いた》みを感じる。胸と背中と右の大腿部《だいたいぶ》に、どんよりと重たく鈍《にぶ》い痛み。全身を締《し》め付《つ》けるような苦痛《くつう》の波が、心臓の鼓動《こどう》にあわせて押《お》し寄せてくる。砂袋《すなぶくろ》でこめかみを叩《たた》かれているような頭痛もだ。さすがにまどろんではいられなかった。
ベッドの脇《わき》には点滴《てんてき》のスタンド。医療用《いりょうよう》のモニター機材《きざい》もあって、心電図《しんでんず》のコードが自分の体へと伸《の》びている。酸素《さんそ》タンクと吸入器《きゅうにゅうき》もあった。
薄手《うすで》のシーツがかかっている自分の体。あちこち包帯《ほうたい》だらけだ。
右足のつま先。動く。
左足のつま先。動く。
右手も、左手も。
どうやら神経《しんけい》はつながっているようだ。だが『幻肢《げんし》』かもしれない。手足を失った人間が、自分の手足がまだついていると錯覚《さっかく》する現象《げんしょう》だ。
「…………っ」
四肢《しし》を直接《ちょくせつ》目視《もくし》しようと考え、苦労《くろう》して首を回す。医療器具《いりょうきぐ》のほかに調度《ちょうど》の類《たぐい》はほとんどなかったが、横の壁一面に、一枚の大きな絵がかけてあった。
パノラマ風の横長《よこなが》な絵だ。
大人二人が両手《りょうて》を伸ばして、ちょうど一杯《いっぱい》くらいの幅《はば》だろう。
青い密林《みつりん》の中にいる黄色い肌《はだ》の半裸《はんら》の人々。赤ん坊《ぼう》や犬、神像《しんぞう》もある。くつろぐ女たちもいれば、苦悩《くのう》に身をよじる男の姿もある。中央には腰布一枚《こしぬのいちまい》の若者が、ちょうどバスケットボールのゴールをきめようとしているかのように頭上を仰《あお》いでいた。
おおらかなようでいて、どこか絶望的《ぜつぼうてき》な空気が漂《ただよ》っている。初《はじ》めて見る絵のはずだったが、奇妙《きみょう》な既視感《きしかん》と親近感《しんきんかん》があった。
「その絵の題名《だいめい》を知ってるかい」
男の声がした。部屋に入ってきたその相手の顔を見ることが、宗介にはできなかった。軽く体を折《お》ろうとするだけで、ひどい苦痛《くつう》が押《お》し寄《よ》せてくるのだ。
「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか――」
ベッドに横たわる宗介の顔を、男がのぞきこんだ。ハンサムな顔にブロンドの髪《かみ》。そして丸い眼鏡《めがね》。
ミシェル・レモンだ。
(それが題名か)
そうつぶやこうとしたが、喉《のど》がからからで思うように声が出なかった。ただしゃがれたうめき声が漏《も》れて、唇《くちびる》がもごもごと動いただけだ。それでもレモンは彼の言葉を理解したようで、短く『ああ』と言った。
「もちろんレプリカだけど、有名な絵だ」
「ゴーギャンだな」
今度は声が出た。
「意外《いがい》だな。兵器《へいき》や軍人《ぐんじん》の名前以外にも、知ってることがあるんだね」
「美術の教科書で見た」
口を開けば複雑《ふくざつ》で難解《なんかい》な弁舌《べんぜつ》ばかりが出てくる美術教師の顔を懐《なつ》かしく思いながら、宗介はつぶやいた。
「なるほどね。そういえば君は高校生もやってたんだっけ……」
手近《てぢか》にあった小さな木製《もくせい》の椅子《いす》を引《ひ》き寄《よ》せると、レモンは背《せ》もたれをこちらに向け、その背もたれに両肘《りょうひじ》を乗せて腰かけた。
その様子を見守ってから、宗介は言った。
「状況《じょうきょう》を」
自分が生きていることなど、もう充分《じゅうぶん》わかっている。感慨《かんがい》や挨拶《あいさつ》などは抜《ぬ》きにして、とにかく知るべきことを知るべきだ。
レモンは呆《あき》れたように鼻を鳴《な》らして肩《かた》をゆらし、それから小さなため息をついた。
「状況か。じゃあ教えてあげるよ。……ナミが死んでから五六日がたっている。今日は五月の二〇日だ」
「…………」
「あのクラマという男と戦って、君は重傷《じゅうしょう》を負《お》った。ライフル弾《だん》が胴体《どうたい》を貫通《かんつう》したんだ。死ななかったのは奇跡《きせき》に近い。心臓《しんぞう》と大動脈《だいどうみゃく》、脊椎《せきつい》は無事《ぶじ》だったが、肝臓《かんぞう》や腎臓《じんぞう》の一部を失った。消化器もいくらか短くなった。これからは一生、酒は飲めないね。食事にもあれこれ制限《せいげん》が付くだろう」
宗介は眉《まゆ》ひとつ動かさなかった。
死ななかったのなら安い代償《だいしょう》だ。それに酒などもともと、あの香港《ホンコン》での一件以来《いっけんいらい》、二度と飲む気などなかった。
「幸運《こううん》だったといえるだろうね。僕と衛生兵《えいせいへい》が救命処置《きゅうめいしょち》を施《ほどこ》したが、それでさえ君が死ぬのは時間の問題だった。実際《じっさい》、何度も心臓が止まりかけたよ。僕が除細動機《じょさいどうき》を使ったんだから間違《まちが》いない。ナムサクの病院に君の身分《みぶん》を偽《いつわ》って運《はこ》び込《こ》み、どうにか手術ができる状態《じょうたい》までこぎつけた。でも、あの街の病院|施設《しせつ》では君を救える外科医《げかい》がいない。敵の追跡《ついせき》もやばかったので、危篤状態《きとくじょうたい》のまま君を運び出して、ヘリでカンボジアのプノンペンに移送《いそう》した。うちの息がかかった病院があるんだ。たまたま腕《うで》のいいフランス人の外科医が現地で活動中のNGOにいたので、素性《すじょう》を明かさず呼びつけて手術をしてもらった。二〇時間かかったよ。詮索好《せんさくず》きな地元《じもと》の関係者《かんけいしゃ》を遠ざけるのにも苦労《くろう》したし、事件の事後処理《じごしょり》もあったから――」
そのあたりまで聞いて、宗介はレモンの言葉をさえぎった。
「わかった。とにかく助かったわけだな」
「まあね。こうして会話できるくらいまでには漕《こ》ぎつけたってことさ」
レモンの声には、どこかうんざりしたような、同時になにかをおかしく思っているような響《ひび》きがこもっていた。
いずれにしても、宗介を救《すく》う作業には大変な労苦《ろうく》を伴《ともな》ったのだろう。そうまでして自分を助けた理由について、彼は考えてみた。
理由など、多すぎて数えるのも面倒《めんどう》くさかった。
「それから君は何度か意識を取《と》り戻《もど》した。でも、まともに会話ができる状態ではなかった。いくつかの地名《ちめい》をつぶやいて、あとは『連《つ》れて帰《かえ》る』だの『取り戻す』だのとうわごとを繰《く》り返《かえ》すばかりだったからね」
「覚えていない」
「まあ、そうだろう」
そうつぶやき、レモンは半袖《はんそで》シャツの胸ポケットから煙草《たばこ》を一本取り出した。マッチで火をつけ、たいしてうまくもなさそうに煙《けむり》を吸《す》い込《こ》む。一か月以上も共同生活をしていたはずだが、レモンが煙草を吸うところを見たのはこれが初めてだった。
宗介の視線に気づいたのだろう。レモンは自分の煙草をちらりと見てから、自嘲気味《じちょうぎみ》に肩をすくめた。
「本当は吸うんだよ」
そう言って、指に挟《はさ》んだ煙草――その先端《せんたん》の火をくるくると小さく回《まわ》す。
「気弱《きよわ》なフォトグラファーのふりをするのを機会《きかい》に、やめようと思ってたんだけどね。無理《むり》だった」
「そうか」
相槌《あいづち》を打《う》ちながら、宗介はクラマの最期《さいご》の言葉を思い出した。
「君の容態《ようだい》が峠《とうげ》を越《こ》したあと、彼女を埋葬《まいそう》しにいったんだ。故郷《こきょう》の村まで運んで」
「…………」
「埋葬が済んで、墓から一〇〇メートル離《はな》れたところで、我慢《がまん》できずに一服《いっぷく》した。たぶん、僕はあの子を愛してたんだろうな。煙にむせて咳《せ》き込《こ》んだあと、たくさん泣《な》いたよ。一〇年分くらいは泣いたと思う」
[#挿絵(img/09_081.jpg)入る]
そう言いながらも、レモンはこれといった感情も見せようとはしなかった。もうずっと昔のことを話しているような声だった。
「責《せ》めてるわけじゃない」
彼は言った。
「僕も君も同罪《どうざい》なんだ。お互《たが》い彼女を利用《りよう》して、巻き込み、そして死なせてしまった。こういう畑だ、よくあることさ。まあ、いつかは――」
床《ゆか》に煙草を捨て、火を靴底《くつぞこ》でもみ消《け》す。
「――いつかは、報《むく》いを受《う》けるだろうが」
レモンはしばらく押《お》し黙《だま》り、憂鬱《ゆううつ》な目で壁《かべ》の一点を凝視《ぎょうし》した。
窓から差し込む日差《ひざ》しが、深い陰影《いんえい》を作り出す。こういう表情を、宗介はこれまでに何度も見てきたような気がした。彼のこれまでの戦友《せんゆう》たちは、こういう顔を時たま見せることがあった。人の生き死にを生業《なりわい》とする者《もの》特有《とくゆう》の、ある種《しゅ》の死相《しそう》だ。それが近いうちなのか、ずっと先なのかは分からない。ただ、その陰影が死を感じさせるのだ。
「ここはどこだ?」
宗介がたずねると、レモンはゆっくりと背後の絵画《かいが》を振《ふ》り返った。
「あの絵がヒントさ。あれの作者はこの地で人生の終焉《しゅうえん》を迎《むか》えた。太平洋のど真《ま》ん中《なか》、マルキーズ諸島はヒバオア島だ。フランス人の僕から見れば、地球の最果《さいは》てといったところかな」
マルキーズ諸島。ポリネシアの片隅《かたすみ》だ。
確《たし》かフランス領《りょう》のはずだったが、こんな辺境《へんきょう》に自分が運ばれた理由はなんだろうか、と宗介は考えた。
おそらくは、だれかから自分を隠《かく》したいのだろう。それだけでレモンたちの組織の立場がおおよそ推測《すいそく》できた。
「これからの僕の質問にしっかりと答えてくれないと、君の人生もここで終わることになる」
「そうは思わないがな」
「ただの友情や善意《ぜんい》で、君を助《たす》けたわけじゃない。欲《ほ》しかったのは君の知識《ちしき》だ。<アマルガム> や <ミスリル> の情報が欲しいのは、|うち《DGSE》も同じだからね」
眼鏡《めがね》をはずし、改めて宗介を見据《みす》えると、レモンは椅子に座《すわ》り直した。
「では、質問を始めよう」
ごく事務的《じむてき》に彼は言った。
夕刻《ゆうこく》に入りかけた時刻《じこく》、レモンは相良宗介の部屋を後《あと》にした。
廊下《ろうか》を抜けて礼拝堂《れいはいどう》に出る。
ここは一九|世紀《せいき》に建てられた古い教会なのだ。観光客《かんこうきゃく》にはほとんど知られておらず、また礼拝にやってくる地元《じもと》の人間もいない。周辺にはレモンの仲間の特殊部隊員《とくしゅぶたいいん》たちが警備《けいび》を固《かた》め、なにも知らない人間が迷《まよ》い込《こ》むのを防《ふせ》いでいる。
赤道《せきどう》近くに位置《いち》するこのヒバオア島は、きょうもひどく暑かった。照《て》りつける太陽が窓の外の岸壁《がんぺき》と大海《たいかい》を白く輝《かがや》かせ、暗い部屋から出たレモンの目をくらませる。石造りの通廊《つうろう》を吹《ふ》き抜《ぬ》けていく風の涼《すず》しさだけが救いだ。
礼拝堂で待っていた上司が、彼の姿を認《みと》めて近づいてきた。
男の名前はデルクール。年齢《ねんれい》は四〇過《す》ぎですらりと痩《や》せ、黒髪《くろかみ》で口ひげを蓄《たくわ》えている。彼とレモンは同じフランス対外保安総局《たいがいほあんそうきょく》のエージェントで、すでに何度か一緒《いっしょ》に作戦をこなしてきた。
「どうだった。あの小僧《こぞう》は喋《しゃべ》れたか」
デルクールが言った。
「どうもこうも――」
と、レモンは肩《かた》をすくめた。
「――のらりくらりですよ。『知らない』『覚えてない』の繰り返しだ。体力《たいりょく》がないから、こちらも拷問《ごうもん》ができないのを見透《みす》かしてるんでしょうね。壊滅《かいめつ》した組織の情報なんて、話すのに大した躊躇《ちゅうちょ》は感《かん》じないはずですが」
「…………」
「例の潜水艦《せんすいかん》やその部隊の情報についても慎重《しんちょう》です。むしろ、こちらの知っていることに探《さぐ》りを入れてくるほどでして」
アメリカ海軍が『トイ・ボックス』と呼んでいる揚陸《ようりく》海水艦の消息《しょうそく》について、彼らの組織はほとんど情報をつかんでいなかった。
どこかで撃沈《げきちん》されたという情報もある。いまだに太平洋《たいへいよう》のどこかに潜《ひそ》んでいるという情報もある。本当のところは、レモンたちにもまだわからないのだ。
その部隊に属《ぞく》していたはずの宗介さえも、仲間の消息は本当に知らない様子《ようす》だった。
「ほかには? 得体《えたい》のしれない潜水艦の話なんぞどうでもいい。われわれは <アマルガム> に関する情報が欲しいのだ」
いらだちを隠《かく》そうともせず、デルクールはレモンを問《と》い詰《つ》めた。
「もともとは兵器市場《へいきしじょう》への露骨《ろこつ》な干渉《かんしょう》に対する調査《ちょうさ》だったが、今年に入ってから起きた、いくつかの事件ではっきりとしつつある。彼らは国際紛争《こくさいふんそう》を制御《せいぎょ》し、腐《くさ》りかけの冷戦構造《れいせんこうぞう》を無理矢理《むりやり》維持《いじ》し、そしてなによりも重要なことに――われわれを蚊帳《かや》の外《そと》に置《お》こうとしている。懐柔《かいじゅう》するにせよ対決《たいけつ》するにせよ、彼らの実態《じったい》をつかまないことには――」
「わかってますよ」
レモンはうんざりと手を振《ふ》った。
彼はこのデルクールがあまり好きではなかった。子供のころからエリートコースを進んできて、望めば高級官僚《こうきゅうかんりょう》にもなれたレモンを、たたき上げのデルクールは侮《あなど》っている節《ふし》がある。大学院出《だいがくいんで》のおぼっちゃんというわけだ。
「サガラ・ソウスケは条件次第《じょうけんしだい》では協力すると言っています」
「条件?」
「ええ」
「どんな条件だ」
「武器《ぶき》と弾薬《だんやく》、それから資金《しきん》。入手の容易《ようい》なアーム・スレイブ一機と、輸送用《ゆそうよう》の貨物船《かもつせん》。それから指定《してい》する場所《ばしょ》にセーフハウスを用意しろと」
宗介の言葉をそのまま伝えると、デルクールの眉間《みけん》にしわがよった。
「まだ戦う気なのか。<アマルガム> と」
「そのつもりみたいですよ」
「命を救われておいて、われわれを召使《めしつか》い扱《あつか》いか。つけあがりおって」
「彼の要求《ようきゅう》を呑《の》みますか?」
「論外《ろんがい》だ」
デルクールが吐《は》き捨《す》てるように言った。
「われわれはまだ <アマルガム> と対立すると決めたわけではない。奴《やつ》に出せる条件は命の保証《ほしょう》くらいのものだ」
「まあ、そうでしょうけど」
「もうすこし回復《かいふく》を待とう。それから私が直接|締《し》め上げてやる」
そう言うからには、デルクールは本気なのだろう。体力の回復を待って、宗介に過酷《かこく》な拷問か、念入《ねんい》りな薬物投与《やくぶつとうよ》をするはずだ。
それを止める権限《けんげん》はレモンにはない。これからのことを思うと、彼は暗澹《あんたん》とした気分になった。
「不服《ふふく》そうだな」
「いえ……」
「そろそろ拘束《こうそく》も必要になるだろう。手錠《てじょう》をかけておけ」
「まだ必要ありませんよ。首を動かすのがやっとです。当分は異変《いへん》もないことでしょう」
だが異変はその晩《ばん》のうちに起きた。
相良宗介が収容《しゅうよう》されている古い教会は、その絶海《ぜっかい》の孤島《ことう》の南東部、海に面した低い山の斜面《しゃめん》に建っている。周囲に民家や港などはなく、さりとて観光客風《かんこうきゃくふう》の服装をしたエージェントが出入りしても目立つことはない。スパイ組織の|隠れ家《セーフハウス》としては、まずまずの場所だといえた。
地元の人間たちは、この教会を買い取ったどこかの金持ちが、たまに利用しているということくらいしか聞いていない。出入りする業者《ぎょうしゃ》もほとんどいない。
教会の周囲には29SA――DGSE内の特殊部隊《とくしゅぶたい》の人員が、数名ほど交代で警備《けいび》にあたっている。サングラス型の暗視装置《あんしそうち》をかけているが服装は平服《へいふく》で、武器もアロハシャツの下に隠《かく》せる小ささのマシンピストルだけだった。
もちろん万全の警備には心細い装備《そうび》だ。
だがもし地元の若者や観光客が敷地《しきち》に迷い込んだとしたら――なにしろ、その可能性《かのうせい》が一番大きい――彼らを追い払《はら》うときにボディアーマーやカービン銃《じゅう》を見せつけるのは得策《とくさく》ではない。その方が、よほど大きなトラブルを呼び込むことになる。
その夜、当直《とうちょく》についていた歩哨《ほしょう》の若者は、しずかな波の打ち寄《よ》せる岸壁《がんぺき》のそばを一人で歩いていた。陸軍出身《りくぐんしゅっしん》の彼は、いくつかの厳《きび》しい訓練《くんれん》と試験《しけん》をパスして、やっと部隊《ぶたい》の任務《にんむ》についたばかりだった。
退屈《たいくつ》な任務だと嘆《なげ》くつもりなど、彼にはまったくなかった。そこらの年老いた警備員《けいびいん》ではなく、わざわざ自分たちが呼ばれて、こうして巡回任務《じゅんかいにんむ》に就《つ》かされているのだ。あの教会に運び込まれたのが重要な人物だということは疑《うたが》いようがなかった。たとえ辺境《へんきょう》の歩哨を任されたとしても、あくびまじりに仕事をするような男は、特殊部隊の一員には選抜《せんばつ》されない。
だからこそ、彼は岸壁の下の海から、ひそかに上陸しようとしている三人の男たちを発見することができた。黒ずくめの潜水具《せんすいぐ》に最新のカービン銃。防水仕様《ぼうすいしよう》のタクティカル・ベスト。地元の若者や観光客でないのは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ。
もちろん彼はのこのこと出て行って銃を構《かま》え、『止まれ! 何をしている!』だのと言ったりはしなかった。訓練された三人の男に、マシンピストル一|挺《ちょう》で立ち向かえるはずもない。彼はすぐさま身を隠し、携帯無線《けいたいむせん》に小声で告げた。
「エフェメル4よりエフェメル1へ。E12に武装した侵入者《しんにゅうしゃ》三名を発見。指示《しじ》を請《こ》う」
すぐさま指揮官《しきかん》のデルクールが応じた。
『こちらエフェメル1。監視《かんし》を続けろ。三分以内に応援《おうえん》をよこす』
「エフェメル4了解《りょうかい》。交信終了」
通信を切ってから、彼は音もなく移動《いどう》して近くの岩陰《いわかげ》にかくれた。そこなら上陸した敵から死角《しかく》になるし、彼らを一〇〇メートル以上動くところまで監視できるはずだった。
そのとき、背後から彼の首に手が回ってきた。
「…………!」
ふりほどく間など、まったくなかった。ナイフの切っ先が喉首《のどくび》にあたる。
四人目がいたのだ。
「サガラ・ソウスケはどこにいる?」
死神の声で相手がささやいた。
「もう一度言う。サガラ・ソウスケはどこにいる?」
彼は答えなかった。その沈黙《ちんもく》への返事として、その男は言った。
「見上げた根性《こんじょう》だ」
背中に焼け付くような激痛《げきつう》。ナイフで腎臓《じんぞう》を刺《さ》されたのだ。敵は容赦《ようしゃ》なく、その切っ先を彼の体内でえぐった。意志とは無関係な外傷のショックで、まともな声さえ出なかった。
ナイフが引き抜《ぬ》かれた。
つづいて左胸を二回刺され、とどめに喉を横一文字に切り裂《さ》かれ、彼はそのまま岩場にくずおれた。一撃《いちげき》で済ますようなことはしない。急所《きゅうしょ》を数箇所《すうかしょ》刺して確実《かくじつ》に殺す。ごく模範的《もはんてき》なナイフでの殺害《さつがい》方法だった。
様子《ようす》がおかしい。
宗介がそう感じたのは、警備|陣《じん》のだれかがあわただしく通路を走っていく音を聞いたからだった。
かすかに聞こえる無線のやりとり。フランス語は辞書《じしょ》を片手に読み書きできるのがせいぜいなので、会話の内容まではわからない。変化らしい変化といったらそれくらいだったが、彼は確かにそれ以上の何かを感じとった。
それまで、この場所にはなかったあの気配《けはい》。
殺気《さっき》だ。
どこかから潮風《しおかぜ》に乗って、血の匂《にお》いが漂《ただよ》ってくる。ずっと遠くのはずだったが、敏感《びんかん》な彼の嗅覚《きゅうかく》はそれを見逃《みのが》さなかった。
だれかが死んだ。
殺された。
そう確信《かくしん》するのと、外から銃声が聞こえたのはほとんど同時だった。
小口径《しょうこうけい》のライフル弾《だん》と、サブマシンガンの銃声。おそらくはM4とMP5か。あからさまな援護《えんご》の時以外は、バースト射撃《しゃげき》もフルオート射撃もほとんど使っていない。必要なときに必要なだけ撃《う》つ、プロフェッショナル同士の戦闘《せんとう》のリズム。
目を覚《さ》ますなり、すぐこれだ――
「…………っ」
宗介は歯を食いしばって首を起こした。またしても猛烈《もうれつ》な痛みが襲《おそ》ってくる。頭の中がぐらぐらとして、指先が小刻《こきざ》みに震《ふる》えた。
だが、立たなければいけない。
外の騒《さわ》ぎが自分のこととは無関係《むかんけい》だ――そう思って眠《ねむ》りにつきたい誘惑《ゆうわく》が襲いかかってきたが、彼は歯を食いしばってその衝動《しょうどう》をはねのけた。レモンが言った通りの状況《じょうきょう》なら、外の戦闘がだれを巡《めぐ》ってのことなのかは察《さっ》しがつく。
ベッドに手をつき、上体を起こす。まるで数百キロの砂袋《すなぶくろ》でも持ち上げているような辛《つら》さだった。痛みに耐《た》えて身を起こし、体を回し、体につながれた管《くだ》やコードを引きむしる。ベッドに腰《こし》かけた姿勢《しせい》に、どうにか持っていった。
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自分でも驚《おどろ》くほど筋力《きんりょく》が衰《おとろ》えていた。レモンの話を信じるなら、一か月半も眠っていたのだ。そして――
「くそっ……」
自分の腕《うで》を見て、宗介は悪態《あくたい》をついた。だれか他人の体なのではないかと思うほど、細くやせ衰えている。これではまるで、女の腕だ。冗談《じょうだん》抜きで、テレサ・テスタロッサや常盤《ときわ》恭子《きょうこ》と腕|相撲《ずもう》をしても負けてしまうかもしれない。
表の銃声は断続的《だんぞくてき》に続き、じりじりとこちらに近づいてきていた。
(武器は……?)
ない。
ここにあるのは点滴《てんてき》の針《はり》くらいだ。
(逃《に》げ場は……?)
ない。
部屋の扉《とびら》には鍵《かぎ》がかかっている。レモンが出て行ったときに、錠前《じょうまえ》の回る音を確かに聞いた。割れるかどうかも怪《あや》しいガラス窓《まど》は、ひどく小さく、高い位置にある。いまの自分があそこから這《は》い出すのは不可能だ。
そもそも、立って歩けるのかどうかも怪しいところだった。
廊下《ろうか》から銃声《じゅうせい》と悲鳴《ひめい》が聞こえてきた。
そう遠くない。いや、すぐ近くだ。いずれ敵がこの部屋に踏《ふ》み込んでくるのは間違《まちが》いなさそうだった。
宗介は舌打《したう》ちして、室内にあるわずかな物品《ぶっぴん》に目を走らせた。
そこにあるのは、いくつかの医療器具《いりょうきぐ》と点滴セット、医療用のタンクとミネラルウォーターのボトルだけだった。そして自分にはまともに走るほどの体力も残されておらず、ましてや訓練された敵と戦って勝つ方法などまったくない。
敵がこの部屋に入ってきたら、自分はなすすべもなく射殺されて終わりだろう。
反撃《はんげき》の方法がない。
いや――
わずかな直感《ちょっかん》と知識だけで、宗介は動いた。
思い切り歯を食いしばって、ベッドから床《ゆか》へと脚《あし》を降ろす。これで立てなかったらもう終わりだったが、宗介の両脚はどうにか体重を支えることに成功した。
ふらふらと心電図機《しんでんずき》の横まで歩き、その横に置いてあった医療用の酸素《さんそ》タンクに手を伸《の》ばす。タンクについていたチューブを引きちぎろうとする。できない、そんな筋力《きんりょく》はない――タンクのバルブを最大まで開き、吸入器《きゅうにゅうき》側のマスクを何度も壁《かべ》に打ち付けて壊《こわ》してやった。
弁が壊れて、気体の漏《も》れる音が響《ひび》く。
吸入器を壊すだけでも相当《そうとう》の体力を消耗《しょうもう》してしまった。宗介は肩《かた》を上下させてあえぎながら、粗末《そまつ》な卓上《たくじょう》に置いてあったペットボトルをつかんだ。とてつもない重さだった。中身のミネラルウォーターを、ベッドの上のシーツに振《ふ》りかけていく。これも大変な重労働だった。
五分の一ほど残したボトルの水を頭からかぶり、濡《ぬ》れたシーツを手繰《たぐ》り寄《よ》せ、疲《つか》れた体に巻きつける。
「…………っ」
こんなところか。
あとは賭《か》けだ。
彼はふたたびベッドに横たわると、さっきまで自分の体に刺《さ》さっていた点滴の針を右手につかんで、荒《あ》れた呼吸を整えた。
外では銃声。タンクから気体の漏れる音だけが室内に響く。体中のあちこちが痛んだが、彼はそれを無視《むし》した。これは昔から何度もやっていることだ。どうにかなる。
また銃声。
今度はすぐそばだ。
数秒とたたないうちに、部屋の扉が蹴破《けやぶ》られて、黒ずくめの戦闘服を着た男が一人、踏み込んできた。まったく無駄《むだ》のない素早《すばや》い身のこなしだった。
カービン銃の銃身がこちらを向く。
「サガラ・ソウスケだな?」
男が言った。
「違うと言っても撃つんだろう」
「そうだ」
男が発砲《はっぽう》する。
同時に宗介が身をひねった。
初弾《しょだん》をかわしたところで、つづく数発で仕留《しと》められるのは宗介にも分かっていた。だが次の瞬間《しゅんかん》、男の眼前で室内の空気が爆発《ばくはつ》した。
「っ!?」
はげしい炎《ほのお》が男の手の中から膨《ふく》れ上がる。
まるでガスバーナーかなにかのように、一瞬で火球は男の周囲三〜四メートルくらいまで広がる。それから鈍《にぶ》く、重たい爆発音がやってきた。
医療用タンクからもれ出ていた酸素が、室内に充満《じゅうまん》していたのだ。
そこに火をつければ、瞬間的に大きな爆炎《ばくえん》が発生することになる。さすがに軍用の爆薬のようにはいかないが、巨大《きょだい》なガスライターが、目の前で着火《ちゃっか》したくらいの炎は襲《おそ》いかかってくる。
男の発砲がもたらした炎は、ベッドの上の宗介にも襲いかかり、猛烈《もうれつ》な高熱が彼の体を覆《おお》いつくした。
「…………!」
呼吸を止めていたにもかかわらず、鼻や喉《のど》に熱気が飛び込んできた。濡れたシーツをまとって水をかぶっていなかったら、彼も大やけどを負っていたかもしれない。
高熱が過ぎ去って身を起こすと、次に敵の悲鳴が聞こえてきた。
「ああぁ〜〜!! あ、ああ〜〜!」
男は銃から両手を離《はな》し、自分の目を両手で覆って絶叫《ぜっきょう》していた。爆炎で目を焼かれたのだろう。宗介はすぐにベッドから立ち上がり――最初のときよりは素早くできた――よろめく足で戸口の前に立つ敵へと向かった。
壁の絵画がめらめらと燃えている。
われわれはどこから来たのか、われわれは何者なのか、われわれはどこへ行くのか。
「千鳥《ちどり》……」
うわごとのような声でつぶやくと、宗介はまっすぐに歩いて男に組み付き、彼の太もものホルスターに差さっていた自動|拳銃《けんじゅう》を奪《うば》った。そのまま相手にすがりつくようにしながら、混乱《こんらん》して泣き叫《さけ》ぶ男のあごの下に銃口を押《お》し付け、引き金を引いた。
耳障《みみざわ》りな悲鳴がやみ、男はその場でくず折《お》れて死んだ。
「…………」
いまや背後で燃え上がり、黒くゆがんで消え去ろうとしているあの絵のせいなのかもしれない。宗介はなぜか無性《むしょう》にやりきれない気分になった。この男がどんな奴《やつ》かも知らないし、向こうはこちらを殺そうとしていた。気の毒《どく》に思う理由などなにもない。だというのに、まだこんなことを続けている自分を、彼はひどく哀《あわ》れに感じた。
悪夢はまだまだ続いている――
あの闘技場《とうぎじょう》で死んでも良かったのに。なにか得体《えたい》の知れない意志が、自分に『まだ死ぬな、殺し続けろ』と命じている。
宗介は死体のそばにひざまずき、敵の装備《そうび》を奪っていった。
タクティカル・ベスト。デジタル通信機《つうしんき》。カービン銃。予備弾倉《よびだんそう》。血のついたナイフ。白燐手榴弾《はくりんしゅりゅうだん》。サバイバル・キットに医療用キット。裸《はだか》の上半身にベストをひっかけ、拳銃は腰《こし》に差し、カービン銃を肩にかけ、宗介は部屋の外に出た。
どうやらこの建物は、古い教会かなにかのようだった。レモンたちがどうなったのかは分からない。どこかに逃《に》げたのか、それとも死んでしまったのか。
とにかくこの場から逃げよう。それからどこかに隠《かく》れる。人のいる場所はまずいだろうから、近くの山中あたりにまで逃《のが》れて、どうにか体力の回復をはかる。
いまのところ思いつくのは、その程度《ていど》のことだった。
「…………」
息が荒れる。脚が重い。
敵から奪ったカービン銃とその他の装備も、ひどい重さだった。まるで五〇キロはあるようなセメント袋《ぶくろ》を、両肩に負わされているような気分だ。こんな代物《しろもの》を軽々と振り回していたなどとは、自分でもとても信じられなかった。
途中《とちゅう》に死体が転がっていた。
平服姿なところを見ると、レモンの仲間だろう。黒髪《くろかみ》で口ひげをたくわえた、四〇過《す》ぎの男だ。
この死者の顔を、宗介はなぜか覚えているような気がした。もしかしたら危篤状態《きとくじょうたい》で朦朧《もうろう》としながら覚醒《かくせい》したこの一か月半の間に、何度か会っていたのかもしれない。
通路《つうろ》を抜《ぬ》けて広い空間に出る。
やはりここは教会のようだ。彼が出たのは、天井《てんじょう》の高い礼拝堂《れいはいどう》だった。
薄暗闇《うすくらやみ》の中で、ステンドグラス越《ご》しの月光が銀色の光を落としている。その一条《いちじょう》の光線の向こうに、レモンと何人かの男たちが立っていた。
「撃《う》つな!」
とっさに宗介に銃口を向けようとした男たちに、レモンが鋭《するど》く命じた。
「よく見ろ。彼だ」
そう言ってから、レモンがこちらに近づいてきた。宗介はふらつく腕《うで》でカービン銃を支え、彼を照準《しょうじゅん》し続けた。
「ソースケ。無事《ぶじ》だったか」
レモンが言った。
「あいにくな。敵はどこだ」
「外の敵はあらかた片付けた。敵の一人がこちらに向かったらしい。さっき大きな爆発の音が聞こえたけど……」
そう言いながら、レモンは宗介の持つ銃や装備を一瞥《いちべつ》し、眉《まゆ》をひそめた。
「敵の装備じゃないか。殺したのか」
「肯定《こうてい》だ」
「じゃあ、とりあえずは撃退《げきたい》したことになるな……。しかし、こんなところまで襲ってくるとは」
舌打ちするレモンの前で、宗介はふらふらとよろめき、すぐそばの壁《かべ》にもたれかかった。
「向こうでお仲間が死んでたぞ」
「どんな奴だった」
「四〇前後で口ひげを生やした黒髪の男だ」
それを聞いて、レモンは目を丸くしてから、瞑目《めいもく》するようにうつむいた。
「デルクールか。くそっ」
「だが敵の狙《ねら》いは俺だったようだ」
「ああ。でもなぜそういいきれる?」
「俺の名前を知っていた」
「そうか」
それ以上立っているのがつらくて、宗介は壁に背を預《あず》けてしゃがみこんだ。
「それで? そんなランボーみたいな格好《かっこう》をして、これからどうするつもりなんだ」
「逃げるつもりだった。だが、無理《むり》そうだ」
憔悴《しょうすい》しきった宗介の言葉に、レモンは微笑《ほほえ》んだ。
「ああ、そのようだね。君も無敵《むてき》のスーパーマンってわけじゃなさそうだ。いまは力を蓄《たくわ》えるべきだよ」
「そうだな」
「問題は、こんな地球の裏側まで、君を殺しに来た奴らがいるってことだ」
「ああ」
「その理由がわかるかい? 彼らが君を重要視《じゅうようし》して、わざわざ抹殺《まっさつ》するために兵員を派遣《はけん》した理由だよ。僕にもすこしは想像がつくが、確信が持てない。いい加減《かげん》に教えてくれないか?」
そばまで歩み寄ってきてしゃがみこみ、レモンは宗介の顔をのぞきこんだ。
「わからん」
まだ癒《い》えてない傷にあえぎながら、宗介はつぶやいた。
「俺は連中にひどく嫌《きら》われている」
「それだけじゃ理由にならないだろう」
「もうひとつ考えられる可能性が」
「それは?」
「アルだ」
宗介は相棒《あいぼう》の名前を告げた。
「仮にあいつがまだ生きていて、その情報を <アマルガム> がつかんでいるなら、連中は俺とあいつのコンビを『脅威《きょうい》』だと考えて、どちらかを抹殺しようと試《こころ》みるかもしれない」
テレサ・テスタロッサには問題が山積《さんせき》していた。
一週間以上にわたる芝居《しばい》で心身《しんしん》ともに疲《つか》れていたのに、ゆっくり休息をとるゆとりさえ彼女にはなかったのだ。
まず、あのサンフランシスコでの作戦の後始末《あとしまつ》があった。目撃者《もくげきしゃ》の少ない港湾部《こうわんぶ》でのこととはいえ、ASがあれだけ派手《はで》な戦闘《せんとう》をしたのだ。世間で騒《さわ》がれないはずがない。かつてのミスリルの力が背景にあれば、『麻薬組織《まやくそしき》の抗争《こうそう》』だの何だのと理由をつけて適当《てきとう》に真相をごまかすこともできたが、孤立無援《こりつむえん》の今ではそんな真似《まね》もできなかった。それでもある程度《ていど》の情報操作《じょうほうそうさ》を行う必要はあったため、艦《かん》のAI <ダーナ> や部下たちが施《ほどこ》した膨大《ぼうだい》な作業のチェックも、最終的には自分がやらなければならなかった。
カルフォルニア沖《おき》に待機していた <トゥアハー・デ・ダナン> と合流《ごうりゅう》を果たした後は、合衆国海軍《がっしゅうこくかいぐん》と沿岸警備隊《えんがんけいびたい》の目を盗《ぬす》んで姿を消すのにも苦労した。
アメリカ海軍は決して馬鹿《ばか》ではない。そして <デ・ダナン> が就航《しゅうこう》してから一年半以上がたっている。彼らは彼らなりの方法でこちらを探知《たんち》する手段《しゅだん》の研究を進めていて、それはある程度の成果を収めつつある。彼らの探知システムは着々と進化しており、それがテッサたちの行動を以前よりも制限《せいげん》しているのだ。
三日以上もかけて隠密航行《おんみつこうこう》してから、メキシコ沖一二〇マイルの海中に身を潜《ひそ》めたあと、テッサはようやく艦の警戒《けいかい》レベルを一|段階《だんかい》引き下げた。その命令を副長のマデューカスが復唱《ふくしょう》し、艦のAIが静かな声で艦内《かんない》にアナウンスを流すと、発令所《はつれいじょ》のクルーたちの間からも、ようやく安堵《あんど》のため息がもれた。
「艦長。二時間前からクルーゾー大尉《たいい》たちを待たせています」
マデューカスが告げた。
「そうでしたね。行きましょう」
彼女は艦長席から立ち上がった。普段《ふだん》はていねいに三つ編《あ》みにしているアッシュブロンドも、後頭部で無造作《むぞうさ》に束《たば》ねているだけだ。シャワーもまる二日|浴《あ》びていない。身づくろいをする時間がまったくないほど、この三日間は予断《よだん》を許さない状況《じょうきょう》だった。これが男の艦長だったら、無精《ぶしょう》ひげが伸《の》び放題《ほうだい》になっているところだろう。
操艦《そうかん》と監視《かんし》を当直士官《とうちょくしかん》に任せ、マデューカスと共に発令所から第一状況|説明室《せつめいしつ》に向かう。途中《とちゅう》で出会った水兵や士官は、こういう状況下になっても彼女に残らず敬礼《けいれい》をしてきた。軍事組織としての <ミスリル> は消滅《しょうめつ》したも同然なので、そういう敬礼はもうしなくていい、と何度も言っているのだが、クルーはだれも従《したが》わない。
「みんな疲れてるわ」
彼女自身も疲労困憊《ひろうこんぱい》していたが、それを部下たちに気取《けど》られるわけにはいかない。意識して背筋《せすじ》を伸ばし、きびきびと早足で歩きながら、テッサはつぶやいた。
「はい、艦長。まだ士気《しき》には影響《えいきょう》していませんが、ミスや事故が心配です」
後ろを付き従うマデューカスが小声で言った。
「できれば半日。せめて八時間は休みが欲《ほ》しいところです」
「無理です。六時間休んだら南に向かうわ」
わざわざこのマデューカスが口に出すのだから、軽い気持ちで言っているのではないことくらい、テッサにもよくわかっていた。だが、ここで休めるのはどう譲歩《じょうほ》しても六時間だ。それ以上この海域《かいいき》にとどまっていたら、米海軍の捜索《そうさく》の手が伸びてくる。
ひいては、その海軍の情報を盗《ぬす》み見ているはずの <アマルガム> にも察知《さっち》される。
「部下たちのことではありません。あなたです」
予想通り、マデューカスは食い下がってきた。
「サンフランシスコで囮《おとり》になってから、まともな休息を取っていないでしょう。クルーへの命令もわずかに険《けん》がこもっています。いまごろ発令所では、ゴダード大尉《たいい》がクルーたちに『艦長はお疲れなのだ』と言い含《ふく》めているところでしょうな」
「それで納得《なっとく》できるなら、させておけばいいでしょう?」
胸の内から湧《わ》き出してくる苛立《いらだ》ちを必死に押《お》し殺しながら、テッサは言った。それからすぐに自分の発言を後悔《こうかい》した。
「ごめんなさい、あなたの言う通りね。気をつけます」
「いえ……」
「でも、休息については六時間が限度《げんど》よ。あとでたっぷり休ませてもらうから。もうすこしがんばりましょうね」
完璧《かんぺき》な微笑《びしょう》を作って彼女は振《ふ》り返ったが、マデューカスにはまったく通用していないようだった。彼は立ち止まり、立ち聞きしている者がいないか手短《てみじか》に確認《かくにん》してから、改《あらた》まった声で言った。
「艦長。すこしよろしいでしょうか?」
「なんです?」
「私の忠誠心《ちゅうせいしん》には何ら変わりはありません。クルーたちもです。メリダ島|脱出後《だっしゅつご》のいきさつで、それははっきりとさせていたつもりでした」
「ええ」
相槌《あいづち》を打ちながら、テッサはあのとき――敵の大攻勢《だいこうせい》を受けてメリダ島から脱出したあとのことを思った。
ベヘモス三機と大部隊の攻撃《こうげき》から九死《きゅうし》に一生《いっしょう》を得《え》て、大きな損害《そんがい》を出しながらも <デ・ダナン> で脱出したあと、テッサたちはそれまでの経験《けいけん》と知識を総動員《そうどういん》して、敵の追跡《ついせき》をどうにかしのぎきった。この攻勢のことはアメリカ軍も察知したらしく、彼らの目を盗むことにも大変な苦労をした。普通《ふつう》の潜水艦《せんすいかん》と指揮官《しきかん》だったら、あの包囲網《ほういもう》を逃《のが》れることはまず不可能だったことだろう。
とりあえず敵を振り切り、インドネシア近海までたどりついたところで、テッサは艦内のアナウンスで部下たち全員に告げた。
他の戦隊も同様の攻撃を受けたこと。
実質上《じっしつじょう》、<ミスリル> は壊滅《かいめつ》したと判断《はんだん》せざるをえないこと。
これからは組織だった支援《しえん》も受けられず、孤立無援で敵に追われるだろうということ。
敵である <アマルガム> が様々《さまざま》な紛争《ふんそう》の仕掛《しか》け人であり、これからも敵は『より効率《こうりつ》よく』内戦や地域《ちいき》紛争を演出し、世界|情勢《じょうせい》を動かしていくだろう。またその利益《りえき》を思うように享受《きょうじゅ》していくだろう、ということ。
そうした事柄《ことがら》を、根拠《こんきょ》や情報源を交えてじっくり説明したあと、彼女は言った。
(――もちろん『絶対的《ぜったいてき》な平和、恒久的《こうきゅうてき》な平和』の構築《こうちく》は不可能です。それを踏《ふ》まえた上で、『可能な限りの平和』を目指すために暴力《ぼうりょく》を行使《こうし》していたのが <ミスリル> でした。そうした武力の是非《ぜひ》について、いまさらあれこれ言うつもりもありません。理想的な平和主義者から人間の屑《くず》呼ばわりされたとしても、あなたがたはかけらも動揺《どうよう》しないことでしょう。そう呼ばれても仕方《しかた》がないのが暴力というものです。名誉《めいよ》も勲《いさおし》もない。その上で、わたしはこの艦――人類|史上《しじょう》最強の暴力|装置《そうち》から手を離《はな》しません。徹底的《てっていてき》に彼らを妨害《ぼうがい》して、必ず敵を追い詰《つ》めるつもりです。きれいごとはやめておきましょう。これはただの復讐《ふくしゅう》です。メリダ島で死んだたくさんの部下の借りを、わたしは返してやろうと思ってます。難《むずか》しいですが、勝算がないわけでもありません)
そのとき握《にぎ》っていたマイクの感触《かんしょく》さえ、テッサはよく覚えていた。
(もう満足な給料も払《はら》えません。これまで以上の危険に全員がさらされるでしょう。傭兵《ようへい》であるあなたたちに、それを強制《きょうせい》することはできません。これから艦を降りる人員を乗せるヘリを格納甲板《かくのうかんぱん》に用意します。ヘリはジャカルタに飛び、それから皆《みな》さんは自由の身となります。将校《しょうこう》、下士官《かしかん》も遠慮《えんりょ》する必要はありません。すこしでも迷いのある人は、一時間後に格納甲板に来るように。以上です)
あくまで淡々《たんたん》とした口調のまま、テッサは長い話を終えてマイクのスイッチを切った。
彼女は発令所|要員《よういん》にも考える時間が必要だと考えた。
自身は発令所の席を離れ、艦長室に一人きりで閉じこもって一時間を待った。マデューカスが何かを言いたがっているのも、彼女はきっぱりとつっぱねた。待っている間、親友のメリッサ・マオが艦長室の扉《とびら》をノックしたときさえ、ドア越《ご》しに『待機室《たいきしつ》へ戻《もど》って一人で考えろ』と追い返した。
せいぜい三割の人員が残ればいいところだろう、と彼女は考えていた。
いや、二割を切ってもおかしくない。それくらい理不尽《りふじん》な話を自分がしているのだという自覚《じかく》が、彼女にははっきりとあった。限られた数のヘリで数百人を越える人員を輸送《ゆそう》するには、何度かの往復《おうふく》が必要になることだろう。その段取《だんど》りを考え、また不足している補給物資《ほきゅうぶっし》の問題をどうするか思案《しあん》しているうちに、一時間が過《す》ぎた。
テッサは艦長室から格納甲板に向かい、一人きりで重たい扉を開けて中へと入った。
格納甲板には一〇〇人くらいのクルーがたむろしていた。クルツもマオも、クルーゾーもいた。彼らは特に緊張《きんちょう》した様子もなく、めいめいに雑談《ざつだん》をしていた。
(これだけ?)
意外に思ってテッサは彼らにたずねた。するとマオが眉《まゆ》をひそめて、こう言った。
(なにが?)
(なにって……艦《ふね》を降りる人です)
(ああ。それなら向こうよ)
マオがあごをしゃくり、別の方向を差した。
すこし離れた輸送ヘリのそばに、二〇人ほどの集団がいた。ほかには本格的《ほんかくてき》な治療《ちりょう》が必要な重傷者が一〇人。付き添《そ》いの看護師《かんごし》が三人。あわせて三三人。
たったの三三人。
(降りる連中は妻子《さいし》持ちがほとんどだな。ま、無理《むり》もないし)
と、クルツが言った。
(あなたたちは?)
彼はテッサの顔を一瞥《いちべつ》してから、肩《かた》をすくめた。
(よく見ろよ、テッサ。ここにたむろしてるのは、陸戦ユニットやら基地|要員《よういん》やら整備クルーだろ。今のところ、することがないんでここにいるだけ。ちなみにほかの基地要員は艦内の仕事を手伝えるように、あちこちの部署にいって勉強中だとさ)
(で、でも……。ほかにいないの? 迷ってる人は気にしなくていんですよ?)
テッサが念を押《お》すと、その一同は互《たが》いの顔を見合わせた。
(だそうだ。おーい、だれかいるか?)
だれも返事をしなかった。いや、一人の兵站担当《へいたんたんとう》の二等兵が大げさに手をあげ、こう叫《さけ》んだ。
(大佐殿《たいさどの》。録画《ろくが》しといたドラマがあるんで、ちょっとだけ上陸|許可《きょか》いただけますか? いえ、すぐに帰りますから)
たちまち一〇〇人がくすくすと含《ふく》み笑いをもらした。彼らの輪《わ》の中心で、コーラをがぶ飲みしていた巨漢《きょかん》の整備隊長《せいびたいちょう》、サックスが人垣《ひとがき》をかきわけて近づいてきて、彼女に告げた。
(……とまあ、そういうわけだ、艦長。ただ、この船で生活させるには、無駄飯《むだめし》食いも山ほどいるぞ。クビにするなら今のうちだ! なあ、マスター?)
サックスがふりかえって言った。人垣の中から太り気味《ぎみ》の初老の男――メリダ島基地の居酒屋《いざかや》『ダーザ』の主人が手を振り、大声で『ばかもん』と怒鳴《どな》った。
(ただの役立たずだと思っとったら、大間違《おおまちが》いだぞ、ばかもんが。わしとてアフリカでさんざん武名を馳《は》せた傭兵よ。いますぐあのロシア人の後釜《あとがま》に任命《にんめい》するといいわい)
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(そりゃいい。カリーニン少佐の代わりにオヤジが作戦指揮官か。今日からあんたがパース・ワンだな!)
(まあ全員飲んだくれて仕事にならんだろうけどな)
(ばかもん、酒なんぞ一滴《いってき》も運んでくるヒマなかったわい。勝手にくたばりおった、お荷物のバカどもが山ほどいたもんでな。まったく、あのバカタレどもが)
一同が手を叩《たた》いてはやしたてた。
テッサはあとで知ったことだが、ダーザの主人は確かに酒の一滴すら持ち出してはいなかった。しかし店に飾《かざ》ってあったマッカラン大尉《たいい》たち――かつての戦死者《せんししゃ》たちの写真だけは鞄に詰《つ》め込んで一緒《いっしょ》に艦へと避難《ひなん》していたのだ。
(ここで逃《に》げたら男が廃《すた》る、ってもんだろ?)
(そうそう)
(あら? 女がいるのも忘れないでちょうだいね)
技術士官のレミングが人垣の向こうから声を張り上げた。すぐそばにいたテッサの秘書《ひしょ》のヴィランと、通信担当のシノハラもコーラのボトルをかかげて、声をそろえて『同じく』と言った。
(でも、だって……何十人も失ったんですよ? これからだって分からないって、ちゃんと説明したつもりです。なのに、どうして、こんな……)
それ以上の言葉を失い、立ち尽《つ》くしていたテッサに、いつのまにか後ろから近づいてきたマデューカスが言った。
(まったく……。どうしようもないろくでなしのヤクザ者ばかりですな)
(マデューカスさん?)
(まあ、わたしもその一人ですが)
その言葉に一同がまた笑った。このときばかりはマデューカスも『静粛《せいしゅく》に!』だのと野暮《やぼ》な叱咤《しった》は飛ばさなかった。
騒々《そうぞう》しい中で彼はテッサに告げた。
(艦長。あなたのために働けるのが、みんな嬉《うれ》しいのです。兵隊だったら誰《だれ》でも夢見るような指揮官。それがあなたです。もちろん最初は世間《せけん》知らずの生意気《なまいき》な小娘《こむすめ》くらいにしか思われていなかったことでしょう。ですがいまは違う)
(…………)
(どんな歴戦《れきせん》の古強者《ふるつわもの》でもなかなかできないことを、あなたはこれまでしてきたのです。そのあなたが戦うと言っているのだから、我々《われわれ》は喜んで付いていきます。しかもあなたは本心からその動機《どうき》を話してくださった。もしあなたがさっきの演説《えんぜつ》で『平和のために』だのと言い出していたら、私も艦を降りていたでしょう)
ただ復讐のために。
テッサ自身はそこまで単純《たんじゅん》な考えではなかった。<アマルガム> を叩くのには、もっと別の現実的な理由もあった。だが、やはり自分を強く衝《つ》き動かしたのは、そうした原始的な動機だったというのも事実だ。
大義《たいぎ》もない。名誉《めいよ》もない。
そんな自分の復讐に付き従ってくれる兵士たち。たいていのことは予想して対応してきた自分でも、こればかりは完全に想定外《そうていがい》だった。ひどいののしりを受けて見捨てられても、決して文句《もんく》は言えなかったはずなのに。
(そんな……)
すこし前の彼女だったら、ぼろぼろとその場で泣いていたかもしれない。だが、そうはならなかった。そんなことは、どの部下たちも求めてはいない。
代わりに彼女は両手を腰《こし》にあてて、よく通る声で一同に告げた。
(わかりました。でも、さっきも言ったとおり給料は出ませんよ? ごはんくらいはどうにかしますけど。それだけです。いいんですね?)
(うーい)
(ま、仕方《しかた》ねえわな)
(へいへい)
くだけた返事が返ってくる。彼女は息を大きく吸《す》い込み、一同を怒鳴《どな》りつけた。
(ちがいます。そういうときの返事は!?)
全員があわてて、声をそろえて叫んだ。
(イエス・マム!)
(よろしい)
すまし顔でうなずくと、奇妙《きみょう》な静寂《せいじゃく》がその場を支配した。それからこらえきれなくなって、まずテッサが噴《ふ》き出し、続いて一同が大声で笑った。格納庫《かくのうこ》に場違いな笑いの渦《うず》が満ち、こだました。
彼女自身、自分でもなにがおかしいのかよく分からなかった。緊張《きんちょう》につぐ緊張で神経がおかしくなっていたのかもしれない。腹を抱《かか》えて笑っているうちに、とうとうこらえきれなくなって涙《なみだ》があふれてきた。みんなに気取《けど》られたくなかったので、彼女は『解散《かいさん》です』とだけ告げて、その場から急いで立ち去った。
艦を去る人々に別れを告げられるくらいに落ち着くまで、それから三〇分くらいはかかった。
「艦長《かんちょう》?」
しばしの回想《かいそう》にふけっていたテッサに、マデューカスが声をかけた。
「え? あ、ごめんなさい」
われに返った彼女の顔――長い作戦で疲《つか》れきった彼女の顔を、マデューカスは注意深い目で観察《かんさつ》した。
「…………。いま申し上げた通り、私が心配しているのはあなたの疲労《ひろう》です。こういう状況《じょうきょう》で付いてきてくれる部下たちに、必要以上の責任を感じていませんか?」
「どういう意味です?」
「思いつめすぎるのは心身《しんしん》によくありません。本来なら、あなたには一か月くらいはどこかの観光地でのんびりしてもらった方がいいとさえ私は感じています」
「できるわけがないでしょう?」
自嘲気味《じちょうぎみ》に言ったが、マデューカスは笑わなかった。
「そこです」
「?」
「前のあなたなら、もう少しウィットの利《き》いた返事をしたことでしょう。『ではみんなでどこぞの島を占領《せんりょう》して、しばらくのんびりと過ごそうか』、だとか……。いえ、私はそういう冗談《じょうだん》の才能がないので、うまく言えないのですが――少なくとも、ただ『できるわけがない』という返事にはならないはずです」
「…………」
「いまの貴女《あなた》にはユーモアが足りない。いろいろと思いつめている、精神が疲労していることの証拠《しょうこ》です」
マデューカスの言葉を、テッサはできるだけ冷静に吟味《ぎんみ》してみた。確かに彼の言うことは真《ま》っ当《とう》かもしれないが、だからといって現状《げんじょう》ではまともな休息など取れるわけがない。
それに――
そこではたと気付いた。
このマデューカス――堅物《かたぶつ》で真面目《まじめ》すぎるこの男に『あなたにはユーモアがない』と言われることの皮肉《ひにく》やおかしさに、なんで自分はすぐに気付かなかったのだろう? それこそ自分が疲れていることの証左《しょうさ》なのではないのか?
「そうね……」
テッサは力なく答えた。
「覚えておきます。でも、いまはとにかくこれからの相談《そうだん》よ」
「はい」
そう答えるマデューカスの声には、どこか苦々しいものが混じっていた。
ふたたび歩き出す。艦内の状況説明室に着くと、室内にベン・クルーゾーとメリッサ・マオ、それからクルツ・ウェーバーが待っていた。
陸戦ユニットの指揮官だったカリーニンがいなくなったため、その後任《こうにん》はクルーゾーになっていた。キャステロなどの将校《しょうこう》も失ったので、彼の仕事はマオが引き継《つ》いでいる。
それから最近では、クルツにも様々な役割をこなしてもらうことになった。以前にマオがこなしていたSRTのサブリーダー役、それから下士官《かしかん》・兵の取りまとめ役だ。もっともSRTの人員は大半が戦死したり負傷したりで、実質《じっしつ》ほとんど稼動《かどう》していないのだが。
<ミスリル> が壊滅《かいめつ》した以上、そこでの階級ももはや形骸化《けいがいか》したも同然だったが、指揮権をはっきりさせるためにテッサは階級の概念《がいねん》を残すことにした。クルーゾーは大尉《たいい》扱《あつか》いに昇格《しょうかく》させ、マオも中尉ということになっている。
クルツは曹長《そうちょう》扱いだ。彼の昇格をテッサに推薦《すいせん》したのは、クルツと犬猿《けんえん》の仲だと思われていたクルーゾーだった。
テッサはそのとき『彼にやれると思います?』とクルーゾーにたずねたが、彼は『奴《やつ》なら、まあやれるでしょう。場数も技能もトップクラスですし、ああ見えてよく気が回ります。マッカラン大尉も認めていた節《ふし》がありますし。不本意《ふほんい》なことではありますが』と不愉快《ふゆかい》そうに答えた。
クルツ本人は『ウェーバー曹長』というのがなかなか気に入っているらしく、兵たちにも『曹長どのと呼べ』だのと言ってはしゃいでいる。もっとも、周囲の兵たちはイヤミたっぷりに、
『ウェーバー曹長どの。前に貸《か》した一〇ドル、はやく返せバカ』
だとか、
『ウェーバー曹長どの。ヒマだったらジャガイモの皮むき手伝えボケ』
だとか、好き放題《ほうだい》に言っているだけだった。
典型的《てんけいてき》な先任下士官とは少々|違《ちが》うやり方だが、それでうまく回っているのはクルツ個人の人懐《ひとなつ》っこさと社交性のおかげだろう。実際、クルツは兵の間で起きたいくつかのトラブルをどれも問題なく収めていた。軽口は相変《あいか》わらずだったが、前ほど好き勝手な茶々《ちゃちゃ》は入れなくなっている。経験不足の兵の相談相手もしているようだ。
クルーゾーもマオも前から気付いていたようだったが、クルツにはリーダーとしての素質《そしつ》もあったのだ。もっとも、それはテッサのような、より大きな責任を預《あず》かる将校としてのそれとは質の異《こと》なるものだ。言ってみれば、野球やバスケのチームにおけるキャプテンのそれに近い。
ちなみにメリダ島での戦闘《せんとう》で負傷したヤン・ジュンギュやサンダラプタらSRTの生き残りは、艦《ふね》に残って療養《りょうよう》に努め回復し、いまはリハビリと基礎《きそ》トレーニングに励《はげ》んでいるところだった。
いまの <デ・ダナン> の状況は、おおむねこんな形になっている。
最大の懸案《けんあん》だった補給物資《ほきゅうぶっし》の問題は、思いもよらない形で解決《かいけつ》していた。
だれなのかは分からなかったが、インドネシアの近海――だれにも知られていないような小さな孤島《ことう》に、補給物資が備蓄《びちく》してあるという情報を、『ダーナ』に入力しておいた者がいたのだ。メリダ島を脱出《だっしゅつ》した一日後に、ダーナがそれを報告してきた。
もちろんだれかの罠《わな》かもしれない。だが、ほかにあてもない。警戒《けいかい》しながらもその情報が示す座標《ざひょう》に向かった <デ・ダナン> を待っていたのは、孤島に放置《ほうち》されたコンテナ数十個にも及《およ》ぶ弾薬《だんやく》や燃料、食料や部品類だった。
いまだにその補給物資を用意したのがだれなのかははっきりしていなかったが、テッサもマデューカスも漠然《ばくぜん》とそれを感じてはいた。
こういうことができる人間は限られている。<ミスリル> とは別の様々《さまざま》な裏ルートを持っていて、ひどく慎重《しんちょう》で、先見《せんけん》の明《めい》があり、かつ <デ・ダナン> が必要とする物資を正確に把握《はあく》できた者。
アンドレイ・カリーニン以外には考えられなかった。
その時点までで十中八九、彼は死んだものだと思われていた。だがそうだとしても、彼がどうしてここまで周到《しゅうとう》な準備《じゅんび》を――しかもテッサたちにまで気付かれないように用意していたのかは、いまでも謎《なぞ》のままだった。
「お待たせしました」
状況説明室で待っていたクルーゾー、マオ、クルツの三人にテッサは告げた。立ち上がろうとするクルーゾーを手で『そのまま』と制《せい》して、自身はさっさと椅子《いす》に腰掛《こしか》ける。
「思ったより潮《しお》の流れが速くて、時間がかかってしまいました。すみませんでしたね」
「いえ」
腰を落としてクルーゾーが答える。
「それで。ファウラーを捕《と》らえ損《そこ》ねた上での、これからの我々の行動の指針《ししん》についてでしたが……」
「ええ。残念ながら、レナード・テスタロッサの尻尾《しっぽ》をつかむには至りませんでした。別のルートからどうにか探すしかないわけですけど……」
自分の兄の名を、まるで赤の他人のように口に出すテッサの態度《たいど》にも、その場の面子《メンツ》はもう慣《な》れていた。彼女の兄が <アマルガム> の幹部《かんぶ》として活動していることや、技術的な面で組織に多大な貢献《こうけん》をしていることは、すでにこの場の面々には話してある。
「それについても、まったく当てがないわけではありません。こういう場合のために、基地要員の大半を陸《おか》に派遣《はけん》しておいたんですから。彼らはこの数か月で、それなりの情報|網《もう》を構築《こうちく》しつつあります」
メリダ島を脱出した際に乗せたほとんどの基地要員は、すでにこの艦を降りていた。世界中の各地に送り込み、それぞれに得意な分野で活動をさせている。物資の買い付け、その予算の捻出《ねんしゅつ》、補給の段取《だんど》り、その護衛《ごえい》。
もちろん情報収集と <ミスリル> 残党《ざんとう》の探索《たんさく》と接触《せっしょく》もやらせている。
それら味方の連絡手段《れんらくしゅだん》と守秘《しゅひ》手段を整備するために、テッサたちは一か月以上の準備期間を費《つい》やしていた。
マオが言った。
「だからといって、敵の居場所を簡単につかめるわけでもないでしょ? 本職のスパイってわけでもないし」
「ええ。ですから陸《おか》に派遣した人たちには、<ミスリル> の生き残りと接触することを優先にするよう命じてます。……たとえは、サガラさんもどこかでわたしたちと同じことを探していることでしょうから。彼のような人と接触さえできれば、なにか糸口はつかめるはずですし」
相良宗介の名前を口に出すと、マオたちはほんの少しだけしんみりとした様子になった。
「ソースケねえ……」
と、マオ。
「生きてるかどうかも分かりませんが」
と、クルーゾー。
「はっ。あいつがそんな簡単にくたばるとは思えないけどな」
と、クルツは妙《みょう》に自信たっぷりにつぶやき、それからふっとため息をついた。
「……だとしても、だ。そろそろはっきりさせて欲《ほ》しいんだけどね、テッサ」
「なにをですか?」
「そこまで兄貴にこだわる理由さ。単純に肉親だからとか、幹部だからとか、そういう理由じゃ納得《なっとく》できないんだけど。もっと別の理由があるんじゃないのか?」
「ウェーバー」
歯に衣《きぬ》着せぬクルツの物言《ものい》いを、クルーゾーが横からたしなめた。
「いいんです、クルーゾーさん」
「しかし……」
「そろそろ潮時だとは思ってましたから。わたしにも確信が持てないでいたから、これまで曖昧《あいまい》にしてきたことですが、ここでは話しておきます」
実際、この考えはまだ誰《だれ》にも話していないことだった。なぜ自分はレナードを標的《ひょうてき》にしているのか? なぜ執拗《しつよう》に彼を追おうとしているのか? どこまで話していいのか分からなかったので、これまであえて伏《ふ》せてきたことを、彼女は最も信頼《しんらい》できる四人の部下たちに説明することにした。
「 <アマルガム> は非常《ひじょう》にタフな組織です」
言葉を選びながらテッサは言った。
「組織の構造《こうぞう》が <|ミスリル《われわれ》> のようなピラミッド型ではなくて、クモの巣《す》型の非常に複雑《ふくざつ》な指揮|系統《けいとう》になっているからです。もちろんその中にも幹部はいます。この場合の幹部というのは、ネットで言うところの『ノード』のようなものだと思っておいていいでしょう。それも『高機能のノード』です。でも、その幹部を見つけて無力化《むりょくか》しても、組織へのダメージは微々《びび》たるものにしかなりません」
「どうしてだよ? 指揮系統が混乱《こんらん》したりしないのか?」
きょとんとしてクルツが言うと、マオがぼそりとつぶやいた。
「スケールフリーのネットワークってわけね。ほかのハブがそれを代替《だいたい》する、と」
「そういうことです。ご存知《ぞんじ》でしょうけど、もともとインターネットは、ソ連からの全面|核攻撃《かくこうげき》から指揮系統を全米の各所に分散《ぶんさん》させ生き残らせるために生まれたシステムです。<アマルガム> はこのシステムの概念《がいねん》を取り込んだ、風変《ふうが》わりな秘密結社《ひみつけっしゃ》といったところです。組織の有力者はもちろんいますけど、本当の意味での『ピラミッドの頂点《ちょうてん》』は存在しません。だれもが意思決定能力《いしけっていのうりょく》の一翼《いちよく》を担《にな》っていて、誰もが実力|行使《こうし》の矛《ほこ》にもなっているんです」
「いやはや、民主的ですな」
マデューカスが皮肉《ひにく》っぽくぼやいた。
「民主的です。だから、意思決定は遅《おそ》い。でも圧倒的《あっとうてき》に強靭《きょうじん》で壊《こわ》れにくい。そういう厄介《やっかい》な組織です」
「えーと? つまり? すまん、俺、マジでよく意味がわかんねーんだけど」
顔をしかめてクルツが言うと、クルーゾーがすこし躊躇《ちゅうちょ》してから、こう告げた。
「ゲームやアニメにたとえれば、そいつを倒《たお》せば話が完結《かんけつ》するようなボスキャラがいない、ということだ」
「ははあ……」
「中ボスはたくさんいる。それこそだれも把握《はあく》できないほどにな。だがそいつらを退治《たいじ》している間に、ほかの中ボスが有機的《ゆうきてき》に働いて組織を補完《ほかん》してしまう。永遠に終わらないモグラ叩《たた》きのようなものだ」
「なるほど。……って、おいおい! そんな連中とどうやって戦うってんだよ?」
クルツの声はほとんど悲鳴に近かった。
「一見、無敵《むてき》に見えるでしょう。非常にタフで低エントロピーだとは思います。でも、不滅《ふめつ》なわけではありません」
テッサが言った。
「わたしは『勝算はある』と前に言いましたね。その間題については、クリスマスの事件の後から気付いていました。ボーダ提督《ていとく》にもレポートは送っていましたし。提督も真剣《しんけん》に受け止めてくださっていたとは思いますけど、対応《たいおう》を考える前に彼は作戦本部ごと殲滅《せんめつ》されてしまった……。でも、<アマルガム> の弱点について考察《こうさつ》していたレポートの作成者――つまりわたしは生きています。こうした種類の組織《システム》が抱《かか》える弱点は、生物学的、情報|工学的《こうがくてき》にはっきりしてるんです」
「どういうことだ?」
「なるほど、ウイルスね」
思慮《しりょ》深げにマオが言った。
「その通り」
テッサは微笑を浮《う》かべた。
「組織を完全に激減することはできないかもしれません。でも、ほとんど死んだも同然の状態《じょうたい》まで無力化《むりょくか》することはできます。もう立ち直れないくらいまで。わたしの考えている『勝算』というのは、そういうことです」
「ですが、大佐殿《たいさどの》――」
クルーゾーが言った。
「――相手はコンピュータでも生物でもありません。なんらかの手段でコミュニケーションをとっている人間の集団です。その特質もまったく把握できていない。ウイルス的ななにかを用意したくても、具体的《ぐたいてき》になにをどうすればいいのか、自分には想像もつかないのですが」
「そうですね。わたしもです」
「では、どうやって……」
「わたしの知る限り、そうしたウイルス的ななにかを発案《はつあん》し、実際に準備できるような天才――しかもそれが実現できるほど組織内に深く入り込んで内情を把握できているような人間は一人しかいません。……これでもうわかりましたね?」
「それが兄貴ってことか」
クルツが言った。
「そういうことです。わたしは彼の性格と能力をよく知っています。彼ならもちろん思いつくだろうし、なにかのために用意しておくでしょう。他の幹部も気付かないように。ですから、わたしたちがするべきことは <アマルガム> の関連|施設《しせつ》をしらみつぶしに襲《おそ》ったり、彼らの機体の生産工場を破壊《はかい》したりすることではありません。レナード・テスタロッサを生きたまま拘束《こうそく》して、あらゆる手段を使ってでも[#「あらゆる手段を使ってでも」に傍点]、わたしたちに協力させることです」
「あらゆる手段、って……」
テッサはごく冷たい目のまま、淡々《たんたん》とうなずいた。
「あらゆる手段です。これ以上説明することはありませんね?」
「で、でもよ……」
「ありがとう。でもいいんです」
テッサが静かに微笑《ほほえ》むと、クルツは唇《くちびる》を引き結んで背筋をぶるりと震《ふる》わせた。クルーゾーとマオはなにか深刻なまなざしで彼女の横顔を見つめ、マデューカスは痛ましげな表情でうつむいた。
「ファウラーは逃《に》がしましたけど、いくつか有用《ゆうよう》な情報は入っています。ダーナの分析《ぶんせき》も進んでいます。わたしはこのまま艦《ふね》を南に向かわせ、太平洋で待機させるつもりです。大西洋に向かわなければならないケースも出るかもしれませんけど、この艦の航行《こうこう》能力なら南米大陸を回ってもひどい時間はかからないでしょう。異存《いぞん》はありませんね?」
「はい、艦長《かんちょう》」
真っ先にマデューカスが言った。遅《おく》れて残りの三人も同意した。それからいくつかの相談をして、会議は終了《しゅうりょう》した。マデューカス、クルーゾー、クルツが部屋を出て行ってから、残ったマオがテッサに声をかけた。
「テッサ」
「はい?」
「だいじょぶ?」
マオのまなざしはごく真剣だった。
「ええ。どうして?」
「どうして……って。まあ、なんとなくそう思ったんだけど」
「さっきもマデューカスさんに心配されました。でも、大丈夫《だいじょうぶ》ですから」
テッサが微笑んでも、マオは笑わなかった。
「ならいいんだけど。せいぜい五時間くらいしかないけど。なんか食べて、それからちゃんと寝《ね》とくのよ?」
「ええ、そのつもりです」
「艦医のゴールドベリ先生も言ってるでしょ? 食欲があって――」
「はいはい! 食欲があって、ちゃんと寝れてる間は大丈夫だ、でしょ? その通りですから、心配しないで!」
テッサは無理やりあくびをしてみせてから、大きく伸《の》びをして状況説明室を立ち去った。
そのまままっすぐ艦長室に帰ると、デスクの上にクラブサンドと野菜ジュースのパックが置いてあった。調理室のカスヤ上等兵が置いていってくれたのだろう。
もう半日以上もなにも食べていなかった。
「……」
クラブサンドを一口かじり、無理《むり》やり喉《のど》に流しこむ。でも二口は無理だった。野菜ジュースだけはどうにか半分くらい飲むことができた。それからテッサはクラブサンドをバスルームの便器《べんき》に捨て、証拠隠滅《しょうこいんめつ》をはかる犯罪者のような気分で流してしまった。
シャワーを浴《あ》びようと思ったが、そういう気分にもなれなかった。照明《しょうめい》を消す。衣服をすべて脱《ぬ》ぎ捨て、ベッドの上で毛布《もうふ》にくるまって横になる。
一〇分が過ぎ、三〇分が過ぎ――
一時間がたって、ようやく彼女はあきらめた。
眠《ねむ》れないのだ。
むくりと半身を起こし、毛布をのろのろとたぐり寄せ、壁《かべ》に背中をあずけ、暗闇《くらやみ》の中でじっとうずくまる。
両目はずっと見開いたまま。
頭の中を渦巻《うずま》くのは、死んでいった部下たちの顔と名前。自分が死なせてしまった最高の男たち、女たち。
彼女はずっと無言《むごん》のまま、反対側の壁の一点を見つめていた。
[#改ページ]
3:フロント・トワード・エネミー
全身の筋肉《きんにく》が悲鳴《ひめい》をあげている。
つらい。苦しい。
足が重い。吐《は》きたい。
あごがあがる。はげしい呼吸《こきゅう》で肋骨《ろっこつ》が痛い。のどが渇《かわ》く。ひどく渇く。
密林《みつりん》の湿《しめ》った空気がべったりと体にまとわりつく。大量《たいりょう》の汗《あせ》が噴《ふ》き出て流れ、一歩一歩を踏《ふ》み出すたびにジャングルブーツがべちゃべちゃと不快《ふかい》な音をたてる。背嚢《はいのう》のベルトが肩《かた》に食い込み、痛くて痛くてしかたない。立ち止まって両膝《りょうひざ》に手をつき、ほんの三〇秒でも休めないだろうか、と思う。どうせだれも見ていないのだから。さぼったところで文句《もんく》を言う者はいない。
「……っ」
宗介《そうすけ》は歯を食いしばって、小刻《こきざ》みに首を振《ふ》る。情けない。険《けわ》しい山道《やまみち》とはいえ、まだ六キロしか走っていないのに、この始末《しまつ》だ。
足を前へ。足を前へ。
太い木の根につまずいてよろめく。前のめりに倒《たお》れそうになったが、かろうじてバランスをとって踏みとどまる。そのまま立ち止まりたかったが、ぐっとこらえて動き続ける。考えるな。走れ。
ばくばくと心臓《しんぞう》がはげしく鳴《な》り、その鼓動《こどう》が首筋《くびすじ》から耳のあたりまで響《ひび》いてくる。視界《しかい》が狭《せば》まり、意識《いしき》が朦朧《もうろう》としてくる。
足を前へ。足を前へ。
戦いの基本《きほん》は? 兵隊《へいたい》の基本は? そう、走ることだ。
走れ。走れ。走れ。
走れない戦士《せんし》に勝利はない。極論《きょくろん》すれば、技能《ぎのう》も装備《そうび》も無関係《むかんけい》だ。敵よりも長く走れる者にだけ、戦いの女神《めがみ》は微笑《ほほえ》む。戦闘《せんとう》の極限《きょくげん》で優劣《ゆうれつ》を分けるのは、ごく単純《たんじゅん》な、それだけの差だ。自分がここまで生き延《の》びてきたのも『走れた』からだ。
余計《よけい》な考えがどんどん消えていく。
迷《まよ》いも疑問《ぎもん》も消える。過去《かこ》への後悔《こうかい》も、未来《みらい》への逡巡《しゅんじゅん》も消えていく。
前へ。前へ。前へ。
目印《めじるし》にしていたグロテスクな低木《ていぼく》にさしかかる。もうすぐ一〇キロ地点だ。きのうはたどり着けなかった距離《きょり》を、きょうはもう通り過《す》ぎようとしている。
全身の苦しさは相変《あいか》わらずだ。
だが、明日はもっと先へと走れるだろう。
「まだ動くつもりなのか。いやはや、まったく……」
キャンプに戻《もど》ってくるなり柔軟体操《じゅうなんたいそう》を始め、ろくな休憩《きゅうけい》もとらずにアスレチックのフィールドへと向かっていく宗介の後ろ姿《すがた》を眺《なが》め、ミシェル・レモンはつぶやいた。
ここは北米《ほくべい》・フロリダ州北部の湿地帯《しっちたい》だ。
いちばん近いテイラー町でもここから数十キロ離《はな》れており、原始《げんし》の時代からほとんど人の手が入っていない地である。やってくるのは変わり者の狩猟者《しゅりょうしゃ》か、どこかの学術調査員《がくじゅつちょうさいん》くらいのもので、そうした物好《ものず》きな連中《れんちゅう》でさえ、年に数えるほどしか訪《おとず》れない。ルートは陸路《りくろ》一本のみ。この辺鄙《へんぴ》な土地に来る者は、必ずテイラーの町を経由《けいゆ》しなければならず――つまり宗介を狙《ねら》ってやってくる者がいれば、町の人々がすぐにレモンたちに無線《むせん》で警告《けいこく》を送ってくれるという寸法《すんぽう》だった。
ヒバオア島での襲撃《しゅうげき》で、レモンは自身の諜報組織《ちょうほうそしき》・DGSEにすら <アマルガム> の情報|網《もう》が食い込んでいることを身をもって思い知らされた。そうでなければ、宗介の所在《しょざい》が漏《も》れるはずがなかったのだ。
[#挿絵(img/09_137.jpg)入る]
フランス本国に連《つ》れ帰ることも考えたが、現状《げんじょう》を考えるとむしろそれは危険だ。それに宗介の身柄《みがら》は、上層部《じょうそうぶ》の判断《はんだん》で自分の元から引き離されてしまうだろう。当然、きびしく尋問《じんもん》されるだろうし、それではむしろ宗介からの協力が得《え》られなくなる。あの襲撃《しゅうげき》は明らかに <アマルガム> からの敵対行為《てきたいこうい》だ。自国と組織《そしき》の一部は <アマルガム> を懐柔《かいじゅう》できると考えているようだったが、それが可能《かのう》だとはレモンには思えなかった。
だから彼は、ごく信頼《しんらい》できる部下だけを伴《ともな》って、宗介を独自《どくじ》に別の場所へと移送《いそう》することにした。直接《ちょくせつ》の上司《じょうし》であったデルクールが死んでしまったため、かなりの裁量権《さいりょうけん》がレモンに委《ゆだ》ねられていたが、この判断《はんだん》は組織内での自分の立場を危《あや》うくするものだ。なにしろ重要《じゅうよう》な情報源を独断《どくだん》で隠《かく》してしまうのだから、上層部がこれを面白《おもしろ》く思うわけがない。言ってみれば、レモンたちは宗介と一緒《いっしょ》に逃亡者《とうぼうしゃ》になっているようなものだ。
(かまうものか)
そうレモンは思っていた。
もちろん自分は祖国《そこく》の国益《こくえき》のために働いているし、いまもそうしているつもりだ。宗介をみすみす敵の手に渡《わた》してしまうことや――頭でっかちな本部の情報|担当者《たんとうしゃ》にくれてやることの方が、むしろ国を売り渡してしまうことにつながるのではないか? それほどまでに <アマルガム> という組織は危険で、その影響力《えいきょうりょく》は根が深いものだと、彼はこの数か月の出来事《できごと》で感じていた。
まずは宗介を回復《かいふく》させる。
本来《ほんらい》の力を取り戻せば、彼は護衛《ごえい》など必要ないくらいの戦士になるだろう。そうすれば自分たちも今よりはるかに動きやすくなるし、宗介との共闘《きょうとう》関係を築《きず》くことで、<アマルガム> という組織の中枢《ちゅうすう》にすこしでも近づくことができる。ひいては、敵の脅威《きょうい》から祖国を遠ざけることにもつながる。
このキャンプに来る前、レモンは自分のこうした考えを宗介に語って聞かせた上で、協力するよう申《もう》し入れた。宗介はすこし考えてからうなずき、
(いいだろう。だが、それだけなのか?)
と言った。
合理的《ごうりてき》な理由《りゆう》以外に、レモンの <アマルガム> に対するこだわりのようなものを感じたのだろう。もっともな話だった。ごく『官僚的《かんりょうてき》な』エージェントならば、こんな厄介《やっかい》な重要《じゅうよう》人物など、さっさと本部のだれかに押《お》しつけて、自分は別の任務《にんむ》に移《うつ》りたがっているところだ。
レモンはぼんやりとした口調《くちょう》で答えた。
(復讐《ふくしゅう》……といったら変な話になるだろうけどね。まあ、そんな気分《きぶん》はあるよ)
(そうか。わかった)
それだけで宗介は納得《なっとく》し、二度とレモンの動機《どうき》について詮索《せんさく》はしてこなかった。
<ミスリル> や <アマルガム> についての情報、そしてなぜ宗介が敵に狙われたのかなどの事情については、宗介がある程度《ていど》回復《かいふく》したときに教えられる約束《やくそく》になっていた。
問題はそれからの潜伏先《せんぷくさき》だった。
レモンはいくつか個人的なコネを当たってみたが、どれも安全とは言いがたい場所や環境《かんきょう》ばかりだった。困《こま》っていたところ、宗介自身がレモンに提案《ていあん》した。
(力を貸《か》してくれそうな人物なら心当《こころあ》たりがある)
と。
その人物――元アメリカ海兵隊員《かいへいたいいん》のジョン・ジョージ・コートニーが提供《ていきょう》してくれたのが、この僻地《へきち》の無人《むじん》キャンプだった。
いまも宗介は無言《むごん》でフィールドの中を飛んだり跳《は》ねたり、よじ登ったり駆《か》け下りたりしている。その様子《ようす》を黙《だま》って見ていたレモンのかたわらに、問題の初老《しょろう》の人物――コートニーがやってきた。年齢《ねんれい》相応の皺《しわ》は刻《きざ》まれているものの、背筋《せすじ》はぴしりと伸《の》び、動作の一つ一つが力強い。見るからに古強者《ふるつわもの》といった風貌《ふうぼう》で、色あせたオリーブ色の野戦服《やせんふく》をいまも見事《みごと》に着こなしている。
「やっとるようだな」
「ええ。無茶《むちゃ》にもほどがあります」
レモンの言葉に、コートニーはふんと鼻を鳴らした。
「だが、あの若いのには無茶を通すだけのものがある。それが分かるかな?」
「戦う意志《いし》とか、目的とかですか」
「もっとシンプルだ。ただのファッキン[#「ファッキン」に傍点]・ガッツ[#「ガッツ」に傍点]だよ」
その老人は豊かな口ひげを指先で撫《な》でてから、つぶやいた。
「ガッツ、ですか……」
「ちがう。ファッキン・ガッツだ」
コートニーは訂正《ていせい》した。
「どう違《ちが》うんですか」
「なんと、分からんのか? だとしたらおまえさんはどうしようもないファッキン・イディオットだ! まあ鼻持ちならないファッキン・フレンチ野郎《やろう》にしてはファッキン・イングリッシュが話せるだけ、まだ見所《みどころ》があるがな!」
「はあ」
なにかにつけて下品《げひん》なF言葉を連発《れんぱつ》するこのコートニー退役中佐《たいえきちゅうさ》は六〇過《す》ぎのアメリカ人で、ベトナム帰りだという。この土地とこのキャンプを用意し、テイラーの町の人々を味方《みかた》につけたのもすべて彼の尽力《じんりょく》によるものだ。
このキャンプは、その昔、アメリカ陸軍《りくぐん》と海兵隊がベトナム戦争でゲリラ戦に悩《なや》まされていたころ、密林《みつりん》や湿地帯での戦闘を教練《きょうれん》するために使われていた施設《しせつ》だったのだという。『突撃《チャージング》チャーリー』とかいう異名《いみょう》で知られた陸軍の将校《しょうこう》が、正規戦《せいきせん》しか学んでいない若い兵士たちにベトナムの地獄《じごく》を体験《たいけん》させるために作り上げた。コートニーはその訓練|課程《かてい》の一期生《いっきせい》だったそうだ。そのキャンプのしごきは猛烈《もうれつ》で、朝は爆弾《ばくだん》で叩《たた》き起こされ、ベトコン風の衣装《いしょう》を着た教官たちにこづき回され、毎日|寝《ね》る間もろくにないままフィールドを這《は》い回ったという。余談《よだん》だが、そのチャーリー某《なにがし》はのちに陸軍で『デルタ・フォース』という名の特殊部隊《とくしゅぶたい》を創設《そうせつ》している。
そうした、いわくつきのキャンプの跡地《あとち》で宗介はリハビリのトレーニングを続けているのだった。
だがコートニーと宗介とは、今年の初頭《しょとう》に一度、彼の『上官』を通じて酒席《しゅせき》を共にしただけの間柄《あいだがら》だとのことだ。たったそれだけの関係なのに、その老兵《ろうへい》がここまで念入《ねんい》りな段取《だんど》りを整《ととの》えてくれたことを不審《ふしん》に思ったレモンは、最初にコートニーにその理由をたずねてみた。
すると彼は、
(わしら仲間のかわいい娘《むすめ》が選んだ男だからのう……)
と寂《さび》しげにつぶやくばかりだった。
なにやら妙《みょう》な事情がありそうだったが、不機嫌《ふきげん》になられても面倒《めんどう》くさいのでそれ以上レモンは詮索《せんさく》しなかった。
そんなわけで、すべてをお膳立《ぜんだ》てしてくれたのはこの初老の男なわけなのだが――
「ですがコートニーさん。訓練というものには然《しか》るべきセオリーというものがあります」
宗介の無茶を『根性《こんじょう》』の一言《ひとこと》で片づけてしまうコートニー退役中佐《たいえきちゅうさ》に、レモンは異論《いろん》を唱《とな》えた。
「彼がやっているのは明らかなオーバーワークだ。運動|生理学《せいりがく》的に間違《まちが》っています。あれでは充分《じゅうぶん》な筋肉《きんにく》は付かない。むしろやせ細ってしまうし、いずれ限界《げんかい》を通り越《こ》して倒れてしまうはずです。あなたからもソースケに言ってやってくれませんか」
するとコートニーは胸ポケットから、吸《す》いかけの葉巻《はまき》を取り出してくわえ、続いてマッチを糊《のり》のきいた野戦服《やせんふく》の袖《そで》にこすりつけ、見事《みごと》な手つきで着火《ちゃっか》した。返事を待っているレモンの眼前《がんぜん》で葉巻の先端《せんたん》に火をつけて、何度か口をもごもごとさせ、うまそうに煙《けむり》を吐《は》き出す。
「あの、聞いてます?」
二口目の煙を吸《す》ってから、老兵はやっと彼を見て言った。
「もちろん聞いとる。運動生理学だな?」
「ええ」
「よかろう。わしから奴《やつ》に助言《じょげん》してやる」
そう言ってコートニーは一歩前に出た。作りつけの粗末《そまつ》なフィールドで、汗《あせ》だくになって地面に突《つ》き立った丸太を上り下りしている宗介へと声を張《は》り上げる。
「軍曹《サージ》!」
「サー!」
息も荒《あら》いまま、宗介が答えた。
「ペースが落ちとるぞ! まったく、男あさりに保養地《ほようち》にきた、ろくでなしのお嬢《じょう》さんどもみたいにみっともなくケツを振《ふ》りおって! ひょっとしてそのケツでわしを誘惑《ゆうわく》しとるつもりか!?」
「ノー・サー!」
「本当はやる気がないんだろう!? がんばってるフリしてるだけだ!」
「ノー・サー!」
「だったら気合《きあ》いを入れんか! 惚《ほ》れた女のアレに貴様《きさま》の腐《くさ》れマラをつっこんだつもりで――動け! 動け! クソ動け!」
「イェッサー!」
ほとんどうなるような声をあげ、宗介は全身にむち打って丸太を上っていく。『そうだ、苦しめ! のたうち回れ!』だのと罵声《ばせい》を浴《あ》びせるコートニー中佐に、レモンはうんざりした顔で抗議《こうぎ》した。
「たきつけてどうするんですか!? 運動生理学のセオリーでは――」
「ファッキン・セオリーだ!」
老兵が目を剥《む》き、腰《こし》を抜《ぬ》かすような怒鳴《どな》り声を叩《たた》きつけてきた。思わずたじろいだレモンをにらみつけたまま、彼はもう一口葉巻を吸い込んで、顔が見えなくなるほど濃厚《のうこう》な煙を吐き出し、それから『かー、ぺっ』と特大《とくだい》の痰《たん》の塊《かたまり》を地面に吐き飛ばした。
「根性|論《ろん》は古い? 理学的な訓練方法? そういうのはな、クソ若いの。人間の生命力を舐《な》めてる連中《れんちゅう》の言うことだ」
「そっ……」
「作戦中に孤立無援《こりつむえん》!」
コートニーはぴしゃりと遮《さえぎ》った。
「周囲には敵だらけ! 捕《つか》まったところで命はない! 体力はとっくに限界《げんかい》! 水もメシも弾薬《だんやく》もない! どうする!?」
「…………」
「さあどうするね? おまえさんはどこぞの先生が決めた理論《りろん》に従《したが》い、医学的にこれ以上戦えないから、諦《あきら》めて自分のドタマに弾《たま》をブチ込むのか?」
「それは……」
「そこから先だ。すごいことが起きるのは、いつもそこから先なんだ。全能《ぜんのう》なる我《われ》らの神は、ちゃんとそこまで用意しておいてくださってる。いわば神が人間に与《あた》えたもうたスーパー・ファッキン・チャージャーだ」
コートニーはぐっと握《にぎ》り拳《こぶし》を作り、レモンの胸にあててぐるぐると回して見せた。
「これが動いたとたん、臆病者《おくびょうもの》が勇者になり、役立たずどもが精鋭部隊《せいえいぶたい》に早変わりする。いわんや、これだけの短期間で瀕死《ひんし》の怪我人《けがにん》を当たり前の兵隊に仕上《しあ》げるなら――これくらいの真似《まね》はしてもらわんとな」
むちゃくちゃだ、とレモンは顔をしかめるよりほかなかった。
適度《てきど》な運動と適度な休息《きゅうそく》。そして行き届《とど》いたバランスの食事。理想的《りそうてき》な体を作り上げるためには、それらが欠かせないことは科学的にはっきりしているのに。
「疑《うたが》っとるのか?」
「ええ、まあ」
「だったら証明してみせよう。おい、おまえ! そこのクソ若いの! こっちに来い!」
コートニーはキャンプの片隅《かたすみ》で銃器類《じゅうきるい》の整備《せいび》をしていた一人の兵士――レモンの部下の特殊部隊員《とくしゅぶたいいん》に声をかけた。その兵士は怪訝顔《けげんがお》で『俺ですか?』とばかりに自分を指さし、レモンたちのそばへと走ってきた。コートニーは彼の背中《せなか》を叩《たた》いてから宗介を指さし、こう告げた。
「あいつに気合いを入れてやれ。二、三発|殴《なぐ》って、地面に叩きつけるんだ。なあに、容赦《ようしゃ》はいらん。さあ行け!」
大柄《おおがら》で屈強《くっきょう》な兵士がレモンの顔色をうかがった。レモンはすこし考えてから、『言われた通りにしてみろ』と言うように短くうなずいて見せた。
「それじゃ、おおせの通りに……」
兵士は肩《かた》をすくめてから、フィールドの真ん中でぜいぜいとあえぐ宗介へと走っていった。腕《うで》をまくりながら『悪く思うなよ』と告《つ》げる声がこちらまで聞こえてくる。
「さあ、見てろ。目も覚《さ》めるような反撃《はんげき》をしてみせるぞ」
コートニーは葉巻をくわえたまま、自信たっぷりに腕組みした。
兵士が無造作《むぞうさ》に宗介を殴った。
二発。三発。
疲労《ひろう》の極《きわ》みにあえいでいた宗介はさしたる抵抗《ていこう》もできずによろめき、背負《せお》い投げを食らって泥《どろ》の中に背中から叩きつけられてしまった。仰向《あおむ》けになったまま動かない宗介の様子《ようす》をうかがっていた兵士が、申《もう》し訳《わけ》なさそうにレモンたちをふりかえって叫《さけ》ぶ。
「気絶《きぜつ》してます」
「…………」
あわてて宗介を介抱《かいほう》する兵士。レモンがため息をついてコートニーを見ると、彼は何事《なにごと》もなかったかのように葉巻の煙を吐き出しているところだった。
「まあ、こういうこともある」
老兵はしれっと言った。
「とにかく、男は甘《あま》やかしちゃいかん。それが肝要《かんよう》ってことだ」
「泥にまみれて、汗を流せば勝てるほど現代戦は甘くありませんよ」
「もちろんだ」
コートニーは葉巻を地面に捨《す》ててジャングルブーツの踵《かかと》で火種《ひだね》を踏《ふ》みつけた。
「だがな、若いの。泥や汗、血や涙《なみだ》にまみれたこともない男に、一体なにが出来《でき》るというんだね?」
日陰《ひかげ》のテラスのデッキチェアに腰《こし》かけ、日が昇《のぼ》っている間はずっと海を眺《なが》めているのが、千鳥《ちどり》かなめの日課《にっか》だった。
雨の日でさえ、そうしていた。
海に出かけることなど、それまでの人生で年に数回くらいしかなかったので、こうして何か月も同じ海を見続けたのは初《はじ》めての経験《けいけん》だ。
東京を離《はな》れたあと、いくつかの土地を転々《てんてん》としてから、最終的に連れてこられたのが、この海辺の邸宅《ていたく》だった。広大な敷地内《しきちない》をうろつくだけなら何の制限《せいげん》もない状態《じょうたい》だ。彼女をここに連れてきたレナード自身もそう告げ、邸宅で働く人々には何でも言いつけて構《かま》わないと言った。
(お姫《ひめ》さま扱《あつか》いに喜ぶとでも思ってるの?)
かなめがそう言うと、レナードは自嘲気味《じちょうぎみ》に肩をすくめるだけだった。
彼は邸宅に着《つ》いたその日のうちに、彼女を置いてどこかにヘリで飛んで行ってしまった。<アマルガム> の幹部《かんぶ》として、こなす仕事もいろいろとあるのだろう。週に一度くらいは戻《もど》ってくるが、それ以外はいつもどこかに出かけていた。
かつて彼女の唇《くちびる》を強引《ごういん》に奪《うば》い、はっきりと『好きだ』と言っていたにもかかわらず、レナードは彼女を無理《むり》に自分のものにしようとはしなかった。抱《だ》こうとするどころか、触《ふ》れようとさえしない。
あの『共振《きょうしん》』も使わない。
彼はただ大切に、彼女を閉じこめておくだけだ。まるで大事《だいじ》な宝石かなにかを、宝箱にでもしまっておくかのように。
それがかなめには意外だった。
偏執的《へんしゅうてき》な恋愛《れんあい》感情にとりつかれた若者が、なにかに固執《こしつ》しているような感じとも違《ちが》う。ただ『そこでそうしていろ』というだけの態度《たいど》だ。怪《あや》しい研究所にでも放《ほう》り込まれて体をいじり回されることもない。軟禁状態《なんきんじょうたい》だということを除《のぞ》けば、確《たし》かにかなめは自由だった。豪華《ごうか》なホテルのVIP客のような待遇《たいぐう》だ。
邸宅に住むようになって数週間が過《す》ぎたころ、レナードはたいして新しくもないノートPCを彼女に渡《わた》して、こう告げた。
(退屈《たいくつ》だったら、これをいじってみるといい)
ネットワーク機能《きのう》が削除《さくじょ》されたそのPCには、<アマルガム> が運用しているいくつかの超《ちょう》兵器の設計《せっけい》データと実戦《じっせん》データが入っていた。掛《か》け値《ね》なしの超重要機密《ちょうじゅうようきみつ》だ。
<コダール> タイプと <ベヘモス> タイプのラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》ASが数種類《すうしゅるい》。あいにくレナードが乗っていたあの <ベリアル> はなかった。
実戦データの中には、宗介の <アーバレスト> との戦闘《せんとう》もいくつか含《ふく》まれていた。
<コダール> タイプの操縦者《そうじゅうしゃ》は大勢《おおぜい》いたが、機体の性能《せいのう》をもっとも大きく引き出していたのは、やはり宗介と戦ったあのテロリスト――ガウルンだった。ラムダ・ドライバの機能を抜《ぬ》きにしても、常人離《じょうじんばな》れした勘《かん》と経験で機体を縦横無尽《じゅうおうむじん》に操《あやつ》って、敵機《てっき》――つまり <アーバレスト> を徹底的《てっていてき》に苦しめている。このガウルンと互角《ごかく》に渡り合っていた宗介の実力のすさまじさを、かなめは改《あらた》めて思い知らされた。
マオやクルツの機体とおぼしきM9との戦闘データもあったが、こちらも普通《ふつう》ならばM9が完全に撃破《げきは》されて搭乗者《とうじょうしゃ》は死亡しているような状況《じょうきょう》ばかりだった。通常型《つうじょうがた》ASが|L D《ラムダ・ドライバ》搭載型ASと交戦《こうせん》して、あの程度《ていど》の損害《そんがい》で済んでいることの方が異様《いよう》なのだ。戦闘データを見れば見るほど、宗介たちのしぶとさ、抜け目のなさがひしひしと伝わってきた。
逆に見れば――つまり <アマルガム> の側から見れば――これほど苛立《いらだ》たしい状況はないだろう。
ハードウェアでの絶対的《ぜったいてき》な優位《ゆうい》は確保《かくほ》しているのに、この敵たちは決して屈服《くっぷく》しようとしない。経験《けいけん》と工夫《くふう》、柔軟性《じゅうなんせい》と野性的《やせいてき》な勘《かん》を総動員《そうどういん》して、あくまでも抵抗《ていこう》し続け、ついにはこちらの隙《すき》をひねり出した挙《あ》げ句《く》に、その機《き》を逃《のが》さず致命的《ちめいてき》な反撃《はんげき》を繰《く》り出してくるのだ。これが『腕前《うでまえ》の差』というものなのかもしれない。マオやクルツたちは、あの通り人間味にあふれる普通の若者でもあったが、同時にぞっとするほど磨《みが》き抜かれた戦闘マシンでもある。その事実を、スクリーン上の客観的《きゃっかんてき》な数値《すうち》が示《しめ》していた。
レナードがかつて言っていた「 <ミスリル> は頑張《がんば》りすぎた」という言葉の意味も、それらのデータを見たかなめにはおぼろげに察《さっ》することができた。
<アマルガム> は宗介たちに脅威《きょうい》を感じたのだ。
<コダール> や <ベヘモス> の設計データにもざっと目を通した。かなめのいまの知能は、たやすくその問題点を発見してしまった。見たところ基本的《きほんてき》な部分はレナードが手を貸《か》しているものの、多くの部分は一般《いっぱん》の技術者が手がけているようだった。
<アマルガム> のラムダ・ドライバ搭載型ASは、搭乗者に薬物を投与《とうよ》することで装置《そうち》を起動《きどう》させていた。ある種の『静的《せいてき》な興奮《こうふん》状態』を作り出し、脳内《のうない》に特有《とくゆう》の電気パターンを生み出している。それがTAROSと呼ばれるインターフェイスを介《かい》して転移《てんい》され、機体がその『力』を増幅《ぞうふく》しているのだ。設計データだけでは断言《だんげん》できなかったが、<アマルガム> が操縦者たちに使っている薬物にも改良《かいりょう》が加えられているようだった。一年近く前に出会ったあの少年―― <ベヘモス> の操縦者タクマのような不安定さが、戦闘データからは見られない。いまの <コダール> 搭乗者は、タクマのころほどの情緒的《じょうちょてき》な障害《しょうがい》は受けていないかもしれなかった。
<コダール> のラムダ・ドライバの原理《げんり》そのものは、おそらくあの <アーバレスト> と同じだったが、宗介は薬物を摂取《せっしゅ》していない。時として宗介と <アーバレスト> が劇的《げきてき》な戦闘力を発揮《はっき》したのは、薬物投与では再現できない精神状態――おそらくは鍛《きた》え抜かれた戦士だけが生み出すことのできる集中力と強い意志《いし》に、ある種の高揚感《こうようかん》がプラスされたためだろう。
<アーバレスト> は不安定だが、条件《じょうけん》さえ揃《そろ》えば圧倒的《あっとうてき》な強さを持っていた。<コダール> タイプは安定した機能が発揮でき、また量産《りょうさん》も限定的《げんていてき》ながら可能な仕様《しよう》になっている。だが <アーバレスト> のような瞬間的《しゅんかんてき》な強さは発揮できない。言ってみるなら、<コダール> は通常型ASを駆逐《くちく》するための機体であり、<アーバレスト> はLD搭載型ASと戦うために設計された機体だ。この差が戦闘データにはよく出ている。
奇妙《きみょう》な言い方ではあるが、<コダール> も <ベヘモス> もごく常識的な発想[#「常識的な発想」に傍点]の機体《きたい》なのだ。しかしその常識がこの機体群の設計の枷《かせ》になっている。敵機がラムダ・ドライバを使ってくることは想定《そうてい》されていないし、その機能のために犠牲《ぎせい》にしている部分も多い。さらに防壁《ぼうへき》の常時展開《じょうじてんかい》は困難《こんなん》なので、ラムダ・ドライバという装置のことをよく知った敵がいれば――それはつまりテッサたちのことだったが――通常型ASでも撃破《げきは》することは不可能ではない。
超自然的な力場発生装置《りきばはっせいそうち》だからといっても無敵《むてき》ではないのだ。
かなめの見立てでは、ラムダ・ドライバ搭載型ASと通常型の第三世代型ASの『戦力|比率《ひりつ》』は、同じ腕の操縦兵だと仮定《かてい》して八対一くらいだった。しかるべき対策《たいさく》を練《ね》っている八機のM9があれば、<コダール> 一機を倒すことは可能だろう。もちろんM9側も相応《そうおう》の犠牲を払《はら》うことにはなるだろうし、実際の戦術《せんじゅつ》はもっと複雑《ふくざつ》で有機的《ゆうきてき》なものだろうが、単純化《たんじゅんか》すればそういうことになる。
現代戦における戦車《せんしゃ》と対戦車ヘリの戦力比率は、極端《きょくたん》な例では一六対一と言われている。これに比《くら》べればラムダ・ドライバ搭載型ASの存在《そんざい》は、実は人々が憂慮《ゆうりょ》しているほど劇的な変革《へんかく》ではない。科学史《かがくし》からみれば大変なことかもしれないが、軍事史《ぐんじし》の上では火砲《かほう》や通信システム、大陸間弾道《たいりくかんだんどう》ミサイルの誕生《たんじょう》の方がよほど大きな出来事《できごと》とさえいえる。
そこまで気付いている人間が、果たしてどれほどこの世界にいるのか? おそらくはごく一握《ひとにぎ》り――それこそ彼と自分とテッサ、あとは何人いるかも分からないご同類《どうるい》くらいのものだろう。実戦を経験しているマオたちのような人間も、いずれは気付くことになるかもしれない。
ノートPCに収まったデータを見て、かなめはそこまで理解《りかい》した。
レナードはその事実を彼女に理解させたかったのだろう。そして、その上で彼女にこうたずねているのだ。
『じゃあ、このラムダ・ドライバというくだらない装置をどう使う? 君ならこの機体をどう直す?』
――と。
とりあえず、かなめは <コダール> タイプの頭部から伸《の》びる放熱索《ほうねつさく》を二本に増やして、三つ編《あ》みにしてリボンをかける案《あん》を作成してデータを渡《わた》してやった。
(君の友達なら無事だよ)
常盤《ときわ》恭子《きょうこ》のことだ。レナードはそう告げてから『やり直してみて』と、笑いながらデータを彼女に返してきた。
それ以来《いらい》、かなめはたまに思いつくままいじった設計案をレナードの部下に手渡すようになっていた。設計案といっても、スケッチのようなものだ。それも大して実用性《じつようせい》のない、レナードに向けた皮肉《ひにく》のような内容ばかりだった。わざと数値に間違いを混《ま》ぜておいて、矛盾《むじゅん》したスペックが出るように仕掛《しか》けておくこともした。普通の技術者なら気付くのは難《むずか》しいような巧妙《こうみょう》な罠《わな》である。勝手《かって》に腕《うで》を試《ため》されてばかりでは不愉快《ふゆかい》なので、向こうの観察眼《かんさつがん》も試してやったのだ。もちろんレナードはその意図《いと》に気付いて、間違いの箇所《かしょ》をつついて見せてから、肩《かた》をすくめて部屋を出ていくだけだった。
いつまでこの邸宅《ていたく》でこうしているのか。
かなめになにを求めているのか。
レナードは多くを語らなかった。ただ組織を運営するだけではなく、なにかもっと大きな目的に向けて準備《じゅんび》を進めているような印象《いんしょう》は感じていた。おそらく、その時がくるまで自分をここにとどめ置くつもりなのだ。
東京での生活を失い、なにもかも捨《す》て鉢《ばち》な気分になっていたかなめには、それ以上の詮索《せんさく》をする気力はまったくなかった。
どうとでもなれ。そう思っていた。
怒《おこ》ることや笑うことなど、もう思い出せない。こうやって見知らぬ邸宅で暮らしているうちに、おばさんになって、おばあさんになって、いつのまにか死んでしまう。それでいいと思っていた。
ここは亜熱帯《あねったい》か熱帯なのだろう。
すでに二月からここは暑《あつ》く、目に留まる樹木《じゅもく》も広葉樹《こうようじゅ》ばかりだった。敷地内《しきちない》から見えるところに町や家屋は見あたらず、沖合《おきあい》を行き交《か》う船舶《せんぱく》もほとんどない。航空機《こうくうき》さえない。この邸宅を訪《おとず》れる人々のためのヘリが、ごくまれに飛来《ひらい》するだけだ。
静かなところだった。
いまの彼女の心のように静かで、うつろな場所だ。
日が沈《しず》み始めるといつものテラスを離《はな》れ、敷地の西側に広がる庭園を散歩《さんぽ》するのが、かなめの日課《にっか》になっていた。
よく手入れの行き届《とど》いた庭園だ。その時期《じき》は真っ赤なジャガランダの花が咲《さ》き乱《みだ》れていたのだが、黄昏《たそがれ》どきはうす紫《むらさき》の日没《にちぼつ》の空の下に照《て》らされて、ぼんやりと暗い色彩《しきさい》を放っている。穏《おだ》やかな海から吹《ふ》き寄せる潮風《しおかぜ》が、さわさわと庭園の枝葉《えだは》を揺《ゆ》らし、無数のささやき声となって彼女の耳をくすぐっていた。
その会話を聞いたのは、そんなある晩《ばん》、庭園の片隅《かたすみ》に腰《こし》かけ、うとうととまどろんでいたときのことだった。
一人は男、もう一人は女だった。
「……それで? LAからの足取りはまったく不明《ふめい》ということかね?」
その男の声は知っていた。レナードの部下のリー・ファウラーだ。
たいていの女をうっとりとさせるような黒髪《くろかみ》の美男子《びなんし》だ。どんな過去《かこ》を持っているかは知らなかったが、やさしく紳士的《しんしてき》な物腰《ものごし》の裏《うら》に、有能な兵士特有の用心深さ、射《い》るようなするどい眼光《がんこう》を隠《かく》している男だった。レナードにほとんど絶対的《ぜったいてき》な忠誠心《ちゅうせいしん》を示しており、かなめに対してもごく慇懃丁寧《いんぎんていねい》に接《せっ》している。レナードの右腕として世界中を飛び回っているようだったが、その日はこの邸宅を訪れていた。
「はい。残念ながら」
ファウラーの言葉に答えた女の声も、かなめはよく知っていた。サビーナ・レフニオ。やはりレナードの部下だ。
この邸宅で働く人々を実質《じっしつ》取り仕切っている女で、いつも黒いスーツに黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》をかけている。彼女の風貌《ふうぼう》はかなり若く見えた。おそらく|二〇歳《はたち》前後だろう。ひょっとしたらかなめとそう変わらない年齢《ねんれい》かもしれない。
サビーナはいつもこの邸宅にいるので、顔を合わせる機会《きかい》は多かった。彼女もかなめを丁重《ていちょう》に扱《あつか》うように言いつけられているようで、どんな時でもうやうやしく接してくる。
だが、彼女もただのひ弱な娘《むすめ》というわけでもなさそうだった。執事《しつじ》のような仕事だけでなく、外部と連絡《れんらく》をとって組織の人間に様々《さまざま》な指示《しじ》を出していることもある。あの若さでだ。折《お》り目《め》正しい言動《げんどう》とは裏腹に、どこからともなくあの匂《にお》い――戦いを生業《なりわい》とする者|特有《とくゆう》の、あの静かな緊張感《きんちょうかん》も漂《ただよ》っている。邸宅で働くほかの者たちも、どこかでサビーナを恐《おそ》れているような節《ふし》がある。
[#挿絵(img/09_159.jpg)入る]
いってみればレナードの腹心《ふくしん》の部下にあたる二人が、この庭園の片隅でなにかをひそひそと話している。
かなめは石畳《いしだたみ》の道からすこし離れた木陰《こかげ》で、屋敷《やしき》からの灯《あか》りも届かない闇《やみ》の中にいた。眠《ねむ》りこむ一歩手前でまどろんでいたために、意識《いしき》せずとも気配がなくなっていたのかもしれない。ファウラーとサビーナは、彼女の存在に気付いていないようだった。
LA――ロサンゼルスからの足取りが、まったく分からなくなった。
だれのことかは知らないが、二人はそう話していた。
「それをレナード様に話したのかね? 君が独断でヒバオア島に暗殺《あんさつ》チームを派遣《はけん》し、その作戦に失敗し、しかもあの男を見失ったことを」
「もちろんです。お話ししました」
サビーナはごく平静《へいせい》な声でそう答えた。
「隠《かく》したところで、あのお方にはお見通しでしょうから」
「彼はなんと?」
「なにも。むしろねぎらいのお言葉さえいただきました」
「寛大《かんだい》なお方だ」
「どういう意味です?」
「私が思うに、レナード様は大いにお怒《いか》りになっても不思議ではなかった。確かにあのユニットを扱《あつか》えるのは、例の操縦兵《そうじゅうへい》だけのはずだ。だが、仮にそのARXシステムとやらが再建《さいけん》されたとしても、やはり <ベリアル> は無敵《むてき》だ。びくびくするような種類の問題ではない」
「わたしはそう思っていません」
サビーナの言葉には得体《えたい》のしれない含《ふく》みがあった。
「彼が敗れるとでも?」
「いいえ。もちろん彼は無敵です。それどころか、わたしの <エリゴール> だけで充分《じゅうぶん》処理《しょり》できると思ってます」
「では、なぜ暗殺などを試《こころ》みたのだね」
「正々堂々《せいせいどうどう》と迎《むか》え撃《う》つ必要もないと思ったからです。面倒《めんどう》の芽《め》は早めに摘《つ》みとるにこしたことはありませんから」
ファウラーは小さなため息をついた。
「それはもっともだろう。だがわからんのかね? 君はあのお方の自尊心《じそんしん》を傷つけたかもしれんのだ」
「つまり彼女とのことですか?」
「そうだ」
サビーナの言った『彼女』が自分のことだと気付くまで、かなめはすこしの時間が必要だった。
「でしたらそれこそ杞憂《きゆう》です。レナード様はもうあの男になど関心がありませんから。お食事中に床《ゆか》に落ちた紙ナプキンを、わたしが拾ってくずかごに捨てにいった――ただそれだけのことです」
「なるほど。実に女性的なものの考え方だね」
「そうでしょうか」
「いや、失礼。……いずれにしても、もはや暗殺の必要などはない」
「といいますと?」
「東京から消えたARXユニットの消息《しょうそく》が掴《つか》めたのでね。完成はしていないようだが、<コダールm> 三機で襲撃《しゅうげき》して、捕獲《ほかく》するよう命じてある。ミスタ・||K《カリウム》の腕前《うでまえ》を拝見《はいけん》といったところかな」
「それこそレナード様の自尊心を傷つけることになるのでは?」
ファウラーが鼻を鳴らした。
「だから『捕獲』だよ。あとはお好きなように使っていただければいい。ご許可《きょか》もいただいている」
「わかりました」
「とにかく <ミスリル> の生き残りに、これ以上|煩《わずら》わされるのはごめんだな。『計画』の方に集中すべきだと思うがね」
「もちろんです」
「では、よろしく」
ファウラーとサビーナはその場で別れ、それぞれ別の方角へと去っていった。
それまでの会話を、かなめはごく平静に聞いていた。身じろぎもせず、かといって緊張《きんちょう》することもなく、ただ風の音のように。以前のエネルギッシュな少女のままだったら、どこかで力んで呼吸《こきゅう》を乱し、ファウラーたちにその存在を気付かれていたかもしれない。
ヒバオア島。
暗殺チーム。
ARXシステム。
計画。
そうした単語にはさして心を動かされることもなかった。問題は『あの男』――宗介のことだ。
ファウラーたちがいなくなってから、何分くらいがたっただろうか。かなめは木陰の闇の中で、だれに言うともなく、小さくぼそりとつぶやいた。
「あのバカ……」
生きているのだ。そして、具体的《ぐたいてき》になにをしているのかは知らないが、<アマルガム> の気に入らないようなことをまだ続けているのだ。
たぶん、あたしを探して。
あの学校の中庭に、連れ戻《もど》すためだけに。
あそこまであたしたちの生活が壊《こわ》されてしまったのに、まだ屈服《くっぷく》せず、白旗《しろはた》もあげずに。なにをする気だっていうの?
あのバカ。
こんなあたしを。あんな風に、あなたを裏切ったあたしを。瀕死《ひんし》のあなたの前で、あなたを見捨《みす》てて他の男に付いていったあたしを。
あのバカ――
涙《なみだ》は出なかった。むしろ心の底からあきれかえった。
彼にではない。自分にだ。
自分はいったい何をしているんだろう?
このまま、この退屈《たいくつ》な邸宅《ていたく》の中で、おばあさんになって、そのまま死んでしまうのがいいと思ってる。なにもせずに。だれも傷つけずに。それがなにかの償《つぐな》いだと思いこんでいる。ささやかなイヤミを彼らに投げつけたりはしているが――それだけだ。
あのバカ――
放《ほう》っておいてよ。もう忘れて。ゆっくりと、ほかの生き方でも探してよ。なんであたしなんかにこだわるの?
あのバカ――
はやく来て。いますぐここにやって来て、あたしにいつもの台詞《せりふ》を言って。無愛想《ぶあいそう》なむっつり顔で、『問題ない』って言ってよ。
いいや。
だめなんだ。問題だらけだ。
この木陰の暗闇の中で、じっとしているのが一番いい。
あのバカ――
そんな自分に耐《た》えられなくなる。ふがいない。あまりにもふがいない。みじめな気持ちを抱《かか》えたまま、彼女は何十分もその場にうずくまっていた。
夜の大気《たいき》の肌寒《はださむ》さを感じたころ、彼女はやっと立ち上がった。力ない足どりで庭園を出ていき、邸宅の自室へと向かう。あの大きなベッドで、なにも考えずに眠《ねむ》っていればすこしは楽になるだろう――そう思っていた。
だが邸宅に入る前に、プールの横を通りかかった。敷地《しきち》の南に面した、二五メートルほどの清潔《せいけつ》なプール。いままで一度も泳いだことはない。
「…………」
彼女は足を止め、しばらくの間プールを眺《なが》めていた。屋敷の窓《まど》から漏《も》れる照明《しょうめい》を受けて、きらきらと輝《かがや》く水面《みなも》を、無関心《むかんしん》な目で見つめていた。
泳いでみようか――
漠然《ばくぜん》とそう思った。むしろこの水の中に沈《しず》んでいって、そのまま消えてなくなろうかと思った。いや、こんなプールに飛び込んだところで、自殺が出来るわけでもない。それでも、自分自身でよく理由がわからないまま、彼女はプールサイドへと歩いていった。
ヒール付きのサンダルを脱《ぬ》ぎ捨て、素足《すあし》をプールに入れてみる。
冷たい。
ここ数か月味わったことのない、奇妙《きみょう》な新鮮《しんせん》さを彼女は感じた。
周囲にだれか見ている者はいない。
かなめは着衣《ちゃくい》のままプールの縁《ふち》に腰《こし》かけ、しばらく両足で冷たい水を弄《もてあそ》んだあと、するりと水の中へ全身を浸《ひた》してみた。
冷たい。
着ていたワンピースが水の中でふわりと広がり、それから動くたびに重く体にまとわりついた。鬱陶《うっとう》しかったので、プールの中でもがきながら脱いでみる。ずいぶんと体が軽くなった。
下着姿のまま、彼女は仰向《あおむ》けに水面に浮《う》かび、ちゃぷちゃぷと静かにたゆたった。夜空がよく見える。無数の星が眼前に瞬《またた》いている。そうしているうちに、本当に泳いでみたくなってきた。
ゆっくりと足を蹴《け》り、顔をあげたまま前へと泳ぐ。すっと水の中を体が進む。悪い気分でもなかったが、水温の冷たさが彼女の息を浅く、短くさせた。
もうちょっと速く泳ごうか。
クロールの姿勢《しせい》になる。バタ足を強くして、両手で交互《こうご》に水をかく。速度がはやまり、水をたたく音が誰《だれ》もいないプールに響《ひび》き渡《わた》った。
もっと速く泳げるだろうか?
試《ため》してみた。
思った通りに速くなった。腕《うで》に、脚《あし》に力をこめるたび、彼女の体は水をかきわけぐいぐいと進んでいく。
なんだろう。悪くない。
彼女はさらに力を入れた。みるみるコースの終わりが近づいてくる。壁《かべ》に触《ふ》れたところでクイックターン。さらに二五メートル先へと泳いでいく。
なにかの深遠《しんえん》な理由もなく、彼女は泳ぎ続けた。水の中を縫《ぬ》うような、美しい泳ぎ方ではない。もっと力任せの乱暴《らんぼう》な泳法《えいほう》だ。水面をぶっ叩《たた》いて、猛烈《もうれつ》に蹴り飛ばし、はげしく身をよじるような泳ぎ方。たちまち息が荒《あら》くなってきたが、彼女は構《かま》わず泳ぎ続けた。
さらに前へ。さらに前へ。
何度もプールを往復《おうふく》する。なぜこんなことをしているのか、彼女自身にも分からない。
とにかく泳ぎたいのだ。全身を動かし、前へ進みたいのだ。
前へ。前へ。前へ。
数か月の運動不足のせいか、すぐに疲《つか》れてきた。つらい。息が苦しい。あちこちの筋肉が悲鳴《ひめい》をあげている。
それでも泳ぐ。
前へ! 前へ! 前へ!
薄闇《うすやみ》の中で水を殴《なぐ》りつけ、小さなうなり声をあげ、彼女は泳いだ。まったく美しくない、タコか何かがおぼれているような動作《どうさ》で、水面から顔を出すたびにあえぎながら、とにかく前へ進んだ。
泳げ! 泳げ! 泳げ!
水の冷たさなど、どこかに行ってしまった。いまはただ熱い。叩きつけられ、飛び散《ち》った水滴《すいてき》が宙《ちゅう》を舞《ま》う。彼女はなぜか笑いたい気分になった。全身の苦しさが逆《ぎゃく》に心地《ここち》よくなっていた。吐《は》きそうなほど辛《つら》いのに、心はどこかで解放《かいほう》されていた。
ああ、そうか。
懐《なつ》かしい感覚《かんかく》と共に、彼女は思った。
要《よう》するに考えすぎだったのだ。
迷い、苦しんだところでなにも始まらない。いや、そういうことも必要なのかもしれないけど、もっと大事なことがある。
すなわち。
泳いで、走って、前へと進むことだ。半日後にはぐったりしているかもしれないけど。
それでも、こうやって泳ぐのは悪くない。
もっと前へ! もっと前へ!
そうやって泳ぎ続け――もう何往復したのかは自分でも分からなかった――これ以上やっていたら気を失っておぼれると思って、やっとかなめは泳ぐのを止めた。プールサイドに這《は》い上がったときは、全身から湯気《ゆげ》が立ちのぼっているような気分だった。
よろめきながら立ち上がると、彼女の背中に声をかけてくる者がいた。
「珍《めずら》しいですね」
サビーナだった。あれだけ派手《はで》に泳いでいたのだから、気付かないわけもないだろう。
「そう?」
はげしく肩《かた》で息をしながら、かなめは彼女へとふりかえった。ばくばくと鳴り続ける心臓の音が心地よかった。濡《ぬ》れそぼったショーツがほとんど太股《ふともも》にまでずり落ちていたのを、ごく無造作《むぞうさ》に持ち上げる。色気《いろけ》もへったくれもない仕草《しぐさ》だったが、かなめはすこしも気にしなかった。
「気持ちいいよ。あなたもどう?」
挑《いど》むような、ぎらぎらとして目でかなめが言うと、サビーナは小さく肩をすくめた。
「いえ、わたしは。ですが、お元気になられたのならいいことです」
「どうかな。まだ最悪だし」
「さようですか」
サビーナは注意深い目でかなめを見つめてから、こう言った。
「聞いてらっしゃいましたね?」
それだけで、さっきの庭園でのことだと彼女には分かった。どこからかは分からなかったが、サビーナは気付いていたのだ。
かなめはあっさりとこう告げた。
「うん、聞いてた。ごめん」
「ではご存じですね? わたしはあなたの恋人《こいびと》を殺すように命じました」
「別に。いいんじゃない?」
かなめは鼻をふんと鳴らした。
「っていうか、そもそも恋人ちがうし。でもあいつが、あんたなんかに殺されるわけないし。ちょっと自意識過剰《じいしきかじょう》なんじゃない? あなたの大切なものを奪《うば》おうとしました、ごめんなさーい、アンドあたしってかっこいい〜、ってところ?」
サビーナは無表情のままだった。
「……そろそろ、ご夕食の時間です。食堂においでいただけますでしょうか?」
「めんどくさいからパス」
かなめは無造作《むぞうさ》に言った。
「ですが――」
「どうしても呼びたかったら、魚沼産《うおぬまさん》のコシヒカリとひきわり納豆《なっとう》を用意しなさい。ああ、それから――うるめいわしの干物《ひもの》も食べたいわ。よろしく」
日本の食習慣《しょくしゅうかん》をよく知らないサビーナが、食材の名前を聞き返すゆとりさえ与《あた》えず、かなめは濡れそぼった下着姿のまま、さっさと邸宅《ていたく》の中へと引き返していった。
確かにまだまだ問題だらけだ。
でもいつまでも、それが続くとは限らない。
だからとにかく、前へ。前へ。前へ。
元[#「元」に傍点] <ミスリル> 情報部|香港支局長《ホンコンしきょくちょう》、ギャビン・ハンターたちが襲撃《しゅうげき》を受けたのは、彼らがキャントウェルの町を通過《つうか》して六〇キロほど進んだ路上《ろじょう》でのことだった。あわてて『機体』の組み立て作業をしていたアンカレジから逃《のが》れ、あらかじめ用意しておいた別の工場に向かっている道中に襲《おそ》われたのだ。
雨上がりの払暁《ふつぎょう》。見渡す限りの針葉樹《しんようじゅ》。
もう六月だったが、アラスカの早朝はまだ肌寒い。機体を載《の》せた大型トレーラーは二台。ハンターは先頭車両の助手席《じょしゅせき》でうとうとしていたところだった。たまに夜間便《やかんびん》のコンボイとすれ違《ちが》うほかは、ほとんど車の行き交《か》いもないような場所だ。
そこで待ち伏《ぶ》せを受けた。
行く手の道路の真ん中にゆらりと青い燐光《りんこう》が浮《う》かんだかと思うと、たちまち一個の巨人《きょじん》が現れた。アーム・スレイブだ。しかもその一機だけではなかった。ハンターたちの後方にもう一機。そして左手三〇〇メートルほどの小高い丘《おか》に一機。見える限りで、三機いる。どれもすらりとしたシルエットに菱形《ひしがた》の頭部だ。たまげたことに、敵は例の <コダール> タイプ三機を投入《とうにゅう》してきたようだった。これでは一個|機甲中隊《きこうちゅうたい》が護衛についていたとしても抵抗《ていこう》できない。
正面の <コダール> が両手を広げた。『止まれ』と言っているのだ。
「言われたとおりにしよう。止まってくれ」
突然《とつぜん》のASの出現にあっけにとられていた運転手に、ハンターは言った。この運転手は現地で雇《やと》っただけの部外者《ぶがいしゃ》で、もちろん積《つ》み荷《に》の内容も知らなかった。
二両のトレーラーが路上で停止すると、<コダール> が外部スピーカーで告げた。
『エンジンを切ったら両手をあげて出て来い。抵抗すれば射殺《しゃさつ》する』
彼らは従《したが》った。
道路の左|脇《わき》の茂《しげ》みから五〜六名の男たちが現れて、たちまちハンターたちの首根っこをつかむと、トレーラーの横に一列に並ばせた。私服姿だったが、手にはサプレッサー付きのサブマシンガンを持っており、動作や連携《れんけい》もよく統制《とうせい》されている。抵抗を受けて射撃しなければならなくなったときに、射線上《しゃせんじょう》に味方が立たない位置に各員が立っている。彼らがプロなのは間違いなかった。
運転手たちは怯《おび》えきっている。ハンターは彼らを巻き込んでしまったことを気の毒《どく》に思った。だが彼はこうなる場合を見越《みこ》して部外者を雇ったのだ。高い技能と経験を持つ部下たちを不必要な危険にさらしたくなかった――つまり、彼ら雇われ運転手が殺されたとしても大きな損害《そんがい》にはならないと踏《ふ》んだのだ。
だったら、なぜ自分は彼らと一緒《いっしょ》にこんなところにいるのだろう?
合理的《ごうりてき》な理由はいくつもあった。彼らが自分を殺そうとはしない計算も、捕《と》らえられたあとにどうにか脱出《だっしゅつ》するための算段《さんだん》も、仮に自分が死んでも大して困る人間がいないことも。香港時代に愛していた妻との関係は、<ミスリル> が崩壊《ほうかい》したころにあっさり破局《はきょく》していた。
まあいい。元モデルのプライドばかり高い女など、くそくらえだ。俺みたいなちびの太っちょと一緒になったのも、グランサンクの指輪《ゆびわ》が欲《ほ》しかっただけに違いない……そう思うようになっていた。
だが一番大きかったのは、ここまでの危険を冒《おか》さなければ敵は納得《なっとく》しないだろう、ということだった。
「ギャビン・ハンターだな?」
襲撃者の一人が油断《ゆだん》なく銃《じゅう》を構《かま》えたまま言った。否定《ひてい》しても無意味《むいみ》なので、ハンターは認《みと》めた。それでも敵は用心《ようじん》深かった。
「母親の名前と誕生日《たんじょうび》を言え」
自分の替《か》え玉でも警戒《けいかい》しているのだろう。彼はすこし記憶《きおく》をたどってから――なにしろお袋《ふくろ》なんて二〇年前に死んでいる――相手の質問に答えた。
「デビー。六月四日」
「よし。積《つ》み荷《に》を見せろ。おまえが行って鍵《かぎ》を開けるんだ」
ここで抗弁《こうべん》すべきかどうか、ハンターは迷《まよ》った。すこしは焦《あせ》って見せた方がいいのではないか? いや、そんな態度《たいど》はむしろ相手に疑念《ぎねん》を抱《いだ》かせる。彼は思い直すと、ごく冷静《れいせい》に『わかった』とだけ告げて、両手をあげたままトレーラーの後部へと歩き出した。武装した男が二人、彼の背後からついてきた。
どうあがいたところで、ここで抵抗できるわけがない。よく訓練され、自動|火器《かき》で武装した男たちと、ラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》AS三機が見張《みは》っているのだ。ハンターの知る限りで、もっとも優秀《ゆうしゅう》でしぶといあの連中――作戦部の西太平洋戦隊《にしたいへいようせんたい》の奴《やつ》らでさえ、手に負える状況《じょうきょう》ではなかった。
後部ドアの南京錠《なんきんじょう》を解除《かいじょ》し、無骨《ぶこつ》な金具をがちゃりと開く。観音開《かんのんびら》きの扉《とびら》を開くと、荷台《にだい》には大量の段《だん》ボール箱が積んであった。
「スモーク・サーモンですよ」
ハンターは言った。
「業者《ぎょうしゃ》から安く買い付けたんです。このままカナダを越《こ》えてユタに運ぶ予定で――」
彼の説明などろくに聞きもせず、男は荷台に上がって段ボール箱の山を手荒《てあら》に崩《くず》していった。荷台からこぼれた段ボール箱が路面に落ち、つぶれた箱から大量のスモーク・サーモンの真空《しんくう》パックがぶちまけられた。それを見ていたハンターは、こんなときなのにふとビールが飲みたい気分になった。
「黙《だま》って見ていろ」
段ボールを数個どけると、その奥《おく》から曲面《きょくめん》を帯《お》びた装甲《そうこう》に鎧《よろ》われた、大きな機材の一部が出現《しゅつげん》した。
軍事畑の人間ならすぐにわかる。これは第三世代型ASの頭頂部《とうちょうぶ》だ。
「これがスモーク・サーモンか?」
男は鼻で笑うと、持っていたデジタル通信機に呼《よ》びかけた。
「こちらブルー・ワン。タンゴ・ワンを発見した。ブルー・ワンは手順《てじゅん》アルファを実行《じっこう》する。タンゴ・フォーはコントロール下にある。指示《しじ》を求む……ブルー・ワン了解《りょうかい》」
男は通信を済まして襲撃者たちに撤収《てっしゅう》するよう命令した。
たちまち、どこからともなくECS装備《そうび》の大型ヘリが二機ほど飛来《ひらい》し、上空一〇メートルの高度で見事《みごと》にホバリングすると、頑丈《がんじょう》なワイヤーとフックを落としてきた。地上の男たちが素早《すばや》い手際《てぎわ》で二両のトレーラーをワイヤーに固定《こてい》する作業にかかる。
さらにもう一機の小型ヘリが樹木を飛び越えて接近《せっきん》してきた。旧式のガゼルだ。小型ヘリは軽快《けいかい》な動きで降下《こうか》すると、トレーラーから三〇メートルほど離《はな》れた路上にふわりと着陸した。
私服姿の大柄《おおがら》な男が小型ヘリから降りてきた。
ヘッドセットを外して座席に放《ほう》り、きびきびとした軍人らしい足取りでこちらへ向かってくる。樹木の作り出す影《かげ》のせいで、男の顔はよく見えなかった。風にはためく灰色のコート。髪《かみ》も髭《ひげ》も灰色のようだった。
襲撃者《しゅうげきしゃ》の一人がその『灰色の男』に駆《か》けより、顔を寄せて、ヘリの爆音《ばくおん》に負けない声でなにかを報告《ほうこく》した。おそらくあの男が指揮官《しきかん》なのだろう。
手短に部下へ指示を出すと、灰色の男はハンターにゆっくり近づいてきた。身長は一九〇センチくらいはあるだろう。五〇前後かそれ以上の年齢《ねんれい》にも見える。
「…………?」
ハンターの数歩先まで男が来た。
知っている顔だった。そして、ここにはいるはずのない人間だった。
「馬鹿《ばか》な。あなたは――」
「この業界ではよくあることだ」
絶句《ぜっく》したハンターの視線《しせん》を当然のように受け止め、その男――アンドレイ・カリーニンは言った。
「しかし――」
ハンターもたいていのことには驚《おどろ》かない男だったが、こればかりは違《ちが》った。なにかの見間違いなのではないかと、何度も考え直した。
だが確かだ。
そこに立ち、<アマルガム> の部隊の指揮をとっているのは、かつて <ミスリル> の西太平洋戦隊で作戦指揮官を務めていたあのロシア人、アンドレイ・カリーニンだった。
彼はハンターの横を通り過ぎて、トレーラーの中を確認《かくにん》した。
「これが例の機体だな」
「…………」
「こんなものを建造《けんぞう》したところで、何も変わらない。無駄《むだ》な労力だ」
ハンターの拳《こぶし》に自然と力がこもった。
「……ミスタ・カリーニン。あなたの口からそんな言葉を聞くとは思わなかった。そう親しかったわけでもないし、一緒にこなした作戦も数えるほどだ。だが、あなたはそういうことは言わない人間だと思っていた。あのすばらしい若者たちがあなたを信頼《しんらい》していたのは、それが理由だったのではないのかね?」
「それは買いかぶりだ」
「たくさんの味方が殺されたはずだろう! それが、よりにもよって、なんという破廉恥《はれんち》な――すこしは胸が痛まないのか!?」
ハンターの鋭《するど》い言葉にも、カリーニンは眉《まゆ》ひとつ動かさなかった。
そしてただ一言、
「撤収《てっしゅう》しろ」
と、そばの部下に命じた。
「待ちたまえ、ミスタ・カリーニン。あなたは本当に――」
さらに言い寄《よ》ろうとしたハンターめがけて、カリーニンは無造作《むぞうさ》に自動|拳銃《けんじゅう》を抜《ぬ》いて発砲《はっぽう》した。腹部《ふくぶ》ににぶい衝撃《しょうげき》を感じ、それから焼けるような痛みが全身を駆け抜けた。
「…………!」
押《お》さえた両の手のひらが、みるみる血に染まっていった。グラスゴーの町の貧《まず》しい少年時代、喧嘩《けんか》相手に刺《さ》されたときの記憶《きおく》が脳裏《のうり》をよぎる。ハンターは両膝《りょうひざ》を折り、そのまま前のめりにくずおれた。狭《せば》まっていく視界《しかい》の片隅《かたすみ》に見えるのは、濡《ぬ》れた路面とカリーニンの革靴《かわぐつ》だけだった。
「人間はおよそ三五パーセントの血液を失うと死ぬ」
カリーニンが言った。
「その出血だと、君はあと三〇分以内に応急治療《おうきゅうちりょう》を受けなければならない。まともな医療設備《いりょうせつび》のある町までは六三キロだ。我々はこれから撤収するが、君を拾《ひろ》って運んでくれる車が運良く通りかかり、せいいっぱい飛ばしたとしても、間に合うかどうかは微妙《びみょう》なところだろう。そして私のヘリには必要な医療キットがある」
「…………」
「では質問だ、ミスタ・ハンター。この機体――ARX―8を組み立てた人物はだれだ? そしてどこにいる?」
ハンターは血の混《ま》じったつばをカリーニンの靴に吐《は》きかけようとした。うまく飛ばなくて、つばは地面に落ちた。
「くそくらえだ」
「そうか」
カリーニンは特に落胆《らくたん》した様子も見せなかった。
「では、最後の三〇分間を楽しみたまえ」
倒《たお》れたハンターをそのままにして、アンドレイ・カリーニンはその場を去っていった。彼の部下たちも撤収を始め、運転手たちはひざまずいたまま放置《ほうち》された。
上空のヘリのターボシャフト・エンジンがすさまじいうなり声をあげた。ヘリは二両の大型トレーラーをぶら下げたまま上昇《じょうしょう》し、力をためるように傾《かたむ》いてから、日が昇《のぼ》りはじめた東の空へとゆるゆる加速《かそく》して遠ざかっていった。カリーニンを乗せた小型ヘリも離陸し、すぐに見えなくなる。
三機の <コダール> はその様子を見守ったあと、手にしていた武器をすっと下げ、ECSを起動《きどう》させるとその場から跳躍《ちょうやく》して遠ざかっていく。青白い光の飛沫《ひまつ》を残して、三機は朝の大気《たいき》の中に消えた。
「……なんたることだ」
戻《もど》ってきた静寂《せいじゃく》の中、うつぶせに倒れたままハンターはつぶやいた。運転手たちが駆けよってきて、彼を心配したり罵声《ばせい》を浴《あ》びせたりしていたが、そんな言葉など耳に入っていなかった。
西太平洋戦隊の諸君《しょくん》。
君たちはあんなおもちゃ――ラムダ・ドライバ搭載型ASなど、問題にならないほど手強《てごわ》い敵と対決しなければならなくなったようだぞ――
(基本はよく教育してある)
演習《えんしゅう》の二日目になると、宗介は対戦相手の男たちをそう評価《ひょうか》するようになっていた。ほかでもないレモンの部下たちのことだ。
捜索《そうさく》ルートの選定《せんてい》方法や、夜営《やえい》の際の陣地構築《じんちこうちく》、渡河《とか》の手順、追跡《トラッキング》に関するいくつかの鉄則《てっそく》。実戦経験もそれなりにあるようだ。だがおそらく、湿地帯《しっちたい》の経験は少ないのではないか?
たしかに大きな蚊《か》や蟻《あり》の類《たぐい》は不愉快《ふゆかい》だが、体に塗《ぬ》りたくった防虫剤《ぼうちゅうざい》が、何度かのスコールで流れ落ち、あちこちの水たまりに浮《う》かんでいる。こうした湿地帯には珍《めずら》しい人工物の痕跡《こんせき》だ。
これではいくら足跡《あしあと》を残さず、密林《みつりん》に張《は》った蜘蛛《くも》の巣をていねいに避《さ》けて進んでも、『我々《われわれ》はこちらに進んだ』と宣伝《せんでん》しているようなものだ。連中は二個チームに分かれてこちらを追っているようだったが、地形的にみて両チームの捜索範囲《そうさくはんい》が離《はな》れすぎている。これでは片方が戦闘《せんとう》に入ったときに支援《しえん》に回るまで時間がかかりすぎる。片方の四人を片づければ、トラップを残して姿を隠《かく》すのは難《むずか》しくないだろう。
(では、緊急時《きんきゅうじ》はどうか……)
しかけてみるか。
宗介は彼らがもっとも集中力の落ちている時間帯を狙《ねら》って、攻撃《こうげき》をかけてみた。わざと食事の痕跡を残しておいた場所――巨木《きょぼく》の根本まで彼らが到達《とうたつ》し、前衛《ポイントマン》がその痕跡に気付いたところで、チームの最後尾《さいこうび》に右翼《うよく》から忍《しの》び寄ってやる。残した痕跡がすこしわざとらしかったかもしれない――そう反省しながら最後尾の男のそばまで近づき、音もなく組み付くと、ナイフを首筋《くびすじ》にぴたぴたと当ててやった。
「戦死だ」
耳元にささやき、その場に伏《ふ》せさせる。
残りの敵はわずか八メートルも離れていないはずだったが、濃密《のうみつ》なブッシュが視界《しかい》をうまく遮《さえぎ》ってくれる。
さて、もう一人。ここからが難しい。
宗介は前へ進まず、左翼から回り込んで敵に接近《せっきん》した。最初の一人を『殺害』した気配を感じた敵が、周囲《しゅうい》を警戒《けいかい》しながら仲間に呼びかけている。
訓練された相手を、音もなく殺すのはもう無理《むり》だろう。
そう判断《はんだん》した彼は、ナイフをしまってサブマシンガンを構《かま》え、一気に敵へと迫《せま》った。タブロイド紙くらいはありそうな葉をどけて前に出ると、ほんの数歩先に相手がいた。こちらに銃《じゅう》を向けようとしている。先に宗介が発砲《はっぽう》。密林に銃声が響《ひび》き渡《わた》る。弱装《じゃくそう》カートリッジから吐き出されたペイント弾《だん》が胸と頭に命中《めいちゅう》。それでも相当《そうとう》な痛さだったのだろう、撃《う》たれた相手が間の抜けた悲鳴をあげた。
「うお、いっ……て!」
「死人は寝《ね》ていろ」
宗介はすぐに移動《いどう》する。銃声と悲鳴を聞いた残りの敵二人がブッシュの向こうで反応した。さっそく撃ってくる。立て続けの銃声が付近に鳴《な》り響《ひび》いた。
これが本物のライフル弾だったら、葉っぱなど貫通《かんつう》してこちらまで届いたかもしれない。宗介は戦死だ。だがあいにく、装薬《そうやく》を減《へ》らしたペイント弾には濃密なプッシュを貫通するほどの威力《いりょく》はない。しかも相手はこの一帯の足場を把握《はあく》していなかったので、動きがのろい。かたや宗介は昨晩のうちに歩き回って地形を把握し、目をつぶっても走れるように覚えておいたので、あとの勝負は二対一でもどうにかなる。
すこしずるい気もしていたが、宗介は残りの二人を手際《てぎわ》よく片づけてしまった。
予想通り文句《もんく》を言ってきた四人に『おとなしく死体をやっていろ』と告げ、彼はいそいそとトラップ作りに精《せい》を出した。
最初の銃声から二〇分後、別のチーム四人がやる気満々でやってきた。
その五分後、彼らは全員『戦死』し、やはりあれこれと宗介に不平をこぼした。
演習が終わり、宗介たちが全員でキャンプに戻ると、レモンとコートニー老人が扇風機《せんぷうき》の前でチェス盤《ばん》を挟《はさ》んで、あれこれと口論していた。
「だーかーら! |ズル《チート》なんかしてませんよ!」
「いいや! 絶対《ぜったい》にファッキン・チートだ! さっきまでわしのポーンはこんなところにいなかった! クソしに行ってる間に貴様《きさま》が動かしたんだ! このイカサマ野郎《やろう》め!」
「言っときますけどね、僕はIQ一五〇でソルボンヌも出てる。すごく頭がいいし、しかも若いんだ。あんたみたいな偏屈《へんくつ》ジジイに負けるわけがないんですよ! 変な言いがかりはやめてください!」
「よくもそんな口が利《き》けたもんだ! わしの叔父《おじ》はオマハ・ビーチで死んだ。おまえら弱っちいフランス野郎をファッキン・ヒトラーから助けるためにな!」
「はっ! だったら僕のご先祖《せんぞ》は二〇〇年前に新大陸のあわれな貧乏人《びんぼうにん》どもに武器を恵《めぐ》んでやるために海を渡って死にましたよ!」
「ウソつけ! 絶対ウソだ!」
「そっちだってどうせウソでしょう!?」
「なんだとお!? 証拠《しょうこ》ならあるぞ! アリゾナの家に当時の写真が――くそ、明日までそこで待っとれ! ちょっと帰って取ってくる!」
本気で二五〇〇キロ離れたアリゾナまで行くつもりなのか、コートニー氏が席から腰《こし》を浮かした。そこでようやく、二人は宗介たちに気付く。
「ん。なにしとるんだ、おまいら?」
「演習は終了《しゅうりょう》です。八人全員やられました」
チーム・リーダーの准尉《じゅんい》が言うと、コートニーが目を丸くした。
「ほほう?」
「たまげましたよ。我々だってそれなりの経験は積んできたつもりですがね。サガラにやられっぱなしでした」
「いや。実戦なら三人|倒《たお》したところで終了だった。まだ本調子ではない」
宗介は否定《ひてい》すると、ベルト・キットを外して弾倉《だんそう》や通信機その他の整備を始めた。
「ずいぶんな自信だね」
手際《てぎわ》よく装備を並べて点検《てんけん》していく宗介の背中を眺《なが》め、レモンがつぶやいた。
「もし本調子なら、実戦でも八人|皆殺《みなごろ》しに出来たような口振《くちぶ》りじゃないか」
「肯定《こうてい》だ。それくらいが出来なくては、<アマルガム> の連中とは戦えない」
なんの気負いもない声で宗介は答えた。
「確かにそうかもしれない。でも、君の回復を悠長《ゆうちょう》に待ってもいられない雲行きになってきたみたいだ」
「?」
「ニケーロだったね。君が言っていた地名の一つだ。おかげでいろいろと絞《しぼ》り込めたよ。これだ」
粗末《そまつ》なデスクの上に置いてあったノートPCを開き、レモンはいくつかの図表《ずひょう》を表示させてみせた。
衛星《えいせい》写真だ。メキシコ南部のポチュトラ市|郊外《こうがい》にある小さな町、ニケーロ近くの海岸一帯が映っていた。一見して特に目立った施設《しせつ》もない、人里離れた場所である。海に面した大きな邸宅《ていたく》があるだけだ。
「二〇時間前の衛星写真だ。NATO軍の監視《かんし》衛星――ちょっと解像度《かいぞうど》の低いタイプだけど、それに侵入《しんにゅう》して撮影《さつえい》させてもらった」
「ふむ。器用《きよう》じゃのう」
横から画面をのぞき込んだコートニーが、うなり声をあげた。
「だから頭がいいって言ってるでしょう。イカサマなんかしなくたって、あなたには勝てるんです」
「うるさい。それとこれとは話が別だ!」
レモンの頭を小突《こづ》こうとするコートニーを遮って、宗介はたずねた。
「それで、この邸宅が?」
「ここは実在する大富豪《だいふごう》の所有《しょゆう》ってことになってる。ITで大儲《おおもう》けしてるメンドーサってメキシコ人で、たまに <ウォール・ストリート・ジャーナル> なんかにも顔を出す奴《やつ》なんだけど、彼はほとんどここを利用したことがない。こっちの表が資金《しきん》の流れだ。去年度の数字に注目してくれ。彼と契約《けいやく》した建設《けんせつ》会社とエージェント、それから銀行のカネの出入りをよく見ると――」
それからしばらく、レモンはいくつもの書類を示《しめ》して専門的《せんもんてき》な説明をした。金融《きんゆう》や法律《ほうりつ》についてまったくうとい宗介たちには、ほとんど理解できない話ばかりだった。
『つまり?』
カネのことなどさっぱり分からないレモン以外の全員が、異口同音《いくどうおん》に言った。得意《とくい》げに説明をしていた彼は、いささか落胆《らくたん》した様子で答えた。
「つまり――この邸宅は正体の見えない何者かが実質《じっしつ》は利用している、ってことだよ」
「 <アマルガム> の関連だと?」
「段取《だんど》りの踏《ふ》み方があのナムサク郊外《こうがい》の『特等席《とくとうせき》』とよく似てるし、まず九割がた間違《まちが》いないだろうね」
「ギャングや麻薬《まやく》カルテルの持ち物かもしれない」
「それはない。ギャングにしては警備《けいび》が厳重《げんじゅう》すぎるんだ。衛星写真を拡大《かくだい》するよ」
邸宅が拡大され、不鮮明《ふせんめい》ながらも庭を歩く人間の姿まで見えるくらいの解像度になった。今度は全員がうなずく。
「なるほど。厳重だ」
おそらくは自動|小銃《しょうじゅう》を携帯《けいたい》した歩哨《ほしょう》が最低でも一六名。ほかにも手ぶらの大男が数名。重機関銃《じゅうきかんじゅう》のターレットを装備した軽装甲車《けいそうこうしゃ》が四両。
「時刻《じこく》は?」
「一七時過ぎ。夜はもっと増《ふ》えるかもね。おおよそ一個小隊。やり方|次第《しだい》では沈黙《ちんもく》させることもできると思う」
「無理《むり》だな」
宗介が言った。
「トレンチコートを着た大男があちこち歩哨に立っているだろう。これは人間ではない。超小型《ちょうこがた》の自律《じりつ》行動型ASだ」
「……前に言ってた <アラストル> とかいうロボットだね」
このキャンプでの生活中に、宗介はレモンたちに <アマルガム> の装備や、彼らとの戦闘《せんとう》の経緯《けいい》をおおよそ話していた。
――かなめの話はしていなかったが。
「強力な特殊弾頭《とくしゅだんとう》や五〇口径《こうけい》クラスの弾《たま》でなければ倒せない相手だ。必要なときは自爆《じばく》してボールベアリングをまき散《ち》らす。俺の部隊も散々《さんざん》手こずった」
「ふむ……。でも、これでここが <アマルガム> の施設《しせつ》だということははっきりしたわけだね」
「肯定《こうてい》だ。問題はまだある」
宗介は衛星写真の一点を指さした。
「敷地内《しきちない》にコンテナが六つある。倉庫のようにも見えるが、これはASの偽装格納庫《ぎそうかくのうこ》だ」
「なんだって?」
「サガラの言うとおりじゃ」
コートニーがうなずいた。
「前にネバダの兵器ショーで見たことがある。屋根が展開《てんかい》するんじゃよ。あれの構造《こうぞう》とよく似とるな」
「それです、中佐|殿《どの》。装備類や弾薬も含《ふく》めれば、コンテナ二つにつき一機。おそらく三機いる」
「ははあ……」
レモンがこめかみを指先で掻《か》いた。
「機種《きしゅ》は?  <サベージ> とかかな?」
「ここが <アマルガム> の重要な施設なら、そんな生やさしい敵ではないはずだ。おそらくは <コダール> タイプだろう」
「例のラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》ASか……」
「こいつに至《いた》っては、対抗手段《たいこうしゅだん》がほとんどない。腕《うで》のいい操縦兵《そうじゅうへい》の操《あやつ》るM9が数機がかりで、どうにか一機を仕留《しと》められるかどうかといった相手だ。しかも相当の損害《そんがい》を覚悟《かくご》しなければならない」
重苦しい沈黙がその場にたれこめた。
「まいったね。そんな化け物が三機もいたんじゃ、手も足も出ない」
「あいつがいれば、倒すのは難しくないのだが……」
「『あいつ』?」
「アルだ。<ミスリル> が唯一《ゆいいつ》保有《ほゆう》していたラムダ・ドライバ搭載型ASだ」
「初代のアルだね。ARX―7とかいう」
ナムサクで大破《たいは》した白いサベージ――『アル二世』のことを思い出したのだろう。レモンがしんみりと目を細めた。
体力も思考《しこう》もはっきりしてきたいまになって考えてみても、ヒバオア島で宗介が襲撃《しゅうげき》を受けた理由は、東京で大破した <アーバレスト> が関係しているとしか思えなかった。あそこまで破壊《はかい》された機体が修理《しゅうり》できるわけがなかったが、何らかの形でラムダ・ドライバのシステム――AIも含めたコア・ユニットがまだ生きている可能性《かのうせい》はある。そしてそのシステムを駆動《くどう》させることができるのは、世界でただ一人宗介だけなのだ。この期《ご》に及《およ》んで <アマルガム> が、わざわざ自分のような野良犬《のらいぬ》を狙《ねら》ってきた合理的《ごうりてき》な理由は、それくらいしか思いつかなかった。
もちろんただの報復《ほうふく》という可能性もある。自分はガウルンやクラマ、その他|複数《ふくすう》の <アマルガム> 幹部《かんぶ》を殺してきたのだ。だが、どうしてもそうとは思えなかった。わざわざDGSEと事を構えてまで、ああいう拙速《せっそく》ともいえる形で襲撃を試《こころ》みたことが不自然な気がしてならないのだ。
もっとほかの理由もあるかもしれない。
レモンたちへの情報|提供《ていきょう》を嫌《きら》った? 指揮|系統《けいとう》の混乱《こんらん》? レナード・テスタロッサの個人的|動機《どうき》? クラマやガウルンの係累《けいるい》の復讐《ふくしゅう》? それらすべてが絡《から》み合った、もっと複雑《ふくざつ》で込み入ったなんらかの事情か?
考え出したらきりがない。やはり最初に連想《れんそう》した理由――アル絡みの何かが一番しっくりくる。
「……いや、失われた機体のことを考えても仕方がない。現実的な作戦を考えよう」
様々な疑念《ぎねん》を振《ふ》り払《はら》って、宗介は言った。
レモンがため息をつく。
「そうは言ってもね。この戦力じゃ攻撃《こうげき》は無理《むり》だよ。君の言う幹部やVIPを捕らえることなんて不可能だ。ここにいる僕の部下は大事《だいじ》な連中だし、生還《せいかん》不可能な敵地に放《ほう》り込みたくない」
「そこまでは頼《たの》んでいない。俺一人でもやるつもりだ」
「また、そうやって……。いまさら一匹狼《いっぴきおおかみ》を気取るのは勘弁《かんべん》してくれよ!」
レモンが声を荒《あら》げると、コートニー中佐が顔をしかめて間に入った。
「あー、やかましいのう。おなごみたいにピイピイと叫《さけ》ぶな」
「僕は叫んでなんかいませんよ!」
「だまれ、イカサマ野郎《やろう》め!」
「そっ……」
「要するにだ。その羊肉《ラム》なんとかを積んどるファッキンASをどうにかすりゃいいんじゃろ?」
「だから、それが出来ないから困ってるんですって!」
「ふん。どんな機体だって操縦者がいなけりゃただのファッキン・ジャンクだ。ASで奇襲《きしゅう》を仕掛《しか》けて、動き出す前に四〇ミリ弾でファックしちまえばいいだろが」
妙《みょう》に自信たっぷりにコートニーは言った。
「ASねえ。でも、いまは僕も組織の支援《しえん》が受けられない状態なんです。まともなAS一機を用意することもできない」
「ASがあればいいわけじゃな?」
「ええ。ですが南米の田舎《いなか》やナムサクみたいなところで出回ってるようなガラクタじゃだめです」
「ふむ。軍曹《ぐんそう》、おまえはどう思う」
コートニーは宗介に聞いた。
「ASで奇襲するなら、少なくとも静粛性《せいしゅくせい》と運動性に優《すぐ》れた第二世代型が必要です。火器|管制《かんせい》システムと通信システムは最低でも現用レベル。比較的《ひかくてき》入手《にゅうしゅ》の容易《ようい》な <サベージ> では能力不足《のうりょくぶそく》でしょう」
聞かれたので答えてみたが、現状ではそんなASが入手できるわけがない。どうにか海から生身《なまみ》で潜入《せんにゅう》し、C4爆薬《ばくやく》でかたをつけるしかないだろう。とてつもない困難を伴《ともな》うだろうし、成功の望みも少ないが――
だが、コートニーは勝手に一人で納得《なっとく》してうなずき、こう言った。
「なるほど。だったらいけそうだわい」
「?」
そのおり、どこか遠くから奇妙《きみょう》な物音が響《ひび》いてきた。くぐもったエンジン音と、ばたばた空気を叩《たた》くような断続的《だんぞくてき》な音。これは航空機――ヘリコプターの音だ。それがこのキャンプに近づいている。
「ちょうど来た」
怪訝顔《けげんがお》の一同に向かって、コートニーは一言、『付いてこい』と告げ粗末《そまつ》な宿舎から出ていった。そうしているうちに、ヘリの音はみるみる大きくなっていき、やがてキャンプ中を揺《ゆ》るがすような爆音へと変貌《へんぼう》した。
「コートニーさん。これはいったい――」
「いいから見ろ」
キャンプを取り巻く密林《みつりん》――その南側の樹木が、強風を受けて激《はげ》しく揺《ゆ》れた。枝葉が空へと吹《ふ》き上がり、その向こうから一機の大型ヘリが姿を見せた。
灰色に塗装《とそう》された箱形の機体。CH―53[#「53」は縦中横]の改良型《かいりょうがた》だろう。宗介たちが <ミスリル> で使っていたMH―67[#「67」は縦中横] <ペイヴ・メア> の前の世代の輸送《ゆそう》ヘリだ。その大型ヘリの下に、ワイヤーでずんぐりとしたシルエットのアーム・スレイブがつり下げられていた。
ダークグレーの装甲《そうこう》と、頑丈《がんじょう》そうな太い手足。ダウンジャケットで着ぶくれした短足男のようにも見える。
M6 <ブッシュネル> だ。
しかもその機体は特殊部隊《とくしゅぶたい》向けにアップデートされた最新のA3型で、<ダーク・ブッシュネル> と呼ばれているタイプだった。一世代先のM9ほどではないが、良好な運動性を誇《ほこ》り、短時間なら非常《ひじょう》に静粛性の高い電気|駆動《くどう》ができる。
初期型ならまだしも、こんな機体を入手するのは簡単ではないはずだったが――
「ま、ちょろいもんよ」
ぽかんとするレモンたちを前に、コートニーは言った。
「……っていうか、こんな大事な用があったのにアリゾナくんだりまで帰ろうとしてたんですか、あんたは」
「ふむ、そんなこと言ったかの?」
上空のヘリのハッチから身を乗り出し、こちらに手を振る人影《ひとかげ》があった。
これまた老人だ。コートニーの古い戦友で、以前に酒宴《しゅえん》を共にしたロイ・シールズ大佐《たいさ》だった。アメリカ海軍特殊部隊の元高官だそうだが、宗介は酒宴の賓客《ひんきゃく》として呼ばれたテッサにむっつりとセクハラしていたことしか覚えていない。本来はかなりの地位だったと聞いている。
ASを降ろしてからヘリが着陸すると、シールズ氏はまっしぐらにこちらに走ってきた。彼は宗介やレモンたちは完全に無視《むし》して、キャンプのあちこちに視線を走らせ、それからコートニーに怒鳴《どな》った。
「書類をちょろまかして持ってきたぞ! さあ、テッサたんはどこだ?」
「それがな、いないんじゃ」
コートニーの返事に、はげしくきょろきょろ動いていたシールズ氏の首がぴたりと止まった。
「なんだと? ここで待ってるって話だったじゃないか。M6A3を持ってきたら、彼女がナイチンゲール風の古式ゆかしい看護婦衣装《かんごふいしょう》で、わしをあれこれ看病《かんびょう》してくれると――」
「いやすまん。嘘《うそ》だ」
オンライン会議の席上でおもな議題《ぎだい》になったのは、中東および中央アジア、それから極東《きょくとう》の軍事《ぐんじ》バランス、資源《しげん》バランスに関する『修正《しゅうせい》』についてだった。
中東については現状維持《げんじょういじ》の意向《いこう》が大勢《たいせい》を占《し》め、中央アジアについては地下資源の分配《ぶんぱい》に関連していくらかのテロ事件が必要とされ、極東については緊張《きんちょう》を維持《いじ》しつつ各国の軍費《ぐんび》を増大《ぞうだい》させていく方向で意見がまとまった。
予想される被害額《ひがいがく》と死者の数が概算《がいさん》され、それが長期的にはプラスに転じるとの報告《ほうこく》が出た。各自がその報告を検討《けんとう》し、それぞれの思惑《おもわく》から積極的《せっきょくてき》・消極《しょうきょく》的な賛同《さんどう》を示した。
すでに『世界|征服《せいふく》』は終わっている――
世界中のほとんどの人々は、その事実に気付いていない。もちろん、気付く必要もない。この組織は効率《こうりつ》的に資金《しきん》や技術、そして暴力を運用し、大多数の人々が納得できるところにパワーを分配《ぶんぱい》していく。
すでに『世界征服』は終わっている――
すべての富を一手に握《にぎ》る必要はない。サバンナの肉食獣《にくしょくじゅう》は草を食べなくていいし、草食獣は増えすぎても減《へ》りすぎてもいけない。大事なのはバランスなのだ。
すでに『世界征服』は終わっている――
この流れを変えることはできない。彼ら自身にも変えられない。全貌《ぜんぼう》すら、誰《だれ》にもわからない。大切なのは全体の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れないこと。そして流れを読んでいくこと。
いや、ばかばかしい。
すでに世界は――
「ミスタ・|Ag[#「Ag」は縦中横]《シルバー》、聞いているのかね」
会議の終盤《しゅうばん》、幹部《かんぶ》の一人が苛立《いらだ》たしげな声でレナードに呼びかけた。もちろん彼は聞いていたが、すこし間を置いてから、はじめて気付いたような顔をしてやった。
「ええ。なにか?」
「プロジェクトのことだ。この間題は規模《きぼ》からいっても、各自の協調が必要だということになっていたはずだが」
きつい声で彼に質問しているのは、ミスタ・|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》だった。ここではお互《たが》い名乗らないのが鉄則《てっそく》だったが、レナードは彼の国籍《こくせき》も本名も知っていた。
「おっしゃる通りです。僕も提供できる限りの情報を、皆《みな》さんに開示《かいじ》してきたつもりですが?」
「ならば、いつまであの娘《むすめ》を放置《ほうち》しておくつもりかね。今日も『調査中』で済ませるつもりかな」
「申し訳ありません。ですが、これまでのアプローチでは発見できなかった要素《ようそ》が考えられますので」
「またいつもの『無農薬野菜《むのうやくやさい》』説か」
|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》の皮肉に何人かが笑った。レナードは穏《おだ》やかな微笑みを浮《う》かべるだけだった。
「新たな『|暗 黒 技 術《ブラック・テクノロジー》』の需要《じゅよう》もある。例の『オムニ・スフィア』などといった抽象的《ちゅうしょうてき》な概念《がいねん》ではなく、われわれは結果が欲《ほ》しい」
「そうでしょうか。結果なら充分《じゅうぶん》さしあげているはずですが」
「なるほど。そうかもしれんな」
音声だけの男が、回線の向こうで鼻を鳴《な》らした。話題を切り替えるように改《あらた》まった調子で、|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》は言った。
「それから情報がある。特定《とくてい》はできないが、何らかの組織が君のガールフレンドの所在《しょざい》をつきとめたようだ。そろそろその場所も安全とは言えなくなってきたのではないかね」
「初耳《はつみみ》です。警備を増員《ぞういん》しなければ」
もちろん本気で言ったわけではない。NATO軍の監視《かんし》衛星が、内部から――そのシステムをよく知る者から――侵入《しんにゅう》を受けて、ニケーロ近くの邸宅《ていたく》を最大|倍率《ばいりつ》で撮影《さつえい》したことはもう知っていた。資金関係の洗い出しも。誰だか知らないが、なかなか有能なハッカーらしい。フランスのDGSEの関係者だということまでは分かっていたが、所在地《しょざいち》まではつかめなかった。
それだけではない。こうした種類の侵入をネットのどこかから監視し続け、棚《たな》ボタ式に同じ情報を横からこっそりかすめとった何者かが存在している。これは人間ではない。非常《ひじょう》に大規模《だいきぼ》で知的な人工知能《じんこうちのう》の仕事だ。
こんな芸当《げいとう》ができるのは、まず間違《まちが》いなくあの潜水艦《せんすいかん》のコンピュータ―― <ダーナ> の仕業《しわざ》だ。いかな <ダーナ> でも最初のハッカーの正体や所在地は把握《はあく》していないだろうが、いずれにせよ当面必要なものはつかんでいるはずだ。
その通り。この邸宅はもはや安全とは言えなくなりつつある。
ミスタ・|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》が言った。
「警備の増員ならは、われわれからも支援《しえん》しよう。すでに『一五〇二』三機、『一〇五九』三機をそちらに向かわせている」
「それは助かります。メリダ島でも大活躍《だいかつやく》でしたからね」
レナードの皮肉に何人かが笑った。だが彼は内心で『いよいよ来たか。面倒《めんどう》なことを』と思い、だれにも聞こえない舌打ちをした。
それからいくつかの無難《ぶなん》な議題が話し合われ、オンライン会議は終了《しゅうりょう》した。
邸宅の地下に設《もう》けられた会議室を出ると、彼の部下――ポーランド人のサビーナ・レフニオが待っていた。
「例の機体が届きました」
「ARX―8だったっけ」
「はい。ミスタ||K《カリウム》もお待ちです」
「カリーニン氏だね。行こう」
レナードは地下を出て邸宅の回廊《かいろう》を通り抜《ぬ》け、ヘリの発着場に向かった。発着場のすぐそばに、ASの部品を収納《しゅうのう》したパレットがあり、その前にアンドレイ・カリーニンが立っていた。
上着を脱《ぬ》いだシャツ姿だったが、右|腕《うで》に灰色のコートをかけている。アラスカから、そのままここまで直行してきたのだろう。
「初任務《はつにんむ》の感想は?」
レナードはカリーニンにたずねた。
「特には。機体をご覧《らん》に?」
「そうだね。ちょっとだけ」
大型のパレットの上に置かれたASと、その上にかぶせられた防水《ぼうすい》シート。そのシートが数人がかりで取り払《はら》われ、中のASがあらわになった。いくらか装甲《そうこう》や細かいパーツの仕様《しよう》が異《こと》なるほかは、<ミスリル> の第三世代型AS、M9 <ガーンズバック> とほとんど同じように見えた。
つまらない機体だった。
「これが彼らの切り札?」
「はい」
まったくの無表情でカリーニンは答えた。
「 <アーバレスト> の外見が変わっていたのは、XM9の試作《しさく》段階のパーツを流用したからです。この機体は通常のM9――E系列《けいれつ》のパーツを利用していると聞いていました。……ラムダ・ドライバのコア・ユニットをご覧になりますか?」
「じゃあ、見ておこうかな」
カリーニンがうなずき、部下の一人に目線で合図《あいず》を送った。背部の装甲が開放《かいほう》され、腰部《ようぶ》の装甲も数人がかりで取り除《のぞ》かれ、ASの内部が露出《ろしゅつ》した。コックピットの直下――本来ならば動力源《どうりょくげん》の一部と電子|兵装《へいそう》が収まっているはずの位置に、M9系列とは異なる冷蔵庫大《れいぞうこだい》のユニットが収まっている。
レナードはASのフレームをひょいと上ってから、そのユニットのハッチを開放して中をあらためた。緩衝装置《かんしょうそうち》で固定《こてい》された強化ガラスのシリンダーが収まっており、そのシリンダーには構造色《こうぞうしょく》――金属的な光沢《こうたく》を放つ流体が充填《じゅうてん》してあった。
このシリンダーがラムダ・ドライバの核《かく》となる回路《かいろ》だ。電源が入っていれば、この『流体演算素子《りゅうたいえんざんそし》』はDVDのような虹色《にじいろ》の光を発しながら駆動《くどう》する。この装置は <コダール> や <ベヘモス> にも搭載《とうさい》されているが、目の前の流体プロセッサは <アマルガム> 製のそれの数倍はあろうかという容積《ようせき》だった。
「間違いありませんか」
カリーニンが言った。
レナードはシリンダーの表面に手をあて、黙考《もっこう》する。
回路の本体、緩衝システムに冷却《れいきゃく》システム、シリンダーの両端《りょうたん》からのびる光ケーブルの束。どこにもおかしいところはない。
だが――
いや。どちらだろうと知ったことではない。こうして自分がじっくり考えること自体が、この機体とあの男を強く意識《いしき》していることになる。ちらりとよぎったあの少年――バニ・モラウタの横顔を思い出し、彼は自嘲気味《じちょうぎみ》に小さく笑った。
「ああ。処分《しょぶん》して」
「了解《りょうかい》しました」
カリーニンは答えると、部下に指示《しじ》を下した。
数十分後、奪取《だっしゅ》された機体は動力源を取り除かれ、四肢《しし》のジョイント部分を焼き切られ、そのまま敷地《しきち》の片隅《かたすみ》に放置《ほうち》された。車でいったらシャーシを切り離《はな》され、エンジンを引っこ抜《ぬ》かれたようなものだ。
例のシリンダーは機体から取り外され、衆目《しゅうもく》の中でたたき壊《こわ》された。中身の流体が周囲に飛び散《ち》り、機体の『心』を司《つかさど》っていた残骸《ざんがい》はバケツとモップで洗い流された。
その作業中、カリーニンは邸宅《ていたく》の三階の窓《まど》をふと見上げた。
いるだろうとは思っていたが――
あの少女、千鳥かなめが、窓の向こうから青白い顔で、解体《かいたい》されるアーム・スレイブと、その様子を監督《かんとく》しているカリーニンを見下ろしていた。遠くてはっきりとは見えなかったが、目があったとたんに彼女は屋敷の奥《おく》に引っ込んでしまった。
南西の空が雲におおわれている。
ごろごろと、低い雷《かみなり》の音が響《ひび》いてくる。
(嵐《あらし》が来る――)
彼は重苦しい気持ちを感じながら、迫《せま》り来る戦いのあれこれに思いをはせた。
ひどい低気圧《ていきあつ》が容赦《ようしゃ》なく輸送機を揺《ゆ》さぶる。
上へ、下へ。右へ、左へ。
もう何時間続いているだろうか。こういう悪天候《あくてんこう》にも慣《な》れっこだったつもりだが、胃のむかつきは押《お》さえようがない。
搭乗員のほとんどが、口を開くたびに死人のような声を漏《も》らしていた。貨物室《カーゴ・ベイ》の乗員が、いまにも吐《は》き出しそうになりながら、ヘッドセット越《ご》しに思い切り叫《さけ》ぶ。
「ワーン、ミニッツ!!(一分!)」
降下地点が迫っている。
宗介はコックピットの操縦桿《そうじゅうかん》を軽く操作《そうさ》し、最終的な確認《かくにん》をした。パラシュートの機構《きこう》は問題ない。火器管制《かきかんせい》? OK。通信システム? OK。航法《こうほう》? OK。運動|制御《せいぎょ》? OK。すべてOKだ。
では行くか――
輸送機|後尾《こうび》の巨大《きょだい》なカーゴ・ハッチがゆっくりと開いていく。猛烈《もうれつ》な暴風《ぼうふう》が格納庫に吹《ふ》き込んできた。レールに乗ったM6A3 <ダーク・ブッシュネル> はジェネレータを駆動させ、これからやってくる激しい仕事にじっくりと備える。
宗介は大きく息を吸い込むと、輸送機のクルーに告げた。
「こちらウルズ7。これより目標地点に降下する。見送りに感謝する。こちらはコールサイン[#「こちらはコールサイン」に傍点]、ウルズ7[#「ウルズ7」に傍点]。これより降下を開始するI」
『了解した!』
輸送機の機長が無線越しに怒鳴《どな》った。
『幸運を祈《いの》る、ウルズ7!』
はげしい火花が飛び散る。
レールのロックが解除《かいじょ》され、宗介のM6が空中へと放《ほう》り出された。
[#改ページ]
4:嵐《あらし》の夜に
宗介《そうすけ》の搭乗《とうじょう》するM6A3 <ダーク・ブッシュネル> は、真っ暗なメキシコ南部の空を降下《こうか》していた。
自由降下中の機体《きたい》をはげしい暴風《ぼうふう》がなぶり、ぎしぎしときしませる。コックピット内も激《はげ》しく振動《しんどう》し、ときおり首の骨が折れてしまいそうな衝撃《しょうげき》が襲《おそ》いかかってくる。みるみる残量《ざんりょう》の減《へ》っていくデジタル高度計。細かく揺《ゆ》れ動く方位計《ほういけい》。姿勢指示《しせいしじ》のインディケーターがくるくると回転する。ECSは休眠中《きゅうみんちゅう》だ。不可視機能《ふかしきのう》はないものの、M6A3にもECSは搭載《とうさい》されている。しかしこんな嵐の中で使っても意味はない。
高度計の数値が三〇〇〇フィートを切った。
一次開傘《いちじかいさん》。成功。
機体の落下《らっか》が急減速《きゅうげんそく》する。
二次開傘。成功。
巨大《きょだい》なパラシュートが頭上で開くと、たちまち暴風が殴《なぐ》りつけてきた。十数トンの機体が振《ふ》り子のように揺れ、空中を泳ぎ、バランスを崩《くず》してきりもみする。
あと一五〇〇フィート。このままでは地面に激突《げきとつ》してしまう。
姿勢を崩したM6A3の胴体《どうたい》に、たるんだワイヤーがからみつこうとする。宗介は機体を操《あやつ》り、なんとかまともな降下姿勢を取り戻《もど》そうとした。できない。瞬時《しゅんじ》に判断《はんだん》してパラシュートを切り離《はな》す。迫《せま》りくる大地。すぐにスイッチを押《お》したい衝動をこらえながら、一秒待って予備《よび》パラシュートを開く。
成功。またしても暴風が襲ってくる。
今度はうまく風を読み、宗介は手足を器用《きよう》に振りながら、風上に機体を向けた。
地表が迫る。暗視《あんし》センサが捉《とら》えた灰色の画像の中で、広葉樹《こうようじゅ》におおわれた山岳地帯《さんがくちたい》がいっぱいに広がっていく。
あと三〇〇。
二〇〇……一〇〇……五〇……
樹木の天蓋《てんがい》を突《つ》き破《やぶ》り、M6は大地にぶつかった。パラシュートをすぐさま切り離し、姿勢|制御《せいぎょ》。関節から吹《ふ》きだした衝撃吸収剤《しょうげききゅうしゅうざい》の煙《けむり》がぱっと密林《みつりん》の中に広がる。
宗介は機体を操り、前後左右を素早《すばや》くパッシブ・センサで走査《そうさ》した。敵影《てきえい》はなし。見える熱源《ねつげん》は、いきなり鋼鉄《こうてつ》の巨人が落ちてきたことに驚《おどろ》いた夜行性《やこうせい》の動物たちが、あわてて逃げていく姿《すがた》だけだ。
着地成功。
「ふー……」
宗介はすべての安全を確認《かくにん》してから、大きく息をついた。
いま、宗介のM6A3は密林に黒い塊《かたまり》となってうずくまっている。はげしい風と雨が装甲《そうこう》を打ち付ける中、ガスタービン・エンジンがくぐもったうなり声を発していた。
GPSで現在地を確認する。目標の邸宅《ていたく》から二〇キロ北西の山中だ。
このまますみやかに南下して、目標の一〇キロ手前から無音駆動《むおんくどう》に切り替《か》える。可能な限り近づいていって、敵に察知《さっち》されたと見たら最大出力で突進《とっしん》する。最優先《さいゆうせん》目標は起動前《きどうまえ》の <コダール> タイプ三機だ。搭乗者が乗り込む前に破壊《はかい》することさえ出来《でき》れば、ラムダ・ドライバなど恐《おそ》れるには足りない。
本当に三機だけならば、だが。
レモンたちは別の地点に待機《たいき》している。宗介が突破口《とっぱこう》を開くと同時に、ヘリで目標の邸宅に急行《きゅうこう》し強行着陸、歩兵部隊《ほへいぶたい》で制圧《せいあつ》するという手筈《てはず》だ。
そうスムーズに行くとも思えなかったが、他に手段《しゅだん》はなかった。直接、邸宅上空から降下・奇襲《きしゅう》するプランもあったが、その前に輸送機《ゆそうき》が対空《たいくう》ミサイルの餌食《えじき》になる可能性《かのうせい》が大きすぎた。海からの侵入《しんにゅう》も同様だ。海岸からの見通しが良すぎるので、八キロ以上の彼方《かなた》から赤外線《せきがいせん》センサで接近《せっきん》を察知されてしまうことだろう。
(せめてM9があれば……)
<ミスリル> の使っていたM9なら、もっと柔軟《じゅうなん》な作戦も立てられただろうが、あいにくこれ以上の贅沢《ぜいたく》は望むべくもなかった。敵に察知され、なおかつ <コダール> タイプが起動していた場合は作戦を中止し撤退《てったい》するしかない。そうなればもちろん敵は警戒《けいかい》を強めるだろうし、短期間であの邸宅を放棄《ほうき》してしまうだろう。
ナムサクでの戦いと、そこから導《みちび》き出されたクラマのヒント――そうしたすべてが水泡《すいほう》に帰《き》することになる。
すべて一からやり直しだ。かなめも手の届《とど》かないどこかに行ってしまう。
いや――そもそも、本当にあの邸宅にかなめがいるのだろうか? それどころか、本当に彼女は生きているのだろうか? 生きていたとして、あの邸宅にいたとして――彼女の心にまだ俺はいるのだろうか? 俺でさえ、ナムサクで迷《まよ》い彼女の記憶《きおく》を失いかけた。時間とは、距離《きょり》とはそうしたものだ。もし彼女があの男の腕《うで》の中にいたら? 迷惑《めいわく》そうな顔をされたら? 哀《あわ》れむように、『もう探さないで』と言われたら?
作戦のあれこれとは異《こと》なる、言いようのない不安《ふあん》と焦燥《しょうそう》が、彼の胸をしめつける。クラマに撃《う》たれた傷跡《きずあと》がずきりと痛んだ。
(いや……)
知ったことか。こんな葛藤《かっとう》はもう飽《あ》き飽きだ。
いまやるべきことは何か?
敵の警戒|網《もう》を騙《だま》しながら、密《ひそ》かに、確実《かくじつ》に接近することだけだ。この機体を最良の形で操り、目的を遂行《すいこう》しなければならない。
「行くぞ」
そうつぶやき、宗介はM6A3を前進させた。当たり前のことだったが、機体の制御システムはなにも答えなかった。
本気になっていじってみたが、そのノートPCからはネットワーク機能《きのう》が完全に削《けず》り取られていた。ソフトウェアではなく、通信のためのハードウェア自体がごっそり取り除《のぞ》かれているのだ。わざわざ苦労して筐体《きょうたい》の中身を開いた挙《あ》げ句《く》、かなめはそう結論《けつろん》するしかなかった。
まあ、当たり前だろう。
そうでもなければ、いまの自分に――降参《こうさん》したとはいえ決してアマルガムに協力的ではない自分に、重要情報の詰《つ》まった電子|機材《きざい》を与《あた》えるわけがない。外部のだれかに自分の居場所《いばしょ》を伝える手段《しゅだん》をあれこれ検討《けんとう》してみたが、そんなものは見つからなかった。脱走《だっそう》しようにも、邸宅の周囲にはあの <アラストル> がうろうろしてるし、その目を盗《ぬす》んだところで逃《に》げ切れるわけでもない。
夜のテラスで満天の星々を眺《なが》め、うろ覚えの三角法でおおよその緯度《いど》は把握《はあく》した。北緯《ほくい》一五度四〇分。大雑把《おおざっぱ》な世界地図くらいなら邸内にもあったので、その緯度で合致《がっち》するこの海岸を推測《すいそく》してみる。インドかアラビア半島かメキシコ南部のどれかだろうが、おそらくはメキシコ南部だ。
自分の現在地が分かったところで、ここから逃げる足しになるわけでもなかったが、それだけでも小さな達成感《たっせいかん》はあった。その気になれば、すぐにこれくらいは調べられたのに。なぜ自分はこんな簡単《かんたん》なことさえ実行に移《うつ》さなかったのだろう?
かなめはそれから邸内のあちこちを歩き回り、これまで気にもしなかったあれこれを注意深く観察《かんさつ》するようになった。どこかに逃げるヒントがあるかもしれない。利用できる何かがあるかもしれない。そう思うようになっていた。
逃げてどうなるの? それからどこに行くつもり?
いつもその気持ちが頭のどこかにあった。そう。逃げたところで、行くところなどないのだ。
だがそんな考えがどんどんふくらんできたとき、かなめはすぐに頭を振《ふ》ってプールに向かった。水着に着替《きが》えて飛び込んで、一〇往復《おうふく》もすると、すこしは気分が楽になった。
邸宅の人々はかなめの変化に気付きつつあるようだったが、彼女はとりたててそれを隠《かく》そうとはしなかった。どうせ自分がどんな状態《じょうたい》だろうと、この鳥かごの鉄格子《てつごうし》が広がるわけではないのだ。
そんなある日、あの男が邸宅に来た。アンドレイ・カリーニンだ。
<ミスリル> のものとおぼしき第三世代型ASを空輸《くうゆ》してきて、レナードと中身を確認してから解体《かいたい》してしまうのを、かなめは邸宅の窓から見たのだ。
なぜ彼がここに? 裏切《うらぎ》ったのか? それとも寝返《ねがえ》ったふりをしているのか?
この出来事《できごと》はかなめの心を大きく揺《ゆ》さぶったが、あのロシア人と直接話す機会《きかい》はそれから数日、一度もなかった。会ったとしてもなにを話したらいいのか思いつかなかったし、カリーニンは一日のほとんどを外で部下たちと過ごしている様子《ようす》だった。
敷地内《しきちない》の防備《ぼうび》と警戒態勢の見直しを行っている。部下たちの作業の断片的《だんぺんてき》な様子を観察して、かなめはそう推理《すいり》した。
なにか異変《いへん》が近づいている。彼女は漠然《ばくぜん》とそう感じていた。
その予感が現実となったのは、カリーニンが現れた数日後、嵐《あらし》の夜のことだった。
屋外では風が吹《ふ》き荒《あ》れ、大粒《おおつぶ》の雨が窓を叩《たた》き続けている。海岸にうち寄《よ》せる波の音がくぐもって轟《とどろ》き、ごろごろと不吉なうなり声となって寝室《しんしつ》に響《ひび》いていた。
かなめがベッドに寝ころんで読書にふけっていると、レナード・テスタロッサが彼女の部屋を訪《おとず》れた。
「何の用?」
つっけんどんにかなめは言う。いつもなら、彼女がこうした態度《たいど》を取ると彼は微笑《びしょう》を浮《う》かべて肩《かた》をすくめるのだが、今夜は違《ちが》った。レナードは笑いもしないし、戸口に立ったまま身じろぎもしない。
「身支度《みじたく》をして欲《ほ》しい。きょうか明日……とにかく近い内にここから離《はな》れる」
「どうして?」
「いろいろとね。事情《じじょう》が変わったんだよ」
「その気があるんだったら、その事情とやらをあたしに説明してくれない?」
レナードは黙《だま》っていた。彼は自身の考えや本音《ほんね》をほとんど表に出さない。この時も同様《どうよう》だった。ただその場に立って、だれにものぞくことのできない胸の内で、なにかをゆっくりと吟味《ぎんみ》しているようだった。
「そう」
ベッドの上であぐらをかいた格好《かっこう》のまま、かなめはそっけなく言った。
「話す気がないならそれでもいいわよ。あなたは相変《あいか》わらず、あたしを人形か小鳥みたいに扱《あつか》うんだっていうことなんだろうから。まあ、それだったらこっちもそういう態度しか取りようがないでしょうね」
「そういうわけじゃない。君に余計《よけい》なことを話して、あれこれと煩《わずら》わせるのもどうかと思っているだけさ」
「それが人形扱いなのよ」
軽くのびをする。苛立《いらだ》ちに似た感情がわいてきて、彼女の声は自然と辛辣《しんらつ》になってきた。
「あたしはテッサみたいに物分《ものわ》かりが良くないわよ? あんたがどれだけ優秀《ゆうしゅう》だろうとハンサムだろうとお金持ちだろうと、それだけでなにかを委《ゆだ》ねるほど利口《りこう》じゃないの」
「それは妹も同じだよ」
「でしょうね。あたしが言ったのは、昔のあの子の話。いまのあの子はあんたに真《ま》っ向《こう》から逆らってる。だったらあたしがこんなことを言うのも、よくわかるでしょ?」
彼は否定《ひてい》も肯定《こうてい》もしなかった。
「答えないのね。最近思うようになったんだけど、あなたってひょっとしたら、ものすごく臆病《おくびょう》なんじゃない?」
すこしの間を置いてから、彼は自嘲気味《じちょうぎみ》につぶやいた。
「そうだね。それは言えてるかも」
まただ。おきまりのわけ知り顔の白旗《しろはた》だ。
だが彼女はそれでも容赦《ようしゃ》しなかった。
「そうやって『わかってるよ』って顔するのがカッコいいと思ってるの? そこいらの人が相手なら、まあそれも結構《けっこう》だけど。あたしにもそういう調子なわけよね。で、それでいいわけ?」
「……もし僕がなにかを話したとして、それで君の態度が変わるとも思えないけどね」
「よく分かってるじゃない」
嘲笑《ちょうしょう》するように言ってやる。可能な限りいやらしく、にくたらしく。
「だからあたしを苦しめるわけ? 閉じこめて、なにもかも奪《うば》って、微笑みながら見ているだけ? それでいつかは白旗をあげるってこと? まあ、あたしも別に超人《ちょうじん》じゃないから、いずれはそうなるかもしれない。だとして――もしそうなったとして――あんたはそれで満足なの?」
「…………」
「隣《となり》のクラスにね、すっごいキモい男子がいたわ。体重が一〇〇キロくらいあって、いつもフウフウ汗《あせ》かいてて、しょっちゅうあたしとか色んな女子をニヤニヤしながら見てた。ストーカーみたいなこともしてたらしいし、監禁《かんきん》とかロリコンとかのやらしい本をたくさん持ってるなんて話も聞いたことがある。どこまで本当かは知らないけどね。とにかく、そういうタイプ。何考えてるのか全然わからない奴《やつ》。……さて問題です。そのキモい男子と、あんた。どちらかと付き合わなきゃならなくなったとして、あたしはどちらを選ぶと思う?」
やはり彼は答えなかった。ただ無表情《むひょうじょう》のままで、その場に棒立《ぼうだ》ちしていた。
「聞いてんのよ。どっちだと思う?」
「悪趣味《あくしゅみ》な質問はよしなよ」
「答えなさい」
「下品《げひん》なたとえはいいから、話の続きをさせてくれないかな」
「だめよ」
彼女はきっぱりと言った。
「聞いて驚《おどろ》きなさい。あたしは真剣《しんけん》にこの命題《めいだい》を一日かけて考えたんだけど――本当に分からないの[#「本当に分からないの」に傍点]。つまるところ、あんたとあのキモい男子の違いは、イケメンかブサイクか、ただそれだけなのよ。どう? ありていに言って、あんたのやってることって、それくらい気色《きしょく》悪いの。……ソースケがあたしの前に現《あらわ》れたとき、あいつはかなりキモい奴だったわ。でもあんたとは違った。あいつはヘラヘラ笑ったりしなかった。どんなことがあっても、まっすぐな目でなにかと戦っていた。いまのあんたみたいに、そういう何もかも見透《みす》かしたような態度で、あたしを見つめたりしなかった。そうよ――彼はいつでも真剣だった」
「いい加減《かげん》にしてくれないか」
ゆっくりとした足取りで彼が近づいてきた。
いつも通りの優美《ゆうび》な物腰《ものごし》だったが、その声は低く、冷たかった。
「僕はいつでも真剣だよ」
「そうは見えないわね。あたしのこと好きだって言ってたでしょ? あれマジなの?」
「ああ」
「なんで? あたしのどこが好きなわけ? わかりやすく答えてくれない?」
「それは前にも言ったはずだ」
「ラブホの屋上で? あんなの説明になってないわよ。けっきょくのところ、人を好きになるってことが本当は自分でもよく分かってないんじゃない? そんな調子だからテッサにもそっぽ向かれたのよ」
ポケットの中に隠《かく》れたレナードの拳《こぶし》に、力がこもった。だがその変化《へんか》に気づくこともなく、かなめは続けた。
「あなたはイヤミでカッコばかりで、だれにも心を開いてない。女をモノとしか見ていない。ひょっとしてよくあるあれ? 親の愛が足りなかったとか?」
いきなりレナードが彼女の両肩をつかんだ。華奢《きゃしゃ》で繊細《せんさい》な体つきに似合《にあ》わず、驚くような握力《あくりょく》だ。まともな抵抗《ていこう》もできないまま、かなめはベッドに押《お》し倒《たお》された。
「じゃあ教えてやるよ。僕の目を見ろ」
「なにを――」
「見るんだ」
視界《しかい》いっぱいに彼の顔が迫《せま》った。端整《たんせい》な相貌《そうぼう》が押し殺した激情《げきじょう》に震《ふる》えている。かなめの本能《ほんのう》がどこかで『見るな』と告げていた。
しかし、彼女は見てしまった。
灰色の瞳《ひとみ》のもっと奥《おく》、光では捉《とら》えられないなにかが、彼女の心に流れ込んできた。
思考《しこう》の奔流《ほんりゅう》。あの『共振《きょうしん》』だ。
「…………っ!」
雷《かみなり》にでも撃《う》たれたように、かなめは背中を弓なりに反らせた。これまで経験《けいけん》してきたような茫洋《ぼうよう》としたものではなく、もっとはげしく、荒々《あらあら》しく、それでいて陰鬱《いんうつ》なイメージだった。
かなめは火事の中にいた。
燃え上がる廊下《ろうか》。煙《けむり》が渦巻《うずま》き、刺激臭《しげきしゅう》が鼻をつく。炎《ほのお》の色は灰色だった。小さな女の子が泣いている。断続的《だんぞくてき》な銃声《じゅうせい》が響《ひび》き、だれかの怒鳴《どな》り声と悲鳴《ひめい》が耳の中に響く。
この家は襲撃《しゅうげき》を受けているのだ。
(二人を地下室へ連れて行け)
男が叫《さけ》んでいた。
(無理《むり》だわ。すぐに見つかってしまう)
女は取り乱《みだ》し、泣いていた。
(もうすぐジェリーたちが助けにくる。一〇分でも持ちこたえれば……。行くんだ、マリア。僕は南側で敵を防《ふせ》いでいるから)
(待って、カール。そばにいて)
(だめだ。行け)
(お願いよ)
しかし男は行ってしまう。女は二人の子供を抱《だ》いたまま、ほとんど憎悪《ぞうお》ともつかない声でこうつぶやく。
(いつもそう。だからわたしは――)
ほかの男たちと。
瞬間的《しゅんかんてき》に吐《は》き気を催《もよお》すような光景《こうけい》がまたたいた。ベッドの上で絡《から》み合う、なまめかしい人と人。耳を塞《ふさ》ぎたくなるような、醜悪《しゅうあく》なあの声。その男が義務《ぎむ》を果たしに遠い海にいってしまったとき、女はいつも溺《おぼ》れていた。人前では貞淑《ていしゅく》な妻だったが、なに食わぬ顔でそうしていた。幼《おさな》い彼はそれを知っていたのだ。その目でいつも見ていたのだ。
銃声が近くなった。
女はおびえ、煙にむせび、子供たちを連れて地下室へ走る。階段を降りて、山積《やまづ》みになった木材や園芸《えんげい》用品の奥へ。
階上で銃声がした。誰《だれ》かが倒れた音。知らない男たちが階段を下りてくる。荒々しい足音がこちらに迫《せま》る。
(かくれて)
女が――母親が子供たちに言った。泣きじゃくる女の子を木箱の山の奥に押し込み、その上からぼろぼろの毛布《もうふ》を詰《つ》め込む。足音はすぐそこだ。残ったもう一人の子供――男の子の方を隠している時間はない。
母親と男の子の目があった。
その女の醜《みにく》い表情を、かなめは一生忘れることはできないだろう。
焦燥《しょうそう》。逡巡《しゅんじゅん》。そしてなにかの嫌悪《けんお》。
この子はわたしの裏切《うらぎ》りを知っている。
いつもわたしを責《せ》めている。わたしを淫売《いんばい》だと思っている。その薄気味《うすきみ》悪いほど優《すぐ》れた頭脳《ずのう》で、わたしを軽蔑《けいべつ》している。
(母さん……?)
男の子は言ったが、母親は答えなかった。
美しい女だったが、眉《まゆ》をひそめ、自身の息子《むすこ》から目をそらしたその顔は、ひどくリアルで生々しかった。そう極端《きょくたん》に歪《ゆが》んだわけではない。
むしろ逆だ。ただ、目をそらしただけ。
だからこそ彼女の意思《いし》は決定的《けっていてき》で、それがなにかの運命を完全に狂《くる》わせてしまった。
男たちが来た。
手には黒光りする自動|小銃《しょうじゅう》。
(もう一人の子供は?)
男が言った。
(親戚《しんせき》の家よ。どうか、助けて――)
母親は息子の両肩をつかみ、彼らの前に差し出した。まるで懐《ふところ》から取り出した財布《さいふ》を、強盗《ごうとう》に差し出すかのように。
その絶望《ぜつぼう》と虚無感《きょむかん》。
痛切《つうせつ》なすべてが胸の中へと流れ込んできて、かなめの心をかき乱した。
それから先のことはもう、どうでもよかった。
何秒間、いや何分間そうしていたのだろうか。かなめが意識《いしき》を取り戻《もど》すと、レナードはもう彼女から離《はな》れていて、部屋の片隅《かたすみ》の椅子《いす》に腰かけていた。
「っ…………」
仰向《あおむ》けに横たわっていたキングサイズのベッドから身を起こす。まだ息が荒かった。かなめは自分の背中がぐっしょりと汗《あせ》に濡《ぬ》れていることに気づいた。
窓に打ち付ける雨の音が、やけに耳に残る。
「妹も知らないことだよ」
レナードはぼんやりと言った。
「だからって……」
彼女は喉《のど》を絞《しぼ》った。
「……だからって、なによ?」
悲しい過去《かこ》だの、辛《つら》い経験だの。そんなのは誰《だれ》だって背負《せお》ってるじゃないか。宗介だってそうだ。あたしも。それは確《たし》かに気の毒《どく》だけど、だからといっていま、こうして人の運命を弄《もてあそ》んで、微笑《びしょう》を浮《う》かべている理由にはならない。
かなめのそうした想《おも》いがよく分かっている様子《ようす》で、レナードはため息をついた。
「普通《ふつう》の人間に言葉で伝えたなら、せいぜいそんな反応《はんのう》だろうね。でも君は違《ちが》う。だからこうして伝えた。分かってるだろう。もう他人事《ひとごと》じゃないって」
その通りだった。もう他人事ではなくなってしまった。あのダイレクトな痛み、悲しみ。彼女自身が同じ経験をしたも同然なのだ。
ひどい吐き気がした。
何度も咳《せ》き込み、どうにかこらえて、シーツを汚《よご》さずに済んだ。
なぜだろう。小さいころ、河原《かわら》で大きめの石をひっくり返したときの光景を思い出した。石の裏側にはミミズやムカデや、そうした醜い虫どもがひしめき、うごめいていた。ひどい虚飾《きょしょく》が、欺瞞《ぎまん》があちこちにはびこっている。信頼《しんらい》や愛情や友情や正義や、そうした美辞麗句《びじれいく》がすべてむなしく感じられた。
人間は汚《きたな》い。
誰も彼も嘘《うそ》ばかり。隠《かく》し事だらけ。
それが肌《はだ》で実感《じっかん》できた。
「別に同情して欲《ほ》しくて教えたわけじゃない」
レナードは静かに言った。
「トラウマを理由に自分を正当化《せいとうか》する気もない。僕は考え、行動《こうどう》している。自分の意思《いし》で。母の呪縛《じゅばく》など関係ない」
「だったら、なぜ……」
「君の言ったとおりに心を開いた。ただそれだけだよ」
「…………」
彼は立ち上がり、彼女に背を向けた。
「殺した、殺されたってのは最悪だけどね。世の中には違う種類《しゅるい》の最悪もあるってことさ。伴侶《はんりょ》や家族に裏切られること、拒絶《きょぜつ》されることは、死なれることよりもはるかに辛い。その点、僕の父は何も知らなかったんだから気楽《きらく》なものだよ。模範的《もはんてき》な軍人、模範的な指揮官、模範的な夫として、愛する家族――無垢《むく》だと信じる家族を守って死ねたんだから。格好《かっこう》よく、英雄的《えいゆうてき》に」
「そんな……」
「と、まあ……僕が君の言うように『ヘラヘラ笑ってる』んだとしたら、そういう気分のせいかもしれない。ロマンチックな世界の住人はのんきだね、と。そんなところかな」
「でも、わからない」
かなめは言った。いつも彼に接するような刺々《とげとげ》しさは、もうかき消えていた。
「そんなあなたが、なぜあたしを?」
「さあ、なぜなんだろう」
ぽつりと言ってから、彼は部屋を出て行った。その間際《まぎわ》に、付け加えた。
「とにかく身支度《みじたく》を急いで欲しい。君に見せたいものもあるからね……」
そのとき、部屋の窓ガラスや調度類《ちょうどるい》が強く、小刻《こきざ》みに震《ふる》えた。
嵐《あらし》の音ではない。これは遠くの爆発音《ばくはつおん》だ。
宗介が順調《じゅんちょう》に近づけたのは一〇キロの距離《きょり》までだった。
M6A3を無音駆動《むおんくどう》に切り替《か》えて、目的地の邸宅《ていたく》まで接近《せっきん》していくと、予想通り敵の警戒《けいかい》システムに遭遇《そうぐう》する。
対ECSレーダ、赤外線《せきがいせん》センサ、感圧《かんあつ》センサ、ごく単純《たんじゅん》なワイヤーなど、あれやこれやだ。M6の電子|兵装《へいそう》でぎりぎり欺瞞できる種類のものも多かったが、対ECSレーダやいくつかのセンサは大きく迂回《うかい》して避《さ》ける必要があった。
せめてあと二キロはひそかに接近したい。
そう思って警戒|網《もう》をどう進むか攻《せ》めあぐねているときに、その爆発音がした。
「…………?」
遠いようだ。およそ四キロ北東。
密林のただ中で宗介は機体を停止《ていし》させ、左|腕《うで》に収納《しゅうのう》されたペリスコープを頭上にかかげた。するすると伸縮式《しんしゅくしき》のセンサが伸《の》び、樹上から爆発の方角に向けられた。
風雨の荒《あ》れ狂《くる》う夜の空に、爆発と熱源の痕跡《こんせき》。
おそらくヘリか何かの航空機《こうくうき》が、警戒システムの対空|攻撃《こうげき》を受けて撃墜《げきつい》されたのだ。
(まさか、レモンたちが……?)
一瞬《いっしゅん》ためらったものの、彼はすぐに専用チャンネルの無線《むせん》で呼びかけてみた。ミシェル・レモンがのんきな声で応答《おうとう》し、まだ所定《しょてい》のポイントで待機《たいき》していると告げた。
『爆発音? どういうことだ?』
「わからん。いま調べている」
撃墜されたのはレモンたちではない。では、どこの所属機《しょぞくき》だろうか?
(ペリスコープのセンサでは……)
おもに市街戦《しがいせん》で使う近距離向けの小型センサでは、それ以上の情報は集めようがない。嵐のせいで視界《しかい》もかなり悪い。そうこうしているうちに、最初の爆発の近くでまた動きがあった。今度は地上だ。密林の木々が炎《ほのお》に照《て》らされる。
警戒網の対空砲《たいくうほう》が破壊《はかい》されたのだ。
おそらく撃破された航空機側の勢力《せいりょく》がASを地上に投下《とうか》し――
「戦闘《せんとう》が起きている」
『なんだって? いったい誰が?』
密林に瞬《またた》くいくつもの砲火《ほうか》。なにかがばっと樹木の天蓋《てんがい》を突《つ》き破《やぶ》り、空中に躍《おど》った。あれはASだ。戦闘機動で跳躍《ちょうやく》したのだろう。滞空《たいくう》時間はそれほど短くなく、すぐに視界《しかい》から消えた。
「M9だ」
センサのとらえたデータをマニュアル操作でプレイバックして拡大《かくだい》し、宗介は結論《けつろん》した。
間違《まちが》いない。あのスマートなシルエットはM9 <ガーンズバック> 以外はありえない。M9が、こんな場所で戦っている。いったいどこの勢力だろうか?
『 <ミスリル> の残存《ざんぞん》兵力が攻撃を?』
無線の向こうでレモンが言った。彼らが知る限り、M9を実戦《じっせん》で使っていたのは <ミスリル> だけだ。
「わからん。だが考えにくい」
『なぜ?』
「俺のM6ですらここまで見つからずに来れたんだ。次世代型のM9の性能《せいのう》なら、もっとましな作戦と隠密《おんみつ》接近ができるはずだ。だれにせよ、M9を使い慣《な》れてる <ミスリル> の要員《よういん》があんなミスをやるとは思えない」
それにあのM9は細かい仕様《しよう》が <ミスリル> のものとは違っていた。頭部センサのタイプや、肩部装甲《けんぶそうこう》の形。それに装甲|厚《あつ》も彼の知っているM9より大きそうだ。そして動きが若干《じゃっかん》のろい。あの機体|特有《とくゆう》の、動きのシャープさがない。
『だったら――』
『たぶん米軍じゃな』
レモンの横から、ほかの声が割《わ》り込んだ。このM6A3を持ってきてくれたシールズ大佐《たいさ》だった。
『陸軍の連中だろう。デルタ・フォースの強襲機兵《きょうしゅうきへい》チームには、もうM9が配備《はいび》されとるはずじゃ。公《おおやけ》にはなっとらんがな』
『なんですって? でもなんだってまた彼らがここを――』
『わしらでさえ突き止めたんじゃ。連中が知らない理由もなかろう。まったく無茶《むちゃ》しおってからに……』
なにしろ同じ祖国《そこく》の同胞《どうほう》だ。シールズの声にはそのM9部隊の身を案じるような響《ひび》きがあった。
だが独断専行《どくだんせんこう》をしているレモンたちはともかく、アメリカ軍が <アマルガム> の拠点《きょてん》を攻撃することが奇妙《きみょう》だった。なにしろ <アマルガム> にはそうした正規軍《せいきぐん》の手足を封《ふう》じる政治的な力がある。彼らの狙《ねら》い、作戦目的などがはっきりとしない。
『説明が付かないことが多すぎる。ソースケ、作戦は中止しよう。ヤバい感じだ』
「ああ、だが……」
レモンの言う通りだったし、トラブルの際の作戦中止は視野《しや》に入れていたが、それでも宗介は迷った。
『だが、じゃないだろ? これだけの騒《さわ》ぎが起きたら、敵も例の <コダール> タイプを起動《きどう》させようとしているはずだ。目標に近づいても撃破《げきは》できる見込みはまったくない』
作戦直前に入った衛星《えいせい》からの新たな画像で、あの邸宅には <コダール> タイプがいることがはばはっきりしていた。機影《きえい》が見えたわけではなかったが、雨のあとの海岸や未舗装《みほそう》の敷地内《しきちない》に特徴的《とくちょうてき》な第三世代型ASの足跡《あしあと》があったのだ。
やはり撤退《てったい》すべきか?
普通《ふつう》に考えればそのはずだった。しかし、ここであきらめたら、あの邸宅にいるかもしれない彼女が――
「待機していろ。俺は強襲をかける」
それ以上考えることもなく、宗介は告げていた。北朝鮮《きたちょうせん》での事件以来、すっかりおなじみになった『不合理《ふごうり》』という名の病気だ。だがここまできたら、いまもっとも大事なのは時間である。突っ込むと決めたのならば早くしなければ。
宗介は機体の無音駆動を切り替え、APU(補助《ほじょ》パワーユニット)の電力からガスタービンを再起動《さいきどう》させた。
「敵の注意はあのM9部隊に注《そそ》がれている。やりようによっては隙《すき》もつける」
『引き返せ、ソースケ! 無茶だ!』
「心配するな。無理そうなら引き返す」
そう答えながら、宗介はなにか言い知れない胸騒《むなさわ》ぎを覚えていた。なにかがこの先に待っている。そう感じていた。
はげしく装甲をたたく雨の音。濃密《のうみつ》な木々をかきわけ、機体をはばまっすぐに走らせる。枝が、葉が舞《ま》い散《ち》り、エンジンの咆哮《ほうこう》があたりに響き渡《わた》る。敵の警戒網《けいかいもう》については、この際《さい》なので最低限の注意で済ませた。いまはなによりも時間が惜《お》しい。
(千鳥《ちどり》――)
いるかどうかはまだ分からない。だが、なにかの手がかりはつかめるかもしれない。それになぜだろうか。いるような気がする[#「いるような気がする」に傍点]。近くで彼女が待っているような気がする。それはウィスパードがどうとかいった話とは無関係の、本能的《ほんのうてき》な直感、合理的《ごうりてき》には説明のつかない嗅覚《きゅうかく》のようなものだった。
デジタルマップの表示では、邸宅まであと二キロ。
この位置からでは小高い丘状《きゅうじょう》の地形が邪魔《じゃま》になって目視《もくし》できなかったが、あとすこしだ。このまま突っ込んで時計回りに敷地を駆けるつもりだった。外部スピーカーで名前を呼べば――彼女が姿を見せるかもしれない。どこかから呼びかけてくれるかもしれない。彼女を奪《うば》うことさえできれば、あとは全速で脱出《だっしゅつ》して――
アラーム音。
八時方向。距離《きょり》三〇〇。
「!」
M6の反応《はんのう》速度では、回避《かいひ》は間に合わない。機体を振《ふ》って肩部を向け、防御姿勢《ぼうぎょしせい》をとるので精一杯《せいいっぱい》だった。
がつん、と強い衝撃《しょうげき》。
機体が揺《ゆ》れる。コックピットが震《ふる》える。左後方から何発かの砲弾《ほうだん》が飛来し、肩部装甲に当たってはげしい火花を散らした。
サーマルセンサが捕《と》らえた熱源のパターンは、斜面《しゃめん》を高速で二足歩行する俊敏《しゅんびん》なヴィークルを示《しめ》していた。
つまりASだ。
(さすがに甘《あま》かったか)
宗介は舌打《したう》ちしてデータを吟味《ぎんみ》する。M9だったらすぐに機体のタイプを教えてくれるところだったが、この機体はそこまで強力なAIを積《つ》んでいない。
相手は第三世代型だった。おそらく <コダール> タイプだ。
いきなり出くわしてしまった。もう作戦の継続《けいぞく》は無理だ。せいぜい全装備と技能を総動員《そうどういん》して、逃《に》げることが精一杯だろう。
かなめの奪還《だっかん》など論外《ろんがい》だ。
歯がゆい。無念《むねん》だ。だがあきらめるしかない。
さらにアラーム音。
敵 <コダール> が発砲しながらこちらに接近してきた。たった一機だけだったが、それでも手に余《あま》る相手だ。しかもあの敵機にはこちらの攻撃《こうげき》が一切《いっさい》通じない。
滝《たき》のような雨の中、地形を利用し、ぎりぎりで敵の射線《しゃせん》を避《さ》けて走る。追い立てるような着弾《ちゃくだん》がM6の周囲で跳《は》ね回った。
(余裕《よゆう》たっぷりだな)
なかばやけくそで手持ちの散弾砲《さんだんほう》を撃《う》ってやると、<コダール> は軽くステップしてこちらの砲弾を『受け止めた』。正面の大気が歪《ゆが》み、機体の手前で砲弾が止まる。けたたましい破裂音《はれつおん》が響き、当たっていたはずの砲弾は粉々《こなごな》に弾《はじ》けとんで燃え上がった。
ラムダ・ドライバだ。
あのいんちきでデタラメな装置《そうち》。なまじその威力《いりょく》を知っているだけに、こうして通常型《つうじょうがた》のASで立ち向かっている自分が馬鹿《ばか》みたいに思えてくる。
「だが……」
逃げるだけなら、まだなんとかなる。
宗介はスティックをなめらかに操作《そうさ》し、機体背部に装備していた発煙弾《はつえんだん》とレーダー妨害《ぼうがい》弾の散布装置《ディスチャージャー》を作動《さどう》させた。筒型《つつがた》の装置に内蔵《ないぞう》されていたロケット弾が大量に飛翔《ひしょう》し、頭上で炸裂《さくれつ》した。まばゆい光と共に大量の煙《けむり》が広がり、あたり一帯をおおい尽《つ》くす。
いま、敵機はこちらを見失っているはずだった。宗介は無音駆動に切り替えて、まっすぐ北へと向かう。彼我《ひが》の位置と距離を勘案《かんあん》すれば、これで相当な距離を稼《かせ》げたはずだ。速度は向こうが上だったが、地形も利用してうまく隠《かく》れながら逃げ切ることは、そう難しくは――
「!」
甘かった。
正面に敵機《てっき》。距離三〇〇。
敵はこちらの動きを読んでいた。先回りされたのだ。
灰色の装甲《そうこう》の <コダール> が、赤い一つ目をらんらんと光らせM6に迫《せま》る。手にしたカービンの砲口《ほうこう》がこちらを向いていた。
発砲。
三五ミリ砲弾が装甲を砕《くだ》き、すさまじい衝撃が宗介を襲《おそ》った。だがまだ動く。機体を振って回避運動。無駄《むだ》だとは分かっていたが、こちらからも射撃して注意を逸《そ》らそうと試《こころ》みる。やはり駄目だ。例の力場《りきば》がこちらの砲弾をすべて弾《はじ》いた。<コダール> が腰《こし》から単分子《たんぶんし》カッターを引き抜《ぬ》く。あと数歩の距離。コックピットを串刺《くしざ》しにするつもりだ。何度撃っても、真正面《ましょうめん》に展開されたラムダ・ドライバの力場はびくりともしない。
だが、その背面は違った。
宗介のすぐ目の前で、<コダール> の背中が爆発《ばくはつ》した。いきなり背後から、大口径《だいこうけい》の砲弾をまともに食らったのだ。
煙を噴《ふ》き上げ、よろめく敵機。まだ致命傷《ちめいしょう》にはなっていないようだった。横っ飛びに回避運動を試み、背中から奇襲《きしゅう》してきた敵を捜《さが》し求める。
その敵機のすぐ横に、一機のASが姿を現した。丘の陰《かげ》に隠れていたらしい。灰色のM9だ。
至近《しきん》距離からの完全な奇襲。
大型の単分子カッター―― <クリムゾン・エッジ> を構《かま》えて、灰色のM9は <コダール> のわき腹めがけて激突《げきとつ》した。耳障《みみざわ》りな金切り声が響き渡り、大量の火花が舞《ま》い散《ち》った。
「まさか……」
そのM9はアメリカ軍のものではなかった。よく知っている、ごく慣《な》れ親しんだ『E系列』の機体《きたい》だった。見間違うはずもない。頭部にブレードアンテナを装備したE系列のM9だ。
中枢部《ちゅうすうぶ》を破壊《はかい》され、くずおれる <コダール> 。その残骸《ざんがい》をぞんざいに突《つ》き飛ばしてから、灰色のM9は彼に向き合い、外部スピーカーから告げた。
『ったくもう……』
女の声だった。
『……ひどい戦いぶり。とても見てられなかったわよ?』
その女の声もまた、宗介はよく知っていた。
メリッサ・マオだ。生きていたのだ。
「マオ」
『ソースケ。やっぱりあんたね』
彼女の声が弾《はず》んだ。
『 <コダール> 相手に冷静《れいせい》な対応、そしてあの機動《きどう》に、その散弾砲《さんだんほう》。ひょっとしたらと思ったんだけど――』
『な、言っただろ!? 絶対《ぜったい》そうだって!』
別の声がした。彼らから八〇メートルほど離《はな》れた高台《たかだい》に、もう一機のM9が姿を見せた。大型・長砲身《ちょうほうしん》の狙撃砲《そげきほう》を持っている。
「クルツか」
『やっぱりおめおめ生きてやがったか。このネクラ男!』
容赦《ようしゃ》のない罵声《ばせい》。間違《まちが》いない。クルツ・ウェーバーだ。彼も生きていたのだ。
「だが、なぜここに――」
『それはこっちが聞きたいところだし、積《つ》もる話もいろいろあるけど。どうやら新手《あらて》が来たみたい』
マオがつぶやき、不意《ふい》に自機《じき》の腰を落とさせた。
『 <コダール> 二機。七時。距離《きょり》二〇。もう奇襲は効《き》かないでしょうね。いまいるのはあたしとクルツ二人だけだけど、やれる、ソースケ?』
「肯定《こうてい》だ」
機体のダメージ制御《せいぎょ》をてきぱきとこなしながら、宗介は答えた。
M9二機にM6一機の混成小隊《こんせいしょうたい》。対するはラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》AS二機。
かなり分《ぶ》の悪い戦力差だ。
だが――
「問題ない。こちらで合わせる」
『へへっ。玄人《くろうと》の味を見せてやろうぜ』
と、クルツが言った。
『上等! いきなりだけど、トリオ復活《ふっかつ》よ!』
と、マオが言った。
彼らに聞きたいことは山ほどあったが、いまはのんびり話している時間がない。まず目の前の敵をどうにかしなければ。
ようやくM6のセンサが敵機の痕跡《こんせき》を捉《とら》えた。
方位は八時。距離は一五〇〇。
事前に細かい指示《しじ》を下してから、マオが告げた。
『さあ、あのクソったれどもに思い知らせてやるわよ! 野郎《やろう》ども! 覚悟《かくご》はいいわね!?』
『いつでも!』
「どこでも!」
クルツと宗介がそれぞれ答える。それを受けて、マオが叫《さけ》んだ。
『OK、散開《ブレイク》!』
三機のASが身構《みがま》え、それぞれの方向へと跳躍《ちょうやく》した。
スクリーン内のシンボルが入り乱れ、夜の山間部《さんかんぶ》に火砲《かほう》の軌跡《きせき》がはげしく飛び交《か》う。
小隊規模でのAS戦闘《せんとう》は、どこかバスケットボールやサッカーの試合《しあい》に似《に》ている。
すべてのユニットが息つく間もなく有機的《ゆうきてき》に動き、フィールド上で絡《から》み合う。それぞれの機体が駆《か》け、跳《と》び、敵の裏をかこうとする。あるときは柔軟《じゅうなん》に、またあるときは強引《ごういん》に。ボールはいわば、戦闘におけるイニシアチブだ。フェイントを織《お》り交ぜ、パスやドリブルが両者から繰り出される。囮《おとり》になっていたはずの一機が、数秒後には致命的《ちめいてき》な攻撃《こうげき》役となって襲《おそ》いかかってくる。
『ウルズ6、アルファを西へ引きつけろ』
マオが叫ぶと、クルツが即答《そくとう》した。
『了解《りょうかい》!』
『ウルズ7はブラボーを連れてそのまま南進。何秒|稼《かせ》げる?』
「一五秒だ」
宗介が答えた。
『頼《たの》むわよ』
「了解」
短いやり取りで最大限の意志疎通《いしそつう》をはかる。
一年前、宗介たちは一機の <コダール> 相手に全滅《ぜんめつ》しかねないほどの苦戦を強《し》いられていた。
だが彼らも、ただ何もせずにラムダ・ドライバ搭載機の影《かげ》におびえていたわけではない。それから彼らはラムダ・ドライバ搭載機相手のセオリーを試行錯誤《しこうさくご》で構築《こうちく》し始め、香港《ホンコン》の事件のころにはあとすこしで <コダール> タイプを仕留《しと》められるところまで戦術《せんじゅつ》を鍛《きた》え上げていた。それから『妖精《ようせい》の目』という力場検出装置《りきばけんしゅつそうち》を手に入れ、さらにそのノウハウを高め、同時に数多くのシミュレーションを重ねてきたのだ。
[#挿絵(img/09_243.jpg)入る]
そうした積《つ》み重ねを経《へ》た結果、いまやマオたちにとって <コダール> は『絶対《ぜったい》に倒《たお》せない敵』ではなくなりつつあった。
もちろん二機を相手にするのは危険きわまりない戦闘だったが、それでももはや『絶望的』な戦闘ではなくなってきたのだ。
しかもこの三人だ。
マオとクルツ、そして宗介はAS戦闘における小隊戦術の呼吸《こきゅう》やリズムを徹底的《てっていてき》に知り尽《つ》くしたチームであり、またこの世界中で――おそらくラムダ・ドライバ搭載型ASとの交戦経験がもっとも豊富《ほうふ》な操縦兵《そうじゅうへい》たちだった。
(腕《うで》は落ちてないようだな――)
マオとクルツの動きを横目で見ながら、宗介は思った。もっとも、M6に乗っているこちらの動きがいちばん鈍《にぶ》い。こればかりはどうにもならないことだった。
他の二人が次にどう動くか、宗介は手に取るようにわかる。
迫《せま》ってきた敵ASに小技《こわざ》を繰《く》り出し逃《に》げながら、少しずつ――少しずつ注意を逸《そ》らしていく。逃げたと思ったところで、反転するなり別の二機と同時に手厳《てきび》しい攻撃を叩《たた》きつけていく。
クルツ機とマオ機の『妖精の目』からリアルタイムで送られてくるデータのおかげで、敵のラムダ・ドライバの発動《はつどう》タイミングは手に取るように検知《けんち》できた。
二機のうち一機が狙《ねら》い通りの地点に飛び込んできた。
囮役になった宗介のM6に <コダール> が迫る。散弾砲を撃《う》つと、敵は力場でそれをはじく。クルツ機が射撃《しゃげき》し、これもはじかれる。敵も別方向からの攻撃を警戒《けいかい》している。そう簡単《かんたん》に不意打《ふいう》ちはできない。
敵機が宗介に発砲する。衝撃《しょうげき》。盾《たて》にした散弾砲が真っ二つになる。
攻撃|手段《しゅだん》を失ってしまったにもかかわらず、宗介は短く叫んだ。
「俺がやる」
それだけで二人は彼の意図《いと》を察《さっ》した。
マオたちが <コダール> めがけて肉薄《にくはく》し、たて続けに砲弾を浴《あ》びせる。力場がはじく。敵の注意が二機のM9へ向いた。マオ機とクルツ機がほとんど衝突《しょうとつ》しそうな距離まで敵に接近し、高速ですれ違う。
その瞬間《しゅんかん》、マオとクルツはそれぞれの武器を頭上の空中へと放《ほう》り投げていた。
敵からの視点《してん》ならば、一瞬前まで武器を持っていたはずのM9が、いきなり丸腰《まるごし》になったように見えたことだろう。二機が放り投げた二|挺《ちょう》のライフルは、くるくると回って放物線《ほうぶつせん》を描《えが》き――敵の背後で跳躍《ちょうやく》した宗介のM6の両手に、ぴたりと収まっていた。
空中でキャッチしたのだ。
散弾砲を失い、ほとんど脅威《きょうい》ではなくなっていたはずのM6が、二挺のライフルを握《にぎ》って <コダール> の背後に着地した格好《かっこう》になる。
「まず一機」
間髪《かんはつ》いれずに二挺のライフルをまっすぐ構え、全力で射撃する。
くぐもった発射音とほとばしる発射|炎《えん》。無数の四〇ミリ砲弾と数発の七六ミリ砲弾が <コダール> の背中に襲いかかる。装甲《そうこう》が砕《くだ》け、リアクターやコックピットが粉々《こなごな》になり、敵機はほとんど真っ二つになった。
撃破《げきは》するなり宗介はそれぞれのライフルを、仲間の二機に放り投げて返す。
『はっは! 思い知ったか!』
クルツ機がくるりと一回転しながら狙撃砲《そげきほう》を受け取った。
『まだ一機いる! 笑うのはそのあと!』
マオが無造作《むぞうさ》にライフルをつかみ、すかさずもう一機の <コダール> へと牽制射撃《けんせいしゃげき》を始める。三機は止まることなく散開《さんかい》し、戦闘《せんとう》機動で敵をかく乱《らん》し続けた。
残った一機の様子に動揺《どうよう》が見てとれた。まず負けるわけがないと思っていたのに、驚異的《きょういてき》な連携《れんけい》とトリックで僚機《りょうき》が撃破されてしまったのだ。この敵三機は手ごわい。普通《ふつう》の相手ではない――それをようやく察したようだった。
「二人でもやれるか?」
戦闘機勤を続けながら宗介は言った。
『できるとは思うけど、どういうこと?』
マオが言った。
「目標の邸宅《ていたく》にカナメがいるはずだ。探しに行く」
『あそこにカナメが!?』
クルツが言った。
「時間が惜《お》しい。行かせてくれ」
宗介のM6は主兵装の散弾砲を失っている。ここにいても出来ることはあまりない。マオもそう判断したらしく、すぐに応じた。
『わかった。気をつけて。こっちも片付いたら行くから』
「感謝する」
『おい、ソースケ! おめーには色々聞きたいことが山ほどあるんだ。死ぬんじゃねえぞ! 命令だからな!』
「?」
クルツの言葉に宗介は眉《まゆ》をひそめた。
「なぜ命令なのだ?」
『ふふん。俺様が曹長殿《そうちょうどの》だからだ!』
「おまえがか?」
『おうよ』
「よくわからんが、人手不足《ひとでぶそく》が深刻化《しんこくか》している様子だな……」
『…………』
『そーなのよ。もーね、溺《おぼ》れる者は藁《わら》をもつかむというか――』
<コダール> が三人に迫った。ラムダ・ドライバの衝撃波《しょうげきは》が襲い掛かってくるのを、三機はばっと散るようにしてかわす。
『――って、まったり話してる場合じゃなかったわね!』
『そういうこった。行くならさっさと行ってこい!』
二機のM9が迎撃《げいげき》に移る。
「では任せた」
宗介は機体の姿勢を変え、まっすぐに邸宅の方角へと向かった。
戦闘中のマオから『宗介に出会った』と聞かされて、<デ・ダナン> の発令所《はつれいじょ》につめていたテッサは嬉《うれ》しい気持ちとは裏腹《うらはら》に、こうも感じていた。『ああ、やっぱりそうなんだな』と。
相良《さがら》宗介が生きていたのはもちろん嬉しい――とても嬉しい。だが彼がここにいる理由を考えると、すこしだけ胸が痛い。
どこまでも彼女のためなのだ。
その愚直《ぐちょく》さがおかしくもあり、悲しくもある。あの子がそこまで大事なのね、と呆《あき》れるような寂《さび》しくなるような――
いや。
いまさらそんな未練《みれん》の情に心を囚《とら》われるなんてばかげている。いまは作戦に集中しなければ。
これまでテッサは <デ・ダナン> のAI『ダーナ』をフル活用《かつよう》して、レナードの足取りを追ってきた。あらゆる国家の諜報機関《ちょうほうきかん》や監視《かんし》システムをひそかに監視し、すこしでもそれらしい痕跡《こんせき》を見つけたら徹底的《てっていてき》に追跡調査《ついせきちょうさ》させてきた。
その網《あみ》に引っかかったのが、NATO軍の監視|衛星《えいせい》の不審《ふしん》な動きだったのだ。メキシコ南部、ポチュトラ市とニケーロの町の付近一帯《ふきんいったい》。何者か――ごく小規模《しょうきぼ》な組織がその地域《ちいき》を入念《にゅうねん》に調べているのを察知《さっち》したのが数日前のことだった。
その『小規模な組織』はどういうトリックか、アメリカ軍のM6A3を一機だけ調達《ちょうたつ》し、フロリダ北部へ移送《いそう》させていた。そのM6を『ちょろまかした』人物――シールズ大佐の名前を見ただけで、テッサは『彼かもしれない』と思っていた。つまり相良宗介だ。シールズやコートニーとのつながりがある <ミスリル> の関係者といったら、自分とボーダ提督《ていとく》、マデューカス、そして宗介くらいのものだったからだ。
その邸宅が <アマルガム> と関係しており、しかもレナードがいることはほぼ間違《まちが》いなさそうだった。
宗介もどこかから手がかりをつかんでいたのだ。テッサはすぐさま艦《かん》を一八〇度|回頭《かいとう》させ、メキシコ南部の沿岸域《えんがんいき》へと急行した。
そのころには、アメリカ陸軍が動き出していることも察知していた。CIA(アメリカ| 中央 情報局《ちゅうおうじょうほうきょく》)の意向《いこう》を受けて、特殊部隊《とくしゅぶたい》に配備《はいび》されたばかりのM9部隊が、問題の邸宅に派遣《はけん》される動きをつかんだのだ。CIAがどうやってあの邸宅の情報を入手したのかは、まだはっきりとはしていなかった。CIAや米軍が、独自《どくじ》に情報をつかんで行動したかどうかは、疑《うたが》わしいところだったが――
依然《いぜん》、交戦中のマオが無線の向こうで言った。
『現在は <コダール> タイプ一機と交戦中。巡航《じゅんこう》ミサイルの支援《しえん》は?』
「もう射出《しゃしゅつ》しました。データを転送《てんそう》します」
『確認《かくにん》したわ。たぶんやれると思う。ウルズ1は?』
「アメリカ特殊部隊の監視は切り上げて、そちらに急行中です。でも気をつけて」
『わかってる。大丈夫《だいじょうぶ》よ、テッサ』
正面スクリーンに映ったマオ機のシンボルが、はげしく動きながら敵機のシンボルと撃ち合いを繰《く》り広げていた。
嵐《あらし》はなおも激しさを増していた。予備兵装《よびへいそう》のハンドガンを構え、宗介のM6A3 <ダーク・ブッシュネル> はゆるやかな丘陵《きゅうりょう》を全速力で飛び越《こ》える。
事前《じぜん》に集めていた情報の限りでは、目標の邸宅に配備《はいび》されていた <コダール> タイプのASはもういないはずだった。自分とマオ、クルツたちが始末《しまつ》した二機と、現在交戦中の一機。それだけのはずだ。
(あれか……!)
最初に見えたのは暗闇《くらやみ》の中に荒《あ》れる夜の海だった。
そして海岸に面して切り開かれた、広大な敷地《しきち》が広がっている。両翼《りょうよく》で一キロくらいはあるかもしれない。その中心に白い邸宅があった。日本の学校の校舎くらいのサイズで、周囲《しゅうい》にテニスコートやプール、庭園がある。
衛星写真を見て位置関係は頭に叩《たた》き込んでおいた。M6A3のセンサはある程度《ていど》の対戦車、対AS地雷《じらい》を探知することができる。警戒網《けいかいもう》を潜《くぐ》り抜《ぬ》け、宗介はまっすぐ中央の邸宅に向かう。
「レモン、聞こえるか――」
宗介はいまだ待機中のミシェル・レモンに無線で呼びかけた。すぐに応じたレモンへ、手短《てみじか》に <ミスリル> の戦友たちと出会った話をする。
『よくわからないんだけど、それはいいニュースだと考えていいのかな?』
「肯定《こうてい》だ。彼らは信頼《しんらい》できる」
『なるほど。それからこちらもニュースがあるんだ。ついさっきコンタクトしてきた人物がいて、一緒《いっしょ》にそちらに――』
無線にはげしいノイズが入った。嵐で受信《じゅしん》状態が悪い上に、付近一帯には限定的《げんていてき》ながら電波妨害《でんぱぼうがい》がかかっているようだ。
「こちらに、なんだ?」
「――聞こえるか、ソースケ? 僕も判断《はんだん》しかねたんだけど、どうせだから――』
「聞こえない。復唱《ふくしょう》しろ、レモン」
『――もしヤバそうだったら、次の座標《ざひょう》で待機を――』
「なにを言ってるんだ」
『――テインとかいう――予備《よび》の――』
「聞こえない。何の話だ」
『――だから、どんな機――僕も――ないよりはマシだと――』
「レモン?」
『――赤――第三――変な――』
アラーム音。
敷地内に設置《せっち》された二〇ミリ級のセントリー・ガンがこちらに照準《しょうじゅん》していた。自動的に敵に反応する無人の攻撃《こうげき》システムだ。レーダー波を検知《けんち》。宗介は無線機の操作《そうさ》をあきらめ、すぐさまハンドガンで攻撃する。二五ミリ砲弾《ほうだん》を食らってセントリー・ガンが爆散《ばくさん》した。
敵歩兵《てきほへい》の姿は見えない。装甲車《そうこうしゃ》もだ。
いや――
あの等身大《とうしんだい》AS <アラストル> が数機、姿を見せた。植木《うえき》の中から飛び出してきて、腕部《わんぶ》の五〇口径ライフルを発砲《はっぽう》してくる。その程度《ていど》の銃弾《じゅうだん》では、M6の装甲はびくともしない。一機をハンドガンでばらばらにし、もう一機を蹴《け》り飛《と》ばす。生身では手ごわい <アラストル> も、ASにかかれば倒《たお》すのは簡単《かんたん》だ。
外部スピーカーをオンにして、彼は叫《さけ》んだ。
「千鳥」
どこにいるんだ――
「千鳥!」
姿を見せてくれ――
中庭から黒塗《くろぬ》りのセダンが走り出していくのが見えた。庭園の中を突《つ》っ切る石畳《いしだたみ》の道を、まっすぐ北へと向かおうとしている。
(あの車は……?)
ヘリでの脱出《だっしゅつ》が困難《こんなん》だと見たのだろうか?
宗介は機体を車へと走らせ、その行く手にハンドガンで威嚇射撃《いかくしゃげき》した。
「止まれ!」
しかし、車は止まらなかった。左腕部《さわんぶ》の一二・七ミリ機関銃《きかんじゅう》をセミオートに。注意深く狙《ねら》って、ボンネットに数発|撃《う》ちこんでやる。エンジンブロックが被弾《ひだん》すると、たちまち黒い車のボンネットから水蒸気《すいじょうき》が噴《ふ》き出した。右へ左へとよろめいてから、道路の縁石《えんせき》に乗り上げて停止《ていし》する。
「ゆっくりと両手を挙《あ》げて出て来い!」
外部スピーカーで命じると、ドアを開けて運転手が出てきた。両手をあげ、こちらをおろおろと見上げている。
「女は乗っているか」
「し、知らない……」
それだけ言うと、運転手は脱兎《だっと》のごとく逃《に》げ出した。宗介は逃げる男を無視《むし》してセンサを操作《そうさ》し、赤外線モードで車を走査《そうさ》した。後部座席に人間の体温に近い熱源はなかった。
車のサスの沈《しず》み具合《ぐあい》から、まだ数名が乗っている様子にも見えたのだが――
「…………!」
直感が彼を衝《つ》き動かした。とっさにコックピット部分を両腕《りょううで》でかばいながら、機体を後ろへ飛びのかせる。
直後に車が大爆発した。
後部に積《つ》んであった数百キロの高性能爆薬《こうせいのうばくやく》が炸裂《さくれつ》したのだ。猛烈《もうれつ》な衝撃波《しょうげきは》と爆風、そして超音速《ちょうおんそく》の破片《はへん》が襲《おそ》い掛《か》かり、十数トンの機体が吹《ふ》き飛ばされた。人間の尺度《しゃくど》でいったら、数メートル先の目前で手榴弾《しゅりゅうだん》が爆発したようなものだ。
はげしい衝撃がコックピット内の宗介を揺《ゆ》さぶる。機体はもんどりうってから尻餅《しりもち》をつき、そのまま右に倒れて庭園の木々をなぎ倒した。
「…………っ!」
罠《わな》だ。
スクリーンが真っ黒だった。頭部センサが破壊《はかい》された。警告灯《けいこくとう》がはげしく明滅《めいめつ》している。
電力低下。油圧《ゆあつ》低下。
数箇所《すうかしょ》に火災《かさい》発生。コックピットをかばった両腕部の駆動系《くどうけい》がほとんどダウン。冷却装置《れいきゃくそうち》がシャットダウン。姿勢|制御《せいぎょ》用のジャイロにも深刻《しんこく》な故障《こしょう》。制御|系統《けいとう》の正・副二系統があちこちで断絶《だんぜつ》。
あと少し気付くのが遅《おそ》かったら、もっとひどい損傷《そんしょう》を受けていたことだろう。宗介は頭がくらくらするのをこらえながら、てきぱきとスティックとスイッチを操《あやつ》り、ダメージ制御の操作を行った。
予備の光学《こうがく》センサを起動《きどう》。といっても、股間《こかん》部分に取り付けてあるその予備センサは、家庭用ビデオカメラ並みの性能《せいのう》しかない。損傷を受けたときに、最低限の視界を確保《かくほ》して撤退《てったい》するためだけの装備なのだ。もちろん暗視《あんし》機能もない。
とにかくここから離脱《りだつ》しなければ――
まともに動いてくれない両足を駆使《くし》し、どうにか立ち上がろうとする。
だが敵は容赦《ようしゃ》なかった。
どこに隠《かく》れていたのか、何人かの歩兵があちこちから現れ、携行式《けいこうしき》のロケット弾を撃ってきた。狙いすましたような、ごく統制のとれた攻撃だ。損傷を受けていなければ、対人兵装で攻撃するなり回避《かいひ》運動をとるなりで、さばききれるところだったが、いまはとうてい無理だった。
足と腕、それから腰《こし》に被弾。
コックピットの正面装甲にも。
M6A3の正面装甲は対成型炸薬弾仕様《たいせいけいさくやくだんしよう》になっていたため、ロケット弾の燃焼《ねんしょう》ガスがコックピット内に飛び込んでくることはなかったが、それでも制御系と電子系がずたずたにされた。
それ以上は一歩も進むことさえできず、宗介のM6A3はその場に前のめりになって転倒《てんとう》した。
「レモン。聞こえるか?」
機体が行動|不能《ふのう》になった旨《むね》を伝えようと、宗介は遠方《えんぽう》で待機中《たいきちゅう》のレモンに無線《むせん》で呼びかけてみた。
「レモン。こちらは――」
だめだ、無線機も死んでいた。
機を捨《す》て脱出しなければ。
宗介が緊急《きんきゅう》脱出レバーを引くと、爆発ボルトが作動して、破壊された頭部とコックピットの天井《てんじょう》部分が吹き飛ばされた。
ハッチのそばに収納《しゅうのう》してあったドイツ製の小型サブマシンガンを引《ひ》っ張《ぱ》り出して初弾《しょだん》を装填《そうてん》し、発煙弾《はつえんだん》のピンを抜《ぬ》いて機外に放《ほう》り投げる。大破《たいは》した機体の周辺に白い煙《けむり》がたちこめた。赤外線スコープを装備した敵がいれば気休め程度《ていど》にしかならないが、それでもないよりはましだ。
機体に最後の仕掛《しか》けを施《ほどこ》す。
ハッチから這《は》い出し、熱くやけただれた機体から降りる。
そのとき、声がした。
「包囲《ほうい》は完了《かんりょう》している。武器を捨てたまえ」
八時方向。距離《きょり》はおよそ三〇メートル。
おそらくこの邸宅《ていたく》を守備《しゅび》していた指揮官だろう。落ち着いた男の声だった。
(いや……)
この声は?
M6の右腕の装甲《そうこう》の陰《かげ》に隠《かく》れつつ、宗介は用心《ようじん》深く声の方角をうかがった。
たなびく煙の向こう――
邸宅《ていたく》を囲うようにして続く、二階建ての回廊《かいろう》の上、宗介を見下ろす屋根に、野戦服《やせんふく》姿の男が立っていた。大柄《おおがら》な白人だ。灰色の髪《かみ》と髭《ひげ》をたくわえている。彫《ほ》りの深い顔と、射《い》るようなまなざし。
見|間違《まちが》えるわけがない。
その男は――
「少佐《しょうさ》」
両目を見開き、宗介はつぶやいた。周囲の敵への警戒《けいかい》さえ、この瞬間《しゅんかん》は忘れていた。
「……アフガンのあのときを思い出すな、サガラ・ソウスケ」
アンドレイ・カリーニンが言った。
「なっ……」
「また私の勝ちだ。おまえがあの娘《むすめ》に心を奪《うば》われていなければ、この程度のトラップには引っかからなかっただろう」
「少佐? これはいったい――」
いまだに半信半疑《はんしんはんぎ》のまま、宗介は言った。
「見ての通りだ。私は <アマルガム> の人間になった。レナード・テスタロッサと組織に仇《あだ》なす者は、私が実力で排除《はいじょ》する」
「馬鹿《ばか》な。そんな――」
ありえない。よりにもよって、少佐が連中と手を組むなど。なにか別の作戦が進行中なのか? 寝返《ねがえ》ったと見せて、<アマルガム> の中枢《ちゅうすう》に近づこうという――
「あいにくだが、君が考えているような囮《おとり》作戦ではない。私は自分の意志でここに来た、君の敵だ。君が抵抗《ていこう》するなら、躊躇《ちゅうちょ》なく射殺《しゃさつ》を命じる。ここで君を殺さないのは、いくらかの情報が欲《ほ》しいだけにすぎない」
「だとして、なぜです!?」
「君には知る必要がない」
あのいつもの冷然《れいぜん》とした調子のまま、カリーニンは言った。彼がそう言った以上は、なにも説明するつもりはないのだろう。その事実が宗介には痛いほどよくわかっていた。しかし――
[#挿絵(img/09_261.jpg)入る]
「千鳥は? 彼女はここに?」
「いたとして、どうだというのかね?」
「会わせてくれ」
「許可できない。彼女とミスタ・テスタロッサは脱出《だっしゅつ》の準備《じゅんび》中だ。米軍、マオたち、そして君……すべての敵を撃退《げきたい》しつつ あるが、それでもこの場所は知られすぎたからな」
「マオたちが……?」
「武器を捨てろ、軍曹《ぐんそう》」
カリーニンが片手を挙げた。彼の部下たちがそれぞれの武器を宗介に向けた。
「言うとおりにした方がいいと思うよ」
新たな声。カリーニンの背後から、レナード・テスタロッサが現れた。
黒いM9『鷹《ファルケ》』を駆《か》るベルファンガン・クルーゾーは、嵐《あらし》の夜闇《よやみ》と地形を利用してマオたちの戦闘《せんとう》に駆《か》けつけ、敵AS――あの <コダール> へ絶妙《ぜつみょう》の位置に忍《しの》び寄ってからこう叫《さけ》んだ。
「撃《う》て!」
マオ機とクルツ機がフェイント混《ま》じりの複雑《ふくざつ》な攻撃《こうげき》を加えた。上空で待機《たいき》していた <デ・ダナン> からの巡航《じゅんこう》ミサイルが襲《おそ》いかかった。それら攻撃をすべてしのぎきった敵の横合《よこあ》いに、クルーゾーはダメ押《お》しとばかりに襲いかかった。
単分子《たんぶんし》カッターを腹部《ふくぶ》につきたて、腕《うで》をとって投げ技《わざ》をかける。姿勢《しせい》を崩《くず》して吹き飛んだ <コダール> に、マオとクルツが射撃《しゃげき》をくわえる。なす術《すべ》もなく、敵機《てっき》は空中で次々に被弾《ひだん》してばらばらになった。
『一丁《いっちょう》あがり』
クルツが言った。
『米軍の方は?』
マオがクルーゾーにたずねる。彼はさっきまでマオたちと離《はな》れ、交戦中のアメリカ特殊部隊《とくしゅぶたい》の様子《ようす》をうかがっていたのだ。
「撤収《てっしゅう》したようだな。彼ら自身も作戦目標や敵兵力が判然《はんぜん》としていなかった節《ふし》がある。どうも、なんというのか――」
『だれかに操《あやつ》られていたような?』
「それだ。特殊部隊の兵士に特有の、『自分が何をしているのか分かっている』、あのムードが感じられなかった。連携《れんけい》や隊形《たいけい》に微妙《びみょう》な躊躇《ちゅうちょ》があった」
『ああ。なるほどな……』
と、クルツが言った。
『がんばりが足りないっつーか……上の理不尽《りふじん》な命令でイヤイヤやらされてる感じ?』
「同業者でなければ分からない程度だがな。普通《ふつう》ならもう少し粘《ねば》ったはずだ。ところがすぐに撤退《てったい》した。わけの分からない作戦でくたばるのは、だれだって御免《ごめん》だろう」
『だとして、どういうことかしらね……?』
どうもこちらの知らない事情が、敵側にもあるのではないか――そんな匂《にお》いが漂《ただよ》っている。判断材料《はんだんざいりょう》がほとんどないため、可能性はそれこそ山ほどあったが。
「まだ何とも言えん。大佐殿《たいさどの》は予想されていたようだったが。……それより、サガラはどうしたんだ?」
無事《ぶじ》に生きていたという話は聞いていたが、クルーゾーはまだ宗介と一言も話していなかった。
「ええ、それが――」
そのとき、三人はほとんど同時に自機《じき》のアラーム音を聞いた。
『っ!!』
三時、七時、一〇時の三方向から同時に攻撃。それぞれ対戦車《たいせんしゃ》ミサイルと中口径《ちゅうこうけい》、大口径の砲弾《ほうだん》。
マオ機がECM(電子|対抗手段《たいこうしゅだん》)を作動させ、クルツ機が狙撃《そげき》を受けた地点に牽制《けんせい》射撃を加え、クルーゾー機が兵装《へいそう》ラックから赤外線|妨害装置《ぼうがいそうち》を取り出して投擲《とうてき》した。
『また敵機!?』
ミサイルを回避《かいひ》し、戦闘機動に入りながらマオが叫んだ。
『ああ。しかも三機』
遮蔽物《しゃへいぶつ》に飛び込み、高速で機動する敵機に照準《しょうじゅん》しながらクルツが言った。
「気をつけろ、さっきのとは違うぞ!」
背中に装備していたカービン銃を構えながら、クルーゾーが言った。
ラムダ・ドライバ搭載機《とうさいき》なのは間違いなかった。こちらの攻撃が何度か理不尽《りふじん》な方向に弾《はじ》かれている。回避できた攻撃のはずだったのに、あえて受け止めて具合《ぐあい》を試《ため》したような印象《いんしょう》だった。
三機が三方向から迫《せま》る。
『妖精《ようせい》の目』が力場を検出。全力で回避。新たな敵とM9が、目にも留《と》まらぬ速さで交錯《こうさく》し、火花を散らして距離《きょり》をとった。
強い衝撃《しょうげき》。警告灯が点灯《てんとう》し、クルーゾー機の左腕の肘《ひじ》から下が吹《ふ》き飛ばされた。攻性《こうせい》の力場をかわしきれずに、駆動系《くどうけい》ごと千切《ちぎ》りとられたのだ。
「…………!」
リアルタイムのデータ・リンクが知らせていた。マオ機、クルツ機も大なり小なり損傷を受けている。マオ機は頭部が半壊《はんかい》し、クルツ機は狙撃砲《そげきほう》を破壊された。
刹那《せつな》、クルーゾーたちと敵三機が対峙《たいじ》する格好になった。どんな余裕《よゆう》なのか、敵はすぐに仕掛《しか》けてこない。小高い丘《おか》の頂《いただき》に並び、彼らを睥睨《へいげい》している。
基本的《きほんてき》には <コダール> タイプに似たAS三機だったが、細部《さいぶ》が違《ちが》っていた。
ボリュームのある上半身。ポニーテール状の放熱索《ほうねつさく》ではなく、背中に伸《の》びるブレード状の放熱板。これまでの <コダール> とは異《こと》なる力強さ。敏捷《びんしょう》さと獰猛《どうもう》さを内に秘《ひ》めた、マッシブなシルエットだ。たとえるなら豹《ひょう》と獅子《しし》との違いとでも言おうか――
色は三機とも異《こと》なっていた。
黒、白、赤。
それぞれ超《ちょう》大型の単分子カッター、大型のガトリング砲、大口径の狙撃砲を手にしている。
『ようこそ、<ミスリル> 残党《ざんとう》の諸君《しょくん》。サンフランシスコでは世話《せわ》になったね』
中央の黒いASが外部スピーカーから告げた。知っている声だった。
「ファウラーか」
『あいつかよ……』
『やる気満々みたいね』
マオとクルツの声にも緊張《きんちょう》がにじんでいる。
『君たちの奮闘《ふんとう》ぶりには感心させられるばかりだが――もう終わりにしたい気分でね。我々は油断《ゆだん》も侮《あなど》りもしない。最大限の敬意《けいい》をもって、抜《ぬ》け目のない君たちに全力で「挑戦《ちょうせん》」しようと思う』
『ああ? スカしてんじゃねーぞ!?』
ファウラーの言葉をさえぎり、クルツが頭部|機関銃《きかんじゅう》をフルオート射撃した。一二・七ミリ砲弾が黒いASに降《ふ》り注《そそ》いだが、そのすべてが青白い光を散《ち》らし、小雨のように弾き飛ばされた。
『いやはや。せめて戦端《せんたん》を切るときは紳士的《しんしてき》に、と思ったのだが』
ファウラーが冷たく笑った。
『むしろ無粋《ぶすい》だったようだ。では、覚悟《かくご》していただこうか……』
来るぞ――
と、クルーゾーがわざわざ言うまでもなかった。すぐさま身構えた彼らのM9めがけて、ファウラーたちのASが一斉《いっせい》に跳躍《ちょうやく》した。
「久しぶりだね、サガラ・ソウスケ君」
レナードが屋根から宗介を見下ろし、悠然《ゆうぜん》と言った。その口調とは裏腹に、彼は少しも笑っていなかった。どこか憂鬱《ゆううつ》げな目で、大破したM6の傍《かたわ》らにかがんでいる宗介を静かに見つめている。大粒《おおつぶ》の雨を受け、全身を濡《ぬ》れるがままにして。
「千鳥はどこだ」
「僕なんかには興味《きょうみ》がない、ってわけか。泣けてくるね」
「黙《だま》れ。千鳥に――」
「そっちこそ黙ったら?」
底冷えのする声でレナードは言った。
「つくづく不愉快《ふゆかい》な態度《たいど》しか見せないんだね、君は。なにも分かっていない癖《くせ》に。まるでそれが当然の権利《けんり》だと言わんはかりに、そうやって叫《さけ》んでみせる。その傲慢《ごうまん》がなぜ分からないんだ?」
傲慢なのはどちらだ――そんな台詞《せりふ》さえ出てこなかった。敵とのコミュニケーション、敵との議論《ぎろん》など必要ない。
「知ったことか。彼女を渡《わた》せ」
「やれやれ」
レナードは小さく鼻を鳴らしてから、傍らのカリーニンを一瞥《いちべつ》した。
「……で? 守備《しゅび》隊長としてどうするつもりかな、ミスタ・|K《カリウム》」
「本来《ほんらい》ならサガラを拘束《こうそく》して撤収するところですが――時間があまりありません。すぐそこまでミスタ・|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》の部隊が来ています。いまのところは目立った動きは見せていませんが――」
そこでカリーニンが言葉を切り、右耳に仕込《しこ》んだイヤホンからの報告《ほうこく》に集中した。
「――聞いての通りです。動き出しました」
「本性《ほんしょう》を見せたというわけか」
レナードが目を細め、海の方向を振《ふ》り仰《あお》いだ。宗介の位置からはまだよく見えなかったが、それでもその機体――忘れもしない上半身の、あのシルエットだけはかすかに見ることができた。
<ベヘモス> だ。
あの巨大《きょだい》ASが三機、波をかきわけて海からこの邸宅《ていたく》へと接近してきている。上空には数機の輸送ヘリ。おそらくは中にASを搭載《とうさい》しているはずだった。
<アマルガム> の増援《ぞうえん》?
いや、それにしては様子が妙《みょう》だ。
その疑問《ぎもん》はすぐに確信《かくしん》に変わった。ベヘモスが、巨大なライフル砲――おそらく三〇〇ミリくらいはあろうかという大砲を、この邸宅へと向けたのだ。上空の輸送ヘリも高度を下げ、まっすぐにこちらへと降下してくる。
「やる気のようです」
カリーニンが言った。
「だろうね。適当《てきとう》にあしらってから去るとしようか」
「はい」
「そうそう、答えを聞いてなかった。それで、彼をどうするつもりかな?」
レナードが宗介を見た。カリーニンも遅《おく》れて、感情のかけらもない目で彼を見つめた。
「射殺します」
「けっこう」
そう言ってレナードは身をひるがえした。あの黒いコート――『アクティブな防弾衣《ぼうだんい》』が重たげに広がり、彼はテラスの向こうへと消えた。その間際《まぎわ》に、一言だけ付け加えた。
「とりあえずはね」
カリーニンはその言葉には何も答えず、宗介に告げた。
「そういうわけだ、サガラ。死んでもらう」
「…………」
宗介は即座《そくざ》に確信した。
あの目、あの声は本気だ。
手加減《てかげん》する気もない。なにかの含《ふく》みを持たせているわけでもない。芝居《しばい》や演習《えんしゅう》、そうした意図《いと》のあれこれをひそかに隠《かく》していることもない。
アンドレイ・カリーニンは本気なのだ。
父親のように思っていたあの男が、俺を本気で殺そうとしている――
「まっ……」
「撃《う》て」
まず狙撃手からの一撃が来た。元からその狙撃手の位置はつかんでいたので、宗介は即座《そくざ》に装甲《そうこう》の陰《かげ》に頭を引っ込めて初弾をしのいだ。信じられない。いまの射撃には間違いなく本当の殺意《さつい》がこめられていた。
続いて襲《おそ》いかかる周囲からの射撃も同様だった。大破したM6の装甲に無数の銃弾《じゅうだん》が当たり、まばゆい火花を散らす。
「少佐!」
叫んでも返事はなかった。
敵とのコミュニケーションなど必要ない――彼はそれを実践《じっせん》していた。
「……っ!」
宗介は装甲の奥《おく》にもぐりこむと、握《にぎ》っていたリモコンのスイッチを押《お》し込んだ。M6を降りるときに施《ほどこ》しておいた最後の仕掛《しか》け、固定武装《こていぶそう》の全弾発射|指令《しれい》が機体に伝達《でんたつ》される。
生き残っていたM6の固定武装――一二・七ミリ機関銃や発煙弾《はつえんだん》、小型の対人地雷《たいじんじらい》がでたらめに吐《は》き出され、地面をえぐり、邸宅の外壁《がいへき》を吹《ふ》き飛ばし、破片《はへん》や閃光《せんこう》、炎《ほのお》や煙《けむり》をはげしく撒《ま》き散らした。機体を取り囲んでいた敵集団が混乱《こんらん》する。自分自身も巻き込まれかねないような小爆発《しょうばくはつ》の真《ま》っ只中《ただなか》を、宗介はまっすぐに駆《か》け抜《ぬ》けた。手近な邸宅の中――閉鎖空間《へいさくうかん》に跳《と》び込めば、まだ生き延《の》びるチャンスはある。
いちばん近くの窓に飛び込む直前、宗介はあのテラスを見た。周囲で飛び回る破片や銃弾にまったく動じることなく、カリーニンは彼をまっすぐに見下ろしていた。
(本気なのか)
刹那《せつな》、宗介は視線《しせん》だけで問いかけた。
カリーニンはそれをまっすぐに受け止め、わずかに唇《くちびる》を動かした。
(私を止めてみせろ)
そう言っているように見えた。
それ以上なにかを試みる時間はなかった。飛び込んだ窓の向こうに、敵の歩兵がいたからだ。ぶち破った窓ガラスの破片と共に滞空《たいくう》しながら、彼は最初の敵めがけて発砲《はっぽう》した。
いまは戦う以外に道がない。
とにかく生き延びなければ――
低空飛行《ていくうひこう》で山間《やまあい》を縫《ぬ》う輸送ヘリは、はげしい騒音《そうおん》と振動《しんどう》に見舞《みま》われていた。
レモンがどれだけ機の通信担当《つうしんたんとう》にはっぱをかけても、彼は『原因不明《げんいんふめい》です! とにかくチャンネルがつながらないんだ!』と繰《く》り返《かえ》すばかりだった。
「こんな飛び方で大丈夫《だいじょうぶ》なんですか!?」
レモンが怒鳴《どな》ると、コートニー老人が顔をしかめ、『わしの知ったことか!』と怒鳴り返した。横からシールズ大佐が口を挟《はさ》む。
「大丈夫、大丈夫! この高度なら対空砲《たいくうほう》の攻撃《こうげき》を受けてもオート・ローテーションで不時着《ふじちゃく》できるはずじゃ! 『デッドマンズ・カーブ』って知っとるか!? それのぎりぎり上のはずじゃから――」
「その前に爆散《ばくさん》したら意味ないでしょう!?」
「若いもんが、細かいことを気にするな!」
「ですがね、こんな無茶な飛び方だって知ってたら、僕は絶対に反対して――」
機体ががくんと揺《ゆ》れ、レモンは舌を噛《か》みそうになった。
「……〜〜っ! ああっ、くそ! どうなっても知りませんよ!?」
レモンは悪態《あくたい》をついてから、隣《となり》に座《すわ》っていた東洋系の女を一瞥《いちべつ》する。
ひどい飛行《ひこう》ですっかり気分が悪くなったらしく、その女は青ざめた顔のまま、むっつりとうなずき、機体後部の格納庫《カーゴ・ベイ》にうずくまるものを横目でにらんだ。
「かまわない。どうせこいつはあの男にしか扱《あつか》えないのだ」
「じゃあ、もしソースケが死んでたら、この機体―― <レーバテイン> とやらはどうするんです!?」
「捨てようが壊《こわ》そうが好きにすればいい」
女は素《そ》っ気《け》なくつぶやいてから、ヘッドセットにこう呼びかけた。
「……それでいいんだったな?」
すると機体から発せられた合成音声《ごうせいおんせい》が、落ち着いた調子でこう答えた。
<<|肯定です《アファーマティブ》>>
数人の護衛と <アラストル> に周囲を取り囲まれ、かなめは邸宅の廊下《ろうか》を連れて行かれるところだった。
彼女でもこの邸宅が戦闘《せんとう》の渦中《かちゅう》にあることくらいは理解《りかい》できた。遠い砲撃の音が次第《しだい》に近づき、やがて第二世代型ASの駆動音《くどうおん》や機関砲の射撃音、そして激しい爆発が敷地内《しきちない》のあちこちから響《ひび》いてきたのだ。衝撃《しょうげき》と振動で家具が倒《たお》れ、割れた窓ガラスが床《ゆか》一面に散らばっていた。
「どこに行くの?」
護衛の男は答えなかった。
それでも彼女には分かった。ヘリポートだ――邸宅の庭に隣接《りんせつ》した、大型のヘリポート。自分を連れて、ここから脱出《だっしゅつ》させるつもりなのだろう。
「だれが来てるの?」
やはり、護衛たちは答えなかった。代わりに別の声が答えた。
「彼だよ」
背後の角からレナードが現れて告げた。濡《ぬ》れそぼった黒いコートをはためかせ、早足で彼女の脇《わき》を追い越《こ》していく。なにかに追われているというよりは、どこか遠くへ急いでいるような様子だった。
「彼……?」
「そう、彼だ」
ソースケだ――
反射的《はんしゃてき》に立ち止まった彼女の腕《うで》を、レナードが強くつかんだ。
「放して」
「だめだ」
払《はら》いのけようとしても、彼は手を放さなかった。鍛《きた》えられた宗介のそれと変わらない――いや、ひょっとしたら宗介よりも強く、迷いのない力にさえ思えた。
「あ、あたしは――」
「会ってどうする? 抱《だ》き合って二人で逃《に》げるのか?」
「…………」
「君は迷っている。一度でも彼に背を向けた自分が、いまさら彼のところにいけるのかと。ああして彼が命がけでここ[#「ここ」に傍点]まで来たというのに、まだ迷っている」
レナードの言う通りだった。
彼が来たというのに、自分は躊躇《ちゅうちょ》している。なぜもっと激しく抵抗《ていこう》して腕を振《ふ》り切り、銃撃戦の方角へと駆け出していかないのだろう? 彼に会いたくないのか? 彼の胸に飛び込みたくないのか?
そんなことない。会いたいはずだし、抱きしめてほしいはずなのに。
「自分でもよく分からないだろう」
何も言えずにうつむく彼女を、レナードは静かに見つめていた。通路を抜け、ヘリポートの前へ。ECS搭載型《とうさいがた》の大型ヘリが一機、すでに待機して離陸《りりく》に備《そな》えていた。耳を聾《ろう》するエンジンの轟音《ごうおん》があたりに響き渡《わた》っている。
このまま、あのヘリに乗るのか? そしてまたどこかへ行く。彼の手が届《とど》かないどこかへ。それでいいわけがない。なのに自分はどうして、こんな風に腕をとられて歩き続けているんだろう?
自問《じもん》するかなめの耳元に、レナードがそっと顔を寄せて言った。
「だったら賭《か》けをしてみようか」
「?」
彼が部下と <アラストル> に、『先に行け』と命じた。<アラストル> はすぐさま応じてヘリへと向かったが、部下たちはためらった。
「しかし……」
「いいから、行きなよ」
それ以上|抗弁《こうべん》はせず、男たちはヘリへと走った。ヘリポートのはずれ、邸宅《ていたく》の入り口にかなめとレナードの二人が取り残された。彼は無造作《むぞうさ》に黒い外套《がいとう》を脱《ぬ》ぎ、ヘリの作り出す強風の中に放《ほう》り投げた。まるで鴉《からす》が羽ばたくようにして、外套は夜の闇《やみ》の中へと消えていく。
あの防弾衣《ぼうだんい》が、あらゆる銃弾《じゅうだん》や刃物《はもの》を跳《は》ね返す機能《きのう》を持っていることは、かなめもよく知っていた。いまの彼女にはその機構《きこう》さえ分かる。第三世代型ASに使われるマッスル・パッケージ――超《ちょう》アラミド繊維《せんい》よりも数段《すうだん》進んだ防弾性を兼《か》ね備えた形状記憶《けいじょうきおく》ポリマーと、超小型のレーダー素子《そし》を織《お》り込んだ『アクティブな』防弾衣だ。かつて彼女を襲《おそ》った暗殺者《あんさつしゃ》や、宗介がレナードを攻撃したときは、そのすべてを完全にストップした。
その外套を脱ぎ捨てたということは、いま、彼は一般人《いっぱんじん》と同じで、完全に無防備《むぼうび》な状態にあるということだ。
「これを」
そう言ってレナードは一|挺《ちょう》の拳銃《けんじゅう》を差し出した。撃鉄《げきてつ》を起こすと、こなれた手つきでくるりと銃を回し、グリップ側を彼女へと向ける。
「受け取って」
冷たい銀色の銃だ。
どことなく古臭《ふるくさ》い形のリボルバー――回転式弾倉《かいてんしきだんそう》の拳銃で、優美《ゆうび》な装飾《そうしょく》が彫《ほ》り込んである。レナードが銃を持っていたことや、その銃がなにかの西部劇にでも出てきそうなイメージだったこと――そうしたあれこれよりも、かなめはまず彼がごく流麗《りゅうれい》に、熟練《じゅくれん》した手つきでその銃を扱《あつか》ったことに驚《おどろ》いた。
「さあ」
うながされて、かなめは思わずその銃を受け取った。
「いったい、どういう――」
「賭けをするって言っただろう? その銃で僕を撃《う》ってみればいい」
レナードが戸口の前に立ちふさがる。
「相良宗介くんは向こうだ。会いたかったら、僕を撃ち殺して行くしかない。これから三〇秒待つ。それまでに決めることだ」
「……本気なの?」
「冗談《じょうだん》でこんなことはしないさ。あと二五秒だよ」
「あたしに撃てないと思ってるの?」
「だから賭けだよ」
「足なら撃てるわ。それであんたをまたいでいく」
「名案《めいあん》だね。どうぞ」
微笑《ほほえ》んでから、彼は付け加えた。
「あと一〇秒」
かなめは拳銃を片手で構えた。引き金に指をかけ、その銃口を彼の眼前《がんぜん》へと向ける。
これはとても分かりやすい図式だった。
向こうで彼が戦っている。レナードの背後で。そこに行くのは簡単なことだ。人差し指を少し動かし、この男を倒《たお》してしまえばいい。たくさんのものを奪《うば》い取り、今日の今日まで自分を搦《から》めとってきたこの男を。
指がこわばる。肘《ひじ》が震《ふる》える。
憎《にく》いはずだ。殺したところで、何も思い悩《なや》むことなどない相手のはずだ。ひょっとしたら、これは最初で最後のチャンスかもしれないのに。
なのに――
「あと五秒」
撃てない。
殴《なぐ》ったり蹴《け》り飛ばしたりするなら、平気でできるだろう。自分はもう、そこまでやれるくらいの活力《かつりょく》は取り戻《もど》してきたと思う。それに自慢《じまん》できることではないが、宗介やクラスの不躾《ぶしつけ》な男子たちは、いつも殴ったり蹴ったりしてきた。
でも、撃つことはできない。
当たり前のことだが、暴力《ぼうりょく》のレベルが違《ちが》うのだ。本質的《ほんしつてき》な意味で、意図《いと》して人を傷つけ、その存在を消去《しょうきょ》することはできない。殺害《さつがい》ができない。そんな経験ももちろんない。かなめはいつも宗介から『手加減《てかげん》』されていたのだ。
女だから。一般人だから。
こういうときに人を殺せる覚悟《かくご》はない。持てるはずもない。
だから、撃てない。
ソースケが向こうにいるのに。
そういうところまでこの男に見透《みす》かされているのが、悔《くや》しくて仕方《しかた》なかった。
いや、本当に見透かされているのだろうか? なぜなら彼はいままっすぐに、すこしもあのスカした笑いを見せることなく、こうしてこの古くさい拳銃とあたしの瞳《ひとみ》を見つめていて――
「ゼロ。時間切れだよ」
ごく真面目《まじめ》な声でレナードが言った。
「僕なら撃った」
「…………」
「彼は君に会うために戦い、人を殺《あや》めることさえいとわない。なのに、君は僕のような『キザ野郎《やろう》』一人を撃つことさえできない。けっきょく、君の覚悟はその程度《ていど》ってことなんだよ」
「ちがう」
力なく銃を握《にぎ》ったまま、かなめは後じさった。レナードが彼女に手を伸《の》ばす。
「行こう。君に見せるものがあると言っただろう?」
「そっ……」
「君の負けだよ。……さあ」
「やめて……っ!」
彼女はなにも考えられなかった。ただ身を固くし、つかまれた腕《うで》を振《ふ》りほどこうとしただけだった。か細い声をもらして。
――だから
――そんなつもりはなかったのだ。
銃口が上を向き、その拍子《ひょうし》に引き金にかけた指に力がこもった。ごくわずかに。撃鉄を起こしたシングル・アクションの拳銃が撃発するのには、それだけの力でも十分だった。
乾《かわ》いた銃声。
目の前で発砲の炎《ほのお》が瞬《またた》き、視界《しかい》が真っ白になり、にぶい反動《はんどう》が右手を震わせる。ぱっと血の飛沫《ひまつ》が飛び散って、彼女の頬《ほお》を赤く濡らした。
「くそったれ……!」
予備の武器――小型の機関砲《きかんほう》を手に木々の間をすり抜《ぬ》け、クルツはコックピットの中で悪態《あくたい》をつく。
クルツ、マオ、クルーゾーの三人はひどい苦戦《くせん》を強《し》いられていた。
ファウラーら三機のラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》ASは、圧倒的《あっとうてき》な力で畳《たた》み掛《か》けるように三機のM9へと襲《おそ》いかかってくる。
運動性、パワー、そして連携《れんけい》と戦術《せんじゅつ》――そのどれもがこれまでの <コダール> タイプの敵とは違っていた。都合《つごう》のいい攻撃の隙《すき》などまったくうかがえなかったし、それどころかこちらが殺されないように牽制《けんせい》し、逃《に》げ回るのがやっとの状態《じょうたい》だった。
黒い敵AS――ファウラーの機体は両手に大型の単分子カッターを装備し、執拗《しつよう》な接近戦を挑《いど》んでくる。格闘戦《かくとうせん》では並ぶ者のないあのクルーゾーが、ファウラーには圧倒され通しだ。片腕を失っている上、ラムダ・ドライバ搭載機が相手だとはいえ、ここまで劣勢《れっせい》に立たされるのはファウラーの技量《ぎりょう》によるものも大きいと考えるよりない。
白い敵ASは大型のガトリング砲を二|挺《ちょう》も装備し、中|距離《きょり》から嵐《あらし》のような砲弾の雨を降らせてくる。武骨な武装にもかかわらず、その白い機体の立ち居|振《ふ》る舞《ま》いはどこか優美で、女性的なものを連想《れんそう》させた。マオ機はその攻撃の矢面《やおもて》にさらされ、遮蔽物《しゃへいぶつ》の陰《かげ》にほとんど釘付《くぎづ》けにされている。なにかと貧乏《びんぼう》くじを引くことの多いマオだが、彼女の総合《そうごう》的な操縦《そうじゅう》技術は宗介にもひけをとらない。その彼女が手も足も出せないのだ。白い機体の操縦兵がだれなのかは分からなかったが、これも相当な手練《てだ》れだ。
そしてあの赤い敵AS――
狙撃砲《そげきほう》を装備している。奴《やつ》はスナイパー、つまり自分と同じタイプだ。
最初の接触《せっしょく》のとき、クルツのM9は狙撃砲を真っ二つに撃ち抜かれていた。とっさに機体を守って武器を盾《たて》にしたのではない。あの敵はこちらの武器を狙《ねら》って破壊《はかい》したのだ。
こちらのコックピットを狙えば一撃で済んだところなのに、わざわざ武器を撃った。ファウラーから『挨拶《あいさつ》があるからまだ殺すな』とでも命じられていたのだろうか?
いや、そんな意図などどうでもいい。
奴は――あの赤い敵ASは俺をいたぶったのだ。こちらの狙撃砲を見て、同じスナイパーだと分かったのだろう。その武器を正確に射貫《いぬ》くことで、自分をあざ笑った。
「上等《じょうとう》じゃねえか……」
そうつぶやきながらも、同時にクルツはあの赤いASと操縦兵のすさまじい技量に、ひそかに戦慄《せんりつ》していた。
なんという腕だろうか。
こちらもさすがに馬鹿《ばか》ではない。さきほど最初の襲撃《しゅうげき》を受けたときは、狙撃を警戒《けいかい》して十分な機動《マニューバ》をとっていたのだ。戦闘《せんとう》機動中の第三世代型AS、その武器だけを狙って、あの遠距離から狙撃することなど、常識《じょうしき》では不可能だ。あんな芸当《げいとう》ができる操縦兵は、世界でも数えるほどしか――
いや。
「まさか……?」
その瞬間《しゅんかん》うかんだ疑念《ぎねん》は、敵からの狙撃でかき消された。木々の隙間《すきま》、岩や斜面《しゃめん》で隠《かく》れたぎりぎりの点を狙っての精密《せいみつ》射撃。クルツ機の大腿部《だいたいぶ》の装甲《そうこう》が、砲弾《ほうだん》を食らってひきはがされた。
「くっ!」
AIが損害を報告《ほうこく》する。右大腿部の駆動系《くどうけい》に深刻《しんこく》な損傷。運動性が大幅《おおはば》に低下。戦闘機動の続行は困難《こんなん》。
このままではやられる。
狙撃砲さえ使わないまま、嘲笑《ちょうしょう》され、なにもできないまま殺される。
「っ……」
次の一撃を覚悟《かくご》して身構える。しかしその攻撃は来なかった。……三秒、四秒。一〇秒たっても狙撃はなかった。
まだいたぶるつもりか?
そう思ったが、ちがった。敵が撤退《てったい》していく。クルツを追い詰《つ》めていた赤い敵ASだけでなく、残りの二機も。
「…………?」
捨《す》て台詞《ぜりふ》ひとつ残さず、ファウラーたちは高速で彼らから離《はな》れていき、強風の吹《ふ》き荒《あ》れる夜の山の中に消えていった。
『逃《に》げていく。これはいったい――』
と、クルーゾーが無線の向こうでつぶやいていた。
『どういうこと?』
と、安堵《あんど》の溜息混《ためいきま》じりに、マオが言った。
「わかんねえけど、命|拾《びろ》いしたみたいだな」
苦々しげにクルツは言った。
苦戦を強いられていたクルツたちの戦闘は、あっけないほどの形でお預《あず》けになった。
邸宅《ていたく》の中を走る宗介を追って、男たちが執拗《しつよう》に攻撃《こうげき》を加えてくる。絶《た》えず周囲で跳弾《ちょうだん》がおどり回り、彼を一定の方角へと追い込もうとしてくる。
敵の銃撃《じゅうげき》は容赦《ようしゃ》のないものだった。
敵が繰《く》り出してくる攻撃のリズム。訓練《くんれん》され、連携《れんけい》のとれた敵の動きの匂《にお》いを、宗介はよく知っていた。
(少佐――)
これは間違《まちが》いなくカリーニンの指揮《しき》だ。
百戦錬磨《ひゃくせんれんま》のあの男は、もともと奇策《きさく》に頼《たよ》らないタイプの指揮官だ。<ミスリル> での作戦は、装備差《そうびさ》、情報差による奇襲《きしゅう》作戦によって立つところが大きかったために目立たなかったが、本来《ほんらい》はごく堅実《けんじつ》な戦術《せんじゅつ》を選んでくる。
陽動《ようどう》や伏兵《ふくへい》などは滅多《めった》に使わない。彼の部隊が右から圧力《プレッシャー》をかけてきたのなら、その右翼《うよく》は間違いなく本当の脅威《きょうい》にさらされているのだ。間に合わせの対応《たいおう》でしのいだり、時間を稼《かせ》げるような種類のものではない。必要な戦力を必要な数だけ割《さ》かなければ、確実にこちらは引き裂《さ》かれてしまう。
そうした戦術家としては当たり前の――しかし実際にはなかなかお目にかかれない指揮官がカリーニンだった。野球にたとえてみれば、ホームランは期待《きたい》しないがヒットと盗塁《とうるい》で確実に点を稼ぎ、こまめな継投策《けいとうさく》で失点を抑《おさ》えるタイプだ。
そのカリーニンの戦術が、じわじわと邸宅の南端《なんたん》へ宗介を追い詰めつつあった。どれだけカリーニンの癖《くせ》を知悉《ちしつ》していようと、この不利《ふり》ばかりはどうにもならない。別の方向に向かいたくても、そうできないのだ。
この敵の動きだけでも、宗介はこう認めざるをえなかった。
(少佐は本気だ)
とにかく手堅《てがた》い。戦いが始まる前から、ほとんど勝負が決まっているなら、そのようにしか動かない。
もちろん心理的《しんりてき》な揺《ゆ》さぶりも効《き》かない。快勝《かいしょう》の誘惑《ゆうわく》や希望的|観測《かんそく》など、彼には一切《いっさい》通用しない。
戦闘を終えて自宅に帰って紅茶を一口飲むまで、彼はおごらないし気を抜《ぬ》かない。勝てる時は必ず勝つ。負ける時は必ず上手に負ける。そういう男なのだ。
カリーニンはあのとき、確かに自分にこう言った。『私を止めてみせろ』と。だからといって、なにかの手加減《てかげん》をする気配《けはい》は一切みせない。
(どうしてなんだ)
まったく分からなかった。体は自動的に反撃《はんげき》し、確実《かくじつ》な射撃を繰《く》り返《かえ》していたが、頭の中ではカリーニンの裏切りのことがぐるぐると渦巻《うずま》いていた。
(なぜなんだ)
そんな男のはずがない。冷徹《れいてつ》、沈着《ちんちゃく》、ときに非情《ひじょう》なのは確かだったが、こんなことは考えられない。よりにもよって、奴《やつ》らに寝返《ねがえ》るなんて。
俺は動揺《どうよう》している――
そう自覚《じかく》できたのは僥倖《ぎょうこう》だった。考えるのは後だ。いまは闘《たたか》わなければ。
感情を押《お》し殺し、滑《すべ》るように歩きながら、右手の敵に牽制《けんせい》射撃を加える。隣《となり》の部屋に移動すると、ほんの数秒前までいた場所にいくつもの手榴弾《しゅりゅうだん》がごろごろと投げ込まれた。
爆発《ばくはつ》。
衝撃《しょうげき》と共に白煙《はくえん》がたちこめ、ただでさえ悪い視界がほとんどゼロになった。この隙《すき》に乗《じょう》じて、近くの戸口から外に出ようかと思ったがやめておく。少佐なら必ずあの先に人員を配置《はいち》して待ち伏《ぶ》せさせておくことだろう。
反対側へと走る。
そちらにも抜かりなく敵がいた。赤外線スコープ越《ご》しに照準《しょうじゅん》し、サブマシンガンを発砲《はっぽう》してくる。
とっさに身をひねったが間に合わなかった。敵の銃撃が宗介に襲《おそ》いかかる。左上半身の何か所かに鈍《にぶ》い痛みが走った。食らったのは大口径の拳銃弾《けんじゅうだん》だ。AS操縦服《そうじゅうふく》がすべての銃弾をストップした。もっと威力《いりょく》の大きいライフル弾なら死んでいたかもしれない。
すぐさま応射《おうしゃ》。
胴体《どうたい》に命中したが、すぐに通路の陰《かげ》に引っ込んでしまう。向こうもボディアーマーを着けている。聞こえるのは小さな悪態《あくたい》だけだった。
(千鳥は……?)
折《お》り重なるようにして倒《たお》れた本棚《ほんだな》の陰に身をひそめ、弾倉《だんそう》を交換《こうかん》しながら、宗介はすばやく周囲を見回した。
彼女がいるならヘリポートの方向のはずだ。しかし、この包囲《ほうい》をどうやって突破《とっぱ》し、さらに厳重《げんじゅう》に守られているはずの彼女のもとに行けるだろうか……?
逡巡《しゅんじゅん》していた時間はごく短かった。弾倉を交換し、すぐに移動《いどう》しようと身を起こしたとたん、これまでで最大の衝撃が襲いかかってきた。数メートル向こう――敵兵が潜《ひそ》んでいたあたりの壁《かべ》が吹《ふ》き飛び、離《はな》れていた宗介も爆風にあおられ、飛び散《ち》る建材《けんざい》の破片《はへん》と共に、床《ゆか》に叩《たた》きつけられた。
「…………っ」
耳鳴りがする。身を起こすと、背中に積《つ》もった細かな瓦礫《がれき》と大量の埃《ほこり》が、ばらばらと崩《くず》れ落ちた。そばの壁にぽっかりと穴《あな》があいて、夜の潮風《しおかぜ》が室内に吹き込んでいる。
(いまの攻撃は……)
自分を狙《ねら》った攻撃ではない。それに威力が大きすぎる。
歩兵の使う爆発物ではなく、ASや戦闘ヘリの火砲《かほう》によるものだ。壁の大穴から外をうかがうと、数機のヘリが上空を旋回《せんかい》していた。先ほど見えた海上の <ベヘモス> 三機は、さらにこちらへと接近しており、肩《かた》に搭載《とうさい》されたロケットランチャーを散発的《さんぱつてき》に発射していた。
この邸宅を攻撃しているのだ。どちらも <アマルガム> の勢力《せいりょく》のはずだったが、その両者が戦っているというのか? 理由はまったく分からなかった。北の山岳地帯《さんがくちたい》で見た米軍の戦闘といい、この襲撃《しゅうげき》といい、いったいなにが起きているのか?
「!」
海上のベヘモスが機関砲を発砲した。三〇メートル離れた邸宅の一角が紙細工《かみざいく》のように引き裂《さ》かれる。宗介のところまで破片と炎が降り注《そそ》いできた。
この際事情はどうでもいい。この混乱《こんらん》に乗じて、かなめを追いかけよう。なんとか敵の包囲を破って、ヘリポートへ急ぐことができれば――
かなめの足元にレナード・テスタロッサが倒れている。
右半身を下にして、力なく横たわっている。頭部から流れる血が水たまりの中にみるみる広がり、波打つような銀色の髪《かみ》を染めていった。
「そんな……」
膝《ひざ》を落とし、遠くの銃声をぼんやりと聞いていたかなめは、倒れたまま眠《ねむ》っているように動かないレナードを、のろのろとのぞきこむ。ふとした弾《はず》みで暴発《ぼうはつ》した拳銃の弾丸は、レナードの額《ひたい》を深々《ふかぶか》とえぐりとっていた。
死んだ……?
一瞬《いっしゅん》、氷よりも冷たい手が、彼女の心臓を鷲《わし》づかみにした。だが震《ふる》える指先を彼の首筋《くびすじ》にあてると、かすかな脈動《みゃくどう》を感じた。
まだ死んでいない。
確かに弾は当たったが、角度が浅かったのだろう。かなめはレナードの肩をゆすり、反応がないことが分かると、手当てに役立ちそうなものを求めて辺りを見回した。
どうしよう? 出血を止める? 消毒《しょうどく》する? 人工|呼吸《こきゅう》とか心臓マッサージとか? まるで見当《けんとう》もつかない。ASやその他の兵器、通信システムや人工|知能《ちのう》のあれこれについていくら知っていても、緊急医療《きんきゅういりょう》のことはなにも思いつかない。自分の知識の異常《いじょう》な偏《かたよ》り具合を、改《あらた》めて思い知らされる。
いや――
かなめはわれに返った。
そもそも、どうして手当てをする必要があるんだろう? もともとあたしは、彼を撃《う》って前に進むべきだったはずなのに。
異変《いへん》を察知《さっち》した護衛《ごえい》の男たちが、ヘリから降りてこちらへ向かってくる。
(逃《に》げなくちゃ……それも今すぐ)
そう思った。ヘリポートからここまでは距離《きょり》がある。今すぐに逃げれば、護衛たちも追いつけない……!
「待て!」
護衛の一人が叫《さけ》んだ。
かなめは身を翻《ひるがえ》し、邸宅《ていたく》の中へと飛び込もうとした。このまままっすぐ走ればいいのだ。そして大声で『ソースケ!』と叫ぶ。そうすれば、彼が――
だが、足が動かなかった。
まるで足の裏が――サンダルが強力な接着剤《せっちゃくざい》で地面に張《は》り付きでもしたかのように、まったく動かない。
「…………」
相変《あいか》わらず倒れたままのレナードに視線《しせん》が釘付《くぎづ》けになった。血だらけになって、雨の中に横たわっているレナードに。彼の目がうっすらと開き、その場に立ち尽《つ》くすかなめを見上げた。その瞳《ひとみ》はなぜか穏《おだ》やかで、同時にひどく痛々しげだった。
怪我《けが》の苦痛のためなのか、もっと別のなにかなのか。
――あたしが撃った。
――ルール違反《いはん》をして。
その事実が、彼女をその位置から引き剥《は》がしてくれなかった。孤独《こどく》を抱《かか》え、ひどく傷ついた彼に追い討《う》ちをかけ、つばを吐《は》きかけて逃げるような後ろめたさ。
ためらっていたのはどれくらいの時間だっただろうか。気付けば護衛の男たちはほんの数歩先まで駆《か》けつけていた。銃を構え、こちらに向けている。
躊躇《ちゅうちょ》が致命的《ちめいてき》な足かせになってしまった。
「拳銃を捨てなさい。はやく」
男に言われて、かなめは初めて自分がいまだにレナードの拳銃を握《にぎ》ったままだということに気付いた。
「え……」
思わず後じさりしたかなめの肩《かた》が、分厚《ぶあつ》い胸板《むないた》にどしん、と当たった。振り返ると、アンドレイ・カリーニンの巨躯《きょく》が戸口をふさいでいた。
「どこに行くつもりかね」
「あたしは――」
かなめの持つ拳銃と、横たわるレナードの横顔を見ると、ロシア人の冷然とした瞳にふと哀《かな》しげな影《かげ》がよぎった。だがそれはごく一瞬のことで、カリーニンはすぐにいつもの無表情を取り戻《もど》し、無造作《むぞうさ》に銀色の拳銃を取り上げた。
「脱出《だっしゅつ》する。連れて行け」
護衛の男にかなめを突《つ》き出し、レナードの傍《かたわ》らにひざまずく。怪我《けが》の様子を見てから、なにかを彼にささやいていた。なんと言ったのかは聞き取れなかった。
「あ……」
降り注ぐ豪雨《ごうう》。ヘリの爆音《ばくおん》、激しい銃撃《じゅうげき》、あちこちで起きる爆発の炎《ほのお》。その渦中《かちゅう》をかなめは連行《れんこう》されていく。
どこからともなく三機のASが現れ、ヘリポートと輸送《ゆそう》ヘリを三方向から護衛した。それぞれ黒、白、赤の塗装《とそう》だ。おそらく黒はファウラーが、白はサビーナが乗っているはずだった。赤の機体に乗っている人間は知らない。
かなめはその機種《きしゅ》を知っていた。あのノートパソコンに機体データの一部があった、<エリゴール> というタイプのラムダ・ドライバ搭載機《とうさいき》だ。基本は <コダール> タイプのフレームだが、ジェネレータや駆動系《くどうけい》を強化し、もともと不満足な性能だった電子兵装をM9並みかそれ以上の水準《すいじゅん》まで引き上げた機体だった。
かなめは護衛の男たちに抱《かか》えられるようにして、ヘリの客席に放《ほう》り込まれた。負傷《ふしょう》したレナードもカリーニンが運び込む。
ヘリのエンジンがうなりをあげ、ゆっくりと離陸していく。三機のASは断続的《だんぞくてき》に発砲《はっぽう》を繰《く》り返《かえ》し、どこかから迫《せま》ってくる『敵軍』と交戦していた。やがて三機の護衛ASもヘリポートから離《はな》れ、地上を随伴《ずいはん》するように跳躍《ちょうやく》しながら、北西の方角へと高速移動を始める。
かなめは上昇《じょうしょう》するヘリの窓から力なく眼下《がんか》を見下ろした。
するとヘリポートに一人の男が駆け出してきたのが見えた。吹《ふ》き荒《あ》れる風と周囲の炎、濃密《のうみつ》な黒煙《こくえん》と夜の闇《やみ》のせいで、はっきりとその顔は見えなかった。
黒髪《くろかみ》。赤いラインの入った、黒いAS操縦服《そうじゅうふく》。
それくらいしか分からない。だが十分だった。
「ソースケ……?」
みるみると遠ざかり、小さくなっていく宗介がなにかを叫んでいる。唇《くちびる》の動きなんて読めない。それでも彼がなんと言っているのか、彼女にはおぼろげに察《さっ》することができた。ごく単純《たんじゅん》な一言だ。
『千鳥!』
そう叫んでいる。その段《だん》になってようやく、自分はどれだけ馬鹿《ばか》だったんだろう、と強い後悔《こうかい》にさいなまれた。
もう逃げられない。
なぜすぐに逃げなかったのか。
チャンスだったのに。
なぜためらったのか。
どうして――彼女は客室の一角で手当てを受けるレナードを一瞥《いちべつ》した――この彼を見捨てて走り出せなかったのか……?
そしてなにより、どうしてあたしは――ここで『いや! 降ろして!』と泣き叫んではげしく抵抗《ていこう》していないんだろう……?
ヘリが加速する。宗介の姿が、黒煙の向こうに見えなくなっていく。膝《ひざ》を落とし、地面に拳《こぶし》を打ち付けているその姿が、彼女の胸をはげしく揺《ゆ》さぶった。
海岸に上陸しようとしている <ベヘモス> は、このヘリに発砲しようとはしてこなかった。おそらく、自分かレナードを生け捕《ど》りにしたかったのだろう。
もう自分に出来ることはない。このまま前と同じに、人形のように従順《じゅうじゅん》に――
ちがう。そうではないはずだ。
確かに彼には会えなかったけど、できることはまだあるはずだ。そういう準備《じゅんび》だって、ここ最近はしてきたはずだ。
(そう、少しずつでも――)
カリーニンはキャビンのクルーとなにかを相談している。ほかの男たちもかなめを見ていない。
やってみよう。
彼女はすぐそばに腰掛《こしか》ける兵士の腰の、拳銃《けんじゅう》が収まったホルスターを一瞥した。
飛び去った輸送ヘリを、ソウスケはいつまでも目で追っていた。丘《おか》の稜線《りょうせん》の向こうにその姿が消えても、まだ北西の空をにらみ続けていた。
もう無駄《むだ》だ。
自分に言い聞かせてから、ひとことだけ悪態《あくたい》をつくことを自分に許す。
「くそっ……」
あのヘリにかなめはいたはずだ。窓の一つに見えた。長い黒髪の小柄《こがら》な人間ということしか分からなかったが、確かにこちらを見つめていた。
千鳥。
君に会ったら話したいことがたくさんあるんだ。拒絶《きょぜつ》するなら、それでもいい。でも、話したいんだ。だから俺は、こうしてこんなところまで――
力なくヘリポートの真ん中に立ち尽《つ》くす宗介を、兵士たちが取り囲んだ。カリーニンの部下ではない。あの <ベヘモス> と共にこの邸宅《ていたく》に侵攻《しんこう》してきた部隊の連中だろう。
見える限りで一〇人くらいか。
見通しのいいこの場所では、抵抗する手段《しゅだん》などまったくない。周囲にはさらに大規模《だいきぼ》な敵部隊が展開《てんかい》していて、海上には <ベヘモス> が三機|控《ひか》えている。クルツやマオたちが無事《ぶじ》でも、こんなヤバい場所には近づけないだろう。これでは逃げる手段さえ考えるのもばかばかしかった。
もう会えないのか、千鳥。
徒労感《とろうかん》と失望《しつぼう》感が、彼の両肩《りょうかた》にずっしりとのしかかった。
「おまえがサガラ・ソウスケか?」
敵の指揮官とおぼしき男が言った。
「…………」
「武器を捨てろ。貴様《きさま》には尋問《じんもん》したいことが山ほどあるそうだ。ただ、死ぬなら今すぐにした方がいい。我々は捕虜《ほりょ》の扱《あつか》いに特別なこだわり[#「特別なこだわり」に傍点]があるからな」
周囲の兵士たちが低く笑った。
宗介はその下卑《げび》た笑顔《えがお》の数々をゆっくりと見回し、はき捨てるように言った。
「勝手《かって》にしろ」
そのときだった。
ヘリポートから数百メートル離《はな》れた敷地《しきち》外の丘陵《きゅうりょう》を越《こ》えて、突然《とつぜん》一機の大型ヘリが姿を見せ、エンジンとローターの爆音をあたり一面にとどろかせた。
「!?」
MH―53[#「53」は縦中横]。シールズ老人がM6を持ってきた、あのヘリだ。大型ヘリはみるみるこちらに接近してくるなり、左舷《さげん》を深く沈《しず》めて旋回《せんかい》に入った。
『ソースケ、伏《ふ》せてろ!』
スピーカーからレモンの声が怒鳴《どな》った。
ヘリの左舷から露出《ろしゅつ》した、ミニガン――バルカン機銃がヘリポートの兵士たちめがけて猛烈《もうれつ》な射撃を浴《あ》びせかけた。周囲ではげしい水しぶきがあがり、兵士たちが倒《たお》れ、まろび、逃《に》げ惑《まど》った。
レモンたちが駆《か》けつけたのだ。しかし無謀《むぼう》だった。こんな至近距離《しきんきょり》をヘリでふらふらと飛んでいたら、たちまち敵の <ベヘモス> に撃墜《げきつい》されてしまう。もちろん、通常兵器のあのヘリに、<ベヘモス> やASを撃破する能力は一切《いっさい》ない。
ヘリポートを襲《おそ》った混乱《こんらん》の渦中を駆け抜《ぬ》けながら、宗介は無線機に呼びかけた。
「もういい、レモン。すぐに逃げろ! 作戦は失敗だ!」
するとコートニー老人の声が、無線|越《ご》しに彼をどやしつけた。
『なにを言っとる! よく分からんが、諦《あきら》める前にケツをまくる算段《さんだん》でもせんか!』
「なにをわけのわからないことを――」
そこに別の声――聞き覚えのある女の声が割り込んで怒鳴《どな》った。
『サガラ! いまから <レーバテイン> を落とす! 勝手に使え!』
「レーバ……なんだと?」
その相手、<ミスリル> 情報部所属《じょうほうぶしょぞく》だったはずのエージェント、レイスはさらに叫《さけ》んだ。
『 <レーバテイン> だ! もっとも本人[#「本人」に傍点]の自称《じしょう》だがな!』
『こんな高度から――わしゃ知らんぞ!』
『いいから落とせっ!』
『ええい、もうっ!』
上空のヘリのカーゴ・ハッチはすでに開いていた。そのハッチの奥《おく》から、なにかの大きな黒い塊《かたまり》が滑《すべ》り出して落下してくる。夜闇《よやみ》と煙《けむり》でよく見えなかったが、おそらくはASだ。
旋回《せんかい》する輸送ヘリに、敵が撃《う》った数発の機関砲《きかんほう》が命中し、ぱっと火を噴《ふ》く。ぐらりと尻《しり》を振《ふ》り、煙をらせん状に撒《ま》き散らし、輸送ヘリはたちまち失速《しっそく》しはじめた。
無線の向こうから聞こえてくるのは、はげしい雑音《ざつおん》とコートニーたちの悲鳴や罵声《ばせい》ばかりだ。
「…………!」
レモンたちの輸送ヘリは宗介の頭上を通り過ぎ、右へ左へと傾《かたむ》きながら、敷地内の庭園へと不時着《ふじちゃく》した。けたたましい轟音《ごうおん》。折《お》れたローターが空中を飛び回り、はげしい砂埃《すなぼこり》が巻き上がる。中の連中はあの様子ならまだ大丈夫《だいじょうぶ》かもしれない。約二名の御老体《ごろうたい》はわからなかったが。
そして――
もう一つの落下《らっか》する物体――レモンたちが運んできた素性不明《すじょうふめい》のASは、空中で軽く身をひねり、宗介の眼前、およそ一〇メートル程度《ていど》の地上に着地した。ごくスムーズで無難《ぶなん》な着地《ちゃくち》だ。
「…………っ」
舞《ま》い上がった水しぶきが晴れていくと、周囲で燃《も》え上がる炎《ほのお》に照《て》らされ、着地したままの姿勢《しせい》でひざまずくASの全貌《ぜんぼう》がようやく見えてきた。
(この機体は……?)
雨に濡《ぬ》れた装甲《そうこう》。
スマートで引き締《し》まったシルエット。M9と同じ第三世代型ASだろう。
いちばん近いのはあの機体―― <アーバレスト> だった。東京で破壊《はかい》されたかつての愛機《あいき》、<ミスリル> 唯一《ゆいいつ》のラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》AS、ARX―7 <アーバレスト> と同じ鋭《するど》い二つ目。だがこの機体は <アーバレスト> よりももっとボリュームがある。腕《うで》、脚《あし》はさらに力強く野太《のぶと》く、そのパワーや瞬発力《しゅんぱつりょく》のすさまじさを物語っている。肩部《けんぶ》装甲の上には大型の大砲が装着されている。普通《ふつう》のASでは扱《あつか》えないようなサイズの――そう、まるで戦車にでも搭載されるような重装備《じゅうそうび》だ。
装甲の色は白い。いや、基本の塗装《とそう》は白だったが、いくつかの箇所《かしょ》は赤く塗装されている。すこし暗めの、だが燃え上がるような血潮《ちしお》の赤だ。
白に青で塗装された <アーバレスト> が風や氷を連想《れんそう》させたのに対し、この機体が各所にたたえる赤の色は、まるで燃え上がる炎だった。
怒《いか》りの炎。
戦いの炎。
エネルギーと攻撃《こうげき》を司《つかさど》る力の色。
宗介はそこが戦場だということも一瞬忘れて、呆然《ぼうぜん》とその機体を見上げてしまった。
『お久しぶりです、軍曹殿《ぐんそうどの》』
ひどく懐《なつ》かしい声が外部スピーカーから彼に告《つ》げた。抑揚《よくよう》に欠ける、男性の低い声。機体のAIが作り出す合成音《ごうせいおん》だ。
「……アルなのか?」
『|肯 定《アファーマティブ》。ただし本機の名称《めいしょう》はARX―8 <レーバテイン> です。サガラ軍曹。あなたの戦争への復帰《ふっき》を許可願います』
そうだ。まだまだ戦える。まだ追える。こいつとこうして組みさえすれば――
「もちろんだ。許可する」
『光栄《こうえい》です。細かい話は後にしましょう。まずはご搭乗《とうじょう》を』
その機体―― <レーバテイン> が左手を伸《の》ばす。何人かの敵がこちらに射撃してくる。装甲に当たって弾《はじ》け飛ぶ銃弾《じゅうだん》と火花。宗介はASの手のひらに飛び乗ると、苦もなく機体の背中側に回り込んだ。
『新品の装甲にさっそく傷がつきました。どうせなら、もう少しエレガントな初陣《ういじん》にしたかったものです』
「……お喋《しゃべ》りは相変わらずのようだな」
『ここ数か月、話し相手がいなくて退屈《たいくつ》していたものでして』
「まったく……」
なにを偉《えら》そうに。心配して損《そん》した。
宗介は鼻を鳴らし、開放《かいほう》された機体のハッチへと滑り込んだ。操縦系統《そうじゅうけいとう》はM9や <アーバレスト> とほとんど変わらない。スティックを何度か握《にぎ》ったり開いたりして、具合を確かめる。
ハッチ閉鎖《へいさ》。起動手順をこなしていく。マスターモード、バイラテラル角の設定《せってい》など、すべて手早く完了《かんりょう》する。
「さて……」
正面スクリーンには、しつこくこちらへと発砲してくる敵歩兵部隊、そしてこちらの存在に気付いた巨大《きょだい》AS <ベヘモス> が攻撃|態勢《たいせい》に入りつつある情報が表示《ひょうじ》されていた。通常《つうじょう》サイズの敵AS、<コダール> タイプも展開しつつある。
『警告《ワーニング》。敵AS。<ベヘモス> タイプ三機、<コダール> タイプ三機。重装備の歩兵部隊がおよそ二個小隊』
普通のASだったら、まずかなわない戦力差だった。一機でも散々《さんざん》手こずった <ベヘモス> が三機もいるのだ。
しかし――
『まずはひと暴《あば》れしてみますか?』
宗介は深呼吸《しんこきゅう》し、スティックを握りなおした。
ここ半年、感じたことのなかった高揚《こうよう》。いや、これはあの香港《ホンコン》での戦い以来《いらい》か。理屈《りくつ》を越《こ》えた全能感《ぜんのうかん》が体をくまなく駆《か》け抜《ぬ》けていき、機体に秘《ひ》められた力がそれに応《こた》えている。東京からずっと、ままならない戦力のまま苦しい戦いを続けてきた。だが、たったいま対等《たいとう》の立場まで持ち込めたのだ。
能《のう》なしの敵機があわせて六機?
上等だ。血祭《ちまつ》りにあげてやろうではないか――
機体が、AIが、そして彼自身の血液が、不敵《ふてき》な闘志《とうし》をはげしくたぎらせている。
「いいだろう。三分で片付ける」
『三分は無理《むり》です。四分一二秒くらいかと』
「うるさい。いくぞ……!」
『了解《ラージャ》、軍曹《サージ》』
戦闘《せんとう》機動。大地を蹴《け》り、まさしく炎《ほのお》の剣《つるぎ》となって、<レーバテイン> は敵へと跳躍《ちょうやく》した。
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5:炎《ほのお》の剣《つるぎ》
その <コダール> の操縦兵《そうじゅうへい》は、これといった敵《てき》がいないことに不満《ふまん》を抱《いだ》いていた。『ミスタ・|Au[#「Au」は縦中横]《ゴールド》』と呼ばれる幹部《かんぶ》の指揮下《しきか》にある部隊《ぶたい》、彼はその一員だった。
作戦前のブリーフィングでは、この邸宅《ていたく》には最低でも三機の同タイプの <コダール> ――ラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》ASが守備《しゅび》についていると聞かされており、また場合によってはそれを上回《うわまわ》る性能《せいのう》の発展型《はってんがた》AS <エリゴール> と交戦《こうせん》することになるだろうとも説明されていた。
<コダール> を装備《そうび》している以上、攻撃対象《こうげきたいしょう》は自分たちと同じ <アマルガム> 系列《けいれつ》の組織なのだろう。
いわば味方《みかた》なわけなのだが、だからといって手加減《てかげん》する必要はない。与《あた》えられた任務《にんむ》を無難《ぶなん》にこなしていればいいのだ。それがたとえ『共食《ともぐ》い』だろうと、傭兵《ようへい》としての報酬《ほうしゅう》と安全、略奪《りゃくだつ》の自由さえ保証されていれば、その背景を気にすることなどなかった。作戦前に必ず投与《とうよ》される薬物《やくぶつ》についての疑問《ぎもん》も、彼らはすでに考えることをやめていた。そして彼らは、<コダール> タイプの圧倒的《あっとうてき》な性能《せいのう》のせいで、最近の一方的な戦闘《せんとう》に物足《ものた》りないものすら感じていた。
ところが、蓋《ふた》を開けてみれば抵抗《ていこう》らしい抵抗はほとんどない。
交戦を予想された敵機《てっき》はどこかにいったまま現れず、もう一組の手ごわい相手―― <エリゴール> タイプの機体《きたい》もほんの少しの間|姿《すがた》を見せると、すぐに撤退《てったい》してしまった。
つまらない。殺し合いはなしか。
興奮《こうふん》と集中力が同時に高まった状態《じょうたい》の彼の精神は、ある種の飢餓感《きがかん》を感じていた。
その折《おり》、所属不明《しょぞくふめい》のヘリが一機だけ飛来《ひらい》した。ヘリは歩兵部隊《ほへいぶたい》への散発的《さんぱつてき》な攻撃を試《こころ》みたが、彼が攻撃位置につくよりもはやく、味方《みかた》の巨大《きょだい》AS <ベヘモス> によって撃墜《げきつい》されてしまった。
彼の飢餓感はさらに高まる。
つまらない。俺に獲物《えもの》をよこしてくれ。ちゃんと殺しをさせてくれ。必死《ひっし》に逃《に》げ回り、抵抗する相手を用意しろ。鋼鉄《こうてつ》とポリマーの手足を振《ふ》り回し、無力《むりょく》な40[#「40」は縦中横]ミリ砲《ほう》をけなげに撃《う》ってくる哀《あわ》れな敵を……!
アラーム音。
機体のセンサが、邸宅のはずれに一機のASをとらえた。撃墜されたヘリから投下《とうか》されたのだろう。
暗視《あんし》モード。
そのシルエットからM9に近い第三世代型ASだと判別《はんべつ》できる。なんのことはない。ただのM9だ。この <コダール> の敵ではない。
赤外線《せきがいせん》モード。
ひざまずくその機体《きたい》の熱量《ねつりょう》は、これまで提供《ていきょう》されたM9のデータに該当《がいとう》しなかった。そして、いまなお上昇《じょうしょう》していく敵機のジェネレータの推定出力《すいていしゅつりょく》は――
「4800……!?」
推定、4800キロワット。
標準的《ひょうじゅんてき》な第三世代型ASの二倍以上。これはもはや、陸戦兵器《りくせんへいき》のレベルではない。はるかに大規模《だいきぼ》な戦闘機《せんとうき》や戦闘|艦《かん》の出力だ……!
くすぶる雨の煙《けむり》の向こうに、ゆっくりと姿を見せる白い機体。各所《かくしょ》の装甲《そうこう》が暗く、熱く、燃えるような赤に輝《かがや》いている。周囲《しゅうい》の大気《たいき》が熱にゆがみ、たくましいその姿をゆらゆらと炎の中に踊《おど》らせている。
指揮《しき》ユニットから命令が入った。
『全ユニットへ。ヘリポートに降下《こうか》した敵ASを攻撃せよ。いかなる手段《しゅだん》を用《もち》いてもかまわない。ただちにあの敵ASを撃破《げきは》せよ……!』
彼が『了解《りょうかい》』と答えるより先に、敵ASが身じろぎした。
それ[#「それ」に傍点]は彼らを一瞥《いちべつ》すると、ひざまずいたままの姿勢《しせい》で軽く身を沈《しず》め、力を蓄《たくわ》えた。ほんのわずかな動作《どうさ》だけで、これからなにかが始まることを、すべての味方ASが察知した。
『……繰《く》り返《かえ》す。ただちにあの敵ASを――』
燃える炎がはじけるように、敵ASが跳躍《ちょうやく》した。
まず最初の跳躍で、宗介《そうすけ》の意識《いしき》は危《あや》うくどこかに消えてしまいそうになった。
すさまじいGで全身の血液が足元に持っていかれたような感覚。視界《しかい》が狭《せば》まり、真っ暗になる。歯を食いしばり、スティックを握《にぎ》りなおす。
「…………っ!!」
ぎりぎりのところで意識をつなぎ、スクリーン上のGメーターと高度計に視線《しせん》を走らせる。瞬間的《しゅんかんてき》な重力|加速度《かそくど》は30G以上。これはもはや航空機《こうくうき》の事故《じこ》に近い。瞬間的ならば人体はこれ以上のGにも耐《た》えられるが、だからといって楽なものでは決してなかった。いまの高度は八〇メートル。数秒前までいたはずのヘリポートは、はるか眼下《がんか》だ。
なんなのだ、このASは。
このパワーはいったい。
そう口に出す余裕《よゆう》さえなかった。地表がみるみる迫《せま》ってくる。手足を振《ふ》って着地体勢《ちゃくちたいせい》へ。邸宅《ていたく》の敷地《しきち》のはずれに着地。衝撃《しょうげき》で叩《たた》き壊《こわ》された舗装《ほそう》が、まるで地雷《じらい》でも爆発《ばくはつ》したかのように機体《きたい》の周囲で飛《と》び散《ち》った。
「なんだ、これは……!?」
着地の衝撃《しょうげき》に耐え切ってから、宗介はあえぐように言った。
<<教育メッセージ。『これ』の対象《たいしょう》を定義《ていぎ》してください>>
アルが無機的《むきてき》な声で言った。
「この機体の跳躍力と設定《せってい》の――」
<<冗談《じょうだん》です。なかなかのものでしょう?>>
「おまえ……!」
宗介は舌打《したう》ちした。アルは融通《ゆうずう》のきかない通常型《つうじょうがた》AIのふりまでしてのけている。
<<失礼《しつれい》しました。実はまだろくな試運転《しうんてん》も実施《じっし》していないのです>>
「なんだと?」
<<この機体はごく限定的《げんていてき》な環境《かんきょう》で、秘密裏《ひみつり》に建造《けんぞう》されましたので。私からも演習場《えんしゅうじょう》での作動《さどう》テストを要求《ようきゅう》したのですが、ハンター氏からは『そんな場所も時間もない』と却下《きゃっか》されてしまいました>>
「ハンター。ギャビン・ハンターのことか」
<<|肯 定《アファーマティブ》>>
<ミスリル> 情報部《じょうほうぶ》・香港《ホンコン》支局長《しきょくちょう》のあの男がこの機体に噛《か》んでいることを、宗介は初めて知った。あの女エージェント――レイスがこの機体を持ってきたことからも、どうやらこのARX―8 <レーバテイン> の建造には <ミスリル> 情報部が絡《から》んでいるようだ。
アラーム音。
敵のAS、<コダール> タイプが急接近してくる。武装《ぶそう》は標準的《ひょうじゅんてき》な35[#「35」は縦中横]ミリライフル。
「…………っ」
宗介はより慎重《しんちょう》に機体を操作《そうさ》した。
<レーバテイン> は軽く右へとステップし、敵の射撃《しゃげき》を回避《かいひ》する。飛来した砲弾《ほうだん》が路面《ろめん》を削《けず》り、そばの倉庫《そうこ》を粉々《こなごな》に砕《くだ》く。
「で、もちろん使えるんだろうな!?」
<<ラムダ・ドライバですか?>>
「そうだ!」
<<さあ……>>
脱力感《だつりょくかん》で腰砕《こしくだ》けになりかけた宗介の動作《どうさ》を、<レーバテイン> が馬鹿《ばか》正直に再現《さいげん》した。敵の攻撃《こうげき》。回避《かいひ》運動を続行《ぞっこう》。
「なにが『さあ』だ!?」
<<いえ。なにしろ使ったことがありませんので。無責任《むせきにん》に肯定《こうてい》するわけにも――>>
敵弾《てきだん》が大腿部《だいたいぶ》をかすめる。肩《かた》にも浅く被弾《ひだん》。がつん、とはげしい衝撃《しょうげき》が襲《おそ》う。
「……っ!」
<<接近警報《せっきんけいほう》!>>
敵機が単分子《たんぶんし》カッターを抜《ぬ》いて、まっすぐこちらへ迫ってくる。対応《たいおう》している時間がない。装備《そうび》している武器を選ぶゆとりさえ――
宗介は舌打《したう》ちして叫《さけ》んだ。
「もう知らん、試《ため》すぞ!」
<<どうぞ>>
直後、二つの力場《りきば》がぶつかりあった。大気が歪《ゆが》んで悲鳴《ひめい》をあげ、白煙《はくえん》と瓦礫《がれき》の破片《はへん》が混《ま》じりあって渦《うず》を巻く。突《つ》き出された <レーバテイン> の手が、<コダール> の単分子カッターを受け止めていた。
作動している。
それだけははっきりと分かった。敵の作りだす力場と、それを押《お》し返す自身の力が感じられた。いや、もっといける。逆襲《ぎゃくしゅう》さえできる。この圧倒的《あっとうてき》なパワーなら――
「…………!!」
<レーバテイン> は単分子カッターをただの棒切《ぼうき》れでも握《にぎ》るかのようにつかみ、敵機をぐいっと引き寄《よ》せた。機体の目と目――センサとセンサが間近《まぢか》で出会う。敵機の頭の動きに、かすかな恐《おそ》れが見てとれた。
右手を動かす。マニピュレータ操作《そうさ》ホイールを引いて拳《こぶし》を作り、大きく腰だめに振りかぶって、敵の胴《どう》へと叩《たた》き込む。目もくらむようなスパーク。<レーバテイン> の拳が <コダール> の力場を突き破り、さらに腹部《ふくぶ》の装甲を引き裂《さ》いた。内部のジェネレータを鷲《わし》づかみにして引きずり出す。臓物《ぞうもつ》のように伸《の》びる無数《むすう》のケーブル。火花を散《ち》らす核融合電池《かくゆうごうでんち》を握りつぶしながら、わき腹《ばら》に蹴《け》りを一撃《いちげき》くれてやる。動力《どうりょく》を失った <コダール> は、真っ二つに折《お》れて吹《ふ》き飛んだ。
チタン合金《ごうきん》の破片が、衝撃|吸収剤《きゅうしゅうざい》の噴流《ふんりゅう》が、燃え上がる炎《ほのお》が、<レーバテイン> の眼前ではげしく踊《おど》り回る。
一機|撃破《げきは》。
素手《すで》だけでこの破壊力《はかいりょく》とは。
<<成功。意外になんとかなるものです>>
「冷《ひ》や汗《あせ》ものだがな……!」
<<強制冷却《きょうせいれいきゃく》を開始>>
<レーバテイン> の後頭部が鋭《するど》く展開し、その奥《おく》から髪《かみ》の毛|状《じょう》の放熱索《ほうねつさく》が大量に吐《は》き出された。<コダール> と同じポニーテール状のユニットだが、それが展開される様《さま》は『伸びる』というより、大量の熱湯《ねっとう》が蛇口《じゃぐち》から噴出《ふんしゅつ》するような勢いだった。
吹《ふ》き寄せる上昇気流《じょうしょうきりゅう》に『髪』が揺《ゆ》れ、ほの白い光の粒子《りゅうし》がはらはらと散っていく。<レーバテイン> は、ひざまずいたままの姿勢で新たな獲物《えもの》を探し求めた。
光学《こうがく》センサに反応。さらに二機の <コダール> が迫る。
「武器は?」
<<各種あります。まずはこちらでいかがでしょうか>>
兵装《へいそう》コントロール・パネルに表示。
機体の簡略図《かんりゃくず》、その両|脚《あし》の膝《ひざ》部が青く明滅《めいめつ》する。『GRAW―4/MMC』の文字。二基の大型単分子カッターだ。これまでM9系で使ってきた『GRAW―2』の発展型モデルである。
「いいだろう」
<<了解《ラージャ》>>
アンバランスなほど大型に見えた <レーバテイン> の両膝|装甲《そうこう》には、折りたたみ式の単分子カッターが収納《しゅうのう》されていた。両膝の装甲が開くと、二基の単分子カッターが火花を散らしてせり出す。<レーバテイン> はそのグリップ部分を握りしめ、力強く引き抜くと、大鷲《おおわし》が翼《つばさ》を広げるかのように左右に構《かま》えた。その動作だけで地表に突風《とっぷう》が生まれ、舞《ま》い上がった泥《どろ》が小気味《こきみ》のいいつむじを描《えが》く。単分子カッター『GRAW―4』は瞬時《しゅんじ》に格納状態《かくのうじょうたい》から展開し、その刀身《とうしん》を低くうならせた。
<<|M3《マイク・スリー》接近。一〇時、距離《きょり》一>>
その <コダール> ――分類名《ぶんるいめい》M3は大型の単分子カッターを両手に構え、巧妙《こうみょう》な戦闘機動《せんとうきどう》をとりながらこちらに肉薄《にくはく》しようとしていた。もう一機の|M2《マイク・ツー》は右手の死角《しかく》から迫っている。同時に来られるとまずい――
<<M2は私が引き受けます>>
「?」
<<戦闘の続行《ぞっこう》を>>
それ以上会話している余裕《よゆう》はなかった。
ほぼ正面に二刀の敵機。宗介は機体を操《あやつ》り、その敵 <コダール> に真《ま》っ向《こう》からぶつかっていく。ラムダ・ドライバが生成《せいせい》した力場《りきば》同士がぶつかりあい、大気がプラズマ化してはげしい光を放った。
「…………っ!」
もう一機の <コダール> ――M2が背後から迫《せま》る。すでに <レーバテイン> の両腕《りょううで》はふさがっていたが、その両脇《りょうわき》の下、M9系列の機体ならば武装ラックになっていた箇所《かしょ》が素早《すばや》く展開し、中から小型のマニピュレータが出現《しゅつげん》した。
(隠《かく》し腕……!?)
操縦者《そうじゅうしゃ》の四肢《しし》の動きを拡張《かくちょう》して再現するASは、原理的《げんりてき》にそれ以上の腕を操作することができない。だがその腕は、まるでもう一人の操縦者が操っているかのように巧《たく》みな動作を見せた。一対《いっつい》の『隠し腕』は腰のハードポイントに連装《れんそう》された手榴弾《しゅりゅうだん》をつかみあげ、背後から迫るもう一機の <コダール> へと立て続けに投擲《とうてき》した。
爆発《ばくはつ》。不意《ふい》を打たれた背後の敵機は姿勢《しせい》を崩《くず》し、攻撃のタイミングを遅《おく》らせる。その間に宗介は本来の両腕を手際《てぎわ》よく操り、正面の敵機の斬撃《ざんげき》をさばくと、姿勢を落として軽い脚払《あしばら》いをかけた。
いや、ただの脚払いでは済まなかった。
ありあまる <レーバテイン> のパワーが、敵機の足をもぎ取らんばかりの勢いで炸裂《さくれつ》した。その <コダール> は腹部を中心にしてほとんど一回転半し、頭部を地面にこすりつけ火花を散らし、間近に停車《ていしゃ》してあったいくつかの車をなぎ倒《たお》した。
[#挿絵(img/09_319.jpg)入る]
ふりかえって軽く跳躍《ちょうやく》。手榴弾の爆発に煽《あお》られているもう一機へ、一直線に迫る。苦し紛《まぎ》れに敵機が発砲《はっぽう》。宗介は銃口《じゅうこう》をにらみつける。ただそれだけで、砲弾《ほうだん》が眼前《がんぜん》で弾《はじ》け飛んだ。
右を一閃《いっせん》。続いて左。
X字に <コダール> が切り裂《さ》かれる。千切《ちぎ》れた腕がくるくると回転し、地面に落ちてのたうった。
二機撃破。
脚払いをかけた残りの一機が、視界の片隅《かたすみ》でよろよろと身を起こそうとしている。まだ戦う気か。いや、逃《に》げるつもりか――
<<こちらをどうぞ>>
アルの一声と同時に、左脇の『隠し腕』が肘《ひじ》部に格納された対戦車《たいせんしゃ》ダガーを一本抜き取り、胸の前にひょいっと放《ほう》る。宗介の動きの癖《くせ》を完全に心得《こころえ》た、絶妙《ぜつみょう》のタイミングだった。
「ふん」
鼻を鳴《な》らすと宗介は機体を動かし、空中の対戦車ダガーを横なぎにつかみ取るやいなや、鋭《するど》いモーションで最後の <コダール> へと投げつける。敵機はラムダ・ドライバの力場でその一撃を止めようとして――こちらの力場に押《お》し負けた。
対戦車ダガーが胴体《どうたい》の真ん中に直撃《ちょくげき》する。金属《きんぞく》のひしゃげる異音《いおん》が響《ひび》いた後、閃光《せんこう》と共に <コダール> はばらばらに砕《くだ》け散った。
三機撃破。
旋回《せんかい》しながら着地し、すっくと立ち上がる。<レーバテイン> の動作を追って、後頭部から伸《の》びる放熱索がゆるやかな弧《こ》を描《えが》き、光の飛沫《ひまつ》を撒《ま》き散《ち》らした。
「なんだ、この腕は」
<<補助腕《ほじょわん》です。攻撃《こうげき》補助、弾倉交換《だんそうこうかん》、精密《せいみつ》作業などにお役立てください。制御《せいぎょ》は私が行います>>
「四本腕か。気持ち悪いな……」
<<私は気に入ってます。この際、あなたの好みは度外視《どがいし》してください>>
「…………」
残る敵の主力《しゅりょく》は <ベヘモス> 三機だ。あの桁外《けたはず》れの巨大《きょだい》AS。そのうち一機、もっとも近くの沿岸《えんがん》にいた <ベヘモス> が、<レーバテイン> を見据《みす》えていた。
因果《いんが》なもので、レモンたちが乗ってきた輸送《ゆそう》ヘリは非常《ひじょう》にタフな作りだった。三〇年以上、実戦に鍛《きた》えられ仕様変更《しようへんこう》を繰《く》り返してきた設計《せっけい》のため、そう易々《やすやす》と大破《たいは》・炎上《えんじょう》することはないのだ。
「だから言ったじゃろうが!? そう簡単《かんたん》に死ぬことはないとな!」
大破した機体の陰《かげ》に隠《かく》れ、コートニー老人は声高らかに叫《さけ》んだ。
「ええ、まったく!」
周囲の銃声《じゅうせい》や爆音《ばくおん》に負けない声で、レモンは怒鳴《どな》り返した。
「こうやって敵に包囲《ほうい》されて、じわじわなぶり殺しにされるって意味だとは思いもしませんでしたよ!」
レモンの嘆《なげ》きはもっともだった。不時着《ふじちゃく》でいくらかの負傷者は出たものの、彼らのヘリの乗員に死者は出ていない。庭園の真ん中に横倒しになって、ひしゃげた機体をさらしているヘリを包囲する敵兵たち。機体の陰から、けなげな応戦《おうせん》をしているレモンたちだったが、脱出《だっしゅつ》のチャンスはまったく見えず、弾薬《だんやく》はみるみる減っていくばかりだった。
「いやー、ケサン基地《きち》を思い出すのう! 撃《う》ってこい、撃ってこい! わ―――っはっはっはっは!」
異様《いよう》にハイになったコートニーが機関銃を撃ちまくっている。
「ケサンか。ありゃあひどい戦《いくさ》じゃったなあ」
むっつりとカービン銃を構えて、シールズ老人がつぶやく。
「おい。わたしは『安全に運べる』と聞いたからここまで付き合ったのだが……。どうしてこんなメキシコのド田舎《いなか》で、絶望的《ぜつぼうてき》な銃撃戦を繰《く》り広げているのだ?」
本名すら知らない東洋人の女が、サブマシンガン片手にぼやいていた。『幽霊《レイス》』と名乗っていたが、本当のところ彼女が何者なのか、そしてどの勢力《せいりょく》に味方する者なのかはいまだにさっぱりわからない。
レイスからの接触《せっしょく》は、宗介が米陸軍の戦闘《せんとう》を目撃《もくげき》した連絡《れんらく》の直後だった。彼らが輸送ヘリで待機していた寒村《かんそん》のはずれ、だれもいない荒《あ》れ地に一台の大型トレーラーが乗りつけたのだ。警戒《けいかい》して銃を向けるレモンたちの前に、その女――レイスは丸腰《まるごし》で出てくると、ヘッドライトの光を背にしてこう叫んだ。『サガラ・ソウスケはいるか!? 渡《わた》したい物があってきた!』と。
罠《わな》にしては妙《みょう》な申し出だったし、彼女は宗介のことをよく知っている様子《ようす》だった。不審《ふしん》に思いながらもコンテナの中身を覗《のぞ》いたレモンたちは、積荷《つみに》のAS――見たこともない第三世代型の機体に目を丸くした。
信じる、信じないは勝手にしろ。
行くならこの機体を持っていけ。
レイスはレモンたちにそう告げた。なぜこの待機ポイントをこの女が知ることになったのかをたずねたところ、彼女は『わたしも分からん。「アル」がここだと言ったのだ』と答えた。
合点《がてん》のいかないことは多々《たた》あったが、断《ことわ》る理由もない。レモンたちは新型ASをヘリに載《の》せ、レイスを伴《ともな》い、こうして邸宅《ていたく》へと飛来したのだったが――
「あんなすごい敵がたくさんいるなんて知らなかった。死ぬ。これは絶対死ぬ」
ひしゃげたジュラルミンの陰で半泣きになって、レモンは夜空をあおいだ。
「それはわからんぞ、若いの!」
コートニーが言った。
「見てみろ。サガラの奴《やつ》め、もう三機も叩《たた》き落としおったわい」
「あ、ほんとだ」
彼らの墜落《ついらく》地点から数百メートル離《はな》れた果樹園《かじゅえん》の一角で大きな爆発が起きた。あの赤いAS <レーバテイン> が襲《おそ》いかかる敵ASを対戦車ダガーで撃破したのだ。
「ラムなんとかやらは知らんし、あんな猛烈《もうれつ》なパワーの機体は見たことない。だが、リズムのいい動きをしよるわい。ありゃ本当に初めて乗った機体なのか? 昔から使い慣《な》れた愛機みたいじゃ」
「それはそうだろう。サガラにとって、あの機体は古女房《ふるにょうぼう》みたいなものだ」
至近距離《しきんきょり》の跳弾《ちょうだん》に首をすくめながら、レイスが言った。
「しかし、あの <ベヘモス> 相手ではどうなるか……」
海岸で散発的《さんぱつてき》な砲撃《ほうげき》を繰《く》り返していた超《ちょう》大型AS <ベヘモス> に一瞥《いちべつ》をくれる。<ベヘモス> はその巨体をはげしく震《ふる》わせながら、<レーバテイン> めがけて上陸を始めていた。同時に両肩《りょうかた》、両腕、そして頭部に搭載《とうさい》されたすべての火器が火を噴《ふ》く。大小の機関砲、ロケット弾、対戦車ミサイルがうなりをあげ、白いASのシルエットを覆《おお》いつくした。
「いかん」
あの距離からあの弾幕《だんまく》では、回避《かいひ》運動も追いつかない。小刻《こきざ》みに動く <レーバテイン> が爆風と至近弾にバランスを崩《くず》し、前のめりに膝《ひざ》をつくのが見えた。<ベヘモス> はあの巨体からは想像もつかなかったほどの速度で突進《とっしん》し、一歩大きく踏《ふ》み出すと、右足を <レーバテイン> めがけて踏み降ろした。
轟音《ごうおん》。大量の土砂《どしゃ》が舞《ま》い上がる。
あれでは津波《つなみ》を前にした子供のようなものだ。<レーバテイン> はなす術《すべ》もなく <ベヘモス> に踏み潰《つぶ》されてしまった。
「ああっ……!」
レモンが絶望的な声をあげ、コートニーさえも眉《まゆ》をひそめて息を飲んだ。だが、レイスは違《ちが》った。不安に雲《くも》っていた切れ長の目が見開かれ、どこか楽しげな声色が喉《のど》から漏《も》れた。
「いや。よく見ろ……」
大地を踏みしめた <ベヘモス> の足の裏から、光の粒子《りゅうし》が漏《も》れている。放熱システムのうなるような轟音《ごうおん》が響き渡《わた》り、周囲の大気が陽炎《かげろう》のようにゆらめいている。
「あれは……?」
「ロス&ハンブルトン、PRX―3000。試作型《しさくがた》の超・高出力ジェネレータだ。陸戦兵器レベルを超《こ》えたあのパワーに、ラムダ・ドライバの力が加われば――」
<ベヘモス> の体が傾《かたむ》いた。右足がぐらりとゆれ、足の裏に隠《かく》れていた <レーバテイン> の姿がゆっくりと見えてくる。
「な……」
<レーバテイン> は潰されていなかった。<ベヘモス> の足を両腕でがっしりと受け止め、赤い光の粒を全身からほとばしらせ、じわじわと敵の巨体を持ち上げていこうとしていた。
機体の咆哮《ほうこう》とアラーム音。ジェネレータの出力は『最大《MAX》』を指している。冷却《れいきゃく》システムも最高レベルで稼動中《かどうちゅう》。電磁筋肉《でんじきんにく》の中を駆《か》け抜《ぬ》ける電力がスパークし、全身から雷光《らいこう》をほとばしらせている。踏みしめる両脚《りょうあし》がみるみると大地にめり込み、すべてのフレームが悲鳴をあげる。
<<現在の推定荷重《すいていかじゅう》、およそ一五〇〇トン>>
アルがごく当たり前の声で告げた。
<<参考までですが、これは標準的な主力戦車の約三〇台分に相当《そうとう》します。つまり設計上の限界《げんかい》荷重をはるかに超《こ》える数値です。軍曹《ぐんそう》どの。ただちに脱出《だっしゅつ》を>>
「う、る、さ、い……!」
歯を食いしばって宗介はうなった。ラムダ・ドライバの影響《えいきょう》か、すさまじい重みが彼の神経《しんけい》にフィードバックされている。
「できるなら、とっくにやっている……!!」
必死にその重圧《じゅうあつ》に耐《た》えながら、宗介は短く息を吸《す》い込み、あらん限りの力を下腹部《かふくぶ》に込めた。
「…………っ!!」
<レーバテイン> を包《つつ》む力場が赤熱《せきねつ》して輝《かがや》いた。瞬間《しゅんかん》、爆発的《ばくはつてき》な力が作用し、彼らを踏み潰そうとしていた <ベヘモス> の足を思い切り押《お》し返す。衝撃《しょうげき》。巨大《きょだい》な右足のくるぶしから下がぐしゃぐしゃにひしゃげる。<ベヘモス> はバランスを崩して、仰向《あおむ》けにひっくり返った。
「とどめを刺《さ》すぞ!」
<<了解《ラージャ》>>
両膝に再格納していた単分子カッターを引き抜き、<レーバテイン> は跳躍《ちょうやく》する。<ベヘモス> の頭めがけて、短い放物線《ほうぶつせん》を描《えが》いて飛びかかり、両手に握った単分子カッターを首筋へと突《つ》き立てる。
力場を突き破って装甲《そうこう》を切り裂《さ》き、内部へと刀身が侵食《しんしょく》する。
さらに二撃、三撃。
滝《たき》のような火花と飛び散るオイル。頭部コックピットをずたずたに切り離され、<ベヘモス> は力を失った。
四機目を撃破。
アルの報告。残り二機の <ベヘモス> が岬《みさき》の向こうから姿を見せつつあった。一機は数百メートルの近距離に。もう一機は数キロのかなたに。
手前の <ベヘモス> が発砲してきた。<レーバテイン> は身を翻《ひるがえ》し、今しがた撃破した敵機の装甲の陰《かげ》に隠《かく》れる。三〇ミリ砲弾や成型炸薬弾《せいけいさくやくだん》が周囲に命中し、はげしい炎《ほのお》と爆音を振《ふ》りまいた。
「もうさっきみたいなのは御免《ごめん》だぞ……! ほかに武器はないのか」
<<お任せを。こちらです>>
兵装コントロール・パネルに表示。背部にマウントされた火砲のシンボルが明滅《めいめつ》する。
「デモリッション・ガン。一六五ミリだと……!?」
宗介の声がうわずるのは無理《むり》もないことだった。一六五ミリという砲弾のサイズは、ASの火器としては考えられないものだった。標準的なAS用ライフルが四〇ミリ。宗介が好んで使う『ボクサー』散弾砲が五七ミリ。クルツが狙撃《そげき》で使う最大級の狙撃用|滑腔砲《かっくうほう》が七六ミリだ。そうした火砲よりもはるかに威力《いりょく》のある戦車砲が一二〇ミリ。五〇トン超《ちょう》の戦車がやっと撃《う》てるレベルの武器だった。ましてや、一〇トン程度《ていど》のASでは。
「工兵用《こうへいよう》の火砲ではないのか?」
『デモリッション・ガン』は本来《ほんらい》、邪魔《じゃま》な建築物《けんちくぶつ》や構造《こうぞう》物を除去《じょきょ》するために使用《しよう》する破砕砲《はさいほう》のことだったが、この機体が装備しているそれは、純粋《じゅんすい》に戦闘《せんとう》用のようだった。
<<この火器は戦闘用です。炸薬も反動も桁外《けたはず》れですのでご注意を。ラムダ・ドライバなしで発砲することはできません>>
背部ハードポイントに設置《せっち》されていたアームが動いて、短砲身・大口径のデモリッション・ガンが右肩の下を回り込み、射撃《しゃげき》位置へと移動した。スクリーンに映るそのサイズだけでも、破格《はかく》の大きさだと見て取れる。
しかし、こんなデカブツが――
「撃てるのか……?」
腕部《わんぶ》を操作《そうさ》し、デモリッション・ガンの具合《ぐあい》を試《ため》しながら宗介はつぶやいた。
<<分かりません。なにしろ試射《ししゃ》さえしていませんので>>
「だが、やってみるしかないわけだ」
<<そういうことです>>
「いいだろう」
<レーバテイン> はデモリッション・ガンを構えると、<ベヘモス> の残骸《ざんがい》から身を乗り出し、いましも上陸しようとする敵へと跳躍した。
すぐさま敵 <ベヘモス> が発砲。目もくらむような閃光《せんこう》の数々。回避しきれない敵弾をラムダ・ドライバで強引に弾《はじ》き返す。
(そう簡単《かんたん》には……!)
着地《ちゃくち》。すぐさま跳躍。空中できりもみ。対ASミサイルが迫《せま》る。頭部のガトリング機銃をフルオート射撃。迎撃《げいげき》。手足を振る。ラムダ・ドライバの力で落下の放物線が鋭《するど》く切り替《か》わる。敵の弾幕《だんまく》を回避《かいひ》。敵との距離《きょり》、約二〇〇メートル。
(至近《しきん》距離からぶち込んでやれば……)
低い軌道《きどう》で三度目の跳躍。猛烈《もうれつ》な衝撃と気の遠くなるようなG。見る間に敵機《てっき》の足元が迫り、その股下《またした》を潜《くぐ》り抜ける。有明《ありあけ》での戦闘では、ここから見上げるように背部のスリットを射抜《いぬ》いたところだが――
「まだ……!」
<レーバテイン> は前転するなり、海岸の砂浜を蹴《け》って垂直《すいちょく》に跳《と》んだ。またたく間に <ベヘモス> の頭上まで滞空《たいくう》して、空中で一回転。巨大ASの後頭部の辺りに飛びつく。
敵のラムダ・ドライバがうなりを上げ、焦点《しょうてん》の合わさった力場が <レーバテイン> へと殺到《さっとう》した。普通《ふつう》ならその衝撃波《しょうげきは》でばらばらに吹《ふ》き飛ばされているところだ。しかし――
「!」
集中する。<レーバテイン> の力場が敵の力場を受け止めて、風のように受け流す。デモリッション・ガンを片手で構《かま》え、その砲口《ほうこう》を敵の後頭部に突きつけ、気合《きあい》を込めて引き金を引く。
閃光と衝撃が眼前で爆発した。榴弾が装甲を突き破って[#「榴弾が装甲を突き破って」に傍点]敵機の後頭部の奥《おく》深くに飛び込み、その中心部で爆発する。一六五ミリ砲の生み出すすさまじい反動が、機体を数メートルほど浮《う》き上がらせた。
「……っう!」
バランスを崩《くず》し、<レーバテイン> は <ベヘモス> の背中から転げ落ちた。
<<成功>>
アルがそう告げるのだけが聞こえた。機体の手足を素早《すばや》く振って、姿勢《しせい》を立て直し砂浜に着地する。
「どうだ……!?」
<<ですから、成功です>>
見上げると <ベヘモス> が大量の黒煙《こくえん》を上半身から噴《ふ》き出し、ゆっくりと前のめりに倒《たお》れていくところだった。ラムダ・ドライバの力場による自重《じじゅう》操作能力を失ったためか、敵機は各部を脱落《だつらく》させながら崩れ落ちていく。崩壊《ほうかい》した機体が無数の砂埃《すなぼこり》を巻き上げ、天を裂《さ》くような断末魔《だんまつま》の咆哮《ほうこう》をあげた。
五機撃破。
「なんて反動だ」
デモリッション・ガンの再|装填《そうてん》を実行しながら、宗介はつぶやいた。
<<想定外《そうていがい》です。ああいう撃《う》ち方をするとは思いませんでした>>
「俺が荒《あら》っぽいのは知ってるはずだ。何年俺の相棒《あいぼう》をやってる?」
<<およそ一年と二か月です。それほど長くありません>>
「そういえばそうだったな」
鼻を鳴らし、宗介は残る最後の <ベヘモス> を一瞥《いちべつ》した。
いま、<レーバテイン> は邸宅《ていたく》の正面の砂浜に膝《ひざ》を突《つ》いている。最後の敵機はおよそ三キロ彼方《かなた》の海上にいたが、すでに交戦する気は失っているようだった。こちらに威嚇《いかく》射撃を試みながら、高速で後退していく。
<<|M6《マイク・シックス》が後退。戦域《せんいき》から撤退《てったい》するつもりのようです。追撃《ついげき》を?>>
「できるなら試みるが、あの距離ではもう無理《むり》だろう」
このデモリッション・ガンは『ボクサー』並みの短砲身《たんほうしん》だ。数十メートルの至近距離での戦闘ならともかく、あんな遠くの敵を狙《ねら》うような精度《せいど》はまったくない。
<<いいえ、可能《かのう》です>>
「どういうことだ」
<<予備《よび》アームDを作動《さどう》>>
兵装《へいそう》コントロール・パネルが明滅《めいめつ》。背部にマウントされていた最後の装備――着脱《ちゃくだつ》式砲身が機体前方にせり出し、デモリッション・ガンに接続《せつぞく》された。ギア音とロック音。大型ながらもごく短いサイズだったはずのデモリッション・ガンが、砲身を装着することで戦車砲すらはるかに越《こ》える長大な火砲《かほう》へと変身していた。
<<『ガンハウザー・モード』に移行《いこう》を完了《かんりょう》。曲射弾道《きょくしゃだんどう》なら最大|射程《しゃてい》は三〇キロです>>
アーム・スレイブにガンハウザー――長砲身|榴弾砲《りゅうだんほう》だと? 常識《じょうしき》はずれの装備に呆《あき》れながら、宗介は思い直した。
そもそもこの機体自体が常識はずれなのだ。ラムダ・ドライバというでたらめな機能《きのう》があれば、反動も貫通《かんつう》力も度外視できる。このレベルの戦闘では、兵器の装甲《そうこう》貫通力などたいして意味はない。ならば、この馬鹿《ばか》馬鹿しいほど巨大《きょだい》な火砲も、<レーバテイン> にとってはちょうどいい武器なのではないか?
「いいだろう。試してやる」
なかば自嘲気味《じちょうぎみ》に宗介はつぶやいた。
<<そう言っていただけると思ってました>>
「うるさい」
機体に膝をつかせて、マスター・モードを精密《せいみつ》射撃に切り替《か》える。センサの倍率《ばいりつ》を最大に。きびすを返し、全速で戦域から撤退する <ベヘモス> の後姿が、暗視《あんし》モードの映像の中に揺《ゆ》れる。
各種のデータが表示された。
気温、湿度《しつど》、風速、砲身の温度、その他もろもろ。狙撃《そげき》技能も普通《ふつう》にあるが、クルツほどの神業《かみわざ》は無理だ。狙撃に関してはアルも大したデータは持っていないので、ここは自分の勘《かん》に頼《たよ》るしかない。
スクリーンの中で、ターゲット・シンボルとレティクルが重なる。ぴぴっと小さなアラーム音が響《ひび》いた。
<<確実《かくじつ》な照準《しょうじゅん》です。発砲《はっぽう》を>>
「まだだ」
つぶやき、最小倍率にしたアームを操作《そうさ》する。あとすこし。そう、もうすこし……。
発砲。
前と同じすさまじい反動が襲《おそ》いかかった。機体の全高を上回るほどの巨大な火球が生まれ、正面の砂を爆発的に跳《は》ね上げる。しっかりと踏《ふ》ん張《ば》っていたはずなのに姿勢を崩し、<レーバテイン> は尻餅《しりもち》をついた。五〇〇ポンド爆弾《ばくだん》がすぐ目の前で炸裂《さくれつ》したような衝撃だった。
それでも <レーバテイン> のラムダ・ドライバは作動した。
砲口から吐き出された砲弾は宗介の意志をのせ、予定された軌道《きどう》を完璧《かんぺき》に駆《か》け抜け、退却する <ベヘモス> の後頭部のど真ん中に命中した。
拡大《かくだい》された視界の中で、巨大ASの頭部が吹き飛び、はげしい炎《ほのお》をまき散らす。
やや遅《おく》れて、遠い爆発音。
くぐもった残響《ざんきょう》と共に、最後の <ベヘモス> がゆっくりとくずおれ、前のめりに海へと沈《しず》んでいった。
六機目を撃破。
ふうっと溜息《ためいき》をついてから、宗介はアルにたずねた。
「……アル」
<<はい、軍曹殿《ぐんそうどの》>>
「何分かかった?」
<<五分五二秒です>>
「…………」
気まずい沈黙《ちんもく》。すこし待ってからアルが控《ひか》えめに言った。
<<強気《つよき》のご様子でしたが、あれだけの相手に三分はさすがに無理でしたね>>
「うるさい。おまえの言った四分一二秒だって無理だっただろう」
<<人間のくせにしっかり覚えているとは。実は根に持つタイプですか?>>
「いったい、どこでそういう語彙《ごい》を覚えてくるんだ、お前は!?」
<<あいにく何か月も操縦兵《そうじゅうへい》に見放されていたものでして。放送やインターネットを閲覧《えつらん》する機会《きかい》には事欠《ことか》きませんでした>>
「…………」
<<ご要望《ようぼう》とあれば、もっと品のない喋《しゃべ》り方もできます。アメリカ南部の低所得者風《ていしょとくしゃふう》などはいかがでしょうか?>>
「やめろ」
まったく、ああいえばこういってくる。喋りの鬱陶《うっとう》しさも以前のままだ。宗介は息をついてから、ぼやくように言った。
「だが、まあ……無事《ぶじ》でよかった」
それは宗介の本心だった。
おかしなことなのだが、彼はこの戦術支援《せんじゅつしえん》AIに、戦友のような感覚を抱《いだ》くようになっていた。アルはM9に標準|搭載《とうさい》されているAIとは根本的《こんぽんてき》になにかが違《ちが》う。香港《ホンコン》での作戦前から妙《みょう》だとは思っていたが、今日の再会でますますその思いが強くなってきた。
宗介の意図《いと》がそこまで分かったとも思えないが、アルは答えた。
<<はい、軍曹殿、私もです。それだけは本心からお伝えしておきます>>
「ふん」
機械のくせに、『本心』と来たものだ。
だが、なぜだろう。悪い気分はしない。
宗介は機体を立ち上がらせ、周辺の敵を警戒《けいかい》すべく、センサをアクティブモードに変更《へんこう》した。クルツたちはどうなっただろうか? それにレモンたちも助けなければならない。残ったのが歩兵部隊なら、この <レーバテイン> で制圧《せいあつ》するのは簡単なことだろう。
かなめのヘリを追うのは、もう無理だろうが……。
飛行《ひこう》を続けるヘリのキャビンで、かなめは慎重《しんちょう》にその機会《きかい》をうかがっていた。
レナードの私兵《しへい》、戦闘服《せんとうふく》姿の男たちは、すでにすっかり気を緩《ゆる》めていた。重傷を負ったレナードの様子をうかがう者と、窓《まど》の外に注意を払《はら》っている者。返り血に汚《よご》れ、憔悴《しょうすい》した様子のかなめがその一角に座《すわ》っていても、だれも気に留《と》めようとはしない。
すぐ隣《となり》の男が座席《ざせき》から身を乗り出し、キャビンの奥《おく》になにかを話しかけた。スペイン語なのでよくわからなかったが、レナードの容態《ようだい》を聞いているようだった。
いましかない。
そう思った瞬間《しゅんかん》、彼女の中で様々な葛藤《かっとう》が駆け抜《ぬ》けた。
そんな無茶が通るのか? 思うように物事《ものごと》が運ぶのか? この機にはあのカリーニンも乗っているのに? それに彼が――かわいそうなレナードがいま、ああして自分のせいで苦しんでいるというのに……?
(馬鹿《ばか》げてる……!)
彼女は小刻《こきざ》みに首を振《ふ》った。
いつの間に自分は、そんな風に思うようになったんだろう? 些細《ささい》な同情が命取りになることくらい、いまの自分なら分かるはずなのに……!
固く目を閉じてから、深く息を吐《は》く。
ぐっと唇《くちびる》をひき結《むす》んで、それから目を開ける。
座席から立ち上がった兵隊の腰《こし》、そのホルスターに収まった自動|拳銃《けんじゅう》がまだあった。
よし、やってしまえ――
かなめは拳銃に手を伸《の》ばすと、手早くそれを引き抜いて、さっと男から後じさった。瞬間、遅れて反応した男が彼女に手を伸ばしたが、かなめはその指先をぎりぎりで逃《のが》れ、その銃口を相手に向けた。
「動くな! 本気で撃《う》つわよ!?」
こんな大声を出したのは久しぶりだ。身構えたまま固まった男たちに向かって、彼女はさらに怒鳴《どな》りつけた。
「いますぐ機長を呼びなさい! このヘリを引き返させるのよ!」
「わかった。待て」
兵士の一人が、ヘッドレストに向かってなにかをつぶやく。
ほどなくやって来たのは、機長ではなくアンドレイ・カリーニンだった。部下の一人の拳銃を奪《うば》い、その胸に銃口を突《つ》きつけているかなめを見たのに、すこしも驚《おどろ》いた様子がない。
「元気なようだな。彼を撃ってショック状態《じょうたい》かと思っていたが」
カリーニンが言った。
「ミズ・チドリ。引き金から指を離《はな》し、その銃をゆっくりと返したまえ。それで終わりにしてやろう」
「あたしに命令しないで。こいつを撃つわよ」
「無理をしないことだ」
カリーニンが静かに言った。
「引き金を引く気のない人間は、銃を持ってはいけない。時間の無駄《むだ》だし、予測不可能《よそくふかのう》の事故《じこ》も起きる。君は身をもってそれを知ったばかりだと思っていたが」
「引き金を引く気、ね」
彼女はぐっとこらえて深呼吸《しんこきゅう》をした。泣かないように。負けないように。何から何まで、すべてにおいて勝《まさ》っているこの古強者《ふるつわもの》にも舐《な》められないように。おなかにぎゅっと力をこめて、まっすぐに相手を見据《みす》えて。
「だったらあなたは彼が撃てるんですか? ソースケのことを」
宗介とカリーニンの関係について、彼女は多くのことを知らない。二人が話しているところだって、たいして見ていない。
でも、かなめは知っている。
宗介が『少佐《しょうさ》が』と言うときの、あの落ち着いた声色《こわいろ》、あの確固《かっこ》たる信頼《しんらい》を。『マオが』、『クルツが』、『大佐殿《たいさどの》が』。そして『会長|閣下《かっか》が』。そうした言葉とまったく同じ――いや、もっと強い安心感に満ちたあの響《ひび》きを。
そのカリーニンが宗介の敵に回って、平然《へいぜん》としていられるだろうか? 撃てると断言《だんげん》できるのか? こんな風に、わけ知り顔であたしに説教できるのか?
「撃てる」
カリーニンはわけもなく言った。そのなにげない返答が、むしろとらえどころのない重みを感じさせた。
「現《げん》にさっきも私はそう命じた。それだけの理由が、私にはある。覚悟《かくご》らしい覚悟もしたことのない君には分からないことだろうが……」
「うそよ」
「そう思いたければ、思えばいい。だがこれ以上馬鹿な真似《まね》を続けるのなら、君はいやというほどその意味を知ることになる」
「…………」
「代償《だいしょう》は、君の銃口の前にいる愚《おろ》かな男の命だ。撃ちたければ撃ちたまえ」
カリーニンの言葉のひとつひとつが、かなめの胸を締《し》め付けた。
まったく訓練《くんれん》らしい訓練も受けていない素人《しろうと》の少女が、まぐれとはいえ銃を奪って、ヘリの乗員の一人に突きつけている。そして興奮《こうふん》した声で、『ヘリを引き返させろ』と要求《ようきゅう》している。その事実を前にして、キャビンの傭兵《ようへい》たちはどう受け止めているのだろうか、とかなめは思った。
彼らの表情に恐《おそ》れはない。かといって、嘲笑《ちょうしょう》の類《たぐい》も現れていない。怒《いか》りも、苛立《いらだ》ちも見ることができない。ただ無表情に彼女を見つめているだけだ。以前ならまるで想像がつかないところだったが、いまの彼女には彼らの考えがおぼろげに察《さっ》しがついた。
たぶん、こう思っているはずだ。この銃の薬室に弾《たま》は装填《そうてん》されているのか。されているとして、弾頭《だんとう》の種類はなにか。彼らは愚《おろ》かにも自分の銃を奪われた仲間の身は案じていない。もしかなめが発砲したとして、弾頭が彼の体を貫通《かんつう》することはあるか。貫通した弾頭が跳弾《ちょうだん》して、ヘリの重要な機器《きき》を傷つける可能性《かのうせい》はあるか。
だから、人質《ひとじち》をとっても意味はない。彼らの関心《かんしん》は人命じゃない。
「そうね。じゃあこうする」
かなめは男から銃口を外し、まっすぐキャビンの天井《てんじょう》に向けた。
たちまち傭兵たちが身を固くする。このキャビンの真上にはエンジンの予備系統《よびけいとう》と油圧《ゆあつ》系統、そしてメインローターの駆動《くどう》系統が収まっている。軍用のヘリとはいえ、キャビン内部はほとんど防弾性《ぼうだんせい》がないはずだった。たとえ拳銃の弾だろうと、何発も撃ちこまれたら重大な故障《こしょう》や火災《かさい》が起きかねない。
「これならどう? こっちだったら平気で撃てるわよ」
「なるほど。痛いところを突いてきたな」
カリーニンは真顔《まがお》のまま、小さくうなった。経験《けいけん》豊かな教師が、生徒のユニークな回答《かいとう》を聞いたときのような顔だった。
「だがいまの高度は三〇〇フィート。速度は毎時一二〇マイル。ここでもし深刻《しんこく》な損傷を受けたら、オート・ローテーションで不時着することも困難だ。まず間違《まちが》いなく、われわれは全員|墜落死《ついらくし》するだろう。運良く不時着に成功し、さらに運良く君だけが無事《ぶじ》で、たまたまわれわれが残らず重傷を負い、その上で君が一人で逃《に》げられる可能性はゼロだ」
彼の言う通りだった。いまのかなめにはそれがよく分かる。この高度と速度では、回転翼機《かいてんよくき》を不時着させるだけの位置エネルギーも運動エネルギーもない。シートベルトさえ着けていない自分は、衝突《しょうとつ》の瞬間に機外《きがい》に放《ほう》り出されて死ぬだろう。
「それでもいいなら、撃ちたまえ」
「…………」
なにか強烈《きょうれつ》な言葉を浴《あ》びせかけられたわけではない。心をえぐるような一言があったわけでもない。それでも彼女は言い知れない敗北感《はいぼくかん》に打ちのめされていた。アンドレイ・カリーニンは、言葉を操《あやつ》ることで誰《だれ》かを屈服《くっぷく》させるような、器用《きよう》な人間ではない。彼はただ事実を話すだけだ。厳然《げんぜん》とした事実を。そして彼がいま話している事実は――たとえ拳銃一|挺《ちょう》を奪ったところで、かなめはまったく無力《むりょく》なままなのだということだった。
これまでのピンチで繰《く》り出してきた多少の機転《きてん》やハッタリ、ささやかなアイデアや大胆《だいたん》さ。そうしたあれこれ――一七|歳《さい》の小娘《こむすめ》が悪あがきした末での行動が、すんなりと通用するような相手ではないのだ。この歴戦《れきせん》の勇者は。
なぜこれほどの男が、ここに至《いた》って敵側についているのだろう? どうして『心配させて済まなかった。サガラのところに連れていってやろう』と言ってくれないのだろう? せめて自分にだけ分かるように、小さくウィンクしてくれたっていいのに。なぜそんな厳《きび》しく哀《かな》しい瞳《ひとみ》で、ただあたしを見つめているのだろう?
「本気なんですね?」
かなめは言った。なぜだか無性《むしょう》に悲しくなって、目が赤く充血《じゅうけつ》していた。
「だったら教えて。あたしはもう、彼には会えないんですか?」
「そうだ。会うことはない」
カリーニンが言った。彼女にはそれが絶望的な予言《よげん》のように聞こえた。どれだけ自分があがこうが、強く望んで泣き叫《さけ》ぼうが、もう彼には会えない。
少なくとも、誰も傷つけずに会うことはできない。レナードが仕掛《しか》けてきた賭《か》けの通りなのだ。自分が宗介を、自由を望むたび、必ずだれかが死ぬことになる。このヘリでの顛末《てんまつ》そのものが、そのどうしようもないジレンマを強く表していた。
「もう充分《じゅうぶん》だろう。銃を返したまえ」
「いや……」
かなめはとうとう、自分のこめかみに銃口をあてた。ごつりとにぶい鋼鉄《こうてつ》の感触《かんしょく》。引き金を引きたい衝動《しょうどう》に駆られる。
そうだ、引いてしまおう。その方がいい。なにもかも、もうたくさん。人差し指に力を込めるだけで、全部消え去ってくれる。不安も苦悩《くのう》も、レナードを撃った罪悪感《ざいあくかん》も、この敗北感も絶望も。
心の奥底で『絶対だめ。まだ早いよ』と何かが叫んでいたが、彼女はその声を超人的《ちょうじんてき》な集中力で無視《むし》した。希望はだめだ。いまは希望など信じてはいけない。見せてはいけない。絶望に身をゆだねて、演技などではなく、心の底から死にたいと願うのだ。
そう思わせなければならない[#「そう思わせなければならない」に傍点]。
ごく簡単に引き金を引けるように、なにも考えず、虚脱《きょだつ》したままで――
「待て」
カリーニンが制止《せいし》した。
初めてその声色に焦《あせ》りの片鱗《へんりん》が浮《う》かび、その表情に深刻な懸念《けねん》が浮かんでいた。かなめから立ちのぼった暗い死の匂《にお》いを、彼は敏感《びんかん》に嗅《か》ぎとったのだ。数え切れないほどの死にゆく者を見てきた彼だからこそ、それを感じとることができたのだろう。
「やめろ。できる限りのことはする」
信じた。
「ヘリを戻《もど》して」
[#挿絵(img/09_347.jpg)入る]
焦点《しょうてん》の定まらないぼんやりとした目。かなめは死んだ声のままで言った。
「それは……現状《げんじょう》では難《むずか》しい。レナードの手当《てあ》ても必要だ。ここで引き返すと彼の命が危《あぶ》なくなる。だからまず落ち着いて、銃口を頭から離《はな》したまえ。そして私を狙《ねら》うんだ」
口数が多くなっている。初めてまともに説得《せっとく》を試み、交渉《こうしょう》しようとしている。主導権《しゅどうけん》がこちらに来た。
「じゃあ、お別れを言わせて」
「?」
「無線機《むせんき》。彼にお別れを言いたいから……それでもう諦《あきら》めるから……」
付近一帯《ふきんいったい》に降《ふ》り注《そそ》いでいた雨がいつのまにか消え失《う》せ、邸宅《ていたく》を戦闘《せんとう》後の静寂《せいじゃく》が支配しようとしている。まるで <レーバテイン> の並はずれた力が、雨雲をどこかへなぎ払《はら》ってしまったかのようだった。
敵ASをすべて駆逐《くちく》すると、宗介は残った敵戦力の掃討《そうとう》に移った。
まず包囲され苦境《くきょう》に陥《おちい》っていたレモンたちの救援《きゅうえん》に向かい、周囲の敵を追い払う。あの <ベヘモス> すら倒《たお》してみせた <レーバテイン> に本気で抵抗《ていこう》しようとする敵はほとんどいなかった。
レモンや老兵たちは、とりあえずのところ無事《ぶじ》のようだった。大戦果《だいせんか》をあげた <レーバテイン> に向かって、能気《のうてんき》に手を振《ふ》っている。彼らの中にはあの情報部の女――レイスも混《ま》じっていたが、派手《はで》な銃撃戦《じゅうげきせん》に疲《つか》れ果てた様子でい一人だけげっそりとしていた。
ほどなくクルツ、マオ、クルーゾーのM9三機が駆けつけ、残敵の掃討と降伏した敵のコントロールも進んでいった。クルツたちは <レーバテイン> をひと目見ただけで、あの <アーバレスト> の派生型《はせいがた》だと理解《りかい》したようだ。宗介と <レーバテイン> の驚異的《きょういてき》な戦果《せんか》に驚《おどろ》きながらも、『詳《くわ》しい話は撤収《てっしゅう》してから』ということで後回しになった。
ただ、その折《おり》にクルツがひとことぼやいた。
『あのとき、メリダ島にそいつがいたらなぁ……』
「? なんのことだ?」
『クルツ。やめなさい』
と、無線|越《ご》しにマオが口を挟《はさ》んだ。
『こっちでも色々あってな、軍曹《ぐんそう》。まあ、それも後で話す』
と、クルーゾーが告げた。
『それよりその機体―― <レーバテイン> だったか? なるべく捕虜《ほりょ》たちに見せたくないな。ECSで消えておけ』
クルーゾーの指摘《してき》通りだった。その戦闘力は存分《ぞんぶん》に見せてしまったが、だからといって近距離《きんきょり》から機体をじっくり見せる義理《ぎり》もない。細かいユニットの配置《はいち》などから、その性能を類推《るいすい》されるのは避《さ》けておきたかった。
「了解《りょうかい》。……アル、ECS作動。不可視《ふかし》モードだ」
<<無理です>>
アルが言った。
「なに?」
<<無理です。なにしろこの機体には、ECSが搭載《とうさい》されていません>>
「なんだと? どういうことだ」
<<どういうこと、と言われましても。破格《はかく》の出力に破格のコンデンサ。強引な設計の駆動系《くどうけい》に、大容量《だいようりょう》の冷却《れいきゃく》システム。そしてラムダ・ドライバです。余計《よけい》な機材を搭載する余裕《よゆう》などありません>>
「…………」
<<参考《さんこう》までにお知らせしておきますが、この機体にはECSだけでなく、ECCSもありません。レーダーは最低限ですし、レーザー・赤外線などの妨害《ぼうがい》装置もないので、ミサイル攻撃《こうげき》には大変|脆弱《ぜいじゃく》です>>
「ちょっと待て。それではほとんど <サベージ> 並みじゃないのか?」
<<いえ。さすがに <サベージ> よりはましですが、M6に毛が生《は》えた程度です>>
「なんてことだ」
電子系のスクリーン表示がほとんど暗転したブランク状態になっていることにようやく気付いて、宗介はあきれ返った。光学センサなどはM9と同じ最新モデルのようだったが、他の機材がほとんどない。こんなにお粗末《そまつ》な電子兵装で、どうやってこの現代戦を生き残れというのだろうか?
<<とはいえ、クルーゾー中尉《ちゅうい》たちと合流できたのは僥倖《ぎょうこう》でした。彼らとの連携《れんけい》とデータリンク機能で、この欠点はいくらでも改善《かいぜん》できますので。気を落とさずに頑張《がんば》りましょう、軍曹殿>>
「……『余計な機材』ならまだあるぞ」
<<なんでしょうか?>>
「おまえだ。おまえを取り外してゴミ箱に捨てて、代わりにECSを付けるべきだ」
<<ナンセンスです。私|抜《ぬ》きでは、この機体はデッドウェイトだらけの『欠陥《けっかん》M9』ですので。それでも良ければご自由にどうぞ>>
「また減《へ》らず口を。だいたい貴様《きさま》は――」
<<新たな無線信号を捕捉《ほそく》>>
宗介の罵声《ばせい》を遮《さえぎ》って、アルが報告《ほうこく》した。
「?」
<<一二九・二二メガヘルツ。AM波のVHF帯《たい》です。非暗号化《ひあんごうか》のオープン回線《かいせん》ですが、先ほどからあなたを呼んでいます>>
「俺を?」
<<肯定。回線8に設定して接続しますか?>>
「ああ。つなげ」
<<了解。完了>>
なにか胸にざわめくものを感じながら、宗介はそのデジタル無線の声に耳を傾《かたむ》けた。
女の声だ。
よく知っている、だがとても懐《なつ》かしい声が彼の名前を呼びかけていた。
『――ソースケ。聞こえてる……?』
声の主はかなめだった。
鼓動《こどう》が高鳴り、背中から汗《あせ》が噴《ふ》きだしてくる。ふたたび彼女の声を聞いただけで、宗介は胸の奥《おく》をぐっと鷲《わし》づかみにされた気分になった。
かなめに間違《まちが》いなかったが、それはかぼそく、弱々しく、ひどくはかなげだった。彼が知っているかなめではない。いや――あの学校の中庭での、最後の彼女のままだ。
答える相手のあてもなく、彼女は呼びかけていた。
『もし聞こえてなかったら……だれか、この無線を聞いてる人が伝えてください。繰《く》り返《かえ》します。……サガラ・ソースケ。聞こえてますか? あたしはいま――』
「千鳥《ちどり》――」
考えるより先に指が動いていた。所定《しょてい》の回線に合わせ、通信スイッチを押《お》し込み、彼は彼女の名を叫んでいた。
「千鳥」
気が遠くなるような沈黙《ちんもく》とノイズ。わずかな間を置いてから、彼女が日本語で答えた。
『ソースケ? 聞こえてるの?』
「ああ、聞いてる。俺だ。いまどこにいる? 迎《むか》えに来たんだ。場所を教えてくれ。いや、それより怪我《けが》は? 大丈夫《だいじょうぶ》なのか?」
『うん……大丈夫だよ』
「わかった。じゃあ現在位置を教えてくれ。俺がいますぐ迎えにいく。大丈夫だ、もう敵は片付けた。アルが――いや、新しい機体もある。もう負けないと思う。それにみんなが、マオやクルツたちもここにいるんだ。もう心配しなくていい。俺が必ず――」
『ソースケ。落ち着いて』
かなめの声はあくまでも冷淡《れいたん》だった。だが彼はそんなことなど構いもせずに、ヘッドセットめがけてまくしたてた。
「いや、俺は落ち着いてる。君に話したいことがたくさんあるんだ。色々なことがあった。俺もよく分からないくらいだ。何度も迷った。でもここまで来た。来ずにはいられなかったんだ。だから、千鳥。あれこれ言うのはやめて、どこにいるか教えてくれ。現在位置が分からないんだったら、周囲の地形を言ってくれ。もしそばに敵がいるんだったら――」
『ソースケ。やめて』
かなめの声が遮《さえぎ》った。
「なぜだ? 現在位置が分からなかったら、迎えに行けない」
『そういうことじゃないの……』
つらそうな、うわずった声が耳の奥で響《ひび》いた。
『もう……あたしを追うのはやめて』
「なんだと? よくわからない」
『あたしを追わないで。いまあたし、カリーニンさんと一緒《いっしょ》にヘリの中なの。レナードも。あたし、彼を殺しちゃったかもしれない。かわいそうなレナード……。それでも何度も逃《に》げようと思ったけど、やっぱり無理なんだとわかった。あの人たちには、絶対かなわない。逆らえば逆らうだけ、だれかが傷ついていく。だから、ごめん。本当にもう追わないで。あたしのこと、そこまで追っかけてくれるのは本当にうれしい。でもね、やっぱり――』
「千鳥? なにを言ってるんだ?」
長い沈黙。耳障《みみざわ》りなノイズ。
彼には彼女の言っていることが分からなかった。なぜ『追わないで』などと言っているのか、理解できなかった。
いや――
嘘《うそ》だ。本当は分かっている。
ナミの死に顔が脳裏《のうり》をよぎった。もちろんかなめは、彼女のことなんて知らない。ナミは死者たちの象徴《しょうちょう》だ。宗介がかなめを追うたびに、死者の数が増えていく。敵であろうと部外者《ぶがいしゃ》であろうと。そんな単純《たんじゅん》な事実くらい、かなめだって知っているはずだ。あの学校の中庭での別れのときも、けっきょくはそれが問題だった。
追わないで。
彼女がそう言うのは、もう分かっていたのに。自分があがけばあがくだけ、彼女が苦しむことになる。宗介はただ、その事実から目をそむけていただけなのだ。
『だから……ソースケ……もうあたしのことは忘れて……』
目の前が真っ暗になっていく。宇宙《うちゅう》空間に放《ほう》り出されたような感覚。とらえどころのない浮遊感《ふゆうかん》と、どこまでも広がる暗黒。
「まってくれ、千鳥。俺は……」
『いいかげんに分かって。あたしたちは、もう……』
ほかにどうすることもできず、宗介が汗《あせ》に濡《ぬ》れたスティックを握《にぎ》り締《し》めていると、無線の向こうでかなめがなにかをぶつぶつとつぶやいていた。そう――なにか熱病にでも浮《う》かされたように。
『やっぱり、やだ』
彼女が言った。
『そんなの、絶対やだ』
彼女の声に力がこもった。
『ソースケ。まだ聞こえてる?』
「ああ」
『前・生徒会副会長としてあんたに命令するわよ。いい?』
ずずっと鼻をすする音。向こうで彼女が泣いている。
『あたしを助けに来て。どんな犠牲《ぎせい》を払《はら》ったって構わない。何人死んだって――何百、何万、何億人死んだって構わないから。だから、あたしを迎えにきなさい! あんたの持てるすべて――そのクソの役にも立たない、非常識《ひじょうしき》で迷惑《めいわく》きわまりない兵隊の技能を総動員《そうどういん》して、どんなにヤバい相手でもギッタギタにやっつけて、あたしを抱《だ》きしめにきなさい!! あんたならやれるでしょ!? どう!?』
「ああ。できる」
胸の奥ではげしく、熱くわきたつものを感じながら、宗介は力強く答えた。
そうだ。なにを迷うことがある? 何百万人死なせようと。どれだけの困難がこれからもあろうと。彼女をこの事につかむためならば、いったい、なにを恐《おそ》れることがあるのだろうか?
「必ず行く。待っていろ」
『うん……』
声を詰《つ》まらせ、かなめは言った。
『ソースケ……大好きだよ』
「俺もだ。愛してる」
こんな言葉が自然に出てきたことに、彼自身も驚《おどろ》いていた。
『うれしいよ……。じゃあ、次にちゃんと会えたら、必ずキスしよ。思い切り。どんな場所でも。いい? 約束だよ?』
「ああ、約束する」
ノイズがひどくなってきた。ヘリが交信|可能範囲《かのうはんい》から離脱《りだつ》しようとしているのだ。もうかなめを追跡《ついせき》する手段《しゅだん》はない。
いまは[#「いまは」に傍点]。
『何年でも、何百年でも待ってるから……』
「大丈夫だ。必ずつかまえる」
『うん。それから、邸宅《ていたく》のキッチンの冷蔵庫《れいぞうこ》の中を探して。ハードディスクが――』
かなめがなにかを言ったが、もう聞き取れなかった。ひどいノイズの嵐《あらし》が割《わ》り込んで、それきり回線は沈黙した。
無線が切れると、かなめはヘッドセットを外して、手にした拳銃《けんじゅう》の引き金から人差し指を離《はな》した。
「もういいわ」
[#挿絵(img/09_359.jpg)入る]
拳銃を傭兵《ようへい》の一人に突《つ》きかえす。唯一《ゆいいつ》この場で日本語のわかるカリーニンだけが、彼女の交信を聞き終えて、眉間《みけん》に厳《きび》しいしわを寄せていた。
「一泡《ひとあわ》ふかされた、ということかな」
カリーニンが言った。
「なんのこと?」
「私は君が絶望したのだと思っていた。本気で自分のこめかみに引き金を引くのだと」
「それは本当よ」
憔悴《しょうすい》しきった顔でかなめは言った。
そこまで自分を追いやらなければ、カリーニンの観察眼《かんさつがん》の前ではすべてを見抜《みぬ》かれてしまっただろう。あれは演技とも本気ともつかない、そうしたぎりぎりの領域《りょういき》での心理戦だった。
「いまでも、あなたたちに勝てるなんて思ってない。この状態から逃《のが》れられるとも。それに、あたしは本気で彼にお別れを言うつもりだったの。でも――」
彼女はうつむいた。
「そう。気が変わったの。それだけ」
自分がどれだけ過酷《かこく》なことを宗介に言ったのか、かなめはよくわかっていた。どうにもならないことを、『どうにかしろ』と言ったのだ。これからも彼を大変な危険のただ中に引き込むことも。たくさんの犠牲者が出るかもしれないことも。その無責任《むせきにん》さと傲慢《ごうまん》さを、彼女は正しく理解していた。
それでも会いたいのだ。
この気持ちに嘘《うそ》はつけない。こればかりはもう、どうしようもない。
「覚悟《かくご》は済ませた、ということか」
「ええ」
じっと彼女を見つめてから、カリーニンはため息|混《ま》じりに言った。
「彼はもう迷わないだろう。たとえ私が前に立ちふさがったとしても、もはや躊躇《ちゅうちょ》なく引き金を引く。君は彼にとてつもない力を与《あた》えてしまったのだ。……だから無線機など使わせたくなかった。君の死相《しそう》に折れた、私の負けだな」
「ずいぶんと潔《いさぎよ》いんですね」
「だが君が彼らに託《たく》したハードディスクとやらについては、話を聞いておかなければならないだろうな」
「聞いても無駄《むだ》だと思うわよ」
かなめは鼻をふんと鳴らした。
「あたしとテッサ、そこの彼くらいにしか分からないような内容だから」
「……ったく」
<トゥアハー・デ・ダナン> の格納甲板《かくのうかんぱん》でM9から降りるなり、クルツは宗介の前で口をとがらせた。
「『ソースケ、大好きだよ☆』。『俺ぼだ。愛じてる』……と来たもんだ。やってられねえよ、実際《じっさい》。もうおまえ、死ね。思い切り死んでしまえ」
「ほぼ半年ぶりに顔を合わせて、いきなりそれか……」
げっそりとした顔で宗介はつぶやいた。あのときはかなめとの会話が、オープン回線だということを忘れていたのだ。ペイブ・メア輸送ヘリで久しぶりの <デ・ダナン> に運ばれるまでの間、彼はかなめとのやりとりについて、マオやクルツたちにさんざんからかわれるはめになっていた。
レモンとDGSEの面子《メンツ》、コートニー老人とシールズ老人、そしてレイスも <デ・ダナン> に同行していた。
レモンもあの無線を聞いていたようだ。作戦が終わってからようやく会うと、彼はなにか言いたげな顔で宗介の目をのぞきこみ、ひとこと、『合点《がてん》がいったよ』とだけつぶやいた。日本語は分からないはずだったが、おおよその流れは察《さっ》したのだろう。
「すまない、レモン……」
「いや。それより、君の上官を紹介《しょうかい》してもらえるかな。勢いでここまで来ちゃったけど、僕たちと <ミスリル> 残党の諸君《しょくん》が敵なのか味方なのかもはっきりしてないからね」
レモンたちは格納甲板の一角にとどめ置かれたまま、移動《いどう》を禁じられていた。まがりなりにも超《ちょう》・最新鋭《さいしんえい》の潜水艦《せんすいかん》の内部だ。他国の諜報部員《ちょうほうぶいん》たちを自由に歩き回らせるほど、<デ・ダナン> のクルーも鈍感《どんかん》ではなかった。
「ああ。いまは操艦《そうかん》で忙《いそが》しいと思うが、じきに来ると思う」
上官。
テッサともずっと会っていない。グァム島で騒《さわ》がしい二日間を、老兵たちと一緒《いっしょ》に過ごして以来《いらい》だ。
「サガラさん」
背後で声がして振《ふ》り返ると、そこにテッサがいた。操艦はもうマデューカスに任せたのだろう。思ったよりも早くこの場に駆《か》けつけたようだった。
「大佐殿《たいさどの》……」
「お久しぶりですね」
彼女はしっとりと微笑《ほほえ》んだ。もともとほっそりとしていたが、いまはもっと痩《や》せたように見える。詳《くわ》しいことはまだ聞いていないが、メリダ島が総攻撃《そうこうげき》を受けてからいままでの彼女の苦労は、いったいどれほどのものだっただろうか。
「……はい。大佐殿も、よくご無事で」
「ええ。あれから色々あって……でも、けっこう大丈夫《だいじょうぶ》ですから。サガラさんも無事でよかったです」
ごく平静な態度《たいど》だった。冷淡《れいたん》なわけではなかったが、同時に万感《ばんかん》の思いも、すがるような声色《こわいろ》もない。ただ大勢《おおせい》の部下の中の一人が帰還《きかん》したのを喜んでいる。そういう、それだけの態度にみえた。衆人環視《しゅうじんかんし》の中で感情を抑《おさ》えているのか、それとも本当にそのままの気持ちなのか。宗介にもそれは判然《はんぜん》としなかった。
「で……わたしの隊への復帰《ふっき》を?」
「それは……ええ、そのつもりですが、まだ整理がついていません。すこし考えさせてください」
「わかりました。それはまた話し合いましょう」
テッサは特に失望《しつぼう》した様子も見せなかった。
「それから、これまで自分に協力してくれた連中がいます。フランス諜報部のミシェル・レモンと、ボーダ提督《ていとく》のご友人の――」
『テッサたん!!』
格納甲板中に響《ひび》き渡《わた》るような叫《さけ》び声をあげて、二人の老人がテッサへと突進《とっしん》していた。あまりにも素早《すばや》かったために、テッサの護衛の兵士たちも阻止《そし》が一歩|遅《おく》れたくらいだった。
「こ、コートニーさんにシールズさん?」
いきなり森の中でグリズリーにでも出会ったかのように身を固くしていたテッサは、目を白黒させながら宗介に問いつめた。
「な、なんでこの人たちまでいるんですか?」
あれこれと『会いたかった』だの『なんでここにいるんじゃ』だの『わしを追ってきたのか』だのと騒ぎ立てる二人を、兵士たちが必死に羽交《はが》い締《じ》めにする。
「いえ、まあ……ほかに丁度《ちょうど》いい伝手《つて》がなかったものでして……」
「それは知ってますけど。どうして連れてきたの?」
「置いてくるのも薄情《はくじょう》でしょう」
「それはそうかもしれませんけど……」
気を取り直し、宗介はレモンの紹介をしようとした。
「それよりも、レモンです。DGSEのエージェントで有用な情報を持っています。頭も切れるし、俺の命の恩人で、信頼《しんらい》もできる。……レモン。こちらが俺の――」
振り返ってレモンを見る。彼は惚《ほう》けたように突《つ》っ立って、口を半開きにして、熱に浮《う》かされたようにテッサを見つめていた。
「……レモン?」
「…………」
「レモン。彼女が俺の上官なんだが――」
「え? なに?」
「紹介しろと言っただろう」
「え、でも。だって。ホント? この子、紹介してくれるの?」
「おい……」
様子を後ろで見ていたクルツとマオとクルーゾーが、ひそひそと『惚《ほ》れたな、あれは』だの『わかりやすいわねー』だの『またファンクラブ会員が一人|追加《ついか》か……』だのとささやきあっていた。
そのおり、艦内《かんない》電話がテッサを呼び出した。発令所《はつれいじょ》のマデューカスからのようだ。いくつか受け答えをしてから、テッサはその場の一同に告げた。
「さて。ろくに挨拶《あいさつ》もできてませんけど、これから本艦は静粛航行《せいしゅくこうこう》で安全な海域《かいいき》まで退避《たいひ》します。とりあえず、それまで静かにしていてください。<トゥアハー・デ・ダナン> はみなさんを歓迎《かんげい》します」
するとペイブ・メアの格納庫から搬出《はんしゅつ》されたばかりのAS―― <レーバテイン> が外部スピーカーから告げた。
<<歓迎というのは、私もでしょうか? ミズ・テスタロッサ>>
「もちろんよ、アル。あなたも無事で良かったです」
<<ありがとうございます、大佐殿>>
[#改ページ]
エピローグ
病院内の治療室《ちりょうしつ》でようやく意識《いしき》を取り戻《もど》したギャビン・ハンターは、すぐそばに一人の少女が腰《こし》かけていることに気付いた。
ショートヘアで野球帽《やきゅうぼう》を目深《まぶか》にかぶり、ジーンズにトレーナーというラフな格好《かっこう》だ。歳《とし》は一六〜一七といったところか。
「ミラか……」
彼は微笑《ほほえ》もうとしたが、せいぜい唇《くちびる》を引きつらせることしかできなかった。
「無理《むり》をしないで」
少女が優《やさ》しく言った。
「ちょうどさっき、レイスさんから連絡《れんらく》が入りました。あの子は無事《ぶじ》に彼の手に渡《わた》ったそうです。予想以上の力を見せてくれたみたいですね」
「そうか……」
しわがれた声しか出なかった。軽くせき込み、治療室を見回す。すぐそばで心電図《しんでんず》モニターが、規則的《きそくてき》な電子音を奏《かな》でていた。
[#挿絵(img/09_369.jpg)入る]
「……よかった。まさか本当に完成するとは思わなかったが。間《ま》に合ったんだな。ありがとう。君のおかげだ」
「いいえ。あの人――サガラさんには助けてもらった恩《おん》があるし。彼が来なかったら、いまごろわたしはシベリアのどこかで抜《ぬ》け殻《がら》みたいになってたと思うから」
「まあ、そうなんだろうな」
「でも、わたしは手助けをしただけです。けっきょくはあの子――アル自身のおかげでしょう。自分の体を設計《せっけい》するなんて、普通《ふつう》のAIにはできないわ。バニっていう人は本当にすごかったのね」
「なるほど。『最強のAS』というわけか」
ハンターはつぶやき、天井《てんじょう》をぼんやりと見上げた。
擬似的《ぎじてき》にせよ、人工知能《じんこうちのう》が人格や直感《ちょっかん》のようなものを育てるには、現実としての身体感覚《しんたいかんかく》が欠かせないのだろう。ただネットワークに接続《せつぞく》されただけでは、あそこまでの独創性《どくそうせい》、あそこまでの柔軟性《じゅうなんせい》は生まれない。大地を踏《ふ》みしめ、熱を、風を感じ、戦闘《せんとう》という極限状況《きょくげんじょうきょう》に自らをさらすことが重要なのだ。だからこそのAS――最も進んだ人工的な人体が、容《い》れ物《もの》として必要だったのではないか。
これまで聞いたところでは、ARX―5までの『実験機《じっけんき》』はASですらなかったという。それまでのARXシリーズは、あくまでも研究室の中で製作《せいさく》された、特殊《とくしゅ》な機材《きざい》の集合体《しゅうごうたい》だった。そして高精度《こうせいど》の測定機器《そくていきき》でようやく計測《けいそく》できる程度《ていど》の『|超常 現象《ちょうじょうげんしょう》』しか起こすことができなかったと聞いている。
劇的《げきてき》な差が出てきたのはARX―6からだ。初めての擬似的な『人体』――改造《かいぞう》されたM6に搭載《とうさい》されて、あのシステムはまともに機能《きのう》するようになったのだという。
そして|7《セブン》へ。次に|8《エイト》へ。すさまじい勢いでその完成度は上がってきている。
あの奇妙《きみょう》な力場発生機能は、それ自体が軍事的にも重要なものかもしれないが、このARXシリーズの系譜《けいふ》を思うときに、ハンターは別の疑問《ぎもん》をどうしても感じてしまう。あのラムダ・ドライバという装置《そうち》ですら、なにかの付随的《ふずいてき》な要素《ようそ》なのではないか? と。
そう。いまは亡きウィスパードであるバニ・モラウタは、その何かに気付いていたのではないのか?
「そうかもしれません」
目の前にいるもう一人のウィスパードにその疑問を話すと、彼女――ミラは暗い顔でうなずいた。
「ARX―8の建造《けんぞう》を手伝っているうちに、だんだん分かってきたんです。もしかしたら、バニが目指してたのは……」
少女は言葉を切った。ハンターが辛抱《しんぼう》強く答えを待っていても、彼女はそれ以上なにも言おうとしなかった。
リハビリも済んだとはいえ、彼女の精神への負担《ふたん》が気になったので、彼は話題を変えることにした。
「私に付き添《そ》ってくれていたようだね」
「ええ。心配だったから」
「私はもう大丈夫《だいじょうぶ》だよ、ミラ。もう安全なところに行きなさい」
「そうね。もう少したったら、そうします」
彼女はハンターのやつれた顔を軽く撫《な》でてから、小さく微笑んだ。
[#地付き][次巻へ]
[#改ページ]
あとがき
どうもです。普通に話を進めてたら、なぜか今まででいちばん分厚い巻になってしまいました(DBDの方が長いかもですが、分冊《ぶんさつ》してますし)。キャラクターが増えてきて、しかもそれぞれバラバラに動いてるもんだから、それだけ字数を食ってしまうのでしょう。これからも大変そうですね……。
今回のキャラにMVPをあげるとしたら、自分的にはコートニー爺《じい》さんでしょうか(次点はアル)。ナミがああいうことになって、ともすれば陰気《いんき》になりがちだった宗介とレモンたちのムードを一変させてくれました。かなめの持っている『陽』の部分を、今回はコートニー氏が代わりに引き受けてくれた感じでしょうか。あんまり深く描いていませんが、ベトナム帰りでキャリアも長い人ですから、本当は兵隊としてこれまでかなり悲惨《ひさん》な目にあってるはずです。そういうのを感じさせない達観《たっかん》ぶりと楽天主義《らくてんしゅぎ》が気に入ってます。自分も年とったら、ああいうデタラメなクソジジイになりたいものです。
コートニー氏は長編シリーズには初登場なので、彼をご存じない方は短編集『安心できない七つ道具?』の書き下ろし『老兵たちのフーガ』をご覧ください。ああいう困った爺さんがぞろぞろ出てきて、気の毒なテッサが被害《ひがい》にあいまくる話です。
テッサといえば、なんだか爆弾抱えてるっぽい感じですね。これからどうなるのでしょうか。心配です。
宗介は妙《みょう》にふっきれたみたいですが、そう簡単にはいかないでしょう。なにしろ敵があの人ですから。まだまだ苦労することになりそうです。かなめもいろいろ覚悟したみたいですが、やはりまだまだ困難《こんなん》に直面《ちょくめん》しそうな雲行《くもゆ》きです。
とはいえ、かなめと宗介のああいうやりとりとかは、自然に出てくるというか、キャラが勝手に動き出すというか。作者の意図《いと》までねじ伏《ふ》せるようなところがあって、かなめというのは本当に不思議《ふしぎ》なキャラクターです。
レナードは今回あんまりな扱《あつか》いですが、まあ……これからどうなるのか考えた上でのああいう事故です。ヒントは傷を負った箇所《かしょ》。ヤバいです。
そしていよいよ登場した新主役機ARX―8ですが、いろいろ考えた末に『レーバテイン』と命名しました。名付け親は『ふもっふ』『TSR』の監督・武本さん。思いつく限り挙げてもらったら、なんか良さげな響《ひび》きのものがあったので、一年間くらい悩んでから採用《さいよう》です。この場を借りて感謝です。
デザインはアニメ版のアーバレストなどを担当していた海老川さんです。OMFのあとがきに書いていたやり取りは、あくまで冗談です! っていうか、あんなスペックありえませんから!
かなりたくさんのラフを描いてもらっていたのですが、あれこれ悩んだ挙《あ》げ句《く》に『基本はアーバレストの発展型で』ということになりました。随所《ずいしょ》をボリュームアップして、どーんと力強く。コダールでやっていたポニーテールなんかも採用。アーバレストとの差別化も意図《いと》して、色彩《しきさい》はホワイト基調《きちょう》に赤を入れてもらいました。コンセプトは燃える炎の色! です。赤が入った二代目メカといったら、エルガイムMk[#「Mk」は縦中横]―2とかビルバインが有名(?)ですが、なんかそんなノリとかイメージで。月刊ドラゴンマガジン本誌でのカラー特集も大好評だったそうで、あらためて海老川さんに感謝です。
で、新主役機の登場ということで、デビュー戦は思い切り派手《はで》にしました。
昔、とあるロボットアニメで、待ちに待っていた二代目主役機が出てきたら、地味《じみ》〜にビームをちょっとだけ撃って、敵があっさり撤退《てったい》しておしまい、という話がありまして。僕としては子供心に『なんか寂《さび》しいなあ』と思ったので、せっかくですしレーバテインは大暴《おおあば》れしてもらいました。まあ、弱点もけっこうあるので今後はそのあたりもバランスを取りつつ、ほどよい感じで活躍《かつやく》していけたらいいかな、と思っております。
それから作中《さくちゅう》に登場するファウラーたちの <エリゴール> というASは、アニメ版に出てくる赤い『ヴェノム』のつもりです。原作の <コダール> タイプは、すべて外見的《がいけんてき》にはあのポニーテール付きということになります。ややこしくなってすみません。
今後の予定ですが、月刊ドラゴンマガジンでの連載形式はこのMMDで終わりということになっています。これからの話は文庫書き下ろし形式《けいしき》に戻ってお届けします。'07[#「'07」は縦中横]年度の上半期中に、もう一冊お届けできたらなー、と。でもまだまだ描くことがたくさんあるので、どうなることやら……(汗)
長くシリーズを続けてくると、いろいろ思うことも多いのですが、なぜかあとがきには書く気がしてこないものです。これから宗介たちをどうするつもりなのか、お話をどういう形でフィナーレに持っていくのかは、作品の形でお届けしたいです。
自分の環境《かんきょう》も、一巻目を書いたころからずいぶん変わりました。シリーズ初期にファンレターをくれた小学生の読者が、もう社会人になっていてもおかしくない事実《じじつ》に気付いて、いろいろあわててます。身の回りでも、結婚した人、お子さんが生まれた人、これから生まれる人など、たくさんです。人生は流れていく、というかなんというか。さすがに自分もデビュー当時の気分ではいられません。いつまでもズルズル続けずに、一一年目をむかえるまでにはしっかり終わらせないとなあ、と。『最後はこうしたい!』というビジョンはちゃんとありますので、これからも宗介たちを応援《おうえん》していただけたら、と思います。
今回もたくさんの方々にお世話になりました。ありがとうございます。
とりわけ四季童子さんには、またしても大変なご迷惑をおかけしております。それでもすばらしいイラストをいつもあげて頂いて、感謝の言葉も見つかりません。これからもなにとぞよろしくお願いいたします。
それから担当編集のSさん。長い間ありがとうございました&おめでとうございます。これからも大変かとは思いますが、ゆっくりお休みしてからの元気な復帰《ふっき》をお待ちしております。
それではまた。次回も宗介といろいろ地獄に付き合っていただきます。
[#地付き]二〇〇七年二月 賀 東 招 二
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底本:「フルメタル・パニック! つどうメイク・マイ・デイ」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2007(平成19)年3月25日初版発行
初出:「月刊ドラゴンマガジン」富士見書房
2006(平成18)年5月〜2007(平成19)年3月号
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
----------------------------------------
底本の校正ミスと思われる部分
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底本107頁3行 ゴダード大尉《たいい》がクルーたちに
ゴダート大尉
底本349頁2行 能気《のうてんき》に手を
能天気