フルメタル・パニック!
燃えるワン・マン・フォース
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)加湿仕様《かしつしよう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)電力| 上昇 中《じょうしょうちゅう》。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しぼりとられたレモン[#「レモン」に傍点]のように
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[#挿絵(img/08_000.jpg)入る]
[#挿絵(img/08_000a.jpg)入る]
[#挿絵(img/08_000b.jpg)入る]
[#挿絵(img/08_000c.jpg)入る]
目 次
プロローグ
1:闘技場
2:新天地
3:リアルバウト
4:コラテラル・ダメージ
5:燃える男
エピローグ
あとがき(加湿仕様《かしつしよう》)
『燃えるワン・マン・フォース』
四季童子イラスト・コレクション
[#改丁]
プロローグ
それは混濁《こんだく》した意識《いしき》の中で、ぼんやりと浮かんでは消える可能性《かのうせい》の世界だった。
そこではなにもかもが曖昧《あいまい》になる。
時間も、場所も。
自身も、他者《たしゃ》も。
とんぼ眼鏡《めがね》に大きな瞳《ひとみ》の少女が、涙《なみだ》をこぼしながら訴《うった》えかけていた。
(あたし、なにも知らずに死にたくない)
少女の胸にはよく見知ったC4爆薬《ばくやく》が巻きつけてあり、その起爆回路《きばくかいろ》には一六本のコードがあった。コードの一本を切断《せつだん》された瞬間《しゅんかん》、爆薬が炸裂《さくれつ》した。愛くるしい少女の体がばらばらになって、ちぎれた頭部が何十メートルも彼方《かなた》に飛んでいった。
暗転《あんてん》。
狭苦《せまくる》しいコックピットの中、多目的《たもくてき》スクリーンに映《うつ》るおびただしい情報《じょうほう》が流れていった。
(――電力| 上昇 中《じょうしょうちゅう》。全ヴェトロニクス起動《きどう》。機体制御《きたいせいぎょ》ユニット。機体|診断《しんだん》ユニット。パッシブな知覚《ちかく》ユニット。戦術《せんじゅつ》データユニット。火器管制《かきかんせい》ユニット。メーン・バランサ。すべて起動。CCUとのリンクを――)
ジェネレータの冷却《れいきゃく》ユニットが低い唸《うな》り声をあげる。かすかに震《ふる》えるスティックを握《にぎ》り直し、トリガーの位置を確《たし》かめる。チェックリストを省略《しょうりゃく》。敵はすぐそこまで迫《せま》っている。
暗転。
いつも強気な瞳の彼女が、散髪《さんぱつ》の途中《とちゅう》に手をとめる。そっとこちらの顔をのぞきこみ、ためらいがちにこうつぶやく。
(ねえ。キスしよっか)
断《ことわ》る理由はなにもない。応《おう》じようとした彼の喉首《のどくび》に、彼女が剃刀《かみそり》を押《お》し当てる。
(あんたみたいな人殺しと、あたしが? ありえないよ)
軽蔑《けいべつ》の目。手が動く。鋭《するど》い刃《やいば》が皮膚《ひふ》を、気道《きどう》を、血管《けっかん》を切る。彼女の名前を叫《さけ》ぶことさえできない。ごぼごぼと異様《いよう》な音がもれるだけ。
暗転。
氷の世界に不時着《ふじちゃく》した旅客機《りょかっき》の中。
寒い。寒い。寒い。
大好きなお母さんは、もう暖《あたた》かくない。暗闇《くらやみ》の中で彼を抱《だ》いたまま、もう動くこともない。耳に残るのは、うわごとのような二つの言葉。
(生きるのよ。戦いなさい)
助けは来なかった。氷が割《わ》れ、不時着機は彼を抱いて冷たい海へと沈《しず》んでいく。もうなにも感じない。あるいはそれが一番の――最良の結末《けつまつ》だったのか。
暗転。
よく晴れた空。どこかの中庭。周囲《しゅうい》にはたくさんの窓《まど》と、たくさんの人々。
ぽつんと立《た》ち尽《つ》くす彼の前に、知らない少女が現《あらわ》れる。
うつむいている。泣いている。
(バカ)
少女はつぶやき、去っていく。人々は嘲笑《ちょうしょう》し、彼に罵声《ばせい》と野次《やじ》を飛ばす。
そうして――
まぶしい。
焼《や》けるような光が彼の網膜《もうまく》を刺《さ》し、理路整然《りろせいぜん》とした意識《いしき》がゆっくりと戻《もど》ってきた。負傷《ふしょう》し混濁《こんだく》した兵士に呼びかけるのと同じ要領《ようりょう》で、彼は己《おのれ》自身に問いかける。
ここはどこだ?
ベッドの下だ。窓から射《さ》しこんだ日光が、閉じた瞼《まぶた》に投げかけられた。安宿《やすやど》のベッドだ。安宿――ナムサクの街《まち》にあるモーテル。東南アジアの片隅《かたすみ》だ。
俺《おれ》はだれだ?
相良《さがら》宗介《そうすけ》だ。カシム。ソウスキー・セーガル。軍曹《ぐんそう》。ウルズ7。ほかにも色々な名前で呼ばれた。
いまは?
もう朝だな。七時かそこらだろう。東京を去ってから一か月になる。昨夜はあちこち歩き回って、疲《つか》れが出たらしい。六時間は眠《ねむ》っていたようだ。
どうやってここに?
航空便《こうくうびん》を何度か乗《の》り継《つ》ぎ、陸路も使った。偽造旅券《ぎぞうりょけん》を用意して。
ここら一帯《いったい》にはコネもあるので、別にどうということはなかった。
では、なぜ俺はここにいる?
決まっている。
敵を追っているのだ。
[#改ページ]
1:闘技場
ひびだらけのアスファルトに、巨大《きょだい》な鋼鉄《こうてつ》の足が叩《たた》きつけられた。
あと数十センチ街路《がいろ》の右を歩いていたら、ミシェル・レモンの体はぐしゃぐしゃに踏《ふ》みつぶされていたことだろう。それこそ果汁《かじゅう》をしぼりとられたレモン[#「レモン」に傍点]のようになって、この街《まち》の警官《けいかん》たちに胸くその悪くなる清掃作業《せいそうさぎょう》を強《し》いることになっていたはずだ。
じわじわと染《し》みこむような熱帯《ねったい》の暑《あつ》さ。慣《な》れない気候《きこう》にすっかり気力を失っていたにもかかわらず、レモンは素《す》っ頓狂《とんきょ》な悲鳴《ひめい》をあげてそのアーム・スレイブから飛びすさり、歩道をゆく雑踏《ざっとう》の中の一人に背中をぶつけてしまった。
「どこ見てんだ、兄ちゃん!?」
ぶつかった相手《あいて》は若い男だった。
薄汚《うすよご》れた作業着《さぎょうぎ》に無精《ぶしょう》ひげ。浅黒い顔の右半分が、大きな傷跡《きずあと》でよじれている。おそらくは元兵隊か。すこし前に戦争が終わると軍から放り出されて、日雇《ひやと》い仕事で食いつないでいる手合《てあ》いだろう。
「あ……」
レモンはすこしの間、言葉をなくした。
もう夕刻《ゆうこく》だ。彼の訪《おとず》れた東南アジアのその街は、暑苦しい喧噪《けんそう》に満ちあふれていた。国境《こっきょう》が接する地帯に位置し、長い内戦と国境|紛争《ふんそう》で支配権《しはいけん》が複雑《ふくざつ》に入り乱《みだ》れたまま成長した奇妙《きみょう》な街である。
自転車に人力車《じんりきしゃ》。三人乗りのスクーター。過積載《かせきさい》の軽トラック。
それらの粗末《そまつ》な車両に混《ま》じって、放出品《ほうしゅつひん》の旧式《きゅうしき》のアーム・スレイブが平然と車道を闊歩《かっぽ》している。いまの|A S《アーム・スレイブ》はソ連《れん》製《せい》か中国製か。たしか『野蛮人《サベージ》』とか呼ばれている機種《きしゅ》だ。ずんぐりとした胴体《どうたい》に、蛙《かえる》を思わせる大きな頭部。二階|建《だ》ての住宅よりも大きい背丈《せたけ》の、オレンジ色の人型兵器《ひとがたへいき》。
だが、武装《ぶそう》の類《たぐい》ははずしてあるようだった。頭部には機関銃《きかんじゅう》の代わりに大きなサーチライトが据《す》え付けてあり、背中には建設《けんせつ》作業用の重機類《じゅうきるい》――クレーンやシャベルが満載《まんさい》してあった。
自分を踏みつぶしかけたASが、ディーゼル・エンジンのうなり声を発しながら遠ざかっていくのを、ミシェル・レモンは呆然《ぼうぜん》と見送っていた。報道写真《ほうどうしゃしん》や映像などならともかく、これほど間近《まぢか》でASを見たことは、いままでほとんどなかったのだ。
「兄ちゃん、聞いてんのか、こら!?」
乱暴《らんぼう》に肩《かた》を小突《こづ》かれて我に返る。
ぶつかった相手への謝罪《しゃざい》さえ忘れていたことを思い出し、レモンは不器用《ぶきよう》に頭を下げた。
「も、申《もう》し訳《わけ》ない、ムッシュ……」
「ムッシュじゃねえ、このオカマ野郎《やろう》! なまっちろい顔でふらつきやがって、クソでも我慢《がまん》してんのか、ああ!?」
男の罵倒《ばとう》は言い過《す》ぎだったが、実際《じっさい》、レモンは繊細《せんさい》な風貌《ふうぼう》の若者だった。日焼けとは無縁《むえん》の青白い顔に、フレームレスの眼鏡《めがね》。背は高めだったが手足は細く、およそこの街《まち》を跋扈《ばっこ》する男たちの中では浮《う》いてみえる。冷房《れいぼう》のよく効いたオフィスで設計《せっけい》仕事かなにかをしているのが似つかわしいタイプだ。
「あ、いや。別に具合《ぐあい》は悪くないけど……」
「てめえの心配なんぞするか、タコ!」
半袖《はんそで》シャツの袖口をがっちりとつかまれ、レモンはよろめいた。
「あっ……」
「おら、来い!」
男はレモンを手近な路地裏《ろじうら》へと引きずっていく。とんでもない腕力《わんりょく》だった。彼が『やめてくれ』『痛い』だのと言っても、まったくおかまいなしだ。
「なあ、待ってくれよ。僕《ぼく》はわざとあなたにぶつかったわけじゃないんだ。腹が立つのはもっともだけど、どうか冷静《れいせい》になって……っ!?」
いきなり裏拳《うらけん》がレモンの鼻《はな》に叩《たた》きつけられた。
目の前で火花《ひばな》が散《ち》り、頭がくらくらする。うずくまった彼の首に腕《うで》を回し、男はささやくように言った。
「能書《のうが》きなんてどうだっていいんだよ。俺っちに迷惑《めいわく》かけたんだから、出すもん出すってのが筋《すじ》だろうが? あ?」
「だ、出すってなにを……」
指の間から鼻血《はなぢ》をぼたぼたと流しながら、レモンは辛《かろ》うじてそうたずねた。薄汚《うすぎたな》い路地は人気《ひとけ》がなく、すえたような異臭《いしゅう》がたちこめている。
「おまえフランス人か?」
「あ、ああ」
「仕事は何だ?」
「ルポライター」
「じゃあカメラ持ってるだろ。よこせ。あと外貨《がいか》があったら全部出せ。ユーロでもドルでもかまわねえ」
「か、カメラは困る。それに外貨は持ってないんだ」
「すっとぼけるんじゃねえ!」
すさまじい力で路面《ろめん》に引き倒《たお》された。背中をぶつけた痛みよりも、洗濯《せんたく》したばかりのシャツが汚い路面でべっちゃりと濡《ぬ》れることの方がショックだった。
男はレモンに馬乗りになると、胸倉《むなぐら》をつかんで彼の喉首《のどくび》をぐいぐいと締《し》め上げる。
「なあ。てめえがフラフラと道端《みちばた》歩いてるのは、さっきから見てたんだよ。おえらいジャーナリスト様なんだろ? 酒代にも困ってる俺に、ちょいと小遣《こづか》いよこすのさえ惜《お》しいってのか、あ!?」
なんてこった、最初から僕を狙《ねら》っていたのか……とレモンはようやく理解《りかい》した。考えてみれば、この混沌《こんとん》とした街にやってきたはかりで、ときおりカメラを取り出してはきょろきょろと周囲を見回して歩く白人男は、かなり目立っていたことだろう。どこから尾《つ》けられていたのかは見当《けんとう》もつかなかったが。
まさしく自分は、地元のチンピラにはいいカモだったってわけだ。これはまたひどい失敗じゃないか。まったく、やりすぎた[#「やりすぎた」に傍点]。
「あ……っく」
容赦《ようしゃ》なく喉に食い込む男の指。死なない程度《ていど》には加減《かげん》しているようだったが、それでもひどい力だった。
そのとき、路地の入り口から女の声がした。
「その辺にしときなよ、ダオ」
男の肩越《かたご》しに見えるその姿《すがた》は、逆光気味《ぎゃっこうぎみ》で判然《はんぜん》としない。だが小柄《こがら》だ。その声にも、まだ幼《おさな》さが残っている。
「ナミか? すっこんでな」
ダオと呼ばれた男は舌打《したう》ちし、苦々《にがにが》しげに言った。
「そうも行かないよ。好き勝手に強盗《ごうとう》まがいのことやられたら、この街の評判《ひょうばん》がますます悪くなるじゃないの。『闘技場《アレーヌ》』目当ての観光客《かんこうきゃく》も、最近は増《ふ》えてきてるんだからね」
「それがどうだってんだ。どっちにしたって、ここは掃《は》き溜《だ》めだぜ」
「聞き分け悪いね」
女の手元で、かちっと金属《きんぞく》のぶつかり合う小さな音がした。銃の撃鉄《げきてつ》の音だ。
「おいおい、マジかよ」
「殺しはしない。二、三か月ほど不自由な思いするくらいでカンベンしてあげる」
「こんな見ず知らずの野郎《やろう》をかばって、俺を撃《う》つってのか!? オーガ一家のこの俺を!?」
ダオの顔は青ざめ、声は怒《いか》りに震《ふる》えていた。レモンの首を押さえつけるのも忘れ、女の顔をにらみつけている。
「そうは言ってないっての。酒代ならあたしが出しといてやるよ。ほら」
女はつかつかとレモンたちに歩み寄ってくると、しわだらけの紙幣《しへい》――この国境|地帯《ちたい》で普通《ふつう》に使われているリエル紙幣だ――をダオの眼前《がんぜん》に突《つ》き出した。
「忘れないぜ」
「忘れなって。消えな」
ダオは紙幣をひったくって、地面につばを吐《は》き出してから路地を出て行った。相手が銃を持っているのにも構《かま》わず、ダオが女に飛びかかって血なまぐさいことになるのではないか――そう心配していたレモンは、ほっとため息をついた。
「あ、ありがとう……」
身を起《お》こし、改めて相手を見る。女――いや、少女は確《たし》かに拳銃《けんじゅう》を握っていた。メーカーも型番《かたばん》もわからないような、安っぽいつくりのリボルバーだ。フィリピンあたりの密造品《みつぞうひん》だろうか。
今度はこの銃で脅《おど》されたりしないだろうか? そう思っていたら、少女は彼の危惧《きぐ》を見透《みす》かしたように笑った。
「ああ、これ弾《たま》出ないから。壊《こわ》れてるの」
言うなりレモンに銃口を向けて、がちがちと立て続けに引き金を引く。おどろいて身をすくめた彼の様子《ようす》を見て、少女はさらに笑った。
「な、なにをするんだ!?」
「聞き分け悪いねー。弾出ない、って言ったでしょうが」
「そっ……」
「さてと、ムッシュ」
少女が大きな目を輝《かがや》かせて、ずいっとレモンの顔をのぞきこんだ。
「あいつに渡《わた》した金と手数料。しめて四〇〇〇ドルってところでどう?」
四〇〇〇ドル(約五〇万円)を要求《ようきゅう》してきた少女は、ナミと名乗った。
気を取り直してまともに観察《かんさつ》すれば、せいぜい一五、六|歳《さい》くらいの少女だ。
ぼさぼさのブラウンの髪をポニーテールに結《ゆ》わえている。化粧《けしょう》っ気《け》はまるでない。目は大きく吊《つ》り気味《ぎみ》で、利発《りはつ》な印象《いんしょう》を漂《ただよ》わせていた。服装《ふくそう》は油汚《あぶらよご》れの染《し》み付いた作業着に、タンクトップ姿《すがた》だ。
どこかの修理工場《しゅうりこうじょう》か、電気屋かなにかでもやっているのだろうか。
「四〇〇〇だって? メチャクチャだ、高すぎる」
夕刻《ゆうこく》のナムサク――その繁華街《はんかがい》の入り口あたりを歩きながらレモンが言うと、ナミは不服《ふふく》そうに唇《くちびる》をゆがめた。
「安いもんでしょ!? さっきのダオって男、凶暴《きょうぼう》な性質《たち》で有名なんだよ? 戦争で三〇人以上は殺してるって。あれ以上ゴネてたら、マジであんたを殺して身ぐるみはいでたはずなんだから!」
「ああ、そうかい。感謝《かんしゃ》してるよ」
ようやく固まった鼻血の後をぬぐって、レモンは不機嫌顔《ふきげんがお》で言った。ポケットから紙幣を取り出し、乱暴《らんぼう》な手つきでナミへと突《つ》き出す。ドルに直せば、三〇〇ドルくらいの金額《きんがく》だった。
「なにこれ。全然足りないじゃん」
「この街なら一か月はぜいたくに暮《く》らせる額だろ? それに手持ちはこれだけなんだ。だいたいそんな大金、払《はら》えるわけないだろ」
「じゃあカメラちょうだい。PDAとかケータイとか、そーいうのでもいいから。全部」
ナミは子供っぽく瞳をきらきらさせた。
「冗談《じょうだん》じゃない! 商売道具《しょうばいどうぐ》なんだぞ」
「聞き分け悪いね〜」
早足で歩くレモンに、ナミはなおも追いすがる。
「商売道具。そういやあんた、ルポライターだって言ってたね。マジなの?」
「ああ。駆《か》け出しだけどね」
「なんかの雑誌《ざっし》とかに載《の》るわけ? たんまりギャラも貰《もら》えるんだろ?」
「微々《びび》たるものだよ。それに……採用《さいよう》してもらえるかどうかなんて、全然わからないし。ネタ次第《しだい》だよ」
「ははん。ネタね」
ナミの口の端《はし》が意味ありげに釣りあがった。まるで野良犬《のらいぬ》かなにかが、道端《みちばた》に落ちているごちそうを見つけた時のような顔だった。
「わざわざこのナムサクに来たってことは、それなりに当たりもつけてるってことだろ? まっさか、終戦後の好景気《こうけいき》から取り残された貧乏人《びんぼうにん》たちの暮らしぶりを、金持ちども特有《とくゆう》の同情たっぷりの視点《してん》で報道《ほうどう》してやろー、とか、そういうナメたつもりで来たわけじゃないんだよね?」
「なんだよ、その言い方は。それだって立派《りっぱ》なテーマじゃないか」
「ああ、はいはい。そうかもしれないね。でも、あんたは違《ちが》う。そうでしょ?」
レモンの頬《ほお》を、ナミが人差し指でぴしっとさした。彼は否定《ひてい》もできずに、むすっと黙《だま》り込むばかりだった。
「そういうご立派《りっぱ》なテーマなら、世界中どこ行ったって似《に》たような場所はあるんだから。だけど|ナムサク《ここ》はそうじゃない。あんたもあれ[#「あれ」に傍点]を見に来たんだろ?」
「…………」
日は沈《しず》み、あたりはすっかり暗くなりつつあった。
レモンは思わず足を止めた。
彼らが歩く繁華街《はんかがい》――ネオンでぎらつくビル群《ぐん》の奥《おく》に、でんとそびえるサッカースタジアムが見えたのだ。いや、かつてはサッカースタジアムだったもの――戦争前に建設《けんせつ》が始まり、その混乱《こんらん》の最中《さなか》で放置《ほうち》され、やがて別の用途《ようと》に使われるようになった弾痕《だんこん》だらけの建造物。
そのスタジアムの中から、おびただしい熱気と騒音《そうおん》が響《ひび》いてきた。
マフラーが脱落《だつらく》したガソリン・エンジンの咆哮《ほうこう》。
ぶつかり合う金属《きんぞく》の甲高《かんだか》い悲鳴《ひめい》。
そして――それらすべてをかき消すほどの、熱狂的《ねっきょうてき》な人々の歓声《かんせい》、怒《ど》声、驚嘆《きょうたん》の声。
スタジアムの照明《しょうめい》も強い。まるで街の真ん中にでんと据《す》えられた巨大な盃《さかずき》から、七色に輝《かがや》く美酒《びしゅ》の光が夜空へとあふれかえっているような光景《こうけい》だった。
「あれのことかい?」
レモンが言うと、ナミはにやりとした。
「そうだよ。『闘技場《アレーヌ》』さ」
おびただしい数の観客《かんきゃく》だ。
改造《かいぞう》された競技場《きょうぎじょう》のフィールド、そのどまんなかで、二機の人型兵器――アーム・スレイブがぶつかり合う。
どちらも <サベージ> タイプだ。
決して新しい|A S《アーム・スレイブ》ではなかったが、<サベージ> は世界中の紛争地域《ふんそうちいき》で、まだまだ現役《げんえき》の機種《きしゅ》として使用されている。世界で最も普及《ふきゅう》しているASとさえ呼べるほど、その生産|機数《きすう》は多い。
どぎつい蛍光《けいこう》ピンクで塗装《とそう》された一機は、代表的な『Rk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]』の派生型《はせいがた》。ジェット燃料《ねんりょう》を使ったガスタービン・エンジンで駆動《くどう》する。比較《ひかく》的新しい機種である。
黄色と黒の虎縞模様《とらじまもよう》に塗装されたもう一機は『Rk[#「Rk」は縦中横]―91[#「91」は縦中横]』。<サベージ> の初期型《しょきがた》ともいえタイプだ。基本的な設計は同じだが、動力源《どうりょくげん》がディーゼル・エンジンであり、やはりかなりの数が世界中に出回っている。
蛍光ピンクと虎縞模様。
およそ軍用からはほど遠い彩色《さいしょく》の二機が、観客たちの興奮《こうふん》と熱狂《ねつきょう》の中で組み合い、殴《なぐ》り合い、蹴《け》り飛ばし合う。
蛍光ピンクが助走《じょそう》をつけて跳躍《ちょうやく》した。重たげな機体が宙に浮く。全体量を載《の》せたドロップキックが、相手の首筋《くびすじ》に炸裂《さくれつ》した。
すさまじい衝突音《しょうとつおん》と火花。
頭部がほとんどもげそうになったまま、虎縞は後方に吹《ふ》き飛び、二〇メートル以上もコンクリートの上を滑《すべ》っていく。機体はエリアの外周《がいしゅう》に設《もう》けてあった水入りのポリタンクの山に激突《げきとつ》し、大量の水しぶきを周囲《しゅうい》に撒《ま》き散《ち》らしてから動かなくなった。
勝負の決着を告《つ》げるけたたましいサイレン。総立《そうだ》ちした観客たちの嬌声《きょうせい》や罵声《ばせい》が、嵐《あらし》となって場内を沸《わ》かせる。無数《むすう》の紙切れが宙に舞《ま》った。
『勝者《ウィナー》! 「|鮮血の女王《ブラッディ クイーン》」!!』
アナウンスが場内に響《ひび》きわたる。客席にいたレモンはそれを聞いて顔をしかめた。
「鮮血《せんけつ》の女王だって? あの蛍光ピンクの直立カエルが?」
あの色のどこが『鮮血』なのやら。あれではむしろ『ポルノ女王のメスガエル』といったところではないか。
レモンの隣《となり》にいたナミが肩をすくめた。
「ちょうどいい塗料《とりょう》が無《な》かったんでしょ。あとはまあ……ノリよ、ノリ」
「まあ。しかし、いやはやなんとも――」
荒《あら》っぽい。
さすがに火器《かき》は使わないが、それ以外ならなんでもありだ。あんな調子で機体を壊《こわ》されてしまったら、中の操縦兵《オペレータ》は無事《ぶじ》では済《す》まないだろう。
現に敗北した虎縞のASから引きずり出された操縦者《そうじゅうしゃ》は、ぐったりとしたまま会場の医療《いりょう》スタッフに担架《たんか》で運ばれていく。遠目《とおめ》に見ても、左腕が異様《いよう》な方向に曲がってぶらぶらと揺《ゆ》れているのがわかった。
ASの動きにも驚《おどろ》かされた。<サベージ> はずんぐりとした胴体《どうたい》で、見るからに鈍重《どんじゅう》な印象の機体なのだが、そのフットワークは見た目からかけ離《はな》れている。人間のプロレスラーよりも、よほどすばやく敏捷《びんしょう》に動くのだ。
なるほど、確かにこれは打ってつけの取材|対象《たいしょう》といえるだろう。
「すごい迫力《はくりょく》だね」
「でしょ?」
[#挿絵(img/08_023.jpg)入る]
なぜかナミは得意顔《とくいがお》をした。
「誰が始めたのかは知らないけど、終戦でお役御免《やくごめん》になったASを使って、こうやって賭けプロレスをしているわけ」
「軍用の兵器で? そんな競技がよく認可《にんか》されてるね」
「認可なんてないよ。完ペキに非合法《ひごうほう》だけど、警察《けいさつ》はなにも言わない。プロモーター組合が鼻薬《はなぐすり》でも効《き》かせてるんでしょ。そもそも警察権そのものが、どっちの国のどの勢力《せいりょく》に属《ぞく》してるのか曖昧《あいまい》なままなんだから」
「ははあ」
このナムサクは三つの国が国境を接《せっ》する地域《ちいき》の、交通の要衝《ようしょう》に位置している。内戦と国境紛争で何年もひどいゴタゴタにさらされてきたのだが、国連の主導《しゅどう》で停戦合意《ていせんごうい》が交《か》わされた。ところが停戦協定は玉虫色《たまむしいろ》のいい加減《かげん》な内容で、いまでも街の支配権《しはいけん》はでたらめなままだった。条約《じょうやく》の関係でどの国も軍を駐留《ちゅうりゅう》させられないため、その混乱《こんらん》にむしろ拍車《はくしゃ》がかかっている。
とはいえナムサクは交易《こうえき》に適《てき》した位置のため、人もカネもぞろぞろと集まる。だからこその、この活気《かっき》だ。この街の実質的《じっしつてき》な支配権は軍やらなにやらではなく、どれだけカネを握《にぎ》っているかで決まると言えるだろう。
「で、この闘技場《アレーヌ》は見ての通りの大繁盛《だいはんじょう》。最初はカンボジアで使われてた <サベージ> の放出品《ほうしゅつひん》だけだったけどね。いまはアジアと中東、アフリカから、中古のASがぞろぞろかき集められてるんだよ。フランス製の <ミストラル> 、ドイツ製の <ドラッヒェ> 、イギリス製の <サイクロン> 、それからアメリカの <ブッシュネル> 。ほかにも色々。なんでもある。ちょっとした国際見本市《こくさいみほんいち》ね」
すらすらとASの機種名を挙《あ》げるナミの口ぶりに、レモンは怪訝顔《けげんがお》をした。
「ずいぶん詳《くわ》しいんだね」
「ふふん。そりゃ、まあね。なにしろあたし、出場チームのオーナーだから」
「はあ?」
「極上《ごくじょう》のASと、チームを持ってんのよ」
えっへんと胸をそらすナミ。レモンはしばしぽかんとしてから、あきれ顔で首を振《ふ》り、彼女の前から立ち去ろうとした。
「やれやれ……」
「なにその反応《はんのう》!? 信じてないね!?」
「決まってるだろ。街角《まちかど》で僕みたいな青二才《あおにさい》にカネをせびる女の子が、あんなロボットを持ってるわけない」
「持ってるんだってば」
「じゃあその機体を売れはいい。どんなボロでも数万ドルは手に入る」
「あー、もう。聞き分け悪いねー。そのボロ機体のパーツ代が、どうしても必要なんだよ! あと二時間しかないの!」
ナミが彼を引き止めた。
「パーツ代? 二時間?」
「そうさ! 付いてきな、ほらほら」
強引にレモンの腕を引《ひ》っ張《ぱ》って、ナミは歩き出す。
人ごみをかきわけ、ぶつぶつと『聞き分けが悪い』だのとつぶやいて。どうもこれが彼女の口癖《くちぐせ》らしい。
「おいおい」
困惑《こんわく》はしたものの、レモンは無理《むり》に抵抗《ていこう》しなかった。
四〇〇〇ドルなんて大金、もちろん払《はら》う気はさらさらなかったが、この少女自身についての興味《きょうみ》がわいてきたのだ。ちんぴらに襲《おそ》われていた自分を助けてくれたのは事実《じじつ》だし、銃を使って自分からカネを脅《おど》し取ろうともしてこない。カネに意地汚《いじきたな》いのは、この街ではなにも彼女に始まった話ではないわけだし。
[#挿絵(img/08_027.jpg)入る]
そのナミが、ASを持っているなどと言い出したのだ。
真《ま》に受ける気もなかったが、さりとてまったくなんの根拠《こんきょ》もなく、こんな話をするとも思えない。さすがに好奇心《こうきしん》はわいてきた。ここで彼女の手を払いのけて、すごすご宿に帰るいわれはない。
「どこへ行くんだい?」
「あたしのチームのパドックだよ。これから出場するんだ」
ことさら大真面目《おおまじめ》な声でナミは言った。
元はサッカースタジアムだった闘技場のグラウンド部分。その外周《がいしゅう》がパドック――整備《せいび》スペースのエリアになっていた。
粗末《そまつ》な鉄板《てっぱん》やトタン板で仕切《しき》られただけの区画《くかく》が、中央の競技場を取り囲むようにしてずらりと並《なら》んでいる。ここで出場を控《ひか》える機体が、最終的な調整《ちょうせい》や燃料補給《ねんりょうほきゅう》を受けることになるわけだ。
あたりには鼻をつくような匂《にお》いが満ちている。ジェット燃料と軽油《けいゆ》と機械油、ほかにも得体《えたい》の知れない薬品の匂い。そして焼けた金属の匂い。火元|対策《たいさく》など、この闘技場ではほとんど考えられていない様子《ようす》だ。
騒音《そうおん》もすさまじい。頭が痛くなるような電動《でんどう》ドライバ、ドリル、カッター、ハンマーの駆動音《くどうおん》。コンプレッサーと発電機《はつでんき》のやかましいうなり声。そして機体に搭載《とうさい》されたディーゼル・エンジンとガスタービン・エンジンの咆哮《ほうこう》。
そうしたあれこれに支配されるパドックの一つに、レモンは案内された。
「ここだよ!」
騒音に負けない声でナミが言った。
鉄骨《てっこつ》で組まれた天井《てんじょう》から、チェーンとクレーンがぶら下がっている。その真下に一機のASが駐機《ちゅうき》していた。両膝《りょうひざ》、両手をついた降着姿勢《こうちゃくしせい》で、背中の装甲《そうこう》が取り外してあった。
三人ばかりの整備士《せいびし》が、電動工具を片手に機体《きたい》の奥をいじりまわしている。
「どう? 立派なもんでしょ!?」
言葉とは裏腹《うらはら》に、そのASはひどいものだった。機種はさっきからよく見かける <サベージ> のようだったが、一目で相当なおんぼろ機体だとわかった。損傷《そんしょう》部分も放置《ほうち》されたままの箇所《かしょ》が多い。
潰《つぶ》れた片目は未修理のまま。
ひしゃげた腕の装甲は、ビニールテープをぐるぐる巻きにしてどうにか脱落《だつらく》していない状態《じょうたい》。
関節《かんせつ》のあちこちから、オイルが漏《も》れてどす黒く汚《よご》れている。
ハードポイントやアンテナ、フックなどのこまかい破損《はそん》に至《いた》っては、いちいち挙《あ》げればきりがないほどだ。
「ひどいね」
ごく真《ま》っ当《とう》な感想だったが、ナミはあからさまにむっとした。
「確かにあちこち壊れてるけど、ちょっと直せば充分《じゅうぶん》に動くの! 右腕の腱《けん》と右足|大腿部《だいたいぶ》のマッスル・パッケージを交換《こうかん》して、いくつか油圧《ゆあつ》パイプを新品にして、トルクコンバーターの故障《こしょう》を直せば……」
「大仕事じゃないか。間に合うのかい?」
「間に合う! あとはカネよ」
「おい、ナミ!」
握りこぶしでむきになって怒鳴《どな》るナミに、ASの背中に取り付いていた整備士《せいびし》の一人が叫《さけ》んだ。三〇過《す》ぎの白人男だ。訛《なま》りから察《さっ》するにドイツ人かオーストリア人だろうか。
「なに、アッシュ!?」
「やれるところまではやっちまったぞ! あとは五一番のパイプと緩衝剤《かんしょうざい》! それがないと、もうどうにもならねえ! カネの目途《めど》は立ったのか!?」
アッシュと言われた整備士が焦《じ》れたように言った。
「大丈夫《だいじょうぶ》よ! この旦那《だんな》が出してくれる! もうちょっと待ってて!」
「おおっ! あんがとよ、旦那! じゃあ早いとこ頼《たの》むわ!」
レモンをまともに見ようとさえせずに、アッシュは自分の作業に戻《もど》っていく。かたやレモンは血相《けっそう》を変えた。
「おいおい!」
「なに?」
「勝手に決めないでくれよ! 僕はただここに付いてきただけで……」
「部品はこの闘技場の近くの市場《いちば》にうなるほどあるの」
しみじみとうなずき、ナミはつぶやいた。
「足りない部品を持ってるチームも、即金《そっきん》で払えば譲《ゆず》ってくれるって」
「それが四〇〇〇ドルってわけか?」
「そう。そこであんたの出番ってわけよ。お願い。スポンサーになって!」
「だーかーらー、無《な》い袖《そで》は振《ふ》れないよ!」
「大丈夫だって、あたしのチームに密着《みっちゃく》取材すれば、すごい記事が書けるかもよ? ピーナッツ賞《しょう》も間違《まちが》いなし!」
「ピューリッツァー賞だろ」
「そう、それ。だから四〇〇〇ドル」
「いいや。記事になってもせいぜい四〇〇ドルだ」
冷たく言ってやると、ナミはうつむき、ため息をついた。
「わかったわ……」
なにやら意を決した様子で、つつっと彼に寄《よ》り添《そ》い、手を取ってわき腹《ばら》を指先でつんつんと突付《つつ》く。ついでにタンクトップだけでノーブラの胸を、くいっとレモンの腕に押し付けてくる。
「……じゃあ、あたしと一晩《ひとばん》。それでいいよね。本当は一万ドル積《つ》まれたって御免《ごめん》なんだけど、それで手を打ってあげる」
「なぜそうなる!? 僕は未成年《みせいねん》はお断《ことわ》りだし、そもそも油まみれでガソリンくさい君にはそういう気も起きない。ついでに言うなら一晩四〇〇〇ドルって、どこの超絶《ちょうぜつ》高級コールガールの相場《そうば》だ?」
「正直、怖《こわ》いわ。でもあなたは優《やさ》しそうだし、ちゃんとエスコートしてくれれば……」
「人の話を聞けよ!」
「ちぇっ。あんたこそ聞き分け悪いね〜」
ナミはあっさりと初々《ういうい》しい仕草《しぐさ》をやめて舌打《したう》ちした。
「あたしみたいなかわいい子がこんな話持ちかけてるんだよ? 言い寄《よ》る男なんて星の数ほどいるんだから。それともあんたアレなの? ひょっとしてアレ?」
「なんだよ、アレって。言っとくけどゲイでもEDでもないぞ」
「そっか。じゃあニワトリやヒツジにしか興味《きょうみ》がないのね……」
「なぜそうなる? あー、もう!」
レモンは頭をくしゃくしゃ掻《か》いた。その彼をなだめるように、彼女はささやく。
「……まあマジな話、うちのチームが出場して勝てば、四〇〇〇ドルなんて余裕《よゆう》で返せるのよ。いやホント」
耳元に唇《くちびる》を寄せるナミを、彼はうさんくさそうに横目で見つめた。
「ふん。それくらいオッズが高いってことだろ? 勝つ見込みがないってことだ」
「勝てるよ! 機体はまあ、いろいろ完璧《かんぺき》とは言えないかもしれないけど、こっちにはスゴ腕の操縦士《オペレータ》がいるんだから!」
「ほう」
「名前はリック。元はアメリカ海兵隊にいたAS乗りよ。いくつもの戦場で生死《せいし》の駆《か》け引きをしてきた古強者《ふるつわもの》。これまで一〇機以上の敵ASを撃破《げきは》してきた、別名『密林《みつりん》の荒鷲《あらわし》』。凄腕《すごうで》なんだけど、いろいろあってこのナムサクに流れてきたわけ」
聞きもしていないことまで、ナミはとうとうと説明した。
「どんな機体だって、リックが乗れば勝利まちがいなしよ!」
「どうだかなあ……」
「本当だっては! なにしろ彼は――」
「大変だ、ナミ!」
そのとき、パドックに若い男が駆《か》け込んできた。整備クルーの一人だろう。汗《あせ》だくで血相《けっそう》を変えている。ごく真剣《しんけん》な表情だ。
「どうしたの?」
「リックが……」
闘技場の便所の片隅《かたすみ》で、問題のリック氏は便器にすがりつくようにして倒《たお》れていた。
発見されたときには、もう死んでいたそうだ。背中からナイフで一|突《つ》き。きれいに腎臓《じんぞう》を狙《ねら》われたらしい。リックは声を出す間もなく絶命《ぜつめい》してしまったことだろう。
犯人《はんにん》は捕《つか》まっていない。発見者が便所に来るとき、『顔の右側が傷《きず》だらけの男』を見かけたそうだが、なにかの決め手になるわけではなかった。だが、それだけでレモンとナミにはぴんと来た。
あのダオだ。
警察が来るまでの間、便所の床《ゆか》に横たえられ、シーツを被《かぶ》せられた操縦士の亡骸《なきがら》のそばにひざまずき、ナミはずっと無言《むごん》でいた。黙《だま》って帰るのもはばかられて、レモンはその後ろに立ち尽《つ》くしているしかなかった。
奇妙《きみょう》な出会いと間抜《まぬ》けな問答《もんどう》があったせいで、ついつい忘れていた。
このナムサクは活気《かっき》はあっても危険《きけん》な街で、身の回りの人物がこんな風にいきなり殺されてしまってもおかしくない場所なのだ。そしてほとんどの人々が、それを当たり前のように考えている。
「正直に言ってね……」
ぽつりとナミが言った。
「あたしはこのリックが、あんまり好きじゃなかった。腕がいいから雇《やと》ってたけど、やたら大げさな自慢話《じまんばなし》が多かったし、いつもあたしたちを見下《みくだ》してたし、儲《もう》けた金でこの街の年端《としは》も行かない女の子を買いまくってたし。あたしもおっぱいとかお尻《しり》とか触《さわ》られまくって、何度も押し倒されそうになったし。まあ、ろくでなしの類《たぐい》よ。でもね……?」
ナミの肩がわなわなと震《ふる》える。
「でも、殺されていいような奴《やつ》でもなかった」
シーツ越《ご》しに遺体《いたい》の額《ひたい》をなでてから、彼女は立ち上がり、便所を早足で出て行った。レモンはそれをあわてて追いかけ、声をかける。
「どこいくんだ?」
「パドックよ。出場しなきゃ」
「でも、操縦士は彼だったんだろ?」
「そうよ。代わりにあたしが乗る」
「経験《けいけん》あるのか?」
「試合はないけど。機体の移動《いどう》はよくやってる」
「そもそも機体の整備が……」
「もうカネのことはいい。右腕をあきらめて残りのカネを使えは、歩くことはできる。なんとかしてやるわ」
ナミはさっさと歩いていく。すでにレモンから四〇〇〇ドルを無心《むしん》する考えなど、かっとなった頭からは吹き飛んでしまったようだ。
「よー、ナミ」
パドックの近くまで来たときに、男が声をかけてきた。あの路地裏《ろじうら》でレモンを脅《おど》した兵隊あがりの男――ダオだった。何人かの取り巻きも従《したが》えている。この男も闘技場《アレーヌ》の関係者だったのだ。
「聞いたぜ? リックが刺《さ》されて死んだそうだな。物騒《ぶっそう》だねえ。怖《こわ》い怖い」
無言でにらむナミに、ダオがゆっくりと近づいていく。傷跡の残る右の頬《ほお》を、さらにいびつにゆがませて。
「言っただろ? 『忘れねえ』って。前からおめーらが気に食わなかったんだ」
「だったらあたしを狙《ねら》いなよ……!」
「あのアメリカ人もひどく気に食わなかった。いっつもデカい口|叩《たた》きやがって、ムカついてしょうがなかったんだよ」
「……このゲス野郎《やろう》!」
「試合を放棄《ほうき》するか、おめーが乗って出てくるか。ま、どっちでも楽しめそうだな。ちゃんと俺が相手してやるからよ。それじゃ、待ってるぜぇ」
ダオは笑いながらナミたちの前を去っていった。立ち尽くす彼女に、レモンはおずおずと話しかける。
「ねえナミ。もしかして……君らの対戦相手って……」
「そうよ。ダオのチーム。機体もかなりいいもん持ってる」
「あいつ、普通《ふつう》じゃないよ! あんなことで人を殺すなんて……試合はやめにした方がいい。きっと君も殺されるぞ」
「そうは行かないの!」
ナミが声をあらげた。
「試合に勝って稼《かせ》がないと。絶対《ぜったい》に勝たないとダメなの。そうしないと……」
言葉を詰《つ》まらせ、手首で目尻《めじり》をごしごしぬぐうと、彼女はパドックへ向かった。
「騒《さわ》がせてごめんね、ムッシュ。言ったとおりよ、もう四〇〇〇ドルなんていいから」
「待ちなよ。君、ヤケクソになってない?」
「かもね。まあ、やるだけやるわ」
「やめなって、危《あぶ》ないよ」
「百も承知《しょうち》よ」
まるで取り付く島もない。
説得《せっとく》らしい説得もできないまま、レモンはナミを追ってパドックに戻った。アッシュをはじめとした整備士たちも沈《しず》んだ様子だ。そろって陰鬱《いんうつ》な顔を上げ、『だめだったか?』と視線《しせん》でたずねてくる。ナミがうなずくと、彼らは深いため息をついた。
重苦しい沈黙《ちんもく》。
フィールドで戦うASの駆動音《くどうおん》と、観客《かんきゃく》の歓声《かんせい》が鬱陶《うっとう》しい。
それはそうだろう。あのダオが敵《てき》のチームで、しかも奴《やつ》が操縦士だとは。兵隊あがりだと言っていたから、それなりの腕もあるのだろう。こんな女の子がボンコツの機体《きたい》で、しかも付《つ》け焼刃《やきば》で戦ったとしても、まともな戦いになるわけがない。いいように小突き回され、機体を壊《こわ》され、殺されたりひどい辱《はずかし》めを受けたりすることになる。朗《ほが》らかな気分になれるはずもなかった。
だがそこで、場違《ばちが》いなほど平然《へいぜん》とした声がした。
「リックはいるか? 昔《むかし》の知り合いなのだが……」
見ると、パドックの入り口に東洋系《とうようけい》の若者《わかもの》が立っていた。
中国人か、韓国人《かんこくじん》か、日本人か。たぶんそのいずれかだ。
中肉中背。カーゴパンツに黒Tシャツ。肩には擦《す》り切れたナップザック。ざんばらの黒髪《くろかみ》で、むっつりとした顔にへの字口。顎の左側に、小さな傷跡がある。
若者というよりは、まだ少年といってもいい。ナミとほとんどおない年くらいだろう。だが――厳《きび》しく引き締《し》まったその顔は、微塵《みじん》のあどけなさも、少年特有の頼《たよ》りなさも残していなかった。
なによりも印象《いんしょう》深いのがその目つきだ。
どこか一点を見ているようでいて、周囲三六〇度をくまなく把握《はあく》しているような、にじみ出る緊張感《きんちょうかん》。ゆるぎない意志《いし》の光。年は一〇代なのだろうが、三〇|歳《さい》にも四〇歳にも見えるような、そんな目だった。
「リックは?」
若者は改《あらた》めて訊《き》いた。
「死んだよ。ついさっき。便所で後ろから刺されてね」
うんざりした声でナミが言った。
若者はすこしだけ目を丸くして、次に眉間《みけん》にしわを寄せた。
「そうか。常に背中には気をつけろと、しつこく忠告《ちゅうこく》していたのだが……残念だ」
口ではそう言っているが、さして驚《おどろ》きや悲しみを感じているわけでもない様子だった。おそらく……いや確実《かくじつ》に、彼はそうした出来事《できごと》に慣《な》れっこなのだ。
「君は?」
レモンがたずねる。
「彼の知り合いだ。三年ほど前、内戦中に傭兵部隊《ようへいぶたい》でな。リックがここの選手になっていると聞いて訪《たず》ねてきたのだが」
「あ、そう。あいにく、いま言った通りよ。旧交《きゅうこう》を温《あたた》めに来たんだったら、残念だったわね。さっさと帰りな」
「それほど親しいわけでもなかった」
「じゃあ何の用?」
「この闘技場の選手になりたくて来た。ちょうどいい、と言うのも不謹慎《ふきんしん》だが、ここで雇《やと》ってくれないだろうか」
すこしの間、ナミも整備士たちもぽかんとしていた。
「あんたが? ASを動かせるの?」
「すこしは」
「すこしは。……ははっ」
ナミは皮肉《ひにく》っぽい笑《え》みを浮《う》かべてから、若者をにらみつけた。
「よくいるんだよね。あんたくらいの若造《わかぞう》で、AS乗りのエース気取ってるようなバカが。あれはね、マンガに出てくる最強ロボとかじゃないんだよ。精密機器《せいみつきき》なの。もとは軍用の特殊《とくしゅ》機材なの。乗って戦うと体中アザだらけになるし、普通の奴《やつ》なら酔《よ》ってゲロをぶちまける。捻挫《ねんざ》、骨折《こっせつ》、当たり前。そういう、生半可《なまはんか》な奴にはとても扱《あつか》えないような代物《しろもの》なのよ。わかった? わかったら勘違《かんちが》い小僧《こぞう》は家帰ってテレビ見てな」
そんなこと言っても、相手は君とそう変わらない歳《とし》じゃないか……レモンはそう思ったが、とりあえず黙《だま》っておいた。
「ふむ……」
彼は勝手にパドックに入ってきて、整備中のまま放置された旧式《きゅうしき》のおんぼろサベージをしげしげと観察《かんさつ》した。
「こら、なに勝手に見てんのよ!? 触《さわ》るんじゃない!」
若者は腕のフレームや装甲《そうこう》を握って強度を確《たし》かめたりしている。業《ごう》を煮《に》やしたナミが歩み寄り、彼の肩をぐっとつかんだ。
「やめろって言ってるでしょ!?」
「この機体で試合に出るのか?」
ナミの剣幕《けんまく》に構《かま》いもせず、彼はたずねた。
「そーよ、悪い!?」
「いや……短い時間なら、やれないこともないだろうしな」
若者はひとりごちにうなずく。
「ただ、厳《きび》しい。リックの腕でも難《むずか》しいところだったろうな……」
「おえらい口ぶりね。あんたにこの機体のなにが分かるっての?」
「この機体のことか」
若者はASから離《はな》れ、どうということのない様子で説明をはじめた。
「こいつはRk[#「Rk」は縦中横]―91[#「91」は縦中横]の初期型《しょきがた》だ。特に決まった形式番号は与《あた》えられていない。生産数は一三〇機程度で、後の主流になった輸出《ゆしゅつ》モデル――91[#「91」は縦中横]Mや92[#「92」は縦中横]Mに比べると数は少ない。ガスタービン・エンジンを採用《さいよう》していないので、重量も出力も92[#「92」は縦中横]には劣《おと》る。ただ、それは限界《げんかい》ぎりぎりの戦闘機動《せんとうきどう》のレベルでの話だ。フレームの強度も92[#「92」は縦中横]より余裕《よゆう》があるので、格闘《かくとう》に限ればなかなか捨てたものではない。末端重量《まったんじゅうりょう》が大きいのでトルク制御《せいぎょ》にクセがあるが、ソフトをすこしいじれば解決《かいけつ》する。操縦兵《そうじゅうへい》の腕《うで》でもカバーできる範疇《はんちゅう》だ。この機体の場合、問題は冷却系《れいきゃくけい》だ。見たところだと、91[#「91」は縦中横]の純正《じゅんせい》パーツをわざわざ使っているようだ。やめておけ。普通に手に入る92[#「92」は縦中横]のクーラーは相性《あいしょう》が悪いとよく言われるが、せいぜい一五分の稼動《かどう》なら何ら問題はないし、はるかに効率《こうりつ》もいい。そんな予算があったら、磨耗《まもう》してない新品のマッスルパッケージを買った方がいいぞ。こういう競技《きょうぎ》なら、瞬発力《しゅんぱつりょく》の方が優先だろうからな」
頭がくらくらしてくるような専門用語《せんもんようご》の数々。レモンには彼が何を言っているのか、ほとんど分からなかった。ただ、驚きに目を見開いているナミの反応《はんのう》を見るだけで、若者の言葉が完璧《かんぺき》に正鵠《せいこく》を射《い》ていることだけは理解《りかい》できた。
「な……」
むしろ気恥《きは》ずかしさを感じたのだろう。ナミは顔を赤くして、その若者に食ってかかる。若者の知識《ちしき》は彼女よりも上なのかもしれなかった。
「知ったようなこと言わないでよ! あたしたちの大事《だいじ》な機体なんだよ!? それを……」
「もちろんだ。よく頑張《がんば》って整備している」
皮肉《ひにく》の類《たぐい》は一切《いっさい》抜きで、若者は素直《すなお》に認《みと》めた。
「普通なら解体《かいたい》して、使えるパーツは倉庫《そうこ》行きといったところだろう。そもそも91[#「91」は縦中横]の初期型というだけでも驚きだ」
「ど、どうせ知識だけ頭に詰《つ》め込んでる兵器オタクなんでしょ? エラそうな顔したって、アマチュアはしょせん――」
「俺はアマチュアではない」
若者はきっぱりと言った。
「専門家《スペシャリスト》だ」
別に断固《だんこ》たる口調《くちょう》でも、威圧的《いあつてき》な態度《たいど》でもない。ごく当たり前のことを口にしている調子《ちょうし》だった。
それだけに、彼の言葉には有無《うむ》を言わせぬ説得力《せっとくりょく》がある。
「おい、ナミ……」
整備士の一人、アッシュが言った。
「どうするんだ? この兄ちゃん、選手志望《せんしゅしぼう》みたいじゃねえか。いっそのこと、頼《たの》んでみるってのは……」
ナミも言下《げんか》に否定《ひてい》しようとはしなかった。
彼女は迷《まよ》っている。
いまの講釈《こうしゃく》だけで、この若者がただの青二才ではないことに気づいてしまったのだろう。
時間もない。
いますぐ揃《そろ》えられる部品を揃えて、最終的な整備をしたとしてもギリギリだ。
なにより彼女自身が、自分の腕を信じていない。自分が乗れば、実際《じっさい》のところ負けは確実《かくじつ》。だったら、いきなり現れたこの正体不明《しょうたいふめい》の少年に、賭《か》けてみたところで損《そん》はないのではないか。
傍《はた》から見ていても、ナミのそうした葛藤《かっとう》がレモンには強く感じられた。
やがて――
「あー、もう! どうせダメモトよ!」
ナミは頭をくしゃくしゃとかくと、きっと若者をにらみつけた。
「そーよ、実のところ、うちには操縦士がいない。あんたがやりたいって言うんだったら、やらせてやるわ」
「けっこうだ」
若者はむっつりしたままうなずいた。にこりともしないのだが、レモンは彼の無表情《むひょうじょう》に、なぜか不思議《ふしぎ》な愛嬌《あいきょう》を感じた。
「ただし機体のコンディションは最悪だと思って! カネがないの。部品もね。それでくたばったとしても、恨《うら》まないでちょうだい」
「わかった」
「あー、その件《けん》なんだけど」
遠慮《えんりょ》がちにレモンは声をかけた。
「なによ旦那。あんたまだいたの?」
「あいにくね。……いま思い出したんだけど、三〇〇〇ドルくらいまでなら、都合《つごう》できるよ」
「……え?」
ナミはきょとんとする。
まあ、当たり前だ。レモン自身も自分の言葉に驚いているのだから。
「クレジットカードのキャッシュ枠《わく》を全部使えば……まあ、どうにかなるかも。近くにディスペンサーとかある? 下ろしてくるよ」
「それはありがたいけど……いいの? あんなに渋《しぶ》ってたのに」
いまだに半信半疑《はんしんはんぎ》でナミがたずねる。レモンは精一杯《せいいっぱい》のキザさを出して、彼女にウィンクしてみせた。
「勝てば戻ってくるんだろ? 負けたら……帰国《きこく》もままならないけどね。こういう分《ぶ》の悪い賭《か》けも、まあ面白《おもしろ》いかと」
「いや。分はいいぞ」
若者がぼそりと言う。
「はは。そうかもしれないね。ぜひ頼《たの》むよ」
「ありがとう、旦那!!」
顔をくしゃくしゃにして、ナミが抱《だ》きついてきた。レモンは戸惑《とまど》うやら赤くなるやらで、よろめきあわてるばかりだった。
「ああ、忘れてた」
レモンは新たな操縦士に向き直って言った。
「僕はミシェル・レモン。ジャーナリストだ。そちらの彼女はナミ。君は?」
「リックにはセガールと呼ばれていたのだが……」
若者はすこし考えた。
「サガラ。相良《さがら》宗介《そうすけ》だ」
「日本人?」
「ああ」
彼はどこか遠くを眺《なが》め、ぽつりとつぶやいた。
「探《さが》し物があって、ここまで来た」
闘技場《アレーヌ》の運営委員会に相良宗介が臨時《りんじ》の操縦士として登録《とうろく》されると、ナミたちはさっそく機体の仕上げに全力を尽《つ》くした。
限られた時間の中で、整備クルーはよくやってくれた。必要最低限の部品も揃《そろ》えることができた。作動テストをしてみたところ、機体もまあまあ頑張《がんば》れそうだ。
だが、このおんぼろの初期型 <サベージ> で戦いに勝利《しょうり》できるかどうかといえば――
(正直、やっぱり無理《むり》そうね……)
チームオーナー[#「チームオーナー」に傍点]のナミはため息をついた。ビニールテープ三本をまるまる使って上腕部《じょうわんぶ》の装甲《そうこう》を補強《ほきょう》する。どうせ自分が乗って出場したところで勝てるわけがない――そう思って、あの相良宗介なる日本人を受け入れたのだが、やはり胸の中は不安でいっぱいだった。
「そろそろ出番なんだけど。いつまで遊んでるわけ?」
焦《こ》げた金属《きんぞく》の匂《にお》いが漂《ただよ》うパドックの片隅《かたすみ》で、ナミは宗介に声をかけた。彼は膝《ひざ》の上で傷《きず》だらけの古いノートパソコンを開き、黙々《もくもく》とキーを叩いている。画面は白黒の液晶《えきしょう》だ。OSも五年前の骨董品《こっとうひん》。整備クルーに頼《たの》んで用意させたものだ。サベージの初期型に使われているプログラムは、現行《げんこう》のソフトウェアと互換性《ごかんせい》がないためである。
「ねえ、まだなのかい?」
「すぐ終わる」
ディスプレイに並《なら》ぶ無味乾燥《むみかんそう》な数列をいじりながら、宗介は言った。
そのおり、中央の闘技場で激《はげ》しい金属音《きんぞくおん》がした。割《わ》れるような拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》、勝者を告《つ》げるアナウンスとファンファーレが響《ひび》く。
前の試合《しあい》の決着がついたのだろう。
「次だぞ! 準備《じゅんび》しろ!」
スタッフの誰《だれ》かが叫ぶ。それが聞こえているのかいないのか、宗介はパソコンから一枚のフロッピーディスクを抜《ぬ》き取り、のんびりと立ち上がって肩と首の凝《こ》りをほぐしはじめた。
「聞こえたんでしょ? 次の試合だよ。ビビってるなら、いまのうちに……っ?」
宗介がぬっとフロッピーを突《つ》き出す。
「モーション・マネージャのレジストリ、CF65[#「65」は縦中横]のデータをこちらに代えておくぞ」
「? いったい……」
「支度《したく》する」
そう言って持参《じさん》した大きなナップザックから、彼はレーサー用の黒いツナギを引《ひ》っ張《ぱ》りだした。いや、ツナギではない。これはAS操縦服《そうじゅうふく》だ。つや消しの黒で、生地《きじ》は薄手《うすで》に見えるがしっかりした作りだった。肩のパッドと太腿《ふともも》部分にだけ、赤いラインが入っている。宗介はカーゴパンツを脱ぐと、下着の上からその操縦服をこなれた様子《ようす》で身に着けていった。
「見たことない操縦服だね……」
宗介は答えようともしなかった。ファスナーを上げ、パッドを固定し、首まわりのクッションを調節《ちょうせつ》する。
「ホントに勝てるの?」
「そのつもりだ」
「相手の機体を知ってんの? 初期型だけどM6だよ、M6?」
ダオのチームのASは、M6 <ブッシュネル> という機体だ。この闘技場でも珍《めずら》しいアメリカ製。現用《げんよう》で主流のM6A1よりは古いが、それでも彼女の <サベージ> よりはよほどパワーも耐久力《たいきゅうりょく》もある。ダオたちは資金力《しきんりょく》もあるし、部品も燃料も最良のものだ。
操縦士もだ。悔《くや》しいが、ダオは腕がいい。
ダオのこれまでの戦績は一四勝三敗。三度の敗北はマシントラブルと反則負けだ。相手の操縦士も二人死なせている。
死んだ二人のうち一人は、|衝撃 吸収《しょうげききゅうしゅう》システムの故障《こしょう》が原因で起きた事故《じこ》だったが、もう一人の方はダオの明らかな故意《こい》で殺されたと噂《うわさ》されている。死んだ相手は試合の数日前、街の酒場で女をめぐってダオたちとトラブルを起こしていたのだ。
闘技場の試合内容には徒手空拳《としゅくうけん》のものと、格闘武器《かくとうぶき》を使ったものの二種類があり、そのときの試合は棍棒《こんぼう》を使った殴《なぐ》り合いだった。ダオの相手の機体はRk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]で、<サベージ> の比較的《ひかくてき》新しい機種《きしゅ》だったのだが、実力、性能ともに勝るダオはこれを叩きのめし、四肢《しし》をことごとく叩き折った。
勝負はそこで終わったはずである。
だが、ほとんど行動不能《こうどうふのう》になった <サベージ> ――そのわき腹《ばら》めがけて、ダオは執拗《しつよう》な打撃《だげき》を繰《く》り返した。<サベージ> のわき腹には燃料タンクが収納《しゅうのう》されている。度重《たびかさ》なる衝撃で装甲がゆがみ、内部のタンクにも亀裂《きれつ》が走ると、そこから強燃性《きょうねんせい》のジェット燃料が漏《も》れ出した。試合|終了《しゅうりょう》を告げるサイレンが鳴っていたにもかかわらず、ダオはさらに打撃を続け、漏出《ろうしゅつ》したジェット燃料に火花が引火《いんか》した。たちまち <サベージ> は炎《ほのお》に包まれ、中の操縦士も丸焼きになった。
ダオ側は『つい興奮《こうふん》して試合終了の合図《あいず》が分からなかった』と説明し、そのまま彼らの主張《しゅちょう》が受け入れられたのだが、分かっていてやったのは明らかだ。実際《じっさい》、ダオたちは後日《ごじつ》酒場で笑いながら、その試合の様子を周囲に自慢《じまん》して聞かせている。
また、ダオの対戦相手が試合前に襲《おそ》われたのは、なにもリックに限ったことではない。何人かの有望株《ゆうぼうかぶ》が強盗《ごうとう》にあったり、車にひかれたりで重傷《じゅうしょう》を負ったり死んだりしている。
ナムサクには汚《きたな》い人間が山ほどいるが、わけてもダオたちは吐《は》き気をもよおすような連中だった。
しかし、強い。
それだけはナミも認めないわけにはいかなかった。いくら闘《たたか》い方がダーティだろうが、卑劣《ひれつ》な妨害《ぼうがい》を平気で仕掛《しか》けてこようが、ダオと彼の機体は強い。リックの腕ならばあるいはと、はかない期待《きたい》をかけていたのが本当のところなのだ。
いくら頑張ったところで、急場《きゅうば》しのぎで雇《やと》った操縦士ではどうなるものか分かったものではなかった。
そんなナミの懸念《けねん》をよそに、相良宗介はあくまでのんきに構《かま》えている。
「では、行ってくる」
彼は錆《さび》だらけの <サベージ> へと歩き出した。
どろどろと鈍《にぶ》いエンジン音を轟《とどろ》かせ、宗介の <サベージ> が闘技場へと進み出ていく。割れんばかりの歓声《かんせい》と野次《やじ》。『殺せ』コールの大合唱《だいがっしょう》。
すさまじい騒音に顔をしかめながら、カメラ片手にレモンは言った。
「本当にいいのかい!?」
「え、なに!?」
ナイロンのスポンジがはみ出した、ぼろぼろのヘッドセットを耳からずらし、ナミが彼に顔を寄せる。
「だんだん不安になってきた。もし彼が死んだら僕にも責任があるし」
「知らない」
そう言ってからナミはむっつりとしてうつむき、首を左右にぶるぶると振《ふ》った。そしてレモンにというよりは、むしろ自分自身に言い聞かせるかのように、
「案外、あいつはやるかもよ」
とつぶやいた。
「はあ。できればその根拠《こんきょ》を聞かせて欲《ほ》しいな。すこしは心が安らぐから」
「あいつの言ってた <サベージ> の部品の話は、まあ的外《まとはず》れじゃなかったし。それに体つきがね……。手足が長くて無駄《むだ》な筋肉《きんにく》がない。でも首まわりと肩まわりは意外にがっしりしてる。激《はげ》しい運動をするAS乗りに、よくある特徴《とくちょう》よ」
「ふむ」
「あと着替《きが》えてるときに見えたんだけど、肘《ひじ》や手首の皮が、やたら厚《あつ》くて硬《かた》そうだった。マスター・アームを長く操作《そうさ》してると、自然に擦《す》れてくるのね。ひょっとしたら、あのソウスケってのは相当《そうとう》な――」
そのとき、闘技場の中央へと歩く宗介の <サベージ> が、足をもつれさせて前のめりに転倒《てんとう》した。
「…………」
数千の観客《かんきゃく》が大笑いする中で、<サベージ> はのろのろと身を起こす。
「あの。転んでるけど……」
「前言撤回《ぜんげんてっかい》。やっぱりダメだわ」
頭を抱《かか》えてナミはうつむく。彼女とレモンがつけているヘッドセットに、無線越《むせんご》しの宗介の声が流れた。
『失礼。癖《くせ》は分かった』
「ああ、そう」
相手チームのASも闘技場に入ってきた。オレンジ色のM6だ。両肩の装甲に怪物《かいぶつ》めいた目のマークが描《か》いてある。一戦終えたら台無《だいな》しになるだろうに、機体のあちこちに電飾《でんしょく》も施《ほどこ》してあって、夜空の下でギラギラと派手《はで》な光をまき散《ち》らしていた。
司会《MC》のアナウンスが場内に響《ひび》き渡《わた》る。ダオのリングネームは『|人食い鬼《オーガ》』。チーム名も同じだ。こけおどしの名前が多いこの闘技場だったが、ダオの戦績《せんせき》に照《て》らせばそう大げさでもない。対する宗介のリングネーム――ナミたちのチーム名は、『石弓《クロスボウ》』だった。
「石弓《クロスボウ》? あのおんぼろ機体が?」
「そーよ。なんか悪い?」
シャープで強力な一撃《いちげき》を叩きこむ、心強い武器。ナミとしてはそれなりの気持ちを込めて命名《めいめい》した勇ましいリングネームのつもりだったのだが、レモンの呆《あき》れたような視線《しせん》を感じて、ばつの悪い気分になった。
だが、宗介はこう言った。
『いい名前だ。もっとも、「大石弓《アーバレスト》」には及《およ》ばないがな』
「…………?」
『オーガ』と対峙《たいじ》する『クロスボウ』が、フィールドの中央で立ち止まる。
ひとときの静寂《せいじゃく》。
エンジンの出力が上昇《じょうしょう》していき、猛《たけ》るような咆哮《ほうこう》をあげた。排気口《はいきこう》から吹《ふ》きおろす風が機体の周囲に砂埃《すなぼこり》を舞《ま》い上がらせ、両機が姿勢《しせい》を低くする。
高まっていく観客たちの『殺せ』コール。サイレンがかき鳴《な》らされ、街頭《がいとう》の信号機を流用したランプが点灯《てんとう》し、カウントダウンが始まった。敵機《てっき》のダオが、外部スピーカーから哄笑《こうしょう》をあげている。
『よくもまあ、ぬけぬけと出て来やがったもんだな! どいつが乗ってるのかは知らねえが、命乞《いのちご》いならもう遅《おそ》いぜ?』
ダオの挑発《ちょうはつ》を受けても、宗介は無言《むごん》だった。なにしろ『クロスボウ』の外部スピーカーは壊れていて使えないのだ。
群衆《ぐんしゅう》の怒鳴《どな》り声は続く。
殺せ。殺せ。殺せ。
手足を引きちぎれ。頭を叩きつぶせ。胸板《むないた》を引き剥《は》がし、操縦士を引きずり出せ。
ナミは思わず、胸にさげた十字架《じゅうじか》を握《にぎ》った。弱々しい声で『おねがい』とつぶやく。
カウントが進む。
あと一秒。
ゼロ。
ひときわ大きなサイレンがうなり、電光掲示板《でんこうけいじばん》が『START』の文字を表示させた。
試合開始。
たちまち二機のASが突進《とっしん》する。
瞬発力《しゅんぱつりょく》はM6の方が圧倒的《あっとうてき》に勝《まさ》っていた。あたかも猛牛《もうぎゅう》のような勢《いきお》いで、ダオの『オーガ』が迫《せま》る。対する宗介の『クロスボウ』は、見ていてじれったくなるような歩調で前進していた。両者がまともにぶつかり合ったときに、どちらが吹き飛ばされるかは、だれの目からも明らかだ。
だが、二機は衝突《しょうとつ》しなかった。
すさまじいタックルを繰り出してきた『オーガ』の目前で、宗介の『クロスボウ』がふっと前のめりに身を沈《しず》めた。
(転倒?)
ナミも含《ふく》めて、だれからもそう見えた。しかし二機がすれ違った次の瞬間《しゅんかん》には、『オーガ』の方が足をすくわれバランスを崩《くず》し、空中で一回転していた。
『!?』
いや、一回転半だ。
何事《なにごと》もなかったかのように立ち上がり制動《せいどう》する『クロスボウ』の背後《はいご》で、ダオの『オーガ』は後頭部から地面に激突《げきとつ》した。
耳をつんざく轟音《ごうおん》と、派手に舞《ま》いあがる砂ぼこり。
突然《とつぜん》の出来事に場内が静まりかえる。
<ブッシュネル> は大の字に横たわったまま、まったく動かない。なにが起きたのか、ほとんどの人々が理解《りかい》できないでいる。ダオ機の損傷《そんしょう》そのものは、遠目に見るとほとんどない。
ざわめきは一〇秒かそこらだった。
やがて『オーガ』が立ち上がる見込みがないと判定《はんてい》した審判《しんぱん》たちが、『クロスボウ』の勝利を告げた。
飛び交う罵声《ばせい》と動揺《どうよう》。舞《ま》い散るチケット。
思わぬ大番狂《おおばんくる》わせに、場内は騒然《そうぜん》となった。
「いったい……?」
わけもわからずレモンがつぶやくと、ナミはようやく我《われ》に返った。彼女自身も目の前の出来事が信じられなかったのだ。
「たぶん……操縦者が失神《しっしん》したのね」
「あ、あれだけで?」
「あれだけ? とんでもない。ASっていうのは、かなり激《はげ》しい転倒から操縦者を守るように、ちゃんとした衝撃吸収《しょうげききゅうしゅう》システムを備《そな》えてるのよ。時速100キロで走る車が壁《かべ》にぶつかったくらいのショックでも平気なようにできてる。でも――」
ナミはごくりと唾《つば》を飲《の》み込んだ。
「あれだけの一瞬《いっしゅん》で機体が激《はげ》しく回転すると、吸収システムの機構が追いつかなくなる。言ってみれば、バネが縮《ちぢ》みきっているところに、さらにそのバネを押さえつけるような力が加わったようなもんね」
「ショックの吸収ができない、と?」
「そう。でもそれは敵機と自機の特性を熟知《じゅくち》していて、絶妙《ぜつみょう》のバランス感覚と操縦スキルがなければ無理《むり》な話。つまり――」
まず、普通《ふつう》の操縦士にできる芸当《げいとう》ではない。
「いい腕よ。すごく」
「はあ」
そっけなく言いながらも、ナミは勝利を喜ぶより、相良宗介に対する驚愕《きょうがく》と戦慄《せんりつ》を感じ、また鳥肌《とりはだ》の立つような心地《ここち》になっていた。
(何者なの?)
なによりもそう思った。
元々の選手――殺されたアメリカ人のリックも、『いい腕』ではあった。もともと所属《しょぞく》していた軍隊で、何百時間、何千時間と訓練《くんれん》を重ねてきたのだから。
だが宗介は別格だ。
闘技場に出入りするようになって結構《けっこう》たつが、あんな真似《まね》のできる操縦士に出会ったのははじめてだった。
騒然とした闘技場に背を向けて、パドックに宗介の <サベージ> が戻《もど》ってくる。ごくなにくわぬ様子だった。
「大《たい》したことではない」
機体から降りた宗介は、大喜びする整備クルーたちに囲まれてそう言った。
「俺くらいの操縦兵は、探《さが》せばいくらでもいる」
「だとしても、すごいよ!」
レモンも喜色満面《きしょくまんめん》ではしゃいでいた。そのまま宗介に抱《だ》きついて、フレンチ・キスでもしそうな勢《いきお》いだ。
「…………。いちおう、礼は言っとくわよ」
複雑《ふくざつ》な気分のまま、ナミはぶっきらぼうにそう告げた。
「ありがと。助かったわ」
「問題ない。それより……」
宗介が彼女の瞳を、神妙《しんみょう》な顔でのぞきこんだ。
一瞬《いっしゅん》、どきりとする。
彼の目つきが怖《こわ》かったのではなく、逆《ぎゃく》に不思議《ふしぎ》な愛嬌《あいきょう》を漂《ただよ》わせていたからだ。ちょっと腹《はら》を空《す》かした大型犬が、行儀《ぎょうぎ》よく好物《こうぶつ》をねだるような感じだった。
「な、なによ」
「今後も雇《やと》ってもらえるかどうかが知りたい。宿代《やどだい》と三食が確保《かくほ》できれば、それで手を打つつもりなのだが」
いまのナミにとって、その申し出を断《ことわ》る理由はなにも無《な》かった。
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2:新天地
撤収作業《てっしゅうさぎょう》のあと、近くの酒場に移動《いどう》して、ナミたちは景気《けいき》よく祝杯《しゅくはい》をあげた。
店に居合《いあ》わせた労働者《ろうどうしゃ》たちすべてに好きなものを一杯《いっぱい》ずつおごり、タイガー・ビールをしこたま空けて、音楽を鳴《な》らして派手《はで》に騒《さわ》いだ。『クロスボウ』に賭《か》けていた物好《ものず》きな客たちが何人か酒場を訪《おとず》れ、口々にきょうの戦いを賞賛《しょうさん》した。
ようやく勝利の実感が出てきたのか、ナミもすっかり上機嫌《じょうきげん》である。
「じゃんっじゃん、飲んでね! きょうは全部うちのおごりだから!」
『おお――――!!』
レモンも含《ふく》めた一同は、赤ら顔でグラスを掲《かか》げた。きょうはじめてこの面子《メンツ》と会ったばかりなのに、しっかりと馴染《なじ》んでいる。
「……しっかし、ダオの野郎《やろう》のコケっぷりときたらなかったな!」
「奴に賭《か》けてた客はカンカンだぜ。殺すって息巻《いきま》いてる奴もいる」
「念願《ねんがん》のクラスA入りまであと一歩だったのになあ。いい気味《きみ》だぜ」
口々に言っては笑い、グラスをあおって料理をぱくつく。
番狂《ばんくる》わせの圧勝により、配当金《はいとうきん》は相当《そうとう》な額《がく》になった。レモンは投資分《とうしぶん》を回収《かいしゅう》できたし、ナミたちは『クロスボウ』こと旧式《きゅうしき》 <サベージ> の壊《こわ》れた部品を直し、いくつかの高級なパーツを買うだけの現金を手に入れた。
すべて解決《かいけつ》。前途《ぜんと》も洋々《ようよう》。
これで盛《も》り上がらないわけがない。レモンや整備《せいび》クルーたちは、どこかの国歌や軍歌を唄《うた》って騒《さわ》ぎたて、安っぽい作りの床板をどんどんと踏《ふ》みならしていた。
「大将! いい写真は撮《と》れたのか、え!? ピーナッツ賞も間違《まちが》いなしだろ!?」
「あっはっは! それが試合に気を取られてて、一枚も撮ってないんだ!」
「じゃあ俺《おれ》のカミさんを撮らせてやる! 言っちゃなんだが、美人だぜ!」
「ほほう」
そこに整備士のアッシュが口を挟《はさ》む。
「嘘《うそ》つきめ。体重八〇キロのカミさんが美人だと!? 勘弁《かんべん》しろっての!」
「それじゃあラズベリー賞がせいぜいだ!」
「そりゃ映画賞じゃなかったか!?」
「どうだっていいさ! もう一杯!」
そんな支離滅裂《しりめつれつ》のやりとりが繰《く》り広げられる輪《わ》から離《はな》れたまま、相良《さがら》宗介《そうすけ》は酒場の片隅《かたすみ》で、ミネラルウォーター入りのグラスを手に、むっつりとしていた。
その酒場はひどくチープな作りで、壁のあちこちに開いた大穴《おおあな》をトタン材でふさいでいる有様《ありさま》だった。天井《てんじょう》も似《に》たようなもので、雨期にはひどい雨漏《あまも》りがすることだろう。裸電球《はだかでんきゅう》がぶら下がっているだけの照明《しょうめい》は、厨房《ちゅうぼう》のだれかが電子レンジを使うだけで、ちかちかと弱って明滅《めいめつ》している。
タイかどこかの映画の、古ぼけたポスター。名前も知らない風景画《ふうけいが》のレプリカ。いい加減《かげん》な飾《かざ》り付けの造花《ぞうか》やビーズ類《るい》。薄壁《うすかべ》一枚|隔《へだ》てた路地《ろじ》からは、かすかに酸《す》っぱい悪臭《あくしゅう》が漂《ただよ》ってきていた。ありていに言ってひどい店なのだが、宗介は意《い》に介《かい》している様子もない。
ナミは飲《の》めや歌えやの輪《わ》からはずれて、それとなく宗介の隣《となり》に腰《こし》かけた。彼と並《なら》んで壁に背を預《あず》け、たずねてみる。
「楽しんでる?」
「|肯 定《アファーマティブ》だ」
宗介は答え、グラスの水を一口すすった。
「変な英語」
「よく言われる」
ナミが笑っても、宗介は特に気分を害《がい》した様子《ようす》を見せなかった。
「あんた日本人なんだよね」
「そうだ」
「|日 本 軍《ジャパニーズ・アーミー》にいたの?」
「いや。そういう経歴《けいれき》もないし、そういう年齢《ねんれい》でもない。それから日本に『アーミー(陸軍)』はない。あるのは『セルフ・ディフェンス・フォース(自衛隊《じえいたい》)』という組織《そしき》だ」
「どう違《ちが》うのよ」
「よく分からん。法解釈《ほうかいしゃく》の問題らしい。敗戦国《はいせんこく》だからな」
「はあ」
軽い気持ちで振《ふ》った話題が、変に堅苦《かたくる》しい方向に行ってしまったことに調子を狂《くる》わせながらも、ナミはさらに質問した。
「あの操縦技術《そうじゅうぎじゅつ》。どこで覚えたの?」
「アフガンだ」
宗介はあっさりと回答した。
「きょう乗った初期型サベージが最初だった。六〜七年ほど前になる。それから各所で他《ほか》の機体《きたい》の扱《あつか》いも覚えた。中期型のサベージ。ミストラル。サイクロン。ブッシュネル。ガーンズバックに――」
「ガーンズバック? M9のこと言ってんの?」
「嘘《うそ》だ。忘れてくれ」
「…………?」
M9 <ガーンズバック> といったら、アメリカ軍が開発中の最新鋭《さいしんえい》ASのことだ。超高性能《ちょうこうせいのう》、超高価。あの闘技場《とうぎじょう》で取っ組み合いをしている中古の機体《きたい》など、およびもつかないパワーと運動性を誇《ほこ》ると言われている。専門誌《せんもんし》に掲載《けいさい》された推定《すいてい》データなら、ナミも見たことはある。ひとことで言うなら、M9の推定スペックは控《ひか》えめに見積《みつ》もっても『モンスター』と言ってよかった。
もちろん、そんな最新鋭機にそこらの傭兵《ようへい》が乗った経験《けいけん》などあるはずもない。
「アフガンって言ったよね。あの辺にも日本人の移民《いみん》とかいるの?」
「いない」
「じゃあ、なんで日本人のあんたが?」
「いろいろ事情《じじょう》があった」
「でも変じゃない。あんたはどう見てもあたしと同い歳《どし》くらいだし、<サベージ> を持ってるのは正規軍《せいきぐん》だけでしょ?」
「それは間違《まちが》った情報だ。ゲリラ側も鹵獲《ろかく》したソ連のASを使用していた。俺はその最初期からの操縦兵《そうじゅうへい》だ」
「そうだったの。って、ゲリラ? なんだってまた、日本人がアフガンくんだりでゲリラなんて――」
宗介がうつむいたのに気付いて、ナミは口をつぐんだ。
「ごめん。詮索《せんさく》しすぎだったね」
「いや」
そうつぶやいてから、彼はナミを見た。
「俺からも質問していいか」
「なに?」
「君は若い。こういう街《まち》なのは分かるが、それでもASの入手《にゅうしゅ》は簡単《かんたん》ではないはずだ。君はどういう経緯《けいい》であの機体を手に入れた?」
もっともな疑問《ぎもん》だった。だれからも聞かれる質問だ。特に隠《かく》しているわけでもなかったので、ナミは素直《すなお》に説明した。
「拾《ひろ》ったのよ。故郷《こきょう》の村のはずれで」
ほんの一年か二年ほど前のことのはずなのに、それが彼女には何十年も昔《むかし》のことのように思えた。
「田畑の用水路《ようすいろ》をふさぐような格好《かっこう》で、みっともなく尻餅《しりもち》ついてたの。タンクから軽油《けいゆ》が垂《た》れ流しになってて、作物にも大打撃《だいだげき》だった。まあ……それ以前に村のみんなはほとんどいなくなったり死んじゃったりだったけどね」
「戦争か」
「そう。政府軍《せいふぐん》やら反政府軍やら、あちこちの国の軍隊やらが出たり入ったり。村も焼かれて財産《ざいさん》も奪《うば》われた。男たちは兵隊になって遠くにいって、それきり帰ってこなかった。女たちは……ほかの兵隊たちにさらわれたり乱暴《らんぼう》されたり、食《く》い扶持《ぶち》を稼《かせ》ぎに街にいったり。まあ、お決まりのパターンってところ」
「よく無事《ぶじ》だったな」
「運が良かったんだね。村が襲《おそ》われたとき、たまたま隣村《となりむら》に出かけてたの。それであたしが帰ってきたら――」
そこで見た光景《こうけい》が脳裏《のうり》をよぎる。さらりと話せるくらいにはなったと思っていたが、やっぱり無理《むり》だった。彼女は眉間《みけん》にしわを寄《よ》せ、小さく首を振《ふ》って、いまでも不意《ふい》に忍《しの》びよってくる悪夢《あくむ》の影《かげ》を振り払《はら》った。
「あの <サベージ> は、村の半分を焼き払った連中《れんちゅう》が残してった機体よ。あちこち弾《たま》を食らってたけど、まだ動くからあたしがいただいたわけ。まあ、生き残ったみんなは猛反対《もうはんたい》したけどね」
ナミは天井《てんじょう》を見上げた。
「でも、あの村を再建《さいけん》したいの」
苦い記憶《きおく》は消えることがなかった。慣《な》れ親しんだ人々の途方《とほう》にくれた顔。なんの方策《ほうさく》もないまま、絶望《ぜつぼう》に打ちひしがれる人々の顔。
「だからこのナムサクに来たのよ。小娘《こむすめ》一人の稼《かせ》ぎなんて、どんなマネしたってたかが知れてる。そこいらのかわいそうな子たちみたいに、街角に立ってみたところで――必要なだけ稼ぐ前に体を壊《こわ》してボロ雑巾《ぞうきん》みたいになっちまうのが関《せき》の山よ。でも闘技場《とうぎじょう》は違う。きょうの一件で充分《じゅうぶん》わかったでしょ? うまくやりさえすれば、すごい額《がく》が稼げるのよ。特にAクラスに昇格《しょうかく》すればね」
「なるほど」
「ここで稼いだカネで、荒《あ》れた田畑を元に戻《もど》して、道路も橋《はし》も整《ととの》えて。そうすればきっと人も戻ってくるはず。それでもって――あたしが通ってた、あの学校も元通りにする。それがいまの目標《もくひょう》」
「学校?」
「そう。村で唯一《ゆいいつ》の学校。爆弾《ばくだん》やASで壊《こわ》されちゃったし、やさしかった先生も死んじゃったけど、いい学校だった」
「いい学校、か……」
なぜか宗介はうつむき、郷愁《きょうしゅう》の漂《ただよ》う声でそうつぶやいた。どこかずっと遠く。知ってはいてもたどり着けない別世界のことを思い出しているようだった。
「いい学校、よ。ハーフのあたしもすんなりと受け入れてくれたしわ」
「日本人の血か」
「やっぱわかる?」
「そういう名前は珍《めずら》しいからな」
「親父《おやじ》は日本の商社マンかなにかだったみたい。会ったことはないけど、死んだ母さんが言ってた。母さんは村が壊される前に地雷《じらい》踏《ふ》んじゃってね」
宗介はグラスを傾《かたむ》けながら、日本語でなにかをぼそぼそとつぶやいた。ヒトニレキ……それ以上は聞き取れなかった。
「なによ」
「およそすべての人間には歴史があるものだ、と言っただけだ」
「いい言葉ね、それ。気に入った」
「当たり前のことだがな」
ナミはにっこりと笑った。
「ま、そうだけどね。……ってこら、ムッシュ! レモンの旦那《だんな》!」
話を切り上げ、ナミは整備《せいび》クルーとレモンたちの輪に向かって怒鳴《どな》った。
「あんた仕事サボってていいわけ? 飲《の》んだくれる前に取材があるんじゃないの?」
「んあ〜? ナミさーん、だめだよ。そんなところでたそがれてちゃ。あっはっは。こっち来なよ、こっち」
いい感じに酔《よ》っぱらったレモンが、グラスを掲《かか》げて手招《てまね》きした。
「取材なら〜、ま、これからするから。スリーサイズとか〜、いや、これは|冗談《じょうだん》! すつれい[#「れい」に傍点]しました!」
男たちがどっと笑う。
「いやいいぞ、ムッシュ! 聞いてくれ! なんなら測《はか》れ! 測らせてもらえ!」
「そんなのできらいよ〜。ほら、ぼく、わりと紳士《しんし》だし。それよりなんでナミさん、あんなAS? っていうかロボット持ってるの。その辺いちばん聞きたいなあ〜。これ取材。ぼくちゃんと仕事してるっしょ〜?」
「サガラに聞いたら? いまたっぷり話したとこだよ」
「あ、サガラくん、ずるいよ〜。ぼくにも聞かせて! ね? ね?」
「かまわんが……あんたがそれを明朝《みょうちょう》まで覚えていられるかどうかが問題だ」
酒の匂《にお》いをぷんぷんさせて抱《だ》きつかんはかりに迫《せま》ってくるレモンから、宗介は渋《しぶ》い顔をそむけた。
祝宴《しゅくえん》が終わったのは真夜中《まよなか》だった。
したたかに酔《よ》ってまともに歩くこともできないレモンは、彼の泊《と》まっているホテルへ整備士のアッシュが連れて行くことになり、ほかの面子《メンツ》はめいめいに散《ち》っていった。
ナミと宗介は帰る方向が途中《とちゅう》まで一緒《いっしょ》だった。いまだに人通りの絶《た》えない歓楽街《かんらくがい》をはずれて、静かな公園――荒れ放題《ほうだい》だったが――のそばまで来たところで、二人の帰路《きろ》は別々の方向になった。
「今週はもう試合《しあい》の予定ないから」
別れる前にナミは言った。
「でも明日《あした》からも忙《いそが》しいよ。パーツの買い付けと整備作業があるし、あんたには色々おぼえてもらうこともある。昼までに機体のある格納庫《かくのうこ》まで来てね。いい?」
「了解《りょうかい》だ」
「それじゃ、おやすみ」
大げさな敬礼《けいれい》の仕草《しぐさ》を見せてから、ナミは宗介と別れて歩き出した。一度|振《ふ》り返ると、彼の姿《すがた》が薄暗《うすぐら》い街頭《がいとう》の向こう、彼が泊まっているという安宿《やすやど》の入り口へと消えようとしていた。
しばらく歩く。
彼女が住まいにしているアパートは、そこから四ブロックほど南にいったところにある。古いし狭苦《せまくる》しい部屋《へや》なのだが、それでも帰りつくのが待ち遠しかった。きょうは緊張《きんちょう》の連続で、くたくたに疲《つか》れていたのだ。
ちょうどその付近は歓楽街からも離《はな》れ、昼間の喧噪《けんそう》が嘘《うそ》のように思えるほど静まりかえっていた。うすよごれたタクシーが彼女のそばを通り過《す》ぎていく。開きっぱなしの窓から、カーステレオが流す民謡《みんよう》の音が聞こえてきて、そのまま遠ざかっていった。
「…………」
ふと、なにかの気配《けはい》を感じて振り返る。
だれもいない。いや――
「夜道の一人歩きは危《あぶ》ないぜぇ?」
いきなり歩道|脇《わき》の路地《ろじ》から現《あらわ》れた男が、ナミの腕をつかんで耳元にささやいた。とっさに振り払《はら》おうとしても無理《むり》だった。ものすごい握力《あくりょく》だ。
「!?」
薄明かりの中で相手の顔が見えた。傷跡《きずあと》でひきつった頬《ほお》。よく覚えているねちっこい声と喋《しゃべ》り方。
ダオだ。
酒場あたりから尾《つ》けていたのか、律儀《りちぎ》に待《ま》ち伏《ぶ》せしていたのか。鼻には大きな絆創膏《ばんそうこう》。頭にも包帯《ほうたい》を巻いている。どちらもきょうの試合での怪我《けが》だろう。
姿《すがた》を見せたのはダオだけではなかった。さらに三人ばかり、整備士風の男たちが現れ、彼女をぐるりと取り巻いた。勝ち誇《ほこ》った顔。女一人を捕《つか》まえただけだというのに、まるで百人の敵《てき》を罠《わな》にはめたかのようだ。
「きょうは世話《せわ》になったな。で、礼を言いにきたわけだ。わかるな?」
「っ……!」
「おおっと。拳銃《けんじゅう》持ってるんだったよな。どこに隠《かく》してる? ここかな? ん、ここか?」
カーゴパンツのポケットに入っている小型のリボルバーはとっくに探《さぐ》り当てているのに、ダオは彼女の腰《こし》や太股《ふともも》を執拗《しつよう》になで回した。
[#挿絵(img/08_075.jpg)入る]
「おお、あったあった。……ったくよ。ガキがこんなもん持ち歩いてるんじゃねえよ」
ダオは彼女から奪ったリボルバーを、無造作《むぞうさ》に自分のポケットにねじこんだ。
「負け犬が腹《はら》いせに仕返《しかえ》しってわけ? なにからなにまで腐《くさ》ってるんだね。このゲス野郎《やろう》……!」
嫌悪《けんお》と怒《いか》りとはげしい恐怖《きょうふ》がないまぜになって、ナミの声は小刻《こきざ》みに震《ふる》えていた。その頬に鋭《するど》い平手打《ひらてう》ちが入る。
「!」
さらにもう一発。彼女はくぐもったうめき声をあげる。
「言っとくぞ。おまえが『負け犬』だの『ゲス野郎』だの、そういうお下品《げひん》な吉葉を使うたびに、俺はおまえを一発|殴《なぐ》る。自動的にだ。ほかの言い方でも、ムカついたら殴る。黙《だま》ってても、気が向いたらひっぱたく。これはそういうルールだ。わかるな?」
「…………」
「闘技場で『おめえが気にくわない』って言ったよな。ありゃ嘘《うそ》だ。本当はおめえのきれいなうなじにゾクゾクしてた。わかるか? こんな風に――」
髪《かみ》をつかまれ、頭をぐいと引き寄《よ》せられたあとに、身の毛もよだつ感覚《かんかく》が彼女に襲《おそ》いかかった。ダオの舌《した》が彼女の首筋《くびすじ》をはい上がってくる。肺《はい》が勝手に収縮《しゅうしゅく》し、ナミの喉《のど》からか細い悲鳴《ひめい》が漏《も》れた。
「――ああ、うめえ。でも安心しな。これだけじゃすまさねえ。薬でもなんでも使って、俺の女にしてやる」
「冗談《じょうだん》じゃない! 死んだ方が――」
さらに一発、平手打ちが入った。
「っ!」
「ルールは言っただろ? っと、迎《むか》えが来た。乗んな」
中古のライトバンが近づいてきた。ダオの仲間が乗っているのだろう。車がすぐそばに止まると、取り巻きの一人が後部|座席《ざせき》のドアをさっと開いた。
「ああ、それから。おまえが雇《やと》ったあの操縦兵《そうじゅうへい》のガキ。名前は知らねえが、ほかの奴《やつ》に尾《つ》けさせた」
「!」
「心配するこたねえよ。別に俺はなにも言ってねえ。ただ――まあ、そいつが間抜《まぬ》けにもどっかの安宿で便所に頭つっこんで死んだとしても、そりゃあ俺の責任《せきにん》じゃない。ま、おまわりは面倒《めんどう》な仕事が増《ふ》えて気《き》の毒《どく》だけどな」
「人でなし! クソ野郎! あいつは試合に出ただけで、なんにも関係が――」
律儀《りちぎ》に殴打《おうだ》が二発入る。
「大ありだよ。俺をこんな目に遭《あ》わせたんだぜ? いい気味さ。いまごろはベトベトの便器にキスして、手足をばたつかせてるところだろうさ」
ダオの言葉に、男たちはげらげらと笑った。
そこで――
「それは俺《おれ》の話か?」
新たな声に振《ふ》り返ると、歩道の薄闇《うすやみ》の中に相良宗介が立っていた。
「ダオとか言ったな。おまえの友人は、便器にキスして眠っている」
「……ンだと?」
「彼女を放せ。車に乗って、立ち去ることだ。俺もいろいろ事情《じじょう》があってな。できればトラプルは避《さ》けておきたい」
ダオがひきつった顔面を、さらにゆがませ笑った。
「交渉《こうしょう》のつもりか? いい根性《こんじょう》だな。一人で逃《に》げときゃいいものを――」
その通りだと思った。助けて欲しいとも思った。ナミは複雑《ふくざつ》な気持ちのまま、感じたままにこう叫《さけ》んだ。
「や、やばいよ。逃げた方がいいと思うけど……」
「そうもいかない。君は俺のボスだからな」
宗介がすまし顔で答えると、ダオは取り巻きの男たちに告《つ》げた。
「やっちまおうぜ」
ナイフや鉄パイプをぎらつかせ、進み出てくる男たちを前に、宗介はため息をついた。長く、深いため息だ。
「まったく……初日から大忙《おおいそが》しだな」
彼は身構《みがま》え、つぶやいた。
目の前に四人。車内に二人。
銃器《じゅうき》はないが、ナイフや鈍器《どんき》で武装《ぶそう》している。何人かは軍隊で訓練《くんれん》を受けているようだ。ナイフは逆手《さかて》に構《かま》えている。鉄パイプは野球バットのように構えず、両手を離《はな》して握《にぎ》っている。ただのチンピラはそうは持たない。
それくらいまではナミにも分かった。
この地域《ちいき》では、長いこと内戦や国境|紛争《ふんそう》が続いてきたのだ。若い男の多くは武器の扱《あつか》いに熟達《じゅくたつ》しているし、実用的な殺人|技術《ぎじゅつ》をたっぷりと仕込《しこ》まれている。平和な国での町の喧嘩《けんか》とはわけが違う。
むしろ、だからこそなのだろうか?
宗介とダオたちの対決は、思いのほか早く終わってしまった。
「くたばりな」
ダオが繰《く》り出したナイフを、宗介は軽くかわして手首をとり、目にも留《と》まらない早業《はやわざ》で奪《うば》いとってしまった。相手の関節《かんせつ》をひねってそのまま背中に回ると、奪ったナイフを容赦《ようしゃ》なく相手の首筋《くびすじ》に突《つ》き立てる。
「…………!!」
耳の下一五センチくらいの部分だ。ナイフが刀身《とうしん》の半分くらいまで、首にざっくりと刺《さ》さっていた。だが出血は少ない。ダオもまだ死んではいなかった。醜《みにく》い顔が恐怖と驚《おどろ》きでさらにゆがみ、大きく見開かれた目が虚空《こくう》を凝視《ぎょうし》している。
「動かん方がいいぞ」
ダオと取り巻きの男たちに向かって、宗介は告げた。
「気道《きどう》。神経《しんけい》。頸動脈《けいどうみゃく》。すべて避《さ》けて刺した。ただ、すこし手元が狂《くる》えば……」
「ひっ……!?」
「わかるな? 自分の血に溺《おぼ》れて死ぬか、一生|寝《ね》たきりで暮らすかだ」
だれもが凍《こお》り付いて動けなくなった。熱帯《ねったい》に属《ぞく》するこの街の空気はひどく蒸《む》し暑《あつ》かったが、それでも彼らの周囲だけは違った。
宗介は言った。
「彼女のことは諦《あきら》めろ。チームにも二度と手を出すな。ここで誓《ちか》えば、放してやる。リックを殺されてるこちらとしては、最大限の譲歩《じょうほ》だと思うが。どうだ?」
「……っ」
「ゆっくり誓え。動脈が傷《きず》つくぞ」
びっしりと顔面に冷や汗《あせ》を浮かべたダオが、か細い声をもらして言った。
「……ち……誓う。……もう……ちょっかいは……ださない……」
「ほかの連中《れんちゅう》はどうだ?」
男たちはぎょっとしてから互《たが》いに目くばせし、どこか下卑《げび》た表情《ひょうじょう》で口々にこう言った。
「わかった、誓おう」
「あんたの勝ちだ」
「ダオを放してくれよ」
宗介は用心《ようじん》深い目で彼らを見つめながら、ダオの首筋からナイフを抜き去った。
「いけ」
どん、と背中を小突《こづ》く。ダオはふらふらと前によろめき、男たちに支えられるようにして車に連れて行かれた。ふと、手の空いていた一人が宗介の隙《すき》をうかがって身構《みがま》える。だが隙など微塵《みじん》もなかった。宗介は彼らを静かに凝視《ぎょうし》している。
なにかぞっとしたものを感じたのだろう。男はぎくしゃくとした足取りで後じさりした。
「な……なんなんだ、てめえ?」
男がつぶやいた。
「き、気味《きみ》の悪い野郎《やろう》だ」
捨《す》て台詞《ぜりふ》にすらなっていない。男たちが先を争うようにして乗り込んだ車は、ドアも閉《し》まらないうちに走り出し、そのままナムサクの中心街の方角へと加速《かそく》していった。
「すまなかった」
夜闇《よやみ》の向こうにテールランプの光が消えたのを見届《みとど》けてから、宗介はナミに言った。
「な……なんで謝《あやま》るの?」
「やはり殺しておいた方が良かったかもしれない。あれでおとなしく引き下がる手合《てあ》いでもなさそうだからな」
わけもない様子《ようす》でつぶやく宗介の横顔に、ナミはこれまでとは異質《いしつ》ななにかを感じた。
平和ボケしたどこかの町のチンピラ連中なら、もう少し悪態《あくたい》の一つや二つを吐《つ》いたことだろう。なぜなら宗介の強さが分からないだろうから。だが、戦火の中で育ち、このナムサクで暮らすナミやダオたちにはよく分かった。
宗介は強い。
修羅場《しゅらば》の経験《けいけん》も他を寄せ付けない。葬《ほうむ》った敵は五人や十人ではすまないはずだ。
身のこなしや言葉だけではなく、ああした荒事《あらごと》のときにリラックスしているあの仕草《しぐさ》――微塵《みじん》も見せることない緊張《きんちょう》の色――そうしたたたずまいこそが、彼の力を物語《ものがた》っているのではないか。
「どうかしらね」
たかぶった気持ちを静めながら、ナミは言った。
「連中はバカだけど、あんたの力は、よく分かったんじゃないの?」
「だとしても、しょせん俺は一人だ」
宗介は言った。
「一人の兵士に出来ることなど、たかが知れている」
奇妙《きみょう》なことに、その声はどこか頼《たよ》りなく、自嘲的《じちょうてき》なものだった。
「謙遜《けんそん》……にしちゃ、ずいぶん弱気ね。ますますあんたが分からなくなってきた」
「そうか」
「でも、ありがと。助かったわ」
ナミは本心からそう言って、屈託《くったく》のない笑《え》みを浮《う》かべた。いつも周囲《しゅうい》の人々に強がって、『助け? いらねーっての』などとうそぶいていた自分が、こんな風に礼を言えたことに、彼女自身が驚《おどろ》いていた。
「ボスだからな。雇《やと》い主《ぬし》は守る」
「……それだけ?」
「そうでもない。君はいい女だ」
「え……」
大真面目《おおまじめ》な顔で言われて、ナミは柄《がら》にもなくどきりとした。
「そ、それって、どういう……」
「いい人間、ということだ。酒場での話でそう思った」
「あ、そう……」
肩透《かたす》かしを食った気分になりながら、彼女はぼやいた。
「やっぱりあたし、あんたのこと分からない。なんて言うのか……ヘンね」
「変か」
「うん、ヘン。すごくヘン」
「前にもそう言われた」
「だろーね。……はっ、ははは!」
ナミはひとしきり笑ってから、すまし顔で言った。
「……さて、夜道はこの通り危険《きけん》だから。か弱い美少女を部屋まで送ってくださいませんこと?」
「か弱い美少女?」
「悪い?」
「いや、特に異存《いぞん》はない。送ろう」
先導《せんどう》して歩き出した宗介の腕《うで》に、彼女は自分の両腕をくるりと絡《から》みつかせた。
「ありがと。えへへ」
「問題ない」
横から胸を押し付けられていることに、気付いているのかいないのか。宗介はそれまで通りの平然《へいぜん》とした声で答えた。
その後、宗介はナミを彼女のアパートに送り届けると、あっさり自分の安宿へと帰っていった。別に上がりこんで欲しいなどとは思わなかったが、これはこれで面白《おもしろ》くないものがある。
(ま、いいか)
きょうはいろいろあった。自分も興奮気味《こうふんぎみ》なのだ。頭を冷やしてさっさと寝よう。
素《す》っ裸《ぱだか》になって冷たいシャワーを浴び、ショーツとタンクトップだけになって狭《せま》い寝床《ねどこ》にもぐりこむ。灯《あか》りを消してすこしたつと、呼《よ》び鈴《りん》が鳴った。
まさか、ダオたちが?
ドアチェーンはかけたままでおそるおそる出てみると、宗介が扉《とびら》の前に突っ立っていた。ナップザックや大きなバッグなど、重たげな荷物《にもつ》を目一杯抱《めいっぱいかか》えている。
「ど、どうしたの?」
「ホテルを追い出された。泊《と》めてくれ」
「はあ?」
聞けば、宗介はダオ一味の一人を、安宿の便所で半殺しにしたことから、戻るなり主人から『出て行け』と言われたらしい。
「っ……で、でも。あのね? あたし、いちおう……ひ、一人暮らしなんだけど」
自分の格好《かっこう》がほとんど裸同然なことを思い出して、彼女は顔を赤らめドアの陰《かげ》に隠《かく》れた。
「そのことも考えた」
宗介は平然《へいぜん》と答えた。
「あのダオとかいう連中が絡んできていることも考えれば、むしろ都合《つごう》がいい。護衛《ごえい》にもなるからな。ギャラから宿代を引いてくれても構《かま》わんぞ」
「え、でも、だって、なんか……」
「気が進まんか?」
「っていうわけじゃないけど。だ、だけどね? なんか……ヘンじゃない」
すると宗介はむっつりとうなずいた。
「よくわからんが、俺と二人なのがいやなのだな?」
「え? いや、ちが、って……まあ、そうなんだけど」
あたふたしながら曖昧《あいまい》な返事をすると、宗介はわけもない様子でうなずいた。
「わかった。では着替《きが》えを用意してくれ」
「へ?」
「レモンの部屋に行こう。彼のホテルは遠いので、なにかあったときに駆《か》けつけにくいからな。君も来い」
「ええ? なんであたしが、わざわざ――」
「ではここに泊めてくれ」
「ああっ、もうっ」
けっきょくナミはレモンの部屋行きを選び、睡魔《すいま》と戦いながら夜のナムサクを一キロばかり歩くはめになった。
翌朝《よくあさ》、ミシェル・レモンが自分のホテルで泥酔状態《でいすいじょうたい》から目を覚ますと、ベッドのすぐ隣《となり》で下着姿のナミが無垢《むく》な寝息《ねいき》をたてているところを発見した。
「え? まさか? え? ええっ!?」
未成年《みせいねん》に酔《よ》って狼藉《ろうぜき》を? 血相《けっそう》を変えてベッドから転げ落ちたレモンは、さらにすさまじい悲鳴《ひめい》をあげた。
相良宗介がベッドの下にもぐりこんだまま、ぐっすりと眠《ねむ》っていたのだ。
目を半開きにして。
ナイフを片手に握《にぎ》ったまま。
そんなあれこれがあったあと、けっきょくナミと宗介とレモンは、同じホテルで同居《どうきょ》することになった。
宗介の問題というよりは、むしろナミのわがままである。ダオたちが彼女をつけ狙《ねら》う心配は拭《ぬぐ》いきれなかったし、レモンの泊まっているホテルはこの街ではかなり上等な部類《ぶるい》だ。つまり、不審者《ふしんしゃ》はよく目立つ。ついでに言えば、居心地《いごこち》もいい。
「ほら、あたしってかわいいじゃん」
ナミはのほほんとレモンに告げた。
「男女二人で同棲《どうせい》ってのはイヤだけど。これでもカトリックなのよ。で、三人なら間違《まちが》いも起きないかなー、と思って」
「安心しなよ。僕はそういう気、全然ないから」
「じゃあソウスケ追い出して二人で寝る?」
「それは困る」
「やっぱり下心《したごころ》あるんじゃん」
にひひ、とナミは笑った。
「なぜそうなる!?」
「ま、いいじゃない。どうせ少しの間だから。そういうわけで、よろしくねー。じゃ、お風呂《ふろ》借《か》りるわ」
それ以上の反論《はんろん》を許さずに、ナミはさっさとバスルームに引っ込む。宗介は黙々《もくもく》と自分の私物《しぶつ》を部屋の中で広げにかかる。レモンはがっくりと肩を落とす。これから一か月以上はこの街に滞在《たいざい》する予定だったのだが、ナミたちはずっとこのホテルに居座《いすわ》るつもりのようだ。
そうして三人の共同生活が始まった。
寝るときは、ベッドはナミが占領《せんりょう》し、ソファはレモンに割《わ》り当てられ、宗介はベッドの下にひそむ。
なぜかそういう取り決めになった。
チームの一員としての、宗介の本格的《ほんかくてき》な生活が始まった。レモンは出資者《スポンサー》という扱《あつか》いになったのだが、ナミたちクルーにいいように顎《あご》で使われる雑用係《ざつようがかり》の役目も押《お》し付けられていた。
『闘技場《アレーヌ》』での試合はおもに夕方から行われている。週末がもっとも試合数が多く、平日もクラスB以下の弱小チーム同士の対戦が組まれていた。
宗介が雇《やと》われることになったチーム『クロスボウ』は、くたびれたRk[#「Rk」は縦中横]―91[#「91」は縦中横] <サベージ> を一週間ほどかけて徹底的《てっていてき》に整備《せいび》し、ずいぶんとましな状態《じょうたい》まで仕上《しあ》げることができた。劣化《れっか》の激《はげ》しかったマッスル・パッケージ――ASの『筋肉《きんにく》』を交換《こうかん》し、でこぼこだらけの装甲板《そうこうばん》を新品に替《か》え、液漏《えきも》れの直らなかった油圧系《ゆあつけい》の部品も改《あらた》めた。
ペンキを買う余裕《よゆう》もできたので、景気づけに機体を新たに塗装《とそう》することになった。
どんな色にするか全員で相談したのだが、議論百出《ぎろんひゃくしゅつ》でまるで意見がまとまらなかった。喧々轟々《けんけんごうごう》となったハンガーに、買い物に出ていた宗介が戻ってきて、おもむろに二色のペンキ缶《かん》を取り出した。
「なにそれ?」
「見ていろ」
ナミが訊《き》いても、宗介はそう答えるだけだった。トリガー式のエアブラシのカップに塗料《とりょう》と溶剤《ようざい》を注《そそ》ぎ込み、マスクとゴーグルをつけると、勝手にハンガーの <サベージ> に塗装を始めてしまう。
マットなホワイト一色。
それから肩《かた》と肘《ひじ》と膝《ひざ》、頭部の額《ひたい》部分だけに、ほとんど黒に近いブルーの塗料を吹《ふ》き付けていく。
昼ごはんを挟《はさ》みながらも作業《さぎょう》を見守っていたナミたちは、ほぼ出来上《できあ》がった『白いサベージ』を見上げ、首をひねった。
「悪趣味《あくしゅみ》ってわけでもないけど……なんか、よわっちく見えない?」
「俺が前に乗っていた機体の色だ」
「はあ」
「弱くなどない。縁起《えんぎ》もいい」
「そ、そうなの」
「そうだ。勝手ながら、これからこの機体を『アル二世』と呼ばせてもらう」
宗介は満足げに白いサベージ――ヒーロー然《ぜん》とした塗装の『直立カエル』を見上げ、ひとりごちにうなずく。それから、一同の微妙《びみょう》な様子《ようす》に気づいて、彼は急に落ち着かない様子になった。
「やはり変か?」
『うん』
ナミたちが異口同音《いくどうおん》に言って、『塗《ぬ》り替《か》えよう』と主張《しゅちょう》したが、それでも宗介は譲《ゆず》らなかった。
無口《むくち》な彼が自己《じこ》主張をするのは珍《めずら》しいことだったし、まあ、塗装なんてどうでもいいことでもあったので、一同はけっきょく彼のわがままを受け入れることにした。
あとでレモンが、ナミにひそひそとささやいた。
「彼もけっこう、かわいいところがあるね。あの色、僕が子供のころ見たアニメのロボットにそっくりだよ」
「へえ。なんてロボット?」
「『ゴールドラック』っていうんだけど」
ちなみにそれは、昔《むかし》フランスで大ヒットした日本製のアニメで、原題は『UFOロボ・グレンダイザー』という。まだASが発明されるよりもずっと前の時代の作品だ。
「全然|似《に》てないじゃん」
「そ、そうかな……って、知ってるの!?」
「再放送、こっちでもやってたわよ。ってか、どーでもいいから、仕事仕事! 次の試合は明日《あした》なんだから! それまでにこいつを完璧《かんぺき》に仕上げなきゃね!」
レンチを片手に、ナミは生まれ変わった <サベージ> へと向かっていく。
翌日《よくじつ》の試合も快勝《かいしょう》だった。
その次の試合も、そしてその次も。
一か月とたたないうちに『クロスボウ』チームは、評判《ひょうばん》の有望株《ゆうぼうかぶ》としてナムサクの街のあちこちで知られるようになっていった。
耳をつんざく警報音《けいほうおん》。
コックピットを震わせるエンジンの咆哮《ほうこう》。
上下左右、縦横無尽《じゅうおうむじん》に襲《おそ》い掛《か》かる、暴力的《ぼうりょくてき》な振動《しんどう》の数々。
正面スクリーンには、対戦相手の第二世代型ASが大写しになっている。
角ばった装甲《そうこう》と、ずんぐりとしたシルエット。頭部にあたるパーツがなく、戦車か装甲車を思わせる胴体《どうたい》から小さなセンサ・ターレットが突《つ》き出している。
格闘用《かくとうよう》の巨大《きょだい》なハンマーを手にして迫《せま》るそのAS―― <ミストラル2> の一撃《いちげき》をぎりぎりでかわし、宗介は自機《じき》をスムーズに操《あやつ》った。
手足をさばく。
風景が流れる。
まばゆいライトと、装甲を通して伝わる観客《かんきゃく》たちの熱狂《ねっきょう》。
マスター・アームを動かすと、機体は素直《すなお》に追従《ついじゅう》し、<ミストラル2> にきれいな足払《あしばら》いをかけた。
対戦相手はよろめく。姿勢《しせい》を戻そうとした相手の動きを見逃《みのが》さず、左手でつかんで反対側へと引《ひ》っ張《ぱ》り倒《たお》す。面白《おもしろ》いほど簡単《かんたん》に、<ミストラル2> は背中から『闘技場《アレーヌ》」の地面に叩《たた》き付けられた。
たったそれだけの衝撃《しょうげき》だったが、操縦者にとってはかなり堪《こた》えたことだろう。
仰向《あおむ》けのまま動きがにぶくなったところに、宗介の操る <サベージ> は容赦《ようしゃ》なく自機の格闘武器――無骨《ぶこつ》な斧《おの》を振《ふ》り下ろす。斧といっても、相手を切り裂くようなものではない。ほとんどハンマーと変わらない種類の武器だ。
大気を震《ふる》わせる轟音《ごうおん》とともに、<ミストラル2> の腹部《ふくぶ》から白煙《はくえん》が噴き出した。ジェネレータの重要な部品を破壊《はかい》され、たちまち過熱《かねつ》し行動|不能《ふのう》に陥《おちい》ったのだ。
『勝者《ウィナー》! クロスボウ!』
宣言《せんげん》とともに、闘技場の観衆《かんしゅう》がわっと沸《わ》き立つ。『白い <サベージ> 』はその熱狂に応《こた》えることもなく、さっさと自分のパドックへと引き返していく。
無線からは、ナミたちの興奮《こうふん》した声が聞こえてきた。
いわく、
(おつかれさん!)
(あんたは本物だ!)
(クラスAまであとすこしだぞ!?)
などなど。
「問題ない」
そう答えてから、宗介は機体の動力レベルを『待機《アイドル》』に戻した。
問題ない。
まさしくそういう気分だった。なにも感じることはない。脅威《きょうい》も、驕《おご》りも。どれだけ人から誉《ほ》めそやされても、自分の心にさざなみは立たない。
この程度《ていど》の戦闘機動《せんとうきどう》で。
そう思ってしまう。
ここでの闘《たたか》いは本物ではない。けっきょくはスポーツだ。本当の戦闘――殺意に満ち満ちた空間のただ中、生死のギリギリで感じるあの感覚――一瞬《いっしゅん》が永遠に引き延《の》ばされるあの緊張感《きんちょうかん》には、どうあっても及《およ》ばない。
(俺は何をしているのだ?)
わずか数戦目から、そんな焦燥《しょうそう》感がじわじわと彼の中で膨《ふく》らんできていた。こんな闘いをしている場合ではないはずなのに。
だとしても、これは戦闘の一環《いっかん》だ。東京を離れ、この街に流れ、こうして興行《こうぎょう》に参加しているのには理由がある。もっと遠くの、次の段階《だんかい》へ向けての戦闘。うまく敵を見つけられるか、彼自身にも確信《かくしん》がない。だがけっきょく、自分に出来ることはこれくらいしかないのだ。
しかし同時に、宗介はこのナムサクでの生活に、ある種の心地《ここち》良さを感じていた。
初めて東京で暮らし始めたときのような苦労はまったくない。古文や日本史に悪戦苦闘《あくせんくとう》することもない。ASの操縦技術や護身術《ごしんじゅつ》がごく普通に発揮《はっき》でき、それをおかしいことだとだれにも思われない。厳《きび》しい作戦、すさまじい強敵に直面《ちょくめん》することもなく、ごく自然体で暮らしていける。
ナミやレモン、整備クルーのアッシュたちについてもだ。
彼らはかつての学校の素朴《そぼく》な友人たちよりは、むしろ <ミスリル> での仲間たちに近いと言える。あの級友《きゅうゆう》たちと過ごした時間が楽しかったのはもちろんだが、ナミたちとの付き合いはもっとドライで――そう、言ってみれば楽なのだ。いわゆる日本的な『情』ではなく、もっと合理的《ごうりてき》な関係が根っこにある。ナミはオーナーで、レモンはスポンサーで、アッシュたちはクルーで、そして自分はオペレータ。それぞれの契約《けいやく》は成立しており、その上で互《たが》いに納得《なっとく》して付き合っていける。
こういう暮らしも悪くない。
東京での一件があってから、さほど経《た》ってもいないのに、そんな風に思い始めている自分を発見し、宗介はひそかに驚いていた。
『ソウスケ、聞こえてんの?』
無線越しのナミの声で、ふっと我《われ》に返る。
「……なんだ?」
『もー! はやくエンジン止めてよ! 燃料代だってバカにならないんだから!』
「了解《りょうかい》。いま止める」
機体がパドックの駐機《ちゅうき》ラインで停止《ていし》しているのを確認《かくにん》してから、宗介はディーゼルエンジンを切った。コンデンサに残った電力だけで機体を降着姿勢《こうちゃくしせい》にして、関節《かんせつ》をロック。制御《せいぎょ》システムを手順に従《したが》いオフにする。
ハッチを開いて機体を降りると、アッシュら整備クルーたちが彼を取り囲み、喜色満面《きしょくまんめん》で騒《さわ》ぎ立てた。レモンは後ろからカメラをしっかりと構《かま》え、せわしげに宗介たちの様子を撮《と》っている。ついさっきまでは客席の方から試合を撮影《さつえい》していたはずだったのだが、もう舞《ま》い戻っている。仕事熱心なことだ。
「あー、はしゃぎすぎだっての! ちょっと、どいて、どいて!」
アッシュたちを押しのけ、ナミが宗介の前に出てきた。
こほんと咳払《せきばら》い。
「おつかれさま。これ、きょうのギャラ」
「うむ」
ナミから渡《わた》されたむき出しの紙幣《しへい》を、宗介は無造作《むぞうさ》に受け取る。
「ま……カッコよかったよ」
上目遣《うわめづか》いでナミは言うと、そんな自分の言葉が気恥《きは》ずかしくなったのか、そそくさとパドックの奥へと引き返していった。
「惚《ほ》れてるね。まず間違いない」
数日後。整備場での昼食中にアッシュが言った。
アッシュは元東ドイツ軍の整備兵だ。九〇年代|初頭《しょとう》、ソ連でのゴタゴタが起きて東欧《とうおう》に粛正《しゅくせい》と弾圧《だんあつ》の嵐《あらし》が吹《ふ》き荒《あ》れる直前、奇跡的《きせきてき》に統一《とういつ》が間に合った東西ドイツ――その東側の出身《しゅっしん》だったばかりに職《しょく》にあぶれた『東ドイツ人』の一人である。統一直前、ワルシャワ条約機構軍《じょうやくきこうぐん》に配備《はいび》されていた初期型のRk[#「Rk」は縦中横]―89[#「89」は縦中横]を、三日ほど整備した経験があるという触《ふ》れ込《こ》みだけで、東南アジアのこの街に流れ着き、ナミのチームで働いているのだという。
「だれが、だれにだ?」
「ナミが、あんたにだよ」
「そうか。無理《むり》もないかもしれんな」
わけもなく言うと、アッシュは目を丸くした。
「ほお!? 強気発言だな、少年!」
「俺の操縦技能は、この街の水準《すいじゅん》からすれはきわめて高いと言える。オーナーの彼女が俺を評価するのはごく自然だろう」
「いや、そういうことじゃなくてな……」
がっくりとアッシュは肩を落とした。
「女として好きになってる、ってことさ。ああ見えてナミはもてるんだぜ? ガサツだしワイ談《だん》も平気なタイプなんだけどな、なんだかんだで実は身持ちが堅《かた》い。うちのクルーやほかの選手もみんな言い寄ったことがあるんだが  残らず肘鉄《ひじてつ》さ。もちろん俺もな」
「そうは思えん。彼女はレモンと話している時間の方が長いぞ」
ぴんとこないまま宗介は言った。
共同生活を続けている三人だったが、べらべらと喋《しゃべ》っているのはほとんどナミとレモンだ。宗介はもともと無口なので、特に話しかけられない限りはたいした会話もない。ナミは時たま彼のそばにきて、菓子《かし》やらドリンクやらを突《つ》き出し、『いる?』だのと聞いてくる程度でしかない。
「レモンの旦那《だんな》とは気楽に話せるってだけだろ? あんたと話してるときのナミは、素《そ》っ気《け》がなさすぎるくらいだ。あれはむしろおかしい」
「単純《たんじゅん》に嫌《きら》われているということではないのか?」
「そうは思えないけどねえ」
アッシュは笑った。
「あんたがいないときに整備場に来ると、ナミは必ず訊《き》くんだぜ? 『ソウスケは?』ってな。嫌《きら》いな奴《やつ》のことそんな風に気にしないだろ」
「よくわからん」
「あんたはどうなんだい」
「なにがだ」
「ナミのことさ。どう思ってるんだ?」
アッシュに指摘《してき》されて、はじめてソウスケは自分が彼女をどう思っているのか、考えてみた。
ナミのことは好きだ。
たぶん、そう感じている。一緒《いっしょ》にいると楽しいし、レモンと三人で愚《ぐ》にもつかない話をしているとリラックスできる。朝、整備場に向かう前に鏡《かがみ》の前で髪《かみ》を束《たば》ねて結《ゆ》わえているナミの後姿を、美しいとも想《おも》う。
では、それはなぜなのか? 前からもやもやと引っかかるものは感じていたのだ。
その理由は、ナミが『彼女』に似ているからだった。エネルギッシュで、妥協《だきょう》を知らず、宗介のことを容赦《ようしゃ》なく非難《ひなん》したり笑ったりしてくれる。屈託《くったく》がない。元気をくれる。
元来《がんらい》、自分はそうしたタイプの女に弱いのかもしれない。
「好きなのかもしれんな」
抑揚《よくよう》のない声で宗介は言った。
もし彼を知る女が聞いたら、こんな宗介の言葉に腹《はら》を立てることだろう。しかし一途《いちず》にだれかを想うことが美徳《びとく》だという宗教的な概念《がいねん》が、そもそも宗介にはない。恋愛《れんあい》それ自体と無縁《むえん》な世界で生きてきたからだ。<ミスリル> に入る前の戦友たちは、言ってみれば船乗りのようなものだった。女は港だ。そうした戦友たちの女づきあいから距離《きょり》をとっていたものの、彼が育ってきた環境《かんきょう》からすれば、むしろ千鳥かなめに対する態度《たいど》は誠実《せいじつ》に過ぎるくらいである。なにしろそのためにこうして、この場で戦っているのだから。
いちばん大事《だいじ》なのは彼女だと思っている。誰から強要されたわけでもなく[#「誰から強要されたわけでもなく」に傍点]、美徳などとは無関係に。
だからクリスマスの夜、パラシュートで降下中《こうかちゅう》のASの手の中で、テレサ・テスタロッサにああ聞かれてああ答えたのは、彼にとっては避《さ》けられないことだった。ただ、やはり彼女のことも好きだったのだろう。いまにしてそう思う。
では、仮《かり》に――
あのときのテッサと同じ質問をナミからされたら、自分はどう答えるのだろう?
わからない。
自信がなくなっている自分に気付いて、宗介はまたもや驚いた。
それどころか、千鳥かなめの顔が思い出せなくなってきている。たったの二か月くらいのはずなのに。彼女の笑顔――なにものにも替《か》えがたい価値《かち》を持つはずだったあの記憶《きおく》が曖昧《あいまい》になってきている。
彼女がよくはいていた靴《くつ》の色が、思い出せない。
彼女がどちらの手首に腕時計をつけていたのか、思い出せない。
それくらいならまだよかった。なによりも宗介は、彼女の長い髪を結わえていたリボンの色が思い出せないことに、ショックを受けた。
あのリボンは赤だったか?
たぶん赤だ。だが、自信がない。黄色だったかもしれない。
仕事がら、そういう特徴《とくちょう》はしっかりと記憶していたはずだったのに――無線で彼女の身体的《しんたいてき》特徴をだれかに伝える必要がいつくるかもわからなかったからだ――それがこの始末《しまつ》だ。
こんなに簡単《かんたん》なものなのだろうか?
こんなにあっさりと見失ってしまうものなのだろうか?
むっつりと考え込んだ宗介の横顔をのぞき、アッシュが言った。
「なにやら深刻《しんこく》そうだな。故郷《くに》に女でも残してきてるのか?」
「いや」
油で汚《よご》れたコンクリートの床《ゆか》を見つめたまま、彼はつぶやいた。
そのおり、噂《うわさ》の種になっていたナミが整備場に入ってきた。
「おっと、来ちまった」
芝居《しばい》がかった調子で、アッシュが口をふさぐような仕草《しぐさ》をした。この話はおしまい、という合図《あいず》のようだ。
「アッシュ! もう昼休みは終わりでしょ? さあさ、働いた働いた」
「へいへい」
アッシュは大仰《おおぎょう》に立ち上がり、ASの整備に戻っていく。昼食の空《あ》き容器《ようき》を片付ける宗介に、ナミがのしのしと近づいてきた。
「ソウスケ、これ」
彼女が手渡してきたのは、一枚のメモだった。お世辞《せじ》にもきれいとは言えない字で、あれやこれやと走り書きがしてある。
「なんだ、これは」
「買い物リストよ。あたしたちは、メンテやっとくから。あんたはレモンと一緒《いっしょ》に行ってきて」
宗介はむっつりとメモに目を通してから言った。
「AS用の特殊《とくしゅ》な部品が多いな。普通の店では手に入らんぞ」
「あれ? まだ『市場《いちば》』には行ってなかったっけ?」
ナミが眉《まゆ》をひそめた。
「市場か。聞いたことはあるが」
「そこで買えるから。東通り沿いに行った先の方よ」
様々《さまざま》なカードが盛《さか》んに組まれ、ありとあらゆる機種が集まるこの街《まち》は、どんな軍隊の前線基地《ぜんせんきち》よりもASの部品が豊富《ほうふ》だった。ナムサクの一角、両翼《りょうよく》でおよそ五〇〇メートルくらいの地域《ちいき》に雑然《ざつぜん》とした市が開かれ、世界中からかき集められてきたASの中古部品が売りさばかれている。
ナミの言った『市場』こそ、ナムサクをナムサクたらしめている空間だった。
フランス製のマッスル・パッケージ。チェコ製の光学センサ。ドイツ製のチタンフレーム。イスラエル製の冷却《れいきゃく》ユニット。日本製の光ファイバー。アメリカ製のコアプロセッサ。
軒先《のきさき》にASの手首をまるごと飾《かざ》っている露店《ろてん》などもあり、その隣《となり》に掲《かか》げられた掲示板《けいじばん》には、乱暴《らんぼう》なチョークの字で大型の部品の在庫状態《ざいこじょうたい》が記入されている。
<<GTTO社|純正《じゅんせい》/C112系|椎間板《ついかんばん》ダンパー/95年製>>
<<応力検査済《おうりょくけんさず》み/サベージ用|大腿部《だいたいぶ》Cフレーム/中国製>>
<<IFAV規格《きかく》/Rj[#「Rj」は縦中横]23[#「23」は縦中横]系トルクコンバータ/ほぼ新品>>
そうしたAS用の部品に混《ま》じって、地域一帯からかき集められた電化製品やコンピュータのパーツ類《るい》、DVDソフトやCDなども景気《けいき》よく取引されている。
客は闘技場の関係者だけでなく、電化製品目当ての一般人《いっぱんじん》や観光客《かんこうきゃく》も多かった。
中には――おそらくどこかの小さな発展途上国《はってんとじょうこく》から来たのだろう、軍の関係者と思《おぼ》しき一団も見受けられる。彼らは通訳《つうやく》を介《かい》して部品屋と不器用《ぶきよう》な商談を交《か》わし、格安《かくやす》の部品を調達《ちょうたつ》しようと必死になっていた。
「まるで秋葉原《あきはばら》だな」
宗介は、東京にいたころクラスメートの風間《かざま》信二《しんじ》に付き合って出かけた電気街《でんきがい》の活況《かっきょう》を思い出した。あの街ほど大きな規模《きぼ》ではなかったが、どことなくその雑然《ざつぜん》とした空気が連想《れんそう》させるのだ。
宗介の言葉にレモンが片眉《かたまゆ》を上げた。
「ああ、友達が観光で行ったことあるって言ってたよ。有名なポルノ街《がい》だね」
「電気街だ」
「それは昔の話らしいよ。いまはヘンタイマンガやロリコンゲームのポルノショップばかりだっていうけど」
「よく分からんが、たぶん誤解《ごかい》だろう」
「そうなの」
特に興味《きょうみ》もない様子で、レモンは唐辛子《とうがらし》で真《ま》っ赤《か》になった激辛《げきから》ソーセージをかじった。先刻《せんこく》、市場のはずれの露店《ろてん》で買ったものだ。
「うえっ、辛……」
「よくそんなものが食えるな」
「いや、でもおいしいよ」
「フランス人は美食家《びしょくか》だと聞いていたが」
「それは偏見《へんけん》。さっきのアキハバラと同じだよ。僕はジャンクフード派《は》だし」
「そうか」
これといった感想もなく、宗介は市場での買い物を進めていった。
いくらか評判を聞いていたとはいえ、彼にとってもこの市場の活気《かっき》は想像以上だった。軍用|機材《きざい》であるはずのASの部品が、ここまで気軽《きがる》に販売《はんばい》されているとは。
(驚《おどろ》いたな……)
言ってみれば、これは世界中の戦闘《せんとう》ヘリや戦車の部品が気やすく売られているような状況なのだ。ナミの説明を聞いた限りでは、裏に手を回せば火砲《かほう》やその弾薬《だんやく》さえ手に入るという。そんな街は、世界中|探《さが》してもまずないだろう。
宗介がこの東南アジアで傭兵《ようへい》をしていたころは――まだほんの二〜三年前だ――こんな街が生まれることなど考えもつかないことだった。ASの部品は、あくまで限定《げんてい》された武器商人のルートからのみ入手できる特殊《とくしゅ》な機材であって、その価格《かかく》も簡単に手を出せるものでは決してなかった。
ところが――
「TI社のジャイロが四〇〇ドルだと?」
露店の看板《かんばん》を眺《なが》め、宗介はため息《いき》混《ま》じりの声をもらした。
「高いのかい?」
「いや、逆《ぎゃく》だ。俺の知ってる最安値《さいやすね》は二〇〇〇ドルだった。一年前、それもダース単位で買い取った場合の話だ」
「へえ。ずいぶん安くなったんだねえ」
レモンはのんきに感心する。
「それだけASって機械が普及《ふきゅう》してるってことなんだろ? 景気《けいき》がいいのは結構《けっこう》なことじゃないか」
[#挿絵(img/08_109.jpg)入る]
「そんなに単純《たんじゅん》な話ではない」
宗介はふと、生死もさだかではないアンドレイ・カリーニンがかつて漏《も》らした言葉を思い出した。
(この世界は異常《いじょう》なのだ――)
その言葉が久《ひさ》しぶりに実感《じっかん》となって、彼の頭の中に響《ひび》き渡《わた》った。
いまのASの普及スピードは、若い世代の彼から見ても異様《いよう》なレベルだ。特に最近、そう感じる。
他の兵器システムの進化スピードに比《くら》べて、ASのそれは異常すぎるのではないか。
この市場の人間には想像もつかないほどの最新鋭実験機《さいしんえいじっけんき》――『ラムダ・ドライバ搭載機《とうさいき》』である <アーバレスト> を乗りこなしていた宗介の視点《してん》だからこそ、なのかもしれない。もっとも最先端《さいせんたん》のASを知る立場から見てこそ、この市場の様相《ようそう》には言い知れない不自然さを感じるのだ。
なぜ、そこまで急がねばならない?
そう感じる。ただの一兵士で、この世界に対してこれといった力《パワー》も持っていない自分が、考えをめぐらせても仕方のないことだとは分かってる。だが宗介は漠然《ばくぜん》と――それでいて必然的《ひつぜんてき》に、そうした『見えない意志《いし》』のようなものを感じてしまう。
もしかしたら、<ミスリル> にいたみんなも感じていたのかもしれない。
なにか、変なのだ。
うまくは言えない。だからだれも口にしなかった。その程度の違和感《いわかん》――
ぴぴっ、と電子音がした。
レモンがデジカメで宗介の横顔を撮《と》ったのだ。
「……撮るな、とは言わない。だが少々|無遠慮《ぶえんりょ》に過ぎないか?」
宗介がじろりとにらむと、レモンは肩をすくめてみせた。
「はっは。遠慮してたら、いい写真は撮れないからね」
「ブンヤなりのこだわり、というわけか」
「そういうこと。半分はアーティストとして、ってところかな」
「そんなポケットサイズのデジカメで、芸術《アート》もなにもないだろう」
不機嫌《ふきげん》な声で言ってやると、レモンはおかしそうに笑った。
「完璧《かんぺき》なスタジオで、生唾《なまつば》もののスーパーモデルを撮るなら別だけどね。世界中飛び回るなら、こっちの方が都合《つごう》がいい。一眼レフなんか持ち歩いてたら、すぐに盗まれて終わりだよ。ツールはあくまでツールだから」
「もっともな話だな」
「三〇〇万|画素《がそ》でも充分《じゅうぶん》なんだ。僕の芸術《アート》にはね」
飾《かざ》り気《け》もなくそう言ってから、レモンは好奇心旺盛《こうきしんおうせい》な目で宗介の横顔をのぞきこんだ。
「だから気になる。君の戦闘術《アート》が」
「…………」
「これまでの君の試合を見ていて思ったよ。君はただの少年兵くずれではない。単に、糊口《ここう》をしのぐために戦っているわけではない、と。もっと大きな――もっと遠くの目標《もくひょう》を見ている。そうでなければ、ああいう戦い方は身につかない。そんな気がしたんだ」
宗介はちらりとレモンの目を見た。
初めてそのとき、彼はミシェル・レモンがただの太平楽《たいへいらく》なルポライターではないらしいことに気づいた。眼鏡《めがね》の奥《おく》の瞳《ひとみ》は知的で、しっかりと相手を見据《みす》えて判断《はんだん》することを知っているように見えた。
「君の見事《みごと》な戦い方は、すでに技《スキル》ではないような気がする。写真家として感じるんだ。君のそれは術《アート》に近い。だからこそ、ASには素人《しろうと》の僕にもわかる。たとえ君自身がどう思っていてもね」
「……そうかもしれんな」
宗介は他人事《ひとごと》のようにつぶやいた。
「なにしろ俺が得意《とくい》な表現手段《ひょうげんしゅだん》といったら、これくらいしかない」
実際《じっさい》、その通りだった。
写真、絵画、造型《ぞうけい》、音楽。そうした様々な表現方法を持つ人々に、宗介は東京で出会ってきた。豊かで、精妙《せいみょう》で、心を踊《おど》らせるなにかを人に見せる手段の数々だ。
では、自分にはなにがある?
なにもないと思っていた。だが、見方を変えればそうでもないのだ。
戦闘。
戦闘こそが、自分を表現できる唯一《ゆいいつ》の手段。鉄火《てっか》の舞《ま》い散《ち》る戦闘と破壊《はかい》の中でしか、自分はなにかを表現できないのではないか。
だから彼女は。
だから千鳥はあのとき俺にそんな俺に――
そんな暗《あん》たんとした思いが、彼の胸を静かに締《し》め付けた。
「あ……すまない。そんなに深い意味のつもりじゃなかったんだ。ただ――」
そのときだった。
彼らの背後の車道に、けたたましいサイレンを鳴らして二台のパトカーが停車《ていしゃ》した。夜の市場を行きかう人々の群れが、ばらばらに足を止めてその二台へと目を向ける。
「?」
パトカーからそれぞれ二人の警官《けいかん》が飛び出し、腰のホルスターからリボルバー拳銃《けんじゅう》を引き抜いた。防弾板《ぼうだんばん》入りのドアと、エンジン部分を盾《たて》にして構《かま》えた銃口は――宗介とレモンに向けられていた。
「動くな!」
警官の一人が叫《さけ》ぶ。レモンが驚き、そばの露店《ろてん》の陰《かげ》に隠《かく》れようとしたが、宗介がそれを引き止めた。
「言うとおりにした方が良さそうだ」
「え?……あ、ああ」
へっぴり腰の姿勢《しせい》で身を硬《かた》くしたレモンと、渋《しぶ》い顔で腰を落とした宗介の前で、いちばん年配《ねんぱい》の警官が告《つ》げる。
「ゆっくりと両手を挙《あ》げろ。そのまま背中を向け、跪《ひざまず》いて両足を交差《こうさ》させろ。いいか、ゆっくりとだ」
「あー、おまわりさん? たぶん、これはなにかの間違《まちが》いだと思うんですけど――」
「早くしろ!」
「ああっ。ゆっくりだの早くだの。どっちかはっきりして欲《ほ》しいよ……」
ぶつぶつと不平をこぼしながら、レモンは警官の指示《しじ》に従った。宗介もだ。
そこに三台目のパトカーがやってきた。
すでに降伏《こうふく》の姿勢をとらされ、じめじめした路上《ろじょう》にうつぶせに組《く》み伏《ふ》せられた宗介たちからは見えなかったが、そのパトカーから男が一人降りてきた。
こつり、こつりと響くブーツの踵《かかと》の音。
そのブーツが、二人の正面に回ってきた。ブーツのあるじは静かに宗介たちを見下ろした。
鋭《するど》い切れ長の三白眼《さんぱくがん》。まず印象《いんしょう》に残ったその眼光《がんこう》と裏腹《うらはら》に、相手の頬《ほお》はぷっくりとふくらみ、境界《きょうかい》も定《さだ》かでない首と肩《かた》の中に埋まっていた。背は低い。腰のベルトの上から贅肉《ぜいにく》がはみ出している。肥《こ》え太らせた豚《ぶた》に、冷徹《れいてつ》な知性を与《あた》えて直立《ちょくりつ》させたらこんな感じになるだろうか。
目の前に立つ制服姿の男は、そういう印象の持ち主だった。
「若い外国人の二人組が、すぐ近くの市場で盗《ぬす》みを働いたという通報《つうほう》があった。確かな情報によるものだ[#「確かな情報によるものだ」に傍点]」
男が言った。甲高《かんだか》く耳触《みみざわ》りな声だった。
「こうして迅速《じんそく》に被疑者《ひぎしゃ》を拘束《こうそく》できたことは、望外《ぼうがい》の喜びである。しかし、残念《ざんねん》だ。その被疑者がここ最近、闘技場《アレーヌ》で頭角《とうかく》を顕《あらわ》しているチームの一員だったとは……」
ばかげた話だった。完全な難癖《なんくせ》だ。レモンがたちまち反発し、うつぶせの格好《かっこう》のまま怒鳴《どな》り声をあげた。
「はあ? なんですか、それは? リックって人が殺されたときは知らんぶりだったくせに、なんだってまた……んうっ!」
警官の一人にぐいっと首をつかまれ、レモンはうめき声をあげる。
「黙《だま》るがいい、外国人。私は純粋《じゅんすい》に職務《しょくむ》を全《まっと》うしているだけのことだ」
せせら笑うようにして、その男は言った。
「……その職務|熱心《ねっしん》なあんたは、いったい何者だ?」
うんざりした声で宗介がたずねると、男は紫色《むらさきいろ》の唇《くちびる》をわずかにゆがめた。
「おまえが知る必要はない、外国人。単に『署長《しょちょう》』と呼べばいい」
「覚えやすくて助かるな」
「それまた望外の喜びであるな」
『署長』はさらに唇をゆがめた。のぞいた前歯を、細長い舌《した》がぺろりとなめる。
「だが覚えておくといい。私にこれ以上、不遜《ふそん》な態度《たいど》をとれば――」
ぴかぴかに磨《みが》き上げられた黒いブーツが、宗介の顔面を横ざまに蹴《け》り払《はら》った。
「ただではすまさぬよ? サガラ・ソウスケくん?」
膝《ひざ》を突き、身を屈《かが》め、『署長』は彼にささやくようにして言った。
[#改ページ]
3:リアルバウト
「出ろ。来い」
耳障《みみざわ》りな金属音《きんぞくおん》。錆《さ》びついた鉄格子《てつごうし》の戸が開かれ、看守《かんしゅ》たちが宗介《そうすけ》を雑居房《ざっきょぼう》から引《ひ》っ張り出す。
ぶち込まれてから一晩《ひとばん》が過《す》ぎていた。
警察《けいさつ》による不当逮捕《ふとうたいほ》や証拠《しょうこ》のねつ造《ぞう》。第三世界のこの手の国では、ごく日常的《にちじょうてき》な話だ。
宗介はなにも驚《おどろ》かなかったし、署《しょ》の留置場《りゅうちじょう》の薄汚《うすぎたな》さも『まあ、こんなものか』と思う程度《ていど》でしかない。だとしても、その留置場は一泊《いっぱく》過ごすには暴悪の空間だった。
湿《しめ》った壁《かべ》や床《ゆか》は、常《つね》に汚物《おぶつ》の染《し》みでべたべたとしていた。すえた悪臭《あくしゅう》が何重にもなって充満《じゅうまん》し、やかましい羽音《はおと》の蝿《はえ》があちこちを飛び回る。灯《あか》りらしい灯りといったら、天井《てんじょう》近くの壁《かべ》にもうけられた小窓《こまど》から射《さ》してくる一条《いちじょう》の日光だけだ。
三日もここで過ごせば、たちまち精神《せいしん》か体のいずれかを病《や》んでしまいそうだった。実際《じっさい》、雑居房には何人もそうした男たちがいて、やせこけた肩《かた》を震《ふる》わせ、いつまでもうわごとをつぶやいている。
呼び出されたのは宗介だけだった。一緒《いっしょ》に捕《つか》まったレモンは、そのまま雑居房に置き去りにされ、疲労《ひろう》と不安の入り交じった目で彼を見送った。
「ソースケ」
「心配するな」
言い残して、雑居房を後にする。宗介は後ろ手に手錠《てじょう》をかけられ、離《はな》れた警察署の二階、取調室《とりしらべしつ》へと連行《れんこう》された。
取調室とはいっても、パイプ椅子《いす》二脚《にきゃく》と裸電球《はだかでんきゅう》だけの、なにもない部屋《へや》だ。
コンクリートが剥《む》き出しになった壁には、赤黒い染みがあちこちに付着《ふちゃく》していた。警官たちの『事情聴取《じじょうちょうしゅ》』で飛び散《ち》った血の跡《あと》だろう。血だけではなかった。部屋の隅《すみ》、埃《ほこり》やごみと混《ま》じってまばらに、茶色い小石のようなものが散らばっている。
あれは――歯だ。
殴《なぐ》られたか、ペンチでねじり抜《ぬ》かれたか。いったい何人の客をもてなせば、あれだけの歯が溜《た》まるのだろうか。次の犠牲者《ぎせいしゃ》の恐怖心《きょうふしん》を煽《あお》るために、掃除《そうじ》もせずに放置《ほうち》されているようにも思える。
だが宗介は、そんな陰惨《いんさん》な光景《こうけい》に、むしろ不思議《ふしぎ》な懐《なつ》かしさを覚えていた。
そうなのだ。これが本来《ほんらい》、自分のいるべき場所だったはずだ。
東京の温《あたた》かいマンション。光にあふれた教室。上等《じょうとう》な食事と、心地《ここち》よい笑い声。それらはもちろん、良いものだ。だがもはや自分の世界ではない。とりわけ、いまの自分には。
兵器にならなければならない。
確実《かくじつ》に作動《さどう》する精密《せいみつ》なツールに。
苦痛の残骸《ざんがい》以外は、なにもない部屋。その壁の一点を凝視《ぎょうし》しているだけで、心がゆっくりと冷え、乾《かわ》いていくのが感じられた。
目が据《す》わり、神経が研《と》ぎ澄《す》まされていく。
もっと鋭《するど》く。もっと冷たく。
そうして『カシム』へと戻《もど》っていく。
東京を離《はな》れてから、すこしずつ進めてきたプロセスだ。そうすることが、これからの彼には必要だった。ナミたちとの暮《く》らしはむしろ妨《さまた》げになっていたともいえる。
一時間ほど待たされて、例の男が入ってきた。
『署長』だ。
ゆっくりと、思わせぶりな足取り。この部屋の支配者《しはいしゃ》がだれなのか、どれほど愚鈍《ぐどん》な男にも分かるようにするために、こういう歩き方をしているのだろうか。たっぷりとしたズボンの太股《ふともも》と乗馬ブーツが、ナチス・ドイツの冷酷《れいこく》な将校《しょうこう》を彷彿《ほうふつ》とさせていた。
「強盗《ごうとう》、傷害《しょうがい》、殺人未遂《さつじんみすい》」
署長が言った。
「恐喝《きょうかつ》、偽証《ぎしょう》、不法入国《ふほうにゅうこく》、違法《いほう》な賭博行為《とばくこうい》、文書偽造《ぶんしょぎぞう》、公務執行妨害《こうむしっこうぼうがい》、不法な武器の携帯《けいたい》……ほかにリクエストはあるかね?」
「何の話だ」
「おまえの罪状《ざいじょう》だよ、サガラ・ソウスケとやら。少なく見積《みつ》もって懲役《ちょうえき》四八年。もうすこしで半世紀に手が届《とど》くのだが……」
「『警察|幹部《かんぶ》への暴行《ぼうこう》』はどうだ。いますぐ実行《じっこう》に移《うつ》してやるぞ」
「ふん」
署長が顎《あご》をしゃくる。すぐかたわらに立っていた大柄《おおがら》な警官が、宗介の横面《よこつら》を容赦《ようしゃ》なく殴《なぐ》りつけた。取調室に響《ひび》くにぷい音。予想通りの一撃《いちげき》だったとはいえ、やはり強烈《きょうれつ》だった。意志《いし》に反して上体がのけぞり、椅子《いす》から落ちそうになったところを、背後の警官が乱暴《らんぼう》に引《ひ》っ張《ぱ》り戻す。
「どうも分かっとらんようだ」
「………っ」
「ここはただの取調室ではない。法廷《ほうてい》でもあり、刑《けい》を執行《しっこう》する場でもある。検事《けんじ》は私。判事《はんじ》も私。そして執行官も、この私だ」
「よほど人手《ひとで》不足のようだな」
その皮肉《ひにく》をつぶやくのはひと苦労だった。口の中が血だらけで、折《お》れた奥歯《おくば》がじゃらりと転がる。吐《は》き出そうかとも思ったが、この部屋のトロフィーにくれてやることもないので、そのまま飲み込んでやった。
「用件は何だ。わざわざ懲役五〇年を告げるために来たわけでもないだろう」
「そういうところは察《さっ》しがいい」
署長は笑った。腹と顎《あご》の肉がゆさゆさと、規則的《きそくてき》に揺《ゆ》れる。
「闘技場《アレーヌ》のことだ」
「…………」
「初出場から連戦連勝しているな。次の試合に勝てば、チームは昇格《しょうかく》するそうではないか。おまえの腕《うで》はマッチメーカーの間でも、そろそろ定評《ていひょう》になりつつある。クラスAに昇格して充分《じゅうぶん》な資金《しきん》を得たら、トップまで駆《か》け上がるのは時間の問題だろうと」
「そのつもりだ」
「それが困るのだよ」
署長は制帽《せいぼう》を脱《ぬ》ぎ、自分の禿《は》げ上がった頭をつるりとなでた。
「闘技場《アレーヌ》は大勢《おおぜい》の花形チームを抱《かか》えている。彼らをバランス良く勝利させ、王者の地位を適切《てきせつ》に管理《かんり》することで、観客はいつまでもこのゲームを楽しみ続けることができるのだ。効率的《こうりつてき》な運営《うんえい》。安定した娯楽性《ごらくせい》。これによって、われわれ[#「われわれ」に傍点]は大きな利益《りえき》を享受《きょうじゅ》しているわけだ。分かるかね?」
署長が言う『われわれ』の意味は、宗介にもよく分かっていた。
闘技場の運営委員会。マッチメーカーたち。ASの部品を供給《きょうきゅう》する商人や、街の有力者、犯罪組織《はんざいそしき》に官僚《かんりょう》組織。お決まりの面子《メンツ》が甘《あま》い汁《しる》を吸《す》おうとして、莫大《ばくだい》なカネが動くこの競技《きょうぎ》に群《むら》がっているのだ。
「ダオたちはクラスBだが、私のためによく働いてくれていた。そして――サガラ・ソウスケとやら。おまえはわれわれの秩序《ちつじょ》をかき乱そうとしている。それがこの部屋に呼ばれた理由だ。ここらで意思《いし》の疎通《そつう》を図《はか》って、互《たが》いの今後のために『調整』をする必要があるとは思わんかね」
「なるほど」
調整――つまるところは、八百長《やおちょう》のことだろう。あるいは、もっと別のなにかか。
「意に沿《そ》わなければ、このまま懲役五〇年というわけか」
「あのフランス人もな。オーナーの娘《むすめ》とやらも、そのお仲間に加えてやっていい。退屈《たいくつ》した看守《かんしゅ》や囚人《しゅうじん》たちから、若い娘がどう扱《あつか》われるか、説明する必要もないだろう。この街で私に逆《さか》らおうとは思わんことだ」
ナミやレモンのことを出されても、宗介はなんらうろたえなかった。それどころか、後ろ手に手錠《てじょう》をかけられたこの状態《じょうたい》で、警官二人と署長を殺せるかどうかを吟味《ぎんみ》していた。
――まあ、できるだろう。
三人を殺したあと手錠を外し、武器を奪《うば》って脱出《だっしゅつ》できるかも考えてみた。
――これはそれほど難《むずか》しくない。
レモンを留置場から助け出し、ナミのところまで走ってから、この街を逃げ出すのは?
――まったく、造作《ぞうさ》もないことだ。
だが、それでは意味がない。だから宗介はこう答えた。
「そのようだな。『調整』が必要なら協力しよう。ただし頼《たの》みがある」
「ほう?」
署長が面白《おもしろ》そうに片眉《かたまゆ》を吊《つ》り上げた。
「あのサッカー場で馴《な》れ合い試合をするのは構《かま》わんが、本気を出せる機会《きかい》も欲しい。俺の腕を自由にふるえて、動くカネももっと大きい。そういう場所だ」
「…………」
「あるんだろう?」
そう問いかけると、署長はしばらく無言《むごん》のまま、注意深い目で宗介を観察《かんさつ》した。
「何の話だね」
「噂《うわさ》は聞いている」
「どこで聞いた」
「あちこちで」
署長は無表情《むひょうじょう》のまま、地元《じもと》の言葉でなにかを言った。警官の一人がうなずいて、しぶしぶと取調室を出て行く。もう一人の警官――さきほど宗介を殴った方の男は残ったままだ。それなりに事情《じじょう》は知っているのだろう。
扉が閉まると、署長はいびつな微笑《びしょう》を浮《う》かべた。
「あれ[#「あれ」に傍点]の内容を知った上でそう言っとるのか?」
「無論《むろん》だ。VIP客向けの闇《やみ》バトルで、実弾《じつだん》を装填《そうてん》した火器《かき》を使う。報酬《ほうしゅう》も桁違《けたちが》いだと」
前から――東京にいたころから旧知《きゅうち》の戦友に聞いていた話を、宗介はそのまま話した。宗介がわざわざこの街に来たのは、その闇《やみ》バトルが狙《ねら》いだったのだ。
「出場者の半分が数か月のうちに死ぬ。それも知っているのかね?」
「そんなところだろうな」
こともなげに宗介が言うと、署長は制帽《せいぼう》を被《かぶ》りなおし、探《さぐ》りを入れるようにつぶやいた。
「あれに出たがる者は二種類しかいない。借金《しゃっきん》や弱みを握《にぎ》られた元AS乗りか、己《おのれ》の実力を過信《かしん》した馬鹿者《ばかもの》か。そのいずれかだ。わざわざおまえが興味《きょうみ》を示《しめ》す理由を聞こうか」
「まず、カネが要《い》る。女を買い戻《もど》したい。娼婦《しょうふ》だ」
「どこの」
「この街じゃない。トーキョーだ」
もちろんでたらめだ。酒場やテレビで耳にした、ありきたりな話を持ってきたに過ぎない。女が東京にいることにしたのは、単《たん》に署長たちが裏《うら》を取りづらいからだけだった。
それくらいのことなら、署長にも想像《そうぞう》はつくだろう。女の話にはたいして興味《きょうみ》もない様子で、彼は指摘《してき》した。
「ほかの理由は?」
「あんたの仕事と似《に》たようなものだ。こういう部屋が好きなんだろう?」
そう言って、宗介は薄汚《うすよご》れた取調室――血の跡《あと》と歯、爪《つめ》が散乱《さんらん》した部屋を見渡《みわた》した。
苦痛の痕跡《こんせき》。暴力《ぼうりょく》の匂《にお》い。
見せかけではない、本当のそれ。
「闘技場《アレーヌ》の競技はスポーツだ。ジェット燃料《ねんりょう》の刺激臭《しげきしゅう》はあっても、血や硝煙《しょうえん》の匂いはどこにもない」
「それが理由になるとでも言うのかね?」
「充分《じゅうぶん》だと思うが?」
すると署長は全身をゆすって笑った。たるんだ肉が小刻《こきざ》みに震《ふる》え、紫色の唇の隙間《すきま》から引きつった笑い声がもれる。
「どうやら二番目の方らしいねえ。よほど自分の腕に自信があるとみえる」
「答えを聞きたい」
「面白い、面白いよ。口を利《き》いてやろう。ただし――おまえには何の後ろ盾《だて》もない。『裏競技』が終わって信用を得るまで、あのフランス人の身柄《みがら》は預《あず》かっておこう。おまえは帰っていいよ、サガラ・ソウスケ」
そうとだけ言って、署長は取調室を出て行った。
レモンを置き去りにするのは気が引けたが、今のところは放っておくしかない。宗介は署を出る前に、適当《てきとう》に見繕《みつくろ》った警官の一人に五〇ドルばかりを手渡し、『留置場のフランス人を丁重《ていちょう》に扱《あつか》ってくれ。後で同額《どうがく》の礼も弾《はず》む』と言い渡しておいた。
署を出てすこし歩くと、ナミの声がした。
「ソースケ!?」
埃《ほこり》っぽい車道を横切り、ナミが駆《か》け寄ってくる。すでに逮捕《たいほ》されたことは知っているのだろう。署のはす向かいにある粗末《そまつ》なカフェで、打つ手もないまま時間を潰《つぶ》していたようだ。
「どうなってるわけ? レモンの旦那《だんな》は?」
「まだ中だ。署長と話して俺は出てきた」
「署長って……あの冷血漢《れいけつかん》の悪党《あくとう》と?」
どうやら署長は有名人のようだ。ナミの顔に浮かんだ驚きと疑念《ぎねん》を読み取り、宗介は納得《なっとく》した。
「なんで話しただけで出てこれるの?……って、なんか、くさっ」
鼻をくんくんいわせてから、彼女は力いっぱいの渋面《じゅうめん》を作った。わずか一晩《ひとばん》とはいえ、あれだけ不衛生《ふえいせい》な雑居房で寝泊《ねとま》りしたのだから無理《むり》もないことだった。
「ホテルに帰ろう。そこで事情を説明する」
二人はタクシーを拾《ひろ》って、レモンのホテルに戻った。
シャワーを浴びてさっぱりしてから、洗濯済《せんたくず》みのTシャツに袖《そで》を通し、冷えたミネラルウォーターを一息に飲《の》み干《ほ》す。清潔《せいけつ》な衣服《いふく》とうまい水が、こんなにありがたいものだと思ったのも久しぶりだった。
リビングに戻るとナミはソファーの上であぐらをかいて、部屋のテレビをむっつりと眺《なが》めていた。当然のことだが、ひどく落ち着かない様子だ。
「……んで? なにがあったわけ?」
「俺たちは派手《はで》に勝ちすぎた。それが連中の癇《かん》に障《さわ》ったらしい。レモンや君の今後の身柄を人質《ひとじち》に、八百長試合を持ちかけられて、それを承諾《しょうだく》した」
対面《たいめん》のソファーに腰掛《こしか》け、 宗介は言った。
「八百長。なるほどね」
「怒らないのか?」
「別に。そういう噂はこれまでさんざん聞いてきたし。ペテン師《し》だらけのこの街の賭博《とばく》に、わざわざスポーツマンシップなんて期待《きたい》する方がバカってもんでしょ。むしろそういう話が来たのはめでたいくらいよ。ただ……」
「ただ?」
「あんまり言いなりになるのもマズいかもね。連中があんたとレモンを逮捕《たいほ》したのは、あたしたちを安くこきつかってやろうって腹で、脅《おど》しにかけたんだろうから。きっちり交渉《こうしょう》しないと、使い潰《つぶ》されてポイ捨てってことになる。あの署長に、なにか条件《じょうけん》とか持ちかけてくれた?」
「一応《いちおう》は」
「どんな条件?」
「闇《やみ》バトルに出ることになった」
「なんだって?」
ゆさゆさと貧乏《びんぼう》ゆすりをしていたナミの脚《あし》が、ぴたりと止まった。
「闇バトル?」
「そうだ」
「マジで?」
「ああ。儲《もう》けもいいからな」
「あのね。あんた、それがどんな試合か知ってて言ってるの? 同業者の間じゃ噂になってるけど、だれも出ようとはしない。命がいくつあっても足りないからね。なにしろ実弾《じつだん》使って、本物の戦闘をやるんだよ?」
「らしいな」
「あたしの、あの機体で出るっての?」
「そういうことになる」
「冗談《じょうだん》じゃないわ!」
予想通り、ナミは立ち上がって怒鳴《どな》り声をあげた。
「あのね、あの機体で闇バトルなんかがまともに戦えるわけないでしょ!? 火器管制《かきかんせい》システムなんて拾《ひろ》ったときから触《さわ》ってないし、装甲《そうこう》もボロボロなんだよ? 運営側から八百長試合の話が来るのは、まだわかる。でも闇バトルは違《ちが》うわ。マジでヤバいのよ!?」
「もっともだ」
「じゃあなんで受けちゃったの!? あんたが死ぬのは勝手《かって》だけど、大切な機体をぶっ壊《こわ》されちゃうあたしの立場はどうなるわけ?」
「それは……」
タオルで髪《かみ》をくしゃくしゃと拭《ふ》いてから、宗介は押《お》し黙《だま》る。
本当の話をするべきか。
それとも、やめるべきか。
警察署を出たときから迷《まよ》っていたその問題に、いい加減《かげん》結論《けつろん》を出さねばならなかった。
いくらギャラが高いとはいえ、わざわざ望《のぞ》んで闇バトルに参加《さんか》することなど、ナミたちは承服《しょうふく》しないだろう。それはさすがに宗介でも想像がついていた。
『レモンを人質《ひとじち》にされて、やむなく出場を承知《しょうち》した』
そう告《つ》げた上で、資金面《しきんめん》の問題さえ解決《かいけつ》すれば、説得《せっとく》はできるかもしれない。
これまでナミと一緒《いっしょ》に生活してきて、彼女が善良《ぜんりょう》な人間だということは分かっている。かといって信頼《しんらい》に足るかどうか、自分の味方《みかた》になってくれるかどうか、それはなんとも言えないのだ。
だが、ふと思い出す。
(あたし、なにも知らずに死にたくない)
あのときの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》の言葉が、あの潤《うる》んだ瞳《ひとみ》が、彼の脳裏《のうり》から離《はな》れなかった。
情けない。つい半日前は、なにも感じない精密機械《せいみつきかい》へと順調《じゅんちょう》に近づいていたのに。ありとあらゆる事象《じしょう》が、環境《かんきょう》が、自分の心を揺《ゆ》り動かす。こんなことで自分自身の『作戦目標』が達成《たっせい》できるのだろうか?
わからなかった。
何十秒が過ぎただろうか。辛抱《しんぼう》強く待っていたナミが、ぽつりと言った。
「なんかのそろばん勘定《かんじょう》?」
「…………」
「あのさ。そりゃあ、あたしは金勘定にうるさいかもしれない。守銭奴《しゅせんど》呼ばわりされても、仕方《しかた》ないとも思ってる。でもね? あたしとあんたって、そういうビジネスの関係だけなの? 言葉を選ばないといけないわけ?」
「?」
意味がわからず、顔を上げた宗介を、ナミの大きな瞳がのぞきこんだ。ソファーから身を乗り出して。
「……そういうわけでもない」
「少なくとも、友達ぐらいにはなれてると思ってたんだけど。ちがうの?」
タンクトップからのぞく胸の谷間《たにま》が、ずいっと彼に迫《せま》ってくる。思わずどきりとした自分に気付いて、宗介は葛藤《かっとう》しているのが急にばかばかしくなってきた。
なにが精密機械だ。なにが作戦目標だ。
前にも学んだことではないか。しょせん自分は人間で、矛盾《むじゅん》だらけの存在《そんざい》だと。その事実からは、どうあっても逃《のが》れられないのだ。
だから、苦労する。
目の前のなめらかな柔肌《やわはだ》から視線《しせん》を逸《そ》らして、宗介は言った。
「そうだな。では話そう」
この新しい友人には、洗いざらい白状《はくじょう》してしまった方がむしろいい。それで納得《なっとく》してもらえなければ、その時はその時だ。
「闇バトルの件は、俺から署長に持ちかけた」
それを聞いてナミは目を丸くした。
「なんで!?」
「もともと俺は、それが目的だったんだ。闘技場《アレーヌ》での競技《きょうぎ》は、運営側の暗部《あんぶ》に近づくための手段に過ぎなかった。傭兵《ようへい》仲間の間で噂を聞いた、実戦レベルの闇バトル。そこに <アマルガム> が関《かか》わっていると見込《みこ》んでのことだ」
「 <アマ……ルガム> ?」
「ある組織《そしき》の名前だ。テロ組織や軍産複合体《ぐんさんふくごうたい》と深くつながり、世界各地で紛争《ふんそう》の演出《えんしゅつ》をしている。ここ数年の重大なテロ事件は、<アマルガム> があちこちで関与《かんよ》している」
「ちょ……ちょっと。おいおい……って」
「その <アマルガム> と戦っていた極秘《ごくひ》の傭兵部隊がある。一世代進んだ装備《そうび》を運用し、正規軍《せいきぐん》の特殊《とくしゅ》部隊|並《な》みの練度《れんど》を誇《ほこ》っていた。その組織は凶悪《きょうあく》なテロ組織や犯罪《はんざい》組織と戦い、地域《ちいき》紛争の危機《きき》に介入《かいにゅう》して火消しをしていた。俺はその部隊の生き残りなのだ」
いきなりスケールの大きな話になって、ナミはますます当惑《とうわく》した。
「よ……よく分かんないんだけど。で、生き残り? その……あんたのいた傭兵部隊っていうのは、どうなったわけ?」
「 <アマルガム> に抹殺《まっさつ》された」
「…………」
「 <アマルガム> は正体不明の組織だ。だれが、どこで、どう関わっているかを知る手段はほとんどない。その数少ない手がかりが、このナムサクの街とASの闇バトルだ。俺の部隊はこれまで、<アマルガム> のASを何度か撃破《げきは》してきた。回収《かいしゅう》できた死体から身元《みもと》が特定《とくてい》された操縦兵《そうじゅうへい》のうち何人かが、このナムサクで選手をやっていたのだ」
「そっ……」
「信じられないか?」
精一杯《せいいっぱい》まじめな顔で相手を見返す。それでもナミは半信半疑《はんしんはんぎ》の様子で、宗介を見つめ凍《こお》り付いていた。
「マジなの?」
「肯定《こうてい》だ」
「まあ、あんたの腕《うで》は只者《ただもの》じゃないとは思ってたけど……。だとして、それってものすごくヤバい相手じゃない?」
「そうだな」
ごく当たり前といった口調《くちょう》で、宗介はうなずいた。
「俺はその <アマルガム> に近づきたい。それには君の協力が要《い》る」
「…………!」
あとはごく当然の反応《はんのう》だった。
ナミは『冗談《じょうだん》じゃない』と逆上《ぎゃくじょう》した。テーブルをひっくり返して『勝手に一人で戦争してろ』とわめき散《ち》らし、ペットボトルを投げつけて、『二度と目の前に姿《すがた》を見せるな』と怒鳴《どな》り、ホテルの部屋を出ていってしまった。
ナミが悪いわけではない。
まったく、当たり前の反応なのだ。
(やはり、無理《むり》があったか)
深いため息をついて、宗介は散らかった部屋の掃除《そうじ》を始める。ナミから見放されたこの状態《じょうたい》で、機体の調達《ちょうたつ》ができるだろうか、と自問《じもん》してみる。
思い当たる伝手《つて》はなかった。
さて、どうしたものか。あれこれと思いをめぐらせながら、ゴミを片付けていると、部屋の呼《よ》び鈴《りん》が鳴《な》り響《ひび》いた。
扉《とびら》を開けて出てみると、相手はナミだった。不機嫌顔《ふきげんがお》で、じっと宗介を見上げている。
「いちおう聞いておきたいんだけど」
なかば唇《くちびる》を尖《とが》らせて、彼女は言った。
「あんたは困ってるのね?」
「ああ」
「あたしの助けが要る?」
「肯定だ」
正直な気持ちでそう言うと、ナミはふっと肩《かた》の力をゆるめ、宗介の胸にこつりと握《にぎ》り拳《こぶし》を当てた。
「わかった。すこしだけ付き合ってあげる」
「いいのか?」
「レモンの旦那《だんな》が牢屋《ろうや》の中だしね。それに、ファイトマネー自体はいいんでしょ?」
「まあ、そうだ」
「ただし、あんまり期待しないでよ。クルーが納得するかどうかは分からないんだから。みんながノーと言ったら、やっぱりノーよ」
「了解《りょうかい》した」
「それから、<アマルガム> とやらの話はほかのみんなにはしないでおく。知らない方が巻き込まれにくいでしょうしね」
「感謝《かんしゃ》する」
やはりナミにはカリスマがあったようだ。
『石弓《クロスボウ》』チームの整備《せいび》クルーたちは、最終的に闇バトルへの参加を承諾《しょうだく》した。反対する者も何人かいたが、レモンが人質になっていること、そして宗介の腕が並大抵《なみたいてい》のものではないことを彼女から説《と》かれて、けっきょくはしぶしぶ同意《どうい》した。
翌日の夕方には、署長の使いが彼らの整備場を訪《おとず》れ、こう告げた。
『土曜の二一時だ。それまでにムナメラの北にある教会|跡《あと》まで来い。もちろん機体も一緒《いっしょ》だ』
ムナメラはナムサクから二〇キロほど北にある、街道《かいどう》沿いの小さな農村だ。
まさかナムサクの市内で実弾《じつだん》――それも一発でトラックが吹き飛ぶような、AS用の三〇ミリ弾をぶっ放《はな》すわけにも行かないだろう。闇バトルの会場[#「会場」に傍点]は、ナムサク郊外《こうがい》のどこか、ほとんど人のいない山岳地帯《さんがくちたい》の中にあるようだった。
『あとは遅刻せんことだ。留置場の友達に、いろいろと不都合《ふつごう》があるかもしれんからな』
署長の使いは、そう言い渡してから彼らのハンガーを去っていった。
「レモンの旦那も気《き》の毒《どく》ね。牢屋の中でノイローゼになったり、おかまを掘られたりしてなきゃいいけど」
白い <サベージ> のコントロールボックスをてきぱきと解体《かいたい》しながら、ナミがぼやく。その仕事を手伝いながら、宗介は言った。
「多少は看守に心づけを渡しておいた」
「それでマシになるといいけどね。……っと、そっちの配電盤《はいでんばん》も一緒に外しちゃって。かまわないから」
ナミが火器管制《かきかんせい》システムとつながる回路《かいろ》をつついた。
「いいのか?」
「うん。Flbn―32 はどうせ役に立たないだろうしね。それだったら、自家製《じかせい》のソフトで負担《ふたん》を軽減《けいげん》してやった方がいいし」
「自家製のソフト?」
「あたしが書き換《か》えたのよ。闇バトルのためにね。午前中いっぱいかかったわ。あたしああいうの苦手《にがて》でさ、大変だった〜」
宗介は作業の手を止め、ナミの笑顔を凝視《ぎょうし》した。
「午前中だけで? あのソフトを一人で書き換えたのか?」
宗介の知る限り、それは数時間で終わるような作業では決してなかった。相応《そうおう》の訓練《くんれん》を受けた優秀な技術者《ぎじゅつしゃ》が、じっくりと数日取り掛《か》かることで、ようやくできるような作業のはずだった。専門家《せんもんか》の教育も受けていない一六、七の娘《むすめ》がこなせるような種類のものではない。
実際《じっさい》、宗介はアフガン時代、何人かの元工学部生のゲリラと同型 <サベージ> のソフトウェアをいじりまわしたが、まともなものができるようになるまで何週間もかかったのだ。
「昔《むかし》から勉強してたのか?」
「まさか。たまにいじってただけだよ」
「それくらいで、どうにかなるものではないはずだ。一体どこでそんな技能《ぎのう》を――」
「だーかーら!」
ナミはうるさげに手を振《ふ》った。
「苦手だって言ってるでしょ。まあ、ちょっと触《さわ》ってればだいたい分かるとは思うけどね。別に大したことでもないんじゃないの?」
ありえない。
言いようのない胸騒《むなさわ》ぎを覚えながら、宗介はさらに質問《しつもん》した。
「そもそも、君はだれからこの機体《きたい》の整備《せいび》方法を習ったんだ?」
「?」
ナミは整備の手を止め、心底《しんそこ》不思議《ふしぎ》そうな目で宗介を見つめた。
「だれからも習ってないけど?」
「では、なぜ――」
「だって、あれこれいじってれば分かるじゃない。なんとなく」
考えにくいことだった。たとえ第二世代型だとはいえ、ASのシステムをここまで正確《せいかく》に理解《りかい》して運用するのには、しかるべき訓練が必要なはずだ。
工学|知識《ちしき》のない娘が、誰かに教わらないで、できるはずがない。
まさか[#「まさか」に傍点]、彼女も[#「彼女も」に傍点]?
いや、そんな偶然《ぐうぜん》などありえない。それ[#「それ」に傍点]は数万人に一人どころか、数百万人に一人、あるいはそれ以下の確率《かくりつ》の存在《そんざい》なのだ。それがばったり、偶然にこの自分と出会うことなど――
「なにぼーっとしてんの」
ナミに言われて、宗介は我に返った。
「サボらないで。さっさとそっちのプラグ外してよ」
「ああ」
心にしこりを残したまま、宗介は <サベージ> の整備作業に戻っていった。たしかにいまは忙《いそが》しい。
この件が済《す》んだら、また折《おり》を見て詳《くわ》しく聞いてみればいいことだ。
そのときは、気楽《きらく》にそう思っていた。
その土曜日、夕刻《ゆうこく》――
宗介たちはレンタルした大型トレーラーで <サベージ> を運び、ナムサクを離れてムナメラの村へと向かった。戦争で傷ついた舗装《ほそう》も、ろくに修繕《しゅうぜん》されていない道だ。路幅《ろはば》も狭《せま》く、AS用のトレーラーでは対向車《たいこうしゃ》とすれ違うたび苦労する有様《ありさま》だった。
道の東側は開けた水田地帯《すいでんちたい》。西側は広葉樹《こうようじゅ》に覆《おお》われた山岳地帯。単調《たんちょう》な風景《ふうけい》がどこまでも続いている。乾期《かんき》のためか、空気もどこかよそよそしく、トレーラーの巻き上げる土埃《つちぼこり》が視界《しかい》を悪くしていた。
指定の教会跡に着くと、何人かの武装《ぶそう》した警官が待っていた。ナムサク市警の連中だ。約束の時間にはなっていたが、彼らは無愛想《ぶあいそう》な声でライフルを掲《かか》げたまま、『待っていろ』と宗介たちに告《つ》げるはかりだった。
三〇分ほどして、ヘリで署長がやってきた。けたたましいターボシャフト・エンジンの轟音《ごうおん》を響かせ、ヘリが廃墟《はいきょ》の前の空き地に着陸《ちゃくりく》する。
機体から降《お》りてきた署長は、宗介の顔をしげしげと見てから、あのいやらしい笑顔をにんまりと浮かべた。
「ここで機体に搭乗《とうじょう》してもらおう」
署長が言った。
「サガラ・ソウスケ。おまえは北西二キロの遺跡《いせき》まで行け。そこが今回の『闘技場』だ。ほかの者はここで大人しくしていてもらう」
「はあ!? そんなに現場から遠ざけられたら、無線《むせん》の指示《しじ》だってまともに届《とど》かないよ!? いったい――」
抗議《こうぎ》しようとしたナミたちに警官たちがカービン・ライフルを向ける。
「――ごもっとも。すばらしい采配《さいはい》ですわ。おほほほ……」
「それでいい。小娘」
署長は言うと、ヘリに遅《おく》れてその場に現れたピックアップ・トラックへと歩いていった。その背中に、宗介は声をかけた。
「どこかで観戦《かんせん》か?」
「そういう場所がある。おまえが知る必要はないよ」
「そうかな。流《なが》れ弾《だま》には気をつけて欲しいものだ」
署長は車の前で立ち止まり、ふんと鼻を鳴らした。
「心配には及《およ》ばんよ。大事《だいじ》な客を危険《きけん》にさらすようなところではない」
「では、心置きなく暴《あば》れさせてもらおう」
宗介が白い <サベージ> に向かうのと、署長が車に乗り込むのとは同時だった。
まず、補助《ほじょ》パワーユニットを起動《きどう》させ、続いて主《おも》だった電子機器《でんしきき》に息を吹き込む。初期のチェックを済ませてから、主パワーユニット――およそ一二〇〇馬力のディーゼル・エンジンを作動させる。
高鳴《たかな》るエンジン音。
駆動系《くどうけい》のうなり声。
操縦《そうじゅう》系の安全装置《あんぜんそうち》を解除《かいじょ》して、脚《あし》をゆっくりと動かすと、宗介の <サベージ> が立ち上がっていく。
油圧《ゆあつ》は正常《せいじょう》。マッスル・パッケージも新品同様だ。三日かけてみっちりと整備したおかげで、機体のコンディションはごく良好《りょうこう》だった。
「行ってくる」
修理《しゅうり》したばかりの外部スピーカーのスイッチを入れて、宗介は心配顔のナミたちに告げた。機体の耳――つまり指向性《しこうせい》マイクの調子《ちょうし》はいまいちだったが、画質《がしつ》の荒《あら》いスクリーンの中で、ナミがこちらに叫《さけ》んでいた。
『気をつけて!』
「ああ、心配するな」
『心配なのはあんたのことじゃなくて、機体のことだけど』
「そうか」
『でも――』
ナミがためらうようにうつむき、改《あらた》めて彼の <サベージ> を見上げた。
『やっぱり無茶《むちゃ》しちゃダメだよ? ちゃんと五体満足《ごたいまんぞく》で帰ってくること!』
「そのつもりだ」
光学《こうがく》センサ越《ご》しの不鮮明《ふせんめい》な表情《ひょうじょう》。なにか切迫《せっぱく》したような視線《しせん》。彼女はこちらをじっと見つめ、それからかすかに頬《ほお》をゆるめる。
『なら、よし。終わったらなんかご馳走《ちそう》してよね』
宗介はそれを魅力的《みりょくてき》な笑顔だと思った。これからやろうとしていることを放り出して、さっさとナムサクに帰って彼女と飲み食いしたい気がした。それどころか、もっと直裁《ちょくさい》に感じたことがある。どういうわけだか、彼はすぐに機体から降りていって、この娘《むすめ》を抱《だ》きしめたい衝動《しょうどう》に駆《か》られた。
さらに奇妙《きみょう》な疑問《ぎもん》が浮かぶ。まるで自分の意思《いし》とは無関係《むかんけい》に。
やめにできないだろうか。こんな危険なことは全部やめて、ナミたちとのんびり、ナムサクでの毎日を楽しんで生きることの、なにがいけないのだろうか。
『どしたの?』
「……いや」
ばかげている。
なぜこんなときに、そんなことを? 俺はどうかしてしまったのか? 宗介は苦労しながら千鳥《ちどり》かなめのことを思い出し、言い知れぬ後ろめたさを感じた。苦労して思い出すような人間に対して後ろめたさを感じる――その心の働きそのものが奇妙《きみょう》だったが、とにかく彼は突然《とつぜん》ふってわいた未練《みれん》をどうにか振《ふ》り払《はら》った。
「なんでもおごるぞ」
そうとだけ言って、宗介は機体を走らせる。
一〇〇メートルほど前進してから振り返った。ナミはまだ彼を見送っている。軽く機体の手を挙《あ》げてから、宗介は指定《してい》された地点《ちてん》へと向かった。
付近《ふきん》は起伏《きふく》の激《はげ》しい丘陵《きゅうりょう》地帯だ。
乾燥《かんそう》した泥土《どろつち》を踏《ふ》みしめるたびに、鈍《にぶ》い衝撃《しょうげき》が機体を震《ふる》わせ、砂埃《すなぼこり》が舞《ま》い上がる。うっそうとした樹木《じゅもく》をかきわけ、まっすぐ北西へ。
白い <サベージ> を駆《か》りながら、各システムをチェックする。
この機体でこれまで使ったことのないシステムを、特に重点的《じゅうてんてき》に。載《の》せ換《か》えたばかりの光学センサと、火器管制《かきかんせい》システム。携帯《けいたい》火器はまだない。<ミスリル> 時代の装備に比べれば、ひどく頼《たよ》りないものだったが――
(本来《ほんらい》、こんなものだ)
これでもずいぶん、ましな部類《ぶるい》といってもいい。かつて自分が初めて搭乗《とうじょう》した同型のサベージは、いまのこの機体よりもひどい状態《じょうたい》だった。
デジタル・マップの表示を横目に、指定の地点へと到着《とうちゃく》する。
そこは古い寺院《じいん》の跡《あと》だった。
削れた石造りの壁面《へきめん》に、人の足ほどはあろうかという蔦《つた》が無数《むすう》に這《は》い回り、のたくっている。比較《ひかく》的最近の戦闘《せんとう》で破壊《はかい》されたのだろう、腰《こし》のあたりからぼっきりと折《お》れた神像《しんぞう》のすぐそばに、AS用の三七ミリ・ライフルが放置《ほうち》してあった。
BK―540。
どことなく人間用のAK突撃銃《とつげきじゅう》に似た外観《がいかん》の、標準的《ひょうじゅんてき》なAS用|携帯《けいたい》火器だ。その傍《かたわ》らには、二つのライフル用|予備弾倉《よびだんそう》、そして二つの近接戦闘用武器《きんせつせんとうようぶき》――HEATハンマーが置いてある。
『「真の闘技場《とうぎじょう》」へようこそ、クロスボウ』
あらかじめ指定《してい》されていたバンドに無線《むせん》の声が入った。署長だ。
『そこにあるのがおまえの武器だ。好きに使うといい』
通信機器を操作《そうさ》し、電波の発信源《はっしんげん》を探《さぐ》ってみる。旧式《きゅうしき》の赤外線《せきがいせん》センサも使用。署長たちがどこにいるのかは、やはり分からない。なにかと便利なソナーや超広帯域《ちょうこうたいいき》レーダーの類《たぐい》はあいにく、<ミスリル> のASにだけ許される贅沢《ぜいたく》な装備《そうび》だった。
署長やほかのVIPたちがいると思《おぼ》しき場所を探すのは、後にするしかなさそうだ。まずは敵《てき》を倒《たお》さねばならない。
「ありがたいことだな」
宗介は <サベージ> をひざまずかせ、武器や弾倉を拾《ひろ》わせた。腰や背中のハードポイントに装備《そうび》させ、静かにつぶやく。
「それで。今夜の相手はどこにいる」
『目の前だよ。操縦兵《そうじゅうへい》は笑っているぞ』
「?」
彼と <サベージ> がいる遺跡《いせき》は、小動物の反応《はんのう》以外はなにもなかった。石畳《いしだたみ》の床《ゆか》にひざまずく彼の機体――その正面にも、いかなる反応もない。
光学センサにも。赤外線センサにも。
いや――
完全|密閉式《みっぺいしき》のコックピットを持つASなら、それでも分からなかっただろう。だが宗介が乗るおんぼろ <サベージ> は違った。装甲《そうこう》のゆがみからできた機体の隙間《すきま》、いくつかの、通気孔《つうきこう》を通って入ってくる外気の匂《にお》い。
その懐《なつ》かしい、よく知ったイオン臭《しゅう》が鼻をくすぐっただけで、彼はそこになにがいるのか[#「そこになにがいるのか」に傍点]を悟《さと》った。
大気が揺《ゆ》れる。
「!!」
とっさに手足を動かすと、<サベージ> は気が遠くなるほどゆっくりと、のけぞるようにして後ろに跳躍《ちょうやく》した。
金属《きんぞく》の悲鳴。
なにもない空中から現れた鋭《するど》い刃《やいば》が、<サベージ> の胸部装甲《きょうぶそうこう》を削るように弧《こ》を描《えが》いた。あれは――
(単分子《たんぶんし》カッター)
一回転して受身《うけみ》を取りつつ、宗介は機体のライフルを真正面に構《かま》えた。
なにもない空間に、ぱっと突風《とっぷう》と砂埃《すなぼこり》が起こり、なにかが空高く跳躍《ちょうやく》した。その行き先を目で追えたのは、宗介の経験《けいけん》と技能のおかげだったと言えるだろう。敵の跳躍力は驚《おどろ》くべきものだった。
崩《くず》れかけた寺院の遺跡《いせき》、その本堂の尖塔《せんとう》の根元に、『それ』が着地《ちゃくち》する。
<サベージ> や <ブッシュネル> などの第二世代型ASでは、ああはいかない。操縦兵にどんな技能があろうとも、ああ飛ぶことは決してできない。
では、あの寺院の上に着地した敵はなにか。目にも見えず、おそろしい奇襲《きしゅう》を仕掛《しか》けてきた相手は、いったい何なのか。
『もうお気づきかな?』
署長が言った。
数百年の歳月《さいげつ》に蝕《むしば》まれた神の住みかの上で、燐光《りんこう》が踊《おど》る。青い光のベールがゆらめき、その向こうから一機のASが出現《しゅつげん》した。
月光を背に浮かび上がる、すらりとした灰色《はいいろ》のシルエット。
戦闘機《せんとうき》パイロットのヘルメットを思わせる頭部。
豹《ひょう》か猛禽《もうきん》を思わせるような、力を秘《ひ》めつつもゆったりとした動作。
自分がこれまで散々《さんざん》に乗りこなしてきたはずなのに、まるで初めて出会った別世界の機体のようにさえ思える。
「M9……?」
きびしい相手が来るだろうとは思っていたが、これ[#「これ」に傍点]とは。まったく容赦《ようしゃ》がない。
敵はM9。次世代型|A S《アーム・スレイブ》のM9 <ガーンズバック> なのだ。
宗介がかつて <ミスリル> で何度となく使ってきた最新鋭機《さいしんえいき》である。あの機体のけた外れのスペック、先進的《せんしんてき》な装備の数々は、ほかならぬ彼自身が一番よく知っていた。
対するこちらは旧式《きゅうしき》の <サベージ> だ。ナミたちはこの機体をよく整備してくれてはいたが、ありとあらゆる面でM9には及《およ》ばない性能だった。
たとえば、パワー。
このタイプの <サベージ> のエンジン出力は八八〇Kw[#「Kw」は縦中横]――つまり約一二〇〇馬力《ばりき》だ。同時代の戦車とほぼ同等で、庶民《しょみん》向けの乗用車なら一〇台分ほどにあたる。
これでも相当《そうとう》なパワーではあるが、対するM9の出力は約二五〇〇馬力。M9のエンジン――ロス&ハンブルトン社製・低温核融合《ていおんかくゆうごう》ジェネレータ『APR―2500』の名が示す通りでキロワットに換算《かんさん》すればおよそ三三〇〇Kw[#「Kw」は縦中横]だ。これはすでに陸戦兵器《りくせんへいき》レベルの数字ではなく、むしろけた外れに高価で強力なジェット戦闘機のそれに近いといえる。
つまりあのスマートで華奢《きゃしゃ》な外見に似合《にあ》わず、M9はありとあらゆる戦車や装甲車《そうこうしゃ》に勝るパワーを誇《ほこ》っているのだ。
しかも重量《じゅうりょう》は <サベージ> の七〜八割ほどしかない。重量とパワーの比《ひ》を考えれば、その運動性については言うに及ばないだろう。各種センサや電子兵装《でんしへいそう》などについても、数世代進んだ機材を搭載《とうさい》している。
<ミスリル> の作戦で宗介たちが数多くの <サベージ> を撃破《げきは》してきたのは、なにもその卓越《たくえつ》した操縦技術《そうじゅうぎじゅつ》のおかげだけではない。まず、機体の性能差が圧倒的《あっとうてき》に違っていた。倒せて当然[#「倒せて当然」に傍点]なのである。『孤立無援《こりつむえん》での人質《ひとじち》救出』などといった困難《こんなん》かつデリケートな作戦をこなすためには、それだけの高性能ASが必要だったし、事実 <ミスリル> はM9のおかげで常識《じょうしき》では遂行不可能《すいこうふかのう》な作戦をいくつも成功させてきた。
いま、この戦いは単純《たんじゅん》な一対一だ。
M9の足かせとなる要素《ようそ》はなに一つない。弾薬《だんやく》を節約《せつやく》する必要はなく、流れ弾《だま》を心配することもなく、時間制限も一切ない。
だが、それでも――
(正解だったか)
宗介はむしろ安堵《あんど》に近いものを感じていた。
なにしろ、偶然《ぐうぜん》では遭遇《そうぐう》するはずのない最新鋭機にこうして出くわしたのだ。どう考えても、とてつもない資金《しきん》力を持つ組織が署長の背後にいることは間違いない。完全な確信《かくしん》もないままに、ナムサクの街に流れてきて、わざわざ闘技場の見せ物を演《えん》じてきた甲斐《かい》があったというものだ。これは予想外の成果でさえあった。
そう、偶然などではない。
署長――もしくは彼に連なる敵のだれかは、こちらの素性《すじょう》に気付いている。<ミスリル> の精鋭《せいえい》として散々《さんざん》に <アマルガム> を手こずらせてきたこの自分に。
あえて偽名《ぎめい》を使わずにきたのは、そうした反応《はんのう》を期待してのことだ。危険《きけん》は大きかったが効果は明らかで、案《あん》の定《じょう》、向こうはこうしてM9をぶつけてきた。あの最新鋭ASと自分を戦わせることで、その反応や背後関係を探《さぐ》ろうという腹《はら》なのだろう。
あるいは何らかの遊びか――
『驚《おどろ》いたかね?』
無線越《むせんご》しに署長が言った。
『聞けば、おまえはあの機体を日頃《ひごろ》から乗りこなしていたそうではないか。<ミスリル> とやらにいたころからな』
「ご承知《しょうち》というわけか」
これといった動揺《どうよう》もみせず、宗介はつぶやいた。
『偽名《ぎめい》も使わず、あそこまで派手《はで》に活躍《かつやく》してくれれば、さすがにねえ。街中《まちなか》で始末《しまつ》しても良かったのだが、それではあまり面白くない。せっかくの機会《きかい》なので、そのM9と戦ってもらうことになった。……まあ、勝てる見込みはまったくないわけだが』
M9の出自《しゅつじ》も気になったが、それより宗介は署長の『街中で始末』という言葉を聞き逃《のが》さなかった。
街中。
警察署での拘束中《こうそくちゅう》とは言っていない。つまりあの取調室で話をしたとき、署長は自分の素性《すじょう》を知らなかったということだろう。こちらが <ミスリル> の関係者だと知ったのはその後だ。
( <アマルガム> の中では、あの男は小者《こもの》だ)
それは間違いないだろう。では、どうやって自分のことを知ったのか。『相良宗介』としての経歴《けいれき》を知っている人間、あるいはなんらかの有用《ゆうよう》な情報網《じょうほうもう》が存在《そんざい》していて、あの署長の間近に存在するということではないのか。
ためしに宗介は言ってみた。
「今夜の客はさぞや喜んでいるだろうな」
『そうだな。ぜひ健闘《けんとう》して欲しいものだ』
ノイズ越しの無線の向こうで、署長があざ笑った。
『だが……いま、素直にお前の背後関係を喋《しゃべ》るなら、相手の操縦兵に手心《てごころ》を加えるよう命じてやってもいいぞ?』
「あいにくだな。俺は一人だ」
『では死ぬといい』
無線が切れる。ノイズと沈黙《ちんもく》。
モニターの向こうのM9が動き、戦闘《せんとう》が始まった。
(来る)
まるで腹《はら》を減《へ》らした猟犬《りょうけん》が、主人から『かかれ」と命じられたかのようだった。
M9はナイフ型の単分子《たんぶんし》カッターを、くるくると手の中で回してから腰の鞘《シース》に収納《しゅうのう》した。芝居《しばい》がかった仕草《しぐさ》だが、第三世代型ASにはわけもないことだ。続いて敵機《てっき》は背部のハードポイントに装着《そうちゃく》されていたライフルを微塵《みじん》のよどみもない動作《どうさ》で抜き、その砲口《ほうこう》をこちらに向けた。
宗介の <サベージ> も手にしたライフルを敵機へと向けつつ、機体を左へと大きく振った。左以外に生き延《の》びる道はない。彼はよくそれを知っていた。
両者が動きつつ発砲《はっぽう》。
夜の遺跡の静寂《しじま》を、二つの火炎《かえん》と轟音《ごうおん》が打ち破《やぶ》る。
M9は苦もなく夜空へと跳躍《ちょうやく》し、宗介の射撃《しゃげき》をかわした。
――いや、正確にいえば、こちらが発砲する直前に回避《かいひ》運動をしていた。いくらM9でも、弾《たま》より速く動くことはできない。もちろん <サベージ> もだ。いち早く回避運動を始めてはいたが、旧式の機体の動きは、M9に比《くら》べてひどく緩慢《かんまん》としていた。
砲弾《ほうだん》が右肩の装甲をかすめる。
「………っ!」
きわどいところだった。コンマ数秒|遅《おく》れていれば、コックピットの位置する胸部《きょうぶ》に着弾していたことだろう。どうにか敵の初弾《しょだん》をしのぐことができたのは、まず <サベージ> に跳躍|動作《どうさ》をさせず、倒れこむように左へと機体を動かしたおかげだった。
直立歩行《ちょくりつほこう》するヴィークルであるASは、普通の車両と異《こと》なり、すでに立っている状態である程度《ていど》の位置エネルギーを持っている。無理《むり》に跳《と》ぼうとせず、機体を重力《じゅうりょく》にゆだねることで、<サベージ> は本来《ほんらい》のスペックよりすばやく動くことができる。
[#挿絵(img/08_157.jpg)入る]
そして左方向への機動。
敵から見れば、こちらは敵の右側へと動くことになる。あのM9はライフルを右手に保持《ほじ》して両手撃ちの構《かま》えをしており、そのまま <サベージ> を照準《しょうじゅん》するためには、自機《じき》から見て体の右側へと両腕を動かさなければならない。
ASという機械は、腕を内側――身体《からだ》の中心線へ向ける動作に比べて、その逆《ぎゃく》――中心線から外側へと向ける動作はわずかに不得意《ふとくい》なのだ(普段《ふだん》はほとんど問題にならないほどの、ごく小さな得手不得手《えてふえて》ではあるが)。
これはASのモデルである人体についても同様《どうよう》だ。
ASや人間の腕部《わんぶ》は柔軟性《じゅうなんせい》に富《と》む優《すぐ》れたマシンだが、戦車《せんしゃ》のような左右|対称《たいしょう》の旋回砲塔《せんかいほうとう》ではない。その構造上、身体の外側への動作は、どうしてもわずかに遅くなるか、あるいは不正確になってしまう。とりわけライフルのような重量物を握《にぎ》って、『末端重量《まったんじゅうりょう》』が大きくなっていると、その差が顕著《けんちょ》になる。
実際に人間が3sくらいのバーベルや、水の詰《つ》まったペットボトルを持って、腕を左右に大きく、鋭《するど》く振《ふ》ってみると、その人物は手ぶらのときに比べて、腕をぴたりと止めることができなくなる。ASも同様だ。
たとえ最新鋭のM9といえども、左右に腕を持つ『人型』をしている以上、こうした根本的《こんぽんてき》な工学的・構造的《こうぞうてき》問題からは逃れられない。
つまるところ、宗介が選んだ <サベージ> の機動方法は、M9にとって『もっとも嫌《いや》な動き』だった。なにしろ散々《さんざん》乗り続けてきた機体だ。敵の操縦兵が嫌がることを、宗介はとことん熟知《じゅくち》していた。
そして、次にどう来るかも。
着地後、低姿勢《ていしせい》で正面に走るだろう。地形と障害物《しょうがいぶつ》、そして位置関係から考えれば、ちょうどいい射撃《しゃげき》ポジションを取るためにはそう動くはずだ。
被弾《ひだん》を警戒《けいかい》してのこともある。
防弾《ぼうだん》性能においても <サベージ> より優《すぐ》れているM9だが、この機体のライフルでダメージを与えること自体は決して難《むずか》しくない。三七ミリ砲弾《ほうだん》を食らえば、たとえM9でもただでは済《す》まないし、少なくとも大幅《おおはば》な機能低下は見込《みこ》める。たいていの装甲《そうこう》車両と同様、M9も各部によって装甲|厚《あつ》や防弾《ぼうだん》性能は異なっており――やはり背面《はいめん》装甲は正面に比べて大幅《おおはば》に弱い。
だから、敵はわざわざこちらに背中を向けるような機動《きどう》はとらない。いや、そう動かざるをえない場合もあるだろうが、それを好むことは決してない。
(ならば……)
宗介は <サベージ> の手足を巧妙《こうみょう》に操《あやつ》り、きれいな前回り受身をとらせると、すぐさま左正面の遺跡の壁《かべ》へと機体を飛び込ませた。そのまま姿勢《しせい》を低くして、障害物の中を駆《か》けていく。
これもまた敵にとって面倒《めんどう》な機動だ。
そのままでは、<サベージ> を照準《しょうじゅん》しにくいことはもちろん、あまり堅牢《けんろう》とはいえない左|斜《なな》め後方の装甲をさらしてしまうことになる。
乾《かわ》いた泥《どろ》を跳《は》ね上げ、大地に着地したM9は、当初考えていた方向に走ろうとしてそれを中止した。軽いステップを踏《ふ》んで姿勢《しせい》を変え、次にどう動くか判断する間をとろうとして――
その機を逃《のが》さず、宗介が崩《くず》れかけた壁の隙間《すきま》から砲身《ほうしん》を突き出し、三点射《さんてんしゃ》で発砲した。コックピットのマスター・アームを使うだけの、マニュアル射撃。この機体の火器管制システムなど、たいしてあてにならない。
外れだった。
三発たて続けに吐き出された三七ミリ砲弾が、敵機M9の二メートルほど左後方、遺跡の壁に命中する。着弾の破片《はへん》が飛び散り、埃《ほこり》が舞《ま》い上がり、発砲音が周囲の山々にこだました。
(やはり撃ちあいは辛《つら》い)
舌打《したう》ちする。いまのは当たれば御《おん》の字《じ》、その程度の射撃だった。こうしてプレッシャーを与え続けることで、あわよくば敵操縦兵の、ミスを誘うことが――
「!」
M9が応射《おうしゃ》してきた。連射の合間《あいま》に乱数《らんすう》機動を織《お》り交《ま》ぜ、うまい位置をとろうとしてくる。
衝撃《しょうげき》。
<サベージ> が身を隠《かく》した石造りの壁など、強力なASのライフルではベニヤ板も同然だった。機体の周りで貫通《かんつう》、あるいは粉砕《ふんさい》された無数《むすう》の石つぶてが、<サベージ> の装甲をはげしく叩く。
アラーム音。
いくつかの警告灯《けいこくとう》が明滅《めいめつ》。
第一|冷却《れいきゃく》ユニットが作動不良。左腕部《さわんぶ》の動力|伝達系《でんたつけい》にも『油圧低下中』の表示。動力系に火災はなし。なんとか、致命的《ちめいてき》な損傷《そんしょう》ではないことは分かった。
スティックから手を離《はな》し、スイッチパネルからダメージ・コントロールを手動で行う。エンジン・マネージメント。油圧制御。軽油の匂《にお》いがする。火災は起きていないか。計器に故障《こしょう》はないか。
指先がほとんど反射的、自動的に動いてスイッチを叩く。M9ならばAIが一瞬《いっしゅん》でやってくれる作業だ。長い操縦経験で染《し》み付いた、正確ですばやい操作だった。
宗介は損害制御《そんがいせいぎょ》を片手でこなしながら、続く敵の攻撃《こうげき》から逃れるため回避運動と牽制射撃《けんせいしゃげき》を同時に行った。並《な》みの操縦兵に真似《まね》できることではない。そこいらの新兵ならば、どこかで停止《ていし》して運用マニュアルを開き、あれこれ試《ため》しながら機体システムを調整《ちょうせい》するしかないところだろう。
あとどれくらい支障《ししょう》なく動けるのか?
機体|管制《かんせい》システムは一二〇秒で左腕が駆動不能《くどうふのう》になるとディスプレイに表示していたが、この数字はまったく信用できない。宗介はそれをよく知っている。実戦のことを何も知らない設計局《せっけいきょく》の技術者が、あきれるほど単純な方程式《ほうていしき》を適当《てきとう》にインプットしただけの数字なのだ。
自らの経験則と機体の状態、そしてこれから選択《せんたく》するであろう何通りかの戦術を勘案《かんあん》し、宗介はざっと計算してみた。
長くて一五分。短くて八分。
そこまでは、どうにか無理《むり》がきくはずだ。
だがそれまでに、あのM9につけいる隙を見出すことができるのだろうか……?
「始まったわ」
ムナメラ村のはずれで待たされていたナミがつぶやいた。ここから戦場までは遠かったが、彼女の <サベージ> と宗介が戦闘に入ったことを、とどろく砲声《ほうせい》と山々を照《て》らす炎《ほのお》から察《さっ》したのだ。
彼女と整備クルーの周りには、依然《いぜん》としてカービン銃を手にした警官たちが立っている。数は五人か。どう逆立《さかだ》ちしても、逆らえそうにない相手だ。
整備クルーたちが口々にささやきあう。
「始まった、っていっても……あれだけじゃわかんねーな」
「もっと近くで見に行こうよ」
「バカ! 流《なが》れ弾《だま》に当たってくたばるぞ!?」
こんな状況《じょうきょう》でも彼らはのんきな様子だったが、整備員のリーダー格にあたるアッシュだけは心配顔でぶつぶつと不平をこぼしていた。
「……いやな予感がする……だから俺は反対したんだ……このムードはヤバい。いくらギャラがいいからって……」
「アッシュ、ぼやかないで」
苛々《いらいら》とした声でナミが言った。
「いや、だけどさ。いやな感じがするんだよ、ほんと……」
むっつりとライフルを構《かま》えた『警官』たちを見回し、彼はつぶやいた。
「ソースケの腕は知ってるでしょ? またけろっとして帰ってくるわよ」
「ああ。いや。俺が言いたいのはそういうことではなくて……」
警官の一人、巡査《じゅんさ》部長の階級章《かいきゅうしょう》をつけた男が携帯無線機《けいたいむせんき》を取り出し、どこかと短いやり取りを始めた。
(はい、署長)
(女は?)
(了解《りょうかい》です)
(処理《しょり》します)
そんな言葉を口にする巡査部長を、ナミとアッシュはじっと見つめ、続いて渋《しぶ》い顔を見あわせた。
「これなんだよ。こういう感じが……」
「移動《いどう》だ」
無線を切った巡査部長が、彼の言葉をさえぎって罰した。
「女。お前は付いてこい。他《ほか》の者は向こうのバンに乗れ」
「え? なんで――」
「はやくしろっ!」
「ちょ、ちょっと」
乱暴《らんぼう》に腕をつかまれ、ナミは手近なパトカーへと引きずられていった。アッシュたち整備員は、銃口で小突《こづ》かれて黒塗《くろぬ》りのバンへと乗り込まされる。
「ナミ――」
「心配しないで! 後で連絡《れんらく》するから――」
「もたもたするな!」
巡査部長と警官一人、そしてナミを乗せたパトカーは、土煙《つちけむり》をあげてその場から走り去ってしまった。
アッシュたちが乗せられたバンは、ナミのパトカーとは反対方向に走り出した。
署長たちが『競技』を観戦《かんせん》している『観覧席』は、戦場となっている遺跡から二キロほど離れた山頂《さんちょう》付近に設《もう》けられていた。
半地下式のトーチカのような構造《こうぞう》で、表に面する壁は厚さ数メートルのコンクリートと装甲板によろわれている。観戦用の小さな窓《まど》にも、図抜《ずぬ》けて分厚《ぶあつ》い防弾ガラスがはめ込んであり、万一《まんいち》流れ弾がこの席めがけて飛んできても、VIPには危険が及ばないように工夫《くふう》がほどこしてあった。
本物のトーチカと異《こと》なるのは、無骨《ぶこつ》な外壁に比《くら》べて内装《ないそう》が豪華《ごうか》なことだ。
床《ゆか》は絨毯《じゅうたん》。天井《てんじょう》には品のいい落ち着いた照明器具《しょうめいきぐ》。壁にはローマ時代の|剣 闘 士《グラディエイター》を描《えが》いた写実派《しゃじつは》の絵画。ソファーの類《たぐい》も最高級で、ファーストクラス客向けのラウンジそこのけだった。
いくつも設置《せっち》された大型の液晶《えきしょう》ディスプレイには、<サベージ> とM9との戦闘《せんとう》の様子が様々《さまざま》なアングルから映し出されている。
「まったく――」
小窓から双眼鏡《そうがんきょう》で戦闘の様子をうかがっていたその男は、あきれたように肩をすくめた。
「――狭《せま》い業界だとは前から思っていたが。さっそく奴《やつ》がお出ましとはな」
「ミスタ・クラマ。個人的《こじんてき》に奴をご存知《ぞんじ》なのですかな?」
ゆったりとソファーに腰掛《こしか》け、署長が言った。
「そういうわけでもない。実際に会ったのほほんの数分だ」
クラマと呼ばれた男は無関心《むかんしん》につぶやいた。
大柄《おおがら》で鷹揚《おうよう》、短く刈《か》り込んだ頭に、小さな丸いサングラス。実弾《じつだん》を使った戦闘を前にしても、退屈《たいくつ》なサッカーの試合を眺《なが》めているような風情《ふぜい》だ。
「数分。それだけでも充分《じゅうぶん》だと思いますがねえ。私には、よくいる少年兵くずれにしか見えませんでしたが」
「そういうガキが <ミスリル> に入って、しかも精鋭《せいえい》チームで作戦をこなし、あまつさえ――あのガウルンと何度も渡《わた》り合ったわけなんだが」
「ガウルン? どなたですかな」
「知らないのか」
「ええ。存じ上げませんな」
無邪気《むじゃき》にそうつぶやく署長の笑顔を、クラマは無関心な目でちらりと見やり、日本語で小さくつぶやいた。
『田舎《いなか》はのんきだねえ……』
「?」
「いや」
クラマは双眼鏡に目を戻し、M9と <サベージ> の戦闘を改めて観察した。
この『観覧席』からは、遺跡の中の二機がよく見える。相良宗介の白い <サベージ> は、地形と障害物《しょうがいぶつ》を利用して、はるかに性能で上回《うわまわ》るM9の猛攻《もうこう》をなんとかしのいでいる様子だった。
傍《はた》から見れば、ただ逃《に》げ回っているだけで、じきに餌食《えじき》になる運命のようだが――
「うまいもんだ」
クラマは皮肉まじりに嘆息《たんそく》した。
「あの腕であの白い奴[#「白い奴」に傍点]に乗られたんじゃ、手に負《お》えないわけだ」
「はっは。白くても <サベージ> は <サベージ> ですぞ」
「その白いのじゃなくて――いや、いい。それよりあのM9。操縦兵《オペレータ》はサガラのことを知ってるのか?」
「いいえ。特には知らせてませんが」
「やられちまうかもしれないぞ」
クラマが言うと、署長は鼻をふふんと鳴らした。
「まさか。ありえません。旧式の <サベージ> ですぞ? それに知らせたところで、手心《てごころ》を加えるわけでもありますまい」
「そうかね」
まあ、いいだろう。
どうせあのM9も、例の大攻勢《だいこうせい》で手に入れた戦利品《せんりひん》にすぎない。世間《せけん》にさらすことはできないし、見た者は始末《しまつ》することにもなっている。万一に損傷《そんしょう》したとしても、データ収集のプロジェクトの一つが停滞《ていたい》するだけだ。
それに署長の自信は無理《むり》もないことだった。よく頑張《がんば》ってはいるが、<サベージ> がM9に勝てる道理《どうり》はない。いずれ結果は出ることだろう。
残念だったな、相良宗介。なかなかのところまで来たのに。まあ、いい気味《きみ》だ。
そこで室内の電話が鳴った。署長は子機《こき》を手に取ると、現地語《げんちご》で短い受け答えをして、すぐに電話を切った。
「どうした」
「あの <サベージ> のチームの処遇《しょぐう》です」
署長は紫色《むらさきいろ》の唇《くちびる》を、ぬるりとゆがめて微笑《ほほえ》んだ。
「きちんと始末《しまつ》してくれるわけだよな?」
「ええ。整備員どもは近くの養豚場《ようとんじょう》へ。ただオーナーの娘《むすめ》は……すこし遊ばせてもらってからにします。ウフフフ……」
「どちらも自慢《じまん》できる趣味《しゅみ》じゃないな」
「残念ですなあ。男どもの始末はともかく、娘をどうするかについては自慢してもいいのですがね。ご興味《きょうみ》があれは武勇譚《ぶゆうたん》をお聞かせするところなのですが」
「いや、遠慮《えんりょ》しとくよ」
「そうおっしゃらずに。まず足首を――」
「俺はやめろと言ったんだ」
静かだが、どっしりとした声にさえぎられ、署長はそれ以上なにも言わなかった。
このサディストの変態野郎《へんたいやろう》が。貴様《きさま》こそ養豚場がふさわしいんじゃないのか。
腹の中ではき捨てる。
クラマは懐《ふところ》から人参《にんじん》スティック入りのシガレット・ケースを取り出した。禁煙《きんえん》を始めてずいぶんたつが、苛立《いらだ》つとすぐに煙草《たばこ》が恋《こい》しくなる。
ナムサクへと送り返されるのかと思っていたが、アッシュたち整備クルーが連れて来られたのは、ムナメラに程近《ほどちか》い農場だった。車で二分とかからないほどの、すぐ近所だ。
いや。
バンから降りると、分かった。ここは養豚場だ。こんなところに連れてきて、いったい何をするつもりなのか?
「おまわりさんよ。こりゃ――」
「歩け。向こうだ」
またカービン銃で小突《こづ》かれた。抵抗《ていこう》もできずに、アッシュたちは飼料《しりょう》置き場へと連行《れんこう》される。
生臭《なまぐさ》い匂いが鼻をつく。
固形飼料《こけいしりょう》が山積みになった、粗末《そまつ》な小屋だ。真ん中には大きな飼料の粉砕機《ふんさいき》が置いてある。上から固形飼料を放り込むと、下から粉《こな》みじんになった飼料が吐《は》き出され、ベルコトンベアで隣接《りんせつ》した豚《ぶた》小屋へと運ばれていく仕組《しく》みだった。
「なっ――」
さすがにアッシュたちも、警官たちの意図《いと》するところがようやく想像できた。
自分たちを殺して、あの粉砕機で死体を始末する気なのだ。
「そこに並《なら》べ」
「じょ、冗談《じょうだん》だろ!?」
「並べと言ったんだ」
「やめてくれ! なあ、おい、いくらなんでもこんな――」
男が銃の台尻《だいじり》で、アッシュのこめかみを殴《なぐ》りつけた。
「うっ……!」
「手間《てま》をかけさせるんじゃない。俺だってこんな臭いところは、さっさとおさらはしたいんだよ」
「本気なのか!?」
「助けてくれ!」
膝《ひざ》をついたアッシュに寄《よ》り添《そ》うようにして、整備員たちは命乞《いのちご》いした。
だが警官たちは冷酷《れいこく》な目で、彼らを見下ろし薄笑《うすわら》いを浮かべるばかりだった。
「気の毒だとは思うけどな。まあ、運が悪かったんだよ。お祈りくらいはさせてやる。さあ、諦《あきら》めて並ぶんだ」
そこで、飼料置き場に男が入ってきた。
「その必要はないよ」
ひょろりとした姿《すがた》の白人男。小綺麗《こぎれい》なYシャツにスラックス。知的だがひ弱そうな眼鏡《めがね》。
「……レモンの旦那《だんな》?」
留置場《りゅうちじょう》に捕《とら》われているはずのジャーナリスト、ミシェル・レモンだった。普段《ふだん》の慣《な》れない環境《かんきょう》におどおどした様子とはうって変わって、レモンはひどく落ち着いていた。こんなに冷静な雰囲気《ふんいき》のレモンを見たのは初めてだ。
[#挿絵(img/08_173.jpg)入る]
「な……なぜここに? あんたは牢屋《ろうや》の中にいるはずじゃ――」
「いいから。体《からだ》を低くしてるんだ」
レモンはそうつぶやき、にっこりとした。ぽかんとしていた警官たちが我《われ》に返り、彼にカービン銃を向ける。
「どういうことだか知らんが、馬鹿《ばか》な真似《まね》をしたな。おまえも一緒《いっしょ》に豚《ぶた》の餌《えさ》になってもらおうか」
「ごめんだね」
レモンはまったく動こうとせず、ただ一言、小さく『殺せ』とつぶやいた。
次の瞬間《しゅんかん》――
リーダー格の警官の側頭部《そくとうぶ》にライフル弾《だん》が命中した。血しぶきと脳《のう》を飛び散《ち》らせて、警官は即死《そくし》し、くずおれる。
「…………!」
同時に入り口と窓から、黒い戦闘服姿《せんとうふくすがた》の男たちが飼料小尾に飛び込んできた。それぞれ減音器《サプレッサー》付きのサブマシンガンを構《かま》えている。彼らは警官たちに反応する隙《すき》さえ与《あた》えず、素早い動作で発砲《はっぽう》した。
ほんの三秒ほどの間だった。
アッシュたちがおそるおそる目を開け、あたりを見回すと、警官たちは一人残らず頭を撃ち抜かれ、その場に倒れて絶命《ぜつめい》していた。
「え……」
戦闘服の男たちが、用心《ようじん》深い動作でこちらに銃を向ける。
「ひっ……た、助けて」
「大丈夫《だいじょうぶ》。大丈夫だよ」
反射的に身をすくめたアッシュに、レモンが歩み寄って肩《かた》を叩《たた》いた。完全|武装《ぶそう》の男たちも、すでに緊張《きんちょう》を解《と》いている。悪態《あくたい》もついているようだったが、どれも流暢《りゅうちょう》なフランス語だった。
「危ないところだったな、ムッシュ」
男の一人がマスク越《ご》しにそう言った。アッシュはきょとんとして、
「レモンの旦那。こりゃいったい、どうなってるんだ?」
と、言った。
「どうもこうも、こういうことでね」
レモンは小さなため息をつき、アッシュを助け起こした。
「ジャーナリストっていうのは、嘘《うそ》なんだ。ASのことをよく知らなくて、あたふたしてたのは本当だけどね。この連中は僕の仲間。詳《くわ》しいことは話せないけど。それより――」
飼料小屋の入り口まで歩き、遠くにそびえる山岳地帯《さんがくちたい》――断続的《だんぞくてき》な砲声と閃光《せんこう》のまたたく『競技場』の方角を見やって、レモンはつぶやいた。
「ソースケは目的に近づいているみたいだ。おそらく、僕と同じ目的に」
爆音《ばくおん》。砲声。エンジンの咆哮《ほうこう》。
曳光弾《えいこうだん》が闇《やみ》を切り裂《さ》き、<サベージ> の頭をかすめ飛ぶ。M9の影《かげ》が宙《ちゅう》を舞《ま》って、まっしぐらに迫《せま》ってきた。
「っ……」
宗介は機体を切り返し、ライフルを敵機《てっき》に向けようとする。が――
(間に合わん)
瞬時《しゅんじ》に判断《はんだん》。回避《かいひ》に全力を傾《かたむ》ける。M9は滞空中《たいくうちゅう》からでも優《すぐ》れた照準《しょうじゅん》能力を持つ。まともにやりあって勝てるわけがない。
頭上から襲《おそ》いかかる炎《ほのお》の雨。前へ後ろへ、右へ左へと巧《たく》みなステップで機体を動かし、苦労して敵弾をかわす。<サベージ> の運動性を限界《げんかい》以上まで使った機動だった。
M9はそのまま <サベージ> のはるか頭上を跳《と》び越《こ》し、石畳《いしだたみ》の地面に着地した。
すかさず宗介は発砲する。
M9は軽く身をかがめて射線《しゃせん》を避《さ》けつつ、各部の装甲《そうこう》を展開《てんかい》してECSを作動させた。弱く青白い光がほとばしったかと思うと、たちまちその姿が夜の闇の中にかき消える。
いよいよ終わらせるつもりか。
宗介は舌打《したう》ちした。この <サベージ> には、ECCS――対ECSセンサなど搭載《とうさい》されていない。あるのは一世代前の光学・赤外線センサと貧弱《ひんじゃく》なレーダーだけで、そのレーダーさえガタがきていてまともに動かない。つまり、透明化《とうめいか》した敵を探知《たんち》する手段《しゅだん》がまったくないのだ。
ここにいては殺《や》られる。
宗介は機体を飛び退《すさ》らせ、背後にそびえる神殿《しんでん》の中へと逃《に》げ込ませた。それを逃がすまいと、M9の射撃《しゃげき》が襲いかかる。
閃光《せんこう》。衝撃《しょうげき》。
胸部装甲《きょうぶそうこう》が被弾《ひだん》。角度が浅かったおかげもあったのだろう。一体成型《いったいせいけい》の頑丈《がんじょう》さだけがとりえの胸部装甲は、どうにか敵の砲弾をはじき返してくれた。損傷は軽微《けいび》だ。だがコックピットまで伝わってきた強いショックで、頭がふらふらする。
だからといって止まるわけにはいかない。そのまま後ろにステップして、背中を見せずに神殿《しんでん》の奥《おく》へ。
高さ十数メートルはあろうかという巨大《きょだい》な神像が安置《あんち》されているため、その遺跡《いせき》はASでも充分に入れるくらいの天井《てんじょう》の高さがあった。いくつもの太い石柱《せきちゅう》がそびえたち、穴《あな》だらけの天井からはうっすらと月光が差し込んでいる。
宗介は機体を神殿の一番奥まで下がらせつつ、ライフルの弾倉《だんそう》を交換《こうかん》した。これが最後の弾倉だ。ほかの武装は、背中に装備した二本のHEATハンマーだけ。最初の被弾《ひだん》で損傷した左腕の油圧系《ゆあつけい》も、危険なレベルまで低下してきている。あと一分持つか持たないか、というところだ。
(……賭《か》けるか?)
宗介は即座《そくざ》に決断《けつだん》した。躊躇《ちゅうちょ》する時間など一秒もない。
神殿入り口の左脇にある石柱めがけて、ライフルを発砲。
五発、六発。柱が砕《くだ》け散《ち》る。さらに何本かの石柱を同様に撃《う》って破壊《はかい》した。残弾数のカウントがみるみる減《へ》っていき――
残り一発で止まった。
巨大な礼拝堂《れいはいどう》の中に、もうもうと砂埃《すなぼこり》がたちこめる。これで敵がECSを使っていても、どうにか位置は把握《はあく》できるだろう。
わずかな沈黙《ちんもく》。
直後、M9が礼拝堂に突入《とつにゅう》してきた。真正面から、矢のような速さで。ECSは解除《かいじょ》している。埃《ほこり》のせいで有効性《ゆうこうせい》がないと判断したのだろう。思い切りのいい操縦兵だ。
最後の一発を発砲する。M9は機体を振ってそれをかわし、自機のライフルを <サベージ> に向けた。
「…………!」
外れたのは予想内だ。敵が撃つより早く、宗介はHEATハンマーを抜いていた。
HEATハンマー。
その名が示すとおり、強力な対戦車用の成型炸薬弾《せいけいさくやくだん》を、ハンマー型にした近接戦闘用の武器だ。使用は一回限りの使い捨て。敵に叩きつけると爆発《ばくはつ》し、そのエネルギーで装甲を貫《つらぬ》き、内部を破壊《はかい》する。
宗介はそのHEATハンマーを、敵ではなく――すぐ脇《わき》の石柱に叩きつけた。
爆発。
石柱が一瞬で崩壊《ほうかい》する。すでにいくつもの柱を壊《こわ》され、かろうじてバランスを保っていた神殿の天井が、このHEATハンマーの一撃で限界を超《こ》えた。
すさまじい轟音《ごうおん》。天井が、壁が崩れ落ち、数百トンの岩塊《がんかい》が降《ふ》り注《そそ》ぐ。
礼拝堂にいた二機は、逃げる間さえなく、崩落《ほうらく》した壁や天井に押し潰された。
間断《かんだん》のない衝撃。モニターの中の敵機の姿が、またたく間に砂埃と瓦礫《がれき》の向こうに消えていく。機体がはげしく揺《ゆ》さぶられ、すべての警告灯《けいこくとう》とディスプレイがでたらめに明滅《めいめつ》する。機械式《きかいしき》の姿勢指示装置《しせいしじそうち》が小刻《こきざ》みに震《ふる》えながら回転し、自機《じき》が直立状態《ちょくりつじょうたい》からうつぶせの姿勢《しせい》に倒れたことを宗介に知らせた。それ以外のことは、崩れた神殿の下敷《したじ》きになった彼には、ほとんど分からなかった。
崩落が終わった。轟音のこだまが霧散《むさん》していき、夜の静寂《せいじゃく》が戻ってくると、辛《かろ》うじて稼働《かどう》を続けるディーゼル・エンジンの駆動音《くどうおん》と、すさまじい重量《じゅうりょう》にきしむフレームと装甲の音だけが残った。
「…………っ」
機体は生き埋《う》め状態だった。モニターの視界《しかい》は真《ま》っ暗《くら》だ。空冷《くうれい》の自由がきかなくなったせいか、エンジンと油圧系の温度計がみるみると上がっている。もたもたしている時間はない。宗介は全|関節《かんせつ》のトルク制御《せいぎょ》をマニュアルで操作し、反応速度《はんのうそくど》が最低になる代わりに最高の腕力《わんりょく》を出せるようにしてやった。自動車ならギアを一速にしたのと同じ状態《じょうたい》だ。
四肢《しし》を動かし、ゆっくりと姿勢を起こしていく。
数十トンはあろうかという瓦礫の山を押しのけて、宗介の <サベージ> はどうにか夜空の下に這《は》い出すことができた。装甲の隙間《すきま》のあちこちから、ばらばらと建材の破片《はへん》がこぼれ落ち、砂埃があたりにたちこめる。
(敵は?)
光学センサにこびりついた埃を粗末《そまつ》な洗浄装置《せんじょうそうち》で洗い流しながら、宗介は敵機の姿を探し求めた。M9の姿は見えない。まだ瓦礫の下でじたばたともがいているようだった。いずれ這《は》い出してくることは間違いなかったが、相応《そうおう》のダメージを受け、思うように動けずにいるようだ。
目論見《もくろみ》通りだった。
完全な電気駆動のM9は、<サベージ> のような油圧システムを搭載《とうさい》していない。人間と同じで、筋肉《きんにく》の収縮《しゅうしゅく》のみによって関節《かんせつ》を動かすように出来ている。重たい油圧システムがないおかげで、M9は飛躍的《ひやくてき》な軽量化と高機動性を実現しているわけなのだが、反面で規格外《きかくがい》の荷重《かじゅう》に対しては弱い面がある。すさまじい重量物を強引《ごういん》に動かしたいときならば――そんな状況は滅多《めった》にないが――油圧駆動を併用《へいよう》している <サベージ> の方が、M9よりも有利な場合があるのだ。いくらエンジンの出力が高くても、その出力を生かす駆動系の仕組みの問題でそうなってしまう。
さらに機体構造《きたいこうぞう》の違《ちが》いもあった。
複雑《ふくざつ》な関節構造を持つM9に比《くら》べて、<サベージ> のそれはしごくシンプルだ。圧力《あつりょく》に強い卵形《たまごがた》の頑丈《がんじょう》な胴体《どうたい》を持つ <サベージ> と、前後左右に屈曲《くっきょく》する柔軟《じゅうなん》な腹部《ふくぶ》を持つM9。耐弾性能《たいだんせいのう》については、装甲素材《そうこうそざい》の差でM9にアドバンテージがあるが、機体全体の構造物としての堅牢《けんろう》さだけならば、旧式《きゅうしき》の <サベージ> でもM9に勝る点があるのだ。
宗介が神殿を崩壊させ敵を道連れにしたのは、そうした <サベージ> 特有《とくゆう》のタフさに賭《か》けてのことだった。
決して強い機種《きしゅ》ではない。だがとにかく、壊《こわ》れにくい。とことん無理《むり》がきく。最後の最後まで頑張ってくれる。それがRk[#「Rk」は縦中横]―91[#「91」は縦中横]/92[#「92」は縦中横]シリーズこと <サベージ> の最大の強みなのだ。熱や湿気《しっけ》、砂や埃。粗悪《そあく》な燃料《ねんりょう》やオイル。でたらめな荷重や、数々の小さなダメージ。そうした戦場のあれこれに耐《た》え抜き、黙々《もくもく》と戦い続けてくれるプロのツール――それがこのベストセラー機の真価《しんか》なのである。
AS操縦の入門としてこの機体に接《せっ》した宗介が、<ミスリル> で当初 <アーバレスト> を嫌《きら》ったのは無理《むり》もないことだった。先進的な機能を盛《も》り込んだというふれこみの『試作機《しさくき》』を与えられて喜ぶのは、ヒーロー気取りの新兵くらいのものだ。
宗介は機体の状態《じょうたい》をざっとチェックした。
左半身の油圧が低下している。いつまでたってもエンジン温度が下がらない。バランサーの調子もおかしい。股関節《こかんせつ》からフレーム同士が干渉《かんしょう》する異音《いおん》が発生している。
だが、それでも宗介は満足げにつぶやいた。
「いい機体だ」
ようやくM9が瓦礫をかき分け、眼前に這い出してきた。
相当《そうとう》こたえている様子だ。
宗介は <サベージ> を操《あやつ》り、無造作《むぞうさ》にM9の頭をつかむと、最後に一本だけ残ったHEATハンマーを振りかぶり、容赦《ようしゃ》なく敵機の腹部――ジェネレーター部分に叩きつけた。
正確に動力部を破壊《はかい》され、M9が行動不能になるのを見届《みとど》けてから、クラマは小さく鼻を鳴らした。
「ふん……」
不愉快《ふゆかい》だが認めざるをえない。
まったく、たいした野郎だ。あのオンボロで勝っちまいやがった。
これまで色々なAS操縦兵と出会ってきたが、あそこまで機体|特性《とくせい》を熟知《じゅくち》した上で、圧倒的《あっとうてき》に有利な敵と渡り合い、かつ勝利してしまうような奴は見たことがない。
あの冷静さ。計算高さ。
歴史の浅い兵器分野なこともあるが、相良宗介の操縦技能・実戦経験は生半可《なまはんか》な正規軍操縦兵など及びも付かないレベルだ。本来なら、<アマルガム> にはああいう男が必要なはずなのだが――
(まあ、誘うだけ無駄か)
順安《スンアン》以後、ここまで対立《たいりつ》してきた相手が素直《すなお》に宗旨替《しゅうしが》えするとも思えない。ミスタ・| Ag[#「Ag」は縦中横] 《シルバー》が囲い込んでいるあの娘《むすめ》を餌《えさ》にしても、まともな契約《けいやく》や忠誠心《ちゅうせいしん》が成立するわけもないだろう。あの娘を確保《かくほ》する機会《きかい》が訪《おとず》れたとたん、相良宗介はいま見た通りの戦闘技能を総動員《そうどういん》して、<アマルガム> に敵対《てきたい》してくるに決まっている。
けっきょく、殺すしかないわけか。
クラマは署長の横顔をちらりと見た。彼もまさかM9が敗れるなどとは思っていなかったのだろう。狼狽《ろうばい》を隠《かく》せない様子で、『馬鹿な』だの『何者だ』だのとつぶやいている。
「……で? どうするつもりだ?」
クラマが言うと、署長は夢から覚《さ》めたように目をぱちくりさせた。
「こちらの素性《すじょう》を知らせちまったんだ。奴はやる気満々であんたを締《し》め上げに来るぞ」
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4:コラテラル・ダメージ
白煙《はくえん》の漏《も》れ出す右脇腹《みぎわきばら》を下にして、力|無《な》く瓦礫《がれき》の上に横たわるM9。その機体《きたい》を見下ろし、宗介《そうすけ》は外部スピーカーで告《つ》げた。
「出てこい」
ややあって、M9の首の付け根で小さな爆発《ばくはつ》が起こり、頭部が独《ひと》りでに吹《ふ》き飛ばされた。胸部《きょうぶ》のハッチが動かないときのための、非常用《ひじょうよう》の脱出機構《だっしゅつきこう》だ。頭のなくなった部分に狭《せま》い脱出口が露出《ろしゅつ》し、そこから操縦兵《そうじゅうへい》が這《は》い出してきた。腹部の動力系《どうりょくけい》は破壊《はかい》されたが、胸部コックピットまで被害《ひがい》が及《およ》ばなかったため、大きな負傷《ふしょう》はないようだ。
『くそっ』
瓦礫の上に立ち上がり、ヘッドギアを外して操縦兵が言った。
年齢《ねんれい》は三〇前後、口ひげをたくあえ日焼けした男だ。操縦服は、宗介が着ている <ミスリル> のものと同じタイプだった。
すでに宗介の <サベージ> はすべての火器《かき》を使い切っていたが、それでも生身《なまみ》の人間がASから逃げられるものではない。男もそのことはよくわかっているようで、悪あがきを見せる素振《そぷ》りは一切なかった。
『ヤケクソでこちらを道連れにしたのかと思ったが……違った。全部計算づくだったというわけかい。|M9《こいつ》の特性《とくせい》をここまで熟知《じゅくち》しているとは……あんた、いったい何者だ?』
「質問するのはこちらだ」
そう言って宗介は男のそばに機体をひざまずかせた。それだけで向こうには充分《じゅうぶん》な威圧効果《いあつこうか》があることだろう。
「そのM9と、おまえの素性《すじょう》をしゃべってもらおうか。単に金があるだけでは、その機体は手に入らないはずだ」
『おれが素直《すなお》に話すと思うかね』
「俺が素直に諦《あきら》めると思うか?」
<サベージ> が左手をぬっと伸《の》ばし、 男の体を鷲《わし》づかみにした。
『うおっ』
「おまえとの戦闘《せんとう》でかなりのガタがきている。握力《あくりょく》の調整《ちょうせい》も怪《あや》しいものだ。なるべく握《にぎ》りつぶさないようにはするが、肋骨《ろっこつ》が折《お》れたら諦《あきら》めてくれ」
無骨《ぶこつ》な五本指で胴体《どうたい》をがっちりとつかまれ、男はじたばたと手足を動かした。
「熱いだろう。旧式《きゅうしき》の冷却《れいきゃく》システムしか積んでいないRk[#「Rk」は縦中横]―91[#「91」は縦中横]の特徴《とくちょう》の一つだ。激《はげ》しい戦闘《せんとう》を続けると、エンジンと油圧系《ゆあつけい》の熱が指先まで伝わってしまう。その操縦服を着ていなければ、大火傷《おおやけど》しているところだな。だが、それもあと何十秒もつことか……」
『わかった、わかった! 降参《こうさん》だ! 言うから放してくれっ!』
じわじわと襲《おそ》いかかる圧力《あつりょく》と熱にひるみ、男が両手を振り回して叫《さけ》ぶ。宗介が放してやると、彼は瓦礫の上に尻餅《しりもち》をついて、ぜえぜえと肩で息をした。
『くそっ……まったく、ひどい奴《やつ》だ』
「おまえが殺そうとした相手だぞ。生きてることに感謝《かんしゃ》しろ」
そう言いながら、宗介は機体《きたい》のセンサを手短かに操作《そうさ》した。勝負がついたのに署長《しょちょう》が一言も通信で呼びかけてこないのが気になる。こちらを消すつもりだったのなら、新手《あらて》のASが襲《おそ》ってきてもおかしくはなかったが、その動きも、いまのところはない。
「ほかにASが控《ひか》えているか?」
『いや。俺だけのはずだ』
「無用心《ぶようじん》だな」
『まさかM9が <サベージ> に負けるとは恩わんだろう。俺だってそう思ってた』
「おまえは <アマルガム> の兵士か」
宗介の質問を聞いて、男はしばし押《お》し黙《だま》り、やがて皮肉《ひにく》っぽい笑《え》みを浮《う》かべた。
『そういうことになるんだろうな。まあ、この調子じゃ、入った早々《そうそう》すぐにクビだろうが。いや――今度こそ処刑《しょけい》か』
「 <ミスリル> の兵士だったのか?」
『そうだ』
<ミスリル> の名が出てきたことに、男は驚《おどろ》いた様子《ようす》だった。
『……つい先日まではな。まてよ、ひょっとしてあんたは――』
「西太平洋戦隊《にしたいへいようせんたい》にいた。SRTだ」
『道理《どうり》でM9のことを熟知《じゅくち》してるわけだな……。トゥアハー・デ・ダナンか。ごつい女が指揮《しき》してるって噂《うわさ》は聞いてた。それにしてもあの署長め……元味方同士だと知っていて、俺に知らせなかったわけか』
男はどこか辛《つら》そうな声で目を細め、小さなため息をついた。
「おまえはどこにいた」
『俺は地中海《ちちゅうかい》戦隊だ。ジョージ・ラブロック軍曹《ぐんそう》。SRTにいた』
ラブロック。他の戦隊員と交流がなかったわけではないが、彼の名前は覚えていなかった。しかし、だからといって不自然なわけでもない。四つの戦隊と作戦司令部《さくせんしれいぶ》を持ち、SRTだけでも何十人という隊員を抱《かか》えていた <ミスリル> だ。知らない顔の方が、むしろ多いくらいと言っていい。
その男――ラブロックはたずねてきた。
「ベン・クルーゾーを知ってるか? 去年、そっちに転属《てんぞく》した中尉《ちゅうい》だ。前まで俺の隊にいたんだが……』
「よく知っている。それより、地中海戦隊はどうなったんだ。なぜあんたが <アマルガム> の下でM9に乗っている? 教えろ」
『…………。たぶん、俺の部隊はほぼ全滅《ぜんめつ》だ。エーゲ海の基地が襲撃《しゅうげき》が受け、仲間はほとんどやられちまったらしい。生き残りがどれくらいいるのか、それもよく分からない』
「あんたはなぜ助かった?」
ラブロックはうつむき、苦しげな表情《ひょうじょう》をした。まるで宗介に『なぜ生き恥《はじ》をさらしている』とでも言われたかのような顔だった。
『たまたま基地を留守《るす》にしていたんだ。バスクで簡単《かんたん》な作戦があってな。M9一機だけを使った監視任務《かんしにんむ》だ。それが終わって、ハーキュリーズで帰還《きかん》してるところだった』
バスクはスペインの一地方で、分離独立運動とテロの絶《た》えない地域だ。ハーキュリーズはC―130輸送機《ゆそうき》のこと。特に不自然な点はない。宗介のいた西太平洋戦隊でも、似《に》たような任務は数多くこなしていた。
『俺たちが帰ってきて異変《いへん》に気付いた時には、基地はすでに制圧《せいあつ》されていた。輸送機の燃料は残り少なく、逃げることさえできない。唯一《ゆいいつ》降りられる滑走路《かっそうろ》は、敵が支配《しはい》している。それで俺たちは相談し――』
「投降《とうこう》した、と」
『そういうことだ。俺は連中に取り引きを持ちかけた。その機体だよ』
大破《たいは》したM9をちらりと見る。
『M9の運用方法や戦術《せんじゅつ》や……そうしたあれこれだ。<アマルガム> もM9の情報は持っていたが、あくまでスペック上のデータだけだった。実戦《じっせん》であれを使っている現場の人間の意見ばかりは、本人たちに聞くしかないからな』
「それで敵は納得《なっとく》したのか」
不審《ふしん》に思って宗介がたずねると、ラブロックはすこし押し黙り、<サベージ> の光学《こうがく》センサを見上げた。
『ああ』
かすかに――ほんのかすかに、その声は上ずり、震《ふる》えていた。
『……納得した。連中も演習《えんしゅう》は行う。そうなれば敵役《アグレッサー》も必要になるからな。その役を受けて情報|提供《ていきょう》する条件《じょうけん》でおれは <アマルガム> に雇《やと》われたんだ』
「ほかの人間はどうした。輸送機ごと投降したのだろう」
『……知らない。投降した直後に引き離《はな》されてからは、会っていない』
「ほかに <ミスリル> の人間で投降した者はいるのか?」
『知らない。だが、いてもおかしくはないだろうな』
「 <アマルガム> の規模《きぼ》は?」
『それも知らない。奇襲《きしゅう》とはいえ <ミスリル> をほとんど壊滅《かいめつ》に追いやったくらいだから、数個連隊《すうこれんたい》規模より上なのは間違《まちが》いないだろうがな』
「連中の活動|拠点《きょてん》は? 組織構成《そしきこうせい》は?」
『俺の知っている限りでは、ブカレスト、トリポリ、コルシカ、クリミア、スリランカ、イエメンだ。詳《くわ》しい場所は知らないし、実際に見たのはトリポリ郊外《こうがい》のどこかのキャンプと、セイロン島のどこかだ。別に立派《りっぱ》な施設《しせつ》ではなかった。むしろ――いつでも気が向けば撤収《てっしゅう》できるし、またいつでも設営《せつえい》ができるような基地だ。設備《せつび》をだれが用意しているのか、その予算はどこから出ているのか。おそらく <アマルガム> の構成員《こうせいいん》のほとんども、その全貌《ぜんぼう》は知らないことだろう。奴《やつ》らは常《つね》に流動的《りゅうどうてき》で、司令部《しれいぶ》めいた組織を分散《ぶんさん》させている』
「まるでインターネットだな」
本来のインターネットは、アメリカがソ連からの核攻撃《かくこうげき》を受けた際《さい》、指揮系統《しきけいとう》を分散させることで存続《そんぞく》できるように構築《こうちく》されたネットワークだ。<アマルガム> はそのコンセプトをテロ組織に応用《おうよう》することで、それ相応の生存性《せいぞんせい》を実現《じつげん》してきたのだろう。
『そうだ。どこかを潰《つぶ》してもほかが代わって働くし、すべての組織を正確に把握《はあく》し、殲滅《せんめつ》することは実質上《じっしつじょう》、不可能《ふかのう》だ。だれも実態を把握《はあく》していない。それが連中の強みなんだろうな』
「だが、それでは意志決定ができないはずだ。ピラミッドの頂点《ちょうてん》がいないのでは……」
『できない、というわけではない。ただ、遅《おそ》い。俺が見た限りなので把握しきれたわけでもないが…… <アマルガム> は「民主的な」組織なんだと思う。えらく皮肉なことだがな。結論《けつろん》が出て実行に移《うつ》されるまでは、どうしても時間がかかる』
「なるほど」
だからこそ、宗介は東京で、ああして悠長《ゆうちょう》にかなめの『護衛《ごえい》』をやっていられたのだろう。
意志決定の早い機関《きかん》ならば、順安《スンアン》事件《じけん》のすぐ後にでも敵の猛攻《もうこう》があったとしても、なんらおかしくはない。
A21[#「21」は縦中横]の事件や、パシフィック・クリサリス号の件もそうだ。かっちりと意志を決定して次の手を打ってくる組織にしては、あの二つの事件は奇妙《きみょう》な点がいくつもあった。非効率《ひこうりつ》な面が多すぎるのだ。
だが、リスクから見ればどうだろうか?
結果として彼らの作戦は、<ミスリル> によって阻止《そし》された。そして作戦に従事《じゅうじ》した人員や、希少性《きしょうせい》の高い機材《きざい》が <ミスリル> の手に渡ってしまった。
入念《にゅうねん》な分析《ぶんせき》や尋問《じんもん》を行えば、敵組織にとっては致命的《ちめいてき》とさえ呼べる情報が入手《にゅうしゅ》できてもおかしくはなかったわけなのだが――相当《そうとう》な期間が過《す》ぎても、<ミスリル> は <アマルガム> の情報をほとんど把握することができなかった。
そう。あれほど大胆《だいたん》な作戦の数々が失敗に終わっても、彼らは大きな打撃《だげき》を受けることがなかったのだ。
『俺がこのナムサクにやってきたのは、ついおとといのことだ。それまではリビアの砂漠《さばく》のキャンプにいた。クラマと名乗《なの》る男が来て、俺を――』
「クラマだと?」
宗介が思わず口走ると、ラブロックは眉《まゆ》をひそめた。
『知っているのか?』
「すこしは。奴《やつ》がいるんだな?」
『ああ。いまの戦いを見ていたはずだ。北北西に山があるだろう。そこにVIP客向けの「観覧席《かんらんせき》」があって――』
そのとき、機体の赤外線《せきがいせん》センサに反応《はんのう》があった。
「まて」
方位三四八。距離《きょり》三〇〇〇。高度八五メートル。
おそらくは署長の差し向けた機体だろう。小型の攻撃《こうげき》ヘリがこちらに向かってきた。
<サベージ> のセンサを目標《もくひょう》に向ける。
倍率《ばいりつ》を最大にして目をこらすと、そのヘリは|安 定 翼《スタブ・ウィング》とロケット・ランチャーと機関砲《きかんほう》を搭載《とうさい》していた。
宗介を抹殺《まっさつ》する気なのは間違《まちが》いない。こちらが火器《かき》を失っているため、反撃《はんげき》する手段《しゅだん》がないのをよく知っているのだろう。
「どうやら時間切れだな」
宗介は舌打《したう》ちし、くたびれた機体のエンジン出力《しゅつりょく》を上げていく。
『? どういうことだ?』
「言っただろう。時間切れだと」
宗介は機体を操《あやつ》り、ぐったりとしたM9の右腕に、マニピュレーターを伸《の》ばしていった。両手でM9の手首をつかみ、握力《あくりょく》を最大にする。
宗介の <サベージ> はなけなしの力を振《ふ》り絞《しぼ》り、M9の手首――外側と内側に分割《ぶんかつ》された装甲《そうこう》を無理《むり》やりに引き剥《は》がしていった。金属《きんぞく》のゆがむ異様《いよう》な音とともに、内部のメカが露出《ろしゅつ》する。宗介は <サベージ> のマニピュレーターをてきぱきと操《あやつ》り、M9の下腕部《かわんぶ》に内蔵《ないぞう》されていたワイヤーガンのワイヤーを引《ひ》っ張《ぱ》り出した。
『おい、待てよ。その <サベージ> にはもう火器なんかないだろう? いったいどうやって立ち向かうつもりなんだ』
敵のヘリが迫《せま》る。前傾姿勢《ぜんけいしせい》でまっしぐらに。宗介は機体を左にステップさせつつ、M9から手繰《たぐ》り出したワイヤーを頭上で振《ふ》り回した。ちょうど西部劇《せいぶげき》かなにかのカウボーイのように。
「隠《かく》れていろ」
宗介が言うのと同時に、射程《しゃてい》まで迫《せま》ったヘリがロケット弾《だん》を撃《う》ってきた。
蓮根型《れんこんがた》のランチャーから吐き出された大量のロケット弾が迫る。<サベージ> は右へ、左へとその射線《しゃせん》を外した。機体の周囲《しゅうい》でロケットが爆発《ばくはつ》する。
その衝撃《しょうげき》にひるむことなく、宗介は手にしたワイヤーを、上空の敵ヘリめがけて投げつけた。
M9のワイヤーガンは、一〇トンもある機体を山岳《さんがく》や市街地《しがいち》で自由に機動《きどう》させるための特殊装備《とくしゅそうび》だ。垂直《すいちょく》な崖《がけ》のてっぺんにアンカーを射《う》ち込み、機体を駆《か》け上らせることもできる。直径《ちょっけい》はわずか一〇ミリ程度《ていど》なのだが、強靱《きょうじん》な金属繊維《きんぞくせんい》と炭素《たんそ》繊維を寄《よ》り合わせて作られており、瞬間的《しゅんかんてき》には機体の自重の一〇倍以上――つまり一〇〇トン以上の荷重《かじゅう》にも耐える強靭さを持っている。
そのワイヤーが、まっすぐ上空を横切ろうとしていた敵ヘリのローター基部《きぶ》に、生き物のように絡《から》みついた。
あとは簡単《かんたん》だった。
ワイヤーの根元《ねもと》を握《にぎ》って、力強く引《ひ》っ張《ぱ》り寄せるだけで、敵ヘリはたちまち姿勢《しせい》を崩《くず》し、大地に激突《げきとつ》して爆発《ばくはつ》した。
「生きているか」
ワイヤーを放《ほう》り出し、宗介が告《つ》げると、M9の残骸《ざんがい》の陰《かげ》からラブロックが這《は》い出してきた。至近距離《しきんきょり》の爆発でショックを受けているらしく、足元がおぼつかない。
『ああ……』
「聞きたいことは山ほどあるが、もう時間がない。あんたは――」
宗介は舌打ちした。
M9ならまだしも、損傷《そんしょう》だらけのこの旧式 <サベージ> で彼を連れ回すようなゆとりは、もうないだろう。そもそも過熱状態《かねつじょうたい》のこの機体では、ラブロックの体をつかむことさえおぼつかないのだ。
「――もういい、好きにしろ。どこへなりと逃げるといい」
彼はますます驚《おどろ》いた。
『逃がすってのか? 俺を? よくわからない。なんだってまた――』
「おまえに構っている時間はもうない、と言っているんだ」
『待てよ。ひょっとして、あんた一人なのか? 仲間も来ないってのか」
その言葉を不審《ふしん》に思いながらも、宗介は手短《てみじか》に答えた。
「仲間などいない。俺一人だ」
『なんだって? じゃあ、なんであんたはこんなところで戦ってるんだ』
「 <アマルガム> には貸《か》しがあるからな。俺も境遇《きょうぐう》はあんたと同じだ。基地を留守《るす》にしている間に、仲間を皆殺しにされてしまった」
『…………』
機体の状態《じょうたい》をチェックする。
油圧《ゆあつ》は下がりっ放しだ。冷却《れいきゃく》システムがまともに動かなくなるまであとわずか。それでも、丸裸《まるはだか》よりはまだましだろう。せっかくつかんだ敵の尻尾《しっぽ》を、ここで放すいわれはない。
「大切なものも奪われた。必ず奴らから取り戻してやるつもりだ」
『おいおい。それだけの理由で奴らと戦おうってのかよ!? あんた正気か?』
「それだけの理由……?」
機体のジェネレータ出力《しゅつりょく》が上がっていく。左腕への油圧を遮断《しゃだん》し、時間|稼《かせ》ぎの操作《そうさ》をほどこしてから、宗介は言った。
「俺にとっては充分《じゅうぶん》な理由だ。なにがあろうと、どんなことがあろうと奪還《だっかん》する。俺はそう誓《ちか》った」
そうだ、誓った。
あの教室で。
署長たちがいると思《おぼ》しき方角へ向き直り、瓦礫《がれき》の山から立ち去ろうとする <サベージ> の背中に、ラブロックは叫《さけ》んだ。
『わからん! あんただって、ただの傭兵《ようへい》だろうに。風向きが変われば雇《やと》い主も変わる。いい条件《じょうけん》につくのが俺らの流儀《りゅうぎ》じゃなかったのか!?』
どうしてか、ラブロックの言葉は悲痛《ひつう》だった。宗介ではなく、もっと遠くのだれか――いや、むしろ自分自身に呼びかけているような、そういう声だった。
「そうだな。渡り鳥の一生は、元来《がんらい》そうしたものだろう」
『だったら――』
「俺はもう傭兵ではない。ただの男だ」
そうつぶやき、宗介は機体を走らせた。
ラブロックが膝《ひざ》を落としなにかを叫んでいたが、状態《じょうたい》の悪い外部マイクはそれ以上言葉を拾《ひろ》うこともなかった。
アッシュたち整備士《せいびし》を救ったミシェル・レモンは、射殺《しゃさつ》した汚職警官《おしょくけいかん》たちの遺体《いたい》を片付《かたづ》けもせずに、すぐに彼の『部下』たちと移動を始めた。
「で、いったいあんたたちは何者《なにもの》なんだ?」
未舗装《みほそう》の道路《どうろ》を走るバンの中で、アッシュがたずねた。ほかの整備士たちは、レモンの部下数名と共に、元からいたムナメラ村のはずれに送られた。
「あんまり突《つ》っ込《こ》んだことは知らない方がいいとも思うけどね」
むっつりとして、レモンは言った。
それきり押《お》し黙《だま》った彼がふたたび話し出すのを、アッシュは辛抱《しんぼう》強く待ち続けたが――レモンにその気がないことに気付くと、声を荒《あら》げた。
「わかんねえよ。説明してくれ。どうやって留置場《りゅうちじょう》から逃げ出したんだ? あんたはどっかのスパイなのか? 俺らをずっとだましてたってわけなのか?」
「だましていたのは事実《じじつ》だけど、積極的《せっきょくてき》にそうしたわけじゃない」
「そんな物言《ものい》いで、納得《なっとく》できるわけがないだろう!?」
するとレモンは眉間《みけん》にしわを寄《よ》せ、どこか苦しそうに唇《くちびる》をへの字に曲げた。
「君たちに出会ったのは、本当に偶然《ぐうぜん》なんだ。強ければどのチームでも良かった。ナムサクの闘技場《とうぎじょう》にいくらかのコネさえ作れれば。だからナミが資金《しきん》をたかってきた時は、適当《てきとう》にあしらって別の伝手《つて》を探すつもりだったんだよ。なにしろ……失礼だけど、君たちは弱そうだったからね。そのあたりまでは、おおむね計画の範疇《はんちゅう》だった。ただ……」
「ただ?」
「あの日、ソースケが来て考えが変わった。ASの知識《ちしき》がどうのとか、そういうのもあったけど――彼の物腰《ものごし》に引っかかったんだ。若いけど、戦い慣《な》れしている。すぐにそれが分かった。分かるんだ」
そうつぶやくときだけ、レモンの表情はひどく暗く、陰鬱《いんうつ》なものになった。腐敗警官《ふはいけいかん》たちを射殺《しゃさつ》しろと、部下たちに命じたときのあの顔と同じ種類《しゅるい》のものだった。
「だから、流れに身を任《まか》せてみるのもいい。そう思っていた。いずれにしても、あの組織[#「あの組織」に傍点]に近づくのは生半可《なまはんか》なことではなかっただろうから。でもまさか、彼の目的が僕たちと同じだとは思わなかったよ」
どこか謎《なぞ》めいたレモンの言葉に、アッシュは首をひねるばかりだった。
「さっぱり分からん。けっきょく、あんたはどこの人間なんだ?」
レモンは苦笑《くしょう》した。
「某国《ぼうこく》のとある情報部《じょうほうぶ》だよ。わが国は <アマルガム> や <ミスリル> とは、一線を引いてきたからね」
「やっぱりわからんよ、ムッシュ[#「ムッシュ」に傍点]」
アッシュがぼやくと、レモンはさらに笑った。
だましだまし使い続けてきたものの、機体《きたい》の疲労《ひろう》はもはや極限《きょくげん》まで近づいていた。コックピット内ではたくさんの警報《けいほう》ランプが明滅《めいめつ》している。まるでクリスマス・ツリーの電飾《でんしょく》かなにかみたいだ。
ラブロックから教えられた『観覧席《かんらんせき》』のある山のそばまで来たところで、機体の油圧系《ゆあつけい》と温度《おんど》系の針《はり》が限界《げんかい》を通り越《こ》した。破損箇所《はそんかしょ》を修繕《しゅうぜん》して、失われたオイル――人間でいったら血液《けつえき》のようなものだ――を補給《ほきゅう》してやれば、まだまだこき使うこともできそうだったが、いまはそのときではない。
宗介は機体を停止《ていし》させ、コックピット・ハッチを開いて外へと出て行った。
「…………」
コックピット脇《わき》のラックから、長らく愛用している自動拳銃《じどうけんじゅう》と弾倉《だんそう》を取り出し地面に飛び降《お》りる。オーストリア製《せい》のグロック19[#「19」は縦中横]だ。入国の際《さい》に別便《べつびん》の裏《うら》ルートを使って持ち込んだために、つい二日前、ようやく再会《さいかい》することができたばかりだった。
火力不足の感《かん》は否《いな》めなかったが――どうということはない。必要なら、まず一人か二人を片付ける。それからは、敵の武器を奪《うば》えはいいだけの話だ。
『観覧席』のある山は、広葉樹《こうようじゅ》に包《つつ》まれた典型的《てんけいてき》な密林《みつりん》の真《ま》っ只中《ただなか》にあった。宗介は暗闇《くらやみ》の中の、うっそうとした樹木《じゅもく》の中を駆《か》けぬけ、東側から回り込んでいく。最初は真っ暗な視界《しかい》で足の踏《ふ》み場にも困《こま》る状態《じょうたい》だったが、目が闇《やみ》に慣《な》れてきた。
何人かの歩哨《ほしょう》が走り回っているのをやり過ごし、宗介は山の東側にある街道《かいどう》の方へと近づいていった。
この付近の地図《ちず》は事前《じぜん》に頭に叩《たた》き込んでいる。植生《しょくせい》やその他については、数年前にこの東南アジアで戦った経験《けいけん》から、よく熟知《じゅくち》していた。
暗闇の中を進んでいくと、山の斜面《しゃめん》にしつらえられた重厚《じゅうこう》がコンクリート製《せい》のゲートが見えてきた。ゲートは四方を有刺鉄線《ゆうしてっせん》付きのフェンスで囲まれ、強力なライトで照《て》らされていた。警備兵《けいびへい》の数も相当《そうとう》なものだ。このゲートの程近《ほどちか》くまで、宗介の <サベージ> が接近した上に、操縦兵がいまも付近をうろついているのだから、無理《むり》もないことだった。
放っておけば、いま自分が隠《かく》れている茂《しげ》みでさえ、警戒の兵が発見してしまうかもしれない。
(さて、どうしたものか……)
宗介が敵陣《てきじん》を攻《せ》めあぐねていると、ゲートの前で新しい動きがあった。
あわただしい様子で、ゲートの前に到着《とうちゃく》したナムサク市のパトカーから、二人の警官と一人の娘《むすめ》が降りてきた。
ナミだ。
そしてゲートの奥《おく》から、目当ての男たちが姿《すがた》を見せた。何人かの私兵《しへい》に囲まれた二人の男。一人はあの署長で――もう一人は奴《やつ》だった。
そう、クラマだ。
背が高くがっしりとした体つき。暑苦《あつくる》しい東南アジアの気候《きこう》だというのに、真っ黒なコートを着込んでいる。
クラマはナミを一瞥《いちべつ》すると、彼女をぐっとたぐり寄せ、その顎《あご》に自動拳銃をつきつけた。
「サガラ! 見ているか!? いるのは分かっている!」
あたりに響《ひび》き渡《わた》るような大声。こちらがすぐそばに潜《ひそ》んでいることを、察《さっ》しているのだろう。
「出てきて武器を捨てろ! さもなければ女を殺す! 一〇秒の猶予《ゆうよ》を与えよう!」
ナミの小さな姿――その肩《かた》がぎくりと震《ふる》え、ゲートの周囲の密林を、そわそわと見渡していた。
深夜の熱帯《ねったい》の空気は、じめじめとして重苦《おもくる》しく、木々の間にはそよ風ひとつ吹《ふ》いていない。無数《むすう》の昆虫《こんちゅう》や爬虫類《はちゅうるい》、夜行性《やこうせい》の鳥や小動物が息をひそめ、薄闇《うすやみ》の中にうずくまる宗介を見下ろしているようだった。無感動《むかんどう》なたくさんの目。ASのセンサとそう変わらない、外的情報を集めるためだけに機能《きのう》する目が、無言の視線を宗介の背中に注《そそ》いでいる。なにかそら寒い運命を見届《みとど》けようとするかのように。
「……一〇!」
ナミたちの周囲には署長の私兵。一瞬《いっしゅん》で倒《たお》せるような数ではない。
しかし――
「……九!」
あのクラマなら、本気だろう。ただのはったりとは思えない。それに――なぜだろう。ひどくいやな予感がする。
「……八!」
どうすべきか。こんな感覚ははじめてだ。本当に――本当に、よくないことが起きそうな気がする。取り返しのつかないことが。
「……七!」
あと七秒。たった七秒しかない。
いま自分がこの茂《しげ》みから出ていったら、なにが起きるか? 有無《うむ》を言わさず射殺《しゃさつ》されるだけだろう。クラマは容赦《ようしゃ》のない男だ。
「…六!」
一秒、一秒が加速度的《かそくどてき》に引き伸《の》ばされていく。一秒が一分に感じ、次は一日に感じ、やがては一週間、一か月にまでなっていった。
自分が出ていって、ナミを助けることはできるかもしれない。彼女は元から無関係の人間だ。だが、自分は間違《まちが》いなく殺される。これまでのいきさつで、奴にはそうするだけの理由がすでにあるのだから。
いままで相当な修羅場《しゅらば》をくぐってきた。それでもなんとか生き延《の》びてきた。それが、こんなところで突然《とつぜん》行き詰《づ》まるとは。
「…………五!」
ここでナミを死なせていい理由はなにもない。なんの咎《とが》もなく、<ミスリル> や <アマルガム> の戦いとはまったく無縁《むえん》の彼女を、この場で死なせていいはずがなかった。だが、自分がここで死ぬことも考えられない。自分が死んだらどうなる。だれがかなめを救いに行ける。あのレナードや、その他の <アマルガム> の奴らに、いったいだれがツケを払《はら》わせるというのだ?
「…………四!」
ここであっさりくたばるなんて、そんな結末《けつまつ》は許容《きょよう》できない。やるだけのことをやって、自分の持てるすべてを――技能、経験、体力、知力、なにもかもだ――それらをこの世界に叩きつけて、千鳥かなめを連中から取り戻す。その後でなら、死ぬのもやむなしといえるだろう。
だからこそ[#「だからこそ」に傍点]、いまは死ねない[#「いまは死ねない」に傍点]。
それはナミだって同じはずだ。壊《こわ》された故郷《こきょう》の村――平和な学校を取り戻すために、スクラップ同然《どうぜん》の <サベージ> であそこまで奮戦《ふんせん》してきたナミ。もうすこし頑張《がんば》れば、その夢《ゆめ》が現実《げんじつ》の射程内《しゃていない》に入るところまでやってきたナミ。彼女だって、ここですべてが終わることなど決して受け入れられない。
しかしクラマは自分と彼女のどちらかにそれを強要《きょうよう》しようとしている。どうあがいても翻《ひるがえ》しようのない戦力、どうあがいても逆戻《ぎゃくもど》りできない秒読みをもって。
そんな逡巡《しゅんじゅん》とは裏腹《うらはら》に、宗介はさきほどからずっと、第三の選択肢《せんたくし》を模索《もさく》していた。自分もナミも死なないで済《す》む、冴《さ》えたやり方。ありとあらゆる可能性《かのうせい》を検索《けんさく》し、超高速《ちょうこうそく》で吟味《ぎんみ》した。
「…………三!」
ない。出てこない。
そんな方法はないのだ。少なくとも、彼がこれから三秒の間に考え付く限りの中には。クラマのカウントは、ただのはったりの可能性もある。最後まで息を潜《ひそ》めていれば、奴が『やはりいないか。勘違《かんちが》いだったようだ』と考え、ナミを殺さずその場を去《さ》るかもしれない。いや、それはない。奴に限っていえば、撃《う》つと宣言《せんげん》した以上は必ず撃つ。周囲の者たちが見ている前で、自分の宣言を翻すことは考えられない。
どうすればいい。なにかないのか。ほかになにか――
「…………二!」
だめだ。出て行くしかあるまい。
そうすれば二秒の猶予《ゆうよ》をすこしは引き延《の》ばせる。そこに待っている窮地《きゅうち》から逃《のが》れる手段《しゅだん》はほとんどないにせよ、時間は稼《かせ》げる。そうだ、出て行くしか――
「いや[#「いや」に傍点]、気が変わった[#「気が変わった」に傍点]」
クラマは『一』とは叫《さけ》ばなかった。代わりに無造作《むぞうさ》にナミを突き飛ばすと、その背中めがけて容赦《ようしゃ》なく発砲《はっぽう》した。
おそらくは四五口径。銃声でわかった。
たてつづけに三発。
すべてが命中し、被弾《ひだん》するたびにナミの小さな体が小刻《こきざ》みに震えた。探照灯《たんしょうとう》の光の中で、赤い液体がしぶきを散《ち》らした。見えた限りでも、クラマが急所《きゅうしょ》を外したのではないことは明らかだった。
ナミの表情はほとんど見えなかった。
よろめくわけでもない。大げさに吹き飛ぶわけでもない。彼女はただ、糸の切れた操《あやつ》り人形のようにその場に倒れた。
(…………っ!)
息をのむその声がほとんど漏《も》れなかったのは、兵隊として暮《く》らしてきた長い歳月《さいげつ》による訓練《くんれん》と習慣《しゅうかん》、ただそれだけのためだった。自動的な反応《はんのう》。なにが起きても戦術的《せんじゅつてき》に不利《ふり》な行動をとらないように、作り上げられてしまった体と心の働きに過《す》ぎなかった。
なぜだ。
なぜ撃った。
どうして貴様《きさま》は『一』と言わなかったのだ。
出て行くつもりだった。俺は貴様の望み通り、ここから出て行くつもりだったのだ。だというのに、こんな行動はないだろう。貴様には最低限《さいていげん》のルールさえないのか。
身を焦《こ》がすような圧倒的《あっとうてき》な激情《げきじょう》と、それを断固《だんこ》として縛《しば》り付ける自制心《じせいしん》。その二つのせめぎあいに苛《さいな》まれ、宗介の体はいまにも粉々《こなごな》に爆発《ばくはつ》してしまいそうだった。
「感じるぞ! 貴様の怒りを」
突然《とつぜん》の出来事《できごと》に呆然《ぼうぜん》とする『署長』とその私兵たち――カービン銃で武装した腐敗警官たちの只中《ただなか》に立ち、両手を仰《あお》ぐようにゆっくりと掲《かか》げ、クラマは叫んだ。
「いい殺気《さっき》だ! やはり貴様は近くにいるな。俺への殺意が密林の隅々《すみずみ》まで満ち満ちている。わかるんだよ。そうだ、これこそが生命《せいめい》ってやつなんじゃないのか? まるで大気が震えているようだぞ、相良《さがら》宗介《そうすけ》!」
よくも。
手持ちの自動拳銃――グロック19[#「19」は縦中横]の銃口を、葉の影《かげ》からクラマへと音もなく向ける。距離《きょり》はおよそ一〇〇メートル。射程の間には鉄条網《てつじょうもう》もある。
いまの自分に奴が殺せるか?
無理《むり》だ。
ライフルならまだしも、こちらは短銃身の拳銃《けんじゅう》だ。一〇〇メートルでは当たるわけもない。拳銃とはそうした武器なのだ。仮《かり》に命中《めいちゅう》したとしても、この距離での九ミリ弾《だん》の殺傷力《さっしょうりょく》などたかが知れている。しかも、この暑苦《あつくる》しい気候《きこう》の最中《さなか》でわざわざ着込《きこ》んでいるクラマの黒いコートは、以前に対峙《たいじ》したときと同様の防弾衣《ぼうだんい》だろう。
撃《う》ったところで意味がない。殺せないのだ。
そして敵はこちらの銃声に反応して、何十人という兵隊をさしむける。位置と方位を知られては、いかに宗介でもあの人数から逃れることはできない。一〇人くらいは道連れにできるかもしれないが、それで終わりだ。だからこそ宗介はあの秒読みのときに動けなかったのだ。
「俺を殺したいか!?」
クラマはさらに声を張《は》り上げた。
「いますぐここに出て来たいだろう? 遠慮《えんりょ》はいらんぞ。好きなようにしろ。貴様がご立派《りっぱ》な自制心《じせいしん》とやらを発揮《はっき》しているのなら、それもいい。そのまま一生、このド田舎《いなか》のクソだめの中で指をくわえて傍観者《ぼうかんしゃ》を気取っていろ! ただ……これだけは言っておいてやる。俺を放《ほう》っておけば、貴様の大切なあの女も、同じように扱《あつか》ってやるぞ!」
ほかでもない、千鳥かなめのことだ。クラマはそれを知っている。
「そうだ、俺は居場所《いばしょ》を知っている! あちこちに沸《わ》いて出て、邪魔《じゃま》ばかりする貴様に俺はムカついている。俺はこれからその場所に帰って、気が向いたときにあの女をファックしてやる。レナード――あの優男《やさおとこ》や、くたばったガウルンの代わりにな! いま、この貧乏《びんぼう》ったらしい娘にやってみせたようにカマしてやるわけだ! どうだ、相良宗介!?」
すべて挑発《ちょうはつ》だ。それはわかっている。
クラマはただのチンピラではない。鍛《きた》え抜《ぬ》かれた冷徹《れいてつ》なプロフェッショナルなのだ。これはすべて、こちらの平静を失わせるための作戦であって、それ以上のものではない。こうしている間にも、敵は捜索《そうさく》の輪《わ》を広げて、いずれこちらを発見し包囲《ほうい》することだろう。
だが。しかし――
ナミを撃たれ、かなめのことを言及《げんきゅう》され、宗介の胸の中はいまはげしく揺《ゆ》さぶられていた。
クラマが鼻をふん、と鳴らした。
「……まあ、出てこないだろうな。では見ていろ。俺が手厳《てきび》しい男だってことを、ここで思い知らせてやる」
湿《しめ》った地面に横たわり、みじろぎ一つしないナミめがけて、クラマはさらに銃弾を叩き込もうとした。
「…………っ!」
もう我慢《がまん》できない。
分別《ふんべつ》を失いかけた宗介が立ち上がろうとしたそのとき、彼がいるのとはまったく別の方角からの銃撃が、クラマたちに襲いかかった。それも複数《ふくすう》だ。
アサルトライフルとサブマシンガンの銃声。密林の中に八人、いやそれ以上いる。
襲撃者《しゅうげきしゃ》の銃弾はクラマの周囲にいた数人の警官をなぎ倒し、さらにいくつかのサーチライトを正確に狙撃《そげき》して破壊《はかい》した。闇に包まれたゲート周辺で、混乱《こんらん》した敵が怒鳴《どな》り、悲鳴をあげ、またでたらめな方向めがけて発砲した。どこかから飛んできたグレネード弾が、駐車《ちゅうしゃ》してあったパトカーに命中して、ひときわ派手《はで》な爆発《ばくはつ》と混乱《こんらん》を撒《ま》き散らした。
どこのだれが?
いや、考えている時間はない。いずれにしても、この機《き》に乗《じょう》じない手はなかった。いますぐクラマを押さえるのだ。
宗介は茂みの中から飛び出し、切れ切れに生育《せいいく》した広葉樹の間を駆《か》け抜けた。
フェンスの手前に、カービン銃を手にした署長《しょちょう》の私兵がいた。突然《とつぜん》の襲撃に動揺《どうよう》し、あらぬ方角を警戒《けいかい》している。五メートル足らずの距離まで近づいたところで、敵がこちらに気付いた。
「な……」
反撃《はんげき》の機会《きかい》など与《あた》えない。宗介は大股《おおまた》で歩きながら照準《しょうじゅん》する。
足を止めることなく、躊躇《ちゅうちょ》せず発砲。
たった一発だ。正確に頭の中心に叩き込む。この距離ならわけもないことだった。崩《くず》れ落ちる敵にそのまま歩み寄り、グロックを腰の後ろのベルトに挟《はさ》んで、カービン銃と予備弾倉《よびだんそう》を奪《うば》い取る。てきぱきと薬室《やくしつ》内に初弾《しょだん》が装填《そうてん》されていることを確認《かくにん》し、セレクタをフルオート射撃からセミオート射撃に切り替《か》える。
いまやゲート周辺は混乱のるつぼだった。銃声と怒号《どごう》が入り混じり、弾着《ちゃくだん》の土煙《つちけむり》と、燃え上がるパトカーの黒煙《こくえん》とが薄闇の視界をさらに悪いものにしている。
フェンスを回り込み、ゲートの入り口の方まで走っていくと、二人の敵兵が飛び出してきた。彼らもまた、混乱のさなかでこちらへの警戒をおこたっていた。
短く二連射して手際《てぎわ》よく撃ち倒す。
一人目はどこから自分が撃たれたかもわからないまま絶命《ぜつめい》し、もう一人は宗介の姿を見た瞬間に死んでいた。地面に転がった二つの死体の横を通り過ぎるときに、宗介は気付いた。最初に殺した方は、あの警察署の取調室で自分を殴《なぐ》りつけた男だった。名前は知らない。これから知ることもないだろう。
手ごろな遮蔽物《しゃへいぶつ》――弾痕《だんこん》だらけで斜《なな》めに傾《かたむ》いたパトカーの陰《かげ》にひざまずくと、宗介は改めて周囲の状況《じょうきょう》を吟味《ぎんみ》した。
襲撃者側が完全に優位《ゆうい》に立っているようだ。奇襲《きしゅう》だけが理由ではない。襲撃者たちは腐敗警官たちに比《くら》べて、明らかに錬度《れんど》と戦術で勝っていた。彼らはクラマたちが立っていたゲート前の開けた空間を、しっかりと準備《じゅんび》された『殺戮地帯《キルゾーン》』に設定《せってい》している。半円状に布陣《ふじん》した各ユニットから、その地帯めがけて集中的な攻撃《こうげき》をかけ、ごく短時間で、完膚《かんぷ》なきまでに敵戦力を撃滅《げきめつ》する形だ。奇襲《きしゅう》や待ち伏《ぶ》せの基本《きほん》である。
不用意に出て行くことはできない。襲撃者たちが味方《みかた》か敵かはわからなかったが、宗介自身もこれ以上前に出てクラマのいた広場に入っていけば、容赦《ようしゃ》ない攻撃の対象《たいしょう》にされるのは間違いなかった。
なんとも皮肉《ひにく》なことだった。
こうして銃火の飛び交《か》う危険地帯のど真ん中に身を置いたとたんに、自分はひどく冷静になっている。敵から奪った銃の残弾を頭にとどめ、周囲三六〇度を警戒し、各|勢力《せいりょく》の戦力や動き、位置関係や今後の戦術を正確に読み取ろうとしている。ついさっきまでの激情《げきじょう》はもうどこにもない。
そして――宗介はそんな自分自身に驚いていた。あの茂《しげ》みから出てここに来るまで、彼はまったくナミのことを考えてはいなかった。致命傷《ちめいしょう》を負《お》って、跳弾《ちょうだん》の飛び交う戦火の只中《ただなか》に放置《ほうち》された彼女のことを。
ここからクラマの姿は見えない。
奴も素人《しろうと》ではない以上、最初の攻撃で自分たちが完全な奇襲を受けたことは察しているだろう。自分のいる場所が殺戮《さつりく》地帯になっていることも。奴がまだ生きているとすれば、ゲートの奥、山に掘《ほ》り抜《ぬ》かれた粗末《そまつ》なトンネルの中に逃げ込むか、あるいは――
エンジンの唸《うな》り声とタイヤのきしむけたたましい悲鳴《ひめい》が聞こえた。
目を向けると、濃密《のうみつ》な黒煙の向こうで走り出す一台のパトカーがある。かろうじて、その運転席にあの大柄《おおがら》な男の後頭部がちらりと見えた。助手席には署長の姿も。
宗介は舌打ちした。クラマはトンネルを目指さず、逆方向に逃げた。まだ動く車を見つけ、この危険地帯から全力で脱出《だっしゅつ》しようとしているのだ。
彼は身を翻《ひるがえ》して、ボンネットの上にカービン銃を載《の》せるとすばやくセレクタを切り替え、クラマのパトカーめがけて猛然《もうぜん》とフルオート射撃を浴《あ》びせかけた。跳《は》ね上がる銃身を押さえつけるようにして、容赦なくトリガーを引き続ける。
|銃口の火炎《マルズフラッシュ》の向こうで、敵の車体に火花が散り、リアウィンドのガラスが砕《くだ》け散るのが見えた。それでもパトカーは止まることなく、加速《かそく》を続けていく。
弾丸はあっという間に消費《しょうひ》された。パトカーの後ろ姿が小さくなる。
道路|沿《ぞ》いの低木が邪魔《じゃま》だ。照準《しょうじゅん》しにくい。拳《こぶし》ほどに見えた大きさの車が、いまでは親指くらいになった。太腿《ふともも》のポケットにねじ込んでいた弾倉をすばやく取り出して再装填《さいそうてん》。さらに全弾を発砲する。銃口から吐《は》き出されたライフル弾が、執拗《しつよう》にパトカーに食らいつく。それでも標的《ひょうてき》が遠ざかる。
最後の弾倉を装填。車はなおも走り続け、米粒《こめつぶ》のようになって、丘陵《きゅうりょう》の向こう側に――
「くそ……っ!」
もう無理《むり》だ。宗介は小さくうめくと、なおもトリガーを絞《しぼ》ろうとする自分の人差し指に、ようやく『やめろ』と命令した。
クラマと署長を乗せたパトカーは、すでに彼の手が届かないところにあった。
むざむざと。
敵を逃《のが》した自分自身への憤《いきどお》りを抑えつけながら、宗介は車の陰に身を隠し、次の行動を考えた。ここから脱出すべきか、それとも居残《いのこ》るべきか。
逡巡《しゅんじゅん》した宗介の視界に、人影が入ってきた。署長の一味《いちみ》ではない。それとは別の戦闘服姿。とっさに銃を向けると、相手はこちらに手の平を向け、
「やめろ、ソースケ!」
と、言った。
その相手は、ナムサクで薄汚《うすぎたな》い牢屋《ろうや》の中にいるはずのミシェル・レモンだった。
戦闘はほどなく終了した。
いまなお燃え続ける数台のパトカーが、付近一帯に黒煙を吐《は》き出し続けている。署長の私兵たちはすべて逃げるか殺されたあとで、殺戮地帯に動く者は残っていなかった。
襲撃者たちが戦果の確認《かくにん》に密林から姿を見せる。用心深く、入念《にゅうねん》に援護《えんご》しあいながら。黒い戦闘服に、たくさんのポケットがついたタクティカルベスト。必要ならば防弾プレートも挟《はさ》み込めるようにデザインされた装備だ。バラクラバ帽《ぼう》をかぶり、パッシブ方式の暗視《あんし》・赤外線《せきがいせん》ゴーグルをかけている。いや、ゴーグルというよりは、サングラスを大きめにした程度《ていど》のものだった。
装備の潤沢《じゅんたく》さもさることながら、彼らの動きもまた、軍ないしそれに類《るい》した組織でしっかりとした訓練《くんれん》を受けた者たち特有《とくゆう》のものだった。
銃をやたらと左右にぶらぶら振《ふ》らず、体の中心からまっすぐ構え、上半身が揺れないように独特《どくとく》の足運びで歩く。最低単位は二人一チーム。それぞれが別方向に警戒しながら、油断《ゆだん》なく、有機的《ゆうきてき》な連携《れんけい》をとりつつ前へと進む。背後を警戒する味方のそばを通りながら、ぽんと相手の肩を叩いていく。地面に転がった敵の死体を確認するときも、無造作《むぞうさ》に接近《せっきん》することはない。その死体の両手が見えない時はなおさらだった。
「どういうことだ?」
宗介がたずねると、レモンは陰気《いんき》な声で言った。
「それは後だ」
その通りだった。二人は制圧《せいあつ》が完了しつつあるゲート前の広場へと走り、すぐにナミを見つけた。
未舗装《みほそう》の地面に広がるどす黒い血だまり。
その中に彼女が沈《しず》んでいる。
こういう光景は何度も見てきたはずだったが、宗介は見えない死神《しにがみ》の手で心臓《しんぞう》を鷲《わし》づかみにされたような気持ちになった。背筋《せすじ》にそら寒い感覚が駆《か》け抜《ぬ》け、全身に鳥肌《とりはだ》が立つのがわかった。
彼女は動かなかった。
もう、苦悶《くもん》の声さえ発することはなかった。
涙《なみだ》も流さず、まばたきさえせず、うらみや非難《ひなん》のこもった視線《しせん》を向けることさえしてくれなかった。なにか言い残すことさえできなかった。
当たり前のことなのだ。
クラマの撃《う》った銃弾は、彼女のいくつかの重要な器官《きかん》――心臓や肺《はい》、それに付随《ふずい》する大動脈《だいどうみゃく》に損傷《そんしょう》を与えていた。脳への血液の供給《きょうきゅう》が断《た》たれてしまえば、ほんの数秒で意識《いしき》は失われ、そのまま肉体は機能を永久に失う。弾頭《だんとう》はホローポイント弾だったのだろう。大口《だいこう》径《けい》弾の与えたインパクトで、あるいは彼女は瞬間的に意識を失ったかもしれない。せめて、そうであって欲しかった。
なにかの手当《てあ》てが出来たとも思えない。
すべて、あの瞬間に決まってしまったことなのだ。
あの一秒で。
宗介が逡巡したあの一秒で。
「なんてことだ」
震《ふる》える声で、レモンがつぶやいた。
「なんてことだ」
レモンはもう一度|繰《く》り返し、彼女の傍《かたわ》らにひざまずいたまま、押《お》し殺した嗚咽《おえつ》の声を漏《も》らした。泥土《どろつち》の上に銃を置き、力を失った彼女の頭を抱《だ》いて、肩を震わせた。やがてその震えは腕《うで》や首や足へと広がっていき、彼は全身をわななかせた。
宗介は声さえ出なかった。
ただその場に立ち尽《つ》くし、ぐるぐると脳内をめぐる単純《たんじゅん》な言葉の羅列《られつ》をぼんやりと見つめていた。
死なせた。
ナミ。
巻き込んだ。
あと一秒。
なぜ出て行かなかった。
なぜもっと早く。
巻き込んだ。
なにも悪くないのに。
死なせてしまった。
ナミ。
学校。
行動しなければ。
あと一秒。
ほかにどうしろと。
巻き込んでしまった。
選択肢《せんたくし》。
自分が招《まね》いた。
許されない。
ナミ。
巻き込んでしまった。
自分が死なせた。
いっそレモンのように、全身を震わせて泣くことができたらいいのに。せめて、いま手にしている重さ三・五キロの銃を握る力くらいは失って、地面に落とすことができたらいいのに。
こんなときにどういう反応をしたらいいのか――いや、自然に出てくる反応がどういうものなのか。記号的にはわかっていたが、実感としてはわからなかった。
どこからか整備《せいび》クルーのアッシュが現れ、泣き叫び、彼をののしっていた。
人でなし。なぜ助けなかった。利用しただけだったのか。こんないい子を。あんたは人間のクズだ。なにか言ってみろ。なにも感じないのか。
それでも宗介は完全な無表情《むひょうじょう》のまま、その場に立ち尽くしていた。
無数《むすう》の弾痕《だんこん》がうがたれた車を運転し、クラマはくねくねと曲がる道路を南へと向かわせていた。
南――すなわちナムサクの市街地《しがいち》へ。
ヘッドライトは両方とも壊《こわ》れていて、夜道を照《て》らすことさえままならなかったが、彼はおかまいなしに車を飛ばした。いびつなひびの入ったフロントガラスが視界《しかい》をさえぎるので、彼は無造作《むぞうさ》にそれを拳《こぶし》で叩《たた》き割る。粉々《こなごな》になった破片《はへん》が助手席にまで飛び散り、署長《しょちょう》がうなり声を発した。
「いったい何が起きたのです?」
いまだに当惑《とうわく》を隠しきれない様子で、署長が声を張《は》り上げた。まともに車内に風が吹き込み、マフラーも脱落《だつらく》しかけた状態なので、叫《さけ》びでもしないとなかなか声が届《とど》かないのだ。
「私の兵隊が……私の兵隊たちが殲滅《せんめつ》されてしまった! あのサガラに仲間がいたということなのかね!?」
「すこし違うようだったな」
右|肩《かた》のあたり、防弾コートの中に食い込んだ金属片《きんぞくへん》を左手でほじくりかえしながら、クラマは言った。
「奴《やつ》に仲間がいたのなら、なにか巧妙《こうみょう》な時間|稼《かせ》ぎを試《こころ》みていたはずだ。対応も遅《おそ》かった。連携《れんけい》が取れていなかったのだろうな」
「では、何者《なにもの》が」
「まだわからん。<ミスリル> の生き残りというわけでもなさそうだ」
「信じられない。最初から罠《わな》だったのではないのですかね? 私はあなた方の間違った情報に踊《おど》らされて、ああして――」
興奮《こうふん》し、非難《ひなん》めいた調子でがなりたてる署長の胸倉《むなぐら》を、クラマは乱暴《らんぼう》につかんで引き寄せた。
「……うっ?」
「あんたがグルじゃない保証《ほしょう》もないぞ」
押し殺した声で彼は言った。
「まあ、そこまで手の込んだ話でもなさそうだがな。あの連中が何者なのか、サガラとつるんでいるのかどうか、そういうことはいずれ分かる。たいした問題じゃない。さっき起きたことの問題は、もっと単純だ。実にシンプルだ。要するに――」
恐《おそ》ろしい握力《あくりょく》で喉首《のどくび》を締《し》め上げられて、署長はくぐもった悲鳴を漏《も》らす。
「っう……く、くるし……」
「――要するに、だ。おまえさんが従えてたあの警官どもは、番犬《ばんけん》にも劣《おと》る素人《しろうと》集団だってことさ。あそこまで敵の接近を許すとはな。屁《へ》でもこいてあくびしてたのか? まったく感動したよ。おかげで俺はこんなド田舎《いなか》で、あっさりくたばるところだった」
「も、申《もう》し訳《わけ》ない、ムッシュ。しかし……」
「よく聞け。俺は頭にきてる。あの小僧《こぞう》が俺の目の前をちょろちょろするのも気に食わないし、M9を撃破《げきは》されたのも楽しくない。女を撃《う》ったこともだ。おまえさんのような変態野郎《へんたいやろう》なら、あれで息子《むすこ》をおったてるところなんだろうが、文明人の俺は違う。えらく胸糞《むなくそ》悪いんだよ」
「それも……分からない。なぜあなたはあの娘を撃ったんだ。あんな、もったいないやり方では――」
「あれで充分《じゅうぶん》さ。奴を痛めつけて怒《おこ》らせるのならな。俺は安っぽい刑事《けいじ》ドラマの間抜《まぬ》けな悪役とは違うんだ。『殺す』と言ったら断固《だんこ》殺す。そして真面目《まじめ》にテン・カウントするほど義理堅《ぎりがた》くもない。この通り、気の短いたちでね。そういうあれこれを奴に知らせてやったまでのことだ」
「っ……しかし」
「ああすれば奴は必ず俺を追ってくる。俺を締め上げて殺さずにはいられんだろうさ。わざわざこちらから探《さが》す手間《てま》を省《はぶ》いてやったってわけだ」
「…………」
「ここは逃げるが、街《まち》に帰って態勢《たいせい》は整《ととの》えるぞ。俺が居座《いすわ》ってれば、奴は来るだろう。それを迎《むか》え入れて叩き潰す。あんたにも協力してもらおう。わかったな?」
すでに声も出せなくなっていた署長は、ただ何度もうなずくばかりだった。
やっと指の力をゆるめ、クラマは署長を突き放した。署長はしばらく咳《せ》き込んでから、彼をにらみつけた。もはや憎悪《ぞうお》を隠そうともしなかった。
「ムッシュ。この扱《あつか》いはいささか度が過ぎますぞ……! 私とて組織のために貢献《こうけん》し、ナムサクを管理《かんり》している人間だ。それを、このような……」
「すまなかったな。あんたの甲高《かんだか》い声が癇《かん》にさわるんだよ。それと――」
そう言ってクラマはコートの内ポケットを探《さぐ》り、取り出したシガレット・ケースを開く。ケースの中にはきれいな四角形に切りそろえられた人参《にんじん》のスティックがずらりと並《なら》んでいた。
まだみずみずしさを保っている一本をつまんで、彼は煙草《たばこ》よろしく口にくわえた。
「――禁煙中《きんえんちゅう》の男と話すときは、気をつけた方がいい。見た目からは想像もつかないほどイラついてるからな」
これから追ってどうなるものか、分かったものではなかった。
クラマはすみやかにナムサクを離《はな》れ、どこか手の届かないところに逃げてしまうかもしれない。だが追跡《ついせき》を一秒でも遅《おそ》くすれば、その可能性はそれこそ指数関数的《しすうかんすうてき》に増大《ぞうだい》していくことだろう。
宗介が車で逃げたクラマたちに追いつくには、その場に残された車両では不充分だ。ここムナメラ郊外《こうがい》から、ナムサクまでの道路は、はげしい腹痛《ふくつう》でも起こした蛇《へび》のようにのたくって続いている。直線ではそう遠くない距離《きょり》だったが、実際に道路《どうろ》に沿《そ》って移動《いどう》するとなると、その三倍以上はかかる行程《こうてい》だ。
[#挿絵(img/08_227.jpg)入る]
もう一つの有効《ゆうこう》な移動手段は、手ひどくダメージを受けた <サベージ> を応急処置《おうきゅうしょち》して使うことだった。ASなら道路沿いに移動せずともよい。くねくねと曲がった道路を無視《むし》して、峻険《しゅんけん》な地形をまっすぐに横切っていけば、修理《しゅうり》の時間を差し引いてもまだ有効なはずだった。
互《たが》いの素性《すじょう》を打ち明けあう時間さえないまま、宗介はその案《あん》をレモンに話し、レモンはそれに賛成《さんせい》した。
宗介は離れた密林の中に放置してあった <サベージ> まで駆《か》け戻《もど》ると、その機体をゲート前までどうにか急がせた。レモンたちはすでに準備《じゅんび》を済《す》ませて待ち受けており、機体の応急処置を大急ぎで進めた。その場にいた整備《せいび》クルーのアッシュは、彼らを手伝おうとしなかった。
修理といっても、破損《はそん》した油圧系に強引《ごういん》なテーピングをほどこして、トンネルの中にあった素性も知れないオイルを注《そそ》ぎ込み、同様の軽油《けいゆ》を燃料《ねんりょう》タンクに補給《ほきゅう》するだけの作業だ。これがほかのASだったら、こうはいかないことだろう。
武器《ぶき》も一つだけ見つかった。トンネルから搬入途中《はんにゅうとちゅう》だったのだろう。比較的《ひかくてき》新品のHEATハンマーが一振《ひとふ》り。それだけでも上等だった。
しかしM9とのはげしい戦闘《せんとう》で傷《きず》ついた <サベージ> を、元通りのベスト・コンディションに戻すことはもはや不可能だ。部品を探してきて交換《こうかん》するよりは、新しい機体を購入《こうにゅう》した方が早いくらいだった。
それでも、レモンたちは驚《おどろ》きの声をあげていた。
「これだけで動くようになるのか?」
「しばらくならな」
暗い声で宗介は答えた。もっと違う状況《じょうきょう》なら、<サベージ> の瞠目《どうもく》すべからざるタフさについて、何十分でも講釈《こうしゃく》を垂《た》れることもできただろう。いや、自分だけではない。この機体の持ち主の少女も、ここにいれば得意《とくい》げにこの機体の強みを説明してくれたかもしれない。
だが、もういない。
いないのだ。
応急処置はあらかた済んだ。
宗介は言葉少なに、降着姿勢《こうちゃくしせい》の機体を這《は》い登り、コックピットに乗り込む。
電子系を起動《きどう》。予備電源《よびでんげん》に残された電力でエンジンを再起動《さいきどう》。油圧系と駆動系をチェック。光学《こうがく》センサをテスト。火器管制《かきかんせい》は……知ったことか。
『ソースケ』
ノイズだらけで作動の怪《あや》しい通信システムから、レモンの声が呼びかけた。
「なんだ」
『いまのうちに言っておく。僕は確《たし》かに諜報機関《ちょうほうきかん》の人間だ。だが、君やナミに会ったのは偶然《ぐうぜん》で、楽しく過ごしたのも偶然だった』
「だろうな」
横たわる彼女の傍《かたわ》らで、全身を震わせ泣いたレモン。あれが演技《えんぎ》でないことくらいは、宗介にもわかった。
ならば、黙《だま》って突っ立っているしかなかった自分はなんなのだ?
『それから……君は <ミスリル> の兵隊だね?』
「元 <ミスリル> だ。いまは違う」
機体の操作《そうさ》を続ける。コックピット・ブロックを閉鎖《へいさ》。ロック。油圧計をにらみながら、駆動系を接続《せつぞく》させる。
「あんたは大方《おおかた》、DGSEあたりのエージェントか。お仲間の連中は29[#「29」は縦中横]SAかそれに類する部隊。そんなところだろうな」
DGSE。フランス対外保安総局《たいがいほあんそうきょく》のことだ。29[#「29」は縦中横]SAとは第29[#「29」は縦中横]行動局。DGSE内の特殊《とくしゅ》部隊として一部で知られている。彼らもナムサクの街が <アマルガム> に関係しているとにらんで、潜入《せんにゅう》を試みていたのだろう。
『驚いたな。そこまでわかるとは』
「あてずっぽうだ。それに、どうでもいい」
宗介はなかは捨《す》て鉢《ばち》な気分になっていた。
聞けば、アッシュたちは署長の命令で殺されかけていたところを、レモンたちに救われたという。これは宗介にとってまったくの予想外であり、落ち度でもあった。署長やクラマたちが宗介自身を抹殺《まっさつ》の対象《たいしょう》にすることは当然だと受け止めていたが、アッシュたちをすぐさま始末《しまつ》しようとすることまでは考えていなかったのだ。
敵の全貌《ぜんぼう》も見えていなかったため、入念な作戦や計画を立てることが不可能だったのは事実だが、それでも宗介は自分の見通しが甘《あま》かったことを、痛いほどかみしめる結果になった。もしレモンたちが駆けつけなければ、ナミだけでなくアッシュたちまで死なせていたのだから。
自分の身ひとつなら、いかようにも処《しょ》することができると思い、協力者たちの安全を図《はか》る努力を怠《おこた》ったのではないか。言い換《か》えれば、<アマルガム> の手がかりを掴《つか》むことに執心《しゅうしん》するあまり、どこかに焦《あせ》りが、おごりがあったのではないか。
そうした悔恨《かいこん》が絶《た》えることなく彼の胸を責《せ》めさいなむが、それでも宗介は行動をやめなかった。決してなにかの崇高《すうこう》な動機《どうき》や、強い決意が彼を後押《あとお》ししたのではない。いまや自分が探《さが》し出そうとしているあの少女の名前すら思い浮かんでこない。あの笑顔ももう思い出せない。
だが、ほかにどうしたらいいのか分からない。
ここで行動をやめてしまったら、なにもかも分からなくなって自分はそのまま消えてなくなってしまいそうな気がする。
クラマを追うしかない。
奴を捕《と》らえ、拷問《ごうもん》し、情報《じょうほう》を引き出す。
何を聞き出すつもりなのか、それが今更《いまさら》なんの役に立つのか、いまの宗介にはなにも思いつかなかった。
接続完了《せつぞくかんりょう》。エンジンの出力を注意深く上げていき、機体をゆっくりと直立させる。たぶん、この白い <サベージ> が――ナミが愛した『クロスボウ』が、こうやって立ち上がるのは、これが最後だろう。
「いくぞ」
どこか陰惨《いんさん》でほの暗い炎《ほのお》を胸の中に抱《かか》えたまま、宗介はつぶやいた。
[#改ページ]
5:燃える男
その夜のナムサクの街《まち》は、一種|異様《いよう》な空気に包《つつ》まれていた。
夕刻《ゆうこく》までは例年《れいねん》通りだった気温《きおん》が、数時間のうちにおよそ摂氏《せっし》一〇度前後まで下がっている。これは熱帯《ねったい》に属《ぞく》するこの地方では通常《つうじょう》ありえない冷え込みで、観測史上《かんそくしじょう》でも有数の異常気象《いじょうきしょう》だった。
夜空には分厚《ぶあつ》く重たげな雲がとぐろを巻き、眼下《がんか》の街《まち》を威圧《いあつ》するかのように、不気味《ぶきみ》な雷鳴《らいめい》をとどろかせている。もっとも、この年は太平洋でも気圧の配置がおかしくなっていたため、その影響《えいきょう》が出ているにすぎないことだ。だが素朴《そぼく》な人々はこの寒さに、なにかの凶兆《きょうちょう》を予感《よかん》していた。
異様なのは天候《てんこう》だけではなかった。
興業《こうぎょう》が終わり寝静《ねしず》まっていたはずの闘技場《アレーヌ》で、一〇機ものアーム・スレイブがジェネレータを起動《きどう》させていたのだ。ディーゼルやガスタービンの咆哮《ほうこう》が大気を揺《ゆ》さぶり、ナムサクのうすら寒い夜空を震《ふる》わせる。それはいつもの興業《こうぎょう》がもたらす、荒《あら》っぽくもどこか陽気《ようき》な熱狂《ねっきょう》ではなく、もっと陰気で、獣《けもの》めいた殺意《さつい》の匂《にお》いをびりびりと漂《ただよ》わせていた。
まばゆい照明《しょうめい》の中で次々に生命を吹き込まれていく数々の機体《きたい》。
ソ連製のRk[#「Rk」は縦中横]―91[#「91」は縦中横] <サベージ> 。その改良型《かいりょうがた》のRk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横] <サベージ> 。Rk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]の北中国版コピー。フランス製の <ミストラル> と、その後継機《こうけいき》の <ミストラル2> 。ドイツ製の <ドラッヒェ> A型。イギリス製の <サイクロン> 。ほかにイスラエル製や南アフリカ製の機体まである。
それら機体の塗装《とそう》は軍用に扱《あつか》われるオリーブやカーキ、タンなどの迷彩《めいさい》ではなく、F1マシンを彷彿《ほうふつ》とさせるような極彩色《ごくさいしき》ばかりだった。スポンサーとなっている地元|企業《きぎょう》のロゴが書き込まれている機体も多数ある。
すべて闘技場《アレーヌ》での試合に出場しているASであり、その操縦士《そうじゅうし》たちは署長《しょちょう》の息がかかっている面々《めんめん》だった。彼らは緊急《きんきゅう》の呼集《こしゅう》を受けてこの闘技場に集まり、異例《いれい》の『仕事』の準備《じゅんび》にとりかかっているのだ。
整備《せいび》作業と起動《きどう》作業が進む中、署長を乗せたパトカーが闘技場に到着《とうちゃく》した。操縦士たちは、あらかじめ無線《むせん》で指示《しじ》を受けていた副署長から『仕事』の概略《がいりゃく》を説明されていて、互《たが》いにあれこれと威勢《いせい》のいい言葉や下世話《げせわ》な冗談《じょうだん》を交わしているところだった。弾痕《だんこん》だらけで窓《まど》ガラスの大半が砕《くだ》け散《ち》っているパトカーから署長が降《お》りてくると、副署長は荒《あら》くれ男たちに告《つ》げた。
「傾注《けいちゅう》しろっ!!」
署長は胸を反《そ》り返らせ、唇《くちびる》を引き締《し》めて男たちの顔を見渡《みわた》した。激《はげ》しい銃撃戦《じゅうげきせん》の現場《げんば》から、真《ま》っ青《さお》になって逃《のが》れてきたばかりの男にしては、まずまずの威厳《いげん》だった。
「……おおよその話は副署長から聞いているだろう。もうすぐ一人の男が操《あやつ》るASが、北からこのナムサクへとやって来るはずだ。奴《やつ》は危険《きけん》なテロリストであり、また薬物を服用して病的な被害妄想《ひがいもうそう》にとりつかれておる。諸君《しょくん》への依頼《いらい》は、奴との戦闘《せんとう》だ。奴がこの街に侵入《しんにゅう》し、善良《ぜんりょう》な市民に危害《きがい》を加える前に、諸君ら古強者《ふるつわもの》の手でしとめてもらいたい。確実《かくじつ》に殺すのだ。闘技場《アレーヌ》で磨《みが》いてきた腕《うで》を見せてくれたまえ」
淡々《たんたん》と喋《しゃべ》る署長の姿《すがた》を、男たちは疑惑《ぎわく》のまなざしで見つめていた。
「旦那《だんな》、質問していいですかい」
操縦士の一人が声をかけた。宗介と最初に試合したちんぴらのダオだ。
「言ってみたまえ」
「正直なところ、俺らがブチ殺す男が本当にテロリストかどうかなんてのは、興味《きょうみ》ねえんですよ。知りたいのは条件《じょうけん》でさぁ。俺ら、まだ報酬《ほうしゅう》も支援《しえん》も聞いちゃいねえってわけで。その辺のご説明を頼《たの》んますよ、旦那」
「わかっておる。まず全員に三〇〇〇ドル出す。これは戦果《せんか》のいかんにかかわらずだ」
署長が尊大《そんだい》に言うと、一同は目を丸くしたり口笛《くちぶえ》を吹いたりした。
「そしてテロリストを葬《ほうむ》った者には、その一〇倍の三万ドルを出そう。それから、おまけもある。先月、倉庫街《そうこがい》でガサ入れがあったのは知っているな? 中国人のディーラーが射殺《しゃさつ》された件だ。そこで押収《おうしゅう》した五〇キロほどのへロインが、明日《みょうにち》、『正式な手続き』で焼却処分《しょうきゃくしょぶん》される予定だ。そして同じ量《りょう》の『白い粉』を、明後日《みょうごにち》にだれかが偶然《ぐうぜん》入手《にゅうしゅ》し、それをどこでどうさばこうと、私は興味《きょうみ》を示《しめ》さない。この意味がわかるな」
ヘロイン五〇キロ。純度《じゅんど》にもよるが、さばき方|次第《しだい》では、末端《まったん》価格で一〇〇万ドルを軽く超える量である。もちろん途中《とちゅう》の手数料をさっぴけば、そのままの金額《きんがく》には及《およ》ばないだろうが、それでも破格《はかく》の報酬である。署長はそれを敵を葬った者に与えると、遠回しに言っているのだ。
「そいつはえらく魅力的《みりょくてき》だが……ちょいと気前が良すぎやしねえですかい、旦那」
ダオが言った。
「諸君が気にする必要はない。重要なのはテロリストを殺すことだ。そのために充分な品質の部品やオイル、燃料も用意してやった。そして……見るがいい」
ちょうど闘技場に五台のトレーラーが入ってくるところだった。トレーラーは一列でゆっくりとカーブを描《えが》いてこちらに近づくと、彼らの手前《てまえ》で停止《ていし》し、荷台《にだい》を開放した。そこには数々のAS用|携帯火器《けいたいかき》が、ごっそりと収容《しゅうよう》されていた。
ドイツ製の三五ミリライフル。同じくドイツ製の五七ミリ狙撃砲《そげきほう》。イタリア製の五七ミリ散弾《さんだん》砲。アメリカ製の三〇ミリガトリング砲。中には数挺《すうちょう》、スイス製の四〇ミリライフルまであった。液体|炸薬《さくやく》を使用する、ケースレス方式の最新鋭《さいしんえい》モデルだ。
「すげえ。エリコンだぜ」
「オットー・メララもマウザーもある」
「ボフォースもだ」
どれもたった一発で、乗用車を粉々《こなごな》にできるほどのすさまじい威力《いりょく》を持っている。男たちが色めき立つのを見渡してから、署長は言った。
「これら火砲《かほう》の火器管制《かきかんせい》システムの暗号化《あんごうか》はしていない。好きなものを選んで、好きに使え。充分な弾薬《だんやく》もある」
「そいつはありがてえけどよ、署長さん。こんなもんぶっ放してもいいのかい? ナムサクにお住いの『善良《ぜんりょう》な市民』とやらもただじゃすまねえぜ」
男たちがげらげらと笑った。すると弾痕《だんこん》だらけのパトカーから、黒ずくめの男――クラマが降《お》りてきてAS乗りたちに告げた。
「聞いていただろう。署長どのは『好きに使え』とおっしゃったんだ」
AS乗りたちはすこしの間、品定めするようにクラマと署長を見つめてから、にやりと口の端《はし》を吊り上げた。
「どうやら遠慮《えんりょ》はいらねえようだな」
「前からやりたかったんだよ、こういうのが」
「獲物《えもの》は『クロスボウ』だってな。あのクソ生意気《なまいき》なド新人だ」
「ロクな武器も持ってねえそうだな。安心しなって、ぶっ殺してやるから」
ダオやその他の男たちは、お目当《めあ》ての火器を手に入れるために、我先《われさき》に自機へと駆《か》け戻《もど》っていった。
奪《うば》い合うようにして様々《さまざま》な火器をつかみ、極彩色の巨人たちが闘技場から出ていこうとする。大地を震《ふる》わす重々しい足音と共に去っていく一〇機のASを見送りながら、署長はクラマに言った。
「いま報告《ほうこく》が入りましたぞ。ナムサクの北一五キロの農村近くを、白いASが通過《つうか》して南に向かったと。やはり奴はやる気ですな」
「そう言っただろう」
[#挿絵(img/08_239.jpg)入る]
凝《こ》った首を右手でもみほぐしながら、クラマは言った。
「あのチンピラどもで、奴が止められるかどうかは怪《あや》しいところだがな」
「まさか。完全装備《かんぜんそうび》のASが一〇機ですぞ。操縦兵とて新兵ではない。M9では不覚《ふかく》をとりましたが、今度ばかりは……」
「そう願ってるよ。だが、こちらも準備はしておこう」
「準備?」
「こちらで勝手《かって》にやる。それから無線を用意してくれ。奴にゴール地点を教えてやらなきゃならんからな」
「ゴール地点?」
怪訝顔《けげんがお》をした署長には一瞥《いちべつ》もくれずに、クラマは言った。
「ここ[#「ここ」に傍点]だよ」
油圧系《ゆあつけい》をだましだまし使いながら、宗介《そうすけ》の白い <サベージ> は、低木の生《お》い茂《しげ》るなだらかな丘陵《きゅうりょう》を南へと走っていた。
舗装《ほそう》された道路を何度か横切り、ナムサクに近づくにつれ、低所得者《ていしょとくしゃ》向けの住宅がちらほらと目に入るようになる。ここから市街地《しがいち》の中心部に入るためには、市の北西を湾曲《わんきょく》しながら北へ向けて流れているシェントン川を越えなければならなかった。
本来は渡河能力《とかのうりょく》を備《そな》えている <サベージ> だが、その能力はシュノーケルなどの給排気機構《きゅうはいききこう》を装備しているときに限られる。機体に多くのダメージを受け、電気系統《でんきけいとう》の水密《すいみつ》も確認《かくにん》されておらず、あまつさえ水深《すいしん》すら把握《はあく》できていない現状《げんじょう》では、川に入っていくのはほとんど自殺行為《じさつこうい》だった。
一二トン超の <サベージ> が渡れる頑丈《がんじょう》な橋は、近くに二つある。街道《かいどう》から続くプリノコ橋と、そこから一キロ南にあるワサルー橋。どちらにも警官隊《けいかんたい》が待ち受けているのは間違《まちが》いないだろう。ナムサクで暮《く》らしている間に、頭に叩き込んでおいた地形を吟味《ぎんみ》してから、宗介はプリノコ橋を選んだ。一番の理由は市中心部への近道だからだ。
クラマが大急ぎで自分から逃げるつもりならば、奴はすでに空港に着いていることだろう。だがミシェル・レモンからの無線では、クラマはまだ空港に現れていないということだった。レモンはいまも宗介に遅《おく》れて車でこのナムサクに向かっている最中《さなか》だったが、彼の仲間のDGSEのエージェントが空港を監視《かんし》しているのだ。
クラマはまだナムサクのどこかにいる。
こちらが街まで追ってくるとまでは思っていないのか、あるいはなにかの不都合《ふつごう》で脱出《だっしゅつ》が遅れているのか――
(いや……)
そんなはずはない。待っているのだ。
相応《そうおう》の準備を整《ととの》え、戦力を揃《そろ》えて、自分を迎《むか》え討《う》ち、しとめようとしている。今度こそ確実《かくじつ》に殺そうと決心している。
宗介にはそれがよくわかった。決して超《ちょう》自然的な理由によるものではなく、ごく当たり前にそう感じるのだ。クラマは宗介の怒《いか》りを知っている。宗介もまた、クラマがそれを知った上で行動《こうどう》しているだろうと思う。互《たが》いにプロで、互いに味方《みかた》を殺されている。
プロならここでごり押《お》しをせずに、危険《きけん》を避《さ》けて次の機会《きかい》を待つものなのかもしれない。相手がクラマでなければ、宗介もそう考えただろう。
だが、今回は違う。
合理的《ごうりてき》な戦術《せんじゅつ》を山ほど積《つ》み上げたその先にあるのは、非《ひ》合理と不条理《ふじょうり》の超数学だ。一足す一が二になることは誰《だれ》でも知っているが、それ以外の数字になることがあるのを、人々は知らない。それを理解《りかい》できるのは数字の奥に潜《ひそ》む生死の線上をさまよう男たちだけであり、その男たちですら、これを他者《たしゃ》に説明することはできない。
いびつな意味でいえば、宗介とクラマは戦友なのだ。
もちろん互いに暗く燃えさかる憎悪《ぞうお》を抱《いだ》きあい、決して和解《わかい》することはないだろう。だが、なにかが通じ合っている。ちょうどあのガウルンが、香港《ホンコン》の一室で宗介の本質を正確に見抜いたように。
機体がプリノコ橋の近くまできた。
川の幅《はば》はおおよそ六〇〇メートル程度《ていど》で、黒い水面《すいめん》がまばらな街灯《がいとう》の光を受けてちらちらと輝《かがや》いている。いや、街灯だけではなく回転する青色灯《せいしょくとう》の光もだ。
橋の手前《てまえ》に二台のパトカーと一台の装甲車《そうこうしゃ》が停まっていて、検問所《けんもんじょ》を作っていた。武器《ぶき》は警官たちが手にした散弾銃《さんだんじゅう》やカービン銃のほかは、装甲車の屋根にしつらえられた回転銃座《ターレット》の機関銃《きかんじゅう》くらいしか見あたらない。
宗介は表情ひとつ変えずに、機体の動力レベルを操作《そうさ》した。くたびれたエンジンの顔色をうかがうようにして、微妙《びみょう》に、慎重《しんちょう》に。だが断固《だんこ》として。
たちまち油圧計が小刻《こきざ》みに揺《ゆ》れ、元から危《あや》うかった機体温度の針《はり》がみるみる上昇《じょうしょう》を始める。
大丈夫《だいじょうぶ》だ、まだいける。
今夜の外気温は、この地方にしては異例《いれい》の寒さだ。
<サベージ> のエンジンがうなり、大地を踏《ふ》みしめる足の運びが加速《かそく》していった。
警官たちが『止まれ』と警告する。宗介は止まらない。銃撃を受けた。<サベージ> にとっては歩兵用のライフル弾《だん》など小雨《こさめ》のようなものだ。機体はさらに加速していき、装甲車を蹴《け》り飛ばす。
突破《とっぱ》。
横転《おうてん》する装甲車。逃げまどう警官たち。
なおも宗介は機体を急がせ、橋をまっしぐらに渡っていく。遮蔽物《しゃへいぶつ》のまったくない橋の上を、一秒でも早く通過《つうか》したかった。
橋を渡りきる。そのまま低いビルが連なる市街地《しがいち》に駆け込み、急制動《きゅうせいどう》をかける。<サベージ> の踵《かかと》がアスファルトをえぐり、白い砂埃《すなぼこり》が路上《ろじょう》にたなびいた。
「…………」
エンジンの出力《しゅつりょく》をぎりぎりまで下げて、腰《こし》を落とし、周囲《しゅうい》を警戒する。
その地域《ちいき》の住民たちが五、六人ほど路上に出てきて、こちらを指さしてなにかを叫《さけ》んでいた。車道をASが歩き回ることも珍《めずら》しくないこのナムサクだが、住民たちも <サベージ> のただならぬ気配《けはい》を察《さっ》してか、わざわざ近づいて来ようとはしなかった。
耳をすましてみても、たいしたことは分からない。M9の高性能《こうせいのう》センサとはわけが違うのだ。動き続けた方が得策《とくさく》だと判断《はんだん》し、宗介は機体を立ち上がらせようとした。
『敵機《てっき》』に気付いたのはそのときだった。
二機のASが街路《がいろ》の向こう、四ブロック先の角を通り過《す》ぎていった。<サベージ> と <ミストラル2> 。手にはそれぞれ散弾砲《さんだんほう》とライフルを持っている。
軍用ではない。<サベージ> は派手《はで》なパープルで、<ミストラル2> はレッド、イエローのツートンカラーだ。
闘技場のASだ。
署長たちが連中を雇《やと》ったのだろう。ベテランの操縦兵に充分な火器。厄介《やっかい》な相手だった。対するこちらの武器といったら、HEATハンマー一本のみだ。
敵機がこちらに気付いて引き返してくる。
宗介はふたたび自機のエンジン出力《しゅつりょく》を上昇《じょうしょう》させた。敵の照準《しょうじゅん》を避《さ》けてビルの物陰《ものかげ》に機体を走らせる。
「はじめるか……」
宗介は底冷えのするような声でつぶやき、自機のHEATハンマーの安全ピンを解除《かいじょ》した。同時にその動作は、彼自身の中でしっかりと鍵《かぎ》のかかっていた安全装置も解除されたことを意味していた。
その <ミストラル2> ――リングネーム『ダイアモンド・ヘッド』の操縦者は、隣《となり》を走る味方の <サベージ> と特別な連携《れんけい》を組んでいるわけではなかった。たまたま近い場所に陣取《じんど》っていて、プリノコ橋の警官隊からの報告を受け取り、真っ先にそちらへと向かっただけのことだ。
むしろ隣《となり》の <サベージ> ――リングネーム『スーパースター』とは、二勝五敗一分という芳《かんば》しくない対戦《たいせん》成績で、ぜひともここで出し抜いてやりたい相手ですらあった。
「いたぞ、すぐ先だ」
「へっ、のこのこ歩きやがってよ。間抜《まぬ》けな野郎《やろう》だぜ」
「道を譲《ゆず》りやがれ! 俺の獲物《えもの》だぞ」
三万ドルとヘロイン五〇キロ。
あの白い <サベージ> ――『クロスボウ』を始末《しまつ》するだけで、それが手に入るのだ。場合《ばあい》によっては、『スーパースター』の背中を撃《う》つことも考えねばならないだろう。
だが直後に、『ダイアモンド・ヘッド』がライバルの背中を撃つ必要はまったくなくなった。
一度こちらから逃げるようにしてビルの向こうに姿を消した『クロスボウ』が、軽いステップで再度《さいど》現れた。
火器は持っていない。距離《きょり》はおおよそ二〇〇メートル程度。
こちらが照準《しょうじゅん》動作をしているうちに、敵機は無造作《むぞうさ》に右|腕《うで》を振《ふ》りかぶり、なにかを勢《いきお》いよく投げつけた。ちょうど投げ斧《おの》のような要領《ようりょう》で、鋭《するど》い回転をかけながら。その物体《ぶったい》がHEATハンマーだと悟《さと》ったのは、『スーパースター』の胸にそれがぶつかり炸裂《さくれつ》した瞬間《しゅんかん》だった。
成型炸薬弾《せいけいさくやくだん》の爆発エネルギーが『スーパースター』の装甲《そうこう》を貫《つら》き、機体内部にすさまじい高熱を叩《たた》き込んだ。たちまちその <サベージ> は燃え上がり、散弾砲《さんだんほう》を放り出して前のめりに転倒《てんとう》する。
「くそったれが!」
『ダイアモンド・ヘッド』は爆炎《ばくえん》にあおられてよろめきながらも、その場に膝《ひざ》をついて発砲した。ライフルから三五ミリ砲弾が吐《は》き出され、その衝撃波《しょうげきは》が街路に充満《じゅうまん》する黒煙《こくえん》を、同心円状《どうしんえんじょう》に叩き散らした。
「やりやがったな!? このクソガエルめ! ガキの分際《ぶんざい》で刃向《はむ》かおうってのか!? 殺してやる! 殺してやるぞ!」
あらん限りの悪罵《あくば》をわめき散らしながら、『ダイアモンド・ヘッド』は発砲し続ける。だが熱でゆがみ、爆煙でかすんだ視界《しかい》では、ろくな照準さえできなかった。
砲弾がむなしく空を切り、何軒《なんげん》かの古いビルをずたずたに引き裂《さ》く。
手応《てごた》えがない。我に返った彼が改《あらた》めて敵機の位置を確認《かくにん》しようとしたときには、すでに数歩先まで『クロスボウ』が迫《せま》っていた。それこそ胸部装甲《きょうぶそうこう》がアスファルトにこすれそうな低姿勢《ていしせい》で、一気に肉薄《にくはく》してきたのだ。
「な――」
力まかせのタックル。
天地が逆《さか》さまになるような衝撃が襲《おそ》いかかる。
いや、実際《じっさい》に機体は転倒《てんとう》していた。ノイズのちらつくスクリーンの中で、姿勢《しせい》を示すジャイロの表示が激《はげ》しく回転する。<サベージ> と比較《ひかく》して装甲、重量《じゅうりょう》ともに上の <ミストラル2> だったが、この衝突を跳《は》ね返すほどの安定性は持ち合わせていなかった。
「くそっ! くそっ、くそっ、くそっ!!」
衝撃|吸収《きゅうしゅう》システムの反動で舌を咬《か》みそうになりながら、彼は手足を操《あやつ》り機体の姿勢を引き起こそうとした。だが、光学センサがとらえる風景がようやく普通《ふつう》にもどり、機体が水平に戻ったときには、目の前に白い <サベージ> が立ちはだかって、散弾砲をこちらにまっすぐ向けていた。
敵は撃破《げきは》されたはかりの『スーパースター』が落とした散弾砲を拾《ひろ》ったのだ。その砲口が、不気味《ぶきみ》な光沢《こうたく》を放ってコックピットを狙《ねら》っている――
敵の <サベージ> が散弾砲を一発|撃《う》った。その砲弾は <ミストラル2> の股間《こかん》部分の対人・対物用機関砲を破壊《はかい》した。
敵機の操縦士が質問する。
『言え。あと何機いる』
「そっ……」
『クロスボウ』がもう一発撃った。『ダイアモンド・ヘッド』の右腕が吹き飛ぶ。
「やめろっ! は、八機だ!」
『黒いコート姿の男を見なかったか。大柄《おおがら》・短髪《たんぱつ》の東洋人だ』
「そ、それなら見た。闘技場で署長と一緒《いっしょ》にいたのを――」
さらに敵が発砲。すさまじい砲声と衝撃。彼の機体は数メートルほどアスファルトの上をすべり、煙《けむり》を出して停止する。必要な情報さえ聞けば、こちらを生かしておく道理《どうり》などない。今度こそ殺されたと思った『ダイアモンド・ヘッド』の操縦士は、固く閉《と》じていた目を開き、恐怖《きょうふ》の涙《なみだ》でにじむ目を何度もぱちくりとさせた。
「ひっ……うっ?」
敵はすでにその場を去っていた。市街の中心部に向けて。
一瞬《いっしゅん》、彼の胸中に『追いかけて殺してやろう』という強い衝動が膨《ふく》れ上がったが、すぐに無理《むり》だと分かった。機体の両腕が吹き飛ばされている。これでは立ち上がることもおぼつかない。
「ふ……ふざけやがって! 慈悲《じひ》のつもりか!? 次に会ったら必ず殺してやる! いや、どうせてめえは助からねえ! ざまあみろだ! くたばりやがれ! 地獄《じごく》でのたうちまわるがいい!」
まだ生きていた外部スピーカーで呪《のろ》いの言葉を投げつける男の声が、冷え切ったナムサクの街にこだました。
そんな悪罵など意《い》にも介《かい》することなく、宗介は機体を市中心部へと急がせた。
敵から奪《うば》った携帯火器《けいたいかき》がすぐに使えたのは幸運だった。正規軍《せいきぐん》ではまずないことだ。普通の場合、人間と違ってASの携帯火器は、敵軍に拾われた時に使われないよう、発射《はっしゃ》システムに暗号化が施《ほどこ》されている。その暗号を突破《とっぱ》して武器をわがものとするためには、最高のAIを備えたM9ですら相応《そうおう》の時間が必要《ひつよう》なのだ。
しかも――
(どういう縁《えん》だろうな)
自機の <サベージ> が携《たずさ》えた散弾砲、オットー・メララ社|製《せい》の <ボクサー> 五七ミリ砲をちらりと見て、宗介は内心でつぶやいた。それは彼が <ミスリル> で <アーバレスト> に乗っていたとき、好んで使用した武装《ぶそう》だったのだ。
無線《むせん》のオープン・チャンネルに呼びかけが入った。
『聞こえるか、サガラ』
相手はほかでもないクラマの声だった。
「感度良好《かんどりょうこう》とでも言えばいいのか?」
『闘技場《アレーヌ》にいる。その気があるなら来てみるといい』
「逃げないのか。後悔《こうかい》するぞ」
『それはどうかな』
無線はそれきり途切《とぎ》れた。いまの互いにとって、余計《よけい》な会話は必要なかった。向こうはこちらを誘いこんで殺そうとしている。こちらも乗り込んで殺そうとしている。駆《か》け引きも妥協《だきょう》も、一切《いっさい》入り込む余地《よち》はない。
そうだ、クラマ。
貴様《きさま》もやる気なんだろう。俺もやる気だ。
これ以上、なにかを考える必要などない。明確《めいかく》な殺意。明確な憎悪《ぞうお》。『これが生命《せいめい》』か。そればかりは俺も同意《どうい》できる。必ず貴様を殺してやる――
警告音。
宗介はすぐに物思《ものおも》いから引き戻される。
機体温度が下がらない。油圧系のメーターがおぼつかない。駆動《くどう》系のあちこちからかりかりと異音《いおん》がする。わずか一〇分前に補正《ほせい》したはずのジャイロが、さっそく妙《みょう》な具合《ぐあい》に狂《くる》いはじめている。
この『クロスボウ』が度重《たびかさ》なる酷使《こくし》に音《ね》を上げて行動不能に陥《おちい》るまで、そう長い時間はかからないだろう。
急がねばならない。
そのおり、新たな警察車両の封鎖線《ふうさせん》に遭遇《そうぐう》した。パトカーが二台のみ。先ほどと同様《どうよう》、小火器しか備えていない。交戦はまったくの無駄《むだ》だと判断《はんだん》し、宗介は一発も撃たずにその封鎖線を強行突破《きょうこうとっぱ》した。
移動《いどう》するうちに、周囲の市街地のビルの背丈《せたけ》が高くなってきた。街灯《がいとう》の数も。通行人の数も。あの署長たちは、この付近《ふきん》が交戦エリアになることを知った上で、市民の避難《ひなん》もさせていないのだ。
格子状《こうしじょう》の市街地の中、街灯とネオンの影《かげ》の中に三機のASが現《あらわ》れた。
最初からそこにいたのか、遅《おく》れてこちらに駆けつけたのか。<サベージ> と <ドラッヒェ> と <サイクロン> 。ソ連製にドイツ製にイギリス製だ。あそこまで多彩《たさい》な機種《きしゅ》の組み合わせは、中東をはじめ様々《さまざま》な紛争地帯《ふんそうちたい》を転々《てんてん》としてきた宗介でも、ほとんど見たことがなかった。
敵が撃ってきた。
宗介機の周りで砲弾《ほうだん》が炸裂《さくれつ》し、ガラスやコンクリートの破片《はへん》が好き放題《ほうだい》に跳《は》ね回る。ろくな照準もしていない。こちらの火器管制システムはほとんど死んでいるが、向こうのそれとてお粗末《そまつ》なものだった。条件は五分だ。
「……っ!」
熟練《じゅくれん》した足さばきで機体を回避《かいひ》機動させ、完全なマニュアル操作で照準。真ん中の <ドラッヒェ> に散弾砲を向ける。
発砲。
外れた。光学センサと照準システムの誤差《ごさ》がひどい。弾道を読み直して、もう一度発砲する。五七ミリ砲のはげしい振動《しんどう》で機体がゆれた。今度は命中。敵ASは火花を散らして吹き飛び、後ろのポルノショップに叩きつけられて白煙を吹き散らす。
ひるみながらも、敵はなおも発砲してきた。
宗介は機体をひねり、手近なビルに身を隠す。もちろん敵弾を防《ふせ》ぐためには、この程度の遮蔽物《しゃへいぶつ》など役にたたない。三五ミリ砲弾の前では安普請《やすぶしん》のビルの壁《かべ》など、砂糖菓子《さとうがし》のようなものだ。何枚重ねようと粉々になる。
貫通《かんつう》した敵弾が破片をまき散らし、そのうち数発が宗介の <サベージ> にも食い込んだ。
がつん、と強い衝撃が襲う。
まだ大丈夫《だいじょうぶ》だ。ビルに当たった敵弾は横弾になった。こちらの装甲に深刻《しんこく》なダメージは与えていない。狂《くる》ったジャイロを補正《ほせい》しながら、宗介は機体を走らせる。
あっさり転倒してもおかしくないほど機体は疲労《ひろう》していたが、『クロスボウ』はそうならなかった。
なぜか?
それがこの機体のソフトウェア――オペレーション・システムのおかげだということに、宗介はようやく気付いた。
おんぼろの機体がはげしい取っ組み合いをしても対応《たいおう》できるように、本来《ほんらい》のプログラムの上に、さまざまな創意工夫《そういくふう》が施《ほどこ》してある。宗介がアフガン時代に使っていた同型の <サベージ> だったら、こうは行かなかっただろう。とうの昔に転倒するなり照準を外すなりしていたはずだ。そして敵はその隙《すき》を見逃《みのが》さなかったことだろう。
だれがこのOSを改良《かいりょう》したのか。
だれがこの機体の面倒《めんどう》をみていたのか。
それを思い出し、冷静さを保《たも》っていた宗介の胸になにかの火がついた。いや、火などといった弱々しいものではない。その激情《げきじょう》がもっとはげしく、見る者の目を痛くするはどの電光《でんこう》をほとばしらせるような強さだった。
邪魔《じゃま》をするな――
宗介はつぶやき、『クロスボウ』を駆《か》り立てた。スクリーン内のすべての数値《すうち》、フレームを通して伝わってくるすべての感覚を瞬時《しゅんじ》に読み取り、機体を適切《てきせつ》に制御《せいぎょ》し、敵機の死角へと誘導《ゆうどう》させた。
あの位置から撃たれたなら、敵はどう動くはずか。自身はどこに移動《いどう》すべきか。
たとえセンサの性能が劣《おと》っていようとも、当然のようにそれがわかった。敵から見えないビルの谷間を駆け抜け、宗介の <サベージ> はすばやく目論見《もくろみ》どおりの位置をとった。敵機は―― <サイクロン> は一軒のビルをはさんだ向こう側にいる。
停止。照準。タイミングをはかる。
ビル越しに発砲。
建材《けんざい》を貫《つらぬ》き、五七ミリ砲弾が敵のわき腹《ばら》に命中する。<サイクロン> は炎上《えんじょう》しながら横へと倒れた。
これで四機。
残った敵の <サベージ> が発砲してきた。これもでたらめな攻撃だ。それどころか、自身の位置を暴露《ばくろ》している。宗介は冷静に機体をひざまずかせ、残った <サベージ> に散弾砲の徹甲弾《てっこうだん》を叩き込んだ。
五機。
搭載《とうさい》されていたジェット燃料《ねんりょう》に引火《いんか》したのだろう。すさまじい轟音《ごうおん》と共に燃《も》え上がる敵機の爆風《ばくふう》が、付近のビルの窓《まど》ガラスを粉々にした。
邪魔をするな――
暗い瞳《ひとみ》でとなえながら、機体を走らせる。さらに三機の敵が現れた。有無《うむ》をいわさず二機を撃破。
邪魔をするな――
もう一機の反撃を浴《あ》びる。すでにぼろぼろの胸部《きょうぶ》装甲に被弾《ひだん》。貫通《かんつう》した砲弾の破片がコックピットまで達し、左面のスクリーンを叩き割《わ》る。飛び散ったプラスチックが跳ね回り、宗介の側頭部《そくとうぶ》を浅く切った。
邪魔をするな……!!
苦痛など意に介《かい》さなかった。機体の状態《じょうたい》を確《たし》かめる。左半身の油圧系に深刻《しんこく》な損害《そんがい》。それでも <サベージ> はまだ動く。動けなくなるまでは、ほとんど秒読み段階《だんかい》だったが。
散弾砲を照準し、発砲。
命中。撃破《げきは》。
これで八機。
『クロスボウ』の機体システムをせわしく操作《そうさ》し、左足の油圧をどうにか回復《かいふく》。まだだ。このおんぼろはまだ動く。
散弾砲の残弾は二発。うち一発をもう一機の敵に叩き込み、宗介は機体を闘技場へと駆り立てた。
九機。
水銀灯《すいぎんとう》の明かりの中に浮《う》かぶサッカースタジアムの外観《がいかん》が近づいてくる。闘技場の前で待ち受ける警官隊のパトカーと装甲車が目に入ったが、彼らは混乱《こんらん》していてまともな迎撃態勢《げいげきたいせい》さえ整《ととの》えていなかった。宗介がこれほど早く、この場に現れると考えていなかったのだろう。
パトカーの一台に乗り込もうとしている署長の姿が見えた。明らかに|狼狽《ろうばい》しており、周囲の部下に向かって『撃て』と命令している。歩兵のライフルではASを傷つけることなど、ほとんど不可能だというのに――
不意《ふい》に頭上から怒鳴《どな》り声がした。
『おおおっ!!』
外部スピーカー越しの雄叫《おたけ》び。単分子《たんぶんし》カッターを銃剣《じゅうけん》にしてにライフルを装備したM6が、待ち伏せしていたピルから飛び降り、宗介に迫《せま》ってくる。
数発の砲撃がふりそそいだ。『クロスボウ』はすばやく――あくまで <サベージ> の基準《きじゅん》での『すばやく』だったが――前転《ぜんてん》し、M6の攻撃をぎりぎりでかわした。砕《くだ》け散ったアスファルトの破片が白煙となり、機体の周囲で渦《うず》を巻く。
銃剣の切っ先が襲いかかるのと、宗介機の散弾砲が敵機を捉《とら》えるのは、ほとんど同時だった。
「……っ!」
宗介がトリガーを引くと、<サベージ> の間近《まぢか》で爆発《ばくはつ》のような閃光《せんこう》がほとばしった。散弾砲に残った最後の一発は、頭上から飛来《ひらい》したM6の右|肩《かた》を吹き飛ばし、武器ごとその腕をくるくると空中で回転させた。放《ほう》り出された敵の銃剣付きライフルは、そのまま地面に垂直《すいちょく》に突《つ》き刺《さ》さり、激《はげ》しく振動しながら手近なパトカーの上に倒れ込んで、その後部座席を押し潰した。
『くそったれめ! これまでの借りを返してやるぞ!』
そこで初めて、相手の声に気付いた。ダオだ。口汚《くちぎたな》い呪《のろ》いの言葉を吐《は》きながら、まだ生きている左腕で、機体の腰に装備していた単分子カッターを引き抜き、宗介の <サベージ> めがけて振《ふ》りかざしてくる。はげしい熱狂《ねっきょう》と共に襲《おそ》いかかるその切っ先を、宗介は弾切《たまぎ》れの散弾砲で打ち払《はら》った。
『死ねっ、サガラ!! 死にやがれっ!!』
警報音。
がくりと膝《ひざ》の力が抜けた。『クロスボウ』の油圧系が急激《きゅうげき》に力を失っていく。機体の損傷《そんしょう》と疲労《ひろう》はもはや限界《げんかい》だった。
(こんなときに……!)
宗介はすばやく油圧系の動力をあきらめ、マッスル・パッケージの力だけで機体を動かし、仰向《あおむ》けのまま、いましがた落ちたばかりの銃剣付きライフルに手を伸《の》ばした。
ぞっとするほど緩慢《かんまん》な動き。しかしこれでも最大限だ。これ以上はない。
『無駄《むだ》だ! クソ野郎がっ!』
その意図《いと》を察《さっ》したダオのM6は、<サベージ> の手が銃に届《とど》く前にとどめを刺そうと、単分子カッターを胸部に――コックピットに突き立てようとしてきた。
「っ……!!」
右手で銃を探りながら、かろうじて駆動《くどう》する左腕を盾《たて》にする。ダオの単分子カッターがその左腕に突《つ》き刺さり、豪雨《ごうう》のような火花を散《ち》らす。腕部《わんぶ》の装甲、マッスル・パッケージ、そしてフレームが次々に断《た》ち切られ、さらには胸部装甲に侵食《しんしょく》してくる。
『は、はははっ! くたばれえぇぇっ!!』
ヒステリックなダオの叫び声。
鋳造《ちゅうぞう》装甲を断《た》ち切るすさまじい振動と騒音《そうおん》。
自機の胸部が切り裂《さ》かれていく。コックピットまであとすこし。あと数十センチで、宗介自身の肉体が真っ二つになる。そしていまこの瞬間も、制御系統《せいぎょけいとう》はずたずたになっていく。モニターのほとんどがダウンし、脚部《きゃくぶ》の制御も完全に利《き》かなくなった。もうお手上げだ。
普通のASなら、もはやこの段階で機体の制御機能を失って操縦者の死を待つだけだったことだろう。M9ですら、あの <アーバレスト> ですらそうなったはずだ。
だが。
だというのに、それでも『クロスボウ』の右腕――自由な方のマニピュレーターはまだ動いていた。しぶとく大地に転がったライフルを探り続けていた。
シンプルにしてタフな <サベージ> のシステムは、ここまで来ても死んではいなかったのだ。このアーム・スレイブ史上に残る傑作機《けっさくき》は、どこまでも――最後の最後まで操縦者を見捨《みす》てようとはしなかった。
「!」
右手がライフルを探り当て、そのグリップをがっしりと握《にぎ》った。
砲口《ほうこう》が上を向く。照準は要らない。のしかかるM6の胴体《どうたい》にライフルを押し付ける。強制撃発装置《きょうせいげきはつそうち》を作動《さどう》。四〇ミリ砲弾が、ダオめがけて吐《は》き出される。被弾《ひだん》した機体がはげしく震えた。
沈黙《ちんもく》。
仰向《あおむ》けになった <サベージ> の上に覆《おお》いかぶさった姿勢《しせい》のまま、M6は動かなくなった。宗介を肉片にしようとしていた単分子カッターも停止する。両者の関節《かんせつ》や被弾|箇所《かしょ》からは、ぼたぼたとオイルが血のように漏れ、あたりに白い煙《けむり》と蒸気がたなびいた。
ダオの罵声《ばせい》も止んでいた。
これで一〇機。
「…………」
宗介は深いため息をつくと、硬直《こうちょく》したM6を押しのけようとした。
だが、機体が反応《はんのう》しない。
すでに宗介の <サベージ> は完全に機能《きのう》を失っていた。油圧系はもちろん、電気系も駆動系も死んでいた。いつのまにかエンジンも停止している。この機体が動くことはもう二度とない。
『クロスボウ』は任務《にんむ》を終えたのだ。
宗介は無言《むごん》で機体の緊急脱出用《きんきゅうだっしゅつよう》レバーを引いた。頭頂部《とうちょうぶ》のハッチが爆発ボルトで吹き飛ばされる。コックピットから這い出し、ハッチの裏に備えておいたカービン銃と、その予備弾倉《よびだんそう》を手に取る。
警官たちはとうの昔に逃げていた。ASの取っ組み合いを間近《まぢか》で見るような愚《おろ》か者はいない。遠くから罵声と悲鳴《ひめい》が聞こえてくるばかりだ。
ふと見ると、ダオとの戦闘《せんとう》で叩《たた》き潰されたパトカーの中に、知っている顔の遺体《いたい》があった。
署長だ。
闘技場から避難《ひなん》するところで、自分の戦闘に巻き込まれてしまったのだろう。運の悪い男だ。因果応報《いんがおうほう》という気にもなれない、くだらない最期だった。だが宗介にとって、署長はもはや関心の対象《たいしょう》ではない。
瓦礫《がれき》の散らばった路上を踏《ふ》み越え、油断《ゆだん》なくカービン銃を構え、彼は闘技場の入り口へと走っていった。
[#挿絵(img/08_263.jpg)入る]
この中にクラマがいるのだ。
どんな待ち伏《ぶ》せがあるにせよ、入っていかないわけにはいかなかった。
闘技場《アレーヌ》の奥深くにある警備室《けいびしつ》で、黙々《もくもく》と迎撃《げいげき》の準備《じゅんび》を進めていたクラマにとっても、宗介の『到着《とうちゃく》』は予想外の早さだった。
一〇機ものASを投入《とうにゅう》していながら、ろくな足止めさえできなかったとは。
「役立たずどもめ」
ひとりで毒《どく》づき、五・五六ミリ弾を詰《つ》め終えた弾倉《だんそう》を、ドイツ製のライフルに叩き込む。
予備弾倉は二つ。
時間がなくて手榴弾《しゅりゅうだん》などの爆発物はほとんど揃《そろ》えることができなかった。
トラップもだ。闘技場内の一か所だけに、なけなしのC4爆薬を遠隔起爆《えんかくきどう》方式で仕掛《しか》けるのがせいぜいだった。
だが、それで充分《じゅうぶん》だ。
敵を巧《たく》みにトラップの前まで誘《さそ》い込めば、あとはボタン一つでしとめることができるだろう。ただ、あの相良宗介がすんなりと罠《わな》にかかるかどうかは、まさしく神のみぞ知るところだった。
逃げるなら、まだ間に合うだろう。
決して弱気からではなく、冷静な戦術眼《せんじゅつがん》をもって、クラマはここで撤退《てったい》するか否《いな》かを吟味《ぎんみ》してみた。逃げる理由はさして思いつかなかった。相良宗介の戦闘技能を侮《あなど》ってはいなかったが、自分のそれが奴に劣《おと》っているわけでもない。
殺しておこう。
さっさと片づけてから、この街を離《はな》れる。首都の国際空港から北米行きの便に乗り換えて――そう、席はファースト・クラスにしよう。離陸時《りりくじ》に飲むつもりの上等なシャンパンは、奴を殺しておいた方がうまいに決まっている。
クラマはライフルを無造作《むぞうさ》につかむと、音もなく警備室を出ていった。
宗介はカービン銃をまっすぐに構え、闘技場内の一階通路を早足で進んでいた。
もともとサッカースタジアムとして建設《けんせつ》されたこの施設《しせつ》は、中央の競技場《きょうぎじょう》をぐるりと取り囲むように大きな回廊《かいろう》がある。それら回廊を挟《はさ》むようにして各種の階段やトイレ、売店や小部屋が配置《はいち》されている構造《こうぞう》だ。
どこにクラマがいるかはまだわからない。トラップの類も同様《どうよう》だったが、そう多くを仕掛ける時間はなかったはずだ。
右足のブーツの中が、ぐっしょりと湿《しめ》っていて歩きづらい。
自身の血で塗《ぬ》れているのだ。
ASの中をはね回った破片が、右|大腿部《だいたいぶ》に食い込んでいる。そこからの出血だろう。
歩くたびに押しては引いていく、焼けるような苦痛の波。ただでさえ薄暗《うすぐら》い視界《しかい》がかすみ、頭がぼおっとしてくる。いまでは自分自身の体も、あの『クロスボウ』と似《に》たり寄ったりの状態《じょうたい》だった。
回廊の天井《てんじょう》は高く、大きなガラス窓から外の街灯《がいとう》と火災《かさい》の光がさしこみ、異様《いよう》に縦長《たてなが》の影《かげ》を生《う》んでいた。
宗介自身の影も回廊の内側の壁面《へきめん》に映り、薄気味《うすきみ》悪い形にゆがんでは踊《おど》っている。その影はまるで悪魔《あくま》か死神《しにがみ》のようだった。無骨《ぶこつ》なカービン銃を突《つ》き出し、炎《ほのお》が中に揺《ゆ》れ、粛々《しゅくしゅく》と進んでいく幽鬼《ゆうき》の姿《すがた》。
視界の片隅《かたすみ》でそれを見ながら――そして敵の姿や痕跡《こんせき》を追い求めながら――宗介はふと気付いた。
悪魔、死神。
それはまさしく自分のことなのではないか?
ここまで、この回廊にやってくるまで、自分はどれだけの人間を死に追いやったのだろうか?
自分がこうして走っている理由には、彼らの死にひきあうだけの価値《かち》があるのだろうか?
クラマを殺すこと、それ自体が本当の理由とはいえない。究極的《きゅうきょくてき》には奴を追いつめ、<アマルガム> の情報を吐かせることこそが本当の理由だったはずだ。
そのために自分はああして死体の山を築《きず》いてしまった。その山の中には、ナミの屍《しかばね》も転がっている。人並《ひとな》みの夢を見てこれまで生きてきたナミの屍も。
ここまでやってしまった自分が、仮《かり》に彼女に再会《さいかい》できたとして、なにかを言うことなどできるのだろうか?
『助けにきたぞ。何十人も犠牲《ぎせい》にしたし、君のような元気のいい娘《むすめ》も死なせてしまったが、気にする必要はない』
そういうわけにはいかないだろう。そんな事実《じじつ》に、彼女は引き裂《さ》かれるはずだ。
彼女は自分のために人が死ぬことを喜ばない。喧嘩《けんか》っぱやいし、口うるさいし、平気で自分を足蹴《あしげ》にするが、彼女は本質《ほんしつ》的には闘争《とうそう》と死の対極《たいきょく》に生きる存在《そんざい》だ。平穏《へいおん》と慈愛《じあい》の象徴《しょうちょう》なのだ。自分がこうして憎悪《ぞうお》にかられて人を傷つけ、殺《あや》める行為自体《こういじたい》が、彼女自身の存在そのものを傷つけている。
業《ごう》。
この日本語の意味《いみ》が、ようやく宗介にも分かってきた。
自分は業を背負《せお》いすぎている。
どうあっても修復《しゅうふく》しようのない生命と世界のほころび。熱力学《ねつりきがく》第二|法則《ほうそく》に似《に》たなにか。自分は決して――そう、決して――彼女と再会しても幸せになどはなれないだろう。あの学校に二人で帰ることもないだろう。
もとから、そうなれるはずがなかったのだ。
単純《たんじゅん》な事実として、そう思った。悲嘆《ひたん》や絶望《ぜつぼう》、悲観主義《ひかんしゅぎ》などではなく、厳然《げんぜん》たる事実としてそう思った。荒《あ》れ狂《くる》う運命の激流《げきりゅう》を、ただ『そこにあるもの』として見据《みす》えるだけの冷たさ、無感動《むかんどう》さで。
それでも彼は立ち止まらなかった。
まだクラマへの闘争心《とうそうしん》はある。
<アマルガム> への執念《しゅうねん》もある。
いや、それらの衝動《しょうどう》が絶《た》えてしまったとしても、彼の細胞《さいぼう》は前進をやめようとはしなかっただろう。それはもはや意志《いし》の強さだとか激《はげ》しい怒りだとか、そういった要素《ようそ》とは別次元《べつじげん》のものだった。もっと根元的《こんげんてき》な、なにか自動的なものが、いつも彼をどこまでもつき動かすのだ。
『前へ』と。
ぐらぐらとゆがむ死神の影を引き連れて、彼は闘技場の回廊を半周した。
罠《わな》はない。人の気配《けはい》も。いや――
二階へと続く大きな階段《かいだん》の前にさしかかったところで、その階段の上に気配がした。
宗介が動いた次の瞬間《しゅんかん》、階段の上で銃口《じゅうこう》の炎《ほのお》が瞬《またた》いた。
耳をつんざく銃声と、銃弾が空を切る鋭《するど》い音が同時に響《ひび》く。宗介は回廊の角に飛び込み、銃撃とは別方向へ素早《すばや》い警戒《けいかい》の目を向けてから、身をかがめた。
疲労《ひろう》と負傷《ふしょう》でぼんやりとしていた彼の思考《しこう》は、かりそめながらも鋭敏《えいびん》さを取り戻していた。
撃《う》ってきたのはクラマだ。別に顔が見えたわけでもなかったが、闇の中にぼんやり浮かんだシルエットと、その身のこなしだけで判断《はんだん》できた。
反撃する。角から銃を突き出して発砲《はっぽう》。
当たるわけもなかったが、敵の頭は押さえられる。発砲しながら角を出て、有利《ゆうり》な射撃《しゃげき》ポジションへの移動《いどう》を試みると、クラマは同様に牽制《けんせい》射撃をしながら後退する。まっすぐ追うのは危険だった。
いかにも匂《にお》う退《さ》がり方だ。
ほかの階段を目で探すと、一五メートル左に職員《しょくいん》用の小さな階段への入り口があるのを見つけた。非常《ひじょう》階段と兼用《けんよう》のものだ。
あれはもっと匂う。
いかにも『こちらから追って来い』といわんばかりだ。そうした懸念《けねん》を見透《みす》かした上での動きかもしれない。あるいはそうではないかもしれない。時間|稼《かせ》ぎか、まったくの考え過ぎか。
どれにしても確率《かくりつ》は五分五分で、ならばルートは近い方がいい。
宗介は思い切って最初の階段に飛び込み、一気にそこを駆《か》け上がった。血で塗《まみ》れた右のブーツが、ぐちゃぐちゃとみっともない音をたてる。
二階に上がると、クラマが彼を待ち伏せしていた。二階の回廊の奥、落書きだらけの柱《はしら》の影からこちらに銃撃。予想はしていた。目星《めぼし》をつけていた遮蔽物《しゃへいぶつ》に身を隠し、すばやく応射《おうしゃ》する。間近で火花が飛び散り、銃弾で砕《くだ》かれたコンクリートの破片が床《ゆか》に落ちてばらばらと音をたてた。
因縁《いんねん》めいた会話など一切ない。元来《がんらい》、戦闘とはそうしたものだ。
執拗《しつよう》な銃撃をしのぎ、敵の弾倉|交換《こうかん》のタイミングを見計《みはか》らって有利なポジションへ走る。ぎりぎり間に合った。遅れてクラマの銃撃が彼を追う。
大きな柱と植木鉢《うえきばち》の隙間《すきま》から発砲。
クラマは隠れ、こちらからの死角《しかく》を移動して奥へと逃げる。ぎりぎりの射角《しゃかく》を確保《かくほ》して発砲。手応《てごた》えなし。
クラマが後退する。宗介が追う。
射撃のたびに、マズルフラッシュが二人の影を回廊の壁面《へきめん》に映し出す。影はグロテスクな怪物《かいぶつ》となってゆがみ、かくかくとしたコマ送りのように動いた。
クラマはさらに逃げた。
敵が回廊に面した細い通路――スタジアムの観客席《かんきゃくせき》が続く階段へと走っていくのを見て、宗介は確信《かくしん》に近いものを感じた。
誘《さそ》い込んでいる。
このまま追うのは危険すぎた。観客席は見通《みとお》しがよく、そこに出たとたん、どこから狙撃《そげき》を受けてもおかしくない状態《じょうたい》になってしまう。クラマを追いつめるなら、もっと別の場所、観客席のほとんどを一望《いちぼう》できる位置をとるしかない。
(放送席――)
競技《きょうぎ》を実況《じっきょう》するためのアナウンサーや解説者《かいせつしゃ》が陣取《じんど》るあの部屋なら。
宗介は即断《そくだん》し、職員用の通路へ――『関係者以外の立ち入り禁止《きんし》』と書かれた鉄扉《てっぴ》へと走った。鉄扉の取っ手をつかみ、回してみると鍵《かぎ》はかかっていなかった。扉《とびら》を開け、奥の通路へと進もうとして――
その瞬間、宗介は自分の判断が安易《あんい》すぎたと思い直した。
相手はクラマだ。
ああして後退したとき、自分がそれ以上は素直《すなお》に追ってこないことくらい予想できたはずだろう。さきほどの階段とはもう違う。仕上《しあ》げにかかるなら、ここしかない。では、クラマの罠を警戒《けいかい》した自分がここで目指す場所、駆け込む扉はどこか?
この扉だ。
「…………っ!」
直感《ちょっかん》が電撃《でんげき》となって背筋《せすじ》を駆け抜け、彼は開きかけた鉄扉から飛び退《の》いた。ほとんど同時に、扉の向こうで待ち受けていたプラスチック爆薬《ばくやく》が炸裂《さくれつ》し、鉄扉ごと宗介を吹き飛ばした。
青白い閃光《せんこう》と衝撃波《しょうげきは》。
視界《しかい》一杯に迫《せま》った鉄扉が彼の左肩にぶつかり、圧倒的《あっとうてき》な力で彼を回廊の反対側へと殴《なぐ》り飛ばす。
天地が何度も上下左右に回転する。
全身が床に叩きつけられる。
それでも勢《いきお》い止まらず、彼は転がりながらいくつかのゴミ箱にぶつかり、それをなぎ倒し、反対側の壁《かべ》に当たってからようやく止まった。
爆炎《ばくえん》と白煙《はくえん》が回廊に広がっていくのが、やけにゆっくりと見えた。自分の体がひっくり返したゴミ箱から、ペットボトルや空き缶《かん》がまき散らされ、空中でくるくると回転する姿さえ目でとらえることができた。
やられた。
そう思いながらも、宗介は即座《そくざ》に身を起こそうとした。すさまじい衝撃と苦痛だったが、手も足もまだついている。耐《たい》衝撃、耐熱性に優《すぐ》れたミスリル製のAS操縦服を着ていなかったら、こうはいかなかっただろう。
だが左腕が思うように動かなかった。
脱臼《だっきゅう》したのか、折れたのか。焼けるような痛みが襲《おそ》いかかる。まるで力が入らない。震える両|膝《ひざ》にむち打って、まだ握っていた右手の銃を支えに立ち上がる。
「…………っ」
顔を上げ、まともに作動するかどうかもわからない銃を正面に向けた。両目がかすむ。頭の中では爆発の残響《ざんきょう》が幾重《いくえ》にも響《ひび》き渡《わた》っている。
炎と煙の向こうにクラマの姿が見えた。
完璧《かんぺき》な射撃|姿勢《しせい》で、こちらの胸に狙《ねら》いを定めている。対する宗介は、わずかに身じろぎして銃口を相手に向けようとするのが精一杯《せいいっぱい》だった。
クラマが発砲する。
胴体《どうたい》の真ん中に鈍《にぶ》い衝撃が走った。銃弾が当たり、貫通《かんつう》したのだ。防弾仕様《ぼうだんしよう》の操縦服だったが、ライフル弾は止められない。背後《はいご》の壁に血しぶきが飛び散る。
さらに数発。よろめいたせいで胴体に当たったかどうかはわからなかった。それを認識《にんしき》することさえできなかった。
ここまでか――
目の前が真《ま》っ暗《くら》になっていくのを感じながら、宗介は前のめりにくずおれた。
爆薬のトラップでしとめられなかったのは予想外だったし、その後に立ち上がって銃を構えてきたのも意外だった。
だが、そこまでだ。
相良宗介に銃弾を叩き込んだクラマは、油断《ゆだん》なくライフルを構えたまま、ゆっくりと彼に接近《せっきん》していった。確実《かくじつ》な一発を頭部に撃ち込まなければならない。爆発の炎と煙が視界を遮《さえ》ぎっているため、この位置からではそれができなかった。
もっとも、最初の一撃は致命傷《ちめいしょう》だったはずだ。ほうっておいても奴が死ぬのは間違《まちが》いなかった。もう意識《いしき》もないだろう。
だが、そこで彼は新たな気配を感じた。
一人ではない。二人、三人、いや四人か。おそらくもっといるかもしれない。かすかな衣擦《きぬず》れと装備品《そうびひん》の音。よほどの注意力がなければ、決して気付くこともないほどの忍《しの》び歩きの気配。
(やつらか)
あのムナメラ近くの山中で、彼や署長を襲撃《しゅうげき》してきた、どこかの特殊部隊《とくしゅぶたい》だ。ようやくここまで追いついたのだろう。さすがに全員を相手にする気はなかったが、退路《たいろ》は確保《かくほ》する必要がある。
残念《ざんねん》なことに一刻《いっこく》の猶予《ゆうよ》もなかったし、物音《ものおと》をたてることも許されなかった。宗介は後回しにして、クラマはすばやく移動《いどう》する。まず手始めに、不用意《ふようい》に階段の下から上半身を出した男の肩にライフルを撃《う》った。
回廊に鋭《するど》い悲鳴と銃声がこだまする。
身をすくめ、負傷《ふしょう》した仲間を助けようとするもう一人の敵は放置《ほうち》して、彼は音もなく反対側へ――回廊の南側へと走る。
こちらを挟《はさ》み撃《う》ちにしようと動いていた敵兵二人を見つけた。
敵より速く照準《しょうじゅん》し発砲。
単純な力押しでも充分だった。
一人が無抵抗《むていこう》に倒れ、もう一人がサブマシンガンを撃ってきた。クラマの防弾コートはサブマシンガンのピストル弾ならほとんど防《ふせ》げる。たじろぐことなく、手際《てぎわ》よく、彼は敵を射殺《しゃさつ》した。
倒れる男の背中が床に当たるよりも早く、クラマはその場に駆け寄って、その胸から手榴弾《しゅりゅうだん》を奪《うば》い取った。安全ピンをくわえて抜き、さらに向こうの通路の角、別の敵が潜《ひそ》んでいる場所へと手榴弾を放り投げる。かちん、と空中で金風音をたててから、手榴弾は角の向こう側に転がり込む。
悪態《あくたい》と悲鳴。続いて爆発。
薄闇《うすやみ》の中に渦巻《うずま》く煙をかきわけ、クラマは狭《せま》い通路に倒れて身もだえする敵二人に、容赦《ようしゃ》なくライフル弾を叩き込む。
「……ふん」
ポーカーフェイスは変わらなかったが、二度も自分の邪魔《じゃま》をしてきた敵に、クラマは心底《しんそこ》腹が立っていた。この勢いで連中を皆殺《みなごろ》しにして、どこの所属《しょぞく》かもすべて吐《は》かせてやりたい気分だったが、もはや時間切れだ。敵の人数が分からない以上、この場にとどまるのは危険すぎる。
彼は黒く重たげな防弾コートを翻《ひるがえ》すと、早足で元いた場所――プラスチック爆薬を起爆《きばく》させた通路のそばまで引き返した。瀕死《ひんし》のまま動かない相良宗介に、とどめを刺《さ》してから立ち去るために。
だが、その宗介の姿がなかった。
うっすらとたなびき、消えていく煙の中、床に血だまりが残っているだけで、あるべき敵の姿がない。
いや、血でできた足跡《あしあと》があった。
血痕《けっこん》はよろよろとした調子《ちょうし》で、右へ左へとふらつきながら、回廊の片隅《かたすみ》に転がった大きなごみ箱の後ろへとつながっていき――
「し……」
そのごみ箱の後ろから、青白い顔の宗介が、まっすぐに構えていたカービン銃を撃った。重たい衝撃が脇腹《わきばら》を襲い、クラマの体はがくりとよろめいた。
さらにもう一発。ライフル弾が防弾コートを貫《つらぬ》き、彼の胸をうち砕く。
それ以上は立っていられなかった。クラマは反対側へとよろめいてから、片膝《かたひざ》を突き、手にしたライフルを取り落とし、宗介が作った血だまりの中に倒れ込んだ。
もはや敵の裏《うら》をかくだとか、好機《こうき》を逃《のが》さず攻撃《こうげき》するだとか、そういった次元の話ではなかった。彼はまだ死んでいなかっただけで、まだ動くことができただけで、まだ引き金を引く気力が残っていた。
ただそれだけだ。
宗介は苦労して立ち上がると、一〇メートルほど向こうで倒れたクラマに歩み寄っていった。
左腕はまったく反応しない。息をするたびすさまじい苦痛が押し寄せ、体のあちこちから血液が流れ出していく。腹に大穴《おおあな》が開いているのだ。立てたということは、脊髄《せきずい》はまだつながっているということなのだろう。だが自分があと幾《いく》ばくも生きていられないだろうことは、宗介にも容易《ようい》に想像できた。
だが、その前に――
「クラマ」
肺に残った力を振《ふ》り絞《しぼ》り、宗介は言った。震える右手で、カービンの銃口を相手に向けて。その銃口も、頼《たよ》りなく揺れながら下がっていく。
「教えてくれ。千鳥《ちどり》はどこだ」
「……聞いて……どうする気だ」
倒れたままの姿勢《しせい》で身じろぎもせず、クラマはつぶやいた。口から血の泡《あわ》がこぼれ出ていた。
「助け出す」
「馬鹿《ばか》か、おまえは」
同様《どうよう》に瀕死《ひんし》の身でありながら、クラマの声にはあきれたような響《ひび》きがあった。
「言ってくれ」
「ごめんだね。歯ぎしりして死ぬがいい」
まあ、そうだろう。当然の反応だ。だがそれでも、宗介は言った。
「教えてくれ」
クラマは答えなかった。その代わりに、弱っていく声でこう言った。
「わからん……貴様《きさま》と俺が……相討《あいう》ちなんぞに……なぜだ?」
「彼女だ」
自分でもなにを言っているのか、宗介にはほとんどわからなくなっていた。
「愛の力ってやつか? 笑わせるな」
全生命をぶつけるような嘲笑《ちょうしょう》。そんな薄《うす》っぺらい言葉を肯定《こうてい》するくらいなら、地獄《じごく》に堕《お》ちて何万年ものたうち回る方がましだ。クラマの声には、そんな響きがこもっていた。
「なにがいけないんだ?」
宗介は言った。皮肉《ひにく》でも反論《はんろん》でもなく、純粋《じゅんすい》な疑問《ぎもん》としてそうたずねた。
現《げん》にそうなったではないか。
自分が立っているのも。こうして貴様が倒れているのも。
偶然《ぐうぜん》はあった。不可測《ふかそく》の要素《ようそ》もあった。
だが結果として、自分がここに立って貴様に質問しているのは、厳然《げんぜん》とした事実だ。
愛だの何だの、そんな言葉はわからない。
だが、自分たちがここでこうしているのには、まざれもない理由があって、動かしようのない意志が介在《かいざい》している。
その結果さえ、貴様は否定《ひてい》できるのか?
「言ってくれ」
「サン・カルロスだ」
無関心《むかんしん》な声でクラマは言った。
「じゃなきゃニケーロか、グラナダか。そんなところだろう。あとは知らん」
「そうか」
「くだらん。もうどうでもいい」
「俺はよくない」
「禁煙《きんえん》なんてするんじゃなかった」
それきり、クラマは二度としゃべらなかった。
宗介は両膝を突いた。
「サン・カルロス」
いつのまにか、カービン銃は手放《てばな》していた。足下には相変《あいか》わらずの血だまり。腹の大穴はふさがらない。視界が狭《せば》まり、意識はどこか遠くに消え去っていこうとする。
「ニケーロ。もしくはグラナダ……」
彼はうわごとのように復唱《ふくしょう》した。
だれかに伝えなくては。だが、だれが自分の代わりに戦ってくれる? だれが彼女を連れ戻してくれる?
わからない。
彼はもう何もわからなかった。
自分がなにを自問《じもん》していたのか、なにを伝えようとしていたのか、それすらもどこかに消え失せてしまった。
仰向《あおむ》けに倒れる。
天井《てんじょう》はもう、ほとんど見えなかった。
ミシェル・レモンが駆《か》け寄ってきて、真《ま》っ青《さお》な顔で自分を見下ろしている。
彼はなんと叫んでいるのだろう?
衛生兵《えいせいへい》。
挿菅《そうかん》セット。
エピネフリン。
アトロピン。
聞き覚えのある言葉の数々。昔《むかし》からよく知っているはずのあれこれ。
だが、そんなことはどうでもよかった。
最後に脳裏《のうり》に残ったのは、彼女の姿。
ナミかと思ったが、そうではなかった。なぜだろうか、彼女は怒っている。しかめっつらで、握《にぎ》り拳《こぶし》を腰《こし》にあて、自分をにらみつけている。
だが、次のときには顔をほころばせて、こう言うのだ。『元気出せ!』と。
ナムサクで暮らすうちに、次第《しだい》に思い出せなくなっていた彼女の顔が、鮮烈《せんれつ》によみがえってきた。こういう生活もいいかもしれない――そう思っていた自分が、いまでは信じられなかった。
「千鳥」
会いたい。どうしようもなく。無理《むり》だとは分かってるが。会いたいんだ。
そばにいてくれ。
俺の背中を叩いて、なにかを言ってくれ。
それだけ、たったそれだけでいいんだ。
「千鳥」
さびしい。
寒い。
せめてもう一度だけ――
声が聞こえた。
どこか遠くから。
ずっと彼方《かなた》の空の下から。
それはまず、浅い眠りの中で頼《たよ》りなく浮《う》き沈《しず》みする彼女の注意を少しだけ引きつけた。寄《よ》せては返し、砕け散っていく波の音。その向こう側でかすかに響いてくるだけの、そうしたかすかな声だった。
彼女の周囲では、ぼんやりとした光が混《ま》じり合い、それ以上にぼんやりとした情報の断片《だんぺん》が、さまざまな色や音に変わりながら漂《ただよ》っていく。
それらの断片の向こうでくるくると回転しながら、おぼろに消えていこうとするその声を、彼女は拾《ひろ》い上げようと努めてみた。
いつものことなのだ。彼女はそうして、たくさんの声を聞き、どこかの引き出しにしまいこんでから、そしてなにもなかったかのように忘れてしまう。
その声のことも、彼女は知っていた。
――彼に会ったよ。
声はそう伝えた。
彼女には最初、その声の意味がわからなかった。
だがすぐにわかった。
ここで『彼』と出てくるなら、それはつまり『彼』のことだ。
だれの声なのかも、彼女はおぼろげに察《さっ》した。声の主には一度も会ったことはないし、これから会うこともないだろう。
同時に別の時空《じくう》――こことは違うどこかの世界では、彼と一緒にいたはずの人。自分がかつてそうしていたように。そういう縁《えん》があった人。
縁。
この完全な領域《りょういき》で話していない限《かぎ》りは、そんなことなど、二人とも知りようがないことだった。
そして声は告《つ》げた。
だけど、彼とは別れてしまった――
その声は厳密《げんみつ》に言うなら、人間の使う言語特有《げんごとくゆう》の『時制《じせい》』という概念《がいねん》がなかった。それは同時に『別れてしまう』でもあり、『別れようとしている』でもあった。
(別れた? なぜ?)
彼女は問いつめた。
――自分が死んでしまったから。
やはりこれも、『死んでしまう』であり、また『死のうとしている』でもあった。
――残念だ。
――悲しい。
――あなたの代わりになれなかった。
(彼は無事《ぶじ》なの? どこにいるの?)
――わからない。
――ナムサク。
――深く傷ついている。
それだけではなく、もっと様々《さまざま》なことを彼女は知った。彼が戦い続けていること、彼がひとりぼっちになったこと、そして彼が、たぶん、いまなお自分を探し求めていること。
胸がつまる。
やめてほしい。
でも、やめてほしくない。
どうしたらいいのか、彼女にはわからなかった。
(あなたに会うなんて。やっぱり彼は特別《とくべつ》なの?)
――ちがうと思う。
――わかってるでしょう?
――彼はどこまでも普通の人。
(なのに、わたしと出会って、あなたとも出会った。彼女とも、彼とも)
――それはおかしなことではない。
――もともと、彼はわたしの人。
――あなたと出会ったことがおかしい。
(そうかもしれない)
――謝《あやま》ったって無駄《むだ》でしょう?
(うん。でも、ごめん)
――でもそれはいい。
――ちがう場所なら、
――ちがう結果《けっか》もあるだろうから。
――もう行くね。
――あのささやきがくる。
(わかった)
――さようなら。
――でも最後に。
(なに?)
――もしもう一度彼に会えたら、
――彼を許してあげて。
――ちゃんと彼を包《つつ》み込んであげて。
(それは、約束できないよ……)
――わかってる。
――でもそれでいいと思う。
――思い出すだけでいいから。
そして声は、そのまま遠くなっていき、やがて聞き取ることもできなくなって……
「ん…………」
目をさますと、やわらかい光が彼女の瞼《まぶた》に射《さ》しかかっていた。
まぶしい。
千鳥かなめは目をとじたまま眉《まゆ》をひそめ、真っ白なシーツの上で寝返りをうった。
波の音が聞こえる。
潮気《しおけ》をはらんだ穏《おだ》やかな風が、開け放たれたままの窓《まど》からそよぎ、キングサイズのベッドをとりかこむ天蓋《てんがい》のレースを、そよそよとやさしく揺《ゆ》らしていた。
いつの間にか眠っていたようだ。
なにかの夢を見たようだったが、その内容は覚えていない。いつもそうだ。とても重要《じゅうよう》な話だったと思うのに、すべてどこかに消え去ってしまう。
どんな夢を見ていたのだろうか。郷愁《きょうしゅう》に似た哀《かな》しみと寂《さび》しさの残滓《ざんし》が、かなめを憂鬱《ゆううつ》な気分にさせる。
まだ昼だった。
ここはどこかの邸宅《ていたく》。どこかの海岸近くの、丘の上。窓の外には、陽光《ようこう》を受けてきらめく緑色の海が広がっている。
すこし肌寒《はだざむ》い気がして、シーツをたぐり寄せた。いまの彼女は、薄手《うすで》のキャミソールとショーツだけしか身にまとっていない。
地味《じみ》だが上品な調度類《ちょうどるい》が配置《はいち》された寝室《しんしつ》の扉を、ノックする者がいた。
「どうぞ……」
「失礼します」
スーツ姿の少女が入ってきた。年齢《ねんれい》も体格も、かなめとそう変わらない娘だ。髪《かみ》はブラウン。ショートボブに切りそろえて、野暮《やぼ》ったい眼鏡《めがね》をかけている。
けだるげにベッドの上から身を起こすかなめを一瞥《いちべつ》し、彼女は軽く頭を下げた。
「お休み中でしたか」
「いいの。用事は?」
「三時のお茶です。それから、今朝《けさ》お送りした <ベヘモスi> のデータの評価《ひょうか》はどうなったか、お伺《うかが》いしろと仰《おお》せつかりました」
「机《つくえ》の上。USBディスクに」
「ありがとうございます」
少女はティーカップにダージリンを注ぎ、クッキーの小皿と一緒《いっしょ》に盆《ぼん》に載《の》せた。
「お疲れですか?」
「別に。うたた寝しただけ」
「悲しい夢をごらんになっていたようですね」
「どうして?」
少女はかなめを見つめ、自分の右の目尻《めじり》を人差し指で軽くさわった。
「涙《なみだ》の跡《あと》が」
言われて、かなめは寝室の奥の鏡《かがみ》を見た。少女の言うとおりだった。
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「そうね」
目尻を拭《ぬぐ》って、彼女はつぶやいた。
「悲しい夢。たぶんあたしだけじゃなくて、みんなが見ているのかも」
なぜ自分は、彼のそばにいてあげられないのだろうか。そんな気持ちが何の根拠《こんきょ》もなくわきあがり、彼女の目にはもう一度涙があふれてきた。
ティーカップを受け取って一口すする。
すばらしい香りと味だったが、それでも彼女の涙は止まることがなかった。
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エピローグ
街灯《がいとう》の中に、はらはらと小雪が舞《ま》っている。
深夜《しんや》だ。港町《みなとまち》は完全に寝静《ねしず》まり、繋留《けいりゅう》されているたくさんのボートや商船の上にもうっすらと雪が降《ふ》り積《つ》もっている。
その港湾部《こうわんぶ》の片隅《かたすみ》に、古ぼけた倉庫《そうこ》があった。外面は煉瓦造《れんがづく》りで、あちこちにひびが入り、まともな修繕《しゅうぜん》もされていない。高さ五メートルはあろうかという大きな鉄扉《てっぴ》は錆《さび》におおわれている。
かつて『レイス』と呼ばれていた女が、その倉庫の前で車を停《と》めた。中古の二tトラックで、へこんだ外板もそのままだ。
彼女はエンジンをかけたまま車を降《お》りると、倉庫の通用口《つうようぐち》へ向かった。
通用口の前には、コートを着込んだ男が待っていた。背は低く、肥《こ》え太っている。遠くから一瞥《いちべつ》したら、樽《たる》が置いてあるだけに見えるかもしれない。
「きっかり時間通り。律儀《りちぎ》ですな」
男が言った。彼女は特になにも応《こた》えずに、注意深く倉庫街の周囲《しゅうい》を観察《かんさつ》した。監視《かんし》の目はない。この場に車を乗り付ける前から、入念《にゅうねん》に点検《てんけん》していたので間違《まちが》いないだろう。
「尾行《びこう》は?」
「あったらここには来ていない」
「そりゃそうだ。車を中へ」
男が通用口から倉庫へ引っ込み、正面の鉄扉の開閉《かいへい》スイッチを押した。発動機《はつどうき》がうなり、扉が開いていく。レールが錆びついているせいか、金属《きんぞく》のこすれ合う悲鳴《ひめい》が付近一帯《ふきんいったい》に響《ひび》き渡《わた》った。女は運転席に戻ると、車を倉庫の中へと走らせた。
今度はエンジンを切って、車を降りる。
彼女の背後《はいご》で鉄扉が閉まっていく。外から射《さ》しこむ街灯の光が、みるみると細くなっていき、金属のぶつかり合う轟音《ごうおん》と共に室内は真《ま》っ暗《くら》になった。
赤い非常灯《ひじょうとう》がついた。倉庫の中には大きなトレーラーがあるだけで、ほかにこれといった品物《しなもの》は見あたらない。最初に出迎《でむか》えた短躯《たんく》の男以外にも仲間がいたようだ。アサルトライフルを持った男が三人。最低限《さいていげん》の用心のためだろう。
「積《つ》み荷《に》を」
男が言うと、彼女は自分の乗り付けた二tトラックの後部ドアを開けた。車の荷台には大型|冷蔵庫《れいぞうこ》ほどの大きさの木箱が積《つ》み込んであった。
「これが?」
「そうだ」
「よく回収《かいしゅう》できましたな」
「警察《けいさつ》も混乱《こんらん》していたからな。日本から運び出す時の方が苦労した」
「ふむ」
男は中身を確認《かくにん》しようとはしなかった。彼女が『そうだ』と言っているのだから、間違いはないと考えている。疑《うたが》う理由は特にない。
「ミスタ・ハンター。これを委《ゆだ》ねる前に、確認《かくにん》したいことがある
彼女は言った。
「どうぞ」
「将軍《しょうぐん》はこのことを?」
「知らないと思いますな。知っていたら、私も君もおしまいだ」
「あなたはどうなんだ。ここまでする理由が納得《なっとく》できない」
「それはお互《たが》いさまでしょう。私も見捨《みす》てられた身だ」
男はそう言ってあっけらかんと笑った。
「目の前に組み立てられそうなパズルがあったら、完成《かんせい》させてみたくなる。それが人情《にんじょう》というもんだと思いますがね」
「動機《どうき》はそれだけか」
「あとはまあ、一矢報《いっしむく》いてやれたらいいか、と。それにあの娘《むすめ》。どうのこうの言って、君も気に入っていたんでしょう」
「…………」
「さて、どうせです。ちょっと見てみませんかな? もちろん未完成《みかんせい》ですが」
彼女がうなずくと、彼は大型トレーラーの後部へと歩いていった。コンテナのドアを開く。中にはなにか大きな塊《かたまり》――なにかの機材《きざい》がうずくまっていて、それに黒いシートがかぶせてあった。
「よっと……」
ハンターが防水《ぼうすい》シートをもたもたと外す。
彼女が見たのは、アーム・スレイブの頭部――頭頂部《とうちょうぶ》だった。コンテナの中に、ASがまるまる一体|収納《しゅうのう》されているのだ。頭をこちらに向けて寝そべっている格好《かっこう》である。
あたりの暗さもあって、その機体《きたい》の全貌《ぜんぼう》は、彼女の視点《してん》からではほとんど分からなかった。
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かろうじて判別《はんべつ》できるのは、その機体がいわゆる『第三世代型』なのだろう、ということだけだった。
しかし、M9ではない。
彼女が見たことのない機体だ。
全貌《ぜんぼう》は見えない。機能《きのう》も知らない。ただ――気のせいだろうか? あたり一帯《いったい》を支配《しはい》している凍《い》てつくような大気の冷たさが、この機体の周囲からだけは感じられない。コンテナの中から、なにか得体《えたい》の知れない『熱気《ねっき》』のようなものが漏《も》れ出してきている。
この機体は怒《いか》りに燃えている。闘志《とうし》をたぎらせている。
復讐《ふくしゅう》を誓い、敵《てき》の血に飢《う》えている。
なぜか彼女はそんな気がしてならなかった。
「こいつの名前は?」
「ないそうです。もともと存在しない計画だったそうですからな。ただ、まあ、強《し》いて番号を付けるなら――」
ハンターは目を細め、機体を見上げた。
「『ARX―8』です」
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あとがき(加湿仕様《かしつしよう》)
どうも。月刊ドラゴンマガジンの連載分《れんさいぶん》をあれこれ加筆修正《かひつしゅうせい》して、「燃えるワン・マン・フォース」をお届《とど》けします。
内容については……まあ、あれこれ迷《まよ》った挙句《あげく》に、シリーズ全体のことを考えてこういう感じに相成《あいな》りました。今後のキャラ関係の焦点《しょうてん》がぼやけてしまいそうだったので、あくまで宗介《そうすけ》はひとりぼっちで。かわいそうに。ぐすっ……。
自分はサベージとポニーっ子に目がないので、このあとがきはお通夜《つや》ムードなのですよ。飲まずにはいられない気分《きぶん》。酒と涙《なみだ》と男と女。あとサベージ。それから演歌《えんか》も欲《ほ》しいな(と、ラジオをつける。BGMは『みちのく一人旅』)。ぐすっ……。
で、こんな調子《ちょうし》なのですが、次から佳境《かきょう》のつもりです。デ・ダナン御一行《ごいっこう》様も戻《もど》ってくる予定《よてい》です。湿《しめ》っぽいのそろそろ終わり。気合《きあ》いれるぜー! 本当は書き下ろしでお届けしたい感じなのですが、なかなか思うようにいかなくて……。ぐすっ……。
加湿|終了《しゅうりょう》。
ところで劇中《げきちゅう》でレモン君が秋葉原《あきはばら》の街《まち》について偏見《へんけん》だらけの言及《げんきゅう》をしていますが、あれは別に作者の悪意《あくい》ではなく、ちょっと前に小耳《こみみ》に挟《はさ》んだ話から来たネタだったりします。ポルノ街《がい》だと思い込んでる外人さんがたまにいるんだそうで……。たぶん例外《れいがい》だろうとは思いますが。まあ……ここ七〜八年くらいのあの街見てると、そう思われても仕方《しかた》ないかもなー、とか感じたりはしてますが(いや、別にね? ダメだって言うわけじゃなくてね?)。
自分も子供のころは電子工作《でんしこうさく》とか一時期《いちじき》ハマってまして、秋葉原にパーツ買いに行ったりしてたわけですよ。近所《きんじょ》じゃトランジスタやらコンデンサやらダイオードなんて売ってなかったので。
そのころは大人のマニアの街でして。半ズボンのガキがメモ片手《かたて》にチョロチョロ歩いてオロオロしてると、強面《こわもて》のおじさんがパーツ探して見繕《みつくろ》ってくれたりして、「また来な」って感じで。かっこよかったな……。なんかね、そういうおじさんがまた、回路《かいろ》作るときのハンダを、要《い》らないフィルムケースに巻き入れて使ってるんですよね。それで小出しにして、慣《な》れた手つきでチョイ、チョイとハンダ付けするわけですよ。あれが子供の目から見ると妙《みょう》に玄人《くろうと》っぽくて渋かった……。
ちなみに最近になってからそのパーツ屋のあったビルに行ったら、店はなくなっててエロ同人屋《どうじんや》になってました(泣)。いや、その店が悪いわけじゃなくてね? なんか、こう、強襲《きょうしゅう》もとい郷愁《きょうしゅう》というか、時の流れの残酷《ざんこく》さというか。時代は変わっていくのだなあ、というか。
……まだ3Pですか。困ったな。書くことねえ(いつも言ってる気が……)。
ところでフルメタアニメの『The Second Raid』が昨年《さくねん》無事《ぶじ》に、大好評《だいこうひょう》のうちに終了いたしました。これもひとえに皆様《みなさま》のご支援《しえん》の賜物《たまもの》であります。京都アニメさん、スタッフとキャストの皆様《みなさま》、本当にありがとうございました。DVDは大好評《だいこうひょう》でリリース中です。まだ見てない方はぜひぜひご覧《らん》ください。初回限定版《しょかいげんていばん》だと、あたくし賀東《がとう》と武本監督《たけもとかんとく》のダラダラトークが聞けます。
『月刊ドラゴンエイジ』で連載中の上田《うえだ》宏《ひろし》さんのコミック『フルメタル・パニック!煤xも、先月はやくも二巻目がリリースされました。あの描きこみとあのペース。すごいです。おもろいです。ぜひどうぞ。
それから他社《たしゃ》の宣伝《せんでん》で恐縮《きょうしゅく》なのですが、竹書房《たけしょぼう》さんの新レーベルから『ドラグネット・ミラージュ』という作品が出てます。ファンタジーテイストを取り込んだ、海外刑事《かいがいけいじ》ドラマ風のお話です。普通《ふつう》にかっこいいポリスアクションもの。良かったらご一読《いちどく》ください。
前にあとがきで『別シリーズとか始めません』とか言ってしまったのですが、えー……いろいろあって、まあ、その。ごめんなさい。原案《げんあん》の形くらいならいいかなー、と。もちろんフルメタがんばりますので。よろしくお願いいたします。
今回も多数《たすう》の関係者の方々にお世話《せわ》になりました。ありがとうございます。
それではまた。次回も宗介と地獄《じごく》に付き合ってもらいます(死んでなかったら)。
[#地付き]二〇〇五年 一二月 賀 東 招 二
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底本:「フルメタル・パニック! 燃えるワン・マン・フォース」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2006(平成18)年1月25日初版発行
初出:「月刊ドラゴンマガジン」富士見書房
2005(平成17)年2月号〜10月号
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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使用したWindows機種依存文字
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「s」……全角KG、Unicode338F
「煤v……ギリシア大文字SIGMA、Unicode03A3
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本258頁3行 銃剣《じゅうけん》にしてにライフルを装備した